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ニコラ・ブルバキ
ニコラ・ブルバキ(仏: Nicolas Bourbaki, ブールバキとも)は、架空の数学者であり、主にフランスの若手の数学者集団のペンネームである。当初この数学者集団は秘密結社として活動し、ブルバキを一個人として活動させ続けた。日本で出版された38冊に及ぶ数学原論や、定期的に開催されるセミネール・ブルバキ(英語版)で有名。 1934年に解析学の教科書を編纂するプロジェクトが始まり、1935年にブルバキという架空人物が生み出され、論文を発表。後に「1886年生、モルダヴィア出身」というプロフィールが与えられた。 1939年、数学原論を刊行しはじめたとき、論文紹介雑誌Mathematical Review誌にてアイレンベルグのペンネームでもあることが露呈。次第に集団であることが知られ始め、様々な軋轢を生むこととなった。 ブルバキの主な業績は、7000ページ以上に及ぶ『数学原論』(Éléments de mathématique) の執筆である。元は微分積分学の現代的な教科書を書くのが彼らの目的だったが、作業が中途で肥大化し、その目的は捨て去られた。最終的には集合論の上に現代数学を厳密かつ公理的に打ち立てることにその目標は向けられる。彼らはそこで、代数構造・順序構造・位相構造という三つの構造概念、フィルターなどいくつかの新しい概念や術語を導入し、現代数学に大きな影響を与えた。その完璧な厳密性と一般性を求める叙述はブルバキスタイルと呼ばれるようになる。ただしブルバキの狙いは、決して最大限の一般性ではなく、最大限の有効性を備えた一般性、最小限の一般化である。 ブルバキの影響は年と共に次第に低下していった。その理由の一つは、ブルバキの影響を受けた本が他にも出版されるようになり、ブルバキの本の独自色が失われたためである。またひとつには、重要と考えられるようになった別の抽象化、例えば圏論などをカバーしていないためでもある。ブルバキのメンバーの一人アイレンベルグは圏論の創始者であり、グロタンディークも圏論を積極的に論じた。だが圏論を導入するには、それまでに発表されてきたブルバキの著作に根本的な修正を与えなければならなかった。そのため圏論についてのブルバキの著作は準備されていたものの、結局は書かれなかった。 若干の続刊も出されてはいるものの、38冊をかけた日本語版は全部絶版である。ただし、数学史だけが文庫で手に入る。 創立メンバーは次の5人で、高等師範学校 (ENS) の出身者だった。 他に創立時の公式メンバーとして、次の4人がいた。 マンデルブロを除いて、すべてのメンバーがENSの卒業生である。ブルバキは50歳を定年としていて、その後、次の10人が新たに加わった。 アレクサンドル・グロタンディークも、一時期メンバーだった。 『数学原論』の執筆は1998年から止まっていたが、2010年代に続刊を二冊出した。ブルバキはセミネール・ブルバキの形で今でもその活動を続けている。 ブルバキの名前の由来は、アンドレ・ヴェイユが聞いた友人の悪戯が元になっている。ENSの学生だった1923年、友人のラウル・ユッソンが新入生をだますために付け髭をつけて講義を始めて、最後には高度なレベルまで話を飛躍させ、架空の「ブルバキの定理」で話を締めくくった。一説ではブルバキの名は、普仏戦争で活躍したシャルル・ブルバキ(フランス語版)将軍 (Charles Denis Bourbaki) に由来するといわれている。出版物に長く連名をすることを嫌ったヴェイユ達は、すぐに著者をブルバキとすることに決めた。ブルバキの名が採用されたときにはまだファースト・ネームは決まっておらず、初めは頭文字 N を付け加えることになった。1935年、ブルバキの名を知らしめるためにヴェイユがエリ・カルタンを通して学士院に論文を提出する際にフルネームや経歴が必要となり、(後にヴェイユの妻となる)エヴリンの提案でニコラと名付けられた。 一説には、年齢を重ねたメンバーに対するテストとして、論理的には正しいが数学的には何の面白みもない「新理論」の話をもちかけ、「面白くない」と判断できないようであれば定年とする、という了解があった、という。50歳で強制引退だったとも言われる。 数学原論は1939年の『集合論 要約』を皮切りに11部門が出版され の6部門においては特に順序にこだわり部門の順序も含めて既に示した結果を用いて記述されている。それで集合論を土台に数学の再編を行ったという事であるが、実際の出版の順序は必ずしもこのようにはいかなかった。その後の部門 では順序が決まっているわけではない。
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ニコラ・ブルバキは、架空の数学者であり、主にフランスの若手の数学者集団のペンネームである。当初この数学者集団は秘密結社として活動し、ブルバキを一個人として活動させ続けた。日本で出版された38冊に及ぶ数学原論や、定期的に開催されるセミネール・ブルバキで有名。
{{脚注の不足|date=2015年7月}} '''ニコラ・ブルバキ'''({{lang-fr-short|Nicolas Bourbaki}}, ブールバキとも)は、架空の[[数学者]]であり、主に[[フランス]]の若手の数学者集団の[[ペンネーム]]である。当初この数学者集団は[[秘密結社]]として活動し、ブルバキを一個人として活動させ続けた。日本で出版された38冊に及ぶ<ref>[https://archive.is/hZuxI 外部リンク]</ref>[[数学原論]]や、定期的に開催される{{仮リンク|セミネール・ブルバキ|en|Séminaire Nicolas Bourbaki}}で有名。 == 概要 == [[1934年]]に[[解析学]]の[[教科書]]を編纂するプロジェクトが始まり、[[1935年]]にブルバキという架空人物が生み出され、論文を発表。後に「[[1886年]]生、[[モルダヴィア]]出身」というプロフィールが与えられた。 1939年、[[数学原論]]を刊行しはじめたとき、論文紹介雑誌Mathematical Review誌にて[[サミュエル・アイレンベルグ|アイレンベルグ]]のペンネームでもあることが露呈。次第に集団であることが知られ始め、様々な軋轢を生むこととなった<ref name="gendai">井関清志・近藤基吉共著、『現代数学―成立と課題―』、共立出版、1977年。ISBN 978-4-535-78114-6。</ref>。 == ブルバキの業績 == [[File:Bourbaki, Theorie des ensembles maitrier.jpg|thumb|200px|『集合論』〈数学原論〉の初版表紙]] ブルバキの主な業績は、7000ページ以上に及ぶ『[[数学原論]]』(Éléments de mathématique) の執筆である。元は[[微分積分学]]の現代的な教科書を書くのが彼らの目的だったが、作業が中途で肥大化し、その目的は捨て去られた。最終的には[[集合論]]の上に現代数学を厳密かつ[[公理]]的に打ち立てることにその目標は向けられる。彼らはそこで、[[代数的構造|代数構造]]・[[順序的構造|順序構造]]・[[位相的構造|位相構造]]という三つの[[構造 (数学)|構造]]概念、[[フィルター (数学)|フィルター]]などいくつかの新しい概念や術語を導入し、現代数学に大きな影響を与えた。その完璧な厳密性と一般性を求める叙述は''ブルバキスタイル''と呼ばれるようになる。ただしブルバキの狙いは、決して最大限の一般性ではなく、最大限の有効性を備えた一般性、最小限の一般化である{{sfn|Mashaal|2012|pp=198–199}}。 ブルバキの影響は年と共に次第に低下していった。その理由の一つは、ブルバキの影響を受けた本が他にも出版されるようになり、ブルバキの本の独自色が失われたためである。またひとつには、重要と考えられるようになった別の抽象化、例えば[[圏論]]などをカバーしていないためでもある。ブルバキのメンバーの一人アイレンベルグは圏論の創始者であり、グロタンディークも圏論を積極的に論じた。だが圏論を導入するには、それまでに発表されてきたブルバキの著作に根本的な修正を与えなければならなかった。そのため圏論についてのブルバキの著作は準備されていたものの、結局は書かれなかった。 若干の続刊も出されてはいるものの、38冊をかけた日本語版は全部絶版である。ただし、数学史だけが文庫で手に入る。 == ブルバキの参加者 == 創立メンバーは次の5人で、[[高等師範学校 (フランス)|高等師範学校]] (ENS) の出身者だった。 *[[アンドレ・ヴェイユ]] *[[アンリ・カルタン]] *[[クロード・シュヴァレー]] *[[ジャン・デュドネ]] *[[ジャン・デルサルト]] 他に創立時の公式メンバーとして、次の4人がいた。 *ジャン・クーロン *シャルル・エーレスマン *ルネ・ド・ポッセル *シュレーム・マンデルブロ([[フラクタル幾何]]の[[ブノワ・マンデルブロ]]の伯父) マンデルブロを除いて、すべてのメンバーがENSの卒業生である。ブルバキは50歳を定年としていて、その後、次の10人が新たに加わった。 *[[ローラン・シュヴァルツ]] *[[ジャン=ピエール・セール]] *[[サミュエル・アイレンベルグ]] *ロジェ・ゴドマン *[[アルマン・ボレル]] *ピエール・カルティエ *ジャン・ルイ・ヴェルディエ *[[サージ・ラング]] *[[ジョン・テイト]] *ジャン・ルイ・コシュル [[アレクサンドル・グロタンディーク]]も、一時期メンバーだった。 『数学原論』の執筆は[[1998年]]から止まっていた<ref>[https://archive.is/g1Zfc 外部リンク]</ref>が、2010年代に続刊を二冊出した<ref>[http://www.bourbaki.ens.fr/Ouvrages.html 外部リンク]</ref>。ブルバキはセミネール・ブルバキの形で今でもその活動を続けている。 == 逸話 == === ブルバキの由来 === ブルバキの名前の由来は、アンドレ・ヴェイユが聞いた友人の[[悪戯]]が元になっている。[[高等師範学校 (フランス)|ENS]]の学生だった[[1923年]]、友人のラウル・ユッソンが新入生をだますために付け髭をつけて講義を始めて、最後には高度なレベルまで話を飛躍させ、架空の「ブルバキの定理」で話を締めくくった。一説ではブルバキの名は、[[普仏戦争]]で活躍した{{ill2|シャルル・ブルバキ|fr|Charles Denis Bourbaki}}将軍 (Charles Denis Bourbaki) に由来するといわれている。出版物に長く連名をすることを嫌ったヴェイユ達は、すぐに著者をブルバキとすることに決めた。ブルバキの名が採用されたときにはまだファースト・ネームは決まっておらず、初めは頭文字 N を付け加えることになった<ref group="注">これは通常講師の確定していない講義についての告示で用いられるものであった。</ref>。[[1935年]]、ブルバキの名を知らしめるためにヴェイユが[[エリ・カルタン]]を通して学士院に論文を提出する際にフルネームや経歴が必要となり、(後にヴェイユの妻となる)エヴリンの提案でニコラと名付けられた。 === 定年 === 一説には、年齢を重ねたメンバーに対するテストとして、論理的には正しいが数学的には何の面白みもない「新理論」の話をもちかけ、「面白くない」と判断できないようであれば定年とする、という了解があった、という。50歳で強制引退だったとも言われる。 == 数学原論 == [[数学原論]]は[[1939年]]の『集合論 要約』を皮切りに11部門が出版され : 1.集合論 : 2.代数 : 3.位相 : 4.実一変数関数 : 5.位相線型空間 : 6.積分 の6部門においては特に順序にこだわり部門の順序も含めて既に示した結果を用いて記述されている。それで集合論を土台に数学の再編を行ったという事であるが、実際の出版の順序は必ずしもこのようにはいかなかった。その後の部門 : 7.リー群とリー環 : 8.可換代数 : 9.多様体 :10.スペクトル論 :11.代数的位相幾何学 では順序が決まっているわけではない。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{reflist|group="注"}} ===出典=== {{reflist}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書|author=モーリス・マシャル|authorlink=モーリス・マシャル|others=[[高橋礼司]]訳|year=2002|month=10|title=ブルバキ 数学者達の秘密結社|series=シュプリンガー数学クラブ|publisher=[[シュプリンガー・ジャパン|シュプリンガー・フェアラーク東京]]|isbn=4-431-70926-6}} ** {{Cite book | 和書 | last1 = Mashaal | first1 = Maurice | others = 高橋礼司 訳 | year = 2012 | title = ブルバキ 数学者達の秘密結社 | series = シュプリンガー数学クラブ 第10巻 | publisher = [[丸善出版]] | isbn = 978-4-621-06361-3 | ref = harv }} *アミール・D・アクゼル著、[[水谷淳]]訳、『ブルバキとグロタンディーク』、[[日経BP]]、2007年。ISBN 978-4-82228-3322 *ファング 『ブルバキの思想』、[[森毅]]監訳、河村勝久訳、[[東京図書]]、1975年。 ==外部リンク== *[http://www.bourbaki.ens.fr/ ENSに置かれているブルバキのサイト] {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ふるはき にこら}} [[Category:ブルバキ|*]] [[category:フランスの数学者]] [[category:共有筆名]] [[Category:大規模な数学的形式化プロジェクト]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:秘密結社]] [[Category:ジョーク]]
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宇野宗佑
宇野 宗佑(うの そうすけ、1922年〈大正11年〉8月27日 - 1998年〈平成10年〉5月19日)は、日本の政治家。第75代内閣総理大臣。位階は従二位。勲等は勲一等。俳号は犂子(れいし)。 滋賀県議会議員(2期)、滋賀県議会副議長(第45代)、衆議院議員(12期)、防衛庁長官(第32代)、科学技術庁長官(第31代)、行政管理庁長官(第44代)、通商産業大臣(第42代)、外務大臣(第110代)、内閣総理大臣(第75代)、自由民主党国会対策委員長、自由民主党総裁(第13代)などを歴任。 1922年(大正11年)8月27日、滋賀県野洲郡守山町(現・守山市)に父の宇野長司と母の民子の間に長男として生まれる。 実家は造り酒屋の荒長(あらちょう)。宇野の生家は地元の町年寄を務め、祖父の正蔵は守山町長を2期務めるなど、地方政界では知られた存在だった。また、伯父の宇野豊蔵は、実教出版の名誉会長だった。 1929年(昭和4年)に旧制吉身尋常小学校(現在の守山市立吉身小学校)に入学。このころから良い成績を修める。絵にも優れ、『少年倶楽部』に漫画を送ってしばしば当選し、また、このころに乗馬も覚えた。同年に同町吉身に開館した映画館の大黒座に通い始める。 1935年(昭和10年)に滋賀県立八幡商業学校(現・滋賀県立八幡商業高等学校)に入学。商業学校時代は映画に夢中になり、また剣道を始めた。1940年(昭和15年)に彦根高等商業学校(現・滋賀大学経済学部)に入学し、2年生のときに全国高商剣道大会で初の全国優勝に導いた。 外交官を目指して、1943年(昭和18年)10月に旧制神戸商業大学(現・神戸大学)に進学。しかし2か月後に学徒出陣となり、戦後のシベリア抑留を経て、復学せずそのまま中退した。 1943年(昭和18年)2月1日に学徒出陣により敦賀連隊に配属された。八幡商業、彦根高商、神戸商大出身の宇野は主計試験を受けたが、当初は成績が悪かった。三重の津連隊に一時分遣後、5か月間、満州の新京経理学校で主計将校として訓練を受けた後、12月に主計少尉として朝鮮北部の連浦連隊に配属された。 1945年(昭和20年)の終戦後、8月23日にソ連軍により武装解除され、4日後に朝鮮の宣徳収容所に入った。ソ連の船に乗り、10月7日にナホトカに上陸してマラザ収容所に入所した。それから宇野は2年間ソ連に抑留された。 1947年(昭和22年)7月28日に収容所から出所、10月15日に帰還船「信洋丸」に乗って帰国して抑留生活を終えた。1948年(昭和23年)11月に自身の抑留体験を綴った『ダモイ・トウキョウ』(ロシア語: Домой Токио、「東京への帰郷」の意)を出版する。この本は、1952年(昭和27年)に阿部豊によって『私はシベリアの捕虜だった』というタイトルで映画化され、大きな反響を呼んだ。故郷の大黒座で試写が行われた際には、上映に関与し舞台挨拶を行っている。 1949年(昭和24年)2月22日に裏千家十三世圓能齋千宗室の姪の廣瀬千代と結婚。馴れ初めは、シベリアに抑留されていた広瀬の兄の帰還を北野天満宮に祈願していたことからだった。宇野家には嫁入りした妻は旧姓とともに本名をも捨て去るしきたりがあり、千代も結婚後は「弘子」の名を与えられ、宇野の首相就任まで40年間、「宇野弘子」を名乗った。 1947年(昭和22年)、野洲郡守山町商工会が初めて行った会長選挙で商工会長に当選。芝居などの企画を手がける。 1951年(昭和26年)4月、野洲郡選挙区の滋賀県議会議員として初当選。最年少で守山町から二番目(最初は祖父の宇野正蔵)の当選だった。宇野は最初に自由党に入党したが、民主党の森幸太郎が知事になると民主党に入党した。1955年(昭和30年)にトップ当選で再選し、5月21日に県議会副議長に就任した。1956年(昭和31年)3月24日に県会選出の教育委員となった。 1958年(昭和33年)の第28回衆議院議員総選挙で自由民主党の候補として初出馬するが落選。宇野は河野派(春秋会)に入る約束をしており、河野一郎が選挙の応援に訪れていた。選挙後、河野に師事することが認められ、単身上京して河野の議員秘書となった。 1960年(昭和35年)の第29回衆議院議員総選挙で再び出馬した。河野派は宇野を自民公認に推したが、党滋賀県連の支持が得られず無所属で立候補した。宇野は社会党の西村関一についで二番目の得票で当選した。当選後、11月25日に自民党に入党した。 1961年(昭和36年)に自由民主党青年局部長となった。日本海外青年奉仕隊を構想し、局長の竹下登と共にインド・パキスタンや東南アジアを歴訪して青年海外協力隊発足に尽力した。また、自民党青年憲章を制定し、青年の家を創設した。 1966年(昭和41年)8月1日に第1次佐藤内閣第2次改造内閣・第3次改造内閣で三木武夫通商産業大臣の下で通産政務次官に就任した。1967年(昭和42年)の選挙では初のトップ当選を果たした。 1968年(昭和43年)に河野派を引き継いでいた森清の死後、森派から中曽根派に合流。 1974年(昭和49年)11月、第2次田中角栄内閣で、防衛庁長官として初入閣。防衛庁長官として、第十雄洋丸事件では海難事故で炎上した石油タンカーを撃沈する指令を出した。内閣は29日で終わり、離任式で宇野は「国を守る防衛長官がどうしてくるくる代わるのか」と話した。 1974年(昭和49年)12月に田中角栄に代わり、三木武夫が自由民主党総裁に就任すると、自民党国会対策委員長に就任した。まもなくロッキード事件が発覚。野党から執拗な追及を受け、国会対策委員長の仕事は非常に多忙であった。 1976年(昭和51年)、福田赳夫内閣で科学技術庁長官に就任。 科学技術庁長官として日米原子力交渉を担当。核燃料特別対策会議を開き、議長となった。宇野は核拡散問題担当大使ジェラルド・スミス(英語版)らと交渉し、9月には首席代表として訪米、協定に調印した。スミスは宇野のことを「はっきりモノを言う初めての日本人だった」と評価した。 1978年(昭和53年)12月7日、自民党広報委員長に就任。 1979年(昭和54年)、第2次大平内閣で行政管理庁長官に就任。行政管理庁長官として特殊法人の一割削減を計画し、各大臣を大臣室に呼びつけるが、省庁幹部が大臣の代理で大臣室に来ても面談を拒否する徹底した政治主導を行い、計18法人を整理した。 1982年(昭和57年)の自由民主党総裁選で出馬した中曽根康弘の代表世話人となった。中曽根が総裁に当選すると、宇野も自民党幹事長代理に就任し1983年(昭和58年)1月の中曽根首相の訪韓に同伴する。6月に山中貞則が病気により通産大臣を辞任すると後任に就任した。通産大臣として貿易黒字、貿易摩擦の対策に取り組んだ。中曽根首相の退陣に伴い、竹下登を後継総裁に指名する中曽根の裁定文を幹事長代理として発表した。 1987年(昭和62年)に竹下内閣で外務大臣に就任。 1988年(昭和63年)3月26日における参議院予算委員会で、日本共産党の橋本敦の北朝鮮による日本人拉致問題に関する質問が出て、梶山静六国家公安委員会委員長が「北朝鮮による拉致が濃厚である」と答弁した時、宇野は外務大臣として北朝鮮の拉致が現時点では仮定の話ではあることを前置きした上で、「我々の主権が侵されていたという問題」「全くもって許しがたい人道上の問題」「強い憤り」「主権国家として当然とるべき措置はとらねばならぬ」と答弁した。 1988年(昭和63年)6月に日本の外相として初めてイスラエルを訪問し、シモン・ペレス外相と会談した。その際、宇野が「イスラエル軍は、占領地から全面撤退すべきであります。日本の繁栄は、国民の汗と涙の結晶。武力で土地を取る国には、金は一銭も出せない」と言うと、ペレス外相から「愛国心を喚起しないと、我々は選挙が大変なんだ」と理解を求める声が返ってきた。 1989年(昭和64年)1月7日、外遊先のフランス・パリで昭和天皇崩御の訃報に接し、参加中の化学兵器禁止国際会議の会場で、各国要人が宇野外相に弔意を伝えた。さらに、会場では異例の黙祷が自然な形で行われた。宇野は、「昭和という時代は、先の大戦から今日の自由民主主義の、もとでの繁栄まで我が国が極めて大きな振幅を経験した時代であり、長い日本の歴史の中におきましても、一際深い刻印を記した時代であったと言うことができます。」とテレビカメラの前で涙を見せながら語った。 外務大臣時代には「原子力発電所に反対する人はクーラーを使うなと言いたい」と発言して脱原発団体から抗議されたことがある。 リクルート事件発覚と消費税導入により支持率が急落した竹下登首相が、1989年(平成元年)4月25日に辞意を表明した。しかし、ポスト竹下と目されていた安倍晋太郎、宮澤喜一、渡辺美智雄ら自民党の有力者は軒並みリクルート事件に関与していたため身動きが取れず、河本敏夫は三光汽船経営危機問題から敬遠され、さらに伊東正義や田村元、坂田道太、後藤田正晴からも断られて後継の総理総裁選びは難航する。 そこで、主要閣僚の中でリクルート事件との関連性が薄く、総理総裁任期を満了した中曽根の派閥ナンバー2であり、サミットが近かったこともあり外相であった宇野に白羽の矢が立ち、5月26日に竹下から打診されて宇野が急遽後継総裁に擁立されることになった(竹下裁定)。 6月2日、宇野外相は自民党両院議員総会で全会一致にできずに異例の「起立多数」で第13代自民党総裁に選出される。自民党史において、派閥領袖ではない自民党総裁は宇野が初めてであった。鈴木善幸首相は就任当時こそ派閥領袖ではなかったが、間もなく派閥領袖となっている。 1989年(平成元年)6月3日、竹下改造内閣総辞職に伴い宇野内閣成立。主要閣僚は谷川和穂法務相、三塚博外務相、村山達雄大蔵相、西岡武夫文部相、小泉純一郎厚生相、堀之内久男農林水産相、梶山静六通商産業相、山村新治郎運輸相、村岡兼造郵政大臣、堀内光雄労働相、野田毅建設相、坂野重信自治相兼国家公安委員長、塩川正十郎内閣官房長官、池田行彦総務庁長官、井上吉夫北海道開発庁長官兼沖縄開発庁長官、山崎拓防衛庁長官、越智通雄経済企画庁長官、中村喜四郎科学技術庁長官、山崎竜男環境庁長官、野中英二国土庁長官。 なお宇野は、天皇明仁が即位後初めて任命した首相となった。 宇野内閣発足直後の同年6月4日、中華人民共和国で六四天安門事件が発生し、宇野は竹下内閣が決定した第三次円借款を凍結する一方で外務大臣・三塚博と共に「中国の孤立はさせない」とサミットで主張して他の西側諸国と距離を置き、サミット前にも対中制裁反対派・慎重派の中曽根康弘、鈴木善幸、竹下登元首相と会談した。総理退任後の1990年5月7日に宇野が訪中した際にも中国の指導者江沢民からこのサミットでの対応に感謝されている。 しかし、この急造内閣も宇野自身のスキャンダルに足をすくわれることとなった。宇野が首相に就任した3日後、『サンデー毎日』(毎日新聞)が神楽坂の芸妓の告発を掲載し、宇野の女性スキャンダルが表面化。当時のサンデー毎日の編集長は鳥越俊太郎だった。 初めは国内の他のマスコミは無視したがが、外国メディアに「セックススキャンダルが日本の宇野を直撃」(ワシントン・ポスト)などと掲載されると、それが引用される形で日本で話題となった。一部マスコミからは宇野ピンクザウルス総理と揶揄された。。 女性問題の報道に関して妻の千代は「宇野は私を大切にしてくれておりますし、私も宇野をずっと心から信頼してまいりました。もちろん、そんなことはなかったと信じております。デッチ上げだと思っております」と語っている。 同年7月の第15回参議院議員通常選挙は従来の3点セット(リクルート問題、消費税問題、牛肉・オレンジの輸入自由化問題)に加え宇野首相の女性問題が争点となり、さらにいわゆるマドンナブームがとどめを刺し、自民党は改選議席の69議席を大幅に下回る36議席しか獲得できず、特に一人区では3勝23敗と惨敗。参議院では結党以来初めての過半数割れとなった。 投票日翌日の7月24日、宇野は敗北の責任を取り退陣を表明。会見での「明鏡止水の心境であります」との言葉が話題になった。同年8月8日には自民党両院議員総会で河本派の番頭格であった海部俊樹が新総裁に選出された。宇野の総理在任期間はわずか69日、日本政治史上4番目の短命内閣に終わった。 退任後は自民党最高顧問に就任したが、1996年(平成8年)の第41回衆議院議員総選挙に立候補せず政界から引退した。また、1995年(平成7年)11月に森口華弘と共に初の守山市名誉市民に表彰された。 宇野は1998年(平成10年)2月から体調不良となり、通院を繰り返して5月18日に滋賀県立成人病センターに入院、翌5月19日午前11時4分死去、75歳没。死因は肺癌であったが、怖がりの宇野には知らされなかった。「今何時だ」が宇野の最後の言葉だった。 同年7月18日に県立体育館で県民葬、9月13日に市民ホールで集会(題は「守山市名誉市民・元内閣総理大臣故宇野宗佑氏を偲ぶつどい」)が開かれ、市民ら1100人が参加した。平成期に総理大臣を務めた政治家としては最初の物故者となった。 2002年(平成14年)11月30日に守山市市民ホールで宇野の銅像の除幕式が行われた。没後生家は「宇野宗佑記念館」となり、生前の写真パネルのほか、宇野が国内の視察先や外遊先などで収集した絵画や骨董品・民芸品などが展示されていたが、宇野家の資金難から閉鎖になり、土地や建物は売却された。宇野の自宅の裏には「中仙道守山宿 郷土人形館」が建てられ、宇野が収集した内外の人形約2万点、自作品も50点ほど展示されていたが、現在は限定公開となっている。 2003年(平成15年)の第43回衆議院議員総選挙では、女婿の宇野治が自民党公認で宇野の地盤であった滋賀3区から立候補し、比例復活で初当選した。だが、2009年の第45回衆議院議員総選挙で落選後、政界復帰することなく2012年に政界引退を表明した。 同時に自民党滋賀3区総支部長も退任、後任には武村展英が就任し、武村は2012年の第46回衆議院議員総選挙で初当選した。 政策研究大学院大学の本田雅俊准教授は、「閣僚としての宇野には、二つの見方が残っている。一つは権柄ずくに振る舞うばかりで、自ら汗をかかなかったというものである。例えば、行政管理庁長官時代には単にふんぞり返っていたとの評判がある。その一方、リーダーシップを発揮しながら、内閣の重要課題を手堅く処理していったとの評価もある。官僚を相手にせず、全閣僚を順次呼びつけ「馬鹿にしちゃいかんぞ」と怒鳴りつけながら18の特殊法人を整理したというエピソードもある。実際、大平は宇野の手腕を讃えたという」。 総理時代の評価は在任期間が69日と短かったこともあり、多くの評者が評価不能としている。 宇野と同じ文人政治家としても親交の深く、福田・竹下両内閣で共に閣僚(福田内閣で宇野は科学技術庁長官、石原は環境庁長官。11年後の竹下内閣では宇野は外相、石原は運輸相)だった石原慎太郎(後に東京都知事→日本維新の会代表)が「私自身はこの人事には密かに期待した者の一人だった。宇野氏とは個人的にも親しく、磊落で文人気質のこの人物が思いがけぬ状況の所産として総裁、総理になったことで、この国の政治家のイメイジが少しは変わってくるのではないかとも思っていた。残念なことに女性問題で宇野氏は苦境に立たされ短命に終わったが、もしあの政権が続いていたなら党の中にもある大事な変化があり得たのではないかと思っている」と述べている。 宇野内閣で防衛政務次官に抜擢された鈴木宗男も、「宇野さんは外務官僚から『歴代外務大臣で一番手がかからない』と言われたほど、国会答弁など完璧にこなす勉強家であり、宇野内閣が短命に終わったことは、日本の政治にとって不幸だった」と述べている。 初代内閣安全保障室長の佐々淳行が宇野総理に悪い情報を入れると怒られ、意見具申をすると意見半ばで怒りを含む発言にさえぎられ、宇野から「私は外務大臣も通産大臣も、防衛庁長官もやった、党の幹事長代行もやった。君にそんなことを言われなくたって、ちゃんと知っているし、わかっている!!」と一喝され、「それは失礼しました」と言って佐々が退出することがあった。 塩田潮の『大いなる影法師』によると、宇野は政治家秘書出身としては、初めての首相だったという。しかし、当時現役だった政治家秘書からは嫌われていた。宇野自身の秘書時代と比較し、秘書を叱りつけたりしたからである。秘書たちは、「宇野さんは、選挙の谷間の腰掛けで秘書をやっていただけ。いずれ政治家になる秘書と、秘書として生涯を終える秘書とを同列に論じないでほしい」と苦り切っていた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "宇野 宗佑(うの そうすけ、1922年〈大正11年〉8月27日 - 1998年〈平成10年〉5月19日)は、日本の政治家。第75代内閣総理大臣。位階は従二位。勲等は勲一等。俳号は犂子(れいし)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "滋賀県議会議員(2期)、滋賀県議会副議長(第45代)、衆議院議員(12期)、防衛庁長官(第32代)、科学技術庁長官(第31代)、行政管理庁長官(第44代)、通商産業大臣(第42代)、外務大臣(第110代)、内閣総理大臣(第75代)、自由民主党国会対策委員長、自由民主党総裁(第13代)などを歴任。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1922年(大正11年)8月27日、滋賀県野洲郡守山町(現・守山市)に父の宇野長司と母の民子の間に長男として生まれる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "実家は造り酒屋の荒長(あらちょう)。宇野の生家は地元の町年寄を務め、祖父の正蔵は守山町長を2期務めるなど、地方政界では知られた存在だった。また、伯父の宇野豊蔵は、実教出版の名誉会長だった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1929年(昭和4年)に旧制吉身尋常小学校(現在の守山市立吉身小学校)に入学。このころから良い成績を修める。絵にも優れ、『少年倶楽部』に漫画を送ってしばしば当選し、また、このころに乗馬も覚えた。同年に同町吉身に開館した映画館の大黒座に通い始める。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1935年(昭和10年)に滋賀県立八幡商業学校(現・滋賀県立八幡商業高等学校)に入学。商業学校時代は映画に夢中になり、また剣道を始めた。1940年(昭和15年)に彦根高等商業学校(現・滋賀大学経済学部)に入学し、2年生のときに全国高商剣道大会で初の全国優勝に導いた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "外交官を目指して、1943年(昭和18年)10月に旧制神戸商業大学(現・神戸大学)に進学。しかし2か月後に学徒出陣となり、戦後のシベリア抑留を経て、復学せずそのまま中退した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1943年(昭和18年)2月1日に学徒出陣により敦賀連隊に配属された。八幡商業、彦根高商、神戸商大出身の宇野は主計試験を受けたが、当初は成績が悪かった。三重の津連隊に一時分遣後、5か月間、満州の新京経理学校で主計将校として訓練を受けた後、12月に主計少尉として朝鮮北部の連浦連隊に配属された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1945年(昭和20年)の終戦後、8月23日にソ連軍により武装解除され、4日後に朝鮮の宣徳収容所に入った。ソ連の船に乗り、10月7日にナホトカに上陸してマラザ収容所に入所した。それから宇野は2年間ソ連に抑留された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1947年(昭和22年)7月28日に収容所から出所、10月15日に帰還船「信洋丸」に乗って帰国して抑留生活を終えた。1948年(昭和23年)11月に自身の抑留体験を綴った『ダモイ・トウキョウ』(ロシア語: Домой Токио、「東京への帰郷」の意)を出版する。この本は、1952年(昭和27年)に阿部豊によって『私はシベリアの捕虜だった』というタイトルで映画化され、大きな反響を呼んだ。故郷の大黒座で試写が行われた際には、上映に関与し舞台挨拶を行っている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1949年(昭和24年)2月22日に裏千家十三世圓能齋千宗室の姪の廣瀬千代と結婚。馴れ初めは、シベリアに抑留されていた広瀬の兄の帰還を北野天満宮に祈願していたことからだった。宇野家には嫁入りした妻は旧姓とともに本名をも捨て去るしきたりがあり、千代も結婚後は「弘子」の名を与えられ、宇野の首相就任まで40年間、「宇野弘子」を名乗った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1947年(昭和22年)、野洲郡守山町商工会が初めて行った会長選挙で商工会長に当選。芝居などの企画を手がける。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1951年(昭和26年)4月、野洲郡選挙区の滋賀県議会議員として初当選。最年少で守山町から二番目(最初は祖父の宇野正蔵)の当選だった。宇野は最初に自由党に入党したが、民主党の森幸太郎が知事になると民主党に入党した。1955年(昭和30年)にトップ当選で再選し、5月21日に県議会副議長に就任した。1956年(昭和31年)3月24日に県会選出の教育委員となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1958年(昭和33年)の第28回衆議院議員総選挙で自由民主党の候補として初出馬するが落選。宇野は河野派(春秋会)に入る約束をしており、河野一郎が選挙の応援に訪れていた。選挙後、河野に師事することが認められ、単身上京して河野の議員秘書となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1960年(昭和35年)の第29回衆議院議員総選挙で再び出馬した。河野派は宇野を自民公認に推したが、党滋賀県連の支持が得られず無所属で立候補した。宇野は社会党の西村関一についで二番目の得票で当選した。当選後、11月25日に自民党に入党した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1961年(昭和36年)に自由民主党青年局部長となった。日本海外青年奉仕隊を構想し、局長の竹下登と共にインド・パキスタンや東南アジアを歴訪して青年海外協力隊発足に尽力した。また、自民党青年憲章を制定し、青年の家を創設した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1966年(昭和41年)8月1日に第1次佐藤内閣第2次改造内閣・第3次改造内閣で三木武夫通商産業大臣の下で通産政務次官に就任した。1967年(昭和42年)の選挙では初のトップ当選を果たした。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1968年(昭和43年)に河野派を引き継いでいた森清の死後、森派から中曽根派に合流。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1974年(昭和49年)11月、第2次田中角栄内閣で、防衛庁長官として初入閣。防衛庁長官として、第十雄洋丸事件では海難事故で炎上した石油タンカーを撃沈する指令を出した。内閣は29日で終わり、離任式で宇野は「国を守る防衛長官がどうしてくるくる代わるのか」と話した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1974年(昭和49年)12月に田中角栄に代わり、三木武夫が自由民主党総裁に就任すると、自民党国会対策委員長に就任した。まもなくロッキード事件が発覚。野党から執拗な追及を受け、国会対策委員長の仕事は非常に多忙であった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1976年(昭和51年)、福田赳夫内閣で科学技術庁長官に就任。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": 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"リクルート事件発覚と消費税導入により支持率が急落した竹下登首相が、1989年(平成元年)4月25日に辞意を表明した。しかし、ポスト竹下と目されていた安倍晋太郎、宮澤喜一、渡辺美智雄ら自民党の有力者は軒並みリクルート事件に関与していたため身動きが取れず、河本敏夫は三光汽船経営危機問題から敬遠され、さらに伊東正義や田村元、坂田道太、後藤田正晴からも断られて後継の総理総裁選びは難航する。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "そこで、主要閣僚の中でリクルート事件との関連性が薄く、総理総裁任期を満了した中曽根の派閥ナンバー2であり、サミットが近かったこともあり外相であった宇野に白羽の矢が立ち、5月26日に竹下から打診されて宇野が急遽後継総裁に擁立されることになった(竹下裁定)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "6月2日、宇野外相は自民党両院議員総会で全会一致にできずに異例の「起立多数」で第13代自民党総裁に選出される。自民党史において、派閥領袖ではない自民党総裁は宇野が初めてであった。鈴木善幸首相は就任当時こそ派閥領袖ではなかったが、間もなく派閥領袖となっている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1989年(平成元年)6月3日、竹下改造内閣総辞職に伴い宇野内閣成立。主要閣僚は谷川和穂法務相、三塚博外務相、村山達雄大蔵相、西岡武夫文部相、小泉純一郎厚生相、堀之内久男農林水産相、梶山静六通商産業相、山村新治郎運輸相、村岡兼造郵政大臣、堀内光雄労働相、野田毅建設相、坂野重信自治相兼国家公安委員長、塩川正十郎内閣官房長官、池田行彦総務庁長官、井上吉夫北海道開発庁長官兼沖縄開発庁長官、山崎拓防衛庁長官、越智通雄経済企画庁長官、中村喜四郎科学技術庁長官、山崎竜男環境庁長官、野中英二国土庁長官。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "なお宇野は、天皇明仁が即位後初めて任命した首相となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "宇野内閣発足直後の同年6月4日、中華人民共和国で六四天安門事件が発生し、宇野は竹下内閣が決定した第三次円借款を凍結する一方で外務大臣・三塚博と共に「中国の孤立はさせない」とサミットで主張して他の西側諸国と距離を置き、サミット前にも対中制裁反対派・慎重派の中曽根康弘、鈴木善幸、竹下登元首相と会談した。総理退任後の1990年5月7日に宇野が訪中した際にも中国の指導者江沢民からこのサミットでの対応に感謝されている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "しかし、この急造内閣も宇野自身のスキャンダルに足をすくわれることとなった。宇野が首相に就任した3日後、『サンデー毎日』(毎日新聞)が神楽坂の芸妓の告発を掲載し、宇野の女性スキャンダルが表面化。当時のサンデー毎日の編集長は鳥越俊太郎だった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "初めは国内の他のマスコミは無視したがが、外国メディアに「セックススキャンダルが日本の宇野を直撃」(ワシントン・ポスト)などと掲載されると、それが引用される形で日本で話題となった。一部マスコミからは宇野ピンクザウルス総理と揶揄された。。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "女性問題の報道に関して妻の千代は「宇野は私を大切にしてくれておりますし、私も宇野をずっと心から信頼してまいりました。もちろん、そんなことはなかったと信じております。デッチ上げだと思っております」と語っている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "同年7月の第15回参議院議員通常選挙は従来の3点セット(リクルート問題、消費税問題、牛肉・オレンジの輸入自由化問題)に加え宇野首相の女性問題が争点となり、さらにいわゆるマドンナブームがとどめを刺し、自民党は改選議席の69議席を大幅に下回る36議席しか獲得できず、特に一人区では3勝23敗と惨敗。参議院では結党以来初めての過半数割れとなった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "投票日翌日の7月24日、宇野は敗北の責任を取り退陣を表明。会見での「明鏡止水の心境であります」との言葉が話題になった。同年8月8日には自民党両院議員総会で河本派の番頭格であった海部俊樹が新総裁に選出された。宇野の総理在任期間はわずか69日、日本政治史上4番目の短命内閣に終わった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "退任後は自民党最高顧問に就任したが、1996年(平成8年)の第41回衆議院議員総選挙に立候補せず政界から引退した。また、1995年(平成7年)11月に森口華弘と共に初の守山市名誉市民に表彰された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "宇野は1998年(平成10年)2月から体調不良となり、通院を繰り返して5月18日に滋賀県立成人病センターに入院、翌5月19日午前11時4分死去、75歳没。死因は肺癌であったが、怖がりの宇野には知らされなかった。「今何時だ」が宇野の最後の言葉だった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "同年7月18日に県立体育館で県民葬、9月13日に市民ホールで集会(題は「守山市名誉市民・元内閣総理大臣故宇野宗佑氏を偲ぶつどい」)が開かれ、市民ら1100人が参加した。平成期に総理大臣を務めた政治家としては最初の物故者となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2002年(平成14年)11月30日に守山市市民ホールで宇野の銅像の除幕式が行われた。没後生家は「宇野宗佑記念館」となり、生前の写真パネルのほか、宇野が国内の視察先や外遊先などで収集した絵画や骨董品・民芸品などが展示されていたが、宇野家の資金難から閉鎖になり、土地や建物は売却された。宇野の自宅の裏には「中仙道守山宿 郷土人形館」が建てられ、宇野が収集した内外の人形約2万点、自作品も50点ほど展示されていたが、現在は限定公開となっている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2003年(平成15年)の第43回衆議院議員総選挙では、女婿の宇野治が自民党公認で宇野の地盤であった滋賀3区から立候補し、比例復活で初当選した。だが、2009年の第45回衆議院議員総選挙で落選後、政界復帰することなく2012年に政界引退を表明した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "同時に自民党滋賀3区総支部長も退任、後任には武村展英が就任し、武村は2012年の第46回衆議院議員総選挙で初当選した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "政策研究大学院大学の本田雅俊准教授は、「閣僚としての宇野には、二つの見方が残っている。一つは権柄ずくに振る舞うばかりで、自ら汗をかかなかったというものである。例えば、行政管理庁長官時代には単にふんぞり返っていたとの評判がある。その一方、リーダーシップを発揮しながら、内閣の重要課題を手堅く処理していったとの評価もある。官僚を相手にせず、全閣僚を順次呼びつけ「馬鹿にしちゃいかんぞ」と怒鳴りつけながら18の特殊法人を整理したというエピソードもある。実際、大平は宇野の手腕を讃えたという」。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "総理時代の評価は在任期間が69日と短かったこともあり、多くの評者が評価不能としている。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "宇野と同じ文人政治家としても親交の深く、福田・竹下両内閣で共に閣僚(福田内閣で宇野は科学技術庁長官、石原は環境庁長官。11年後の竹下内閣では宇野は外相、石原は運輸相)だった石原慎太郎(後に東京都知事→日本維新の会代表)が「私自身はこの人事には密かに期待した者の一人だった。宇野氏とは個人的にも親しく、磊落で文人気質のこの人物が思いがけぬ状況の所産として総裁、総理になったことで、この国の政治家のイメイジが少しは変わってくるのではないかとも思っていた。残念なことに女性問題で宇野氏は苦境に立たされ短命に終わったが、もしあの政権が続いていたなら党の中にもある大事な変化があり得たのではないかと思っている」と述べている。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "宇野内閣で防衛政務次官に抜擢された鈴木宗男も、「宇野さんは外務官僚から『歴代外務大臣で一番手がかからない』と言われたほど、国会答弁など完璧にこなす勉強家であり、宇野内閣が短命に終わったことは、日本の政治にとって不幸だった」と述べている。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "初代内閣安全保障室長の佐々淳行が宇野総理に悪い情報を入れると怒られ、意見具申をすると意見半ばで怒りを含む発言にさえぎられ、宇野から「私は外務大臣も通産大臣も、防衛庁長官もやった、党の幹事長代行もやった。君にそんなことを言われなくたって、ちゃんと知っているし、わかっている!!」と一喝され、「それは失礼しました」と言って佐々が退出することがあった。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "塩田潮の『大いなる影法師』によると、宇野は政治家秘書出身としては、初めての首相だったという。しかし、当時現役だった政治家秘書からは嫌われていた。宇野自身の秘書時代と比較し、秘書を叱りつけたりしたからである。秘書たちは、「宇野さんは、選挙の谷間の腰掛けで秘書をやっていただけ。いずれ政治家になる秘書と、秘書として生涯を終える秘書とを同列に論じないでほしい」と苦り切っていた。", "title": "評価" } ]
宇野 宗佑は、日本の政治家。第75代内閣総理大臣。位階は従二位。勲等は勲一等。俳号は犂子(れいし)。 滋賀県議会議員(2期)、滋賀県議会副議長(第45代)、衆議院議員(12期)、防衛庁長官(第32代)、科学技術庁長官(第31代)、行政管理庁長官(第44代)、通商産業大臣(第42代)、外務大臣(第110代)、内閣総理大臣(第75代)、自由民主党国会対策委員長、自由民主党総裁(第13代)などを歴任。
{{政治家 | 人名 = 宇野 宗佑 | 各国語表記 = うの そうすけ | 画像 = Sosuke Uno 19890603.jpg | 画像サイズ = 220px | 画像説明 = [[内閣広報室]]より公表された肖像 | 国略称 = {{JPN}} | 生年月日 = [[1922年]][[8月27日]] | 出生地 = {{JPN}}・[[滋賀県]][[野洲郡]][[守山市|守山町]](現・[[守山市]]) | 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1922|8|27|1998|5|19}} | 死没地 = {{JPN}}・滋賀県守山市([[滋賀県立総合病院|滋賀県立成人病センター]])<ref name="ismedia">{{Cite web|和書|url=https://gendai.media/mwimgs/0/f/-/img_0fd9f8ab813393dc05d2af0945e6b79e847910.jpg|title=史上初の大調査 著名人100人が最後に頼った病院 あなたの病院選びは間違っていませんか|publisher=現代ビジネス|date=2011-08-17|accessdate=2020-01-15}}</ref> | 出身校 = [[彦根高等商業学校]](現・[[滋賀大学経済学部]])卒業<br />[[神戸商業大学 (旧制)|神戸商業大学]](現・[[神戸大学]])中退 | 前職 = 守山町商工会[[会長]] | 現職 = | 所属政党 = ([[日本自由党 (1945-1948)|自由党]]→)<br />([[民主党 (日本 1947-1950)|民主党]]→)<br />[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]([[春秋会]]→<br>[[政策科学研究所]]) | 称号・勲章 = [[従二位]]<br /> [[File:JPN Toka-sho BAR.svg|38px]] [[勲一等旭日桐花大綬章]]<br />[[守山市]][[名誉市民]]<br />[[File:War flag of the Imperial Japanese Army (1868–1945).svg|border|25px]] [[大日本帝国陸軍]][[少尉]] | 親族(政治家) = 宇野生蔵([[祖父母|祖父]])<br />[[宇野治]]([[娘婿]]) | 配偶者 = [[宇野千代 (首相夫人)|宇野千代]] | サイン = UnoS kao.png | ウェブサイト = | サイトタイトル = | 国旗 = JPN | 職名 = 第75代 [[内閣総理大臣]] | 内閣 = [[宇野内閣]] | 選挙区 = | 当選回数 = | 就任日 = [[1989年]][[6月3日]] | 退任日 = [[1989年]][[8月10日]] | 所属委員会 = | 議員会館 = | 元首職 = 天皇 | 元首 = [[明仁|上皇(明仁)]] | 国旗2 = JPN | 職名2 = 第110代 [[外務大臣 (日本)|外務大臣]] | 内閣2 = [[竹下内閣]]<br />[[竹下内閣 (改造)|竹下改造内閣]] | 選挙区2 = | 当選回数2 = | 就任日2 = [[1987年]][[11月6日]] | 退任日2 = [[1989年]][[6月3日]] | 元首職2 = | 元首2 = | 国旗3 = JPN | 職名3 = 第42代 [[経済産業大臣|通商産業大臣]] | 内閣3 = [[第1次中曽根内閣]] | 選挙区3 = | 当選回数3 = | 就任日3 = [[1983年]][[6月10日]] | 退任日3 = [[1983年]][[12月27日]] | 元首職3 = | 元首3 = | 国旗4 = JPN | 職名4 = 第44代 [[行政管理庁長官]] | 内閣4 = [[第2次大平内閣]] | 選挙区4 = | 当選回数4 = | 就任日4 = [[1979年]][[11月9日]] | 退任日4 = [[1980年]][[7月17日]] | 元首職4 = | 元首4 = | 国旗5 = JPN | 職名5 = 第31代 [[科学技術庁長官]] | 内閣5 = [[福田赳夫内閣]] | 選挙区5 = | 当選回数5 = | 就任日5 = [[1976年]][[12月24日]] | 退任日5 = [[1977年]][[11月28日]] | 元首職5 = | 元首5 = | 国旗6 = JPN | その他職歴1 = 第32代 [[防衛大臣|防衛庁長官]] | 就任日6 = [[第2次田中角栄内閣 (第2次改造)|第2次田中角栄第2次改造内閣]])<br />([[1974年]][[11月11日]] | 退任日6 = [[1974年]][[12月9日]] | 国旗7 = JPN | その他職歴2 = [[日本の国会議員#衆議院議員|衆議院議員]]<br /> '''[[滋賀県全県区]]<br/>当選回数 12回''' '' '' | 就任日7 = [[1960年]][[11月20日]] | 退任日7 = [[1996年]][[9月27日]] | 国旗8 = | その他職歴3 = {{Flagicon|滋賀県}} 第45代 [[滋賀県議会]][[副議長]] | 就任日8 = [[1955年]][[5月21日]] | 退任日8 = [[1956年]][[3月24日]] | 国旗9 = | その他職歴4 = {{Flagicon|滋賀県}} [[滋賀県議会|滋賀県議会議員]] <br /> '''当選回数 2回''' '' '' | 就任日9 = [[1951年]] | 退任日9 = [[1958年]] | その他職歴5 = [[File:Liberal Democratic Party (Japan) Emblem.jpg|20px]] 第13代 [[自由民主党総裁]] | 就任日10 = [[1989年]][[6月2日]] | 退任日10 = [[1989年]][[8月8日]] | その他職歴6 = [[ファイル:Liberal Democratic Party (Japan) Emblem.jpg|20px]] 第20代 [[自由民主党国会対策委員会#国会対策委員長|自由民主党国会対策委員長]]<br /> '''(総裁:[[三木武夫]])''' '' '' | 就任日11 = [[1974年]] | 退任日11 = [[1976年]] | その他職歴7 = [[File:Liberal Democratic Party (Japan) Emblem.jpg|20px]] [[自由民主党幹事長|自由民主党幹事長代理]] <br /> '''(総裁:[[中曽根康弘]])''' '' '' | 就任日12 = [[1986年]][[1月]] | 退任日12 = [[1987年]][[11月]] }} '''宇野 宗佑'''(うの そうすけ、[[1922年]]〈[[大正]]11年〉[[8月27日]] - [[1998年]]〈[[平成]]10年〉[[5月19日]])は、[[日本]]の[[政治家]]。第75代[[内閣総理大臣]]。[[位階]]は[[従二位]]。[[勲等]]は[[勲一等旭日桐花大綬章|勲一等]]。俳号は'''犂子'''(れいし)。 [[滋賀県議会]]議員(2期)、滋賀県議会副議長(第45代)、[[衆議院議員]](12期)、[[防衛大臣|防衛庁長官]]([[第2次田中角栄内閣 (第2次改造)|第32代]])、[[科学技術庁長官]]([[福田赳夫内閣|第31代]])、[[行政管理庁長官]]([[第2次大平内閣|第44代]])、[[経済産業大臣|通商産業大臣]]([[第1次中曽根内閣|第42代]])、[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]([[竹下内閣|第110代]])、[[内閣総理大臣]]([[宇野内閣|第75代]])、[[自由民主党国会対策委員会#国会対策委員長|自由民主党国会対策委員長]]、[[自由民主党総裁]](第13代)などを歴任。 == 生涯 == === 青少年期 === [[1922年]](大正11年)[[8月27日]]、[[滋賀県]][[野洲郡]]守山町(現・[[守山市]])に父の[[宇野長司]]と母の民子の間に長男として生まれる。 実家は[[造り酒屋]]の荒長(あらちょう)。宇野の生家は地元の町年寄を務め、祖父の[[宇野正蔵|正蔵]]は守山町長を2期務めるなど、地方政界では知られた存在だった。また、伯父の[[宇野豊蔵]]は、[[実教出版]]の名誉会長だった。 [[1929年]](昭和4年)に[[尋常小学校|旧制]]吉身尋常小学校(現在の[[守山市立吉身小学校]])に入学。このころから良い成績を修める。[[絵]]にも優れ、『[[少年倶楽部]]』に漫画を送ってしばしば当選し、また、このころに乗馬も覚えた<ref>[[#柚木&沼田1988|柚木&沼田 1988]]、45-49頁</ref>。同年に同町吉身に開館した[[映画館]]の[[守山映画劇場|大黒座]]に通い始める<ref name="宇野84_309">[[#宇野1984|宇野 1984]], 309-324頁</ref>。 [[1935年]](昭和10年)に滋賀県立八幡商業学校(現・[[滋賀県立八幡商業高等学校]])に入学。商業学校時代は映画に夢中になり、また剣道を始めた<ref name="名前なし-1">[[#柚木&沼田1988|柚木&沼田 1988]]、62-65頁</ref>。[[1940年]](昭和15年)に[[彦根高等商業学校]](現・[[滋賀大学経済学部]])に入学し、2年生のときに全国高商剣道大会で初の全国優勝に導いた<ref>[[#柚木&沼田1988|柚木&沼田 1988]]、67頁</ref>。 [[外交官#日本の外交官制度|外交官]]を目指して<ref>[[#柚木&沼田1988|柚木&沼田 1988]]、85頁</ref>、[[1943年]](昭和18年)10月に旧制[[神戸商業大学 (旧制)|神戸商業大学]](現・[[神戸大学]])に進学。しかし2か月後に[[学徒出陣]]となり、戦後の[[シベリア抑留]]を経て、復学せずそのまま中退した。 === シベリア抑留 === [[ファイル:Sosuke Uno 1952.jpg|thumb|left|200px|[[1952年]]、[[守山映画劇場|大黒座]]にて]] [[1943年]](昭和18年)2月1日に[[学徒出陣]]により[[敦賀連隊]]に配属された。八幡商業、彦根高商、神戸商大出身の宇野は[[主計]]試験を受けたが、当初は成績が悪かった<ref>[[#柚木&沼田1988|柚木&沼田 1988]]、73頁</ref>。三重の[[津連隊区|津連隊]]に一時分遣後、5か月間、[[満州国|満州]]の[[新京経理学校]]で主計将校として訓練を受けた後、12月に主計[[少尉]]として[[朝鮮]]北部の[[連浦連隊]]に配属された。 [[1945年]](昭和20年)の終戦後、[[8月23日]]に[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]により武装解除され、4日後に朝鮮の[[宣徳収容所]]に入った。ソ連の船に乗り、10月7日に[[ナホトカ]]に上陸して[[マラザ収容所]]に入所した。それから宇野は2年間[[シベリア抑留|ソ連に抑留]]された。 [[1947年]](昭和22年)7月28日に収容所から出所、10月15日に帰還船「信洋丸」に乗って帰国して抑留生活を終えた。[[1948年]](昭和23年)11月に自身の抑留体験を綴った『[[ダモイ・トウキョウ]]』({{lang-ru|Домой Токио}}、「東京への帰郷」の意)を出版する。この本は、[[1952年]](昭和27年)に[[阿部豊]]によって『[[私はシベリアの捕虜だった]]』というタイトルで映画化され、大きな反響を呼んだ<ref>[[#柚木&沼田1988|柚木&沼田 1988]]、115-116頁</ref>。故郷の大黒座で試写が行われた際には、上映に関与し舞台挨拶を行っている<ref name="宇野84_309" />。 [[1949年]](昭和24年)2月22日に[[裏千家]]十三世圓能齋千宗室の姪の[[宇野千代 (首相夫人)|廣瀬千代]]と結婚<ref>[[宇野千代]]とは別人。</ref>。馴れ初めは、シベリアに抑留されていた広瀬の兄の帰還を[[北野天満宮]]に祈願していたことからだった。宇野家には嫁入りした妻は旧姓とともに本名をも捨て去るしきたりがあり、千代も結婚後は「弘子」の名を与えられ、宇野の首相就任まで40年間、「宇野弘子」を名乗った<ref>[[#柚木&沼田1988|柚木&沼田 1988]]、121-122頁</ref>。 === 初期の政治活動 === [[ファイル:Sosuke Uno 1954.jpg|thumb|left|200px|1954年、滋賀県議会選挙で当選し支持者らに肩車される宇野。]] [[1947年]](昭和22年)、[[野洲郡]][[守山市|守山町]][[商工会]]が初めて行った会長選挙で商工会長に当選<ref name=":0" />。芝居などの企画を手がける<ref name=":0">[[#柚木&沼田1988|柚木&沼田 1988]]、105-108頁</ref>。 [[1951年]](昭和26年)4月、野洲郡選挙区の[[滋賀県議会|滋賀県議会議員]]として初当選。最年少で守山町から二番目(最初は祖父の宇野正蔵)の当選だった<ref>[[#柚木&沼田1988|柚木&沼田 1988]]、109,112頁</ref>。宇野は最初に[[日本自由党 (1945-1948)|自由党]]に入党したが、[[民主党 (日本 1947-1950)|民主党]]の[[森幸太郎]]が[[滋賀県知事一覧|知事]]になると民主党に入党した<ref name="名前なし-2">[[#柚木&沼田1988|柚木&沼田 1988]]、301頁</ref>。[[1955年]](昭和30年)にトップ当選で再選し、5月21日に県議会副議長に就任した<ref name="名前なし-1"/>。[[1956年]](昭和31年)[[3月24日]]に県会選出の教育委員となった<ref name="名前なし-2"/>。 [[1958年]](昭和33年)の[[第28回衆議院議員総選挙]]で[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]の候補として初出馬するが落選。宇野は[[春秋会|河野派(春秋会)]]に入る約束をしており、[[河野一郎]]が選挙の応援に訪れていた<ref>[[#柚木&沼田1988|柚木&沼田 1988]]、130,132頁</ref>。選挙後、河野に師事することが認められ、単身上京して河野の[[公設秘書|議員秘書]]となった<ref>[[#柚木&沼田1988|柚木&沼田 1988]]、134-135頁</ref>。 [[1960年]](昭和35年)の[[第29回衆議院議員総選挙]]で再び出馬した。河野派は宇野を自民公認に推したが、党滋賀県連の支持が得られず無所属で立候補した<ref>[[#柚木&沼田1988|柚木&沼田 1988]]、143-144頁</ref>。宇野は[[日本社会党|社会党]]の[[西村関一]]についで二番目の得票で当選した。当選後、[[11月25日]]に自民党に入党した。 [[1961年]](昭和36年)に[[自由民主党青年局]]部長となった。日本海外青年奉仕隊を構想し、局長の[[竹下登]]と共に[[インド]]・[[パキスタン]]や[[東南アジア]]を歴訪して[[青年海外協力隊]]発足に尽力した。また、自民党青年憲章を制定し、[[青年の家]]を創設した<ref>[[#柚木&沼田1988|柚木&沼田 1988]]、150-154頁</ref>。 [[1966年]](昭和41年)[[8月1日]]に[[第1次佐藤内閣 (第2次改造)|第1次佐藤内閣第2次改造内閣]]・[[第1次佐藤内閣 (第3次改造)|第3次改造内閣]]で[[三木武夫]][[経済産業大臣|通商産業大臣]]の下で通産[[政務次官]]に就任した。[[1967年]](昭和42年)の[[第31回衆議院議員総選挙|選挙]]では初のトップ当選を果たした。 [[1968年]](昭和43年)に河野派を引き継いでいた[[森清 (千葉県の政治家)|森清]]の死後、森派から[[政策科学研究所|中曽根派]]に合流。 === 閣僚として === ==== 防衛庁長官(第2次田中角栄内閣) ==== [[1974年]](昭和49年)11月、[[第2次田中角栄内閣 (第2次改造)|第2次田中角栄内閣]]で、[[防衛大臣|防衛庁長官]]として初入閣。防衛庁長官として、[[第十雄洋丸事件]]では海難事故で炎上した[[石油タンカー]]を撃沈する指令を出した<ref>[[#柚木&沼田1988|柚木&沼田 1988]]、191-194頁</ref>。内閣は29日で終わり、離任式で宇野は「国を守る防衛長官がどうしてくるくる代わるのか」と話した<ref>[[#柚木&沼田1988|柚木&沼田 1988]]、195頁</ref>。 1974年(昭和49年)12月に[[田中角栄]]に代わり、[[三木武夫]]が[[自由民主党総裁]]に就任すると、[[自由民主党国会対策委員会|自民党国会対策委員長]]に就任した。まもなく[[ロッキード事件]]が発覚。野党から執拗な追及を受け、国会対策委員長の仕事は非常に多忙であった<ref>[[#柚木&沼田1988|柚木&沼田 1988]]、204-205頁</ref>。 ==== 科学技術庁長官(福田赳夫内閣) ==== [[1976年]](昭和51年)、[[福田赳夫内閣]]で[[科学技術庁長官]]に就任。 科学技術庁長官として[[日米原子力交渉]]を担当。核燃料特別対策会議を開き、議長となった。宇野は核拡散問題担当大使{{仮リンク|ジェラルド・C・スミス|en|Gerard C. Smith|label=ジェラルド・スミス}}らと交渉し、9月には首席代表として訪米、協定に調印した。スミスは宇野のことを「はっきりモノを言う初めての日本人だった」と評価した<ref name="柚木&沼田1988-62-63頁">[[#柚木&沼田1988|柚木&沼田 1988]]、62-63頁</ref>。 [[1978年]](昭和53年)[[12月7日]]、自民党広報委員長に就任。 ==== 行政管理庁長官(第2次大平内閣) ==== [[1979年]](昭和54年)、[[第2次大平内閣]]で[[行政管理庁長官]]に就任。行政管理庁長官として特殊法人の一割削減を計画し、各大臣を大臣室に呼びつけるが、省庁幹部が大臣の代理で大臣室に来ても面談を拒否する徹底した政治主導を行い、計18法人を整理した<ref>[[#柚木&沼田1988|柚木&沼田 1988]]、228-242頁</ref>。 [[1982年]](昭和57年)の自由民主党総裁選で出馬した[[中曽根康弘]]の代表世話人となった。中曽根が総裁に当選すると、宇野も自民党幹事長代理に就任し[[1983年]](昭和58年)1月の中曽根首相の訪韓に同伴する。6月に[[山中貞則]]が病気により通産大臣を辞任すると後任に就任した。通産大臣として貿易黒字、貿易摩擦の対策に取り組んだ。中曽根首相の退陣に伴い、[[竹下登]]を後継総裁に指名する[[中曽根裁定|中曽根の裁定文]]を幹事長代理として発表した。 ==== 外務大臣(竹下内閣) ==== [[ファイル:Sousuke Uno and Mikhail Gorbachev 198905.jpg|200px|サムネイル|[[ソビエト連邦共産党書記長]][[ミハイル・ゴルバチョフ]](当時)と(1989年5月)]] [[1987年]](昭和62年)に[[竹下内閣]]で[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]に就任。 [[1988年]](昭和63年)[[3月26日]]における参議院[[予算委員会]]で、[[日本共産党]]の[[橋本敦]]の[[北朝鮮による日本人拉致問題]]に関する質問が出て、[[梶山静六]][[国家公安委員会委員長]]が「[[北朝鮮]]による拉致が濃厚である」と答弁した時、宇野は[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]として北朝鮮の拉致が現時点では仮定の話ではあることを前置きした上で、「我々の主権が侵されていたという問題」「全くもって許しがたい人道上の問題」「強い憤り」「主権国家として当然とるべき措置はとらねばならぬ」と答弁した。 1988年(昭和63年)6月に日本の外相として初めて[[イスラエル]]を訪問し、[[シモン・ペレス]]外相と会談した。その際、宇野が「[[イスラエル国防軍|イスラエル軍]]は、占領地から全面撤退すべきであります。日本の繁栄は、国民の汗と涙の結晶。武力で土地を取る国には、金は一銭も出せない」と言うと、ペレス外相から「[[愛国心]]を喚起しないと、我々は選挙が大変なんだ」と理解を求める声が返ってきた<ref>{{Cite news|title=宇野外相 俳句もピアノも、口八丁、手八丁の文人 政策通、カネ集めは不得手|publisher=読売新聞|date=1989-06-01}}</ref>。 [[1989年]](昭和64年)[[1月7日]]、外遊先の[[フランス]]・[[パリ]]で[[昭和天皇]]崩御の訃報に接し、参加中の[[化学兵器の開発、生産、貯蔵及び使用の禁止並びに廃棄に関する条約|化学兵器禁止]]国際会議の会場で、各国要人が宇野外相に弔意を伝えた。さらに、会場では異例の[[黙祷]]が自然な形で行われた。宇野は、「[[昭和]]という時代は、[[第二次世界大戦|先の大戦]]から今日の[[自由民主主義]]の、もとでの繁栄まで我が国が極めて大きな振幅を経験した時代であり、長い日本の歴史の中におきましても、一際深い刻印を記した時代であったと言うことができます。」とテレビカメラの前で涙を見せながら語った。 外務大臣時代には「[[原子力発電所]]に反対する人はクーラーを使うなと言いたい」と発言して[[脱原発]]団体から抗議されたことがある。 === 自由民主党総裁・内閣総理大臣在任 === [[ファイル:Sosuke Uno 198906.jpg|thumb|200px|内閣総理大臣に就任時の肖像写真]] [[リクルート事件]]発覚と[[消費税]]導入により支持率が急落した[[竹下登]]首相が、[[1989年]](平成元年)[[4月25日]]に辞意を表明した。しかし、ポスト竹下と目されていた[[安倍晋太郎]]、[[宮澤喜一]]、[[渡辺美智雄]]ら[[自由民主党 (日本)|自民党]]の有力者は軒並みリクルート事件に関与していたため身動きが取れず、[[河本敏夫]]は[[三光汽船]]経営危機問題から敬遠され、さらに[[伊東正義]]や[[田村元]]、[[坂田道太]]、[[後藤田正晴]]からも断られて後継の総理総裁選びは難航する。 そこで、主要閣僚の中でリクルート事件との関連性が薄く、総理総裁任期を満了した中曽根の派閥ナンバー2であり、[[第15回先進国首脳会議|サミット]]が近かったこともあり外相であった宇野に白羽の矢が立ち、[[5月26日]]に竹下から打診されて宇野が急遽後継総裁に擁立されることになった([[竹下裁定]])。 [[6月2日]]、宇野外相は自民党両院議員総会で[[全会一致]]にできずに異例の「起立多数」で第13代自民党総裁に選出される。自民党史において、'''派閥領袖ではない自民党総裁は宇野が初めて'''であった。[[鈴木善幸]]首相は就任当時こそ派閥領袖ではなかったが、間もなく派閥領袖となっている。 [[1989年]](平成元年)[[6月3日]]、[[竹下内閣 (改造)|竹下改造内閣]]総辞職に伴い[[宇野内閣]]成立。主要閣僚は[[谷川和穂]]法務相、[[三塚博]]外務相、[[村山達雄]]大蔵相、[[西岡武夫]]文部相、[[小泉純一郎]]厚生相、[[堀之内久男]]農林水産相、梶山静六通商産業相、[[山村新治郎 (11代目)|山村新治郎]]運輸相、[[村岡兼造]]郵政大臣、[[堀内光雄]]労働相、[[野田毅]]建設相、[[坂野重信]]自治相兼[[国家公安委員会委員長|国家公安委員長]]、[[塩川正十郎]]内閣官房長官、[[池田行彦]]総務庁長官、[[井上吉夫]]北海道開発庁長官兼沖縄開発庁長官、[[山崎拓]]防衛庁長官、[[越智通雄]]経済企画庁長官、[[中村喜四郎]]科学技術庁長官、[[山崎竜男]]環境庁長官、[[野中英二]]国土庁長官。 なお宇野は、天皇[[明仁]]が即位後初めて任命した首相となった。 宇野内閣発足直後の同年[[6月4日]]、[[中華人民共和国]]で[[六四天安門事件]]が発生し、宇野は竹下内閣が決定した第三次円借款を凍結する一方で外務大臣・[[三塚博]]と共に「中国の孤立はさせない」とサミットで主張<ref name="uno">{{cite news |title = 天安門事件とアルシュ・サミット |publisher = [[朝日新聞デジタル]] |url = http://www.asahi.com/international/aan/column/040805.html |date = 2004-08-05 |accessdate = 2016-10-18 }}</ref><ref>{{cite news |title = 第13代 宇野 宗佑 |publisher = 自由民主党 |url = https://www.jimin.jp/aboutus/history/prime_minister/100337.html |accessdate = 2016-10-18 }}</ref>して他の[[西側諸国]]と距離を置き<ref>[https://news.ntv.co.jp/category/politics/791386 天安門事件で中国に融和的姿勢~外交文書]NNN2020年12月23日</ref>、サミット前にも対中制裁反対派・慎重派の中曽根康弘、鈴木善幸、竹下登元首相と会談した<ref>「日本現任和前任首相反対制裁中国」[[人民日報]]、1989年7月10日</ref>。総理退任後の[[1990年]]5月7日に宇野が訪中した際にも中国の指導者[[江沢民]]からこのサミットでの対応に感謝されている<ref name="uno" />。 しかし、この急造内閣も宇野自身のスキャンダルに足をすくわれることとなった。宇野が首相に就任した3日後、『[[サンデー毎日]]』([[毎日新聞]])が[[神楽坂]]の[[芸妓]]の告発<ref group="注釈">神楽坂の芸妓の中でも抜きん出た美貌の持ち主だった中西ミツ子に宇野が「もし自分の愛人になってくれたらこれだけ出す」と言って自分の指を三本出した(30万という意味)。また、愛人となった後から別れる(首相就任の4年前)に至るまでの宇野の中西へのフォローの悪さなどから、このような人物が日本の総理大臣であってはいけないと考え、マスコミにこの事実をリークしたという(中西本人がTV出演した際に語っている)。なお中西はその後、芸妓を辞めて尼僧となった。そして[[東京新聞]]2003年4月30日付け掲載の記事によると、再婚して苗字は変わっているという。</ref>を掲載し、宇野の女性スキャンダル<ref group="注釈">スキャンダルそのものの内容や、告発者の告発内容に対する検証がなされず、ただ批判だけが先行する状態であったが、女性票が離れるとして候補者から応援演説の要請がほとんどなかった。また当事者である宇野がこの問題についてノーコメントを通したことも、世論特に女性層の批判を強めた。</ref>が表面化。当時のサンデー毎日の編集長は[[鳥越俊太郎]]だった<ref>『[[週刊文春]]』2016年7月28日号P22</ref>。 初めは国内の他のマスコミは無視したが<ref group="注釈">当時のマスコミには、政治家の女性問題のネタは取り上げないという不文律があった。</ref>が、外国メディアに「セックススキャンダルが日本の宇野を直撃」([[ワシントン・ポスト]])などと掲載されると、それが引用される形で日本で話題となった。一部マスコミからは'''宇野ピンクザウルス総理'''と揶揄された。<ref>週刊文春1989・7・13号</ref>。 女性問題の報道に関して妻の千代は「宇野は私を大切にしてくれておりますし、私も宇野をずっと心から信頼してまいりました。もちろん、そんなことはなかったと信じております。デッチ上げだと思っております」と語っている<ref>[[宇野宗佑#岩見2010|岩見 2010]]、181頁</ref>。 同年7月の[[第15回参議院議員通常選挙]]は従来の3点セット([[リクルート事件|リクルート問題]]、[[消費税]]問題、牛肉・オレンジの輸入自由化問題)に加え宇野首相の女性問題が争点となり、さらにいわゆる[[マドンナブーム]]がとどめを刺し、自民党は改選議席の69議席を大幅に下回る36議席しか獲得できず、特に[[参議院一人区|一人区]]では3勝23敗と惨敗。参議院では結党以来初めての過半数割れとなった。 投票日翌日の7月24日、宇野は敗北の責任を取り退陣を表明<ref>{{Cite web|和書|date=2016-6-26 |url=https://www.youtube.com/watch?v=c5HB3r2BKNQ |title=中日ニュース No.1604_2「自民惨敗、宇野首相退陣 -参院選-」(平成元年8月) |publisher=[[中日映画社]] |accessdate=2020-12-8 }}</ref>。会見での「明鏡止水の心境であります」との言葉が話題になった。同年8月8日には自民党両院議員総会で[[河本派]]の番頭格であった[[海部俊樹]]が新総裁に選出された。宇野の総理在任期間はわずか69日、日本政治史上4番目の短命内閣に終わった。 === 晩年 === 退任後は自民党最高[[顧問]]に就任したが、[[1996年]](平成8年)の[[第41回衆議院議員総選挙]]に立候補せず政界から[[引退]]した。また、[[1995年]](平成7年)11月に[[森口華弘]]と共に初の守山市[[名誉市民]]に表彰された<ref>{{Cite web|和書 |date = 2000-07-01 |url = http://www2.city.moriyama.shiga.jp/koho/000701/index.html |title = 守山市広報「広報もりやま」 |publisher = 守山市 |accessdate = 2008-05-31 }}</ref>。 宇野は1998年(平成10年)2月から体調不良となり、通院を繰り返して5月18日に[[滋賀県立総合病院|滋賀県立成人病センター]]に入院、翌5月19日午前11時4分死去、{{没年齢|1922|8|27|1998|5|19}}<ref name="ismedia" />。死因は[[肺癌]]であったが、怖がりの宇野には知らされなかった<ref name="ismedia" />。「今何時だ」が宇野の最後の言葉だった<ref>{{Cite web|和書 |date = 1998-06-01 |url = http://www2.city.moriyama.shiga.jp/koho/980601/mori06011.html |title = 守山市広報「広報もりやま」 |publisher = 守山市 |accessdate = 2008-05-31 }}</ref>。 同年7月18日に県立体育館で県民葬、9月13日に市民ホールで集会(題は「守山市名誉市民・元内閣総理大臣故宇野宗佑氏を偲ぶつどい」)が開かれ、市民ら1100人が参加した<ref>{{Cite web|和書 |date = 1998-07-01 |url = http://www2.city.moriyama.shiga.jp/koho/980701/mori9807013.html |title = 守山市広報「広報もりやま」 |publisher = 守山市 |accessdate = 2008-05-31 }}</ref><ref>{{Cite web|和書 |date = 1998-10-01 |url = http://www2.city.moriyama.shiga.jp/koho/981001/mori10011.html |title = 守山市広報「広報もりやま」 |publisher = 守山市 |accessdate = 2008-05-31 }}</ref><ref>{{Cite web|和書 |date = 1998-09-01 |url = http://www2.city.moriyama.shiga.jp/koho/980901/mori09011.html |title = 守山市広報「広報もりやま」 |publisher = 守山市 |accessdate = 2008-05-31 }}</ref>。平成期に総理大臣を務めた政治家としては最初の物故者となった。 [[2002年]](平成14年)[[11月30日]]に守山市市民ホールで宇野の銅像の除幕式が行われた<ref>{{Cite web|和書 |date = 2002-12-15 |url = http://www2.city.moriyama.shiga.jp/koho/021215/index6.html |title = 守山市広報「広報もりやま」 |publisher = 守山市 |accessdate = 2008-05-31 }}</ref>。没後生家は「宇野宗佑記念館」となり、生前の写真パネルのほか、宇野が国内の視察先や外遊先などで収集した絵画や[[骨董品]]・[[民芸品]]などが展示されていたが、宇野家の資金難から閉鎖になり、土地や建物は売却された。宇野の自宅の裏には「中仙道守山宿 郷土人形館」が建てられ、宇野が収集した内外の人形約2万点、自作品も50点ほど展示されていたが、現在は限定公開となっている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.lbm.go.jp/kenhaku/shoukai/23.html|title=中仙道守山宿 郷土人形館|publisher=滋賀県博物館協議会|accessdate=2011-12-18}}</ref>。 [[2003年]](平成15年)の[[第43回衆議院議員総選挙]]では、女婿の[[宇野治]]が自民党公認で宇野の地盤であった[[滋賀3区]]から立候補し、比例復活で初当選した。だが、[[2009年]]の[[第45回衆議院議員総選挙]]で落選後、政界復帰することなく[[2012年]]に政界引退を表明した。 同時に自民党滋賀3区総支部長も退任、後任には[[武村展英]]が就任し、武村は2012年の[[第46回衆議院議員総選挙]]で初当選した。 == 評価 == [[政策研究大学院大学]]の[[本田雅俊]]准教授は、「閣僚としての宇野には、二つの見方が残っている。一つは権柄ずくに振る舞うばかりで、自ら汗をかかなかったというものである。例えば、行政管理庁長官時代には単にふんぞり返っていたとの評判がある。その一方、リーダーシップを発揮しながら、内閣の重要課題を手堅く処理していったとの評価もある。官僚を相手にせず、全閣僚を順次呼びつけ「馬鹿にしちゃいかんぞ」と怒鳴りつけながら18の特殊法人を整理したというエピソードもある。実際、大平は宇野の手腕を讃えたという」<ref name="本田2008-07-15">[[#本田2008|本田 2008]]、180頁</ref>。 総理時代の評価は在任期間が69日と短かったこともあり、多くの評者が評価不能としている。 宇野と同じ文人政治家としても親交の深く、福田・竹下両内閣で共に閣僚(福田内閣で宇野は科学技術庁長官、石原は環境庁長官。11年後の竹下内閣では宇野は外相、石原は運輸相)だった[[石原慎太郎]](後に[[東京都知事]]→[[日本維新の会 (2012-2014)|日本維新の会]]代表)が「私自身はこの人事には密かに期待した者の一人だった。宇野氏とは個人的にも親しく、磊落で文人気質のこの人物が思いがけぬ状況の所産として総裁、総理になったことで、この国の政治家のイメイジが少しは変わってくるのではないかとも思っていた。残念なことに女性問題で宇野氏は苦境に立たされ短命に終わったが、もしあの政権が続いていたなら党の中にもある大事な変化があり得たのではないかと思っている」<ref>[[#石原1999|石原 1999]]、572頁</ref>と述べている。 宇野内閣で防衛政務次官に抜擢された[[鈴木宗男]]も、「宇野さんは外務官僚から『歴代外務大臣で一番手がかからない』と言われたほど、国会答弁など完璧にこなす勉強家であり、宇野内閣が短命に終わったことは、日本の政治にとって不幸だった」と述べている<ref>[[#鈴木2012|鈴木 2012]]、123頁</ref>。 初代[[内閣安全保障室長]]の[[佐々淳行]]が宇野総理に悪い情報を入れると怒られ、意見具申をすると意見半ばで怒りを含む発言にさえぎられ、宇野から「私は外務大臣も通産大臣も、防衛庁長官もやった、党の幹事長代行もやった。君にそんなことを言われなくたって、ちゃんと知っているし、わかっている!!」と一喝され、「それは失礼しました」と言って佐々が退出することがあった<ref>佐々淳行著『わが上司 後藤田正晴』389頁</ref>。 [[塩田潮]]の『大いなる影法師』によると、宇野は政治家秘書出身としては、初めての首相だったという。しかし、当時現役だった政治家秘書からは嫌われていた。宇野自身の秘書時代と比較し、秘書を叱りつけたりしたからである。秘書たちは、「宇野さんは、選挙の谷間の腰掛けで秘書をやっていただけ。いずれ政治家になる秘書と、秘書として生涯を終える秘書とを同列に論じないでほしい」と苦り切っていた。 == 人物 == * 自民党派閥では[[春秋会|河野派]]に属し、河野死去後、派閥が分裂した際は森派へと参加した。しかし、間もなく派閥会長の[[森清 (千葉県の政治家)|森清]]が亡くなり[[園田直]]が派閥を継ぐと、「森との縁で派閥に参加したが、園田とはこれといった接点がないから」と、[[政策科学研究所|中曽根派]]へと移籍した。その中曽根派では幹部に上り詰めたが、派内では子分などはいなかった。 * [[演説]]の名手であり、[[所信表明演説]]を聞いた「[[ニュースステーション]]」の[[久米宏]]は「大化けするかもしれない」とコメントした。 * 総理就任時にはピアノ演奏を披露し、趣味の広さや遊び心が好意的に報道された。また[[ハーモニカ]]の達人でもあり、閣僚時代にもしばしば各国との晩餐会などでハーモニカの即興演奏をし喝采を浴びている<ref name="本田2008-07-153">[[宇野宗佑#本田2008|本田 2008]]、180頁</ref>。[[ピアノ]]、[[ハーモニカ]]、[[絵画]]などの技も素人離れした才人であった<ref name="本田2008-07-152">[[宇野宗佑#本田2008|本田 2008]]、180頁</ref>。 * [[剣道]]や[[馬術]]で身体を鍛え、剣道は彦根高商時代に全国優勝し、五段を有する腕前であった<ref name="本田2008-07-152" />。 * [[俳句]]を嗜み、犂子(れいし)と号し、句集も残した。初登院の日に詠んだ句は「枯園に 総理用車 呼ぶ声す」。 *長女百合子<ref>岩見隆夫、総理の娘 知られざる権力者の素顔</ref>の夫は養子の宇野治。 * 子孫は、僧侶の孫息子<ref>https://twitter.com/unosamu/status/137072343360090112</ref>と孫娘が二人、曾孫息子が二人、曾孫娘が三人いる(娘の次女が二人出産)<ref>https://twitter.com/unosamu/status/656737423020261376</ref>。 == 略歴 == *[[1922年]]([[大正]]11年)8月27日 - [[滋賀県]][[野洲郡]]守山町(現・[[守山市]])にて誕生。 *[[1943年]]([[昭和]]18年) - [[神戸商業大学 (旧制)|旧制神戸商業大学]]在学中に[[学徒出陣]]となり、2年間の[[シベリア抑留]]を経験する。帰国後、[[滋賀県議会]]議員、[[河野一郎]]秘書 *[[1960年]](昭和35年) - [[衆議院]]議員([[自由民主党 (日本)|自由民主党]]・河野派) *[[1961年]](昭和36年) - 自民党青年局部長(局長・竹下登) [[東南アジア]]を歴訪。[[青年海外協力隊]]発足に尽力する。 *[[1974年]](昭和49年)11月11日〜12月9日 - [[防衛大臣|防衛庁長官]]([[第2次田中角栄内閣]]) *[[1976年]](昭和51年)12月24日〜[[1977年]](昭和52年)11月28日 - [[科学技術庁長官]]・原子力委員会委員長([[福田赳夫内閣]]) *[[1979年]](昭和54年)11月9日〜[[1980年]](昭和55年)7月17日 - [[行政管理庁長官]]([[第2次大平内閣]]) *[[1983年]](昭和58年)6月10日〜1983年(昭和58年)12月27日 - [[経済産業大臣|通商産業大臣]]([[第1次中曽根内閣]]) *[[1987年]](昭和62年)11月6日〜[[1989年]]([[平成]]元年)6月3日 - [[外務大臣 (日本)|外務大臣]]([[竹下内閣]]) *1989年(平成元年)6月2日〜8月8日 - 第13代[[自由民主党総裁]] *1989年(平成元年)6月3日〜8月10日 - 第75代[[内閣総理大臣]]([[宇野内閣]]) ** 6月 - 女性スキャンダル発覚 ** 7月14日〜16日 - アルシュ・サミット([[第15回先進国首脳会議]])に出席 ** 7月24日 - [[第15回参議院議員通常選挙|参議院選]]で惨敗(自民党33議席減)して、引責辞任を表明。表明時、心境を「明鏡止水」と表現した。 *[[1994年]](平成6年)4月 - [[勲一等旭日桐花大綬章]]受章。 *[[1996年]](平成8年)6月 - 政界引退を表明。[[9月27日]]、[[衆議院解散]]に伴い政界引退。 *[[1998年]](平成10年)5月19日 - [[肺癌]]のため死去。75歳没。 == 著作 == *{{Cite book|和書|author=宇野宗佑|title=ダモイ・トウキヨウ|year=1949|publisher=葛城書房|id={{NDLJP|1704531}}|ref=宇野1949}} **{{Cite book|和書|author=宇野宗佑|title=ダモイ・トウキョウ|year=1982|month=2|publisher=国書刊行会|series=シベリア抑留叢書 1|ref=宇野1982}} - 再刊 **{{Cite book|和書|author=宇野宗佑|title=ダモイ・トウキョウ|year=1989|month=6|publisher=国書刊行会|isbn=978-4-336-02294-3|url=http://www.kokusho.co.jp/np/isbn/9784336022943/|ref=宇野1989}} *{{Cite book|和書|author=宇野犂子|title=王廟 句集|year=1963|publisher=市ケ谷出版社|ref=宇野1963}} *{{Cite book|和書|author=宇野宗佑|title=庄屋平兵衛獄門記|year=1971|publisher=青蛙房|series=青蛙選書|ref=宇野1971}} *{{Cite book|和書|others=宇野宗佑(述)|title=中曽根内閣の課題|year=1983|publisher=内外情勢調査会|series=講演シリーズ 426|ref=宇野1983}} *{{Cite book|和書|author=宇野宗佑|title=中仙道守山宿|year=1984|month=10|publisher=青蛙房|series=青蛙選書 67|id={{NDLJP|9571260}}|ref=宇野1984}} *{{Cite book|和書|author=宇野宗佑|title=大正蘇音器|year=1986|month=5|publisher=市ケ谷出版社|ref=宇野1986}} *{{Cite book|和書|others=宇野宗佑(述)|title=日本外交の基本課題 世界に貢献する日本|year=1989|month=2|publisher=[[外務省]]外務大臣官房国内広報課|ref=宇野1989}} - 著者の肖像あり。 *{{Cite book|和書|others=宇野宗佑(述)|title=宇野内閣総理大臣演説集|year=1991|month=2|publisher=日本広報協会|ref=宇野1991}} - 監修:内閣総理大臣官房。 *{{Cite book|和書|author=鈴木俊一|authorlink=鈴木俊一 (東京都知事)|coauthors=宇野宗佑・[[丹下健三]](述)|editor=立田清士|editor-link=立田清士|title=鈴木俊一著作集|year=2001|month=11|chapter=都市経営の理念と政策 二十一世紀に向け東京を改造する|publisher=良書普及会|isbn=4-656-21116-8|volume=第5巻(座談会)|ref=鈴木2001}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|2}} === 出典 === {{Reflist|25em}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書|author=宇野宗佑|year=1984|month=10|title=中仙道守山宿|publisher=[[青蛙房]]|ref=宇野1984}} *{{Cite book|和書|author=石原慎太郎|authorlink=石原慎太郎|year=1999|month=1|title=国家なる幻影 わが政治への反回想|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=4-16-354730-4|url=http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784163547305|ref=石原1999}} **{{Cite book|和書|author=石原慎太郎|year=2001|month=10|title=国家なる幻影 わが政治への反回想|volume=(上)|series=文春文庫|publisher=文藝春秋|isbn=4-16-712804-7|url=http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784167128043|ref=石原2001a}} **{{Cite book|和書|author=石原慎太郎|year=2001|month=10|title=国家なる幻影 わが政治への反回想|volume=(下)|series=文春文庫|publisher=文藝春秋|isbn=4-16-712805-5|url=http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784167128050|ref=石原2001b}} *{{Cite book|和書|author=岩見隆夫|authorlink=岩見隆夫|year=2010|month=2|title=総理の娘 知られざる権力者の素顔|publisher=[[原書房]]|isbn=978-4-562-04547-1|url=http://www.harashobo.co.jp/new/shinkan.cgi?mode=1&isbn=04547-1|ref=岩見2010}} *{{Cite book|和書|author=本田雅俊|authorlink=本田雅俊|year=2008|month=7|title=総理の辞め方|series=PHP新書|publisher=[[PHP研究所]]|isbn=978-4-569-70085-4|url=http://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-70085-4|ref=本田2008}} *{{Cite book|和書|author=八幡和郎|authorlink=八幡和郎|year=2011|month=4|title=本当は誰が一番?この国の首相たち|series=ソフトバンク新書 158|publisher=[[ソフトバンククリエイティブ]]|isbn=978-4-7973-6461-3|url=http://www.sbcr.jp/products/4797364613.html|ref=八幡2011}} *{{Cite book|和書|author=柚木弘志|authorlink=柚木弘志|coauthors=[[沼田大介]]|year=1988|month=6|title=宇野宗佑・全人像|publisher=[[行研出版局]]|isbn=4-905786-67-3|ref=柚木&沼田1988}} *{{cite book|和書|author=鈴木宗男|authorlink=鈴木宗男|year=2012|month=6|title=政治の修羅場|series=文春新書|publisher=文藝春秋|isbn=9784166608645|url=http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784166608645|ref=鈴木2012}} == 関連項目 == * [[滋賀県出身の人物一覧]] * [[滋賀県全県区]] * [[羽田孜]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{S-start}} {{s-off}} {{succession box |title = {{Flagicon|JPN}} [[内閣総理大臣]] |before = [[竹下登]] |years = 第75代:1989年 |after = [[海部俊樹]] }} {{succession box |title = {{Flagicon|JPN}} [[外務大臣 (日本)|外務大臣]] |before = [[倉成正]] |years = 第110代:1987年 - 1989年 |after = [[三塚博]] }} {{succession box |title = {{Flagicon|JPN}} [[経済産業大臣|通商産業大臣]] |before = [[山中貞則]] |years = 第42代:1983年 |after = [[小此木彦三郎]] }} {{succession box |title = {{Flagicon|JPN}} [[行政管理庁長官]] |before = [[金井元彦]] |years = 第44代:1979年 - 1980年 |after = [[中曽根康弘]] }} {{succession box |title = {{Flagicon|JPN}} [[科学技術庁長官]] |before = [[前田正男]] |years = 第31代:1976年 - 1977年 |after = [[熊谷太三郎]] }} {{succession box |title = {{Flagicon|JPN}} [[原子力委員会|総理府原子力委員会委員長]] 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時計
時計(とけい、英: clock、携帯型のみwatch)とは、時刻を示す装置、あるいは時間を測定する装置。 時計は時刻を指示する機器で、タイムカウンター(時間を測定するだけで時刻は指示しない機器)と合わせて計時装置 (time measuring instrument) と呼ばれる。時刻の指示だけでなく時間の測定もできる時計にクロノグラフ (chronograph) がある。 古くは日常生活の中で時刻を知る方法は太陽の動きなどであった。紀元前1500年ごろには日時計が発明された。 11世紀以降、機械によって駆動される時計が実用化されたが、近世に至るまでは極めて大型の装置であり、庶民にとっては値段が高く一般的なものではなかった。また、初期の機械時計はそれほど正確ではなく定期的に時刻の調整をしなければならなかった。近代以後、より正確な機械時計が普及しても無線やラジオ放送などが普及するまで正確な時刻をもとに機械時計の時刻を合わせることも容易でなく、機械時計の時刻の調整には南中を知るのに特化した正午計(日時計の一種)なども用いられた。なお日本ではかつて和語、大和言葉では、時を測る装置は「ときはかり」と呼んだ。 機械時計には、動くための力、一定の速度で動かすための調速機、計った時を外部に伝える部分の3つの要素がある。動力としては、錘を引く重力がもっとも古くから存在したが、その後、近世に実用化された鋼製のぜんまいばね(ゼンマイ)が時計に適した蓄力装置として20世紀後期まで広く用いられた。また20世紀以降は電気が用いられ、動力のみならず調速のエネルギーとしても主流となっていった。調速機としては、17世紀に実用化された振り子が定置式時計に広く用いられ、振り子の役割を小型部品のひげゼンマイに置き換えたテンプ(英語版)も追って実用化、携行可能な時計(懐中時計)が作られるようになった。以後の電気駆動時代の調速には、音叉、電力線、水晶、原子などが利用されている。外部に時刻を伝える手段としては、一般的には針(アナログ)や文字(デジタル)による視覚が基本で、これと併用する形で鐘や鈴、アラームなどの音が用いられる。 1970年代ごろまでは、腕時計や置時計では動力にぜんまいを使った機械式、掛時計では電気(トランジスタ)式がほとんどであったが、1980年代以降、動力に電気、調速機に水晶振動子を使ったクォーツ時計が主流となった。 市販のクォーツ時計の多くは 1 秒間に32768(2の15乗)回振動する(32.768 kHz)水晶振動子を用いて時を刻む。必ずこの数値でなければならないわけではないが、時計に組み込むのに適切な大きさの振動子で発生しやすい周波数であり、また、簡易な回路で分周を行い周波数を半分にする操作を繰り返して1秒を得るために、2のべき乗の値であると都合が良いことからこの周波数がよく用いられる。他の周波数の水晶振動子が用いられることもある。 →#歴史 また、近年はセシウム原子の振動(9192631770 Hz=9.19263177 GHz)を用いた原子時計の時刻を基に発信された電波(標準電波、JJY)を受信し、クォーツ時計の時刻を自動修正する電波時計も利用されている。 更に進んで、地球上どこでも受信できるGPSの電波により時刻修正を行う衛星電波時計も出現している。 一方、動力については、電池交換の手間を省くため、腕時計の分野では手の動きから力を取り出して発電機を駆動して電気を得る方法 (Automatic Generating System, AGS) や、文字盤や盤面以外の部分に組み込まれた太陽電池などにより発生した電気を、二次電池もしくはキャパシタに充電しながら作動するタイプが出てきている。 時計は趣味的な収集の対象ともなっており、クォーツ式や電波時計が全盛の時代であっても、あえて日時計を集めて庭に置いて眺める愛好家や、あえて機械式時計を収集したり日々それを身につけることを愛好する人々もいる。 また時計は電子機器の多くにも内蔵されている。これは、ビデオの録画予約や、電子レンジの加熱時間など、タイマーとして使われる。 またパーソナル・コンピュータなどにも時計はいくつかの方式で組み込まれており、プログラミング言語のソースコード内でもそうした時計から時刻の値を取得し利用できるようになっている。→#デジタル回路やPCにおける時計 もともと人類は(また、おそらく他の動物も)先史時代より太陽の方向により、「朝・昼・夕」程度の曖昧で不明確な時の概念は持っていたと考えられる。太陽の方角(方位・高度など)を知る方法のひとつに「固定された適当な物の影の位置を見る」というのがあり、これを利用して紀元前約2000年ごろに日時計が発明された。日時計は目盛りの線を細かく刻むことができ、太陽を漠然と目視するよりも、時刻を細かく把握できるようになった。 しかし日時計は晴天の日中しか利用することができないという欠点がある。そのため、別の物理現象を使って時間の流れを測定する時計も考えられた。例えば特定の大きさで作った蝋燭や線香、火縄が燃える距離を使う(燃焼時計)、水や砂が小さな穴から落ちる体積を使う(水時計、砂時計)などであり、紀元前1400年 - 紀元前700年頃の間にエジプト、イタリア、中国などで考案された。なかでも水時計は流速を一定とした水を使用することから、それを動力とした機構を発達させ、かなり複雑な機構を使用するものへと変化し、やがて機械式時計を生み出すこととなった。 北宋時代、より正確に時間を計るため駆動軸の動きを制限する脱進機が発明され、1092年に蘇頌によって世界初の脱進機つき時計台である水運儀象台が開封に建設された。水運儀象台は時計台であると同時に天文台でもあった。同時期、イスラム世界においても水時計の進化は進み、その機構の多くはヨーロッパへと伝播した。 14世紀にはヨーロッパで、定期的に重錘を引き上げ、それが下がる速度を棒テンプと脱進機で調節する機構が発明された。また1510年ごろ、ニュルンベルクの錠前職人ピーター・ヘンラインがゼンマイを発明し携帯できるようになった。 1583年、ガリレオ・ガリレイは、振り子の周期が振幅によらず一定であること(正確には振幅がごく小さい場合に限られる)を発見し、振り子時計を思いついた。1656年、クリスティアーン・ホイヘンスは、サイクロイド曲線を描く振り子および振り子に動力を与える方法を発明し、振り子時計を作った。 1654年、ロバート・フックはひげゼンマイの研究を行い、それが振り子と同じく一定周期で振動することを発見し、1675年、ホイヘンスはこの原理を利用した懐中時計を開発した。18世紀初頭に入ると時計技術の進歩はさらに進み、ジョージ・グラハムによってシリンダー脱進機が発明され、彼の弟子であるトーマス・マッジはレバー式脱進機を発明した。 なお中世ヨーロッパでの時計の意義は主に神に祈りを捧げる時を知るためのものであった。 大航海時代に入ると、天測航法および計時によって現在位置の経度を知るためには、揺れる船内に長時間放置しても狂わない正確な時計(クロノメーター)が必要となった。時刻にして1分の誤差は、経度にして15分(1/4度、赤道上で28km)もの誤差となり、この誤差が遭難や座礁につながるという事故が多発したためである。1713年、イギリス政府は「5か月間の航海で誤差1分以内」という懸賞条件に2万ポンドの賞金をかけ、1736年、ジョン・ハリソンが懸賞条件に見合う時計を完成させた。しかし、ハリソンが単なる職人だったためか、イギリス議会はいろいろと難癖を付けて賞金を払わず、40年に渡って改良を重ねさせた。ハリソンはジョージ3世の取りなしがあってようやく賞金を手に入れられたが、それは彼の死の3年前であった。 時計制作の歴史に革命を起こしたのが天才時計師として名高いアブラアム=ルイ・ブレゲ(1747年 - 1823年)であり、彼によって時計の進歩は200年早まったとされる。ブレゲはスイスのヌーシャテルで生まれ15歳でフランスに渡り時計作りの研鑽を積み、以降フランスを中心に時計制作を行い、トゥールビヨン、永久カレンダー、ミニッツ・リピーターなど、現代の機械式時計にも用いられている画期的な発明を数多く行った。ブレゲの顧客にはフランス国王ルイ16世、ナポレオン・ボナパルト、イギリス国王ジョージ3世、ロシア皇帝アレクサンドル1世などがおり、当時の最高権力者たちはこぞって彼に時計制作を依頼していた。ブレゲがその生涯に制作した時計は約3,800個と言われ、数々の傑作を生み出したが、そのなかでも最高傑作として名高い逸品が、王妃マリー・アントワネットの注文に応じて制作された懐中時計「マリー・アントワネット」である。 その後、機械式時計は、精度や携帯性を求めて様々な改良が施された。また、この17 - 19世紀初頭は、職人の徒弟チームによる手工芸的な少量生産から、いかに大量生産で高精度の時計を作れるか・定期的な保守を誰でもできるかという要求により改良がなされていった時代である。ぜんまい動力の掛かる駆動部の歯車は、なるべく均一な力がかかるように歯車の歯数を互いに割り切れないようにする工夫もなされた。気温によって振り子の長さやひげゼンマイの弾性が変化することも精度に影響するため、20世紀初頭に熱膨張率の小さなインバー合金、温度による弾性率の変化が小さなエリンバー合金が発明され、大きな貢献を与えた。各種あった脱進機も、現在のアンクル脱進機にほぼ絞り込まれていった。 20世紀に入ると、動力として電動機が使われるようになった。当初は調速機構を在来機械式時計と同じくしながら、動力源をぜんまいの代わりに電動機としたのみであった。 電気式時計はクォーツ時計が一般化する以前に用いられ、アナログ式では電源周波数に同期して回転するサーボモータを使ったり、デジタル式では電源周波数から1秒毎のパルスを得て駆動していた。 さらに、第二次世界大戦後には、小型置時計や腕時計の分野で、電気の安定にトランジスタを使ったトランジスタ時計、調速機にRC発振回路を使った時計、音叉を使った音叉時計などが開発されたが、一般向けの実用時計としては水晶振動子を使ったクォーツ時計、実験施設などの高度な計時装置としてはセシウム原子の振動を利用した原子時計など、新たな高精度な時計の出現によりほとんど姿を消した。 20世紀前半にクォーツ時計が開発され、1969年にはセイコーが世界初のクォーツ式腕時計アストロンを発売した。クォーツ時計は1か月の誤差が15秒ほどと実用上十分の精度があり、現在では一般的に使われている。 一方機械式時計の新しい発明として20世紀末には、ジョージ・ダニエルズによりコーアクシャル脱進機が提案された。 20世紀には電波時計も利用されるようになった。これは、原子時計は2000万年に1秒くらいの誤差という高精度を持つものの廉価・小型化が難しいので、原子時計による時報を適当な頻度で電波によって受信しクォーツ時計の時刻を自動修正するというものである。 1999年にはCASIOがGPS腕時計を発売した。GPS腕時計はGPSを利用することで10億分の1秒オーダの正確な時刻を地球上どこでも容易に得られる。 さまざまな分類法がある。 基本的な分類法として、(設置型の)時計を clock(クロック)、特に携帯型のものを watch(ウォッチ)と呼び分けるものがある。この分類法は一般に広く浸透している。 動作原理による分類法もある。機械式時計 / クォーツ時計 / 電波時計 などと分類されている。 また表示方法による分類法もある。アナログ方式 / デジタル方式 などに分類されている。 英語の辞書では、clockを時刻を表示する装置と説明しており、必ずしも携帯できないものとは限定していない。 つまりclockのほうが基本語彙である。 主に身体に携帯して使用する時計をウォッチ(watch、携帯時計)という。 ウォッチをさらに下位分類すると、腕時計や懐中時計(提時計)がある。 作動原理による分類法 アナログ式は長針と短針を組み合わせた針式。通常、長針1回転が60分、短針1回転が12時間を表す。 ムーブメントに取り付けて時を示す目盛やマークなどを印した部品を文字板(文字盤、dial)という。通常、円周の等分の位置にアラビア数字やローマ数字を配置した文字盤を用いる(12方向あるいは4方向に数字を置く)。背景に数字を入れないデザインのものもあるが、時計の針は同一の周回を回転しているため、上下方向が定まっていないと時刻を認識できないことになる。そのため、少なくとも実用的な時計においては、長針、短針、秒針が全て重なる方向を上向きに設置し、その時間を0時または12時に調整する(背景が無地の壁掛け時計など)。文字盤にはライト付きのものや蓄光のものがある。 針の制御は全てが機械式機構で正比例するように動く物、ステッピングモーターなどで別々に動かす物が有る。 秒針の動きには、連続して流れるような秒針の動きのスイープ運針(スイープセコンド、連続運針、連続秒針、sweep motion second、sweeping motion second)と、1秒ごとに区切りながら動くステップ運針(ステップセコンド、ステップ秒針、step motion second、stepping motion second)がある。また、一定時刻にまたは手動の操作でメロディーが鳴りリズミカルに運針する機能のあるものもある(メロディー運針、rhythmical motion)。 機械的な針を使わずに、液晶であらかじめ形が作られた針を表示するものや、Apple Watchのようにドットマトリクスで針を表示するものもある。 アナログ式はほとんど12時間表示(12等分)であるが、24時間表示の数字を小さく併記するものもある。文字盤の時間間隔については、日長により変化する不定時法(一部の和時計など)のものもあるが、基本的に現代の時計は時間間隔が常時一定の定時法をとる。その他文字盤に多数の目盛りが追加され、クロノグラフ(秒・分・時)やカレンダーが針で表示できるものもある。日付や月齢などは回転する板を、穴からのぞくようにして文字盤地板に表示するものも多い。なお、「12時方向」や「3時方向」など、アナログ式時計の文字盤に見立てて方向・方角を表す方法をクロックポジションという。 基本的に右回りであるが、その理由として日時計が右回りであったためという説が有力である。緯度・経度・季節により誤差はあるが、太陽の位置により大まかな方角を知ることが出来る。 外装を通してムーブメントが見える時計をスケルトンという。 デジタル式は、数字で直接表示する方式。デジタル式には12時間表示のものと24時間表示のものがあり。切り替え可能なものも多い。以下の方式の一部では、決められた数字や記号(コロンなど)が作りこまれているものとドットマトリクスの仕組み表示するものとがある。 アナログ式とデジタル式、両方を備えたコンビネーション式時計。アナデジ、デジアナ、ハイブリッド式時計とも呼ばれる。 時計産業は、17世紀には手工芸的な産業であり、イギリス、フランス、スイスによって激しい技術競争が起こっていた。このうちフランスにおいてはナントの勅令がルイ14世のフォンテーヌブローの勅令によって1685年に廃止され、ユグノーが多かった時計職人たちは迫害を逃れてスイスへと移住し、まずジュネーブで、ついでその北東に位置するヌシャテルにおいても時計産業が栄えるようになり、この2都市がスイス時計産業の中心となっていった。先発であるジュネーブが高級時計を主力としたのに対し、ジュネーブからの職人移住によって形成された ヌシャテルやジュラ山地の時計生産においては廉価な時計の生産が主力となっていた。 時計の制作は複雑なため、個人ではなく職人たちがチームを組んで分業により制作する方式を採用していたが、これには一つ一つの部品が正確に製作され、それが組み合わされて狂いなく動作することが必要であり、この職人集団は結果として正確な機械製作技術を身につけることとなった。この技術は他の機械製作にも応用されるようになり、産業革命の技術的基礎となった。 このころまでの時計は、航海の安全に直結するクロノメーターを除けば、ほとんどは装飾品に過ぎなかった。しかし産業革命時代に入ると、正確な時間を知ることが必要になり、それまでの装飾品としての時計から実用品としての比重が急速に高まった。このころはいまだそこまで正確な時計は完成していなかったが、アメリカ西部開拓時代になると、正確かつ規格化された鉄道時計の需要が生まれ、精度の高い時計が求められるとともに、アメリカに開発・生産の重心を移していった。ところが労働コストの上昇などにより、アメリカの時計産業は20世紀前半までには衰退した。19世紀末から労働コストが安いスイス・ドイツなどが時計産業の中心となった。 日本での工業としての時計生産は、明治時代中期(1880年代)以降に東京、大阪、名古屋周辺で掛時計、置時計の製造が始まったのが嚆矢であるが、懐中時計・腕時計などの精密時計の大量生産は20世紀に入ってから始まった。1927年にはアメリカにおいてクォーツ時計が発明されていた が、1960年代には急速に改良が進んで実用化されるようになり、1969年にはアナログ式クォーツ腕時計が日本において初めて商品化され、さらに1970年代以降のデジタル化へのシフトにより、スイスの時計産業は衰退し、日本へとその主軸を移していった。20世紀末には生産地がさらにアジア諸国にシフトしていった。 この頃には、クロノメーター時代の最高精度の何倍もの精度の時計が廉価で買えるようになり、デジタル時計なども実用的にはこれ以上進歩のしようがなくなった。 スイスの時計産業は、1970年代~1980年代にはクォーツによる時計技術の激変に乗り遅れ、またそこに経済危機も追い打ちをかけ、産業規模が著しく縮小した。スイスの時計産業従事者は1970年にはおよそ9万人だったのに、1984年にはわずか3万人あまりにまで減少。だがその後、産業構造の改革を断行しスイスの時計産業はふたたび世界の注目を浴びるようになり、従業者数も再び増加して、2013年には57300人レベルとなった。スイスの時計産業は、かつてとは異なり、現在では数十ドルほどの安価な若者向けのものから、中価格帯の時計、そして金や宝石で装飾されコンプリケーション(complication。複雑な機械的機構)を備えた数十万ドルの値段の(つまり日本円なら数千万円相当の超高級な)機械式時計まで、実際のところあらゆる価格帯の時計を製造するようになっている。なおスイスは、もともと得意とする高級品だけでなく安価な時計の市場でも復活した。具体的には、日本にすっかり奪われた世界シェアを取り戻すべくニコラス・G・ハイエックがファッショナブルで安価なスウォッチを開発し1983年に発売し、これが世界的に人気を得たおかげでスイス時計産業は低価格帯品の世界シェアにも食い込むことに成功した。現在、スイスの時計はその95%が輸出されている。2013年時点の総輸出売上高は、218億スイス・フラン。金額ベースでその輸出先を分析すると、スイスの腕時計輸出額の53%がアジア向け、31%が欧州向け、14%が北米向けとなっている(金額ベースでは、富裕層向けの数百万円 - 数千万円の高級時計の売上が主たる影響力をもつ。その結果、金額ベースの輸出先は、富裕層が多数いるアジア、欧州、北米向けが主となる)。それに対して、アフリカ、オセアニア向けはそれぞれわずか1%にすぎない。 メーカーに所属せず個人や小規模な工房で製作する独立系の時計職人もおり、トゥールビヨンなど複雑な機構を有した腕時計が富裕層向けの宝飾品として評価されている。1985年に独立時計師アカデミーが結成された。 2009年、スイスのラ・ショー=ド=フォンは時計産業と都市計画の結びつきが評価され、ラ・ショー=ド=フォンとル・ロックルとして世界遺産に登録された。 20世紀後半になってclockという語を、デジタル回路(論理回路)で同期をとる場合のパルス信号(源)を指すためにも使うようになった。その信号を「クロック信号」と呼び、そうした方式で同期をとる回路の設計方式を「クロック同期設計」と呼ぶようになった。クロックの記事を参照。 なおPCなどでは、リアルタイムクロックという、時刻を刻む、まさに「時計」を持っていることも多い。 オペレーティングシステム内では通常、さらにそれらとは別のタイマーを利用した時刻管理系を持っている。 高水準プログラミング言語では、ライブラリを読み込むことで、PCの時計の時刻をプログラム内で取得して使えるようになっていることが多い。たとえば、C言語のプログラムでは冒頭に「#include <time.h>」などと書けば時計を使えるようになり、Pythonのプログラムでは「import time」あるいは「import datetime」などと記述すれば時計を使えるようになる。 その他パソコンの画面上ではタスクバーで時間が標準表示される他、主にガジェット、フリーソフトとして各種アナログ・デジタル時計が多数公開されている。
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"1583年、ガリレオ・ガリレイは、振り子の周期が振幅によらず一定であること(正確には振幅がごく小さい場合に限られる)を発見し、振り子時計を思いついた。1656年、クリスティアーン・ホイヘンスは、サイクロイド曲線を描く振り子および振り子に動力を与える方法を発明し、振り子時計を作った。", "title": "時計の歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1654年、ロバート・フックはひげゼンマイの研究を行い、それが振り子と同じく一定周期で振動することを発見し、1675年、ホイヘンスはこの原理を利用した懐中時計を開発した。18世紀初頭に入ると時計技術の進歩はさらに進み、ジョージ・グラハムによってシリンダー脱進機が発明され、彼の弟子であるトーマス・マッジはレバー式脱進機を発明した。", "title": "時計の歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "なお中世ヨーロッパでの時計の意義は主に神に祈りを捧げる時を知るためのものであった。", "title": "時計の歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "大航海時代に入ると、天測航法および計時によって現在位置の経度を知るためには、揺れる船内に長時間放置しても狂わない正確な時計(クロノメーター)が必要となった。時刻にして1分の誤差は、経度にして15分(1/4度、赤道上で28km)もの誤差となり、この誤差が遭難や座礁につながるという事故が多発したためである。1713年、イギリス政府は「5か月間の航海で誤差1分以内」という懸賞条件に2万ポンドの賞金をかけ、1736年、ジョン・ハリソンが懸賞条件に見合う時計を完成させた。しかし、ハリソンが単なる職人だったためか、イギリス議会はいろいろと難癖を付けて賞金を払わず、40年に渡って改良を重ねさせた。ハリソンはジョージ3世の取りなしがあってようやく賞金を手に入れられたが、それは彼の死の3年前であった。", "title": "時計の歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "時計制作の歴史に革命を起こしたのが天才時計師として名高いアブラアム=ルイ・ブレゲ(1747年 - 1823年)であり、彼によって時計の進歩は200年早まったとされる。ブレゲはスイスのヌーシャテルで生まれ15歳でフランスに渡り時計作りの研鑽を積み、以降フランスを中心に時計制作を行い、トゥールビヨン、永久カレンダー、ミニッツ・リピーターなど、現代の機械式時計にも用いられている画期的な発明を数多く行った。ブレゲの顧客にはフランス国王ルイ16世、ナポレオン・ボナパルト、イギリス国王ジョージ3世、ロシア皇帝アレクサンドル1世などがおり、当時の最高権力者たちはこぞって彼に時計制作を依頼していた。ブレゲがその生涯に制作した時計は約3,800個と言われ、数々の傑作を生み出したが、そのなかでも最高傑作として名高い逸品が、王妃マリー・アントワネットの注文に応じて制作された懐中時計「マリー・アントワネット」である。", "title": "時計の歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "その後、機械式時計は、精度や携帯性を求めて様々な改良が施された。また、この17 - 19世紀初頭は、職人の徒弟チームによる手工芸的な少量生産から、いかに大量生産で高精度の時計を作れるか・定期的な保守を誰でもできるかという要求により改良がなされていった時代である。ぜんまい動力の掛かる駆動部の歯車は、なるべく均一な力がかかるように歯車の歯数を互いに割り切れないようにする工夫もなされた。気温によって振り子の長さやひげゼンマイの弾性が変化することも精度に影響するため、20世紀初頭に熱膨張率の小さなインバー合金、温度による弾性率の変化が小さなエリンバー合金が発明され、大きな貢献を与えた。各種あった脱進機も、現在のアンクル脱進機にほぼ絞り込まれていった。", "title": "時計の歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "20世紀に入ると、動力として電動機が使われるようになった。当初は調速機構を在来機械式時計と同じくしながら、動力源をぜんまいの代わりに電動機としたのみであった。 電気式時計はクォーツ時計が一般化する以前に用いられ、アナログ式では電源周波数に同期して回転するサーボモータを使ったり、デジタル式では電源周波数から1秒毎のパルスを得て駆動していた。", "title": "時計の歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "さらに、第二次世界大戦後には、小型置時計や腕時計の分野で、電気の安定にトランジスタを使ったトランジスタ時計、調速機にRC発振回路を使った時計、音叉を使った音叉時計などが開発されたが、一般向けの実用時計としては水晶振動子を使ったクォーツ時計、実験施設などの高度な計時装置としてはセシウム原子の振動を利用した原子時計など、新たな高精度な時計の出現によりほとんど姿を消した。", "title": "時計の歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "20世紀前半にクォーツ時計が開発され、1969年にはセイコーが世界初のクォーツ式腕時計アストロンを発売した。クォーツ時計は1か月の誤差が15秒ほどと実用上十分の精度があり、現在では一般的に使われている。", "title": "時計の歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "一方機械式時計の新しい発明として20世紀末には、ジョージ・ダニエルズによりコーアクシャル脱進機が提案された。 20世紀には電波時計も利用されるようになった。これは、原子時計は2000万年に1秒くらいの誤差という高精度を持つものの廉価・小型化が難しいので、原子時計による時報を適当な頻度で電波によって受信しクォーツ時計の時刻を自動修正するというものである。", "title": "時計の歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1999年にはCASIOがGPS腕時計を発売した。GPS腕時計はGPSを利用することで10億分の1秒オーダの正確な時刻を地球上どこでも容易に得られる。", "title": "時計の歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "", "title": "時計の歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "さまざまな分類法がある。", "title": "種類、分類" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "基本的な分類法として、(設置型の)時計を clock(クロック)、特に携帯型のものを watch(ウォッチ)と呼び分けるものがある。この分類法は一般に広く浸透している。", "title": "種類、分類" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "動作原理による分類法もある。機械式時計 / クォーツ時計 / 電波時計 などと分類されている。", "title": "種類、分類" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "また表示方法による分類法もある。アナログ方式 / デジタル方式 などに分類されている。", "title": "種類、分類" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "英語の辞書では、clockを時刻を表示する装置と説明しており、必ずしも携帯できないものとは限定していない。 つまりclockのほうが基本語彙である。", "title": "種類、分類" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "主に身体に携帯して使用する時計をウォッチ(watch、携帯時計)という。", "title": "種類、分類" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ウォッチをさらに下位分類すると、腕時計や懐中時計(提時計)がある。", "title": "種類、分類" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "作動原理による分類法", "title": "種類、分類" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "", "title": "種類、分類" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "アナログ式は長針と短針を組み合わせた針式。通常、長針1回転が60分、短針1回転が12時間を表す。", "title": "表示方式" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ムーブメントに取り付けて時を示す目盛やマークなどを印した部品を文字板(文字盤、dial)という。通常、円周の等分の位置にアラビア数字やローマ数字を配置した文字盤を用いる(12方向あるいは4方向に数字を置く)。背景に数字を入れないデザインのものもあるが、時計の針は同一の周回を回転しているため、上下方向が定まっていないと時刻を認識できないことになる。そのため、少なくとも実用的な時計においては、長針、短針、秒針が全て重なる方向を上向きに設置し、その時間を0時または12時に調整する(背景が無地の壁掛け時計など)。文字盤にはライト付きのものや蓄光のものがある。", "title": "表示方式" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "針の制御は全てが機械式機構で正比例するように動く物、ステッピングモーターなどで別々に動かす物が有る。", "title": "表示方式" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "秒針の動きには、連続して流れるような秒針の動きのスイープ運針(スイープセコンド、連続運針、連続秒針、sweep motion second、sweeping motion second)と、1秒ごとに区切りながら動くステップ運針(ステップセコンド、ステップ秒針、step motion second、stepping motion second)がある。また、一定時刻にまたは手動の操作でメロディーが鳴りリズミカルに運針する機能のあるものもある(メロディー運針、rhythmical motion)。", "title": "表示方式" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "機械的な針を使わずに、液晶であらかじめ形が作られた針を表示するものや、Apple Watchのようにドットマトリクスで針を表示するものもある。", "title": "表示方式" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "アナログ式はほとんど12時間表示(12等分)であるが、24時間表示の数字を小さく併記するものもある。文字盤の時間間隔については、日長により変化する不定時法(一部の和時計など)のものもあるが、基本的に現代の時計は時間間隔が常時一定の定時法をとる。その他文字盤に多数の目盛りが追加され、クロノグラフ(秒・分・時)やカレンダーが針で表示できるものもある。日付や月齢などは回転する板を、穴からのぞくようにして文字盤地板に表示するものも多い。なお、「12時方向」や「3時方向」など、アナログ式時計の文字盤に見立てて方向・方角を表す方法をクロックポジションという。", "title": "表示方式" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "基本的に右回りであるが、その理由として日時計が右回りであったためという説が有力である。緯度・経度・季節により誤差はあるが、太陽の位置により大まかな方角を知ることが出来る。", "title": "表示方式" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "外装を通してムーブメントが見える時計をスケルトンという。", "title": "表示方式" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "デジタル式は、数字で直接表示する方式。デジタル式には12時間表示のものと24時間表示のものがあり。切り替え可能なものも多い。以下の方式の一部では、決められた数字や記号(コロンなど)が作りこまれているものとドットマトリクスの仕組み表示するものとがある。", "title": "表示方式" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "アナログ式とデジタル式、両方を備えたコンビネーション式時計。アナデジ、デジアナ、ハイブリッド式時計とも呼ばれる。", "title": "表示方式" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "時計産業は、17世紀には手工芸的な産業であり、イギリス、フランス、スイスによって激しい技術競争が起こっていた。このうちフランスにおいてはナントの勅令がルイ14世のフォンテーヌブローの勅令によって1685年に廃止され、ユグノーが多かった時計職人たちは迫害を逃れてスイスへと移住し、まずジュネーブで、ついでその北東に位置するヌシャテルにおいても時計産業が栄えるようになり、この2都市がスイス時計産業の中心となっていった。先発であるジュネーブが高級時計を主力としたのに対し、ジュネーブからの職人移住によって形成された ヌシャテルやジュラ山地の時計生産においては廉価な時計の生産が主力となっていた。", "title": "時計産業" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "時計の制作は複雑なため、個人ではなく職人たちがチームを組んで分業により制作する方式を採用していたが、これには一つ一つの部品が正確に製作され、それが組み合わされて狂いなく動作することが必要であり、この職人集団は結果として正確な機械製作技術を身につけることとなった。この技術は他の機械製作にも応用されるようになり、産業革命の技術的基礎となった。", "title": "時計産業" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "このころまでの時計は、航海の安全に直結するクロノメーターを除けば、ほとんどは装飾品に過ぎなかった。しかし産業革命時代に入ると、正確な時間を知ることが必要になり、それまでの装飾品としての時計から実用品としての比重が急速に高まった。このころはいまだそこまで正確な時計は完成していなかったが、アメリカ西部開拓時代になると、正確かつ規格化された鉄道時計の需要が生まれ、精度の高い時計が求められるとともに、アメリカに開発・生産の重心を移していった。ところが労働コストの上昇などにより、アメリカの時計産業は20世紀前半までには衰退した。19世紀末から労働コストが安いスイス・ドイツなどが時計産業の中心となった。", "title": "時計産業" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "日本での工業としての時計生産は、明治時代中期(1880年代)以降に東京、大阪、名古屋周辺で掛時計、置時計の製造が始まったのが嚆矢であるが、懐中時計・腕時計などの精密時計の大量生産は20世紀に入ってから始まった。1927年にはアメリカにおいてクォーツ時計が発明されていた が、1960年代には急速に改良が進んで実用化されるようになり、1969年にはアナログ式クォーツ腕時計が日本において初めて商品化され、さらに1970年代以降のデジタル化へのシフトにより、スイスの時計産業は衰退し、日本へとその主軸を移していった。20世紀末には生産地がさらにアジア諸国にシフトしていった。", "title": "時計産業" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "この頃には、クロノメーター時代の最高精度の何倍もの精度の時計が廉価で買えるようになり、デジタル時計なども実用的にはこれ以上進歩のしようがなくなった。", "title": "時計産業" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "スイスの時計産業は、1970年代~1980年代にはクォーツによる時計技術の激変に乗り遅れ、またそこに経済危機も追い打ちをかけ、産業規模が著しく縮小した。スイスの時計産業従事者は1970年にはおよそ9万人だったのに、1984年にはわずか3万人あまりにまで減少。だがその後、産業構造の改革を断行しスイスの時計産業はふたたび世界の注目を浴びるようになり、従業者数も再び増加して、2013年には57300人レベルとなった。スイスの時計産業は、かつてとは異なり、現在では数十ドルほどの安価な若者向けのものから、中価格帯の時計、そして金や宝石で装飾されコンプリケーション(complication。複雑な機械的機構)を備えた数十万ドルの値段の(つまり日本円なら数千万円相当の超高級な)機械式時計まで、実際のところあらゆる価格帯の時計を製造するようになっている。なおスイスは、もともと得意とする高級品だけでなく安価な時計の市場でも復活した。具体的には、日本にすっかり奪われた世界シェアを取り戻すべくニコラス・G・ハイエックがファッショナブルで安価なスウォッチを開発し1983年に発売し、これが世界的に人気を得たおかげでスイス時計産業は低価格帯品の世界シェアにも食い込むことに成功した。現在、スイスの時計はその95%が輸出されている。2013年時点の総輸出売上高は、218億スイス・フラン。金額ベースでその輸出先を分析すると、スイスの腕時計輸出額の53%がアジア向け、31%が欧州向け、14%が北米向けとなっている(金額ベースでは、富裕層向けの数百万円 - 数千万円の高級時計の売上が主たる影響力をもつ。その結果、金額ベースの輸出先は、富裕層が多数いるアジア、欧州、北米向けが主となる)。それに対して、アフリカ、オセアニア向けはそれぞれわずか1%にすぎない。", "title": "時計産業" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "メーカーに所属せず個人や小規模な工房で製作する独立系の時計職人もおり、トゥールビヨンなど複雑な機構を有した腕時計が富裕層向けの宝飾品として評価されている。1985年に独立時計師アカデミーが結成された。", "title": "時計産業" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "2009年、スイスのラ・ショー=ド=フォンは時計産業と都市計画の結びつきが評価され、ラ・ショー=ド=フォンとル・ロックルとして世界遺産に登録された。", "title": "時計産業" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "20世紀後半になってclockという語を、デジタル回路(論理回路)で同期をとる場合のパルス信号(源)を指すためにも使うようになった。その信号を「クロック信号」と呼び、そうした方式で同期をとる回路の設計方式を「クロック同期設計」と呼ぶようになった。クロックの記事を参照。", "title": "デジタル回路やPCにおける時計" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "なおPCなどでは、リアルタイムクロックという、時刻を刻む、まさに「時計」を持っていることも多い。", "title": "デジタル回路やPCにおける時計" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "オペレーティングシステム内では通常、さらにそれらとは別のタイマーを利用した時刻管理系を持っている。", "title": "デジタル回路やPCにおける時計" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "高水準プログラミング言語では、ライブラリを読み込むことで、PCの時計の時刻をプログラム内で取得して使えるようになっていることが多い。たとえば、C言語のプログラムでは冒頭に「#include <time.h>」などと書けば時計を使えるようになり、Pythonのプログラムでは「import time」あるいは「import datetime」などと記述すれば時計を使えるようになる。", "title": "デジタル回路やPCにおける時計" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "その他パソコンの画面上ではタスクバーで時間が標準表示される他、主にガジェット、フリーソフトとして各種アナログ・デジタル時計が多数公開されている。", "title": "デジタル回路やPCにおける時計" } ]
時計とは、時刻を示す装置、あるいは時間を測定する装置。
{{Otheruses}} [[File:1009Clock.jpg|thumb|280px|時計の一例。針式([[#アナログ式|アナログ式]])の[[掛時計]]。]] [[File:Citizen Attesa Eco-Drive ATV53-3023 01 (cropped).JPG|thumb|right|[[腕時計]]の一例。([[シチズン時計|CITIZEN]]製)]] [[ファイル:MontreGousset001.jpg|thumb|[[懐中時計]]]] [[File:JapaneseClock2.jpg|thumb|[[和時計]]。[[江戸時代|江戸]]中期。]] [[File:Clock exhibit - National Museum of Nature and Science, Tokyo - DSC07212.JPG|thumb|博物館に展示された時計の数々]] '''時計'''(とけい、{{Lang-en-short|[[:en:clock|clock]]、携帯型のみ[[:en:watch|watch]]}})とは、[[時刻]]を示す装置、あるいは[[時間]]を測定する装置<ref name="seisenban">精選版 日本国語大辞典「時計・土圭」</ref><ref name="nihondaihyakka">『日本大百科全書』「時計」</ref>。 == 概説 == 時計は時刻を指示する機器で、タイムカウンター(時間を測定するだけで時刻は指示しない機器)と合わせて計時装置 (time measuring instrument) と呼ばれる<ref name="jcwa_t006" />。時刻の指示だけでなく時間の測定もできる時計に[[クロノグラフ]] (chronograph) がある<ref name="jcwa_t006" />。 古くは日常生活の中で時刻を知る方法は[[太陽]]の動きなどであった<ref name="yamamoto">[https://www.postalmuseum.jp/publication/research/research_09_07.pdf 山本光正「村に時計がやってきた」郵政博物館 研究紀要 第9号] [[郵政博物館]]、2019年10月3日閲覧。</ref>。[[紀元前1500年]]ごろには[[日時計]]が発明された<ref name="oshida">[http://hidokei.webcrow.jp/HIDOKEI/HIDOKEI_No.14_1.pdf 押田榮一「“What is time?”」日本日時計の会会報 第14号] 日本日時計の会、2019年10月3日閲覧。</ref>。 [[11世紀]]以降、機械によって駆動される時計が実用化されたが、近世に至るまでは極めて大型の装置であり、庶民にとっては値段が高く一般的なものではなかった<ref name="yamamoto" />。また、初期の機械時計はそれほど正確ではなく定期的に時刻の調整をしなければならなかった<ref name="oshida" />。近代以後、より正確な機械時計が普及しても無線やラジオ放送などが普及するまで正確な時刻をもとに機械時計の時刻を合わせることも容易でなく、機械時計の時刻の調整には南中を知るのに特化した正午計(日時計の一種)なども用いられた<ref name="yamamoto" /><ref name="oshida" />。なお日本ではかつて[[和語]]、[[大和言葉]]では、時を測る装置は「ときはかり」と呼んだ<ref>精選版 日本国語大辞典「時計・土圭」の解説</ref>。 機械時計には、動くための力、一定の速度で動かすための[[調速機]]、計った時を外部に伝える部分の3つの要素がある。動力としては、錘を引く[[重力]]がもっとも古くから存在したが、その後、近世に実用化された鋼製の[[ぜんまいばね]](ゼンマイ)が時計に適した蓄力装置として20世紀後期まで広く用いられた。また20世紀以降は[[電気]]が用いられ、動力のみならず調速のエネルギーとしても主流となっていった。調速機としては、17世紀に実用化された[[振り子]]が定置式時計に広く用いられ、振り子の役割を小型部品のひげゼンマイに置き換えた{{仮リンク|テンプ|en|Balance wheel}}も追って実用化、携行可能な時計([[懐中時計]])が作られるようになった。以後の電気駆動時代の調速には、[[音叉]]、電力線、[[水晶]]、原子などが利用されている。外部に時刻を伝える手段としては、一般的には針([[アナログ]])や文字([[デジタル]])による視覚が基本で、これと併用する形で鐘や鈴、アラームなどの音が用いられる。 [[1970年代]]ごろまでは、腕時計や置時計では動力にぜんまいを使った機械式、掛時計では電気([[トランジスタ]])式がほとんどであったが、[[1980年代]]以降、動力に電気、調速機に水晶振動子を使った[[クォーツ時計]]が主流となった。 市販のクォーツ時計の多くは 1 秒間に{{val|32768}}(2の15[[冪乗|乗]])回振動する({{val|32.768|ul=kHz}})[[水晶振動子]]を用いて時を刻む。必ずこの数値でなければならないわけではないが、時計に組み込むのに適切な大きさの振動子で発生しやすい周波数であり、また、簡易な回路で[[分周器|分周]]を行い周波数を半分にする操作を繰り返して1秒を得るために、2の[[冪乗|べき乗]]の値であると都合が良いことからこの周波数がよく用いられる。他の周波数の[[水晶振動子]]が用いられることもある。 →[[#歴史]] また、近年は[[セシウム|セシウム原子]]の振動({{val|9192631770|ul=Hz}}={{val|9.19263177|ul=GHz}})を用いた[[原子時計]]の時刻を基に発信された[[電波]]([[標準電波]]、[[JJY]])を受信し、[[クォーツ時計]]の時刻を自動修正する[[電波時計]]も利用されている。<ref group="注">世界各地に、標準電波の発信基地はある。日本での標準電波の発信基地(電波送信所)は、[[福島県]][[田村市]]都路地区([[大鷹鳥谷山]]、40kHz)と[[佐賀県]][[佐賀市]]富士地区([[羽金山]]、60kHz)の2か所。[[電波時計]]の記事を参照のこと。</ref> 更に進んで、地球上どこでも受信できる[[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]]の電波により時刻修正を行う[[衛星電波時計]]も出現している。 一方、動力については、[[電池]]交換の手間を省くため、[[腕時計]]の分野では手の動きから力を取り出して[[発電機]]を駆動して電気を得る方法 (Automatic Generating System, AGS) や、文字盤や盤面以外の部分に組み込まれた[[太陽電池]]などにより発生した電気を、[[二次電池]]もしくは[[コンデンサ|キャパシタ]]に充電しながら作動するタイプが出てきている。 時計は趣味的な収集の対象ともなっており、クォーツ式や[[電波時計]]が全盛の時代であっても、あえて[[日時計]]を集めて庭に置いて眺める愛好家や、あえて[[機械式腕時計|機械式時計]]を収集したり日々それを身につけることを愛好する人々もいる。 また時計は[[電子機器]]の多くにも内蔵されている。これは、[[ビデオテープレコーダ|ビデオ]]の録画予約や、[[電子レンジ]]の加熱時間など、[[タイマー]]として使われる。 また[[パーソナルコンピュータ|パーソナル・コンピュータ]]などにも時計はいくつかの方式で組み込まれており、[[プログラミング言語]]の[[ソースコード]]内でもそうした時計から時刻の値を取得し利用できるようになっている。→[[#デジタル回路やPCにおける時計]] == 時計の歴史 == {{Main|時計の歴史}} [[File:Ancient-egyptian-sundial.jpg|right|thumb|220px|[[古代エジプト]]の[[日時計]]]] <!--[[File:Wooden hourglass 3.jpg|right|thumb|150px|[[砂時計]]で一定の時間を計ることができる。機械を使用しない、初期の計時器具のひとつである]]--> もともと[[人類]]は(また、おそらく他の[[動物]]も)[[先史時代]]より[[太陽]]の方向により、「[[朝]]・[[昼]]・[[夕]]」程度の曖昧で不明確な時の概念は持っていたと考えられる。太陽の方角([[方位]]・[[高度]]など)を知る方法のひとつに「固定された適当な物の[[影]]の位置を見る」というのがあり、これを利用して[[紀元前2000年|紀元前約2000年]]ごろに[[日時計]]が発明された。日時計は目盛りの線を細かく刻むことができ、太陽を漠然と目視するよりも、時刻を細かく把握できるようになった。 しかし[[日時計]]は晴天の日中しか利用することができないという欠点がある。そのため、別の物理現象を使って時間の流れを測定する時計も考えられた。例えば特定の大きさで作った[[ろうそく|蝋燭]]や[[線香]]、火縄が燃える距離を使う(燃焼時計)、[[水]]や[[砂]]が小さな穴から落ちる体積を使う([[水時計]]、[[砂時計]])などであり、紀元前1400年 - 紀元前700年頃の間に[[エジプト]]、[[イタリア]]、[[中華人民共和国|中国]]などで考案された。なかでも水時計は流速を一定とした水を使用することから、それを動力とした機構を発達させ、かなり複雑な機構を使用するものへと変化し、やがて機械式時計を生み出すこととなった<ref>「図説 時計の歴史」p13 有澤隆 河出書房新社 2006年1月30日初版発行</ref>。 [[ファイル:Clock_Tower_from_Su_Song's_Book.JPG|サムネイル|200px|[[水運儀象台]]]] [[北宋]]時代、より正確に時間を計るため駆動軸の動きを制限する脱進機が発明され、[[1092年]]に[[蘇頌]]によって世界初の脱進機つき時計台である[[水運儀象台]]が[[開封]]に建設された<ref>『世界文明における技術の千年史 「生存の技術」との対話に向けて』p66 アーノルド・パーシー 林武監訳、東玲子訳、新評論、2001年6月。ISBN 978-4-7948-0522-5</ref>。水運儀象台は時計台であると同時に天文台でもあった。同時期、イスラム世界においても水時計の進化は進み、その機構の多くはヨーロッパへと伝播した<ref>『世界文明における技術の千年史 「生存の技術」との対話に向けて』p77 アーノルド・パーシー 林武監訳、東玲子訳、新評論、2001年6月。ISBN 978-4-7948-0522-5</ref>。 14世紀にはヨーロッパで、定期的に重錘を引き上げ、それが下がる速度を棒テンプと脱進機で調節する機構が発明された。また1510年ごろ、ニュルンベルクの錠前職人[[ピーター・ヘンライン]]が[[ぜんまいばね|ゼンマイ]]を発明し携帯できるようになった。 [[1583年]]、[[ガリレオ・ガリレイ]]は、振り子の周期が振幅によらず一定であること(正確には振幅がごく小さい場合に限られる)を発見し、振り子時計を思いついた。[[1656年]]、[[クリスティアーン・ホイヘンス]]は、サイクロイド曲線を描く振り子および振り子に動力を与える方法を発明し、振り子時計を作った<ref>「図説 時計の歴史」p17 有澤隆 河出書房新社 2006年1月30日初版発行</ref>。 [[1654年]]、[[ロバート・フック]]はひげゼンマイの研究を行い、それが振り子と同じく一定周期で振動することを発見し、[[1675年]]、ホイヘンスはこの原理を利用した懐中時計を開発した。18世紀初頭に入ると時計技術の進歩はさらに進み、[[ジョージ・グラハム (時計師)|ジョージ・グラハム]]によってシリンダー脱進機が発明され、彼の弟子である[[トーマス・マッジ]]はレバー式脱進機を発明した<ref>「図説 時計の歴史」p37 有澤隆 河出書房新社 2006年1月30日初版発行</ref>。 なお[[中世]]ヨーロッパでの時計の意義は主に神に[[祈り]]を捧げる時を知るためのものであった。 [[File:Harrison's Chronometer H5.JPG|サムネイル|200px|[[ジョン・ハリソン (時計職人)|ジョン・ハリソン]]が開発した[[クロノメーター]]H5]] [[大航海時代]]に入ると、[[天測航法]]および計時によって現在位置の[[経度]]を知るためには、揺れる船内に長時間放置しても狂わない正確な時計([[クロノメーター]])が必要となった。時刻にして1分の誤差は、経度にして15[[分 (角度)|分]](1/4[[度 (角度)|度]]、赤道上で28km)もの誤差となり、この誤差が遭難や座礁につながるという事故が多発したためである。[[1713年]]、イギリス政府は「5か月間の航海で誤差1分以内」という懸賞条件に2万[[スターリング・ポンド|ポンド]]の賞金をかけ<ref>『ジョージ王朝時代のイギリス』 ジョルジュ・ミノワ著 手塚リリ子・手塚喬介訳 白水社文庫クセジュ 2004年10月10日発行 p.125</ref>、[[1736年]]、[[ジョン・ハリソン (時計職人)|ジョン・ハリソン]]が懸賞条件に見合う時計を完成させた。しかし、ハリソンが単なる職人だったためか、イギリス議会はいろいろと難癖を付けて賞金を払わず、40年に渡って改良を重ねさせた。ハリソンは[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]の取りなしがあってようやく賞金を手に入れられたが、それは彼の死の3年前であった。 [[File:Pendule Sympathique.jpg|サムネイル|200px|[[アブラアム=ルイ・ブレゲ]]が1795年ごろに製作した置時計([[チューリッヒ]]・[[バイヤー・クロノメトリー|バイヤー時計博物館]]所蔵)]] 時計制作の歴史に革命を起こしたのが天才時計師として名高い[[アブラアム=ルイ・ブレゲ]](1747年 - 1823年)であり、彼によって時計の進歩は200年早まったとされる<ref>「図説 時計の歴史」p36 有澤隆 河出書房新社 2006年1月30日初版発行</ref>。ブレゲは[[スイス]]の[[ヌーシャテル]]で生まれ15歳でフランスに渡り時計作りの研鑽を積み、以降フランスを中心に時計制作を行い、[[トゥールビヨン (時計)|トゥールビヨン]]、[[永久カレンダー]]、[[リピーター (時計)|ミニッツ・リピーター]]など、現代の機械式時計にも用いられている画期的な発明を数多く行った。ブレゲの顧客にはフランス国王[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]、[[ナポレオン・ボナパルト]]、[[イギリス]]国王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]、[[ロシア]]皇帝[[アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル1世]]などがおり、当時の最高権力者たちはこぞって彼に時計制作を依頼していた。ブレゲがその生涯に制作した時計は約3,800個と言われ、数々の傑作を生み出したが、そのなかでも最高傑作として名高い逸品が、王妃[[マリー・アントワネット]]の注文に応じて制作された懐中時計「[[マリー・アントワネット]]」である。{{main|アブラアム=ルイ・ブレゲ#マリー・アントワネット}} その後、機械式時計は、精度や携帯性を求めて様々な改良が施された。また、この17 - 19世紀初頭は、職人の徒弟チームによる手工芸的な少量生産から、いかに大量生産で高精度の時計を作れるか・定期的な保守を誰でもできるかという要求により改良がなされていった時代である。ぜんまい動力の掛かる駆動部の[[歯車]]は、なるべく均一な力がかかるように歯車の歯数を互いに割り切れないようにする工夫もなされた。気温によって振り子の長さやひげゼンマイの弾性が変化することも精度に影響するため、[[20世紀]]初頭に熱膨張率の小さな[[インバー]]合金、温度による[[弾性率]]の変化が小さなエリンバー合金が発明され、大きな貢献を与えた。各種あった脱進機も、現在のアンクル脱進機にほぼ絞り込まれていった。 ;20世紀 20世紀に入ると、動力として[[電動機]]が使われるようになった。当初は調速機構を在来機械式時計と同じくしながら、動力源をぜんまいの代わりに電動機としたのみであった。 電気式時計はクォーツ時計が一般化する以前に用いられ、アナログ式では[[商用電源周波数|電源周波数]]に同期して回転する[[同期電動機|サーボモータ]]を使ったり、デジタル式では電源周波数から1秒毎のパルスを得て駆動していた{{Efn|このため商用電源(日本では50Hzまたは60Hz)は、長時間で誤差が累積されないように、進み遅れの制御がなされている。後者は現在でも[[ビデオテープレコーダ]]などのタイマー予約用時計に使われることがある}}。 さらに、[[第二次世界大戦]]後には、小型置時計や腕時計の分野で、電気の安定に[[トランジスタ]]を使ったトランジスタ時計、調速機にRC発振回路を使った時計、音叉を使った音叉時計などが開発されたが、一般向けの実用時計としては水晶振動子を使った[[クォーツ時計]]、実験施設などの高度な計時装置としてはセシウム原子の振動を利用した原子時計など、新たな高精度な時計の出現によりほとんど姿を消した。 [[ファイル:Seiko_Astron.jpg|サムネイル|200px|世界初の[[クォーツ時計|クォーツ]]式[[腕時計]]、[[セイコーグループ|セイコー]]の[[アストロン (腕時計)|アストロン]]([[アストロン (腕時計)|35SQ]])]] 20世紀前半に[[クォーツ時計]]が開発され、1969年には[[セイコーグループ|セイコー]]が世界初のクォーツ式腕時計[[アストロン (腕時計)|アストロン]]を発売した。[[クォーツ時計]]は1か月の誤差が15秒ほどと実用上十分の精度があり、現在では一般的に使われている。 一方機械式時計の新しい発明として20世紀末には、[[ジョージ・ダニエルズ]]によりコーアクシャル脱進機が提案された。<!--これはアンクル脱進機以来の発明といわれている{{要出典|date=2023年3月}}。--><!--また、セイコーによる[[スプリングドライブ]]の発明は、機械式時計とクオーツ式時計の融合として革命的である{{要出典|date=2023年3月}}。--> 20世紀には[[電波時計]]も利用されるようになった。これは、[[原子時計]]は2000万年に1秒くらいの誤差という高精度を持つものの廉価・小型化が難しいので、[[原子時計]]による時報を適当な頻度で電波によって受信し[[クォーツ時計]]の時刻を自動修正するというものである。 1999年には[[CASIO]]が[[GPS腕時計]]を発売した。[[GPS腕時計]]は[[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]]を利用することで10億分の1秒オーダの正確な時刻を地球上どこでも容易に得られる。 == 種類、分類 == さまざまな分類法がある。 基本的な分類法として、(設置型の)時計を clock(クロック)、特に携帯型のものを watch(ウォッチ)と呼び分けるものがある。この分類法は一般に広く浸透している。 動作原理による分類法もある。機械式時計 / [[クォーツ時計]] / [[電波時計]] などと分類されている。 また表示方法による分類法もある。アナログ方式 / デジタル方式 などに分類されている。 ;クロックとウォッチ [[ファイル:W & H Sch grandfather clock.JPG|サムネイル|ホールクロック(上部飾り一部欠品)]] 英語の辞書では、clockを時刻を表示する装置と説明しており、必ずしも携帯できないものとは限定していない。<ref>A mechanical or electrical device for measuring time, indicating hours, minutes, and sometimes seconds by hands on a round dial or by displayed figures. </ref> つまりclockのほうが基本語彙である。 <!--日本の時計業界のマニュアルは、クロックは「一定の姿勢で使用する時計」をいう、と解説している<ref name="jcwa_t006" />が、こういう解説は、やや特殊である。世界的にはこういう解説はされない。--> *置時計 (desk clock、table clock) : 机や台などに静置した状態で用いる時計<ref name="jcwa_t006" />。 * [[掛時計]] (wall clock) : 壁に固定して使用する壁時計や柱に固定して使用する柱時計<ref name="jcwa_t006" />。 * ホールクロック (hall clock) : 屋内向けの縦長の大型時計<ref name="jcwa_t006" />。 主に身体に携帯して使用する時計をウォッチ(watch、携帯時計)という<ref name="jcwa_t006">{{Cite web|和書|url= https://www.jcwa.or.jp/pdf/jcwa_t006.pdf |title=時計用語 |publisher=一般社団法人日本時計協会|accessdate=2020-06-24}}</ref>。 ウォッチをさらに下位分類すると、腕時計や懐中時計(提時計)がある<ref name="jcwa_t006" />。 * [[腕時計]] : 腕にバンドで装着して使用する時計<ref name="jcwa_t006" />。 * [[懐中時計]](提時計、ポケットウォッチ): 鎖で衣[[服]]に取り付けたり[[ポケット]]に入れて持ち運ぶことができるようにした時計<ref name="jcwa_t006" />。 * ナースウォッチ: 防水機構が進歩していなかった時代に、頻繁に手を洗う[[看護師]]がすぐに時刻を見られるよう、12時側ではなく6時側に短い鎖を取り付けてあり、反対側にはピンがついていて、胸につけるようになっている。時計によっては脈を測るための目盛りがついている。防水腕時計が当然になった現在でも、患者に怪我をさせないよう手に金属製品をつけない要請から、一部で使用されている。 * [[スマートウォッチ]]: デジタル腕時計の[[ウェアラブルコンピュータ]]で、[[スマートフォン]]と同等の機能性を有する。 [[ファイル:My Grandfather's Clock was too Tall for the Shelf... (51530343906).jpg|サムネイル|ホールクロック]] 作動原理による分類法 * 機械式時計 * [[振り子時計]] * [[音叉]]時計 * [https://kotobank.jp/word/%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%82%B9%E3%82%BF%E6%99%82%E8%A8%88-106275 トランジスタ時計] * [[クォーツ時計]](水晶時計) * [[電波時計]](電波修正時計): 標準電波(日本だと[[JJY]])を受信して時刻やカレンダー修正を行う機能のある時計<ref name="jcwa_t006" />。 * [[衛星]]電波時計(衛星電波修正時計): [[GPS衛星]]などのGNSSの電波を受信して時刻や[[カレンダー]]修正を行う機能のある時計<ref name="jcwa_t006" />。 * [[親子時計|設備時計]]([[親子時計]]):親時計からのパルス信号で子時計を制御する時計。これには[[デジタル時計]]、アナログ時計などの様々な種類がある * [[原子時計]] * [[光格子時計]] <gallery> ファイル:Clock-pendulum.gif|[[振り子時計]]の[[振り子]] ファイル:32768 Hz quartz crystal resonator.jpg|[[水晶振動子]] ファイル:ChipScaleClock2 HR.jpg|[[原子時計]] </gallery> == 表示方式 == === アナログ式 === [[File:BahnhofsuhrZuerich RZ.jpg|thumb|200px|[[スイス鉄道時計]] stop to goと呼ばれる58.5秒で1周して1.5秒間停止、そして分針を動かし、秒針を再度動かすといった機構になっている。]] [[アナログ]]式は長針と短針を組み合わせた針式。通常、長針1回転が60分、短針1回転が12時間を表す。 ムーブメントに取り付けて時を示す目盛やマークなどを印した部品を文字板(文字盤、dial)という<ref name="jcwa_t006" />。通常、円周の等分の位置に[[アラビア数字]]や[[ローマ数字]]を配置した文字盤を用いる(12方向あるいは4方向に数字を置く)。背景に数字を入れないデザインのものもあるが、時計の針は同一の周回を回転しているため、上下方向が定まっていないと時刻を認識できないことになる。そのため、少なくとも実用的な時計においては、長針、短針、秒針が全て重なる方向を上向きに設置し、その時間を0時または12時に調整する(背景が無地の壁掛け時計など)。文字盤にはライト付きのものや[[蓄光]]のものがある<ref name="jcwa_t006" />。 針の制御は全てが機械式機構で正比例するように動く物、ステッピングモーターなどで別々に動かす物が有る。 [[ファイル:SBB railway clock animated.gif|代替文=スイス鉄道時計の動作の再現|サムネイル|200x200ピクセル|スイス鉄道時計の動作の再現([[gifアニメ]]、3時38分前後)]] 秒針の動きには、連続して流れるような秒針の動きのスイープ運針(スイープセコンド、連続運針、連続秒針、sweep motion second、sweeping motion second)と、1秒ごとに区切りながら動くステップ運針(ステップセコンド、ステップ秒針、step motion second、stepping motion second)がある<ref name="jcwa_t006" />。また、一定時刻にまたは手動の操作でメロディーが鳴りリズミカルに運針する機能のあるものもある(メロディー運針、rhythmical motion)<ref name="jcwa_t006" />。 機械的な針を使わずに、液晶であらかじめ形が作られた針を表示するものや、[[Apple Watch]]のように[[ドットマトリクス]]で針を表示するものもある。 ; レギュレータ : 長針・分針・秒針(秒針は無い場合もある)がすべて独立しており、同軸にないもの(文字盤もそれぞれ別々に独立している)。機械式時計の基本原理としてはこの形態になる([[#機械式時計|機械式時計]]の項参照)。 ; 2針式 : 長針と短針のみで、2つが同軸にあるもの(秒針が付いていても同軸でないものを含む)。レギュレータに歯車を1個追加して分針を駆動している。 ; 3針式 : 秒針が長針・短針と同軸にあるもの。2針式の機構に歯車を1 - 2個追加して秒針を駆動している。 ; 4針式 : 秒針と長針、短針に加え、GMT針が同軸にあるもの<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=時計の針の呼び方には長針短針、秒針時針など同じ針でも別の言い方ある|url=https://sundaylife.jp/knowledge/watch-hands-name|website=SUNDAY LIFE/時計のブログ|accessdate=2020-10-14|language=ja}}</ref>。GMT針は、24時間で一周する針で、時針と区別がつくようにしてある物が多い<ref name=":0" /><ref name=":1">{{Cite web|和書|title=GMTの便利な使い方|url=https://www.syohbido.co.jp/blog/?p=7898|website=懐中時計 スイス時計専門店 正美堂新着ブログ|accessdate=2020-10-14|language=ja|last=syohbido}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=GMT機能とその使い方について - Chrono24マガジン|url=https://www.chrono24.jp/magazine/gmt%e6%a9%9f%e8%83%bd%e3%81%a8%e3%81%9d%e3%81%ae%e4%bd%bf%e3%81%84%e6%96%b9%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6-p_52887/|website=www.chrono24.jp|accessdate=2020-10-14|language=ja}}</ref>。なお、GMTは[[グリニッジ平均時]]([[英語|英]]:Greenwich Mean Time)の略称である<ref name=":1" />。 アナログ式はほとんど12時間表示(12等分)であるが、24時間表示の数字を小さく併記するものもある。文字盤の時間間隔については、日長により変化する不定時法(一部の[[和時計]]など)のものもあるが、基本的に現代の時計は時間間隔が常時一定の定時法をとる。その他文字盤に多数の目盛りが追加され、クロノグラフ([[秒]]・[[分]]・時)や[[カレンダー]]が針で表示できるものもある。[[日付]]や[[月齢]]などは回転する板を、穴からのぞくようにして文字盤地板に表示するものも多い。なお、「12時方向」や「3時方向」など、アナログ式時計の文字盤に見立てて方向・方角を表す方法を[[クロックポジション]]という。 基本的に右回りであるが、その理由として[[日時計]]が右回りであったためという説が有力である<ref>[https://www.panasonic.com/jp/corporate/sustainability/citizenship/pks/library/014time/time015.html 時計の針(はり)は、どうして右回りなの?]</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20180917143401/https://www.nhk.or.jp/radiosp/kodomoqmagazine/detail/20180824_06.html 時計の針はなぜ右回りになったのですか?]</ref>。[[緯度]]・[[経度]]・[[季節]]により誤差はあるが、太陽の位置により大まかな方角を知ることが出来る<ref>{{Cite web|和書|title=アナログ時計で方角を知る方法 警視庁|url=https://www.keishicho.metro.tokyo.lg.jp/kurashi/saigai/yakudachi/outdoors/950962348243615746.html|website=www.keishicho.metro.tokyo.jp|accessdate=2021-07-30}}</ref>。 外装を通してムーブメントが見える時計を[[スケルトン]]という<ref name="jcwa_t006" />。 {{Gallery|width=200px |File:001 2020 04 21 Uhren fuer den Innenbereich.jpg|20世紀のアナログ式の旅行用[[めざまし時計]]。たたむとシェルに護られ[[旅行鞄]]にしまえる。古いものは[[ぜんまいばね|ぜんまい]]式。 |File:Analog watch 2.jpg|アナログ式[[腕時計]] |File:Zenith El Primero 36000 VpH Tribute to Charles Vermot 02.jpg|スケルトン |ファイル:London, Greenwich, Royal Greenwich Observatory -- 2016 -- 4745-6-8.jpg|24時間時計([[グリニッジ天文台]]設置)|Solar_powered_Clock01.JPG|ナショナル(現[[パナソニック]])製のポール型両面電気子時計([[親子時計]])|Casion Clock.jpg|[[カシオ計算機]]製のクォーツ掛時計(IQ-44)}} === デジタル式 === [[デジタル]]式は、[[数字]]で直接表示する方式。デジタル式には12時間表示のものと[[24時制|24時間表示]]のものがあり。切り替え可能なものも多い。以下の方式の一部では、決められた数字や記号([[コロン (記号)|コロン]]など)が作りこまれているものと[[ドットマトリクス]]の仕組み表示するものとがある。 * [[パタパタ時計]] - [[反転フラップ式案内表示機|反転フラップ]]により文字盤が回転するもの。[[1980年代]]ごろに主に使われた。 * [[ニキシー管]]表示 * [[電光掲示板|電光表示]] * [[蛍光表示管]]表示 * ロータリーバー式 - 1つの数字につき7つの棒が回転して時刻を表示する。家庭用ではなく、[[親子時計|設備時計]]に分類される。 * [[液晶ディスプレイ|液晶表示]] * [[有機EL|有機EL表示]] {{seealso|デジタル時計}} {{Gallery|width=200px |File:Sony Digimatic 8FC-59W radio alarm clock 20060526.png|[[パタパタ時計]]。「[[めざまし時計]]+[[ラジオ]]」([[SONY]] FC-59W) |File:Casio F-91W 5051.jpg|液晶式でデジタル式の腕時計([[Casio F91W]])|File:LED digital wall clock (Seiko).JPG|[[液晶]]式のデジタル時計([[SEIKO]]) |ファイル:World Clock Time Difference Vancouver (43813655515).jpg|ロータリーバー式電気子時計([[親子時計]])([[SEIKO]]) |File:LED digital clock of MRT Banqiao Station 20160205.jpg|[[LED]]発光方式の[[デジタル時計]]([[台湾]]・[[台北MRT]]の[[板橋駅 (新北市)|板橋駅]]にて) |Nagoya Sta 20210904-03.jpg|駅に設置されてるデジタル式[[親子時計]]([[セイコー]]製だと思われる)|Split-flap clock.jpg|[[SEIKO]]のアラーム付き交流式[[パタパタ時計]]}} === コンビネーション式 === アナログ式とデジタル式、両方を備えた[[コンビネーション]]式時計。[[アナデジ]]、[[デジアナ]]、[[ハイブリッド]]式時計とも呼ばれる。 {{Gallery|width=200px |File:Edifice ECB-800D-1A.jpg|デジタルとアナログ両方に時間の表示。([[CASIO]]) |File:Citizen Attesa Eco-Drive ATV53-3023 01.JPG|デジタルに[[都市]]、[[月日]]、[[曜日]]の表示。([[シチズン時計]]) }} === その他 === * 音声 * 点字(点字が浮き出る) * [[バイナリ時計|バイナリークロック]] [[ファイル:Digital-BCD-clock.jpg|サムネイル|262x262ピクセル|左:デジタル時計右:[[バイナリ時計|バイナリークロック]] 時刻は左の時計と同じ12:15:45。]] == 各種の機能と装飾 == === 表示 === * [[世界時計]] (hall clock) : 世界各地の標準時をあわせて表示する時計<ref name="jcwa_t006" />。 * 多針時計(多軸時計、multi-hands time keeping instrument): 時針・分針・秒針以外の機能表示針をもつ時計<ref name="jcwa_t006" />。機械式の場合は複雑時計ともいう<ref name="jcwa_t006" />。 * 小秒針時計(スモールセコンド時計、サブセコンド時計、副秒針時計): 秒針が時分針軸とは別の軸になっている時計<ref name="jcwa_t006" />。 * 視覚障がい者用時計(点字時計): 音声や触覚で時刻が分かるようにした時計<ref name="jcwa_t006" />。 * バーバークロック : 針が逆回転し文字も[[鏡文字|裏返し文字]]となっており、鏡に映したときに正しい表示になる時計。[[理容店]]など前面が大きい鏡で覆われて時計を置くスペースがない場合のために製造されたことからこの名がある。 * 24時間時計:短針が24時間で1周する時計 <gallery> ファイル:World_clock_in_Fukuoka_Airport_International_Terminal.JPG|[[世界時計]] File:Watch for the blind2.jpg|[[点字時計]] ファイル:Rew17h09 1977.jpg|24時間時計 File:Astronomical clock of the Ioannis Theaterchurch.jpg|天文学的時計(オランダ[[フリースラント州]][[Wier, Netherlands|:en:Wier]]の[[:nl:Ioannis Theaterkerk Wier|イオアニス・劇場教会]]) </gallery> === カレンダー === * [[カレンダー]] : 日・曜・月・年などを表示する機能のある時計<ref name="jcwa_t006" />。 * オートカレンダー : [[閏年]]を除いて[[大の月]]・[[小の月]]を区別し毎月末の日付修正が不要な時計<ref name="jcwa_t006" />。 * フルオートカレンダー(パーペチュアルカレンダー、パーペチャルカレンダー、万年カレンダー): 閏年も自動判別して日付修正が不要な時計<ref name="jcwa_t006" />。 * リバースカレンダー(レトログラードカレンダー): 日付を扇形に表示し月末に自動または手動の操作で急速に日針が最初に戻る機能のある時計<ref name="jcwa_t006" />。 * ムーンフェイズ : 月の満ち欠け([[月相]])を表示する機能のある時計<ref name="jcwa_t006" />。 * [[天文時計]] : 星図板の表示・月や太陽など天体の運行を表示するものもある(純粋な機械式時計でこれを実現する超複雑時計もある)。これらはカレンダー機能の一種であるが、もともとジョン・ハリスンの時代には不等時法であったため、季節による均時差を表示する・加える機能は古くから実現されていた。 === アラーム === * アラーム : 音や振動により時刻や注意を知らせる機能のある時計<ref name="jcwa_t006" />。 * デイリーアラーム : 解除しない限り毎日設定した時刻に鳴る機能のある時計<ref name="jcwa_t006" />。 * ワンショットアラーム(ワンタッチアラーム、クイックアラーム): アラームが鳴るたびにその設定が解除されるアラーム機能の時計<ref name="jcwa_t006" />。 * スヌーズ (snooze) : アラーム停止後、短時間で再びアラームが鳴る機能のある時計<ref name="jcwa_t006" />。 * [[目覚し時計]] : ベル・電子音・[[ラジオ]]・[[コンパクトディスク]]などの音声鳴動(アラーム)、あるいは光によって、また特殊なものでは寝具の下部に敷いておいたエアークッションを膨らませるなどして起床させることを目的としたもの。 === 報時 === * 報時時計 (acoustic information clock) : 正時または一定間隔で音により時刻を知らせること<ref name="jcwa_t006" />。 * [[リピーター (時計)|リピーター]] (repeater) : 手動の操作で現在時刻を音で知らせる時計<ref name="jcwa_t006" />。 * グランドストライク (grand strike) : 正時または一定間隔で自動的にまたは手動の操作で現在時刻を音で知らせる時計<ref name="jcwa_t006" />。 * [[からくり時計]](人形が動くもの:marionette clock メロディーが流れるもの:carillon clock)毎正時にメロディで時間を知らせる時計。 === 装飾 === * [[花時計]]: 主に屋外に設置される、花壇と一体となった時計をさす。 * [[鳩時計]](かっこう時計、cuckoo clock): 鳥を象った像が飛び出して鳴き声を出し時刻を知らせるもの<ref name="jcwa_t006" />。 * [[からくり時計]]: 設定された時刻に人形などの装飾が動いて時刻を知らせる時計<ref name="jcwa_t006" />。人形が動くものはmarionette clock、メロディーが流れるものはcarillon clockという<ref name="jcwa_t006" />。 {{Gallery|width=200px |Toi FlowerClock01.JPG|[[世界一]]の[[花時計]]」(静岡県[[土肥温泉]]松原公園<ref>[[1992年]]4月[[ギネス世界記録]]認定、2015年撮影。2022早秋 - 2023年のリニューアル工事前。</ref>)|Schlag Kuckucksuhr Beispiel 01.ogv|[[鳩時計]](動作の一例)|Cardinal Cuckoo Clock, 126 1st Ave. Minneapolis MN.jpg|[[鳩時計]]|Cathedrale de Strasbourg - Horloge Astronomique - Details.jpg|[[ストラスブールのグラン・ディル]]にある[[ノートルダム大聖堂]]内に設置された18世紀の[[からくり時計]]。[[12使徒]]などをかたどった様々な人形が動く。| SEIKO観覧車.jpg|[[からくり時計]][[セイコー観覧車]]| Seiko_musical_clock_fantasia.jpg|[[からくり時計]][[セイコーファンタジア]]RE540M }} == 時計産業 == {{Main|時計産業|{{ill2|腕時計職人|en|Watchmaker}}|{{ill2|時計職人|en|Clockmaker}}|時計修理技能士|{{ill2|時計メーカーの一覧|en|List of clock manufacturers}}}} 時計産業は、17世紀には手工芸的な産業であり、イギリス、フランス、スイスによって激しい技術競争が起こっていた。このうちフランスにおいては[[ナントの勅令]]が[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の[[フォンテーヌブローの勅令]]によって[[1685年]]に廃止され、ユグノーが多かった時計職人たちは迫害を逃れてスイスへと移住し、まず[[ジュネーブ]]で、ついでその北東に位置する[[ヌーシャテル|ヌシャテル]]においても時計産業が栄えるようになり、この2都市がスイス時計産業の中心となっていった<ref>「図説 時計の歴史」p35 有澤隆 河出書房新社 2006年1月30日初版発行</ref>。先発であるジュネーブが高級時計を主力としたのに対し、ジュネーブからの職人移住によって形成された<ref>http://www.fhs.jp/jpn/origins.html 「原点から現在まで」スイス時計協会 2016年7月9日閲覧</ref> ヌシャテルや[[ジュラ山脈|ジュラ山地]]の時計生産においては廉価な時計の生産が主力となっていた<ref>森田安一『物語 スイスの歴史』中公新書 p138-139 2000年7月25日発行</ref><ref>「図説スイスの歴史」p70 踊共二 河出書房新社 2011年8月30日初版発行</ref>。 時計の制作は複雑なため、個人ではなく職人たちがチームを組んで分業により制作する方式を採用していたが、これには一つ一つの部品が正確に製作され、それが組み合わされて狂いなく動作することが必要であり、この職人集団は結果として正確な機械製作技術を身につけることとなった。この技術は他の機械製作にも応用されるようになり、産業革命の技術的基礎となった<ref>「興亡の世界史13 近代ヨーロッパの覇権」p183-184 福井憲彦 講談社 2008年12月17日第1刷</ref>。 このころまでの時計は、航海の安全に直結する[[クロノメーター]]を除けば、ほとんどは装飾品に過ぎなかった。しかし産業革命時代に入ると、正確な時間を知ることが必要になり、それまでの装飾品としての時計から実用品としての比重が急速に高まった。このころはいまだそこまで正確な時計は完成していなかったが、アメリカ西部開拓時代になると、正確かつ規格化された鉄道時計の需要が生まれ、精度の高い時計が求められるとともに、アメリカに開発・生産の重心を移していった。ところが労働コストの上昇などにより、アメリカの時計産業は20世紀前半までには衰退した。19世紀末から労働コストが安い[[スイス]]・[[ドイツ]]などが時計産業の中心となった。 日本での工業としての時計生産は、[[明治時代]]中期(1880年代)以降に[[東京]]、[[大阪市|大阪]]、[[名古屋市|名古屋]]周辺で掛時計、置時計の製造が始まったのが嚆矢であるが、懐中時計・腕時計などの精密時計の大量生産は20世紀に入ってから始まった。[[1927年]]にはアメリカにおいて[[クォーツ時計]]が発明されていた<ref>http://www.jcwa.or.jp/etc/history.html 「時計の歴史」一般社団法人日本時計協会 2016年7月9日閲覧</ref> が、[[1960年代]]には急速に改良が進んで実用化されるようになり、[[1969年]]にはアナログ式クォーツ腕時計が日本において初めて商品化され、さらに1970年代以降の[[デジタル]]化へのシフトにより、スイスの時計産業は衰退し、日本へとその主軸を移していった<ref>http://www.jcwa.or.jp/etc/history01.html 「日本の時計産業概史」一般社団法人日本時計協会 2016年7月9日閲覧</ref>。20世紀末には生産地がさらにアジア諸国にシフトしていった。 この頃には、クロノメーター時代の最高精度の何倍もの精度の時計が廉価で買えるようになり、デジタル時計なども実用的にはこれ以上進歩のしようがなくなった。 スイスの時計産業は、1970年代~1980年代にはクォーツによる時計技術の激変に乗り遅れ、またそこに経済危機も追い打ちをかけ、産業規模が著しく縮小した<ref name='fhs_wit'>[http://www.fhs.jp/jpn/watchindustrytoday.html 「今日のスイスの時計産業」] スイス時計協会 2021年6月20日閲覧</ref>。スイスの時計産業従事者は1970年にはおよそ9万人だったのに、1984年にはわずか3万人あまりにまで減少<ref name='fhs_wit' />。だがその後、産業構造の改革を断行しスイスの時計産業はふたたび世界の注目を浴びるようになり、従業者数も再び増加して、2013年には57300人レベルとなった<ref name='fhs_wit' />。スイスの時計産業は、かつてとは異なり、現在では数十ドルほどの安価な若者向けのものから、中価格帯の時計、そして金や宝石で装飾されコンプリケーション([[:en:Complication (horology)|complication]]。複雑な機械的機構)を備えた数十万ドルの値段の(つまり日本円なら数千万円相当の超高級な)機械式時計まで、実際のところあらゆる価格帯の時計を製造するようになっている<ref name='fhs_wit' />。なおスイスは、もともと得意とする高級品だけでなく安価な時計の市場でも復活した。具体的には、日本にすっかり奪われた世界シェアを取り戻すべくニコラス・G・ハイエックがファッショナブルで安価な[[スウォッチ]]を開発し1983年に発売し、これが世界的に人気を得たおかげでスイス時計産業は低価格帯品の世界シェアにも食い込むことに成功した。現在、スイスの時計はその95%が[[輸出]]されている<ref name='fhs_wit' />。2013年時点の総輸出売上高は、218億[[スイス・フラン]]<ref name='fhs_wit' />。金額ベースでその輸出先を分析すると、スイスの腕時計輸出額の53%がアジア向け、31%が欧州向け、14%が北米向けとなっている<ref name='fhs_wit' />(金額ベースでは、富裕層向けの数百万円 - 数千万円の高級時計の売上が主たる影響力をもつ。その結果、金額ベースの輸出先は、富裕層が多数いるアジア、欧州、北米向けが主となる)。それに対して、アフリカ、オセアニア向けはそれぞれわずか1%にすぎない<ref name='fhs_wit' />。 メーカーに所属せず個人や小規模な工房で製作する独立系の時計職人もおり、[[トゥールビヨン (時計)|トゥールビヨン]]など複雑な機構を有した腕時計が富裕層向けの宝飾品として評価されている。1985年に[[独立時計師アカデミー]]が結成された。 2009年、スイスの[[ラ・ショー=ド=フォン]]は時計産業と都市計画の結びつきが評価され、[[ラ・ショー=ド=フォンとル・ロックル]]として[[世界遺産]]に登録された。 == デジタル回路やPCにおける時計 == [[File:Rasberry pi card.jpg|thumb|right|150px|クレジットカードをやや大きくした程度の大きさの[[Raspberry Pi]]の[[プリント基板]]にもやはり時計が組み込まれていて、プログラムで時刻の値を取得し利用できる。]] 20世紀後半になってclockという語を、[[デジタル回路]]([[論理回路]])で同期をとる場合のパルス信号(源)を指すためにも使うようになった。その信号を「クロック信号」と呼び、そうした方式で同期をとる回路の設計方式を「[[クロック同期設計]]」と呼ぶようになった。[[クロック]]の記事を参照。 なお[[パーソナルコンピュータ|PC]]などでは、[[リアルタイムクロック]]という、[[時刻]]を刻む、まさに「時計」を持っていることも多い。 [[オペレーティングシステム]]内では通常、さらにそれらとは別のタイマーを利用した時刻管理系を持っている。 高水準[[プログラミング言語]]では、ライブラリを読み込むことで、PCの時計の時刻をプログラム内で取得して使えるようになっていることが多い。たとえば、[[C言語]]のプログラムでは冒頭に「#include <time.h>」などと書けば時計を使えるようになり、[[Python]]のプログラムでは「import time」あるいは「import datetime」などと記述すれば時計を使えるようになる。 その他パソコンの画面上ではタスクバーで時間が標準表示される他、主に[[ウィジェットエンジン|ガジェット]]、フリーソフトとして各種アナログ・デジタル時計が多数公開されている。 == 時計を題材にした作品 == ; 童話、小説 * {{Cite book|和書|title=金時計|author=大塚楠緒子|authorlink=大塚楠緒子|others=東京新詩社 (編集)|work=小説青燈集|publisher=文友堂|ncid=BA65976829|isbn=|date=1901-10}} * {{Cite book|和書|title=時計|author=石井研堂|authorlink=石井研堂|others=|publisher=[[博文館]]|series=少年工芸文庫|isbn=|volume=15|year=1903}} * {{Cite book|和書|title=時計発達史|author=高林兵衛|authorlink=高林兵衛|others=|publisher=東洋出版社|series=|isbn=|year=1924}} * ルイーズ・ボーデン『海時計職人ジョン・ハリソン』あすなろ書房、2005年02月。 * {{Cite book|和書|title=時計に関する資料|author=資料社編集部|others=|publisher=資料社|series=|isbn=|year=1948}} * {{Cite book|和書|title=とけいのほん|author=まついのりこ|authorlink=まついのりこ|others=絵本|publisher=フクインカン|series=[[福音館]]のペーパーバック絵本|year=1973}} * {{Cite book|和書|title=とけいのほん 2|author=まついのりこ|others=絵本|publisher=フクインカン|series=福音館のペーパーバック絵本|isbn=4-8340-0560-7|year=1973}} * {{Cite book|和書|title=小説家の時計|author=黒井千次|authorlink=黒井千次|others=|ncid=BN07798725|publisher=構想社|isbn=|date=1977-05}} * {{Cite book|和書|title=夢時計のまわる夜|author=永田萌|authorlink=永田萌|others=画集|publisher=CBS・ソニー出版|series=Artback|ncid=|isbn=|date=1980-12}} * {{Cite book|和書|title=地獄時計|author=日影丈吉|authorlink=日影丈吉|others=|publisher=[[徳間書店]]|series=|isbn=4-19-123573-7|date=1987-12}} * {{Cite book|和書|title=進化の時計|author=伊井直行|authorlink=伊井直行|others=|publisher=[[講談社]]|ncid=|isbn=4-06-205697-6|year=1993-09}} * {{Cite book|和書|title=シンデレラの時計|author=角山栄|authorlink=角山栄|others=|publisher=[[ポプラ社]]|series=ポプラ・ノンフィクション books |volume=2|ncid=|isbn=4-591-05088-2|date=1996-04}} * {{Cite book|和書|title=水の記憶|author=和田光孝|others=|publisher=近代文芸社|series=|isbn=4-7733-4920-4|date=1996-7}} * {{Cite book|和書|title=シロクマくんのおきゃくさん : かずととけいの本|author1=ポール・オーウェン・ルイス (Lewis, Paul Owen)|author2=きくしまいくえ (翻訳)|others=童話|publisher=[[偕成社]]|series=|isbn=978-4-03-235030-2|year=1997}}<ref>原題 {{cite book|title=P. Bear's new year's party!|author=Paul Owen Lewis|others=: A Counting Book|isbn=978-1-58246-191-5|oclc=671817083|location=Berkeley, CA|publisher= Tricycle Press|year=1989}}</ref> * {{Cite book|和書|title=夢時計|author=黒井千次|others=|publisher=講談社|volume=上|ncid=|isbn=4-06-208965-3|date=1997-11}} * {{Cite book|和書|title=夢時計|author=黒井千次|others=|publisher=講談社|volume=下|ncid=|isbn=4-06-208966-1|date=1997-11}} * {{Cite book|和書|title=大きな古時計|author=伊藤正道|authorlink=伊藤正道|others=[[ヘンリー・クレイ・ワーク]] (原曲の作詞・作曲); [[保富康午]] (訳詞)|publisher=[[白泉社]]|ncid=|isbn=4-592-76101-4|date=2003-11}} <ref group="注">同名の歌[[大きな古時計]]を絵本にしたもの。</ref> * {{Cite book|和書|title=いまなんじ? : とけいのほん|author1=北村富夫|author2=遠藤賢一 (イラスト・デザイン)|others=絵本|publisher=コンセル|series=|isbn=|location=戸田|year=2009}} * {{cite book|洋書|title=The Missing Watch(失われた時計)|author=アレクサンドル・イワーノヴィッチ・クプリーン}} ; 童謡、歌 {{ external media | align = right | width = 250px | video1 = {{YouTube|NIIe7ZUXXqU|とけいのうた}}([[ボンボンTV|ボンボンアカデミー]]) | video2 = {{YouTube|KY_fJozPyaI|山のワルツ}}(歌:[[森みゆき]]) }} * {{cite AV media |people= |date=1910年7月 |title=時計の歌|trans-title= |medium= |language= |url=http://www.d-score.com/ar/A04121701.html |access-date=2017-03-26 |archive-url= |archive-date= |format= |location= |publisher= |id= |isbn= |oclc= |quote=[[尋常小学校|尋常小学]]読本唱歌、[[文部省唱歌]] |ref= }} <ref group="注">古い版の楽譜は3種類。『尋常小学読本唱歌』[[1912年]]発行(明治43年)、『尋常小学唱歌 第二学年用』[[1913年]]発行(明治44年)、『新訂尋常小学唱歌-第二学年用』[[1932年]]発行(昭和7年)</ref> * {{cite AV media |people=ミミー宮島 (歌唱)、門田ゆたか (作詞)、仁木多喜雄 (編曲) |date=1940年 |year= |title=[[大きな古時計#1940年(お祖父さんの時計)|お祖父さんの時計]] |trans-title= |medium= |language= |url= |access-date= |archive-url= |archive-date= |format= |time= |location= |publisher= |id= |isbn= |oclc= |quote= |ref= }} <ref group="注">初演の題名は「[[大きな古時計]]」ではなかった。ミミー宮島は[[吉本興業]](東京吉本)所属の子供歌手兼タップダンサー。</ref><ref group="注">2000年代初頭の出版例。{{cite AV media |people= |date=2005年9月 |year= |title= たのしい・えいごのうた ABCのうた・[[大きな古時計|おおきなふるどけい]] (スーパーセレクション)|trans-title= |medium=CD |language= |url= |access-date= |archive-url= |archive-date= |format= |time= |location= |publisher=[[日本クラウン]] |id= |isbn= |oclc= |quote= |ref= }}</ref> * {{cite AV media |people=作詞:[[筒井敬介]]、作曲:村上太朗 |date=1953年 |year= |title=とけいのうた |trans-title= |medium= |language= |url= |access-date= |archive-url= |archive-date= |format= |time= |location= |publisher= |id= |isbn= |oclc= |quote= |ref= }} * {{cite AV media |people=作詞:[[香山美子 (作家)|香山美子]]、作曲:[[湯山昭]] |date=1962年 |year= |title=山のワルツ |trans-title= |medium= ラジオ|language= |url= |access-date= |archive-url= |archive-date= |format= |time= |location= |publisher=[[NHKラジオ]] |id= |isbn= |oclc= |quote= |ref= }} <ref group="注">NHKラジオの幼稚園・保育園むけリズム遊び番組「あそびましょう」で初演</ref> * {{cite AV media |people=作詞:[[高田ひろお]]、作曲:[[佐瀬寿一]] |date=1976年6月25日 |year= |title=[[パタパタママ]] |trans-title= |medium= |language= |url= |access-date= |archive-url= |archive-date= |format= |time= |location= |publisher= [[ポニーキャニオン|キヤニオンレコード]]|id=CX-105 |isbn= |oclc= |quote= |ref= }} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} <references group="注釈"/> === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{cite book | author=Sobel, Dava | title=Longitude: The True Story of a Lone Genius Who Solved the Greatest Scientific Problem of His Time | location=New York | publisher=Penguin | year=1995 | isbn=0-14-025879-5}} * {{cite book | author=Sobel, Dava &amp; Andrewes, Willam J.H. | title=The Illustrated Longitude: The True Story of a Lone Genius Who Solved the Greatest Scientific Problem of His Time | location=New York | publisher=Walker Publishing Co. | year=1998 | isbn=0-8027-1344-0}} * {{cite book | author=North, Thomas | title=The Church Bells of the County and City of Lincoln | location=Leicester | publisher=Samuel Clark | year=1882 | pages=60–61}} * 経度への挑戦—一秒にかけた四百年 ISBN 9784-88135-505-3 == 関連項目 == {{sisterlinks|commons=Category:Clocks|d=Q376}} * [[Network Time Protocol]] (NTP) * [[標準時]] * [[世界時]] * [[日本標準時]] * [[時計歩度測定器]] * [[眼鏡|メガネ]]・[[宝石]] - 個人経営の時計店は、メガネ・[[宝石]]も併せて取り扱っている場合がある。また、宝飾製造者が商品の近縁性(宝飾品としての一面)から時計の製造・販売を手掛ける事例も多く見られる。 * [[2000年問題]] * [[クロノメーター]] * [[とけい座]] ; 時計に関わる比喩表現など * [[腹時計]] * [[世界終末時計]] * [[トケイソウ]] - 花の形が時計に似ていることからこの名がある。 == 外部リンク == * [https://jjy.nict.go.jp/ 情報通信研究機構・日本標準時グループ] * [https://www.jcwa.or.jp/ 日本時計協会] - [[日本時計協会]] * [https://museum.seiko.co.jp/knowledge/type/index.html 時計の種類と機構] - [[セイコーホールディングス|セイコーミュージアム]]による解説。 * {{サイエンスチャンネル |番組番号=B980601 |動画番号=b980601018 |動画タイトル=時計ができるまで |中身の概要=[[精工舎|セイコークロック石岡事業所]](現在閉鎖)への取材を通して置時計の製造工程を紹介。 |時間=15分 |製作年度=1998年 }} {{Time topics}} {{Time measurement and standards}} {{時計博物館}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:とけい}} [[Category:時計|*]] [[Category:機械]]
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リアルタイム
リアルタイム(Real time)とは、日本語で「即時に」や「同時に」、「実時間」という意味の言葉である。“リアタイ”と略される。
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リアルタイムとは、日本語で「即時に」や「同時に」、「実時間」という意味の言葉である。“リアタイ”と略される。 テレビ番組などで、最初に放送された年月日のこと。再放送と区別をつけるために用いられる。「リアルタイム放送」とも。 テレビ番組、映画、ウェブ放送などで、劇中の時間と実際の時間が同じ速度で経過すること。
'''リアルタイム'''(Real time)とは、[[日本語]]で「'''即時に'''」や「'''同時に'''」、「'''実時間'''」という意味の[[言葉]]である。“リアタイ”と略される。 * [[テレビ番組]]などで、最初に放送された年月日のこと。[[再放送]]と区別をつけるために用いられる。「リアルタイム放送」とも。<!--テレビアニメもテレビ番組のうちなので、列記する必要なし。--> * テレビ番組、[[映画]]、[[World Wide Web|ウェブ]]放送などで、劇中の時間と実際の時間が同じ速度で経過すること(『[[24 -TWENTY FOUR-]]』など)。 == コンピュータ == * [[リアルタイムシステム]] - 決められた時間内に特定の処理を終えなければならないなど、現実の時間によって定義される制約の条件を満たすシステム。 * [[リアルタイムクロック]] - 現在時刻を取得するためにコンピュータ内部に組み込まれた時計。 == 番組のタイトル == * [[リアルタイム (テレビ番組)]] - [[2001年]][[10月]]~[[2002年]][[9月]]まで、[[MBSテレビ|毎日放送]]制作で[[TBSテレビ|TBS]]系列で放送された[[情報番組]]のタイトル。 * [[リアルタイム!]] - [[STVラジオ]]で2021年3月31日より放送されている情報番組 * [[2006年]][[4月]]~[[2010年]][[3月]]まで[[Nippon News Network|NNN]]系列で放送されていた[[ニュース番組]]のタイトル。以下の記事を参照。 ** [[NNN Newsリアルタイム]] ** [[OH!バンデス#Newsリアルタイムミヤギ(『OH!バンデス』第3部)|Newsリアルタイムミヤギ]] ** [[Newsリアルタイムあきた]] ** [[YBC Newsリアルタイム]] ** [[まるごと#概略|NewsリアルタイムSHIZUOKA]] ** [[KNB Newsリアルタイム]] (2007年4月2日から、'''[[いっちゃん★KNB]]'''のワンコーナー) ** [[テレビ金沢Newsリアルタイム]] ** [[Newsリアルタイムふくい]] ** [[中京テレビNewsリアルタイム]] ** [[Newsリアルタイム日本海]] ** [[Newsリアルタイムやまぐち]] ** [[RNC Newsリアルタイム]] ** [[Newsリアルタイムえひめ]]([[2009年]][[3月27日]]、[[おかえりテレビ]]と共に放送終了) ** [[長崎国際テレビの夕方帯ローカルニュース#NNN Newsリアルタイム|NNN Newsリアルタイム]](長崎国際テレビ) ** [[FCT Newsリアルタイム]] ** [[KYT Newsリアルタイム]] ** [[TSB Newsリアルタイム]]([[2007年]][[9月28日]]放送終了、[[10月]]からは土曜のみ放送) ** [[TeNY Newsリアルタイム]] ** [[ytv Newsリアルタイム]] ** [[FBS Newsリアルタイム]] ** [[STV Newsリアルタイム]] ** [[広島テレビNewsリアルタイム]] ** [[Newsリアルタイムくまもと]] </div> == その他 == * [[劇場版 仮面ライダーゼロワン REAL×TIME]] - 2020年公開の映画。 {{aimai}} {{デフォルトソート:りあるたいむ}} [[Category:英語の語句]]
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パナウェーブ研究所
パナウェーブ研究所(パナウェーブけんきゅうじょ)は、千乃裕子を代表とする千乃正法会という宗教団体の一部門である。福井県に本部を置いていた。1997年から全国行脚を続け、2003年頃に全身を白装束姿の信者らが白い車両20台とともに岐阜県の林道を占拠したことで、初期のオウム真理教を想起するとしてメディア報道が過熱するなどした。 パナウェーブ研究所の上位組織である千乃正法会は、東京都渋谷区に本部を置いている。千乃正法会は千乃裕子と高橋佳子(GLA指導者)が対立した事によるGLA総合本部からの分派という指摘もあるが、GLAは千乃が在籍した事実はないと述べている。 パナウェーブ研究所はその一部門として設立され、「スカラー電磁波は人体にとって有害である」と主張していた。また、スカラー電磁波から身を守るために有効という白装束(長袖のコート型白衣・白マスク・白頭巾・白長靴)を身にまとっている。また、移動用の車両には、スカラー電磁波を防ぐ効果があるという渦巻き模様の図柄を貼り付けていた。しかし、当時を取材した鹿取茂雄によれば、信者らはコンビニで電磁波を気にすることもなく携帯電話で通話していたという。また、教祖・千乃裕子の主張を信じている者もいれば、疑いながらも従っているだけのものもいたという。 1977年頃に任意団体として設立され、「千乃正法」の名で活動したことがあり、1997年9月に岡山県英田郡作東町(現・美作市)で町道をふさいだとして、責任者1人が往来妨害容疑で逮捕された。その奇妙な様子から、2003年の4月から5月にかけて活動がワイドショーなどで大きく取り扱われ、一時的に有名になった。また、研究所の名称に「パナ」を冠するため、パナソニック(当時の法人名・松下電器産業と松下電工)との関連性を問われたことがあったが、同社およびその関連会社とは完全に無関係である。 思想的には反共主義であり、「共産主義者が『スカラー電磁波』で日本を襲う」とも主張している。一例として、電柱上の電線が巻かれた部分(敷設の際にあまらせてあるもの)を示し、そこでスカラー電磁波を発生させるという攻撃がなされているとし、教祖はその被害を受けているなどと述べている。 1997年から全国行脚を続ける。 1999年には、「電磁界等を考えるシンポジウム京都会議」に参加し、スカラー電磁波問題について持論を展開したこともある。彼らは、人工的に作られたスカラー電磁波が自然環境を汚染することで、自然環境が破壊され動植物の生存の危機となり人類の滅亡に至ると主張する。また大量の人工スカラー電磁波の放出により地球の公転や自転にも影響があり、地球崩壊をもたらすという。 2002年9月から横浜市西区の帷子川などで生息が確認されていたアゴヒゲアザラシのタマちゃんにエサを与え続けていることを明らかにした。 2003年4月26日頃から、岐阜県郡上郡八幡町(現・郡上市)から大和町(同)にかけての林道を、同年5月2日頃には岐阜県大野郡清見村(現・高山市)の国道472号を占拠。同年5月15日に天変地異が起こると主張、会員に対して山梨県北巨摩郡大泉村(現・北杜市)にあるドーム型施設に避難するよう呼びかけを行った。 2003年5月9日、森山真弓法務大臣が記者会見で、公安調査庁が調査中であることを明かした。5月10日には本拠地である福井県に戻ったため、騒動は幕を閉じる。5月14日、虚偽の自動車登録をしていた疑いが強まったとして、警視庁公安部が全国の施設を家宅捜索した。同研究所代表(千乃裕子とは別人)、自動車整備工場の検査員ら3名が起訴され、2004年5月25日、福井地方裁判所でそれぞれ懲役1年6カ月、執行猶予つきの有罪判決がなされた。 2003年8月7日、福井市五太子町(12世帯22人の高齢者が暮らす小さな集落)の施設内で、福岡教育大学助教授で、反共産主義の論文執筆を行うなど、集団の中枢メンバーであった千草聡が変死した。警察の調べで死因は、背中の打撲による外傷性ショックと熱中症によるものと判明、12月5日、メンバー5人が傷害致死容疑で逮捕された。 2004年夏、取材を行っていた鹿取茂雄は、本拠地付近に車を止めていたところ、サーチライトを照射され、「ストーカー車追跡中」と書かれた白い四輪駆動車で猛スピードで数kmにわたり追いかけられた。同年秋頃からカラスに餌付けを始めたため、周辺の農作物に被害が発生、自治会や福井市からの中止の申し入れに対して、野生動物の愛護を主張した。福井市は、2006年5月2日から1ヶ月間の駆除を許可し、地元猟友会員が駆除を行った。 また、2003年に有名になる以前にも、日本共産党に対して何らかの文書を送りつけるなどの活動も行っていたとされる。 2005年頃には、本拠地全体が白い布で覆われ、施設周囲には渦巻マークが貼られるようになり、それが周辺の立ち木にまで拡張。 2006年10月26日、千乃裕子代表は72歳にして死亡した。 2009年、白い布がほぼ撤去され、パナウェーブ研究所の看板も下ろされるが、新たに千乃正法会の書籍のみを扱う出版社の会社名が掲げられる。さらに敷地内には新たに建物が建ったのが確認され1棟だった建物が計4棟に増える。 2011年10月、福井新聞の取材によれば、研究所は以前とは打って変わって普通の民家のような佇まいになっており、中の者によると「パナウェーブ研究所はもう無い」という返事が返ってきており、自然消滅したとみられる。 2021年5月8日、定期的にパナウェーブ研究所の本拠地を訪れていたフリーライターの鹿取茂雄が本拠地を訪問。集落内でトラブルもなく平和に暮らしているように見えたと書いている。 「週刊文春」2003年4月23日号は、多摩川に出現したアゴヒゲアザラシのタマちゃんを捕獲して自然に返すことを意図する「タマちゃんのことを想う会」と千乃正法会=パナウェーブ研究所について報道した。4月25日、フジテレビ『スーパーニュース』で「謎の白装束集団・タマちゃん移送計画」という4分42秒のニュースが流れる。白装束の一団が移動するという現象はテレビ的にもたいへん見栄えのする映像だったということもあり、連日のようにその一団の移動の様子が報じられた。これまではあまり知られていなかった団体であったためマスコミも状況を把握しておらず「白装束集団」「白ずくめ集団」と報道していた。集団が福井県大野市九頭竜湖周辺や鳥取県岩美郡国府町(現・鳥取市)などに居座っている事や団体の過去の行動が報道されるにつれてテレビ報道が過熱化、5月1日に佐藤英彦警察庁長官が「彼らの装束や行動は異様だ。オウム真理教の初期に似ている。」と指摘した。5月11日に集団は福井市五太子町のパナウェーブ研究所に到着した。5月14日、警視庁公安部、福井県警、山梨県警などは、パナウェーブ研究所の関係者が虚偽の自動車登録をしていたとして、電磁的公正証書原本不実記録の疑いで団体施設・関連会社全国12ヶ所を捜索した(この件で、東京簡易裁判所は9月2日までに、千乃正法会の元経理責任者に対し、電磁的公正証書原本不実記録・供用の罪で、罰金50万円の略式命令を出した)。6月になると物珍しさが薄れ、教団の危険性も少ないと判断されて報道は沈静化した。宗教学者石井研士は「振り返ってみると、報道は明らかに根拠のない過剰なもので、集中報道しなければならなかった理由は見当たらない」としてオウム事件当時のTV報道と対比している。 ワイドショーに取り上げられ一躍有名になったのは、「惑星ニビル星が地球に落下してくる天変地異」の危険を訴え、福井県に向けて大移動を行ったためである(鳥取県を中心とする日本海側での移動も取り上げられた)。ただ、パナウェーブ研究所の関係者が「我々は反共団体だ」とコメントしたのを、誤って「環境団体」とテロップをつけて報道した事もあった。右翼団体が抗議におしかけるが、パナウェーブ研究所側の反共団体という説明に、むしろ納得して引き下がるといった場面もあった。また、月光仮面の格好をしてプラカードを掲げた辻山清が抗議に詰め寄る一幕もあった。 結果として、研究所が主張していたような天変地異は起こらなかった。 2021年5月8日、定期的にパナウェーブ研究所の本拠地を訪れていたフリーライターの鹿取茂雄が文春オンラインに寄稿した。「白装束集団の今」というタイトルで前後編に分けて書かれた記事の後編「かつての本拠地を訪ねてみると...白装束集団『パナウェーブ研究所』が18年間で激変してしまったワケ」によると、2004年には本拠地を訪ねたときはサーチライトで照らされ、懐中電灯を持った人々、そして『ストーカー車追跡中』と書かれた四駆の車に追いかけられた。本拠地は2005年にかけて白い布で覆われ、立ち木にも巻かれ、渦巻き模様のマークが貼られていった。しかし、2006年に代表の千野が死去すると白い布は減っていき、2007年の時点では立ち木に巻かれた布は取り払われ、渦巻き模様も消えていた。2009年には白い布は撤去され、パナウェーブ研究所の看板も降ろされ、千乃正法会の書籍のみを扱う出版社の社名が掲げられていた。白装束集団などとして報道されてから18年が経過した2021年の時点で取材を申し込んだが、「うちは一切関係ありませんので」「過去のことを言ってもしょうがないので。今はみんな通ってきています。ここで平穏に過ごしたいだけなんです」と関係者は答え、集落内でトラブルもなく平和に暮らしているように見えたと書いている。また、鹿取はメディアの報じ方にも問題があったとしている。
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パナウェーブ研究所(パナウェーブけんきゅうじょ)は、千乃裕子を代表とする千乃正法会という宗教団体の一部門である。福井県に本部を置いていた。1997年から全国行脚を続け、2003年頃に全身を白装束姿の信者らが白い車両20台とともに岐阜県の林道を占拠したことで、初期のオウム真理教を想起するとしてメディア報道が過熱するなどした。
{{千乃正法}} '''パナウェーブ研究所'''(パナウェーブけんきゅうじょ)は、千乃裕子を代表とする[[千乃正法|千乃正法会]]という[[宗教団体]]の一部門である。[[福井県]]に本部を置いていた。[[1997年]]から全国行脚を続け、[[2003年]]頃に全身を[[白装束]]姿の信者らが白い車両20台とともに[[岐阜県]]の[[林道]]を占拠したことで、初期の[[オウム真理教]]を想起するとして[[メディア (媒体)|メディア]][[報道]]が過熱するなどした<ref name="bunshun">{{Cite web|和書|url=https://bunshun.jp/articles/-/45372|title=かつての本拠地を訪ねてみると…白装束集団「パナウェーブ研究所」が18年間で激変してしまったワケ 白装束集団の今 #2 |author=鹿取茂雄 |work=未解決事件を追う |website= 文春オンライン|date=2021-05-08|accessdate=2022-11-30}}</ref>。 == 上位組織の概要 == パナウェーブ研究所の上位組織である千乃正法会は、[[東京都]][[渋谷区]]に本部を置いている。千乃正法会は千乃裕子と[[高橋佳子 (宗教家)|高橋佳子]](GLA指導者)が対立した事による[[GLA (宗教法人)|GLA総合本部]]からの分派という指摘もあるが<ref>[[#日本霊能史講座]]447-448頁</ref>、GLAは千乃が在籍した事実はないと述べている。 == パナウェーブ研究所の概要 == パナウェーブ研究所はその一部門として設立され、「[[スカラー電磁波]]は人体にとって有害である」と主張していた。また、スカラー電磁波から身を守るために有効という[[白装束]](長袖のコート型[[白衣]]・白[[マスク]]・白[[頭巾]]・白[[長靴]])を身にまとっている。また、移動用の車両には、スカラー電磁波を防ぐ効果があるという[[渦巻き]]模様の図柄を貼り付けていた。しかし、当時を取材した[[鹿取茂雄]]によれば、信者らは[[コンビニ]]で電磁波を気にすることもなく携帯電話で通話していたという。また、教祖・千乃裕子の主張を信じている者もいれば、疑いながらも従っているだけのものもいたという<ref name="bunshun"/>。 [[1977年]]頃に任意団体として設立され、「千乃正法」の名で活動したことがあり、[[1997年]][[9月]]に[[岡山県]][[英田郡]][[作東町]](現・[[美作市]])で町道をふさいだとして、責任者1人が[[往来妨害罪|往来妨害]]容疑で[[逮捕 (日本法)|逮捕]]された<ref name="yomiuri0502">「白装束団体、6府県の山中転々 山梨にドーム型避難施設」 読売新聞 2003年5月2日中部朝刊26ページ</ref>。その奇妙な様子から、[[2003年]]の[[4月]]から[[5月]]にかけて活動が[[ワイドショー]]などで大きく取り扱われ、一時的に有名になった。また、研究所の名称に「パナ」を冠するため、[[パナソニック]](当時の法人名・松下電器産業と[[パナソニック電工|松下電工]]<ref group="注">2008年10月1日からパナソニック並びにパナソニック電工に社名変更したため、前日の9月30日をもって松下電器産業、松下電工といった「松下」の社名は一部(パナソニックの[[企業立病院]]である[[松下記念病院]]は除く。)を除き廃止された。</ref>)との関連性を問われたことがあったが、同社およびその関連会社とは完全に無関係である。 思想的には[[反共主義]]であり、「共産主義者が『スカラー電磁波』で日本を襲う」とも主張している。一例として、電柱上の電線が巻かれた部分(敷設の際にあまらせてあるもの)を示し、そこでスカラー電磁波を発生させるという攻撃がなされているとし、教祖はその被害を受けているなどと述べている。 1997年から全国行脚を続ける<ref name="bunshun"/>。 [[1999年]]には、「電磁界等を考えるシンポジウム京都会議」に参加し、スカラー電磁波問題について持論を展開したこともある。彼らは、人工的に作られたスカラー電磁波が自然環境を汚染することで、自然環境が破壊され動植物の生存の危機となり人類の滅亡に至ると主張する。また大量の人工スカラー電磁波の放出により地球の[[公転]]や[[自転]]にも影響があり、地球崩壊をもたらすという。 [[2002年]]9月から[[横浜市]][[西区 (横浜市)|西区]]の[[帷子川]]などで生息が確認されていた[[アゴヒゲアザラシ]]の[[タマちゃん]]にエサを与え続けていることを明らかにした<ref>「白装束集団、長野県入り タマちゃんにエサ、昨秋から 想う会と関係示唆」 読売新聞 2003年5月6日東京夕刊19ページ</ref>。 2003年[[4月26日]]頃から、[[岐阜県]][[郡上郡]][[八幡町 (岐阜県)|八幡町]](現・[[郡上市]])から[[大和町 (岐阜県)|大和町]](同)にかけての林道<ref>「白衣40人、道路封鎖 「電磁波研究」と検問 福井の団体、退去拒否」 読売新聞 2003年4月29日中部朝刊37ページ</ref>を、同年[[5月2日]]頃には[[岐阜県]][[大野郡]][[清見村]](現・[[高山市]])の[[国道472号]]を占拠。同年[[5月15日]]に[[天変地異]]が起こると主張、会員に対して[[山梨県]][[北巨摩郡]][[大泉村 (山梨県)|大泉村]](現・[[北杜市]])にあるドーム型施設に避難するよう呼びかけを行った<ref name="yomiuri0502"/>。 2003年[[5月9日]]、[[森山真弓]][[法務大臣]]が記者会見で、[[公安調査庁]]が調査中であることを明かした<ref>「白装束集団、公安庁が調査中 森山法相が会見」 読売新聞 2003年5月9日 東京夕刊19ページ</ref>。5月10日には本拠地である福井県に戻ったため、騒動は幕を閉じる<ref name="bunshun"/>。5月14日、虚偽の自動車登録をしていた疑いが強まったとして、[[警視庁公安部]]が全国の施設を[[家宅捜索]]した<ref>「「白装束」一斉捜索 出納簿など400点押収/警視庁公安部」 読売新聞 2003年5月15日東京朝刊35ページ</ref>。同研究所代表(千乃裕子とは別人)、自動車整備工場の検査員ら3名が起訴され、[[2004年]][[5月25日]]、[[福井地方裁判所]]でそれぞれ[[懲役]]1年6カ月、執行猶予つきの有罪判決がなされた<ref>「白装束集団の不正車検事件 代表に有罪判決 他の2人も/福井地裁」 読売新聞 2004年5月25日大阪夕刊18ページ</ref>。 2003年[[8月7日]]、[[福井市]]五太子町(12世帯22人の高齢者が暮らす小さな集落<ref name="yomiuri1205">“白装束”5人逮捕 迷走、奇行の果て 謎の集団に本格メス [[読売新聞]] 2003年12月5日大阪夕刊12ページ</ref>)の施設内で、[[福岡教育大学]]助教授で、反共産主義の論文執筆を行うなど、集団の中枢メンバーであった千草聡が変死した<ref name="yomiuri1205"/><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.47news.jp/blog/OUT/200308/OUT_NAME/%E5%8D%83%E8%8D%89%E8%81%A1.html |title=福井の白装束施設で変死 福岡の大学助教授 |publisher=[[共同通信]] |date=2003-08-08 |accessdate=2014-08-03 }}</ref><ref>{{Cite news|url= http://www.sankei.co.jp/news/031205/1205sha037.htm |title= 白装束集団の5人を傷害容疑で逮捕 |newspaper= Sankei Web |publisher= 産経新聞社 |date= 2003-12-05 |accessdate= 2023-06-12 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20031207033323/http://www.sankei.co.jp:80/news/031205/1205sha037.htm |archivedate= 2003-12-07 }}</ref>。警察の調べで死因は、背中の打撲による[[外傷性ショック]]と[[熱中症]]によるものと判明<ref>「白装束集団施設で変死の大学助教授、死因は打撲と熱中症複合」 読売新聞 2003年8月9日東京朝刊30ページ</ref>、12月5日、メンバー5人が[[傷害致死罪|傷害致死容疑]]で逮捕された<ref name="yomiuri1205"/>。 2004年夏、取材を行っていた[[鹿取茂雄]]は、本拠地付近に車を止めていたところ、[[サーチライト]]を照射され、「[[ストーカー]]車追跡中」と書かれた白い[[四輪駆動車]]で猛スピードで数kmにわたり追いかけられた<ref name="bunshun"/>。同年秋頃から[[カラス]]に餌付けを始めたため、周辺の農作物に被害が発生、[[町内会|自治会]]や福井市からの中止の申し入れに対して、野生動物の愛護を主張した。福井市は、2006年5月2日から1ヶ月間の駆除を許可し、地元[[猟友会]]員が駆除を行った<ref>「白装束集団餌付け カラス急増 福井の自治会が駆除」 読売新聞 2006年5月25日 大阪朝刊31ページ</ref>。 また、2003年に有名になる以前にも、[[日本共産党]]に対して何らかの文書を送りつけるなどの活動も行っていたとされる<ref>{{Cite news|url= https://www.jcp.or.jp/akahata/aik2/2003-05-24/14_01.html |title= 白装束の反共カルト がん入院先 集団で押掛け 元会員の遺品・遺族が語る実態 |newspaper= しんぶん赤旗 |publisher= 日本共産党 |date= 2003-05-24 |accessdate= 2023-06-12 }}</ref>。 [[2005年]]頃には、本拠地全体が白い布で覆われ、施設周囲には渦巻マークが貼られるようになり、それが周辺の立ち木にまで拡張<ref name="bunshun"/>。 [[2006年]][[10月26日]]、千乃裕子代表は72歳にして死亡した<ref>「「白装束集団」会長が死亡」 読売新聞 2006年10月26日 東京朝刊38ページ</ref>。 [[2009年]]、白い布がほぼ撤去され、パナウェーブ研究所の看板も下ろされるが、新たに千乃正法会の書籍のみを扱う出版社の会社名が掲げられる。さらに敷地内には新たに建物が建ったのが確認され1棟だった建物が計4棟に増える<ref name="bunshun"/>。 [[2011年]][[10月]]、[[福井新聞]]の取材によれば、研究所は以前とは打って変わって普通の民家のような佇まいになっており、中の者によると「パナウェーブ研究所はもう無い」という返事が返ってきており、自然消滅したとみられる<ref>{{Cite news|url= http://www.fukuishimbun.co.jp/localnews/society/31202.html |title= 白装束団体パナウェーブ自然消滅か 千乃会長の死から5年 |newspaper= 福井新聞 |date= 2011-10-26 |accessdate= 2023-06-12 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20111026192048/http://www.fukuishimbun.co.jp/localnews/society/31202.html |archivedate= 2011-10-26 }}</ref>。 [[2021年]][[5月8日]]、定期的にパナウェーブ研究所の本拠地を訪れていたフリーライターの[[鹿取茂雄]]が本拠地を訪問。集落内でトラブルもなく平和に暮らしているように見えたと書いている<ref name="bunshun"/>。 == パナウェーブ研究所とメディア == 「[[週刊文春]]」[[2003年]][[4月23日]]号は、[[多摩川]]に出現した[[アゴヒゲアザラシ]]の[[タマちゃん]]を捕獲して自然に返すことを意図する「タマちゃんのことを想う会」と千乃正法会=パナウェーブ研究所について報道した<ref>[[#バラエティ化する宗教]]156頁</ref>。[[4月25日]]、[[フジテレビ]]『[[スーパーニュース]]』で「謎の白装束集団・タマちゃん移送計画」という4分42秒のニュースが流れる<ref name="バエティ化宗教155">[[#バラエティ化する宗教]]155頁</ref>。白装束の一団が移動するという現象は[[テレビ]]的にもたいへん見栄えのする映像だったということもあり、連日のようにその一団の移動の様子が報じられた<ref>[[#バラエティ化する宗教]]167頁</ref>。これまではあまり知られていなかった団体であったためマスコミも状況を把握しておらず「白装束集団」「白ずくめ集団」と報道していた<ref name="バエティ化宗教155"/>。集団が[[福井県]][[大野市]][[九頭竜ダム|九頭竜湖]]周辺や[[鳥取県]][[岩美郡]][[国府町 (鳥取県)|国府町]](現・[[鳥取市]])などに居座っている事や団体の過去の行動が報道されるにつれてテレビ報道が過熱化、[[5月1日]]に[[佐藤英彦]][[警察庁長官]]が「彼らの装束や行動は異様だ。[[オウム真理教]]の初期に似ている。」と指摘した<ref>[[#バラエティ化する宗教]]158頁</ref>。[[5月11日]]に集団は[[福井市]]五太子町のパナウェーブ研究所に到着した。[[5月14日]]、警視庁公安部、福井県警、山梨県警などは、パナウェーブ研究所の関係者が虚偽の自動車登録をしていたとして、[[文書偽造の罪|電磁的公正証書原本不実記録]]の疑いで団体施設・関連会社全国12ヶ所を捜索した<ref>[[#バラエティ化する宗教]]160頁</ref><ref>「白装束集団を捜索 5都県12施設 車両虚偽登録の容疑」 読売新聞 2003年5月14日夕刊</ref>(この件で、[[東京簡易裁判所]]は[[9月2日]]までに、千乃正法会の元経理責任者に対し、電磁的公正証書原本不実記録・供用の罪で、罰金50万円の略式命令を出した<ref>「白装束集団の車両虚偽登録 元経理責任者に罰金50万略式命令」読売新聞 2003年9月2日夕刊</ref>)。[[6月]]になると物珍しさが薄れ、教団の危険性も少ないと判断されて報道は沈静化した。宗教学者[[石井研士]]は「振り返ってみると、報道は明らかに根拠のない過剰なもので、集中報道しなければならなかった理由は見当たらない」としてオウム事件当時のTV報道と対比している<ref>[[#バラエティ化する宗教]]168頁</ref>。 [[ワイドショー]]に取り上げられ一躍有名になったのは、「惑星[[ニビル (仮説上の惑星)|ニビル星]]が地球に落下してくる天変地異」の危険を訴え、福井県に向けて大移動を行ったためである(鳥取県を中心とする[[日本海]]側での移動も取り上げられた)。ただ、パナウェーブ研究所の関係者が「我々は[[反共]]団体だ」とコメントしたのを、誤って「環境団体」とテロップをつけて報道した事もあった。右翼団体が抗議におしかけるが、パナウェーブ研究所側の反共団体という説明に、むしろ納得して引き下がるといった場面もあった。また、[[月光仮面]]の格好をして[[プラカード]]を掲げた[[辻山清]]が抗議に詰め寄る一幕もあった。 結果として、研究所が主張していたような天変地異は起こらなかった。 == 鹿取茂雄による取材 == [[2021年]][[5月8日]]、定期的にパナウェーブ研究所の本拠地を訪れていたフリーライターの[[鹿取茂雄]]が文春オンラインに寄稿した<ref>{{Cite web|和書|url=https://bunshun.jp/articles/-/45371|title=「電磁波攻撃を受けている」“謎の白装束集団”騒動から18年…パナウェーブ研究所はその後どうなった? 白装束集団の今 #1 |author=鹿取茂雄 |work=未解決事件を追う |website= 文春オンライン|date=2021-05-08|accessdate=2022-11-30}}</ref><ref name="bunshun"/>。「白装束集団の今」というタイトルで前後編に分けて書かれた記事の後編「かつての本拠地を訪ねてみると…白装束集団『パナウェーブ研究所』が18年間で激変してしまったワケ」によると、2004年には本拠地を訪ねたときはサーチライトで照らされ、懐中電灯を持った人々、そして『ストーカー車追跡中』と書かれた四駆の車に追いかけられた。本拠地は2005年にかけて白い布で覆われ、立ち木にも巻かれ、渦巻き模様のマークが貼られていった。しかし、2006年に代表の千野が死去すると白い布は減っていき、2007年の時点では立ち木に巻かれた布は取り払われ、渦巻き模様も消えていた<ref name="bunshun"/>。2009年には白い布は撤去され、パナウェーブ研究所の看板も降ろされ、千乃正法会の書籍のみを扱う出版社の社名が掲げられていた。白装束集団などとして報道されてから18年が経過した2021年の時点で取材を申し込んだが、「うちは一切関係ありませんので」「過去のことを言ってもしょうがないので。今はみんな通ってきています。ここで平穏に過ごしたいだけなんです」と関係者は答え、集落内でトラブルもなく平和に暮らしているように見えたと書いている。また、鹿取はメディアの報じ方にも問題があったとしている<ref name="bunshun"/>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=パナウェーブとタマちゃんを考える会|authorlink=タマちゃん|year=2003|month=8|title=パナウェーブ―白装束の謎と論理|publisher=アートブック本の森|isbn=4774706493|ref=パナウェーブと[[タマちゃん]]を考える会}} * {{Cite book|和書|author=原田実|authorlink=原田実 (作家)|year=2006|month=10|title={{small|と学会レポート}} 原田実の日本霊能史講座|publisher=[[楽工社]]|isbn=4-903063-05-4|ref=日本霊能史講座}} * {{Cite book|和書|editor=石井研士|editor-link=石井研士|year=2010|month=10|title=バラエティ化する宗教|publisher=[[青弓社]]|isbn=978-4-7872-1045-6|ref=バラエティ化する宗教}}<br/>第8章「白装束集団に対する集中報道はなぜ起こったのか」 == 関連書 == * 『酷道を走る』鹿取茂雄、彩図社, 2009/08/08、「ヤバい白装束集団との遭遇」 == 関連項目 == * [[電磁波]] * [[スカラー電磁波]] * [[江頭2:50]] - 千乃裕子代表の病気を治す踊りを見せようと、プライベートで訪問するも、研究所の広報、公安によって取り押さえられた。(江頭は千乃との面会はできなかった)。 == 外部リンク == * [https://web.archive.org/web/20050409004718/http://www.pana-wave.com/ パナウエーブ研究所] * [http://www.lr-p.com/ エルアール出版] {{新宗教}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はなうええふけんきゆうしよ}} [[Category:千乃正法]] [[Category:日本の新宗教]] [[Category:公害]] [[Category:福井県の宗教施設|廃はなうええふけんきゆうしよ]] [[Category:1970年代設立]] [[Category:2000年代廃止]]
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国民の休日
国民の休日(こくみんのきゅうじつ)は、日本において、国民の祝日に関する法律(祝日法)第3条第3項で定められた休日の通称である。 憲法記念日など固有の名称を持つ休日が祝日法の第2条で「国民の祝日」(祝日)という総称のもと羅列的に規定されているのに対し、この「国民の休日」は第3条第2項による「振替休日」と同様に「国民の祝日」と区別して規定されている。なお祝日法においてはこの「国民の休日」と「振替休日」はいずれも固有の名称を持たない単なる休日だが、本記事中では便宜上区別して表記する。 なお、他の法令等の条文中において「国民の祝日に関する法律に規定する休日」と言うときの「休日」とは、祝日法における「休日」を言い、「国民の休日」及び「振替休日」並びに「国民の祝日」の3つの休日すべてを含むものである。 前後が祝日である平日は、国民の休日となり、休日となる。 元々、5月上旬における飛石連休の解消・改善を望む当時の世論に応える形で1985年12月27日に祝日法が改正され、導入されたものであるが、5月4日に限らず、祝日と祝日に挟まれた平日を全て休日にする制度であることから、後の祝日移動に伴い、5月以外の月にも国民の休日が現れることとなった。 従来、5月4日は平日であった。しかし、前日の5月3日が『憲法記念日』、翌日の5月5日が『こどもの日』で祝日に挟まれることから、改正によって1986年以降、5月3日の「憲法記念日」と5月5日の「こどもの日」に挟まれる5月4日は、日曜日や月曜日にあたり憲法記念日の振替休日とならなくても飛び石とならずに毎年休日扱いとなった。1986年の5月4日は日曜日、1987年は憲法記念日の振替休日だったため第1回の「国民の休日」は1988年となった。しかし、これはいわゆる「暫定休日」であり、あくまでも正式な祝日ではないため、5月4日が日・月曜日と重なる場合でも、2006年までは5月6日は振替休日とはならなかった。 2007年に祝日法の一部改正が施行され同年以降の4月29日を昭和の日に、5月4日をみどりの日にそれぞれ改められた。なお、この2007年の改正には振替休日と国民の休日の規定についての所要の修正も含まれている。史上初の祝日が3日連続で「祝日Aと祝日Cに挟まれた日B自身も祝日」という事態については、Bを国民の休日の規定適用外とした。このため国民の休日が誕生する経緯となった5月4日は正式な祝日への昇格に伴い、国民の休日としては事実上2006年が最後となった。一方、振替休日はハッピーマンデー制度と同様の「月曜日固定」から「祝日の翌日以降の平日」となり可変式になった。また「Bが振替休日となる」ことも「祝日でないBが日曜日となる」こともなくなったため、これらを適用外とする文言が削られた。いずれも、休日の重複適用を避けるための措置である。従って、5月3・4・5日のいずれかが日曜日と重なった場合は、曜日に関わらず6日が振替休日となることになった。 2003年以降、祝日法改正により敬老の日が9月15日から9月第3月曜日になった(ハッピーマンデー制度)。 これにより、2009年の敬老の日は9月21日(月)である。そして同年の秋分が天文計算上9月23日(水)となり、同日が秋分の日となる。そのため、両日に挟まれた9月22日(火)が5月4日以外では初めて「国民の休日」となった。上記にある通り元々は5月の飛び石連休対策に作られた休日であったが、ハッピーマンデー制度とあいまって国民の休日による影響として注目された。この秋の大型連休はシルバーウィークとも言う。2015年にも発生していた。 2009年の敬老の日が9月21日、秋分の日が9月23日で9月22日が休日になる旨は国立天文台が前年2月1日付官報本紙第4759号第25頁において『平成21年(2009)暦要項』として正式に発表した。 日本で過去に存在した国民の休日、国民の休日になる見込みの日。なお、秋分の日の正式な日付はその前年の2月に官報に掲載される暦要項により決定されるものであり、以下の一覧にあるそれ以降の年については、天体力学に基づく計算による見込みである。太字は今後の予定。 5月1日がメーデーとして祝日化されれば4月29日(昭和の日)と挟まれた4月30日および5月3日(憲法記念日)に挟まれた5月2日が「国民の休日」となり、4月29日から5月5日まで7連休とゴールデンウィークが大型化する。1992年頃には国会でも取り上げられたことがある。しかし、「勤労感謝の日と趣旨が重複するメーデーを祝日化する必要がない」「7連休によって金融市場が長期間開かれないことは問題」などの意見もあり、実現には至っていない。 なお、2019年については5月1日に皇太子徳仁親王が天皇に即位したことから、同日を祝日とする法律が施行されており、土曜日も含めた場合4月27日から5月6日まで10連休となった。
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国民の休日(こくみんのきゅうじつ)は、日本において、国民の祝日に関する法律(祝日法)第3条第3項で定められた休日の通称である。 憲法記念日など固有の名称を持つ休日が祝日法の第2条で「国民の祝日」(祝日)という総称のもと羅列的に規定されているのに対し、この「国民の休日」は第3条第2項による「振替休日」と同様に「国民の祝日」と区別して規定されている。なお祝日法においてはこの「国民の休日」と「振替休日」はいずれも固有の名称を持たない単なる休日だが、本記事中では便宜上区別して表記する。 なお、他の法令等の条文中において「国民の祝日に関する法律に規定する休日」と言うときの「休日」とは、祝日法における「休日」を言い、「国民の休日」及び「振替休日」並びに「国民の祝日」の3つの休日すべてを含むものである。
{{混同|国民の祝日}} {{Law}} {{国民の祝日}} '''国民の休日'''(こくみんのきゅうじつ)は、[[日本]]において、[[国民の祝日に関する法律]](祝日法)第3条第3項<ref>第3条第3項「その前日及び翌日が「国民の祝日」である日(「国民の祝日」でない日に限る。)は、休日とする。」</ref>で定められた休日の通称である。 [[憲法記念日]]など固有の名称を持つ休日が祝日法の第2条で「[[国民の祝日]]」(祝日)という総称のもと羅列的に規定されているのに対し、この「国民の休日」は第3条第2項による「[[振替休日]]」と同様に「国民の祝日」と区別して規定されている。なお祝日法においてはこの「国民の休日」と「振替休日」はいずれも固有の名称を持たない単なる休日だが、本記事中では便宜上区別して表記する。 なお、他の法令等の条文中において「国民の祝日に関する法律に規定する休日」と言うときの「休日」とは、祝日法における「休日」を言い、「国民の休日」及び「振替休日」並びに「国民の祝日」の3つの休日すべてを含むものである。 <!-- また、国民の休日は、祝日法上の祝日ではないが、商店などの定休日表示においては、祝日に含むことがある。例えば、「祝日は休業」という場合は国民の休日も休業するケースが多い。ただし祝・休日は、臨時休業と同様に別途掲示を行うことも多いことから、祝日は定休日、休日は臨時休業と解釈することも可能であり、この場合、国民の休日は祝日に含まれないこととなる。 --> ==概要== 前後が祝日である平日は、国民の休日となり、休日となる。 元々、[[5月]]上旬における[[飛石連休]]の解消・改善を望む当時の世論に応える形で[[1985年]][[12月27日]]に祝日法が改正され、導入されたものであるが、[[5月4日]]に限らず、祝日と祝日に挟まれた[[平日]]を全て休日にする制度であることから、後の祝日移動に伴い、5月以外の月にも国民の休日が現れることとなった。 ===5月4日における「国民の休日」=== 従来、[[5月4日]]は[[平日]]であった。しかし、前日の[[5月3日]]が『[[憲法記念日 (日本)|憲法記念日]]』、翌日の[[5月5日]]が『[[こどもの日]]』で祝日に挟まれることから、改正によって[[1986年]]以降、5月3日の「憲法記念日」と5月5日の「こどもの日」に挟まれる5月4日は、日曜日や月曜日にあたり憲法記念日の振替休日とならなくても飛び石とならずに毎年休日扱いとなった。1986年の5月4日は日曜日、[[1987年]]は憲法記念日の振替休日だったため第1回の「国民の休日」は[[1988年]]となった。しかし、これはいわゆる「暫定休日」であり、あくまでも正式な祝日ではないため、5月4日が日・月曜日と重なる場合でも、2006年までは5月6日は振替休日とはならなかった。 [[2007年]]に祝日法の一部改正が施行され同年以降の[[4月29日]]を[[昭和の日]]に、5月4日を[[みどりの日]]にそれぞれ改められた。なお、この2007年の改正には振替休日と国民の休日の規定についての所要の修正も含まれている。史上初の祝日が3日連続で「祝日Aと祝日Cに挟まれた日B自身も祝日」という事態については、Bを国民の休日の規定適用外とした。このため国民の休日が誕生する経緯となった5月4日は正式な祝日への昇格に伴い、国民の休日としては事実上[[2006年]]が最後となった。一方、振替休日は[[ハッピーマンデー制度]]と同様の「月曜日固定」から「祝日の翌日以降の平日」となり可変式になった。また「Bが振替休日となる」ことも「祝日でないBが日曜日となる」こともなくなったため、これらを適用外とする文言が削られた。いずれも、休日の重複適用を避けるための措置である。従って、5月3・4・5日のいずれかが日曜日と重なった場合は、曜日に関わらず6日が振替休日となることになった。 ===9月における「国民の休日」=== {| class="toccolours" style="float:right; width:150px; margin-left:1em; text-align:center" |-style="background:#aaaaff" |colspan="7"|[[2009年]]9月 |-style="background:#eeeeff" |[[日曜日|<span style="color:red">日</span>]]||[[月曜日|月]]||[[火曜日|火]]||[[水曜日|水]]||[[木曜日|木]]||[[金曜日|金]]||[[土曜日|<span style="color:deepskyblue">土</span>]] |- |[[9月13日|<span style="color:red">13</span>]]||[[9月14日|<span style="color:inherit">14</span>]]||[[9月15日|<span style="color:inherit">15</span>]]||[[9月16日|<span style="color:inherit">16</span>]]||[[9月17日|<span style="color:inherit">17</span>]]||[[9月18日|<span style="color:inherit">18</span>]]||[[9月19日|<span style="color:deepskyblue">19</span>]] |- |[[9月20日|<span style="color:red">20</span>]]||[[9月21日|<span style="color:red">21</span>]]||[[9月22日|<span style="color:red">22</span>]]||[[9月23日|<span style="color:red">23</span>]]||[[9月24日|<span style="color:inherit">24</span>]]||[[9月25日|<span style="color:inherit">25</span>]]||[[9月26日|<span style="color:deepskyblue">26</span>]] |} [[2003年]]以降、祝日法改正により[[敬老の日]]が[[9月15日]]から[[9月]]第3[[月曜日]]になった([[ハッピーマンデー制度]])。 これにより、[[2009年]]の敬老の日は[[9月21日]](月)である。そして同年の[[秋分]]が天文計算上[[9月23日]]([[水曜日|水]])となり、同日が[[秋分の日]]となる。そのため、両日に挟まれた[[9月22日]]([[火曜日|火]])が5月4日以外では初めて「国民の休日」となった。上記にある通り元々は5月の飛び石連休対策に作られた休日であったが、ハッピーマンデー制度とあいまって国民の休日による影響として注目された。この秋の大型連休は[[シルバーウィーク]]とも言う。[[2015年]]にも発生していた。 2009年の敬老の日が9月21日、秋分の日が9月23日で9月22日が休日になる旨は[[国立天文台]]が[[2008年|前年]][[2月1日]]付[[官報]]本紙第4759号第25頁において『平成21年(2009)暦要項』として正式に発表した。 ==過去に存在した日付及び今後の見込み== 日本で過去に存在した国民の休日、国民の休日になる見込みの日。なお、秋分の日の正式な日付はその前年の2月に官報に掲載される暦要項により決定されるものであり<ref>{{Cite web|和書|url=https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/yoko/|title=暦要項|publisher=国立天文台暦計算室|accessdate=2020-09-28}}</ref>、以下の一覧にあるそれ以降の年については、天体力学に基づく計算による見込みである。太字は今後の予定。 *[[5月4日]] **[[火曜日]] - [[1993年]]・[[1999年]]・[[2004年]] **[[水曜日]] - [[1988年]]・[[1994年]]・[[2005年]] **[[木曜日]] - [[1989年]]・[[1995年]]・[[2000年]]・[[2006年]] **[[金曜日]] - [[1990年]]・[[2001年]] **[[土曜日]] - [[1991年]]・[[1996年]]・[[2002年]] *[[9月21日]] **[[火曜日]] -'''[[2032年]]・[[2049年]]・[[2060年]]・[[2077年]]・[[2088年]]・[[2094年]]''' *[[9月22日]]  **[[火曜日]] - [[2009年]]・[[2015年]]・'''[[2026年]]・[[2037年]]・[[2043年]]・[[2054年]]・[[2071年]]・[[2099年]]''' ;「天皇の即位の日及び即位礼正殿の儀の行われる日を休日とする法律」による特例 *[[4月30日]]([[火曜日]])・ [[5月2日]]([[木曜日]]) - [[2019年]] ==その他== ===メーデーの祝日化による「国民の休日」=== [[5月1日]]が[[メーデー]]として祝日化されれば4月29日(昭和の日)と挟まれた[[4月30日]]および5月3日(憲法記念日)に挟まれた[[5月2日]]が「国民の休日」となり、4月29日から5月5日まで7連休と[[ゴールデンウィーク]]が大型化する。1992年頃には国会でも取り上げられたことがある。しかし、「[[勤労感謝の日]]と趣旨が重複するメーデーを祝日化する必要がない」「7連休によって金融市場が長期間開かれないことは問題」などの意見もあり、実現には至っていない<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=112315261X01319920408 1992年4月8日参議院予算委員会]、[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=112614889X00419930427 1993年6月11日参議院内閣委員会]議事録を参照。</ref>。 なお、2019年については5月1日に[[皇太子徳仁親王]]が天皇に即位したことから、同日を祝日とする法律が施行されており、土曜日も含めた場合4月27日から5月6日まで10連休となった<ref>[https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1812/09/news039.html 2019年に10連休、国会で成立 新天皇即位の日を1年限りの祝日に] - ねとらぼ、2018年12月9日、2018年12月14日閲覧。</ref>。 ==参考資料・脚注== {{脚注ヘルプ}} <references /> ==関連項目== {{Wikisource|国民の祝日に関する法律}} *[[国民の祝日に関する法律]] *[[ハッピーマンデー制度]] *[[ゴールデンウィーク]] *[[シルバーウィーク]] == 外部リンク == * [https://www8.cao.go.jp/chosei/shukujitsu/gaiyou.html#ex3-3 国民の祝日について - 内閣府] {{DEFAULTSORT:こくみんのきゆうしつ}} [[Category:祝日]] [[Category:5月]] [[Category:9月]]
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Programmable Sound Generator
Programmable Sound Generator(プログラマブル・サウンド・ジェネレーター、PSG)は、音を作り出す電子回路の一種。狭義には、ゼネラル・インスツルメンツ(GI)のAY-3-8910および相当品。広義には、それらと基本原理が同じ回路の総称。単一の音源チップないし、より多機能なチップの機能の一つとして供給される。 複数の基本波形(AY-3-8910では矩形波×3+ホワイトノイズ)を合成してさまざまな音色を出し、エンベロープ・ジェネレーターでADSR(立ち上がりや余韻などのパターン)を変化させる。 1980年代のアーケードゲームやパソコン、携帯用ゲーム機に採用された。 本来のPSGは、GI社 およびGIからスピンオフしたマイクロチップ・テクノロジーのAY-3-8910とAY-3-8910A、およびその後継製品のAY-3-8912 / AY-3-8913相当品を指す。 テキサス・インスツルメンツ(TI)のSN76489も同様に扱われることが多い。しかし仕様は全く異なっており、本来は区別される。SN76489は厳密にはPSGではなくDigital Complex Sound Generator(DCSG)である。 ヤマハは、同社のMSXマシンに使用する目的でAY-3-8910の互換チップとしてYM2149を開発し、後に他社にも販売している。また、同等の機能を同社の一部のFM音源チップ(YM2203/YM2608など)、MSXシステムチップセット(MSX-SYSTEM/MSX-SYSTEMIIなど)にも内蔵している。 YM2149はAY-3-8910相当機能に加え、AY-3-8910のTEST2端子(26番ピン)をSEL#(#はローアクティブを示す)に変更し、この端子をLowレベルにすることによって、発音基準周波数を外部入力周波数の2分周に設定できるように変更したものである。さらに内部的な音量が32段階(AY-3-8910は16段階)になっており、ハードウェアエンベロープが滑らかになっている。 後継・派生製品として、YM3439(CMOS版)、YMZ284(小パッケージ版)、YMZ294(小パッケージ/クロック分周比可変)などがある。 この、FM音源によるPSG互換機能をSSG(Software-controlled Sound Generator)音源、単純にSSGとも呼ぶ。 広義では、矩形波の出る安価なチップ音源をまとめて「PSG」と呼ぶことがある。 AY-3-8910は3つのパッケージで販売されていた。 代表的なPSGチップであるAY-3-8910は次のような仕様である。 FM音源:YM2203(OPN)/YM2608(OPNA)を搭載 SN76489(DCSGとも呼ばれる)のPSGとの大きな違いは、矩形波チャンネル3つ+ノイズ発生チャンネル1の合計4チャンネルで構成されているところである。PSG(SSG)はその構造上ノイズの音量制御が3つのチャンネルのどれかに依存してしまうが、SN76489(やpAPU)にはこの制限はなく、独立したノイズチャンネル単体で自由に音量制御できる。また、ハードウェアエンベロープも持たない。 通常音色はデューティ比50/50のみであるが、3チャンネル目を同期ノイズ出力にすることでデューティ比6.25/93.75の音となる。トーン周波数に対し音程は半音ずれるが、ギターに似た音色となるため、若干弱い低音部をカバーする事が出来た。 6チャンネルステレオ出力を持ち、エンベロープジェネレータとノイズジェネレータを2セット内蔵するなど、ほぼPSGの2倍のキャパシティを持つ。 ハードウェアエンベロープの出力波形を楽音波形とすることで矩形波以外に三角波・鋸歯状波での出力が可能。(後述のようにAYでも可能であるが、ハードウェアエンベロープの周波数精度が低いため、メロディを演奏するにはかなり音域に制限が生じた。SAAでは楽音周波数と同じ精度であるので、通常の演奏と同等となる。) ファミリーコンピュータに搭載されている音源は次のような仕様である。 この音源はファミコンのCPU RP2A03(6502カスタム)に組み込まれた機能の一つであり、pAPU(pseudo Audio Processing Unit)と呼ばれている。 pAPUのパルス波発生装置はゲームボーイ、ゲームボーイアドバンスにも搭載され、矩形波だけでなくデューティ比1:7パルス波などの独特な音色も出せる表情の豊かさがPSGの矩形波との大きな違いである。 日本電気ホームエレクトロニクスから発売された家庭用ゲーム機PCエンジンではスペック表にPSGとの記載されることがあるが、実際に使われているのは波形メモリ音源(変調機能つき)であり、一般的に言われる本項で説明のPSGとは異なるものである。また、1980年代のナムコの多くのアーケードタイトルで使われていた音源も波形メモリ音源である。 ただ、当時のマニア間では「ナムコPSG」という俗称が広まっていたり、メーカーの開発側でも他の音源と分類する際に、便宜上PSGと区分していた場合もあった。ナムコのアーケード基板『SYSTEM I』のサウンドテストモードでは、波形メモリ音源のパートはPSGと表記されている。 PSGによってPCMを再生する技法が存在し、PSGPCMやSSGPCM等と呼ぶ。DACを持たないパソコン向けのソフトウェアで使われることがあった。 ただし、ボリューム調節機能を使っているため、DACとしては指数関数的な非線形量子化となることから、再生音声の品質は悪く、「無線による交信を演出する」といった演出など、用途は限定されていた。 1Chのみを用いた出力は解像度の低いものであったが、実際の出力を計測し、そのテーブルとPSG 3Ch各々のアッテネータを組み合わせて利用することで、音質の改善を試みる手法が生み出された。ソフトウェアメーカーによる実装もいくつか見られたが、個人が作成した同様のプログラムでは、Oh!FM 1990年4月号に掲載された戸田浩による「しゃべるんどすえ」のドキュメントと音量テーブルは、その後、同様のプログラムの作成の参考にされた。 現在では、上記の方法に加え、出力特性に合わせて再生するデータを変換することで、よりよい出力にする技法も開発され、S/N比が比較的高い再生を可能にしているソフトウェアも存在している。指数性のために音量域によって解像度にばらつきが出るが、平均すると、9bit程度の解像度を持つ出力を行うことが可能である。 PSGで発声されるのは矩形波である。これはロー(=0)とハイ(=1)の2値しかとらない。これに音量レジスタ(4bit)の値を掛けたものが1チャンネル分の出力である。 AY-3-8910相当品では、あるチャンネルの発声を停止すると矩形波出力はハイ(=1)で固定される。従って、そのチャンネルの出力は、音量レジスタそのものとなる(1×音量レジスタ=音量レジスタ)。 この仕様を利用し、発声を停止した状態でそのチャンネルの音量を操作することで、PSGをDACとして利用するというのが大まかな原理である。 一般的なPSGチップではエンベロープ機能により、時間的な音量変化をハードウェアレベルで自動的に行える。エンベロープパターンには一般的な減衰波や、周期的な鋸波、三角波など、8種類が用意されており、周期も自由に設定できる。しかし、エンベロープジェネレータは1系統しか用意されていないため、3チャンネルで楽曲を演奏しようものなら、エンベロープが同期してしまい、まったく聞くに堪えない物になってしまう上、音量の調節も不可能である。そのため、ソフトウェアの側でこまめにPSGの各チャンネルの音量レジスタを変更して、ソフトウェアレベルでエンベロープを再現する技術があった。この手法は「ソフトウェアエンベロープ」と呼ばれることがある。 ハードウェアエンベロープ機能の応用として、周期的なタイプのエンベロープパターンを「音量変化としてではなく楽音の波形として」選択し、エンベロープ速度(周期)をその楽音の音程とみなして設定することで、PSGの通常の発音方法では出せない鋸波や三角波を出すことができる。ただしエンベロープ周期を設定するレジスタ幅は狭く、楽音の音程を表現するには精度が低いため「音痴」になりやすい。また原理上、こうして発音した音の音量制御はできない。この手法はYM2203やYM2608のSSG音源部でも使用が可能である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "Programmable Sound Generator(プログラマブル・サウンド・ジェネレーター、PSG)は、音を作り出す電子回路の一種。狭義には、ゼネラル・インスツルメンツ(GI)のAY-3-8910および相当品。広義には、それらと基本原理が同じ回路の総称。単一の音源チップないし、より多機能なチップの機能の一つとして供給される。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "複数の基本波形(AY-3-8910では矩形波×3+ホワイトノイズ)を合成してさまざまな音色を出し、エンベロープ・ジェネレーターでADSR(立ち上がりや余韻などのパターン)を変化させる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1980年代のアーケードゲームやパソコン、携帯用ゲーム機に採用された。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "本来のPSGは、GI社 およびGIからスピンオフしたマイクロチップ・テクノロジーのAY-3-8910とAY-3-8910A、およびその後継製品のAY-3-8912 / AY-3-8913相当品を指す。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "テキサス・インスツルメンツ(TI)のSN76489も同様に扱われることが多い。しかし仕様は全く異なっており、本来は区別される。SN76489は厳密にはPSGではなくDigital Complex Sound Generator(DCSG)である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": 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"SN76489(DCSGとも呼ばれる)のPSGとの大きな違いは、矩形波チャンネル3つ+ノイズ発生チャンネル1の合計4チャンネルで構成されているところである。PSG(SSG)はその構造上ノイズの音量制御が3つのチャンネルのどれかに依存してしまうが、SN76489(やpAPU)にはこの制限はなく、独立したノイズチャンネル単体で自由に音量制御できる。また、ハードウェアエンベロープも持たない。", "title": "SN76489の仕様" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "通常音色はデューティ比50/50のみであるが、3チャンネル目を同期ノイズ出力にすることでデューティ比6.25/93.75の音となる。トーン周波数に対し音程は半音ずれるが、ギターに似た音色となるため、若干弱い低音部をカバーする事が出来た。", "title": "SN76489の仕様" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "6チャンネルステレオ出力を持ち、エンベロープジェネレータとノイズジェネレータを2セット内蔵するなど、ほぼPSGの2倍のキャパシティを持つ。 ハードウェアエンベロープの出力波形を楽音波形とすることで矩形波以外に三角波・鋸歯状波での出力が可能。(後述のようにAYでも可能であるが、ハードウェアエンベロープの周波数精度が低いため、メロディを演奏するにはかなり音域に制限が生じた。SAAでは楽音周波数と同じ精度であるので、通常の演奏と同等となる。)", "title": "SAA1099の仕様" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ファミリーコンピュータに搭載されている音源は次のような仕様である。", "title": "ファミコン音源(pAPU)の仕様" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "この音源はファミコンのCPU RP2A03(6502カスタム)に組み込まれた機能の一つであり、pAPU(pseudo Audio Processing Unit)と呼ばれている。 pAPUのパルス波発生装置はゲームボーイ、ゲームボーイアドバンスにも搭載され、矩形波だけでなくデューティ比1:7パルス波などの独特な音色も出せる表情の豊かさがPSGの矩形波との大きな違いである。", "title": "ファミコン音源(pAPU)の仕様" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "日本電気ホームエレクトロニクスから発売された家庭用ゲーム機PCエンジンではスペック表にPSGとの記載されることがあるが、実際に使われているのは波形メモリ音源(変調機能つき)であり、一般的に言われる本項で説明のPSGとは異なるものである。また、1980年代のナムコの多くのアーケードタイトルで使われていた音源も波形メモリ音源である。", "title": "PSGと誤解されやすいその他の音源" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ただ、当時のマニア間では「ナムコPSG」という俗称が広まっていたり、メーカーの開発側でも他の音源と分類する際に、便宜上PSGと区分していた場合もあった。ナムコのアーケード基板『SYSTEM I』のサウンドテストモードでは、波形メモリ音源のパートはPSGと表記されている。", "title": "PSGと誤解されやすいその他の音源" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "PSGによってPCMを再生する技法が存在し、PSGPCMやSSGPCM等と呼ぶ。DACを持たないパソコン向けのソフトウェアで使われることがあった。", "title": "PSGによるPCM再生" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ただし、ボリューム調節機能を使っているため、DACとしては指数関数的な非線形量子化となることから、再生音声の品質は悪く、「無線による交信を演出する」といった演出など、用途は限定されていた。", "title": "PSGによるPCM再生" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1Chのみを用いた出力は解像度の低いものであったが、実際の出力を計測し、そのテーブルとPSG 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"一般的なPSGチップではエンベロープ機能により、時間的な音量変化をハードウェアレベルで自動的に行える。エンベロープパターンには一般的な減衰波や、周期的な鋸波、三角波など、8種類が用意されており、周期も自由に設定できる。しかし、エンベロープジェネレータは1系統しか用意されていないため、3チャンネルで楽曲を演奏しようものなら、エンベロープが同期してしまい、まったく聞くに堪えない物になってしまう上、音量の調節も不可能である。そのため、ソフトウェアの側でこまめにPSGの各チャンネルの音量レジスタを変更して、ソフトウェアレベルでエンベロープを再現する技術があった。この手法は「ソフトウェアエンベロープ」と呼ばれることがある。", "title": "エンベロープ" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ハードウェアエンベロープ機能の応用として、周期的なタイプのエンベロープパターンを「音量変化としてではなく楽音の波形として」選択し、エンベロープ速度(周期)をその楽音の音程とみなして設定することで、PSGの通常の発音方法では出せない鋸波や三角波を出すことができる。ただしエンベロープ周期を設定するレジスタ幅は狭く、楽音の音程を表現するには精度が低いため「音痴」になりやすい。また原理上、こうして発音した音の音量制御はできない。この手法はYM2203やYM2608のSSG音源部でも使用が可能である。", "title": "エンベロープ" } ]
Programmable Sound Generator(プログラマブル・サウンド・ジェネレーター、PSG)は、音を作り出す電子回路の一種。狭義には、ゼネラル・インスツルメンツ(GI)のAY-3-8910および相当品。広義には、それらと基本原理が同じ回路の総称。単一の音源チップないし、より多機能なチップの機能の一つとして供給される。 複数の基本波形(AY-3-8910では矩形波×3+ホワイトノイズ)を合成してさまざまな音色を出し、エンベロープ・ジェネレーターでADSR(立ち上がりや余韻などのパターン)を変化させる。 1980年代のアーケードゲームやパソコン、携帯用ゲーム機に採用された。
'''Programmable Sound Generator'''(プログラマブル・サウンド・ジェネレーター、PSG)は、音を作り出す[[電子回路]]の一種。狭義には、[[ゼネラル・インスツルメンツ]](GI)のAY-3-8910および相当品。広義には、それらと基本原理が同じ回路の総称。単一の[[音源]][[集積回路|チップ]]ないし、より多機能なチップの機能の一つとして供給される。 複数の基本[[波形]](AY-3-8910では[[矩形波]]×3+[[ホワイトノイズ]])を合成してさまざまな音色を出し、エンベロープ・ジェネレーターで[[ADSR]](立ち上がりや余韻などのパターン)を変化させる。 [[1980年代]]の[[アーケードゲーム]]や[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]、携帯用[[ゲーム機]]に採用された。 [[ファイル:AY-3-8910_01.png|thumb|AY-3-8910外観]] [[Image:AY-3-8910.jpg|thumb|270px|AY-3-8910 chip DIP 40]] {{試聴 |filename = PSG demo00(blueMsx).ogg |title = PSGによる演奏例 |description = ch1,ch2はディレィとディチューンをかけてユニゾン }} ==概要== 本来のPSGは、GI社<ref group="注">後に[[モトローラ]]が吸収合併</ref> およびGIからスピンオフした[[マイクロチップ・テクノロジー]]のAY-3-8910とAY-3-8910A、およびその後継製品のAY-3-8912 / AY-3-8913相当品を指す。 [[テキサス・インスツルメンツ]](TI)の'''SN76489'''も同様に扱われることが多い。しかし仕様は全く異なっており、本来は区別される。SN76489は厳密にはPSGではなくDigital Complex Sound Generator(DCSG)である<!--[http://www.jenerator.name.tr | jenerator science web sites]-->。 [[ファイル:YM2149_01.jpg|thumb|SSG YM2149]] [[ヤマハ]]は、同社のMSXマシンに使用する目的でAY-3-8910の互換チップとしてYM2149を開発し、後に他社にも販売している。また、同等の機能を同社の一部の[[FM音源]]チップ([[YM2203]]/[[YM2608]]など)、MSXシステムチップセット([[MSX-SYSTEM]]/[[MSX-SYSTEMII]]など)にも内蔵している。 YM2149はAY-3-8910相当機能に加え、AY-3-8910のTEST2端子(26番ピン)をSEL#(#はローアクティブを示す)に変更し、この端子をLowレベルにすることによって、発音基準周波数を外部入力周波数の2分周に設定できるように変更したものである。さらに内部的な音量が32段階(AY-3-8910は16段階)になっており、ハードウェアエンベロープが滑らかになっている。 後継・派生製品として、YM3439(CMOS版)、YMZ284(小パッケージ版)、YMZ294(小パッケージ/クロック分周比可変)などがある。 この、FM音源によるPSG互換機能をSSG(Software-controlled Sound Generator)音源、単純にSSGとも呼ぶ。 広義では、矩形波の出る安価なチップ音源をまとめて「PSG」と呼ぶことがある。 ==AY-3-8910の仕様== [[Image:AY-8912 Chip.jpg|thumb|250px|AY-3-8912 chip, 28-pin DIP package]] [[Image:AY-3-8910A Sound Chip.png|thumb|250px|Microchip製AY-3-8910A]] [[Image:AY-3-8912A.jpg|thumb|250px|Microchip製AY-3-8912A]] [[Image:AY-3-8910 pinout.JPG|thumb|250px|AY-3-8910ピンアサイン]] AY-3-8910は3つのパッケージで販売されていた。 代表的なPSGチップであるAY-3-8910は次のような仕様である。 *[[矩形波]]発生装置 3系統(音量16段階、周波数4095段階8オクターブ、[[デューティ比]]1:1固定) *ノイズ発生装置 1系統([[擬似乱数]]雑音 = [[ホワイトノイズ]]、乱数発生周期31段階) *[[ADSR|エンベロープ]]発生装置 1系統(パターン8種類、周波数65535段階) *ミキサー *8bit汎用入出力ポート×2([[ジョイスティック]]、[[タッチパネル]]など) **[[Atari 2600#コントローラ|ATARI仕様]]の台形9ピン(D-Sub)インターフェース実装に用いられることが多かった。 **AY-3-8913では、この入出力ポートが省略されている。 *備考 **チャンネルごとに、出力のモードを「ミュート」「矩形波を出力」「ノイズを出力」「矩形波とノイズをmix出力」から選べる。 ***出力系統は3系統しかないため、mix出力モードでは矩形波とノイズの音量は独立制御することはできず、同じ値がセットされる。 ***また、MIXモードは合成されて出力されているわけではなく、内部的には高速にトーンとノイズが切り替わっているため、双方の出力音は濁ってしまう。 ***多くの実装では全チャンネルをミキシングして使われることが多かったものの、チップからの出力はチャンネルごとに独立しており、定位する位置を変えることでステレオ出力としている実装<ref group="注">東芝製のパソピアIQシリーズなど。</ref> もある。 ===AY-3-8910相当品を搭載した主な[[パソコン|コンピューター]]=== *[[PC-6000シリーズ|PC-6001・PC-6001mkII]] *[[PC-6600シリーズ|PC-6601]] *[[X1 (コンピュータ)|X1]]シリーズ(X1F以降のモデルからYM2149) *[[FM-7]](一部ロットはAY-3-8913(8bit汎用入出力ポートなし)) *[[FM-77]](FM-77L2には[[FM音源]]:[[YM2203]]([[OPN]])も搭載) *[[MSX]] *[[MZ (コンピュータ)|MZ-5500]] *1980年代前半~中盤のアーケードゲーム ===SSGを搭載した主な[[パソコン|コンピューター]]=== [[FM音源]]:[[YM2203]](OPN)/[[YM2608]](OPNA)を搭載 *[[PC-6000シリーズ|PC-6001mkIISR]] *[[PC-6600シリーズ|PC-6601SR]] *[[PC-8000シリーズ|PC-8001mkIISR]] *PC-8801mkIISR以降の[[PC-8800シリーズ]] *[[PC-9800シリーズ]](オプション: PC-9801-14(PSG: TMS3631)、PC-9801-26K(OPN)、PC-9801-73・PC-9801-86(OPNA)) *[[MZ-2500]] *[[MZ-2861]] *[[FM-7#FM-77|FM-77L2]] *[[FM-7#FM77AV|FM77AVシリーズ]] *[[MSX]] <!--MSX2以降の多くのモデルでは統合チップ[[MSX-SYSTEM]]や[[MSX-SYSTEMII]]、[[MSX-ENGINE]]2をコアとして使用しているため、<ref>前述のとおり、正しくはPSC、ハードマクロセル名はSM7766A。</ref>それ以外の実装の同機種と比較し、エンベロープ周期が異なり、出力される音が異なる。--> *[[Atari Falcon]] CMOS版のYM3439Cが搭載された。 ===AY-3-8910の互換チップ=== *[[KC89C72]]<ref>[https://garoa.net.br/wiki/Placa_KC89C72]</ref><ref>[[:en:General Instrument AY-3-8910]]</ref> 台湾FILE社製で、中東向けMSX等に使用例が見られる。 *[[AY8930]](APSG) AY-3-8910の[[セカンドソース]]を製造していた[[マイクロチップ・テクノロジー|マイクロチップ]]社が独自に機能を拡張した上位互換チップ。ハードウェアエンベロープが各チャンネルごとに設定できる、出力波形のデューティ比を選択できるなどの機能拡張がされている。 *[[YMZ705]](SSGS) SSGを2つとADPCMを集積したヤマハ製上位互換チップ。各チャンネルに対し16段階のパンポットを設定できる。 *東芝はSSG互換品をPSC(Programmable Sound Controller)という名称で設計し、ゲートアレイなどの特定用途向けLSIに使用した。[[MSX-ENGINE]]、MSX-ENGINE2などがこれにあたり、ハードマクロセル名はSM7766A<ref>東芝データブック「スーパーインテグレーション(S.I.)スーパーマクロセルライブラリ1992(非売品)462D1AA」より</ref>である。ハードウェアエンベロープの周期などがAY-3-8910とは異なる。 ==SN76489の仕様== [[File:SN76489 01.jpg|thumb|250px|SN76489A(DCSG)]] SN76489(DCSGとも呼ばれる)のPSGとの大きな違いは、矩形波チャンネル3つ+ノイズ発生チャンネル1の合計4チャンネルで構成されているところである。PSG(SSG)はその構造上ノイズの音量制御が3つのチャンネルのどれかに依存してしまうが、SN76489(やpAPU)にはこの制限はなく、独立したノイズチャンネル単体で自由に音量制御できる。また、ハードウェアエンベロープも持たない。 通常音色はデューティ比50/50のみであるが、3チャンネル目を同期ノイズ出力にすることでデューティ比6.25/93.75の音となる。トーン周波数に対し音程は半音ずれるが、ギターに似た音色となるため、若干弱い低音部をカバーする事が出来た。 ===SN76489を搭載した主な[[パソコン|コンピューター]]=== *[[MZ-1500]](同時6音):SN76489×2 **2つのチップは別々に出力され、左右の出力とすることでステレオと称していた。 *[[MZ-800]]:SN76489AN *[[セガゲームス|セガ(初代~マスターシステム、メガドライブ、ゲームギア)]]:SN76489 *[[M5 (コンピュータ)|M5]](ゲームパソコンM5):SN76489A *[[パソピア|パソピア7]](同時6音):SN76489A×2 *[[SMC-777]]:SN76489 *1980年代前半~中盤のアーケードゲーム ** セガ [[:en:List_of_Sega_arcade_system_boards#Sega_System_1|System 1]](アーケード基板) ==SAA1099の仕様== 6チャンネルステレオ出力を持ち、エンベロープジェネレータとノイズジェネレータを2セット内蔵するなど、ほぼPSGの2倍のキャパシティを持つ。 ハードウェアエンベロープの出力波形を楽音波形とすることで矩形波以外に三角波・鋸歯状波での出力が可能。(後述のようにAYでも可能であるが、ハードウェアエンベロープの周波数精度が低いため、メロディを演奏するにはかなり音域に制限が生じた。SAAでは楽音周波数と同じ精度であるので、通常の演奏と同等となる。) ===SAA1099を搭載した主な[[パソコン|コンピューター]]=== *[[Sam Coupe]] [[ZX Spectrum]]のクローン。本家ZX Spectrumにも同等の機能を追加するオプションハードウェアが作られた。 *[[Game Blaster]] [[Sound Blaster]]の前にクリエイティブ社が発売したIBM [[PC/XT]]用サウンドカード。SAA1099を2つ搭載していた。 ==ファミコン音源(pAPU)の仕様== [[ファイル:CPU RP2A03E.jpg|thumb|RP2A03]] [[ファミリーコンピュータ]]に搭載されている音源は次のような仕様である。 *[[パルス波]](矩形波)発生装置 2系統([[デューティ比]]3:1、1:1、1:3、1:7切り替え) *[[三角波 (波形)|三角波]]発生装置 1系統(4bit波形、音量は仕様上固定だが、DPCMと絡んだ[[バグ]]に近い挙動が存在し、これを利用するといじることが出来る) *ノイズ発生装置 1系統(擬似乱数雑音・短周期ノイズ切り替え、周波数変更が可能。ただし、最初期型(コントローラのボタンが四角いゴム)のファミコンでは短周期ノイズは出せない) *DPCM 1系統 *ミキサー この音源はファミコンのCPU [[Ricoh 2A03|RP2A03]]([[6502]]カスタム)に組み込まれた機能の一つであり、[[pAPU]](pseudo Audio Processing Unit)と呼ばれている。 pAPUのパルス波発生装置は[[ゲームボーイ]]、[[ゲームボーイアドバンス]]にも搭載され、矩形波だけでなく[[デューティ比]]1:7[[パルス波]]などの独特な音色も出せる表情の豊かさがPSGの矩形波との大きな違いである。 ==PSGと誤解されやすいその他の音源== [[日本電気ホームエレクトロニクス]]から発売された[[家庭用ゲーム機]][[PCエンジン]]ではスペック表にPSGとの記載されることがあるが、実際に使われているのは[[波形メモリ音源]](変調機能つき)であり、一般的に言われる本項で説明のPSGとは異なるものである。また、1980年代の[[ナムコ]]の多くのアーケードタイトルで使われていた音源も波形メモリ音源である。 ただ、当時のマニア間では「ナムコPSG」という俗称が広まっていたり、メーカーの開発側でも他の音源と分類する際に、便宜上PSGと区分していた場合もあった。ナムコのアーケード基板『[[SYSTEM I]]』のサウンドテストモードでは、波形メモリ音源のパートはPSGと表記されている。 ==PSGによるPCM再生== PSGによって[[PCM]]を再生する技法が存在し、'''PSGPCM'''や'''SSGPCM'''等と呼ぶ。[[デジタル-アナログ変換回路|DAC]]を持たないパソコン向けのソフトウェアで使われることがあった。 ただし、ボリューム調節機能を使っているため、DACとしては指数関数的な非線形量子化となることから、再生音声の品質は悪く、「無線による交信を演出する」といった演出など、用途は限定されていた。 1Chのみを用いた出力は解像度の低いものであったが、実際の出力を計測し、そのテーブルとPSG 3Ch各々のアッテネータを組み合わせて利用することで、音質の改善を試みる手法が生み出された。ソフトウェアメーカーによる実装もいくつか見られたが、個人が作成した同様のプログラムでは、[[Oh!FM]] 1990年4月号に掲載された戸田浩による「しゃべるんどすえ」のドキュメントと音量テーブルは、その後、同様のプログラムの作成の参考にされた<ref group="注">Oh!X 1995年12月号 BREEZEには参考文献として明示されている。</ref>。 現在では、上記の方法に加え、出力特性に合わせて再生するデータを変換することで、よりよい出力にする技法も開発され、S/N比が比較的高い再生を可能にしているソフトウェアも存在している。指数性のために音量域によって解像度にばらつきが出るが、平均すると、9bit程度の解像度を持つ出力を行うことが可能である。 ===PSGPCMの原理=== PSGで発声されるのは矩形波である。これはロー(=0)とハイ(=1)の2値しかとらない。これに音量レジスタ(4bit)の値を掛けたものが1チャンネル分の出力である。 AY-3-8910相当品では、あるチャンネルの発声を停止すると矩形波出力はハイ(=1)で固定される。従って、そのチャンネルの出力は、音量レジスタそのものとなる(1×音量レジスタ=音量レジスタ)。 この仕様を利用し、発声を停止した状態でそのチャンネルの音量を操作することで、PSGをDACとして利用するというのが大まかな原理である。 ==エンベロープ== 一般的なPSGチップではエンベロープ機能により、時間的な音量変化をハードウェアレベルで自動的に行える。エンベロープパターンには一般的な[[減衰波]]や、周期的な[[鋸波]]、[[三角波 (波形)|三角波]]など、8種類が用意されており、周期も自由に設定できる。しかし、エンベロープジェネレータは1系統しか用意されていないため、3チャンネルで楽曲を演奏しようものなら、エンベロープが同期してしまい、まったく聞くに堪えない物になってしまう上、音量の調節も不可能である。そのため、ソフトウェアの側でこまめにPSGの各チャンネルの音量レジスタを変更して、ソフトウェアレベルでエンベロープを再現する技術があった。この手法は「ソフトウェアエンベロープ」と呼ばれることがある。 ハードウェアエンベロープ機能の応用として、周期的なタイプのエンベロープパターンを「音量変化としてではなく楽音の波形として」選択し、エンベロープ速度(周期)をその楽音の音程とみなして設定することで、PSGの通常の発音方法では出せない鋸波や三角波を出すことができる。ただしエンベロープ周期を設定するレジスタ幅は狭く、楽音の音程を表現するには精度が低いため「音痴」になりやすい。また原理上、こうして発音した音の音量制御はできない。この手法はYM2203やYM2608のSSG音源部でも使用が可能である。 ==脚注== {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === <references /> <!--[[en:Programmable sound generator]]スタブでAY-3-8910へのリンクなし--> <!--[[nl:Programmable Sound Generator]]--> ==関連項目== *[[:en:Sound chip]](PSG/[[FM音源]]) **[[:en:Texas Instruments SN76477]] *[[シンセサイザー]] *[[内蔵音源]] *[[波形メモリ音源]] *[[PCM音源]] *[[SID音源]] *[[沖電気]][[MSM5232]] *[[チップチューン]] {{ヤマハ製音源チップ|state=collapsed}} [[Category:電子音源の合成方式]] [[Category:音源チップ]] [[Category:MSX]]
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アルペン
アルペン (Alpen)
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アルペン に相当。 ヨーロッパのアルプス山脈付近にあるアルプス地方のこと。
'''アルペン''' ('''Alpen''') * [[ドイツ語]]で[[英語]]の[[アルプス]] (''Alps'') に相当。 * [[ヨーロッパ]]の[[アルプス山脈]]付近にあるアルプス地方のこと。 == 略称として == * [[アルペンスキー]] * [[スノーボード]]において、アルペンスタイルボードにハードブーツの道具、あるいはそれらの道具を使用するスタイル、あるいは主にその道具を使って行う競技のこと。 == 固有名詞 == * スポーツ用品の販売会社 → [[アルペン (企業)]] * [[大阪駅]] - [[富山駅]]間を[[北陸本線]]経由で運行された臨時[[急行列車]] → [[きたぐに (列車)]] * [[東日本旅客鉄道]]管内で運行された[[スキー]][[臨時列車]] → [[シュプール号]] * [[宇奈月温泉駅]] - [[立山駅]]間で運行される臨時[[特別急行列車]] → [[アルペン特急]] * [[阪急バス]]の高速バス「アルペン号」 → [[阪急バス#深夜急行バス(廃止)]] * [[ライオン (企業)|ライオン]]が販売している[[総合感冒薬|風邪薬]]。2004年までは[[中外製薬]]の扱いであった。 {{aimai}} {{DEFAULTSORT:あるへん}} [[Category:ドイツ語の語句]]
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2038年問題
2038年問題(にせんさんじゅうはちねんもんだい)は、2038年1月19日3時14分7秒(UTC、以下同様)を過ぎると、コンピュータが誤動作する可能性があるとされる年問題。 コンピュータおよびコンピュータプログラムにおける時刻の表現として「UNIX時間」《協定世界時における1970年1月1日0時0分0秒からの経過秒数》を採用しているシステムがある。 UNIXおよびUNIX派生のオペレーティングシステム (OS) における基幹ソフトウェア部品の多くはC言語で書かれているが、前述の経過秒数を表現する型は、現在の標準では、「time_t型」である。C言語の標準である「ISO/IEC 9899:1999」では、time_t型の範囲や精度はいずれも実装定義としている。UNIXの標準 (POSIX) には「shall be integer or real-floating types.」とのみ記述があり、ビット幅および値の範囲については何らの定めも無い。 伝統的な実装ではtime_tをintまたはlongのtypedefによる型エイリアス(別名)とし、その型は符号付き32ビット整数型であった。このため最大値は (2 − 1) = 2,147,483,647 となり、取り扱えるのは2,147,483,647秒(≒ 68年)までに限られていた。これを前提として作成されたプログラムは、協定世界時における1970年1月1日0時0分0秒(日本標準時では1970年1月1日9時0分0秒)から2,147,483,647秒を経過した、2038年1月19日3時14分7秒(日本標準時では2038年1月19日12時14分7秒、閏秒は考慮していない)を過ぎると、この値がオーバーフローし、もし時刻を正しく扱えていることを前提としたコードがあれば、誤動作する。 ある実装におけるtime_tの型を変更することだけであれば、プログラム中のたった1箇所 (typedef) を書き換えるだけであるが、実際の運用では、アプリケーションプログラムにおける時刻の扱い全てが正しくある必要がある。また、すでにあるデータ構造中で32ビット固定長として割り当てられていれば、問題が発生する。たとえば、Linuxのファイルシステムであるext2・ext3・ReiserFSのタイムスタンプは同日付までしか対応していない。 この期日以前でもプログラムで内部的にこの制限を超えた時刻データを扱おうとすれば同様のエラーが発生するため、たとえばちょうど半分を経過した2004年1月11日にはすでにATMの誤動作といったトラブルが発生した。この事例ではプログラム中のある時刻と別の時刻の中間の時刻を求めるような処理で、相加平均を単純に求める ( t 1 + t 2 ) / 2 {\displaystyle (t_{1}+t_{2})/2} のような式を利用していたものとみられる。他にも顕在化していないトラブルが今後表面化するという可能性はあり得る。 以下のような理由により、2000年問題より深刻であるという指摘もある。 対策としては、time_t型を符号付き64ビット整数型(一般にはlong long int型)にするという方法がある。符号付き64ビット整数型の場合、上限は9,223,372,036,854,775,807(2 − 1)である。これを年数に変換するとおよそ西暦3000億年まで使用できるので、事実上問題が発生することはない。64ビット版のオペレーティングシステムや処理系では、time_t型は符号付き64ビット整数型で表されるようになってきている。UNIXベースのOSでは、64ビット版でtime_tも併せて64ビット化されることが多い。 何らかの事情によりtime_tを64ビット化できない環境に対しては、time_tを符号無し32ビット整数型(一般的にはunsigned long int型)にするという回避策が使われることもある。この場合、上限は4,294,967,295(2 − 1)となり、2106年2月7日6時28分15秒(閏秒を考慮しない場合)まで表現可能になる。従って2038年問題は回避できるが、結局2106年には問題が発生するため、あくまで64ビット化が困難な環境に限って適用すべき方法とされる。 macOS (Mac OS X 10.0) ではNSDateクラスにて協定世界時の2001年1月1日0時ちょうどをエポックタイムとして刷新し、また経過時間の内部表現として倍精度浮動小数点数を用いるようになったため、これらを使用している限り、2038年については問題を回避できる。なお、macOS Mojaveは32ビットアプリケーションを動作させることのできる最後のバージョンとなり、macOS Catalinaでは起動することができなくなった。 32ビット版のMicrosoft Windows (Win32) では内部時刻の表現に64ビット化されたFILETIME構造体を使っており、time_tを使っているわけではない。そのため、Windows OS側に関しては、旧OSに関する一部のケースを除き、32ビット版であっても2038年問題は発生しない。ただし、Microsoft C/C++ (MS-C) および古いバージョンのMicrosoft Visual C++ (MSVC) においては、time_tは32ビットのlong intを使って定義されていたため、これらの古い処理系のC/C++ランタイムライブラリ (CRT) を利用して構築されたアプリケーションソフトウェアやDLLなどは、2038年問題を抱えていることになる。x64アーキテクチャの64ビット版Windows OS上ではWOW64サブシステムによりx86アーキテクチャ向けに構築された32ビットアプリケーションも動作させることができるが、古い32ビットアプリケーションにおける2038年問題は、たとえWindows OSを64ビット版に入れ替えたとしても回避することはできない。Microsoft Visual C++ 2005以降では、既定でtime_tは__time64_tと等しく、32ビットアプリケーションであってもtime_tは64ビット化されるため、古いアプリケーションを新しい処理系およびランタイムで構築し直せば2038年問題を回避できる。
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2038年問題(にせんさんじゅうはちねんもんだい)は、2038年1月19日3時14分7秒(UTC、以下同様)を過ぎると、コンピュータが誤動作する可能性があるとされる年問題。
{{出典の明記|date=2015年7月}} '''2038年問題'''(にせんさんじゅうはちねんもんだい)は、[[2038年]][[1月19日]]3時14分7秒([[協定世界時|UTC]]、以下同様)を過ぎると、[[コンピュータ]]が誤動作する可能性があるとされる[[年問題]]。 == 経緯 == [[ファイル:Year 2038 problem.gif|right|400px|thumb|上から、2進・十進・問題のある時刻・正しい時刻。([[GIFアニメ]])3時14分7秒を超えたところで負の値となり、時刻に狂いが生じる恐れがある。]] コンピュータおよび[[プログラム (コンピュータ)|コンピュータプログラム]]における[[時刻]]の表現として「[[UNIX時間]]」《[[協定世界時]]における1970年1月1日0時0分0秒からの経過秒数{{efn|「ただし、うるう秒を無視して現在時刻から逆算した値を使用する」として運用されていることが専らである。}}》を採用しているシステムがある。 [[UNIX]]およびUNIX派生の[[オペレーティングシステム]] (OS) における基幹[[ソフトウェアコンポーネント|ソフトウェア部品]]の多くは[[C言語]]で書かれているが、前述の経過秒数を表現する型は、現在の標準では、「[[time_t]]型」である。[[C言語]]の標準である「ISO/IEC 9899:1999」では、<code>time_t</code>型の範囲や精度はいずれも実装定義としている<ref>"The range and precision of times representable in clock_t and time_t are implementation-defined.", ISO/IEC 9899 7.23.1.4</ref>。UNIXの標準 ([[POSIX]]) には「shall be integer or real-floating types.」とのみ記述があり、ビット幅および値の範囲については何らの定めも無い。 伝統的な実装では<code>time_t</code>を<code>int</code>または<code>long</code>の[[typedef]]による型エイリアス(別名)とし、その型は符号付き[[32ビット]]整数型であった。このため最大値は (2<sup>31</sup> − 1) = 2,147,483,647 となり、取り扱えるのは2,147,483,647秒(≒ 68年)までに限られていた。これを前提として作成されたプログラムは、協定世界時における'''1970年1月1日0時0分0秒'''([[日本標準時]]では1970年1月1日9時0分0秒)から'''2,147,483,647秒'''を経過した、'''2038年1月19日3時14分7秒'''(日本標準時では2038年1月19日12時14分7秒、[[閏秒]]は考慮していない)を過ぎると、この値が[[算術オーバーフロー|オーバーフロー]]し{{efn|Cではオーバーフロー発生時の動作は未定義。整数が[[2の補数]]でオーバーフローした値が[[負の整数|負]]と扱われる場合、2038年1月19日3時14分7秒の次は'''1901年12月13日20時45分52秒'''となる。}}、もし時刻を正しく扱えていることを前提としたコードがあれば、誤動作する。 ある実装における<code>time_t</code>の型を変更することだけであれば、プログラム中のたった1箇所 ([[typedef]]) を書き換えるだけであるが、実際の運用では、アプリケーションプログラムにおける時刻の扱い全てが正しくある必要がある。また、すでにあるデータ構造中で32ビット固定長として割り当てられていれば、問題が発生する。たとえば、Linuxの[[ファイルシステム]]である[[ext2]]・[[ext3]]・[[ReiserFS]]の[[タイムスタンプ]]は同日付までしか対応していない。 この期日以前でもプログラムで内部的にこの制限を超えた時刻データを扱おうとすれば同様のエラーが発生するため、たとえばちょうど半分を経過した2004年1月11日にはすでに[[現金自動預け払い機|ATM]]の誤動作といったトラブルが発生した<ref>{{Cite news|author=大和田尚孝|url=https://xtech.nikkei.com/it/free/NC/NEWS/20040202/139212/ |title=コンピュータの“西暦2038年問題”発生、早くも日本を揺るがす|publisher=[[日経コンピュータ]]|date=2004-02-02}}</ref>。この事例ではプログラム中のある時刻と別の時刻の中間の時刻を求めるような処理で、相加[[平均]]を単純に求める <math>(t_1 + t_2) / 2</math> のような式を利用していたものとみられる{{efn|計算機による計算においては、このような一見して何の変哲もない式によるバグは入力数値がある程度大きくならないと露呈しにくく、この問題に限らず普遍的なものであり、一般に注意を要する。}}。他にも顕在化していないトラブルが今後表面化するという可能性はあり得る。 2000年問題はアプリケーションレベルでの修正が可能であったが、この問題は現在普及しているC言語[[処理系]]やOSのAPIといったシステムの深い層に潜む問題であるため、[[2000年問題]]より深刻であるという指摘もある<ref name="change-makers.jp/technology/11351">{{Cite web|和書|title=2025年問題の次は2038年問題!コンピュータの暦問題を探る(後編)|author=CHANGE-MAKERS|url=https://www.change-makers.jp/technology/11351|access-date=2018-11-20}}</ref>。 == 対策 == 対策としては、<code>time_t</code>型を符号付き64ビット整数型(一般には'''<code>long long int</code>型''')にするという方法がある。符号付き64ビット整数型の場合、上限は'''{{val|9223372036854775807|fmt=commas}}'''({{2^|63}} − 1)である。これを年数に変換するとおよそ西暦3000億年{{efn|{{val|9223372036854775807|fmt=commas|u=秒}} ÷ (60<sup>2</sup> × 24 × 365.2425) ≒ {{val|2.9228e11}}年 ≒ 3000億年。これは[[太陽系]]の寿命よりもはるかに長い([[太陽]]の[[白色矮星]]化は西暦68億年ごろ)。}}まで使用できるので、事実上問題が発生することはない。64ビット版の[[オペレーティングシステム]]や[[処理系]]では、<code>time_t</code>型は符号付き64ビット整数型で表されるようになってきている。UNIXベースのOSでは、64ビット版で<code>time_t</code>も併せて64ビット化されることが多い。 何らかの事情により<code>time_t</code>を64ビット化できない環境に対しては、<code>time_t</code>を符号無し32ビット整数型(一般的には'''<code>unsigned long int</code>型''')にするという回避策が使われることもある。この場合、上限は'''{{val|4294967295|fmt=commas}}'''({{2^|32}} − 1)となり、[[2106年]]2月7日6時28分15秒(閏秒を考慮しない場合)まで表現可能になる。従って2038年問題は回避できるが、結局2106年には問題が発生するため、あくまで64ビット化が困難な環境に限って適用すべき方法とされる。 [[macOS]] ([[Mac OS X]] 10.0) では<code>NSDate</code>クラスにて[[協定世界時]]の2001年1月1日0時ちょうどをエポックタイムとして刷新し<ref>[https://developer.apple.com/reference/foundation/nsdate?language=objc NSDate - Foundation | Apple Developer Documentation]</ref><ref>[https://developer.apple.com/library/prerelease/content/documentation/CoreFoundation/Conceptual/CFDatesAndTimes/Concepts/DataReps.html#//apple_ref/doc/uid/20001139-CJBEJBHH Date Representations]</ref>、また経過時間の内部表現として[[倍精度浮動小数点数]]を用いるようになったため<ref>[https://developer.apple.com/documentation/foundation/nstimeinterval NSTimeInterval | Apple Developer Documentation]</ref>、これらを使用している限り、2038年については問題を回避できる。なお、[[macOS Mojave]]は32ビットアプリケーションを動作させることのできる最後のバージョンとなり、[[macOS Catalina]]では起動することができなくなった<ref>[https://support.apple.com/ja-jp/HT208436 32 ビット App と macOS High Sierra 10.13.4 以降の互換性 - Apple サポート]</ref>。 32ビット版の[[Microsoft Windows]] (Win32) では内部時刻の表現に64ビット化された<code>FILETIME</code>構造体<ref>[https://docs.microsoft.com/en-us/windows/win32/api/minwinbase/ns-minwinbase-filetime FILETIME (minwinbase.h) - Win32 apps | Microsoft Docs]</ref>を使っており、<code>time_t</code>を使っているわけではない。そのため、Windows OS側に関しては、旧OSに関する一部のケースを除き<ref>[https://web.archive.org/web/20060626085939/http://support.microsoft.com/kb/436249/JA/ システム日付が 2038 年以降に設定されていると、Windows XP のセットアップが途中で停止する場合がある], [[Internet Archive]]</ref><!-- Windows XP SP3 では解消されているのかもしれないが、未確認。 -->、32ビット版であっても2038年問題は発生しない<ref>[https://docs.microsoft.com/en-us/archive/blogs/mthree/another-look-at-the-year-2038-problem Another look at the year 2038 problem | Microsoft Docs]</ref>。ただし、Microsoft C/C++ (MS-C) および古いバージョンの[[Microsoft Visual C++]] (MSVC) においては、<code>time_t</code>は32ビットの<code>long int</code>を使って定義されていたため、これらの古い処理系のC/C++ランタイムライブラリ (CRT) を利用して構築された[[アプリケーションソフトウェア]]や[[DLL]]などは、2038年問題を抱えていることになる。[[x64]]アーキテクチャの64ビット版Windows OS上では[[WOW64]]サブシステムにより[[x86]]アーキテクチャ向けに構築された32ビットアプリケーションも動作させることができるが、古い32ビットアプリケーションにおける2038年問題は、たとえWindows OSを64ビット版に入れ替えたとしても回避することはできない。[[Microsoft Visual C++]] 2005以降では、既定で<code>time_t</code>は<code>__time64_t</code>と等しく<ref>[https://docs.microsoft.com/en-us/cpp/c-runtime-library/time-management Time Management | Microsoft Docs]</ref>、32ビットアプリケーションであっても<code>time_t</code>は64ビット化されるため、古いアプリケーションを新しい処理系およびランタイムで構築し直せば2038年問題を回避できる。 == 関連した問題 == *時刻aと時刻bのちょうど中間の時刻を求める時、それぞれのUnixタイムをTaとTbとして、(Ta+Tb)/2 と計算すると、2038年問題の半分以降が経過していればTa+Tbの計算で[[算術オーバーフロー|オーバーフロー]]し、誤った結果となる。これは{{val|1073741824|fmt=commas|u=秒}}目で、2004年1月10日13時37分4秒以降がこの場合に相当する。2004年1月10日あるいは11日に、この事例と推察される報告があった<ref> {{Cite news|url=https://xtech.nikkei.com/it/members/NC/ITARTICLE/20040325/1/ |title=「西暦2038年問題」でトラブル相次ぐ|publisher=[[日経コンピュータ]]|author=|date=2004-04-01}}</ref>。 == 類似する年問題 == *[[2001年9月9日問題]]は、2001年9月9日にtime_t型の値が9億秒から10億秒と桁が増えることに伴う問題。time_t型の値を文字列(辞書順)でソートしていたことで、「9億 > 10億」と判断され、項目の新旧が正しく判断されず、新しく作られた項目が表示されない、古いものとみなされ削除されるなどの問題が発生した。 *[[Network Time Protocol|NTP]]など、1900年1月1日からの積算秒数で時間を表現するシステムもあり、符号なし32ビットの値が[[2036年]][[2月7日]]6時28分15秒 (UTC) を超えるとオーバーフローすることによって問題が発生する(→[[Network Time Protocol#2036年問題|2036年問題]])。[[Simple Network Time Protocol|SNTPv4]]を定めた<nowiki/>{{IETF RFC|4330}}<nowiki/>には、最上位ビットが0の場合は時刻が2036年から2104年の間であるとみなして、2036年2月7日6時28分16秒 (UTC) を起点として計算することで2036年問題を回避する方法が書かれている。 *2038年4月23日問題 - [[ユリウス通日]]を内部日付表現に用いる物のうち、基準日([[グレゴリオ暦]]1858年11月17日正午)からの修正ユリウス日(MJD)を使用し、かつ16ビットで処理しているシステムでは、日数が16ビットからあふれるために問題が起こる。 * 2038年11月21日問題 - [[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]]は内部処理で週数を10ビットで管理しており、起点である1980年1月6日から3072週後にあふれて0に戻る。(10ビットでは3回目) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 2038年出典=== {{Reflist}} == 関連項目 == *[[UNIX時間]] *[[ジョン・タイター]] *[[2000年問題]] == 外部リンク == *[http://sunpillar.jf.land.to/bekkan/javascript/2038.shtml#TIMER 2038年問題へのカウントダウン]{{Ja icon}} {{年問題}} {{DEFAULTSORT:2038ねんもんたい}} [[Category:2038年]] [[Category:UNIX]] [[Category:コンピュータ史]] [[Category:日時の表現法に起因するバグ|2038]] [[Category:未来問題]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/2038%E5%B9%B4%E5%95%8F%E9%A1%8C
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府中駅 (東京都)
府中駅(ふちゅうえき)は、東京都府中市宮町一丁目にある、京王電鉄京王線の駅である。京王中央管区所属。駅番号はKO24。 当駅は地理的にも行政的にも府中市の中心部に位置しており、府中本町駅とともに府中市を代表する駅である。当駅と府中本町駅との距離は900 mほどあり、隣の分倍河原駅がJR南武線・京王線との接続駅であったり、府中駅から府中本町駅までは距離があるため、乗り換え案内はされない。なお、当駅から続くJR府中本町駅周辺エリアは、東京多摩地域有数規模の繁華街・市街地が形成されている。 「都会的で現代的なミュージアムをイメージさせる駅」として、関東の駅百選にも選定されている。駅周辺は府中市まちの環境美化条例により「環境美化推進地区」に指定されており、路上喫煙が終日禁止され、啓蒙活動とパトロールが行われている。 2013年4月24日から、新たに接近メロディの使用を開始し、1・2番線は、府中市出身である村野四郎が作詞した「ぶんぶんぶん」、3・4番線は郷土民謡である「府中小唄」が使用されている。但し上り京王ライナー・Mt.TAKAO号は専用接近メロディに変更される。 2015年4月1日から、副駅名標板として「明星中学高等学校 明星小学校 明星幼稚園 最寄駅」が設置された。なお京王電鉄の副駅名標板は広告商品として駅構内の有料広告という扱いであり、掲載する企業や団体が広告主となっているもので、2014年11月1日に初めて南大沢駅で試験的に導入後、翌12月より広告商品として販売開始、府中駅を含む6駅に設置された 当駅所在地の「府中(武蔵国の国府)」から、「府中駅」と名付けられる。 三層構造の高架駅であり、島式ホーム2面4線は最上階(3階)にある。地上駅時代は貨物用の側線があった。 プラットホーム階から階段・エレベーター・エスカレーターで1階下りた所が改札階(2階)であり、改札口は南北に2か所ある。駅舎は駅ビル(ショッピングセンター)と一体となった構造である。改札階を出ると南北にペデストリアンデッキ「府中スカイナード」が続いている。地上階(1階)は駅前ターミナルとなっており、路線バスとタクシーの発着場となっている。 改札階と地上階との間にもエスカレーター・エレベーターがある。エレベーターは高架開業当時はホームまで通じていて、改札内外にまたがり駅員の誘導が必要なため車椅子等専用であった。その後改札階 - 地上階間の改札外専用とされ、利用の制約はなくなった。また、改札階からホームまでのエレベーターも別に設置された。 トイレは2階改札口内の新宿方階段付近にあり、ユニバーサルデザインの一環として「だれでもトイレ」も設置されている。2013年にはトイレが改修され、京王電鉄の駅改札内の旅客用トイレでは初となる温水洗浄便座(ウォシュレット)が設置された。 駅構内の改札外には、駅事務所、定期券売場窓口、三菱UFJ銀行やゆうちょ銀行のATMなどがある。 駅売店は「A LoT」が南口・北口改札外にあったが、北口改札前に2018年1月19日に駅ナカコンビニ「K-SHOP府中店」が開業、入れ替わりに同年1月31日をもって「A LoT北口改札店」が閉店した(「A LoT府中南口店」は営業中)。 駅ビル・駅ナカ商業施設として京王府中ショッピングセンター(愛称「ぷらりと京王府中」)があり、駅舎と直結している。 ペデストリアンデッキ「スカイナード」は、周辺のいくつかのビル(府中グリーンプラザ、さくら食品館など)に直結しており、地上のバスターミナルへも直接降りることができる。また国道20号(甲州街道)の陸橋部分もあり、朝日生命府中ビル脇のけやき並木通りで地上に降りることができる。 バスターミナルからは武蔵小金井駅、国分寺駅、国立駅などへの路線が発着する。また、名古屋駅行夜行高速バスや羽田空港行空港連絡バス、ちゅうバス(駅南側にも停留所)も乗り入れている。 府中駅直結の複合施設「武蔵府中ル・シーニュ」 の他、ペデストリアンデッキにより、複合商業ビル「フォレストサイドビル」(ミッテン府中・専門店街フォーリス)と、商住複合施設の「くるる」に直結している。それらのビルを南に抜けると、大國魂神社の大鳥居が見える。 当駅の西側をほぼ中央として南北に伸びる通りは市道「けやき並木通り」であり、商店や銀行などが建ち並ぶ府中のメインストリートである。一方通行であり、歩行者道路ともなる。線路南側に沿って西へ向かう一方通行の通りは「国際通り」と呼び、元歓楽街の名残の他に商店や飲食店が並んでいる。 2022年度の1日平均乗降人員は75,924人である。京王電鉄の駅では新宿駅、渋谷駅、吉祥寺駅、調布駅、下北沢駅、分倍河原駅、橋本駅に次いで8番目に多い。この数字は接続路線が一切ない途中駅の中で最多である。 近年の1日平均乗降人員及び乗車人員の推移は下表の通りである。 京王線府中駅前からJR府中本町周辺は東京多摩地域有数規模の市街地・繁華街が広がっている。ケヤキ並木など都市空間に緑も多いのが特徴である。 京王バス・府中市コミュニティバス「ちゅうバス」・東京空港交通(リムジンバス)の路線が発着する。各路線の詳細は京王バス府中営業所、京王バス調布営業所(高速バス・深夜急行バス)を参照。
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府中駅(ふちゅうえき)は、東京都府中市宮町一丁目にある、京王電鉄京王線の駅である。京王中央管区所属。駅番号はKO24。
{{Otheruses|[[鉄道]]の[[鉄道駅|駅]]|かつて[[北多摩郡]]に存在した自治体の「府中駅」|府中町 (東京都)}} {{駅情報 |社色 = #dd0077 |文字色 = |駅名 = 府中駅 |画像 = Fuchu.station.5.jpg |pxl = 300px |画像説明 = 北口(2017年7月) |地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}} |よみがな = ふちゅう |ローマ字 = Fuch&#363; |副駅名 = <span style="font-size:80%">明星中学高等学校 明星小学校 明星幼稚園 最寄駅</span> |前の駅 = KO23 [[東府中駅|東府中]] |駅間A = 1.5 |駅間B = 1.2 |次の駅 = [[分倍河原駅|分倍河原]] KO25 |所属事業者 = [[京王電鉄]] |所属路線 = {{color|#dd0077|■}}[[京王線]] |駅番号 = {{駅番号r|KO|24|#dd0077|5}} |キロ程 = 21.9 |起点駅 = [[新宿駅|新宿]] |所在地 = [[東京都]][[府中市 (東京都)|府中市]]宮町一丁目1-10 |緯度度 = 35 |緯度分 = 40 |緯度秒 = 19.6 |N(北緯)及びS(南緯) = N |経度度 = 139 |経度分 = 28 |経度秒 = 50 |E(東経)及びW(西経) = E |地図国コード = JP |座標右上表示 = Yes |駅構造 = [[高架駅]] |ホーム = 2面4線 |開業年月日 = [[1916年]]([[大正]]5年)[[10月31日]] |乗降人員 = <ref group="京王" name="keio2022" />75,924 |統計年度 = 2022年 |乗換 = |備考 = }} '''府中駅'''(ふちゅうえき)は、[[東京都]][[府中市 (東京都)|府中市]]宮町一丁目にある、[[京王電鉄]][[京王線]]の[[鉄道駅|駅]]である。京王中央管区所属<ref name="RP893_43">{{Cite journal|和書|author=京王電鉄鉄道営業部管理課|title=駅管区・乗務区のあらまし|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2014-08-10|volume=64|issue=第8号(通巻893号)|page=43|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''KO24'''。 == 概要 == 当駅は地理的にも行政的にも府中市の中心部に位置しており、[[府中本町駅]]とともに府中市を代表する駅である。当駅と府中本町駅との距離は900&nbsp;mほどあり、隣の[[分倍河原駅]]がJR[[南武線]]・京王線との接続駅であったり、府中駅から府中本町駅までは距離があるため、乗り換え案内はされない。なお、当駅から続くJR府中本町駅周辺エリアは、東京多摩地域有数規模の繁華街・市街地が形成されている。 「都会的で現代的なミュージアムをイメージさせる駅」として、[[関東の駅百選]]にも選定されている。駅周辺は府中市まちの環境美化条例により「環境美化推進地区」に指定されており、路上[[喫煙]]が終日禁止され、啓蒙活動とパトロールが行われている<ref>[https://www.city.fuchu.tokyo.jp/kurashi/sekatu/kankyo/Env_Clean_and_Nosomking_area.html 環境美化推進地区と喫煙禁止路線を指定] 東京都府中市公式サイト、2017年1月23日、2019年12月15日閲覧。</ref>。 [[2013年]][[4月24日]]から、新たに接近メロディの使用を開始し<ref name="melody">{{Cite press release|和書|url=https://www.keio.co.jp/news/backnumber/news_release2013/nr130418_fuchumelody.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191214162112/https://www.keio.co.jp/news/backnumber/news_release2013/nr130418_fuchumelody.pdf|format=PDF|language=日本語|title=4月24日(水)から「府中小唄」と「ぶんぶんぶん」を京王線府中駅の列車接近メロディーにします!|publisher=京王電鉄|date=2013-04-18|accessdate=2020-12-08|archivedate=2019-12-14}}</ref>、1・2番線は、[[府中市 (東京都)|府中市]]出身である[[村野四郎]]が作詞した「[[ぶんぶんぶん]]」、3・4番線は郷土民謡である「府中小唄」が使用されている。但し上り京王ライナー・Mt.TAKAO号は専用接近メロディに変更される。 [[2015年]][[4月1日]]から、副[[駅名標]]板として「[[明星中学校・高等学校 (東京都)|明星中学高等学校]] [[明星小学校 (東京都)|明星小学校]] [[明星幼稚園 (東京都)|明星幼稚園]] 最寄駅」が設置された。なお京王電鉄の副駅名標板は[[広告]]商品として駅構内の有料広告という扱いであり、掲載する企業や団体が広告主となっているもので<ref name="2015-03-19"/>、[[2014年]][[11月1日]]に初めて[[南大沢駅]]で試験的に導入後<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.keio.co.jp/news/backnumber/news_release2014/nr141023_fukuekimei.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191214182142/https://www.keio.co.jp/news/backnumber/news_release2014/nr141023_fukuekimei.pdf|format=PDF|language=日本語|title=11月1日(土)から副駅名標板を初めて設置します! 〜将来的には広告商品として販売予定〜|publisher=京王電鉄|date=2014-10-23|accessdate=2020-12-08|archivedate=2019-12-14}}</ref>、翌12月より広告商品として販売開始、府中駅を含む6駅に設置された<ref name="2015-03-19"/> === 駅名の由来 === 当駅所在地の「'''[[府中]]'''([[武蔵国]]の[[国府]])」から、「'''府中駅'''」と名付けられる。 == 歴史 == * [[1916年]]([[大正]]5年)[[10月31日]] - 京王電気軌道の停留場として開業<ref name="hb2020">{{Cite web|和書|url=https://www.keio.co.jp/company/corporate/summary/corporate_manual/pdf/2020/all_keiohandbook2020.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201208160854/https://www.keio.co.jp/company/corporate/summary/corporate_manual/pdf/2020/all_keiohandbook2020.pdf|title=2020年京王ハンドブック|archivedate=2020-12-08|accessdate=2020-12-08|publisher=京王電鉄|format=PDF|language=日本語}}</ref>。 * [[1925年]](大正14年)[[3月24日]] - 玉南電気鉄道が開業<ref name="hb2020"/><ref>[{{NDLDC|2955926/13}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1925年3月30日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1926年]](大正15年)[[12月1日]] - 玉南電気鉄道が京王電気軌道に合併<ref name="hb2020"/><ref name="RP893_10">{{Cite journal|和書|author=京王電鉄広報部|title=総説:京王電鉄|journal=鉄道ピクトリアル|date=2014-08-10|volume=64|issue=第8号(通巻893号)|page=10|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref>。 * [[1928年]]([[昭和]]3年)[[5月22日]] - 当駅を境に京王線と玉南線で分かれていた現在の京王線が直結し、新宿 - 東八王子間直通運転開始<ref name="hb2020"/>。 * [[1944年]](昭和19年)[[5月31日]] - [[陸上交通事業調整法]]による戦時合併により[[東京急行電鉄]]([[大東急]])の駅となる<ref name="hb2020"/><ref name="RP893_10" />。 * [[1948年]](昭和23年)[[6月1日]] - 東急からの分離独立により京王帝都電鉄(現:京王電鉄)の駅となる<ref name="hb2020"/><ref name="RP893_10" />。 * [[1974年]](昭和49年) - 下りホームを延伸<ref name=50nenshi>京王電鉄50年史より</ref>。延伸工事に伴い下り待避線を撤去<ref name=renritsu />。 * [[1981年]](昭和56年)[[10月16日]] - 府中駅周辺[[連続立体交差事業]]による高架化工事着手<ref name=renritsu>[https://www.keio.co.jp/company/corporate/summary/history/history_04_02_01.html 第2章 首都圏の大動脈へ 1 連続立体交差事業の推進] 京王電鉄50年史「第3部 企業体質の抜本的改善とグループの再編成(1986~1998)」、京王電鉄公式サイト、2019年12月15日閲覧。</ref>。 * [[1983年]](昭和58年) - 10両編成対応のホームとなる<ref name=50nenshi />。 * [[1989年]]([[平成]]元年)[[10月14日]] - 下り線が高架化{{R|交通910404}}。 * [[1991年]](平成3年)[[4月27日]] - 上り線が高架化<ref name="交通910404">{{Cite news |title=上り線27日高架新線に 京王帝都府中駅付近 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1991-04-04 |page=1 }}</ref>。 * [[1993年]](平成5年)[[3月1日]] - 新駅舎使用開始<ref name="hb2020"/>。連続立体交差事業完了<ref name=renritsu />。 * [[1996年]](平成8年)[[3月20日]] - [[駅ビル]]「京王府中ショッピングセンター」(現:ぷらりと京王府中)開業<ref name=nr180116>{{Cite press release|和書|url=https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2017/nr180116_fuchusc.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191214162110/https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2017/nr180116_fuchusc.pdf|format=PDF|language=日本語|title=1月19日(金)から順次オープン「京王府中ショッピングセンター」が生まれ変わります! 〜1階&2階に沿線初出店2店舗を含む全10店舗がリニューアルオープン〜|publisher=京王電鉄|date=2018-01-16|accessdate=2020-12-08|archivedate=2019-12-14}}</ref>。 * [[1998年]](平成10年)[[10月14日]] - [[関東の駅百選]]に選定される<ref name="hb2020"/><ref name="stations">{{Cite book|和書|author=(監修)「鉄道の日」関東実行委員会|title=駅の旅物語 関東の駅百選|publisher=[[人文社]]|date=2000-10-14|pages=54 - 55・227頁|edition=初版|isbn=4795912807}}</ref>。選定理由は「都会的で現代的なミュージアムをイメージさせる駅」<ref name="stations"/>。 * [[2001年]](平成13年)[[3月27日]] - [[ダイヤ改正|ダイヤ改定]]により[[準特急]]が新設され、停車駅となる<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.keio.co.jp/news_release/newsr/index_010223.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20040605204054/http://www.keio.co.jp/news_release/newsr/index_010223.htm|language=日本語|title=3月27日(火) 京王線・井の頭線 ダイヤ改正|publisher=京王電鉄|date=2001-02-22|accessdate=2021-05-04|archivedate=2004-06-05}}</ref><ref>{{Cite journal ja-jp |author=平澤崇 |year=2001 |month=5 |title=京王電鉄のダイヤ改正は高速志向 |journal=[[鉄道ジャーナル]] |serial= 通巻415号 |page= 57 |publisher=[[鉄道ジャーナル社]] }}</ref>。 * [[2013年]](平成25年)[[4月24日]] - [[発車メロディ|接近メロディ]]として「[[ぶんぶんぶん]]」、「府中小唄」の使用を開始<ref name="melody" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.fuchu.tokyo.jp/gyosei/johokokai/koho/resshasekkin.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201208162627/https://www.city.fuchu.tokyo.jp/gyosei/johokokai/koho/resshasekkin.html|title=府中駅メロに「府中小唄」「ぶんぶんぶん」を導入|date=2013-05-27|archivedate=2020-12-08|accessdate=2020-12-08|website=[https://www.city.fuchu.tokyo.jp/ 府中市ホームページ]|language=日本語}}</ref>。 * [[2015年]](平成27年)[[4月1日]] - [[副駅名]]称として「'''明星中学高等学校 明星小学校 明星幼稚園 最寄駅'''」を設置<ref name="2015-03-19">{{Cite press release|和書|url=https://www.keio.co.jp/news/backnumber/news_release2014/nr150319_fukuekimei.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191214182148/https://www.keio.co.jp/news/backnumber/news_release2014/nr150319_fukuekimei.pdf|format=PDF|language=日本語|title=4月1日(水)から副駅名標板を新たに6駅で設置します! 〜新生活に向けた京王線の利便性向上と、地元にゆかりある施設と京王線に親しみを〜|publisher=京王電鉄|date=2015-03-19|accessdate=2020-04-12|archivedate=2019-12-14}}</ref>。 * [[2018年]](平成30年)[[2月22日]] - ダイヤ改正により下り[[京王ライナー]]が新設され、停車駅となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2017/nr180124_timetable20180222.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201107154541/https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2017/nr180124_timetable20180222.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2月22日(木)始発から京王線・井の頭線のダイヤ改正を実施します 〜京王ライナーの運行開始や、平日朝間時間帯の速達性向上を図ります〜|publisher=京王電鉄|date=2018-01-24|accessdate=2020-12-08|archivedate=2020-11-07}}</ref>。下りは当駅からは[[座席指定券]]なしで乗車可能。 * [[2019年]](平成31年)2月22日 - ダイヤ改正により上り京王ライナーが新設され、停車駅となる<ref name="Keio20190122">{{Cite press release|和書|url=https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2018/nr190122_timetable20190222.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191014155008/https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2018/nr190122_timetable20190222.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2月22日(金)始発から 京王線・井の頭線のダイヤ改正を実施します 〜朝間時間帯上り「京王ライナー」の運行開始や、平日朝間時間帯の利便性向上を図ります〜|publisher=京王電鉄|date=2019-01-22|accessdate=2020-12-08|archivedate=2019-10-14}}</ref>。上りでは座席指定券が必要となる(下りは引き続き座席指定券不要)。 * [[2020年]]([[令和]]2年)[[2月12日]] - 定期券売り場が営業を終了<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.keio.co.jp/news/update/announce/nr200210v2056/index.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200729054956/https://www.keio.co.jp/news/update/announce/nr200210v2056/index.html|format=PDF|language=日本語|title=一部駅の定期券発売窓口閉鎖について|publisher=京王電鉄|date=2020-02-10|accessdate=2022-03-28|archivedate=2020-07-29}}</ref>。 * [[2022年]](令和4年)[[3月12日]] - ダイヤ改正により準特急が特急に統合される形で廃止となる。 == 駅構造 == {|{{Railway line header}} {{UKrail-header2|<br/>府中駅<br/>配線図|#dd0077}} {{BS-table|配線}} {{BS-colspan}}↑[[東府中駅]] {{BS4text|4|3|2|1}} {{BS4||STRg|STRf|}} {{BS4||KRWgl|KRWg+r|}} {{BS4|KRW+l|KRWgr|KRWgl|KRW+r}} {{BS4|STR+BSl|STR+BSr|STR+BSl|STR+BSr}} {{BS4|STR+BSl|STR+BSr|STR+BSl|STR+BSr}} {{BS4|STR+BSl|STR+BSr|STR+BSl|STR+BSr}} {{BS4|KRWl|KRWg+r|KRWg+l|KRWr}} {{BS4||KRWgl|KRWg+r|}} {{BS4||STRg|STRf|}} {{BS-colspan}} ↓[[分倍河原駅]] |} |} 三層構造の[[高架駅]]であり、[[島式ホーム]]2面4線は最上階(3階)にある。地上駅時代は貨物用の[[停車場#側線|側線]]があった。 プラットホーム階から[[階段]]・[[エレベーター]]・[[エスカレーター]]で1階下りた所が[[改札]]階(2階)であり、改札口は南北に2か所ある。駅舎は駅ビル([[ショッピングセンター]])と一体となった構造である。改札階を出ると南北に[[ペデストリアンデッキ]]「府中スカイナード」が続いている。地上階(1階)は駅前ターミナルとなっており、[[路線バス]]と[[タクシー]]の発着場となっている。 改札階と地上階との間にもエスカレーター・エレベーターがある。エレベーターは高架開業当時はホームまで通じていて、改札内外にまたがり駅員の誘導が必要なため車椅子等専用であった。その後改札階 - 地上階間の改札外専用とされ、利用の制約はなくなった。また、改札階からホームまでのエレベーターも別に設置された。 [[便所|トイレ]]は2階改札口内の新宿方階段付近にあり、[[ユニバーサルデザイン]]の一環として「だれでもトイレ」も設置されている。[[2013年]]にはトイレが改修され、京王電鉄の駅改札内の旅客用トイレでは初となる[[温水洗浄便座]]([[ウォシュレット]])が設置された。 === のりば === {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先 |- !1・2 |rowspan=2|[[File:Number prefix Keio-line.svg|15px|KO]] 京王線 |style="text-align:center"|下り |[[高幡不動駅|高幡不動]]・[[多摩動物公園駅|多摩動物公園]]・[[京王八王子駅|京王八王子]]・[[高尾山口駅|高尾山口]]方面 |- !3・4 |style="text-align:center"|上り |[[調布駅|調布]]・[[明大前駅|明大前]]・[[笹塚駅|笹塚]]・[[新宿駅|新宿]]・ [[File:Toei Shinjuku line symbol.svg|15px|S]] [[都営地下鉄新宿線|{{small|都営}}新宿線]]方面 |} * 主本線は2番線と3番線であり、1番線と4番線は待避線である。 * 一部の列車を除き、特急・急行と快速・各停の[[停車 (鉄道)#緩急接続|緩急接続]]が終日にわたり行われている。 * 高幡不動駅での緩急接続が少なくなったため、当駅を出発したほとんどの下り列車はそのまま高尾線との分岐駅である北野駅まで先着する。 * 当駅始発の列車が設定されている(平日早朝上り各停1本と朝下り各停1本)。 * 2018年2月22日ダイヤ改正より運転開始の[[京王ライナー]]のうち、下り列車については、当駅より先、座席指定券なしで乗車券のみで乗れる。上り列車は、当駅で乗車する場合は座席指定券が必要で、次の停車駅は明大前駅・終点の京王線新宿駅となり、途中の駅には全て停車しない。 <gallery> Fuchu.station.tokyo.keio.s2.jpg|府中駅南口(2017年7月) Fuchu-Sta-N1.jpg|府中駅北口周辺(2017年7月) Fuchu-Sta-Gate.JPG|北側改札口(2008年10月) South Gate of Fuchu Station in 2008.jpg|南側改札口(2008年11月16日) Fuchu Station 2019b.jpg|上り線ホーム(2019年2月3日撮影) Fuchu-Sta-Platform.JPG|ホーム(2014年4月) </gallery> === 駅構内 === [[File:Fuchu.station.2.jpg|京王府中ショッピングセンター(ぷらりと京王府中)|thumb]] [[File:Purarito.fuchu.station.shop2.jpg|京王府中ショッピングセンター(ぷらりと京王府中)|thumb]] 駅構内の改札外には、駅事務所、[[定期券]]売場窓口、[[三菱UFJ銀行]]や[[ゆうちょ銀行]]の[[現金自動預け払い機|ATM]]などがある。 駅[[売店]]は「[[京王リテールサービス|A LoT]]」が南口・北口改札外にあったが、北口改札前に[[2018年]][[1月19日]]に[[駅ナカ]][[コンビニ]]「[[コミュニティ・ストア#京王ストア K-SHOP with コミュニティ・ストア|K-SHOP]]府中店」が開業、入れ替わりに同年1月31日をもって「A LoT北口改札店」が閉店した(「A LoT府中南口店」は営業中)。 [[駅ビル]]・[[駅ナカ]]商業施設として[[京王府中ショッピングセンター]](愛称「'''ぷらりと京王府中'''」)があり、駅舎と直結している。 ==== 北口側 ==== [[ペデストリアンデッキ]]「スカイナード」は、周辺のいくつかのビル([[府中グリーンプラザ]]、[[さくらコマース|さくら食品館]]など)に直結しており、地上のバスターミナルへも直接降りることができる。また[[国道20号]]([[甲州街道]])の陸橋部分もあり、朝日生命府中ビル脇の[[馬場大門のケヤキ並木|けやき並木通り]]で地上に降りることができる。 [[バスターミナル]]からは[[武蔵小金井駅]]、[[国分寺駅]]、[[国立駅]]などへの路線が発着する。また、[[名古屋駅]]行夜行高速バスや[[東京国際空港|羽田空港]]行[[リムジンバス|空港連絡バス]]、[[ちゅうバス]](駅南側にも停留所)も乗り入れている。 ==== 南口側 ==== 府中駅直結の複合施設「[[武蔵府中ル・シーニュ]]」<ref>「府中駅南口 再開発ビル、来月開業 成城石井など96店舗」『[[日本経済新聞]]』2017/6/9付朝刊(東京面)</ref> の他、[[ペデストリアンデッキ]]により、複合商業ビル「フォレストサイドビル」([[ミッテン府中]]・専門店街フォーリス)と、商住複合施設の「[[くるる (東京都府中市)|くるる]]」に直結している。それらのビルを南に抜けると、[[大國魂神社]]の[[鳥居|大鳥居]]が見える。 当駅の西側をほぼ中央として南北に伸びる通りは市道「[[馬場大門のケヤキ並木|けやき並木通り]]」であり、商店や銀行などが建ち並ぶ府中の[[メインストリート]]である。[[一方通行]]であり、歩行者道路ともなる。線路南側に沿って西へ向かう一方通行の通りは「国際通り」と呼び、元歓楽街の名残の他に商店や[[飲食店]]が並んでいる。 == 利用状況 == [[2022年]]度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''75,924人'''である<ref group="京王" name="keio2022" />。京王電鉄の駅では[[新宿駅]]、[[渋谷駅]]、[[吉祥寺駅]]、[[調布駅]]、[[下北沢駅]]、[[分倍河原駅]]、[[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]]に次いで8番目に多い。この数字は接続路線が一切ない途中駅の中で最多である。 近年の1日平均'''乗降'''人員及び[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]の推移は下表の通りである。 <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗降・乗車人員<ref>[https://www.city.fuchu.tokyo.jp/gyosei/toke/tokeisyo/index.html 府中市統計書] - 府中市</ref> !年度 !1日平均<br />乗降人員<ref>[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref> !1日平均<br />乗車人員<ref>[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref> !出典 |- |<ref group="注釈">京王帝都電鉄発足年度</ref> 1948年(昭和23年) |9,900 | | |- |1955年(昭和30年) |12,837 | | |- |1960年(昭和35年) |21,554 | | |- |1965年(昭和40年) |42,266 | | |- |1970年(昭和45年) |61,930 | | |- |1975年(昭和50年) |65,615 | | |- |1980年(昭和55年) |72,843 | | |- |1985年(昭和60年) |75,353 | | |- |1990年(平成{{0}}2年) |75,612 |38,079 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成2年)]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) | |38,637 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成3年)]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) | |37,288 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) | |37,447 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 東京都統計年鑑(平成5年)]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) | |37,129 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 東京都統計年鑑(平成6年)]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |73,817 |37,213 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) | |40,770 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) | |39,814 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref> |- |1998年(平成10年) | |40,545 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref> |- |1999年(平成11年) | |40,041 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref> |- |2000年(平成12年) |78,689 |40,126 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref> |- |2001年(平成13年) |<ref name="RP893_27">{{Cite journal|和書|author=京王電鉄鉄道営業部運転課|title=輸送と運転 近年の動向|journal=鉄道ピクトリアル|date=2014-08-10|volume=64|issue=第8号(通巻893号)|page=27|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref>79,899 |40,625 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref> |- |2002年(平成14年) |79,468 |40,452 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref> |- |2003年(平成15年) |81,433 |40,962 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref> |- |2004年(平成16年) |81,425 |40,975 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref> |- |2005年(平成17年) |84,601 |42,570 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref> |- |2006年(平成18年) |86,654 |43,397 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref> |- |2007年(平成19年) |89,113 |44,361 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref> |- |2008年(平成20年) |89,660 |44,636 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref> |- |2009年(平成21年) |87,639 |43,608 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref> |- |2010年(平成22年) |85,993 |42,778 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref> |- |2011年(平成23年) |85,343 |42,350 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成23年)]</ref> |- |2012年(平成24年) |86,577 |42,992 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成24年)]</ref> |- |2013年(平成25年) |<ref name="RP893_27" />86,933 |43,156 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成25年)]</ref> |- |2014年(平成26年) |85,279 |42,318 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成26年)]</ref> |- |2015年(平成27年) |86,949 |43,087 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成27年)]</ref> |- |2016年(平成28年) |88,100 |43,721 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成28年)]</ref> |- |2017年(平成29年) |90,224 |44,770 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成29年)]</ref> |- |2018年(平成30年) |90,316 |44,816 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成30年)]</ref> |- |2019年(令和元年) |88,769 |43,989 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |62,986 |31,173 ||<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2020/tn20q3i004.htm 東京都統計年鑑(令和2年)]</ref> |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="京王" name="keio2021">{{Cite web|和書|author=京王電鉄株式会社 |authorlink=京王電鉄 |coauthors= |date= |title=1日の駅別乗降人員|url=https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-10-01 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220626083727/https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |archivedate=2022-06-26 |deadlink=2023-08-02 |}}</ref>69,727 |34,786 |<ref group="*>[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2021/tn21q3i004.htm 東京都統計年鑑(令和3年)]</ref> |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="京王" name="keio2022">{{Cite web|和書|author=京王電鉄株式会社 |authorlink=京王電鉄 |coauthors= |date= |title=1日の駅別乗降人員|url=https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-10-01 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230610030616/https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |archivedate=2023-06-10 |deadlink= |}}</ref>75,924 | | |} == 駅周辺 == <!--チェーン店を含む飲食店、コンビニ、個人商店、ATMのみ設置の銀行無人店舗、携帯ショップ、ゲームセンター、パチンコ店などは際限がなくなるので記載しない-->京王線府中駅前からJR府中本町周辺は東京多摩地域有数規模の市街地・繁華街が広がっている。ケヤキ並木など都市空間に緑も多いのが特徴である。 === 再開発ビル === {{see also|府中駅南口市街地再開発事業計画}} * [[フォーリス]] - 1996年4月3日開業。 * [[くるる (東京都府中市)|くるる]] - 核店舗は[[タイトー#アミューズメント施設事業|タイトーステーション]]、[[TOHOシネマズ]]府中。 * [[武蔵府中ル・シーニュ]] === 公共施設 === * 府中市役所 * [[府中警察署 (東京都)|警視庁府中警察署]] * [[東京消防庁]]府中消防署 * [[武蔵府中郵便局]] * 東京都府中合同庁舎 * ルミエール府中(府中市市民会館・府中市立中央図書館) * [[府中市立府中第一小学校]] * [[東京都立農業高等学校]] === その他 === * [[大國魂神社]] * [[国道20号]]([[甲州街道]]) * [[府中本町駅]] - 徒歩約10分 <gallery> 20210527 MitteN Fuchu.jpg|[[ミッテン府中|MitteN府中]] Kururu, Fuchu, Tokyo.jpg|[[くるる (東京都府中市)|くるる]] Lumiere-fuchuSW2.jpg|ルミエール府中 Ookunitamajinnja haiden.jpg|大國魂神社 </gallery> == バス路線 == [[京王バス]]・府中市コミュニティバス「[[ちゅうバス]]」・[[東京空港交通]]([[リムジンバス]])の路線が発着する<ref group="注釈">京王バスの一部は京王電鉄バスからの運行受託路線。</ref>。各路線の詳細は[[京王バス府中営業所]]、[[京王バス調布営業所]]([[高速バス]]・[[日本の深夜バス|深夜急行バス]])を参照。 {|class="wikitable" style="font-size:80%;" !乗場!!系統!!主要経由地!!行先!!{{small|運行事業者}}!!備考 |- !rowspan="4"|1番 |武71 |{{small|一本木}} |[[武蔵小金井駅]]南口 | rowspan="21" |{{Color|blue|■}}京王 | |- |武73 |{{small|学園通郵便局}} |武蔵小金井駅南口 | |- |寺92 |{{small|学園通郵便局}} |[[国分寺駅]]南口 | |- |府02 |{{small|学園通郵便局}} |[[北府中駅|東芝前]] |1日1本のみ |- ! rowspan="7" |2番 |国17 |{{small|[[谷保駅]]}} |[[国立駅]]南口 | |- |府42 |{{small|インテリジェントパーク・美好町}} |第七小学校循環 |土休日朝1本のみ |- |rowspan="3"|府46 |{{small|インテリジェントパーク}} |第七小学校循環 | |- |{{small|インテリジェントパーク}} |[[東芝府中事業所|東芝南門]] |朝1本のみ |- |{{small|インテリジェントパーク・第七小学校}} |富士見公園前 |{{small|平日は19時台から運行。土休日は21時台のみ}} |- |西国44 |<small>西原町南・武蔵台学園</small> |[[西国分寺駅]] |平日朝3本のみ |- |西国45 |<small>第七小学校・武蔵台学園</small> |西国分寺駅 | |- !rowspan="2"|3番 |急行 | |[[明星学苑]] |朝のみ |- |寺91 |{{small|明星学苑}} |国分寺駅南口 | |- ! rowspan="7" |4番 |国02 |{{small|東芝前}} |国立駅南口 |早朝・夜間のみ |- |国03 |{{small|東芝前・[[東京都立多摩総合医療センター|総合医療センター]]}} |国立駅南口 |早朝・夜間以外 |- |府21 |{{small|東芝前}} |総合医療センター |早朝・夜間以外 |- |府52 |{{small|府中市役所・分倍河原駅}} |[[郷土の森総合体育館]] |土休日3本のみ |- |府61 |{{small|府中市役所}} |[[稲城市立病院]] |平日1本のみ |- |直行 | |府中営業所 | |- |空港連絡バス | |[[成田国際空港|成田空港]] | |- ! rowspan="4" |5番 |高速バス | |[[名鉄バスセンター|名鉄バスセンター(名古屋駅)]] | |- |空港連絡バス | |[[東京国際空港|羽田空港]] |{{Color|blue|■}}京王<br />{{Color|gold|■}}東京空港交通 | |- | rowspan="7" |ちゅうバス |{{small|是政循環}} |[[是政駅]]{{small|方面}} | rowspan="8" |{{Color|blue|■}}京王 | |- |{{small|朝日町ルート・[[武蔵野台駅]]南口}} |[[多磨駅]] | |- !rowspan="3"|6番 |{{small|北山町循環}} |北山町四丁目{{small|方面}} | |- |{{small|北山町循環}} |武蔵台文化センター西 |夜間1本のみ |- |{{small|よつや苑西ルート}} |[[中河原駅]]・よつや苑西{{small|方面}} | |- !rowspan="2"|7番 |{{small|多磨町ルート}} |多磨町 | |- |{{small|押立町ルート・[[競艇場前駅 (東京都)|競艇場前駅]]南口}} |武蔵野台駅南口 | |} * 深夜急行バス [[渋谷駅]]→府中駅(京王バス) ※ 降車のみ * 深夜急行バス [[新宿駅のバス乗り場|新宿駅西口]]→府中駅(京王バス) ※ 降車のみ * 深夜急行バス 新宿駅西口→府中駅→国立駅(京王バス) ※ 降車のみ == 当駅を舞台にしたアニメ・ゲーム == * [[ちはやふる]] - 駅周辺の施設や当駅1・2番線ホームが描かれている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.fuchu.tokyo.jp/kanko/kanko_infomation/chihaya/index.html|title=ちはやふる~千早と太一が住む街「府中」|accessdate=2021-04-26|publisher=府中市}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.chihaya-fuchu.com/|title=ちはやふるin府中|accessdate=2021-04-27|publisher=府中市役所観光プロモーション課 }}</ref>。 * [[ウマ娘 プリティーダービー]] - [[ウマ娘 プリティーダービー (アニメ)|アニメ版]]では駅前の商店街の風景、ゲーム版では北口の駅前とペデストリアンデッキ、当駅3・4番線ホームが描かれている。 == 隣の駅 == ;京王電鉄 :[[File:Number prefix Keio-line.svg|15px|KO]] 京王線 :*{{Color|#dd0077|□}}「[[京王ライナー]]」(下りは当駅以遠座席指定券不要、上りは乗車のみ)、{{Color|#9acd32|□}}「[[京王ライナー#Mt.TAKAO号|Mt.TAKAO号]]」(上りのみ乗車可)停車駅 ::{{Color|#ff1493|■}}特急 :::[[調布駅]] (KO18) - '''府中駅 (KO24)''' - [[分倍河原駅]] (KO25) ::{{Color|#20b2aa|■}}急行・{{Color|olive|■}}区間急行・{{Color|blue|■}}快速・{{Color|gray|■}}各駅停車(区間急行は上りのみ、快速は下りのみ運転) :::[[東府中駅]] (KO23) - '''府中駅 (KO24)''' - 分倍河原駅 (KO25) *イベントなどの開催時には、通常の隣の停車駅との間にある以下の駅に停車することがある。 **[[東京競馬場]]開催時には、一部の特急が隣の東府中駅に停車する(同駅で[[府中競馬正門前駅|府中競馬正門前]]行に接続)。 **[[東京スタジアム (多目的スタジアム)|東京スタジアム]]でのイベント開催時には、一部の特急が[[飛田給駅]]に停車する場合がある。 <!--リンクは1箇所に集約してください--> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} ;東京都統計年鑑 {{Reflist|group="*"|22em}} ;京王電鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="京王"|3}} == 関連項目 == {{Commonscat|Fuchū Station (Tokyo)}} * [[京王府中ショッピングセンター]] * [[府中駅南口市街地再開発事業計画]] - 府中駅高架化に伴い実施された駅前[[都市再開発|再開発]] * [[関東の駅百選]] * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[府中駅 (曖昧さ回避)]] == 外部リンク == * [https://www.keio.co.jp/train/station/ko24_fuchu/ 京王電鉄 府中駅] * [http://fuchu.happy-town.net/ 街はぴ 府中駅] - 京王沿線口コミ情報サイト {{京王線}} {{関東の駅百選}} {{デフォルトソート:ふちゆう}} [[Category:東京都府中市の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 ふ|ちゆう]] [[Category:京王電鉄の鉄道駅]] [[Category:1916年開業の鉄道駅]]
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東府中駅
東府中駅(ひがしふちゅうえき)は、東京都府中市清水が丘一丁目にある、京王電鉄の駅である。京王中央管区所属。駅番号はKO23。 京王線と京王競馬場線が乗り入れており、競馬場線の起点となっている。 競馬場線が開業する前は、当駅が東京競馬場への最寄り駅となっていた。競馬場線開業後も競馬が開催される時は、乗り換えの拠点として利用者が多い。 高幡不動検車区の東側が整備される前は、当駅横の踏切から車両の搬入・搬出を行っていた。 相対式・島式ホーム3面4線を有する橋上駅。1番線は競馬場線の2両編成列車専用のホームで有効長が短い。かつては地上駅であり、4番線ホームに北口、1番線ホームに南口が直結、3つのホームを京王八王子・府中競馬正門前寄りの地下道で連絡していたが、京王線・井の頭線 全駅のバリアフリー化の一環として2011年4月10日より橋上駅舎に切り替えられ、自由通路とエレベーター・エスカレーターが設置された。トイレは改札内にある。 駅構内には専門店街「京王リトナード東府中」がある。 出店店舗の詳細情報は公式サイト「フロアマップ」を参照。 2022年度の1日平均乗降人員は19,309人である。 近年の1日平均乗降人員及び乗車人員の推移は下表の通りである。 駅に接した西側は踏切で、「競馬場通り」が線路と直角に交差しており、この道路を北側には東京都道229号府中調布線(旧甲州街道)、東京都道229号府中調布線バイパス、国道20号(甲州街道)を横切っており、突き当りには航空自衛隊府中基地が所在する。古くは駅の北口が競馬場通りに面していたが、後に少し入った品川街道に面するようになる。競馬場通りの南方は東京競馬場に突き当たるまで一本道となっている。 商業施設は北口・南口ともに平和通り・競馬場通り沿いに集中しており、南口は競馬場通りの東側歩道がアーケードになっていて商店が密集している一方、西側歩道はスーパーマーケットが中心となっている。アーケードを抜けると、府中清水が丘郵便局と清水が丘公会堂がある。東に入ると小さな公園があり、周辺に小さい商店が集まっているが、その先は府中崖線(立川崖線)がある。 駅北側は住宅以外の建物が多い。北口には、ホテルと自動車教習所、交番やガソリンスタンド、銀行がある。国道20号(甲州街道)沿いにはカーディーラーが多く、スーパーマーケットやドラッグストア、ディスカウントショップがある。さらに北へ向かうと、ホール、公園、高校、山がある。 駅西側踏切脇には花屋、洋食店、ケーキ屋、居酒屋、スーパーマーケットなどの店舗や歯科医が営業を行っている。 上記以外は主に住宅地となっている。 東府中駅(北口)
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "東府中駅(ひがしふちゅうえき)は、東京都府中市清水が丘一丁目にある、京王電鉄の駅である。京王中央管区所属。駅番号はKO23。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "京王線と京王競馬場線が乗り入れており、競馬場線の起点となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "競馬場線が開業する前は、当駅が東京競馬場への最寄り駅となっていた。競馬場線開業後も競馬が開催される時は、乗り換えの拠点として利用者が多い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "高幡不動検車区の東側が整備される前は、当駅横の踏切から車両の搬入・搬出を行っていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "相対式・島式ホーム3面4線を有する橋上駅。1番線は競馬場線の2両編成列車専用のホームで有効長が短い。かつては地上駅であり、4番線ホームに北口、1番線ホームに南口が直結、3つのホームを京王八王子・府中競馬正門前寄りの地下道で連絡していたが、京王線・井の頭線 全駅のバリアフリー化の一環として2011年4月10日より橋上駅舎に切り替えられ、自由通路とエレベーター・エスカレーターが設置された。トイレは改札内にある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "駅構内には専門店街「京王リトナード東府中」がある。 出店店舗の詳細情報は公式サイト「フロアマップ」を参照。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2022年度の1日平均乗降人員は19,309人である。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "近年の1日平均乗降人員及び乗車人員の推移は下表の通りである。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "駅に接した西側は踏切で、「競馬場通り」が線路と直角に交差しており、この道路を北側には東京都道229号府中調布線(旧甲州街道)、東京都道229号府中調布線バイパス、国道20号(甲州街道)を横切っており、突き当りには航空自衛隊府中基地が所在する。古くは駅の北口が競馬場通りに面していたが、後に少し入った品川街道に面するようになる。競馬場通りの南方は東京競馬場に突き当たるまで一本道となっている。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "商業施設は北口・南口ともに平和通り・競馬場通り沿いに集中しており、南口は競馬場通りの東側歩道がアーケードになっていて商店が密集している一方、西側歩道はスーパーマーケットが中心となっている。アーケードを抜けると、府中清水が丘郵便局と清水が丘公会堂がある。東に入ると小さな公園があり、周辺に小さい商店が集まっているが、その先は府中崖線(立川崖線)がある。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "駅北側は住宅以外の建物が多い。北口には、ホテルと自動車教習所、交番やガソリンスタンド、銀行がある。国道20号(甲州街道)沿いにはカーディーラーが多く、スーパーマーケットやドラッグストア、ディスカウントショップがある。さらに北へ向かうと、ホール、公園、高校、山がある。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "駅西側踏切脇には花屋、洋食店、ケーキ屋、居酒屋、スーパーマーケットなどの店舗や歯科医が営業を行っている。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "上記以外は主に住宅地となっている。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "東府中駅(北口)", "title": "駅周辺" } ]
東府中駅(ひがしふちゅうえき)は、東京都府中市清水が丘一丁目にある、京王電鉄の駅である。京王中央管区所属。駅番号はKO23。
{{駅情報 |社色 = #dd0077 |文字色 = |駅名 = 東府中駅 |画像 = Higashi.fuchu.station.tokyo1.jpg |pxl = 300px |画像説明 = 駅を南西より撮影(2016年11月) |地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}} |よみがな = ひがしふちゅう |ローマ字 = Higashi-fuch&#363; |所属事業者 = [[京王電鉄]] |所在地 = [[東京都]][[府中市 (東京都)|府中市]]清水が丘一丁目8-3 |駅構造 = [[地上駅]] |ホーム = 3面4線 |開業年月日 = [[1916年]]([[大正]]5年)[[10月31日]]<ref name="keio-handbook2020" /> |緯度度 = 35 |緯度分 = 40 |緯度秒 = 8 |経度度 = 139 |経度分 = 29 |経度秒 = 43 |地図国コード = JP |座標右上表示 = Yes |乗降人員 = <ref group="京王" name="keio2022" />19,309 |統計年度 = 2022年 |駅番号 = {{駅番号r|KO|23|#dd0077|5}} |乗入路線数 = 2 |所属路線1 = {{color|#dd0077|■}}[[京王線]] |前の駅1 = KO22 [[多磨霊園駅|多磨霊園]] |駅間A1 = 0.8 |駅間B1 = 1.5 |次の駅1 = [[府中駅 (東京都)|府中]] KO24 |駅番号1 = |キロ程1 = 20.4 |起点駅1 = [[新宿駅|新宿]] |所属路線2 = {{color|#dd0077|■}}[[京王競馬場線|競馬場線]] |隣の駅2 = |前の駅2 = |駅間A2 = |駅間B2 = 0.9 |次の駅2 = [[府中競馬正門前駅|府中競馬正門前]] KO46 |駅番号2 = |キロ程2 = 0.0 |起点駅2 = 東府中 |乗換 = |備考 =}} '''東府中駅'''(ひがしふちゅうえき)は、[[東京都]][[府中市 (東京都)|府中市]]清水が丘一丁目にある、[[京王電鉄]]の[[鉄道駅|駅]]である。京王中央管区所属<ref name="RP893_43">{{Cite journal|和書|author=京王電鉄鉄道営業部管理課|title=駅管区・乗務区のあらまし|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2014-08-10|volume=64|issue=第8号(通巻893号)|page=43|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''KO23'''。 == 概要 == [[京王線]]と[[京王競馬場線]]が乗り入れており、競馬場線の起点となっている。 競馬場線が開業する前は、当駅が[[東京競馬場]]への最寄り駅となっていた。競馬場線開業後も[[競馬]]が開催される時は、乗り換えの拠点として利用者が多い。 == 歴史 == * [[1916年]]([[大正]]5年)[[10月31日]] - 府中寄り約500&nbsp;m・[[武蔵国府八幡宮]]北方に、京王電気軌道の'''八幡前駅'''が開業<ref name="keio-handbook2020" />。 * [[1935年]]([[昭和]]10年)[[11月12日]] - 現在地に'''臨時競馬場前駅'''が開業<ref name="keio-handbook2020">{{Cite web|和書|url=https://www.keio.co.jp/company/corporate/summary/corporate_manual/pdf/2020/all_keiohandbook2020.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201208160854/https://www.keio.co.jp/company/corporate/summary/corporate_manual/pdf/2020/all_keiohandbook2020.pdf|title=京王ハンドブック2020|date=2020-08|archivedate=2020-12-08|pages=102・108・118|accessdate=2021-05-03|publisher=京王電鉄広報部|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。 * [[1937年]](昭和12年)[[9月1日]] - 八幡前駅が'''東府中駅'''と改称<ref name="keio-handbook2020" />。 * [[1940年]](昭和15年)[[10月26日]] - 東府中駅が臨時競馬場前駅に統合し、現在の'''東府中駅'''となる<ref name="keio-handbook2020" />。 * [[1944年]](昭和19年)[[5月31日]] - [[陸上交通事業調整法]]による戦時合併により[[東京急行電鉄]]([[大東急]])の駅となる<ref name="RP893_10">{{Cite journal|和書|author=京王電鉄広報部|title=総説:京王電鉄|journal=鉄道ピクトリアル|date=2014-08-10|volume=64|issue=第8号(通巻893号)|pages=10 - 11|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref>。 * [[1948年]](昭和23年)[[6月1日]] - 東急からの分離独立により京王帝都電鉄(現:京王電鉄)の駅となる<ref name="RP893_10" />。 * [[1955年]](昭和30年)[[4月29日]] - [[京王競馬場線]]が開業し、同線との分岐駅となる<ref name="keio-handbook2020" />。 * [[2011年]]([[平成]]23年) ** [[4月10日]] - 現在の[[橋上駅|橋上駅舎]]を使用開始<ref name="keio-handbook2020" />。 ** [[10月20日]] - 複合商業施設「京王リトナード東府中」が開業<ref name="keio-handbook2020" />。 [[高幡不動検車区]]の東側が整備される前は、当駅横の[[踏切]]から車両の搬入・搬出を行っていた。 == 駅構造 == [[プラットホーム#形状と配置|相対式・島式ホーム]]3面4線を有する[[橋上駅]]。1番線は競馬場線の2両編成列車専用のホームで[[有効長]]が短い。かつては[[地上駅]]であり、4番線ホームに北口、1番線ホームに南口が直結、3つのホームを[[京王八王子駅|京王八王子]]・[[府中競馬正門前駅|府中競馬正門前]]寄りの[[地下道]]で連絡していたが、京王線・井の頭線 全駅のバリアフリー化の一環として[[2011年]][[4月10日]]より[[橋上駅|橋上駅舎]]に切り替えられ、自由通路と[[エレベーター]]・[[エスカレーター]]が設置された。[[便所|トイレ]]は改札内にある。 === のりば === {| class="wikitable" rules="all" style="font-size:80%" !nowrap|番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!nowrap|方向!!行先!!備考 |- !1 |rowspan=2 |[[File:Number prefix Keio-line.svg|15px|KO]] 競馬場線 |rowspan=2 style="text-align:center"| - |[[府中競馬正門前駅|府中競馬正門前]]方面 |平日と土休日夜間の線内折り返し専用 2両編成のみ対応 |- !rowspan=2|2 |[[府中競馬正門前駅|府中競馬正門前]]方面 | |- |rowspan=3 |[[File:Number prefix Keio-line.svg|15px|KO]] 京王線 |rowspan=2 style="text-align:center"|下り |rowspan=2 |[[京王八王子駅|京王八王子]]・[[高尾山口駅|高尾山口]]・[[多摩動物公園駅|多摩動物公園]]方面 |待避線 |- !3 |本線 |- !4 |style="text-align:center"|上り |nowrap|[[調布駅|調布]]・[[明大前駅|明大前]]・[[笹塚駅|笹塚]]・[[新宿駅|新宿]]・[[File:Toei Shinjuku line symbol.svg|15px|S]] [[都営地下鉄新宿線|{{small|都営}}新宿線]]方面 | |} <gallery> Higashi-fuchu station north_20111030.jpg|北口駅舎・京王リトナード東府中(2011年10月30日) Higashi-fuchu station platform 20130623.jpg|西側から(2011年10月30日) Higashi-fuchu platform.jpg|左奥が競馬場線ホームの1番線、中央のホームが京王線下り2・3番線、右のホームが京王線上り4番線。(2007年4月18日) Keio.keibajyo.line.8000.higashifuchu.jpg|競馬場線ホーム Higashi.fuchu.station.gate.jpg|改札口 Higashi-fuchu station north.jpg|旧北口駅舎(2008年5月21日) Higashi-fuchu station south.jpg|旧南口駅舎(2008年5月21日) </gallery> === 京王リトナード東府中 === 駅構内には専門店街「[[京王クラウン街#京王リトナード|京王リトナード東府中]]」がある。 出店店舗の詳細情報は公式サイト「[https://ekishop.keio-sc.jp/higashifuchu/ フロアマップ]」を参照。 * [[すかいらーく|ガスト]](カフェ[[レストラン]]) * [[はなの舞]](海鮮[[居酒屋]]) * リケン補聴器センター([[補聴器]]専門店) * [[QBハウス]](ヘアカット) * [[すき家]](牛丼・カレー・丼) * 京王キッズプラッツ(東京都認証[[保育所]]) * [[マツモトキヨシ]]([[ドラッグストア]]) * [[セブンイレブン]]([[コンビニエンスストア]]) * ベーカリー&カフェ ルパ([[ベーカリー]]&[[カフェ]]) * クリーニング 伊万里([[クリーニング]]) == 利用状況 == [[2022年]]度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''19,309人'''である<ref group="京王" name="keio2022" />。 近年の1日平均'''乗降'''人員及び'''乗車'''人員の推移は下表の通りである。 <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗降・乗車人員<ref>[https://www.city.fuchu.tokyo.jp/gyosei/toke/tokeisyo/index.html 府中市統計書] - 府中市</ref> !年度 !1日平均<br />乗降人員<ref>[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref> !1日平均<br />乗車人員<ref>[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref> !出典 |- |<ref group="注釈">競馬場線開業年度</ref>1955年(昭和30年) |5,377 | | |- |1960年(昭和35年) |8,176 | | |- |1965年(昭和40年) |13,200 | | |- |1970年(昭和45年) |15,535 | | |- |1975年(昭和50年) |14,672 | | |- |1980年(昭和55年) |13,003 | | |- |1985年(昭和60年) |14,474 | | |- |1990年(平成{{0}}2年) |16,672 |8,540 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成2年)]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) | |9,240 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成3年)]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) | |9,701 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) |18,965 |9,970 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 東京都統計年鑑(平成5年)]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) | |9,899 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 東京都統計年鑑(平成6年)]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |18,787 |9,795 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) | |9,362 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) | |9,353 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref> |- |1998年(平成10年) | |9,545 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref> |- |1999年(平成11年) | |9,541 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref> |- |2000年(平成12年) |18,023 |9,430 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref> |- |2001年(平成13年) |<ref name="RP893_27">{{Cite journal|和書|author=京王電鉄鉄道営業部運転課|title=輸送と運転 近年の動向|journal=鉄道ピクトリアル|date=2014-08-10|volume=64|issue=第8号(通巻893号)|page=27|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref>18,234 |9,438 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref> |- |2002年(平成14年) |17,700 |9,178 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref> |- |2003年(平成15年) |18,339 |9,402 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref> |- |2004年(平成16年) |18,241 |9,353 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref> |- |2005年(平成17年) |18,638 |9,463 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref> |- |2006年(平成18年) |19,009 |9,619 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref> |- |2007年(平成19年) |19,643 |9,918 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref> |- |2008年(平成20年) |19,841 |9,981 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref> |- |2009年(平成21年) |19,870 |9,992 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref> |- |2010年(平成22年) |19,527 |9,773 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref> |- |2011年(平成23年) |20,095 |10,074 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成23年)]</ref> |- |2012年(平成24年) |20,137 |10,096 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成24年)]</ref> |- |2013年(平成25年) |<ref name="RP893_27" />20,169 |10,129 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成25年)]</ref> |- |2014年(平成26年) |20,159 |10,115 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成26年)]</ref> |- |2015年(平成27年) |20,793 |10,407 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成27年)]</ref> |- |2016年(平成28年) |21,153 |10,603 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成28年)]</ref> |- |2017年(平成29年) |21,342 |10,690 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成29年)]</ref> |- |2018年(平成30年) |21,787 |10,907 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成30年)]</ref> |- |2019年(令和元年) |21,274 |10,516 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |15,709 |7,858 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2020/tn20q3i004.htm 東京都統計年鑑(令和2年)]</ref> |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="京王" name="keio2021">{{Cite web|和書|author=京王電鉄株式会社 |authorlink=京王電鉄 |coauthors= |date= |title=1日の駅別乗降人員|url=https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-10-01 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220626083727/https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |archivedate=2022-06-26 |deadlink=2023-08-02 |}}</ref>17,490 |8,816 |<ref group="*>[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2021/tn21q3i004.htm 東京都統計年鑑(令和3年)]</ref> |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="京王" name="keio2022">{{Cite web|和書|author=京王電鉄株式会社 |authorlink=京王電鉄 |coauthors= |date= |title=1日の駅別乗降人員|url=https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-10-01 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230610030616/https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |archivedate=2023-06-10 |deadlink= |}}</ref>19,309 | | |} == 駅周辺 == 駅に接した西側は踏切で、「競馬場通り」が線路と直角に交差<ref name="fuchu-city-road">[https://www.city.fuchu.tokyo.jp/kurashi/machi/dourokouen/shidoumeisyoutoninteihukuin.files/ninteimouzu29.3.pdf 府中市道路線認定図]府中市</ref>しており、この道路を北側には[[東京都道229号府中調布線]]([[旧甲州街道]])、[[東京都道229号府中調布線]]バイパス、[[国道20号]]([[甲州街道]])を横切っており、突き当りには[[府中基地|航空自衛隊府中基地]]が所在する。古くは駅の北口が競馬場通りに面していたが、後に少し入った[[品川通り|品川街道]]に面するようになる。競馬場通りの南方は[[東京競馬場]]に突き当たるまで一本道となっている<ref name="fuchu-city-road" />。 [[店|商業施設]]は北口・南口ともに平和通り・競馬場通り沿いに集中しており、南口は競馬場通りの東側歩道が[[アーケード (建築物)|アーケード]]になっていて商店が密集している一方、西側歩道は[[スーパーマーケット]]が中心となっている。アーケードを抜けると、府中清水が丘郵便局と清水が丘公会堂がある。東に入ると小さな公園があり、周辺に小さい商店が集まっているが、その先は府中崖線([[武蔵野台地#立川崖線(府中崖線や布田崖線とも呼ばれる)|立川崖線]])がある。 駅北側は住宅以外の建物が多い。北口には、[[ホテル]]と[[自動車教習所]]、[[交番]]や[[ガソリンスタンド]]、銀行がある。[[国道20号]](甲州街道)沿いには[[カーディーラー]]が多く、スーパーマーケットやドラッグストア、ディスカウントショップがある。さらに北へ向かうと、ホール、公園、高校、山がある。 駅西側踏切脇には[[花屋]]、[[洋食]]店、[[ケーキ]]屋、[[居酒屋]]、[[スーパーマーケット]]などの店舗や[[歯科医]]が営業を行っている。 上記以外は主に[[住宅地]]となっている。 *ホテルマロウドイン東京([[東都自動車グループ]]が運営) *府中自動車教習所 *[[りそな銀行]]東府中支店 *[[多摩信用金庫]]東府中支店 *[[東横INN]]京王線東府中駅北口 *武蔵商工会議所会館 *[[ライフコーポレーション|ライフ]]東府中店 *[[サンドラッグ]]本社(東府中店と同一建物内) *[[ドン・キホーテ (企業)|ドン・キホーテ]]府中店(第1号店) *[[サミットストア]]東府中店・府中若松店 *[[ニトリ]]府中店 *[[府中の森公園]] *[[府中の森芸術劇場]] *[[府中市美術館]] *府中市生涯学習センター *[[浅間山 (東京都)|浅間山]](せんげんやま) *[[府中市立浅間中学校]] *[[東京都立府中工科高等学校]] *[[航空自衛隊]][[府中基地]](元[[在日米軍]]基地) *[[大國魂神社#末社|瀧神社]] *[[武蔵国府八幡宮]] *府中清水が丘郵便局 *清水が丘公会堂 *株式会社ジャーマンモーター *[[トヨタ西東京カローラ]] 府中PiPit店 *トヨタ西東京カローラ府中店 *ビーフリー東京府中店 *スズキ府中販売株式会社 *ダイハツ府中販売株式会社 *レクサス府中 *[[日産プリンス西東京販売]] 府中店 *メルセデス・ベンツ府中 *ヤナセ府中支店 *Murauchi BMW 府中ワークショップ工場 *Murauchi BMW 府中支店新車ショールーム/ワークショップ *[[関東マツダ]] 東府中店 *A-big Sport *[[東京トヨタ自動車]] 府中店 *エービッグモトラッド *ダイハツ東京販売府中店 *Honda Cars東京中央府中店 *メルセデスベンツ 府中サーティ・ファイドカーセンター <gallery> Higashifuchu.kousaten.jpg|東府中交差点([[甲州街道]]) Don Quijote Co., Ltd.jpg|ドン・キホーテ府中店(第1号店) ChuBus0002.jpg|駅北口から発着するちゅうバス </gallery> === バス路線 === '''東府中駅'''(北口) * [[京王バス]]・府中市[[コミュニティバス]]「[[ちゅうバス]]」 ** [[京王バス府中営業所#東府中線|府75]] 浅間町三丁目経由 [[武蔵小金井駅]]南口行(京王バス) ** 府75 浅間町三丁目行(京王バス) ※ 平日の夜間1本のみ運行 ** 府75 貫井トンネル下行(京王バス) ※ 平日の夜間2本のみ運行 ** [[ちゅうバス#多磨町ルート|多磨町ルート]] [[多磨霊園]]表門経由 多磨町行 / 生涯学習センター経由 [[府中駅 (東京都)|府中駅]]行(京王バス) ** [[ちゅうバス#押立町・朝日町循環新設|朝日町ルート]] [[武蔵野台駅]]南口経由 [[多磨駅]]行 / 八幡宿東経由 府中駅行(京王バス) == 隣の駅 == [[File:Higashi-fuchu station W.jpg|thumb|320px|東府中駅に臨時停車する京王線新宿駅始発準特急<br>2016年11月27日<br>第36回[[ジャパンカップ]]開催日]] ; 京王電鉄 : [[File:Number prefix Keio-line.svg|15px|KO]] 京王線 :: {{Color|#ff1493|■}}特急 ::: '''通過'''(臨時停車の場合あり) :: {{Color|#20b2aa|■}}急行・{{Color|olive|■}}区間急行(区間急行は上りのみ運転で、府中方当駅まで各駅に停車) ::: [[調布駅]] (KO18) - '''東府中駅 (KO23)''' - [[府中駅 (東京都)|府中駅]] (KO24) :: {{Color|blue|■}}快速(下りのみ運転)・{{Color|gray|■}}各駅停車 ::: [[多磨霊園駅]] (KO22) - '''東府中駅 (KO23)''' - 府中駅 (KO24) : [[File:Number prefix Keio-line.svg|15px|KO]] 競馬場線 :: {{Color|#ff1493|■}}特急・{{Color|#20b2aa|■}}急行(いずれも競馬開催時の上りのみ運転。特急は路線図上は'''通過'''であるが、実際の運転時は臨時停車する) ::: 調布駅(京王線)(KO18) ← '''東府中駅 (KO23)''' ← [[府中競馬正門前駅]] (KO46) :: {{Color|gray|■}}各駅停車(競馬開催時も一部の重賞開催日を除いて線内折り返し運転のみ) ::: '''東府中駅 (KO23)''' - 府中競馬正門前駅 (KO46) * [[東京競馬場]]での中央競馬開催日および[[有馬記念]]<ref group="注釈">有馬記念は[[中山競馬場]]での開催だが、東京競馬場で場外発売が行われ、場外発売では特に来場者が多くなる為。</ref>開催日(12月下旬日曜日)には、競馬場来場者への利便性向上のため、一部時間帯の上下線の特急が[[停車 (鉄道)#臨時停車・特別停車|臨時停車]]する。 * サッカー[[Jリーグ]]・FIFA([[国際サッカー連盟]])主催サッカー国際試合や各種イベントなどの開催時には、通常の隣の停車駅との間にある以下の駅に停車することがある。 ** [[東京スタジアム (多目的スタジアム)|東京スタジアム(味の素スタジアム)]]でのイベント開催時には、一部の急行が[[飛田給駅]]に停車する場合がある。東京競馬開催日と重なった場合には、東府中に臨時停車する特急が飛田給駅にも停車する場合がある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 脚注 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist}} ;東京都統計年鑑 {{Reflist|group="*"|22em}} ;京王電鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="京王"|3}} == 関連項目 == <!--駅ではなく路線に関連するものは除去--> * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[ウマ娘 プリティーダービー]] - [[ウマ娘 プリティーダービー (アニメ)|テレビアニメ]]第1話において、同駅が実名で登場する。 == 外部リンク == {{Commonscat|Higashi-Fuchū Station}} * [https://www.keio.co.jp/train/station/ko23_higashi-fuchu/ 京王電鉄 東府中駅] {{京王線}} {{デフォルトソート:ひかしふちゆう}} [[Category:東京都府中市の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 ひ|かしふちゆう]] [[Category:京王電鉄の鉄道駅]] [[Category:1916年開業の鉄道駅]]
2003-05-01T07:55:39Z
2023-11-29T14:34:04Z
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7,541
テオドール・エードラー・フォン・レルヒ
テオドール・エードラー・フォン・レルヒ(Theodor Edler von Lerch, 1869年8月31日 - 1945年12月24日)は、オーストリア=ハンガリー帝国の軍人。最終階級は陸軍少将。日本で初めて、本格的なスキー指導をおこなった人物である。 訪日時は少佐で、少佐の時にスキーを日本に伝えたため、日本国内では一般的には「レルヒ少佐」と呼ばれる。後に中佐に昇格したあと日本各地を回ったため、北海道などでは「レルヒ中佐」と呼ばれる。 西ドイツで国防相、追放者・難民・戦災者相、ドイツ連邦議会議長を務めたカイ=ウヴェ・フォン・ハッセルは母方の甥にあたる。 1869年、オーストリア=ハンガリー帝国を構成しているハンガリー王国北部のプレスブルク(現スロバキアの首都ブラチスラヴァ)にて、軍人の家庭に生まれる。幼少期の愛称は「テオ」。10歳の時、福音学校に入学。それから3年後、家族はプラハに移るが、レルヒは一人ウィーンのギムナジウムに転学する。それから3年後、家族のいるプラハへ行き、ドイツ系ギムナジウムに転学。生活態度は極めて真面目で、3年間首席を通した。 1888年、ウィーナー・ノイシュタットのテレジア士官学校(英語版)に入学し、1891年少尉に任官。奇遇にも、父が勤務していたプラハの歩兵第102連隊に配属先された。配属当初から知的才能、責任感、知識、指導力に秀で、上官や部下への人当たりもよく、勤務評定で高い評価を得ていた。1894年10月、士官学校の幕僚育成コース試験に合格。教育課程修了後、チェルノヴィッツの第58歩兵旅団附参謀、レンベルクの第11歩兵師団附参謀、マロシュヴァーシャールヘイの第62歩兵旅団第5分遣中隊附を経て、1900年インスブルックの第14軍司令部附参謀となった。山岳地帯の同地で、ビルゲリー大尉が行っていたスキー訓練に興味を持つようになる。 1902年11月、戦争大臣の交代とともに、戦争省参謀本部作戦行動班附に抜擢される。12月、アルペンスキーの創始者マティアス・ツダルスキー(ドイツ語版)に師事。1903年になると南チロルでの国境警備に派遣された。この環境はレルヒにとってスキーの研究に絶好の地であり、戦争省の建物が道を挟んでアルペンスキークラブ事務所と隣り合っていたことも、レルヒがスキーにさらなる情熱を燃やす要因となった。 ツダルスキーは市民のみならず軍隊にもスキーの重要性を説いており、1890年代から一部の部隊に指導を行っていた。しかし、当時の軍内部ではスキーを娯楽と考える意見が多数派で、導入に懐疑的だった。 そんな中、1906年2月、シュタイアーマルク西南部ムーラウで山岳演習を行っていた騎兵部隊が雪崩に遭遇。スキーを使って救出に参加したレルヒは、軍高官と接点の多い参謀本部附という自身の立場を利用し、直接的に、あるいは友人知人を介してスキーの重要性を軍高官らに説いて回った。参謀総長フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフ中将は彼の働きに応え、スキーの導入を正式に決定。1908年2月、チロル地方のベックシュタイン山麓で最初の軍隊によるスキー講習会が開催され、レルヒは講師として献身的に指導に加わった。 日露戦争でロシア帝国に勝利した日本陸軍の研究のため、1910年11月30日に交換将校として来日。八甲田山の雪中行軍で事故をおこしたばかりだったこともあり、日本陸軍はアルペンスキーの創始者マティアス・ツダルスキーの弟子であるレルヒのスキー技術に注目。その技術向上を目的として新潟県中頸城郡高田(現在の上越市)にある第13師団歩兵第58連隊(第13師団長・長岡外史、歩兵第58連隊長・堀内文次郎)の営庭や、高田の金谷山などで指導をおこなった。 1911年(明治44年)1月12日に歩兵第58連隊の営庭を利用し鶴見宜信大尉ら14名のスキー専修員に技術を伝授したことが、日本での本格的なスキー普及の第一歩とされている。また、これにちなみ毎年1月12日が「スキーの日」とされている。4月にはエゴン・フォン・クラッツァー(クラッセルとも、Egon Edler von Kretzer)とともに富士山でスキー滑降を行う。 1912年2月、北海道の旭川第7師団へのスキー指導のため旭川市を訪問。4月15日21時30分、北海道でのスキー訓練の総仕上げとして羊蹄山に登るため倶知安町に到着。16日午前5時の出発を予定していたが、雨のため1日延期し17日に羊蹄山登山を行い、また羊蹄山の滑走も行った。レルヒの羊蹄登山には小樽新聞・奥谷記者も同行している。 明治天皇の崩御間もない10月21日、レルヒは日本各地の旅行に出た。下関から箱根、名古屋、伊勢、奈良、京都、広島を回り、下旬に門司港から朝鮮半島へ向かった。その後日本から中華民国に渡り満州、北京、上海へ、さらにイギリス領香港を経て12月にイギリス領インド帝国の演習を観戦した後、年明けの1913年1月に帰国した。 なお、レルヒは1本杖、2本杖の両方の技術を会得しており、日本で伝えたのは杖を1本だけ使うスキー術である。これは、重い雪質の急な斜面である高田の地形から判断した結果である。なお、ほぼ同時期に普及した札幌では、2本杖のノルウェー式が主流となっていた。1923年に開催された第一回全日本スキー選手権大会では、2本杖のノルウェー式が圧倒。レルヒが伝えた1本杖の技術は急速に衰退した。 帰国後は戦争省附を経てメッツォロンバルドの第14師団隷下第4混成山岳連隊第1大隊長、スクタリの歩兵第87連隊分遣隊長を任ぜられる。 オーストリアがセルビアに宣戦布告したことで勃発した第一次世界大戦では新設された第17軍参謀長に任ぜられ、ワルシャワに派遣。ロシア帝国陸軍と交戦するも物量に勝る敵に後退を余儀なくされ、1年間カルパティア山脈に留まる。1年後の3月、ガリツィアの戦闘で大敗。8月にはブレスト=リトフスク(現ブレスト)まで盛り返すも、再度反撃を受けシュトルフィーまで後退。16年3月以降は南に派遣され、イゾンツォにてイタリア王国と交戦。その後はドイツ帝国陸軍軍集団「ループレヒト王太子」(de)の所属として西部戦線に向かいフランドル地方などを転戦したが、詳細は不明。この戦線での負傷により退役を余儀なくされた。 退役後、貿易会社を立ち上げ業務取締役の役職に就くが、わずか1年で役職から身を引く。以降はチロル地方での勤務や日本への旅行を題材に、講演活動などを中心とした生活を送った。満州事変勃発後の1932年、戦争省でのキャリアを活かし「オーストリア軍事新聞」などの軍事誌に極東情勢を中心とした記事や論文を寄稿し、軍事専門家として活動する。しかし敗戦国であるため軍事恩給もなく、その暮らしは財政面でかなり苦しかったという。 1945年12月24日、連合軍による軍政期中のオーストリアで糖尿病のため死去。76歳没。ウィーンの共同墓地に葬られた。 現在、新潟県上越市高田の金谷山には日本スキー発祥記念館が設置され、レルヒの業績を伝えている。また毎年2月上旬に「レルヒ祭」をはじめとした各種記念イベントが開かれている。2010年はレルヒが日本にスキーを持ち込んで100年になることもあり、11年にかけて各種記念事業が開催された。 以下、オーストリア軍公式HPなどより翻訳。 4人兄妹の長男。長らく独身で、1922年3月27日、53歳にしてイルマ夫人と結婚。日本にやってきた時から思い続けており、実に12年かけての成就である。夫人は前夫との間にできた2人の女児を連れており、彼女らと弟妹の子孫は現在でも上越市と交流を続けている。 2009年、翌年にスキー発祥100周年となる事を記念して行われる新潟県観光キャンペーンのキャラクターとして誕生。レルヒ少佐を模したゆるキャラである。 キャラクターデザインは、観光キャンペーンのコンペで案が採用された株式会社タカヨシと繋がりのある外注デザイナーによるもの。キモカワイイをウリにして評判を呼んでおり、ストラップが完売するなどグッズの販売も好調である。 100周年記念キャンペーン終了後は、「元祖スキー天国新潟」をキャッチフレーズとした新潟県PRキャラクターとして活躍しており、日本国内各地へ宣伝に出掛けている。2011年末には、JR東日本管内の各駅にて宣伝ポスターが掲出された。 また、2012年2月に新潟市内在住の小学生女子3人組からなるユニット「シュプール音楽隊」によるCD「レルヒさんのうた」が県内各地のショップで販売された。 ゆるキャラグランプリには初回から参加している。第1回(2010年)は携帯投票部門で4,874票を獲得し15位。第2回(2011年)は90,569票で10位となった。 2012年6月20日フジテレビ・笑っていいともに出演、ゆるキャラのキャッチフレーズを決めるコーナーで太田光提案の『マリオの親戚』に決定。 2012年7月にはハウスウェルネスフーズのドリンク「C1000」のキャンペーンキャラクターとなっている。これは以前放映された「C1000」のTVCMに登場する「黄色い服装の鼓笛隊のおもちゃ」がレルヒさんにしか見えないという視聴者のtwitterでのツイートが元になっている。 2014年製作のアニメ『ロボットガールズZ』第6.5話(BD/DVD第2巻特典映像)にゲストキャラとして出演。声は稲田徹が演じる。
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テオドール・エードラー・フォン・レルヒは、オーストリア=ハンガリー帝国の軍人。最終階級は陸軍少将。日本で初めて、本格的なスキー指導をおこなった人物である。 訪日時は少佐で、少佐の時にスキーを日本に伝えたため、日本国内では一般的には「レルヒ少佐」と呼ばれる。後に中佐に昇格したあと日本各地を回ったため、北海道などでは「レルヒ中佐」と呼ばれる。 西ドイツで国防相、追放者・難民・戦災者相、ドイツ連邦議会議長を務めたカイ=ウヴェ・フォン・ハッセルは母方の甥にあたる。
{{基礎情報 軍人 | 氏名 = テオドール・エードラー・フォン・レルヒ | 各国語表記 = Theodor Edler von Lerch | 生年月日 = [[1869年]][[8月31日]] | 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1869|8|31|1945|12|24}} | 画像 = Theodor Edler von Lerch.jpg | 画像サイズ = 200px | 画像説明 = | 渾名 = レルヒ少佐 | 生誕地 = {{AUT1867}}、プレスブルク<br/>(現:{{SLK}}、[[ブラチスラヴァ]]) | 死没地 = {{AUT1945}}、[[ウィーン]] | 所属組織 = {{flagicon image|War flag of Austria-Hungary (1918).svg}} {{仮リンク|オーストリア=ハンガリー帝国陸軍|en|Austro-Hungarian Army}} | 軍歴 = 1891 - 1919 | 最終階級 = [[File:Kuk GenMaj 1918.svg|25px]] [[少将]] | 除隊後 = 軍事評論家、講演を中心に活動 | 墓所 = | 署名 = }} '''テオドール・エードラー・フォン・レルヒ'''({{De|Theodor Edler von Lerch}}, [[1869年]][[8月31日]] - [[1945年]][[12月24日]])は、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の[[軍人]]。最終階級は陸軍少将。'''日本で初めて、本格的なスキー指導をおこなった人物'''である。 訪日時は少佐で、少佐の時に[[スキー]]を[[日本]]に伝えたため、日本国内では一般的には「'''レルヒ少佐'''」と呼ばれる。後に中佐に昇格したあと日本各地を回ったため、北海道などでは「レルヒ中佐」と呼ばれる。 西ドイツで国防相、追放者・難民・戦災者相、ドイツ連邦議会議長を務めた[[カイ=ウヴェ・フォン・ハッセル]]は母方の甥にあたる<ref>Dieter E. Kilian "Kai-Uwe von Hassel und seine Familie" Books on Demand, 2013 ,P.27</ref>。 == 経歴 == === 出世とスキー === [[1869年]]、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]を構成している[[ハンガリー王国]]北部のプレスブルク(現[[スロバキア]]の首都[[ブラチスラヴァ]])にて、軍人の家庭に生まれる。幼少期の愛称は「'''テオ'''」<ref name="A">[http://snowsport.dip.jp/sianews/sn144-09.pdf 日本スキーのバイオニア・レルヒ少佐 第1回] - びわこ成蹊スポーツ大学教授 新井博{{リンク切れ|date=2020年12月}}</ref>。10歳の時、福音学校に入学。それから3年後、家族は[[プラハ]]に移るが、レルヒは一人ウィーンの[[ギムナジウム]]に転学する。それから3年後、家族のいる[[プラハ]]へ行き、ドイツ系ギムナジウムに転学。生活態度は極めて真面目で、3年間首席を通した<ref name="A" />。 1888年、[[ウィーナー・ノイシュタット]]の{{仮リンク|テレジア士官学校|en|Theresian Military Academy}}に入学し、1891年少尉に任官。奇遇にも、父が勤務していたプラハの歩兵第102連隊に配属先された。配属当初から知的才能、責任感、知識、指導力に秀で、上官や部下への人当たりもよく、勤務評定で高い評価を得ていた<ref name="B">[http://snowsport.dip.jp/sianews/sn145-11.pdf 日本スキーのバイオニア・レルヒ少佐 第2回] - びわこ成蹊スポーツ大学教授 新井博</ref>。1894年10月、士官学校の幕僚育成コース試験に合格。教育課程修了後、[[チェルニウツィー|チェルノヴィッツ]]の第58歩兵旅団附参謀、[[リヴィウ|レンベルク]]の第11歩兵師団附参謀、[[トゥルグ・ムレシュ|マロシュヴァーシャールヘイ]]の第62歩兵旅団第5分遣中隊附を経て、1900年[[インスブルック]]の第14軍司令部附参謀となった。山岳地帯の同地で、ビルゲリー大尉が行っていたスキー訓練に興味を持つようになる<ref name="B" />。 1902年11月、戦争大臣の交代とともに、戦争省参謀本部作戦行動班附に抜擢される。12月、[[アルペンスキー]]の創始者{{仮リンク|マティアス・ツダルスキー|de|Mathias Zdarsky}}に師事。1903年になると南チロルでの国境警備に派遣された。この環境はレルヒにとってスキーの研究に絶好の地であり、戦争省の建物が道を挟んでアルペンスキークラブ事務所と隣り合っていたことも、レルヒがスキーにさらなる情熱を燃やす要因となった<ref>[http://snowsport.dip.jp/sianews/sn146-08.pdf 日本スキーのバイオニア・レルヒ少佐 第3回] - びわこ成蹊スポーツ大学教授 新井博</ref>。 ツダルスキーは市民のみならず軍隊にもスキーの重要性を説いており、[[1890年代]]から一部の部隊に指導を行っていた。しかし、当時の軍内部ではスキーを娯楽と考える意見が多数派で、導入に懐疑的だった。 そんな中、[[1906年]]2月、[[シュタイアーマルク州|シュタイアーマルク]]西南部ムーラウで山岳演習を行っていた騎兵部隊が雪崩に遭遇。スキーを使って救出に参加したレルヒは、軍高官と接点の多い参謀本部附という自身の立場を利用し、直接的に、あるいは友人知人を介してスキーの重要性を軍高官らに説いて回った。参謀総長[[フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフ]]中将は彼の働きに応え、スキーの導入を正式に決定。1908年2月、[[チロル]]地方の[[ベックシュタイン]]山麓で最初の軍隊によるスキー講習会が開催され、レルヒは講師として献身的に指導に加わった<ref>[http://snowsport.dip.jp/sianews/sn148.pdf 日本スキーのバイオニア・レルヒ少佐 第5回] - びわこ成蹊スポーツ大学教授 新井博</ref>。 === 来日 === [[File:Theodor von Lerch in Japan.jpg|thumb|200px|right|1911年(明治44年)1月12日]] [[日露戦争]]で[[ロシア帝国]]に勝利した[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]の研究のため、[[1910年]][[11月30日]]に交換[[将校]]として来日。[[八甲田山]]の[[八甲田雪中行軍遭難事件|雪中行軍で事故]]をおこしたばかりだったこともあり、日本陸軍はアルペンスキーの創始者マティアス・ツダルスキーの弟子であるレルヒのスキー技術に注目。その技術向上を目的として[[新潟県]][[中頸城郡]][[高田市|高田]](現在の[[上越市]])にある[[第13師団 (日本軍)|第13師団]][[歩兵第58連隊]](第13師団長・[[長岡外史]]、歩兵第58連隊長・[[堀内文次郎]])の営庭や、高田の[[金谷山]]などで指導をおこなった。 1911年(明治44年)1月12日に歩兵第58連隊の営庭を利用し[[鶴見宜信]]大尉ら14名のスキー専修員に技術を伝授したことが、日本での本格的なスキー普及の第一歩とされている。また、これにちなみ毎年1月12日が「スキーの日」とされている。4月にはエゴン・フォン・クラッツァー(クラッセルとも、Egon Edler von Kretzer)とともに[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]でスキー滑降を行う。 [[1912年]]2月、[[北海道]]の旭川[[第7師団 (日本軍)|第7師団]]へのスキー指導のため[[旭川市]]を訪問。[[4月15日]]21時30分、北海道でのスキー訓練の総仕上げとして[[羊蹄山]]に登るため[[倶知安町]]に到着。16日午前5時の出発を予定していたが、雨のため1日延期し17日に羊蹄山登山を行い、また羊蹄山の滑走も行った。レルヒの羊蹄登山には小樽新聞・奥谷記者も同行している。 [[明治天皇]]の崩御間もない10月21日、レルヒは日本各地の旅行に出た。[[下関市|下関]]から[[箱根]]、[[名古屋市|名古屋]]、[[伊勢神宮|伊勢]]、[[奈良市|奈良]]、[[京都]]、[[広島市|広島]]を回り、下旬に[[門司港]]から[[朝鮮半島]]へ向かった。その後日本から[[中華民国]]に渡り満州、[[北京]]、[[上海]]へ、さらに[[イギリス]]領[[香港]]を経て12月に[[イギリス領インド帝国]]の演習を観戦した後、年明けの1913年1月に帰国した。 なお、レルヒは1本杖、2本杖の両方の技術を会得しており、日本で伝えたのは杖を1本だけ使うスキー術である。これは、重い雪質の急な斜面である高田の地形から判断した結果である<ref>[http://snowsport.dip.jp/sianews/sn153-08.pdf 日本スキーのバイオニア・レルヒ少佐 第10回] - びわこ成蹊スポーツ大学教授 新井博</ref>。なお、ほぼ同時期に普及した札幌では、2本杖のノルウェー式が主流となっていた。1923年に開催された第一回全日本スキー選手権大会では、2本杖のノルウェー式が圧倒。レルヒが伝えた1本杖の技術は急速に衰退した<ref>海野弘『スキーはやっぱり・・・』写楽1984年3月号p149</ref>。 === 帰国、そして戦争 === 帰国後は戦争省附を経て[[メッツォロンバルド]]の第14師団隷下第4混成山岳連隊第1大隊長、[[シュコドラ|スクタリ]]の歩兵第87連隊分遣隊長を任ぜられる。 オーストリアが[[セルビア王国 (近代)|セルビア]]に宣戦布告したことで勃発した[[第一次世界大戦]]では新設された第17軍参謀長に任ぜられ、[[ワルシャワ]]に派遣。[[ロシア帝国陸軍]]と交戦するも物量に勝る敵に後退を余儀なくされ、1年間[[カルパティア山脈]]に留まる。1年後の3月、[[ガリツィア]]の戦闘で大敗。8月にはブレスト=リトフスク(現[[ブレスト (ベラルーシ)|ブレスト]])まで盛り返すも、再度反撃を受けシュトルフィーまで後退<ref name="D">{{PDFlink|[http://sia.official.jp/sianews/sn159-08.pdf 日本スキーのパイオニア・レルヒ少佐(第16回「レルヒの第一次世界大戦参加について」)]}} - びわこ成蹊スポーツ大学教授 新井博</ref>。16年3月以降は南に派遣され、[[イゾンツォ]]にて[[イタリア王国]]と交戦。その後は[[ドイツ帝国]]陸軍軍集団「ループレヒト王太子」([[:de:Heeresgruppe „Kronprinz Rupprecht“|de]])の所属として[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]に向かい[[フランドル]]地方などを転戦したが、詳細は不明<ref name="D" />。この戦線での負傷により退役を余儀なくされた。 退役後、貿易会社を立ち上げ業務取締役の役職に就くが、わずか1年で役職から身を引く。以降は[[チロル]]地方での勤務や日本への旅行を題材に、講演活動などを中心とした生活を送った。[[満州事変]]勃発後の1932年、戦争省でのキャリアを活かし「オーストリア軍事新聞」などの軍事誌に極東情勢を中心とした記事や論文を寄稿し、軍事専門家として活動する<ref name="E">{{PDFlink|[http://sia.official.jp/sianews/sn160-09.pdf 日本スキーのパイオニア・レルヒ少佐(第17回【最終回】「退役後のレルヒについて」)]}} - びわこ成蹊スポーツ大学教授 新井博</ref>。しかし敗戦国であるため軍事恩給もなく、その暮らしは財政面でかなり苦しかったという<ref name="C">[https://archive.is/20130501170835/http://ski100.jp/history/departure/ レルヒ少佐帰国] - 日本SKI発祥100年記念委員会</ref>。 [[1945年]][[12月24日]]、[[連合軍軍政期 (オーストリア)|連合軍による軍政期中のオーストリア]]で[[糖尿病]]のため死去。76歳没。ウィーンの共同墓地に葬られた。 現在、新潟県上越市高田の金谷山には[[日本スキー発祥記念館]]が設置され、レルヒの業績を伝えている。また毎年2月上旬に「レルヒ祭」をはじめとした各種記念イベントが開かれている。2010年はレルヒが日本にスキーを持ち込んで100年になることもあり、11年にかけて各種記念事業が開催された。 <gallery> ファイル:レルヒ少佐.JPG|金谷山スキー場より市街地を見下ろすレルヒ像 ファイル:Theodor von Lerch.jpg|旭川空港に設置されているレルヒの銅像 ファイル:Stone monument of skiing originated in Japan.jpg|「大日本スキー発祥之地」記念碑(新潟県上越市金谷山スキー場) ファイル:Memorial for skiing originated in Japan, 20121206.jpg|日本スキー発祥記念館(新潟県上越市金谷山) </gallery> == 年譜 == 以下、[http://www.bmlv.gv.at/truppendienst/ausgaben/artikel.php?id=892 オーストリア軍公式HP]などより翻訳。 * 1879年 - 福音学校に入学 * 1882年 - ウィーンのギムナジウムに転学 * 1885年 - ドイツ・ギムナジウムに転学 * 1888年 - テレジア士官学校入学 * 1891年10月 - 少尉、歩兵第102連隊附 * 1895年 - 中尉 * 1896年 - 歩兵第58旅団附参謀 * 1897年 - 第11歩兵師団本部附参謀 * 1898年 - 2級大尉、第62歩兵旅団第5分遣中隊附 * 1900年 - 1級大尉、第14軍司令部附 * 1902年11月 - 戦争省参謀本部作戦行動班附 * 1908年 - 少佐 * 1910年 ** 9月26日 - [[トリエステ]]発 ** 11月30日 - [[横浜港|横浜]]到着 *[[ファイル:Gaishi Nagaoka and Relch.jpg|サムネイル|第13師団長の[[長岡外史]]と共に]]1911年 - 中佐 * 1912年10月 - 門司港出発 * 1913年 ** 1月 - 戦争省附 ** 5月1日 - 第4混成山岳連隊第1大隊長 * 1914年 - 大佐、歩兵第87連隊分遣隊長 ** 6月 - 第17軍参謀長 * 1917年8月 - 第20山岳旅団長 * 1918年 ** 6月18日 - 第1/19歩兵師団長([[:sl:Skupina I/XIX|sl]])(〜7月18日)<ref>[http://www.austro-hungarian-army.co.uk/divcomd1.htm Divisional Commanders 1914-1918]</ref> ** 7月 - 第93歩兵旅団長 ** 10月 - 少将、軍集団「ループレヒト王太子」附 * 1919年1月1日 - 退役 * 1920年7月 - 貿易会社オストラント設立(30年2月11日解散<ref name="E" />) * 1922年3月27日 - イルマ夫人と結婚 * 1932年 - 「オーストリア軍事新聞」にて記事の執筆を始める * 1938年7月 - 軍事雑誌「軍事技術と科学」にて記事の執筆を始める == 栄典 == * 新潟県体育協会体育功労賞<ref>[http://nsa.jpn.com/rekisi/zinbutusi/hyousyou/kentaikyouH.htm (財)新潟県体育協会表彰受賞者一覧] </ref> == 人物像 == * 生粋のスポーツマンで、スキーのみならず、[[水泳]]、[[サイクリング]]、[[スケート]]、[[登山]]と何でもこなした。スキーよりスケートの方が上手だったとの説もある<ref>[{{NDLDC|963483}} スケート](日本スケート会 1921年([[大正]]10年)1月7日発行) p.5</ref>。また、芸術にも秀で、絵画を嗜んだ。現在、上越市はレルヒの描いたオーストリアの山々や町並みなどの水彩画約50点を所蔵している<ref name="asahi">{{Cite news |url=http://www.asahi.com/articles/ASG1D54BJG1DUOHB008.html |title=新潟)レルヒ少佐を顕彰し絵画展も開催 |work=朝日新聞デジタル |newspaper=[[朝日新聞]] |date=2014-1-13 |accessdate=2014-1-18 |agency=[[朝日新聞社]] }}</ref>。 * 母語の[[ドイツ語]]のほかオーストリア=ハンガリー帝国の諸民族が使用している[[チェコ語]]、[[マジャル語]]、[[イタリア語]]に[[フランス語]]、[[英語]]、[[ロシア語]]の6ヶ国語が話せた。これらはそれぞれ配属先で身に付けたものである<ref name="B" />。[[日本語]]も来日時に少しだけ習得した。 * 1930年(昭和5年)、高田に「スキー発祥記念碑」が建立されたとき除幕式に招待されたが、身体の具合が思わしくなく財政的に厳しいという理由で来日を断った。そんな窮状を知った日本の有志らが協力して見舞金を集め、同年、当時の金額で1600円(2017年現在の貨幣価値で600〜800万円相当)をレルヒに寄付した。そのお礼にレルヒからは、礼状とともに自筆の油絵と水彩画が贈られた<ref name="C" />。 == 家族 == 4人兄妹の長男。長らく独身で、1922年3月27日、53歳にしてイルマ夫人と結婚。日本にやってきた時から思い続けており、実に12年かけての成就である<ref name="C" />。夫人は前夫との間にできた2人の女児を連れており、彼女らと弟妹の子孫は現在でも上越市と交流を続けている。 * 父:ルートヴィヒ - 陸軍大佐、チェコ北部ボヘミア出身。1903年死去 * 母:クララ - 旧姓トールマン( Thormann)。ドイツ北部出身、父が軍人。1917年死去 * 長弟:{{仮リンク|フリードリヒ・フォン・レルヒ|label=フリードリヒ|de|Friedrich von Lerch}} - 物理学者。1947年死去 * 次弟:クリスティアン - 電気技師、子孫は[[アメリカ合衆国]][[ミネソタ州]]に移住 * 妹:マグダレーネ - 芸術家。1938年死去 * 妻:イルマ - [[ルーマニア]]貴族出身。1976年1月16日死去、享年99 * 次女:ヘラ - イギリスに移住、2004年8月死去、享年94 * 叔母:エリーゼ・ヘレネ・フォン・ハッセル - 旧姓トールマン、母の姉。ドイツ陸軍中将{{仮リンク|フリードリヒ・フォン・ハッセル|en|Friedrich von Hassel}}と結婚 * 従兄弟:{{仮リンク|テオドール・フォン・ハッセル|en|Theodor von Hassel}} - ドイツ陸軍大尉。農場を経営。 * 甥:[[カイ=ウヴェ・フォン・ハッセル]] - 国防相、追放者・難民・戦災者相、ドイツ連邦議会議長 == ゆるキャラ レルヒさん == 2009年、翌年にスキー発祥100周年となる事を記念して行われる新潟県観光キャンペーンのキャラクターとして誕生。レルヒ少佐を模した[[ゆるキャラ]]である。 [[キャラクターデザイン]]は、観光キャンペーンのコンペで案が採用された株式会社タカヨシと繋がりのある外注[[デザイナー]]によるもの<ref>[http://www.tk-print.jp/lerch/index.html 日本スキー発祥100周年記念キャラクター「レルヒさん」誕生秘話] - 株式会社タカヨシ</ref>。キモカワイイをウリにして評判を呼んでおり、ストラップが完売するなどグッズの販売も好調である<ref>[https://www.walkerplus.com/article/20504/ スキー100周年で人気爆発! ゆるキャラ「レルヒさん」の魅力] - [[東京ウォーカー]] 2011年2月20日</ref>。 100周年記念キャンペーン終了後は、「元祖スキー天国新潟」を[[キャッチフレーズ]]とした新潟県[[ピーアール|PR]]キャラクターとして活躍しており、日本国内各地へ宣伝に出掛けている。2011年末には、[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]管内の各駅にて宣伝ポスターが掲出された。 また、2012年2月に新潟市内在住の小学生女子3人組からなるユニット「シュプール音楽隊」<ref>[http://www.joetsutj.com/archives/51715334.html 振り付けもあるよ「レルヒさんのうた」] - 上越タウンジャーナル 2011年2月13日</ref>によるCD「レルヒさんのうた」が県内各地のショップで販売された<ref>[http://www.niigata-nippo.co.jp/news/pref/31995.html 「レルヒさんのうた」CD県内販売] - [[新潟日報]] 2012年2月8日</ref>。 ゆるキャラグランプリには初回から参加している。第1回(2010年)は携帯投票部門で4,874票を獲得し15位<ref>[http://www.joetsutj.com/archives/51744641.html ゆるキャラグランプリ、レルヒさんは最終15位] - 上越タウンジャーナル 2010年10月27日</ref>。第2回(2011年)は90,569票で10位となった<ref>[http://www.joetsutj.com/archives/51826351.html ゆるキャラグランプリ、レルヒさん健闘10位に] - 上越タウンジャーナル 2011年11月28日</ref>。 2012年6月20日フジテレビ・笑っていいともに出演、ゆるキャラのキャッチフレーズを決めるコーナーで[[太田光]]提案の『マリオの親戚』に決定。 2012年7月には[[ハウスウェルネスフーズ]]のドリンク「C1000」のキャンペーンキャラクターとなっている。これは以前放映された「C1000」のTVCMに登場する「黄色い服装の[[鼓笛隊]]のおもちゃ」がレルヒさんにしか見えないという視聴者の[[twitter]]でのツイートが元になっている<ref>[http://www.house-wf.co.jp/campaign/1207_lerch/ C1000とレルヒさんでつながって日本をげんきいろにしよう!] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20120920042741/http://house-wf.co.jp/campaign/1207_lerch/ |date=2012年9月20日 }} - ハウスウェルネスフーズ</ref>。 2014年製作のアニメ『[[ロボットガールズZ]]』第6.5話(BD/DVD第2巻特典映像)にゲストキャラとして出演。声は[[稲田徹]]が演じる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 文献 == * テオドール・エードラー・フォン・レルヒ([[中野理]]訳)『明治日本の思い出 日本スキーの父の手記』[[中外書房]]、1970年。 * {{Cite book|和書|author=長岡 忠一 |author2=|transrator=|title=日本スキー事始め―レルヒと長岡外史将軍との出会い| publisher=[[ベースボール・マガジン社]]|asin= | date=1989年|vol=|isbn=9784583027234|pages=|url=}} * {{Cite book|和書|author=中浦皓至 |author2=レルヒの会|transrator=|title=日本スキー・ほんとうの源流 : 明治・大正時代の高田 : レルヒの指導から100年| publisher=レルヒの会|asin= | date=2010年|vol=|isbn=|pages=|url=}} * {{Cite book|和書|author=飯坂友佳子|authorlink=飯坂友佳子 |author2=|transrator=|title=あの娘がスキーをはいたなら (あいつが魔法使い!に収録)| publisher=[[小学館]]|asin= | date=1990年|vol=|isbn=9784091331236|pages=|url=}} == 関連項目 == * {{仮リンク|マティアス・ツダルスキー|de|Mathias Zdarsky}} - 「アルペンスキーの祖」と称され、レルヒにスキーを教えている * [[金谷山]] * [[清水礼留飛]] - [[2014年ソチオリンピック]]、[[スキージャンプ]][[2014年ソチオリンピックのスキージャンプ競技|男子ラージヒル団体]]銅メダリスト。名前の由来がレルヒである。 * [[スキー汁]] * [[長岡外史]] * [[堀内文次郎]] * [[鶴見宜信]] * [[山口十八]] * [[上越市民の歌]] - 5番にレルヒが登場する。 == 外部リンク == * [http://www.city.joetsu.niigata.jp/ 上越市] * [http://www.aeiou.at/aeiou.encyclop.l/l563333.htm AEIOU] * [http://www.bmlv.gv.at/truppendienst/ausgaben/artikel.php?id=892 Generalmajor Theodor Edler von Lerch] - オーストリア軍HPにおけるレルヒの紹介ページ{{ref-de}} * [http://www.niigata-snow.jp/ 新潟スキー場情報サイト 新潟スノーファンクラブ] - レルヒさんの公式サイトを兼ねる * {{Facebook|Reruhisanfanfan|レルヒさん・ファン倶楽部(非公式)}} * {{Twitter|TheodorVonLerch|レルヒさん}} {{Normdaten}} {{Austria-stub}} {{DEFAULTSORT:れるひ ておとおる}} [[Category:オーストリア=ハンガリー帝国の軍人]] [[Category:第一次世界大戦期オーストリア=ハンガリー帝国の軍人]] [[Category:19世紀の軍人]] [[Category:20世紀の軍人]] [[Category:勲四等旭日小綬章受章者]] [[Category:明治時代のお雇い外国人]] [[Category:在日オーストリア人]] [[Category:在日ハンガリー人]] [[Category:ハンガリー・ドイツ人]] [[Category:スキーに関する人物]] [[Category:ブラチスラヴァ出身の人物]] [[Category:1869年生]] [[Category:1945年没]]
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マルコによる福音書
マルコによる福音書(マルコによるふくいんしょ、ギリシア語: Κατά Μάρκον Ευαγγέλιον、ラテン語: Evangelium secundum Marcam)は、新約聖書中の一書。 2世紀半ば以降、伝統的に新約聖書の巻頭を飾る『マタイによる福音書』の次におさめられ、以下『ルカによる福音書』、『ヨハネによる福音書』の順になっている(例えばエイレナイオス『異端反駁』3.1.1。ただし、4番目とする例がある)。執筆年代としては伝承でペトロの殉教の年といわれる65年から『ルカ福音書』の成立時期である80年ごろの間であると考えられる。『マタイによる福音書』、『ルカによる福音書』と共に「共観福音書」とよばれ、四つの福音書の中でもっとも短い。呼び方としては『マルコの福音書』、『マルコ福音』、『マルコ伝』などがあり、ただ単に『マルコ』といわれることもある。 『マルコによる福音書』(本文からは成立年代をうかがわせるものはほとんどない。本文の中で「小黙示録」といわれる箇所(13:1-2)を紀元70年のエルサレム陥落と結びつけて70年以降の成立とみるのが伝統的な解釈であった。しかし現代の聖書学者たちはルカやマタイの神殿預言とも比較した上で、『マルコ福音書』の成立年代を70年〜73年ごろに確定することは難しい と見る。現代で主流となっているのは65年〜70年ごろの成立という説である。他にもそれ以前とかそれ以降という説もあるが、少数意見にとどまっている。 『マルコによる福音書』(以下『マルコ福音書』)本文には著者を同定する手がかりは何もない。しかし、2世紀のパピアス以来、第二福音書(『マルコ福音書』)の著者はペトロの通訳を務めた弟子で、ペトロからイエスの生涯について聞き取ったマルコであるとされてきた。もしこの伝承が史実なら、マルコはイエスを直接知る人々からイエスについての証言を聞いたことになる。なお、パピアスの資料は現存しておらず、カイサリアのエウセビオスの以下のような引用によってのみ知られている。 エウセビオスの引用をよく読むと、マルコの記録は単なるイエスの言葉などであって、福音書のようにまとまっていないとわかる。この記述から、マルコが福音書を書いたと結論するのは難しい。2世紀のアレクサンドリアのクレメンスから20世紀前半にいたるまで、『マルコ福音書』がローマで書かれたのが定説であったが、数十年の間に疑義が呈され、現在ではおそらくシリアのどこか、という説が有力になっている。ローマ説の根拠は『マルコ福音書』のギリシャ語にラテン語の影響が見られることであったが、それはローマ帝国内のどこでも言えるからである。それ以上にパピアスのいう「マルコ」が誰かよくわからないという問題がある。『ペトロの第1の手紙』5:13でも協力者マルコについて言及されているが、マルコというのは1世紀では非常にありふれた名前だったのである。 『マルコによる福音書』ではガリラヤの地理に関する記述で混乱や誤りが見られる。これは著者あるいは著者に情報を提供したものがガリラヤの地理に明るくなかったことを意味しており、その点でもペトロの情報をもとにしたとはいいがたい。また、もう一つの根拠であったローマでのキリスト教徒への迫害との関連でも、迫害は散発的にローマ以外でも起きていた ため、根拠にはなりがたい。結局、『マルコ福音書』の著者が誰で、どこで書かれたかに関してはなんら決め手がないのである。 伝承では、『マルコ福音書』はラテン語を母語とするヘレニストの著者によってローマ帝国内のギリシャ語話者を対象に書かれたと考えられてきた。その理由としてユダヤ教の習慣が非ユダヤ教徒向けに解説されていること(たとえば7:1-4など)、アラム語の単語に解説がつけられていること、また他の福音書にはみられないラテン語的なギリシャ語表現が含まれていることなどであり、これらからマルコ福音書の著者はギリシャ語を外国語として用いたと考えられてきた。 著者がヘレニストなのは文章表のほか、文章の内容からも推察できる。たとえば、サンヘドリンが陰謀をめぐらしてイエスに罪を着せ、処刑に陥れたというくだりは後世において反ユダヤ主義の論拠として利用された。また、ファリサイ派を徹底的に悪者として描く筆致からも明らかに対象が非ユダヤ人、もしくはヘレニズムの影響を強く受けたアレクサンドリアなどのユダヤ人などであるとわかる。さらに『マルコ福音書』の著者は他の共観福音書と同様に旧約聖書を七十人訳聖書から引用している。ただ、上記のようなことから『マルコ福音書』が単純に反ユダヤ的色彩を持っているとは言い切れない。福音書の中でイエスの姿は伝統的なユダヤ教の救世主観にそって描かれている。 『マルコ福音書』を分析すると、もともと口述されたとうかがわせる部分がある。たとえば「すぐに」εὐθύς(euthus)という言葉が42回使われているが、これは他の福音書ではあまりみられず、ルカ伝7回、ヨハネ伝4回に過ぎない。「すぐに」という表現は、ギリシャ語に特有の過去のことを現在法で記述する「歴史的現在」という用法と関連があり、口語表現の顕著な特徴である。また、「再び」(パリン)という言葉も話をつなぐために多く使われていることや、「読者は理解せよ」という13章14節で突如あらわれる著者からの呼びかけなどから、もともと口述されたものを記録したと思わせる表現は多い。 現在の福音書研究者の間で主流となっている学説は「二資料仮説」といわれるものである。これは現在の『マタイ福音書』と『ルカ福音書』が共に『マルコ福音書』およびイエスの言葉資料「Q資料」をもとにして書かれたという説である。そこで起こるのは、では『マルコ福音書』は「Q資料」を参照しているのか?という問題である。もともと「Q資料」が想定されたのは、『マルコ福音書』になく『ルカ福音書』および『マタイ福音書』にはあるイエスのことばの資料をどう考えるのか?からである。マルコ福音書』は「Q資料」を参照した可能性は低いことになるが、研究者によっては『マルコ福音書』の中にも「Q資料」の影響を見ているものもあり、現在でも議論が続いている。 上記の事情に対して、福音書14章及び15章に記されたイエスの受難物語はマルコ以前に既にまとめられており、マルコはそれをほぼ全て利用していると考えるのが通説となっている。それはこの部分の文体が13章までとはやや異なることなどから明らかである。 ただし、マルコは一定程度の編集の手を加えており、元来のマルコに先立つ受難物語を再現しようとする試みもある。しかしながら、それが文書にまとめられていたかや、ギリシア語であったかアラム語であったか等は不明である。 『マルコ福音書』には他の福音書などとは異なるいくつかの特徴がある。以下に主なものをあげる。 5:21-43では、まず21-24でヤイロの娘の話があった後、25-34で話題がイエスの服に触れる長血の話に転じてから、35-43でヤイロの娘の話の結末が語られる。 このように一つの話をふたつに分割して、間に別の話を挿入するサンドイッチ形式(A-B-A)をマルコは好んでおり、福音書全体で約9回現われる。イスカリオテのユダやペテロによる裏切りの描写は、ベタニアの女の物語とイエス復活の証人となった3人の女の物語の間に挟まれており、女性信徒が男性信徒よりも積極的に評価されている。 福音書の11章以下を下記のように振り当て、イエスのエルサレム滞在から十字架刑での死までを記録しているとする読み方がある。 一方でこうした読み方を批判する研究者もいる。 古代から中世に至るまで、(1)十二使徒の一人マタイが著者であると信じられてきた「マタイ福音書」に圧倒的な権威が置かれたこと、(2)内容の充実している「マタイ福音書」を「要約」したものが「マルコ福音書」であるという説が教会に浸透していたこと、などの理由から、古代以来もっとも「簡潔」な内容である「マルコ福音書」は聖書研究の上で「軽視」されがちな傾向があった。 しかし、マタイ、マルコ、ルカの共観福音書のうち、最初に書かれたのが素朴な『マルコによる福音書』であると言う「マルコ優先説」をカール・ラハマンが提出(1835年)して以来、マルコ優先説がプロテスタントの中でも高等批評の立場に立つ聖書学の主流を占めるようになり、共観福音書の中で最古の重要資料であるという認識がされるようになった。 さらに、先の「マルコ優先説」を元に、「マタイ福音書」および「ルカ福音書」が共に「マルコ福音書」と仮説上のQ資料の二つを基礎資料として利用したという「二資料仮説」が現在では主流となったが、この立場からも「マルコ福音書」をQ資料と並ぶ最古の資料のひとつとして研究上重要な資料とみなすことに変わりはない。 現在はカトリックやプロテスタントの中でも高等批評の立場に立つ聖書学者の間では「二資料仮説」が主流となっている。 こうした議論を踏まえ、イエスの歴史的実像を文献学的に追求しようとする史的イエス研究においても最古の資料であるとして、重要視する研究者も多い。 もっとも、『マタイ福音書』のアラム語版の存在を仮定しマタイが先行する福音書であるという旧来の説を補強し続ける研究者なども少数派ながら存在し、今なお「マルコ優先説」に対して批判が試みられ続けている。 『マルコ福音書』には、いくつかの重要な本文批評上の問題がある。
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"『マルコによる福音書』(以下『マルコ福音書』)本文には著者を同定する手がかりは何もない。しかし、2世紀のパピアス以来、第二福音書(『マルコ福音書』)の著者はペトロの通訳を務めた弟子で、ペトロからイエスの生涯について聞き取ったマルコであるとされてきた。もしこの伝承が史実なら、マルコはイエスを直接知る人々からイエスについての証言を聞いたことになる。なお、パピアスの資料は現存しておらず、カイサリアのエウセビオスの以下のような引用によってのみ知られている。", "title": "著者" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "エウセビオスの引用をよく読むと、マルコの記録は単なるイエスの言葉などであって、福音書のようにまとまっていないとわかる。この記述から、マルコが福音書を書いたと結論するのは難しい。2世紀のアレクサンドリアのクレメンスから20世紀前半にいたるまで、『マルコ福音書』がローマで書かれたのが定説であったが、数十年の間に疑義が呈され、現在ではおそらくシリアのどこか、という説が有力になっている。ローマ説の根拠は『マルコ福音書』のギリシャ語にラテン語の影響が見られることであったが、それはローマ帝国内のどこでも言えるからである。それ以上にパピアスのいう「マルコ」が誰かよくわからないという問題がある。『ペトロの第1の手紙』5:13でも協力者マルコについて言及されているが、マルコというのは1世紀では非常にありふれた名前だったのである。", "title": "著者" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "『マルコによる福音書』ではガリラヤの地理に関する記述で混乱や誤りが見られる。これは著者あるいは著者に情報を提供したものがガリラヤの地理に明るくなかったことを意味しており、その点でもペトロの情報をもとにしたとはいいがたい。また、もう一つの根拠であったローマでのキリスト教徒への迫害との関連でも、迫害は散発的にローマ以外でも起きていた ため、根拠にはなりがたい。結局、『マルコ福音書』の著者が誰で、どこで書かれたかに関してはなんら決め手がないのである。", "title": "著者" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "伝承では、『マルコ福音書』はラテン語を母語とするヘレニストの著者によってローマ帝国内のギリシャ語話者を対象に書かれたと考えられてきた。その理由としてユダヤ教の習慣が非ユダヤ教徒向けに解説されていること(たとえば7:1-4など)、アラム語の単語に解説がつけられていること、また他の福音書にはみられないラテン語的なギリシャ語表現が含まれていることなどであり、これらからマルコ福音書の著者はギリシャ語を外国語として用いたと考えられてきた。", "title": "執筆対象" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "著者がヘレニストなのは文章表のほか、文章の内容からも推察できる。たとえば、サンヘドリンが陰謀をめぐらしてイエスに罪を着せ、処刑に陥れたというくだりは後世において反ユダヤ主義の論拠として利用された。また、ファリサイ派を徹底的に悪者として描く筆致からも明らかに対象が非ユダヤ人、もしくはヘレニズムの影響を強く受けたアレクサンドリアなどのユダヤ人などであるとわかる。さらに『マルコ福音書』の著者は他の共観福音書と同様に旧約聖書を七十人訳聖書から引用している。ただ、上記のようなことから『マルコ福音書』が単純に反ユダヤ的色彩を持っているとは言い切れない。福音書の中でイエスの姿は伝統的なユダヤ教の救世主観にそって描かれている。", "title": "執筆対象" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "『マルコ福音書』を分析すると、もともと口述されたとうかがわせる部分がある。たとえば「すぐに」εὐθύς(euthus)という言葉が42回使われているが、これは他の福音書ではあまりみられず、ルカ伝7回、ヨハネ伝4回に過ぎない。「すぐに」という表現は、ギリシャ語に特有の過去のことを現在法で記述する「歴史的現在」という用法と関連があり、口語表現の顕著な特徴である。また、「再び」(パリン)という言葉も話をつなぐために多く使われていることや、「読者は理解せよ」という13章14節で突如あらわれる著者からの呼びかけなどから、もともと口述されたものを記録したと思わせる表現は多い。", "title": "資料について" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", 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マルコによる福音書は、新約聖書中の一書。 2世紀半ば以降、伝統的に新約聖書の巻頭を飾る『マタイによる福音書』の次におさめられ、以下『ルカによる福音書』、『ヨハネによる福音書』の順になっている(例えばエイレナイオス『異端反駁』3.1.1。ただし、4番目とする例がある)。執筆年代としては伝承でペトロの殉教の年といわれる65年から『ルカ福音書』の成立時期である80年ごろの間であると考えられる。『マタイによる福音書』、『ルカによる福音書』と共に「共観福音書」とよばれ、四つの福音書の中でもっとも短い。呼び方としては『マルコの福音書』、『マルコ福音』、『マルコ伝』などがあり、ただ単に『マルコ』といわれることもある。
{{新約聖書}} '''マルコによる福音書'''(マルコによるふくいんしょ、{{lang-el|Κατά Μάρκον Ευαγγέλιον}}、{{lang-la|Evangelium secundum Marcam}})は、[[新約聖書]]中の一書。 [[2世紀]]半ば以降、伝統的に[[新約聖書]]の巻頭を飾る『[[マタイによる福音書]]』の次におさめられ、以下『[[ルカによる福音書]]』、『[[ヨハネによる福音書]]』の順になっている(例えば[[エイレナイオス]]『異端反駁』3.1.1。ただし、4番目とする例がある)<ref>Edwards 2002 p.1-2</ref>。<!--[[ヒエロニムス]]以降、伝統的に[[新約聖書]]の巻頭を飾る『[[マタイによる福音書]]』の次におさめられ、以下『[[ルカによる福音書]]』、『[[ヨハネによる福音書]]』の順になっている。-->執筆年代としては伝承で[[ペトロ]]の殉教の年といわれる[[65年]]から『ルカ福音書』の成立時期である[[80年]]ごろの間であると考えられる。『マタイによる福音書』、『ルカによる福音書』と共に「[[共観福音書]]」とよばれ、四つの福音書の中でもっとも短い。呼び方としては『'''マルコの福音書'''』、『'''マルコ福音'''』、『'''マルコ伝'''』などがあり、ただ単に『'''マルコ'''』といわれることもある。 == 成立 == 『マルコによる福音書』(本文からは成立年代をうかがわせるものはほとんどない。本文の中で「小黙示録」といわれる箇所(13:1-2)を紀元70年のエルサレム陥落と結びつけて70年以降の成立とみるのが伝統的な解釈であった。しかし現代の聖書学者たちはルカやマタイの神殿預言とも比較した上で、『マルコ福音書』の成立年代を70年〜73年ごろに確定することは難しい と見る。現代で主流となっているのは65年〜70年ごろの成立という説である。他にもそれ以前とかそれ以降という説もあるが、少数意見にとどまっている。 == 著者 == 『マルコによる福音書』(以下『マルコ福音書』)本文には著者を同定する手がかりは何もない。しかし、2世紀の[[パピアス]]以来、第二福音書(『マルコ福音書』)の著者は[[ペトロ]]の通訳を務めた弟子で、ペトロからイエスの生涯について聞き取った[[マルコ (福音記者)|マルコ]]であるとされてきた。もしこの伝承が史実なら、マルコはイエスを直接知る人々からイエスについての証言を聞いたことになる。なお、パピアスの資料は現存しておらず、カイサリアの[[エウセビオス]]の以下のような引用によってのみ知られている。 {{Cquote|長老たちによれば、マルコはペトロの通訳になり、ペトロの記憶していたことを忠実に記録したという。しかし、それは決してイエスの生涯における時間の流れに正確に沿ったものではなかった。マルコ自身はイエスに会ったことはなく、ペトロからイエスについて聞いたのである。しかしペトロの言葉も聴く人々のその時々の必要に応じたものであって、決してイエスの言葉を体系的にまとめることを意図していなかった。マルコ自身に関していうなら、彼はペトロから聞いたことを忠実に記録し、決して自ら加筆修正することはなかった。}} エウセビオスの引用をよく読むと、マルコの記録は単なるイエスの言葉などであって、福音書のようにまとまっていないとわかる。この記述から、マルコが福音書を書いたと結論するのは難しい。2世紀のアレクサンドリアのクレメンスから20世紀前半にいたるまで、『マルコ福音書』がローマで書かれたのが定説であったが、数十年の間に疑義が呈され、現在ではおそらくシリアのどこか、という説が有力になっている。ローマ説の根拠は『マルコ福音書』のギリシャ語にラテン語の影響が見られることであったが、それはローマ帝国内のどこでも言えるからである。それ以上にパピアスのいう「マルコ」が誰かよくわからないという問題がある。『[[ペトロの第1の手紙]]』5:13でも協力者マルコについて言及されているが、マルコというのは1世紀では非常にありふれた名前だったのである。 『マルコによる福音書』では[[ガリラヤ]]の地理に関する記述で混乱や誤りが見られる。これは著者あるいは著者に情報を提供したものがガリラヤの地理に明るくなかったことを意味しており、その点でもペトロの情報をもとにしたとはいいがたい。また、もう一つの根拠であったローマでのキリスト教徒への迫害との関連でも、迫害は散発的にローマ以外でも起きていた ため、根拠にはなりがたい。結局、『マルコ福音書』の著者が誰で、どこで書かれたかに関してはなんら決め手がないのである。 == 執筆対象 == 伝承では、『マルコ福音書』は[[ラテン語]]を母語とする[[ヘレニスト]]の著者によってローマ帝国内のギリシャ語話者を対象に書かれたと考えられてきた。その理由としてユダヤ教の習慣が非ユダヤ教徒向けに解説されていること(たとえば7:1-4など)、[[アラム語]]の単語に解説がつけられていること<ref>たとえば5章41節「タリタ・クム」、14章36節「アッバ」など</ref>、また他の福音書にはみられないラテン語的なギリシャ語表現が含まれていること<ref>たとえば12章42節「コドゥランテース」(κοδραντης)</ref>などであり、これらからマルコ福音書の著者はギリシャ語を外国語として用いたと考えられてきた。 著者がヘレニストなのは文章表のほか、文章の内容からも推察できる。たとえば、[[サンヘドリン]]が陰謀をめぐらしてイエスに罪を着せ、処刑に陥れたというくだりは後世において反ユダヤ主義の論拠として利用された。また、[[ファリサイ派]]を徹底的に悪者として描く筆致からも明らかに対象が非ユダヤ人、もしくはヘレニズムの影響を強く受けた[[アレクサンドリア]]などのユダヤ人などであるとわかる。さらに『マルコ福音書』の著者は他の共観福音書と同様に旧約聖書を七十人訳聖書から引用している。ただ、上記のようなことから『マルコ福音書』が単純に反ユダヤ的色彩を持っているとは言い切れない。福音書の中でイエスの姿は伝統的なユダヤ教の救世主観にそって描かれている。 == 資料について == 『マルコ福音書』を分析すると、もともと口述されたとうかがわせる部分がある。たとえば「すぐに」εὐθύς(euthus)という言葉が42回使われているが、これは他の福音書ではあまりみられず、ルカ伝7回、ヨハネ伝4回に過ぎない。「すぐに」という表現は、ギリシャ語に特有の過去のことを現在法で記述する「歴史的現在」という用法と関連があり、口語表現の顕著な特徴である。また、「再び」(パリン)という言葉も話をつなぐために多く使われていることや、「読者は理解せよ」という13章14節で突如あらわれる著者からの呼びかけなどから、もともと口述されたものを記録したと思わせる表現は多い。 現在の福音書研究者の間で主流となっている学説は「二資料仮説」といわれるものである。これは現在の『マタイ福音書』と『ルカ福音書』が共に『マルコ福音書』およびイエスの言葉資料「[[Q資料]]」をもとにして書かれたという説である。そこで起こるのは、では『マルコ福音書』は「Q資料」を参照しているのか?という問題である。もともと「Q資料」が想定されたのは、『マルコ福音書』になく『ルカ福音書』および『マタイ福音書』にはあるイエスのことばの資料をどう考えるのか?からである。マルコ福音書』は「Q資料」を参照した可能性は低いことになるが、研究者によっては『マルコ福音書』の中にも「Q資料」の影響を見ているものもあり、現在でも議論が続いている{{要出典|date=2009年2月}}。 === 受難物語 === 上記の事情に対して、福音書14章及び15章に記されたイエスの受難物語はマルコ以前に既にまとめられており、マルコはそれをほぼ全て利用していると考えるのが通説となっている。それはこの部分の文体が13章までとはやや異なることなどから明らかである。 ただし、マルコは一定程度の編集の手を加えており、元来のマルコに先立つ受難物語を再現しようとする試みもある<ref>例えば、[http://www.earlychristianwritings.com/passion-young.html The Pre-Markan Passion Narrative]</ref>。しかしながら、それが文書にまとめられていたかや、ギリシア語であったかアラム語であったか等は不明である<ref>例えば、田川 2008 P.419〜</ref>。 == マルコ福音書に見られる特徴 == 『マルコ福音書』には他の福音書などとは異なるいくつかの特徴がある。以下に主なものをあげる。 *『マルコ福音書』では、マタイやルカにあるようなイエスの系図や幼年時代、あるいは洗礼者ヨハネの誕生に関する物語が一切なく、イエスの公生活から始まる。 *イエスはみずからを「人の子」と呼ぶ。これはマルコの[[キリスト論]]の核心を示す表現とも言える。『[[イザヤ書]]』52章から53章の「苦難の僕」の箇所にあらわれる「人の子」との共通点も指摘される。マルコがイエスを「苦難の僕」と結びつけ、栄光に入ることを示唆するように、キリスト教徒に対して迫害に耐えるよう励ます意図があると考えられる。 *イエス受難に際してイエスを裏切った男たちと架刑に付き従った女たちの対比、長血病みの女の信仰とペテロの不信仰の対比、イエスによるベタニアの女への称賛とペテロへの非難のように、女性信徒を男性信徒よりも高く評価する構造をとっている{{Sfn|荒井|1988|pp=69, 74, 76-78}}。 *1:12-13の「荒れ野での誘惑」では、マタイやルカの並行箇所と違って、サタンにセリフや具体的な行動の描写がなく、<q>サタンの試みにあわれた</q>と簡潔である。 *2:27「安息日が人のためにつくられた、人が[[安息日]]のためにつくられたのでない」というイエスの言葉は過激すぎると思われたのか、マタイとルカの並行箇所では記述されていない。 *3:21ではイエスの家族が、イエスの気が狂ったと考えた。 *共観福音書の中で[[たとえ話]]が12ともっとも少ない。 *5:13の悪霊([[レギオン (悪霊)|レギオン]])が豚の群れにのりうつる話でマルコのみが二千頭という数字を記す。 *6:3では福音書の中で唯一、イエスが「マリアの子」であると記述される。 *女性が癒される話が二つ続くが、どちらでも12という数字が用いられる。(5:25、5:42) *6:9-10で弟子を派遣する際に「杖とはきもの」の携行を許すが、マタイとルカの並行箇所(9:3、10:4)ではそれらも許されない。 *6:14-29にヘロディアの娘と洗礼者ヨハネに関する話の最も長いバージョンを含む。 *7:33ではイエスが指につばをつけて癒す。 *8:22ではイエスは目の見えない人をいやすために二度手をおかなければならなかった。 *「メシアの秘密」というモチーフ(1:32-34、3:11―12)はマルコのみ現れる。悪魔たちはイエスが神の子と知っている。 *『ヨハネ福音書』などと違い、「イエスの愛する弟子」は存在しない。 *共観福音書で唯一、「主の祈り」がない。 *14:51でイエスの捕縛時、一人の若者が裸で逃げていく。 *14:56ではイエスへの偽証はことごとく失敗する。 *14:62ではイエスははっきりと自分がメシアであることを宣言。 *14:72では鶏は「二度」鳴いた。 *15:17ではイエスは王であることを示す紫の服を着せられる。マタイの並行箇所(27:28)では兵士に支給されていた赤いマントを着せられる。 *15:21では[[キレネのシモン]]の息子たちの名前が記されている。 *15:44では百人隊長がイエスの死を確認する。 *16:3では女性たちが「誰が墓石を転がしてくれるだろう」といいあう。 *16:5では墓の中、右手に白い長い衣を着た若者が座っている。 *若者からイエスの復活を告知され「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」(16:8, 訳文は新共同訳による)。 *16:15 [[大宣教命令]]:「それから、イエスは彼らにこう言われた。『全世界に出て行き、すべての作られた者に、福音を宣べ伝えなさい。』」 *16:18では復活したイエスが弟子たちに蛇をつかみ、毒を飲んでも害がないという。 *「彼(マルコ)はイエスの客観的かつリアリスティックな姿を伝えている」<ref>A Grammar of the Greek New Testament in the Light of Historical Research,p.119,A.T.Robertson,"He gives an objective picture of Jesus and a realistic one."</ref> === サンドイッチ形式 === 5:21-43では、まず21-24でヤイロの娘の話があった後、25-34で話題がイエスの服に触れる長血の話に転じてから、35-43でヤイロの娘の話の結末が語られる。 このように一つの話をふたつに分割して、間に別の話を挿入するサンドイッチ形式(A<sup>1</sup>-B-A<sup>2</sup>)をマルコは好んでおり<ref>田川 2008 p.192</ref>、福音書全体で約9回現われる<ref>Edwards 2002 p.11-12</ref>。イスカリオテのユダやペテロによる裏切りの描写は、ベタニアの女の物語とイエス復活の証人となった3人の女の物語の間に挟まれており、女性信徒が男性信徒よりも積極的に評価されている{{Sfn|荒井|1988|p=47}}。 * 《イエスの家族、ベルゼブル論争》3:20-35 * 《種まく者の譬、譬話論》4:1-20 * 《ヤイロの娘と長血の女の癒し》5:21-43 * 《十二人の派遣、洗礼者ヨハネの死》6:7-30 * 《いちじくの木の呪い、神殿商人に対する攻撃》11:12-21 * 《イエス逮捕の陰謀、ベタニア塗油》14:1-11 * 《最後の晩餐、ペテロの裏切りの予告》14:17-31 * 《大祭司の裁判、ペテロの否認》14:53-72 * 《ガリラヤから共に来た女たち、イエスの埋葬》15:40-16:8 === 受難節の1週間 === 福音書の11章以下を下記のように振り当て、イエスのエルサレム滞在から十字架刑での死までを記録しているとする読み方がある<ref>例えば、Crossan & Borg 2001</ref>。 * 日曜日:11:1以下 * 月曜日:11:12以下 * 火曜日:11:20以下 * 水曜日:14:1以下 * 木曜日:14:12以下 * 金曜日(十字架刑の日):15:1以下 * 土曜日(安息日、休日):15:42以下 * 日曜日(復活の日):16:2以下 一方でこうした読み方を批判する研究者もいる<ref>例えば、田川 2008 P.363</ref>。 == マルコ優先説 == 古代から中世に至るまで、(1)十二使徒の一人[[マタイ]]が著者であると信じられてきた「マタイ福音書」に圧倒的な権威が置かれたこと、(2)内容の充実している「マタイ福音書」を「要約」したものが「マルコ福音書」であるという説が教会に浸透していたこと、などの理由から、古代以来もっとも「簡潔」な内容である「マルコ福音書」は聖書研究の上で「軽視」されがちな傾向があった。 しかし、マタイ、マルコ、ルカの共観福音書のうち、最初に書かれたのが素朴な『マルコによる福音書』であると言う「マルコ優先説」を[[カール・ラハマン]]が提出(1835年)して以来、マルコ優先説がプロテスタントの中でも高等批評の立場に立つ聖書学の主流を占めるようになり、共観福音書の中で最古の重要資料であるという認識がされるようになった。 さらに、先の「マルコ優先説」を元に、「マタイ福音書」および「ルカ福音書」が共に「マルコ福音書」と仮説上の[[Q資料]]の二つを基礎資料として利用したという「二資料仮説」が現在では主流となったが、この立場からも「マルコ福音書」をQ資料と並ぶ最古の資料のひとつとして研究上重要な資料とみなすことに変わりはない。 現在はカトリックやプロテスタントの中でも高等批評の立場に立つ聖書学者の間では「二資料仮説」が主流となっている。 こうした議論を踏まえ、イエスの歴史的実像を文献学的に追求しようとする[[史的イエス]]研究においても最古の資料であるとして、重要視する研究者も多い。 もっとも、『マタイ福音書』のアラム語版の存在を仮定しマタイが先行する福音書であるという旧来の説を補強し続ける研究者なども少数派ながら存在し、今なお「マルコ優先説」に対して批判が試みられ続けている。 == 本文批評問題 == 『マルコ福音書』には、いくつかの重要な[[本文批評]]上の問題がある。 * 冒頭(1:1)の「神の子」という句は、最も議論の多い箇所のひとつである。[[シナイ写本|'''ℵ''']]元記と[[オリゲネス]]等の古代教父の引用にこの句がないことから、ネストレ・アーラント25版まではこの句を採用していない。しかし、26版以降、[ ]付き(校訂者が最終判断を留保する意)で本文に加えられた。邦訳聖書のほとんどは従来からこの句を採用している。一部に、「異本にこの句を欠く」等の注がある。 * 「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『私は望む。清くなれ』と言われると、」(1:41、聖書協会共同訳による)の「(深く)憐れんで」を「怒って」とする写本群が存在する(西方系写本、具体的には、D([[5世紀]])、古ラテン語訳a写本([[4世紀]])、同ff<sup>2</sup>(5世紀)、同r<sup>1</sup>元記([[7世紀]]))。ネストレ・アーラントは「憐れんで」を採用している。こちらを支持するのは'''ℵ'''、B、L([[8世紀]])、892([[9世紀]])、'''ℓ'''2211([[995年]]/[[996年]])。そのため多くの日本語訳聖書はそれに従っているが、塚本虎二訳、田川建三訳などは「怒って」を採用している。<ref>バート・D・アーマン「書き換えられた聖書」p.217〜</ref> * 15:34の十字架刑で絶命するイエスの叫び「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」(聖書協会共同訳)は、これがヘブライ語かアラム語かという問題が絡み、写本の異読が多い。翻訳聖書で問題になるのは、3語目をヘブライ語の“lama”とするか(B、Θ、059など)、アラム語の“lema”とするか('''ℵ'''、C、L、D、Ψなど)である。ネストレ・アーラントは25版までは前者を採用していたので口語訳などは「ラマ」とし、26版以降は後者を採るように変わったので新共同訳、聖書協会共同訳などは「レマ」としている。 * 古くから多くの議論がなされてきたのは福音書の結末部分(16:9以降)である。マルコ福音書には下記のように写本によって結末が数種類存在する。 :(1)16:8 を結末として終わっている写本群。 :'''ℵ'''、[[バチカン写本|B]]、小文字写本304、シリア語シナイ写本など。及びエウセビオスの証言 :(2)「長い結尾 Longer Conclusion」(16:9-20)と呼ばれる結末だけを持つ写本群。 :[[アレクサンドリア写本|A]]、C、D、W、Θ、f<sup>1</sup>、f<sup>13</sup>、33、2427など :(3)「短い結尾 Shorter Conclusion」と呼ばれる全く別の結末部分だけを持つ写本。 :古ラテン語訳k写本 :(4)「短い結尾」の後に「長い結尾」を付加している写本群。 :残る大部分の写本 :現在の本文批評においては、16:8 で終わっている写本群が数種の有力で良質な古写本を含んでいること、さらに「長い末尾」も「短い末尾」も独自の内容を持たず他の福音書の結末部分から後の時代に作成および付加されたと推測されることなどから、写本が流布する以前は16:8 までが『マルコ福音書』の元来の本文だったとするのが最も有力な説である。しかし、16:8 で福音書が終わるとすると書物の結尾の文体としては唐突な印象になるのが否定できないため、著者の殉教などにより福音書が未完に終わったとする説や、写本流布の前に著者の原稿が損傷し結末部分が失われたとする説、さらに結末部分としては一見不釣合いな唐突な終わり方こそ『マルコ福音書』の著者の本来の意図であると主張する学者などもおり、各種の議論が行われている。 == 参考文献 == * {{cite book|和書|author= [[荒井献]]|title= 新約聖書の女性観|year= 1988|publisher= 岩波書店|series= 岩波セミナーブックス|ref= {{SfnRef|荒井|1988}}}} * 田川建三 『新約聖書 訳と註 第一巻 マルコ福音書/マタイ福音書』 2008年 作品社 ISBN 978-4861821356 * John Dominic Crossan & Marcus J. Borg ''The Last Week'' 2001 HarperOne {{ISBN2|978-0060872601}} * James R. Edwards ''The Gospel according to MARK'' 2002 William B. Eerdmans Publishing Company ISBN 978-0851117782 == 脚注 == {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{commons&cat}} {{wikisource|マルコによる福音書(口語訳)}} {{wikisource|マルコ傳福音書(文語訳)}} *[[マタイによる福音書]] *[[ルカによる福音書]] *[[ヨハネによる福音書]] *[[シドン・シナゴーグ]] - イエスがこことその近傍で説教したとマルコによる福音書に記されている。世界最古のシナゴーグのひとつ == 外部リンク == *{{kotobank}} {{福音書}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:まるこによるふくいんしよ}} [[Category:マルコによる福音書|*]]
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分倍河原駅
分倍河原駅(ぶばいがわらえき)は、東京都府中市片町二丁目にある、京王電鉄・東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。 京王電鉄の京王線と、JR東日本の南武線が乗り入れており、計2社2路線の接続駅である。京王線には「KO25」、南武線には「JN 21」の駅番号がそれぞれ付与されている。 両社が構内を共用する共同使用駅で、出札・改札ともに京王電鉄の管轄下にあり、JR東日本の駅員は配置されていない。京王電鉄は京王中央管区所属で、JR東日本の駅設備は立川営業統括センターが管理している。 2007年6月までは、南武線川崎 - 立川間で唯一みどりの窓口が設置されていない駅だったが、それ以降、南武線の一部の他駅でもみどりの窓口が廃止された。代替として定期券・指定席券売機が設置されている駅が多いが、当駅には設置されていない。特急券・指定席券・特別企画乗車券などの発売はしておらず、当駅発着の遠距離乗車券(片道・往復の補充券、ただし前売りは不可)、券売機で発売できない一部の回数券や当駅発着の定期券を定期券売り場で発売していたが、2019年4月12日をもって閉鎖となり、京王の定期やJR単独の磁気定期券は窓口での発売が終了となった。現在は多機能券売機で京王の定期券を発売する。JRは上記の通り定期券は発売終了、その他の乗車券は従来通り近距離券売機にて発売しており、券売機では対応できない長距離の乗車券は改札窓口にて発売していたが、2022年3月31日で発売を終了した。 当駅は自動改札機の導入が京王の他駅に比べて大幅に遅れたため、イオカードは入・出場も自動券売機での使用もできない時期が長く続いた。自動改札機が導入されるまでは、京王線コンコースと南武線コンコースとの間に連絡改札はなかった。 最初の駅名となった「屋敷分」とは、当時の地名(屋敷分村)から名付けられたもの。 改名された分倍河原は「分倍」と「河原」の複合地名で過去の歴史に基づく。1333年(元弘3年)5月に鎌倉幕府を倒すために挙兵した新田義貞と、幕府側の北条泰家が戦った「分梅古戦場」(分倍河原古戦場)という古戦場跡があり、駅前ロータリーには新田義貞の像がある。なお、1454年(享徳4年)にもこの地で鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉氏を破った合戦が行われている。 なお、地名表記は「分倍」と「分梅」があり、由来は「この地がしばしば多摩川の氾濫や土壌の関係から収穫が少ないために、口分田を倍に給した所であったという説から分倍」、「梅にまつわる土地が多い事から分梅」などと諸説あるが、なぜこの地名になったかは資料がなく未だに不明である。かつては分配(ぶんばい)とも読まれていた。 住所表記上の地名は、駅舎を含む京王線の東側は府中市片町、西側は南武線の北側が美好町、南側が分梅町である。南武線の北側はかつての屋敷分村で、上記の通り旧駅名の由来となった。 東西方向に延びる立川崖線に沿った崖下にJRホームがあり、その西端を京王ホームが南南西・北北東方向に直交し、その交点の北東側の崖上に駅舎がある。コンコースが狭く、乗り換え対応の自動改札機で仕切られているため、ラッシュ時はかなり混雑する。コンコースの混雑を緩和するために、JR線下りホームと改札(上りホーム)を結ぶ跨線橋と京王線下りホームとを直結する連絡改札がある(営業時間:始発 - 22:00)。 コンコースはJRホームを1階、京王ホームを2階にたとえると1.7階といった高さにある。 両社ともに、エレベーターは設置されているが、エスカレーターは無い。 府中側が地上、中河原側が盛土高架の相対式ホーム2面2線を有する。京王中央管区所属。 コンコースから下りホームには階段を少し上がる。上りホームに行くには地下連絡通路を使う必要がある。 トイレは改札口付近に設置されており、車いす対応トイレも併設している。 エレベーターは、各ホームに設置されているが、下りホームは、(下層から)「地下連絡通路~改札階~下りホーム」の3フロア間の運転に対して、上りホームは、(下層から)「地下連絡通路~上りホーム」の2フロア間の運転である。 相対式ホーム2面2線を有する地上駅である。 京王電鉄に改札業務を委託しており、JRの社員は配置されていない(府中本町駅管理)。 コンコースから上りホーム(川崎方面)は直接階段を下る。下りホーム(立川方面)へは京王線下りホーム(京王八王子方面)と同レベルの跨線橋へ少し上がり、線路をまたいでからホームに下りる。 また、主に東芝デジタルソリューションズ分倍河原事業所への通勤客のために朝ラッシュ時に限り下りホームから直接隣接する道路にアクセスする臨時改札が開く。この臨時改札に限り、JR東日本の管理駅である立川営業統括センターの社員が出向いて改札業務を実施し、簡易Suica改札機が2台設置されている。 トイレは、下りホーム跨線橋階段下に設置されている。車いす対応トイレは臨時改札口付近に設置されている。 エレベーターは、各ホームに設置されているが、下りホームは、(下層から)「下りホーム~跨線橋」の2フロア間の運転に対して、上りホームは、(下層から)「上りホーム~改札階~跨線橋」の3フロア間の運転である。 (出典:JR東日本:駅構内図) 各年度の1日平均乗降人員は下表の通り(JRを除く)。 改札を出て左に向かうと分倍河原商店街であり、商店街を北進すると東京都道229号府中調布線(旧甲州街道)にぶつかる。商店と小規模事業所、住宅の混在した地域である。 改札を出た右方は跨線橋で南武線とその横の道路を渡り駅前南ロータリーに出る。ロータリーは改札口から見て段丘の下になるため、跨線橋はロータリー側のみ階段、スロープになっている。事業所などのビルもあるが、少し離れると主に低層の住宅地である。 ロータリーにはタクシー、路線バス、数社の送迎バスそれぞれの乗り場がある。サントリー府中工場の見学者用バス(通称「モルツバス」)もここから出ている。南武線の踏切道を南進すると交差点の先に武蔵府中税務署がある。 北口は、府中市が運行するコミュニティバス「ちゅうバス」が発着する。 商店街を抜け、旧甲州街道街道に出て左へ踏切を渡った先にある。 分倍河原駅北の1つ府中駅側の停留所。街道に出て右へ。 南口は、南口ロータリー内に設置されている「分倍河原駅」停留所にて、京王バスが運行する路線バスや、府中市が運行するコミュニティバス「ちゅうバス」が発着する。
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分倍河原駅(ぶばいがわらえき)は、東京都府中市片町二丁目にある、京王電鉄・東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。
{{駅情報 |社色 = |文字色 = |駅名 = 分倍河原駅 |画像 = Bubaigawara Station building.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 駅舎(2019年9月) |地図= {{Infobox mapframe|zoom=15|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|35|40|6.8|N|139|28|7.4|E}}}} |よみがな = ぶばいがわら |ローマ字 = Bubaigawara |所属事業者 = {{Plainlist| * [[京王電鉄]](京王・[[#京王電鉄_2|駅詳細]]) * [[東日本旅客鉄道]](JR東日本・[[#JR東日本_2|駅詳細]])}} |所在地 = [[東京都]][[府中市 (東京都)|府中市]][[片町 (東京都府中市)|片町]]二丁目21-18 |備考 = [[共同使用駅]](京王電鉄の管轄駅) }} '''分倍河原駅'''(ぶばいがわらえき)は、[[東京都]][[府中市 (東京都)|府中市]][[片町 (東京都府中市)|片町]]二丁目にある、[[京王電鉄]]・[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[鉄道駅|駅]]である。 == 概要 == 京王電鉄の[[京王線]]と、JR東日本の[[南武線]]が乗り入れており、計2社2路線の接続駅である。京王線には「'''KO25'''」、南武線には「'''JN 21'''」の[[駅ナンバリング|駅番号]]がそれぞれ付与されている。 両社が構内を共用する[[共同使用駅]]で、[[出札]]・[[改札]]ともに京王電鉄の管轄下にあり、JR東日本の駅員は配置されていない。京王電鉄は京王中央管区所属で、JR東日本の駅設備は立川営業統括センターが管理している。 2007年6月までは、南武線[[川崎駅|川崎]] - [[立川駅|立川]]間で唯一[[みどりの窓口]]が設置されていない駅だったが、それ以降、南武線の一部の他駅でもみどりの窓口が廃止された。代替として[[定期乗車券|定期券]]・[[指定席券売機]]が設置されている駅が多いが、当駅には設置されていない。[[特別急行券|特急券]]・[[座席指定券|指定席券]]・[[特別企画乗車券]]などの発売はしておらず、当駅発着の遠距離[[乗車券]](片道・往復の[[補充券]]、ただし前売りは不可)、券売機で発売できない一部の回数券や当駅発着の定期券を定期券売り場で発売していたが、2019年4月12日をもって閉鎖となり、京王の定期やJR単独の磁気定期券は窓口での発売が終了となった。現在は多機能券売機で京王の定期券を発売する。JRは上記の通り定期券は発売終了、その他の乗車券は従来通り近距離券売機にて発売しており、券売機では対応できない長距離の乗車券は改札窓口にて発売していたが、2022年3月31日で発売を終了した。 当駅は[[自動改札機]]の導入が京王の他駅に比べて大幅に遅れたため、[[イオカード]]は入・出場も[[自動券売機]]での使用もできない時期が長く続いた。自動改札機が導入されるまでは、京王線[[コンコース]]と南武線コンコースとの間に連絡改札はなかった。 == 歴史 == === 京王電鉄 === * [[1925年]]([[大正]]14年)[[3月24日]]:玉南電気鉄道の'''屋敷分(やしきぶん)駅'''が開業<ref name="keio-handbook2020">{{Cite web|和書|url=https://www.keio.co.jp/company/corporate/summary/corporate_manual/pdf/2020/all_keiohandbook2020.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201208160854/https://www.keio.co.jp/company/corporate/summary/corporate_manual/pdf/2020/all_keiohandbook2020.pdf|title=京王ハンドブック2020 > 駅の変遷|date=2020-08|archivedate=2020-12-08|page=102|accessdate=2021-05-03|publisher=京王電鉄広報部|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。 * [[1926年]](大正15年)[[12月1日]]:合併により京王電気軌道の駅となる<ref name="RP893_10">{{Cite journal|和書|author=京王電鉄広報部|title=総説:京王電鉄|journal=鉄道ピクトリアル|date=2014-08-10|volume=64|issue=第8号(通巻893号)|page=10|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref>。 * [[1929年]]([[昭和]]4年) ** [[3月12日]]:南武鉄道との連絡のため移転<ref name="keio-handbook2020" />。 ** [[5月1日]]:'''分倍河原駅'''に改称<ref name="keio-handbook2020" />。 * [[1944年]](昭和19年)[[5月31日]]:[[陸上交通事業調整法]]による戦時合併により[[東京急行電鉄]]([[大東急]])の駅となる<ref name="RP893_10" />。 * [[1948年]](昭和23年)[[6月1日]]:東急からの分離独立により京王帝都電鉄(現:京王電鉄)の駅となる<ref name="RP893_10" />。 * [[2001年]]([[平成]]13年)[[3月27日]]:[[ダイヤ改正|ダイヤ改定]]により[[京王線#準特急|準特急]]が新設され、準特急停車駅となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.keio.co.jp/news_release/newsr/index_010223.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20040605204054/http://www.keio.co.jp/news_release/newsr/index_010223.htm|language=日本語|title=3月27日(火) 京王線・井の頭線 ダイヤ改正|publisher=京王電鉄|date=2001-02-22|accessdate=2021-05-04|archivedate=2004-06-05}}</ref><ref>{{Cite journal ja-jp |author=平澤崇 |year=2001 |month=5 |title=京王電鉄のダイヤ改正は高速志向 |journal=[[鉄道ジャーナル]] |serial= 通巻415号 |page= 58 |publisher=[[鉄道ジャーナル社]] }}</ref>。 * [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:[[ICカード]]「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2021-05-03|archivedate=2020-05-01}}</ref>。 * [[2013年]](平成25年)[[2月22日]]:ダイヤ改正により特急停車駅となり、全列車停車駅となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.keio.co.jp/news/backnumber/news_release2012/nr121105_diagram.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190508115511/https://www.keio.co.jp/news/backnumber/news_release2012/nr121105_diagram.pdf|format=PDF|language=日本語|title=ダイヤ改定予告 2月22日、京王線・井の頭線のダイヤを刷新します。|publisher=京王電鉄|date=2012-11-05|accessdate=2020-04-12|archivedate=2019-05-08}}</ref>。 * [[2018年]](平成30年)[[2月22日]]:[[ダイヤ改正]]により下り[[京王ライナー]]が新設され、停車駅となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2017/nr180124_timetable20180222.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191014150927/https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2017/nr180124_timetable20180222.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2月22日(木)始発から京王線・井の頭線のダイヤ改正を実施します 〜京王ライナーの運行開始や、平日朝間時間帯の速達性向上を図ります〜|publisher=京王電鉄|date=2018-01-24|accessdate=2020-04-12|archivedate=2019-10-14}}</ref>。当駅からは座席指定券なしで乗車可能。 * [[2019年]](平成31年) ** [[2月22日]]:ダイヤ改正により上り京王ライナーが新設され、停車駅となる<ref group="報道" name="Keio20190122">{{Cite press release|和書|url=https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2018/nr190122_timetable20190222.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191014155008/https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2018/nr190122_timetable20190222.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2月22日(金)始発から京王線・井の頭線のダイヤ改正を実施します 〜朝間時間帯上り「京王ライナー」の運行開始や、平日朝間時間帯の利便性向上を図ります〜|publisher=京王電鉄|date=2019-01-22|accessdate=2020-04-12|archivedate=2019-10-14}}</ref>。上りでは座席指定券が必要となる(下りは引き続き座席指定券不要)。 ** [[4月12日]]:定期券うりばの営業を終了。 === JR東日本 === * [[1928年]](昭和3年)[[12月11日]]:南武鉄道線(現・南武線)が大丸停留場(現・[[南多摩駅]])から延伸開業、その[[終着駅]]として'''屋敷分駅'''が開業<ref name="sone38">{{Cite book|和書|author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟|title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR|editor=朝日新聞出版分冊百科編集部|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=週刊朝日百科|volume=38号 青梅線・鶴見線・南武線・五日市線|date=2010-04-11|pages=20-21}}</ref>。 * [[1929年]](昭和4年) ** 12月11日:南武鉄道線が[[立川駅]]まで開通<ref name="sone38"/>。 ** 12月下旬:'''分倍河原駅'''に改称(正確な日付は不明)。 * [[1944年]](昭和19年)[[4月1日]]:南武鉄道線が[[陸運統制令|改正陸運統制令]]に基づく[[戦時買収私鉄|戦時買収]]により国有化され、[[運輸通信省 (日本)|運輸通信省]]南武線の駅となる<ref name="sone38"/>。貨物取扱廃止。 * [[1966年]](昭和41年)[[9月30日]]:稲城長沼 - 谷保間[[複線]]化完成<ref name="sone38"/>。現下りホーム新設(使用開始の日付は不明)。 * [[1987年]](昭和62年)4月1日:[[国鉄分割民営化]]に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる<ref name="sone38"/>。 * [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-29|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。 * [[2011年]](平成23年) **[[4月9日]]:復活した南武線快速<ref>鉄道ファン No.213 p.172</ref>の停車駅となる。当初は[[3月12日]]から開始予定だったが、[[東日本大震災]]の影響により延期となった<ref>[http://railf.jp/news/2011/04/10/084800.html 南武線で快速列車の運転が始まる] - 『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』[[交友社]] railf.jp鉄道ニュース 2011年4月10日</ref>。 ** [[6月24日]]:平日の快速運転を休止<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2011/20110605.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180630105515/https://www.jreast.co.jp/press/2011/20110605.pdf|format=PDF|language=日本語|title=夏の特別ダイヤについて|publisher=東日本旅客鉄道|date=2011-06-16|accessdate=2020-04-29|archivedate=2018-06-30}}</ref>。 ** [[9月12日]]:平日の快速運転再開。 === 駅名の由来 === [[ファイル:Statue of Nitta Yoshisada at Bubaigawara Station.jpg|thumb|駅前の新田義貞之像[[富永直樹]]作]] 最初の駅名となった「屋敷分」とは、当時の地名(屋敷分村)から名付けられたもの。 改名された分倍河原は「分倍」と「河原」の複合地名で過去の歴史に基づく。[[1333年]]([[元弘]]3年)5月に[[鎌倉幕府]]を倒すために挙兵した[[新田義貞]]と、幕府側の[[北条泰家]]が戦った「分梅古戦場」(分倍河原古戦場)という古戦場跡があり、駅前ロータリーには新田義貞の像がある。なお、[[1454年]]([[享徳]]4年)にもこの地で[[鎌倉公方]]・[[足利成氏]]が[[関東管領]]・[[上杉氏]]を破った合戦が行われている。 {{See also|分倍河原の戦い (鎌倉時代)|分倍河原の戦い (室町時代)}} なお、地名表記は「分倍」と「分梅」があり、由来は「この地がしばしば[[多摩川]]の氾濫や土壌の関係から収穫が少ないために、[[口分田#日本の口分田|口分田]]を倍に給した所であったという説から分倍」、「梅にまつわる土地が多い事から分梅」などと諸説あるが、なぜこの地名になったかは資料がなく未だに不明である。かつては分配(ぶんばい)とも読まれていた。 住所表記上の地名は、駅舎を含む京王線の東側は府中市片町、西側は南武線の北側が美好町、南側が分梅町である。南武線の北側はかつての屋敷分村で、上記の通り旧駅名の由来となった。 == 駅構造 == 東西方向に延びる[[武蔵野台地#立川崖線(府中崖線や布田崖線とも呼ばれる)|立川崖線]]に沿った崖下にJRホームがあり、その西端を京王ホームが南南西・北北東方向に直交し、その交点の北東側の崖上に駅舎がある。コンコースが狭く、乗り換え対応の[[自動改札機]]で仕切られているため、[[ラッシュ時]]はかなり混雑する。コンコースの混雑を緩和するために、JR線下りホームと改札(上りホーム)を結ぶ跨線橋と京王線下りホームとを直結する連絡改札がある。 コンコースはJRホームを1階、京王ホームを2階にたとえると1.7階といった高さにある。 両社ともに、エレベーターは設置されているが、エスカレーターは無い。 === 京王電鉄 === {{駅情報 |社色 = #dd0077 |文字色 = |駅名 = 京王 分倍河原駅 |画像 = Bubaigawara-Sta-Keio-Platform.JPG |pxl = 300 |画像説明 = 京王ホーム(2017年6月) |よみがな = ぶばいがわら |ローマ字 = Bubaigawara |所属事業者 = [[京王電鉄]] |所在地 = [[東京都]][[府中市 (東京都)|府中市]]片町二丁目21-18 |座標 = {{coord|35|40|6.8|N|139|28|7.4|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}} |駅番号 = {{駅番号r|KO|25|#dd0077|5}} |開業年月日 = [[1925年]]([[大正]]14年)[[3月24日]] |駅構造 = {{Plainlist| * [[地上駅]](府中側) * [[高架駅]](中河原側)}} |ホーム = 2面2線 |乗降人員 = <ref group="京王" name="keio2022" />80,296 |統計年度 = 2022年 |所属路線 = {{color|#dd0077|■}}[[京王線]] |前の駅 = KO24 [[府中駅 (東京都)|府中]] |駅間A = 1.2 |駅間B = 1.6 |次の駅 = [[中河原駅|中河原]] KO26 |キロ程 = 23.1 |起点駅 = [[新宿駅|新宿]] |備考 = [[共同使用駅]](京王電鉄の管轄駅) }} [[府中駅 (東京都)|府中]]側が[[地上駅|地上]]、[[中河原駅|中河原]]側が[[盛土]][[高架駅|高架]]の[[相対式ホーム]]2面2線を有する。京王中央管区所属<ref name="RP893_43">{{Cite journal|和書|author=京王電鉄鉄道営業部管理課|title=駅管区・乗務区のあらまし|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2014-08-10|volume=64|issue=第8号(通巻893号)|page=43|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。 コンコースから下りホームには階段を少し上がる。上りホームに行くには地下連絡通路を使う必要がある。 [[便所|トイレ]]は改札口付近に設置されており、車いす対応トイレも併設している。 エレベーターは、各ホームに設置されているが、下りホームは、(下層から)「地下連絡通路 - 改札階 - 下りホーム」の3フロア間の運転に対して、上りホームは、(下層から)「地下連絡通路 - 上りホーム」の2フロア間の運転である。 ==== のりば ==== {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先 |- !1 |rowspan=2|[[File:Number prefix Keio-line.svg|15px|KO]] 京王線 |style="text-align:center"|下り |[[高幡不動駅|高幡不動]]・[[京王八王子駅|京王八王子]]・[[高尾山口駅|高尾山口]]・[[多摩動物公園駅|多摩動物公園]]方面 |- !2 |style="text-align:center"|上り |[[調布駅|調布]]・[[明大前駅|明大前]]・[[笹塚駅|笹塚]]・[[新宿駅|新宿]]・ [[File:Toei Shinjuku line symbol.svg|15px|S]] [[都営地下鉄新宿線|{{small|都営}}新宿線]]方面 |} <gallery> JR Nambu-Line Bubaigawara Station Central contact Gates.jpg|中央連絡口(2019年9月) Bubaigawara Station Upstairs contact Gates.jpg|階上連絡口(2019年9月) </gallery> {{-}} === JR東日本 === {{駅情報 |社色 = green |文字色 = |駅名 = JR 分倍河原駅 |画像 = JR Nambu-Line Bubaigawara Station Platform.jpg |pxl = 300 |画像説明 = JRホーム(2019年9月) |よみがな = ぶばいがわら |ローマ字 = Bubaigawara |副駅名 = |前の駅 = JN 20 [[府中本町駅|府中本町]] |駅間A = 0.9 |駅間B = 1.2 |次の駅 = [[西府駅|西府]] JN 22 |電報略号 = フイ |駅番号 = {{駅番号r|JN|21|#ffd400|1}} |所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |所属路線 = {{color|#ffd400|■}}[[南武線]] |キロ程 = 28.8 |起点駅 = [[川崎駅|川崎]] |所在地 = [[東京都]][[府中市 (東京都)|府中市]]片町二丁目21-18 |座標 = {{coord|35|40|6.8|N|139|28|7.4|E|region:JP_type:railwaystation}} |駅構造 = [[地上駅]] |ホーム = 2面2線 |開業年月日 = [[1928年]]([[昭和]]2年)[[12月11日]] |廃止年月日 = |乗車人員 = <ref group="JR" name="JR2022" />35,006 |統計年度 = 2022年 |備考 = [[共同使用駅]](京王電鉄の管轄駅) }} 相対式ホーム2面2線を有する地上駅である。 [[京王電鉄]]に改札業務を委託しており、JRの社員は配置されていない([[府中本町駅]]管理)。 コンコースから上りホーム(川崎方面)は直接[[階段]]を下る。下りホーム(立川方面)へは京王線下りホーム(京王八王子方面)と同レベルの[[跨線橋]]へ少し上がり、線路をまたいでからホームに下りる。 また、主に[[東芝デジタルソリューションズ]]分倍河原事業所への通勤客のために朝ラッシュ時に限り下りホームから直接隣接する道路にアクセスする臨時改札が開く{{Refnest|group="注"|以前は[[日本電気]] (NEC) 府中事業場の通勤客も利用していたが、2009年3月以降は新たに開業した[[西府駅]]が最寄りとなっている。}}。この臨時改札に限り、JR東日本の管理駅である立川営業統括センターの社員が出向いて改札業務を実施し、簡易[[Suica]]改札機が2台設置されている。 トイレは、下りホーム跨線橋階段下に設置されている。車いす対応トイレは臨時改札口付近に設置されている。 エレベーターは、各ホームに設置されているが、下りホームは、(下層から)「下りホーム - 跨線橋」の2フロア間の運転に対して、上りホームは、(下層から)「上りホーム - 改札階 - 跨線橋」の3フロア間の運転である。 ==== のりば ==== {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先 |- !1 |rowspan=2|[[File:JR JN line symbol.svg|15px|JN]] 南武線 |style="text-align:center"|上り |[[府中本町駅|府中本町]]・[[登戸駅|登戸]]・[[川崎駅|川崎]]方面<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=JR東日本:駅構内図(分倍河原駅)|url=https://www.jreast.co.jp/estation/stations/1385.html|website=JR東日本:東日本旅客鉄道|accessdate=2019-08-08|language=ja}}</ref> |- !2 |style="text-align:center"|下り |[[西国立駅|西国立]]・[[立川駅|立川]]方面<ref name=":0" /> |} (出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/1385.html JR東日本:駅構内図]) <gallery> Bubaigawara Station JR-Line Gates and Keio-Line Gates.jpg|駅入口から見た改札口<br />JR改札口(左手前)、京王改札口(右奥)、中央連絡口(左奥)がY字型に設けられている。(2019年9月) Bubaigawara Station Temporary ticket gate 2021.jpg|JRホーム臨時出口(2021年10月) Bubaigawara.eki01.jpg|分倍河原駅JR跨線橋 </gallery> {{-}} == 利用状況 == * '''京王電鉄''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''80,296人'''である<ref group="京王" name="keio2022" />。 *: 京王電鉄の駅では[[新宿駅]]、[[渋谷駅]]、[[吉祥寺駅]]、[[調布駅]]、[[下北沢駅]]に次いで、第6位である。 * '''JR東日本''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''35,006人'''である<ref group="JR" name="JR2022" />。 *:南武線の駅の中では第6位。 === 年度別1日平均乗降人員 === 各年度の1日平均'''乗降'''人員は下表の通り(JRを除く)。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗降人員<ref group="*">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref> !rowspan="2"|年度 !colspan="2"|京王帝都電鉄<br />/ 京王電鉄 |- !1日平均<br/>乗降人員 !増加率 |- |1955年(昭和30年) |9,193 | |- |1960年(昭和35年) |16,082 | |- |1965年(昭和40年) |30,346 | |- |1970年(昭和45年) |31,531 | |- |1975年(昭和50年) |32,870 | |- |1980年(昭和55年) |42,844 | |- |1985年(昭和60年) |52,946 | |- |1990年(平成{{0}}2年) |67,698 | |- |1995年(平成{{0}}7年) |77,586 | |- |2000年(平成12年) |<ref name="RP734_24">{{Cite journal|和書|author=田中健輔(京王電鉄鉄道運転部運転課)|title=輸送と運転 近年の動向|journal=鉄道ピクトリアル|date=2003-07-10|volume=53|issue=第7号(通巻734号)|page=24|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref>73,025 | |- |2001年(平成13年) |<ref name="RP893_27">{{Cite journal|和書|author=京王電鉄鉄道営業部運転課|title=輸送と運転 近年の動向|journal=鉄道ピクトリアル|date=2014-08-10|volume=64|issue=第8号(通巻893号)|page=27|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref>72,772 |&minus;0.3% |- |2002年(平成14年) |72,013 |&minus;1.0% |- |2003年(平成15年) |74,144 |3.0% |- |2004年(平成16年) |75,454 |1.8% |- |2005年(平成17年) |77,556 |2.8% |- |2006年(平成18年) |78,963 |1.8% |- |2007年(平成19年) |83,803 |6.1% |- |2008年(平成20年) |86,329 |3.0% |- |2009年(平成21年) |86,262 |&minus;0.1% |- |2010年(平成22年) |85,876 |&minus;0.4% |- |2011年(平成23年) |85,898 |0.0% |- |2012年(平成24年) |87,359 |1.7% |- |2013年(平成25年) |<ref name="RP893_27" />89,250 |2.2% |- |2014年(平成26年) |89,249 |&minus;0.0% |- |2015年(平成27年) |91,900 |3.0% |- |2016年(平成28年) |92,493 |0.6% |- |2017年(平成29年) |94,116 |1.8% |- |2018年(平成30年) |95,736 |1.7% |- |2019年(令和元年) |95,121 |&minus;0.6% |- |2020年(令和{{0}}2年) |69,114 |&minus;27.3% |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="京王" name="keio2021">{{Cite web|和書|author=京王電鉄株式会社 |authorlink=京王電鉄 |coauthors= |date= |title=1日の駅別乗降人員|url=https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-10-01 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220626083727/https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |archivedate=2022-06-26 |deadlink=2023-08-02 |}}</ref>74,388 |7.6% |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="京王" name="keio2022">{{Cite web|和書|author=京王電鉄株式会社 |authorlink=京王電鉄 |coauthors= |date= |title=1日の駅別乗降人員|url=https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-10-01 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230610030616/https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |archivedate=2023-06-10 |deadlink= |}}</ref>80,296 |7.9% |} === 年度別1日平均乗車人員(1956年 - 2000年) === <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="*" name="tokyo-toukei"/> !年度 !京王帝都電鉄<br />/ 京王電鉄 !国鉄 /<br />JR東日本 !出典 |- |1956年(昭和31年) |2,926 | |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1956/tn56qa0009.pdf 昭和31年]}} - 18ページ</ref> |- |1957年(昭和32年) |3,657 | |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1957/tn57qa0009.pdf 昭和32年]}} - 18ページ</ref> |- |1958年(昭和33年) |2,291 | |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1958/tn58qa0009.pdf 昭和33年]}} - 18ページ</ref> |- |1959年(昭和34年) |4,645 | |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1959/tn59qyti0510u.htm 昭和34年]</ref> |- |1960年(昭和35年) |5,230 | |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1960/tn60qyti0510u.htm 昭和35年]</ref> |- |1961年(昭和36年) |5,831 | |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1961/tn61qyti0510u.htm 昭和36年]</ref> |- |1962年(昭和37年) |6,614 | |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1962/tn62qyti0510u.htm 昭和37年]</ref> |- |1963年(昭和38年) |7,523 | |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1963/tn63qyti0510u.htm 昭和38年]</ref> |- |1964年(昭和39年) |9,284 | |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1964/tn64qyti0510u.htm 昭和39年]</ref> |- |1965年(昭和40年) |10,793 |11,531 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1965/tn65qyti0510u.htm 昭和40年]</ref> |- |1966年(昭和41年) |12,346 |12,853 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1966/tn66qyti0510u.htm 昭和41年]</ref> |- |1967年(昭和42年) |13,550 |13,070 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1967/tn67qyti0510u.htm 昭和42年]</ref> |- |1968年(昭和43年) |14,410 |15,135 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1968/tn68qyti0510u.htm 昭和43年]</ref> |- |1969年(昭和44年) |15,615 |20,326 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1969/tn69qyti0510u.htm 昭和44年]</ref> |- |1970年(昭和45年) |16,899 |20,334 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1970/tn70qyti0510u.htm 昭和45年]</ref> |- |1971年(昭和46年) |17,342 |19,413 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1971/tn71qyti0510u.htm 昭和46年]</ref> |- |1972年(昭和47年) |17,367 |19,071 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1972/tn72qyti0510u.htm 昭和47年]</ref> |- |1973年(昭和48年) |17,723 |17,934 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1973/tn73qyti0510u.htm 昭和48年]</ref> |- |1974年(昭和49年) |17,025 |18,668 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1974/tn74qyti0510u.htm 昭和49年]</ref> |- |1975年(昭和50年) |16,120 |16,276 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1975/tn75qyti0510u.htm 昭和50年]</ref> |- |1976年(昭和51年) |16,986 |17,063 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1976/tn76qyti0510u.htm 昭和51年]</ref> |- |1977年(昭和52年) |17,767 |17,085 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1977/tn77qyti0510u.htm 昭和52年]</ref> |- |1978年(昭和53年) |19,148 |14,855 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1978/tn78qyti0510u.htm 昭和53年]</ref> |- |1979年(昭和54年) |20,448 |19,019 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1979/tn79qyti0510u.htm 昭和54年]</ref> |- |1980年(昭和55年) |20,523 |19,038 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1980/tn80qyti0510u.htm 昭和55年]</ref> |- |1981年(昭和56年) |21,244 |20,337 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1981/tn81qyti0510u.htm 昭和56年]</ref> |- |1982年(昭和57年) |21,732 |21,211 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1982/tn82qyti0510u.htm 昭和57年]</ref> |- |1983年(昭和58年) |22,773 |21,757 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1983/tn83qyti0510u.htm 昭和58年]</ref> |- |1984年(昭和59年) |23,921 |23,726 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1984/tn84qyti0510u.htm 昭和59年]</ref> |- |1985年(昭和60年) |24,518 |26,419 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1985/tn85qyti0510u.htm 昭和60年]</ref> |- |1986年(昭和61年) |25,800 |28,268 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1986/tn86qyti0510u.htm 昭和61年]</ref> |- |1987年(昭和62年) |27,515 |29,117 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1987/tn87qyti0510u.htm 昭和62年]</ref> |- |1988年(昭和63年) |29,030 |25,260 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1988/tn88qyti0510u.htm 昭和63年]</ref> |- |1989年(平成元年) |30,140 |27,121 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm 平成元年]</ref> |- |1990年(平成{{0}}2年) |31,378 |28,841 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 平成2年]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) |33,883 |30,486 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 平成3年]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) |34,855 |32,584 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 平成4年]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) |35,627 |34,589 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 平成5年]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) |35,962 |35,436 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 平成6年]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |35,995 |35,653 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 平成7年]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |35,975 |35,732 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 平成8年]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) |35,384 |35,594 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 平成9年]</ref> |- |1998年(平成10年) |35,241 |35,430 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 平成10年]}}</ref> |- |1999年(平成11年) |33,880 |34,874 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 平成11年]}}</ref> |- |2000年(平成12年) |35,230 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000_01.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>34,338 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 平成12年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) === <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |- |+年度別1日平均乗車人員<ref group="*" name="tokyo-toukei">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref><ref group="*">[https://www.city.fuchu.tokyo.jp/gyosei/toke/tokeisyo/index.html 府中市統計書] - 府中市</ref> |- !年度 !京王電鉄 !JR東日本 !出典 |- |2001年(平成13年) |35,266 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001_01.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>34,176 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 平成13年]</ref> |- |2002年(平成14年) |35,310 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002_01.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>33,701 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 平成14年]</ref> |- |2003年(平成15年) |36,030 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003_01.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>33,985 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 平成15年]</ref> |- |2004年(平成16年) |36,830 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004_01.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>34,702 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 平成16年]</ref> |- |2005年(平成17年) |37,896 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005_01.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>35,970 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 平成17年]</ref> |- |2006年(平成18年) |38,567 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006_01.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>36,779 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 平成18年]</ref> |- |2007年(平成19年) |40,951 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007_01.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>39,352 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 平成19年]</ref> |- |2008年(平成20年) |42,364 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008_01.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>40,377 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 平成20年]</ref> |- |2009年(平成21年) |42,389 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009_01.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>37,640 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 平成21年]</ref> |- |2010年(平成22年) |42,258 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010_01.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>37,739 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 平成22年]</ref> |- |2011年(平成23年) |42,273 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011_01.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>37,598 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 平成23年]</ref> |- |2012年(平成24年) |43,197 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012_01.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>38,382 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 平成24年]</ref> |- |2013年(平成25年) |44,033 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013_01.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>39,069 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 平成25年]</ref> |- |2014年(平成26年) |44,096 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014_01.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>39,158 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 平成26年]</ref> |- |2015年(平成27年) |45,377 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015_01.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>40,036 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 平成27年]</ref> |- |2016年(平成28年) |45,734 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016_01.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>40,350 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 平成28年]</ref> |- |2017年(平成29年) |46,501 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017_01.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>40,913 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 平成29年]</ref> |- |2018年(平成30年) |47,271 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018_01.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>41,285 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 平成30年]</ref> |- |2019年(令和元年) |46,918 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019_01.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>41,240 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 平成31年・令和元年]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |34,148 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020_01.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>30,574 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2020/tn20q3i004.htm 令和2年]</ref> |- |2021年(令和{{0}}3年) |37,112 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021_01.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>32,425 |<ref group="東京都統計>[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2021/tn21q3i004.htm 令和3年]</ref> |- |2022年(令和{{0}}4年) | |<ref group="JR" name="JR2022">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_01.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>35,006 | |} == 駅周辺 == <!--同一キーワードを何度もリンクしない--> {{columns-list|2| * [[MINANO]]([[ショッピングセンター]]) * [[東芝府中事業所]] * [[東芝デジタルソリューションズ]] * 府中片町郵便局 * 武蔵府中税務署 * 府中公共職業安定所(ハローワーク府中) * 府中分梅郵便局 * 分倍河原商店街 * 府中市立片町文化センター * [[東京消防庁]][[府中消防署 (東京都)|府中消防署]]分梅出張所 * ヒューリック府中タワー(旧Jタワー) |}} 改札を出て左に向かうと分倍河原商店街であり、商店街を北進すると[[東京都道229号府中調布線]]([[旧甲州街道]])にぶつかる。商店と小規模事業所、住宅の混在した地域である。 改札を出た右方は[[跨線橋]]で南武線とその横の道路を渡り駅前南ロータリーに出る。ロータリーは改札口から見て段丘の下になるため、跨線橋はロータリー側のみ階段、[[斜路|スロープ]]になっている。事業所などのビルもあるが、少し離れると主に低層の住宅地である。 ロータリーには[[タクシー]]、[[路線バス]]、数社の[[送迎バス]]それぞれの乗り場がある。[[サントリー]]府中工場の見学者用バス(通称「モルツバス」)もここから出ている。南武線の踏切道を南進すると交差点の先に武蔵府中税務署がある。 <gallery> Bubaigawara.eki03.jpg|分倍河原商店街 Fuchu.katamachi.bunka.center.jpg|府中市立片町文化センター、ちはやふる。 </gallery> == バス路線 == === 北口 === 北口は、府中市が運行するコミュニティバス「[[ちゅうバス]]」が発着する<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://www.city.fuchu.tokyo.jp/kurashi/machi/chubus/bus.files/20230401chu_bus_zikoku_rosen.pdf |title=ちゅうバス路線図及び時刻表(令和5年4月1日から) |access-date=2023年5月15日}}</ref><ref group="注" name="jyutaku">ただし、運行受託は[[京王バス府中営業所]]が行っている。</ref>。 <!-- [[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。--> {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !のりば!!運行事業者!!系統・行先 |- !colspan="3"|分倍河原駅北<ref group="注">商店街を抜け、旧甲州街道街道に出て左へ踏切を渡った先に設置されている。</ref> |- !6 |rowspan="2" style="text-align:center;"|ちゅうバス |[[ちゅうバス#北山町循環|'''北山町循環''']]:[[府中駅 (東京都)|府中駅]] / 北山町四丁目 |- !7 |'''北山町循環''':府中駅 |- !colspan="3"|片町文化センター<ref group="注">分倍河原駅北の1つ府中駅側の停留所である。街道に出て右へ進んだ場所に設置されている。</ref> |- !1 |rowspan="2" style="text-align:center;"|ちゅうバス |'''北山町循環''':府中駅 / 北山町四丁目 |- !2 |'''北山町循環''':府中駅 |} === 南口 === 南口は、南口ロータリー内に設置されている「分倍河原駅」停留所にて、[[京王バス]]が運行する路線バスや、府中市が運行するコミュニティバス「ちゅうバス」<ref group="注" name="jyutaku" />が発着する<ref name=":1" /><ref>{{Cite web |url=https://www.keio-bus.com/bus/5_keio_rosenzu.pdf |title=路線図E(武蔵小金井、国分寺、国立、府中) |access-date=2023年5月15日}}</ref>。 <!-- [[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。--> {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !のりば!!運行事業者!!系統・行先 |- !rowspan="2"|0 |style="text-align:center;"|京王バス |{{Unbulleted list|[[京王バス府中営業所#郷土の森線|'''府52'''・'''分52''']]:[[郷土の森総合体育館]]|'''府52''':府中駅}} |- |style="text-align:center;"|ちゅうバス |[[ちゅうバス#南町・四谷循環|'''南町・四谷循環''']]:府中駅 / よつや苑西行 |} == 隣の駅 == ;京王電鉄 :[[File:Number prefix Keio-line.svg|15px|KO]] 京王線 :*{{Color|#dd0077|□}}「[[京王ライナー]]」(上りは乗車のみ)、{{Color|#9acd32|□}}「[[京王ライナー#Mt.TAKAO号|Mt.TAKAO号]]」(上りのみ乗車可)停車駅 ::{{Color|#ff1493|■}}特急・{{Color|#20b2aa|■}}急行 :::[[府中駅 (東京都)|府中駅]] (KO24) - '''分倍河原駅 (KO25)''' - [[聖蹟桜ヶ丘駅]] (KO27) ::{{Color|olive|■}}区間急行(上りのみ運転)・{{Color|blue|■}}快速(下りのみの運転)・{{Color|gray|■}}各駅停車 :::府中駅 (KO24) - '''分倍河原駅 (KO25)''' - [[中河原駅]] (KO26) ;東日本旅客鉄道(JR東日本) :[[File:JR JN line symbol.svg|15px|JN]] 南武線 ::{{Color|#ff0066|■}}快速 :::[[府中本町駅]] (JN 20) - '''分倍河原駅 (JN 21)''' - [[立川駅]] (JN 26) ::{{Color|#ffd400|■}}各駅停車 :::府中本町駅 (JN 20) - '''分倍河原駅 (JN 21)''' - [[西府駅]] (JN 22) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === ==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注"}} ==== 出典 ==== {{Reflist}} ==== 報道発表資料 ==== {{Reflist|group="報道"}} === 利用状況 === ;京王電鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="京王"|3}} ;JR東日本の2000年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|22em}} ;JR・私鉄の統計データ {{Reflist|group="*"}} ;東京都統計年鑑 {{Reflist|group="東京都統計"|17em}} == 関連項目 == {{commonscat}} * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[分倍河原の戦い (鎌倉時代)]] * [[分倍河原の戦い (室町時代)]] == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=1385|name=分倍河原}} * [https://www.keio.co.jp/train/station/ko25_bubaigawara/ 京王電鉄 分倍河原駅] {{京王線}} {{南武線}} {{DEFAULTSORT:ふはいかわら}} [[Category:東京都府中市の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 ふ|はいかわら]] [[Category:京王電鉄の鉄道駅]] [[Category:南武鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:南武線|ふはいかわらえき]] [[Category:1925年開業の鉄道駅]]
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7,544
トラックボール
トラックボール (Trackball) は、マウスなどと同様にコンピュータの操作に用いるポインティングデバイスの一種。 上面についている球体(ボール)を手で回転させて、読み取らせた回転方向や速さに応じてカーソル(ポインタ)などを操作する。 メーカーや商品によっては、例えばケンジントンのExpert Mouseやロジクール (Logitech) のMarble Mouseなど、トラックボールという名称を使用せず、マウスの名を冠している商品もある。 トラックボールの歴史における古い記録のひとつに1966年の製品がある。もっと古いトラックボールの原形とされているものが、1950年代のカナダのC2(Command and Control)システムDATAR(en:DATAR)にある。 過去にはマウスと並んでポインティングデバイスの代表格だったが、一般へのパソコン普及が加速し始めた頃には、既に主流はマウスに移っていた。ノートパソコンにトラックボールを採用する事例は少なくなかったが、本体の薄型化が進行するにつれて、ボールの直径が筐体の薄型化の阻害要因になること、ボールの直径を小さくした場合に良好な操作性を確保することが難しいことなどから、トラックボールを搭載する製品はほとんど見られなくなり、タッチパッドやポインティング・スティックが主流となった。 パソコンの操作デバイスとしてのマウスが実質的な標準となってから、ノートパソコンも薄型化などによりトラックボールが消えてしまったため、目にする機会は少なくなった。しかし、現在でもトラックボールを好むユーザーは存在しており、有名企業を含むいくつかのメーカーから新製品がリリースされている。また、プレゼンテーション用の製品など、手で持ち上げて使うためのポインティングデバイスにおいては、現在でも小型のトラックボールを採用している製品が少なくない。 デスクトップ向け市場においてトラックボールを生産している主なメーカーはペリックス、ケンジントン・テクノロジー・グループ、サンワサプライ、ロジクール、エレコムの5社である。かつてはマイクロソフトもトラックボール製品を製造していたが、2006年に生産終了となった模様である。シャープのデジタルテレビパソコン「インターネットAQUOS」などのキーボードにも標準で搭載されている。 ポインティングデバイス以外には、マウスやペンタブレットと組み合わせて、画面のスクロールや表示の拡大縮小などをショートカット操作として割り当てることによって、アプリケーションソフトをより素早く操作できるようにしたものがある。 2008年頃からスマートフォン(後に普及したタブレット端末も含む)でタッチパネルに加えトラックボールを使用する物がある。操作に両手を使用するタッチパネルに対して、Bluetooth接続によって場所を選ばず片手でも直感的な操作ができるトラックボールが補完的に採用されることが多い。BlackBerry Boldなどはタッチパネルは使わずQWERTYキーボードとトラックボールのみのスマートフォンとなっている。代表的な製品としてandroidスマートフォンのHT-03Aやシャープから発売されたIS01、タブレットのGALAPAGOSやブックリーダーSH-07Cなどがある。 バーチャルリアリティに特化したHMD(ヘッドマウントディスプレイ)用の機器、ソフトウェアが2010年代後半に注目されていくにつれて、腕での操作に用いるデバイスで指で細かく操作するための部分に、スティック、タッチパッドとともにトラックボールが採用されるケースがある。 空中操作が出来るタイプを参照。 トラックボールの操作は、マウスのように装置そのものを持って動かすのではなく、指先や手のひら(機種によっては足にも対応)を使ってボールだけをその場で回転させることで行う。似たような性質のものではタッチパッド、ポインティング・スティックなどもある。トラックボールの筐体には、操作用ボールを収めるためのトラックボールハウジング(カップとも呼ばれる。以降カップと表記。)という窪みが設けられている。 その操作の特性上、操作のための広い面積や腕全体を動かす必要がなく机上の狭いスペースでも使用できる。ノートパソコンに2cm程度の小型のトラックボールを搭載するものや、スマートフォンに数mmの小型のトラックボールを搭載した物もある(スマートフォンの関係性については下記を参照)。足でも使える機種の場合、ポインターは足で操作できるため、両方の手が自由に使える利点がある。 操作に関して、手首や腕を細かく動かすことによる負担も少なくなり、腱鞘炎のリスクも減らすことができる。 手のない人、身体は思うように動かせないが、指先だけは正常に動かせる人など、身体障害者も利用可能であり、公共施設に設置されているパソコンにも多く用いられる。また、特定機器の内部に固定して設置できるため、マウスに比べて断線や周囲の揺れの影響が少なく、画像診断装置(超音波診断装置など)のような医療用途の他、工業用や軍事用といった具合に正確性を保ちつつ周囲の環境に影響されず操作可能な機器にも用いられる。 また、子供でも操作しやすいことから、子供向けとしてデザインされたトラックボールもいくつか存在する。 ボールの操作は、指をボールにつけたまま回すほか、ボールの慣性を利用して勢いよく回転させるような使い方もできるものもある。大きなボールを備えたものは操作の正確性に優れCADなどのオペレーションにも利用されている。ボールの重量、直径が大きいものほど慣性を利用した用法に有利である。直径が小さい場合、解像度の高いディスプレイ上を動かすには不適であるが、パソコン上の設定から検知感度を変更することで対応することもできる。 トラックボールとマウスの操作性の大きな違いを比較すると、(パソコンで感度や移動量を調整すれば対応できるが)一般的なマウスではポインタを大きく画面の端から端まで動かす際に一度マウスを接地面から浮かせて別の位置に置き、また動かす必要があるのに引きかえ、トラックボールは指先の位置を少しずらすだけで対応することができる。腕を大きく動かす必要がないため、肘や肩などにかかる負荷はマウスに比べて低い。 また、指先といったトラックボールに接触している極めて限定された部分の入力しか受け付けないため、ポインタのぶれも少ない。マウスならば腕や肘だけではなく、身体全体の動きが入力に影響してしまうこともままあるため、不意に身体を動かしたり、マウスから手を離す際、意図せずポインタがずれる現象が発生するが、トラックボールでは意図的に行わない限りめったに起こりえない現象である。 マウスが光学式になったのと同様に、トラックボールにも光学式のものが多くなっている。マウスではボールそのものがなくなったが、トラックボールの場合はボールの回転を光の反射で読み取るため、同じ形状ならば操作感に大きな違いはない。ただし、このボール直読み方式に切り替わった都合から、以前はほぼ無地だったボール表面に文様が施されるようになっている。 トラックボールの形状パターンには後述のようにいくつかの種類があり、これもまた種類ごとに異なる操作性を持っている。 慣れにもよるが、マウスに比べると素早く直感的にポインティングすることが不得意な一面もある。また、マウスとは違い、五本ある指のうち最もよく使う親指、人差し指、中指のいずれか一つもしくは手のひら全体を用いてボールを操作するという特性から、近年の高価な上位マウスに比較して多数のサブボタンを導入しにくいという欠点もある。トラックボールにもボタンが数多く付いているものがあるが、通常よく使う3本指のうちいずれか一つが常にボール操作に塞がれるため、マウスに比べれば使い勝手は悪い。上記のような理由から、トラックボールはハードコアにコンピューターゲームを利用しているユーザーからは敬遠されがちな傾向にある。ただし、左手でキーボードならびに多数のボタン操作を行うこともでき、大きなトラックボールを使用したものでは精密操作と同時に大ざっぱな操作が行える(マウスの様な必要スペースを取らない)ため、ジャンルやプレイスタイルに応じて利用される。 アーケードゲームには、タイトル専用カスタムハードウェアという特性もあって、トラックボールを入力デバイスとする作品が古くからある。著名なところでは『ミサイルコマンド』や『マーブルマッドネス』、『アウトトリガー』、『SDI』、『セガソニック・ザ・ヘッジホッグ』などが挙げられる。また過去にはアタリからコンシューマーゲーム機用のトラックボールが発売されていたこともある。 一部のゲームでは単にポインティングデバイスの一種としての採用であるが、たとえば『ミサイルコマンド』の場合、他のポインティングデバイスとしてたとえばライトペンを使ってしまうとゲームが簡単になり過ぎるので、「適度な操作性の悪さ」と、実際の防空システムの装置で使われているデバイスであるという演出面の意味もある。ジョイスティック(アナログジョイスティック)が、定常的には2軸(2次元・2自由度)の角度を入力するデバイスであるのに対し、トラックボールは2次元の角速度を定常的に入力できるというのが違いであり、『マーブルマッドネス』はそれがそのままゲーム世界内のボールに反映する、という点で特にマッチしたシステムと言える。 手を放してもホームポジションやニュートラルポジションに戻らないという特性から、複雑なコマンドを素早く的確に入力する必要に迫られる格闘ゲームなどにはマウスと同様に不向きである。業務用ゲーム機としてのトラックボールは独特の操作性を持つ反面、難点も多い。激しいプレイでの故障によってメンテナンスが多くなり、筐体パネルとボールの隙間などによりプレイヤーが手を怪我する場合もある。通常のレバー、ボタンの操作と比較すると部品は少ない。現在ではトラックボールを使用するゲームは極稀である。家庭用ゲームでは、前述した業務用ゲームの移植版が一部あるのみで、トラックボール使用を強制するゲームはほぼない。 トラックボールは机に設置するタイプの大きなものから、片手で持ったまま使える小型のものもあり、特に小型のものはプレゼンテーションなどの場面で利用されている。また、マウスは平たい場所で使用しなければ操作はほぼ不可能だが、トラックボールは可動面が天井を向いている製品が大半のため、ある程度固定された場所さえあればよく、利用する場所を選ばない。 当節では、一体型ではなくマウスの様に外部端末として使用可能な種類を紹介する。 台座上面の中ほどに大型の球が載っているもの。大きな球の周囲にさらにボタンが配置されているため大型の製品が多く、古くから存在するトラックボールの典型的な形状である。ボールは手のひらか、あるいは中指や人差し指で転がす。ボールが大きく慣性も大きいため、勢いを付けて速くカーソルを移動させる事ができ、細かい作業も可能な一方、マウスに比べてかなり独特な操作体系と、設置スペース面を占めるデメリットがある。 一般的なマウスに似た形をしており、マウスならばボタンやホイールがついている部分に人差し指や中指の先で転がすためのボールが載っているもの。手のひら操作タイプに比較すると、サイズとの兼ね合いからボールのサイズは小さめであることが多い。デバイス自体のサイズは、設置スペース重視の通常のマウスに近いコンパクトな製品から、使い勝手優先で手のひら操作タイプの全長に近いサイズの製品などがある。なお、ボタンの設置位置により左右対称か非対称に分かれ、非対称の場合は親指でボタンとホイールを操作するスタイルが主流となっている。ただし、非対称の場合は右手での操作が必須などのデメリットが有るので、左手で操作する場合は左右対称の製品を選ぶ必要がある。 一般的なマウスに似た形をしており、ボタンやホイールも一般のマウスと同様の配置になっていることが多い。ボールはデバイスの左側面に配置されており、デバイスを右手で持ったときに親指でボールを転がすように作られている。握り方やボタン操作の指はマウスを操作する場合と同じであり、マウスからの移行が前述の2種のタイプに比べて比較的簡単と言うメリットがある。ただし、形状が左右非対称になっていて右手用のものを左手で操作することは難しいので、左右が反転した左手用のものを入手するか右手用のもので妥協するかの二択というデメリットが有る。 必ずしも机上に固定しておく必要がない特長を生かして、空中で手に持った状態で使用できる製品が制作可能なのもトラックボールならではである。タッチパネルのないノートパソコンやタブレットデバイスをフィールドで運用する際に便利なほか、インドアユースにおいても机に縛られないパソコンの使用が出来ることから、いくつかのメーカーは拳銃のグリップと持ち方の似た筐体デザインのものを「ごろ寝マウス」などと銘打って販売している。その形状から、多くは左右の手で使用可能であり、慣れ次第では通常のデスクトップマウス並みの操作を行うことも可能である。デバイスを抱えたその手の中で操作すれば、片手のみでのポインティング操作が完結し、残った反対の手でキーボードを操作できるようになる。これらの特色故に、上記のタイプに比べコンパクトで携帯性に勝ると言うメリットと、コンパクト故にボール操作の精度面で劣ると言うデメリットが有る。 なお、身体の動きに障害がある者に人気があるのもこのタイプであり、机に手を乗せる姿勢を取るのが難しいような障害を持つ者にとっては、これなしにコンピューティングは難しいと言う者もいる。 トラックボールはその構造上、操作球を支持しておく構造を持たなければならない。そしてその構造は操作球の動きを妨げず、滑らかな操球感を実現しなければトラックボールとしての実用性を損なってしまう。 初期のトラックボールは、通常のボールマウスと同様に2軸のシャフトによってX軸Y軸の移動量を検出していた。それぞれのシャフトの端に、放射状に細かい隙間の空いたホイールが取り付けられており、その動きを光学センサーで読み取る方法である。また、それぞれのシャフトにはボールとの接触面に微小なゴムチューブが取り付けられており、ボールの挙動を取りこぼさないようグリップしていた。この構造は後に改良が重ねられ、カップ内にミニチュアベアリングを3つ配置し、内2つの動きを読み取る形式に進化した。ただしこの構造は複雑で部品点数も多く、何よりコストがかかる。しかし比較的耐久性があることから、時代が進んだ後も根強い愛好者がいる。また、この当時はボールの脱落を防ぐために、ボール径より小さい着脱可能なリング式のキャップがカップに被せられているタイプが多かったが、ボール直読みの光学式が普及するにつれ埃掃除のメンテナンス頻度が上がったためか、筐体の開口部をボール径より微妙に狭くして固定する形になり、キャップは廃れていった。この開口部が狭いタイプの筐体は、ボールを外すのに細長い道具で裏側から押し出す必要があり、底面にそのための穴が空いている。 トラックボールで最も一般的に普及した支持形式は、カップに硬質の数ミリ径の小さなボールを配置し、それにより操作球を支持する支持球式である。小さな支持球の点接触により、摩擦摺動でありながら滑らかに操作球が動くようにしたものであり、ベアリングや軸を用いるより構造を簡略化し、コストを抑えることが可能となった。ただし、モーション検出方式が光学式、またはそれに準ずる物でないと構造的に使えない。また、指での操球感は滑らかになっているが、ベアリング式より摩擦は大きくなるため、慣性で転がし続けられるものは少ない。 最も受け入れられた支持球式ではあるが、摩擦摺動であることから耐久性に難がある宿命が生じてしまう事ともなった。 この形式のトラックボールを使用していると汚れや埃による操作球の動きの渋さが出てくる。この程度ならば操作球を取り外し清掃することで解決可能だが、どうしても解決が難しかったのが支持球の摩耗である。 初期の支持球式、または価格の安いトラックボールマウスは、支持球にステンレス等の合金を用いている。一見堅そうな金属支持球だが、意外なほど摩耗には弱く、操作球との摩擦と巻き込んだ硬質の埃の影響により接触面が平たく削れていってしまう欠点がある。こうなると点接触が面接触になり、非常に操球感を悪くするばかりか操作球に傷まで付けてしまう。 これを解決すべく登場したのが、非常に硬度の高いルビーや酸化アルミニウムセラミックスを用いた支持球で、これらはダイヤモンドに次ぐ硬度を持ち、通常まず摩耗しないことから、摩耗問題の決定打として比較的高級なトラックボール製品には好んで用いられる。 また、現在でも製品の絶対数の少ないトラックボール市場において、使い慣れた古い製品を使い続けたいという需要もあり、有志によりさまざまな補修方法が考えられており、支持球のセラミック化もその一つである。サイズの適合するセラミックボールを入手し、金属支持球をリプレースする改造であるが、現行のトラックボールを部品取りとするほか、ラジコンの駆動系部品からセラミック製のベアリングボールを入手するなど様々な方法が考案されている。 メンテナンス性に関しては、マウスは光学式に変わってボールの動きを読み取る接触部分の掃除が必要なくなったが、トラックボールの場合、従来と必要個所は異なるにしても定期的な掃除が欠かせないことに変わりはない。以前はシャフトのゴム取り付け部やベアリングといった、ボールとの接触面に埃が溜まることで、ボールが空回りを起こし読み取り不良を招いていたが、ボール直読みの光学式では採光部分(CCDが球体の回転を読み取る窓)や球体支持部などに溜まるようになっており、採光部分では意外と少量の綿埃でも読み取り不良が起き、球体支持部に溜まると操球感の滑らかさが失われる。
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"メンテナンス性に関しては、マウスは光学式に変わってボールの動きを読み取る接触部分の掃除が必要なくなったが、トラックボールの場合、従来と必要個所は異なるにしても定期的な掃除が欠かせないことに変わりはない。以前はシャフトのゴム取り付け部やベアリングといった、ボールとの接触面に埃が溜まることで、ボールが空回りを起こし読み取り不良を招いていたが、ボール直読みの光学式では採光部分(CCDが球体の回転を読み取る窓)や球体支持部などに溜まるようになっており、採光部分では意外と少量の綿埃でも読み取り不良が起き、球体支持部に溜まると操球感の滑らかさが失われる。", "title": "構造とメンテナンス" } ]
トラックボール (Trackball) は、マウスなどと同様にコンピュータの操作に用いるポインティングデバイスの一種。
{{出典の明記|date=2015年5月}} [[ファイル:Wireless-trackman-mouse.jpg|thumb|250px|Logitech製のトラックボール]] '''トラックボール''' (Trackball) は、[[マウス_(コンピュータ)|マウス]]などと同様にコンピュータの操作に用いる[[ポインティングデバイス]]の一種。 == 概要 == 上面についている球体(ボール)を手で回転させて、読み取らせた回転方向や速さに応じて[[カーソル]](ポインタ)などを操作する。 メーカーや商品によっては、例えば[[ケンジントン・テクノロジー・グループ|ケンジントン]]のExpert Mouseや[[ロジクール]] (Logitech) のMarble Mouseなど、トラックボールという名称を使用せず、マウスの名を冠している商品もある。 トラックボールの歴史<ref>トラックボールファンFAQ『[http://www.hykw.com/tbfan/faq/index.html#rekishi トラックボールの歴史は?]』</ref>における古い記録のひとつに1966年の製品がある<ref>[http://www.oldmouse.com/trackball/orbit.shtml ORBIT X-Y Ball Tracker]』</ref>。もっと古いトラックボールの原形とされているものが、1950年代のカナダのC2(Command and Control)システムDATAR([[:en:DATAR]])にある。 === 現状 === {{いつ範囲|date=2015年3月|過去}}にはマウスと並んでポインティングデバイスの代表格だったが、一般へのパソコン普及が加速し始めた頃には、既に主流はマウスに移っていた。[[ノートパソコン]]にトラックボールを採用する事例は少なくなかったが、本体の薄型化が進行するにつれて、ボールの直径が筐体の薄型化の阻害要因になること、ボールの直径を小さくした場合に良好な操作性を確保することが難しいことなどから、トラックボールを搭載する製品はほとんど見られなくなり、[[タッチパッド]]や[[ポインティング・スティック]]が主流となった。 パソコンの操作デバイスとしてのマウスが実質的な標準となってから、ノートパソコンも薄型化などによりトラックボールが消えてしまったため、目にする機会は少なくなった。しかし、現在でもトラックボールを好むユーザーは存在しており、有名企業を含むいくつかのメーカーから新製品がリリースされている。また、プレゼンテーション用の製品など、手で持ち上げて使うためのポインティングデバイスにおいては、現在でも小型のトラックボールを採用している製品が少なくない。 デスクトップ向け市場においてトラックボールを生産している主なメーカーは[[ペリックス]]、[[ケンジントン・テクノロジー・グループ]]、[[サンワサプライ]]、[[ロジクール]]、[[エレコム]]の5社である。かつては[[マイクロソフト]]もトラックボール製品を製造していたが、2006年に生産終了となった模様である<!--アナウンスされた、とありましたが、公式発表が発見出来ませんでした。ご存知の方は追加願います。-->。シャープのデジタル[[テレビパソコン]]「[[アクオス#インターネット AQUOS|インターネットAQUOS]]」などの[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]にも標準で搭載されている<ref>『[http://www.sharp.co.jp/i-aquos/products/ax100m/sub4.html インターネットAQOUS仕様書]』によると、「入力装置 トラックボール(キーボードに内蔵)」とある。</ref>。 ポインティングデバイス以外には、マウスや[[ペンタブレット]]と組み合わせて、画面のスクロールや表示の拡大縮小などをショートカット操作として割り当てることによって、アプリケーションソフトをより素早く操作できるようにしたものがある。 ===スマートフォン・タブレットでの利用=== 2008年頃から[[スマートフォン]](後に普及したタブレット端末も含む)で[[タッチパネル]]に加えトラックボールを使用する物がある。操作に両手を使用するタッチパネルに対して、Bluetooth接続によって場所を選ばず片手でも直感的な操作ができるトラックボールが補完的に採用されることが多い。[[BlackBerry Bold]]などはタッチパネルは使わずQWERTYキーボードとトラックボールのみのスマートフォンとなっている。代表的な製品として[[Android (オペレーティングシステム)|android]]スマートフォンの[[HT-03A]]やシャープから発売された[[IS01]]、[[タブレット_(コンピュータ)|タブレット]]の[[GALAPAGOS]]や[[SH-07C|ブックリーダーSH-07C]]などがある。 {{-}} === VR機器でのハンドデバイス === [[バーチャルリアリティ]]に特化したHMD(ヘッドマウントディスプレイ)用の機器、ソフトウェアが2010年代後半に注目されていくにつれて、腕での操作に用いるデバイスで指で細かく操作するための部分に、スティック、タッチパッドとともにトラックボールが採用されるケースがある。 空中操作が出来るタイプを参照。 == 特徴 == [[File:US Navy 120208-N-TU894-017 Air-Traffic Controller 1st Class Justin S. Brown tracks incoming aircraft from the carrier air traffic control center ab.jpg|right|thumb|アメリカ合衆国海軍の航空管制任務の様子(右手でトラックボールを操作)]] トラックボールの操作は、[[マウス_(コンピュータ)|マウス]]のように装置そのものを持って動かすのではなく、指先や手のひら(機種によっては足にも対応)を使ってボールだけをその場で回転させることで行う。似たような性質のものでは[[タッチパッド]]、[[ポインティング・スティック]]などもある。トラックボールの筐体には、操作用ボールを収めるためのトラックボールハウジング(カップとも呼ばれる。以降カップと表記。)という窪みが設けられている。 その操作の特性上、操作のための広い面積や腕全体を動かす必要がなく机上の狭いスペースでも使用できる。ノートパソコンに2cm程度の小型のトラックボールを搭載するものや、スマートフォンに数mmの小型のトラックボールを搭載した物もある(スマートフォンの関係性については下記を参照)。足でも使える機種の場合、ポインターは足で操作できるため、両方の手が自由に使える利点がある。 操作に関して、手首や腕を細かく動かすことによる負担も少なくなり、[[腱鞘炎]]のリスクも減らすことができる。 手のない人、身体は思うように動かせないが、指先だけは正常に動かせる人など、身体障害者も利用可能であり、公共施設に設置されているパソコンにも多く用いられる。また、特定機器の内部に固定して設置できるため、マウスに比べて断線や周囲の揺れの影響が少なく、画像診断装置([[超音波検査|超音波診断装置]]など)のような医療用途の他、工業用や軍事用といった具合に正確性を保ちつつ周囲の環境に影響されず操作可能な機器にも用いられる。 また、子供でも操作しやすいことから、子供向けとしてデザインされたトラックボールもいくつか存在する。 === 操作性 === ボールの操作は、指をボールにつけたまま回すほか、ボールの慣性を利用して勢いよく回転させるような使い方もできるものもある。大きなボールを備えたものは操作の正確性に優れ[[CAD]]などのオペレーションにも利用されている。ボールの重量、直径が大きいものほど[[慣性]]を利用した用法に有利である。直径が小さい場合、[[解像度]]の高いディスプレイ上を動かすには不適であるが、パソコン上の設定から検知感度を変更することで対応することもできる。 トラックボールとマウスの操作性の大きな違いを比較すると、(パソコンで感度や移動量を調整すれば対応できるが)一般的なマウスではポインタを大きく画面の端から端まで動かす際に一度マウスを接地面から浮かせて別の位置に置き、また動かす必要があるのに引きかえ、トラックボールは指先の位置を少しずらすだけで対応することができる。腕を大きく動かす必要がないため、肘や肩などにかかる負荷はマウスに比べて低い。 また、指先といったトラックボールに接触している極めて限定された部分の入力しか受け付けないため、ポインタのぶれも少ない。マウスならば腕や肘だけではなく、身体全体の動きが入力に影響してしまうこともままあるため、不意に身体を動かしたり、マウスから手を離す際、意図せずポインタがずれる現象が発生するが、トラックボールでは意図的に行わない限りめったに起こりえない現象である。 マウスが光学式になったのと同様に、トラックボールにも光学式のものが多くなっている<ref>ただし、現在と読み取り方法が異なるだけで、両者共古くから光学センサーの使用でカーソル座標を動かしてはいた([[#構造とメンテナンス|後述]])。</ref>。マウスではボールそのものがなくなったが、トラックボールの場合はボールの回転を光の反射で読み取るため、同じ形状ならば操作感に大きな違いはない。ただし、このボール直読み方式に切り替わった都合から、以前はほぼ無地だったボール表面に文様が施されるようになっている<ref>'90年代後期にロジクールが赤地に無数の黒斑点をプリントした”マーブルボール”を採用して以来、センサーをカップ内に配置して模様の動きからボールの回転方向・移動量を検出するタイプのものが普及し出し、現在は[[ラメ]]状文様のボールが一般的である。</ref>。 トラックボールの形状パターンには後述のようにいくつかの種類があり、これもまた種類ごとに異なる操作性を持っている。 === ゲームとトラックボールの関係 === 慣れにもよるが、マウスに比べると素早く直感的にポインティングすることが不得意な一面もある。また、マウスとは違い、五本ある指のうち最もよく使う[[親指]]、[[人差し指]]、[[中指]]のいずれか一つもしくは手のひら全体を用いてボールを操作するという特性から、近年の高価な上位マウスに比較して多数のサブボタンを導入しにくいという欠点もある。トラックボールにもボタンが数多く付いているものがあるが、通常よく使う3本指のうちいずれか一つが常にボール操作に塞がれるため、マウスに比べれば使い勝手は悪い。上記のような理由から、トラックボールはハードコアに[[コンピューターゲーム]]を利用しているユーザーからは敬遠されがちな傾向にある。ただし、左手でキーボードならびに多数のボタン操作を行うこともでき、大きなトラックボールを使用したものでは精密操作と同時に大ざっぱな操作が行える(マウスの様な必要スペースを取らない)ため、ジャンルやプレイスタイルに応じて利用される。 [[アーケードゲーム]]には、タイトル専用カスタムハードウェアという特性もあって、トラックボールを入力デバイスとする作品が古くからある。著名なところでは『[[ミサイルコマンド]]』や『[[マーブルマッドネス]]』、『[[アウトトリガー]]』、『[[SDI (ゲーム)|SDI]]』、『[[セガソニック・ザ・ヘッジホッグ]]』などが挙げられる。また過去には[[アタリ (企業)|アタリ]]から[[コンシューマーゲーム]]機用のトラックボールが発売されていたこともある。 一部のゲームでは単にポインティングデバイスの一種としての採用であるが、たとえば『ミサイルコマンド』の場合、他のポインティングデバイスとしてたとえば[[ライトペン]]を使ってしまうとゲームが簡単になり過ぎるので、「適度な操作性の悪さ」と、実際の防空システムの装置で使われているデバイスであるという演出面の意味もある。ジョイスティック(アナログジョイスティック)が、定常的には2軸(2次元・2自由度)の'''角度'''を入力するデバイスであるのに対し、トラックボールは2次元の'''角速度'''を定常的に入力できるというのが違いであり、『マーブルマッドネス』はそれがそのままゲーム世界内のボールに反映する、という点で特にマッチしたシステムと言える。 手を放してもホームポジションやニュートラルポジションに戻らないという特性から、複雑なコマンドを素早く的確に入力する必要に迫られる格闘ゲームなどにはマウスと同様に不向きである。業務用ゲーム機としてのトラックボールは独特の操作性を持つ反面、難点も多い。激しいプレイでの故障によってメンテナンスが多くなり、筐体パネルとボールの隙間などによりプレイヤーが手を怪我する場合もある。通常のレバー、ボタンの操作と比較すると部品は少ない。現在ではトラックボールを使用するゲームは極稀である。家庭用ゲームでは、前述した業務用ゲームの移植版が一部あるのみで、トラックボール使用を強制するゲームはほぼない。 == 形状の種類 == トラックボールは机に設置するタイプの大きなものから、片手で持ったまま使える小型のものもあり、特に小型のものは[[プレゼンテーション]]などの場面で利用されている。また、マウスは平たい場所で使用しなければ操作はほぼ不可能だが、トラックボールは可動面が天井を向いている製品が大半のため、ある程度固定された場所さえあればよく、利用する場所を選ばない。 当節では、一体型ではなくマウスの様に外部端末として使用可能な種類を紹介する。 === 手のひら操作タイプ === [[ファイル:Trackball-Kensington-ExpertMouse5.jpg|thumb|kensingtonのExpertMouse5]] 台座上面の中ほどに大型の球が載っているもの。大きな球の周囲にさらにボタンが配置されているため大型の製品が多く、古くから存在するトラックボールの典型的な形状である。ボールは手のひらか、あるいは中指や人差し指で転がす。ボールが大きく慣性も大きいため、勢いを付けて速くカーソルを移動させる事ができ、細かい作業も可能な一方、マウスに比べてかなり独特な操作体系と、設置スペース面を占めるデメリットがある。 {{-}} === 人差し指操作タイプ === [[ファイル:Kensington Orbit Optical.jpg|thumb|180px|人差し指操作タイプの例 (Kensington Orbit Optical)]] 一般的なマウスに似た形をしており、マウスならばボタンやホイールがついている部分に人差し指や中指の先で転がすためのボールが載っているもの。手のひら操作タイプに比較すると、サイズとの兼ね合いからボールのサイズは小さめであることが多い。デバイス自体のサイズは、設置スペース重視の通常のマウスに近いコンパクトな製品から、使い勝手優先で手のひら操作タイプの全長に近いサイズの製品などがある。なお、ボタンの設置位置により左右対称か非対称に分かれ、非対称の場合は親指でボタンとホイールを操作するスタイルが主流となっている。ただし、非対称の場合は右手での操作が必須などのデメリットが有るので、左手で操作する場合は左右対称の製品を選ぶ必要がある。 {{-}} === 親指操作タイプ === [[ファイル:Thumb type trackballs.jpg|thumb|250px|親指操作タイプの例(左から、Microsoft TrackBall Optical と Logitech TrackMan Wheel)]] 一般的なマウスに似た形をしており、ボタンやホイールも一般のマウスと同様の配置になっていることが多い。ボールはデバイスの左側面に配置されており、デバイスを右手で持ったときに親指でボールを転がすように作られている。握り方やボタン操作の指はマウスを操作する場合と同じであり、マウスからの移行が前述の2種のタイプに比べて比較的簡単と言うメリットがある。ただし、形状が左右非対称になっていて右手用のものを左手で操作することは難しいので、左右が反転した左手用のものを入手するか右手用のもので妥協するかの二択というデメリットが有る。 {{-}} === 空中操作が出来るタイプ === [[ファイル:Handheld Trackball Mouse 02.jpg|thumb|250px|それぞれ別ブランドの空中操作型トラックボールマウス]] 必ずしも机上に固定しておく必要がない特長を生かして、空中で手に持った状態で使用できる製品が制作可能なのもトラックボールならではである。タッチパネルのないノートパソコンやタブレットデバイスをフィールドで運用する際に便利なほか、インドアユースにおいても机に縛られないパソコンの使用が出来ることから、いくつかのメーカーは[[拳銃]]のグリップと持ち方の似た筐体デザインのものを「ごろ寝マウス」などと銘打って販売している。その形状から、多くは左右の手で使用可能であり、慣れ次第では通常のデスクトップマウス並みの操作を行うことも可能である。デバイスを抱えたその手の中で操作すれば、片手のみでのポインティング操作が完結し、残った反対の手でキーボードを操作できるようになる。これらの特色故に、上記のタイプに比べコンパクトで携帯性に勝ると言うメリットと、コンパクト故にボール操作の精度面で劣ると言うデメリットが有る。 なお、身体の動きに障害がある者に人気があるのもこのタイプであり、机に手を乗せる姿勢を取るのが難しいような障害を持つ者にとっては、これなしにコンピューティングは難しいと言う者もいる。 {{-}} == 構造とメンテナンス == [[ファイル:Trackball Wearing 001.jpg|thumb|250px|摩耗した金属支持球。<br />Microsoft Trackball Optical]] トラックボールはその構造上、操作球を支持しておく構造を持たなければならない。そしてその構造は操作球の動きを妨げず、滑らかな操球感を実現しなければトラックボールとしての実用性を損なってしまう。 初期のトラックボールは、通常のボールマウスと同様に2軸のシャフトによってX軸Y軸の移動量を検出していた。それぞれのシャフトの端に、[[ロータリエンコーダ|放射状に細かい隙間の空いたホイール]]が取り付けられており、その動きを光学センサーで読み取る方法である。また、それぞれのシャフトにはボールとの接触面に微小なゴムチューブが取り付けられており、ボールの挙動を取りこぼさないよう[[摩擦力|グリップ]]していた。この構造は後に改良が重ねられ、カップ内にミニチュアベアリングを3つ配置し、内2つの動きを読み取る形式に進化した。ただしこの構造は複雑で部品点数も多く、何よりコストがかかる。しかし比較的耐久性があることから、時代が進んだ後も根強い愛好者がいる。また、この当時はボールの脱落を防ぐために、ボール径より小さい着脱可能なリング式のキャップがカップに被せられているタイプが多かったが、ボール直読みの光学式が普及するにつれ埃掃除のメンテナンス頻度が上がったためか、筐体の開口部をボール径より微妙に狭くして固定する形になり、キャップは廃れていった。この開口部が狭いタイプの筐体は、ボールを外すのに細長い道具で裏側から押し出す必要があり、底面にそのための穴が空いている。 トラックボールで最も一般的に普及した支持形式は、カップに硬質の数ミリ径の小さなボールを配置し、それにより操作球を支持する'''支持球式'''である。小さな支持球の点接触により、摩擦摺動でありながら滑らかに操作球が動くようにしたものであり、ベアリングや軸を用いるより構造を簡略化し、コストを抑えることが可能となった。ただし、モーション検出方式が光学式、またはそれに準ずる物でないと構造的に使えない。また、指での操球感は滑らかになっているが、ベアリング式より摩擦は大きくなるため、慣性で転がし続けられるものは少ない。 最も受け入れられた支持球式ではあるが、摩擦摺動であることから耐久性に難がある宿命が生じてしまう事ともなった。 この形式のトラックボールを使用していると汚れや埃による操作球の動きの渋さが出てくる。この程度ならば操作球を取り外し清掃することで解決可能だが、どうしても解決が難しかったのが支持球の摩耗である。 初期の支持球式、または価格の安いトラックボールマウスは、支持球にステンレス等の合金を用いている。一見堅そうな金属支持球だが、意外なほど摩耗には弱く、操作球との摩擦と巻き込んだ硬質の埃の影響により接触面が平たく削れていってしまう欠点がある。こうなると点接触が面接触になり、非常に操球感を悪くするばかりか操作球に傷まで付けてしまう。 これを解決すべく登場したのが、非常に硬度の高い[[ルビー]]や[[酸化アルミニウム]][[セラミックス]]を用いた支持球で、これらは[[ダイヤモンド]]に次ぐ硬度を持ち、通常まず摩耗しないことから、摩耗問題の決定打として比較的高級なトラックボール製品には好んで用いられる。 また、現在でも製品の絶対数の少ないトラックボール市場において、使い慣れた古い製品を使い続けたいという需要もあり、有志によりさまざまな補修方法が考えられており、支持球のセラミック化もその一つである。サイズの適合するセラミックボールを入手し、金属支持球をリプレースする改造であるが、現行のトラックボールを部品取りとするほか、[[ラジコン]]の駆動系部品からセラミック製のベアリングボールを入手するなど様々な方法が考案されている。 メンテナンス性に関しては、マウスは光学式に変わってボールの動きを読み取る接触部分の掃除が必要なくなったが、トラックボールの場合、従来と必要個所は異なるにしても定期的な掃除が欠かせないことに変わりはない。以前はシャフトのゴム取り付け部やベアリングといった、ボールとの接触面に埃が溜まることで、ボールが空回りを起こし読み取り不良を招いていたが、ボール直読みの光学式では採光部分([[CCDイメージセンサ|CCD]]が球体の回転を読み取る窓)や球体支持部などに溜まるようになっており、採光部分では意外と少量の綿埃でも読み取り不良が起き、球体支持部に溜まると操球感の滑らかさが失われる。 [[File:Trackballsupportball.jpg|thumb|200px|支持球部分の汚れ]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[キーボード_(コンピュータ)|キーボード]] == 外部リンク == {{Commons|Trackballs}} * [http://www.hykw.com/tbfan/ トラックボール ファン (Trackball Fan!)] * [http://mineko.fc2web.com/box/tb-room/ 猫のトラックボールルーム] * [https://kohzuka-trackball.netlify.app/ 幸塚トラックボール] {{デフォルトソート:とらつくほおる}} [[Category:ポインティングデバイス|とらくほる]] {{Computer-stub}} {{Basic computer components}}
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受胎告知
受胎告知(じゅたいこくち、英: Annunciation)とは、キリスト教の聖典である『新約聖書』に書かれているエピソードの1つ。聖告(せいこく)、処女聖マリアのお告げ、生神女福音(しょうしんじょふくいん)とも言う。一般に、処女マリアに天使のガブリエルが降り、マリアが聖霊によってキリストを妊娠したことを告げ、またマリアがそれを受け入れることを告げる出来事である。 マリア崇敬の思想を背景として、キリスト教文化圏の芸術作品の中で繰り返し用いられるモチーフでもある。 これを記念する祭日は東方に始まり、中世に西方につたわった。現在もカトリック教会などでは3月25日、東方教会では4月7日を祭日としている。カトリック教会では「神のお告げ(の祭日)」と呼ぶ。正教会では「生神女福音祭」とし、十二大祭のひとつである。 受胎告知が記述されているのは「マタイによる福音書」と「ルカによる福音書」だが、それぞれ詳細が異なる。「マタイによる福音書」では(1:18-25)、ナザレではない地(2:22-23、おそらくベツレヘム)で、ヨセフの夢に天使が現れる。マリアに関しては、天使による告知の記述はなく、聖霊による受胎をすでに知っていたことのみ書かれている。一方、「ルカによる福音書」(1:26-38)では、ナザレにて天使ガブリエルがマリアの前に現れて受胎を告げる。ヨセフの方に対する言及はない。 マタイ作者によれば、『新約聖書』における受胎告知は『旧約聖書』中の「イザヤ書」(7:14)の預言に基づいている。だが、イザヤの預言はアハズ王に与えられたものであり、イエスの誕生と関係がなく、ましてや処女懐胎を意味しない。 『旧約聖書』中に神が子を授ける例はたびたび見られる。受胎告知らしきものは、不妊であったマノアの妻がサムソンを授かる旨を天使が告げる「士師記」(13:3-5)などがある。 絵画では、この場面でのマリアは読書の最中であることが多いが、糸を紡いでいることもある。傍らには白い百合(純潔の象徴)が置かれているが、天使が百合を携えている場合もある。2人の上には天上からの光や聖霊の鳩が描かれることが多く、これによって「聖霊によって身ごもる」ことを示している。 中世の作品としては、ランス大聖堂の彫像や、シモーネ・マルティーニの祭壇画が名高い。ルネサンスでは天上と地上の邂逅という如何にもルネサンス的な性格が好まれ、最も人気のある主題の1つとなった。サン・マルコ修道院にフラ・アンジェリコが描いた壁画、レオナルド・ダ・ヴィンチによる絵画などが傑作として知られる。またエル・グレコは受胎告知のモチーフを好んで描き、多数の作品を残した(詳細は受胎告知 (エル・グレコ)を参照されたし)。 正教会においてはイコノスタシスの門にこの場面を描く決まりがあり、作例が多い。ただし構図上、左右の扉に天使とマリヤを分けて配するため、鳩など聖霊を現す象徴は省略されることが多い。またこれとは別に、1枚のイコンにこの場面を描いたものもある。一枚絵の場合は、マリアが室内にいることを示す家が背景に描かれ、また神・父を象徴する丸い光が中央上端、天空に描かれる。そこから聖霊を示す光が差している場合も多い。
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受胎告知とは、キリスト教の聖典である『新約聖書』に書かれているエピソードの1つ。聖告(せいこく)、処女聖マリアのお告げ、生神女福音(しょうしんじょふくいん)とも言う。一般に、処女マリアに天使のガブリエルが降り、マリアが聖霊によってキリストを妊娠したことを告げ、またマリアがそれを受け入れることを告げる出来事である。 マリア崇敬の思想を背景として、キリスト教文化圏の芸術作品の中で繰り返し用いられるモチーフでもある。 これを記念する祭日は東方に始まり、中世に西方につたわった。現在もカトリック教会などでは3月25日、東方教会では4月7日を祭日としている。カトリック教会では「神のお告げ(の祭日)」と呼ぶ。正教会では「生神女福音祭」とし、十二大祭のひとつである。
{{Otheruses|新約聖書のエピソード|その他}} [[File:Annunciation (Leonardo) (cropped).jpg|[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]が描いた『[[受胎告知 (レオナルド・ダ・ヴィンチ)|受胎告知]]』、[[ウフィツィ美術館]]収蔵|300px|thumb]] {{Jesus}} '''受胎告知'''(じゅたいこくち、{{lang-en-short|Annunciation}})とは、[[キリスト教]]の聖典である『[[新約聖書]]』に書かれているエピソードの1つ。'''聖告'''(せいこく)、'''[[処女]][[聖母マリア|聖マリア]]のお告げ'''、'''生神女福音'''(しょうしんじょふくいん)とも言う。一般に、[[処女]]マリアに[[天使]]の[[ガブリエル]]が降り、マリアが[[聖霊]]によって[[イエス・キリスト|キリスト]]を[[妊娠]]したことを告げ、またマリアがそれを受け入れることを告げる出来事である。 マリア崇敬の思想を背景として、キリスト教文化圏の[[芸術]]作品の中で繰り返し用いられるモチーフでもある。 これを記念する祭日は東方に始まり、[[中世]]に西方につたわった{{要出典|date=2018年9月}}。現在も[[カトリック教会]]などでは3月25日、東方教会では4月7日を祭日としている。カトリック教会では「神のお告げ(の祭日)」と呼ぶ。[[正教会]]では「[[生神女福音祭]]」とし、[[十二大祭]]のひとつである{{要出典|date=2018年9月}}。 == 福音書における記述 == 受胎告知が記述されているのは「[[マタイによる福音書]]」と「[[ルカによる福音書]]」だが、それぞれ詳細が異なる。「マタイによる福音書」では(1:18-25)、[[ナザレ]]ではない地(2:22-23、おそらく[[ベツレヘム]])で、[[ナザレのヨセフ|ヨセフ]]の夢に天使が現れる。マリアに関しては、天使による告知の記述はなく、聖霊による受胎をすでに知っていたことのみ書かれている。一方、「ルカによる福音書」(1:26-38)では、ナザレにて天使ガブリエルがマリアの前に現れて受胎を告げる。ヨセフの方に対する言及はない。 == 旧約聖書における受胎告知 == マタイ作者によれば、『新約聖書』における受胎告知は『旧約聖書』中の「[[イザヤ書]]」(7:14)の預言に基づいている。だが、イザヤの預言は[[アハズ]]王に与えられたものであり、イエスの誕生と関係がなく、ましてや[[処女懐胎]]を意味しない。 『旧約聖書』中に神が子を授ける例はたびたび見られる。受胎告知らしきものは、[[不妊]]であったマノアの[[妻]]が[[サムソン]]を授かる旨を天使が告げる「[[士師記]]」(13:3-5)などがある。 == 美術 == [[絵画]]では、この場面でのマリアは[[読書]]の最中であることが多いが、[[糸]]を紡いでいることもある。傍らには白い[[ユリ|百合]](純潔の象徴)が置かれているが、天使が百合を携えている場合もある。2人の上には天上からの[[光]]や聖霊の[[鳩]]が描かれることが多く、これによって「聖霊によって身ごもる」ことを示している。 中世の作品としては、[[ノートルダム大聖堂 (ランス)|ランス大聖堂]]の彫像や、[[シモーネ・マルティーニ]]の[[アルターピース|祭壇画]]が名高い。[[ルネサンス]]では天上と地上の邂逅という如何にもルネサンス的な性格が好まれ、最も人気のある主題の1つとなった。サン・マルコ[[修道院]]に[[フラ・アンジェリコ]]が描いた[[壁画]]、[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]による絵画などが傑作として知られる。また[[エル・グレコ]]は受胎告知のモチーフを好んで描き、多数の作品を残した(''詳細は[[受胎告知 (エル・グレコ)]]を参照されたし'')。 正教会においては[[イコノスタシス]]の門にこの場面を描く決まりがあり、作例が多い{{要出典|date=2018年9月}}。ただし構図上、左右の扉に天使とマリヤを分けて配するため、鳩など聖霊を現す象徴は省略されることが多い。またこれとは別に、1枚の[[イコン]]にこの場面を描いたものもある{{要出典|date=2018年9月}}。一枚絵の場合は、マリアが室内にいることを示す家が背景に描かれ、また神・父を象徴する丸い光が中央上端、天空に描かれる。そこから聖霊を示す光が差している場合も多い{{要出典|date=2018年9月}}。 === ギャラリー === <gallery widths="150px" heights="160px"> Simone Martini 078.jpg|{{small|[[シモーネ・マルティーニ]]『[[聖女マルガリータと聖アンサヌスのいる受胎告知]]』 1333年 [[ウフィツィ美術館]]収蔵}} Fra Angelico 069.jpg|{{small|[[フラ・アンジェリコ]]『[[コルトーナの受胎告知]]』1433年頃 司教区美術館 (コルトーナ) 収蔵}} Fra Filippo Lippi 014.jpg|{{small|[[フィリッポ・リッピ]]『[[受胎告知 (リッピ、ミュンヘン)|受胎告知]]』 1443年 [[アルテ・ピナコテーク]]収蔵}} Sandro Botticelli 080.jpg|{{small|[[サンドロ・ボッティチェッリ]]『[[チェステッロの受胎告知]]』 1489年頃 [[ウフィツィ美術館]]収蔵}} Francesco del Cossa - The Annunciation - Google Art Project.jpg|{{small|[[フランチェスコ・デル・コッサ]]『[[受胎告知 (コッサの絵画)|受胎告知]]』 1470年-1472年 [[アルテ・マイスター絵画館]]収蔵}} Jan de Beer - Annunciation - WGA1562.jpg|{{small|ヤン・デ・ビア 1520年頃 [[ティッセン=ボルネミッサ美術館]]収蔵}} San Salvador Interno - Annunciazione del Signore Tiziano.jpg|{{small|[[ティツィアーノ]]『[[受胎告知 (ティツィアーノ、サン・サルバドール教会)|受胎告知]]』 1559年-1564年 {{仮リンク|サン・サルバドール教会 (ヴェネツィア)|en|San Salvador, Venice |label=サン・サルバドール教会}}収蔵{{R|坂本}}}} Jacopo Tintoretto 034.jpg|{{small|[[ティントレット]] 1582年-1587年 サン・ロッコ同信会館収蔵{{Sfn|『怖い絵』|2007|p=22}}}} El GRECO (Domenikos Theotokopoulos) - Annunciation - Google Art Project.jpg|{{small|[[エル・グレコ]]『[[受胎告知 (エル・グレコ)|受胎告知]]』16世紀末 [[大原美術館]]収蔵}} Annonciation Guido Reni Louvre.jpg|{{small|[[グイド・レーニ]] 1629年 [[ルーブル美術館]]収蔵}} Bartolomé Esteban Perez Murillo 023.jpg|{{small|[[バルトロメ・エステバン・ムリーリョ]] 1650年代 [[エルミタージュ美術館]]収蔵}} Rossetti Annunciation.jpg|{{small|[[ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ]] 1850年 [[テート・ギャラリー]]収蔵}} </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|colwidth=30em |refs= * <ref name="坂本">{{Cite web|和書|author = 坂本直子 |url = https://www.christiantoday.co.jp/articles/21613/20160805/venetian-renaissnce-paintlngs.htm |title = 巨匠ティツィアーノの「受胎告知」も来日!「ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」開催中 |publisher = [[クリスチャントゥデイ]] |date = 2016-08-05 |accessdate = 2019-04-29 }}</ref> }} == 参考文献 == * {{Cite book|和書 |author=中野京子|authorlink=中野京子 |year = 2007 |title = 怖い絵 |publisher = [[朝日出版社]] |isbn = 978-4-255-00399-3 |ref={{SfnRef|『怖い絵』|2007}}}} == 関連項目 == {{wikisourcelang|en|Catholic_Encyclopedia_(1913)/Annunciation_of_the_Blessed_Virgin_Mary}} {{commons&cat}} * [[キリストの降誕]] * [[処女懐胎]] * アンドラーシュ・イェレシュ監督の同名の映画 「[[受胎告知 (映画)|受胎告知]]」 * {{仮リンク|聖母マリアの受胎告知の祝日|en|Lady Day}} == 外部リンク == *{{kotobank}} *{{kotobank|聖告}} {{聖母マリア|state=autocollapse}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:しゆたいこくち}} [[Category:マタイによる福音書]] [[Category:ルカによる福音書]] [[Category:聖母マリア]] [[Category:ウルガタのラテン語の語句]]
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大崎駅
大崎駅(おおさきえき)は、東京都品川区大崎一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京臨海高速鉄道(TWR)の駅である。 JR東日本と東京臨海高速鉄道の共同使用駅で、JR東日本が駅管理を行う。 JR東日本の各線(後述)と東京臨海高速鉄道のりんかい線が乗り入れている。りんかい線は当駅を終点としている。このうち、JR東日本の駅には「OSK」のスリーレターコードが付与されている。 当駅に乗り入れているJR東日本の路線は、線路名称上は山手線のみである(詳細は各路線の記事および「鉄道路線の名称」を参照)。ただし、東海道本線の支線(通称「品鶴線」)と接続する大崎支線と旧蛇窪信号場および旧目黒川信号場までも当駅構内の扱いとなっている。運転系統としては次の4系統が停車し、旅客案内ではそれぞれ別路線として扱われている。 また当駅は、JRの特定都区市内制度における「東京都区内」および「東京山手線内」に属している。 島式ホーム4面8線を有する地上駅で、橋上駅舎を有している。相互直通運転している関係でJR東日本・東京臨海高速鉄道で駅舎・改札内・ホーム・着発線を共用している。 鉄道資産としてはJR東日本・東京臨海高速鉄道の折半所有であり、両社の財産境界は5 - 8番線の途中に設定されている。TWRりんかい線とJR大崎支線が共に記された終点標が設置されている。ただし駅管理はJR東日本が行っており、駅名標など案内サインはJR東日本タイプのものが使用されている。また、すべての着発線がJR東日本東京圏輸送管理システムの運行管理下にあり、駅務においてもJR東日本首都圏本部が社員を配置して行っている。管理駅として五反田駅の管理も行っている。 架空電車線への電力供給は通常JR東日本から行われる。万一JRから給電できなくなった場合に備えて東京臨海高速鉄道から6・7番線に供給できる電線を設けている。そのため、りんかい線はJR線の給電状況に関わらず当駅を含む自社線内の通常運行が継続できる仕組みである。 駅舎は、五反田寄りに北改札口、品川寄りに南改札口を持ち、両コンコースは「Dila大崎」を介してつながっている。品川寄りのコンコースからのJR山手線ホームへのエスカレーターは、設置位置のホームが狭いために1人用である。また、北改札口からの出口は東口と西口が、南改札口からの出口は新東口と新西口があり、東口及び新東口にはゲートシティ大崎などへ、新西口にはThinkParkなどへのペデストリアンデッキがつながっている。 自動精算機でTWR線の乗車券の精算を行うことは可能。精算にはかつてのパスネット(現在は発売終了)は使用できなかった。自動券売機はJR線用のものとTWR線用のものが別に設置されている。なお、乗車券の地紋はJR東日本のもので発行される。 JR東日本が営業していたみどりの窓口では、当駅発着のりんかい線の普通乗車券・往復乗車券・定期乗車券も発売していた。 (出典:JR東日本:駅構内図) いずれも直通人員を含む数値である。 各年度の1日平均乗車人員の推移は下表の通りである。 近年の1日平均乗車人員推移は下表の通り。 2002年12月以前は山手線だけの駅であり、周辺はソニーや明電舎などの工場地帯であった。東京都が1982年に大崎副都心に指定すると緩やかながら再開発が進み、2002年12月に埼京線・りんかい線・湘南新宿ラインが利用可能になってからは開発が加速しており、再開発と交通利便性の向上により、大規模なオフィスビルが立ち並ぶビジネス街へと発展した。 このうち、大崎ニューシティ、ゲートシティ大崎、ThinkPark、NBF大崎ビル、大崎ウエストシティタワーズ、大崎ウィズシティは、ペデストリアンデッキを介して駅と直接つながっている。 東急バスは従来東口側の大崎駅停留所に発着していた。品川区によって新たに西口側に大崎駅西口バスターミナルが整備され、WILLER EXPRESSが2015年(平成27年)12月7日夜行便より、東急バスが翌12月8日より乗り入れを開始した。それぞれ以下の路線が乗り入れている。 山手線で都営バスが乗り入れていないのは当駅と代々木駅のみ、地下鉄も含めた都営交通全般では当駅が唯一である。 西口バスターミナルは一般社団法人大崎エリアマネージメントによって運営されている。面積は約1392平方メートルで、バス乗降場は0 - 3番の4バースある。品川区や運営団体では今後以下の路線の他、盛岡・青森、秋田、富山・金沢、鳥取・島根、広島などを発着する路線の乗り入れを目指していく。2016年10月31日からは成田空港・芝山町を結ぶ成田シャトルが運行を開始。
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大崎駅(おおさきえき)は、東京都品川区大崎一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京臨海高速鉄道(TWR)の駅である。 JR東日本と東京臨海高速鉄道の共同使用駅で、JR東日本が駅管理を行う。
{{Otheruses|東京都品川区にある東日本旅客鉄道(JR東日本)東京臨海高速鉄道の大崎駅|その他の大崎駅|大崎駅 (曖昧さ回避)}} {{駅情報 |社色= |文字色= |駅名= 大崎駅 |画像 = Osaki-Sta-W.JPG |pxl= 300 |画像説明= 西口(2016年6月) |地図 = {{Infobox mapframe|zoom=15|type=point|frame-width=300|marker=rail|coord={{coord|35|37|11|N|139|43|42.8|E}}}} |よみがな= おおさき |ローマ字= &#332;saki<ref group="*">JR東日本における表記。</ref><br />Osaki<ref group="*">東京臨海高速鉄道における表記。</ref><br /> {{駅番号s|black|#ffffff|OSK}}<!--スリーレターコード--> |電報略号= オサ←ヲサ |所属事業者= [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)<br />[[東京臨海高速鉄道]] |所在地= [[東京都]][[品川区]][[大崎 (品川区)|大崎]]一丁目21-4 |座標 = {{coord|35|37|11|N|139|43|42.8|E|region:JP-14_type:railwaystation|display=inline,title}} |開業年月日= [[1901年]]([[明治]]34年)[[2月25日]] |廃止年月日= |駅構造= [[地上駅]]([[橋上駅]]) |ホーム= 4面8線 |乗車人員= {{Smaller|(JR東日本)-2022年-}}<br />118,489人/日(降車客含まず)<hr />{{Smaller|(東京臨海高速鉄道)-2021年-}}<br />39,469 |乗降人員= |統計年度= |乗入路線数= 5 |所属路線1= {{color|#9acd32|■}}[[山手線]](JR東日本) |前の駅1= JY 25 [[品川駅|品川]] |駅間A1= 2.0 |駅間B1= 0.9 |次の駅1= [[五反田駅|五反田]] JY 23 |駅番号1= {{駅番号r|JY|24|#9acd32|1}} |キロ程1= 2.0 |起点駅1= [[品川駅|品川]] |所属路線2= {{color|#f68b1e|■}}{{color|#0067c0|■}}[[湘南新宿ライン]]<br />(JR東日本)<br />(線路名称上は山手線) |前の駅2= JS 16 [[西大井駅|西大井]]<ref group="*" name="shinagawa">運賃計算上は品川駅経由。</ref> |駅間A2= 5.6 |駅間B2= 3.6 |次の駅2= [[恵比寿駅|恵比寿]] JS 18 |駅番号2= {{駅番号r|JS|17|#e21f26|1}} |キロ程2= |起点駅2= |所属路線3 = {{color|#00ac9a|■}}[[埼京線]]<ref group="*" name="rinkai-saikyo">両線で[[直通運転|相互直通運転]]実施。</ref>(JR東日本)<br />(線路名称上は山手線) |前の駅3= |駅間A3= |駅間B3= 3.6 |次の駅3= 恵比寿 JA 09 |駅番号3= {{駅番号r|JA|08|#00ac9a|1}} |キロ程3= |起点駅3= |所属路線4 = {{color|#0066ff|■}}[[相鉄・JR直通線|相鉄線直通]](JR東日本) |前の駅4=JS 16 西大井<ref group="*" name="shinagawa" /> |駅間A4= 5.6 |駅間B4= 3.6 |次の駅4= 恵比寿 JA 09 |駅番号4= {{駅番号r|JS|17|#e21f26|1}} {{駅番号r|JA|08|#00ac9a|1}} |キロ程4= |起点駅4= |所属路線5= {{color|#00418e|●}}[[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]]<ref group="*" name="rinkai-saikyo" /><br />(東京臨海高速鉄道) |前の駅5= R 07 [[大井町駅|大井町]] |駅間A5= 1.7 |駅間B5= |次の駅5= |駅番号5= {{駅番号r|R|08|#00418e|6|#ADD8E6}} |キロ程5= 12.2 |起点駅5= [[新木場駅|新木場]] |備考= {{Plainlist| * [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]])<ref name="outsourcing">{{Cite web|和書|url=https://f06cf697-85c0-41a8-ab3d-c23ef021a7cb.filesusr.com/ugd/57fa70_2f55c1cbc89b49a19c251756274ebc20.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211028150954/https://f06cf697-85c0-41a8-ab3d-c23ef021a7cb.filesusr.com/ugd/57fa70_2f55c1cbc89b49a19c251756274ebc20.pdf|title=「2021年度営業関係施策(その2)」について提案を受ける!!|date=2021-10-26|archivedate=2021-10-28|accessdate=2022-02-12|publisher=輸送サービス労組 東京地本|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref> * [[共同使用駅]](JR東日本の管轄駅) * [[File:JR area YAMA.svg|15px|山]][[File:JR area KU.svg|15px|区]] [[東京山手線内]]・[[特定都区市内|東京都区内]]駅 }} |備考全幅= {{Reflist|group="*"}} }} {{osm box|n|241815384|}} [[ファイル:Yamanotesen Osaki eki 20050613.jpg|thumb|東口(2005年6月)]] [[ファイル:Osaki-Sta-S.JPG|thumb|南口(2016年6月)]] '''大崎駅'''(おおさきえき)は、[[東京都]][[品川区]][[大崎 (品川区)|大崎]]一丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[東京臨海高速鉄道]](TWR)の[[鉄道駅|駅]]である。 JR東日本と東京臨海高速鉄道の[[共同使用駅]]で、JR東日本が駅管理を行う。 == 乗り入れ路線 == JR東日本の各線(後述)と東京臨海高速鉄道の[[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]]が乗り入れている。りんかい線は当駅を終点としている。このうち、JR東日本の駅には「{{駅番号|#000000|white|OSK}}」の[[駅ナンバリング#スリーレターコード|スリーレターコード]]が付与されている。 * JR東日本:各線(後述) * 東京臨海高速鉄道:[[File:Rinkai Line symbol.svg|15px|R]] りんかい線 - [[駅ナンバリング#JR東日本・東京モノレール・東京臨海高速鉄道|駅番号]]「'''R 08'''」 当駅に乗り入れているJR東日本の路線は、線路名称上は[[山手線]]のみである(詳細は各路線の記事および「[[鉄道路線の名称]]」を参照)。ただし、[[東海道本線]]の支線(通称「[[品鶴線]]」)と接続する[[大崎支線]]と旧[[蛇窪信号場]]および旧[[目黒川信号場]]までも当駅構内の扱いとなっている。運転系統としては次の4系統が停車し、旅客案内ではそれぞれ別路線として扱われている。 * [[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] 山手線:[[電車線・列車線|電車線]]を走行する[[環状線]]としての山手線電車 - 駅番号「'''JY 24'''」 * [[File:JR JA line symbol.svg|15px|JA]] [[埼京線]]:[[新宿駅]]方面の[[山手線#山手貨物線|山手貨物線]]を走行。りんかい線、[[東海道貨物線]]経由で[[羽沢横浜国大駅]]から[[相模鉄道本線|相鉄線]]との相互[[直通運転]]を実施 - 駅番号「'''JA 08'''」 * [[File:JR JS line symbol.svg|15px|JS]] [[湘南新宿ライン]]:山手貨物線と品鶴線[[武蔵小杉駅]]方面を直通運転 - 駅番号「'''JS 17'''」 * [[File:Sotetsu line symbol.svg|15px|SO]] [[相鉄・JR直通線|相鉄線直通列車]]:前述のように、山手貨物線・品鶴線・東海道貨物線を経由し、新宿駅方面と相鉄線とを相互直通運転する系統。当駅から新宿方は埼京線列車の扱いで運行される。駅番号は新宿方では埼京線の「'''JA 08'''」、武蔵小杉方では湘南新宿ラインの「'''JS 17'''」を使用し、当駅にて切り替える。 また当駅は、JRの[[特定都区市内]]制度における「[[特定都区市内#設定区域一覧|東京都区内]]」および「[[東京山手線内]]」に属している。 == 歴史 == [[File:Osaki Station.19630626.jpg|thumb|大崎駅周辺の白黒空中写真(1963年6月26日撮影)<br />{{国土航空写真}}]] * [[1901年]]([[明治]]34年)[[2月25日]]:[[日本鉄道]]品川線の駅として開業。当時は島式ホーム1面2線だった。 * [[1902年]](明治35年)[[10月15日]]:貨物の取り扱いを開始。 * [[1906年]](明治39年)[[11月1日]]:日本鉄道が[[鉄道国有法|国有化]]。 * [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|線路名称]]制定により山手線の所属となる。 * [[1945年]]([[昭和]]20年)[[5月24日]]:[[太平洋戦争]]中に[[日本本土空襲#東京|空襲]]に遭い、ホーム全焼。 * [[1965年]](昭和40年)7月:[[目黒川信号場]]と蛇窪信号場を、当駅構内に統合。 * [[1966年]](昭和41年):橋上駅化。山手線ホームを拡張の上、現在の島式ホーム2面4線とした。 * [[1980年]](昭和55年)[[10月1日]]:貨物の取り扱いを廃止。なお、[[1970年]](昭和45年)頃まで[[明電舎]]大崎工場(現・東京事業所)への[[専用鉄道|専用線]]があり、貨物輸送を行っていた。 * [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる。 * [[1990年]]([[平成]]2年)[[11月17日]]:[[自動改札機]]を導入<ref>{{Cite book|和書 |date=1991-08-01 |title=JR気動車客車編成表 '91年版 |chapter=JR年表 |page=191 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-112-0}}</ref>。 * [[1996年]](平成8年)[[3月16日]]:埼京線の運行区間を[[恵比寿駅]]まで延長。同駅では折り返しが不可能だったため当駅との間を[[回送]]し、当駅で折り返しを実施していた。 * [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-23|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。 * [[2002年]](平成14年)[[12月1日]]:りんかい線が当駅まで延伸開業<ref group="報道" name="TWR200012">{{Cite press release|和書|url=http://www.twr.co.jp/zensen2002_set.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20021209101402/http://www.twr.co.jp/zensen2002_set.html|language=日本語|title=「りんかい線」今年12月1日に大崎駅まで全線開業!|publisher=東京臨海高速鉄道|date=2002-07-12|accessdate=2022-03-27|archivedate=2002-12-09}}</ref><ref group="報道" name="2002-04-22"/><ref>{{Cite journal|和書 |title = 鉄道記録帳2002年12月 |date = 2003-03-01 |journal = RAIL FAN |issue = 2 |volume = 50 |publisher = 鉄道友の会 |page = 25 }}</ref>。大崎支線のホームが供用開始された事により、埼京線の客扱運転区間が当駅まで延長されてりんかい線との直通運転を開始<ref group="報道" name="2002-04-22">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2002_1/20020911/pdf/syutoken.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180630105145/http://www.jreast.co.jp/press/2002_1/20020911/pdf/syutoken.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2002年12月ダイヤ改正について|page=12|publisher=東日本旅客鉄道|date=2002-09-20|accessdate=2020-04-22|archivedate=2018-06-30}}</ref><ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2002_2/20021004.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171105133949/http://www.jreast.co.jp/press/2002_2/20021004.pdf|format=PDF|language=日本語|title=Suicaがもっと便利に! 東京臨海高速鉄道(株)との相互利用開始!|publisher=東日本旅客鉄道|date=2002-10-08|accessdate=2020-04-22|archivedate=2017-11-05}}</ref>。湘南新宿ラインの停車駅となる<ref group="報道" name="2002-04-22"/>。同時期にコンコースを拡幅し、南改札口を供用開始、従来の改札口は北改札口となる。 * [[2010年]](平成22年)[[11月]]:南連絡通路の拡幅工事が始まる。また、[[Dila]]の整備も進み、[[ユニクロ]]などが入居する。 * [[2019年]]([[令和]]元年)[[11月30日]]:[[相鉄・JR直通線|相鉄線直通列車]]が運行開始し停車駅となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20190906_ho01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2019年11月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2019-09-06|accessdate=2019-12-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190906152613/https://www.jreast.co.jp/press/2019/20190906_ho01.pdf|archivedate=2019-09-06}}</ref>。 * [[2020年]](令和2年)[[10月29日]]:北改札内に駅ナカシェアオフィス「STATION BOOTH」が開業<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.stationwork.jp/user/notices-before|title=お知らせ一覧 > 新橋/大崎/赤羽/北千住の4駅にSTATION BOOTHが開業!|publisher=STATION WORK|date=2020-10-28|accessdate=2020-11-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201118062545/https://www.stationwork.jp/user/notices-before|archivedate=2020-11-18}}</ref>。 * [[2022年]](令和4年)[[3月14日]]:[[特別急行列車|特急]]「[[湘南 (列車)|湘南]]」の停車を開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|title=2022年3月ダイヤ改正について|page=2|publisher=東日本旅客鉄道横浜支社|date=2021-12-17|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/yokohama/20211217_y01.pdf|format=PDF|language=日本語|accessdate=2021-12-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211217064059/https://www.jreast.co.jp/press/2021/yokohama/20211217_y01.pdf|archivedate=2021-12-17}}</ref>。 * [[2023年]](令和5年)[[2月28日]]:[[みどりの窓口]]の営業を終了<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=319|title=駅の情報(大崎駅):JR東日本|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-02-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230201034251/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=319|archivedate=2023-02-01}}</ref><ref name="jtsu/221215">{{Cite web|和書|url=https://www.jtsu-e-tokyo.org/_files/ugd/57fa70_14378826c5fe4927ba64269a7fe48d02.pdf|title=2022年度営業関係施策(その2)について提案を受ける!|format=PDF|publisher=輸送サービス労組東京地本|date=2022-12-15|accessdate=2022-12-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20221217120057/https://www.jtsu-e-tokyo.org/_files/ugd/57fa70_14378826c5fe4927ba64269a7fe48d02.pdf|archivedate=2022-12-17}}</ref>。 == 駅構造 == [[File:Yamanotesen Oosaki eki 3.jpg|thumb|駅全景(2006年3月)]] [[島式ホーム]]4面8線を有する[[地上駅]]で、[[橋上駅|橋上駅舎]]を有している。相互直通運転している関係でJR東日本・東京臨海高速鉄道で駅舎・改札内・ホーム・着発線を共用している。 鉄道資産としてはJR東日本・東京臨海高速鉄道の折半所有であり<ref>臨海副都心線工事誌 - [[日本鉄道建設公団]]東京支社 2003年9月</ref>、両社の財産境界は5 - 8番線の途中に設定されている。TWRりんかい線とJR大崎支線が共に記された[[キロポスト|終点標]]が設置されている。ただし駅管理はJR東日本が行っており<ref>[http://www.twr.co.jp/route/tabid/120/Default.aspx 大崎駅] - りんかい線</ref>、駅名標など案内サインはJR東日本タイプのものが使用されている。また、すべての着発線がJR東日本[[東京圏輸送管理システム]]の運行管理下にあり、駅務においてもJR東日本[[東日本旅客鉄道首都圏本部|首都圏本部]]が社員を配置して行っている。管理駅として[[五反田駅]]の管理も行っている<ref name="outsourcing" />。 [[架空電車線]]への電力供給は通常JR東日本から行われる。万一JRから給電できなくなった場合に備えて東京臨海高速鉄道から6・7番線に供給できる電線を設けている。そのため、りんかい線はJR線の給電状況に関わらず当駅を含む自社線内の通常運行が継続できる仕組みである。 === 通路 === 駅舎は、[[五反田駅|五反田]]寄りに北改札口、[[品川駅|品川]]寄りに南改札口を持ち、両[[コンコース]]は「[[Dila]]大崎」を介してつながっている。品川寄りのコンコースからのJR山手線ホームへの[[エスカレーター]]は、設置位置のホームが狭いために1人用である。また、北改札口からの出口は東口と西口が、南改札口からの出口は新東口と新西口があり、東口及び新東口にはゲートシティ大崎などへ、新西口にはThinkParkなどへの[[ペデストリアンデッキ]]がつながっている。 === 設備 === [[自動精算機]]でTWR線の乗車券の精算を行うことは可能。精算にはかつての[[パスネット]](現在は発売終了)は使用できなかった。[[自動券売機]]はJR線用のものとTWR線用のものが別に設置されている。なお、乗車券の地紋はJR東日本のもので発行される。 JR東日本が営業していた[[みどりの窓口]]では、当駅発着のりんかい線の[[普通乗車券]]・[[往復乗車券]]・[[定期乗車券]]も発売していた。 === のりば === <!--方面表記は、JR東日本の駅の情報の「駅構内図」の記載に準拠。ただし、りんかい線は方面表記の記載が無いため、「時刻表」の記載に準拠--> {|class="wikitable" rules="rows" !番線<!-- 事業者による呼称 -->!!路線!!方向!!行先!!備考 |- !1・2 |rowspan=2|[[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] 山手線 |style="text-align:center"|内回り |[[品川駅|品川]]・[[東京駅|東京]]・[[上野駅|上野]]方面 | |- !3・4 | style="text-align:center"|外回り |[[渋谷駅|渋谷]]・[[新宿駅|新宿]]・[[池袋駅|池袋]]方面 | |- !rowspan="3"|5 |[[File:JR JS line symbol.svg|15px|JS]] 湘南新宿ライン |style="text-align:center"|南行 |[[横浜駅|横浜]]・[[大船駅|大船]]・[[小田原駅|小田原]]・[[逗子駅|逗子]]方面 | |- |[[File:Sotetsu line symbol.svg|15px|SO]] 相鉄線直通 |style="text-align:center"|下り |[[羽沢横浜国大駅|羽沢横浜国大]]・[[海老名駅|海老名]]方面 | |- |[[File:Rinkai Line symbol.svg|15px|R]] りんかい線 | style="text-align:center"|上り |[[新木場駅|新木場]]方面<ref name="timetable/list0319">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast-timetable.jp/timetable/list0319.html|title=時刻表 大崎駅|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2020-11-28}}</ref><ref name="twr-timetable">{{Cite web |url=https://www.twr.co.jp/route/tabid/121/Default.aspx?TabModule1417=1 |title=大崎駅 時刻表 |publisher=東京臨海高速鉄道 |accessdate=2023-06-06}}</ref> |主に [[File:JR JA line symbol.svg|15px|JA]] 埼京線からの直通 |- !rowspan="2"|6・7 |[[File:JR JA line symbol.svg|15px|JA]] 埼京線 |style="text-align:center"|北行 |新宿・池袋・[[赤羽駅|赤羽]]・[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]方面 |6番線はごく一部のみ |- |rowspan="2"|[[File:Rinkai Line symbol.svg|15px|R]] りんかい線 |rowspan="2" style="text-align:center"| 上り |rowspan="2"|新木場方面<ref name="timetable/list0319" /><ref name="twr-timetable" /> |主に当駅折り返し |- !rowspan="3" style="text-align:center"|8 |一部列車のみ |- |[[File:JR JA line symbol.svg|15px|JA]] 埼京線 |rowspan="2" style="text-align:center"|北行 |新宿・池袋・赤羽・大宮方面 | |- |[[File:JR JS line symbol.svg|15px|JS]] 湘南新宿ライン |大宮・[[宇都宮駅|宇都宮]]・[[高崎駅|高崎]]方面 | |} (出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/319.html JR東日本:駅構内図]) * 山手線 ** 電車の保守整備を担当するJR東日本[[東京総合車両センター]](東総セ)が隣接している。このため山手線電車で当駅始発・終点となる設定がある([[山手線#運行形態]]を参照)。 ** 1番線ホームの線路の品川寄りの一番反対側には、詰所に直結する[[運転士交代]]用のホームが設置されている。 ** 主に1・3番線を使用する。2・4番線は東京総合車両センターに出入りする電車が使用する。2012年12月22日より、1・3番線のみ可動式ホーム柵の使用が始まった<ref>{{Cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2012/12/23/110500.html|title=山手線大崎駅で可動式ホーム柵の使用開始|website=[https://railf.jp/news/ 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース]|publisher=[[交友社]]|date=2012-12-23|accessdate=2021-02-08}}</ref>。 ** 環状運転列車は当駅で[[列車番号]]を変更する。 * りんかい線 ** 主に線内折り返し(新木場方面行き)列車は6・7番線から、埼京線からの乗り入れは5・6番線から発車する。 ** 駅構内自動放送では、線内折り返し・埼京線からの乗り入れを問わず、「りんかい線'''直通'''」とアナウンスされる。 * 埼京線 ** 主に7・8番線から発車する。 ** 駅構内自動放送では、「埼京線」「川越線」とはアナウンスされず、種別と行先のみアナウンスされる。 * 湘南新宿ライン・相鉄線直通列車 ** 武蔵小杉駅方面を発着する列車は通常5・8番線のみに発着し、6・7番線は埼京線・りんかい線専用として運用・案内されているが、配線上・有効長上、武蔵小杉駅方面と6・7番線間も連絡可能であり、埼京線や湘南新宿ラインの運転見合わせ時や大幅なダイヤ乱れ時などの緊急時に使用されることがある。工事などで計画的に恵比寿駅方面への運行を全面的に見合わせる場合は、5・6番線をりんかい線、7・8番線を湘南新宿ライン・相鉄線直通列車(武蔵小杉駅方面)のそれぞれ折り返しホームとして使用する。 ** 湘南新宿ライン北行については当駅を境に種別案内を変更する列車がある。高崎線直通の快速列車は当駅から先では各駅に停車するため、当駅から北では「普通」として案内される。逆に、宇都宮線直通の普通列車で大宮 - 小山駅間を快速運転する列車については、当駅から北では「快速」として案内される。 ** 相鉄線直通列車は当駅でJRとしての路線記号が切り替わる。当駅から新宿方面は埼京線の「JA」、武蔵小杉方面は湘南新宿ラインの「JS」を用いる。また、湘南新宿ライン同様、当駅を境に種別案内を変更する上り列車があり、埼京線の赤羽 - 武蔵浦和(通勤快速は大宮)間を快速運転する列車については、当駅で「各駅停車」から種別表記を切り替える。 ** 駅構内の[[発車標]]の列車別案内では、「湘南新宿ライン」および「直通」は省略され、それぞれの直通先路線名「[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]」「[[高崎線]]」「[[横須賀線]]」「[[宇都宮線]]」「相鉄線」で表記されている。 <gallery> JRE-Osaki-STA North-Gate.jpg|北改札口(2022年1月) JRE Osaki-STA South-Gate.jpg|南改札口(2022年6月) JRE Osaki-STA Platform1-2.jpg|1・2番線(山手線)ホーム(2022年6月) JRE Osaki-STA Platform3-4.jpg|3・4番線(山手線)ホーム(2022年6月) JRE Osaki-STA Platform5-6.jpg|5・6番線(埼京線・湘南新宿ライン・りんかい線)ホーム(2022年6月) JRE Osaki-STA Platform7-8.jpg|7・8番線(埼京線・湘南新宿ライン・りんかい線)ホーム(2022年6月) OsakiHintsuruline.jpg|貨物線(2006年5月) </gallery> === 配線図 === <div class="NavFrame" style="background-color:#fff; border:solid 1px #080;text-align:left;font-size:100%;float:left"> <div class="NavHead" style="background-color:#fff;text-align:left;font-weight:normal;padding-right:50px"> :{{small|※ 大崎駅付近の配線略図(注意、巨大画像600px、表示巾800px)を表示するには、右の [表示] をクリックしてください。}} </div><div class="NavContent"> {{駅配線図|image=Rail Tracks map Osaki Station.svg |title=[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]・[[東京臨海高速鉄道]] 大崎駅付近の配線略図 |width=600px |up=[[横浜駅|横浜]]|up-align=center |left=[[新木場駅|新木場]]|left-valign=top |right=[[池袋駅|池袋]]|right-valign=middle |down=[[東京駅|東京]]|down-align=left |source={{Cite journal|和書|year=2004|month=1|title=特集 短絡線ミステリー7|journal=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]|issue=513|page=21|publisher=[[交友社]]}} |note={{small|本図では、[[品鶴線]]とほぼ重なる[[東海道新幹線]]と旧蛇窪信号場付近でオーバークロスする[[東急大井町線]]の配線を省略している。}}}} </div> </div> {{-}} * JR[[山手線#山手貨物線|山手貨物線]]は、駅の北方から構内に向けて[[品川駅|品川]]方面に向かう本線と、蛇窪信号場方面に向かう大崎支線とに分岐する。本線側の線路にはホームが設けられていない。 *: かつては大崎支線側の線路にもホームはなく[[停車場#本線|通過線]]と[[停車場#本線|着発線]]があり、埼京線が恵比寿発着だった頃は、同駅が閉塞内の駅で折り返し設備がなかったため、当駅まで回送してこの着発線を使用して折り返しが行われていた。 *: この大崎支線側の線路には、[[2002年]][[12月1日]]からJR埼京線・湘南新宿ライン・東京臨海高速鉄道りんかい線用として5 - 8番線のホームが設置された。 * JR湘南新宿ライン・相鉄線直通列車は[[蛇窪信号場]]で[[横須賀線]]([[品鶴線]])と合流するが、北行は信号場手前のポイントを通過する。この事態を解消するため、当駅に近い位置に新たな短絡線を新設する構想がある([[大崎支線#短絡線構想]]を参照)。 * 新宿方面発着の[[成田エクスプレス]]は山手貨物線を走行し当駅を通過、[[目黒川信号場]]で横須賀線(品鶴線)と合流する。 == 利用状況 == いずれも直通人員を含む数値である。 * '''JR東日本''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''118,489人'''である<ref group="利用客数">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員] - JR東日本</ref>。 *: 同社では[[吉祥寺駅]]に次いで第19位。埼京線とりんかい線の開業以前は山手線のみ停車する駅で、乗車人員が5万人程度であった。しかし、両線の開業(延長)や湘南新宿ラインの停車開始、次項で記す駅周辺の再開発などもあり、急激に乗車人員が増加している。2018年度の増加率は前年比5.0%増と、ベスト100ではトップの増加率であり、さらに長らく14位、15位だった[[有楽町駅]]、[[立川駅]]の2駅を同時に抜き去るなど目覚ましい利用者数増加を果たしている。 * '''東京臨海高速鉄道''' - 2021年度の1日平均'''乗車'''人員は'''39,469人'''である<ref group="利用客数">[https://www.twr.co.jp/contact/tabid/224/Default.aspx よくあるご質問|お問い合わせ|お台場電車 りんかい線] (ページ上段)</ref>。 *: りんかい線内8駅中第1位。 === 年度別1日平均乗車人員(1900年代 - 1930年代) === 各年度の1日平均'''乗車'''人員の推移は下表の通りである。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員 !年度 !日本鉄道 /<br/>国鉄 !出典 |- |1900年(明治33年) |<ref group="備考">1901年2月25日開業。</ref> |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806580/165?viewMode= 明治33年]</ref> |- |1901年(明治34年) |109 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806581/188?viewMode= 明治34年]</ref> |- |1902年(明治35年) |142 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806582/186?viewMode= 明治35年]</ref> |- |1903年(明治36年) |173 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806583/183?viewMode= 明治36年]</ref> |- |1904年(明治37年) |116 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806584/213?viewMode= 明治37年]</ref> |- |1905年(明治38年) |111 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806585/196?viewMode= 明治38年]</ref> |- |1907年(明治40年) |202 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806587/190?viewMode= 明治40年]</ref> |- |1908年(明治41年) |280 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806589/103?viewMode= 明治41年]</ref> |- |1909年(明治42年) |366 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806591/106?viewMode= 明治42年]</ref> |- |1911年(明治44年) |848 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972667/131?viewMode= 明治44年]</ref> |- |1912年(大正元年) |854 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972670/134?viewMode= 大正元年]</ref> |- |1913年(大正{{0}}2年) |1,137 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972675/127?viewMode= 大正2年]</ref> |- |1914年(大正{{0}}3年) |1,396 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972677/386?viewMode= 大正3年]</ref> |- |1915年(大正{{0}}4年) |1,257 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972678/348?viewMode= 大正4年]</ref> |- |1916年(大正{{0}}5年) |1,745 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972679/383?viewMode= 大正5年]</ref> |- |1919年(大正{{0}}8年) |3,554 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972680/266?viewMode= 大正8年]</ref> |- |1920年(大正{{0}}9年) |4,380 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972681/302?viewMode= 大正10年]</ref> |- |1922年(大正11年) |6,438 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972682/303?viewMode= 大正11年]</ref> |- |1923年(大正12年) |8,852 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972683/294?viewMode= 大正12年]</ref> |- |1924年(大正13年) |11,277 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972684/292?viewMode= 大正13年]</ref> |- |1925年(大正14年) |11,682 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448121/326?viewMode= 大正14年]</ref> |- |1926年(昭和元年) |12,272 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448138/316?viewMode= 昭和元年]</ref> |- |1927年(昭和{{0}}2年) |12,504 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448164/314?viewMode= 昭和2年]</ref> |- |1928年(昭和{{0}}3年) |12,378 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448188/346?viewMode= 昭和3年]</ref> |- |1929年(昭和{{0}}4年) |12,285 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448218/334?viewMode= 昭和4年]</ref> |- |1930年(昭和{{0}}5年) |11,112 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448245/339?viewMode= 昭和5年]</ref> |- |1931年(昭和{{0}}6年) |10,163 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448278/342?viewMode= 昭和6年]</ref> |- |1932年(昭和{{0}}7年) |9,827 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448259/315?viewMode= 昭和7年]</ref> |- |1933年(昭和{{0}}8年) |10,102 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446322/333?viewMode= 昭和8年]</ref> |- |1934年(昭和{{0}}9年) |10,292 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446161/341?viewMode= 昭和9年]</ref> |- |1935年(昭和10年) |10,638 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446276/339?viewMode= 昭和10年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(1953年 - 2000年) === <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員 !年度 !国鉄 /<br />JR東日本 !出典 |- |1953年(昭和28年) |17,100 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1953/tn53qa0009.pdf 昭和28年]}} - 13ページ</ref> |- |1954年(昭和29年) |18,285 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1954/tn54qa0009.pdf 昭和29年]}} - 10ページ</ref> |- |1955年(昭和30年) |18,494 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1955/tn55qa0009.pdf 昭和30年]}} - 10ページ</ref> |- |1956年(昭和31年) |19,543 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1956/tn56qa0009.pdf 昭和31年]}} - 10ページ</ref> |- |1957年(昭和32年) |21,731 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1957/tn57qa0009.pdf 昭和32年]}} - 10ページ</ref> |- |1958年(昭和33年) |22,480 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1958/tn58qa0009.pdf 昭和33年]}} - 10ページ</ref> |- |1959年(昭和34年) |24,506 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1959/tn59qyti0510u.htm 昭和34年]</ref> |- |1960年(昭和35年) |26,459 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1960/tn60qyti0510u.htm 昭和35年]</ref> |- |1961年(昭和36年) |27,361 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1961/tn61qyti0510u.htm 昭和36年]</ref> |- |1962年(昭和37年) |28,560 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1962/tn62qyti0510u.htm 昭和37年]</ref> |- |1963年(昭和38年) |29,542 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1963/tn63qyti0510u.htm 昭和38年]</ref> |- |1964年(昭和39年) |29,869 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1964/tn64qyti0510u.htm 昭和39年]</ref> |- |1965年(昭和40年) |29,779 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1965/tn65qyti0510u.htm 昭和40年]</ref> |- |1966年(昭和41年) |29,865 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1966/tn66qyti0510u.htm 昭和41年]</ref> |- |1967年(昭和42年) |30,149 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1967/tn67qyti0510u.htm 昭和42年]</ref> |- |1968年(昭和43年) |30,291 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1968/tn68qyti0510u.htm 昭和43年]</ref> |- |1969年(昭和44年) |28,907 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1969/tn69qyti0510u.htm 昭和44年]</ref> |- |1970年(昭和45年) |28,904 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1970/tn70qyti0510u.htm 昭和45年]</ref> |- |1971年(昭和46年) |27,361 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1971/tn71qyti0510u.htm 昭和46年]</ref> |- |1972年(昭和47年) |27,567 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1972/tn72qyti0510u.htm 昭和47年]</ref> |- |1973年(昭和48年) |27,184 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1973/tn73qyti0510u.htm 昭和48年]</ref> |- |1974年(昭和49年) |26,740 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1974/tn74qyti0510u.htm 昭和49年]</ref> |- |1975年(昭和50年) |25,893 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1975/tn75qyti0510u.htm 昭和50年]</ref> |- |1976年(昭和51年) |26,912 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1976/tn76qyti0510u.htm 昭和51年]</ref> |- |1977年(昭和52年) |25,995 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1977/tn77qyti0510u.htm 昭和52年]</ref> |- |1978年(昭和53年) |25,575 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1978/tn78qyti0510u.htm 昭和53年]</ref> |- |1979年(昭和54年) |26,030 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1979/tn79qyti0510u.htm 昭和54年]</ref> |- |1980年(昭和55年) |25,934 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1980/tn80qyti0510u.htm 昭和55年]</ref> |- |1981年(昭和56年) |27,104 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1981/tn81qyti0510u.htm 昭和56年]</ref> |- |1982年(昭和57年) |26,532 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1982/tn82qyti0510u.htm 昭和57年]</ref> |- |1983年(昭和58年) |26,115 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1983/tn83qyti0510u.htm 昭和58年]</ref> |- |1984年(昭和59年) |26,427 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1984/tn84qyti0510u.htm 昭和59年]</ref> |- |1985年(昭和60年) |25,882 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1985/tn85qyti0510u.htm 昭和60年]</ref> |- |1986年(昭和61年) |27,553 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1986/tn86qyti0510u.htm 昭和61年]</ref> |- |1987年(昭和62年) |32,150 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1987/tn87qyti0510u.htm 昭和62年]</ref> |- |1988年(昭和63年) |34,516 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1988/tn88qyti0510u.htm 昭和63年]</ref> |- |1989年(平成元年) |36,091 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm 平成元年]</ref> |- |1990年(平成{{0}}2年) |39,130 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 平成2年]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) |41,956 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 平成3年]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) |42,915 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 平成4年]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) |43,328 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 平成5年]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) |44,189 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 平成6年]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |43,905 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 平成7年]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |44,789 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 平成8年]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) |45,480 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 平成9年]</ref> |- |1998年(平成10年) |47,545 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 平成10年]}}</ref> |- |1999年(平成11年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/1999.html 各駅の乗車人員(1999年度)] - JR東日本</ref>57,081 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 平成11年]}}</ref> |- |2000年(平成12年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>57,101 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 平成12年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) === 近年の1日平均'''乗車'''人員推移は下表の通り。 <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="乗降データ">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref><ref group="乗降データ">[https://www.city.shinagawa.tokyo.jp/PC/kuseizyoho/kuseizyoho-siryo/kuseizyoho-siryo-toukei/hpg000030691.html 品川区の統計] - 品川区</ref> !年度 !JR東日本 !東京臨海<br />高速鉄道 !出典 |- |2001年(平成13年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>57,069 |style="text-align:center"|未開業 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 平成13年]</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>61,462 |<ref group="備考">2002年12月1日開業。開業日から2003年3月31日までの計121日間を集計したデータ。</ref>18,661 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 平成14年]</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>79,231 |25,560 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 平成15年]</ref> |- |2004年(平成16年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>84,180 |29,268 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 平成16年]</ref> |- |2005年(平成17年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>93,709 |35,389 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 平成17年]</ref> |- |2006年(平成18年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>101,941 |40,099 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 平成18年]</ref> |- |2007年(平成19年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>115,483 |46,536 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 平成19年]</ref> |- |2008年(平成20年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>123,918 |49,718 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 平成20年]</ref> |- |2009年(平成21年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>124,577 |50,622 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 平成21年]</ref> |- |2010年(平成22年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>126,436 |50,653 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 平成22年]</ref> |- |2011年(平成23年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>127,838 |49,835 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 平成23年]</ref> |- |2012年(平成24年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>138,811 |55,666 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 平成24年]</ref> |- |2013年(平成25年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>143,397 |58,041 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 平成25年]</ref> |- |2014年(平成26年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>145,672 |60,467 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 平成26年]</ref> |- |2015年(平成27年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>154,544 |59,203 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 平成27年]</ref> |- |2016年(平成28年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>160,820 |61,340 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 平成28年]</ref> |- |2017年(平成29年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>164,876 |63,766 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 平成29年]</ref> |- |2018年(平成30年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>173,136 |65,415 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 平成30年]</ref> |- |2019年(令和元年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>177,095 |64,982 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 平成31年・令和元年]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>108,842 |37,243 | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>103,733 |39,469 | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>118,489 | | |} ;備考 {{Reflist|group="備考"}} == 駅周辺 == [[2002年]]12月以前は山手線だけの駅であり、周辺は[[ソニー]]や[[明電舎]]などの工場地帯であった<ref name="toyokeizai20201018">{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/amp/381943|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210315201929/https://toyokeizai.net/articles/amp/381943|title=「何もない」大崎は鉄道を支えた工業の街だった 来年120周年、悲しそうな「自虐キャラ」で注目|date=2020-10-18|publisher=東洋経済新報社|work=東洋経済オンライン|accessdate=2021-03-15|archivedate=2021-03-15}}</ref>。東京都が[[1982年]]に'''[[大崎副都心]]'''に指定すると緩やかながら[[都市再開発|再開発]]が進み、2002年12月に埼京線・りんかい線・湘南新宿ラインが利用可能になってからは開発が加速しており、再開発と交通利便性の向上により、大規模なオフィスビルが立ち並ぶ[[オフィス街|ビジネス街]]へと発展した<ref name="toyokeizai20201018" />。 {{columns-list|2| * [[大崎ニューシティ]] ** 大崎駅前郵便局 ** [[ホテルニューオータニイン東京]] * [[ゲートシティ大崎]] ** ゲートシティ大崎郵便局 * [[パークシティ大崎]] * オーバルコート大崎 * [[アートヴィレッジ大崎セントラルタワー]] * 大崎センタービル * [[ThinkPark]] ** [[ダイワロイネットホテルズ|ダイワロイネットホテル]]東京大崎 - 2021年3月19日より、駅ナカシェアオフィス「STATION WORK」が利用可能(事前予約制)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.stationwork.jp/user/notices-before|title=お知らせ一覧 > 3/19(金)ダイワロイネットホテル4施設とイーサイト高崎でSTATION BOOTH2台が開業します!|publisher=STATION WORK|date=2021-03-18|accessdate=2021-03-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210318094835/https://www.stationwork.jp/user/notices-before|archivedate=2021-03-18}}</ref><ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20210305_ho01.pdf|title=STATION WORKがダイワロイネットホテルズ14施設と提携スタート ~東京・神奈川・千葉エリアの14施設と連携開始、日本全国136カ所のネットワークへ~|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道、ダイワロイヤル|date=2021-03-05|accessdate=2021-03-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210305080415/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20210305_ho01.pdf|archivedate=2021-03-05}}</ref> * [[大崎ウエストシティタワーズ]] * [[NBF大崎ビル]](旧:ソニーシティ大崎) * 大崎ウィズシティ<ref>{{Cite web|title=osakiwizcity.tokyo|url=http://osakiwizcity.tokyo/|website=osakiwizcity.tokyo|accessdate=2019-07-02}}</ref> ** 大崎駅西口郵便局 * 大崎ガーデンタワー<ref>{{Cite web|和書|title=住友不動産大崎ガーデンタワー|賃貸オフィスビル、貸事務所なら住友不動産のオフィス|url=https://office.sumitomo-rd.co.jp/building/detail/shinagawa/ohsaki|website=office.sumitomo-rd.co.jp|accessdate=2019-07-02}}</ref> *[[品川区立図書館|品川区立大崎図書館]] * 大崎フォレストビル * [[日本クッカリー]] 本社 * [[大崎警察署|警視庁大崎警察署]] * [[立正大学]] - [[東京都道317号環状六号線|山手通り]]沿い(西側)。 * [[品川区立日野学園]] * [[品川区立御殿山小学校]] |}} このうち、大崎ニューシティ、ゲートシティ大崎、ThinkPark、NBF大崎ビル、大崎ウエストシティタワーズ、大崎ウィズシティは、ペデストリアンデッキを介して駅と直接つながっている。 == バス路線 == [[東急バス]]は従来東口側の'''大崎駅'''停留所に発着していた。品川区によって新たに西口側に'''大崎駅西口バスターミナル'''が整備され<ref name="bt1">{{Cite web|和書|url=http://www.ohsaki-area.or.jp/bus_terminal/|title=〈バス事業者の皆様へ〉大崎駅西口バスターミナルのご案内|publisher=大崎エリアマネージメント|date=2015-08-17|accessdate=2016-01-24}}</ref>、[[WILLER EXPRESS]]が2015年(平成27年)[[12月7日]]夜行便より、東急バスが翌[[12月8日]]より乗り入れを開始した<ref name="bt2">{{Cite web|和書|url=http://www.ohsaki-area.or.jp/bus_terminal_2/|title=『大崎駅西口バスターミナル』のご紹介|publisher=大崎エリアマネージメント|date=|accessdate=2016-01-24}}</ref>。それぞれ以下の路線が乗り入れている<ref name="bt2" /><ref group="報道" name="bt_tq">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyubus.co.jp/top/news/001074.html|title=「渋41系統」大崎駅西口バスターミナル乗入れに伴うダイヤ改正のお知らせ【2015年12月8日(火)実施】|publisher=[[東急バス]]|date=2015-12-01|accessdate=2016-01-24}}</ref>。 山手線で[[都営バス]]が乗り入れていないのは当駅と[[代々木駅]]のみ、[[都営地下鉄|地下鉄]]も含めた[[東京都交通局|都営交通]]全般では当駅が唯一である。 === 大崎駅 === <!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]より、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !乗り場!!運行事業者!!系統・行先!!備考 |- !1 |rowspan="2" style="text-align:center;"|東急バス |{{Unbulleted list|[[東急バス目黒営業所#品川線|'''渋41''']]:[[大井町駅]]・[[新馬場駅|新馬場駅前]]|[[東急バス目黒営業所#品川線|'''渋43''']]:[[高輪ゲートウェイ駅]]・[[品川駅]]}} |&nbsp; |- !2 |'''渋41'''・'''渋43''':[[渋谷駅]]・[[東急バス目黒営業所|清水]] |&nbsp; |} === 大崎駅西口バスターミナル === <!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]より、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> [[画像:Osaki-Bus-Terminal.JPG|thumb|大崎駅西口バスターミナル(2016年6月)]] 西口バスターミナルは[[一般社団法人]]大崎エリアマネージメントによって運営されている<ref name="bt2" />。面積は約1392平方メートルで、バス乗降場は0 - 3番の4バースある<ref name="bt2" />。品川区や運営団体では今後以下の路線の他、盛岡・青森、秋田、富山・金沢、鳥取・島根、広島などを発着する路線の乗り入れを目指していく<ref name="shinagawa">{{Cite web|和書|url=http://www.city.shinagawa.tokyo.jp/hp/menu000027000/hpg000026985.htm|title=国内他都市を結ぶ 大崎駅西口バスターミナル運営開始|publisher=[[品川区]]|date=2015-11-20|accessdate=2016-01-24}}</ref>。2016年10月31日からは[[成田国際空港|成田空港]]・[[芝山町]]を結ぶ成田シャトルが運行を開始。 {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !乗り場!!運行事業者!!style="width:40em;"|系統・行先!!備考 |- !0 |style="text-align:center;"|東急バス |[[東急バス目黒営業所#品川線|'''渋42''']]:渋谷駅・清水 |停留所名は「'''大崎駅西口'''」 |- !rowspan="9"|1 - 3 |style="text-align:center;|[[WILLER EXPRESS]] |{{Unbulleted list|昼行:[[大阪駅周辺バスのりば|WILLERバスターミナル大阪梅田]]|夜行:WILLERバスターミナル大阪梅田・[[大阪シティ・エア・ターミナル|OCAT]]・神戸三宮(高架商店街前・PMPTビル)/ [[ささしまライブ駅|名古屋南ささしまライブ]]・[[アクトシティ浜松]] / [[福島駅 (福島県)|福島駅]]西口・[[仙台駅のバス乗り場|仙台駅]]西口 / 長野小島田・[[長野駅]]東口|昼行・夜行:[[長岡駅]]大手口・[[新潟駅]]南口・[[NEXT21 (新潟市)|新潟古町]]・新潟港(万代島)・新潟港(山の下埠頭)}} |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|WILLER EXPRESS|大阪さやま交通}} |夜行:京都駅(ホテルセントノーム)・WILLERバスターミナル大阪梅田・[[堺駅]]西口 |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|WILLER EXPRESS|[[帝産観光バス]]}} |夜行:WILLERバスターミナル大阪梅田・[[ユニバーサル・スタジオ・ジャパン|USJ]]・リーベルホテル(JR[[桜島駅]]前) |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|[[小田急シティバス|小田急ハイウェイバス]]|[[秋田中央交通]]}} |夜行「[[フローラ号]]」:[[秋田駅]]東口・秋田長崎屋バスターミナル |季節運行 |- |style="text-align:center;"|ベイラインエクスプレス |夜行:[[富山駅]]北口・[[富山県水墨美術館|富山県水墨美術館前]]・[[金沢駅]]西口 |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|WILLER EXPRESS|[[京成バス]]|[[千葉交通]]}} |成田シャトル:[[成田国際空港|成田空港]]・[[芝山町|芝山町役場]] |運休中 |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|[[東急トランセ]]|[[京浜急行バス]]}} |空港連絡バス:[[東京国際空港|羽田空港]] |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|[[中国バス]] |夜行「[[ドリームスリーパー]]」:[[福山駅]]・[[広島駅|広島駅新幹線口]]・[[中筋駅]] |運休中 |- |style="text-align:center;"|[[小湊鉄道]] |昼行:長南カントリークラブ・長南パブリックコース |平日のみ運行 |} == その他 == * 湘南新宿ライン利用で当駅と[[西大井駅]]間を含む区間を乗車する場合、運賃・料金計算は[[品川駅]]経由として扱われる<ref>{{Cite web|和書|title=運賃計算の特例:JR東日本|url=https://www.jreast.co.jp/kippu/1106.html|website=JR東日本:東日本旅客鉄道|accessdate=2019-07-02|language=ja}}</ref>。<!-- * 将来、8番線と横須賀線本線を結ぶ連絡線を敷設する計画がある。←何ら具体化しておらず、ルートさえ明らかでないのに、8番線とは? --> * 1987年以降毎年1回(概ね[[体育の日]]の前後に)、当駅発着の山手線[[直行便|ノンストップ]]一周の[[団体専用列車|団体専用]][[臨時列車]]「夢さんばし号」が運行されている<ref name="toyokeizai20151031">{{Cite web|和書|url=http://toyokeizai.net/articles/-/90459|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160302051105/http://toyokeizai.net/articles/-/90459|title=年に一度のノンストップ山手線に乗ってみた 大崎発・大崎行き団体貸切列車の正体とは?|date=2015-10-31|publisher=東洋経済新報社|work=東洋経済オンライン|accessdate=2021-03-15|archivedate=2016-03-02}}</ref>。 * りんかい線とJRの接続駅という点に着目し、[[コミックマーケット]]参加者に下車・休憩してもらう企画として「[[おもしろ同人誌バザール|大崎コミックシェルター]]」が実施されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/special/54143/|title=【コミケ97】大崎駅が「コミケ避難所」で新たな聖地に「100万人がスルーする駅」からの脱却|website=ORICON NEWS|date=2019-12-29|accessdate=2019-12-30}}</ref>。コミックマーケット期間中は南改札付近にテントを設置し、「戦利品(コミックマーケットで購入した品物)」を見せると飲み物(夏は麦茶、冬はお汁粉)を提供するサービスを行っているほか、期間中の駅構内放送に[[大崎一番太郎]]他のキャラクターを起用するなどの企画を行っている。 *2019年6月、回転すしスシローの「#山手線にスシローつくろーぜ!」キャンペーンにて総計21,055票中3,354票(15.9%)を獲得して第一位に選出された<ref>{{Cite web|和書|title=#山手線にスシローつくろーぜ!|回転すし スシロー|url=https://www.akindo-sushiro.co.jp/campaign/yamanotesen|website=www.akindo-sushiro.co.jp|accessdate=2019-07-02|language=ja}}</ref>。 * 2020年8月には当駅が開業120周年(2021年2月25日)を迎えるにあたって、[[ウサギ]]をモチーフとしたオリジナルキャラクター「おうさき」が登場した<ref name="toyokeizai20201018" />。字になっている口と、ハの字眉毛の悲しげな表情が特徴。[[Twitter|X]]での「#ムカつく電車の行き先選手権」で「大崎止まりの山手線はいらない」「大崎何もない」と挙げられるなど<ref>{{Cite web|和書|title=「大崎止まり うざい」「大崎 何もない」山手線の不人気駅? 「大崎駅」には何がある?|TRILL|url=https://trilltrill.jp/articles/3406507|accessdate=2023-12-17|language=ja}}</ref>「大崎駅に対して浴びせられた数々の苦情のせいで眉が下がってしまった」という、自虐的な要素が込められたキャラクター設定となっている<ref name="toyokeizai20201018" />。 * 2023年6月、「「山手線の駅名」でかわいいと思うのは?」というアンケートにおいて総計816票中193票(23.7%)を獲得して第一位に選出された<ref>{{Cite web|和書|title=「山手線の駅名」でかわいいと思うのは?【人気投票実施中】(投票結果) {{!}} 乗り物 ねとらぼ調査隊 |url=https://nlab.itmedia.co.jp/research/articles/1569743/vote_result/ |website=ねとらぼ調査隊 |date=2023-06-19 |access-date=2023-06-28 |language=ja}}</ref>。 == 隣の駅 == ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) : [[File:JR_JY_line_symbol.svg|15px|JY]] 山手線 ::: [[品川駅]] (JY 25) - '''大崎駅 (JY 24)''' - [[五反田駅]] (JY 23) : [[File:JR_JS_line_symbol.svg|15px|JS]] 湘南新宿ライン :* 特急「[[湘南 (列車)|湘南]]」停車駅 :: {{Color|#0099ff|■}}特別快速(東海道線 - 高崎線直通) ::: [[武蔵小杉駅]] (JS 15) - (旧[[蛇窪信号場]]) - '''大崎駅 (JS 17)''' - [[渋谷駅]] (JS 19) :: {{Color|#f68b1e|■}}快速(東海道線 - 高崎線直通) ::: 武蔵小杉駅 (JS 15) - (旧蛇窪信号場) - '''大崎駅 (JS 17)''' - [[恵比寿駅]] (JS 18) :: {{Color|#18a629|■}}普通(横須賀線 - 宇都宮線直通) ::: [[西大井駅]] (JS 16) - (旧蛇窪信号場) - '''大崎駅 (JS 17)''' - 恵比寿駅 (JS 18) ::* 宇都宮線内が「快速」となる北行き列車は、当駅まで「普通」表示で運転され、当駅で列車の種別表示が「快速」となる。 : [[File:JR_JA_line_symbol.svg|15px|JA]] 埼京線・[[File:Sotetsu line symbol.svg|15px|SO]] 相鉄線直通列車 :: {{Color|#ff0066|■}}通勤快速・{{Color|#0099ff|■}}快速・{{Color|#00ac9a|■}}各駅停車<!-- カラーはE233系のLED方向幕の色に準拠 --> :::(相鉄線直通列車)西大井駅 (JS 16) /(りんかい線) - '''大崎駅 (JS 17・JA 08)''' - 恵比寿駅 (JA 09)(埼京線) ; 東京臨海高速鉄道 : [[File:Rinkai_Line_symbol.svg|15px|R]] りんかい線 :: {{Color|#ff0066|■}}通勤快速・{{Color|#0099ff|■}}快速・{{Color|#00ac9a|■}}各駅停車<!-- カラーはE233系のLED方向幕の色に準拠 --> ::: [[大井町駅]] (R 07) - '''大崎駅 (R 08)''' - (埼京線) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === <!--==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注"}} --> ==== 出典 ==== {{Reflist|3}} ==== 報道発表資料 ==== {{Reflist|group="報道"|2}} === 利用状況 === ; JR・私鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="利用客数"}} ; JR東日本の1999年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|22em}} ; JR・私鉄の統計データ {{Reflist|group="乗降データ"}} ; 東京府統計書 {{Reflist|group="東京府統計"|17em}} ; 東京都統計年鑑 {{Reflist|group="東京都統計"|17em}} == 関連項目 == {{Commonscat|Ōsaki Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[大崎副都心]] * [[大崎広小路駅]] - [[東急池上線]]の駅。当駅および[[五反田駅]]の至近に存在する。 * [[大崎一番太郎]] == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=319|name=大崎}} * [https://www.twr.co.jp/route/tabid/120/Default.aspx 東京臨海高速鉄道 大崎駅] {{鉄道路線ヘッダー}} {{山手線}} {{埼京線}} {{湘南新宿ライン}} {{りんかい線}} {{鉄道路線フッター}} {{東京都特別区のバスターミナル}} {{DEFAULTSORT:おおさき}} [[Category:品川区の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 お|おさき]] [[Category:日本鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:山手線]] [[Category:埼京線]] [[Category:東京臨海高速鉄道]] [[Category:1901年開業の鉄道駅]] [[Category:大崎副都心|えき]]
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ビバリーヒルズ高校白書
『ビバリーヒルズ高校白書』(ビバリーヒルズこうこうはくしょ)、『ビバリーヒルズ青春白書』(ビバリーヒルズせいしゅんはくしょ)は、アメリカ合衆国のスペリング・テレビジョンが制作し、FOX系列で放映された青春テレビドラマ。1990年から2000年まで放送された。略称はビバヒル。 原題は 『Beverly Hills, 90210』(90210 はアメリカのビバリーヒルズの郵便番号)。邦題の『ビバリーヒルズ高校白書』はビバリーヒルズの高校(「ウェストビバリーハイスクール」という架空の高等学校)での生活を描いたシーズン1 - 3にあたり、カリフォルニア大学へ入学してからのストーリーを描いたシーズン4 - 10は『ビバリーヒルズ青春白書』としている。 ストーリーは、寒冷なミネソタ州ミネアポリスで暮らしていた中流家庭が温暖で華やかな上流家庭の子弟が多く住むカリフォルニア州ビバリーヒルズに引っ越し、双子の高校生兄妹がウェストビバリーハイスクールに転校するところから始まる。主人公の双子とそのまわりの友人たちとの思春期から青年期にかけての恋愛、悩み、離婚・再婚や親の犯罪といった複雑な家庭事情、ドラッグ・銃・自殺・人種差別などの現代のアメリカ合衆国を象徴する社会問題と葛藤を描いた点がリアリティあるアメリカの若者像として評価を受け、世界的に人気を呼んだ。製作終了後も再放送が繰り返されるなど、ティーンドラマの伝説となっており、特に『高校白書』の評価が高く、アメリカではブレンダ役のシャナン・ドハーティーが出演したシーズン4までを「ブレンダ・イヤーズ」と呼び、シーズン4までのみ再放送する放送局もあった。日本でも当時大ブームを巻き起こした。ティーン向け女性ファッション雑誌では登場人物の着る西海岸風のアメリカンカジュアルな服装が多く取り上げられ、現在のセレブカジュアル風の着こなしは、一時は『ビバカジ』と称され流行していた。また日本語吹き替え版ではセリフの独特な言い回しや決まり文句(「ちょい待ち」「やっこさん」「 - でやんす」「ワーオです」など)が個々のキャラクターの個性を際立たせ、この作品を特徴付ける一要素となっている。スウェーデンでは、ドラマの人気絶頂期とも言うべき1992年から1994年にかけて、ブランドンとディランという二大登場人物の名が、新生児の名前として突然ポピュラーになったことさえある。 複数のスピンオフが誕生している。1992年放送開始の『メルローズ・プレイス』やそのスピンオフの『モデル・エージェンシー/女たちの闘い』の他、本作の続編として2008年から2013年まで制作・放映された『新ビバリーヒルズ青春白書』、そして、2009年開始の『メルローズ・プレイス』の続編がある。また、本作終了直後の2000年には、ビバヒルを皮肉った楽屋落ち物語として話題になった『グロス・ポイント』(ダレン・スター製作)も放送された。 日本での放送はNHK衛星第2テレビにて先行放送し、放送できるストックが溜まるまで休止と再開を繰り返す。遅れて数年後に地上波NHK総合テレビで1話からレギュラー放送を開始。季節ごとに平日深夜に一挙再放送というサイクルで展開していた。VHSでは傑作エピソード集を数本発売し、放送完結後に1巻2話収録で高額なVHS/DVDが発売開始したがシーズン2で打ち切り。その後DVDBOXが全シーズン発売され、DVDBOX完結直後に総額1/3ほどの廉価DVDBOXも発売された。 2019年8月7日にシリーズ最新作となる『ビバリーヒルズ再会白書』をアメリカ・FOXテレビにて放送。高視聴率を記録した。日本では動画配信サイトのHuluにて同年12月24日から独占配信する。2020年にWOWOWで放送された。
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『ビバリーヒルズ高校白書』(ビバリーヒルズこうこうはくしょ)、『ビバリーヒルズ青春白書』(ビバリーヒルズせいしゅんはくしょ)は、アメリカ合衆国のスペリング・テレビジョンが制作し、FOX系列で放映された青春テレビドラマ。1990年から2000年まで放送された。略称はビバヒル。 原題は 『Beverly Hills, 90210』。邦題の『ビバリーヒルズ高校白書』はビバリーヒルズの高校(「ウェストビバリーハイスクール」という架空の高等学校)での生活を描いたシーズン1 - 3にあたり、カリフォルニア大学へ入学してからのストーリーを描いたシーズン4 - 10は『ビバリーヒルズ青春白書』としている。
{{Otheruses|1990年開始のテレビドラマ|続編|新ビバリーヒルズ青春白書|本作品のキャストが本人役で登場しているモキュメンタリー|ビバリーヒルズ再会白書}} {{基礎情報 テレビ番組 | 番組名 = ビバリーヒルズ高校白書 | 画像 = | 画像説明 = | ジャンル = [[海外ドラマ]] | 放送国 = {{USA}} | 制作局 = | 監督 = | 原作 = | 脚本 = | 出演者 = [[#主な登場人物|主な登場人物]]を参照 | 音声 = | 字幕 = | データ放送 = | 番組名1 = シーズン1(高校白書) | 放送時間1 = | 放送分1 = | 放送枠1 = | 放送期間1 = 1990年10月4日 - 1991年5月9日 | 放送回数1 = 23 | プロデューサー1 = | 出演者1 = | OPテーマ1 = | EDテーマ1 = | 外部リンク1 = https://paramount.jp/90210/episode/season1/ | 外部リンク名1 = パラマウント・ジャパン | 番組名2 = シーズン2(高校白書) | 放送時間2 = | 放送分2 = | 放送枠2 = | 放送期間2 = 1991年7月11日 - 1992年5月7日 | 放送回数2 = 28 | プロデューサー2 = | 出演者2 = | OPテーマ2 = | EDテーマ2 = | 外部リンク2 = https://paramount.jp/90210/episode/season2/ | 外部リンク名2 = パラマウント・ジャパン | 番組名3 = シーズン3(高校白書) | 放送時間3 = | 放送分3 = | 放送枠3 = | 放送期間3 = 1992年7月15日 - 1993年5月19日 | 放送回数3 = 30 | プロデューサー3 = | 出演者3 = | OPテーマ3 = | EDテーマ3 = | 外部リンク3 = https://paramount.jp/90210/episode/season3/ | 外部リンク名3 = パラマウント・ジャパン | 番組名4 = シーズン4(青春白書) | 放送時間4 = | 放送分4 = | 放送枠4 = | 放送期間4 = 1993年9月8日 - 1994年5月25日 | 放送回数4 = 32 | プロデューサー4 = | 出演者4 = | OPテーマ4 = | EDテーマ4 = | 外部リンク4 = https://paramount.jp/90210/episode/season4/ | 外部リンク名4 = パラマウント・ジャパン | 番組名5 = シーズン5(青春白書) | 放送時間5 = | 放送分5 = | 放送枠5 = | 放送期間5 = 1994年9月7日 - 1995年5月24日 | 放送回数5 = 32 | プロデューサー5 = | 出演者5 = | OPテーマ5 = | EDテーマ5 = | 外部リンク5 = https://paramount.jp/90210/episode/season5/ | 外部リンク名5 = パラマウント・ジャパン | 番組名6 = シーズン6(青春白書) | 放送時間6 = | 放送分6 = | 放送枠6 = | 放送期間6 = 1995年9月13日 - 1996年5月22日 | 放送回数6 = 32 | プロデューサー6 = | 出演者6 = | OPテーマ6 = | EDテーマ6 = | 外部リンク6 = https://paramount.jp/90210/episode/season6/ | 外部リンク名6 = パラマウント・ジャパン | 番組名7 = シーズン7(青春白書) | 放送時間7 = | 放送分7 = | 放送枠7 = | 放送期間7 = 1996年8月21日 - 1997年5月21日 | 放送回数7 = 32 | プロデューサー7 = | 出演者7 = | OPテーマ7 = | EDテーマ7 = | 外部リンク7 = https://paramount.jp/90210/episode/season7/ | 外部リンク名7 = パラマウント・ジャパン | 番組名8 = シーズン8(青春白書) | 放送時間8 = | 放送分8 = | 放送枠8 = | 放送期間8 = 1997年9月10日 - 1998年5月20日 | 放送回数8 = 32 | プロデューサー8 = | 出演者8 = | OPテーマ8 = | EDテーマ8 = | 外部リンク8 = https://paramount.jp/90210/episode/season8/ | 外部リンク名8 = パラマウント・ジャパン | 番組名9 = シーズン9(青春白書) | 放送時間9 = | 放送分9 = | 放送枠9 = | 放送期間9 = 1998年9月16日 - 1999年5月19日 | 放送回数9 = 26 | プロデューサー9 = | 出演者9 = | OPテーマ9 = | EDテーマ9 = | 外部リンク9 = https://paramount.jp/90210/episode/ | 外部リンク名9 = パラマウント・ジャパン | 番組名10 = シーズン10(青春白書) | 放送時間10 = | 放送分10 = | 放送枠10 = | 放送期間10 = 1999年9月8日 - 2000年5月17日 | 放送回数10 = 27 | プロデューサー10 = | 出演者10 = | OPテーマ10 = | EDテーマ10 = | 外部リンク10 = | 外部リンク名10 = | 特記事項 = }} 『'''ビバリーヒルズ高校白書'''』(ビバリーヒルズこうこうはくしょ)、『'''ビバリーヒルズ青春白書'''』(ビバリーヒルズせいしゅんはくしょ)は、[[アメリカ合衆国]]の[[スペリング・テレビジョン]]が制作し、[[フォックス放送|FOX系列]]で放映された青春[[テレビドラマ]]。[[1990年]]から[[2000年]]まで放送された。略称は'''ビバヒル'''。 原題は 『'''Beverly Hills, 90210'''』(90210 はアメリカの[[ビバリーヒルズ]]の[[ZIPコード|郵便番号]])。邦題の『'''ビバリーヒルズ高校白書'''』は[[ビバリーヒルズ]]の高校(「ウェストビバリーハイスクール」という架空の[[高等学校]])での生活を描いたシーズン1 - 3にあたり、カリフォルニア大学<ref group="注釈">原語では「'''California University'''」(架空の大学)で、実在する'''[[カリフォルニア大学|University of California]]'''や'''[[カリフォルニア州立大学|California State University]]'''とは異なる。</ref>へ入学してからのストーリーを描いたシーズン4 - 10は『'''ビバリーヒルズ青春白書'''』としている。 == 概説 == ストーリーは、寒冷な[[ミネソタ州]][[ミネアポリス]]で暮らしていた中流家庭が温暖で華やかな[[上流家庭]]の子弟が多く住む[[カリフォルニア州]][[ビバリーヒルズ]]に引っ越し、[[双生児|双子]]の高校生兄妹がウェストビバリーハイスクール<ref group="注釈">撮影場所は本作および続編『新ビバリーヒルズ青春白書』ともに[[:en:Torrance High School|Torrance High School]]である。</ref>に転校するところから始まる。主人公の双子とそのまわりの友人たちとの[[思春期]]から青年期にかけての[[恋愛]]、悩み、離婚・再婚や親の犯罪といった複雑な家庭事情、[[薬物乱用|ドラッグ]]・[[銃]]・自殺・[[人種差別]]などの現代の[[アメリカ合衆国]]を象徴する社会問題と葛藤を描いた点がリアリティある[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の若者像として評価を受け、世界的に人気を呼んだ<ref group="注釈">ただし彼らのリッチな高校生活は大学をロケ地にしたファンタジーであり、現実のビバリーヒルズ高校やアメリカ人の青春からはかけ離れている</ref>。製作終了後も再放送が繰り返されるなど、[[ティーンドラマ]]の伝説となっており、特に『高校白書』の評価が高く、アメリカではブレンダ役の[[シャナン・ドハーティー]]が出演したシーズン4までを「'''ブレンダ・イヤーズ'''」と呼び、シーズン4までのみ再放送する放送局もあった。[[日本]]でも当時大ブームを巻き起こした。[[ティーン]]向け女性[[ファッション]]雑誌では登場人物の着る[[アメリカ西海岸|西海岸]]風の[[アメリカンカジュアル]]な服装が多く取り上げられ、現在の[[セレブカジュアル]]風の着こなしは、一時は『ビバカジ』と称され流行していた。また日本語吹き替え版ではセリフの独特な言い回しや[[決まり文句]](「ちょい待ち」「やっこさん」「 - でやんす」「ワーオです」など)が個々のキャラクターの個性を際立たせ、この作品を特徴付ける一要素となっている。[[スウェーデン]]では、ドラマの人気絶頂期とも言うべき[[1992年]]から[[1994年]]にかけて、ブランドンとディランという二大登場人物の名が、新生児の名前として突然ポピュラーになったことさえある。 複数の[[スピンオフ]]が誕生している。1992年放送開始の『[[メルローズ・プレイス]]』やそのスピンオフの『[[:en:Models Inc.|モデル・エージェンシー/女たちの闘い]]』の他、本作の続編として[[2008年]]から2013年まで制作・放映された『[[新ビバリーヒルズ青春白書]]』、そして、2009年開始の[[:en:Melrose Place (2009 TV series)|『メルローズ・プレイス』の続編]]がある。また、本作終了直後の[[2000年]]には、ビバヒルを皮肉った[[楽屋落ち]]物語として話題になった『グロス・ポイント』([[ダレン・スター]]製作)も放送された。 日本での放送は[[NHK衛星第2テレビジョン|NHK衛星第2テレビ]]にて先行放送し、放送できるストックが溜まるまで休止と再開を繰り返す。遅れて数年後に地上波[[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]]で1話からレギュラー放送を開始。季節ごとに平日深夜に一挙再放送というサイクルで展開していた。VHSでは傑作エピソード集を数本発売し、放送完結後に1巻2話収録で高額なVHS/DVDが発売開始したがシーズン2で打ち切り。その後DVDBOXが全シーズン発売され、DVDBOX完結直後に総額1/3ほどの廉価DVDBOXも発売された。 2019年8月7日にシリーズ最新作となる『ビバリーヒルズ再会白書』をアメリカ・FOXテレビにて放送。日本では動画配信サイトの[[Hulu]]にて同年12月24日から独占配信する<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.hulu.jp/hulu-contents/bh90210|title=約20年ぶりにオリジナルキャストが集結! 最新ドラマ「ビバリーヒルズ再会白書」が 12月24日(火)から独占配信。 そして、「ビバリーヒルズ高校白書/青春白書」 国内“初”SVOD配信決定!|accessdate=2019年11月29日|publisher=HJホールディングス株式会社(2019年11月28日作成)}}</ref>。2020年にWOWOWで放送された。 == 主な登場人物 == === 主要人物 === [[File:Doherty_and_Priestley.jpg|thumb|250px|right|1991年8月の[[エミー賞]]授賞式に出席したブランドン役の[[ジェイソン・プリーストリー]](左)とブレンダ役の[[シャナン・ドハーティー]]]] ; ブランドン・ウォルシュ <span style="font-weight:normal">(''Brandon Walsh'')</span> : 演 - [[ジェイソン・プリーストリー]]、日本語吹替 - [[中原茂]] : 登場:シーズン1 - 9 : ブレンダと[[双生児|双子]]の兄妹。[[スコットランド]]系[[プロテスタント]]の[[公認会計士]] である父親ジムと母親シンディの息子。[[新聞部]]に在籍し、融通は利かないが[[正義]]感の旺盛な優等生的存在。目移りしやすいタイプで多くの[[登場人物]]と恋に落ちるが、一話完結で終わる場合がほとんど。シーズン5ではケリーにプロポーズするが断られる。シーズン7で2人は復縁し[[結婚]]寸前までいくが、再度別れてしまう。真面目な性格だが、[[アルコール]]に弱く[[ギャンブル]]に手を出すことも。スポーツは見るのもやるのも賭けるのも大好きだが[[ダンス]]が大の苦手。シーズン8でスティーブとともに新聞社「ビバリー・ビート」を興す、その後、ニューヨーク・クロニクルのワシントン支局からオファーを受けワシントンへと旅立っていった。 : 演じたジェイソン・プリーストリーはシーズン9の序盤で降板<ref>{{Cite web|和書|url=https://dramanavi.net/drama/news/2021/01/post-8415.php |title=『ビバヒル』ジェイソン・プリーストリー降板を後悔「ケリーのために残るべきだった」 |publisher=海外ドラマNAVI |date=2021-01-22 |accessdate=2021-12-18}}</ref>。理由は「自分に固定イメージがつくのが嫌だから(再会白書でもネタにされ、イメージは脱却できなかった)」。ただし[[プロデューサー]]などとして作品にはその後も参加している。シーズン10の[[最終回]]では[[ビデオ]][[レター]]の中で少しだけ姿を見せた。 ; {{Anchors|ブレンダ・ウォルシュ}}ブレンダ・ウォルシュ <span style="font-weight:normal">(''Brenda Walsh'')</span> : 演 - [[シャナン・ドハーティー]]、日本語吹替 - [[小金澤篤子]] : 登場:シーズン1 - 4 / [[新ビバリーヒルズ青春白書#ブレンダ・ウォルシュ|新ビバリーヒルズ青春白書]] : ブランドンと[[双生児|双子]]の兄妹。愛するディランに[[処女]]を捧げたが、ディランがケリーと恋に落ちたため、[[三角関係]]に陥いる。信念や思い込みの強い性格であり、定期的にトラブルを起こすため、末期は父親から「今度はなんだ?」という目で見られるようになる。また感化されやすい性格でもある。ディランと破局後はスチュワートという男性と婚約するが後に解消した。 : ブランドンの代打としてピーチ・ピットでバイトした頃から演技の才能を開花させはじめ、大学のオーディションでは様々な悪意や苦難を乗り越えつつも主役を獲得する。そしてオーディションの舞台の演出家であるランドールから薦められて、夏休みの3ヶ月間、ロンドンの演劇学校の講習に参加することになる。その後、演劇学校で優秀な成績を納めて本格的に留学することになった。しばらくして同じくビバリーヒルズを離れたディランとロンドンで一緒に生活している事が判明するが再び破局した。 : 演じたシャナン・ドハーティーは撮影現場や私生活でのトラブルがメディアを賑わせるなど、当時は[[ゴシップ]][[俳優|女優]]としても名を馳せていた。傲慢で自己中心的な態度が共演者との間に軋轢を生み、その結果、主役の1人であったにもかかわらずシーズン4の最終回にて「[[ロンドン]]に[[俳優|女優]]の勉強をしに行く」という設定で降板となった。ドハーティーは降板後、他の出演者のようにシーズン10の最終回まで一切ゲスト出演することはなかったが、2003年のスペシャル番組、Beverly Hills, 90210: 10 Year High School Reunion でゲスト出演を果たし、新ビバリーヒルズ青春白書にも出演した。 : シャナンが降板した後も、登場人物たちの口からブレンダの近況が語られたり、ブレンダから手紙が届いたりする事はあった。 ; {{Anchors|ケリー・テイラー}}ケリー・テイラー <span style="font-weight:normal">(''Kelly Taylor'')</span> : 演 - [[ジェニー・ガース]]、日本語吹替 - [[松本梨香]] : 登場:全シーズン / [[新ビバリーヒルズ青春白書#ケリー・テイラー|新ビバリーヒルズ青春白書]] : 元[[モデル (職業)|モデル]]の母親を持ち、本人もスプリングクイーンやミスウエストビバリーに選ばれるほどの美人。異性にモテモテで最初はデビッドもケリーを追っかけていた。初期は金持ちの不良少女的な存在で鼻を[[整形]]している、その後、母親が[[アルコール依存症]]である事や、初体験がデートレイプである事が明らかになり次第に常識人へと変化していく。高校白書では当時ブレンダと付き合っていたディランと[[wikt:浮気|浮気]]してしまい、[[三角関係]]に陥る。その結果、ブレンダからディランを略奪する形になりこの事でケリーとブレンダの友情が壊れそうになる。青春白書にてディランと破局、その後はブランドンと恋仲になり、その後紆余曲折を経て婚約。結婚式直前までいくものの、迷いが生じブランドンとも破局した。 : 大火事に巻き込まれその影響で新興宗教にハマったり、当時付き合っていた恋人の影響で[[コカイン]]中毒になるなど何かと苦難が多い人物でもある。シリーズ後半では[[車上狙い]]に撃たれ記憶喪失になったり、[[強姦|レイプ]]被害に遭うなど壮絶な体験を重ねてきた。シーズン9ではビバリーヒルズに戻ってきたディランと、当時付き合っていたマットとの間で揺れ動くが、結果的にはディランとヨリを戻してシリーズは終了した。 ; ディラン・マッケイ <span style="font-weight:normal">(''Dylan McKay'')</span> : 演 - [[ルーク・ペリー]]、日本語吹替 - [[小杉十郎太]] : 登場:シーズン1 - 6、9 - 10 : [[アイルランド]]系。父親が[[マフィア]]と通じており、それが原因で波乱の人生を送ることになる。ダーティなイメージで、[[一匹狼]]的存在。ブランドンとは親友。[[サーフィン]]を好む。父の[[遺産]]を[[相続]]して大富豪になるも、[[詐欺師]]に騙されて無一文に転落し[[酒]]や[[薬物乱用|ドラッグ]]に溺れる。しかしバレリーの協力を得て財産を取り戻す。高校時代にブレンダと付き合うが、ブレンダの[[フランス]][[留学]]中にケリーと急接近し、[[三角関係]]になる。シーズン5ではケリーをブランドンと取り合う。父親を殺した[[マフィア]]の[[ボス]]であるアンソニー・マルシェットの娘、トニーと恋に落ち[[結婚]]するが、直後にアクシデントから彼女を殺されてしまう。トニーの死後L.Aを去る。L.Aを去ってからはブレンダとロンドンで暮らしていたがまたもや破局。3年後、ビバリーヒルズに帰ってくるがトニーの死のショックを引きずっており、トラブルを起こす。ケリーに未練があり、結果的にはケリーとヨリを戻すことになった。 : 演じたルーク・ペリーはシーズン6の中盤で降板した、しかしシーズン9、10ではスペシャルゲスト(実質[[メインキャスト]]扱い)として復帰した(ジェイソン・プリーストリーが降板したためのテコ入れだった。復帰には破格の条件が提示されたという)。 : このディランは[[日本]]ではバンド、[[ホフディラン]]のCDジャケットに起用されたり(曲中には吹替キャストの小杉十郎太のナレーションが収録されている)、芸人・[[なだぎ武]]の[[モノマネ]]の定番[[ディラン&amp;キャサリン]]となるなど、[[パロディ]]のネタにされる機会が比較的多いキャラクターである。 ; スティーブ・サンダース <span style="font-weight:normal">(''Steve Sanders'')</span> : 演 - [[アイアン・ジーリング]]、日本語吹替 - [[堀内賢雄]] : 登場:全シーズン : 有名な[[俳優|女優]]を母親に持ち、明るい性格でひょうきんな存在。憎めないキャラクターだが、[[カンニング]]事件や[[ハッカー]]騒動を起こして[[退学]]になりかけるなどトラブルメーカーでもある。クレアに[[勉強]]を見てもらっているうちにお互い気になりだし、付き合うが後に破局。大学卒業後、父親の支援でブランドンと[[新聞社]]を興すことになる。その後、新聞社の同僚のジャネットと肉体関係だけの付き合いをしていたが、[[妊娠]]してしまう。その後、本当は愛し合っているということに気づき、[[結婚]]する。スティーブの[[腹違い]]の[[弟]]ライアン役を演じるランディ・スペリングはドナ・マーティン役を演じるトリ・スペリングの[[実弟]]でこのドラマの[[制作会社]]の[[社長]][[アーロン・スペリング]]の[[息子]]である。 ; アンドレア・ザッカーマン <span style="font-weight:normal">(''Andrea Zuckerman'')</span> : 演 - [[ガブリエル・カーテリス]]、日本語吹替 - [[水谷優子]]→[[土井美加]](再会白書) : 登場:シーズン1 - 5 : ブランドンとは高校の新聞部の同僚。ブランドンに長らく憧れの気持ちを抱く。ブランドンも彼女といいムードになることもあったが、結局関係を持つことはなかった。[[ユダヤ]]系で、貧しい地区から密かに[[越境入学]]しており、[[ビバリーヒルズ]]では異質な存在。成績優秀な努力家。大学在学中にジェシーの子供を[[妊娠]]し、[[結婚]]する。シーズン5を最後に引越しをしてビバリーヒルズを離れるがその後も何回か登場、ジェシーとの関係が悪化し離婚を考えているとブランドン達に話した。 : 演じるガブリエルの番組開始当時の実年齢は29歳で、同い歳の高校生を演じる共演者の中では最年長である。また本人も双子であることから当初はブレンダ役を希望してオーディションを受けていた。 ; {{Anchors|ドナ・マーティン}}ドナ・マーティン <span style="font-weight:normal">(''Donna Martin'')</span> : 演 - [[トリ・スペリング]]、日本語吹替 - [[安達忍]] : 登場:全シーズン / [[新ビバリーヒルズ青春白書#ドナ・マーティン|新ビバリーヒルズ青春白書]] : 初期は母親役が別人だったり言動がややハスっぽかったが、設定が固まってからは思いやりのあるピュアな少女になった。[[医師]]([[:en:Michael Durrell|Michael Durrell]])の娘だが[[学習障害]]児だった。厳格な[[カトリック教会|カトリック]]の家庭の出で、結婚まで[[処女]]を守り通すことを固く心に誓っている。母親のフェリースは、デビッドと交際することに反対しており、何度も対立する場面がある。レイと交際するも破局。大学卒業をきっかけに、大きな決意を固めデビッドと一夜を共にする。その後、ノアと付き合う。高校時代から[[ファッション]]の面で才覚があり、シリーズ終盤では自らのブランドを興すまでになる。[[最終回]]では、デビッドと[[結婚]]する。演じるトリ・スペリングはこのドラマの制作会社の社長アーロン・スペリングの娘である。そのためか、ドラマ当初は脇役として設定されたドナ役は、シリーズを追うごとに、[[主演|主役]]級の扱いになっていった。 ; デビッド・シルバー <span style="font-weight:normal">(''David Silver'')</span> : 演 - [[ブライアン・オースティン・グリーン]]、日本語吹替 - [[佐々木望]] : 登場:全シーズン : ブランドンらとは1学年下の弟分的存在。[[親友]]スコットの死を乗り越え、[[飛び級]]してブランドンらと一緒に[[卒業]]する。[[放送部]]在籍で[[ディスクジョッキー|DJ]]志望。[[歯科医師]]である父メルがケリーの母と[[再婚]]したため、あこがれだったケリーと義理の姉弟になる。アンドレア同様に[[ユダヤ]]系。吹き替え版では台詞が[[敬語]]になり、ケリーを「姉上」と呼ぶ。また[[感嘆詞]]まで「ワ〜オです」になる。「ドナちゃんワァオです」は番組を代表する名台詞として特に有名。初期こそ三枚目で陽気な脇役の彼だったが薬物トラブルやキレやすい性格など様々なトラブルを乗り越え、後半は非常にクールで性格の尖った[[二枚目]]に変貌する。ディランに対して「友達にくたばれと言っても良い時は?」等の暴言も驚かされる。高校時代ドナと初めて付き合い、大学時代、クレアと付き合う。その後バレリーとも付き合う。シリーズ最終回は彼とドナの結婚で幕を閉じた。 ; ナタニエル・ブシッチオ <span style="font-weight:normal">(''Nat Bussichio'')</span> : 演 - [[ジョー・E・タタ]]、日本語吹替 - [[広瀬正志]](高校白書)、[[星野充昭]](青春白書) : 登場:全シーズン : 登場人物たちの溜まり場である[[ダイナー]]「ピーチピット」の店長。通称「ナットさん」。[[イタリア]]系。もともと[[医師]]志望だが、[[軍隊]]の[[コック (職業)|料理人]]や[[俳優|役者]]という経歴持つ。ブランドンたちに対する良き理解者であり、父親的存在とも言える人生の先輩。このドラマ共通の現象として、店の設定がコロコロ変わる。シーズン6には昔、役者時代に付き合っていた恋人と再会し、結婚をして、子供までもうける。 ; ジム・ウォルシュ : 演 - [[ジェームズ・エックハウス]]、日本語吹替 - [[朝戸鉄也]] : 登場:シーズン1 - 5 : ブレンダとブランドンの父親、会計士をやっておりディランの財産管理を任されている。基本的に彼の進言はすべて正論であるゆえ頑固だが、信念をもった口論で怒鳴り出す性格は子供たちに強く遺伝している。頭髪の薄さから老けて見られがちだが、番組開始当時のジェームスの実年齢は35歳である。シーズン5を最後にシンディーとともに香港へ旅立つ。その後もVTR出演などを含め、何回か登場する。 ; シンディー・ウォルシュ : 演 - [[キャロル・ポッター]]、日本語吹替 - [[一城みゆ希]] : 登場:シーズン1 - 5 : ブレンダとブランドンの母親。模範的な中流の母親でありウォルシュ家の良心そのもの、ブランドンの学友からも慕われていた。ジムと同じくシーズン5を最後に香港へ旅立つが、その後何回かゲストとして登場している。 === 青春白書から出演 === ; バレリー・マローン <span style="font-weight:normal">(''Valerie Malone'')</span> : 演 - [[ティファニー・ティーセン|ティファニー=アンバー・ティッセン]]、日本語吹替 - [[日野由利加]] : 登場:シーズン5 - 9 : ブランドン・ブレンダの[[幼馴染]]で、[[大学]]2年の時に[[バッファロー]]からビバリーヒルズのウォルシュ家に身を寄せることになる。ややドジな悪女という狙った[[トラブル]]メーカーで常に周囲を巻き込んで騒動を起こす。しかしその裏には彼女がバッファローで暮らしていた際のとある事件がバレリーの心に暗い影を落としているという事が関係している。ケリーとは[[天敵]]の仲であった。ディランと付き合い、その後ノアやデビッドと付き合う。準レギュラーとの浮気やブランドンとスティーブとの未遂に終わった火遊びを含めれば、なんと男性陣をほぼ誘惑成功している。そのため女性からはどんどん嫌われていき、終わった男性からも軽蔑されがち。デビッドと付き合っている間は悪だくみなどはせずおとなしい。また、深夜クラブ(アフターダーク)の経営者になるがその後、デビッドに譲る(その後、さらにノアに渡る)。シーズン9の序盤で母と和解し人生を一からやり直すためにバッファローに帰った。そして孤立していたバレリーを見送ったのは最後まで彼女を見捨てなかったデヴィッドである。 : 演じたアンバー・ティッセンはプライベートでもデビッド役のブライアン・オースティン・グリーンと[[婚約]]までしたが、破局した<ref group="注釈">ティファニー=アンバー・ティッセンは本作に出演する前、『[[:en:Saved by the Bell|Saved by the Bell]]』という[[シチュエーション・コメディ|シットコム]]にKelly Kapowski役でレギュラー出演しており、同番組にブライアン・オースティン・グリーンが'''本人'''役でゲスト出演した際、「キャア!『90210』のブライアン・オースティン・グリーンよ!」とハシャぐシーンがあった。</ref>。グラマラスな容姿で書籍で人気が高かった。 ; クレア・アーノルド <span style="font-weight:normal">(''Clare Arnold'')</span> : 演 - [[キャスリーン・ロバートソン]]、日本語吹替 - [[沢海陽子]] : 登場:シーズン4 - 7 : 大学総長の娘で、シーズン4の終盤(第102話)から登場。本来学年はデビッドと同じくひとつ下だが、[[飛び級]]してきた。最初はブランドンにしつこすぎるほど[[アプローチ]]をかけていたが、相手にされず後にデビッドやスティーブと付き合う。ビーチアパートでドナやケリーと一緒に住むことになる。大学卒業後、[[フランス]]に総長と一緒に[[移住]]、スティーブとも別れた。 ; ジェシー・バスケス : 演 - [[マーク・ダモン・エスピノーザ]]、日本語吹替 - [[宮本充]] : 登場:シーズン4 - 5 : 弁護士を目指している。アンドレアと恋に落ち学生結婚する。 ; レイ・プルート : 演 - [[ジェイミー・ウォルターズ]]、日本語吹替 - [[落合弘治]] : 登場:シーズン5 - 6 : 深夜クラブで演奏するミュージシャン。後にドナと付き合うが、幼児期に父親から受けた虐待がもとでドナに暴力をふるい裁判沙汰に。その後は問題を克服して婚約し、ミュージシャンとしても活躍している元気な姿を見せた。 ; カーリー・レイノルズ <span style="font-weight:normal">(''Carly Reynolds'')</span> : 演 - [[ヒラリー・スワンク]]、日本語吹替 - [[新山志保]] : 登場:シーズン8 : スティーブには当初、反発していた。しかし、ステーィブのザックへの優しい心などに交際するように。カーリーはシングルマザーで一人息子ザックと暮らしている。スティーブの紹介でピーチピットで働くようになる。ザックの面倒はカーリーの母が見ていたが、母は新しい彼氏ができ結婚してしまう。実父が病気になってしまい、周りに面倒をみる親戚がいないため看護をする為にザックとともにビバリーヒルズを離れ、スティーブとも別れる。 ; ノア・ハンター <span style="font-weight:normal">(''Noah Hunter'')</span> : 演 - [[ヴィンセント・ヤング (俳優)|ヴィンセント・ヤング]]、日本語吹替 - [[大黒和広]] : 登場:シーズン8 - 10 : ブランドンたちが旅行に行った[[ハワイ]]で知り合う、富豪(ハンター石油工業)の子息だがそのことを隠していた。恋人が悲劇的な死に方をしたことに[[トラウマ]]を持っている。バレリーと付き合うが、彼女に振り回されてしまい、別れる。その後、ドナと付き合うが結局破局。シーズン9でノアの父親が経営している会社が倒産し、さらにはノアの父がそれを苦にして自殺。ノアは荒れてしまい飲酒運転で事故を起こしてしまう。その後、徐々に立ち直る。深夜クラブ(アフターダーク)の経営者も務めた。 : 演じたヤングは[[wikt:プライベート|プライベート]]でもドナ役のトリ・スペリングと交際していた。 ; マット・ダーニング <span style="font-weight:normal">(''Matt Durning'')</span> : 演 - [[ダニエル・コスグローヴ]]、日本語吹替 - [[檀臣幸]] : 登場:シーズン9、10 : ドナとケリーの[[ブティック]]の上の階で[[弁護士]]事務所を開いている。ケリーと付き合いはじめるが、実は結婚をしていることが分かり妻ローレンは重い心の病気である事も判明する。その後、ケリーとマットの幸せを願うローレンの提案で離婚。紆余曲折を経て、ケリーと婚約をするが、マットの重大な秘め事が明らかになり、ケリーもディランへの想いを断ち切れなかった事から婚約破棄という結末を迎える。 ; ジーナ・キンケード <span style="font-weight:normal">(''Gina Kincaid'')</span> : 演 - [[ヴァネッサ・マーシル]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://dramanavi.net/drama/news/2021/03/2-1191.php |title=『ビバヒル』ジーナ役のヴァネッサ・マーシル、2シーズンで降板した理由を明かす |publisher=海外ドラマNAVI |date= 2021-03-05 |accessdate=2021-12-18}}</ref>、日本語吹替 - [[渡辺美佐 (声優)|渡辺美佐]] : 登場:シーズン9 - 10 : ドナの[[従姉妹]]。ドナとドナの母親フェリースを目の仇にして、何かと陥れようと画策する。ドナの彼氏であるノアにちょっかいを出したりと嫌がらせをする。[[ビバリーヒルズ]]に戻ってきたディランに惹かれ、彼と付き合うことになる。とあるきっかけからドナの父が自分の実父であることが分かり、父との仲を深めようと[[ジョギング]]などを一緒に始めるが、急な[[心臓発作]]で亡くなってしまい、ドナから責められる。[[葬儀]]の場で、お互いの本当の気持ちなどを理解し慰めあう。ドナとフェリース親子との和解後、ビバリーヒルズを去る。 : 演じたマーシルはデビッド役のブライアン・オースティン・グリーンとの間に男児(カシアス)を儲けるが結婚はせず、その後破局した。 ; ジャネット <span style="font-weight:normal">(''Janet Sosna'')</span> : 演 - [[リンゼイ・プライス]]、日本語吹替 - [[山田みほ|山田美穂]] : 登場:シーズン8 - 10 : スティーブとブランドンが創めた[[新聞社]]の[[社員]]。日系人で厳格な家庭に育つ(シーズン9)。シーズン8では両親は性に開放的なヒッピーだったはずとスティーブにつっこまれるが、あれは嘘であったと訂正された。スティーブと付き合い、結婚し子ども(マデリン)を産む。 : 演じたリンゼイはドイツ・アイルランド系アメリカ人と韓国人のハーフ。父役は[[ジェームズ・シゲタ]]が演じ、母役はレスリー・イシイ(Leslie Ishii)が演じている。 === その他 === ; スコット・スキャンロン <span style="font-weight:normal">(''Scott Scanlon'')</span> : 演 - {{仮リンク|ダグラス・エマーソン|en|Douglas Emerson}}、日本語吹替 - [[沼田祐介]] : 登場:シーズン1・2 : デビッドの親友。シーズン1では[[OP]]に登場し、番宣集合ビジュアルでもレギュラー扱いされていたが、シーズン2では準レギュラー。クールになれないスコットはブランドン達と馴染めず、徐々にデビッドからも距離を置かれ孤立する。誕生日に銃で遊んだところ暴発し死亡。デビッドに大きな罪悪感を残した。 ; ジャッキー・テイラー <span style="font-weight:normal">(''Jackie Taylor'')</span> : 演 - {{仮リンク|アン・ギレスピー|en|Ann Gillespie}}、日本語吹替 - [[叶木翔子]] : 登場:55エピソード : ケリー、アーインの母親。元モデル ; フェリース・マーティン <span style="font-weight:normal">(''Felice Martin'')</span> : 演 - {{仮リンク|キャサリン・キャノン|en|Katherine Cannon}}、日本語吹替 - [[定岡小百合]] : 登場:40エピソード : ドナの母親。厳格な[[カトリック]]でハイソサエティ。初期は設定が固まっておらず、母親役はセクシー志向の別人だった。 ; ジョン・マーティン <span style="font-weight:normal">(''Dr. John Martin'')</span> : 演 - {{仮リンク|マイケル・デュレル|en|Michael Durrell}}、日本語吹替 - 星野充昭 : 登場:32エピソード : ドナとジーナの父親。 ; メル・シルバー <span style="font-weight:normal">(''Mel Silver'')</span> : 演 - {{仮リンク|マシュー・ローレンス (1950年生)|label=マシュー・ローレンス|en|Matthew Laurance}}、日本語吹替 - [[大滝進矢]] : 登場:36エピソード : デビッドとアーインの父親。歯医者。極度の浮気性で、前妻とジャッキーを苦しめた。 ; エリカ・マッケイ <span style="font-weight:normal">(''Erica McKay'')</span> : 演 - {{仮リンク|ノーリー・ソーントン|en|Noley Thornton}}、日本語吹替 - 小金澤篤子 : 登場:シーズン4・5・8 : ディランの異母兄妹。母スザンヌのジャック・マッケイ遺産乗っ取り計画でLAに連れてこられた。母よりも兄に惹かれてしまい、スザンヌ逮捕後はディランとハワイで生活後アイリスに預けられた。3年後に再登場した際は麻薬中毒のサーファーとLAに駆け落ちし、売春ストリートチルドレンに身を落とした姿をケリーに発見される。 ; アビー・マローン <span style="font-weight:normal">(''Abby Malone'')</span> : 演 - [[ミシェル・フィリップス]]、日本語吹替 - [[紗ゆり]] : 登場:9エピソード : バレリーの母親。ある事がきっかけで母子の仲が悪くなるが、和解する。 ; エミリー・バレンタイン <span style="font-weight:normal">(''Emily Valentine'')</span> : 演 - [[クリスティーン・エリス]]、日本語吹替 - 叶木翔子 : 登場:シーズン2・4・5/12エピソード : ブランドンの恋人。シーズン2に登場した転校生。自由奔放なようで実際は多くの転校の孤独から精神的に不安定、ブランドンとの仲を縮めようとドラッグを盛ってしまった事で軽蔑されてしまった。その後は捨てられたショックでストーカー化し施設に入所するかたちで退場してしまったが、ブランドンも彼女には大きな未練を残し何度も回想する事になる。その後も転校し海洋学を志し立ち直ったエミリーはシーズン4・5にスポット的に再登場しブランドンと復縁しかけたが、ブランドンとケリーを尊重する思いから身を引いた。シーズン2ではロックファッションで自毛が目立つプリン頭だったが、シーズン4以降はフォーマルな着こなしでマロン色の整ったヘアスタイルだった。 ; ルシンダ・ニコルソン <span style="font-weight:normal">(''Lucinda Nicholson'')</span> : 演 - [[ディナ・メイヤー]]、日本語吹替 - 一城みゆ希 : 登場:シーズン4 : ブランドンの愛人。カリフォルニア大で文化人類学の講師。ランドール教授の妻。ブランドンは当初ルシンダとの不倫を拒否していたが、離婚の噂を聞きつけた当日にベッドインした。映画製作が趣味で資金援助のためならディランにも色目を使った。 ; スーザン・キーツ <span style="font-weight:normal">(''Susan Keats'')</span> : 演 - {{仮リンク|エマ・コールフィールド|en|Emma Caulfield}}、日本語吹替 - [[湯屋敦子]] : 登場:シーズン6 : ブランドンの恋人。ブランドンは彼女のために就職を棒にふったが、その後スーザンは就職を優先してしまいブランドンを激怒させ破局する。 ; トレイシー・ゲイリアン <span style="font-weight:normal">(''Tracy Gaylian'')</span> : 演 - {{仮リンク|ジル・ノービック|en|Jill Novick}}、日本語吹替 - [[田中敦子 (声優)|田中敦子]] : 登場:シーズン7 : ブランドンの恋人。牧場出身でカルフォルニア大の報道部の新人。誠実な人柄でバレリー含め友好関係も良い。良き恋人であったが煮え切らないブランドンには不安をかかえ、ケリーを忘れられない彼に捨てられる形で去った。シーズン8ではハワイで偶然ブランドン達と再会し、新しいフィアンセと出会い幸せになっていた姿を見せた。 ; ジョー・ブラッドリー <span style="font-weight:normal">(''Joe Bradley'')</span> : 演 - {{仮リンク|キャメロン・バンクロフト|en|Cameron Bancroft (actor)}}、日本語吹替 - 檀臣幸 : 登場:シーズン6 : ドナの恋人。アメフトのスター選手。[[DV]]に目覚めたレイと入れ替わるようにドナと付き合うようになるが、彼女を守るために負わせたケガでレイと裁判で争うことになる。絵に描いたような美形の優等生であったが、黒人社会を怖れるステレオタイプな面もあった。心臓病のためドナへ一緒に田舎に来てもらえないかプロポーズするが玉砕する。 == エピソードリスト == === シーズン1(高校白書) === {| class="wikitable" style="font-size: 100%;" |- !各話!!邦題!!原題!!放送日 {{Flagicon|USA}}!!放送日 {{Flagicon|JPN}}!!備考 |- |1||双子の兄妹は転校生||BEVERLY HILLS, 90210 Part1||rowspan="2"|'''1990年'''<br />10月4日||'''1995年'''<br />4月9日||[[パイロット版]] |- |2||ホロ苦い恋の味||BEVERLY HILLS, 90210 Part2||4月16日|| |- |3||サーファーの青春||The Green Room||10月11日||4月23日|| |- |4||"盗み"の衝動||Every Dream Has It's Price Tag||10月18日||4月30日|| |- |5||初体験||The First Time||10月25日||5月7日|| |- |6||スポーツ特待生疑惑||One on One||11月1日||5月14日|| |- |7||評価点"C"への反撃||Higher Education||11月15日||5月21日|| |- |8||完璧な母親像とは||The Perfect Mom||11月22日||5月28日|| |- |9||17年目の浮気||The Seventeen Year Itch||11月29日||6月4日|| |- |10||ラップライン=命の電話||The Gentle Art of Listening||12月6日||6月11日|| |- |11||恋の始まり||Isn't It Romantic||'''1991年'''<br />1月3日||6月18日|| |- |12||親の居ぬ間のパーティー||B.Y.O.B.||1月10日||6月25日|| |- |13||未婚の母は高校生||One Man and a Baby||1月24日||7月2日|| |- |14||女の友情・告白ゲーム||Slumber Party||1月31日||7月9日|| |- |15||イーストサイド物語||Eastside Story||2月14日||7月16日||[[デボラ・ギブソン]] がゲスト出演。 |- |16||初体験旅行||Palm Springs Weekend||2月21日||7月23日|| |- |17||明日のスターを夢見て||Fame Is Where You Find It||2月28日||7月30日|| |- |18||生徒会長選挙大作戦||Stand Up And Deliver||3月7日||8月6日|| |- |19||乳ガン・チェックの波紋||It's Only a Test||3月28日||8月13日|| |- |20||殺意の季節||April Is The Cruelest Month||4月11日||8月20日||[[マシュー・ペリー (俳優)|マシュー・ペリー]] がゲスト出演。 |- |21||がんばれチビッコ大特訓!||Spring Training||4月25日||8月27日|| |- |22||春の夜の出来事||Spring Dance||5月2日||9月3日|| |- |23||さらばビバリーヒルズ?!||Home Again||5月9日||9月10日|| |} === シーズン2(高校白書) === {| class="wikitable" style="font-size: 100%;" |- !各話!!邦題!!原題!!放送日 {{Flagicon|USA}}!!放送日 {{Flagicon|JPN}}!!備考 |- |24||新たなる始まり||Beach Blanket Brandon||'''1991年'''<br />7月11日||'''1995年'''<br />9月17日|| |- |25||年上の女||The Party Fish||7月18日||9月24日|| |-|| |26||夏のあらし||Summer Storm||7月25日||10月1日|| |- |27||真夜中のポーカー・ゲーム||Anaconda||8月1日||10月8日|| |- |28||親と子と、そして愛||Play it Again, David||8月8日||10月15日|| |- |29||やがて夏の終わる時||Pass, Not Pass||8月15日||10月22日||[[ルーシー・リュー]]がゲスト出演。 |- |30||バケーション旅行||Camping Trip||8月29日||10月29日|| |- |31||新学期スタート!||Wild Fire||9月12日||11月5日|| |- |32||アラーム騒動||Ashes to Ashes||9月19日||11月12日||[[ヴィヴィカ・A・フォックス]]がゲスト出演。 |- |33||親子の絆||Necessity is a Mother||9月26日||11月19日|| |- |34||ミネソタから来た従兄||Leading from the Heart||10月10日||11月26日|| |- |35||大ピンチ!越境通学||Down and Out (of District) in Beverly Hills||10月17日||12月3日|| |- |36||ハロウィーン・パーティ||Halloween||10月31日||12月10日|| |- |37||タイムカプセルに思いをこめて||The Next 50 Years||11月7日||12月17日|| |- |38||危険な遊び||U4EA||11月14日||12月24日|| |- |39||マイ・デンジャラス・バレンタイン||My Desperate Valentine||11月21日||'''1996年'''<br />1月7日|| |- |40||家族ゲーム||Chuckie’s Back||12月12日||1月14日|| |- |41||ハッピー・クリスマス!||Walsh Family Christmas||12月19日||1月21日|| |- |42||氷の上の青春||Fire and Ice||'''1992年'''<br />1月9日||1月28日|| |- |43||もつれた友情||A Competitive Edge||1月23日||2月4日|| |- |44||性教育論争||Everybody’s Talkin’ ‘Bout It||2月6日||2月11日|| |- |45||オメデタ騒動||And Baby Makes Five||2月13日||2月18日|| |- |46||心乱れて カラオケ ナイト||Cardio - Funk||2月27日||2月25日|| |- |47||本日で閉店?!||The Pit and the Pendulum||3月19日||3月3日|| |- |48||フリーズ!恐怖の体験||Meeting Mr. Pony||4月2日||3月10日|| |- |49||雨の日の出来事||Things to Do on a Rainy Day||4月23日||3月17日|| |- |50||週末はメキシコで||Mexican Standoff||4月30日||3月24日|| |- |51||信頼のゆくえ||Wedding Bell Blues||5月7日||3月31日||[[デニス・リチャーズ]]がゲスト出演。 |} === シーズン3(高校白書) === {| class="wikitable" style="font-size: 100%;" |- !各話!!邦題!!原題!!放送日 {{Flagicon|USA}}!!放送日 {{Flagicon|JPN}}!!備考 |- |52||夏休みスタート!||Misery Loves Company||'''1992年'''<br />7月15日||'''1996年'''<br />4月6日|| |- |53||和解への道は?||The Twins, the Trustee, and the Very Big Trip||7月22日||4月13日|| |- |54||パリで2人は||Too Little, Too Late/Paris 75001||7月29日||4月20日|| |- |55||セックスと嘘とバレーボール||Sex, Lies and Volleyball/Photo Fini||8月5日||4月27日|| |- |56||恋の流れ星||Shooting Star/American in Paris||8月12日||5月3日|| |- |57||去りゆく夏と共に||Castles in the Sand||8月19日||5月11日|| |- |58||編集長の資格||Song of Myself||9月9日||5月18日|| |- |59||引き裂かれた友情||The Back Story||9月16日||5月25日|| |- |60||進学志望大学はどこ?||Highwire||9月23日||6月1日|| |- |61||アメ・フト殺人事件||Home and Away||10月7日||6月8日|| |- |62||誘惑の裏側||A Presumption of Innocence||10月21日||6月15日|| |- |63||別れの時||Destiny Rides Again||11月4日||6月22日||[[ロージー・オドネル]]がゲスト出演。 |- |64||ハッカー事件発覚||Rebel with a Cause||11月11日||6月29日|| |- |65||和解と破局||Wild Horses||11月18日||7月13日||[[デヴィッド・アークエット]]がゲスト出演。 |-。 |66||再起への道||The Kindness of Strangers||11月25日||7月20日|| |- |67||クリスマスの奇跡||It's a Totally Happening Life||12月16日|||| |- |68||"星"の男を捜せ||The Game Is Chicken||'''1993年'''<br />1月6日||8月24日||[[セス・グリーン]]がゲスト出演。 |- |69||空想と現実の間で||Midlife... Now What||1月13日||8月31日|| |- |70||もつれかけた糸||Back in the High Life Again||1月27日||9月7日|| |- |71||信託財産のゆくえ||Parental Guidance Recommended||2月3日||9月14日|| |- |72||予期せぬ出来事!||Dead End||2月10日||9月21日|| |- |73||父の秘密||The Child Is Father to the Man||2月17日||9月28日|| |- |74||悩める季節||Duke's Bad Boy||3月3日||10月5日|| |- |75||サプライズ・パーティ||Perfectly Perfect||3月24日||10月12日|| |- |76||ミスター&ミス・コンテスト||Senior Poll||4月7日||10月19日|| |- |77||学校をサボる日||She Came in Through the Bathroom Window||4月28日||10月26日||[[バート・レイノルズ]]が本人役で出演。<br />[[ジェイソン・プリーストリー]]が監督。 |- |78||お別れダンス・パーティ||A Night to Remember||5月5日||11月2日||[[キャシー・デニス]]が本人役で出演。 |- |79||停学処分の波紋||Something in the Air||5月12日||11月9日|| |- |80||いよいよ卒業式!パート・1||Commencement: Part 1||rowspan="2"|5月19日||11月16日|| |- |81||いよいよ卒業式!パート・2||Commencement: Part 2||11月23日|| |} === シーズン4(青春白書) === {| class="wikitable" style="font-size: 100%;" |- !各話!!邦題!!原題!!放送日{{Flagicon|USA}}!!放送日 {{Flagicon|JPN}}!!備考 |- |1||青春の旅立ち||So Long, Farewell, Auf Wiedersehen, Goodbye||'''1993年'''<br />9月8日||'''1996年'''<br />11月30日|| |- |2||揺れうごく愛||The Girl from New York City||9月15日||12月7日|| |- |3||新入生の試練||The Little Fish||9月22日||12月14日|| |- |4||わが道をいく||Greek to Me||9月29日||12月21日|| |- |5||プール・パーティー||Radio Daze||10月6日||'''1997年'''<br />1月11日|| |- |6||それぞれの思い||Strangers in the Night||10月13日||1月18日|| |- |7||銃に魅せられて||Moving Targets||10月20日||1月25日|| |- |8||結婚記念20周年||Twenty Years Ago Today||10月27日||2月1日||ジェシー初登場。 |- |9||恋は危険||Otherwise Engaged||11月3日||2月8日|| |- |10||結婚はラスベガスで||And Did It... My Way||11月10日||2月15日||[[ジェイソン・プリーストリー]]が監督。 |- |11||もつれた関係||Take Back the Night||11月17日||2月22日|| |- |12||2つの再会||Radar Love||11月24日||3月1日|| |- |13||地獄の試練||Emily||12月1日||3月8日|| |- |14||3年目の記念日||Windstruck||12月15日||3月15日|| |- |15||クリスマス騒動||Somewhere in the World it's Christmas||12月22日||3月22日|| |- |16||名誉の回復||Crunch Time||'''1994年'''<br />1月5日||4月6日|| |- |17||思い乱れて||Thicker Than Water||1月12日||4月13日|| |- |18||大ピンチ!ピーチ・ピット||Heartbreaker||1月26日||4月20日|| |- |19||決意の時||The Labors of Love||2月2日||4月27日|| |- |20||バレンタインの贈り物||Scared Very Straight||2月9日||5月4日|| |- |21||恋はもつれて||Addicted to Love||2月16日||5月11日|| |- |22||拾った犬||Change Partners||2月23日||5月18日||クレア初登場。 |- |23||動物実験とその死||A Pig is a Boy is a Dog||3月2日||5月25日|| |- |24||そして・・・和解||Cuffs and Links||3月16日||6月1日|| |- |25||タイムスリップ1960||The Time has Come Today||3月23日||6月8日||[[ジェイソン・プリーストリー]]が監督。 |- |26||ピアノとモデル||Blind Spot||4月6日||6月15日|| |- |27||"熱い"オーディション!||Divas||4月20日||6月22日|| |- |28||女心の揺れる時||Acting Out||4月27日||7月6日|| |- |29||つのる苦悩||Truth and Consequences||5月4日||7月13日|| |- |30||早産の危機||Vital Signs||5月11日||7月20日|| |- |31||めくるめく人間模様 パート・1||Mr. Walsh Goes to Washington (1)||rowspan="2"|5月25日||8月3日||rowspan="2"|ブレンダがビバヒルを去る(シャナン・ドハーティ降板)。<br />[[ベイビーフェイス (ミュージシャン)|ベイビーフェイス]]が本人役でゲスト出演。 |- |32||めくるめく人間模様 パート・2||Mr. Walsh Goes to Washington (2)||8月10日 |} === シーズン5(青春白書) === {| class="wikitable" style="font-size: 100%;" |- !各話!!邦題!!原題!!放送日{{Flagicon|USA}}!!放送日 {{Flagicon|JPN}}!!備考 |- |33||新しい住人||What I Did on My Summer Vacation and Other Stories||'''1994年'''<br />9月7日||'''1997年'''<br />8月24日||バレリー初登場。 |- |34||社交界デビュー||Under the Influence||9月14日||8月31日|| |- |35||激烈!選挙戦の結果は?||A Clean Slate||9月21日||9月7日|| |- |36||友人の死の重み||Life after Death||9月28日||9月14日|| |- |37||ピーチピット変身の夜||Rave On||10月5日||9月21日||レイ初登場。 |- |38||強奪と拷問||Homecoming||10月12日||9月28日|| |- |39||破産発覚!||Who's Zoomin' Who||10月19日||10月5日|| |- |40||追いつめられて||Things that Go Bang in the Night||10月26日||10月12日||[[ジェイソン・プリーストリー]]が監督。 |- |41||転落への道||Intervention||11月2日||10月19日|| |- |42||果てしない夢の中で||The Dreams of Dylan McKay||11月9日||10月26日|| |- |43||パニック・イン・キャンパス||Hate is Just a Four Letter Word||11月16日||11月2日|| |- |44||レッツ・ゴー・"ストーンズ"||Rock of Ages (a.k.a. The Voodoo That You Do So Well)||11月23日||11月9日||[[ローリング・ストーンズ]]が登場(ライブ映像)。 |- |45||ある夜の危険な出来事||Up in Flames||11月30日||11月16日|| |- |46||大火事の波紋||Injustice for All||12月14日||11月23日|| |- |47||それぞれのクリスマス||Christmas Comes This Time Each Year||12月21日||11月30日|| |- |48||生きる・老人ホームの出会い||Sentenced to Life||'''1995年'''<br />1月4日||12月7日|| |- |49||イージーライダー||Sweating it Out||1月11日||12月14日||[[ジェイソン・プリーストリー]]が監督。 |- |50||追いつめて||Hazardous to Your Health||1月18日||12月21日|| |- |51||甘い誘惑||Little Monsters||2月1日||12月28日|| |- |52||別れの決意||You Gotta Have Heart||2月8日||'''1998年'''<br />1月11日|| |- |53||救出なるか?!||Stormy Weather||2月15日||1月18日|| |- |54||さびしい心||Alone at the Top||2月22日||1月25日|| |- |55||ある愛の終わり||Love Hurts||3月1日||2月1日|| |- |56||あやしい雲行き||Unreal World||3月15日||2月8日|| |- |57||クイズに挑戦!||Double Jeopardy||3月29日||2月22日|| |- |58||母はいずこに…||A Song for My Mother||4月5日||3月1日|| |- |59||2人の天才少年||Squash It||4月12日||3月8日|| |- |60||立ち直る||Girls on the Side||5月3日||3月15日|| |- |61||愛の確認||The Real McCoy||5月10日||3月22日||[[ジェイソン・プリーストリー]]が監督。 |- |62||プロポーズ!||Hello Life, Goodbye Beverly Hills||5月17日||3月29日||アンドレアとジェシーがビバヒルを去る(ガブリエル・カーテリス、マーク・ダモン・エスピノーザ降板)。 |- |63||P.S."愛してます"パート・1||P.S. I Love You (1)||rowspan="2"|5月24日||4月5日||rowspan="2"|ジムとシンディがビバヒルを去る(ジェームス・エクハウス、キャロル・ポッター降板)。 |- |64||P.S."愛してます"パート・2||P.S. I Love You (2)||4月11日 |} === シーズン6(青春白書) === {| class="wikitable" style="font-size: 100%;" |- !各話!!邦題!!原題!!放送日{{Flagicon|USA}}!!放送日 {{Flagicon|JPN}}!!備考 |- |65||とんだ再出発||Home Is Where the Tart Is||'''1995年'''<br />9月13日||'''1998年'''<br />4月18日|| |- |66||21歳のバースデー||Buffalo Gals||9月13日||4月25日|| |- |67||新たなる人間模様||Must Be a Guy Thing||9月20日||5月2日||[[ジェイソン・プリーストリー]]が監督。 |- |68||ローズ・クイーンの夜||Everything's Coming Up Roses||9月27日||5月9日|| |- |69||悪夢とのたたかい||Lover's Leap||10月4日||5月16日|| |- |70||ケンカ・脅迫 そして別れ||Speechless||10月18日||5月23日|| |- |71||受難の女性たち||Violated||10月25日||5月30日|| |- |72||愛を呼ぶ薬||Gypsies, Cramps and Fleas (a.k.a. Halloween VI)||11月1日||6月6日|| |- |73||大地震の襲った日||Earthquake Weather||11月6日||6月13日|| |- |74||結ばれた愛の果てに||One Wedding and a Funeral||11月8日||6月20日||ディランがビバヒルを去る。(ルーク・ペリー降板、後にシーズン9で復帰)。 |- |75||アメフト対抗戦騒動||Offensive Interference||11月15日||6月27日|| |- |76||カップルたちの夜||Breast Side Up||11月22日||7月11日|| |- |77||裁きの時||Courting||11月29日||7月18日||レイがビバヒルを去る(ジェイミー・ウォルターズ降板)。 |- |78||チャリティの波紋||Fortunate Son||12月13日||7月25日|| |- |79||和解はクリスマスで||Angels We Have Heard on High||12月20日||8月1日||シンディー・ウォルシュ(キャロル・ポッター)がゲスト出演。[[ジェイソン・プリーストリー]]が監督。 |- |80||新しい年の物語||Turn Back the Clock|||'''1996年'''<br />1月3日||8月8日|| |- |81||父親の愛||Fade In, Fade Out||1月10日||8月15日||[[ジェイソン・プリーストリー]]が監督。 |- |82||カップルたちの行方||Snowbound||1月17日||8月22日|| |- |83||ナンシーの選択||Nancy's Choice||1月31日||8月29日|| |- |84||親友の脅迫||Flying||2月7日||9月5日|| |- |85||ひとつの別れ||Bleeding Hearts||2月14日||9月12日||[[ジェイソン・プリーストリー]]が監督。 |- |86||2人のメアリー||All This and Mary Too||2月21日||9月19日|| |- |87||カーチェイス!||Leap of Faith||2月28日||9月26日|| |- |88||夢のトリプル・デート||Coming Out, Getting Out, Going Out||3月13日||10月3日|| |- |89||ああ 弟たちよ||Smashed||3月20日||10月10日|| |- |90||2つの策略||Flirting with Disaster||4月3日||10月17日|| |- |91||ルームメイトの正体||Strike the Match||4月10日||10月24日|| |- |92||プリンス登場||The Big Hurt||5月1日||10月31日|| |- |93||逃亡||Ticket to Ride||5月8日||11月7日|| |- |94||再会と別れ||Ray of Hope||5月15日||11月14日|| |- |95||パニック・イン・21バーズデーパート・1||You Say It's Your Birthday: Part 1||rowspan="2"|5月22日||11月21日|| |- |96||パニック・イン・21バーズデーパート・2||You Say It's Your Birthday: Part 2||11月28日|| |} === シーズン7(青春白書) === {| class="wikitable" style="font-size: 100%;" |- !各話!!邦題!!原題!!放送日{{Flagicon|USA}}!!放送日 {{Flagicon|JPN}}!!備考 |- |97||すれちがいの再会||Remember the Alamo||'''1996年'''<br />8月21日||'''1998年'''<br />12月5日|| |- |98||疑い・決裂、そして…||Here We Go Again||8月28日||12月12日|| |- |99||オールド・ウエディング||A Mate for Life||9月4日||12月19日|| |- |100||不安と恐怖の間で||Disappearing Act||9月11日||12月26日|| |- |101||バッド・ジョーク大騒動||Pledging My Love||9月18日||'''1999年'''<br />1月9日|| |- |102||山火事騒動の中で||Housewarming||9月25日||1月16日|| |- |103||ある終止符||Fearless||10月30日||1月23日|| |- |104||祖父の遺言状||The Things We Do for Love||11月6日||1月30日|| |- |105||金は災いのもと?||Loser Takes All||11月13日||2月6日|| |- |106||ベガスの熱い夜||Lost in Las Vegas||11月20日||2月13日|| |- |107||盗作事件発覚!||If I Had a Hammer||11月27日||2月20日||[[ジェイソン・プリーストリー]]が監督。 |- |108||無実への戦い||Judgement Day||12月11日||2月27日|| |- |109||プレゼント・ゲーム||Gift Wrapped||12月18日||3月6日|| |- |110||いよいよ就職最前線||Jobbed||'''1997年'''<br />1月8日||3月13日||[[ジェイソン・プリーストリー]]が監督。 |- |111||カリフォルニア大の幻||Phantom of C.U.||1月15日||3月20日|| |- |112||姿なきファンの恐怖||Unnecessary Roughness||1月22日||3月27日|| |- |113||愛のゆくえ||Face-Off||1月29日||4月3日|| |- |114||ストーカー正体現す!||We Interrupt This Program||2月5日||4月10日|| |- |115||バレンタインでーの憂鬱||My Funny Valentine||2月12日||4月17日|| |- |116||婚約指輪の波紋||With This Ring||2月19日||4月24日||[[ジェイソン・プリーストリー]]が監督。 |- |117||死にたくない!||Straight Shooter||2月26日||5月1日|| |- |118||愛が与えた勇気||A Ripe Young Age||3月5日||5月8日|| |- |119||愛の戻る場所||Storm Warning||3月19日||5月15日|| |- |120||恋人たちの未練||Spring Breakdown||4月2日||5月22日|| |- |121||週末のトラブル続出||Heaven Sent||4月9日||5月29日|| |- |122||愛ふたたび||The Long Goodbye||4月16日||6月5日|| |- |123||モートンの杖||I Only Have Eyes for You||4月23日||6月12日|| |- |124||いがみ合い||All That Jazz||4月30日||6月19日|| |- |125||悲しい"母の日"||Mother's Day||5月7日||6月26日|| |- |126||不協和音||Senior Week||5月14日||7月3日|| |- |127||卒業パート・1||Graduation Day: Part 1||rowspan="2"|5月21日||7月10日||[[ジェイソン・プリーストリー]]が監督。 |- |128||卒業パート・2||Graduation Day: Part 2||7月17日||クレアがビバヒルを去る(キャサリン・ロバートソン降板)。<br />[[カーディガンズ]]がゲスト出演し、「[[ラヴフール]]」を披露。<br />[[ジェイソン・プリーストリー]]が監督。 |} === シーズン8(青春白書) === {| class="wikitable" style="font-size: 100%;" |- !各話!!邦題!!原題!!放送日 {{Flagicon|USA}}!!放送日 {{Flagicon|JPN}}!!備考 |- |129||大学は出たけれど||Aloha Beverly Hills: Part 1||rowspan="2"|'''1997年'''<br />9月10日||'''1999年'''<br />7月24日||カーリー初登場。 |- |130||バカンス・イン・ハワイ||Aloha Beverly Hills: Part 2||7月31日||ノア初登場。 |- |131||銃撃のあと||Forgive and Forget||9月17日||8月7日||[[マルーン5]]がクラブ「After Dark」で歌うバンドでゲスト出演。 |- |132||記憶喪失||The Way We Weren't||9月24日||8月14日|| |- |133||過去を探し求めて||Coming Home||10月1日||8月21日|| |- |134||正義の報道||The Right Thing||10月15日||8月28日|| |- |135||野放しの銃撃犯||Pride and Prejudice||10月22日||9月4日|| |- |136||カップル達の戸惑い||Toil and Trouble||10月29日||9月11日|| |- |137||危険な再会||Friends, Lovers and Children||11月5日||9月18日|| |- |138||DNA鑑定||Child of the Night||11月12日||9月25日|| |- |139||亀裂||Deadline||11月19日||10月2日|| |- |140||陽動作戦||Friends in Deed||12月3日||10月9日|| |- |141||コメディー・ナイト||Comic Relief||12月10日||10月16日|| |- |142||サンタはいない?||Santa Knows||12月17日||10月23日|| |- |143||結ばれたカップルたち||Ready or Not||'''1998年'''<br />1月7日||10月30日||ジャネット初登場。[[ブライアン・マックナイト]]がゲスト出演。 |- |144||発覚!||Illegal Tender||1月14日||11月6日|| |- |145||浮気の代償||The Elephant's Father||1月21日||11月13日||カーリーがビバヒルを去る(ヒラリー・スワンク降板)。 |- |146||結婚への恐怖||Rebound||1月28日||11月20日||OPのキャスト紹介後のクレジットで[[イン・シンク]]の「[[:en:I Want You Back ('N Sync song)|I Want You Back]]」が使用されている。 |- |147||祖母の死||Crimes and Misdemeanors||2月4日||11月27日|| |- |148||めくるめく愛情||Cupid's Arrow||2月11日||12月4日|| |- |149||告発の波紋||The Girl Who Cried Wolf||2月25日||12月11日|| |- |150||裁判のゆくえ||Law and Disorder||3月4日||12月18日|| |- |151||再出発のとき||Making Amends||3月11日||12月25日||[[ジェシカ・アルバ]]がゲスト出演。 |- |152||里親はだれに||The Nature of Nurture||3月18日||'''2000年'''<br />1月8日||[[ジェシカ・アルバ]]がゲスト出演。 |- |153||元のさやに||Aunt Bea's Pickles||3月25日||1月15日|| |- |154||プレゼントの価値||All That Glitters||4月1日||1月22日|| |- |155||同窓会||Reunion||4月15日||1月29日|| |- |156||バチェラー・パーティー||Skin Deep||4月29日||2月5日|| |- |157||銃弾の恐怖||Ricochet||5月6日||2月12日|| |- |158||妻はいずこに||The Fundamental Things Apply||5月13日||2月19日|| |- |159||ウエディング パート・1||The Wedding: Part 1||rowspan="2"|5月20日||2月26日|| |- |160||ウエディング パート・2||The Wedding: Part 2||3月4日|| |} === シーズン9(青春白書) === {| class="wikitable" style="font-size: 100%;" |- !各話!!邦題!!原題!!放送日 {{Flagicon|USA}}!!放送日 {{Flagicon|JPN}}!!備考 |- |161||再出発への道のり||The Morning After||'''1998年'''<br />9月16日||'''2000年'''<br />3月11日|| |- |162||揺れうごく心||Budget Cuts||9月23日||3月18日|| |- |163||危険なゲーム||Dealer's Choice||9月30日||3月25日|| |- |164||届かぬ思い||Don't Ask, Don't Tell||10月28日||4月1日||マット初登場。 |- |165||さらばL.A.よ!||Brandon Leaves||11月4日||4月8日||ブランドンがビバヒルを去る(ジェイソン・プリーストリー降板)、以後ケリーに主役完全交代。 |- |166||逃げたいの!||Confession||11月11日||4月15日|| |- |167||去る人、来る人||You Say GoodBye, I Say Hello||11月18日||4月22日||ジーナ初登場。<br>ディランがカムバック。<br>バレリーがビバヒルを去る(ティファニー=アンバー・ティッセン降板)。 |- |168||カミングアウト||I'm Back Because||12月2日||4月29日|| |- |169||悪夢の精算||The Following Options||12月9日||5月6日|| |- |170||ダンス・マラソン||Marathon Man||12月16日||5月13日||[[ブライアン・セッツァー・オーケストラ]]がクラブ「After Dark」で歌うバンドでゲスト出演。 |- |171||くどきのテクニック||How to Be the Jerk Women Love||'''1999年'''<br />1月13日||5月20日|| |- |172||トラブル続出の日々||Trials and Tribulations||1月20日||5月27日|| |- |173||それぞれの友情||Withdrawal||1月27日||6月3日|| |- |174||ポーカーの報復作戦||I'm Married||2月3日||6月10日|| |- |175||男と女の関係||Beheading St. Valentine||2月10日||6月24日|| |- |176||相談相手||Survival Skills||2月17日||7月1日|| |- |177||メキシコでの一夜||Slipping Away||3月3日||7月15日|| |- |178||家族の争い||Bobbi Dearest||3月10日||7月22日|| |- |179||さまざまな選択||The Leprechaun||3月17日||7月29日|| |- |180||霊媒師の予言||Fortune Cookie||4月7日||8月5日||[[ルーク・ペリー]]が監督。 |- |181||マジック・ナイト||I Wanna Reach Right Out and Grab Ya||4月14日||8月19日||[[ジェニー・ガース]]が監督。 |- |182||ヒーローになれない||Local Hero||4月21日||8月26日|| |- |183||盗撮の波紋||The End of the World as We Know It||4月28日||9月2日|| |- |184||混迷の序章||Dog's Best Friend||5月5日||9月9日||OPのキャスト紹介後のクレジットで[[ブリトニー・スピアーズ]]の「[[ベイビー・ワン・モア・タイム (曲)|ベイビー・ワン・モア・タイム]]」が使用されている。 |- |185||脅える日々||Agony||5月12日||9月16日|| |- |186||悩み多き人々||That's the Guy||5月19日||9月30日|| |} === シーズン10(青春白書) === {| class="wikitable" style="font-size: 100%;" |- !各話!!邦題!!原題!!放送日 {{Flagicon|USA}}!!放送日 {{Flagicon|JPN}}!!備考 |- |187||転機||The Phantom Menace||'''1999年'''<br />9月8日||'''2000年'''<br />10月7日|| |- |188||再出発||Let's Eat Cake||9月15日||10月14日||[[クリスティーナ・アギレラ]]がクラブ「After Dark」で歌う歌手としてゲスト出演。 |- |189||再オープン大騒動||You Better Work||9月22日||10月21日|| |- |190||結婚拒否||A Fine Mess||9月29日||10月28日|| |- |191||反発||The Loo-Ouch||10月20日||11月4日|| |- |192||悪夢||80's Night||10月27日||11月11日|| |- |193||名付け親||Laying Pipe||11月3日||11月18日||[[ルーク・ペリー]]が監督。 |- |194||結婚||Baby, You Can Drive My Car||11月10日||11月25日|| |- |195||動揺||Family Tree||11月17日||12月2日|| |- |196||出産||What's in a Name||11月17日||12月9日|| |- |197||真実||Sibling Revelry||12月15日||12月16日|| |- |198||反省||Nine Yolks Whipped Lightly||12月22日||12月30日|| |- |199||窮地||Tainted Love||'''2000年'''<br />1月12日||'''2001年'''<br />1月13日|| |- |200||岐路||I'm Using You 'Cause I Like You||1月19日||1月20日||[[アイアン・ジーリング]]が監督。 |- |201||責任||Fertile Ground||1月26日||1月27日|| |- |202||身代金||The Final Proof||2月9日||2月3日||[[ブライアン・オースティン・グリーン]]が監督。 |- |203||決別||Doc Martin||2月16日||2月10日||ジーナがビバヒルを去る(ヴァネッサ・マーシル降板)。 |- |204||偽装||Eddie Waitkus||3月1日||2月17日|| |- |205||衝撃||I Will Be Your Father Figure||3月8日||2月24日||[[トリ・スペリング]]が監督。 |- |206||未練||Ever Heard the One About the Exploding Father?||3月15日||3月3日|| |- |207||背信||Spring Fever||3月22日||3月10日|| |- |208||過去||The Easter Bunny||4月5日||3月17日|| |- |209||秘密||And Don't Forget to Give Me Back My Black T-Shirt||4月19日||3月24日|| |- |210||困惑||Love is Blind||4月26日||3月31日||[[ジェニー・ガース]]が監督。 |- |211||苦悩||I'm Happy for You...Really||5月10日||4月7日|| |- |212||決断||The Penultimate||5月17日||4月14日|| |- |213||永遠||Ode to Joy||5月17日||4月21日||シリーズ最終回。<br />ゲストとしてブランドン、アンドレア、バレリーが再登場。<br />ブレンダは登場せず。 |} == 放送局 == * Fox Network * [[日本放送協会|NHK]] * [[LaLa TV]] * [[名古屋テレビ放送|メ〜テレ]](2008年6月25日〜) * [[スーパー!ドラマTV]](2009年7月3日〜) * [[テレビ神奈川]](2009年9月〜) * [[FOXクラシック]](2016年1月〜) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === <references/> == 関連項目 == * [[ディラン&amp;キャサリン]] * [[ドミノ (2005年の映画)]] * [[マルーン5]] - 前身のバンドになる「カーラズ・フラワーズ」時代に出演している。 == 外部リンク == * [https://paramount.jp/90210/ ビバリーヒルズ高校白書 Official Site] [[パラマウント映画#日本法人|パラマウント・ジャパン]] * {{NHK放送史|D0009043531_00000|ビバリーヒルズ高校白書}} * {{NHK放送史|D0009040965_00000|ビバリーヒルズ青春白書}} * [https://web.archive.org/web/20160403000120/http://www.linkclub.or.jp/~yukazow/90210/90210.html ビバリーヒルズ高校白書ファンサイト] {{前後番組 |放送局=[[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]] |放送枠=日曜23:45-0:30 |番組名=ビバリーヒルズ高校白書<br />(シーズン1と2) |前番組=※23:45 - 0:15<br />[[日本の話芸]] |次番組=[[芸術劇場]] [[世界名画劇場]]など }} {{前後番組 |放送局=[[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]] |放送枠=土曜0:10-0:55 |番組名=ビバリーヒルズ高校白書<br />(シーズン3)<br />↓<br />ビバリーヒルズ青春白書<br />(シーズン4) |前番組=[[ナイトセレクション]] |次番組=[[トップランナー]]<hr />ナイトセレクション |2放送局=NHK総合テレビ |2放送枠=日曜0:10-0:55 |2番組名=ビバリーヒルズ青春白書<br />(シーズン4と5) |2前番組=[[ポップジャム]]<hr />[[ソリトン]] |2次番組='''ビバリーヒルズ青春白書'''<hr />[[夢用絵の具]](再放送) |3放送局=NHK総合テレビ |3放送枠=土曜23:40-0:25 |3番組名=ビバリーヒルズ青春白書<br />(シーズン5の最終回からシーズン9まで) |3前番組=ポップジャム<hr />'''ビバリーヒルズ青春白書''' |3次番組=[[ダーマ&グレッグ]]<hr />[[爆笑オンエアバトル]] |4放送局=NHK総合テレビ |4放送枠=土曜23:10-23:55 |4番組名=ビバリーヒルズ青春白書<br />(シーズン9から最終回まで) |4前番組=ポップジャム<hr />'''ビバリーヒルズ青春白書''' |4次番組=[[ロズウェル - 星の恋人たち]] }} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ひはりいひるすこうこうはくしよ}} [[Category:高等学校を舞台としたテレビドラマ]] [[Category:アメリカ合衆国のテレビドラマ]] [[Category:カリフォルニア州を舞台としたテレビ番組]] [[Category:ビバリーヒルズを舞台とした作品|こうこうはくしよ]] [[Category:1990年のテレビドラマ]] [[Category:双子を題材としたテレビドラマ]] [[Category:友達を題材とした作品]] [[Category:恋愛ドラマ]] [[Category:FOX]]
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クイズ番組
クイズ番組(クイズばんぐみ)とは、問題(クイズ)が出題され、出演者が解答するという内容を主体とした番組(テレビ番組、ラジオ番組など)のこと。ゲーム番組の一種。 クイズというと一般には広範な知識を問うものとされる。しかし、広義にはQ&Aの形式を取っていれば「クイズ番組」として扱われることが多く、クイズの中にゲーム性を取り入れたり、司会者と解答者がクイズを行いながらのトーク番組もある。 出演者では、タレントが出演型か視聴者参加型に分けられる。前者は、比較的ゲーム性の強い番組が多く、後者は純粋な知識を争う番組が多い。最近は視聴者が出演する番組は減る一方、地上デジタル放送・BSデジタル放送の双方向サービスにより、自宅にいながら参加できるクイズ番組も登場している。 解答方式は、早押し形式で解答権を争って口答するもの、フリップやモニター画面を使った筆記で答えるものが主である。参加者が多い番組においては、コンピュータ操作や場所移動などによって解答を表す方式などがある。 英語圏では、日本における「クイズ番組」は「Quiz Show(クイズショウ)」や「Game Show(ゲームショウ)」(ゲーム番組)と呼ばれている。両者の違いについては、イギリスにおけるカルチュラル・スタディーズ研究者であるスー・ホームズ氏の著書『THE QUIZ SHOW』に詳しく記載されている。 クイズショウやゲームショウでは、一般視聴者が出場する番組が多数を占めるが、特番として、有名人が出演するセレブリティバージョンが制作されることがある。なお、セレブリティバージョンでの獲得賞金は、日本と異なり、使途を明らかにした上で寄付されるのが通例である(ギャラは別に支払われる)。 1930年代、アメリカのラジオ番組にはクイズ番組がいくつかあったが、特に人気を博していたのがNBCのラジオ番組『Information Please』(1938年 - 1948年)で、この番組は1952年からはテレビ版が登場した。一般聴取者が投稿した難問に文化人や著名人が解答者となって答えるものである。このフォーマットはのちに日本で『話の泉』で番組化された。 1940年代、イギリスやアメリカではTwenty Questionsと呼ばれる形式のクイズ番組が人気を博していた。この形式は出題者に対して回答者が「それは植物ですか」「それは鉱物ですか」といった質問を行い、出題者が「はい」または「いいえ」のみで答えて、合計20問の質問からお題となった著名人物や物の名前を当てるものである。このフォーマットはのちに日本でも『二十の扉』で番組化された。 代表的なクイズ番組には下記のようなものがある。 日本初のクイズ番組は、1946年12月3日にNHKラジオで放送を開始した『話の泉』であった(1946年12月-1964年3月)。内容は現代のクイズ番組というよりは、むしろ蘊蓄を語り合う物知り番組的なものであった。これ以前、つまり第二次世界大戦前・戦中にはNHKラジオ(当時の唯一の放送局)はクイズ番組はなく、「クイズ」という言葉自体が日本にはなかった。 民放でのクイズ番組第一号はCBCラジオ『ストップ・ザ・ミュージック』であった。その後多くのラジオのクイズ番組が登場したが、テレビの普及とともにラジオのワイド番組の1コーナーとなるなど、縮小していった。 日本におけるテレビのオリジナルのクイズ番組の第一号は、1953年2月5日スタートのNHK『私の仕事はなんでしょう』である(ちなみに、1953年2月3日には、当時ラジオで圧倒的な人気を誇ったクイズ番組『三つの歌』のテレビ版が放送されており、これが日本で初めてテレビで放送されたクイズ番組となる)。その後、民放テレビが開始され、娯楽性を強調したクイズ番組が次々と登場することになる。 クイズ番組は大掛かりなセットを用意する必要性がなく、出演者も比較的低予算で揃えやすいことから、改編期の特別番組や別番組打ち切り後のつなぎ番組として用いられることが多い。 1980年代までは、欧米の有名クイズ番組のフォーマットを利用した翻案番組が数多く見られた。 NHK『私の秘密』←アメリカ『I've Got a Secret』、フジ系列『クイズグランプリ』←アメリカ『ジェパディ!(Jeopardy!)』、TBS系列『クイズ100人に聞きました』←アメリカ『ファミリー・フュード』、TBS系列『ザ・チャンス!』←アメリカ『ザ・プライス・イズ・ライト(The Price Is Right)』、TBS系列『クイズダービー』←アメリカ『Celebrity Sweepstakes』がその代表である。 視聴者参加型番組では、例えば「ベルトクイズQ&Q」(初期は最高賞金270万円)や「クイズタイムショック」(初期は全問正解者に対しての賞金・賞品の上限なし。賞金100万円に加え、副賞に自動車もあった)などのように高額の賞金・賞品を獲得した視聴者や芸能人・文化人もいた他、「アップダウンクイズ」(初期はハワイ旅行と副賞賞金20万円)や、「オリンピックショウ 地上最大のクイズ」(「オリンピック...」時代は賞金100万円。後期シリーズの「ジェットショー・地上最大のクイズ」では賞金100万円と世界一周旅行)、「ズバリ!当てましょう」(3週勝ち抜きの場合、ナショナル家電製品一式と世界一周旅行)などがあった。 当初、賞金・賞品の規制は無制限だったが、1971年にフジテレビで放送された「クイズ・キングにまかせろ!」でトップ賞の賞品に「1室1000万円相当の東京都用賀のマンション」がかけられたことで、公正取引委員会から「余りにも高額の賞金・賞品だと視聴者の射幸心をあおる」として、厳重注意を受けた。これがきっかけで公取委は「クイズ番組・歌合戦番組・ゲーム番組・さらにはテレビ・ラジオ番組のプレゼント・商品・雑誌を含むオープン懸賞企画における賞金・賞品の総額は100万円までを上限とする」という取り決めを設けた。ただし、紳士協定上、製薬会社の一社提供番組に関しては、最大10万円までであり、それ以上の獲得賞金は、番組制作局の募金キャンペーンに寄付するなどをしていた。 また、『史上最大!第1回アメリカ横断ウルトラクイズ』(1977年)では優勝者の副賞として、当初は「アメリカ合衆国にある土地・2000坪」(のち1エーカー・1226坪に変更)を贈るとしていたが、上述の100万円の上限を超えてしまっていたため、やむなく砂漠のど真ん中にある土地に副賞が変更されたという経緯があり、それ以後も実用性とは大きくかけ離れた賞品(アメリカ横断ウルトラクイズ#大会一覧参照)が優勝副賞とされるようになった。(ただ、それでも第5回=1981年の油田採掘権利、第6回=1982年の優勝決定後ただちにニューヨーク発の世界一周旅行といったまともなものはまれにあった) それでもクイズ人気は冷めやらず、最盛期は1980年代頃であった。その時期は数多くのクイズ番組が放送、ゴールデンタイムでは毎晩どこかの局で必ずといっていいほど放送され、特に『史上最大!アメリカ横断ウルトラクイズ』に至っては年に一度の大型特番として君臨し、全国の大学のサークルに「クイズ研究会」ができるきっかけとなった。 だが1985年秋に『アップダウンクイズ』『クイズ天国と地獄』が終了したのを皮切りに、翌1986年3月には『クイズタイムショック』『三枝の国盗りゲーム』『世界一周双六ゲーム』も相次いで終了、視聴者参加型クイズ番組の全盛期は終わりを告げた。 ただ純粋にルールが決められた上で競い合うという形式を取るスポーツ型は、1980年代の後半に生まれたとされる。『アメリカ横断ウルトラクイズ』を受けて多く作られた大学のクイズ研究会が、番組研究を深めることによりクイズのノウハウが蓄積され、長戸勇人、能勢一幸、田中健一らの活躍、『史上最強のクイズ王決定戦』での西村顕治による伝説的早押しの数々、『FNS1億2,000万人のクイズ王決定戦!』における布川尚之、永田喜彰らのキャラクターへのフォーカスなど、ガチンコ化した番組とそこで活躍するクイズアスリートへの注目、という形で「スポーツ型」の時代が訪れた。 1990年代前半には「クイズ王ブーム」が起こった。『カルトQ』『TVチャンピオン』などのマニアックな知識を問う番組も登場した。 しかし問題のレベルが高くなりすぎたために視聴者離れを起こし、この流れは1990年代半ばまででで、『TVチャンピオン』がしばらく続いた程度となり退潮した。1992年には『史上最大!アメリカ横断ウルトラクイズ』がレギュラー開催を終了し『クイズ100人に聞きました』も終了している。テレビでの活躍の場を失ったプレーヤーは、クイズサークルや有志によって行われるオープン大会などに参加するなどしてクイズを続けた。 タレント出演型のクイズ番組の先駆けとして、1980年代の『ヒントでピント』『クイズダービー』『世界まるごとHOWマッチ!!』などがある。お笑いタレントをはじめとするタレント同士、タレントと司会者との掛け合いが魅力となり人気となったこのジャンルは、1990年代に黄金期を迎え、特に日本テレビ系列の『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』『マジカル頭脳パワー!!』『どちら様も!!笑ってヨロシク』、フジテレビ系列の『なるほど!ザ・ワールド』『平成教育委員会』『クイズ!年の差なんて』が驚異的な視聴率を記録する。 1996年4月に賞金規制が緩和され、1000万円に上限が引き上げられた。第一号番組はテレビ東京「決戦!クイズの帝王」だった。後にクイズ番組ではないが、TBS「しあわせ家族計画」は賞品総額300万円であった。この他1000万円への引き上げに際して、先ほどの「クイズ$ミリオネア」などの高額賞金番組が登場するようになった。しかし、日本民間放送連盟では、この規制緩和に逆行する形で、参加者1人当たりの賞金の上限を200万円とする自主規制を設けた。なお、「クイズ$ミリオネア」などの高額賞金を出すクイズ番組では参加者を含めて複数人の名義(例えば、最高賞金額が1000万円の場合は5人)とすることでこの限度を回避した事例もある。2006年からは規制がさらに緩和され、36年ぶりに「上限撤廃」となり現在に至る。 規制緩和にあわせて高額賞金を売り物にした番組も増える気配を見せたものの、『クイズ$ミリオネア』以外は定着せず、ミリオネア自体も末期にはタレント出演路線に切り替わったのち終了した。 BSデジタル放送では、スタートした2002年12月1日には放送を開始した午前11時から3時間後の午後2時に、『NEWSアカデミー』(BS-i)で双方向のクイズ番組がスタートした。これらは番組に視聴者がリモコンを使って早押しクイズなどに参加できるシステムを、多彩な演出やプログラムによるゲーム参加で楽しめるようにしたものだった。 2000年のBSデジタル放送開始から数年間は「タッチアンサーズ」や「TIME OVER」など賞金や賞品が出る双方向クイズ番組がBSデジタル民放各局に存在したが、マンネリ化も進み、人気番組だった『TIME OVER』などの終了、また個人情報保護法による視聴者情報の管理の変化や、視聴者の個人情報に対する意識の変化などにより衰退している。 地上波では、バラエティ番組の優勝者当てクイズや、情報番組のクイズコーナーなどにデータ放送が用いられている程度である。 こうして、2000年代から2010年代にかけて視聴者参加型番組は減少に向かい、数えるほどしか残らない状況となった。 20世紀末になると、タレント出演型クイズもマンネリ化や行き過ぎたゲーム化路線で次第に視聴者から飽きられ、逸見政孝の急死など名司会者の引退や逝去といった不運も重なり、1999年の『マジカル頭脳パワー!!』終了以降減少の一途をたどっていたが、そんな中、2003年に『クイズ!ヘキサゴン』が始まり、タレント出演型クイズブーム復活の兆しが見え始めた。 『クイズ!ヘキサゴン』を筆頭に、2004年『脳内エステ IQサプリ』や当時深夜番組だった『サルヂエ』の好調により、タレント参加型クイズはブームが再燃した。2005年10月からゴールデンタイムに多くのクイズ番組が誕生。特にフジテレビは2006年10月から2007年3月までは火曜日と金曜日を除く、19:00台は全てクイズ番組で構成されていた(ベルトクイズF&F)。一時期、クイズブームは下火になっていたが、2007年から『ネプリーグ』(フジテレビ)、『クイズプレゼンバラエティー Qさま!!(プレッシャーSTUDY)』(テレビ朝日)など知識系クイズ番組に加え、視聴率の低下に苦しんでいたヘキサゴンはルールを一新し『クイズ!ヘキサゴンII』と生まれ変わり、「おバカタレント」の予想もつかない珍解答で視聴者を楽しませるという新しいクイズ番組が誕生した。 2008年に入り、テレビ朝日は深夜時代に好調だった『今すぐ使える豆知識 クイズ雑学王』、『勉強してきましたクイズ ガリベン』がゴールデンタイムに参入し、好調の『Qさま!!』に加え、4月から『ザ・クイズマン!』をゴールデンに昇格させるなど積極的にクイズ番組を増やしていた。これに対抗してフジテレビは2007年までに放送している『平成教育予備校』『ネプリーグ』『クイズヘキサゴンII』『脳内エステ IQサプリ』に加え4月から『全国一斉 日本人テスト』『検定ジャポン』を新設し火曜を除く6日間の19時台をすべてクイズ番組化する“ベルトクイズF&F”とし勝負に出るなど"クイズブーム再燃"となりつつあった。 日本テレビでは、『週刊オリラジ経済白書』(『世界一受けたい授業』はクイズを出すこともあるが「クイズ番組」にはカウントしない)の終了により形式上は消滅したが、『オジサンズ11』がテコ入れとしてクイズ企画中心にリニューアルしたため、事実上クイズ番組となっていた。密室謎解きバラエティー 脱出ゲームDERO!は脱出ゲーム番組にクイズ番組の要素を取り入れた。 テレビ東京も、『クイズ赤恥青恥』以降は長続きせず、近年はプライムタイムでのクイズ番組がほとんどなかったが、2008年4月に『和風総本家』が開始された。 TBSは長年続いている『世界・ふしぎ発見!』『さんまのSUPERからくりTV』『どうぶつ奇想天外!』(『ぴったんこカン・カン』はグルメ番組色が強い)の3本だった。ところが、2009年に入ると23時台で『クイズ!時の扉』、『クイズの扉』、系列の毎日放送が22時台で『クイズなんでもNo.1決定戦』を期間限定で放映後、10月から『THE 1億分の8』(MBS)、『オレたち!クイズMAN』(日曜20時台)、『クイズ ALL FOR ONE』(深夜)などをスタートさせた。 NHKはクイズ番組には消極的ともいえ、2009年4月以降プライムタイムに放送されているものは、『クイズモンスター』の終了と『アートエンターテインメント 迷宮美術館』の放送時間変更でプライムタイムからのクイズ番組が消滅したが、2010年4月1日から、『新感覚ゲーム クエスタ』を開始した。 クイズ番組乱立の状況で短命に終わったものも多く、上記の『ザ・クイズマン!』、『検定ジャポン』、『オジサンズ11』は半年で終了した。「間抜けな回答を笑いのネタにするのはいじめの一種ではないか」、「クイズ番組でなく単なるバラエティ番組」という批判もあった。 またクイズの設問の重複も発生し、クイズ番組の増加により出題される問題のネタが別のクイズ番組や雑学番組と被ることがあり、伊集院光が以前同じ番組で間違えた問題を学習し、数ヵ月後再度出題され、正解した珍例もある。 2000年代のクイズ番組の視聴率は、レギュラー放送で圧倒的に人気があったのが『クイズヘキサゴンII』(フジ)、次点が『ネプリーグ』(フジ)だった。 2008年から2012年にかけて、『高校生クイズ』では「知力の甲子園」として学歴主義の路線が試みられた(後に『頭脳王』として復活)。 2011年に『クイズヘキサゴンII』司会の島田紳助が電撃引退。番組も終了となると、クイズ番組業界も再編が進んだ。「クイズヘキサゴンII」の終了以降、2010年代以降の傾向としては、クイズ番組における「おバカタレント」の出演が減少し、それに代わって東京大学などの有名大学クイズ研究会のメンバーやOBのタレント・有名進学校の生徒・過去にクイズ番組で活躍した社会人など、芸能人以外の文化人が出演するようになった。 一方、有名大学の学生を主体としたクイズ番組に対しては「過度な学歴信仰を煽る」という批判もなされた。例えば池上彰は、2022年に発生した東京大学前刺傷事件を受け、「東大生がいかに物知りかを強調した番組だったり。そんな番組が増えてきたことにあきれていたのですが、こんな事件が起きてしまうのを見ると、黙ってはいられなくなりました」と述べ、民放各局の番組制作姿勢を非難した。Twitter上では曽我部真裕や小田嶋隆などが池上に同意し、特に小田島は『東大王』(TBSテレビ)を名指しして批判した。 2022年現在、高額賞金・賞品のないタレント出演型のクイズ番組が主流である。いっぽう、視聴者参加型クイズ番組としては、『パネルクイズ アタック25』、『アメリカ横断ウルトラクイズ』からの派生である『全国高等学校クイズ選手権("高校生クイズ")』が現在も放送中である。 フォーマットを正規に輸入して制作された現存するクイズ番組は、日本テレビ『クイズ!あなたは小学5年生より賢いの?』←アメリカ『Are you smarter than a 5th grader?』のみとなっている。 視聴者参加型のタイプと、タレント出演型のタイプとでは出題する傾向が概ね決まっている事が多い。 視聴者参加型の番組では、知識を問われる内容、例えば過去の歴史、ヒット曲、最近の時事問題などが取り上げられることが多い。 一方タレント出演型は、近年は『サルヂエ』や『脳内エステ IQサプリ』、『島田検定!! 国民的潜在能力テスト』など知識よりも思考力を試すクイズ(なぞなぞ、あるなしクイズ、間違い探し、モノ当てなど)が多い。 2007年以降、スザンヌ・上地雄輔などの珍解答が受け、クイズ番組自体はもちろんのこと、本人の知名度を大きく広めた芸能人の「おバカタレント」(『クイズ!ヘキサゴンII』からPaboや「羞恥心」という音楽ユニットまで結成された)と、「雑学王」と呼ばれたり「高学歴」である知性派タレント、さらに平均的な成績の3タイプのタレントがおり番組によって需要が違う。知識系番組には知性派タレントが多く、『ヘキサゴンII』のような珍解答が期待される番組ではおバカタレントが大活躍する傾向が強い。勝負に関係の無いクイズ番組では平均的な知識のタレントが多く出演する。また、2010年代以降の知識系番組には、現役東京大学生と知性派タレントが対戦する番組も登場している。 故に、クイズ以外の番組ではほとんど出演しないタレントが出演する事も多い。最近では、芸歴が浅くネタ番組などにはほとんど出ていないが高学歴と言う点で呼ばれる若手芸人や、普段はクイズ以外のバラエティ番組にあまり出ない俳優や歌手が一度出演した際に珍回答を連発しおバカタレントとして認知され度々呼ばれるようになる例などがある。 問題そのものは難しくないが、「制限時間内に規定問題数以上答えなければならない」「参加者全員が正解しないとポイントとならない」など解答者にプレッシャーをかけることによって、解答を難しくしているものもある。 かつては1990年代後半までは『マジカル頭脳パワー!!』『世界・ふしぎ発見!(ただし一時期ひな壇形や円形だった)』など横一列「■■■■■形」に解答者席があり、1枠2枠という言い方で称されることが多かった。ただし、『クイズ!年の差なんて』の末期(1994年)など、ひな壇状の解答者席は既にごく一部のクイズ番組で使用されていた。 2000年代以降のクイズ番組では、トーク番組のようなセットのクイズ番組や、前後に2段もしくはひな壇状になっている解答者席があるクイズ番組が増えている。『ぴったし カン・カン』『ヒントでピント』などのV字形の解答者席配置は2チーム対抗の場合に多く用いられる。また、『クイズ!ヘキサゴン』の六角形のセットのように一風変わったセットのクイズ番組もある。『クイズ!ヘキサゴン』がリニューアルした『クイズ!ヘキサゴンII』の「行列早抜け!リレークイズ」や『クイズ!ドレミファドン(レギュラー放送終了後の特番)』の各チームが縦1列にならぶという、こちらもまた一風変わったセットである。 視聴者参加型のクイズ番組は古今東西、あらゆる知識が求められる問題が出されたり、ゲーム式で得点や賞金などのポイントを貯めていくといった形式が一般的だった。また、そこから優勝した出場者のみ挑戦できる、海外旅行をはじめとする豪華商品、および賞金を獲得できるステージを設ける2段構えとする番組も多い。また、ほとんどの番組で、参加賞として、それとは別に優勝の副賞として番組スポンサーから記念品や番組特製グッズが贈られた。 1980年代までは民放各局がこのタイプのクイズ番組を多く放送しており、人気も高かった。その時代には、多くの番組に出演しタイトルを競う「クイズ荒らし」と呼ばれる者も生じ、特に人気の高いクイズ番組では1回出場するとそれを防ぐという名目で数年間は再出場できないというルールが設けられるほどであった。しかし、平成以降の日本では個人情報やプライバシーにまつわる意識の変化、制作側としても出演者の募集選考から出演に手間をかけるよりも、知名度のある芸能人を使う方が手軽かつ視聴者を取り込みやすいなどの理由から、減少傾向にある。 2020年4月現在、全国ネットで放送中の番組は『パネルクイズ アタック25』や『全国高等学校クイズ選手権("高校生クイズ")』(年1回の特番)、『超逆境クイズバトル!! 99人の壁』など数える程度であるが、ローカル番組ではこのタイプのクイズ企画が放送されることがある。 2000年代に入り番組内で出題される問題を地上波デジタル放送の双方向番組(詳しくは双方向番組の項を参照)や、携帯電話やパソコンから番組公式サイトで、視聴者の回答や、正解者予想を募る番組が放送されてきている。この形式でクイズを行っている全国ネットの番組は主に『オールスター感謝祭』(年2回程度放送の特番)などがある。 主に世界の歴史・文化など各分野での専門知識にまつわるものをメインに扱うクイズ番組のことを指す。解答者は比較的インテリ系の人が多い。また、PTAなどの調査で「子供に見せたい番組」の上位にこれらに該当する番組が顔を出すことも多い。 2020年4月現在放送中の番組では『世界・ふしぎ発見!』などがある。 主にニュース番組などで扱われる流行や一般常識、義務教育で習う事柄から大学の専門学科レベルまでの学問をメインに扱うクイズ番組を指す。 2020年4月現在放送中の番組では『クイズプレゼンバラエティー Qさま!!』、『ネプリーグ』、『くりぃむクイズ ミラクル9』、『東大王』、『クイズ!あなたは小学5年生より賢いの?』、『平成教育委員会』(現在は年数回の特番のみ)などがある。これらの番組は司会者と解答者とのトークを交えることも多く、トークショー、バラエティー番組の要素も強い。 教育系にも近いが、一般生活で役立つ豆知識や話のネタになる逸話などをメインに扱うクイズ番組を指す。 代表的なものに『クイズ雑学王』などがあった。2020年4月現在放送中の番組ではクイズ番組とは趣がやや異なるものの、『チコちゃんに叱られる!』が人気番組となっている。また『林先生の初耳学』もあるが、こちらは情報バラエティー番組の要素も含まれている。 主になぞなぞやIQテストに近い形式の問題をメインに扱うクイズ番組を指す。この種の番組は時事ネタが使いづらい事やジャンルが限られるせいかマンネリ化やネタ切れになりやすく、テコ入れなどで徐々にコンセプトが変わっていくなど、長続きしにくい傾向にある。 2020年4月現在では『今夜はナゾトレ』、『潜在能力テスト』などが、代表的なものでは『マジカル頭脳パワー!!』、『脳内エステ IQサプリ』などがある。 主にバラエティ色が強いクイズ番組のことを指す。どちらかと言えば「バラエティ番組」の類に入る。解答者は比較的お笑いタレントやグラビアアイドルなどが多い。 2020年4月現在放送中の番組は『ぴったんこカン・カン』が、代表的なものでは2014年に終了した『さんまのSUPERからくりTV』があった。 音楽を主体としたクイズ番組を指す。楽曲のイントロのみ流して、その曲を早押しで当てる「イントロクイズ」が主体。 代表的な番組は2020年4月現在、特番で放送中の『クイズ・ドレミファドン!』が、終了した番組では『タモリの音楽は世界だ』がある。 解答者同士でクイズの成績を競う形式ではなく、主にクイズを交えた心理的なサバイバル戦のような戦いを繰り広げるクイズ番組のことを指す。日本国外では『ザ・ウィーケスト・リンク』や『ザ・チーター』などがあり、日本でもかつてこれらの番組が放送されていたが、解答者同士が足を引っ張ろうとしたり相手を蹴落として勝ち残ろうとする形式の場合、普通のQ&A(問題と答え)形式と異なる複雑なルール設定が視聴者にわかりづらいなどの問題点から、ゴールデンタイムでは短命に終わることが多い(『クイズ!ヘキサゴン』は好調であったが、徐々に苦戦するようになったため、上記のバラエティ色の強い内容へテコ入れがなされた)。 クイズ番組、バラエティ番組ではあるものの、司会者と解答者又は司会者と解答者ではないゲストが、クイズに関するトークで番組を交えて盛り上げながら解答者が問題に答えていく。トークに問題を解くヒントが混じっているなどのトークでの駆け引きが行なわれるなどそこが見所の一つになっている場合もあり、どちらかと言えばトーク主体のものである。 現在ではほとんどのクイズ番組でおかしな回答や問題に関する逸話などでトークを行なうことが多い。このフォーマットは『クイズダービー』、『ぴったし カン・カン』の2者が先駆者といわれている。
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"日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "民放でのクイズ番組第一号はCBCラジオ『ストップ・ザ・ミュージック』であった。その後多くのラジオのクイズ番組が登場したが、テレビの普及とともにラジオのワイド番組の1コーナーとなるなど、縮小していった。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "日本におけるテレビのオリジナルのクイズ番組の第一号は、1953年2月5日スタートのNHK『私の仕事はなんでしょう』である(ちなみに、1953年2月3日には、当時ラジオで圧倒的な人気を誇ったクイズ番組『三つの歌』のテレビ版が放送されており、これが日本で初めてテレビで放送されたクイズ番組となる)。その後、民放テレビが開始され、娯楽性を強調したクイズ番組が次々と登場することになる。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "クイズ番組は大掛かりなセットを用意する必要性がなく、出演者も比較的低予算で揃えやすいことから、改編期の特別番組や別番組打ち切り後のつなぎ番組として用いられることが多い。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1980年代までは、欧米の有名クイズ番組のフォーマットを利用した翻案番組が数多く見られた。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "NHK『私の秘密』←アメリカ『I've Got a Secret』、フジ系列『クイズグランプリ』←アメリカ『ジェパディ!(Jeopardy!)』、TBS系列『クイズ100人に聞きました』←アメリカ『ファミリー・フュード』、TBS系列『ザ・チャンス!』←アメリカ『ザ・プライス・イズ・ライト(The Price Is Right)』、TBS系列『クイズダービー』←アメリカ『Celebrity Sweepstakes』がその代表である。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "視聴者参加型番組では、例えば「ベルトクイズQ&Q」(初期は最高賞金270万円)や「クイズタイムショック」(初期は全問正解者に対しての賞金・賞品の上限なし。賞金100万円に加え、副賞に自動車もあった)などのように高額の賞金・賞品を獲得した視聴者や芸能人・文化人もいた他、「アップダウンクイズ」(初期はハワイ旅行と副賞賞金20万円)や、「オリンピックショウ 地上最大のクイズ」(「オリンピック...」時代は賞金100万円。後期シリーズの「ジェットショー・地上最大のクイズ」では賞金100万円と世界一周旅行)、「ズバリ!当てましょう」(3週勝ち抜きの場合、ナショナル家電製品一式と世界一周旅行)などがあった。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "当初、賞金・賞品の規制は無制限だったが、1971年にフジテレビで放送された「クイズ・キングにまかせろ!」でトップ賞の賞品に「1室1000万円相当の東京都用賀のマンション」がかけられたことで、公正取引委員会から「余りにも高額の賞金・賞品だと視聴者の射幸心をあおる」として、厳重注意を受けた。これがきっかけで公取委は「クイズ番組・歌合戦番組・ゲーム番組・さらにはテレビ・ラジオ番組のプレゼント・商品・雑誌を含むオープン懸賞企画における賞金・賞品の総額は100万円までを上限とする」という取り決めを設けた。ただし、紳士協定上、製薬会社の一社提供番組に関しては、最大10万円までであり、それ以上の獲得賞金は、番組制作局の募金キャンペーンに寄付するなどをしていた。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "また、『史上最大!第1回アメリカ横断ウルトラクイズ』(1977年)では優勝者の副賞として、当初は「アメリカ合衆国にある土地・2000坪」(のち1エーカー・1226坪に変更)を贈るとしていたが、上述の100万円の上限を超えてしまっていたため、やむなく砂漠のど真ん中にある土地に副賞が変更されたという経緯があり、それ以後も実用性とは大きくかけ離れた賞品(アメリカ横断ウルトラクイズ#大会一覧参照)が優勝副賞とされるようになった。(ただ、それでも第5回=1981年の油田採掘権利、第6回=1982年の優勝決定後ただちにニューヨーク発の世界一周旅行といったまともなものはまれにあった)", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "それでもクイズ人気は冷めやらず、最盛期は1980年代頃であった。その時期は数多くのクイズ番組が放送、ゴールデンタイムでは毎晩どこかの局で必ずといっていいほど放送され、特に『史上最大!アメリカ横断ウルトラクイズ』に至っては年に一度の大型特番として君臨し、全国の大学のサークルに「クイズ研究会」ができるきっかけとなった。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "だが1985年秋に『アップダウンクイズ』『クイズ天国と地獄』が終了したのを皮切りに、翌1986年3月には『クイズタイムショック』『三枝の国盗りゲーム』『世界一周双六ゲーム』も相次いで終了、視聴者参加型クイズ番組の全盛期は終わりを告げた。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ただ純粋にルールが決められた上で競い合うという形式を取るスポーツ型は、1980年代の後半に生まれたとされる。『アメリカ横断ウルトラクイズ』を受けて多く作られた大学のクイズ研究会が、番組研究を深めることによりクイズのノウハウが蓄積され、長戸勇人、能勢一幸、田中健一らの活躍、『史上最強のクイズ王決定戦』での西村顕治による伝説的早押しの数々、『FNS1億2,000万人のクイズ王決定戦!』における布川尚之、永田喜彰らのキャラクターへのフォーカスなど、ガチンコ化した番組とそこで活躍するクイズアスリートへの注目、という形で「スポーツ型」の時代が訪れた。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1990年代前半には「クイズ王ブーム」が起こった。『カルトQ』『TVチャンピオン』などのマニアックな知識を問う番組も登場した。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "しかし問題のレベルが高くなりすぎたために視聴者離れを起こし、この流れは1990年代半ばまででで、『TVチャンピオン』がしばらく続いた程度となり退潮した。1992年には『史上最大!アメリカ横断ウルトラクイズ』がレギュラー開催を終了し『クイズ100人に聞きました』も終了している。テレビでの活躍の場を失ったプレーヤーは、クイズサークルや有志によって行われるオープン大会などに参加するなどしてクイズを続けた。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "タレント出演型のクイズ番組の先駆けとして、1980年代の『ヒントでピント』『クイズダービー』『世界まるごとHOWマッチ!!』などがある。お笑いタレントをはじめとするタレント同士、タレントと司会者との掛け合いが魅力となり人気となったこのジャンルは、1990年代に黄金期を迎え、特に日本テレビ系列の『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』『マジカル頭脳パワー!!』『どちら様も!!笑ってヨロシク』、フジテレビ系列の『なるほど!ザ・ワールド』『平成教育委員会』『クイズ!年の差なんて』が驚異的な視聴率を記録する。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1996年4月に賞金規制が緩和され、1000万円に上限が引き上げられた。第一号番組はテレビ東京「決戦!クイズの帝王」だった。後にクイズ番組ではないが、TBS「しあわせ家族計画」は賞品総額300万円であった。この他1000万円への引き上げに際して、先ほどの「クイズ$ミリオネア」などの高額賞金番組が登場するようになった。しかし、日本民間放送連盟では、この規制緩和に逆行する形で、参加者1人当たりの賞金の上限を200万円とする自主規制を設けた。なお、「クイズ$ミリオネア」などの高額賞金を出すクイズ番組では参加者を含めて複数人の名義(例えば、最高賞金額が1000万円の場合は5人)とすることでこの限度を回避した事例もある。2006年からは規制がさらに緩和され、36年ぶりに「上限撤廃」となり現在に至る。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "規制緩和にあわせて高額賞金を売り物にした番組も増える気配を見せたものの、『クイズ$ミリオネア』以外は定着せず、ミリオネア自体も末期にはタレント出演路線に切り替わったのち終了した。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "BSデジタル放送では、スタートした2002年12月1日には放送を開始した午前11時から3時間後の午後2時に、『NEWSアカデミー』(BS-i)で双方向のクイズ番組がスタートした。これらは番組に視聴者がリモコンを使って早押しクイズなどに参加できるシステムを、多彩な演出やプログラムによるゲーム参加で楽しめるようにしたものだった。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2000年のBSデジタル放送開始から数年間は「タッチアンサーズ」や「TIME OVER」など賞金や賞品が出る双方向クイズ番組がBSデジタル民放各局に存在したが、マンネリ化も進み、人気番組だった『TIME OVER』などの終了、また個人情報保護法による視聴者情報の管理の変化や、視聴者の個人情報に対する意識の変化などにより衰退している。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "地上波では、バラエティ番組の優勝者当てクイズや、情報番組のクイズコーナーなどにデータ放送が用いられている程度である。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "こうして、2000年代から2010年代にかけて視聴者参加型番組は減少に向かい、数えるほどしか残らない状況となった。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "20世紀末になると、タレント出演型クイズもマンネリ化や行き過ぎたゲーム化路線で次第に視聴者から飽きられ、逸見政孝の急死など名司会者の引退や逝去といった不運も重なり、1999年の『マジカル頭脳パワー!!』終了以降減少の一途をたどっていたが、そんな中、2003年に『クイズ!ヘキサゴン』が始まり、タレント出演型クイズブーム復活の兆しが見え始めた。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "『クイズ!ヘキサゴン』を筆頭に、2004年『脳内エステ IQサプリ』や当時深夜番組だった『サルヂエ』の好調により、タレント参加型クイズはブームが再燃した。2005年10月からゴールデンタイムに多くのクイズ番組が誕生。特にフジテレビは2006年10月から2007年3月までは火曜日と金曜日を除く、19:00台は全てクイズ番組で構成されていた(ベルトクイズF&F)。一時期、クイズブームは下火になっていたが、2007年から『ネプリーグ』(フジテレビ)、『クイズプレゼンバラエティー Qさま!!(プレッシャーSTUDY)』(テレビ朝日)など知識系クイズ番組に加え、視聴率の低下に苦しんでいたヘキサゴンはルールを一新し『クイズ!ヘキサゴンII』と生まれ変わり、「おバカタレント」の予想もつかない珍解答で視聴者を楽しませるという新しいクイズ番組が誕生した。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2008年に入り、テレビ朝日は深夜時代に好調だった『今すぐ使える豆知識 クイズ雑学王』、『勉強してきましたクイズ ガリベン』がゴールデンタイムに参入し、好調の『Qさま!!』に加え、4月から『ザ・クイズマン!』をゴールデンに昇格させるなど積極的にクイズ番組を増やしていた。これに対抗してフジテレビは2007年までに放送している『平成教育予備校』『ネプリーグ』『クイズヘキサゴンII』『脳内エステ IQサプリ』に加え4月から『全国一斉 日本人テスト』『検定ジャポン』を新設し火曜を除く6日間の19時台をすべてクイズ番組化する“ベルトクイズF&F”とし勝負に出るなど\"クイズブーム再燃\"となりつつあった。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "日本テレビでは、『週刊オリラジ経済白書』(『世界一受けたい授業』はクイズを出すこともあるが「クイズ番組」にはカウントしない)の終了により形式上は消滅したが、『オジサンズ11』がテコ入れとしてクイズ企画中心にリニューアルしたため、事実上クイズ番組となっていた。密室謎解きバラエティー 脱出ゲームDERO!は脱出ゲーム番組にクイズ番組の要素を取り入れた。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "テレビ東京も、『クイズ赤恥青恥』以降は長続きせず、近年はプライムタイムでのクイズ番組がほとんどなかったが、2008年4月に『和風総本家』が開始された。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "TBSは長年続いている『世界・ふしぎ発見!』『さんまのSUPERからくりTV』『どうぶつ奇想天外!』(『ぴったんこカン・カン』はグルメ番組色が強い)の3本だった。ところが、2009年に入ると23時台で『クイズ!時の扉』、『クイズの扉』、系列の毎日放送が22時台で『クイズなんでもNo.1決定戦』を期間限定で放映後、10月から『THE 1億分の8』(MBS)、『オレたち!クイズMAN』(日曜20時台)、『クイズ ALL FOR ONE』(深夜)などをスタートさせた。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "NHKはクイズ番組には消極的ともいえ、2009年4月以降プライムタイムに放送されているものは、『クイズモンスター』の終了と『アートエンターテインメント 迷宮美術館』の放送時間変更でプライムタイムからのクイズ番組が消滅したが、2010年4月1日から、『新感覚ゲーム クエスタ』を開始した。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "クイズ番組乱立の状況で短命に終わったものも多く、上記の『ザ・クイズマン!』、『検定ジャポン』、『オジサンズ11』は半年で終了した。「間抜けな回答を笑いのネタにするのはいじめの一種ではないか」、「クイズ番組でなく単なるバラエティ番組」という批判もあった。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "またクイズの設問の重複も発生し、クイズ番組の増加により出題される問題のネタが別のクイズ番組や雑学番組と被ることがあり、伊集院光が以前同じ番組で間違えた問題を学習し、数ヵ月後再度出題され、正解した珍例もある。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2000年代のクイズ番組の視聴率は、レギュラー放送で圧倒的に人気があったのが『クイズヘキサゴンII』(フジ)、次点が『ネプリーグ』(フジ)だった。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2008年から2012年にかけて、『高校生クイズ』では「知力の甲子園」として学歴主義の路線が試みられた(後に『頭脳王』として復活)。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2011年に『クイズヘキサゴンII』司会の島田紳助が電撃引退。番組も終了となると、クイズ番組業界も再編が進んだ。「クイズヘキサゴンII」の終了以降、2010年代以降の傾向としては、クイズ番組における「おバカタレント」の出演が減少し、それに代わって東京大学などの有名大学クイズ研究会のメンバーやOBのタレント・有名進学校の生徒・過去にクイズ番組で活躍した社会人など、芸能人以外の文化人が出演するようになった。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "一方、有名大学の学生を主体としたクイズ番組に対しては「過度な学歴信仰を煽る」という批判もなされた。例えば池上彰は、2022年に発生した東京大学前刺傷事件を受け、「東大生がいかに物知りかを強調した番組だったり。そんな番組が増えてきたことにあきれていたのですが、こんな事件が起きてしまうのを見ると、黙ってはいられなくなりました」と述べ、民放各局の番組制作姿勢を非難した。Twitter上では曽我部真裕や小田嶋隆などが池上に同意し、特に小田島は『東大王』(TBSテレビ)を名指しして批判した。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2022年現在、高額賞金・賞品のないタレント出演型のクイズ番組が主流である。いっぽう、視聴者参加型クイズ番組としては、『パネルクイズ アタック25』、『アメリカ横断ウルトラクイズ』からの派生である『全国高等学校クイズ選手権(\"高校生クイズ\")』が現在も放送中である。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "フォーマットを正規に輸入して制作された現存するクイズ番組は、日本テレビ『クイズ!あなたは小学5年生より賢いの?』←アメリカ『Are you smarter than a 5th grader?』のみとなっている。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "視聴者参加型のタイプと、タレント出演型のタイプとでは出題する傾向が概ね決まっている事が多い。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "視聴者参加型の番組では、知識を問われる内容、例えば過去の歴史、ヒット曲、最近の時事問題などが取り上げられることが多い。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "一方タレント出演型は、近年は『サルヂエ』や『脳内エステ IQサプリ』、『島田検定!! 国民的潜在能力テスト』など知識よりも思考力を試すクイズ(なぞなぞ、あるなしクイズ、間違い探し、モノ当てなど)が多い。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2007年以降、スザンヌ・上地雄輔などの珍解答が受け、クイズ番組自体はもちろんのこと、本人の知名度を大きく広めた芸能人の「おバカタレント」(『クイズ!ヘキサゴンII』からPaboや「羞恥心」という音楽ユニットまで結成された)と、「雑学王」と呼ばれたり「高学歴」である知性派タレント、さらに平均的な成績の3タイプのタレントがおり番組によって需要が違う。知識系番組には知性派タレントが多く、『ヘキサゴンII』のような珍解答が期待される番組ではおバカタレントが大活躍する傾向が強い。勝負に関係の無いクイズ番組では平均的な知識のタレントが多く出演する。また、2010年代以降の知識系番組には、現役東京大学生と知性派タレントが対戦する番組も登場している。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "故に、クイズ以外の番組ではほとんど出演しないタレントが出演する事も多い。最近では、芸歴が浅くネタ番組などにはほとんど出ていないが高学歴と言う点で呼ばれる若手芸人や、普段はクイズ以外のバラエティ番組にあまり出ない俳優や歌手が一度出演した際に珍回答を連発しおバカタレントとして認知され度々呼ばれるようになる例などがある。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "問題そのものは難しくないが、「制限時間内に規定問題数以上答えなければならない」「参加者全員が正解しないとポイントとならない」など解答者にプレッシャーをかけることによって、解答を難しくしているものもある。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "かつては1990年代後半までは『マジカル頭脳パワー!!』『世界・ふしぎ発見!(ただし一時期ひな壇形や円形だった)』など横一列「■■■■■形」に解答者席があり、1枠2枠という言い方で称されることが多かった。ただし、『クイズ!年の差なんて』の末期(1994年)など、ひな壇状の解答者席は既にごく一部のクイズ番組で使用されていた。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "2000年代以降のクイズ番組では、トーク番組のようなセットのクイズ番組や、前後に2段もしくはひな壇状になっている解答者席があるクイズ番組が増えている。『ぴったし カン・カン』『ヒントでピント』などのV字形の解答者席配置は2チーム対抗の場合に多く用いられる。また、『クイズ!ヘキサゴン』の六角形のセットのように一風変わったセットのクイズ番組もある。『クイズ!ヘキサゴン』がリニューアルした『クイズ!ヘキサゴンII』の「行列早抜け!リレークイズ」や『クイズ!ドレミファドン(レギュラー放送終了後の特番)』の各チームが縦1列にならぶという、こちらもまた一風変わったセットである。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "視聴者参加型のクイズ番組は古今東西、あらゆる知識が求められる問題が出されたり、ゲーム式で得点や賞金などのポイントを貯めていくといった形式が一般的だった。また、そこから優勝した出場者のみ挑戦できる、海外旅行をはじめとする豪華商品、および賞金を獲得できるステージを設ける2段構えとする番組も多い。また、ほとんどの番組で、参加賞として、それとは別に優勝の副賞として番組スポンサーから記念品や番組特製グッズが贈られた。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "1980年代までは民放各局がこのタイプのクイズ番組を多く放送しており、人気も高かった。その時代には、多くの番組に出演しタイトルを競う「クイズ荒らし」と呼ばれる者も生じ、特に人気の高いクイズ番組では1回出場するとそれを防ぐという名目で数年間は再出場できないというルールが設けられるほどであった。しかし、平成以降の日本では個人情報やプライバシーにまつわる意識の変化、制作側としても出演者の募集選考から出演に手間をかけるよりも、知名度のある芸能人を使う方が手軽かつ視聴者を取り込みやすいなどの理由から、減少傾向にある。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "2020年4月現在、全国ネットで放送中の番組は『パネルクイズ アタック25』や『全国高等学校クイズ選手権(\"高校生クイズ\")』(年1回の特番)、『超逆境クイズバトル!! 99人の壁』など数える程度であるが、ローカル番組ではこのタイプのクイズ企画が放送されることがある。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "2000年代に入り番組内で出題される問題を地上波デジタル放送の双方向番組(詳しくは双方向番組の項を参照)や、携帯電話やパソコンから番組公式サイトで、視聴者の回答や、正解者予想を募る番組が放送されてきている。この形式でクイズを行っている全国ネットの番組は主に『オールスター感謝祭』(年2回程度放送の特番)などがある。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "主に世界の歴史・文化など各分野での専門知識にまつわるものをメインに扱うクイズ番組のことを指す。解答者は比較的インテリ系の人が多い。また、PTAなどの調査で「子供に見せたい番組」の上位にこれらに該当する番組が顔を出すことも多い。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "2020年4月現在放送中の番組では『世界・ふしぎ発見!』などがある。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "主にニュース番組などで扱われる流行や一般常識、義務教育で習う事柄から大学の専門学科レベルまでの学問をメインに扱うクイズ番組を指す。 2020年4月現在放送中の番組では『クイズプレゼンバラエティー Qさま!!』、『ネプリーグ』、『くりぃむクイズ ミラクル9』、『東大王』、『クイズ!あなたは小学5年生より賢いの?』、『平成教育委員会』(現在は年数回の特番のみ)などがある。これらの番組は司会者と解答者とのトークを交えることも多く、トークショー、バラエティー番組の要素も強い。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "教育系にも近いが、一般生活で役立つ豆知識や話のネタになる逸話などをメインに扱うクイズ番組を指す。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "代表的なものに『クイズ雑学王』などがあった。2020年4月現在放送中の番組ではクイズ番組とは趣がやや異なるものの、『チコちゃんに叱られる!』が人気番組となっている。また『林先生の初耳学』もあるが、こちらは情報バラエティー番組の要素も含まれている。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "主になぞなぞやIQテストに近い形式の問題をメインに扱うクイズ番組を指す。この種の番組は時事ネタが使いづらい事やジャンルが限られるせいかマンネリ化やネタ切れになりやすく、テコ入れなどで徐々にコンセプトが変わっていくなど、長続きしにくい傾向にある。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "2020年4月現在では『今夜はナゾトレ』、『潜在能力テスト』などが、代表的なものでは『マジカル頭脳パワー!!』、『脳内エステ IQサプリ』などがある。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "主にバラエティ色が強いクイズ番組のことを指す。どちらかと言えば「バラエティ番組」の類に入る。解答者は比較的お笑いタレントやグラビアアイドルなどが多い。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "2020年4月現在放送中の番組は『ぴったんこカン・カン』が、代表的なものでは2014年に終了した『さんまのSUPERからくりTV』があった。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "音楽を主体としたクイズ番組を指す。楽曲のイントロのみ流して、その曲を早押しで当てる「イントロクイズ」が主体。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "代表的な番組は2020年4月現在、特番で放送中の『クイズ・ドレミファドン!』が、終了した番組では『タモリの音楽は世界だ』がある。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "解答者同士でクイズの成績を競う形式ではなく、主にクイズを交えた心理的なサバイバル戦のような戦いを繰り広げるクイズ番組のことを指す。日本国外では『ザ・ウィーケスト・リンク』や『ザ・チーター』などがあり、日本でもかつてこれらの番組が放送されていたが、解答者同士が足を引っ張ろうとしたり相手を蹴落として勝ち残ろうとする形式の場合、普通のQ&A(問題と答え)形式と異なる複雑なルール設定が視聴者にわかりづらいなどの問題点から、ゴールデンタイムでは短命に終わることが多い(『クイズ!ヘキサゴン』は好調であったが、徐々に苦戦するようになったため、上記のバラエティ色の強い内容へテコ入れがなされた)。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "クイズ番組、バラエティ番組ではあるものの、司会者と解答者又は司会者と解答者ではないゲストが、クイズに関するトークで番組を交えて盛り上げながら解答者が問題に答えていく。トークに問題を解くヒントが混じっているなどのトークでの駆け引きが行なわれるなどそこが見所の一つになっている場合もあり、どちらかと言えばトーク主体のものである。", "title": "日本のクイズ番組" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "現在ではほとんどのクイズ番組でおかしな回答や問題に関する逸話などでトークを行なうことが多い。このフォーマットは『クイズダービー』、『ぴったし カン・カン』の2者が先駆者といわれている。", "title": "日本のクイズ番組" } ]
クイズ番組(クイズばんぐみ)とは、問題(クイズ)が出題され、出演者が解答するという内容を主体とした番組(テレビ番組、ラジオ番組など)のこと。ゲーム番組の一種。
{{Redirect|クイズショー|1994年制作の映画|クイズ・ショウ}} {{複数の問題 |出典の明記 = 2018年5月 |独自研究 = 2011年5月 }} [[File:Japanese TV program (quiz) 2020-04-28.jpg|thumb|[[フリップボード]]に[[手書き]]して解答するクイズ番組のイメージ]] '''クイズ番組'''(クイズばんぐみ)とは、問題([[クイズ]])が出題され、出演者が解答するという内容を主体とした番組([[テレビ番組]]、[[ラジオ番組]]など)のこと。[[ゲーム番組]]の一種。 == 概要 == クイズというと一般には広範な[[知識]]を問うものとされる。しかし、広義には[[FAQ|Q&A]]の形式を取っていれば「クイズ番組」として扱われることが多く、クイズの中に[[ゲーム]]性を取り入れたり、司会者と解答者がクイズを行いながらの[[トーク番組]]もある。 出演者では、[[タレント]]<ref group="注">[[アナウンサー]]などの放送局社員も参加することがあるが、放送局社員は賞品・賞金の授受を[[就業規則]]などで禁止している局が多く、獲得した賞金については、[[募金]]活動に寄付されることがほとんどである。その事もあり、特に賞金が出る番組において局員がクイズ番組の解答者となる事は特別企画などに限られる。</ref>が出演型か[[視聴者参加型番組|視聴者参加型]]に分けられる。前者は、比較的ゲーム性の強い番組が多く、後者は純粋な知識を争う番組が多い。最近は視聴者が出演する番組は減る一方、[[地上デジタルテレビ放送|地上デジタル放送]]・[[BSデジタル放送]]の[[双方向番組|双方向サービス]]により、自宅にいながら参加できるクイズ番組も登場している。 解答方式は、[[早押しクイズ|早押し]]形式で解答権を争って口答するもの<!--ネプリーグやクイズ$ミリオネアなど解答権を争わない番組もある-->、[[フリップボード|フリップ]]やモニター画面を使った[[筆記]]で答えるものが主である。参加者が多い番組においては、コンピュータ操作や場所移動などによって解答を表す方式などがある。 == 欧米のクイズ番組 == [[File:Wheel of Fortune Navy.jpg|thumb|[[アメリカ軍]]人が[[ホイール・オブ・フォーチュン (テレビ番組)|ホイール・オブ・フォーチュン]]に出場したとき。中央は司会の[[パット・セイジャック]]]] 英語圏では、日本における「クイズ番組」は「Quiz Show(クイズショウ)」や「Game Show(ゲームショウ)」([[ゲーム番組]])と呼ばれている。両者の違いについては、イギリスにおける[[カルチュラル・スタディーズ]]研究者である[[スー・ホームズ]]氏の著書『THE QUIZ SHOW』に詳しく記載されている。 クイズショウやゲームショウでは、一般[[視聴者]]が出場する番組が多数を占めるが、特番として、[[有名人]]が出演する[[セレブリティ]]バージョンが制作されることがある。なお、セレブリティバージョンでの獲得賞金は、日本と異なり{{要出典|date=2022年11月}}、使途を明らかにした上で[[寄付]]されるのが通例である(ギャラは別に支払われる)。 === 歴史 === [[1930年代]]、[[アメリカ]]の[[ラジオ番組]]にはクイズ番組がいくつかあったが、特に人気を博していたのが[[NBC]]のラジオ番組『Information Please』(1938年 - 1948年)で、この番組は1952年からはテレビ版が登場した<ref name="keyword" />。一般聴取者が投稿した難問に文化人や著名人が解答者となって答えるものである<ref name="keyword" />。このフォーマットはのちに日本で『[[話の泉]]』で番組化された<ref name="keyword" /><ref name=":0">三木智隆、石野将樹、徳久倫康 (著)、田中健一 (監修)、荒井牧(イラスト)『史上初! これ1冊でクイズのことがまるっとわかる クイズ用語辞典』(2023年、朝日新聞出版)</ref>。 1940年代、イギリスやアメリカではTwenty Questionsと呼ばれる形式のクイズ番組が人気を博していた<ref name="keyword" />。この形式は出題者に対して回答者が「それは植物ですか」「それは鉱物ですか」といった質問を行い、出題者が「はい」または「いいえ」のみで答えて、合計20問の質問からお題となった著名人物や物の名前を当てるものである<ref name="keyword" />。このフォーマットはのちに日本でも『[[二十の扉]]』で番組化された<ref name="keyword" /><ref name=":0" />。 === 主なクイズ番組 === 代表的なクイズ番組には下記のようなものがある。 *[[フー・ウォンツ・トゥ・ビー・ア・ミリオネア]](イギリス[[ITV (イギリス)|ITV]]ほか)(『[[クイズ$ミリオネア]]』の本家) *[[ザ・ウィーケスト・リンク]](イギリス[[英国放送協会|BBC]]ほか)([[日本]]でも『[[ウィーケストリンク☆一人勝ちの法則]]』を制作) *[[1 vs. 100]](オランダほか) *[[ジェパディ!]](アメリカほか)(日本でも『[[クイズグランプリ]]』を制作) *[[ホイール・オブ・フォーチュン (テレビ番組)|ホイール・オブ・フォーチュン]](アメリカほか) *[[ザ・プライス・イズ・ライト]](アメリカほか)(日本でも『[[ザ・チャンス!]]』を制作) *[[ファミリー・フュード]](アメリカほか)(日本でも『[[クイズ100人に聞きました]]』などを制作) == 日本のクイズ番組 == === 1940年代から1990年代後半 === ==== 黎明期 ==== [[日本]]初のクイズ番組は、[[1946年]][[12月3日]]に[[NHKラジオ]]で放送を開始した『[[話の泉]]』であった(1946年12月-1964年3月<ref name="keyword">{{Cite book |和書 |author=谷川建司 |year=2011 |title=占領期のキーワード100 1945-1952}}</ref>)。内容は現代のクイズ番組というよりは、むしろ[[蘊蓄]]を語り合う物知り番組的なものであった。これ以前、つまり[[第二次世界大戦前]]・戦中にはNHKラジオ(当時の唯一の放送局)はクイズ番組はなく、「クイズ」という言葉自体が日本にはなかった<ref>「quiz」は戦前の英和辞書の項目には存在したが、一般的に用いられることはなく「知識を問う問題」としてのクイズは戦後になってからである。</ref>。 [[民間放送|民放]]でのクイズ番組第一号は[[CBCラジオ]]『[[ストップ・ザ・ミュージック]]』であった。その後多くの[[ラジオ]]のクイズ番組が登場したが、[[テレビ]]の普及とともにラジオの[[ワイド番組]]の1コーナーとなるなど、縮小していった。 日本におけるテレビのオリジナルのクイズ番組の第一号は、[[1953年]][[2月5日]]スタートのNHK『[[私の仕事はなんでしょう]]』<ref>[http://www.nhk.or.jp/archives-blog/genre/variety/20117.html NHKアーカイブスブログ・アカイさんノート]</ref>である(ちなみに、1953年[[2月3日]]には、当時ラジオで圧倒的な人気を誇ったクイズ番組『[[三つの歌]]』のテレビ版が放送されており、これが日本で初めてテレビで放送されたクイズ番組となる<ref>『Quiz Japan』vol.3掲載 「日本のクイズ文化の源流を探る」 p.220</ref>)。その後、民放テレビが開始され、娯楽性を強調したクイズ番組が次々と登場することになる。 クイズ番組は大掛かりなセットを用意する必要性がなく、出演者も比較的低予算で揃えやすいことから、改編期の[[特別番組]]や別番組[[打ち切り]]後の[[つなぎ番組]]として用いられることが多い。 ==== 欧米番組のフォーマット輸入 ==== [[1980年代]]までは、[[欧米]]の有名クイズ番組の[[番組フォーマット|フォーマット]]を利用した[[翻案]]番組<ref group="注">これらの番組における本国版と日本版の類似性は比較視聴すると一目瞭然であるが、正式な契約の元に導入されたのか、単なる模倣なのかは、公にされた記録や当事者の証言がほとんど存在しないため多くが不明である。</ref>が数多く見られた。 NHK『[[私の秘密]]』←アメリカ『[[:en:I've Got a Secret|I've Got a Secret]]』、フジ系列『[[クイズグランプリ]]』←アメリカ『[[ジェパディ!]]([[:en:Jeopardy!|Jeopardy!]])』、TBS系列『[[クイズ100人に聞きました]]』←アメリカ『[[ファミリー・フュード]]』、TBS系列『[[ザ・チャンス!]]』←アメリカ『[[ザ・プライス・イズ・ライト]]([[:en:The Price Is Right|The Price Is Right]])』、TBS系列『[[クイズダービー]]』←アメリカ『[[:en:Celebrity Sweepstakes|Celebrity Sweepstakes]]』がその代表である。 ==== 視聴者参加型全盛期とクイズ番組の賞金上限の制限 ==== [[視聴者参加型番組|視聴者参加型]]番組では、例えば「[[ベルトクイズQ&Q]]」(初期は最高賞金270万円)や「[[クイズタイムショック]]」(初期は全問正解者に対しての賞金・賞品の上限なし。賞金100万円に加え、副賞に[[自動車]]もあった)などのように高額の賞金・賞品を獲得した[[視聴者]]や[[芸能人]]・[[文化人]]もいた他、「[[アップダウンクイズ]]」(初期は[[ハワイ]]旅行と副賞賞金20万円)や、「[[オリンピックショウ 地上最大のクイズ]]」(「オリンピック…」時代は賞金100万円。後期シリーズの「ジェットショー・地上最大のクイズ」では賞金100万円と[[世界一周]]旅行)、「[[ズバリ!当てましょう]]」(3週勝ち抜きの場合、[[パナソニック|ナショナル家電製品]]一式と世界一周旅行)などがあった。 当初、賞金・賞品の規制は無制限だったが、[[1971年]]にフジテレビで放送された「[[クイズ・キングにまかせろ!]]」でトップ賞の賞品に「1室1000万円相当の[[東京都]][[用賀]]の[[マンション]]」がかけられたことで、[[公正取引委員会]]から「余りにも高額の賞金・賞品だと視聴者の[[射幸心]]をあおる」として、厳重注意を受けた<ref>{{Cite|和書|author=日本放送協会 編|title=放送五十年史|date=1977|publisher=日本放送出版協会|pages=710}}</ref>。これがきっかけで公取委は「クイズ番組・歌合戦番組・ゲーム番組・さらにはテレビ・ラジオ番組のプレゼント・商品・雑誌を含むオープン[[懸賞]]企画における賞金・賞品の総額は100万円までを上限とする」という取り決めを設けた。ただし、[[紳士協定]]上、[[製薬]]会社の[[一社提供]]番組に関しては、最大10万円までであり、それ以上の獲得賞金は、番組制作局の募金キャンペーン<ref group="注">「[[クイズダービー]]」における、10万円を超過した賞金相当を[[TBSカンガルー募金]]に寄贈など</ref>に[[寄付]]するなどをしていた。 また、『[[アメリカ横断ウルトラクイズ|史上最大!第1回アメリカ横断ウルトラクイズ]]』(1977年)では優勝者の副賞として、当初は「[[アメリカ合衆国]]にある土地・2000坪」(のち1エーカー・1226坪に変更)を贈るとしていたが、上述の100万円の上限を超えてしまっていたため、やむなく砂漠のど真ん中にある土地に副賞が変更されたという経緯があり、それ以後も実用性とは大きくかけ離れた賞品([[アメリカ横断ウルトラクイズ#大会一覧]]参照)が優勝副賞とされるようになった。(ただ、それでも第5回=[[1981年]]の[[油田]]採掘権利、第6回=[[1982年]]の優勝決定後ただちにニューヨーク発の世界一周旅行といったまともなものはまれにあった) それでもクイズ人気は冷めやらず、最盛期は1980年代頃であった。その時期は数多くのクイズ番組が放送、[[ゴールデンタイム]]では毎晩どこかの局で必ずといっていいほど放送され、特に『[[アメリカ横断ウルトラクイズ|史上最大!アメリカ横断ウルトラクイズ]]』に至っては年に一度の大型[[特番]]として君臨し、全国の[[大学]]の[[クラブ活動|サークル]]に「[[クイズ研究会]]」ができるきっかけとなった。 だが[[1985年]]秋に『[[アップダウンクイズ]]』『[[クイズ天国と地獄]]』が終了したのを皮切りに、翌1986年3月には『[[クイズタイムショック]]』『[[三枝の国盗りゲーム]]』『[[世界一周双六ゲーム]]』も相次いで終了、視聴者参加型クイズ番組の全盛期は終わりを告げた。 ==== スポーツ型・ショー型・クイズ王 ==== ただ純粋にルールが決められた上で競い合うという形式を取るスポーツ型は、1980年代の後半に生まれたとされる。『[[アメリカ横断ウルトラクイズ]]』を受けて多く作られた大学のクイズ研究会が、番組研究を深めることによりクイズのノウハウが蓄積され、[[長戸勇人]]、[[能勢一幸]]、[[田中健一 (クイズ)|田中健一]]らの活躍、『史上最強のクイズ王決定戦』での[[西村顕治]]による伝説的早押しの数々、『[[FNS1億2,000万人のクイズ王決定戦!]]』における[[布川尚之]]、[[永田喜彰]]らのキャラクターへのフォーカスなど、ガチンコ化した番組とそこで活躍するクイズアスリートへの注目、という形で「スポーツ型」の時代が訪れた。 1990年代前半には「[[クイズ王]]ブーム」が起こった。『[[カルトQ]]』『[[TVチャンピオン]]』などのマニアックな知識を問う番組も登場した。 しかし問題のレベルが高くなりすぎたために視聴者離れを起こし、この流れは1990年代半ばまででで<ref name="名前なし-1">[https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1712/21/news005.html 「分裂」する現代クイズ番組と、『高校生クイズ』35年目への挑戦 ~『国民クイズ2.01』としての現代クイズ概論~] ネットラボ</ref>、『TVチャンピオン』がしばらく続いた程度となり退潮した。1992年には『史上最大!アメリカ横断ウルトラクイズ』がレギュラー開催を終了し『クイズ100人に聞きました』も終了している。テレビでの活躍の場を失ったプレーヤーは、クイズサークルや有志によって行われるオープン大会などに参加するなどしてクイズを続けた。 ==== タレント出演型の席巻 ==== タレント出演型のクイズ番組の先駆けとして、[[1980年代]]の『[[象印クイズ ヒントでピント|ヒントでピント]]』『[[クイズダービー]]』『[[世界まるごとHOWマッチ!!]]』などがある。[[お笑いタレント]]をはじめとするタレント同士、タレントと司会者との掛け合いが魅力となり人気となったこのジャンルは、[[1990年代]]に[[黄金時代|黄金期]]を迎え、特に日本テレビ系列の『[[クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!]]』『[[マジカル頭脳パワー!!]]』『[[どちら様も!!笑ってヨロシク]]』、フジテレビ系列の『[[なるほど!ザ・ワールド]]』『[[平成教育委員会]]』『[[クイズ!年の差なんて]]』が驚異的な[[視聴率]]を記録する。 === 1990年代後半から2000年代 === ==== 視聴者参加型の激減 ==== [[1996年]]4月に賞金規制が緩和され、1000万円に上限が引き上げられた。第一号番組は[[テレビ東京]]「[[決戦!クイズの帝王]]」だった。後にクイズ番組ではないが、TBS「[[しあわせ家族計画]]」は賞品総額300万円であった。この他1000万円への引き上げに際して、先ほどの「クイズ$ミリオネア」などの高額賞金番組が登場するようになった。しかし、[[日本民間放送連盟]]では、この規制緩和に逆行する形で、参加者1人当たりの賞金の上限を200万円とする自主規制を設けた<ref group="注">根拠条文は[https://www.tv-tokyo.co.jp/main/yoriyoi/nab.html 「日本民間放送連盟 放送基準」83条]であり、「民放連放送基準解説書」[https://tv-aichi.co.jp/tva/kijyun/pdf/kijyun01.pdf]では1996(平成8)年3月14日に行われた日本民間放送連盟放送基準審議会の審議の概要を参考資料としている。これにはその現金の限度額の目安が示されており、社会通念上妥当な経済的利益の上限額は300万円程度としている。現金のみの場合は200万円程度としている。</ref>。なお、「クイズ$ミリオネア」などの高額賞金を出すクイズ番組では参加者を含めて複数人の名義(例えば、最高賞金額が1000万円の場合は5人)とすることでこの限度を回避した事例もある。[[2006年]]からは規制がさらに緩和され、36年ぶりに「上限撤廃」となり現在に至る。 規制緩和にあわせて高額[[賞金]]を売り物にした番組も増える気配を見せたものの、『[[クイズ$ミリオネア]]』以外は定着せず、ミリオネア自体も末期にはタレント出演路線に切り替わったのち終了した。 [[BSデジタル放送]]では、スタートした2002年12月1日には放送を開始した午前11時から3時間後の午後2時に、『[[NEWSアカデミー]]』([[BS-TBS|BS-i]])で[[双方向番組|双方向]]のクイズ番組がスタートした。これらは番組に視聴者がリモコンを使って早押しクイズなどに参加できるシステムを、多彩な演出やプログラムによるゲーム参加で楽しめるようにしたものだった。 2000年の[[BSデジタル放送]]開始から数年間は「タッチアンサーズ」や「[[TIME OVER]]」など賞金や賞品が出る双方向クイズ番組がBSデジタル民放各局に存在したが、マンネリ化も進み、人気番組だった『[[TIME OVER]]』などの終了、また[[個人情報保護法]]による視聴者情報の管理の変化や、視聴者の個人情報に対する意識の変化などにより衰退している<ref group="注">[[双方向番組#双方向クイズ番組の減少の原因]]も参照。</ref>。 地上波では、バラエティ番組の優勝者当てクイズ<ref group="注">日本テレビ「[[ぐるナイ]]」など。</ref>や、情報番組のクイズコーナー<ref group="注">テレビ朝日「[[グッド!モーニング (テレビ番組)|グッド!モーニング]]」など。</ref>などにデータ放送が用いられている程度である。 こうして、2000年代から2010年代にかけて視聴者参加型番組は減少に向かい、数えるほどしか残らない状況となった。 ==== タレント出演型の流行 ==== 20世紀末になると、タレント出演型クイズも[[マンネリ]]化や行き過ぎた[[ゲーム]]化路線で次第に視聴者から飽きられ、[[逸見政孝]]の急死など名司会者の[[引退]]や[[逝去]]といった不運も重なり、1999年の『マジカル頭脳パワー!!』終了以降減少の一途をたどっていたが、そんな中、2003年に『[[クイズ!ヘキサゴン]]』が始まり、タレント出演型クイズ[[流行|ブーム]]復活の兆しが見え始めた。 『クイズ!ヘキサゴン』を筆頭に、2004年『[[脳内エステ IQサプリ]]』や当時深夜番組だった『[[サルヂエ]]』の好調により、タレント参加型クイズはブームが再燃した。2005年10月からゴールデンタイムに多くのクイズ番組が誕生。特にフジテレビは2006年10月から2007年3月までは火曜日と金曜日を除く、19:00台は全てクイズ番組で構成されていた([[ベルトクイズF&F]])。一時期、クイズブームは下火になっていたが、2007年から『[[ネプリーグ]]』(フジテレビ)、『[[クイズプレゼンバラエティー Qさま!!]]([[プレッシャーSTUDY]])』(テレビ朝日)など知識系クイズ番組に加え、視聴率の低下に苦しんでいたヘキサゴンはルールを一新し『[[クイズ!ヘキサゴンII]]』と生まれ変わり、「[[おバカタレント]]」の予想もつかない珍解答で視聴者を楽しませるという新しいクイズ番組が誕生した。 2008年に入り、テレビ朝日は深夜時代に好調だった『[[今すぐ使える豆知識 クイズ雑学王]]』、『[[勉強してきましたクイズ ガリベン]]』が[[ゴールデンタイム]]に参入し、好調の『Qさま!!』に加え、4月から『[[ザ・クイズマン!]]』をゴールデンに昇格させるなど積極的にクイズ番組を増やしていた。これに対抗してフジテレビは2007年までに放送している『[[平成教育予備校]]』『ネプリーグ』『クイズヘキサゴンII』『脳内エステ IQサプリ』に加え4月から『[[全国一斉 日本人テスト]]』『[[検定ジャポン]]』を新設し火曜を除く6日間の19時台をすべてクイズ番組化する“[[ベルトクイズF&F]]”とし勝負に出るなど"クイズブーム再燃"となりつつあった。 日本テレビでは、『[[週刊オリラジ経済白書]]』(『[[世界一受けたい授業]]』はクイズを出すこともあるが「クイズ番組」にはカウントしない)の終了により形式上は消滅したが、『[[オジサンズ11]]』が[[テコ入れ]]としてクイズ企画中心にリニューアルしたため、事実上クイズ番組となっていた。[[密室謎解きバラエティー 脱出ゲームDERO!]]は[[脱出ゲーム]]番組にクイズ番組の要素を取り入れた。 テレビ東京も、『クイズ赤恥青恥』以降は長続きせず、近年は[[プライムタイム]]でのクイズ番組がほとんどなかったが、2008年4月に『[[和風総本家]]』が開始された。 TBSは長年続いている『世界・ふしぎ発見!』『[[さんまのSUPERからくりTV]]』『[[どうぶつ奇想天外!]]』(『[[ぴったんこカン・カン]]』はグルメ<!-- 旅 -->番組色が強い)の3本だった。ところが、2009年に入ると23時台で『[[クイズ!時の扉]]』、『[[クイズの扉]]』、系列の[[MBSテレビ|毎日放送]]が22時台で『[[クイズなんでもNo.1決定戦]]』を期間限定で放映後、10月から『[[イチハチ|THE 1億分の8]]』(MBS)、『[[オレたち!クイズMAN]]』(日曜20時台)、『[[クイズ ALL FOR ONE]]』(深夜)などをスタートさせた。 NHKはクイズ番組には消極的ともいえ、2009年4月以降[[プライムタイム]]に放送されているものは、『[[クイズモンスター]]』の終了と『[[アートエンターテインメント 迷宮美術館]]』の放送時間変更でプライムタイムからのクイズ番組が消滅したが、2010年4月1日から、『[[新感覚ゲーム クエスタ]]』を開始した。 クイズ番組乱立の状況で短命に終わったものも多く、上記の『ザ・クイズマン!』、『検定ジャポン』、『オジサンズ11』は半年で終了した。「間抜けな回答を笑いのネタにするのは[[いじめ]]の一種ではないか」、「クイズ番組でなく単なるバラエティ番組」という批判もあった<ref>週刊プレイボーイ 2008年4月7日号より(同誌面では『世界一受けたい授業』などの雑学番組もクイズ番組としてカウントされている)</ref>。 またクイズの設問の重複も発生し、クイズ番組の増加により出題される問題のネタが別のクイズ番組や雑学番組と被ることがあり、[[伊集院光]]が以前同じ番組で間違えた問題を学習し、数ヵ月後再度出題され、正解した珍例もある。 2000年代のクイズ番組の視聴率は、レギュラー放送で圧倒的に人気があったのが『クイズヘキサゴンII』(フジ)、次点が『ネプリーグ』(フジ)だった。 {{節スタブ}} === 2010年代 === ==== おバカタレントから学歴主義へ ==== 2008年から2012年にかけて、『[[全国高等学校クイズ選手権|高校生クイズ]]』では「知力の甲子園」として学歴主義の路線が試みられた(後に『[[頭脳王]]』として復活<ref name="名前なし-1"/>)。 2011年に『クイズヘキサゴンII』司会の[[島田紳助]]が電撃引退。番組も終了となると、クイズ番組業界も再編が進んだ。「クイズヘキサゴンII」の終了以降、2010年代以降の傾向としては、クイズ番組における「おバカタレント」の出演が減少し、それに代わって[[東京大学]]などの有名大学クイズ研究会のメンバーやOBのタレント・有名進学校の生徒・過去にクイズ番組で活躍した社会人など、芸能人以外の文化人が出演するようになった。 一方、有名大学の学生を主体としたクイズ番組に対しては「過度な[[学歴信仰]]を煽る」という批判もなされた。例えば[[池上彰]]は、[[2022年]]に発生した[[東京大学前刺傷事件]]を受け、「東大生がいかに物知りかを強調した番組だったり。そんな番組が増えてきたことにあきれていたのですが、こんな事件が起きてしまうのを見ると、黙ってはいられなくなりました」と述べ、民放各局の番組制作姿勢を非難した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO79426180R20C22A1TCL000/ |title=(292)受験期を迎えて: 日本経済新聞 |publisher=日本経済新聞電子版 |date=2022-01-24 |accessdate=2022-04-06}}</ref>。[[Twitter]]上では[[曽我部真裕]]や[[小田嶋隆]]などが池上に同意し、特に小田島は『[[東大王]]』([[TBSテレビ]])を名指しして批判した<ref> {{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/b68d8cf09cecf4756dd69236d6bb0cdbb741b69a |title=『東大王』にも影響?「クイズ番組が学歴信仰を助長」の批判が番組制作の逆風に(NEWSポストセブン) - Yahoo!ニュース |accessdate=2022-04-06 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220203024914/https://news.yahoo.co.jp/articles/b68d8cf09cecf4756dd69236d6bb0cdbb741b69a |archivedate=2022-02-03}}</ref><ref>{{Cite tweet|author=小田島隆 |user=tako_ashi |number=1485408885234343936 |title=ほんと「東大王」とか、作ってて恥ずかしくないのだろうかね。 |date=2022-01-24 |accessdate=2022-04-06}}</ref>。 === 2020年代現在の状況 === 2022年現在、高額賞金・賞品のない[[タレント]]出演型のクイズ番組が主流である。いっぽう、視聴者参加型クイズ番組としては、『[[パネルクイズ アタック25]]』、『アメリカ横断ウルトラクイズ』からの派生である『[[全国高等学校クイズ選手権|全国高等学校クイズ選手権("高校生クイズ")]]』が現在も放送中である。 フォーマットを正規に輸入して制作された現存するクイズ番組は、日本テレビ『[[クイズ!あなたは小学5年生より賢いの?]]』←アメリカ『[[:en:Are you smarter than a 5th grader?|'''Are you smarter than a 5th grader?''']]』のみとなっている。 === 傾向 === ==== 出題傾向 ==== 視聴者参加型のタイプと、タレント出演型のタイプとでは出題する傾向が概ね決まっている事が多い。 視聴者参加型の番組では、[[知識]]を問われる内容、例えば過去の[[歴史]]、[[ヒット曲]]、最近の[[時事]]問題などが取り上げられることが多い。 一方タレント出演型は、近年は『[[サルヂエ]]』や『[[脳内エステ IQサプリ]]』、『[[島田検定!! 国民的潜在能力テスト]]』など知識よりも[[思考力]]を試すクイズ([[なぞなぞ]]、[[あるなしクイズ]]、[[間違い探し]]、モノ当てなど)が多い。 2007年以降、[[スザンヌ (タレント)|スザンヌ]]・[[上地雄輔]]などの珍解答が受け、クイズ番組自体はもちろんのこと、本人の知名度を大きく広めた芸能人の「[[おバカタレント]]」(『クイズ!ヘキサゴンII』から[[Pabo]]や[[羞恥心 (ユニット)|「羞恥心」]]という[[音楽ユニット]]まで結成された)と、「雑学王」と呼ばれたり「[[高学歴]]」である[[知性]]派タレント、さらに平均的な成績の3タイプのタレントがおり番組によって需要が違う。知識系番組には知性派タレントが多く、『ヘキサゴンII』のような珍解答が期待される番組ではおバカタレントが大活躍する傾向が強い。勝負に関係の無いクイズ番組では[[平均]]的な知識のタレントが多く出演する。また、2010年代以降の知識系番組には、現役東京大学生と知性派タレントが対戦する番組も登場している。 故に、クイズ以外の番組ではほとんど出演しないタレントが出演する事も多い。最近では、芸歴が浅くネタ番組などにはほとんど出ていないが高学歴と言う点で呼ばれる若手[[芸人]]<!--田畑藤本、ぐたくなどが「熱血!平成教育学院」、「クイズ雑学王」に出演している-->や、普段はクイズ以外のバラエティ番組にあまり出ない[[俳優]]や[[歌手]]が一度出演した際に珍回答を連発し[[おバカタレント]]として認知され度々呼ばれるようになる例<!--上記のpabo・羞恥心以外にも香田晋、misono、アグネス・チャンなどがこれに当たる-->などがある。 問題そのものは難しくないが、「制限時間内に規定問題数以上答えなければならない」「参加者全員が正解しないとポイントとならない」など解答者に[[プレッシャー]]をかけることによって、解答を難しくしているものもある。 ==== クイズ番組のセット ==== かつては1990年代後半までは『[[マジカル頭脳パワー!!]]』『[[日立 世界・ふしぎ発見!|世界・ふしぎ発見!]](ただし一時期ひな壇形や円形だった)』など横一列「■■■■■形」に解答者席があり、1枠2枠という言い方で称されることが多かった。ただし、『[[クイズ!年の差なんて]]』の末期([[1994年]])など、[[ひな壇]]状の解答者席は既にごく一部のクイズ番組で使用されていた。 2000年代以降のクイズ番組では、トーク番組のようなセットのクイズ番組や、前後に2段もしくは[[ひな壇]]状になっている解答者席があるクイズ番組が増えている。『ぴったし カン・カン』『[[象印クイズ ヒントでピント|ヒントでピント]]』などのV字形の解答者席配置は2チーム対抗の場合に多く用いられる。また、『[[クイズ!ヘキサゴン]]』の六角形のセットのように一風変わったセットのクイズ番組もある。『クイズ!ヘキサゴン』がリニューアルした『[[クイズ!ヘキサゴンII]]』の「[[行列早抜け!リレークイズ]]」や『[[クイズ・ドレミファドン!|クイズ!ドレミファドン]](レギュラー放送終了後の特番)』の各チームが縦1列にならぶという、こちらもまた一風変わったセットである。 === 種類 === ==== 視聴者参加型クイズ番組 ==== 視聴者参加型のクイズ番組は古今東西、あらゆる知識が求められる問題が出されたり、ゲーム式で得点や賞金などのポイントを貯めていくといった形式が一般的だった。また、そこから優勝した出場者のみ挑戦できる、[[海外旅行]]をはじめとする豪華商品、および賞金を獲得できるステージを設ける2段構えとする番組も多い。また、ほとんどの番組で、参加賞として、それとは別に優勝の副賞として番組スポンサーから[[記念品]]や番組特製[[グッズ]]が贈られた。 1980年代までは[[民間放送|民放]]各局がこのタイプのクイズ番組を多く放送しており、人気も高かった。その時代には、多くの番組に出演しタイトルを競う「クイズ荒らし」と呼ばれる者も生じ、特に人気の高いクイズ番組では1回出場するとそれを防ぐという名目で数年間は再出場できないというルールが設けられるほどであった。しかし、平成以降の日本では[[個人情報]]や[[プライバシー]]にまつわる意識の変化、制作側としても出演者の募集選考から出演に手間をかけるよりも、知名度のある芸能人を使う方が手軽かつ視聴者を取り込みやすいなどの理由から、減少傾向にある。 2020年4月現在、全国ネットで放送中の番組は『[[パネルクイズ アタック25]]』や『[[全国高等学校クイズ選手権|全国高等学校クイズ選手権("高校生クイズ")]]』<small>(年1回の特番)</small>、『[[超逆境クイズバトル!! 99人の壁]]』など数える程度であるが、[[ローカル番組]]ではこのタイプのクイズ企画が放送されることがある。 ===== それ以外の視聴者参加型クイズ番組 ===== 2000年代に入り番組内で出題される問題を地上波デジタル放送の[[双方向番組]](詳しくは[[双方向番組]]の項を参照)や、[[携帯電話]]や[[パソコン]]から番組公式サイトで、視聴者の回答や、正解者予想を募る番組が放送されてきている。この形式でクイズを行っている全国ネットの番組は主に『[[オールスター感謝祭]]』<small>(年2回程度放送の特番)</small>などがある。 ==== 教養系クイズ番組 ==== 主に世界の[[歴史]]・[[文化_(代表的なトピック)|文化]]など各分野での専門知識にまつわるものをメインに扱うクイズ番組のことを指す。解答者は比較的[[インテリ]]系の人が多い。また、[[PTA]]などの調査で「子供に見せたい番組」<ref name="pta-material">[http://www.nippon-pta.or.jp/material/index.html 資料DATA | 社団法人日本PTA全国協議会]</ref>の上位にこれらに該当する番組が顔を出すことも多い。 2020年4月現在放送中の番組では『[[日立 世界・ふしぎ発見!|世界・ふしぎ発見!]]』などがある。 ==== 教育系クイズ番組 ==== 主に[[ニュース番組]]などで扱われる[[流行]]や一般[[常識]]、[[義務教育]]で習う事柄から[[大学]]の専門学科レベルまでの学問をメインに扱うクイズ番組を指す。 2020年4月現在放送中の番組では『[[クイズプレゼンバラエティー Qさま!!]]』、『[[ネプリーグ]]』、『[[くりぃむクイズ ミラクル9]]』、『[[東大王]]』、『[[クイズ!あなたは小学5年生より賢いの?]]』、『[[平成教育委員会]]』<small>(現在は年数回の特番のみ)</small>などがある。これらの番組は司会者と解答者とのトークを交えることも多く、[[トーク番組|トークショー]]、[[バラエティー番組]]の要素も強い。 ==== 雑学系クイズ番組 ==== 教育系にも近いが、一般生活で役立つ[[豆知識]]や話のネタになる[[逸話]]などをメインに扱うクイズ番組を指す。 代表的なものに『[[今すぐ使える豆知識 クイズ雑学王|クイズ雑学王]]』などがあった。2020年4月現在放送中の番組ではクイズ番組とは趣がやや異なるものの、『[[チコちゃんに叱られる!]]』が人気番組となっている。また『[[林先生が驚く初耳学!|林先生の初耳学]]』もあるが、こちらは[[情報番組|情報]]バラエティー番組の要素も含まれている。 ==== 発想系クイズ番組 ==== 主に[[なぞなぞ]]や[[IQテスト]]に近い形式の問題をメインに扱うクイズ番組を指す。この種の番組は[[時事ネタ]]が使いづらい事やジャンルが限られるせいか[[マンネリ]]化やネタ切れになりやすく、[[テコ入れ]]などで徐々にコンセプトが変わっていくなど、長続きしにくい傾向にある。 2020年4月現在では『[[今夜はナゾトレ]]』、『[[潜在能力テスト]]』などが、代表的なものでは『[[マジカル頭脳パワー!!]]』、『[[脳内エステ IQサプリ]]』などがある。 ==== 娯楽系クイズ番組 ==== 主にバラエティ色が強いクイズ番組のことを指す。どちらかと言えば「[[バラエティ番組]]」の類に入る。解答者は比較的[[お笑いタレント]]や[[グラビアアイドル]]などが多い。 2020年4月現在放送中の番組は『[[ぴったんこカン・カン]]』が、代表的なものでは2014年に終了した『[[さんまのSUPERからくりTV]]』があった。 ==== 音楽系クイズ番組 ==== 音楽を主体としたクイズ番組を指す。楽曲のイントロのみ流して、その曲を早押しで当てる「イントロクイズ」が主体。 代表的な番組は2020年4月現在、特番で放送中の『[[クイズ・ドレミファドン!]]』が、終了した番組では『[[タモリの音楽は世界だ]]』がある。 ==== 戦闘系クイズ番組 ==== 解答者同士でクイズの成績を競う形式ではなく、主にクイズを交えた[[心理]]的な[[サバイバル]]戦のような戦いを繰り広げるクイズ番組のことを指す。日本国外では『[[ザ・ウィーケスト・リンク]]』や『[[ザ・チーター]]』などがあり、日本でもかつてこれらの番組が放送されていたが、解答者同士が足を引っ張ろうとしたり相手を蹴落として勝ち残ろうとする形式の場合、普通のQ&A(問題と答え)形式と異なる複雑なルール設定が視聴者にわかりづらいなどの問題点から、ゴールデンタイムでは短命に終わることが多い(『[[クイズ!ヘキサゴン]]』は好調であったが、徐々に苦戦するようになったため、上記のバラエティ色の強い内容へテコ入れがなされた)。 ==== トーク番組を兼ねたクイズ番組 ==== クイズ番組、バラエティ番組ではあるものの、司会者と解答者又は司会者と解答者ではないゲストが、クイズに関するトークで番組を交えて盛り上げながら解答者が問題に答えていく。トークに問題を解くヒントが混じっているなどのトークでの駆け引きが行なわれるなどそこが見所の一つになっている場合もあり、どちらかと言えばトーク主体のものである。 {{seealso|トーク番組}} 現在ではほとんどのクイズ番組でおかしな回答や問題に関する逸話などでトークを行なうことが多い。このフォーマットは『[[クイズダービー]]』、『[[ぴったし カン・カン]]』の2者が先駆者といわれている。 === 主なクイズ番組 === {{see also|日本のクイズ番組一覧}} == クイズ番組一覧 == {{see also|{{cat|各国のクイズ番組}}|日本のクイズ番組一覧}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[バラエティ番組]] * [[ゲーム番組]] * [[ワトソン (コンピュータ)]] * [[クイズ王]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:くいすはんくみ}} [[Category:クイズ番組|*くいすはんくみ]] [[Category:クイズ]]
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藤沢駅
藤沢駅(ふじさわえき)は、神奈川県藤沢市藤沢および南藤沢にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・小田急電鉄・江ノ島電鉄(江ノ電)の駅である。 1887年(明治20年)7月11日に官営鉄道の旧・横浜駅 - 国府津駅間 開通と同時に東海道の藤沢宿の玄関口として開業した。しかし、線形の問題で駅が当時の藤沢宿の中心街(東海道沿い)から1kmほど南に設置されたため、開業時の駅周辺は閑散としていたという。 その後、藤沢市役所をはじめとする多くの公共施設が駅周辺に移転し、藤沢駅前に多くの百貨店などの大型店が出店したこともあって、駅周辺は湘南地域でも有数の繁華街に成長した。しかし、1990年代後半よりこれら大型店の撤退が相次ぎ、やや空洞化も見られていた。 近年では2012年3月に策定された「藤沢駅周辺地区再整備構想・基本計画」により北口、南口のデッキ等の再整備が大規模に行われており、周辺地域への利便性が向上しつつあり、さらに「南北自由通路拡幅整備事業及び藤沢駅改良」により、南北自由通路の拡幅とともに小田急線とJRの乗り換えが同階で可能とする改良がおこなわれる。また、2017年12月藤沢市役所新庁舎が完成で駅周辺で新たな変化もみられる。 藤沢駅前には多くのバス路線が乗り入れ、バスと鉄道を乗り換える客の利用も多く、市内の公共交通の結節点にもなっている。 名実共に藤沢市の玄関口となる駅である。 以下の3社3路線が乗り入れ、相互間の接続駅となっている。 東海道本線旅客線上と貨物線上にそれぞれ1面2線、合計2面4線の島式ホームが設置されており、その上に橋上駅舎を持つ地上駅となっている。駅構内にはみどりの窓口が営業している。 湘南・相模統括センター(茅ケ崎駅)管内の直営駅であり、管理駅として辻堂駅を管理している。 旅客線ホームに当たる3・4番線ホームの辻堂寄りには上下線間に引上線があり、当駅から東京方面への折り返しが可能である。しかしこの引上線は途中に一本松踏切があり、使用している間は踏切が閉じたままとなってしまうことから、使用例は緊急時や工事等による計画的な区間運休を行う際に限られる。 3・4番線ホームの辻堂寄りには、「湘南電車キオスク」と呼ばれる国鉄80系電車をあしらった形の売店が設置されている。これは、同じ塗装で親しまれた113系電車がJR東日本の東海道本線から2006年3月17日に撤退したことを記念して設置されたものである。2016年にリニューアルが行われ、運行番号の表示がそれまでの『KIOSK』から『NewDays』に変更された。 NewDaysは駅コンコースの改札外にも設置されている。 (出典:JR東日本:駅構内図) 全ホームで東洋メディアリンクス制作の発車メロディが使用されている。 JR東日本の駅の南側に設置されている頭端式ホーム2面3線を有する地上駅。駅舎はJR東日本の駅と階段で接続されているが独立した建物であり、ホーム東端の車止めの先の地平部に設置されている。相模大野方面 - 片瀬江ノ島駅を直通する列車は当駅でスイッチバックを行う。 江ノ島線の相模大野方面 - 藤沢市街地間の建設に際しては、用地買収の手間が掛からない西側を通すことになったが、当駅でそのまま江ノ島へ進むと現在の江ノ島電鉄線と完全に並行することとなり、それを避けるように鉄道省から指導されていたため、当駅でスイッチバックして西側を進むルートをとった。なお、路線建設時の時点で現在のJR藤沢駅周辺が発展していたため、スイッチバックを行い現在の位置に駅を開設したとする説も存在する。 ホーム西側にJR東日本との間の乗り換え用跨線橋があり、その中に連絡改札口として11通路の自動改札機と自動精算機が設置されている。なお、以前は通路が狭く、自動改札機が両端に1台ずつ設置されていた。 特急ロマンスカーの「えのしま」と「ホームウェイ」(下りのみ)、「モーニングウェイ」、「メトロえのしま号」が停車する。管区長・駅長所在駅であり、「藤沢管区」として中央林間駅 - 片瀬江ノ島駅間の各駅を、「藤沢管区藤沢管内」として六会日大前駅 - 片瀬江ノ島駅間の各駅を管理している。快速急行は全列車当駅始発・終着である。 2022年3月のダイヤ改正以降、特急ロマンスカーや一部の各駅停車、急行を除き、藤沢駅で系統分離となった。 2009年3月頃、行先案内表示器がフルカラーLED式に更新された(小田原線秦野駅も同様)。 2012・2013年度中に、各ホームの上屋(屋根)増設工事を実施した。 2023年3月 改札外に存在した箱根そば・セブン-イレブン・横浜銀行は藤沢駅の再開発により閉店した。 江ノ電の駅は、JR・小田急の駅の南口からバスターミナルを挟んだ南側にある小田急百貨店の2階部分にある。JRの改札続きの南口からはペデストリアンデッキで直接つながっており、屋根も設置してあるので雨天時でも濡れずに行き来できる。PASMO・Suica等対応の自動改札機が設置されているが、自動改札機自体は、鎌倉駅とともにPASMO導入前から設置されていた。 トイレは乗車ホームの先端(石上駅側)に設置されている。2006年7月から、ホーム中央に多目的トイレも設置された(ベビーベッドおよびオストメイト対応設備あり)。 改札外には「江ノ電グッズショップ」が設置されている。喫茶店「江ノ電の珈琲屋さん」も隣接していたが2018年5月閉店した。 初期には国鉄や小田急と並行する形で線路とホームがあり、2面2線構造の地上駅であった。駅周辺の再開発に伴い、現在の駅ビル方式階上2面1線の構造になった。当初は地下化する計画もあったが、車両の難燃化などの問題から高架化が選択された。 戦後の一時期は小田急と線路が繋がっており、こちらで新車や東京急行電鉄から購入した貨車の搬入がされていたという。 線路終端は第二種車止めとしてドイツ製RAWIE(ローウィー / ラヴィ)の車止めが設置されている。RAWIE社の歴史は江ノ電並みに古く、主に関西と関東の一部の大手私鉄の新線と支線で見受けられる。江ノ電のような中小私鉄が使用しているのは珍しい。 1線のみの線路両側に降車・乗車に分かれたホームがあり、改札口から入って左側が乗車ホームであり、数字で表す番線表示は無い。江ノ電の列車には2両編成と4両編成があり、列車が到着する際は自動放送で足元の黄色や緑の表示の場所で並ぶように案内される。 乗車ホーム中央下に0kmポストがある。 乗車ホームは平成に入り拡幅工事が施工された。以前はチューブ状の乗り場だった。 大船軒がJR改札外横に出店している。主な駅弁は下記の通り。 駅弁とはみなされていないが、JR改札口に隣接する藤沢ルミネプラザの崎陽軒にてシウマイ弁当が購入可能。 藤沢市の中心駅で、2012年度の各社合計の乗降人員は1日平均約39万人であり、これは藤沢市のみならず、湘南地域の鉄道路線全駅で最も多く、全国的に見ても34位である。 近年の1日平均乗降人員の推移は下表の通り。 近年の1日平均乗車人員の推移は下表の通り。 駅周辺は湘南地方でも随一の繁華街で、百貨店や大型スーパーが林立する他、数多くの商店や飲食店が並ぶ商店街も各方向に伸びている。また、数多くの銀行、証券、保険会社が駅付近に支店を設けており、特に五大都市銀行グループと三大証券会社グループの支店がすべて揃っている。近隣には住宅も多い。 以前は多くの住宅が商店街や商業施設よりも遠い地区にあったが、1990年代後半以降は駅付近にもマンションが進出している。駅東側の藤沢市役所は国道467号を跨ぐように立地しており、その周囲には主要な行政機関が並んでいる。 地形は近くを流れる境川に向けて緩やかに下る傾斜地になっており、駅東側ではその地形を利用して、国道467号が東海道本線の下を通る形で立体交差している。 道路が駅から放射状に延びており、東海道本線を南北に横断できる道路も少ないことから、休日には駅周辺の道路がしばしば渋滞する。 藤沢駅北口にある排気塔(1979年建設、高さ約13m、幅約9m)は藤沢駅前のシンボルになっており、藤沢駅北口東西地下通路リニューアルの一環で新しいデザイン(北側には遊行寺の門前町や藤沢宿、南側には湘南海岸の海やヨット)に塗り直され、2022年1月23日に完成した。
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片瀬江ノ島駅を直通する列車は当駅でスイッチバックを行う。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "江ノ島線の相模大野方面 - 藤沢市街地間の建設に際しては、用地買収の手間が掛からない西側を通すことになったが、当駅でそのまま江ノ島へ進むと現在の江ノ島電鉄線と完全に並行することとなり、それを避けるように鉄道省から指導されていたため、当駅でスイッチバックして西側を進むルートをとった。なお、路線建設時の時点で現在のJR藤沢駅周辺が発展していたため、スイッチバックを行い現在の位置に駅を開設したとする説も存在する。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ホーム西側にJR東日本との間の乗り換え用跨線橋があり、その中に連絡改札口として11通路の自動改札機と自動精算機が設置されている。なお、以前は通路が狭く、自動改札機が両端に1台ずつ設置されていた。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "特急ロマンスカーの「えのしま」と「ホームウェイ」(下りのみ)、「モーニングウェイ」、「メトロえのしま号」が停車する。管区長・駅長所在駅であり、「藤沢管区」として中央林間駅 - 片瀬江ノ島駅間の各駅を、「藤沢管区藤沢管内」として六会日大前駅 - 片瀬江ノ島駅間の各駅を管理している。快速急行は全列車当駅始発・終着である。 2022年3月のダイヤ改正以降、特急ロマンスカーや一部の各駅停車、急行を除き、藤沢駅で系統分離となった。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2009年3月頃、行先案内表示器がフルカラーLED式に更新された(小田原線秦野駅も同様)。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2012・2013年度中に、各ホームの上屋(屋根)増設工事を実施した。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2023年3月 改札外に存在した箱根そば・セブン-イレブン・横浜銀行は藤沢駅の再開発により閉店した。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "江ノ電の駅は、JR・小田急の駅の南口からバスターミナルを挟んだ南側にある小田急百貨店の2階部分にある。JRの改札続きの南口からはペデストリアンデッキで直接つながっており、屋根も設置してあるので雨天時でも濡れずに行き来できる。PASMO・Suica等対応の自動改札機が設置されているが、自動改札機自体は、鎌倉駅とともにPASMO導入前から設置されていた。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "トイレは乗車ホームの先端(石上駅側)に設置されている。2006年7月から、ホーム中央に多目的トイレも設置された(ベビーベッドおよびオストメイト対応設備あり)。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "改札外には「江ノ電グッズショップ」が設置されている。喫茶店「江ノ電の珈琲屋さん」も隣接していたが2018年5月閉店した。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "初期には国鉄や小田急と並行する形で線路とホームがあり、2面2線構造の地上駅であった。駅周辺の再開発に伴い、現在の駅ビル方式階上2面1線の構造になった。当初は地下化する計画もあったが、車両の難燃化などの問題から高架化が選択された。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "戦後の一時期は小田急と線路が繋がっており、こちらで新車や東京急行電鉄から購入した貨車の搬入がされていたという。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "線路終端は第二種車止めとしてドイツ製RAWIE(ローウィー / ラヴィ)の車止めが設置されている。RAWIE社の歴史は江ノ電並みに古く、主に関西と関東の一部の大手私鉄の新線と支線で見受けられる。江ノ電のような中小私鉄が使用しているのは珍しい。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1線のみの線路両側に降車・乗車に分かれたホームがあり、改札口から入って左側が乗車ホームであり、数字で表す番線表示は無い。江ノ電の列車には2両編成と4両編成があり、列車が到着する際は自動放送で足元の黄色や緑の表示の場所で並ぶように案内される。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "乗車ホーム中央下に0kmポストがある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "乗車ホームは平成に入り拡幅工事が施工された。以前はチューブ状の乗り場だった。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "大船軒がJR改札外横に出店している。主な駅弁は下記の通り。", "title": "駅弁" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "駅弁とはみなされていないが、JR改札口に隣接する藤沢ルミネプラザの崎陽軒にてシウマイ弁当が購入可能。", "title": "駅弁" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "藤沢市の中心駅で、2012年度の各社合計の乗降人員は1日平均約39万人であり、これは藤沢市のみならず、湘南地域の鉄道路線全駅で最も多く、全国的に見ても34位である。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "近年の1日平均乗降人員の推移は下表の通り。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "近年の1日平均乗車人員の推移は下表の通り。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "駅周辺は湘南地方でも随一の繁華街で、百貨店や大型スーパーが林立する他、数多くの商店や飲食店が並ぶ商店街も各方向に伸びている。また、数多くの銀行、証券、保険会社が駅付近に支店を設けており、特に五大都市銀行グループと三大証券会社グループの支店がすべて揃っている。近隣には住宅も多い。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "以前は多くの住宅が商店街や商業施設よりも遠い地区にあったが、1990年代後半以降は駅付近にもマンションが進出している。駅東側の藤沢市役所は国道467号を跨ぐように立地しており、その周囲には主要な行政機関が並んでいる。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "地形は近くを流れる境川に向けて緩やかに下る傾斜地になっており、駅東側ではその地形を利用して、国道467号が東海道本線の下を通る形で立体交差している。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "道路が駅から放射状に延びており、東海道本線を南北に横断できる道路も少ないことから、休日には駅周辺の道路がしばしば渋滞する。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "藤沢駅北口にある排気塔(1979年建設、高さ約13m、幅約9m)は藤沢駅前のシンボルになっており、藤沢駅北口東西地下通路リニューアルの一環で新しいデザイン(北側には遊行寺の門前町や藤沢宿、南側には湘南海岸の海やヨット)に塗り直され、2022年1月23日に完成した。", "title": "駅周辺" } ]
藤沢駅(ふじさわえき)は、神奈川県藤沢市藤沢および南藤沢にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・小田急電鉄・江ノ島電鉄(江ノ電)の駅である。
{{Otheruseslist|[[神奈川県]][[藤沢市]]にある[[東日本旅客鉄道|JR東日本]][[東海道本線]]・[[小田急電鉄]][[小田急江ノ島線|江ノ島線]]・[[江ノ島電鉄線]]の駅|[[埼玉県]][[入間市]]にある[[西武鉄道]][[西武池袋線|池袋線]]の駅|武蔵藤沢駅|かつて[[茨城県]][[新治村]]にあった[[筑波鉄道]][[筑波鉄道筑波線|筑波線]]の駅|常陸藤沢駅}} {{駅情報 |駅名 = 藤沢駅 |よみがな = ふじさわ |ローマ字 = Fujisawa |所在地 = [[神奈川県]][[藤沢市]] |所属事業者 = {{Plainlist| * [[東日本旅客鉄道]](JR東日本・[[#JR東日本|駅詳細]]) * [[小田急電鉄]]([[#小田急電鉄|駅詳細]]) * [[江ノ島電鉄]]([[#江ノ島電鉄|駅詳細]])}} |画像 = Fujisawa Station SouthGate.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 南口(2009年5月) |地図 = {{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|type2=point|type3=point|zoom=15|frame-align=center|frame-width=300 |marker=rail|marker2=rail|marker3=rail |coord={{coord|35|20|20|N|139|29|14|E}}|title=JR 藤沢駅 |coord2={{coord|35|20|19|N|139|29|15|E}}|title2=小田急 藤沢駅 |coord3={{coord|35|20|14|N|139|29|14|E}}|title3=江ノ電 藤沢駅 |marker-color=f68b1e|marker-color2=2288CC|marker-color3=008000}} }} {{座標一覧}} [[File:Fujisawa-Sta-N.JPG|thumb|北口(2012年5月)]] '''藤沢駅'''(ふじさわえき)は、[[神奈川県]][[藤沢市]][[藤沢 (藤沢市)|藤沢]]および南藤沢にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[小田急電鉄]]・[[江ノ島電鉄]](江ノ電)の[[鉄道駅|駅]]である。 == 概要 == [[1887年]]([[明治]]20年)[[7月11日]]に[[日本国有鉄道|官営鉄道]]の[[桜木町駅|旧・横浜駅]] - [[国府津駅]]間<ref group="注釈">当時はまだ路線名が設定されておらず、'''東海道線'''という路線名称が制定されたのは[[1895年]]である。</ref> 開通と同時に[[東海道]]の[[藤沢宿]]の玄関口として開業した。しかし、線形の問題<!--(一説には、当時の藤沢宿近辺の住人が蒸気機関車の煤煙や騒音などの問題を懸念し、誘致に賛成的でなかったとされる。)-->で駅が当時の藤沢宿の中心街([[東海道]]沿い)から1kmほど南に設置されたため、開業時の駅周辺は閑散としていたという。 その後、[[藤沢市役所]]をはじめとする多くの公共施設が駅周辺に移転し、藤沢駅前に多くの[[百貨店]]などの大型店が出店したこともあって、駅周辺は[[湘南]]地域でも有数の[[繁華街]]に成長した。しかし、[[1990年代]]後半よりこれら大型店の撤退が相次ぎ、やや空洞化も見られていた。 近年では[[2012年]]3月に策定された「藤沢駅周辺地区再整備構想・基本計画<ref>{{Cite web|和書|title=藤沢駅周辺地区における再活性化の取組について |url=http://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/fujisawa-eki/machizukuri/toshi/shisaku/fujisawaeki/index.html |website=藤沢市 |accessdate=2019-05-26 |language=ja |last=藤沢市}}</ref>」により北口、南口のデッキ等の再整備が大規模に行われており、周辺地域への利便性が向上しつつあり、さらに「南北自由通路拡幅整備事業及び藤沢駅改良<ref>{{Cite web|和書|title=藤沢駅南北自由通路拡幅整備事業及び藤沢駅改良事業に関する基本協定の締結について |url=http://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/fujisawa-eki/press/fujisawaekijiyutsurokakuhuku201902.html |website=藤沢市 |accessdate=2019-05-26 |language=ja |last=藤沢市}}</ref>」により、南北自由通路の拡幅とともに小田急線とJRの乗り換えが同階で可能とする改良がおこなわれる。また、[[2017年]]12月藤沢市役所新庁舎が完成で駅周辺で新たな変化もみられる。 藤沢駅前には多くの[[路線バス|バス路線]]が乗り入れ、バスと鉄道を乗り換える客の利用も多く、市内の公共交通の結節点にもなっている。 名実共に藤沢市の[[玄関口]]となる駅である。 === 乗り入れ路線 === 以下の3社3路線が乗り入れ、相互間の接続駅となっている。 * JR東日本:[[File:JR JT line symbol.svg|15px|JT]] [[東海道本線]] - [[東京駅]]発着系統と、[[新宿駅]]経由で[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]から[[高崎線]]に直通する[[湘南新宿ライン]]、東京駅経由で[[上野駅]]から[[宇都宮線]]・高崎線に直通する[[上野東京ライン]]が停車する。なお、運行形態の詳細については「[[東海道線 (JR東日本)]]」を参照。普通、[[東海道線 (JR東日本)#快速「アクティー」|快速「アクティー」]]といった特急券不要の全列車が停車するほか、平日の通勤時間帯に運転される[[特別急行列車|特急]]「[[湘南ライナー|湘南]]」も停車する。なお、夏期には、臨時で修学旅行列車が入線する場合もある。[[藤沢駅#利用状況|後述]]するように、神奈川県内では比較的乗車人員が多い。[[駅ナンバリング#JR東日本・東京モノレール・東京臨海高速鉄道|駅番号]]は「'''JT 08'''」。 * 小田急電鉄:[[File:Odakyu enoshima.svg|15px|OE]] [[小田急江ノ島線|江ノ島線]] - [[スイッチバック]]のため、構造上、当駅を通るすべての列車が停車し、ほとんどの列車が当駅を始発終着としている。[[2022年]]以降は、特急[[ロマンスカー]]以外の種別は当駅以北と以南で系統が分離している。駅番号は「'''OE 13'''」 * 江ノ島電鉄:[[File:Number prefix Enoden.svg|15px|EN]] [[江ノ島電鉄線]] - 当駅が起点。駅番号は「'''EN01'''」 == 歴史 == [[File:Fujisawa Station Kanto Daishinsai.jpg|thumb|[[1923年]]の[[関東大震災]]で倒壊した藤沢駅]] * [[1887年]]([[明治]]20年)[[7月11日]]:[[日本国有鉄道|国鉄]](後の[[東海道本線]])[[桜木町駅|旧・横浜駅]] - [[国府津駅]]間開通と同時に開業し、[[旅客]]・[[鉄道貨物|貨物]]の取り扱いを開始<ref name="停車場">{{Cite book|和書|author=石野哲(編)|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|year=1998|isbn=978-4-533-02980-6|page=15}}</ref>。 * [[1902年]](明治35年)[[9月1日]]:江之島電氣鐵道線(現・[[江ノ島電鉄線]]、以降'''江ノ電'''と略す)の駅が開業{{efn|当時の位置は現・南口ロータリー東側、地下道入り口付近。また線路が東海道線にほぼ平行していた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.enoden.co.jp/train/museum/memoirs/chapter-8/story-2/ |title=当方見聞録第8章 江ノ電駅ものがたり |publisher=江ノ島電鉄 | year=2006 | accessdate=2019-07-26}}</ref> <ref>{{Cite web|和書|url=https://purl.stanford.edu/rz359dx8242| title=明治40年測量・昭和12年要部修正測図 「藤澤」| publisher=陸地測量部 | year=1937 | accessdate=2019-07-26}}</ref> が、後に直交に近い形に改められた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.enopo.jp/fujisawa-guide/syouwafujisawa/228-2010-04-16-06-41-22.html | title=ふじさわガイド ・昭和の藤沢「藤沢駅周辺」|publisher=えのぽ([[えのしま・ふじさわポータルサイト]])| year=2010|accessdate=2019-07-26}}</ref>。}}。 * [[1923年]]([[大正]]12年)9月1日:[[関東大震災]]により駅舎が倒壊する。 * [[1924年]](大正13年)9月:新駅舎完成<ref>{{Cite web|和書|url=https://digital.city.fujisawa.kanagawa.jp/introduction/humikura/content/110117.pdf | title=クイズ・写真に見る藤沢|date=2011-01-17|publisher=藤沢市文書館|accessdate=2019-08-15}}</ref>。 * [[1929年]]([[昭和]]4年)[[4月1日]]:小田急江ノ島線の駅が[[藤沢市|藤沢町]]東横須賀464番地に開業。{{sfn|name="小田急75"|小田急75年史(2003.03) 小田急電鉄}} * [[1965年]](昭和40年)[[9月1日]]:地下通路供用開始。国鉄駅東側に存在した踏切を閉鎖後、旅客ホーム延長<ref>[http://digital.city.fujisawa.kanagawa.jp/introduction/history/list.php 藤沢市歴史年表] 藤沢市文書館</ref>。 * [[1969年]](昭和44年)[[10月1日]]:新設の[[湘南貨物駅]]に貨物取扱業務を移管{{R|停車場}}。 * [[1972年]](昭和47年)4月:江ノ電、仮駅(現・OPA附近)に移る。 * [[1973年]](昭和48年)4月:江ノ電、高架化工事着工。翌5月、仮線路使用開始。 * [[1974年]](昭和49年)[[6月7日]]:江ノ電の現駅舎ビルが供用開始。 * [[1977年]](昭和52年) ** [[10月15日]]:北口地下道が開通。 ** [[12月1日]]:小田急藤沢駅新駅舎が完成{{sfn|name="小田急75"|小田急75年史(2003.03) 小田急電鉄}}。 * [[1979年]](昭和54年)[[6月6日]]:江ノ電、藤沢駅着電車のブレーキが利かず暴走。[[車止め]]を破り24人が負傷<ref>江ノ電藤沢駅 「あっブレーキ利かぬ」車止め破り24人が負傷『朝日新聞』1979年(昭和54年)6月7日朝刊 13版 23面</ref>。 * [[1980年]](昭和55年)[[6月1日]]:国鉄駅の駅舎を橋上駅舎化<ref name="交通80">{{Cite news |title=きょう全面使用 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1980-06-01 |page=3 }}</ref>。南北自由通路が完成し、使用を開始{{R|交通80}}。 * [[1985年]](昭和60年)[[3月14日]]:国鉄駅での[[チッキ|荷物]]の取り扱いを廃止{{R|停車場}}。 * [[1987年]](昭和62年) ** 2月1日:ルミネ藤沢店開業{{efn|併設のロッテリア藤沢ルミネプラザ店は改札の内外から入店が可能だった。}}。 ** 4月1日:[[国鉄分割民営化]]により、国鉄の駅はJR東日本の駅となる{{R|停車場}}。 * [[1989年]]([[平成]]元年)4月1日:[[びゅうプラザ]]開業。 * [[1993年]](平成5年) [[12月1日]]:JR東日本の1・2番線ホーム(ライナー用ホーム)を新設<ref>{{Cite news |title=藤沢駅新ホーム使用開始 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1993-12-02 |page=1 }}</ref>。従来からのホームは3・4番線となる。 * [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:JR東日本で[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる。 * [[2006年]](平成18年)[[3月10日]]:JR東日本の3・4番線ホーム[[辻堂 (藤沢市)|辻堂]]寄りの[[キヨスク|KIOSK]]が「[[国鉄80系電車#レプリカ|湘南電車]]キオスク」としてリニューアル。 * [[2007年]](平成19年) ** [[3月3日]]:JR東日本と小田急の間の跨線橋と連絡改札口を拡幅。同時にすべての通路に自動改札機を設置した。 ** [[3月18日]]:小田急電鉄と江ノ島電鉄でICカード「[[PASMO]]」の利用が可能となる。 * [[2009年]](平成21年)3月:小田急の発車標が[[フルカラー]][[発光ダイオード|LED]]式に更新された。それ以前は3色LED色式、更にそれ以前は[[反転フラップ式案内表示機]]だった。 * [[2017年]](平成29年)[[4月28日]]:びゅうプラザの営業を終了。 * [[2021年]]([[令和]]3年)[[7月15日]]:駅ビル「リエール藤沢」がリニューアルオープン<ref name="jrcross20210615">{{Cite press release|和書|url=https://www.jr-cross.co.jp/info/items/cf3e6b94553cd238ee12b244520a6ee44821d5cb.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210617142032/https://www.jr-cross.co.jp/info/items/cf3e6b94553cd238ee12b244520a6ee44821d5cb.pdf|format=PDF|language=日本語|title=リエール藤沢 リニューアルオープン! 駅直結!地元密着型商業施設が全フロア改装し、7/15(木)開業|publisher=JR東日本クロスステーション/デベロップメントカンパニー|date=2021-06-15|accessdate=2021-06-17|archivedate=2021-06-17}}</ref>。 == 駅構造 == === JR東日本 === {{駅情報 |社色 = #008000 |文字色 = |駅名 = JR 藤沢駅 |画像 = Fujisawa-Sta-JR-Platform.JPG |pxl = 300 |画像説明 = JRホーム(2012年5月) |よみがな = ふじさわ |ローマ字 = Fujisawa |前の駅 = JT 07 / JS 09 [[大船駅|大船]] |駅間A = 4.6 |駅間B = 3.7 |次の駅 = [[辻堂駅|辻堂]] JT 09 |駅番号 = {{駅番号r|JT|08|#f68b1e|1}} |電報略号 = フワ |所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |所属路線 = {{Color|#f68b1e|■}}[[東海道本線]] |キロ程 = 51.1 |起点駅 = [[東京駅|東京]] |所在地 = [[神奈川県]][[藤沢市]]藤沢75番地 |座標 = {{coord|35|20|20|N|139|29|14|E|region:JP_type:railwaystation|name=JR 藤沢駅|display=inline,title}} |駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]])<ref name="交通980924">{{Cite news |title=駅すてーしょん 藤沢(東海道線) |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1998-09-24 |page=2 }}</ref> |ホーム = 2面4線 |開業年月日 = [[1887年]]([[明治]]20年)[[7月11日]]{{R|停車場}} |廃止年月日 = |乗車人員 = 95,857 |統計年度 = 2022年 |備考 = {{Plainlist| * [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]]) * [[みどりの窓口]] 有}} }} 東海道本線旅客線上と貨物線上にそれぞれ1面2線、合計2面4線の[[島式ホーム]]が設置されており、その上に[[橋上駅|橋上駅舎]]を持つ[[地上駅]]{{R|交通980924}}となっている。駅構内には[[みどりの窓口]]が営業している。 湘南・相模統括センター([[茅ケ崎駅]])管内の[[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]であり、管理駅として[[辻堂駅]]を管理している。 旅客線ホームに当たる3・4番線ホームの辻堂寄りには上下線間に引上線があり、当駅から東京方面への折り返しが可能である。しかしこの引上線は途中に一本松踏切があり、使用している間は踏切が閉じたままとなってしまうことから、使用例は緊急時や工事等による計画的な区間運休を行う際に限られる。 3・4番線ホームの[[辻堂駅|辻堂]]寄りには、「湘南電車[[キヨスク|キオスク]]」と呼ばれる[[国鉄80系電車]]をあしらった形の売店が設置されている。これは、同じ塗装で親しまれた[[国鉄113系電車|113系電車]]がJR東日本の東海道本線から2006年3月17日に撤退したことを記念して設置されたものである{{efn|設置時点での車番はクハ86027であったが、まもなくクハ86023に変更された。}}。2016年にリニューアルが行われ、運行番号の表示がそれまでの『KIOSK』から『[[NewDays]]』に変更された。 NewDaysは駅コンコースの改札外にも設置されている。 ==== のりば ==== <!--方面表記は、JR東日本の駅の情報の「駅構内図」の記載に準拠--> {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先!!備考 |- !1 |rowspan="2"| [[File:JR JT line symbol.svg|15px|JT]] 東海道線<br/>({{color|red|□}}特急「湘南」) |style="text-align:center"|上り |[[品川駅|品川]]・[[東京駅|東京]]・[[新宿駅|新宿]]方面 |rowspan="2"|[[東海道貨物線]]上のホーム<br />平日のみ使用 |- !2 |style="text-align:center"|下り |[[茅ケ崎駅|茅ケ崎]]・[[平塚駅|平塚]]・[[小田原駅|小田原]]方面 |- ! rowspan="3" |3 |[[File:JR JT line symbol.svg|15px|JT]] 東海道線 | rowspan="3" style="text-align:center" |上り | rowspan="3" |[[横浜駅|横浜]]・品川・東京・[[上野駅|上野]]・[[渋谷駅|渋谷]]・新宿方面 | rowspan="4" |一部の特急「湘南」も使用 |- |[[File:JR JT line symbol.svg|15px|JT]] [[上野東京ライン]] |- |[[File:JR JS line symbol.svg|15px|JS]] [[湘南新宿ライン]] |- !4 |[[File:JR JT line symbol.svg|15px|JT]] 東海道線 | style="text-align:center" |下り |平塚・小田原・[[熱海駅|熱海]]方面 |} (出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/1361.html JR東日本:駅構内図]) ; 特記事項 {{出典の明記|date=2022年1月|section=1}} * 2022年3月ダイヤ改正前までは、平日朝[[ラッシュ時]]に当駅始発の上り列車が1本(2021年3月ダイヤ改正前までは2本、改正後1本は辻堂駅始発に変更)設定されていたが廃止された。この列車は下り線の回送として当駅まで送り込まれ、先述の引上線を利用して当駅始発としていた。また、先述の通り引上線を使用する事によって一本松踏切が閉じたままとなってしまうため、当該踏切には朝ラッシュ時間帯は踏切が開かない旨の注意書きがなされていた。 * 1・2番線ホームは東海道貨物線上にある。貨物線を経由する旅客列車は特急「湘南」(2021年3月12日までは[[湘南ライナー|ライナー]])のみのため、旅客案内上では特急専用ホームとされ、特急「湘南」運行時間帯外は閉鎖される。同ホームの[[駅名標]]における隣駅表記は特急「湘南」停車駅に合わせ、上り方は「[[品川駅|品川]]」{{efn|2021年3月のダイヤ改正以降、品川方面から当駅2番線ホームへ到着する定期の下り列車の設定はない。}}および「[[大崎駅|大崎]]」、下り方は「[[茅ケ崎駅|茅ケ崎]]」となっている。[[有効長]]は10両分であるため、2008年3月14日まで[[JR東日本E351系電車|E351系]]12両編成を使用していた「おはようライナー新宿」「ホームライナー小田原」合計1往復では1 - 3号車のドアを締め切り扱い([[ドアカット]])していた。なお、大船駅に停車する特急「湘南」は旅客線を経由するため、3・4番線に停車する。 * 2012年3月頃に[[東京圏輸送管理システム|ATOS]]のプログラム更新が実施され、埼京線などで導入している内容に変更、2014年12月には再度プログラム更新が行われ、男声の変更(1・3番線)、駅名連呼の言い回し変更など変化が見られた。 * 3・4番線ホームは大船寄りでカーブに差し掛かっており、見通しが悪い。そのため、このホームを発着・通過する列車に対しては駅員による列車監視が行われ、発車メロディ・乗降終了合図の取り扱いも駅員が行う。 <gallery> Fujisawa-Sta-JR-Gate.JPG|JR改札口(2012年5月) Fujisawa_station_KIOSK.JPG|湘南電車キオスク(2006年3月) </gallery> ==== 発車メロディ ==== 全ホームで[[東洋メディアリンクス]]制作の発車メロディが使用されている。 {|border="1" cellspacing="0" cellpadding="3" frame="hsides" rules="rows" !1 |[[File:JR JT line symbol.svg|15px|JT]] |Verde Rayo |- !2 |[[File:JR JT line symbol.svg|15px|JT]] |近郊地域17番(通称,8ターンで1コーラス) |- !3・4 |[[File:JR JT line symbol.svg|15px|JT]] |[[ハンプティ・ダンプティ|Humpty Dumpty]]<ref group="注釈">4番線は、[[一ノ関駅]]の在来線ホームで接近チャイムとして使用しているものと同一の音源を使用している。</ref> |} === 小田急電鉄 === {{駅情報 |社色 = #2288CC |文字色 = |駅名 = 小田急 藤沢駅 |画像 = Fujisawa-Sta-Odakyu.JPG |pxl = 300 |画像説明 = 改札口(2012年5月) |よみがな = ふじさわ |ローマ字 = Fujisawa |所属事業者 = [[小田急電鉄]] |所在地 = [[神奈川県]][[藤沢市]]南藤沢1番1号 |座標 = {{coord|35|20|19|N|139|29|15|E|region:JP_type:railwaystation|name=小田急 藤沢駅}} |開業年月日 = [[1929年]]([[昭和]]4年)[[4月1日]] |駅構造 = [[地上駅]] |ホーム = 2面3線 |廃止年月日 = |乗降人員 = <ref group="小田急" name="odakyu2021" />134,657 |統計年度 = 2021年 |所属路線 = {{Color|#2288CC|■}}[[小田急江ノ島線|江ノ島線]] |前の駅 = OE 12 [[藤沢本町駅|藤沢本町]] |駅間A = 1.8 |駅間B = 1.5 |次の駅 = [[本鵠沼駅|本鵠沼]] OE 14 |駅番号 = {{駅番号r|OE|13|#2288CC|4||#2288CC}} |キロ程 = 23.1&nbsp;km([[相模大野駅|相模大野]]起点)<br />[[新宿駅|新宿]]から55.4 |起点駅 = |備考全幅 = }} [[File:OdakyuFujisawaStationSwitchBack.jpg|thumb|線路の様子]] JR東日本の駅の南側に設置されている[[頭端式ホーム]]2面3線を有する地上駅。駅舎はJR東日本の駅と階段で接続されているが独立した建物であり、ホーム東端の[[車止め]]の先の地平部に設置されている。[[相模大野駅|相模大野]]方面 - [[片瀬江ノ島駅]]を直通する列車は当駅で[[スイッチバック]]を行う。 江ノ島線の相模大野方面 - 藤沢市街地間の建設に際しては、用地買収の手間が掛からない西側を通すことになったが、当駅でそのまま江ノ島へ進むと現在の江ノ島電鉄線と完全に並行することとなり、それを避けるように[[鉄道省]]から指導されていたため、当駅でスイッチバックして西側を進むルートをとった。なお、路線建設時の時点で現在のJR藤沢駅周辺が発展していたため、スイッチバックを行い現在の位置に駅を開設したとする説も存在する<ref>{{Cite book|和書|title=小田急沿線の不思議と謎|date=2015年1月31日|year=|publisher=実業之日本社|page=81}}</ref>。 ホーム西側にJR東日本との間の乗り換え用[[跨線橋]]があり、その中に連絡改札口として11通路の自動改札機と[[自動精算機]]が設置されている。なお、以前は通路が狭く、自動改札機が両端に1台ずつ設置されていた<ref group="注釈">改造工事は[[鉄建建設]]により行われた。[http://chuubu.co.jp/keireki.pdf http://chuubu.co.jp/keireki.pdf 6ページ]</ref>。 [[小田急ロマンスカー|特急ロマンスカー]]の「[[えのしま (列車)|えのしま]]」と「[[モーニングウェイ・ホームウェイ|ホームウェイ]]」(下りのみ)、「モーニングウェイ」、「メトロえのしま号」が停車する。管区長・[[駅長]]所在駅であり、「藤沢管区」として[[中央林間駅]] - [[片瀬江ノ島駅]]間の各駅を、「藤沢管区藤沢管内」として[[六会日大前駅]] - 片瀬江ノ島駅間の各駅を管理している<ref name="RP976_13">{{Cite journal|和書|author=藤田雄介(小田急電鉄CSR・広報部)|title=総説:小田急電鉄|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2020-08-10|volume=70|issue=第8号(通巻976号)|page=13|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。快速急行は全列車'''当駅始発・終着'''である。 2022年3月のダイヤ改正以降、特急ロマンスカーや一部の各駅停車、急行を除き、藤沢駅で系統分離となった。 2009年3月頃、行先案内表示器が[[フルカラー]][[発光ダイオード|LED]]式に更新された([[小田急小田原線|小田原線]][[秦野駅]]も同様)。 2012・2013年度中に、各ホームの上屋(屋根)増設工事を実施した<ref>{{PDFlink|[http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/7093_4803266_.pdf 2012年度の鉄道事業設備投資計画 (2)駅施設改良、サービスの向上 ①ホーム上屋の増設]}} - 小田急電鉄(2012年4月27日閲覧)</ref>。 ==== のりば ==== {|class="wikitable" !ホーム<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!種別!!行先<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.odakyu.jp/station/fujisawa/index.html |title=藤沢駅のご案内 駅立体図 |publisher=小田急電鉄 |accessdate=2023-06-04}}</ref>!!備考 |- !rowspan="2"| 1 |rowspan="6"|[[File:Odakyu enoshima.svg|15px|OE]] 江ノ島線 |style="text-align:center"|上り |{{Color|red|□}}特急ロマンスカー<br>{{Color|#f89c1c|■}}快速急行・{{Color|#ef4029|■}}急行 |[[新宿駅|新宿]]方面 |rowspan="2"|このホームのみ10両編成が入線可能 |- |style="text-align:center"|下り |rowspan="3"|{{Color|red|□}}特急ロマンスカー |[[片瀬江ノ島駅|片瀬江ノ島]]方面 |- !rowspan="2"|2 |style="text-align:center"|上り |新宿方面 |rowspan="2"|線路は3番線と共通、一部の特急のみ<br>平日朝は3番線列車の降車ホームも兼ねる |- |style="text-align:center"|下り |片瀬江ノ島方面 |- ! 3 |style="text-align:center"|上り |rowspan="2"|{{Color|#18469d|■}}各駅停車 |[[相模大野駅|相模大野]]方面|| |- ! 4 |style="text-align:center"|下り |片瀬江ノ島方面 |早朝・深夜の一部は1番ホームから発車 |- |} ; 特記事項 {{複数の問題|section=1|出典の明記=2022年1月|雑多な内容の箇条書き=2022年6月}} * 1・2番ホームには冷暖房完備の[[待合室]]が設置されている。かつては売店も存在したが、閉店となり自動販売機コーナーになっている。3・4番ホームには[[自動販売機]]のみ設置されている。 * 上記のように乗り場案内はなされているが、実際には上下両方向からどのホームにも入線することが可能であり、どのホームからでも上下両方向に発車することが可能である。発着ホームはある程度規則性を持っているが、特殊なケースも存在する。 ** 上り列車は、特急ロマンスカーは1・2番ホームから、快速急行と急行は1番ホームから、各駅停車は3・4番ホームから発車する。なお、各駅停車が当駅で折り返して上り電車となるものは、原則として3番ホームを使用する<ref group="注釈">2018年3月16日まで設定されていた6両編成の急行のうち、下り列車は2番線を、上り列車は4番線を使用していた。</ref>。 ** 下り列車は通常1・2番ホームからのみ発車しているが、運用上の都合や突発時などの例外もある。 ** 3番ホームに入線した上り電車は、降車ホームとして2番ホーム側のドアも開ける。しかし、下り電車が2番ホームに入線した場合は、3番ホーム側のドアは閉めたままとなる。 ** 藤沢止まりの特急ロマンスカーが折り返し回送になる際は、3番ホームから出発する扱いとなる。 ** 当駅が終着となる下り電車の一部は、4番ホームに入線するものもある。 * 4番ホームに6両編成の夜間留置がある。 * 2014年、改札内に存在した[[箱根そば]]の入り口が改装工事の結果、改札外に移動した。隣接する位置には[[小田急商事|Odakyu SHOP]]が同時開店。{{efn|既存の店舗は藤沢ホーム店、改札外は藤沢南口店と称する。}} * [[2019年]]3月13日、改札外のOdakyu SHOP、[[セブンイレブン]]小田急藤沢店として改装オープン。 * [[2022年]]3月改正より、特急ロマンスカーなど一部列車を除き、当駅で系統分離、藤沢 - 片瀬江ノ島駅間を平日日中時間帯に毎時6本から5本に減便する。なお相模大野 - 藤沢駅間の各駅停車については、毎時6本を維持し2本に1本が大和駅で快速急行と接続する<ref>{{Cite press release|和書|title=2022年3月12日(土) 小田急線のダイヤを変更します ~ご利用動向を踏まえ、平日朝の都心への増発、日中・夜間を中心とした運転本数の見直しを実施~|publisher=小田急電鉄|date=2021-12-17|url=https://www.odakyu.jp/news/o5oaa100000214sd-att/o5oaa100000214sk.pdf|format=PDF|language=日本語|accessdate=2021-12-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211217050619/https://www.odakyu.jp/news/o5oaa100000214sd-att/o5oaa100000214sk.pdf|archivedate=2021-12-17}}</ref>。 ** 10両編成対応の1番ホームは、快速急行及び急行を、2番ホームは平日の混雑する通勤時間帯に降車専用として使用し、3番ホームを大和・相模大野方面行きの各駅停車が、4番ホームは藤沢 - 片瀬江ノ島駅間の区間列車が使用する。但し、早朝5:31発・深夜24:52発の片瀬江ノ島行の電車は1番線から発車する。 ** 特急ロマンスカーは従来通り、1・2番ホームから発車する。 2023年3月 改札外に存在した[[箱根そば]]・[[セブン-イレブン]]・[[横浜銀行]]は藤沢駅の再開発により閉店した。 <gallery> Fujisawa Station JR・Odakyu Contact Gates.jpg|JR・小田急連絡改札口(2019年6月) Fujisawa-Sta-Odakyu-Platform.JPG|小田急ホーム(2012年5月) Odakyu-Fujisawa-Sta-Ent.JPG|南口1階小田急改札前(2012年5月) </gallery> {{-}} === 江ノ島電鉄 === {{駅情報 |社色 = #008000 |文字色 = |駅名 = 江ノ電 藤沢駅 |画像 = Enoden-Fujisawa-Sta-gate.JPG |pxl = 300 |画像説明 = 改札口(2012年5月) |よみがな = ふじさわ |ローマ字 = Fujisawa |副駅名 = |駅間B = 0.6 |次の駅 = [[石上駅|石上]] EN02 |電報略号 = |駅番号 = {{駅番号r|EN|01|green|4}} |所属事業者 = [[江ノ島電鉄]] |所属路線 = {{Color|forestgreen|■}}[[江ノ島電鉄線]] |キロ程 = 0.0 |起点駅 = 藤沢 |所在地 = [[神奈川県]][[藤沢市]]南藤沢21番1号 |座標 = {{coord|35|20|14|N|139|29|14|E|region:JP_type:railwaystation|name=江ノ電 藤沢駅}} |駅構造 = [[高架駅]] |ホーム = 2面1線 |開業年月日 = [[1902年]]([[明治]]35年)[[9月1日]] |廃止年月日 = |乗車人員 = |乗降人員 = 22,968 |統計年度 = 2019年 |乗換 = |備考 = }} 江ノ電の駅は、JR・小田急の駅の南口からバスターミナルを挟んだ南側にある[[小田急百貨店]]の2階部分にある。JRの改札続きの南口からは[[ペデストリアンデッキ]]で直接つながっており、屋根も設置してあるので雨天時でも濡れずに行き来できる。[[PASMO]]・[[Suica]]等対応の自動改札機が設置されているが、自動改札機自体は、[[鎌倉駅]]とともにPASMO導入前から設置されていた。 [[便所|トイレ]]は乗車ホームの先端(石上駅側)に設置されている。2006年7月から、ホーム中央に[[ユニバーサルデザイン|多目的]]トイレも設置された([[ベビーベッド]]および[[オストメイト]]対応設備あり)。 改札外には「江ノ電グッズショップ」が設置されている。[[喫茶店]]「江ノ電の珈琲屋さん」も隣接していたが[[2018年]]5月閉店した。<ref>[http://www.enoden-net.com/info/20180510.html 江ノ電の珈琲屋さんの閉店について] 江ノ電エリアサービス</ref> 初期には国鉄や小田急と並行する形で線路とホームがあり、2面2線構造の地上駅であった。駅周辺の[[都市再開発|再開発]]に伴い、現在の駅ビル方式階上2面1線の構造になった。当初は地下化する計画もあったが<ref name="391gaiku">{{Cite journal|和書|url=https://doi.org/10.3130/aija.78.1301| title=藤沢駅前南部第一防災建築街区造成の都市計画史的意義に関する考察|author=中島直人|year=2013|doi=10.3130/aija.78.1301|accessdate=2019-08-15}}</ref>、車両の難燃化などの問題から高架化が選択された。 戦後の一時期は小田急と線路が繋がっており、こちらで新車や[[東京急行電鉄]]から購入した[[貨車]]の搬入がされていたという。 線路終端は第二種車止めとしてドイツ製RAWIE(ローウィー / ラヴィ)の車止めが設置されている。RAWIE社の歴史は江ノ電並みに古く、主に関西と関東の一部の大手私鉄の新線と支線で見受けられる。江ノ電のような中小私鉄が使用しているのは珍しい。 ==== のりば ==== 1線のみの線路両側に降車・乗車に分かれたホームがあり、改札口から入って左側が乗車ホームであり、数字で表す番線表示は無い。江ノ電の列車には2両編成と4両編成があり、列車が到着する際は自動放送で足元の黄色や緑の表示の場所で並ぶように案内される。 乗車ホーム中央下に0km[[距離標|ポスト]]がある。 乗車ホームは平成に入り拡幅工事が施工された。以前はチューブ状の乗り場だった。 <gallery> Enoden Fujisawa Station BayPlatform.jpg|ホーム(2009年5月) Enoshima Electric Railway 0km post.jpeg|0kmポスト(2009年4月) </gallery> == 駅弁 == [[大船軒]]がJR改札外横に出店している。主な[[駅弁]]は下記の通り<ref>{{Cite journal|和書|year=2023|publisher=[[JTBパブリッシング]]|journal=JTB時刻表|issue=2023年3月号|page=150}}</ref>。 {{Div col||20em}} * 伝承鰺の押寿し * やまゆり牛しぐれ煮弁当 * しらす弁当 * 鰺の押寿し * 大船軒ハムサンドウィッチ {{Div col end}} 駅弁とはみなされていないが、JR改札口に隣接する藤沢ルミネプラザの[[崎陽軒]]にて[[シウマイ弁当]]が購入可能。<ref>[http://kiyoken.com/shop/kanagawa.html 店舗情報(神奈川県)] 崎陽軒</ref> == 利用状況 == 藤沢市の中心駅で、2012年度の各社合計の乗降人員は1日平均約39万人であり、これは藤沢市のみならず、湘南地域の鉄道路線全駅で最も多く<ref>{{PDFlink|[https://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/bousai/bosai/bosai/taisaku/kitakukonnansha/documents/eriabousaikeikaku.pdf 藤沢駅周辺地域エリア防災計画]}} - 藤沢市</ref>、全国的に見ても[https://d.hatena.ne.jp:443/keyword/%E9%A7%85%E5%88%A5%E4%B9%97%E9%99%8D%E5%AE%A2%E6%95%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0 34位]である。 * '''JR東日本''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''95,857人'''である<ref group="利用客数">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員] - JR東日本</ref>。 *: 同社全体では[[武蔵小杉駅]]に次いで第28位。JR東日本の[[電車特定区間]]外の駅としては最も多い。 * '''小田急電鉄''' - 2021年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''134,657人'''である<ref group="小田急" name="odakyu2021" />。 *: 同社の駅の中では[[代々木上原駅]]に次いで第4位。江ノ島線内では最も多い。 * '''江ノ島電鉄''' - 2019年度1日平均'''乗降'''人員は'''22,968人'''である<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=https://www.enoden.co.jp/corporate/company/book/pdf/2021-all.pdf|archiveurl=|title=江ノ電グループ会社要覧 2021年版|archivedate=|accessdate=2021-04-17|publisher=江ノ島電鉄|format=PDF|page=45|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。 *: 同社の全15駅の中では[[鎌倉駅]]に次いで第2位。 === 年度別1日平均乗降人員 === 近年の1日平均'''乗降'''人員の推移は下表の通り。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗降人員<ref name="fujisawa" group="乗降データ">[http://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/shise/toke/nenpo/index.html 統計年報] - 藤沢市</ref><ref group="乗降データ">[http://www.train-media.net/report/index.html 各種報告書] - 関東交通広告協議会</ref> !rowspan="2"|年度 !colspan="2"|小田急電鉄 !colspan="2"|江ノ島電鉄 |- !1日平均<br/>乗降人員!!増加率!!1日平均<br/>乗降人員!!増加率 |- |1930年(昭和{{0}}5年) |1,955|| || || |- |1935年(昭和10年) |1,862|| || || |- |1940年(昭和15年) |4,556|| || || |- |1946年(昭和21年) |18,979|| || || |- |1950年(昭和25年) |21,671|| || || |- |1955年(昭和30年) |28,612|| || || |- |1960年(昭和35年) |40,239|| || || |- |1965年(昭和40年) |65,948|| || || |- |1970年(昭和45年) |84,713|| || || |- |1975年(昭和50年) |98,948|| || || |- |1980年(昭和55年) |118,798|| || || |- |1985年(昭和60年) |138,261|| || || |- |1990年(平成{{0}}2年) |161,123|| || || |- |1993年(平成{{0}}5年) |166,924|| || || |- |1995年(平成{{0}}7年) |165,038|| || || |- |2000年(平成12年) |142,096|| || || |- |2002年(平成14年) |138,215|| ||19,018|| |- |2003年(平成15年) |140,228||1.5%||19,670||3.4% |- |2004年(平成16年) |141,484||0.9%||19,349||&minus;1.6% |- |2005年(平成17年) |142,109||0.4%||19,658||1.6% |- |2006年(平成18年) |144,419||1.6%||20,048||2.0% |- |2007年(平成19年) |151,985||5.2%||20,886||4.2% |- |2008年(平成20年) |153,515||1.0%||20,785||&minus;0.5% |- |2009年(平成21年) |153,314||&minus;0.1%||22,953||10.4% |- |2010年(平成22年) |154,045||0.5%||26,001||13.3% |- |2011年(平成23年) |153,771||&minus;0.2%||23,542||&minus;9.5% |- |2012年(平成24年) |157,819||2.6%||20,275||&minus;13.9% |- |2013年(平成25年) |160,538||1.7%||20,870||3.8% |- |2014年(平成26年) |159,074||&minus;0.9%||21,478||2.9% |- |2015年(平成27年) |162,345||2.1%||22,165||3.2% |- |2016年(平成28年) |164,255||1.2%||22,769||2.7% |- |2017年(平成29年) |165,124||0.5%||23,240||2.1% |- |2018年(平成30年) |166,999||1.1%||23,722||2.1% |- |2019年(令和元年) |165,663||&minus;0.8%||22,968||&minus;3.2% |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="小田急" name="odakyu2020">{{Wayback|url=https://www.odakyu.jp/company/railroad/users/|title=鉄道部門:1日平均駅別乗降人員|date=20211215224308}}、2022年8月14日閲覧</ref>122,034||&minus;26.3%|| || |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="小田急" name="odakyu2021">{{Wayback|url=https://www.odakyu.jp/company/railroad/users/|title=鉄道部門:1日平均駅別乗降人員|date=20220801142718}}、2022年8月14日閲覧</ref>134,657||10.3%|| || |} === 年度別1日平均乗車人員 === 近年の1日平均'''乗車'''人員の推移は下表の通り。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref name="fujisawa" group="乗降データ" /> !年度!!JR東日本!!小田急電鉄!!江ノ島電鉄!!出典 |- |1995年(平成{{0}}7年) |103,085 |82,215 |12,327 |<ref group="乗降データ">[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/life/1128766_3967261_misc.pdf#search=%27%E7%B7%9A%E5%8C%BA%E5%88%A5%E9%A7%85%E5%88%A5%E4%B9%97%E8%BB%8A%E4%BA%BA%E5%93%A1%EF%BC%881%E6%97%A5%E5%B9%B3%E5%9D%87%EF%BC%89%E3%81%AE%E6%8E%A8%E7%A7%BB%27 線区別駅別乗車人員(1日平均)の推移]</ref> |- |1998年(平成10年) |99,985 |77,254 |12,246 |<ref group="神奈川県統計">平成12年</ref> |- |1999年(平成11年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/1999.html 各駅の乗車人員(1999年度)] - JR東日本</ref>95,373 |72,825 |11,984 |<ref group="神奈川県統計" name="toukei2001">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369557.pdf 平成13年]}}</ref> |- |2000年(平成12年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2000.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>92,640 |70,187 |12,107 |<ref group="神奈川県統計" name="toukei2001" /> |- |2001年(平成13年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2001.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>92,231 |69,233 |12,064 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369552.pdf 平成14年]}}</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2002.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>92,187 |68,348 |11,677 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369547.pdf 平成15年]}}</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2003.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>93,411 |69,159 |11,909 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369542.pdf 平成16年]}}</ref> |- |2004年(平成16年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2004.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>94,192 |70,422 |12,040 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369533.pdf 平成17年]}}</ref> |- |2005年(平成17年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2005.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>95,436 |70,788 |12,322 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369528.pdf 平成18年]}}</ref> |- |2006年(平成18年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2006.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>97,128 |71,836 |12,471 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369523.pdf 平成19年]}}</ref> |- |2007年(平成19年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2007.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>101,691 |75,490 |14,004 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/35540.pdf 平成20年]}}</ref> |- |2008年(平成20年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2008.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>102,629 |76,197 |14,105 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/773803.pdf 平成21年]}}</ref> |- |2009年(平成21年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2009.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>102,240 |76,115 |15,154 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/161682.pdf 平成22年]}}</ref> |- |2010年(平成22年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2010.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>102,284 |76,484 |16,520 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/427362.pdf 平成23年]}}</ref> |- |2011年(平成23年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2011.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>102,054 |76,397 |15,645 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/706868.pdf 平成24年]}}</ref> |- |2012年(平成24年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2012.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>104,300 |78,359 |10,053 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/707631.pdf 平成25年]}}</ref> |- |2013年(平成25年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2013.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>106,254 |79,684 |10,596 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/resource/org_0101/pol_20150926_003_17.pdf 平成26年]}}</ref> |- |2014年(平成26年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2014.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>105,361 |78,920 |10,893 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/resource/org_0101/pol_20160609_001_15.pdf 平成27年]}}</ref> |- |2015年(平成27年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2015.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>107,447 |80,393 |11,226 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/877254.pdf 平成28年]}}</ref> |- |2016年(平成28年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2016.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>108,205 |81,315 |11,525 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/docs/x6z/tc10/documents/15.pdf 平成29年]}}</ref> |- |2017年(平成29年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>108,917 |81,685 |12,096 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/3406/15-30.pdf 平成30年]}}</ref> |- |2018年(平成30年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>109,617 |82,554 |12,410 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/73942/15_2.pdf 令和元年]}}</ref> |- |2019年(令和元年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>108,873 |81,966 |11,957 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/85489/202015.pdf 令和2年]}}</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>81,065 |60,623 |7,430 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/96367/15.pdf 令和3年]}}</ref> |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>87,586 |66,800 |8,705 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/46041/202215.pdf 令和4年]}}</ref> |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>95,857 | | | |} == 駅周辺 == [[File:Fujisawastationfukin.JPG|thumb|北口周辺の様子。様々な建物が並ぶ。]] 駅周辺は湘南地方でも随一の繁華街で、百貨店や大型スーパーが林立する他、数多くの商店や飲食店が並ぶ商店街も各方向に伸びている。また、数多くの銀行、証券、保険会社が駅付近に支店を設けており、特に五大[[都市銀行]]グループと三大[[証券会社]]グループの支店がすべて揃っている。近隣には住宅も多い。 以前は多くの住宅が商店街や商業施設よりも遠い地区にあったが、[[1990年代]]後半以降は駅付近にも[[マンション]]が進出している。駅東側の藤沢市役所は[[国道467号]]を跨ぐように立地しており、その周囲には主要な行政機関が並んでいる。 地形は近くを流れる[[境川 (東京都・神奈川県)|境川]]に向けて緩やかに下る傾斜地になっており、駅東側ではその地形を利用して、国道467号が東海道本線の下を通る形で立体交差している。 道路が駅から放射状に延びており、東海道本線を南北に横断できる道路も少ないことから、休日には駅周辺の道路がしばしば渋滞する。 藤沢駅北口にある排気塔(1979年建設、高さ約13m、幅約9m)は藤沢駅前のシンボルになっており、藤沢駅北口東西地下通路リニューアルの一環で新しいデザイン(北側には遊行寺の門前町や藤沢宿、南側には湘南海岸の海やヨット)に塗り直され、2022年1月23日に完成した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kanaloco.jp/news/government/article-814063.html |title=藤沢駅前のシンボルがお色直し 排気塔に藤沢宿やヨット |publisher=神奈川新聞 |date=2022-01-26 |accessdate=2022-01-26}}</ref>。 === 道路 === * [[国道467号]] * [[神奈川県道306号藤沢停車場線]] - 北口側 * [[神奈川県道32号藤沢鎌倉線]] - 南口側 === 公共施設 === ==== 北口方面 ==== {{columns-list|2| * 藤沢市役所 * 藤沢[[税務署]] * 藤沢[[公共職業安定所]] * [[藤沢簡易裁判所]] * 藤沢[[区検察庁]] * [[日本年金機構]] 藤沢年金事務所 |}} ==== 南口方面 ==== * [[藤沢市民会館]] * [[藤沢市南市民図書館]] * [[秩父宮記念体育館]] * 神奈川県藤沢合同庁舎 === 主な本社・事業所 === * [[藤沢エフエム放送]] * [[日本精工]] 藤沢工場・技術センター === 主な商業施設・商店会 === <!--店舗改廃について、出典を提示ください。また、個別店舗の改廃履歴の全てが、駅記事に必要な記述なのか疑問。--> [[File:Fujisawabigcamera.JPG|thumb|ビックカメラ藤沢店(元さいか屋→丸井)]] ; 商業施設 {{columns-list|2| * [[さいか屋]](1965年4月28日開店<ref name="sesaku">{{PDFLink|[http://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/content/000297259.pdf 平成23年度「藤沢市の商工施策」藤沢市の商業]}}pp.13-18 - 藤沢市</ref>)→移転(1978年11月20日開店<ref name="sesaku" />) ** [[ニトリ]]藤沢店(2017年4月21日<ref>{{Cite web|和書|title=【開店】ニトリ さいか屋藤沢店 |url=https://kaiten-heiten.com/nitori-saikayafujusawa/ |website=開店閉店.com |date=2017-04-20 |access-date=2023-07-16 |language=ja |last=開店閉店.com}}</ref> 開店、2023年2月12日閉店)→[[ヤマダデンキ|ヤマダデンキLABI]]藤沢店(2023年6月2日開店<ref>{{Cite web|和書|title=「日本最大級」ヤマダの「LABI」が藤沢にオープン 品ぞろえとサービスで重点拠点の神奈川強化(電波新聞デジタル) |url=https://news.yahoo.co.jp/articles/278c9946ad558fe5354445774c80461ff192ff22 |website=Yahoo!ニュース |access-date=2023-07-16 |language=ja}}</ref>) * [[オーケー]](1971年6月25日開店<ref name="sesaku" />) * フジサワ名店ビル(1965年11月20日開店<ref>旧「みのる百貨店」「美栄堂百貨店」「山田屋」 [http://aa118d4zwy.smartrelease.jp/anniversary/history/ 名店ビル50周年特設サイト - 名店ビル50年の歩み]</ref>) ** [[有隣堂]](1971年11月19日開店) * ダイヤモンドビル (1966年12月18日開店<ref name="391gaiku" />) * [[緑屋]]→クッチーネ→藤沢プライム * [[十字屋 (百貨店)|十字屋]](1973年9月28日開店<ref name="sesaku" />)→COSTA→[[OPA]](1993年3月開店)→湘南藤沢オーパ<ref>{{Cite web|和書|title=藤沢オーパ/「湘南藤沢オーパ」に名称変更、新規・改装21店|url=https://www.ryutsuu.biz/store/l042517.html|website=流通ニュース|accessdate=2019-05-26|last=株式会社ロジスティクス・パートナー}}</ref>(2019年4月~) ** [[イオンマーケット]] * [[江ノ電百貨店]](1974年4月26日開店<ref name="sesaku" />)→藤沢小田急百貨店(1985年3月2日開店)→[[小田急百貨店]](2005年2月改称)→ODAKYU 湘南 GATE(2019年3月開店<ref>{{Cite web|和書|title=小田急湘南ゲート 2019年3月22日(金)開業!全テナント66店舗一覧!最新情報も!|url=https://shutten-watch.com/kantou/5123|website=出店ウォッチ|date=2019-04-26|accessdate=2019-05-26|language=ja|last=fuku}}</ref>) * [[ダイエー]][[ダイエー藤沢店|藤沢店]](1974年6月22日開店<ref name="sesaku" />、トポス・ダイエーを経て一時閉店。建物を建て替えた上で2011年10月7日に再出店) * [[イトーヨーカ堂|イトーヨーカドー]]藤沢店(1974年6月27日開店<ref name="sesaku" />) * 田原屋(1974年10月10日開店<ref name="sesaku" />、のちに[[パシオス]]に業態変更。2015年10月18日閉店)→[[ドン・キホーテ (企業)|ドン・キホーテ]](2016年6月開店) * [[丸井]](1979年開店、2006年2月28日閉店。移転前のさいか屋跡地)→[[ビックカメラ]](地下1 - 6階)/[[ジュンク堂書店]](7・8階) * [[ルミネ]]藤沢店(1987年2月1日開店、旧藤沢ルミネプラザ)<ref>{{Cite journal|和書 |date = 1987-04 |journal = [[鉄道ジャーナル]] |volume = 21 |issue = 5 |page = 105 |publisher = 鉄道ジャーナル社 }}</ref> ** [[世界堂]]ルミネ藤沢店(2002年3月29日開店、2012年9月7日同フロアに移転縮小) * 藤沢駅南口ビル ([[1990年]]6月7日開業、小田急改札前){{sfn|name="小田急75"|小田急75年史(2003.03) 小田急電鉄}} * 藤沢駅ビル・リエール藤沢(1996年12月1日開店) * [[良品計画|無印良品]](1997年10月31日開店<ref name="sesaku" />、藤沢OPAに移転縮小)→[[ハードオフコーポレーション|HARD・OFF/OFF・HOUSE/Hobby・OFF]]藤沢店(2016年5月開店) * [[サミット (チェーンストア)|サミットストア]]藤沢店(2015年5月13日開店) * [[山神ボクシングジム]](1968年開業) |}} ; 商店会 {{columns-list|2| * 藤沢銀座土曜会 * 弥勒寺商店会 * 遊行通5丁目商店会 * 遊行通り4丁目商店街 * サンパール藤沢商店会 * 柄沢橋商店会 * 南仲通り商店会 * 柳通り睦会 * 藤沢南口らんぶる商店会 * 南口ファミリー通り商店街 * 南藤沢イータウン * 南口本通り商店会 * 南銀座一番街 * 391ビル商店会 |}} ==== かつてあった主な商業施設 ==== * [[志澤|志澤百貨店]] (1974年3月29日開店)→[[リヴィン|藤沢西武]](1978年9月15日開店)→1997年閉店・解体 * [[東急プラザ]](1976年11月開店)→2019年5月閉館・解体<ref>{{Cite web|和書|title=藤沢プラザ本館 閉鎖へ 解体後はマンションに {{!}} 藤沢 |url=https://www.townnews.co.jp/0601/2019/04/26/479477.html |website=タウンニュース |date=2019-04-26 |access-date=2023-07-16 |language=ja}}</ref> ** [[ハンズ (小売業)|東急ハンズ]]藤沢店(東急プラザと共に開店。2006年12月31日閉店) ** [[アニメイト]]藤沢店(2003年1月25日開店。2019年2月23日ドン・キホーテ藤沢駅南口店5階に移転縮小) === 金融機関・郵便局など === {{columns-list|2| * [[横浜銀行]] 藤沢支店・藤沢中央支店・藤沢住宅ローンセンター * [[スルガ銀行]] 藤沢支店 * [[三菱UFJ銀行]] 藤沢支店・南藤沢支店・三菱UFJローンビジネス株式会社藤沢営業所 * [[三菱UFJモルガン・スタンレー証券]] 藤沢支店 * [[みずほ銀行]] 藤沢支店 * [[みずほ証券]] 藤沢支店 * [[三井住友銀行]] 藤沢支店・藤沢ロ-ンプラザ * [[三井住友信託銀行]] 藤沢支店 * [[SMBC日興証券]] 藤沢支店 * [[SBI新生銀行]] 藤沢支店 * [[りそな銀行]] 藤沢支店 * [[静岡銀行]] 藤沢支店 * [[静銀ティーエム証券]] 藤沢支店 * [[野村證券]] 藤沢支店 * [[大和証券]] 藤沢支店 * [[東京スター銀行]] 藤沢支店 * [[神奈川銀行]] 藤沢支店 * [[証券ジャパン]] 藤沢支店 * [[藤沢郵便局 (神奈川県)|藤沢郵便局]] ** [[ゆうちょ銀行]] 藤沢店 ** [[かんぽ生命保険|かんぽ生命]] 藤沢支店 * 藤沢南口[[郵便局]] * 藤沢南仲通郵便局 |}} == バス路線 == === 藤沢駅北口 === <!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。--> {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !のりば!!運行事業者!!系統・行先!!備考 |- !1 |rowspan="2" style="text-align:center;"|[[神奈川中央交通|神奈川中央交通東]] |[[神奈川中央交通東・藤沢営業所#藤沢駅北口 - 神明町 - 高山車庫方面|'''藤01''']]:[[神奈川中央交通東・藤沢営業所|高山車庫]] |- !rowspan="2"|2 |{{Unbulleted list|[[神奈川中央交通東・藤沢営業所#藤沢駅北口 - 浜見山 - 辻堂団地・辻堂駅方面|'''藤04''']]:[[辻堂団地]]|'''藤06''':[[辻堂駅]]南口}} |「藤06」は平日のみ運行 |- |rowspan="2" style="text-align:center;"|[[江ノ電バス]] |[[江ノ電バス湘南営業所#藤沢 - 辻堂団地線|'''藤04''']]:辻堂団地 |- !3 |[[江ノ電バス湘南営業所#藤沢 - 鵠沼車庫線(藤原経由)|'''F9''']]:[[鵠沼]]車庫 |- !4 |rowspan="3" style="text-align:center;"|神奈川中央交通東 |[[神奈川中央交通東・藤沢営業所#大船駅 - 柄沢 - 藤沢駅方面|'''船32'''・'''船33''']]:[[大船駅]]西口 |- !5 |{{Unbulleted list|[[神奈川中央交通東・藤沢営業所#藤沢駅北口 - 戸塚バスセンター方面|'''戸81''']]:[[戸塚駅|戸塚バスセンター]]|[[神奈川中央交通東・藤沢営業所#藤沢駅北口 - 横浜医療センター方面|'''藤54''']]:俣野公園・[[横浜薬科大学|横浜薬大]]前|'''藤55''':[[国立病院機構横浜医療センター|横浜医療センター]]|'''藤56''':聖母の園前|[[神奈川中央交通東・藤沢営業所#大船駅 -(国道1号)- 藤沢駅方面|'''船65''']]:大船駅西口}} |{{Unbulleted list|「藤55」は土休日のみ運行|「藤56」は終バスのみ|「船65」は平日夕のみ運行}} |- !rowspan="4"|6 |{{Unbulleted list|[[神奈川中央交通東・藤沢営業所#藤沢駅北口 - 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桔梗山線)|'''F1'''・'''F11''']]:[[鎌倉駅]]|'''F12''':桔梗山|'''F15''':手広}} |{{Unbulleted list|「F11」は夜間のみ運行|「F15」は平日朝のみ運行}} |- !2 |{{Unbulleted list|[[江ノ電バス湘南営業所#片瀬山循環線|'''F2''']]:[[片瀬山]]循環|[[江ノ電バス湘南営業所#小動循環線|'''F4''']]:小動循環 / 小動}} |&nbsp; |- !3 |{{Unbulleted list|[[江ノ電バス湘南営業所#藤沢 - 江ノ島線|'''F3''']]:[[江の島|江ノ島]]|'''F20''':片瀬山循環|'''F21''':[[西鎌倉駅|津村]]|'''F23''':[[江ノ電バス湘南営業所|湘南車庫]]|'''F31''':[[湘南港]][[桟橋]]|'''F35''':[[辻堂駅]]南口|'''F37''':[[新江ノ島水族館|江ノ島水族館前]]}} |「F31」「F35」「F37」は土休日朝1本のみ運行 |- !4 |{{Unbulleted list|[[江ノ電バス湘南営業所#藤沢 - 大船線(手広経由)|'''N1''']]:大船駅東口交通広場|'''N11'''・'''N12(急行)''':長島|[[江ノ電バス湘南営業所#藤沢 - 大船線(手広経由) 2|'''N13''']]:湘南車庫}} |{{Unbulleted list|「N1」「N11」は朝および平日夕のみ運行|「N12」は平日朝のみ運行}} |- !5 |[[江ノ電バス湘南営業所#高根線|'''F5''']]:高根 |&nbsp; |- !rowspan="2"|7 |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|江ノ電バス|[[京浜急行バス]]}} |[[江ノ電バス#空港連絡バス|'''空港連絡''']]:[[東京国際空港|羽田空港]] |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|[[南海バス]]|[[和歌山バス]]}} |[[南海バス#夜行高速バス|'''夜行高速''']]:南海なんば高速バスターミナル |&nbsp; |- !8 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::{{Color|#18469d|■}}各駅停車 :::[[藤沢本町駅]] (OE 12) - '''藤沢駅 (OE 13)''' - [[本鵠沼駅]] (OE 14) ;江ノ島電鉄 :[[File:Number prefix Enoden.svg|15px|EN]] 江ノ島電鉄線 :::'''藤沢駅 (EN01)''' - [[石上駅]] (EN02) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === ==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注釈"}} ==== 出典 ==== <!-- 文献参照ページ --> {{Reflist|2}} === 利用状況 === ; JR・私鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="利用客数"}} ; JR東日本の1999年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|23em}} ; 小田急の1999年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="小田急"|30em}} ; JR・私鉄の統計データ {{Reflist|group="乗降データ"}} ; 神奈川県県勢要覧 {{Reflist|group="神奈川県統計"|16em}} == 関連項目 == <!-- 本文記事を理解する上での補足として役立つ、関連性のある項目へのウィキ間リンク、ウィキリンク。可能なら本文内に埋め込んで下さい。 --> {{commonscat|Fujisawa Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[東海道線 (JR東日本)]] - JR東日本の運転系統についてはこちらを参照。 * [[平野友輔]] == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=1361|name=藤沢}} * [http://www.odakyu.jp/station/fujisawa/index.html 藤沢駅](各駅のご案内) - 小田急電鉄 * [https://www.enoden.co.jp/train/station/fujisawa/ 藤沢駅] - 江ノ島電鉄 * [https://stanford.maps.arcgis.com/apps/SimpleViewer/index.html?appid=baf871db3a5148ec8ab1a427073805a1 二万五千分地形圖] (スタンフォード大学ライブラリ)- 明治40年測量・昭和12年要部修正測図(陸地測量部) ** 藤澤 https://purl.stanford.edu/rz359dx8242 {{東海道本線 (JR東日本)}} {{東海道貨物線}} {{小田急江ノ島線}} {{江ノ島電鉄線}} {{土木学会デザイン賞}} {{DEFAULTSORT:ふしさわ}} [[Category:藤沢市の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 ふ|しさわ]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:東海道線 (JR東日本)]] [[Category:小田急電鉄の鉄道駅]] [[Category:江ノ島電鉄の鉄道駅]] [[Category:1887年開業の鉄道駅]] [[Category:1880年代日本の設立]]
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西武鉄道
西武鉄道株式会社(せいぶてつどう、英: SEIBU RAILWAY Co.,Ltd.)は、埼玉県所沢市に本社を置く日本の鉄道会社である。登記上の本店所在地は東京都豊島区南池袋にある。 東京都北西部と埼玉県南西部で12鉄道路線(総延長176.6キロメートル) と関連事業(バス・タクシー・旅行・観光・商業・不動産開発など)を運営する西武グループの主要企業で、日本の大手私鉄の一つである。また、プロ野球・埼玉西武ライオンズの親会社(2009年から)でもある。 「西武」の名称は「武蔵国の西部」に由来する。また、利用客の多くは西武鉄道の路線のことを「西武線」と呼んでおり、車内放送などでも「西武線」と呼称している。 西武鉄道は、東急や阪急電鉄(阪急阪神ホールディングス)などの大手私鉄と同じように、経営の多角化を早くに進め、また自社の不動産を中心とした非鉄道事業で大きな利益を上げている。祖業が堤康次郎率いる不動産会社の箱根土地(後のコクド、現在はプリンスホテルに合併)であることも、その背景である。不動産開発は西武沿線は勿論のこと、神奈川県、千葉県の房総や伊豆箱根地方にも広がり、堤康次郎の出身地である滋賀県も1943年から近江鉄道を傘下としていることなどにより西武鉄道の事業エリアとなっている。 昭和中期には箱根の不動産開発をめぐり小田急グループ(当時の東急系)と「箱根山戦争」と称される縄張り争いが繰り広げられた。現代では、2003年から小田急電鉄と観光地や鉄道沿線事業での提携や、「東急線西武線まるごときっぷ」といった共通商品の開発に乗り出しており、また2013年以降は東京メトロ副都心線を経由して西武池袋線と東急東横線が相互直通運転を開始するなど、対立していた小田急や東急と現在では協調している。 鉄道事業での収入より不動産部門の方が主となっているが、2006年のグループ再編により、日本国内のリゾート関係の不動産は兄弟会社のプリンスホテルや西武プロパティーズ(旧:西武不動産販売)へ段階的に譲渡されている。旧宮家(皇族)の持っていた東京都心や駅前の超一等地、神奈川県の箱根や湘南、長野県の軽井沢といった人気リゾート地にホテルやスキー場、ゴルフ場などの広大な土地を所有しており、企業の土地資産価値で日本一の時代もあった。かつては阪急や東急、近鉄を抑えて大手私鉄の中で時価総額が最大であった。その恵まれた土地資産を活用して、石神井公園駅、大泉学園駅、小手指駅周辺などの沿線再開発のほか、赤坂プリンスホテル跡地に大規模な再開発ビルである「東京ガーデンテラス紀尾井町」を開業した。また、所沢駅周辺や東京都区部の池袋・品川・高輪でも再開発を進行・計画中である。 西武グループとして商業施設や小売・外食店を展開している ものの、関東の大手私鉄では相模鉄道(相鉄)や東京地下鉄(東京メトロ)とともに、グループ内に百貨店を持っていない(百貨店の「西武」を経営するそごう・西武は後述するようにフォートレス・インベストメント・グループ傘下であり系列外)。これは、創業者である堤康次郎死後、西武鉄道などは堤義明率いる西武鉄道グループ(現:西武グループ)、西武百貨店などは堤清二率いる西武流通グループ(後のセゾングループ、2000年代に実質解体)の2グループに分かれたため。ただし、2003年のミレニアムリテイリング第三社割当増資時に和田繁明社長(当時)が堤義明会長(当時)へ打診し、西武鉄道が出資を引き受けた。2006年の西武ホールディングス設立に伴うコクドの第三者割当増資時にはミレニアムが10億円出資を引き受け、セブン&アイ・ホールディングスがミレニアム株式を現金で買上げるまでの数か月間は株式の持ち合い状態であった。2020年時点でも、西武グループの統括会社である西武ホールディングスとセブン&アイ・ホールディングスは「連携強化のため」にお互いに株式を持ち合っており、西武鉄道・プリンスホテルと西武池袋本店が共同で外国人観光客誘致を行う、秩父地方で採れた農産物を西武の特急列車で輸送し、西武池袋本店で販売するなどの協業を行っている(詳細は「そごう・西武#西武グループとの関係」参照)。なお、そごう・西武は2023年にアメリカ合衆国の投資ファンド「フォートレス・インベストメント・グループ」に売却されセブン&アイグループから離脱した。 西武百貨店の小店舗として登場したスーパーマーケットの西友が西武沿線に多いのは、グループ分裂前に発展過程で店舗と土地を賃貸しているのが、現在まで継続しているからである。西友が米ウォルマートの子会社になってからも西友とのつながりは未だに深く、西武鉄道の開発するニュータウンや駅改良工事後に、西友の新店舗が開店することが多い。また、西友の小売事業として発足したファミリーマートとは、駅ナカコンビニTOMONY(トモニー)の展開で提携しているなど、かつてのセゾングループとのつながりを見ることが出来る。 一方で西武鉄道グループとしても、西武リアルティソリューションズ(旧プリンスホテル)を介して、PePeやEmioなどの駅ビルやBIG BOX、アウトレットモールといった大型商業施設の運営を行っている(元は2022年にプリンスホテルに合併された西武プロパティーズの事業)。また、旅行業部門として西武観光を擁しており、一般客向けには西武線のターミナル駅構内に窓口が置かれている。 首都圏で東京都区部と周辺地域を結ぶ鉄道他社、特に小田急電鉄や東急電鉄では利用客の増加に対応し線路の複々線化が活発に行われたが、西武鉄道では複々線化について、池袋線では練馬駅から石神井公園駅までを複々線化した一方で、新宿線では西武新宿駅 - 上石神井駅間の複々線化が計画されたが、その後少子高齢化の進行に伴う利用客の減少の見込み等により、計画を中止した。 一方、老朽化した駅施設などのリニューアルを活発に進めており、1999年の田無駅を皮切りに野方、花小金井、狭山市、東長崎、江古田、東久留米、所沢の各駅で駅舎の全面改築が行われている。2007年からはファミリーマートと協業した駅売店「TOMONY(トモニー)」や2010年代以降は駅ビル型の中小規模な駅ナカ商業施設として「Emio(エミオ)」やより大規模な「Grand Emio(グランエミオ)」を開業させ、駅の改築に合わせて順次展開していく見通しである。 西武鉄道は2006年2月の西武グループ再構築まで長きに亘り、堤家のコクドが株式の多くを保有する同族経営(=ファミリー企業)であった。 康次郎亡き後は後継者となった堤義明による経営手腕で1960年代以降、プリンスホテルとその近隣でのスキー場、ゴルフ場、スケートリンクなどのリゾート開発と、ニュータウン/宅地開発などが東日本を中心に大規模に推し進められた。兄弟会社であったプリンスホテル(旧)の不動産物件はほとんど西武鉄道の所有であり、プリンスホテル社は運営のみを行っていた。また、1978年にはコクド(当時は国土計画)がクラウンライターライオンズを買収して、西武ライオンズを誕生させプロ野球球団経営に進出する。建築には西武建設(旧)、庭や芝生管理に西武造園を用いるなど内部経済でコクド・西武鉄道グループとしての規模を拡大させ社員3万人を有し、「西武王国」と言われた。また、1980年代には堤義明は世界の富豪(世界長者番付)入りを果たした。 1957年から東証一部に上場していたが、2004年に発覚した証券取引法違反事件により同年12月に上場廃止処分となり、その後のコクド・西武鉄道・プリンスホテル間での事業領域の再構築と不採算物件の売却が行われるなど、大きな転換期となった(後述)。 2004年2月に総会屋の求めに応じて土地を安く譲渡させる形での利益供与が発覚し(西武鉄道総会屋利益供与事件)、総会屋側と利益供与に関わった西武鉄道と西武不動産販売(2009年に西武プロパティーズが事業承継)の役員合わせて11人が商法違反で逮捕・送検される事態となった。これにより、同年4月14日に旧西武鉄道グループ・西武ライオンズ(当時)のオーナーで西武鉄道・コクド会長を務める堤義明と戸田博之西武鉄道社長が記者会見を開き、西武鉄道会長・社長職の引責辞任を発表する。これにより、同族資本の鉄道会社は東武鉄道と富士急行が残るのみとなった。後任の西武鉄道社長には小柳皓正専務が昇格する形で就任した。 約6か月後の同年10月13日に、堤義明コクド会長が急遽記者会見を開き、有価証券報告書虚偽記載(2004年3月期決算の有価証券報告書上で、コクドが保有する西武鉄道の保有株数を22%過少申告していた)を公表。コクド会長職なども辞任表明をした。実態的には、西武鉄道株式〔西武株〕のコクド持株分の多くを、西武鉄道グループ各社の従業員持株会・OB関係者と堤義明コクド会長ら、1,000名以上の個人の「名義株」に偽装し、コクド・伊豆箱根鉄道など上位10名(社)の西武株式保有分のみで、東京証券取引所の上場廃止基準である80%を超えていたことを伏せて株式公開していた。1,000円台の堅調な値動きをしていた西武株は、発表翌日からストップ安となり、東京証券取引所や証券取引等監視委員会、東京地方検察庁も、西武鉄道・コクド幹部への事情聴取に乗り出した。 西武鉄道は、連鎖的に同じ事態が発覚した伊豆箱根鉄道とともに、株式名簿管理を証券代行会社へ委託せず、自社内で行っていた(東証上場企業では当時3社のみ)が、株券の電子化(2009年開始)では、証券保管振替制度によって株券を証券保管振替機構(ほふり)の参加者(証券会社・信託銀行等)口座を通じて預託(移管)した。その過程で名義人の実在確認が必要となるため、電子化が導入された時点で名義株が発覚してしまう事態は元々予想されていた。なお、この株主偽装は上場当初の1957年から存在したと言われている。 一方、発表前の同年9月前後に西武鉄道とコクド(プリンスホテル等)を通じて取引関係のあるキリンビール、サントリー、東京コカ・コーラボトリングなどの複数の飲料メーカー、王子製紙、ワコール、日立グループ、三菱電機、小田急電鉄、鹿島、前田建設、クレディセゾンなど30企業に対し、西武株式8千万株を虚偽記載であることを伏せたまま売却した。10月の虚偽記載公表後の株価下落による損失を招いたことで、株式買い戻し(購入代金の返還)請求が起こされたとともに、売却を打診したコクド・西武鉄道の幹部や堤義明前会長に対しては、インサイダー容疑であわせて捜査が行われた。 これらの事態によって、東証は11月16日に「虚偽記載という不適切な情報開示」と「公益・投資者保護」を理由に、西武株式の上場廃止を決定し、11月17日に整理ポスト入りさせ、12月16日をもって取引を終了し、翌17日で上場廃止となった。伊豆箱根鉄道においても、西武鉄道が50%超を持株保有していると、2000年度分からの有価証券報告書を訂正し、上場廃止となった。 上場廃止となるのは、それまでは企業の倒産(会社更生法・民事再生法申請などの法的整理)や、M&A、株式公開買付に伴うものが通例であったことから、極めて異例の事態であった。2006年のライブドア事件においても、酷似のケースで上場廃止となっている。 2005年3月3日に、堤義明は証券取引法違反(有価証券報告書の虚偽記載とインサイダー取引)容疑で、東京地方検察庁特別捜査部に逮捕された。同年10月に東京地方裁判所で執行猶予付きの有罪判決を受け、2009年10月に刑猶予期間満了となった。この事件に際しては、コクドの幹部社員と小柳西武鉄道前社長が、相次いで自殺している。 株式問題と並行して、2004年11月に西武鉄道とコクドは共同で「西武グループ経営改革委員会」を発足させ、2005年1月にはコクドの事業部門と西武鉄道などを新設する持株会社の傘下に入れるなどのグループ再構築を発表した。また、旧経営陣は退任し、メインバンクであるみずほコーポレート銀行(旧・第一勧業銀行)副頭取で西武グループ発足後に西武鉄道の代表取締役社長となる後藤高志らが迎えられた。 再編スキームとして、 資本再構成によって、西武鉄道は鉄道事業主体の普遍的な民営鉄道会社となり、西武グループの再編が完了した。 西武鉄道株式については有価証券報告書の虚偽記載が上場廃止の理由であったため、2004年度内のジャスダック上場を目指していたが、年度内上場はスケジュール的に難しく、コンプライアンス体制強化後の上場を目指すことになった。2006年のグループ再編後は株式移転により西武ホールディングスの子会社となっているが、同社株主には上場廃止前と同等に西武鉄道の株主優待乗車証などが謹呈されている。そして2014年4月23日に西武ホールディングスとして東京証券取引所第1部へ上場した。 西武グループ発足後は後藤高志が代表取締役社長として、西武鉄道の新しい体制を築き始めた。この新体制の鉄道事業において特徴的なのが自社のイメージチェンジである。2007年、西武鉄道が中核となる西武グループのスローガン「でかける人を、ほほえむ人へ。」が表すように、現在は他社と同じく、量はもとより質の向上にも力を入れるようになった。同年には社内に「スマイル&スマイル部」が開設され、鉄道ファンや子供に対するイベントを、年間多く実施・企画し沿線の人にもっと西武線と親しんでもらおうと考えている。 その第一陣として登場したのが西武のイメージトレイン30000系(スマイルトレイン)である。それ以前の西武鉄道を思わせる「硬い」雰囲気に一線を画し「ソフトさ」をイメージしている。 2007年2月には、西武鉄道とプリンスホテル・伊豆箱根鉄道など再編後の西武グループ各社が手掛ける物販・ホテル・リゾート各施設でのポイントサービス「プリンスポイント」と「プリンスポイントカード」を共同で導入。2006年9月に先行する形で提携カード「SEIBUプリンスカード」の発行がクレディセゾン・西武鉄道・プリンスホテルの提携によって開始された。同カードではクレジット決済による定期券購入が可能となり、2007年3月開始の「PASMOオートチャージサービス」へも対応している。なお、グループ再編前の1980年代(コクド資本下)より旧プリンスホテルと西武交通などの利用に限定されたハウスカード「プリンスカード」が存在しており(旧日本信販などと提携)、従業員関係者や西武グループの上得意客向けに限定されて発行されていた。2005年4月にクレディセゾンと旧プリンスホテルが提携した「プリンスカード《セゾン》」が一般向けにも募集されるようになったが、「SEIBU プリンスカード」とはサービス面で関連性が無く、新たに新規申込する必要が生じた。 2012年10月および2013年3月、親会社西武ホールディングスの大株主である外資ファンド、サーベラス・キャピタル・マネジメントは、大規模なリストラ案を株主提案した。具体的には不採算5路線(多摩川線・山口線・国分寺線・多摩湖線・西武秩父線)の廃止、埼玉西武ライオンズの売却、プリンスホテルのサービス料の値上げ、品川駅周辺の再開発案の策定とされる。これに対し西武が拒否したため、2013年4月下旬を期限とする敵対的TOBへ発展した。 なお、2013年3月21日の報道でサーベラスは、「路線廃止や球団売却などを強要したことはない」と否定している。また、沿線自治体(特に西武秩父線沿線)からは路線の存続を求める声も上がっており、若林久社長は埼玉県秩父市に対して「公共交通機関なので守る」と説明している。 現在のシンボルマークは新生・西武鉄道を象徴する一環として、新社章を兼ねたものであり、2007年4月1日に制定された。その意匠は旧社章と同じく西武の"西"をモチーフにしている。それぞれマークの形の意味として、2つの輪は、様々なものが鉄道によって出会いつながる姿を、果実のようなデザインは、交流によって生まれる「実り」=「地域・社会の発展」を表現。カラーリングでは、グリーンで「自然との調和」、濃いブルーで「信頼」と「安心・安全」、明るいブルーで「新しいことへの挑戦」をイメージしている。 シンボルマークは2008年4月から既存車両側面に掲示されるようになり、同時に西武鉄道の制服もリニューアルされるなどして、多くの場所でこの社章を見かけるようになった。なお、社名ロゴのフォントも制定・変更され、「SEIBU」という英文表記もされるようになり、同社の広告に記載されたり、シンボルマークとともに全営業車両の先頭車両乗務員室扉横(8500系は車端部)に貼り出されたりした。ただし、近年、英文表記はあまり使わなくなり、同社が発行する広報誌『西武鉄道かわら版』の表紙には2013年度以降、記載されなくなった。また、2014年4月の消費税率変更時に運賃表を貼りかえた際、一部駅の運賃表下にあった「SEIBU」の英文表記が「西武鉄道」の漢字表記に変更され、駅のリニューアル工事後の駅入口看板も同様に変更されている。さらに、2013年度以降導入の30000系、近年に検査入場した車両、フルラッピングで車体色が変更された車両は、「SEIBU」の英文表記が「西武鉄道」の漢字表記に変更されている。 旧社章は西武軌道が1922年に制定したものである。西武の"西"をモチーフにしたもので、野球のボールに似た形をしている。新社章移行後、車両に掲示された旧社章は車体更新に併せて取り外しが進行中である。 西武鉄道は、現在の池袋線系統の路線を開業した武蔵野鉄道が、新宿線系統の路線を開業していた西武鉄道(旧)を合併して出来た会社である。 武蔵野鉄道は、1911年(明治44年)10月18日に鉄道免許を取得し、1912年(明治45年)5月7日に設立、当初は巣鴨駅を起点とする計画であったが、東京府が池袋駅を起点にするよう指示したため、1913年(大正2年)4月に計画を変更。1915年(大正4年)4月15日に現在の池袋線の一部である池袋駅 - 飯能駅間を開業した。1922年(大正11年)に池袋駅 - 所沢駅間、1925年(大正14年)に飯能駅までの全線を電化し、1929年(昭和4年)9月10日に吾野駅まで開業させた。なお西武豊島線は1927年(昭和2年)に、狭山線は1929年(昭和4年)に開業している。 一方、1924年(大正13年)に箱根土地(後のコクド。現在のプリンスホテル)が武蔵野鉄道沿線の東京府北豊島郡大泉村に大泉学園都市の分譲を開始。武蔵野鉄道に東大泉駅(現在の大泉学園駅)を建設した上で寄贈する。翌1925年には武蔵野鉄道の株式を取得した。また、箱根土地は1928年(昭和3年)、村山貯水池(多摩湖)および小平地区一帯を開発すべく、多摩湖鉄道を設立。4月6日に国分寺駅 - 萩山駅間を開業し、1936年(昭和11年)12月30日に村山貯水池まで開業させ、全通した。 1932年(昭和7年)に箱根土地社長の堤康次郎が経営危機に陥っていた武蔵野鉄道の株式を買い集め、再建に乗り出す。1934年(昭和9年)8月28日、武蔵野鉄道は鉄道抵当法に基づく強制執行が実施され、運賃収入が強制管理人に差し押さえられる(1937年〈昭和12年〉まで)。 1935年(昭和10年)1月21日からは、9か月分の電力料金17万円滞納を理由に東京電燈から制限送電を受け、最大5600kwを必要とするところを4000 kwしか受電できなくなった。通勤時の輸送能力が激減して混乱を招いたため、東京電燈側は沿線住民に対して制限送電を行う経緯を記した文書を配布し理解を求めた。経営は一層苦境に立たされるが、1936年(昭和11年)に武蔵野鉄道と債権者の間で和議が成立する。1938年(昭和13年)、大口債権者である東武鉄道の初代社長初代根津嘉一郎らがようやく債務免除に応じ、経営再建に道筋をつけた。 1940年(昭和15年)3月12日、武蔵野鉄道は同系の多摩湖鉄道を吸収合併する。10月、堤は根津および浅野財閥(元々の親会社)から株式を取得して過半数を確保し、社長に就任した(長年、西武鉄道株式のうち約45%を箱根土地の後身会社であるコクドが保有していて、他に西武建設の保有分を合わせると関連会社による持分が過半数を占めていたのはこの一件に由来する)。 西武鉄道(旧)は川越鉄道に始まる。川越鉄道は、甲武鉄道の関連会社として1892年(明治25年)8月5日に設立され、1894年(明治27年)12月21日に現在の西武国分寺線である国分寺駅 - 久米川(仮)駅(現在の東村山駅)間を開業させた。さらに、川越鉄道は1895年(明治28年)3月21日に、現在の西武新宿線の一部である久米川(仮)駅 - 川越駅(現在の本川越駅)間を開業させた。その後、1920年(大正9年)6月1日に武蔵水電に吸収合併された。武蔵水電の前身は、1906年(明治39年)4月16日に川越久保町駅 - 大宮駅間を開業させた川越電気鉄道である。合併後、川越久保町駅 - 大宮駅間の路線は川越東線となった。 1921年(大正10年)10月、武蔵水電は同年に淀橋町角筈 - 荻窪村間を開業させていた西武軌道を吸収合併した。「西武」の名前はこの会社が起源であり、現在の西武鉄道が2007年3月まで使用していた西武の西という字を図案化した社章もこの会社のものであった(ただし、6000系・10000系・20000系以外の現在も残っている車種は一部を除き2009年時点でもその旧社章を使用していたが、更新工事を施工した車両では取り外されている)。翌1922年(大正11年)11月に武蔵水電は帝国電灯に吸収合併されたが、帝国電灯は鉄軌道部門を、武蔵鉄道から改称して同年8月15日に設立された西武鉄道(旧)に分離した。また、川越久保町 - 大宮駅の路線は大宮線となった。 1925年(大正14年)、安比奈線南大塚駅 - 安比奈駅間を開業。1927年(昭和2年)4月16日にこれも現在の西武新宿線の一部にあたる村山線高田馬場駅 - 東村山駅間を複線・電化で開業。同時に東村山駅 - 川越駅間を電化し、高田馬場駅 - 川越駅間の直通運転を開始した。同年8月30日には、現在の多摩川線を開業させていた多摩鉄道を吸収合併した。 1935年(昭和10年)12月27日、西武軌道線(淀橋町角筈 - 荻窪村間)を東京乗合自動車に委託した。委託後、同区間を譲渡(1951年)するまでの歴史は、「都電杉並線#歴史」を参照のこと。 1941年(昭和16年)、前年に川越線の開業に伴い休止していた大宮線を2月25日に廃止した。 1943年(昭和18年)6月、箱根土地が経営権を獲得。堤康次郎が社長に就任した。 1944年(昭和19年)6月、第二次世界大戦下の食糧不足に対応するため、沿線の耕地を利用した大規模食糧供給を目的に、食糧増産株式会社を設立した。 また1944年には、東京都からの委託によって糞尿輸送が開始された。当時都内の糞尿処理は、トラックで東京湾岸へ運び船で海中に捨てていたが、人手不足とガソリン統制により、処理が追いつかなくなっていた。そこで東京都長官の大達茂雄からの要請で、武蔵野鉄道と西武鉄道(旧)と食糧増産の3社が一体となり、専用貨車と積込所・貯溜施設を造って大規模な糞尿処理にあたることとなったのである。同年9月10日夜から普通貨車による糞尿運搬の臨時運転を開始し、11月21日には専用貨車を用いた本運転に入った。この糞尿輸送列車は、「汚穢電車」「黄金電車」「黄金列車」などと呼ばれた。 この時の輸送力はあまり高いものではなく、積込所も2か所、貯溜槽も7か所しかなかった。社長の堤康次郎はさらに輸送規模を拡大させ、当時都内から排泄されていた1日約38,000石の糞尿全てを処理できるように構想を立てた。専用貨車を115両新造して輸送能力を1日20,000石に上げるとともに、両鉄道沿線の数十箇所に糞尿貯溜槽を置き、約271,000石の糞尿をためられるようにする。そして輸送は主に深夜に行い、その帰りは貨車の上に特設台を設置し、都内向けの野菜を運搬しようというものであった。 しかし衛生面などで問題が続出し、糞尿輸送は次第にその輸送量を減らして行った。書類上は1953年(昭和28年)3月30日までの契約であったが、実際には1951年に輸送が休止して以降、再開されないままの廃止で、堤の輸送拡大構想は結局実行されないまま終わった。 なおこの糞尿輸送が行われている最中に武蔵野鉄道と西武鉄道(旧)と食糧増産の3社が合併しているが、社名に「農業」を付して「西武農業鉄道」とした由来はこのようなことにある。 戦後、西武鉄道の復興は他社に比べ目覚ましいものだった。大手他社が国鉄モハ63形の割当てにより体制を整えようとしている中、西武鉄道では国鉄の戦災車や事故車、これらが枯渇すると老朽廃車となった木製車を大量に譲り受け、自社(当時は復興社のちに西武建設経営)の所沢車両工場で改造、修繕や木造車体の鋼体化を実施した。これにより、モハ63形新製割当ての見返りに従来車を地方私鉄に供出する義務から解放され、輸送力増強を成し遂げたのである。国鉄の改造車ばかり走っていたことから、利用者からは「第2の国鉄」とまで呼ばれていた。国鉄の事故車などを導入したためモハ63にTR11という大正時代の台車を履かせた、国鉄どころか国内でも最低な水準の電車も作られ運行が行われた。徐々に車両数が増えると車体を新造するようになったが、台車や機械類は国鉄から譲り受けたものだった。 しかし、1954年(昭和29年)からようやく車体の完全新造が始まった。この時、登場した351系(登場当時501系)はこれから長きにわたる西武電車の基本デザイン「湘南デザイン」を確立した。この時の西武線を走っている電車と言えば、雑多な形態の電車を連結して、武蔵野台地を駆け巡るという印象が強かった。戦後の西武鉄道の方針は「質より量」で、車両の高速化はいち早く実施されてはいるものの他社では1950年代中盤(昭和20年代終盤)から登場したいわゆる高性能車の導入はせず、他系列との併結を考慮し性能の統一化を図ることから、一貫して旧来の吊り掛け駆動の増備を続けていたため「見せかけの新車」と揶揄されていた。その後登場した西武初の高性能車とも言えるカルダン駆動の601系・701系電車にしても、旧来の吊り掛け駆動車との併結が前提で、機能的には動力伝達方式をアップデートしただけであり、吊り掛け駆動車と併結することによってカルダン駆動本来の性能を発揮できていなかった(詳細は各系列の記事を参照)。電動車の台車は新製されるようになったものの、付随車の台車は国鉄から譲り受けた旧式な釣合梁式のTR11系の改造品であった。従来車との混用を考慮しない、電気制動を可能とした真の意味での高性能車が導入されたのは、西武秩父線開業を控えた、実に1960年代終盤(昭和40年代中盤)のことであった。 1963年(昭和38年)11月1日からは、他社ではまだ6両編成が最長で、しかも18m級車両で編成を組んでいた時に、西武鉄道では池袋-所沢間に日本の私鉄で初めて10両編成を走らせ、単位輸送力を確保した。乗車率が最大で200%を軽く超えていた時代のことであり、西武鉄道の「質より量」という方針が初めて結果につながった瞬間となった。 1969年(昭和44年)には自社のイメージの確立に乗り出し、現在でも利用者の西武鉄道のイメージである「黄色い電車」の第1号となる101系 が登場する。その後、101系で冷房試作車が登場し、翌年に集中式冷房の採用が決定したのをきっかけに在来車両の高性能化および冷房化が急ピッチで施行されるようになった。この過程で、1977年(昭和52年)には西武鉄道で初の本格的な4扉車かつ界磁チョッパ制御・回生ブレーキを採用した2000系も登場し、省エネルギー化や乗降時間短縮にも貢献するようになった。こうした質的改善により、1985年(昭和60年)5月には車両冷房化率は92.2%と大手私鉄全社中3位、関東大手私鉄では1位に達した。戦後、復興の際の経営戦略が非常にユニークで他鉄道会社と異なっていることから、現在の沿線イメージ、会社イメージ共に他の関東圏私鉄と比較するとやや異質の存在として見られていることが多い。 他の大手私鉄では昭和20年代に東京都心部(主に東京駅・有楽町など)への路線延伸申請を競い合うように行なったが、西武はその動きとは一線を画した。 1986年(昭和61年)に西武鉄道本社は東京都豊島区から埼玉県所沢市へと移転した。同時に西武グループ本社も移転している。東京都区部に路線を持つ鉄道事業者は現在も都区内に本社を置く場合が多いが、このように中心機能を東京の中心地から離した例は、他に東京都新宿区から多摩市へ移転した京王電鉄や、2013年に本社を東京都墨田区から千葉県市川市へ移転した京成電鉄がある。本社移転の狙いは、主要路線が2本交わる所沢駅を中心とした都市開発を行って沿線の開発・活性化を図ることや、沿線や輸送サービスの実態確認の容易化のためである(京王電鉄や京成電鉄の本社移転も同様の理由である)。 2017年(平成29年)1月16日、西武ホールディングスは都心事業の展開を強化する目的で、2019年春にかつての本社所在地に建設するビル内に本社を移転した上で入居することを発表し、西武グループとしては33年ぶりに池袋の地へ復帰することになった が、西武鉄道の本社は所沢市に残る予定。 現有路線の総延長・旅客営業キロは176.6 kmで日本の大手私鉄では5番目に長い営業キロを持つ(東京地下鉄が発足し大手私鉄に加わった2004年4月以降)。成立や運転系統により、池袋線系統(旧・武蔵野鉄道)と新宿線系統(旧・西武鉄道)におおむね大別できる。この池袋線と新宿線が西武鉄道の主要幹線であり、池袋駅が西武鉄道における最大のターミナル駅である。また、本線(池袋線・新宿線)系統から完全に独立した路線として多摩川線がある。 全線複線の路線は西武有楽町線のみで、他の路線は一部区間または全線が単線である。全線複線の路線が1路線しかないのは関東の大手私鉄では珍しい。また東京地下鉄とともに、政令指定都市に路線や駅が所在していない大手私鉄となっている。 池袋線と新宿線には、未だに開かずの踏切が点在する。この状況を解消すべく地方公共団体が主体で、立体交差化に取り組んでいる。 池袋線は、2015年1月25日に桜台駅 - 大泉学園駅付近までの高架化が完了した。 新宿線は、2022年現在、中井駅 - 野方駅間の地下化と東村山駅付近の高架化による立体交差化工事がそれぞれ行われている。 西武鉄道の路線では西武有楽町線をのぞく全線でATSを使用している。このうち、新交通システムの山口線をのぞく全線では高周波連続誘導車上速度照査式ATSを、山口線では点制御による多情報変周式ATSをそれぞれ採用している。西武有楽町線では西武線で唯一のATCを採用している。 山口線と西武有楽町線をのぞく全線で使用されている高周波連続誘導車上速度照査式ATSは、他のATSや初期型のATCよりも高性能な保安装置である。AF軌道回路を用いたATSは西武鉄道のほかに阪神電気鉄道・阪急電鉄・山陽電気鉄道・相模鉄道(現在は地上子を使用する点制御によるATS-Pに移行して廃止)・西日本鉄道で採用例があるが、西武鉄道ではパターン式となっている。過去に西武線ではAM系自動空気ブレーキ車や貨物列車が走行していたことから、ブレーキ性能別に制御する必要があるためATS作動時には非常ブレーキがかかる。制限速度以下になると自動的に緩解する。分岐上では軌道によって信号を送ることができないため、ループコイルを使用している。JR福知山線の脱線事故を受けて、急な曲線、分岐器(ポイント)箇所等の制限速度に対しても、列車を自動的に減速、または停止させる機能を追加した装置への更新を行い、2010年6月に完了した。 西武有楽町線で使用しているATCは、レールに設けられた軌道回路に先行列車の位置及び進路の条件に応じて作成されたATC信号(速度信号)を流し、車内では列車の許容最高速度を示す信号を連続して現示、その信号現示に従って列車の速度を自動的に制御する方式である。かつて乗り入れ先の有楽町線を含めた営団および後身の東京地下鉄各線や国鉄および後身のJR東日本常磐緩行線で使われていたCS-ATC(JR名称:ATC-4型)とほぼ同じものであるが、東京地下鉄では副都心線に新CS-ATCを採用し、有楽町線でも西武有楽町線と同一のATCから新CS-ATCへと変更されている。西武有楽町線は全駅の出発信号機が停止定位であり、このATCにより駅停車時に段階的に減速する。 2005年に更新された新型自動放送は、担当声優は上りが豊田真由美・下りが鈴木盛久が担当しているが、多摩川線・山口線では異なる。 西武鉄道では一部の駅をのぞいて独自の発車メロディを使用している。1994年2月に使用を開始し、最盛期には50種類が存在していた。駅・ホームごとに異なっていて当初は主要駅にしか導入されていなかったが、その後は各駅停車のみが停車する駅にも導入されている。しかし、種類は6種類まで絞り込まれている。私鉄の中では京阪電気鉄道や阪神電気鉄道などと並んで発車メロディの採用は早かった。一部駅では旧オリジナル発車メロディを現在も引き続き使用している。ご当地発車メロディとしてご当地ソングを採用した駅が多くあり、高田馬場駅は「マルコメCMソング」、上井草駅は「翔べ! ガンダム」、椎名町駅は『怪物くん』(1968 - 1969年)主題歌「おれは怪物くんだ」、大泉学園駅は『銀河鉄道999』映画版主題歌「銀河鉄道999」、西所沢駅(1・2番ホーム)は「吠えろライオンズ」、下山口駅(1・2番ホーム)は、「若き獅子たち」、西武球場前駅(1 - 6番ホーム)は「地平を駈ける獅子を見た」、西武秩父駅では「旅立ちの日に」、狭山市駅は「七夕さま」、入間市駅は「茶つみ」、本川越駅は「愛の季節」、東村山駅(国分寺線ホーム)は「東村山音頭」、練馬高野台駅は「きれいな川」、「たのしい場所」 、所沢駅は「さんぽ」(1・2番ホーム)と「となりのトトロ」(3 - 5番ホーム)が採用されている。 2022年3月時点で、池袋線内の駅は原則として下りはシャープ系、上りはフラット系の音響で統一されている。 車内自動放送は、1992年登場の6000系から搭載が始まり、同年以降に製造された新型車両と、2006年度以降に更新された2000系(2031Fが初)・新101系のワンマン仕様車に搭載されている。車内自動放送は本線通勤車用・特急車用・山口線用・多摩湖線用・多摩川線用の5種類が存在する。2008年の東京地下鉄副都心線開業・相互直通開始に伴い更新され、これまで日本語のみだったのがさらに英語も加えられた。 日本語の声優は1992年当初から石毛美奈子 が(ただし、1985年 - 2003年までのレオライナー8500系車両および2008年以前の多摩川線はのぞく)、英語の声優は初の英語車内放送採用の2008年からクリステル・チアリが担当している。更新前の自動放送と比べ日本語はかなり簡略化されたが、これは車掌の肉声によって分かりやすい情報を提供するためだとしている。 西武鉄道には平行ダイヤ区間(複々線でのダイヤ構成)が池袋線のごく一部にしかないため、ラッシュ時のダイヤは非常に複雑に、そして巧みに構成されている。特に池袋線ではその特徴がよく表れていて、全国でも珍しい千鳥停車が行われている。これは種別・行き先を問わず、どの電車も乗車率を平均的にするために行われる複雑なダイヤとなっている。しかし、千鳥停車は平日ラッシュ時のみで、ラッシュ時は毎日の通勤や通学で慣れた人がほとんどであり、混乱は無かった。さらに千鳥停車を行うことにより、優等列車が停車する駅での渋滞が少なくなるため、複線のみの時代でもラッシュ時間帯では複線のみの路線では日本の私鉄最大の1時間に29本もの運転本数を確保し、輸送力増強に大きく貢献した。後述するように、2018年春より種別数は10種別体制になっている。新宿線でもかつて千鳥停車を実施していたが、現在は廃止された。 西武鉄道では、2018年3月10日現在、以下の種別の列車を運行している(各駅停車のみ運行する多摩川線・国分寺線・山口線・西武園線・豊島線を除く)。 運行している列車種別数は10種別で、これは日本での列車種別数では京阪電気鉄道と並んで大手私鉄最多である。なお、区間準急が設定されていた1998年から2001年までの間は、当時の大手私鉄では最大の10種別(現行の列車種別に区間準急と同じく廃止された通勤快速との合計)が設定され、また2008年6月から2012年6月までの間は、廃止された拝島快速を加えた9種別が同時に設定されていた。 2020年(令和2年)4月1日現在、特急車84両、通勤車1,196両(うち12両は新交通システム)の計1,294両を保有する。各系列の詳細・使用線区・運用などについてはそれぞれの記事を参照のこと。 現在の西武鉄道を形成した旧・川越鉄道(旧・西武鉄道の前身。1894年〈明治27年〉開業。現・国分寺線と新宿線)・武蔵野鉄道(1915年〈大正4年〉開業。現・池袋線)・多摩鉄道(1917年〈大正6年〉開業。 1927年〈昭和2年〉旧・西武鉄道に合併。現・多摩川線)・多摩湖鉄道(1928年〈昭和3年〉開業。1940年〈昭和15年〉旧・武蔵野鉄道に合併、現・多摩湖線)は、すべて蒸気運転で開業している。大正末期からの電化の進捗により順次姿を消していったが、その間には様々な生い立ちの蒸気機関車の姿が見られた。1950年(昭和25年)の多摩川線の電化完成後は運用も狭まり、1957年(昭和32年)度をもって蒸気運転の長い歴史に幕が下ろされた。また、762mm軌間の普通鉄道であった山口線でも延べ4両(うち2両は借用)1972年 - 1984年(昭和47–59年)の間、蒸機機関車が古典客車を牽引した。 西武鉄道は敗戦後に国鉄から戦災国電や廃用機器の大量払い下げを受けて車両の拡充を行なっていた。しかし西武秩父線開業と共に質的向上も図られ、大手他社と比べても遜色はない。また、戦後長らく所沢車両工場において大手私鉄では珍しい車両の自社製造を続けていたが(東急車輛製造など一部車両メーカー製も並行して導入された)、1999年(平成11年)3月2日9108編成の出場をもって終了し、それ以降は全車両が外注となる。日立製作所(笠戸事業所)製が多数を占めているが、2016年(平成28年)度から納入された40000系は川崎重工業車両カンパニーの製造となった。 かつては貨物・工事輸送用として電気機関車を数多く保有しており、明治から大正期にかけて欧米から輸入された機関車が昭和末期まで運用されていた。また、西武秩父線開業に際しては私鉄最大級の出力および唯一のF級機となるE851形を導入しており、貨物輸送廃止直前には客車牽引も実現した。特に前者はその産業遺産的価値の高さもあり、静態保存されている。なお、西武鉄道の元現役車両も併せて静態保存されている。 車体面での特徴では、関東大手私鉄の中では東武鉄道と共に早くから20 m級車体の導入に積極的であり、1957年(昭和32年)には全車20 m級車体の501系を登場させている。501系は当時流行していた湘南型デザインを採用しており、時代に応じたアレンジを行いながら3000系まで、実に30年以上にわたって西武の通勤形車両の標準仕様であり続けた。また、側扉の数は20 m級の通勤形電車としては異例となる片側3ドアとなっていたのも特徴である。その後、1990年(平成2年)代以降は新2000系に代表される4ドア車の増備が進められ、現在3ドア車は支線区向けの101系が残るのみとなっている。 車体色は戦後長らくラズベリーレッドとトニーベージュの赤電色が使われていたが、1969年(昭和44年)の101系導入に際し新たにレモンイエローの車体色を導入し、新車のみならず一部の在来車も冷房化・高性能化に際してレモンイエローへの塗装変更が行われた。1994年(平成6年)の9000系を最後にレモンイエローの新造車は登場していないが、「西武鉄道=レモンイエロー」のイメージは未だ根強く、2015年(平成27年)には6000系6157Fが西武鉄道開業100周年を記念して、レモンイエローのラッピングが施工されている。また、新型特急001系の車内もレモンイエローを基調としたカラーデザインになっている。 現在運用されている電車の制御装置はほぼすべてが日立製作所製である。例外として6000系の6156編成および001系は三菱電機製、6000系6157編成および40000系は東芝製 となっている。 東京急行電鉄・京王電鉄と同様に営業運転から離脱した旧型車両を地方中小私鉄に譲渡するケースが多い。譲渡先にはグループ会社の近江鉄道・伊豆箱根鉄道のほか、流鉄・三岐鉄道・上信電鉄がある。このように長年、中小私鉄への中古車の主要な供給元の一つであったが、2023年9月に大手私鉄では極めて異例となる、他社(東急電鉄・小田急電鉄)からの中古車の譲受が発表された(後述)。 西武鉄道の貨車は前身各社以来、構成比率が圧倒的に無蓋車に偏っていることが大きな特徴として挙げられる。これは多摩川や入間川あるいは吾野の砂利・砕石輸送が貨物の中心であったからである。 旧西武鉄道の前身にあたる川越鉄道は甲武鉄道経由で東京と川越を結ぶ目的で建設された路線で、開業時に用意された貨車は有蓋車12輌、有蓋緩急車2輌、土運車4輌と有蓋車中心の構成であった。しかし、20世紀に入ると事故車の代替として製造されたワム101以外、無蓋車のみが増備され、統合時は有蓋車13(うち緩急車1)輌、無蓋車54輌の構成になっていた。これとは別に1927年(昭和2年)に合併した多摩鉄道から有蓋緩急車2輌と無蓋車28輌を引き継いだが、同社の無蓋車は高比重の砂利輸送用のため当時としては大型の15t積で製造されていたのが特徴であった。 武蔵野鉄道は有蓋車9輌、有蓋緩急車4輌、無蓋車47輌の陣容で開業し、以後の増備は無蓋車中心であったことは旧西武と同様である。特に1929年(昭和4年)の吾野延伸時にトム101〜200(後のトム301形)とトフ1〜10の110輌を一度に増備し、統合直前には有蓋18(うち緩急車9)輌、無蓋199(うち緩急車10)輌に膨らんでいた。また、戦中戦後の尿尿輸送は有名だが、1922年 - 1928年(大正11年 - 昭和3年)にも肥桶輸送用の私有有蓋車が車籍編入されていたことも特記できる。 戦後は国鉄から大量の無蓋車を購入し、1955年度(昭和30年度)末に最多輌数となる1000輌の在籍を記録している。1960年代は鉄側有蓋車の増備や有蓋緩急車の代替新造など有蓋車の増強が行われたが、砂利採掘の終焉や余剰化に伴い、多くの貨車がヨン・サン・トオ前後に処分されている。末期は保線用として残ったが、トム301形とホキ81形が2007年(平成19年)に廃車されたことで西武の貨車は終焉を迎えている。 現在、平日・土休日の需要変動に応じた柔軟な編成を組むために、編成を組み合わせることも少なくない。池袋線・新宿線では、特急列車を除く平日の優等列車は原則10両編成で運転されるが、平日の一部時間帯や土休日においては優等列車は8両編成で運転されることもある。 サステナ車両として東急電鉄と小田急電鉄から中古車両を約100両譲受し、2024年度から2029年度にかけて支線系に導入する予定となっている。いずれも西武鉄道での形式は未定。 (保線車両などを除く) 大人普通旅客運賃(小児半額・ICカード利用の場合は1円未満の端数切り捨て、切符利用の場合は10円未満の端数切り上げ)。鉄道駅バリアフリー料金制度による料金10円の加算を含む。2023年(令和5年)3月18日改定。 西武ドームでの野球などイベント来場者の利便を図るため、西武鉄道各駅(多摩川線を除く)から西武球場前駅までの往復乗車券が設定されている。発売当日より2日間有効。 西武鉄道は1枚の通勤定期券で2つのルートを利用できる以下の特殊連絡定期券を発売し、乗客の需要喚起を促している。これらの定期券は都心側のターミナル駅の利用が可能で、途中接続駅での乗り継ぎも容易になる。当初は西武鉄道のみでの発売だった。 西武鉄道は、沿線に秩父や川越といった有名観光地があり、観光客向けに「フリーきっぷ」を発売している。 いずれのきっぷも西武鉄道の駅員が配置されていない小竹向原駅と他の西武線の路線とつながっていない多摩川線の全駅では購入することができない。その他、一部の駅で購入できないきっぷがある。 通年商品のほか、季節商品やスタンプラリー等のイベントに合わせて西武線スタンプラリー1日フリーきっぷなどの企画商品が設定される。また毎年埼玉県民の日である11月14日にはその日のみ利用可能な埼玉県民の日記念1日フリーきっぷも発売される。 西武鉄道は、2003年に小田急電鉄と業務提携を結んでいることから、小田急線各駅で発売している各種フリーパスも発売している。この乗車券には西武線乗車駅から西武新宿線西武新宿駅までの往復乗車券が追加されている。 2013年3月16日からは、東急東横線・横浜高速鉄道みなとみらい線との相互直通運転開始に伴い、東横線・みなとみらい線で使用可能なフリーきっぷの取り扱いを開始した。 2023年3月18日発売分からは企画乗車券からも鉄道駅バリアフリー料金(大人は20円)を収受している(これに伴い「秩父フリーきっぷ」などは発売額変更)。 訪日外国人向けの企画乗車券を発売している。購入時に日本以外のパスポートの提示が必要となる。 シーズン限定の切符として以下の設定もあった。 2010年度までに全駅(営業線のみ)バリアフリー化を目標に掲げ、下記を含めるバリアフリー化事業を行っている。 1992年の高田馬場駅ホーム・駅舎改良工事の開始以降、駅のバリアフリー化工事や駅舎の橋上化・建て替え工事が活発に行われるようになった(小竹向原を除く。ただし、さらに遡ると1977年の現在の西武新宿駅の駅ビル(新宿プリンスホテルビル)完成時にきっぷ売り場と改札口の間の階段横にスロープが設置され、西武最初のバリアフリー化が行われている。このスロープは2007年に改めて改修された)。設備改良の主な内容の始まった駅とその年は次の通り。 近年では一日の利用客が5000人以下の駅でもバリアフリー化が実施されている。駅売店の改良も行われているが、2007年以降は駅ナカコンビニTOMONYに置き換える場合が多い。Emio(エミオ)などの駅ナカ商業施設の建設も進められ、利用者の充実性・利便性の向上も図られている。 ホームには2台以上の大型総合案内板が1987年より設置されている(一部駅を除く)。これには最上部に駅名標(LED式電灯付)、下部に西武鉄道路線図、停車駅ごあんない、時刻表、急行・準急・(普通→)各停それぞれの所要時間がまとめて入っている。その後、2008年より全てユニバーサルデザインのピクトグラムを併用し、さらに新コーポレートカラーに合わせたデザインとなっている。駅名標のみのものは、1987年の航空公園駅から使用している簡易的なものと2008年の新コーポレートカラーに合わせたデザインのものなど約5種類存在する。池袋線(一部駅を除く)は副都心線開業に合わせ、ホーム番号・方面を表記する看板を全て新しいものに交換し同一デザインとしている。他の駅でも駅設備の改良と共に交換をしている。しかし、池袋線では厚型であったが、その後他駅で設置されたものは薄型となり英語表記のほかに、韓国語・中国語の表記もされている。2012年以降は、駅ナンバリングが併記されたものへの取り替えや、案内板への駅ナンバリング貼り付けも順次行われている。1970年代に導入された旧ホーム番号表記看板が現在、鷺ノ宮駅・武蔵関駅・入曽駅・南大塚駅の一部・西武秩父線の一部駅に残っていたがこれも2010年代初期までに取り替えられた。 西武鉄道では小竹向原駅を除く全駅に自動体外式除細動器 (AED) と列車非常通報装置、列車進入警報装置が設置されている。これらの設置は2008年度中に終了した。2007年には遠隔放送装置を導入し、総合司令室より全駅または指定駅への遠隔放送により正確な情報を迅速に伝達することが可能になった。また、「あなたの駅でも定期を」をモットーに、自動定期券発売機の設置を進めている(小竹向原を除く)。また、2009年10月頃より一部駅の自動定期発売機にクレジットカード対応とするためのシステム追加が行われている。 また、女性専用車に、小学生以下の子供を同伴する「男性保護者」の乗車も認めており、他社には見られない特徴である。 線路面では低騒音化や乗り心地の改善に力を注いでいる。1975年より乗り心地の良い線路のロングレール化が実施され、実施率は日本の私鉄一であった。分岐器(ポイント)での横揺れや騒音を軽減するため、普通分岐器から弾性分岐器への交換を進めている。1996年までF級電気機関車のE851形が走行していたこともあり線路の基礎は強固である。民家が隣接しているところには防音壁を設置し対策している。2000年頃から架線柱のビームを丈夫で寿命が長いパイプ式への交換が進んでいる。また一部であるが、弾性枕木直結軌道やバラストラダー軌道、饋電吊架式の架線などの採用も進めており省メンテナンス化にも取り組んでいる。 歩行者用・自動車通行可能な踏切共に全ての踏切で遮断機及び警報器が自動化されている。踏切の遮断機・警報器や起動装置などはほとんどが京三製作所製で、一部日本信号製の物が使われている。2008年度には自動車が通行可能な踏切242踏切に、踏切支障報知装置(非常ボタン)と踏切支障検知装置の設置を完了した。列車の運転士が運転中に踏切遮断機の作動を確認する線路脇に設置されている表示灯は、他社では見られない特殊なものとなっている。他社では電球色で「×」印の表示灯が一般的だが、西武鉄道では踏切の警報灯と同じ上下点滅式のLED表示灯となっている。2005年より比較的大きな踏切では道路と歩行者用通路を明確にし歩行者の安全を確保するため、歩行者用通路が緑色で塗りわけられている。なお、警報音は設置当初から数十年以上手鳴らしによる「カンカンカンカン」という西武独自の独特な音のものであったが、1990年頃より2世代前、1992年頃より1世代前のものへ変更が始まり、一時期現行のもの含めすべての警報音が使用された時期もあったが、2008年に1世代前(武蔵境第6踏切のみで使用)と現行の4代目の2つのみに統一された。なお、現在は駅列車接近警報装置の警報音としても使用されている。 車両形式ごとの性能に統一性がなく、同形式でも性能が一部異なる編成もあるため、運転士は形式ごとに性能や操作、感覚を記憶しなければならない。西武鉄道係員養成所には、20000系と40000系の運転(車掌)シミュレーターがあり、定期的に運転士はそこで訓練を受ける。 東京メトロ等乗り入れ先では同条件でも開放している運転席背面の助手席側遮光幕は西武線内では早朝・夜間は閉めている。 車両の自動放送を簡略化し、車掌に直接わかりやすく通過駅や接続電車などの放送をさせるようにしている。電車の折り返し時や停車時間が長い駅では都度車掌が車内に入り車内温度を確認する。また、始発時や乗務員交代時には車内と乗務員室の仕切り扉や窓を開け、車内放送が適切な音量であるかを確かめている。 保谷・小手指・飯能・上石神井・小平・新所沢の各駅に乗務所が併設されており、運転士と車掌が所属している。また、白糸台・萩山の各駅に併設された多摩川線管理所、多摩湖線管理所に運転士が所属しており、前者が多摩川線、後者が多摩湖線、山口線のワンマン運転を担当している。 2020年度は 駅別乗降人員 :西武鉄道Webサイト より。それ以外は 関東交通広告協議会、東京都統計年鑑、埼玉県統計年鑑 より。 は、右欄の乗降人員と比較して増()、減()を表す。 池袋線系統は池袋駅が、新宿線系統は西武新宿駅と高田馬場駅が突出して乗降人員が多く、これらの3駅が西武鉄道のメインターミナルである。また、池袋線系統は小竹向原駅で東京メトロ有楽町線及び副都心線への相互直通運転を行っており、都心方面の利便性と冗長性を確保している。 池袋線系統の始発駅である池袋駅は、1990年代前半に一日平均乗降人員が65万人を越えていた時期があった。1997年度に都営地下鉄大江戸線が新宿駅まで延伸開業し、2008年度に東京メトロ副都心線が開業して直通運転を開始するなど、並行路線が開業したことで乗客の転移が進み、2009年度以降は50万人を下回っている。その一方で、池袋駅の手前にある乗換駅の小竹向原駅と練馬駅は乗降人員が増加し、2010年度以降は両駅とも10万人を上回っている。 新宿線系統の始発駅である西武新宿駅は、他路線に乗り換える際に不便な場所にあるため、乗り換えに適した隣駅の高田馬場駅よりも乗降人員が少ない。同線は地下鉄への相互直通運転を実施していないため、朝のラッシュ時は両駅で大量の降車客を捌いている。特に、高田馬場駅では降車時間の短縮と遅延防止を図るため、上り線に限り両側の扉を開けられる構造としている。 上位15位の中で大半を占めるのは池袋線の駅である。大泉学園駅は他路線と接続せず、急行以上の種別が通過する単独駅でありながら一日平均乗降人員が6万人を越えている。また同駅を含め、石神井公園駅から所沢駅までの各駅は、すべての駅で一日平均乗降人員が4万人を越えている。朝のラッシュ時に運転される通勤準急は石神井公園駅を、通勤急行はひばりヶ丘駅を通過する千鳥停車を行い、両駅に停車する快速急行及び急行に乗客が集中しないようにダイヤが組まれている。 一方で、新宿線の単独駅で一日平均乗降人員が5万人を越えているのは田無駅のみである。2006年度以前は新所沢駅も一日平均乗降人員が6万人を越えていた。 西武鉄道では、グループビジョンのグループ宣言に、「常に、自然環境・地球環境への配慮を忘れません。」と掲げている通り、以下のような環境保全活動を行っている(以下は、大まかな例であり環境保全活動の極一部)。 2008年5月に鉄道会社としては初めてSEGES(シージェス)の認定を受けた森林「飯能・西武の森」を保有している。認定ランクは5段階評価中3段階目。認定を受けた会社としては最大級で、面積は約77ヘクタール。地域市民の憩いの場として、また自然体験を始めとする環境教育の場として使用されている。2008年9月より5ヵ年計画で整備をする。 2007年に電車から架線に戻された回生電力の貯蔵を行う「環境配慮型蓄電装置」を日本国内で初めて吾野変電所および正丸変電所に導入した。これにより電力使用量の削減につながった。また、変電所では2001年より整流器の冷媒を代替フロンから環境に影響のない純水に切り替えている。2008年より変電所で定期的に交換される蓄電池の再利用を行っていて、廃棄物の削減を図っている。 2005年度以降にリニューアルされた駅や建て替えを施行した駅の一部では、太陽光発電や風力発電システムを導入している。案内表示看板内の照明をLED化することで消費電力の大幅な削減を図っている。駅の構築でVOCの発生を抑えるため、鉄骨材の塗装をやめて溶融亜鉛めっきを取り入れている。また、信号踏切等の設備の塗装では低VOC塗装を使用している。2009年度から一部駅でホームや駅前ベンチの緑化が行われた。旧駅舎に使用されていた古レールを活用し、駅の案内表示の柱に使用している。 鉄道車両では、軽量化などによって消費電力の削減を図り、新型車両についてはこれが置き換える旧型車両に比べ約半分以下の消費電力となっている。また、車内や車体のリサイクル性を高めるため新型車両ではリサイクル可能な素材の採用などがなされている。冷房装置の冷媒を代替フロンに置き換えることによって、オゾン層破壊への影響を低減させている。また、使わなくなった一部車両を地方中小私鉄に譲渡して、解体にかかる環境負担を低減させると共に省資源化を図っている。廃棄物対策として、車両部品の非アスベスト化や電子機器プリント基板の非鉛化を図っている。 線路内の法面の緑化を行い環境保全と景観向上を図っている。また、一部社員を地域の清掃活動や自治体とタイアップした植栽ボランティア活動に定期的に参加させている。この活動により社員が環境に対する意識を高めてもらおうとしている。 武蔵横手駅の線路脇事業用地ではヤギ(雄のそらと雌のみどり、その2頭の子のだいち)の放牧による草刈りを2009年8月頃より試験的に開始している。これにより、従来社員が草刈り機を使用して行っていた草刈りを省くことができ、草刈り機の燃料費の削減、またこれに伴う環境負荷の低減につながることを期待している。 乗車券類のリサイクルを行い再資源化を図っている。また同じように電気関係工事で発生する銅屑、鉄屑などのリサイクルも行っている。 2009年4月には日本政府が進める地球温暖化防止プロジェクト「チーム・マイナス6%」に加盟している。 太陽光発電については駅併設分以外にも、西武鉄道グループとして太陽光発電所を9か所(2018年1月時点)運営・着工している。 西武鉄道では幾多のオリジナルキャラクターを駅や電車内で使用している。2004年頃から西武鉄道が保有する電車の各形式がキャラクター化されている。2007年度より「グットマナーをありがとうシリーズ」で各動物をキャラクター化している。同年度から西武鉄道が毎月1日に発行する「西武鉄道 かわら版」内のマナーを呼びかけをする欄で毎年度違うキャラクターを製作している。ちなみに2007年度はマナーかるたをテーマとして中学生の「たけしくん」、2008年度は小学生探偵の「サトローくん」、2009年度は学習型のマナーロボット「マナボットくん」であった。また、沿線祭りの宣伝ポスターで解説などをするキャラクターとして「まつりちゃん」がいる。 1956年、練馬区に東映動画のスタジオ(現・東映アニメーション大泉スタジオ)が設立されて以来、練馬区・杉並区など西武沿線周辺にアニメ会社が集まり、日本のアニメ産業の中心地となった。 グループ再編後は、アニメーション作品、およびそれを活用した地域おこしとのタイアップや、アニメキャラクターを使用した自社企画、声優を起用した企画(始球式、アニラジやその公開収録など)を行っている。近年は、『モンスターストライク』や『白猫プロジェクト』など、ソーシャルゲームとのコラボレーションも度々実施している。 このほか、『ケロロ軍曹』やプリキュアシリーズ(2009年の『フレッシュプリキュア!』から2012年の『スマイルプリキュア!』まで)の劇場映画公開前に、広告ヘッドマーク付きの電車を池袋線系統を中心に運転していた。 また、2020年11月に、本社所在地近くの所沢市東所沢和田に、クールジャパンの総本山として、出版大手KADOKAWAの文化複合施設「ところざわサクラタウン」が開業。この計画には、西武HD取締役会長の後藤高志も参加している。 西武鉄道以外の西武グループ系列企業でも、以下のアニメ・漫画作品とタイアップ(コラボレーション)を行っている。特に、サンシャインシティプリンスホテルは、近くに乙女ロードがあるため、女性向け作品とのコラボに積極的である。 例年、沿線の南入曽車両基地で8月ごろ、武蔵丘車両検修場で6月ごろ、横瀬車両基地で10月ごろに車両基地一般公開等のイベントが行われる。 2021年は新型コロナウイルス感染症の流行により、車両基地の公開を取りやめた。その一方で武蔵丘車両研修場では、近隣の日高市や飯能市などに在住する市民に無料の招待券を配布し、参加する人数を少なくして一般公開を行った。 西武グループは、西武ホールディングス傘下の事業会社である西武鉄道、西武・プリンスホテルズワールドワイド、西武リアルティソリューションズとその子会社と孫会社を含め81社より構成されている。西武鉄道系は、地方鉄道の近江鉄道・伊豆箱根鉄道およびその子会社を除き、原則的に企業名の先頭に「西武」が付く。鉄道系以外では、例外は武蔵野地所、横浜アリーナである。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "西武鉄道株式会社(せいぶてつどう、英: SEIBU RAILWAY Co.,Ltd.)は、埼玉県所沢市に本社を置く日本の鉄道会社である。登記上の本店所在地は東京都豊島区南池袋にある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "東京都北西部と埼玉県南西部で12鉄道路線(総延長176.6キロメートル) と関連事業(バス・タクシー・旅行・観光・商業・不動産開発など)を運営する西武グループの主要企業で、日本の大手私鉄の一つである。また、プロ野球・埼玉西武ライオンズの親会社(2009年から)でもある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "「西武」の名称は「武蔵国の西部」に由来する。また、利用客の多くは西武鉄道の路線のことを「西武線」と呼んでおり、車内放送などでも「西武線」と呼称している。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "西武鉄道は、東急や阪急電鉄(阪急阪神ホールディングス)などの大手私鉄と同じように、経営の多角化を早くに進め、また自社の不動産を中心とした非鉄道事業で大きな利益を上げている。祖業が堤康次郎率いる不動産会社の箱根土地(後のコクド、現在はプリンスホテルに合併)であることも、その背景である。不動産開発は西武沿線は勿論のこと、神奈川県、千葉県の房総や伊豆箱根地方にも広がり、堤康次郎の出身地である滋賀県も1943年から近江鉄道を傘下としていることなどにより西武鉄道の事業エリアとなっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "昭和中期には箱根の不動産開発をめぐり小田急グループ(当時の東急系)と「箱根山戦争」と称される縄張り争いが繰り広げられた。現代では、2003年から小田急電鉄と観光地や鉄道沿線事業での提携や、「東急線西武線まるごときっぷ」といった共通商品の開発に乗り出しており、また2013年以降は東京メトロ副都心線を経由して西武池袋線と東急東横線が相互直通運転を開始するなど、対立していた小田急や東急と現在では協調している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "鉄道事業での収入より不動産部門の方が主となっているが、2006年のグループ再編により、日本国内のリゾート関係の不動産は兄弟会社のプリンスホテルや西武プロパティーズ(旧:西武不動産販売)へ段階的に譲渡されている。旧宮家(皇族)の持っていた東京都心や駅前の超一等地、神奈川県の箱根や湘南、長野県の軽井沢といった人気リゾート地にホテルやスキー場、ゴルフ場などの広大な土地を所有しており、企業の土地資産価値で日本一の時代もあった。かつては阪急や東急、近鉄を抑えて大手私鉄の中で時価総額が最大であった。その恵まれた土地資産を活用して、石神井公園駅、大泉学園駅、小手指駅周辺などの沿線再開発のほか、赤坂プリンスホテル跡地に大規模な再開発ビルである「東京ガーデンテラス紀尾井町」を開業した。また、所沢駅周辺や東京都区部の池袋・品川・高輪でも再開発を進行・計画中である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "西武グループとして商業施設や小売・外食店を展開している ものの、関東の大手私鉄では相模鉄道(相鉄)や東京地下鉄(東京メトロ)とともに、グループ内に百貨店を持っていない(百貨店の「西武」を経営するそごう・西武は後述するようにフォートレス・インベストメント・グループ傘下であり系列外)。これは、創業者である堤康次郎死後、西武鉄道などは堤義明率いる西武鉄道グループ(現:西武グループ)、西武百貨店などは堤清二率いる西武流通グループ(後のセゾングループ、2000年代に実質解体)の2グループに分かれたため。ただし、2003年のミレニアムリテイリング第三社割当増資時に和田繁明社長(当時)が堤義明会長(当時)へ打診し、西武鉄道が出資を引き受けた。2006年の西武ホールディングス設立に伴うコクドの第三者割当増資時にはミレニアムが10億円出資を引き受け、セブン&アイ・ホールディングスがミレニアム株式を現金で買上げるまでの数か月間は株式の持ち合い状態であった。2020年時点でも、西武グループの統括会社である西武ホールディングスとセブン&アイ・ホールディングスは「連携強化のため」にお互いに株式を持ち合っており、西武鉄道・プリンスホテルと西武池袋本店が共同で外国人観光客誘致を行う、秩父地方で採れた農産物を西武の特急列車で輸送し、西武池袋本店で販売するなどの協業を行っている(詳細は「そごう・西武#西武グループとの関係」参照)。なお、そごう・西武は2023年にアメリカ合衆国の投資ファンド「フォートレス・インベストメント・グループ」に売却されセブン&アイグループから離脱した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "西武百貨店の小店舗として登場したスーパーマーケットの西友が西武沿線に多いのは、グループ分裂前に発展過程で店舗と土地を賃貸しているのが、現在まで継続しているからである。西友が米ウォルマートの子会社になってからも西友とのつながりは未だに深く、西武鉄道の開発するニュータウンや駅改良工事後に、西友の新店舗が開店することが多い。また、西友の小売事業として発足したファミリーマートとは、駅ナカコンビニTOMONY(トモニー)の展開で提携しているなど、かつてのセゾングループとのつながりを見ることが出来る。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "一方で西武鉄道グループとしても、西武リアルティソリューションズ(旧プリンスホテル)を介して、PePeやEmioなどの駅ビルやBIG BOX、アウトレットモールといった大型商業施設の運営を行っている(元は2022年にプリンスホテルに合併された西武プロパティーズの事業)。また、旅行業部門として西武観光を擁しており、一般客向けには西武線のターミナル駅構内に窓口が置かれている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "首都圏で東京都区部と周辺地域を結ぶ鉄道他社、特に小田急電鉄や東急電鉄では利用客の増加に対応し線路の複々線化が活発に行われたが、西武鉄道では複々線化について、池袋線では練馬駅から石神井公園駅までを複々線化した一方で、新宿線では西武新宿駅 - 上石神井駅間の複々線化が計画されたが、その後少子高齢化の進行に伴う利用客の減少の見込み等により、計画を中止した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "一方、老朽化した駅施設などのリニューアルを活発に進めており、1999年の田無駅を皮切りに野方、花小金井、狭山市、東長崎、江古田、東久留米、所沢の各駅で駅舎の全面改築が行われている。2007年からはファミリーマートと協業した駅売店「TOMONY(トモニー)」や2010年代以降は駅ビル型の中小規模な駅ナカ商業施設として「Emio(エミオ)」やより大規模な「Grand Emio(グランエミオ)」を開業させ、駅の改築に合わせて順次展開していく見通しである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "西武鉄道は2006年2月の西武グループ再構築まで長きに亘り、堤家のコクドが株式の多くを保有する同族経営(=ファミリー企業)であった。", "title": "同族経営時代" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "康次郎亡き後は後継者となった堤義明による経営手腕で1960年代以降、プリンスホテルとその近隣でのスキー場、ゴルフ場、スケートリンクなどのリゾート開発と、ニュータウン/宅地開発などが東日本を中心に大規模に推し進められた。兄弟会社であったプリンスホテル(旧)の不動産物件はほとんど西武鉄道の所有であり、プリンスホテル社は運営のみを行っていた。また、1978年にはコクド(当時は国土計画)がクラウンライターライオンズを買収して、西武ライオンズを誕生させプロ野球球団経営に進出する。建築には西武建設(旧)、庭や芝生管理に西武造園を用いるなど内部経済でコクド・西武鉄道グループとしての規模を拡大させ社員3万人を有し、「西武王国」と言われた。また、1980年代には堤義明は世界の富豪(世界長者番付)入りを果たした。", "title": "同族経営時代" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1957年から東証一部に上場していたが、2004年に発覚した証券取引法違反事件により同年12月に上場廃止処分となり、その後のコクド・西武鉄道・プリンスホテル間での事業領域の再構築と不採算物件の売却が行われるなど、大きな転換期となった(後述)。", "title": "同族経営時代" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2004年2月に総会屋の求めに応じて土地を安く譲渡させる形での利益供与が発覚し(西武鉄道総会屋利益供与事件)、総会屋側と利益供与に関わった西武鉄道と西武不動産販売(2009年に西武プロパティーズが事業承継)の役員合わせて11人が商法違反で逮捕・送検される事態となった。これにより、同年4月14日に旧西武鉄道グループ・西武ライオンズ(当時)のオーナーで西武鉄道・コクド会長を務める堤義明と戸田博之西武鉄道社長が記者会見を開き、西武鉄道会長・社長職の引責辞任を発表する。これにより、同族資本の鉄道会社は東武鉄道と富士急行が残るのみとなった。後任の西武鉄道社長には小柳皓正専務が昇格する形で就任した。", "title": "同族経営時代" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "約6か月後の同年10月13日に、堤義明コクド会長が急遽記者会見を開き、有価証券報告書虚偽記載(2004年3月期決算の有価証券報告書上で、コクドが保有する西武鉄道の保有株数を22%過少申告していた)を公表。コクド会長職なども辞任表明をした。実態的には、西武鉄道株式〔西武株〕のコクド持株分の多くを、西武鉄道グループ各社の従業員持株会・OB関係者と堤義明コクド会長ら、1,000名以上の個人の「名義株」に偽装し、コクド・伊豆箱根鉄道など上位10名(社)の西武株式保有分のみで、東京証券取引所の上場廃止基準である80%を超えていたことを伏せて株式公開していた。1,000円台の堅調な値動きをしていた西武株は、発表翌日からストップ安となり、東京証券取引所や証券取引等監視委員会、東京地方検察庁も、西武鉄道・コクド幹部への事情聴取に乗り出した。", "title": "同族経営時代" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "西武鉄道は、連鎖的に同じ事態が発覚した伊豆箱根鉄道とともに、株式名簿管理を証券代行会社へ委託せず、自社内で行っていた(東証上場企業では当時3社のみ)が、株券の電子化(2009年開始)では、証券保管振替制度によって株券を証券保管振替機構(ほふり)の参加者(証券会社・信託銀行等)口座を通じて預託(移管)した。その過程で名義人の実在確認が必要となるため、電子化が導入された時点で名義株が発覚してしまう事態は元々予想されていた。なお、この株主偽装は上場当初の1957年から存在したと言われている。", "title": "同族経営時代" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "一方、発表前の同年9月前後に西武鉄道とコクド(プリンスホテル等)を通じて取引関係のあるキリンビール、サントリー、東京コカ・コーラボトリングなどの複数の飲料メーカー、王子製紙、ワコール、日立グループ、三菱電機、小田急電鉄、鹿島、前田建設、クレディセゾンなど30企業に対し、西武株式8千万株を虚偽記載であることを伏せたまま売却した。10月の虚偽記載公表後の株価下落による損失を招いたことで、株式買い戻し(購入代金の返還)請求が起こされたとともに、売却を打診したコクド・西武鉄道の幹部や堤義明前会長に対しては、インサイダー容疑であわせて捜査が行われた。", "title": "同族経営時代" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "これらの事態によって、東証は11月16日に「虚偽記載という不適切な情報開示」と「公益・投資者保護」を理由に、西武株式の上場廃止を決定し、11月17日に整理ポスト入りさせ、12月16日をもって取引を終了し、翌17日で上場廃止となった。伊豆箱根鉄道においても、西武鉄道が50%超を持株保有していると、2000年度分からの有価証券報告書を訂正し、上場廃止となった。", "title": "同族経営時代" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "上場廃止となるのは、それまでは企業の倒産(会社更生法・民事再生法申請などの法的整理)や、M&A、株式公開買付に伴うものが通例であったことから、極めて異例の事態であった。2006年のライブドア事件においても、酷似のケースで上場廃止となっている。", "title": "同族経営時代" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2005年3月3日に、堤義明は証券取引法違反(有価証券報告書の虚偽記載とインサイダー取引)容疑で、東京地方検察庁特別捜査部に逮捕された。同年10月に東京地方裁判所で執行猶予付きの有罪判決を受け、2009年10月に刑猶予期間満了となった。この事件に際しては、コクドの幹部社員と小柳西武鉄道前社長が、相次いで自殺している。", "title": "同族経営時代" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "株式問題と並行して、2004年11月に西武鉄道とコクドは共同で「西武グループ経営改革委員会」を発足させ、2005年1月にはコクドの事業部門と西武鉄道などを新設する持株会社の傘下に入れるなどのグループ再構築を発表した。また、旧経営陣は退任し、メインバンクであるみずほコーポレート銀行(旧・第一勧業銀行)副頭取で西武グループ発足後に西武鉄道の代表取締役社長となる後藤高志らが迎えられた。", "title": "グループ再編へ" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "再編スキームとして、", "title": "グループ再編へ" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "資本再構成によって、西武鉄道は鉄道事業主体の普遍的な民営鉄道会社となり、西武グループの再編が完了した。", "title": "グループ再編へ" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "西武鉄道株式については有価証券報告書の虚偽記載が上場廃止の理由であったため、2004年度内のジャスダック上場を目指していたが、年度内上場はスケジュール的に難しく、コンプライアンス体制強化後の上場を目指すことになった。2006年のグループ再編後は株式移転により西武ホールディングスの子会社となっているが、同社株主には上場廃止前と同等に西武鉄道の株主優待乗車証などが謹呈されている。そして2014年4月23日に西武ホールディングスとして東京証券取引所第1部へ上場した。", "title": "グループ再編へ" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "西武グループ発足後は後藤高志が代表取締役社長として、西武鉄道の新しい体制を築き始めた。この新体制の鉄道事業において特徴的なのが自社のイメージチェンジである。2007年、西武鉄道が中核となる西武グループのスローガン「でかける人を、ほほえむ人へ。」が表すように、現在は他社と同じく、量はもとより質の向上にも力を入れるようになった。同年には社内に「スマイル&スマイル部」が開設され、鉄道ファンや子供に対するイベントを、年間多く実施・企画し沿線の人にもっと西武線と親しんでもらおうと考えている。", "title": "グループ再編後" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "その第一陣として登場したのが西武のイメージトレイン30000系(スマイルトレイン)である。それ以前の西武鉄道を思わせる「硬い」雰囲気に一線を画し「ソフトさ」をイメージしている。", "title": "グループ再編後" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2007年2月には、西武鉄道とプリンスホテル・伊豆箱根鉄道など再編後の西武グループ各社が手掛ける物販・ホテル・リゾート各施設でのポイントサービス「プリンスポイント」と「プリンスポイントカード」を共同で導入。2006年9月に先行する形で提携カード「SEIBUプリンスカード」の発行がクレディセゾン・西武鉄道・プリンスホテルの提携によって開始された。同カードではクレジット決済による定期券購入が可能となり、2007年3月開始の「PASMOオートチャージサービス」へも対応している。なお、グループ再編前の1980年代(コクド資本下)より旧プリンスホテルと西武交通などの利用に限定されたハウスカード「プリンスカード」が存在しており(旧日本信販などと提携)、従業員関係者や西武グループの上得意客向けに限定されて発行されていた。2005年4月にクレディセゾンと旧プリンスホテルが提携した「プリンスカード《セゾン》」が一般向けにも募集されるようになったが、「SEIBU プリンスカード」とはサービス面で関連性が無く、新たに新規申込する必要が生じた。", "title": "グループ再編後" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2012年10月および2013年3月、親会社西武ホールディングスの大株主である外資ファンド、サーベラス・キャピタル・マネジメントは、大規模なリストラ案を株主提案した。具体的には不採算5路線(多摩川線・山口線・国分寺線・多摩湖線・西武秩父線)の廃止、埼玉西武ライオンズの売却、プリンスホテルのサービス料の値上げ、品川駅周辺の再開発案の策定とされる。これに対し西武が拒否したため、2013年4月下旬を期限とする敵対的TOBへ発展した。", "title": "外資ファンドによる路線廃止提案と敵対的TOB" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "なお、2013年3月21日の報道でサーベラスは、「路線廃止や球団売却などを強要したことはない」と否定している。また、沿線自治体(特に西武秩父線沿線)からは路線の存続を求める声も上がっており、若林久社長は埼玉県秩父市に対して「公共交通機関なので守る」と説明している。", "title": "外資ファンドによる路線廃止提案と敵対的TOB" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "現在のシンボルマークは新生・西武鉄道を象徴する一環として、新社章を兼ねたものであり、2007年4月1日に制定された。その意匠は旧社章と同じく西武の\"西\"をモチーフにしている。それぞれマークの形の意味として、2つの輪は、様々なものが鉄道によって出会いつながる姿を、果実のようなデザインは、交流によって生まれる「実り」=「地域・社会の発展」を表現。カラーリングでは、グリーンで「自然との調和」、濃いブルーで「信頼」と「安心・安全」、明るいブルーで「新しいことへの挑戦」をイメージしている。", "title": "社章・シンボルマーク" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "シンボルマークは2008年4月から既存車両側面に掲示されるようになり、同時に西武鉄道の制服もリニューアルされるなどして、多くの場所でこの社章を見かけるようになった。なお、社名ロゴのフォントも制定・変更され、「SEIBU」という英文表記もされるようになり、同社の広告に記載されたり、シンボルマークとともに全営業車両の先頭車両乗務員室扉横(8500系は車端部)に貼り出されたりした。ただし、近年、英文表記はあまり使わなくなり、同社が発行する広報誌『西武鉄道かわら版』の表紙には2013年度以降、記載されなくなった。また、2014年4月の消費税率変更時に運賃表を貼りかえた際、一部駅の運賃表下にあった「SEIBU」の英文表記が「西武鉄道」の漢字表記に変更され、駅のリニューアル工事後の駅入口看板も同様に変更されている。さらに、2013年度以降導入の30000系、近年に検査入場した車両、フルラッピングで車体色が変更された車両は、「SEIBU」の英文表記が「西武鉄道」の漢字表記に変更されている。", "title": "社章・シンボルマーク" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "旧社章は西武軌道が1922年に制定したものである。西武の\"西\"をモチーフにしたもので、野球のボールに似た形をしている。新社章移行後、車両に掲示された旧社章は車体更新に併せて取り外しが進行中である。", "title": "社章・シンボルマーク" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "西武鉄道は、現在の池袋線系統の路線を開業した武蔵野鉄道が、新宿線系統の路線を開業していた西武鉄道(旧)を合併して出来た会社である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "武蔵野鉄道は、1911年(明治44年)10月18日に鉄道免許を取得し、1912年(明治45年)5月7日に設立、当初は巣鴨駅を起点とする計画であったが、東京府が池袋駅を起点にするよう指示したため、1913年(大正2年)4月に計画を変更。1915年(大正4年)4月15日に現在の池袋線の一部である池袋駅 - 飯能駅間を開業した。1922年(大正11年)に池袋駅 - 所沢駅間、1925年(大正14年)に飯能駅までの全線を電化し、1929年(昭和4年)9月10日に吾野駅まで開業させた。なお西武豊島線は1927年(昭和2年)に、狭山線は1929年(昭和4年)に開業している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "一方、1924年(大正13年)に箱根土地(後のコクド。現在のプリンスホテル)が武蔵野鉄道沿線の東京府北豊島郡大泉村に大泉学園都市の分譲を開始。武蔵野鉄道に東大泉駅(現在の大泉学園駅)を建設した上で寄贈する。翌1925年には武蔵野鉄道の株式を取得した。また、箱根土地は1928年(昭和3年)、村山貯水池(多摩湖)および小平地区一帯を開発すべく、多摩湖鉄道を設立。4月6日に国分寺駅 - 萩山駅間を開業し、1936年(昭和11年)12月30日に村山貯水池まで開業させ、全通した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1932年(昭和7年)に箱根土地社長の堤康次郎が経営危機に陥っていた武蔵野鉄道の株式を買い集め、再建に乗り出す。1934年(昭和9年)8月28日、武蔵野鉄道は鉄道抵当法に基づく強制執行が実施され、運賃収入が強制管理人に差し押さえられる(1937年〈昭和12年〉まで)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1935年(昭和10年)1月21日からは、9か月分の電力料金17万円滞納を理由に東京電燈から制限送電を受け、最大5600kwを必要とするところを4000 kwしか受電できなくなった。通勤時の輸送能力が激減して混乱を招いたため、東京電燈側は沿線住民に対して制限送電を行う経緯を記した文書を配布し理解を求めた。経営は一層苦境に立たされるが、1936年(昭和11年)に武蔵野鉄道と債権者の間で和議が成立する。1938年(昭和13年)、大口債権者である東武鉄道の初代社長初代根津嘉一郎らがようやく債務免除に応じ、経営再建に道筋をつけた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1940年(昭和15年)3月12日、武蔵野鉄道は同系の多摩湖鉄道を吸収合併する。10月、堤は根津および浅野財閥(元々の親会社)から株式を取得して過半数を確保し、社長に就任した(長年、西武鉄道株式のうち約45%を箱根土地の後身会社であるコクドが保有していて、他に西武建設の保有分を合わせると関連会社による持分が過半数を占めていたのはこの一件に由来する)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "西武鉄道(旧)は川越鉄道に始まる。川越鉄道は、甲武鉄道の関連会社として1892年(明治25年)8月5日に設立され、1894年(明治27年)12月21日に現在の西武国分寺線である国分寺駅 - 久米川(仮)駅(現在の東村山駅)間を開業させた。さらに、川越鉄道は1895年(明治28年)3月21日に、現在の西武新宿線の一部である久米川(仮)駅 - 川越駅(現在の本川越駅)間を開業させた。その後、1920年(大正9年)6月1日に武蔵水電に吸収合併された。武蔵水電の前身は、1906年(明治39年)4月16日に川越久保町駅 - 大宮駅間を開業させた川越電気鉄道である。合併後、川越久保町駅 - 大宮駅間の路線は川越東線となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1921年(大正10年)10月、武蔵水電は同年に淀橋町角筈 - 荻窪村間を開業させていた西武軌道を吸収合併した。「西武」の名前はこの会社が起源であり、現在の西武鉄道が2007年3月まで使用していた西武の西という字を図案化した社章もこの会社のものであった(ただし、6000系・10000系・20000系以外の現在も残っている車種は一部を除き2009年時点でもその旧社章を使用していたが、更新工事を施工した車両では取り外されている)。翌1922年(大正11年)11月に武蔵水電は帝国電灯に吸収合併されたが、帝国電灯は鉄軌道部門を、武蔵鉄道から改称して同年8月15日に設立された西武鉄道(旧)に分離した。また、川越久保町 - 大宮駅の路線は大宮線となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1925年(大正14年)、安比奈線南大塚駅 - 安比奈駅間を開業。1927年(昭和2年)4月16日にこれも現在の西武新宿線の一部にあたる村山線高田馬場駅 - 東村山駅間を複線・電化で開業。同時に東村山駅 - 川越駅間を電化し、高田馬場駅 - 川越駅間の直通運転を開始した。同年8月30日には、現在の多摩川線を開業させていた多摩鉄道を吸収合併した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1935年(昭和10年)12月27日、西武軌道線(淀橋町角筈 - 荻窪村間)を東京乗合自動車に委託した。委託後、同区間を譲渡(1951年)するまでの歴史は、「都電杉並線#歴史」を参照のこと。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1941年(昭和16年)、前年に川越線の開業に伴い休止していた大宮線を2月25日に廃止した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1943年(昭和18年)6月、箱根土地が経営権を獲得。堤康次郎が社長に就任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "1944年(昭和19年)6月、第二次世界大戦下の食糧不足に対応するため、沿線の耕地を利用した大規模食糧供給を目的に、食糧増産株式会社を設立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "また1944年には、東京都からの委託によって糞尿輸送が開始された。当時都内の糞尿処理は、トラックで東京湾岸へ運び船で海中に捨てていたが、人手不足とガソリン統制により、処理が追いつかなくなっていた。そこで東京都長官の大達茂雄からの要請で、武蔵野鉄道と西武鉄道(旧)と食糧増産の3社が一体となり、専用貨車と積込所・貯溜施設を造って大規模な糞尿処理にあたることとなったのである。同年9月10日夜から普通貨車による糞尿運搬の臨時運転を開始し、11月21日には専用貨車を用いた本運転に入った。この糞尿輸送列車は、「汚穢電車」「黄金電車」「黄金列車」などと呼ばれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "この時の輸送力はあまり高いものではなく、積込所も2か所、貯溜槽も7か所しかなかった。社長の堤康次郎はさらに輸送規模を拡大させ、当時都内から排泄されていた1日約38,000石の糞尿全てを処理できるように構想を立てた。専用貨車を115両新造して輸送能力を1日20,000石に上げるとともに、両鉄道沿線の数十箇所に糞尿貯溜槽を置き、約271,000石の糞尿をためられるようにする。そして輸送は主に深夜に行い、その帰りは貨車の上に特設台を設置し、都内向けの野菜を運搬しようというものであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "しかし衛生面などで問題が続出し、糞尿輸送は次第にその輸送量を減らして行った。書類上は1953年(昭和28年)3月30日までの契約であったが、実際には1951年に輸送が休止して以降、再開されないままの廃止で、堤の輸送拡大構想は結局実行されないまま終わった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "なおこの糞尿輸送が行われている最中に武蔵野鉄道と西武鉄道(旧)と食糧増産の3社が合併しているが、社名に「農業」を付して「西武農業鉄道」とした由来はこのようなことにある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "戦後、西武鉄道の復興は他社に比べ目覚ましいものだった。大手他社が国鉄モハ63形の割当てにより体制を整えようとしている中、西武鉄道では国鉄の戦災車や事故車、これらが枯渇すると老朽廃車となった木製車を大量に譲り受け、自社(当時は復興社のちに西武建設経営)の所沢車両工場で改造、修繕や木造車体の鋼体化を実施した。これにより、モハ63形新製割当ての見返りに従来車を地方私鉄に供出する義務から解放され、輸送力増強を成し遂げたのである。国鉄の改造車ばかり走っていたことから、利用者からは「第2の国鉄」とまで呼ばれていた。国鉄の事故車などを導入したためモハ63にTR11という大正時代の台車を履かせた、国鉄どころか国内でも最低な水準の電車も作られ運行が行われた。徐々に車両数が増えると車体を新造するようになったが、台車や機械類は国鉄から譲り受けたものだった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "しかし、1954年(昭和29年)からようやく車体の完全新造が始まった。この時、登場した351系(登場当時501系)はこれから長きにわたる西武電車の基本デザイン「湘南デザイン」を確立した。この時の西武線を走っている電車と言えば、雑多な形態の電車を連結して、武蔵野台地を駆け巡るという印象が強かった。戦後の西武鉄道の方針は「質より量」で、車両の高速化はいち早く実施されてはいるものの他社では1950年代中盤(昭和20年代終盤)から登場したいわゆる高性能車の導入はせず、他系列との併結を考慮し性能の統一化を図ることから、一貫して旧来の吊り掛け駆動の増備を続けていたため「見せかけの新車」と揶揄されていた。その後登場した西武初の高性能車とも言えるカルダン駆動の601系・701系電車にしても、旧来の吊り掛け駆動車との併結が前提で、機能的には動力伝達方式をアップデートしただけであり、吊り掛け駆動車と併結することによってカルダン駆動本来の性能を発揮できていなかった(詳細は各系列の記事を参照)。電動車の台車は新製されるようになったものの、付随車の台車は国鉄から譲り受けた旧式な釣合梁式のTR11系の改造品であった。従来車との混用を考慮しない、電気制動を可能とした真の意味での高性能車が導入されたのは、西武秩父線開業を控えた、実に1960年代終盤(昭和40年代中盤)のことであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "1963年(昭和38年)11月1日からは、他社ではまだ6両編成が最長で、しかも18m級車両で編成を組んでいた時に、西武鉄道では池袋-所沢間に日本の私鉄で初めて10両編成を走らせ、単位輸送力を確保した。乗車率が最大で200%を軽く超えていた時代のことであり、西武鉄道の「質より量」という方針が初めて結果につながった瞬間となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "1969年(昭和44年)には自社のイメージの確立に乗り出し、現在でも利用者の西武鉄道のイメージである「黄色い電車」の第1号となる101系 が登場する。その後、101系で冷房試作車が登場し、翌年に集中式冷房の採用が決定したのをきっかけに在来車両の高性能化および冷房化が急ピッチで施行されるようになった。この過程で、1977年(昭和52年)には西武鉄道で初の本格的な4扉車かつ界磁チョッパ制御・回生ブレーキを採用した2000系も登場し、省エネルギー化や乗降時間短縮にも貢献するようになった。こうした質的改善により、1985年(昭和60年)5月には車両冷房化率は92.2%と大手私鉄全社中3位、関東大手私鉄では1位に達した。戦後、復興の際の経営戦略が非常にユニークで他鉄道会社と異なっていることから、現在の沿線イメージ、会社イメージ共に他の関東圏私鉄と比較するとやや異質の存在として見られていることが多い。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "他の大手私鉄では昭和20年代に東京都心部(主に東京駅・有楽町など)への路線延伸申請を競い合うように行なったが、西武はその動きとは一線を画した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "1986年(昭和61年)に西武鉄道本社は東京都豊島区から埼玉県所沢市へと移転した。同時に西武グループ本社も移転している。東京都区部に路線を持つ鉄道事業者は現在も都区内に本社を置く場合が多いが、このように中心機能を東京の中心地から離した例は、他に東京都新宿区から多摩市へ移転した京王電鉄や、2013年に本社を東京都墨田区から千葉県市川市へ移転した京成電鉄がある。本社移転の狙いは、主要路線が2本交わる所沢駅を中心とした都市開発を行って沿線の開発・活性化を図ることや、沿線や輸送サービスの実態確認の容易化のためである(京王電鉄や京成電鉄の本社移転も同様の理由である)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "2017年(平成29年)1月16日、西武ホールディングスは都心事業の展開を強化する目的で、2019年春にかつての本社所在地に建設するビル内に本社を移転した上で入居することを発表し、西武グループとしては33年ぶりに池袋の地へ復帰することになった が、西武鉄道の本社は所沢市に残る予定。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "現有路線の総延長・旅客営業キロは176.6 kmで日本の大手私鉄では5番目に長い営業キロを持つ(東京地下鉄が発足し大手私鉄に加わった2004年4月以降)。成立や運転系統により、池袋線系統(旧・武蔵野鉄道)と新宿線系統(旧・西武鉄道)におおむね大別できる。この池袋線と新宿線が西武鉄道の主要幹線であり、池袋駅が西武鉄道における最大のターミナル駅である。また、本線(池袋線・新宿線)系統から完全に独立した路線として多摩川線がある。", "title": "路線" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "全線複線の路線は西武有楽町線のみで、他の路線は一部区間または全線が単線である。全線複線の路線が1路線しかないのは関東の大手私鉄では珍しい。また東京地下鉄とともに、政令指定都市に路線や駅が所在していない大手私鉄となっている。", "title": "路線" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "池袋線と新宿線には、未だに開かずの踏切が点在する。この状況を解消すべく地方公共団体が主体で、立体交差化に取り組んでいる。", "title": "路線" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "池袋線は、2015年1月25日に桜台駅 - 大泉学園駅付近までの高架化が完了した。", "title": "路線" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "新宿線は、2022年現在、中井駅 - 野方駅間の地下化と東村山駅付近の高架化による立体交差化工事がそれぞれ行われている。", "title": "路線" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "西武鉄道の路線では西武有楽町線をのぞく全線でATSを使用している。このうち、新交通システムの山口線をのぞく全線では高周波連続誘導車上速度照査式ATSを、山口線では点制御による多情報変周式ATSをそれぞれ採用している。西武有楽町線では西武線で唯一のATCを採用している。", "title": "路線" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "山口線と西武有楽町線をのぞく全線で使用されている高周波連続誘導車上速度照査式ATSは、他のATSや初期型のATCよりも高性能な保安装置である。AF軌道回路を用いたATSは西武鉄道のほかに阪神電気鉄道・阪急電鉄・山陽電気鉄道・相模鉄道(現在は地上子を使用する点制御によるATS-Pに移行して廃止)・西日本鉄道で採用例があるが、西武鉄道ではパターン式となっている。過去に西武線ではAM系自動空気ブレーキ車や貨物列車が走行していたことから、ブレーキ性能別に制御する必要があるためATS作動時には非常ブレーキがかかる。制限速度以下になると自動的に緩解する。分岐上では軌道によって信号を送ることができないため、ループコイルを使用している。JR福知山線の脱線事故を受けて、急な曲線、分岐器(ポイント)箇所等の制限速度に対しても、列車を自動的に減速、または停止させる機能を追加した装置への更新を行い、2010年6月に完了した。", "title": "路線" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "西武有楽町線で使用しているATCは、レールに設けられた軌道回路に先行列車の位置及び進路の条件に応じて作成されたATC信号(速度信号)を流し、車内では列車の許容最高速度を示す信号を連続して現示、その信号現示に従って列車の速度を自動的に制御する方式である。かつて乗り入れ先の有楽町線を含めた営団および後身の東京地下鉄各線や国鉄および後身のJR東日本常磐緩行線で使われていたCS-ATC(JR名称:ATC-4型)とほぼ同じものであるが、東京地下鉄では副都心線に新CS-ATCを採用し、有楽町線でも西武有楽町線と同一のATCから新CS-ATCへと変更されている。西武有楽町線は全駅の出発信号機が停止定位であり、このATCにより駅停車時に段階的に減速する。", "title": "路線" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "2005年に更新された新型自動放送は、担当声優は上りが豊田真由美・下りが鈴木盛久が担当しているが、多摩川線・山口線では異なる。", "title": "自動放送" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "西武鉄道では一部の駅をのぞいて独自の発車メロディを使用している。1994年2月に使用を開始し、最盛期には50種類が存在していた。駅・ホームごとに異なっていて当初は主要駅にしか導入されていなかったが、その後は各駅停車のみが停車する駅にも導入されている。しかし、種類は6種類まで絞り込まれている。私鉄の中では京阪電気鉄道や阪神電気鉄道などと並んで発車メロディの採用は早かった。一部駅では旧オリジナル発車メロディを現在も引き続き使用している。ご当地発車メロディとしてご当地ソングを採用した駅が多くあり、高田馬場駅は「マルコメCMソング」、上井草駅は「翔べ! ガンダム」、椎名町駅は『怪物くん』(1968 - 1969年)主題歌「おれは怪物くんだ」、大泉学園駅は『銀河鉄道999』映画版主題歌「銀河鉄道999」、西所沢駅(1・2番ホーム)は「吠えろライオンズ」、下山口駅(1・2番ホーム)は、「若き獅子たち」、西武球場前駅(1 - 6番ホーム)は「地平を駈ける獅子を見た」、西武秩父駅では「旅立ちの日に」、狭山市駅は「七夕さま」、入間市駅は「茶つみ」、本川越駅は「愛の季節」、東村山駅(国分寺線ホーム)は「東村山音頭」、練馬高野台駅は「きれいな川」、「たのしい場所」 、所沢駅は「さんぽ」(1・2番ホーム)と「となりのトトロ」(3 - 5番ホーム)が採用されている。", "title": "自動放送" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "2022年3月時点で、池袋線内の駅は原則として下りはシャープ系、上りはフラット系の音響で統一されている。", "title": "自動放送" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "車内自動放送は、1992年登場の6000系から搭載が始まり、同年以降に製造された新型車両と、2006年度以降に更新された2000系(2031Fが初)・新101系のワンマン仕様車に搭載されている。車内自動放送は本線通勤車用・特急車用・山口線用・多摩湖線用・多摩川線用の5種類が存在する。2008年の東京地下鉄副都心線開業・相互直通開始に伴い更新され、これまで日本語のみだったのがさらに英語も加えられた。", "title": "自動放送" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "日本語の声優は1992年当初から石毛美奈子 が(ただし、1985年 - 2003年までのレオライナー8500系車両および2008年以前の多摩川線はのぞく)、英語の声優は初の英語車内放送採用の2008年からクリステル・チアリが担当している。更新前の自動放送と比べ日本語はかなり簡略化されたが、これは車掌の肉声によって分かりやすい情報を提供するためだとしている。", "title": "自動放送" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "西武鉄道には平行ダイヤ区間(複々線でのダイヤ構成)が池袋線のごく一部にしかないため、ラッシュ時のダイヤは非常に複雑に、そして巧みに構成されている。特に池袋線ではその特徴がよく表れていて、全国でも珍しい千鳥停車が行われている。これは種別・行き先を問わず、どの電車も乗車率を平均的にするために行われる複雑なダイヤとなっている。しかし、千鳥停車は平日ラッシュ時のみで、ラッシュ時は毎日の通勤や通学で慣れた人がほとんどであり、混乱は無かった。さらに千鳥停車を行うことにより、優等列車が停車する駅での渋滞が少なくなるため、複線のみの時代でもラッシュ時間帯では複線のみの路線では日本の私鉄最大の1時間に29本もの運転本数を確保し、輸送力増強に大きく貢献した。後述するように、2018年春より種別数は10種別体制になっている。新宿線でもかつて千鳥停車を実施していたが、現在は廃止された。", "title": "ダイヤ" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "西武鉄道では、2018年3月10日現在、以下の種別の列車を運行している(各駅停車のみ運行する多摩川線・国分寺線・山口線・西武園線・豊島線を除く)。", "title": "ダイヤ" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "運行している列車種別数は10種別で、これは日本での列車種別数では京阪電気鉄道と並んで大手私鉄最多である。なお、区間準急が設定されていた1998年から2001年までの間は、当時の大手私鉄では最大の10種別(現行の列車種別に区間準急と同じく廃止された通勤快速との合計)が設定され、また2008年6月から2012年6月までの間は、廃止された拝島快速を加えた9種別が同時に設定されていた。", "title": "ダイヤ" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "2020年(令和2年)4月1日現在、特急車84両、通勤車1,196両(うち12両は新交通システム)の計1,294両を保有する。各系列の詳細・使用線区・運用などについてはそれぞれの記事を参照のこと。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "現在の西武鉄道を形成した旧・川越鉄道(旧・西武鉄道の前身。1894年〈明治27年〉開業。現・国分寺線と新宿線)・武蔵野鉄道(1915年〈大正4年〉開業。現・池袋線)・多摩鉄道(1917年〈大正6年〉開業。 1927年〈昭和2年〉旧・西武鉄道に合併。現・多摩川線)・多摩湖鉄道(1928年〈昭和3年〉開業。1940年〈昭和15年〉旧・武蔵野鉄道に合併、現・多摩湖線)は、すべて蒸気運転で開業している。大正末期からの電化の進捗により順次姿を消していったが、その間には様々な生い立ちの蒸気機関車の姿が見られた。1950年(昭和25年)の多摩川線の電化完成後は運用も狭まり、1957年(昭和32年)度をもって蒸気運転の長い歴史に幕が下ろされた。また、762mm軌間の普通鉄道であった山口線でも延べ4両(うち2両は借用)1972年 - 1984年(昭和47–59年)の間、蒸機機関車が古典客車を牽引した。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "西武鉄道は敗戦後に国鉄から戦災国電や廃用機器の大量払い下げを受けて車両の拡充を行なっていた。しかし西武秩父線開業と共に質的向上も図られ、大手他社と比べても遜色はない。また、戦後長らく所沢車両工場において大手私鉄では珍しい車両の自社製造を続けていたが(東急車輛製造など一部車両メーカー製も並行して導入された)、1999年(平成11年)3月2日9108編成の出場をもって終了し、それ以降は全車両が外注となる。日立製作所(笠戸事業所)製が多数を占めているが、2016年(平成28年)度から納入された40000系は川崎重工業車両カンパニーの製造となった。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "かつては貨物・工事輸送用として電気機関車を数多く保有しており、明治から大正期にかけて欧米から輸入された機関車が昭和末期まで運用されていた。また、西武秩父線開業に際しては私鉄最大級の出力および唯一のF級機となるE851形を導入しており、貨物輸送廃止直前には客車牽引も実現した。特に前者はその産業遺産的価値の高さもあり、静態保存されている。なお、西武鉄道の元現役車両も併せて静態保存されている。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "車体面での特徴では、関東大手私鉄の中では東武鉄道と共に早くから20 m級車体の導入に積極的であり、1957年(昭和32年)には全車20 m級車体の501系を登場させている。501系は当時流行していた湘南型デザインを採用しており、時代に応じたアレンジを行いながら3000系まで、実に30年以上にわたって西武の通勤形車両の標準仕様であり続けた。また、側扉の数は20 m級の通勤形電車としては異例となる片側3ドアとなっていたのも特徴である。その後、1990年(平成2年)代以降は新2000系に代表される4ドア車の増備が進められ、現在3ドア車は支線区向けの101系が残るのみとなっている。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "車体色は戦後長らくラズベリーレッドとトニーベージュの赤電色が使われていたが、1969年(昭和44年)の101系導入に際し新たにレモンイエローの車体色を導入し、新車のみならず一部の在来車も冷房化・高性能化に際してレモンイエローへの塗装変更が行われた。1994年(平成6年)の9000系を最後にレモンイエローの新造車は登場していないが、「西武鉄道=レモンイエロー」のイメージは未だ根強く、2015年(平成27年)には6000系6157Fが西武鉄道開業100周年を記念して、レモンイエローのラッピングが施工されている。また、新型特急001系の車内もレモンイエローを基調としたカラーデザインになっている。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "現在運用されている電車の制御装置はほぼすべてが日立製作所製である。例外として6000系の6156編成および001系は三菱電機製、6000系6157編成および40000系は東芝製 となっている。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "東京急行電鉄・京王電鉄と同様に営業運転から離脱した旧型車両を地方中小私鉄に譲渡するケースが多い。譲渡先にはグループ会社の近江鉄道・伊豆箱根鉄道のほか、流鉄・三岐鉄道・上信電鉄がある。このように長年、中小私鉄への中古車の主要な供給元の一つであったが、2023年9月に大手私鉄では極めて異例となる、他社(東急電鉄・小田急電鉄)からの中古車の譲受が発表された(後述)。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "西武鉄道の貨車は前身各社以来、構成比率が圧倒的に無蓋車に偏っていることが大きな特徴として挙げられる。これは多摩川や入間川あるいは吾野の砂利・砕石輸送が貨物の中心であったからである。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "旧西武鉄道の前身にあたる川越鉄道は甲武鉄道経由で東京と川越を結ぶ目的で建設された路線で、開業時に用意された貨車は有蓋車12輌、有蓋緩急車2輌、土運車4輌と有蓋車中心の構成であった。しかし、20世紀に入ると事故車の代替として製造されたワム101以外、無蓋車のみが増備され、統合時は有蓋車13(うち緩急車1)輌、無蓋車54輌の構成になっていた。これとは別に1927年(昭和2年)に合併した多摩鉄道から有蓋緩急車2輌と無蓋車28輌を引き継いだが、同社の無蓋車は高比重の砂利輸送用のため当時としては大型の15t積で製造されていたのが特徴であった。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "武蔵野鉄道は有蓋車9輌、有蓋緩急車4輌、無蓋車47輌の陣容で開業し、以後の増備は無蓋車中心であったことは旧西武と同様である。特に1929年(昭和4年)の吾野延伸時にトム101〜200(後のトム301形)とトフ1〜10の110輌を一度に増備し、統合直前には有蓋18(うち緩急車9)輌、無蓋199(うち緩急車10)輌に膨らんでいた。また、戦中戦後の尿尿輸送は有名だが、1922年 - 1928年(大正11年 - 昭和3年)にも肥桶輸送用の私有有蓋車が車籍編入されていたことも特記できる。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "戦後は国鉄から大量の無蓋車を購入し、1955年度(昭和30年度)末に最多輌数となる1000輌の在籍を記録している。1960年代は鉄側有蓋車の増備や有蓋緩急車の代替新造など有蓋車の増強が行われたが、砂利採掘の終焉や余剰化に伴い、多くの貨車がヨン・サン・トオ前後に処分されている。末期は保線用として残ったが、トム301形とホキ81形が2007年(平成19年)に廃車されたことで西武の貨車は終焉を迎えている。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "現在、平日・土休日の需要変動に応じた柔軟な編成を組むために、編成を組み合わせることも少なくない。池袋線・新宿線では、特急列車を除く平日の優等列車は原則10両編成で運転されるが、平日の一部時間帯や土休日においては優等列車は8両編成で運転されることもある。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "サステナ車両として東急電鉄と小田急電鉄から中古車両を約100両譲受し、2024年度から2029年度にかけて支線系に導入する予定となっている。いずれも西武鉄道での形式は未定。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "(保線車両などを除く)", "title": "車両基地・工場・検修場" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "大人普通旅客運賃(小児半額・ICカード利用の場合は1円未満の端数切り捨て、切符利用の場合は10円未満の端数切り上げ)。鉄道駅バリアフリー料金制度による料金10円の加算を含む。2023年(令和5年)3月18日改定。", "title": "運賃・乗車券" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "西武ドームでの野球などイベント来場者の利便を図るため、西武鉄道各駅(多摩川線を除く)から西武球場前駅までの往復乗車券が設定されている。発売当日より2日間有効。", "title": "運賃・乗車券" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "西武鉄道は1枚の通勤定期券で2つのルートを利用できる以下の特殊連絡定期券を発売し、乗客の需要喚起を促している。これらの定期券は都心側のターミナル駅の利用が可能で、途中接続駅での乗り継ぎも容易になる。当初は西武鉄道のみでの発売だった。", "title": "運賃・乗車券" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "西武鉄道は、沿線に秩父や川越といった有名観光地があり、観光客向けに「フリーきっぷ」を発売している。 いずれのきっぷも西武鉄道の駅員が配置されていない小竹向原駅と他の西武線の路線とつながっていない多摩川線の全駅では購入することができない。その他、一部の駅で購入できないきっぷがある。", "title": "運賃・乗車券" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "通年商品のほか、季節商品やスタンプラリー等のイベントに合わせて西武線スタンプラリー1日フリーきっぷなどの企画商品が設定される。また毎年埼玉県民の日である11月14日にはその日のみ利用可能な埼玉県民の日記念1日フリーきっぷも発売される。", "title": "運賃・乗車券" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "西武鉄道は、2003年に小田急電鉄と業務提携を結んでいることから、小田急線各駅で発売している各種フリーパスも発売している。この乗車券には西武線乗車駅から西武新宿線西武新宿駅までの往復乗車券が追加されている。", "title": "運賃・乗車券" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "2013年3月16日からは、東急東横線・横浜高速鉄道みなとみらい線との相互直通運転開始に伴い、東横線・みなとみらい線で使用可能なフリーきっぷの取り扱いを開始した。", "title": "運賃・乗車券" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "2023年3月18日発売分からは企画乗車券からも鉄道駅バリアフリー料金(大人は20円)を収受している(これに伴い「秩父フリーきっぷ」などは発売額変更)。", "title": "運賃・乗車券" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "訪日外国人向けの企画乗車券を発売している。購入時に日本以外のパスポートの提示が必要となる。", "title": "運賃・乗車券" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "シーズン限定の切符として以下の設定もあった。", "title": "運賃・乗車券" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "2010年度までに全駅(営業線のみ)バリアフリー化を目標に掲げ、下記を含めるバリアフリー化事業を行っている。", "title": "設備" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "1992年の高田馬場駅ホーム・駅舎改良工事の開始以降、駅のバリアフリー化工事や駅舎の橋上化・建て替え工事が活発に行われるようになった(小竹向原を除く。ただし、さらに遡ると1977年の現在の西武新宿駅の駅ビル(新宿プリンスホテルビル)完成時にきっぷ売り場と改札口の間の階段横にスロープが設置され、西武最初のバリアフリー化が行われている。このスロープは2007年に改めて改修された)。設備改良の主な内容の始まった駅とその年は次の通り。", "title": "設備" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "近年では一日の利用客が5000人以下の駅でもバリアフリー化が実施されている。駅売店の改良も行われているが、2007年以降は駅ナカコンビニTOMONYに置き換える場合が多い。Emio(エミオ)などの駅ナカ商業施設の建設も進められ、利用者の充実性・利便性の向上も図られている。", "title": "設備" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "ホームには2台以上の大型総合案内板が1987年より設置されている(一部駅を除く)。これには最上部に駅名標(LED式電灯付)、下部に西武鉄道路線図、停車駅ごあんない、時刻表、急行・準急・(普通→)各停それぞれの所要時間がまとめて入っている。その後、2008年より全てユニバーサルデザインのピクトグラムを併用し、さらに新コーポレートカラーに合わせたデザインとなっている。駅名標のみのものは、1987年の航空公園駅から使用している簡易的なものと2008年の新コーポレートカラーに合わせたデザインのものなど約5種類存在する。池袋線(一部駅を除く)は副都心線開業に合わせ、ホーム番号・方面を表記する看板を全て新しいものに交換し同一デザインとしている。他の駅でも駅設備の改良と共に交換をしている。しかし、池袋線では厚型であったが、その後他駅で設置されたものは薄型となり英語表記のほかに、韓国語・中国語の表記もされている。2012年以降は、駅ナンバリングが併記されたものへの取り替えや、案内板への駅ナンバリング貼り付けも順次行われている。1970年代に導入された旧ホーム番号表記看板が現在、鷺ノ宮駅・武蔵関駅・入曽駅・南大塚駅の一部・西武秩父線の一部駅に残っていたがこれも2010年代初期までに取り替えられた。", "title": "設備" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "西武鉄道では小竹向原駅を除く全駅に自動体外式除細動器 (AED) と列車非常通報装置、列車進入警報装置が設置されている。これらの設置は2008年度中に終了した。2007年には遠隔放送装置を導入し、総合司令室より全駅または指定駅への遠隔放送により正確な情報を迅速に伝達することが可能になった。また、「あなたの駅でも定期を」をモットーに、自動定期券発売機の設置を進めている(小竹向原を除く)。また、2009年10月頃より一部駅の自動定期発売機にクレジットカード対応とするためのシステム追加が行われている。", "title": "設備" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "また、女性専用車に、小学生以下の子供を同伴する「男性保護者」の乗車も認めており、他社には見られない特徴である。", "title": "設備" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "線路面では低騒音化や乗り心地の改善に力を注いでいる。1975年より乗り心地の良い線路のロングレール化が実施され、実施率は日本の私鉄一であった。分岐器(ポイント)での横揺れや騒音を軽減するため、普通分岐器から弾性分岐器への交換を進めている。1996年までF級電気機関車のE851形が走行していたこともあり線路の基礎は強固である。民家が隣接しているところには防音壁を設置し対策している。2000年頃から架線柱のビームを丈夫で寿命が長いパイプ式への交換が進んでいる。また一部であるが、弾性枕木直結軌道やバラストラダー軌道、饋電吊架式の架線などの採用も進めており省メンテナンス化にも取り組んでいる。", "title": "設備" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "歩行者用・自動車通行可能な踏切共に全ての踏切で遮断機及び警報器が自動化されている。踏切の遮断機・警報器や起動装置などはほとんどが京三製作所製で、一部日本信号製の物が使われている。2008年度には自動車が通行可能な踏切242踏切に、踏切支障報知装置(非常ボタン)と踏切支障検知装置の設置を完了した。列車の運転士が運転中に踏切遮断機の作動を確認する線路脇に設置されている表示灯は、他社では見られない特殊なものとなっている。他社では電球色で「×」印の表示灯が一般的だが、西武鉄道では踏切の警報灯と同じ上下点滅式のLED表示灯となっている。2005年より比較的大きな踏切では道路と歩行者用通路を明確にし歩行者の安全を確保するため、歩行者用通路が緑色で塗りわけられている。なお、警報音は設置当初から数十年以上手鳴らしによる「カンカンカンカン」という西武独自の独特な音のものであったが、1990年頃より2世代前、1992年頃より1世代前のものへ変更が始まり、一時期現行のもの含めすべての警報音が使用された時期もあったが、2008年に1世代前(武蔵境第6踏切のみで使用)と現行の4代目の2つのみに統一された。なお、現在は駅列車接近警報装置の警報音としても使用されている。", "title": "設備" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "車両形式ごとの性能に統一性がなく、同形式でも性能が一部異なる編成もあるため、運転士は形式ごとに性能や操作、感覚を記憶しなければならない。西武鉄道係員養成所には、20000系と40000系の運転(車掌)シミュレーターがあり、定期的に運転士はそこで訓練を受ける。", "title": "乗務員" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "東京メトロ等乗り入れ先では同条件でも開放している運転席背面の助手席側遮光幕は西武線内では早朝・夜間は閉めている。", "title": "乗務員" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "車両の自動放送を簡略化し、車掌に直接わかりやすく通過駅や接続電車などの放送をさせるようにしている。電車の折り返し時や停車時間が長い駅では都度車掌が車内に入り車内温度を確認する。また、始発時や乗務員交代時には車内と乗務員室の仕切り扉や窓を開け、車内放送が適切な音量であるかを確かめている。", "title": "乗務員" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "保谷・小手指・飯能・上石神井・小平・新所沢の各駅に乗務所が併設されており、運転士と車掌が所属している。また、白糸台・萩山の各駅に併設された多摩川線管理所、多摩湖線管理所に運転士が所属しており、前者が多摩川線、後者が多摩湖線、山口線のワンマン運転を担当している。", "title": "乗務員" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "2020年度は 駅別乗降人員 :西武鉄道Webサイト より。それ以外は 関東交通広告協議会、東京都統計年鑑、埼玉県統計年鑑 より。", "title": "一日平均乗降人員上位20駅" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "は、右欄の乗降人員と比較して増()、減()を表す。", "title": "一日平均乗降人員上位20駅" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "池袋線系統は池袋駅が、新宿線系統は西武新宿駅と高田馬場駅が突出して乗降人員が多く、これらの3駅が西武鉄道のメインターミナルである。また、池袋線系統は小竹向原駅で東京メトロ有楽町線及び副都心線への相互直通運転を行っており、都心方面の利便性と冗長性を確保している。", "title": "一日平均乗降人員上位20駅" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "池袋線系統の始発駅である池袋駅は、1990年代前半に一日平均乗降人員が65万人を越えていた時期があった。1997年度に都営地下鉄大江戸線が新宿駅まで延伸開業し、2008年度に東京メトロ副都心線が開業して直通運転を開始するなど、並行路線が開業したことで乗客の転移が進み、2009年度以降は50万人を下回っている。その一方で、池袋駅の手前にある乗換駅の小竹向原駅と練馬駅は乗降人員が増加し、2010年度以降は両駅とも10万人を上回っている。", "title": "一日平均乗降人員上位20駅" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "新宿線系統の始発駅である西武新宿駅は、他路線に乗り換える際に不便な場所にあるため、乗り換えに適した隣駅の高田馬場駅よりも乗降人員が少ない。同線は地下鉄への相互直通運転を実施していないため、朝のラッシュ時は両駅で大量の降車客を捌いている。特に、高田馬場駅では降車時間の短縮と遅延防止を図るため、上り線に限り両側の扉を開けられる構造としている。", "title": "一日平均乗降人員上位20駅" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "上位15位の中で大半を占めるのは池袋線の駅である。大泉学園駅は他路線と接続せず、急行以上の種別が通過する単独駅でありながら一日平均乗降人員が6万人を越えている。また同駅を含め、石神井公園駅から所沢駅までの各駅は、すべての駅で一日平均乗降人員が4万人を越えている。朝のラッシュ時に運転される通勤準急は石神井公園駅を、通勤急行はひばりヶ丘駅を通過する千鳥停車を行い、両駅に停車する快速急行及び急行に乗客が集中しないようにダイヤが組まれている。", "title": "一日平均乗降人員上位20駅" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "一方で、新宿線の単独駅で一日平均乗降人員が5万人を越えているのは田無駅のみである。2006年度以前は新所沢駅も一日平均乗降人員が6万人を越えていた。", "title": "一日平均乗降人員上位20駅" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "西武鉄道では、グループビジョンのグループ宣言に、「常に、自然環境・地球環境への配慮を忘れません。」と掲げている通り、以下のような環境保全活動を行っている(以下は、大まかな例であり環境保全活動の極一部)。", "title": "地球環境への配慮" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "2008年5月に鉄道会社としては初めてSEGES(シージェス)の認定を受けた森林「飯能・西武の森」を保有している。認定ランクは5段階評価中3段階目。認定を受けた会社としては最大級で、面積は約77ヘクタール。地域市民の憩いの場として、また自然体験を始めとする環境教育の場として使用されている。2008年9月より5ヵ年計画で整備をする。", "title": "地球環境への配慮" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "2007年に電車から架線に戻された回生電力の貯蔵を行う「環境配慮型蓄電装置」を日本国内で初めて吾野変電所および正丸変電所に導入した。これにより電力使用量の削減につながった。また、変電所では2001年より整流器の冷媒を代替フロンから環境に影響のない純水に切り替えている。2008年より変電所で定期的に交換される蓄電池の再利用を行っていて、廃棄物の削減を図っている。", "title": "地球環境への配慮" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "2005年度以降にリニューアルされた駅や建て替えを施行した駅の一部では、太陽光発電や風力発電システムを導入している。案内表示看板内の照明をLED化することで消費電力の大幅な削減を図っている。駅の構築でVOCの発生を抑えるため、鉄骨材の塗装をやめて溶融亜鉛めっきを取り入れている。また、信号踏切等の設備の塗装では低VOC塗装を使用している。2009年度から一部駅でホームや駅前ベンチの緑化が行われた。旧駅舎に使用されていた古レールを活用し、駅の案内表示の柱に使用している。", "title": "地球環境への配慮" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "鉄道車両では、軽量化などによって消費電力の削減を図り、新型車両についてはこれが置き換える旧型車両に比べ約半分以下の消費電力となっている。また、車内や車体のリサイクル性を高めるため新型車両ではリサイクル可能な素材の採用などがなされている。冷房装置の冷媒を代替フロンに置き換えることによって、オゾン層破壊への影響を低減させている。また、使わなくなった一部車両を地方中小私鉄に譲渡して、解体にかかる環境負担を低減させると共に省資源化を図っている。廃棄物対策として、車両部品の非アスベスト化や電子機器プリント基板の非鉛化を図っている。", "title": "地球環境への配慮" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "線路内の法面の緑化を行い環境保全と景観向上を図っている。また、一部社員を地域の清掃活動や自治体とタイアップした植栽ボランティア活動に定期的に参加させている。この活動により社員が環境に対する意識を高めてもらおうとしている。", "title": "地球環境への配慮" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "武蔵横手駅の線路脇事業用地ではヤギ(雄のそらと雌のみどり、その2頭の子のだいち)の放牧による草刈りを2009年8月頃より試験的に開始している。これにより、従来社員が草刈り機を使用して行っていた草刈りを省くことができ、草刈り機の燃料費の削減、またこれに伴う環境負荷の低減につながることを期待している。", "title": "地球環境への配慮" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "乗車券類のリサイクルを行い再資源化を図っている。また同じように電気関係工事で発生する銅屑、鉄屑などのリサイクルも行っている。", "title": "地球環境への配慮" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "2009年4月には日本政府が進める地球温暖化防止プロジェクト「チーム・マイナス6%」に加盟している。", "title": "地球環境への配慮" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "太陽光発電については駅併設分以外にも、西武鉄道グループとして太陽光発電所を9か所(2018年1月時点)運営・着工している。", "title": "地球環境への配慮" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "西武鉄道では幾多のオリジナルキャラクターを駅や電車内で使用している。2004年頃から西武鉄道が保有する電車の各形式がキャラクター化されている。2007年度より「グットマナーをありがとうシリーズ」で各動物をキャラクター化している。同年度から西武鉄道が毎月1日に発行する「西武鉄道 かわら版」内のマナーを呼びかけをする欄で毎年度違うキャラクターを製作している。ちなみに2007年度はマナーかるたをテーマとして中学生の「たけしくん」、2008年度は小学生探偵の「サトローくん」、2009年度は学習型のマナーロボット「マナボットくん」であった。また、沿線祭りの宣伝ポスターで解説などをするキャラクターとして「まつりちゃん」がいる。", "title": "オリジナルキャラクター" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "1956年、練馬区に東映動画のスタジオ(現・東映アニメーション大泉スタジオ)が設立されて以来、練馬区・杉並区など西武沿線周辺にアニメ会社が集まり、日本のアニメ産業の中心地となった。", "title": "漫画・アニメ・ゲームとのコラボレーション" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "グループ再編後は、アニメーション作品、およびそれを活用した地域おこしとのタイアップや、アニメキャラクターを使用した自社企画、声優を起用した企画(始球式、アニラジやその公開収録など)を行っている。近年は、『モンスターストライク』や『白猫プロジェクト』など、ソーシャルゲームとのコラボレーションも度々実施している。", "title": "漫画・アニメ・ゲームとのコラボレーション" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "このほか、『ケロロ軍曹』やプリキュアシリーズ(2009年の『フレッシュプリキュア!』から2012年の『スマイルプリキュア!』まで)の劇場映画公開前に、広告ヘッドマーク付きの電車を池袋線系統を中心に運転していた。", "title": "漫画・アニメ・ゲームとのコラボレーション" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "また、2020年11月に、本社所在地近くの所沢市東所沢和田に、クールジャパンの総本山として、出版大手KADOKAWAの文化複合施設「ところざわサクラタウン」が開業。この計画には、西武HD取締役会長の後藤高志も参加している。", "title": "漫画・アニメ・ゲームとのコラボレーション" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "西武鉄道以外の西武グループ系列企業でも、以下のアニメ・漫画作品とタイアップ(コラボレーション)を行っている。特に、サンシャインシティプリンスホテルは、近くに乙女ロードがあるため、女性向け作品とのコラボに積極的である。", "title": "漫画・アニメ・ゲームとのコラボレーション" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "例年、沿線の南入曽車両基地で8月ごろ、武蔵丘車両検修場で6月ごろ、横瀬車両基地で10月ごろに車両基地一般公開等のイベントが行われる。", "title": "イベント" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "2021年は新型コロナウイルス感染症の流行により、車両基地の公開を取りやめた。その一方で武蔵丘車両研修場では、近隣の日高市や飯能市などに在住する市民に無料の招待券を配布し、参加する人数を少なくして一般公開を行った。", "title": "イベント" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "西武グループは、西武ホールディングス傘下の事業会社である西武鉄道、西武・プリンスホテルズワールドワイド、西武リアルティソリューションズとその子会社と孫会社を含め81社より構成されている。西武鉄道系は、地方鉄道の近江鉄道・伊豆箱根鉄道およびその子会社を除き、原則的に企業名の先頭に「西武」が付く。鉄道系以外では、例外は武蔵野地所、横浜アリーナである。", "title": "主要グループ企業" } ]
西武鉄道株式会社は、埼玉県所沢市に本社を置く日本の鉄道会社である。登記上の本店所在地は東京都豊島区南池袋にある。 東京都北西部と埼玉県南西部で12鉄道路線(総延長176.6キロメートル) と関連事業(バス・タクシー・旅行・観光・商業・不動産開発など)を運営する西武グループの主要企業で、日本の大手私鉄の一つである。また、プロ野球・埼玉西武ライオンズの親会社(2009年から)でもある。 「西武」の名称は「武蔵国の西部」に由来する。また、利用客の多くは西武鉄道の路線のことを「西武線」と呼んでおり、車内放送などでも「西武線」と呼称している。
{{Pathnav|西武ホールディングス|frame=1}} {{基礎情報 会社 | 社名 = 西武鉄道株式会社 | 英文社名 = SEIBU RAILWAY Co.,Ltd.<ref name="overview">{{Cite web |url=https://www.seiburailway.jp/company/profile/index.html|title=会社概要|publisher=西武鉄道株式会社|accessdate=2020-05-15}}</ref> | ロゴ = [[File:SeibuRailway_logo.svg|250px]] | 画像 = [[File:Seibu Group buildings Kusunoki, Tokorozawa, Saitama pref, Japan 2007-03-29.jpg|300px]] | 画像説明 = 画像右が西武鉄道本社。<br />左は西武HDが入居していた第二ビル。<br />西武HDは2019年に池袋の新社屋に移転。 | 種類 = [[株式会社]] | 市場情報 = 非上場{{上場情報 | 東証1部 | 9002 || 2004年12月17日}}<!--2014年4月23日に上場したのは親会社の西武ホールディングス--> | 略称 = 西武 | 国籍 = {{JPN}} | 郵便番号 = 359-8520 | 本社所在地 = [[埼玉県]][[所沢市]][[くすのき台]]一丁目11番地の1<ref name="overview" /> | 本店郵便番号 = 171-0022 | 本店所在地 = [[東京都]][[豊島区]][[南池袋]]一丁目16番15号<ref name="overview" />([[ダイヤゲート池袋]]) | 設立 = 1912年5月7日<ref name="overview" /> <br/>(武蔵野鉄道株式会社) | 業種 = 5050 | 事業内容 = 鉄道事業<ref name="overview" /> | 代表者 = [[小川周一郎]]([[代表取締役]][[社長]]社長[[執行役員]]) | 資本金 = 216億6523万2千円<br />(2019年3月31日現在)<ref name="overview" /> | 売上高 = 単体:1109億55百万円(2021年3月期)<ref name="gyoseki" /> | 経常利益 = 単体:△37億69百万円(2021年3月期)<ref name="gyoseki">{{Cite web|和書|url= https://www.seiburailway.jp/company/ir/bspl/170.pdf|title= 第170期 計算書類 2020年4月1日から2021年3月31日まで|publisher= 西武鉄道株式会社|accessdate=2021-07-30}}</ref> | 純利益 = 単体:11億2百万円(2021年3月期)<ref name="gyoseki" /> | 純資産 = 単体:3064億91百万円(2021年3月31日現在)<ref name="gyoseki" /> | 総資産 = 単体:8493億76百万円(2021年3月31日現在)<ref name="gyoseki" /> | 従業員数 = 3,650人<br />(2022年度末)<ref name="overview" /> | 決算期 = [[3月31日]] | 主要株主 = [[西武ホールディングス]] 100%<br />(2021年3月31日現在)<ref name="gyoseki" /> | 主要子会社 = | 関係する人物 = [[堤康次郎]]<br>[[小島正治郎]]<br>[[堤義明]]<br>[[後藤高志]] | 外部リンク = https://www.seiburailway.jp/ | 特記事項 = }} '''西武鉄道株式会社'''(せいぶてつどう、{{Lang-en-short|SEIBU RAILWAY Co.,Ltd.}}<ref name="overview" />)は、[[埼玉県]][[所沢市]]に[[本社]]を置く[[日本]]の[[鉄道会社]]である。[[登記]]上の[[本店]]所在地は[[東京都]][[豊島区]][[南池袋]]にある。 東京都北西部と埼玉県南西部で12[[鉄道路線]](総延長176.6キロメートル)<ref>西武、沿線開発「後発」の利/ニーズとらえ住みやすく『[[日経産業新聞]]』2019年11月22日(食品・日用品・サービス面)</ref> と関連事業([[バス (交通機関)|バス]]・タクシー・旅行・観光・商業・不動産開発など)を運営する[[西武グループ]]の主要企業で、日本の[[大手私鉄]]の一つである。また、[[日本野球機構|プロ野球]]・[[埼玉西武ライオンズ]]の親会社(2009年から)でもある。 「西武」の名称は「[[武蔵国|'''武'''蔵国]]の'''西'''部」に由来する。また、利用客の多くは西武鉄道の路線のことを「西武線」と呼んでおり、[[車内放送]]などでも「西武線」と呼称している。 == 概要 == 西武鉄道は、[[東急]]や[[阪急電鉄]]([[阪急阪神ホールディングス]])などの大手私鉄と同じように、経営の[[多角化]]を早くに進め、また自社の[[不動産]]を中心とした非鉄道事業で大きな利益を上げている。祖業が[[堤康次郎]]率いる不動産会社の[[箱根土地]](後の[[コクド]]、現在は[[プリンスホテル]]に合併)であることも、その背景である。不動産開発は西武沿線は勿論のこと、[[神奈川県]]、[[千葉県]]の[[房総半島|房総]]や[[伊豆半島|伊豆]][[箱根]]地方にも広がり、堤康次郎の出身地である[[滋賀県]]も1943年から[[近江鉄道]]を傘下としていること<ref>[https://response.jp/article/2016/01/14/267784.html 「西武鉄道、滋賀の近江鉄道を完全子会社化」][[Response.]](2016年1月14日)2021年7月31日閲覧</ref>などにより西武鉄道の事業エリアとなっている。<!--[[七里ヶ浜]]海岸を私有地として保有していて、海岸を持つ数少ない鉄道会社となっている。--> [[昭和]]中期には箱根の不動産開発をめぐり[[小田急グループ]](当時の[[東急グループ|東急系]])と「[[箱根山戦争]]」と称される縄張り争いが繰り広げられた。現代では、2003年から[[小田急電鉄]]と観光地や鉄道沿線事業での提携や、「[[東急・西武線まるごときっぷ|東急線西武線まるごときっぷ]]」といった共通商品の開発に乗り出しており、また[[2013年]]以降は[[東京メトロ副都心線]]を経由して[[西武池袋線]]と[[東急東横線]]が相互直通運転を開始するなど、対立していた小田急や東急と現在では協調している。 鉄道事業での収入より不動産部門の方が主となっているが、[[2006年]]のグループ再編により、日本国内の[[リゾート]]関係の不動産は兄弟会社の[[プリンスホテル]]や[[西武プロパティーズ]](旧:西武不動産販売)へ段階的に譲渡されている。旧宮家([[皇族]])の持っていた[[東京]]都心や駅前の超一等地、神奈川県の箱根や[[湘南]]、[[長野県]]の[[軽井沢]]といった人気リゾート地にホテルや[[スキー場]]、[[ゴルフ場]]などの広大な土地を所有しており、企業の土地資産価値で日本一の時代もあった。かつては阪急や東急、[[近畿日本鉄道|近鉄]]を抑えて大手私鉄の中で[[時価総額]]が最大であった。その恵まれた土地資産を活用して、[[石神井公園駅]]、[[大泉学園駅]]、[[小手指駅]]周辺などの沿線再開発のほか、[[赤坂プリンスホテル]]跡地に大規模な再開発ビルである「[[東京ガーデンテラス紀尾井町]]」を開業した。また、[[所沢駅]]周辺や[[東京都区部]]の[[池袋]]・[[品川]]・[[高輪]]でも再開発を進行・計画中である。 西武グループとして商業施設や小売・外食店を展開している<ref>[https://www.seibugroup.jp/service/shop/ レストラン・ショッピング] 西武グループウェブサイト(2019年2月11日閲覧)</ref> ものの、[[関東地方|関東]]の大手私鉄では[[相模鉄道]](相鉄)<ref group="注釈">ただし、相鉄は自社の[[横浜駅]]の[[駅ビル]][[相鉄ジョイナス]]に[[髙島屋]]を入居させている。</ref>や[[東京地下鉄]](東京メトロ)とともに、グループ内に[[百貨店]]を持っていない(百貨店の「[[西武の店舗一覧|西武]]」を経営する[[そごう・西武]]は後述するように[[フォートレス・インベストメント・グループ]]傘下であり系列外)。これは、創業者である堤康次郎死後、西武鉄道などは[[堤義明]]率いる'''西武鉄道グループ'''(現:西武グループ)、[[西武百貨店]]などは[[堤清二]]率いる'''西武流通グループ'''(後の[[セゾングループ]]、2000年代に実質解体)の2グループに分かれたため。ただし、2003年の[[そごう・西武|ミレニアムリテイリング]]第三社割当増資時に[[和田繁明]][[社長]](当時)が堤義明[[会長]](当時)へ打診し、西武鉄道が出資を引き受けた。2006年の[[西武ホールディングス]]設立に伴うコクドの第三者割当増資時にはミレニアムが10億円出資を引き受け、[[セブン&アイ・ホールディングス]]がミレニアム株式を現金で買上げるまでの数か月間は[[株式の持ち合い]]状態であった。2020年時点でも、西武グループの統括会社である西武ホールディングスとセブン&アイ・ホールディングスは「連携強化のため」にお互いに株式を持ち合っており<ref>[https://www.7andi.com/ir/file/library/pdf/20_7andi_int04.pdf 『セブン&アイ・ホールディングス第15期有価証券報告書』]p.77および[https://ssl4.eir-parts.net/doc/9024/ir_material_for_fiscal_ym8/83187/00.pdf 『西武ホールディングス第15期有価証券報告書』]p.91</ref>、西武鉄道・プリンスホテルと西武池袋本店が共同で外国人観光客誘致を行う<ref>[https://www.sogo-seibu.co.jp/pdf/20151019_01.pdf 池袋を拠点とする西武鉄道・プリンスホテル・西武池袋本店が協力して、池袋エリアの訪日外国人誘致に取り組みます!] 西武鉄道/プリンスホテル/そごう・西武(2015年10月19日)2020年10月10日閲覧</ref>、[[秩父地方]]で採れた農産物を西武の[[特急列車]]で輸送し、[[西武の店舗一覧#池袋本店|西武池袋本店]]で販売する<ref>[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2020/20210108_ichigo.pdf 特急Laviewで農産物輸送の実証実験(第2弾)実施] 西武鉄道/プリンスホテル(2021年1月8日)2021年6月8日閲覧</ref>などの協業を行っている(詳細は「[[そごう・西武#西武グループとの関係]]」参照)。なお、そごう・西武は[[2023年]]に[[アメリカ合衆国]]の投資ファンド「[[フォートレス・インベストメント・グループ]]」に売却されセブン&アイグループから離脱した。 西武百貨店の小店舗として登場した[[スーパーマーケット]]の[[西友]]が西武沿線に多いのは、グループ分裂前に発展過程で店舗と土地を賃貸しているのが、現在まで継続しているからである。西友が米[[ウォルマート]]の子会社になってからも西友とのつながりは未だに深く、西武鉄道の開発するニュータウンや駅改良工事後に、西友の新店舗が開店することが多い。また、西友の小売事業として発足した[[ファミリーマート]]とは、駅ナカコンビニ[[TOMONY]](トモニー)の展開で提携しているなど、かつてのセゾングループとのつながりを見ることが出来る。 一方で西武鉄道グループとしても、[[西武リアルティソリューションズ]](旧プリンスホテル)を介して、[[ペペ (商業施設)|PePe]]や[[Emio]]などの駅ビルや[[BIG BOX]]、[[アウトレットモール]]といった大型商業施設の運営を行っている(元は2022年にプリンスホテルに合併された西武プロパティーズの事業)。また、[[旅行会社|旅行業]]部門として[[#関連施設・事業|西武観光]]を擁しており、一般客向けには西武線の[[ターミナル駅]]構内に窓口が置かれている。 <!--近年は東京移住者が増加傾向にある。西武鉄道の利用者の数は減ってはいないものの、[[京王電鉄]]などと比較すると増加の割合は2009年度現在、約3%西武鉄道の方が少ない。-->[[首都圏 (日本)|首都圏]]で東京都区部と周辺地域を結ぶ鉄道他社、特に小田急電鉄や東急電鉄では利用客の増加に対応し線路の[[複々線]]化が活発に行われたが、西武鉄道では複々線化について、[[西武池袋線|池袋線]]では[[練馬駅]]から石神井公園駅までを複々線化した一方で、[[西武新宿線|新宿線]]では[[西武新宿駅]] - [[上石神井駅]]間の複々線化が計画されたが、その後[[少子化|少子]][[高齢化社会|高齢化]]の進行に伴う利用客の減少の見込み等により、計画を中止した。 一方、老朽化した駅施設などのリニューアルを活発に進めており、1999年の[[田無駅]]を皮切りに[[野方駅|野方]]、[[花小金井駅|花小金井]]、[[狭山市駅|狭山市]]、[[東長崎駅|東長崎]]、[[江古田駅|江古田]]、[[東久留米駅|東久留米]]、[[所沢駅|所沢]]の各駅で駅舎の全面改築が行われている。2007年からはファミリーマートと協業した駅売店「TOMONY(トモニー)」や[[2010年代]]以降は駅ビル型の中小規模な[[エキナカ|駅ナカ]]商業施設として「Emio(エミオ)」やより大規模な「Grand Emio(グランエミオ)」を開業させ、駅の改築に合わせて順次展開していく見通しである。 == 同族経営時代 == [[ファイル:Tsutsumi Yasuzirou3.JPG|thumb|300px|right|[[衆議院議長]]に就任した[[堤康次郎]]]] 西武鉄道は2006年2月の[[西武グループ]]再構築まで長きに亘り、[[堤康次郎|堤家]]の[[コクド]]が株式の多くを保有する[[同族経営]](=ファミリー企業)であった。 康次郎亡き後は後継者となった[[堤義明]]による経営手腕で1960年代以降、[[プリンスホテル]]とその近隣での[[スキー場]]、[[ゴルフ場]]、[[スケート]]リンクなどの[[リゾート]]開発と、[[日本のニュータウン|ニュータウン]]/[[宅地]]開発などが[[東日本]]を中心に大規模に推し進められた。兄弟会社であったプリンスホテル(旧)の不動産物件はほとんど西武鉄道の所有であり、プリンスホテル社は運営のみを行っていた。また、1978年にはコクド(当時は国土計画)が[[福岡野球|クラウンライターライオンズ]]を買収して、[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]を誕生させ[[プロ野球球団]]経営に進出する。建築には[[西武建設]](旧)、庭や芝生管理に西武造園を用いるなど内部経済でコクド・西武鉄道グループとしての規模を拡大させ社員3万人を有し、「西武王国」と言われた。また、1980年代には堤義明は世界の[[富裕層|富豪]]([[世界長者番付]])入りを果たした。 1957年から[[東京証券取引所|東証]]一部に[[株式公開|上場]]していたが、2004年に発覚した[[金融商品取引法|証券取引法]]違反事件により同年12月に[[上場廃止]]処分となり、その後のコクド・西武鉄道・プリンスホテル間での事業領域の再構築と不採算物件の売却が行われるなど、大きな転換期となった(後述)。 === 総会屋利益供与事件 === 2004年2月に[[総会屋]]の求めに応じて土地を安く譲渡させる形での利益供与が発覚し(西武鉄道総会屋利益供与事件)、総会屋側と利益供与に関わった西武鉄道と西武不動産販売(2009年に[[西武プロパティーズ]]が事業承継)の役員合わせて11人が商法違反で逮捕・送検される事態となった。これにより、同年4月14日に旧西武鉄道グループ・西武ライオンズ(当時)のオーナーで西武鉄道・[[コクド]]会長を務める[[堤義明]]と[[戸田博之 (実業家)|戸田博之]]西武鉄道社長が記者会見を開き、西武鉄道会長・社長職の引責辞任を発表する。これにより、[[同族経営|同族資本]]の鉄道会社は[[東武鉄道]]と[[富士急行]]が残るのみとなった。後任の西武鉄道社長には小柳皓正専務が昇格する形で就任した。 === 証券取引法違反事件 === 約6か月後の同年10月13日に、堤義明コクド会長が急遽[[記者会見]]を開き、[[有価証券報告書]]虚偽記載(2004年3月期決算の有価証券報告書上で、コクドが保有する西武鉄道の保有株数を22%過少申告していた)を公表。コクド会長職なども辞任表明をした。実態的には、西武鉄道株式〔西武株〕の[[コクド]]持株分の多くを、西武鉄道グループ各社の従業員[[持株会]]・[[OB・OG|OB]]関係者と堤義明コクド会長ら、1,000名以上の個人の「名義株」に偽装し、コクド・[[伊豆箱根鉄道]]など上位10名(社)の西武株式保有分のみで、[[東京証券取引所]]の[[上場廃止|上場廃止基準]]である80%を超えていたことを伏せて株式公開していた。1,000円台の堅調な値動きをしていた西武株は、発表翌日から[[ストップ安]]となり、東京証券取引所や[[証券取引等監視委員会]]、[[東京地方検察庁]]も、西武鉄道・コクド幹部への事情聴取に乗り出した。 西武鉄道は、連鎖的に同じ事態が発覚した伊豆箱根鉄道とともに、株式名簿管理を証券代行会社へ委託せず、自社内で行っていた(東証上場企業では当時3社のみ)が、[[有価証券のペーパーレス化|株券の電子化]](2009年開始)では、[[証券保管振替制度]]によって[[株券]]を[[証券保管振替機構]](ほふり)の参加者(証券会社・信託銀行等)口座を通じて預託(移管)した。その過程で名義人の実在確認が必要となるため、電子化が導入された時点で名義株が発覚してしまう事態は元々予想されていた。なお、この株主偽装は上場当初の1957年から存在したと言われている。 一方、発表前の同年9月前後に西武鉄道とコクド(プリンスホテル等)を通じて取引関係のある[[キリンホールディングス|キリンビール]]、[[サントリー]]、[[東京コカ・コーラボトリング]]などの複数の飲料メーカー、[[王子製紙]]、[[ワコール]]、[[日立グループ]]、[[三菱電機]]、小田急電鉄、[[鹿島建設|鹿島]]、[[前田建設]]、[[クレディセゾン]]など30企業に対し、西武株式8千万株を虚偽記載であることを伏せたまま売却した。10月の虚偽記載公表後の株価下落による損失を招いたことで、株式買い戻し(購入代金の返還)請求が起こされたとともに、売却を打診したコクド・西武鉄道の幹部や堤義明前会長に対しては、[[内部者取引|インサイダー]]容疑であわせて捜査が行われた。 これらの事態によって、東証は11月16日に「虚偽記載という不適切な情報開示」と「公益・投資者保護」を理由に、西武株式の上場廃止を決定し、11月17日に[[整理ポスト]]入りさせ、[[12月16日]]をもって取引を終了し、翌[[12月17日|17日]]で[[上場廃止]]となった。伊豆箱根鉄道においても、西武鉄道が50%超を持株保有していると、2000年度分からの有価証券報告書を訂正し、上場廃止となった。 上場廃止となるのは、それまでは企業の[[倒産]]([[会社更生法]]・[[民事再生法]]申請などの法的整理)や、[[M&A]]、[[株式公開買付]]に伴うものが通例であったことから、極めて異例の事態であった。2006年の[[ライブドア事件]]においても、酷似のケースで上場廃止となっている。 2005年3月3日に、堤義明は[[証券取引法]]違反(有価証券報告書の虚偽記載と[[内部者取引|インサイダー取引]])容疑で、東京地方検察庁[[特別捜査部]]に逮捕された。同年10月に[[東京地方裁判所]]で[[執行猶予]]付きの有罪判決を受け、2009年10月に刑猶予期間満了となった。この事件に際しては、コクドの幹部社員と小柳西武鉄道前社長が、相次いで[[自殺]]している。 == グループ再編へ == 株式問題と並行して、2004年11月に西武鉄道とコクドは共同で「西武グループ経営改革委員会」を発足させ、2005年1月にはコクドの事業部門と西武鉄道などを新設する持株会社の傘下に入れるなどのグループ再構築を発表した。また、旧経営陣は退任し、[[メインバンク]]である[[みずほコーポレート銀行]](旧・[[第一勧業銀行]])副頭取で西武グループ発足後に西武鉄道の代表取締役社長となる[[後藤高志]]らが迎えられた。 再編スキームとして、 * 11月に'''NWコーポレーション'''を設立し、コクドは[[株式交換]]によって子会社となる(NW社の株主は堤義明を筆頭とする旧コクドの株主)。 * 2006年1月31日にコクドは[[サーベラス・キャピタル・マネジメント|サーベラス]]や[[日興プリンシパル・インベストメンツ]]などからの[[第三者割当増資]]を受け、NWコーポレーションが筆頭株主では無くなる。また、[[西武建設]]が保有していた西武鉄道株式を[[そごう・西武|ミレニアムリテイリング]]、[[京浜急行電鉄]]などに売却し、160億円余りの資金調達を行う。 * 2月1日にコクドがプリンスホテルと合併。 * 2月2日に西武鉄道はプリンスホテルと株式交換を行いプリンスホテルの完全子会社となる。 * 2月3日、プリンスホテルが'''[[株式移転]]'''を行い[[西武ホールディングス]]となる。 * [[3月27日]]に西武ホールディングス内でホテル・レジャー事業はプリンスホテルへ[[会社分割]]・継承を行い、従来の西武鉄道グループ会社の一部は西武ホールディングス子会社として資本構成を再構築する。 資本再構成によって、西武鉄道は鉄道事業主体の普遍的な民営鉄道会社となり、西武グループの再編が完了した。 西武鉄道株式については[[有価証券報告書]]の虚偽記載が上場廃止の理由であったため、2004年度内の[[ジャスダック]]上場を目指していたが<ref>[https://web.archive.org/web/20041117044707/http://www.asahi.com/business/update/1116/124.html 西武鉄道、ジャスダック上場準備 東証は「廃止」決定]『[[朝日新聞]]』2004年11月16日([[インターネットアーカイブ]])</ref><ref name="seibu20041116">{{Cite press release|url =http://www.seibu-group.co.jp/railways/company/ir/disclosure/2004/__icsFiles/afieldfile/2009/12/16/ka-04-28.pdf|title=東京証券取引所における当社株式の上場廃止、監査法人の起用ならびにJASDAQ 市場への上場準備についてのお知らせ|deadlinkdate=2021-07|language=ja|archive-url=https://web.archive.org/web/20140714185233/http://www.seibu-group.co.jp/railways/company/ir/disclosure/2004/__icsFiles/afieldfile/2009/12/16/ka-04-28.pdf|archive-date=2014-07-14|publisher=西武鉄道|date=2004-11-16}}</ref>、年度内上場はスケジュール的に難しく、[[企業コンプライアンス|コンプライアンス]]体制強化後の上場を目指すことになった<ref>{{Cite press release|url =http://www.seibu-group.co.jp/railways/company/ir/disclosure/2004/__icsFiles/afieldfile/2009/12/16/ka-04-23.pdf |title=株式再上場計画の現状について|deadlinkdate=2021-07|language=ja|archive-url=https://web.archive.org/web/20140714170128/http://www.seibu-group.co.jp/railways/company/ir/disclosure/2004/__icsFiles/afieldfile/2009/12/16/ka-04-23.pdf|archive-date=2014-07-14|publisher=西武鉄道|date=2004-12-10}}</ref>。2006年のグループ再編後は株式移転により西武ホールディングスの子会社となっているが、同社株主には上場廃止前と同等に西武鉄道の[[株主優待]]乗車証などが謹呈されている。そして[[2014年]][[4月23日]]に西武ホールディングスとして東京証券取引所第1部へ上場した<ref>{{Cite news |title=西武HDが東証1部に上場 堤氏と「接触ない」 |newspaper=[[朝日新聞デジタル]] |date=2014-04-23 |url=https://www.asahi.com/articles/ASG4R56Y9G4RULFA02B.html |publisher=朝日新聞社 |accessdate=2019-11-29 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140423171432/http://www.asahi.com/articles/ASG4R56Y9G4RULFA02B.html |archivedate=2014-04-23}}</ref>。 == グループ再編後 == 西武グループ発足後は後藤高志が代表取締役社長として、西武鉄道の新しい体制を築き始めた。この新体制の鉄道事業において特徴的なのが自社のイメージチェンジである。2007年、西武鉄道が中核となる西武グループのスローガン「'''でかける人を、ほほえむ人へ。'''」が表すように、現在は他社と同じく、量はもとより質の向上にも力を入れるようになった。同年には社内に「スマイル&スマイル部」が開設され、鉄道ファンや子供に対するイベントを、年間多く実施・企画し沿線の人にもっと西武線と親しんでもらおうと考えている。 その第一陣として登場したのが西武のイメージトレイン[[西武30000系電車|30000系]](スマイルトレイン)である。それ以前の西武鉄道を思わせる「硬い」雰囲気に一線を画し「ソフトさ」をイメージしている。 === プリンスカード === 2007年2月には、西武鉄道とプリンスホテル・伊豆箱根鉄道など再編後の西武グループ各社が手掛ける物販・ホテル・リゾート各施設での[[ポイントサービス]]「プリンスポイント」と「プリンスポイントカード」を共同で導入。2006年9月に先行する形で[[提携カード]]「SEIBUプリンスカード」の発行が[[クレディセゾン]]・西武鉄道・プリンスホテルの提携によって開始された。同カードではクレジット決済による定期券購入が可能となり、2007年3月開始の「[[PASMO]]オートチャージサービス」へも対応している。なお、グループ再編前の1980年代([[コクド]]資本下)より旧プリンスホテルと西武交通などの利用に限定された[[ハウスカード]]「プリンスカード」が存在しており(旧[[日本信販]]などと提携)、従業員関係者や西武グループの上得意客向けに限定されて発行されていた。2005年4月にクレディセゾンと旧プリンスホテルが提携した「プリンスカード《セゾン》」が一般向けにも募集されるようになったが、「SEIBU プリンスカード」とはサービス面で関連性が無く、新たに新規申込する必要が生じた。 == 外資ファンドによる路線廃止提案と敵対的TOB == 2012年10月および2013年3月、親会社[[西武ホールディングス]]の大株主である外資[[投資ファンド|ファンド]]、[[サーベラス・キャピタル・マネジメント]]は、大規模なリストラ案を株主提案した。具体的には不採算5路線([[西武多摩川線|多摩川線]]・[[西武山口線|山口線]]・[[西武国分寺線|国分寺線]]・[[西武多摩湖線|多摩湖線]]・[[西武秩父線]])の廃止、[[埼玉西武ライオンズ]]の売却、[[プリンスホテル]]のサービス料の値上げ、[[品川駅]]周辺の再開発案の策定とされる<ref>{{Cite news |title=5路線は不要、球団売却も…サーベラス昨年提案 |newspaper=[[読売新聞]] |date=2013-04-06 |url=https://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20130406-OYT1T00264.htm |publisher=読売新聞社 |accessdate=2019-11-29 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130406140431/http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20130406-OYT1T00264.htm |archivedate=2013-04-06}}</ref><ref>[http://sankei.jp.msn.com/economy/news/130311/biz13031122400023-n2.htm 西武HD、悲願の再上場に暗雲…サーベラス「路線廃止」提案も] [[MSN産経ニュース]](2013年3月11日)2013年3月20日閲覧</ref>。これに対し西武が拒否したため、2013年4月下旬を期限とする敵対的[[株式公開買付け|TOB]]へ発展した<ref>[http://sankei.jp.msn.com/economy/news/130319/biz13031921370048-n1.htm 「サーベラスVS西武HD 敵対的TOBに発展へ」]MSN産経ニュース(2013年3月19日)2013年3月20日閲覧。</ref>。<!--ただし、サーベラス側は路線廃止や球団売却の提案をしてはいないとしている。 →後の段落と内容重複 --> なお、2013年3月21日の報道でサーベラスは、「路線廃止や球団売却などを強要したことはない」と否定している<ref>[https://web.archive.org/web/20140809063613/https://www.jiji.com/jc/c?g=ind_30&k=2013032100529 路線廃止、球団売却「提案せず」=西武HDに経営改善策45項目-米サーベラス] [[時事通信|時事ドットコム]] (2013年3月21日) 2013年3月22日閲覧</ref>。また、沿線自治体(特に西武秩父線沿線)からは路線の存続を求める声も上がっており、若林久社長は埼玉県[[秩父市]]に対して「[[公共交通機関]]なので守る」と説明している<ref>[http://www.saitama-np.co.jp/news03/26/03.html 「生活鉄道」西武秩父線存続を西武HD社長に要請/知事と首長ら]『[[埼玉新聞]]』2013年3月26日</ref><ref>[http://www.saitama-np.co.jp/news03/23/04.html 秩父線が廃止対象? 秩父市長「連係し守る」]『埼玉新聞』2013年3月23日</ref>。 == 社章・シンボルマーク == 現在のシンボルマークは新生・西武鉄道を象徴する一環として、新社章を兼ねたものであり、[[2007年]][[4月1日]]に制定された<ref name="SEIBU-2006-327">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20071103051753/http://www.seibu-group.co.jp/railways/kouhou/news/2006/0327.pdf 西武鉄道の新シンボルマークを決定!]}}(西武鉄道ニューリリース・インターネットアーカイブ・2007年時点の版)。</ref>。その意匠は旧社章と同じく西武の"西"をモチーフにしている<ref name="SEIBU-2006-327"/>。それぞれマークの形の意味として、2つの輪は、様々なものが鉄道によって出会いつながる姿を、果実のようなデザインは、交流によって生まれる「実り」=「地域・社会の発展」を表現<ref name="SEIBU-2006-327"/>。カラーリングでは、グリーンで「自然との調和」、濃いブルーで「信頼」と「安心・安全」、明るいブルーで「新しいことへの挑戦」をイメージしている<ref name="SEIBU-2006-327"/>。 シンボルマークは2008年4月から既存車両側面に掲示されるようになり、同時に西武鉄道の制服もリニューアルされるなどして、多くの場所でこの社章を見かけるようになった。なお、社名ロゴのフォントも制定・変更され、「SEIBU」という英文表記もされるようになり、同社の[[広告]]に記載されたり、シンボルマークとともに全営業車両の先頭車両乗務員室扉横([[西武8500系電車|8500系]]は車端部)に貼り出されたりした。ただし、近年、英文表記はあまり使わなくなり、同社が発行する広報誌『西武鉄道かわら版』の表紙には2013年度以降、記載されなくなった。また、2014年4月の[[消費税]]率変更時に運賃表を貼りかえた際、一部駅の運賃表下にあった「SEIBU」の英文表記が「西武鉄道」の漢字表記に変更され、駅のリニューアル工事後の駅入口看板も同様に変更されている。さらに、2013年度以降導入の[[西武30000系電車|30000系]]、近年に検査入場した車両、フルラッピングで車体色が変更された車両は、「SEIBU」の英文表記が「西武鉄道」の漢字表記に変更されている。 旧社章は西武軌道が1922年に制定したものである。西武の"西"をモチーフにしたもので、野球のボールに似た形をしている<ref>{{Cite book|和書|author=青木栄一|chapter=鉄道企業社章考|editor =原田勝正 他|year =1986|title = 鉄道と文化|publisher =日本経済評論社|isbn = 978-4818801035|page=176}}</ref>。新社章移行後、車両に掲示された旧社章は車体更新に併せて取り外しが進行中である。 <gallery style="font-size:90%;"> SeibuRailway mark.svg|シンボルマーク兼新社章 Seibu Logo 1922.svg|旧社章 </gallery> == 歴史 == 西武鉄道は、現在の池袋線系統の路線を開業した'''武蔵野鉄道'''が、新宿線系統の路線を開業していた'''西武鉄道'''(旧)を合併して出来た会社である。 === 武蔵野鉄道 === [[File:Musashino Railway Logomark.svg|left|100px|武蔵野鉄道]] 武蔵野鉄道は、[[1911年]]([[明治]]44年)[[10月18日]]に鉄道免許を取得し、[[1912年]](明治45年)[[5月7日]]に設立、当初は[[巣鴨駅]]を起点とする計画であったが、[[東京府]]が[[池袋駅]]を起点にするよう指示したため、[[1913年]]([[大正]]2年)4月に計画を変更。[[1915年]](大正4年)[[4月15日]]に現在の池袋線の一部である池袋駅 - [[飯能駅]]間を開業した。[[1922年]](大正11年)に池袋駅 - [[所沢駅]]間、[[1925年]](大正14年)に飯能駅までの全線を[[鉄道の電化|電化]]し、[[1929年]]([[昭和]]4年)[[9月10日]]に[[吾野駅]]まで開業させた。なお[[西武豊島線]]は[[1927年]](昭和2年)に、[[西武狭山線|狭山線]]は1929年(昭和4年)に開業している。 一方、[[1924年]](大正13年)に箱根土地(後の[[コクド]]。現在の[[プリンスホテル]])が武蔵野鉄道沿線の東京府[[北豊島郡]]大泉村に[[大泉学園町|大泉学園都市]]の分譲を開始。武蔵野鉄道に東大泉駅(現在の[[大泉学園駅]])を建設した上で寄贈する。翌1925年には武蔵野鉄道の株式を取得した。また、箱根土地は[[1928年]](昭和3年)、[[村山貯水池]](多摩湖)および[[小平市|小平]]地区一帯を開発すべく、'''多摩湖鉄道'''を設立。[[4月6日]]に[[国分寺駅]] - [[萩山駅]]間を開業し、[[1936年]](昭和11年)[[12月30日]]に村山貯水池まで開業させ、全通した。 [[1932年]](昭和7年)に箱根土地社長の[[堤康次郎]]が経営危機に陥っていた武蔵野鉄道<ref>{{新聞記事文庫|cite|0100143910|title=武蔵野鉄危く競売を免る|newspaper=[[東京朝日新聞]]|date=1931-05-11}}</ref>の株式を買い集め、再建に乗り出す。[[1934年]](昭和9年)[[8月28日]]、武蔵野鉄道は[[鉄道抵当法]]に基づく[[強制執行]]が実施され、[[運賃]]収入が強制管理人に差し押さえられる([[1937年]]〈昭和12年〉まで)。 [[1935年]](昭和10年)1月21日からは、9か月分の電力料金17万円滞納を理由に[[東京電燈]]から制限送電を受け、最大5600 [[キロワット|kW]]を必要とするところを4000 kWしか受電できなくなった。通勤時の輸送能力が激減して混乱を招いたため、東京電燈側は沿線住民に対して制限送電を行う経緯を記した文書を配布し理解を求めた<ref>「金がないので停電 通勤時の大混乱 武蔵野電鉄に制限送電を 今朝から遂に断行」『東京朝日新聞』昭和10年1月22日2面</ref>。経営は一層苦境に立たされるが、1936年(昭和11年)に武蔵野鉄道と債権者の間で[[和議]]が成立する。[[1938年]](昭和13年)、大口債権者である[[東武鉄道]]の初代社長[[根津嘉一郎 (初代)|初代根津嘉一郎]]らがようやく債務免除に応じ、経営再建に道筋をつけた。 [[1940年]](昭和15年)[[3月12日]]、武蔵野鉄道は同系の多摩湖鉄道を吸収合併する。10月、堤は根津および[[浅野財閥]](元々の親会社)から株式を取得して過半数を確保し、社長に就任した(長年、西武鉄道株式のうち約45%を箱根土地の後身会社であるコクドが保有していて、他に西武建設の保有分を合わせると関連会社による持分が過半数を占めていたのはこの一件に由来する)。 === 西武鉄道(旧) === [[File:Kawagoe Railway Logomark.svg|left|100px|川越鉄道]] 西武鉄道(旧)は'''川越鉄道'''に始まる。川越鉄道は、[[甲武鉄道]]の関連会社として[[1892年]](明治25年)[[8月5日]]に設立され、[[1894年]](明治27年)[[12月21日]]に現在の[[西武国分寺線]]である[[国分寺駅]] - 久米川(仮)駅(現在の[[東村山駅]])間を開業させた。さらに、川越鉄道は[[1895年]](明治28年)[[3月21日]]に、現在の[[西武新宿線]]の一部である久米川(仮)駅 - 川越駅(現在の[[本川越駅]])間を開業させた。その後、[[1920年]](大正9年)[[6月1日]]に'''武蔵水電'''に吸収合併された。武蔵水電の前身は、[[1906年]](明治39年)[[4月16日]]に[[川越久保町駅]] - [[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]間を開業させた'''[[西武大宮線|川越電気鉄道]]'''である。合併後、川越久保町駅 - 大宮駅間の路線は川越東線となった。 [[1921年]](大正10年)10月、武蔵水電は同年に[[新宿駅|淀橋町角筈]] - [[荻窪駅|荻窪村]]間を開業させていた'''[[都電杉並線|西武軌道]]'''を吸収合併した。「西武」の名前はこの会社が起源であり、現在の西武鉄道が[[2007年]]3月まで使用していた西武の西という字を図案化した社章もこの会社のものであった(ただし、6000系・10000系・20000系以外の現在も残っている車種は一部を除き2009年時点でもその旧社章を使用していたが、更新工事を施工した車両では取り外されている)。翌[[1922年]](大正11年)11月に武蔵水電は'''帝国電灯'''に吸収合併されたが<ref>[{{NDLDC|2955252/19}} 「武蔵水電株式会社解散」『官報』1923年1月11日](国立国会図書館デジタルコレクション)"帝國電燈株式會社ト合併ニ因リ大正十一年十一月一日解散ス"</ref>、帝国電灯は鉄軌道部門を、武蔵鉄道から改称して同年[[8月15日]]に設立された'''西武鉄道'''(旧)<ref>[{{NDLDC|2955256/11}} 「株式会社設立」『官報』1923年1月16日](国立国会図書館デジタルコレクション)"一 商號 西武鐵道株式會社 … 一 設立年月日 大正十一年八月十五日"</ref>に分離した<ref>[{{NDLDC|974246/502}} 『鉄道省鉄道統計資料 大正11年度』] p.139(国立国会図書館デジタルコレクション)"帝國電燈ハ武蔵鐵道ヘ(西武鐵道ト改稱) 11.6.2〔許可年月日〕 11.11.16〔実行年月日〕"</ref>。また、川越久保町 - 大宮駅の路線は大宮線となった。 [[1925年]](大正14年)、[[西武安比奈線|安比奈線]][[南大塚駅]] - [[安比奈駅]]間を開業。[[1927年]](昭和2年)4月16日にこれも現在の西武新宿線の一部にあたる[[西武村山線|村山線]][[高田馬場駅]] - 東村山駅間を[[複線]]・[[鉄道の電化|電化]]で開業。同時に東村山駅 - 川越駅間を電化し、高田馬場駅 - 川越駅間の直通運転を開始した。同年[[8月30日]]には、現在の[[西武多摩川線|多摩川線]]を開業させていた'''多摩鉄道'''を吸収合併した。 [[1935年]](昭和10年)[[12月27日]]、西武軌道線(淀橋町角筈 - 荻窪村間)を[[東京乗合自動車]]に委託した。委託後、同区間を譲渡(1951年)するまでの歴史は、「[[都電杉並線#歴史]]」を参照のこと。 [[1941年]](昭和16年)、前年に[[川越線]]の開業に伴い休止していた大宮線を[[2月25日]]に廃止した。 [[1943年]](昭和18年)6月、箱根土地が経営権を獲得。堤康次郎が社長に就任した。 [[1944年]](昭和19年)6月、[[第二次世界大戦]]下の食糧不足に対応するため、沿線の耕地を利用した大規模食糧供給を目的に、食糧増産株式会社を設立した。 また1944年には、東京都からの委託によって[[鉄道による糞尿輸送|糞尿輸送]]が開始された。当時都内の糞尿処理は、トラックで[[東京湾]]岸へ運び船で海中に捨てていたが、人手不足と[[ガソリン]]統制により、処理が追いつかなくなっていた。そこで[[東京都長官]]の[[大達茂雄]]からの要請で、武蔵野鉄道と西武鉄道(旧)と食糧増産の3社が一体となり、専用貨車と積込所・貯溜施設を造って大規模な糞尿処理にあたることとなったのである。同年[[9月10日]]夜から普通貨車による糞尿運搬の臨時運転を開始し、[[11月21日]]には専用貨車を用いた本運転に入った。この糞尿輸送列車は、'''「汚穢電車」<ref>[[井上ひさし]]『コメの話』</ref>「黄金電車」「黄金列車」'''などと呼ばれた。 この時の輸送力はあまり高いものではなく、積込所も2か所、貯溜槽も7か所しかなかった。社長の堤康次郎はさらに輸送規模を拡大させ、当時都内から排泄されていた1日約38,000[[石 (単位)|石]]の糞尿全てを処理できるように構想を立てた。専用貨車を115両新造して輸送能力を1日20,000石に上げるとともに、両鉄道沿線の数十箇所に糞尿貯溜槽を置き、約271,000石の糞尿をためられるようにする。そして輸送は主に深夜に行い、その帰りは貨車の上に特設台を設置し、都内向けの野菜を運搬しようというものであった。 しかし衛生面などで問題が続出し、糞尿輸送は次第にその輸送量を減らして行った。書類上は[[1953年]](昭和28年)[[3月30日]]までの契約であったが、実際には1951年に輸送が休止して以降、再開されないままの廃止で、堤の輸送拡大構想は結局実行されないまま終わった。 なおこの糞尿輸送が行われている最中に武蔵野鉄道と西武鉄道(旧)と食糧増産の3社が合併しているが、社名に「農業」を付して「西武農業鉄道」とした由来はこのようなことにある。 === 合併から現在まで === 戦後、西武鉄道の復興は他社に比べ目覚ましいものだった。大手他社が[[国鉄63系電車|国鉄モハ63形]]の割当てにより体制を整えようとしている中、西武鉄道では[[日本国有鉄道|国鉄]]の戦災車や事故車、これらが枯渇すると老朽廃車となった木製車を大量に譲り受け、自社(当時は復興社のちに西武建設経営)の[[西武所沢車両工場|所沢車両工場]]で改造、修繕や木造車体の鋼体化を実施した。これにより、モハ63形新製割当ての見返りに従来車を地方私鉄に供出する義務から解放され、輸送力増強を成し遂げたのである<ref group="注釈">ただし、地方鉄道車両の改造や新造は所沢車両工場で行っていた。</ref>。国鉄の改造車ばかり走っていたことから、利用者からは「第2の国鉄」とまで呼ばれていた。国鉄の事故車などを導入したためモハ63に[[国鉄TR10形台車|TR11]]という大正時代の台車を履かせた、国鉄どころか国内でも最低な水準の電車も作られ運行が行われた。徐々に車両数が増えると車体を新造するようになったが、[[鉄道車両の台車|台車]]や機械類は国鉄から譲り受けたものだった。 しかし、1954年(昭和29年)からようやく車体の完全新造が始まった。この時、登場した[[西武351系電車|351系]](登場当時501系)はこれから長きにわたる西武電車の基本デザイン「[[国鉄80系電車#影響|湘南デザイン]]」を確立した。この時の西武線を走っている電車と言えば、雑多な形態の電車を連結して、[[武蔵野台地]]を駆け巡るという印象が強かった。戦後の西武鉄道の方針は「質より量」で、車両の高速化はいち早く実施されてはいるものの他社では1950年代中盤(昭和20年代終盤)から登場したいわゆる[[高性能電車|高性能車]]の導入はせず、他系列との併結を考慮し性能の統一化を図ることから、一貫して旧来の[[吊り掛け駆動方式|吊り掛け駆動]]の増備を続けていたため「見せかけの新車」と揶揄されていた。その後登場した西武初の高性能車とも言える[[カルダン駆動方式|カルダン駆動]]の[[西武601系電車|601系]]・[[西武701系電車|701系]]電車にしても、旧来の吊り掛け駆動車との併結が前提で、機能的には動力伝達方式をアップデートしただけであり、吊り掛け駆動車と併結することによってカルダン駆動本来の性能を発揮できていなかった(詳細は各系列の記事を参照)。電動車の台車は新製されるようになったものの、付随車の台車は国鉄から譲り受けた旧式な釣合梁式の[[国鉄TR10形台車|TR11系]]の改造品であった。従来車との混用を考慮しない、[[発電ブレーキ|電気制動]]を可能とした真の意味での高性能車が導入されたのは、[[西武秩父線]]開業を控えた、実に1960年代終盤(昭和40年代中盤)のことであった。 1963年(昭和38年)11月1日からは、他社ではまだ6両[[編成 (鉄道)|編成]]が最長で、しかも18m級車両で編成を組んでいた時に、西武鉄道では池袋-所沢間に日本の私鉄で初めて10両編成を走らせ、単位輸送力を確保した。[[乗車率]]が最大で200%を軽く超えていた時代のことであり、西武鉄道の「質より量」という方針が初めて結果につながった瞬間となった。 1969年(昭和44年)には自社のイメージの確立に乗り出し、現在でも利用者の西武鉄道のイメージである「黄色い電車」の第1号となる[[西武101系電車|101系]]<ref group="注釈">登場当時は西武イエローと西武ベージュのツートンカラー。</ref> が登場する。その後、101系で冷房試作車が登場し、翌年に集中式冷房の採用が決定したのをきっかけに在来車両の高性能化<ref group="注釈">主な改造点:ブレーキ装置の[[電磁直通ブレーキ|HSC]]化、台車のFS372へ交換や車内の修繕など。</ref>および冷房化が急ピッチで施行されるようになった。この過程で、1977年(昭和52年)には西武鉄道で初の本格的な4扉車かつ[[界磁チョッパ制御]]・[[回生ブレーキ]]を採用した[[西武2000系電車|2000系]]も登場し、省エネルギー化や乗降時間短縮にも貢献するようになった。こうした質的改善により、1985年(昭和60年)5月には車両冷房化率は92.2%と大手私鉄全社中3位、関東大手私鉄では1位に達した<ref>『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』1985年8月号 p.130</ref>。戦後、復興の際の経営戦略が非常にユニークで他鉄道会社と異なっていることから、現在の沿線イメージ、会社イメージ共に他の関東圏私鉄と比較するとやや異質の存在として見られていることが多い<ref>広岡友紀『日本の私鉄 西武鉄道』(毎日新聞出版、2009年6月)</ref>。 他の大手私鉄では昭和20年代に東京都心部(主に[[東京駅]]・[[有楽町]]など)への路線延伸申請を競い合うように行なったが、西武はその動きとは一線を画した。 1986年(昭和61年)に西武鉄道本社は東京都豊島区から埼玉県所沢市へと移転した<ref name="RJ239">{{Cite journal|和書 |date = 1986-11 |journal = [[鉄道ジャーナル]] |volume = 20 |issue = 12 |page = 126 |publisher = 鉄道ジャーナル社 }}</ref>。同時に西武グループ本社も移転している。東京都区部に路線を持つ鉄道事業者は現在も都区内に本社を置く場合が多いが、このように中心機能を東京の中心地から離した例は、他に東京都[[新宿区]]から[[多摩市]]へ移転した[[京王電鉄]]や、[[2013年]]に本社を東京都[[墨田区]]から[[千葉県]][[市川市]]へ移転した[[京成電鉄]]がある。本社移転の狙いは、主要路線が2本交わる所沢駅を中心とした都市開発を行って沿線の開発・活性化を図ることや、沿線や輸送サービスの実態確認の容易化のためである(京王電鉄や京成電鉄の本社移転も同様の理由である)。 2017年(平成29年)1月16日、西武ホールディングスは都心事業の展開を強化する目的で、2019年春にかつての本社所在地に建設するビル内に本社を移転した上で入居することを発表し、西武グループとしては33年ぶりに池袋の地へ復帰することになった<ref name="asahi20170116">{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASK1J54ZVK1JULFA01D.html|title=西武HD、所沢から池袋に本社移転へ 都心事業展開強化|newspaper=[[朝日新聞デジタル]]|date=2017-01-16|accessdate=202310-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170118034609/https://www.asahi.com/articles/ASK1J54ZVK1JULFA01D.html|archivedate=2017-01-18}}</ref> が、西武鉄道の本社は所沢市に残る予定<ref name="asahi20170116" />。 <!-- 同じキーワード(日付など)は一度だけリンクすれば結構です。--> * [[1945年]]([[昭和]]20年)[[9月22日]] - 武蔵野鉄道は西武鉄道(旧)と食糧増産を吸収合併して'''西武農業鉄道'''に改称。これは[[陸上交通事業調整法]]に基づくものであったが、実際の合併は食糧増産に対する[[運輸通信省 (日本)|運輸通信省]]の査定に時間が掛かり、終戦後となった。 * [[1946年]](昭和21年) ** [[2月14日]] - 池袋線[[保谷駅]] - 田無町駅(現:[[ひばりヶ丘駅]])間で複線運転を開始。 ** [[11月15日]] - 西武農業鉄道が現在の'''西武鉄道'''に改称。バス事業を武蔵野自動車(現:[[西武バス]])に譲渡して分社化。 * [[1948年]](昭和23年) ** [[4月1日]] - [[西武村山線|村山線]][[東村山駅]] - 村山貯水池駅(現:[[西武園駅]])間営業再開。 ** [[5月18日]] - 運賃改定。最低普通運賃2[[円 (通貨)|円]]<ref name="kaisha-youran-unchin">{{Citation|和書|chapter=ご利用状況・運賃・料金・大手民鉄各社の比較|chapter-url=http://www.seibu-group.co.jp/railways/company/youran/__icsFiles/afieldfile/2014/09/30/youran2014_p63_64.pdf|format=PDF|title=会社要覧2014|publisher=西武鉄道|date=2014-09-30|accessdate=2023-10-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141218190809/http://www.seibu-group.co.jp/railways/company/youran/__icsFiles/afieldfile/2014/09/30/youran2014_p63_64.pdf|archivedate=2014-12-18}}</ref>。 ** [[7月18日]] - 運賃改定。最低普通運賃3円<ref name="kaisha-youran-unchin" />。 ** [[11月5日]] - 国分寺線東村山駅 - [[国分寺駅]]間を電化。 * [[1949年]](昭和24年) ** [[5月5日]] - 運賃改定。最低普通運賃5円<ref name="kaisha-youran-unchin" />。 ** 11月15日 - [[多摩湖線]]本小平駅を[[小平駅]]に統合。 * [[1950年]](昭和25年) ** [[4月6日]] - 国分寺線東村山駅 - [[柳瀬信号所]]間で複線運転開始。 ** [[5月12日]] - 運賃改定。最低普通運賃5円<ref name="kaisha-youran-unchin" />。 ** [[5月15日]] - 旧[[東京瓦斯電気工業|日立航空機]][[専用鉄道|専用線]]を譲り受け、[[西武拝島線|上水線]]として[[小川駅 (東京都)|小川駅]] - [[玉川上水駅]]間営業開始。 ** [[5月23日]] - 村山線東村山駅 - 村山貯水池駅間に[[野口信号所]]を新設、野口信号所 - 西武園駅間営業開始。 ** [[7月11日]] - 多摩川線[[武蔵境駅]] - 北多磨駅(現:[[白糸台駅]])間を電化。 ** [[8月1日]] - [[西武山口線|おとぎ線]][[遊園地前駅 (埼玉県)|多摩湖ホテル前駅]] - [[山口信号所|上堰堤駅]]間営業開始。 ** [[11月1日]] - 多摩川線北多磨駅 - [[是政駅]]間を電化。 * [[1951年]](昭和26年) ** 4月1日 - 元西武軌道の路線で、東京乗合自動車時代の1935年から業務を委託していた[[都電杉並線|新宿軌道線]](新宿駅 - 荻窪北口)を正式に[[東京都交通局|東京都]]に譲渡。 ** [[9月16日]] - おとぎ線上堰駅 - [[ユネスコ村駅]]間営業開始。 ** [[10月7日]] - 狭山線[[西所沢駅]] - 狭山湖駅(現:[[西武球場前駅]])間営業再開([[気動車|ガソリンカー]]運転)。 ** 11月1日 - 運賃改定。最低普通運賃10円<ref name="kaisha-youran-unchin" />。 * [[1952年]](昭和27年) ** [[3月21日]] - 狭山線西所沢駅 - 狭山湖駅(現:西武球場前駅)間を電化。 ** [[3月25日]] - 村山線[[高田馬場駅]] - [[西武新宿駅]]間営業開始。同時に路線名を[[西武新宿線|新宿線]]に改称。 ** [[7月15日]] - おとぎ線多摩湖ホテル前駅 - ユネスコ村駅間を[[地方鉄道法|地方鉄道]]に転換し、山口線に改称(「おとぎ線」「おとぎ列車」は愛称として残る)。 * [[1953年]](昭和28年) ** [[1月15日]] - 運賃改定。最低普通運賃10円<ref name="kaisha-youran-unchin" />。 ** [[2月5日]] - 西武観光営業開始<ref name="seibu-group20110825">{{Cite web|和書|url=http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2011/__icsFiles/afieldfile/2011/08/25/20110825seibu-kankou.pdf|format=PDF|title=西武観光案内所の営業終了について|publisher=西武鉄道|date=2011-08-25|accessdate=2023-10-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111020201749/http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2011/__icsFiles/afieldfile/2011/08/25/20110825seibu-kankou.pdf|archivedate=2011-02-02}}</ref>。 ** [[3月28日]] - 池袋線田無町駅(現:ひばりヶ丘駅) - [[東久留米駅]]間で複線運転開始。 ** [[9月26日]] - 池袋線東久留米駅 - [[清瀬駅]]間で複線運転開始。 * [[1954年]](昭和29年) ** 戦後初の新造車[[西武501系電車|501系(初代、のちの351系)]]通勤電車登場。 ** [[10月12日]] - 上水線小川駅 - 玉川上水駅間を電化。 * [[1957年]](昭和32年) - 本線での[[蒸気機関車]]運用廃止。 * [[1958年]](昭和33年) ** 9月16日 - 新宿線から小平駅、[[萩山駅]]経由[[多摩湖駅]]への直通運転開始。 ** [[12月19日]] - 新宿線柳瀬信号所 - 所沢駅間で複線運転開始。 * [[1959年]](昭和34年) ** [[西武451系電車|451系]]登場。 ** [[1月29日]] - 運賃改定。最低普通運賃10円<ref name="kaisha-youran-unchin" />。 ** [[12月21日]] - 池袋線清瀬駅 - [[秋津駅]]間で複線運転開始。 * [[1960年]](昭和35年) ** [[5月25日]] - 池袋線秋津駅 - 所沢駅間で複線運転開始。 ** 11月 - 新宿線西武新宿駅 - [[上石神井駅]]間で6両運転開始。 * [[1961年]](昭和36年) ** [[西武551系電車|551系]]登場 ** [[9月20日]] - 多摩湖線0.4 km延伸、[[多摩湖駅]]新設。 ** 12月、池袋線池袋駅 - 所沢駅間で急行8両運転開始。新宿線西武新宿駅 - [[田無駅]]間で6両運転開始。 * [[1962年]](昭和37年) ** [[9月1日]] - 上水線小川駅 - 萩山駅間営業開始。上水線から新宿線へ直通運転開始。 ** 11月1日 - 運賃改定。最低普通運賃10円<ref name="kaisha-youran-unchin" />。 ** [[12月28日]] - 西武鉄道初の[[カルダン駆動方式|カルダン駆動]]車[[西武601系電車|601系]]通勤電車登場。[[鉄道変電所|変電所]]集中制御システム使用開始。 * [[1963年]](昭和38年) ** 池袋線池袋駅 - 所沢駅間で私鉄初の10両運転開始。 ** [[西武701系電車|701系]]通勤電車登場。 * [[1964年]](昭和39年) ** [[4月26日]] - 西武グループ創業者の堤康次郎死去。 ** 11月15日 - 新宿線[[新狭山駅]]開業 * [[1965年]](昭和40年) ** [[2月18日]] - 保有車両数400両突破。 ** 11月5日 - 池袋線所沢駅 - 西所沢駅間で複線運転開始。 * [[1966年]](昭和41年) ** [[1月20日]] - 運賃改定。最低普通運賃20円<ref name="kaisha-youran-unchin" />。 ** [[5月16日]] - 小手指検車区(現:[[小手指車両基地]])開設。 ** 5月25日 - 池袋線西所沢 - 小手指ヶ原信号所(現:[[小手指駅]])間で複線運転開始。 ** [[10月28日]] - 池袋線小手指ヶ原信号所 - [[武蔵藤沢駅]]間で複線運転開始。 * [[1967年]](昭和42年) ** [[1月13日]] - 新宿線西武新宿駅 - 田無駅間で急行8両運転開始。 ** [[6月1日]] - 急緩行列車選別装置使用開始。 ** 10月28日 - 新宿線所沢駅 - [[新所沢駅]]間で複線運転開始。 ** [[11月7日]] - 上水線小平駅 - 萩山駅間で複線運転開始。 ** [[11月11日]] - [[西武801系電車|801系]]通勤電車登場。 * [[1968年]](昭和43年) ** 5月15日 - [[西武拝島線|拝島線]]の玉川上水駅 - [[拝島駅]]間営業開始。上水線を拝島線と改称。 ** 11月12日 - 国分寺線[[恋ヶ窪駅]] - [[羽根沢信号場]]間で複線運転開始。 ** 11月13日 - 池袋線武蔵藤沢駅 - [[入間市駅]]間で複線運転開始。 * [[1969年]](昭和44年) ** [[3月5日]] - 西武初の黄色い電車である101系通勤電車が登場(当時は黄色とベージュのツートン、非冷房)。 ** 9月26日 - 新宿線新所沢駅 - [[入曽駅]]間で複線運転開始。 ** 10月1日 - 南入曽検車区(現:[[南入曽車両基地]])開設。 ** [[10月2日]] - 池袋線[[仏子駅]] - [[笠縫信号所]]間で複線運転開始。 ** [[10月14日]] - 西武秩父線営業開始とともに「[[レッドアロー]]」こと[[西武5000系電車|5000系]]特急車登場。[[自動列車停止装置]] (ATS) 使用開始(多摩川線、安比奈線、山口線を除く)仏子駅 - [[西武秩父駅]]間で[[列車集中制御装置]] (CTC) 使用開始。 ** 12月16日 - ITV(駅ホーム監視用テレビ)使用開始。 * [[1970年]](昭和45年) ** [[1月1日]] - 横瀬検車区(現:[[横瀬車両基地]])開設。 ** 8月16日 - [[踏切]]支障検知装置使用開始。 ** [[10月5日]] - 運賃改定。最低普通運賃30円<ref name="kaisha-youran-unchin" />。 ** 11月20日 - 池袋線小手指駅開業。 * [[1972年]](昭和47年)[[7月1日]] - 通勤型初の冷房車[[西武101系電車#冷房車の登場および冷房化改造|101系試作冷房車]]登場。 * [[1973年]](昭和48年) ** [[6月8日]] - 新宿線田無駅 - [[西武柳沢駅]]間立体交差化工事完成。 ** [[11月29日]] - 最高速度100 [[キロメートル毎時|km/h]]運転開始。 * [[1974年]](昭和49年) ** [[3月1日]] - 電車行先[[方向幕]]を全列車に装備して使用開始。 ** [[7月20日]] - 運賃改定。最低普通運賃40円<ref name="kaisha-youran-unchin" />。 ** [[9月6日]] - 多摩川線単線[[閉塞 (鉄道)#自動閉塞方式|自動]]化及びATS使用開始。 * [[1975年]](昭和50年) ** [[3月20日]] - 池袋線入間市駅 - 仏子駅間で複線運転開始。 ** 4月1日 - 西武新宿駅に群管理式券売機導入。 ** [[6月2日]] - 新宿線西武新宿駅 - 本川越駅間で急行10両運転開始。 ** [[6月16日]] - [[定期乗車券]]集約発売開始。 ** 11月26日 - 新宿線入曽駅 - 入間川駅(現:[[狭山市駅]])間で複線運転開始。 ** [[12月8日]] - 西武新宿駅 - 拝島駅・多摩湖駅間急行10両運転開始。 ** [[12月13日]] - 運賃改定。最低普通運賃60円<ref name="kaisha-youran-unchin" />。 * [[1976年]](昭和51年) ** 3月1日 - 所沢駅 - JR[[新秋津駅]]間に貨物[[連絡線|連絡設備]]が竣工。同時に池袋・国分寺両駅の貨物中継を新秋津駅に変更。特急レッドアローの毎時運転開始。 ** [[12月1日]] - [[列車無線]]を安比奈線、山口線を除く全線で使用開始。 * [[1977年]](昭和52年) ** [[3月3日]] - 西武新宿ビルオープン。 ** 4月1日 - 新宿線に西武初の[[界磁チョッパ制御]]車、4扉の[[西武2000系電車|2000系]]通勤電車が登場。2000系登場に従い、1980年頃に[[西武501系電車|501系(2代目)]]とほぼ同時期に351系が本線系(新宿線系統・池袋線系統)からは運用終了。当時、3編成9両のみ多摩湖線のみ残る。 ** 12月19日 - 新宿線西武新宿駅 - 新所沢駅間準急10両運転開始。小平駅 - 多摩湖駅間折り返し運転開始。 * [[1978年]](昭和53年) ** [[2月15日]] - 保有車両数800両突破。 ** 9月16日 - 中央電気司令所(現:中央電気指令)を所沢へ移転。 ** 10月 - 日本の[[日本プロ野球|プロ野球]]球団・[[福岡野球|クラウンライターライオンズ]]を西武グループが買収し、[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]となる。 ** [[12月15日]] - [[西武武蔵関ステーションビル]]オープン。 * [[1979年]](昭和54年) ** [[1月8日]] - 運賃改定。最低普通運賃70円<ref name="kaisha-youran-unchin" />。 ** [[3月15日]] - 変電所集中制御システムにコンピュータ導入。 ** [[4月27日]] - [[西武狭山ステーションビル]]オープン。 ** [[12月7日]] - 拝島線萩山駅 - 小川駅間で複線運転開始。 * [[1970年代]]中盤頃 - 正確な時期は不明だが、2009年8月31日までの長期間使用された[[ドアステッカー]]が掲示されるようになる。客用ドアの窓ガラスの真ん中に外側から貼られており、「開くドアーにご注意」「手を引きこまれないように [西武鉄道]」と注意書きが書かれている。真ん中に黄色い(晩年はオレンジも)手を模したものが描かれ、下部には広告があるもの。厳密には前述した注意書きの文字の書体が1992年、1998年に変更されており、初代文字が[[石井茂吉|石井]][[ゴシック]]、1998年以降の文字は[[モリサワ]][[新ゴ]]である。 * [[1980年]](昭和55年) ** [[3月12日]] - 新宿線[[南大塚駅]] - [[脇田信号場]]間で複線運転開始。 ** [[3月17日]] - 従来は「[[普通列車|普通]]」「[[急行列車|急行]]」「[[準急列車|準急]]」のみであった種別が、新宿線で「[[快速急行]]」(当時は行楽急行として休日のみ運転)を、池袋線で「準急」「快速急行」のほか「[[準急列車|通勤準急]]」「[[快速列車|快速]]」「[[急行列車|通勤急行]]」を運行開始。 ** 3月28日 - 駅設備初のエレベータが新所沢駅で使用開始。 ** 6月16日 - 構内無線・乗務員無線使用開始。 ** [[7月17日]] - 拝島線[[東大和市駅]]立体交差化工事完成。 ** [[12月25日]] - [[踏切支障報知装置]]使用開始。当時の注意書きには「非常の際は電車がもどらなくなるまでこのボタンを押してください 非常時以外にボタンを押すと処罰されます」と書かれていた。 * [[1981年]](昭和56年)[[5月6日]] - 運賃改定。最低普通運賃80円<ref name="kaisha-youran-unchin" />。 * [[1982年]](昭和57年) ** 4月1日 - 西武新宿駅に[[自動進路制御装置]] (PRC) を導入して使用開始。 ** [[6月26日]] - [[運転指令所|運転指令]]を所沢に移転。 ** [[9月13日]] - 遊園地前 - 西武遊園地間に地方鉄道免許。 ** [[10月]] - 「西武ライオンズ '82パリーグ優勝記念乗車券」発売。 ** 10月28日 - [[西武田無ステーションビル]]オープン。 ** [[11月]] - 「西武ライオンズ '82[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]優勝記念乗車券」発売。 * [[1983年]](昭和58年) ** 10月 - 「西武ライオンズ '83パリーグV2優勝記念乗車券」発売。 ** [[10月1日]] - [[西武有楽町線]][[新桜台駅]] - [[小竹向原駅]]間開業。 ** 11月 - 「西武ライオンズ '83日本シリーズV2優勝記念乗車券」発売。 ** [[11月10日]] - 保有車両数900両突破。 ** [[11月27日]] - 池袋線に西武最後の3ドア・ツートンカラーの[[西武3000系電車|3000系]]通勤電車登場。 ** 12月1日 - 拝島線[[武蔵砂川駅]] - [[西武立川駅]]間で複線運転開始。 ** [[12月12日]] - 拝島線武蔵砂川駅開業。 ** 801系の新性能化・黄色塗装化完了をもって、[[西武701系電車|801系・701系電車]]の新性能・全黄色塗装化終了。 * [[1984年]](昭和59年) ** [[1月25日]] - 運賃改定。最低普通運賃90円<ref name="kaisha-youran-unchin" />。 ** [[5月14日]] - [[案内軌条式鉄道]]への改良のため、山口線営業休止。 * [[1985年]](昭和60年) ** この頃までに本線(新宿線・池袋線)からは[[赤電 (西武)|赤電]]が引退、運行終了(当時、多摩湖線・[[西武多摩川線|多摩川線]]のみ残る)。[[西武山口線|山口線]]が[[新交通システム]]として再開業し、おとぎ線時代に開業した一部区間が廃止。 ** [[4月25日]] - 国鉄(現・[[東日本旅客鉄道|JR東日本]])[[中央線快速|中央線]]方面からの野球開催時の利便向上のため、山口線新交通システム開業と同時に野球開催日のみ多摩湖線で臨時の「準急」が運行開始。 ** 6月1日 - ATS更新(多摩川線を除く)。[[停車場]]を除き[[日本の鉄道信号#出発信号機|出発信号機]]が進行定位になる。ホーム自動放送変更、[[声優]]も交代(声優不明)。 * [[1986年]](昭和61年) ** [[3月23日]] - 新宿線田無駅構内にて[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#西武新宿線田無駅列車追突事故|列車追突事故]]が発生。この事故で200名余の負傷者が出て、損傷の激しかった8両が廃車。この事故はブレーキシューに雪が挟まったことが原因と判明し、その対策として全形式に耐雪ブレーキが装備された。 ** [[8月5日]] - 本社を東京都豊島区[[南池袋]](池袋旧本社ビル)から埼玉県所沢市(現在地・同年[[11月2日]]の[[地番]]変更により現住所)に移転<ref name="RJ239"/>。 ** 10月 - 「西武ライオンズ '86パリーグ優勝記念乗車券」発売。 ** 11月 - 「西武ライオンズ '86日本シリーズ優勝記念乗車券」発売。 * [[1987年]](昭和62年) ** 3月5日 - 拝島線[[西小川信号所]]使用開始。 ** [[3月9日]] - 小川変電所使用開始。 ** 5月25日 - [[航空公園駅]]開業。この航空公園駅より当駅次駅前駅の案内表示サイン類の更新開始。 ** 8月1日 - レッドアローの1編成6両中、3両が[[禁煙車]]化、[[列車電話|列車公衆電話]]も設置。 ** 10月 - 「西武ライオンズ '87パリーグV2優勝記念乗車券」発売。 ** 11月 - 「西武ライオンズ '87日本シリーズV2優勝記念乗車券」発売。 ** [[11月20日]] - CTC区間を[[高麗駅]] - 西武秩父駅間に変更。 ** [[12月10日]] - 池袋線[[石神井公園駅]] - [[富士見台駅]]間立体交差化工事完成。 * [[1988年]](昭和63年) ** 黄色い電車(701系・801系・401系・旧101系)の初の廃車開始。多摩川線最後の赤電[[西武551系電車|571系]]の廃車をもって多摩川線からも赤電が消滅する。 ** 701系・801系・401系・旧101系の置き換えとして新宿線に新2000系通勤車登場。 ** 4月1日 - [[プリペイドカード]]の[[レオカード]]発売開始。レオカードに対応した平成初代[[自動券売機|券売機]]登場。 ** 4月27日 - 池袋線[[東飯能駅]] - 高麗駅間一部高架竣工。 ** 5月12日 - [[停車駅通過防止装置|誤通過防止装置]]使用開始。 ** 5月18日 - 運賃改定。最低普通運賃90円<ref name="kaisha-youran-unchin" />。 ** 6月1日 - [[弱冷房車]]登場。 ** 10月 - 「西武ライオンズ '88パリーグV3優勝記念乗車券」発売。 ** 11月2日 - 拝島線東大和市駅 - 玉川上水駅間で複線運転開始。 ** 11月4日 - 2扉[[鉄道車両の座席|セミクロスシート]]の[[西武4000系電車|4000系]]近郊型車登場。池袋線・新宿線の最高速度を105 km/hに引き上げ。 ** 11月 - 「西武ライオンズ '88日本シリーズV3優勝記念乗車券」発売。 ** 11月16日 - 池袋線武蔵丘信号所(現:[[武蔵丘信号場]])開設。 * [[1989年]]([[平成]]元年) ** [[3月16日]] - 駅管区制の導入。 ** 3月23日 - 保有車両数1000両突破。記念乗車券発売。 ** [[3月31日]] - 所沢、萩山鉄道電話局、デジタル電子交換機導入。 ** 4月1日 - [[消費税]]導入に伴う運賃改定、最低普通運賃90円<ref name="kaisha-youran-unchin" />。[[秩父鉄道]]への直通運転開始(飯能駅 - [[三峰口駅]]・[[野上駅]])。「秩父鉄道直通運転開始記念乗車券」発売。 ** [[12月14日]] - 新宿線新狭山駅 - 南大塚駅間で複線運転開始。 ** 12月15日 - 多摩川線ATS更新。 * [[1990年]](平成2年) ** [[6月30日]] - 西武最後の赤電だった[[西武351系電車|351系]]が最後の走行路線・多摩湖線でも運用終了・形式消滅。同時に全車両の冷房化・高性能化を達成。いわゆる「黄色い電車」に全車両統一(当時、101系・301系と3000系のみ黄色とベージュのツートン)。[[さよなら運転|351系さよなら運転・イベント]]が行われた。「351系さよなら記念乗車券」を発売。 ** 制服を一新。 ** 9月16日 - [[玉川上水車両基地|玉川上水車両管理支所]](現:車両基地)開設。 ** 9月 - 「西武ライオンズ '90パリーグ優勝記念乗車券」発売。 ** 11月 - 「西武ライオンズ '90日本シリーズ優勝記念乗車券」発売。 * [[1991年]](平成3年) ** 2月1日 - 清瀬第3号踏切立体交差化工事完成、使用開始。 ** 3月9日 - [[自動改札機]]導入、[[豊島園駅]]から使用開始。 ** 3月15日 - 西武研修センター使用開始。 ** 3月16日 - [[特別急行券|特急券]]のオンライン発券サービススタート。オンライン発券サービス開始に伴い、初代特急券券売機登場。 ** 3月29日 - 拝島線小川 - 西小川信号所間で複線運転開始。 ** [[5月11日]] - 新宿線[[鷺ノ宮駅]]北口駅ビルオープン。 ** 7月27日 - 新宿線狭山市駅 - 新狭山駅間で複線運転開始。 ** 9月5日 - 西武本川越ステーションビルオープン。 ** 9月 - 「西武ライオンズ '91パリーグV2優勝記念乗車券」発売。 ** 11月 - 「西武ライオンズ '91日本シリーズV2優勝記念乗車券」発売。 ** 11月20日 - 運賃改定。最低普通運賃110円<ref name="kaisha-youran-unchin" />。 ** 12月12日 - [[都営地下鉄大江戸線|都営12号線]](現:大江戸線)との連絡運輸開始。 * [[1992年]](平成4年) ** [[1月14日]] - 変電所集中制御システム更新。 ** 3月15日 - 車いす用階段昇降機を[[練馬駅]]にて初導入。 ** 4月1日 - 当時の運行管理システムの老朽化に従い、西武鉄道全線で運行管理システムの更新を実施した (SEMTRAC)。新しいホーム自動放送の声優は新宿線・池袋線では主に上り線担当の女性声優は[[河本俊美]]、主に下り線担当の男性声優は[[中村健治 (声優)|中村健治]]。なお、従来は「まもなく○番ホームに電車がまいります。白線の内側でお待ちください または、白線の内側までお下がりください」としか言わなかったものが、この時から種別、行き先、両数、先着するか、途中の駅で優等種別に乗り換えれば早く着くかどうかも分かるように改善された。 ** [[4月8日]] - 所沢総合管理事務所使用開始。 ** 6月1日 - 池袋線から初の10両固定編成、[[西武6000系電車|6000系]]ステンレス通勤車登場。 ** 9月 - 「西武ライオンズ '92パリーグV3優勝記念乗車券」発売。 ** [[10月23日]] - 西武飯能ステーションビルがオープン。 ** 11月 - 「西武ライオンズ '92日本シリーズV3優勝記念乗車券」発売。 * [[1993年]](平成5年) ** [[2月10日]] - [[回数乗車券|回数券]]発売対応マップ型平成2代目券売機登場(ただし、この2代目はレオカード非対応)。回数券を裏が白い非磁気券から裏が黒い完全[[磁気]]券化。 ** 5月12日 - [[上皇明仁|天皇]]・[[上皇后美智子|皇后]]、秩父[[行幸]](池袋駅 - 西武秩父駅間乗車) ** [[12月6日]] - 新宿線に「特急[[レッドアロー|ニューレッドアロー]]」[[西武10000系電車|10000系]]登場<ref>{{Cite news |title=西武鉄道 来年6月ダイヤ改正 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1993-11-04 |page=1 }}</ref>。新宿線に朝ラッシュ時の上りのみ、「快速」「通勤急行」運行開始。特急停車駅に入間市駅を追加。 ** 12月11日 - 101系の車体更新車・10両固定編成の[[西武9000系電車|9000系]]通勤電車登場。 ** 西武鉄道初の[[発光ダイオード|LED]]による行先・種別・発車時刻案内表示器を、この年から西武新宿駅、池袋駅、所沢駅から設置開始。1999年までにかけて主要駅(主に急行停車駅全駅と各駅停車のみ停車駅の一部)すべてに設置され、幕式などによる旧型行先・種別・発車時刻案内表示器を置き換えた。 * [[1994年]](平成6年) ** [[8月8日]] - 新宿線にも6000系ステンレス通勤車登場。 ** 10月1日 - 池袋駅新特急ホーム使用開始。 ** 10月15日 - 池袋線にも「特急ニューレッドアロー」10000系登場。 ** 12月7日 - 西武有楽町線新桜台駅 - 練馬駅延伸、営業開始。[[練馬高野台駅]]開業と同時に「西武鉄道池袋線練馬高野台駅開業記念乗車券」発売。 ** 主要駅のみで[[発車メロディ]]の使用を開始した( - 1999年)。 ** レオカード対応平成3代目券売機登場(この券売機はSFレオカードにも対応)。 * [[1995年]](平成7年) ** 9月1日 - 時差回数券、土・休日割引回数券発売開始。 ** 10月14日 - この日と15日に「特急レッドアロー」5000系さよなら運転実施。 * [[1996年]](平成8年) ** 特急券の発売駅全駅で端末更新。2代目特急券券売機登場。特急券が全発売駅・全券売機で裏が白い非磁気券から裏が黒い磁気券に更新(旅行会社の一部は現在も非磁気券で発行)。 ** 3月28日 - 多摩湖線で運行管理システム (SEMTRAC) の使用開始。 ** 4月1日 - 多摩川線[[ワンマン運転]]開始。所沢駅 - [[東横瀬駅]]間貨物輸送廃止。 ** 3月28日 - 野球シーズン時の臨時増発を若干縮小。この年より多摩湖線の野球開催日臨時「準急」が廃止され1985年以来11年ぶりに再び多摩湖線は種別が「普通」のみになり、それまで通過していた新宿線からの直通快速急行停車駅に[[八坂駅 (東京都)|八坂駅]]、[[武蔵大和駅]]を追加。4両のみ停車対応だったこの2駅が8両編成停車対応になる。 ** 5月25日 - [[西武E851形電気機関車|E851形電気機関車]]さよなら運転実施。 ** 9月1日 - 運賃改定。最低普通運賃130円<ref name="kaisha-youran-unchin" />。 ** 12月3日 - 池袋線に6000系アルミ通勤車登場。 ** 多摩川線・多摩湖線から701系・401系が運用終了。 * [[1997年]](平成9年) ** 西武グループウェブサイト開設と同時に西武鉄道ウェブサイト開設。<!-- http://www.seibu-group.co.jp/railways/kouhou/youran/index.html 会社要覧の年譜によるとウェブサイト開設は平成9年1月1日 --> ** [[2月21日]] - 701系・401系が運用終了・形式消滅。701系・401系さよなら運転を実施(701系1編成4両が西武新宿駅-西武球場前駅」間を事前に抽選で当選した乗客を乗せて臨時往復、401系2編成4両が池袋駅-西武球場前駅間を事前に抽選で当選した乗客の乗せて臨時往復した)。さよならイベントが西武球場前駅構内で行われた。 ** 3月7日 - 保有車両数1200両突破。 ** 4月1日 - 消費税率3%から5%への改定に伴う運賃改定。最低普通運賃130円<ref name="kaisha-youran-unchin" />。 ** 4月26日 - 特急レッドアロー利用客1億人突破。 ** 8月2日 - 池袋線[[桜台駅 (東京都)|桜台駅]] - 練馬駅間立体交差化工事完成。 ** 12月13日 - 池袋線[[中村橋駅]] - 富士見台駅間立体交差化工事完成。 ** 12月28日 - 運賃改定。最低普通運賃140円<ref name="kaisha-youran-unchin" />。 * [[1998年]](平成10年) ** [[3月26日]] - [[帝都高速度交通営団|営団地下鉄]](現・[[東京地下鉄|東京メトロ]])[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]との[[直通運転|相互直通運転]]開始。<!--ダイヤ改正で有楽町線直通の「準急」が登場。新宿線で平日のみ、快速急行「川越号」運転開始。野球シーズン時の臨時増発を2年ぶりに見直し、この年は新宿線から池袋線・狭山線直通の野球開催日臨時「快速急行」が廃止され、「準急」と「急行」に格下げ。競輪の臨時増発も変更し、西武新宿駅から西武園駅間往復の「快速急行」も廃止となる。一方池袋線は「区間準急」と野球開催日の有楽町線直通列車の運行を開始した。-->特急電車の停車駅を[[芦ヶ久保駅]]から[[横瀬駅]]に変更。 ** 3月 - 元加治駅 - 飯能駅間の複線区間を飯能方へ延伸、複線部分と単線部分の接続点を飯能駅構内とすることにより、笠縫信号場廃止。名目上、池袋駅 - 飯能駅間複線化(飯能駅構内に単線部分が残存)<ref>『'98-'99会社要覧』(西武鉄道株式会社、1998年(平成10年)9月発行、22-23頁「平成10年3月末現在路線図」、65-66頁「元加治~飯能間の複線区間を延伸し、同区間の単線部分は飯能駅構内の一部を残すのみとなりました」</ref><ref>株式会社ネコ・パブリッシング編集部「年表」『NEKO MOOK1876 写真で見る西武鉄道100年』(株式会社ネコ・パブリッシング、2013年7月)</ref>。 ** 10月1日 - 西武・電車テレホンセンター開設。 ** 10月10日 - 「平成10年10月10日 10記念乗車券」発売。 ** 11月20日 - 多摩湖線(国分寺駅 - 萩山駅間)でワンマン運転開始。 * [[1999年]](平成11年) ** 4月 - 田無駅の自動改札化をもって、多摩川線と[[武蔵横手駅]] - 横瀬駅以外の全駅で自動改札化完了。 ** 6月1日 - 使用済乗車券再生資源活用開始。 ** 10月14日 - 「西武秩父線開通30周年記念入場券」発売。 ** 11月11日 - 「平成11年11月11日 1づくし記念乗車券」発売。 ** 1999年(平成11年)- [[2000年]](平成12年)までにかけて新宿線・池袋線の大半の駅で発車メロディの変更を実施した。車掌の[[ホイッスル|手笛]]での発車の合図を廃止し(ワイヤレスマイク不具合によるメロディ再生不能の場合の、手笛合図による代用をのぞく)、多摩川線と池袋線・西武秩父線の一部(前者は東飯能駅 - 吾野駅間・後者は吾野駅 - 横瀬駅間)を除き各駅停車しか停まらない駅でも発車メロディが鳴るようになった。同時に約50種類前後あったメロディが全く違うメロディ6種類のものとなり(ただし、萩山・西武遊園地・西武秩父・武蔵境・白糸台・是政の各駅は例外)、メロディの後の男女声優の声による「電車が発車します、ご注意下さい」の案内が廃止。 * 2000年(平成12年) ** [[2月20日]] - 新宿線に[[西武20000系電車|20000系]]通勤電車が登場。 ** [[3月4日]] - 「平成12年3月4日 春うらら1・2・3・4カウントアップ記念乗車券」発売。 ** この年から翌年にかけて、客室窓に注意書きステッカーが貼られた(2007年7月 - 8月に現行のデザインのものへ変更)。 ** [[6月15日]] - 所沢車両工場閉鎖、50年の歴史に幕を下ろす。 ** 6月16日 - [[武蔵丘車両検修場]]開設。 ** 7月1日 - 使用済定期乗車券再資源活用開始。 ** 10月1日 - 「[[レオカード|SFレオカード]]」発売開始。 ** 10月14日 - 共通乗車カードシステム[[パスネット]]導入。パスネット導入に従い、1988年導入のレオカードのみ対応平成初代券売機、多摩川線以外の本線系全駅でマップ形の2代目と通常の3代目に交換終了。 ** [[12月22日]] - 武蔵丘車両検修場が[[ISO 14000|ISO14001]]を取得。 * [[2001年]](平成13年) ** 3月4日 - 池袋線練馬駅 - 中村橋駅間立体交差化工事完成(逆立体化)。 ** 4月1日 - すべての自動改札機がカードの二枚重ね対応完了。ペットの車内への持ち込み無料化。フェアスルーシステム(不正乗車防止システム)導入。 ** 12月6日 - 池袋線飯能駅構内の単線部分を複線化、[[池袋駅]] - [[飯能駅]]間で(完全)複線運転開始。 ** 12月15日 - ダイヤ改正で新宿線から朝ラッシュ時上りのみの「快速」廃止。池袋線から朝のラッシュ時上りのみの「通勤快速」、土休日の西武球場前駅 - 池袋駅間の不定期快速が廃止。中村橋駅 - 練馬高野台駅間高架複々線使用開始。 ** 踏切支障報知装置の注意書きをこの年、全箇所の踏切で更新。「非常の際は電車がもどらなくなるまでこのボタンを押してください 非常時以外にボタンを押すと処罰されます」から「非常の際はこのボタンを押してください」と短文へ改められた。 * [[2002年]](平成14年) ** [[2月28日]] - 一般認定鉄道事業者として認定を受ける。 ** 3月6日 - 西武球場前駅改札を一部改装、駅務員による売店業務を開始。 ** 4月1日 - 日本民営鉄道協会に加入。ウェブサイト上での運行状況の提供を開始。運賃改定、最低普通運賃140円<ref name="kaisha-youran-unchin" />。 ** 9月1日 - お忘れ物取扱システム導入。駅シェルパ開始。 * [[2003年]](平成15年) ** 3月12日 - ダイヤ改正で池袋線から「区間準急」廃止。練馬駅 - 中村橋駅間高架複々線使用開始。飯能駅 - 西武秩父駅間ワンマン運転開始。芝桜の開花シーズンの4月下旬 - 5月上旬とイベント時、12月の秩父夜祭時以外は通常は飯能駅 - 西武秩父駅間の区間列車は原則として4000系4両ワンマン車のみの運行となる。 ** 6月2日 - 池袋線で列車情報装置使用開始。 ** 8月8日 - 旅行会社での特急券発売開始。 ** 9月 - 11月までにホームの自動放送が「白線の内側で…」から「黄色い線の内側で…」へ変更された。 ** 初代のレオカードのみ対応の初代券売機多摩川線からも撤去、全線から平成初代レオカード対応券売機消滅。 ** 平成4代目の[[PASMO]]対応[[タッチパネル]]式券売機が登場。西武鉄道初のタッチパネル導入になる。 * [[2004年]](平成16年) ** 春に[[総会屋]]への利益供与問題、10月には[[有価証券報告書]]虚偽記載問題が相次いで浮上し、[[西武グループ]]に君臨して来た[[堤義明]](康次郎の三男)が会長を退任。株価は急落し、[[東京証券取引所|東証]]はペナルティとして、翌[[11月16日]]の取引終了後に監理ポストから整理ポストへ移動させ、1か月後の上場廃止を決定した。西武はジャスダックへの上場を表明していたが、上場申請が認められるかどうかは不透明であり、西武鉄道は経営上の岐路に立たされることになった。さらに、[[2005年]](平成17年)3月3日に義明が[[金融商品取引法|証券取引法]]違反(有価証券報告書虚偽記載並びに[[内部者取引]])容疑で[[逮捕]]されたため、[[国土交通省]]鉄道局は西武鉄道に対し処分を行ったが、「今回の逮捕は有価証券報告書虚偽記載問題によるものであり、鉄道事業の基本である安全運行に直接関わるものではない」として、厳重注意処分に留めた。 ** 1月13日 - 携帯電話の運行状況の検索サービスを開始。 ** [[3月27日]] - 車体広告電車運転開始(池袋線・新宿線)。 ** 5月24日 - 西武鉄道企業倫理規範制定。 ** [[6月10日]] - 新宿線で列車情報装置使用開始。 ** 7月26日 - 第1回企業倫理委員会開催。 ** 12月16日 - 企業倫理ホットライン開設。 ** 12月 - 西武最初の黄色電車だった(製造当初は西武イエローと西武ベージュのツートンカラー)[[西武101系電車|旧101系]]が多摩川線以外の各線(ただし、西武有楽町・山口線は登場当初から走ったことがない)での運用終了。 * 2005年(平成17年) ** 5月9日 - 池袋線・新宿線に[[女性専用車両]]導入。 ** [[6月28日]] - 執行役員制度導入。 ** [[7月3日]] - 1992年から使用していた運行管理システムを老朽化に伴い、池袋線系統で13年ぶりに更新した。それによるホーム自動放送の変更に伴い、声優が上りは[[豊田真由美]]、下りは[[鈴木盛久]]に交代した。 ** 10月31日 - 有楽町線直通電車に女性専用車両導入。 ** [[11月9日]] - 電源二重化工事完成(池袋駅 - 武蔵丘駅、西武新宿駅 - 本川越駅)。 * [[2006年]](平成18年) ** この年から女性の駅員が採用されるようになる。 ** 2月1日 - 池袋駅、高田馬場駅、所沢駅に[[自動体外式除細動器|AED]]を初設置。 ** 3月27日 - 西武グループの再編が行われ、'''西武鉄道'''は[[西武ホールディングス]]の子会社になる(持株会社方式)。西武グループ企業倫理規範が制定されるに伴い西武鉄道企業倫理規範が廃止される。グループビジョン策定。 ** 4月1日 - 西武鉄道お客さまセンター開設。 ** 4月27日 - [[普通乗車券]]・特急券の払い戻し手数料が100円に統一された。 ** [[9月24日]] - 新宿線系統でも運行管理システムが14年ぶりに更新。前日にホーム自動放送の変更を実施。 ** 10月1日 - 特急レッドアローを完全禁煙車化。特急券の発売駅全駅で端末更新。3代目特急券券売機登場。 ** 11月11日 - 「小江戸川越鉄道開設111周年記念乗車券」発売。 * [[2007年]](平成19年) ** [[3月18日]] - PASMO導入。自動改札機のない多摩川線や西武秩父線(武蔵横手駅 - 横瀬駅間)などの駅にもICカード専用簡易改札機が設置された。それに伴い、本線系統での全駅更新に先駆け、多摩川線全駅で券売機が平成4代目のPASMO対応タッチパネル式[[自動券売機]]に置き換えられた。同日、JR東日本の[[Suica]]と相互利用開始。 ** 3月28日 - 天皇・皇后、川越行幸(西武新宿駅 - 本川越駅間往復乗車) ** 4月1日 - 新シンボルマークの採用及び、コーポレートカラーの制定を発表<ref>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20070408074843/http://www.seibu-group.co.jp/railways/kouhou/news/2006/0327.pdf 西武鉄道の新シンボルマークを決定!]}} - 西武鉄道、2007年3月27日(インターネットアーカイブの2007年4月8日時点のアーカイブ)</ref> した。 ** 4月27日 - [[地震警報システム|早期地震警報システム]]導入。 ** [[5月8日]] - PASMO導入に合わせ、特急券のインターネット予約サービスを開始。 ** 5月14日 - 自社で初めてお客さま満足度調査「アンケート配布調査」を実施。 ** 6月21日 - 踏切安全ホットラインを導入。 ** [[6月27日]] - 遠隔放送装置を導入。放送範囲は、全駅一斉、複数駅指定、駅個別の3種類であり、駅構内のうち、上りホーム、下りホーム、コンコースの3エリアである。優先順位は、電車の発車メロディ、車掌とホーム係員のワイヤレスマイク放送、遠隔放送、電車の行先種別を案内する自動放送、の順である。 ** [[7月27日]] - 簡易[[筆談]]器を小竹向原駅を除く全駅に設置。 ** [[8月16日]] - 新宿線で約40年ぶりに女性車掌が登場し乗務開始。 ** [[12月3日]] - 吾野変電所、正丸変電所に環境配慮型蓄電装置の導入により、飯能駅 - 西武秩父駅間で、常時[[回生ブレーキ]]車の走行が可能になる。 ** 12月8日 - 「多摩川線開通90周年記念乗車券」発売。 ** 1987年の航空公園駅以来、20年ぶりに拝島駅より当駅次駅前駅の案内表示サイン類の更新開始。 * [[2008年]](平成20年) ** 1月10日 - パスネット「SFレオカード」発売終了。 ** 3月9日 - 池袋線系統所属車を皮切りに新シンボルマークを車両に貼付。 ** 3月15日 - 初代レオカード使用終了。 ** 3月27日 - 18年ぶりに制服を一新(ただし、実際には1990年以来18年ぶりにもかかわらず、公式発表では20年ぶりとなっている)。 ** 4月26日 - 新宿線に[[西武30000系電車|30000系]]通勤車が登場。 ** [[6月14日]] - [[東京メトロ副都心線|東京地下鉄副都心線]]乗り入れ開始。新宿線で「拝島快速」運行開始。[[遅延証明書]]をウェブサイト上で発行開始。 ** [[7月16日]] - 新宿線で約60年ぶりに女性運転士が登場し。単独乗務開始。<!-- http://www.seibu-group.co.jp/railways/kouhou/news/2008/0716.pdf 7/20は60年前の大先輩が来社した日では? http://sankei.jp.msn.com/region/kanto/saitama/080821/stm0808210345002-n1.htm --> ** 8月6日 - 固定編成の車両(3000系、9000系、6000系、20000系と30000系の一部の5車種が該当)のみ、車両内側ドアに点字案内を設置。 ** [[11月22日]] - 列車非常通報装置全駅(小竹向原駅を除く)に設置完了。 * [[2009年]](平成21年) ** 2月 - [[プリンスホテル]]から[[埼玉西武ライオンズ]]の株式譲渡を受け、子会社化。 ** 4月1日 - 小田急電鉄などと共に関東私鉄では初めて[[スルッとKANSAI]]協議会と提携し、この日より同協議会と連携して資材の共同購入を開始。 ** 4月6日 - 埼玉県内初で小手指駅、西武球場前駅、航空公園駅の3駅で駅の緑化に取り組む。 ** 12月14日 - 西武鉄道ウェブサイトをリニューアル。[[西武車両]]のウェブサイトが閉鎖。 * [[2010年]](平成22年) ** 1月27日 - 同年3月6日からのダイヤ改正で[[西武ドーム]]での野球開催日の試合終了後、狭山線から池袋線に直通する臨時急行列車が運行されることが発表される。スポーツ新聞の記者が、これを埼玉西武ライオンズに[[菊池雄星|雄星]]選手が入団したことによるものと推測したため、発表翌日のスポーツ新聞に「雄星ダイヤ」などと報じられた。 ** 3月28日 - [[西武E31形電気機関車|E31形電気機関車]]さよなら運転実施。「E31形さよなら記念乗車券」発売。 ** 6月23日 - 同日に行われた株主総会により代表取締役社長が後藤高志から[[白山進]]に交代。後藤は取締役会長に就任。 ** 10月16日 - プロバスケットボール・[[日本プロバスケットボールリーグ|bjリーグ]]に所属する[[埼玉ブロンコス]]とオフィシャルスポンサー契約。 * [[2011年]](平成23年) ** [[7月4日]] - 次世代認定マーク「[[くるみん]]」を取得。 ** [[10月25日]] - 「第10回屋上・壁面・特殊緑化技術コンクール」において、『都市緑化機構理事長賞/壁面・特殊緑化部門』を受賞。 * [[2012年]](平成24年) ** 3月 - 窓口処理機更新に合わせ、新たに特急券発売機能が追加され23駅で使用。 ** 5月7日 - 西武鉄道が前身の武蔵野鉄道として設立して以来、「創立100周年」を迎える<ref name="Seibu201205">[https://web.archive.org/web/20120610030042/http://www.seibu-group.co.jp/railways/100th/message/index.html 西武鉄道100年アニバーサリー](西武鉄道特別サイト・インターネットアーカイブ・2016年時点の版)。</ref>。 ** 6月30日 - 新宿線の快速急行と拝島快速を廃止。 * [[2013年]](平成25年) ** 3月16日 - 地下鉄副都心線を経由して[[東急東横線]]・[[横浜高速鉄道みなとみらい線]]と相互直通運転開始。 ** 3月23日 - [[Kitaca]]、[[manaca]]、[[TOICA]]、[[ICOCA]]、[[PiTaPa]]、[[nimoca]]、[[はやかけん]]、[[SUGOCA]]が[[交通系ICカード全国相互利用サービス|交通系ICカード全国相互利用]]開始により利用可能になる。 ** 6月9日 - 特急電車向けに、チケットレスサービス「[[レッドアロー#乗車券|Smooz]]」が開始。 * [[2014年]](平成26年)4月1日 - 消費税率5%から8%への改定に伴う運賃改定。運賃がICカード利用(1円単位)と切符購入(10円単位)に分けて制定され、最低普通運賃はそれぞれ144円、150円<ref name="kaisha-youran-unchin" />。 * [[2015年]](平成27年) ** 3月14日 - [[台湾鉄路管理局]]との包括的事業連携に関する友好協定を締結<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2014/__icsFiles/afieldfile/2015/03/14/20150314taiwantetsuro.pdf|format=PDF|title=台湾鉄路管理局との包括的事業連携に関する友好協定締結ならびに今後の取り組みについて|publisher=西武ホールディングス|date=2015-03-14|accessdate=2023-10-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150319032800/http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2014/__icsFiles/afieldfile/2015/03/14/20150314taiwantetsuro.pdf|archivedate=2015-03-19}}</ref>。 ** 10月1日 - [[Emio]]武蔵関(前・西武武蔵関ステーションビル)オープン。 * [[2016年]](平成28年) ** 2月10日 - 休止中の安比奈線に整備する予定だった車両基地の計画の廃止を発表。安比奈線も廃止が決定され<ref name="nikkei160210">[https://www.nikkei.com/article/DGXLASFL10HJ9_Q6A210C1000000/ 「西武HD、安比奈線の廃止決定 半世紀の謎に決着 関連で減損126億円」] - [[日本経済新聞]]ニュースサイト(2016年2月10日)2020年1月4日閲覧</ref><ref>{{PDFlink|1=[http://v4.eir-parts.net/v4Contents/View.aspx?cat=tdnet&sid=1328081 2016年3月期 第3四半期 決算実績 概況資料]}} 25-26ページ - 西武ホールディングス 2016年2月10日</ref>、翌2017年5月31日をもって廃止となる<ref name="seiburailwayofficial" />。 ** [[4月17日]] - 観光列車「[[西武4000系電車#西武 旅するレストラン 52席の至福|旅するレストラン 52席の至福]]」運転開始<ref>[https://shinjuku.keizai.biz/headline/2325/ 西武新宿駅発「旅するレストラン〜52席の至福〜」運行開始] - 新宿経済新聞、2016年4月19日</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2015/__icsFiles/afieldfile/2015/12/17/20151217kanko.pdf 全席レストラン車両「観光電車」概要決定!]}} - 西武鉄道、2015年12月17日</ref>。 * [[2017年]](平成29年)3月25日 - 池袋線に[[西武40000系電車|40000系]]通勤車が登場し、[[S-TRAIN]]が運行開始<ref name="raifjp20170326">[https://railf.jp/news/2017/03/26/210000.html 西武40000系“Sトレイン”の運転開始] - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2017年3月26日掲載</ref>。 * [[2018年]](平成30年)3月10日 - 新宿線・拝島線西武新宿駅 - 拝島駅間にて[[拝島ライナー]]が運行開始。車両は40000系を使用。 * [[2019年]](4月までは平成31年、5月以降は[[令和]]元年) ** 1月28日 - 池袋駅前に建設中の複合ビル「[[ダイヤゲート池袋]]」(2月28日竣工<ref>{{Cite press release|和書|title=線路の上を跨ぐオフィスビル「ダイヤゲート池袋」が竣工 |publisher=西武ホールディングス |date=2019-02-28 |url=https://ssl4.eir-parts.net/doc/9024/tdnet/1680383/00.pdf |format=PDF |accessdate=2019-11-29}}</ref>)に、災害時の[[帰宅困難者]]を収容する協定を豊島区と締結<ref name="tokyo20190129">[http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201901/CK2019012902000122.html 「豊島区が西武鉄道と帰宅困難者対策で災害時協定 オフィスビルに3日滞在施設」]『[[東京新聞]]』(2019年1月29日)2019年2月11日閲覧。</ref>。 ** 3月16日 - 26年ぶりとなる新型特急車両[[西武001系電車|「Laview」001系]]の運行を開始<ref name="asahi20160314">[https://www.asahi.com/articles/ASJ3G5VY5J3GUTIL04K.html 「風景に溶け込む」新型特急 西武鉄道がデザイン公開] 朝日新聞 2016年3月14日</ref><ref name="seiburailway20190129">[https://www.seiburailway.jp/file.jsp?news/news-release/2018/20190129Laview_debut.pdf 2019年3月16日(土)から新型特急車両「Laview(ラビュー)」運行開始!](PDF) - 西武鉄道ニュースリリース 2019年1月29日掲載</ref><ref>[https://travel.watch.impress.co.jp/docs/news/1175041.html 西武鉄道、新型特急車両001系「Laview(ラビュー)」出発式。ゲストの土屋太鳳さんが「出発進行!」 池袋駅には10000系「ニューレッドアロー」も登場] - トラベル Watch、2019年3月16日</ref>。 ** 12月1日 - 74[[言語]]対応の[[人工知能]] (AI) [[通訳]]機「[[ポケトーク]]」を91駅と特急車内に導入<ref>[https://sourcenext.co.jp/pressrelease_html/JS/2019/2019112901/ AI通訳機「POCKETALKⓇ((ポケトーク)」が西武鉄道の池袋駅、西武新宿駅など91駅で採用 12月1日(日)より利用開始][[ソースネクスト]](2019年11月29日)2020年1月4日閲覧</ref>。 * [[2020年]](令和2年) ** 6月5日 - 特急車両「Laview」001系が[[ブルーリボン賞 (鉄道)|ブルーリボン賞]]を受賞。 ** 8月31日 - 子会社である株式会社豊島園が運営する「[[としまえん]]」が閉園。 * [[2021年]](令和3年) ** 3月13日 - [[西武園ゆうえんち]]のリニューアルオープン(5月)に先駆け、遊園地西駅を[[西武園ゆうえんち駅]]に、西武遊園地駅を[[多摩湖駅]]に駅名を変更。 ** 7月1日 - 多摩川線で「西武多摩川線[[サイクルトレイン]]」を実証実験として開始。10月1日から本実施に移行<ref>{{Cite press release|和書|title=2021年10月1日(金)から西武多摩川線サイクルトレインは本実施へ!|publisher=西武鉄道|date=2021-09-21|url=https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2021/20210921_cycletrain.pdf|format=PDF|accessdate=2023-10-01}}</ref>。 * [[2022年]](令和4年) ** 6月20日 - 多摩川線が全線開通100周年を迎える。 ** 7月11日 - 乗車ポイントサービスを開始<ref>{{Cite press release|和書|title=乗車ポイントサービス 2022年7月11日(月)スタート!|publisher=西武鉄道|date=2022-07-05|url=https://www.seiburailway.jp/newsroom/news/file/20220705_joshapoint.pdf|format=PDF|accessdate=2023-10-02}}</ref>。 ** 9月17日 - 秩父鉄道直通の臨時夜行急行「奥武蔵51号」が運行される<ref>{{Cite press release|和書|title=「臨時夜行急行『奥武蔵51号』西武鉄道線周遊・秩父鉄道線周遊 西武秩父行の旅」発売!|publisher=西武鉄道|date=2022-07-28|url=https://www.seiburailway.jp/newsroom/news/file/20220728_okumusashi51.pdf|format=PDF|accessdate=2023-10-02}}</ref>。 * [[2023年]](令和5年) ** 1月 - 多摩川線において、無線式列車制御([[CBTC]])システムでの実証実験に向けた準備工事に着手<ref>{{Cite press release|和書|title=西武線全線に無線式列車制御システム導入を目指し、多摩川線で無線式列車制御(CBTC)システムの 実証試験を実施します|publisher=西武鉄道|date=2023-01-18|url=https://www.seiburailway.jp/newsroom/news/file/20230118_CBTC.pdf|format=PDF|accessdate=2023-10-02}}</ref>。 ** 3月18日 - 運賃改定。[[鉄道駅バリアフリー料金制度|鉄道駅バリアフリー料金]]の収受開始<ref>{{Cite press release|和書|title=2023年3月18日(土)初電車より鉄道駅バリアフリー料金の収受を開始します|publisher=西武鉄道|date=2022-12-16|url=https://www.seiburailway.jp/newsroom/news/file/20221216_barrierfreestart.pdf|format=PDF|accessdate=2023-10-02}}</ref>。 ** 3月21日 - 池袋線・西武秩父線にてサイクルトレインの定期実施が開始<ref>{{Cite press release|和書|title=池袋線・西武秩父線にてサイクルトレインの定期実施を2023年3月21日より開始します!|publisher=西武鉄道|date=2023-03-14|url=https://www.seiburailway.jp/newsroom/news/file/20230314_cycletrain2.pdf|format=PDF|accessdate=2023-10-02}}</ref>。 ** 4月25日 - 「[[ワーナーブラザース スタジオツアー東京 ‐ メイキング・オブ・ハリー・ポッター]]」のオープン(6月)に向け、[[豊島園駅]]の新駅舎が使用開始、池袋駅のリニューアルが完成<ref>{{Cite press release|和書|title=池袋駅と豊島園駅のリニューアルが完成します!|publisher=西武鉄道|date=2023-04-11|url=https://www.seiburailway.jp/newsroom/news/file/20230411_renewal.pdf|format=PDF|accessdate=2023-10-02}}</ref>。 ** 6月2日 - 無記名式PASMOカードの発売を一時中止。(再開時期未定) ** 7月1日 - 特急料金と座席指定料金を改定<ref>{{Cite press release|和書|title=2023年7月1日(土)より 特急料金および座席指定料金を改定します|publisher=西武鉄道|date=2023-01-31|url=https://www.seiburailway.jp/newsroom/news/file/20230131_tokkyu_1.pdf|format=PDF|accessdate=2023-10-02}}</ref>。 ** 8月2日 - 記名式PASMOカードの発売を一時中止。(再開時期未定) ** 9月26日 - [[東急電鉄]]と[[小田急電鉄]]から省エネ性能の高い中古車両を譲受すると発表<ref>{{Cite press release|和書|title=西武鉄道と東急電鉄・小田急電鉄「サステナ車両」を授受 各社連携して、SDGsへの貢献を加速してまいります|publisher=西武鉄道|date=2023-09-26|url=https://www.seiburailway.jp/newsroom/news/file/20230926_sasutenatrain.pdf|format=PDF|accessdate=2023-10-02}}</ref>。 == 路線 == [[ファイル:Seibu Railway Linemap.svg|500px|thumb|right|路線図(クリックで拡大)]] 現有路線の総延長・旅客[[営業キロ]]は176.6 kmで日本の大手私鉄では5番目に長い営業キロを持つ(東京地下鉄が発足し大手私鉄に加わった2004年4月以降)。成立や運転系統により、池袋線系統(旧・武蔵野鉄道)と新宿線系統(旧・西武鉄道)におおむね大別できる。この池袋線と新宿線が西武鉄道の主要幹線であり、[[池袋駅]]が西武鉄道における最大の[[ターミナル駅]]である。また、本線(池袋線・新宿線)系統から完全に独立した路線として多摩川線がある。 全線[[複線]]の路線は西武有楽町線のみで、他の路線は一部区間または全線が[[単線]]である。全線複線の路線が1路線しかないのは関東の大手私鉄では珍しい<ref group="注釈">相模鉄道も貨物線の[[相鉄厚木線|厚木線]]だけが単線。</ref>。また東京地下鉄とともに、[[政令指定都市]]に路線や駅が所在していない大手私鉄となっている。 === 営業中の路線 === ; 池袋線系統 :* [[File:Seibu_ikebukuro_logo.svg|20px|SI]] '''[[西武池袋線|池袋線]]''':[[池袋駅]] - [[吾野駅]] (57.8 km) :* [[File:Seibu_ikebukuro_logo.svg|20px|SI]] '''[[西武秩父線]]''':吾野駅 - [[西武秩父駅]] (19.0 km) :* [[File:Seibu_ikebukuro_logo.svg|18px|SI]] '''[[西武有楽町線]]''':[[練馬駅]] - [[小竹向原駅]] (2.6 km) :* [[File:Seibu_ikebukuro_logo.svg|20px|SI]] '''[[西武豊島線|豊島線]]''':練馬駅 - [[豊島園駅]] (1.0 km) :* [[File:Seibu_ikebukuro_logo.svg|20px|SI]] '''[[西武狭山線|狭山線]]''':[[西所沢駅]] - [[西武球場前駅]] (4.2 km) ; 新宿線系統 :* [[File:SeibuShinjuku.svg|20px|SS]] '''[[西武新宿線|新宿線]]''':[[西武新宿駅]] - [[本川越駅]] (47.5 km) :* [[File:SeibuShinjuku.svg|20px|SS]] '''[[西武拝島線|拝島線]]''':[[小平駅]] - [[拝島駅]] (14.3 km) ; 多摩湖線系統 :* [[File:SeibuTamako.svg|20px|ST]] '''[[西武多摩湖線|多摩湖線]]''':[[国分寺駅]] - [[萩山駅]] - [[多摩湖駅]] (9.2 km) ; 国分寺線系統 :* [[File:SeibuKokubunji.svg|20px|SK]] '''[[西武国分寺線|国分寺線]]''':国分寺駅 - [[東村山駅]] (7.8 km) :* [[File:SeibuKokubunji.svg|20px|SK]] '''[[西武西武園線|西武園線]]''':東村山駅 - [[西武園駅]] (2.4 km) ; 多摩川線系統 :* [[File:SeibuTamagawa.svg|20px|SW]] '''[[西武多摩川線|多摩川線]]''':[[武蔵境駅]] - [[是政駅]] (8.0 km) ; 山口線系統 :* [[File:SeibuYamaguchi.svg|20px|SY]] '''[[西武山口線|山口線]]''':多摩湖駅 - 西武球場前駅 (2.8 km) ([[新交通システム]]) === 廃止路線 === * '''[[西武大宮線|大宮線]]'''<!--(←川越電気鉄道←川越馬車鉄道)-->:川越久保町駅 - 大宮駅 (12.9 km) ([[軌道法|軌道線]]〈[[路面電車]]〉) * '''[[西武山口線|おとぎ線]]''':[[遊園地前駅 (埼玉県)|遊園地前駅]] - [[ユネスコ村駅]] (3.7 km) (開業当時は遊戯施設扱い。後に山口線と改称し、[[地方鉄道法]]に基づく鉄道に転換。一部区間は上記新交通システムの山口線に転用) * '''[[西武安比奈線|安比奈線]]''':[[南大塚駅]] - [[安比奈駅]] (3.2 km) ([[貨物線]]。2017年5月末に廃止<ref name="seiburailwayofficial">[https://www.seiburailway.jp/file.jsp?news/news-release/2017/20170601ahinasenhaisen.pdf 安比奈線の鉄道事業の廃止について] - 西武鉄道公式ホームページ(2017年6月1日発信、同日閲覧)</ref>) === 譲渡路線 === * '''新宿線'''(西武軌道線):後の[[都電杉並線]]。 * '''[[東京都水道局小河内線|水根貨物線]]''':[[専用鉄道]]。元は[[東京都水道局]]小河内線。さらに[[奥多摩工業]]に譲渡。 === 未成路線 === * '''吾野村地内鋼索鉄道''' 0.8 km<ref>[{{NDLDC|1073565/7}} 『鉄道統計資料 昭和5年度 第3編 監督』]、鉄道省編、1931年、p.5。(国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> : 武蔵野鉄道時代の1928年(昭和3年)に免許、事業中止により1930年(昭和5年)に免許が失効。 * '''[[西武池袋線|護国寺線]]'''(上り屋敷-護国寺) 2.1 km <ref name="moriguchi-p186" />:武蔵野鉄道時代に免許が失効。 * '''[[武蔵野鉄道青梅線|青梅線]]'''(西所沢-青梅)17.9 km <ref name="moriguchi-p186">{{Cite book | 和書 | author = 森口誠之 | title = 鉄道未成線を歩く | volume = 私鉄編 | publisher = JTB | year = 2001 | page = p. 186}}</ref> * '''入間線'''(入間市-狭山市)2.8 km<ref name="moriguchi-p186" /> * '''[[西武新宿線|村山線]]'''(高田馬場-早稲田) 2.3 km<ref name="moriguchi-p187">{{Cite book | 和書 | author = 森口誠之 | title = 鉄道未成線を歩く | volume = 私鉄編 | publisher = JTB | year = 2001 | page = p. 187}}</ref>:村山線の当初計画。新宿駅乗り入れに計画変更。 * '''[[西武新宿線#付記|新宿線]]'''(西武新宿-新宿) 0.4 km<ref name="moriguchi-p187" />:新宿線の[[新宿駅]]乗り入れ計画の残存区間。 * '''[[西武村山線|村山線]]'''(上井草-吉祥寺) 2.9 km * '''[[西武村山線|村山線]]'''(東村山-箱根ヶ崎) 13.1 km <ref name="moriguchi-pp37-43">{{Cite book | 和書 | author = 森口誠之 | title = 鉄道未成線を歩く | volume = 私鉄編 | publisher = JTB | year = 2001 |pages = pp. 37-43,186}}</ref> * '''[[西武立川線|立川線]]'''(新宿-立川) 26.6 km<ref name="moriguchi-p186" /> * '''[[西武多摩川線|多摩川線]]'''(是政-東京競馬場) 1.0 km <ref name="moriguchi-p186" /> * '''[[都電杉並線|西武軌道線]]'''(荻窪-田無) 9.0 km * '''[[東京都水道局小河内線#観光鉄道計画|奥多摩湖ケーブル計画]]'''(湖畔-倉戸山頂上) 1.2 km <ref>{{Cite book | 和書 | author = 森口誠之 | title = 鉄道未成線を歩く | volume = 私鉄編 | publisher = JTB | year = 2001 | pages = pp. 44, 186}}</ref> === 構想路線 === * '''[[西武池袋線#入間市 - 飯能|飯能短絡線]]'''([[元加治駅]]-飯能駅間から[[東飯能駅]]への短絡線):かつて運行されていた貨物列車や特急列車の一部、[[武蔵丘車両検修場]]や[[武蔵丘車両基地]]への回送電車が飯能駅での方向転換を避けるため構想されているが、貨物列車の廃止で方向転換を避ける意義が薄れたことなどから実現に至っていない。敷設用地は取得済み。 * '''吉祥寺線'''(保谷-東伏見-吉祥寺):構想のみで終わる。 * '''[[西武秩父線]]'''(西武秩父駅から[[軽井沢町|軽井沢]]方面までの延伸):構想を続けているが実現に至っていない。 * '''[[西武多摩川線|多摩ニュータウン線]]'''(多摩川線是政駅から[[多摩ニュータウン]]方面までの延伸):多摩ニュータウン開発規制領域以外の土地が少なかった上、武蔵境駅で接続する[[日本国有鉄道|国鉄]](当時)中央線の混雑をさらに助長するとの判断から鉄道敷設免許申請が取り下げられたため<ref>{{Cite book | 和書 | author = 森口誠之 | title = 鉄道未成線を歩く | volume = 私鉄編 | publisher = JTB | year = 2001 | pages = pp. 67-68 }}</ref>、構想のみで終わる。 === 他社乗り入れ路線 === ==== 実施中の乗り入れ ==== * 池袋線(飯能駅まで)・西武有楽町線⇔[[東京メトロ有楽町線|東京地下鉄有楽町線]](有楽町、新木場方面) * 西武秩父線(土休日のみ)・池袋線・西武有楽町線⇔[[東京メトロ副都心線|東京地下鉄副都心線]]・[[東急東横線]]経由⇔[[横浜高速鉄道みなとみらい線|みなとみらい線]](新宿三丁目、渋谷、横浜、元町・中華街方面) * 池袋線(飯能駅まで、土休日のみ)・西武秩父線⇔[[秩父鉄道]](三峰口方面、長瀞方面) === 開かずの踏切対策 === [[ファイル:Nerima-Sta-N.JPG|thumb|right|250px|高架化された池袋線[[練馬駅]]]] 池袋線と新宿線には、未だに[[開かずの踏切]]が点在する<ref>{{Cite web|和書|title=カルテ踏切一覧 |url=https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000813609.xlsx |publisher=国土交通省関東地方整備局 |format=XLS |accessdate=2021-10-15}}</ref>。この状況を解消すべく地方公共団体が主体で、立体交差化に取り組んでいる。 池袋線は、2015年1月25日に[[桜台駅 (東京都)|桜台駅]] - [[大泉学園駅]]付近までの高架化が完了した<ref>[https://www.seiburailway.jp/safety/shakujii-koen/index.html 池袋線 連続立体交差事業・複々線化事業] - 西武鉄道、2021年6月9日閲覧。</ref>。 新宿線は、2022年現在、[[中井駅]] - [[野方駅]]間の地下化<ref>[https://www.seiburailway.jp/safety/nakai_nogata/index.html 新宿線 中井 - 野方駅間連続立体交差事業のご案内] - 西武鉄道、2021年6月9日閲覧。</ref>と[[東村山駅]]付近の高架化による立体交差化工事がそれぞれ行われている<ref>[https://www.seiburailway.jp/safety/higashimurayama/index.html 新宿線 東村山駅付近連続立体交差事業] - 西武鉄道、2021年6月9日閲覧。</ref>。 === 保安装置 === 西武鉄道の路線では西武有楽町線をのぞく全線で[[自動列車停止装置|ATS]]を使用している。このうち、[[新交通システム]]の山口線をのぞく全線では[[自動列車停止装置#AF軌道回路方式(連続照査型)|高周波連続誘導車上速度照査式ATS]]を、山口線では点制御による多情報変周式ATSをそれぞれ採用している。西武有楽町線では西武線で唯一の[[自動列車制御装置|ATC]]を採用している。 山口線と西武有楽町線をのぞく全線で使用されている高周波連続誘導車上速度照査式ATSは、他のATSや初期型のATCよりも高性能な保安装置である。AF軌道回路を用いたATSは西武鉄道のほかに[[阪神電気鉄道]]・[[阪急電鉄]]・[[山陽電気鉄道]]・[[相模鉄道]](現在は地上子を使用する点制御によるATS-Pに移行して廃止)・[[西日本鉄道]]で採用例があるが、西武鉄道ではパターン式となっている。過去に西武線ではAM系自動空気ブレーキ車や貨物列車が走行していたことから、ブレーキ性能別に制御する必要があるためATS作動時には非常ブレーキがかかる。制限速度以下になると自動的に緩解する。分岐上では軌道によって信号を送ることができないため、ループコイルを使用している。[[JR福知山線脱線事故|JR福知山線の脱線事故]]を受けて、急な曲線、分岐器(ポイント)箇所等の制限速度に対しても、列車を自動的に減速、または停止させる機能を追加した装置への更新を行い、2010年6月に完了した。 西武有楽町線で使用しているATCは、レールに設けられた軌道回路に先行列車の位置及び進路の条件に応じて作成されたATC信号(速度信号)を流し、車内では列車の許容最高速度を示す信号を連続して現示、その信号現示に従って列車の速度を自動的に制御する方式である。かつて乗り入れ先の有楽町線を含めた営団および後身の東京地下鉄各線や国鉄および後身のJR東日本[[常磐緩行線]]で使われていたCS-ATC(JR名称:[[自動列車制御装置#ATC-4型|ATC-4型]])とほぼ同じものであるが、東京地下鉄では副都心線に新CS-ATCを採用し、有楽町線でも西武有楽町線と同一のATCから新CS-ATCへと変更されている。西武有楽町線は全駅の出発信号機が停止定位であり、このATCにより駅停車時に段階的に減速する。 == 自動放送 == === 駅自動放送 === [[2005年]]に更新された新型[[駅自動放送|自動放送]]は、担当声優は上りが[[豊田真由美]]・下りが鈴木盛久が担当しているが{{refnest|group="注釈"|旧型の放送は[[1991年]]の更新時から男性が[[中村健治 (声優)|中村健治]]・[[片山光男]]<ref>[https://www.say.co.jp/profile/katayamamitsuo.html 公式プロフィール] より。</ref>、女性が[[河本俊美]]<ref>[https://www.say.co.jp/profile/komototoshimi.html 公式プロフィール] より。</ref>だった。}}、多摩川線・山口線では異なる。 === 発車メロディ === {{See also|発車メロディ#西武鉄道}} 西武鉄道では一部の駅をのぞいて独自の[[発車メロディ]]を使用している。[[1994年]]2月に使用を開始し、最盛期には50種類が存在していた<ref>『西武鉄道かわら版』1994年1月号より。</ref>。駅・ホームごとに異なっていて当初は主要駅にしか導入されていなかったが、その後は各駅停車のみが停車する駅にも導入されている。しかし、種類は6種類まで絞り込まれている。私鉄の中では[[京阪電気鉄道]]や[[阪神電気鉄道]]などと並んで発車メロディの採用は早かった。一部駅では旧オリジナル発車メロディを現在も引き続き使用している。ご当地発車メロディとして[[ご当地ソング]]を採用した駅が多くあり、[[高田馬場駅]]は「[[マルコメ]]CMソング」、[[上井草駅]]は「[[翔べ! ガンダム]]」、[[椎名町駅]]は『[[怪物くん (モノクロアニメ)|怪物くん]]』(1968 - 1969年)主題歌「おれは怪物くんだ」、[[大泉学園駅]]は[[銀河鉄道999 (アニメ)#映画版|『銀河鉄道999』映画版]]主題歌「[[銀河鉄道999 (ゴダイゴの曲)|銀河鉄道999]]」、[[西所沢駅]](1・2番ホーム)は「吠えろライオンズ」、下山口駅(1・2番ホーム)は、「若き獅子たち」、西武球場前駅(1 - 6番ホーム)は「[[地平を駈ける獅子を見た]]」、[[西武秩父駅]]では「[[旅立ちの日に]]」、[[狭山市駅]]は「七夕さま」、[[入間市駅]]は「[[茶摘み|茶つみ]]」、[[本川越駅]]は「[[愛の季節]]」、[[東村山駅]](国分寺線ホーム)は「[[東村山音頭]]」、[[練馬高野台駅]]は「きれいな川」、「たのしい場所」<ref group="注釈">西武鉄道100周年記念プロジェクトにおいて小学生がともに作曲した。編曲は[[向谷実]]。</ref> 、[[所沢駅]]は「[[となりのトトロ (曲)|さんぽ]]」(1・2番ホーム)と「[[となりのトトロ (曲)|となりのトトロ]]」(3 - 5番ホーム)が採用されている。 [[2022年]]3月時点で、池袋線内の駅は原則として下りは[[シャープ (記号)|シャープ系]]、上りは[[フラット (記号)|フラット系]]の音響で統一されている。 === 車内自動放送 === [[車内放送|車内自動放送]]は、[[1992年]]登場の[[西武6000系電車|6000系]]から搭載が始まり、同年以降に製造された新型車両と、2006年度以降に更新された[[西武2000系電車|2000系]](2031Fが初)・[[西武101系電車|新101系]]のワンマン仕様車に搭載されている。車内自動放送は本線通勤車用・特急車用・山口線用・多摩湖線用・多摩川線用の5種類が存在する。[[2008年]]の[[東京メトロ副都心線|東京地下鉄副都心線]]開業・相互直通開始に伴い更新され、これまで日本語のみだったのがさらに英語も加えられた。 日本語の声優は1992年当初から[[石毛美奈子]]<ref>[https://web.archive.org/web/20100913044611/http://www.universalmusicworld.jp/va/seibu_tetsudo/ 西武鉄道 駅メロディ - オリジナル -] - universalmusicworld.jp (Internet Archive)</ref> が(ただし、1985年 - 2003年までのレオライナー8500系車両および2008年以前の多摩川線はのぞく)、英語の声優は初の英語車内放送採用の2008年から[[クリステル・チアリ]]が担当している。更新前の自動放送と比べ日本語はかなり簡略化されたが、これは[[車掌]]の肉声によって分かりやすい情報を提供するためだとしている。 == ダイヤ == {{See also|西武鉄道のダイヤ改正}} 西武鉄道には平行ダイヤ区間(複々線でのダイヤ構成)が池袋線のごく一部にしかないため、ラッシュ時のダイヤは非常に複雑に、そして巧みに構成されている。特に池袋線ではその特徴がよく表れていて、全国でも珍しい[[千鳥停車]]が行われている。これは種別・行き先を問わず、どの電車も乗車率を平均的にするために行われる複雑なダイヤとなっている。しかし、千鳥停車は平日ラッシュ時のみで、ラッシュ時は毎日の通勤や通学で慣れた人がほとんどであり、混乱は無かった。さらに千鳥停車を行うことにより、優等列車が停車する駅での渋滞が少なくなるため、複線のみの時代でもラッシュ時間帯では複線のみの路線では日本の私鉄最大の1時間に29本もの運転本数を確保し、輸送力増強に大きく貢献した。後述するように、2018年春より種別数は10種別体制になっている。新宿線でもかつて千鳥停車を実施していたが、現在は廃止された。 === 列車種別 === 西武鉄道では、2018年3月10日現在、以下の[[列車種別|種別]]の列車を運行している(各駅停車のみ運行する多摩川線・国分寺線・山口線・西武園線・豊島線を除く)。 運行している列車種別数は10種別で、これは日本での列車種別数では[[京阪電気鉄道]]と並んで大手私鉄最多である。なお、区間準急が設定されていた1998年から2001年までの間は、当時の大手私鉄では最大の10種別(現行の列車種別に区間準急と同じく廃止された通勤快速との合計)が設定され、また2008年6月から2012年6月までの間は、廃止された拝島快速を加えた9種別が同時に設定されていた。 ; {{Color|#f33|■}} '''特急 (Limited Express)''' : 有料の全席座席指定制の[[特別急行列車|特急列車]]を[[1969年]]から運行しており、運行系統・形態に応じた下記の列車名が付けられている。詳しくは各列車記事を参照のこと。 :; 「[[ちちぶ (列車)|ちちぶ]]号」 :: [[西武池袋線|池袋線]]・[[西武秩父線]]経由で[[池袋駅]]・[[所沢駅]] - [[西武秩父駅]]間を運行。 :; 「[[ちちぶ (列車)|むさし]]号」 :: 池袋線の池袋駅 - [[飯能駅]]間を運行。 :; 「[[小江戸 (列車)|小江戸]]号」 :: [[西武新宿線|新宿線]]の[[西武新宿駅]] - [[本川越駅]]間を運行。 :; 「[[ちちぶ (列車)|ドーム]]号」 :: 池袋線・[[西武狭山線|狭山線]]経由で池袋駅 - [[西武球場前駅]]間を運行する[[臨時列車|臨時特急]]。野球開催時や「国際バラとガーデニングショウ」開催時、一部コンサート開演時に運行。時刻表などではドーム号となっているものの、スタジアムエクスプレスと案内されることもしばしばある。ガーデニングショウ開催時は[[練馬駅]]にも停車していた。 ; {{Color|#06cc|□}} '''[[S-TRAIN]]''' : 池袋線・西武秩父線・西武有楽町線で運行。2017年3月25日のダイヤ改正により東京地下鉄有楽町線・副都心線・東急東横線・横浜高速鉄道みなとみらい線直通の有料座席指定列車として運行を開始した。土休日は西武秩父駅 - 元町・中華街駅間、平日は小手指駅 - 豊洲駅間での運行である。 : ; {{Color|#9c0|■}} '''[[拝島ライナー]] (Haijima Liner)''' : 新宿線・拝島線で運行。2018年3月10日のダイヤ改正により有料座席指定列車として運行を開始した。下り拝島行のみ運転であり、[[小平駅]]から先の拝島線内は運賃のみで乗車できる。2023年3月18日より、上り西武新宿行も運転される<ref>{{Cite web|和書|title=2023年3月18日(土) ダイヤ改正を実施します |url=https://www.seiburailway.jp/newsroom/news/daiya |website=西武鉄道Webサイト |access-date=2022-12-22 |language=ja}}</ref>。 : ; {{Color|#c69|■}} '''快速急行 (Rapid Express)''' : 新宿線と池袋線(飯能駅以東)・西武有楽町線で運行。 : 池袋線では東京地下鉄有楽町線・副都心線・東急東横線・横浜高速鉄道みなとみらい線直通列車が主体だが、平日朝ラッシュ時に上り1本のみ飯能発池袋行の自社線内完結列車が存在する。地下鉄直通列車のみ、練馬駅にも停車する。また、地下鉄直通列車の一部は「[[Fライナー]]」の愛称名を付けて運転されている。野球開催時など臨時ダイヤ施行時には、一部の[[小手指駅]]行きを快速西武球場前駅行きへ変更するために、[[ひばりヶ丘駅]]始発小手指駅行きが運行される。 : 新宿線では、本川越までのアクセス性向上のため、2020年3月14日のダイヤ改正で設定。事実上、2012年の廃止から8年ぶりの復活となった。土休日の9・10時時台に下りのみ1本ずつの計2本が設定されたが、[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症拡大]]による需要減の影響により、2022年3月のダイヤ改正で9時台の1本のみとなった。 : ; {{Color|#f60|■}} '''急行 (Express)''' : 池袋線(飯能駅以東)・狭山線・新宿線・拝島線・多摩湖線([[萩山駅]] - [[多摩湖駅]]間)で運行。多摩湖線では土休日のみの不定期運行である。また、狭山線では臨時ダイヤ時のみ運行であり、新宿線西武新宿駅発着の運行もある。 : ; {{Color|#fc0|■}} '''通勤急行 (Commuter Express)''' : 池袋線(飯能駅以東)と新宿線ともに平日朝ラッシュ時に上りのみ運行。池袋線では千鳥停車により、ひばりヶ丘駅を通過する一方で[[東久留米駅]]・[[保谷駅]]・[[大泉学園駅]]に停車するため、急行より停車駅が多い。 : 新宿線では逆に速達種別として、停車駅を[[狭山市駅]]・[[新所沢駅]]・所沢駅・[[東村山駅]]・[[田無駅]]・[[上石神井駅]]・[[鷺ノ宮駅]]・[[高田馬場駅]]と絞り込んでいる。 : ; {{Color|#0cf|■}} '''快速 (Rapid)''' : 池袋線(飯能駅以東)・狭山線・西武有楽町線で運行されており、東京地下鉄有楽町線・副都心線・東急東横線・横浜高速鉄道みなとみらい線直通列車も運行。狭山線では臨時ダイヤ時のみ運行。臨時ダイヤ施行時には、快速急行小手指駅行きを快速西武球場前駅行きへ変更する列車もある。 : ; {{Color|#06c|■}} '''通勤準急 (Commuter Semi Express)''' : 池袋線小手指駅始発池袋駅行きを平日朝ラッシュ時に3本、所沢駅始発池袋行きを平日朝ラッシュ時に1本運行。準急との違いは[[石神井公園駅]]を通過することである。 : ; {{Color|#0c9|■}} '''準急 (Semi Express)''' : 池袋線(飯能駅以東)・西武有楽町線・狭山線・新宿線・拝島線で運行。池袋線では西武有楽町線経由で東京地下鉄有楽町線・副都心線・東急東横線・横浜高速鉄道みなとみらい線直通列車も運行。狭山線は土休日ダイヤで上下各4本を運行。池袋線では、ラッシュ時間帯には東京地下鉄への直通列車において運行されており、日中には毎時2本が運行されている。 : 新宿線・拝島線では、朝夕時間帯などで補完的役割を果たす程度の本数の運行である。 : ; {{Color|#999|■}} '''各停 (Local)''' : 池袋線(飯能駅以東)では、東京地下鉄有楽町線・副都心線・東急東横線・横浜高速鉄道みなとみらい線直通列車を、池袋線(飯能駅以西)・西武秩父線では秩父鉄道直通列車を運行。 : 野球開催など臨時ダイヤ施行時には、新宿線本川越駅 - 狭山線西武球場前駅間の直通列車も運行。 : 2008年6月14日のダイヤ改正以前は、普通と称していた<ref>[https://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20181221-OYT8T50040.html?page_no=3 普通?各停?各社バラバラ、複雑すぎる列車種別] - 読売新聞。2018年12月22日7時発信、2019年1月27日閲覧。</ref>。 == 車両 == === 概説 === 2020年(令和2年)4月1日現在、特急車84両、通勤車1,196両(うち12両は[[新交通システム]])の計1,294両を保有<ref>『私鉄車両年鑑2020』イカロス出版</ref>する。各系列の詳細・使用線区・運用などについてはそれぞれの記事を参照のこと。 現在の西武鉄道を形成した旧・[[西武国分寺線#歴史|川越鉄道]](旧・西武鉄道の前身。1894年〈明治27年〉開業。現・[[西武国分寺線|国分寺線]]と新宿線)・武蔵野鉄道(1915年〈大正4年〉開業。現・池袋線)・多摩鉄道(1917年〈大正6年〉開業。 1927年〈昭和2年〉旧・西武鉄道に合併。現・多摩川線)・多摩湖鉄道(1928年〈昭和3年〉開業。1940年〈昭和15年〉旧・武蔵野鉄道に合併、現・多摩湖線)は、すべて蒸気運転で開業している。大正末期からの[[鉄道の電化|電化]]の進捗により順次姿を消していったが、その間には様々な生い立ちの[[蒸気機関車]]の姿が見られた。1950年(昭和25年)の多摩川線の電化完成後は運用も狭まり、1957年(昭和32年)度をもって蒸気運転の長い歴史に幕が下ろされた。また、762mm軌間の普通鉄道であった[[西武山口線|山口線]]でも延べ4両(うち2両は借用)1972年 - 1984年(昭和47–59年)の間、蒸機機関車が古典客車を牽引した。 西武鉄道は敗戦後に国鉄から戦災国電や廃用機器の大量払い下げを受けて車両の拡充を行なっていた<ref group="注釈">台車の使用([[国鉄TR11形台車|TR11形]]の流用をはじめ、新造品では[[国鉄DT21形台車|DT21形]]をベースとしたFS342形台車など)のほか、[[国鉄旧形電車の車両形式|旧形国電]]で使われていた[[空気圧縮機]](AK-3形)を2011年(平成23年)まで使用していた。AK-3形は旧形国電からの流用に加え新造品もあった。一方で、1950年代以降他社において次々に導入された高加減速車両の導入については、西武鉄道は大手私鉄のなかでは最も消極的で、[[カルダン駆動方式|カルダン駆動]]の高性能車が投入されたのは1962年のことで、しかも当時は従来車との混結を考慮したためその性能は生かされなかった。</ref>。しかし西武秩父線開業と共に質的向上も図られ、大手他社と比べても遜色はない<ref>西尾恵介・井上広和共著『 日本の私鉄 2 西武』([[保育社]]、1984年) ISBN 4-586-50506-0</ref>。また、戦後長らく所沢車両工場において大手私鉄では珍しい車両の自社製造を続けていたが([[東急車輛製造]]など一部車両メーカー製も並行して導入された)、[[1999年]](平成11年)3月2日9108編成の出場をもって終了し、それ以降は全車両が外注となる。[[日立製作所]]([[日立製作所笠戸事業所|笠戸事業所]])製が多数を占めているが、2016年(平成28年)度から納入された[[西武40000系電車|40000系]]は[[川崎車両|川崎重工業車両カンパニー]]の製造となった<ref name="khi20150824">[https://www.khi.co.jp/news/detail/20150824_1.html 西武鉄道向け新型通勤車両80両を初受注] - 川崎重工 ニュース、2015年8月24日</ref>。 かつては貨物・工事輸送用として電気機関車を数多く保有しており、明治から大正期にかけて欧米から輸入された機関車が昭和末期まで運用されていた。また、西武秩父線開業に際しては私鉄最大級の出力および唯一のF級機となる[[西武E851形電気機関車|E851形]]を導入しており、貨物輸送廃止直前には客車牽引も実現した。特に前者はその産業遺産的価値の高さもあり、[[静態保存]]されている。なお、西武鉄道の元現役車両も併せて静態保存されている。 車体面での特徴では、関東大手私鉄の中では[[東武鉄道]]と共に早くから20 m級車体の導入に積極的であり、1957年(昭和32年)には全車20 m級車体の[[西武501系電車|501系]]を登場させている。501系は当時流行していた[[国鉄80系電車#車両デザイン|湘南型デザイン]]を採用しており、時代に応じたアレンジを行いながら[[西武3000系電車|3000系]]まで、実に30年以上にわたって西武の通勤形車両の標準仕様であり続けた。また、側扉の数は20 m級の通勤形電車としては異例となる片側3ドアとなっていたのも特徴である。その後、1990年(平成2年)代以降は[[西武2000系電車#新2000系|新2000系]]に代表される4ドア車の増備が進められ、現在3ドア車は支線区向けの101系が残るのみとなっている。 車体色は戦後長らくラズベリーレッドとトニーベージュの[[赤電 (西武)|赤電]]色が使われていたが、1969年(昭和44年)の[[西武101系電車|101系]]導入に際し新たにレモンイエローの車体色を導入し、新車のみならず一部の在来車も冷房化・高性能化に際してレモンイエローへの塗装変更が行われた。1994年(平成6年)の[[西武9000系電車|9000系]]を最後にレモンイエローの新造車は登場していないが、「西武鉄道=レモンイエロー」のイメージは未だ根強く、2015年(平成27年)には[[西武6000系電車|6000系]]6157Fが西武鉄道開業100周年を記念して、レモンイエローのラッピングが施工されている。また、新型特急[[西武001系電車|001系]]の車内もレモンイエローを基調としたカラーデザインになっている。 現在運用されている電車の制御装置はほぼすべてが日立製作所製である。例外として6000系の6156編成および001系は[[三菱電機]]製、6000系6157編成および40000系は[[東芝]]製<ref>[https://www.global.toshiba/jp/news/corporate/2015/08/pr2401.html 東芝:プレスリリース 西武鉄道新型車両向け電気品受注について 2015年8月24日]</ref> となっている。 [[東京急行電鉄]]・[[京王電鉄]]と同様に営業運転から離脱した旧型車両を地方中小私鉄に譲渡するケースが多い。譲渡先にはグループ会社の[[近江鉄道]]・[[伊豆箱根鉄道]]のほか、[[流鉄]]・[[三岐鉄道]]・[[上信電鉄]]がある。このように長年、中小私鉄への中古車の主要な供給元の一つであったが、2023年9月に大手私鉄では極めて異例となる、他社(東急電鉄・[[小田急電鉄]])からの中古車の譲受が発表された([[#導入予定車両|後述]])<ref name="toyokeizai231001">{{Cite web|和書|author=小佐野景寿 |url=https://toyokeizai.net/articles/-/705159 |title=西武が小田急・東急の「中古車両」を導入する狙い |date=2023-10-01 |access-date=2023-10-14 |website=東洋経済オンライン|publisher=東洋経済新報社}}</ref>。 === 貨車 === 西武鉄道の[[貨車]]は前身各社以来、構成比率が圧倒的に[[無蓋車]]に偏っていることが大きな特徴として挙げられる。これは[[多摩川]]や[[入間川 (埼玉県)|入間川]]あるいは吾野の[[砂利]]・[[砕石]]輸送が貨物の中心であったからである。 旧西武鉄道の前身にあたる川越鉄道は[[甲武鉄道]]経由で東京と川越を結ぶ目的で建設された路線で、開業時に用意された貨車は[[有蓋車]]12輌、有蓋[[緩急車]]2輌、[[土運車]]4輌と有蓋車中心の構成であった。しかし、20世紀に入ると事故車の代替として製造された[[国鉄ワム1形貨車#西武鉄道ワム1形|ワム101]]以外、無蓋車のみが増備され、統合時は有蓋車13(うち緩急車1)輌、無蓋車54輌の構成になっていた。これとは別に1927年(昭和2年)に合併した多摩鉄道から有蓋緩急車2輌と無蓋車28輌を引き継いだが、同社の無蓋車は高比重の砂利輸送用のため当時としては大型の15t積で製造されていたのが特徴であった。 武蔵野鉄道は有蓋車9輌、有蓋緩急車4輌、無蓋車47輌の陣容で開業し、以後の増備は無蓋車中心であったことは旧西武と同様である。特に1929年(昭和4年)の吾野延伸時にトム101〜200(後のトム301形)とトフ1〜10の110輌を一度に増備し、統合直前には有蓋18(うち緩急車9)輌、無蓋199(うち緩急車10)輌に膨らんでいた。また、戦中戦後の尿尿輸送は有名だが、1922年 - 1928年(大正11年 - 昭和3年)にも[[鉄道による糞尿輸送|肥桶輸送]]用の私有有蓋車が車籍編入されていたことも特記できる。 戦後は国鉄から大量の無蓋車を購入し、1955年度(昭和30年度)末に最多輌数となる1000輌の在籍を記録している。1960年代は[[鉄側有蓋車]]の増備や有蓋緩急車の代替新造など有蓋車の増強が行われたが、砂利採掘の終焉や余剰化に伴い、多くの貨車が[[ヨンサントオ|ヨン・サン・トオ]]前後に処分されている。末期は保線用として残ったが、トム301形とホキ81形が2007年(平成19年)に廃車されたことで西武の貨車は終焉を迎えている。 === 運用 === 現在、平日・土休日の需要変動に応じた柔軟な編成を組むために、編成を組み合わせることも少なくない。池袋線・新宿線では、特急列車を除く平日の[[優等列車]]は原則10両編成で運転されるが、平日の一部時間帯や土休日においては優等列車は8両編成で運転されることもある。 === 現有車両 === ==== 特急列車用 ==== <!-- 通勤用は多数の形式があるので便宜上、制御方式やブレーキ方式で分類しているが、特急用は数形式なので分類していない。--> * [[西武10000系電車|10000系]] - 愛称は「ニュー[[レッドアロー]] (NRA) 」。現在は新宿線でのみ運行。[[電気車の速度制御#抵抗制御|抵抗制御]]・[[発電ブレーキ]]搭載(ただし10112編成に限り[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]・[[回生ブレーキ]]搭載となる)。 * [[西武001系電車|001系]] - 愛称は「Laview(ラビュー)」。2019年3月16日より池袋線・西武秩父線で運行<ref name="seiburailway20190129" />。[[妹島和世]]らがデザインを担当し、「風景に溶け込む」をコンセプトに掲げる<ref>{{PDFlink|[http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2015/__icsFiles/afieldfile/2016/03/14/20160314shingatatokkyu.pdf 2018年度、新型特急車両が走り出します! ]}} - 西武鉄道ニュースリリース 2016年3月14日掲載(リンク切れ) [https://web.archive.org/web/20160314114112/http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2015/__icsFiles/afieldfile/2016/03/14/20160314shingatatokkyu.pdf 同日のアーカイブ]</ref><ref name="seiburailway20181029">[https://www.seiburailway.jp/file.jsp?news/news-release/2018/20181026Laview.pdf 新型特急車両「Laview」2019年3月デビュー!] - 西武鉄道ニュースリリース、2018年10月29日発信、同日閲覧。</ref>。VVVFインバータ制御・回生ブレーキ搭載。 <gallery> ファイル:西武10000系電車・ちちぶ号.jpg|特急「NRA」10000系 ファイル:Seibu001series.jpg|特急「Laview」001系 </gallery> ==== 一般列車用 ==== <!-- 細かな解説はここではなく各車両記事に記述を。--> ; [[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]・[[回生ブレーキ]]搭載装備車 :* [[西武40000系電車|40000系]] - [[S-TRAIN]]や[[拝島ライナー]]などで使用。[[永久磁石同期電動機|PMSM]]を採用。地下鉄直通対応。 :* [[西武30000系電車|30000系]] - 愛称は「スマイルトレイン」。西武の車両では初となる、ドア上の液晶ディスプレイ(愛称:[[西武スマイルビジョン|スマイルビジョン]])を設置。 :* [[西武20000系電車|20000系]] - 騒音や振動を低減。 :* [[西武9000系電車|9000系]] - 抵抗制御・発電ブレーキで製造したのち、VVVFインバータ制御に改造。 :* [[西武6000系電車|6000系]] - 地下鉄直通運転対応(1次車を除く)。 ; [[界磁チョッパ制御]]・回生ブレーキ搭載装備車 :* [[西武2000系電車|2000系]] - 西武鉄道初の4扉車で回生ブレーキ・界磁チョッパなど多数の新基軸を採用した。 ; [[電気車の速度制御#抵抗制御|抵抗制御]]・[[発電ブレーキ]]搭載装備車 :* [[西武4000系電車|4000系]] - 現在は飯能駅 - 西武秩父駅間でのみ運用。[[秩父鉄道]]への直通運転、ワンマン運転対応。4009編成は観光列車「[[西武4000系電車#西武 旅するレストラン 52席の至福|旅するレストラン 52席の至福]]」用。 :* [[西武101系電車#新101系・301系|101系(新101系)]] - ワンマン運転対応。263編成は車両輸送対応。 <gallery> ファイル:Seibu-Series40000 40001.jpg|40000系 ファイル:Seibu-Ikebukuro-Line Series30000-38811.jpg|30000系 ファイル:Seibu-Series20000 20008.jpg|20000系 ファイル:Seibu-Series6000 6016.jpg|6000系 ファイル:Seibu 4000.jpg|4000系 ファイル:Seibu Series9000-9102.jpg|9000系 ファイル:Seibu-Series New-2000 Express.jpg|新2000系 ファイル:Seibu-Series Old-2000 Express.jpg|2000系 ファイル:Seibu Series101-1245F.jpg|101系(新101系) </gallery> ==== 新交通システム用 ==== * [[西武8500系電車|8500系]](レオライナー)- ワンマン運転。大手私鉄では唯一の新交通システム。VVVFインバータ制御の採用は西武鉄道ならびに新交通システムで初。 <gallery> ファイル:Seibu-Series8500 8501.jpg|8500系 </gallery> === 導入予定車両 === {{See also|サステナ車両}} [[サステナ車両]]として[[東急電鉄]]と[[小田急電鉄]]から中古車両を約100両譲受し、2024年度から2029年度にかけて支線系に導入する予定となっている。いずれも西武鉄道での形式は未定。 * 元・[[小田急8000形電車|小田急8000形]] - 2024年度より運行開始予定<ref name="サステナ車両導入発表">{{Cite web|和書|url=https://www.seiburailway.jp/newsroom/news/20230926_sasutenatrain/ |title=西武鉄道と東急電鉄・小田急電鉄 「サステナ車両(※)」を授受 各社連携して、SDGsへの貢献を加速してまいります |date=2023-9-26 |access-date=2023-9-27 |publisher=西武鉄道}}</ref>。 * 元・[[東急9000系電車|東急9000系]] - 2025年度以降運行開始予定<ref name="サステナ車両導入発表" />。 * 元・[[東急2000系電車#9020系|東急9020系]]<ref>[https://www.tetsudo.com/column/643/ 西武が導入する「サステナ車両」、発表にない「第3の形式」も? 譲受車両の運用、既存車両の今後の動向を聞く] - 鉄道コム 2023年9月30日掲載</ref><ref>[https://trafficnews.jp/post/128399 西武の「サステナ車両」実は3車種!? 東急9000系そっくり元・田園都市線「9020系」のゆくえ] - 乗りものニュース 2023年9月30日掲載</ref> - 詳細未発表。 === 除籍車両 === ==== 特急列車用 ==== * [[西武5000系電車|5000系]](レッドアロー) <gallery> ファイル:Seibu-5000-Misato-Train-93.jpg|初代レッドアローの5000系 </gallery> ==== 一般列車用 ==== * [[西武411系電車|411系(2代)→401系(2代)]] * [[西武701系電車|701系・801系・501系(2代)]] * [[西武601系電車|601系]] * [[西武101系電車|101系(旧101系)]] * [[西武101系電車#新101系・301系|301系]] * [[西武3000系電車|3000系]] ; 自動空気ブレーキ搭載車 :* [[西武601系電車|クハ1651形]] :* [[西武551系電車|551系・571系]] :* [[西武451系電車|451系]] :* [[西武501系電車|501系]] :* [[西武351系電車|モハ411形→351系(クモハ351形・2代)]] :* [[西武クハ1411形電車|クハ1411形]] :* [[西武401系電車 (初代)|401系(初代)]] :* [[西武モハ351形電車|モハ351形(初代)→クモハ251形(3代)]] :* [[西武311系電車|311系・371系]] ; 武蔵野鉄道からの継承車 :* [[武蔵野鉄道モハ5570形電車|モハ301形(初代)]] :* [[武蔵野鉄道デハ5560形電車|モハ241形・クハ1241形]] :* [[武蔵野鉄道デハ5550形電車|モハ231形]] :* [[武蔵野鉄道クハ5855形電車|クハ1231形]] :* [[武蔵野鉄道デハ320形電車|モハ211形・モハ221形(初代)]] :* [[武蔵野鉄道デハ100形電車|モハ105形・モハ131形・モハ201形・クハ1201形(初代)・クハニ1211形]] ; 西武鉄道(初代)からの継承車 :* [[西武モハ200形電車|モハ251形(初代)→モハ221形(2代)・クハ1221形]] :* [[西武モハ500形電車|クハ1251形]] :* [[西武モハ550形電車|モハ151形・クハ1151形]] ; 多摩湖線用小型車 :* [[西武モハ101形電車|モハ101形・クハ1101形・クハ1111形・クハ1121形]] <gallery> ファイル:Seibu Railway 355.jpg|351系 ファイル:Seibu 401series.jpg|401系 ファイル:Series 101 223F in Tama 20101104.jpg|101系(旧101系) ファイル:Seibu 3000 3001 20120708.jpg|3000系 </gallery> ==== 電気機関車 ==== * [[西武E31形電気機関車|E31形(2代)]] * [[西武E851形電気機関車|E851形]] - 私鉄唯一のF級電気機関車 * [[信濃鉄道1形電気機関車|1形(A1形)]] * [[武蔵野鉄道デキカ10形電気機関車|E11形]] * [[武蔵野鉄道デキカ20形電気機関車|E21形]] * [[西武31形電気機関車|31形・E31形(初代)]] * [[青梅鉄道1号形電気機関車|E41形]] * [[国鉄ED12形電気機関車|E51形]] * [[国鉄ED11形電気機関車|E61形]] * [[国鉄ED10形電気機関車|E71形]] <gallery> ファイル:Seibu-Railway-E43.jpg|E41形 ファイル:Seibu-Railway-E52.jpg|E51形 ファイル:Seibu-Railway-E61-00.jpg|E61形 ファイル:JNR ED10-2.jpg|E71形<br>(外観を国鉄ED10形に復元) ファイル:Seibu-Railway-E854.jpg|E851形 ファイル:Seibu E34 Minami-Iriso 20070901.JPG|E31形(2代目) </gallery> ==== 客車・気動車 ==== * ハ2 * 車体新製ハフ1 * [[上武鉄道#客車|ハフ2]] * [[津軽鉄道#過去の車両|津軽鉄道ハ11]] * 小湊鉄道ハフ11 * [[国鉄12系客車|12系]] - [[東日本旅客鉄道|JR東日本]][[高崎運転所]]所属。[[西武秩父線]]で電気機関車の[[さよなら運転]]を行うにあたり、JRから一時的に借り入れた。営業運転なので、一旦西武鉄道の車両としての車籍を入れている。 * キハ21 * キハ2 * キハ111 * [[上武鉄道#客車|レカ1]] * 蒸気気動車キハニ6454 * ガソリンカー·キハ11 * クハ1121 * 津軽鉄道ハ11 * 小湊鉄道ハフ1 ==== ディーゼル機関車 ==== * [[西武D15形ディーゼル機関車|D15形]] * [[成田鉄道D1001形ディーゼル機関車|D21形]] <gallery> ファイル:Series D15 of Seibu Railway.jpg|D15形 </gallery> ==== 蒸気機関車 ==== * [[国鉄10形蒸気機関車#川越鉄道|1形(初代・元川越鉄道K1形)]] * [[国鉄220形蒸気機関車#220形|3形]] * [[国鉄400形蒸気機関車#400形|5形(初代)]] * [[国鉄2850形蒸気機関車|7形]] * [[武蔵野鉄道1形蒸気機関車|武蔵野鉄道1形]] * [[日本陸軍鉄道連隊K2形蒸気機関車|K2形]] * [[日本陸軍鉄道連隊E形蒸気機関車|E形]] <gallery> ファイル:K1形1号機.jpg|K1形2号機 ファイル:西武3号機.jpg|3形3号機 ファイル:西武鉄道7号機関車.jpg|7形7号機 ファイル:日本陸軍鉄道連隊K2形機関車.jpg|K2形 ファイル:日本陸軍鉄道連隊E形蒸気機関車.jpg|E形 </gallery> ==== 貨車 ==== * ホ1形([[国鉄セ50形貨車]]と[[国鉄セ800形貨車]]の同形車。 * [[国鉄セム1形貨車|ホム1形]] * [[国鉄ホキ800形貨車#西武鉄道ホキ81形・ホキフ71形|ホキ81形・ホキフ71形]] * [[国鉄セフ20形貨車|ホフ1形]] * ト1形 * [[鉄道による糞尿輸送#西武鉄道|ト31形]] * トム1形 * トム31形 * トム301形 * [[国鉄ト21600形貨車#西武鉄道トム501形|トム501形]] * [[国鉄ト24000形貨車#西武鉄道トム1001形・トム1501形|トム1001形・トム1501形]] * [[国鉄トム60000形貨車#西武鉄道トム2001形|トム2001形]] * トフ1形 * [[国鉄スム1形貨車#西武鉄道スム101形·ワフ101形|スム101形·ワフ101形]] * [[国鉄テム100形貨車#西武鉄道スム201形・スム301形|スム201形]] * [[国鉄テム100形貨車#西武鉄道スム201形・スム301形|スム301形]] * ワ1形 * [[国鉄ワム1形貨車#西武鉄道ワム1形|ワム1形]] * [[国鉄ワム3500形貨車#渡島海岸鉄道ワム1形|ワム101形]]([[国鉄ワム3500形貨車|ワム103]]は国鉄払下車) * [[国鉄ワム23000形貨車#西武鉄道ワム201形|ワム201形]] * ワフ1形 * ワフ11形 * ワフ31形 * ワフ51形 * チ1形 * チム1形 * チキ21形 * テキ401形 - 三菱鉱業セメント(現:[[三菱マテリアル]])の私有貨車 ==== 軽便鉄道(おとぎ線)用車両 ==== {{See also|西武山口線#車両}} * 蓄電池機関車 ** [[西武B1形蓄電池機関車|B1形]] ** [[西武B11形蓄電池機関車|B11形]] * 蒸気機関車 ** [[大丸組1形蒸気機関車|1形(2代)]] ** [[井原笠岡軽便鉄道機関車第1号形蒸気機関車|2形]] ** [[西武5形蒸気機関車|5形(2代)]] * 客車 ** 1形 ** 21形 ** 31形 === 未成車両 === ==== 新交通システム用 ==== * 7000系 - 山口線用として設計されていたが、発注直前で中止し、再設計して8500系の投入に変更となった(7000系の導入計画については8500系の項目を参照)。 == 車両基地・工場・検修場 == === 所有する車両基地・工場 === * [[武蔵丘車両検修場]] * [[小手指車両基地]] * [[武蔵丘車両基地]] * [[横瀬車両基地]] * [[上石神井車両基地]] * [[南入曽車両基地]] * [[玉川上水車両基地]] * [[白糸台車両基地]] * [[山口車両基地]] === 過去の車両基地・工場 === * [[西武所沢車両工場]] * [[所沢車両管理所]](貨物) * [[保谷車両管理所]](現・保谷電留線) === 車両の製造を委託した企業 === (保線車両などを除く) ; 現有車両 :* [[日立製作所笠戸事業所]] :* [[東急車輛製造]] :* [[西武所沢車両工場]]([[西武車両]]) :* [[新潟鐵工所]] :* [[川崎車両]](川崎造船所・川崎車輛・ 川崎重工業車両カンパニー) ; 過去の車両 :* [[日本車輌製造]] :* [[木南車輌製造]] :* 日本鉄道自動車工業(現・[[東洋工機]]) === 留置線・留置場所 === ; 自社線内 :* [[池袋駅|池袋]] :* [[練馬駅|練馬]] :* [[石神井公園駅|石神井公園]] :* [[保谷駅|保谷]] :* [[清瀬駅|清瀬]] :* [[所沢駅|所沢]](池袋線用) :* [[西所沢駅|西所沢]](狭山線用) :* [[狭山ヶ丘駅|狭山ヶ丘]] :* [[飯能駅|飯能]] :* [[高麗駅|高麗]] :* [[横瀬駅|横瀬]] :* [[新所沢駅|新所沢]] :* [[小平駅|小平]] :* [[萩山駅|萩山]](多摩湖線用) :* [[田無駅|田無]] :* [[上石神井駅|上石神井]] <!--:* [[仏子駅|仏子]] ←仏子は留置線ではなく待避線です--> ; 他社線内 :* [[和光市駅|和光市]] :* [[新木場駅|新木場]] :* [[元住吉駅|元住吉]] == 運賃・乗車券 == === 運賃 === 大人普通旅客[[運賃]](小児半額・ICカード利用の場合は1円未満の端数切り捨て、切符利用の場合は10円未満の端数切り上げ)。[[鉄道駅バリアフリー料金制度]]による料金10円の加算を含む。2023年(令和5年)3月18日改定<ref>{{Cite web|和書|title=2023年3月18日(土)初電車より鉄道駅バリアフリー料金の収受を開始します |publisher=西武鉄道 |url=https://www.seiburailway.jp/file.jsp?id=13740 |format=PDF |date=2022-12-16 |accessdate=2023-03-20}}</ref>。 {|class="wikitable" rules="all" style="text-align:center; margin-left:3em; border:none;" |- !rowspan="2"|キロ程!!colspan="2"|運賃(円) |- !IC!!切符 |- |1 - 4||157||160 |- |5 - 8||188||190 |- |9 - 12||220||220 |- |13 - 16||252||260 |- |17 - 20||282||290 |- |21 - 24||314||320 |- |25 - 28||356||360 |- |29 - 32||387||390 |- |33 - 36||419||420 |- |37 - 40||450||450 |- |41 - 44||481||490 |- |45 - 48||513||520 |- |49 - 52||544||550 |- |53 - 56||576||580 |- |57 - 60||618||620 |- |61 - 64||649||650 |- |65 - 68||692||700 |- |69- 72||722||730 |- |73 - 76||764||770 |- |76 - 81||796||800 |} === 特急料金 === * 小児半額・端数は10円単位で切り捨て。 * 池袋線系統と新宿線系統を乗り継いだ場合でも特急料金の通算はされず、所沢駅で打ち切りとなる。 * 2023年(令和5年)7月1日改定<ref>{{Cite web|和書|title=2023年7月1日(土)より特急料金および座席指定料金を改定します |publisher=西武鉄道 |url=https://www.seiburailway.jp/file.jsp?newsroom/news/file/20230131_tokkyu_1.pdf |format=PDF |date=2023-1-31 |accessdate=2023-09-20}}</ref>。 {| class="wikitable" rules="all" style="text-align:center; margin-left:3em;" |- !style="width:6em;"|キロ程!!料金(円) |- |1 - 18||400 |- |19 - 35||500 |- |36 - 60||600 |- |61 - ||900 |} === 往復乗車券 === [[File:西武鉄道 秋津・西武球場前 往復券 小児.png|thumb|往復乗車券]] [[西武ドーム]]での野球などイベント来場者の利便を図るため、西武鉄道各駅(多摩川線を除く)から西武球場前駅までの往復乗車券が設定されている。発売当日より2日間有効。 === 特殊連絡定期券 === 西武鉄道は1枚の通勤定期券で2つのルートを利用できる以下の特殊連絡定期券を発売し、乗客の需要喚起を促している。これらの定期券は都心側のターミナル駅の利用が可能で、途中接続駅での乗り継ぎも容易になる。当初は西武鉄道のみでの発売だった。 * [[西武新宿線|新宿線]][[高田馬場駅]]・JR[[山手線]][[新宿駅]]経由[[大久保駅 (東京都)|大久保駅]]・[[代々木駅]]方面の特殊連絡定期券「Oneだぶる♪」<ref group="注釈">JRで発行する場合は愛称はなし。</ref>。 ** 2009年(平成21年)3月14日発売開始。高田馬場駅経由の定期券でJR山手線高田馬場 - 新宿間と新宿線西武新宿 - 高田馬場間が利用できる。 ** 販売額は西武線発駅 - 西武新宿間の定期券運賃と高田馬場-JR線着駅間の定期券運賃との合算である。なお、通学定期での発売はしていない。 ** 2010年(平成22年)9月20日から10月25日まで同定期券および「だぶるーと」の所持者を対象にした「秋のネーミングキャンペーン」が実施され、この結果、同年12月13日に名称が「Oneだぶる♪」<ref group="注釈">アクセントは「ワンダフル」の日本語での読みと同一。</ref> に決定したことが発表された<ref>{{PDFlink|[http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2010/__icsFiles/afieldfile/2010/12/13/20101213Onedaburu.pdf 新宿線特殊連絡定期券の愛称が決まりました!]}}</ref>。 * [[西武有楽町線]][[小竹向原駅]]・[[西武池袋線|池袋線]][[池袋駅]]経由[[雑司が谷駅]]・[[東池袋駅]]・[[新大塚駅]]方面の特殊連絡定期券「だぶるーと」 ** 2010年(平成22年)4月1日発売開始。練馬駅以西の西武線内の駅と[[東京メトロ副都心線|東京地下鉄副都心線]]雑司が谷駅方面・[[東京メトロ有楽町線|東京地下鉄有楽町線]]東池袋駅方面・[[東京メトロ丸ノ内線|東京地下鉄丸ノ内線]]新大塚駅方面の駅間定期券で、池袋線練馬駅 - 池袋駅間と西武有楽町線練馬駅 - 小竹向原駅・東京地下鉄線小竹向原駅 - 池袋駅間が利用できる。 ** 販売額は西武線発駅-池袋間の定期券運賃と小竹向原-地下鉄線着駅間の定期券運賃に1か月定期の場合は1500円を足した金額である。なお、通学定期での販売はしていない。 ** 2010年1月19日から同年2月4日まで定期券の名称についてウェブ上で投票を受け付けて決定することになった。「ニコトク定期」「だぶるーと」「ツーウェイ・パス」「どっち?モ!」「どっちも定期」の5つが候補として示され、投票の結果、名称が「だぶるーと」に決定したと同年2月25日に発表された。 === 企画乗車券・割引乗車券 === [[File:SeibuTokyoMetroPass.png|thumb|西武鉄道発行の西武東京メトロパス]] 西武鉄道は、沿線に[[秩父市|秩父]]や[[川越市|川越]]といった有名観光地があり、観光客向けに「フリーきっぷ」を発売している。 いずれのきっぷも西武鉄道の駅員が配置されていない[[小竹向原駅]]と他の西武線の路線とつながっていない[[西武多摩川線|多摩川線]]の全駅では購入することができない。その他、一部の駅で購入できないきっぷがある。 通年商品のほか、季節商品や[[スタンプラリー]]等のイベントに合わせて[[西武線スマイルスタンプラリーきっぷ|西武線スタンプラリー1日フリーきっぷ]]などの企画商品が設定される。また毎年[[埼玉県民の日]]である[[11月14日]]にはその日のみ利用可能な[[埼玉県民の日フリー乗車券 (東武鉄道)|埼玉県民の日記念1日フリーきっぷ]]も発売される。 西武鉄道は、2003年に[[小田急電鉄]]と業務提携を結んでいることから、小田急線各駅で発売している各種フリーパスも発売している。この乗車券には西武線乗車駅から西武新宿線[[西武新宿駅]]までの往復乗車券が追加されている。 2013年3月16日からは、[[東急東横線]]・[[横浜高速鉄道みなとみらい線]]との相互直通運転開始に伴い、東横線・みなとみらい線で使用可能なフリーきっぷの取り扱いを開始した<ref>{{PDFlink|[http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2012/__icsFiles/afieldfile/2013/02/18/20130219tickets.pdf 「西武横浜ベイサイドきっぷ」、「西武東急線トライアングルチケット」を発売!]}} - 西武鉄道、2013年2月19日。</ref>。 2023年3月18日発売分からは企画乗車券からも[[鉄道駅バリアフリー料金制度|鉄道駅バリアフリー料金]](大人は20円)を収受している(これに伴い「秩父フリーきっぷ」などは発売額変更)<ref>{{Cite web|和書|title=鉄道駅バリアフリー料金収受に伴う企画乗車券および記念乗車券の発売金額のお知らせ |publisher=西武鉄道 |url=https://www.seiburailway.jp/file.jsp?id=14393 |format=PDF |date=2023-03-10 |accessdate=2023-03-20}}</ref>。 * [[秩父漫遊きっぷ]] * [[秩父フリーきっぷ]] *: 2001年に「[[秩父フリーきっぷ|秩父1日フリーきっぷ]]」から変更・改称 * [[長瀞おさんぽきっぷ]] *: 春・夏・秋・冬の期間限定発売。 * [[小江戸・川越フリークーポン]] * [[川越アクセスきっぷ]] * [[西武東京メトロパス]] *: 2010年7月1日から発売。2010年6月30日までは[[山手線]]西側に発着する鉄道会社としては、[[京王電鉄]]と共に[[東京地下鉄|東京メトロ]]線内フリーの“○○東京メトロ”パスが発行されていなかった。 * [[箱根フリーパス]] * [[江の島・鎌倉フリーパス]] * [[西武横浜ベイサイドきっぷ]] *: 西武線各駅から小竹向原駅・池袋駅・西武新宿駅([[新宿三丁目駅]]乗換)までおよび東急東横線[[渋谷駅]]から[[横浜駅]]までの往復乗車券と[[東京メトロ副都心線|東京地下鉄副都心線]]小竹向原駅 - 渋谷駅間および横浜高速鉄道みなとみらい線の一日乗車券がセットになったきっぷ。実質的には東急線で発売されている『みなとみらいチケット』の西武版である。[[東武東上線]]沿線では同様の商品として[[東上横浜ベイサイドきっぷ]]が発売されている。 * [[西武横濱中華街グルメきっぷ]] * 西武東急線[[トライアングルチケット]] *: 西武線各駅から小竹向原駅・池袋駅・西武新宿駅(新宿三丁目駅乗換)までの往復乗車券と東京地下鉄副都心線小竹向原駅 - 渋谷駅間および東急線渋谷駅 - [[自由が丘駅]] - [[二子玉川駅]] - 渋谷駅間の一日乗車券がセットになったきっぷ。[[東京急行電鉄]]で発売されている『トライアングルチケット』の西武線発の商品。 * 西武線発 [[みさきまぐろきっぷ]] *: [[京浜急行電鉄]]で発売している『みさきまぐろきっぷ』の西武線発の商品。 ==== 訪日外国人向け ==== 訪日外国人向けの企画乗車券を発売している。購入時に日本以外の[[パスポート]]の提示が必要となる。 * SEIBU 1Day Pass / SEIBU 2Day Pass *: 西武線全線(多摩川線を除く)で利用可能。 * SEIBU 1Day Pass + Nagatoro / SEIBU 2Day Pass + Nagatoro *: 西武線全線(多摩川線を除く)と秩父鉄道(三峰口駅 - 野上駅)で利用可能。 * 西武川越パス ==== 過去に発売していたきっぷ ==== * 秩父ミューズパークスポーツの森エンジョイきっぷ<!--2003年3月12日改正時刻表より(現在は廃止?)--> * [[奥多摩ハイキングフリーきっぷ]] *: 2012年3月30日をもって発売終了。 * グリーンロードフリーきっぷ<!--2001年12月15日改正時刻表より(現在は廃止?)--> * [[小江戸・川越特急パス]]<!--(2010年4月24日より通年発売開始予定)--> *: 『川越アクセスきっぷ』の発売開始に伴い、2014年3月31日をもって発売終了。 * ドーム&ゆうえんち割引きっぷ *: 2018年4月30日をもって発売終了。 シーズン限定の切符として以下の設定もあった。 * [[沿線グルメ夏きっぷ]] * [[埼玉西武ライオンズプレイヤーズきっぷ]] * 西武園ゆうえんちプールトクトクパス == 設備 == === 駅舎・ホーム === ==== リニューアル ==== [[ファイル:Musashifujisawa-ex.JPG|thumb|right|250px|池袋線[[武蔵藤沢駅]]改札。右手にはTOMONY、左手にはお客様オープンカウンターがある。]] 2010年度までに全駅(営業線のみ)バリアフリー化を目標に掲げ、下記を含めるバリアフリー化事業を行っている。 [[1992年]]の[[高田馬場駅]]ホーム・駅舎改良工事の開始以降、駅の[[バリアフリー]]化工事や駅舎の[[橋上駅舎|橋上]]化・建て替え工事が活発に行われるようになった(小竹向原を除く。ただし、さらに遡ると[[1977年]]の現在の[[西武新宿駅]]の駅ビル([[プリンスホテル|新宿プリンスホテル]]ビル)完成時にきっぷ売り場と改札口の間の階段横にスロープが設置され、西武最初のバリアフリー化が行われている。このスロープは2007年に改めて改修された)。設備改良の主な内容の始まった駅とその年は次の通り。 * スロープなどの設置による段差の解消 - 1977年の西武新宿駅の一部から * エレベーター設置 - [[1987年]]開業の[[航空公園駅]]から * エスカレーターの設置 - 1991年の[[本川越駅]]から * 改札脇にお客様オープンカウンターの設置 - 2001年の[[所沢駅]]から * 待合室の設置 - 2006年の[[新所沢駅]]から * 多機能トイレの設置(だれでもトイレ)、ホーム屋根の大型化、案内表記の改修・追加、コンコースに[[発光ダイオード|LED]]式[[発車標|発車案内表示器]]の設置 - 1998年の高田馬場駅から ** 発車案内表示器は、[[1980年]]3月のダイヤ改正より主要駅でホームのみに幕式(または反転式)によるものが設置されている。その後、[[1993年]]と2005年にそれぞれ当時最新のLED式に更新され、主要駅では[[2010年]]からフルカラーの表示に更新。さらに2012年には所沢駅の橋上駅舎内のコンコースのものが[[液晶ディスプレイ|LCD]]式のものに更新されている。 ** 多機能トイレは使用後の臭いを抑えるため、芳香剤を置かなくても自然換気だけで広範囲の換気が出来るよう工夫されている。また、利用者にこのトイレの清潔感や明るさを感じてもらうため、照明配置を工夫して明るくしたり、造花や絵画を飾るなどの工夫がなされている。 近年では一日の利用客が5000人以下の駅でもバリアフリー化が実施されている。駅売店の改良も行われているが、2007年以降は駅ナカコンビニ[[TOMONY]]に置き換える場合が多い。[[Emio]](エミオ)などの駅ナカ商業施設の建設も進められ、利用者の充実性・利便性の向上も図られている。 {{clear}} ==== 案内表記 ==== <!--盗用の疑いのあるユーザーの画像のため、一旦コメントアウト [[ファイル:Seibu station1.jpg|thumb|right|250px|コーポレートカラーをまとった大型総合案内板。2007年中旬頃より全駅を対象にこのタイプへの交換が行われた。]] [[ファイル:S takadanobaba.jpg|thumb|right|250px|2008年初旬頃より交換された一部駅では[[ハングル]]も併記されている。]]--> ホームには2台以上の大型総合案内板が1987年より設置されている(一部駅を除く)。これには最上部に[[駅名標]](LED式電灯付)、下部に西武鉄道路線図、停車駅ごあんない、時刻表、急行・準急・(普通→)各停それぞれの所要時間がまとめて入っている。その後、2008年より全てユニバーサルデザインのピクトグラムを併用し、さらに新コーポレートカラーに合わせたデザインとなっている。駅名標のみのものは、1987年の航空公園駅から使用している簡易的なものと2008年の新コーポレートカラーに合わせたデザインのものなど約5種類存在する。池袋線(一部駅を除く)は副都心線開業に合わせ、ホーム番号・方面を表記する看板を全て新しいものに交換し同一デザインとしている。他の駅でも駅設備の改良と共に交換をしている。しかし、池袋線では厚型であったが、その後他駅で設置されたものは薄型となり英語表記のほかに、韓国語・中国語の表記もされている。2012年以降は、駅ナンバリングが併記されたものへの取り替えや、案内板への駅ナンバリング貼り付けも順次行われている。1970年代に導入された旧ホーム番号表記看板が現在、鷺ノ宮駅・武蔵関駅・入曽駅・南大塚駅の一部・西武秩父線の一部駅に残っていたがこれも2010年代初期までに取り替えられた。 ==== その他 ==== 西武鉄道では小竹向原駅を除く全駅に[[自動体外式除細動器]] (AED) と[[列車非常停止警報装置|列車非常通報装置]]、列車進入警報装置が設置されている。これらの設置は2008年度中に終了した。2007年には遠隔放送装置を導入し、総合司令室より全駅または指定駅への遠隔放送により正確な情報を迅速に伝達することが可能になった。また、「あなたの駅でも定期を」をモットーに、[[自動券売機#定期券発売機|自動定期券発売機]]の設置を進めている(小竹向原を除く)。また、2009年10月頃より一部駅の自動定期発売機に[[クレジットカード]]対応とするためのシステム追加が行われている。 また、[[日本の女性専用車両|女性専用車]]に、小学生以下の子供を同伴する「男性保護者」の乗車も認めており、他社には見られない特徴である<ref name="assen160225-4">{{Cite web|和書|date=2016-02-25 |url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000401120.pdf |title=障がいを有する男性や男性介助者も「女性専用車両」が利用できることを、もっとよく知らせてほしい |format=PDF |page=4 |publisher=総務省近畿管区行政評価局 |accessdate=2017-01-21}}</ref>。 === 線路など === 線路面では低騒音化や乗り心地の改善に力を注いでいる。1975年より乗り心地の良い線路の[[軌条#ロングレール|ロングレール]]化が実施され、実施率は日本の私鉄一であった。[[分岐器]](ポイント)での横揺れや騒音を軽減するため、普通分岐器から弾性分岐器への交換を進めている。1996年までF級電気機関車のE851形が走行していたこともあり線路の基礎は強固である。民家が隣接しているところには防音壁を設置し対策している。2000年頃から架線柱のビームを丈夫で寿命が長いパイプ式への交換が進んでいる。また一部であるが、[[弾性枕木直結軌道]]や[[ラダー軌道|バラストラダー軌道]]、[[架空電車線方式#饋電吊架式|饋電吊架式]]の架線などの採用も進めており省メンテナンス化にも取り組んでいる。 === 踏切 === 歩行者用・自動車通行可能な[[踏切]]共に全ての踏切で[[遮断機]]及び警報器が自動化されている。踏切の遮断機・警報器や起動装置などはほとんどが[[京三製作所]]製で、一部[[日本信号]]製の物が使われている。2008年度には自動車が通行可能な踏切242踏切に、[[踏切支障報知装置]](非常ボタン)と[[踏切障害物検知装置|踏切支障検知装置]]の設置を完了した。列車の運転士が運転中に踏切遮断機の作動を確認する線路脇に設置されている表示灯は、他社では見られない特殊なものとなっている。他社では電球色で「×」印の表示灯が一般的だが、西武鉄道では踏切の警報灯と同じ上下点滅式のLED表示灯となっている。2005年より比較的大きな踏切では道路と歩行者用通路を明確にし歩行者の安全を確保するため、歩行者用通路が緑色で塗りわけられている。なお、警報音は設置当初から数十年以上手鳴らしによる「カンカンカンカン」という西武独自の独特な音のものであったが、1990年頃より2世代前、1992年頃より1世代前のものへ変更が始まり、一時期現行のもの含めすべての警報音が使用された時期もあったが、2008年に1世代前(武蔵境第6踏切のみで使用)と現行の4代目の2つのみに統一された。なお、現在は駅列車接近警報装置の警報音としても使用されている。 == 乗務員 == === 運転士 === 車両形式ごとの性能に統一性がなく、同形式でも性能が一部異なる編成もあるため、[[運転士]]は形式ごとに性能や操作、感覚を記憶しなければならない。西武鉄道係員養成所には、20000系と40000系の運転(車掌)シミュレーターがあり、定期的に運転士はそこで訓練を受ける。 東京メトロ等乗り入れ先では同条件でも開放している運転席背面の助手席側[[遮光幕]]は西武線内では早朝・夜間は閉めている。 === 車掌 === <!--(ノートでの確認に基づくコメントアウト)西武鉄道の[[車掌]]で特徴的なのは、乗務中は原則として運転席に座ることを禁止としていることである。-->車両の自動放送を簡略化し、車掌に直接わかりやすく通過駅や接続電車などの放送をさせるようにしている。電車の折り返し時や停車時間が長い駅では都度車掌が車内に入り車内温度を確認する。<!--ノートでの確認に基づくコメントアウト)また、始発時初めの放送するときには乗務員室扉を開き車内の音量が適切か確認させるように指導されている。-->また、始発時や乗務員交代時には車内と乗務員室の仕切り扉や窓を開け、車内放送が適切な音量であるかを確かめている。 === 乗務員区所 === 保谷・小手指・飯能・上石神井・小平・新所沢の各駅に乗務所が併設されており、運転士と車掌が所属している。また、白糸台・萩山の各駅に併設された多摩川線管理所、多摩湖線管理所に運転士が所属しており、前者が多摩川線、後者が多摩湖線、山口線のワンマン運転を担当している。 == 一日平均乗降人員上位20駅 == 2020年度は [https://www.seiburailway.jp/company/passengerdata/ 駅別乗降人員 :西武鉄道Webサイト] より。それ以外は [https://www.train-media.net/index.html 関東交通広告協議会]、[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑]、[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/ 埼玉県統計年鑑] より。 {{要検証範囲|{{↑}}{{↓}}は、右欄の乗降人員と比較して増({{↑}})、減({{↓}})を表す|date=2022年11月}}。 {|class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:right;" |- !style="width:1em;"|順位 !style="width:7em;"|駅名 !style="width:8em;"|路線名 !style="width:8em;"|所在地 !style="width:6em;"|2020年度 !style="width:6em;"|2018年度 !style="width:6em;"|2015年度 !style="width:6em;"|2010年度 !style="width:6em;"|2005年度 !style="width:6em;"|2000年度 !特記事項 |- !1 |style="text-align:left;"|[[池袋駅]] |style="text-align:left;"|{{Color|#ff6600|■}}池袋線 |style="text-align:left;"|[[東京都]][[豊島区]] |{{↓}} 334,791 |{{↑}} 490,259 |{{↑}} 483,407 |{{↓}} 476,989 |{{↓}} 511,078 |536,219 |style="text-align:left;"|池袋線系統の駅として第1位。<br />(各社局線総合では世界第3位) |- !2 |style="text-align:left;"|[[高田馬場駅]] |style="text-align:left;"|{{Color|#00A6BF|■}}新宿線 |style="text-align:left;"|東京都[[新宿区]] |{{↓}} 207,124 |{{↑}} 305,741 |{{↑}} 295,872 |{{↑}} 295,689 |{{↓}} 274,488 |288,904 |style="text-align:left;"|新宿線系統の駅として第1位。 |- !3 |style="text-align:left;"|[[西武新宿駅]] |style="text-align:left;"|{{Color|#00A6BF|■}}新宿線 |style="text-align:left;"|東京都新宿区 |{{↓}} 121,462 |{{↑}} 184,573 |{{↑}} 175,357 |{{↓}} 173,328 |{{↓}} 195,171 |201,444 |style="text-align:left;"|&nbsp; |- !4 |style="text-align:left;"|[[小竹向原駅]] |style="text-align:left;"|{{Color|#ff6600|■}}西武有楽町線 |style="text-align:left;"|東京都[[練馬区]] |{{↓}} 104,135 |{{↑}} 144,528 |{{↑}} 127,514 |{{↑}} 100,552 |{{↑}} 48,736 |36,769 |style="text-align:left;"|[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]、[[東京メトロ副都心線|副都心線]]との直通人員を含む。 |- !5 |style="text-align:left;"|[[練馬駅]] |style="text-align:left;"|{{Color|#ff6600|■}}池袋線<br />{{color|#ff6600|■}}西武有楽町線<br />{{color|#ff6600|■}}豊島線 |style="text-align:left;"|東京都練馬区 |{{↓}} 96,962 |{{↑}} 132,938 |{{↑}} 125,478 |{{↑}} 109,231 |{{↑}} 85,908 |70,403 |style="text-align:left;"|&nbsp; |- !6 |style="text-align:left;"|[[国分寺駅]] |style="text-align:left;"|{{Color|#00cc66|■}}国分寺線<br />{{color|#ffcc33|■}}多摩湖線 |style="text-align:left;"|東京都[[国分寺市]] |{{↓}} 83,466 |{{↑}} 120,121 |{{↑}} 118,392 |{{↓}} 114,779 |{{↑}} 116,629 |114,876 |style="text-align:left;"|&nbsp; |- !7 |style="text-align:left;"|[[所沢駅]] |style="text-align:left;"|{{Color|#00A6BF|■}}新宿線<br />{{color|#ff6600|■}}池袋線 |style="text-align:left;"|[[埼玉県]][[所沢市]] |{{↓}} 78,002 |{{↑}} 104,984 |{{↑}} 97,662 |{{↑}} 94,827 |{{↑}} 91,815 |87,558 |style="text-align:left;"|&nbsp; |- !8 |style="text-align:left;"|[[大泉学園駅]] |style="text-align:left;"|{{color|#ff6600|■}}池袋線 |style="text-align:left;"|東京都練馬区 |{{↓}} 64,601 |{{↑}} 88,104 |{{↑}} 85,597 |{{↑}} 83,002 |{{↑}} 79,342 |75,570 |style="text-align:left;"|他路線と接続しない単独駅として第1位。 |- !9 |style="text-align:left;"|[[石神井公園駅]] |style="text-align:left;"|{{color|#ff6600|■}}池袋線 |style="text-align:left;"|東京都練馬区 |{{↓}} 61,897 |{{↑}} 82,558 |{{↑}} 77,693 |{{↑}} 69,515 |{{↑}} 66,679 |65,157 |style="text-align:left;"|&nbsp; |- !10 |style="text-align:left;"|[[秋津駅]] |style="text-align:left;"|{{color|#ff6600|■}}池袋線 |style="text-align:left;"|東京都[[東村山市]] |{{↓}} 60,087 |{{↑}} 81,556 |{{↑}} 79,774 |{{↑}} 76,177 |{{↑}} 71,126 |65,951 |style="text-align:left;"|&nbsp; |- !11 |style="text-align:left;"|[[田無駅]] |style="text-align:left;"|{{Color|#00A6BF|■}}新宿線 |style="text-align:left;"|東京都[[西東京市]] |{{↓}} 56,667 |{{↑}} 75,996 |{{↓}} 74,808 |{{↑}} 75,106 |{{↑}} 73,783 |69,945 |style="text-align:left;"|&nbsp; |- !12 |style="text-align:left;"|[[ひばりヶ丘駅]] |style="text-align:left;"|{{color|#ff6600|■}}池袋線 |style="text-align:left;"|東京都西東京市 |{{↓}} 55,311 |{{↑}} 73,607 |{{↑}} 69,024 |{{↑}} 67,591 |{{↑}} 66,033 |65,247 |style="text-align:left;"|&nbsp; |- !13 |style="text-align:left;"|[[清瀬駅]] |style="text-align:left;"|{{color|#ff6600|■}}池袋線 |style="text-align:left;"|東京都[[清瀬市]] |{{↓}} 51,992 |{{↑}} 70,760 |{{↓}} 68,834 |{{↓}} 68,945 |{{↑}} 70,658 |68,837 |style="text-align:left;"|&nbsp; |- !14 |style="text-align:left;"|[[保谷駅]] |style="text-align:left;"|{{color|#ff6600|■}}池袋線 |style="text-align:left;"|東京都西東京市 |{{↓}} 47,517 |{{↑}} 63,043 |{{↑}} 60,058 |{{↑}} 55,545 |{{↑}} 52,954 |52,643 |style="text-align:left;"|&nbsp; |- !15 |style="text-align:left;"|[[花小金井駅]] |style="text-align:left;"|{{Color|#00A6BF|■}}新宿線 |style="text-align:left;"|東京都[[小平市]] |{{↓}} 42,843 |{{↑}} 59,223 |{{↑}} 55,538 |{{↑}} 52,242 |{{↓}} 51,189 |52,944 |style="text-align:left;"|&nbsp; |- !16 |style="text-align:left;"|[[東久留米駅]] |style="text-align:left;"|{{color|#ff6600|■}}池袋線 |style="text-align:left;"|東京都[[東久留米市]] |{{↓}} 41,462 |{{↑}} 55,076 |{{↑}} 53,984 |{{↑}} 52,275 |{{↑}} 49,205 |47,264 |style="text-align:left;"|&nbsp; |- !17 |style="text-align:left;"|[[新所沢駅]] |style="text-align:left;"|{{Color|#00A6BF|■}}新宿線 |style="text-align:left;"|埼玉県所沢市 |{{↓}} 40,585 |{{↑}} 55,856 |{{↓}} 55,265 |{{↓}} 56,017 |{{↓}} 60,583 |62,054 |style="text-align:left;"|&nbsp; |- !18 |style="text-align:left;"|[[本川越駅]] |style="text-align:left;"|{{Color|#00A6BF|■}}新宿線 |style="text-align:left;"|埼玉県[[川越市]] |{{↓}} 37,498 |{{↑}} 53,880 |{{↑}} 49,266 |{{↑}} 47,680 |{{↓}} 47,492 |47,939 |style="text-align:left;"|&nbsp; |- !19 |style="text-align:left;"|[[東村山駅]] |style="text-align:left;"|{{Color|#00A6BF|■}}新宿線<br/>{{Color|#00cc66|■}}国分寺線<br/>{{Color|#00cc66|■}}西武園線 |style="text-align:left;"|東京都東村山市 |{{↓}} 37,081 |{{↑}} 49,488 |{{↑}} 47,569 |{{↑}} 45,786 |{{↑}} 42,996 |41,509 |style="text-align:left;"|&nbsp; |- !20 |style="text-align:left;"|[[上石神井駅]] |style="text-align:left;"|{{color|#00A6BF|■}}新宿線 |style="text-align:left;"|東京都練馬区 |{{↓}} 33,457 |{{↑}} 44,959 |{{↓}} 43,369 |{{↑}} 43,382 |{{↓}} 43,294 |43,419 |style="text-align:left;"|&nbsp; |} 池袋線系統は池袋駅が、新宿線系統は西武新宿駅と高田馬場駅が突出して乗降人員が多く、これらの3駅が西武鉄道のメインターミナルである。また、池袋線系統は小竹向原駅で東京メトロ有楽町線及び副都心線への相互直通運転を行っており、都心方面の利便性と冗長性を確保している。 池袋線系統の始発駅である池袋駅は、1990年代前半に一日平均乗降人員が65万人を越えていた時期があった。1997年度に都営地下鉄大江戸線が新宿駅まで延伸開業し、2008年度に東京メトロ副都心線が開業して直通運転を開始するなど、並行路線が開業したことで乗客の転移が進み、2009年度以降は50万人を下回っている。その一方で、池袋駅の手前にある乗換駅の小竹向原駅と練馬駅は乗降人員が増加し、2010年度以降は両駅とも10万人を上回っている。 新宿線系統の始発駅である西武新宿駅は、他路線に乗り換える際に不便な場所にあるため、乗り換えに適した隣駅の高田馬場駅よりも乗降人員が少ない。同線は地下鉄への相互直通運転を実施していないため、朝のラッシュ時は両駅で大量の降車客を捌いている。特に、高田馬場駅では降車時間の短縮と遅延防止を図るため、上り線に限り両側の扉を開けられる構造としている。 上位15位の中で大半を占めるのは池袋線の駅である。大泉学園駅は他路線と接続せず、急行以上の種別が通過する単独駅でありながら一日平均乗降人員が6万人を越えている。また同駅を含め、石神井公園駅から所沢駅までの各駅は、すべての駅で一日平均乗降人員が4万人を越えている。朝のラッシュ時に運転される通勤準急は石神井公園駅を、通勤急行はひばりヶ丘駅を通過する千鳥停車を行い、両駅に停車する快速急行及び急行に乗客が集中しないようにダイヤが組まれている。 一方で、新宿線の単独駅で一日平均乗降人員が5万人を越えているのは田無駅のみである。2006年度以前は新所沢駅も一日平均乗降人員が6万人を越えていた。 == 地球環境への配慮 == 西武鉄道では、グループビジョンのグループ宣言に、「常に、自然環境・地球環境への配慮を忘れません。」と掲げている通り、以下のような環境保全活動を行っている(以下は、大まかな例であり環境保全活動の極一部)。 2008年5月に鉄道会社としては初めてSEGES([[社会・環境貢献緑地評価システム|シージェス]])の認定を受けた森林「飯能・西武の森」を保有している。認定ランクは5段階評価中3段階目。認定を受けた会社としては最大級で、面積は約77[[ヘクタール]]。地域市民の憩いの場として、また自然体験を始めとする環境教育の場として使用されている。2008年9月より5ヵ年計画で整備をする。 2007年に電車から架線に戻された回生電力の貯蔵を行う「環境配慮型蓄電装置」を日本国内で初めて吾野変電所および正丸変電所に導入した。これにより電力使用量の削減につながった。また、[[変電所]]では2001年より[[整流器]]の冷媒を[[代替フロン]]から環境に影響のない[[純水]]に切り替えている。2008年より変電所で定期的に交換される蓄電池の再利用を行っていて、廃棄物の削減を図っている。 2005年度以降にリニューアルされた駅や建て替えを施行した駅の一部では、[[太陽光発電]]や[[風力発電]]システムを導入している。案内表示看板内の照明を[[発光ダイオード|LED]]化することで消費電力の大幅な削減を図っている。駅の構築で[[揮発性有機化合物|VOC]]の発生を抑えるため、鉄骨材の塗装をやめて[[溶融亜鉛めっき]]を取り入れている。また、信号踏切等の設備の塗装では低VOC塗装を使用している。2009年度から一部駅でホームや駅前ベンチの緑化が行われた。旧駅舎に使用されていた古レールを活用し、駅の案内表示の柱に使用している。 鉄道車両では、軽量化などによって消費電力の削減を図り、新型車両についてはこれが置き換える旧型車両に比べ約半分以下の消費電力となっている。また、車内や車体のリサイクル性を高めるため新型車両ではリサイクル可能な素材の採用などがなされている。冷房装置の冷媒を代替フロンに置き換えることによって、[[オゾン層]]破壊への影響を低減させている。また、使わなくなった一部車両を地方中小私鉄に譲渡して、解体にかかる環境負担を低減させると共に省資源化を図っている。廃棄物対策として、車両部品の非[[石綿|アスベスト]]化や電子機器プリント基板の[[無鉛化|非鉛化]]を図っている。 線路内の[[法面]]の緑化を行い環境保全と景観向上を図っている。また、一部社員を地域の清掃活動や自治体とタイアップした植栽ボランティア活動に定期的に参加させている。この活動により社員が環境に対する意識を高めてもらおうとしている。 [[武蔵横手駅]]の線路脇事業用地では[[ヤギ]](雄のそらと雌のみどり、その2頭の子のだいち)の放牧による草刈りを2009年8月頃より試験的に開始している。これにより、従来社員が[[刈払機|草刈り機]]を使用して行っていた草刈りを省くことができ、草刈り機の燃料費の削減、またこれに伴う環境負荷の低減につながることを期待している。 乗車券類のリサイクルを行い再資源化を図っている。また同じように電気関係工事で発生する銅屑、鉄屑などのリサイクルも行っている。 2009年4月には日本政府が進める[[地球温暖化]]防止プロジェクト「[[チーム・マイナス6%]]」に加盟している。 太陽光発電については駅併設分以外にも、西武鉄道グループとして太陽光発電所を9か所(2018年1月時点)運営・着工している<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO25703940V10C18A1L72000/ 西武鉄道、横須賀市にメガソーラー グループで最大] 日本経済新聞ニュースサイト(2018年1月15日)</ref>。 == オリジナルキャラクター == 西武鉄道では幾多のオリジナルキャラクターを駅や電車内で使用している。2004年頃から西武鉄道が保有する電車の各形式がキャラクター化されている。2007年度より「グットマナーをありがとうシリーズ」で各動物をキャラクター化している。同年度から西武鉄道が毎月1日に発行する「西武鉄道 かわら版」内のマナーを呼びかけをする欄で毎年度違うキャラクターを製作している。ちなみに2007年度はマナーかるたをテーマとして中学生の「たけしくん」、2008年度は小学生探偵の「サトローくん」、2009年度は学習型のマナーロボット「マナボットくん」であった。また、沿線祭りの宣伝ポスターで解説などをするキャラクターとして「まつりちゃん」がいる。 * サトローくん - 西武沿線に住む普通の小学生だが、駅や電車内で起こる(マナー)事件を次々と解決している。みんなにマナーの大切さを「さとって」ほしいと常に願っている。 * マナボットくん - 車内や駅を探検しながら数々のマナー違反を感じ取り、マナーを学びながら成長する学習型のロボット。 * マナビーちゃん - マナボットくんの妹。 * レイルくんとスマイルちゃん - 西武鉄道の駅員をモチーフにしたキャラクターで、2010年頃から駅の張り紙などに登場していた。当初はまだ名前が決まっておらず、2011年4月から5月にかけて名前の募集を実施し、同年6月に決定した名前を正式発表した<ref>{{PDFlink|[http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2011/__icsFiles/afieldfile/2011/06/06/20110606naming.pdf/ 「駅員さんキャラクター」プロフィール]}} - 西武鉄道</ref>。 == 漫画・アニメ・ゲームとのコラボレーション == === 西武鉄道 === 1956年、[[練馬区]]に[[東映動画]]のスタジオ(現・[[東映アニメーション]]大泉スタジオ)が設立されて以来、練馬区・[[杉並区]]など西武沿線周辺にアニメ会社が集まり、日本のアニメ産業の中心地となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/394914 |title=西武線は日本のアニメを育てた「影の功労者」だ アニメ界出身の鉄道写真家が語る「青春時代」 |access-date=2023-02-13 |publisher=東洋経済新報社 |author=南 正時 |date=2020-12-13 |website=東洋経済オンライン}}</ref>。 グループ再編後は、[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメーション]]作品、およびそれを活用した[[地域おこし]]との[[タイアップ]]や、アニメキャラクターを使用した自社企画、声優を起用した企画(始球式、[[アニラジ]]やその公開収録など)を行っている。近年は、『[[モンスターストライク]]』や『[[白猫プロジェクト]]』など、ソーシャルゲームとのコラボレーションも度々実施している。 * 2007年 ** 西武鉄道各駅で「[[電撃文庫ムービーフェスティバル]]」映画公開記念QRコードラリーを実施<ref>{{Cite web|和書|url=http://king-cr.jp/special/inukami-movie/special_09.html |title=「電撃文庫ムービーフェスティバル」映画公開記念QRコードラリー|publisher=いぬかみっ!THE MOVIE 公式サイト|accessdate=2017-12-13}}</ref>。 * 2008年 ** [[大泉学園駅]]への『[[銀河鉄道999]]』の[[車掌 (銀河鉄道999)|車掌]]像の設置<ref name="mvnavi20090304">{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/article/20090304-a047/|title=アニメの街、西武鉄道大泉学園駅の発車メロディが「銀河鉄道999」に!|publisher=マイナビニュース|accessdate=2017-12-30}}</ref>。 ** [[上井草駅]]での[[ガンダム (架空の兵器)|ガンダム]]像の設置、発車メロディの『[[機動戦士ガンダム]]』主題歌「[[翔べ! ガンダム]]」への変更<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gundam.info/news/hot-topics/news_hot-topics_20080325_1282p.html|title=ガンダムのブロンズ像、西武鉄道 上井草駅前の大地に立つ!|publisher=gundam.info|accessdate=2017-12-30}}</ref>。 ** [[日本動画協会]]とのタイアップで子ども向け環境保護啓蒙広報紙「アニッコ」発行開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://aja.gr.jp/date/2008/12|title=「環境マガジン」アニッコ(Anime&Eco)創刊のお知らせ|publisher=日本動画協会|accessdate=2017-12-30}}</ref>。 * 2009年 ** アニメ映画「[[ホッタラケの島 〜遥と魔法の鏡〜]]」とのタイアップを実施<ref>{{Cite web|和書|url=http://cinema-magazine.com/db/index.php?id=1493&press=on|title=「ホッタラケ」ブームが発生!?|publisher=週刊シネママガジン|accessdate=2017-12-30}}</ref>。 ** 大泉学園駅の発車メロディを「[[銀河鉄道999 (ゴダイゴの曲)|銀河鉄道999]]」へ変更<ref name="mvnavi20090304" />。 ** 3000系電車8両編成1本を[[ラッピング車両]]「『銀河鉄道999』デザイン電車」に改装<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.walkerplus.com/article/5465/|title=西武鉄道が銀河鉄道999に!?デザイン電車が登場|publisher=News Walker|accessdate=2017-12-13}}</ref>。 ** 2月、[[トミーテック]]が展開する「[[鉄道むすめ]] Vol.7」において、西武鉄道初の鉄道むすめ「[[鉄道むすめの登場人物#shiina|井草しいな]]」を発表<ref>{{Cite web|和書|url=https://tetsudou-musume.net/contents/chara/chara.php?cid=TM59|title=キャラクター紹介|publisher=鉄道むすめ〜鉄道制服コレクション〜|accessdate=2017-12-30}}</ref>。9月には「鉄道むすめ Vol.9」において「[[鉄道むすめの登場人物#misya|神井みしゃ]]」を発表<ref>{{Cite web|和書|url=https://tetsudou-musume.net/contents/chara/chara.php?cid=TM45|title=キャラクター紹介|publisher=鉄道むすめ〜鉄道制服コレクション〜|accessdate=2017-12-30}}</ref>。後述の「[[鉄道むすめの登場人物#ibuki|川越いぶき]]」と共に、フィギュア等の関連グッズが発売されている。 ** 豊島区立郷土資料館で10月24日から12月6日まで行われた「トキワ荘のヒーローたち 〜マンガにかけた青春〜」の広告ヘッドマーク付き電車を運行。使用車両は20000系20151F<ref>{{Cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2009/10/26/185500.html|title=西武20000系に「トキワ荘」PRヘッドマーク|鉄道ニュース|2009年10月26日掲載|publisher=鉄道ファン railf.jp|accessdate=2020-01-17}}</ref>。 * 2010年 ** マナーポスターに『[[ケロロ軍曹]]』のキャラクターを起用。オリジナル[[ケロン人]]「スママ」を[[ケロロ軍曹 (アニメ)|同作アニメ]]制作会社である[[サンライズ (アニメ制作ブランド)|サンライズ]]と共同で開発<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/article/20120825-a008/|title=「ケロロ軍曹のマナーで西武鉄道侵略大作戦!」ポスター第5弾、9/3より掲出|publisher=マイナビニュース|accessdate=2017-12-13}}</ref>。 * 2011年 ** アニメ『[[あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。]]』のラッピング電車を運行(20000系20152F)。[[9月23日]]には、同作ロケ地の最寄り駅である[[西武秩父駅]]や、池袋駅など複数の駅で記念切符を発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/article/20110909-a084/|title=西武鉄道からアニメ「あの花」記念乗車券 - 西武秩父駅で5,000セット発売|publisher=マイナビニュース|accessdate=2017-12-13}}</ref>。 ** [[シンエイ動画]]製作によるオリジナルアニメ『[[〜特命!沿線ご案内係〜「西武鉄道駅員タコちゃん」]]』を[[YouTube]]、[[GYAO!]]にて配信<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.animeanime.biz/archives/8191|title=西武鉄道×シンエイ動画 「西武鉄道駅員タコちゃん」配信|publisher=アニメ!アニメ!ビズ|accessdate=2017-12-30}}</ref>。[[スカパー!プレミアムサービス|スカパー!]]・[[ケーブルテレビ]]向けの「[[テレ朝チャンネル]]」でも放映された。 ** [[ブシロード]]のトレーディングカードゲームとそれを原作にしたアニメ『[[カードファイト!! ヴァンガード]]』のスタンプラリーを実施。 * 2012年 ** 西武百貨店池袋本店で8月10日から8月22日まで行われた[[マクロスシリーズ]]30周年記念「ザ・マクロス原画展」にあわせて、「マクロス30周年」記念乗車券を販売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.famitsu.com/news/201208/10019511.html|title=マクロス30周年記念『ザ・マクロス原画展』開催!|publisher=ファミ通.com|accessdate=2017-12-30}}</ref>。 ** 「鉄道むすめPLUS+03」にて「[[鉄道むすめの登場人物#ibuki|川越いぶき]]」が登場<ref>{{Cite web|和書|url=https://tetsudou-musume.net/contents/chara/chara.php?cid=PL09|title=キャラクター紹介|publisher=鉄道むすめ〜鉄道制服コレクション〜|accessdate=2017-12-30}}</ref>。 ** 『[[青の祓魔師 ―劇場版―]]』記念乗車券を、12月28日より池袋・西武新宿・所沢の3駅で合計3,000セット発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.aniplex.co.jp/sp/lineup/anime/aoex_movie/news/news.html?id=16130|title=西武鉄道で記念乗車券を発売!|publisher=アニプレックス|accessdate=2017-12-29}}</ref>。 * 2013年 ** テレビアニメ『[[ヤマノススメ (アニメ)|ヤマノススメ]]』で、西武鉄道が協力参加。 ** [[スタジオジブリ]]の映画作品『[[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]]』のスタンプラリーを実施<ref>{{Cite web|和書|url=https://mantan-web.jp/article/20130812dog00m200032000c.html|title=スタンプラリー:ポケモンにライダー、風立ちぬまで… アニメ&映画とコラボした名物企画を紹介|publisher=MANTAN WEB|accessdate=2017-12-30}}</ref>。 ** [[NHN PlayArt]]のスマートフォンアプリ『[[神様はじめました]]〜ドキドキあやかしLOVE〜』のプロモーションを実施<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.4gamer.net/games/216/G021680/20130806037/|title=「神様はじめました〜ドキドキあやかしLOVE〜」のプロモーションが西武鉄道で展開中。番外編シナリオのコードを手に入れよう|publisher=4Gamer.net|accessdate=2017-12-13}}</ref>。 ** スマイルビジョンや駅内ポスターにて、オリジナルアニメ『[[ファンタジスタドール]]』の広告を実施<ref>{{Cite web|和書|url=https://teo.cocolog-nifty.com/column/2013/08/post-3f31.html|title=ファンタジスタドールと西武鉄道|publisher=異常感想注意報|accessdate=2017-12-30}}</ref>。公式でのコラボレーションではないが、西武新宿線田無駅周辺を舞台としたアニメ作品で、作中にも西武鉄道の車両が登場している。 ** 『[[劇場版 魔法少女まどか☆マギカ|劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語]]』の公開を記念して、[[東京急行電鉄|東急電鉄]]と共同でモバイルラリーを実施<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1381204370|title=6つの駅でまどかやほむらが待っている!『魔法少女まどか☆マギカ』東急電鉄×西武鉄道コラボでモバイルラリー開催決定!|publisher=アニメイトタイムズ|accessdate=2017-12-13}}</ref>。 * 2014年[[ファイル:Seibu 20000 Series 20152 Youkai Watch.JPG|thumb|200px|妖怪ウォッチ ラッピング電車<br>(20000系20152編成)]] ** 1月、『[[黒執事]]』の作者、[[枢やな]]のデビュー10周年記念展「黒執事原画展 〜枢やなの世界〜」に合わせて、『黒執事』仕様の記念乗車券を販売<ref>{{Cite web|和書|url=https://akiba-souken.com/article/18886/|title=西武鉄道、「黒執事」仕様の記念乗車券を発売! 舞踏会の招待状仕立てでセバスチャンからのメッセージカードも同封|publisher=アキバ総研|accessdate=2017-12-13}}</ref>。 ** 5月、アニメ映画『[[ロボットガールズZ]]』の記念乗車券を販売<ref>{{Cite web|和書|url=https://otakei.otakuma.net/archives/2014050106.html|title=ロボットガールズZ×西武鉄道コラボが実現!記念乗車券発売へ|publisher=おたくま経済新聞|accessdate=2017-12-13}}</ref>。 ** [[レベルファイブ]]のゲームソフトとそれを原作にしたアニメ『[[妖怪ウォッチ]]』のスタンプラリーを実施<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/article/20140712-a009/|title=西武鉄道が『妖怪ウォッチ』のスタンプラリー開催 - ラッピング電車も登場|publisher=マイナビニュース|accessdate=2017-12-30}}</ref>。 ** 秩父を舞台に、『[[進撃の巨人]]』のスマホスタンプラリーを実施<ref>{{Cite web|和書|url=https://shingeki.tv/news/archives/1428|title=進撃の西武鉄道スマホスタンプラリーin秩父 が開催中!!|publisher=TVアニメ「進撃の巨人」公式サイト|accessdate=2017-12-13}}</ref>。 ** テレビアニメ『[[四月は君の嘘]]』のラッピング電車を池袋線で運行。使用車両は30000系38112F<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kimiuso.jp/information/|title=君嘘×西武鉄道タイアップ!!ラッピング電車が10月1日(水)より運行開始!!|publisher=TVアニメ「四月は君の嘘」オフィシャルサイト|accessdate=2014-10-01}}</ref>。また、作中でも新2000系もしくは9000系と思わしき車両が、原作第19話<ref group="注釈">単行本5巻に収録</ref> に登場している。 ** 『[[劇場版 PSYCHO-PASS サイコパス]]』公開記念乗車券を12月29日より池袋・西武新宿・所沢の3駅で限定販売<ref>{{Cite web|和書|url=https://psycho-pass.com/news/info/190/|title=12月29日(月)より、池袋・西武新宿・所沢の3駅で『劇場版 PSYCHO-PASS サイコパス』公開記念乗車券3,000セット限定発売決定!|publisher=TVアニメ「PSYCHO-PASS サイコパス」公式サイト|accessdate=2017-12-13}}</ref>。 * 2015年[[ファイル:Seibu 2000 Series 2075 Korosensee.JPG|thumb|200px|暗殺教室ラッピング電車<br>(新2000系2075編成)]] ** 1月15日から1月25日までの11日間、西武池袋本店で開催された「[[もやしもん]]×[[純潔のマリア]]原画展 〜[[石川雅之]]の世界〜」に合わせ、「『もやしもん×純潔のマリア原画展』開催記念 西武線スタンプラリー」を実施<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kqtrain.net/a-blog/index.php?ID=4535|title=西武、「『もやしもん×純潔のマリア原画展』開催記念西武線スタンプラリー」開催|publisher=kptrain.net(京浜急行)|accessdate=2017-12-30}}</ref>。 ** 2014年8月にアニメ制作50周年を迎えた[[トムス・エンタテインメント]]と、2014年12月に創立100周年を迎えた西武鉄道によるオリジナルコラボレーションアニメ『[[でででん]]』を[[西武スマイルビジョン]]などで公開<ref>{{Cite web|和書|url=http://news.tms-e.co.jp/dededen/|title=トムスアニメ制作50周年×西武鉄道100周年アニバーサリー 西武鉄道車内スマイルビジョン等にて公開中|publisher=トムス・エンタテインメント|accessdate=2017-12-30}}</ref>。 ** アニメ映画『[[ドラゴンボールZ 復活の「F」]]』のスタンプラリーを実施<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2015/20150402doragonball_stamp_1.pdf 映画『ドラゴンボールZ 復活の「F」』公開記念 西武線スタンプラリーを開催します!]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2015年4月2日掲載。</ref>。 ** 3月21日より池袋・西武新宿・所沢の3駅で「[[弱虫ペダル GRANDE ROAD]] 記念乗車券」を販売。「弱虫ペダル原画展」(西武池袋本店にて開催)に合わせて販売された。また、[[伊豆箱根鉄道]]でも同様の記念乗車券を販売した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1426047493|title=「弱虫ペダル GR」が西武鉄道&伊豆箱根鉄道とコラボ!  記念乗車券の合同販売会が原画展にあわせて開催|publisher=アニメイトタイムズ|accessdate=2017-12-13}}</ref>。 ** 4月6日よりテレビアニメ『[[暗殺教室]]』殺せんせーのラッピング電車を運行。使用車両は新2000系2075編成。また、車内の中吊りが特製ポスターでジャックされている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ansatsu-anime.com/news/detail.php?id=1020984|title=4月6日より西武鉄道にて「殺せんせーラッピング電車」の運行を開始!|publisher=TVアニメ「暗殺教室」公式サイト|accessdate=2017-12-13}}</ref>。さらに、ラッピング電車第2弾を12月28日より池袋線で運行。使用車両は新2000系2069編成<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2015/20151224koro_1.pdf 「KORO-TRAIN運幸祈念『合格祈願』入場券」を発売します!]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2015年12月24日掲載。</ref>。 ** 5月1日よりマナーポスターに『妖怪ウォッチ』のキャラクターを起用<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2015/20150430youkaiwatch.pdf 5月1日(金)より「妖怪ウォッチ」によるマナーアップPRを開始します!]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2015年4月30日掲載。</ref>(現在は江戸時代の浮世絵タッチのマナーポスターに変わっている)。 ** テレビアニメ『四月は君の嘘』とスマートフォンアプリ「舞台めぐり」とのコラボ企画「『舞台めぐり×君嘘』聖地巡礼キャンペーン」 を開催<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2015/20150521kimiuso.pdf アニメ「四月は君の嘘」とスマートフォンアプリ「舞台めぐり」とのコラボ企画「『舞台めぐり×君嘘』聖地巡礼キャンペーン」 を開催します。]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2015年5月21日掲載。</ref>。 ** アニメ映画『[[ひつじのショーン|ひつじのショーン〜バック・トゥ・ザ・ホーム]]』のスタンプラリーを実施<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2015/20150528hitsuji.pdf 「『映画 ひつじのショーン〜バック・トゥ・ザ・ホーム』西武線スタンプラリー」を開催]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2015年5月28日掲載。</ref>。 ** 『妖怪ウォッチ』のスタンプラリーを2年連続で実施<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2015/20150709youkai.pdf 「妖怪ウォッチ」2015 夏休み 西武線スタンプラリーを開催!]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2015年7月9日掲載。</ref>。 ** アニメ映画『[[心が叫びたがってるんだ。]]』公開記念イベント「ここさけ応援スタンプラリー2015 秋 〜みんなで叫ぶんだ!〜」を実施<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2015/20150908kokosake_stamp.pdf 「ここさけ応援スタンプラリー2015秋 〜みんなで叫 ぶんだ!〜」を開催します]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2015年9月10日掲載。</ref>。また、9月6日から10月5日まで、同作のラッピング電車を運行<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kokosake.jp/news/?article_id=36036|title=西武鉄道にてラッピングトレインの運行がスタート!|publisher=アニメ映画『心が叫びたがってるんだ。』|accessdate=2018-01-25}}</ref>。 ** 『心が叫びたがってるんだ。』と『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』がコラボした乗車券を西武秩父駅・池袋駅・所沢駅・西武新宿駅で限定販売<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2015/20150818kokosake.pdf 「ここさけ×あの花」記念乗車券を限定発売します!]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2015年8月18日掲載。</ref>。 ** アニメ映画『[[GAMBA ガンバと仲間たち]]』のスタンプラリーを実施<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2015/20150924gamba.pdf 10月1日(木)〜11月1日(日) 「映画 『GAMBA ガンバと仲間たち』西武線スタンプラリー」を開催!]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2015年9月24日掲載。</ref>。 ** 劇場用アニメ『[[亜人 (漫画)#アニメ|亜人 -衝突-]]』のモバイルスタンプラリーを[[東京モノレール]]、[[多摩都市モノレール]]、[[東京都交通局]]と合同で開催<ref>{{Cite web|和書|url=https://anime.eiga.com/news/101611/|title=首都圏電鉄4社が「亜人」モバイルスタンプラリーを開催 東京モノレール、都営鉄道は独自キャンペーンも実施|publisher=アニメハック|accessdate=2017-12-30}}</ref>。 ** 12月20日から2016年1月22日までアニメ映画『[[傷物語|傷物語〈Ⅰ鉄血篇〉]]』の公開を記念して、西武新宿線にてラッピング電車を運行<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.monogatari-series.com/sp/news/?article_id=37031|title=【傷物語】西武鉄道ジャック決定|publisher=〈物語〉シリーズ|accessdate=2017-12-30}}</ref>。 * 2016年 ** テレビアニメ『ヤマノススメ』と新春キャンペーンを実施<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2015/20151218yamanosusume.pdf 2016 年のお正月もやります! 飯能を舞台にした“ゆるふわアニメ”「ヤマノススメ」とコラボ]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2015年12月18日掲載。</ref>。 ** 4月18日よりアニメ映画『[[告白実行委員会〜恋愛シリーズ〜|ずっと前から好きでした。〜告白実行委員会〜]]』のラッピング電車を運行。使用車両は20000系20151F<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.honeyworks-movie.jp/1st/sp/news/?article_id=38174|title=西武鉄道にてラッピング電車の運行がスタート!|publisher=映画『[[告白実行委員会〜恋愛シリーズ〜|ずっと前から好きでした。〜告白実行委員会〜]]』オフィシャルサイト|accessdate=2017-12-30}}</ref>。 ** テレビアニメ『[[かみさまみならい ヒミツのここたま]]』のスタンプラリーを実施<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2016/20160413himitsunokokotama.pdf 4月23日(土)〜5月22日(日)「『かみさまみならい ヒミツのここたま』西武線スタンプラリー」を開催!]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2016年4月13日掲載。</ref>。 ** 6月24日に[[エイベックス・ピクチャーズ]]より発売された『[[おそ松さん]]』DVD&Blu-ray6巻の特典映像「ショートフィルムシリーズ #06 西武新宿線の旅」に制作協力として参加。西武新宿駅から中井駅までが主な舞台となっており、作中での広告はすべておそ松さんの登場キャラクター仕様に差し替えられている。また、ラストには下落合駅最寄りに本社を置く、原作者である[[赤塚不二夫]]の事務所である[[フジオ・プロダクション|フジオ・プロ]]本社ビルも登場する。 ** 劇場用アニメ『亜人 -衝突-』の公開記念タイアップキャンペーンを実施<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.presepe.jp/anime_news/events_campaign/campaign/%E5%8A%87%E5%A0%B4%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%A1%E3%80%8C%E4%BA%9C%E4%BA%BA-%E8%A1%9D%E7%AA%81-%E3%80%8D%E8%A5%BF%E6%AD%A6%E9%89%84%E9%81%93%E3%81%A8%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%97%E3%82%AD|title=劇場アニメ「亜人-衝突-」西武鉄道とタイアップキャンペーン|publisher=presepe|accessdate=2017-12-13}}</ref>。 ** アニメ映画『[[アイカツスターズ!#劇場版|劇場版アイカツスターズ!]]』のスタンプラリーを実施<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2016/20160623aikatsu.pdf 「『劇場版アイカツスターズ!』西武線スタンプラリー」を開催!]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2016年6月23日掲載。</ref>。 ** 西武池袋本店で8月4日から8月17日まで開催した羽海野チカの原画展にあわせて、8月4日より、池袋・西武新宿・所沢の3駅で「[[羽海野チカ]]の世界展〜ハチミツとライオンと〜」の記念乗車券を販売<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2016/20160720uminochika.pdf 8月4日より「羽海野チカの世界展〜ハチミツとライオン〜」の記念乗車券発売します]}} - 西武鉄道 ニュースリリース、2016年7月20日掲載。</ref>。 ** 8月16日より、駅ナカ・コンビニ「TOMONY(トモニー)」限定で「ポカリスエット×弱虫ペダル キャンペーン」を実施<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.seibu-group.co.jp/railways/life/shop/event-sale-info/|title=駅ナカ・コンビニ「TOMONY(トモニー)」限定!ポカリスエット×弱虫ペダル キャンペーンやります。|publisher=西武鉄道ホームページ イチオシ情報|accessdate=2017-12-13}}</ref>。 ** アニメ映画『[[GANTZ#劇場アニメ|GANTZ:O]]』のスペシャルプレゼントキャンペーンを西武鉄道アプリ「西武鉄道からのプレゼント」にて実施<ref>{{Twitter status2|gantz_o_movie|775331627673137153|4=GANTZ:O|ガンツ:オー公式の2016年9月12日のツイート|5=2017-12-30}}</ref>。 ** 20000系20158Fをラッピング車両「2代目『銀河鉄道999』デザイン電車」に改装。10月8日から2019年3月末まで運行予定<ref>{{PDFlink|[http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2016/__icsFiles/afieldfile/2016/09/28/20160928_newgalaxyexpress999start.pdf 2016年10月8日(土)より 「銀河鉄道999デザイン電車」が新しいデザインで運行を再開 運行初日に「出発式」などイベントを開催]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2016年9月28日掲載。</ref>。 ** 11月14日から26日までサンシャインシティがプロデュースの埼玉西武ライオンズとゲーム『[[ポケットモンスター サン・ムーン]]』がコラボレーションしたラッピング電車を運行。使用車両は9000系9106F<ref>{{Cite web|和書|url=http://blogs.yahoo.co.jp/unadaigo/34375096.html|title=11月14日の西武池袋線(鉄道、列車)|publisher=西武スマイルラインの鉄道日記 - Yahoo!ブログ|accessdate=2017-12-13}}</ref>。 ** アニメ映画『[[orange (高野苺の漫画)|orange -未来-]]』のスタンプラリーを実施<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2016/20161116_orangestamprally.pdf 「映画『orange -未来-』公開記念 西武線スタンプラリー」を開催します!]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2016年11月16日掲載。</ref>。 ** テレビアニメ『[[3月のライオン]]』のラッピング電車を12月5日から2017年2月下旬まで運行。また西武鉄道アプリ「西武鉄道からのプレゼント」にてポスターが当たるプレゼント企画も実施<ref>{{Cite web|和書|url=https://3lion-anime.com/sp/news/?id=41002|title=西武鉄道にて TVアニメ「3月のライオン」ラッピング電車走行開始!|publisher=TVアニメ『3月のライオン』公式サイト|accessdate=2017-01-25}}</ref>。 * 2017年[[File:SEIBU 10000 Series Love Live.JPG|thumb|200px|ラブライブ!サンシャイン!!<br />ラッピング電車2017年仕様<br />(10000系10109編成)]] ** テレビアニメ『[[僕のヒーローアカデミア (アニメ)|僕のヒーローアカデミア]]』の新シリーズ特別先行試写会とのタイアップ企画を実施<ref>{{Cite web|和書|url=https://animeanime.jp/article/2017/02/27/32722.html|title=「僕のヒーローアカデミア」新キービジュアル&PVを公開 3話まで見られる先行試写会も|publisher=アニメ!アニメ! |accessdate=2017-02-27}}</ref>。 ** アニメ映画『かみさまみならい ヒミツのここたま 奇跡をおこせ♪テップルとドキドキここたま界』のスタンプラリーを実施<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2016/20170414himitsunokokotama.pdf 4月22日(土)〜5月28日(日) 「『映画かみさまみならい ヒミツのここたま』 西武線スタンプラリー」を開催!]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2017年4月14日掲載。</ref>。 ** アニメ映画『[[BLAME!#2017年劇場アニメ|BLAME!]]』プレゼントキャンペーンを西武鉄道アプリ「西武鉄道からのプレゼント」にて実施<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.blame.jp/sp/news/|title=西武鉄道タイアップ企画 プレゼントキャンペーン実施中!|publisher=『[[BLAME!#2017年劇場アニメ|BLAME!]]』公式サイト|accessdate=2017-12-30}}</ref>。 ** 6月12日より、テレビアニメ『弱虫ペダル NEW GENERATION』とポカリスエットとコラボを実施<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1497016941|title=TVアニメ『弱虫ペダル NEW GENERATION』×ポカリスエット×西武鉄道のトリプルコラボ決定! 総北と箱根学園、疾走感あふれるビジュアルが登場|publisher=アニメイトタイムズ|accessdate=2017-12-13}}</ref>。『弱虫ペダル』とポカリスエットとのコラボは昨年に続き2度目となる。また、『弱虫ペダル』とのコラボは今回で3度目となる。 ** 秩父を舞台に、アニメ『[[DIVE!!]]』の秩父漫遊きっぷキャンペーンを実施<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2017/20170712_DIVEDIVECHICHIBU.pdf 「アニメDIVE!!×DIVE! CHICHIBU コラボによる秩父漫遊きっぷキャンペーン」を実施します!]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2017年7月12日掲載。</ref>。 ** レベルファイブのゲームソフトとそれを原作にしたアニメ『[[スナックワールド]]』のスタンプラリーを実施。また、開催に合わせ、7月22日から9月3日までラッピング電車を運行<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2017/20170713snackworldstamprally.pdf 『スナックワールド』2017夏休み西武線スタンプラリーを開催!]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2017年7月13日掲載。</ref>。 ** 西武池袋本店にて開催された『[[七つの大罪 (漫画)|七つの大罪]]』原画展を記念して、8月4日から9月30日まで『七つの大罪』の原画展記念乗車券を販売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.seiburailway.jp/guide/event-campaign-info/event/2017nanatunotaizai.html|title=「七つの大罪原画展」〜原作漫画からアニメーションまで〜記念乗車券を発売します。|publisher=西武線沿線ガイド|accessdate=2017-12-13}}</ref>。 ** アニメ映画『[[交響詩篇エウレカセブン#劇場版|交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション]]』のプレゼントキャンペーンを、西武鉄道公式アプリ「西武鉄道からのプレゼント」にて実施<ref>{{Cite web|和書|url=https://eurekaseven.jp/news/?p=222|title=「西武鉄道からのプレゼント」キャンペーン実施中!|publisher=映画『交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』公式サイト|accessdate=2017-12-13}}</ref>。 ** [[川越市]]を舞台としたオリジナルテレビアニメ『[[月がきれい]]』のポスターを車内の中吊りに掲載<ref>{{Twitter status2|tsukigakirei_tv.|900621145015074816|4=「月がきれい」アニメ公式の2017年8月24日のツイート|5=2017-12-30}}</ref>。 ** 9月29日、30日の2日間に西武ドームで開催された「[[ラブライブ!サンシャイン!!]]『[[ラブライブ!サンシャイン!! Aqours 2nd LoveLive! HAPPY PARTY TRAIN TOUR|Aqours 2nd LoveLive! HAPPY PARTY TRAIN TOUR]]』」に合わせて、臨時特急ツアーを9月28日、29日、30日の3日間催行<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2017/20170825lovelive_seibupremiumtraintour.pdf ラブライブ!サンシャイン!!×西武鉄道 プレミアムトレインツアー]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2017年8月25日掲載。</ref>。これに合わせ、9月16日から10月15日まで、西武鉄道の9駅を対象としたスタンプラリーを開催した他、[[西武10000系電車|特急用車両]]1編成(10000系10109編成)を使用したラッピング車両を西武池袋線・西武秩父線にて運行し、前述の臨時特急には、この車両を充当した<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2017/20170912_loveliveStampRally.pdf 9月16日(土)〜10月15日(日) 「『ラブライブ!サンシャイン!!』西武線スタンプラリー」を開催!]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2017年9月12日掲載。</ref>。 ** 10月6日から11月10日まで期間限定で開催された「SEIBU HALLOWEEN 2017」にて、スマホアプリ『モンスターストライク』とコラボレーションした特別企画を実施<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2017/20170928_SEIBUHALLOWEEN2017.pdf 2017年10月6日から11月10日「SEIBU HALLOWEEN 2017 Trick or Strike」開催!]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2017年9月28日掲載。</ref>。 ** 11月11、12日に渡って開催された「ヤマノススメ キャンプフェスタ2017」に合わせて、11日にコラボレーション電車「特急ヤマノススメ・キャンプフェスタ号」を運行。同作とのコラボでは、2014年に「特急ヤマノススメ号」、15年に「特急ヤマノススメ二号」が運行されており、およそ2年ぶりのタイアップ特急となる<ref>{{Cite web|和書|url=http://anime.eiga.com/news/105305/|title=「ヤマノススメ」入場者プレゼント決定 「キャンプフェスタ2017」開催でコラボ特急も運行|publisher=アニメハック|accessdate=2017-12-13}}</ref>。 ** 11月18、19日の2日間に渡って西武鉄道が開催した「ちちぶ映画祭2017 〜ANIME FESTIVAL〜」にて、劇場アニメやTVアニメを7作品ほど上映させた他、アニメ監督である[[神山健治]]のトークショーを実施した<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2017/20171101eigasainaiyou.pdf 11月18・19日開催「ちちぶ映画祭2017 〜ANIME FESTIVAL〜」全プログラム内容 決定!]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2017年11月1日掲載。</ref>。 ** 11月16日、秩父エリアの魅力を国内外に発信するため、西武鉄道オリジナルアニメーション『[[ちちぶでぶちち]]』を制作することが発表された。[[2018年]]3月30日より、西武鉄道YouTube公式チャンネルにて配信されている。監督は菅原静貴、脚本は[[岸本卓]]、アニメーション制作はトムス・エンタテインメントがそれぞれ務める。主役・西武薫子は、秩父市出身の[[黒沢ともよ]]が担当。このほか、[[小野大輔]](奈佐彰文役)、[[小野友樹]]、[[興津和幸]]、[[置鮎龍太郎]]が出演する。アニメーション本編映像は約25分の全1話。また、前述の「ちちぶ映画祭2017 〜ANIME FESTIVAL〜」にて、本作の制作発表会を実施した。監督の菅原と脚本の岸本が登壇した他、本作のプロモーションムービーも上映された<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2017/20171116seibu_originalanimation.pdf 西武鉄道オリジナルアニメーション制作決定!]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2017年11月16日掲載。</ref><ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2017/20180123_originalanime2.pdf 西武鉄道オリジナルアニメーション タイトルは「ちちぶでぶちち」に決定!キャスト決定&公式 Web サイトオープン!]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2018年1月23日掲載。</ref>。 * 2018年[[File:SEIBU 10000 Series Love Live Red Arrow 2018.jpg|thumb|200px|ラブライブ!サンシャイン!!<br />ラッピング電車2018年仕様<br />(10000系10102編成)]] ** 2月10日から3月31日まで、アニメ『[[銀魂 (アニメ)|銀魂]]』とコラボした「銀魂×西武鉄道 銀魂目当てで西武線来いよおぉぉぉ!!キャンペーン」を開催<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2017/20180201gintamaxSEIBU.pdf 銀魂×西武鉄道 銀魂目当てで西武線来いよおぉぉぉ!!キャンペーンを開催します!]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2018年2月1日掲載。</ref>。 ** 「[[手塚治虫]]生誕90周年記念イベント」として3月31日に行われる、[[岩代太郎]]と[[浦沢直樹]]のコラボレーションコンサート『MANGA SYMPHONY 「○」』を特別協賛<ref>{{Cite web|和書|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000473.000009214.html|title=『MANGA SYMPHONY「○」』を東京芸術劇場で開催!岩代太郎×浦沢直樹がコラボ|publisher=PRTIMES|accessdate=2018-03-10}}</ref>。 ** 5月3日から6月18日まで、テレビアニメ『[[STEINS;GATE (アニメ)|シュタインズ・ゲート ゼロ]]』とコラボしたイベント「拡張現実のレイルウェイ」を開催<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2018/20180426stainsgate.pdf シュタインズ・ゲート ゼロ×西武鉄道×西武園ゆうえんち コラボイベント「拡張現実のレイルウェイ」を実施します]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2018年4月26日掲載。</ref>。 ** 6月9日、10日の2日間に西武ドームで開催された「ラブライブ!サンシャイン!!『Aqours 3rd LoveLive! Tour WONDERFUL STORIES』」に合わせて、臨時特急ツアーを6月8日、9日、10日の3日間催行。これに合わせ、5月18日から6月24日まで、西武鉄道の9駅を対象としたスタンプラリーを開催した他、特急用車両1編成(10000系10102編成)を使用したラッピング車両を運行し、前述の臨時特急には、この車両を充当した<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2018/20180507lovelive_stamp.pdf 「『ラブライブ!サンシャイン!!』西武線スタンプラリー」を開催!]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2018年5月7日掲載。</ref><ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2018/20180507lovelive_premiumtour.pdf 臨時特急ツアー「ラブライブ!サンシャイン!!×西武鉄道プレミアムトレインツアー2018」を6月8日(金)・9日(土)・10 日(日)の3日間開催します!]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2018年5月7日掲載。</ref>。同作とのコラボは、2年連続開催となる。 ** 6月16日から22日まで、テレビアニメ『弱虫ペダル GLORY LINE』とポカリスエットとコラボを実施<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/286066|title=弱虫ペダル×ポカリスエット×西武鉄道、爽やかなコラボビジュアルの特典もらえる|publisher=コミックナタリー|accessdate=2018-6-11}}</ref>。『弱虫ペダル』とポカリスエットとのコラボは昨年に続き3度目となる。また、『弱虫ペダル』とのコラボは今回で4度目となる。 ** テレビアニメ『ヤマノススメ サードシーズン』の放送を記念して、6月25日から7月15日まで、6000系6054編成を使用した「ヤマノススメトレイン」を運行<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/article/20180623-653026/|title=「ヤマノススメトレイン」、西武鉄道池袋線で6月25日より運行開始|publisher=マイナビ|accessdate=2018-6-24}}</ref>。 ** 7月7日、8日の2日間に西武ドームで開催された「[[アイドリッシュセブン]] 1st LIVE『Road To Infinity』」に合わせて、[[拡張現実|AR]]ラリーを実施。また、40000系10両(40101編成)を使用したラッピング車両を期間中に運行したほか、ライブ開催当日には臨時特急ツアー(前述のラッピング車両を充当)を実施した<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2018/20180607_IDOLiSH7seibu_digitalphoto.pdf 「アイドリッシュセブン 西武鉄道デジタルフォトスポットへ行こう!」開 催!]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2018年6月7日掲載。</ref><ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2018/20180607_IDOLiSH7premiumtrainpack.pdf 「アイドリッシュセブン プレミアムトレインパック」発売決定!]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2018年6月7日掲載。</ref>。 ** 11月10日、11日の2日間に西武ドームで開催された「[[アイドルマスター シンデレラガールズ|THE IDOLM@STER CINDERELLA GIRLS]] 6thLIVE MERRY-GO-ROUNDOME!!!」を記念して、10月26日から11月25日まで、西武鉄道の14駅を対象としたスタンプラリーを実施。また、ライブ開催当日に池袋駅から西武球場前駅まで、臨時特急ツアーを実施した<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2018/20181019_the_idolmaster.pdf 西武線スタンプラリー&スペシャルツアー開催決定!]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2018年10月19日掲載。</ref>。 * 2019年[[File:Seibu 40000 40002f shironekotrain.jpg|thumb|200px|白猫トレイン<br>(40000系40102編成)]] ** 2月15日から3月31日まで開催される「西武線沿線うどんラリー2019」にて、[[魔夜峰央]]原作の実写映画『[[翔んで埼玉]]』とのタイアップ企画を実施<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2018/20190212_seibu_udon_rally.pdf 人気グルメラリー 2019年2月15日(金)~3月31日(日)「西武線沿線うどんラリー2019」を開催 沿線の美味しいうどんをご賞味ください!!]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2019年2月12日掲載。</ref>。 ** アニメ映画『[[コードギアス 反逆のルルーシュ#劇場版|コードギアス 復活のルルーシュ]]』のプレゼントキャンペーンを、西武線アプリにて実施。 ** 3月25日から6月30日まで、[[ソニー・ミュージックコミュニケーションズ]]が開発・運営する、アニメやゲームなどの舞台となった場所を楽しく巡ることができるスマートフォンアプリ「舞台めぐり」において、西武鉄道の池袋駅、江古田駅、石神井公園駅周辺を舞台に、新たに音で楽しむ舞台めぐり『ミエナイキズナ』を公開。シナリオを[[丸戸史明]]、イラストを[[和遥キナ]]が担当するオリジナルストーリーで、ヒロインを[[植田佳奈]]、男性ボイス及びナレーションを[[下鶴直幸]]が担当する<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2018/20190322butaimeguri_mienaikizuna.pdf オリジナルシナリオ・キャラクターでお送りする西武鉄道で行く、新しい体験!音で楽しむ物語「ミエナイキズナ」が登場]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2019年3月22日掲載。</ref>。 ** 西武園ゆうえんちと埼玉西武ライオンズにおいて、魔夜峰央原作の実写映画『翔んで埼玉』とのコラボ企画「翔んで埼玉 所沢ディスティネーションキャンペーン」を実施<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2018/20190329tondesaitama_seibu.pdf 「翔んで埼玉 所沢ディスティネーションキャンペーン」を実施します!!]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2019年3月29日掲載。</ref>。 ** 7月6日、7日の2日間に西武ドームで開催された「[[アイドリッシュセブン]] 2nd LIVE『REUNION』」に合わせて、ARラリーを実施<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2019/20190607IDOLISH7digitalphotospot2nd.pdf 「アイドリッシュセブン 西武鉄道デジタルフォトスポットへ行こう!2nd」開 催!]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2019年6月7日掲載。</ref>。 ** 8月1日から9月8日まで「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。西武線デジタルラリー」を実施<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/201920190722anohana_digitalstamp/.pdf 「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。西武線デジタルラリー」を実施します。]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2019年7月22日掲載。</ref>。 ** 8月15日から「西武鉄道×『[[MIX (漫画)|MIX MEISEI STORY]]』×埼玉西武ライオンズ コラボ記念乗車券」を発売<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2019/20190729MIXkorabokikakuken.pdf 「西武鉄道×『MIX MEISEI STORY』×埼玉西武ライオンズ コラボ記念乗車券」を発売します。]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2019年7月29日掲載。</ref>。 ** 9月1日より、アニメ映画『[[空の青さを知る人よ]]』とのコラボラッピング電車を運行。同日には、[[埼玉西武ライオンズ]]と同作のコラボイベントも開催される<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2019/20190827aozorarappingunkou.pdf 映画『空の青さを知る人よ』コラボラッピング電車運行開始!]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2019年8月27日掲載。</ref>。 ** 9月28日に、T・ジョイSEIBU大泉において、「[[高畑勲]]監督作品上映会 in 大泉学園」を開催<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2019/20190822takahataisao_screening.pdf 「高畑勲監督作品上映会 in 大泉学園」]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2019年8月23日掲載。</ref>。 ** 『[[ラブライブ! スクールアイドルフェスティバル|ラブライブ!スクールアイドルフェスティバル ~after school ACTIVITY~ Next Stage]]』とコラボレーションした「スクフェスACコラボ西武線スタンプラリー」を、10月25日から11月24日まで実施<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2019/20191018_lovelivestamprally.pdf 「スクフェス AC コラボ西武線スタンプラリー」を開催!!]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2019年10月18日掲載。</ref>。 ** 西武秩父線開通50周年企画の一環として、スマホアプリ『白猫プロジェクト』とコラボレーションした特別企画、「西武鉄道で行く!白猫温泉物語 〜冒険の続きは秩父で〜」を11月8日から2020年1月13日まで開催<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2019/20191030sironekoonsenseibukorabo.pdf 「西武鉄道で行く!白猫温泉物語 〜冒険の続きは秩父で~」を実施!]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2019年10月30日掲載。</ref>。 * 2020年 ** アニメ映画『[[ドラえもん のび太の新恐竜]]』のスタンプラリーを実施<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2019/20191223doraemon_stamp.pdf 「映画ドラえもん のび太の新恐竜」公開記念西武線スタンプラリー開催!]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2019年12月23日掲載。</ref>。ファーストステージは1月から3月まで実施され、セカンドステージは当初3月から5月まで実施予定だったが新型コロナウイルス感染症流行拡大の影響で7月から9月までの実施に延期された<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2020/20200721_doraemon_stamp2.pdf 「映画ドラえもん のび太の新恐竜」公開記念 西武線アプリスタンプラリーを開催!]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2020年7月21日掲載。</ref>。また、開催と同時に40000系40151編成にラッピング電車を運行<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2019/20200108_doraemon_train.pdf 「映画ドラえもん のび太の新恐竜」ラッピング電車運行開始!]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2020年1月8日掲載。</ref>。 ** 『[[ヒプノシスマイク|ヒプノシスマイク -Division Rap Battle-]]』3周年を記念したデジタルスタンプラリーを実施<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2020/20200730_hypnosismic_stamp.pdf ヒプノシスマイク-Division Rap Battle-3周年記念 デジタルdeスタンプラリーを開催!!]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2020年7月30日掲載。</ref>。 ** 10月8日から30000系38101編成を使用した、『[[ドラえもん]]』連載50周年に合わせたラッピング電車「DORAEMON-GO!」を西武新宿線系統で運行<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2020/20200929_doraemon-go.pdf 未来に向かって出発進行!~ドラえもん50周年記念~「DORAEMON-GO!」運行開始!!]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2020年9月29日掲載。</ref>。 ** 11月3日から所沢駅の発車メロディをアニメ映画『[[となりのトトロ]]』の主題歌へ期間限定で変更<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2020/20200917_tokorozawa_melody.pdf 所沢市制施行70周年を記念して2020年11月3日(火・祝)初電車から所沢駅の発車メロディを「となりのトトロ」および「さんぽ」に変更します!]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2020年9月17日掲載。</ref>。 ** アニメ映画『[[STAND BY ME ドラえもん 2]]』のスタンプラリーを実施<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2020/20201029_sbm2.pdf 「映画『STAND BY ME ドラえもん 2』公開記念 西武線アプリスタンプラリー」開催!]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2020年10月29日掲載。</ref>。 ** ライトノベル『[[涼宮ハルヒシリーズ]]』9年半ぶりの新刊発売を記念した、「ところざわサクラタウン×西武鉄道『涼宮ハルヒの直観』タッチラリー」を11月25日から2021年2月14日まで開催<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2020/20201118_touchrally.pdf 「ところざわサクラタウン×西武鉄道『涼宮ハルヒの直観』タッチラリー」を開催します!]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2020年11月18日掲載。</ref>。 ** 12月18日から2021年1月31日まで、アニメ映画『[[銀魂 THE FINAL]]』とコラボした「アニメ「銀魂」が今回こそは本当に終わりらしいんで、西武鉄道で卒業祝いするぞォォォ!!キャンペーン」を開催<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2020/20201210_gintama.pdf “アニメ「銀魂」が今回こそは本当に終わりらしいんで、西武鉄道で卒業祝いするぞォォォ!!キャンペーン“を実施!]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2020年12月10日掲載。</ref>。 このほか、『ケロロ軍曹』や[[プリキュアシリーズ]](2009年の『[[フレッシュプリキュア!]]』から2012年の『[[スマイルプリキュア!]]』まで)の劇場映画公開前に、広告ヘッドマーク付きの電車を池袋線系統を中心に運転していた。 また、[[2020年]]11月に、本社所在地近くの[[所沢市]][[東所沢和田]]に、[[クールジャパン]]の総本山として、出版大手[[KADOKAWA]]の文化複合施設「[[ところざわサクラタウン]]」が開業。この計画には、西武HD取締役会長の後藤高志も参加している。 === 西武グループ全体 === 西武鉄道以外の西武グループ系列企業でも、以下のアニメ・漫画作品とタイアップ(コラボレーション)を行っている。特に、[[サンシャインシティプリンスホテル]]は、近くに[[乙女ロード]]があるため、女性向け作品とのコラボに積極的である。 ; 近江鉄道 :* [[けいおん!]] :* [[中二病でも恋がしたい! (アニメ)|中二病でも恋がしたい!]] :* [[ベイマックス]] ; 伊豆箱根鉄道 :* 弱虫ペダル GRANDE ROAD - 西武鉄道と共同。 :* ラブライブ!サンシャイン!! - [[伊豆・三津シーパラダイス]]・[[伊豆箱根バス]]・伊豆箱根タクシーも参加。前述の通り、2017年には西武鉄道も参入。 ; 埼玉西武ライオンズ :* [[ドラえもん]] :* [[クレヨンしんちゃん (アニメ)|クレヨンしんちゃん]] :* 名探偵コナン :* あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。 :* 心が叫びたがってるんだ。 :* [[ドラゴンボール超]] :* [[らき☆すた]] :* ヤマノススメ :* 妖怪ウォッチ :* [[ダイヤのA]] :* [[アイドルマスターシリーズ]] :* 月がきれい :* [[ALL OUT!!]] :* [[メジャーセカンド]] :* [[アニマエール!]] :* [[機動戦士ガンダム]] :* [[MIX (漫画)|MIX]] :* 空の青さを知る人よ ; プリンスホテル :* [[薄桜鬼 〜新選組奇譚〜|薄桜鬼 〜御伽草子〜]] - サンシャインシティプリンスホテルがコラボ宿泊プランを販売。 :* [[刀剣乱舞]] :* 刀剣乱舞-花丸- - サンシャインシティプリンスホテルがコラボ宿泊プランを販売。 :* 活撃 刀剣乱舞 - [[東京プリンスホテル]]がコラボ宿泊プランを販売。 :* [[ユーリ!!! on ICE]] - サンシャインシティプリンスホテルが、同作とサンリオキャラクターとのコラボ宿泊プランを販売。 :* [[Code:Realize 〜創世の姫君〜]] - サンシャインシティプリンスホテルがコラボ宿泊プランを販売。 :* [[Fate/Grand Order]] - サンシャインシティプリンスホテルが、同ホテル25階にあるアニメやマンガを中心に国内外のサブカルチャーファンに向けたコンセプトフロア、IKEPRI25の第1弾としてコラボ宿泊プランを販売。 ; 横浜・八景島シーパラダイス :* [[けものフレンズ]] :* [[がっこうぐらし!]] == 提携企業や合同企画など == * 西武線沿線サミット協定 - 東京都[[豊島区]]および埼玉県[[秩父市]]・[[飯能市]]・[[所沢市]]・[[横瀬町]]と締結(2018年4月時点)<ref>[https://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201804/CK2018042602000145.html 新「西武線沿線サミット協定」豊島区、埼玉の2市町加え締結/観光推進、文化交流で連携へ]『東京新聞』朝刊2018年4月26日(都心面)2018年4月29日閲覧。</ref>。 * [[東京地下鉄]] - 西武有楽町線を経由し池袋線と[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]・[[東京メトロ副都心線|副都心線]]が相互乗り入れをしている。 * [[東急電鉄]]・[[横浜高速鉄道]] - [[2013年]][[3月16日]]から、東京地下鉄副都心線を経由し[[東急東横線|東横線]]・[[横浜高速鉄道みなとみらい線|みなとみらい線]]と相互乗り入れを開始した。 * [[小田急電鉄]] - かつて箱根地区の開発で激しく競い合い、[[箱根山戦争]]とまで言われたが、2017年現在、双方のグループ会社を通じて<ref>西武側は[[プリンスホテル]]や[[伊豆箱根鉄道]]など、小田急側は[[箱根登山鉄道]]や[[小田急箱根ホールディングス]]などが主体となっている。</ref>、箱根振興の協力関係にある。 * [[秩父鉄道]] - 池袋線・西武秩父線から[[秩父鉄道秩父本線|秩父本線]][[長瀞駅|長瀞]]及び[[三峰口駅|三峰口]]まで片乗り入れ。 * [[南海電気鉄道]] - 共同で沿線プロモーションを展開<ref>{{PDFlink|[http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2013/__icsFiles/afieldfile/2014/03/28/20140328nankaiseibu.pdf 西武鉄道&南海電鉄が沿線情報誌で初コラボ!]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2014年3月28日</ref>。 * [[ファミリーマート]] - 西武鉄道との間で[[フランチャイズ]]契約を結び、共同で駅売店[[TOMONY]]を出店。 * [[埼玉ブロンコス]] - 2010–11シーズンより西武鉄道との間でオフィシャルスポンサー契約とともにPASMO加盟店契約も結び、ホームゲーム当日券をPASMOで購入可能としている。 * [[そごう・西武]] - 前身企業の一つである旧[[西武百貨店]]が1971年までは西武グループだったこともあり、旧西武百貨店から西武鉄道グループの[[埼玉西武ライオンズ]]のスポンサーを継続している。2022年現在でも、[[西武の店舗一覧#池袋本店|西武池袋本店]]の敷地の6割は[[西武ホールディングス]]からの借地である<ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/508592?page=3 セブン、「そごう・西武売却」に立ちはだかる障害]([[東洋経済新報]] 2022年2月2日 2022年5月21日閲覧)</ref>ほか、西武池袋本店で販売されている食品を[[ちちぶ (列車)|特急ちちぶ]]で[[西武秩父駅|西武秩父駅前温泉 祭の湯]]へ輸送して販売・秩父で採れた農産物を特急ちちぶで池袋へ輸送して西武池袋本店で販売する<ref>[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/20210819_expyuso.pdf <午前>池袋から、西武池袋本店の人気グルメを秩父へ <午後>秩父から、朝採れぶどう“ちちぶ山ルビー”を池袋へ 特急ラビューで輸送し販売します!](西武鉄道 2021年8月19日 2021年8月21日閲覧)</ref> などの協業を行っている。 * [[横浜アリーナ]]の開業当初より株式16.806%を保有していた。2017年3月、[[キリンホールディングス]]が保有する横浜アリーナ発行株式のうち46.2%分を取得して筆頭株主になると共に、西武鉄道の子会社となることが発表された。 * [[京浜急行電鉄]] ** 西武鉄道が京浜急行電鉄の株式1.85%<ref>京浜急行電鉄株式会社 第92期有価証券報告書</ref> を、京浜急行電鉄が親会社である[[西武ホールディングス]]の株式2.19%<ref>株式会社西武ホールディングス 第8期有価証券報告書</ref> をそれぞれ持ち合っている。 ** 2014年5月に京急電鉄が[[京急1000形電車 (2代)|1000形電車]]を黄色く塗装したところ<ref>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20150916120128/http://www.keikyu.co.jp/file.jsp?assets/pdf/company/news/2014/20140425HP_14020AM.pdf 「KEIKYU YELLOW HAPPY TRAIN」 5月1日(木)運行開始!]}} - 京浜急行電鉄、2014年4月25日</ref>、その姿が西武鉄道の車両に似ているとの声から、京急が西武にコラボレーションを提案、西武が[[西武9000系電車|9000系]]9103編成を赤い車体に白い帯とした「幸運の赤い電車 (RED LUCKY TRAIN)」とし<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2014/__icsFiles/afieldfile/2014/07/09/20140709keikyuseibu.pdf |format=PDF |title= 「幸運の赤い電車」(RED LUCKY TRAIN)の運行を開始します |publisher=西武鉄道 |date=2014-07-09 |accessdate=2017-03-14 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140714163051/http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2014/__icsFiles/afieldfile/2014/07/09/20140709keikyuseibu.pdf |archivedate=2014-07-14 }}</ref>、両社で共同キャンペーンを実施している<ref>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20160102141607/http://www.keikyu.co.jp/file.jsp?assets/pdf/company/news/2014/20140715HP_14077AM.pdf 京急×西武 沿線HAPPY&LUCKYスポット大募集!]}} - 京浜急行電鉄、2014年7月16日掲載。</ref>。 * [[東武鉄道]] - 2016年2月より西武新宿線本川越駅の西口が開設され、[[東武東上線]][[川越市駅]]との乗り換え利便性が高まり、西武球場前駅へのアクセスが向上した。このことから、同年9月の埼玉西武ライオンズの公式試合にて「東武東上線沿線 フレンドリーシティー感謝デー」を開催した<ref>[https://www.sanspo.com/article/20160714-KH7KGQRKWRPWHNUER7RS75BWCU/ 西武が東武とコラボ、限定Tシャツも販売] - サンケイスポーツ 2016年7月14日閲覧。</ref>。また、ライオンズと東武鉄道がコラボした限定Tシャツ付きチケットを販売し、限定Tシャツのみの販売も実施した。このコラボが西武グループと東武グループの初のコラボとなった。 * [[京王電鉄]] - 2017年1月から3月まで、京王電鉄との初の合同企画「長瀞・高尾スタンプラリー」を実施<ref>{{PDFlink|[https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2016/nr170116_nagatorotakao.pdf 西武鉄道×京王電鉄「長瀞・高尾スタンプラリー」を実施します]}} - 京王電鉄、2017年1月16日掲載。</ref>。 == イベント == 例年、沿線の[[南入曽車両基地]]で8月ごろ、[[武蔵丘車両検修場]]で6月ごろ、[[横瀬車両基地]]で10月ごろに車両基地一般公開等のイベントが行われる。 2021年は[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行_(2019年-)|新型コロナウイルス感染症の流行]]により、車両基地の公開を取りやめた。その一方で武蔵丘車両研修場では、近隣の[[日高市]]や[[飯能市]]などに在住する市民に無料の招待券を配布し、参加する人数を少なくして一般公開を行った。 == 主要グループ企業 == {{Excerpt|西武グループ|主要グループ企業|references=no}} == 関連施設・事業 == * [[西武観光]](東京都知事登録旅行業第2-1785号) - 西武の主な駅にある直営の観光案内所兼旅行センター。[[京王観光]]や[[東武トラベル]]などの他私鉄[[子会社]]の[[旅行会社]]と異なり、広告上の便宜的な名称であり、あくまでも西武鉄道の旅行業部門である。時刻表では「JR乗車券類委託販売基準規程」に「西武鉄道」と記載されているが、西武鉄道各駅では購入できず、西武観光での発売になっている。また、ライオンズの試合チケットも取り扱っていた(通常のチケット販売だけではなく、株主優待券やファンクラブ特典の引換券の引換も可能)。2011年11月30日をもって営業を終了し、西武グループの[[西武トラベル]](観光庁長官登録旅行業第139号)に一部業務を引き継いだ。 * [[狭山そば]] * [[西武園ゆうえんち]](直営) * [[西武園競輪場]](直営) * [[埼玉西武ライオンズ]](2009年シーズンから子会社) * [[西武ドーム]](施設所有) * [[ユネスコ村]](営業終了) * [[ユネスコ村大恐竜探検館]](営業終了) * [[ところざわのゆり園]](直営、毎年5月 - 7月) * [[西武鉄道アイスホッケー部]](後にコクドアイスホッケーチームと合併。後の[[SEIBUプリンス ラビッツ]]) * [[PePe]] * [[BIG BOX]](直営) * [[Emio]] * [[西武狭山ステーションビル]](営業終了、後にEmio狭山市として開店) * [[西武武蔵関ステーションビル]](営業終了、後にEmio武蔵関として開店) * [[西武田無ステーションビル]](営業終了、後にEmio田無として開店) * [[Nicot]] * [[マミーズハンド]] * [[西武秩父仲見世通り]](直営) * [[としまえん]](閉園) * [[中国料理獅子]] * [[三康図書館]] - 西武鉄道が旧大橋図書館から引き継いだ蔵書をもとに、[[増上寺]]と共同で設立。 == 西武鉄道と関わりのある芸能人 == * [[渡辺美里]] - 1990年から2005年まで西武球場([[西武ドーム]])コンサートライブ観客輸送列車「[[渡辺美里#MISATO TRAIN|MISATO TRAIN]]」を運転(ただし、2001年 - 2003年 は「[[臨時列車|臨時]]」)。2004年のMISATO TRAINでは渡辺本人が運転開始15年目にして初めて乗車し特別車掌を担当し話題になった(翌年は渡辺の乗車はなく、元の臨時に戻っている)。この列車は、渡辺の担当するラジオ番組「[[スーパーギャング]]」で乗車客を募集し、抽選で選ばれた者だけが乗れるスタイルだったが、後年から渡辺の公式ウェブサイトで募集するスタイルをとっていた。 * [[所ジョージ]] - [[所沢市]]出身の[[司会者]]、[[タレント]]。22歳当時、[[所沢駅]]の近くに住んでいた西武沿線をテーマにした[[コミックソング]]「西武沿線」を作った。西武線のいい加減な描写や、[[野口五郎]]「[[私鉄沿線]]」のパロディ、駅名を使った[[駄洒落]]などが歌詞に登場する。 * [[設楽統]] - お笑いコンビ・[[バナナマン]]のメンバー。1992年に約半年だけ小手指駅で[[駅員]]として[[労働|勤務]]していた。 * [[野月貴弘]] - [[SUPER BELL"Z]]の車掌DJで、西武ファンフェスタ等でライブを行ったほか、西武鉄道の列車をキャラクター化し、戦隊風にアレンジした鉄道戦隊☆レオレンジャーを手がけた。 * [[立川真司]] - 2003年以降の[[西武鉄道武蔵丘車両検修場|西武電車フェスタ・研修場まつり]]でお笑いショーステージや臨時直通列車の車掌を務めている。 * [[土屋礼央]] - ボーカルユニット・[[RAG FAIR]]のメンバー。[[国分寺市]]出身であり、子供の頃はよく西武線を利用していたと「[[土屋礼央のオールナイトニッポン]]」や「[[タモリ倶楽部]]」で語っている。西武ライオンズのファンでもある。 * [[林家たい平]] - [[秩父市]]出身の[[落語家]]で、2015年から「週末ちち部顧問」役で吉高由里子とともにCMやポスターに出演している。 * [[きゃりーぱみゅぱみゅ]] - アイドル。[[田無市]](現:[[西東京市]])出身で西武線も利用していた。その縁で2016年6月4日から9月29日まで9000系9101編成にきゃりーのラッピングを施した「SEIBU KPP TRAIN」を運行している<ref>[https://news.mynavi.jp/article/20160604-a138/ 西武鉄道、きゃりーぱみゅぱみゅとコラボ「SEIBU KPP TRAIN」出発しんこー! ] - マイナビニュース、2016年6月4日</ref>。 * [[平田広明]]・[[増田俊樹]] - [[声優]]。両者とも西武線沿線に住んでいたことがあり、西武線もよく利用していたという。2017年11月から2018年3月まで[[文化放送]]にて放送されていたラジオ番組([[アニラジ]])『西武鉄道presents 平田広明・増田俊樹のこえさんぽ。』に出演していた。 * [[リン・ユーチュン]] - [[台湾]]の歌手。[[テレビ埼玉]]『リン君と行く西武鉄道の旅』に出演。 * [[春日俊彰]] - お笑いコンビ・[[オードリー (お笑いコンビ)|オードリー]]のメンバー。所沢市出身であり、西武ライオンズの熱狂的ファンでもある。[[2018年]]1月12日より[[TBSテレビ|TBS]]([[関東地方|関東]][[ローカル放送|ローカル]])にて放送中の西武鉄道沿線を紹介するミニ番組『スマイルすきっぷ』のナレーションを担当した。 * [[黒沢ともよ]] - 声優、[[俳優]]。秩父市出身。西武鉄道オリジナルアニメーション『[[ちちぶでぶちち]]』の主演・薫子を演じる。 * [[志村けん]] - [[ザ・ドリフターズ]]のメンバー、[[コメディアン]]・タレント。[[東村山市]]出身。[[東村山駅]]前に植樹した。 * [[堀北真希]] - 元俳優、元タレント。[[清瀬市]]出身。[[2017年]]2月に芸能界を引退した翌月には[[清瀬駅]]前に期間限定の『ほりきたコレクション』が[[2015年]]の公式サイト以来、復活展示された。 * [[吉川ひなの]] - 元俳優、元タレント。[[東久留米市]]出身。2020年12月に芸能界を引退した翌月には[[東久留米駅]]前に期間限定の『吉川ひなのコレクション』が展示された。 == 西武鉄道イメージキャラクター == === 現在 === * [[堀田真由]] - 俳優。2022年度から4代目西武鉄道イメージキャラクターを務め、「ちょっとラビューで秩父まで」のCMやポスター、車内広告などに出演している。 === 歴代 === * [[吉高由里子]] - 俳優、タレント。2013年度から2015年度まで初代西武鉄道イメージキャラクターを務め、「秩父さんぽ旅」の[[コマーシャルメッセージ|CM]]や[[ポスター]]、[[車内広告]]などに出演していた。 * [[又吉直樹]] - お笑いコンビ・[[ピース (お笑いコンビ)|ピース]]のメンバー。2016年に2代目西武鉄道イメージキャラクターを務め、「2016年春夏・取材旅行編」のCMやポスター、車内広告などに出演していた<ref name="kyodo">[https://www.kyodo.co.jp/entame/showbiz/2016-04-22_1542791/ 株式会社共同通信社、2016年4月22日付記事] 2016年8月30日閲覧。</ref>。 * [[満島みなみ]] - ファッションモデル。又吉同様、2016年に2代目西武鉄道イメージキャラクターを務め、「2016年春夏・取材旅行編」のCMやポスター、車内広告などに出演していた<ref name="kyodo" />。 * [[土屋太鳳]] - 俳優、タレント。2017年度から2020年度まで3代目西武鉄道イメージキャラクターを務め、「ちちんぶいぶい秩父」のCMやポスター、車内広告などに出演していた。[[佐藤健 (俳優)|佐藤健]]とともに主演を務めた2017年12月16日公開の映画『[[8年越しの花嫁|8年越しの花嫁 奇跡の実話]]』とのコラボCMも制作された。 == 提供番組 == === 現在 === * [[ZIP!]] - [[日本テレビ放送網|日本テレビ]](毎週[[木曜日]]、7 - 8時台、30秒)<ref>{{PDFlink|[http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2015/__icsFiles/afieldfile/2015/04/13/20150413cm5.pdf 4月16日(木)より当社テレビCM第5弾「2015年 春・夏編」の放映を開始します!]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2015年4月13日</ref>。 * [[めざましテレビ]] - [[フジテレビジョン|フジテレビ]] * [[スマイルすきっぷ〜明日の元気をフルチャージ!〜|スマイルすきっぷ]] - [[TBSテレビ]] * [[文化放送ライオンズナイター]] - [[文化放送]] * [[NACK5 SATURDAY&SUNDAY LIONS]] - [[エフエムナックファイブ|NACK5]] * [[GOGOMONZ]]内のコーナー・SEIBU NAVI - NACK5(毎週[[水曜日]]、15時台、20秒) == その他 == * 地元埼玉県の放送局である[[テレビ埼玉]](テレ玉)と、[[エフエムナックファイブ]] (NACK5) の[[株主#分類・種類|主要株主]]でもある。当然、ライオンズ戦中継も放送されている。 * [[小田急電鉄]]、[[京浜急行電鉄]]、[[近畿日本鉄道]]と同様「[[ストライキ]]のない私鉄」として知られている。従業員による[[労働組合]]は存在するが、[[日本私鉄労働組合総連合会|私鉄総連]]に加盟していない。西武鉄道が日本民営鉄道協会と距離を置いていたのは、民鉄協が対私鉄総連との[[春闘]]をはじめとする労使交渉の中心となる位置づけであったためだが、近年の中央集団交渉等の衰退によりそのカラーが薄れ、鉄道業界発展のための団体へとその位置づけが変化してきたことにより西武鉄道側が方針転換したものである。 * 関東大手私鉄の中で、2013年3月まで唯一民放キー局でのテレビCMを流していなかったが、テレ玉で西武鉄道とテレ玉のコラボCMとしてCMを流すことがある。CMは、JR東日本の[[トレインチャンネル]]や自社の[[西武スマイルビジョン]]で放送したことがある。 * [[京王電鉄]]・[[阪急電鉄]]・[[京阪電気鉄道]]と並び、電車の正面側に特製のヘッドマーク取付を行うことが多い。過去のヘッドマークデザインを公開したイベントも実施したことがある。 * 関東大手私鉄の中では[[新幹線]]との接続駅がない鉄道会社の一つである。同様に新幹線との接続駅がない関東大手私鉄には京王電鉄があるが、京王は[[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]]で[[中央新幹線|リニア中央新幹線]](2027年開業予定)との接続が予定されているため、以後は関東大手私鉄では唯一、新幹線との接続駅を持たない会社となる。 * 1945年(昭和20年)の武蔵野鉄道・西武鉄道(旧)との吸収合併、1946年(昭和21年)の西武鉄道への社名変更が行われた後も、武蔵野鉄道のメイン路線である現・[[西武池袋線|池袋線]]のことを「武蔵野線」と呼び続けたり、鉄道路線図などに通称的に記載される場合があった<ref>[[東京都交通局]]発行『わが街 わが都電』、[[1991年]][[8月1日]]発行より</ref>。しかし、1952年(昭和27年)に正式に「池袋線」と名称を変更されたのを機に、以降には路線図や地図で「武蔵野線」と書かれることはほぼなくなった。現在運行されているJR東日本[[武蔵野線]](定期旅客営業列車が運行されていない[[鶴見駅|鶴見]] - [[府中本町駅|府中本町]]間も含め)との関連は全くない。 * 西武での信号場の呼称は、かつては信号所と称していた例もあった(廃止された[[中峯信号所]]などに実例がある)。 * アニメ制作会社の[[トムス・エンタテインメント]]とは、コラボアニメ『[[でででん]]』や『[[ちちぶでぶちち]]』などを共同で製作している。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * 本社・グループ関連 ** [[コクド]] ** [[西武プロパティーズ]] ** [[西武運輸]] ** [[秩父夜祭|秩父夜祭り]] ** [[セゾングループ]] ** [[西友]] ** [[LIVIN]] ** [[西武百貨店]]([[そごう・西武]]) ** [[クレディセゾン]] * 鉄道本体関連 ** [[西武車両]] ** [[快速急行]] ** [[レオカード]]・[[レオカード|SFレオカード]] == 外部リンク == {{Commons|Category:Seibu_Railway}} {{Multimedia|西武鉄道の画像}} * {{Official website}} * {{Twitter|seibu_info|西武鉄道【公式】}} * {{Twitter|seiburailway|西武鉄道運行情報(公式)}} * {{YouTube|channel = UCI51nhuV2Dbxuud6lVBrVLg|title=西武鉄道公式チャンネル/SEIBU RAILWAY Official Channel}} {{西武グループ}} {{大手私鉄}} {{PASMO}} {{パスネット}} {{Normdaten}} <!--{{スルッとKANSAI}}--> {{デフォルトソート:せいふてつとう}} [[Category:大手私鉄・準大手私鉄]] [[Category:日本の鉄道事業者]] [[Category:西武鉄道|*]] [[Category:西武鉄道グループ|*]] [[Category:所沢市の企業]] [[Category:豊島区の企業]] [[Category:1912年設立の企業]]
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海部俊樹
海部 俊樹(かいふ としき、1931年〈昭和6年〉1月2日 - 2022年〈令和4年〉1月9日)は、日本の政治家。第76・77代内閣総理大臣を歴任した。位階は正二位、勲等は大勲位菊花大綬章(没後叙勲)である。 衆議院議員(16期)、労働政務次官(第1次佐藤第2次改造内閣 - 第2次佐藤内閣)、内閣官房副長官(三木内閣)、自由民主党国会対策委員長(第21代)、文部大臣(第98・107代)、自由民主党総裁(第14代)、大蔵大臣(第95代)、新進党党首(初代)などを歴任した。 国際天文学連合(IAU)会長の海部宣男、2008年にノーベル物理学賞を受賞した小林誠の従兄である。 名古屋市東区七曲町(現・東区東桜一丁目)に生まれる。6人兄弟の長男だった。家業は祖父が明治時代に創業した「中村写真館」。店は中区栄の松坂屋名古屋店の北側にあった。1943年3月、名古屋市立南久屋国民学校(現・名古屋市立栄小学校)卒業。旧制愛知一中(現・愛知県立旭丘高等学校)を受験するが不合格。同じ学校から受けた11人のうち9人が受かり、落ちたのは海部を含め2人だった。同年4月、旧制東海中学(現:東海中学校・高等学校)に入学。学徒動員により、名古屋市東区大幸町にあった三菱重工業の工場で働かされる。航空機のエンジン部品造りに明け暮れた。 1945年、少年飛行兵学校に合格。10月に入校することが決まるが、その前に敗戦を迎える。旧制中央大学専門部法科卒業後は河野金昇の秘書になる。新制早稲田大学第二法学部法律学科に編入学。中大在学時は中央大学辞達学会に、早大在学時は早稲田大学雄弁会に所属した。1956年には早稲田大学大学院法学研究科修士課程を中退して、学生時代から務めた河野金昇の秘書に専念する。 1957年11月17日、旧岐阜1区の柳原三郎衆議院議員の手伝いをしていた岐阜県美濃市出身の女性と結婚。 1958年3月29日、河野が急死。後継候補の一人に押し上げられるが、三木武夫の判断で妻の河野孝子が地盤を引き継ぐこととなった。同年4月20日、孝子の秘書となり、5月22日に行われた第28回衆議院議員総選挙で孝子は初当選した。 1960年9月16日、河野孝子の代わりに、秘書の海部が次期衆院選・旧愛知県第3区に立候補することが決定。同年11月20日に行われた第29回衆議院議員総選挙で全国最年少で初当選した。 1960年12月、自民党青年局学生部長に就任。1964年、青年海外協力隊の構想をまとめ、アフリカを横断調査。同団体の創設に力を注いだ。1965年には自民党青年局長となった。 1971年ごろまで一宮市新生で借家住まいをし、その後、同市平和一丁目に自宅兼事務所を構えた。 三木派が河本派に移行してからは、1994年に離党するまでの間、名実共にナンバー2として河本敏夫を支えたが、河本とは対照的に資金的な貢献が少なかったため、「財布閉じ器」と渾名された。ニューリーダーの次を狙う政治家として橋本龍太郎、藤波孝生らと共に「ネオ・ニューリーダー」と呼ばれた。早稲田大学雄弁会の先輩である竹下登ら早大出身者との親交が深かったため、「現住所河本派・本籍竹下派」ともいわれた。「竹下が総理になった暁には、河本派を離脱して竹下のもとに馳せ参じるのでは」と囁かれたこともある。 1966年に労働政務次官、1972年に衆議院議院運営委員長、1973年に自民党人事局長、1974年に自民党副幹事長などの要職を歴任する。 1974年には、三木内閣の内閣官房副長官に就任する。内閣官房長官の井出一太郎の代わりにランブイエ・サミットの調整を行い、1975年スト権スト問題の時には、政府の窓口として労政交渉や野党対応、マスコミ討論を担当する。 1976年9月、自民党国会対策委員長に就任。同年12月、福田赳夫内閣で文部大臣として初入閣を果たした。石原慎太郎とともに昭和生まれ初の大臣であった。1985年、第2次中曽根内閣で再び文部大臣を務めた。文部大臣時代の業績として、「共通一次試験」の導入が挙げられる。 1989年7月24日、宇野宗佑首相が第15回参議院議員通常選挙敗北の責任をとり辞意を表明。 当時、主な有力議員は軒並みリクルート事件に関与していた。中曽根康弘は責任をとって離党。安倍晋太郎、宮澤喜一、渡辺美智雄らニューリーダーは自民党が定めた「1年間、もしくは次の総選挙まで党の役職を辞退する」という内規の対象となり謹慎中の身であり、四大派閥(竹下派・安倍派・宮澤派・旧中曽根派)はいずれも後釜の総裁候補を出せる状態になかった。 宇野が辞意を表明した7月24日、安倍が退院した。同日、小沢一郎、梶山静六、奥田敬和ら竹下派幹部は意見交換した。どの派もリーダーが総理になる前にナンバー2が手を挙げるわけにはいかない事情があったが、梶山はこの席で「橋本総裁でもいい」と発言。特に異論は起こらなかったため、一部に「橋本氏擁立」との情報が伝わった。 竹下の意中の候補は早稲田大学雄弁会の後輩で親しい関係にある海部であった。クリーンなイメージはリクルート後には相応しかったし、再登板も視野に影響力を維持したい竹下にとっては、若くはあるが決定的な世代交代に至らないという点でも好ましかった。何より、中小派閥の出身で独自に強い政治基盤を持たない海部は、竹下にとって統制しやすい存在でもあった。当時、竹下と海部はTBRビルに事務所を構えていた。竹下は4階、海部は10階。竹下に呼ばれた海部は7月26日、人目を忍ぶように竹下事務所に足を運んだ。竹下は、自派からの橋本龍太郎擁立は難しいことを海部に伝えた。ここから「海部俊樹首相」への道が始まった。 7月27日、安倍は竹下を私邸に訪ね、ポスト宇野の選出方法について意見交換した。 三番町の自宅マンションの電話は朝から深夜まで鳴りっぱなしであった。議員や記者が連日押しかけてきた。7月29日、海部は妻と長男と長女を車に乗せ、逃れるように八ヶ岳のふもとのホテルに向かった。このころには海部も覚悟を決めていた。「俺も政治家として死ななきゃならんのだから、その前に精一杯のことをしたい」と家族に伝えるが、全員から反対される。二泊し、東京へ帰る車中でようやく妻が折れた。 7月30日、元麻布の金丸邸に小渕恵三、小沢一郎、奥田敬和、梶山静六、羽田孜、渡部恒三ら竹下派幹部が顔を揃えた。ただしそこに橋本の姿だけがなかった。橋本への一本化は100人を超える派閥の分裂につながりかねなかったため、金丸は「橋本君にはもう少し人間修業をしてもらう」と述べた。7月31日、竹下派は常任幹事会を開き、自派の候補者擁立を見送る方針を正式に確認した。同日、橋本は不出馬を表明。 竹下派の派内調整が進行する中で、河本派内では領袖の河本敏夫の擁立の動きが続いていた。すでに78歳であったが、最後のチャンスと総裁選出馬への意欲を見せた。8月2日、河本は自派議員から個別に意見を聞く一方、安倍、金丸らと意見調整するが、説得された結果、出馬を断念した。同日、海部は記者会見し、出馬表明した。 同年8月8日に行われた自由民主党総裁選挙には、海部のほか、宮澤派の支援を受けた二階堂派の林義郎、安倍派の石原慎太郎が立候補。いずれも派閥の長ではないという点で当時としては異例な総裁選となったが、最大派閥の竹下派の支持を得た海部が両者をおさえて自由民主党総裁に選ばれた。 参院選の結果、自民党が過半数割れに追い込まれたことにより、ねじれ国会に突入した。首班指名選挙では、自民党が依然過半数を占めていた衆議院は海部、野党が過半数を確保した参議院は日本社会党委員長の土井たか子を指名した。日本国憲法第67条第2項の規定に基づき両院協議会で協議されたが、両院の意見は一致せず、衆議院で指名された海部が内閣総理大臣に就任した(衆議院の優越)。海部は初の昭和生まれの首相でもある。 海部が首相に就任したころはバブル景気の真っただ中で経済は好調だったが、いわゆるリクルート事件などによって国民の間に政治不信が強まっていた。それだけに、清新なイメージで颯爽と登場した海部に寄せられた党内外の期待感は大きかった。組閣においてはリクルート事件にかかわったとされる政治家に代わり、リクルートと関係の薄い政治家を優先的に登用した。このため党内の不満が高まり、後の政治改革法案が廃案になる遠因にもなった。 第1次海部内閣発足直後、内閣官房長官山下徳夫の女性スキャンダルが発覚する。海部はすぐさま山下を更迭し、環境庁長官森山眞弓を横滑りさせて女性初の官房長官を誕生させ(後任の環境庁長官は志賀節)、各種行事に夫婦同伴で出席するなどして女性層の支持拡大を目指した。 海部にとって最初の大きな課題は総選挙で勝利することだった。衆院任期切れが迫る中、自民党は次の総選挙で参院選と同様の敗北を喫することだけは避けねばならなかった。結果、1990年の第39回衆議院議員総選挙で自民党を大勝に導く。1990年には首相として即位の礼を仕切り成功させた。 1990年9月28日、ニューヨーク大学から名誉博士号を、1991年7月10日、ボストン大学から名誉法学博士号を授与された。 党内基盤が脆弱であった海部は、自民党にとってはその場しのぎの「看板」という側面もあった。中小派閥である河本派の幹部である海部が総裁選に勝利したこと自体、元首相の竹下が自派の頭数をもって海部を押し上げたに過ぎなかった。例えば第1次海部内閣の発足時にあたっては、首班指名の1時間後にまず党三役が決定、即座に小沢一郎新幹事長らが党本部の幹事長室で各派と連絡を取りながら海部抜きで組閣を進め、隣の応接室で待たされる海部は一切関わることはなかった。そのあと首相官邸に海部と三役が移動して正式の組閣を小沢らの人選そのままに進み、首班指名からわずか5時間で新閣僚名簿が発表された。 石原信雄の回顧録には「海部さんは重大な法案などを決める時には金丸、竹下両氏の判断を仰いでいた」と記され、自民党幹事長の小沢一郎からも「海部は本当に馬鹿だな。宇野の方がよっぽどましだ」と酷評され、金竹小が海部以上に強い影響力を持っていた。 1991年、小沢主導により湾岸戦争の戦費として多国籍軍に130億米ドルもの資金を提供する。当初、戦後クウェートの新聞に載せられた感謝広告に日本の国旗が掲示されなかったが、その後改められた。この施策に関し、右派からは「金だけだして人出さない」「似非国際貢献」「一国平和主義」、左派からは「アメリカの言いなりになり無駄金を拠出した」と批判されるなど、左右の知識人から批判を浴びた。停戦後、自衛隊創設以来初の海外実任務となる海上自衛隊掃海部隊をペルシャ湾に派遣する。1991年にはソビエト首脳として最初で最後の来日となったミハイル・ゴルバチョフと会談している。 自民党総裁にして内閣総理大臣でもある海部は、小選挙区導入反対派の加藤紘一、山崎拓、小泉純一郎の「YKK」などによる党内からの猛烈な倒閣運動を受けた。 六四天安門事件後、ヒューストンの第16回先進国首脳会議で円借款再開を表明し、世界から孤立しかかった中国に天安門事件後の西側先進国首脳では初めて訪問して円借款を再開させた。ヒューストン・サミットを前に海部は対中制裁反対派の中曽根康弘・鈴木善幸・竹下登元首相に制裁解除を迫られていた。海部自身は、「中国に対して原則を貫いた」と語り、天安門事件の犠牲者の冥福を祈るため、訪中時に天安門広場で献花を行ったという。当時のアメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領は議会と対立するほど制裁全面化に消極的であり、秘密裏にヘンリー・キッシンジャーやブレント・スコウクロフトを中国に派遣して民主化運動家の方励之の出国をめぐる交渉を行っていたとされる。方励之の出国を条件に融資再開を日本は中国に持ちかけたともされ、ブッシュは第16回先進国首脳会議で対中円借款再開を表明した海部に同調した。 1991年に民主化後初の大韓民国大統領である盧泰愚と会談し、その席で懸案であった在日韓国人の指紋押捺の廃止を約束し、その後実施された。 湾岸危機や国連平和協力法案の廃案といった困難はあったが、政権支持率は概ね高水準で推移し、海部は政権運営に自信を深めていく。そして政治改革関連法案の成立に意欲を燃やしたが、国会で審議未了廃案となったことを受け、「重大な決意で臨む」と発言。これが衆議院の解散を意味する発言であると受け取られた。首相にとって「伝家の宝刀」の異名を持つ解散権は、総理大臣の専権事項である。しかし、自民党内の反海部勢力から大反対の合唱が起こった(海部おろし)。最後には海部をバックアップするはずだった竹下派親小沢勢力でさえ明確に解散不支持を表明したため、海部は結局解散に踏み切ることができなかった。また、それまで海部を支持してきた竹下派親小沢勢力が海部の不支持を表明し、宮澤喜一、三塚博、渡辺美智雄ら反海部の派閥の領袖たちが総裁選に立候補を表明した。これにより、海部を支持するのは自身の派閥である小派閥の河本派だけとなり、総裁選に再選できる道は閉ざされた。 1991年11月5日、海部は総理大臣を辞職。在任中は竹下派に手足を縛られて思い通りの政権運営はままならず、PKOや政治改革といった重要課題は次期政権に持ち越すことになった。バブル景気末期や冷戦体制の終焉といった激動の時期に総理の座にありながら、海部本人が政治的なイニシアチブを取った形跡もなく、政権として目立った実績は乏しい。しかし決定的な失政があったとみなされたわけでもなく、本人のクリーンで爽やかなイメージは根強い国民の支持を得続けた。在任中の内閣支持率は高い時で64%、退任直前でさえも50%を超えており、煮え切らない不完全燃焼の中での退陣となった。 首相在任日数818日間は、日本国憲法下において衆議院で内閣不信任決議が採決されなかった内閣の首相としては最長日数記録である。 1994年6月29日、自民党総裁の河野洋平が、党の政権復帰のため日本社会党、新党さきがけと自社さ連立政権構想で合意し、首班指名で社会党の村山富市に投票することを決めると、これを拒否して自民党を離党した。同じく造反した津島雄二の説得により、旧連立与党である新生党や日本新党から首班指名の統一候補として担がれるも、自民党からの造反は期待されたほどは起こらず、決選投票で敗れることになる。 同年7月18日、公職選挙法235条違反による裁判で参議院議員の新間正次の有罪判決が確定。新間の当選無効に伴う再選挙で野党9党派は労働官僚の都築譲を擁立し、7月27日、海部は都築の総合選対本部長に就任した。対する自民党は国連職員の水野時朗に出馬要請し、党県連会長の村田敬次郎は海部と絶縁する宣言を行った。海部の番頭格だった服部光孝県議も「25年間の縁を切る」と強い口調で述べ、自民党との溝は一層深まった。また、7月27日に海部は自由改革連合を結成して代表に就任している。 同年12月10日、新進党を結党して初代党首に就任。同じ旧愛知3区の江崎鐵磨も新進党結成に参加した。 同年11月21日に政治改革四法における小選挙区の具体的な区割り法案が国会で可決。海部も江崎鉄磨も一宮市を含む愛知10区の公認を主張して譲らなかったが、1995年3月17日、新進党本部の調整で海部は愛知9区、江崎は愛知10区と決まり、両現職の戦争は回避された。 新進党分党後は1年1ヶ月の無所属暮らし(院内会派「無所属の会」)を経て、自民党との連立政権に加わった自由党に入党。2000年の同党分裂の際には、自民連立継続派の保守党に所属する。 保守新党に改組して臨んだ2003年に第43回衆議院議員総選挙では、民主党の新人岡本充功に比例復活を許したが、小選挙区勝利で連続当選記録を伸ばし、選挙直後に吸収合併される形で自民党に復党した。復党後は古巣河本派の後継である高村派には戻らず、二階俊博ら一緒に復党した旧保守新党議員らと二階グループを結成した。自民党復党の折には自民党幹事長安倍晋三から復党を「諸手をあげて歓迎します」と言われ、離党した際に撤去された海部の肖像画も再び掲額された。 2009年の第45回衆議院議員総選挙にて、小選挙区で民主党の岡本に8万票以上の大差をつけられ惨敗し、党の73歳定年制もあって重複立候補できなかったため、比例復活もできず落選した。同日、政界引退を表明。海部は総理大臣在任中の成果を強調し選挙に挑んだが、海部の首相時代を知らない若い世代の有権者が増えたことも落選の一因とされる。首相経験者が落選したのは、1963年の第30回衆議院議員総選挙の石橋湛山、片山哲以来46年振り、自民党総裁経験者としては石橋以来2人目である。解散時点で海部の連続当選回数は16回、勤続年数48年9ヶ月と衆議院議員としては現職トップだった。このとき当選していれば、尾崎行雄や師匠である三木などに続いて衆議院議員在職五十年に到達するところであった。 政界引退後は、世界連邦運動協会会長、日本ソフトテニス連盟会長、大正琴協会理事長、日本ティーボール協会会長などを務めた。また、三木睦子が理事を務める中央政策研究所では最高顧問を務める。2010年には回想録『政治とカネ』を新潮新書から出版した。 2011年、桐花大綬章、名誉愛知県民章を受章。2012年3月、中華民国の国立中央大学より名誉博士称号を授与される。同年9月、自民党総裁選に立候補した町村信孝の表敬訪問を受け、激励した。2014年から中日新聞県内版(愛知県向け紙面)に『海部俊樹回想録』を連載した。また、清華大学の出資を受ける道紀忠華シンクタンクの顧問を務めていた。 2019年11月29日に中曽根康弘元首相が死去したことにより首相経験者で最古参になった。また、この時存命の首相経験者としては村山富市(1924年3月3日生まれで99歳)の次に高齢であった。最高齢の総理大臣経験者と最古参の総理大臣経験者が異なるのは、1993年12月16日に田中角栄が死去して以来であった(田中は死去時点で最古参の首相経験者であったが、最高齢の首相経験者は福田赳夫であったため)。 2022年1月9日4時、肺炎のため東京都内の病院で死去(読売新聞、時事通信、NHKは死因を老衰としている)。91歳没。政府は18日の閣議で正二位叙位と大勲位菊花大綬章追贈を決定した。海部の死去に伴い、細川護熙が最古参の首相経験者となった(最高齢は村山富市のまま)。 南京事件については、日本軍による虐殺を認めた立場を取っている。2010年に中国の招待で訪中した際に南京事件論争に触れ、「日本は歴史上、南京市民に対して許されない過ちを犯してしまった。1人の政治家として、南京市民に深くお詫びを申し上げたい」と市民への謝罪を行った。 水玉模様のネクタイをトレードマークとしている事で知られる。これは、三木内閣の官房副長官時代に国鉄のスト権スト問題でテレビの討論番組に出演した際、対処で多忙を極め帰宅もままならぬ時期であったことから、たまたま水玉模様の同じネクタイを連日連夜着用し続けていたことに関して視聴者からツッコミが入る一幕があり、それを機に意図的に自らのトレードマークとして決めたという経緯によるものである(なお、この討論番組では当時、公共企業体等労働組合協議会事務局長であった富塚三夫に対して後述の弁論経験を活かした一歩も引かぬ弁舌を披露し、「自民党に海部あり」と言わしめ、その後出世街道を歩む端緒となった)。首相時代には水玉模様のネクタイばかり600本以上も持っていたと語っており、広島と長崎の平和記念式典にも黒地に黒の水玉模様のネクタイをして出席していたほどの徹底ぶりであった(表向きは喪服用の黒いネクタイだが、明るい場所で見ると仄かに水玉模様が見える)。また、昭和天皇の大喪の礼でも同じく黒地に黒の水玉模様のネクタイをして注目を浴びた。 旧制東海中学時代には自ら弁論部を創設し地区大会で優勝するなど早くから弁論で頭角を現し、旧制中央大学専門部法科入学と共に中央大学辞達学会(弁論部)に所属し、数々の弁論大会で活躍。同大学卒業後、一旦は法務省に事務官として入省するも退職し、同郷の代議士河野金昇の書生(議員秘書)を務め、河野の母校でもある早稲田大学第二法学部法律学科へ編入学し、早稲田大学雄弁会に所属。早大在学中は雄弁会で弁論術の研鑚及び人脈作りに勤しんだ。学生弁論大会で優勝した折には、審査委員の一人だった早稲田大学総長の時子山常三郎から「海部君(の演説)に勝る者はいない。海部の前に海部なし、海部のあとに海部なしだ」と評されている。同年代の雄弁会仲間には渡部恒三などがおり、この時代に培った人脈が政界入り後に大きな力となって、小派閥の番頭格でありながら首相のポストを得る原動力となった。当時は単独講和反対を主張していたと言われている。 1960年に行われた第29回衆議院議員総選挙に、河野金昇の死後、後継として出馬して一期務めた未亡人河野孝子の後継者として出馬。応援演説に来た井出一太郎が放った「サイフは落としてもカイフは落とすな」というキャッチフレーズで人気が沸騰し当選した。 このとき海部の年齢は29歳であり、また初めて入った議員会館の部屋も29号室であったことから、「29回総選挙に29歳で当選したから、29年後、総理大臣になって恩返しする」と公言していた。しかし自民党内では傍流である三木派に属していたため当時は総理になること自体が現実味のある話とは見做されておらず、また本人も講演会などの挨拶における半ば冗談交じりのネタとして用いていた。 ところが、後に前述の条件が重なったことにより、初当選から奇しくも29年後の1989年、公言通り総理大臣就任が実現した。 総理就任から一ヶ月後、大相撲で通算勝ち星記録を更新した横綱・千代の富士貢に国民栄誉賞を授与したが、この直前、大相撲九月場所で千代の富士は29回目の優勝を達成しており、かつ授与式が行われたのも9月29日であった。 首相の座を射止めたことから、多くの秘書が政治家として勇躍した。 1990年、アメリカ・ヒューストンで開催された第16回先進国首脳会議における首脳記念撮影の際、海部が身振りを交えて英語で軽い冗談を飛ばしたところ大受けとなり、アメリカ合衆国大統領ブッシュ、イギリス首相サッチャー、カナダ首相マルルーニーが爆笑している場面の写真が全世界に配信された。 海部によれば、以下のようなやり取りがあったという。 内閣総理大臣就任後は、国民の人気を得るためにさまざまなパフォーマンスを行った。体育の日には国民とともに体力テストとして反復横跳びを行ったことや、また首相公邸へ高齢者を招待してゲートボールを遊んだこともあった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "海部 俊樹(かいふ としき、1931年〈昭和6年〉1月2日 - 2022年〈令和4年〉1月9日)は、日本の政治家。第76・77代内閣総理大臣を歴任した。位階は正二位、勲等は大勲位菊花大綬章(没後叙勲)である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "衆議院議員(16期)、労働政務次官(第1次佐藤第2次改造内閣 - 第2次佐藤内閣)、内閣官房副長官(三木内閣)、自由民主党国会対策委員長(第21代)、文部大臣(第98・107代)、自由民主党総裁(第14代)、大蔵大臣(第95代)、新進党党首(初代)などを歴任した。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "国際天文学連合(IAU)会長の海部宣男、2008年にノーベル物理学賞を受賞した小林誠の従兄である。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "名古屋市東区七曲町(現・東区東桜一丁目)に生まれる。6人兄弟の長男だった。家業は祖父が明治時代に創業した「中村写真館」。店は中区栄の松坂屋名古屋店の北側にあった。1943年3月、名古屋市立南久屋国民学校(現・名古屋市立栄小学校)卒業。旧制愛知一中(現・愛知県立旭丘高等学校)を受験するが不合格。同じ学校から受けた11人のうち9人が受かり、落ちたのは海部を含め2人だった。同年4月、旧制東海中学(現:東海中学校・高等学校)に入学。学徒動員により、名古屋市東区大幸町にあった三菱重工業の工場で働かされる。航空機のエンジン部品造りに明け暮れた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1945年、少年飛行兵学校に合格。10月に入校することが決まるが、その前に敗戦を迎える。旧制中央大学専門部法科卒業後は河野金昇の秘書になる。新制早稲田大学第二法学部法律学科に編入学。中大在学時は中央大学辞達学会に、早大在学時は早稲田大学雄弁会に所属した。1956年には早稲田大学大学院法学研究科修士課程を中退して、学生時代から務めた河野金昇の秘書に専念する。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1957年11月17日、旧岐阜1区の柳原三郎衆議院議員の手伝いをしていた岐阜県美濃市出身の女性と結婚。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1958年3月29日、河野が急死。後継候補の一人に押し上げられるが、三木武夫の判断で妻の河野孝子が地盤を引き継ぐこととなった。同年4月20日、孝子の秘書となり、5月22日に行われた第28回衆議院議員総選挙で孝子は初当選した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1960年9月16日、河野孝子の代わりに、秘書の海部が次期衆院選・旧愛知県第3区に立候補することが決定。同年11月20日に行われた第29回衆議院議員総選挙で全国最年少で初当選した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1960年12月、自民党青年局学生部長に就任。1964年、青年海外協力隊の構想をまとめ、アフリカを横断調査。同団体の創設に力を注いだ。1965年には自民党青年局長となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1971年ごろまで一宮市新生で借家住まいをし、その後、同市平和一丁目に自宅兼事務所を構えた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "三木派が河本派に移行してからは、1994年に離党するまでの間、名実共にナンバー2として河本敏夫を支えたが、河本とは対照的に資金的な貢献が少なかったため、「財布閉じ器」と渾名された。ニューリーダーの次を狙う政治家として橋本龍太郎、藤波孝生らと共に「ネオ・ニューリーダー」と呼ばれた。早稲田大学雄弁会の先輩である竹下登ら早大出身者との親交が深かったため、「現住所河本派・本籍竹下派」ともいわれた。「竹下が総理になった暁には、河本派を離脱して竹下のもとに馳せ参じるのでは」と囁かれたこともある。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1966年に労働政務次官、1972年に衆議院議院運営委員長、1973年に自民党人事局長、1974年に自民党副幹事長などの要職を歴任する。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1974年には、三木内閣の内閣官房副長官に就任する。内閣官房長官の井出一太郎の代わりにランブイエ・サミットの調整を行い、1975年スト権スト問題の時には、政府の窓口として労政交渉や野党対応、マスコミ討論を担当する。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1976年9月、自民党国会対策委員長に就任。同年12月、福田赳夫内閣で文部大臣として初入閣を果たした。石原慎太郎とともに昭和生まれ初の大臣であった。1985年、第2次中曽根内閣で再び文部大臣を務めた。文部大臣時代の業績として、「共通一次試験」の導入が挙げられる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1989年7月24日、宇野宗佑首相が第15回参議院議員通常選挙敗北の責任をとり辞意を表明。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "当時、主な有力議員は軒並みリクルート事件に関与していた。中曽根康弘は責任をとって離党。安倍晋太郎、宮澤喜一、渡辺美智雄らニューリーダーは自民党が定めた「1年間、もしくは次の総選挙まで党の役職を辞退する」という内規の対象となり謹慎中の身であり、四大派閥(竹下派・安倍派・宮澤派・旧中曽根派)はいずれも後釜の総裁候補を出せる状態になかった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "宇野が辞意を表明した7月24日、安倍が退院した。同日、小沢一郎、梶山静六、奥田敬和ら竹下派幹部は意見交換した。どの派もリーダーが総理になる前にナンバー2が手を挙げるわけにはいかない事情があったが、梶山はこの席で「橋本総裁でもいい」と発言。特に異論は起こらなかったため、一部に「橋本氏擁立」との情報が伝わった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "竹下の意中の候補は早稲田大学雄弁会の後輩で親しい関係にある海部であった。クリーンなイメージはリクルート後には相応しかったし、再登板も視野に影響力を維持したい竹下にとっては、若くはあるが決定的な世代交代に至らないという点でも好ましかった。何より、中小派閥の出身で独自に強い政治基盤を持たない海部は、竹下にとって統制しやすい存在でもあった。当時、竹下と海部はTBRビルに事務所を構えていた。竹下は4階、海部は10階。竹下に呼ばれた海部は7月26日、人目を忍ぶように竹下事務所に足を運んだ。竹下は、自派からの橋本龍太郎擁立は難しいことを海部に伝えた。ここから「海部俊樹首相」への道が始まった。 7月27日、安倍は竹下を私邸に訪ね、ポスト宇野の選出方法について意見交換した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "三番町の自宅マンションの電話は朝から深夜まで鳴りっぱなしであった。議員や記者が連日押しかけてきた。7月29日、海部は妻と長男と長女を車に乗せ、逃れるように八ヶ岳のふもとのホテルに向かった。このころには海部も覚悟を決めていた。「俺も政治家として死ななきゃならんのだから、その前に精一杯のことをしたい」と家族に伝えるが、全員から反対される。二泊し、東京へ帰る車中でようやく妻が折れた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "7月30日、元麻布の金丸邸に小渕恵三、小沢一郎、奥田敬和、梶山静六、羽田孜、渡部恒三ら竹下派幹部が顔を揃えた。ただしそこに橋本の姿だけがなかった。橋本への一本化は100人を超える派閥の分裂につながりかねなかったため、金丸は「橋本君にはもう少し人間修業をしてもらう」と述べた。7月31日、竹下派は常任幹事会を開き、自派の候補者擁立を見送る方針を正式に確認した。同日、橋本は不出馬を表明。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "竹下派の派内調整が進行する中で、河本派内では領袖の河本敏夫の擁立の動きが続いていた。すでに78歳であったが、最後のチャンスと総裁選出馬への意欲を見せた。8月2日、河本は自派議員から個別に意見を聞く一方、安倍、金丸らと意見調整するが、説得された結果、出馬を断念した。同日、海部は記者会見し、出馬表明した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "同年8月8日に行われた自由民主党総裁選挙には、海部のほか、宮澤派の支援を受けた二階堂派の林義郎、安倍派の石原慎太郎が立候補。いずれも派閥の長ではないという点で当時としては異例な総裁選となったが、最大派閥の竹下派の支持を得た海部が両者をおさえて自由民主党総裁に選ばれた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "参院選の結果、自民党が過半数割れに追い込まれたことにより、ねじれ国会に突入した。首班指名選挙では、自民党が依然過半数を占めていた衆議院は海部、野党が過半数を確保した参議院は日本社会党委員長の土井たか子を指名した。日本国憲法第67条第2項の規定に基づき両院協議会で協議されたが、両院の意見は一致せず、衆議院で指名された海部が内閣総理大臣に就任した(衆議院の優越)。海部は初の昭和生まれの首相でもある。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "海部が首相に就任したころはバブル景気の真っただ中で経済は好調だったが、いわゆるリクルート事件などによって国民の間に政治不信が強まっていた。それだけに、清新なイメージで颯爽と登場した海部に寄せられた党内外の期待感は大きかった。組閣においてはリクルート事件にかかわったとされる政治家に代わり、リクルートと関係の薄い政治家を優先的に登用した。このため党内の不満が高まり、後の政治改革法案が廃案になる遠因にもなった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "第1次海部内閣発足直後、内閣官房長官山下徳夫の女性スキャンダルが発覚する。海部はすぐさま山下を更迭し、環境庁長官森山眞弓を横滑りさせて女性初の官房長官を誕生させ(後任の環境庁長官は志賀節)、各種行事に夫婦同伴で出席するなどして女性層の支持拡大を目指した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "海部にとって最初の大きな課題は総選挙で勝利することだった。衆院任期切れが迫る中、自民党は次の総選挙で参院選と同様の敗北を喫することだけは避けねばならなかった。結果、1990年の第39回衆議院議員総選挙で自民党を大勝に導く。1990年には首相として即位の礼を仕切り成功させた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1990年9月28日、ニューヨーク大学から名誉博士号を、1991年7月10日、ボストン大学から名誉法学博士号を授与された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "党内基盤が脆弱であった海部は、自民党にとってはその場しのぎの「看板」という側面もあった。中小派閥である河本派の幹部である海部が総裁選に勝利したこと自体、元首相の竹下が自派の頭数をもって海部を押し上げたに過ぎなかった。例えば第1次海部内閣の発足時にあたっては、首班指名の1時間後にまず党三役が決定、即座に小沢一郎新幹事長らが党本部の幹事長室で各派と連絡を取りながら海部抜きで組閣を進め、隣の応接室で待たされる海部は一切関わることはなかった。そのあと首相官邸に海部と三役が移動して正式の組閣を小沢らの人選そのままに進み、首班指名からわずか5時間で新閣僚名簿が発表された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "石原信雄の回顧録には「海部さんは重大な法案などを決める時には金丸、竹下両氏の判断を仰いでいた」と記され、自民党幹事長の小沢一郎からも「海部は本当に馬鹿だな。宇野の方がよっぽどましだ」と酷評され、金竹小が海部以上に強い影響力を持っていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1991年、小沢主導により湾岸戦争の戦費として多国籍軍に130億米ドルもの資金を提供する。当初、戦後クウェートの新聞に載せられた感謝広告に日本の国旗が掲示されなかったが、その後改められた。この施策に関し、右派からは「金だけだして人出さない」「似非国際貢献」「一国平和主義」、左派からは「アメリカの言いなりになり無駄金を拠出した」と批判されるなど、左右の知識人から批判を浴びた。停戦後、自衛隊創設以来初の海外実任務となる海上自衛隊掃海部隊をペルシャ湾に派遣する。1991年にはソビエト首脳として最初で最後の来日となったミハイル・ゴルバチョフと会談している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "自民党総裁にして内閣総理大臣でもある海部は、小選挙区導入反対派の加藤紘一、山崎拓、小泉純一郎の「YKK」などによる党内からの猛烈な倒閣運動を受けた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "六四天安門事件後、ヒューストンの第16回先進国首脳会議で円借款再開を表明し、世界から孤立しかかった中国に天安門事件後の西側先進国首脳では初めて訪問して円借款を再開させた。ヒューストン・サミットを前に海部は対中制裁反対派の中曽根康弘・鈴木善幸・竹下登元首相に制裁解除を迫られていた。海部自身は、「中国に対して原則を貫いた」と語り、天安門事件の犠牲者の冥福を祈るため、訪中時に天安門広場で献花を行ったという。当時のアメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領は議会と対立するほど制裁全面化に消極的であり、秘密裏にヘンリー・キッシンジャーやブレント・スコウクロフトを中国に派遣して民主化運動家の方励之の出国をめぐる交渉を行っていたとされる。方励之の出国を条件に融資再開を日本は中国に持ちかけたともされ、ブッシュは第16回先進国首脳会議で対中円借款再開を表明した海部に同調した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1991年に民主化後初の大韓民国大統領である盧泰愚と会談し、その席で懸案であった在日韓国人の指紋押捺の廃止を約束し、その後実施された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "湾岸危機や国連平和協力法案の廃案といった困難はあったが、政権支持率は概ね高水準で推移し、海部は政権運営に自信を深めていく。そして政治改革関連法案の成立に意欲を燃やしたが、国会で審議未了廃案となったことを受け、「重大な決意で臨む」と発言。これが衆議院の解散を意味する発言であると受け取られた。首相にとって「伝家の宝刀」の異名を持つ解散権は、総理大臣の専権事項である。しかし、自民党内の反海部勢力から大反対の合唱が起こった(海部おろし)。最後には海部をバックアップするはずだった竹下派親小沢勢力でさえ明確に解散不支持を表明したため、海部は結局解散に踏み切ることができなかった。また、それまで海部を支持してきた竹下派親小沢勢力が海部の不支持を表明し、宮澤喜一、三塚博、渡辺美智雄ら反海部の派閥の領袖たちが総裁選に立候補を表明した。これにより、海部を支持するのは自身の派閥である小派閥の河本派だけとなり、総裁選に再選できる道は閉ざされた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1991年11月5日、海部は総理大臣を辞職。在任中は竹下派に手足を縛られて思い通りの政権運営はままならず、PKOや政治改革といった重要課題は次期政権に持ち越すことになった。バブル景気末期や冷戦体制の終焉といった激動の時期に総理の座にありながら、海部本人が政治的なイニシアチブを取った形跡もなく、政権として目立った実績は乏しい。しかし決定的な失政があったとみなされたわけでもなく、本人のクリーンで爽やかなイメージは根強い国民の支持を得続けた。在任中の内閣支持率は高い時で64%、退任直前でさえも50%を超えており、煮え切らない不完全燃焼の中での退陣となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "首相在任日数818日間は、日本国憲法下において衆議院で内閣不信任決議が採決されなかった内閣の首相としては最長日数記録である。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1994年6月29日、自民党総裁の河野洋平が、党の政権復帰のため日本社会党、新党さきがけと自社さ連立政権構想で合意し、首班指名で社会党の村山富市に投票することを決めると、これを拒否して自民党を離党した。同じく造反した津島雄二の説得により、旧連立与党である新生党や日本新党から首班指名の統一候補として担がれるも、自民党からの造反は期待されたほどは起こらず、決選投票で敗れることになる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "同年7月18日、公職選挙法235条違反による裁判で参議院議員の新間正次の有罪判決が確定。新間の当選無効に伴う再選挙で野党9党派は労働官僚の都築譲を擁立し、7月27日、海部は都築の総合選対本部長に就任した。対する自民党は国連職員の水野時朗に出馬要請し、党県連会長の村田敬次郎は海部と絶縁する宣言を行った。海部の番頭格だった服部光孝県議も「25年間の縁を切る」と強い口調で述べ、自民党との溝は一層深まった。また、7月27日に海部は自由改革連合を結成して代表に就任している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "同年12月10日、新進党を結党して初代党首に就任。同じ旧愛知3区の江崎鐵磨も新進党結成に参加した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "同年11月21日に政治改革四法における小選挙区の具体的な区割り法案が国会で可決。海部も江崎鉄磨も一宮市を含む愛知10区の公認を主張して譲らなかったが、1995年3月17日、新進党本部の調整で海部は愛知9区、江崎は愛知10区と決まり、両現職の戦争は回避された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "新進党分党後は1年1ヶ月の無所属暮らし(院内会派「無所属の会」)を経て、自民党との連立政権に加わった自由党に入党。2000年の同党分裂の際には、自民連立継続派の保守党に所属する。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "保守新党に改組して臨んだ2003年に第43回衆議院議員総選挙では、民主党の新人岡本充功に比例復活を許したが、小選挙区勝利で連続当選記録を伸ばし、選挙直後に吸収合併される形で自民党に復党した。復党後は古巣河本派の後継である高村派には戻らず、二階俊博ら一緒に復党した旧保守新党議員らと二階グループを結成した。自民党復党の折には自民党幹事長安倍晋三から復党を「諸手をあげて歓迎します」と言われ、離党した際に撤去された海部の肖像画も再び掲額された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2009年の第45回衆議院議員総選挙にて、小選挙区で民主党の岡本に8万票以上の大差をつけられ惨敗し、党の73歳定年制もあって重複立候補できなかったため、比例復活もできず落選した。同日、政界引退を表明。海部は総理大臣在任中の成果を強調し選挙に挑んだが、海部の首相時代を知らない若い世代の有権者が増えたことも落選の一因とされる。首相経験者が落選したのは、1963年の第30回衆議院議員総選挙の石橋湛山、片山哲以来46年振り、自民党総裁経験者としては石橋以来2人目である。解散時点で海部の連続当選回数は16回、勤続年数48年9ヶ月と衆議院議員としては現職トップだった。このとき当選していれば、尾崎行雄や師匠である三木などに続いて衆議院議員在職五十年に到達するところであった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "政界引退後は、世界連邦運動協会会長、日本ソフトテニス連盟会長、大正琴協会理事長、日本ティーボール協会会長などを務めた。また、三木睦子が理事を務める中央政策研究所では最高顧問を務める。2010年には回想録『政治とカネ』を新潮新書から出版した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2011年、桐花大綬章、名誉愛知県民章を受章。2012年3月、中華民国の国立中央大学より名誉博士称号を授与される。同年9月、自民党総裁選に立候補した町村信孝の表敬訪問を受け、激励した。2014年から中日新聞県内版(愛知県向け紙面)に『海部俊樹回想録』を連載した。また、清華大学の出資を受ける道紀忠華シンクタンクの顧問を務めていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2019年11月29日に中曽根康弘元首相が死去したことにより首相経験者で最古参になった。また、この時存命の首相経験者としては村山富市(1924年3月3日生まれで99歳)の次に高齢であった。最高齢の総理大臣経験者と最古参の総理大臣経験者が異なるのは、1993年12月16日に田中角栄が死去して以来であった(田中は死去時点で最古参の首相経験者であったが、最高齢の首相経験者は福田赳夫であったため)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "2022年1月9日4時、肺炎のため東京都内の病院で死去(読売新聞、時事通信、NHKは死因を老衰としている)。91歳没。政府は18日の閣議で正二位叙位と大勲位菊花大綬章追贈を決定した。海部の死去に伴い、細川護熙が最古参の首相経験者となった(最高齢は村山富市のまま)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "南京事件については、日本軍による虐殺を認めた立場を取っている。2010年に中国の招待で訪中した際に南京事件論争に触れ、「日本は歴史上、南京市民に対して許されない過ちを犯してしまった。1人の政治家として、南京市民に深くお詫びを申し上げたい」と市民への謝罪を行った。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "水玉模様のネクタイをトレードマークとしている事で知られる。これは、三木内閣の官房副長官時代に国鉄のスト権スト問題でテレビの討論番組に出演した際、対処で多忙を極め帰宅もままならぬ時期であったことから、たまたま水玉模様の同じネクタイを連日連夜着用し続けていたことに関して視聴者からツッコミが入る一幕があり、それを機に意図的に自らのトレードマークとして決めたという経緯によるものである(なお、この討論番組では当時、公共企業体等労働組合協議会事務局長であった富塚三夫に対して後述の弁論経験を活かした一歩も引かぬ弁舌を披露し、「自民党に海部あり」と言わしめ、その後出世街道を歩む端緒となった)。首相時代には水玉模様のネクタイばかり600本以上も持っていたと語っており、広島と長崎の平和記念式典にも黒地に黒の水玉模様のネクタイをして出席していたほどの徹底ぶりであった(表向きは喪服用の黒いネクタイだが、明るい場所で見ると仄かに水玉模様が見える)。また、昭和天皇の大喪の礼でも同じく黒地に黒の水玉模様のネクタイをして注目を浴びた。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "旧制東海中学時代には自ら弁論部を創設し地区大会で優勝するなど早くから弁論で頭角を現し、旧制中央大学専門部法科入学と共に中央大学辞達学会(弁論部)に所属し、数々の弁論大会で活躍。同大学卒業後、一旦は法務省に事務官として入省するも退職し、同郷の代議士河野金昇の書生(議員秘書)を務め、河野の母校でもある早稲田大学第二法学部法律学科へ編入学し、早稲田大学雄弁会に所属。早大在学中は雄弁会で弁論術の研鑚及び人脈作りに勤しんだ。学生弁論大会で優勝した折には、審査委員の一人だった早稲田大学総長の時子山常三郎から「海部君(の演説)に勝る者はいない。海部の前に海部なし、海部のあとに海部なしだ」と評されている。同年代の雄弁会仲間には渡部恒三などがおり、この時代に培った人脈が政界入り後に大きな力となって、小派閥の番頭格でありながら首相のポストを得る原動力となった。当時は単独講和反対を主張していたと言われている。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "1960年に行われた第29回衆議院議員総選挙に、河野金昇の死後、後継として出馬して一期務めた未亡人河野孝子の後継者として出馬。応援演説に来た井出一太郎が放った「サイフは落としてもカイフは落とすな」というキャッチフレーズで人気が沸騰し当選した。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "このとき海部の年齢は29歳であり、また初めて入った議員会館の部屋も29号室であったことから、「29回総選挙に29歳で当選したから、29年後、総理大臣になって恩返しする」と公言していた。しかし自民党内では傍流である三木派に属していたため当時は総理になること自体が現実味のある話とは見做されておらず、また本人も講演会などの挨拶における半ば冗談交じりのネタとして用いていた。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "ところが、後に前述の条件が重なったことにより、初当選から奇しくも29年後の1989年、公言通り総理大臣就任が実現した。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "総理就任から一ヶ月後、大相撲で通算勝ち星記録を更新した横綱・千代の富士貢に国民栄誉賞を授与したが、この直前、大相撲九月場所で千代の富士は29回目の優勝を達成しており、かつ授与式が行われたのも9月29日であった。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "首相の座を射止めたことから、多くの秘書が政治家として勇躍した。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "1990年、アメリカ・ヒューストンで開催された第16回先進国首脳会議における首脳記念撮影の際、海部が身振りを交えて英語で軽い冗談を飛ばしたところ大受けとなり、アメリカ合衆国大統領ブッシュ、イギリス首相サッチャー、カナダ首相マルルーニーが爆笑している場面の写真が全世界に配信された。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "海部によれば、以下のようなやり取りがあったという。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "内閣総理大臣就任後は、国民の人気を得るためにさまざまなパフォーマンスを行った。体育の日には国民とともに体力テストとして反復横跳びを行ったことや、また首相公邸へ高齢者を招待してゲートボールを遊んだこともあった。", "title": "エピソード" } ]
海部 俊樹は、日本の政治家。第76・77代内閣総理大臣を歴任した。位階は正二位、勲等は大勲位菊花大綬章(没後叙勲)である。 衆議院議員(16期)、労働政務次官、内閣官房副長官(三木内閣)、自由民主党国会対策委員長(第21代)、文部大臣(第98・107代)、自由民主党総裁(第14代)、大蔵大臣(第95代)、新進党党首(初代)などを歴任した。 国際天文学連合(IAU)会長の海部宣男、2008年にノーベル物理学賞を受賞した小林誠の従兄である。
{{政治家 | 人名 = 海部 俊樹 | 各国語表記 = かいふ としき | 画像 = Toshiki Kaifu 19890810.jpg | 画像サイズ = 220px | 画像説明 = [[内閣広報官|内閣広報室]]より公表された肖像(1989年) | 国略称 = {{JPN}} | 生年月日 = {{生年月日と年齢|1931|1|2|no}}<br />{{JPN}} [[愛知県]][[名古屋市]][[東区 (名古屋市)|東区]][[七曲町 (名古屋市)|七曲町]](現東区[[東桜]]1丁目) | 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1931|1|2|2022|1|9}}<br />{{JPN}} [[東京都]] | 出身校 = [[中央大学法学部|中央大学専門部法科]]<br /> [[早稲田大学大学院法学研究科・法学部|早稲田大学第二法学部]]<br >早稲田大学大学院法学研究科修士課程中途退学 | 前職 = 政治家秘書<br />[[日本の国会議員#衆議院議員|衆議院議員]]<br />[[内閣総理大臣]] | 現職 = | 所属政党 = ([[自由民主党 (日本)|自由民主党]]([[番町政策研究所]])→)<br />([[高志会]]→)<br />([[自由改革連合]]→)<br />([[新進党]]→)<br />([[無所属の会 (1999)|無所属の会]]→)<br />([[自由党 (日本 1998-2003)|自由党]]→)<br />(保守党→)<br />([[保守新党]]→)<br />自由民主党([[新しい波 (派閥)|二階G]]) | 称号・勲章 = [[正二位]]<br /> [[File:JPN Daikun'i kikkasho BAR.svg|38px]] [[大勲位菊花大綬章]]<br /> [[File:JPN Toka-sho blank BAR.svg|38px]] [[桐花大綬章]]<br />[[名誉県民|名誉愛知県民章]]<br />[[学士(法学)|法学士]](早稲田大学・[[1954年|昭和29年]]) | 親族(政治家) = | 配偶者 = [[海部幸世]] | サイン = KaifuT kao.png | ウェブサイト = http://www.anan.ne.jp/kaifu/ | サイトタイトル = 海部俊樹オフィシャルホームページ | 国旗 = JPN | 職名 = 第76-77代 [[内閣総理大臣]] | 内閣 = [[第1次海部内閣]]<br />[[第2次海部内閣]]<br />[[第2次海部内閣 (改造)|第2次海部改造内閣]] | 就任日 = [[1989年]][[8月10日]] | 退任日 = [[1991年]][[11月5日]] | 元首職 = 天皇 | 元首 = [[明仁|上皇(明仁)]] <!-- ↓省略可↓ -->| 国旗2 = JPN | 職名2 = 第95代 [[財務大臣 (日本)|大蔵大臣]](総理兼任) | 内閣2 = [[第2次海部内閣 (改造)|第2次海部改造内閣]] | 就任日2 = 1991年[[10月14日]] | 退任日2 = 1991年11月5日 | 国旗3 = JPN | 職名3 = 第98・107代 [[文部大臣]] | 内閣3 = [[福田赳夫内閣]]<hr/>[[第2次中曽根内閣 (第2次改造)|第2次中曾根第2次改造内閣]] | 就任日3 = [[1976年]][[12月24日]] - [[1977年]][[11月28日]]<hr/>[[1985年]][[12月28日]] | 退任日3 = [[1986年]][[7月22日]] | 国旗4 = JPN | 職名4 = [[内閣官房副長官|内閣官房副長官(政務担当)]] | 内閣4 = [[三木内閣]] | 就任日4 = [[1974年]][[12月9日]] | 退任日4 = [[1976年]][[9月15日]] | 国旗5 = JPN | 職名5 = [[日本の国会議員#衆議院議員|衆議院議員]] | 選挙区5 = ([[愛知県第3区 (中選挙区)|旧愛知3区]]→)<br />[[愛知県第9区|愛知9区]] | 当選回数5 = 16回 | 就任日5 = [[1960年]][[11月20日]] | 退任日5 = [[2009年]][[7月21日]] | その他職歴1 = [[File:New Frontier Party Logo (Japan).svg|40px]] 初代 [[新進党]]党首 | 就任日6 = [[1994年]][[12月8日]] | 退任日6 = [[1995年]][[12月28日]] | その他職歴2 = [[File:Liberal Democratic Party (Japan) Emblem.jpg|20px]] 第14代 [[自由民主党総裁]] | 就任日7 = 1989年[[8月8日]] | 退任日7 = 1991年[[10月30日]] | その他職歴3 = [[ファイル:Liberal Democratic Party (Japan) Emblem.jpg|20px]] 第21代 [[自由民主党国会対策委員会#国会対策委員長|自由民主党国会対策委員長]]<br /> '''(総裁:[[三木武夫]])''' '' '' | 就任日8 = [[1976年]][[9月]] | 退任日8 = 1976年[[12月]] <!-- ↑省略可↑ -->}} '''海部 俊樹'''(かいふ としき、[[1931年]]〈[[昭和]]6年〉[[1月2日]] - [[2022年]]〈[[令和]]4年〉[[1月9日]])は、[[日本]]の[[政治家]]。第[[第1次海部内閣|76]]・[[第2次海部内閣|77]]代[[内閣総理大臣]]を歴任した。[[位階]]は[[正二位]]、[[勲等]]は[[大勲位菊花大綬章]](没後叙勲)<ref>『官報』令和4年(2022年)1月27日付本紙第663号9頁</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20220118183019/https://www.jiji.com/jc/article?k=2022011800883 海部元首相に大勲位菊花大綬章] - 時事ドットコム 2022年1月18日</ref><ref>[https://www.asahi.com/articles/ASQ1L66C5Q1LUTFK015.html 故海部元首相に大勲位菊花大綬章 戦後の首相経験者で11人目] - 朝日新聞デジタル 2022年1月18日</ref>である。 [[日本の国会議員#衆議院議員|衆議院議員]](16期)、[[労働省|労働]][[政務次官]]([[第1次佐藤内閣 (第2次改造)|第1次佐藤第2次改造内閣]] - [[第2次佐藤内閣]])、[[内閣官房副長官]]([[三木内閣]])、[[自由民主党国会対策委員会|自由民主党国会対策委員長]](第21代)、[[文部大臣]](第[[福田赳夫内閣|98]]・[[第2次中曽根内閣 (第2次改造)|107]]代)、[[自由民主党総裁]](第14代)、[[財務大臣 (日本)|大蔵大臣]]([[第2次海部内閣 (改造)|第95代]])、[[新進党]][[党首]](初代)などを歴任した。 [[国際天文学連合]](IAU)会長の[[海部宣男]]、2008年に[[ノーベル物理学賞]]を受賞した[[小林誠 (物理学者)|小林誠]]の従兄である。 == 生涯 == === 生い立ち === [[名古屋市]][[東区 (名古屋市)|東区]][[七曲町 (名古屋市)|七曲町]](現・東区[[東桜]]一丁目)に生まれる。6人兄弟の長男だった。家業は祖父が明治時代に創業した「中村写真館」。店は中区栄の松坂屋名古屋店の北側にあった。1943年3月、名古屋市立南久屋国民学校(現・[[名古屋市立栄小学校]])卒業。旧制愛知一中(現・[[愛知県立旭丘高等学校]])を受験するが不合格。同じ学校から受けた11人のうち9人が受かり、落ちたのは海部を含め2人だった{{Sfn|海部|2015|pp=30-31}}。同年4月、旧制東海中学(現:[[東海中学校・高等学校]])に入学。[[学徒動員]]により、名古屋市東区[[大幸|大幸町]]にあった[[三菱重工業]]の工場で働かされる。航空機のエンジン部品造りに明け暮れた。 1945年、少年飛行兵学校に合格。10月に入校することが決まるが、その前に敗戦を迎える{{Sfn|海部|2010|pp=34-35}}。[[旧制大学|旧制]][[中央大学]][[大学専門部 (旧制)|専門部]][[中央大学法学部|法科]]卒業後は[[河野金昇]]の秘書になる<!--[[中央大学法学部]]に進んだ→ http://www.anan.ne.jp/kaifu/mizutama/mizutamamidasi1.html など参照。-->。新制[[早稲田大学大学院法学研究科・法学部|早稲田大学第二法学部]][[法学部|法律学科]]に[[編入学]]。中大在学時は[[中央大学辞達学会]]に、早大在学時は[[早稲田大学雄弁会]]に所属した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/general/news/202201140000139.html|title=海部俊樹氏が死去、91歳 水玉ネクタイがトレードマーク、第76代首相|publisher=日刊スポーツ|date=2022-01-14|accessdate=2022-01-14}}</ref>。[[1956年]]には早稲田大学大学院法学研究科修士課程を中退して、学生時代から務めた河野金昇の秘書に専念する{{Sfn|海部|2010|p=}}。 1957年11月17日、[[岐阜県第1区 (中選挙区)|旧岐阜1区]]の[[柳原三郎]]衆議院議員の手伝いをしていた岐阜県[[美濃市]]出身の女性と結婚{{Sfn|海部|2010|pp=38-39}}{{Sfn|海部|2015|pp=223-224}}。 1958年3月29日、河野が急死。後継候補の一人に押し上げられるが、[[三木武夫]]の判断で妻の[[河野孝子]]が地盤を引き継ぐこととなった{{Sfn|海部|2015|pp=40-41}}。同年4月20日、孝子の[[公設秘書|秘書]]となり{{Sfn|海部|2015|pp=223-224}}、5月22日に行われた[[第28回衆議院議員総選挙]]で孝子は初当選した。 === 衆議院議員 === [[ファイル:Toshiki Kaifu 1960.jpg|thumb|left|200px|初当選当時の海部(『週刊サンケイ』1960年12月26日号より)|代替文=]] [[ファイル:Toshiki Kaifu 1976.jpg|thumb|180px|1度目の[[文部大臣]]時代の海部([[1976年]]ごろ)]] [[1960年]]9月16日、河野孝子の代わりに、秘書の海部が次期衆院選・[[愛知県第3区 (中選挙区)|旧愛知県第3区]]に立候補することが決定<ref>『中部日本新聞』1960年9月17日付朝刊、尾張版、5面、「海部俊樹氏が出馬 衆院選第三区 河野現代議士に代わり」。</ref>。同年11月20日に行われた[[第29回衆議院議員総選挙]]で全国最年少で初当選した<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=dGY4QdzyAAw&t=135s 昭和35年11月 中日ニュース No.358_3「政局再び二大政党へ」] 中日映画社</ref>。 1960年12月、[[自由民主党青年局|自民党青年局]]学生部長に就任。1964年、[[青年海外協力隊]]の構想をまとめ、[[アフリカ]]を横断調査。同団体の創設に力を注いだ{{Sfn|海部|2010|pp=42-43}}。[[1965年]]には自民党青年局長となった。 1971年ごろまで[[一宮市]]新生で借家住まいをし、その後、同市平和一丁目に自宅兼事務所を構えた<ref>『中日新聞』1989年8月9日付朝刊、22面、「海部氏夫人、幸世さん 当選自宅で祈り続ける テキパキ内助の功、青春時代は文武両道」。</ref>。 三木派が河本派に移行してからは、[[1994年]]に離党するまでの間、名実共にナンバー2として[[河本敏夫]]を支えたが、河本とは対照的に資金的な貢献が少なかったため、「財布閉じ器」と渾名された。ニューリーダーの次を狙う政治家として[[橋本龍太郎]]、[[藤波孝生]]らと共に「[[ネオ・ニューリーダー]]」と呼ばれた。早稲田大学雄弁会の先輩である[[竹下登]]ら早大出身者との親交が深かったため、「現住所河本派・本籍竹下派」ともいわれた。「竹下が総理になった暁には、河本派を離脱して竹下のもとに馳せ参じるのでは」と囁かれたこともある。 [[1966年]]に労働政務次官、[[1972年]]に[[議院運営委員会|衆議院議院運営委員長]]{{Sfn|海部|2015|pp=223-224}}、[[1973年]]に自民党人事局長、[[1974年]]に自民党副幹事長などの要職を歴任する。 [[1974年]]には、[[三木内閣]]の[[内閣官房副長官]]に就任する。[[内閣官房長官]]の[[井出一太郎]]の代わりに[[第1回先進国首脳会議|ランブイエ・サミット]]の調整を行い、[[1975年]][[スト権スト]]問題の時には、政府の窓口として労政交渉や野党対応、マスコミ討論を担当する{{Sfn|海部|2010|p=47}}。 1976年9月、自民党国会対策委員長に就任{{Sfn|海部|2015|pp=223-224}}。同年12月、[[福田赳夫内閣]]で[[文部大臣]]として初入閣を果たした。[[石原慎太郎]]とともに[[昭和]]生まれ初の大臣であった。1985年、[[第2次中曽根内閣]]で再び文部大臣を務めた。文部大臣時代の業績として、「[[大学共通第1次学力試験|共通一次試験]]」の導入が挙げられる。 === 自由民主党総裁 === 1989年7月24日、[[宇野宗佑]]首相が[[第15回参議院議員通常選挙]]敗北の責任をとり辞意を表明。 {{See also|1989年8月自由民主党総裁選挙}} 当時、主な有力議員は軒並み[[リクルート事件]]に関与していた。中曽根康弘は責任をとって離党。安倍晋太郎、宮澤喜一、渡辺美智雄らニューリーダーは自民党が定めた「1年間、もしくは次の総選挙まで党の役職を辞退する」という内規の対象となり謹慎中の身であり{{Sfn|海部|2010|pp=16-19}}、[[自由民主党の派閥|四大派閥]]([[平成研究会|竹下派]]・[[清和政策研究会|安倍派]]・[[宏池会|宮澤派]]・[[政策科学研究所|旧中曽根派]])はいずれも後釜の総裁候補を出せる状態になかった。 宇野が辞意を表明した7月24日、安倍が退院した{{Sfn|『平成政治史 1』|p=50}}。同日、[[小沢一郎]]、[[梶山静六]]、[[奥田敬和]]ら竹下派幹部は意見交換した。どの派もリーダーが総理になる前にナンバー2が手を挙げるわけにはいかない事情があったが{{Sfn|早坂|1991|pp=113-116}}、梶山はこの席で「橋本総裁でもいい」と発言。特に異論は起こらなかったため、一部に「橋本氏擁立」との情報が伝わった<ref>『中日新聞』1989年7月6日付朝刊、3面、「核心/ どうなる!?自民後継 カギ握る竹下派 橋本氏擁立ムードは高まるが... 金丸氏、冷ややか」。</ref>。 竹下の意中の候補は早稲田大学雄弁会の後輩で親しい関係にある海部であった。クリーンなイメージはリクルート後には相応しかったし、再登板も視野に影響力を維持したい竹下にとっては、若くはあるが決定的な世代交代に至らないという点でも好ましかった。何より、中小派閥の出身で独自に強い政治基盤を持たない海部は、竹下にとって統制しやすい存在でもあった。当時、竹下と海部は[[秀和永田町TBRビル|TBRビル]]に事務所を構えていた。竹下は4階、海部は10階。竹下に呼ばれた海部は7月26日、人目を忍ぶように竹下事務所に足を運んだ。竹下は、自派からの[[橋本龍太郎]]擁立は難しいことを海部に伝えた。ここから「海部俊樹首相」への道が始まった{{Sfn|『平成政治史 1』|p=52}}。 7月27日、安倍は竹下を私邸に訪ね、ポスト宇野の選出方法について意見交換した{{Sfn|『平成政治史 1』|p=50}}。 [[三番町 (千代田区)|三番町]]の自宅マンションの電話は朝から深夜まで鳴りっぱなしであった。議員や記者が連日押しかけてきた。7月29日、海部は妻と長男と長女を車に乗せ、逃れるように[[八ヶ岳]]のふもとのホテルに向かった。このころには海部も覚悟を決めていた。「俺も政治家として死ななきゃならんのだから、その前に精一杯のことをしたい」と家族に伝えるが、全員から反対される。二泊し、東京へ帰る車中でようやく妻が折れた{{Sfn|海部|2015|pp=13-15}}。 7月30日、元麻布の金丸邸に[[小渕恵三]]、小沢一郎、奥田敬和、梶山静六、[[羽田孜]]、[[渡部恒三]]ら竹下派幹部が顔を揃えた。ただしそこに橋本の姿だけがなかった。橋本への一本化は100人を超える派閥の分裂につながりかねなかったため、金丸は「橋本君にはもう少し人間修業をしてもらう」と述べた{{Sfn|『平成政治史 1』|pp=53-54}}。7月31日、竹下派は常任幹事会を開き、自派の候補者擁立を見送る方針を正式に確認した。同日、橋本は不出馬を表明<ref>『朝日新聞』1989年8月1日付朝刊、1面、「河本氏、自民後継総裁選出馬に強い意欲 派内も擁立めざす」。</ref>。 竹下派の派内調整が進行する中で、河本派内では領袖の[[河本敏夫]]の擁立の動きが続いていた。すでに78歳であったが、最後のチャンスと総裁選出馬への意欲を見せた。8月2日、河本は自派議員から個別に意見を聞く一方、安倍、金丸らと意見調整するが、説得された結果、出馬を断念した<ref>『中日新聞』1989年8月3日付朝刊、1面、「『海部総裁』が確実 自民党内の大勢支持 河本氏は出馬断念 石原氏ら推す動きも」。</ref>。同日、海部は記者会見し、出馬表明した<ref>『中日新聞』1989年8月3日付朝刊、23面、「『若さ』『清新』 リ社の影 海部さん緊張の会見 総裁選立候補 『責任ひしひし』 “雄弁”おさえて神妙」。</ref>。 同年8月8日に行われた[[1989年8月自由民主党総裁選挙|自由民主党総裁選挙]]には、海部のほか、宮澤派の支援を受けた二階堂派の[[林義郎]]、安倍派の[[石原慎太郎]]が立候補。いずれも派閥の長ではないという点で当時としては異例な総裁選となったが、最大派閥の竹下派の支持を得た海部が両者をおさえて[[自由民主党総裁]]に選ばれた。 === 内閣総理大臣 === [[ファイル:Bush and Kaifu pitch horseshoes.jpg|thumb|200px|[[1989年]][[9月1日]]、[[ホワイトハウス]]にて[[アメリカ合衆国大統領]][[ジョージ・H・W・ブッシュ]](右から1人目)と]] [[ファイル:Toshiki Kaifu and Mikhail Gorbachev 199104 (cropped).jpg|200px|サムネイル|[[1991年]][[4月18日]]、[[迎賓館赤坂離宮|赤坂迎賓館]]にて[[ソビエト連邦大統領|ソ連大統領]][[ミハイル・ゴルバチョフ]](左)と]] [[ファイル:17th G7 summit member 19910715.jpg|thumb|200px|[[1991年]][[7月15日]]、[[ロンドン]]で開催された第17回[[主要国首脳会議|先進7か国首脳会議]]にて]] ==== 就任 ==== 参院選の結果、自民党が過半数割れに追い込まれたことにより、[[ねじれ国会]]に突入した。首班指名選挙では、自民党が依然過半数を占めていた衆議院は海部、野党が過半数を確保した参議院は[[日本社会党委員長]]の[[土井たか子]]を指名した。[[日本国憲法第67条]]第2項の規定に基づき[[両院協議会]]で協議されたが、両院の意見は一致せず、衆議院で指名された海部が[[内閣総理大臣]]に就任した([[衆議院の優越]])。海部は初の昭和生まれの首相でもある。 海部が首相に就任したころは[[バブル景気]]の真っただ中で経済は好調だったが、いわゆる[[リクルート事件]]などによって国民の間に政治不信が強まっていた。それだけに、清新なイメージで颯爽と登場した海部に寄せられた党内外の期待感は大きかった。組閣においてはリクルート事件にかかわったとされる政治家に代わり、リクルートと関係の薄い政治家を優先的に登用した。このため党内の不満が高まり、後の[[政治改革四法|政治改革法案]]が廃案になる遠因にもなった。 [[第1次海部内閣]]発足直後、[[内閣官房長官]][[山下徳夫]]の女性スキャンダルが発覚する。海部はすぐさま山下を更迭し、[[環境大臣|環境庁長官]][[森山眞弓]]を横滑りさせて女性初の官房長官を誕生させ(後任の環境庁長官は[[志賀節]])、各種行事に夫婦同伴で出席するなどして女性層の支持拡大を目指した。 海部にとって最初の大きな課題は総選挙で勝利することだった。衆院任期切れが迫る中、自民党は次の総選挙で参院選と同様の敗北を喫することだけは避けねばならなかった。結果、1990年の[[第39回衆議院議員総選挙]]で自民党を大勝に導く<ref group="注釈">自民党は単独で275議席を獲得し、さらに保守系無所属の11議席を足して286議席となり、過半数を上回った。</ref>。1990年には首相として[[即位の礼]]を仕切り成功させた。 1990年[[9月28日]]、[[ニューヨーク大学]]から[[名誉博士|名誉博士号]]を、1991年[[7月10日]]、[[ボストン大学]]から名誉法学博士号を授与された<ref>{{Cite book|title=海部内閣総理大臣演説集|url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002229389-00|publisher=日本広報協会|date=1992|location=[東京]|first=海部|last=俊樹, 1931-}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://apnews.com/article/2fa564dbd8ed468314435ccc9333689a |title=Japanese Prime Minister Urges United States To Work With Japan With PM-Bush-Kaifu |accessdate=2022-01-19 |publisher=Associated Press News |date=1991-07-11}}</ref>。 ==== 党内基盤 ==== 党内基盤が脆弱であった海部は、自民党にとってはその場しのぎの「看板」という側面もあった。中小派閥である河本派の幹部である海部が総裁選に勝利したこと自体、元首相の竹下が自派の頭数をもって海部を押し上げたに過ぎなかった。例えば[[第1次海部内閣]]の発足時にあたっては、首班指名の1時間後にまず党三役が決定、即座に[[小沢一郎]]新幹事長らが党本部の幹事長室で各派と連絡を取りながら海部抜きで組閣を進め、隣の応接室で待たされる海部は一切関わることはなかった。そのあと首相官邸に海部と三役が移動して正式の組閣を小沢らの人選そのままに進み、首班指名からわずか5時間で新閣僚名簿が発表された{{Sfn|奥島|pp=234-235}}。 [[石原信雄]]の回顧録には「海部さんは重大な法案などを決める時には[[金丸信|金丸]]、[[竹下登|竹下]]両氏の判断を仰いでいた」と記され、自民党幹事長の[[小沢一郎]]からも「海部は本当に馬鹿だな。宇野の方がよっぽどましだ」と酷評され{{Refnest|group="注釈"|[[田崎史郎]]「小沢一郎との訣別」『[[文藝春秋]]』1994年10月号より。小沢の数々のオフレコ発言を明かした同記事で「担ぐ神輿は軽くてパーがいい」という小沢の発言が初めて明るみに出たが、これは、[[1982年]]の自民党総裁選挙で田中派が[[中曽根康弘]]を支持した時の小沢のコメントであり、海部を指したものではない。だが、海部を指した発言と誤って伝えられることがあり<ref>[[田原総一朗]]『テレビと権力』[[講談社]]、2006年、p.267。</ref><ref>[[浅川博忠|淺川博忠]]『「新党」盛衰史 新自由クラブから国民新党まで』[[講談社文庫]]・2005年、p.229。</ref>、海部自身も、人づてに小沢がそう評したことを聞いたと回顧録に書き記している{{Sfn|海部|2010|pp=101-102}}。}}、[[金竹小]]が海部以上に強い影響力を持っていた。 ==== 外交 ==== [[1991年]]、小沢主導により[[湾岸戦争]]の戦費として[[多国籍軍]]に130億米ドルもの資金を提供する{{要出典|date=2020年8月}}。当初、戦後[[クウェート]]の新聞に載せられた感謝広告に[[日本の国旗]]が掲示されなかったが、その後改められた。この施策に関し、[[右翼|右派]]からは「金だけだして人出さない」「似非国際貢献」「一国平和主義」、[[左翼|左派]]からは「アメリカの言いなりになり無駄金を拠出した」と批判されるなど、左右の[[知識人]]から批判を浴びた{{要出典|date=2020年8月}}。停戦後、[[自衛隊]]創設以来初の海外実任務となる[[海上自衛隊]][[掃海艇|掃海]]部隊を[[自衛隊ペルシャ湾派遣|ペルシャ湾に派遣]]する。1991年には[[ソビエト連邦|ソビエト]]首脳として最初で最後の来日となった[[ミハイル・ゴルバチョフ]]と会談している。 自民党総裁にして内閣総理大臣でもある海部は、小選挙区導入反対派の[[加藤紘一]]、[[山崎拓]]、[[小泉純一郎]]の「[[YKK (政治同盟)|YKK]]」などによる党内からの猛烈な倒閣運動を受けた。 [[六四天安門事件]]後、[[ヒューストン]]の[[第16回先進国首脳会議]]で円借款再開を表明し、世界から孤立しかかった[[中華人民共和国|中国]]に天安門事件後の西側先進国首脳では初めて訪問して円借款を再開させた<ref>{{cite web |last = |first = |title = 戦後の中日ハイレベル交流を振り返る (5) |publisher = [[人民網]] |url = http://jpn_cpc.people.com.cn/65014/7144836.html |accessdate = 2016-09-27 }}</ref>。ヒューストン・サミットを前に海部は対中制裁反対派の[[中曽根康弘]]・[[鈴木善幸]]・[[竹下登]]元首相に制裁解除を迫られていた<ref>{{cite web |last = |first = |title = Japan May Go Its Own Way on Economic Aid to China : Sanctions: Tokyo argues that Beijing should not be isolated from the world community. Kaifu will see Bush on Saturday. |publisher = [[ロサンゼルス・タイムズ]] |url = http://articles.latimes.com/1990-07-06/news/mn-163_1_economic-aid |date = 1990-07-06 |accessdate = 2016-10-25 }}</ref>。海部自身は、「中国に対して原則を貫いた」と語り、天安門事件の犠牲者の冥福を祈るため、訪中時に[[天安門広場]]で献花を行ったという<ref>[https://web.archive.org/web/20120118044437/http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=0525&f=column_0525_003.shtml サーチナ2010年5月25日配信のインタビュー記事]</ref>。当時のアメリカの[[ジョージ・H・W・ブッシュ]]大統領は[[アメリカ合衆国議会|議会]]と対立するほど制裁全面化に消極的であり<ref>{{cite web |last = |first = |title = U.S. GRANTS BOEING A WAIVER TO SELL JETLINERS TO CHINA |publisher = [[ニューヨーク・タイムズ]] |url = http://www.nytimes.com/1989/07/08/business/us-grants-boeing-a-waiver-to-sell-jetliners-to-china.html |date = 1989-07-08 |accessdate = 2016-10-25 }}</ref><ref>{{cite web |last = |first = |title = PRESIDENT WAIVES SOME CHINA CURBS |publisher = [[ニューヨーク・タイムズ]] |url = http://www.nytimes.com/1989/12/20/world/president-waives-some-china-curbs.html |date = 1989-12-20 |accessdate = 2016-10-25 }}</ref><ref>George Bush『All the Best, George Bush: My Life in Letters and Other Writings』435頁 1999年 ISBN 978-1501106675</ref>、秘密裏に[[ヘンリー・キッシンジャー]]やブレント・スコウクロフトを中国に派遣して民主化運動家の[[方励之]]の出国をめぐる交渉を行っていたとされる<ref name="Kissinger">{{cite book|title=Henry Kissinger: On China|publisher=Allen Lane|author=Kissinger, Henry|year=2011|location=United States|isbn=978-1-84614-346-5}} p.429</ref><ref>Spence, Jonathan D. ''Kissinger and China'', The New York Review of Books, June 2011.</ref><ref name=nyrb2011>"My "Confession", Fang Lizhi, translated by Perry Link. The New York Review of Books, 2011.</ref>。方励之の出国を条件に融資再開を日本は中国に持ちかけたともされ<ref name=nyrb2011/>、ブッシュは[[第16回先進国首脳会議]]で対中円借款再開を表明した海部に同調した<ref>{{cite web |last= |first= |title=COLUMN ONE : China Taps Into World Coffers : The story of Beijing's successful run on the World Bank is a tale of persistence (by China), of avarice (in Western Europe and Japan) and of intrigue (by the Bush Administration) |publisher=[[ロサンゼルス・タイムズ]] |url=http://articles.latimes.com/1992-10-30/news/mn-985_1_world-bank-loans/|date=1992-10-30|accessdate=2017-12-26}}</ref>。 1991年に民主化後初の[[大統領 (大韓民国)|大韓民国大統領]]である[[盧泰愚]]と会談し、その席で懸案であった[[在日韓国・朝鮮人|在日韓国人]]の[[指紋押捺]]の廃止を約束し、その後実施された。 ==== 内閣総辞職 ==== 湾岸危機や国連平和協力法案の廃案といった困難はあったが、政権支持率は概ね高水準で推移し、海部は政権運営に自信を深めていく。そして[[政治改革四法|政治改革関連法案]]の成立に意欲を燃やしたが、国会で審議未了廃案となったことを受け、「'''重大な決意で臨む'''」と発言。これが衆議院の解散を意味する発言であると受け取られた。首相にとって「伝家の宝刀」の異名を持つ[[衆議院解散|解散権]]は、総理大臣の専権事項である。しかし、自民党内の反海部勢力から大反対の合唱が起こった([[海部おろし]])。最後には海部をバックアップするはずだった竹下派親小沢勢力でさえ明確に解散不支持を表明したため、海部は結局解散に踏み切ることができなかった。また、それまで海部を支持してきた竹下派親小沢勢力が海部の不支持を表明し、[[宮澤喜一]]、[[三塚博]]、[[渡辺美智雄]]ら反海部の派閥の領袖たちが総裁選に立候補を表明した。これにより、海部を支持するのは自身の派閥である小派閥の河本派だけとなり、総裁選に再選できる道は閉ざされた。 1991年11月5日、海部は総理大臣を辞職。在任中は竹下派に手足を縛られて思い通りの政権運営はままならず、PKOや政治改革といった重要課題は次期政権に持ち越すことになった。バブル景気末期や[[冷戦]]体制の終焉といった激動の時期に総理の座にありながら、海部本人が政治的なイニシアチブを取った形跡もなく、政権として目立った実績は乏しい。しかし決定的な失政があったとみなされたわけでもなく、本人のクリーンで爽やかなイメージは根強い国民の支持を得続けた。在任中の内閣支持率は高い時で64%、退任直前でさえも50%を超えており<ref>北岡伸一『自民党』所収のデータなど参照</ref><ref>{{Cite web|和書|title=【アーカイブ】海部俊樹 海外への自衛隊、酢豚の味わい:朝日新聞デジタル|url=https://www.asahi.com/articles/ASQ1G34YSQ1GDIFI001.html|website=朝日新聞デジタル|accessdate=2022-01-14|language=ja}}</ref>、煮え切らない不完全燃焼の中での退陣となった<ref>[[八幡和郎]]『歴代総理の通信簿』 [[PHP新書]]。</ref>。 首相在任日数818日間は、日本国憲法下において衆議院で[[内閣不信任決議]]が採決されなかった内閣の首相としては最長日数記録である。 === 自民党離党と復党、政界引退 === [[1994年]]6月29日、自民党総裁の[[河野洋平]]が、党の政権復帰のため[[日本社会党]]、[[新党さきがけ]]と[[自社さ連立政権]]構想で合意し、首班指名で社会党の[[村山富市]]に投票することを決めると、これを拒否して自民党を離党した。同じく造反した[[津島雄二]]の説得により、旧[[連立政権|連立与党]]である[[新生党]]や[[日本新党]]から首班指名の統一候補として担がれるも、自民党からの造反は期待されたほどは起こらず、決選投票で敗れることになる。 同年7月18日、公職選挙法235条違反による裁判で参議院議員の[[新間正次]]の有罪判決が確定。新間の当選無効に伴う[[再選挙]]<ref>{{Cite web|和書|date= |url=http://www.city.chiryu.aichi.jp/ikkrwebBrowse/material/files/16-3-H60702sai.pdf |title=参議院愛知県選出議員再選挙 平成6年7月2日新間正次当選無効 |format=PDF |publisher=知立市役所 |accessdate=2018-12-14 }}</ref>で野党9党派は[[労働省|労働]][[官僚]]の[[都築譲]]を擁立し、7月27日、海部は都築の総合選対本部長に就任した<ref name="chunichi19940728">『中日新聞』1994年7月28日付朝刊、27面、「政界流動化 夏の陣/ 自民愛知県連 海部氏と“絶縁”宣言 野党の選対本部長就任 村田会長らが反発」。</ref>。対する自民党は国連職員の水野時朗に出馬要請し、党県連会長の[[村田敬次郎]]は海部と絶縁する宣言を行った。海部の番頭格だった服部光孝[[愛知県議会|県議]]も「25年間の縁を切る」と強い口調で述べ、自民党との溝は一層深まった<ref name="chunichi19940728" />。また、7月27日に海部は[[自由改革連合]]を結成して代表に就任している。 同年12月10日、[[新進党]]を結党して初代党首に就任。[[自由民主党総裁|自民党総裁]]を務めた人物が離党し他党の党首となるのは極めて異例({{CURRENTYEAR-JST}}年現在唯一の事例)。同じ旧愛知3区の[[江崎鐵磨]]も新進党結成に参加した。 同年11月21日に[[政治改革四法]]における小選挙区の具体的な区割り法案が国会で可決<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.secj.jp/s_library/seiji_chronology_2.html | title= 政治改革の軌跡 1993年~1994年 |website=21世紀臨調オフィシャルホームページ |publisher= [[新しい日本をつくる国民会議]] | date= | accessdate = 2021-12-21 }}</ref>。海部も江崎鉄磨も一宮市を含む愛知10区の公認を主張して譲らなかったが、1995年3月17日、新進党本部の調整で海部は愛知9区、江崎は愛知10区と決まり、両現職の戦争は回避された<ref>『中日新聞』1995年3月17日付夕刊、1面、「海部氏は愛知9区に 比例と重複 10区は江崎氏 次期衆院選 新進党公認」。</ref>。 新進党分党後は1年1ヶ月の[[無所属]]暮らし([[院内会派]]「[[無所属の会 (1999)|無所属の会]]」)を経て、自民党との連立政権に加わった[[自由党 (日本 1998-2003)|自由党]]に入党。[[2000年]]の同党分裂の際には、自民連立継続派の保守党に所属する。 [[保守新党]]に改組して臨んだ[[2003年]]に[[第43回衆議院議員総選挙]]では、[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]の新人[[岡本充功]]に比例復活を許したが、小選挙区勝利で連続当選記録を伸ばし、選挙直後に吸収合併される形で自民党に復党した。復党後は古巣河本派の後継である[[番町政策研究所|高村派]]には戻らず、[[二階俊博]]ら一緒に復党した旧保守新党議員らと[[新しい波 (派閥)|二階グループ]]を結成した。自民党復党の折には[[自由民主党幹事長|自民党幹事長]][[安倍晋三]]から復党を「諸手をあげて歓迎します」と言われ、離党した際に撤去された海部の[[肖像画]]も再び掲額された。 [[2009年]]の[[第45回衆議院議員総選挙]]にて、小選挙区で民主党の岡本に8万票以上の大差をつけられ惨敗し、党の73歳定年制もあって重複立候補できなかったため、比例復活もできず落選した。同日、政界引退を表明。海部は総理大臣在任中の成果を強調し選挙に挑んだが、海部の首相時代を知らない若い世代の有権者が増えたことも落選の一因とされる。首相経験者が落選したのは、1963年の[[第30回衆議院議員総選挙]]の[[石橋湛山]]、[[片山哲]]以来46年振り<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/election/shugiin2009/news/20090831-OYT1T00059.htm 首相経験者の落選、46年ぶり] YOMIURI ONLINE 読売新聞2009年8月31日</ref>、自民党総裁経験者としては石橋以来2人目である。解散時点で海部の連続当選回数は16回、勤続年数48年9ヶ月と衆議院議員としては現職トップだった。このとき当選していれば、[[尾崎行雄]]や師匠である三木などに続いて[[名誉議員|衆議院議員在職五十年]]に到達するところであった。 === 政界引退後 === 政界引退後は、[[世界連邦運動]]協会会長、[[日本ソフトテニス連盟]]会長、[[大正琴協会]]理事長、[[日本ティーボール協会]]会長などを務めた。また、[[三木睦子]]が理事を務める[[中央政策研究所]]では最高顧問を務める。[[2010年]]には[[回想録]]『政治とカネ』を[[新潮新書]]から出版した。 [[2011年]]、[[桐花大綬章]]、名誉愛知県民章を受章。[[2012年]]3月、[[中華民国]]の[[国立中央大学]]より名誉博士称号を授与される<ref>[http://www.roc-taiwan.org/JP/ct.asp?xItem=262523&ctNode=1453&mp=202 馬英九総統が海部俊樹・元首相と会見] 台北経済文化代表処ホームページ 2012年3月9日</ref>。同年9月、自民党総裁選に立候補した[[町村信孝]]の表敬訪問を受け、激励した。[[2014年]]から[[中日新聞]]県内版(愛知県向け紙面)に『海部俊樹回想録』を連載した。また、[[清華大学]]の出資を受ける道紀忠華シンクタンクの顧問を務めていた。 [[2019年]][[11月29日]]に[[中曽根康弘]]元首相が死去したことにより首相経験者で最古参になった。また、この時存命の首相経験者としては[[村山富市]]([[1924年]][[3月3日]]生まれで{{年数|1924|3|3}}歳)の次に高齢であった。最高齢の総理大臣経験者と最古参の総理大臣経験者が異なるのは、[[1993年]][[12月16日]]に[[田中角栄]]が死去して以来であった(田中は死去時点で最古参の首相経験者であったが、最高齢の首相経験者は[[福田赳夫]]であったため)。 2022年1月9日4時、肺炎のため[[東京都]]内の病院で死去<ref name="20220109chunichi">{{Cite news|url=https://www.chunichi.co.jp/article/400018|title=海部俊樹元首相が死去 91歳|newspaper=[[中日新聞]]|date=2022-01-14|accessdate=2022-01-14}}</ref><ref name="20220109nagoyatv">{{Cite news|url=https://www.nagoyatv.com/news/?id=010857|title=海部俊樹元総理が死去 91歳|newspaper=[[名古屋テレビ]]|date=2022-01-14|accessdate=2022-01-14}}</ref>(読売新聞、時事通信、NHKは死因を[[老衰]]としている<ref name="20220109yomiuri">{{Cite news|url=https://www.yomiuri.co.jp/politics/20220114-OYT1T50062/|title=海部俊樹・元首相が老衰で死去、91歳…初の昭和生まれの首相|newspaper=[[読売新聞]]|date=2022-01-14|accessdate=2022-01-14}}</ref><ref name="20220109jiji">{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20220114085457/https://www.jiji.com/jc/article?k=2022011400328&g=pol/|title=海部元首相が死去、91歳 自衛隊初の海外派遣|newspaper=[[時事通信社]]|date=2022-01-14|accessdate=2022-01-14}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=海部俊樹元首相が死去 91歳 |publisher=NHK |date=2022-01-14 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220114/k10013429971000.html?utm_int=nsearch_contents_search-items_001 |accessdate=2022-01-14}} </ref>)。{{没年齢|1931|1|2|2022|1|9}}。政府は18日の閣議で[[正二位]]叙位と[[大勲位菊花大綬章]]追贈を決定した。海部の死去に伴い、[[細川護熙]]が最古参の首相経験者となった(最高齢は村山富市のまま)。 == 主な役職 == * [[世界連邦運動#日本での活動|世界連邦運動協会]]会長 * [[日本ソフトテニス連盟]]会長 * [[日本ティーボール]]協会会長 * [[大正琴協会]]理事長 * EU・ジャパンフェスト日本委員会最高顧問 * 地球環境行動会議 (GEA) 最高顧問 * [[中央政策研究所]]最高顧問 * [[教育美術振興会]]会長 * 公益財団法人中部日本書道会名誉会長 * 道紀忠華シンクタンク顧問 * 公益社団法人全日本アーチェリー連盟名誉会長 == エピソード == === 中国訪問 === [[南京事件]]については、日本軍による虐殺を認めた立場を取っている。[[2010年]]に中国の招待で訪中した際に[[南京事件論争]]に触れ、「日本は歴史上、南京市民に対して許されない過ちを犯してしまった。1人の政治家として、南京市民に深くお詫びを申し上げたい」と市民への謝罪を行った。 === ネクタイ === [[ファイル:Toshiki Kaifu 1985.jpg|thumb|180px|2度目の[[文部大臣]]時代の海部(水玉模様のネクタイを着用・[[1985年]]ごろ)]] [[水玉模様]]の[[ネクタイ]]を[[トレードマーク]]としている事で知られる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/202201140000331.html|title=海部俊樹元首相が愛した自民党のカレー 94年離党時に「心残り」漏らす|publisher=日刊スポーツ|date=2022-01-14|accessdate=2022-01-14}}</ref>。これは、三木内閣の官房副長官時代に[[日本国有鉄道|国鉄]]の[[スト権スト]]問題でテレビの討論番組に出演した際、対処で多忙を極め帰宅もままならぬ時期であったことから、たまたま水玉模様の同じネクタイを連日連夜着用し続けていたことに関して視聴者から[[漫才#ボケとツッコミ|ツッコミ]]が入る一幕があり、それを機に意図的に自らのトレードマークとして決めたという経緯によるものである(なお、この討論番組では当時、公共企業体等労働組合協議会事務局長であった[[富塚三夫]]に対して[[#弁論|後述の弁論経験]]を活かした一歩も引かぬ弁舌を披露し、「自民党に海部あり」と言わしめ、その後出世街道を歩む端緒となった)。首相時代には水玉模様のネクタイばかり600本以上も持っていたと語っており、広島と長崎の平和記念式典にも黒地に黒の水玉模様のネクタイをして出席していたほどの徹底ぶりであった(表向きは[[喪服]]用の黒いネクタイだが、明るい場所で見ると仄かに水玉模様が見える)。また、昭和天皇の大喪の礼でも同じく黒地に黒の水玉模様のネクタイをして注目を浴びた。 === 弁論 === [[東海中学校・高等学校|旧制東海中学]]時代には自ら弁論部を創設し地区大会で優勝するなど早くから弁論で頭角を現し、旧制[[中央大学]][[大学専門部 (旧制)|専門部]]法科入学と共に[[中央大学辞達学会]](弁論部)に所属し、数々の弁論大会で活躍。同大学卒業後、一旦は法務省に事務官として入省するも退職し、同郷の代議士[[河野金昇]]の書生(議員秘書)を務め、河野の母校でもある早稲田大学第二法学部法律学科へ編入学し、[[早稲田大学雄弁会]]に所属。早大在学中は雄弁会で弁論術の研鑚及び人脈作りに勤しんだ。学生弁論大会で優勝した折には、審査委員の一人だった[[早稲田大学]]総長の[[時子山常三郎]]から「海部君(の演説)に勝る者はいない。海部の前に海部なし、海部のあとに海部なしだ」と評されている。同年代の雄弁会仲間には[[渡部恒三]]などがおり、この時代に培った人脈が政界入り後に大きな力となって、小派閥の番頭格でありながら首相のポストを得る原動力となった。当時は[[単独講和]]反対を主張していたと言われている<ref>[[永川幸樹]] 『早大雄弁会―それぞれの人生劇場』 [[ベストセラーズ]]、 2001年11月。</ref>。 === 「29」との縁 === [[1960年]]に行われた[[第29回衆議院議員総選挙|第'''29'''回衆議院議員総選挙]]に、河野金昇の死後、後継として出馬して一期務めた未亡人[[河野孝子]]の後継者として出馬。応援演説に来た[[井出一太郎]]が放った「'''サイフは落としてもカイフは落とすな'''」というキャッチフレーズで人気が沸騰し当選した。 このとき海部の年齢は'''29'''歳であり、また初めて入った[[議員会館]]の部屋も'''29'''号室であったことから、「29回総選挙に29歳で当選したから、29年後、[[内閣総理大臣|総理大臣]]になって恩返しする」と公言していた<ref name=":0">{{Cite news|title=第76・77代総理大臣 海部俊樹【歴代総理列伝】|newspaper=[[TBS]]|date=2022-04-13|url=https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/22559|access-date=2022-10-17}}</ref>。しかし自民党内では傍流である三木派に属していたため当時は総理になること自体が現実味のある話とは見做されておらず、また本人も講演会などの挨拶における半ば冗談交じりのネタとして用いていた。 ところが、後に[[#自由民主党総裁|前述の条件]]が重なったことにより、初当選から奇しくも'''29'''年後の[[1989年]]、公言通り総理大臣就任が実現した。 総理就任から一ヶ月後、[[大相撲]]で通算勝ち星記録を更新した[[横綱]]・[[千代の富士貢]]に[[国民栄誉賞]]を授与したが、この直前、大相撲九月場所で千代の富士は'''29'''回目の優勝を達成しており、かつ授与式が行われたのも9月'''29'''日であった。 === 秘書 === 首相の座を射止めたことから、多くの秘書が政治家として勇躍した。 * [[田中志典]] - 元犬山市長、元愛知県議会議員。 * [[熊田裕通]] - 衆議院議員、元愛知県議会議員。 * [[長坂康正]] - 衆議院議員、元愛知県議会議員。 * 岩村進次 - 元愛知県議会議員、元議長。私設秘書に暴行を加えた事件が明るみとなり<ref>{{cite news |author= |url= https://www.nikkei.com/article/DGXMZO26069410U8A120C1CN0000/ | title= 岩村愛知県議が自民党離党 秘書への暴行問題で | newspaper= 日本経済新聞 | date= 2018-1-24 | accessdate = 2020-1-23 }}</ref>、[[2019年愛知県議会議員選挙|2019年の選挙]]で落選。 * 西川学 - [[名古屋市会|名古屋市会議員]]。大学在学中に海部の事務所見習いとなる<ref>{{cite news |url= https://static.chunichi.co.jp/chunichi/archives/hold/senkyo/chihosen2015/aichi/CK2015033102000267.html | title= <なごや市議選 立候補予定者の顔ぶれ>(2) | newspaper= 中日新聞 | date= 2015-3-31 | accessdate= 2021-3-10 }}</ref><ref>[http://hisakun.jp/profile/ プロフィール - 名古屋市会議員 西川ひさし公式ホームページ]</ref>。 === ヒューストン・サミット === [[ファイル:16th G7 summit member 19900709.jpg|thumb|200px|[[1990年]][[7月9日]]、[[テキサス州]][[ヒューストン]]で開催された第16回主要国首脳会議にて]] [[1990年]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・ヒューストンで開催された[[第16回先進国首脳会議]]における首脳記念撮影の際、海部が身振りを交えて英語で軽い冗談を飛ばしたところ大受けとなり、アメリカ合衆国大統領[[ジョージ・H・W・ブッシュ|ブッシュ]]、イギリス首相[[マーガレット・サッチャー|サッチャー]]、カナダ首相[[ブライアン・マルルーニー|マルルーニー]]が爆笑している場面の写真が全世界に配信された。 海部によれば、以下のようなやり取りがあったという{{efn|当時の[[カナダ]]は独立後8年目である。1931年に[[ウエストミンスター憲章]]によって[[イギリス帝国]]からの独立性が認められたものの、[[1982年憲法]]制定をもって[[政治体制|政体]]が安定した<ref>[https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_3487777_po_201101d.pdf?contentNo=1 カナダ憲法 - 国立国会図書館デジタルコレクション]</ref>。}}。 {{Quotation|とにかく、暑くてね。屋外で記念写真を撮影した時ですが、カナダのマルルーニー首相(当時、以下同)が、「アメリカは田舎だから、暑くてたまらない。カナダはこんなに暑くない」なんて、言っておるんですよ。冗談の好きな男でね。撮影のために並んだら、「暑い、暑い。俺はぶっ倒れる」なんて言うんだ。私はちょうど、マルルーニーの左隣にいましてね。あっち側(マルルーニー首相の右隣)はサッチャー英首相だった。だから「カナダが倒れたら、日本は支えきれないぞ。あっち側に倒れろ、鉄の女になんとかしてもらえ」と言ったんですね。これが、ブッシュ米大統領、サッチャー英首相、マルルーニー加首相の爆笑を誘った<ref>[https://web.archive.org/web/20120118044139/http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=0521&f=column_0521_004.shtml サーチナ2010年5月21日配信のインタビュー記事]</ref>。}} === パフォーマンス === 内閣総理大臣就任後は、国民の人気を得るためにさまざまな[[パフォーマンス]]を行った<ref name=":0" />。[[スポーツの日 (日本)|体育の日]]には国民とともに体力テストとして[[反復横跳び]]を行ったことや、また[[内閣総理大臣公邸|首相公邸]]へ高齢者を招待して[[ゲートボール]]を遊んだこともあった<ref name=":0" />。 === その他 === * 首相就任中の[[1991年]]に放映されたテレビアニメ『[[ルパン三世 ナポレオンの辞書を奪え]]』に登場するゲストキャラクター「海辺(うみべ)首相」のモデルとなっている。ちなみに、海辺首相の口癖は「幹事長とも相談しますが」であり、当時の自民党幹事長小沢一郎との力関係を揶揄したパロディとなっている。 * 首相退任後、バラエティ番組『[[三枝の愛ラブ!爆笑クリニック]]』に夫婦で出演した。 * 若年のころから[[三木武夫]]を政治家として尊敬して親交を持ち、[[三木睦子]]からは息子のように可愛がられた。睦子から「俊樹ちゃん」と呼ばれている姿がテレビなどで報じられるうち、いつしか視聴者の間でも「俊樹ちゃん」が愛称として定着した。 * 記録的な長寿で話題となった双子姉妹、[[きんさんぎんさん|成田きんと蟹江ぎん]]は生前、「尊敬する[[政治家]]」として海部の名を挙げていた。海部はきんの葬儀委員長を務めている。 * [[長渕剛]]の曲「親知らず」の歌詞の中に、[[ミハイル・ゴルバチョフ]]、[[サッダーム・フセイン]]、[[ジョージ・H・W・ブッシュ]]と共に登場する。 * 映画『[[小説吉田学校]]』(1983年)では、[[福田勝洋]]が海部を演じた。 * 総理として国民栄誉賞を授与した千代の富士との因縁もあってか、1990年5月26日には大相撲夏場所14日目を国技館の貴賓席で観戦した<ref group="注釈">現職総理の国技館での観戦は岸信介以来であり、その後も小泉純一郎が貴賓席で観戦している。</ref>。[[2016年]]7月31日に千代の富士が逝去した際には弔電を送っている<ref>[http://www.hochi.co.jp/sports/sumo/20160807-OHT1T50277.html 巨人前監督・原氏、千代の富士さん告別式で思い出語った「我々の世代では大ヒーロー」][[スポーツ報知]](2016年8月8日6時0分){{リンク切れ|date=2017年9月}}</ref>。 * 2度目の文部大臣就任直後に[[岡田有希子]]が自殺。衆議院文教委員会で[[江田五月]]が採り上げ質問した際に「アイドルは皆に夢を与える存在。どうか命を大切にして欲しい、強くたくましく生きて欲しいものです」と答弁した<ref>[https://www.eda-jp.com/satsuki/kokkai/1986/860409.html 104 衆議院・文教委員会] 江田五月公式サイト</ref>。 == 家族・親族 == *[[テレビプロデューサー]]、[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]プロデューサーの[[海部正樹]]は長男。葬儀では喪主を務めた<ref name="20220109jiji" />。 *長女・睦(1963年7月19日生)<ref>人事興信録45版か55</ref> *曽祖父の[[海部昂蔵]]は[[尾張徳川家]]の[[家令]]、[[尾張徳川家#御相談人|御相談人]]を務めた。 *[[外交官]]の[[海部篤]]は甥<ref>[https://twitter.com/senkyo/status/1169143279839043584?lang=ar 〖 政 治( 聖 路 ) 動向・観察・監視・評 論 家 〗]</ref>。 *[[天文学者]]の[[海部宣男]]、2008年に[[ノーベル物理学賞]]を受賞した[[小林誠 (物理学者)|小林誠]]、シンコーホーム詐欺事件で2002年に有罪判決を受けたシンコーホーム元常務の'''海部俊一'''は従弟。 *[[名古屋コーチン]]の生みの親として知られる、旧[[尾張藩|尾張]][[藩士]]の[[海部壮平]]・'''海部正秀'''兄弟は遠い親戚(壮平・正秀の姉の曾孫)。 == 略歴 == [[ファイル:Kaifu-Toshiki-1.jpg|thumb|180px|1967年ごろの海部]] *[[1948年]] - 旧制東海中学(現・[[東海中学校・高等学校]])卒業。 *[[1951年]] - 旧制[[中央大学]][[大学専門部 (旧制)|専門部]]法科卒業、[[法務省]]に事務官として入省。 *[[1952年]] - 河野金昇代議士の秘書をしながら新制[[早稲田大学]][[法学部|第二法学部]]法律学科3年次に[[編入学]]、在学時は雄弁会に所属する(副幹事長に就任)。 *[[1954年]] - 早稲田大学第二法学部法律学科卒業、法学士号取得。 *[[1956年]] - 早稲田大学大学院法学研究科修士課程中途退学。 *[[1960年]][[11月20日]] - [[第29回衆議院議員総選挙]]に全国最年少で当選、以降連続当選16期を数えた。 *[[1966年]][[8月1日]] - 労働政務次官([[第1次佐藤内閣 (第3次改造)|第1次佐藤内閣第3次改造内閣]])。 *[[1974年]]12月9日 - [[内閣官房副長官]]([[三木内閣]])。 *[[1976年]]12月24日 - [[文部大臣]]([[福田赳夫内閣]])。 *[[1985年]]12月28日 - 文部大臣([[第2次中曽根内閣 (第2次改造)|第2次中曽根内閣第2次改造内閣]])。 *[[1989年]][[8月10日]] - 第76代内閣総理大臣。 *[[1990年]] **[[2月28日]] - 第77代内閣総理大臣。 **12月29日 - 第2次海部改造内閣発足。 *[[1991年]] **10月 - [[橋本龍太郎]]の辞任を受け、[[財務大臣 (日本)|大蔵大臣]]を兼任。 **11月 - 内閣総辞職により内閣総理大臣を辞任。 *[[1994年]] **6月 - 自民党離党。[[高志会]]を経て7月に[[自由改革連合]]代表。 **12月 - [[新進党]]初代党首。 *[[1998年]]1月 - 新進党分党に伴い無所属(院内会派「無所属の会」)。 *[[1999年]]1月 - [[自由党 (日本 1998-2003)|自由党]]に入党し、党最高顧問に就任。 *[[2000年]]4月 - 保守党最高顧問。 *[[2002年]]12月 - [[保守新党]]最高顧問。 *[[2003年]]11月 - 保守新党解党に伴い自民党復党。[[新しい波 (派閥)|二階グループ]]最高顧問に就任。 *[[2009年]][[8月30日]] - [[第45回衆議院議員総選挙]]に17回目の当選を目指して出馬するも、[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]の[[岡本充功]]に敗れ落選。同日政界引退を表明。 *[[2011年]] - 桐花大綬章を受章<ref>[http://www.jiji.com/jc/zc?key=%b3%a4%c9%f4&k=201106/2011061800076 大綬章受章者]</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www8.cao.go.jp/shokun/hatsurei/23haru/meibo_jokun/toka-daijusho.pdf|title=平成23年春の叙勲 桐花大綬章受章者|format=PDF|accessdate=2023-02-10|publisher=[[内閣府]]|date =2011/04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160404155201/http://www8.cao.go.jp/shokun/hatsurei/23haru/meibo_jokun/toka-daijusho.pdf|archivedate=2016年4月4日|deadlinkdate=2023年2月}}</ref>。名誉愛知県民章を受章。 *[[2022年]][[1月9日]]4時、死去<ref name="20220109chunichi" /><ref name="20220109nagoyatv" /><ref name="20220109yomiuri" /><ref name="20220109jiji" />。{{没年齢|1931|1|2|2022|1|9}}。死没日付をもって大勲位菊花大綬章受章。 == 選挙歴 == {{選挙歴 |衆|当落1=当|選挙名1=29|選挙区1=[[愛知県第3区 (中選挙区)|旧愛知3区]]|政党名1=[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]|得票数1=49,767|得票率1=19.04%|定数1=3|得票順1=3|候補者1=7|年齢1=29 |衆|当落2=当|選挙名2=30|選挙区2=旧愛知3区|政党名2=自由民主党|得票数2=57,586|得票率2=22.27%|定数2=3|得票順2=3|候補者2=5|年齢2=32 |衆|当落3=当|選挙名3=31|選挙区3=旧愛知3区|政党名3=自由民主党|得票数3=80,874|得票率3=28.75%|定数3=3|得票順3=2|候補者3=4|年齢3=36 |衆|当落4=当|選挙名4=32|選挙区4=旧愛知3区|政党名4=自由民主党|得票数4=82,695|得票率4=29.53%|定数4=3|得票順4=2|候補者4=4|年齢4=38 |衆|当落5=当|選挙名5=33|選挙区5=旧愛知3区|政党名5=自由民主党|得票数5=87,733|得票率5=22.94%|定数5=3|得票順5=3|候補者5=5|年齢5=41 |衆|当落6=当|選挙名6=34|選挙区6=旧愛知3区|政党名6=自由民主党|得票数6=151,151|得票率6=37.69%|定数6=3|得票順6=1|候補者6=5|年齢6=45 |衆|当落7=当|選挙名7=35|選挙区7=旧愛知3区|政党名7=自由民主党|得票数7=119,049|得票率7=28.62%|定数7=3|得票順7=1|候補者7=5|年齢7=48 |衆|当落8=当|選挙名8=36|選挙区8=旧愛知3区|政党名8=自由民主党|得票数8=145,322|得票率8=30.96%|定数8=3|得票順8=1|候補者8=5|年齢8=49 |衆|当落9=当|選挙名9=37|選挙区9=旧愛知3区|政党名9=自由民主党|得票数9=123,415|得票率9=29.00%|定数9=3|得票順9=1|候補者9=5|年齢9=52 |衆|当落10=当|選挙名10=38|選挙区10=旧愛知3区|政党名10=自由民主党|得票数10=133,829|得票率10=28.09%|定数10=3|得票順10=1|候補者10=5|年齢10=55 |衆|当落11=当|選挙名11=39|選挙区11=旧愛知3区|政党名11=自由民主党|得票数11=195,713|得票率11=36.19%|定数11=3|得票順11=1|候補者11=6|年齢11=59 |衆|当落12=当|選挙名12=40|選挙区12=旧愛知3区|政党名12=自由民主党|得票数12=194,863|得票率12=37.87%|定数12=3|得票順12=1|候補者12=9|年齢12=62 |衆|当落13=当|選挙名13=41|選挙区13=[[愛知県第9区|愛知9区]]|政党名13=[[新進党]]|得票数13=111,578|得票率13=47.68%|定数13=1|得票順13=1|候補者13=7|年齢13=65 |衆|当落14=当|選挙名14=42|選挙区14=愛知9区|政党名14=保守党|得票数14=122,175|得票率14=53.16%|定数14=1|得票順14=1|候補者14=5|年齢14=69 |衆|当落15=当|選挙名15=43|選挙区15=愛知9区|政党名15=[[保守新党]]|得票数15=104,075|得票率15=44.59%|定数15=1|得票順15=1|候補者15=4|年齢15=72 |衆|当落16=当|選挙名16=44|選挙区16=愛知9区|政党名16=自由民主党|得票数16=130,771|得票率16=47.66%|定数16=1|得票順16=1|候補者16=4|年齢16=74 |衆|当落17=落|選挙名17=45|選挙区17=愛知9区|政党名17=自由民主党|得票数17=100,549|得票率17=34.75%|定数17=1|得票順17=2|候補者17=3|年齢17=78 }} == 著書 == *『模範スピーチ385選』有紀書房、1968年1月1日 *{{Cite book|和書|title=未来への選択 : 創造と充実の時代へ|publisher=[[徳間書店]]|date=1981-03-19|id={{NDLJP|11924810}}}} *{{Cite book|和書|title=21世紀を目指す : 海部俊樹鼎談集|publisher=[[共同通信社]]|date=1985-06-24|id={{NDLJP|11926067}}}} *『志ある国家 日本の構想』[[東洋経済新報社]]、1995年7月1日 *{{Cite book|和書|date=2010-11-20 |title=政治とカネ―海部俊樹回顧録 |publisher=[[新潮新書]] |isbn=978-4-10610394-0}} *{{Cite book|和書|others=垣見洋樹編 |date=2015-12-01 |title=海部俊樹回想録―自我作古 |publisher=人間社 |isbn=978-4931388956}} ** 初出『中日新聞』2014年6月24日~2015年3月25日連載、全57回。 === 共編 === *『ニューメディア・ルネッサンス 多彩な執筆陣が見通すニューメディアの未来像』自由民主党昭和会共編. 紀尾井書房, 1985.6 *『モンゴル馬ダライフレグの奇跡 日本とモンゴル友好のかけ橋になった名馬の物語』[[志茂田景樹]]共著, 笹森識 絵, 籾山彩恵子英訳,[[宮田修]]企画・監修. Kiba book, 2006.7 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|25em}} == 参考文献 == * {{Cite book |和書 |author = [[奥島貞雄]] |title = 自民党幹事長室の30年 |date = 2005年9月25日 |publisher = [[中央公論新社]] |series = [[中公文庫]] |isbn = 978-4122045934 |ref = {{SfnRef|奥島}} }} * {{Cite book|和書 |author=[[後藤謙次]] |date=2014-4-17 |title=ドキュメント 平成政治史 1 崩壊する55年体制 |publisher=[[岩波書店]] |isbn=978-4000281676 |ref={{SfnRef|『平成政治史 1』}} |year=2014}} * {{Cite book|和書 |author = 海部俊樹 |date = 2010年11月20日 |title = 政治とカネ―海部俊樹回顧録 |publisher = [[新潮社]] |series = [[新潮新書]] |isbn = 978-4-10610394-0 |ref = {{SfnRef|海部|2010}} }} * {{Cite book|和書 |date = 2015年12月1日 |title = 海部俊樹回想録―自我作古 |editor = 垣見洋樹編 |publisher = 人間社 |isbn = 978-4931388956 |ref = {{SfnRef|海部|2015}} }} * {{Cite book|和書 |author = [[早坂茂三]] |year = 1991-12-12 |title = 権力の司祭たち |publish = [[飛鳥新社]] |isbn = 978-4870311039 |ref = {{SfnRef|早坂|1991}} }} == 関連項目 == * [[ネオ・ニューリーダー]] * [[中道新党構想]] * [[PKO国会]] * [[在日特権]] * [[六四天安門事件]] * [[最年少帝国・国会議員]] == 外部リンク == * [http://www.anan.ne.jp/kaifu/ 海部俊樹オフィシャルホームページ] * [https://blog.goo.ne.jp/kaifu-toshiki 海部俊樹オフィシャルブログ](公式ブログ) * {{Kotobank}} * {{YouTube|RR22BPtd8gk|第76・77代総理大臣 海部俊樹【歴代総理列伝】}}(TBS NEWS) {{S-start}} {{s-off}} {{succession box |title = {{Flagicon|日本}} [[内閣総理大臣]] |before = [[宇野宗佑]] |years = 第76・77代:1989年 - 1991年 |after = [[宮澤喜一]] }} {{succession box |title = {{Flagicon|日本}} [[文部大臣]] |before = [[永井道雄]]<br/>[[松永光]] |years = 第96代:1976年 - 1977年<br/>第106代:1985年 - 1986年 |after = [[砂田重民]]<br/>[[藤尾正行]] }} {{succession box |title = {{Flagicon|日本}} [[財務大臣 (日本)|大蔵大臣]] |before = [[橋本龍太郎]] |years = 第95代:1991年(兼任) |after = [[羽田孜]] }} {{succession box |title = {{Flagicon|日本}} [[内閣官房副長官]](政務担当) |before = [[梶山静六]] |years = 1974年 - 1976年 |after = [[鯨岡兵輔]] }} {{s-par}} {{succession box |title = {{Flagicon|日本}} [[議院運営委員会|衆議院議院運営委員長]] |before = [[田沢吉郎]] |years = 第31代:1972年 - 1973年 |after = [[佐々木秀世]] }} {{s-ppo}} {{succession box |title = [[新進党]]党首 |before = 結成 |years = 初代:1994年 - 1995年 |after = [[小沢一郎]] }} {{succession box |title = [[自由改革連合]]代表 |before = 結成 |years = 1994年 |after = [[新進党]]へ }} {{succession box |title = [[高志会]]代表 |before = 結成 |years = 1994年 |after = [[新進党]]へ }} {{succession box |title = [[自由民主党総裁]] |before = [[宇野宗佑]] |years = 第14代:1989年 - 1991年 |after = [[宮澤喜一]] }} {{succession box |title = [[自由民主党国会対策委員会|自由民主党国会対策委員長]] |before = [[宇野宗佑]] |years = 第21代:1976年 |after = [[安倍晋太郎]] }} {{succession box | title = [[自由民主党青年局|自由民主党青年局長]] | before = [[宇野宗佑]]<br />[[内藤誉三郎]] | years = 第6代:1966年<br />第8代:1968年 - 1972年 | after = [[内藤誉三郎]]<br />[[西岡武夫]] }} {{s-hon}} {{succession box |title = 最年少衆議院議員 |before = [[谷川和穂]] |after = [[橋本龍太郎]] |years = 1960年 - 1963年}} {{S-end}} {{日本国歴代内閣総理大臣 |当代 = [[第1次海部内閣|76]]・[[第2次海部内閣|77]] |在任期間 = 1989年 - 1991年 |前代 = [[宇野内閣|75]] |前首相名 = 宇野宗佑 |次代 = [[宮澤内閣|78]] |次首相名 = 宮澤喜一 }} {{財務大臣||大蔵大臣}} {{文部科学大臣||[[文部大臣]]}} {{内閣官房副長官|政務担当}} {{衆議院議院運営委員長}} {{自由民主党総裁}} {{自由民主党国会対策委員長}} {{自由民主党 (日本)}} {{最年少衆議院議員}} {{旧愛知3区選出衆議院議員(1947-1993)}} {{愛知小選挙区選出衆議院議員(1996-)}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かいふ としき}} [[Category:海部俊樹|*]] [[Category:平成時代の内閣総理大臣]] [[Category:昭和時代戦後の閣僚]] [[Category:日本の大蔵大臣]] [[Category:日本の文部大臣]] [[Category:内閣官房副長官]] [[Category:自由民主党総裁]] [[Category:自由民主党の衆議院議員]] [[Category:自由党 (日本 1998-2003)の国会議員]] [[Category:新進党の衆議院議員]] [[Category:無所属の会の国会議員]] [[Category:保守新党の国会議員]] [[Category:愛知県選出の衆議院議員]] [[Category:昭和時代戦後の衆議院議員]] [[Category:平成時代の衆議院議員]] [[Category:日本の憲法護憲論者]] [[Category:正二位受位者]] [[Category:大勲位菊花大綬章受章者]] [[Category:桐花大綬章受章者]] [[Category:法学士取得者]] [[Category:三木武夫]] [[Category:日本の政治家秘書]] [[Category:ロッキード事件の人物]] [[Category:中央大学出身の人物]] [[Category:早稲田大学出身の人物]] [[Category:東海高等学校出身の人物]] [[Category:名古屋市出身の人物]] [[Category:1931年生]] [[Category:2022年没]]
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自転
自転(、英語: rotation)とは、物体がその内部の点または軸のまわりを回転すること、およびその状態である。 天体の自転運動を表す言葉として用いられることが多い。力学における剛体の自転は、単に回転と呼ぶことの方が多く、オイラーの運動方程式により記述できる。英語で自転を意味する spin に由来するスピンという言葉も同義語であるが、物体の自転の意味でのスピンは自然科学以外の分野で用いられることが多い。例えばフィギュアスケートにおけるスピンや自動車がスリップすることがスピンと呼ばれる。量子力学や素粒子物理学におけるスピンも語源は自転に由来するが、物体の自転とは異なる概念と考えられている。 天体がどのように自転しているかは、その観測系によって異なる。天文学的には、ある天体の公転軌道を基準として、どれだけ回転しているかが自転である。公転軌道を持たない小惑星や彗星は、その移動方向に対する回転が自転になるが、多くはスピンと表現される。惑星や衛星、彗星などのほとんどの天体は自転しているが、はくちょう座X-1は自転していない可能性が高いとされている。また、パルサーは高速で自転する中性子星と考えられている。 天体の核(コア)を観測する方法は存在しないため、回転は光学的に観測されることがほとんどであり表面の回転を基準に算出される。しかしガス惑星では回転の基準となる面を定義できず、また表面が作動回転していることが多いために磁場の観測や他天体との物理的関連を検討して自転速度が計算されている。太陽も同じであり一意に定まっていない。 天体の自転の中心となる軸のことを自転軸(じてんじく)と言い、自転により一回転する時間を自転周期という。自転周期はその天体が360度回転する時間であって、ある天体に対して同じ方向を向くまでの時間ではない。例えば地球の1日は太陽の位置を基準に一回転する時間だが、地球がちょうど一回自転した時点では見かけの太陽の位置は公転によって移動している。つまり自転周期は1日(24時間)よりも236秒短くなる。いいかえれば、地球が1回転してなお昨日の太陽と同じ向きになるには、もう236秒必要とする。 自転のエネルギーは他の天体引力に影響されて変動し、それは天体の質量が小さいほど顕著になり、彗星や小惑星などは惑星の近傍を通過する際に自転速度や自転軸が変化しやすい。連星や系に属している天体は、自身の公転周期と同期しているケースがほとんどであり、ずれている場合でも同期に向かって変化していく。また、天体の衝突や地震によっても変化し、例として東日本大震災では地球の自転速度が100万分の1.8秒加速された。 地球の自転は太陽の天球上での見かけの移動を作り出し、これによって昼と夜が生まれる。また自転によって生じる慣性力である遠心力やコリオリの力は、大気や海流の流れ、台風の運動など、地球上のあらゆる運動に影響を及ぼす。地磁気は、地球の液体核内の対流運動が引き起こす電磁誘導がその源であるが、やはり対流運動がコリオリの力を強く受けるため、結果として自転軸方向にそろった双極子磁場が生成される。一般に宇宙ロケットは東向きに打ち上げられるが、これは自転速度を脱出速度の足しにする為である。更に人工衛星の角速度を自転に合わせて赤道上空に打ち上げる事で、静止衛星となる。 地球が一回自転するのにかかる時間は約23時間56分4.06秒となっている。 さらに、地球の構造上中心部が液体であること、潮の干満と海底との摩擦により、長期的には自転速度はだんだん遅くなっている。100年間につき1.7ミリ秒ずつ遅くなっている。しかし、数年ないし数十年の期間においては、自転速度が遅くなっているわけではなく、不規則に変動している。実際、一日の長さ(LOD:Length of the Day)は、1970年代には、86 400.003秒程度であったが、2010年以降は86 400.001秒程度になっており、むしろ自転速度は速くなっている(閏秒、地球の自転を参照)。 変動の原因は「地震」「火山の噴火」「ダム」等諸説ある。古文書の日食などの記録を元にした研究により西暦500年頃と西暦900年頃に自転速度が急激に変化したことが判明している。またNASAは、2010年のチリ地震で1.26μ秒、2004年のスマトラ島沖地震で6.8μ秒、2011年の東北地方太平洋沖地震で約1.8μ秒、地震が原因で自転速度が増し、一日の長さが短くなった可能性があると発表している。
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自転(じてん、とは、物体がその内部の点または軸のまわりを回転すること、およびその状態である。 天体の自転運動を表す言葉として用いられることが多い。力学における剛体の自転は、単に回転と呼ぶことの方が多く、オイラーの運動方程式により記述できる。英語で自転を意味する spin に由来するスピンという言葉も同義語であるが、物体の自転の意味でのスピンは自然科学以外の分野で用いられることが多い。例えばフィギュアスケートにおけるスピンや自動車がスリップすることがスピンと呼ばれる。量子力学や素粒子物理学におけるスピンも語源は自転に由来するが、物体の自転とは異なる概念と考えられている。
{{古典力学}} {{読み仮名|'''自転'''|じてん|{{lang-en|rotation}}}}とは、[[物体]]がその内部の点または軸のまわりを[[回転]]すること、およびその状態である。 天体の自転運動を表す言葉として用いられることが多い。[[力学]]における[[剛体]]の自転は、単に回転と呼ぶことの方が多く、[[オイラーの運動方程式]]により記述できる。英語で自転を意味する {{lang|en|spin}} に由来する'''スピン'''という言葉も同義語であるが、物体の自転の意味でのスピンは自然科学以外の分野で用いられることが多い。例えば[[フィギュアスケート]]における[[スピン (フィギュアスケート)|スピン]]や[[自動車]]がスリップすることがスピンと呼ばれる。[[量子力学]]や[[素粒子物理学]]における[[スピン角運動量|スピン]]も語源は自転に由来するが、物体の自転とは異なる概念と考えられている。 == 天体の自転 == 天体がどのように自転しているかは、その観測系によって異なる<ref group="注釈">地球を基準とすれば自転は観測できないが、太陽を基準として初めて公転軌道が存在し、それに対する自転軸、自転周期が求められる。</ref>。[[天文学]]的には、ある天体の公転軌道を基準として、どれだけ回転しているかが自転である。公転軌道を持たない小惑星や彗星は、その移動方向に対する回転が自転になるが、多くはスピンと表現される。[[惑星]]や[[衛星]]、[[彗星]]などのほとんどの[[天体]]は自転しているが、[[はくちょう座X-1]]は自転していない可能性が高い[https://chandra.harvard.edu/photo/2003/bhspin/]とされている。また、[[パルサー]]は高速で自転する[[中性子星]]と考えられている。 天体の核(コア)を観測する方法は存在しないため、回転は光学的に観測されることがほとんどであり表面の回転を基準に算出される。しかしガス惑星では回転の基準となる面を定義できず、また表面が作動回転していることが多いために磁場の観測や他天体との物理的関連を検討して自転速度が計算されている。太陽も同じであり一意に定まっていない。 天体の自転の中心となる軸のことを'''自転軸'''(じてんじく)と言い、自転により一回転する時間を'''自転周期'''という。自転周期はその天体が360度回転する時間であって、ある天体に対して同じ方向を向くまでの時間ではない。例えば地球の1日は太陽の位置を基準に一回転する時間だが、地球がちょうど一回自転した時点では見かけの太陽の位置は[[公転]]によって移動している。つまり自転周期は1日(24時間)よりも236秒短くなる。いいかえれば、地球が1回転してなお昨日の太陽と同じ向きになるには、もう236秒必要とする。 自転のエネルギーは他の天体引力に影響されて変動し、それは天体の質量が小さいほど顕著になり、彗星や小惑星などは惑星の近傍を通過する際に自転速度や自転軸が変化しやすい。連星や系に属している天体は、自身の公転周期と同期しているケースがほとんどであり、ずれている場合でも同期に向かって変化していく。また、天体の衝突や地震によっても変化し、例として[[東日本大震災]]では地球の自転速度が100万分の1.8秒加速された。 === 地球の自転 === {{main|地球の自転}} [[File:Globespin.gif|right|thumb|地球の自転]] [[地球]]の自転は太陽の[[天球]]上での見かけの移動を作り出し、これによって昼と夜が生まれる。また自転によって生じる[[慣性力]]である[[遠心力]]や[[コリオリの力]]は、大気や海流の流れ、[[台風]]の運動など、地球上のあらゆる運動に影響を及ぼす。[[地磁気]]は、地球の[[外核|液体核]]内の[[対流]]運動が引き起こす[[電磁誘導]]がその源であるが、やはり対流運動がコリオリの力を強く受けるため、結果として自転軸方向にそろった[[磁気双極子|双極子]]磁場が生成される。一般に宇宙[[ロケット]]は東向きに打ち上げられるが、これは自転速度を[[脱出速度]]の足しにする為である。更に[[人工衛星]]の[[角速度]]を自転に合わせて[[赤道]]上空に打ち上げる事で、[[静止衛星]]となる。 ==== 地球の自転速度 ==== *赤道1700km/h *緯度θ°1700cosθkm/h 地球が一回自転するのにかかる時間は約23時間56分4.06秒となっている。 さらに、地球の構造上中心部が液体であること、潮の干満と海底との摩擦により、長期的には自転速度はだんだん遅くなっている。100年間につき1.7ミリ秒ずつ遅くなっている。しかし、数年ないし数十年の期間においては、自転速度が遅くなっているわけではなく、不規則に変動している。実際、一日の長さ(LOD:Length of the Day)は、1970年代には、86 400.003秒程度であったが、2010年以降は86 400.001秒程度になっており、むしろ自転速度は速くなっている([[閏秒]]、[[地球の自転]]を参照)。 ==== 速度の変動 ==== 変動の原因は「地震」「火山の噴火」「ダム」等諸説ある。古文書の日食などの記録を元にした研究により西暦500年頃と西暦900年頃に自転速度が急激に変化したことが判明している<ref>{{PDFlink|[http://optik2.mtk.nao.ac.jp/~somamt/files/ken06.pdf 相馬 充,谷川清隆 ほぼ同時日食による古代の地球自転変動]}}</ref>。また[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]は、2010年の[[チリ地震 (2010年)|チリ地震]]で1.26µ秒、2004年の[[スマトラ島沖地震 (2004年)|スマトラ島沖地震]]で6.8µ秒、2011年の[[東北地方太平洋沖地震]]で約1.8µ秒<ref>[http://www.nasa.gov/topics/earth/features/japanquake/earth20110314.html Japan Quake May Have Shortened Earth Days, Moved Axis] [[アメリカ航空宇宙局|NASA]]</ref>、地震が原因で自転速度が増し、一日の長さが短くなった可能性があると発表している。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} ==関連項目== *[[公転]] *[[恒星日]] *[[物理学]] *[[天文学]] *[[回転]] *[[独楽]] ==外部リンク== * [http://howtoproperly.com/rotate-points-using-polar-coordinates Rotate Points Using Polar Coordinates] {{DEFAULTSORT:してん}} [[Category:天体力学]] [[Category:地球]] [[Category:回転]] [[cs:Osa]] [[simple:Axis of rotation]] [[sl:Os vrtenja]]
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キリストの降誕
キリストの降誕(キリストのこうたん、英: The Nativity)とは、イエス・キリストの誕生のこと。 イエスの誕生は多くのキリスト教教派で、「誕生」ではなく「降誕」という語が用いられている。その所以は、 (1) 初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。 (14) そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。[...] — 『ヨハネによる福音書』第1章(口語訳聖書) [...] すべてに先立って父より生まれ [...] [...] 天からくだり、聖霊によって、おとめマリアよりからだを受け、人となられ [...] — 『ニカイア・コンスタンティノポリス信条』(カトリック教会訳) と記されており、すなわち原初から天上にあった「ロゴス」たる存在が受肉してこの世に「降り誕まれた」と信じられているためである。 また、「降誕」という語は「イエス・キリストの降誕」にのみ使用される語である。例えば、聖母マリアの誕生については、「聖マリアの誕生」(カトリック教会)、「生神女誕生」(日本ハリストス正教会)などと呼ばれる。 イエスの降誕は『マタイによる福音書1章16節〜2章23節』と『ルカによる福音書1章26節〜2章20節』に書かれている。それによれば、イエスは、ユダヤの町ベツレヘムで、処女マリアのもとに生まれたという。 『マタイ』では、ヨセフとマリアがベツレヘムに居た経緯の詳細は記述されていないが、『ルカ』の場合は、住民登録のためにマリアとともに先祖の町ベツレヘムへ赴き、そこでイエスが生まれたとある。ベツレヘムは古代イスラエルの王ダヴィデの町であり、メシアはそこから生まれるという預言(『ミカ書』5:1)があった。 『ルカ』では、ベツレヘムの宿が混んでいたために泊まれず、イエスを飼い葉桶に寝かせる。そのとき、天使が羊飼いに救い主の降誕を告げたため、彼らは幼子イエスを訪れる。 『マタイ』では、東方の三博士が星に導かれてイエスを礼拝しに来る。 イエスの「降誕場面」(Nativity scene)を教会堂の内部または外部にミニアチュアのあるいは等身大の模型として飾る習慣がある。『ルカによる福音書』における、生まれたばかりのイエスが飼い葉桶に寝かせられたとする記述だが、この場には馬は居らず、代わりに牛とロバが居る。これは各福音書には根拠がなく、『イザヤ書』1章3節に記述されている。また、西方教会では小屋(日本語では「厩」もしくは「馬小屋」と書くが、家畜小屋と考えたほうが近い)としての伝承が通例であるが、正教会では洞窟と伝承され、イコンにもそのように描かれる。新約外典『ヤコブ原福音書』は洞窟で産まれたと書いている。 キリスト降誕の情景は上記を基本に描かれるが、カトリック教会やその影響の強い国々では人形で再現する。これを「飼い葉桶」の意味で、イタリア語ではプレゼピオ(Presepio)、フランス語ではクレーシュ(Crèche)、ドイツ語ではクリッペ(Krippe)、英語ではクリブ(Crib)、スペイン語ではベレン(Belen)と言う。多くはミニチュアであるが、実物大の人形と小屋が仮設されるところもある。 東方の三博士は、救世主イエス・キリストの降誕を見て拝み、乳香、没薬、黄金を贈り物としてささげたとされる。ローマ支配下で親ローマ政策をとったユダヤのヘロデ大王は、新たなる王(救世主)の誕生を怖れ、生まれたばかりの幼子を見つけたら自分に知らせるようにと博士たちに頼むが、彼らは夢のお告げを聞いていたので、王のもとを避けて帰ることができたといわれている。 カトリック教徒の間では、イエス・キリストの主日として、毎年12月25日に『クリスマス』が祝われる。イエスの誕生日は新約聖書には記載されていないとして、元来は冬至祭であったと研究者の間では考えられている。 高等批評や自由主義神学の聖書学においては、ベツレヘムで生まれたという記述は、預言に適合させるために作られた伝説、神話であると考えられている。こうした立場からは、『ヨハネによる福音書』においては、イエスはガリラヤのナザレの出身であると記されており、『マルコによる福音書』『マタイ福音書』『ルカ福音書』のいずれにおいても、イエスがダビデ王の子孫であることは否定されているとされる。この立場において、イエスは誕生物語以外の場面では一貫して「ナザレ人」「ナザレ出身者」の術語が用いられており、これはすべての福音書において一致していることを以て、実際に生まれた場所はベツレヘムではなかったことの証左とされることがある。 その一方、伝統的な信仰を保持するカトリック教会、正教会、保守的な聖書信仰の立場などにあるプロテスタントなど、聖書の記述を真実ととらえる立場もある。前述の高等批評の立場では『マタイ福音書』はダビデ王の子孫であることは否定しているとするが、伝統的な信仰を保持する立場からは、まずマタイ福音書の冒頭(1章1節)にある「ダビデの子」という表現を根拠に、イエスをダビデの子孫とする。ヨハネス・クリュソストモス(金口イオアン)、ブルガリアのフェオフィラクトといった古代・中世の聖人達も、旧約における預言(イザヤ書11章ほか)との整合性をもってこれを強調してきた。なお「子」という表現は新約聖書において「養子」「子孫」の意味にも用いられており、必ずしも文字通りの血縁・親等を示すものではない(聖書中でイエスは通常の夫婦関係によらず、聖霊によってみごもったとされている)
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キリストの降誕とは、イエス・キリストの誕生のこと。
{{Otheruses||その他|キリストの降誕 (曖昧さ回避)}} [[File:Folio 44v - The Nativity.jpg|thumb|280px|『[[ベリー公のいとも豪華なる時祷書]]』より、キリストの降誕]] {{Jesus}} '''キリストの降誕'''(キリストのこうたん、{{Lang-en-short|The Nativity}})とは、[[イエス・キリスト]]の誕生のこと。 == 「降誕」という語の意味 == イエスの誕生は多くの[[キリスト教]][[教派]]で、「誕生」ではなく「降誕」という語が用いられている。その所以は、 {{quotation| {{font color|blue|<small>(1)</small>}} [[アルケー|初め]]に言{{font color|gray|<small>([[ロゴス#キリスト教|ことば]])</small>}}があった。言は神と共にあった。言は神であった。<br/> {{font color|blue|<small>(14)</small>}} そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。[...] |『[[ヨハネによる福音書]]』第1章([[聖書 口語訳|口語訳聖書]]<ref>{{Cite wikisource|title=ヨハネによる福音書(口語訳)#第1章|author=[[日本聖書協会]]|wslanguage=ja}}</ref>) }} {{quotation| [...] すべてに先立って父より生まれ [...] <br/> [...] 天からくだり、[[聖霊]]によって、[[聖母マリア|おとめマリア]]より[[受肉|からだを受け]]、人となられ [...] |『[[ニカイア・コンスタンティノポリス信条]]』([[カトリック教会]]訳<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cbcj.catholic.jp/2004/02/18/7451/|title=ニケア・コンスタンチノープル信条|publisher=[[カトリック中央協議会]]|accessdate=2021-09-19}}</ref>) }} と記されており、すなわち[[アルケー|原初]]から[[神の王国|天上]]にあった「[[ロゴス#キリスト教|ロゴス]]」たる存在が[[受肉]]してこの世に「降り誕まれた」と信じられているためである。 また、「降誕」という語は「イエス・キリストの降誕」にのみ使用される語である。例えば、[[聖母マリア]]の誕生については、「聖マリアの誕生」([[カトリック教会]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pauline.or.jp/calendariocappella/cycle0/festa0908.php|title=聖マリアの誕生(祝) - Laudate|教会カレンダー|publisher=Laudate [[女子パウロ会]]|accessdate=2021-09-19}}</ref>、「[[生神女誕生祭|生神女誕生]]」([[日本ハリストス正教会]])<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.orthodox-jp.com/liturgy/prayerbook/feast/0921Nativ_Theotokos.html|title=9月21日 生神女誕生祭|publisher=Liturgia 正教会聖歌の実践|accessdate=2021-09-19}}</ref>などと呼ばれる{{efn2|但し英語ではこの区別はなく、いずれも「Nativity」である。}}。 == 福音書における記述 == イエスの降誕は『[[マタイによる福音書]]1章16節〜2章23節』と『[[ルカによる福音書]]1章26節〜2章20節』に書かれている。それによれば、イエスは、[[ユダヤ]]の町[[ベツレヘム]]で、[[処女]][[聖母マリア|マリア]]のもとに生まれたという。 『マタイ』では、[[ナザレのヨセフ|ヨセフ]]とマリアがベツレヘムに居た経緯の詳細は記述されていないが、『ルカ』の場合は、住民登録のために[[イエスの母マリア|マリア]]とともに先祖の町ベツレヘムへ赴き、そこでイエスが生まれたとある。ベツレヘムは[[古代イスラエル]]の王[[ダビデ|ダヴィデ]]の町であり、[[メシア]]はそこから生まれるという預言(『[[ミカ書]]』5:1)があった。 『ルカ』では、ベツレヘムの宿が混んでいたために泊まれず、イエスを飼い葉桶に寝かせる。そのとき、[[天使]]が[[羊飼い]]に救い主の降誕を告げたため、彼らは幼子イエスを訪れる。 『マタイ』では、[[東方の三博士]]が[[ベツレヘムの星|星]]に導かれてイエスを礼拝しに来る。 == 降誕場面 == [[Image:Maiori Presepe Giardini Mezzacapo 2004 038.JPG|thumb|right|220px|キリスト降誕の情景を再現する「降誕場面」(イタリアのプレゼピオ)]] [[ファイル:MCB-icon12.jpg|thumb|right|180px|降誕祭(クリスマス)を描いた[[ギリシャ正教会]]の[[イコン]]]] イエスの「[[降誕場面]]」([[:en:Nativity scene|Nativity scene]])を教会堂の内部または外部にミニアチュアのあるいは等身大の模型として飾る習慣がある。『ルカによる福音書』における、生まれたばかりのイエスが飼い葉桶に寝かせられたとする記述だが、この場には[[ウマ|馬]]は居らず、代わりに[[ウシ|牛]]と[[ロバ]]が居る。これは各福音書には根拠がなく、『[[イザヤ書]]』1章3節に記述されている。また、[[西方教会]]では小屋(日本語では「厩」もしくは「馬小屋」と書くが、家畜小屋と考えたほうが近い)としての伝承が通例であるが、[[正教会]]では洞窟と伝承され<ref>[http://www.orthodox-jp.com/liturgy/prayerbook/feast/0107Christmas.html ハリストス降誕祭の祈祷書] において、「洞(ほら)」で出産が行われた旨が詠われている。</ref>、[[イコン]]にもそのように描かれる。新約外典『ヤコブ原福音書』は洞窟で産まれたと書いている。 キリスト降誕の情景は上記を基本に描かれるが、[[カトリック教会]]やその影響の強い国々では人形で再現する。これを「飼い葉桶」の意味で、[[イタリア語]]では[[プレゼピオ]]([[:it:Presepe|Presepio]])、[[フランス語]]では[[クレーシュ]]([[:fr:Crèche de Noël|Crèche]])、[[ドイツ語]]ではクリッペ([[:de:Weihnachtskrippe|Krippe]])、[[英語]]ではクリブ([[:en:Infant bed|Crib]])、[[スペイン語]]ではベレン([[:es:Belenismo|Belen]])と言う。多くは[[ミニチュア]]であるが、実物大の人形と小屋が仮設されるところもある。 東方の三博士は、[[救世主イエス・キリスト]]の降誕を見て拝み、[[乳香]]、[[没薬]]、[[金|黄金]]を贈り物としてささげたとされる。ローマ支配下で親ローマ政策をとったユダヤの[[ヘロデ大王]]は、新たなる王(救世主)の誕生を怖れ、生まれたばかりの幼子を見つけたら自分に知らせるようにと博士たちに頼むが、彼らは夢のお告げを聞いていたので、王のもとを避けて帰ることができたといわれている。 == 降誕祭 == [[カトリック教徒]]の間では、イエス・キリストの[[主日]]として、毎年[[12月25日]]に『[[クリスマス]]』が祝われる。イエスの[[誕生日]]は[[新約聖書]]には記載されていないとして、元来は[[冬至]]祭であったと研究者の間では考えられている。 == 降誕の場面を描いた作品 == * 『[[ベン・ハー]]』 - 冒頭で、イエス・キリストの降誕が描かれている。その後劇中に何度かイエス・キリストが登場するが、顔は写されておらず、全て後姿である。 == 生まれた場所・系譜について == [[高等批評]]や[[自由主義神学]]の聖書学においては、ベツレヘムで生まれたという記述は、預言に適合させるために作られた伝説、神話であると考えられている。こうした立場からは、『[[ヨハネによる福音書]]』においては、イエスは[[ガリラヤ]]の[[ナザレ]]の出身であると記されており、『[[マルコによる福音書]]』『マタイ福音書』『ルカ福音書』のいずれにおいても、イエスが[[ダビデ]]王の子孫であることは否定されているとされる。この立場において、イエスは誕生物語以外の場面では一貫して「ナザレ人」「ナザレ出身者」の術語が用いられており、これはすべての福音書において一致していることを以て、実際に生まれた場所はベツレヘムではなかったことの証左とされることがある<ref>八木(1968)pp.84-85</ref><ref>荒井(1974)p.27</ref>。 その一方、伝統的な信仰を保持する[[カトリック教会]]、[[正教会]]、保守的な[[聖書信仰]]の立場などにある[[プロテスタント]]など、聖書の記述を真実ととらえる立場もある<ref>[[日本ハリストス正教会]]教団『正教要理』46頁、昭和55年12月12日</ref><ref>[http://www.shimizu-catholic.jp/message-100100.html ベツレヘム:それは「パンの家」] カトリック清水教会</ref><ref>『新聖書辞典』[[いのちのことば社]]</ref><ref>ケアンズ『基督教全史』[[聖書図書刊行会]]</ref><ref>『聖書の権威』[[日本プロテスタント聖書信仰同盟]]</ref>。前述の高等批評の立場では『マタイ福音書』はダビデ王の子孫であることは否定しているとするが、伝統的な信仰を保持する立場からは、まずマタイ福音書の冒頭(1章1節)にある「ダビデの子」という表現を根拠に、イエスをダビデの子孫とする。[[ヨハネス・クリュソストモス|ヨハネス・クリュソストモス(金口イオアン)]]、[[ブルガリアのフェオフィラクト]]といった古代・中世の聖人達も、旧約における預言([[イザヤ書]]11章ほか)との整合性をもってこれを強調してきた。なお「子」という表現は新約聖書において「養子」「子孫」の意味にも用いられており、必ずしも文字通りの血縁・親等を示すものではない(聖書中でイエスは通常の夫婦関係によらず、[[聖霊]]によってみごもったとされている)<ref name="mikha">[[掌院]]ミハイル『馬太福音書註解 全』1頁 - 3頁、[[正教会]]編集局、原著1870年刊行、訳書:明治二五年版(再刊)</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献== * [[八木誠一]]『イエス——人と思想7』清水書院&lt;センチュリー・ブックス&gt;、1968年1月。ISBN 4389410075 * [[荒井献]]『イエスとその時代』[[岩波書店]]&lt;岩波新書&gt;、1974年10月。 == 関連項目 == {{Commons|Nativity scene|キリストの降誕}} * [[処女懐胎]] * [[降誕教会]] * [[ベツレヘムの星]] * [[クリスマス]] * [[幼児虐殺]] * [[抱神者シメオン]] == 外部リンク == *[http://www.sutv.zaq.ne.jp/osaka-orthodox/icon/koutansai.htm 主の降誕祭のイコン] - [http://www.sutv.zaq.ne.jp/osaka-orthodox/ 大阪ハリストス正教会] 内のページ {{キリストの生涯}} {{イエス・キリスト}} {{クリスマス}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:きりすとのこうたん}} [[Category:イエス・キリスト|こうたん]] [[Category:マタイによる福音書]] [[Category:ルカによる福音書]]
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大宮駅 (埼玉県)
大宮駅(おおみやえき)は、埼玉県さいたま市大宮区錦町にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東武鉄道・埼玉新都市交通の駅である。 東京と北関東・東北地方・信越地方・北陸地方・北海道地方を結ぶ多数の新幹線および在来線・私鉄が乗り入れる東京以北最大のターミナル駅。駅周辺は合併以前の旧大宮市の中心市街地(「大宮地区」も参照)。また、当駅付近を首都高速埼玉新都心線・埼玉大宮線や、国道16号・国道17号・新大宮バイパスが通るなど、道路交通網としても県内の拠点に位置しているため、多くの高速バスや長距離バスが発着し、駅前にバスターミナルも形成されている。 当駅は東北本線上にあり、乗り入れ路線は、新幹線が東北新幹線・山形新幹線・秋田新幹線・北海道新幹線の東北系統と上越新幹線・北陸新幹線の上越系統の合計6新幹線(山形新幹線と秋田新幹線はミニ新幹線)、JR在来線は宇都宮線(東北本線)・高崎線・京浜東北線・埼京線・川越線、また私鉄路線として東武野田線(東武アーバンパークライン)・埼玉新都市交通伊奈線(ニューシャトル)の合計13路線と、乗り入れ路線数は東京駅に次いで全国2位。上野東京ライン・湘南新宿ライン、東北貨物線経由で乗り入れる武蔵野線(むさしの号・しもうさ号)も加えると合計16路線。 JTBパブリッシングなどの時刻表における名目上の県・市の代表駅は埼玉県庁舎の最寄駅である浦和駅が表記されているが、その乗り入れ路線数・1日の乗降者数・駅周辺の市場経済規模等、埼玉県内のみならず全国でも有数のターミナル駅であり、当駅が実質的に県下最大の駅となっている。1日平均乗降者数約70万人は埼玉県内では最も多い。 新幹線・在来線ともにすべての営業列車が停車し、2017年7月以降の多客期には、東北新幹線において大宮駅始発・終着となる臨時「はやぶさ」が新たに設定された。 また、当駅北側に東日本旅客鉄道(JR東日本)大宮総合車両センター(旧:大宮工場)・日本貨物鉄道(JR貨物)大宮車両所が、南側に大宮操車場があり、2007年10月14日にはJR東日本の創立20周年記念事業のメインプロジェクトとして、大宮総合車両センターに隣接した大宮区大成町に鉄道博物館が開館。このように数多くの鉄道施設が立地し、旧日本国有鉄道(国鉄)時代から「鉄道の町」として公式認定を受けているほか、駅周辺は百貨店や専門店、飲食店が集積しており、多くの人で賑わっている。 JR東日本・東武鉄道・埼玉新都市交通の3社が乗り入れるターミナル駅。以下のうち、上越新幹線・高崎線・川越線・東武野田線(東武アーバンパークライン)・埼玉新都市交通伊奈線(ニューシャトル)は当駅を起点とする。一方で、運行上当駅が完全に終点となる列車は京浜東北線・武蔵野線・東武野田線(東武アーバンパークライン)・ニューシャトルのみ。 湘南新宿ライン - 当駅 - 宇都宮線を経由し栗橋駅で東武日光線鬼怒川線と相互乗り入れ(栗橋駅は運転停車)を行っている東武直通特急「スペーシア日光」「きぬがわ」も運行されている(当駅起点の東武野田線経由ではない)。 日本鉄道によって、1883年に東京から北へ向かう初の鉄道である上野駅 - 熊谷駅間の路線が開業したとき、県庁所在地である浦和駅の次の駅は上尾駅とされ、大宮に駅は設けられなかった。開業当時、大宮宿から離れると243戸の家しかなかったことや、当時の蒸気機関車は牽引力が低く、短い間隔での駅設置はしないことが基本だったため、駅間距離が短くなってしまうことを防ごうとしたことが原因であった。 しかし、後に大宮町長を務める白井助七ら地元有志は、町のこれ以上の衰退を危惧し、駅の敷地のために土地を提供すると提示して、駅の誘致運動を始めた。白井の尽力を記念して、大宮区役所・さいたま市立大宮図書館の北側に所在する児童公園の山丸公園には、白井を顕彰する記念碑(1937年に設置)と蒸気機関車C12 29号機(1970年2月26日に旧大宮市役所前に展示。1984年2月に現在地に移転)が置かれ、大宮ソニックシティ前の鐘塚公園には、白井の胸像が2002年に設置されている。 上野駅から青森駅へ向かう、現在の東北本線を建設する際に、高崎駅・前橋駅へ向かう路線のどこから分岐させるかが問題になった。浦和・大宮・熊谷の3案があった。熊谷案は当時最大の輸出品目である繊維産業の中心地である桐生・足利を経由するなどといった理由で、具体的検討がなされた。 浦和分岐案は、経由する岩槻の住民が鉄道忌避を起こした。アメリカ人技師のクロフォードは、宇都宮への最短経路となる大宮経由で建設すべしと意見を出した。最終的には井上勝の決断によって、大宮はその起点となる地として、駅が設けられることになった。 1894年には、白井が提供した土地を基に、駅の北に隣接して大宮工場(現:大宮総合車両センター・大宮車両所)が設置され、さらに日本の重要幹線の分岐駅という交通の要衝であり、以後大宮は「鉄道の町」として栄えるようになった。後年には鉄道出身者から大宮市議会議員を多数輩出しており、大宮と鉄道は密接に関係している。 駅の東西の往来は、昭和中期までは駅北側にある国道16号(現・埼玉県道2号さいたま春日部線)の跨線橋・大栄橋を渡るか、入場券を購入して改札口を通る必要があった。そこで住民の陳情もあって、1968年に駅の真下に大宮駅東西自由通路が設置され、歩行者と自転車は無料で駅の東西の往来が可能となったが、地下道にホームレスが住み着き、放尿による悪臭問題などの新たな環境問題が起こり、1981年に新幹線建設工事に伴う駅舎の大改装によって中央自由通路が設置されたため、地下道は廃止された。 1982年に東北新幹線・上越新幹線が、1983年には埼玉新都市交通ニューシャトルが開業。1985年には埼京線の開業と川越線の電化が実現した。現在は、多くの路線が集まり、新幹線を含むすべての営業列車が停車するなどターミナル駅として機能している。 当駅にはJR東日本・東武鉄道・埼玉新都市交通の3事業者が乗り入れる。埼京線・川越線以外のJR在来線と東武野田線(東武アーバンパークライン)のプラットホームが地上1階に並び、その上に乗り換え通路を配置する橋上駅の構造だが、他に地上2階には埼玉新都市交通(ニューシャトル)のホームが、地上3階には新幹線ホームが、地下1階にはJR埼京線・川越線ホームがそれぞれ設けられた、4層構造となっている。3社合計ののりばとして、25もの番線が設置されている。なお、鉄道会社相互の連絡改札口は設けられていないため、各社の乗り換えには一度改札の外に出る必要がある。 JRにはコンコースが中央自由通路を挟んで南北にあり、それぞれに商業施設が設置されている。南北のコンコースはそれぞれが独立しているため、コンコース間を往来するには一度いずれかのホームに降りて移動しなければならないが、それぞれのコンコースからはすべてのJRホームへ移動することが可能。なお、外から新幹線のりばに直接入れる改札口はなく、当駅から新幹線に乗車するには、南北のコンコースともに一度在来線の改札口を通って新幹線乗換口を通る必要がある。 中央自由通路は駅ビル「ルミネ」と一体化しているほか、商業施設が通路沿いに設置され、通路中央には観光案内所を兼ねたインフォメーションセンターがある。中央改札(南)と中央改札(北)の間には、駅開業100周年と埼京線開業記念として日本交通文化協会の発注により伊藤隆道が制作した金属製の大型オブジェ「行きかう・線」があり、公募によって命名された「まめの木」の愛称で呼ばれ、主要な待ち合わせ場所として利用されている。なお、日本交通文化協会の発注で東北・上越新幹線開業記念として設置されたパブリックアートは、ルードヴィッヒ・シャフラットが制作したステンドグラス「光と水と生命」が西口階段上部に、岡田又三郎の原画を基にルイ・フランセンが制作した陶板レリーフ「川の祭り」が 新幹線南待合室(さくら草)にある。 駅ナカ商業施設として、南側にエキュート大宮が、北側にはエキュート大宮ノース(旧・Dila大宮)がある。2019年11月 - 12月には商業施設「エキュート大宮」のリニューアルが行われ、「Dila大宮」の一部を改装する形で、商業施設「エキュート大宮ノース」が2020年7月22日に開業した。 事務管コードは▲451018または▲441018を使用している。 今後、駅舎の大規模な再開発が構想されている(大宮駅グランドセントラルステーション化構想)。北側(大栄橋側)に東西連絡通路および出入口を増設、駅ビルの建替えによる駅機能強化、駅周辺建物・道路の再開発や地下開発、新たな大型バスターミナルの設置等がそれぞれ検討されている。 新幹線のりばが地上3階の高架上、在来線は地平と新幹線直下の地下にあり、隣接して大宮総合車両センターがあることから、地平に多数の側線を持っている。 コンコースおよび改札口は地上2階にあり、東西に伸びる中央自由通路を中心として南北に分かれている。中央自由通路に面する中央改札(北)と中央改札(南)、西口側から南コンコースにつながる南改札と北コンコースにつながる北改札がある。当駅には「OMY」のスリーレターコードが付与されている。 直営駅であり、大宮営業統括センター所在駅。管理駅として川越線日進駅 - 武蔵高萩駅、大宮操車場、東大宮操車場を管理する。 (出典:JR東日本:駅構内図) 新宿駅へは埼京線・湘南新宿ラインの2経路が、横浜駅へは上野東京ライン・湘南新宿ラインの2経路が存在し、同一の目的地で複数の経路が発生するため、コンコースには両駅への先着予定列車を表示する案内板が設置されている。 在来線の基本は宇都宮線の上下線の間に高崎線の上下線を挟み込む形である。駅の土呂・宮原駅寄りで宇都宮線下り線が高崎線の上下線をまたぐ。 一方、駅の東京寄りでは、宇都宮線・高崎線・上野東京ラインが走る東北旅客線と、湘南新宿ラインが走る東北貨物線の系統別複々線になり、さらに京浜東北線の複線が独立して並ぶ三複線となる(東から京浜東北線、東北旅客線、東北貨物線)。 東北貨物線の上り方面は、宇都宮線上り線と高崎線からの列車が使用する上り線の間の5番線を基準として、宇都宮線上り線(3・4番線)と高崎線からの列車が使用する上り線(6番線)の間を東京方面に進み、高崎線からの列車が使用する上り線と宇都宮線下り線をくぐって、大宮操車場の貨物側線群に出る。宇都宮線・高崎線の上り線はさいたま新都心駅の手前で合流して1本になる。貨物側線群の東京寄りには武蔵野線の貨物支線(大宮支線)の複線が東北貨物線の上下線間に挟まれており、地下へ潜り、武蔵野線につながる。 宇都宮線下り線は高崎線からの列車が使用する上り線に並んで東北貨物線上り線をまたぎ、8・9番線に至る。当駅を出ると、8番線は高崎線下り線、9番線は宇都宮線下り線へ分かれ、宇都宮線下り線は高崎線上下線をまたぐ。なお、線路配線上は8番線から宇都宮線下り、9番線から高崎線下りへの入線も可能であり、ダイヤが乱れた際ごくまれに営業列車で設定されることがある。7番線から宇都宮線下りが発車する場合は8番線からの線路にいったん合流した後、9番線からの宇都宮線下りへと分岐するルートとなる。東北貨物線下り線は貨物線上り線と貨物側線群をはさんで離れた反対側を走り、貨物列車は10番線に、旅客列車は11番線に入線する。 10番線の線路は、当駅の先で大宮総合車両センター東大宮センターへの入出庫線となっており、宇都宮線土呂駅 - 東大宮駅間に所在する同センターまで、宇都宮線の複線と出入庫線の単線が並ぶ3線区間となっている。入出庫線は宇都宮線下り線に沿っているが、当駅の土呂寄りで5番線への線路が分岐し、宇都宮線下り線をまたぎ、東北貨物線上り線となる。 11番線を出た旅客列車(湘南新宿ラインからの列車)は一度10番線からの線路に戻って、宇都宮線の列車はさらにすぐ9番線からの線路に移る。一方、高崎線の列車は10番線からの線路をいったん進んだあと、出入庫線が右に分岐していき、宇都宮線上下線と出入庫線から反れていった後で、宇都宮線をくぐってきた高崎線下り線に合流する。高崎線下り列車は、上野・新宿双方からの線路の合流点が駅ホームから遠く、この区間を活用して遅延時の時間調整を行う(後述)。なお、合流点は10番線からの線路が本線で、8番線からの高崎線下り本線が合流するという変則形状であり、高崎線上り線も下り線に合わせた急カーブになっているため、上下列車とも、この区間ではやや速度を落とす。 新宿・武蔵野線方面からの大宮駅行き列車は、11番線から発車すると10番線からの線路に移って出入庫線に入り、大宮総合車両センター東大宮センターまで回送される。同センターで折り返し、5番線への線路を通り、3番線や7番線に入る。 11番線の線路は、旧来は川越線が使用していたものであり、現在も川越線に接続している。高崎線の複線に沿って進み、地下から上ってきた川越線の複線と、東北・上越新幹線の高架をくぐる地点で合流する。川越車両センターの臨時回送列車だけでなく、旅客扱いでは臨時快速列車「ぶらり川越号」が大宮駅で地上発着となる。一般旅客でも地上の川越線を走行する列車に乗車することが可能である。なお川越線の電車線と列車線の分岐点は日進駅の場内である。 7番線は上下線共用の中線であり、普段は朝ラッシュ時の高崎線上り列車の6番線との両面着発に用いられ、日中以降は高崎線下り特急列車の発着ホームとして用いられている(ダイヤ乱れ時は後述の使い方をするため下り特急も8番線を発着に変更されることがある)。東京側に引き上げ線が2本設置されている。高崎線の上下線路・ホームを挟み込むように宇都宮線の線路・ホームが位置している構造上、高崎方面からの列車は7番線を利用して当駅で折り返すことが容易な構造になっている。一方、宇都宮線の宇都宮方面からの列車が当駅で折り返す際は、ポイントをいくつか渡り、高崎線と平面交差して7番線に入る。大宮折り返し運用は、2020年2月時点で、早朝6時台の宇都宮行き・深夜23時台の当駅止まりの1往復のみ使用している。 東京・新宿方面が長時間不通となった場合、当駅で運行を打ち切ることもあるが、上り列車のホームでの折り返しは7番線のみ可能で、3・4・6番線に着いた列車は、引き上げ線に入る必要がある。新宿方面のみの不通やダイヤ乱れによる高崎線下り列車の融通のための上り列車の数本程度の打ち切りは、基本的に7番線へ到着して、そのまま折り返し始発列車となっており、引き上げ線は用いない。また、折り返しではないが、先述の通り年末年始終夜運転で上野行きと新宿方面行きを平面乗換させるためと終夜使用ホームを絞るため、宇都宮線上り湘南新宿ラインを折り返し時と同じルートで7番線へ入線させている。 東京方面が完全に不通となった場合、引き上げ線だけでは、宇都宮線・高崎線の宇都宮・高崎方面への全列車折り返し運転に対応するのは困難であることから、2016年(平成28年)度末より、当駅南側の貨物線上にある大宮操車場の設備を活用して、折り返し運転を実施できるようにする計画となっている。 高崎線下りが遅延している場合、8番線(または7番線)の列車と11番線の列車との間で、同時発車または後続列車がとりあえず先に発車する場合、後続列車は、ホームを抜けてすぐの場所(8番線の場合は、後部車両がまだ9番線ホーム先端を横目に見る位置)で一時停車して調整する。なお、先行列車が先に発車できた場合でも、間隔が短ければ、合流する工場裏踏切の手前から宮原駅までの間、後続列車が信号待ちで必然的に減速・停車する。逆方向の宇都宮線・高崎線の上り東京方面は、宇都宮線と高崎線が同時発車あるいは後続列車が先に発車した場合、さいたま新都心駅手前の合流ポイントで後続列車が一時停車する形になるが、この区間には絶妙な位置にエアセクションがあり、2007年6月22日朝にダイヤ乱れで詰まっている中でエアセクション停車・発車による架線切断事故を起こしたことがある関係で、予め詰まると分かっている場合は当駅ホームでの発車待機とすることも多い。双方遅延している場合は宇都宮線を優先する傾向がある。なお、湘南新宿ライン新宿方面・武蔵野線直通列車に関しては、ホームを出て合流する距離が短いため、後続列車は当駅を発車できずに信号開通待ちとなる。 京浜東北線(電車線)は宇都宮線上り線の東側にあり、配線は単純な複線の行き止まりで、南側に折返し用の両渡り線がある。電車はホームでの折返しで、引き上げ線はない。夜間滞泊が設定されている。その他、両渡り線のさらに東京寄りに宇都宮線の3・4番線に連絡するポイントがある。 埼京線・川越線は地下であり20・21番線が上下線の主本線、19・22番線が副本線で、上下線ともすべての線路で折返しができる。なお、すべてホームでの折返しで引き上げ線はない。埼京線側は駅の大崎方面すぐそばで高架となり、さいたまスーパーアリーナのすぐそばまでは新幹線の真下を走る二層高架で、北与野駅の手前で新幹線の横に取り付く。川越線側は地下を走行する区間が少々長く、鉄道博物館の横で地上に出る。上記のとおり、新幹線の高架をくぐる地点で電車線と列車線(6・7・11番線)が分岐する。この分岐点は日進駅の場内である。 かつて、大宮総合車両センターで車両の解体が実施されていたため、当駅まで廃車回送列車が設定されていた。交通博物館を移転する形で現在の鉄道博物館を建設する際、用地確保のために車両解体業務は長野総合車両センターへ集約移管されている。 新幹線は高架で、南側は複線、北側は東北新幹線・上越新幹線それぞれの複線に分岐する。北からの列車は当駅で折り返しが可能な構造となっている。この折り返し設備を使った東北・上越新幹線の直通運転も可能で、実際に2016年11月には東北新幹線(仙台方面)と北陸新幹線(金沢方面)を直通する新幹線が営業運転された。当駅から東北・上越方面の分岐点までの複々線部分に線路1線分の空間が何箇所か点在するが、これは建設当時に現鉄道博物館付近に留置線を設ける計画があったことと、上越新幹線の新宿駅延伸構想を踏まえ、上下線を支障せずに東京・新宿方面から東北・上越方面へ相互に列車を走らせる構造を考慮したためである。 京浜東北線ホームの1・2番線では2003年4月1日から、さいたま市の市歌である『希望のまち』を使用していたが、2007年9月30日からは2番線のメロディが地元のプロサッカークラブ大宮アルディージャの応援歌『Vamos Ardija』に変更されている。これは大宮アルディージャがさいたま市を通して要望し、変更費用を負担して行われたものである。メロディの制作はスイッチで、編曲は塩塚博が手掛けた。 3 - 11番線は東洋メディアリンクス、19 - 22番線はテイチク制作のメロディを使用している。 東武野田線(東武アーバンパークライン)の駅は、JR東日本1・2番線(京浜東北線)ホームの北東側にあり、島式ホーム(広義では頭端式)1面2線を有する地上駅である。 駅番号はTD 01。駅業務は東武ステーションサービスに委託している。 東武大宮駅管区として、北大宮駅 - 八木崎駅間を統括管理している。 ホームは島式(広義では頭端式)1面2線。改札口は車止め方(南側)1カ所のみで、降車専用ホームはない。 駅舎は駅ビル「ルミネ1」(当初は「大宮ステーションビル」)と一体化した造りで、東口へは「ルミネ1」の1階部分を通り抜けて出入りする。 JR東日本・埼玉新都市交通との乗り換えや西口へ出る場合は、改札前にある(昇降はエスカレーターのみの)乗換連絡通路、もしくは数 m先にある乗換階段を使用して、2階の中央自由通路へ出る。 埼玉新都市交通(ニューシャトル)ののりばは、駅の東西反対側に位置し、かつコの字型の移動が必要なので、乗り換えには時間を要する。 大宮駅グランドセントラルステーション化構想では、北側に東西自由通路を新設の上、東武駅を南側にシフトして、3社間の乗換距離を短縮することを検討している。 埼玉新都市交通(ニューシャトル)の駅は、JR駅の西側にある新幹線ホームの北寄り真下に位置する単式ホーム1面1線の高架駅である。ステーションカラーは紫。駅番号はNS01。 ループ状になった線路の途中にあり、列車はホームで折り返さず、車両の進行方向を転換させることなく、ループ線を右回りに周り、東から進入し、西へ出発する(丸山・内宿側ではループ線はなく、運転台を切り替えて進行方向を反転させているため、1往復して当駅に戻ってくると車両の向きが入れ替わっている)。 大宮駅の鉄道ホームの中で、唯一東西方向に設置されているホームであり、線路の南側にホームがある。有人窓口と自動改札機が置かれ、改札内にコンビニエンスストア(デイリーヤマザキ)とトイレがある。改札とホームの間に階段があるため、車イス用のスロープも設置されている。 JR改札口から通路(てっぱく通り)を少々歩く必要があり、JRからは北改札口が一番近い。なお、埼京線・川越線からの乗り換えには埼京線北口(ルミネ北改札口)が最も近い。 東口側の東武野田線(東武アーバンパークライン)改札口からは、階段などを上り、中央自由通路を反対側まで歩く必要がある。 当駅でSuica(相互利用カードを含む)を利用した時の履歴は「埼都大宮」と印字・表示される。また、当駅では鉄道博物館駅への往復乗車券も販売している。 列車到着の際に、沿線の伊奈学園総合高校吹奏楽部によるアニメーション映画『銀河鉄道999』のテーマ曲が流れる(作曲したタケカワユキヒデはさいたま市出身)。 (出典:埼玉新都市交通:構内案内図) 3社を合算した2017年度の1日平均乗降人員は約69万人であり、埼玉県の駅では第1位。 東武鉄道の各年度の1日平均乗降人員数は下表の通り。 各年度の1日平均乗車人員数は下表の通り。 駅周辺は東口・西口ともに百貨店や専門店・ファッションビル、飲食店、企業や金融機関などが軒を連ね、埼玉県内最大の繁華街およびオフィス街が広がっている。 今後、さいたま市による駅舎および駅周辺の一体的かつ大規模な再開発が構想されている(大宮駅グランドセントラルステーション化構想)。駅舎では東西連絡通路の増設や駅ビルの建替えによる駅機能の更なる強化を、駅周辺では大規模整地による建物・道路の再開発や地下開発等がそれぞれ検討されている(いずれも詳細は未定)。これに関連して、さいたま市は2022年4月26日、独立行政法人都市再生機構(UR)と当駅周辺のまちづくりに関する連携協定を締結した。 旧中山道(現在の埼玉県道164号鴻巣桶川さいたま線)の宿場大宮宿をルーツとする従前からの市街地であり、武蔵国一宮氷川神社への門前町でもある。駅前には髙島屋、ルミネ大宮店のほか、多くの小規模店舗が軒を連ね、県下最大の歓楽街大宮南銀座がある。以前は長崎屋、十字屋、西武百貨店、ハタプラザなどの商業施設が立地していたが、西口の発展やさいたま新都心駅周辺などの再開発の影響もあり廃業している。一方、大宮中央デパート跡地に再開発ビル「大宮門街」が建設されるなど、当駅東口の再開発も進み始めた。 地名は桜木町。西側に国道17号(中山道)が通り、駅周辺にはそごう大宮店等の大型商業施設や、大宮ソニックシティ・JACK大宮・シーノ大宮を始めとする数々のオフィスビルが建ち並んでいる。飲食店は東口より少ないが、企業や金融機関が多く、当駅西口は埼玉県内最大のオフィス街を形成している。駅と国道の間の市街地は、新幹線建設以来、区画整理や再開発が進められており、街並みは大きく変わった。 埼玉県内の路線価において大宮駅西口前の地点に毎年最高値が付く(令和3年における上位4地点のうち、2位は川口駅前、残り3地点が大宮駅前である)。また、駅から南側に250 m進むと中央区上落合との境界がある。 埼京線・川越線のコンコースは地上階(ホームは地下)にあり、西口側のルミネ大宮2の1階と直結しているため、ルミネ北改札口(1985年開設・埼京線北口)とルミネ南改札口(2004年開設)がある。ルミネ北改札口は7:00 - 22:00、ルミネ南改札口はルミネ大宮2営業時間中のみ利用可能で、共にIC専用となっている(ルミネ南改札口は2017年5月15日より、ルミネ北改札口は2019年5月13日より変更された)。埼京線・川越線からニューシャトルへの乗り換えには、ルミネ北改札口から駅舎の外へ出て駅沿いを北側に歩き、歩行者デッキへの階段を昇るルートが最も近い(駅舎内の乗換通路距離や階段などの垂直移動および混雑を考慮すると、数分程度早くニューシャトル改札口へ着く)。 大型バスターミナル「バスタ大宮(仮称)」を整備する構想があると2021年に報道されたが、現時点で下記の各長距離バスは全て当駅前からの発着である(現在はあくまでも構想段階)。 2016年時点では地元業者がすべて撤退し、JR東日本クロスステーション(旧NRE)のみが営業している。主な駅弁は下記の通り。 ※山形・秋田・北海道新幹線の隣の駅の停車駅は各列車記事もしくは各路線記事を参照のこと。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "大宮駅(おおみやえき)は、埼玉県さいたま市大宮区錦町にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東武鉄道・埼玉新都市交通の駅である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "東京と北関東・東北地方・信越地方・北陸地方・北海道地方を結ぶ多数の新幹線および在来線・私鉄が乗り入れる東京以北最大のターミナル駅。駅周辺は合併以前の旧大宮市の中心市街地(「大宮地区」も参照)。また、当駅付近を首都高速埼玉新都心線・埼玉大宮線や、国道16号・国道17号・新大宮バイパスが通るなど、道路交通網としても県内の拠点に位置しているため、多くの高速バスや長距離バスが発着し、駅前にバスターミナルも形成されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "当駅は東北本線上にあり、乗り入れ路線は、新幹線が東北新幹線・山形新幹線・秋田新幹線・北海道新幹線の東北系統と上越新幹線・北陸新幹線の上越系統の合計6新幹線(山形新幹線と秋田新幹線はミニ新幹線)、JR在来線は宇都宮線(東北本線)・高崎線・京浜東北線・埼京線・川越線、また私鉄路線として東武野田線(東武アーバンパークライン)・埼玉新都市交通伊奈線(ニューシャトル)の合計13路線と、乗り入れ路線数は東京駅に次いで全国2位。上野東京ライン・湘南新宿ライン、東北貨物線経由で乗り入れる武蔵野線(むさしの号・しもうさ号)も加えると合計16路線。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "JTBパブリッシングなどの時刻表における名目上の県・市の代表駅は埼玉県庁舎の最寄駅である浦和駅が表記されているが、その乗り入れ路線数・1日の乗降者数・駅周辺の市場経済規模等、埼玉県内のみならず全国でも有数のターミナル駅であり、当駅が実質的に県下最大の駅となっている。1日平均乗降者数約70万人は埼玉県内では最も多い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "新幹線・在来線ともにすべての営業列車が停車し、2017年7月以降の多客期には、東北新幹線において大宮駅始発・終着となる臨時「はやぶさ」が新たに設定された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "また、当駅北側に東日本旅客鉄道(JR東日本)大宮総合車両センター(旧:大宮工場)・日本貨物鉄道(JR貨物)大宮車両所が、南側に大宮操車場があり、2007年10月14日にはJR東日本の創立20周年記念事業のメインプロジェクトとして、大宮総合車両センターに隣接した大宮区大成町に鉄道博物館が開館。このように数多くの鉄道施設が立地し、旧日本国有鉄道(国鉄)時代から「鉄道の町」として公式認定を受けているほか、駅周辺は百貨店や専門店、飲食店が集積しており、多くの人で賑わっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "JR東日本・東武鉄道・埼玉新都市交通の3社が乗り入れるターミナル駅。以下のうち、上越新幹線・高崎線・川越線・東武野田線(東武アーバンパークライン)・埼玉新都市交通伊奈線(ニューシャトル)は当駅を起点とする。一方で、運行上当駅が完全に終点となる列車は京浜東北線・武蔵野線・東武野田線(東武アーバンパークライン)・ニューシャトルのみ。 湘南新宿ライン - 当駅 - 宇都宮線を経由し栗橋駅で東武日光線鬼怒川線と相互乗り入れ(栗橋駅は運転停車)を行っている東武直通特急「スペーシア日光」「きぬがわ」も運行されている(当駅起点の東武野田線経由ではない)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "日本鉄道によって、1883年に東京から北へ向かう初の鉄道である上野駅 - 熊谷駅間の路線が開業したとき、県庁所在地である浦和駅の次の駅は上尾駅とされ、大宮に駅は設けられなかった。開業当時、大宮宿から離れると243戸の家しかなかったことや、当時の蒸気機関車は牽引力が低く、短い間隔での駅設置はしないことが基本だったため、駅間距離が短くなってしまうことを防ごうとしたことが原因であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "しかし、後に大宮町長を務める白井助七ら地元有志は、町のこれ以上の衰退を危惧し、駅の敷地のために土地を提供すると提示して、駅の誘致運動を始めた。白井の尽力を記念して、大宮区役所・さいたま市立大宮図書館の北側に所在する児童公園の山丸公園には、白井を顕彰する記念碑(1937年に設置)と蒸気機関車C12 29号機(1970年2月26日に旧大宮市役所前に展示。1984年2月に現在地に移転)が置かれ、大宮ソニックシティ前の鐘塚公園には、白井の胸像が2002年に設置されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "上野駅から青森駅へ向かう、現在の東北本線を建設する際に、高崎駅・前橋駅へ向かう路線のどこから分岐させるかが問題になった。浦和・大宮・熊谷の3案があった。熊谷案は当時最大の輸出品目である繊維産業の中心地である桐生・足利を経由するなどといった理由で、具体的検討がなされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "浦和分岐案は、経由する岩槻の住民が鉄道忌避を起こした。アメリカ人技師のクロフォードは、宇都宮への最短経路となる大宮経由で建設すべしと意見を出した。最終的には井上勝の決断によって、大宮はその起点となる地として、駅が設けられることになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1894年には、白井が提供した土地を基に、駅の北に隣接して大宮工場(現:大宮総合車両センター・大宮車両所)が設置され、さらに日本の重要幹線の分岐駅という交通の要衝であり、以後大宮は「鉄道の町」として栄えるようになった。後年には鉄道出身者から大宮市議会議員を多数輩出しており、大宮と鉄道は密接に関係している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "駅の東西の往来は、昭和中期までは駅北側にある国道16号(現・埼玉県道2号さいたま春日部線)の跨線橋・大栄橋を渡るか、入場券を購入して改札口を通る必要があった。そこで住民の陳情もあって、1968年に駅の真下に大宮駅東西自由通路が設置され、歩行者と自転車は無料で駅の東西の往来が可能となったが、地下道にホームレスが住み着き、放尿による悪臭問題などの新たな環境問題が起こり、1981年に新幹線建設工事に伴う駅舎の大改装によって中央自由通路が設置されたため、地下道は廃止された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1982年に東北新幹線・上越新幹線が、1983年には埼玉新都市交通ニューシャトルが開業。1985年には埼京線の開業と川越線の電化が実現した。現在は、多くの路線が集まり、新幹線を含むすべての営業列車が停車するなどターミナル駅として機能している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "当駅にはJR東日本・東武鉄道・埼玉新都市交通の3事業者が乗り入れる。埼京線・川越線以外のJR在来線と東武野田線(東武アーバンパークライン)のプラットホームが地上1階に並び、その上に乗り換え通路を配置する橋上駅の構造だが、他に地上2階には埼玉新都市交通(ニューシャトル)のホームが、地上3階には新幹線ホームが、地下1階にはJR埼京線・川越線ホームがそれぞれ設けられた、4層構造となっている。3社合計ののりばとして、25もの番線が設置されている。なお、鉄道会社相互の連絡改札口は設けられていないため、各社の乗り換えには一度改札の外に出る必要がある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "JRにはコンコースが中央自由通路を挟んで南北にあり、それぞれに商業施設が設置されている。南北のコンコースはそれぞれが独立しているため、コンコース間を往来するには一度いずれかのホームに降りて移動しなければならないが、それぞれのコンコースからはすべてのJRホームへ移動することが可能。なお、外から新幹線のりばに直接入れる改札口はなく、当駅から新幹線に乗車するには、南北のコンコースともに一度在来線の改札口を通って新幹線乗換口を通る必要がある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "中央自由通路は駅ビル「ルミネ」と一体化しているほか、商業施設が通路沿いに設置され、通路中央には観光案内所を兼ねたインフォメーションセンターがある。中央改札(南)と中央改札(北)の間には、駅開業100周年と埼京線開業記念として日本交通文化協会の発注により伊藤隆道が制作した金属製の大型オブジェ「行きかう・線」があり、公募によって命名された「まめの木」の愛称で呼ばれ、主要な待ち合わせ場所として利用されている。なお、日本交通文化協会の発注で東北・上越新幹線開業記念として設置されたパブリックアートは、ルードヴィッヒ・シャフラットが制作したステンドグラス「光と水と生命」が西口階段上部に、岡田又三郎の原画を基にルイ・フランセンが制作した陶板レリーフ「川の祭り」が 新幹線南待合室(さくら草)にある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "駅ナカ商業施設として、南側にエキュート大宮が、北側にはエキュート大宮ノース(旧・Dila大宮)がある。2019年11月 - 12月には商業施設「エキュート大宮」のリニューアルが行われ、「Dila大宮」の一部を改装する形で、商業施設「エキュート大宮ノース」が2020年7月22日に開業した。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "事務管コードは▲451018または▲441018を使用している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "今後、駅舎の大規模な再開発が構想されている(大宮駅グランドセントラルステーション化構想)。北側(大栄橋側)に東西連絡通路および出入口を増設、駅ビルの建替えによる駅機能強化、駅周辺建物・道路の再開発や地下開発、新たな大型バスターミナルの設置等がそれぞれ検討されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "新幹線のりばが地上3階の高架上、在来線は地平と新幹線直下の地下にあり、隣接して大宮総合車両センターがあることから、地平に多数の側線を持っている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "コンコースおよび改札口は地上2階にあり、東西に伸びる中央自由通路を中心として南北に分かれている。中央自由通路に面する中央改札(北)と中央改札(南)、西口側から南コンコースにつながる南改札と北コンコースにつながる北改札がある。当駅には「OMY」のスリーレターコードが付与されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "直営駅であり、大宮営業統括センター所在駅。管理駅として川越線日進駅 - 武蔵高萩駅、大宮操車場、東大宮操車場を管理する。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "(出典:JR東日本:駅構内図)", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "新宿駅へは埼京線・湘南新宿ラインの2経路が、横浜駅へは上野東京ライン・湘南新宿ラインの2経路が存在し、同一の目的地で複数の経路が発生するため、コンコースには両駅への先着予定列車を表示する案内板が設置されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "在来線の基本は宇都宮線の上下線の間に高崎線の上下線を挟み込む形である。駅の土呂・宮原駅寄りで宇都宮線下り線が高崎線の上下線をまたぐ。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "一方、駅の東京寄りでは、宇都宮線・高崎線・上野東京ラインが走る東北旅客線と、湘南新宿ラインが走る東北貨物線の系統別複々線になり、さらに京浜東北線の複線が独立して並ぶ三複線となる(東から京浜東北線、東北旅客線、東北貨物線)。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "東北貨物線の上り方面は、宇都宮線上り線と高崎線からの列車が使用する上り線の間の5番線を基準として、宇都宮線上り線(3・4番線)と高崎線からの列車が使用する上り線(6番線)の間を東京方面に進み、高崎線からの列車が使用する上り線と宇都宮線下り線をくぐって、大宮操車場の貨物側線群に出る。宇都宮線・高崎線の上り線はさいたま新都心駅の手前で合流して1本になる。貨物側線群の東京寄りには武蔵野線の貨物支線(大宮支線)の複線が東北貨物線の上下線間に挟まれており、地下へ潜り、武蔵野線につながる。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "宇都宮線下り線は高崎線からの列車が使用する上り線に並んで東北貨物線上り線をまたぎ、8・9番線に至る。当駅を出ると、8番線は高崎線下り線、9番線は宇都宮線下り線へ分かれ、宇都宮線下り線は高崎線上下線をまたぐ。なお、線路配線上は8番線から宇都宮線下り、9番線から高崎線下りへの入線も可能であり、ダイヤが乱れた際ごくまれに営業列車で設定されることがある。7番線から宇都宮線下りが発車する場合は8番線からの線路にいったん合流した後、9番線からの宇都宮線下りへと分岐するルートとなる。東北貨物線下り線は貨物線上り線と貨物側線群をはさんで離れた反対側を走り、貨物列車は10番線に、旅客列車は11番線に入線する。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "10番線の線路は、当駅の先で大宮総合車両センター東大宮センターへの入出庫線となっており、宇都宮線土呂駅 - 東大宮駅間に所在する同センターまで、宇都宮線の複線と出入庫線の単線が並ぶ3線区間となっている。入出庫線は宇都宮線下り線に沿っているが、当駅の土呂寄りで5番線への線路が分岐し、宇都宮線下り線をまたぎ、東北貨物線上り線となる。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "11番線を出た旅客列車(湘南新宿ラインからの列車)は一度10番線からの線路に戻って、宇都宮線の列車はさらにすぐ9番線からの線路に移る。一方、高崎線の列車は10番線からの線路をいったん進んだあと、出入庫線が右に分岐していき、宇都宮線上下線と出入庫線から反れていった後で、宇都宮線をくぐってきた高崎線下り線に合流する。高崎線下り列車は、上野・新宿双方からの線路の合流点が駅ホームから遠く、この区間を活用して遅延時の時間調整を行う(後述)。なお、合流点は10番線からの線路が本線で、8番線からの高崎線下り本線が合流するという変則形状であり、高崎線上り線も下り線に合わせた急カーブになっているため、上下列車とも、この区間ではやや速度を落とす。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "新宿・武蔵野線方面からの大宮駅行き列車は、11番線から発車すると10番線からの線路に移って出入庫線に入り、大宮総合車両センター東大宮センターまで回送される。同センターで折り返し、5番線への線路を通り、3番線や7番線に入る。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "11番線の線路は、旧来は川越線が使用していたものであり、現在も川越線に接続している。高崎線の複線に沿って進み、地下から上ってきた川越線の複線と、東北・上越新幹線の高架をくぐる地点で合流する。川越車両センターの臨時回送列車だけでなく、旅客扱いでは臨時快速列車「ぶらり川越号」が大宮駅で地上発着となる。一般旅客でも地上の川越線を走行する列車に乗車することが可能である。なお川越線の電車線と列車線の分岐点は日進駅の場内である。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "7番線は上下線共用の中線であり、普段は朝ラッシュ時の高崎線上り列車の6番線との両面着発に用いられ、日中以降は高崎線下り特急列車の発着ホームとして用いられている(ダイヤ乱れ時は後述の使い方をするため下り特急も8番線を発着に変更されることがある)。東京側に引き上げ線が2本設置されている。高崎線の上下線路・ホームを挟み込むように宇都宮線の線路・ホームが位置している構造上、高崎方面からの列車は7番線を利用して当駅で折り返すことが容易な構造になっている。一方、宇都宮線の宇都宮方面からの列車が当駅で折り返す際は、ポイントをいくつか渡り、高崎線と平面交差して7番線に入る。大宮折り返し運用は、2020年2月時点で、早朝6時台の宇都宮行き・深夜23時台の当駅止まりの1往復のみ使用している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "東京・新宿方面が長時間不通となった場合、当駅で運行を打ち切ることもあるが、上り列車のホームでの折り返しは7番線のみ可能で、3・4・6番線に着いた列車は、引き上げ線に入る必要がある。新宿方面のみの不通やダイヤ乱れによる高崎線下り列車の融通のための上り列車の数本程度の打ち切りは、基本的に7番線へ到着して、そのまま折り返し始発列車となっており、引き上げ線は用いない。また、折り返しではないが、先述の通り年末年始終夜運転で上野行きと新宿方面行きを平面乗換させるためと終夜使用ホームを絞るため、宇都宮線上り湘南新宿ラインを折り返し時と同じルートで7番線へ入線させている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "東京方面が完全に不通となった場合、引き上げ線だけでは、宇都宮線・高崎線の宇都宮・高崎方面への全列車折り返し運転に対応するのは困難であることから、2016年(平成28年)度末より、当駅南側の貨物線上にある大宮操車場の設備を活用して、折り返し運転を実施できるようにする計画となっている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "高崎線下りが遅延している場合、8番線(または7番線)の列車と11番線の列車との間で、同時発車または後続列車がとりあえず先に発車する場合、後続列車は、ホームを抜けてすぐの場所(8番線の場合は、後部車両がまだ9番線ホーム先端を横目に見る位置)で一時停車して調整する。なお、先行列車が先に発車できた場合でも、間隔が短ければ、合流する工場裏踏切の手前から宮原駅までの間、後続列車が信号待ちで必然的に減速・停車する。逆方向の宇都宮線・高崎線の上り東京方面は、宇都宮線と高崎線が同時発車あるいは後続列車が先に発車した場合、さいたま新都心駅手前の合流ポイントで後続列車が一時停車する形になるが、この区間には絶妙な位置にエアセクションがあり、2007年6月22日朝にダイヤ乱れで詰まっている中でエアセクション停車・発車による架線切断事故を起こしたことがある関係で、予め詰まると分かっている場合は当駅ホームでの発車待機とすることも多い。双方遅延している場合は宇都宮線を優先する傾向がある。なお、湘南新宿ライン新宿方面・武蔵野線直通列車に関しては、ホームを出て合流する距離が短いため、後続列車は当駅を発車できずに信号開通待ちとなる。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "京浜東北線(電車線)は宇都宮線上り線の東側にあり、配線は単純な複線の行き止まりで、南側に折返し用の両渡り線がある。電車はホームでの折返しで、引き上げ線はない。夜間滞泊が設定されている。その他、両渡り線のさらに東京寄りに宇都宮線の3・4番線に連絡するポイントがある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "埼京線・川越線は地下であり20・21番線が上下線の主本線、19・22番線が副本線で、上下線ともすべての線路で折返しができる。なお、すべてホームでの折返しで引き上げ線はない。埼京線側は駅の大崎方面すぐそばで高架となり、さいたまスーパーアリーナのすぐそばまでは新幹線の真下を走る二層高架で、北与野駅の手前で新幹線の横に取り付く。川越線側は地下を走行する区間が少々長く、鉄道博物館の横で地上に出る。上記のとおり、新幹線の高架をくぐる地点で電車線と列車線(6・7・11番線)が分岐する。この分岐点は日進駅の場内である。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "かつて、大宮総合車両センターで車両の解体が実施されていたため、当駅まで廃車回送列車が設定されていた。交通博物館を移転する形で現在の鉄道博物館を建設する際、用地確保のために車両解体業務は長野総合車両センターへ集約移管されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "新幹線は高架で、南側は複線、北側は東北新幹線・上越新幹線それぞれの複線に分岐する。北からの列車は当駅で折り返しが可能な構造となっている。この折り返し設備を使った東北・上越新幹線の直通運転も可能で、実際に2016年11月には東北新幹線(仙台方面)と北陸新幹線(金沢方面)を直通する新幹線が営業運転された。当駅から東北・上越方面の分岐点までの複々線部分に線路1線分の空間が何箇所か点在するが、これは建設当時に現鉄道博物館付近に留置線を設ける計画があったことと、上越新幹線の新宿駅延伸構想を踏まえ、上下線を支障せずに東京・新宿方面から東北・上越方面へ相互に列車を走らせる構造を考慮したためである。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "京浜東北線ホームの1・2番線では2003年4月1日から、さいたま市の市歌である『希望のまち』を使用していたが、2007年9月30日からは2番線のメロディが地元のプロサッカークラブ大宮アルディージャの応援歌『Vamos Ardija』に変更されている。これは大宮アルディージャがさいたま市を通して要望し、変更費用を負担して行われたものである。メロディの制作はスイッチで、編曲は塩塚博が手掛けた。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "3 - 11番線は東洋メディアリンクス、19 - 22番線はテイチク制作のメロディを使用している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "東武野田線(東武アーバンパークライン)の駅は、JR東日本1・2番線(京浜東北線)ホームの北東側にあり、島式ホーム(広義では頭端式)1面2線を有する地上駅である。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "駅番号はTD 01。駅業務は東武ステーションサービスに委託している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "東武大宮駅管区として、北大宮駅 - 八木崎駅間を統括管理している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "ホームは島式(広義では頭端式)1面2線。改札口は車止め方(南側)1カ所のみで、降車専用ホームはない。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "駅舎は駅ビル「ルミネ1」(当初は「大宮ステーションビル」)と一体化した造りで、東口へは「ルミネ1」の1階部分を通り抜けて出入りする。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "JR東日本・埼玉新都市交通との乗り換えや西口へ出る場合は、改札前にある(昇降はエスカレーターのみの)乗換連絡通路、もしくは数 m先にある乗換階段を使用して、2階の中央自由通路へ出る。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "埼玉新都市交通(ニューシャトル)ののりばは、駅の東西反対側に位置し、かつコの字型の移動が必要なので、乗り換えには時間を要する。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "大宮駅グランドセントラルステーション化構想では、北側に東西自由通路を新設の上、東武駅を南側にシフトして、3社間の乗換距離を短縮することを検討している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "埼玉新都市交通(ニューシャトル)の駅は、JR駅の西側にある新幹線ホームの北寄り真下に位置する単式ホーム1面1線の高架駅である。ステーションカラーは紫。駅番号はNS01。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "ループ状になった線路の途中にあり、列車はホームで折り返さず、車両の進行方向を転換させることなく、ループ線を右回りに周り、東から進入し、西へ出発する(丸山・内宿側ではループ線はなく、運転台を切り替えて進行方向を反転させているため、1往復して当駅に戻ってくると車両の向きが入れ替わっている)。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "大宮駅の鉄道ホームの中で、唯一東西方向に設置されているホームであり、線路の南側にホームがある。有人窓口と自動改札機が置かれ、改札内にコンビニエンスストア(デイリーヤマザキ)とトイレがある。改札とホームの間に階段があるため、車イス用のスロープも設置されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "JR改札口から通路(てっぱく通り)を少々歩く必要があり、JRからは北改札口が一番近い。なお、埼京線・川越線からの乗り換えには埼京線北口(ルミネ北改札口)が最も近い。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "東口側の東武野田線(東武アーバンパークライン)改札口からは、階段などを上り、中央自由通路を反対側まで歩く必要がある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "当駅でSuica(相互利用カードを含む)を利用した時の履歴は「埼都大宮」と印字・表示される。また、当駅では鉄道博物館駅への往復乗車券も販売している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "列車到着の際に、沿線の伊奈学園総合高校吹奏楽部によるアニメーション映画『銀河鉄道999』のテーマ曲が流れる(作曲したタケカワユキヒデはさいたま市出身)。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "(出典:埼玉新都市交通:構内案内図)", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "3社を合算した2017年度の1日平均乗降人員は約69万人であり、埼玉県の駅では第1位。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "東武鉄道の各年度の1日平均乗降人員数は下表の通り。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "各年度の1日平均乗車人員数は下表の通り。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "駅周辺は東口・西口ともに百貨店や専門店・ファッションビル、飲食店、企業や金融機関などが軒を連ね、埼玉県内最大の繁華街およびオフィス街が広がっている。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "今後、さいたま市による駅舎および駅周辺の一体的かつ大規模な再開発が構想されている(大宮駅グランドセントラルステーション化構想)。駅舎では東西連絡通路の増設や駅ビルの建替えによる駅機能の更なる強化を、駅周辺では大規模整地による建物・道路の再開発や地下開発等がそれぞれ検討されている(いずれも詳細は未定)。これに関連して、さいたま市は2022年4月26日、独立行政法人都市再生機構(UR)と当駅周辺のまちづくりに関する連携協定を締結した。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "旧中山道(現在の埼玉県道164号鴻巣桶川さいたま線)の宿場大宮宿をルーツとする従前からの市街地であり、武蔵国一宮氷川神社への門前町でもある。駅前には髙島屋、ルミネ大宮店のほか、多くの小規模店舗が軒を連ね、県下最大の歓楽街大宮南銀座がある。以前は長崎屋、十字屋、西武百貨店、ハタプラザなどの商業施設が立地していたが、西口の発展やさいたま新都心駅周辺などの再開発の影響もあり廃業している。一方、大宮中央デパート跡地に再開発ビル「大宮門街」が建設されるなど、当駅東口の再開発も進み始めた。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "地名は桜木町。西側に国道17号(中山道)が通り、駅周辺にはそごう大宮店等の大型商業施設や、大宮ソニックシティ・JACK大宮・シーノ大宮を始めとする数々のオフィスビルが建ち並んでいる。飲食店は東口より少ないが、企業や金融機関が多く、当駅西口は埼玉県内最大のオフィス街を形成している。駅と国道の間の市街地は、新幹線建設以来、区画整理や再開発が進められており、街並みは大きく変わった。 埼玉県内の路線価において大宮駅西口前の地点に毎年最高値が付く(令和3年における上位4地点のうち、2位は川口駅前、残り3地点が大宮駅前である)。また、駅から南側に250 m進むと中央区上落合との境界がある。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "埼京線・川越線のコンコースは地上階(ホームは地下)にあり、西口側のルミネ大宮2の1階と直結しているため、ルミネ北改札口(1985年開設・埼京線北口)とルミネ南改札口(2004年開設)がある。ルミネ北改札口は7:00 - 22:00、ルミネ南改札口はルミネ大宮2営業時間中のみ利用可能で、共にIC専用となっている(ルミネ南改札口は2017年5月15日より、ルミネ北改札口は2019年5月13日より変更された)。埼京線・川越線からニューシャトルへの乗り換えには、ルミネ北改札口から駅舎の外へ出て駅沿いを北側に歩き、歩行者デッキへの階段を昇るルートが最も近い(駅舎内の乗換通路距離や階段などの垂直移動および混雑を考慮すると、数分程度早くニューシャトル改札口へ着く)。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "大型バスターミナル「バスタ大宮(仮称)」を整備する構想があると2021年に報道されたが、現時点で下記の各長距離バスは全て当駅前からの発着である(現在はあくまでも構想段階)。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "2016年時点では地元業者がすべて撤退し、JR東日本クロスステーション(旧NRE)のみが営業している。主な駅弁は下記の通り。", "title": "駅弁" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "※山形・秋田・北海道新幹線の隣の駅の停車駅は各列車記事もしくは各路線記事を参照のこと。", "title": "隣の駅" } ]
大宮駅(おおみやえき)は、埼玉県さいたま市大宮区錦町にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東武鉄道・埼玉新都市交通の駅である。
{{Otheruses|JR東日本・東武鉄道・埼玉新都市交通の[[鉄道駅]]|かつて隣接して存在した[[西武大宮線]]の[[路面電車停留場|停留場]]|大宮駅 (西武)}} {{特殊文字|説明=[[Microsoftコードページ932]]([[はしご高]])}} {{駅情報 |駅名 = 大宮駅 |よみがな = おおみや |ローマ字 = &#332;miya |所在地 = [[さいたま市]][[大宮区]][[錦町 (さいたま市)|錦町]] |所属事業者 = {{Plainlist| * [[東日本旅客鉄道]](JR東日本・[[#JR東日本|駅詳細]]) * [[東武鉄道]]([[#東武鉄道|駅詳細]]) * [[埼玉新都市交通]]([[#埼玉新都市交通|駅詳細]])}} |画像 = Omiya-STA West.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 西口(2021年8月) |地図 = {{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|type2=point|type3=point|zoom=15|frame-align=center|frame-width=300|marker=rail|marker2=rail|marker3=rail|coord={{coord|35|54|22.6|N|139|37|25.8|E}}|title=JR 大宮駅|coord2={{coord|35|54|27.36|N|139|37|28.00|E}}|title2=東武 大宮駅|coord3={{coord|35|54|24.9|N|139|37|22.1|E}}|title3=埼玉新都市交通 大宮駅|marker-color=008000|marker-color2=0f6cc3|marker-color3=FFFF00}} }} {{座標一覧}} [[File:Omiya-STA East.jpg|thumb|東口(2021年7月)]] '''大宮駅'''(おおみやえき)は、[[埼玉県]][[さいたま市]][[大宮区]][[錦町 (さいたま市)|錦町]]にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[東武鉄道]]・[[埼玉新都市交通]]の[[鉄道駅|駅]]である。 == 概要 == [[東京]]と[[北関東]]・[[東北地方]]・[[信越地方]]・[[北陸地方]]・[[北海道地方]]を結ぶ多数の[[新幹線]]および[[在来線]]・[[私鉄]]が乗り入れる東京以北最大の[[ターミナル駅]]。駅周辺は合併以前の旧[[大宮市]]の[[中心市街地]](「[[大宮地区]]」も参照)。また、当駅付近を[[首都高速]][[首都高速埼玉新都心線|埼玉新都心線]]・[[首都高速埼玉大宮線|埼玉大宮線]]や、[[国道16号]]・[[国道17号]]・[[新大宮バイパス]]が通るなど、[[道路交通]]網としても県内の拠点に位置しているため、多くの[[高速バス]]や[[長距離バス]]が発着し、駅前に[[バスターミナル]]も形成されている。 当駅は[[東北本線]]上にあり、乗り入れ路線は、[[新幹線]]が[[東北新幹線]]・[[山形新幹線]]・[[秋田新幹線]]・[[北海道新幹線]]の東北系統と[[上越新幹線]]・[[北陸新幹線]]の上越系統の合計6新幹線(山形新幹線と秋田新幹線は[[ミニ新幹線]])、[[JR]][[在来線]]は[[宇都宮線|宇都宮線(東北本線)]]・[[高崎線]]・[[京浜東北線]]・[[埼京線]]・[[川越線]]、また[[私鉄]]路線として[[東武野田線|東武野田線(東武アーバンパークライン)]]・[[埼玉新都市交通伊奈線|埼玉新都市交通伊奈線(ニューシャトル)]]の合計13路線と<ref>{{Cite web|和書|title=駅の情報(大宮駅):JR東日本|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=350|website=www.jreast.co.jp|accessdate=2019-06-18}}</ref>、乗り入れ路線数は[[東京駅]]に次いで全国2位。[[上野東京ライン]]・[[湘南新宿ライン]]、[[東北貨物線]]経由で乗り入れる[[武蔵野線]]([[むさしの号]]・[[しもうさ号]])も加えると合計16路線。 [[JTBパブリッシング]]などの[[時刻表]]における名目上の県・市の代表駅は埼玉県庁舎の最寄駅である[[浦和駅]]が表記されているが、その乗り入れ路線数・1日の乗降者数・駅周辺の[[市場経済]]規模等、埼玉県内のみならず全国でも有数のターミナル駅であり、当駅が実質的に県下最大の駅となっている。1日平均乗降者数約70万人は埼玉県内では最も多い。 新幹線・在来線ともにすべての営業列車が停車し、2017年7月以降の多客期には、東北新幹線において大宮駅始発・終着となる臨時「[[はやぶさ (新幹線)|はやぶさ]]」が新たに設定された<ref>{{Cite news|和書|title=東北新幹線と北陸新幹線の直通列車、10月に2往復運転 - トラベルメディア「Traicy(トライシー)」|date=2018-08-05|url=https://www.traicy.com/20180805-shinkansentour|accessdate=2018-10-09|work=[[Traicy|トラベルメディア「Traicy(トライシー)」]]|publisher=トライシージャパン}}</ref>。 また、当駅北側に[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[大宮総合車両センター]](旧:大宮工場)・[[日本貨物鉄道]](JR貨物)[[大宮車両所]]が、南側に[[大宮操車場]]があり、2007年10月14日にはJR東日本の創立20周年記念事業のメインプロジェクトとして、大宮総合車両センターに隣接した大宮区[[大成町 (さいたま市)|大成町]]に[[鉄道博物館 (さいたま市)|鉄道博物館]]が開館。このように数多くの鉄道施設が立地し、旧[[日本国有鉄道]](国鉄)時代から「[[鉄道の町]]」として公式認定を受けているほか<ref>[[#zen-eki12|『JR全駅・全車両基地』 7頁]]</ref>、駅周辺は[[百貨店]]や専門店、飲食店が集積しており、多くの人で賑わっている。 === 乗り入れ路線 === JR東日本・東武鉄道・埼玉新都市交通の3社が乗り入れる[[ターミナル駅]]。以下のうち、[[上越新幹線]]・[[高崎線]]・[[川越線]]・[[東武野田線|東武野田線(東武アーバンパークライン)]]・[[埼玉新都市交通伊奈線|埼玉新都市交通伊奈線(ニューシャトル)]]は当駅を起点とする。一方で、運行上当駅が完全に終点となる列車は[[京浜東北線]]・[[武蔵野線]]・東武野田線(東武アーバンパークライン)・ニューシャトルのみ。 湘南新宿ライン - 当駅 - 宇都宮線を経由し[[栗橋駅]]で[[東武日光線]][[東武鬼怒川線|鬼怒川線]]と相互乗り入れ(栗橋駅は運転停車)を行っている東武直通特急[[日光 (列車)|「スペーシア日光」「きぬがわ」]]も運行されている(当駅起点の東武野田線経由ではない)。 ; JR東日本 : JR東日本の駅に乗り入れている路線は、線路名称上は[[東北本線]]・高崎線・川越線で(詳細は路線記事および「[[鉄道路線の名称]]」を参照)、東北本線を当駅の[[日本の鉄道駅#所属線|所属線]]としている。一方、当駅に乗り入れている運転系統は以下のとおり多岐にわたる。また、在来線の駅には「{{駅番号s|black|#ffffff|OMY}}」の[[駅ナンバリング#スリーレターコード|スリーレターコード]]が付与されている。当駅は、東北本線・東北新幹線の駅としては最も西にある。 :* [[ファイル:Shinkansen jre.svg|15x15ピクセル]] '''[[東北新幹線]]''':[[東京駅]]から[[新青森駅]]までを結ぶ[[新幹線]]。 :* [[ファイル:Shinkansen jre.svg|15x15ピクセル]] '''[[北海道新幹線]]''':新青森駅から[[青函トンネル]]を経由して[[新函館北斗駅]]までを結ぶ新幹線。東京駅 - 新青森駅間は東北新幹線に乗り入れる。 :* [[ファイル:Shinkansen jre.svg|15x15ピクセル]] '''[[山形新幹線]]''':[[奥羽本線]]経由で[[福島駅 (福島県)|福島駅]]と[[山形駅]]・[[新庄駅]]を結ぶ世界初の[[ミニ新幹線]]。東京駅 - 福島駅間は基本的に東北新幹線[[やまびこ (列車)|やまびこ号]]と[[増解結|併結]]するが、一日に数本単独運転もある。 :* [[ファイル:Shinkansen jre.svg|15x15ピクセル]] '''[[秋田新幹線]]''':[[田沢湖線]]・奥羽本線経由で[[盛岡駅]]と[[秋田駅]]を結ぶミニ新幹線。東京駅 - 盛岡駅間は東北新幹線[[はやぶさ (新幹線) |はやぶさ号]]に併結。 :* [[ファイル:Shinkansen jre.svg|15x15ピクセル]] '''[[上越新幹線]]''':当駅と[[新潟駅]]を結ぶ新幹線。東京駅 - 大宮駅間は東北新幹線に乗り入れる。 :* [[ファイル:Shinkansen jre.svg|15x15ピクセル]] '''[[北陸新幹線]]''':[[高崎駅]]と[[金沢駅]]を結ぶ新幹線。東京駅 - 大宮駅間は東北新幹線に、大宮駅 - 高崎駅間は上越新幹線に乗り入れる。 :* [[ファイル:JR_JK_line_symbol.svg|15x15ピクセル|JK]] '''[[京浜東北線]]''':[[東北本線]]の当駅以南で[[電車線・列車線|電車線]]を走り、各駅停車運転<ref group="注釈">[[山手線]]と併走する[[田端駅]] - [[田町駅]]間では一部の時間帯のみ快速運転を行う</ref>を行う[[通勤列車|通勤電車]]。[[根岸線]]へ乗り入れて[[大船駅]]に至る。当駅は線路末端に[[鉄道標識#車止標識|車止標識]]が設置される完全終着駅。 - [[駅ナンバリング#JR東日本・東京モノレール・東京臨海高速鉄道|駅番号]]「'''JK 47'''」 :* [[ファイル:JR_JU_line_symbol.svg|15x15ピクセル|JU]] '''[[宇都宮線]]''':[[東京駅]]から[[尾久駅]]を経て[[小山駅]]・[[宇都宮駅]]方面を結ぶ東北本線の[[中距離電車]]。[[上野駅]]発着系統と、上野駅・東京駅経由で[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]に直通する'''[[上野東京ライン]]'''系統がある。 - 駅番号「'''JU 07'''」 :* [[ファイル:JR_JU_line_symbol.svg|15x15ピクセル|JU]] '''[[高崎線]]''':当駅と[[熊谷駅]]・高崎駅・[[前橋駅]]方面を結ぶ中距離電車。基本的に当駅折り返し列車の設定は一切なく、当駅以南は宇都宮線(東北旅客線)または湘南新宿ライン(東北貨物線)に乗り入れる。上野駅発着系統と、上野駅・東京駅経由で東海道線に直通する上野東京ライン系統がある。 - 駅番号「'''JU 07'''」 :* [[ファイル:JR_JA_line_symbol.svg|15x15ピクセル|JA]] '''[[埼京線]]''':[[山手線]]([[山手貨物線]])・[[赤羽線]]・東北本線別線を直通運転し、[[東京都|東京]]の[[副都心]]エリア([[池袋駅]]・[[新宿駅]]・[[渋谷駅]])と[[埼玉県|埼玉]]を結ぶ通勤電車。当駅で川越線と、[[大崎駅]]で[[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]]と、[[相鉄・JR直通線|相鉄線直通列車]]経由で[[相鉄本線|相鉄線]]とそれぞれ直通運転を実施。 - 駅番号「'''JA 26'''」 :* {{color|#00ac9a|■}}{{Color|#a8a39d|■}}'''[[川越線]]''':当駅から[[川越駅]]経由で、[[八高線]]との結節駅である[[高麗川駅]]を結ぶ通勤路線。運行系統は川越駅で東西に完全分割されており、当駅からは川越行きのみが設定されている。基本的に全て当駅で埼京線との直通運転を実施。 :* [[ファイル:JR_JS_line_symbol.svg|15x15ピクセル|JS]] '''[[湘南新宿ライン]]''':当駅以南で東北本線の[[東北貨物線]](通称)を走り、[[新宿駅]]経由で[[大船駅|大船]]方面と大宮方面を結ぶ中距離電車。宇都宮線と[[横須賀線]]、および高崎線と東海道線が直通運転。また、当駅始発'''[[武蔵野線]]'''経由[[八王子駅]]行き「[[むさしの号]]」(当駅行きは一部[[府中本町駅]]発もある)と、[[海浜幕張駅]]行き「[[しもうさ号]]」も、当駅では湘南新宿ラインの一部として分類されている。東武直通特急も新宿駅始発のため湘南新宿ラインとして分類される。 - 駅番号「'''JS 24'''」 ; 東武鉄道 :* [[File:Tobu Noda Line (TD) symbol.svg|15x15ピクセル|TD]] '''[[東武野田線]]''':愛称は「東武アーバンパークライン」。当駅を起点としており、[[柏駅]]・[[船橋駅]]方面へ運行されている。[[春日部駅]]経由で[[東武伊勢崎線]](東武スカイツリーライン)からの直通運転も実施されている。[[駅ナンバリング#東武鉄道|駅番号]]は「'''TD 01'''」。 ; 埼玉新都市交通 :* [[File:New Shuttle Line symbol.svg|15x15ピクセル|NS]] '''[[埼玉新都市交通伊奈線]]''':愛称は「ニューシャトル」で、正式名称が案内等に使用されることはほとんどない。当駅を起点としており、[[北足立郡]][[伊奈町]]の[[内宿駅]]まで運行されている。ゴムタイヤで走行する[[新交通システム]]の先駆的路線で、[[鉄道博物館駅]]へのアクセスにも利用されている。[[駅ナンバリング#埼玉新都市交通|駅番号]]は「'''NS 01'''」。 == 歴史 == [[File:Omiya Station 1934.jpg|thumb|[[昭和]]期の大宮駅]] [[File:JRE Tobu SSK Omiya Station 1974.jpg|thumb|駅付近空中写真(1974年撮影 国土画像情報[[オルソ補正|オルソ化]]空中写真([[国土交通省]])より)]] [[File:Ōmiya Station.2013.jpg|thumb|大宮駅周辺の空中写真(2013年2月撮影)<br />{{国土航空写真}}]] [[File:Omiya.station.aerial photograph.jpg|thumb|大宮駅北方から空撮(2019年)]]<!--「主となる大宮駅までの距離が遠すぎます」って誰の主観?。撮影範囲内です--> [[日本鉄道]]によって、[[1883年]]に東京から北へ向かう初の鉄道である[[上野駅]] - [[熊谷駅]]間の路線が開業したとき、[[都道府県庁所在地|県庁所在地]]である[[浦和駅]]の次の駅は[[上尾駅]]とされ、大宮に駅は設けられなかった<ref>{{Cite web|和書|title=大宮でブラタモリ(2/2) - 森の踏切番日記 |date=1499163058 |url=https://morifumikirikita319.hatenablog.com/entry/2017/07/04/191058|accessdate=2018-10-09|language=ja |work=森の踏切番日記}}{{出典無効|date=2023-06-17|title=個人ブログのため}}</ref>。開業当時、[[大宮宿]]から離れると243戸の家しかなかったことや、当時の[[蒸気機関車]]は牽引力が低く、短い間隔での駅設置はしないことが基本だったため、駅間距離が短くなってしまうことを防ごうとしたことが原因であった。 しかし、後に[[大宮町 (埼玉県)|大宮町]]長を務める[[白井助七]]ら地元有志は、町のこれ以上の衰退を危惧し、駅の敷地のために土地を提供すると提示して、駅の誘致運動を始めた。白井の尽力を記念して、大宮区役所・[[さいたま市図書館|さいたま市立大宮図書館]]の北側に所在する児童公園の山丸公園には、白井を顕彰する記念碑(1937年に設置)と蒸気機関車[[国鉄C12形蒸気機関車|C12 29号機]](1970年2月26日に旧大宮市役所前に展示。1984年2月に現在地に移転)が置かれ、大宮ソニックシティ前の鐘塚公園には、白井の胸像が2002年に設置されている。 上野駅から[[青森駅]]へ向かう、現在の[[東北本線]]を建設する際に、[[高崎駅]]・[[前橋駅]]へ向かう路線のどこから分岐させるかが問題になった。[[浦和市|浦和]]・[[大宮市|大宮]]・[[熊谷市|熊谷]]の3案があった。熊谷案は当時最大の輸出品目である[[繊維産業]]の中心地である[[桐生市|桐生]]・[[足利市|足利]]を経由するなどといった理由で、具体的検討がなされた。 浦和分岐案は、経由する[[岩槻市|岩槻]]の住民が[[鉄道と政治#鉄道忌避伝説|鉄道忌避]]を起こした<ref>小野文雄 監修『まんが 埼玉の歴史』第5巻 p28 [[埼玉新聞|埼玉新聞社]]</ref>。アメリカ人技師のクロフォードは、[[宇都宮市|宇都宮]]への最短経路となる大宮経由で建設すべしと意見を出した。最終的には[[井上勝]]の決断によって、大宮はその起点となる地として、駅が設けられることになった。 [[1894年]]には、白井が提供した土地を基に、駅の北に隣接して大宮工場(現:[[大宮総合車両センター]]・[[大宮車両所]])が設置され、さらに日本の重要幹線の分岐駅という交通の要衝であり、以後大宮は「鉄道の町」として栄えるようになった。後年には鉄道出身者から大宮市議会議員を多数輩出しており、大宮と鉄道は密接に関係している。 駅の東西の往来は、[[昭和]]中期までは駅北側にある[[国道16号]](現・[[埼玉県道2号さいたま春日部線]])の[[跨線橋]]・[[大栄橋]]を渡るか、[[入場券]]を購入して[[改札|改札口]]を通る必要があった。そこで住民の陳情もあって、[[1968年]]に駅の真下に大宮駅東西[[通路#自由通路|自由通路]]が設置され<ref name="mukashiimaS7">[[#mukashiima|『大宮のむかしといま』]]資料-7-11頁。</ref>、歩行者と[[自転車]]は[[無料]]で駅の東西の往来が可能となったが、地下道に[[ホームレス]]が住み着き、放尿による悪臭問題などの新たな環境問題が起こり、[[1981年]]に[[新幹線]]建設工事に伴う駅舎の大改装によって中央自由通路が設置されたため、地下道は廃止された<ref name="JR全駅10">[[#zen-eki12|『JR全駅・全車両基地』 10頁]]</ref>。 [[1982年]]に[[東北新幹線]]・[[上越新幹線]]が、[[1983年]]には[[埼玉新都市交通伊奈線|埼玉新都市交通ニューシャトル]]が開業<ref name="sone30">{{Cite book|和書|author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟|title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄|editor=朝日新聞出版分冊百科編集部(編集)|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=週刊朝日百科|volume=30号 モノレール・新交通システム・鋼索鉄道|date=2011-10-16|page=22}}</ref>。[[1985年]]には[[埼京線]]の開業と[[川越線]]の電化が実現した。現在は、多くの路線が集まり、新幹線を含むすべての営業列車が停車するなど[[ターミナル駅]]として機能している。 === 年表 === * [[1885年]]([[明治]]18年) ** [[3月16日]]:[[日本鉄道]]線の駅として開業<ref group="新聞" name="saitama-np-2015-3-22">{{Cite news |和書 |title=大宮駅開業130年祝う 鉄道の街、さらに発展を|date=2015-03-22|newspaper=[[埼玉新聞]]|publisher=埼玉新聞社}}</ref>。 ** [[7月16日]]:後の[[東北本線]]となる[[栗橋駅]]までの路線が分岐開業。 * [[1902年]](明治35年)[[5月9日]]:川越電気鉄道(後の[[西武大宮線]])[[川越久保町駅]] - 大宮駅間が開業([[大宮駅 (西武)]]も参照)。 * [[1906年]](明治39年)[[11月1日]]:日本鉄道が[[鉄道国有法]]に基づき政府に買収され国有化、[[逓信省]]鉄道作業局に移管される<ref name="JR全駅10"/>。 * [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|線路名称]]制定により[[東北本線]]の所属となる。高崎方面は[[高崎線]]と命名。 * [[1927年]]([[昭和]]2年)[[3月15日]]:鉄道工場のために西口が開設される。1970年代まで[[ロータリー交差点|ロータリー]]はなく、西方向に[[商店街]]が形成されていた。 * [[1929年]](昭和4年) ** [[11月17日]]:北総鉄道 野田線 粕壁駅 ー 大宮(仮)駅間を開業<ref name="JR全駅10"/>。 ** [[11月22日]]:北総鉄道が総武鉄道に社名変更。 ** [[12月9日]]:野田線 大宮駅が本開業。 * [[1932年]](昭和7年) ** [[7月15日]]:[[鉄道省]]が[[与野駅]] - 大宮駅間に貨物線を2線増設して[[複々線]]化([[赤羽駅]] - 大宮駅間の複々線が完成)。 ** [[9月1日]]:赤羽駅 - 大宮駅間[[鉄道の電化|電化]]完成、[[京浜東北線]]延伸開業<ref name="JR全駅10"/>。 * [[1940年]](昭和15年) ** [[7月22日]]:[[川越線]]開業<ref name="JR全駅10"/>。 * [[1941年]](昭和16年)[[2月25日]]:西武大宮線廃止<ref name="JR全駅10"/>。 * [[1944年]](昭和19年)[[3月1日]]:[[陸上交通事業調整法]]に基づき、東武鉄道が総武鉄道を吸収合併。 * [[1961年]](昭和36年)[[2月17日]]:貨車ヤードおよび貨物取り扱い業務を[[大宮操駅]]として分離<ref name="JR全駅10"/>。 * [[1965年]](昭和40年) ** [[9月26日]]:駅構内北側における[[東北本線]]と[[高崎線]]の立体交差が完成<ref name=":0">{{Cite book|title=大宮市史調査報告書 第1集 大宮市歴史年表|date=1997年(平成9年)3月28日|publisher=大宮市(現・さいたま市)企画財政部統計資料課}}</ref>。 ** [[10月1日]]:[[ダイヤ改正]]により、[[特別急行列車|特急列車]]3往復(東北本線「[[東北本線優等列車沿革|ひばり]]」、[[奥羽本線]]「[[つばさ (列車)#在来線特急「つばさ」|つばさ]]」、[[上越線]]「[[とき (列車)#首都圏対新潟県優等列車沿革|とき]]」)の停車開始<ref name=":0" />。 * [[1967年]](昭和42年) ** [[10月1日]]:与野駅 - 大宮駅間で電車線・旅客線・貨物線の分離、[[複々線化|三複線化]]が完成する<ref name="JR全駅10"/>(翌年に赤羽駅 - 与野駅間も完成、京浜東北線と東北線・高崎線の分離が完了)。 ** [[10月3日]]:[[民衆駅]]化され、[[駅ビル]]の大宮ステーションビル・OSB(現・ルミネ1)が開業する<ref name="JR全駅10"/><ref group="新聞">{{Cite news |和書|title=大宮民衆駅が花やかに開業|newspaper=[[交通新聞]]|publisher=交通協力会|date=1967-10-03|page=2}}</ref>。 東武大宮駅が現在地に移設され、国鉄との共同使用駅から独立し自社管理駅となる。 * [[1968年]](昭和43年)[[4月27日]]:東西地下[[通路#自由通路|自由通路]]が完成<ref name=":0" /><ref name="mukashiimaS722">[[大宮駅 (埼玉県)#mukashiima|『大宮のむかしといま』]]資料-7-11頁。</ref>。 * [[1981年]](昭和56年)[[10月25日]]:中央自由通路が完成<ref name=":0" />。東西地下自由通路は10月24日廃止。 * [[1982年]](昭和57年) ** [[6月19日]]:大宮ステーションビルの新館としてWe(現・ルミネ2)が開業する<ref name="JR全駅10"/>。 ** [[6月23日]]:[[東北新幹線]] 大宮駅 - [[盛岡駅]]間が開業<ref name="JR全駅10"/>。東京[[都心]]への連絡として、大宮駅 - 上野駅間に「[[新幹線リレー号]]」運転開始、女性案内員「リレーガール」登場。 ** [[11月15日]]:[[上越新幹線]]開業<ref name="JR全駅10"/>。 * [[1983年]](昭和58年)[[12月22日]]:[[埼玉新都市交通伊奈線|埼玉新都市交通ニューシャトル]] 大宮駅 - [[羽貫駅]]間が開業<ref name="sone30"/>。 * [[1985年]](昭和60年) ** [[3月14日]]:東北新幹線上野駅 - 大宮駅間が延伸開業し、暫定[[始発駅]]としての役割を終える<ref name="JR全駅10"/>。 ** [[9月29日]]:大宮駅開業100年、近代大宮100年、[[大宮市]]市制施行45年を記念して、[[コンコース]]で抽象芸術[[モニュメント]]「行きかう・線」の除幕式を挙行<ref name=":0" />。 ** [[9月30日]]:建設当初「通勤新線」と呼ばれていた[[埼京線]]が開業し、[[赤羽線]] 池袋駅 ー 川越線 川越駅まで直通運転開始<ref name="JR全駅10"/>。川越線の電化が完成<ref name="JR全駅10"/>。地上12番線は廃止され、電車線は地下ホームに移動。大宮駅 - [[日進駅 (埼玉県)|日進駅]]が複線化。 ** [[12月24日]]:モニュメント「行きかう・線」の愛称が「まめの木」に決定<ref name=":0" />。 * [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、国鉄の駅は[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の駅になる<ref name="JR全駅10"/>。 * [[1992年]]([[平成]]4年)[[5月20日]]:南改札口・北改札口に加え、新たに西改札口が開設される<ref name=":0" />。併せて、改札が[[自動改札機|自動改札化]]<ref>{{Cite book|和書 |date=1993-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '93年版 |chapter=JR年表 |page=182 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-114-7}}</ref>。 * [[1995年]](平成7年)[[2月11日]]:東武大宮駅の駅構内改良工事が完了<ref group="新聞" name="交通1995">{{Cite news|和書|title=改札口、従来より広く 東武野田線 大宮駅の改良工事|newspaper=交通新聞|publisher=交通新聞社|date=1995-02-15|page=3}}</ref>。 * [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:JR東日本(在来線)で[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=jp|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-30|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。 * [[2002年]](平成14年)[[12月1日]]:JR東日本のダイヤ改正に伴い、[[東北新幹線]]「[[やまびこ (列車)|やまびこ]]」「[[つばさ (列車)|つばさ]]」、[[長野新幹線]]「[[あさま]]」の全列車が停車するようになる。 * [[2003年]](平成15年)10月12日:新幹線でSuica FREX定期券およびSuica FREXパル定期券の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2003_1/20030905.pdf|title=10月12日(日)、「SuicaFREX 定期券」デビュー!|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2003-09-10|accessdate=2020-05-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304120356/https://www.jreast.co.jp/press/2003_1/20030905.pdf|archivedate=2016-03-04}}</ref>。 * [[2005年]](平成17年)[[3月5日]]:[[駅ナカ|改札内商業施設]]として「[[エキュート]]大宮」が開業<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2004_2/20050102/index.html|title=「JR大宮駅」エキナカ商業空間『ecute大宮』の店舗が決定 -2005年3月5日(土)グランドオープン-|publisher=東日本旅客鉄道|date=2004-01-07|accessdate=2020-04-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200411140532/https://www.jreast.co.jp/press/2004_2/20050102/|archivedate=2020-04-11}}</ref>。同時に「かえるポスト」を設置。 * [[2006年]](平成18年)[[3月18日]]:東武線直通特急[[日光 (列車)|「日光」「きぬがわ」「スペーシアきぬがわ」]]運転開始(JR線ホームを使用)<ref>{{Cite news|和書|title=JR・東武直通運転開始から11年 - 日光・鬼怒川方面の特急列車を乗り比べた (1) JR新宿駅から特急「スペーシアきぬがわ」「日光」で往復|url=https://news.mynavi.jp/article/20170825-jrtobu/|accessdate=2018-10-09|work=マイナビニュース}}</ref>。 * [[2007年]](平成19年) ** [[2月18日]]:3月18日にSuicaとの相互利用が開始となるICカード「[[PASMO]]」の利用試験がJRと東武の改札口で行われる。 ** [[3月18日]]:[[東武鉄道]]でPASMO供用開始。[[埼玉新都市交通]]でSuica供用開始。 * [[2009年]](平成21年) ** [[3月14日]]:JR東日本のダイヤ改正に伴い、すべての「[[はやて (列車)|はやて]]」「[[こまち (列車)|こまち]]」が停車するようになる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2008/20081216.pdf |title=2009年3月ダイヤ改正について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2008-12-16|accessdate=2023-06-17}} - JR東日本</ref>。これにより東北新幹線の全列車が大宮駅に停車するようになった。 ** [[12月1日]]:東武鉄道の駅業務を[[東武ステーションサービス]]に委託。 * [[2014年]](平成26年) ** [[3月15日]]:[[北陸新幹線]]延伸開業に合わせた中央自由通路の大規模リニューアル完了。 ** [[11月1日]]:JR東日本の駅業務のうち、南改札・南新幹線乗換口を[[JR東日本ステーションサービス]]に委託。 * [[2015年]](平成27年) ** [[3月14日]]:JR東日本のダイヤ改正に伴い、[[上越新幹線]]「[[とき (列車)|とき]]」が全列車停車となる。これによりすべての営業列車が大宮駅に停車するようになった。 ** 3月16日:開業130周年を記念して、イメージキャラクター「まめお」・「まめこ」が登場する。 * [[2018年]](平成30年) ** 4月1日:[[タッチでGo!新幹線]]のサービスを開始<ref group="報道" name="press/20171202">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2017/20171202.pdf|title=「タッチでGo!新幹線」の開始について ~新幹線もタッチ&ゴー、新幹線の新しい乗車スタイル~|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2017-12-05|accessdate=2020-11-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200922054704/https://www.jreast.co.jp/press/2017/20171202.pdf|archivedate=2020-09-22}}</ref><ref group="報道" name="press/20180115">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2017/20180115.pdf|title=「タッチでGo!新幹線」の詳細について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2018-01-25|accessdate=2020-11-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190510103143/https://www.jreast.co.jp/press/2017/20180115.pdf|archivedate=2019-05-10}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|ただし、当駅で東北・上越新幹線各相互間を乗り継ぐ場合は対象外となる<ref group="報道" name="press/20171202" /><ref group="報道" name="press/20180115" />。}}。 ** [[6月1日]]:びゅうプラザを[[びゅうトラベルサービス]]に委託<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=350|title=駅の情報(大宮駅):JR東日本|accessdate=2018-10-09|website=www.jreast.co.jp|language=ja}}</ref>。 * [[2019年]]([[令和]]元年)[[11月15日]] - [[12月11日]]:商業施設「エキュート大宮」がリニューアル<ref group="報道" name="press/20191114_o05">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/omiya/20191114_o05.pdf|title=まもなく開業15周年!! 「エキュート大宮」がリニューアル 埼玉県にゆかりのあるブランドや新業態、初出店ショップなど合計14ショップがリニューアル|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道大宮支社|date=2019-11-14|accessdate=2020-06-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200107184826/https://www.jreast.co.jp/press/2019/omiya/20191114_o05.pdf|archivedate=2020-06-05}}</ref>。 * [[2020年]](令和2年) ** 3月14日:[[えきねっと#新幹線eチケットサービス|新幹線eチケットサービス]]開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20200204_ho01.pdf|title=「新幹線eチケットサービス」が始まります!|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道/北海道旅客鉄道/西日本旅客鉄道|date=2020-02-04|accessdate=2020-05-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200226110513/https://www.jreast.co.jp/press/2019/20200204_ho01.pdf|archivedate=2020-02-26}}</ref>。 ** [[7月22日]]:商業施設「[[Dila#Dila大宮|Dila大宮]]」の一部を改装する形で、商業施設「エキュート大宮ノース」が開業<ref group="報道" name="press/200612_ecutenews25">{{Cite press release|url=https://corp.j-retail.jp/lib/pdf/press_release/9-61-957/200612_ecutenews25.pdf|title=首都圏エリアの新規開業エキナカ商業空間 開業日・出店ショップ決定のお知らせ|format=PDF|publisher=JR東日本リテールネット|date=2020-06-12|accessdate=2020-06-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200612065109/https://corp.j-retail.jp/lib/pdf/press_release/9-61-957/200612_ecutenews25.pdf|archivedate=2020-06-12}}</ref>。 ** 11月上旬:JR東日本の新幹線南改札と北改札、在来線中央改札(南)と中央改札(北)にて、大型ディスプレイが設置<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/omiya/20200924_o01.pdf|title=大宮駅に大型ディスプレイを設置します|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道大宮支社|date=2020-09-24|accessdate=2020-09-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200924144607/https://www.jreast.co.jp/press/2020/omiya/20200924_o01.pdf|archivedate=2020-09-24}}</ref>。 ** [[11月16日]]:南改札外、中央改札(南)外に駅ナカシェアオフィス「STATION BOOTH」が開業<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.stationwork.jp/user/notices-before|title=お知らせ一覧 > 大宮/武蔵浦和の2駅にSTATION BOOTHが開業!|publisher=STATION WORK|date=2020-11-13|accessdate=2020-11-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201118062545/https://www.stationwork.jp/user/notices-before|archivedate=2020-11-18}}</ref>。 * [[2021年]](令和3年)[[11月10日]]:[[びゅうプラザ]]の営業を終了。 * [[2022年]](令和4年) ** [[3月11日]]:「成田エクスプレス」の乗り入れ終了<ref name="NewDia20220312" />。 ** 4月1日:びゅうプラザ跡地に開業予定の「Eki Tabi MARKET(えきたびマーケット)」の先行施設として、駅たびコンシェルジュが開業<ref group="報道" name="press/20220217">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/omiya/20220217_o01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220217051454/https://www.jreast.co.jp/press/2021/omiya/20220217_o01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=4月1日「JR東日本 駅たびコンシェルジュ大宮」開業|publisher=東日本旅客鉄道大宮支社|date=2022-02-17|accessdate=2022-04-28|archivedate=2022-02-17}}</ref>。 ** 6月30日:「Eki Tabi MARKET」が本開業。 * [[2023年]](令和5年) ** 3月16日:本年より開業記念日を「おおみや鉄道の日」と定め、東口を「氷川神社口」、西口を「てっぱく通り口」の通称が付けられる。 ** [[ 7月19日]]:1番線(京浜東北線)ホームにて[[ホームドア#多様なホームドアの開発|スマートホームドア]]の使用を開始。 ** [[8月7日]]:2番線(京浜東北線)ホームにてスマートホームドアの使用を開始。 == 駅構造 == {{Vertical_images_list |幅 = 200px |枠幅 = 200px |1 = Omiya Station whole view.jpg |2 = [[大栄橋]]から望む駅構内<br />手前から東武野田線、JR在来線、新幹線のホームが並び、新幹線下に潜り込む形でニューシャトルのホームがある。 |3 = JRE Omiya-STA Concourse.jpg |4 = 中央自由通路と「まめの木」 }} 当駅には[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]・[[東武鉄道]]・[[埼玉新都市交通]]の3事業者が乗り入れる。埼京線・川越線以外のJR在来線と東武野田線(東武アーバンパークライン)のプラットホームが地上1階に並び、その上に乗り換え通路を配置する[[橋上駅]]の構造だが、他に地上2階には埼玉新都市交通(ニューシャトル)のホームが、地上3階には新幹線ホームが、地下1階にはJR埼京線・川越線ホームがそれぞれ設けられた、4層構造となっている。3社合計ののりばとして、25もの番線が設置されている。なお、鉄道会社相互の連絡改札口は設けられていないため、各社の乗り換えには一度改札の外に出る必要がある。 JRにはコンコースが中央自由通路を挟んで南北にあり、それぞれに商業施設が設置されている。南北のコンコースはそれぞれが独立しているため、コンコース間を往来するには一度いずれかのホームに降りて移動しなければならないが、それぞれのコンコースからはすべてのJRホームへ移動することが可能。なお、外から新幹線のりばに直接入れる改札口はなく、当駅から新幹線に乗車するには、南北のコンコースともに一度在来線の改札口を通って新幹線乗換口を通る必要がある<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/estation/stations/350.html|title=JR東日本:駅構内図(大宮駅)|accessdate=2018-10-09|website=www.jreast.co.jp|language=ja}}</ref>。 中央自由通路は駅ビル「[[ルミネ]]」と一体化しているほか、商業施設が通路沿いに設置され、通路中央には観光案内所を兼ねたインフォメーションセンターがある。中央改札(南)と中央改札(北)の間には、駅開業100周年と[[埼京線]]開業記念として[[エヌケービー#公益財団法人 日本交通文化協会|日本交通文化協会]]の発注により[[伊藤隆道]]が制作した金属製の大型オブジェ「行きかう・線」があり、公募によって命名された「まめの木」の愛称で呼ばれ、主要な待ち合わせ場所として利用されている。なお、日本交通文化協会の発注で東北・上越新幹線開業記念として設置されたパブリックアートは、ルードヴィッヒ・シャフラットが制作したステンドグラス「光と水と生命」が西口階段上部に、[[岡田又三郎]]の原画を基に[[ルイ・フランセン]]が制作した陶板レリーフ「川の祭り」が 新幹線南待合室(さくら草)にある。 [[駅ナカ]]商業施設として、南側に[[エキュート#エキュートがある駅|エキュート大宮]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ecute.jp/omiya/shop/floormap|title=ショップ一覧/フロアマップ|エキュート大宮|楽しいことがキュ~っと詰まっている駅、エキュート|accessdate=2018-10-09|website=www.ecute.jp}}</ref>が、北側にはエキュート大宮ノース(旧・[[Dila#Dila大宮|Dila大宮]])<ref>{{Cite web|url=http://www.ekipara.com/building/DI000OMY.html|title=Dila大宮|accessdate=2018-10-09|website=www.ekipara.com}}</ref>がある。2019年11月 - 12月には商業施設「エキュート大宮」のリニューアルが行われ<ref group="報道" name="press/20191114_o05" />、「Dila大宮」の一部を改装する形で、商業施設「エキュート大宮ノース」が2020年7月22日に開業した<ref group="報道" name="press/200612_ecutenews25" />。 [[事務管理コード|事務管コード]]は▲451018<ref group="注釈">主にJR東日本の事務管コードでは、大宮支社の45で始まるコード番号を使うこともある。</ref>または▲441018<ref>日本国有鉄道旅客局(1984)『鉄道・航路旅客運賃・料金算出表 昭和59年4月20日現行』。</ref>を使用している。 今後、駅舎の大規模な[[都市再開発|再開発]]が構想されている([[さいたま市議会#委員会|大宮駅グランドセントラルステーション化構想]])。北側(大栄橋側)に東西連絡通路および出入口を増設、[[駅ビル]]の建替えによる駅機能強化、駅周辺建物・道路の再開発や地下開発、新たな大型[[バスターミナル]]の設置等がそれぞれ検討されている。 === JR東日本 === {{駅情報 |社色 = #008000 |文字色 = |駅名 = JR 大宮駅 |画像 = JRE Omiya-STA Central-Gate-South.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 中央改札(南)(2022年7月) |よみがな = おおみや |ローマ字 = &#332;miya<br /> {{駅番号s|black|#ffffff|OMY}}<!-- スリーレターコード --> |電報略号 = オオ←ヲヲ |所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |開業年月日 = {{Nowrap|[[1885年]]([[明治]]18年)[[3月16日]]}} |廃止年月日 = |所在地 = [[さいたま市]][[大宮区]][[錦町 (さいたま市)|錦町]]630 |座標 = {{coord|35|54|22.6|N|139|37|25.8|E|scale:10000_region:JP_type:railwaystation|display=inline,title|name=JR 大宮駅}} |駅構造 = {{Plainlist| * [[高架駅]](新幹線) * [[橋上駅]]、[[地下駅]](在来線)}} |ホーム = {{Plainlist| * 3面6線(新幹線) * 5面10線(在来線・地上) * 2面4線(在来線・地下)}} |乗車人員 = {{Smaller|(新幹線)-2022年-}}<br />25,514人/日(降車客含まず)<hr />{{Smaller|(合計)-2022年-}}<br />226,249 |統計年度 = |乗入路線数 = 8 |所属路線1 = {{color|green|■}}[[東北新幹線]]<br />({{Color|#ee7b28|■}}[[山形新幹線]]・{{Color|#ed4399|■}}[[秋田新幹線]]・<br />[[北海道新幹線]]直通を含む) |前の駅1 = [[上野駅|上野]] |駅間A1 = 26.7 |駅間B1 = 50.3 |次の駅1 = [[小山駅|小山]] |キロ程1 = 30.3 |起点駅1 = [[東京駅|東京]] |所属路線2 = {{color|green|■}}[[上越新幹線]]<br />([[北陸新幹線]]直通を含む) |前の駅2 = <ref group="*">東北新幹線に乗り入れ。</ref>(上野) |駅間A2 = - |駅間B2 = 34.4 |次の駅2 = [[熊谷駅|熊谷]]<ref group="*" name="branch">この間に[[東日本旅客鉄道大宮支社|大宮支社]]と[[東日本旅客鉄道高崎支社|高崎支社]]の[[JR支社境|境界]]あり(当駅は大宮支社管内)。</ref> |キロ程2 = 0.0 |起点駅2 = 大宮 |所属路線3 = {{color|#f68b1e|■}}[[宇都宮線]]<br />([[東北本線]]旅客線・[[上野東京ライン]]) |前の駅3 = <ref group="*" name="JU_JS">東北本線旅客線(上野東京ライン)・東北本線貨物線(湘南新宿ライン)に乗り入れ。</ref>JU 06 [[さいたま新都心駅|さいたま新都心]] |駅間A3 = 1.6 |駅間B3 = 3.0 |次の駅3 = [[土呂駅|土呂]] |駅番号3 = {{駅番号r|JU|07|#f68b1e|1}} |キロ程3 = 30.3&nbsp;km(東京起点)<br />東京から[[尾久駅|尾久]]経由で30.5 |起点駅3 = |所属路線4 = {{color|#f68b1e|■}}[[高崎線]] |前の駅4 = <ref group="*" name="JU_JS"/> (さいたま新都心) |駅間A4 = - |駅間B4 = 4.0 |次の駅4 = [[宮原駅|宮原]]<ref group="*" name="branch" /> |駅番号4 = {{駅番号r|JU|07|#f68b1e|1}} |キロ程4 = 0.0 |起点駅4 = 大宮 |所属路線5 = {{color|#f68b1e|■}}{{color|#0067c0|■}}[[湘南新宿ライン]]<br />([[武蔵野線]]直通を含む・東北本線貨物線) |前の駅5= [[浦和駅|浦和]] |駅間A5 = 6.1 |駅間B5 = - |次の駅5 = 土呂/宮原<ref group="*">宇都宮線・高崎線へ[[直通運転]]実施。</ref> |駅番号5 = {{駅番号r|JS|24|#e21f26|1}} |キロ程5 = |起点駅5 = |所属路線6 = {{color|#00b2e5|■}}[[京浜東北線]]<br />(東北本線電車線) |前の駅6 = JK 46 [[さいたま新都心駅|さいたま新都心]] |駅間A6 = 1.6 |駅間B6 = |次の駅6 = |駅番号6 = {{駅番号r|JK|47|#00b2e5|1}} |キロ程6 = 30.3 |起点駅6 = 東京 |所属路線7 = {{color|#00ac9a|■}}[[埼京線]]<ref group="*" name="JA_kawagoe">両線で直通運転実施。</ref><br />(東北本線別線) |前の駅7 = JA 25 [[北与野駅|北与野]] |駅間A7 = 1.8 |駅間B7 = |次の駅7 = |駅番号7 = {{駅番号r|JA|26|#00ac9a|1}} |キロ程7 = 18.0&nbsp;km([[赤羽駅|赤羽]]起点)<br />[[大崎駅|大崎]]から武蔵浦和経由で36.9 |起点駅7 = |所属路線8 = {{Color|#a8a39d|■}}[[川越線]]<ref group="*" name="JA_kawagoe" /> |前の駅8 = |駅間A8 = |駅間B8 = |次の駅8 = (3.7&nbsp;km) [[日進駅 (埼玉県)|日進]] |キロ程8 = 0.0 |起点駅8 = 大宮 |備考 = {{Plainlist| * [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]]) * [[みどりの窓口]] 有}} |備考全幅 = {{Reflist|group="*"}} }} 新幹線のりばが地上3階の高架上、在来線は地平と新幹線直下の地下にあり、隣接して[[大宮総合車両センター]]があることから、地平に多数の[[側線]]を持っている。 コンコースおよび改札口は地上2階にあり、東西に伸びる中央[[歩行者専用道路|自由通路]]を中心として南北に分かれている。中央自由通路に面する'''中央改札(北)'''と'''中央改札(南)'''、西口側から南コンコースにつながる'''南改札'''と北コンコースにつながる'''北改札'''がある。当駅には「{{駅番号|#000000|white|OMY}}」のスリーレターコードが付与されている。 [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]であり、大宮営業統括センター所在駅。[[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]]として川越線[[日進駅 (埼玉県)|日進駅]] - [[武蔵高萩駅]]、[[大宮操車場]]、[[東大宮操車場]]を管理する<ref>{{Cite web |title=JR東労組大宮地本No.70号 |date=2021-11-30|publisher=JR 東日本労働組合大宮地方本部|url=http://jreuomiya.web.fc2.com/toplink/topfax/2021/2021omiya070.pdf |format=PDF |language=jp|accessdate=2023-02-11 }}</ref>。 <gallery widths="200" style="font-size:90%;"> JRE Omiya-STA Central-Gate-North.jpg|中央改札(北)<br />(2022年7月) JRE-Omiya-STA North-Gate.jpg|北改札(2021年8月) JRE Omiya-STA South-Gate.jpg|南改札(2022年7月) JRE Omiya-STA LUMINE-North-Gate.jpg|ルミネ北改札(2022年8月) JRE Omiya-STA LUMINE-South-Gate.jpg|ルミネ南改札(2022年8月) JRE Omiya-STA Shinkansen-North-Transfer.jpg|新幹線北のりかえ口(2022年8月) JRE Omiya-STA Shinkansen-South-Transfer.jpg|新幹線南のりかえ口(2022年8月) JRE Omiya-STA Kaeru-post.jpg|構内に設置されている「かえるポスト」(2022年10月) </gallery> ==== のりば ==== <!-- 方面表記は、JR東日本の駅の情報の「駅構内図」の記載に準拠(武蔵野線、7番線特急、東武日光線は未記載) --> {|class="wikitable" rules="rows" style="font-size:small;" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!! colspan="2" |方向!!行先!!備考 |-style="border-top:solid 3px #999;" | colspan="6" style="background-color:#eee;" |'''地上ホーム''' |- !1・2 |[[File:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] 京浜東北線<!--出典の「駅構内図」の記載に準拠--> |colspan="2" style="text-align:center;"|南行 |[[上野駅|上野]]・[[東京駅|東京]]・[[横浜駅|横浜]]・[[大船駅|大船]]方面<!--出典の「駅構内図」の記載に準拠--> |当駅始発 |- !rowspan="2"|3 |rowspan="2"|[[File:JR_JM_line_symbol.svg|15px|JM]] [[武蔵野線]]直通 |colspan="2" rowspan="2" style="text-align:center;"|- |[[八王子駅|八王子]]方面 |「[[むさしの号]]」当駅始発 |- |[[西船橋駅|西船橋]]方面 |「[[しもうさ号]]」当駅始発 |- !rowspan="4"|3・4・6・7<!--出典の「駅構内図」では、路線が分割表記--> |[[File:JR JU line symbol.svg|15px|JU]] 宇都宮線(東北線)<!--出典の「駅構内図」の記載に準拠--> |colspan="2" rowspan="3" style="text-align:center;"|上り |rowspan="4"|[[赤羽駅|赤羽]]・東京・[[新宿駅|新宿]]・横浜方面<!--出典の「駅構内図」の記載に準拠--> |rowspan="4"|3・4番線は宇都宮方面からの列車<br />[[東武日光線]]直通特急[[日光 (列車)|「スペーシア日光」「きぬがわ」]]<br />6・7番線は高崎方面からの列車<br />7番線は一部列車のみ |- |[[File:JR JU line symbol.svg|15px|JU]]{{Color|#00b2e5|■}} 高崎・上越線<!--出典の「駅構内図」の記載に準拠--> |- |[[File:JR JU line symbol.svg|15px|JU]] 上野東京ライン<!--出典の「駅構内図」の記載に準拠--> |- |[[File:JR JS line symbol.svg|15px|JS]] 湘南新宿ライン<!--出典の「駅構内図」の記載に準拠--> |colspan="2" style="text-align:center;"|南行 |- !7 |{{Color|#f68b1e|■}} 特急 |colspan="2" rowspan="6" style="text-align:center;"|下り |[[熊谷駅|熊谷]]・[[高崎駅|高崎]]・[[長野原草津口駅|長野原草津口]]・[[前橋駅|前橋]]方面 |「草津・四万」・「あかぎ」 |- !8 |[[File:JR JU line symbol.svg|15px|JU]]{{Color|#00b2e5|■}} 高崎・上越線<!--出典の「駅構内図」の記載に準拠--> |[[上尾駅|上尾]]・熊谷・高崎・前橋方面<!--出典の「駅構内図」の記載に準拠--> |rowspan="2"|東京・上野方面からの列車 |- !9 |rowspan="2"|[[File:JR JU line symbol.svg|15px|JU]] 宇都宮線(東北線)<!--出典の「駅構内図」の記載に準拠--> |[[久喜駅|久喜]]・[[古河駅|古河]]・[[小山駅|小山]]・[[宇都宮駅|宇都宮]]・[[黒磯駅|黒磯]]方面<!--出典の「駅構内図」の記載に準拠--> |- !rowspan="3"|11 |小山・宇都宮方面<!--出典の「駅構内図」の記載に準拠--> |rowspan="2"|湘南新宿ラインからの列車<br />武蔵野線直通「むさしの号」・「しもうさ号」当駅終着 |- |[[File:JR JU line symbol.svg|15px|JU]] 高崎線 |熊谷・高崎方面<!--出典の「駅構内図」の記載に準拠--> |- |[[File:Tobu Nikko Line (TN) symbol.svg|15px|TN]] 東武日光線直通特急 |[[東武日光駅|東武日光]]・[[鬼怒川温泉駅|鬼怒川温泉]]方面 |「スペーシア日光」・「きぬがわ」 |-style="border-top:solid 3px #999;" |colspan="6" style="background-color:#eee;"|'''高架ホーム''' |- !13 - 15 |[[File:Shinkansen jre.svg|15px|■]] 新幹線 |colspan="2" style="text-align:center;"|上り |上野・東京方面<!--出典の「駅構内図」の記載に準拠--> |15番線は一部列車のみ |- !16・17 |[[File:Shinkansen jre.svg|15px|■]] 東北・山形・秋田・北海道新幹線 |colspan="2" rowspan="2" style="text-align:center;"|下り |[[仙台駅|仙台]]・[[盛岡駅|盛岡]]・[[新青森駅|新青森]]・[[山形駅|山形]]・[[新庄駅|新庄]]・[[秋田駅|秋田]]・[[新函館北斗駅|新函館北斗]]方面<!--出典の「駅構内図」の記載に準拠--> |16番線は臨時ホーム |- !18 |[[File:Shinkansen jre.svg|15px|■]] 上越・北陸新幹線 |高崎・[[長岡駅|長岡]]・[[新潟駅|新潟]]・[[長野駅|長野]]・[[富山駅|富山]]・[[金沢駅|金沢]]方面<!--出典の「駅構内図」の記載に準拠--> |&nbsp; |- |-style="border-top:solid 3px #999;" |colspan="6" style="background-color:#eee;"|'''地下ホーム''' |- !19 |rowspan="2"|[[File:JR JA line symbol.svg|15px|JA]] 埼京線 |rowspan="2" style="text-align:center;"|南行 |rowspan="2" style="text-align:center;"|上り |rowspan="2"|[[池袋駅|池袋]]・新宿・[[大崎駅|大崎]]・[[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]]・[[相鉄・JR直通線|相鉄線]]方面<!--出典の「駅構内図」の記載に準拠--> |当駅始発 |- !20 |&nbsp; |- !21 |{{Color|#a8a39d|■}} 川越線 |style="text-align:center;"|北行 |style="text-align:center;"|下り |[[日進駅 (埼玉県)|日進]]・[[川越駅|川越]]・[[高麗川駅|高麗川]]方面<!--出典の「駅構内図」の記載に準拠--> | |- !rowspan="2"|22 |[[File:JR JA line symbol.svg|15px|JA]] 埼京線 |style="text-align:center;"|南行 |style="text-align:center;"|上り |池袋・新宿・大崎・りんかい線・相鉄線方面<!--出典の「駅構内図」の記載に準拠--> |当駅始発 |- |{{Color|#a8a39d|■}} 川越線 |style="text-align:center;"|北行 |style="text-align:center;"|下り |日進・川越・高麗川方面<!--出典の「駅構内図」の記載に準拠--> |一部列車 |} (出典:[http://www.jreast.co.jp/estation/stations/350.html JR東日本:駅構内図]) [[新宿駅]]へは埼京線・湘南新宿ラインの2経路が、[[横浜駅]]へは上野東京ライン・湘南新宿ラインの2経路が存在し、同一の目的地で複数の経路が発生するため、コンコースには両駅への先着予定列車を表示する案内板が設置されている<ref group="注釈">横浜駅へは京浜東北線も利用できるが、案内板には表示されない。</ref>。 ==== ホーム ==== ; 地上ホーム : '''1 - 11番線'''(1・2番線:京浜東北線、3・4、6 - 9、11番線:宇都宮線・高崎線・上野東京ライン・湘南新宿ライン)は、地上1階にある[[島式ホーム|島式]]5面10線の[[地上駅|地上ホーム]]で、[[橋上駅|橋上駅舎]]となっている。 :: 1・2番線は京浜東北線専用で、線路は北側で行き止まりになっているが、[[東武野田線]]との[[直通運転|直通]]運転構想がある。 :: 3・4番線は宇都宮線上り列車、6番線は高崎線から直通する上り列車専用である。3番線は宇都宮線上りの副本線だが、武蔵野線直通の「[[むさしの号]]」「[[しもうさ号]]」や、臨時列車「[[ホリデー快速]]」などの始発ホームとしても使用する。 :: 7番線は高崎線上り待避線を兼ねた上下線共用の中線であり、東京寄りに引き上げ線が2本ある。当駅始発の特急「[[踊り子 (列車)|スーパービュー踊り子」「踊り子]]」(臨時列車)が使用していた。また、夕夜間帯の特急「[[あかぎ (列車)|あかぎ]]」も普通列車と乗客を分離するため、7番線から発車する。なお、下り特急は、ダイヤ乱れなどで7番線が使用できない場合は8番線着発に変更となる。ダイヤの大幅乱れの際は上下・系統問わず使用され、折り返しのため、引き上げ線を使用することもある。 :: 日中の東京方面は、宇都宮線上り列車は4番線、高崎線から直通する上り列車は6番線からの発車が多い。ただし、宇都宮線上り列車は上野東京ラインが後続の湘南新宿ライン横須賀線系統と接続する場合などは3番線から発車する。朝ラッシュ時は停車時間確保とホーム混雑対策のため、一部の上り列車が3番線・7番線に発着して[[両面着発]]を行っている。 :: 8番線は東京・上野方面からの高崎線、9番線は同じく宇都宮線が発着する。8番線と9番線で、15両編成の列車の停車位置が約75&nbsp;[[メートル|m]]ずれている。ホーム上には[[NewDays]]やそば屋などの店舗が設けられている。 :: 11番線は湘南新宿ラインからの宇都宮線列車・高崎線列車や、[[東武日光線]]・[[東武鬼怒川線|鬼怒川線]]直通特急[[日光 (列車)|「スペーシア日光」「きぬがわ」]]、[[武蔵野線]]からの直通列車「[[むさしの号]]」「[[しもうさ号]]」(終着)など、新宿・池袋方面または武蔵野線方面(東北貨物線経由)より運転された列車の発着ホームとなっている。なお、浦和方約2両分と土呂・宮原方約3両分は、建設の経緯(後述)からホームの幅が線路1線分であるため、非常に狭くなっている。 :: 3・4番線、8・9番線には、長年に渡ってホーム上に輸送社員の立ち番が常時配置され、発車メロディ扱いを含む出発指示合図が行われていたが、2021年2月に廃止された。現在はすべてのホームにおいて基本的に自動放送による案内放送が行われ、発車メロディは[[車掌]]が扱う。 ; 欠番 :: '''5・10番線'''は[[貨物列車]]や[[回送列車]]、[[団体専用列車|団体]]・[[臨時列車]]が通過や待機をするための線路で、ホームは存在せず欠番である。5番線は上り方面、10番線は下り方面で利用する。また'''12番線'''は11番線と同じホームに接しているが、使用できないため欠番となっている<ref name="JR全駅9">[[#zen-eki12|『JR全駅・全車両基地』 9頁]]</ref>。12番線の西側は大宮総合車両センターに属する多数の引き込み線が並ぶが、12番線の隣の線路は大宮駅'''13番線'''として扱われており、信号機にも表記されている。 :: [[1970年代]]前後は、10・11番線の2本が待機線として存在し、12・13番線ホームに[[非電化]]時代の川越線列車が発着していた。[[1985年]]の川越線電化・地下化となった後、[[1988年]]の宇都宮線(当時は路線愛称制定前で東北線)・高崎線の[[池袋駅]]乗り入れに当たって、下りホームとして転用することになったが、旧川越線ホームが狭く短いため、待機線だった11番線を旅客化することとし、旧12番線を撤去して、その上に15両編成対応の電車ホームを建設した。このため、旧12・13・14番線の番号が繰り上がった。現在も6・7・11番線は川越線につながっており、[[川越車両センター]]の臨時回送列車だけでなく、旅客扱いでは臨時快速列車など、大宮駅では地上発着となる列車が走行する。なお川越線の[[電車線・列車線|電車線]]と[[電車線・列車線|列車線]]の分岐点は[[日進駅 (埼玉県)|日進駅]]の場内である。 :: 12番線はその後も電化されず<ref name="JR全駅9"/>、線路は[[さいたま新都心駅|さいたま新都心]]方と[[土呂駅|土呂]]方の双方に木材が固定されて仮封鎖されている。11番線のみ電車用の高い乗り場が造られたことから、12番線側は気動車用の低い乗り場が残され、ホームの中央に傾斜があったため、[[2009年]]から[[2010年]]にかけて、[[バリアフリー]]化のため平面化改良工事が行われ、それと前後して「12番線」の表示が削除された。その後もホーム上は長らく柵を設置するなどの対応が行われていなかったが、[[2020年]]2月から3月にかけて柵の設置が行われた。 ; 備考 * 上り線は、上野方面(東北旅客線)と新宿・武蔵野線方面(東北貨物線)の分岐点および宇都宮線(3・4番線)と高崎線(6・7番線)の合流地点は当駅を出たさいたま新都心駅寄りにあり、新宿方面線路(宇都宮線と高崎線それぞれから当駅を出てすぐに平面合流)と高崎線からの上野方面線路が立体交差していることから、宇都宮線上りと高崎線上りの同時到着や上野方面の列車と湘南新宿ライン・武蔵野線直通の同時発車が可能。下り線は、上野方面からの宇都宮線と高崎線の分岐点は当駅手前にある一方で、新宿・武蔵野線方面からの宇都宮線と高崎線の分岐は当駅11番線を出た先にある。11番線からの線路・東大宮操車場方面・宇都宮線下りが高崎線の上下線を立体交差でまたいでおり、11番線からの高崎線は東大宮操車場・宇都宮線方面が北東方向に分かれていった後に8番線からの下り本線に合流しており、上野方面と湘南新宿ライン・武蔵野線からの直通の同時到着や宇都宮線下りと高崎線下りの同時発車が可能。このような当駅前後での立体構造により、当駅は宇都宮線・高崎線・上野東京ライン・湘南新宿ライン・武蔵野線直通・貨物列車が複雑に入り交じる運行体系を成す列車群をスムーズにさばくことができる。なお、平面交差が行われるのは、ダイヤ乱れ時などに7番線に宇都宮線が発着する場合に高崎線を支障するなど、ごく限られたケースのみである。 * 湘南新宿ラインの横須賀線直通快速列車は当駅から南は終点まで各駅に停車するため、当駅で種別表示が「普通」に切り替えられる。逆に東海道線直通快速列車は、当駅まで各駅に停車するため、種別表示が「普通」から「快速」へ切り替えられる。なお、逆方向の横須賀線からの宇都宮線直通快速列車・東海道線からの高崎線直通快速列車(高崎線内普通)は大崎駅で既に種別が切り替えられている。 * 湘南新宿ライン[[終電]]籠原駅行き(新宿方面のみならず、上野東京ラインを含め東海道線・横須賀線方面からの直通最終列車)と、東京発宇都宮線終電小金井駅行きは<!-- ともに0:05着・0: 08発予定となっており -->、互いの接続をとって発車する<!-- 上野発高崎線終電高崎行きは0:12着・0:14発 -->。2016年ダイヤ改正前までは、宇都宮線終電は湘南新宿ライン終電の到着を待たずに出発していた。また、上野駅で宇都宮線・高崎線の下り終電の時間帯に[[山手線]]内回り・京浜東北線北行き・[[常磐線]]上りが遅延している場合、宇都宮線終電は定刻に上野駅を発車して当駅でいったん抑止、後続の高崎線直通終電は上野駅に留まったまま3線の接続を直接取ってから遅れて当駅に向かい、高崎線終電を介して3線と宇都宮線終電が当駅にて間接的に接続を取る。 * 2022年始まで運行されていた宇都宮線・高崎線における終夜臨時列車に関して、一部使用ホームが通常と異なる。上りは宇都宮線発湘南新宿ライン横須賀線直通臨時列車が7番線に、高崎線から直通する上野行き臨時列車が通常通り6番線に発着し、下りは湘南新宿ライン宇都宮線直通(あるいは大宮終着)臨時列車が9番線に、上野駅発高崎線臨時列車が通常通り8番線に発着、それぞれ対面乗換できるようダイヤも調整されていた。これによって利用者の利便性向上のほか、使用ホームを集約することになり、3・4番線ホームならびに11番線ホームを普段通り休止させていた。なお、高崎線と接続しない湘南新宿ラインも7・9番線を発着していた。 * 高崎線のホームでは「高崎・[[上越線]]」と表記されている箇所が多数見られる。かつて高崎線が終点の高崎駅で直結している上越線と一体的な運行を行っていた名残である(現在でも本数は大幅に少なくなったが、普通列車[[新前橋駅]]行き、上越線経由[[吾妻線]]直通特急[[草津・四万]]、上越線経由[[両毛線]]直通普通列車[[前橋駅]]行きが定期列車で存在しており、新前橋駅行き列車は行き先表示にも「高崎・上越線」と表示される)。「高崎・上越線」表記はかつて上野駅などでも見られたが[[平成]]時代後期前後のリニューアル工事の際に消去されており、リニューアルされた後も残っているのは当駅のみとなっている。 <gallery widths="200" style="font-size:90%;"> JRE-Omiya-STA Home1-2.jpg|1・2番線ホーム(2021年6月) JRE-Omiya-STA Home3-4.jpg|3・4番線ホーム(2021年7月) JRE-Omiya-STA Home6-7.jpg|6・7番線ホーム(2021年7月) JRE-Omiya-STA Home8-9.jpg|8・9番線ホーム(2021年7月) JRE-Omiya-STA Home11.jpg|11番線ホーム(2021年7月) </gallery> ; 高架ホーム : '''13 - 18番線'''(東北・山形・秋田・北海道・上越・北陸新幹線)は地上3階にある島式3面6線の[[高架駅|高架ホーム]]。 :: 上り列車は、13番線に上越・北陸新幹線、14番線に東北・山形・秋田・北海道新幹線が入る<ref group="注釈">なお、東北新幹線宇都宮方から13番線に入線する列車も朝方に設定されている。</ref>。 :: 下り列車は、17番線に東北・山形・秋田・北海道新幹線、18番線に上越・北陸新幹線が入る。 :: [[フルカラー]]で発車時刻を表示する電光掲示板(発車標)が設置されている。17・18番線の頭上には電光式の乗車位置案内表示器が設置されている。 :: 15番線は上りの一部列車が使用する。 :: 16番線は定期列車での使用はなく、多客時、ダイヤの乱れ時、大宮駅始発・終着となる臨時列車、回送列車に使用する。 :: すべての線路がホームに接しており、いわゆる通過線はない。[[ホームドア|可動式安全柵]]もないため、回送列車が通過する場合には低速で走行する。 :: [[2015年]](平成27年)[[3月14日]]のダイヤ改正以降、当駅には全旅客列車が停車する<ref group="注釈">[[2002年]](平成14年)[[11月30日]]までは一部の「[[やまびこ (列車)|やまびこ]]」「[[つばさ (列車)|つばさ]]」「[[あさま]]」が、[[2009年]](平成21年)[[3月13日]]までは一部の「[[はやて (列車)|はやて]]」と「[[こまち (列車)|こまち]]」が、[[2015年]](平成27年)[[3月13日]]までは一部の「[[とき (列車)|とき]]」が当駅を通過していた。</ref>。 :: 北陸新幹線や北海道新幹線の開業に伴い、当駅発着の新幹線列車を設定する構想があり、東北新幹線では、2017年7月以降の多客期において大宮駅始発・終着となる臨時「[[はやぶさ (新幹線)|はやぶさ]]」が設定されるようになった(詳細は、[[東北新幹線#北海道・北陸新幹線の延伸・全通時における対応予定]]を参照)。 <gallery widths="200" style="font-size:90%;"> JRE Omiya-STA Platform13-14.jpg|13・14番線ホーム(2022年6月) JRE Omiya-STA Platform15-16.jpg|15・16番線ホーム(2022年6月) JRE Omiya-STA Platform17-18.jpg|17・18番線ホーム(2022年6月) </gallery> ; 地下ホーム : '''19 - 22番線'''(埼京線・川越線)は地下1階にある[[島式ホーム|島式]]2面4線の[[地下駅|地下ホーム]]。 :: 埼京線と川越線は直通運転を実施している。すべての線路で、双方の路線の列車が発着できる構造になっている。 :: 埼京線の各駅停車は多くが当駅を始発・終着とする一方、埼京線の快速・通勤快速は全列車が川越線に直通する。定期ダイヤでは、川越線の当駅折り返しは設定されていない。 :: ダイヤの乱れなどが発生すると、埼京線と川越線の直通運転を中止し、それぞれの運転を分離をする。その場合、19 - 21番線が埼京線:新宿・新木場方面行き、22番線が川越線:川越方面行きとなることが多い。 :: 平日朝・夕ラッシュ時は、20番線が川越からの直通電車(主に通勤快速)、21番線が川越行き、19・22番線が埼京線折り返し電車(各駅停車)が使用する。その他の時間帯には、20番線で折り返す埼京線の各駅停車もある。 :: 川越線は、東京近郊路線図に表記されている当駅 - 川越駅間の[[日本の鉄道ラインカラー一覧#東日本旅客鉄道(JR東日本)|ラインカラー]]は埼京線と同様の{{Color|#00ac9a|■}}グリーンであるが、当駅では両線とものりば・車両が共通であるため、埼京線との区別のため例外的に{{Color|#a8a39d|■}}グレーの表示が使用されている。19・20番線はグリーン表示のみ、21番線はグレー表示のみ、22番線は2色とも表示されている。なお、[[日進駅 (埼玉県)|日進駅]]・[[西大宮駅]]・[[指扇駅]]・[[南古谷駅]]・[[川越駅]]では埼京線と同様のグリーンでの表示となっている。 :: 21・22番線には「日進・川越・高麗川方面」との表記があるが、高麗川駅直通列車は設定されていない。[[1985年]]の電化・地下化当初は高麗川直通列車が設定されており、毎時快速2本、高麗川行き1本の計3本であった。[[1989年]]のダイヤ改正より、川越線は川越駅で系統分離され、大宮 ー 川越間は原則埼京線直通列車のみが運行されるようになり<ref group="注釈">早朝の[[川越車両センター]]最寄[[南古谷駅]]始発高麗川方面行きを除く。</ref>、当駅から高麗川方面へは川越での乗換が必須となっている。 <gallery widths="200" style="font-size:90%;"> JRE Omiya-STA Platform19-20.jpg|19・20番線ホーム(2022年7月) JRE Omiya-STA Platform21-22.jpg|21・22番線ホーム(2022年7月) </gallery> ==== 線路配線 ==== 在来線の基本は宇都宮線の上下線の間に高崎線の上下線を挟み込む形である。駅の土呂・宮原駅寄りで宇都宮線下り線が高崎線の上下線をまたぐ。 一方、駅の東京寄りでは、宇都宮線・高崎線・上野東京ラインが走る東北旅客線と、湘南新宿ラインが走る東北貨物線の系統別複々線になり、さらに京浜東北線の複線が独立して並ぶ三複線となる(東から京浜東北線、東北旅客線、東北貨物線)。 東北貨物線の上り方面は、宇都宮線上り線と高崎線からの列車が使用する上り線の間の5番線を基準として、宇都宮線上り線(3・4番線)と高崎線からの列車が使用する上り線(6番線)の間を東京方面に進み、高崎線からの列車が使用する上り線と宇都宮線下り線をくぐって、[[大宮操車場]]の貨物側線群に出る。宇都宮線・高崎線の上り線は[[さいたま新都心駅]]の手前で合流して1本になる。貨物側線群の東京寄りには武蔵野線の貨物支線(大宮支線)の複線が東北貨物線の上下線間に挟まれており、地下へ潜り、武蔵野線につながる。 宇都宮線下り線は高崎線からの列車が使用する上り線に並んで東北貨物線上り線をまたぎ、8・9番線に至る。当駅を出ると、8番線は高崎線下り線、9番線は宇都宮線下り線へ分かれ、宇都宮線下り線は高崎線上下線をまたぐ。なお、線路配線上は8番線から宇都宮線下り、9番線から高崎線下りへの入線も可能であり、ダイヤが乱れた際ごくまれに営業列車で設定されることがある。7番線から宇都宮線下りが発車する場合は8番線からの線路にいったん合流した後、9番線からの宇都宮線下りへと分岐するルートとなる。東北貨物線下り線は貨物線上り線と貨物側線群をはさんで離れた反対側を走り、貨物列車は10番線に、旅客列車は11番線に入線する。 10番線の線路は、当駅の先で[[大宮総合車両センター東大宮センター]]への入出庫線となっており、宇都宮線[[土呂駅]] - [[東大宮駅]]間に所在する同センターまで、宇都宮線の複線と出入庫線の単線が並ぶ3線区間となっている。入出庫線は宇都宮線下り線に沿っているが、当駅の土呂寄りで5番線への線路が分岐し、宇都宮線下り線をまたぎ、東北貨物線上り線となる。 11番線を出た旅客列車(湘南新宿ラインからの列車)は一度10番線からの線路に戻って、宇都宮線の列車はさらにすぐ9番線からの線路に移る。一方、高崎線の列車は10番線からの線路をいったん進んだあと、出入庫線が右に分岐していき、宇都宮線上下線と出入庫線から反れていった後で、宇都宮線をくぐってきた高崎線下り線に合流する。高崎線下り列車は、上野・新宿双方からの線路の合流点が駅ホームから遠く、この区間を活用して遅延時の時間調整を行う(後述)。なお、合流点は10番線からの線路が本線で、8番線からの高崎線下り本線が合流するという変則形状であり、高崎線上り線も下り線に合わせた急カーブになっているため、上下列車とも、この区間ではやや速度を落とす。 新宿・武蔵野線方面からの大宮駅行き列車は、11番線から発車すると10番線からの線路に移って出入庫線に入り、大宮総合車両センター東大宮センターまで[[回送]]される。同センターで折り返し、5番線への線路を通り、3番線や7番線に入る。 11番線の線路は、旧来は川越線が使用していたものであり、現在も川越線に接続している。高崎線の複線に沿って進み、地下から上ってきた川越線の複線と、東北・上越新幹線の高架をくぐる地点で合流する。[[川越車両センター]]の臨時回送列車だけでなく、旅客扱いでは臨時快速列車「ぶらり川越号」が大宮駅で地上発着となる。一般旅客でも地上の川越線を走行する列車に乗車することが可能である。なお川越線の[[電車線・列車線|電車線]]と[[電車線・列車線|列車線]]の分岐点は[[日進駅 (埼玉県)|日進駅]]の場内である。 7番線は上下線共用の中線であり、普段は朝ラッシュ時の高崎線上り列車の6番線との両面着発に用いられ、日中以降は高崎線下り特急列車の発着ホームとして用いられている(ダイヤ乱れ時は後述の使い方をするため下り特急も8番線を発着に変更されることがある)。東京側に引き上げ線が2本設置されている。高崎線の上下線路・ホームを挟み込むように宇都宮線の線路・ホームが位置している構造上、高崎方面からの列車は7番線を利用して当駅で折り返すことが容易な構造になっている。一方、宇都宮線の宇都宮方面からの列車が当駅で折り返す際は、[[分岐器|ポイント]]をいくつか渡り、高崎線と平面交差して7番線に入る。大宮折り返し運用は、2020年2月時点で、早朝6時台の[[宇都宮駅|宇都宮]]行き・深夜23時台の当駅止まりの1往復のみ使用している。 東京・新宿方面が長時間不通となった場合、当駅で運行を打ち切ることもあるが、上り列車のホームでの折り返しは7番線のみ可能で、3・4・6番線に着いた列車は、[[引き上げ線]]に入る必要がある。新宿方面のみの不通やダイヤ乱れによる高崎線下り列車の融通のための上り列車の数本程度の打ち切りは、基本的に7番線へ到着して、そのまま折り返し始発列車となっており、引き上げ線は用いない。また、折り返しではないが、先述の通り年末年始終夜運転で上野行きと新宿方面行きを平面乗換させるためと終夜使用ホームを絞るため、宇都宮線上り湘南新宿ラインを折り返し時と同じルートで7番線へ入線させている。 東京方面が完全に不通となった場合、引き上げ線だけでは、宇都宮線・高崎線の宇都宮・高崎方面への全列車折り返し運転に対応するのは困難であることから、[[2016年]](平成28年)度末より、当駅南側の貨物線上にある[[大宮操車場]]の設備を活用して、折り返し運転を実施できるようにする計画となっている<ref group="報道">{{Cite press release|和書|title=会社発足30周年を迎えるにあたって|pages=別紙2|publisher=東日本旅客鉄道|date=2017-03-07 |url=http://www.jreast.co.jp/press/2016/20170301.pdf|format=PDF|accessdate=2017-03-07}}</ref>。 高崎線下りが遅延している場合、8番線(または7番線)の列車と11番線の列車との間で、同時発車または後続列車がとりあえず先に発車する場合、後続列車は、ホームを抜けてすぐの場所(8番線の場合は、後部車両がまだ9番線ホーム先端を横目に見る位置)で一時停車して調整する。なお、先行列車が先に発車できた場合でも、間隔が短ければ、合流する工場裏踏切の手前から宮原駅までの間、後続列車が信号待ちで必然的に減速・停車する。逆方向の宇都宮線・高崎線の上り東京方面は、宇都宮線と高崎線が同時発車あるいは後続列車が先に発車した場合、さいたま新都心駅手前の合流ポイントで後続列車が一時停車する形になるが、この区間には絶妙な位置に[[エアセクション]]があり、2007年6月22日朝にダイヤ乱れで詰まっている中でエアセクション停車・発車による架線切断事故を起こしたことがある<ref>[https://www.jreast.co.jp/press/2007_1/20070609.pdf エアセクション箇所の架線断線対策について(東日本旅客鉄道プレスリリース2007年6月29日)]</ref>関係で、予め詰まると分かっている場合は当駅ホームでの発車待機とすることも多い。双方遅延している場合は宇都宮線を優先する傾向がある。なお、湘南新宿ライン新宿方面・武蔵野線直通列車に関しては、ホームを出て合流する距離が短いため、後続列車は当駅を発車できずに信号開通待ちとなる。 京浜東北線(電車線)は宇都宮線上り線の東側にあり、配線は単純な複線の行き止まりで、南側に折返し用の[[分岐器#両渡り線|両渡り線]]がある。電車はホームでの折返しで、引き上げ線はない。[[夜間滞泊]]が設定されている。その他、両渡り線のさらに東京寄りに宇都宮線の3・4番線に連絡するポイントがある。 埼京線・川越線は地下であり20・21番線が上下線の主本線、19・22番線が副本線で、上下線ともすべての線路で折返しができる。なお、すべてホームでの折返しで引き上げ線はない。埼京線側は駅の大崎方面すぐそばで高架となり、[[さいたまスーパーアリーナ]]のすぐそばまでは新幹線の真下を走る二層高架で、[[北与野駅]]の手前で新幹線の横に取り付く。川越線側は地下を走行する区間が少々長く、[[鉄道博物館 (さいたま市)|鉄道博物館]]の横で地上に出る。上記のとおり、新幹線の高架をくぐる地点で[[電車線・列車線|電車線]]と[[電車線・列車線|列車線]](6・7・11番線)が分岐する。この分岐点は[[日進駅 (埼玉県)|日進駅]]の場内である。 かつて、[[大宮総合車両センター]]で車両の解体が実施されていたため、当駅まで[[廃車 (鉄道)|廃車]]回送列車が設定されていた。[[交通博物館]]を移転する形で現在の鉄道博物館を建設する際、用地確保のために車両解体業務は[[長野総合車両センター]]へ集約移管されている。 新幹線は高架で、南側は複線、北側は東北新幹線・上越新幹線それぞれの複線に分岐する。北からの列車は当駅で折り返しが可能な構造となっている。この折り返し設備を使った東北・上越新幹線の直通運転も可能で、実際に2016年11月には東北新幹線(仙台方面)と北陸新幹線(金沢方面)を直通する新幹線が営業運転された<ref group="報道">{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2016/20160909.pdf 仙台~金沢間 旅行商品専用の直通新幹線運転について]}} - JR東日本・2016年9月9日</ref>。当駅から東北・上越方面の分岐点までの複々線部分に線路1線分の空間が何箇所か点在するが、これは建設当時に現鉄道博物館付近に留置線を設ける計画があったことと、上越新幹線の新宿駅延伸構想を踏まえ、上下線を支障せずに東京・新宿方面から東北・上越方面へ相互に列車を走らせる構造を考慮したためである<ref>『東北新幹線工事誌:大宮・雀宮間(総合試験線区間を除く)』日本国有鉄道東京第三工事局編</ref>。 ==== 発車メロディ ==== 京浜東北線ホームの1・2番線では[[2003年]][[4月1日]]から、さいたま市の市歌である『[[希望のまち]]』を使用していたが、[[2007年]][[9月30日]]からは2番線のメロディが地元のプロサッカークラブ[[大宮アルディージャ]]の応援歌『Vamos Ardija』に変更されている。これは大宮アルディージャがさいたま市を通して要望し、変更費用を負担して行われたものである<ref group="新聞">{{Cite news |和書 |title= |newspaper=日本経済新聞|date=2007-9-26|edition=朝刊 埼玉版|page=40頁(首都圏経済面・埼玉)}}</ref>。メロディの制作は[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]で、編曲は[[塩塚博]]が手掛けた<ref>{{Cite web|和書|title=京浜東北線「大宮駅・浦和駅」 Jリーグサポーターズソングを駅メロ制作|url=http://www.switching.co.jp/news/126|website=株式会社スイッチオフィシャルサイト|accessdate=2020-01-07|language=ja|publisher=株式会社スイッチ}}</ref>。 3 - 11番線は[[東洋メディアリンクス]]、19 - 22番線は[[テイチクエンタテインメント|テイチク]]制作のメロディを使用している。 {|border="1" cellspacing="0" cellpadding="3" frame="hsides" rules="rows" !1 |[[File:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] |希望のまち09 |- !2 |[[File:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] |Vamos Ardija |- !3 |[[File:JR JU line symbol.svg|15px|JU]] [[File:JR JS line symbol.svg|15px|JS]] |Cielo Estrellado |- !4 |[[File:JR JU line symbol.svg|15px|JU]] [[File:JR JS line symbol.svg|15px|JS]] |Verde Rayo |- !6 |[[File:JR JU line symbol.svg|15px|JU]] [[File:JR JS line symbol.svg|15px|JS]] |Water Crown |- !7 |[[File:JR JU line symbol.svg|15px|JU]] [[File:JR JS line symbol.svg|15px|JS]] |Gota del vient |- !8 |{{Color|#f68b1e|■}} |Cielo Estrellado |- !9 |{{Color|#f68b1e|■}} |Verde Rayo |- !11 |{{Color|#f68b1e|■}} |Water Crown |- !19 |[[File:JR JA line symbol.svg|15px|JA]] |Twilight |- !20 |[[File:JR JA line symbol.svg|15px|JA]] |新たな季節 |- !21 |{{Color|#a8a39d|■}} |コーラルリーフ |- !22 |{{Color|#a8a39d|■}} [[File:JR JA line symbol.svg|15px|JA]] |Farewell |} === 東武鉄道 === {{駅情報 |社色 = #0f6cc3 |文字色 = |駅名 = 東武 大宮駅 |画像 = Omiya-STA Noda-Line Gate.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 改札口(2021年7月) |よみがな = おおみや |ローマ字 = Omiya |所在地 = {{Nowrap|[[さいたま市]][[大宮区]][[錦町 (さいたま市)|錦町]]630}} |座標 = {{coord|35|54|27.36|N|139|37|28.00|E|region:JP_type:railwaystation|name=東武 大宮駅}} |前の駅 = |駅間A = |駅間B = 1.2 |次の駅 = [[北大宮駅|北大宮]] TD 02 |電報略号 = オオ |駅番号 = {{駅番号r|TD|01|#33cccc|1}} |所属事業者 = [[東武鉄道]] |所属路線 = {{color|#33cccc|■}}[[東武野田線|野田線]](東武アーバンパークライン) |キロ程 = 0.0 |起点駅 = 大宮 |駅構造 = [[地上駅]] |ホーム = 1面2線 |開業年月日 = [[1929年]]([[昭和]]4年)[[11月17日]] |廃止年月日 = |乗車人員 = |乗降人員 = 118,886 |統計年度 = 2022年 |乗換 = |備考 = 駅務管区所在駅 }} [[東武野田線]](東武アーバンパークライン)の駅は、[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]1・2番線([[京浜東北線]])ホームの北東側にあり、島式ホーム(広義では[[頭端式ホーム|頭端式]])1面2線を有する地上駅である。 駅番号は'''TD 01'''。駅業務は[[東武ステーションサービス]]に委託している。 東武大宮駅管区として、[[北大宮駅]] - [[八木崎駅]]間を統括管理している。 ==== のりば ==== {| class="wikitable" !番線!!路線!!行先<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tobu.co.jp/railway/guide/station/insidemap/6102/ |title=大宮駅 構内マップ |publisher=東武鉄道 |accessdate=2023-10-01}}</ref> |- !1 |rowspan="2"|[[File:Tobu Noda Line (TD) symbol.svg|15px|TD]] 東武アーバンパークライン |rowspan="2"|[[柏駅|柏]]方面 |- !2 |} * 特急[[アーバンパークライナー]]は全列車1番線より発車する。乗車口は3両編成の2号車1か所である。当駅 - 春日部間のみ座席指定で、その先は特別料金は不要である。特急券の券売機は改札外だけであり、乗降口では特急券の確認と同時に飛び込み客に対する立売も行われている。 <gallery widths="200" style="font-size:90%;"> Omiya-STA Noda-Line Home.jpg|ホーム(2021年7月) </gallery> ==== 発車メロディ ==== {|class="wikitable" !番線!!曲名!!備考 |- !1 |Crystal Clear River||[[東武日光駅]]と同じ曲だが、途中でフェードアウトする |- !2 |Chathedral||[[柏駅]]3・4番線と同じ曲 |} ==== 歴史 ==== * [[1929年]]([[昭和]]4年)[[11月17日]]:[[東武野田線#北総鉄道・総武鉄道|'''北総鉄道''']]野田線の駅として'''仮開業'''。 ** 野田線 粕壁 ー 大宮(仮)間開通と同時に開業<ref>{{NDLDC|2957357/16|「地方鉄道運輸開始」『官報』1929年12月16日|format=EXTERNAL}}</ref>。この時点では当駅構内は工事中であったため、現在の[[大栄橋]]北側に仮駅(現駅から北大宮駅方331m付近。現在の[[埼玉県道2号さいたま春日部線]]の大栄橋付近)を設置し、仮開業。 ** [[11月22日]]:北総鉄道が '''総武鉄道''' に社名変更。 ** [[12月9日]]:駅構内完成に伴い省線大宮駅まで延伸し、'''本開業'''<ref>{{NDLDC|2957357/16|「地方鉄道運輸開始」『官報』1929年12月16日|format=EXTERNAL}}</ref>。仮駅は廃止。 * [[1944年]](昭和19年)[[3月1日]]:[[陸上交通事業調整法]]に基づき '''[[東武鉄道]]''' が 総武鉄道を吸収合併。 * [[1967年]](昭和42年)[[10月3日]]:[[民衆駅]]化、大宮ステーションビル(現・[[ルミネ]]1)開業に伴い現在地に移設。国鉄との[[共同使用駅]]から独立し、自社管理駅となる。 * [[1968年]](昭和43年)[[4月6日]]:大宮駅 - 北大宮駅間複線化。 * [[1969年]](昭和44年)[[9月27日]]:大宮駅発着の[[臨時列車|臨時]]急行[[けごん#DRCの登場と東武特急の繁栄|「きりふり」・「りゅうおう」]] の運転を開始し停車駅となる。 ** 「きりふり」: 日曜祝日の朝方に[[東武日光駅|東武日光]]行き・夕方は大宮行きを運転。 ** 「りゅうおう」: 土曜日の昼に[[鬼怒川温泉駅|鬼怒川温泉]]行きを運転。大宮行きはなし。 ** 途中停車駅:[[岩槻駅]]・[[春日部駅]]・[[下今市駅]]のみ。車両は[[東武5700系電車|5700系]]を使用した。 * [[1972年]](昭和47年)[[11月11日]]:臨時急行「きりふり」「りゅうおう」の運転を終了する。 * [[1990年]](平成2年)8月28日 ー 29日:[[大宮市]]の市制施行50周年を記念した団体列車「[[東武野田線#日光線・鬼怒川線直通列車|大宮市民号]]」を運転。 ** [[8月28日]]:大宮駅 ー [[鬼怒川温泉駅]] ** [[8月29日]]:[[東武日光駅]] ー 大宮駅 ** 車両:[[東武1720系電車|1720系(DRC)]] * [[1994年]]([[平成]]6年)7月 - [[1995年]](平成7年)2月15日:混雑緩和のため、駅構内の大幅な改良工事を実施{{R|group="新聞"|交通1995}}。 ; 工事の手順 : 初めに[[北大宮駅]]寄りにホームを25[[メートル|m]]延長、同時に2番線側に数mホームを拡張{{R|group="新聞"|交通1995}}。これによりホームおよびコンコース付近のスペースが大幅に広がったため<ref group="注釈">この工事で1番線の車止めと実際の停車位置が数m離れてしまい、長らくデッドスペースがあった。しかし、数年後にそれを埋める工事が行われ、現在はその部分もコンコースとなっている。</ref>、改札口を従来の10mから広がって15mとなり、同時に[[自動改札機]]を導入した{{R|group="新聞"|交通1995}}。また、ホーム、コンコーススペース確保のため、従来改札内にあった[[便所|トイレ]]と[[売店]]を改札外に移動した。 : 現在、[[定期券]]発売所の隣にある[[東武トップツアーズ]]大宮駅支店(当時は東武トラベル大宮支店)は、改良工事前までは乗換階段を昇りきった右隣にあった。'''乗換連絡通路'''を新設するため、東武トラベルを現在地に移設した上で、突き抜けるかたちで新たな通路を設け、改札側に[[エスカレーター]]三基と通路中程に[[ルミネ]]出入口を新設した<ref group="注釈">ルミネ出入口は改良工事完了当初は未開設。数年後に開設された</ref>。また、先述の改札外に移動したトイレと売店は、新設したエスカレーターの下に設置された。 : さらに、改札口付近に1台あった大型の[[発車標#反転フラップ式|反転フラップ式発車標]]が[[発車標#LED式|LED式発車標]]に交換され、工事を機に改札内外に1台ずつ設置(増設)された。 ::'''乗換連絡通路'''について :: 平日の朝ラッシュ時は東武野田線(東武アーバンパークライン)からJR各線および埼玉新都市交通(ニューシャトル)への乗換客を優先するため、始発から午前9時までは三基あるエスカレーターすべてが東武⇒JR方向の一方通行となる<ref group="注釈">それ以外の時間帯は、二基が東武⇒JR方向運転、残り一基がJR⇒東武方向運転となる。また、当初は平日・土休日共にこの処置がとられていたが(時間も午前10時まで)、現在は平日のみに限定されている</ref>。ゆえにこの時間帯には逆方向(JR⇒東武)での通り抜けができないため、JR側の出入口付近にその旨の案内があり、かつ自動放送での案内もある。そのため、当該時間帯は必然的に乗換階段を使用することになるが、当駅には[[エレベーター]]が設置されていない<ref group="注釈">当駅の利用者数から勘案すれば設置は必須であるが、駅の構造上の問題で設置されていない。</ref>ため、[[車椅子]]などでの移動のために駅員の手伝いが必要な場合は、エスカレーター付近にある[[インターホン]]でその旨を申し出れば、駅員付き添いのもとで利用可能である<ref group="注釈">エスカレーターは、一時的に1基のみ逆方向運転にして対応する</ref>。 * [[2007年]](平成19年)[[3月27日]]:発車メロディを導入。 * [[2009年]](平成21年)3月 - 4月:LED式発車標と同時に駅構内の案内板を[[ピクトグラム]]を用いたタイプに更新した<ref group="注釈">大幅改良工事の際に、ホームに(当時の)LED式発車標と同タイプの接近案内表示機(LED式)が設置された。その後LED式発車標は更新されたが、接近案内表示機(LED式)は更新されず、そのまま継続使用されている</ref>。また、ホームにあった吊下式[[駅名標]]と路線図は撤去され、路線図・野田線(アーバンパークライン)の所要時間と一体型になった自立式駅名標が設置された。 * [[2012年]](平成24年)12月1日:大宮駅発の[[臨時列車|臨時]]特急「[[スカイツリートレイン]]」の運転を開始し停車駅となる。 ** 土曜日の昼に[[浅草駅|浅草]]行きを運転。大宮行きはなし。 ** 途中停車駅:[[春日部駅]]・[[北千住駅]]・[[とうきょうスカイツリー駅]]のみ。車両は[[東武6050系電車#634型「スカイツリートレイン」|展望列車634型]]を使用した。 * [[2016年]](平成28年)3月26日:ダイヤ改正により当駅発着の[[急行列車|急行]]が新設<ref group="報道" name="tobu20160209">{{PDFlink|[http://www.tobu.co.jp/file/pdf/ae6309105f454c7f65e2b1837689d85b/160209_1.pdf 3月26日(土)に東武アーバンパークラインでダイヤ改正を実施]}} 東武鉄道 2016年2月9日{{リンク切れ|date=2023-0617}}</ref>。 * [[2017年]](平成29年) ** [[4月8日]]:臨時特急「スカイツリートレイン」の運転を終了する。 ** [[4月21日]]:ダイヤ改正により特急「[[アーバンパークライナー]]」の発着駅となる<ref group="新聞" name="asahi2017421">{{Cite news |和書|title=アーバンパークラインに近距離特急 東武、きょうから新ダイヤ|newspaper=[[朝日新聞]]|date=2017-04-21|author=|publisher=朝日新聞社|edition=朝刊 埼玉版}}</ref>。 * [[2020年]]([[令和]]2年)3月14日:ダイヤ改正により[[船橋駅]]までの全線急行運転が開始、船橋行き増設、区間急行が種別に追加。 * [[2022年]](令和4年)4月15日:定期券売り場の営業を終了する<ref group="報道" >{{Cite press release|title=定期券うりばの営業終了について |publisher=東武鉄道|date=2022-04-11|url=https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/news/20220411101211_8Vv4zdgibC5gNYMa-Jvjg.pdf |format=PDF|language=ja|archive-url=https://web.archive.org/web/20220411062030/https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/news/20220411101211_8Vv4zdgibC5gNYMa-Jvjg.pdf |accessdate=2022-04-11 |archivedate=2022-04-11}}</ref>。 ==== 駅構造 ==== ホームは島式(広義では頭端式)1面2線。[[改札#改札口|改札口]]は車止め方(南側)1カ所のみで、降車専用ホームはない。 駅舎は駅ビル「ルミネ1」(当初は「大宮ステーションビル」)と一体化した造りで、'''東口'''へは「ルミネ1」の1階部分を通り抜けて出入りする。 JR東日本・埼玉新都市交通との乗り換えや'''西口'''へ出る場合は、改札前にある(昇降はエスカレーターのみの)乗換連絡通路、もしくは数&nbsp;m先にある乗換階段を使用して、2階の中央自由通路へ出る。 埼玉新都市交通(ニューシャトル)ののりばは、駅の東西反対側に位置し、かつコの字型の移動が必要なので、乗り換えには時間を要する。 大宮駅グランドセントラルステーション化構想では、北側に東西自由通路を新設の上、東武駅を南側にシフトして、3社間の乗換距離を短縮することを検討している<ref>[https://www.city.saitama.jp/001/010/015/004/007/001/002/p080137.html さいたま市/大宮GCSプラン2020を策定しました]</ref>。 ==== かつて設置していた施設 ==== *定期券売り場 ** 2022年4月15日に閉店。2020年9月30日まで[[東武バス#東武バスウエスト|東武バスウエスト]]、売り場の閉鎖まで[[朝日自動車|朝日バス]]の定期券も発売していた。発売業務を東武のグループ会社であるトラベルサービスに委託していた。 * [[東武商事 (東武グループ)#販売業|ACCESS TOBU]]大宮売店 ** 2020年5月21日に閉店 * 東武トップツアーズ大宮駅支店 ** 「みどりの窓口」としての機能も果たしていたが、2021年3月31日に閉店。かつては東武バスウエストの定期券を発売していた。 === 埼玉新都市交通 === {{駅情報 |社色 = #339999 |文字色 = |駅名 = 埼玉新都市交通 大宮駅 |画像 = New-Shuttle Omiya-STA Gate.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 改札口(2022年6月) |よみがな = おおみや |ローマ字 = &#332;miya |所在地 = {{Nowrap|[[さいたま市]][[大宮区]][[錦町 (さいたま市)|錦町]]685-1}} |座標 = {{coord|35|54|24.9|N|139|37|22.1|E|scale:10000_region:JP_type:railwaystation|name=埼玉新都市交通 大宮駅}} |前の駅 = |駅間A = |駅間B = 1.5 |次の駅 = [[鉄道博物館駅|鉄道博物館]] NS02 |電報略号 = |駅番号 = {{駅番号r|NS|01|#339999|3}} |所属事業者 = [[埼玉新都市交通]] |所属路線 = {{Color|#339999|■}}[[埼玉新都市交通伊奈線|伊奈線]](ニューシャトル) |キロ程 = 0.0 |起点駅 = 大宮 |駅構造 = [[高架駅]] |ホーム = 1面1線 |開業年月日 = [[1983年]]([[昭和]]58年)[[12月22日]]<ref name="sone30"/> |廃止年月日 = |乗車人員 = 20,013<!-- 7,304,610÷365 --> |乗降人員 = 40,245<!-- 14,689,340÷365 --> |統計年度 = 2021年 |乗換 = |備考 = }} [[埼玉新都市交通伊奈線|埼玉新都市交通(ニューシャトル)]]の駅は、JR駅の西側にある新幹線ホームの北寄り真下に位置する単式ホーム1面1線の高架駅である。ステーションカラーは紫。駅番号は'''NS01'''。 [[ループ線|ループ]]状になった線路の途中にあり、列車はホームで折り返さず、車両の進行方向を転換させることなく、ループ線を右回りに周り、東から進入し、西へ出発する(丸山・内宿側ではループ線はなく、運転台を切り替えて進行方向を反転させているため、1往復して当駅に戻ってくると車両の向きが入れ替わっている)。 大宮駅の鉄道ホームの中で、唯一東西方向に設置されているホームであり、線路の南側にホームがある。有人窓口と自動改札機が置かれ、改札内に[[コンビニエンスストア]]([[デイリーヤマザキ]])と[[トイレ]]がある。改札とホームの間に階段があるため、車イス用のスロープも設置されている。 JR改札口から通路([[鉄道博物館 (さいたま市)|てっぱく]]通り)を少々歩く必要があり、JRからは北改札口が一番近い。なお、埼京線・川越線からの乗り換えには埼京線北口(ルミネ北改札口)が最も近い。 東口側の東武野田線(東武アーバンパークライン)改札口からは、階段などを上り、中央自由通路を反対側まで歩く必要がある。 当駅でSuica(相互利用カードを含む)を利用した時の履歴は「埼都大宮」と印字・表示される。また、当駅では[[鉄道博物館駅]]への往復乗車券も販売している。 列車到着の際に、沿線の[[伊奈学園総合高校]][[吹奏楽]]部による[[アニメーション映画]]『[[銀河鉄道999 (アニメ)#映画版|銀河鉄道999]]』の[[銀河鉄道999 (ゴダイゴの曲)|テーマ曲]]が流れる(作曲した[[タケカワユキヒデ]]はさいたま市出身)。 ==== のりば ==== {| class="wikitable" !路線!!行先<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.new-shuttle.jp/station/omiya/ |title=大宮駅 構内案内図 |publisher=埼玉新都市交通 |accessdate=2023-06-06}}</ref> |- |[[File:New Shuttle Line symbol.svg|15px|NS]] 伊奈線(ニューシャトル) |[[内宿駅|内宿]]方面 |} (出典:[https://www.new-shuttle.jp/station/omiya/ 埼玉新都市交通:構内案内図]) <gallery widths="200" style="font-size:90%;"> 埼玉新都市交通大宮駅構造.gif|ニューシャトル大宮駅のループ線の構造 New-Shuttle Omiya-STA Platform.jpg|ホーム(2022年8月) Newshuttle-Omiya-Sta.JPG|改装前の改札口(2016年7月) </gallery> == 利用状況 == 3社を合算した2017年度の1日平均乗降人員は約69万人であり、埼玉県の駅では第1位。 * '''JR東日本''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''226,249人'''である<ref group="利用客数">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員] - JR東日本</ref>。 *: 同社の駅では[[品川駅]]に次ぐ第7位。1991年度以降は乗車人員が上野駅を上回り、宇都宮線・高崎線の駅としては東京駅に次ぐ第2位となった。1996年度をピークに一度減少したが、その後は横ばいから増加に転じて2015年度に1日平均乗車人員が25万人を越えた。2020年度には乗車人員が[[新橋駅]]を上回った。大宮駅には多数のJR路線が乗り入れ、乗車人員には、JR各線相互の乗り換え者数は含まれていないため、実際の駅利用者は数字以上に非常に多い。 ** 2022年度の新幹線の1日平均'''乗車'''人員は'''25,514人'''である<ref group="利用客数">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020_shinkansen.html 新幹線駅別乗車人員] - JR東日本</ref>。 *: 同社の駅では[[東京駅]]に次ぐ第2位。 * '''東武鉄道''' - 2022年度の1日平均'''乗降'''人員は'''118,886人'''である<ref group="利用客数">[https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/ 駅情報(乗降人員)] - 東武鉄道</ref>。 *: 野田線(アーバンパークライン)の駅では[[柏駅]]に次ぐ第2位。東武鉄道全体では[[池袋駅]]、[[北千住駅]]、[[和光市駅]]、[[朝霞台駅]]、[[新越谷駅]]、柏駅に次ぐ第7位。 * ''' 埼玉新都市交通''' - 2021年度の1日平均'''乗車'''人員は'''20,013人'''である<ref group="乗降データ">{{Cite web|和書 |title=令和04年(2022年)統計年鑑 8 運輸・通信 - 埼玉県 |url=https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2022_08_unnyu.html |website=埼玉県 |accessdate=2023-12-14 |language=ja |last=埼玉県}}</ref>。 *: 同社の駅では第1位。 === 年度別1日平均乗降人員 === 東武鉄道の各年度の1日平均'''乗降'''人員数は下表の通り。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗降人員<ref group="乗降データ">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会トレインメディア</ref> !rowspan="2"|年度 !colspan="2"|東武鉄道 |- !1日平均<br />乗降人員!!増加率 |- |1997年(平成{{0}}9年) |140,871 | |- |1998年(平成10年) |136,507 |&minus;3.1% |- |1999年(平成11年) |134,035 |&minus;1.8% |- |2000年(平成12年) |133,987 |0.0% |- |2001年(平成13年) |133,302 |&minus;0.5% |- |2002年(平成14年) |129,807 |&minus;2.6% |- |2003年(平成15年) |127,373 |&minus;1.9% |- |2004年(平成16年) |126,559 |&minus;0.6% |- |2005年(平成17年) |129,757 |2.5% |- |2006年(平成18年) |131,328 |1.2% |- |2007年(平成19年) |133,240 |1.5% |- |2008年(平成20年) |133,987 |0.6% |- |2009年(平成21年) |132,676 |&minus;1.0% |- |2010年(平成22年) |131,977 |&minus;0.5% |- |2011年(平成23年) |130,643 |&minus;1.0% |- |2012年(平成24年) |132,450 |1.4% |- |2013年(平成25年) |134,039 |1.2% |- |2014年(平成26年) |131,710 |&minus;1.7% |- |2015年(平成27年) |133,706 |1.5% |- |2016年(平成28年) |135,437 |1.3% |- |2017年(平成29年) |137,309 |1.4% |- |2018年(平成30年) |137,763 |0.3% |- |2019年(令和元年) |135,984 |&minus;1.3% |- |2020年(令和{{0}}2年) |101,472 | -25.4% |- |2021年(令和{{0}}3年) |110,181 |8.6% |- |2022年(令和{{0}}4年) |118,886 |7.9% |} === 年度別1日平均乗車人員(1987年 - 2000年) === 各年度の1日平均'''乗車'''人員数は下表の通り。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="乗降データ" name="saitamapref-toukei">[https://www.pref.saitama.lg.jp/kense/toke/nenkan/index.html 埼玉県統計年鑑]</ref><ref group="乗降データ" name="saitamacity-toukei">[https://www.city.saitama.jp/006/013/001/005/index.html さいたま市統計書] - さいたま市</ref><ref group="乗降データ" name="omiyacity-toukei">[https://www.city.saitama.jp/006/013/001/001/index.html 旧大宮市統計書] - 旧大宮市</ref> !年度!!JR東日本!!東武鉄道!!埼玉新都市交通!!出典 |- |1987年(昭和62年) |168,743||61,301||9,115 | |- |1988年(昭和63年) |183,932||64,326||10,013 | |- |1989年(平成元年) |194,804||66,098||10,853 | |- |1990年(平成{{0}}2年) |206,698||68,817||12,077 | |- |1991年(平成{{0}}3年) |218,025||71,854||13,088 | |- |1992年(平成{{0}}4年) |224,645||72,750||14,860 | |- |1993年(平成{{0}}5年) |228,603||72,997||15,438 | |- |1994年(平成{{0}}6年) |232,403||72,981||15,570 | |- |1995年(平成{{0}}7年) |235,147||73,806||15,971 | |- |1996年(平成{{0}}8年) |237,180||73,182||16,358 | |- |1997年(平成{{0}}9年) |233,123||70,844||16,188 | |- |1998年(平成10年) |228,410||68,639||16,402 | |- |1999年(平成11年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/1999.html 各駅の乗車人員(1999年度)] - JR東日本</ref>228,571 |67,416||16,485 |<ref group="埼玉県統計">[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20091230-813.html 平成12年]</ref> |- |2000年(平成12年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>228,219 |67,310||16,449 |<ref group="埼玉県統計">[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100105-832.html 平成13年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) === {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="乗降データ" name="saitamapref-toukei" /><ref group="乗降データ" name="saitamacity-toukei" /><ref group="乗降データ" name="omiyacity-toukei" /> !rowspan="2"|年度 !colspan="2"|JR東日本 !rowspan="2"|東武鉄道 !rowspan="2"|埼玉新都市交通 !rowspan="2"|出典 |- !在来線 !新幹線 |- |2001年(平成13年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>227,835|| |66,165||16,400 |<ref group="埼玉県統計">[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100105-852.html 平成14年]</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>228,247|| |64,513||16,231 |<ref group="埼玉県統計">[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100106-872.html 平成15年]</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>227,683|| |63,271||16,278 |<ref group="埼玉県統計">[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100106-892.html 平成16年]</ref> |- |2004年(平成16年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>228,271|| |62,974||16,729 |<ref group="埼玉県統計">[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100107-912.html 平成17年]</ref> |- |2005年(平成17年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>231,599|| |64,664||16,799 |<ref group="埼玉県統計">[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100107-934.html 平成18年]</ref> |- |2006年(平成18年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>233,719|| |65,426||17,408 |<ref group="埼玉県統計">[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100107-957.html 平成19年]</ref> |- |2007年(平成19年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>239,111|| |66,017||19,597 |<ref group="埼玉県統計">[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100108-980.html 平成20年]</ref> |- |2008年(平成20年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>239,720|| |66,347||20,890 |<ref group="埼玉県統計">[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a200908.html 平成21年]</ref> |- |2009年(平成21年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>236,424|| |65,767||20,056 |<ref group="埼玉県統計">[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201008.html 平成22年]</ref> |- |2010年(平成22年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>235,151|| |65,479||20,211 |<ref group="埼玉県統計">[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201108.html 平成23年]</ref> |- |2011年(平成23年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>235,744|| |65,413||20,533 |<ref group="埼玉県統計">[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201208.html 平成24年]</ref> |- |2012年(平成24年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>240,143 |<ref group="新幹線">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012_shinkansen.html 新幹線駅別乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>26,197 |66,087||21,307 |<ref group="埼玉県統計">[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201308.html 平成25年]</ref> |- |2013年(平成25年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>245,479 |<ref group="新幹線">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013_shinkansen.html 新幹線駅別乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>27,069 |66,871||22,098 |<ref group="埼玉県統計">[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201408.html 平成26年]</ref> |- |2014年(平成26年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>244,556 |<ref group="新幹線">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014_shinkansen.html 新幹線駅別乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>27,374 |65,719||22,043 |<ref group="埼玉県統計">[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2015ubbyutuusinn.html 平成27年]</ref> |- |2015年(平成27年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>250,479 |<ref group="新幹線">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015_shinkansen.html 新幹線駅別乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>29,162 |66,745||22,824 |<ref group="埼玉県統計">[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2016ubbyutuusinn.html 平成28年]</ref> |- |2016年(平成28年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>252,769 |<ref group="新幹線">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016_shinkansen.html 新幹線駅別乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>29,866 |67,395||22,966 |<ref group="埼玉県統計">[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2017_08_unnyu.html 平成29年]</ref> |- |2017年(平成29年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>255,147 |<ref group="新幹線">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017_shinkansen.html 新幹線駅別乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>30,122 |68,356||23,423 |<ref group="埼玉県統計">[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2018_08_unnyu.html 平成30年]</ref> |- |2018年(平成30年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>258,108 |<ref group="新幹線">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018_shinkansen.html 新幹線駅別乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>30,535 |68,620||24,137 |<ref group="埼玉県統計">[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2019_08_unnyu.html 令和元年]</ref> |- |2019年(令和元年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>257,344 |<ref group="新幹線">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019_shinkansen.html 新幹線駅別乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>29,679 | 67,766 || 24,155 |<ref group="埼玉県統計">[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2020_08_unnyu.html 令和2年]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>188,576 |<ref group="新幹線">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020_shinkansen.html 新幹線駅別乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>15,278 ||| | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>203,160 |<ref group="新幹線">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021_shinkansen.html 新幹線駅別乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>18,915 |||20,013 | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>226,249 |<ref group="新幹線">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_shinkansen.html 新幹線駅別乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>25,514 ||| | |} == 駅周辺 == [[ファイル:Daieibashi Saitama Japan2.JPG|thumb|大栄橋]] 駅周辺は東口・西口ともに[[百貨店]]や専門店・ファッションビル、飲食店、企業や[[金融機関]]などが軒を連ね、埼玉県内最大の[[繁華街]]および[[オフィス街]]が広がっている。 今後、さいたま市による駅舎および駅周辺の一体的かつ大規模な[[都市再開発|再開発]]が構想されている([[さいたま市議会#委員会|大宮駅グランドセントラルステーション化構想]])。駅舎では東西連絡通路の増設や[[駅ビル]]の建替えによる駅機能の更なる強化を、駅周辺では大規模整地による建物・道路の再開発や地下開発等がそれぞれ検討されている(いずれも詳細は未定)。これに関連して、さいたま市は2022年4月26日、[[独立行政法人都市再生機構]](UR)と当駅周辺のまちづくりに関する連携協定を締結した。 * [[大栄橋]] - 当駅北側で下記の東口と西口を繋いでいる跨線橋。当駅が一望できるロケーションにある。 ** [[埼玉県道2号さいたま春日部線]](旧[[国道16号]]) === 東口 === [[File:Omiya Takashimaya 202307 1.jpg|thumb|髙島屋大宮店]] [[File:Omiya_kadomachi.jpg|thumb|大宮門街]] [[File:Omiya Minami Ginza 1.JPG|thumb|南銀座通り(ナンギン)]] [[File:Hikawa-jinja (Saitama), roumon.jpg|thumb|武蔵一宮氷川神社]] 旧[[中山道]](現在の[[埼玉県道164号鴻巣桶川さいたま線]])の[[宿場]][[大宮宿]]をルーツとする従前からの市街地であり、[[武蔵国]][[一宮]][[氷川神社]]への[[門前町]]でもある。駅前には[[髙島屋]]、[[ルミネ#店舗|ルミネ大宮店]]のほか、多くの小規模店舗が軒を連ね、県下最大の歓楽街[[大宮南銀座]]がある。以前は[[長崎屋]]、[[十字屋 (百貨店)|十字屋]]、[[西武百貨店]]、[[ハタプラザ]]などの商業施設が立地していたが、西口の発展や[[さいたま新都心駅]]周辺などの再開発の影響もあり廃業している。一方、[[大宮銀座通り#歴史|大宮中央デパート]]跡地に再開発ビル「[[大宮門街]]」が建設されるなど、当駅東口の再開発も進み始めた。 ;主な施設 {{columns-list|2| * こりすのトトちゃん(銅像) - 旧大宮市のマスコット。作者はさいたま市在住の絵本作家・[[あすかけん]]。[[1994年]]([[平成]]6年)制作<ref group="新聞">{{Cite news|和書|title=大宮東口見守り25年 こりすのトトちゃん|newspaper=埼玉新聞|date=2018-5-27}}</ref>。 * [[ルミネ]]大宮店 - ルミネ大宮2は西口に記載 ** ルミネ大宮1 - [[民衆駅]]化に伴う駅舎改築により、[[1967年]](昭和42年)[[10月3日]]に東口側に開業。当初は大宮ステーションビル (OSB) と呼ばれており、PiNo(ピノ)、Kiss(キス)と名前を変えて現在に至る。駅舎とは2階コンコースでつながっており、1階は東武野田線(東武アーバンパークライン)改札口へ通り抜けられる。 * [[髙島屋]]大宮店 * [[浜友観光#RAKUUN|大宮RAKUUN]] ** 楽園大宮店 ** [[ドン・キホーテ (企業)|ドン・キホーテ]]大宮東口店 ** [[大宮ラクーンよしもと劇場]] * [[ラウンドワン]]大宮店 * [[スーパーホテル]]Premierさいたま・大宮駅東口 * [[みずほ銀行]]大宮支店 * [[三菱UFJ銀行]]大宮支店/大宮駅前支店 * [[三井住友銀行]]大宮支店 * [[埼玉りそな銀行]]大宮支店 * [[武蔵野銀行]]大宮支店 * [[三菱UFJ信託銀行]]大宮支店 * [[三井住友信託銀行]]大宮支店/大宮駅前支店 * [[埼玉縣信用金庫]]大宮支店 * [[第四北越銀行]]大宮支店<ref>旧第四銀行店舗。銀行休業日はATMの利用不可</ref> * [[足利銀行]]大宮支店/[[常陽銀行]]さいたま支店(足利の支店内に常陽の支店が入居する共同店舗) * [[群馬銀行]]大宮支店 * [[中央労働金庫]]大宮支店 * [[第一生命保険]]大宮支社 * [[太陽生命保険]]大宮支社 * [[AIG損害保険]]埼玉支店 * [[全国生活協同組合連合会]]本部(全国の[[県民共済]]等の元受団体本部) * [[JA共済埼玉ビル]] ** [[JA共済連]]埼玉県本部 * [[全労済|全労済(こくみん共済 coop)]] 大宮店 * [[大和証券]]大宮支店 * [[みずほ証券]]大宮支店 * [[野村證券]]さいたま支店 * [[大宮門街]] ** [[さいたま市民会館おおみや|RaiBoC Hall]] - 大ホール最大1,400席 * [[大宮区|さいたま市大宮区役所]] ** [[さいたま市図書館|さいたま市立大宮図書館]] * [[さいたま市立博物館]] * [[さいたま市立大宮小学校]] * [[さいたま市立大宮南小学校]] * [[さいたま市立大宮東中学校]] * [[埼玉県立大宮高等学校]] * [[自治医科大学附属さいたま医療センター]] * [[武蔵一宮氷川神社]](大宮氷川神社) ** [[氷川参道]] - 大宮氷川神社まで2㎞に及ぶ直線の[[参道]] * [[大宮公園]] - [[日本さくら名所100選]]のひとつ ** [[大宮公園#大宮公園小動物園|大宮公園小動物園]] ** [[さいたま市大宮公園サッカー場|NACK5スタジアム大宮]] - [[大宮アルディージャ]]本拠地 ** [[埼玉県営大宮公園野球場|県営大宮球場]] - [[埼玉西武ライオンズ]]準本拠地 ** [[大宮競輪場]] * [[さいたま市営大宮球場|レジデンシャルスタジアム大宮]] - [[埼玉武蔵ヒートベアーズ]]主催・過去には[[東京ヤクルトスワローズ]]二軍主催 * [[大宮銀座通り]]([[商店街]]) * [[大宮南銀座|南銀座通り]]([[歓楽街]]) * [[大宮北銀座|北銀座通り]]([[ソープランド|特殊浴場]]などの[[風俗街]]) * [[旧中山道]] - [[埼玉県道164号鴻巣桶川さいたま線]] * [[産業道路#関東|産業道路]] - [[埼玉県道35号川口上尾線]] |}} === 西口 === [[画像:Japanese Omiya Sonic City.jpg|thumb|大宮ソニックシティ]] [[File:Jack Omiya.jpg|thumb|JACK大宮]] [[File:Musashino Bank new head office 3 (cropped).jpg|thumb|武蔵野銀行本店]] [[ファイル:Sogo Omiya 202307.jpg|thumb|そごう大宮店]] [[ファイル:ARCHE 202307.jpg|thumb|大宮アルシェ]] 地名は[[桜木町 (さいたま市)|桜木町]]。西側に[[国道17号]]([[中山道]])が通り、駅周辺には[[そごう大宮店]]等の大型商業施設や、[[大宮ソニックシティ]]・[[JACK大宮]]・[[シーノ大宮]]を始めとする数々の[[オフィスビル]]が建ち並んでいる。飲食店は東口より少ないが、企業や[[金融機関]]が多く、当駅西口は埼玉県内最大の[[オフィス街]]を形成している。駅と国道の間の市街地は、新幹線建設以来、区画整理や再開発が進められており、街並みは大きく変わった。 埼玉県内の[[路線価]]において大宮駅西口前の地点に毎年最高値が付く(令和3年における上位4地点のうち、2位は川口駅前、残り3地点が大宮駅前である)。また、駅から南側に250&nbsp;m進むと[[中央区 (さいたま市)|中央区]][[上落合 (さいたま市)|上落合]]との境界がある。 [[埼京線]]・[[川越線]]の[[コンコース]]は地上階(ホームは地下)にあり、西口側のルミネ大宮2の1階と直結しているため、'''ルミネ北改札口'''(1985年開設・埼京線北口)と'''ルミネ南改札口'''(2004年開設)がある。ルミネ北改札口は7:00 - 22:00、ルミネ南改札口はルミネ大宮2営業時間中のみ利用可能で、共にIC専用となっている(ルミネ南改札口は2017年5月15日より、ルミネ北改札口は2019年5月13日より変更された)。埼京線・川越線から[[ニューシャトル]]への乗り換えには、ルミネ北改札口から駅舎の外へ出て駅沿いを北側に歩き、歩行者デッキへの階段を昇るルートが最も近い(駅舎内の乗換通路距離や階段などの垂直移動および混雑を考慮すると、数分程度早くニューシャトル改札口へ着く)。 ;主な施設 {{columns-list|2| * [[ルミネ]]大宮店 - ルミネ大宮1は東口に記載 ** ルミネ大宮2 - 新幹線開業に伴う駅舎改築により、大宮ステーションビルの増床部として[[1982年]](昭和57年)[[6月19日]]に西口側に開業。当初はWe(ウィー)という名前だった。コンコースとは2階でつながっており、1階では埼京線・川越線乗り換え階段とつながり、専用改札もある。大宮区役所大宮駅支所も併設。 *** ルミネ アネックス - 埼玉新都市交通ニューシャトルのりばと中央自由通路を結ぶ連絡通路'''「てっぱく通り」'''(2015年4月1日に命名)に設けられた、ルミネ大宮2の増床部分。 * [[そごう大宮店]](大宮スカイビル) ** [[ビックカメラ]]大宮西口そごう店 * [[アルシェ|大宮アルシェ]] ** [[エフエムナックファイブ|FM NACK5]] [[サテライトスタジオ]] ** [[ソフマップ]]大宮店 * [[大宮駅西口DOMショッピングセンター]] ** [[丸井]]大宮店 ** [[ダイエー]]大宮店 ** [[ハンズ (小売業)|ハンズ]]大宮店 * [[大宮ソニックシティ]] ** [[パレスホテル大宮]] ** [[大宮ソニックシティ#ソニックシティホール|ソニックシティホール]] - 大ホール最大2,505席 ** [[大宮ソニックシティ#鐘塚公園|鐘塚公園]] * [[シーノ大宮]] ** [[さいたま市立桜木図書館]] * [[JACK大宮]] ** さいたま市宇宙劇場([[プラネタリウム]]) ** [[エフエムナックファイブ|FM NACK5]] 本社 * [[大同生命]]さいたま大宮ビル(旧OLSビル ← 旧[[大宮法科大学院大学]]) * [[日本郵便|大宮JPビルディング]] * 大宮センタービル * エクセレント大宮ビル * ロケットビル * ベルヴュオフィス大宮(旧[[代々木ゼミナール]]大宮校) * [[東日本旅客鉄道大宮支社|JR東日本大宮支社]] * さいたま市営桜木駐車場(大宮[[鉄道病院]]跡地) * [[武蔵野銀行]]本店 * [[埼玉りそな銀行]]大宮西支店 * [[埼玉縣信用金庫]]大宮西支店 * [[SBI新生銀行]]大宮支店 * [[八十二銀行]]大宮支店 * [[山形銀行]]大宮支店 * [[むさし証券]]本店 * [[岡三証券]]大宮支店 * [[SMBC日興証券]]大宮支店 * [[放送大学|放送大学埼玉学習センター]] * [[国際学院埼玉短期大学]] * [[さいたま市立桜木小学校]] * [[さいたま市立桜木中学校]] * [[さいたま市立大成小学校]] * [[さいたま市立大成中学校]] * [[スーパーホテル]]さいたま・大宮駅西口 * [[カンデオ・ホスピタリティ・マネジメント|カンデオホテルズ]]大宮 * [[首都高速道路]] ** [[新都心西出入口]]([[埼玉新都心線]]) ** [[与野出入口]]([[埼玉大宮線]]) * [[国道17号]]([[中山道]]) * [[新大宮バイパス]] - 西に約1.5&nbsp;㎞ |}} == バス路線 == === 一般路線バス === ==== 東口発着 ==== <!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !のりば!!運行事業者!!系統・行先!!備考 |- !1 |rowspan="3" style="text-align:center;"|[[東武バス#東武バスウエスト|東武バスウエスト]] |[[東武バスウエスト大宮営業事務所#大宮駅東口 - 上尾駅東口方面|'''大51''']]:[[上尾駅]]東口 |&nbsp; |- !2 |{{Unbulleted list|[[東武バスウエスト大宮営業事務所#大宮駅東口 - 植竹 - 本郷住宅 - 宮原駅東口方面|'''大42''']]:[[宮原駅]]東口|[[東武バスウエスト大宮営業事務所#大宮駅東口 - 寿能住宅 - 第二住宅入口 - 吉野町車庫方面|'''大47''']]:[[東武バスウエスト大宮営業事務所|吉野町車庫]]|[[東武バスウエスト天沼営業所#大宮駅東口・さいたま新都心駅発着系統|'''大都23''']]:[[さいたま市立病院]] / [[さいたま新都心駅]]東口}} |&nbsp; |- !3 |[[東武バスウエスト大宮営業事務所#大宮駅東口 - 天沼循環|'''大43''']]:[[天沼町|天沼]]循環 |&nbsp; |- !rowspan="2"|4 |style="text-align:center;"|[[国際興業バス]] |{{Unbulleted list|[[国際興業バスさいたま東営業所#大宮駅東口 - 日大前 - 大谷県営住宅・東部リサイクルセンター線|'''大04''']]:大谷県営住宅|[[国際興業バスさいたま東営業所#大宮駅東口 - 自治医大医療センター線|'''大11''']]:[[自治医科大学附属さいたま医療センター|自治医大医療センター]]|[[国際興業バスさいたま東営業所#東大宮駅 - ファミリータウン - アーバンみらい線|'''大14''']]:[[深作]]中|[[国際興業バスさいたま東営業所#大宮駅東口 - 日大前 - 浦和美園駅西口・浦和学院高校・浦和東高校線|'''大81''']]:[[国際興業バスさいたま東営業所|さいたま東営業所]]}} |「大04」「大14」「大81」は深夜のみ運行 |- |style="text-align:center;"|[[西武バス]] |[[西武バス大宮営業所#大宮駅西口 - 中並木 - 大宮駅東口方面|'''大38''']]:大宮駅西口 |&nbsp; |- !6 |rowspan="2" style="text-align:center;"|国際興業バス |{{Unbulleted list|[[国際興業バスさいたま東営業所#大宮駅東口 - 日大前 - 東新井団地線|'''大10''']]:東新井団地|[[国際興業バスさいたま東営業所#大宮駅東口 - 中川循環線|'''大12''']]:[[中川 (さいたま市)|中川]]循環|'''大12-3''':西浦|[[国際興業バスさいたま東営業所#大宮駅東口 - 導守循環線|'''大15''']]:導守循環(西中野先回り)|'''大15-2''':導守中回り循環(西中野先回り)|'''大15-3''':導守[[南中野 (さいたま市)|南中野]]循環(西中野先回り)}} |&nbsp; |- !7 |{{Unbulleted list|'''大01''':[[浦和美園駅]]西口|'''大02'''・'''大02-2''':[[浦和学院高等学校|浦和学院高校]]|'''大02-3''':[[埼玉県立浦和東高等学校|浦和東高校]]<ref group="注釈">終点まで直行する「大02-4」は、9番のりばから発着する。</ref>|[[国際興業バスさいたま東営業所#大宮駅東口 - 日大前 - 染谷折返場線|'''大03''']]:[[染谷 (さいたま市)|染谷]]折返場|'''大04'''・'''大04-2''':[[大谷 (さいたま市見沼区)|大谷]]県営住宅<ref group="注釈">「大04」の深夜バスは、4番のりばから発着する。</ref>|'''大04-3''':東部リサイクルセンター|'''大81''':さいたま東営業所<ref group="注釈">深夜バスは、4番のりばから発着する。</ref>|[[国際興業バス#深夜急行路線「ミッドナイトアロー」|'''ミッドナイトアロー蓮田・久喜''']]:[[久喜駅]]西口}} |「ミッドナイトアロー蓮田・久喜」は深夜急行バス |- !8 |style="text-align:center;"|東武バスウエスト |[[東武バスウエスト大宮営業事務所#大宮駅東口 - 宮下・岩槻駅方面|'''大50''']]:岩槻駅 / [[東宮下|宮下]] / [[宮ヶ谷塔]] |&nbsp; |- !9 |rowspan="3" style="text-align:center;"|国際興業バス |{{Unbulleted list|'''大02-4''':浦和東高校|'''大15''':導守循環([[寿能町|寿能]]先回り)|'''大15-2''':導守中回り循環(芝川先回り)|'''大15-3''':導守南中野循環(寿能先回り)|[[国際興業バス#深夜急行路線「ミッドナイトアロー」|'''ミッドナイトアロー上尾・鴻巣''']]:[[鴻巣駅]]東口}} |「ミッドナイトアロー上尾・鴻巣」は深夜急行バス |- !11 |[[国際興業バスさいたま東営業所#大宮駅東口 - 天沼町直行・堀の内橋始発線|'''大08''']]:天沼町([[大宮開成中学・高等学校]]) |&nbsp; |- !12<br />(降車専用) |[[国際興業バス#深夜急行路線「ミッドナイトアロー」|'''ミッドナイトアロー浦和・大宮''']]:大宮駅東口('''終着''') |深夜急行バス |} * 5番と10番の「のりば」は欠番で存在しない。 ** 5番は、以前は西武バスの「のりば」として存在したが、駅前広場の改修により4番に統合されたため、欠番となった。 ** 10番は、「'''大宮東口駅前通り'''」停留所の名称で使用され、以前は東武バス(現・東武バスウエスト)の<大50>の始発停留所だった。だが、 1991年にルート変更した際に<大50>専用の途中停留所となった。なお、大宮駅方面の対応停留所は「大宮大門町」停留所になっている。 * かつて高島屋大宮店前に、12番のりばがあった。ここは、高速バスの「[[やまと号]]」([[奈良市|奈良]]・[[大阪]]行き)や「[[大宮 - つくば・土浦線]]」の発着場であったが、いずれも現在は廃止されている。現在は周辺同様に'''降車専用'''となっているが、のりば番号はそのままである。 ==== 西口発着 ==== <!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !のりば!!運行事業者!!系統・行先!!備考 |- !1 |rowspan="5" style="text-align:center;"|西武バス |{{Unbulleted list|[[西武バス所沢営業所#所沢駅東口 - 上福岡駅 - 大宮駅方面|'''大34''']]:[[所沢駅]]東口|[[西武バス大宮営業所#大宮駅西口 - 二ツ宮 - 馬宮団地 - ららぽーと富士見方面|'''大35''']]:[[ららぽーと富士見]]|'''大36''':[[二ツ宮 (さいたま市)|二ツ宮]]|'''大37''':馬宮団地}} |&nbsp; |- !2 |{{Unbulleted list|[[西武バス大宮営業所#大宮駅西口 - かみこ公園 - 中並木方面|'''大30''']]:中並木循環|[[西武バス大宮営業所#大宮駅西口 - 水判土 - 指扇駅方面|'''大31''']]:[[指扇駅]]|'''大38''':大宮駅東口}} |&nbsp; |- !3 |{{Unbulleted list|[[西武バス大宮営業所#大宮駅西口 - 藤橋 - 加茂川団地方面|'''大32''']]・[[西武バス大宮営業所#大宮駅西口 - 市民医療センター入口 - 加茂川団地方面|'''大39''']]:加茂川団地|'''大33'''・'''大40''':[[埼玉県立大宮南高等学校|大宮南高校]]|'''大39-1''':[[さいたま市民医療センター]]|'''大41''':[[水判土]]|[[西武バス大宮営業所#大宮駅西口 - 円阿弥 - 北与野駅 - さいたま新都心駅方面|'''新都11''']]:[[さいたま新都心駅]]西口}} |始発から8:59発までは、9番のりば([[そごう大宮店]]前)から発着 |- !4 |{{Unbulleted list|[[西武バス大宮営業所#大宮駅西口 - 西遊馬 - 川越グリーンパーク方面|'''大22''']]:川越グリーンパーク|'''大23''':[[西遊馬]]}} |&nbsp; |- !5 |'''大25''':佐知川原 |&nbsp; |- !6 |rowspan="3" style="text-align:center;"|東武バスウエスト |[[東武バスウエスト大宮営業事務所#大宮駅西口 - 三進自動車 - シティハイツ三橋方面|'''大61''']]:[[朝日カーメンテナンス|三進自動車]] |&nbsp; |- !7 |{{Unbulleted list|'''大68''':[[三橋総合公園]]|'''大69''':シティハイツ三橋}} |&nbsp; |- !8 |{{Unbulleted list|[[東武バスウエスト上尾営業所#大宮駅西口 - 清河寺 - リハビリセンター・平方線|'''大60''']]:[[東武バスウエスト上尾営業所|西上尾車庫]]|'''大62''':[[平方 (上尾市)|平方]] / 丸山公園 / リハビリセンター|'''大65''':リハビリセンター / 丸山公園 / 橘神社}} |&nbsp; |- !9<br />(そごう大宮店前) |style="text-align:center;"|西武バス |{{Unbulleted list|'''大32'''・'''大39''':加茂川団地|'''大33'''・'''大40''':大宮南高校|'''大39-1''':さいたま市民医療センター|'''大41''':水判土|'''新都11''':さいたま新都心駅西口}} |9時以降は、3番のりばから発着 |- !ソニックシティ前<br />(降車専用) |style="text-align:center;"|国際興業バス |'''ミッドナイトアロー浦和・大宮''':大宮駅東口 |深夜急行バス |} ==== 西口(アルシェ前)発着 ==== <!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> * [[けんちゃんバス|丸建つばさ交通]] ** 大宮駅西口循環(大成先回り) ** 大宮駅西口循環(与野本町先回り) === 長距離・高速バス === 大型[[バスターミナル]]「バスタ大宮(仮称)」を整備する構想があると2021年に報道されたが、現時点で下記の各長距離バスは全て当駅前からの発着である(現在はあくまでも構想段階)。 <!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !のりば!!運行事業者!!愛称・行先!!備考 |- !colspan="4"|東口 |- !rowspan="4"|9 |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|[[国際興業バス]]|[[庄内交通]]}} |'''[[夕陽号]]''':[[鶴岡市|鶴岡]]・[[庄内町|余目]]・[[酒田市|酒田]]方面 |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|[[岩手県交通]] |[[岩手県交通#イーハトーブ号|'''イーハトーブ号''']]:[[平泉町|平泉]]・[[水沢市|水沢]]・[[北上市|北上]]・[[花巻市|花巻]]方面 |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|[[秋北バス]] |[[秋北バス#ジュピター号|'''ジュピター号''']]:[[鹿角市|鹿角]]・[[大館市|大館]]・[[能代市|能代]]方面 |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|国際興業バス |'''[[しもきた号]]''':[[八戸市|八戸]]・[[三沢市|三沢]]・[[野辺地町|野辺地]]・[[むつ市|むつ]]方面 |&nbsp; |- !colspan="4"|西口 |- !rowspan="6"|10<br />(そごう大宮店前) |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|[[西武観光バス]]|[[国際興業バス]]|[[東京空港交通]]}} |'''大宮羽田線''':[[東京国際空港|羽田空港]]方面 |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|西武観光バス|[[フジエクスプレス]]}} |'''大宮・川越 - [[河口湖]]・[[富士山駅]]線(河口湖線)''':[[富士急ハイランド]]・[[河口湖駅]]・[[富士山駅]]方面 |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|[[三重交通]] |'''[[いが号]]''':[[近鉄四日市駅]]・[[上野市駅]]・[[名張市|名張市役所]]方面 |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|西武観光バス|三重交通|[[三交伊勢志摩交通]]}} |[[大宮・東京 - 鳥羽線・南紀勝浦線|'''鳥羽線''']]:[[近鉄四日市駅]]・[[津駅]]・[[鳥羽駅#鳥羽バスセンター|鳥羽バスセンター]]方面 |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|西武観光バス|三重交通}} |[[大宮・東京 - 鳥羽線・南紀勝浦線|'''南紀勝浦線''']]:[[熊野市駅]]・[[新宮駅]]・[[南紀勝浦温泉|勝浦温泉]]方面 |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|西武観光バス|[[明光バス]]}} |[[明光バス#横浜・東京・埼玉方面|'''ホワイトビーチシャトル(南紀白浜線)''']]:新湯崎方面 |&nbsp; |- !rowspan="5"|11<br />(そごう大宮店前) |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|[[東武バス#東武バスウエスト|東武バスウエスト]]|西武観光バス|国際興業バス|[[京成バス]]|[[千葉交通]]}} |[[ONライナー号|'''ONライナー号(大宮成田線)''']]:[[成田国際空港|成田空港]]方面 |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|東武バスウエスト<br />[[京成トランジットバス]] |[[京成トランジットバス#高速バス|'''東京ディズニーリゾート線''']]:[[東京ディズニーリゾート]]方面 |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|[[松本電鉄バス|アルピコ交通]] |'''[[さわやか信州号]]''':[[上高地]]方面 |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|[[小田急ハイウェイバス]]|[[秋田中央交通]]}} |'''[[フローラ号]]''':[[秋田駅]]東口・[[長崎屋バスターミナル]]方面 |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|[[JRバス東北]] |[[仙台駅]]東口・[[泉中央駅]]・[[古川駅]]方面 |&nbsp; |- !rowspan="2"|大宮ソニックシティ<br />([[大宮ソニックシティ|ソニックシティ]]前) |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|武陽観光バス|広栄交通バス|[[東京富士交通]]}} |'''ブルーライナー''':京都・なんば・[[ユニバーサル・スタジオ・ジャパン|USJ]]方面 |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|広栄交通バス |[[ふかや花園プレミアム・アウトレット]]方面 |&nbsp; |- !ソニックシティビル前<br />(ソニックシティ前) |style="text-align:center;"|[[平成エンタープライズ]] |'''VIPライナー''':なんば・堺東方面 / 富山・金沢方面 |&nbsp; |- !西口1<br />(エクセレント大宮ビル前) |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|[[ジャムジャムエクスプレス]]|[[新日本観光自動車]]|丹沢交通}} |'''JAMJAMライナー''':難波・梅田・USJ方面 / 仙台・秋田・青森方面 |&nbsp; |- !西口2<br />(エクセレント大宮ビル前) |style="text-align:center;"|旅クラブジャパン |'''ミルキーウェイエクスプレス''':名古屋・大阪・仙台方面 |&nbsp; |- !rowspan="2"|西口3<br />([[ファミリーマート]]大宮桜木町一丁目店前) |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|[[桜交通]]|AT LINER}} |'''さくら高速バス''':郡山・福島・仙台方面 / 名古屋・難波・神戸三宮方面 |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|[[杉崎観光バス]] |'''杉崎高速バス''':富山・金沢・福井方面 |&nbsp; |} == 駅弁 == 2016年時点では地元業者がすべて撤退し、[[JR東日本クロスステーション]](旧[[日本レストランエンタプライズ|NRE]])のみが営業している。主な[[駅弁]]は下記の通り<ref>{{Cite journal|和書|year=2023|publisher=[[JTBパブリッシング]]|journal=JTB時刻表|issue=2023年3月号|page=74-75,556-558,560-561}}</ref>。 {{Div col||20em}} * 仙台名物牛たん弁当 * 炙り牛たんとA5仙台牛弁当 * 平泉うにごはん * うにとウニと雲丹 味くらべ弁当 * まぐろいくら弁当 * 宮城県産 銀鮭のはらこめし * 炭火焼風牛たん弁当「塩釜藻塩付」 * 牛肉弁当 * とちぎ霜降高原牛めし * 山形特選牛めし * 幕之内弁当 * やまゆり牛しぐれ煮弁当 * 三元豚とんかつ弁当 * しらす弁当 * 唐揚げ弁当 * 30品目バランス弁当 * とりめし * 深川めし * シウマイ弁当 * チキン弁当 * 昔ながらのシウマイ15個入 * こだわりのとんかつ弁当 * 厚切り真たん牛たん弁当 * とちぎ和牛ハンバーグ弁当 * 古川駅 網焼き牛たん弁当 * こばやしの牛たん弁当~味のハットトリック~ * 伊達かきめし * とちぎ霜降高原牛めし * 山形特選牛めし * 仙台たんとん弁当 * 本格炭火焼肉 {{Div col end}} == 隣の駅 == ※山形・秋田・北海道新幹線の隣の駅の停車駅は各列車記事もしくは各路線記事を参照のこと。<!--東北新幹線内のうち当駅 - 仙台駅間で全ての列車が停車しない駅も存在するため、両隣の停車駅および通過するものの記載はなしでお願いします。列車の記事ならびに路線記事のリンクのみにしてください。---> ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) : [[File:Shinkansen jre.svg|15px|■]] 東北新幹線 ::: [[上野駅]] - '''大宮駅''' - [[小山駅]] : [[File:Shinkansen jre.svg|15px|■]] 上越・北陸新幹線 ::: 上野駅 - '''大宮駅''' - [[熊谷駅]] : [[File:JR JU line symbol.svg|15px|JU]] 宇都宮線<!-- 2019年3月時点で上野発着の定期特急列車は該当なし --> :: {{Color|#f68b1e|■}}快速「ラビット」 ::: [[浦和駅]] (JU 05) - '''大宮駅 (JU 07)''' - [[東大宮駅]] :: {{Color|#18a629|■}}普通 ::: [[さいたま新都心駅]] (JU 06) - '''大宮駅 (JU 07)''' - [[土呂駅]] : [[File:JR JU line symbol.svg|15px|JU]] 高崎線 :: 特急「[[草津・四万]]」・「[[あかぎ (列車)|あかぎ]]」停車駅<!-- 上野発着列車のみ記載 --> :: {{Color|#f68b1e|■}}快速「アーバン」 ::: 浦和駅 (JU 05) - '''大宮駅 (JU 07)''' - [[上尾駅]] :: {{Color|#18a629|■}}普通 ::: さいたま新都心駅 (JU 06) - '''大宮駅 (JU 07)''' - [[宮原駅]] : [[File:JR JS line symbol.svg|15px|JS]] 湘南新宿ライン :: 特急[[日光 (列車)|「スペーシア日光」・「きぬがわ」]]・「あかぎ」停車駅<!-- 新宿発着列車はこちらのみ記載 ---> :: {{Color|#0099ff|■}}特別快速(東海道線 - 高崎線) ::: 浦和駅 (JS 23) - '''大宮駅 (JS 24)''' - 上尾駅 :: {{Color|#f68b1e|■}}快速(東海道線 - 高崎線) ::: 浦和駅 (JS 23) - '''大宮駅 (JS 24)''' - 宮原駅 ::* 宮原方行き列車は「普通」、浦和方行き列車は当駅で「快速」に切り換わる。 :: {{Color|#f68b1e|■}}快速(横須賀線 - 宇都宮線) ::: 浦和駅 (JS 23) - '''大宮駅 (JS 24)''' - 東大宮駅 ::* 浦和方行き列車は当駅で「普通」に切り換わる。 :: {{Color|#18a629|■}}普通(横須賀線 - 宇都宮線) ::: 浦和駅 (JS 23) - '''大宮駅 (JS 24)''' - 土呂駅 : [[File:JR JM line symbol.svg|15px|JM]] 武蔵野線(東北貨物線・武蔵野線大宮支線経由) :: {{Color|#ff66cc|■}}しもうさ号 ::: [[武蔵浦和駅]] (JM 26) - '''大宮駅 (JS 24,JU 07)''' :: {{Color|#6666ff|■}}むさしの号 ::: [[北朝霞駅]] (JM 28) - '''大宮駅 (JS 24,JU 07)''' : [[File:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] 京浜東北線 :: {{Color|#ff0066|■}}快速・{{Color|#00b2e5|■}}各駅停車 ::: さいたま新都心駅 (JK 46) - '''大宮駅 (JK 47)''' : [[File:JR JA line symbol.svg|15px|JA]] 埼京線 :: {{Color|#ff0066|■}}通勤快速 ::: 武蔵浦和駅 (JA 21) - '''大宮駅 (JA 26)''' - (川越線) :: {{Color|#0099ff|■}}快速・{{Color|#00ac9a|■}}各駅停車 ::: [[北与野駅]] (JA 25) - '''大宮駅 (JA 26)''' - (川越線) : {{Color|#00ac9a|■}}川越線<!-- カラーはE233系のLED方向幕のものに準拠 --> :: {{Color|#ff0066|■}}通勤快速・{{Color|#0099ff|■}}快速・{{Color|#00ac9a|■}}各駅停車 ::: (埼京線) - '''大宮駅 (JA 26)''' - [[日進駅 (埼玉県)|日進駅]] ; 東武鉄道 : [[File:Tobu Noda Line (TD) symbol.svg|15px|TD]] 野田線(東武アーバンパークライン) :: {{Color|#0099cc|■}}特急「[[アーバンパークライナー]]」発着駅 :: {{Color|#cc0066|■}}急行・{{Color|#ff99cc|■}}区間急行 ::: '''大宮駅 (TD 01)''' - [[岩槻駅]] (TD 06) :: {{Color|#999999|■}}普通 ::: '''大宮駅 (TD 01)''' - [[北大宮駅]] (TD 02) ; 埼玉新都市交通 : [[File:New Shuttle Line symbol.svg|15px|NS]] 伊奈線(ニューシャトル) :: '''大宮駅 (NS01)''' - [[鉄道博物館駅]] (NS02) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === ==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注釈"|2}} ==== 出典 ==== {{Reflist|3|refs= <ref name="NewDia20220312">[https://www.jreast.co.jp/press/2021/omiya/20211217_o01.pdf 2022年3月ダイヤ改正について(大宮支社):JR東日本]</ref> }} ===== 報道発表資料 ===== {{Reflist|group="報道"|3}} ===== 新聞記事 ===== {{Reflist|group="新聞"}} === 利用状況 === ; JR・私鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="利用客数"}} ; JR東日本の1999年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|23em}} ; 新幹線の2012年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="新幹線"|23em}} ; JR・私鉄の統計データ {{Reflist|group="乗降データ"}} ; 埼玉県統計年鑑 {{Reflist|group="埼玉県統計"|18em}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|date=1980-11-03|year=1980|title=大宮のむかしといま|id={{全国書誌番号|81007009}}、{{NCID|BN03449939}}|publisher=大宮市}} * {{Cite book|和書|title=週刊 JR全駅・全車両基地|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=週刊朝日百科|volume=12号 大宮駅・野辺山駅・川原湯温泉駅ほか|date=2012-10-28|ref=zen-eki12}} == 関連項目 == * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[大宮駅 (曖昧さ回避)]] * [[大宮南銀座]] - 県内有数の[[歓楽街]] == 外部リンク == {{Commonscat|Ōmiya Station (Saitama)}} * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=350|name=大宮}} * {{外部リンク/東武鉄道駅|filename=6102}} * [https://www.new-shuttle.jp/station/omiya.html 大宮駅](路線図・駅情報) - 埼玉新都市交通 * [https://www.ecute.jp/omiya/ エキュート大宮] - JR東日本クロスステーション * [https://www.ecute.jp/omiyanorth エキュート大宮ノース] - JR東日本クロスステーション {{鉄道路線ヘッダー}} {{東北新幹線}} {{山形新幹線}} {{秋田新幹線}} {{上越新幹線}} {{北陸新幹線}} {{京浜東北・根岸線}} {{宇都宮線|ju=1}} {{高崎線|ju=1}} {{埼京線}} {{湘南新宿ライン}} {{武蔵野線・京葉線}} {{山手・東北貨物線}} {{東武野田線}} {{埼玉新都市交通伊奈線}} {{鉄道路線フッター}} {{DEFAULTSORT:おおみやえき}} [[Category:大宮駅 (埼玉県)|*]] [[Category:さいたま市の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 お|おみや]] [[Category:日本鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:東北新幹線]] [[Category:上越新幹線]] [[Category:京浜東北・根岸線]] [[Category:宇都宮線]] [[Category:高崎線]] [[Category:埼京線]] [[Category:川越線]] [[Category:総武鉄道 (2代)の鉄道駅]] [[Category:東武鉄道の鉄道駅]] [[Category:埼玉新都市交通の鉄道駅]] [[Category:1885年開業の鉄道駅]] [[Category:埼玉県の駅ビル]] [[Category:大宮区の交通|おおみやえき]] [[Category:大宮区の建築物|おおみやえき]] [[Category:1880年代日本の設立]]
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民族
民族(みんぞく、英語:Ethnicity)とは、言語・人種・文化・歴史的運命を共有し、同族意識によって結ばれた人々の集団である。以下のように複数の概念が存在する。 民族(みんぞく)または民族集団(みんぞくしゅうだん)(英: Ethnic group, Ethnicity)とは一定の文化的特徴を基準として他と区別される集団をいう。土地、血縁関係、言語の共有(母語)や、宗教、伝承、社会組織などがその基準となるが、普遍的な客観的基準を設けても概念内容と一致しない場合が多いことから、むしろある民族概念への帰属意識という主観的基準が客観的基準であるとされることもある。 津田みわによると、ethnic groupの定義について、「本質論」と「構築論」がある。 本質論は、血縁、性、身体的特性、社会的出自、言語、慣習など、自分の意思では変えられない、人にあらかじめ与えれたものや外から見て明らかなもの(客観的な属性)が集団を確定するという考え方である。 構築論は、集団は人々が他の集団との相互作用の過程で選択的に形成するもので、目的に応じて自分である程度自由に選択できるとし、外から見て必ずしも明確でない帰属意識など(主観的な属性)が集団の確定にとって重要であるという考え方である。 津田は「現在では、学問分野を問わず「民族」という言葉はほぼethnic groupを指すと考えて良くなりつつあります」とするが、政治学・歴史学などの学問分野では、依然として「民族」という言葉がNationを指して使用されている。 「民族」、「民族集団」という概念は広がりを持つものであり、客観的基準を設けても概念内容と一致しない場合が多いが、以下のように分類されることが多い。 民族の最も実用的な分類の一つとして、母語による分類がある。ウラル語族を母語とする民族はウラル系民族、テュルク諸語を母語とする民族はテュルク系民族などである。この場合、民族の括りは言語のそれと等しくなり、言語によって民族が一意に定まる。 語族によって定義された民族集団に特異的なY染色体ハプログループは以下のとおりである。 生業様式によって定義する方法である。狩猟採集民族、農耕民族、遊牧民族、騎馬民族など。 エトノス(ethnos,ギリシャ語)またはエトニ(フランス語),エスニック・グループ(エスニシティー)(ethnic group, ethnicity,英語)とは、一定の文化的特徴を基準として他と区別される共同体をいう。土地、血縁関係、言語の共有(母語)や、宗教、伝承、社会組織などがその基準となる。 西川長夫によると「民族」という熟語は、明治期に日本で鋳造された和製漢語で、明治期はそれまでもっと一般的な熟語であった「氏族」・「種族」といったことばを、洋書翻訳の際あまり繰り返さないようにするための虚弱な役割しかなかったが、1930年代以降、日本の社会学者によって ethnicity/ people/folk/nation/kinship/race 等の西洋の各概念がパッチワーク・ごった煮されたうえで、ナショナリズムで味付けされて強化されたキメラである 。 中国の古典では、ほとんど「民族」という語は登場しないが、ごくまれに一定のグループをなす人々の共同体を指す例があり、こうした例を主に中国の和製漢語説否定論者が珍重している。[例:郝時遠《中文“民族”一詞源流考弁》,《民族研究》2004 年第 6期 /如瑩《漢語"民族"一詞在我国的最早出現》,《世界民族》2001 年第 6 期] 。例えば、6世紀の前半に成立した『南斉書』列伝三十五の「高逸伝・顧歓伝」中の 「今諸華士女、民族弗革、而露首偏踞、濫用夷禮」(民族を氏族とする写本もある) という記述をあげることができる。なおこの記事は、士大夫やその子女までも中国の北朝の異民族の風俗(夷礼)に染まっていると述べている部分である。
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民族とは、言語・人種・文化・歴史的運命を共有し、同族意識によって結ばれた人々の集団である。以下のように複数の概念が存在する。 Ethnic group:文化(言語、習慣、宗教など)で区分される集団(人類学における定義)。→本記事で扱う。 Nation:18世紀以降、社会の近代化や「国民国家の形成」に晒されたEthnic groupのうち、エリートが「民族運動」を行って「政治力」を獲得し、その「政治力」によって「民族」としての認知を獲得したものをいう。さらに「国家」の獲得に成功したものは「国民」と訳される。(政治学における定義)→ネーション、国民 Tribe:一般には「部族」と訳されるが、「民族」と訳される場合もある。「民族集団」より小単位。→部族 Race:「人種」を意味するが、稀に「民族」と訳される場合がある。→人種 民族(みんぞく)または民族集団(みんぞくしゅうだん)とは一定の文化的特徴を基準として他と区別される集団をいう。土地、血縁関係、言語の共有(母語)や、宗教、伝承、社会組織などがその基準となるが、普遍的な客観的基準を設けても概念内容と一致しない場合が多いことから、むしろある民族概念への帰属意識という主観的基準が客観的基準であるとされることもある。
{{複数の問題 |出典の明記=2018年10月 |独自研究=2018年10月 }}{{See Wiktionary}} {{人類学}} '''民族'''(みんぞく、[[英語]]:Ethnicity)とは、言語・人種・文化・歴史的運命を共有し、同族意識によって結ばれた人々の集団である。以下のように複数の概念が存在する。 *'''Ethnic group''':文化(言語、習慣、宗教など)で区分される集団(人類学における定義)。→'''本記事'''で扱う。 *'''Nation''':18世紀以降、社会の近代化や「国民国家の形成」に晒されたEthnic groupのうち、[[エリート]]が「民族運動」を行って「政治力」を獲得し、その「政治力」によって「民族」としての認知を獲得したものをいう。さらに「国家」の獲得に成功したものは「国民」と訳される。(政治学における定義)→'''[[ネーション]]'''、'''[[国民]]''' *'''Tribe''':一般には「部族」と訳されるが、「民族」と訳される場合もある。「民族集団」より小単位。→'''[[部族]]''' *'''Race''':「人種」を意味するが、稀に「民族」と訳される場合がある。→'''[[人種]]''' ---- '''民族'''(みんぞく)または'''民族集団'''(みんぞくしゅうだん)({{lang-en-short|'''Ethnic group''', '''Ethnicity'''}})とは一定の文化的特徴を基準として他と区別される集団をいう。土地、血縁関係、[[言語]]の共有([[母語]])や、[[宗教]]、伝承、社会組織などがその基準となるが、普遍的な客観的基準を設けても概念内容と一致しない場合が多いことから、むしろある民族概念への帰属意識という主観的基準が客観的基準であるとされることもある<ref>山内昌之『民族の時代』NHK人間大学テキスト,1994,30頁</ref>。 == エスニック・グループの定義 == [[津田みわ]]によると、'''ethnic group'''の定義について、「本質論」と「構築論」がある。<ref>[https://www.ide.go.jp/Japanese/Research/Theme/Pol/Ethnic/200608_tsuda.html 「民族 Ethnic Group / Tribe / Nation」](アジア経済研究所「調査研究」)</ref> 本質論は、血縁、性、身体的特性、社会的出自、言語、慣習など、自分の意思では変えられない、人にあらかじめ与えれたものや外から見て明らかなもの(客観的な属性)が集団を確定するという考え方である。 構築論は、集団は人々が他の集団との相互作用の過程で選択的に形成するもので、目的に応じて自分である程度自由に選択できるとし、外から見て必ずしも明確でない帰属意識など(主観的な属性)が集団の確定にとって重要であるという考え方である。 津田は「現在では、学問分野を問わず「民族」という言葉はほぼethnic groupを指すと考えて良くなりつつあります」とするが、政治学・歴史学などの学問分野では、依然として「民族」という言葉がNationを指して使用されている。 ==分類== 「民族」、「民族集団」という概念は広がりを持つものであり、客観的基準を設けても概念内容と一致しない場合が多いが、以下のように分類されることが多い。 ===母語による分類=== 民族の最も実用的な分類の一つとして、[[母語]]による分類がある<ref>水野一晴(2016)『人間の営みがわかる地理学入門』ベレ出版</ref>。[[ウラル語族]]を母語とする民族は[[ウラル系民族]]、[[テュルク諸語]]を母語とする民族は[[テュルク系民族]]などである。この場合、民族の括りは[[言語]]のそれと等しくなり、言語によって民族が一意に定まる。 {{see also|語族}} [[語族]]によって定義された民族集団に特異的な[[Y染色体ハプログループ]]は以下のとおりである<ref>崎谷満(2009)『DNA・考古・言語の学際研究が示す 新・日本列島史』勉誠出版</ref>。 *[[コイサン諸語|コイサン系民族]] - [[ハプログループA (Y染色体)|A]] *[[ニジェール・コンゴ語族|ニジェール・コンゴ系民族]] - [[ハプログループE (Y染色体)#E1b1a系統|E1b1a]] *[[アフロ・アジア語族|アフロ・アジア系民族]] - [[ハプログループE (Y染色体)#E1b1b系統|E1b1b]] *[[インド・ヨーロッパ語族|インド・ヨーロッパ系民族]] - [[ハプログループR1a (Y染色体)|R1a]] *[[ウラル系民族]] - [[ハプログループN (Y染色体)|N]] *[[アルタイ諸語|アルタイ系民族]] - [[ハプログループC2 (Y染色体)|C2]] *[[シナ・チベット語族|シナ・チベット系民族]] - [[ハプログループO2 (Y染色体)|O2]] *[[オーストロアジア語族|オーストロアジア系民族]] - [[ハプログループO-M95 (Y染色体)|O1b1]] ===生活様式による分類=== 生業様式によって定義する方法である。[[狩猟採集民族]]、[[農耕民族]]、[[遊牧民族]]、[[騎馬民族]]など。 ==語源・語義== {{節スタブ}} === Ethnic groupの語源 === '''エトノス'''(ethnos,[[ギリシャ語]])または'''エトニ'''([[フランス語]]),'''エスニック・グループ(エスニシティー)'''(ethnic group, ethnicity,[[英語]])とは、一定の文化的特徴を基準として他と区別される[[共同体]]をいう。土地、血縁関係、[[言語]]の共有([[母語]])や、[[宗教]]、伝承、社会組織などがその基準となる。 === 東アジアにおける「民族」の語源 === [[西川長夫]]によると「民族」という熟語は、明治期に日本で鋳造された和製漢語<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/lcs/kiyou/14-1/RitsIILCS_14.1pp.95-103NISHIKAWA.pdf|title=民族という錯乱|accessdate=2021/11/19}}</ref>で、明治期はそれまでもっと一般的な熟語であった「[[氏族]]」・「[[種族]]」といったことばを、洋書翻訳の際あまり繰り返さないようにするための虚弱な役割しかなかったが、1930年代以降、日本の社会学者によって ethnicity/ people/folk/nation/kinship/race 等の西洋の各概念がパッチワーク・ごった煮されたうえで、ナショナリズムで味付けされて強化された[[キメラ]]である <ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kyoto-seika.ac.jp/researchlab/wp/wp-content/uploads/kiyo/pdf-data/no43/no_terao_satoshi.pdf|title=社会学者小松堅太郎(1894-1959年)と“民族”―“民族”概念肥大化の潮流の中で|accessdate=2021/11/19}}</ref>。 [[中国]]の[[古典]]では、ほとんど「民族」という語は登場しないが、ごくまれに一定のグループをなす人々の共同体を指す例があり、こうした例を主に中国の和製漢語説否定論者が珍重している。[例:[[郝時遠]]《中文“民族”一詞源流考弁》,《民族研究》2004 年第 6期<ref>{{Cite web|url=http://m.aisixiang.com/data/100575.html|title=中文“民族”一詞源流考弁|accessdate=2021/11/19}}</ref> /[[如瑩]]《漢語"民族"一詞在我国的最早出現》,《世界民族》2001 年第 6 期] 。例えば、6世紀の前半に成立した『[[南斉書]]』列伝三十五の「高逸伝・[[顧歓]]伝」中の<blockquote>「今諸華士女、民族弗革、而露首偏踞、濫用夷禮」(民族を氏族とする[[写本]]もある)</blockquote>という記述をあげることができる。なおこの記事は、[[士大夫]]やその子女までも[[南北朝時代 (中国)#北朝|中国の北朝]]の異民族の風俗(夷礼)に染まっていると述べている部分である。 == 関連する用語 == * [[民族主義]](ethnic nationalism) * [[民族学]] (ethnology) * [[民族自決]](self-determination) * [[民族紛争]] * [[民族衣装]] * [[民族料理]] * [[民族音楽]](ethnic music) * [[民族性]](エスニシティー) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 関連項目 == *[[人種]] **[[混血]] *[[部族]] *[[民族的同一性]](エスニックアイデンティティ) *[[エスノセントリズム]] == 外部リンク == *[https://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/000612nation.html 民族・民族集団] *[http://wee.kir.jp/ 世界民族博覧会] *{{Wayback|url=http://www.asahi-net.or.jp/~SJ7S-FKY/Pages/Japanese_Pages/Daigaku/Koogi_nooto/zyosetu_minzoku.html |title=『文明学序説』第7章:民族 |date=20110813062147}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:みんそく}} [[Category:民族|*]] [[Category:人間]] [[Category:文化人類学]]
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エクトル・ベルリオーズ
ルイ・エクトル・ベルリオーズ(Louis Hector Berlioz、1803年12月11日 - 1869年3月8日)は、フランスのロマン派音楽の作曲家である。『幻想交響曲』でよく知られているが、他にも『死者のための大ミサ曲』(レクイエム、1837年)にみられるように、楽器編成の大規模な拡張や、色彩的な管弦楽法によってロマン派音楽の動向を先取りした。 ベルリオーズの肖像はかつてフランスの10フラン紙幣に描かれていた。 フランス南部イゼール県のラ・コート=サンタンドレ(La Côte-Saint-André)に生まれる。ここはリヨンとグルノーブルのほぼ中間に位置する。母親のマリー・アントワネット・ジョセフィーヌ・マルミオン、父親で開業医のルイ=ジョセフ・ベルリオーズとの間で、長男として育てられる(このうち6人中2人は早世)。 1809年、6歳の時から町の教会に付属する小さな神学校に入学するが、間もなくして1811年末に閉鎖されてしまい、18歳になるまで家庭で父親の手によって教育された。家庭ではラテン語、文学、歴史、地理、数学、音楽(初歩程度)を習う。 1817年ないし1818年頃、14歳のベルリオーズは父親の机の引き出しからフラジオレットを見つけ、吹く練習をする。息子の様子を見た父親は楽器の使い方を説明し、程なくしてフルートを買い与える。その後15歳になってからはギターも習い始めている。 作曲は同年頃に独学で学び始め、父親の蔵書からラモーの『和声論』を見つけるものの、理論の基礎ですら身につけていない彼にとっては難解なものであった。しかしシャルル・シモン・カテルの『和声概論』を読んだ時は、最初は難解ではあったが徐々にのみ込んでいった。ある程度の知識を得て作曲・編曲に挑戦し、室内楽曲、歌曲、編曲作品を作曲している。 1821年、18歳の時にグルノーブルで行われたバカロレア(大学入学資格試験)に合格し、家業を継ぐ名目でパリに行き、医科大学に入学する。しかし青年ベルリオーズは解剖学を学んでいる途中で気がひるんでしまい、次第に医学から音楽へ興味が移り、オペラ座に通うようになる。それから1年後の1822年に父親の反対にもかかわらず医学の道を捨て、音楽を学び始めた。この時期に医学大学に行く代わりに、コンセルヴァトワールの図書館に行っている。そこでは楽譜を複写したり、楽曲の分析などを試みたりしている。同時にベルリオーズは再び作曲を始めており、フランスの詩人ミルヴォワの詩によるカンタータ『アラブの馬』(H.12)と3声部のカノン(H.13)を作曲する。前者のカンタータは独唱と大管弦楽のための作品であるが、カノン(H.13)を含む2つの作品はいずれも紛失している。 1823年にパリ音楽院に入学して、音楽院の教授ジャン=フランソワ・ル・シュウールにオペラと作曲を学ぶ。 また早くからフランスのロマン主義運動に一体感を持つようになり、アレクサンドル・デュマやヴィクトル・ユーゴー、オノレ・ド・バルザックらと親交を結ぶ。後にテオフィル・ゴーチエはこのように述べている。 「エクトル・ベルリオーズは、管見によると、ユーゴーやドラクロワとともに、ロマン主義芸術の三位一体をなしているようだ」 ル・シュウールの下で音楽を学び、2年後の1824年に最初の本格的な作品である『荘厳ミサ曲』(H.20)を作曲する。1825年にパリのサン・ロッシュ寺院で楽長のマッソンによって初演されたが、未熟であるがために失敗する。この後に作品を大幅に加筆修正を行い、同年にオーギュスタン・ドゥ・ポンスに借金をして再演され、成功を収める。またこの頃からローマ賞に挑戦することに意欲を掻き立てている。 1827年からローマ賞に挑戦し、同年の7月に応募作としてカンタータ『オルフェウスの死』(H.25)を作曲する。しかし選外に終わる。その後も以下のように毎年応募する。また9月に当時熱狂的に話題を呼んでいたイギリスから来たシェイクスピア劇団の女優ハリエット・スミッソンの出演する舞台を見て、衝撃を受ける。このことが2人の運命的な出会いであった。 1828年3月、音楽院で開かれたフランソワ・アブネックの指揮による第1回のパリ音楽院管弦楽団定期演奏会でベートーヴェンの交響曲第3番『英雄』を、また同年に第5番『運命』を聴いて、大きな啓示を受ける。6月、2度目となるローマ賞への挑戦として『エルミニー(フランス語版)』(H.29)を作曲。惜しくも2票の差で第2位となる。 1829年、ゲーテの『ファウスト』(ジェラール・ド・ネルヴァルの仏語訳による)を読んで感銘を受け、このテキストを用いて『ファウストからの8つの情景』(H.33,Op.1)を作曲する。出版の際に「作品1」と番号を付ける。7月に3度目の挑戦となるローマ賞の応募作として、カンタータ『クレオパトラ(フランス語版)』を作曲するが、劇的で過激な内容から審査員たちの顰蹙を買い、受賞を果たすことが出来ずに終わる。 1830年2月に『幻想交響曲』を作曲を開始し、6月に完成する。また、この頃にピアニストのマリー・モークと出会って恋愛関係となる。4月に4度目の挑戦としてカンタータ『サルダナパールの死』を作曲する。4度目にしてようやく念願となるローマ賞を受賞する。12月5日に『幻想交響曲』がアブネックの指揮で初演されて大成功を収めて世間の脚光を浴び、マリー・モークと婚約に至る。そして受賞者としてローマへ留学すると同時に留学を終えたら結婚するという約束を交える。 1831年、ローマに到着した直後に婚約者マリー・モークの母親から手紙が届き、ピアノ製作者イグナツ・プレイエルの長男カミーユ・プレイエル(英語版)と結婚するという報告であった。この報告を知るや否や、再び訪れた破局にベルリオーズは落胆するどころか、逆にひどく怒りを露わにしたといわれる。『回想録』には、マリーとその母とカミーユ・プレイエルを殺して自分も自殺しようと、ベルリオーズは婦人洋服店に急いで行き、女装するために婦人服一式を買い、ピストルと自殺用の毒薬を持参してパリへ向かう馬車に乗り、そのままローマを出発した。しかしイタリア(サルデーニャ王国)とフランスの国境付近でふと我に返り、直後に思い留まって正気を取り戻した。 この出来事の後、ベルリオーズはニース(当時はサルデーニャ王国領でフランス国境の外)で1か月ほど滞在して療養することとなり、回復後はローマへと戻って行く。そして正式にモークとの婚約は解消された。この療養中に『幻想交響曲』の続編と言える抒情的な独白劇『レリオ、あるいは生への復帰』の構想を始めており、ローマに戻った頃には全体の構想を終え、作曲に取り組んだのち7月初旬に完成している。 1832年に上記の事情によってイタリア留学を切り上げる形でパリへ帰国すると、同地で再び音楽活動を始める。またローマ滞在中に作曲した作品(序曲『リア王』や『レリオ』など)を携えて持ち帰っている。 1833年、劇団の女優ハリエット・スミッソンが『幻想交響曲』を聴きに来た際に再会し、結果的に結婚までに至る。ベルリオーズの両親は反対したが、それを押し通してのことであった。パリ郊外のモンマルトルに新居を構え、自作の演奏会の開催、雑誌や新聞の評論を始める。 同年に演奏会に来ていたショパンとパガニーニと出会い、親交を結ぶ。 1834年の初め頃、パガニーニからの依頼でヴィオラと管弦楽のための作品である交響曲『イタリアのハロルド』を作曲する。初演の成功によって金銭的な援助も得られた。またこの年に長男のルイが誕生する。 この年にオペラ『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の作曲に取りかかり、1836年夏に大半が完成する。同時にフランス政府から『レクイエム』の作曲を委嘱され、速いペースで翌1837年に完成する。初演は同年に行われると成功を収め、ベルリオーズは新聞雑誌から賛辞を浴びたり、陸軍大臣からの祝辞を受けたりした。 1838年9月、オペラ座で『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の初演が行われる。しかし序曲を除いて散々な不評に終わる。原因として全体の総練習が4回であったことや、聴衆の趣向に合わなかったことなどが挙げられる。友人たちは失敗の原因を台本の稚拙であると指摘したが、『回想録』の中では「台本は気に入っていたのに、どうして劣っているのか、今でもわからない」と語っている。また初演が失敗した直後に母親が没する。 1839年に、劇的交響曲『ロメオとジュリエット』を完成させる。初演の後、作品をパガニーニに献呈する。この時期のベルリオーズは莫大な借金を背負っていたため、生活が苦しく、収入が得られなかったが、音楽院側からの助けで、2月頃にパリ音楽院の図書館員となり、僅かな額ではあったがある程度の収入を得る。1852年には館長に任命されている。 1840年に再びフランス政府から依頼を受けて、『葬送と勝利の大交響曲』を作曲・完成、7月28日に200名の軍楽隊を率いて初演を行う。しかしこの時期、ベルリオーズはパリの各劇場から締め出された状態にあった。『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の失敗によるものといわれ、また一部で反感を持たれていたために、パリでの人気は次第に下って行った。 人気が遠ざかっていたため、1842年に演奏旅行を始めることになり、年末にドイツへ向かい、各地で演奏会を催して大きな話題を呼び、旅行は成功を収める。しかし一部からは急進的過ぎるという批評も受けた。 1843年5月末、パリに戻ったベルリオーズは、『ドイツ・イタリア音楽旅行記』や『近代楽器法と管弦楽法』などの著作を著したり、『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の第2幕の前奏曲として『ローマの謝肉祭』を作曲する。一方で妻ハリエットとの仲違いが決定的となり、別居へと至る。ハリエットはモンマルトルの小さな家で生活する。ベルリオーズは稼ぐために新聞や雑誌の執筆などに追われ、それまで以上に窮地に瀕していた。 1844年にパリで産業博覧会が開催され、博覧会の終了間際(7月末)に産業館で型破りな演奏会を実施する。8月1日に産業館で行われた演奏会は、新作『フランス讃歌』(H.97)を初演したが、480人のオーケストラ団員と500人の合唱団員を統合したもので、演奏時にはベルリオーズを中心に7人ほどの補助指揮者が指揮棒を持って壇上に登ったという。演奏会は大成功を収めたが、出費が影響して経済的にはわずかなものしかもたらすことができなかった。 1845年10月から翌1846年4月にかけて、2回目の演奏旅行としてウィーンやプラハ、ブダペストなどへ赴き、各地で演奏会を開催して大歓迎を受ける。ブダペストでの演奏会は、『ラコッツィ行進曲』を管弦楽用に編曲した『ハンガリー行進曲』が演奏された際、聴衆から熱狂的な歓声を送られたといわれる。同じ頃にゲーテの『ファウスト』による劇的物語『ファウストの劫罰』の作曲に着手しており、『ハンガリー行進曲』はこの作品に取り入れている。 『ファウストの劫罰』は旅行中の合間を縫って1845年から作曲を始め、パリに帰国した4月の末頃も続けられ、10月に全曲が完成する。12月6日にオペラ=コミック座で初演されたが、20日に行われた再演とともに結果は芳しくなく、成功しなかったという。初演の失敗によって多額の負債が降りかかり、破産の危機に直面したものの、友人たちの尽力によってこれを免れる。だがこれを機にベルリオーズは再び演奏旅行を決意し、ロシアへと赴く。 1847年2月14日、ベルリオーズはパリを離れ一人でロシアへ向かった。ベルリンまで汽車で乗り、滞在中にロシア大公妃エレナ・パヴロヴナ宛ての紹介状を書いて欲しいとプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世に懇願する。それを携えて、ようやくロシアに到着する。3月15日と25日にサンクトペテルブルクで、4月にモスクワでそれぞれ行った演奏会は成功し、喝采を浴びるなど大歓迎を受ける。この演奏会で4万フランの大金を手にしたが、ベルリオーズにとってこれほどの大金を得たのは初めてのことである。 パリへの帰途に再度ベルリンへ立ち寄り、ここでも演奏会を催している。プロイセン王の求めで『ファウストの劫罰』を演奏し、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世から赤鷲勲章を授与される。また同夜サンスーシ宮殿での晩餐会にも招待されている。著書『近代楽器法と管弦楽法』はフリードリヒ・ヴィルヘルム4世に献呈している。 7月初旬にパリに戻ったベルリオーズは、当時イギリスで活躍していた有名なマネージャーのルイ・ジュリアンと出会い、彼の申し出に応じる形でロンドンのドルーリー・レーン劇場の指揮者として活動するため、その年の末頃にロンドンへ向かう。しかしジュリアンと交わした契約は途中で破棄される。ロンドンに到着して4か月後にジュリアンは破産の危機に直面したためであった。 イギリスでの生活が安定する矢先に、1848年2月にパリで勃発した2月革命によって、急遽パリへと舞い戻る。理由として名誉職という名の地位であるパリ音楽院の図書館主事補の職を確保するためであった。 この時期、ベルリオーズの周りに相次いで不幸が襲う。パリへ戻った7月下旬に父ルイが世を去り、また別居中の妻ハリエットが脳卒中の発作で倒れ、パリの音楽界は革命の影響によって劇場は閉鎖され、街は謎の静けさを醸し出した状態であった。このため、作曲活動は一旦中断して評論と執筆活動に集中することに限られる。 しかし1848年末頃に極秘に作曲を始めており、1849年に3群の合唱と大管弦楽のための『テ・デウム』(H.118,Op.22)を完成させる。だが演奏の機会が得られず、1855年4月にパリ万国博覧会でサン・トゥスタッシュ教会での初演まで待たなければならなかった。 この時期は、合唱とピアノ伴奏のための『トリスティア』(H.119)と、2重合唱と管弦楽のための『民の声』(H.120)ぐらいしか作曲していない。また自身の『回想録』も執筆をし始め、そのうちの第1部を書き上げている。 1850年、ロンドン・フィルハーモニック協会を真似する形で「パリ・フィルハーモニック協会」を結成する。パリではこのような協会は無く、これが初めてのことであった。ベルリオーズはこの組織の会長と指揮者に就任して演奏活動を活発に行う。しかし程なくして資金難に陥り、加えて聴衆からの受けがあまり良くなかったため、協会は結局1年後にそのまま解散した。 解散後、1851年から1855年にかけてロンドンに赴き、同地で定期的に指揮活動を行う。 1854年の3月3日、別居中の妻ハリエットがモンマルトルで世を去った。4年前から容体は一層悪くなり、加えて身体は不随になっていた。別居中であったが、彼女を見捨てることができなかったベルリオーズは深い悲しみを味わい、『回想録』と友人フランツ・リストに宛てた手紙には悲痛な言葉がつづられている。 ハリエットを埋葬後、10月19日にマリー・レシオと正式に結婚する。息子ルイに宛てた手紙にはこのように書いている。 「私は一人で生きることもできないし、また14年来一緒に暮らしてきた女性を見捨てることもできなかった」(1854年にルイに宛てた手紙) 1854年3月末にドイツへ旅行に行き、4月1日にハノーファーを再訪する。ハノーファーでの演奏会をはじめとして、ドイツ各地で行った演奏会は立て続けに成功し、気を良くしたベルリオーズはパリに戻ったのち、以前作曲した『エジプトへの逃避』(H.128)を転用する形として、3部からなるオラトリオ『キリストの幼時』(H.130,Op.25)を5年がかりで完成させた。12月10日に初演されると聴衆から拍手を受け、大成功に終わる。 1855年4月、長らく初演の機会を得られなかった『テ・デウム』がパリ万国博覧会において、ベルリオーズの指揮によって初演された。 1856年、5月3日に没したアドルフ・アダンの後任として、フランス学士院会員に選ばれ、これにより収入が増え、生活も安定する。またこの頃にヴァイマルを訪問しており、同地で滞在していた際、フランツ・リストと同棲していたその伴侶ザイン・ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人と面会する。夫人から『アエネーイス』を題材としたグランドオペラ『トロイアの人々』の作曲を勧められ、先のフランス学士院会員に選ばれたことを機に創作意欲を復活させ、同年5月5日に台本を自ら執筆し、わずか2か月足らずで完成させる。さらに、腸神経痛に悩まされつつも作曲を続け、一気呵成に1858年4月12日に2年かけて完成させる。しかし全5幕という長大なオペラ『トロイアの人々』は、ベルリオーズの生前には完全な形で初演ができずに終わる。 1860年夏、バーデン=バーデンで開催される音楽祭に赴き、この地で新しく建設される劇場のために支配人のエドゥアール・ベナゼから委嘱を受け、2幕のオペラ『ベアトリスとベネディクト』(H.138)を作曲する。シェイクスピアの戯曲『空騒ぎ』に基づくが、ベルリオーズ自身がフランス語の台本を執筆している。一時中断もあったが1862年2月に完成させ、同年8月9日にバーデン=バーデンの新劇場で初演が行われている。 『ベアトリスとベネディクト』が初演される2か月前の1862年6月14日、後妻マリーが心臓麻痺のため世を去る。彼の目の前でのことだった。遺体はモンマルトル墓地に埋葬される。ベルリオーズに残された家族は船員となった息子ルイだけとなった。 1863年、苦労の末『トロイアの人々』がオペラ座で第2部のみ初演されたが、生前に第1部が上演されることはなかった。全曲上演は1890年まで待たなければならなかった。また長らく続けていた評論活動を止めてしまう。 60歳を迎えた1864年、筆を折り長年の作曲活動を終える。以降は一人でアパートに住み続けることとなる。また『回想録』を1865年1月1日付で終え、印刷にまわした(ただし、出版されたのは没後である)。 後妻マリーに先立たれ、さらに一人息子のルイも1867年に失って、孤独感を募らせた生活をパリで過ごした。特に息子を失った時は半ば狂乱となった状態で立ち直れなかったと言われる。だが指揮活動を伴う演奏旅行は、1866年にオーストリア、1867年にドイツ、1867年末から1868年にロシアでそれぞれ継続して行われた。 最晩年にロシアのエレナ大公妃から招待されて演奏旅行に赴き、サンクトペテルブルクで演奏会を開いている。ベルリオーズにとってこれが最後の旅行となった。だが元々不健康だったベルリオーズは、ロシアの厳しい寒さで身体に致命的な打撃を受け、帰国後の1868年3月には健康状態はより悪化していた。この間作曲はほとんどできない状態であったが、最後の作品はフランソワ・クープランの作品の編曲であった。 その後、南フランスで保養した後にパリで病床についたが、1869年3月8日の午前0時半に死去した。65歳没。遺体はモンマルトル墓地において2人の妻、ハリエット・スミスソンとマリー・レシオとともに葬られた。 ベルリオーズの作品は1960年代から1970年代にかけて復活を遂げたが、これはイギリスの指揮者コリン・デイヴィスの奮闘によるところが大きい。デイヴィスがベルリオーズの全作品を録音したため、従来あまり知られていなかった作品にも光が当てられた。歌劇『トロイアの人々』の録音は、最初の全曲録音であった。本作は、ベルリオーズの生前に完全に舞台上演されたことはなかったが、現在では復活を遂げ、定期的に上演されている。 2003年にベルリオーズ生誕200周年を記念して、ベルリオーズをパンテオンに改葬しようとの提議がなされたが、アンドレ・マルローやジャン・ジョレス、アレクサンドル・デュマに比べて、ベルリオーズがフランスの栄光の象徴に値し得るかどうかをめぐる政治的議論の末に、ジャック・シラク大統領によって審議が中断された。 生前のベルリオーズは、作曲家としてより指揮者として有名であった。定期的にドイツやイングランドで演奏旅行を行い、オペラや交響曲を指揮した。自作だけでなく他人の作品も指揮しており、中にはリストのピアノ協奏曲第1番の初演なども含まれている。リストによると、指揮者ベルリオーズはリハーサルを多用する“練習魔”だったという。 ヴァイオリンのヴィルトゥオーソにして作曲家のニコロ・パガニーニとの出会いからは『イタリアのハロルド』が生まれ(パガニーニの依頼で書かれたがヴィオラの活躍が少ないのに失望した、という逸話は今日では信憑性が疑われている)、また金銭的援助も得られた。ベルリオーズの『回想録』によるならば、パガニーニは『イタリアのハロルド』の演奏を聴いて感動を表明し、2日後に「ベートーヴェンの後継者はベルリオーズをおいて他にいない」との手紙とともに2万フランを提供した。 ベルリオーズは生まれながらにロマンティックで、幼少の頃からすこぶる感受性が強かったと言われている。これは、ウェルギリウスの数節で涙したという少年時代や、長じてからは一連の恋愛関係に明らかである。23歳の時の、イギリスから来たシェイクスピア劇の劇団の女優でアイルランド人のハリエット・スミスソンへの片想いは、やがて『幻想交響曲』の着想へと膨らんだ。この作品の初演と同じ1830年にローマ大賞を受賞する。 スミスソンに最初こばまれると、ベルリオーズはマリー・モークと婚約するが、モークの母は娘をピアニストでピアノ製造家のカミーユ・プレイエル(英語版)に嫁がせた。ベルリオーズはその頃、ローマ大賞の賞金(奨学金)を得てローマに留学中であった。『回想録』によれば、この時パリに引き返し、女中に変装してモーク母子を殺害し、自殺を図ろうと企んだが、ニースにたどり着くまでに女装用の服を紛失したため気が変わった。 ベルリオーズの手紙は、スミスソンにはあまりに情熱的に過ぎると映ったために彼女は求愛を断ったのだが、こうした感情によって生み出されたといわれる『幻想交響曲』は、驚異的で斬新であると受け取られた。この標題音楽的な作品の自叙伝的な性格もまた、当時としてはセンセーショナルなものと見做されたであろう。ローマの2年間の修行時代を終えてパリに戻ると、スミスソンは『幻想交響曲』の演奏を聴きに来た上、ついには結婚に至った。スミスソンは馬車から落ちて重傷を負ったこともあって、女優として下り坂にあったことも理由であろう。 しかしながら2年もすると、2人の関係はたちまち冷え込んでいった。さまざまな理由が挙げられているが、中でも言葉の壁が大きかったと推測されている。また他には、ベルリオーズはスミスソンを一人の女性として彼女の人間性に惚れたのではなく、彼女が演じる役(『ロミオとジュリエット』の「ジュリエット」等)に惚れたために、彼女と結婚して彼女が普通の女性であることに気がつき、失望したのだとする説もある。2人は1841年頃から別居し、1854年に彼女が亡くなると、すでに同棲していた歌手のマリー・レシオと結婚する。 ベルリオーズは文学に激しい愛着を寄せており、ベルリオーズの最も優れた楽曲の多くは文学作品に触発されている。『幻想交響曲』は、トマス・ド・クインシーの『或る英国人阿片常習者の告白』に着想を得ており、『ファウストの劫罰』はゲーテの『ファウスト』に依拠している。『イタリアのハロルド』はバイロン卿の『チャイルド・ハロルドの巡礼』が下敷きである。オペラ『ベンヴェヌート・チェッリーニ』は、チェッリーニの自叙伝に由来する。『ロメオとジュリエット』は、シェイクスピアの同名の悲劇に基づいている。記念碑的な大作オペラ『トロイアの人々』は、ウェルギリウスの叙事詩『アエネイス』に立脚している。ベルリオーズは、最後の歌劇となったコミック・オペラ『ベアトリスとベネディクト』のために、シェイクスピアの『から騒ぎ』に大まかに基づいて台本を作成した。 文学の影響を別にすると、ベルリオーズは当時フランスではさほど有名でなかったベートーヴェンの擁護者でもあった。1828年にフランソワ・アントワーヌ・アブネック(『幻想交響曲』の初演指揮者)指揮パリ音楽院管弦楽団によって行われた『英雄交響曲』のパリ初演はベルリオーズの作曲活動における転回点となり、2年後の1830年に『幻想交響曲』が生み出されるきっかけとなった。ベートーヴェンに次いでベルリオーズが崇拝したのが、グルック、メユール、ウェーバー、そしてスポンティーニであった。 『イタリアのハロルド』においてベルリオーズは、半音階や旋法、変拍子(5拍子)を採用するとともに、従来のドイツの交響曲にみられる形式的な均整感や全体的な統一感から距離を置いた。 サン=サーンスの『動物の謝肉祭』の「象」の最初の主題は、『ファウストの劫罰』の「妖精のワルツ」から取られている。しかしながら、音域は原曲よりかなり下げられ、コントラバス独奏によって演奏される。 『幻想交響曲』に加えて、ベルリオーズのいくつかの作品は現在、標準的なレパートリーにとどまっている。劇的物語『ファウストの劫罰』、劇的交響曲『ロメオとジュリエット』(いずれも混声合唱と管弦楽のための大作)、歌曲集『夏の夜』、ヴィオラ独奏付きの交響曲『イタリアのハロルド』などである。 ベルリオーズの型破りな音楽作品は、既存の演奏界やオペラ界を刺激した。演奏会の段取りを自力でつけるだけでなく、演奏者への俸給も自前で調達しなければならなかった。これはベルリオーズに、経済的にも心情的にも重い負担となってのしかかった。ベルリオーズの演奏会には1,200人の常連客がついていて、入場者数を確保できたが、大掛かりな――数百人もの演奏者を要する――ベルリオーズ作品の性質上、経済的な成功は望めなかった。ジャーナリスティックな才能から、音楽評論がベルリオーズにとって手っ取り早い収入源となり、音楽会においてドラマや表現力の重要性を力説する、機知に富んだ批評文によって飢えをしのぐことができた。 ベルリオーズは作曲家として最も有名である半面、多作な著作家でもあり、長年にわたって音楽評論を執筆して生計を立てていた。大胆で力強い文体により、時に独断的かつ諷刺的な論調で、執筆を続けた。『オーケストラのある夜会』(1852年)は、19世紀フランスの地方の音楽界をあてこすりつつ酷評したものである。ベルリオーズの『回想録』(1870年)は、ロマン派音楽の時代の姿を、時代の権化の目を通して、尊大に描き出したものである。『音楽のグロテスク』(1859年)はオーケストラ夜話の続編として出版された。 教育的な著作である『管弦楽法』(Grand Traité d'Instrumentation et d'Orchestration Modernes, 1844年、1855年補訂)によって、ベルリオーズは管弦楽法の巨匠として後世に多大な影響を与えた。この理論書はマーラーやリヒャルト・シュトラウスによって詳細に研究され、リムスキー=コルサコフによって自身の『管弦楽法原理』の補強に利用された。リムスキー=コルサコフは修業時代に、ベルリオーズがロシア楽旅で指揮したモスクワやサンクトペテルブルクの音楽会に通い詰めていた。ノーマン・レブレヒトは次のように述べている。 「ベルリオーズが訪問するまで、ロシア音楽というものは存在しなかった。ロシア音楽という分野を鼓吹したパラダイムは、ベルリオーズにあった。チャイコフスキーは、洋菓子店に踏み込むように『幻想交響曲』に入り浸って、自作の交響曲第3番を創り出した。ムソルグスキーは死の床にベルリオーズの論文を置いていた」 また、18世紀末から19世紀初頭にかけ、聖歌のみならず世俗曲でも活躍したことで最も有名なロシアの作曲家であるドミトリー・ボルトニャンスキーを高く評価した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ルイ・エクトル・ベルリオーズ(Louis Hector Berlioz、1803年12月11日 - 1869年3月8日)は、フランスのロマン派音楽の作曲家である。『幻想交響曲』でよく知られているが、他にも『死者のための大ミサ曲』(レクイエム、1837年)にみられるように、楽器編成の大規模な拡張や、色彩的な管弦楽法によってロマン派音楽の動向を先取りした。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ベルリオーズの肖像はかつてフランスの10フラン紙幣に描かれていた。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "フランス南部イゼール県のラ・コート=サンタンドレ(La Côte-Saint-André)に生まれる。ここはリヨンとグルノーブルのほぼ中間に位置する。母親のマリー・アントワネット・ジョセフィーヌ・マルミオン、父親で開業医のルイ=ジョセフ・ベルリオーズとの間で、長男として育てられる(このうち6人中2人は早世)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1809年、6歳の時から町の教会に付属する小さな神学校に入学するが、間もなくして1811年末に閉鎖されてしまい、18歳になるまで家庭で父親の手によって教育された。家庭ではラテン語、文学、歴史、地理、数学、音楽(初歩程度)を習う。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1817年ないし1818年頃、14歳のベルリオーズは父親の机の引き出しからフラジオレットを見つけ、吹く練習をする。息子の様子を見た父親は楽器の使い方を説明し、程なくしてフルートを買い与える。その後15歳になってからはギターも習い始めている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "作曲は同年頃に独学で学び始め、父親の蔵書からラモーの『和声論』を見つけるものの、理論の基礎ですら身につけていない彼にとっては難解なものであった。しかしシャルル・シモン・カテルの『和声概論』を読んだ時は、最初は難解ではあったが徐々にのみ込んでいった。ある程度の知識を得て作曲・編曲に挑戦し、室内楽曲、歌曲、編曲作品を作曲している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1821年、18歳の時にグルノーブルで行われたバカロレア(大学入学資格試験)に合格し、家業を継ぐ名目でパリに行き、医科大学に入学する。しかし青年ベルリオーズは解剖学を学んでいる途中で気がひるんでしまい、次第に医学から音楽へ興味が移り、オペラ座に通うようになる。それから1年後の1822年に父親の反対にもかかわらず医学の道を捨て、音楽を学び始めた。この時期に医学大学に行く代わりに、コンセルヴァトワールの図書館に行っている。そこでは楽譜を複写したり、楽曲の分析などを試みたりしている。同時にベルリオーズは再び作曲を始めており、フランスの詩人ミルヴォワの詩によるカンタータ『アラブの馬』(H.12)と3声部のカノン(H.13)を作曲する。前者のカンタータは独唱と大管弦楽のための作品であるが、カノン(H.13)を含む2つの作品はいずれも紛失している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1823年にパリ音楽院に入学して、音楽院の教授ジャン=フランソワ・ル・シュウールにオペラと作曲を学ぶ。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "また早くからフランスのロマン主義運動に一体感を持つようになり、アレクサンドル・デュマやヴィクトル・ユーゴー、オノレ・ド・バルザックらと親交を結ぶ。後にテオフィル・ゴーチエはこのように述べている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "「エクトル・ベルリオーズは、管見によると、ユーゴーやドラクロワとともに、ロマン主義芸術の三位一体をなしているようだ」", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ル・シュウールの下で音楽を学び、2年後の1824年に最初の本格的な作品である『荘厳ミサ曲』(H.20)を作曲する。1825年にパリのサン・ロッシュ寺院で楽長のマッソンによって初演されたが、未熟であるがために失敗する。この後に作品を大幅に加筆修正を行い、同年にオーギュスタン・ドゥ・ポンスに借金をして再演され、成功を収める。またこの頃からローマ賞に挑戦することに意欲を掻き立てている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1827年からローマ賞に挑戦し、同年の7月に応募作としてカンタータ『オルフェウスの死』(H.25)を作曲する。しかし選外に終わる。その後も以下のように毎年応募する。また9月に当時熱狂的に話題を呼んでいたイギリスから来たシェイクスピア劇団の女優ハリエット・スミッソンの出演する舞台を見て、衝撃を受ける。このことが2人の運命的な出会いであった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1828年3月、音楽院で開かれたフランソワ・アブネックの指揮による第1回のパリ音楽院管弦楽団定期演奏会でベートーヴェンの交響曲第3番『英雄』を、また同年に第5番『運命』を聴いて、大きな啓示を受ける。6月、2度目となるローマ賞への挑戦として『エルミニー(フランス語版)』(H.29)を作曲。惜しくも2票の差で第2位となる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1829年、ゲーテの『ファウスト』(ジェラール・ド・ネルヴァルの仏語訳による)を読んで感銘を受け、このテキストを用いて『ファウストからの8つの情景』(H.33,Op.1)を作曲する。出版の際に「作品1」と番号を付ける。7月に3度目の挑戦となるローマ賞の応募作として、カンタータ『クレオパトラ(フランス語版)』を作曲するが、劇的で過激な内容から審査員たちの顰蹙を買い、受賞を果たすことが出来ずに終わる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1830年2月に『幻想交響曲』を作曲を開始し、6月に完成する。また、この頃にピアニストのマリー・モークと出会って恋愛関係となる。4月に4度目の挑戦としてカンタータ『サルダナパールの死』を作曲する。4度目にしてようやく念願となるローマ賞を受賞する。12月5日に『幻想交響曲』がアブネックの指揮で初演されて大成功を収めて世間の脚光を浴び、マリー・モークと婚約に至る。そして受賞者としてローマへ留学すると同時に留学を終えたら結婚するという約束を交える。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1831年、ローマに到着した直後に婚約者マリー・モークの母親から手紙が届き、ピアノ製作者イグナツ・プレイエルの長男カミーユ・プレイエル(英語版)と結婚するという報告であった。この報告を知るや否や、再び訪れた破局にベルリオーズは落胆するどころか、逆にひどく怒りを露わにしたといわれる。『回想録』には、マリーとその母とカミーユ・プレイエルを殺して自分も自殺しようと、ベルリオーズは婦人洋服店に急いで行き、女装するために婦人服一式を買い、ピストルと自殺用の毒薬を持参してパリへ向かう馬車に乗り、そのままローマを出発した。しかしイタリア(サルデーニャ王国)とフランスの国境付近でふと我に返り、直後に思い留まって正気を取り戻した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "この出来事の後、ベルリオーズはニース(当時はサルデーニャ王国領でフランス国境の外)で1か月ほど滞在して療養することとなり、回復後はローマへと戻って行く。そして正式にモークとの婚約は解消された。この療養中に『幻想交響曲』の続編と言える抒情的な独白劇『レリオ、あるいは生への復帰』の構想を始めており、ローマに戻った頃には全体の構想を終え、作曲に取り組んだのち7月初旬に完成している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1832年に上記の事情によってイタリア留学を切り上げる形でパリへ帰国すると、同地で再び音楽活動を始める。またローマ滞在中に作曲した作品(序曲『リア王』や『レリオ』など)を携えて持ち帰っている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1833年、劇団の女優ハリエット・スミッソンが『幻想交響曲』を聴きに来た際に再会し、結果的に結婚までに至る。ベルリオーズの両親は反対したが、それを押し通してのことであった。パリ郊外のモンマルトルに新居を構え、自作の演奏会の開催、雑誌や新聞の評論を始める。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "同年に演奏会に来ていたショパンとパガニーニと出会い、親交を結ぶ。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1834年の初め頃、パガニーニからの依頼でヴィオラと管弦楽のための作品である交響曲『イタリアのハロルド』を作曲する。初演の成功によって金銭的な援助も得られた。またこの年に長男のルイが誕生する。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "この年にオペラ『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の作曲に取りかかり、1836年夏に大半が完成する。同時にフランス政府から『レクイエム』の作曲を委嘱され、速いペースで翌1837年に完成する。初演は同年に行われると成功を収め、ベルリオーズは新聞雑誌から賛辞を浴びたり、陸軍大臣からの祝辞を受けたりした。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1838年9月、オペラ座で『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の初演が行われる。しかし序曲を除いて散々な不評に終わる。原因として全体の総練習が4回であったことや、聴衆の趣向に合わなかったことなどが挙げられる。友人たちは失敗の原因を台本の稚拙であると指摘したが、『回想録』の中では「台本は気に入っていたのに、どうして劣っているのか、今でもわからない」と語っている。また初演が失敗した直後に母親が没する。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1839年に、劇的交響曲『ロメオとジュリエット』を完成させる。初演の後、作品をパガニーニに献呈する。この時期のベルリオーズは莫大な借金を背負っていたため、生活が苦しく、収入が得られなかったが、音楽院側からの助けで、2月頃にパリ音楽院の図書館員となり、僅かな額ではあったがある程度の収入を得る。1852年には館長に任命されている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1840年に再びフランス政府から依頼を受けて、『葬送と勝利の大交響曲』を作曲・完成、7月28日に200名の軍楽隊を率いて初演を行う。しかしこの時期、ベルリオーズはパリの各劇場から締め出された状態にあった。『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の失敗によるものといわれ、また一部で反感を持たれていたために、パリでの人気は次第に下って行った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "人気が遠ざかっていたため、1842年に演奏旅行を始めることになり、年末にドイツへ向かい、各地で演奏会を催して大きな話題を呼び、旅行は成功を収める。しかし一部からは急進的過ぎるという批評も受けた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1843年5月末、パリに戻ったベルリオーズは、『ドイツ・イタリア音楽旅行記』や『近代楽器法と管弦楽法』などの著作を著したり、『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の第2幕の前奏曲として『ローマの謝肉祭』を作曲する。一方で妻ハリエットとの仲違いが決定的となり、別居へと至る。ハリエットはモンマルトルの小さな家で生活する。ベルリオーズは稼ぐために新聞や雑誌の執筆などに追われ、それまで以上に窮地に瀕していた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1844年にパリで産業博覧会が開催され、博覧会の終了間際(7月末)に産業館で型破りな演奏会を実施する。8月1日に産業館で行われた演奏会は、新作『フランス讃歌』(H.97)を初演したが、480人のオーケストラ団員と500人の合唱団員を統合したもので、演奏時にはベルリオーズを中心に7人ほどの補助指揮者が指揮棒を持って壇上に登ったという。演奏会は大成功を収めたが、出費が影響して経済的にはわずかなものしかもたらすことができなかった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1845年10月から翌1846年4月にかけて、2回目の演奏旅行としてウィーンやプラハ、ブダペストなどへ赴き、各地で演奏会を開催して大歓迎を受ける。ブダペストでの演奏会は、『ラコッツィ行進曲』を管弦楽用に編曲した『ハンガリー行進曲』が演奏された際、聴衆から熱狂的な歓声を送られたといわれる。同じ頃にゲーテの『ファウスト』による劇的物語『ファウストの劫罰』の作曲に着手しており、『ハンガリー行進曲』はこの作品に取り入れている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "『ファウストの劫罰』は旅行中の合間を縫って1845年から作曲を始め、パリに帰国した4月の末頃も続けられ、10月に全曲が完成する。12月6日にオペラ=コミック座で初演されたが、20日に行われた再演とともに結果は芳しくなく、成功しなかったという。初演の失敗によって多額の負債が降りかかり、破産の危機に直面したものの、友人たちの尽力によってこれを免れる。だがこれを機にベルリオーズは再び演奏旅行を決意し、ロシアへと赴く。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1847年2月14日、ベルリオーズはパリを離れ一人でロシアへ向かった。ベルリンまで汽車で乗り、滞在中にロシア大公妃エレナ・パヴロヴナ宛ての紹介状を書いて欲しいとプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世に懇願する。それを携えて、ようやくロシアに到着する。3月15日と25日にサンクトペテルブルクで、4月にモスクワでそれぞれ行った演奏会は成功し、喝采を浴びるなど大歓迎を受ける。この演奏会で4万フランの大金を手にしたが、ベルリオーズにとってこれほどの大金を得たのは初めてのことである。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "パリへの帰途に再度ベルリンへ立ち寄り、ここでも演奏会を催している。プロイセン王の求めで『ファウストの劫罰』を演奏し、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世から赤鷲勲章を授与される。また同夜サンスーシ宮殿での晩餐会にも招待されている。著書『近代楽器法と管弦楽法』はフリードリヒ・ヴィルヘルム4世に献呈している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "7月初旬にパリに戻ったベルリオーズは、当時イギリスで活躍していた有名なマネージャーのルイ・ジュリアンと出会い、彼の申し出に応じる形でロンドンのドルーリー・レーン劇場の指揮者として活動するため、その年の末頃にロンドンへ向かう。しかしジュリアンと交わした契約は途中で破棄される。ロンドンに到着して4か月後にジュリアンは破産の危機に直面したためであった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "イギリスでの生活が安定する矢先に、1848年2月にパリで勃発した2月革命によって、急遽パリへと舞い戻る。理由として名誉職という名の地位であるパリ音楽院の図書館主事補の職を確保するためであった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "この時期、ベルリオーズの周りに相次いで不幸が襲う。パリへ戻った7月下旬に父ルイが世を去り、また別居中の妻ハリエットが脳卒中の発作で倒れ、パリの音楽界は革命の影響によって劇場は閉鎖され、街は謎の静けさを醸し出した状態であった。このため、作曲活動は一旦中断して評論と執筆活動に集中することに限られる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "しかし1848年末頃に極秘に作曲を始めており、1849年に3群の合唱と大管弦楽のための『テ・デウム』(H.118,Op.22)を完成させる。だが演奏の機会が得られず、1855年4月にパリ万国博覧会でサン・トゥスタッシュ教会での初演まで待たなければならなかった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "この時期は、合唱とピアノ伴奏のための『トリスティア』(H.119)と、2重合唱と管弦楽のための『民の声』(H.120)ぐらいしか作曲していない。また自身の『回想録』も執筆をし始め、そのうちの第1部を書き上げている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1850年、ロンドン・フィルハーモニック協会を真似する形で「パリ・フィルハーモニック協会」を結成する。パリではこのような協会は無く、これが初めてのことであった。ベルリオーズはこの組織の会長と指揮者に就任して演奏活動を活発に行う。しかし程なくして資金難に陥り、加えて聴衆からの受けがあまり良くなかったため、協会は結局1年後にそのまま解散した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "解散後、1851年から1855年にかけてロンドンに赴き、同地で定期的に指揮活動を行う。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1854年の3月3日、別居中の妻ハリエットがモンマルトルで世を去った。4年前から容体は一層悪くなり、加えて身体は不随になっていた。別居中であったが、彼女を見捨てることができなかったベルリオーズは深い悲しみを味わい、『回想録』と友人フランツ・リストに宛てた手紙には悲痛な言葉がつづられている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ハリエットを埋葬後、10月19日にマリー・レシオと正式に結婚する。息子ルイに宛てた手紙にはこのように書いている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "「私は一人で生きることもできないし、また14年来一緒に暮らしてきた女性を見捨てることもできなかった」(1854年にルイに宛てた手紙)", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1854年3月末にドイツへ旅行に行き、4月1日にハノーファーを再訪する。ハノーファーでの演奏会をはじめとして、ドイツ各地で行った演奏会は立て続けに成功し、気を良くしたベルリオーズはパリに戻ったのち、以前作曲した『エジプトへの逃避』(H.128)を転用する形として、3部からなるオラトリオ『キリストの幼時』(H.130,Op.25)を5年がかりで完成させた。12月10日に初演されると聴衆から拍手を受け、大成功に終わる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1855年4月、長らく初演の機会を得られなかった『テ・デウム』がパリ万国博覧会において、ベルリオーズの指揮によって初演された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1856年、5月3日に没したアドルフ・アダンの後任として、フランス学士院会員に選ばれ、これにより収入が増え、生活も安定する。またこの頃にヴァイマルを訪問しており、同地で滞在していた際、フランツ・リストと同棲していたその伴侶ザイン・ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人と面会する。夫人から『アエネーイス』を題材としたグランドオペラ『トロイアの人々』の作曲を勧められ、先のフランス学士院会員に選ばれたことを機に創作意欲を復活させ、同年5月5日に台本を自ら執筆し、わずか2か月足らずで完成させる。さらに、腸神経痛に悩まされつつも作曲を続け、一気呵成に1858年4月12日に2年かけて完成させる。しかし全5幕という長大なオペラ『トロイアの人々』は、ベルリオーズの生前には完全な形で初演ができずに終わる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "1860年夏、バーデン=バーデンで開催される音楽祭に赴き、この地で新しく建設される劇場のために支配人のエドゥアール・ベナゼから委嘱を受け、2幕のオペラ『ベアトリスとベネディクト』(H.138)を作曲する。シェイクスピアの戯曲『空騒ぎ』に基づくが、ベルリオーズ自身がフランス語の台本を執筆している。一時中断もあったが1862年2月に完成させ、同年8月9日にバーデン=バーデンの新劇場で初演が行われている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "『ベアトリスとベネディクト』が初演される2か月前の1862年6月14日、後妻マリーが心臓麻痺のため世を去る。彼の目の前でのことだった。遺体はモンマルトル墓地に埋葬される。ベルリオーズに残された家族は船員となった息子ルイだけとなった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1863年、苦労の末『トロイアの人々』がオペラ座で第2部のみ初演されたが、生前に第1部が上演されることはなかった。全曲上演は1890年まで待たなければならなかった。また長らく続けていた評論活動を止めてしまう。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "60歳を迎えた1864年、筆を折り長年の作曲活動を終える。以降は一人でアパートに住み続けることとなる。また『回想録』を1865年1月1日付で終え、印刷にまわした(ただし、出版されたのは没後である)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "後妻マリーに先立たれ、さらに一人息子のルイも1867年に失って、孤独感を募らせた生活をパリで過ごした。特に息子を失った時は半ば狂乱となった状態で立ち直れなかったと言われる。だが指揮活動を伴う演奏旅行は、1866年にオーストリア、1867年にドイツ、1867年末から1868年にロシアでそれぞれ継続して行われた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "最晩年にロシアのエレナ大公妃から招待されて演奏旅行に赴き、サンクトペテルブルクで演奏会を開いている。ベルリオーズにとってこれが最後の旅行となった。だが元々不健康だったベルリオーズは、ロシアの厳しい寒さで身体に致命的な打撃を受け、帰国後の1868年3月には健康状態はより悪化していた。この間作曲はほとんどできない状態であったが、最後の作品はフランソワ・クープランの作品の編曲であった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "その後、南フランスで保養した後にパリで病床についたが、1869年3月8日の午前0時半に死去した。65歳没。遺体はモンマルトル墓地において2人の妻、ハリエット・スミスソンとマリー・レシオとともに葬られた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "ベルリオーズの作品は1960年代から1970年代にかけて復活を遂げたが、これはイギリスの指揮者コリン・デイヴィスの奮闘によるところが大きい。デイヴィスがベルリオーズの全作品を録音したため、従来あまり知られていなかった作品にも光が当てられた。歌劇『トロイアの人々』の録音は、最初の全曲録音であった。本作は、ベルリオーズの生前に完全に舞台上演されたことはなかったが、現在では復活を遂げ、定期的に上演されている。", "title": "再評価" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "2003年にベルリオーズ生誕200周年を記念して、ベルリオーズをパンテオンに改葬しようとの提議がなされたが、アンドレ・マルローやジャン・ジョレス、アレクサンドル・デュマに比べて、ベルリオーズがフランスの栄光の象徴に値し得るかどうかをめぐる政治的議論の末に、ジャック・シラク大統領によって審議が中断された。", "title": "再評価" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "生前のベルリオーズは、作曲家としてより指揮者として有名であった。定期的にドイツやイングランドで演奏旅行を行い、オペラや交響曲を指揮した。自作だけでなく他人の作品も指揮しており、中にはリストのピアノ協奏曲第1番の初演なども含まれている。リストによると、指揮者ベルリオーズはリハーサルを多用する“練習魔”だったという。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "ヴァイオリンのヴィルトゥオーソにして作曲家のニコロ・パガニーニとの出会いからは『イタリアのハロルド』が生まれ(パガニーニの依頼で書かれたがヴィオラの活躍が少ないのに失望した、という逸話は今日では信憑性が疑われている)、また金銭的援助も得られた。ベルリオーズの『回想録』によるならば、パガニーニは『イタリアのハロルド』の演奏を聴いて感動を表明し、2日後に「ベートーヴェンの後継者はベルリオーズをおいて他にいない」との手紙とともに2万フランを提供した。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "ベルリオーズは生まれながらにロマンティックで、幼少の頃からすこぶる感受性が強かったと言われている。これは、ウェルギリウスの数節で涙したという少年時代や、長じてからは一連の恋愛関係に明らかである。23歳の時の、イギリスから来たシェイクスピア劇の劇団の女優でアイルランド人のハリエット・スミスソンへの片想いは、やがて『幻想交響曲』の着想へと膨らんだ。この作品の初演と同じ1830年にローマ大賞を受賞する。", "title": "ハリエット・スミスソンとの関係" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "スミスソンに最初こばまれると、ベルリオーズはマリー・モークと婚約するが、モークの母は娘をピアニストでピアノ製造家のカミーユ・プレイエル(英語版)に嫁がせた。ベルリオーズはその頃、ローマ大賞の賞金(奨学金)を得てローマに留学中であった。『回想録』によれば、この時パリに引き返し、女中に変装してモーク母子を殺害し、自殺を図ろうと企んだが、ニースにたどり着くまでに女装用の服を紛失したため気が変わった。", "title": "ハリエット・スミスソンとの関係" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "ベルリオーズの手紙は、スミスソンにはあまりに情熱的に過ぎると映ったために彼女は求愛を断ったのだが、こうした感情によって生み出されたといわれる『幻想交響曲』は、驚異的で斬新であると受け取られた。この標題音楽的な作品の自叙伝的な性格もまた、当時としてはセンセーショナルなものと見做されたであろう。ローマの2年間の修行時代を終えてパリに戻ると、スミスソンは『幻想交響曲』の演奏を聴きに来た上、ついには結婚に至った。スミスソンは馬車から落ちて重傷を負ったこともあって、女優として下り坂にあったことも理由であろう。", "title": "ハリエット・スミスソンとの関係" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "しかしながら2年もすると、2人の関係はたちまち冷え込んでいった。さまざまな理由が挙げられているが、中でも言葉の壁が大きかったと推測されている。また他には、ベルリオーズはスミスソンを一人の女性として彼女の人間性に惚れたのではなく、彼女が演じる役(『ロミオとジュリエット』の「ジュリエット」等)に惚れたために、彼女と結婚して彼女が普通の女性であることに気がつき、失望したのだとする説もある。2人は1841年頃から別居し、1854年に彼女が亡くなると、すでに同棲していた歌手のマリー・レシオと結婚する。", "title": "ハリエット・スミスソンとの関係" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "ベルリオーズは文学に激しい愛着を寄せており、ベルリオーズの最も優れた楽曲の多くは文学作品に触発されている。『幻想交響曲』は、トマス・ド・クインシーの『或る英国人阿片常習者の告白』に着想を得ており、『ファウストの劫罰』はゲーテの『ファウスト』に依拠している。『イタリアのハロルド』はバイロン卿の『チャイルド・ハロルドの巡礼』が下敷きである。オペラ『ベンヴェヌート・チェッリーニ』は、チェッリーニの自叙伝に由来する。『ロメオとジュリエット』は、シェイクスピアの同名の悲劇に基づいている。記念碑的な大作オペラ『トロイアの人々』は、ウェルギリウスの叙事詩『アエネイス』に立脚している。ベルリオーズは、最後の歌劇となったコミック・オペラ『ベアトリスとベネディクト』のために、シェイクスピアの『から騒ぎ』に大まかに基づいて台本を作成した。", "title": "音楽的影響" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "文学の影響を別にすると、ベルリオーズは当時フランスではさほど有名でなかったベートーヴェンの擁護者でもあった。1828年にフランソワ・アントワーヌ・アブネック(『幻想交響曲』の初演指揮者)指揮パリ音楽院管弦楽団によって行われた『英雄交響曲』のパリ初演はベルリオーズの作曲活動における転回点となり、2年後の1830年に『幻想交響曲』が生み出されるきっかけとなった。ベートーヴェンに次いでベルリオーズが崇拝したのが、グルック、メユール、ウェーバー、そしてスポンティーニであった。", "title": "音楽的影響" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "『イタリアのハロルド』においてベルリオーズは、半音階や旋法、変拍子(5拍子)を採用するとともに、従来のドイツの交響曲にみられる形式的な均整感や全体的な統一感から距離を置いた。", "title": "音楽的影響" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "サン=サーンスの『動物の謝肉祭』の「象」の最初の主題は、『ファウストの劫罰』の「妖精のワルツ」から取られている。しかしながら、音域は原曲よりかなり下げられ、コントラバス独奏によって演奏される。", "title": "音楽的影響" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "『幻想交響曲』に加えて、ベルリオーズのいくつかの作品は現在、標準的なレパートリーにとどまっている。劇的物語『ファウストの劫罰』、劇的交響曲『ロメオとジュリエット』(いずれも混声合唱と管弦楽のための大作)、歌曲集『夏の夜』、ヴィオラ独奏付きの交響曲『イタリアのハロルド』などである。", "title": "音楽作品と著作" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "ベルリオーズの型破りな音楽作品は、既存の演奏界やオペラ界を刺激した。演奏会の段取りを自力でつけるだけでなく、演奏者への俸給も自前で調達しなければならなかった。これはベルリオーズに、経済的にも心情的にも重い負担となってのしかかった。ベルリオーズの演奏会には1,200人の常連客がついていて、入場者数を確保できたが、大掛かりな――数百人もの演奏者を要する――ベルリオーズ作品の性質上、経済的な成功は望めなかった。ジャーナリスティックな才能から、音楽評論がベルリオーズにとって手っ取り早い収入源となり、音楽会においてドラマや表現力の重要性を力説する、機知に富んだ批評文によって飢えをしのぐことができた。", "title": "音楽作品と著作" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "ベルリオーズは作曲家として最も有名である半面、多作な著作家でもあり、長年にわたって音楽評論を執筆して生計を立てていた。大胆で力強い文体により、時に独断的かつ諷刺的な論調で、執筆を続けた。『オーケストラのある夜会』(1852年)は、19世紀フランスの地方の音楽界をあてこすりつつ酷評したものである。ベルリオーズの『回想録』(1870年)は、ロマン派音楽の時代の姿を、時代の権化の目を通して、尊大に描き出したものである。『音楽のグロテスク』(1859年)はオーケストラ夜話の続編として出版された。", "title": "音楽作品と著作" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "教育的な著作である『管弦楽法』(Grand Traité d'Instrumentation et d'Orchestration Modernes, 1844年、1855年補訂)によって、ベルリオーズは管弦楽法の巨匠として後世に多大な影響を与えた。この理論書はマーラーやリヒャルト・シュトラウスによって詳細に研究され、リムスキー=コルサコフによって自身の『管弦楽法原理』の補強に利用された。リムスキー=コルサコフは修業時代に、ベルリオーズがロシア楽旅で指揮したモスクワやサンクトペテルブルクの音楽会に通い詰めていた。ノーマン・レブレヒトは次のように述べている。", "title": "音楽作品と著作" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "「ベルリオーズが訪問するまで、ロシア音楽というものは存在しなかった。ロシア音楽という分野を鼓吹したパラダイムは、ベルリオーズにあった。チャイコフスキーは、洋菓子店に踏み込むように『幻想交響曲』に入り浸って、自作の交響曲第3番を創り出した。ムソルグスキーは死の床にベルリオーズの論文を置いていた」", "title": "音楽作品と著作" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "また、18世紀末から19世紀初頭にかけ、聖歌のみならず世俗曲でも活躍したことで最も有名なロシアの作曲家であるドミトリー・ボルトニャンスキーを高く評価した。", "title": "音楽作品と著作" } ]
ルイ・エクトル・ベルリオーズは、フランスのロマン派音楽の作曲家である。『幻想交響曲』でよく知られているが、他にも『死者のための大ミサ曲』(レクイエム、1837年)にみられるように、楽器編成の大規模な拡張や、色彩的な管弦楽法によってロマン派音楽の動向を先取りした。 ベルリオーズの肖像はかつてフランスの10フラン紙幣に描かれていた。
{{Infobox Musician | Name = エクトル・ベルリオーズ<br/>Hector Berlioz | Img = Hector Berlioz Crop.jpg | Img_capt = 1855年のベルリオーズ | Background = classic | Birth_name = ルイ・エクトル・ベルリオーズ<br/>Louis Hector Berlioz | Alias = | School_background = [[パリ音楽院]]卒業 | Born = [[1803年]][[12月11日]]<br />{{FRA1794}} [[ラ・コート=サンタンドレ]] | Died = {{死亡年月日と没年齢|1803|12|11|1869|3|8}}<br />{{FRA1852}} [[パリ]] | Origin = | Instrument = <!-- 個人のみ --> | Genre = [[ロマン派音楽]] | Occupation = [[作曲家]]<br />[[指揮者]]<br />[[音楽評論家]] | Years_active = }} {{Portal クラシック音楽}} '''ルイ・エクトル・ベルリオーズ'''(Louis Hector Berlioz、[[1803年]][[12月11日]] - [[1869年]][[3月8日]])は、[[フランス]]の[[ロマン派音楽]]の[[作曲家]]である。『[[幻想交響曲]]』でよく知られているが、他にも『死者のための大ミサ曲』([[レクイエム (ベルリオーズ)|レクイエム]]、[[1837年]])にみられるように、楽器編成の大規模な拡張や、色彩的な[[管弦楽法]]によってロマン派音楽の動向を先取りした。 ベルリオーズの肖像はかつてフランスの10[[フランス・フラン|フラン]]紙幣に描かれていた。 == 生涯 == === 幼年期 === フランス南部[[イゼール県]]のラ・コート=サンタンドレ(La Côte-Saint-André)に生まれる。ここは[[リヨン]]と[[グルノーブル]]のほぼ中間に位置する。母親のマリー・アントワネット・ジョセフィーヌ・マルミオン、父親で[[開業医]]のルイ=ジョセフ・ベルリオーズとの間で、長男として育てられる(このうち6人中2人は早世)。 [[1809年]]、6歳の時から町の教会に付属する小さな[[神学校]]に入学するが、間もなくして[[1811年]]末に閉鎖されてしまい、18歳になるまで家庭で父親の手によって教育された。家庭では[[ラテン語]]、[[文学]]、[[歴史]]、[[地理]]、[[数学]]、[[音楽]](初歩程度)を習う。 === 青年期 === [[1817年]]ないし[[1818年]]頃、14歳のベルリオーズは父親の机の引き出しから[[フラジオレット (楽器)|フラジオレット]]を見つけ、吹く練習をする。息子の様子を見た父親は楽器の使い方を説明し、程なくしてフルートを買い与える。その後15歳になってからは[[ギター]]も習い始めている。 作曲は同年頃に独学で学び始め、父親の蔵書から[[ジャン=フィリップ・ラモー|ラモー]]の『和声論』を見つけるものの、理論の基礎ですら身につけていない彼にとっては難解なものであった。しかし[[シャルル・シモン・カテル]]の『和声概論』を読んだ時は、最初は難解ではあったが徐々にのみ込んでいった。ある程度の知識を得て作曲・編曲に挑戦し、室内楽曲、歌曲、編曲作品を作曲している。 [[1821年]]、18歳の時に[[グルノーブル]]で行われた[[バカロレア資格|バカロレア]](大学入学資格試験)に合格し、家業を継ぐ名目で[[パリ]]に行き、医科大学に入学する。しかし青年ベルリオーズは[[解剖学]]を学んでいる途中で気がひるんでしまい、次第に医学から音楽へ興味が移り、[[パリ国立オペラ|オペラ座]]に通うようになる。それから1年後の[[1822年]]に父親の反対にもかかわらず医学の道を捨て、音楽を学び始めた。この時期に医学大学に行く代わりに、コンセルヴァトワールの図書館に行っている。そこでは楽譜を複写したり、楽曲の分析などを試みたりしている。同時にベルリオーズは再び作曲を始めており、フランスの詩人ミルヴォワの詩による[[カンタータ]]『アラブの馬』(H.12)と3声部のカノン(H.13)を作曲する。前者のカンタータは独唱と大管弦楽のための作品であるが、カノン(H.13)を含む2つの作品はいずれも紛失している。 [[1823年]]に[[パリ国立高等音楽・舞踊学校|パリ音楽院]]に入学して、音楽院の教授[[ジャン=フランソワ・ル・シュウール]]に[[オペラ]]と作曲を学ぶ<ref>Kamien 241</ref>。 また早くからフランスの[[ロマン主義]]運動に一体感を持つようになり、[[アレクサンドル・デュマ・ペール|アレクサンドル・デュマ]]や[[ヴィクトル・ユーゴー]]、[[オノレ・ド・バルザック]]らと親交を結ぶ。後に[[テオフィル・ゴーティエ|テオフィル・ゴーチエ]]はこのように述べている。 <blockquote>「エクトル・ベルリオーズは、管見によると、ユーゴーや[[ウジェーヌ・ドラクロワ|ドラクロワ]]とともに、ロマン主義芸術の[[三位一体]]をなしているようだ」</blockquote> === 音楽院時代とローマ賞 === ル・シュウールの下で音楽を学び、2年後の[[1824年]]に最初の本格的な作品である『[[荘厳ミサ曲 (ベルリオーズ)|荘厳ミサ曲]]』(H.20)を作曲する。[[1825年]]にパリのサン・ロッシュ寺院で楽長のマッソンによって初演されたが、未熟であるがために失敗する。この後に作品を大幅に加筆修正を行い、同年にオーギュスタン・ドゥ・ポンスに借金をして再演され、成功を収める。またこの頃から[[ローマ賞]]に挑戦することに意欲を掻き立てている。 [[1827年]]からローマ賞に挑戦し、同年の7月に応募作としてカンタータ『オルフェウスの死』(H.25)を作曲する。しかし選外に終わる。その後も以下のように毎年応募する。また9月に当時熱狂的に話題を呼んでいたイギリスから来た[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]劇団の女優[[ハリエット・スミッソン]]の出演する舞台を見て、衝撃を受ける。このことが2人の運命的な出会いであった。 [[1828年]][[3月]]、音楽院で開かれた[[フランソワ・アブネック]]の指揮による第1回の[[パリ音楽院管弦楽団]]定期演奏会で[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[交響曲第3番 (ベートーヴェン)|交響曲第3番『英雄』]]を、また同年に[[交響曲第5番 (ベートーヴェン)|第5番『運命』]]を聴いて、大きな啓示を受ける<ref>[http://hector.ucdavis.edu/SdC/Programs/Pr001.htm パリ音楽院管弦楽団1828年演奏会記録]</ref>。6月、2度目となるローマ賞への挑戦として『{{仮リンク|エルミニー|fr|Herminie (Berlioz)}}』(H.29)を作曲。惜しくも2票の差で第2位となる。 [[1829年]]、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]の『[[ファウスト (ゲーテ)|ファウスト]]』([[ジェラール・ド・ネルヴァル]]の仏語訳による)を読んで感銘を受け、このテキストを用いて『ファウストからの8つの情景』(H.33,Op.1)を作曲する。出版の際に「[[作品番号|作品]]1」と番号を付ける。7月に3度目の挑戦となるローマ賞の応募作として、カンタータ『{{仮リンク|クレオパトラ (ベルリオーズ)|label=クレオパトラ|fr|Cléopâtre (Berlioz)}}』を作曲するが、劇的で過激な内容から審査員たちの顰蹙を買い、受賞を果たすことが出来ずに終わる。 [[1830年]]2月に『[[幻想交響曲]]』を作曲を開始し、6月に完成する。また、この頃にピアニストのマリー・モークと出会って恋愛関係となる。4月に4度目の挑戦としてカンタータ『サルダナパールの死』を作曲する。4度目にしてようやく念願となるローマ賞を受賞する。[[12月5日]]に『幻想交響曲』がアブネックの指揮で初演されて大成功を収めて世間の脚光を浴び、マリー・モークと婚約に至る。そして受賞者としてローマへ留学すると同時に留学を終えたら結婚するという約束を交える。 [[1831年]]、ローマに到着した直後に婚約者マリー・モークの母親から手紙が届き、ピアノ製作者[[イグナツ・プレイエル]]の長男{{仮リンク|カミーユ・プレイエル|en|Camille Pleyel}}と結婚するという報告であった。この報告を知るや否や、再び訪れた破局にベルリオーズは落胆するどころか、逆にひどく怒りを露わにしたといわれる。『回想録』には、マリーとその母とカミーユ・プレイエルを殺して自分も自殺しようと、ベルリオーズは婦人洋服店に急いで行き、女装するために婦人服一式を買い、ピストルと自殺用の毒薬を持参してパリへ向かう馬車に乗り、そのままローマを出発した。しかしイタリア([[サルデーニャ王国]])とフランスの国境付近でふと我に返り、直後に思い留まって正気を取り戻した。 この出来事の後、ベルリオーズは[[ニース]](当時はサルデーニャ王国領でフランス国境の外)で1か月ほど滞在して療養することとなり、回復後はローマへと戻って行く。そして正式にモークとの婚約は解消された。この療養中に『幻想交響曲』の続編と言える抒情的な独白劇『[[レリオ、あるいは生への復帰]]』の構想を始めており、ローマに戻った頃には全体の構想を終え、作曲に取り組んだのち7月初旬に完成している。 === 帰国後と中期の活動 === [[1832年]]に上記の事情によって[[イタリア]]留学を切り上げる形で[[パリ]]へ帰国すると、同地で再び音楽活動を始める。またローマ滞在中に作曲した作品(序曲『リア王』や『レリオ』など)を携えて持ち帰っている。 [[1833年]]、劇団の女優ハリエット・スミッソンが『幻想交響曲』を聴きに来た際に再会し、結果的に結婚までに至る。ベルリオーズの両親は反対したが、それを押し通してのことであった。パリ郊外の[[モンマルトル]]に新居を構え、自作の演奏会の開催、雑誌や新聞の評論を始める。 同年に演奏会に来ていた[[フレデリック・ショパン|ショパン]]と[[ニコロ・パガニーニ|パガニーニ]]と出会い、親交を結ぶ。 [[1834年]]の初め頃、パガニーニからの依頼でヴィオラと管弦楽のための作品である交響曲『[[イタリアのハロルド]]』を作曲する。初演の成功によって金銭的な援助も得られた。またこの年に長男のルイが誕生する。 この年に[[オペラ]]『[[ベンヴェヌート・チェッリーニ (オペラ)|ベンヴェヌート・チェッリーニ]]』の作曲に取りかかり、[[1836年]]夏に大半が完成する。同時にフランス政府から『[[レクイエム (ベルリオーズ)|レクイエム]]』の作曲を委嘱され、速いペースで翌[[1837年]]に完成する。初演は同年に行われると成功を収め、ベルリオーズは新聞雑誌から賛辞を浴びたり、陸軍大臣からの祝辞を受けたりした。 [[1838年]][[9月]]、オペラ座で『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の初演が行われる。しかし[[序曲]]を除いて散々な不評に終わる。原因として全体の総練習が4回であったことや、聴衆の趣向に合わなかったことなどが挙げられる。友人たちは失敗の原因を[[リブレット (音楽)|台本]]の稚拙であると指摘したが、『回想録』の中では「台本は気に入っていたのに、どうして劣っているのか、今でもわからない」と語っている。また初演が失敗した直後に母親が没する。 [[1839年]]に、[[ロメオとジュリエット (ベルリオーズ)|劇的交響曲『ロメオとジュリエット』]]を完成させる。初演の後、作品をパガニーニに献呈する。この時期のベルリオーズは莫大な借金を背負っていたため、生活が苦しく、収入が得られなかったが、音楽院側からの助けで、2月頃にパリ音楽院の図書館員となり、僅かな額ではあったがある程度の収入を得る。1852年には館長に任命されている。 [[1840年]]に再びフランス政府から依頼を受けて、『[[葬送と勝利の大交響曲]]』を作曲・完成、7月28日に200名の軍楽隊を率いて初演を行う。しかしこの時期、ベルリオーズはパリの各劇場から締め出された状態にあった。『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の失敗によるものといわれ、また一部で反感を持たれていたために、パリでの人気は次第に下って行った。 ==== 演奏旅行と指揮活動 ==== 人気が遠ざかっていたため、[[1842年]]に演奏旅行を始めることになり、年末にドイツへ向かい、各地で演奏会を催して大きな話題を呼び、旅行は成功を収める。しかし一部からは急進的過ぎるという批評も受けた。 [[1843年]][[5月]]末、パリに戻ったベルリオーズは、『ドイツ・イタリア音楽旅行記』や『近代楽器法と管弦楽法』などの著作を著したり、『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の第2幕の前奏曲として『[[ローマの謝肉祭 (序曲)|ローマの謝肉祭]]』を作曲する。一方で妻ハリエットとの仲違いが決定的となり、別居へと至る。ハリエットはモンマルトルの小さな家で生活する。ベルリオーズは稼ぐために新聞や雑誌の執筆などに追われ、それまで以上に窮地に瀕していた。 [[1844年]]にパリで産業博覧会が開催され、博覧会の終了間際(7月末)に産業館で型破りな演奏会を実施する。[[8月1日]]に産業館で行われた演奏会は、新作『[[フランス讃歌]]』(H.97)を初演したが、480人のオーケストラ団員と500人の合唱団員を統合したもので、演奏時にはベルリオーズを中心に7人ほどの補助指揮者が指揮棒を持って壇上に登ったという。演奏会は大成功を収めたが、出費が影響して経済的にはわずかなものしかもたらすことができなかった。 [[1845年]][[10月]]から翌[[1846年]][[4月]]にかけて、2回目の演奏旅行として[[ウィーン]]や[[プラハ]]、[[ブダペスト]]などへ赴き、各地で演奏会を開催して大歓迎を受ける。ブダペストでの演奏会は、『[[ラコッツィ行進曲]]』を管弦楽用に編曲した『ハンガリー行進曲』が演奏された際、聴衆から熱狂的な歓声を送られたといわれる。同じ頃に[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]の『ファウスト』による劇的物語『[[ファウストの劫罰]]』の作曲に着手しており、『ハンガリー行進曲』はこの作品に取り入れている。 『ファウストの劫罰』は旅行中の合間を縫って[[1845年]]から作曲を始め、パリに帰国した4月の末頃も続けられ、10月に全曲が完成する。12月6日に[[オペラ=コミック座]]で初演されたが、20日に行われた再演とともに結果は芳しくなく、成功しなかったという。初演の失敗によって多額の負債が降りかかり、破産の危機に直面したものの、友人たちの尽力によってこれを免れる。だがこれを機にベルリオーズは再び演奏旅行を決意し、[[ロシア帝国|ロシア]]へと赴く。 ==== ロシアへの演奏旅行 ==== [[1847年]][[2月14日]]、ベルリオーズはパリを離れ1人でロシアへ向かった。[[ベルリン]]まで汽車で乗り、滞在中にロシア大公妃[[エレナ・パヴロヴナ (ロシア大公妃)|エレナ・パヴロヴナ]]宛ての紹介状を書いて欲しいと[[プロイセン王国|プロイセン]]王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム4世]]に懇願する。それを携えて、ようやくロシアに到着する。[[3月15日]]と25日に[[サンクトペテルブルク]]で、4月に[[モスクワ]]でそれぞれ行った演奏会は成功し、喝采を浴びるなど大歓迎を受ける。この演奏会で4万フランの大金を手にしたが、ベルリオーズにとってこれほどの大金を得たのは初めてのことである。 パリへの帰途に再度ベルリンへ立ち寄り、ここでも演奏会を催している。プロイセン王の求めで『ファウストの劫罰』を演奏し、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世から[[赤鷲勲章]]を授与される。また同夜[[サンスーシ宮殿]]での晩餐会にも招待されている。著書『近代楽器法と管弦楽法』はフリードリヒ・ヴィルヘルム4世に献呈している。 ==== 相次ぐ不運、マリー・レシオとの再婚 ==== 7月初旬にパリに戻ったベルリオーズは、当時イギリスで活躍していた有名なマネージャーの[[ルイ・ジュリアン]]と出会い、彼の申し出に応じる形で[[ロンドン]]のドルーリー・レーン劇場の[[指揮者]]として活動するため、その年の末頃にロンドンへ向かう。しかしジュリアンと交わした契約は途中で破棄される。ロンドンに到着して4か月後にジュリアンは破産の危機に直面したためであった。 イギリスでの生活が安定する矢先に、[[1848年]]2月にパリで勃発した[[1848年のフランス革命|2月革命]]によって、急遽パリへと舞い戻る。理由として名誉職という名の地位であるパリ音楽院の図書館主事補の職を確保するためであった。 この時期、ベルリオーズの周りに相次いで不幸が襲う。パリへ戻った7月下旬に父ルイが世を去り、また別居中の妻ハリエットが[[脳卒中]]の発作で倒れ、パリの音楽界は革命の影響によって劇場は閉鎖され、街は謎の静けさを醸し出した状態であった。このため、作曲活動は一旦中断して評論と執筆活動に集中することに限られる。 しかし1848年末頃に極秘に作曲を始めており、[[1849年]]に3群の合唱と大管弦楽のための『[[テ・デウム (ベルリオーズ)|テ・デウム]]』(H.118,Op.22)を完成させる。だが演奏の機会が得られず、1855年4月に[[パリ万国博覧会 (1855年)|パリ万国博覧会]]でサン・トゥスタッシュ教会での初演まで待たなければならなかった。 この時期は、合唱とピアノ伴奏のための『[[トリスティア]]』(H.119)と、2重合唱と管弦楽のための『民の声』(H.120)ぐらいしか作曲していない。また自身の『回想録』も執筆をし始め、そのうちの第1部を書き上げている。 [[1850年]]、[[ロイヤル・フィルハーモニック協会|ロンドン・フィルハーモニック協会]]を真似する形で「パリ・フィルハーモニック協会」を結成する。パリではこのような協会は無く、これが初めてのことであった。ベルリオーズはこの組織の会長と指揮者に就任して演奏活動を活発に行う。しかし程なくして資金難に陥り、加えて聴衆からの受けがあまり良くなかったため、協会は結局1年後にそのまま解散した。 解散後、[[1851年]]から[[1855年]]にかけてロンドンに赴き、同地で定期的に指揮活動を行う。 [[1854年]]の[[3月3日]]、別居中の妻ハリエットがモンマルトルで世を去った。4年前から容体は一層悪くなり、加えて身体は不随になっていた。別居中であったが、彼女を見捨てることができなかったベルリオーズは深い悲しみを味わい、『回想録』と友人[[フランツ・リスト]]に宛てた手紙には悲痛な言葉がつづられている。 ハリエットを埋葬後、[[10月19日]]にマリー・レシオと正式に結婚する。息子ルイに宛てた手紙にはこのように書いている。 <blockquote>「'''私は一人で生きることもできないし、また14年来一緒に暮らしてきた女性を見捨てることもできなかった'''」(1854年にルイに宛てた手紙)</blockquote> === 成熟期 === [[1854年]]3月末にドイツへ旅行に行き、4月1日に[[ハノーファー]]を再訪する。ハノーファーでの演奏会をはじめとして、ドイツ各地で行った演奏会は立て続けに成功し、気を良くしたベルリオーズはパリに戻ったのち、以前作曲した『エジプトへの逃避』(H.128)を転用する形として、3部からなるオラトリオ『[[キリストの幼時]]』(H.130,Op.25)を5年がかりで完成させた。12月10日に初演されると聴衆から拍手を受け、大成功に終わる。 [[1855年]]4月、長らく初演の機会を得られなかった『テ・デウム』が[[パリ万国博覧会 (1855年)|パリ万国博覧会]]において、ベルリオーズの指揮によって初演された。 [[1856年]]、[[5月3日]]に没した[[アドルフ・アダン]]の後任として、[[フランス学士院]]会員に選ばれ、これにより収入が増え、生活も安定する。またこの頃に[[ヴァイマル]]を訪問しており、同地で滞在していた際、フランツ・リストと同棲していたその伴侶[[カロリーネ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン|ザイン・ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人]]と面会する。夫人から『[[アエネーイス]]』を題材とした[[グランドオペラ]]『[[トロイアの人々]]』の作曲を勧められ、先のフランス学士院会員に選ばれたことを機に創作意欲を復活させ、同年[[5月5日]]に台本を自ら執筆し、わずか2か月足らずで完成させる。さらに、腸神経痛に悩まされつつも作曲を続け、一気呵成に[[1858年]]4月12日に2年かけて完成させる。しかし全5幕という長大なオペラ『トロイアの人々』は、ベルリオーズの生前には完全な形で初演ができずに終わる。 [[1860年]]夏、[[バーデン=バーデン]]で開催される[[音楽祭]]に赴き、この地で新しく建設される劇場のために支配人のエドゥアール・ベナゼから委嘱を受け、2幕のオペラ『[[ベアトリスとベネディクト]]』(H.138)を作曲する。シェイクスピアの[[戯曲]]『[[空騒ぎ]]』に基づくが、ベルリオーズ自身がフランス語の台本を執筆している。一時中断もあったが[[1862年]]2月に完成させ、同年8月9日にバーデン=バーデンの新劇場で初演が行われている。 『ベアトリスとベネディクト』が初演される2か月前の[[1862年]]6月14日、後妻マリーが[[心臓麻痺]]のため世を去る。彼の目の前でのことだった。遺体は[[モンマルトル墓地]]に埋葬される。ベルリオーズに残された家族は船員となった息子ルイだけとなった。 [[1863年]]、苦労の末『トロイアの人々』がオペラ座で第2部のみ初演されたが、生前に第1部が上演されることはなかった。全曲上演は[[1890年]]まで待たなければならなかった。また長らく続けていた評論活動を止めてしまう。 60歳を迎えた[[1864年]]、筆を折り長年の作曲活動を終える。以降は1人でアパートに住み続けることとなる。また『回想録』を1865年1月1日付で終え、印刷にまわした(ただし、出版されたのは没後である)。 === 晩年とその死 === 後妻マリーに先立たれ、さらに一人息子のルイも[[1867年]]に失って、孤独感を募らせた生活をパリで過ごした。特に息子を失った時は半ば狂乱となった状態で立ち直れなかったと言われる。だが指揮活動を伴う演奏旅行は、[[1866年]]に[[オーストリア帝国|オーストリア]]、[[1867年]]にドイツ、1867年末から[[1868年]]にロシアでそれぞれ継続して行われた。 最晩年にロシアの[[エレナ・パヴロヴナ (ロシア大公妃)|エレナ大公妃]]から招待されて演奏旅行に赴き、サンクトペテルブルクで演奏会を開いている。ベルリオーズにとってこれが最後の旅行となった。だが元々不健康だったベルリオーズは、ロシアの厳しい寒さで身体に致命的な打撃を受け、帰国後の[[1868年]][[3月]]には健康状態はより悪化していた。この間作曲はほとんどできない状態であったが、最後の作品は[[フランソワ・クープラン]]の作品の編曲であった。 その後、南フランスで保養した後にパリで病床についたが、[[1869年]][[3月8日]]の午前0時半に死去した。{{没年齢|1803|9|7|1869|3|8}}。遺体は[[モンマルトル墓地]]において2人の妻、ハリエット・スミスソンとマリー・レシオとともに葬られた。 == 再評価 == ベルリオーズの作品は[[1960年代]]から[[1970年代]]にかけて復活を遂げたが、これはイギリスの指揮者[[コリン・デイヴィス]]の奮闘によるところが大きい。デイヴィスがベルリオーズの全作品を録音したため、従来あまり知られていなかった作品にも光が当てられた。歌劇『[[トロイアの人々]]』の録音は、最初の全曲録音であった。本作は、ベルリオーズの生前に完全に舞台上演されたことはなかったが、現在では復活を遂げ、定期的に上演されている。 [[2003年]]にベルリオーズ生誕200周年を記念して、ベルリオーズを[[パンテオン (パリ)|パンテオン]]に改葬しようとの提議がなされたが、[[アンドレ・マルロー]]や[[ジャン・ジョレス]]、[[アレクサンドル・デュマ・ペール|アレクサンドル・デュマ]]に比べて、ベルリオーズがフランスの栄光の象徴に値し得るかどうかをめぐる政治的議論の末に、[[ジャック・シラク]]大統領によって審議が中断された。 == エピソード == 生前のベルリオーズは、作曲家としてより[[指揮者]]として有名であった。定期的に[[ドイツ]]や[[イングランド]]で演奏旅行を行い、オペラや交響曲を指揮した。自作だけでなく他人の作品も指揮しており、中には[[フランツ・リスト|リスト]]の[[ピアノ協奏曲第1番 (リスト)|ピアノ協奏曲第1番]]の初演なども含まれている。リストによると、指揮者ベルリオーズはリハーサルを多用する“練習魔”だったという。 [[ヴァイオリン]]の[[ヴィルトゥオーソ]]にして作曲家の[[ニコロ・パガニーニ]]との出会いからは『[[イタリアのハロルド]]』が生まれ(パガニーニの依頼で書かれたが[[ヴィオラ]]の活躍が少ないのに失望した、という逸話は今日では信憑性が疑われている)、また金銭的援助も得られた。ベルリオーズの『回想録』によるならば、パガニーニは『イタリアのハロルド』の演奏を聴いて感動を表明し、2日後に「[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の後継者はベルリオーズをおいて他にいない」との手紙とともに2万[[フランス・フラン|フラン]]を提供した。 == ハリエット・スミスソンとの関係 == ベルリオーズは生まれながらにロマンティックで、幼少の頃からすこぶる感受性が強かったと言われている{{誰2|date=2010年10月}}。これは、[[ウェルギリウス]]の数節で涙したという少年時代や、長じてからは一連の恋愛関係に明らかである。23歳の時の、イギリスから来た[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]劇の劇団の[[俳優|女優]]で[[アイルランド人]]の[[ハリエット・スミスソン]]への片想いは、やがて『[[幻想交響曲]]』の着想へと膨らんだ。この作品の初演と同じ[[1830年]]に[[ローマ賞|ローマ大賞]]を受賞する。 スミスソンに最初こばまれると、ベルリオーズはマリー・モークと婚約するが、モークの母は娘をピアニストでピアノ製造家の{{仮リンク|カミーユ・プレイエル|en|Camille Pleyel}}に嫁がせた。ベルリオーズはその頃、ローマ大賞の賞金(奨学金)を得て[[ローマ]]に留学中であった。『回想録』によれば、この時パリに引き返し、女中に変装してモーク母子を殺害し、自殺を図ろうと企んだが、[[ニース]]にたどり着くまでに女装用の服を紛失したため気が変わった。 ベルリオーズの手紙は、スミスソンにはあまりに情熱的に過ぎると映ったために彼女は求愛を断ったのだが、こうした感情によって生み出されたといわれる『[[幻想交響曲]]』は、驚異的で斬新であると受け取られた。この[[標題音楽]]的な作品の[[自叙伝]]的な性格もまた、当時としてはセンセーショナルなものと見做されたで{{要出典範囲|date=2010年10月|あろう}}。ローマの2年間の修行時代を終えてパリに戻ると、スミスソンは『幻想交響曲』の演奏を聴きに来た上、ついには結婚に至った。スミスソンは馬車から落ちて重傷を負ったこともあって、女優として下り坂にあったことも理由で{{要出典範囲|date=2010年10月|あろう}}。 しかしながら2年もすると、2人の関係はたちまち冷え込んでいった<ref>Kamien 242</ref>。さまざまな理由が挙げられているが、中でも言葉の壁が大きかったと{{要出典範囲|date=2010年10月|推測されている}}。また他には、ベルリオーズはスミスソンを一人の女性として彼女の人間性に惚れたのではなく、彼女が演じる役(『[[ロミオとジュリエット]]』の「ジュリエット」等)に惚れたために、彼女と結婚して彼女が普通の女性であることに気がつき、失望したのだとする{{要出典範囲|date=2010年10月|説もある}}。2人は[[1841年]]頃から別居し、[[1854年]]に彼女が亡くなると、すでに同棲していた歌手のマリー・レシオと結婚する。 == 音楽的影響 == ベルリオーズは文学に激しい愛着を寄せており、ベルリオーズの最も優れた楽曲の多くは文学作品に触発されている。『幻想交響曲』は、[[トマス・ド・クインシー]]の『或る英国人阿片常習者の告白』に着想を得ており、『[[ファウストの劫罰]]』は[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]の『[[ファウスト (ゲーテ)|ファウスト]]』に依拠している。『[[イタリアのハロルド]]』は[[ジョージ・ゴードン・バイロン|バイロン卿]]の『[[チャイルド・ハロルドの巡礼]]』が下敷きである。[[オペラ]]『[[ベンヴェヌート・チェッリーニ (オペラ)|ベンヴェヌート・チェッリーニ]]』は、[[ベンヴェヌート・チェッリーニ|チェッリーニ]]の自叙伝に由来する。『[[ロメオとジュリエット (ベルリオーズ)|ロメオとジュリエット]]』は、[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]の[[ロミオとジュリエット|同名の悲劇]]に基づいている。記念碑的な大作オペラ『[[トロイアの人々]]』は、ウェルギリウスの叙事詩『[[アエネイス]]』に立脚している。ベルリオーズは、最後の歌劇となったコミック・オペラ『[[ベアトリスとベネディクト]]』のために、シェイクスピアの『[[空騒ぎ|から騒ぎ]]』に大まかに基づいて台本を作成した。 文学の影響を別にすると、ベルリオーズは当時フランスではさほど有名でなかった[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の擁護者でもあった。[[1828年]]に[[フランソワ・アントワーヌ・アブネック]](『幻想交響曲』の初演指揮者)指揮[[パリ音楽院管弦楽団]]によって行われた『[[交響曲第3番 (ベートーヴェン)|英雄交響曲]]』のパリ初演はベルリオーズの作曲活動における転回点となり、2年後の[[1830年]]に『幻想交響曲』が生み出されるきっかけとなった<ref>今谷和徳・井上さつき『フランス音楽史』音楽之友社、2010年</ref>。ベートーヴェンに次いでベルリオーズが崇拝したのが、[[クリストフ・ヴィリバルト・グルック|グルック]]、[[エティエンヌ・メユール|メユール]]、[[カール・マリア・フォン・ウェーバー|ウェーバー]]、そして[[ガスパーレ・スポンティーニ|スポンティーニ]]であった。 『イタリアのハロルド』においてベルリオーズは、[[半音階]]や[[旋法]]、[[変拍子]](5拍子)を採用するとともに、従来のドイツの交響曲にみられる形式的な均整感や全体的な統一感から距離を置いた。 [[カミーユ・サン=サーンス|サン=サーンス]]の『[[動物の謝肉祭]]』の「象」の最初の主題は、『ファウストの劫罰』の「妖精のワルツ」から取られている。しかしながら、音域は原曲よりかなり下げられ、[[コントラバス]]独奏によって演奏される。 == 音楽作品と著作 == 『[[幻想交響曲]]』に加えて、ベルリオーズのいくつかの作品は現在、標準的なレパートリーにとどまっている。劇的物語『[[ファウストの劫罰]]』、劇的交響曲『[[ロメオとジュリエット (ベルリオーズ)|ロメオとジュリエット]]』(いずれも混声合唱と管弦楽のための大作)、歌曲集『[[夏の夜 (ベルリオーズ)|夏の夜]]』、[[ヴィオラ]]独奏付きの交響曲『[[イタリアのハロルド]]』などである。 [[ファイル:Berlioz Concert à mitraille.PNG|サムネイル|「ベルリオーズ、軍隊オーケストラを指揮する。」大規模な編成からなる大音響の作品を風刺した戯画。]] ベルリオーズの型破りな音楽作品は、既存の演奏界やオペラ界を刺激した。演奏会の段取りを自力でつけるだけでなく、演奏者への俸給も自前で調達しなければならなかった。これはベルリオーズに、経済的にも心情的にも重い負担となってのしかかった。ベルリオーズの演奏会には1,200人の常連客がついていて、入場者数を確保できたが、大掛かりな――数百人もの演奏者を要する――ベルリオーズ作品の性質上、経済的な成功は望めなかった。ジャーナリスティックな才能から、音楽評論がベルリオーズにとって手っ取り早い収入源となり、音楽会においてドラマや表現力の重要性を力説する、機知に富んだ批評文によって飢えをしのぐことができた<ref>Kamien 243</ref>。 === 著作 === ベルリオーズは作曲家として最も有名である半面、多作な著作家でもあり、長年にわたって[[音楽評論家|音楽評論]]を執筆して生計を立てていた。大胆で力強い文体により、時に独断的かつ諷刺的な論調で、執筆を続けた。『オーケストラのある夜会』(1852年)は、[[19世紀]]フランスの地方の音楽界をあてこすりつつ酷評したものである。ベルリオーズの『回想録』(1870年)は、ロマン派音楽の時代の姿を、時代の権化の目を通して、尊大に描き出したものである。『音楽のグロテスク』(1859年)はオーケストラ夜話の続編として出版された。 教育的な著作である『管弦楽法』(''Grand Traité d'Instrumentation et d'Orchestration Modernes'', [[1844年]]、[[1855年]]補訂)によって、ベルリオーズは[[管弦楽法]]の巨匠として後世に多大な影響を与えた。この理論書は[[グスタフ・マーラー|マーラー]]や[[リヒャルト・シュトラウス]]によって詳細に研究され、[[ニコライ・リムスキー=コルサコフ|リムスキー=コルサコフ]]によって自身の『管弦楽法原理』の補強に利用された。リムスキー=コルサコフは修業時代に、ベルリオーズがロシア楽旅で指揮した[[モスクワ]]や[[サンクトペテルブルク]]の音楽会に通い詰めていた。[[ノーマン・レブレヒト]]は次のように述べている。 <blockquote>「ベルリオーズが訪問するまで、ロシア音楽というものは存在しなかった。ロシア音楽という分野を鼓吹した[[パラダイム]]は、ベルリオーズにあった。[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]は、洋菓子店に踏み込むように『幻想交響曲』に入り浸って、自作の[[交響曲第3番 (チャイコフスキー)|交響曲第3番]]を創り出した。[[モデスト・ムソルグスキー|ムソルグスキー]]は死の床にベルリオーズの論文を置いていた」<ref>http://www.scena.org/columns/lebrecht/031210-NL-Berlioz.html</ref></blockquote> また、18世紀末から19世紀初頭にかけ、聖歌のみならず世俗曲でも活躍したことで最も有名なロシアの作曲家である[[ドミトリー・ボルトニャンスキー]]を高く評価した<ref>「まれに見る名技、ニュアンスの絶妙な組み合わせ、ハーモニーの響き良さ、そして全く驚くべきことだが奔放な声部配置であり、最後に挙げた特徴は(中略)イタリア人が遵守していた全規則の見事な無視である」(ベルリオーズの言葉を抜粋:コンスタンチン・P. コワリョフ著、ウサミ ナオキ訳『ロシア音楽の原点―ボルトニャンスキーの生涯』新読書社 ISBN 978-4788061057)</ref>。 == 主要作品 == {{See also|ベルリオーズの楽曲一覧}} *'''[[幻想交響曲]]―ある芸術家の生活のエピソード''' 作品14(''Symphonie fantastique; Episode de la vie d'un artiste'', 1830年) *:全5楽章から構成される最も有名な[[交響曲]]。1830年に作曲。 *'''抒情的モノドラマ『[[レリオ、あるいは生への復帰]]』''' 作品14 bis(''Lélio, ou Le retour á la vie'', 1831年) *:『幻想交響曲』の続編として1831年に作曲・完成された独白劇。 *'''[[イタリアのハロルド|交響曲『イタリアのハロルド』]]''' 作品16(''Harold en Italie'', 1834年) *:独奏[[ヴィオラ]]と[[オーケストラ]]のための[[交響曲]]。1834年に作曲。 *'''[[ロメオとジュリエット (ベルリオーズ)|劇的交響曲『ロメオとジュリエット』]]''' 作品17(''Roméo et Juliette'', 1839年) *:1839年に作曲された独唱、合唱と管弦楽のための交響曲。 *'''[[葬送と勝利の大交響曲]] 作品 15'''(''Grande symphonie funèbre et triomphale'', 1840年) *:1840年に作曲された大編成の軍楽隊と合唱による作品。 *'''[[ローマの謝肉祭序曲|序曲「ローマの謝肉祭」]]''' 作品9(''Ouverture 'Le carnaval romain' '', 1843年) *:オペラ『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の第2幕の前奏曲として作曲された有名な序曲。後に独立して演奏会用序曲となる。 *'''[[夢とカプリッチョ]]''' 作品8 (''Rêverie et caprice'', 1841年) *:ヴァイオリンと管弦楽による協奏的作品。オペラ『ベンヴェヌート・チェッリーニ』のアリアからの編曲である。 *'''[[ファウストの劫罰|劇的物語『ファウストの劫罰』]]''' 作品24(''La damnation de Faust, légende dramatique'', 1845年-1846年) *:青年期に作曲された『ファウストからの8つの情景』を基にして1845年から1846年にかけて作曲された大規模な作品。『ハンガリー行進曲』や『妖精の踊り』、『鬼火の踊り』が有名。 *'''[[レクイエム (ベルリオーズ)|死者のための大ミサ曲(レクイエム)]]''' 作品5(''Grande messe des morts (Requiem)'', 1837年) *:1837年に作曲された巨大な編成を伴う声楽曲である。4組のバンダを必要とする。フランス政府からの委嘱による。 *'''[[テ・デウム (ベルリオーズ)|テ・デウム]]''' 作品22(''Te Deum'', 1848年-1849年) *:1848年から1849年かけて作曲された宗教音楽。全7曲だが通常省略される「行進曲」も存在する。 *'''[[キリストの幼時|宗教的三部作『キリストの幼時』]]''' 作品25(''L'enfance du Christ'', 1850年-1854年) *:1850年から1854年にかけて作曲された全3部から構成される声楽曲。 *'''歌曲集『[[夏の夜 (ベルリオーズ)|夏の夜]]』''' 作品7(''Les nuits d'été'', 1840年-1841年) *:1840年から1841年にかけて作曲された全6曲の歌曲集である。友人の[[テオフィル・ゴーティエ]]の詩集『死の喜劇』による。ピアノ伴奏または管弦楽による伴奏のいずれかで演奏される。 *'''オペラ『[[ベンヴェヌート・チェッリーニ (オペラ)|ベンヴェヌート・チェッリーニ]]』''' 作品23(''Benvenuto Cellini'', 1834年-1838年) *:イタリアの彫刻家[[ベンヴェヌート・チェッリーニ]]の自叙伝を基にして、1834年から1838年にかけて作曲されたオペラ。序曲は現在も演奏される有名な楽曲。 *'''オペラ『[[トロイアの人々]]』(トロイ人)'''(''Les Troyens'', 1856年-1858年) *:1856年から1858年にかけて作曲された大作オペラ。古代ローマの詩人[[ウェルギリウス]]の『[[アエネーイス]]』による。『[[アエネーイス]]』を参照。 *'''オペラ『[[ベアトリスとベネディクト]]』'''(''Béatrice et Bénédict'', 1860年-1862年) *:シェイクスピアの戯曲『[[から騒ぎ]]』を基にして作曲された全2幕のオペラ。 *'''[[荘厳ミサ曲 (ベルリオーズ)|荘厳ミサ曲]](ミサ・ソレムニス)'''(''Messe solennelle'', 1824年) *:[[1825年]]の初演後破棄されてきたと伝えられていたが、[[1991年]]に[[アントウェルペン]]の教会で、ベルリオーズが友人に贈った総譜が発見され、[[1993年]]に[[ジョン・エリオット・ガーディナー]]によって蘇演・初録音がなされた。様々なフレーズが、幻想交響曲など後年の主要作品にたびたび登場する。 *'''序曲『[[宗教裁判官 (ベルリオーズ)|宗教裁判官]]』''' 作品3(''Ouverture 'Les fancsjuges' '', 1827年) *:1827年頃に作曲。『宗教裁判官』は初期に手がけ未完となったオペラの1つ。序曲が残され、単独で演奏されるようになった他、このオペラからはいくつかの曲が他の作品([[葬送と勝利の大交響曲]]の第2楽章など)に転用されている。 *'''序曲『[[海賊 (ベルリオーズ)|海賊]]』''' 作品21 *:『イタリアのハロルド』と同様に[[ジョージ・ゴードン・バイロン|バイロン]]の詩に基づく。 *'''序曲『[[リア王 (ベルリオーズ)|リア王]]』''' 作品4(''Ouverture 'Le Roi Lear' '', 1831年) *:幻想交響曲を作り上げた翌年に書かれた作品。 *'''序曲『[[ウェイヴァリー (ベルリオーズ)|ウェイヴァリー]] 』'''作品1(''Ouverture 'Waverley' '', 1826年-1828年) *:1826年に作曲された序曲。本来はオペラに含まれていた序曲であるが、オペラ自体は破棄されたため、序曲のみが現存する。 *'''序曲『[[ロブ・ロイ (ベルリオーズ)|ロブ・ロイ]]』'''(''Ouverture 'Rob Roy' '', 1831年) *:タイトルは『ロブ・ロイ・マクレガー』とも表記される。 *'''歌曲『わな』'''(''Le trébuchet'', 1833年) *:『ランドの花』の第3曲に含まれる。 *'''叙情的情景『クレオパトラの死』'''(''La mort de Cléopâtre'', 1829年) *:1829年に作曲されたカンタータ。この作品でローマ賞の応募作として書かれたもの。翌年に受賞する。 == 日本語訳著作 == *『ベルリオ自伝と書翰』Katharine F.Boult [訳編] [[尾崎喜八]]訳 叢文閣 1920年 *『ベートーヴェン交響楽の批判的研究』エクトル・ベルリオ 尾崎喜八訳 仏蘭西書院 1923年 *『合唱管絃楽指揮法』[[津川主一]]訳 新響社 1929年 『管絃楽・合唱指揮法』[[音楽之友社]] 1948年 *『作曲家の手記 ベルリオーズ回想録』[[清水脩]]訳 [[河出書房]] 1939年 *『ベルリオーズ回想録』音楽之友社 1950年 *『ベートーヴェンの交響曲』[[橘西路]]訳編 [[角川文庫]] 1959年 *『ベルリオーズ回想録』[[丹治恆次郎]]訳 [[白水社]] 1981年 *『管弦楽法』[[リヒャルト・シュトラウス]]共著 [[小鍛冶邦隆]]監修 [[広瀬大介]]訳 音楽之友社 2006年 *『音楽のグロテスク』[[森佳子]]訳 [[青弓社]] 2007年 == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == * ''Mémoires'', Hector Berlioz; Flammarion; (first edition: 1991) ISBN 2082125394 * ''The memoirs of Hector Berlioz''; Everyman Publishers (second revised edition: 2002) David Cairns (ed.) ISBN 185715231X * Kamien, Roger. ''Music: An Appreciation''. Mcgraw-Hill College; 3rd edition (August 1, 1997) ISBN 0070365210 *『作曲家別名曲解説ライブラリー19 ベルリオーズ』([[音楽之友社]]) *『不滅の大作曲家 ベルリオーズ』(音楽之友社, シュザンヌ・ドゥマルケ著) == 外部リンク == * {{IMSLP|id=Berlioz, Hector|cname=エクトル・ベルリオーズ}} * [http://www.classiccat.net/berlioz_h/index.htm Classic Cat - Berlioz mp3s] *[http://www.berlioz-anhb.com/ Association Nationale Hector Berlioz](フランス国立エクトル・ベルリオーズ協会) *[http://www.theberliozsociety.org.uk/ U.K. Berlioz Society website] *[http://www.festivalberlioz.com/ ベルリオーズ・フェスティヴァル] *[http://www.musee-hector-berlioz.fr/ Musée Hector-Berlioz]({{仮リンク|ミュゼ・エクトル・ベルリオーズ|fr|Musée Hector-Berlioz}}のホームページ) {{Commons Category|Hector Berlioz}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:へるりおす えくとる}} [[Category:エクトル・ベルリオーズ|*]] [[Category:ロマン派の作曲家]] [[Category:オペラ作曲家]] [[Category:フランスの作曲家]] [[Category:フランスの音楽評論家]] [[Category:フランスの指揮者]] [[Category:フランスの図書館員]] [[Category:フランスの紙幣の人物]] [[Category:イゼール県出身の人物]] [[Category:1803年生]] [[Category:1869年没]]
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1583年
1583年(1583 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。
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1583年は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1583}} {{year-definition|1583}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[癸未]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[天正]]11年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2243年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[万暦]]11年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[宣祖]]16年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3916年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[莫朝]] : [[延成]]6年 ** [[黎朝|後黎朝]] : [[光興 (黎朝)|光興]]6年 * [[仏滅紀元]] : 2125年 - 2126年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 990年 - 991年 * [[ユダヤ暦]] : 5343年 - 5344年 * [[ユリウス暦]] : 1582年12月22日 - 1583年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1583}} == できごと == * [[リヴォニア戦争]]が終結する。 * [[8月5日]] - ハンフリー・ギルバートが、北米初のイギリス植民地(現在のカナダ・ニューファンドランド・ラブラドール州セントジョンズ)を開設。 === 日本 === * [[賤ヶ岳の戦い]]。[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]が[[柴田勝家]]を破る。 * [[大坂城]]が築城される。 * [[北ノ庄城の戦い]] == 誕生 == {{see also|Category:1583年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月1日]] - {{仮リンク|シモン・エピスコピウス|en|Simon Episcopius}}、[[神学者]](+ [[1643年]]) * [[4月10日]] - [[フーゴー・グローティウス]]、[[法学者]]、[[政治家]](+ [[1645年]]) * [[9月9日]] - [[ジローラモ・フレスコバルディ]]、[[作曲家]](+ [[1643年]]) * [[9月24日]] - [[アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Albrecht-von-Wallenstein Albrecht von Wallenstein Bohemian military commander] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[傭兵]](+ [[1634年]]) * [[12月25日]]受洗 - [[オーランド・ギボンズ]]、作曲家、[[オルガニスト]](+ [[1625年]]) * [[石川丈山]]、[[文人]](+ [[1672年]]) * [[林羅山]]、[[儒学者]](+ [[1657年]]) * [[松平忠明]]、[[宿老]](+ [[1644年]]) == 死去 == {{see also|Category:1583年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月13日]]([[天正]]11年[[1月21日 (旧暦)|1月21日]]) - [[足利義氏 (古河公方)|足利義氏]]<ref>[[市村高男]]『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年。</ref>、[[古河公方]](* [[1541年]]) * [[4月17日]](天正11年[[2月25日 (旧暦)|2月25日]]) - [[小笠原長時]]、[[武将]](* [[1514年]]) * [[4月24日]](天正11年[[3月3日 (旧暦)|3月3日]]) - [[五藤為浄]]、武将(* [[1553年]]) * [[6月14日]](天正11年[[4月24日 (旧暦)|4月24日]]) - [[柴田勝家]]{{Sfn|高柳|2001|pp=232-233}}、武将(* [[1522年]]) * 6月14日(天正11年4月24日) - [[お市の方]]、柴田勝家の妻(* [[1547年]]?) * [[7月8日]] - [[フェルナン・メンデス・ピント]]、[[冒険家]]・[[著述家]](* [[1509年]]?) * [[10月]] - [[ルイス・デ・アルメイダ]]、[[イエズス会|イエズス会士]]、[[医師]](* [[1525年]]?) * [[王畿]]、儒学者(* [[1498年]]) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1583}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=16|年代=1500}} {{デフォルトソート:1583ねん}} [[Category:1583年|*]]
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国際電気通信連合電気通信標準化部門
ITU-T(International Telecommunication Union Telecommunication Standardization Sector、国際電気通信連合電気通信標準化部門) は、世界規模で電気通信を標準化することを目的として勧告を作成する国連機関である。 勧告という形が標準となる。4年に1回開催される世界電気通信標準化会議(World Telecommunication Standardization Assembly、WTSA)で活動が決められる。国際電気通信連合の部門の一つで、通信分野の標準策定を担当する「電気通信標準化部門」でもある。旧CCITT(Comite Consultatif International Telegraphique et Telephonique、国際電信電話諮問委員会。以前はTSS、ITU-TSまたはITU-TSSとも言った。 2008年現在、3,000近くあるITU-T勧告の多くは無償となり、誰もがITU-Tのホームページから自由にPDFファイルをダウンロードできる。 以下はITU-Tの勧告のうち、Wikipediaで言及されたり、ISOと共同で作成されたり、またはJISやTTCによって日本向けに標準化されているものの一覧である。 Aシリーズ勧告は、「ITU-Tの作業組織」に関する規定を定める。 Bシリーズ勧告は、「表現手段(定義、記号、分類)」に関する規定を定める。 Cシリーズ勧告は、「一般的電気通信統計」に関する規定を定める。 Dシリーズ勧告は、「一般的料金原則」に関する規定を定める。 Eシリーズ勧告は、「網運用全般(番号計画、ルーティング、ネットワーク管理、運用性能及びトラヒックエンジニアリング)、電話サービス、サービス運営及びヒューマンファクタ」に関する規定を定める。 Fシリーズ勧告は、「電話以外の電気通信サービス(運営、サービス品質、サービス定義及びヒューマンファクタ)」に関する規定を定める。 Gシリーズ勧告は、「伝送システム及びメディア、ディジタルシステム及びネットワーク」に関する規定を定める。 白い表紙から、ITU-Tホワイトブックと呼ぶ場合、Gシリーズの事を指す。日本語版は日本規格協会から購入できる。G1~G99はITU-Tとの統合によってITU-T勧告番号の頭にGを付けた形で規格化されている。 Hシリーズ勧告は、「オーディオビジュアル及びマルチメディアシステム」に関する規定を定める。 Iシリーズ勧告は、「サービス総合ディジタル網」に関する規定を定める。 Jシリーズ勧告は、「テレビと音声番組及び他のマルチメディア信号の伝送」に関する規定を定める。 Kシリーズ勧告は、「妨害からの防御」に関する規定を定める。 Lシリーズ勧告は、「ケーブル及び屋外設備の他の要素についての建設、設置及び保護」に関する規定を定める。 Mシリーズ勧告は、「TMN及びネットワーク保守:国際伝送方式、電話回線、電信、ファクシミリ及び専用線」に関する規定を定める。 Nシリーズ勧告は、「保守:国際音声番組及びテレビ伝送回線」に関する規定を定める。 Oシリーズ勧告は、「機器評価の規定」に関する規定を定める。 Pシリーズ勧告は、「電話伝送品質、電話設備、地域有線網」に関する規定を定める。 Qシリーズ勧告は、「交換及び信号方式」に関する規定を定める。 Rシリーズ勧告は、「電信伝送」に関する規定を定める。 Sシリーズ勧告は、「電信サービス端末装置」に関する規定を定める。 Tシリーズ勧告は、「テレマティークサービス端末」に関する規定を定める。 Uシリーズ勧告は、「電信交換」に関する規定を定める。 Vシリーズ勧告は、「電話網上のデータ通信」に関する規定を定める。 Xシリーズ勧告は、「データ網及びオープン・システム・コミュニケーション」に関する規定を定める。 Yシリーズ勧告は、「グローバル情報通信インフラストラクチャ− (GII) 及びインターネットプロトコル側面」に関する規定を定める。 Zシリーズ勧告は、「通信システムのための言語及び一般ソフトウェア側面」に関する規定を定める。
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ITU-T(International Telecommunication Union Telecommunication Standardization Sector、国際電気通信連合電気通信標準化部門) は、世界規模で電気通信を標準化することを目的として勧告を作成する国連機関である。 勧告という形が標準となる。4年に1回開催される世界電気通信標準化会議で活動が決められる。国際電気通信連合の部門の一つで、通信分野の標準策定を担当する「電気通信標準化部門」でもある。旧CCITT(Comite Consultatif International Telegraphique et Telephonique、国際電信電話諮問委員会。以前はTSS、ITU-TSまたはITU-TSSとも言った。
'''ITU-T'''(''International Telecommunication Union Telecommunication Standardization Sector、'''国際電気通信連合電気通信標準化部門'''''<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000742781.pdf|title=国際電気通信連合 電気通信標準化部門(ITU-T) 電気通信標準化諮問委員会(TSAG) 会合の結果について|accessdate=2021-12-07}}</ref>) は、世界規模で電気通信を標準化することを目的として勧告を作成する国連機関である<ref>William Stallings『Foundations of Modern Networking: SDN, NFV, QoE, IoT, and Cloud』Addison-Wesley Professional、2015年 ISBN 0134175395</ref>。 勧告という形が標準となる。4年に1回開催される世界電気通信標準化会議(World Telecommunication Standardization Assembly、WTSA)で活動が決められる。[[国際電気通信連合]]の部門の一つで、通信分野の標準策定を担当する「電気通信標準化部門」でもある。旧CCITT(Comite Consultatif International Telegraphique et Telephonique、国際電信電話諮問委員会。以前は'''TSS'''、'''ITU-TS'''または'''ITU-TSS'''とも言った。 == ITU-T勧告 == 2008年現在、3,000近くあるITU-T勧告の多くは無償となり、誰もがITU-Tのホームページから自由にPDFファイルをダウンロードできる。 以下はITU-Tの勧告のうち、Wikipediaで言及されたり、ISOと共同で作成されたり、またはJISやTTCによって日本向けに標準化されているものの一覧である。 === Aシリーズ勧告 === Aシリーズ勧告は、「ITU-Tの作業組織」に関する規定を定める。 === Bシリーズ勧告 === Bシリーズ勧告は、「表現手段(定義、記号、分類)」に関する規定を定める。 === Cシリーズ勧告 === Cシリーズ勧告は、「一般的電気通信統計」に関する規定を定める。 === Dシリーズ勧告 === Dシリーズ勧告は、「一般的料金原則」に関する規定を定める。 === Eシリーズ勧告 === Eシリーズ勧告は、「網運用全般(番号計画、ルーティング、ネットワーク管理、運用性能及びトラヒックエンジニアリング)、電話サービス、サービス運営及びヒューマンファクタ」に関する規定を定める。 === Fシリーズ勧告 === Fシリーズ勧告は、「電話以外の電気通信サービス(運営、サービス品質、サービス定義及びヒューマンファクタ)」に関する規定を定める。 {| class="wikitable" |- ! style="width: 6.4em;" | 規格番号 ! 名称 ! style="width: 8em;" | 関連規格 |- | [[F.400/X.400]] | [[Message Handling System]] and Service Overview | [[ISO/IEC 10021]]-1 |- | [[F.435]] | Message handling services: Electronic Data Interchange messaging service | [[ISO/IEC 10021]]-8 |} === Gシリーズ勧告 === Gシリーズ勧告は、「伝送システム及びメディア、ディジタルシステム及びネットワーク」に関する規定を定める。 白い表紙から、ITU-Tホワイトブックと呼ぶ場合、Gシリーズの事を指す。日本語版は[[日本規格協会]]から購入できる。G1~G99はITU-Tとの統合によってITU-T勧告番号の頭にGを付けた形で規格化されている。 {| class="wikitable" |- ! style="width: 6.4em;" | 規格番号 ! 名称 ! style="width: 8em;" | 関連規格 |- | [[G.107]] | E-model伝送計画のための計算モデル<br />"The E-model, a computational model for use in transmission planning" | |- | [[G.113]] | 音声処理による伝送劣化<br />Transmission impairments due to speech processing | |- | [[G.165]] | [[エコーキャンセラ]]<br />Echo cancellers | |- | [[G.694]].1 | [[波長分割多重|WDM]]用途のスペクトル・グリッド:DWDM 周波数グリッド<br />Spectral grids for WDM applications: DWDM frequency grid | |- | [[G.694]].2 | WDM用途のスペクトル・グリッド:CWDM 波長グリッド<br />Spectral grids for WDM applications: CWDM wavelength grid | |- | [[G.701]] | 用語解説<br />Vocabulary of digital transmission and multiplexing, and pulse code modulation ([[PCM]]) terms | |- | [[G.702]] | ディジタルハイアラーキのビットレート<br />Digital hierarchy bit rates | |- | [[G.703]] | ディジタルハイアラーキインタフェースの[[物理層|物理]]/電気的特性<br />Physical/electrical characteristics of hierarchical digital interfaces | |- | [[G.704]] | 1次群及び2次群ディジタルハイアラーキインタフェースにおける[[同期方式|同期]]フレーム構成<br />Synchronous frame structures used at 1544, 6312, 2048, 8448 and 44 736 kbit/s hierarchical levels | |- | [[G.706]] | フレーム同期と[[巡回冗長検査|CRC]]手順<br />Frame alignment and cyclic redundancy check (CRC) procedures relating to basic frame structures defined in Recommendation G.704 | |- | [[G.707]] | [[同期ディジタルハイアラーキ]]の[[NNI]]<br />Network node interface for the synchronous digital hierarchy ([[SDH]]) | |- | [[G.709]] | 光伝送網のインタフェース<br />Interfaces for the Optical Transport Network (OTN) | |- | [[G.711]] | 音声周波数帯域信号の[[PCM]]符号化方式<br />Pulse code modulation (PCM) of voice frequencies | |- | [[G.711.1]] | Wideband embedded extension for G.711 pulse code modulation | |- | [[G.712]] | 音声周波数帯域信号PCM符号化方式の特性規定<br />Transmission performance characteristics of pulse code modulation channels | |- | [[G.718]] | フレームエラーに強い狭帯域と広帯域のエンベデッド可変ビットレート音声/オーディオ用 8-32 kbit/s 符号化方式<br />Frame error robust narrow-band and wideband embedded variable bit-rate coding of speech and audio from 8-32 kbit/s | |- | [[G.719]] | 高品質会話型用途向け低演算量フルバンドオーディオ符号化<br />Low-complexity, full-band audio coding for high-quality, conversational applications | |- | [[G.722]] | 64kbit/s以下の7kHzオーディオ符号化方式<br />7 kHz audio-coding within 64 kbit/s | |- | [[G.722.1]] | フレーム消失の少ないシステムにおけるハンズフリー用途向け7kHz帯域24および32kbit/sオーディオ符号化方式<br />Low-complexity coding at 24 and 32 kbit/s for hands-free operation in systems with low frame loss | |- | [[G.722.2]] | 適応マルチレート広帯域 (AMR-WB) 方式を用いた16 kbit/s程度の広帯域[[音声符号化]]<br />Wideband coding of speech at around 16 kbit/s using Adaptive Multi-Rate Wideband (AMR-WB) | |- | [[G.723.1]] | マルチメディア通信伝送のための 5.3および6.3kbit/sデュアルレート[[音声符号化]]方式<br />Dual rate speech coder for multimedia communications transmitting at 5.3 and 6.3 kbit/s | |- | [[G.725]] | 64kbit/s以下の7kHzオーディオコーデックの適用に関するシステム的側面<br />System aspects for the use of the 7 kHz audio codec within 64 kbit/s | |- | [[G.726]] | 40,32,24,16kbit/s [[適応差分パルス符号変調]]方式<br />40, 32, 24, 16 kbit/s Adaptive Differential Pulse Code Modulation ([[ADPCM]]) | |- | [[G.727]] | 5ビット、4ビット、3ビット及び2ビット/サンプルエンベデッド 適応差分パルス符号変調<br />5-, 4-, 3- and 2-bit/sample embedded adaptive differential pulse code modulation (ADPCM) | |- | [[G.728]] | 低遅延符号[[励振]]線形予測(LD-CELP) を用いた16kbit/s[[音声符号化]]方式<br />Coding of speech at 16 kbit/s using low-delay code excited linear prediction | |- | [[G.729]] | 8kbit/s CS-ACELPを用いた[[音声符号化]]方式<br />Coding of speech at 8 kbit/s using conjugate-structure algebraic-code-excited linear prediction (CS-ACELP) | |- | [[G.729.1]] | [[G.729]]ベースのエンベデッド可変ビットレート符号化: G.729とビット列互換な8-32kbit/sスケーラブル広帯域符号化<br />G.729 based Embedded Variable bit-rate coder: An 8-32 kbit/s scalable wideband coder bitstream interoperable with G.729 | |- | [[G.733]] | 1544kbit/s PCM多重変換装置<br />Characteristics of primary [[PCM]] multiplex equipment operating at 1544 kbit/s | |- | [[G.743]] | 6312kbit/s正スタッフ多重変換装置<br />Second order digital multiplex equipment operating at 6312 kbit/s and using positive justification | |- | [[G.746]] | 6312kbit/s PCM多重変換装置<br />Characteristics of second order PCM multiplex equipment operating at 6312 kbit/s | |- | [[G.752]] | 32064kbit/s , 97728kbit/s , 397200kbit/s ,正スタッフ多重変換装置<br />Characteristics of digital multiplex equipments based on a second order bit rate of 6312 kbit/s and using positive justification | |- | [[G.764]] | パケット音声プロトコル<br />Voice packetization - Packetized voice protocols | |- | [[G.775]] | 入力断(LOS) 及び警報表示信号(AIS) の検出・解除条件<br />Loss of Signal (LOS), Alarm Indication Signal (AIS) and Remote Defect Indication (RDI) defect detection and clearance criteria for PDH signals | |- | [[G.780]] | [[同期ディジタルハイアラーキ]]の用語<br />Terms and definitions for synchronous digital hierarchy ([[SDH]]) networks | |- | [[G.781]] | 同期レイヤ機能<br />Synchronization layer functions | |- | [[G.783]] | [[SDH]]多重変換装置の警報系・切替系の動作<br />Characteristics of synchronous digital hierarchy (SDH) equipment functional blocks | |- | [[G.803]] | SDH伝達ネットワークのアーキテクチャ<br />Architecture of transport networks based on the synchronous digital hierarchy (SDH) | |- | [[G.805]] | 伝達ネットワークの一般的アーキテクチャ<br />Generic functional architecture of transport networks | |- | [[G.810]] | [[同期方式|同期]]網に関する定義と用語<br />Definitions and terminology for synchronization networks | |- | [[G.811]] | ディジタル網におけるタイミング条件<br />Timing characteristics of primary reference clocks | |- | [[G.822]] | ディジタル網におけるスリップ率<br />Controlled slip rate objectives on an international digital connection |- | [[G.825]] | [[SDH]]網の[[ジッタ]]・ワンダ規定<br />The control of jitter and wander within digital networks which are based on the synchronous digital hierarchy (SDH) | |- | [[G.831]] | SDH伝達網の管理機能<br />Management capabilities of transport networks based on the synchronous digital hierarchy (SDH) | |- | [[G.872]] | 光伝送網のアーキテクチャ<br />Architecture of optical transport networks | |- | [[G.957]] | [[SDH]]多重系光インタフェース条件<br />Optical interfaces for equipments and systems relating to the synchronous digital hierarchy | |- | [[G.958]] | [廃止] SDH多重系光伝送方式<br />[Withdrawn] Digital line systems based on the synchronous digital hierarchy for use on optical fibre cables | |- | [[G.959]].1 | 光伝送網の[[物理層|物理]]インタフェース<br />Optical transport network physical layer interfaces | |- | [[G.960]] | [[ISDN]]基本アクセスディジタルセクション<br />Access digital section for ISDN basic rate access | |- | [[G.961]] | ISDN基本アクセスメタリック加入者線伝送方式<br />Digital transmission system on metallic local lines for ISDN basic rate access | |- | [[G.982]] | ISDN一次群または同等速度までのサービス提供をする光アクセス網<br />Optical access networks to support services up to the ISDN primary rate or equivalent bit rates | |- | [[G.983]].1 | [[受動光ネットワーク|受動光網]] (PON) に基づいた広帯域光アクセスシステム<br />Broadband optical access systems based on Passive Optical Networks (PON) | |- | [[G.983]].2 | [[受動光ネットワーク|B-PON]]におけるONT管理制御インタフェース規定<br />ONT management and control interface specification for B-PON | |- | [[G.983]].3 | 波長配置によりサービスケーパビリティを強化した広帯域光アクセスシステム<br />A broadband optical access system with increased service capability by wavelength allocation | |- | [[G.983]].4 | 動的帯域割当機能(DBA)を用いてサービスケーパビリティを強化した広帯域光アクセスシステム<br />A broadband optical access system with increased service capability using dynamic bandwidth assignment | |- | [[G.983]].7 | [廃止] 動的帯域割当機能(DBA)[[受動光ネットワーク|B-PON]]システムのためのONT管理及び制御インタフェース規定<br />[Withdrawn] ONT management and control interface specification for dynamic bandwidth assignment (DBA) B-PON system | |- | [[G.991]].2 | シングルペア高速[[ディジタル加入者線]](SHDSL)送受信機<br />Single-pair high-speed digital subscriber line (SHDSL) transceivers | |- | [[G.992]].1 | [[非対称ディジタル加入者線]]([[ADSL]])送受信機<br />Asymmetric digital subscriber line (ADSL) transceivers | |- | [[G.992]].2 | スプリッタレス非対称ディジタル加入者線(ADSL)送受信機<br />Splitterless asymmetric digital subscriber line (ADSL) transceivers | |- | [[G.992]].3 | 非対称ディジタル加入者線送受信機2(ADSL2)<br />Asymmetric digital subscriber line transceivers 2 (ADSL2) | |- | [[G.992]].5 | 非対称ディジタル加入者線 (ADSL) 送受信機—帯域拡張ADSL2(ADSL2+) <br />Asymmetric Digital Subscriber Line (ADSL) transceivers - Extended bandwidth ADSL2 (ADSL2plus) | |- | [[G.993]].1 | 超高速ディジタル加入者線 ([[VDSL]]) <br />Very high speed digital subscriber line transceivers | |- | [[G.993]].2 | 超高速ディジタル加入者線2 ([[VDSL2]]) <br />Very high speed digital subscriber line transceivers 2 (VDSL2) | |- | [[G.994]].1 | ディジタル加入者線 ([[デジタル加入者線|DSL]]) 送受信機のためのハンドシェーク手順<br />Handshake procedures for digital subscriber line (DSL) transceivers | |- | [[G.995]].1 | ディジタル加入者線 (DSL) 勧告の概要<br />Overview of digital subscriber line (DSL) Recommendations | |- | [[G.996]].1 | ディジタル加入者線 (DSL) 送受信機のための試験手順<br />Test procedures for digital subscriber line (DSL) transceivers | |- | [[G.997]].1 | ディジタル加入者線 (DSL) 送受信機のための[[物理層]]管理<br />Physical layer management for digital subscriber line (DSL) transceivers | |- | [[G.7041]] | ジェネリックフレーミングプロジージャ(GFP)<br />Generic framing procedure (GFP) | |- | [[G.9951]] | 宅内電話線ネットワーク用送受信機—基本規定<br />Phoneline networking transceivers - Foundation | |- | [[G.9952]] | 宅内電話線ネットワーク用送受信機—ペイロードフォーマット及びリンクレイヤー要求条件<br />Phoneline networking transceivers - Payload format and link layer requirements | |- | [[G.9953]] | 宅内電話線ネットワーク用送受信機—分離機能<br />Phoneline networking transceivers - Isolation function | |- | [[G.9954]] | ホームネットワーク用送受信機—[[物理層|物理]]、メディアアクセスおよびリンクレイヤの拡張仕様<br />Phoneline networking transceivers - Enhanced physical, media access, and link layer specifications | |} === Hシリーズ勧告 === Hシリーズ勧告は、「オーディオビジュアル及びマルチメディアシステム」に関する規定を定める。 {| class="wikitable" |- ! style="width: 6.4em;" | 規格番号 ! 名称 ! style="width: 8em;" | 関連規格 |- | [[H.221]] | オーディオビジュアル・テレサービスにおける64kbit/sから1920kbit/sチャネルのフレーム構成<br />Frame structure for a 64 to 1920 kbit/s channel in audiovisual teleservices | |- | [[H.222]].0 | 映像とオーディオの汎用符号化用システム<br />Information technology - Generic coding of moving pictures and associated audio information: Systems | [[ISO/IEC 13818]]-1 |- | [[H.222]].1 | [[非同期転送モード|ATM]]環境下におけるオーディオビジュアル通信のためのマルチメディア多重および[[同期方式|同期]]方式<br />Multimedia multiplex and synchronization for audiovisual communication in ATM environments | |- | [[H.223]] | 低ビットレートマルチメディア通信用多重化プロトコル<br />Multiplexing protocol for low bit rate multimedia communication | |- | [[H.225]].0 | パケットに基づくマルチメディア通信システム のためのシグナリングプロトコル とメディア信号のパケット化<br />Call signalling protocols and media stream packetization for packet-based multimedia communication systems | |- | [[H.226]] | 回線交換網におけるマルチリンク動作用のチャネルアグレゲーションプロトコル<br />Channel aggregation protocol for multilink operation on circuit-switched networks | |- | [[H.230]] | オーディオビジュアルシステムのためのフレーム[[同期方式|同期]]の制御信号と通知信号<br />Frame-synchronous control and indication signals for audiovisual systems | |- | [[H.231]] | 2Mbit/sまでのディジタルチャネルを使用したオーディオビジュアルシステムのための多地点会議制御ユニット<br />Multipoint control units for audiovisual systems using digital channels up to 1920 kbit/s | |- | [[H.233]] | オーディオビジュアルサービスのための機密保持システム<br />Confidentiality system for audiovisual services | |- | [[H.234]] | オーディオビジュアルサービスのための[[鍵 (暗号)|暗号鍵]]管理および認証システム<br />Encryption key management and authentication system for audiovisual services | |- | [[H.241]] | [[H.300]]シリーズ端末への拡張映像手順と制御信号<br />Extended video procedures and control signals for H.300-series terminals | |- | [[H.242]] | 1920kbit/sまでのディジタルチャネルを使用したオーディオビジュアル端末間の通信を設定する方式<br />System for establishing communication between audiovisual terminals using digital channels up to 2 Mbit/s | |- | [[H.243]] | 2Mbit/sまでのディジタルチャネルを使用した3箇所以上のオーディオビジュアル端末間の通信確立手順<br />Procedures for establishing communication between three or more audiovisual terminals using digital channels up to 1920 kbit/s | |- | [[H.244]] | 64または56kbit/s多重チャネルの[[同期方式|同期]]化アグレゲーション<br />Synchronized aggregation of multiple 64 or 56 kbit/s channels | |- | [[H.245]] | マルチメディア通信用制御プロトコル<br />Control protocol for multimedia communication | |- | [[H.246]] | H.シリーズのマルチメディア端末と、他のH.シリーズのマルチメディア端末またはGSTNや[[ISDN]]上の音声/音声帯域上の端末との相互接続<br />Interworking of H-series multimedia terminals with H-series multimedia terminals and voice/voiceband terminals on GSTN and ISDN | |- | [[H.248]].1 | メディアゲートウェイ制御プロトコル<br />Gateway control protocol: Version 3 | |- | [[H.261]] | p×64kbit/sオーディオビジュアル・サービス用ビデオ符号化方式<br />Video codec for audiovisual services at p x 64 kbit/s | |- | [[H.262]] | 汎用映像符号化方式<br />Information technology - Generic coding of moving pictures and associated audio information: Video | [[ISO/IEC 13818]]-2 |- | [[H.263]] | 低ビットレート通信用ビデオ符号化方式<br />Video coding for low bit rate communication | |- | [[H.264]] | オーディオビジュアルサービス全般のための高度ビデオ符号化方式<br />Advanced video coding for generic audiovisual services | [[ISO/IEC 14496]]-10 |- | [[H.264]].1 | [[H.264]]高度ビデオ符号化方式の適合性規定<br />Conformance specification for H.264 advanced video coding | [[ISO/IEC 14496]]-4 |- | [[H.264]].2 | [[H.264]]高度ビデオ符号化方式の参照ソフトウェア<br />Reference software for H.264 advanced video coding | [[ISO/IEC 14496]]-5 |- | [[H.265]] | High Efficiency Video Coding | [[ISO/IEC 23008]]-2 |- | [[H.310]] | 広帯域オーディオビジュアル通信システムと端末<br />Broadband audiovisual communication systems and terminals | |- | [[H.320]] | 狭帯域[[テレビ電話]]・会議システムとその端末装置<br />Narrow-band visual telephone systems and terminal equipment | |- | [[H.321]] | TV電話・会議システムとその端末装置のB-[[ISDN]]環境への適用<br />Adaptation of H.320 visual telephone terminals to B-ISDN environments | |- | [[H.322]] | サービス品質 (QoS) の保証された[[ローカルエリアネットワーク]] (LAN) で用いられるビジュアル電話システムと端末<br />Visual telephone systems and terminal equipment for local area networks which provide a guaranteed quality of service | |- | [[H.323]] | パケットに基づくマルチメディア通信システム <br />Packet-based multimedia communications systems | |- | [[H.324]] | 低ビットレートマルチメディア通信用端末<br />Terminal for low bit-rate multimedia communication | |- | [[H.331]] | 同報型オーディオビジュアル多地点間通信システムとその端末装置<br />Broadcasting type audiovisual multipoint systems and terminal equipment | |- | [[H.450]].1 | [[H.323]]における付加サービス実現のための汎用機能プロトコル<br />Generic functional protocol for the support of supplementary services in H.323 | |- | [[H.450]].10 | [[H.323]]のためのコールオファー付加サービス<br />Call offering supplementary services for H.323 | |- | [[H.450]].11 | [[H.323]]における呼割り込み付加サービス<br />Call intrusion supplementary service for H.323 | |- | [[H.450]].12 | [[H.323]]における共通情報交換ネットワーク付加機能<br />Common Information Additional Network Feature for H.323 | |- | [[H.450]].2 | [[H.323]]のためのコールトランスファ付加サービス<br />Call transfer supplementary service for H.323 | |- | [[H.450]].3 | [[H.323]]のための着信転送付加サービス<br />Call diversion supplementary service for H.323 | |- | [[H.450]].4 | [[H.323]]のための保留呼付加サービス<br />Call hold supplementary service for H.323 | |- | [[H.450]].5 | [[H.323]]のためのコールパーク、コールピックアップ付加サービス<br />Call park and call pickup supplementary services for H.323 | |- | [[H.450]].6 | [[H.323]]のためのコールウェイティング付加サービス<br />Call waiting supplementary service for H.323 | |- | [[H.450]].7 | [[H.323]]のためのメッセージウェイティング通知付加サービス<br />Message waiting indication supplementary service for H.323 | |- | [[H.450]].8 | [[H.323]]のための名前通知付加サービス<br />Name identification supplementary service for H.323 | |- | [[H.450]].9 | [[H.323]]のための呼完了付加サービス<br />Call completion supplementary services for H.323 | |- | [[H.460]].1 | 機能拡張のための汎用フレームワーク使用のためのガイドライン<br />Guidelines for the use of the generic extensible framework | |- | [[H.460]].18 | [[H.323]]シグナリングのネットワークアドレス変換およびファイアウォール越え<br />Traversal of H.323 signalling across network address translators and firewalls | |- | [[H.460]].19 | [[H.323]]メディアのネットワークアドレス変換およびファイアウォール越え<br />Traversal of H.323 media across network address translators and firewalls | |- | [[H.460]].2 | [[H.323]]ネットワークとSCNネットワーク間の[[番号ポータビリティ]]インターワーキング<br />Number Portability interworking between H.323 and SCN networks | |- | [[H.460]].3 | [[H.323]]システムにおける回線マップ<br />Circuit maps within H.323 systems | |- | [[H.460]].4 | [[H.323]]呼のための呼優先度指定<br />Call priority designation and country/international network of call origination identification for H.323 priority calls | |- | [[H.501]] | マルチメディアシステムにおけるドメイン内/ドメイン間通信及びモビリティ管理プロトコル<br />Protocol for mobility management and intra/inter-domain communication in multimedia systems | |} === Iシリーズ勧告 === Iシリーズ勧告は、「サービス総合ディジタル網<ref>日本ITU協会のIシリーズ勧告和訳本の表記による。[https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000001895250-00]</ref>」に関する規定を定める。 {| class="wikitable" |- ! style="width: 6.4em;" | 規格番号 ! 名称 ! style="width: 8em;" | 関連規格 |- | [[I.150]] | 広帯域[[ISDN]] [[非同期転送モード|ATM]]機能特性<br />B-ISDN asynchronous transfer mode functional characteristics | |- | [[I.200]] | [[I.200]] シリーズのガイダンス<br />Guidance to the I.200-series of Recommendations | |- | [[I.210]] | [[ISDN]]の提供するテレコミュニケーションサービス<br />Principles of telecommunication services supported by an ISDN and the means to describe them | |- | [[I.211]] | 広帯域ISDNのサービス原則<br />B-ISDN service aspects | |- | [[I.220]] | 基本テレコミュニケーションの共通動的記述<br />Common dynamic description of basic telecommunication services | |- | [[I.221]] | サービスに特有な共通特性<br />Common specific characteristics of services | |- | [[I.230]] | [[ISDN]]の提供するベアラサービス<br />Definition of bearer service categories | |- | [[I.231]] | 回線モードベアラサービスカテゴリ<br />Circuit-mode bearer service categories | |- | [[I.232]] | パケットモードベアラサービスカテゴリ<br />Packet-mode bearer services categories | |- | [[I.233]] | フレームモードベアラサービス<br />ISDN frame relaying bearer service | |- | [[I.240]] | テレサービスの定義<br />Definition of teleservices | |- | [[I.241]] | [[ISDN]]の提供するテレサービス<br />Teleservices supported by an ISDN | |- | [[I.250]] | ISDNの提供する付加サービス<br />Definition of supplementary services | |- | [[I.251]] | 番号通知付加サービス<br />Number identification supplementary services | |- | [[I.252]] | 呼提供付加サービス<br />Call offering supplementary services | |- | [[I.253]] | 呼完了付加サービス<br />Call completion supplementary services | |- | [[I.254]] | 複数加入者付加サービス<br />Multiparty supplementary services | |- | [[I.255]] | 特定グループ付加サービス<br />Community of interest supplementary services | |- | [[I.256]] | 課金付加サービス<br />Charging supplementary services | |- | [[I.257]] | 付加サービス情報転送付加サービス<br />Additional information transfer supplementary services | |- | [[I.258]] | その他の付加サービス<br />Mobility and modification supplementary services | |- | [[I.259]] | スクリーニング付加サービス<br />Screening supplementary services | |- | [[I.313]] | 広帯域ISDN網要求条件<br />B-ISDN network requirements | |- | [[I.356]] | 広帯域ISDNのATMレイヤセル転送性能<br />B-ISDN ATM layer cell transfer performance | |- | [[I.361]] | 広帯域ISDN ATMレイヤ仕様<br />B-ISDN ATM layer specification | |- | [[I.363]].1 | 広帯域ISDN ATMアダプテーションレイヤ (AAL) タイプ1仕様<br />B-ISDN ATM Adaptation Layer specification : Type 1 AAL | |- | [[I.363]].2 | 広帯域ISDN ATMアダプテーションレイヤ (AAL) タイプ2仕様<br />B-ISDN ATM Adaptation Layer specification : Type 2 AAL | |- | [[I.363]].3 | 広帯域ISDN ATMアダプテーションレイヤ (AAL) タイプ3/4仕様<br />B-ISDN ATM Adaptation Layer specification : Type 3/4 AAL | |- | [[I.363]].5 | 広帯域ISDN ATMアダプテーションレイヤ (AAL) タイプ5仕様<br />B-ISDN ATM Adaptation Layer specification : Type 5 AAL | |- | [[I.364]] | 広帯域ISDNによる広帯域コネクションレスデータベアラサービスのサポート<br />Support of the broadband connectionless data bearer service by the B-ISDN | |- | [[I.365]].1 | 広帯域ISDN フレームリレー用CSサービス依存部(FR-SSCS)<br />B-ISDN [[非同期転送モード|ATM]] adaptation layer sublayers : Frame relaying service specific convergence sublayer (FR-SSCS) | |- | [[I.365]].2 | 広帯域ISDN OSIコネクション型ネットワークサービス用AALサービス依存コーディネーション機能(SSCF-CONS)<br />B-ISDN ATM adaptation layer sublayers : Service-specific coordination function to provide the connection-oriented network service | |- | [[I.365]].3 | 広帯域ISDN OSIコネクション型[[トランスポート層|トランスポート]]サービス用AALサービス依存コーディネーション機能(SSCF-COTS)<br />B-ISDN ATM adaptation layer sublayers : Service-specific coordination function to provide the connection-oriented transport service | |- | [[I.366]].1 | AALタイプ2のための分割/組立サービス依存コンバージェンスサブレイヤ<br />Segmentation and Reassembly Service Specific Convergence Sublayer for the AAL type 2 | |- | [[I.366]].2 | ナローバンドサービス用AALタイプ2 CSサービス依存部 (SSCS)<br />AAL type 2 service specific convergence sublayer for narrow-band services | |- | [[I.370]] | [[ISDN]]フレームモードベアラサービス輻輳マネジメント<br />Congestion management for the ISDN frame relaying bearer service | |- | [[I.371]] | 広帯域ISDNにおけるトラヒック制御と輻輳制御<br />Traffic control and congestion control in B-ISDN | |- | [[I.371]].1 | [廃止] 保証フレームレートATM転送能力<br />[Withdrawn] Guaranteed frame rate ATM transfer capability | |- | [[I.372]] | フレームリレーベアラサービスのための網間インタフェース要求条件<br />Frame relaying bearer service network-to-network interface requirements | |- | [[I.411]] | ISDN[[ユーザ・網インタフェース]]規定点及びインタフェース構造<br />ISDN user-network interfaces - Reference configurations | |- | [[I.413]] | 広帯域ISDNユーザ・網インタフェース規定点及びインタフェース構造<br />B-ISDN user-network interface | |- | [[I.430]] | ISDN基本ユーザ・網インタフェース レイヤ1仕様<br />Basic user-network interface - Layer 1 specification | |- | [[I.431]] | ISDN一次群速度ユーザ・網インタフェース レイヤ1仕様<br />Primary rate user-network interface - Layer 1 specification | |- | [[I.432]].1 | 広帯域ISDNユーザ・網インタフェース[[物理層|物理]]レイヤ仕様 - 一般的特性 -<br />B-ISDN user-network interface - Physical layer specification : General characteristics | |- | [[I.432]].2 | 広帯域ISDNユーザ・網インタフェース 155520kbit/s および 622080kbit/s物理レイヤ仕様<br />B-ISDN user-network interface - Physical layer specification : 155 520 kbit/s and 622 080 kbit/s operation | |- | [[I.432]].3 | 広帯域ISDNユーザ・網インタフェース 1544kbit/sおよび2048kbit/s物理レイヤ仕様<br />B-ISDN user-network interface - Physical layer specification : 1544 kbit/s and 2048 kbit/s operation | |- | [[I.432]].4 | 広帯域ISDNユーザ・網インタフェース 51840kbit/s物理レイヤ仕様<br />B-ISDN user-network interface - Physical layer specification : 51 840 kbit/s operation | |- | [[I.432]].5 | 広帯域ISDNユーザ・網インタフェース 25600kbit/s物理レイヤ仕様<br />B-ISDN user-network interface - Physical layer specification : 25 600 kbit/s operation | |- | [[I.460]] | 多重化、速度整合及び既存インタフェースのサポート<br />Multiplexing, rate adaption and support of existing interfaces | |- | [[I.511]] | 基本参照形態<br />ISDN-to-ISDN layer 1 internetwork interface | |- | [[I.520]] | ISDN相互接続の一般規約<br />General arrangements for network interworking between ISDNs | |- | [[I.555]] | フレームリレーベアラサービスインターワーキング<br />Frame Relaying Bearer Service interworking | |- | [[I.580]] | 広帯域[[ISDN]]と64kbit/s系ISDN間インタワーキングの一般原則<br />General arrangements for interworking between B-ISDN and 64 kbit/s based ISDN | |- | [[I.610]] | 広帯域ISDNの運用[[ソフトウェア保守|保守]]原則と機能<br />B-ISDN operation and maintenance principles and functions | |- | [[I.630]] | ATM切替<br />ATM protection switching | |- | [[I.751]] | ネットワーク要素に対するATM管理<br />Asynchronous transfer mode management of the network element view | |} === Jシリーズ勧告 === Jシリーズ勧告は、「テレビと音声番組及び他のマルチメディア信号の伝送」に関する規定を定める。 {| class="wikitable" |- ! style="width: 6.4em;" | 規格番号 ! 名称 ! style="width: 8em;" | 関連規格 |- | [[J.52]] | モノラル信号あたり1、2または3本の64kbit/sチャネル(ステレオでは6チャネルまで)を用いた高品質サウンドプログラム信号のディジタル伝送方式<BR>Digital transmission of high-quality sound-programme signals using one, two or three 64 kbit/s channels per mono signal (and up to six per stereo signal) | |} === Kシリーズ勧告 === Kシリーズ勧告は、「妨害からの防御」に関する規定を定める。 {| class="wikitable" |- ! style="width: 6.4em;" | 規格番号 ! 名称 ! style="width: 8em;" | 関連規格 |- | [[K.38]] | 大型システムの放射電磁波試験手順<br />Radiated emission test procedure for physically large systems | |- | [[K.43]] | 通信装置のイミュニティ要求<br />Immunity requirements for telecommunication equipment | |- | [[K.48]] | 電気通信装置毎のEMC要求<br />EMC requirements for telecommunication equipment - Product family Recommendation | |- | [[K.58]] | コ・ロケーションにおける電気通信設備設置要求<br />EMC, resistibility and safety requirements and procedures for co-located telecommunication installations | |- | [[K.59]] | アンバンドルされた通信ケーブルへの接続に関する要求<br />EMC, resistibility and safety requirements and procedures for connection to unbundled cables | |- | [[K.66]] | 顧客建物設備の過電圧防護<br />Protection of customer premises from overvoltages | |} === Lシリーズ勧告 === Lシリーズ勧告は、「ケーブル及び屋外設備の他の要素についての建設、設置及び保護」に関する規定を定める。 === Mシリーズ勧告 === Mシリーズ勧告は、「TMN及びネットワーク[[ソフトウェア保守|保守]]:国際伝送方式、電話回線、電信、[[ファクシミリ]]及び専用線」に関する規定を定める。 {| class="wikitable" |- ! style="width: 6.4em;" | 規格番号 ! 名称 ! style="width: 8em;" | 関連規格 |- | [[M.3010]] | 通信管理ネットワークの原則:通信管理ネットワークの概要<br />Principles for a telecommunications management network | |- | [[M.3030]] | [[テレコミュニケーションマークアップ言語]] (tML)フレームワーク<br />Telecommunications Markup Language (tML) framework | |- | [[M.3031]] | tMLスキーマの実装適合性宣言ひな型のためのガイドライン<br />Guidelines for Implementation Conformance Statement proformas for tML schemas | |- | [[M.3060]] | [[次世代ネットワーク]]の管理の原則<br />Principles for the Management of the Next Generation Networks | |- | [[M.3120]] | [[CORBA]] 一般的ネットワークとNEレベル情報モデル<br />CORBA generic network and network element level information model | |- | [[M.3200]] | TMN管理サービスと通信管理エリア:概観<br />TMN management services and telecommunications managed areas: overview | |} === Nシリーズ勧告 === Nシリーズ勧告は、「[[ソフトウェア保守|保守]]:国際音声番組及びテレビ伝送回線」に関する規定を定める。 === Oシリーズ勧告 === Oシリーズ勧告は、「機器評価の規定」に関する規定を定める。 === Pシリーズ勧告 === Pシリーズ勧告は、「電話伝送品質、電話設備、地域有線網」に関する規定を定める。 {| class="wikitable" |- ! style="width: 6.4em;" | 規格番号 ! 名称 ! style="width: 8em;" | 関連規格 |- | [[P.76]] | ラウドネス定格の決定;基本原理<br />Determination of loudness ratings; fundamental principles | |- | [[P.79]] | 電話セットのラウドネス値計算方法<br />Calculation of loudness ratings for telephone sets | |- | [[P.310]] | 電話帯域(300-3400Hz)ディジタル電話の伝送特性<br />Transmission characteristics for telephone band (300-3400 Hz) digital telephones | |- | [[P.800]] | 伝送品質の主観的決定法<br />Methods for subjective determination of transmission quality | |- | [[P.833]] | 受聴主観評価試験に基づいた装置劣化要因導出法<br />Methodology for derivation of equipment impairment factors from subjective listening-only tests | |- | [[P.834]] | 計測モデルに基づく装置劣化要因導出法<br />Methodology for the derivation of equipment impairment factors from instrumental models | |- | [[P.862]] | [[PESQ]],狭帯域電話網および符号化方式のエンド-エンド音声品質評価のための客観評価法<br />Perceptual evaluation of speech quality (PESQ): An objective method for end-to-end speech quality assessment of narrow-band telephone networks and speech codecs | |- | [[P.862]].1 | [[P.862]]評価値からMOS-LQOへ変換するマッピング関数<br />Mapping function for transforming P.862 raw result scores to MOS-LQO | |- | [[P.862]].3 | 勧告P.862, P.862.1, P.862.2に基づく客観品質測定のためのアプリケーションガイド<br />Application guide for objective quality measurement based on Recommendations P.862, P.862.1 and P.862.2 | |} === Qシリーズ勧告 === Qシリーズ勧告は、「交換及び信号方式」に関する規定を定める。 {| class="wikitable" |- ! style="width: 6.4em;" | 規格番号 ! 名称 ! style="width: 8em;" | 関連規格 |- | [[Q.699]] | [[共通線信号No.7|No.7信号方式]]のISDNユーザ部を介したISDNアクセスや非ISDNアクセスのインタワーキング<br />Interworking between ISDN access and non-ISDN access over ISDN User Part of [[共通線信号No.7|Signalling System No. 7]] | |- | [[Q.701]] | メッセージ転送部 信号システムの機能概要<br />Functional description of the message transfer part (MTP) of Signalling System No. 7 | |- | [[Q.702]] | メッセージ転送部 信号[[データリンク層|データリンク]]部<br />Signalling data link | |- | [[Q.703]] | メッセージ転送部 信号リンク機能部<br />Signalling link | |- | [[Q.704]] | メッセージ転送部 信号網機能部<br />Signalling network functions and messages | |- | [[Q.707]] | メッセージ転送部 試験・[[ソフトウェア保守|保守]]<br />Testing and maintenance | |- | [[Q.711]] | 信号接続制御部 (SCCP) の機能<br />Functional description of the signalling connection control part | |- | [[Q.712]] | SCCPメッセージの定義および機能<br />Definition and function of signalling connection control part messages | |- | [[Q.713]] | SCCPフォーマットとコード<br />Signalling connection control part formats and codes | |- | [[Q.714]] | SCCP手順<br />Signalling connection control part procedures | |- | [[Q.730]] | ISDN付加サービスの信号手順<br />ISDN user part supplementary services | |- | [[Q.731]] | 番号通知付加サービスの信号手順 | |- | [[Q.732]] | 呼提供付加サービスの信号手順 | |- | [[Q.733]] | 呼完了付加サービスの信号手順 | |- | [[Q.735]] | 特定グループ付加サービス | |- | [[Q.737]] | 付加情報転送付加サービスの信号手順 | |- | [[Q.761]] | No.7信号方式ISDNユーザ部の機能<br />Signalling System No. 7 - ISDN User Part functional description | |- | [[Q.762]] | ISUP信号と信号情報の機能概要<br />Signalling System No. 7 - ISDN User Part general functions of messages and signals | |- | [[Q.763]] | ISUPフォーマットおよびコード<br />Signalling System No. 7 - ISDN User Part formats and codes | |- | [[Q.764]] | ISUP信号手順<br />Signalling System No. 7 - ISDN User Part signalling procedures | |- | [[Q.765]] | アプリケーション転送メカニズム<br />Signalling system No. 7 - Application transport mechanism | |- | [[Q.765]].5 | アプリケーション転送メカニズム-BICC<br />Signalling system No. 7 - Application transport mechanism: Bearer Independent Call Control (BICC) | |- | [[Q.766]] | ISDN応用における性能目標<br />Performance objectives in the integrated services digital network application | |- | [[Q.769]].1 | [[番号ポータビリティ]]をサポートするためのISDNユーザ部の拡張<br />Signalling system No. 7 - ISDN user part enhancements for the support of number portability | |- | [[Q.771]] | [[トランザクション]]機能の機能内容<br />Functional description of transaction capabilities | |- | [[Q.772]] | トランザクション機能情報要素定義<br />Transaction capabilities information element definitions | |- | [[Q.773]] | トランザクション機能のフォーマットと符号化<br />Transaction capabilities formats and encoding | |- | [[Q.774]] | トランザクション機能手順<br />Transaction capabilities procedures | |- | [[Q.816]] | [[CORBA]]技術に基づくTMNサービス<br />CORBA-based TMN services | |- | [[Q.816]].1 | CORBA技術に基づくTMNサービスの粗粒度インタフェース拡張<br />CORBA-based TMN services: Extensions to support coarse-grained interfaces | |- | [[Q.850]] | [[ディジタル加入者線]]信号方式No.1(DSS1)およびNo.7信号方式ISDNユーザ部(ISUP) における理由表示の使用法および生成源 | |- | [[Q.920]] | ISDN[[ユーザ・網インタフェース]] レイヤ2概要<br />ISDN user-network interface data link layer - General aspects | |- | [[Q.921]] | ISDNユーザ・網インタフェース レイヤ2仕様<br />ISDN user-network interface - Data link layer specification | |- | [[Q.922]] | ISDNフレームモードベアラサービス レイヤ2仕様<br />ISDN data link layer specification for frame mode bearer services | |- | [[Q.923]] | ISDN環境におけるOSIコネクション型ネットワークサービスのための[[同期方式|同期]]転送コーディネーション機能仕様<br />Specification of a synchronization and coordination function for the provision of the OSI connection-mode network service in an ISDN environment | |- | [[Q.930]] | ISDN[[ユーザ・網インタフェース]] レイヤ3概要<br />ISDN user-network interface layer 3 - General aspects | |- | [[Q.931]] | ISDNユーザ・網インタフェース レイヤ3仕様<br />ISDN user-network interface layer 3 specification for basic call control | |- | [[Q.932]] | ISDN付加サービス制御手順の共通原則<br />Digital subscriber signalling system No. 1 - Generic procedures for the control of ISDN supplementary services | |- | [[Q.933]] | ISDNフレームモードベアラサービス レイヤ3仕様<br />ISDN Digital Subscriber Signalling System No. 1 (DSS1) - Signalling specifications for frame mode switched and permanent virtual connection control and status monitoring | |- | [[Q.939]] | ISDNテレコミュニケーションサービスのための典型的DSS1サービス識別コーディング<br />Typical DSS 1 service indicator codings for ISDN telecommunications services | |- | [[Q.950]] | ISDN[[ユーザ・網インタフェース]] 付加サービスのプロトコル、構造及び一般原則<br />Supplementary services protocols, structure and general principles | |- | [[Q.951]] | ISDNユーザ・網インタフェース 番号通知付加サービス | |- | [[Q.1200]] | Q.1200シリーズのガイダンス | |- | [[Q.1218]] | インテリジェントネットワーク網間インタフェース<br />Interface Recommendation for intelligent network CS-1 | |- | [[Q.1224]] | IN(インテリジェントネットワーク)網間インタフェース能力セット2-分散機能<br />Distributed functional plane for intelligent network Capability Set 2 | |- | [[Q.1225]] | IN(インテリジェントネットワーク)網間インタフェース能力セット2-[[物理層|物理]]プレーン<br />Physical plane for Intelligent Network Capability Set 2 | |- | [[Q.1228]] | IN(インテリジェントネットワーク)網間インタフェース能力セット2-プロトコル<br />Interface Recommendation for intelligent network Capability Set 2 | |- | [[Q.1238]].1 | 地域網-サービス提供網IN(インテリジェントネットワーク)インタフェース能力セット3—共通規定 | |- | [[Q.1238]].2 | 地域網-サービス提供網IN(インテリジェントネットワーク)インタフェース能力セット3—SCF-SSFインタフェース | |- | [[Q.1600]] | ISUPおよびINAP間の相互動作<br />Signalling System No. 7 - Interaction between ISUP and INAP | |- | [[Q.1601]] | N-ISDNおよびINAP能力セット2間のISUP相互動作<br />Signalling system No. 7 - Interaction between N-ISDN and INAP CS-2 | |- | [[Q.1701]] | [[IMT-2000]]網のフレームワーク<br />Framework for IMT-2000 networks | |- | [[Q.1711]] | IMT-2000網機能モデル<br />Network functional model for IMT-2000 | |- | [[Q.1731]] | IMT-2000無線レイヤ2のための要求条件—無線技術非依存編<br />Radio-technology independent requirements for IMT-2000 layer 2 radio interface | |- | [[Q.1751]] | 網間接続信号要求条件IMT-2000能力セット1<br />Internetwork signalling requirements for IMT-2000 capability set 1 | |- | [[Q.1901]] | ベアラに依存しない呼制御プロトコル<br />Bearer Independent Call Control protocol | |- | [[Q.2100]] | 広帯域ISDNシグナリング用ATMアダプテーションレイヤ概要記述 | |- | [[Q.2110]] | 広帯域ISDN AALサービス依存コネクション型プロトコル(SSCOP)<br />B-ISDN ATM adaptation layer - Service specific connection oriented protocol (SSCOP) | |- | [[Q.2130]] | 広帯域ISDN [[ユーザ・網インタフェース|UNI]]シグナリング用AALサービス依存コーディネーション機能(SSCF-UNI)<br />B-ISDN signalling ATM adaptation layer - Service specific coordination function for support of signalling at the user-network interface (SSCF at UNI) | |- | [[Q.2140]] | 広帯域ISDN [[NNI]]シグナリング用AALサービス依存コーディネーション機能(SSCF-NNI)<br />B-ISDN ATM adaptation layer - Service specific coordination function for signalling at the network node interface (SSCF at NNI) | |- | [[Q.2144]] | B-ISDNシグナリング用ATMアダプテーションレイヤ - NNIでのSAALのためのレイヤマネジメント<br />B-ISDN signalling ATM adaptation layer - Layer management for the SAAL at the network node interface | |- | [[Q.2210]] | [[Q.2140]]のサービスを使用するメッセージ転送部レベル3機能とメッセージ<br />Message transfer part level 3 functions and messages using the services of ITU-T Recommendation Q.2140 | |- | [[Q.2610]] | 広帯域ISDN DSS2 及びB-ISUPに於ける理由表示の使用方法及び生成源<br />Usage of cause and location in B-ISDN user part and DSS2 | |- | [[Q.2650]] | 広帯域ISDN (B-ISDN) No.7信号方式B-ISDN B-ISDNユーザ部(B-ISUP)と[[ディジタル加入者線]]信号方式No.2(DSS2)とのインターワーキング<br />Interworking between signalling system No. 7 broadband ISDN User Part (B-ISUP) and digital subscriber signalling system No. 2 (DSS2) | |- | [[Q.2723]] | 広帯域ISDN (B-ISDN) No.7信号方式B-ISDNユーザ部(B-ISUP)追加パラメータ | |- | [[Q.2725]].2 | [廃止] B-ISDNユーザ部変更手順<br />[Withdrawn] B-ISDN User Part - Modification procedures | |- | [[Q.2726]].4 | B-ISDNユーザ部の拡張アプリケーション生成識別子<br />Extensions to the B-ISDN user part - Application generated identifiers | |- | [[Q.2761]] | 広帯域ISDN (B-ISDN) No.7信号方式B-ISDNユーザ部 (B-ISUP) の機能<br />Functional description of the B-ISDN user part (B-ISUP) of signalling system No. 7 | |- | [[Q.2762]] | 広帯域ISDN (B-ISDN) No.7信号方式B-ISDNユーザ部 (B-ISUP) 信号と信号機能の機能概要<br />General functions of messages and signals of the B-ISDN User Part (B-ISUP) of Signalling System No. 7 | |- | [[Q.2763]] | 広帯域ISDN (B-ISDN) No.7信号方式B-ISDNユーザ部 (B-ISUP) フォーマット及びコード<br />Signalling System No. 7 B-ISDN User Part (B-ISUP) - Formats and codes | |- | [[Q.2764]] | 広帯域ISDN (B-ISDN) No.7信号方式B-ISDNユーザ部 (B-ISUP) 基本呼手順<br />Signalling System No. 7 B-ISDN User Part (B-ISUP) - Basic call procedures | |- | [[Q.2931]] | 広帯域ISDN (B-ISDN) [[ユーザ・網インタフェース]]レイヤ3仕様 基本呼/コネクション制御<br />Digital Subscriber Signalling System No. 2 - User-Network Interface ([[ユーザ・網インタフェース|UNI]]) layer 3 specification for basic call/connection control | |- | [[Q.2932]].1 | 広帯域ISDN (B-ISDN) [[ディジタル加入者線]]信号方式No. 2 (DSS2) 汎用ファンクショナルプロトコル<br />Core functions | |- | [[Q.2934]] | 広帯域ISDN (B-ISDN) ディジタル加入者線信号方式No. 2 (DSS2)交換型バーチャルパス能力<br />Digital subscriber signalling system No. 2 - Switched virtual path capability | |- | [[Q.2941]].1 | 広帯域ISDN (B-ISDN) ディジタル加入者線信号方式No.2 (DSS2) 汎用識別子転送<br />Digital Subscriber Signalling System No. 2 - Generic identifier transport | |- | [[Q.2941]].2 | 広帯域ISDN (B-ISDN) ディジタル加入者線信号方式No. 2 (DSS2) 汎用識別子転送の拡張<br />Digital Subscriber Signalling System No. 2 - Generic identifier transport extensions | |- | [[Q.2951]] | 広帯域ISDN (B-ISDN) ディジタル加入者線信号方式No. 2 (DSS2) 基本呼を利用する番号通知付加サービスのためのステージ3記述<br />Stage 3 description for number identification supplementary services using B-ISDN Digital Subscriber Signalling System No. 2 (DSS2 ) - Basic Call | |- | [[Q.2955]].1 | 広帯域ISDN (B-ISDN) ディジタル加入者線信号方式No. 2 (DSS2) を利用する特定グループ付加サービスのためのステージ3記述—閉域接続 (CUG)<br />Closed User Group (CUG) | |- | [[Q.2957]].1 | 広帯域ISDN (B-ISDN) ディジタル加入者線信号方式No. 2 (DSS2) 基本呼を利用する付加情報転送付加サービスのためのステージ3記述-ユーザ・ユーザ情報転送 (UUS)<br />Stage 3 description for additional information transfer supplementary services using B-ISDN digital subscriber signalling system No. 2 (DSS2) - Basic call : User-to-user signalling (UUS) | |- | [[Q.2961]].1 | 広帯域ISDN (B-ISDN) ディジタル加入者線信号方式No. 2 (DSS2) 追加トラヒックパラメータ<br />Additional signalling capabilities to support traffic parameters for the tagging option and the sustainable cell rate parameter set | |- | [[Q.2961]].2 | 広帯域ISDN (B-ISDN) ディジタル加入者線信号方式No. 2 (DSS2) 広帯域伝達能力情報要素における[[非同期転送モード|ATM]]転送能力の提供<br />Digital subscriber signalling system No. 2 - Additional traffic parameters : Support of ATM Transfer capability in the broadband bearer capability information element | |- | [[Q.2961]].3 | 広帯域ISDN (B-ISDN) ディジタル加入者線信号方式No. 2 (DSS2) 追加トラヒックパラメータ: ABR ATM転送能力サポートのための信号能力<br />Signalling capabilities to support traffic parameters for the available bit rate (ABR) ATM transfer capability | |- | [[Q.2961]].6 | 広帯域ISDN (B-ISDN) ディジタル加入者線信号方式No. 2 (DSS2) SBR2および SBR3 ATM転送能力サポートのための追加信号手順<br />Additional signalling procedures for the support of the SBR2 and SBR3 ATM transfer capabilities | |- | [[Q.2962]].1 | 広帯域ISDN (B-ISDN) ディジタル加入者線信号方式No. 2 (DSS2) 呼/コネクション設定時のコネクション特性の交渉 | |- | [[Q.2963]].1 | 広帯域ISDN (B-ISDN) ディジタル加入者線信号方式No. 2 (DSS2) コネクション特性変更-コネクション所有者によるピークセルレート変更<br />Peak cell rate modification by the connection owner | |- | [[Q.2965]].1 | 広帯域ISDN (B-ISDN) ディジタル加入者線信号方式No. 2 (DSS2) QoSクラスのサポート<br />Digital subscriber signalling system No. 2 - Support of Quality of Service classes | |- | [[Q.2971]] | 広帯域ISDN DSS2 [[ユーザ・網インタフェース]]レイヤ3仕様 ポイント・マルチポイント呼/コネクション制御<br />Digital Subscriber Signalling System No. 2 (DSS2) - User-network interface layer 3 specification for point-to-multipoint call/connection control | |- | [[Q.3401]] | [[Next Generation Network|NGN]] [[網・網インタフェース|NNI]]シグナリングプロファイルプロトコルセット1<br />NGN NNI signalling profile | |} === Rシリーズ勧告 === Rシリーズ勧告は、「電信伝送」に関する規定を定める。 === Sシリーズ勧告 === Sシリーズ勧告は、「電信サービス端末装置」に関する規定を定める。 === Tシリーズ勧告 === Tシリーズ勧告は、「テレマティークサービス端末」に関する規定を定める。 {| class="wikitable" |- ! style="width: 6.4em;" | 規格番号 ! 名称 ! style="width: 8em;" | 関連規格 |- | T.4 | 文書伝送用グループ3[[ファクシミリ]]装置の端末特性<br />Standardization of Group 3 facsimile terminals for document transmission | |- | [[T.17]] | Protocols for interactive audiovisual services: Coded representation of multimedia and hypermedia objects | [[ISO/IEC 13522]]-1 |- | [[T.30]] | 一般交換電話網における文書[[ファクシミリ]]伝送手順<br />Procedures for document facsimile transmission in the general switched telephone network | |- | [[T.33]] | サブアドレスを用いたファクシミリルーティング<br />Facsimile routing utilizing the Subaddress | |- | [[T.37]] | 蓄積交換型のインターネットファクシミリデータ伝送手順<br />Procedures for the transfer of facsimile data via store-and-forward on the Internet | |- | [[T.38]] | IPネットワーク上のリアルタイムグループ3ファクシミリ通信手順<br />Procedures for real-time Group 3 facsimile communication over IP networks | |- | [[T.42]] | ファクシミリのための連続階調カラー表現方式<br />Continuous-tone colour representation method for facsimile | |- | [[T.43]] | ファクシミリのための可逆符号化方式を用いたカラーと単色多値画像表現<br />Colour and gray-scale image representations using lossless coding scheme for facsimile | |- | [[T.44]] | Mixed Raster Content (MRC) | [[ISO/IEC 16485]] |- | [[T.50]] | International Reference Alphabet (IRA) (Formerly International Alphabet No. 5 or IA5) - Information technology - 7-bit coded character set for information interchange | [[ISO/IEC 646]] |- | [[T.81]] | Information technology - Digital compression and coding of continuous-tone still images - Requirements and guidelines | [[ISO/IEC 10918]]-1 |- | [[T.82]] | Information technology - Coded representation of picture and audio information - Progressive bi-level image compression | [[ISO/IEC 11544]] |- | [[T.83]] | Information technology - Digital compression and coding of continuous-tone still images: Compliance testing | [[ISO/IEC 10918]]-2 |- | [[T.84]] | Information technology - Digital compression and coding of continuous-tone still images: Extensions | [[ISO/IEC 10918]]-3 |- | [[T.85]] | [[ファクシミリ]]装置のための階層的[[二値画像]]圧縮([[JBIG]]符号化方式)のアプリケーションプロファイル<br />Application profile for Recommendation T.82 - Progressive bi-level image compression (JBIG coding scheme) for facsimile apparatus | |- | [[T.86]] | Information technology - Digital compression and coding of continuous-tone still images: Registration of [[JPEG]] Profiles, SPIFF Profiles, SPIFF Tags, SPIFF colour Spaces, APPn Markers, SPIFF Compression types and Registration authorities (REGAUT) | [[ISO/IEC 10918]]-4 |- | [[T.87]] | Information technology - Lossless and near-lossless compression of continuous-tone still images - Baseline | [[ISO/IEC 14495]]-1 |- | [[T.88]] | Information technology - Coded representation of picture and audio information - Lossy/lossless coding of bi-level images | [[ISO/IEC 14492]] |- | [[T.90]] | ISDNにおけるテレマティックサービスのための端末の特性とプロトコル<BR>Application profiles for Recommendation T.88 - Lossy/lossless coding of bi-level images ([[JBIG]]2) for facsimile | |- | [[T.101]] | International interworking for Videotex services | |- | [[T.122]] | オーディオグラフィック会議のための多地点通信サービス-サービス定義 | |- | [[T.123]] | オーディオグラフィック会議のためのプロトコルスタック | |- | [[T.124]] | 一般的会議制御 | |- | [[T.125]] | オーディオグラフィック会議のための多地点通信サービス-プロトコル仕様 | |- | [[T.171]] | Protocols for interactive audiovisual services: Coded representation of multimedia and hypermedia objects | [[ISO/IEC 13522]]-1 |- | [[T.172]] | [[MHEG-5]] - Support for base-level interactive applications | [[ISO/IEC 13522-5]]<BR>[[JIS X 4345]] |- | [[T.190]] | 共同文書処理<br />Cooperative Document Handling (CDH) - Framework and basic services | |- | [[T.411]] | [[開放型文書体系]](ODA)及び交換様式—第1部 総則<br />Information technology - Open Document Architecture (ODA) and interchange format: Introduction and general principles | [[ISO/IEC 8613]]-1<BR>[[JIS X 4101]] |- | [[T.412]] | 開放型文書体系(ODA)及び交換様式—第2部 文書構造<br />Information technology - Open Document Architecture (ODA) and interchange format: Document structures | [[ISO/IEC 8613]]-2<BR>[[JIS X 4102]] |- | [[T.413]] | 開放型文書体系(ODA)及び交換様式—第3部 ODA文書の操作のための抽象界面<br />Information technology - Open Document Architecture (ODA) and interchange format: Abstract interface for the manipulation of ODA documents | [[ISO/IEC 8613]]-3<BR>[[JIS X 4103]] |- | [[T.414]] | 開放型文書体系(ODA)及び交換様式—第4部 文書概要<br />Information technology - Open Document Architecture (ODA) and interchange format: Document profile | [[ISO/IEC 8613]]-4<BR>[[JIS X 4104]] |- | [[T.415]] | 開放型文書体系(ODA)及び交換様式—第5部 開放型文書交換様式 (ODIF)<br />Information technology - Open Document Architecture (ODA) and interchange format: Open document interchange format (ODIF) | [[ISO/IEC 8613]]-5<BR>[[JIS X 4105]] |- | [[T.416]] | 開放型文書体系(ODA)及び交換様式—第6部 文字内容体系<br />Information technology - Open Document Architecture (ODA) and interchange format: Character content architectures | [[ISO/IEC 8613]]-6<BR>[[JIS X 4106]] |- | [[T.417]] | 開放型文書体系(ODA)及び交換様式—第7部 ラスタ図形内容体系<br />Information technology - Open Document Architecture (ODA) and interchange format: Raster graphics content architectures | [[ISO/IEC 8613]]-7<BR>[[JIS X 4107]] |- | [[T.418]] | 開放型文書体系(ODA)及び交換様式—第8部 幾何学図形内容体系<br />Information technology - Open Document Architecture (ODA) and interchange format: Geometric graphics content architecture | [[ISO/IEC 8613]]-8<BR>[[JIS X 4108]] |- | [[T.419]] | 開放型文書体系(ODA)及び交換様式—第9部 音響内容体系<br />Information technology - Open Document Architecture (ODA) and interchange format: Audio content architectures | [[ISO/IEC 8613]]-9<BR>[[JIS X 4109]] |- | [[T.421]] | 開放型文書体系(ODA)及び交換様式—第11部 表構造及び表組み<br />Information technology - Open Document Architecture (ODA) and interchange format: Tabular structures and tabular layout | [[ISO/IEC 8613]]-11<BR>[[JIS X 4111]] |- | [[T.422]] | 開放型文書体系(ODA)及び交換様式—第12部 文書断片の識別<br />Information technology - Open Document Architecture (ODA) and interchange format: Identification of document fragments | [[ISO/IEC 8613]]-12<BR>[[JIS X 4112]] |- | [[T.424]] | 開放型文書体系(ODA)及び交換様式—第14部 時間関係及び非線形構造<br />Information technology - Open Document Architecture (ODA) and interchange format: Temporal relationships and non-linear structures | [[ISO/IEC 8613]]-14<BR>[[JIS X 4114]] |- | [[T.431]] | ドキュメント転送と操作 (DTAM) -サービスとプロトコル- 概要と一般原則<br />Document Transfer And Manipulation (DTAM) - Services and protocols - Introduction and general principles | |- | [[T.432]] | ドキュメント転送と操作 (DTAM) -サービスとプロトコル- サービス定義<br />Document Transfer And Manipulation (DTAM) - Services and protocols - Service definition | |- | [[T.433]] | ドキュメント転送と操作 (DTAM) -サービスとプロトコル- プルトコル仕様<br />Document Transfer And Manipulation (DTAM) - Services and protocols - Protocol specification | |- | [[T.434]] | テレマティックサービスのためのバイナリファイル転送フォーマット<br />Binary file transfer format for the telematic services | |- | [[T.502]] | プロセッサブル形式及びフォーマット化形式におけるキャラクタコンテント ドキュメント交換のためのドキュメントアプリケーションプロファイル PM-11<br />Document application profile PM-11 for the interchange of simple structure, character content documents in processable and formatted forms | ISO/IEC ISP 10610-1 |- | [[T.503]] | グループ4[[ファクシミリ]]文書交換のためのドキュメントアプリケーションプロファイル<BR>Document application profile for the interchange of Group 4 facsimile documents | |- | [[T.505]] | プロセッサブル形式及びフォーマット化形式におけるミクストコンテント ドキュメント交換のためのドキュメントアプリケーションプロファイル PM-26<br />Document application profile PM-26 for the interchange of enhanced structure, mixed content documents in processable and formatted forms | ISO/IEC ISP 11181-1 |- | [[T.506]] | Document application profile PM-36 for the interchange of extended document structures and mixed content documents in processable and formatted forms | ISO/IEC ISP 11182-1 |- | [[T.521]] | (ITU-T勧告T.62bisの規則に準拠した)セッションサービスに基づくドキュメントバルク転送のための通信アプリケーションプロファイルBT0<br />Communication application profile BT0 for document bulk transfer based on the session service | |- | [[T.522]] | ドキュメントバルク転送のための通信アプリケーションプロファイルBT1<br />Communication application profile BT1 for document bulk transfer | |- | [[T.563]] | グループ4[[ファクシミリ]]装置の端末特性<br />Terminal characteristics for Group 4 facsimile apparatus | |- | [[T.800]] | [[JPEG 2000|JPEG2000画像符号処理システム]]—第1部:基本符号処理<br />Information technology - [[JPEG 2000]] image coding system: Core coding system | [[ISO/IEC 15444]]-1<br />[[JIS X 4350]]-1 |- | [[T.801]] | JPEG2000画像符号処理システム—第2部:拡張<br />Information technology - JPEG 2000 image coding system: Extensions | [[ISO/IEC 15444]]-2<br />[[JIS X 4350]]-2 |- | [[T.802]] | JPEG2000画像符号処理システム—第3部:モーションJPEG2000<br />Information technology - JPEG 2000 image coding system: Motion JPEG 2000 | [[ISO/IEC 15444]]-3<br />[[JIS X 4350]]-3 |- | [[T.803]] | Information technology - JPEG 2000 image coding system: Conformance testing | [[ISO/IEC 15444]]-4 |- | [[T.804]] | Information technology - JPEG 2000 image coding system: Reference software | [[ISO/IEC 15444]]-5 |- | [[T.807]] | Information technology - JPEG 2000 image coding system: Secure JPEG 2000 | [[ISO/IEC 15444]]-8 |- | [[T.808]] | Information technology - JPEG 2000 image coding system: Interactivity tools, APIs and protocols | [[ISO/IEC 15444]]-9 |- | [[T.870]] | Information technology - Lossless and near-lossless compression of continuous-tone still images: Extensions | [[ISO/IEC 14495]]-2 |} === Uシリーズ勧告 === Uシリーズ勧告は、「電信交換」に関する規定を定める。 === Vシリーズ勧告 === Vシリーズ勧告は、「電話網上の[[データ通信]]」に関する規定を定める。 {| class="wikitable" |- ! style="width: 6.4em;" | 規格番号 ! 名称 ! style="width: 8em;" | 関連規格 |- | [[V.24]] | List of definitions for interchange circuits between data terminal equipment ([[DTE]]) and data circuit-terminating equipment (DCE) | |- | [[V.32]] | A family of 2-wire, duplex modems operating at data signalling rates of up to 9600 bit/s for use on the general switched telephone network and on leased telephone-type circuits | |- | [[V.32]]bis | A duplex modem operating at data signalling rates of up to 14 400 bit/s for use on the general switched telephone network and on leased point-to-point 2-wire telephone-type circuits | |- | [[V.43]] | Data flow control | [[ISO/IEC 15294]] |- | [[V.90]] | A digital modem and analogue modem pair for use on the Public Switched Telephone Network (PSTN) at data signalling rates of up to 56 000 bit/s downstream and up to 33 600 bit/s upstream | |- | [[V.110]] | [[ISDN]]によるVシリーズインタフェースを持つ [[データ端末装置]](DTE)のサポート とインタフェース仕様<br />Support by an ISDN of data terminal equipments with V-Series type interfaces | |- | [[V.120]] | ISDNによるVシリーズインタフェース・データ端末装置のサポートとインタフェース仕様(統計的多重法)<BR>Support by an ISDN of data terminal equipment with V-Series type interfaces with provision for statistical multiplexing | |- | [[V.140]] | 64kbit/sおよび56kbit/sの整数倍のデジタルチャネルを使用した複数プロトコルを持つオーディオビジュアル端末間の通信確立手順<BR>Procedures for establishing communication between two multiprotocol audiovisual terminals using digital channels at a multiple of 64 or 56 kbit/s | |} === Xシリーズ勧告 === Xシリーズ勧告は、「データ網及びオープン・システム・コミュニケーション」に関する規定を定める。 {| class="wikitable" |- ! style="width: 6.4em;" | 規格番号 ! 名称 ! style="width: 8em;" | 関連規格 |- | [[X.25]] | X.25パケットモード端末インタフェース<br />Interface between Data Terminal Equipment (DTE) and Data Circuit-terminating Equipment (DCE) for terminals operating in the packet mode and connected to public data networks by dedicated circuit | |- | [[X.30]] | ISDNによるX.21、X.21bis、 及びX.20bis データ 端末装置のサポートとインタフェース仕様<br />Support of X.21, X.21 bis and X.20 bis based Data Terminal Equipments (DTEs) by an Integrated Services Digital Network (ISDN) | |- | [[X.31]] | ISDNによるパケットモード端末のサポートとインタフェース仕様<br />Support of packet mode terminal equipment by an ISDN | |- | [[X.32]] | X.32パケットモード端末インタフェース<br />Interface between Data Terminal Equipment (DTE) and Data Circuit-terminating Equipment (DCE) for terminals operating in the packet mode and accessing a packet-switched public data network through a public switched telephone network or an integrated services digital network or a circuit-switched public data network | |- | [[X.36]] | フレームリレーデータ伝送サービスを提供する公衆データ網のためのデータ端末装置 (DTE) と[[データ回線終端装置]] (DCE) 間のインタフェース<br />Interface between data terminal equipment (DTE) and data circuit-terminating equipment (DCE) for public data networks providing frame relay data transmission service by dedicated circuit | |- | [[X.75]] | データ伝送サービスを提供する公衆網間のパケット交換信号方式<br />Packet-switched signalling system between public networks providing data transmission services | |- | [[X.76]] | フレームリレーデータ伝送サービスを提供する公衆網の網間インタフェース<br />Network-to-network interface between public networks providing PVC and/or SVC frame relay data transmission service | |- | [[X.200]] | [[開放型システム間相互接続]] — 基本参照モデル<br />Information technology - Open Systems Interconnection - Basic Reference Model: The basic model | [[ISO/IEC 7498]]-1<br />[[JIS X 5003]] |- | [[X.207]] | 開放型システム間相互接続 — [[応用層]]構造<br />Information technology - Open Systems Interconnection - Application layer structure | [[ISO/IEC 9545]]<br />[[JIS X 5720]] |- | [[X.210]] | Information technology - Open Systems Interconnection - Basic Reference Model: Conventions for the definition of OSI services | [[ISO/IEC 10731]] |- | [[X.211]] | Information technology - Open Systems Interconnection - Physical service definition | [[ISO/IEC 10022]] |- | [[X.212]] | [[開放型システム間相互接続]] — [[データリンク層|データリンク]]サービス定義<BR>Information technology - Open Systems Interconnection - Data Link service definition | [[ISO/IEC 8886]]<br />[[JIS X 5205]] |- | [[X.213]] | 開放型システム間相互接続のコネクション型ネットワークサービス定義<br />Information technology – Open Systems Interconnection – Network service definition | [[ISO/IEC 8348]]<br />[[JIS X 5301]] |- | [[X.214]] | 開放型システム間相互接続—[[トランスポート層|トランスポート]]サービス定義<br />Information technology - Open Systems Interconnection - Transport service definition | [[ISO/IEC 8072]]<br />[[JIS X 5108]] |- | [[X.215]] | 開放型システム間相互接続—[[セション層|セション]]サ—ビス定義<br />Information technology - Open Systems Interconnection - Session service definition | [[ISO/IEC 8326]]<br />[[JIS X 5201]] |- | [[X.216]] | 開放型システム間相互接続—[[プレゼンテーション層|プレゼンテーション]]サービス定義<br />Information technology - Open Systems Interconnection - Presentation service definition | [[ISO/IEC 8822]]<br />[[JIS X 5601]] |- | [[X.217]] | 開放型システム間相互接続—アソシエーション制御サービス要素のサービス定義<br />Information technology - Open Systems Interconnection - Service definition for the Association Control Service Element | [[ISO/IEC 8649]]<br />[[JIS X 5701]] |- | [[X.217]]bis | Information technology - Open Systems Interconnection - Service definition for the Application Service Object Association Control Service Element | [[ISO/IEC 15953]] |- | [[X.218]] | Reliable Transfer: Model and service definition | [[ISO/IEC 9066]]-1 |- | [[X.219]] | [[遠隔操作]]—第1部モデル, 記法及びサービス定義<br />Remote Operations: Model, notation and service definition | [[ISO/IEC 9072]]-1<br />[[JIS X 5708]] |- | [[X.222]] | Use of X.25 LAPB-compatible Data Link procedures to provide the OSI connection-mode Data Link service | [[ISO/IEC 11575]] |- | [[X.223]] | Use of X.25 to provide the OSI connection-mode Network service for ITU-T applications | [[ISO/IEC 8878]] |- | [[X.224]] | [[開放型システム間相互接続]]—コネクション型トランスポートプロトコル仕様<br />Information technology - Open Systems Interconnection - Protocol for providing the connection-mode transport service | [[ISO/IEC 8073]]<br />[[JIS X 5109]] |- | [[X.225]] | 開放型システム間相互接続—コネクション型セションプロトコル—プロトコル仕様<BR>Information technology - Open Systems Interconnection - Connection-oriented Session protocol: Protocol specification | [[ISO/IEC 8327]]-1<br />[[JIS X 5202]] |- | [[X.226]] | 開放型システム間相互接続—コネクション型プレゼンテーションプロトコル仕様<br />Information technology - Open Systems Interconnection - Connection-oriented Presentation protocol: Protocol specification | [[ISO/IEC 8823]]-1<br />[[JIS X 5602]] |- | [[X.227]] | 開放型システム間相互接続—アソシエーション制御サービス要素のプロトコル仕様<br />Information technology - Open Systems Interconnection - Connection-oriented protocol for the Association Control Service Element: Protocol specification | [[ISO/IEC 8650]]-1<br />[[JIS X 5702]] |- | [[X.227]]bis | Information technology - Open Systems Interconnection - Connection-mode protocol for the Application Service Object Association Control Service Element | [[ISO/IEC 15954]] |- | [[X.228]] | Reliable Transfer: Protocol specification | [[ISO/IEC 9066]]-2 |- | [[X.229]] | [[遠隔操作]]—第2部プロトコル仕様<br />Remote Operations: Protocol specification | [[ISO/IEC 9072]]-2<br />[[JIS X 5709]] |- | [[X.233]] | 開放型システム間相互接続—コネクションレス型ネットワークプロトコル—第1部:プロトコル仕様<br />Information technology - Protocol for providing the connectionless-mode network service: Protocol specification | [[ISO/IEC 8473]]-1<br />[[JIS X 5304]]-1 |- | [[X.234]] | Information technology - Protocol for providing the OSI connectionless-mode transport service | [[ISO/IEC 8602]] |- | [[X.235]] | Information technology - Open Systems Interconnection - Connectionless Session protocol: Protocol specification | [[ISO/IEC 9548]]-1 |- | [[X.236]] | Information technology - Open Systems Interconnection - Connectionless Presentation protocol: Protocol specification | [[ISO/IEC 9576]]-1 |- | [[X.237]] | Information technology - Open Systems Interconnection - Connectionless protocol for the Association Control Service Element: Protocol specification | [[ISO/IEC 10035]]-1 |- | [[X.237]]bis | Information technology - Open Systems Interconnection - Connectionless protocol for the Application Service Object Association Control Service Element | [[ISO/IEC 15955]] |- | [[X.245]] | Information technology - Open Systems Interconnection - Connection-oriented Session protocol: Protocol Implementation Conformance Statement (PICS) proforma | [[ISO/IEC 8327]]-2 |- | [[X.246]] | Information technology - Open Systems Interconnection - Connection-oriented Presentation protocol: Protocol Implementation Conformance Statement (PICS) proforma | [[ISO/IEC 8823]]-2 |- | [[X.247]] | Information technology - Open Systems Interconnection - Protocol specification for the Association Control Service Element: Protocol Implementation Conformance Statement (PICS) proforma | [[ISO/IEC 8650]]-2 |- | [[X.248]] | Information technology - Open Systems Interconnection - Reliable Transfer: Protocol Implementation Conformance Statement (PICS) proforma | [[ISO/IEC 9066]]-3 |- | [[X.249]] | Information technology - Open Systems Interconnection - Remote Operations: Protocol Implementation Conformance Statement (PICS) proforma | [[ISO/IEC 9072]]-3 |- | [[X.255]] | Information technology - Open Systems Interconnection - Connectionless Session protocol: Protocol Implementation Conformance Statement (PICS) proforma | [[ISO/IEC 9548]]-2 |- | [[X.256]] | Information technology - Open Systems Interconnection - Connectionless Presentation protocol: Protocol Implementation Conformance Statement (PICS) proforma | [[ISO/IEC 9576]]-2 |- | [[X.257]] | Information technology - Open Systems Interconnection - Connectionless protocol for the Association Control Service Element: Protocol Implementation Conformance Statement (PICS) proforma | [[ISO/IEC 10035]]-2 |- | [[X.260]] | Information technology - Framework for protocol identification and encapsulation | [[ISO/IEC 14765]] |- | [[X.263]] | Information technology - Protocol identification in the Network Layer | ISO/IEC TR 9577 |- | [[X.264]] | Transport protocol identification mechanism | [[ISO/IEC 11570]] |- | [[X.273]] | Information technology - Open Systems Interconnection - Network layer security protocol | [[ISO/IEC 11577]] |- | [[X.274]] | Information technology - Telecommunication and information exchange between systems - Transport layer security protocol | [[ISO/IEC 10736]] |- | [[X.281]] | システム間の通信及び情報交換—OSI[[物理層]]規格に関する管理情報要素<br />Information technology - Elements of management information related to the OSI Physical Layer | [[ISO/IEC 13642]]<br />[[JIS X 5310]] |- | [[X.282]] | システム間の通信及び情報交換—OSI[[データリンク層]]規格に関する管理情報要素<br />Elements of management information related to the OSI Data Link layer | [[ISO/IEC 10742]]<br />[[JIS X 5309]] |- | [[X.283]] | システム間の通信及び情報交換—OSI[[ネットワーク層]]規格に関する管理情報要素<br />Information technology - Elements of management information related to the OSI Network layer | [[ISO/IEC 10733]]<br />[[JIS X 5306]] |- | [[X.284]] | システム間の通信及び情報交換—OSI[[トランスポート層]]規格に関する管理情報要素<br />Information technology - Elements of management information related to the OSI Transport layer | [[ISO/IEC 10737]]<br />[[JIS X 5307]] |- | [[X.287]] | Information technology - Open Systems Interconnection - Structure of management information: Managed objects for supporting upper layers | [[ISO/IEC 10165]]-8 |- | [[X.290]] | OSI conformance testing methodology and framework for protocol Recommendations for ITU-T applications - General concepts | [[ISO/IEC 9646]]-1 |- | [[X.291]] | OSI conformance testing methodology and framework for protocol Recommendations for ITU-T applications - Abstract test suite specification | ISO/IEC 9646-2 |- | [[X.292]] | OSI conformance testing methodology and framework for protocol Recommendations for ITU-T applications - The Tree and Tabular Combined Notation (TTCN) | ISO/IEC 9646-3 |- | [[X.293]] | OSI conformance testing methodology and framework for protocol Recommendations for ITU-T applications - Test realization | ISO/IEC 9646-4 |- | [[X.294]] | OSI conformance testing methodology and framework for protocol Recommendations for ITU-T applications - Requirements on test laboratories and clients for the conformance assessment process | ISO/IEC 9646-5 |- | [[X.295]] | OSI conformance testing methodology and framework for protocol Recommendations for ITU-T applications - Protocol profile test specification | ISO/IEC 9646-6 |- | [[X.296]] | OSI conformance testing methodology and framework for protocol Recommendations for ITU-T applications - Implementation conformance statements | ISO/IEC 9646-7 |- | [[F.400/X.400]] | [[メッセージ指向型文書交換システム]]([[MOTIS]])—第1部 システム及びサービスの概要<br />[[Message Handling System]] and service overview | [[ISO/IEC 10021]]-1<br />[[JIS X 5801]] |- | [[X.402]] | メッセージ指向型文書交換システム (MOTIS)—第2部 総合体系<br />Information technology - Message Handling Systems (MHS): Overall architecture | ISO/IEC 10021-2<br />[[JIS X 5802]] |- | [[X.404]] | Information technology - Message Handling Systems (MHS): MHS routing - Guide for messaging systems managers | ISO/IEC TR 10021-11 |- | [[X.411]] | MHS網間接続プロファイル<br />Information technology - Message Handling Systems (MHS): Message Transfer System: Abstract Service Definition and Procedures | ISO/IEC 10021-4<br />[[JIS X 5804]] |- | [[X.412]] | Information technology - Message Handling Systems (MHS): MHS routing | ISO/IEC 10021-10 |- | [[X.413]] | MHSメッセージ格納アクセスプロファイル<br />Information technology - Message Handling Systems (MHS): Message store - Abstract service definition | ISO/IEC 10021-5<br />[[JIS X 5805]] |- | [[X.419]] | [[メッセージ指向型文書交換システム]] ([[MOTIS]])—第6部 プロトコル仕様<br />Information technology - Message Handling Systems (MHS): Protocol specifications | ISO/IEC 10021-6<br />[[JIS X 5806]] |- | [[X.420]] | メッセージ指向型文書交換システム (MOTIS)—第7部 個人間メッセージ通信システム<br />Information technology - Message Handling Systems (MHS): Interpersonal Messaging System | ISO/IEC 10021-7<br />[[JIS X 5807]] |- | [[X.435]] | MHS - EDI[[メッセージ通信処理システム]]プロファイル<br />Information technology - Message Handling Systems (MHS): Electronic data interchange messaging system | ISO/IEC 10021-9<br />[[JIS X 5809]] |- | [[X.440]] | MHS - ボイスメッセージングシステムプロファイル<br />Message handling systems: Voice messaging system | |- | [[X.460]] | Information technology - [[Message Handling System]]s (MHS) Management: Model and architecture | [[ISO/IEC 11588]]-1 |- | [[X.462]] | Information technology - Message Handling Systems (MHS) Management: Logging information | ISO/IEC 11588-3 |- | [[X.467]] | Information technology - Message Handling Systems (MHS) Management: Message Transfer Agent management | ISO/IEC 11588-8 |- | [[X.481]] | Message Handling Systems - P2 protocol PICS proforma | ISO/IEC ISP 12062-2 |- | [[X.482]] | Message Handling Systems - P1 Protocol PICS proforma | ISO/IEC ISP 10611-3 |- | [[X.483]] | Message Handling Systems - P3 protocol PICS proforma | ISO/IEC ISP 10611-4 |- | [[X.484]] | Message Handling Systems - P7 protocol PICS proforma | ISO/IEC ISP 10611-5 |- | [[X.484]] | Message Handling Systems - P7 protocol PICS proforma | ISO/IEC ISP 10611-6 |- | [[X.486]] | Message Handling Systems - Pedi protocol PICS proforma | ISO/IEC ISP 12063-2 |- | [[X.487]] | Message Handling Systems - IPM-MS attributes PICS proforma | ISO/IEC ISP 12062-6 |- | [[X.488]] | Message Handling Systems - EDI-MS attributes PICS proforma | ISO/IEC ISP 12063-5 |- | [[X.500]] | [[ディレクトリ]]の基本アーキテクチャ<br />Information technology - Open Systems Interconnection - The Directory: Overview of concepts, models and services | [[ISO/IEC 9594]]-1<br />[[JIS X 5731]]-1 |- | [[X.501]] | 開放型システム間相互接続—ディレクトリ—第2部 モデル<br />Information technology - Open Systems Interconnection - The Directory: Models | [[ISO/IEC 9594]]-2<br />[[JIS X 5731]]-2 |- | [[X.509]] | 開放型システム間相互接続—ディレクトリ—第8部 認証の枠組み<br />Information technology - Open Systems Interconnection - The Directory: Public-key and attribute certificate frameworks | [[ISO/IEC 9594-8]]<br />[[JIS X 5731-8]] |- | [[X.511]] | 開放型システム間相互接続—ディレクトリ—第3部 抽象サービス定義<br />Information technology - Open Systems Interconnection - The Directory: Abstract service definition | ISO/IEC 9594-3<br />JIS X 5731-3 |- | [[X.518]] | 開放型システム間相互接続—ディレクトリ—第4部 分散操作の手順<br />Information technology - Open Systems Interconnection - The Directory: Procedures for distributed operation | ISO/IEC 9594-4<br />JIS X 5731-4 |- | [[X.519]] | 開放型システム間相互接続—ディレクトリ—第5部 プロトコル仕様<br />Information technology - Open Systems Interconnection - The Directory: Protocol specifications | ISO/IEC 9594-5<br />JIS X 5731-5 |- | [[X.520]] | ディレクトリのオブジェクトクラスと属性型<br />Information technology - Open Systems Interconnection - The Directory: Selected attribute types | ISO/IEC 9594-6 |- | [[X.521]] | 開放型システム間相互接続—ディレクトリ—第7部 代表的なオブジェクトクラス<br />Information technology - Open Systems Interconnection - The Directory: Selected object classes | ISO/IEC 9594-7<br />JIS X 5731-7 |- | [[X.525]] | 開放型システム間相互接続—ディレクトリ—第9部 複製<br />Information technology - Open Systems Interconnection - The Directory: Replication | ISO/IEC 9594-9<br />JIS X 5731-9 |- | [[X.530]] | 開放型システム間相互接続—ディレクトリ—第10部 システム管理を利用したディレクトリの管理<br />Information technology - Open Systems Interconnection - The Directory: Use of systems management for administration of the Directory | ISO/IEC 9594-10<br />JIS X 5731-10 |- | [[X.583]] | [Withdrawn] Information technology - Open Systems Interconnection - The Directory: Protocol Implementation Conformance Statement (PICS) proforma for the Directory Access Protocol | [[ISO/IEC 13248]]-1 |- | [[X.584]] | [Withdrawn] Information technology - Open Systems Interconnection - The Directory: Protocol Implementation Conformance Statement (PICS) proforma for the Directory System Protocol | ISO/IEC 13248-2 |- | [[X.585]] | [Withdrawn] Information technology - Open Systems Interconnection - The Directory: Protocol Implementation Conformance Statement (PICS) proforma for the Directory Operational Binding Management Protocol | ISO/IEC 13248-3 |- | [[X.586]] | [Withdrawn] Information technology - Open Systems Interconnection - The Directory: Protocol Implementation Conformance Statement (PICS) proforma for the Directory Information Shadowing Protocol | ISO/IEC 13248-4 |- | [[X.602]] | Information technology - Group management protocol | [[ISO/IEC 16513]] |- | [[X.603]] | Information technology - Relayed multicast protocol: Framework | [[ISO/IEC 16512]]-1 |- | [[X.603]].1 | Information technology - Relayed multicast protocol: Specification for simplex group applications | ISO/IEC 16512-2 |- | [[X.603]].2 | | ISO/IEC 16512-3 |- | [[X.605]] | Information technology - Enhanced Communications Transport Service definition | [[ISO/IEC 13252]] |- | [[X.606]] | Information technology - Enhanced Communications Transport Protocol: Specification of simplex multicast transport | [[ISO/IEC 14476]]-1 |- | [[X.606]].1 | Information technology - Enhanced Communications Transport Protocol: Specification of QoS management for simplex multicast transport | ISO/IEC 14476-2 |- | [[X.607]] | Information technology - Enhanced communications transport protocol specification: Duplex multicast transport | ISO/IEC 14476-3 |- | [[X.607]].1 | | ISO/IEC 14476-4 |- | [[X.608]] | Information technology - Enhanced communications transport protocol specification: N-plex multicast transport | ISO/IEC 14476-5 |- | [[X.608]].1 | | ISO/IEC 14476-6 |- | [[X.612]] | Information technology - Provision of the OSI connection-mode network service by packet-mode terminal equipment connected to an Integrated Services Digital Network (ISDN) | [[ISO/IEC 9574]] |- | [[X.613]] | Information technology - Use of X.25 Packet Layer Protocol in conjunction with X.21/X.21 bis to provide the OSI connection-mode Network service | [[ISO/IEC 10588]] |- | [[X.614]] | Information technology - Use of X.25 Packet Layer Protocol to provide the OSI connection-mode Network service over the telephone network | [[ISO/IEC 10732]] |- | [[X.622]] | [[開放型システム間相互接続]]—コネクションレス型ネットワークプロトコル—第3部:X.25サブネットワークによる下位サービス提供<br />Information technology - Protocol for providing the connectionless-mode Network service: Provision of the underlying service by an X.25 Subnetwork | [[ISO/IEC 8473]]-3<br />[[JIS X 5304]]-3 |- | [[X.623]] | 開放型システム間相互接続—コネクションレス型ネットワークプロトコル—第4部:OSI[[データリンク層|データリンク]]サービス実現サブネットワークによる下位サービス提供<br />Information technology - Protocol for providing the connectionless-mode Network service: Provision of the underlying service by a subnetwork that provides the OSI Data Link service | ISO/IEC 8473-4<br />JIS X5304-4 |- | [[X.625]] | Information technology - Protocol for providing the connectionless-mode Network service: Provision of the underlying service by ISDN circuit-switched B-channels | ISO/IEC 8473-5 |- | [[X.633]] | Information technology - Open Systems Interconnection - Network Fast Byte Protocol | [[ISO/IEC 14700]] |- | [[X.634]] | Information technology - Open Systems Interconnection - Transport Fast Byte Protocol | [[ISO/IEC 14699]] |- | [[X.637]] | Basic connection-oriented common upper layer requirements | ISO/IEC ISP 11188-1 |- | [[X.638]] | Minimal OSI facilities to support basic communications applications | ISO/IEC ISP 11188-3 |- | [[X.639]] | Basic connection-oriented requirements for ROSE-based profiles | ISO/IEC ISP 11188-2 |- | [[X.641]] | Information technology - Quality of service: framework | [[ISO/IEC 13236]] |- | [[X.642]] | Information technology - Quality of service - Guide to methods and mechanisms | ISO/IEC TR 13243 |- | [[X.650]] | [[OSI基本参照モデル|開放型システム間相互接続の基本参照モデル]]—名前及びアドレスの付与方法<br />Information technology - Open Systems Interconnection - Basic Reference Model: Naming and addressing | [[ISO/IEC 7498]]-3<br />[[JIS X 5005]] |- | [[X.660]] | Information technology - Open Systems Interconnection - Procedures for the operation of OSI Registration Authorities: General procedures and top arcs of the [[ASN.1]] Object Identifier tree | [[ISO/IEC 9834]]-1 |- | [[X.662]] | Information technology - Open Systems Interconnection - Procedures for the operation of OSI Registration Authorities: Registration of object identifier arcs beneath the top-level arc jointly administered by ISO and ITU-T | [[ISO/IEC 9834]]-3 |- | [[X.665]] | Information technology - Open Systems Interconnection - Procedures for the operation of OSI Registration Authorities: Registration of application processes and application entities | ISO/IEC 9834-6 |- | [[X.666]] | Information technology - Open Systems Interconnection - Procedures for the operation of OSI Registration Authorities: Joint ISO and ITU-T registration of international organizations | ISO/IEC 9834-7 |- | [[X.667]] | Information technology - Open Systems Interconnection - Procedures for the operation of OSI Registration Authorities: Generation and registration of Universally Unique Identifiers (UUIDs) and their use as [[ASN.1]] object identifier components | ISO/IEC 9834-8 |- | [[X.680]] | 情報技術—[[抽象構文記法1]](ASN.1)仕様—第1部:基本記法の仕様<br />Information technology - Abstract Syntax Notation One (ASN.1): Specification of basic notation | [[ISO/IEC 8824]]-1<br />[[JIS X 5605]]-1 |- | [[X.681]] | 情報技術—抽象構文記法1(ASN.1)仕様—第2部:情報オブジェクト仕様<br />Information technology - Abstract Syntax Notation One (ASN.1): Information object specification | ISO/IEC 8824-2<br />JIS X 5605-2 |- | [[X.682]] | 情報技術—抽象構文記法1(ASN.1)仕様—第3部:制約仕様<br />Information technology - Abstract Syntax Notation One (ASN.1): Constraint specification | ISO/IEC 8824-3<br />JIS X 5605-3 |- | [[X.683]] | 情報技術—抽象構文記法1(ASN.1)仕様—第4部:ASN.1仕様のパラメータ化<br />Information technology - Abstract Syntax Notation One (ASN.1): Parameterization of ASN.1 specifications | ISO/IEC 8824-4<br />JIS X 5605-4 |- | [[X.690]] | 情報技術—ASN.1符号化規則—第1部:基本符号化規則 (BER),標準符号化規則 (CER) 及び識別符号化規則 (DER)<br />Information technology - ASN.1 encoding rules: Specification of Basic Encoding Rules (BER), Canonical Encoding Rules (CER) and Distinguished Encoding Rules (DER) | [[ISO/IEC 8825]]-1<br />[[JIS X 5606]]-1 |- | [[X.691]] | 情報技術—ASN.1符号化規則—第2部:圧縮符号化規則 (PER) の仕様<br />Information technology - ASN.1 encoding rules: Specification of Packed Encoding Rules (PER) | ISO/IEC 8825-2<br />JIS X 5606-2 |- | [[X.692]] | Information technology - ASN.1 encoding rules: Specification of Encoding Control Notation (ECN) | ISO/IEC 8825-3 |- | [[X.693]] | Information technology - ASN.1 encoding rules: [[Extensible Markup Language|XML]] Encoding Rules (XER) | ISO/IEC 8825-4 |- | [[X.694]] | Information technology - ASN.1 encoding rules: Mapping W3C XML schema definitions into ASN.1 | ISO/IEC 8825-5 |- | [[X.700]] | OSIネットワーク管理 - アーキテクチャ仕様<br />Management framework for Open Systems Interconnection (OSI) for CCITT applications | [[ISO/IEC 7498]]-4 |- | [[X.701]] | 開放型システム間相互接続—システム管理概要<br />Information technology - Open Systems Interconnection - Systems management overview | [[ISO/IEC 10040]]<BR>[[JIS X 5763]] |- | [[X.702]] | Information technology - Open Systems Interconnection - Application context for systems management with transaction processing | [[ISO/IEC 11587]] |- | [[X.703]] | Information technology - Open Distributed Management Architecture | [[ISO/IEC 13244]] |- | [[X.710]] | OSIネットワーク管理 - プロトコル仕様<br />Information technology - Open Systems Interconnection - Common Management Information Service | [[ISO/IEC 9595]] |- | [[X.711]] | 開放型システム間相互接続—共通管理情報プロトコル仕様<br />Information technology - Open Systems Interconnection - [[Common Management Information Protocol]]: Specification | [[ISO/IEC 9596]]-1<br />[[JIS X 5762]] |- | [[X.712]] | Information technology - Open Systems Interconnection - Common Management Information Protocol: Protocol Implementation Conformance Statement (PICS) proforma | ISO/IEC 9596-2 |- | [[X.720]] | OSIネットワーク管理 - 管理情報モデル<br />Information technology - Open Systems Interconnection - Structure of management information: Management information model | [[ISO/IEC 10165]]-1<br />[[JIS X 5764]] |- | [[X.721]] | OSIネットワーク管理 - 管理情報定義<br />Information technology - Open Systems Interconnection - Structure of management information: Definition of management information | ISO/IEC 10165-2 |- | [[X.722]] | OSIネットワーク管理 - 管理オブジェクト定義ガイドライン<BR>Information technology - Open Systems Interconnection - Structure of management information: Guidelines for the definition of managed objects | ISO/IEC 10165-4<br />[[JIS X 5767]] |- | [[X.723]] | OSIネットワーク管理 - 汎用管理情報<BR>Information technology - Open Systems Interconnection - Structure of management information: Generic management information | ISO/IEC 10165-5 |- | [[X.724]] | OSIネットワーク管理 - 管理情報の構造 -OSI管理に関する実装適合性宣言プロフォーマの要件およびガイドライン<br />Information technology - Open Systems Interconnection - Structure of management information: Requirements and guidelines for implementation conformance statement proformas associated with OSI management | ISO/IEC 10165-6 |- | [[X.725]] | ネットワーク管理についての一般関係モデル<br />Information technology - Open Systems Interconnection - Structure of management information: General Relationship Model | ISO/IEC 10165-7 |- | [[X.727]] | Information technology - Open Systems Interconnection - Structure of management information: Systems management application layer managed objects | ISO/IEC 10165-9 |- | [[X.730]] | OSIネットワーク管理 - オブジェクト管理<br />Information technology - Open Systems Interconnection - Systems Management: Object management function | [[ISO/IEC 10164]]-1<br />[[JIS X 5771]] |- | [[X.731]] | OSIネットワーク管理 - 状態管理<br />Information technology - Open Systems Interconnection - Systems management: State management function | ISO/IEC 10164-2<br />[[JIS X 5772]] |- | [[X.732]] | OSIネットワーク管理 - 関係を表現するための属性<br />Information technology - Open Systems Interconnection - Systems Management: Attributes for representing relationships | ISO/IEC 10164-3<br />[[JIS X 5773]] |- | [[X.733]] | OSIネットワーク管理 - アラームレポート機能<br />Information technology - Open Systems Interconnection - Systems Management: Alarm reporting function | ISO/IEC 10164-4<br />[[JIS X 5774]] |- | [[X.734]] | OSIネットワーク管理 - イベントレポート管理機能<br />Information technology - Open Systems Interconnection - Systems Management: Event report management function | ISO/IEC 10164-5<br />[[JIS X 5775]] |- | [[X.735]] | OSIネットワーク管理 - ログ制御機能<br />Information technology - Open Systems Interconnection - Systems Management: Log control function | ISO/IEC 10164-6<br />[[JIS X 5776]] |- | [[X.736]] | OSIネットワーク管理 - [[コンピュータセキュリティ|セキュリティ]]アラームレポート機能 <br />Information technology - Open Systems Interconnection - Systems Management: Security alarm reporting function | ISO/IEC 10164-7<br />[[JIS X 5777]] |- | [[X.737]] | 開放型システム間相互接続—システム管理—[[信頼性]]及び診断試験の分類<br />Information technology - Open Systems Interconnection - Systems Management: Confidence and diagnostic test categories | ISO/IEC 10164-14<br />[[JIS X 5784]] |- | [[X.738]] | 開放型システム間相互接続—システム管理—集計機能<br />Information technology - Open Systems Interconnection - Systems management: Summarization function | ISO/IEC 10164-13<br />[[JIS X 5783]] |- | [[X.739]] | 開放型システム間相互接続—システム管理—計量オブジェクト及び属性<br />Information technology - Open Systems Interconnection - Systems Management: Metric objects and attributes | ISO/IEC 10164-11<br />[[JIS X 5781]] |- | [[X.740]] | 開放型システム間相互接続—システム管理—安全保護監査証跡機能<br />Information technology - Open Systems Interconnection - Systems Management: Security audit trail function | ISO/IEC 10164-8<br />[[JIS X 5778]] |- | [[X.741]] | 開放型システム間相互接続—システム管理—アクセス制御のためのオブジェクト及び属性<br />Information technology - Open Systems Interconnection - Systems management: Objects and attributes for access control | ISO/IEC 10164-9<br />[[JIS X 5779]] |- | [[X.742]] | 開放型システム間相互接続—システム管理—利用計測機能<br />Information technology - Open Systems Interconnection - Systems management: Usage metering function for accounting purposes | ISO/IEC 10164-10<br />[[JIS X 5780]] |- | [[X.743]] | Information technology - Open Systems Interconnection - Systems Management: Time Management Function | ISO/IEC 10164-20 |- | [[X.744]] | Information technology - Open Systems Interconnection - Systems Management: Software management function | ISO/IEC 10164-18 |- | [[X.745]] | 開放型システム間相互接続—システム管理—試験管理機能<br />Information technology - Open Systems Interconnection - Systems Management: Test management function | ISO/IEC 10164-12<br />[[JIS X 5782]] |- | [[X.746]] | 開放型システム間相互接続—システム管理—スケジューリング機能<br />Information technology - Open Systems Interconnection - Systems Management: Scheduling function | ISO/IEC 10164-15<BR>[[JIS X 5785]] |- | [[X.748]] | Information technology - Open Systems Interconnection - Systems Management: Response Time Monitoring Function | ISO/IEC 10164-22 |- | [[X.749]] | Information technology - Open Systems Interconnection - Systems Management: Management domain and management policy management function | ISO/IEC 10164-19 |- | [[X.750]] | Information technology - Open Systems Interconnection - Systems Management: Management knowledge management function | ISO/IEC 10164-16 |- | [[X.751]] | 開放型システム間相互接続—システム管理—切替機能<br />Information technology - Open Systems Interconnection - Systems Management: Changeover function | ISO/IEC 10164-17<br />[[JIS X 5787]] |- | [[X.753]] | Information technology - Open Systems Interconnection - Systems management: Command Sequencer for Systems Management | ISO/IEC 10164-21 |- | [[X.770]] | ODMA notification dispatch function | [[ISO/IEC 15427]]-1 |- | [[X.780]] | CORBA管理オブジェクト定義のためのTMNガイドライン<br />TMN guidelines for defining CORBA managed objects | |- | [[X.780]].1 | 粗粒度CORBA管理オブジェクト定義のためのTMNガイドライン<br />TMN guidelines 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10181-2<br />[[JIS X 5792]] |- | [[X.812]] | Information technology - Open Systems Interconnection - Security frameworks for open systems: Access control framework | ISO/IEC 10181-3 |- | [[X.813]] | Information technology - Open Systems Interconnection - Security frameworks for open systems: Non-repudiation framework | ISO/IEC 10181-4 |- | [[X.814]] | Information technology - Open Systems Interconnection - Security frameworks for open systems: Confidentiality framework | ISO/IEC 10181-5 |- | [[X.815]] | Information technology - Open Systems Interconnection - Security frameworks for open systems: Integrity framework | ISO/IEC 10181-6 |- | [[X.816]] | Information technology - Open Systems Interconnection - Security frameworks for open systems: Security audit and alarms framework | ISO/IEC 10181-7 |- | [[X.830]] | Information technology - Open Systems Interconnection - Generic upper layers security: Overview, models and notation | [[ISO/IEC 11586]]-1 |- | [[X.831]] | Information technology - Open Systems Interconnection - Generic upper layers security: Security Exchange Service Element (SESE) service definition | ISO/IEC 11586-2 |- | [[X.832]] | Information technology - Open Systems Interconnection - Generic upper layers security: Security Exchange Service Element (SESE) protocol specification | ISO/IEC 11586-3 |- | [[X.833]] | Information technology - Open Systems Interconnection - Generic upper layers security: Protecting transfer syntax specification | ISO/IEC 11586-4 |- | [[X.834]] | Information technology - Open Systems Interconnection - Generic Upper Layers Security: Security Exchange Service Element (SESE) Protocol Implementation Conformance Statement (PICS) proforma | ISO/IEC 11586-5 |- | [[X.835]] | Information technology - Open Systems Interconnection - Generic Upper Layers Security: Protecting transfer syntax Protocol Implementation Conformance Statement (PICS) proforma | ISO/IEC 11586-6 |- | [[X.841]] | Information technology - Security techniques - Security information objects for access control | [[ISO/IEC 15816]] |- | [[X.842]] | Information technology - Security techniques - Guidelines for the use and management of trusted third party services | ISO/IEC TR 14516 |- | [[X.843]] | Information technology - Security techniques - Specification of TTP services to support the application of digital signatures | [[ISO/IEC 15945]] |- | [[X.851]] | [[開放型システム間相互接続]]—コミットメント, 並行処理及び回復サービス要素のサービス定義<br />Information technology - Open Systems Interconnection - Service definition for the Commitment, Concurrency and Recovery service element | [[ISO/IEC 9804]]<br />[[JIS X 5704]] |- | [[X.852]] | 開放型システム間相互接続—コミットメント, 並行処理及び回復サービス要素のプロトコル:プロトコル仕様<br />Information technology - Open Systems Interconnection - Protocol for the Commitment, Concurrency and Recovery service element: Protocol specification | [[ISO/IEC 9805]]-1<br />[[JIS X 5705]] |- | [[X.853]] | Information technology - Open Systems Interconnection - Protocol for the Commitment, Concurrency and Recovery service element: Protocol Implementation Conformance Statement (PICS) proforma | ISO/IEC 9805-2 |- | [[X.860]] | [[開放型システム間相互接続]]—分散型[[トランザクション]]処理—第1部 OSI TPのモデル<br />Open Systems Interconnection - Distributed Transaction Processing: Model | [[ISO/IEC 10026]]-1<br />[[JIS X 5710]] |- | [[X.861]] | 開放型システム間相互接続—分散型トランザクション処理—第2部 OSI TPのサービス<br />Open Systems Interconnection - Distributed Transaction Processing: Service definition | ISO/IEC 10026-2<br />[[JIS X 5711]] |- | [[X.862]] | 開放型システム間相互接続—分散型トランザクション処理—第3部 OSI TPのプロトコル仕様<br />Open Systems Interconnection - Distributed Transaction Processing: Protocol specification | ISO/IEC 10026-3<br />[[JIS X 5712]] |- | [[X.863]] | Information technology - Open Systems Interconnection - Distributed Transaction Processing: Protocol Implementation Conformance Statement (PICS) proforma | ISO/IEC 10026-4 |- | [[X.880]] | Information technology - Remote Operations: Concepts, model and notation | [[ISO/IEC 13712]]-1 |- | [[X.881]] | Information technology - Remote Operations: OSI realizations - Remote Operations Service Element (ROSE) service definition | ISO/IEC 13712-2 |- | [[X.882]] | Information technology - Remote Operations: OSI realizations - Remote Operations Service Element (ROSE) protocol specification | ISO/IEC 13712-3 |- | [[X.891]] | Information technology - Generic applications of [[ASN.1]]: Fast infoset | [[ISO/IEC 24824]]-1 |- | [[X.892]] | Information technology - Generic applications of ASN.1: Fast Web Services | ISO/IEC 24824-2 |- | [[X.893]] | Information technology - Generic applications of ASN.1: Fast infoset security | ISO/IEC 24824-3 |- | [[X.901]] | Information technology - Open Distributed Processing - Reference Model: Overview | [[ISO/IEC 10746]]-1 |- | [[X.902]] | 開放型分散処理—参照モデル:基盤<BR>Information technology - Open Distributed Processing - Reference Model: Foundations | ISO/IEC 10746-2<br />[[JIS X 5740]]-2 |- | [[X.903]] | 開放型分散処理—参照モデル:アーキテクチャ<br />Information technology - Open Distributed Processing - Reference Model: Architecture | ISO/IEC 10746-3<br />[[JIS X 5740]]-3 |- | [[X.904]] | Information technology - Open Distributed Processing - Reference Model: Architectural Semantics | ISO/IEC 10746-4 |- | [[X.906]] | Use of [[UML]] for ODP system specifications | [[ISO/IEC 19793]] |- | [[X.910]] | Information technology - Open Distributed Processing - Naming framework | [[ISO/IEC 14771]] |- | [[X.911]] | Information technology - Open distributed processing - Reference model - Enterprise language | [[ISO/IEC 15414]] |- | [[X.920]] | Information technology - Open Distributed Processing - Interface Definition Language | [[ISO/IEC 14750]] |- | [[X.930]] | Information technology - Open Distributed Processing - Interface references and binding | [[ISO/IEC 14753]] |- | [[X.931]] | Information technology - Open Distributed Processing - Protocol support for computational interactions | [[ISO/IEC 14752]] |- | [[X.950]] | Information technology - Open Distributed Processing - Trading Function: Specification | [[ISO/IEC 13235]]-1 |- | [[X.952]] | Information technology - Open Distributed Processing - Trading function: Provision of trading function using OSI Directory service | ISO/IEC 13235-3 |- | [[X.960]] | Information technology - Open Distributed Processing - Type repository function | [[ISO/IEC 14769]] |} === Yシリーズ勧告 === Yシリーズ勧告は、「グローバル情報通信インフラストラクチャ− (GII) 及び[[インターネットプロトコル]]側面」に関する規定を定める。 {| class="wikitable" |- ! style="width: 6.4em;" | 規格番号 ! 名称 ! style="width: 8em;" | 関連規格 |- | [[Y.1540]] | [[インターネットプロトコル]][[データ通信]]サービス−IPパケット転送性能パラメータと[[可用性]]パラメータ<br />Internet protocol data communication service - IP packet transfer and availability performance parameters | |- | [[Y.1541]] | IPベースサービスにおけるネットワーク性能目標<BR>Network performance objectives for IP-based services | |- | [[Y.2001]] | [[Next Generation Network|NGN]]の一般的な概要<br />General overview of NGN | |- | [[Y.2011]] | [[次世代ネットワーク]]の一般原則と一般参照モデル<br />General principles and general reference model for Next Generation Networks | |} === Zシリーズ勧告 === Zシリーズ勧告は、「通信システムのための言語及び一般ソフトウェア側面」に関する規定を定める。 {| class="wikitable" |- ! style="width: 6.4em;" | 規格番号 ! 名称 ! style="width: 8em;" | 関連規格 |- | [[Z.200]] | [[CHILL]] - The ITU-T Programming Language | [[ISO/IEC 9496]] |} == 関連事項 == * [[ITU-R]] - 無線通信部門 * [[ITU-D]] - 電気通信開発部門 * TTC - [[情報通信技術委員会]] == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://www.ituaj.jp/index.html 日本ITU協会](日本語) * [http://www.itu.int/index.html International Telecommunication Union](英語) {{Normdaten}} [[Category:標準化団体]] [[Category:電気通信]] [[Category:ITU|*]]
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ITU
ITU
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ITU 国際電気通信連合(International Telecommunication Union)。 ITU-D - 電気通信開発部門。 ITU-R - 無線通信部門。 ITU-T - 電気通信標準化部門。 国際トライアスロン連合(International Triathlon Union)。
'''ITU''' *[[国際電気通信連合]](International Telecommunication Union)。 **[[ITU-D]] (International Telecommunication Union Telecommunication Development Sector) - 電気通信開発部門。 **[[ITU-R]] (International Telecommunication Union Radiocommunications Sector) - 無線通信部門。 **[[ITU-T]] (International Telecommunication Union Telecommunication Standardization Sector) - 電気通信標準化部門。 *[[国際トライアスロン連合]](International Triathlon Union)。 * {{仮リンク|イグビラ部族連合|en|Igbira Tribal Union}} (Igbira Tribal Union) - [[ナイジェリア]]の政党 {{aimai}}
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ミクロ経済学
ミクロ経済学(ミクロけいざいがく、英: microeconomics)は、経済学の一種で消費者(家計)、生産者(企業)が経済的な取引を行う市場に着目するものである。微視経済学あるいは微視的経済学とも訳される。 ミクロ経済学は、現実を抽象化した数理的モデルを構築し、演繹的方法によって理論的帰結を導出する、理論経済学の分野であり、経済全体に着目するマクロ経済学と併せて理論経済学の2つの柱になっている。ミクロ経済学の手法によって導き出された理論的帰結は、計量経済学、実験経済学などの実証経済学によって検証される必要がある。ミクロ経済学は、公共経済学、国際経済学、労働経済学、金融経済学など、応用経済学に対して、分析方法を提供する役割をも果たしている。 一般に、価格理論、ゲーム理論、契約理論の三分野がミクロ経済学の主要分野とされる。 消費者(家計)の行動について考える。財の消費量の組み合わせに対する消費者の好みが、選好、効用関数、無差別曲線といった形で、数学的に定式化される。予算制約のもとで、効用を最大にする消費量の組が選択されると考えられる(効用最大化)。効用最大化の結果得られる最適な消費量を需要量と言う。需要量は財の価格の組と消費者の所得に依存しており、価格の組と所得に対し、そのもとでの需要量を対応付ける関数を需要関数と言う。当該財の価格と需要量の関係を描いたグラフを需要曲線と言う。 (財がギッフェン財でない限り、)当該財の価格が上昇すれば需要量は減少する。これを需要法則と言う。図の上では、需要曲線は右下がりになる。 生産者(企業)の行動について考える。労働や資本といった財の生産に必要なものを要素と言う。要素の投入量の組み合わせとそのもとで生産可能な財の生産量の組み合わせの関係が、生産者の技術に他ならない。生産者の技術が、生産関数といった形で、数学的に定式化される。生産関数に含まれる財の生産量の組と要素の投入量の組のうち、利潤を最大化するものが選択されると考えられる(利潤最大化)。利潤最大化の結果得られる最適な生産量を供給量と言う。供給量は財と要素の価格の組に依存しており、価格の組に対し、そのもとでの供給量を対応付ける関数を供給関数と言う。当該財の価格と供給量の関係を描いたグラフを供給曲線と言う。当該財の価格が上昇すれば供給量は増加する。これを供給法則と言う。図の上では、供給曲線は右上がりになる。 ある特定の財の市場に注目する。ある価格のもとで需要量が供給量を上回っているとき、その財は品不足の状態であり、価格が上昇すると考えられる。ある価格のもとで供給量が需要量を上回っているとき、その財は売れ残りの状態であり、価格が下落すると考えられる。こうした調整の結果、需要量と供給量が一致する価格が実現すると考えられる。こうした状態を均衡と言う。図の上では、均衡は需要曲線と供給曲線の交点で表される。以上のことは、ある特定の市場にのみ注目した分析で、部分均衡分析と呼ばれる。すべての財の市場を同時に扱う分析を一般均衡分析と言い、一般均衡分析においても、すべての財の需給が一致するよう価格の組が調整される。 均衡で実現する資源配分は、パレート効率的であることが示される(厚生経済学の基本定理)。 ただし、この定理が成り立つには、以下のような条件が必要になる。 これらの条件の1つでも成り立たないと、市場で実現する資源配分が非効率になりうる(市場の失敗)。 市場の失敗が生じる場合は、政府には、市場に介入することで非効率を是正することが求められる。 価格理論では、経済主体は価格受容者として行動し、技術的外部性も仮定されていなかった。 それに対して、ゲーム理論では、各経済主体間での金銭的外部性や技術的外部性が仮定される。すなわち、経済主体が互いに影響を与える状況が想定される。 経済主体が互いに影響を与え合う状況の定式化のうち、最も基本的なものが標準形ゲームと呼ばれるものである。標準形ゲームは、プレイヤー、各プレイヤーの戦略の集合、各プレイヤーの利得関数と呼ばれるものからなる。プレイヤーは意思決定主体のことである。各プレイヤーは戦略という選択肢を持っている。各プレイヤーの利得関数とは、戦略の集合のカルテシアン積上に定義される実数値関数のことで、戦略の組に対する当該プレイヤーの選好を表したものである。 どのプレイヤーも自分だけが戦略をどのように変えても、自分の利得を変えることができない戦略の組をナッシュ均衡と言う。ナッシュ均衡は、標準形ゲームで実現する状態として、広く受け入れられている。ナッシュ均衡は必ずしもパレート効率的ではなく、価格理論における厚生経済学の第1基本定理と対照をなしている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ミクロ経済学(ミクロけいざいがく、英: microeconomics)は、経済学の一種で消費者(家計)、生産者(企業)が経済的な取引を行う市場に着目するものである。微視経済学あるいは微視的経済学とも訳される。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ミクロ経済学は、現実を抽象化した数理的モデルを構築し、演繹的方法によって理論的帰結を導出する、理論経済学の分野であり、経済全体に着目するマクロ経済学と併せて理論経済学の2つの柱になっている。ミクロ経済学の手法によって導き出された理論的帰結は、計量経済学、実験経済学などの実証経済学によって検証される必要がある。ミクロ経済学は、公共経済学、国際経済学、労働経済学、金融経済学など、応用経済学に対して、分析方法を提供する役割をも果たしている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "一般に、価格理論、ゲーム理論、契約理論の三分野がミクロ経済学の主要分野とされる。", "title": "主要理論" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "消費者(家計)の行動について考える。財の消費量の組み合わせに対する消費者の好みが、選好、効用関数、無差別曲線といった形で、数学的に定式化される。予算制約のもとで、効用を最大にする消費量の組が選択されると考えられる(効用最大化)。効用最大化の結果得られる最適な消費量を需要量と言う。需要量は財の価格の組と消費者の所得に依存しており、価格の組と所得に対し、そのもとでの需要量を対応付ける関数を需要関数と言う。当該財の価格と需要量の関係を描いたグラフを需要曲線と言う。", "title": "主要理論" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "(財がギッフェン財でない限り、)当該財の価格が上昇すれば需要量は減少する。これを需要法則と言う。図の上では、需要曲線は右下がりになる。", "title": "主要理論" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "生産者(企業)の行動について考える。労働や資本といった財の生産に必要なものを要素と言う。要素の投入量の組み合わせとそのもとで生産可能な財の生産量の組み合わせの関係が、生産者の技術に他ならない。生産者の技術が、生産関数といった形で、数学的に定式化される。生産関数に含まれる財の生産量の組と要素の投入量の組のうち、利潤を最大化するものが選択されると考えられる(利潤最大化)。利潤最大化の結果得られる最適な生産量を供給量と言う。供給量は財と要素の価格の組に依存しており、価格の組に対し、そのもとでの供給量を対応付ける関数を供給関数と言う。当該財の価格と供給量の関係を描いたグラフを供給曲線と言う。当該財の価格が上昇すれば供給量は増加する。これを供給法則と言う。図の上では、供給曲線は右上がりになる。", "title": "主要理論" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ある特定の財の市場に注目する。ある価格のもとで需要量が供給量を上回っているとき、その財は品不足の状態であり、価格が上昇すると考えられる。ある価格のもとで供給量が需要量を上回っているとき、その財は売れ残りの状態であり、価格が下落すると考えられる。こうした調整の結果、需要量と供給量が一致する価格が実現すると考えられる。こうした状態を均衡と言う。図の上では、均衡は需要曲線と供給曲線の交点で表される。以上のことは、ある特定の市場にのみ注目した分析で、部分均衡分析と呼ばれる。すべての財の市場を同時に扱う分析を一般均衡分析と言い、一般均衡分析においても、すべての財の需給が一致するよう価格の組が調整される。", "title": "主要理論" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "均衡で実現する資源配分は、パレート効率的であることが示される(厚生経済学の基本定理)。 ただし、この定理が成り立つには、以下のような条件が必要になる。", "title": "主要理論" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "これらの条件の1つでも成り立たないと、市場で実現する資源配分が非効率になりうる(市場の失敗)。 市場の失敗が生じる場合は、政府には、市場に介入することで非効率を是正することが求められる。", "title": "主要理論" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "価格理論では、経済主体は価格受容者として行動し、技術的外部性も仮定されていなかった。 それに対して、ゲーム理論では、各経済主体間での金銭的外部性や技術的外部性が仮定される。すなわち、経済主体が互いに影響を与える状況が想定される。", "title": "主要理論" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "経済主体が互いに影響を与え合う状況の定式化のうち、最も基本的なものが標準形ゲームと呼ばれるものである。標準形ゲームは、プレイヤー、各プレイヤーの戦略の集合、各プレイヤーの利得関数と呼ばれるものからなる。プレイヤーは意思決定主体のことである。各プレイヤーは戦略という選択肢を持っている。各プレイヤーの利得関数とは、戦略の集合のカルテシアン積上に定義される実数値関数のことで、戦略の組に対する当該プレイヤーの選好を表したものである。", "title": "主要理論" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "どのプレイヤーも自分だけが戦略をどのように変えても、自分の利得を変えることができない戦略の組をナッシュ均衡と言う。ナッシュ均衡は、標準形ゲームで実現する状態として、広く受け入れられている。ナッシュ均衡は必ずしもパレート効率的ではなく、価格理論における厚生経済学の第1基本定理と対照をなしている。", "title": "主要理論" } ]
ミクロ経済学は、経済学の一種で消費者(家計)、生産者(企業)が経済的な取引を行う市場に着目するものである。微視経済学あるいは微視的経済学とも訳される。 ミクロ経済学は、現実を抽象化した数理的モデルを構築し、演繹的方法によって理論的帰結を導出する、理論経済学の分野であり、経済全体に着目するマクロ経済学と併せて理論経済学の2つの柱になっている。ミクロ経済学の手法によって導き出された理論的帰結は、計量経済学、実験経済学などの実証経済学によって検証される必要がある。ミクロ経済学は、公共経済学、国際経済学、労働経済学、金融経済学など、応用経済学に対して、分析方法を提供する役割をも果たしている。
{{出典の明記|date=2013年12月}} {{経済学のサイドバー}} '''ミクロ経済学'''(ミクロけいざいがく、{{lang-en-short|microeconomics}})は、経済学の一種で消費者([[家計]])、生産者([[企業]])が経済的な取引を行う[[市場]]に着目するものである。'''微視経済学'''あるいは'''微視的経済学'''とも訳される。 ミクロ経済学は、現実を抽象化した数理的モデルを構築し、演繹的方法によって理論的帰結を導出する、'''理論経済学'''の分野であり、経済全体に着目する[[マクロ経済学]]と併せて理論経済学の2つの柱になっている。ミクロ経済学の手法によって導き出された理論的帰結は、[[計量経済学]]、[[実験経済学]]などの'''実証経済学'''によって検証される必要がある。ミクロ経済学は、[[公共経済学]]、[[国際経済学]]、[[労働経済学]]、[[金融経済学]]など、'''応用経済学'''に対して、分析方法を提供する役割をも果たしている{{要出典|date=2019年9月}}。 == 主要理論 == 一般に、価格理論、[[ゲーム理論]]、[[契約理論]]の三分野がミクロ経済学の主要分野とされる<ref>{{Cite journal|和書 |author = 菅谷拓生 |date = 2014 |title = ゲーム理論 戦略的状況を分析する強力なツール |journal = [[経済セミナー]] |issue = 4・5月号 |pages = 35–39 |publisher = [[日本評論社]] }}</ref><ref>{{Cite journal|和書 |author = 岩崎敦 |date = 2015 |title = メカニズムデザインの考え方とマッチングのメカニズム |journal =オペレーションズ・リサーチ: 経営の科学 |volume = 60 |issue = 6 |pages = 323-329 |url = http://www.orsj.or.jp/archive2/or60-6/or60_6_323.pdf |publisher = [[日本オペレーションズ・リサーチ学会]] }}</ref>。 ===価格理論=== ==== 消費者理論 ==== 消費者([[家計]])の行動について考える。財の消費量の組み合わせに対する消費者の好みが、[[選好]]、[[効用関数]]、[[無差別曲線]]といった形で、数学的に定式化される。予算制約のもとで、効用を最大にする消費量の組が選択されると考えられる([[効用最大化]])。効用最大化の結果得られる最適な消費量を需要量と言う。需要量は財の価格の組と消費者の所得に依存しており、価格の組と所得に対し、そのもとでの需要量を対応付ける関数を需要関数と言う。当該財の価格と需要量の関係を描いたグラフを需要曲線と言う。 (財が[[ギッフェン財]]でない限り、)当該財の価格が上昇すれば需要量は減少する。これを需要法則と言う。図の上では、需要曲線は右下がりになる。 ==== 生産者理論 ==== 生産者([[企業]])の行動について考える。労働や資本といった財の生産に必要なものを要素と言う。要素の投入量の組み合わせとそのもとで生産可能な財の生産量の組み合わせの関係が、生産者の技術に他ならない。生産者の技術が、[[生産関数]]といった形で、数学的に定式化される。生産関数に含まれる財の生産量の組と要素の投入量の組のうち、利潤を最大化するものが選択されると考えられる([[利潤最大化]])。利潤最大化の結果得られる最適な生産量を供給量と言う。供給量は財と要素の価格の組に依存しており、価格の組に対し、そのもとでの供給量を対応付ける関数を供給関数と言う。当該財の価格と供給量の関係を描いたグラフを供給曲線と言う。当該財の価格が上昇すれば供給量は増加する。これを供給法則と言う。図の上では、供給曲線は右上がりになる。 ==== 均衡理論 ==== ある特定の財の市場に注目する。ある価格のもとで需要量が供給量を上回っているとき、その財は品不足の状態であり、価格が上昇すると考えられる。ある価格のもとで供給量が需要量を上回っているとき、その財は売れ残りの状態であり、価格が下落すると考えられる。こうした調整の結果、需要量と供給量が一致する価格が実現すると考えられる。こうした状態を[[均衡]]と言う。図の上では、均衡は需要曲線と供給曲線の交点で表される。以上のことは、ある特定の市場にのみ注目した分析で、部分均衡分析と呼ばれる。すべての財の市場を同時に扱う分析を[[一般均衡]]分析と言い、一般均衡分析においても、すべての財の需給が一致するよう価格の組が調整される。 均衡で実現する[[資源配分]]は、パレート効率的であることが示される([[厚生経済学の基本定理]])。 ただし、この定理が成り立つには、以下のような条件が必要になる。 *どの経済主体も価格に対して影響を与えることがない([[完全競争]])。 *どの経済主体も財について同じ情報を持っている(対称性)。 *どの経済主体も市場を通さず他の経済主体に影響を与えることがない([[外部性]]、[[公共財]]が存在しない)。 これらの条件の1つでも成り立たないと、市場で実現する資源配分が非効率になりうる([[市場の失敗]])。 市場の失敗が生じる場合は、政府には、市場に介入することで非効率を是正することが求められる。 === ゲーム理論 === {{Main|ゲーム理論}} 価格理論では、経済主体は価格受容者として行動し、技術的外部性も仮定されていなかった。 それに対して、ゲーム理論では、各経済主体間での金銭的外部性や技術的外部性が仮定される。すなわち、経済主体が互いに影響を与える状況が想定される。 ==== 標準形ゲーム ==== 経済主体が互いに影響を与え合う状況の定式化のうち、最も基本的なものが[[標準形ゲーム]]と呼ばれるものである。標準形ゲームは、プレイヤー、各プレイヤーの戦略の集合、各プレイヤーの利得関数と呼ばれるものからなる。プレイヤーは意思決定主体のことである。各プレイヤーは戦略という選択肢を持っている。各プレイヤーの利得関数とは、戦略の集合のカルテシアン積上に定義される実数値関数のことで、戦略の組に対する当該プレイヤーの選好を表したものである。 ==== ナッシュ均衡 ==== どのプレイヤーも自分だけが戦略をどのように変えても、自分の利得を変えることができない戦略の組を[[ナッシュ均衡]]と言う。ナッシュ均衡は、標準形ゲームで実現する状態として、広く受け入れられている。ナッシュ均衡は必ずしもパレート効率的ではなく、価格理論における厚生経済学の第1基本定理と対照をなしている。 === 契約理論 === {{See|契約理論}} == 学術雑誌 == * ''{{仮リンク|Journal of Economic Theory|en|Journal of Economic Theory}}'' * ''[[理論経済学]]'' * ''{{仮リンク|Games and Economic Behavior|en|Games and Economic Behavior}}'' * ''{{仮リンク|American Economic Journal: Microeconomics|en|American Economic Journal#American Economic Journal: Microeconomics}}'' * ''{{仮リンク|Economic Theory|en|Economic Theory (journal)}}'' * ''{{仮リンク|Journal of Mathematical Economics|en|Journal of Mathematical Economics}}'' * ''{{仮リンク|Social Choice and Welfare|en|Social Choice and Welfare}}'' * ''{{仮リンク|International Journal of Game Theory|en|Game Theory Society#Activities}}'' == 脚注 == <references /> == 関連項目 == === 価格理論 === * [[財]] - [[希少性]] - [[機会費用]] * [[選好関係|選好]] - [[効用]] - [[無差別曲線]] - [[限界代替率]] * [[効用最大化]] - [[需要関数]] * [[生産集合]] - [[生産関数]] - [[費用曲線]] * [[利潤最大化]] - [[供給関数]] * [[一般均衡]] - [[部分均衡|需要と供給]] * [[パレート効率性]] - [[余剰]] - [[消費者余剰]] - [[生産者余剰]] * [[市場の失敗]] - [[不完全競争]] - [[情報の非対称性]] - [[外部性]] - [[公共財]] === ゲーム理論 === *[[標準形ゲーム]] - [[ナッシュ均衡]] * [[展開形ゲーム]] - [[部分ゲーム完全均衡]] * [[提携形ゲーム]] - [[コア (ゲーム理論)|コア]] - [[シャプレー値]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{ミクロ経済学}} {{経済学}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:みくろけいさいかく}} [[Category:経済学|みくろ]] [[Category:経済学の分野]] [[Category:ミクロ経済学|*]] [[Category:経済思想の歴史|みくろ]]
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リニアモーターカー
リニアモーターカー(和製英語: linear motor(motour) car、略語:リニア)とは、リニアモーターにより駆動される乗り物。超電導リニアの最初の開発者であった京谷好泰が名付けた和製英語である。日本では主に超電導磁気浮上式鉄道(英:Maglev、マグレブ)を指す。 リニアモーターは、一般に円筒状と円柱状の固定子と回転子から成るモーターを、帯状に展開し、回転運動の代わりに直線運動をするようにしたような形態のモーターである。リニアモーターカーは、リニアモーターにより直接進行方向に加速及び減速する(鉄道)車輛である。 主な種別として、磁気で車体を浮上させて推進する磁気浮上式と、浮上させず車輪によって車体を支持し、推進及び電磁ブレーキにリニアモーターを利用する鉄輪式が、現在実用化されている。 またその他の分類としては、「軌道一次式」と「車上一次式」がある。これは要するに回転式モータの場合の、「固定子一次式」と「回転子一次式」のようなもので、(常伝導の)電磁石により極性を変化させて駆動力を発生させる側がどちらか、ということである。電磁石で可変の側が一次側であり、永久磁石や超伝導磁石による固定極あるいは誘導電流を受動的に発生するためのコイルや導体のみの側が二次側である。 旧国鉄・JRの超電導リニアの場合、超伝導磁石は磁極固定式でありまた軌道側に敷設するのは非現実的なので、必然的に軌道一次式となる。多くの鉄輪式リニアは逆に、軌道側に制御系を持たせるよりも車両側に持たせるのが現実的なので、車上一次式である。 なお、二次側の構造が「推進用コイル」と称されるものであるか、「リアクションプレート」と称されるものであるか、という違いには基本的には意味は無く、軌道一次式と車上一次式という語の説明に持ち出す必要は無い。 磁気浮上式リニアモーターカーは、磁気浮上式鉄道であって、かつ同時に、リニアモーターで加減速される。超電導リニアは電磁誘導浮上支持方式(EDS)であり(宮崎実験線では床部分のコイルによる反発式だったが、山梨実験線では側壁に推進用と浮上用の両方のコイルがあり、浮上には反発と吸引が併用される)、HSSTやトランスラピッドは吸引式の電磁吸引支持方式(EMS)である。超電導リニアは浮上に誘導電流を利用するというそのメカニズム上、低速時には浮上しないため、引込式のゴムタイヤ車輪を装備しており、停車・低速時や緊急停止時にはタイヤで車体を支持する。 日本初の営業運転は、HSSTによる1989年の横浜博覧会におけるYES'89線である。運行されていたのは博覧会の期間中であったが、展示走行ではなく、磁気浮上式鉄道として運輸当局の第一種鉄道事業として営業運転免許を得た旅客輸送であった。 現在営業運転を行っているものは、日本では愛知高速交通東部丘陵線(リニモ)、中国では上海トランスラピッド・長沙磁浮快線・北京地下鉄S1線、韓国ではエキスポ科学公園線・仁川空港磁気浮上鉄道である。その他は実験・試験段階にとどまるか、すでに廃止されている。日本では将来において2027年を目処に首都圏(品川駅) - 中京圏(名古屋駅)間を結ぶ中央新幹線の営業運転開始を目指している。 鉄輪式リニアモーターカーは、推進力(動力)にリニアモーター(もっぱらリニア誘導モーター)を使用し、車両の支持・案内にはレールと車輪を使用する。原理から来る構造により、車高を低く抑えることが可能であることや、鉄車輪と鉄軌条の摩擦力に頼る一般的な粘着式鉄道と比べ、推進力を車両に対して直接発生させる方式であることから車輪の直径を小さくすることができ、その上で急勾配や急曲線にも強い、などといった特徴がある。日本ではトンネル断面を小さくしても車内を広く取れるという利点から、地下鉄への採用が1990年代以降広がった。 鉄輪以外にゴムタイヤ式なども原理的には可能であるが、もともとエネルギー効率が低いという性質から、さらに転がり抵抗の大きいゴムタイヤと組み合わせた営業線での例は見られない。車体側の台車底面にはコイルを取付け、地上側にはリアクションプレートを軌道中央に取付けて固定している。走行の際には、車両側のコイルに三相交流を流すことで、誘導電動機の回転磁界に相当する移動磁界が発生する。これによりリアクションプレートに渦電流による磁界が発生して、車体側のコイルとリアクションプレートの間で磁力の吸引・反発が相互に働いて車両に推進力を発生させる。また、集電方式には直流1,500 Vの電力を架空電車線または剛体架線に流してパンタグラフにより集電する架空電車線方式を(ただし海外では第三軌条方式の採用例もある)、車両の制御方式には、リニア誘導モーターを使用するため三相交流を制御可能なVVVFインバータ制御を採用している。このため、定格速度まではすべり周波数一定制御により一定トルクで加速して、定格速度以上ではすべり一定制御を行って効率を最大にする。 鉄輪式リニアモーターカーには以下のようなメリットがある。 一方で、以下のようなデメリットがある。 アメリカ カナダ 韓国 その他、香港の地下鉄などでも採用計画があるとされる。 中国 日本 ベネズエラ マレーシア リニアモーターも通常のモーターと同様、以下のように分類できる(なお、以下の分類はリニアモーターカーと全く無関係に「リニアモーターの分類」である)。また、モーターの1次側(変動磁界を発生させる側)を地上側に設置して、モーターの2次側を車上側に搭載している方式を地上1次方式と言い、モーターの1次側を車上側に搭載して、モーターの2次側を地上側に設置している方式を車上1次方式と言う。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "リニアモーターカー(和製英語: linear motor(motour) car、略語:リニア)とは、リニアモーターにより駆動される乗り物。超電導リニアの最初の開発者であった京谷好泰が名付けた和製英語である。日本では主に超電導磁気浮上式鉄道(英:Maglev、マグレブ)を指す。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "リニアモーターは、一般に円筒状と円柱状の固定子と回転子から成るモーターを、帯状に展開し、回転運動の代わりに直線運動をするようにしたような形態のモーターである。リニアモーターカーは、リニアモーターにより直接進行方向に加速及び減速する(鉄道)車輛である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "主な種別として、磁気で車体を浮上させて推進する磁気浮上式と、浮上させず車輪によって車体を支持し、推進及び電磁ブレーキにリニアモーターを利用する鉄輪式が、現在実用化されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "またその他の分類としては、「軌道一次式」と「車上一次式」がある。これは要するに回転式モータの場合の、「固定子一次式」と「回転子一次式」のようなもので、(常伝導の)電磁石により極性を変化させて駆動力を発生させる側がどちらか、ということである。電磁石で可変の側が一次側であり、永久磁石や超伝導磁石による固定極あるいは誘導電流を受動的に発生するためのコイルや導体のみの側が二次側である。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "旧国鉄・JRの超電導リニアの場合、超伝導磁石は磁極固定式でありまた軌道側に敷設するのは非現実的なので、必然的に軌道一次式となる。多くの鉄輪式リニアは逆に、軌道側に制御系を持たせるよりも車両側に持たせるのが現実的なので、車上一次式である。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "なお、二次側の構造が「推進用コイル」と称されるものであるか、「リアクションプレート」と称されるものであるか、という違いには基本的には意味は無く、軌道一次式と車上一次式という語の説明に持ち出す必要は無い。", "title": null }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "磁気浮上式リニアモーターカーは、磁気浮上式鉄道であって、かつ同時に、リニアモーターで加減速される。超電導リニアは電磁誘導浮上支持方式(EDS)であり(宮崎実験線では床部分のコイルによる反発式だったが、山梨実験線では側壁に推進用と浮上用の両方のコイルがあり、浮上には反発と吸引が併用される)、HSSTやトランスラピッドは吸引式の電磁吸引支持方式(EMS)である。超電導リニアは浮上に誘導電流を利用するというそのメカニズム上、低速時には浮上しないため、引込式のゴムタイヤ車輪を装備しており、停車・低速時や緊急停止時にはタイヤで車体を支持する。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "日本初の営業運転は、HSSTによる1989年の横浜博覧会におけるYES'89線である。運行されていたのは博覧会の期間中であったが、展示走行ではなく、磁気浮上式鉄道として運輸当局の第一種鉄道事業として営業運転免許を得た旅客輸送であった。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "現在営業運転を行っているものは、日本では愛知高速交通東部丘陵線(リニモ)、中国では上海トランスラピッド・長沙磁浮快線・北京地下鉄S1線、韓国ではエキスポ科学公園線・仁川空港磁気浮上鉄道である。その他は実験・試験段階にとどまるか、すでに廃止されている。日本では将来において2027年を目処に首都圏(品川駅) - 中京圏(名古屋駅)間を結ぶ中央新幹線の営業運転開始を目指している。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "鉄輪式リニアモーターカーは、推進力(動力)にリニアモーター(もっぱらリニア誘導モーター)を使用し、車両の支持・案内にはレールと車輪を使用する。原理から来る構造により、車高を低く抑えることが可能であることや、鉄車輪と鉄軌条の摩擦力に頼る一般的な粘着式鉄道と比べ、推進力を車両に対して直接発生させる方式であることから車輪の直径を小さくすることができ、その上で急勾配や急曲線にも強い、などといった特徴がある。日本ではトンネル断面を小さくしても車内を広く取れるという利点から、地下鉄への採用が1990年代以降広がった。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "鉄輪以外にゴムタイヤ式なども原理的には可能であるが、もともとエネルギー効率が低いという性質から、さらに転がり抵抗の大きいゴムタイヤと組み合わせた営業線での例は見られない。車体側の台車底面にはコイルを取付け、地上側にはリアクションプレートを軌道中央に取付けて固定している。走行の際には、車両側のコイルに三相交流を流すことで、誘導電動機の回転磁界に相当する移動磁界が発生する。これによりリアクションプレートに渦電流による磁界が発生して、車体側のコイルとリアクションプレートの間で磁力の吸引・反発が相互に働いて車両に推進力を発生させる。また、集電方式には直流1,500 Vの電力を架空電車線または剛体架線に流してパンタグラフにより集電する架空電車線方式を(ただし海外では第三軌条方式の採用例もある)、車両の制御方式には、リニア誘導モーターを使用するため三相交流を制御可能なVVVFインバータ制御を採用している。このため、定格速度まではすべり周波数一定制御により一定トルクで加速して、定格速度以上ではすべり一定制御を行って効率を最大にする。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "鉄輪式リニアモーターカーには以下のようなメリットがある。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "一方で、以下のようなデメリットがある。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "アメリカ", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "カナダ", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "韓国", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "その他、香港の地下鉄などでも採用計画があるとされる。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "中国", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "日本", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ベネズエラ", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "マレーシア", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "リニアモーターも通常のモーターと同様、以下のように分類できる(なお、以下の分類はリニアモーターカーと全く無関係に「リニアモーターの分類」である)。また、モーターの1次側(変動磁界を発生させる側)を地上側に設置して、モーターの2次側を車上側に搭載している方式を地上1次方式と言い、モーターの1次側を車上側に搭載して、モーターの2次側を地上側に設置している方式を車上1次方式と言う。", "title": "駆動方式の種類" } ]
リニアモーターカーとは、リニアモーターにより駆動される乗り物。超電導リニアの最初の開発者であった京谷好泰が名付けた和製英語である。日本では主に超電導磁気浮上式鉄道(英:Maglev、マグレブ)を指す。 リニアモーターは、一般に円筒状と円柱状の固定子と回転子から成るモーターを、帯状に展開し、回転運動の代わりに直線運動をするようにしたような形態のモーターである。リニアモーターカーは、リニアモーターにより直接進行方向に加速及び減速する(鉄道)車輛である。 主な種別として、磁気で車体を浮上させて推進する磁気浮上式と、浮上させず車輪によって車体を支持し、推進及び電磁ブレーキにリニアモーターを利用する鉄輪式が、現在実用化されている。 またその他の分類としては、「軌道一次式」と「車上一次式」がある。これは要するに回転式モータの場合の、「固定子一次式」と「回転子一次式」のようなもので、(常伝導の)電磁石により極性を変化させて駆動力を発生させる側がどちらか、ということである。電磁石で可変の側が一次側であり、永久磁石や超伝導磁石による固定極あるいは誘導電流を受動的に発生するためのコイルや導体のみの側が二次側である。 旧国鉄・JRの超電導リニアの場合、超伝導磁石は磁極固定式でありまた軌道側に敷設するのは非現実的なので、必然的に軌道一次式となる。多くの鉄輪式リニアは逆に、軌道側に制御系を持たせるよりも車両側に持たせるのが現実的なので、車上一次式である。 なお、二次側の構造が「推進用コイル」と称されるものであるか、「リアクションプレート」と称されるものであるか、という違いには基本的には意味は無く、軌道一次式と車上一次式という語の説明に持ち出す必要は無い。
{{独自研究|date=2020年12月}} [[ファイル:Sharjah-expo70 stamp.jpg|thumb|right|230px|1970年に開催された[[日本万国博覧会|大阪万博]]で展示された[[日本国有鉄道|国鉄]]のリニアモーターカーの模型や古河パビリオンを描いた[[シャールジャ]]の切手。]] '''リニアモーターカー'''({{lang-en-jp|linear motor(motour) car}}、略語:'''リニア''')とは、[[リニアモーター]]により駆動される乗り物。[[超電導リニア]]の最初の開発者であった[[京谷好泰]]が名付けた和製英語である。日本では主に[[超伝導|超電導]][[磁気浮上式鉄道]](英:Maglev、マグレブ)を指す<ref>{{Cite web|和書|title=リニアモーターカーとは|url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%AA%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC-182545|website=コトバンク|accessdate=2020-12-19|language=ja|first=知恵蔵,朝日新聞掲載「キーワード」,デジタル大辞泉,百科事典マイペディア,世界大百科事典 第2版,日本大百科全書(ニッポニカ),精選版|last=日本国語大辞典,世界大百科事典内言及}}</ref>。 リニアモーターは、一般に円筒状と円柱状の固定子と回転子から成る[[電動機|モーター]]を、帯状に展開し、回転運動の代わりに直線運動をするようにしたような形態のモーターである。リニアモーターカーは、リニアモーターにより直接進行方向に加速及び減速する[[鉄道車両|(鉄道)車輛]]である。 主な種別として、磁気で車体を浮上させて推進する[[磁気浮上式鉄道|磁気浮上式]]と、浮上させず車輪によって車体を支持し、推進及び電磁ブレーキにリニアモーターを利用する鉄輪式が、現在実用化されている。 またその他の分類としては、「軌道一次式」と「車上一次式」がある。これは要するに回転式モータの場合の、「固定子一次式」と「回転子一次式」のようなもので、(常伝導の)[[電磁石]]により極性を変化させて駆動力を発生させる側がどちらか、ということである。電磁石で可変の側が一次側であり、[[永久磁石]]や[[超伝導磁石]]による固定極あるいは誘導電流を受動的に発生するための[[コイル]]や[[電気伝導体|導体]]のみの側が二次側である。 旧国鉄・JRの[[超電導リニア]]の場合、超伝導磁石は磁極固定式でありまた軌道側に敷設するのは非現実的なので、必然的に軌道一次式となる。多くの[[#鉄輪式|鉄輪式リニア]]は逆に、軌道側に制御系を持たせるよりも車両側に持たせるのが現実的なので、車上一次式である。 なお、二次側の構造が「推進用コイル」と称されるものであるか、「リアクションプレート」と称されるものであるか、という違いには基本的には意味は無く、軌道一次式と車上一次式という語の説明に持ち出す必要は無い。 == 種類 == === 空気浮上式 === {{main|空気浮上式鉄道}} * [[アエロトラン#アエロトラン試作機|アエロトラン S44]] - Merlin-Gérin社によって供給されたリニア誘導モータを備えた。 * [[空気浮上式鉄道#UTACV|UTACV]] - [[1970年代]]に開発されたアメリカの空気浮上式リニアモーターカー試験車両 * [[トラックト・ホバークラフト]] - イギリスの空気浮上式リニアモーターカー試験車両 * [[オーチス・ホバー|空気浮上式新交通システム]] - [[ゼネラルモーターズ]]の開発、およびそれを引き継いで[[日本オーチス・エレベータ|日本オーチス]]によりリニアモータ推進タイプの実用化に向けた開発が行われ、実験線での評価までは行われたが、2018年現在での営業例は全て[[ケーブルカー]]のように鋼索で牽引する方式に変更されたタイプである。低速での効率などはケーブルのほうに利点がある。 === 磁気浮上式 === [[ファイル:Series L0.JPG|thumb|200px|磁気浮上式リニア([[超電導リニア]] [[L0系]]) - <small>鉄道の試験走行として世界最高速度の603km/hを記録している</small>]] [[ファイル:Shanghai Transrapid 002.jpg|thumb|200px|磁気浮上式リニア([[上海トランスラピッド]]) - <small>世界最高速の営業運転 (430km/h) を行っている</small>]] [[ファイル:Linimo approaching Banpaku Kinen Koen, towards Fujigaoka Station.jpg|thumb|200px|磁気浮上式リニア ([[HSST]]) - [[愛知高速交通100形電車|愛知高速交通100形]](リニモ)]] {{main|磁気浮上式鉄道}} 磁気浮上式リニアモーターカーは、[[磁気浮上式鉄道]]であって、かつ同時に、リニアモーターで加減速される。<!--推進には'''リニア同期モーター'''が用いられ、高速化が可能である。--><!--←HSSTは誘導モーターですが?--><!--磁気浮上式リニアモーターカーは、浮上にも駆動にも磁気を使うので、[[原理]]や[[設備]]の面から相性がいいが、駆動だけでなく浮上にも新[[技術]]を用いるため、技術的ハードルが高い。--><!--←鉄輪式リニアが技術的に筋が悪いという理由にはならない。浮上式鉄道では、浮上する(軌道非接触という形態の)都合上、摩擦力による推進が使えないので、仕方なく(?)磁気推進なりプロペラやジェットによる空気力推進をするのである-->[[超電導リニア]]は[[磁気浮上鉄道#技術|電磁誘導浮上支持方式(EDS)]]であり([[リニア実験線#宮崎実験線|宮崎実験線]]では床部分のコイルによる反発式だったが、[[リニア実験線#山梨実験線|山梨実験線]]では側壁に推進用と浮上用の両方のコイルがあり、浮上には反発と吸引が併用される)、[[HSST]]や[[トランスラピッド]]は吸引式の[[磁気浮上鉄道#技術|電磁吸引支持方式(EMS)]]である。超電導リニアは浮上に誘導電流を利用するというそのメカニズム上、低速時には浮上しないため、引込式の[[タイヤ|ゴムタイヤ]][[車輪]]を装備しており、[[停車]]・低速時や緊急停止時にはタイヤで車体を支持する。 [[日本初の一覧|日本初]]の営業運転は、HSSTによる[[1989年]]の[[横浜博覧会]]におけるYES'89線である。運行されていたのは博覧会の期間中であったが、[[デモンストレーション|展示走行]]{{要曖昧さ回避|date=2023年2月}}ではなく、磁気浮上式鉄道として[[運輸省|運輸当局]]の[[鉄道事業者|第一種鉄道事業]]として営業運転免許を得た[[旅客輸送]]であった。 ==== 世界での実用化プロジェクト ==== {{see also|磁気浮上式鉄道#主な磁気浮上式鉄道}} 現在営業運転を行っているものは、日本では[[愛知高速交通東部丘陵線]](リニモ)、[[中華人民共和国|中国]]では[[上海トランスラピッド]]・[[長沙磁浮快線]]・[[北京地下鉄S1線]]、[[大韓民国|韓国]]では[[エキスポ科学公園]]線・[[仁川空港磁気浮上鉄道]]である。その他は[[実験]]・[[試験]]{{要曖昧さ回避|date=2023年2月}}段階にとどまるか、すでに[[廃線|廃止]]されている。日本では将来において2027年を目処に[[首都圏 (日本)|首都圏]]([[品川駅]]) - [[中京圏]]([[名古屋駅]])間を結ぶ[[中央新幹線]]の営業運転開始を目指している。 === 鉄輪式 === [[ファイル:Model 10000 of Yokohama City Transportation Bureau.jpg|thumb|200 px|鉄輪式リニア(横浜市営地下鉄グリーンライン)]] [[ファイル:Gzmtr4linerail.jpg|thumb|200 px|鉄輪式リニア([[広州地下鉄4号線]])]] [[ファイル:Toei-subway reaction-plate.jpg|thumb|200 px|鉄輪式リニアのリアクションプレート(レール間に敷設されている) - [[馬込車両検修場]]]] [[ファイル:Expo88 train.jpg|thumb|200 px|リムトレン 鉄輪式リニア in さいたま博]] 鉄輪式リニアモーターカーは、推進力(動力)に[[リニアモーター]](もっぱらリニア誘導モーター)を使用し、車両の支持・案内にはレールと車輪を使用する。原理から来る構造により、車高を低く抑えることが可能であることや、[[輪軸 (鉄道車両)|鉄車輪]]と[[軌条|鉄軌条]]の摩擦力に頼る一般的な[[粘着式鉄道]]と比べ、推進力を車両に対して直接発生させる方式であることから車輪の直径を小さくすることができ、その上で急勾配や急曲線にも強い、などといった特徴がある。日本ではトンネル断面を小さくしても車内を広く取れるという利点から、[[地下鉄]]への採用が[[1990年代]]以降広がった。 鉄輪以外に[[タイヤ|ゴムタイヤ]]式なども原理的には可能であるが、もともとエネルギー効率が低いという性質から、さらに[[転がり抵抗]]の大きいゴムタイヤと組み合わせた営業線での例は見られない。車体側の[[鉄道車両の台車|台車]]底面には[[電磁石|コイル]]を取付け、地上側にはリアクションプレートを軌道中央に取付けて固定している。走行の際には、車両側のコイルに[[三相交流]]を流すことで、[[誘導電動機]]の回転磁界に相当する移動磁界が発生する。これによりリアクションプレートに[[渦電流]]による[[磁界]]が発生して、車体側のコイルとリアクションプレートの間で磁力の吸引・反発が相互に働いて車両に推進力を発生させる。また、集電方式には[[直流電化|直流]]1,500 Vの電力を[[架線|架空電車線]]または[[剛体架線]]に流して[[集電装置|パンタグラフ]]により集電する[[架空電車線方式]]を(ただし海外では[[第三軌条方式]]の採用例もある)、[[電気車の速度制御|車両の制御方式]]には、リニア誘導モーターを使用するため三相交流を制御可能な[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]を採用している。このため、定格速度まではすべり周波数一定制御により一定トルクで[[加速]]して、定格速度以上ではすべり一定制御を行って<ref group="注">この場合では、すべり周波数は速度に比例して大きくなる。</ref>効率を最大にする。 鉄輪式リニアモーターカーには以下のようなメリットがある。 # リニアモーターは非常に薄いため通常の[[電車]]よりも車輪径を小さく、[[鉄道車両の台車|台車]]を小型化でき、客室の床面を低くすることができるほか、[[車両限界]]も縮小できる。このためトンネル断面を小さくでき、建設費を削減可能([[日本の地下鉄#ミニ地下鉄|ミニ地下鉄]])。 # 駆動力を車輪とレールの摩擦に頼らないため、急勾配での走行性能が高く<ref group="注">最大で60 [[パーミル|‰]]まで可能。</ref>、急曲線での走行が可能である<ref group="注">本線で曲線半径100 mまで可能。</ref>。大都市では地下鉄路線の過密化により直線的な路線空間の確保が困難になっており、急勾配・急カーブを多く持つ[[線形 (路線)|線形]]にせざるを得ないが、そのような場合に有効である。 # [[減速器|減速歯車]]や撓み継ぎ手等の可動部分が無いので[[騒音]]が低く、[[メンテナンス|保守]]が容易。 一方で、以下のようなデメリットがある。 # リアクションプレートと車両側の電磁石との間隔(ギャップ)が狭い(12 mm程度)ため、地上区間や駅部ではゴミなどが挟まりやすい。 # 従来の[[粘着式鉄道|粘着式]]推進に比べるとリニア誘導モーター固有の内部損失、及び、一次側コイルとリアクションプレート間の隙間が従来の回転式の誘導電動機に比べ大きいのでエネルギーの損失が大きく(磁界の強度は[[逆2乗の法則|距離の2乗に反比例]]する)効率が低い、そのため、単位輸送量あたりの[[消費電力]]が従来型に比べ大きい。 ==== 車輛以外の鉄道関連システム ==== * リニアモータ方式貨車加減速装置 - ([[日本の貨車操車場]]の記事も参照)[[1974年]]9月に運用開始<ref>{{Cite book |title=新交通システム |author= |date = 1990 |issue = |volume = |publisher =保育社 |isbn=9784586508037 |page =72 }}</ref>。[[貨物列車]]などの組成・[[入換 (鉄道)|入換え]]にコンピュータ化された[[武蔵野操車場|武蔵野]]、[[北上操車場|北上]]、[[新南陽駅|新南陽]]、[[郡山貨物ターミナル駅|郡山]]、[[川崎貨物駅|塩浜]]、[[高崎操車場|高崎]]の各操車場で使用されていた<ref>当時のリニアモーターヤード:[http://expechizen.exblog.jp/10814093/ 1982年塩浜操](2009.4 急行越前の鉄の話)</ref>{{信頼性要検証|date=2023年2月|title=個人ブログ}}。保守車両として[[国鉄ヤ250形貨車]]があった。リニアモーター車輛でもいわゆる台車でもなく、通常のレールの内側に設置された専用のレールの上を移動しながら貨車を捕捉して加減速の後に[[操車場 (鉄道)#平面ヤード|突放]]あるいは停止させる装置である<ref group="注">『日立評論』の1970年12月号に「リニアモータ方式L<sub>4</sub>形貨車加減速装置」という記事がある。</ref>。 * 鉄道総研「集電試験装置」<ref>[https://www.rtri.or.jp/rd/division/rd44/rd4430/rd44300201.html 集電試験装置] 鉄道総合技術研究所</ref> - リニアモータ駆動により、実車のパンタグラフ等の集電周辺装置が取り付けられた台車を、高速(最高速度200 km/h程度)で走行させ、それら集電関係の高速移動時の問題<ref group="注">特に日本の[[新幹線]]では、以前は[[離線]]による[[アーク]]{{要曖昧さ回避|date=2023年2月}}がほぼ間断なく発生しており、解決には時間がかかった。</ref>等の試験・調査等をおこなう装置。 ==== 世界での実用化例 ==== * [[空気浮上式鉄道#LIMRV|LIMRV]] - 車載の[[ターボ・エレクトリック方式|ガスタービン発電機]]で駆動するリニア誘導モータを備えた[[プロトタイプ#鉄道車両|試作車両]] * {{仮リンク|ボンバルディア・イノヴィア・メトロ|en|Bombardier Innovia Metro}}(ボンバルディア・アドバンスト・ラピッド・トランジット) - [[ボンバルディア]]社が開発した鉄輪式リニアモーターカー。[[第三軌条方式|第3軌条]]から集電する。 '''アメリカ''' * [[デトロイト]]のピープルムーバ([[新交通システム]]) * [[ニューヨーク]]の「[[エアトレインJFK]]」 '''カナダ''' * [[トロント]]の「スカーバラ RT line」 * [[バンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)|バンクーバー市]]の[[バンクーバー・スカイトレイン|スカイトレイン]] エキスポ・ライン - [[1985年]]開業 * [[バンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)|バンクーバー市]]の[[バンクーバー・スカイトレイン|スカイトレイン]] ミレニアム・ライン - [[2002年]]開業 '''韓国''' * 韓国[[龍仁市]]の[[龍仁軽電鉄]] その他、[[香港]]の地下鉄などでも採用計画があるとされる。 '''中国''' * 広州市の[[広州地下鉄4号線]] - [[2005年]]開業 * 広州市の[[広州地下鉄5号線]] - [[2009年]]開業 * 広州市の[[広州地下鉄6号線]] - [[2013年]]開業 * 北京市の[[北京地下鉄首都機場線]] - [[2008年]]開業 '''日本'''{{See also|日本の地下鉄#ミニ地下鉄}} * [[ALPS]]<ref group="注">アルプスと呼称する。</ref> - ゴムタイヤ支持・リニアサイリスタモーター駆動の高速鉄道システムとして、[[鉄道技術研究所]]で研究された<ref>[https://bunken.rtri.or.jp/doc/fileDown.jsp?RairacID=0004005948 鉄道総研の技術遺産 LTM高速特性試験装置] 鉄道総合技術研究所(2019年9月4日閲覧)</ref>。 * [[リムトレン]] - [[1988年]]の[['88さいたま博覧会|さいたま博覧会]](3月19日 - 5月29日)で[[日本モノレール]]が出資し、鉄車輪(4輪)のボギー台車2組を取付け2両編成による展示走行を行った。製作は三菱重工。<!--普通鉄道と同様、鉄車輪(4輪)のボギー台車2組を取付け、鉄レール軌道を走る。リニアモーターで推進する列車。試乗線の軌条は全長850m。同様のシステムの鉄道はカナダのバンクーバーや東京都や大阪市で地下鉄として走っている--> * [[Osaka Metro長堀鶴見緑地線]] - [[1990年]]に日本初の常設[[実用]]線として開業。使用車両の[[大阪市交通局70系電車|70系]]は、この年の[[ローレル賞]]を受賞した。 *: 導入の経緯として、([[大阪市高速電気軌道]]〈Osaka Metro〉の前身の)[[大阪市交通局]]長であった今岡鶴吉は、[[Osaka Metro御堂筋線|御堂筋線]]の混雑軽減のために[[Osaka Metro四つ橋線|四つ橋線]]を開通させたが「余り使ってもらえない」ため、現在の[[御堂筋]]の幅員にもう一本地下鉄を入れるために小型地下鉄を検討したことが、長堀鶴見緑地線のリニアメトロ車両の開発に繋がったとしている<ref>座談会「リニアメトロのあゆみ」における今岡鶴吉の発言から。「鈴木俊一著作集第五巻(座談会)」良書普及会発刊(2001年)708p-709p</ref>。 * [[都営地下鉄大江戸線]] - [[1991年]]開業 * [[神戸市営地下鉄海岸線]] - [[2001年]]開業 * [[福岡市地下鉄七隈線]] - [[2005年]]開業 * [[Osaka Metro今里筋線]] - [[2006年]]開業 * [[横浜市営地下鉄グリーンライン]] - [[2008年]]開業 * [[仙台市地下鉄東西線]] - [[2015年]]開業 '''ベネズエラ''' * [[TELMAGV]] - [[ベネズエラ]]の{{仮リンク|アンデス大学 (ベネズエラ)|label=アンデス大学|en|University of the Andes (Venezuela)}}で開発中のリニアモーター式交通機関[[リラクタンスモータ|リニアリラクタンスモーター]]を推進に使用する。 '''マレーシア''' * [[クアラルンプール]]の「[[ラピドKLクラナ・ジャヤ線|RapidKL Kelana Jaya Line]]」 * クアラルンプールの「Bandar Utama-Klang line」 == 駆動方式の種類 == {{main2|詳細は「[[磁気浮上式鉄道#リニアモータの種類]]」を}} リニアモーターも通常の[[電動機|モーター]]と同様、以下のように分類できる(なお、以下の分類はリニアモーターカーと全く無関係に「リニアモーターの分類」である)。また、モーターの1次側(変動磁界を発生させる側)を地上側に設置して、モーターの2次側を車上側に搭載している方式を'''地上1次方式'''と言い、モーターの1次側を車上側に搭載して、モーターの2次側を地上側に設置している方式を'''車上1次方式'''と言う。 * リニア[[同期電動機|同期モーター]](LSM) - 車両側に電磁石を搭載するとともに、軌道側にも電磁石または[[永久磁石]]を並べなくてはならないため、軌道敷設・[[保線]]のコストがかさむ。効率や出力には優れる<ref group="注">ただし、軌道一次式、車上一次式にかかわらず、軌道側の磁石を励磁しなければならないので効率は車上一次式よりも劣る</ref>。 * リニア[[誘導電動機|誘導モーター]](LIM) - 車上一次式の場合、車両側に電磁石が必要だが、軌道側には電磁石が不要で、「リアクションプレート」と呼ばれる単なる[[金属]]板ですむ。LSMと比較した場合、高速域では[[推力]]・[[力率]]・[[効率]]が低くなるほか、1モーターの1次側と2次側の空隙が大きくなると推力が大幅に減少するため、その空隙を小さく抑える必要がある。ただし、車上一次式であれば軌道上にコイルを敷設する必要がなく、軌道上のコイルを励磁必要がないので推進効率は同種の推進方式の[[ミニ地下鉄]]と同水準である<ref group="注">リニア誘導モータには「すべり」があり、反発にも吸引にもなる。この位相を切り替えるタイミングを速度に応じて上手に切り替えるように制御している。</ref>。 * リニア[[整流子電動機|整流子モーター]] - サイリスタモーターとも呼ばれており、ブラシと整流子を電子回路において実現している。エネルギー効率はLSMよりも高いが、機械的接触がある、寿命が短いなどの問題があるため、実用レベルではほとんど使われない。<!--まったく使われない?接地式では原理的には使用可能だが。「使われてない」ことを確認するのは困難なので「ほとんど」とした。[[有井製作所]]から以前販売されていた模型がこの形式でした。--> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注記 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == {{No footnotes|section=1|date=2023年2月3日 (金) 08:04 (UTC)}} * {{Cite book | 和書 | author=正田英介・加藤純郎・藤江恂治・水間 毅 | title=磁気浮上鉄道の技術 | date=1992-09 | publisher=[[オーム社]] | isbn=4274034135}} * {{Cite book | 和書 | editor=国土交通省総合政策局情報管理部 | title=交通関係エネルギー要覧〈平成12年版〉 | date=2001-03 | publisher=[[国立印刷局|財務省印刷局]] | isbn=4171912555}} * {{Cite book | 和書 | author=久野万太郎 | title=リニア新幹線物語 | edition=初版 | date=1992-02-08 | publisher=[[同友館]] | isbn=4-496-01834-9}} * {{Cite book | 和書 | editor=財団法人鉄道総合技術研究所 | title=超電導リニアモーターカー | edition=初版 | date=1997-04 | publisher=[[交通新聞社]] | isbn=4-87513-062-7}} * {{Cite book | 和書 | author=井出耕也 | title=疾走する超電導 リニア五五〇キロの軌跡 | edition=初版 | date=1998-04-01 | publisher=[[ワック・マガジンズ|ワック株式会社]] | isbn=4-948766-05-4}} * {{Cite book | 和書 | author=持永芳文 | title=電気鉄道技術入門 | edition=初版 | date=2009-09-20 | publisher=[[オーム社]] | isbn=9784274501920}} * linear-chuo-Shinkansen.jr-central.co.jp == 関連本・参考図書 == * {{Cite book | 和書 | author=京谷好泰 | title=10センチの思考法 | date=2000-12 | publisher=[[すばる舎]] | isbn=9784883990672}} * {{Cite book | 和書 | author=京谷好泰 | title=リニアモータカー 超電導が21世紀を拓く | date=1990-06 | publisher=[[日本放送出版協会]] | isbn=978-4140015988}} * {{Cite book | 和書 | author=奥猛 京谷好泰 佐貫利雄 | title=超高速新幹線 | date=1971-01 | publisher=[[中公新書]] | isbn=978-4-12-100272-3}} * {{Cite book | 和書 | author=茂木宏子 | title=お父さんの技術が日本を作った!メタルカラーのエンジニア伝 | date=1996-03 | publisher=[[小学館]] | isbn=978-4092901315}} * {{Cite book | 和書 | editor=研究産業協会監修 | title=匠たちの挑戦 (3) | date=2002-12 | publisher=[[オーム社]] | isbn=978-4274948848}} * {{Cite book | 和書 | author=Ralf Roman Rossberg | others=須田忠治 訳 | title=磁気浮上式鉄道の時代が来る? | date=1990-06 | publisher=[[電気車研究会]] | isbn=978-4885480539}} * {{Cite book | 和書 | author=澤田一夫 三好清明 | title=翔べ!リニアモーターカー | date=1991-02 | publisher=[[読売新聞社]] | isbn=978-4643910100}} * {{Cite book | 和書 | editor=鉄道総合技術研究所浮上式鉄道開発推進本部 | title=超電導が鉄道を変える-リニアモーターカー・マグレブ | date=1988-12 | publisher=[[清文社]] | isbn=978-4792050986}} * {{Cite book | 和書 | author=井出耕也 | title=疾走する超電導 リニア五五〇キロの軌跡 | date=1998-04 | publisher=[[ワック (メディア企業)|ワック]] | isbn=9784948766051}} * {{Cite book | 和書 | editor=鉄道総合技術研究所 | title=ここまで来た!超電導リニアモーターカー | edition=初版 | date=2006-12 | publisher=[[交通新聞社]] | isbn=9784330905068}} * {{Cite book | 和書 | author=窪園豪平 | title=リニアモーターカー | edition=初版 | date=2006-12 | publisher=[[一ツ橋書店]] | isbn=9784565983220}} * {{Cite book | 和書 | editor=交通新聞編集局 | title=時速500キロ「21世紀」への助走 | edition=初版 | date=1990-01 | publisher=[[交通新聞社]] | isbn=9784875130116}} * {{Cite book | 和書 | author=白澤照雄 | title=リニア中央新幹線 | edition=初版 | date=1989-07 | publisher=[[ニュートンプレス]] | isbn=9784315509816}} * {{Cite book | 和書 | editor=中央新幹線沿線学者会議 | title=リニア中央新幹線で日本は変わる | edition=初版 | date=2001-08 | publisher=[[PHP研究所]] | isbn=9784569617190}} * {{Cite book | 和書 | editor=正田英介・加藤純郎・藤江恂治・水間毅 | title=磁気浮上鉄道の技術 | date=1992-09 | publisher=[[オーム社]] | language=日本語 | isbn=4274034135}} * {{Cite book | 和書 | editor=国土交通省総合政策局情報管理部 | title=交通関係エネルギー要覧〈平成12年版〉 | date=2001-03 | publisher=[[国立印刷局|財務省印刷局]] | language=日本語 | isbn=4171912555}} * {{Cite book | 和書 | author=久野万太郎 | title=リニア新幹線物語 | edition=初版 | date=1992-02-08 | publisher=[[同友館]] | language=日本語 | isbn=4-496-01834-9}} * {{Cite book | 和書 | editor=財団法人鉄道総合技術研究所 | title=超電導リニアモーターカー | edition=初版 | date=1997-04 | publisher=[[交通新聞社]] | language=日本語 | isbn=4-87513-062-7}} * {{Cite journal |author=H.H.コルム |author2=R.D.ソーントン |author3= |authorlink= |coauthors= |year=|date=1973年12月号 |month= |title=磁気浮上による超高速鉄道 |journal=[[日経サイエンス|サイエンス]] |publisher=日経サイエンス社 |volume= |issue= |pages=10 |id= |url= |accessdate= |quote= }} * {{cite news | last=Heller | first=Arnie | title=A New Approach for Magnetically Levitating Trains&mdash;and Rockets | publisher=Science & Technology Review |date = June 1998| url=http://www.llnl.gov/str/Post.html }} * {{Cite book | first=Christopher P. | last=Hood | year=2006 | title=Shinkansen – From Bullet Train to Symbol of Modern Japan | chapter= | editor= | others= | pages= | publisher= Routledge | isbn=0-415-32052-6 | url= | authorlink= }} * {{Cite book | first=Francis C. | last=Moon | year=1994 | title=Superconducting Levitation Applications to Bearings and Magnetic Transportation | 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日本におけるリニアメトロの誕生・紹介展](地下鉄博物館特別展・インターネットアーカイブ) * [[日本地下鉄協会]]『SUBWAY』2018年5月号{{PDFlink|[http://www.jametro.or.jp/upload/subway/QVnNtvzZoHpf.pdf 特集「リニアメトロ推進本部30周年記念」]}}(pp.21 - 57掲載) {{Rail-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:りにあもおたあかあ}} [[Category:磁気浮上式鉄道]] [[Category:鉄輪式リニアモーター鉄道]] [[Category:構造別の鉄道車両]] [[Category:和製英語]]
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アミノ酸
アミノ酸(アミノさん、英: amino acid)とは、広義には(特に化学の分野では)、アミノ基とカルボキシ基の両方の官能基を持つ有機化合物の総称である。一方、狭義には(特に生化学の分野やその他より一般的な場合には)、生体のタンパク質の構成ユニットとなる「α-アミノ酸」を指す。分子生物学など、生体分子をあつかう生命科学分野においては、遺伝暗号表に含まれるプロリン(イミノ酸に分類される)を、便宜上アミノ酸に含めることが多い。 天然には約500種類ほどのアミノ酸が見つかっているが、宇宙由来のものとしても1969年に見つかったマーチソン隕石からグリシン、アラニン、グルタミン酸、β-アラニンが確認されている。全アミノ酸のうち22種がタンパク質の構成要素であり、真核生物では21種から、ヒトでは20種から構成される。動物が体内で合成できないアミノ酸を、その種にとっての必須アミノ酸と呼び、動物種によって異なるが、ヒトでは9種類のアミノ酸は食事により摂取しなければならない。 必須でないアミノ酸(可欠アミノ酸)も、摂取バランスによっては代謝異常や欠乏を起こすことがある。非天然のアミノ酸はキラルビルディングブロック(光学活性化合物から有用な生化合物を合成する手法)、複雑な分子の構造解析、分子スキャフォールド(細胞培養における基質のことで「足場」の意味)、さらには人工タンパク質の合成などにも利用されている。 有毒な種類のアミノ酸もあり、例えば毒キノコに含まれている場合がある。毒性のあるアミノ酸の場合、神経毒としての作用を発揮する。 必須アミノ酸とタンパク質が密接に関わっているため、便宜的に(必須)アミノ酸を三大栄養素のタンパク質の代わりとすることもある。 α-アミノ酸とは、カルボキシ基が結合している炭素(α炭素)にアミノ基も結合しているアミノ酸であり、RCH(NH2)COOH という構造を持つ。Rが水素 (H) であるグリシン以外のα-アミノ酸では、α炭素へのアミノ基やカルボキシ基などの結合様式が立体的に2通り可能で、それぞれ、D型、L型の光学異性体として区別される。生体のタンパク質はα-アミノ酸のポリマーであるが、基本的にL型のものだけが構成成分となっている。D型は天然では細菌の細胞壁の構成成分や老化組織、ある種の神経細胞などに存在が見出されている。生体のタンパク質はほとんどの場合、Rで表記した側鎖の違いによる20種類のアミノ酸からなる。個々のアミノ酸はこの側鎖の性質によって、親水性・疎水性、塩基性・酸性などの性質が異なる。 一部の特殊なものを除き、ヒトのタンパク質は5種類の元素 (炭素、水素、酸素、窒素、硫黄) から構成される20種類のアミノ酸が結合して作られている。これらのアミノ酸にはそれぞれ一文字表記、または三文字表記のアルファベットからなる略号が付与されており、一次構造の記述に使用される。 それぞれのアミノ酸は、構造によって異なる酸・塩基性を持つ。構造内に2つのカルボキシル基を持つアミノ酸(アスパラギン酸およびグルタミン酸)は酸性を、2つ以上のアミノ基を持つアミノ酸(リシン・アルギニン・ヒスチジン)は塩基性を、その他のアミノ酸はほぼ中性を示す。また、それぞれのアミノ酸は等電点が実験的に決定されており、電気泳動などの分離時に意味を持つ。 中性アミノ酸は、カルボキシル基およびアミノ基以外に持つ特徴的な基によって、幾つかに分類される。主に、アルキル鎖を持つグリシン・アラニン・バリン・ロイシン・イソロイシン、ヒドロキシ基を持つセリン・トレオニン、硫黄を含むシステイン・メチオニン、アミド基を持つアスパラギン・グルタミン、イミノ基を持つプロリン、芳香族基を持つフェニルアラニン・チロシン・トリプトファンに分類され、タンパク質の持つ疎水性や立体配座はこれらの分類を考慮しながら考察される。 上に挙げた20種類のアミノ酸は、タンパク質合成時に遺伝情報に基づいて連結される。多くのタンパク質は上記の20種類のアミノ酸残基からなるが、ある種のタンパク質にはセレノシステイン残基、N-ホルミルメチオニン残基、ピロリシン残基、ピログルタミン酸残基などの特殊なものも含まれる。 上記のほかにタンパク質合成後に修飾を受けるアミノ酸残基も存在する。例えば以下のようなものである。 タンパク質に含まれないアミノ酸として、以下のようなものも存在する(こうしたアミノ酸を総称して異常アミノ酸と呼ぶこともあるが、必ずしも適切な命名ではないという批判もある)。 天然に産する広義のアミノ酸の中には、旨み成分や、薬物として作用するもの、そして毒となるものがある。 1953年、シカゴ大学のハロルド・ユーリーとスタンリー・ミラーは、アンモニア・メタン・水素の混合ガス(当時原始大気成分と考えられていた)と水の入った容器に電気火花を飛ばす実験を行い、グリシン・アラニン・アスパラギン酸などの各種アミノ酸が生成することを発見した(ユーリー・ミラーの実験)。原始地球において、生命の素材となったアミノ酸が生成した過程の可能性を示した、有名な実験である。 いわゆる異常アミノ酸の中にも重要な生理活性を持つものは数多く存在し、また医薬にもD体または非天然型のアミノ酸は数多く使われている。このためアミノ酸の合成(特に不斉合成)は需要が高く、種々の方法が提案されている。 古くから用いられているアミノ酸の合成法としてストレッカー反応がある。アルデヒドとアンモニア・シアン化水素の3成分縮合によってα-アミノニトリルを合成し、この加水分解によりアミノ酸を得るというものである。 他にα-ハロカルボン酸とアミンの反応、グリシンのα位のアルキル化などによる方法も知られている。不斉合成に関しても様々な手法が提案されている(ストレッカー反応の項目なども参照)。 工業的には、微生物を用いたアミノ酸発酵によって大量に合成されている。人工的に突然変異させた微生物株を、炭素源となる糖類や窒素源となる硫酸アンモニウムと共に培養することで、安価に目的のアミノ酸が合成できる。 米国医学研究所の書籍(2005)では以下のようになっている。 近年(2006年現在)はアミノ酸を含有するサプリメントが日本の消費者に一種の健康ブームを引き起こしており、健康食品、飲料メーカーなどが盛んに新製品を出している。しかし、そのアミノ酸の成分のバランスが人間に必要な量通りに研究され、配合されているかは不明確である。
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アミノ酸とは、広義には(特に化学の分野では)、アミノ基とカルボキシ基の両方の官能基を持つ有機化合物の総称である。一方、狭義には(特に生化学の分野やその他より一般的な場合には)、生体のタンパク質の構成ユニットとなる「α-アミノ酸」を指す。分子生物学など、生体分子をあつかう生命科学分野においては、遺伝暗号表に含まれるプロリン(イミノ酸に分類される)を、便宜上アミノ酸に含めることが多い。 天然には約500種類ほどのアミノ酸が見つかっているが、宇宙由来のものとしても1969年に見つかったマーチソン隕石からグリシン、アラニン、グルタミン酸、β-アラニンが確認されている。全アミノ酸のうち22種がタンパク質の構成要素であり、真核生物では21種から、ヒトでは20種から構成される。動物が体内で合成できないアミノ酸を、その種にとっての必須アミノ酸と呼び、動物種によって異なるが、ヒトでは9種類のアミノ酸は食事により摂取しなければならない。 必須でないアミノ酸(可欠アミノ酸)も、摂取バランスによっては代謝異常や欠乏を起こすことがある。非天然のアミノ酸はキラルビルディングブロック(光学活性化合物から有用な生化合物を合成する手法)、複雑な分子の構造解析、分子スキャフォールド(細胞培養における基質のことで「足場」の意味)、さらには人工タンパク質の合成などにも利用されている。 有毒な種類のアミノ酸もあり、例えば毒キノコに含まれている場合がある。毒性のあるアミノ酸の場合、神経毒としての作用を発揮する。 必須アミノ酸とタンパク質が密接に関わっているため、便宜的に(必須)アミノ酸を三大栄養素のタンパク質の代わりとすることもある。
[[画像:Glycine-skeletal.png|thumb|グリシンの構造式。最も構造が単純なアミノ酸]] [[画像:Amminoacido triptofano formula.svg|thumb|トリプトファンの構造式。最も構造が複雑なアミノ酸の1つ。]] '''アミノ酸'''(アミノさん、{{lang-en-short|amino acid}})とは、広義には(特に[[化学]]の分野では)、[[アミノ基]]と[[カルボキシ基]]の両方の[[官能基]]を持つ[[有機化合物]]の総称である。一方、狭義には(特に[[生化学]]の分野やその他より一般的な場合には)、生体の[[タンパク質]]の構成ユニットとなる「α-アミノ酸」を指す。分子生物学など、生体分子をあつかう生命科学分野においては、遺伝暗号表に含まれる[[プロリン]]([[イミノ酸]]に分類される)を、便宜上アミノ酸に含めることが多い<ref>{{Cite book|last=1958-|first=Berg, Jeremy M. (Jeremy Mark),|title=Biochemistry|url=https://www.worldcat.org/oclc/758952268|edition=7th ed|date=2012|publisher=W.H. Freeman|isbn=9781429229364|location=New York|others=Tymoczko, John L., 1948-, Stryer, Lubert.|oclc=758952268}}</ref><ref>{{Cite book|last=L.|first=Lehninger, Albert|title=Lehninger principles of biochemistry.|url=https://www.worldcat.org/oclc/42619569|edition=3rd ed.|date=2000|publisher=Worth Publishers|isbn=1572591536|location=New York|others=Nelson, David L. (David Lee), 1942-, Cox, Michael M.|oclc=42619569}}</ref>。 天然には約500種類ほどのアミノ酸が見つかっている<ref name=ajinomoto>{{Cite web|和書|url=https://www.ajinomoto.co.jp/amino/manabou/about.html |title=アミノ酸大百科 - アミノ酸は私たちの生命の源 |accessdate=2018-07-21}}</ref>が、[[宇宙]]由来のものとしても[[1969年]]に見つかった[[マーチソン隕石]]から[[グリシン]]、[[アラニン]]、[[グルタミン酸]]、[[β-アラニン]]が確認されている<ref name=ajinomoto />。全アミノ酸のうち22種が[[タンパク質を構成するアミノ酸|タンパク質の構成要素]]であり、[[真核生物]]では21種から、[[ヒト]]では20種から構成される。動物が体内で合成できないアミノ酸を、その種にとっての'''[[必須アミノ酸]]'''と呼び、動物種によって異なるが<ref>{{Cite journal|last=Reeds|first=P. J.|date=2000-7|title=Dispensable and indispensable amino acids for humans|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/10867060|journal=The Journal of Nutrition|volume=130|issue=7|pages=1835S–40S|doi=10.1093/jn/130.7.1835S|issn=0022-3166|pmid=10867060}}</ref>、ヒトでは9種類のアミノ酸は食事により摂取しなければならない。 必須でないアミノ酸(可欠アミノ酸)も、摂取バランスによっては代謝異常や欠乏を起こすことがある。非天然のアミノ酸はキラルビルディングブロック(光学活性化合物から有用な生化合物を合成する手法)、複雑な分子の構造解析、分子スキャフォールド(細胞培養における基質のことで「足場」の意味)、さらには[[人工タンパク質]]の合成などにも利用されている。 [[毒|有毒]]な種類のアミノ酸もあり、例えば[[キノコ|毒キノコ]]に含まれている場合がある。毒性のあるアミノ酸の場合、[[神経毒]]としての作用を発揮する。 必須アミノ酸とタンパク質が密接に関わっているため、便宜的に(必須)アミノ酸を[[三大栄養素]]のタンパク質の代わりとすることもある。 == 構造 == [[Image:AminoAcidball.svg|thumbnail|250px|α-アミノ酸の一般構造式]] [[画像:Amino acid zwitterion.png|thumbnail|250px|アミノ酸の構造(左)と[[双性イオン]](右) ]] '''α-アミノ酸'''とは、カルボキシ基が結合している[[炭素]]([[α炭素]])にアミノ基も結合しているアミノ酸であり、RCH(NH<sub>2</sub>)COOH という構造を持つ。Rが水素 (H) であるグリシン以外のα-アミノ酸では、α炭素へのアミノ基やカルボキシ基などの結合様式が立体的に2通り可能で、それぞれ、D型、L型の[[光学異性体]]として区別される。生体の[[タンパク質]]はα-アミノ酸の[[ポリマー]]であるが、基本的にL型のものだけが構成成分となっている。D型は天然では細菌の細胞壁の構成成分や老化組織、ある種の神経細胞などに存在が見出されている。生体のタンパク質はほとんどの場合、Rで表記した[[側鎖]]の違いによる20種類のアミノ酸からなる。個々のアミノ酸はこの側鎖の性質によって、[[親水性]]・[[疎水性]]、[[塩基性]]・[[酸性]]などの性質が異なる。 == 分類 == ;側鎖による分類 :[[分枝鎖アミノ酸]]、[[芳香族アミノ酸]]、[[含硫アミノ酸]] : ;代謝物による分類 :[[糖原性アミノ酸]]、[[ケト原性アミノ酸]] : ;アミノ基の位置による分類 :α-アミノ酸 例:[[アラニン]] :β-アミノ酸 例:[[β-アラニン]] :γ-アミノ酸 例:[[γ-アミノ酪酸]] :δ-アミノ酸 例:[http://www.genome.jp/dbget-bin/www_bget?cpd_ja:C00431 δ-アミノ吉草酸] : ;光学異性による分類 :D-アミノ酸、L-アミノ酸 : ;栄養学上の分類 :2005年米国医学研究所発行の書籍によれば以下のように分類している。<ref name="IoM2005">{{cite book | author = [[米国医学研究所|Institute of Medicine]] | title = Dietary Reference Intakes for Energy, Carbohydrates, Fiber, Fat, Fatty Acids, Cholesterol, Protein, and Amino Acids | chapter = 10. Protein and Amino Acids | publisher = The National Academies Press | year = 2005 | pages = 593(Table 10-1) | url = https://www.nap.edu/read/10490/chapter/12#593}}</ref> ; 必須アミノ酸 :[[ヒスチジン]]、[[イソロイシン]]、[[ロイシン]]、[[リシン]]、[[メチオニン]]、[[フェニルアラニン]]、[[トレオニン]]、[[トリプトファン]]、[[バリン]] ;条件付き必須アミノ酸 :体内の代謝だけでは必要量を十分には賄えないことがあるアミノ酸。 :[[アルギニン]]、[[システイン]]、[[グルタミン]]、[[グリシン]]、[[プロリン]]、[[チロシン]] ;非必須アミノ酸 :[[アラニン]]、[[アスパラギン酸]]、[[アスパラギン]]、[[グルタミン酸]]、[[セリン]] == タンパク質を構成するもの == {{Main|タンパク質を構成するアミノ酸}} 一部の特殊なものを除き、ヒトのタンパク質は5種類の元素 (炭素、水素、酸素、窒素、硫黄) から構成される20種類のアミノ酸が結合して作られている。これらのアミノ酸にはそれぞれ'''一文字表記'''、または'''三文字表記'''のアルファベットからなる略号が付与されており、[[一次構造]]の記述に使用される。 それぞれのアミノ酸は、構造によって異なる[[酸と塩基|酸・塩基性]]を持つ。構造内に2つの[[カルボキシル基]]を持つアミノ酸([[アスパラギン酸]]および[[グルタミン酸]])は酸性を、2つ以上のアミノ基を持つアミノ酸([[リシン]]・[[アルギニン]]・[[ヒスチジン]])は塩基性を、その他のアミノ酸はほぼ中性を示す。また、それぞれのアミノ酸は[[等電点]]が実験的に決定されており、[[電気泳動]]などの分離時に意味を持つ。 中性アミノ酸は、カルボキシル基およびアミノ基以外に持つ特徴的な基によって、幾つかに分類される。主に、アルキル鎖を持つ[[グリシン]]・[[アラニン]]・[[バリン]]・[[ロイシン]]・[[イソロイシン]]、ヒドロキシ基を持つ[[セリン]]・[[トレオニン]]、硫黄を含む[[システイン]]・[[メチオニン]]、[[アミド基]]を持つ[[アスパラギン]]・[[グルタミン]]、イミノ基を持つ[[プロリン]]、芳香族基を持つ[[フェニルアラニン]]・[[チロシン]]・[[トリプトファン]]に分類され、タンパク質の持つ疎水性や[[立体配座]]はこれらの分類を考慮しながら考察される。 {| class="wikitable sortable" style="background-color: white" |- ! アミノ酸 !! 三文字表記 !! 一文字表記 !! 構造式 ![[コドン]] ([[国際純正・応用化学連合|IUPAC]] 表記) ![[分子量]]!![[等電点]] ![[ファンデルワールス半径]] !タンパク質の豊富(%)<ref>{{Cite journal|last=Kozlowski|first=Lukasz P.|date=2017-01-04|title=Proteome-pI: proteome isoelectric point database|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/27789699|journal=Nucleic Acids Research|volume=45|issue=D1|pages=D1112–D1116|doi=10.1093/nar/gkw978|issn=1362-4962|pmid=27789699|pmc=5210655}}</ref> |- | [[アラニン]] || Ala || A ||[[画像:L-alanine-skeletal.svg|150px]] |GCN|| 89.09 || 6.00 |67 |8.76 |- | [[アルギニン]]|| Arg || R ||[[画像:L-arginine-skeletal-(tall).png|150px]] |MGN, CGY (時々CGN、AGR) | 174.20 || 10.76 |148 |5.78 |- | [[アスパラギン]]|| Asn || N ||[[画像:L-asparagine-skeletal.png|150px]] |AAY|| 132.12 || 5.41 |96 |3.93 |- | [[アスパラギン酸]]|| Asp || D ||[[画像:L-aspartic-acid-skeletal.png|150px]] |GAY|| 133.10 || 2.77 |91 |5.49 |- | [[システイン]] || Cys || C ||[[画像:Cysteine.png|150px]] |UGY|| 121.16 || 5.05 |86 |1.38 |- | [[グルタミン]] || Gln || Q ||[[画像:L-glutamine-skeletal.png|150px]] |CAR|| 146.15 || 5.65 |114 |3.9 |- | [[グルタミン酸]]|| Glu || E ||[[画像:Kwas glutaminowy.svg|150px]] |GAR|| 147.13 || 3.22 |109 |6.32 |- | [[グリシン]]|| Gly || G ||[[画像:Glycine-2D-skeletal.png|150px]] |GGN|| 75.07 || 5.97 |48 |7.03 |- | [[ヒスチジン]] || His || H ||[[画像:L-histidine-skeletal.png|150px]] |CAY|| 155.15 || 7.59 |118 |2.26 |- | [[イソロイシン]]|| Ile || I ||[[画像:L-isoleucine-skeletal.svg|150px]] |AUH|| 131.17 || 6.05 |124 |5.49 |- | [[ロイシン]]|| Leu || L ||[[画像:L-leucine-skeletal.png|150px]] |YUR, CUY (時々UUR、CUN) | 131.17 || 5.98 |124 |9.68 |- | [[リシン]]|| Lys || K ||[[画像:L-lysine-skeletal.png|150px]] |AAR|| 146.19 || 9.75 |135 |5.19 |- | [[メチオニン]]|| Met || M ||[[画像:L-methionine-skeletal.png|150px]] |AUG|| 149.21 || 5.74 |124 |2.32 |- | [[フェニルアラニン]]|| Phe || F ||[[画像:Fenyloalanina.svg|150px]] |UUY|| 165.19 || 5.48 |135 |3.87 |- | [[プロリン]] || Pro || P ||[[画像:L-proline-skeletal.png|150px]] |CCN|| 115.13 || 6.30 |90 |5.02 |- | [[セリン]] || Ser || S ||[[画像:L-serine-skeletal.png|150px]] |UCN, AGY|| 105.09 || 5.68 |73 |7.14 |- | [[トレオニン]]|| Thr || T ||[[画像:L-threonine-skeletal.png|150px]] |ACN|| 119.12 || 6.16 |93 |5.53 |- | [[トリプトファン]] || Trp || W ||[[画像:L-tryptophan-skeletal.png|150px]] |UGG|| 204.23 || 5.89 |163 |1.25 |- | [[チロシン]]|| Tyr || Y ||[[画像:L-tyrosine-skeletal.png|150px]] |UAY|| 181.19 || 5.66 |141 |2.91 |- | [[バリン]]|| Val || V ||[[画像:Valine 3.svg|150px]] |GUN|| 117.15 || 5.96 |105 |6.73 |} 上に挙げた20種類のアミノ酸は、[[タンパク質生合成|タンパク質合成]]時に遺伝情報に基づいて連結される。多くのタンパク質は上記の20種類のアミノ酸[[残基]]からなるが、ある種のタンパク質には[[セレノシステイン]][[残基]]、[[N-ホルミルメチオニン]]残基、[[ピロリシン]]残基、[[ピログルタミン酸]]残基などの特殊なものも含まれる。 上記のほかにタンパク質合成後に[[翻訳後修飾|修飾]]を受けるアミノ酸残基も存在する<ref>{{Cite journal|last=Khoury|first=George A.|last2=Baliban|first2=Richard C.|last3=Floudas|first3=Christodoulos A.|date=2011-09-13|title=Proteome-wide post-translational modification statistics: frequency analysis and curation of the swiss-prot database|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/22034591|journal=[[Scientific Reports]]|volume=1|doi=10.1038/srep00090|issn=2045-2322|pmid=22034591|pmc=3201773}}</ref><ref>{{Cite book|last=Donald.|first=Voet,|title=Fundamentals of biochemistry : life at the molecular level|url=https://www.worldcat.org/oclc/58845396|edition=2nd ed|date=2006|publisher=Wiley|isbn=9780471214953|location=New York|others=Voet, Judith G., Pratt, Charlotte W.|oclc=58845396}}</ref>。例えば以下のようなものである。 *[[シスチン]] &mdash; システイン2分子が酸化されて生成する。 *[[ヒドロキシプロリン]]、[[ヒドロキシリシン]] &mdash; [[ゼラチン]]、[[コラーゲン]]に含まれる。 *[[チロキシン]] &mdash; [[甲状腺]]タンパク質に含まれる。 *[[ホスホセリン|''O''-ホスホセリン]] &mdash; [[カゼイン]]など、多くのリンタンパク質に含まれる。 *[[デスモシン]] &mdash; [[エラスチン]]やコラーゲンに含まれる。 タンパク質に含まれないアミノ酸として、以下のようなものも存在する(こうしたアミノ酸を総称して異常アミノ酸と呼ぶこともあるが、必ずしも適切な命名ではないという批判もある)。 *[[β-アラニン]] &mdash; [[筋肉]]中に存在する。 *[[サルコシン]] &mdash; ある種の[[抗生物質]]に含まれる。''N''-メチルグリシンに相当する。 *[[オルニチン]] &mdash; [[尿素回路]]の中間体。 *[[シトルリン]] &mdash; [[尿素回路]]の中間体。 *[[γ-アミノ酪酸]] &mdash; [[神経伝達物質]]。GABA とも呼ばれる。 *[[オパイン]] &mdash; [[アグロバクテリウム]]のエネルギー源に利用される。 *[[トリメチルグリシン]] &mdash; == その他のもの == 天然に産する広義のアミノ酸の中には、旨み成分や、薬物として作用するもの、そして毒となるものがある。 *[[テアニン]] &mdash; [[茶]]の旨み成分。 *[[トリコロミン酸]] &mdash; [[ハエトリシメジ]]の旨み成分。 *[[カイニン酸]] &mdash; [[海人草]]の薬用成分。 *[[ドウモイ酸]] &mdash; [[貝毒|記憶喪失性貝毒]]の毒成分。 *[[イボテン酸]] &mdash; [[テングタケ]]などの毒成分。 *[[アクロメリン酸]] &mdash; [[ドクササコ]]の毒成分。 ==合成== ===ユーリー・ミラーの実験=== [[1953年]]、[[シカゴ大学]]の[[ハロルド・ユーリー]]と[[スタンリー・ミラー]]は、[[アンモニア]]・[[メタン]]・[[水素]]の混合ガス(当時原始大気成分と考えられていた)と[[水]]の入った容器に電気火花を飛ばす実験を行い、グリシン・アラニン・アスパラギン酸などの各種アミノ酸が生成することを発見した([[ユーリー・ミラーの実験]])。原始[[地球]]において、生命の素材となったアミノ酸が生成した過程の可能性を示した、有名な実験である<ref>{{Cite journal|last=Miller|first=S. L.|date=1953-05-15|title=A production of amino acids under possible primitive earth conditions|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/13056598|journal=Science (New York, N.Y.)|volume=117|issue=3046|pages=528–529|issn=0036-8075|pmid=13056598}}</ref><ref>{{Cite journal|last=Miller|first=S. L.|last2=Urey|first2=H. C.|date=1959-07-31|title=Organic compound synthesis on the primitive earth|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/13668555|journal=Science (New York, N.Y.)|volume=130|issue=3370|pages=245–251|issn=0036-8075|pmid=13668555}}</ref>。 ===現代の実用的アミノ酸合成=== いわゆる異常アミノ酸の中にも重要な生理活性を持つものは数多く存在し、また医薬にもD体または非天然型のアミノ酸は数多く使われている。このためアミノ酸の合成(特に[[不斉合成]])は需要が高く、種々の方法が提案されている。 古くから用いられているアミノ酸の合成法として[[ストレッカー反応]]がある。[[アルデヒド]]と[[アンモニア]]・[[シアン化水素]]の3成分[[縮合]]によってα-アミノ[[ニトリル]]を合成し、この加水分解によりアミノ酸を得るというものである。 他にα-ハロカルボン酸とアミンの反応、グリシンのα位のアルキル化などによる方法も知られている。不斉合成に関しても様々な手法が提案されている([[ストレッカー反応]]の項目なども参照)。 工業的には、[[微生物]]を用いた[[アミノ酸発酵]]によって大量に合成されている。人工的に突然変異させた微生物株を、炭素源となる[[糖類]]や窒素源となる[[硫酸アンモニウム]]と共に培養することで、安価に目的のアミノ酸が合成できる<ref>{{Cite journal|last=Leuchtenberger|first=Wolfgang|last2=Huthmacher|first2=Klaus|last3=Drauz|first3=Karlheinz|date=2005-11|title=Biotechnological production of amino acids and derivatives: current status and prospects|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/16195792|journal=Applied Microbiology and Biotechnology|volume=69|issue=1|pages=1–8|doi=10.1007/s00253-005-0155-y|issn=0175-7598|pmid=16195792}}</ref>。 == 摂取状況 == {{See also|必須アミノ酸#推奨摂取量}} ;米国 米国医学研究所の書籍(2005)<ref name="IoM2005"/>では以下のようになっている。 {|class="wikitable sortable" style="text-align:center;" |+米国での摂取状況<br/>(平均、1988-1994)<ref>[https://www.nap.edu/read/10490/chapter/20 Appendix D], Dietary Reference Intakes for Energy, Carbohydrate, Fiber, Fat, Fatty Acids, Cholesterol, Protein, and Amino Acids (2005) Chapter: D Dietary Intake Data from the Third National Health and Nutrition Examination Survey (NHANES III), 1988–1994 </ref> !アミノ酸!! グラム/日!! mM/日 |- |アラニン||3.64 ||40.8 |- |アルギニン||4.18 ||23.9 |- |アスパラギン酸||6.54 ||49.5 |- |システイン||1.01 ||8.3 |- |グルタミン酸||15.27 ||103.7 |- |グリシン||3.21 ||42.7 |- |ヒスチジン||2.20 ||14.1 |- |イソロイシン||3.55 ||27.0 |- |ロイシン||6.10 ||46.5 |- |リジン||5.27 ||36.0 |- |メチオニン||1.77 ||11.8 |- |フェニルアラニン||3.40 ||20.5 |- |プロリン||5.21 ||45.2 |- |セリン||3.52 ||33.4 |- |トレオニン||3.02 ||25.3 |- |トリプトファン||0.91 ||4.4 |- |チロシン||2.79 ||15.3 |- |バリン||3.99 ||34.0 |} == サプリメント == 近年(2006年現在)はアミノ酸を含有する[[サプリメント]]が日本の消費者に一種の[[健康ブーム]]を引き起こしており、[[健康食品]]、[[飲料]]メーカーなどが盛んに新製品を出している。しかし、そのアミノ酸の成分のバランスが人間に必要な量通りに研究され、配合されているかは不明確である。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[必須アミノ酸]] * [[アミノ酸の代謝分解]] * [[ニンヒドリン反応]] * [[コドン]] * [[ペプチド結合]] * [[スティックランド反応]] * [[メイラード反応]] {{タンパク質を構成するアミノ酸}} {{一次構造}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あみのさん}} [[Category:栄養素]] [[Category:アミノ酸|*]] [[Category:有機化合物]] [[Category:窒素循環]] [[Category:双性イオン]]
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市場の失敗
市場の失敗 (しじょうのしっぱい、英: market failure)とは、市場経済が働いた結果、資源配分が最適ではない状態、つまり経済的な「パレート効率性」が達成されていない現象を指す。 ある前提の下では、需要と供給の均衡によりパレート最適な配分を実現し、安定した経済を形成すると考えられている市場メカニズムは、多くの経済学者から支持を得ている方法である。ただし、人々や企業が利潤を最大化しようと利己主義的に行動(見えざる手)したことで、社会的に望ましくない・最適(パレート最適)ではない結果がもたらされるケースもある。例えば、独占や寡占、失業や公害、貧富や格差などの「市場の失敗」が生じる。 経済学者の八田達夫は市場の失敗は一般的に、1)外部性(外部経済・外部不経済)、2)公共財、3)情報の非対称性、4)規模の経済、の4つの類型があるとしている。 経済学者の飯田泰之は市場の失敗は、1)自然独占、2)外部性、3)情報の非対称性、の3つに大別できるとしている。 市場の失敗の代表的なものとして、次のようなものが挙げられる。 失業、貧困、犯罪率増加、自殺などの社会問題や格差社会の発生は、従来の定義では経済的な「公平性」が達成されていない現象に属し、定義の上からは市場の失敗とは別の分類であるとされた。しかしアマルティア・センらの研究などにより社会的費用の拡張が試みられ失業や貧困などの社会問題が経済成長などに大きく寄与することとなると貧困などの社会問題が市場の失敗と見なされるようになっている。 環境問題として、ダイオキシン類や石綿のほか、身近なものとして騒音・大気汚染・水質汚濁・廃棄物の不法投棄などがある。こうした環境問題は、環境を悪化させた当事者が社会全体のコストを負担せずに済むという「外部性」が存在するため、汚染した当事者が「出し得」となり、環境を改善させようとするインセンティブが働きにくい。これは市場の失敗の典型例であり、市場に任せていては解決が困難な問題の典型例である。 市場の失敗について、西部邁(評論家)は次のように述べている。「市場経済そのものが「失敗」の危険にさらされている。「不確実性」、「大規模生産の有利性」そして「公共財の存在」という条件があれば、それらの条件は遍在している市場競争は効率的たりえず、その意味でいわゆるマーケット・フェイリュア(市場の失敗)は必然なのである。」 また市場の失敗の原因について、西部は次のように述べている。「市場経済そのものは人類史における偉大な発明品の一つである。それに対立するものとしての計画経済は、とくに情報の生産・交換・消費の効率において、市場経済にはるかに遅れをとっている。しかし、すでに指摘したように、マーケット・フェイリュア(市場の失敗)もまた遍在している。通常に指摘されているその失敗因はおおよそ三つであって、第一に「将来の不確実性が強い場合」、第二に「規模の経済(つまり大規模生産の効率性)が大きい場合」、そして第三に「公共財(つまり人々が集合的に消費する財)が重きをなす場合」に市場経済は効率的たりえない。第四の要因として「市場の均衡が不安定な場合」も挙げられるが、それは以上の三つの場合から派生した結果であることが多い。」 経済学者の大竹文雄は「サブプライムローンは、市場の失敗の一例であり、情報の非対称性の問題である」と指摘している。 経済学者の中谷巌は「市場メカニズムが果たしている役割の本質、効率的な資源配分の意味、所得分配の決まり方、人々にインセンティブ (経済学)を与えている機能などの市場の利点を充分理解しないで、市場の欠点だけをあげつらうと『政府にすべて介入してもらおう』という間違った方向に関心がいってしまう可能性がある」と指摘している。 経済学者のゲーリー・ベッカーは「市場は決して完璧なものではなく、それは世界的に深刻化する公害に歯止めをかけられない点からも明白である。(ただし)中央政府による計画経済などの選択肢に比べれば、多くの状況においてはまだ機能する。正しくは、それ以上でもそれ以下でもない」と指摘している。 経済学者の岩田規久男は「市場とは資源配分・所得分配を決める手段であって、規制・ルールのあり方によってその性能は良くも悪くもなる。性能に問題が生じた場合は原因を追究し、規制・ルールを変えることが重要である」と指摘している。 大竹文雄は「市場の失敗は、完全に解決することはできない。規制はきちんと働くように監視するコストがかかる。様々なトレードオフを考え、社会の仕組みを考えていくしかない」と指摘している。 「市場の失敗に対策を立てた場合、市場に任せておけば効率的な資源配分が達成される」という「厚生経済学の基本定理」という命題がある。八田達夫は「このときの効率的な資源配分が達成されている状況とは、誰かの生活水準を引き上げるために、ほかの誰かの生活水準を引き下げざるをえないという状況を指す」と指摘している。また八田は「誰かの生活水準を引き下げずに、ほかの誰かの生活水準を引き上げることができるなら、それは無駄のある、非効率的な状況だったと言える」と指摘している。 政府の役割の一つは、市場メカニズムが働かない分野、つまり市場の失敗を是正することである。政府は、市場の失敗を補うために公共財を供給したり、独占企業を規制したりし、市場の失敗に対応する。またもう一つの役割として富の再分配がある。 政府は、麻薬の取り締まりや、国防・警察・義務教育・国立病院などの公共サービスの提供・拡充を行う。警察・検察・司法制度は自発的な交換ルールを破ったものに対してペナルティを科すための制度であり、医師の資格免許制度は不適切な医療行為から患者を守るための制度であり、弁護士・税理士・会計士の国家資格制度は情報の非対称性を原因とする被害から人々を守る制度であり、銀行業の開業に対する許可制度は人々の預金の安全性を維持するための制度である。 政府は、外部経済がある場合は、そのような社会によい影響を与える活動をより増やそうとし、一方で外部不経済がある場合は、そのような社会に悪い影響を与える活動を制限しようとする。外部経済に対しては、公園・都市計画をつくったり、補助金をつけたりするなどの手段を用い、外部不経済に対しては、規制を設けて禁止したり、徴税を行うなどの手段を用いて、外部経済を増やし外部不経済を減らすように努める。独占企業によって自由な競争が阻害される場合(価格の吊り上げなど)、独占を禁止したり(独占禁止法)、価格の制限を行う。 経済学者の竹中平蔵は「民間企業の活動は市場ルールに基づいて行われるべきであるが、市場ルールの違反を取り締まるのは政府の役割である」と指摘している。 経済学者のジョセフ・E・スティグリッツは「政府と市場は相互で補いあう同士である。市場に任せっきりにせずバランスをとるべきである」と指摘している。 経済学者の田中秀臣は「政府自身が必ずしも『完全な情報』を所有しているとは限らない」と指摘している。 竹中は「ミルトン・フリードマンは市場が失敗することもありうるが、政府も失敗する。市場の失敗は、不景気やインフレをもたらす程度で済むが、政府の失敗ははるかに大きな犠牲をもたらすと主張している」と指摘している。 八田達夫は「政府の失敗がある場合にも、政府は介入する必要がある」と指摘している。
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市場の失敗 とは、市場経済が働いた結果、資源配分が最適ではない状態、つまり経済的な「パレート効率性」が達成されていない現象を指す。
{{出典の明記|date=2009年9月}} {{経済学のサイドバー}} '''市場の失敗''' (しじょうのしっぱい、{{lang-en-short|market failure}})とは、[[市場経済]]が働いた結果、[[資源配分]]が最適ではない状態、つまり経済的な「[[パレート効率性]]」が達成されていない現象を指す。 == 概要 == ある前提の下では、[[需要と供給]]の均衡によりパレート最適な配分を実現し、安定した経済を形成すると考えられている市場メカニズムは、多くの[[経済学者]]から支持を得ている方法である。ただし、人々や企業が利潤を最大化しようと利己主義的に行動([[見えざる手]])したことで、社会的に望ましくない・最適(パレート最適)ではない結果がもたらされるケースもある<ref>野口旭 『ゼロからわかる経済の基礎』 講談社〈講談社現代新書〉、2002年、156-157頁。</ref>。例えば、[[独占]]や[[寡占]]、[[失業]]や[[公害]]、貧富や[[格差]]などの「市場の失敗」が生じる<ref>日本経済新聞社編 『やさしい経済学』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、112頁。佐瀬</ref>。 == 事例 == 経済学者の[[八田達夫]]は市場の失敗は一般的に、1)[[外部性]](外部経済・外部不経済)、2)[[公共財]]、3)[[情報の非対称性]]、4)[[規模の経済]]、の4つの類型があるとしている<ref name="reitei2010127">[https://www.rieti.go.jp/jp/events/tenth-anniversary-seminar/10120701.html 政治家と官僚の役割分担]RIETI 2010年12月7日</ref>。 経済学者の[[飯田泰之]]は市場の失敗は、1)[[自然独占]]、2)外部性、3)情報の非対称性、の3つに大別できるとしている<ref>飯田泰之 『世界一シンプルな経済入門 経済は損得で理解しろ! 日頃の疑問からデフレまで』 エンターブレイン、2010年、113頁。</ref>。 市場の失敗の代表的なものとして、次のようなものが挙げられる。 * [[不完全競争]]による[[独占]]・[[寡占]]の存在<ref name="hajimetenojyo145">伊藤元重 『はじめての経済学〈上〉』 日本経済新聞社〈日経文庫〉、2004年、145頁。</ref> * [[外部性]]の存在<ref name="hajimetenojyo145" />(正の外部性による過少供給、負の外部性による過大供給。例:公害、発明<ref name="nihongata201">田中秀臣 『日本型サラリーマンは復活する』 日本放送出版協会〈NHKブックス〉、2002年、147頁。</ref>) * [[情報の非対称性]]の存在<ref>伊藤元重 『はじめての経済学〈上〉』 日本経済新聞社〈日経文庫〉、2004年、148頁。</ref> * [[公共財]]の存在<ref name="hajimetenoge17">伊藤元重 『はじめての経済学〈下〉』 日本経済新聞社〈日経文庫〉、2004年、17頁。</ref>([[フリーライダー]]による過少供給) * [[失業]]<ref name="nihongata201" /> * [[不確実性]](リスク回避的な供給者による過少供給) * [[費用逓減]]産業の存在<ref name="hajimetenoge17" />。巨大な[[固定費]]のかかる産業([[電力会社]]が典型)では供給曲線が右下がりとなる。このような場合、自然独占状態を認め、かつ価格規制を行うことが最適となる。日本では電力事業に事実上の独占が認められており、そのかわり、電力価格は国会で決められる[[公共料金]]となっている(生産規模の拡大でコストが低下する場合の独占や寡占) == 市場の失敗と公平性・社会問題 == [[失業]]、[[貧困]]、[[犯罪]]率増加、[[自殺]]などの[[社会問題]]や[[格差社会]]の発生は、従来の定義では経済的な「公平性」が達成されていない現象に属し、定義の上からは市場の失敗とは別の分類であるとされた。しかし[[アマルティア・セン]]らの研究などにより[[社会的費用]]の拡張が試みられ失業や貧困などの社会問題が[[経済成長]]などに大きく寄与することとなると[[貧困]]などの[[社会問題]]が市場の失敗と見なされるようになっている。 [[環境問題]]として、[[ダイオキシン類]]や[[石綿]]のほか、身近なものとして[[騒音]]・[[大気汚染]]・[[水質汚濁]]・廃棄物の[[不法投棄]]などがある<ref name="saishikeyword">三菱総合研究所編 『最新キーワードでわかる!日本経済入門』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2008年、81頁。</ref>。こうした環境問題は、環境を悪化させた当事者が社会全体のコストを負担せずに済むという「外部性」が存在するため、汚染した当事者が「出し得」となり、環境を改善させようとするインセンティブが働きにくい<ref name="saishikeyword" />。これは市場の失敗の典型例であり、市場に任せていては解決が困難な問題の典型例である<ref name="saishikeyword" />。 == 識者の見解 == 市場の失敗について、[[西部邁]](評論家)は次のように述べている。「[[市場経済]]そのものが「失敗」の危険にさらされている。「不確実性」、「大規模生産の有利性」そして「公共財の存在」という条件があれば、それらの条件は遍在している市場競争は効率的たりえず、その意味でいわゆるマーケット・フェイリュア(市場の失敗)は必然なのである。」<ref>{{Cite book|和書|author=西部邁|title=虚無の構造|year=2013|publisher=中央公論新社|series=中公文庫|page=144}}</ref> また市場の失敗の原因について、西部は次のように述べている。「市場経済そのものは人類史における偉大な発明品の一つである。それに対立するものとしての[[計画経済]]は、とくに情報の生産・交換・消費の効率において、市場経済にはるかに遅れをとっている。しかし、すでに指摘したように、マーケット・フェイリュア(市場の失敗)もまた遍在している。通常に指摘されているその失敗因はおおよそ三つであって、第一に「将来の不確実性が強い場合」、第二に「規模の経済(つまり大規模生産の効率性)が大きい場合」、そして第三に「公共財(つまり人々が集合的に消費する財)が重きをなす場合」に市場経済は効率的たりえない。第四の要因として「市場の均衡が不安定な場合」も挙げられるが、それは以上の三つの場合から派生した結果であることが多い。」<ref>{{Cite book|和書|author=西部邁|title=虚無の構造|year=2013|publisher=中央公論新社|series=中公文庫|page=204}}</ref> 経済学者の[[大竹文雄]]は「[[サブプライムローン]]は、市場の失敗の一例であり、情報の非対称性の問題である」と指摘している<ref>大竹文雄 『競争と公平感-市場経済の本当のメリット』 中央公論新社〈中公新書〉、2010年、65頁。</ref>。 経済学者の[[中谷巌]]は「市場メカニズムが果たしている役割の本質、効率的な資源配分の意味、所得分配の決まり方、人々に[[インセンティブ (経済学)]]を与えている機能などの市場の利点を充分理解しないで、市場の欠点だけをあげつらうと『政府にすべて介入してもらおう』という間違った方向に関心がいってしまう可能性がある」と指摘している<ref>中谷巌 『痛快!経済学』 集英社〈集英社文庫〉、2002年、175頁。</ref>。 経済学者の[[ゲーリー・ベッカー]]は「市場は決して完璧なものではなく、それは世界的に深刻化する公害に歯止めをかけられない点からも明白である。(ただし)中央政府による計画経済などの選択肢に比べれば、多くの状況においてはまだ機能する。正しくは、それ以上でもそれ以下でもない」と指摘している<ref>[http://diamond.jp/articles/-/1092 ノーベル賞経済学者 ゲーリー・ベッカー自殺の経済学を手がけた真意市場万能論が看過する社会を動かす“生身の人間”の行動 2007年2月10日号掲載]ダイヤモンド・オンライン 2010年2月2日</ref>。 経済学者の[[岩田規久男]]は「市場とは資源配分・所得分配を決める手段であって、規制・ルールのあり方によってその性能は良くも悪くもなる。性能に問題が生じた場合は原因を追究し、規制・ルールを変えることが重要である」と指摘している<ref>岩田規久男 『スッキリ!日本経済入門-現代社会を読み解く15の法則』 日本経済新聞社、2003年、41頁。</ref>。 大竹文雄は「市場の失敗は、完全に解決することはできない。規制はきちんと働くように監視するコストがかかる。様々な[[トレードオフ]]を考え、社会の仕組みを考えていくしかない」と指摘している<ref>大竹文雄 『競争と公平感-市場経済の本当のメリット』 中央公論新社〈中公新書〉、2010年、67頁。</ref>。 「市場の失敗に対策を立てた場合、市場に任せておけば効率的な資源配分が達成される」という「[[厚生経済学の基本定理]]」という命題がある<ref name="reitei2010127" />。八田達夫は「このときの効率的な資源配分が達成されている状況とは、誰かの生活水準を引き上げるために、ほかの誰かの生活水準を引き下げざるをえないという状況を指す」と指摘している<ref name="reitei2010127" />。また八田は「誰かの生活水準を引き下げずに、ほかの誰かの生活水準を引き上げることができるなら、それは無駄のある、非効率的な状況だったと言える」と指摘している<ref name="reitei2010127" />。 == 政府の役割 == 政府の役割の一つは、市場メカニズムが働かない分野、つまり市場の失敗を是正することである<ref name="tsuukai184">中谷巌 『痛快!経済学』 集英社〈集英社文庫〉、2002年、184頁。</ref>。政府は、市場の失敗を補うために公共財を供給したり、独占企業を規制したりし、市場の失敗に対応する<ref>中谷巌 『痛快!経済学』 集英社〈集英社文庫〉、2002年、185頁。</ref>。またもう一つの役割として[[富の再分配]]がある<ref>中谷巌 『痛快!経済学』 集英社〈集英社文庫〉、2002年、186頁。</ref>。 政府は、麻薬の取り締まりや<ref>中谷巌 『痛快!経済学』 集英社〈集英社文庫〉、2002年、180頁。</ref>、国防・警察・義務教育・国立病院などの公共サービスの提供・拡充を行う<ref>中谷巌 『痛快!経済学』 集英社〈集英社文庫〉、2002年、181頁。</ref>。警察・検察・司法制度は自発的な交換ルールを破ったものに対してペナルティを科すための制度であり<ref name="keizaigakutekishikou136">岩田規久男 『経済学的思考のすすめ』 筑摩書房、2011年、136頁。</ref>、医師の資格免許制度は不適切な医療行為から患者を守るための制度であり<ref name="keizaigakutekishikou136" />、弁護士・税理士・会計士の国家資格制度は情報の非対称性を原因とする被害から人々を守る制度であり<ref name="keizaigakutekishikou137">岩田規久男 『経済学的思考のすすめ』 筑摩書房、2011年、136頁。</ref>、銀行業の開業に対する許可制度は人々の預金の安全性を維持するための制度である<ref name="keizaigakutekishikou137" />。 政府は、外部経済がある場合は、そのような社会によい影響を与える活動をより増やそうとし、一方で外部不経済がある場合は、そのような社会に悪い影響を与える活動を制限しようとする<ref name="tsuukai183">中谷巌 『痛快!経済学』 集英社〈集英社文庫〉、2002年、183頁。</ref>。外部経済に対しては、公園・都市計画をつくったり、補助金をつけたりするなどの手段を用い、外部不経済に対しては、規制を設けて禁止したり、徴税を行うなどの手段を用いて、外部経済を増やし外部不経済を減らすように努める<ref name="tsuukai183" />。独占企業によって自由な競争が阻害される場合(価格の吊り上げなど)、独占を禁止したり([[独占禁止法]])、価格の制限を行う<ref name="tsuukai184" />。 経済学者の[[竹中平蔵]]は「民間企業の活動は市場ルールに基づいて行われるべきであるが、市場ルールの違反を取り締まるのは政府の役割である」と指摘している<ref>竹中平蔵 『あしたの経済学』 幻冬舎、2003年、132頁。</ref>。 経済学者の[[ジョセフ・E・スティグリッツ]]は「政府と市場は相互で補いあう同士である。市場に任せっきりにせずバランスをとるべきである」と指摘している<ref>中谷巌 『痛快!経済学』 集英社〈集英社文庫〉、2002年、210頁。</ref>。 経済学者の[[田中秀臣]]は「政府自身が必ずしも『完全な情報』を所有しているとは限らない」と指摘している<ref>田中秀臣 『日本型サラリーマンは復活する』 日本放送出版協会〈NHKブックス〉、2002年、201頁。</ref>。 竹中は「[[ミルトン・フリードマン]]は市場が失敗することもありうるが、政府も失敗する。市場の失敗は、不景気やインフレをもたらす程度で済むが、[[政府の失敗]]ははるかに大きな犠牲をもたらすと主張している」と指摘している<ref>竹中平蔵 『経済古典は役に立つ』 光文社〈光文社新書〉、2010年、184頁。</ref>。 八田達夫は「政府の失敗がある場合にも、政府は介入する必要がある」と指摘している<ref name="reitei2010127" />。 {{see also|ピグー税|富の再分配|競争政策|独占禁止法|政府の失敗}} == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[ミクロ経済学]] * [[公共経済学]] * [[パレート効率性]] * [[政府の失敗]] * [[外部性]] * [[契約理論]] * [[メカニズムデザイン]] * [[反資本主義]] == 外部リンク == * [https://kotobank.jp/word/%E5%B8%82%E5%A0%B4%E3%81%AE%E5%A4%B1%E6%95%97-167614 市場の失敗] - [[コトバンク]] * [https://archive.ph/20110101000000/http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%B8%82%E5%A0%B4%E3%81%AE%E5%A4%B1%E6%95%97/ 市場の失敗] - [[Yahoo!百科事典]] {{ミクロ経済学}} {{経済学}} {{公害}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ししようのしつはい}} [[Category:市場の失敗|*]] [[Category:失敗]] [[Category:持続可能な開発]]
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藤沢本町駅
藤沢本町駅(ふじさわほんまちえき)は、神奈川県藤沢市藤沢三丁目にある、小田急電鉄江ノ島線の駅である。駅番号はOE 12。 藤沢駅が藤沢宿の南側に離れて設置されたのに対し、当駅は藤沢宿の西端、旧東海道(現在の県道43号)のすぐ北側に設置されている。 東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)のコースが当駅近くの県道30号を通ることから、2004年から2007年1月2・3日に「箱根駅伝応援号」が東京メトロ千代田線大手町 - 藤沢・箱根湯本間に運転され、藤沢行き編成が当駅に停車した(2006年以降は1月2日の往路のみ)。 なお、当駅の駅名は「ふじさわほんまち」と読むが、駅南側の住所は「ほんちょう」と読む。 相対式ホーム2面2線を持つ地上駅である。駅舎・改札口は1番線側にあり、2番線へは跨線橋を利用する。ホーム長が4両編成までだった1970年頃までは跨線橋がなく、改札口前に2番線へ渡るための構内踏切が存在した。 2012年7月頃に、行先案内表示装置が新設された。 改札前広場には売店OX SHOPが併設されていたが、現在は撤去されている。 のりばは東側を1番ホームとして、下表の通りである。 近年の乗降人員・乗車人員の推移は下表の通り。 当駅開業当時は旧藤沢宿から藤沢駅周辺へと商業の中心が変わりつつある頃であった。当駅の位置は町はずれではあるが、国道467号線の前身である滝山街道(八王子街道、八王子道とも)、厚木往還(厚木道とも)が分岐する要衝でもあった。 開業前から旧制湘南中学(現・湘南高校)が存在してはいたが、街道沿いから少し外れると人家もまばらで、駅北部の白旗川沿いは水田が広がっていた。 日中戦争の時期に日本精工の工場進出、大戦末期に藤沢飛行場の建設といった変化はあったものの、戦後しばらく街道沿い以外田園が広がる状態が続く。神武景気の頃より南側から宅地化が進行し、当駅を飲み込む。1960年には善行駅が開業し、北側からも宅地化が進む。1966年に善行団地が完成する頃まで駅間の水田がほとんど残っていたが、70年代に入って間もなく長銀による分譲住宅開発で姿を消した。1975年頃には現在に近い街並みとなる。 中高層住宅と低層住宅が混在する住宅地となっており、駅周辺や国道467号、県道沿いに商店が立ち並んでいる。 駅周辺に数か所の無料駐輪場が設置されており、平日の朝は自転車を利用する通勤通学客が多い。また、周囲に高等学校が多く立地していることから、当駅で下車して通う高校生が多い。しかし、改札口は1番ホームの南端に1か所しかないため大変混雑する。かねてから地元では西口側への開設を要望する声があり、藤沢市では当駅西側に並走する市道藤沢652号線改良工事の一環として無料駐輪場に代わる有料駐輪場整備、当駅舎の橋上化を含め検討が進められている。 いずれの系統も台町バス停が最寄りとなるが、藤沢駅北口を出発し県道43号線交差点で右折、市道藤沢652号線藤沢石川線を北上する系統に限りロータリーに乗り入れる。その逆方向となる藤沢駅へ向かう系統を含め、他は全て県道43号線上の停留所を使用する。
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藤沢本町駅(ふじさわほんまちえき)は、神奈川県藤沢市藤沢三丁目にある、小田急電鉄江ノ島線の駅である。駅番号はOE 12。
{{駅情報 |社色 = #2288CC |文字色 = |駅名 = 藤沢本町駅 |画像 = Fujisawahommachi-Sta.JPG |pxl = 300px |画像説明 = 藤沢本町駅(2012年5月) |地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|type=point|frame-width=300|marker=rail}} |よみがな = ふじさわほんまち |ローマ字 = Fujisawa-hommachi |副駅名 = |前の駅 = OE 11 [[善行駅|善行]] |駅間A = 1.6 |駅間B = 1.8 |次の駅 = [[藤沢駅|藤沢]] OE 13 |電報略号 = |駅番号 = {{駅番号r|OE|12|#2288cc|4||#2288cc}} |所属事業者 = [[小田急電鉄]] |所属路線 = {{Color|#2288CC|■}}[[小田急江ノ島線|江ノ島線]] |キロ程 = 21.3&nbsp;km([[相模大野駅|相模大野]]起点)<br />[[新宿駅|新宿]]から53.6 |起点駅 = |所在地 = [[神奈川県]][[藤沢市]][[藤沢 (藤沢市)|藤沢]]三丁目3番4号 |座標 = {{coord|35|20|53|N|139|28|34|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}} |駅構造 = [[地上駅]] |ホーム = 2面2線 |開業年月日 = [[1929年]]([[昭和]]4年)[[4月1日]] |廃止年月日 = |乗降人員 = <ref group="小田急" name="odakyu2022" />19,665 |統計年度 = 2022年 |乗換 = |備考 = }} [[画像:Fujisawahommachi-Sta-Gate.JPG|thumb|right|改札口(2012年5月)]] [[画像:Fujisawahommachi-Sta-Platform.JPG|thumb|right|ホーム(2012年5月)]] [[画像:Fujisawa-Hommachi-Sta2.JPG|thumb|right|遠景。駅入口は右側にある(2012年5月)]] '''藤沢本町駅'''(ふじさわほんまちえき)は、[[神奈川県]][[藤沢市]][[藤沢 (藤沢市)|藤沢]]三丁目にある、[[小田急電鉄]][[小田急江ノ島線|江ノ島線]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''OE 12'''。 == 概要 == [[藤沢駅]]が[[藤沢宿]]の南側に離れて設置されたのに対し、当駅は藤沢宿の西端、旧[[東海道]](現在の[[神奈川県道43号藤沢厚木線|県道43号]])のすぐ北側に設置されている。 [[東京箱根間往復大学駅伝競走]](箱根駅伝)のコースが当駅近くの[[神奈川県道30号戸塚茅ヶ崎線|県道30号]]を通ることから、[[2004年]]から[[2007年]]1月2・3日に「箱根駅伝応援号」が[[東京メトロ千代田線]][[大手町駅 (東京都)|大手町]] - 藤沢・[[箱根湯本駅|箱根湯本]]間に運転され、藤沢行き編成が当駅に停車した(2006年以降は1月2日の往路のみ)<ref>東京メトロのニュースリリース([http://www.tokyometro.jp/news/s2003/2003-s17.html 2003年12月11日]、[http://www.tokyometro.jp/news/2004/2004-m23.html 2004年11月19日]、[http://www.tokyometro.jp/news/2005/2005-m25.html 2005年11月25日]、[http://www.tokyometro.jp/news/2006/2006-m34.html 2006年11月29日])より。</ref>。 なお、当駅の駅名は「ふじさわ'''ほんまち'''」と読むが、駅南側の住所は「'''ほんちょう'''」と読む。 == 歴史 == * [[1929年]]([[昭和]]4年)[[4月1日]] - 江ノ島線の開業と同時に[[藤沢市|藤沢町]]風早6306番地に設置。「直通」の停車駅となる。なお、[[小田急小田原線#各駅停車|各駅停車]]は新宿 - 稲田登戸(現・[[向ヶ丘遊園駅|向ヶ丘遊園]])間のみで運行されていた。 * [[1945年]](昭和20年)[[6月]] - 「直通」が廃止され各駅停車が全線で運行されることとなり、その停車駅となる。 * [[1946年]](昭和21年)[[10月1日]] - [[小田急江ノ島線#準急|準急]]が設定され、停車駅となる。 * [[1991年]]([[平成]]3年)[[9月1日]] - 現行駅舎完成、使用開始。<ref>小田急75年史(2003.03) 小田急電鉄</ref> * [[2006年]](平成18年)[[2月]] - 連絡通路にエレベーター設置。<ref>[http://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/gikai/050425/newitem.html 平成17年度予算審査のあらまし]藤沢市</ref> * [[2012年]](平成24年)[[7月]] - [[発車標|行先案内表示器]]が新設され、使用開始。 == 駅構造 == [[相対式ホーム]]2面2線を持つ[[地上駅]]である。駅舎・改札口は1番線側にあり、2番線へは跨線橋を利用する。ホーム長が4両編成までだった1970年頃までは跨線橋がなく、改札口前に2番線へ渡るための構内踏切が存在した。 2012年7月頃に、[[発車標|行先案内表示装置]]が新設された<ref>{{PDFlink|[http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/7093_4803266_.pdf 2012年度の鉄道事業設備投資計画 (2)駅施設改良、サービスの向上 2.行先表示装置の新設]}} - 小田急電鉄(2012年4月27日閲覧)</ref>。 改札前広場には売店[[小田急商事|OX SHOP]]が併設されていたが、現在は撤去されている。 === のりば === のりばは東側を1番ホームとして、下表の通りである。 {|class="wikitable" !ホーム!!路線!!方向!!行先<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.odakyu.jp/station/fujisawa_honmachi/ |title=藤沢本町駅のご案内 駅立体図 |publisher=小田急電鉄 |accessdate=2023-06-04}}</ref> |- !1 |rowspan=2|[[File:Odakyu enoshima.svg|15px|OE]] 江ノ島線 |style="text-align:center"|下り |[[片瀬江ノ島駅|片瀬江ノ島]]方面 |- !2 |style="text-align:center"|上り |[[相模大野駅|相模大野]]・[[新宿駅|新宿]]・[[File:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|15px|C]] [[東京メトロ千代田線|千代田線]]方面 |} == 利用状況 == * '''小田急電鉄''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''19,665人'''である<ref group="小田急" name="odakyu2022" />。 *: 小田急線全70駅中46位。 近年の乗降人員・乗車人員の推移は下表の通り。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗降・乗車人員<ref group="*">[http://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/shise/toke/nenpo/index.html 統計年報] - 藤沢市</ref> !年度 !1日平均<br />乗降人員<ref group="*">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref> !1日平均<br />乗車人員<ref group="*">[https://www.pref.kanagawa.jp/docs/x6z/tc10/yoran.html 神奈川県県勢要覧]</ref> !出典 |- |1995年(平成{{0}}7年) | |9,543 |<ref group="神奈川県統計">[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/life/1128766_3967261_misc.pdf#search=%27%E7%B7%9A%E5%8C%BA%E5%88%A5%E9%A7%85%E5%88%A5%E4%B9%97%E8%BB%8A%E4%BA%BA%E5%93%A1%EF%BC%881%E6%97%A5%E5%B9%B3%E5%9D%87%EF%BC%89%E3%81%AE%E6%8E%A8%E7%A7%BB%27 線区別駅別乗車人員(1日平均)の推移] - 22ページ</ref> |- |1998年(平成10年) | |8,933 |<ref group="神奈川県統計">平成12年 - 223ページ</ref> |- |1999年(平成11年) | |8,951 |<ref group="神奈川県統計" name="toukei2001">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369557.pdf 平成13年]}} - 225ページ</ref> |- |2000年(平成12年) | |8,825 |<ref group="神奈川県統計" name="toukei2001" /> |- |2001年(平成13年) | |8,773 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369552.pdf 平成14年]}} - 223ページ</ref> |- |2002年(平成14年) |17,235 |8,724 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369547.pdf 平成15年]}} - 223ページ</ref> |- |2003年(平成15年) |17,855 |9,174 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369542.pdf 平成16年]}} - 223ページ</ref> |- |2004年(平成16年) |18,087 |9,276 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369533.pdf 平成17年]}} - 225ページ</ref> |- |2005年(平成17年) |18,328 |9,402 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369528.pdf 平成18年]}} - 225ページ</ref> |- |2006年(平成18年) |19,071 |9,784 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369523.pdf 平成19年]}} - 227ページ</ref> |- |2007年(平成19年) |19,898 |10,186 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/35540.pdf 平成20年]}} - 231ページ</ref> |- |2008年(平成20年) |20,151 |10,326 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/773803.pdf 平成21年]}} - 241ページ</ref> |- |2009年(平成21年) |20,016 |10,243 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/161682.pdf 平成22年]}} - 239ページ</ref> |- |2010年(平成22年) |20,113 |10,290 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/427362.pdf 平成23年]}} - 239ページ</ref> |- |2011年(平成23年) |20,282 |10,379 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/706868.pdf 平成24年]}} - 235ページ</ref> |- |2012年(平成24年) |20,851 |10,666 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/707631.pdf 平成25年]}} - 237ページ</ref> |- |2013年(平成25年) |21,549 |11,010 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/resource/org_0101/pol_20150926_003_17.pdf 平成26年]}} - 239ページ</ref> |- |2014年(平成26年) |21,317 |10,874 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/resource/org_0101/pol_20160609_001_15.pdf 平成27年]}} - 239ページ</ref> |- |2015年(平成27年) |21,838 |11,148 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/877254.pdf 平成28年]}} - 247ページ</ref> |- |2016年(平成28年) |21,867 |11,160 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/docs/x6z/tc10/documents/15.pdf 平成29年]}} - 239ページ</ref> |- |2017年(平成29年) |21,954 |11,200 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/3406/15-30.pdf 平成30年]}} - 223ページ</ref> |- |2018年(平成30年) |21,970 |11,201 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/73942/15_2.pdf 令和元年]}} - 223ページ</ref> |- |2019年(令和元年) |21,694 |11,053 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/85489/202015.pdf 令和2年]}} - 223ページ</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="小田急" name="odakyu2020">{{Wayback|url=https://www.odakyu.jp/company/railroad/users/|title=鉄道部門:1日平均駅別乗降人員|date=20211215224308}}、2022年8月14日閲覧</ref>17,303 |8,790 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/96367/15.pdf 令和3年]}} - 215ページ</ref> |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="小田急" name="odakyu2021">{{Wayback|url=https://www.odakyu.jp/company/railroad/users/|title=鉄道部門:1日平均駅別乗降人員|date=20220801142718}}、2022年8月14日閲覧</ref>18,282 |9,313 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/46041/202215.pdf 令和4年]}} - 219ページ</ref> |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="小田急" name="odakyu2022">{{Cite web|和書|url=https://www.odakyu.jp/company/railroad/users/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230701061413/https://www.odakyu.jp/company/railroad/users/|title=鉄道部門:駅別乗降人員・輸送人員ほか |archivedate=2023-07-01|page=|accessdate=2023-10-06|publisher=小田急電鉄|format=|language=日本語|deadlink=}}</ref>19,665 | | |} == 駅周辺 == === 戦前 === 当駅開業当時は[[藤沢宿|旧藤沢宿]]から[[藤沢駅]]周辺へと商業の中心が変わりつつある頃であった。{{efn|ちなみに藤沢市庁舎が藤沢駅前に移転するのは戦後のことである。開業当時は高座郡藤沢町で、町役場は現在の藤沢公民館の位置に存在した。}}当駅の位置は町はずれではあるが、[[国道467号線]]の前身である滝山街道(八王子街道{{efn|現代における滝山街道、八王子街道とは意味合いが異なることに注意。[[鎌倉街道]]に代表されるように、目的地が共通するために同一名となっている。時を経て、藤沢界隈では町田街道と呼ばれるのが慣例となった。}}、八王子道とも)、厚木往還(厚木道とも)が分岐する要衝でもあった<ref>[https://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/04_qa/index3/answer7_enlargement.htm 街道について]国土交通省関東地方整備局 横浜国道事務所</ref><ref>[https://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/zengyo-c/kyoiku/bunka/kyodoshi/documents/000383891.pdf 善行地区郷土史(PDF)]藤沢市</ref>{{efn|厚木往還は今も痕跡を留めており、国道467号線を起点に[[北向地蔵]]前を通過、当駅に隣接する踏切を経て、藤沢バイパス陸橋下から[[荏原製作所]]に向かう細い通りがそれである。}}。 開業前から旧制湘南中学(現・[[神奈川県立湘南高等学校|湘南高校]])が存在してはいたが、街道沿いから少し外れると人家もまばらで、駅北部の白旗川沿いは水田が広がっていた。 === 戦後 === 日中戦争の時期に[[日本精工]]の工場進出、大戦末期に[[藤沢飛行場]]の建設といった変化はあったものの、戦後しばらく街道沿い以外田園が広がる状態が続く。[[神武景気]]の頃より南側から宅地化が進行し、当駅を飲み込む。[[1960年]]には[[善行駅]]が開業し、北側からも宅地化が進む。[[1966年]]に[[善行団地]]が完成する頃まで駅間の水田がほとんど残っていたが、70年代に入って間もなく[[日本長期信用銀行|長銀]]による分譲住宅開発で姿を消した。[[1975年]]頃には現在に近い街並みとなる。<ref>[http://ktgis.net/kjmapw/index.html 今昔マップ]埼玉大学</ref> === 現在 === 中高層住宅と低層住宅が混在する[[住宅地]]となっており、駅周辺や[[国道467号]]、県道沿いに商店が立ち並んでいる。 駅周辺に数か所の無料[[駐輪場]]が設置されており、平日の朝は自転車を利用する通勤通学客が多い。また、周囲に高等学校が多く立地していることから、当駅で下車して通う高校生が多い。しかし、[[改札|改札口]]は1番ホームの南端に1か所しかないため大変混雑する。かねてから地元では西口側への開設を要望する声があり<ref>2005年 藤沢市議会平成17年2月予算等特別委員会 3月9日審議</ref><ref>2013年 藤沢市議会平成25年2月予算等特別委員会 3月12日審議 道路整備課長発言</ref>、藤沢市では当駅西側に並走する市道藤沢652号線改良工事の一環として無料駐輪場に代わる有料駐輪場整備{{efn|<ref>2019年 藤沢市議会令和元年9月定例会 9月20日審議</ref> 藤沢市議会令和元年9月定例会にて道路河川部長は、約1200台分の駐輪場に代わる有料駐輪場として同年9月末を目途に約900台分の用地取得を終える見込みと発言している。}}、当駅舎の橋上化を含め検討が進められている。{{efn|<ref>2017年 藤沢市議会平成29年12月定例会 12月5日審議</ref>2017年 藤沢市議会平成29年12月定例会 12月5日審議における道路河川部長発言を以下に引用する。『...藤沢本町駅周辺の道路拡幅部の用地取得や地元要望の西口改札の新設、改良すべき踏切道として国土交通大臣の指定を受けた藤沢本町1号踏切などの駅周辺施設の概略設計を行っているところです。平成30年度には、引き続き用地取得に向け地権者調整を進めるとともに、...、小田急電鉄株式会社と具体的な協議を進める予定としております。...』}} * [[白旗神社 (藤沢市)|白旗神社]] * [[真源寺_(藤沢市)|真源寺]] * [[三菱電機]]寮 * [[伊勢山 (藤沢市)|伊勢山]] * [[藤沢御殿]]跡 * [[北向地蔵 (藤沢市)|北向地蔵(藤沢市)]] * [[神奈川県立湘南高等学校]] * [[神奈川県立藤沢清流高等学校]] * [[藤嶺学園藤沢中学校・高等学校]] * [[聖園女学院中学校・高等学校]] * [[藤沢市消防本部]]南消防署本町出張所 * [[藤沢市民病院]] * [[藤沢市石名坂温水プール|石名坂温水プール]] * 藤沢台町[[郵便局]] * 藤沢本町郵便局 * [[国道1号]]([[藤沢バイパス]]) * [[国道467号]] === 主な本社・事業所 === * オートフレックス工業 - 本社、藤沢工場 * 関東航空計器 - 本社、藤沢工場 * [[日本精工]]藤沢工場・技術センター * [[メルシャン]] - 藤沢工場(ワイン生産量で国内第一位)<ref>[https://dot.asahi.com/articles/-/95718 神奈川県にあるワイン生産量日本一の自治体は?]AERA dot.</ref> * [[やまか]] - 本社、本町店 == 路線バス == いずれの系統も台町バス停が最寄りとなるが、藤沢駅北口を出発し[[神奈川県道43号藤沢厚木線|県道43号線]]交差点で右折、市道藤沢652号線藤沢石川線を北上する系統に限りロータリーに乗り入れる。その逆方向となる藤沢駅へ向かう系統を含め、他は全て[[神奈川県道43号藤沢厚木線|県道43号線]]上の停留所を使用する{{efn|かつては市道上に停留所が設置されていたが、乗降時に車線を完全に塞いでしまう上に、対向車線の流れまでも影響を及ぼすことから専用のロータリーが設置された。}}。 * [[神奈川中央交通]] '''台町'''[[バス停留所|バス停]] ** [[神奈川中央交通茅ヶ崎営業所#藤沢駅北口 - 藤沢市民病院 - 茅ケ崎駅方面|藤07・藤08系統]] - [[茅ケ崎駅]]行 ** [[神奈川中央交通東・藤沢営業所#藤沢駅北口 - 市民病院 - 辻堂駅方面|藤09・藤10系統]] - [[辻堂駅]]北口行 ** [[神奈川中央交通東・藤沢営業所#藤沢駅北口 - 大庭隧道 - 湘南ライフタウン方面|藤12・藤13系統]] - 駒寄経由[[湘南ライフタウン]]行 ** [[神奈川中央交通東・藤沢営業所#藤沢駅北口 - カントリークラブ - 湘南ライフタウン - 湘南台駅方面|藤15系統]] - 大六天経由湘南ライフタウン行 ** [[神奈川中央交通東・藤沢営業所#藤沢駅北口 - 石川橋 - 一色上 - 湘南台駅方面|藤34系統]] - 一色上経由[[湘南台駅]]西口行 ** [[神奈川中央交通東・藤沢営業所#藤沢駅北口 - 荏原工業団地・善行駅方面|藤35・藤45系統]] - 荏原工業団地行 ** [[神奈川中央交通東・藤沢営業所#藤沢駅北口 - 荏原工業団地・善行駅方面|藤36・藤46系統]] - [[善行駅]]行 ** [[神奈川中央交通東・藤沢営業所#藤沢駅北口 - 老人センター方面|藤38系統]] - 老人センター行 ** [[神奈川中央交通東・藤沢営業所#藤沢駅北口 - カントリークラブ - 湘南ライフタウン - 湘南台駅方面|藤39系統]] - 大辻経由湘南台駅西口行 ** 藤34・藤35・藤36・藤38系統 - 藤沢駅北口行 ** 藤07・藤09・藤12・藤15・藤34・藤35・藤36・藤38・藤39系統 - 南仲通り経由藤沢駅北口行 ** 藤08・藤10・藤13・藤45・藤46系統 - 藤沢市民病院経由藤沢駅北口行 == 当駅を舞台とした作品 == * 『[[君の名は]]』1953年 - 1954年、[[映画]]。駒場本町駅として[[ロケーション撮影]]が行われた。 == 隣の駅 == ; 小田急電鉄 : [[File:Odakyu enoshima.svg|15px|OE]] 江ノ島線 <!-- 有料列車の通過は記載しない --> :: {{color|#f89c1c|■}}快速急行・{{color|#ef4029|■}}急行 :::; 通過 :: {{color|#18469d|■}}各駅停車 ::: [[善行駅]] (OE 11) - '''藤沢本町駅 (OE 12)''' - [[藤沢駅]] (OE 13) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === <!-- 出典:追加した本文中の情報の後に脚注を導入し、実際に参考にした出典(文献参照ページ)を列挙してください。 --> {{Reflist}} ==== 利用状況の出典 ==== ; 小田急電鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="小田急"|3}} ; 小田急電鉄の統計データ {{Reflist|group="*"}} ; 神奈川県県勢要覧 {{Reflist|group="神奈川県統計"|26em}} <!-- == 参考文献 == --> <!-- 参考文献:実際に参考にした文献一覧(本文中の追加した情報の後に脚注を導入し文献参照ページを示して、実際に参考にした出典〈書籍、論文、資料やウェブページなど〉のみを列挙して下さい。実際には参考にしていないが、さらにこの項目を理解するのに役立つ関連した文献は、「関連文献」などとセクション名を分けて区別して下さい。) --> == 関連項目 == <!-- 関連項目:本文記事を理解する上での補足として役立つ、関連性のある項目へのウィキ間リンク(姉妹プロジェクトリンク、言語間リンク)、ウィキリンク(ウィキペディア内部リンク)。可能なら本文内に埋め込んで下さい。 --> {{Commonscat|Fujisawa-Hommachi Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] == 外部リンク == {{Osm box|n|264240354}} * [https://www.odakyu.jp/station/fujisawa_honmachi/ 藤沢本町駅](各駅のご案内) - 小田急電鉄 * {{Wayback|url=http://oshima-pharmacy.co.jp/company/history.html |date=20161013143006 |title= 歴史・写真館(大島薬局) }} - 大島薬局 ※1937年頃の駅写真および地域年表など。 * [https://stanford.maps.arcgis.com/apps/SimpleViewer/index.html?appid=baf871db3a5148ec8ab1a427073805a1 二万五千分地形圖] (スタンフォード大学ライブラリ)- 明治40年測量・昭和12年要部修正測図(陸地測量部) ** 藤澤 https://purl.stanford.edu/rz359dx8242 {{小田急江ノ島線}} {{DEFAULTSORT:ふしさわほんまち}} [[Category:藤沢市の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 ふ|しさわほんまち]] [[Category:小田急電鉄の鉄道駅]] [[Category:1929年開業の鉄道駅]]
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けっきょく南極大冒険
『けっきょく南極大冒険』(けっきょくなんきょくだいぼうけん)は、コナミ工業(現在のコナミデジタルエンタテインメント)のMSX用教育ソフト。 1983年12月発売。のちに、コレコビジョン、ファミリーコンピュータ、携帯アプリに移植されたほか、ゲームボーイの『コナミGBコレクション』にも収録された。続編的位置づけの作品として『夢大陸アドベンチャー』が存在する。 MSX版は『コナミアンティークスMSXコレクション』(PlayStation、セガサターン、ゲームアーカイブス)に収録されたほか、i-revoで配信されている。ファミコン版は2007年8月7日からWiiの、2013年8月21日からニンテンドー3DSの、2014年6月19日からWii Uのバーチャルコンソールで、またMSX版も2014年11月19日にWii Uのバーチャルコンソールで、2014年11月25日にプロジェクトEGGで、それぞれ配信されている。 2002年には、携帯電話向けアプリ用に内容を縮小した「けっきょく南極ちょい冒険」が配信されていた。 MSX版とFC版では、ゲーム画面でのタイトルが"Antarctic Adventure"と表示されている。 2020年3月6日に『新世紀エヴァンゲリオン』とのコラボで製作された『ペンペン南極大冒険』がリリースされた。 主人公のペンギンが南極大陸にある各国の基地群に決められた時間内に到達するのが目的。途中にアザラシやクレバス等の障害物が出現するが、いずれにせよ主人公が死ぬことはない(タイムアウトのみ)。道中では時折魚が飛び出してきてそれを集める事や、旗を回収することでスコアが上がる。ゲーム中のBGMはワルトトイフェル作曲の「スケーターズ・ワルツ」(1882年)のアレンジ。MSX版ではト長調、ファミコン版ではホ長調となっている。原曲はイ長調。 内容の主な部分はアクションゲームであるが、実際には教育ソフトという位置づけで、発売時のキャッチフレーズは「I love 地理」である。ゴール到着時には各国の国旗が揚がり、世界の国々と国旗を覚えてもらうという目的があったとされる。スタート・ゴールは日本の昭和基地付近。また南極点ではペンギンの旗が揚がる。 ファミリーコンピュータ版からは光る旗を取った時のアイテムとして「ペギコプター」が追加され、一定時間プロペラを使って浮遊しながら移動する事が可能となっている。 ゲーム誌『ファミリーコンピュータMagazine』の1991年5月10日号特別付録「ファミコンロムカセット オールカタログ」では、「コンティニューがないので、1回失敗してしまうと、もうお終いなのがとてもツライ」、「ペンギンはただ走るだけじゃなくて、障害物を避けてジャンプしたりするんだ。これがまた、とってもカワイイのだ」と紹介されている。 本作のMSX版は、コナミの「教育シリーズ」第一弾として発売され、これらのシリーズには「I love ○○」というキャッチコピーが付けられていた。後に「コナミ株式会社」名義で再発売された際、これらのタイトルのパッケージからシリーズ表記とキャッチコピーが外されている。 このゲームで初登場した主人公のペンギン(後にペン太と名づけられる)は、モアイと共に当時のコナミのマスコットとして各種広告・パンフレットに登場した。 また、ペン太を主人公に据えたコンピュータゲーム、プライズゲーム、メダルゲームなども複数登場した。 パロディウスシリーズでは、ペン太とペン子(続編の『夢大陸アドベンチャー』に登場)の間に生まれた息子という設定の「ペン太郎」が活躍している。『パロディウスだ!』時点では9歳、『New International ハイパースポーツDS』では12歳。2P自機としてペン太郎の幼なじみで許嫁の「お花ちゃん」が登場する場合もある。ドラマCDでの声優は野沢雅子。 ペン太とペン太郎のどちらなのかが明確にされない作品もある。 本ゲームは当初は「数」をテーマにしたゲームとして企画され、ペンギンが氷原に空いた穴から飛び出す魚を決められた数だけジャンプで捕まて、お邪魔キャラとして氷原に穴を空けるノコギリザメが登場する内容だった。それが途中からスクロールを入れたいという話が出て汽車が登場する横スクロールのゲームになり、さらに3D処理で長い道のりを表現するゲームになり、テーマも算数から地理に変更された。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『けっきょく南極大冒険』(けっきょくなんきょくだいぼうけん)は、コナミ工業(現在のコナミデジタルエンタテインメント)のMSX用教育ソフト。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1983年12月発売。のちに、コレコビジョン、ファミリーコンピュータ、携帯アプリに移植されたほか、ゲームボーイの『コナミGBコレクション』にも収録された。続編的位置づけの作品として『夢大陸アドベンチャー』が存在する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "MSX版は『コナミアンティークスMSXコレクション』(PlayStation、セガサターン、ゲームアーカイブス)に収録されたほか、i-revoで配信されている。ファミコン版は2007年8月7日からWiiの、2013年8月21日からニンテンドー3DSの、2014年6月19日からWii Uのバーチャルコンソールで、またMSX版も2014年11月19日にWii Uのバーチャルコンソールで、2014年11月25日にプロジェクトEGGで、それぞれ配信されている。 2002年には、携帯電話向けアプリ用に内容を縮小した「けっきょく南極ちょい冒険」が配信されていた。 MSX版とFC版では、ゲーム画面でのタイトルが\"Antarctic Adventure\"と表示されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2020年3月6日に『新世紀エヴァンゲリオン』とのコラボで製作された『ペンペン南極大冒険』がリリースされた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "主人公のペンギンが南極大陸にある各国の基地群に決められた時間内に到達するのが目的。途中にアザラシやクレバス等の障害物が出現するが、いずれにせよ主人公が死ぬことはない(タイムアウトのみ)。道中では時折魚が飛び出してきてそれを集める事や、旗を回収することでスコアが上がる。ゲーム中のBGMはワルトトイフェル作曲の「スケーターズ・ワルツ」(1882年)のアレンジ。MSX版ではト長調、ファミコン版ではホ長調となっている。原曲はイ長調。", "title": "ゲーム内容" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "内容の主な部分はアクションゲームであるが、実際には教育ソフトという位置づけで、発売時のキャッチフレーズは「I love 地理」である。ゴール到着時には各国の国旗が揚がり、世界の国々と国旗を覚えてもらうという目的があったとされる。スタート・ゴールは日本の昭和基地付近。また南極点ではペンギンの旗が揚がる。", "title": "ゲーム内容" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ファミリーコンピュータ版からは光る旗を取った時のアイテムとして「ペギコプター」が追加され、一定時間プロペラを使って浮遊しながら移動する事が可能となっている。", "title": "ゲーム内容" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ゲーム誌『ファミリーコンピュータMagazine』の1991年5月10日号特別付録「ファミコンロムカセット オールカタログ」では、「コンティニューがないので、1回失敗してしまうと、もうお終いなのがとてもツライ」、「ペンギンはただ走るだけじゃなくて、障害物を避けてジャンプしたりするんだ。これがまた、とってもカワイイのだ」と紹介されている。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "本作のMSX版は、コナミの「教育シリーズ」第一弾として発売され、これらのシリーズには「I love ○○」というキャッチコピーが付けられていた。後に「コナミ株式会社」名義で再発売された際、これらのタイトルのパッケージからシリーズ表記とキャッチコピーが外されている。", "title": "シリーズ作品" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "このゲームで初登場した主人公のペンギン(後にペン太と名づけられる)は、モアイと共に当時のコナミのマスコットとして各種広告・パンフレットに登場した。", "title": "関連作品" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "また、ペン太を主人公に据えたコンピュータゲーム、プライズゲーム、メダルゲームなども複数登場した。", "title": "関連作品" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "パロディウスシリーズでは、ペン太とペン子(続編の『夢大陸アドベンチャー』に登場)の間に生まれた息子という設定の「ペン太郎」が活躍している。『パロディウスだ!』時点では9歳、『New International ハイパースポーツDS』では12歳。2P自機としてペン太郎の幼なじみで許嫁の「お花ちゃん」が登場する場合もある。ドラマCDでの声優は野沢雅子。", "title": "関連作品" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ペン太とペン太郎のどちらなのかが明確にされない作品もある。", "title": "関連作品" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "本ゲームは当初は「数」をテーマにしたゲームとして企画され、ペンギンが氷原に空いた穴から飛び出す魚を決められた数だけジャンプで捕まて、お邪魔キャラとして氷原に穴を空けるノコギリザメが登場する内容だった。それが途中からスクロールを入れたいという話が出て汽車が登場する横スクロールのゲームになり、さらに3D処理で長い道のりを表現するゲームになり、テーマも算数から地理に変更された。", "title": "本ゲームに関する逸話" } ]
『けっきょく南極大冒険』(けっきょくなんきょくだいぼうけん)は、コナミ工業(現在のコナミデジタルエンタテインメント)のMSX用教育ソフト。
{{コンピュータゲーム | Title = けっきょく南極大冒険<br/>''Antarctic Adventure'' | Genre = [[アクションゲーム|3Dアクション]] | Plat = [[MSX]]{{Collapsible list |title = 対応機種一覧 |1 = [[コレコビジョン]] (COV)<br />[[ファミリーコンピュータ]] (FC)<br />[[iアプリ]]<br />[[S!アプリ|Javaアプリ]]<br />[[EZアプリ (Java)|EZアプリ]]<br />[[Microsoft Windows|Windows]] (Win)<br />[[Wii]]<br />[[ニンテンドー3DS]] (3DS)<br />[[Wii U]]}} | Dev = [[コナミ|コナミ工業]] | Pub = コナミ販売 | Play = 1人 | Media = 128[[キロビット]][[ロムカセット]] | Date = {{vgrelease new|JP|December 1983|EU|1984年}}{{Collapsible list |title = 発売日一覧 |1 = '''COV'''<br />{{vgrelease new|NA|1984年}}'''FC'''<br />{{vgrelease new|JP|1985-04-22}}'''iアプリ'''<br />{{vgrelease new|JP|May 2002}}'''Javaアプリ'''<br />{{vgrelease new|JP|2002-8-2}}'''EZアプリ'''<br />{{vgrelease new|JP|2003-3-19}}'''iアプリ(対戦版)'''<br />{{vgrelease new|JP|2003-5-6}}'''Win (i-revo)'''<br />{{vgrelease new|JP|2006-06-16}}'''Wii'''<br />{{vgrelease new|JP|2007-8-7}}'''3DS'''<br />{{vgrelease new|JP|2013-8-21}}'''Wii U(FC版の移植)'''<br />{{vgrelease new|JP|2014-6-19}}'''Wii U(MSX版の移植)'''<br />{{vgrelease new|JP|2014-11-19}}'''Win(プロジェクトEGG)'''<br />{{vgrelease new|JP|2014-11-25}}}} | Rating = {{CERO-A}} | ContentsIcon = | Download content = | Device = | Sale = | etc = 型式:RC701 }} 『'''けっきょく南極大冒険'''』(けっきょくなんきょくだいぼうけん)は、コナミ工業(現在の[[コナミデジタルエンタテインメント]])の[[MSX]]用[[教育ソフト]]。 == 概要 == [[1983年]]12月発売。のちに、[[コレコビジョン]]、[[ファミリーコンピュータ]]、携帯アプリに移植されたほか、[[ゲームボーイ]]の『[[コナミGBコレクション]]』にも収録された。続編的位置づけの作品として『[[夢大陸アドベンチャー]]』が存在する。 MSX版は『[[コナミアンティークスMSXコレクション]]』([[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]、[[セガサターン]]、[[ゲームアーカイブス]])に収録されたほか、[[i-revo]]で配信されている。ファミコン版は[[2007年]][[8月7日]]から[[Wii]]の、[[2013年]][[8月21日]]から[[ニンテンドー3DS]]の、[[2014年]][[6月19日]]から[[Wii U]]の[[バーチャルコンソール]]で、またMSX版も2014年[[11月19日]]にWii Uのバーチャルコンソールで、2014年[[11月25日]]に[[プロジェクトEGG]]で、それぞれ配信されている。 2002年には、携帯電話向けアプリ用に内容を縮小した「けっきょく南極ちょい冒険」が配信されていた。 MSX版とFC版では、ゲーム画面でのタイトルが"'''Antarctic Adventure'''"と表示されている。 2020年3月6日に『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』とのコラボで製作された『ペンペン南極大冒険』がリリースされた<ref>{{Cite web|和書|title=エヴァ公式アプリ『EVA-EXTRA』でミニゲーム『ペンペン南極大冒険』が配信開始|url=https://gamebiz.jp/news/261638|website=Social Game Info|accessdate=2020-08-24|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=無料ゲーム「ペンペン南極大冒険」がエヴァ公式アプリに登場へ|url=https://gigazine.net/news/20200303-eva-extra-penpen/|website=GIGAZINE|accessdate=2020-08-24|language=ja}}</ref>。 == ゲーム内容 == 主人公の[[ペンギン]]が[[南極大陸]]にある各国の基地群に決められた時間内に到達するのが目的。途中に[[アザラシ]]やクレバス等の障害物が出現するが、いずれにせよ主人公が死ぬことはない(タイムアウトのみ)。道中では時折魚が飛び出してきてそれを集める事や、旗を回収することでスコアが上がる。ゲーム中のBGMは[[エミール・ワルトトイフェル|ワルトトイフェル]]作曲の「[[スケートをする人々|スケーターズ・ワルツ]]」([[1882年]])のアレンジ。MSX版では[[ト長調]]、ファミコン版では[[ホ長調]]となっている。原曲は[[イ長調]]。 内容の主な部分はアクションゲームであるが、実際には教育ソフトという位置づけで、発売時のキャッチフレーズは「I love 地理」である。ゴール到着時には各国の[[国旗]]が揚がり、世界の国々と国旗を覚えてもらうという目的があったとされる。スタート・ゴールは[[日本]]の[[昭和基地]]付近。また[[南極点]]ではペンギンの旗が揚がる。 [[ファミリーコンピュータ]]版からは光る旗を取った時のアイテムとして「ペギコプター」が追加され、一定時間[[プロペラ]]を使って浮遊しながら移動する事が可能となっている。 == 移植版 == {|class="wikitable" style="font-size:85%" |- ! No. ! タイトル ! 発売日 ! 対応機種 ! 開発元 ! 発売元 ! メディア ! 型式 ! 売上本数 ! 備考 |- | style="text-align:right" | 1 ! Antarctic Adventure | {{vgrelease new|NA|1984年}} | [[コレコビジョン]] | [[コレコ]] | コレコ | 128[[キロビット]][[ロムカセット]] | - | - | |- | style="text-align:right" | 2 ! けっきょく南極大冒険 | {{vgrelease new|JP|1985-04-22}} | [[ファミリーコンピュータ]] | コナミ開発2課 | コナミ | 192キロビットロムカセット<ref name="famimaga50">{{Cite journal |和書 |author = |authorlink = |title = 5月10日号特別付録 ファミコンロムカセット オールカタログ |date = 1991-05-10 |publisher = [[徳間書店]] |journal = [[ファミリーコンピュータMagazine]] |volume = 7 |number = 9 |naid = |pages = 50 |url = |ref = harv}}</ref> | RC804 | - | |- | style="text-align:right" | 3 ! <small>[[コナミアンティークスMSXコレクション]] Vol.1</small> | {{vgrelease new|JP|1997-11-20}} | [[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]] | [[コナミコンピュータエンタテインメント東京|KCET]] | コナミ | [[CD-ROM]] | SLPM-86052 | - | MSX版の移植 |- | style="text-align:right" | 4 ! [[コナミGBコレクション]] VOL.3 | {{vgrelease new|JP|1998-02-19|EU|2000年}} | [[ゲームボーイ]] | [[コナミコンピュータエンタテインメントジャパン|KCEジャパン]]<br />[[トーセ]] | コナミ | 4[[メガビット]]ロムカセット | {{vgrelease new|JP|DMG-AJKJ-JPN|EU|DMG-AF7P-EUR}} | - | 日本国内版は[[スーパーゲームボーイ]]対応、欧州版は[[ゲームボーイカラー]]対応 |- | style="text-align:right" | 5 ! <small>コナミアンティークスMSXコレクション ウルトラパック</small> | {{vgrelease new|JP|1998-07-23}} | [[セガサターン]] | [[コナミコンピュータエンタテインメントスタジオ|KCE横浜]] | コナミ | CD-ROM | T-9530G | - | MSX版の移植 |- | style="text-align:right" | 6 ! けっきょく南極ちょい冒険 | {{vgrelease new|JP|2002年5月<ref>{{Cite web|和書|author=横田真俊 |date=2002-05-08 |url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/news_toppage/9310.html |title=コナミ、「コナミネットDX」にアクションゲーム「王家の谷」を追加 |website=[[ケータイ Watch]] |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2018-12-29}}</ref>}} | [[mova|503i]]シリーズ<br />([[iアプリ]]) | コナミ | コナミ | [[ダウンロード販売|ダウンロード]]<br />(コナミネットDX) | - | - | |- | style="text-align:right" | 7 ! けっきょく南極大冒険 | {{vgrelease new|JP|2002年8月2日<ref>{{Cite web|和書|author= |date=2002-8-2 |url=https://www.itmedia.co.jp/mobile/0208/02/n_s04.html |title=コナミ、新アプリ「沙羅曼蛇」「けっきょく南極大冒険」を提供 |website=[[ITmedia|ITmedia Moblie]] |publisher=アイティメディア |accessdate=2018-12-29}}</ref>}} | [[Yahoo!ケータイ|Jスカイ]]<br />([[S!アプリ|Javaアプリ]]) | コナミ | コナミ | ダウンロード<br />(コナミ J-APPLI) | - | - | |- | style="text-align:right" | 8 ! けっきょく南極大冒険 | {{vgrelease new|JP|2003年3月19日<ref>{{Cite web|和書|author=関口聖 |date=2003-3-19 |url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/news_toppage/13284.html |title=コナミ、EZweb向けに「悪魔城ドラキュラC」など6本追加 |website=[[ケータイ Watch]] |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2018-12-29}}</ref>}} | [[EZアプリ (Java)|EZアプリ]] | <small>コナミモバイル・オンライン</small> | <small>コナミモバイル・オンライン</small> | ダウンロード<br />(コナミアプリコレクション) | - | - | |- | style="text-align:right" | 9 ! けっきょく南極大冒険対戦版 | {{vgrelease new|JP|2003年5月6日<ref>{{Cite web|和書|author= |date=2003-5-6 |url=https://www.itmedia.co.jp/mobile/0305/06/n_konami.html?print |title=コナミ、iモード向け通信対戦ゲームサイトをオープン |website=[[ITmedia|ITmedia Moblie]] |publisher=アイティメディア |accessdate=2018-12-29}}</ref>}} | iアプリ | <small>コナミモバイル・オンライン</small> | <small>コナミモバイル・オンライン</small> | ダウンロード<br />(コナミ対戦コロシアム) | - | - | |- | style="text-align:right" | 10 ! けっきょく南極大冒険 | {{vgrelease new|JP|2006年6月16日<ref>{{Cite web|和書|author=大久保有規彦 |date=2006-6-16 |url=https://bb.watch.impress.co.jp/cda/news/14315.html |title=i-revo、「グラディウス」などを30分無料プレイ可能なコーナーを新設 |website=[[Impress Watch|BB Watch]] |publisher=[[インプレス]] |language= [[日本語]] |accessdate=2019-2-23}}</ref>}} | [[Microsoft Windows|Windows]] | コナミ | アイレボ | ダウンロード<br />([[i-revo]]) | - | - | |- | style="text-align:right" | 11 ! <small>コナミアンティークスMSXコレクション Vol.1</small> | {{vgrelease new|JP|2006-11-22}} | [[PlayStation Portable]]<br />([[PlayStation Network]]) | KCET | KDE | ダウンロード<br />([[ゲームアーカイブス]]) | - | - | MSX版の移植 |- | style="text-align:right" | 12 ! けっきょく南極大冒険 | {{vgrelease new|JP|2007年8月7日<ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=https://www.nintendo.co.jp/wii/vc/vc_knd/index.html |title=VC けっきょく南極大冒険 |website=任天堂ホームページ |publisher=[[任天堂]] |accessdate=2018-12-29}}</ref>}} | [[Wii]] | コナミ開発2課 | KDE | ダウンロード<br />(バーチャルコンソール) | FCNJ | - | ファミリーコンピュータ版の移植 |- | style="text-align:right" | 13 ! けっきょく南極大冒険 | {{vgrelease new|JP|2013年8月21日<ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=https://www.nintendo.co.jp/titles/50010000015100 |title=けっきょく南極大冒険|ニンテンドー3DS |website=任天堂ホームページ |publisher=[[任天堂]] |accessdate=2018-12-29}}</ref>}} | [[ニンテンドー3DS]] | コナミ開発2課 | KDE | ダウンロード<br />(バーチャルコンソール) | TDCJ | - | ファミリーコンピュータ版の移植 |- | style="text-align:right" | 14 ! けっきょく南極大冒険 | {{vgrelease new|JP|2014年6月19日<ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=https://www.nintendo.co.jp/titles/20010000006146 |title=けっきょく南極大冒険|Wii U |website=任天堂ホームページ |publisher=[[任天堂]] |accessdate=2018-12-29}}</ref>}} | [[Wii U]] | コナミ開発2課 | KDE | ダウンロード<br />(バーチャルコンソール) | FC4J | - | ファミリーコンピュータ版の移植 |- | style="text-align:right" | 15 ! けっきょく南極大冒険 | {{vgrelease new|JP|2014-11-19}} | Wii U | コナミ開発3課 | KDE | ダウンロード<br />(バーチャルコンソール) | ULJM-05076 | - | MSX版の移植 |- | style="text-align:right" | 16 ! けっきょく南極大冒険 | {{vgrelease new|JP|2014年11月25日<ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=https://www.amusement-center.com/project/egg/cgi/ecatalog-detail.cgi?product_id=1228 |title=けっきょく南極大冒険|プロジェクトEGG |website=プロジェクトEGG |publisher=[[D4エンタープライズ]] |accessdate=2018-12-29}}</ref>}} | Windows | コナミ開発3課 | [[D4エンタープライズ]] | ダウンロード<br />([[プロジェクトEGG]]) | - | - | MSX版の移植 |- | style="text-align:right" | 17 ! [[Colecovision Flashback]] | {{vgrelease new|INT|2016年10月7日}} | Windows | コレコ | [[w:AtGames|AtGames]] | ダウンロード<br />([[Steam]]) | 529860 | - | コレコビジョン版の移植 |- |} == 評価 == ;ファミリーコンピュータ版 ゲーム誌『[[ファミリーコンピュータMagazine]]』の1991年5月10日号特別付録「ファミコンロムカセット オールカタログ」では、「コンティニューがないので、1回失敗してしまうと、もうお終いなのがとてもツライ」、「ペンギンはただ走るだけじゃなくて、障害物を避けてジャンプしたりするんだ。これがまた、とってもカワイイのだ」と紹介されている<ref name="famimaga50"/>。 == シリーズ作品 == 本作のMSX版は、コナミの「教育シリーズ」第一弾として発売され、これらのシリーズには「I love ○○」というキャッチコピーが付けられていた。後に「コナミ株式会社」名義で再発売された際、これらのタイトルのパッケージからシリーズ表記とキャッチコピーが外されている。 * 教育シリーズ1『けっきょく南極大冒険』 - 「I love 地理」 * 教育シリーズ2『[[わんぱくアスレチック]]』 - 「I love 体育」 * 教育シリーズ3『[[モン太君のいち・に・さんすう]]』 - 「I love 算数」 * 教育シリーズ4『ジョリーホッパー』 - 「I love 理科」 / 実際には教育シリーズにはならず『[[ハイパースポーツ1]]』として発売された<ref>[http://home.a02.itscom.net/msx_lab/column/kyouiku/kyouiku.htm コナミ・教育シリーズの謎] - MSX研究所</ref>。 * 教育シリーズ5『[[ぽんぽこパン]]』 - 「I love 社会」 * 教育シリーズ6『単語と遊ぼう』 - 「I love 英語」 / 発売中止<ref>[http://www.generation-msx.nl/library/japan/flyers/konami_games Konami Games Flyer] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090701055712/http://www.generation-msx.nl/library/japan/flyers/konami_games |date=2009年7月1日 }} - Generation MSX</ref>。 == 関連作品 == このゲームで初登場した主人公の'''ペンギン'''(後に'''ペン太'''と名づけられる)は、[[モアイ (グラディウス)|モアイ]]と共に当時のコナミの[[マスコット]]として各種広告・パンフレットに登場した。 また、ペン太を主人公に据えたコンピュータゲーム、プライズゲーム、メダルゲームなども複数登場した。 === ペンギン(ペン太)がプレイヤーキャラクターとして登場する作品 === * けっきょく南極大冒険(1983年・MSX) - 主人公。コナミゲーム初登場。この時点では名前が付けられておらず「'''ペンギン'''」として登場。 * [[夢大陸アドベンチャー]](1986年・MSX) - 主人公として「ペンギン」が登場。 * [[グラディウス2]](1987年・MSX) - 『夢大陸アドベンチャー』のソフトを挿入すると、自機が「ペンギン」になる。[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]版の『[[コナミアンティークスMSXコレクション]]VOL.2』収録版でもコマンド入力で出現。 * [[パロディウス]](1988年・MSX) - プレイヤーキャラクターのひとりとして「ペンギン」が登場。 * [[牌の魔術師 (ゲーム)|牌の魔術師]](1989年・MSX) - プレイヤーキャラクターのひとりとして「ペンギン」が登場。 * [[夢ペンギン物語]](1991年・ファミリーコンピュータ) - 主人公として「'''ペン太'''」が登場。「ペン太」という名前が初登場した作品。以降、これまでの「ペンギン」がペン太と同一の扱いになる。 * つりっ子ペン太<ref>[http://flyers.arcade-museum.com/?page=thumbs&db=arcadedb&id=499 Arcade Game Flyers: Tsurikko-Penta, Konami] - Arcade-History</ref>(1991年・[[メダルゲーム]]) * いもほりペン太(1992年・メダルゲーム) * ふうせんペン太(1993年・メダルゲーム) * スーパーつりっ子ペン太<ref>[http://www.arcade-history.com/?n=super-fisherman-penta&page=detail&id=31387 Super Fisherman Penta (redemption game), Konami (1995)] - Arcade-History</ref>(1995年・大型筐体メダルゲーム) * ヒエヒエペン太(2001年・[[プライズゲーム]]) * けっきょく南極大冒険対戦版 (2003年・携帯電話アプリ)コナミ雀〜ツインビー対戦版〜。 * [[エアフォースデルタ]] ブルーウイングナイツ(2004年・PlayStation 2) - 隠し自機として「ペン太」が登場。 * [[ペン太の釣冒険DX]]<ref>[http://www.konami.jp/mobile/appli/penta_dx.html 【コナミネットDX】ペン太の釣冒険DX] - KONAMI</ref>(2006年・携帯電話アプリ) * [[コナミワイワイワールド]](2006年・携帯電話アプリ) - 2006年の携帯電話アプリ版では、ファミコン版に登場していたコング(『[[キングコング2 怒りのメガトンパンチ]]』)に代わって「ペン太」がプレイヤーキャラクターのひとりとして登場している。 * 極寒ヒエヒエペン太(2019年・プライズゲーム) === 息子のペン太郎がプレイヤーキャラクターとして登場する作品 === パロディウスシリーズでは、ペン太とペン子(続編の『[[夢大陸アドベンチャー]]』に登場)の間に生まれた息子という設定の「'''ペン太郎'''」が活躍している。『パロディウスだ!』時点では9歳<ref>[http://www.konami.jp/mobile/appli/parodius.html 【コナミネットDX】アプリゲーム|パロディウスだ!] - KONAMI</ref>、『New International ハイパースポーツDS』では12歳<ref>[https://www.famitsu.com/sp/080731_hypersports/ ニュー インターナショナル ハイパースポーツDS] - ファミ通.com</ref>。2P自機としてペン太郎の幼なじみで許嫁の「お花ちゃん」が登場する場合もある。ドラマCDでの声優は[[野沢雅子]]。 * [[パロディウスだ! 〜神話からお笑いへ〜]](1990年・アーケード) - プレイヤーキャラクターのひとりとして、ペンギンの息子「'''ペン太郎'''」が初登場。 * [[極上パロディウス 〜過去の栄光を求めて〜]](1994年・アーケード) * [[実況おしゃべりパロディウス]](1995年・スーパーファミコン) * [[パロウォーズ]](1997年・PlayStation) * [[ハイパーオリンピック|New International ハイパースポーツDS]](2008年・ニンテンドーDS) - 隠しプレイヤーキャラクター。 * [[コナミ ワイワイレーシング アドバンス#Krazy Kart Racing|Krazy Kart Racing]](2009年・[[iOS]]/[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]) === 背景などで登場する作品 === ペン太とペン太郎のどちらなのかが明確にされない作品もある。 * [[コナミのピンポン]](1985年・MSX) - タイトル画面や背景に登場。 * コナミのゲームを10倍楽しむカートリッジ(1985年・MSX) - 背景などに登場。 * コナミの新10倍カートリッジ(1987年・MSX) - 背景などに登場。 * [[コナミワイワイワールド]](1988年・ファミリーコンピュータ) - 転送機を操るキャラクターとして登場。2006年の携帯電話アプリ版では、ペン太がプレイヤーキャラクターになったためお花ちゃんに差し替えられた。 * コナミの占いセンセーション(1988年・MSX) * [[がんばれゴエモン2]](1989年・ファミリーコンピュータ) - ステージ5でゲームを買うと敵として現れる。 * [[がんばれペナントレース!]](1989年・ファミリーコンピュータ)- イースタンドーム及びアメリカンスタジアムの攻守チェンジ中、電光掲示板で流れるCMに登場する事がある。 * [[ワイワイワールド2 SOS!!パセリ城]](1991年・ファミリーコンピュータ) * [[バイオレントストーム]](1993年・アーケード) * ワイワイビンゴ(1993年・アーケード) * ワイワイポーカー(1993年・アーケード) * ワイワイジョッキー(1995年・アーケード) * [[セクシーパロディウス]](1996年・アーケード) - 「ペン太郎」が会計役などで登場。 * コロコロペン介(1997年・メダルゲーム) - 「ペン介」が登場。ペン太やペン太郎との関係は不明。 * [[コナミ ワイワイレーシング アドバンス]](2001年・ゲームボーイアドバンス) - 「ペン太郎」が背景などに登場。 * [[オトメディウス]](2007年・アーケード) - [[雑魚キャラクター]]としてペンギンが多数登場。 * [[アニマロッタ|カラコロッタ]](2014年・メダルゲーム)- 司会進行役のペンギンのアニマの名前が「ペンタ」 * ピクロジパズル(2018年・iOS/Android) == 本ゲームに関する逸話 == 本ゲームは当初は「数」をテーマにしたゲームとして企画され、ペンギンが氷原に空いた穴から飛び出す魚を決められた数だけジャンプで捕まて、お邪魔キャラとして氷原に穴を空けるノコギリザメが登場する内容だった。それが途中からスクロールを入れたいという話が出て汽車が登場する横スクロールのゲームになり、さらに3D処理で長い道のりを表現するゲームになり、テーマも算数から地理に変更された<ref>月刊ログイン 1994年4月号 p.63</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * {{Wiiバーチャルコンソール|knd|けっきょく南極大冒険(ファミコン版)}} * {{3DSバーチャルコンソール|tdcj|けっきょく南極大冒険(ファミコン版)}} * {{Wii Uバーチャルコンソール|fc4j|けっきょく南極大冒険(ファミコン版)}} * {{Wii Uバーチャルコンソール|mnnj|けっきょく南極大冒険 ANTARCTIC ADVENTURE}} * [https://www.amusement-center.com/project/egg/cgi/ecatalog-detail.cgi?contcode=7&product_id=1228 けっきょく南極大冒険 for MSX(プロジェクトEGG)] * [http://www.konami.jp/mobile/appli/nankyoku.html 携帯アプリ版けっきょく南極大冒険]{{リンク切れ|date=2020年9月}} * [http://game.i-revo.jp/dl/search/displayDetail.do?productId=10008 i-revo けっきょく南極大冒険 for MSX]{{リンク切れ|date=2020年9月}} * {{MobyGames|id=/11543/antarctic-adventure/|name=Antarctic Adventure}} {{Video-game-stub}} {{デフォルトソート:けつきよくなんきよくたいほうけん}} [[Category:1984年のコンピュータゲーム]] [[Category:1983年のパソコンゲーム]] [[Category:3Dアクションゲーム]] [[Category:I-revoゲーム対応ソフト]] [[Category:MSX/MSX2用ソフト]] [[Category:Wii用バーチャルコンソール対応ソフト]] [[Category:Wii U用バーチャルコンソール対応ソフト]] [[Category:教育ソフトウェア]] [[Category:携帯電話アプリゲーム]] [[Category:コナミのゲームソフト]] [[Category:コレコビジョン用ソフト]] [[Category:南極を舞台としたコンピュータゲーム]] [[Category:日本で開発されたコンピュータゲーム]] [[Category:ニンテンドー3DS用バーチャルコンソール対応ソフト]] [[Category:プロジェクトEGG対応ソフト]] [[Category:ペンギンを主人公にした物語]] [[Category:ペンギンを題材としたコンピュータゲーム]] [[Category:冒険ゲーム]] [[Category:ファミリーコンピュータ用ソフト]]
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ヴィクトル・ユーゴー
ヴィクトル=マリー・ユーゴー(仏: Victor-Marie Hugo [viktɔʁ maʁi yɡo] ( 音声ファイル)、1802年2月26日 - 1885年5月22日)は、フランス・ロマン主義の詩人、小説家。七月王政時代からフランス第二共和政時代の政治家。『レ・ミゼラブル』の著者として著名。 少年時代から文学者を志し、『東方詩集』などでロマン詩人の中心的存在となった。政治にも関心を持ち、ナポレオン3世のクーデターに反対して亡命生活を送った。この間に『静観詩集』などと大作『レ・ミゼラブル』を完成。その死は国葬をもって遇された。 1959年から1965年まで発行されていた5フラン紙幣に肖像画が採用されていた。 日本での「Hugo」の表記は、「ユーゴー」と「ユゴー」が併用されているが、ここでは「ユーゴー」を採用する。 共和派でナポレオン軍の軍人ジョゼフ・レオポール・シジスベール・ユーゴー とソフィー=フランソワーズ・トレビュシェ の三男として、父の任地だったフランス東部のブザンソンで生まれた。ユーゴー家はロレーヌの農民の出だが、父親はフランス革命以来の軍人。母親はナントの資産家の娘である。アベル・ジョゼフ とウジェーヌ という2人の兄がいる。 生まれたときは小柄で、背丈が包丁ほどしかなく、ひ弱な赤ん坊だったといわれる。生後6週間目に一家はマルセイユへ転居した。以降、コルシカ島のバスティア、エルバ島のポルトフェッラーイオ、パリ、ナポリ、マドリード、と主に母親らとともにヨーロッパのあちこちを転々とする。というのも、生粋のボナパルト主義の父ジョゼフ・レオポールと根っからの王党派の母ソフィーの間で政治思想の違いによる確執が生じ、それが夫婦の間に不和をもたらしていたのである。この確執はのちに『レ・ミゼラブル』の、マリユスの父ポンメルシー大佐とマリユスの祖父ジルノルマンの確執の原型となる。いずれにせよ、生まれたときの状態や長きにわたる父親不在の生活のおかげで、マザーコンプレックスが非常に強かった。 1812年、母と次兄ウジェーヌと一緒に再びパリに帰る。1814年、次兄ウジェーヌとともにサン・ジェルマン・デ・プレ教会 の近くの寄宿学校に入る。その間にナポレオンによる帝政が完全に終わりを告げ、父ジョゼフ・レオポールはスペイン貴族の地位を剥奪され、フランス軍の一大隊長に没落してしまう。彼は寄宿学校に4年とどまるものの、最後の2年はリセ・ルイ=ル=グラン にも通った。父親は彼を軍人にするつもりだったが、本人は詩作に夢中で、1816年7月10日には詩帳にこんな言葉を残している。 ――シャトーブリアンになるのでなければ、何にもなりたくない。 17歳でアカデミー・フランセーズの詩のコンクールで一位を取り、自ら詩の雑誌も発行した。母ソフィーはヴィクトルの才能を認め、文学での成功を期待していたが、幼馴染であり恋人であったアデール・フシェ との結婚には猛反対していた。彼は18歳のときから始めた文通を翌年に再開する。しかし、その年(=1821年)6月27日に母ソフィーが他界する。ユーゴー一家に二度と娘を逢わせないと誓っていたアデールの両親も、彼の情熱に折れてしまい、結婚を了承した。同年10月12日、アデールとサン・シュルピス教会 で結婚し、ル・シェルシュ・ミディ通り に居を構えるに至る。1822年には、『オードと雑詠集』によって国王から年金をもらえることになり、ロマン派の旗手として目覚ましい活躍を始める。 1823年7月16日、長男レオポール が誕生する。すべてが順風満帆に見えたが、同年10月9日にひ弱だったレオポールが亡くなってしまう。翌年の1824年8月28日に生まれた長女にはレオポルディーヌ と命名する。 1825年4月29日、23歳という若さでレジオンドヌール勲章(シュヴァリエ、勲爵士)を受ける。同年5月29日にはランスで行われたシャルル10世の聖別式にも参加した。こうして少しずつ名誉が与えられてゆく中で、少年時代は疎遠であった父ジョゼフ・レオポールとの仲も親密になっていった。愛する父のために、それまで疎んじてきたナポレオンを讃える詩を書いたところ、これをきっかけにナポレオンを次第に理解し、尊敬するようになる。さらに、聖別式でウィリアム・シェイクスピアのフランス語訳詩を耳にしたことで、シェイクスピアを尊敬するようになる。 翌1826年11月2日には次男シャルル が生まれ、創作熱も加速していくが、1828年1月28日、パリで父ジョゼフ・レオポールが他界する。しかし、悲しみにくれる一方で朗報もあり、同年10月31日、父の才能を受け継いだ三男フランソワ=ヴィクトル が誕生する。 1830年4月、ジャン・グジョン通り へ転居する。そこで七月革命の混乱が押し寄せる。たとえルイ18世から年金を貰っていた身分であっても、七月革命に参加していたのは『エルナニ』でともに文学革命に参加した仲間であったため、己に危害が加えられる心配はなかった。 そんな混乱のなか、同年7月28日、次女アデール が誕生する。 1819年2月、トゥルーズのアカデミー・デ・ジュー・フロロー のコンクールに詩が2編入賞する。5月には、詩1編がアカデミー賞 に輝く。12月には『コンセルヴァトゥール・リテレール』 誌を創刊、1821年3月まで月2回のペースで発行していた。1820年3月9日、『ベリー公爵の死についてのオード』でルイ18世から下賜金を受け、ビッグ・ジャルガルを『コンセルヴァトゥール・リテレール』誌に掲載する(1826年に刊行)。 1822年8月4日に出版した『オードと雑詠集』 が当時のフランス国王ルイ18世の目に留まり、国王から年1000フランの年金をもらえるようになる。この年金のおかげで、彼はアデールとの結婚を許可される。1823年2月8日に、17世紀末のデンマーク宮廷の陰謀をテーマにした純愛小説『ハン・ディスランド』 を匿名で発表し、新雑誌も創刊した。 1829年1月に『東方詩集』、2月7日に『死刑囚最後の日』を刊行する一方、コメディ・フランセーズ で上演予定だった『マリオン・ドロルム』が8月13日に上演禁止令を受けてしまう(以降、彼の手がけた戯曲が上演中止に追い込まれるケースがたびたび起こる)。理由は、この作品に登場するルイ13世の境遇が悪すぎて、シャルル10世の非難を買ったからであった。 それから約2週間後の1829年8月29日から9月24日に戯曲『エルナニ(フランス語版)』(Hernani)を執筆した。10月5日にコメディ・フランセーズ座で上演する運びとなった。古典派の常識を逸脱したこの戯曲はたちまち問題となり、『エルナニ』公演の初日、開幕前からロマン派と古典派のこぜりあいが始まり、幕が上がるとこぜりあいは一気に暴動に転じた。いわゆる『エルナニ合戦』である。これ以降、ユーゴーはロマン派と古典派の戦いに巻き込まれることとなる。しかし、この『エルナニ』はロマン派を世界文学の主流に据えるきっかけをつくり、公演は大成功を収める。 『エルナニ』で大成功をおさめ、ロマン派の詩人・作家として名声と富に恵まれたユーゴーは、1832年10月8日、ジョン・クージョン通りの家を引き払い、ロワイヤル広場(現在のヴォージュ広場)にある赤いレンガ造りの豪華な邸宅に引っ越す。この頃になると、妻アデールがサント・ブーヴと恋に落ちてしまい、彼は寂しさに胸を詰まらせていた。8月の終わりにはサント・ブーヴとの交際を絶った。翌年にはサント・ブーヴが彼の作品『たそがれの歌』を酷評したことで決裂が決定的となってしまう。 31歳になる直前のマルディグラ、つまり1833年2月19日の夜、彼は『リュクレス・ボルジャ』(ルクレツィア・ボルジア)に出演していた女優ジュリエット・ドルエ の愛人になる。この日付は『レ・ミゼラブル』の中で、マリユスとコゼットが結婚する日付でもある(『レ・ミゼラブル』ではマルディグラが2月16日だったとなっているが実際のマルディグラは2月19日)。別荘を行き来したり連れ立って旅行に出かけたりするなど、二人の仲は徐々に深くなってゆく。 執筆に情熱を燃やし、ジュリエットとの恋愛に溺れる一方で、私生活では悲しい出来事が続いていた。1836年2月18日と12月29日にはアカデミー・フランセーズに2度も落選し、翌1837年3月5日には、妻アデールを愛したがために発狂してしまった次兄ウジェーヌが入院先のシャラントン精神病院 で自殺してしまう。 同年7月3日にレジオンドヌール勲章(オフィシエ、将校)を授与される。その間、戯曲や詩を創作しながら、ブルターニュ、ベルギー、シャンパーニュ、プロヴァンス、と各地を転々と旅する。 1837年、ルイ・フィリップの長男オルレアン公フェルディナン・フィリップの結婚式に呼ばれる。オルレアン公妃エレーヌが大のユーゴー・ファンであることがきっかけとなり、以後ルイ・フィリップ父子とも親交が深くなる。 もうすぐ38歳になる1840年1月、文芸家協会長となり、少しは光明が見えてきたかと思われた矢先、同年2月20日、アカデミー・フランセーズ3度目の落選となる。しかし、翌年1841年1月7日にようやくアカデミー・フランセーズの会員に当選する。彼は亡くなるまで、第10代座席次14番を受け持つことになる。 1843年2月15日、41歳の誕生日を間近に控えたユーゴーは、長女レオポルディーヌとシャルル・ヴァクリー の結婚を見届ける。しかし同年9月4日、レオポルディーヌは夫とともにヴィルキエ を渡るセーヌ川にて19歳で溺死した。その頃、愛人ジュリエットと旅をしていた彼は、事故から5日後の9月9日に悲報を知り、9月12日にパリへ戻った。 レオポルディーヌの死はユーゴーの心に大きな穴を開けた。父に似て絶倫であった彼は、かねてよりアデールやジュリエット以外の複数の女性と恋愛関係にあったが、1845年7月5日、サン・ロック通りのアパルトマンで、画家のオーギュスト・ビヤールの妻レオニー・ビヤール と姦通している現場を警察に押さえられてしまう。彼は貴族院議員の不可侵権を利用して釈放されたが、レオニーは当時の法律によりサン・ビヤール監獄に収容された。このスキャンダルにより、彼は他の議員の絶好の攻撃の的となったが、彼を可愛がっていたルイ・フィリップはビヤールにヴェルサイユ宮殿の壁画を描く仕事を与え、ヴィクトルに有罪の判決が下らないよう説得した。結局、レオニーは修道院で数ヶ月の謹慎処分ののち、再び世間に出た。同年8月14日にビヤール夫妻の別居を認める判決が出たとき、彼はレオニーを経済的に支援しなければならなかった。以後、2人の恋愛関係は長く続くことになり、ジュリエットを苦しめることになる。 公では喜ばしい出来事が続いていたユーゴーは、恋の情熱や死別の悲しみを詩に託している。ジュリエットとの交際が始まって1年が過ぎた1834年、彼女との恋をうたった『ロマン主義詩編の最高傑作』との評判名高い『オランピオの悲しみ』を生み出す。また、愛する長女レオポルディーヌが没してからちょうど1年後、長い間娘の喪に服した彼は、娘が逝った街ヴェルキエで傑作詩編『ヴェルキエにて』の第1篇を書き終える。 しかし、1843年から1852年までの約10年間、作品を1冊も出版していない。これにはレオポルディーヌの死はもちろん、戯曲『城主』の失敗とそれにともなうロマン派文学の凋落、議員活動の忙しさもあったと思われるが、もうひとつ大きな理由があった。それが、のちにフランス文学史上屈指の名作といわれるようになる『レ・ミゼラブル(邦題:あゝ無情)』(当時の題名は『レ・ミゼール』)の執筆である。執筆は1845年11月17日から始まった。この作品を書くきっかけになった大きな理由には諸説あり、当時新聞に載っていた小説が彼の心を強く惹きつけたとも、少年時代に見てしまったギロチンの光景が彼を人道主義者にし、この作品を書かせたとも言われている。 1845年4月13日、オルレアン公爵夫人エレーヌの後ろ盾があったおかげで、ルイ・フィリップから子爵の位を授けられた。貴族になったことで政治活動にも身を置くようになった彼は、翌年の1846年3月19日の貴族院にてポーランドに関する政治演説を行う。 だが、1848年2月の二月革命で、ルイ・フィリップはイギリスへ亡命する。ユーゴーはあくまで、幼いパリ伯(オルレアン公フェルディナン・フィリップの遺児でルイ・フィリップの嫡孫)を即位させ、母エレーヌを摂政にすべきだと考えていたが、それを望まぬ者もいた。結局、フランスは第二共和政へ移行することとなる。ユーゴーは同年5月の立憲議会の補欠選挙に立候補して、保守派の支持を受けて当選した。政治家としてのユーゴーは1830年代より続けていた死刑廃止運動や、教育改革、社会福祉などを主張した。1848年には共和派となり、1848年12月10日の大統領選挙ではルイ・ナポレオンを支持し、強力な論陣を張って彼を支援した。しかしナポレオンは次第に独裁化し、連続再選禁止条項の改正を国民議会に提出するなどして、このころにはユーゴーはナポレオンの強力な反対者となっていた。ナポレオンは1851年12月2日にクーデターを起こして独裁体制を樹立し、反対派への弾圧を開始した。ユーゴーも弾圧対象となり、12月11日にベルギーへと亡命を余儀なくされる。以後19年に及ぶ亡命生活の始まりであった。 ベルギーの首都ブリュッセルに落ち着いたユーゴーは、さっそくナポレオンへの批判を開始した。1852年8月にはブリュッセルでナポレオン3世を弾劾した「小ナポレオン」を出版した。これは1843年の戯曲『城主』の失敗以来10年ぶりの新作であり、以降ユーゴーは再び精力的に執筆を再開する。「小ナポレオン」は熱狂を引き起こしたが、フランスからベルギーへの圧力を恐れたユーゴーは出版の前日に英仏海峡に浮かぶイギリス領チャネル諸島のジャージー島へと移住し、1855年までここに住むこととなった。ここでは1853年に、やはりナポレオン弾劾の書である「懲罰詩集」を発表している。1855年には隣の島であるガーンジー島に移住し、1870年にフランスに帰還するまでの間15年間ここで過ごした。ガーンジー在住中には、1856年に「静観詩集」、1859年には「諸世紀の伝説」の第1部、そして1862年には中断していた『レ・ミゼラブル』が完成してベルギーより出版され、大反響を巻き起こした。「レ・ミゼラブル」の成功は、彼に莫大な収入をもたらした。 『レ・ミゼラブル』が出版された直後、海外旅行に出かけたユーゴーはその売れ行きが心配で、出版社に一文字「?」と書いただけの電報を送ると、その後出版社から「!」とだけ書かれた返信が届いた。「上々の売れ行きです!」というわけである。事実数日で完売・売切れの状態であったという。これは世界で最も短い手紙として『ギネス世界記録』に掲載されている。 1870年に勃発した普仏戦争はフランスの大敗北に終わり、セダンの戦いでプロイセン王国の捕虜となったナポレオン3世は失脚した。これによってユーゴーは帰国を決意し、19年ぶりに祖国の土を踏むこととなった。フランスでは英雄として迎えられ、1871年2月にはセーヌ県より立候補して当選し、議会の置かれたボルドーへと向かったが、ユーゴーの属した左派は少数派に過ぎず、3月8日にはアルジェリアから立候補して当選していたジュゼッペ・ガリバルディの当選無効に抗議して議員を辞職した。1872年1月には再び議会に立候補するものの落選した が、1876年1月には元老院議員に立候補して当選した。その後も1877年には「諸世紀の伝説」の第2部を発表するなど活発な活動を続けた。なお、日本の自由党総理・板垣退助が、1882年から1883年にかけてのフランス、イギリス・オランダ視察の際、ヴィクトル・ユーゴー、ジョルジュ・クレマンソーらと交流したとする記録がある。 1885年5月22日、パリにて死去。83歳没。国葬でもって葬られ 文豪としてパンテオンへと埋葬された。 主要な作品は小説や、膨大な詩である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ヴィクトル=マリー・ユーゴー(仏: Victor-Marie Hugo [viktɔʁ maʁi yɡo] ( 音声ファイル)、1802年2月26日 - 1885年5月22日)は、フランス・ロマン主義の詩人、小説家。七月王政時代からフランス第二共和政時代の政治家。『レ・ミゼラブル』の著者として著名。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "少年時代から文学者を志し、『東方詩集』などでロマン詩人の中心的存在となった。政治にも関心を持ち、ナポレオン3世のクーデターに反対して亡命生活を送った。この間に『静観詩集』などと大作『レ・ミゼラブル』を完成。その死は国葬をもって遇された。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1959年から1965年まで発行されていた5フラン紙幣に肖像画が採用されていた。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "日本での「Hugo」の表記は、「ユーゴー」と「ユゴー」が併用されているが、ここでは「ユーゴー」を採用する。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "共和派でナポレオン軍の軍人ジョゼフ・レオポール・シジスベール・ユーゴー とソフィー=フランソワーズ・トレビュシェ の三男として、父の任地だったフランス東部のブザンソンで生まれた。ユーゴー家はロレーヌの農民の出だが、父親はフランス革命以来の軍人。母親はナントの資産家の娘である。アベル・ジョゼフ とウジェーヌ という2人の兄がいる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "生まれたときは小柄で、背丈が包丁ほどしかなく、ひ弱な赤ん坊だったといわれる。生後6週間目に一家はマルセイユへ転居した。以降、コルシカ島のバスティア、エルバ島のポルトフェッラーイオ、パリ、ナポリ、マドリード、と主に母親らとともにヨーロッパのあちこちを転々とする。というのも、生粋のボナパルト主義の父ジョゼフ・レオポールと根っからの王党派の母ソフィーの間で政治思想の違いによる確執が生じ、それが夫婦の間に不和をもたらしていたのである。この確執はのちに『レ・ミゼラブル』の、マリユスの父ポンメルシー大佐とマリユスの祖父ジルノルマンの確執の原型となる。いずれにせよ、生まれたときの状態や長きにわたる父親不在の生活のおかげで、マザーコンプレックスが非常に強かった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1812年、母と次兄ウジェーヌと一緒に再びパリに帰る。1814年、次兄ウジェーヌとともにサン・ジェルマン・デ・プレ教会 の近くの寄宿学校に入る。その間にナポレオンによる帝政が完全に終わりを告げ、父ジョゼフ・レオポールはスペイン貴族の地位を剥奪され、フランス軍の一大隊長に没落してしまう。彼は寄宿学校に4年とどまるものの、最後の2年はリセ・ルイ=ル=グラン にも通った。父親は彼を軍人にするつもりだったが、本人は詩作に夢中で、1816年7月10日には詩帳にこんな言葉を残している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "――シャトーブリアンになるのでなければ、何にもなりたくない。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "17歳でアカデミー・フランセーズの詩のコンクールで一位を取り、自ら詩の雑誌も発行した。母ソフィーはヴィクトルの才能を認め、文学での成功を期待していたが、幼馴染であり恋人であったアデール・フシェ との結婚には猛反対していた。彼は18歳のときから始めた文通を翌年に再開する。しかし、その年(=1821年)6月27日に母ソフィーが他界する。ユーゴー一家に二度と娘を逢わせないと誓っていたアデールの両親も、彼の情熱に折れてしまい、結婚を了承した。同年10月12日、アデールとサン・シュルピス教会 で結婚し、ル・シェルシュ・ミディ通り に居を構えるに至る。1822年には、『オードと雑詠集』によって国王から年金をもらえることになり、ロマン派の旗手として目覚ましい活躍を始める。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1823年7月16日、長男レオポール が誕生する。すべてが順風満帆に見えたが、同年10月9日にひ弱だったレオポールが亡くなってしまう。翌年の1824年8月28日に生まれた長女にはレオポルディーヌ と命名する。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1825年4月29日、23歳という若さでレジオンドヌール勲章(シュヴァリエ、勲爵士)を受ける。同年5月29日にはランスで行われたシャルル10世の聖別式にも参加した。こうして少しずつ名誉が与えられてゆく中で、少年時代は疎遠であった父ジョゼフ・レオポールとの仲も親密になっていった。愛する父のために、それまで疎んじてきたナポレオンを讃える詩を書いたところ、これをきっかけにナポレオンを次第に理解し、尊敬するようになる。さらに、聖別式でウィリアム・シェイクスピアのフランス語訳詩を耳にしたことで、シェイクスピアを尊敬するようになる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "翌1826年11月2日には次男シャルル が生まれ、創作熱も加速していくが、1828年1月28日、パリで父ジョゼフ・レオポールが他界する。しかし、悲しみにくれる一方で朗報もあり、同年10月31日、父の才能を受け継いだ三男フランソワ=ヴィクトル が誕生する。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1830年4月、ジャン・グジョン通り へ転居する。そこで七月革命の混乱が押し寄せる。たとえルイ18世から年金を貰っていた身分であっても、七月革命に参加していたのは『エルナニ』でともに文学革命に参加した仲間であったため、己に危害が加えられる心配はなかった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "そんな混乱のなか、同年7月28日、次女アデール が誕生する。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1819年2月、トゥルーズのアカデミー・デ・ジュー・フロロー のコンクールに詩が2編入賞する。5月には、詩1編がアカデミー賞 に輝く。12月には『コンセルヴァトゥール・リテレール』 誌を創刊、1821年3月まで月2回のペースで発行していた。1820年3月9日、『ベリー公爵の死についてのオード』でルイ18世から下賜金を受け、ビッグ・ジャルガルを『コンセルヴァトゥール・リテレール』誌に掲載する(1826年に刊行)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1822年8月4日に出版した『オードと雑詠集』 が当時のフランス国王ルイ18世の目に留まり、国王から年1000フランの年金をもらえるようになる。この年金のおかげで、彼はアデールとの結婚を許可される。1823年2月8日に、17世紀末のデンマーク宮廷の陰謀をテーマにした純愛小説『ハン・ディスランド』 を匿名で発表し、新雑誌も創刊した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1829年1月に『東方詩集』、2月7日に『死刑囚最後の日』を刊行する一方、コメディ・フランセーズ で上演予定だった『マリオン・ドロルム』が8月13日に上演禁止令を受けてしまう(以降、彼の手がけた戯曲が上演中止に追い込まれるケースがたびたび起こる)。理由は、この作品に登場するルイ13世の境遇が悪すぎて、シャルル10世の非難を買ったからであった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "それから約2週間後の1829年8月29日から9月24日に戯曲『エルナニ(フランス語版)』(Hernani)を執筆した。10月5日にコメディ・フランセーズ座で上演する運びとなった。古典派の常識を逸脱したこの戯曲はたちまち問題となり、『エルナニ』公演の初日、開幕前からロマン派と古典派のこぜりあいが始まり、幕が上がるとこぜりあいは一気に暴動に転じた。いわゆる『エルナニ合戦』である。これ以降、ユーゴーはロマン派と古典派の戦いに巻き込まれることとなる。しかし、この『エルナニ』はロマン派を世界文学の主流に据えるきっかけをつくり、公演は大成功を収める。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "『エルナニ』で大成功をおさめ、ロマン派の詩人・作家として名声と富に恵まれたユーゴーは、1832年10月8日、ジョン・クージョン通りの家を引き払い、ロワイヤル広場(現在のヴォージュ広場)にある赤いレンガ造りの豪華な邸宅に引っ越す。この頃になると、妻アデールがサント・ブーヴと恋に落ちてしまい、彼は寂しさに胸を詰まらせていた。8月の終わりにはサント・ブーヴとの交際を絶った。翌年にはサント・ブーヴが彼の作品『たそがれの歌』を酷評したことで決裂が決定的となってしまう。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "31歳になる直前のマルディグラ、つまり1833年2月19日の夜、彼は『リュクレス・ボルジャ』(ルクレツィア・ボルジア)に出演していた女優ジュリエット・ドルエ の愛人になる。この日付は『レ・ミゼラブル』の中で、マリユスとコゼットが結婚する日付でもある(『レ・ミゼラブル』ではマルディグラが2月16日だったとなっているが実際のマルディグラは2月19日)。別荘を行き来したり連れ立って旅行に出かけたりするなど、二人の仲は徐々に深くなってゆく。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": 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"1870年に勃発した普仏戦争はフランスの大敗北に終わり、セダンの戦いでプロイセン王国の捕虜となったナポレオン3世は失脚した。これによってユーゴーは帰国を決意し、19年ぶりに祖国の土を踏むこととなった。フランスでは英雄として迎えられ、1871年2月にはセーヌ県より立候補して当選し、議会の置かれたボルドーへと向かったが、ユーゴーの属した左派は少数派に過ぎず、3月8日にはアルジェリアから立候補して当選していたジュゼッペ・ガリバルディの当選無効に抗議して議員を辞職した。1872年1月には再び議会に立候補するものの落選した が、1876年1月には元老院議員に立候補して当選した。その後も1877年には「諸世紀の伝説」の第2部を発表するなど活発な活動を続けた。なお、日本の自由党総理・板垣退助が、1882年から1883年にかけてのフランス、イギリス・オランダ視察の際、ヴィクトル・ユーゴー、ジョルジュ・クレマンソーらと交流したとする記録がある。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1885年5月22日、パリにて死去。83歳没。国葬でもって葬られ 文豪としてパンテオンへと埋葬された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "主要な作品は小説や、膨大な詩である。", "title": "作品の一覧" } ]
ヴィクトル=マリー・ユーゴーは、フランス・ロマン主義の詩人、小説家。七月王政時代からフランス第二共和政時代の政治家。『レ・ミゼラブル』の著者として著名。 少年時代から文学者を志し、『東方詩集』などでロマン詩人の中心的存在となった。政治にも関心を持ち、ナポレオン3世のクーデターに反対して亡命生活を送った。この間に『静観詩集』などと大作『レ・ミゼラブル』を完成。その死は国葬をもって遇された。 1959年から1965年まで発行されていた5フラン紙幣に肖像画が採用されていた。 日本での「Hugo」の表記は、「ユーゴー」と「ユゴー」が併用されているが、ここでは「ユーゴー」を採用する。
{{redirect|ユーゴー|日本のクリーニング企業|ユーゴー (企業)}} {{Infobox officeholder | name = ヴィクトール・ユーゴー | honorific-suffix = フランス[[子爵]] (1845–48) | image = Victor Hugo by Étienne Carjat 1876 - full.jpg | caption = Étienne Carjatによるウッドベリータイプ、1876年 | office = [[セーヌ県]]選出の[[元老院 (フランス)|元老院]]議員 | term_start = 1876年1月30日 | term_end = 1885年5月22日 | successor = | constituency = [[パリ]] | office1 = [[セーヌ県]]選出の国民議会議員<ref name="ReferenceA">「ヴィクトール・ユゴーの生涯」p540 アンドレ・モーロワ 辻昶・横山正二訳 新潮社 1969年5月30日発行</ref> | term_start1 = 1871年2月16日<ref name="ReferenceA">「ヴィクトール・ユゴーの生涯」p540 アンドレ・モーロワ 辻昶・横山正二訳 新潮社 1969年5月30日発行</ref> | term_end1 = 1871年3月8日<ref name="ReferenceB">「ヴィクトール・ユゴーの生涯」p542 アンドレ・モーロワ 辻昶・横山正二訳 新潮社 1969年5月30日発行</ref> | successor1 = | constituency1 = [[パリ]] | office2 = [[セーヌ県]]選出の[[代議院 (フランス)|代議院]]議員 | term_start2 = 1848年4月24日 | term_end2 = 1851年12月3日 | constituency2 = [[パリ]] | office3 = [[アカデミー・フランセーズ|アカデミー・フランセーズ席次14]] | term_start3 = 1841年1月7日 | term_end3 = 1885年5月22日 | predecessor3 = [[ネポミュセーヌ・ルメルシエ]] | successor3 = [[シャルル・ルコント・ド・リール]] | birth_name = ヴィクトル=マリー・ユーゴー | birth_date = {{生年月日と年齢|1802|2|26|no}} | birth_place = {{FRA1794}}、[[ドゥー県]]、[[ブザンソン]] | death_date = {{死亡年月日と没年齢|1802|2|26|1885|5|22}} | death_place = {{FRA1870}} [[パリ]] | resting_place = パリ、[[パンテオン (パリ)|パンテオン]] | nationality = {{FRA}} | party = {{仮リンク|秩序党 (Parti de l'Ordre)|fr|Parti de l'Ordre}}{{small|(1848–51)}}<br />[[Libéralisme|無所属リベラル派 (Libéraux Indépendants)]] {{small|(1871)}}<br />{{仮リンク|共和連合 (Union républicaine)|fr|Union républicaine (France)}}{{small|(1876–85)}} | spouse = {{marriage|[[アデール・フシェ]]<br>|1822|1868|end=d.}} | children = {{Plainlist}} * レオポール・ヴィクトル・ユーゴー * レオポルディーヌ・ユーゴー * シャルル・ユーゴー * フランソワ=ヴィクトル・ユーゴー * アデール・ユーゴー {{Endplainlist}} | education = [[リセ・ルイ=ル=グラン]] | occupation = [[小説家]]<br/>[[詩人]]<br />[[政治家]] | module = {{Infobox writer|embed=yes | years_active = 1829–1883 | genre = [[小説]], [[演劇]], [[詩]] | movement = [[ロマン主義]] | notableworks = 『エルナニ』(1830年、戯曲)<br />『[[ノートルダム・ド・パリ]]』(1831年)<br />『静観詩集』(1856年)<br />『[[レ・ミゼラブル]]』(1862年)<br />『[[九十三年]]』(1874年) | influences = [[フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン]]<br>[[ウォルター・スコット]]<br>[[ジャン=ジャック・ルソー]]<br>[[ヴォルテール]]<br>[[アルフォンス・ド・ラマルティーヌ]] | influenced = [[チャールズ・ディケンズ]]<br>[[フョードル・ドストエフスキー]]<br>[[レフ・トルストイ]]<br>[[アイン・ランド]]<br>[[アーヴィン・ウェルシュ]] | signature = Victor Hugo Signature.svg}} }} '''ヴィクトル=マリー・ユーゴー'''({{lang-fr-short|Victor-Marie Hugo}}<ref>[http://www.victorhugo2002.culture.fr/culture/celebrations/hugo/fr/ow_fil_vhacte_zoom.htm 出生届]</ref> {{IPA-fr|viktɔʁ maʁi yɡo||Victor Hugo.ogg}}、[[1802年]][[2月26日]] - [[1885年]][[5月22日]])は、[[フランス]]・[[ロマン主義]]の[[詩人]]、[[小説家]]。[[7月王政|七月王政時代]]から[[フランス第二共和政|フランス第二共和政時代]]の[[政治家]]。『[[レ・ミゼラブル]]』の著者として著名。 少年時代から文学者を志し、『東方詩集』などでロマン詩人の中心的存在となった。政治にも関心を持ち、[[ナポレオン3世]]のクーデターに反対して亡命生活を送った。この間に『静観詩集』などと大作『レ・ミゼラブル』を完成。その死は国葬をもって遇された。 [[1959年]]から[[1965年]]まで発行されていた5[[フランス・フラン|フラン]]紙幣に肖像画が採用されていた。 日本での「Hugo」の表記は、「'''ユーゴー'''」と「'''ユゴー'''」が併用されているが、ここでは「'''ユーゴー'''」を採用する。 == 生涯 == === 出生から青年期まで === ==== 私生活 ==== [[共和派]]で[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]軍の軍人ジョゼフ・レオポール・シジスベール・ユーゴー<ref group="注">{{lang-fr-short|Joseph Léopold Sigisbert Hugo}} {{small|([[:fr:Joseph Léopold Sigisbert Hugo|フランス語版]])、([[:en:Joseph Léopold Sigisbert Hugo|英語版]])}}</ref> とソフィー=フランソワーズ・トレビュシェ<ref group="注">{{lang-fr-short|Sophie-Françoise Trébuchet}} {{small|([[:fr:Sophie Trébuchet|フランス語版]])、([[:en:Sophie Trébuchet|英語版]])}}</ref> の三男として、父の任地だった[[フランス]]東部の[[ブザンソン]]で生まれた。ユーゴー家は[[ロレーヌ]]の農民の出だが、父親はフランス革命以来の軍人。母親は[[ナント]]の資産家の娘である<ref name=repo1>[https://books.google.com.au/books?id=3nBopjH3DqQC&printsec=frontcover&dq=九十三年&hl=ja&sa=X&ei=mH5WUcLRNcO1kgXP0YBY&ved=0CGIQ6AEwCQ 『九十三年』榊原晃三訳 グーテンベルク21]</ref>。アベル・ジョゼフ<ref group="注">{{lang-fr-short|Abel Joseph Hugo}} {{small|([[:fr:Abel Hugo|フランス語版]])、([[:en:Abel Hugo|英語版]])}}([[1798年]][[11月15日]] - [[1855年]][[2月7日]]または[[2月8日]])</ref> とウジェーヌ<ref group="注">{{lang-fr-short|Eugène Hugo}} {{small|([[:fr:Eugène Hugo|フランス語版]])}}([[1800年]][[9月16日]] - [[1837年]][[2月20日]])</ref> という2人の兄がいる。 生まれたときは小柄で、背丈が包丁ほどしかなく、ひ弱な赤ん坊だったといわれる。生後6週間目に一家は[[マルセイユ]]へ転居した。以降、[[コルシカ島]]の[[バスティア]]、[[エルバ島]]の[[ポルトフェッラーイオ]]、[[パリ]]、[[ナポリ]]、[[マドリード]]、と主に母親らとともにヨーロッパのあちこちを転々とする。というのも、生粋の[[ボナパルティズム|ボナパルト主義]]の父ジョゼフ・レオポールと根っからの[[王党派]]の母ソフィーの間で政治思想の違いによる確執が生じ、それが夫婦の間に不和をもたらしていたのである。この確執はのちに『[[レ・ミゼラブル]]』の、マリユスの父ポンメルシー大佐とマリユスの祖父ジルノルマンの確執の原型となる。いずれにせよ、生まれたときの状態や長きにわたる父親不在の生活のおかげで、[[マザーコンプレックス]]が非常に強かった。 [[1812年]]、母と次兄ウジェーヌと一緒に再びパリに帰る<ref group="注">この時は長兄アベル・ジョゼフは父とともにナポレオンに仕えるためマドリードに残ったが、同年9月には母のもとに戻っている。</ref>。[[1814年]]、次兄ウジェーヌとともにサン・ジェルマン・デ・プレ教会<ref group="注">{{lang-fr-short|Église St Germain des Près}}</ref> の近くの[[寄宿学校]]に入る。その間にナポレオンによる[[フランス第一帝政|帝政]]が完全に終わりを告げ、父ジョゼフ・レオポールはスペイン貴族の地位を剥奪され、フランス軍の一[[大隊長]]に没落してしまう。彼は寄宿学校に4年とどまるものの、最後の2年は[[リセ・ルイ=ル=グラン]]<ref group="注">{{lang-fr-short|Lycée Louis le Grand}}</ref> にも通った。父親は彼を軍人にするつもりだったが、本人は詩作に夢中で<ref name="repo1"/>、[[1816年]][[7月10日]]には詩帳にこんな言葉を残している。<blockquote>――[[フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン|シャトーブリアン]]になるのでなければ、何にもなりたくない。</blockquote> 17歳で[[アカデミー・フランセーズ]]の詩のコンクールで一位を取り、自ら詩の雑誌も発行した<ref name="repo1"/>。母ソフィーはヴィクトルの才能を認め、文学での成功を期待していたが、幼馴染であり恋人であったアデール・フシェ<ref group="注">{{lang-fr-short|Adèle Foucher}} {{small|([[:fr:Adèle Foucher|フランス語版]])、([[:en:Adèle Foucher|英語版]])}}</ref> との結婚には猛反対していた。彼は18歳のときから始めた文通を翌年に再開する。しかし、その年(=[[1821年]])[[6月27日]]に母ソフィーが他界する。ユーゴー一家に二度と娘を逢わせないと誓っていたアデールの両親も、彼の情熱に折れてしまい、結婚を了承した。同年[[10月12日]]、アデールと[[サン・シュルピス教会]]<ref group="注">{{lang-fr-short|Église St Sulpice}}</ref> で結婚し、ル・シェルシュ・ミディ通り<ref group="注">{{lang-fr-short|Rue de Cherche-Midi}}</ref> に居を構えるに至る。[[1822年]]には、『オードと雑詠集』によって国王から年金をもらえることになり、[[ロマン派]]の旗手として目覚ましい活躍を始める<ref name="repo1"/>。 [[1823年]][[7月16日]]、長男レオポール<ref group="注">{{lang-fr-short|Léopold Hugo}}</ref> が誕生する。すべてが順風満帆に見えたが、同年[[10月9日]]にひ弱だったレオポールが亡くなってしまう。翌年の[[1824年]][[8月28日]]に生まれた長女にはレオポルディーヌ<ref group="注">{{lang-fr-short|Léopoldine Hugo}} {{small|([[:fr:Léopoldine Hugo|フランス語版]])、([[:en:Léopoldine Hugo|英語版]])}}</ref> と命名する。 [[1825年]][[4月29日]]、23歳という若さで[[レジオンドヌール勲章]](シュヴァリエ、勲爵士)を受ける。同年[[5月29日]]には[[ランス (マルヌ県)|ランス]]で行われた[[シャルル10世 (フランス王)|シャルル10世]]の[[戴冠式|聖別式]]にも参加した。こうして少しずつ名誉が与えられてゆく中で、少年時代は疎遠であった父ジョゼフ・レオポールとの仲も親密になっていった。愛する父のために、それまで疎んじてきたナポレオンを讃える詩を書いたところ、これをきっかけにナポレオンを次第に理解し、尊敬するようになる。さらに、聖別式で[[ウィリアム・シェイクスピア]]のフランス語訳詩を耳にしたことで、シェイクスピアを尊敬するようになる。 翌[[1826年]][[11月2日]]には次男シャルル<ref group="注">{{lang-fr-short|Charles Hugo}} {{small|([[:fr:Charles Hugo|フランス語版]])、([[:en:Charles Hugo (writer)|英語版]])}}</ref> が生まれ、創作熱も加速していくが、[[1828年]][[1月28日]]、パリで父ジョゼフ・レオポールが他界する。しかし、悲しみにくれる一方で朗報もあり、同年[[10月31日]]、父の才能を受け継いだ三男フランソワ=ヴィクトル<ref group="注">{{lang-fr-short|François-Victor Hugo}} {{small|([[:fr:François-Victor Hugo|フランス語版]])、([[:en:François-Victor Hugo|英語版]])}}</ref> が誕生する。 [[1830年]]4月、ジャン・グジョン通り<ref group="注">{{lang-fr-short|rue Jean Goujon}}</ref> へ転居する。そこで[[フランス7月革命|七月革命]]の混乱が押し寄せる。たとえ[[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]から年金を貰っていた身分であっても、七月革命に参加していたのは『エルナニ』でともに文学革命に参加した仲間であったため、己に危害が加えられる心配はなかった。 そんな混乱のなか、同年[[7月28日]]、次女アデール<ref group="注">{{lang-fr-short|Adèle Hugo}} {{small|([[:fr:Adèle Hugo|フランス語版]])、([[:en:Adèle Hugo|英語版]])}}</ref> が誕生する。 ==== 創作 ==== [[1819年]]2月、[[トゥルーズ]]のアカデミー・デ・ジュー・フロロー<ref group="注">{{lang-fr-short|Académie des Jeux floraux}}</ref> のコンクールに詩が2編入賞する。5月には、詩1編がアカデミー賞<ref group="注">{{lang-fr-short|Académie Française}}</ref> に輝く。12月には『コンセルヴァトゥール・リテレール』<ref group="注">{{lang-fr-short|le Conservateur littéraire}}</ref> 誌を創刊、[[1821年]]3月まで月2回のペースで発行していた。[[1820年]][[3月9日]]、『[[シャルル・フェルディナン・ダルトワ|ベリー公爵]]の死についてのオード』で[[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]から下賜金を受け、ビッグ・ジャルガルを『コンセルヴァトゥール・リテレール』誌に掲載する([[1826年]]に刊行)。 [[1822年]][[8月4日]]に出版した『オードと雑詠集』<ref group="注">{{lang-fr-short|Odes et Poésies Diverses}}</ref> が当時のフランス国王ルイ18世の目に留まり、国王から年1000[[フランス・フラン|フラン]]の[[年金]]をもらえるようになる。この年金のおかげで、彼はアデールとの結婚を許可される。[[1823年]][[2月8日]]に、17世紀末の[[デンマーク]]宮廷の陰謀をテーマにした純愛小説『ハン・ディスランド』<ref group="注">{{lang-fr-short|Han d'Islande}}</ref> を匿名で発表し、新雑誌も創刊した。 [[1829年]]1月に『東方詩集』、[[2月7日]]に『死刑囚最後の日』を刊行する一方、[[コメディ・フランセーズ]]<ref group="注">{{lang-fr-short|Comédie-Française}}</ref> で上演予定だった『マリオン・ドロルム』が[[8月13日]]に上演禁止令を受けてしまう(以降、彼の手がけた[[戯曲]]が上演中止に追い込まれるケースがたびたび起こる)。理由は、この作品に登場する[[ルイ13世 (フランス王)|ルイ13世]]の境遇が悪すぎて、シャルル10世の非難を買ったからであった。 それから約2週間後の1829年[[8月29日]]から[[9月24日]]に戯曲『{{仮リンク|エルナニ (戯曲)|label=エルナニ|fr|Hernani}}』(Hernani)を執筆した。[[10月5日]]にコメディ・フランセーズ座で上演する運びとなった。[[新古典主義|古典派]]の常識を逸脱したこの戯曲はたちまち問題となり、『エルナニ』公演の初日、開幕前から[[ロマン主義|ロマン派]]と古典派のこぜりあいが始まり、幕が上がるとこぜりあいは一気に暴動に転じた。いわゆる『'''エルナニ合戦'''』である。これ以降、ユーゴーはロマン派と古典派の戦いに巻き込まれることとなる。しかし、この『エルナニ』はロマン派を世界文学の主流に据えるきっかけをつくり、公演は大成功を収める。 === 中年期 === ==== 私生活 ==== 『エルナニ』で大成功をおさめ、ロマン派の詩人・作家として名声と富に恵まれたユーゴーは、[[1832年]][[10月8日]]、ジョン・クージョン通りの家を引き払い、ロワイヤル広場([[パリ#広場|現在のヴォージュ広場]])にある赤いレンガ造りの豪華な邸宅に引っ越す。この頃になると、妻アデールが[[シャルル=オーギュスタン・サント=ブーヴ|サント・ブーヴ]]と恋に落ちてしまい、彼は寂しさに胸を詰まらせていた。8月の終わりにはサント・ブーヴとの交際を絶った。翌年にはサント・ブーヴが彼の作品『たそがれの歌』を酷評したことで決裂が決定的となってしまう。 31歳になる直前の[[マルディグラ]]、つまり[[1833年]][[2月19日]]の夜、彼は『リュクレス・ボルジャ』(ルクレツィア・ボルジア)に出演していた女優[[ジュリエット・ドルエ]]<ref group="注">{{lang-fr-short|Juliette Drouet}}</ref> の[[愛人]]になる。この日付は『レ・ミゼラブル』の中で、マリユスとコゼットが結婚する日付でもある(『レ・ミゼラブル』ではマルディグラが[[2月16日]]だったとなっているが実際のマルディグラは[[2月19日]])。別荘を行き来したり連れ立って旅行に出かけたりするなど、二人の仲は徐々に深くなってゆく。 執筆に情熱を燃やし、ジュリエットとの恋愛に溺れる一方で、私生活では悲しい出来事が続いていた。[[1836年]][[2月18日]]と[[12月29日]]には[[アカデミー・フランセーズ]]に2度も落選し、翌[[1837年]][[3月5日]]には、妻アデールを愛したがために発狂してしまった次兄ウジェーヌが入院先のシャラントン精神病院<ref group="注">{{lang-fr-short|Asile de Charenton}}</ref> で[[自殺]]してしまう。 同年[[7月3日]]にレジオンドヌール勲章(オフィシエ<ref group="注">{{lang-fr-short|Officier}}</ref>、将校)を授与される。その間、戯曲や詩を創作しながら、[[ブルターニュ]]、[[ベルギー]]、[[シャンパーニュ]]、[[プロヴァンス]]、と各地を転々と旅する。 1837年、[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]]の長男[[フェルディナン・フィリップ (オルレアン公)|オルレアン公フェルディナン・フィリップ]]の結婚式に呼ばれる。オルレアン公妃[[ヘレーネ・ツー・メクレンブルク=シュヴェリーン|エレーヌ]]が大のユーゴー・ファンであることがきっかけとなり、以後ルイ・フィリップ父子とも親交が深くなる。 もうすぐ38歳になる[[1840年]]1月、文芸家協会長となり、少しは光明が見えてきたかと思われた矢先、同年[[2月20日]]、アカデミー・フランセーズ3度目の落選となる。しかし、翌年[[1841年]][[1月7日]]にようやくアカデミー・フランセーズの会員に当選する。彼は亡くなるまで、[[アカデミー・フランセーズの会員の一覧#座席番号14|第10代座席次14番]]を受け持つことになる。 [[1843年]][[2月15日]]、41歳の誕生日を間近に控えたユーゴーは、長女レオポルディーヌとシャルル・ヴァクリー<ref group="注">{{lang-fr-short|Charles Vacquerie}} {{small|([[:fr:Charles Vacquerie|フランス語版]])}}</ref> の結婚を見届ける。しかし同年[[9月4日]]、レオポルディーヌは夫とともに[[ヴィルキエ]]<ref group="注">{{lang-fr-short|Villequier}}</ref> を渡る[[セーヌ川]]にて19歳で溺死した。その頃、愛人ジュリエットと旅をしていた彼は、事故から5日後の[[9月9日]]に悲報を知り、[[9月12日]]にパリへ戻った。 レオポルディーヌの死はユーゴーの心に大きな穴を開けた。父に似て絶倫であった彼は、かねてよりアデールやジュリエット以外の複数の女性と恋愛関係にあったが、[[1845年]][[7月5日]]、サン・ロック通りのアパルトマンで、画家の[[フランソワ=オーギュスト・ビアール|オーギュスト・ビヤール]]の妻レオニー・ビヤール<ref group="注">{{lang-fr-short|Léonie Biard}} {{small|([[:fr:Léonie d'Aunet|フランス語版]])、([[:en:Léonie d'Aunet|英語版]])}}</ref> と姦通している現場を警察に押さえられてしまう。彼は貴族院議員の不可侵権を利用して釈放されたが、レオニーは当時の法律によりサン・ビヤール監獄に収容された。このスキャンダルにより、彼は他の議員の絶好の攻撃の的となったが、彼を可愛がっていたルイ・フィリップはビヤールに[[ヴェルサイユ宮殿]]の壁画を描く仕事を与え、ヴィクトルに有罪の判決が下らないよう説得した。結局、レオニーは修道院で数ヶ月の謹慎処分ののち、再び世間に出た。同年[[8月14日]]にビヤール夫妻の別居を認める判決が出たとき、彼はレオニーを経済的に支援しなければならなかった。以後、2人の恋愛関係は長く続くことになり、ジュリエットを苦しめることになる。 ==== 創作 ==== 公では喜ばしい出来事が続いていたユーゴーは、恋の情熱や死別の悲しみを詩に託している。ジュリエットとの交際が始まって1年が過ぎた[[1834年]]、彼女との恋をうたった『ロマン主義詩編の最高傑作』との評判名高い『オランピオの悲しみ』を生み出す。また、愛する長女レオポルディーヌが没してからちょうど1年後、長い間娘の喪に服した彼は、娘が逝った街ヴェルキエで傑作詩編『ヴェルキエにて』の第1篇を書き終える。 しかし、1843年から[[1852年]]までの約10年間、作品を1冊も出版していない。これにはレオポルディーヌの死はもちろん、戯曲『城主』の失敗とそれにともなうロマン派文学の凋落、議員活動の忙しさもあったと思われるが、もうひとつ大きな理由があった。それが、のちにフランス文学史上屈指の名作といわれるようになる『レ・ミゼラブル(邦題:あゝ無情)』(当時の題名は『レ・ミゼール』<ref group="注">{{lang-fr-short|Les Misères}}</ref>)の執筆である。執筆は1845年[[11月17日]]から始まった。この作品を書くきっかけになった大きな理由には諸説あり、当時新聞に載っていた小説が彼の心を強く惹きつけたとも、少年時代に見てしまった[[ギロチン]]の光景が彼を[[人道主義|人道主義者]]にし、この作品を書かせたとも言われている。 ==== 政治活動 ==== [[1845年]][[4月13日]]、オルレアン公爵夫人エレーヌの後ろ盾があったおかげで、ルイ・フィリップから[[子爵]]の位を授けられた。貴族になったことで政治活動にも身を置くようになった彼は、翌年の[[1846年]][[3月19日]]の貴族院にて[[ポーランド]]に関する政治演説を行う。 だが、[[1848年]]2月の[[1848年革命|二月革命]]で、ルイ・フィリップは[[イギリス]]へ[[亡命]]する。ユーゴーはあくまで、幼い[[フィリップ (パリ伯)|パリ伯]](オルレアン公フェルディナン・フィリップの遺児でルイ・フィリップの嫡孫)を即位させ、母エレーヌを[[摂政]]にすべきだと考えていたが、それを望まぬ者もいた。結局、フランスは[[フランス第二共和政|第二共和政]]へ移行することとなる。ユーゴーは同年5月の立憲議会の補欠選挙に立候補して、保守派の支持を受けて当選した<ref>「ヴィクトール・ユゴーの生涯」p367 アンドレ・モーロワ 辻昶・横山正二訳 新潮社 1969年5月30日発行</ref>。政治家としてのユーゴーは[[1830年代]]より続けていた[[死刑廃止]]運動や、教育改革、社会福祉などを主張した。1848年には共和派となり、[[1848年]][[12月10日]]の大統領選挙では[[ナポレオン3世|ルイ・ナポレオン]]を支持し、強力な論陣を張って彼を支援した。しかしナポレオンは次第に独裁化し、連続再選禁止条項の改正を国民議会に提出するなどして、このころにはユーゴーはナポレオンの強力な反対者となっていた。ナポレオンは[[1851年]][[12月2日]]にクーデターを起こして独裁体制を樹立し、反対派への弾圧を開始した。ユーゴーも弾圧対象となり、[[12月11日]]に[[ベルギー]]へと亡命を余儀なくされる<ref>「私の見聞録」p150 ヴィクトル・ユーゴー 稲垣直樹編訳 潮出版社 1991年6月25日発行</ref>。以後19年に及ぶ亡命生活の始まりであった。 === 亡命期 === {{main| {{ill2|ヴィクトル・ユゴーの亡命|fr|Exil de Victor Hugo}}}} ベルギーの首都[[ブリュッセル]]に落ち着いたユーゴーは、さっそくナポレオンへの批判を開始した。[[1852年]]8月にはブリュッセルでナポレオン3世を弾劾した「小ナポレオン」を出版した。これは1843年の戯曲『城主』の失敗以来10年ぶりの新作であり、以降ユーゴーは再び精力的に執筆を再開する。「小ナポレオン」は熱狂を引き起こしたが、フランスからベルギーへの圧力を恐れたユーゴーは出版の前日に[[英仏海峡]]に浮かぶ[[イギリス]]領[[チャネル諸島]]の[[ジャージー島]]へと移住し<ref>「私の見聞録」p160 ヴィクトル・ユゴー 稲垣直樹編訳 潮出版社 1991年6月25日発行</ref>、[[1855年]]までここに住むこととなった。ここでは[[1853年]]に、やはりナポレオン弾劾の書である「懲罰詩集」を発表している。1855年には隣の島である[[ガーンジー島]]に移住し、1870年にフランスに帰還するまでの間15年間ここで過ごした。ガーンジー在住中には、[[1856年]]に「静観詩集」、[[1859年]]には「諸世紀の伝説」の第1部、そして[[1862年]]には中断していた『[[レ・ミゼラブル]]』が完成してベルギーより出版され、大反響を巻き起こした。「レ・ミゼラブル」の成功は、彼に莫大な収入をもたらした<ref>「ヴィクトール・ユゴーの生涯」p490 アンドレ・モーロワ 辻昶・横山正二訳 新潮社 1969年5月30日発行</ref>。 ==== 最短の電報 ==== 『レ・ミゼラブル』が出版された直後、海外旅行に出かけたユーゴーはその売れ行きが心配で、出版社に一文字'''「[[?]]」'''と書いただけの[[電報]]を送ると、その後出版社から'''「[[!]]」'''とだけ書かれた返信が届いた。「上々の売れ行きです!」というわけである。事実数日で完売・売切れの状態であったという。これは世界で最も短い手紙として『[[ギネス世界記録]]』に掲載されている<ref>『ギネスブック'96(日本語版)』ピーター・マシューズ(編)、騎虎書房、1996年、240頁。ISBN 4-88693-604-0。</ref>{{要検証|date=2022年1月}}<ref>{{Cite journal|和書|author=高階秀爾 |authorlink=高階秀爾 |editor=サントリー文化財団・アステイオン編集委員会 |title=世界一短い往復電報 |journal=アステイオン = Αστειον |volume=87 |pages=110-113 |publisher=CCCメディアハウス |year=2017 |naid=40021451662}}</ref>。 === 帰国 === [[1870年]]に勃発した[[普仏戦争]]はフランスの大敗北に終わり、[[セダンの戦い]]で[[プロイセン王国]]の捕虜となったナポレオン3世は失脚した。これによってユーゴーは帰国を決意し、19年ぶりに祖国の土を踏むこととなった。フランスでは英雄として迎えられ、1871年2月には[[セーヌ県]]より立候補して当選し、議会の置かれた[[ボルドー]]へと向かったが、ユーゴーの属した左派は少数派に過ぎず、3月8日にはアルジェリアから立候補して当選していた[[ジュゼッペ・ガリバルディ]]の当選無効に抗議して議員を辞職した<ref name="ReferenceB">「ヴィクトール・ユゴーの生涯」p542 アンドレ・モーロワ 辻昶・横山正二訳 新潮社 1969年5月30日発行</ref>。1872年1月には再び議会に立候補するものの落選した<ref>「ヴィクトール・ユゴーの生涯」p553 アンドレ・モーロワ 辻昶・横山正二訳 新潮社 1969年5月30日発行</ref> が、1876年1月には元老院議員に立候補して当選した<ref>「ヴィクトール・ユゴーの生涯」p577 アンドレ・モーロワ 辻昶・横山正二訳 新潮社 1969年5月30日発行</ref>。その後も[[1877年]]には「諸世紀の伝説」の第2部を発表するなど活発な活動を続けた<ref>「フランス文学史」p190 田村毅・塩川徹也編 東京大学出版会 1995年11月15日初版</ref>。なお、日本の自由党総理・[[板垣退助]]が、1882年から1883年にかけてのフランス、イギリス・オランダ視察の際、ヴィクトル・ユーゴー、[[ジョルジュ・クレマンソー]]らと交流したとする記録がある<ref>板垣退助 監修『自由党史(中)』遠山茂樹、佐藤誠朗 校訂、岩波書店(岩波文庫)1992年、306頁</ref>。 [[1885年]][[5月22日]]、[[パリ]]にて死去。83歳没。国葬でもって葬られ<ref>https://www.afpbb.com/articles/-/2381259?cx_part=search 「詩人エメ・セゼール氏の国葬、サルコジ大統領も出席」AFPBB 2008年4月21日 2019年5月22日</ref> 文豪として[[パンテオン (パリ)|パンテオン]]へと埋葬された。 == 作品の一覧 == [[ファイル:Victor Hugo by Charles Hugo, c1850-55.jpg|thumb|right|170px|1853年]] [[ファイル:Bonnat Hugo001z.jpg|thumb|right|170px|[[レオン・ボナ]]画([[1879年]])]] [[ファイル:Victor Hugo.jpg|thumb|right|170px|1883年]] 主要な作品は小説や、膨大な詩である。 {|class="wikitable sortable" !年!!邦題!!原題 |- ||[[1822年]]||{{仮リンク|オードと雑詠集|fr|Odes et Ballades|en|Odes et Ballades}}||{{lang|fr|Odes et Poésies Diverses}} |- ||[[1823年]]||{{仮リンク|アイスランドのハン|fr|Han d'Islande}}||{{lang|fr|Han d'Islande}} |- ||[[1824年]]||オード集||{{lang|fr|Nouvelles Odes}} |- ||[[1826年]]||{{仮リンク|ビュグ・ジャルガル|fr|Bug-Jargal|en|Bug-Jargal}}||{{lang|fr|Bug-Jargal}} |- ||[[1826年]]||{{仮リンク|オードとバラッド|fr|Odes et Ballades|en|Odes et Ballades}}||{{lang|fr|Odes et Ballades}} |- ||[[1827年]]||{{仮リンク|クロムウェル (戯曲)|fr|Cromwell (Hugo)|en|Cromwell (play)|label=クロムウェル}}||{{lang|fr|Cromwell}} |- ||[[1829年]]||{{仮リンク|東方詩集|fr|Les Orientales|en|Les Orientales}}||{{lang|fr|Les Orientales}} |- ||[[1829年]]||[[死刑囚最後の日]]||{{lang|fr|Le Dernier jour d'un condamné}} |- ||[[1830年]]||{{仮リンク|エルナニ (ドラマ)|label=エルナニ|fr|Hernani|en|Hernani (drama)}}||{{lang|fr|Hernani}}<ref group="注">[[ジュゼッペ・ヴェルディ|ヴェルディ]]のオペラ「[[エルナーニ]]」原作</ref> |- ||[[1831年]]||[[ノートルダム・ド・パリ]]||{{lang|fr|Notre-Dame de Paris}} |- ||[[1831年]]||{{仮リンク|マリヨン・ドロルム|fr|Marion de Lorme (Hugo)|en|Marion de Lorme (Hugo)}}||{{lang|fr|Marion Delorme}} |- ||[[1831年]]||{{仮リンク|秋の木の葉|fr|Les Feuilles d'automne|en|Les Feuilles d'automne}}||{{lang|fr|Les Feuilles d'automne}} |- ||[[1832年]]||{{仮リンク|王は愉しむ|fr|Le roi s'amuse|en|Le roi s'amuse}}||{{lang|fr|Le Roi s'amuse}}<ref group="注">ヴェルディのオペラ「[[リゴレット]]」原作</ref> |- ||[[1833年]]||{{仮リンク|リュクレス・ボルジャ|fr|Lucrèce Borgia (Hugo)|en|Lucrezia Borgia (play)}}||{{lang|fr|Lucrèce Borgia}}<ref group="注">[[ガエターノ・ドニゼッティ|ドニゼッティ]]の[[ルクレツィア・ボルジア (オペラ)|ルクレツィア・ボルジア]]原作</ref> |- ||[[1833年]]||{{仮リンク|マリー・チュードル|fr|Marie Tudor (Hugo)|en|Marie Tudor}}||{{lang|fr|Marie Tudor}} |- ||[[1834年]]||[[オノーレ・ミラボー|ミラボー]]研究||{{lang|fr|Étude sur Mirabeau}} |- ||[[1834年]]||文学哲学論集||{{lang|fr|Littérature et philosophie mêlées}} |- ||[[1834年]]||{{仮リンク|クロード・ギュー|fr|Claude Gueux|en|Claude Gueux}}||{{lang|fr|Claude Gueux}} |- ||[[1835年]]||{{仮リンク|パドヴァの僭主アンジェロ|fr|Angelo, tyran de Padoue|en|Angelo, Tyrant of Padua}}||{{lang|fr|Angelo, tyran de Padoue}}<ref group="注">[[サヴェリオ・メルカダンテ|メルカダンテ]]の{{仮リンク|「誓い」|en|Il giuramento}}や[[ツェーザリ・キュイ]]のオペラ「[[アンジェーロ]]」と[[アミルカレ・ポンキエッリ|ポンキエッリ]]の「[[ラ・ジョコンダ]]」、[[アルフレッド・ブリュノー]]による{{仮リンク|「パドヴァの僭主アンジェロ」|fr|Angelo, tyran de Padoue}}の原作</ref> |- ||[[1835年]]||薄明の歌||{{lang|fr|Les Chants du crépuscule}} |- ||[[1836年]]||[[ラ・エスメラルダ (ベルタン)|ラ・エスメラルダ]]||{{lang|fr|La Esmeralda}}<ref>{{仮リンク|ルイーズ・ベルタン|fr|Louise Bertin|en|Louise Bertin}}のオペラ『[[ラ・エスメラルダ (ベルタン)|ラ・エスメラルダ]]』のリブレット</ref> |- ||[[1837年]]||{{仮リンク|内心の声|fr|Les Voix intérieures|en|Les Voix intérieures}}||{{lang|fr|Les Voix intérieures}} |- ||[[1838年]]||[[リュイ・ブラース]]||{{lang|fr|Ruy Blas}} |- ||[[1840年]]||{{仮リンク|光と影(ユーゴー)|label=光と影|fr|Les Rayons et les Ombres|en|Les Rayons et les Ombres}}||{{lang|fr|Les Rayons et les ombres}} |- ||[[1842年]]||{{仮リンク|ライン河(ユーゴー)|label=ライン河|fr|Le Rhin|en|Le Rhin}}||{{lang|fr|Le Rhin}} |- ||[[1843年]]||{{仮リンク|城主(ユーゴー)|label=城主|fr|Les Burgraves|en|Les Burgraves}}||{{lang|fr|Les Burgraves}} |- ||[[1852年]]||{{仮リンク|小ナポレオン(ユーゴー)|label=小ナポレオン|fr|Napoléon le Petit|en|Napoléon le Petit}}||{{lang|fr|Napoléon le Petit}} |- ||[[1853年]]||{{仮リンク|懲罰詩集|fr|Les Châtiments|en|Les Châtiments}}||{{lang|fr|Les Châtiments}} |- ||[[1855年]]||ルイ・ボナパルトへの書簡集||{{lang|fr|Lettres à Louis Bonaparte}} |- ||[[1856年]]||{{仮リンク|静観詩集|fr|Les Contemplations|en|Les Contemplations}}||{{lang|fr|Les Contemplations}}<ref>『ヴェルキエにて』({{lang|fr|À Villequier}})収録</ref> |- ||[[1859年]]||{{仮リンク|諸世紀の伝説|fr|La Légende des siècles|en|La Légende des siècles}}||{{lang|fr|La Légende des siècles}} |- ||[[1862年]]||[[レ・ミゼラブル]]<ref group="注">邦題:『あゝ無情(ああ無情)』</ref>||{{lang|fr|Les Misérables}} |- ||[[1864年]]||{{仮リンク|ウィリアム・シェイクスピア(ユーゴー)|label=ウィリアム・シェイクスピア|fr|William Shakespeare (Hugo)|en|William Shakespeare (essay)}}||{{lang|fr|William 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||[[1900年]]||見聞録 第2集||{{lang|fr|Choses vues - 2<sup>e</sup> série}} |- ||[[1901年]]||わが生活の追伸||{{lang|fr|Post-scriptum de ma vie}} |- ||[[1902年]]||最後の詩の束||{{lang|fr|Dernière Gerbe}} |- ||[[1934年]]||||{{lang|fr|Mille francs de récompense}} |- ||[[1942年]]||詩集・大洋||{{lang|fr|Océan}} |- ||[[1942年]]||雑記・小石の山||{{lang|fr|Tas de pierres}} |- ||[[1951年]]||||{{lang|fr|Pierres}} |} == 主な日本語訳書 == *『ヴィクトル・ユーゴー文学館』 [[潮出版社]](全10巻)、2001年。作品選集 #ヴィクトル・ユゴー詩集 [[稲垣直樹]]・辻昶・小潟昭夫訳<ref group="注">旧版に『東方詩集』辻昶訳、潮出版社「潮文庫」、1971年(''Les Orientales'' [1829] の訳詩集)、「九十三年」も同文庫で刊行。</ref> #レ・ミゼラブル1 [[辻昶]]訳 #レ・ミゼラブル2 #レ・ミゼラブル3。新版・潮文学ライブラリー(全5巻)、2009年 #[[ノートルダム・ド・パリ]] 辻昶・[[松下和則]]訳。新版・岩波文庫(上下)、2016年 #[[九十三年]] 辻昶訳。新版・潮文学ライブラリー(上下)、2005年 #アイスランドのハン、ビュグ=ジャルガル 小潟昭夫・[[野内良三]]ほか訳 #海に働く人々・小ナポレオン 金柿宏典ほか訳 #死刑囚最後の日・見聞録・言行録 稲垣直樹・小潟昭夫訳 #クロムウェル・序文、エルナニ 西節夫・杉山正樹訳 *『エルナニ』 稲垣直樹訳 [[岩波文庫]]、2009年 *『私の見聞録 歴史の証言として』稲垣直樹編訳 潮出版社、1991年 *『ライン河幻想紀行』[[榊原晃三]]訳 岩波文庫、1985年 *『死刑囚最後の日』[[豊島与志雄]]訳 岩波文庫 *『死刑囚最後の日』[[小倉孝誠]]訳 [[光文社古典新訳文庫]]、2018年 *『クロード・ギュー』宮田佳範訳 京緑社、2018年 *『[[レ・ミゼラブル]]』[[豊島与志雄]]訳 岩波文庫(全4巻)、※他の訳書版はリンク先参照。 ==脚注== {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"|2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == *[[アンドレ・モーロワ|アンドレ・モロワ]]『ヴィクトール・ユゴーの生涯』 辻昶・横山正二訳、新潮社、1969年 *ユゴー『私の見聞録 歴史の証言として』 稲垣直樹編訳、潮出版社、1991年 == 関連項目 == {{Wikisourcelang|fr|Auteur:Victor Hugo|ヴィクトル・ユーゴーの著作}} {{Wikiquotelang|ja|ヴィクトル・ユゴー}} {{Commons&cat|Victor Hugo|Victor Hugo}} * {{ill2|ヴィクトル・ユゴー記念館|en|Maison de Victor Hugo}} * [[黒岩涙香]] * [[コメディ・フランセーズ]] * [[テオフィル・ゴーティエ]] * [[リゴレット]] * [[カオダイ教]] * [[アデルの恋の物語]](映画) == 外部リンク == * {{青空文庫著作者|1094|ユゴー ヴィクトル}} * {{IMDb name|0401076|Victor Hugo}} * {{Kotobank|ユゴー}} {{アカデミー・フランセーズ|14|10|1841|1885|ネポミュセーヌ・ルメルシエ|シャルル・ルコント・ド・リール|ゆうこお ういくとる}} {{ロマン主義}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ゆうこう ういくとる}} [[Category:ヴィクトル・ユーゴー|*]] [[Category:19世紀フランスの小説家]] [[Category:19世紀フランスの詩人]] [[Category:19世紀フランスの劇作家]] [[Category:ロマン派詩人]] [[Category:フランスの死刑廃止論者]] [[Category:フランスの亡命者]] [[Category:理神論の哲学者]] [[Category:レジオンドヌール勲章受章者]] [[Category:アカデミー・フランセーズ会員]] 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Joint Photographic Experts Group
Joint Photographic Experts Groupは、画像ファイルフォーマットであるJPEG、JPEG 2000、JPEG XR標準を作成した、ISO/IEC JTC 1/SC 29とITU-Tの合同グループである。 ISO/IECにおいては、ISO/IEC JTC 1/SC 29/WG 1の2つのサブグループのうちの1つである。ITU-Tでは、その作業はITU-T VCEG(英語版)の領域に属する。 ISO/IEC JTC 1/SC 29/WG 1は、ITU-T研究グループ16(SG16)(前は研究グループ8(SG8)と協力して、JPEGおよびJBIG標準を担当している。組織の範囲には、Joint Photographic Experts GroupとJoint Bi-level Image Experts Groupの両方の作業が含まれる。 1983年4月に、ISOはテキスト端末に写真品質の画像を追加する作業を開始した。1980年代半ばには、CCITT(現ITU-T)とISOのそれぞれが画像符号化のための標準化グループを持っていた。CCITT研究グループVIII(SG8)(Telematic Services)とISO TC97/SC2/WG8(Coding of Audio and Picture Information)である。どちらも画像による通信をターゲットにしていた。1986年、CCITTとISOの合同でJoint Photographic Expert Groupを創設することが決定された。JPEG委員会は1986年に創設された。1988年には、CCITTとISOの合同でJoint Bi-level Image Group (JBIG)を創設することが決定された。 このグループは、北米、アジア、ヨーロッパで毎年3回開催される。グループはしばしばJBIG委員会と共同で会合する。 Joint Bi-level Image Experts Group(JBIG)は、Joint Photographic Experts Groupと同じワーキング・グループ (ISO/IEC JTC 1/SC 29/WG 1)の2つ目のサブグループであり、二値画像に重点を置いている。JBIGはJBIG標準とJBIG2標準を作成した。 JPEG (Joint Photographic Experts Group)は、各種の標準を開発しており、それらはITU-TとISO/IECの両方またはどちらかによって発行されている。 JPEG標準は、複数の部(part)で構成されている。各部は、仕様全体の特定の側面をカバーしている。公開されたJPEG標準の一部は、後の改訂版や新版によって改訂された。JPEGによって開発された、および開発中の規格を以下の表に示す。
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Joint Photographic Experts Groupは、画像ファイルフォーマットであるJPEG、JPEG 2000、JPEG XR標準を作成した、ISO/IEC JTC 1/SC 29とITU-Tの合同グループである。
[[ファイル:Joint Photographic Experts Group logo.svg|サムネイル|Joint Photographic Experts Groupのロゴ]] '''Joint Photographic Experts Group'''は、[[画像ファイルフォーマット]]である[[JPEG]]、[[JPEG 2000]]、[[JPEG XR]]標準を作成した、[[ISO/IEC JTC 1/SC 29]]と[[ITU-T]]の合同グループである。 ==概要== ISO/IECにおいては、[[ISO/IEC JTC 1/SC 29]]/WG 1の2つのサブグループのうちの1つである<ref name="sc29-wg1">{{cite web |url=http://kikaku.itscj.ipsj.or.jp/sc29/29w12901.htm |title=ISO/IEC JTC 1/SC 29/WG 1 - Coding of Still Pictures (SC 29/WG 1 Structure) |author=ISO/IEC JTC 1/SC 29 |date=2009-05-07 |accessdate=2009-11-11}}</ref><ref name="jpeg-sc29">{{cite web|url=http://kikaku.itscj.ipsj.or.jp/sc29/29w42901.htm |title=Programme of Work, (Allocated to SC 29/WG 1) |author=ISO/IEC JTC 1/SC 29 |accessdate=2009-11-07 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131231012300/http://kikaku.itscj.ipsj.or.jp/sc29/29w42901.htm |archivedate=2013-12-31 |df= }}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.iso.org/iso/standards_development/technical_committees/list_of_iso_technical_committees/iso_technical_committee.htm?commid=45316 |title=JTC 1/SC 29 - Coding of audio, picture, multimedia and hypermedia information |author=ISO |accessdate=2009-11-11}}</ref>。[[ITU-T]]では、その作業は{{仮リンク|ITU-T VCEG|en|Video Coding Experts Group}}の領域に属する。 ISO/IEC JTC 1/SC 29/WG 1は、ITU-T研究グループ16(SG16)<ref>{{cite web |url=http://www.itu.int/ITU-T/studygroups/com16/sg16-q6.html |title=ITU-T Home : Study Groups : Study Group 16 - Question 6/16 – Visual coding |publisher=ITU-T |accessdate=2010-03-07}}</ref>(前は研究グループ8(SG8)<ref>{{citation |url=http://www.itu.int/ITU-T/1997-2000/com08/questions-sg8.doc |format=DOC |title=ITU-T Study Group 8 List of Questions under Study (Study Period 1997 - 2000) |author=ITU-T |accessdate=2010-03-07}}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.itu.int/ITU-T/1997-2000/com08/index.html |title=ITU-T Study Group 8 (Study Period 1997-2000) |author=ITU-T |accessdate=2010-03-07}}</ref>と協力して、JPEGおよび[[JBIG]]標準を担当している<ref name="jpeg-jbig">{{cite web | url=http://www.jpeg.org/jbig/index.html | title=Joint Photographic Experts Group, JBIG Homepage | author=JPEG | accessdate=2009-11-08}}</ref>。組織の範囲には、Joint Photographic Experts Groupと[[Joint Bi-level Image Experts Group]]の両方の作業が含まれる<ref name="sc29-wg1" /><ref>{{cite web | url=http://www.jpeg.org/committee.html | title=About our committee | author=JPEG, JBIG |date=2007 |accessdate=2009-11-11}}</ref>。 ==歴史== 1983年4月に、ISOは[[テキスト端末]]に写真品質の画像を追加する作業を開始した。1980年代半ばには、CCITT(現ITU-T)とISOのそれぞれが画像符号化のための標準化グループを持っていた。CCITT研究グループVIII(SG8)(Telematic Services)とISO TC97/SC2/WG8(Coding of Audio and Picture Information)である<ref>{{cite web |url=http://www.itu.int/ITU-T/studygroups/com16/jpeg1x/index.html |title=ITU-T extensions to JPEG-1 |author=ITU-T |accessdate=2010-03-07}}</ref><ref name="chiariglione-jpeg-history">{{cite web|url=http://ride.chiariglione.org/faultline.htm |title=Riding the Media Bits, The Faultline |author=chiariglione.org |date=2009-09-06 |accessdate=2010-02-09 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20101023013738/http://ride.chiariglione.org/faultline.htm |archivedate=October 23, 2010 }}</ref>。どちらも画像による通信をターゲットにしていた。1986年、CCITTとISOの合同でJoint Photographic Expert Groupを創設することが決定された<ref name="itu-iso-still-image">{{citation |url=http://www.itu.int/ITU-T/worksem/vica/docs/presentations/S4_P1_Sebestyen.pdf |format=PDF |title=The First Joint ITU ISO/IEC Still Image Compression Standards |author=ITU-T |page=3 |date=2005-07-23 |accessdate=2009-11-12}}</ref>。JPEG委員会は1986年に創設された<ref name="jpeg-jpeg">{{cite web | url=http://www.jpeg.org/jpeg/index.html | title=Joint Photographic Experts Group, JPEG Homepage | author=JPEG | accessdate=2009-11-08}}</ref>。1988年には、CCITTとISOの合同でJoint Bi-level Image Group (JBIG)を創設することが決定された<ref name="itu-iso-still-image" />。 このグループは、[[北米]]、[[アジア]]、[[ヨーロッパ]]で毎年3回開催される。グループはしばしばJBIG委員会と共同で会合する<ref name="chiariglione-jpeg-history" /><ref name="jpeg-work">{{cite web |url=http://www.jpeg.org/working.html |title=How does JPEG work? |author=JPEG |date= |accessdate=2009-11-09}}</ref>。 == Joint Bi-level Image experts Group == [[Joint Bi-level Image Experts Group]](JBIG)は、Joint Photographic Experts Groupと同じワーキング・グループ (ISO/IEC JTC 1/SC 29/WG 1)の2つ目のサブグループであり、二値画像に重点を置いている<ref name="sc29-wg1" />。JBIGは[[JBIG]]標準と[[JBIG2]]標準を作成した<ref name="jpeg-jbig" /><ref name="jpeg-work" />。 == 発行済み・開発中の標準 == JPEG (Joint Photographic Experts Group)は、各種の標準を開発しており、それらはITU-TとISO/IECの両方またはどちらかによって発行されている。 JPEG標準は、複数の部(part)で構成されている。各部は、仕様全体の特定の側面をカバーしている。公開されたJPEG標準の一部は、後の改訂版や新版によって改訂された。JPEGによって開発された、および開発中の規格を以下の表に示す。 {| class="wikitable sortable mw-collapsible mw-collapsed" |+ Joint Photographic Experts Groupによる発行済み・開発中の標準<ref name="jpeg-sc29" /><ref name="iso-jtc1-sc29">{{cite web |url=http://www.iso.org/iso/iso_catalogue/catalogue_tc/catalogue_tc_browse.htm?commid=45316 |title=JTC 1/SC 29 - Coding of audio, picture, multimedia and hypermedia information |author=ISO | accessdate=2009-11-07}}</ref> |- ! width="8%" | 通称 || width="8%" | 部 || width="8%" | 初版発行年 || width="16%" | ISO/IEC規格 || width="15%" | ITU勧告 || 正式名称 |- |rowspan=6 |[[JPEG]] || Part 1 || 1992 || [http://www.iso.org/iso/iso_catalogue/catalogue_tc/catalogue_detail.htm?csnumber=18902 ISO/IEC 10918-1] || ITU-T Rec. [http://www.itu.int/rec/T-REC-T.81/en T.81] || Information technology&nbsp;– Digital compression and coding of continuous-tone still images&nbsp;– Requirements and guidelines |- | Part 2 || 1994 || [http://www.iso.org/iso/iso_catalogue/catalogue_tc/catalogue_detail.htm?csnumber=20689 ISO/IEC 10918-2] || ITU-T Rec. [http://www.itu.int/rec/T-REC-T.83/en T.83] || Information technology&nbsp;– Digital compression and coding of continuous-tone still images&nbsp;– Compliance testing |- | Part 3 || 1996 || [http://www.iso.org/iso/iso_catalogue/catalogue_tc/catalogue_detail.htm?csnumber=25037 ISO/IEC 10918-3] || ITU-T Rec. [http://www.itu.int/rec/T-REC-T.84/en T.84] || Information technology&nbsp;– Digital compression and coding of continuous-tone still images: Extensions |- | Part 4 || 1998 || [http://www.iso.org/iso/iso_catalogue/catalogue_tc/catalogue_detail.htm?csnumber=25431 ISO/IEC 10918-4] || ITU-T Rec. [http://www.itu.int/rec/T-REC-T.86/en T.86] || Information technology&nbsp;– Digital compression and coding of continuous-tone still images: Registration of JPEG profiles, SPIFF profiles, SPIFF tags, SPIFF colour spaces, APPn markers, SPIFF compression types and Registration Authorities (REGAUT) |- | Part 5 || 2013 || [http://www.iso.org/iso/iso_catalogue/catalogue_tc/catalogue_detail.htm?csnumber=54989 ISO/IEC 10918-5] || ITU-T Rec. [http://www.itu.int/rec/T-REC-T.871 T.871] || Information technology&nbsp;– Digital compression and coding of continuous-tone still images: JPEG File Interchange Format (JFIF)<ref name="jfif">{{cite web|url=http://www.jpeg.org/newsrel25.html |title=Press Release - 48th WG1 meeting, Maui, USA - JPEG XR enters FDIS status, JPEG File Interchange Format (JFIF) to be standardized as JPEG Part 5 |author=JPEG |date=2009-04-24 |accessdate=2009-11-09 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20091008041637/http://www.jpeg.org/newsrel25.html |archivedate=2009-10-08 |df= }}</ref> |- | Part 6 || 2013 || [http://www.iso.org/iso/home/store/catalogue_tc/catalogue_detail.htm?csnumber=59634 ISO/IEC 10918-6] || ITU-T Rec. [http://www.itu.int/rec/T-REC-T.872 T.872] || Digital compression and coding of continuous-tone still images: Application to printing systems |- |rowspan=2|[[JPEG-LS]] || Part 1 || 1998 || [http://www.iso.org/iso/iso_catalogue/catalogue_tc/catalogue_detail.htm?csnumber=22397 ISO/IEC 14495-1] || ITU-T Rec. [http://www.itu.int/rec/T-REC-T.87 T.87] || Information technology&nbsp;– Lossless and near-lossless compression of continuous-tone still images: Baseline |- | Part 2 || 2002 || [http://www.iso.org/iso/iso_catalogue/catalogue_tc/catalogue_detail.htm?csnumber=37700 ISO/IEC 14495-2] || ITU-T Rec. [http://www.itu.int/rec/T-REC-T.870 T.870] || Information technology&nbsp;– Lossless and near-lossless compression of continuous-tone still images: Extensions |- |rowspan=13 |[[JPEG 2000]] || Part 1 || 2000 || [http://www.iso.org/iso/iso_catalogue/catalogue_ics/catalogue_detail_ics.htm?csnumber=37674 ISO/IEC 15444-1] || ITU-T Rec. [http://www.itu.int/rec/T-REC-T.800 T.800] || Information technology&nbsp;– JPEG 2000 image coding system&nbsp;– Core coding system |- | Part 2 || 2004 || [http://www.iso.org/iso/iso_catalogue/catalogue_tc/catalogue_detail.htm?csnumber=33160 ISO/IEC 15444-2] || ITU-T Rec. [http://www.itu.int/rec/T-REC-T.801 T.801] || Information technology&nbsp;– JPEG 2000 image coding system&nbsp;– Extensions |- | Part 3 || 2002 || [http://www.iso.org/iso/iso_catalogue/catalogue_ics/catalogue_detail_ics.htm?csnumber=41570 ISO/IEC 15444-3] || ITU-T Rec. [http://www.itu.int/rec/T-REC-T.802 T.802] || Information technology&nbsp;– JPEG 2000 image coding system: Motion JPEG 2000 |- | Part 4 || 2002 || [http://www.iso.org/iso/iso_catalogue/catalogue_ics/catalogue_detail_ics.htm?csnumber=39079 ISO/IEC 15444-4] || ITU-T Rec. [http://www.itu.int/rec/T-REC-T.803 T.803] || Information technology&nbsp;– JPEG 2000 image coding system: Conformance testing |- | Part 5 || 2003 || [http://www.iso.org/iso/iso_catalogue/catalogue_tc/catalogue_detail.htm?csnumber=33877 ISO/IEC 15444-5] || ITU-T Rec. [http://www.itu.int/rec/T-REC-T.804 T.804] || Information technology&nbsp;– JPEG 2000 image coding system: Reference software |- | Part 6 || 2003 || [http://www.iso.org/iso/iso_catalogue/catalogue_tc/catalogue_detail.htm?csnumber=35458 ISO/IEC 15444-6] || || Information technology&nbsp;– JPEG 2000 image coding system&nbsp;– Part 6: Compound image file format |- | Part 8 || 2007 || [http://www.iso.org/iso/iso_catalogue/catalogue_tc/catalogue_detail.htm?csnumber=37382 ISO/IEC 15444-8] || ITU-T Rec. [http://www.itu.int/rec/T-REC-T.807 T.807] || Information technology&nbsp;– JPEG 2000 image coding system: Secure JPEG 2000 |- | Part 9 || 2005 || [http://www.iso.org/iso/iso_catalogue/catalogue_tc/catalogue_detail.htm?csnumber=39413 ISO/IEC 15444-9] || ITU-T Rec. [http://www.itu.int/rec/T-REC-T.808 T.808] || Information technology&nbsp;– JPEG 2000 image coding system: Interactivity tools, APIs and protocols |- | Part 10 || 2008 || [http://www.iso.org/iso/iso_catalogue/catalogue_tc/catalogue_detail.htm?csnumber=40024 ISO/IEC 15444-10] || ITU-T Rec. [http://www.itu.int/rec/T-REC-T.809 T.809] || Information technology&nbsp;–JPEG 2000 image coding system: Extensions for three-dimensional data |- | Part 11 || 2007 || [http://www.iso.org/iso/iso_catalogue/catalogue_tc/catalogue_detail.htm?csnumber=40025 ISO/IEC 15444-11] || ITU-T Rec. [http://www.itu.int/rec/T-REC-T.810 T.810] || Information technology&nbsp;– JPEG 2000 image coding system: Wireless |- | Part 12 || 2004 || [http://www.iso.org/iso/iso_catalogue/catalogue_ics/catalogue_detail_ics.htm?csnumber=51537 ISO/IEC 15444-12] || || Information technology&nbsp;– JPEG 2000 image coding system&nbsp;– Part 12: ISO base media file format |- | Part 13 || 2008 || [http://www.iso.org/iso/iso_catalogue/catalogue_tc/catalogue_detail.htm?csnumber=42271 ISO/IEC 15444-13] || ITU-T Rec. [http://www.itu.int/rec/T-REC-T.812 T.812] || Information technology&nbsp;– JPEG 2000 image coding system: An entry level JPEG 2000 encoder |- | Part 14 || 2013 || [http://www.iso.org/iso/iso_catalogue/catalogue_tc/catalogue_detail.htm?csnumber=50410 ISO/IEC 15444-14] || ITU-T Rec. [http://www.itu.int/rec/T-REC-T.813 T.813] || Information technology&nbsp;– JPEG 2000 image coding system&nbsp;– Part 14: XML structural representation and reference |- | [[Mixed raster content|MRC]] || || 1999 || [http://www.iso.org/iso/iso_catalogue/catalogue_tc/catalogue_detail.htm?csnumber=32228 ISO/IEC 16485] || ITU-T Rec. [http://www.itu.int/rec/T-REC-T.44 T.44] || Information technology&nbsp;– Mixed Raster Content (MRC) |- |rowspan=6|JPSearch || Part 1 || 2007 || [http://www.iso.org/iso/iso_catalogue/catalogue_tc/catalogue_detail.htm?csnumber=41515 ISO/IEC TR 24800-1] || || Information technology&nbsp;– JPSearch&nbsp;– Part 1: System framework and components |- | Part 2 || 2011 || [http://www.iso.org/iso/iso_catalogue/catalogue_tc/catalogue_detail.htm?csnumber=50411 ISO/IEC 24800-2] || || Information technology&nbsp;– JPSearch&nbsp;– Part 2: Registration, identification and management of schema and ontology |- | Part 3 || 2010 || [http://www.iso.org/iso/iso_catalogue/catalogue_tc/catalogue_detail.htm?csnumber=50412 ISO/IEC 24800-3] || || Information technology&nbsp;– JPSearch&nbsp;– Part 3: Query format |- | Part 4 || 2010 || [http://www.iso.org/iso/iso_catalogue/catalogue_tc/catalogue_detail.htm?csnumber=50413 ISO/IEC 24800-4] || || Information technology&nbsp;– JPSearch&nbsp;– Part 4: File format for metadata embedded in image data (JPEG and JPEG 2000) |- | Part 5 || 2011 || [http://www.iso.org/iso/iso_catalogue/catalogue_tc/catalogue_detail.htm?csnumber=50414 ISO/IEC 24800-5] || || Information technology&nbsp;– JPSearch&nbsp;– Part 5: Data interchange format between image repositories |- | Part 6 || 2012 || [http://www.iso.org/iso/iso_catalogue/catalogue_tc/catalogue_detail.htm?csnumber=55074 ISO/IEC 24800-6] || || Information technology&nbsp;– JPSearch&nbsp;– Part 6: Reference software |- |rowspan=5|[[JPEG XR]] || Part 1 || 2011 || [http://www.iso.org/iso/iso_catalogue/catalogue_tc/catalogue_detail.htm?csnumber=45278 ISO/IEC TR 29199-1] || [http://www.itu.int/rec/T-REC-T.Sup2 T.Sup2] || Information technology&nbsp;– JPEG XR image coding system&nbsp;– Part 1: System architecture |- | Part 2 || 2009 || [http://www.iso.org/iso/iso_catalogue/catalogue_tc/catalogue_detail.htm?csnumber=56465 ISO/IEC 29199-2] || ITU-T Rec. [http://www.itu.int/rec/T-REC-T.832 T.832] || Information technology&nbsp;– JPEG XR image coding system&nbsp;– Part 2: Image coding specification |- | Part 3 || 2010 || [http://www.iso.org/iso/iso_catalogue/catalogue_tc/catalogue_detail.htm?csnumber=51610 ISO/IEC 29199-3] || ITU-T Rec. [http://www.itu.int/rec/T-REC-T.833 T.833] || Information technology&nbsp;– JPEG XR image coding system&nbsp;– Part 3: Motion JPEG XR |- | Part 4 || 2010 || [http://www.iso.org/iso/iso_catalogue/catalogue_tc/catalogue_detail.htm?csnumber=51611 ISO/IEC 29199-4] || ITU-T Rec. [http://www.itu.int/rec/T-REC-T.835 T.834] || Information technology&nbsp;– JPEG XR image coding system&nbsp;– Part 4: Conformance testing |- | Part 5 || 2010 || [http://www.iso.org/iso/iso_catalogue/catalogue_tc/catalogue_detail.htm?csnumber=52772 ISO/IEC 29199-5] || ITU-T Rec. [http://www.itu.int/rec/T-REC-T.835 T.835] || Information technology&nbsp;– JPEG XR image coding system&nbsp;– Part 5: Reference software |- |rowspan=2| AIC || Part 1 || under development || [http://www.iso.org/iso/iso_catalogue/catalogue_tc/catalogue_detail.htm?csnumber=45249 ISO/IEC PDTR 29170-1] || || Information technology&nbsp;– Advanced image coding and evaluation methodologies&nbsp;– Part 1: Guidelines for codec evaluation |- | Part 2 || 2015 || [http://www.iso.org/iso/home/store/catalogue_tc/catalogue_detail.htm?csnumber=66094 ISO/IEC 29170-2] || || Information technology&nbsp;– Advanced image coding and evaluation&nbsp;– Part 2: Evaluation procedure for nearly lossless coding |} == 関連項目 == * [[Moving Picture Experts Group]] (MPEG) * [[Joint Bi-level Image Experts Group]] (JBIG) == 脚注 == {{reflist|2}} == 外部リンク == * {{official site|http://www.jpeg.org/}} {{Computer-stub|Joint Photographic Experts Group }} [[Category:ISO/IEC JTC 1]] [[Category:ITU]] [[Category:画像ファイルフォーマット]] [[Category:1986年設立の組織]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Joint_Photographic_Experts_Group
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ウジェーヌ・ドラクロワ
フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワ(Ferdinand Victor Eugène Delacroix, 1798年4月26日 - 1863年8月13日)は、19世紀フランスのロマン主義を代表する画家、アーティスト。「ドラクロワ」は「ドラクロア」とも表記する。 1798年、パリ近郊のシャラントン (現在のサン=モーリス) に生まれた。父は外交官シャルル=フランソワ・ドラクロワ(フランス語版)だが、ウィーン会議のフランス代表として知られるタレーラン=ペリゴールが実の父親だという仮説があり、かなりの根拠がある。 新古典主義の画家ピエール=ナルシス・ゲラン (Pierre-Narcisse Guérin) に入門し、1822年、『ダンテの小舟』で先輩画家であるアントワーヌ=ジャン・グロの強力な推薦もありサロン(官展)に入選した。1824年のサロンには『キオス島の虐殺』を出品する。この作品は当時(1822年)実際に起きた事件を題材にしたもので、サロンでも賛否両論を巻き起こした。グロはこの作品を「これは(キオス島の虐殺ではなく)絵画の虐殺である」とまで酷評したが、結局、作品は政府買上げとなった。1830年の七月革命に際しては、有名な『民衆を導く自由の女神』を制作している。この絵画は彼の肖像と共に、旧フランス・フランの100フラン紙幣に描かれたこともあった。 1832年、フランス政府の外交使節に随行する記録画家としてモロッコを訪問した。1834年の『アルジェの女たち』は、モロッコ旅行の際のデッサンをもとに制作したものである。1830年代以降は、リュクサンブール宮殿、パリ市庁舎など、政府関係の大建築の装飾を数多く手掛け、1863年に死去するまで旺盛に制作を続けた。アトリエ兼自宅は、国立のウジェーヌ・ドラクロワ美術館となっている。 テオドール・ジェリコーに影響を受けており、彼の夭折を嘆いた。アカデミー・デ・ボザールにドラクロワが入会を許された時、ロマン主義の代表格ドラクロワと並び称された新古典主義の主導者たるドミニク・アングルは「私はこの愚かな世紀と決別したい。」と述べた。しばしば劇的な画面構成と華麗な色彩表現は、ルノワールやゴッホなど多くの画家たちに影響を与えた。 その一方で、ドラクロワの素描は作家同定をめぐって多くの議論がある。その発端となった1966年のジョンソンの論文は弟子ピエール・アンドリウによるゲルマント城の回廊の天井画の一つ「ケレスを讃えて」(1866年)を取り上げたもので、他にもコペンハーゲン国立美術館のペン素描など、これまでパリの旧市庁舎一階の「平和の間」の天井画のためのドラクロワの素描と考えられてきたいくつかの作品を弟子アンドリウの習作とした。ドラクロワの影響が色濃いこの天井画は神話主題で四季を描いた4点の格間からなり、「平和の間」と同様、ギリシアの神々の姿が描かれている。また、ドラクロワの死後、アトリエに残されていた作品群に偽のアトリエ印が確認される一方、19世紀末から20世紀初頭にその素描の多くが絵画市場に出回っているため、現在ではルーヴルをはじめ各地の美術館でドラクロワの素描の再検討が行われているが、多くの研究余地を残している。 1822年に始まり、1824年に中断、1847年に再開され、1863年の彼の死まで続いた。このドラクロワの個人的な日記は、この画家の文業における代表作である。そこには絵画、詩、音楽についての考察が書き留められており、また、ジョルジュ・サンド、ジョゼフィーヌ・ド・フォルジュ男爵夫人、ショパン、シャブリエらとの議論が記録されている。それは単に画家の日々の生活や彼の心配事についてにとどまらず、19世紀半ばのパリの生活についての証言となっている。 ドラクロワの日記は1893年にPlonから出版され、同出版社から1932年に改訂版、1980年にユベール・ダミッシュ(フランス語版)による序文を付した再編集版が出された。さらに2009年に、オリジナルの手稿による訂正と最近の発見による増補を加えたMichèle Hannooshによる浩瀚な批判版がJosé Cortiから刊行された。 ドラクロワは美術辞典の草稿(アンヌ・ラリュ(フランス語版)により編纂、出版)や、絵画についての記事も書いている。
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フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワは、19世紀フランスのロマン主義を代表する画家、アーティスト。「ドラクロワ」は「ドラクロア」とも表記する。
{{Infobox 芸術家 | name = ウジェーヌ・ドラクロワ<br />{{Lang|fr|Eugène Delacroix}} | image = Félix_Nadar_1820-1910_portraits_Eugène_Delacroix.jpg | imagesize = | alt = | caption = [[ナダール]]による肖像写真 | birthname = Ferdinand-Victor-Eugène Delacroix | birthdate = {{birth date|1798|4|26}} | location = {{FRA1794}}・[[サン=モーリス (ヴァル=ド=マルヌ県)|サン=モーリス]] | deathdate = {{death date and age|1863|8|13|1798|4|26}} | deathplace = {{FRA1852}}・[[パリ]] | nationality = {{FRA}} | field = | training = | movement = [[ロマン主義]] | works = 『[[民衆を導く自由の女神]]』、『[[サルダナパールの死]]』、『[[キオス島の虐殺]]』 | patrons = | influenced by = | influenced = | awards = | elected = | website = }} '''フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワ'''({{Lang|fr|Ferdinand Victor Eugène Delacroix}}, [[1798年]][[4月26日]] - [[1863年]][[8月13日]])は、19世紀[[フランス]]の[[ロマン主義]]を代表する[[画家]]、[[アーティスト]]。「ドラクロワ」は「ドラクロア」とも表記する<ref>{{Cite web|和書|url = https://kotobank.jp/word/ドラクロア-106149 |title = ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ドラクロアとは |publisher = コトバンク |accessdate = 2018-01-02 }}</ref>。 == 生涯 == 1798年、[[パリ]]近郊のシャラントン (現在の[[サン=モーリス (ヴァル=ド=マルヌ県)|サン=モーリス]]) に生まれた。父は外交官{{仮リンク|シャルル=フランソワ・ドラクロワ|fr|Charles-François Delacroix}}だが、[[ウィーン会議]]の[[フランス復古王政|フランス]]代表として知られる[[シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール|タレーラン=ペリゴール]]が実の父親だという仮説があり、かなりの根拠がある<ref>例えば、Maurice Sérullaz(高畠正明訳)『Delacroix(世界の巨匠シリーズ)』美術出版社 1973年 p.12</ref>。 [[新古典主義]]の画家[[ピエール=ナルシス・ゲラン]] (Pierre-Narcisse Guérin) に入門し、[[1822年]]、『[[ダンテの小舟]]』で先輩画家である[[アントワーヌ=ジャン・グロ]]の強力な推薦もあり[[サロン・ド・パリ|サロン(官展)]]に入選した。[[1824年]]のサロンには『[[キオス島の虐殺]]』を出品する。この作品は当時(1822年)実際に起きた事件を題材にしたもので、サロンでも賛否両論を巻き起こした。グロはこの作品を「これは(キオス島の虐殺ではなく)絵画の虐殺である」とまで酷評したが、結局、作品は政府買上げとなった。[[1830年]]の[[七月革命]]に際しては、有名な『[[民衆を導く自由の女神]]』を制作している<ref>{{Cite book|和書 |author=中野京子|authorlink=中野京子|year = 2016 |title = 中野京子と読み解く 名画の謎 対決篇 |publisher = [[文藝春秋]] |page = 93 |isbn = 978-4-16-390308-8}}</ref>。この絵画は彼の肖像と共に、旧[[フランス・フラン]]の100フラン紙幣に描かれたこともあった。 [[1832年]]、フランス政府の外交使節に随行する記録画家として[[モロッコ]]を訪問した。[[1834年]]の『[[アルジェの女たち]]』は、モロッコ旅行の際のデッサンをもとに制作したものである。[[1830年代]]以降は、[[リュクサンブール宮殿]]、[[パリ市庁舎]]など、政府関係の大建築の装飾を数多く手掛け{{Efn|ドラクロワは1836年から44年にかけてマレ街17番地に住み、ジョルジュ・サンドやショパンをアトリエに呼んだという。『聖王ルイ』『怒れるメデイア』『トラヤヌス帝の裁き』などを完成させたのもこの時代である<ref>{{Cite book|和書|author=P・シャンピオン|authorlink=ピエール・シャンピオン|year=1992|title=わが懐かしき街|publisher=図書出版社|page=338}}</ref>。}}、[[1863年]]に死去するまで旺盛に制作を続けた。アトリエ兼自宅は、国立の[[ウジェーヌ・ドラクロワ美術館]]となっている。 == 他の画家との関わり == {{multiple image | align = right | direction = horizontal | header = | header_align = left/right/center | header_background = | footer = | footer_align = left/right/center | footer_background = | width = | image1 = Eugene delacroix.jpg| | width1 = 150 | caption1 = 自画像(1837年、ルーヴル美術館所蔵) | image2 = Delacroix-autoportrait-rouen.jpg | width2 = 165 | caption2 = 自画像と推定される絵画<br />(1816年頃) }} [[テオドール・ジェリコー]]に影響を受けており、彼の[[夭折]]を嘆いた。[[芸術アカデミー|アカデミー・デ・ボザール]]にドラクロワが入会を許された時、[[ロマン主義]]の代表格ドラクロワと並び称された[[新古典主義]]の主導者たる[[ドミニク・アングル]]は「私はこの愚かな世紀と決別したい。」と述べた。しばしば劇的な画面構成と華麗な色彩表現は、[[ピエール=オーギュスト・ルノワール|ルノワール]]や[[フィンセント・ファン・ゴッホ|ゴッホ]]など多くの画家たちに影響を与えた。 その一方で、ドラクロワの素描は作家同定をめぐって多くの議論がある。その発端となった[[1966年]]のジョンソンの論文<ref>Lee Johnson"Pierre Andrieu,le cachet E.D.et le château de Guermantes", Gazette des Beaux-arts, LXVII, 1966, pp.99-110.</ref>は弟子[[ピエール・アンドリウ]]による[[ゲルマント城]]の回廊の天井画の一つ「ケレスを讃えて」([[1866年]])を取り上げたもので、他にも[[コペンハーゲン国立美術館]]のペン素描など、これまでパリの旧市庁舎一階の「平和の間」の天井画のためのドラクロワの素描と考えられてきたいくつかの作品を弟子アンドリウの習作とした。ドラクロワの影響が色濃いこの天井画は神話主題で四季を描いた4点の格間からなり、「平和の間」と同様、ギリシアの神々の姿が描かれている。また、ドラクロワの死後、アトリエに残されていた作品群に偽のアトリエ印が確認される一方、19世紀末から20世紀初頭にその素描の多くが絵画市場に出回っているため、現在では[[ルーヴル美術館|ルーヴル]]をはじめ各地の美術館でドラクロワの素描の再検討が行われているが、多くの研究余地を残している。 == ウジェーヌ・ドラクロワの日記 == [[1822年]]に始まり、1824年に中断、1847年に再開され、[[1863年]]の彼の死まで続いた。このドラクロワの個人的な日記は、この画家の文業における代表作である。そこには絵画、詩、音楽についての考察が書き留められており、また、[[ジョルジュ・サンド]]、[[ジョゼフィーヌ・ド・フォルジュ男爵夫人]]、[[フレデリック・ショパン|ショパン]]、[[エマニュエル・シャブリエ|シャブリエ]]らとの議論が記録されている。それは単に画家の日々の生活や彼の心配事についてにとどまらず、19世紀半ばのパリの生活についての証言となっている。<!--On y remarque également une certaine misogynie et une obsession du corps masculin : "Je regarde avec passion et sans fatigue ces photographies d'hommes nus, ce poème admirable, ce corps humain sur lequel j'apprends à lire et dont la vue m'en dit plus que les inventions des écrivassiers"<ref>''Journal'', 5 octobre 1855.</ref>.--> ドラクロワの日記<!--の初版はPlon Nourrit et Cieから1893年5月から1895年5月まで3巻で出版された。第1巻は[[1823年]]から[[1850年]]、第2巻1850年から[[1854年]]、第3巻は1854年から1863年である。日記の前に美術評論家[[ポール・フラ]] (Paul FLAT) によるドラクロワの研究と3つの自画像が掲載され、[[モロッコ]]旅行のノートのファクシミリ(第1巻 166ページ)も掲載された。-->は1893年に{{fr|Plon}}から出版され、同出版社から1932年に改訂版、1980年に{{仮リンク|ユベール・ダミッシュ|fr|Hubert Damisch}}による序文を付した再編集版が出された。さらに2009年に、オリジナルの手稿による訂正と最近の発見による増補を加えた{{fr|Michèle Hannoosh}}による浩瀚な批判版が{{fr|José Corti}}から刊行された。 ドラクロワは美術辞典の草稿({{仮リンク|アンヌ・ラリュ|fr|Anne Larue}}により編纂、出版)や、絵画についての記事も書いている。 * [http://bibliotheque-numerique.inha.fr/collection/?est=creator.exact&esr=Delacroix%2C+Eug%C3%A8ne フランス国立美術史研究所(INHA)デジタル・ライブラリー - ドラクロワの日記と手紙] == ギャラリー == <center><gallery widths="160px" heights="160px"> ファイル:The Barque of Dante.jpg|ダンテの小舟(1822年、[[ルーヴル美術館]]所蔵)<br />''"La Barque de Dante"'' ファイル:Eugène Delacroix - Le Massacre de Scio.jpg|[[キオス島の虐殺]](1823-24年、ルーヴル美術館所蔵)<br />''"Scène des massacres de Scio"'' ファイル:Eugène Delacroix - Jeune orpheline au cimetière (vers 1824).JPG|墓場の少女(1824年、ルーヴル美術館所蔵)<br />''"Jeune orpheline au cimetière"'' ファイル:Eugène Ferdinand Victor Delacroix 017.jpg|ミソロンギの廃墟に立つギリシア(1826年、[[ボルドー美術館]]所蔵)<br />''"La Grèce sur les ruines de Missolonghi"'' ファイル:Eugène Ferdinand Victor Delacroix 021.jpg|異端者とハッサンの戦い(1826年、[[シカゴ美術館]]所蔵)<br />''"Combat de Giaour et Hassan"'' File:Delacroix, Eugène Ferdinand Victor - Woman with a Parrot - 1827.jpg|女と鸚鵡(1827年、[[リヨン美術館]]所蔵) ファイル:Eugène Delacroix - La Mort de Sardanapale.jpg|[[サルダナパールの死]](1827年、ルーヴル美術館所蔵)<br />''"La Mort de Sardanapale"'' ファイル:Eugène_Ferdinand_Victor_Delacroix_013.jpg|リエージュ司祭の暗殺(1829年、ルーヴル美術館所蔵)<br />''"L'Assassinat de l'évêque de Liège"'' ファイル:Eugène Delacroix - La liberté guidant le peuple.jpg|[[民衆を導く自由の女神]](1830年、ルーヴル美術館所蔵)<br />''"La Liberté guidant le peuple"'' ファイル:A Young Tiger Playing with its Mother.jpg|母虎と戯れる子虎(1831年、ルーヴル美術館所蔵)<br />''"Jeune tigre jouant avec sa mère"'' ファイル:WomenofAlgiers.JPG|[[アルジェの女たち]](1834年、ルーヴル美術館所蔵)<br />''"Femmes d'Alger dans leur appartement"'' ファイル:Eugène Ferdinand Victor Delacroix 043.jpg|[[フレデリック・ショパン]]の肖像(1838年、ルーヴル美術館所蔵)<br />''"Portrait de Chopin"'' ファイル:Eugène Ferdinand Victor Delacroix 018.jpg|ハムレットとホレイショー<br />(1839年、ルーヴル美術館所蔵)<br />''"Hamlet et Horatio au cimetière"'' ファイル:Eugène Ferdinand Victor Delacroix 012.jpg|[[第4回十字軍|(第四回)十字軍]]の[[コンスタンティノープル]]への入城(1841年、ルーヴル美術館所蔵)<br />''"L'Entrée des croisés à Constantinople"'' ファイル:Augustins - Le Sultan du Maroc - Eugène Delacroix.jpg|[[モロッコ]]の[[スルタン]](1845年、[[オーギュスタン美術館]]所蔵)<br />''"Le Sultan du Maroc entouré de sa garde"'' ファイル:Luxembourg-Library-Delacroix.JPG|リンボ(リュクサンブール宮図書室の天井画)<br />''"Les Limbes"'' </gallery></center> ==注釈== {{脚注ヘルプ}} {{Notelist}} == 脚注 == {{reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Eugène Delacroix}} * [[葬送 (小説)]] - ドラクロワ、ショパン、ジョルジュ・サンドなど、二月革命下パリの芸術家の群像を描いた[[平野啓一郎]]の長篇小説。 == 外部リンク == * [http://www.mmm-ginza.org/museum/serialize/backnumber/0504/0504.html 国立ウジェーヌ・ドラクロワ美術館] * [http://www.musee-delacroix.fr/fr/ Musée national Eugène Delacroix] フランス語・英語 {{ウジェーヌ・ドラクロワ}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:とらくろわ うしええぬ}} [[Category:ウジェーヌ・ドラクロワ|*]] [[Category:19世紀フランスの画家]] [[Category:ロマン派の画家]] [[Category:ベルギー王立アカデミー会員]] [[Category:フランスの紙幣の人物]] [[Category:フランスの日記作家]] [[Category:ペール・ラシェーズ墓地に埋葬された人物]] [[Category:1798年生]] [[Category:1863年没]]
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クロード・ドビュッシー
クロード・アシル・ドビュッシー(Claude Achille Debussy フランス語: [klod aʃil dəbysi], 1862年8月22日 - 1918年3月25日)は、フランスの作曲家。長音階・短音階以外の旋法と、機能和声にとらわれることのない自由な和声法などを用いて作曲し、その伝統から外れた音階と和声の用い方から、19世紀後半から20世紀初頭にかけて最も影響力を持った作曲家の一人。 ドビュッシーの音楽は、代表作『海』や『夜想曲』などにみられる特徴的な作曲技法から「印象主義音楽(印象派)」と称されることもある。しかし、本人は「印象派」と呼ばれることを強く拒否した。テクスト(詞)やテーマの選択は象徴派(象徴主義)からの影響が色濃い。 なお、名前は生後1890年(28歳)まで「アシル=クロード」、1890年(28歳)から「クロード=アシル」である。 1862年8月22日午前4時半、イヴリーヌ県サン=ジェルマン=アン=レーのパン通り38番地に「アシル=クロード・ドビュッシー」として生まれた(この建物は現在ドビュッシー博物館となっている)。父親のマニュエル・アシル・ドビュッシーは陶器店を経営し、母親のヴィクトリーヌ・マヌリ・ドビュッシーは裁縫師であった。5人兄弟の長男として生まれているが、彼が2歳(1864年7月31日)になってから洗礼を受けている。その年に一家は経営難のためサン=ジェルマン=アン=レーを離れ、母方の実家(クリシー)に同居する。 1870年、カンヌに住む伯母クレメンティーヌ(父の姉に当たる)のもと、彼女の肝煎りでイタリアのヴァイオリニスト、ジャン・チェルッティ(Jean Cerutti)にピアノを習う(期間は不明)。このカンヌでの滞在は1回だけであったが、後年ドビュッシーは鮮烈な印象を残したと手紙の中で語っている。 1871年、詩人ヴェルレーヌの義母アントワネット・モテ・ド・フルールヴィル夫人に基礎的な音楽の手ほどきを受ける。これは、偶然にも父親の知人であったヴェルレーヌの義兄でオペレッタ作曲家のシャルル・ド・シヴリー (Charles de Sivry) と出会い、シヴリーが少年のドビュッシーを自分の母親のフルールヴィル夫人に引き合わせたとされる。夫人はドビュッシーの才能を見抜き、親身に彼を教えたという。 幼少期のドビュッシーについては、後年本人が語ろうとしなかったため、どのように過ごしたのかは不明である。ただしこの時期からピアノの手ほどきを受けていたことは確かである。 1872年10月22日、10歳でパリ音楽院に入学する。この時の合格者はドビュッシーを含むわずか33名であった。1年後、エルネスト・ギロー(作曲)、オーギュスト・バジュ(ピアノ伴奏法)、アントワーヌ・マルモンテル(ピアノ)、エミール・デュラン(作曲)、アルベール・ラヴィニャック(ソルフェージュ)らに学ぶ。元々ピアニストになるつもりで、1873年の1月29日にJ.S.バッハの『トッカータ』(BWV915) を弾いた際、「魅力的な素質」と評価されて自信を持ち、ピアニストへの道に進むことを決めたという。1874年に学内のコンクールにおいてショパンのピアノ協奏曲第2番の第1楽章を弾いて第2次席賞を獲得。翌1875年にショパンの『バラード第1番』で第1次席賞を得るが、1876年には獲得できなかった 。1877年にはシューマンの『ピアノソナタ第2番』(第1楽章)で再び第2次席賞を獲るが、1878年と1879年は2年続けて賞が取れずに失敗し、これによってピアニストになることを諦める決心をした。そして結局ピアノで賞を得ることができず(1位入賞を目標にしていたため)、その年にピアノ科を去り、10月にバジュ(バズィーユ)のピアノ伴奏法のクラスに入る。 一方でドビュッシーは作曲にも挑戦している。1878年にピアノ曲『フーガ』(L番号なし)を作曲し、これは現存するドビュッシーの最古の作品とされている。1879年に歌曲『月に寄せるバラード』(L.1、紛失)と『マドリード』(L.2、近年発見)を作曲する。 1880年7月、18歳のドビュッシーはチャイコフスキーのパトロンであったフォン・メック夫人の長期旅行にピアニストとして同伴し、『ピアノ三重奏曲』(L.3) や『交響曲 ロ短調』(L.10) の断片を作曲した。また、『ボヘミア舞曲』(L.9) という小品を夫人の計らいでチャイコフスキーへ送るが、酷評を受けた(出版はドビュッシーの死後)。メック夫人を通して、チャイコフスキーの当時の最新作であった交響曲第4番(1877年)などのロシアの作品も勉強しており、この経験が元でチャイコフスキーやロシア5人組に影響を受ける。また貴族趣味も芽生えた。 パリに戻ったのち、この年の12月24日にギローのクラスに入る(当初マスネに師事するつもりでいた)。またセザール・フランクのオルガンのクラスに顔を出しているが、オルガンにおける「執拗な灰色の色調」に嫌気が差したため、わずか半年でクラスから逃げるように立ち去っている。 1882年に歌曲『星の輝く夜』(L.4) を出版する。また10作以上の歌曲を作曲する。この年の5月にローマ賞に挑戦するも、予選落ちに終わる。 1883年5月、2回目となるローマ賞に挑戦し、『祈り』(L.40) で予選を通過。カンタータ『剣闘士』(L.41) 本選の第2等賞を獲得する。 1884年に3回目となるローマ賞に挑戦し、カンタータ『春』(L.56) で予選を通過、カンタータ『放蕩息子』(L.57) でローマ大賞を受賞する。審査員の中にはグノーやサン=サーンスもいた。翌1885年から1887年にかけてイタリアのローマへと留学したものの、あまりイタリアの雰囲気には馴染めず、ローマ大賞受賞者に与えられる期間を繰り上げてパリに戻った。これにはヴァニエ夫人という意中の人がいたためともいわれる。このヴァニエ夫人のために書かれたいくつかの歌曲のうちポール・ヴェルレーヌの「艶なる宴」に基づくものは後に『艶なる宴』(全2集)としてまとめられた。またローマに留学していた頃に生み出された作品は、いくつかの歌曲や交響組曲『春』、合唱と管弦楽のための『ツライマ(ズレイマ)』(L.59、後に破棄されて現存しない)である(なおローマからパリへ帰郷してから作られた作品はカンタータ『選ばれた乙女』や『ピアノと管弦楽のための幻想曲』)。 1888年の夏、銀行家のエティエンヌ・デュパンの支援によって念願であったバイロイトへ初めて行き、同地で『ニュルンベルクのマイスタージンガー』と『パルジファル』を聴く。 1889年は27歳のドビュッシーにとって大きな転機の年となる。1月には国民音楽協会に入会してエルネスト・ショーソンらと知り合い、新たな人脈と発表の場を得た。6月にパリ万国博覧会でジャワ音楽(ガムラン)を耳にしたことは、その後の彼の音楽に大きな影響を与えた。その後2度目に訪れたバイロイト音楽祭ではワグネリズムの限界を感じ、これを境にアンチ・ワグネリアンを標榜することになる。またこの頃、詩人ステファヌ・マラルメの自宅サロン「火曜会」に唯一の音楽家として出席するようになり、この時の体験はのちにマラルメの詩による歌曲(『ステファヌ・マラルメによる3つの詩』)や、『牧神の午後への前奏曲』への作曲へとつながっていく。 1890年の28歳のとき、名前を「アシル=クロード」から「クロード=アシル」に変えた。 1893年4月、『選ばれし乙女』が国民音楽協会の演奏会で初演され、その後同協会の運営委員にも選出された。また12月29日に『弦楽四重奏曲』がイザイ弦楽四重奏団によって初演されている。 1894年3月、テレーズ・ロジェ (Thérèse Roger) と婚約するが、ドビュッシーの恋人だったガブリエル・デュポン(愛称ギャビー)の知るところとなり破談。この出来事でショーソンと疎遠になり、ショーソンが1899年6月に事故で没したときにも葬儀に参列しなかった。12月22日に『牧神の午後への前奏曲』が初演。リリー・テクシエと最初の結婚をする。 1900年代に入ると、『ビリティスの歌』(1900年)、『夜想曲』(1900年)、『版画』(1904年)などが初演された。また、オペラ『ペレアスとメリザンド』が完成し、1902年に初演され大きな成功を収めた。これらの一連の作品で成功したドビュッシーは、作曲家としてのキャリアを確実なものとした。1903年にはレジオン・ドヌール五等勲章を受勲している。 1905年には交響詩『海』、ピアノ曲集『映像 第1集』を発表し、新たな境地を見せる。同時にこの年、エンマ・バルダックと同棲する。のちにリリーと正式に離婚し、エンマと2度目の結婚をした。エンマとの間には娘クロード=エンマ(愛称シュシュ)が誕生する。 1910年には『前奏曲集 第1巻』を発表し、ピアノ曲において作曲家のキャリアを不動のものとした。一方、この時期にエドガー・アラン・ポーの小説『アッシャー家の崩壊』に基づくオペラを作曲していたが、完成せず放棄された。もう一つの大作劇音楽『聖セバスティアンの殉教』(1911年)は、長すぎる原作戯曲の上演の失敗などがあって顧みられず、弟子のアンドレ・カプレによる『交響的断章』としての演奏会形式の編曲によりかろうじてレパートリーとして生き延びているに過ぎない。 1913年、バレエ音楽『遊戯』が完成し、同年にピエール・モントゥーによって初演され、これはバレエ・リュスの上演によって成功を収めた。しかしその2週間後に同じ演奏陣によってストラヴィンスキーの『春の祭典』が上演され、そのスキャンダルの陰に隠れてしまう。夏に『おもちゃ箱』の作曲に着手する(管弦楽化はアンドレ・カプレと協力)。12月、モスクワとペテルブルクに演奏旅行に行く(クーセヴィツキーとジロティの要請による)。 1914年、第一次世界大戦が勃発してエンマの息子(ドビュッシーにとっては連れ子)のラウルが兵士として動員されたことなどを受けて、戦争を恐れるようになっていたドビュッシーは、9月に家族とともにアンジェに避難したが、1か月後にパリへと戻る。この時すでにドビュッシーの身体は病に侵されており、大腸癌を発病していた。この頃から「様々な楽器のための6つのソナタ」に着手するも、完成したのは3曲のみであった。 1915年、『12の練習曲』や『6つの古代碑銘』などを生み出す。3月23日に母が死去、同じ頃にエンマの母もこの世を去っている。 1916年は『ヴァイオリンソナタ』の構想や、未完に終わったオペラ『アッシャー家の崩壊』の台本(決定稿)の作成に取りかかる。またこの年には2台ピアノのための『白と黒で』や『チェロソナタ』などを含む4つの作品が初演されている。私生活では、離婚した元妻のリリー(マリ・ロザリー・テクシエ)に対する月手当ての支払いが1910年以来滞っていたため、裁判所から3万フランの供託金の支払いを命令されている。 1917年7月、一家はスペイン国境付近のサン=ジャン=ド=リュズに3か月滞在する。この地は保養地として有名であったため、多くの著名人が訪れている。ドビュッシーは同地で自作の『ヴァイオリンソナタ』を演奏しているが、これが生涯最後の公開演奏となった。この時期に計画していた残りのソナタとピアノ協奏曲の作曲を想起していたが、これらの作品はいずれも実現せずに終わっている。 1918年初旬、直腸癌により床から離れられなくなり、3月25日の夕方に息を引き取った。55歳。1905年から死去する1918年にかけて居住したパリ16区スクアール・ド・ラヴニュ=フォッシュ (Square de l'Avenue-Foch) 24番地の自宅だった。葬儀は29日に行われ、遺体はパッシー墓地に埋葬された(埋葬は翌年のことで、前年は仮に安置されていた)。またドビュッシーが没した翌年の1919年に娘クロード=エンマがジフテリアによる髄膜炎によって夭逝、妻エンマは16年後の1934年に世を去った。 3人の弟については資料の少なさゆえに詳細は不明であるが、妹アデールは2つの世界大戦を生き抜いた唯一の人物である。 サンジェルマン=アン=レーのドビュッシー博物館には、現代に至るまでのドビュッシー家の家系図が展示されている。 気難しい性格で、内向的かつ非社交的であった。音楽院に入学してからは伝統を破壊しかねない言動(不平不満や文句)をしていたため、ギローなど担当教師らを困らせていた。また、女性関係においてのトラブルも絶えなかった。元々18歳より弁護士の人妻マリー=ブランシュ・ヴァニエ夫人 (Marie-Blanche Vasnier) と8年間の情事のあと別れ、1889年から (Rue Gustave Doré) にて同棲を続けていたガブリエル・デュポン(愛称ギャビー)とは、自殺未遂騒動の末に1898年に破局を迎えた。同じ頃、ソプラノ歌手のテレーズ・ロジェ (Thérèse Roger) とも情通している。翌年10月にはギャビーの友人であるマリ・ロザリー・テクシエ(愛称リリー)と結婚するが、1904年頃から、教え子の母親、銀行家の人妻であるエンマ・バルダックと不倫関係になり、リリーはコンコルド広場で胸を銃で撃ち自殺未遂となり、離婚する(1905年)。この事件がもとで、ドビュッシーはすでに彼の子を身ごもっていたエンマとともに一時イギリスに逃避行することとなり、友人の多くを失うこととなる。長女クロード=エンマ(愛称シュシュ)の出産に際しパリに戻り、エンマと同棲した(1908年に結婚)。シュシュはドビュッシーに溺愛され、『子供の領分』を献呈された。 同じ印象派の作曲家とされることが多いモーリス・ラヴェルは、父親がドビュッシーとかつて交友関係にあった。1898年にラヴェルが2台ピアノのための『耳で聞く風景』で作曲家としてのデビューを果たした時には、ドビュッシーはその中の1曲「ハバネラ」(1895年作曲。後に『スペイン狂詩曲』第3曲に編入)に関心を持ち、ラヴェルに自筆譜の写しを貸してくれるよう頼み、ラヴェルの方でも『ペレアスとメリザンド』に対して、自らが所属するグループ「アパッシュ」のメンバーとともに積極的に支持するなど、両者は互いの作品を評価し合い、親密な交友が続いた。だが1904年初演の『版画』の第2曲「グラナダの夕暮れ」を聴いたラヴェルは、前述の自作「ハバネラ」と類似しているとしてドビュッシーに反発。以後両者の関係は疎遠となった。しかし、20世紀初頭の作品である『水の戯れ』や弦楽四重奏曲などの作品ではドビュッシーの影響が見受けられ、本人もドビュッシーの管弦楽曲をピアノ曲へと編曲し、またはピアノ曲を管弦楽曲へと編曲している。 絵画においてはイギリスの画家ウィリアム・ターナーを特に愛好しており、創作のインスピレーションを得ていた。 初期の作品であるカンタータ『選ばれし乙女』(1888年)や『ボードレールの5つの詩』(1889年)まではワーグナーの影響を見ることができる。しかしこの頃の作品、特にヴェルレーヌと出会って以降の3つの歌曲、『忘れられたアリエッタ』、『華やかな饗宴』第1集などでは、より明確に独自の書法へと変化していった。弦楽四重奏曲ト短調(1893年)においてはフリギア旋法だけではなく、様々な教会旋法を使用している。なかでも『牧神の午後への前奏曲』(1894年)、メーテルリンクの戯曲によるオペラ『ペレアスとメリザンド』(1893年頃着手、完成は1902年)など同時代の作品から現れた全音音階の使用は、その後の独特のハーモニーの基盤ともなっている。また、これらの作品は規則的な律動にとらわれない書法の先駆けでもあり、それまでの西洋音楽の概念からは異色ともいえるものだった。 ドビュッシーの音楽は印象主義音楽と俗に呼ばれている。印象派(ないし印象主義)という表現はもともと、1874年に最初の展覧会を開催した新進画家グループ(モネ、ドガ、セザンヌら)に共通していた表現様式に対する揶揄表現が定着したものであり、音楽における《印象主義》も、若手作曲家の作品への揶揄の意味合いを込めて用いられた表現である。ドビュッシー自身も、出版社のデュランに宛てた書簡(1908年3月)の中で、この用語に対して否定的な見解を示した。 ドビュッシーは20世紀で最も影響力のある作曲家の一人としてしばし見なされており、西洋音楽からジャズ、ミニマル・ミュージック、ポップスに至るまで幅広く多様多種な音楽の部類に影響を与えている。 西洋音楽においては、バルトーク・ベーラ、イーゴリ・ストラヴィンスキー、初期作品の時期のラヴェル、フランシス・プーランク、ダリウス・ミヨー、アルベール・ルーセル、ジョージ・ガーシュウィン、ピエール・ブーレーズ、オリヴィエ・メシアン、アンリ・デュティーユ、レオ・オーンスタイン、アレクサンドル・スクリャービン、カロル・シマノフスキ、ミニマル・ミュージックにおいてはスティーブ・ライヒに対して影響力を有している。日本の作曲家では武満徹、坂本龍一がドビュッシーからの影響を公言している。 ジャズにおいては、ガーシュウィン、ジャンゴ・ラインハルト、デューク・エリントン、バド・パウエル、マイルス・デイヴィス(彼の盟友であるギル・エヴァンスによると、マイルスの自作曲である「So What」はドビュッシーの前奏曲集第一巻に収録されているヴェールVoilesを下敷きにして作曲されたとのことである)、ビル・エヴァンス、ハービー・ハンコック、アントニオ・カルロス・ジョビン、アンドリュー・ヒル、ビックス・バイダーベックなど。またビバップの和声法はドビュッシーとアルノルト・シェーンベルクからの影響が大きい。 電子音楽では冨田勲がドビュッシーの作品を多数取り上げ、編曲したことによって影響がもたらされている。 小惑星(4492) Debussyはドビュッシーの名前にちなんで命名された。 (カッコ内は詩人)
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "クロード・アシル・ドビュッシー(Claude Achille Debussy フランス語: [klod aʃil dəbysi], 1862年8月22日 - 1918年3月25日)は、フランスの作曲家。長音階・短音階以外の旋法と、機能和声にとらわれることのない自由な和声法などを用いて作曲し、その伝統から外れた音階と和声の用い方から、19世紀後半から20世紀初頭にかけて最も影響力を持った作曲家の一人。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ドビュッシーの音楽は、代表作『海』や『夜想曲』などにみられる特徴的な作曲技法から「印象主義音楽(印象派)」と称されることもある。しかし、本人は「印象派」と呼ばれることを強く拒否した。テクスト(詞)やテーマの選択は象徴派(象徴主義)からの影響が色濃い。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "なお、名前は生後1890年(28歳)まで「アシル=クロード」、1890年(28歳)から「クロード=アシル」である。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1862年8月22日午前4時半、イヴリーヌ県サン=ジェルマン=アン=レーのパン通り38番地に「アシル=クロード・ドビュッシー」として生まれた(この建物は現在ドビュッシー博物館となっている)。父親のマニュエル・アシル・ドビュッシーは陶器店を経営し、母親のヴィクトリーヌ・マヌリ・ドビュッシーは裁縫師であった。5人兄弟の長男として生まれているが、彼が2歳(1864年7月31日)になってから洗礼を受けている。その年に一家は経営難のためサン=ジェルマン=アン=レーを離れ、母方の実家(クリシー)に同居する。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1870年、カンヌに住む伯母クレメンティーヌ(父の姉に当たる)のもと、彼女の肝煎りでイタリアのヴァイオリニスト、ジャン・チェルッティ(Jean Cerutti)にピアノを習う(期間は不明)。このカンヌでの滞在は1回だけであったが、後年ドビュッシーは鮮烈な印象を残したと手紙の中で語っている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1871年、詩人ヴェルレーヌの義母アントワネット・モテ・ド・フルールヴィル夫人に基礎的な音楽の手ほどきを受ける。これは、偶然にも父親の知人であったヴェルレーヌの義兄でオペレッタ作曲家のシャルル・ド・シヴリー (Charles de Sivry) と出会い、シヴリーが少年のドビュッシーを自分の母親のフルールヴィル夫人に引き合わせたとされる。夫人はドビュッシーの才能を見抜き、親身に彼を教えたという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "幼少期のドビュッシーについては、後年本人が語ろうとしなかったため、どのように過ごしたのかは不明である。ただしこの時期からピアノの手ほどきを受けていたことは確かである。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1872年10月22日、10歳でパリ音楽院に入学する。この時の合格者はドビュッシーを含むわずか33名であった。1年後、エルネスト・ギロー(作曲)、オーギュスト・バジュ(ピアノ伴奏法)、アントワーヌ・マルモンテル(ピアノ)、エミール・デュラン(作曲)、アルベール・ラヴィニャック(ソルフェージュ)らに学ぶ。元々ピアニストになるつもりで、1873年の1月29日にJ.S.バッハの『トッカータ』(BWV915) を弾いた際、「魅力的な素質」と評価されて自信を持ち、ピアニストへの道に進むことを決めたという。1874年に学内のコンクールにおいてショパンのピアノ協奏曲第2番の第1楽章を弾いて第2次席賞を獲得。翌1875年にショパンの『バラード第1番』で第1次席賞を得るが、1876年には獲得できなかった 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l'Avenue-Foch) 24番地の自宅だった。葬儀は29日に行われ、遺体はパッシー墓地に埋葬された(埋葬は翌年のことで、前年は仮に安置されていた)。またドビュッシーが没した翌年の1919年に娘クロード=エンマがジフテリアによる髄膜炎によって夭逝、妻エンマは16年後の1934年に世を去った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "3人の弟については資料の少なさゆえに詳細は不明であるが、妹アデールは2つの世界大戦を生き抜いた唯一の人物である。", "title": "家族" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "サンジェルマン=アン=レーのドビュッシー博物館には、現代に至るまでのドビュッシー家の家系図が展示されている。", "title": "家族" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "気難しい性格で、内向的かつ非社交的であった。音楽院に入学してからは伝統を破壊しかねない言動(不平不満や文句)をしていたため、ギローなど担当教師らを困らせていた。また、女性関係においてのトラブルも絶えなかった。元々18歳より弁護士の人妻マリー=ブランシュ・ヴァニエ夫人 (Marie-Blanche Vasnier) と8年間の情事のあと別れ、1889年から (Rue Gustave Doré) にて同棲を続けていたガブリエル・デュポン(愛称ギャビー)とは、自殺未遂騒動の末に1898年に破局を迎えた。同じ頃、ソプラノ歌手のテレーズ・ロジェ (Thérèse Roger) とも情通している。翌年10月にはギャビーの友人であるマリ・ロザリー・テクシエ(愛称リリー)と結婚するが、1904年頃から、教え子の母親、銀行家の人妻であるエンマ・バルダックと不倫関係になり、リリーはコンコルド広場で胸を銃で撃ち自殺未遂となり、離婚する(1905年)。この事件がもとで、ドビュッシーはすでに彼の子を身ごもっていたエンマとともに一時イギリスに逃避行することとなり、友人の多くを失うこととなる。長女クロード=エンマ(愛称シュシュ)の出産に際しパリに戻り、エンマと同棲した(1908年に結婚)。シュシュはドビュッシーに溺愛され、『子供の領分』を献呈された。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "同じ印象派の作曲家とされることが多いモーリス・ラヴェルは、父親がドビュッシーとかつて交友関係にあった。1898年にラヴェルが2台ピアノのための『耳で聞く風景』で作曲家としてのデビューを果たした時には、ドビュッシーはその中の1曲「ハバネラ」(1895年作曲。後に『スペイン狂詩曲』第3曲に編入)に関心を持ち、ラヴェルに自筆譜の写しを貸してくれるよう頼み、ラヴェルの方でも『ペレアスとメリザンド』に対して、自らが所属するグループ「アパッシュ」のメンバーとともに積極的に支持するなど、両者は互いの作品を評価し合い、親密な交友が続いた。だが1904年初演の『版画』の第2曲「グラナダの夕暮れ」を聴いたラヴェルは、前述の自作「ハバネラ」と類似しているとしてドビュッシーに反発。以後両者の関係は疎遠となった。しかし、20世紀初頭の作品である『水の戯れ』や弦楽四重奏曲などの作品ではドビュッシーの影響が見受けられ、本人もドビュッシーの管弦楽曲をピアノ曲へと編曲し、またはピアノ曲を管弦楽曲へと編曲している。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "絵画においてはイギリスの画家ウィリアム・ターナーを特に愛好しており、創作のインスピレーションを得ていた。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "初期の作品であるカンタータ『選ばれし乙女』(1888年)や『ボードレールの5つの詩』(1889年)まではワーグナーの影響を見ることができる。しかしこの頃の作品、特にヴェルレーヌと出会って以降の3つの歌曲、『忘れられたアリエッタ』、『華やかな饗宴』第1集などでは、より明確に独自の書法へと変化していった。弦楽四重奏曲ト短調(1893年)においてはフリギア旋法だけではなく、様々な教会旋法を使用している。なかでも『牧神の午後への前奏曲』(1894年)、メーテルリンクの戯曲によるオペラ『ペレアスとメリザンド』(1893年頃着手、完成は1902年)など同時代の作品から現れた全音音階の使用は、その後の独特のハーモニーの基盤ともなっている。また、これらの作品は規則的な律動にとらわれない書法の先駆けでもあり、それまでの西洋音楽の概念からは異色ともいえるものだった。", "title": "作品と表現" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ドビュッシーの音楽は印象主義音楽と俗に呼ばれている。印象派(ないし印象主義)という表現はもともと、1874年に最初の展覧会を開催した新進画家グループ(モネ、ドガ、セザンヌら)に共通していた表現様式に対する揶揄表現が定着したものであり、音楽における《印象主義》も、若手作曲家の作品への揶揄の意味合いを込めて用いられた表現である。ドビュッシー自身も、出版社のデュランに宛てた書簡(1908年3月)の中で、この用語に対して否定的な見解を示した。", "title": "作品と表現" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ドビュッシーは20世紀で最も影響力のある作曲家の一人としてしばし見なされており、西洋音楽からジャズ、ミニマル・ミュージック、ポップスに至るまで幅広く多様多種な音楽の部類に影響を与えている。", "title": "後世への影響" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "西洋音楽においては、バルトーク・ベーラ、イーゴリ・ストラヴィンスキー、初期作品の時期のラヴェル、フランシス・プーランク、ダリウス・ミヨー、アルベール・ルーセル、ジョージ・ガーシュウィン、ピエール・ブーレーズ、オリヴィエ・メシアン、アンリ・デュティーユ、レオ・オーンスタイン、アレクサンドル・スクリャービン、カロル・シマノフスキ、ミニマル・ミュージックにおいてはスティーブ・ライヒに対して影響力を有している。日本の作曲家では武満徹、坂本龍一がドビュッシーからの影響を公言している。", "title": "後世への影響" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ジャズにおいては、ガーシュウィン、ジャンゴ・ラインハルト、デューク・エリントン、バド・パウエル、マイルス・デイヴィス(彼の盟友であるギル・エヴァンスによると、マイルスの自作曲である「So What」はドビュッシーの前奏曲集第一巻に収録されているヴェールVoilesを下敷きにして作曲されたとのことである)、ビル・エヴァンス、ハービー・ハンコック、アントニオ・カルロス・ジョビン、アンドリュー・ヒル、ビックス・バイダーベックなど。またビバップの和声法はドビュッシーとアルノルト・シェーンベルクからの影響が大きい。", "title": "後世への影響" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "電子音楽では冨田勲がドビュッシーの作品を多数取り上げ、編曲したことによって影響がもたらされている。", "title": "後世への影響" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "小惑星(4492) Debussyはドビュッシーの名前にちなんで命名された。", "title": "後世への影響" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "(カッコ内は詩人)", "title": "主な作品" } ]
クロード・アシル・ドビュッシーは、フランスの作曲家。長音階・短音階以外の旋法と、機能和声にとらわれることのない自由な和声法などを用いて作曲し、その伝統から外れた音階と和声の用い方から、19世紀後半から20世紀初頭にかけて最も影響力を持った作曲家の一人。 ドビュッシーの音楽は、代表作『海』や『夜想曲』などにみられる特徴的な作曲技法から「印象主義音楽(印象派)」と称されることもある。しかし、本人は「印象派」と呼ばれることを強く拒否した。テクスト(詞)やテーマの選択は象徴派(象徴主義)からの影響が色濃い。 なお、名前は生後1890年(28歳)まで「アシル=クロード」、1890年(28歳)から「クロード=アシル」である。
{{Infobox Musician<!-- プロジェクト:音楽家を参照 --> |名前 = クロード・ドビュッシー<br />{{lang|fr|Claude Debussy}} |画像 = Claude Debussy ca 1908, foto av Félix Nadar.jpg |画像説明 = <!-- 画像の説明文 --> |画像サイズ = <!-- サイズが幅250ピクセルに満たない場合のみ記入 --> |画像補正 = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --> |背景色 = classic |出生名 = {{lang|fr|Achille Claude Debussy}} |別名 = <!-- ミュージシャン/グループの別名を記載。愛称や略称ではありません --> |出生 = {{生年月日|1862|08|22}}<br />{{FRA1852}}、[[サン=ジェルマン=アン=レー]] |出身地 = |死没 = {{死亡年月日と没年齢|1862|8|22|1918|3|25}}<br />{{FRA1870}}、[[16区 (パリ)|パリ16区]] |学歴 = [[パリ国立高等音楽・舞踊学校|パリ音楽院]] |ジャンル = [[印象主義音楽]] |職業 = [[作曲家]] |担当楽器 = |活動期間 = [[1884年]] - [[1916年]] |レーベル = |事務所 = |共同作業者 = |公式サイト = |著名使用楽器 = }} {{Portal クラシック音楽}} '''クロード・アシル・ドビュッシー'''({{lang|fr|Claude Achille Debussy}} {{IPA-fr|klod aʃil dəbysi|lang}}, [[1862年]][[8月22日]] - [[1918年]][[3月25日]])は、[[フランス]]の[[作曲家]]。[[長音階]]・[[短音階]]以外の[[旋法]]と、[[機能和声]]にとらわれることのない自由な和声法などを用いて作曲し、その伝統から外れた音階と和声の用い方から、19世紀後半から20世紀初頭にかけて最も影響力を持った作曲家の一人<ref>[http://www.allmusic.com/artist/claude-debussy-mn0000768781/biography Biography Claude Debussy] allmusic.com</ref>。 ドビュッシーの音楽は、代表作『[[海 (ドビュッシー)|海]]』<!--『[[ベルガマスク組曲|月の光]]』-->や『[[夜想曲 (ドビュッシー)|夜想曲]]』などにみられる特徴的な作曲技法から「[[印象主義音楽]](印象派)」と称されることもある。しかし、本人は「印象派」と呼ばれることを強く拒否した<ref>[https://www.udiscovermusic.jp/classical-features/best-ravel-works ラヴェル名曲集:偉大な作曲家による重要な10作品]</ref>。テクスト(詞)やテーマの選択は象徴派([[象徴主義]])からの影響が色濃い。 なお、名前は生後1890年(28歳)まで「'''アシル=クロード'''」、1890年(28歳)から「'''クロード=アシル'''」である。 == 生涯 == === 幼少期 === [[1862年]][[8月22日]]午前4時半、[[イヴリーヌ県]][[サン=ジェルマン=アン=レー]]のパン通り38番地に「アシル=クロード・ドビュッシー」として生まれた(この建物は現在ドビュッシー博物館となっている)<ref>著者吉澤ヴィルヘルム、発行者矢野恵二『ピアニストガイド』株式会社青弓社、印刷所・製本所厚徳所、2006年2月10日、p.246、ISBN 4-7872-7208-X</ref>。父親のマニュエル・アシル・ドビュッシーは陶器店を経営し、母親のヴィクトリーヌ・マヌリ・ドビュッシーは裁縫師であった。5人兄弟の長男として生まれているが、彼が2歳([[1864年]]7月31日)になってから[[洗礼]]を受けている。その年に一家は経営難のためサン=ジェルマン=アン=レーを離れ、母方の実家([[クリシー]])に同居する。 [[1870年]]、[[カンヌ]]に住む伯母クレメンティーヌ(父の姉に当たる)のもと、彼女の肝煎りで[[イタリア]]の[[ヴァイオリニスト]]、ジャン・チェルッティ(Jean Cerutti)にピアノを習う(期間は不明){{efn|ただし、チェルッティは彼の持つ才能を見抜けなかったといわれる<ref>ゴレア p.11</ref>。}}。このカンヌでの滞在は1回だけであったが、後年ドビュッシーは鮮烈な印象を残したと手紙の中で語っている。 [[1871年]]、詩人[[ポール・ヴェルレーヌ|ヴェルレーヌ]]の義母アントワネット・モテ・ド・フルールヴィル夫人に基礎的な音楽の手ほどきを受ける。これは、偶然にも父親の知人であったヴェルレーヌの義兄で[[オペレッタ]]作曲家のシャルル・ド・シヴリー ([[:fr:Charles de Sivry|Charles de Sivry]]) と出会い、シヴリーが少年のドビュッシーを自分の母親のフルールヴィル夫人に引き合わせたとされる。夫人はドビュッシーの才能を見抜き、親身に彼を教えたという。 幼少期のドビュッシーについては、後年本人が語ろうとしなかったため、どのように過ごしたのかは不明である。ただしこの時期からピアノの手ほどきを受けていたことは確かである。 === 音楽院入学とローマ賞 === [[1872年]]10月22日、10歳で[[パリ国立高等音楽・舞踊学校|パリ音楽院]]に入学する。この時の合格者はドビュッシーを含むわずか33名であった。1年後、[[エルネスト・ギロー]](作曲)、オーギュスト・バジュ(ピアノ伴奏法)、[[アントワーヌ・マルモンテル]](ピアノ)、エミール・デュラン(作曲)、[[アルベール・ラヴィニャック]]([[ソルフェージュ]])らに学ぶ。元々[[ピアニスト]]になるつもりで、[[1873年]]の1月29日に[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|J.S.バッハ]]の『トッカータ』(BWV915) を弾いた際、「魅力的な素質」と評価されて自信を持ち、ピアニストへの道に進むことを決めたという。[[1874年]]に学内のコンクールにおいて[[フレデリック・ショパン|ショパン]]の[[ピアノ協奏曲第2番 (ショパン)|ピアノ協奏曲第2番]]の第1楽章を弾いて第2次席賞を獲得。翌[[1875年]]にショパンの『[[バラード第1番 (ショパン)|バラード第1番]]』で第1次席賞を得るが、[[1876年]]には獲得できなかった <ref group="注釈">演奏曲目は[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の『[[ピアノソナタ第23番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第23番]]』の第1楽章。</ref>。[[1877年]]には[[ロベルト・シューマン|シューマン]]の『[[ピアノソナタ第2番 (シューマン)|ピアノソナタ第2番]]』(第1楽章)で再び第2次席賞を獲るが、[[1878年]]と[[1879年]]は2年続けて賞が取れずに失敗し、これによってピアニストになることを諦める決心をした。そして結局ピアノで賞を得ることができず(1位入賞を目標にしていたため)、その年にピアノ科を去り、10月にバジュ(バズィーユ)のピアノ伴奏法のクラスに入る。 一方でドビュッシーは作曲にも挑戦している。[[1878年]]にピアノ曲『フーガ』(L番号なし)を作曲し、これは現存するドビュッシーの最古の作品とされている。[[1879年]]に歌曲『月に寄せるバラード』(L.1、紛失)と『マドリード』(L.2、近年発見<ref>ルシュール (2003) p.42</ref>)を作曲する。 [[1880年]]7月、18歳のドビュッシーは[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]の[[パトロン]]であった[[ナジェジダ・フォン・メック|フォン・メック夫人]]の長期旅行にピアニストとして同伴し、『[[ピアノ三重奏曲 (ドビュッシー)|ピアノ三重奏曲]]』(L.3) や『交響曲 ロ短調』(L.10) の断片を作曲した。また、『ボヘミア舞曲』(L.9) という小品を夫人の計らいでチャイコフスキーへ送るが、酷評を受けた(出版はドビュッシーの死後)。メック夫人を通して、チャイコフスキーの当時の最新作であった[[交響曲第4番 (チャイコフスキー)|交響曲第4番]]([[1877年]])などのロシアの作品も勉強しており、この経験が元でチャイコフスキーや[[ロシア5人組]]に影響を受ける。また貴族趣味も芽生えた。 パリに戻ったのち、この年の12月24日にギローのクラスに入る(当初[[ジュール・マスネ|マスネ]]に師事するつもりでいた)。また[[セザール・フランク]]のオルガンのクラスに顔を出しているが、オルガンにおける「執拗な灰色の色調」に嫌気が差したため、わずか半年でクラスから逃げるように立ち去っている<ref>松橋 p.25</ref>。 [[1882年]]に歌曲『星の輝く夜』(L.4) を出版する。また10作以上の歌曲を作曲する。この年の5月にローマ賞に挑戦するも、予選落ちに終わる。 [[画像:Claude Debussy by Marcel Baschet 1884.jpg|160px|thumb|left|1884年の肖像画<br />(画)[[マルセル・バシェ]] ]] [[1883年]]5月、2回目となるローマ賞に挑戦し、『祈り』(L.40) で予選を通過。カンタータ『剣闘士』(L.41) 本選の第2等賞を獲得する。 [[1884年]]に3回目となるローマ賞に挑戦し、カンタータ『春』(L.56) で予選を通過、[[カンタータ]]『放蕩息子』(L.57) で[[ローマ大賞]]を受賞する<ref>{{Cite web |url=https://kotobank.jp/word/ドビュッシー-105661 |title=ドビュッシーとは |publisher=コトバンク |accessdate=2018-08-13}}</ref>。審査員の中には[[シャルル・グノー|グノー]]や[[カミーユ・サン=サーンス|サン=サーンス]]もいた。翌[[1885年]]から[[1887年]]にかけて[[イタリア王国|イタリア]]の[[ローマ]]へと留学したものの、あまりイタリアの雰囲気には馴染めず、ローマ大賞受賞者に与えられる期間を繰り上げてパリに戻った。これにはヴァニエ夫人という意中の人がいたためともいわれる。このヴァニエ夫人のために書かれたいくつかの歌曲のうち[[ポール・ヴェルレーヌ]]の「[[艶なる宴 (詩集)|艶なる宴]]」に基づくものは後に『艶なる宴』(全2集)としてまとめられた。またローマに留学していた頃に生み出された作品は、いくつかの歌曲や交響組曲『[[春 (ドビュッシー)|春]]』、合唱と管弦楽のための『ツライマ(ズレイマ)』(L.59、後に破棄されて現存しない)である(なおローマからパリへ帰郷してから作られた作品はカンタータ『選ばれた乙女』や『[[ピアノと管弦楽のための幻想曲 (ドビュッシー)|ピアノと管弦楽のための幻想曲]]』)。 [[1888年]]の夏、銀行家のエティエンヌ・デュパンの支援によって念願であった[[バイロイト]]へ初めて行き、同地で『[[ニュルンベルクのマイスタージンガー]]』と『[[パルジファル]]』を聴く。 === 中期 === [[1889年]]は27歳のドビュッシーにとって大きな転機の年となる。1月には[[国民音楽協会]]に入会して[[エルネスト・ショーソン]]らと知り合い、新たな人脈と発表の場を得た。6月に[[パリ万国博覧会 (1889年)|パリ万国博覧会]]でジャワ音楽([[ガムラン]])を耳にしたことは、その後の彼の音楽に大きな影響を与えた。その後2度目に訪れた[[バイロイト音楽祭]]では[[ワグネリズム]]の限界を感じ、これを境にアンチ・ワグネリアンを標榜することになる。またこの頃、詩人[[ステファヌ・マラルメ]]の自宅サロン「火曜会」に唯一の音楽家として出席するようになり、この時の体験はのちにマラルメの詩による歌曲(『ステファヌ・マラルメによる3つの詩』)や、『[[牧神の午後への前奏曲]]』への作曲へとつながっていく。 [[1890年]]の28歳のとき、名前を「'''アシル=クロード'''」から「'''クロード=アシル'''」に変えた。 [[1893年]]4月、『[[選ばれし乙女]]』が国民音楽協会の演奏会で初演され、その後同協会の運営委員にも選出された。また12月29日に『[[弦楽四重奏曲 (ドビュッシー)|弦楽四重奏曲]]』が[[ウジェーヌ・イザイ|イザイ弦楽四重奏団]]によって初演されている。 [[1894年]]3月、テレーズ・ロジェ (Thérèse Roger) と婚約するが、ドビュッシーの恋人だったガブリエル・デュポン(愛称ギャビー)の知るところとなり破談。この出来事でショーソンと疎遠になり、ショーソンが[[1899年]]6月に事故で没したときにも葬儀に参列しなかった。12月22日に『[[牧神の午後への前奏曲]]』が初演。リリー・テクシエと最初の結婚をする。 [[1900年代]]に入ると、『[[ビリティスの歌]]』([[1900年]])、『[[夜想曲 (ドビュッシー)|夜想曲]]』(1900年)、『[[版画 (ドビュッシー)|版画]]』([[1904年]])などが初演された。また、オペラ『[[ペレアスとメリザンド (ドビュッシー)|ペレアスとメリザンド]]』が完成し、[[1902年]]に初演され大きな成功を収めた。これらの一連の作品で成功したドビュッシーは、作曲家としてのキャリアを確実なものとした。[[1903年]]には[[レジオンドヌール勲章|レジオン・ドヌール五等勲章]]を受勲している。 [[1905年]]には交響詩『[[海 (ドビュッシー)|海]]』、ピアノ曲集『[[映像 (ドビュッシー)|映像 第1集]]』を発表し、新たな境地を見せる。同時にこの年、エンマ・バルダックと同棲する。のちにリリーと正式に離婚し、エンマと2度目の結婚をした。エンマとの間には娘クロード=エンマ(愛称シュシュ)が誕生する。 1910年には『[[前奏曲 (ドビュッシー)|前奏曲集]] 第1巻』を発表し、ピアノ曲において作曲家のキャリアを不動のものとした。一方、この時期に[[エドガー・アラン・ポー]]の小説『[[アッシャー家の崩壊]]』に基づくオペラを作曲していたが、完成せず放棄された。もう一つの大作劇音楽『[[聖セバスティアンの殉教]]』([[1911年]])は、長すぎる原作戯曲の上演の失敗などがあって顧みられず、弟子の[[アンドレ・カプレ]]による『交響的断章』としての演奏会形式の編曲によりかろうじてレパートリーとして生き延びているに過ぎない。 [[1913年]]、バレエ音楽『[[遊戯 (ドビュッシー)|遊戯]]』が完成し、同年に[[ピエール・モントゥー]]によって初演され、これは[[バレエ・リュス]]の上演によって成功を収めた。しかしその2週間後に同じ演奏陣によって[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]の『[[春の祭典]]』が上演され、そのスキャンダルの陰に隠れてしまう。夏に『[[おもちゃ箱 (ドビュッシー)|おもちゃ箱]]』の作曲に着手する(管弦楽化は[[アンドレ・カプレ]]と協力)。12月、[[モスクワ]]とペテルブルクに演奏旅行に行く([[セルゲイ・クーセヴィツキー|クーセヴィツキー]]と[[アレクサンドル・ジロティ|ジロティ]]の要請による)。 === 晩年 === [[1914年]]、[[第一次世界大戦]]が勃発してエンマの息子(ドビュッシーにとっては連れ子)のラウルが兵士として動員されたことなどを受けて、戦争を恐れるようになっていたドビュッシーは、9月に家族とともにアンジェに避難したが、1か月後にパリへと戻る。この時すでにドビュッシーの身体は病に侵されており、大腸癌を発病していた。この頃から「様々な楽器のための6つのソナタ」に着手するも、完成したのは3曲のみであった。 [[1915年]]、『[[練習曲 (ドビュッシー)|12の練習曲]]』や『[[ビリティスの歌|6つの古代碑銘]]』などを生み出す。3月23日に母が死去、同じ頃にエンマの母もこの世を去っている。 [[1916年]]は『ヴァイオリンソナタ』の構想や、未完に終わったオペラ『アッシャー家の崩壊』の台本(決定稿)の作成に取りかかる。またこの年には2台ピアノのための『[[白と黒で]]』や『[[チェロソナタ (ドビュッシー)|チェロソナタ]]』などを含む4つの作品が初演されている。私生活では、離婚した元妻のリリー(マリ・ロザリー・テクシエ)に対する月手当ての支払いが1910年以来滞っていたため、裁判所から3万フランの[[供託金]]の支払いを命令されている。 [[1917年]]7月、一家は[[スペイン]]国境付近の[[サン=ジャン=ド=リュズ]]に3か月滞在する。この地は保養地として有名であったため、多くの著名人が訪れている。ドビュッシーは同地で自作の『[[ヴァイオリンソナタ (ドビュッシー)|ヴァイオリンソナタ]]』を演奏しているが、これが生涯最後の公開演奏となった。この時期に計画していた残りのソナタと[[ピアノ協奏曲]]の作曲を想起していたが、これらの作品はいずれも実現せずに終わっている。 [[1918年]]初旬、[[直腸癌]]により床から離れられなくなり、[[3月25日]]の夕方に息を引き取った。55歳。1905年から死去する1918年にかけて居住した[[16区 (パリ)|パリ16区]]スクアール・ド・ラヴニュ=フォッシュ ([[:fr:Square de l'Avenue-Foch|Square de l'Avenue-Foch]]) 24番地の自宅だった<!--[[地球の歩き方|地球の歩き方編集室]]編 『[[地球の歩き方|地球の歩き方A07・パリ&近郊の町 2007〜2008年版]]』、[[ダイヤモンド社]]、2007年、p.216.の他、スクアール・ド・ラヴニュ=フォッシュフランス語版を参照。-->。葬儀は29日に行われ、遺体は[[パッシー墓地]]に埋葬された(埋葬は翌年のことで、前年は仮に安置されていた)。またドビュッシーが没した翌年の[[1919年]]に娘クロード=エンマがジフテリアによる髄膜炎によって夭逝、妻エンマは16年後の[[1934年]]に世を去った。 === 年譜 === [[画像:Twenty franc banknote claude debussy.JPG|240px|thumb|フランスの紙幣 (1997)]] *[[1862年]] - [[8月22日]] 午前4時半 誕生。 *[[1871年]] - この年から3年ほど、モーテ・ド・フルールヴィル夫人にピアノのレッスンを受ける。 *[[1872年]] - [[パリ国立高等音楽・舞踊学校|パリ音楽院]]入学。以後12年在籍。ピアノを[[アントワーヌ・マルモンテル|マルモンテル]]、[[ソルフェージュ]]を[[アルベール・ラヴィニャック|ラヴィニャック]]、和声学をデュラン、作曲法を[[エルネスト・ギロー|ギロー]]に師事。 *[[1880年]] - [[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]のパトロンであった[[ナジェジダ・フォン・メック|フォン・メック夫人]]の長期旅行にピアニストとして同伴。 *[[1884年]] - [[ローマ大賞]]を受賞。 *[[1885年]] - ローマに滞在。 *[[1887年]] - パリに戻る。 *[[1888年]] - 1度目の[[バイロイト音楽祭|バイロイト]]行き。 *[[1889年]] - [[パリ万国博覧会 (1889年)|パリ万国博覧会]]で東洋芸術に接触、2度目のバイロイト行き。 *[[1890年]] - 名前を「'''アシル=クロード'''」から「'''クロード=アシル'''」に変える。『[[ベルガマスク組曲]]』。 *[[1891年]] -『[[2つのアラベスク]]』。この頃、初期のピアノ小品や歌曲を多く手がける。 *[[1893年]] - [[モーリス・メーテルリンク|メーテルリンク]]の戯曲「[[ペレアスとメリザンド]]」に出会う。 *[[1894年]] - 『[[牧神の午後への前奏曲]]』。 *[[1899年]] - リリー・テクシエと最初の結婚。 *[[1902年]] - 『[[ペレアスとメリザンド (ドビュッシー)|ペレアスとメリザンド]]』初演。 *[[1905年]] - 『[[海 (ドビュッシー)|海]]』、[[エンマ・バルダック]]と同棲。長女クロード=エンマ(シュシュ)誕生。 *[[1910年]] - 『[[前奏曲 (ドビュッシー)|前奏曲集 第1集]]』。 *[[1911年]] - 舞台音楽劇『[[聖セバスティアンの殉教]]』。 *[[1913年]] - バレエ音楽『[[遊戯 (ドビュッシー)|遊戯]]』。[[バレエ・リュス]]のために作曲。 *[[1914年]] - [[第一次世界大戦]]勃発、[[大腸癌]]を発病。「様々な楽器のための6つのソナタ」着手(完成は3曲)。 *[[1918年]] - [[3月25日]]夕方 死去。 *[[1919年]] - 娘クロード=エンマ死去。 == 家族 == *父親:マニュエル=アシル・ドビュッシー(Manuel-Achille Debussy, 1836年 - 1910年) *:モンルージュ(パリの南郊)で生まれ、陶器商を経営していた。 *母親:ヴィクトリーヌ・マヌリ・ドビュッシー(Victorine Manoury Debussy, 1836年 - 1915年) *:車大工の父親と料理人の母親との間に生まれる。 *伯母:クレマンティーヌ・ドビュッシー(Clémentine Debussy, 1835年 - 1874年) *:マニュエル=アシルの姉。クロードが洗礼の際、代母として名付けを担当した。 *第1弟:エマニュエル・ドビュッシー(Emmanuel Debussy, 1867年 - 1937年) *第2弟:アルフレッド・ドビュッシー(Alfred Debussy, 1870年 - 1937年) *第3弟:ウジェーヌ=オクターヴ・ドビュッシー(Eugène-Octave Debussy, 1873年 - 1877年) *:末弟だが髄膜炎のため4歳で夭逝。 *第1妹:アデール・ドビュッシー(Adèle Debussy, 1863年 - 1952年) *:弟妹の中では長く生きた人物。 *1番目の妻:マリ・ロザリー・テクシエ (Marie Rosalie Texier, 1873年 - 1932年) *:通称リリー (Lily) *2番目の妻:エンマ・バルダック(Emma Baldac, 1862年 - 1934年) *:元々は銀行家バルダックの妻だった。息子のラウル、娘のエレーヌ(愛称ドリー)がいる。エレーヌは[[ガブリエル・フォーレ|フォーレ]]に溺愛され、一説にはフォーレとエンマの子であるともいわれた。フォーレは『[[ドリー (フォーレ)|ドリー組曲]]』を作曲している。 **娘:クロード=エンマ・ドビュッシー(Claude-Emma Debussy, 1905年 - 1919年) **:愛称シュシュ。父親の死の翌年に14歳で夭折。クロード=エンマが父親の死に際して異父の兄ラウルに宛てた手紙がドビュッシー博物館に展示されている。 3人の弟については資料の少なさゆえに詳細は不明であるが、妹アデールは2つの世界大戦を生き抜いた唯一の人物である。 サンジェルマン=アン=レーのドビュッシー博物館には、現代に至るまでのドビュッシー家の家系図が展示されている。 == 人物 == 気難しい性格で、内向的かつ非社交的であった。音楽院に入学してからは伝統を破壊しかねない言動(不平不満や文句)をしていたため、ギローなど担当教師らを困らせていた。また、女性関係においてのトラブルも絶えなかった。元々18歳より弁護士の人妻マリー=ブランシュ・ヴァニエ夫人 (Marie-Blanche Vasnier) と8年間の情事のあと別れ、1889年から (Rue Gustave Doré) にて同棲を続けていたガブリエル・デュポン(愛称ギャビー)とは、自殺未遂騒動の末に[[1898年]]に破局を迎えた。同じ頃、ソプラノ歌手のテレーズ・ロジェ (Thérèse Roger) とも情通している。翌年10月にはギャビーの友人であるマリ・ロザリー・テクシエ(愛称リリー)と結婚するが、1904年頃から、教え子の母親、銀行家の人妻である[[エンマ・バルダック]]と不倫関係になり、リリーは[[コンコルド広場]]で胸を銃で撃ち自殺未遂となり、離婚する(1905年)。この事件がもとで、ドビュッシーはすでに彼の子を身ごもっていたエンマとともに一時イギリスに逃避行することとなり、友人の多くを失うこととなる。長女クロード=エンマ(愛称シュシュ)の出産に際しパリに戻り、エンマと同棲した(1908年に結婚)。シュシュはドビュッシーに溺愛され、『[[子供の領分]]』を献呈された。 同じ印象派の作曲家とされることが多い[[モーリス・ラヴェル]]は、父親がドビュッシーとかつて交友関係にあった<ref>ルシュール (2003) p.128</ref>。[[1898年]]にラヴェルが[[ピアノ二重奏|2台ピアノ]]のための『耳で聞く風景』で作曲家としてのデビューを果たした時には、ドビュッシーはその中の1曲「ハバネラ」([[1895年]]作曲。後に『[[スペイン狂詩曲 (ラヴェル)|スペイン狂詩曲]]』第3曲に編入)に関心を持ち、ラヴェルに自筆譜の写しを貸してくれるよう頼み、ラヴェルの方でも『ペレアスとメリザンド』に対して、自らが所属するグループ「[[アパッシュ (芸術サークル)|アパッシュ]]」のメンバーとともに積極的に支持するなど、両者は互いの作品を評価し合い、親密な交友が続いた。だが[[1904年]]初演の『版画』の第2曲「グラナダの夕暮れ」を聴いたラヴェルは、前述の自作「ハバネラ」と類似しているとしてドビュッシーに反発。以後両者の関係は疎遠となった。しかし、20世紀初頭の作品である『[[水の戯れ]]』や[[弦楽四重奏曲 (ラヴェル)|弦楽四重奏曲]]などの作品ではドビュッシーの影響が見受けられ<ref name="Nichols_2011_p52">Nichols (2011), p.52</ref>、本人もドビュッシーの管弦楽曲をピアノ曲へと編曲し、またはピアノ曲を管弦楽曲へと編曲している。 絵画においてはイギリスの画家[[ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー|ウィリアム・ターナー]]を特に愛好しており<ref>[http://www.piano.or.jp/enc/docs/gakufu-31_maegaki.pdf ドビュッシー 映像第1巻(ベーレンライター版)前書 日本語訳] 全日本ピアノ指導者協会</ref>、創作のインスピレーションを得ていた。 == 作品と表現 == 初期の作品である[[カンタータ]]『[[選ばれし乙女]]』([[1888年]])や『[[ボードレールの5つの詩]]』([[1889年]])までは[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]の影響を見ることができる。しかしこの頃の作品、特に[[ポール・ヴェルレーヌ|ヴェルレーヌ]]と出会って以降の3つの歌曲、『[[忘れられたアリエッタ]]』、『華やかな饗宴』第1集などでは、より明確に独自の書法へと変化していった。[[弦楽四重奏曲 (ドビュッシー)|弦楽四重奏曲]]ト短調([[1893年]])においては[[フリギア旋法]]だけではなく、様々な[[教会旋法]]を使用している。なかでも『[[牧神の午後への前奏曲]]』([[1894年]])、[[モーリス・メーテルリンク|メーテルリンク]]の戯曲による[[オペラ]]『[[ペレアスとメリザンド (ドビュッシー)|ペレアスとメリザンド]]』(1893年頃着手、完成は[[1902年]])など同時代の作品から現れた[[全音音階]]の使用は、その後の独特のハーモニーの基盤ともなっている。また、これらの作品は規則的な律動にとらわれない書法の先駆けでもあり、それまでの[[西洋音楽]]の概念からは異色ともいえるものだった。 === 印象主義音楽 === ドビュッシーの音楽は[[印象主義音楽]]と俗に呼ばれている。[[印象派]](または印象主義)という表現はもともと、1874年に最初の展覧会を開催した新進画家グループ([[クロード・モネ|モネ]]、[[エドガー・ドガ|ドガ]]、[[ポール・セザンヌ|セザンヌ]]ら)に共通していた表現様式に対する揶揄表現が定着したものであり、音楽における《印象主義》も、若手作曲家の作品への揶揄の意味合いを込めて用いられた表現である。ドビュッシー自身も、出版社のデュランに宛てた書簡(1908年3月)の中で、この用語に対して否定的な見解を示した。 == 後世への影響 == ドビュッシーは20世紀で最も影響力のある作曲家の一人としてしばし見なされており、西洋音楽から[[ジャズ]]、[[ミニマル・ミュージック]]、[[ポピュラー音楽|ポップス]]に至るまで幅広く多様多種な音楽の部類に影響を与えている。 西洋音楽においては、[[バルトーク・ベーラ]]、[[イーゴリ・ストラヴィンスキー]]<ref>Taruskin, Richard. 1996. Stravinsky and the Russian Traditions: A Biography of the Works Through Mavra. Vol. 1 and Vol. 2. Berkeley: University of California Press. ISBN 0-520-07099-2.</ref>、初期作品の時期の[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]<ref name="Nichols_2011_p52"/>、[[フランシス・プーランク]]、[[ダリウス・ミヨー]]、[[アルベール・ルーセル]]、[[ジョージ・ガーシュウィン]]<ref>Hyland 2003, p.126. Jump up ^</ref>、[[ピエール・ブーレーズ]]<ref>Vermeil 1996. Jump up ^</ref>、[[オリヴィエ・メシアン]]<ref>Messiaen, Technique de mon langage musical Jump up ^</ref>、[[アンリ・デュティーユ]]<ref>{{Youtube|YRPsXuQV-l4|Mezzo Voce Henri Dutilleux}}</ref>、[[レオ・オーンスタイン]]<ref>Broyles (2004), p.72; Martens (1975), p.29.</ref>、[[アレクサンドル・スクリャービン]]、[[カロル・シマノフスキ]]、ミニマル・ミュージックにおいては[[スティーブ・ライヒ]]<ref>http://www.stevereich.com/articles/Anne_Teresa_de_Keersmaeker_intervies.html</ref>に対して影響力を有している。日本の作曲家では[[武満徹]]、[[坂本龍一]]がドビュッシーからの影響を公言している。 ジャズにおいては、ガーシュウィン、[[ジャンゴ・ラインハルト]]、[[デューク・エリントン]]<ref>http://debussygershwinandjazz.weebly.com/george-gershwin-and-duke-ellington---early-jazz.html</ref>、[[バド・パウエル]]、[[マイルス・デイヴィス]](彼の盟友である[[ギル・エヴァンス]]によると、マイルスの自作曲である「So What」はドビュッシーの[[前奏曲 (ドビュッシー)|前奏曲集]]第一巻に収録されているヴェール''Voiles''を下敷きにして作曲されたとのことである)<ref>Kahn, p.178.</ref>、[[ビル・エヴァンス]]、[[ハービー・ハンコック]]、[[アントニオ・カルロス・ジョビン]]、[[アンドリュー・ヒル]]、[[ビックス・バイダーベック]]など。また[[ビバップ]]の和声法はドビュッシーと[[アルノルト・シェーンベルク]]からの影響が大きい<ref>Kubik, Gerhard. "Bebop: a case in point. The African Matrix in Jazz Harmonic Practices." (Critical essay) Black Music Research Journal 22 Mar 2005. Digital.</ref>。 電子音楽では[[冨田勲]]がドビュッシーの作品を多数取り上げ、編曲したことによって影響がもたらされている。 [[小惑星]][[ドビュッシー (小惑星)|(4492) Debussy]]はドビュッシーの名前にちなんで命名された<ref>{{cite web|url=https://minorplanetcenter.net/db_search/show_object?object_id=4492|title=(4492) Debussy = 1979 SZ10 = 1979 VF1 = 1981 EC = 1988 SH|publisher=MPC|accessdate=2021-10-09}}</ref>。 == 主な作品 == {{Main|ドビュッシーの楽曲一覧}} === ピアノ曲 === * フーガ(16歳の時に作曲された現存する最初の作品。[[1999年]][[ウィーン]]の国立図書館で発見) - 1878年 * ボヘミア舞曲 (Danse bohémienne)(18歳の時の作品。[[ナジェジダ・フォン・メック|フォン・メック夫人]]のはからいで[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]に送ったが、未熟だと酷評された。死後発見) - 1880年 * [[2つのアラベスク]] (2 Arabesques) - 1888年~1891年 * 舞曲([[シュタイアーマルク州|スティリー]]風タランテラ)(Danse, Tarantelle styrienne)(後に[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]が管弦楽に編曲)- 1890年 * [[夢想 (ドビュッシー)|夢想]] (Rêverie) - 1890年 * ロマンティックなワルツ (Valse romantique) - 1890年 {{Listen |filename = Debussy - Mazurka.ogg |title = マズルカ |description = Piano: User Pabix (Benoit Mortgat) }} * マズルカ (Mazurka) - 1890年 * バラード (Ballade) - 1890年 * [[ベルガマスク組曲]] (Suite Bergamasque) - 1890年 ** 前奏曲 (Préludes) ** メヌエット (Menuet) ** 月の光 (Clair de lune)(ドビュッシーの曲の中で最もポピュラーな曲の一つ) ** パスピエ (Passepied) * [[映像 (ドビュッシー)|忘れられた映像]] (Images oubliées)(死後発見、標題はドビュッシーが付けたものではない) - 1894年 ** レント(憂うつに、そしてやさしく) (Lent (mélancolique et doux)) ** ルーヴルの思い出 (Souvenir du Louvre)(後に『ピアノのために』第2曲「サラバンド」に改作) ** 「もう森には行かない」の諸相 (Quelques aspects de "Nous n'irons plus au bois")(『版画』第3曲「雨の庭」の前身。「(いやな天気だから)もう森へは行かない」はフランスの童謡。ドビュッシーはこの「諸相」、「雨の庭」、歌曲「眠りの森の美女」、「管弦楽のための映像・第3曲『春のロンド』」の合計4曲でこの童謡を用いている) {{listen |type = music |header = '''ピアノのために''' |filename = Debussy - Sarabande from Pour le piano.ogg |title = サラバンド |description = performed by Wikipedia user La Pianista in 2011. |filename2 = Debussy - Toccata from Pour le Piano.ogg |title2 = トッカータ |description2 = performed by Wikipedia user La Pianista in 2010. }} * [[ピアノのために]] (Pour le piano) - 1896年、1896年 - 1901年 ** 前奏曲 (Prélude) ** サラバンド (Sarabande) ** トッカータ (Toccata) * [[版画 (ドビュッシー)|版画]] (Estampes) - 1903年 ** 塔 (Pagodes)(「[[パゴダ]]」は仏教の宝塔を指す) ** グラナダの夕暮れ (La soirée dans Grenade) ** 雨の庭 (Jardins sous la pluie) * [[喜びの島]] (L'Isle Joyeuse)(作曲者監修のもと、イタリアの指揮者[[ベルナルディーノ・モリナーリ]]([[:en:Bernardino Molinari|Bernardino Molinari]])により管弦楽用に編曲されている) - 1904年 {{Listen |filename = Claude Debussy - Masques - Eunmi Ko.ogg |title = 仮面 |description = Eunmi Ko. Piano. Live performance at Museum of Romanticism (Madrid) on January 21, 2016. }} * 仮面 (Masques) - 1904年 * [[映像 (ドビュッシー)|映像 第1集]] (Images) - 1905年 ** 水の反映(水に映る影)(Reflets dans l'eau) ** ラモー礼讃(「ラモーをたたえて」とも) (Hommage à Rameau) ** 運動 (Mouvement) * [[映像 (ドビュッシー)|映像 第2集]] - 1907年 ** 葉ずえを渡る鐘 (Cloches à travers les feuilles) ** 荒れた寺にかかる月 (Et la lune descend sur le temple qui fut) ** 金色の魚 (Poissons d'or) * [[子供の領分]] (Children's Corner - Petite suite pour piano seul)(娘のクロード・エンマのために作曲されたもの) - 1906年 - 1908年 ** グラドゥス・アド・パルナッスム博士 (Doctor Gradus ad Parnassum) ** 象の子守唄 (Jimbo's lullaby) ** 人形へのセレナード (Serenade of the doll) ** 雪が踊っている (The snow is dancing) ** 小さな羊飼い (The little shepherd) ** ゴリウォーグのケークウォーク (Golliwogg's Cake-Walk) * 小さな黒人 (Le petit Nègre) - 1909年 * [[レントより遅く]] (La plus que lente (Valse)) - 1910年 * 2つの[[前奏曲 (ドビュッシー)|前奏曲集]] ** 前奏曲集 第1巻 (Préludes 1) - 1909年 - 1910年 **: 以下の曲名は一般の曲の曲名とは違い、各曲の最後に小さく記されている。 *** デルフィの舞姫 (...Danseuses de Delphes) *** ヴェール (...Voiles)(「帆」とも訳される) *** 野を渡る風 (...Le vent dans la plaine) *** 音と香りは夕暮れの大気に漂う (...Les sons et les parfums tournent dans l'air du soir) *** アナカプリの丘 (...Les collines d'Anacapri) *** 雪の上の足跡 (...Des pas sur la neige) *** 西風の見たもの (...Ce qu'a vu le vent d'ouest) *** 亜麻色の髪の乙女 (...La fille aux cheveux de lin) *** とだえたセレナード (...La sérénade interrompue) *** 沈める寺 (...La cathédrale engloutie) *** パックの踊り (...La danse de Puck) *** ミンストレルズ (...Minstrels) ** 前奏曲集 第2巻 (Préludes 2) - 1910年 - 1913年 *** 霧 (...Brouillards) *** 枯葉 (...Feuilles mortes) *** ヴィーノの門 (...La Puerta del Vino) *** 妖精たちはあでやかな踊り子 (...Les fées sont d'exquises danseuses) *** ヒースの荒野 (...Bruyères) *** 風変わりなラヴィーヌ将軍 (...Général Lavine - excentric) *** 月の光が降り注ぐテラス (...La terrasse des audiences du clair de lune) *** 水の精 (...Ondine) *** ピクウィック殿をたたえて (...Hommage à S. Pickwwick Esq. P.P.M.P.C.) *** カノープ (...Canope) *** 交代する三度 (...Les tierces alternées) *** 花火 (...Feux d'artifice) * [[英雄的な子守歌]] (Berceuse heroïque pour rendre hommage à S.M. le Roi Albert I{{sup|er}} de Belgique et à ses soldats) - 1914年(同年12月に管弦楽曲に編曲) ** 第一次世界大戦時、侵攻したドイツ軍に対して抵抗したベルギーの国王[[アルベール1世 (ベルギー王)|アルベール1世]]に献呈。 * [[練習曲 (ドビュッシー)|12の練習曲]] (12 Études) 作曲者による運指がないことで知られる - 1913年 - 1915年 ** 五本の指のための、ツェルニー氏による (Pour les cinq doigts, après M. Czerny) ** 三度のための (Pour les tièrces) ** 四度のための (Pour les quartes) ** 六度のための (Pour les sixtes) ** オクターブのための (Pour les octaves) ** 八本の指のための (Pour les huit doigts) ** 半音階のための (Pour les degrés chromatiques) ** 装飾音のための (Pour les agréments) ** 反復音のための (Pour les notes répétées) ** 対比的な響きのための (Pour les sonorités opposées) ** 組み合わされたアルペジオのための (Pour les arpeges composés) *** 別版あり。 ** 和音のための (Pour les accords) * 負傷者の服のための小品 (Pièce pour le vêtement du blessé) - 1915年 *: 1933年、「アルバムのページ (Page d'album)」の名で出版。 * エレジー (Élégie) - 1915年 * 燃える炭火に照らされた夕べ (Les soirs illuminés par l'ardeur du charbon) - 1917年 ** 遺作。表題は[[シャルル・ボードレール|ボードレール]]の『[[悪の華]]』の「露台」(Le Balcon) の一節。第一次世界大戦による物資不足の中で石炭を送ってくれた石炭商に頼まれて作曲。[[2001年]]に発見。 === 2台ピアノ・4手連弾のための曲 === * 交響曲 ロ短調(少年期の習作。第1楽章の4手連弾のみ現存、ヘンレ社からも出版。) - 1880年 - 1881年 * [[小組曲 (ドビュッシー)|小組曲]] (Petite suite) 4手連弾。[[アンリ・ビュッセル|ビュッセル]]による管弦楽編曲版で有名。ヘンレ社からも出版。- 1886年 - 1889年 ** 小舟にて (En Bateau) ** 行列 (Cortège) ** メヌエット (Menuet) ** バレエ (Ballet) * [[スコットランド風行進曲]] (Marche écossaise sur un thème populaire) - 1891年(1908年に管弦楽版に編曲、ヘンレ社からも出版。) * 6つの古代の墓碑銘 (6 Epigraphes antiques) 4手連弾。『[[ビリティスの歌]]』の1, 7, 3, 10, 8, 12曲目より編曲。独奏版もあり。[[エルネスト・アンセルメ|アンセルメ]]による管弦楽編曲版もある。ヘンレ社からも出版。 - 1914年 ** 夏の風の神、パンに祈るために (Pour invoquer Pan, dieu du vent d'été) ** 無名の墓のために (Pour un tombeau sans nom) ** 夜が幸いであるために (Pour que la nuit soit propice) ** カスタネットを持つ舞姫のために (Pour la danseuse aux crotales) ** エジプト女のために (Pour l'Égyptienne) ** 朝の雨に感謝するために (Pour remercier la pluie au matin) * [[リンダラハ]] (Lindaraja) 2台ピアノ。ヘンレ社からも出版。 - 1901年 * [[白と黒で]] (En blanc et noir) 2台ピアノ。ヘンレ社からも出版。 - 1915年 ** 情熱に駆られて (Avec emportement) ** 緩やかにそして控えめに (Lent et sombre)<!-- sombreはうまい訳語がないので意訳 --> ** スケルツァンド (Scherzando) * 牧神の午後への前奏曲<ref>{{Cite web |url=https://www.henle.de/jp/detail/?Title=Works+for+two+Pianos_1003 |title=Works for two Pianos |website=www.henle.de |publisher=HENLE |date= |accessdate=2020-02-06}}</ref> -(作曲者による2台ピアノ版、ヘンレ社からも出版。) * 管弦楽のための第一組曲 - (遺作としてピアノ連弾版が発見されデュランより出版されたが、原曲は不明。デュラン社から。) * 交響組曲『春』 - (作曲者による2台ピアノのためのオリジナル版。デュラン社から。) * 海 - (作曲者によるピアノ連弾版。デュラン社から。) * 神聖な舞曲と世俗的な舞曲 - (作曲者による2台ピアノ版。デュラン社から。) === 管弦楽曲 === *[[春 (ドビュッシー)|交響組曲『春』]] (Suite symphonique 'Printemps') - 1886年 - 1887年 *:最初の版には女声合唱があったが火事で焼失した。1913年にビュッセルによって再度[[管弦楽法|オーケストレーション]](管弦楽のみ)が行われる。 * [[牧神の午後への前奏曲]] (Prélude à l'Après-midi d'un faune) - 1892年 - 1894年 * [[夜想曲 (ドビュッシー)|夜想曲]] (Nocturnes) - 1897年 - 1899年 ** 雲 (Nuages) ** 祭 (Fêtes) ** シレーヌ (Sirènes) ** :第3曲には女性コーラス(歌詞なし)が入る * [[海 (ドビュッシー)|交響詩『海』]] (La Mer) - 1903年 - 1905年 ** 海上の夜明けから正午まで (De l'aube à midi sur la mer) ** 波の戯れ (Jeux de vagues) ** 風と海との対話 (Dialogue du vent et de la mer) * [[映像 (ドビュッシー)|管弦楽のための映像]] (Images pour orchestre) - 1905年 - 1912年 ** ジーグ (Gigues) ** イベリア (Ibéria) *** 街の道から田舎の道から (Par les rues et par les chemins) *** 夜の薫り (Les parfums de la nuit) *** 祭りの日の朝 (Le matin d'un jour de fête) ** 春のロンド (Rondes de printemps) ===独奏と管弦楽のための協奏的作品=== * [[ピアノと管弦楽のための幻想曲 (ドビュッシー)|ピアノと管弦楽のための幻想曲]] (Fantaisie pour piano et orchestre) - 1889年 - 1891年 *: 作曲者がリハーサルの段階で楽譜を差し止めたため、死後初演。 * [[神聖な舞曲と世俗的な舞曲]] (Danse sacrée et danse profane) - 1904年 *: 独奏ハープと弦楽合奏のための作品。 * [[サクソフォーンと管弦楽のための狂詩曲]] (Rhapsodie pour orchestre et saxophone) - 1901年 - 1908年 *: 作曲者の死後の1919年に[[ジャン・ロジェ=デュカス|ロジェ=デュカス]]によって管弦楽編曲が行われた。 * [[第1狂詩曲 (ドビュッシー)|クラリネットと管弦楽のための第1狂詩曲]] (I{{sup|er}} Rhapsodie pour orchestre avec clarinette principale) - 1909年 - 1910年 *: 「クラリネットとピアノのための第1狂詩曲」を編曲。 === 室内楽曲 === * [[ピアノ三重奏曲 (ドビュッシー)|ピアノ三重奏曲]](18歳の時、[[ナジェジダ・フォン・メック|フォン・メック夫人]]の元で書かれた曲) - 1879年 - 1880年 * [[弦楽四重奏曲 (ドビュッシー)|弦楽四重奏曲]] - 1893年 ** 活気をもって、決然と (Animé et très décidé) ** 十分生き生きと、きわめてリズミカルに (Assez vif et bien rythmé) ** アンダンティーノ、おだやかに、表情豊かに (Andantino, doucement expressif) ** 非常にゆっくりと (Très modéré - Très mouvementé - Très animé) * [[第1狂詩曲 (ドビュッシー)#クラリネットとピアノのための《小品》|クラリネットとピアノのための小品]] (Petite pièce pour clarinette et piano) - 1910年 * [[ビリティスの歌]] (Chansons de Bilitis) - 1900年 - 1901年 *: パントマイムと詩の朗読のための付随音楽。編成は2フルート、2ハープ、チェレスタ。 * [[フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ]] (Sonate pour flûte, alto et harpe) - 1915年 * [[チェロソナタ (ドビュッシー)|チェロ・ソナタ]] (Sonate pour violoncelle et piano) - 1915年 * [[ヴァイオリンソナタ (ドビュッシー)|ヴァイオリン・ソナタ]] (Sonate pour violon et piano) - 1916年 - 1917年 === バレエ音楽 === * [[遊戯_(ドビュッシー)|遊戯]] (Jeux) - 1912年 - 1913年 *: 1幕。[[ヴァーツラフ・ニジンスキー|ニジンスキー]]台本。 * [[カンマ_(ドビュッシー)|カンマ]] (Khamma) - 1912年 *: 3幕。ピアノ譜のみ。オーケストレーションは[[シャルル・ケクラン]]による。 * [[おもちゃ箱_(ドビュッシー)|おもちゃ箱]] (La boîte à joujoux) - 1913年 *: 4場の子供用バレエ。ピアノ譜のみ。オーケストレーションは[[アンドレ・カプレ]]による。 *: プロローグ - おもちゃ箱 - 戦場 - 売られる羊小屋 - お金持ちになってから - エピローグ * 沈黙の宮殿 (Le palais du silence) - 1914年 *: 1幕。前奏曲と第1場の初めの草稿のみ現存。のちに「ノ・ジャ・リ」と変更した。ドビュッシーはこの作品を期日までに仕上げることができなかった。 === 歌曲 === (カッコ内は詩人) * 麦の花(Fleur des blés [[アンドレ・ジロー]]) - 1878年 * {{仮リンク|美しい夕暮れ|en|Beau soir}}(Beau soir [[ポール・ブールジェ]]) - 1880年 * 星の夜(Nuits d'étoiles [[テオドール・ド・バンヴィル]]) - 1880年 * 中国風のロンデル(Rondel chinois 作者不詳) - 1880年 * 西風(Zéphyr [[テオドール・ド・バンヴィル]]) - 1881年 * ピエロ(Pierrot [[テオドール・ド・バンヴィル]]) - 1881年 * 愛し合い、そして眠ろう(Aimons-nous et dormons [[テオドール・ド・バンヴィル]]) - 1881年 * ジャヌ(ジェイン)(Jane [[シャルル=マリ=ルネ・ルコント・ド・リール]]) - 1881年 * マンドリン(Mandoline [[ポール・ヴェルレーヌ]]) - 1882年 * 華やかな宴(Fête galante [[テオドール・ド・バンヴィル]]) - 1882年(メロディは後に『小組曲』の「メヌエット」に流用) * ロンドー(Rondeau [[アルフレッド・ド・ミュッセ]]) - 1882年 * パントマイム(Pantomime [[ポール・ヴェルレーヌ]]) - 1882年 * [[月の光 (詩)|月の光]](Clair de lune [[ポール・ヴェルレーヌ]]) - 1882年。「[[艶なる宴 (ドビュッシー)|艶なる宴]] 第1集」第3曲の初稿。 * 今はもう春(Voici que le printemps ポール・ブルジェ) - 1883年 * 感傷的な風景(Paysage sentimental ポール・ブルジェ) - 1883年 * スペインの歌 (Chanson espagnole) - 1883年。失われたとされてきたが、近年自筆譜が発見された。 * 顕現(Apparition [[ステファヌ・マラルメ]]) - 1884年 * 声をひそめて(En sourdine [[ポール・ヴェルレーヌ]]) - 「艶なる宴 第1集」第1曲の初稿。 * [[忘れられたアリエッタ]](Ariettes oubiées [[ポール・ヴェルレーヌ]]) - 1886年 - 1888年 *: 忘れられた小歌 という場合もあり ** やるせなく夢見る思い (Ariettes oubiées I 'C'est l'extase langoureuse') ** [[われの心に涙降る]](Ariettes oubiées II 'Il pleure dans mon cœur' [[巷に雨の降るごとく]]) ** 露包む川面の木々の影 (Ariettes oubiées III 'L'ombre des arbres') ** ベルギーの風景「木馬」 (Paysages belges 'Chevaux de bois') ** 水彩画1「グリーン」 (Aquarelles I 'Green') ** 水彩画2「スプリーン(憂鬱)」 (Aquarelles II 'Spleen') * [[ボードレールの5つの詩]] (5 Poèmes de Charles Baudelaire) - 1887年 - 1889年 ** バルコニー (Le balcon) ** 夕暮れの調べ (Harmonie du soir) ** 噴水 (Le jet d'eau) ** 黙想 (Recueillement) ** 恋人たちの死 (La mort des amants) * 眠りの森の美女(La belle au bois dormant {{仮リンク|ヴァンサン・イスパ|fr|Vincent Hyspa}}) - 1890年 * 2つのロマンス(2 Romances ポール・ブルジェ) - 1891年 ** そぞろな悩める心 (L'âme évaporée et souffrante) ** 鐘 (Les cloches) * 3つの歌曲(3 Mélodies [[ポール・ヴェルレーヌ]]) - 1891年 ** 海は美しい (La mer est plus belle) ** 角笛の音は (Le son du cor s'affige) ** 羊の群れと立ち並ぶ生垣は(L'échelonnement des haies) * [[艶なる宴 (ドビュッシー)|艶なる宴]] 第1集(Fêtes galantes 1 [[ポール・ヴェルレーヌ]]) - 1891年 ** 声をひそめて(En sourdine) ** 操り人形 (Fantoches) ** [[月の光 (詩)|月の光]] (Clair de lune) * 庭の中(Dans le jardin [[ポール・グラフォレ]]) - 1891年 * お告げの鐘 (Les Angélus)([[グレゴワール・ル・ロワ]]) - 1892年 * 叙情的散文(Proses lyriques 作曲者自身) - 1892 - 1893年 ** 夢 (De rêve) ** 砂浜 (De grève) ** 花 (De fleurs) ** 夕暮れ (De soir) * [[ビリティスの歌|ビリティスの3つの歌]](3 Chansons de Bilitis [[ピエール・ルイス]]) - 1897年 - 1898年 ** パンの笛 (La flûte de Pan) ** 髪 (La chevelure) ** 水の精の墓 (Le tombeau des naïades) * 眠れぬ夜 (Nuits blanches 作曲家自身) - 1899年 - 1902年。全5曲を構想していたが未完に終わった。 ** 終わりなき夜 (Nuit sans fin) ** 彼女がいる時に (Lorsqu'elle est entrée) * [[艶なる宴 (ドビュッシー)|艶なる宴]] 第2集(Fêtes galantes 2 [[ポール・ヴェルレーヌ]]) - 1904年 ** 無邪気な人たち (Les ingénus) ** 半獣神 (Le faune) ** 感傷的な対話 (Colloque sentimental) * 3つのフランスの歌(Chansons de France [[シャルル・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|シャルル・ドルレアン]]、[[トリスタン・レルミット]]) - 1904年 ** ロンデル - 時は脱いだよ、そのマント(Rondel – Le temps a laissié son manteau) ** 洞窟 (La Grotte) - 「二人の恋人の散歩道」第1曲に再収録。 ** ロンデル - 喜びが死んでしまったから(Rondel – Pour ce que plaisance est morte) * {{仮リンク|二人の恋人の散歩道 (ドビュッシー)|label=二人の恋人の散歩道|fr|Le Promenoir des deux amants (Debussy)}}(Le promenoir des deux amants [[トリスタン・レルミット]]) - 1904,1910年 ** この暗い洞窟のほとり (Auprès de cette grotte sombre) ** 愛するクリメーヌよ、私の言うとおりにしておくれ (Crois mon conseil,chère Climène) ** 私は震える (Je tremble en voyant ton visage) * {{仮リンク|フランソワ・ヴィヨンの3つのバラード|fr|Trois ballades de François Villon}} (3 Ballades de François Villon) - 1910年 ** 恋人に与えるバラード (Ballade de Villon à s'amye) ** 聖母に祈るために母の要請で作られたヴィヨンのバラード (Ballade que feit Villon à la requeste de sa mère pour prier Nostre-Dame) ** パリジェンヌのバラード (Ballade des femmes de Paris) * {{仮リンク|ステファヌ・マラルメの3つの詩|fr|Trois poèmes de Stéphane Mallarmé}} (3 Poèmes de Stèphane Mallarmé) - 1913年 ** ため息 (Soupir) ** 取るに足らない願い (Placet futile) ** 扇 (Éventail) * {{仮リンク|もう家がない子供たちのクリスマス|fr|Noël des enfants qui n'ont plus de maison}}(Noël des enfants qui n'ont plus de maison 作曲者自身) - 1915年 === オペラ、カンタータ、劇付随音楽 === * 『[[ペレアスとメリザンド (ドビュッシー)|ペレアスとメリザンド]]』 (Pelléas et Mélisande) - 1893年 - 1895年、1901年 - 1902年 *: 5幕15場の[[オペラ]]。[[モーリス・メーテルリンク|メーテルランク]]の戯曲『[[ペレアスとメリザンド]]』をそのまま台本にしたもの。[[ワグネリズム]]の対極にある作品。完成したオペラはこの1作品のみ。 * 音楽劇『[[聖セバスティアンの殉教]]』 (Le martyr de St. Sébastien [[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]) - 1911年 *: 全曲は5幕の神秘劇。非常に大きなもので、編曲したものが演奏されることが多い。[[管弦楽法|オーケストレーション]]に[[アンドレ・カプレ]]の協力を得て完成。 * 『拳闘士』 (Cantate 'Le gladiateur') - 1883年 *: [[カンタータ]]。[[ローマ大賞|ローマ大賞二席]]受賞曲。 * 『[[放蕩息子 (カンタータ)|放蕩息子]]』 (L'Enfant Prodigue) - 1884年、1906年 - 1908年改訂 *: [[カンタータ]]。[[ローマ大賞]]受賞曲。 * 『[[リア王 (劇付随音楽)|リア王]]』 (King Lear) - 1904年 *: 劇付随音楽。本来は7部からなるものであったが、作曲されたものは2曲のみである。 **ファンファーレ (Fanfare) ** リア王の眠り (Le sommeil de Lear) * 『森のディアヌ』 (Diane au bois) - 1884年 - 1886年 *: [[カンタータ]]。破棄され、一部のみ現存。[[ローマ大賞]]応募曲。 * 『{{仮リンク|ロドリーグとシメーヌ|en|Rodrigue et Chimène}}(Rodrigue et Chimène)』 - 1890年 - 1893年 *: 未完のオペラ。[[エル・シッド]]伝説を題材とした[[カチュール・マンデス]]の4幕5場の台本による。作曲は第1幕・第3幕のショート・スコアと第2幕のピアノ伴奏譜が残る<ref>松橋 p.210</ref>。リチャード・ランガム・スミス (Richard Langham Smith) による補筆を[[エディソン・デニソフ]]が管弦楽化、1993年に[[リヨン国立オペラ|リヨン歌劇場]]で初演。 *『{{仮リンク|鐘楼の悪魔|en|Le diable dans le beffroi}}』(Le diable dans le beffroi) - 1902年 - 1903年 *: 未完のオペラ。[[エドガー・アラン・ポー]]の同名小説により作曲者が2幕3場の台本を作成したが、作曲は1幕分のスケッチのみ。一部が『ムジカ』誌の作曲者当ての匿名コンクールに掲載された『コンクールのための小品』に転用。 * 『[[アッシャー家の崩壊 (オペラ)|アッシャー家の崩壊]]』 (La chute de la maison Usher) - 1908年 - 1918年 *: 未完のオペラ。[[エドガー・アラン・ポー]]の同名小説をもとにしたもの。作者自身による2幕の台本は完成したが、作曲は全曲の半分ほどに終わる(楽譜は作曲者の死後、妻が関係者に配ったため散逸)。{{仮リンク|フアン・アジェンデ=ブリン|en|Juan Allende-Blin}}が補完して、1977年に上演。その後、散逸していたスケッチを元に{{仮リンク|ロバート・オーリッジ|en|Robert Orledge}}が復元・補筆し、[[2006年]]に[[ブレゲンツ音楽祭]]で上演。 === その他の楽曲 === * [[シャルル・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|シャルル・ドルレアン]]の3つの歌 (Trois chansons de Charles d'Orléans) - 1898年および1908年 *: 唯一の無伴奏混声合唱曲。2曲目はアルト独唱を伴う(後述の録音では、独唱パートは合唱で歌われている)。 ** 神よ、なんと彼女を美しく見せ給うことか (Dieu! qu'il la fait bon regarder!) ** タンバリンが鳴り渡る時 (Quant j'ai ouy le tambourin) ** 冬よ、お前は嫌なやつだ (Yver, vous n'estes qu'un villain) * [[シランクス]] (Syrinx) - 1912年 *: 無伴奏フルート独奏曲。ムーレイの戯曲「プシュケ」のために作られたもの) * [[エリック・サティ|サティ]]:「[[ジムノペディ]]」第1番、第3番(管弦楽用の編曲) - 1897年 == メディア == {{multi-listen start}} {{multi-listen item|filename=Debussy - Dieu qu il la fait bon regarder.ogg|title=Dieu qu'il l'a fait bon regarder|description=("God, how He has made her good to behold")|format=[[Ogg]]}} {{multi-listen item|filename=Debussy - Quant jai ouy le tambourin.ogg|title=Quant j'ai ouy le tambourin|description=("When I heard the tambourine")|format=[[Ogg]]}} {{multi-listen item|filename=Debussy - Mazurka.ogg|title=Mazurka|description=([[マズルカ]])|format=[[Ogg]]}} {{multi-listen end}} == その他 == ; {{仮リンク|ドビュッシー博物館|fr|Musée Claude-Debussy}} : [[サン=ジェルマン=アン=レー]]にあるドビュッシーの生家を博物館にしたもの。展示室およびオーディトリウムがある。1階は観光案内所。パリ中心部より[[RER A線]]で約20分、駅より徒歩5分。 ; 墓碑 : パリ16区[[パッシー墓地]]にある。 ; 紙幣 : [[1980年]]に肖像が描かれた[[:fr:Billet de 20 francs Debussy|20フラン紙幣]]が発行された。[[2002年]]の[[ユーロ#導入国、地域|ユーロ導入]][[ユーロ#ユーロへの完全移行|移行期間]]まで使用された。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * フランソワ・ルシュール、笠羽映子訳 『伝記 クロード・ドビュッシー』 [[音楽之友社]]、2003年 **〈Lesure, F. 2003. Claude Debussy, Biographie critique. Paris, Fayard.〉 * フランソワ・ルシュール編、笠羽映子訳 『ドビュッシー書簡集』 音楽之友社、1999年 ** 〈Lesure, F. 1993. Claude Debussy, correspondance 1884-1918, Paris, Hermann.〉 * 原書版では、追加の書簡、相手からの来簡や家族の手紙も含めた「書簡全集」が刊行されている。 ** 〈Claude Debussy Correspondance (1872-1918) édition établie par François Lesure et Denix Herlin, annotée par François Lesure, Denis Herlin et Georges Liébert, Gallimard nrf.〉、2005年7月発行 ISBN 2-07-077255-1 * Ashbrook, W. and Cobb, M.G. 1990. A portrait of Claude Debussy. Oxford: Clarendon Press. {Dietschy, M. 1962. La passion de Claude Debussy. Neuchâtel: Baconnière} * Lockspeiser, E. 1962. Debussy: his life and mind volume 1, 1862-1902. New York, Macmillan. * Lockspeiser, E. 1965. Debussy: his life and mind volume II, 1902-1918. New York: The Macmillan Company. * Lockspeiser, E. 1972. Debussy. New York: McGraw-Hill. * [[杉本秀太郎]]訳 『音楽のために ドビュッシー評論集』 [[白水社]]、新装版2002年 * [[平島正郎]]訳 『ドビュッシー音楽論集』 [[岩波文庫]]、初版1996年-ドビュッシー自身が編集した抄版。 * [[松橋麻利]] 『ドビュッシー 作曲家・人と作品』 [[音楽之友社]]、2007年 * アントワーヌ・ゴレア『不滅の大作曲家 ドビュッシー』店村新次訳、[[音楽之友社]]、1971年 * 笠羽映子、菅野浩和、塚田れい子、平島正郎、[[平野昭]]、真崎隆治、村井範子 共著『作曲家別名曲解説ライブラリー⑩ ドビュッシー』音楽之友社、1993年 == 関連項目 == * [[神奈川沖浪裏]] - 葛飾北斎の代表的な木版画、名所浮世絵の連作『富嶽三十六景』の一つ。この絵に対する印象から交響詩『海』を作曲したと言われることもあるが<ref>{{Cite web |url=http://www.city.kawasaki.jp/templates/pubcom/cmsfiles/contents/0000097/97240/kihonhoushin.pdf |title=浮世絵等の活用に向けた基本方針 平成30(2018)年6月 |publisher=川崎市 |accessdate=2018-7-7}}</ref>(『海』の初版の表紙が神奈川沖浪裏であったり、[[エリック・サティ]]が撮影したドビュッシーと[[イーゴリ・ストラヴィンスキー]]の写真の中の背後の壁にはその絵が掛けられていた)、根拠のない俗説である<ref>{{Cite web |url=https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000132429 |title=レファレンス事例詳細(国立音楽大学付属図書館) |publisher=国立国会図書館 |accessdate=2018-7-7}}</ref>。 *[[アール・ヌーヴォー]] *[[ユーゲント・シュティール]] *[[内藤濯]] 1908年に雑誌『音楽界』の中で「印象主義の楽才」として日本に初めて作曲家のクロード・ドビュッシーの作品を紹介。 ===脚注=== {{Reflist}} == 外部リンク == {{Commonscat|Claude Debussy}} * {{IMSLP |id=Debussy,_Claude |cname=クロード・ドビュッシー}} * [http://www.78rpm.net/column08.html ドビュッシーのピアノ自作自演](ドビュッシー本人によるピアノ演奏録音についてのコラム)。 * {{Kotobank|ドビュッシー}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:とひゆつしい くろおと}} [[Category:クロード・ドビュッシー|*]] [[Category:フランスの作曲家]] [[Category:ロマン派の作曲家]] [[Category:近現代の作曲家]] [[Category:新古典主義の作曲家]] [[Category:オペラ作曲家]] [[Category:フランスの音楽評論家]] [[Category:19世紀フランスの音楽家]] [[Category:20世紀フランスの音楽家]] [[Category:フランスの紙幣の人物]] [[Category:薔薇十字団]] [[Category:大腸癌で亡くなった人物]] [[Category:サン=ジェルマン=アン=レー出身の人物]] [[Category:1862年生]] [[Category:1918年没]]
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ユダの手紙
『ユダの手紙』(ユダのてがみ)は新約聖書の正典中の、公同書簡に分類される手紙のひとつである。わずか25節の短い書簡であり、異端に対して厳しい批判を展開するとともに、信徒に正しい信仰を守ることを勧めている。著者は手紙の冒頭でヤコブの兄弟ユダと名乗っており、一般にこのユダは主の兄弟ユダ(英語版)を示すと考えられている。ただし、現代の自由主義神学の立場からは、ユダに帰した偽名書簡の可能性が指摘されている。 定評あるギリシア語校訂版のネストレ・アーラント28版での題名は ΙΟΥΔΑ ΕΠΙΣΤΟΛΗ である。『ユダの手紙』という書名は新共同訳聖書ほか、口語訳、バルバロ訳、フランシスコ会訳、新改訳、塚本訳、岩波委員会訳、現代訳などの日本語訳聖書で用いられている。他の訳例としては、『ユダの書』(大正改訳)、『ユダスの手紙』(共同訳)、『イウダの書』(日本正教会訳)、『ユダ書』(前田訳)、『ユダ書簡』(田川訳)などがある。簡略化のため、以下では便宜的に「ユダ書」と表記する。 本文中で著者は自らを「イエス・キリストの僕(しもべ)またヤコブの兄弟であるユダ」(口語訳聖書)と名乗る。「ユダ」という名はイエスを引き渡したイスカリオテのユダをはじめ、新約聖書に何人か登場するが、「ヤコブの兄弟」と位置づけられているユダは、主の兄弟ヤコブの兄弟、すなわち主の兄弟ユダ以外にいない。この人物は、一般にタダイとも呼ばれる使徒ユダとは別人と見なされる。ただし、オリゲネスらは、主の兄弟ユダを使徒ユダと同一視しており、現代においてもフェデリコ・バルバロのようにその立場を採る者もいる。また、教会の伝承においては、著者のユダをヤコブの兄弟とするものからそうでないとするものまで様々であった。 リベラル派には、ユダの名を借りて後の時代に作成された偽名書簡と見る者たちがおり、両論を併記しているフランシスコ会訳聖書においても、偽名書簡と見る論者が多いことは認められている。偽名書簡と見る立場では、ユダの名を借りたのは権威付けのためとされている。しかし、こうした説には真正書簡と見る福音派などからの反論もある。聖書正典においては、主の兄弟ユダは直接的には『マルコによる福音書』6章3節(および並行する『マタイによる福音書』13章55節)で、イエスに驚く群衆の発言の中で名前が言及されているにすぎないからである。 古代の伝承においても、ヘゲシッポス(英語版)がユダの2人の孫について述べた程度しか伝わっておらず、ユダ本人については何も伝わっていない。 偽名説に反論する人々は、もしも権威付けを理由とした偽名ならば、なぜ著者は(主の兄弟とはいえ)このような知名度の低い人物を選んだのかを疑問視している。さらに、もしも権威付けならば、著者が(主の兄弟などを名乗らずに)「ヤコブの兄弟」としか名乗っていないことも不自然とされる。この点、真正書簡と見る立場では、イエスに対する畏敬や控えめな態度として理解できる。しかし、偽名書簡だとするならば、もっと主の兄弟としての権威を強調してしかるべきというわけである。 ユダの知名度についての疑問は自由主義神学の側からも提示されており、ドイツのNTD新約聖書註解シリーズで公同書簡を担当したヨハネス・シュナイダーは、ユダの生涯が詳らかになっていない以上、本当に主の兄弟ユダが書いた可能性も排除しきれないと指摘している。 偽名書簡と見る場合、真の著者は不明である。ただし、外典・偽典を含む旧約聖書からの引用などによって、ユダヤ人キリスト教徒が想定されることがある。 書簡そのものには執筆年代を決定する手がかりに乏しく、その推定年代は立場によって西暦60年から180年までとかなりの幅がある。 まず、主の兄弟ユダの真正書簡と見る立場の例をいくつか挙げる。カトリック教会のフェデリコ・バルバロは、この書簡が異端との対決を示しているのに対し、ヘゲシッポスによる伝承では主の兄弟ヤコブの殉教(62年)以前のパレスチナに異端が見られなかったとされることから、62年以降の執筆とした。その上で、70年のエルサレム陥落が投影されていないことから、遅くともそれ以前の成立とし、ユダ書との類似が指摘される『ペトロの手紙二』より先の成立なら62年から64年、後の成立なら64年から70年と推測した。同じカトリックでもフランシスコ会訳聖書では70年から80年頃とされている。 福音派の各種文献でもおおむね60年から80年ごろの時期が想定されている。『新聖書注解』ではユダが80年に没するまでの10年から15年の間、『新聖書辞典』では64年頃ないしその少し後、『エッセンシャル聖書辞典』では70年代から80年代、『新実用聖書注解』では60年から80年頃、『BIBLE navi』では65年頃とされている。また、現代訳聖書を手がけた聖書学者尾山令仁はこの書が66年頃に書かれたものと考えている。 他方、偽名書簡と見る立場では、もっと後の時代が想定される。岩波委員会訳聖書および『総説 新約聖書』(新版)でユダ書を担当した小林稔は、一般的な見解として西暦100年ごろを挙げている。『新共同訳 新約聖書略解』でユダ書を担当した辻学は、1世紀終わりごろとしている。キリスト新聞社の『新共同訳 聖書辞典』では、17節が使徒たちを過去の存在としているように読めることや、描かれている異端の出現時期の推定などから、110年から130年頃が想定されている。新教出版社の『新共同訳聖書 聖書辞典』では120年前後とされている。『総説 新約聖書』(旧版)でユダ書を担当した川村輝典は150年以前とした。 この手紙は執筆場所についての手がかりも乏しい。川村輝典、土戸清、小林稔 、田川建三のように、単に不明としている論者も少なからずいる。 主の兄弟に対する思い入れが強かったシリアとされることもある。ただし、シリアがユダ書の正典化に消極的な地域であったこととは整合しない。パレスチナで主の兄弟が活動していたため、パレスチナが想定されることもある。さらには、エジプトが想定されることもある。これはユダ書に外典の利用が見られることと、外典を受容する傾向のあったエジプトが結び付けられたためである。 また、場所を特定した意見ではないが、手紙の中で宛先の信徒たちを直接訪問する意図が表明されていないのは、宛先とかなり離れていることを暗示しているのではないかとするフェデリコ・バルバロのような意見もある。 ユダ書は公同書簡に含まれており、その体裁は確かに公同の教会に向けられているかのようである。これをそのまま不特定の相手に向けられたと理解する尾山令仁のような者がいる一方で、一定範囲の教会が実際には想定されていると考える者たちもいる。ただし、その想定は必ずしも一致するものではない。バルバロ訳聖書やフランシスコ会訳聖書は旧約外典・偽典が使用されていることから、その知識のあるユダヤ人キリスト者を想定しているが、ヨハネス・シュナイダーのように、旧約をよく知っている人々としつつ、異邦人(非ユダヤ人)キリスト者を想定する者もいる。 3節の「わたしたちが共にあずかっている救」から、ユダヤ人キリスト教徒が中心で、異邦人も想定されているとする見解もある。 『ユダの手紙』はわずか25節しかなく、新約聖書の中では短い部類に入る。ただし、新約聖書で章分けされていないのは『フィレモンへの手紙』(25節)、『ヨハネの手紙二』(13節)、『ヨハネの手紙三』(15節)、そしてこのユダ書の4通の書簡のみだが、単語数で見た場合、その中では最も長い。 ユダ書は「異端に対する烈しい反論の書」である。ただし、その反論は異端の教理を具体的に取り上げて論駁する形をとらず、彼らの不品行を批判したり、旧約聖書などを引き合いに出したりしつつ、異端の末路がどのようなものかを示すものとなっている。そのため、ここで攻撃されている異端がどのような存在であったかについては不明瞭な部分もあるが、グノーシス主義的な思想に基づく自由放縦な人々がしばしば想定される。ユダ書の目的は、そうした異端との対決あるいは偽教師たちについての警告などと位置づけられている。 いくつかの日本語訳聖書では段落分けがなされている。そう大きく異なるわけではないが、細かな違いはある。学者間でも段落分けは一致しておらず、明確に区切ること自体に否定的な見解を示す者もいる。ここでは参考として、新共同訳、フランシスコ会訳、新改訳、岩波委員会訳の段落分けを例示しておく。 その文体についてはギリシア語の見事さが指摘されている。その言葉遣いはヘレニズム的であるとも、ヘブライ的であるとも言われる。 以下、各節の簡略な注解を行う。その際、便宜上、上に挙げた区切り方の中で最も細かい区切りであるフランシスコ会訳聖書の区切りに準じる。同じ区切り方は福音派の『新聖書注解』でも採用されている。 1節で著者はユダと名乗っているが、これについては上の「著者」節を参照のこと。「イエス・キリストの僕」「召された人々」という表現に、パウロからの影響の可能性を指摘する見解もある。また、ヤコブへの言及などは、『ヤコブの手紙』の存在を前提にしているとされる。 2節の「豊かに」とは、アブラハムにとっての子孫繁栄、初代教会にとっての信徒増加などのように、目に見える形で増えることを指す。 3節は手紙を書いた目的を示し、福音派の『エッセンシャル聖書辞典』では「主題」、『BIBLEnavi』では「中心聖句」と位置づけられている。ただし、この部分は2通りに翻訳できる。上記の口語訳のように「心から願っていたので」と順接に訳す場合、元々書きたいと考えていた手紙とユダ書は同じ主題ということになる。他方で、これを新改訳聖書や田川訳聖書のように、「心から願っていたが」と逆接に訳す場合、本来書きたかった手紙とは別の手紙を急遽したためる必要が生じ、その結果書かれたのがユダ書という意味になる。 3節の「愛する者たちよ」という呼びかけは17節、20節にも登場し、ユダの読者に対する気遣いが読み取れる。同じ節の「ひとたび伝えられた」というのは、キリスト教の信仰はイエス・キリストがただ一度だけ伝えたものであったことを指している。また、そこから、この書の成立(福音派の理解では1世紀後半)までに「キリスト教の信仰体系」が成立していたことを読み取る者もいる。 4節の「しのび込んできて」は特定の教会の状況を想定しているようにも見え、これが特定の教会に宛てられた手紙と見る立場の根拠の一つになっている。そして、この忍び込んだ人びとは、巡回説教者を指している可能性がある。他方、これはあくまでも教会内の結束を強めるためのレトリックで、実際に外部の者だったかは分からないとする立場もあり、この書かれ方では、外部から共同体に入ってきたのか、自分たちの集団から異なるグループが現れたのか不鮮明だとする見解もある。 彼らの「放縦」については、いくつかの捉え方がある。福音派の井上温章はこれをグノーシス主義と直結させ、霊肉二元論に立ち、肉体を否定的に捉えるグノーシス主義では、肉体が何をしようとも問題ではないとする解釈が導かれて放縦に繋がり、また神の恵みの曲解からいかなる罪も無条件に赦されるという理解に至ったとしている。他方で具体像を欠いていることから、どのような存在か確定させられないとしてグノーシスとの結びつきにも慎重な立場があり、田川建三に至っては、仮想敵であった可能性にまで言及している。 4節には「昔から予告されてきた」とあるが、これが何を指すかは諸説あり、(1) ペトロの手紙二第2章1節から3節、(2) 使徒の預言、(3) 旧約聖書全体、(4) ユダ書で後述される特定箇所、(5) 天で記されているとされる「命の書」、などの可能性が挙げられてきた。ほか、死海文書の宗規要覧などに反映された別系統のユダヤ伝承ではないかとする説もある。 この5節から7節は3種の神の裁きを挙げている。「思い起こしてもらいたい」という表現は、それらの裁きを読者が知っていることを前提とし、同時に読者が認識している教えには問題がないことを示している。 まず、最初にユダヤ人たちの出エジプトに触れている。この不信仰な者たちの滅びは『民数記』14章1節以下に描写されている。なお、上記引用の訳文中で「主」と訳されている箇所については、「神」「神なるキリスト」など、いくつかの異文が存在している。出エジプトを引き合いに出して不信心を咎める構成は、パウロ書簡の『コリントの信徒への手紙一』10章1節から10節にも見られる。 6節に描かれている御使い(天使)の閉じ込めの話は、『創世記』6章1節から4節に描かれた話を敷衍したもので、『第一エノク書』(エチオピア語エノク書)に詳しく書かれている。古代のユダヤ人たちにとって堕落した天使のモチーフは、民間伝承での人気あるモチーフであった。この部分は『ペトロの手紙二』第2章10節と並行する。 7節は『ペトロの手紙二』第2章6節・10節に並行する。 ユダ書の7節はソドムとゴモラの罪が同性愛にあったとする説の根拠となっており、岩波委員会訳聖書でも同性愛が通説として紹介されている。ただし、口語訳で「不自然な肉欲」と訳されている箇所は、特定の観点からの解釈の持ちこみであり、RSVの英訳に影響されたらしき誤訳である。その直訳は「他の肉」あるいは「異なる肉」であって、これが意味するところはいくつかの説がある。 有力なのは2説で、辻学は英語圏の研究者が同性愛に解しがちなのに対し、ドイツ語圏の研究者は人間と異質な肉、すなわち天使との性交と解しがちであると概観している。もっとも、英語圏でも天使との性交と解するスタディ・バイブルは複数ある。また、フランス語圏で評価の高いLa TOBも天使との性交の意味に捉えている。少数説としては、偶像崇拝の隠喩とする見解や、天使たちが己の領域を離れたことと関連付けて性的意味を否定する見解などがある。 永遠の火云々は『第一エノク書』67章4節以下で、地獄の炎が死海の地下にあるとされることに対応する可能性があるものの、直接これに依拠したかははっきりしない。 第8節では悪行3つ、すなわち「夢に迷わされて肉を汚」すこと、「権威ある者たちを軽んじ」ること、「栄光ある者たちをそしっている」ことが挙げられている。夢に迷わされるというのは幻視者ないし偽預言者を指す。汚らわしい、あるいは淫らな夢想という解釈もある。 「権威ある者」は御使い(天使)の持つ主権を指し、ここでは神の支配権そのものを指す。「栄光ある者」は天使を指す。古代のエウセビオスらは、天使にも放縦な者たちがいたとされることを根拠にそういう生活をしていたグノーシスの一派、カルポクラテス派と結び付けていた。 9節のモーセの死体をめぐる論争は、オリゲネスが外典の『モーセの昇天(英語版)』からと指摘して以来、それが受け入れられている。 しかし、『モーセの昇天』は現存しない。一応、古い写本の欄外注の形でギリシア語の逸文が残されており、田川訳聖書の注釈で試訳されている。 ただし、ユダ書と『モーセの昇天』は共通の伝承に拠ったのであって、前者が後者に依拠したわけではないと想定する説もある。いずれにせよ、ここで述べられているのは、「裁き」は神のみがなしうるものであるということである。 10節は異端教師の思い上がりの描写である。彼らがそしる「知りもしないこと」の内容は、「神的真理」、「神に属する霊の事がら」、「霊の世界と信仰の世界」などと言われる。他方、簡潔すぎて正確に掴みきれないので、それを断定的に述べること自体が、この節の記述に反してしまうとする立場もある。 11節で言及されている、カイン、バラム、コラ(英語版)の3人は、信仰にとって好ましからざる人物の代表例として挙げられている。カインは低い次元の事柄しか認識できない人物、バラムは天使を見くびる人物、コラはモーセに逆らった人物であり、こうした人物を思い起こさせることで、論争をせずに断罪している。 12節では愛餐に紛れ込んできた異端者について言及されており、異端者たちは愛餐の意義を正しく理解できていないとする。愛餐の原語は「愛」と同じで、かつて聖餐と不分明のものとして行われていたと推測されている、信徒同士が食物を持ち寄って行なった会食を指している。12節後半からの批判のうち、「水のない雲」は雨を降らせない雲のことで、他の喩えとともに無意味なものの例示とも言われる。 14節ではエノクが7代目であると示される。7代目という位置づけは『第一エノク書』60章8節あるいは93章3節に描かれている。「7」という数字はそれ自体がエノクの特別性を示している。14節途中から15節は『第一エノク書』1章9節の引用で、そのことは古来、アレクサンドリアのクレメンス、テルトゥリアヌス、ヒエロニムス、アウグスティヌスらによって指摘されてきた。ただし、15節後半を『エノク書』5章4節と関連付ける意見もある。後述するように、ユダ書の正典性をめぐり、外典の利用が問題視されたが、その問題が特に集中する箇所がこの14節から15節にかけてである。 16節にも『第一エノク書』5章4節に並行する言葉が含まれている。 こうした激しい言葉遣いから、教会を想うユダの強い気持ちが読み取れる。 17節から内容を転じて後半に入る。17節から18節にかけては「使徒たちが予告した言葉」が引き合いに出されているが、これと一致する使徒の発言は伝わっていない。具体的な文章を引用したのではなく、読者の記憶を喚起するもの(バルバロ)、あるいは複数の使徒たちの発言を再編したもの(シュナイダー)などといわれる。また、もしも『ペトロの手紙二』がユダ書に先行するとした場合には、その3章2節から3節の引用の可能性も出てくる。いずれにせよ、ここでユダ書の著者は、旧約の預言者と使徒の言葉を同格の参照元として取り扱っている。その発言に見られる「あざける者」という表現では、何を嘲ったのかが明示されていないが、終末願望を嘲った可能性が指摘されている。また、彼らが「御霊を持たない者」とされるのは、その高慢さに原因がある。 なお、17節から18節は、偽名書簡と見る者たちからは、使徒の死後の時代に書かれたことが読み取れるとされている。また、ユダを使徒の方ではないと位置づける者たちからは、著者が使徒と自らを別個の存在として位置づけている(つまり使徒ユダの作品ではありえない)ことが読み取れるとされている。 19節に出てくる「彼らは分派をつくる者、肉に属する者、御霊を持たない者たち」という批判は、「彼ら」の主張を裏返しにした批判ではないかという説もある。すなわち、「彼ら」は自分たちが御霊を持ち、肉に属さないものであると主張していたため、まったく逆と批判したというわけである。グノーシス主義者の中には、救いは滅び行く世界を超えたところにあるものであり、パウロの説くことを都合よく解釈して、人為によって救われるのではないのでこの世の肉体が何をしても良いという放縦な振る舞いに及んだものもいたとされる。19節はそうした主張への反論として理解できる可能性がある。他方で、20世紀以降に発見されたグノーシス文書の分析などから、こうしたグノーシス理解に疑問も出されている。 21節で保つように促されている信仰は、伝統的な信仰を指している。伝統それ自体を根拠に置く信仰のあり方が見られるのは、新約聖書ではここだけとされる。なお、20節から21節には「神」「イエス・キリスト」「聖霊」という3つの位格が揃っており、フェデリコ・バルバロや堀田雄康はここに三位一体の暗示を見出している。 23節の「肉に汚れた者」はいろいろな説がある。フェデリコ・バルバロや上沼昌雄はハンセン病と関連付けていた。他方、放蕩や肉欲の穢れと結びつける見解もある。その下着も拒むという話は、人の持つ霊的な力が衣服を通じても伝わるという考え方(『マルコによる福音書』5章27節などに出てくる)が元になっているとされる。他方で、田川はこの肉の汚れが何を意味するかは、著者自身もよく分かっていないのではないかと否定的に述べている。 24節から25節に見られる頌歌(頌栄)はその美しさが評価されており、バルバロのように新約聖書中で最も美しいと位置づける者もいる。 上の注解からも明らかなように、内容的には『ペトロの手紙二』(第二ペトロ書)との並行が顕著である。普通、公同書簡はヤコブ、ペトロ、ヨハネ、ユダの順に並べられており、第二ペトロ書は3番目、ユダ書は7番目(最後)に置かれている。この順序は、『ガラテヤの信徒への手紙』第2章9節で使徒がヤコブ、ペトロ、ヨハネの順に並んでいることにも対応している。 しかし、第二ペトロ書とユダ書の共通性から、これをひとまとめにする論者たちもおり、日本語訳聖書の中では岩波委員会訳聖書(合冊版)が5番目に第一ペトロ書、6番目にユダ書、7番目に第二ペトロ書を配置している。岩波の新約聖書翻訳委員会にも名を連ねた大貫隆は2010年の時点でそれを唯一の例外としたが、その後、田川建三の『新約聖書 訳と註』(第6巻)でも、第二ペトロ書が3番目、ユダ書が4番目に置かれている。ほか、注解書などでも、ハンス・コンツェルマンをはじめ、第二ペトロ書とユダ書をひとまとめに扱う論者たちが見られる。 第二ペトロ書とユダ書のどちらが先かについては、前者が先、後者が先、直接的な依存関係はないの3説がある。福音派の『新聖書注解』や『新実用聖書注解』は、第二ペトロ書が偽教師の出現を未来形で語っていたのに対し、ユダ書が忍び込んだ人々を過去形で語っていることから、第二ペトロ書を先に置いている。 逆に、『新共同訳 新約聖書注解』(日本基督教団出版局)では、第二ペトロ書の方が詳しいにもかかわらず、ユダ書のうち、外典・偽典からの引用部分が省かれていることなどから、ユダ書を元に第二ペトロ書が書かれたという立場が定説とされている。ヨハネス・シュナイダー、ヴィリー・マルクスセンらもこの立場をほぼ確定的なものとして叙述している。 それらの見解に対し、田川建三はモチーフが類似していても、語句の一致が13.4 %にとどまることや、ユダ書にあって第二ペトロ書にないのは外典・偽典からの引用部分にとどまらないことなどから、共通する文書をもとにそれぞれ独立して書かれていると見なした。田川以前にはアンカーバイブルで同種の見解が見られた。 本文に対する注解でも触れたように、ユダ書は『第一エノク書』と『モーセの昇天』という2つの旧約偽典の利用が指摘されている(ただし、西暦90年のヤムニア会議までは正典からの除外は決定的となっておらず、『エノク書』はエチオピア正教会では今なお正典である)。 ユダ書14・15節と『エノク書』を比較すると以下の通りである。 福音派の『新聖書注解』では、偽典の引用は正典視したからではなく単に人々に知られていたためとし、パウロが異教の詩人の言葉なども引用していることと対比されている。この見解は『新聖書講解シリーズ』や『エッセンシャル聖書辞典』にも引き継がれた。類似の見解はカトリックのフェデリコ・バルバロからも提示されていた。文庫クセジュで新約聖書の概説を担当したレジス・ビュルネは、論争相手がそれを使っていたため、著者も利用したのではないかとした。 著者は3、20節で具体的にどのようなものかを示さないまま、伝えられてきた教えを墨守することの大切さを説いている。このことに正統主義の限界を見出す小林稔は、伝来の教えをまるごと墨守するという姿勢が、正典、外典の区分なしに『エノク書』『モーセの昇天』を取り込むことに繋がった可能性を指摘した。また、高柳俊一は、『モーセの遺訓』などの偽典文書に共通する終末が近いとする感覚を、ユダ書からも読み取っている。 ユダ書への最古の言及について、第二ペトロ書をユダ書の後に置く論者は、第二ペトロ書の並行箇所を最古の引用と見なしている。新約聖書以外での言及については、フランシスコ会聖書研究所はポリュカルポスがほのめかしていると指摘した。カトリックのフェデリコ・バルバロはこれに加えて『十二使徒の教訓』『ポリュカルポスの殉教(英語版)』などの使徒教父文書にも仄めかしがあるとしていた。福音派の『新聖書注解』は、2世紀初頭のポリュカルポス、アテナゴラスの著作や『バルナバの手紙』に引用らしきものがあるとしている。 他方、明瞭な言及や引用となるとテルトゥリアヌスやムラトリ正典目録(いずれも2世紀末から3世紀はじめ)が最古の部類に属する。しかし、その当時のラテン教父ではむしろユダ書への言及がないのが一般的だったとされ、ノウァティアヌス、キプリアヌスは言及していない。同じ時代のギリシア教父では、オリゲネスが言及しているものの、ペトロの手紙二、ヤコブの手紙、ヨハネの手紙二・三とともに、疑わしい書として挙げていた。エウセビオスも全く同じ文書群について、疑問のある書のうち多くの人に知られている書に分類している。 現在の27文書を新約正典として最初に位置づけたのは、アレクサンドリアのアタナシオスの『第三十九復活祭書簡』(367年)とされ、ここにユダ書も含まれた。4世紀末の北アフリカの教会会議、すなわちヒッポ会議(393年)、カルタゴ会議(397年)でもその判断が踏襲された。同じ時期のモムゼン正典目録(4世紀後半)や少し後のリヨンのエウケリウス(5世紀)のようにユダ書への言及が見られない文書・論者も存在しないわけではないが、ヒエロニムス、アウグスティヌスらは正典として受容した。また、東方教会のトゥルルス教会会議(692年)でも追認された。 しかしながら、シリアではいささか事情が異なる。4世紀後半のシリアで成立したと考えられている『使徒教憲』ではユダ書が正典に含まれているが、5世紀前半成立とされるシリア語訳聖書『ペシッタ』では、第二ペトロ、第二・第三ヨハネとともにユダ書は除外されている。他方、508年に成立したシリア語訳(フィロクセノス訳(英語版))、616年の改訂版(ハルケル訳(英語版))には含まれているものの、東シリアでは現代においてもペシッタが公認されている。 16世紀ヨーロッパでは、ジャン・カルヴァンは受容したものの、マルティン・ルターが否定的に捉えていた。カルヴァンはユダ書について、非常に有益なものとし、「われわれはユダの時代に有益であった勧告が現在もなお必要以上に大切であることがわかる」として積極的に位置づけた。これに対してルターは『聖ヤコブ及び聖ユダの書翰への序言』において、ユダ書を第二ペトロ書の「抜き書き乃至書き写し」と位置づけた上で、「私はこの書翰を賞讃するが、信仰の根拠を据えるに足る聖書の主要書中に数える必要を見ない」と述べた。 他方、カトリック教会が16世紀半ばに開催したトリエント公会議では、ユダ書を含む27文書が正典として追認された。 前田護郎は「短かい内容の中に信仰の真髄が盛られている」と評価していたが、その内容には神学はあまりあるいはほとんど見られないという意見もある。 他方、永田竹司は「キリスト教会における正統と異端の闘争の初期(二世紀初頭)の歴史を証言する貴重な記録」という観点から評価している。ヨハネス・シュナイダーは、ユダ書をグノーシス主義勃興期に書かれたと位置づけ、その時点のみでなく、2世紀にグノーシスが伸長していく中で、それとの対決で評価を高めたと推測している。土戸清も、正典に組み込まれた理由として、「『使徒伝承』を重んじ正統的立場から異端反駁を展開している」ことを挙げている。 その現代における信仰上の意義について、福音派の『BIBLEnavi』は、神を畏敬せずに思いのままに振る舞うような、上辺だけのキリスト教徒に対する警告としている。 ユダ書は短く、しばしば具体性を欠くことなどが批判される。ヴィリー・マルクスセン(ドイツ語版)は、「にせ教師に対する、非常に力強くはあるが皮相な論駁以外ほとんど何も含んでいない」と評しており、上村静も、ユダ書の著者は具体的な論点提示なしに「ただ罵詈雑言を並べ立てる」と否定的に言及している。田川建三は「第二ペテロ二章との比較の役に立つ以外には、何の価値もない」と断じている。 また、ユダ書には女性への直接的言及は全くないが、フェミニスト神学の立場ではこのことも批判の対象となる。フェミニスト神学者による聖書注解書でユダ書と第二ペトロ書を担当したローゼンブラットは、女性の役割や貢献などを隠匿してしまう「父権制的考えの典型」としてユダ書を位置づけている。また、ユダ書で打ち出されている審判者としての神のイメージは「父権制的支配の一変形」であるとし、守旧的・女性抑圧的に作用すると指摘した。
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"リベラル派には、ユダの名を借りて後の時代に作成された偽名書簡と見る者たちがおり、両論を併記しているフランシスコ会訳聖書においても、偽名書簡と見る論者が多いことは認められている。偽名書簡と見る立場では、ユダの名を借りたのは権威付けのためとされている。しかし、こうした説には真正書簡と見る福音派などからの反論もある。聖書正典においては、主の兄弟ユダは直接的には『マルコによる福音書』6章3節(および並行する『マタイによる福音書』13章55節)で、イエスに驚く群衆の発言の中で名前が言及されているにすぎないからである。", "title": "著者" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "古代の伝承においても、ヘゲシッポス(英語版)がユダの2人の孫について述べた程度しか伝わっておらず、ユダ本人については何も伝わっていない。", "title": "著者" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "偽名説に反論する人々は、もしも権威付けを理由とした偽名ならば、なぜ著者は(主の兄弟とはいえ)このような知名度の低い人物を選んだのかを疑問視している。さらに、もしも権威付けならば、著者が(主の兄弟などを名乗らずに)「ヤコブの兄弟」としか名乗っていないことも不自然とされる。この点、真正書簡と見る立場では、イエスに対する畏敬や控えめな態度として理解できる。しかし、偽名書簡だとするならば、もっと主の兄弟としての権威を強調してしかるべきというわけである。", "title": "著者" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ユダの知名度についての疑問は自由主義神学の側からも提示されており、ドイツのNTD新約聖書註解シリーズで公同書簡を担当したヨハネス・シュナイダーは、ユダの生涯が詳らかになっていない以上、本当に主の兄弟ユダが書いた可能性も排除しきれないと指摘している。", "title": "著者" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "偽名書簡と見る場合、真の著者は不明である。ただし、外典・偽典を含む旧約聖書からの引用などによって、ユダヤ人キリスト教徒が想定されることがある。", "title": "著者" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "書簡そのものには執筆年代を決定する手がかりに乏しく、その推定年代は立場によって西暦60年から180年までとかなりの幅がある。", "title": "成立年代" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "まず、主の兄弟ユダの真正書簡と見る立場の例をいくつか挙げる。カトリック教会のフェデリコ・バルバロは、この書簡が異端との対決を示しているのに対し、ヘゲシッポスによる伝承では主の兄弟ヤコブの殉教(62年)以前のパレスチナに異端が見られなかったとされることから、62年以降の執筆とした。その上で、70年のエルサレム陥落が投影されていないことから、遅くともそれ以前の成立とし、ユダ書との類似が指摘される『ペトロの手紙二』より先の成立なら62年から64年、後の成立なら64年から70年と推測した。同じカトリックでもフランシスコ会訳聖書では70年から80年頃とされている。", "title": "成立年代" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "福音派の各種文献でもおおむね60年から80年ごろの時期が想定されている。『新聖書注解』ではユダが80年に没するまでの10年から15年の間、『新聖書辞典』では64年頃ないしその少し後、『エッセンシャル聖書辞典』では70年代から80年代、『新実用聖書注解』では60年から80年頃、『BIBLE navi』では65年頃とされている。また、現代訳聖書を手がけた聖書学者尾山令仁はこの書が66年頃に書かれたものと考えている。", "title": "成立年代" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "他方、偽名書簡と見る立場では、もっと後の時代が想定される。岩波委員会訳聖書および『総説 新約聖書』(新版)でユダ書を担当した小林稔は、一般的な見解として西暦100年ごろを挙げている。『新共同訳 新約聖書略解』でユダ書を担当した辻学は、1世紀終わりごろとしている。キリスト新聞社の『新共同訳 聖書辞典』では、17節が使徒たちを過去の存在としているように読めることや、描かれている異端の出現時期の推定などから、110年から130年頃が想定されている。新教出版社の『新共同訳聖書 聖書辞典』では120年前後とされている。『総説 新約聖書』(旧版)でユダ書を担当した川村輝典は150年以前とした。", "title": "成立年代" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "この手紙は執筆場所についての手がかりも乏しい。川村輝典、土戸清、小林稔 、田川建三のように、単に不明としている論者も少なからずいる。", "title": "執筆場所" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "主の兄弟に対する思い入れが強かったシリアとされることもある。ただし、シリアがユダ書の正典化に消極的な地域であったこととは整合しない。パレスチナで主の兄弟が活動していたため、パレスチナが想定されることもある。さらには、エジプトが想定されることもある。これはユダ書に外典の利用が見られることと、外典を受容する傾向のあったエジプトが結び付けられたためである。", "title": "執筆場所" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "また、場所を特定した意見ではないが、手紙の中で宛先の信徒たちを直接訪問する意図が表明されていないのは、宛先とかなり離れていることを暗示しているのではないかとするフェデリコ・バルバロのような意見もある。", "title": "執筆場所" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ユダ書は公同書簡に含まれており、その体裁は確かに公同の教会に向けられているかのようである。これをそのまま不特定の相手に向けられたと理解する尾山令仁のような者がいる一方で、一定範囲の教会が実際には想定されていると考える者たちもいる。ただし、その想定は必ずしも一致するものではない。バルバロ訳聖書やフランシスコ会訳聖書は旧約外典・偽典が使用されていることから、その知識のあるユダヤ人キリスト者を想定しているが、ヨハネス・シュナイダーのように、旧約をよく知っている人々としつつ、異邦人(非ユダヤ人)キリスト者を想定する者もいる。", "title": "あて先" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "3節の「わたしたちが共にあずかっている救」から、ユダヤ人キリスト教徒が中心で、異邦人も想定されているとする見解もある。", "title": "あて先" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "『ユダの手紙』はわずか25節しかなく、新約聖書の中では短い部類に入る。ただし、新約聖書で章分けされていないのは『フィレモンへの手紙』(25節)、『ヨハネの手紙二』(13節)、『ヨハネの手紙三』(15節)、そしてこのユダ書の4通の書簡のみだが、単語数で見た場合、その中では最も長い。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ユダ書は「異端に対する烈しい反論の書」である。ただし、その反論は異端の教理を具体的に取り上げて論駁する形をとらず、彼らの不品行を批判したり、旧約聖書などを引き合いに出したりしつつ、異端の末路がどのようなものかを示すものとなっている。そのため、ここで攻撃されている異端がどのような存在であったかについては不明瞭な部分もあるが、グノーシス主義的な思想に基づく自由放縦な人々がしばしば想定される。ユダ書の目的は、そうした異端との対決あるいは偽教師たちについての警告などと位置づけられている。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "いくつかの日本語訳聖書では段落分けがなされている。そう大きく異なるわけではないが、細かな違いはある。学者間でも段落分けは一致しておらず、明確に区切ること自体に否定的な見解を示す者もいる。ここでは参考として、新共同訳、フランシスコ会訳、新改訳、岩波委員会訳の段落分けを例示しておく。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "その文体についてはギリシア語の見事さが指摘されている。その言葉遣いはヘレニズム的であるとも、ヘブライ的であるとも言われる。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "以下、各節の簡略な注解を行う。その際、便宜上、上に挙げた区切り方の中で最も細かい区切りであるフランシスコ会訳聖書の区切りに準じる。同じ区切り方は福音派の『新聖書注解』でも採用されている。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1節で著者はユダと名乗っているが、これについては上の「著者」節を参照のこと。「イエス・キリストの僕」「召された人々」という表現に、パウロからの影響の可能性を指摘する見解もある。また、ヤコブへの言及などは、『ヤコブの手紙』の存在を前提にしているとされる。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2節の「豊かに」とは、アブラハムにとっての子孫繁栄、初代教会にとっての信徒増加などのように、目に見える形で増えることを指す。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "3節は手紙を書いた目的を示し、福音派の『エッセンシャル聖書辞典』では「主題」、『BIBLEnavi』では「中心聖句」と位置づけられている。ただし、この部分は2通りに翻訳できる。上記の口語訳のように「心から願っていたので」と順接に訳す場合、元々書きたいと考えていた手紙とユダ書は同じ主題ということになる。他方で、これを新改訳聖書や田川訳聖書のように、「心から願っていたが」と逆接に訳す場合、本来書きたかった手紙とは別の手紙を急遽したためる必要が生じ、その結果書かれたのがユダ書という意味になる。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "3節の「愛する者たちよ」という呼びかけは17節、20節にも登場し、ユダの読者に対する気遣いが読み取れる。同じ節の「ひとたび伝えられた」というのは、キリスト教の信仰はイエス・キリストがただ一度だけ伝えたものであったことを指している。また、そこから、この書の成立(福音派の理解では1世紀後半)までに「キリスト教の信仰体系」が成立していたことを読み取る者もいる。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "4節の「しのび込んできて」は特定の教会の状況を想定しているようにも見え、これが特定の教会に宛てられた手紙と見る立場の根拠の一つになっている。そして、この忍び込んだ人びとは、巡回説教者を指している可能性がある。他方、これはあくまでも教会内の結束を強めるためのレトリックで、実際に外部の者だったかは分からないとする立場もあり、この書かれ方では、外部から共同体に入ってきたのか、自分たちの集団から異なるグループが現れたのか不鮮明だとする見解もある。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "彼らの「放縦」については、いくつかの捉え方がある。福音派の井上温章はこれをグノーシス主義と直結させ、霊肉二元論に立ち、肉体を否定的に捉えるグノーシス主義では、肉体が何をしようとも問題ではないとする解釈が導かれて放縦に繋がり、また神の恵みの曲解からいかなる罪も無条件に赦されるという理解に至ったとしている。他方で具体像を欠いていることから、どのような存在か確定させられないとしてグノーシスとの結びつきにも慎重な立場があり、田川建三に至っては、仮想敵であった可能性にまで言及している。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "4節には「昔から予告されてきた」とあるが、これが何を指すかは諸説あり、(1) ペトロの手紙二第2章1節から3節、(2) 使徒の預言、(3) 旧約聖書全体、(4) ユダ書で後述される特定箇所、(5) 天で記されているとされる「命の書」、などの可能性が挙げられてきた。ほか、死海文書の宗規要覧などに反映された別系統のユダヤ伝承ではないかとする説もある。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "この5節から7節は3種の神の裁きを挙げている。「思い起こしてもらいたい」という表現は、それらの裁きを読者が知っていることを前提とし、同時に読者が認識している教えには問題がないことを示している。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "まず、最初にユダヤ人たちの出エジプトに触れている。この不信仰な者たちの滅びは『民数記』14章1節以下に描写されている。なお、上記引用の訳文中で「主」と訳されている箇所については、「神」「神なるキリスト」など、いくつかの異文が存在している。出エジプトを引き合いに出して不信心を咎める構成は、パウロ書簡の『コリントの信徒への手紙一』10章1節から10節にも見られる。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "6節に描かれている御使い(天使)の閉じ込めの話は、『創世記』6章1節から4節に描かれた話を敷衍したもので、『第一エノク書』(エチオピア語エノク書)に詳しく書かれている。古代のユダヤ人たちにとって堕落した天使のモチーフは、民間伝承での人気あるモチーフであった。この部分は『ペトロの手紙二』第2章10節と並行する。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "7節は『ペトロの手紙二』第2章6節・10節に並行する。 ユダ書の7節はソドムとゴモラの罪が同性愛にあったとする説の根拠となっており、岩波委員会訳聖書でも同性愛が通説として紹介されている。ただし、口語訳で「不自然な肉欲」と訳されている箇所は、特定の観点からの解釈の持ちこみであり、RSVの英訳に影響されたらしき誤訳である。その直訳は「他の肉」あるいは「異なる肉」であって、これが意味するところはいくつかの説がある。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "有力なのは2説で、辻学は英語圏の研究者が同性愛に解しがちなのに対し、ドイツ語圏の研究者は人間と異質な肉、すなわち天使との性交と解しがちであると概観している。もっとも、英語圏でも天使との性交と解するスタディ・バイブルは複数ある。また、フランス語圏で評価の高いLa TOBも天使との性交の意味に捉えている。少数説としては、偶像崇拝の隠喩とする見解や、天使たちが己の領域を離れたことと関連付けて性的意味を否定する見解などがある。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "永遠の火云々は『第一エノク書』67章4節以下で、地獄の炎が死海の地下にあるとされることに対応する可能性があるものの、直接これに依拠したかははっきりしない。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "第8節では悪行3つ、すなわち「夢に迷わされて肉を汚」すこと、「権威ある者たちを軽んじ」ること、「栄光ある者たちをそしっている」ことが挙げられている。夢に迷わされるというのは幻視者ないし偽預言者を指す。汚らわしい、あるいは淫らな夢想という解釈もある。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "「権威ある者」は御使い(天使)の持つ主権を指し、ここでは神の支配権そのものを指す。「栄光ある者」は天使を指す。古代のエウセビオスらは、天使にも放縦な者たちがいたとされることを根拠にそういう生活をしていたグノーシスの一派、カルポクラテス派と結び付けていた。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "9節のモーセの死体をめぐる論争は、オリゲネスが外典の『モーセの昇天(英語版)』からと指摘して以来、それが受け入れられている。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "しかし、『モーセの昇天』は現存しない。一応、古い写本の欄外注の形でギリシア語の逸文が残されており、田川訳聖書の注釈で試訳されている。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "ただし、ユダ書と『モーセの昇天』は共通の伝承に拠ったのであって、前者が後者に依拠したわけではないと想定する説もある。いずれにせよ、ここで述べられているのは、「裁き」は神のみがなしうるものであるということである。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "10節は異端教師の思い上がりの描写である。彼らがそしる「知りもしないこと」の内容は、「神的真理」、「神に属する霊の事がら」、「霊の世界と信仰の世界」などと言われる。他方、簡潔すぎて正確に掴みきれないので、それを断定的に述べること自体が、この節の記述に反してしまうとする立場もある。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "11節で言及されている、カイン、バラム、コラ(英語版)の3人は、信仰にとって好ましからざる人物の代表例として挙げられている。カインは低い次元の事柄しか認識できない人物、バラムは天使を見くびる人物、コラはモーセに逆らった人物であり、こうした人物を思い起こさせることで、論争をせずに断罪している。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "12節では愛餐に紛れ込んできた異端者について言及されており、異端者たちは愛餐の意義を正しく理解できていないとする。愛餐の原語は「愛」と同じで、かつて聖餐と不分明のものとして行われていたと推測されている、信徒同士が食物を持ち寄って行なった会食を指している。12節後半からの批判のうち、「水のない雲」は雨を降らせない雲のことで、他の喩えとともに無意味なものの例示とも言われる。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "14節ではエノクが7代目であると示される。7代目という位置づけは『第一エノク書』60章8節あるいは93章3節に描かれている。「7」という数字はそれ自体がエノクの特別性を示している。14節途中から15節は『第一エノク書』1章9節の引用で、そのことは古来、アレクサンドリアのクレメンス、テルトゥリアヌス、ヒエロニムス、アウグスティヌスらによって指摘されてきた。ただし、15節後半を『エノク書』5章4節と関連付ける意見もある。後述するように、ユダ書の正典性をめぐり、外典の利用が問題視されたが、その問題が特に集中する箇所がこの14節から15節にかけてである。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "16節にも『第一エノク書』5章4節に並行する言葉が含まれている。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "こうした激しい言葉遣いから、教会を想うユダの強い気持ちが読み取れる。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "17節から内容を転じて後半に入る。17節から18節にかけては「使徒たちが予告した言葉」が引き合いに出されているが、これと一致する使徒の発言は伝わっていない。具体的な文章を引用したのではなく、読者の記憶を喚起するもの(バルバロ)、あるいは複数の使徒たちの発言を再編したもの(シュナイダー)などといわれる。また、もしも『ペトロの手紙二』がユダ書に先行するとした場合には、その3章2節から3節の引用の可能性も出てくる。いずれにせよ、ここでユダ書の著者は、旧約の預言者と使徒の言葉を同格の参照元として取り扱っている。その発言に見られる「あざける者」という表現では、何を嘲ったのかが明示されていないが、終末願望を嘲った可能性が指摘されている。また、彼らが「御霊を持たない者」とされるのは、その高慢さに原因がある。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "なお、17節から18節は、偽名書簡と見る者たちからは、使徒の死後の時代に書かれたことが読み取れるとされている。また、ユダを使徒の方ではないと位置づける者たちからは、著者が使徒と自らを別個の存在として位置づけている(つまり使徒ユダの作品ではありえない)ことが読み取れるとされている。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "19節に出てくる「彼らは分派をつくる者、肉に属する者、御霊を持たない者たち」という批判は、「彼ら」の主張を裏返しにした批判ではないかという説もある。すなわち、「彼ら」は自分たちが御霊を持ち、肉に属さないものであると主張していたため、まったく逆と批判したというわけである。グノーシス主義者の中には、救いは滅び行く世界を超えたところにあるものであり、パウロの説くことを都合よく解釈して、人為によって救われるのではないのでこの世の肉体が何をしても良いという放縦な振る舞いに及んだものもいたとされる。19節はそうした主張への反論として理解できる可能性がある。他方で、20世紀以降に発見されたグノーシス文書の分析などから、こうしたグノーシス理解に疑問も出されている。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "21節で保つように促されている信仰は、伝統的な信仰を指している。伝統それ自体を根拠に置く信仰のあり方が見られるのは、新約聖書ではここだけとされる。なお、20節から21節には「神」「イエス・キリスト」「聖霊」という3つの位格が揃っており、フェデリコ・バルバロや堀田雄康はここに三位一体の暗示を見出している。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "23節の「肉に汚れた者」はいろいろな説がある。フェデリコ・バルバロや上沼昌雄はハンセン病と関連付けていた。他方、放蕩や肉欲の穢れと結びつける見解もある。その下着も拒むという話は、人の持つ霊的な力が衣服を通じても伝わるという考え方(『マルコによる福音書』5章27節などに出てくる)が元になっているとされる。他方で、田川はこの肉の汚れが何を意味するかは、著者自身もよく分かっていないのではないかと否定的に述べている。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "24節から25節に見られる頌歌(頌栄)はその美しさが評価されており、バルバロのように新約聖書中で最も美しいと位置づける者もいる。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "上の注解からも明らかなように、内容的には『ペトロの手紙二』(第二ペトロ書)との並行が顕著である。普通、公同書簡はヤコブ、ペトロ、ヨハネ、ユダの順に並べられており、第二ペトロ書は3番目、ユダ書は7番目(最後)に置かれている。この順序は、『ガラテヤの信徒への手紙』第2章9節で使徒がヤコブ、ペトロ、ヨハネの順に並んでいることにも対応している。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "しかし、第二ペトロ書とユダ書の共通性から、これをひとまとめにする論者たちもおり、日本語訳聖書の中では岩波委員会訳聖書(合冊版)が5番目に第一ペトロ書、6番目にユダ書、7番目に第二ペトロ書を配置している。岩波の新約聖書翻訳委員会にも名を連ねた大貫隆は2010年の時点でそれを唯一の例外としたが、その後、田川建三の『新約聖書 訳と註』(第6巻)でも、第二ペトロ書が3番目、ユダ書が4番目に置かれている。ほか、注解書などでも、ハンス・コンツェルマンをはじめ、第二ペトロ書とユダ書をひとまとめに扱う論者たちが見られる。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "第二ペトロ書とユダ書のどちらが先かについては、前者が先、後者が先、直接的な依存関係はないの3説がある。福音派の『新聖書注解』や『新実用聖書注解』は、第二ペトロ書が偽教師の出現を未来形で語っていたのに対し、ユダ書が忍び込んだ人々を過去形で語っていることから、第二ペトロ書を先に置いている。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "逆に、『新共同訳 新約聖書注解』(日本基督教団出版局)では、第二ペトロ書の方が詳しいにもかかわらず、ユダ書のうち、外典・偽典からの引用部分が省かれていることなどから、ユダ書を元に第二ペトロ書が書かれたという立場が定説とされている。ヨハネス・シュナイダー、ヴィリー・マルクスセンらもこの立場をほぼ確定的なものとして叙述している。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "それらの見解に対し、田川建三はモチーフが類似していても、語句の一致が13.4 %にとどまることや、ユダ書にあって第二ペトロ書にないのは外典・偽典からの引用部分にとどまらないことなどから、共通する文書をもとにそれぞれ独立して書かれていると見なした。田川以前にはアンカーバイブルで同種の見解が見られた。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "本文に対する注解でも触れたように、ユダ書は『第一エノク書』と『モーセの昇天』という2つの旧約偽典の利用が指摘されている(ただし、西暦90年のヤムニア会議までは正典からの除外は決定的となっておらず、『エノク書』はエチオピア正教会では今なお正典である)。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "ユダ書14・15節と『エノク書』を比較すると以下の通りである。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "福音派の『新聖書注解』では、偽典の引用は正典視したからではなく単に人々に知られていたためとし、パウロが異教の詩人の言葉なども引用していることと対比されている。この見解は『新聖書講解シリーズ』や『エッセンシャル聖書辞典』にも引き継がれた。類似の見解はカトリックのフェデリコ・バルバロからも提示されていた。文庫クセジュで新約聖書の概説を担当したレジス・ビュルネは、論争相手がそれを使っていたため、著者も利用したのではないかとした。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "著者は3、20節で具体的にどのようなものかを示さないまま、伝えられてきた教えを墨守することの大切さを説いている。このことに正統主義の限界を見出す小林稔は、伝来の教えをまるごと墨守するという姿勢が、正典、外典の区分なしに『エノク書』『モーセの昇天』を取り込むことに繋がった可能性を指摘した。また、高柳俊一は、『モーセの遺訓』などの偽典文書に共通する終末が近いとする感覚を、ユダ書からも読み取っている。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "ユダ書への最古の言及について、第二ペトロ書をユダ書の後に置く論者は、第二ペトロ書の並行箇所を最古の引用と見なしている。新約聖書以外での言及については、フランシスコ会聖書研究所はポリュカルポスがほのめかしていると指摘した。カトリックのフェデリコ・バルバロはこれに加えて『十二使徒の教訓』『ポリュカルポスの殉教(英語版)』などの使徒教父文書にも仄めかしがあるとしていた。福音派の『新聖書注解』は、2世紀初頭のポリュカルポス、アテナゴラスの著作や『バルナバの手紙』に引用らしきものがあるとしている。", "title": "正典化" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "他方、明瞭な言及や引用となるとテルトゥリアヌスやムラトリ正典目録(いずれも2世紀末から3世紀はじめ)が最古の部類に属する。しかし、その当時のラテン教父ではむしろユダ書への言及がないのが一般的だったとされ、ノウァティアヌス、キプリアヌスは言及していない。同じ時代のギリシア教父では、オリゲネスが言及しているものの、ペトロの手紙二、ヤコブの手紙、ヨハネの手紙二・三とともに、疑わしい書として挙げていた。エウセビオスも全く同じ文書群について、疑問のある書のうち多くの人に知られている書に分類している。", "title": "正典化" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "現在の27文書を新約正典として最初に位置づけたのは、アレクサンドリアのアタナシオスの『第三十九復活祭書簡』(367年)とされ、ここにユダ書も含まれた。4世紀末の北アフリカの教会会議、すなわちヒッポ会議(393年)、カルタゴ会議(397年)でもその判断が踏襲された。同じ時期のモムゼン正典目録(4世紀後半)や少し後のリヨンのエウケリウス(5世紀)のようにユダ書への言及が見られない文書・論者も存在しないわけではないが、ヒエロニムス、アウグスティヌスらは正典として受容した。また、東方教会のトゥルルス教会会議(692年)でも追認された。", "title": "正典化" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "しかしながら、シリアではいささか事情が異なる。4世紀後半のシリアで成立したと考えられている『使徒教憲』ではユダ書が正典に含まれているが、5世紀前半成立とされるシリア語訳聖書『ペシッタ』では、第二ペトロ、第二・第三ヨハネとともにユダ書は除外されている。他方、508年に成立したシリア語訳(フィロクセノス訳(英語版))、616年の改訂版(ハルケル訳(英語版))には含まれているものの、東シリアでは現代においてもペシッタが公認されている。", "title": "正典化" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "16世紀ヨーロッパでは、ジャン・カルヴァンは受容したものの、マルティン・ルターが否定的に捉えていた。カルヴァンはユダ書について、非常に有益なものとし、「われわれはユダの時代に有益であった勧告が現在もなお必要以上に大切であることがわかる」として積極的に位置づけた。これに対してルターは『聖ヤコブ及び聖ユダの書翰への序言』において、ユダ書を第二ペトロ書の「抜き書き乃至書き写し」と位置づけた上で、「私はこの書翰を賞讃するが、信仰の根拠を据えるに足る聖書の主要書中に数える必要を見ない」と述べた。", "title": "正典化" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "他方、カトリック教会が16世紀半ばに開催したトリエント公会議では、ユダ書を含む27文書が正典として追認された。", "title": "正典化" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "前田護郎は「短かい内容の中に信仰の真髄が盛られている」と評価していたが、その内容には神学はあまりあるいはほとんど見られないという意見もある。", "title": "意義" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "他方、永田竹司は「キリスト教会における正統と異端の闘争の初期(二世紀初頭)の歴史を証言する貴重な記録」という観点から評価している。ヨハネス・シュナイダーは、ユダ書をグノーシス主義勃興期に書かれたと位置づけ、その時点のみでなく、2世紀にグノーシスが伸長していく中で、それとの対決で評価を高めたと推測している。土戸清も、正典に組み込まれた理由として、「『使徒伝承』を重んじ正統的立場から異端反駁を展開している」ことを挙げている。", "title": "意義" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "その現代における信仰上の意義について、福音派の『BIBLEnavi』は、神を畏敬せずに思いのままに振る舞うような、上辺だけのキリスト教徒に対する警告としている。", "title": "意義" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "ユダ書は短く、しばしば具体性を欠くことなどが批判される。ヴィリー・マルクスセン(ドイツ語版)は、「にせ教師に対する、非常に力強くはあるが皮相な論駁以外ほとんど何も含んでいない」と評しており、上村静も、ユダ書の著者は具体的な論点提示なしに「ただ罵詈雑言を並べ立てる」と否定的に言及している。田川建三は「第二ペテロ二章との比較の役に立つ以外には、何の価値もない」と断じている。", "title": "意義" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "また、ユダ書には女性への直接的言及は全くないが、フェミニスト神学の立場ではこのことも批判の対象となる。フェミニスト神学者による聖書注解書でユダ書と第二ペトロ書を担当したローゼンブラットは、女性の役割や貢献などを隠匿してしまう「父権制的考えの典型」としてユダ書を位置づけている。また、ユダ書で打ち出されている審判者としての神のイメージは「父権制的支配の一変形」であるとし、守旧的・女性抑圧的に作用すると指摘した。", "title": "意義" } ]
『ユダの手紙』(ユダのてがみ)は新約聖書の正典中の、公同書簡に分類される手紙のひとつである。わずか25節の短い書簡であり、異端に対して厳しい批判を展開するとともに、信徒に正しい信仰を守ることを勧めている。著者は手紙の冒頭でヤコブの兄弟ユダと名乗っており、一般にこのユダは主の兄弟ユダを示すと考えられている。ただし、現代の自由主義神学の立場からは、ユダに帰した偽名書簡の可能性が指摘されている。 定評あるギリシア語校訂版のネストレ・アーラント28版での題名は ΙΟΥΔΑ ΕΠΙΣΤΟΛΗ である。『ユダの手紙』という書名は新共同訳聖書ほか、口語訳、バルバロ訳、フランシスコ会訳、新改訳、塚本訳、岩波委員会訳、現代訳などの日本語訳聖書で用いられている。他の訳例としては、『ユダの書』(大正改訳)、『ユダスの手紙』(共同訳)、『イウダの書』(日本正教会訳)、『ユダ書』(前田訳)、『ユダ書簡』(田川訳)などがある。簡略化のため、以下では便宜的に「ユダ書」と表記する。
{{新約聖書}} 『'''ユダの手紙'''』(ユダのてがみ)は[[新約聖書]]の[[聖書正典|正典]]中の、[[公同書簡]]に分類される手紙のひとつである。わずか25節の短い書簡であり、異端に対して厳しい批判を展開するとともに、信徒に正しい信仰を守ることを勧めている。著者は手紙の冒頭でヤコブの兄弟ユダと名乗っており、一般にこのユダは{{仮リンク|ユダ (イエスの兄弟)|label=主の兄弟ユダ|en|Jude_(brother_of_Jesus)}}を示すと考えられている。ただし、現代の[[自由主義神学]]の立場からは、ユダに帰した偽名書簡の可能性が指摘されている。 定評ある[[ギリシア語]]校訂版の[[ネストレ・アーラント]]28版での題名は {{Lang|el|ΙΟΥΔΑ ΕΠΙΣΤΟΛΗ}} である<ref>{{harvnb|Deutsche Bibelgesellschaft|2013}}</ref>。『ユダの手紙』という書名は[[新共同訳聖書]]ほか、[[聖書 口語訳|口語訳]]、[[フェデリコ・バルバロ|バルバロ訳]]、[[フランシスコ会訳聖書|フランシスコ会訳]]、[[新改訳聖書|新改訳]]、[[塚本虎二|塚本訳]]、[[岩波訳聖書|岩波委員会訳]]、[[現代訳聖書|現代訳]]などの[[日本語訳聖書]]で用いられている。他の訳例としては、『'''ユダの書'''』([[大正改訳聖書|大正改訳]])、『'''ユダスの手紙'''』([[共同訳聖書|共同訳]])、『'''イウダの書'''』([[日本正教会訳聖書|日本正教会訳]])、『'''ユダ書'''』([[前田護郎|前田訳]])、『'''ユダ書簡'''』([[田川建三|田川訳]])などがある。簡略化のため、以下では便宜的に「ユダ書」と表記する。 == 著者 == 本文中で著者は自らを「[[イエス・キリスト]]の僕(しもべ)またヤコブの兄弟であるユダ」([[聖書 口語訳|口語訳聖書]]<ref group = "注釈">以下、特段の注記のない聖書の引用句は[[パブリックドメイン]]になっている[[聖書 口語訳|口語訳聖書]]からの引用。なお、一部に括弧書きで読みを補った箇所がある。</ref>)と名乗る。「ユダ」という名はイエスを引き渡した[[イスカリオテのユダ]]をはじめ、新約聖書に何人か登場するが、「ヤコブの兄弟」と位置づけられているユダは、[[ヤコブ (イエスの兄弟)|主の兄弟ヤコブ]]の兄弟、すなわち主の兄弟ユダ以外にいない<ref>{{Harvnb|川村|1981|p=445}}</ref><ref name = hayami_p476>{{harvnb|速水|1991|p=476}}</ref><ref>{{Harvnb|秋山|2005|pp=477-478}}</ref>。この人物は、一般に[[タダイ|タダイとも呼ばれる使徒ユダ]]とは別人と見なされる<ref>{{Harvnb|フランシスコ会聖書研究所|1970|pp=138, 145}}</ref><ref name = Schneider_p275>{{Harvnb|ヨハネス・シュナイダー|1975|p=275}}</ref><ref name = JBS_p450>{{Harvnb|日本聖書協会|2004|p=450(新)}}</ref>。ただし、[[オリゲネス]]らは、主の兄弟ユダを使徒ユダと同一視しており<ref>{{Harvnb|フェデリコ・バルバロ|1967|p=307}}</ref><ref name = OFM_p141>{{Harvnb|フランシスコ会聖書研究所|1970|p=141}}</ref>、現代においても[[フェデリコ・バルバロ]]のようにその立場を採る者もいる<ref>{{Harvnb|フェデリコ・バルバロ|1970|p=655}}</ref>。また、教会の伝承においては、著者のユダをヤコブの兄弟とするものからそうでないとするものまで様々であった<ref>Norman Perrin, (1974) ''The New Testament: An Introduction'', p. 260</ref>。 [[自由主義神学|リベラル派]]には、ユダの名を借りて後の時代に作成された偽名書簡と見る者たちがおり、両論を併記している[[フランシスコ会訳聖書]]においても、偽名書簡と見る論者が多いことは認められている<ref>{{Harvnb|フランシスコ会聖書研究所|2013|p=(新)681}}</ref>。偽名書簡と見る立場では、ユダの名を借りたのは権威付けのためとされている<ref name = kawamura_p446 /><ref name = nagata>{{Harvnb|永田|1994|p=222}}</ref>。しかし、こうした説には真正書簡と見る[[福音派]]などからの反論もある。聖書正典においては、主の兄弟ユダは直接的には『[[マルコによる福音書]]』6章3節(および並行する『[[マタイによる福音書]]』13章55節)で、イエスに驚く群衆の発言の中で名前が言及されているにすぎないからである。 {{Quotation|<sub>2</sub> そして、安息日になったので、会堂で教えはじめられた。それを聞いた多くの人々は、驚いて言った、「この人は、これらのことをどこで習ってきたのか。また、この人の授かった知恵はどうだろう。このような力あるわざがその手で行われているのは、どうしてか。 <sub>3</sub> この人は大工ではないか。マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここにわたしたちと一緒にいるではないか」。こうして彼らはイエスにつまずいた。|[[:s:マルコによる福音書(口語訳)|マルコによる福音書]]6章2-3節|[[聖書 口語訳|口語訳聖書]](Wikisource)}} 古代の伝承においても、{{仮リンク|ヘゲシッポス|en|Hegesippus_(chronicler)}}がユダの2人の孫について述べた程度しか伝わっておらず、ユダ本人については何も伝わっていない<ref>{{Harvnb|フランシスコ会聖書研究所|1970|pp=138-139}}</ref><ref>{{Harvnb|ヨハネス・シュナイダー|1975|p=271}}</ref><ref group = "注釈">[[パウロ]]の『[[コリントの信徒への手紙一]]』9章5節で言及される宣教に関わった「主の兄弟」に含まれるとする推測はあるが({{Harvnb|前田|1956}} (p.380)、{{Harvnb|フェデリコ・バルバロ|1967}} (p.308)、{{Harvnb|速水|1991}} (p.476) ほか)、ユダが名指しされているわけではない。</ref>。 偽名説に反論する人々は、もしも権威付けを理由とした偽名ならば、なぜ著者は(主の兄弟とはいえ)このような知名度の低い人物を選んだのかを疑問視している<ref name = OFM_p140>{{Harvnb|フランシスコ会聖書研究所|1970|p=140}}</ref>。さらに、もしも権威付けならば、著者が(主の兄弟などを名乗らずに)「ヤコブの兄弟」としか名乗っていないことも不自然とされる<ref>{{Harvnb|フェデリコ・バルバロ|1967|p=314}}</ref><ref name = OFM_p140 /><ref name = hayami_p476 />。この点、真正書簡と見る立場では、イエスに対する畏敬や控えめな態度として理解できる<ref>{{Harvnb|フランシスコ会聖書研究所|1970|p=138}}</ref><ref>{{Harvnb|ヨハネス・シュナイダー|1975|p=275}}</ref><ref group = "注釈">[[福音派]]の『[[新聖書講解シリーズ]]』でユダ書を担当した井上温章は、イエスへの畏敬のほか、ユダが宣教したパレスチナ地域における中心的教会であったエルサレム教会の指導者ヤコブの名は、対象地域でよく知られていたはずだからということも挙げている({{Harvnb|井上|1983|p=245}})。</ref>。しかし、偽名書簡だとするならば、もっと主の兄弟としての権威を強調してしかるべきというわけである。 ユダの知名度についての疑問は自由主義神学の側からも提示されており、ドイツのNTD新約聖書註解シリーズで公同書簡を担当した[[ヨハネス・シュナイダー]]は、ユダの生涯が詳らかになっていない以上、本当に主の兄弟ユダが書いた可能性も排除しきれないと指摘している<ref>{{Harvnb|ヨハネス・シュナイダー|1975|p=272}}</ref><ref group = "注釈">{{Harvnb|旧約新約聖書大事典編集委員会|1989}}の「ユダの手紙」の項目では、原担当者のW.C. van Unnik が知名度への疑問から偽名ではないとしているのに対し、日本語版担当者の[[佐藤研]]は異議を加筆している。</ref>。 偽名書簡と見る場合、真の著者は不明である<ref name = kobayashi_p356 />。ただし、外典・偽典を含む旧約聖書からの引用などによって、ユダヤ人キリスト教徒が想定されることがある<ref>{{Harvnb|W・マルクスセン|1984|p=419}}</ref><ref name = tsuchido>{{harvnb|土戸|1991|pp=520-522}}</ref><ref name = kobayashi_p356>{{Harvnb|小林|1996|p=356}}</ref>。 == 成立年代 == 書簡そのものには執筆年代を決定する手がかりに乏しく、その推定年代は立場によって西暦60年から180年までとかなりの幅がある<ref name = OFM_p144>{{Harvnb|フランシスコ会聖書研究所|1970|p=144}}</ref>。 まず、主の兄弟ユダの真正書簡と見る立場の例をいくつか挙げる。[[カトリック教会]]の[[フェデリコ・バルバロ]]は、この書簡が異端との対決を示しているのに対し、ヘゲシッポスによる伝承では主の兄弟ヤコブの殉教(62年)以前のパレスチナに異端が見られなかったとされることから、62年以降の執筆とした。その上で、70年のエルサレム陥落が投影されていないことから、遅くともそれ以前の成立とし、ユダ書との類似が指摘される『[[ペトロの手紙二]]』より先の成立なら62年から64年、後の成立なら64年から70年と推測した<ref name = FB_p310>{{Harvnb|フェデリコ・バルバロ|1967|p=310}}</ref>。同じカトリックでも[[フランシスコ会訳聖書]]では70年から80年頃とされている<ref name = OFM_p144 /><ref group = "注釈">フランシスコ会訳聖書では年代について両論併記されており、偽名書簡の場合には80年から100年とされている ({{Harvnb|フランシスコ会聖書研究所|1970|p=144}})。</ref>。 [[福音派]]の各種文献でもおおむね60年から80年ごろの時期が想定されている。『[[新聖書注解]]』ではユダが80年に没するまでの10年から15年の間<ref name = uenuma_p431>{{Harvnb|上沼|1972|p=431}}</ref>、『[[新聖書辞典]]』では64年頃ないしその少し後<ref name = izuta>{{Harvnb|泉田|宇田|服部|舟喜|1985|pp=1289-1290}}</ref>、『エッセンシャル聖書辞典』では70年代から80年代<ref name = yamaguchi>{{Harvnb|山口|1998|pp=639-640}}</ref>、『[[実用聖書注解|新実用聖書注解]]』では60年から80年頃<ref name = fujimoto_p1846>{{Harvnb|藤本|2008|p=1846}}</ref>、『BIBLE navi』では65年頃<ref name = navi_p2133>{{Harvnb|いのちのことば社編集部(翻訳)|2011|p=2133}}</ref>とされている。また、[[現代訳聖書]]を手がけた聖書学者[[尾山令仁]]はこの書が66年頃に書かれたものと考えている<ref>{{Harvnb|尾山|1964|p=330}}</ref>。 他方、偽名書簡と見る立場では、もっと後の時代が想定される。[[岩波訳聖書|岩波委員会訳聖書]]および『総説 新約聖書』(新版)でユダ書を担当した[[小林稔 (聖書学者)|小林稔]]は、一般的な見解として西暦100年ごろを挙げている<ref name = kobayashi_p356 />。『新共同訳 新約聖書略解』でユダ書を担当した[[辻学]]は、1世紀終わりごろとしている<ref>{{Harvnb|辻|2000|p=724}}</ref>。[[キリスト新聞社]]の『新共同訳 聖書辞典』では、17節が[[使徒]]たちを過去の存在としているように読めることや、描かれている異端の出現時期の推定などから、110年から130年頃が想定されている<ref name = shimbun>{{Harvnb|木田|野本|橋本|和田|1995|p=578}}</ref>。[[新教出版社]]の『新共同訳聖書 聖書辞典』では120年前後とされている<ref name = akiyama>{{Harvnb|秋山|2005|pp=478-479}}</ref>。『総説 新約聖書』(旧版)でユダ書を担当した[[川村輝典]]は150年以前とした<ref name = kawamura_p446 />。 == 執筆場所 == この手紙は執筆場所についての手がかりも乏しい。[[川村輝典]]<ref name = kawamura_p446 />、[[土戸清]]<ref name = tsuchido />、[[小林稔 (聖書学者)|小林稔]] <ref name = kobayashi_p357>{{Harvnb|小林|1996|p=357}}</ref>、[[田川建三]]<ref name = tagawa_p832 />のように、単に不明としている論者も少なからずいる。 主の兄弟に対する思い入れが強かった[[シリア]]とされることもある<ref>{{Harvnb|オスカー・クルマン|1967|p=150}}</ref>。ただし、シリアがユダ書の正典化に消極的な地域であったこととは整合しない<ref>{{Harvnb|前田|1956|pp=378-380}}</ref>。[[パレスチナ]]で主の兄弟が活動していたため、パレスチナが想定されることもある<ref name = hayami_p476 />。さらには、[[エジプト]]が想定されることもある。これはユダ書に[[外典]]の利用が見られることと、外典を受容する傾向のあったエジプトが結び付けられたためである<ref name = shimbun />。 また、場所を特定した意見ではないが、手紙の中で宛先の信徒たちを直接訪問する意図が表明されていないのは、宛先とかなり離れていることを暗示しているのではないかとする[[フェデリコ・バルバロ]]のような意見もある<ref name = FB_p310 />。 == あて先 == ユダ書は[[公同書簡]]に含まれており、その体裁は確かに[[公同の教会]]に向けられているかのようである。これをそのまま不特定の相手に向けられたと理解する[[尾山令仁]]のような者がいる一方で<ref>{{Harvnb|尾山|1964|pp=330-331}}</ref>、一定範囲の教会が実際には想定されていると考える者たち<ref>{{Harvnb|フェデリコ・バルバロ|1967|p=309}}</ref><ref name="名前なし-1">{{Harvnb|ヨハネス・シュナイダー|1975|p=269}}</ref><ref name = Marxsen_p417>{{Harvnb|W・マルクスセン|1984|p=417}}</ref>もいる。ただし、その想定は必ずしも一致するものではない。[[フェデリコ・バルバロ|バルバロ訳聖書]]や[[フランシスコ会訳聖書]]は旧約外典・偽典が使用されていることから、その知識のあるユダヤ人キリスト者を想定しているが<ref>{{Harvnb|フェデリコ・バルバロ|1967|pp=309-310}}</ref><ref>{{Harvnb|フランシスコ会訳聖書|1970|p=143}}</ref>、ヨハネス・シュナイダーのように、旧約をよく知っている人々としつつ、異邦人(非ユダヤ人)キリスト者を想定する者もいる<ref>{{Harvnb|ヨハネス・シュナイダー|1975|pp=269, 279}}</ref>。 3節の「わたしたちが共にあずかっている救<!--「い」がないのは口語訳聖書の原文ママ-->」から、ユダヤ人キリスト教徒が中心で、異邦人も想定されているとする見解もある<ref name = uenuma_p431 />。 == 内容 == 『ユダの手紙』はわずか25節しかなく、新約聖書の中では短い部類に入る。ただし、新約聖書で章分けされていないのは『[[フィレモンへの手紙]]』(25節)、『[[ヨハネの手紙二]]』(13節)、『[[ヨハネの手紙三]]』(15節)、そしてこのユダ書の4通の書簡のみだが、単語数で見た場合、その中では最も長い<ref group = "注釈">[[レイモンド・ブラウン]]が[[ネストレ・アーラント]]21版に基づいて示した数値では、短い順に『ヨハネの手紙三』が219語、『ヨハネの手紙二』が245語、『フィレモンへの手紙』が355語、ユダ書が457語となっている ({{citation|last=Brown |first=R. E. |author-link=レイモンド・エドワード・ブラウン|year=1982 |title=The Epistles of John |series=[[アンカー・バイブル|Anchor Bible]], 30 |location=Garden City, NY |publisher=[[ダブルデイ|Doubleday]]}} p.727)。</ref>。 === 主題 === ユダ書は「異端に対する烈しい反論の書」<ref>{{Harvnb|川村|1981|p=442}}</ref>である。ただし、その反論は異端の教理を具体的に取り上げて論駁する形をとらず、彼らの不品行を批判したり<ref name = hayami_p475>{{Harvnb|速水|1991|p=475}}</ref><ref group = "注釈">ただし、こうした不品行への批判は型どおりのものであり、どの程度実態を反映しているのかを疑問視する意見もある({{Harvnb|W・マルクスセン|1984|p=417}})。</ref>、旧約聖書などを引き合いに出したりしつつ、異端の末路がどのようなものかを示すものとなっている<ref name = Schneider_p270>{{Harvnb|ヨハネス・シュナイダー|1975|p=270}}</ref>。そのため、ここで攻撃されている異端がどのような存在であったかについては不明瞭な部分もあるが、[[グノーシス主義]]的な思想に基づく自由放縦な人々がしばしば想定される<ref name = Schneider_p270 /><ref name="名前なし-2">{{Harvnb|前田|1956|p=378}}</ref><ref name = Marxsen_p418>{{Harvnb|W・マルクスセン|1984|p=418}}</ref>。ユダ書の目的は、そうした異端との対決<ref>{{Harvnb|川村|1981|p=444}}</ref>あるいは偽教師たちについての警告<ref name = OFM_p142>{{Harvnb|フランシスコ会聖書研究所|1970|p=142}}</ref><ref name="名前なし-1"/>などと位置づけられている。 === 構成 === いくつかの日本語訳聖書では段落分けがなされている。そう大きく異なるわけではないが、細かな違いはある。学者間でも段落分けは一致しておらず、明確に区切ること自体に否定的な見解を示す者もいる<ref>{{Harvnb|小林|2009|p=30}}</ref>。ここでは参考として、[[新共同訳聖書|新共同訳]]<ref group = "注釈">見出しの文言は異なるが、区切り方自体はバルバロ訳もこれと同じである。</ref>、[[フランシスコ会訳聖書|フランシスコ会訳]]、[[新改訳聖書|新改訳]]、[[岩波訳聖書|岩波委員会訳]]の段落分けを例示しておく。 {| class="wikitable" |+ ユダ書の区切り ! 節 !! 新共同訳 !! フランシスコ会訳 !! 新改訳 !! 岩波委員会訳 |- ! 1-2 | 挨拶<!--新共同訳--> || 挨拶<!--フランシスコ会訳--> || rowspan = "2"|あいさつ <!--新改訳--> || 挨拶<!--岩波委員会訳--> |- ! 3-4 | rowspan = "3"|偽教師についての警告<!--新共同訳--> || 手紙を書く動機<!--フランシスコ会訳--> ||執筆の動機 <!--岩波委員会訳--> |- ! 5-7 | 旧約時代の裁き<!--フランシスコ会訳--> || rowspan = "2"| にせ教師たちがしていること<!--新改訳--> || rowspan = "2"| 偽教師たちに対する非難<!--岩波委員会訳--> |- ! 8-16 | 偽教師の振る舞い<!--フランシスコ会訳--> |- ! 17-23 | 警告と励まし<!--新共同訳--> || 警告と励まし<!--フランシスコ会訳--> || 信仰者への警告と勧め<!--新改訳--> || 信徒たちへの警告と励まし<!--岩波委員会訳--> |- ! 24-25 | 賛美の祈り<!--新共同訳--> || 結びの賛歌<!--フランシスコ会訳--> || 祈り<!--新改訳--> || 結びの賛歌<!--岩波委員会訳--> |} === 文体 === その文体についてはギリシア語の見事さが指摘されている<ref name = Schneider_p270 />。その言葉遣いは[[ヘレニズム]]的であるとも<ref name = nagata />、[[ヘブライ]]的であるとも<ref name = FB_p312_313>{{Harvnb|フェデリコ・バルバロ|1967|pp=312-313}}</ref>言われる。 === 注解 === 以下、各節の簡略な注解を行う。その際、便宜上、上に挙げた区切り方の中で最も細かい区切りであるフランシスコ会訳聖書の区切りに準じる。同じ区切り方は[[福音派]]の『[[新聖書注解]]』でも採用されている。 ==== 1節と2節 ==== {{Quotation|<sub>1</sub> イエス・キリストの僕またヤコブの兄弟であるユダから、父なる神に愛され、イエス・キリストに守られている召された人々へ。 <sub>2</sub> あわれみと平安と愛とが、あなたがたに豊かに加わるように。|[[:s:ユダの手紙 (口語訳)|ユダの手紙]]1-2節}} 1節で著者はユダと名乗っているが、これについては上の[[#著者|「著者」節]]を参照のこと。「イエス・キリストの僕」「召された人々」という表現に、[[パウロ]]からの影響の可能性を指摘する見解もある<ref name = hayami_p477>{{Harvnb|速水|1991|p=477}}</ref>。また、ヤコブへの言及などは、『[[ヤコブの手紙]]』の存在を前提にしているとされる<ref name = tsuji_p725>{{Harvnb|辻|2000|p=725}}</ref>。 2節の「豊かに」とは、[[アブラハム]]にとっての子孫繁栄、[[初代教会]]にとっての信徒増加などのように、目に見える形で増えることを指す<ref name = uenuma_p432>{{Harvnb|上沼|1972|p=432}}</ref>。 ==== 3節と4節 ==== {{Quotation|<sub>3</sub> 愛する者たちよ。わたしたちが共にあずかっている救について、あなたがたに書きおくりたいと心から願っていたので、聖徒たちによって、ひとたび伝えられた信仰のために戦うことを勧めるように、手紙をおくる必要を感じるに至った。 <sub>4</sub> そのわけは、不信仰な人々がしのび込んできて、わたしたちの神の恵みを放縦な生活に変え、唯一の君であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定しているからである。彼らは、このようなさばきを受けることに、昔から予告されているのである。|[[:s:ユダの手紙 (口語訳)|ユダの手紙]]3-4節}} 3節は手紙を書いた目的を示し、福音派の『エッセンシャル聖書辞典』では「主題」<ref name = yamaguchi>{{Harvnb|山口|1998|pp=639-640}}</ref>、『BIBLEnavi』では「中心聖句」<ref name = navi_p2133 />と位置づけられている。ただし、この部分は2通りに翻訳できる<ref name = hayami_p477 /><ref name = tagawa_p397>{{Harvnb|田川|2015|p=397}}</ref>。上記の口語訳のように「心から願っていたので」と順接に訳す場合、元々書きたいと考えていた手紙とユダ書は同じ主題ということになる<ref>{{Harvnb|フェデリコ・バルバロ|1967|p=315}}</ref><ref name = tsukamoto_p1002>{{Harvnb|塚本虎二訳新約聖書刊行会|2012|p=1002}}</ref>。他方で、これを[[新改訳聖書]]や[[田川建三|田川訳]]聖書のように、「心から願っていたが」と逆接に訳す場合、本来書きたかった手紙とは別の手紙を急遽したためる必要が生じ、その結果書かれたのがユダ書という意味になる<ref>{{Harvnb|ヨハネス・シュナイダー|1975|p=277}}</ref><ref>{{Harvnb|井上|1983|p=245}}</ref><ref>{{Harvnb|P・パーキンス|1998|p=222}}</ref>。 3節の「愛する者たちよ」という呼びかけは17節、20節にも登場し、ユダの読者に対する気遣いが読み取れる<ref name= Fujimoto_p1847 />。同じ節の「ひとたび伝えられた」というのは、キリスト教の信仰は[[イエス・キリスト]]がただ一度だけ伝えたものであったことを指している<ref name = uenuma_p433>{{Harvnb|上沼|1972|p=433}}</ref><ref name= Fujimoto_p1847>{{Harvnb|藤本|2008|p=1847}}</ref>。また、そこから、この書の成立(福音派の理解では1世紀後半)までに「キリスト教の信仰体系」が成立していたことを読み取る者もいる<ref name = yamaguchi />。 4節の「しのび込んできて」は特定の教会の状況を想定しているようにも見え、これが特定の教会に宛てられた手紙と見る立場の根拠の一つになっている<ref name = Marxsen_p417 />。そして、この忍び込んだ人びとは、巡回説教者を指している可能性がある<ref>{{Harvnb|フェデリコ・バルバロ|1967|pp=316-317}}</ref><ref name = hayami_p478>{{Harvnb|速水|1991|p=478}}</ref><ref>{{Harvnb|P・パーキンス|1998|p=231}}</ref>。他方、これはあくまでも教会内の結束を強めるための[[レトリック]]で、実際に外部の者だったかは分からないとする立場もあり<ref name = tsuji_p725 />、この書かれ方では、外部から共同体に入ってきたのか、自分たちの集団から異なるグループが現れたのか不鮮明だとする見解もある<ref name = kobayashi_p358>{{Harvnb|小林|1996|p=358}}</ref>。 彼らの「放縦」については、いくつかの捉え方がある。福音派の[[井上温章]]はこれを[[グノーシス主義]]と直結させ、霊肉二元論に立ち、肉体を否定的に捉えるグノーシス主義では、肉体が何をしようとも問題ではないとする解釈が導かれて放縦に繋がり、また神の恵みの曲解からいかなる罪も無条件に赦されるという理解に至ったとしている<ref>{{Harvnb|井上|1983|p=252}}</ref>。他方で具体像を欠いていることから、どのような存在か確定させられないとしてグノーシスとの結びつきにも慎重な立場があり<ref>{{Harvnb|辻|2000|pp=724-725}}</ref>、[[田川建三]]に至っては、仮想敵であった可能性にまで言及している<ref>{{Harvnb|田川|2015|pp=398-400}}</ref>。 4節には「昔から予告されてきた」とあるが、これが何を指すかは諸説あり、(1) [[ペトロの手紙二]]第2章1節から3節、(2) 使徒の預言、(3) 旧約聖書全体、(4) ユダ書で後述される特定箇所、(5) 天で記されているとされる「命の書」、などの可能性が挙げられてきた<ref>{{Harvnb|速水|1991|pp=477-478}}</ref>。ほか、[[死海文書]]の宗規要覧などに反映された別系統のユダヤ伝承ではないかとする説もある<ref>{{Harvnb|フランシスコ会聖書研究所|1970|pp=146-147}}</ref>。 ==== 5節から7節 ==== {{Quotation|<sub>5</sub> あなたがたはみな、じゅうぶんに知っていることではあるが、主が民をエジプトの地から救い出して後、不信仰な者を滅ぼされたことを、思い起してもらいたい。 <sub>6</sub> 主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた。 <sub>7</sub> ソドム、ゴモラも、まわりの町々も、同様であって、同じように淫行にふけり、不自然な肉欲に走ったので、永遠の火の刑罰を受け、人々の見せしめにされている。|[[:s:ユダの手紙 (口語訳)|ユダの手紙]]5-7節}} この5節から7節は3種の神の裁きを挙げている<ref name = hayami_p478 />。「思い起こしてもらいたい」という表現は、それらの裁きを読者が知っていることを前提とし、同時に読者が認識している教えには問題がないことを示している<ref>{{Harvnb|P・パーキンス|1998|p=232}}</ref>。 まず、最初にユダヤ人たちの[[出エジプト記|出エジプト]]に触れている。この不信仰な者たちの滅びは『[[民数記]]』14章1節以下に描写されている<ref name = FB_p317>{{Harvnb|フェデリコ・バルバロ|1967|p=317}}</ref><ref group = "注釈">5節の民数記の典拠として、{{Harvnb|宮平|2015}}は14章20節から38節、{{Harvnb|いのちのことば社出版部(翻訳)|2011}}は14章26節から39節を挙げている。</ref>。なお、上記引用の訳文中で「主」と訳されている箇所については、「神」「神なるキリスト」など、いくつかの異文が存在している<ref name = hayami_p478 /><ref name = OFM_p147>{{Harvnb|フランシスコ会聖書研究所|1970|p=147}}</ref>。出エジプトを引き合いに出して不信心を咎める構成は、[[パウロ書簡]]の『[[コリントの信徒への手紙一]]』10章1節から10節にも見られる<ref name = uenuma_p433 />。 6節に描かれている御使い([[天使]])の閉じ込めの話は、『[[創世記]]』6章1節から4節に描かれた話を敷衍したもので<ref>{{Harvnb|速水|1991|pp=478-479}}</ref><ref name = kobayashi_p180 />、『[[エノク書|第一エノク書]]』(エチオピア語エノク書)に詳しく書かれている<ref name = OFM_p147 /><ref name = kobayashi_p180>{{Harvnb|小林|1996|p=180}}</ref>。古代のユダヤ人たちにとって堕落した天使のモチーフは、民間伝承での人気あるモチーフであった<ref>{{Harvnb|P・パーキンス|1998|p=234}}</ref>。この部分は『[[ペトロの手紙二]]』第2章10節と並行する<ref>{{Harvnb|ヨハネス・シュナイダー|1975|p=281}}</ref>。 {{Citation|特に、汚れた情欲におぼれ肉にしたがって歩み、また、権威ある者を軽んじる人々を罰して、さばきの日まで閉じ込めておくべきことを、よくご存じなのである。こういう人々は、大胆不敵なわがまま者であって、栄光ある者たちをそしってはばかるところがない。|ペトロの手紙二第2章10節(口語訳)<ref name = s_pet2>[[:s:ペテロの第二の手紙(口語訳)]](Wikisource)より引用。</ref>}} 7節は『ペトロの手紙二』第2章6節・10節に並行する。 {{Citation|また、ソドムとゴモラの町々を灰に帰せしめて破滅に処し、不信仰に走ろうとする人々の見せしめとし、|ペトロの手紙二第2章10節(口語訳)<ref name = s_pet2 />}} ユダ書の7節はソドムとゴモラの罪が同性愛にあったとする説の根拠となっており、[[岩波訳聖書|岩波委員会訳聖書]]でも同性愛が通説として紹介されている<ref name = kobayashi_p180 />。ただし、口語訳で「不自然な肉欲」と訳されている箇所は、特定の観点からの解釈の持ちこみであり<ref name = tagawa_p403>{{Harvnb|田川|2015|p=403}}</ref>、[[改訂標準訳聖書|RSV]]の英訳に影響されたらしき誤訳である<ref name = kobayashi09_p37>{{Harvnb|小林|2009|p=37}}</ref>。その直訳は「他の肉」<ref name = tsukamoto_p1002 /><ref name = tsuji_p726>{{Harvnb|辻|2000|p=726}}</ref>あるいは「異なる肉」<ref name = JBS_p450 /><ref name = kobayashi09_p37 />であって、これが意味するところはいくつかの説がある。 有力なのは2説で、[[辻学]]は英語圏の研究者が同性愛に解しがちなのに対し、ドイツ語圏の研究者は人間と異質な肉、すなわち天使との性交と解しがちであると概観している<ref>{{Harvnb|辻|1998|pp=6-7}}</ref>。もっとも、英語圏でも天使との性交と解するスタディ・バイブルは複数ある<ref name = JBS_p450 /><ref>{{Harvnb|Senior|Collins|2006|p=1666}}</ref>。また、フランス語圏で評価の高い[[共同訳聖書#TOB:フランスの共同訳聖書|La TOB]]も天使との性交の意味に捉えている<ref name = tagawa_p403 />。少数説としては、偶像崇拝の隠喩とする見解や、天使たちが己の領域を離れたことと関連付けて性的意味を否定する見解などがある<ref>{{Harvnb|辻|1998|pp=7, 16}}。なお、辻自身は1998年の時点では神に背いて姦淫に走ったこと自体を指すとして、同性愛、天使との性交の両説を否定していたが、{{Harvnb|辻|2000}}では天使との性交とする説が採られている。</ref>。 永遠の火云々は『第一エノク書』67章4節以下で、地獄の炎が[[死海]]の地下にあるとされることに対応する可能性があるものの、直接これに依拠したかははっきりしない<ref name = Schneider_p282>{{Harvnb|ヨハネス・シュナイダー|1975|p=282}}</ref>。 ==== 8節から16節 ==== {{Quotation|<sub>8</sub> しかし、これと同じように、これらの人々は、夢に迷わされて肉を汚し、権威ある者たちを軽んじ、栄光ある者たちをそしっている。<sub>9</sub> 御使のかしらミカエルは、モーセの死体について悪魔と論じ争った時、相手をののしりさばくことはあえてせず、ただ、「主がおまえを戒めて下さるように」と言っただけであった。 <sub>10</sub> しかし、この人々は自分が知りもしないことをそしり、また、分別のない動物のように、ただ本能的な知識にあやまられて、自らの滅亡を招いている。 <sub>11</sub> 彼らはわざわいである。彼らはカインの道を行き、利のためにバラムの惑わしに迷い入り、コラのような反逆をして滅んでしまうのである。 <sub>12</sub> 彼らは、あなたがたの愛餐に加わるが、それを汚し、無遠慮に宴会に同席して、自分の腹を肥やしている。彼らは、いわば、風に吹きまわされる水なき雲、実らない枯れ果てて、抜き捨てられた秋の木、<sub>13</sub> 自分の恥をあわにして出す海の荒波、さまよう星である。彼らには、まっくらなやみが永久に用意されている。 <sub>14</sub> アダムから七代目にあたるエノクも彼らについて預言して言った、「見よ、主は無数の聖徒たちを率いてこられた。 <sub>15</sub> それは、すべての者にさばきを行うためであり、また、不信心な者が、信仰を無視して犯したすべての不信心なしわざと、さらに、不信心な罪人が主にそむいて語ったすべての暴言とを責めるためである」。<sub>16</sub> 彼らは不平をならべ、不満を鳴らす者であり、自分の欲のままに生活し、その口は大言を吐き、利のために人にへつらう者である。|[[:s:ユダの手紙 (口語訳)|ユダの手紙]]8-16節}} 第8節では悪行3つ、すなわち「夢に迷わされて肉を汚」すこと、「権威ある者たちを軽んじ」ること、「栄光ある者たちをそしっている」ことが挙げられている<ref>{{Harvnb|ヨハネス・シュナイダー|1975|pp=284-285}}</ref>。夢に迷わされるというのは幻視者<ref>{{Harvnb|ヨハネス・シュナイダー|1975|p=284}}</ref>ないし偽預言者<ref name = uenuma_p434>{{Harvnb|上沼|1972|p=434}}</ref><ref name = tsuji_p726>{{Harvnb|辻|2000|p=726}}</ref>を指す。汚らわしい、あるいは淫らな夢想という解釈もある<ref>{{Harvnb|宮本|1992|p=761}}</ref>。 「権威ある者」は御使い(天使)の持つ主権を指し、ここでは神の支配権そのものを指す<ref name = uenuma_p434 />。「栄光ある者」は天使を指す<ref name = OFM_p147 /><ref name = tsuji_p726 /><ref>{{Harvnb|いのちのことば社出版部(翻訳)|2011|p=2135}}</ref>。古代の[[エウセビオス]]らは、天使にも放縦な者たちがいたとされることを根拠にそういう生活をしていたグノーシスの一派、カルポクラテス派と結び付けていた<ref name = FB_p319>{{Harvnb|フェデリコ・バルバロ|1967|p=319}}</ref>。 9節のモーセの死体をめぐる論争は、[[オリゲネス]]が外典の『{{仮リンク|モーセの昇天|en|Assumption_of_Moses}}』からと指摘して以来、それが受け入れられている<ref>{{Harvnb|フランシスコ会聖書研究所|1970|pp=148-149}}</ref><ref name="名前なし-3">{{Harvnb|ヨハネス・シュナイダー|1975|p=286}}</ref>。 {{Quotation|まず第一に、確かに創世記においては、蛇がエバを誘惑したと記されている。使徒ユダがその手紙の中で思い起こしている『モーセの昇天』という書物の中で、天使長ミカエルがモーセの屍について悪魔と議論した際に、蛇は悪魔にそそのかされてアダムとエバの罪の原因となった、と言っているのは、そのことについてなのである。|オリゲネス『原理論』三・二・一|[[土岐健治]]訳<ref>{{Harvnb|土岐|小林|1979|p=188}}</ref>}} しかし、『モーセの昇天』は現存しない。一応、古い写本の欄外注の形でギリシア語の逸文が残されており、田川訳聖書の注釈で試訳されている<ref>{{harvnb|田川|2015|pp=405-406}}</ref>。 ただし、ユダ書と『モーセの昇天』は共通の伝承に拠ったのであって、前者が後者に依拠したわけではないと想定する説もある<ref>{{Harvnb|フェデリコ・バルバロ|1967|p=321}}</ref>。いずれにせよ、ここで述べられているのは、「裁き」は神のみがなしうるものであるということである<ref name = uenuma_p434 />。 10節は異端教師の思い上がりの描写である。彼らがそしる「知りもしないこと」の内容は、「神的真理」<ref name="名前なし-3"/>、「神に属する霊の事がら」<ref>{{Harvnb|上沼|1972|p=434}}</ref>、「霊の世界と信仰の世界」<ref name = FB_p322>{{Harvnb|フェデリコ・バルバロ|1967|p=322}}</ref>などと言われる。他方、簡潔すぎて正確に掴みきれないので、それを断定的に述べること自体が、この節の記述に反してしまうとする立場もある<ref>{{Harvnb|田川|2015|p=406}}</ref>。 11節で言及されている、[[カインとアベル|カイン]]、[[バラム (旧約聖書)|バラム]]、{{仮リンク|コラ (聖書)|label=コラ|en|Korah}}の3人は、信仰にとって好ましからざる人物の代表例として挙げられている<ref name = FB_p322 />。カインは低い次元の事柄しか認識できない人物、バラムは天使を見くびる人物、コラはモーセに逆らった人物であり、こうした人物を思い起こさせることで、論争をせずに断罪している<ref>{{Harvnb|ヨハネス・シュナイダー|1975|pp=287-288}}</ref>。 12節では愛餐に紛れ込んできた異端者について言及されており<ref name = OFM_p148>{{Harvnb|フランシスコ会聖書研究所|1970|p=148}}</ref>、異端者たちは愛餐の意義を正しく理解できていないとする<ref>{{Harvnb|ヨハネス・シュナイダー|1975|p=288}}</ref>。愛餐の原語は「愛」と同じで、かつて[[聖餐]]と不分明のものとして行われていたと推測されている、信徒同士が食物を持ち寄って行なった会食を指している<ref>{{Harvnb|小林|1996|p=181}}</ref><ref group = "注釈">[[使徒教父]]文書の[[イグナティオスの手紙]](スミュルナへの書簡)でも、聖餐と「愛」が同じものとして扱われている({{Harvnb|田川|2015|p=412}})。</ref>。12節後半からの批判のうち、「水のない雲」は雨を降らせない雲のことで、他の喩えとともに無意味なものの例示とも言われる<ref>{{Harvnb|宮平|2015|p=383}}</ref>。 14節ではエノクが7代目であると示される。7代目という位置づけは『第一エノク書』60章8節あるいは93章3節に描かれている<ref>{{Harvnb|フェデリコ・バルバロ|1967}}(p.324) と{{Harvnb|ヨハネス・シュナイダー|1975}} (p.290) は両方を挙げる。{{Harvnb|フランシスコ会聖書研究所|1970}} (p.149) は60章8節のみを挙げている。</ref>。「[[7]]」という数字はそれ自体がエノクの特別性を示している<ref name = FB_p324>{{Harvnb|フェデリコ・バルバロ|1967|p=324}}</ref><ref name = OFM_p149>{{Harvnb|フランシスコ会聖書研究所|1970|p=149}}</ref>。14節途中から15節は『第一エノク書』1章9節の引用で<ref>{{Harvnb|フランシスコ会聖書研究所|1970|p=149}}</ref><ref name = schneider_p290>{{Harvnb|ヨハネス・シュナイダー|1975|p=290}}</ref>、そのことは古来、[[アレクサンドリアのクレメンス]]、[[テルトゥリアヌス]]、[[ヒエロニムス]]、[[アウグスティヌス]]らによって指摘されてきた<ref name = FB_p311>{{Harvnb|フェデリコ・バルバロ|1967|p=311}}</ref>。ただし、15節後半を『エノク書』5章4節と関連付ける意見もある<ref>{{Harvnb|村岡|1975|p=341}}</ref><ref group = "注釈">[[新見宏]]はユダ書14・15節の出典について、エノク書1章9節、5章4節、27章2節、60章8節、93章2節を挙げている({{Harvnb|新見|1999|p=308}})。</ref>。後述するように、ユダ書の正典性をめぐり、外典の利用が問題視されたが、その問題が特に集中する箇所がこの14節から15節にかけてである<ref name = FB_p311 /><ref group = "注釈"> 14節では[[与格]] τούτοις (彼らに)を使用し、マタイ福音書15章7節などの[[属格]]περὶ τούτῶν(彼らについて)を使用していない (Daniel B.Wallace, Greek Grammar Beyond the Basics.)。</ref>。 16節にも『第一エノク書』5章4節に並行する言葉が含まれている<ref>{{Harvnb|ヨハネス・シュナイダー|1975|pp=290-291}}</ref>。 こうした激しい言葉遣いから、教会を想うユダの強い気持ちが読み取れる<ref>{{Harvnb|藤本|2008|p=1850}}</ref>。 ==== 17節から23節 ==== {{Quotation|<sub>17</sub> 愛する者たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの使徒たちが予告した言葉を思い出しなさい。 <sub>18</sub> 彼らはあなたがたにこう言った、「終りの時に、あざける者たちがあらわれて、自分の不信心な欲のままに生活するであろう」。<sub>19</sub> 彼らは分派をつくる者、肉に属する者、御霊を持たない者たちである。 <sub>20</sub> しかし、愛する者たちよ。あなたがたは、最も神聖な信仰の上に自らを築き上げ、聖霊によって祈り、<sub>21</sub> 神の愛の中に自らを保ち、永遠のいのちを目あてとして、わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。<sub>22</sub> 疑いをいだく人々があれば、彼らをあわれみ、<sub>23</sub> 火の中から引き出して救ってやりなさい。また、そのほかの人たちを、おそれの心をもってあわれみなさい。しかし、肉に汚れた者に対しては、その下着さえも忌みきらいなさい。|[[:s:ユダの手紙 (口語訳)|ユダの手紙]]17-23節}} 17節から内容を転じて後半に入る<ref name = kawamura_p443>{{Harvnb|川村|1981|p=443}}</ref><ref name = Schneider_p291>{{Harvnb|ヨハネス・シュナイダー|1975|p=291}}</ref>。17節から18節にかけては「使徒たちが予告した言葉」が引き合いに出されているが、これと一致する使徒の発言は伝わっていない<ref>{{Harvnb|田川|2015|p=418}}</ref>。具体的な文章を引用したのではなく、読者の記憶を喚起するもの([[フェデリコ・バルバロ|バルバロ]])<ref name = FB_p325>{{Harvnb|フェデリコ・バルバロ|1967|p=325}}</ref>、あるいは複数の使徒たちの発言を再編したもの(シュナイダー)<ref name = Schneider_p292>{{Harvnb|ヨハネス・シュナイダー|1975|p=292}}</ref>などといわれる。また、もしも『[[ペトロの手紙二]]』がユダ書に先行するとした場合には、その3章2節から3節の引用の可能性も出てくる<ref>{{Harvnb|フランシスコ会聖書研究所|1970|pp=149-150}}</ref>。いずれにせよ、ここでユダ書の著者は、旧約の預言者と使徒の言葉を同格の参照元として取り扱っている<ref name = Marxsen_p418 />。その発言に見られる「あざける者」という表現では、何を嘲ったのかが明示されていないが、終末願望を嘲った可能性が指摘されている<ref name = Schneider_p292 />。また、彼らが「御霊を持たない者」とされるのは、その高慢さに原因がある<ref name = OFM_p150>{{Harvnb|フランシスコ会聖書研究所|1970|p=150}}</ref><ref>{{Harvnb|ヨハネス・シュナイダー|1975|p=293}}</ref>。 なお、17節から18節は、偽名書簡と見る者たちからは、使徒の死後の時代に書かれたことが読み取れるとされている<ref name = shimbun /><ref>{{Harvnb|速水|1991|p=481}}</ref>。また、ユダを使徒の方ではないと位置づける者たちからは、著者が使徒と自らを別個の存在として位置づけている(つまり使徒ユダの作品ではありえない)ことが読み取れるとされている<ref>{{Harvnb|高柳|2004|p=170}}</ref><ref name = Fujimoto_p1845 />。 19節に出てくる「彼らは分派をつくる者、肉に属する者、御霊を持たない者たち」という批判は、「彼ら」の主張を裏返しにした批判ではないかという説もある。すなわち、「彼ら」は自分たちが御霊を持ち、肉に属さないものであると主張していたため、まったく逆と批判したというわけである<ref name = kobayashi_p359>{{Harvnb|小林|1996|p=359}}</ref>。グノーシス主義者の中には、救いは滅び行く世界を超えたところにあるものであり、[[パウロ]]の説くことを都合よく解釈して、人為によって救われるのではないのでこの世の肉体が何をしても良いという放縦な振る舞いに及んだものもいたとされる。19節はそうした主張への反論として理解できる可能性がある<ref name = kobayashi_p359 />。他方で、20世紀以降に発見されたグノーシス文書の分析などから、こうしたグノーシス理解に疑問も出されている<ref name = kobayashi_p359 />。 21節で保つように促されている信仰は、伝統的な信仰を指している。伝統それ自体を根拠に置く信仰のあり方が見られるのは、新約聖書ではここだけとされる<ref>{{Harvnb|ヨハネス・シュナイダー|1975|p=294}}</ref>。なお、20節から21節には「神」「イエス・キリスト」「聖霊」という3つの[[位格]]が揃っており<ref name = OFM_p150 /><ref name = Schneider_p295>{{Harvnb|ヨハネス・シュナイダー|1975|p=295}}</ref>、[[フェデリコ・バルバロ]]や[[堀田雄康]]はここに[[三位一体]]の暗示を見出している<ref>{{Harvnb|フェデリコ・バルバロ|1967|p=327}}</ref><ref>{{Harvnb|堀田|1981|p=809}}</ref>。 23節の「肉に汚れた者」はいろいろな説がある。[[フェデリコ・バルバロ]]や[[上沼昌雄]]は[[ハンセン病]]と関連付けていた<ref>{{Harvnb|フェデリコ・バルバロ|1967|p=328}}</ref><ref>{{Harvnb|上沼|1972|p=437}}</ref>。他方、放蕩や肉欲の穢れと結びつける見解もある<ref name="名前なし-4">{{Harvnb|宮本|1992|p=762}}</ref><ref name = Schneider_p297 />。その下着も拒むという話は、人の持つ霊的な力が衣服を通じても伝わるという考え方(『[[マルコによる福音書]]』5章27節などに出てくる)が元になっているとされる<ref name = Schneider_p297>{{Harvnb|ヨハネス・シュナイダー|1975|p=297}}</ref>。他方で、田川はこの肉の汚れが何を意味するかは、著者自身もよく分かっていないのではないかと否定的に述べている<ref>{{Harvnb|田川|2015|p=420}}</ref>。 ==== 24節と25節 ==== {{Quotation|<sub>24</sub> あなたがたを守ってつまずかない者とし、また、その栄光のまえに傷なき者として、喜びのうちに立たせて下さるかた、<sub>25</sub> すなわち、わたしたちの救主なる唯一の神に、栄光、大能、力、権威が、わたしたちの主イエス・キリストによって、世々の初めにも、今も、また、世々限りなく、あるように、アァメン。|[[:s:ユダの手紙 (口語訳)|ユダの手紙]]24-25節}} 24節から25節に見られる頌歌(頌栄)はその美しさが評価されており<ref name = shimbun /><ref name="名前なし-4"/>、[[フェデリコ・バルバロ|バルバロ]]のように新約聖書中で最も美しいと位置づける者もいる<ref>{{Harvnb|フェデリコ・バルバロ|1967|p=329}}</ref>。 === 他文書との関係 === ==== ペトロの手紙二 ==== {{See also|ペトロの手紙二#第2章}} 上の注解からも明らかなように、内容的には『[[ペトロの手紙二]]』(第二ペトロ書)との並行が顕著である。普通、[[公同書簡]]はヤコブ、ペトロ、ヨハネ、ユダの順に並べられており、第二ペトロ書は3番目、ユダ書は7番目(最後)に置かれている。この順序は、『[[ガラテヤの信徒への手紙]]』第2章9節で使徒がヤコブ、ペトロ、ヨハネの順に並んでいることにも対応している<ref>{{Harvnb|宮平|2015|p=9}}</ref>。 しかし、第二ペトロ書とユダ書の共通性から、これをひとまとめにする論者たちもおり、[[日本語訳聖書]]の中では[[岩波訳聖書|岩波委員会訳聖書]](合冊版)が5番目に[[ペトロの手紙一|第一ペトロ書]]、6番目にユダ書、7番目に第二ペトロ書を配置している。岩波の新約聖書翻訳委員会にも名を連ねた[[大貫隆]]は2010年の時点でそれを唯一の例外としたが<ref>{{Harvnb|大貫|2010|pp=184-185}}</ref>、その後、[[田川建三]]の『新約聖書 訳と註』(第6巻)でも、第二ペトロ書が3番目、ユダ書が4番目に置かれている。ほか、注解書などでも、[[ハンス・コンツェルマン]]をはじめ、第二ペトロ書とユダ書をひとまとめに扱う論者たちが見られる<ref name = kawamura_p443 />。 第二ペトロ書とユダ書のどちらが先かについては、前者が先、後者が先、直接的な依存関係はないの3説がある。福音派の『[[新聖書注解]]』や『[[実用聖書注解|新実用聖書注解]]』は、第二ペトロ書が偽教師の出現を未来形で語っていたのに対し、ユダ書が忍び込んだ人々を過去形で語っていることから、第二ペトロ書を先に置いている<ref>{{Harvnb|上沼|1972|pp=431-432}}</ref><ref name = Fujimoto_p1845>{{Harvnb|藤本|2008|p=1845}}</ref>。 逆に、『新共同訳 新約聖書注解』(日本基督教団出版局)では、第二ペトロ書の方が詳しいにもかかわらず、ユダ書のうち、外典・偽典からの引用部分が省かれていることなどから、ユダ書を元に第二ペトロ書が書かれたという立場が定説とされている<ref name = hayami_p475 />。ヨハネス・シュナイダー<ref>{{Harvnb|ヨハネス・シュナイダー|1975|p=223}}</ref>、ヴィリー・マルクスセン<ref>{{Harvnb|W・マルクスセン|1984|pp=420-422}}</ref>らもこの立場をほぼ確定的なものとして叙述している。 それらの見解に対し、[[田川建三]]はモチーフが類似していても、語句の一致が13.4 [[パーセント|%]]にとどまることや、ユダ書にあって第二ペトロ書にないのは外典・偽典からの引用部分にとどまらないことなどから、共通する文書をもとにそれぞれ独立して書かれていると見なした<ref>{{Harvnb|田川|2015|pp=415-416}}</ref>。田川以前には[[アンカーバイブル]]で同種の見解が見られた<ref>{{Harvnb|W・マルクスセン|1984|p=422}} (マルクスセンはこの説を批判)</ref>。 ==== 偽典 ==== 本文に対する注解でも触れたように、ユダ書は『[[エノク書|第一エノク書]]』と『[[モーセの昇天]]』という2つの旧約偽典の利用が指摘されている(ただし、西暦90年の[[ヤムニア会議]]までは正典からの除外は決定的となっておらず<ref>{{Harvnb|オスカー・クルマン|1967|p=149}}</ref>、『エノク書』は[[エチオピア正教会]]では今なお正典である<ref name = kobayashi_p357 />)。 ユダ書14・15節と『エノク書』を比較すると以下の通りである。 {| class="wikitable" |+ ユダ書と第一エノク書の比較 ! ユダ書 !! エノク書 |- | rowspan="3" style="width:50%"|<sub>14</sub> アダムから七代目にあたるエノクも彼らについて預言して言った、「見よ、主は無数の聖徒たちを率いてこられた。 <sub>15</sub> それは、すべての者にさばきを行うためであり、また、不信心な者が、信仰を無視して犯したすべての不信心なしわざと、さらに、不信心な罪人が主にそむいて語ったすべての暴言とを責めるためである」。 | 霊魂の主が造られた人間の最初アダムから七代目にあたるわたしの(曾)祖父(エノク)(60章8節・抜粋)<ref>{{Harvnb|村岡|1975|pp=222-223}}</ref> |- | 見よ、彼は一万人の聖者たちをひきつれて来られた。それは彼らに審きを行なうためである。彼は不敬虔な者たちを滅ぼし、すべて肉なる者、すなわち罪人たちと不敬虔な者たちが彼に対して働いたいっさいの不義を告発されるであろう。(1章9節)<ref>{{Harvnb|村岡|1975|p=172}}</ref> |- |しかるにきみたちときたら、慎しみは知らず、主の命令は果たさず、これをなみし、きみたちのそのけがらわしい口をきわめて、あのおかたの威光をそしり、大言壮語し、乱暴な言葉をならべた。心のひからびた者どもよ、きみたちに平安はおとずれないであろう。(5章4節)<ref>{{Harvnb|村岡|1975|p=174}}</ref> |} [[福音派]]の『[[新聖書注解]]』では、偽典の引用は正典視したからではなく単に人々に知られていたためとし、パウロが異教の詩人の言葉なども引用していることと対比されている<ref name = uenuma_p431 />。この見解は『[[新聖書講解シリーズ]]』<ref>{{Harvnb|井上|1983|p=246}}</ref>や『エッセンシャル聖書辞典』<ref name = yamaguchi />にも引き継がれた。類似の見解は[[カトリック教会|カトリック]]の[[フェデリコ・バルバロ]]からも提示されていた<ref>{{Harvnb|フェデリコ・バルバロ|1967|p=312}}</ref>。[[文庫クセジュ]]で新約聖書の概説を担当した[[レジス・ビュルネ]]は、論争相手がそれを使っていたため、著者も利用したのではないかとした<ref>{{Harvnb|レジス・ビュルネ|2005|p=125}}</ref>。 著者は3、20節で具体的にどのようなものかを示さないまま、伝えられてきた教えを墨守することの大切さを説いている<ref name = Marxsen_p418 />。このことに正統主義の限界を見出す小林稔は、伝来の教えをまるごと墨守するという姿勢が、正典、外典の区分なしに『エノク書』『モーセの昇天』を取り込むことに繋がった可能性を指摘した<ref>{{Harvnb|小林|1996|pp=360-361}}</ref>。また、[[高柳俊一]]は、『[[モーセの遺訓]]』などの偽典文書に共通する終末が近いとする感覚を、ユダ書からも読み取っている<ref>{{Harvnb|高柳|2004|p=173}}</ref>。 == 正典化 == [[ファイル:P078-Jud-1_4-5-POxy2684-III-IV.jpg|thumb|{{仮リンク|パピルス78|en|Papyrus_78}} (<math>\mathfrak{P}</math><sup>78</sup>) のユダ書(4-5節)(3-4世紀)]] ユダ書への最古の言及について、第二ペトロ書をユダ書の後に置く論者は、第二ペトロ書の並行箇所を最古の引用と見なしている<ref name = FB_p313 /><ref>{{Harvnb|P・パーキンス|1998|p=221}}</ref>。新約聖書以外での言及については、フランシスコ会聖書研究所は[[ポリュカルポス]]がほのめかしていると指摘した<ref name = OFM_p141 />。カトリックの[[フェデリコ・バルバロ]]はこれに加えて『[[ディダケー|十二使徒の教訓]]』『{{仮リンク|ポリュカルポスの殉教|en| Martyrdom_of_Polycarp}}』などの[[使徒教父]]文書にも仄めかしがあるとしていた<ref name = FB_p313 />。[[福音派]]の『[[新聖書注解]]』は、2世紀初頭のポリュカルポス、[[アテナゴラス]]の著作や『[[バルナバの手紙]]』に引用らしきものがあるとしている<ref name = uenuma_p431 />。 他方、明瞭な言及や引用となると[[テルトゥリアヌス]]や[[ムラトリ正典目録]](いずれも2世紀末から3世紀はじめ)が最古の部類に属する<ref>{{Harvnb|荒井|1988|pp=239, 263, 264}}</ref>。しかし、その当時の[[ラテン教父]]ではむしろユダ書への言及がないのが一般的だったとされ、[[ノウァティアヌス (対立教皇)|ノウァティアヌス]]、[[キプリアヌス]]は言及していない<ref>{{Harvnb|荒井|1988|pp=266-268}}</ref>。同じ時代の[[ギリシア教父]]では、[[オリゲネス]]が言及しているものの、[[ペトロの手紙二]]、[[ヤコブの手紙]]、[[ヨハネの手紙二]]・[[ヨハネの手紙三|三]]とともに、疑わしい書として挙げていた<ref>{{Harvnb|荒井|1988|p=301}}</ref>。[[エウセビオス]]も全く同じ文書群について、疑問のある書のうち多くの人に知られている書に分類している<ref>{{Harvnb|荒井|1988|p=302}}</ref>。 現在の27文書を新約正典として最初に位置づけたのは、[[アレクサンドリアのアタナシオス]]の『第三十九復活祭書簡』(367年)とされ、ここにユダ書も含まれた<ref>{{Harvnb|荒井|1988|pp=306-307}}</ref><ref name = kato_p273>{{Harvnb|加藤|1999|p=273}}</ref>。4世紀末の北アフリカの教会会議、すなわちヒッポ会議(393年)、カルタゴ会議(397年)でもその判断が踏襲された<ref name = kato_p273 /><ref>{{Harvnb|荒井|1988|pp=283-284}}</ref>。同じ時期のモムゼン正典目録(4世紀後半)や少し後のリヨンのエウケリウス(5世紀)のようにユダ書への言及が見られない文書・論者も存在しないわけではないが<ref>{{Harvnb|荒井|1988|pp=278-279, 286-287}}</ref>、[[ヒエロニムス]]、[[アウグスティヌス]]らは正典として受容した<ref>{{Harvnb|荒井|1988|pp=273-274}}</ref>。また、東方教会のトゥルルス教会会議(692年)でも追認された<ref name = kato_p273 /><ref>{{Harvnb|荒井|1988|p=326}}</ref>。 しかしながら、[[シリア]]ではいささか事情が異なる。4世紀後半のシリアで成立したと考えられている『使徒教憲』ではユダ書が正典に含まれているが<ref>{{Harvnb|荒井|1988|pp=311-314}}</ref>、5世紀前半成立とされる[[シリア語]]訳聖書『[[ペシタ訳|ペシッタ]]』では、第二ペトロ、第二・第三ヨハネとともにユダ書は除外されている<ref>{{Harvnb|荒井|1988|p=317}}</ref>。他方、508年に成立したシリア語訳({{仮リンク|フィロクセノス訳|en|Philoxenian version}})、616年の改訂版({{仮リンク|ハルケル訳|en|Harklean_Version}})には含まれているものの、東シリアでは現代においてもペシッタが公認されている<ref>{{Harvnb|荒井|1988|p=318}}</ref>。 16世紀ヨーロッパでは、[[ジャン・カルヴァン]]は受容したものの、[[マルティン・ルター]]が否定的に捉えていた<ref name = OFM_p142 />。カルヴァンはユダ書について、非常に有益なものとし、「われわれはユダの時代に有益であった勧告が現在もなお必要以上に大切であることがわかる」<ref>{{Harvnb|ジャン・カルヴァン|1963|p=203}}</ref>として積極的に位置づけた。これに対してルターは『聖ヤコブ及び聖ユダの書翰への序言』において、ユダ書を第二ペトロ書の「抜き書き乃至書き写し」<ref name = ishihara_p112 />と位置づけた上で、「私はこの書翰を賞讃するが、信仰の根拠を据えるに足る聖書の主要書中に数える必要を見ない」<ref name = ishihara_p112>{{Harvnb|マルティン・ルター|1933|p=112}}。引用に際し、旧漢字・旧仮名遣いを改めた。</ref>と述べた。 他方、カトリック教会が16世紀半ばに開催した[[トリエント公会議]]では、ユダ書を含む27文書が正典として追認された<ref name = OFM_p142 />。 == 意義 == [[前田護郎]]は「短かい<!--原文ママ-->内容の中に信仰の真髄が盛られている」<ref name="名前なし-2"/>と評価していたが、その内容には[[神学]]はあまり<ref name = FB_p313>{{Harvnb|フェデリコ・バルバロ|1967|p=313}}</ref>あるいはほとんど<ref name = kawamura_p446>{{Harvnb|川村|1981|p=446}}</ref>見られないという意見もある。 他方、[[永田竹司]]は「キリスト教会における正統と異端の闘争の初期(二世紀初頭)の歴史を証言する貴重な記録」<ref>{{Harvnb|永田|1994|p=222}}</ref>という観点から評価している。[[ヨハネス・シュナイダー]]は、ユダ書を[[グノーシス主義]]勃興期に書かれたと位置づけ、その時点のみでなく、2世紀にグノーシスが伸長していく中で、それとの対決で評価を高めたと推測している<ref>{{Harvnb|ヨハネス・シュナイダー|1975|pp=272-273}}</ref>。[[土戸清]]も、正典に組み込まれた理由として、「『使徒伝承』を重んじ正統的立場から異端反駁を展開している」ことを挙げている<ref name = tsuchido />。 その現代における信仰上の意義について、[[福音派]]の『BIBLEnavi』は、神を畏敬せずに思いのままに振る舞うような、上辺だけのキリスト教徒に対する警告としている<ref name = navi_p2133 />。 === 批判 === ユダ書は短く、しばしば具体性を欠くことなどが批判される。{{仮リンク|ヴィリー・マルクスセン|de|Willi Marxsen}}は、「にせ教師に対する、非常に力強くはあるが皮相な論駁以外ほとんど何も含んでいない」<ref>{{Harvnb|W・マルクスセン|1984|p=416}}</ref>と評しており、[[上村静]]も、ユダ書の著者は具体的な論点提示なしに「ただ罵詈雑言を並べ立てる」<ref>{{Harvnb|上村|2011|p=305}}</ref>と否定的に言及している。[[田川建三]]は「[[ペトロの手紙二|第二ペテロ]]二章との比較の役に立つ以外には、何の価値もない」<ref name = tagawa_p832>{{Harvnb|田川|2015|p=832}}</ref>と断じている。 また、ユダ書には女性への直接的言及は全くないが、[[フェミニスト神学]]の立場ではこのことも批判の対象となる。フェミニスト神学者による聖書注解書でユダ書と第二ペトロ書を担当したローゼンブラットは、女性の役割や貢献などを隠匿してしまう「父権制的考えの典型」としてユダ書を位置づけている<ref>{{Harvnb|マリー=エロイーズ・ローゼンブラット|2002|p=302}}</ref>。また、ユダ書で打ち出されている審判者としての神のイメージは「父権制的支配の一変形」であるとし、守旧的・女性抑圧的に作用すると指摘した<ref>{{Harvnb|マリー=エロイーズ・ローゼンブラット|2002|pp=305-306}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{reflist|20em}} == 参考文献 == {{Wikisource|ユダの手紙(口語訳)}} {{Wikisource|ユダの書(文語訳)}} {{Refbegin}} * {{Citation|editor=Deutsche Bibelgesellschaft|title=Novum Testamentum Graece. Greek-English New Testament|year=2013|edition=2|publisher=Deutsche Bibelgesellschaft|isbn=9783438051622}} * {{Citation|title=[[共同訳聖書#TOB:フランスの共同訳聖書|Traduction œcuménique de la Bible. Edition Intégrale. Nouveau Testament]]|publisher=Les Editions du Cerf / Les Bergers et Les Mages|year=1972}} (La TOB) * {{Citation|author=[[エルサレム・フランス聖書考古学学院|L'École Biblique de Jérusalem]]|year=1955|title=[[エルサレム聖書|La Sainte Bible. Traduite en français sous la direction de l'École Biblique de Jérusalem]]|publisher=Editions du Cerf}} * {{Citation|last1=Senior|first1=Donald|last2=Collins|first2=John J.|year=2006|title=The Catholic Study Bible. 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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%80%E3%81%AE%E6%89%8B%E7%B4%99
7,594
IrDA
IrDA(アイアールディーエイ、Infrared Data Association)は、赤外線による光無線データ通信を規格化している団体であり、またその規格そのものの名称である。特に規格に関しては、 IrDA DATA と呼ぶ。 IrDA規格は、赤外線通信すべてを意味しているわけではなく、情報機器等の通信を定めた物である。通信に必要なインターネットやLANなどの通信規格同様に、いくつかのレイヤー(ハードウェア層・データリンク層・プロトコル層)規格に分かれており、パソコン用の物では、USBやRS-232Cポートに接続して利用する様式(ノートパソコンや携帯情報端末でも、オペレーティングシステム上からはそうなっているように認識されている)が一般的である。 家電製品のリモコンなどで使われている赤外線通信は、各々が独自に定めた仕様によるものであり、IrDAとは関係がない。しかしIrDA通信が可能な、ある程度の送受信速度がある機器上からこれら赤外線リモコンの通信を見た場合に、一定の通信信号パターンとして観測できる。これを利用して、携帯情報端末やノートパソコンを、学習リモコンとして擬似的に機能(エミュレート)させるソフトウェアも存在する。その場合はIrDAの規格上、専用のリモコン装置に比べやや反応が劣るものの、家庭内に氾濫するリモコンを一元化させる事が可能である。 なお、携帯電話のリモコンアプリは規格上、受信した通信信号のパターンを取得できないので、学習リモコンアプリを作ることはできないとされる。 IrDA規格が策定された当初はノートパソコンなどに一部搭載されていただけで、通信距離がおおむね30cm - 1m程度と短く、プロトコルが汎用的なものではないといった問題から、あまり普及していなかった。しかし、NTTドコモの携帯電話に標準的に採用されるようになり、auやSoftBank(旧・ボーダフォン)の携帯電話でも採用されていった。これに合わせて、IrDAを使った多様なサービスが展開され始めた。 また1990年代末に流行した携帯情報端末では、携帯に便利で電源の入り切りがすぐできる、つまり、電源を入れた瞬間に使用可能でバッテリーが1~2週間程度持ち、使い終わったらスイッチを切るだけであるこれらの機器で、まず簡単なメモを取り、その後、同機能を搭載したノートパソコン等と赤外線通信で情報を交信し、ノートパソコン上で加工するというスタイルも見られた。また一部機種では名刺交換のようにPDA同士を通信させ、お互いの住所・連絡先を住所録データとして交換する機能も実装されている(Palmなど)。 近年の携帯電話や携帯情報端末ではカメラ機能を備え、撮影した写真をノートパソコン側に送る事も可能な製品も見られる。カメラの高精細化に伴いデータサイズが大きくなり、IrDAの高速化が求められてきていたが、4Mbps版搭載が本格化すると共に、高速プロトコル IrSimple の搭載も始まり伝送速度が急速に高速化されつつある(通常の赤外線通信の実効速度は10kB/s程度で、IrSimpleの場合は400kB/s程度である。)。携帯電話から写真プリンタへの赤外線高速伝送は、特に撮影直後のちょっとした印刷で使い勝手が良く今後普及が期待される用途である。また、さらに次世代の UFIR (Ultra Fast IR) も開発がほぼ完了しており、今後一気に100Mbpsまで高速化がはかられる可能性もある。 パソコンからの利用という面では、ICカード公衆電話にIrDA赤外線ポートがあるので、出先でのネットワーク接続に利用が可能となっていたが、携帯電話の普及で公衆電話自体の利用が減り、ICカード公衆電話自体も、あまり利用者が増えなかった。さらに、これの利用を期待された携帯情報端末のほうも携帯電話に取って代わられてしまった事から、ICカード公衆電話は2006年に廃止された。 通信距離0.3mはローパワーオプションと呼ばれ、小型携帯機器向けに消費電力を抑えた規格である。 ±15 - 30度 IrDA規格は1993年、ヒューレット・パッカード・IBM・マイクロソフト・シャープを中心とするメーカー主導で策定・推進された物である。これらは1990年代を通じて、ワイヤレス接続による様々な機器の簡便な利用を目指し、ノートパソコン・デスクトップパソコン・携帯情報端末・プリンター等にパッケージ化されたハードウェアとして組み込まれた。 Bluetoothの登場以降、こちらへ乗り換える動きもあったが、Bluetooth自身の互換性の問題や、初期接続作業の繁雑さが問題になりIrDAと同じ用途をカバー仕切れないことがわかってきた。このため、Bluetoothは携帯電話のハンズフリー用途を中心として普及し、IrDAは携帯電話同士の情報交換を中心とした用途で普及するなど用途の棲み分けが進んでいる。2007年現在、携帯電話の赤外線機能が認知され、人々がお互いのメールアドレスや携帯番号の交換にIrDAを利用する姿が普通に見られる。 モジュール化されたIrDAは改良が進んでおり、小型携帯機器の近距離通信においては、一対一の通信機能を開発しやすいため、1990年代後半頃からは携帯型ゲームにも搭載されるようになった。2000年代以降は電波による通信に移行しつつあり、赤外線通信は主に電子ゲームと呼ばれる小型の機種で用いられる傾向にある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "IrDA(アイアールディーエイ、Infrared Data Association)は、赤外線による光無線データ通信を規格化している団体であり、またその規格そのものの名称である。特に規格に関しては、 IrDA DATA と呼ぶ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "IrDA規格は、赤外線通信すべてを意味しているわけではなく、情報機器等の通信を定めた物である。通信に必要なインターネットやLANなどの通信規格同様に、いくつかのレイヤー(ハードウェア層・データリンク層・プロトコル層)規格に分かれており、パソコン用の物では、USBやRS-232Cポートに接続して利用する様式(ノートパソコンや携帯情報端末でも、オペレーティングシステム上からはそうなっているように認識されている)が一般的である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "家電製品のリモコンなどで使われている赤外線通信は、各々が独自に定めた仕様によるものであり、IrDAとは関係がない。しかしIrDA通信が可能な、ある程度の送受信速度がある機器上からこれら赤外線リモコンの通信を見た場合に、一定の通信信号パターンとして観測できる。これを利用して、携帯情報端末やノートパソコンを、学習リモコンとして擬似的に機能(エミュレート)させるソフトウェアも存在する。その場合はIrDAの規格上、専用のリモコン装置に比べやや反応が劣るものの、家庭内に氾濫するリモコンを一元化させる事が可能である。", "title": "学習リモコンへの応用" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "なお、携帯電話のリモコンアプリは規格上、受信した通信信号のパターンを取得できないので、学習リモコンアプリを作ることはできないとされる。", "title": "学習リモコンへの応用" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "IrDA規格が策定された当初はノートパソコンなどに一部搭載されていただけで、通信距離がおおむね30cm - 1m程度と短く、プロトコルが汎用的なものではないといった問題から、あまり普及していなかった。しかし、NTTドコモの携帯電話に標準的に採用されるようになり、auやSoftBank(旧・ボーダフォン)の携帯電話でも採用されていった。これに合わせて、IrDAを使った多様なサービスが展開され始めた。", "title": "採用" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "また1990年代末に流行した携帯情報端末では、携帯に便利で電源の入り切りがすぐできる、つまり、電源を入れた瞬間に使用可能でバッテリーが1~2週間程度持ち、使い終わったらスイッチを切るだけであるこれらの機器で、まず簡単なメモを取り、その後、同機能を搭載したノートパソコン等と赤外線通信で情報を交信し、ノートパソコン上で加工するというスタイルも見られた。また一部機種では名刺交換のようにPDA同士を通信させ、お互いの住所・連絡先を住所録データとして交換する機能も実装されている(Palmなど)。", "title": "採用" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "近年の携帯電話や携帯情報端末ではカメラ機能を備え、撮影した写真をノートパソコン側に送る事も可能な製品も見られる。カメラの高精細化に伴いデータサイズが大きくなり、IrDAの高速化が求められてきていたが、4Mbps版搭載が本格化すると共に、高速プロトコル IrSimple の搭載も始まり伝送速度が急速に高速化されつつある(通常の赤外線通信の実効速度は10kB/s程度で、IrSimpleの場合は400kB/s程度である。)。携帯電話から写真プリンタへの赤外線高速伝送は、特に撮影直後のちょっとした印刷で使い勝手が良く今後普及が期待される用途である。また、さらに次世代の UFIR (Ultra Fast IR) も開発がほぼ完了しており、今後一気に100Mbpsまで高速化がはかられる可能性もある。", "title": "採用" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "パソコンからの利用という面では、ICカード公衆電話にIrDA赤外線ポートがあるので、出先でのネットワーク接続に利用が可能となっていたが、携帯電話の普及で公衆電話自体の利用が減り、ICカード公衆電話自体も、あまり利用者が増えなかった。さらに、これの利用を期待された携帯情報端末のほうも携帯電話に取って代わられてしまった事から、ICカード公衆電話は2006年に廃止された。", "title": "採用" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "通信距離0.3mはローパワーオプションと呼ばれ、小型携帯機器向けに消費電力を抑えた規格である。", "title": "規格一覧" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "±15 - 30度", "title": "規格一覧" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "IrDA規格は1993年、ヒューレット・パッカード・IBM・マイクロソフト・シャープを中心とするメーカー主導で策定・推進された物である。これらは1990年代を通じて、ワイヤレス接続による様々な機器の簡便な利用を目指し、ノートパソコン・デスクトップパソコン・携帯情報端末・プリンター等にパッケージ化されたハードウェアとして組み込まれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "Bluetoothの登場以降、こちらへ乗り換える動きもあったが、Bluetooth自身の互換性の問題や、初期接続作業の繁雑さが問題になりIrDAと同じ用途をカバー仕切れないことがわかってきた。このため、Bluetoothは携帯電話のハンズフリー用途を中心として普及し、IrDAは携帯電話同士の情報交換を中心とした用途で普及するなど用途の棲み分けが進んでいる。2007年現在、携帯電話の赤外線機能が認知され、人々がお互いのメールアドレスや携帯番号の交換にIrDAを利用する姿が普通に見られる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "モジュール化されたIrDAは改良が進んでおり、小型携帯機器の近距離通信においては、一対一の通信機能を開発しやすいため、1990年代後半頃からは携帯型ゲームにも搭載されるようになった。2000年代以降は電波による通信に移行しつつあり、赤外線通信は主に電子ゲームと呼ばれる小型の機種で用いられる傾向にある。", "title": "歴史" } ]
IrDAは、赤外線による光無線データ通信を規格化している団体であり、またその規格そのものの名称である。特に規格に関しては、 IrDA DATA と呼ぶ。
[[ファイル:Mobile-infrared.jpeg|thumb|[[携帯電話]]のIrDA]] '''IrDA'''(アイアールディーエイ、{{en|Infrared Data Association}})は、[[赤外線]]による[[光無線通信|光無線データ通信]]を規格化している団体であり、またその規格そのものの名称である。特に規格に関しては、 '''IrDA DATA''' と呼ぶ。 == 概要 == IrDA規格は、赤外線通信すべてを意味しているわけではなく、情報機器等の通信を定めた物である。通信に必要な[[インターネット]]や[[Local Area Network|LAN]]などの通信規格同様に、いくつかの[[階層構造|レイヤー]](ハードウェア層・データリンク層・プロトコル層)規格に分かれており、パソコン用の物では、[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]や[[RS-232|RS-232C]]ポートに接続して利用する様式([[ノートパソコン]]や[[携帯情報端末]]でも、[[オペレーティングシステム]]上からはそうなっているように認識されている)が一般的である。 == 学習リモコンへの応用 == [[家庭用電気機械器具|家電]]製品の[[リモコン]]などで使われている赤外線通信は、各々が独自に定めた仕様によるものであり、IrDAとは関係がない。しかしIrDA通信が可能な、ある程度の送受信速度がある機器上からこれら赤外線リモコンの通信を見た場合に、一定の通信信号パターンとして観測できる。これを利用して、携帯情報端末やノートパソコンを、[[学習リモコン]]として擬似的に機能([[エミュレータ|エミュレート]])させる[[ソフトウェア]]も存在する。その場合はIrDAの規格上、専用のリモコン装置に比べやや反応が劣るものの、家庭内に氾濫するリモコンを一元化させる事が可能である。 なお、携帯電話のリモコンアプリは規格上、受信した通信信号のパターンを取得できないので、学習リモコンアプリを作ることはできないとされる。 == 採用 == IrDA規格が策定された当初はノートパソコンなどに一部搭載されていただけで、通信距離がおおむね30cm - 1m程度と短く、[[プロトコル]]が汎用的なものではないといった問題から、あまり普及していなかった。しかし、[[NTTドコモ]]の[[携帯電話]]に標準的に採用されるようになり、[[Au (携帯電話)|au]]や[[SoftBank (携帯電話)|SoftBank]](旧・ボーダフォン)の携帯電話でも採用されていった。これに合わせて、IrDAを使った多様なサービスが展開され始めた。 また[[1990年代]]末に流行した携帯情報端末では、携帯に便利で電源の入り切りがすぐできる、つまり、電源を入れた瞬間に使用可能でバッテリーが1~2週間程度持ち、使い終わったらスイッチを切るだけであるこれらの機器で、まず簡単なメモを取り、その後、同機能を搭載したノートパソコン等と赤外線通信で情報を交信し、ノートパソコン上で加工するというスタイルも見られた。また一部機種では[[名刺]]交換のようにPDA同士を通信させ、お互いの住所・連絡先を住所録データとして交換する機能も実装されている([[Palm (PDA)|Palm]]など)。 近年の携帯電話や携帯情報端末ではカメラ機能を備え、撮影した写真をノートパソコン側に送る事も可能な製品も見られる。カメラの高精細化に伴いデータサイズが大きくなり、IrDAの高速化が求められてきていたが、4Mbps版搭載が本格化すると共に、高速プロトコル '''[[IrSimple]]''' の搭載も始まり伝送速度が急速に高速化されつつある(通常の赤外線通信の実効速度は10kB/s程度で、IrSimpleの場合は400kB/s程度である。)。携帯電話から写真プリンタへの赤外線高速伝送は、特に撮影直後のちょっとした印刷で使い勝手が良く今後普及が期待される用途である。また、さらに次世代の '''UFIR''' (Ultra Fast IR) も開発がほぼ完了しており、今後一気に100Mbpsまで高速化がはかられる可能性もある。 [[パーソナルコンピュータ|パソコン]]からの利用という面では、[[ICカード]][[公衆電話]]にIrDA赤外線ポートがあるので、出先での[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]接続に利用が可能となっていたが、携帯電話の普及で公衆電話自体の利用が減り、ICカード公衆電話自体も、あまり利用者が増えなかった。さらに、これの利用を期待された携帯情報端末のほうも携帯電話に取って代わられてしまった事から、ICカード公衆電話は2006年に廃止された。 == 規格一覧 == ; IrPHY (IrDA Physical Signaling Layer) : ハードウェア規格で、送受信素子や赤外光・通信速度・通信できる距離等が定められている。1.0から1.4まであり、通信速度と通信距離がそれぞれ異なる。 {| border="1" cellpadding="5" |- !規格名 !通信距離 !通信速度 |-align=center |IrDA DATA1.0 |1m |115kbps |-align=center |IrDA DATA1.1 |1m |1Mbps / 4Mbps |-align=center |IrDA DATA1.2 |0.3m |115kbps |-align=center |IrDA DATA1.3 |0.3m |1Mbps / 4Mbps |-align=center |IrDA DATA1.4 |1m |16Mbps |} 通信距離0.3mは'''ローパワーオプション'''と呼ばれ、小型携帯機器向けに消費電力を抑えた規格である。 ; SIR(1994年) :* 通信速度 : 2.4k / 9.6k / 19.2k / 38.4k / 57.6k / 115.2kbps :* EIA-232(RS232C)(スタートビット (1bit) /データビット (8bit) /ストップビット (1bit))よりフレームを構成し赤外発光に置き換え。Low(発光)、High(消灯)で発光時間は通信レートの3/16または1.63us(115.2kの3/16) :* フレーム構成 : BOF (=C0) [DATA (address/control/information (Nbyte)) FCS (CRC-16-CCITT)] EOF (=C1) :* []内のC0(=7D E0) / C1 (=7D E1) / 7D(=7D 5D) は2byteに変換 : ; MIR(1994年) :* 通信速度 : 0.576M /1.152Mbps :* HDLC方式を赤外発光に置き換え。発光時間は通信レートの1/4 :* フレーム構成 : STAx2 [DATA (address/control/information (Nbyte)) FCS (CRC-16-CCITT)] STO : ; FIR(1995年) :* 通信速度 : 4Mbps :* 4PPM変調方式 :* フレーム構成 : PAx16 STA [DATA (address/control/information (Nbyte)) FCS (CRC-32-IEEE802.3)] STO : ; VFIR(1998年) :* 通信速度 : 16Mbps :* HHH変調方式 :* フレーム構成 : PAx10 STA [DATA (address/control/information (Nbyte)) FCS (CRC-32-IEEE802.3)] FB STO NULL : ; UFIR(2006年) :* 通信速度 100Mbps :* [[8b/10b|8B10B]]変調方式 : ; [[Giga-IR]](2009年) :* 通信速度 1Gbps === 通信距離 === ; SP: Standard Power ; LP: Low Power * SP ←→ SP : 0 - 1.0m * SP ←→ LP : 0 - 0.3m * LP ←→ LP : 0 - 0.2m === 通信角度 === ±15 - 30度 === ソフトウェア規格 === ; IrLAP (Infrared Link Access Protocol) : ソフトウェア規格・通信確立の際に通信対象を発見する。 ; IrLMP (Infrared Link Management Protocol) : ソフトウェア規格 ; IrTTP (Infrared Tiny Transport Protocol) : ソフトウェア規格 == 歴史 == {{独自研究|section=1|date=2018年1月}} IrDA規格は[[1993年]]、[[ヒューレット・パッカード]]・[[IBM]]・[[マイクロソフト]]・[[シャープ]]を中心とするメーカー主導で策定・推進された物である。これらは1990年代を通じて、ワイヤレス接続による様々な機器の簡便な利用を目指し、ノートパソコン・デスクトップパソコン・携帯情報端末・[[プリンター]]等にパッケージ化されたハードウェアとして組み込まれた。 [[Bluetooth]]の登場以降、こちらへ乗り換える動きもあったが、Bluetooth自身の互換性の問題や、初期接続作業の繁雑さが問題になりIrDAと同じ用途をカバー仕切れないことがわかってきた。このため、Bluetoothは携帯電話の[[ハンズフリー・マイクロフォン|ハンズフリー]]用途を中心として普及し、IrDAは携帯電話同士の情報交換を中心とした用途で普及するなど用途の棲み分けが進んでいる。2007年現在、携帯電話の赤外線機能が認知され、人々がお互いのメールアドレスや携帯番号の交換にIrDAを利用する姿が普通に見られる。 モジュール化されたIrDAは改良が進んでおり、小型携帯機器の近距離通信においては、一対一の通信機能を開発しやすいため、1990年代後半頃からは[[携帯型ゲーム]]にも搭載されるようになった。2000年代以降は電波による通信に移行しつつあり、赤外線通信は主に[[電子ゲーム]]と呼ばれる小型の機種で用いられる傾向にある。 == 関連項目 == * [[IrSimple]] * [[IrFM]] * [[Palm (PDA)]] * [[Windows CE]] * [[PlayStation Portable|PSP(1000番台)]](IrDA搭載) * [[光無線通信]] * [[Giga-IR]] * [[Personal Area Network]] * [[Apple Remote]] == 外部リンク == * [http://www.irda.org/ Infrared Data Association] {{Computer-stub}} {{DEFAULTSORT:あいああるていいええ}} [[Category:光無線通信]] [[Category:インタフェース規格|IRDA]] [[Category:モバイルネットワーク|IRDA]] [[Category:赤外線]] [[Category:標準化団体|IRDA]] [[Category:物理層プロトコル]]
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神殿奉献
神殿奉献(しんでんほうけん)は、『新約聖書』に書かれているイエス・キリストの生涯のエピソードの1つ。四福音書のうち「ルカによる福音書」にのみ記述がある(2章22-38)。 『ルカによる福音書』によればマリアは律法で定められた産後の清めの期間を終えた後、モーセの律法に従って(「レビ記」12章、「出エジプト記」13章2、「民数記」18章15-16)、長子であるイエスをエルサレムの神殿に捧げに行く(神殿奉献)。そこで救い主を待ち望んでいたシメオンと女預言者アンナに会い、幼子の将来についての予言を聞いた。彼らは救い主の誕生を民衆に語った。 美術でも比較的よく描かれる主題である。中でもジョット・ディ・ボンドーネのものが名高い。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "神殿奉献(しんでんほうけん)は、『新約聖書』に書かれているイエス・キリストの生涯のエピソードの1つ。四福音書のうち「ルカによる福音書」にのみ記述がある(2章22-38)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "『ルカによる福音書』によればマリアは律法で定められた産後の清めの期間を終えた後、モーセの律法に従って(「レビ記」12章、「出エジプト記」13章2、「民数記」18章15-16)、長子であるイエスをエルサレムの神殿に捧げに行く(神殿奉献)。そこで救い主を待ち望んでいたシメオンと女預言者アンナに会い、幼子の将来についての予言を聞いた。彼らは救い主の誕生を民衆に語った。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "美術でも比較的よく描かれる主題である。中でもジョット・ディ・ボンドーネのものが名高い。", "title": "絵画" } ]
神殿奉献(しんでんほうけん)は、『新約聖書』に書かれているイエス・キリストの生涯のエピソードの1つ。四福音書のうち「ルカによる福音書」にのみ記述がある(2章22-38)。 『ルカによる福音書』によればマリアは律法で定められた産後の清めの期間を終えた後、モーセの律法に従って(「レビ記」12章、「出エジプト記」13章2、「民数記」18章15-16)、長子であるイエスをエルサレムの神殿に捧げに行く(神殿奉献)。そこで救い主を待ち望んでいたシメオンと女預言者アンナに会い、幼子の将来についての予言を聞いた。彼らは救い主の誕生を民衆に語った。
{{Otheruses|イエス・キリストのエピソード|その他}} {{Jesus}} '''神殿奉献'''(しんでんほうけん)は、『[[新約聖書]]』に書かれている[[イエス・キリスト]]の生涯のエピソードの1つ。四福音書のうち「[[ルカによる福音書]]」にのみ記述がある(2章22-38)。 『ルカによる福音書』によればマリアは律法で定められた産後の清めの期間を終えた後、モーセの律法に従って(「[[レビ記]]」12章、「[[出エジプト記]]」13章2、「[[民数記]]」18章15-16)、長子であるイエスを[[エルサレム神殿|エルサレムの神殿]]に捧げに行く(神殿奉献)。そこで救い主を待ち望んでいた[[シメオン]]と女預言者[[アンナ_(預言者)|アンナ]]に会い、幼子の将来についての予言を聞いた。彼らは救い主の誕生を民衆に語った。 == 絵画 == 美術でも比較的よく描かれる主題である。中でも[[ジョット・ディ・ボンドーネ]]のものが名高い。 * [[神殿奉献 (ベッリーニ)]] * [[神殿奉献 (アンブロージョ・ロレンツェッティ)]] * [[神殿奉献 (マンテーニャ)]] * [[神殿奉献 (ロッホナー、1445年)]] == 関連項目 == * [[聖燭祭]] {{DEFAULTSORT:しんてんほうけん}} [[Category:ルカによる福音書]]
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バイト
バイト(biteなど)
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "バイト(biteなど)", "title": null } ]
バイト(biteなど) バイト (情報)(byte) - コンピュータ関連で情報量の単位。 バイト (工具) - 切削工具の一つ。 バイト (雑誌)(BYTE) - 1975年から1998年にCMP Mediaが発行していたマイクロコンピュータ雑誌。 同名で同社が運営していたIT系ニュースサイト。BYTE.com。 日経バイト - 日経BP社が1984 - 2006年に発行していた雑誌。バイトの日本版に当たる。 アデレード・バイト - オーストラリアのプロ野球チーム「アデレード・ジャイアンツ」の旧名称。 アルバイトの略称・俗称。有期雇用契約の労働あるいは労働者。ドイツ語のArbeitに由来する。 ホンダ・バイト(Bite) - 本田技研工業の原動機付自転車。 bite - 「噛む」を意味する英語の動詞、「一口」(ひとくち)を意味する英語の名詞。 → wikt:bite ザ・バイト - 2021年のアメリカのテレビドラマシリーズ作品。 بيت(bayt) - アラビア語で家の意味。
{{wikt}} {{特殊文字|説明=[[アラビア語]]}} {{wikt|bite|en:byte|بيت}} '''バイト'''(biteなど) * [[バイト (情報)]](byte) - コンピュータ関連で情報量の単位。 * [[バイト (工具)]] - [[切削工具]]の一つ。 * [[バイト (雑誌)]](BYTE) - 1975年から1998年にCMP Media(2018年{{仮リンク|UBM Technology Group|en|UBM Technology Group}}となる)が発行していた[[マイクロコンピュータ]][[雑誌]]。 ** 同名で同社が運営していたIT系[[ニュースサイト]]。BYTE.com。 ** [[日経バイト]] - [[日経BP|日経BP社]]が1984 - 2006年に発行していた雑誌。[[バイト (雑誌)|バイト]]の日本版に当たる。 * [[アデレード・バイト]](Adelaide Bite) - オーストラリアのプロ野球チーム「アデレード・ジャイアンツ」の旧名称。 * [[アルバイト]]の略称・俗称。有期雇用契約の労働あるいは労働者。ドイツ語の[[wikt:Arbeit|Arbeit]]に由来する。 * [[ホンダ・バイト]](Bite) - [[本田技研工業]]の[[原動機付自転車]]。 * bite - 「[[噛む]]」を意味する[[英語]]の[[動詞]]、「一口」(ひとくち)を意味する英語の[[名詞]]。 → [[wikt:bite]] * {{仮リンク|ザ・バイト|en|The Bite (TV series)}}(The Bite)[https://www.hulu.jp/the-bite] <!-- [https://filmarks.com/dramas/11606/16101] -->[https://www.imdb.com/title/tt13323626/] - 2021年の[[アメリカ]]の[[テレビドラマ]][[シリーズ作品]]。 * [[wikt:بيت|بيت]](bayt) - [[アラビア語]]で[[住宅|家]]の意味。 == 関連項目 == * {{prefix}} {{aimai}} {{デフォルトソート:はいと}} [[Category:英語の語句]] [[Category:アラビア語の語句]]
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オクテット
オクテット(octet)は、8人組・8個組のことである。
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オクテット(octet)は、8人組・8個組のことである。 オクテット (コンピュータ) - 情報通信の分野で、8ビット単位の情報。「バイト」は必ずしも8ビットとは限らないが、「オクテット」は必ず8ビットを意味する。通信関係などでよく使われる。 音楽の分野では八重奏または八重唱、あるいはそれらの楽曲のこと。または八人編成の楽団のこと。 八重奏 - 8人の奏者による重奏。 八重唱 - 8人の歌手による重唱。 八重奏曲 - 八重奏のための楽曲。 八重唱曲 - 八重唱のための楽曲。 八重奏団 - 8人の奏者から成る楽団。 オクテット則 - 化学の分野で、希ガスのように最外殻電子が8個のとき、その原子団の反応性が安定すること。
'''オクテット'''('''octet''')は、'''8'''人組・'''8'''個組のことである。 * [[オクテット (コンピュータ)]] - [[情報通信]]の分野で、[[8ビット]]単位の情報。「[[バイト (情報)|バイト]]」は必ずしも8ビットとは限らないが、「オクテット」は必ず8ビットを意味する。通信関係などでよく使われる。 * 音楽の分野では八重奏または八重唱、あるいはそれらの楽曲のこと。または八人編成の楽団のこと。 ** 八重奏 - 8人の奏者による[[重奏]]。 ** 八重唱 - 8人の歌手による[[重唱]]。 ** [[八重奏曲]] - 八重奏のための楽曲。 ** 八重唱曲 - 八重唱のための楽曲。 ** 八重奏団 - 8人の奏者から成る楽団。 * [[オクテット則]] - [[化学]]の分野で、[[希ガス]]のように最外殻電子が8個のとき、その原子団の反応性が安定すること。 ==関連項目== * [[データ量の比較]] {{aimai}} {{DEFAULTSORT:おくてつと}}
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8080
8080(八千八十、はっせんはちじゅう)は、自然数また整数において、8079の次で8081の前の数である。
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8080(八千八十、はっせんはちじゅう)は、自然数また整数において、8079の次で8081の前の数である。
{{整数|Decomposition=2<sup>4</sup>×5×101}} '''8080'''('''八千八十'''、はっせんはちじゅう)は、[[自然数]]また[[整数]]において、[[8079]]の次で[[8081]]の前の数である。 == 性質 == * 8080は[[合成数]]であり、[[約数]]は[[1]], [[2]], [[4]], [[5]], [[8]], [[10]], [[16]], [[20]], [[40]], [[80]], [[101]], [[202]], [[404]], [[505]], [[808]], [[1010]], 1616, [[2020]], 4040, 8080である。 ** [[約数の和]]は18972。 * 1316番目の[[ハーシャッド数]]である。1つ前は8070、次は8082。 * 約数の和が8080になる数は1個ある。(7063) 約数の和1個で表せる1135番目の数である。1つ前は8078、次は8090。 * [[各位の和]]が[[16]]になる561番目の数である。1つ前は8071、次は8107。 == その他 8080 に関連すること == * [[インターネット・プロトコル・スイート|TCP/IP]]において、[[HTTP]]送信時のポート番号。 * [[Intel 8080]] ==関連項目== * [[数に関する記事の一覧]] * [[8000]]
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オペラ作曲家一覧
オペラ作曲家一覧(オペラさっきょくかいちらん)は、オペラを作曲した作曲家の一覧である。クラシック音楽の作曲家一覧、オペラ作品一覧なども参照
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "オペラ作曲家一覧(オペラさっきょくかいちらん)は、オペラを作曲した作曲家の一覧である。クラシック音楽の作曲家一覧、オペラ作品一覧なども参照", "title": null } ]
オペラ作曲家一覧(オペラさっきょくかいちらん)は、オペラを作曲した作曲家の一覧である。クラシック音楽の作曲家一覧、オペラ作品一覧なども参照
{{Portal クラシック音楽}} '''オペラ作曲家一覧'''(オペラさっきょくかいちらん)は、[[オペラ]]を作曲した[[作曲家]]の一覧である。[[クラシック音楽の作曲家一覧]]、[[オペラ作品一覧]]なども参照 == 生年順 == === 16〜17世紀 === * [[ジュリオ・カッチーニ]](エウリディーチェ)(1545頃 - 1618) * [[ヤコポ・ペーリ]](ダフネ、エウリディーチェ)(1561 - 1633) * [[クラウディオ・モンテヴェルディ]]([[オルフェオ (モンテヴェルディ)|オルフェオ]]、[[ポッペーアの戴冠]])(1567 - 1643) * [[フランチェスカ・カッチーニ]](ルッジェーロの救出)(1587 - 1640頃) * [[ジャン=バティスト・リュリ]]({{仮リンク|アルセスト (リュリ)|label=アルセスト|en|Alceste (Lully)}}、{{仮リンク|イシス (リュリ)|label=イシス|en|Isis (Lully)}}、{{仮リンク|プロゼルピーヌ (リュリ)|label=プロゼルピーヌ|en|Proserpine (Lully)}}、テゼ、ヘルセ、ヴェルサイユの洞窟、エリドの王妃、ロラン、アンスとガラテー)(1632 - 1687) * [[マルカントワーヌ・シャルパンティエ]]({{仮リンク|オルフェウスの冥府下り|en|La descente d'Orphée aux enfers}}、{{仮リンク|ダビデとヨナタン|en|David et Jonathas}}、{{仮リンク|花咲ける芸術|en|Les arts florissants (opera)}})(1643 - 1702) * [[ヘンリー・パーセル]]([[ディドとエネアス]]、[[妖精の女王 (パーセル)|妖精の女王]])(1659 - 1695) * [[アレッサンドロ・スカルラッティ]](1660 - 1725) * [[アンドレ・カンプラ]]({{仮リンク|優雅なヨーロッパ|en|L'Europe galante}}、{{仮リンク|タンクレディ(アンドレ・カンプラ)|label=タンクレディ|en|Tancrède}}、{{仮リンク|ヴェネツィアの宴|en|Les fêtes vénitiennes}})(1660 - 1744) * [[アントニオ・ロッティ]] (アルゴのジョーヴェ、アスカーニオ、テオファーネ) (1667 - 1740) * [[アントニオ・ヴィヴァルディ]]([[ダリオの戴冠 (ヴィヴァルディ)|ダリオの戴冠]]、狂気を装うオルランド、エジプト戦場のアルミーダ、モンテデズマ、[[バヤゼット (ヴィヴァルディ)|バヤゼット]])(1678 - 1741) * [[ジャン=フィリップ・ラモー]]([[優雅なインドの国々]]、[[ピグマリオン (オペラ)|ピグマリオン]]、{{仮リンク|ザイス|en|Zaïs}}、[[ボレアド]]、[[イポリートとアリシー]]、[[カストールとポリュックス]]、{{仮リンク|ダルダニュス|en|Dardanus (Rameau)}}、{{仮リンク|ゾロアストル|en|Zoroastre}} )(1683 - 1764) * [[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル]]([[エジプトのジュリアス・シーザー|ジュリアス・シーザー]]、[[リナルド (オペラ)|リナルド]]、[[セルセ (ヘンデル)|セルセ]])(1685 - 1759) * [[ヨハン・アドルフ・ハッセ]](1699 - 1783) === 18世紀 === * [[ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ]]([[奥様女中]])(1710 - 1736) * [[ジャン=ジャック・ルソー]](村の預言者)(1712 - 1778) * [[ニコロ・ヨンメッリ]](1714 - 1774) * [[クリストフ・ヴィリバルト・グルック]]([[オルフェオとエウリディーチェ]]、[[アルチェステ]]、[[トーリードのイフィジェニー]]、[[オーリードのイフィジェニー]]、[[アルミード (グルック)|アルミード]]、{{仮リンク|エコーとナルシス|en|Echo et Narcisse}})(1714 - 1787) * [[トンマーゾ・トラエッタ]](タウリスのイフィゲニア)(1727 - 1779) * [[ニコロ・ピッチンニ]]({{仮リンク|ロラン(ピッチンニ)|label=ロラン|en|Roland (Piccinni)}}、{{仮リンク|アティス(ピッチンニ)|label=アティス|en|Atys (Piccinni)}}、{{仮リンク|トーリードのイフィジェニー (ピッチンニ) |label=トーリードのイフィジェニー|en|Iphigénie en Tauride (Piccinni)}}、{{仮リンク|ディドー(ピッチンニ)|label=ディドー|en|Didon (Piccinni)}})(1728 - 1800) * [[アントニオ・サッキーニ]]({{仮リンク|ルノー (オペラ)|label=ルノー|en|Renaud (opera)}}、{{仮リンク|ダルダニュス (サッキーニ)|label=ダルダニュス|en|Dardanus (Sacchini)}}、{{仮リンク|コロンヌのエディプ|it|Œdipe à Colone (Sacchini)}})(1730 - 1786) * [[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン]]([[月の世界]]、[[薬剤師 (ハイドン)|薬剤師]]、[[哲学者の魂]]、歌姫、[[無人島 (ハイドン)|無人島]])(1732 - 1809) * [[ジョヴァンニ・パイジエッロ]](1740 - 1816) * [[アンドレ=エルネスト=モデスト・グレトリ]]({{仮リンク|ゼミールとアゾール|en|Zémire et Azor}}、{{仮リンク|ミダスの審判|en|Le jugement de Midas}}、{{仮リンク|嫉妬深い恋人|en|L'amant jaloux}}、{{仮リンク|アンドロマック (グレトリ)|label=アンドロマック|en|Andromaque (opera)}}、[[カイロの隊商]]、[[獅子心王リシャール]]、{{仮リンク|ピョートル大帝 (グレトリ)|label=ピョートル大帝|en|Pierre le Grand}})(1741 - 1813) * [[ドメニコ・チマローザ]]([[秘密の結婚]])(1749 - 1801) * [[アントニオ・サリエリ]]([[ダナオスの娘たち]]、{{仮リンク|オラース兄弟|en|Les Horaces}}、[[タラール (サリエリ)|タラール]])(1750 - 1825) * [[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト]]([[後宮からの誘拐]]、[[フィガロの結婚]]、[[ドン・ジョヴァンニ]]、[[コジ・ファン・トゥッテ]]、[[魔笛]])(1756 - 1791) * [[ルイジ・ケルビーニ]]({{仮リンク|ロドイスカ|en|Lodoïska}}、[[メデア (オペラ)|メデア]]、{{仮リンク|アバンセラージュ|en|Les Abencérages}}、{{仮リンク|アナクレオン (ケルビーニ)|label=アナクレオン|en|Anacréon (Cherubini)}}、{{仮リンク|二日間 (オペラ)|label=二日間|en|Les deux journées}})(1760 - 1842) * [[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン]]([[フィデリオ]]の一曲だけ)(1770 - 1827) === 19世紀 === * [[ガスパーレ・スポンティーニ]]([[ヴェスタの巫女]]、{{仮リンク|オランピ|en|Olimpie}}、[[フェルナン・コルテス]]、{{仮リンク|アグネス・フォン・ホーエンシュタウフェン|en|Agnes von Hohenstaufen}})(1774 - 1851) * [[フランソワ=アドリアン・ボイエルデュー|フランソワ=アドリアン・ボワエルデュー]]({{仮リンク|バグダッドの太守|en|Le calife de Bagdad}}、{{仮リンク|パリのジャン|en|Jean de Paris (Boieldieu)}}、[[白衣の婦人]])(1775 - 1834) * [[ダニエル=フランソワ=エスプリ・オベール]]([[ポルティチの唖娘]]、[[フラ・ディアヴォロ]]、{{仮リンク|青銅の馬|fr|Le Cheval de bronze}}、[[黒いドミノ]]、{{仮リンク|王冠のダイヤモンド (オペラ)|label=王冠のダイヤモンド|en|Les diamants de la couronne}}、{{仮リンク|ギュスターヴ3世|en|Gustave III (Auber)}}、[[マノン・レスコー (オベール)|マノン・レスコー]])(1782 - 1871) * [[カール・マリア・フォン・ウェーバー]]([[魔弾の射手]]、[[オベロン (オペラ)|オベロン]])(1786 - 1826) * [[ジャコモ・マイアベーア]]([[ユグノー教徒 (オペラ)|ユグノー教徒]]、[[悪魔のロベール]]、[[預言者 (オペラ)|預言者]]、[[アフリカの女]]、[[北極星 (オペラ)|北極星]]、[[ディノラ]]、[[エジプトの十字軍]]、{{仮リンク|アンジュのマルゲリータ|fr|Margherita d'Anjou|en|Margherita d'Anjou}})(1791 - 1864) * [[フェルディナン・エロルド]]([[ザンパ]]、[[プレ・オ・クレール]]、{{仮リンク|ブランヴィリエ侯爵夫人 (オペラ)|label=ブランヴィリエ侯爵夫人|en|La marquise de Brinvilliers (opera)}}〈ボワエルデュー、オベールほかとの共作)(1791 - 1833) * [[ジョアキーノ・ロッシーニ]]([[セビリアの理髪師]]、[[チェネレントラ]]、[[セミラーミデ]]、[[湖上の美人]] 、[[モイーズとファラオン]]、[[ウィリアム・テル (オペラ)|ギヨーム・テル]])(1792 - 1868) * [[サヴェリオ・メルカダンテ|メルカダンテ]]({{仮リンク|誓い (オペラ)|label=誓い|en|Il giuramento}}、 {{仮リンク|ヴェスタの巫女 (メルカダンテ)|label=ヴェスタの巫女|en|La vestale (Mercadante)}}、{{仮リンク|エリザとクラウディオ|en|Elisa e Claudio}}、{{仮リンク|スペインの女王カリテア|en|Caritea, regina di Spagna}}、 {{仮リンク|フランチェスカ・ダ・リミニ (メルカダンテ)|label=フランチェスカ・ダ・リミニ|it|Francesca da Rimini (Mercadante)|en|Francesca da Rimini (Mercadante)}} )(1795 - 1870) * [[ガエターノ・ドニゼッティ]]([[愛の妙薬]]、[[ランメルモールのルチア]]、[[連隊の娘]]、[[ポリウト]]、[[ラ・ファヴォリート]])(1797 - 1848) * [[フランツ・シューベルト]]([[アルフォンゾとエストレッラ]]、[[フィエラブラス]]、[[4年間の歩哨兵勤務|4年間の哨兵勤務]])(1797 - 1828) * [[ジャック・アレヴィ]]([[ユダヤの女]]、 {{仮リンク|キプロスの女王|fr|La Reine de Chypre}}、{{仮リンク|シャルル6世 (オペラ)|en|Charles VI (opera)|label=シャルル6世}}、{{仮リンク|閃光 (オペラ)|label=閃光|en|L'éclair}}、{{仮リンク|ギドとジネヴラ|en|Guido et Ginevra}})(1799 - 1862) * [[ヴィンチェンツォ・ベッリーニ]]({{仮リンク|異国の女|en|La straniera}}、{{仮リンク|海賊(オペラ)|label=海賊|en|Il pirata}}、[[カプレーティとモンテッキ]]、[[夢遊病の女]]、[[ノルマ (オペラ)|ノルマ]]、[[清教徒 (オペラ)|清教徒]])(1801 - 1835) * [[アドルフ・アダン]]({{仮リンク|山小屋 (オペラ)|label=山小屋|en|Le chalet}}、[[ロンジュモーの御者]]、{{仮リンク|トレアド-ル|en|Le toréador}}、{{仮リンク|ジラルダ|en|Giralda ou La nouvelle psyché}}、{{仮リンク|われ、もし王者なりせば|en|Si j'étais roi}} )(1803 - 1856) * [[エクトル・ベルリオーズ]]([[ベンヴェヌート・チェッリーニ]]、[[ベアトリスとベネディクト]]、[[トロイアの人々]]、[[ファウストの劫罰]] )(1803 - 1869) * [[ミハイル・グリンカ]]([[ルスランとリュドミラ]]、[[皇帝に捧げた命|イワン・スサーニン]])(1804 - 1857) * [[フェリックス・メンデルスゾーン]]({{仮リンク|異国からの帰郷 (メンデルスゾーン)|label=異国からの帰郷|en|Die Heimkehr aus der Fremde}}、[[兵士の恋]]、[[2人の教育者]]、{{仮リンク|カマチョの結婚|en|Die Hochzeit des Camacho}})(1809 - 1847) * [[オットー・ニコライ]]([[ウィンザーの陽気な女房たち (オペラ)|ウィンザーの陽気な女房達たち]])(1810 - 1849) * [[ロベルト・シューマン]]([[ゲノフェーファ]])(1810 - 1856) * [[フランツ・リスト]]({{仮リンク|ドン・サンシュ、または愛の館|en|Don Sanche}}、{{仮リンク|ザルダナパール|en|Sardanapale}}〈未完〉)(1811 - 1886) * [[アンブロワーズ・トマ]]([[ミニョン]]、[[ハムレット (オペラ)|ハムレット]]、{{仮リンク|夏の夜の夢 (オペラ)|label=夏の夜の夢|en|Le songe d'une nuit d'été}})(1811 - 1896) * [[フリードリッヒ・フォン・フロトー]]([[マルタ (オペラ)|マルタ]])(1812 - 1883) * [[リヒャルト・ワーグナー]]([[さまよえるオランダ人]]、[[ローエングリン]]、[[タンホイザー]]、[[ニュルンベルクのマイスタージンガー]]、[[ニーベルングの指環]]、[[トリスタンとイゾルデ (楽劇)|トリスタンとイゾルデ]]、[[パルジファル]])(1813 - 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1921) * [[モデスト・ムソルグスキー]]([[ボリス・ゴドゥノフ]]、[[ホヴァーンシチナ]])(1839 - 1881) * [[ピョートル・チャイコフスキー]]([[エフゲニー・オネーギン (オペラ)|エフゲニー・オネーギン]]、[[スペードの女王 (オペラ)|スペードの女王]]、[[地方長官 (オペラ)|地方長官]]、[[オルレアンの少女 (オペラ)|オルレアンの少女]]、[[チャロデイカ|魔女]]、[[イオランタ]]、[[マゼッパ (オペラ)|マゼッパ]])(1840 - 1893) * [[アントニン・ドヴォルザーク]](王様と炭焼き、[[ルサルカ (ドヴォルザーク)|ルサルカ]]、[[悪魔とカーチャ]]、{{仮リンク|ジャコバン党員|en|The Jacobin}})(1841 - 1904) * [[エマニュエル・シャブリエ]]([[エトワール (オペラ・ブフ)|エトワール]]、{{仮リンク|グヴェンドリーヌ|en|Gwendoline (opera)}}、[[いやいやながらの王様]])(1841 - 1894) * [[ジュール・マスネ]]([[ウェルテル (オペラ)|ウェルテル]]、[[マノン (オペラ)|マノン]]、[[タイス (オペラ)|タイス]]、[[ドン・キショット]]、{{仮リンク|ラオールの王|en|Le roi de Lahore}}、[[エロディアード]]、[[ル・シッド (マスネ)|ル・シッド]]、{{仮リンク|エスクラルモンド|en|Esclarmonde}}、[[サンドリヨン (マスネ)|サンドリヨン]]、{{仮リンク|グリセリディス|fr|Grisélidis}}、{{仮リンク|クレオパトラ (オペラ)|fr|Cléopâtre (opéra)|label=クレオパトラ}} )(1842 - 1912) * [[ニコライ・リムスキー=コルサコフ]]([[サトコ (オペラ)|サトコ]]、[[金鶏]]、[[サルタン皇帝|サルタン皇帝の物語]]、[[見えざる街キーテジと乙女フェヴローニヤの物語]]、[[皇帝の花嫁 (オペラ)|皇帝の花嫁]]、[[ムラーダ]])(1844 - 1908) * [[ガブリエル・フォーレ]]([[ペネロープ (オペラ)|ペネロープ]]、{{仮リンク|プロメテ (フォーレ)|label=プロメテ|en|Prométhée}})(1845 - 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1948) * [[エンリケ・グラナドス]]([[ゴイェスカス]])(1867 - 1916) === 20世紀 === * [[ジャコモ・プッチーニ]]([[トスカ]]、[[ボエーム (プッチーニ)|ラ・ボエーム]]、[[蝶々夫人]]、[[トゥーランドット]])(1858 - 1924) * [[ギュスターヴ・シャルパンティエ]]([[ルイーズ (オペラ)|ルイーズ]]、{{仮リンク|ジュリアン、または詩人の生活|en|Julien (opera)}}(1860 - 1956) * [[クロード・ドビュッシー]]([[ペレアスとメリザンド (ドビュッシー)|ペレアスとメリザンド]]、{{仮リンク|ロドリーグとシメーヌ|en|Rodrigue et Chimène}}(未完)、[[アッシャー家の崩壊 (オペラ)|アッシャー家の崩壊]]〈未完、{{仮リンク|ロバート・オーリッジ|en|Robert Orledge}}による復元・補筆版あり〉、[[鐘楼の悪魔]]〈未完、ロバート・オーリッジによる復元・補筆版あり〉)(1862 - 1918) * [[ギィ・ロパルツ]]({{仮リンク|故郷 (オペラ)|label=故郷|en|Le Pays}})(1864年 - 1955) * [[リヒャルト・シュトラウス]]([[サロメ (オペラ)|サロメ]]、[[エレクトラ (リヒャルト・シュトラウス)|エレクトラ]]、[[ばらの騎士]]、[[ナクソス島のアリアドネ]])(1864 - 1949) * [[カール・ニールセン]]([[仮面舞踏会 (ニールセン)|仮面舞踏会]]、[[サウルとダヴィデ]]) * [[ポール・デュカス]]([[アリアーヌと青ひげ]])(1865 - 1935) * [[アルベール・ルーセル]]({{仮リンク|パドマーヴァティ|en|Padmâvatî (opera)}})(1869 - 1937) * [[アレクサンダー・ツェムリンスキー]]({{仮リンク|馬子にも衣装|en|Kleider machen Leute (opera)}} 、[[フィレンツェの悲劇]]、[[こびと (歌劇)|小人]])(1871 - 1942) * [[アーノルト・シェーンベルク]]({{仮リンク|幸福な手|en|Die glückliche Hand}}、{{仮リンク|今日から明日へ|en|Von heute auf morgen}}、[[モーゼとアロン]])(1874 - 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ジョアキーノ・ロッシーニ
ジョアキーノ・アントーニオ・ロッシーニ(イタリア語: Gioachino Antonio Rossini, 1792年2月29日 - 1868年11月13日)は、イタリアの作曲家。多数のオペラを作曲し、『セビリアの理髪師』、『チェネレントラ』などは現在もオペラの定番である。また『タンクレーディ』、『セミラーミデ』などのオペラ・セリアも作曲した。フランスに移ってからはグランド・オペラ『ウィリアム・テル』を書く。美食家としても知られる。 『セビリアの理髪師』や『ウィリアム・テル』などのオペラ作曲家として最もよく知られているが、宗教曲や室内楽曲なども手がけている。彼の作品は当時の大衆やショパンなど同時代の音楽家に非常に人気があった。 かつてはジョアッキーノ(Gioacchino)と綴られることが多かったが、出生届けなどからGioachinoであることが判明したため、ペーザロのロッシーニ財団の要請で、ジョアキーノ(Gioachino)と綴るようになってきており、ここ数年のイタリアでの公演や録音、映像収録ではGioachino綴りで行われているが、イタリア国外ではまださほど徹底されていない。 生涯に39のオペラを作曲、イタリア・オペラの作曲家の中で最も人気のある作曲家だった。ただし、実質の作曲活動期間は20年間に満たない。絶頂期には、1年間に3~4曲のペースで大作を仕上げていた。彼の作品は『セビリアの理髪師』『アルジェのイタリア女』のようにオペラ・ブッファが中心だと思われがちだが、実際オペラ作曲家としてのキャリアの後半期はもっぱらオペラ・セリアの分野で傑作を生み出している。しかし、悲劇を好むイタリアのオペラ作家としては喜劇やハッピーエンド作品の比率が高い点で異色の存在ではある。作風も明朗快活で、生前「ナポリのモーツァルト」の異名を取った。特に浮き立つようなクレッシェンドを好んで多用。これはロッシーニ・クレッシェンドと呼ばれて、一種のトレードマーク化している。 人生の半ばに相当する37歳の時に大作『ウィリアム・テル』を作曲した後はオペラ作曲はせず、宗教音楽や、サロン向けの歌曲、ピアノ曲、室内楽を中心に作曲を行った。 ロッシーニはイタリアのアドリア海に面したペーザロで音楽一家に生まれた。父ジュゼッペ(Giuseppe)は食肉工場の検査官をしながらトランペット奏者をしていた。また、母アンナ(Anna)はパン屋の娘で歌手であった。両親は彼に早くから音楽教育を施し、6歳の時には父親の楽団でトライアングルを演奏したと言われている。父親はフランスに好意を抱いており、ナポレオンが軍を率いてイタリア北部に到達したことを喜んでいた。しかしこれが元になり、1796年になってオーストリアに政権が復帰すると、父親は投獄されてしまった。母親はロッシーニをボローニャにつれてゆき、生活のためにロマニャーノ・セージアの多くの劇場で歌手として働き、のちに父親と再会した。この間ロッシーニはしばし祖母の元に送られ、手におえない子供と言われていた。容姿はやや太り気味だが、天使のような姿と言われ、かなりのハンサムだったので、多くの女性と浮き名を流した。 ロッシーニは10代終わりの頃からオペラ作曲家としての活動を始めた。1813年、20歳から21歳にかけての作品『タンクレーディ』と『アルジェのイタリア女』でオペラ作曲家としての評判を確立し、1816年、24歳の作品『セビリアの理髪師』でヨーロッパ中にその名声をとどろかせた。 1816年以降、ウィーンではロッシーニ人気の高まりによって、イタリア・オペラ派とドイツ・オペラ派の対立が巻き起こったが、イタリア派の勝利に終わった。1822年、ロッシーニは『ゼルミーラ』上演のためにウィーンを訪れ、熱烈な歓迎を受けた。このとき訪問を受けたベートーヴェンは『セビリアの理髪師』を絶賛し、「あなたはオペラ・ブッファ以外のものを書いてはいけません」と述べたという。ベートーヴェンはロッシーニの才能を認めていたが、大衆が自分の音楽の芸術性を評価せず、ロッシーニの曲に浮かれていることに愚痴をもらしている。 1823年、ロッシーニはパリを訪問し、やはり議論を巻き起こしながらも大歓迎を受けた。この訪問と同じころに出版された『ロッシーニ伝』において、スタンダールは「ナポレオンは死んだが、別の男が現れた」と絶賛している。 1825年、フランス国王シャルル10世の即位に際して、記念オペラ・カンタータ『ランスへの旅』を作曲、国王に献呈し、「フランス国王の第一作曲家」の称号と終身年金を得る。37歳で『ギヨーム・テル(ウィリアム・テル)』発表後、オペラ界から引退を表明。以後は『スターバト・マーテル』などの宗教曲や小品のみを作曲し、年金生活に入る。1830年の7月革命に際しても新政府と交渉し、前国王政府から給付された年金を確保することに成功した。 一方、彼は若い頃から料理が(食べることも作ることも)大好きで、オペラ界からの引退後、サロンの主催や作曲の傍ら、料理の創作にも熱意を傾けた。フランス料理によくある「○○のロッシーニ風」は、彼の名前から取られた料理の名前である。料理の名前を付けたピアノ曲も作っている。 晩年には淋病、躁鬱病、慢性気管支炎などに悩まされ、ついには1868年に直腸癌になり、手術を受けたが、それによる丹毒に感染して生涯を閉じた。 ロッシーニは従来は教会の儀式などでしか聞くことが出来なかった宗教音楽を、一般のコンサートのレパートリーとして演奏するように尽力した人物である。ロッシーニのこの分野での傑作である『スターバト・マーテル』も、実は一般のコンサートを念頭において作曲されたものである。 パリで貧困生活にあえいでいたヴァーグナーがロッシーニのような作曲家になることを目標にしていたことはよく知られている。また、『ウィリアム・テル』を見たベルリオーズは、「テルの第1幕と第3幕はロッシーニが作った。第2幕は、神が作った」と絶賛している。また『セビリアの理髪師』の作曲をわずか3週間で完成させ、ベッリーニは「ロッシーニならそれくらいやってのけるだろう。」と述べている。 ロッシーニは(同時代の他作曲家の例にもれず)現在の著作権・創作概念からみれば考えがたい行動をとっており、同じ旋律を使い回すのは朝飯前で、『セビリアの理髪師』序曲は、『パルミーラのアウレリアーノ』→『イングランドの女王エリザベッタ』の序曲を丸ごと再々利用している。さらにベートーヴェンの第8交響曲の主題を剽窃し、また機会オペラだった『ランスへの旅』を、細部を手直ししただけでコミックオペラ『オリー伯爵』に作り替えている。 ロッシーニは死後たちまち忘れられた作曲家となってしまい、『セビリアの理髪師』『チェネレントラ(シンデレラ)』『ウィリアム・テル』(の序曲)の作曲家としてその名をとどめるだけの期間が長く続いた。特に上演や全曲録音はもっぱら『セビリアの理髪師』に集中したため、オペラ作家としては一発屋に近いイメージでとらえられがちだった。しかし、ペーザロのロッシーニ財団が1960年代終わりから出版を開始し現在も続けられているクリティカル・エディションによるロッシーニ全集の出版などをきっかけに、1970年代になるとロッシーニのオペラが再評価されるようになった。リコルディ社から校訂版楽譜が次々と出版されるようになり、それと並行してクラウディオ・アバドがペーザロで『ランスへの旅』を約150年ぶりに再上演し、以後ヨーロッパにおいてアバドなどの音楽家を中心にロッシーニ・オペラが精力的に紹介されるようになり、1980年代以降その他の作品も見直され、上演される機会が増えた。また、クリティカル・エディションの刊行により、長年受け継がれてきた伝統的な歌唱法や、旧版に記されていた間違いなども改めて見直され、よりロッシーニの楽譜に忠実な演奏が試みられるようになった。この再評価の動きを「ロッシーニ・ルネッサンス」という。現在では『ランスへの旅』、『タンクレーディ』、『湖上の美人』をはじめ、ロッシーニの主要オペラがほぼ再演されるようになっている。のみならず、あまり知られていない作品の蘇演も延々と続いており、作品数が多いだけに、その活況はプッチーニやヴェルディに迫らんばかりの勢いを呈している。ペーザロのロッシーニ・オペラ・フェスティバルにおける蘇演、ロッシーニ研究家で指揮者のアルベルト・ゼッダの功績も大きい。 晩年のロッシーニがパリで毎週土曜日に開催していたサロンは、提供される晩餐が豪勢だったことでも知られる。 ロッシーニ自身が考案した料理のレシピも残されている。 また、晩年の小品集『老いの過ち』には「やれやれ!グリーンピース」、「ロマンティックなひき肉」といったような料理や食材の名前を冠したタイトルの作品もある。 ロッシーニ自身が考案した料理ではなくとも、フォアグラやトリュフをふんだんに使用した料理には「ロッシーニ風」「ロッシーニスタイル」と名付けられることがある。
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"ロッシーニは死後たちまち忘れられた作曲家となってしまい、『セビリアの理髪師』『チェネレントラ(シンデレラ)』『ウィリアム・テル』(の序曲)の作曲家としてその名をとどめるだけの期間が長く続いた。特に上演や全曲録音はもっぱら『セビリアの理髪師』に集中したため、オペラ作家としては一発屋に近いイメージでとらえられがちだった。しかし、ペーザロのロッシーニ財団が1960年代終わりから出版を開始し現在も続けられているクリティカル・エディションによるロッシーニ全集の出版などをきっかけに、1970年代になるとロッシーニのオペラが再評価されるようになった。リコルディ社から校訂版楽譜が次々と出版されるようになり、それと並行してクラウディオ・アバドがペーザロで『ランスへの旅』を約150年ぶりに再上演し、以後ヨーロッパにおいてアバドなどの音楽家を中心にロッシーニ・オペラが精力的に紹介されるようになり、1980年代以降その他の作品も見直され、上演される機会が増えた。また、クリティカル・エディションの刊行により、長年受け継がれてきた伝統的な歌唱法や、旧版に記されていた間違いなども改めて見直され、よりロッシーニの楽譜に忠実な演奏が試みられるようになった。この再評価の動きを「ロッシーニ・ルネッサンス」という。現在では『ランスへの旅』、『タンクレーディ』、『湖上の美人』をはじめ、ロッシーニの主要オペラがほぼ再演されるようになっている。のみならず、あまり知られていない作品の蘇演も延々と続いており、作品数が多いだけに、その活況はプッチーニやヴェルディに迫らんばかりの勢いを呈している。ペーザロのロッシーニ・オペラ・フェスティバルにおける蘇演、ロッシーニ研究家で指揮者のアルベルト・ゼッダの功績も大きい。", "title": "ロッシーニ・ルネッサンス" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "晩年のロッシーニがパリで毎週土曜日に開催していたサロンは、提供される晩餐が豪勢だったことでも知られる。", "title": "美食家として" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ロッシーニ自身が考案した料理のレシピも残されている。", "title": "美食家として" }, { 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ジョアキーノ・アントーニオ・ロッシーニは、イタリアの作曲家。多数のオペラを作曲し、『セビリアの理髪師』、『チェネレントラ』などは現在もオペラの定番である。また『タンクレーディ』、『セミラーミデ』などのオペラ・セリアも作曲した。フランスに移ってからはグランド・オペラ『ウィリアム・テル』を書く。美食家としても知られる。
{{redirect|ロッシーニ|カクテル|ロッシーニ (カクテル)}} {{Infobox Musician <!-- プロジェクト:音楽家を参照 --> |名前 = ジョアキーノ・ロッシーニ<br>Gioachino Rossini |画像 = Composer Rossini G 1865 by Carjat - Restoration.jpg |画像説明 = 1865年 |画像サイズ = 200px |背景色 = classic |出生名 = ジョアキーノ・アントーニオ・ロッシーニ<br>Gioachino Antonio Rossini |出生 = [[1792年]][[2月29日]]<br>{{PAP-1}}、[[ペーザロ]] |出身地 = {{PAP}}、[[ボローニャ]] |死没 = {{死亡年月日と没年齢|1792|2|29|1868|11|13}}<br>{{FRA1852}}、[[パリ]] |学歴 = ボローニャ音楽学校 |ジャンル = [[ロマン派音楽]] |職業 = [[作曲家]] |活動期間 = [[1810年]] - [[1836年]] }} {{Portal クラシック音楽}} [[ファイル:Rossini-portrait-0.jpg|thumb|180px|ロッシーニの肖像画]] '''ジョアキーノ・アントーニオ・ロッシーニ'''({{Lang-it|Gioachino Antonio Rossini}}, [[1792年]][[2月29日]] - [[1868年]][[11月13日]]<ref>{{Cite web|和書|url = https://kotobank.jp/word/ロッシーニ-153079 |title = ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2018-02-11 }}</ref>)は、[[イタリア]]の[[作曲家]]。多数の[[オペラ]]を作曲し、『[[セビリアの理髪師]]』、『[[チェネレントラ]]』などは現在もオペラの定番である。また『[[タンクレーディ (ロッシーニ)|タンクレーディ]]』、『[[セミラーミデ]]』などの[[オペラ・セリア]]も作曲した。[[フランス]]に移ってからは[[グランド・オペラ]]『[[ウィリアム・テル (オペラ)|ウィリアム・テル]]』を書く。[[美食家]]としても知られる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-harusai.com/news/news_5231.html|title=東京・春・音楽祭-東京のオペラの森|publisher=春祭ジャーナル|date=2017-12-21|accessdate=2020-07-22}}</ref>。 == 人物 == 『[[セビリアの理髪師]]』や『[[ウィリアム・テル (オペラ)|ウィリアム・テル]]』などの[[オペラ]]作曲家として最もよく知られているが、[[宗教曲]]や[[室内楽曲]]なども手がけている。彼の作品は当時の大衆や[[フレデリック・ショパン|ショパン]]など同時代の音楽家に非常に人気があった。 かつては'''ジョアッキーノ'''(Gioacchino)と綴られることが多かったが、出生届けなどからGioachinoであることが判明したため、ペーザロのロッシーニ財団の要請で、'''ジョアキーノ'''(Gioachino)と綴るようになってきており、ここ数年のイタリアでの公演や録音、映像収録ではGioachino綴りで行われているが、イタリア国外ではまださほど徹底されていない。 生涯に39のオペラを作曲、イタリア・[[オペラ]]の作曲家の中で最も人気のある作曲家だった。ただし、実質の作曲活動期間は20年間に満たない。絶頂期には、1年間に3~4曲のペースで大作を仕上げていた。彼の作品は『セビリアの理髪師』『[[アルジェのイタリア女]]』のように[[オペラ・ブッファ]]が中心だと思われがちだが、実際オペラ作曲家としてのキャリアの後半期はもっぱら[[オペラ・セリア]]の分野で傑作を生み出している。しかし、悲劇を好むイタリアのオペラ作家としては喜劇やハッピーエンド作品の比率が高い点で異色の存在ではある。作風も明朗快活で、{{要出典範囲|date=2015年2月|生前「ナポリのモーツァルト」の異名を取った}}。特に浮き立つようなクレッシェンドを好んで多用。これはロッシーニ・クレッシェンドと呼ばれて、一種のトレードマーク化している。 人生の半ばに相当する37歳の時に大作『ウィリアム・テル』を作曲した後はオペラ作曲はせず、宗教音楽や、サロン向けの歌曲、ピアノ曲、室内楽を中心に作曲を行った。 == 略歴 == * [[1792年]] - [[2月29日]]、[[ペーザロ]]に生まれる。 * [[1800年]] - (8歳)[[ボローニャ]]に移り住み、ボローニャ音楽学校に学ぶ * [[1810年]] - (18歳)フィレンツェで一幕のオペラ・[[ファルサ]]『結婚手形』を初演。オペラ作曲家としてデビュー。 * [[1812年]] - (20歳)ブッファ『[[試金石_(オペラ)|試金石]]』をスカラ座で初演。初のヒット作となり兵役を免除される。 * [[1813年]] - (21歳)『タンクレーディ』『アルジェのイタリア女』が初演後たちまち大ヒットしヨーロッパ中に名声が轟く。 * [[1815年]] - (23歳) ナポリで『エリザベッタ』初演。以後この地のサン・カルロ劇場の音楽監督として、精力的にオペラ・セリアの傑作を生み出す。 * [[1822年]] - (30歳)歌手の[[イザベラ・コルブラン]]と結婚。 * [[1823年]] - (30歳)『[[セミラーミデ]]』初演。イタリアでの最後のオペラとなる。 * [[1824年]] - (32歳)パリのイタリア座の音楽監督に就任。 * [[1829年]] - (37歳)最後のオペラ『[[ウィリアム・テル (オペラ)|ウィリアム・テル]]』を発表。 * [[1835年]] - (43歳)歌曲集『音楽の夜会』出版。 * [[1836年]] - (44歳)パリを去り、イタリアのボローニャに住む。 * [[1837年]] - (45歳)ミラノに移り、毎週金曜日に自宅のサロンで「音楽の夜会」を開く。 * [[1839年]] - (47歳)ボローニャに移り、ボローニャ音楽院の永久名誉会長に就任。イタリアでの音楽教育に力を入れる。 * [[1845年]] - (53歳)イザベラ死去。 * [[1846年]] - (54歳)[[8月16日]]、[[クルチザンヌ|高級娼婦]]の{{仮リンク|オランプ・ペリシエ|en|Olympe Pélissier}}と再婚。 * [[1848年]] - (56歳)フィレンツェに移る。 * [[1855年]] - (63歳)病気治療のため、パリに戻る。健康を回復した後、自宅のサロンで、毎週土曜日に「音楽の夜会」を催す。[[シャルル・グノー|グノー]]、[[カミーユ・サン=サーンス|サン=サーンス]]、[[ジュゼッペ・ヴェルディ|ヴェルディ]]、[[フランツ・リスト|リスト]]などの作曲家、当時の一流の歌手など、多くの著名人が集った。 * [[1864年]] - (72歳)私的演奏会にて「小荘厳ミサ曲」初演(公開での初演は死後の[[1869年]])。 * [[1868年]] - (76歳)[[11月13日]]、死去。現在はイタリアの[[サンタ・クローチェ聖堂 (フィレンツェ)|サンタ・クローチェ教会]]に眠る。 == 人物伝「ナポレオンは死んだが、別の男が現れた」 == ロッシーニはイタリアの[[アドリア海]]に面した[[ペーザロ]]で音楽一家に生まれた。父ジュゼッペ(Giuseppe)は食肉工場の検査官をしながらトランペット奏者をしていた。また、母アンナ(Anna)はパン屋の娘で歌手であった。両親は彼に早くから音楽教育を施し、6歳の時には父親の楽団で[[トライアングル]]を演奏したと言われている。父親は[[フランス]]に好意を抱いており、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]が軍を率いてイタリア北部に到達したことを喜んでいた。しかしこれが元になり、[[1796年]]になって[[オーストリア帝国|オーストリア]]に政権が復帰すると、父親は投獄されてしまった。母親はロッシーニを[[ボローニャ]]につれてゆき、生活のために[[ロマニャーノ・セージア]]の多くの劇場で歌手として働き、のちに父親と再会した。この間ロッシーニはしばし祖母の元に送られ、手におえない子供と言われていた。容姿はやや太り気味だが、天使のような姿と言われ、かなりのハンサムだったので、多くの女性と浮き名を流した。 [[ファイル:牛ヒレ肉とフォアグラのロッシーニ Pcs34560 IMG1907.jpg|thumb|200px|牛肉とフォアグラのロッシーニ]] ロッシーニは10代終わりの頃からオペラ作曲家としての活動を始めた。[[1813年]]、20歳から21歳にかけての作品『[[タンクレーディ (ロッシーニ)|タンクレーディ]]』と『[[アルジェのイタリア女]]』でオペラ作曲家としての評判を確立し、[[1816年]]、24歳の作品『[[セビリアの理髪師]]』でヨーロッパ中にその名声をとどろかせた。 1816年以降、[[ウィーン]]ではロッシーニ人気の高まりによって、イタリア・オペラ派とドイツ・オペラ派の対立が巻き起こったが、イタリア派の勝利に終わった。[[1822年]]、ロッシーニは『[[ゼルミーラ]]』上演のためにウィーンを訪れ、熱烈な歓迎を受けた。このとき訪問を受けた[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]は『セビリアの理髪師』を絶賛し、「あなたは[[オペラ|オペラ・ブッファ]]以外のものを書いてはいけません」と述べたという<ref>水谷彰良『ロッシーニと料理』 透土社、1993年(新版2000年)、173頁</ref>。ベートーヴェンはロッシーニの才能を認めていたが、大衆が自分の音楽の芸術性を評価せず、ロッシーニの曲に浮かれていることに愚痴をもらしている<ref>『ロッシーニと料理』、175頁</ref>。 [[1823年]]、ロッシーニは[[パリ]]を訪問し、やはり議論を巻き起こしながらも大歓迎を受けた。この訪問と同じころに出版された『ロッシーニ伝』において、[[スタンダール]]は「ナポレオンは死んだが、別の男が現れた」と絶賛している。 [[1825年]]、フランス国王[[シャルル10世 (フランス王)|シャルル10世]]の即位に際して、記念オペラ・カンタータ『[[ランスへの旅、または黄金の百合咲く宿|ランスへの旅]]』を作曲、国王に献呈し、「フランス国王の第一作曲家」の称号と終身年金を得る。37歳で『[[ウィリアム・テル (オペラ)|ギヨーム・テル(ウィリアム・テル)]]』発表後、オペラ界から引退を表明。以後は『[[スターバト・マーテル (ロッシーニ)|スターバト・マーテル]]』などの宗教曲や小品のみを作曲し、年金生活に入る。[[1830年]]の[[7月革命]]に際しても新政府と交渉し、前国王政府から給付された年金を確保することに成功した。 一方、彼は若い頃から料理が(食べることも作ることも)大好きで、オペラ界からの引退後、サロンの主催や作曲の傍ら、料理の創作にも熱意を傾けた。フランス料理によくある「○○のロッシーニ風」{{Efn|[[ヒレ]][[ステーキ]]に[[フォワグラ]]と[[セイヨウショウロ|トリュフ]]のソテーを添えた「[[トゥールヌド・ロッシーニ]]」など。}}は、彼の名前から取られた料理の名前である{{Efn|ロッシーニがオペラ界から引退した後、[[リヒャルト・ワーグナー]]がロッシーニの自宅を訪問した時のことである。ワーグナーはオペラ音楽についての話題を熱心に語っていたが、その間、ロッシーニは「ちょっと失礼」と言って部屋から出て行き、数分後に戻って来るという行為を何度も繰り返していた。ワーグナーが不思議に思ってその理由を尋ねると、ロッシーニはちょうど[[鹿肉|鹿の肉]]を焼いていたところで、彼は肉の焼け具合を確かめるために何度も部屋から出ていたのだという。}}。料理の名前を付けたピアノ曲も作っている。 晩年には[[淋病]]、[[躁鬱病]]、[[慢性気管支炎]]などに悩まされ、ついには[[1868年]]に[[直腸癌]]になり、手術を受けたが、それによる[[丹毒]]に感染して生涯を閉じた。 ロッシーニは従来は教会の儀式などでしか聞くことが出来なかった宗教音楽を、一般のコンサートのレパートリーとして演奏するように尽力した人物である。ロッシーニのこの分野での傑作である『スターバト・マーテル』も、実は一般のコンサートを念頭において作曲されたものである。 == 作曲家として == <!---作曲家として、ロッシーニの作品は現在あまり多く演奏されることはないが、--->パリで貧困生活にあえいでいた[[リヒャルト・ワーグナー|ヴァーグナー]]がロッシーニのような作曲家になることを目標にしていたことはよく知られている。また、『ウィリアム・テル』を見た[[エクトル・ベルリオーズ|ベルリオーズ]]は、「テルの第1幕と第3幕はロッシーニが作った。第2幕は、神が作った」と絶賛している。また『セビリアの理髪師』の作曲をわずか3週間で完成させ、[[ヴィンチェンツォ・ベッリーニ|ベッリーニ]]は「ロッシーニならそれくらいやってのけるだろう。」と述べている。 ロッシーニは(同時代の他作曲家の例にもれず)現在の著作権・創作概念からみれば考えがたい行動をとっており、同じ旋律を使い回すのは朝飯前で、『セビリアの理髪師』序曲は、『[[パルミーラのアウレリアーノ]]』→『[[イングランドの女王エリザベッタ]]』の序曲を丸ごと再々利用している。さらに[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[交響曲第8番 (ベートーヴェン)|第8交響曲]]の主題を剽窃し、また機会オペラ{{Efn|国王即位記念に数度演奏されたにすぎなかった。}}だった『ランスへの旅』を、細部を手直ししただけでコミックオペラ『オリー伯爵』に作り替えている。 == ロッシーニ・ルネッサンス == ロッシーニは死後たちまち忘れられた作曲家となってしまい、『[[セビリアの理髪師]]』『[[チェネレントラ]](シンデレラ)』『[[ウィリアム・テル (オペラ)|ウィリアム・テル]]』(の[[ウィリアム・テル序曲|序曲]])の作曲家としてその名をとどめるだけの期間が長く続いた。特に上演や全曲録音はもっぱら『セビリアの理髪師』に集中したため、オペラ作家としては一発屋に近いイメージでとらえられがちだった{{Efn|しかも『セビリアの理髪師』は、76歳まで生きた彼の24歳の作品である。}}。しかし、ペーザロのロッシーニ財団が1960年代終わりから出版を開始し現在も続けられているクリティカル・エディションによるロッシーニ全集の出版などをきっかけに、1970年代になるとロッシーニのオペラが再評価されるようになった。[[リコルディ]]社から校訂版楽譜が次々と出版されるようになり、それと並行して[[クラウディオ・アバド]]がペーザロで『[[ランスへの旅]]』を約150年ぶりに再上演し、以後ヨーロッパにおいてアバドなどの音楽家を中心にロッシーニ・オペラが精力的に紹介されるようになり、1980年代以降その他の作品も見直され、上演される機会が増えた。また、クリティカル・エディションの刊行により、長年受け継がれてきた伝統的な歌唱法や、旧版に記されていた間違いなども改めて見直され、よりロッシーニの楽譜に忠実な演奏が試みられるようになった。この再評価の動きを「ロッシーニ・ルネッサンス」という。現在では『[[ランスへの旅]]』、『[[タンクレーディ (ロッシーニ)|タンクレーディ]]』、『[[湖上の美人]]』をはじめ、ロッシーニの主要オペラがほぼ再演されるようになっている。のみならず、あまり知られていない作品の蘇演も延々と続いており、作品数が多いだけに、その活況はプッチーニやヴェルディに迫らんばかりの勢いを呈している。ペーザロの[[ロッシーニ・オペラ・フェスティバル]]における蘇演、ロッシーニ研究家で指揮者の[[アルベルト・ゼッダ]]の功績も大きい。 == 主な作品と作曲年 == {{作品一覧|ロッシーニの楽曲一覧}} === オペラ === * デメトリオとポリービオ Demetrio e Polibio、1808年 (初演 1812年 ローマ) * 結婚手形 La cambiale di matrimonio、1810年 ヴェネツィア * ひどい誤解 L'equivoco stravagante、1811年 ボローニャ * 幸せな間違い L'inganno felice、1812年 ヴェネツィア * バビロニアのキュロス Ciro in Babilonia、1812年 フェラーラ  * [[絹のはしご]] La scala di seta、1812年 ヴェネツィア * [[試金石 (ロッシーニ)|試金石]] La pietra di paragone、1812年 ミラノ * 成り行き泥棒 L'occadione fa il ladro、1812年 ヴェネツィア  * [[ブルスキーノ氏]] Il Signor Bruschino、1813年 ヴェネツィア * [[タンクレーディ (ロッシーニ)|タンクレーディ]] Tancredi、1813年 ヴェネツィア * [[アルジェのイタリア女]] L'italiana in Algeri、1813年 ヴェネツィア * [[パルミーラのアウレリアーノ]] Aureliano in Parmira、1813年 ミラノ * [[イタリアのトルコ人]] Il Turco in Italia、1814年 ミラノ * シジスモンド Sigismondo、1814年 ヴェネツィア * [[イングランドの女王エリザベッタ]] Elisabetta, Regina d'Inghirtrra、1815年 ナポリ * トルヴァルドとドルリスカ Torvaldo e Dorlisca、1815年 ローマ * [[セビリアの理髪師]](アルマヴィーヴァ) Il barbiere di Siviglia (Almaviva)、1816年 ローマ * 新聞 La Gazetta、1816年 ナポリ * [[オテロ (ロッシーニ)|オテッロ またはヴェネツィアのムーア人]] Otello、1816年 ナポリ * [[チェネレントラ]]または善意の勝利 La Cenerentola, Il trionfo della bonta' ossia、1817年 ローマ * [[泥棒かささぎ]] La gazza ladra、1817年 ミラノ * [[アルミーダ (ロッシーニ)|アルミーダ]] Armida、1817年 ナポリ * ブルゴーニュのアデライーデ、1817年 ローマ * エジプトのモーゼ Mose in Egitto、1818年 ナポリ * アディーナ Adina、1818年(初演 1826年 リスボン) * リッチャルドとゾライーデ Ricciardo e Zoraide、1819年 ナポリ * [[エルミオーネ]] Ermione、1819年 ナポリ * エドゥアルドとクリスティーナ Eduardo e Cristina、1819年 ヴェネツィア * [[湖上の美人]] La donna del lago、1819年 ナポリ * ビアンカとファッリエーロ Bianca e Falliero、1819年 ミラノ * [[マオメット2世]] Maometto secondo、1820年 ナポリ * [[マティルデ・ディ・シャブラン]] Matilde di Shabran、1821年 ローマ、ナポリ(改訂版) * [[ゼルミーラ]] Zermira、1822年 ナポリ * [[セミラーミデ]] Semiramide、1823年 ヴェネツィア * [[ランスへの旅、または黄金の百合咲く宿]] Il viaggio a Reims、1825年 パリ{{Efn|[[シャルル10世]]の戴冠式のためのカンタータ。}} * [[コリントの包囲]] Le siège de Corinthe、1826年 パリ{{Efn|『マオメット2世』の改作。}} * [[モイーズとファラオン]] Moïse et pharaon、1827年 パリ{{Efn|『エジプトのモーゼ』の改作。}} * [[オリー伯爵]] Le Comte Ory、1828年 パリ{{Efn|『ランスへの旅』から多くを流用。}} * [[ウィリアム・テル (オペラ)|ギヨーム・テル(ウィリアム・テル)]] Guillaume Tell、1829年 パリ  === 管弦楽曲 === * シンフォニア 変ホ長調 * シンフォニア ニ長調 * イタリアの戴冠式 * クラリネットと小管弦楽のための変奏曲 ヘ長調 === 宗教曲 === * [[グローリア・ミサ (ロッシーニ)|グローリア・ミサ]] Messa di Gloria、1820年 * [[ミサ・ソレムニス|小ミサ・ソレムニス]] Petite Messe Solennelle、1863年 * [[スターバト・マーテル (ロッシーニ)|スターバト・マーテル]]、1842年 * タントゥム・エルゴ、1847年 === 歌曲 === * 音楽の夜会 * ヴェネツィアの競漕 === 器楽曲 === * [[弦楽のためのソナタ (ロッシーニ)|弦楽のためのソナタ]](ヴァイオリン2、チェロ、コントラバスのための・全6曲)、1804年{{Efn|他者による弦楽四重奏曲、管楽四重奏曲版(共に第3番を除く)あり。}} * [[チェロとコントラバスのための二重奏曲 (ロッシーニ)|チェロとコントラバスのための二重奏曲]]、1824年 * 「涙―主題と変奏」(チェロとピアノのための)、作曲年代不明 === その他の作品 === * 歓喜 * 主題 * Brindisi * 劇付随音楽 コロノスのオイディプス * 狩での出会い(ファンファーレ) * Giunone(1822年以前に作曲?) === 由来の定かでない作品 === * 2匹の猫の愉快な歌(偽作) * 交響曲(作曲年代不明) * 歌劇 イタリアの王ウーゴ(未完、1824年) == 美食家として == 晩年のロッシーニがパリで毎週土曜日に開催していたサロンは、提供される晩餐が豪勢だったことでも知られる<ref name="歴">{{Cite book|和書|pages=54|chapter=短期間でオペラを大量生産したロッシーニ|title=歴代作曲家ギャラ比べ: ビジネスでたどる西洋音楽史|author=山根悟郎|year=2020|publisher=[[学研プラス]]|isbn=9784059187455}}</ref>。 ロッシーニ自身が考案した料理のレシピも残されている{{R|歴}}。 また、晩年の小品集『[[老いの過ち]]』には「やれやれ!グリーンピース」、「ロマンティックなひき肉」といったような料理や食材の名前を冠したタイトルの作品もある{{R|歴}}。 ロッシーニ自身が考案した料理ではなくとも、[[フォアグラ]]や[[トリュフ]]をふんだんに使用した料理には「ロッシーニ風」「ロッシーニスタイル」と名付けられることがある<ref>{{Cite press release|和書|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000037.000058398.html|title=「オーセンティック クリスマス」をテーマにしたフレンチスタイルで華やかに彩るクリスマスのスペシャルディナー・ランチコースが登場!12月23日(金)~ 12月25日(日)|publisher=ハイアット セントリック 金沢/ハイアット ハウス 金沢|date=2022-11-01|accessdate=2022-11-25}}</ref>。 *カネロニのロッシーニ風({{lang|it|Cannelloni alla Rossini}}) - 注入マカロニ ロッシーニ風({{lang|it|Maccheroni siringati alla Rossini}})とも。フォアグラとトリュフのソースを銀製の注射器で[[カネロニ]]や[[マカロニ]]に注入した料理。 *[[トゥルヌド・ロッシーニ]] - 牛ヒレ肉のロッシーニ風 *ヴルーテ・ロッシーニ({{lang|fr|Velouté Rossini}}) - ロッシーニ風クリームスープ。チキンクリームスープにフォアグラのピューレを加える。 *ロッシーニ風リゾット({{lang|it|Risotto alla Rossini}}) - フォアグラと[[牛タン]]を加えた[[リゾット]]。 *シタビラメのロッシーニ風(Filet of Sole alla Rossini) - スライスしたフォアグラを[[シタビラメ]]の[[フィレ]]で包み、エシャロット、トリュフと共に調理する。 *トリュフ詰め七面鳥(Stuffed Turkey alla Rossini) - トリュフ、ベーコンを[[七面鳥]]に詰め、七面鳥の皮の下に薄切りしたトリュフを入れてローストする。 *[[ロッシーニ・バーガー]] - 牛肉とフォアグラを[[パテ (料理)|パテ]]に、トリュフをソースに使用した[[ハンバーガー]]<ref>{{Cite web|和書|website=IGNITE|url=https://ignite.jp/2020/09/214365/|title=名古屋のご褒美ハンバーガー「 “大人の極”ロッシーニバーガー 」をほおばる|date=2020-09-07|accessdate=2022-11-25}}</ref>。[[ニューヨーク]]で考案された。 *[[ロッシーニ (カクテル)]]({{lang|en|The Rossini Cocktail}}) - [[プロセッコ]]と[[イチゴ]]のピュレで作る[[カクテル]]。[[ベリーニ]]のバリエーション。1940年代に[[ヴェネチア]]の「ハリーズ・バー」で考案された<ref>{{Cite book|和書|page=119|title=カクテルをたしなむ人のレッスン&400レシピ|publisher=[[日本文芸社]]|year=2021|isbn=978-4537218695}}</ref>。 == 関連する人物 == * [[ニコロ・パガニーニ]] * [[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェン]] * [[フレデリック・ショパン]] * [[ジョルジュ・サンド]] * [[スタンダール]] - 『ロッシーニ伝』(山辺雅彦訳、[[みすず書房]]、1992年)がある。 * [[アルベルト・ゼッダ]] * [[オノレ・ド・バルザック]] - 1830年に交友を結ぶ。1835年に書いた『夫婦財産契約』(''Le Contrat de mariage'')を、1842年にロッシーニに献呈している。その当時、ロッシーニは後に結婚するオランプ・ペリシエを愛人にしていた。彼女はバルザックの元愛人でもある。 == 脚注 == === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == {{commons|Gioacchino Rossini}} * [https://www.akira-rossiniana.org/ 日本ロッシーニ協会] * [http://www.fondazionerossini.org/ Fondazione G.Rossini ロッシーニ財団、イタリア、ペーザロ] * [http://www.rossinioperafestival.it/ Rossini Opera Festival ロッシーニ・オペラ・フェスティヴァル、イタリア、ペーザロ] * [http://www.rossinigesellschaft.de/ Deutsche Rossini gesellschaft ドイツ・ロッシーニ協会、ドイツ] * [http://rossini.visioservices.de/ Rossini in Wildbad Belcanto Opera Festival、ドイツ、ヴィルトバート] * {{IMSLP|id=Rossini%2C_Gioacchino|cname=ジョアキーノ・ロッシーニ}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ろつしに しよあきの}} [[Category:イタリアの作曲家]] [[Category:ロマン派の作曲家]] [[Category:オペラ作曲家]] [[Category:ベルギー王立アカデミー会員]] [[Category:プール・ル・メリット勲章平和章受章者]] [[Category:レジオンドヌール勲章受章者]] [[Category:ペーザロ出身の人物]] [[Category:1792年生]] [[Category:1868年没]]
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公共財
公共財(こうきょうざい、英: public good)は、経済学の用語であり、非競合性あるいは非排除性の少なくとも一方を有する財として定義される。対語として、競合性と排除性とを有する私的財がある。 競合性とは、消費者(利用者)たちによるその財の消費が増えるにつれ、追加的な費用なしでは、次第に財の便益(質・量など)が保たれない性質を指す。 排除性とは、対価を支払わず財を消費しようとする行為を実際に排除可能な性質を指す。この場合市場では、価格付けされた財が対価の支払いを条件として販売される。 非競合的かつ非排除的な狭義の公共財を純粋公共財という。この純粋公共財の典型的な例としては政府による外交や国防がしばしば挙げられる。国民の内の特定の集団が政府の外交政策や国防の利益を受けないように排除することが困難であり、また、集団を排除しなくてもそれによって追加的な費用が発生しないことが多い。ほかの例としては、花火大会における花火などがある。 厳密には純粋公共財ではないが、非競合性あるいは非排除性のいずれかを有する広義の公共財を準公共財という。 非競合的かつ排除的な財は、「クラブ財」と呼ばれる。たとえば、有線放送のようなサービスは、放送用のケーブル網の敷設や番組制作などには費用がかかるが、これを100人の消費者に供給する代わりに150人の消費者に供給することによってもそれらの費用は余り増加しない。排除可能性は高いが、競合性が低い例となる。 非排除的かつ競合的な財は、「コモンプール財(共有資源)」と呼ばれる。たとえば、一般道路や橋などは、ある程度までであれば利用者全員は問題なく便益を受けられるが、利用者が増えるに従って混雑費用が高まり、競合性は高い。個々の限界便益に他者へ与える外部費用が含まれていないためである。しかし利用者全員に実際に課金するためのコストが高く、排除性は低い。そのため市場に任せると過剰消費がなされる傾向にある(共有地の悲劇)。 国防などの純粋公共財の提供にあたっては、対価を支払わない者も利用できる(非排除性)。そのため市場経済に任せた場合、フリーライダーの問題が起きて供給が過少となる。そこで、そのような公共財の供給は政府が行うべきとされる。 公園やプールなどのように、(準)公共財であっても民間での供給が可能なものが多い。民間が行う場合に供給が過少となるので、CSでのスクランブル放送のように排除性を高めるなど私的財に近付ける工夫をするなど、政府が介入を行う場合がある。 公共財および共有資源の提供は、市場や政府の他に、コミュニティによる自主管理によっても行われている。エリノア・オストロムは、公共財の自主管理が長期間持続するための設計原理を分析し、コミュニティが効率的に公共財を管理できることを、フィールド調査とゲーム理論によって示した。この研究により、オストロムは2009年にノーベル経済学賞を受賞した。 知識もまた非競合性と非排除性をもち、公共財であると考えられている。そのため、公共財と同様にフリーライダーが生じたり、知識生産(研究開発)への投資が過少になる可能性がある。 この問題の解消方策として が採用されている。 フリーライダーを問題とは捉えず、推奨する考え方としてコピーレフトやクリエイティブ・コモンズがある。公共財としての知識は、クリエイティブ・コモンズ発起人でもあるローレンス・レッシグによって、共有経済との関連も指摘されている。 公共財と混同されるものとして、私的財ではあるがある種の公共性を有するメリット財がある。たとえば医療、介護、義務教育などがメリット財とされる。これらのサービスは、あらゆる人が享受する権利をもつと考えられている。しかし、非競合性・非排除性の問題がないのであれば、これらの財は民間によって適切に供給され得る。
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公共財は、経済学の用語であり、非競合性あるいは非排除性の少なくとも一方を有する財として定義される。対語として、競合性と排除性とを有する私的財がある。 競合性とは、消費者(利用者)たちによるその財の消費が増えるにつれ、追加的な費用なしでは、次第に財の便益(質・量など)が保たれない性質を指す。 排除性とは、対価を支払わず財を消費しようとする行為を実際に排除可能な性質を指す。この場合市場では、価格付けされた財が対価の支払いを条件として販売される。
'''公共財'''(こうきょうざい、{{lang-en-short|public good}})は、[[経済学]]の用語であり、[[非競合性]]あるいは非排除性の少なくとも一方を有する[[財]]として定義される。対語として、競合性と排除性とを有する私的財がある。 競合性とは、[[消費者]](利用者)たちによるその財の[[消費]]が増えるにつれ、追加的な[[費用]]なしでは、次第に財の便益(質・量など)が保たれない性質を指す<ref group="注">例えば[[食品]]であれば誰かが食べてしまえば他の人はその食品を食べることが''できない''(競合性)。</ref>。 排除性とは、対価を支払わず財を消費しようとする行為を実際に排除可能な性質を指す。この場合[[市場]]では、価格付けされた財が対価の支払いを条件として販売される<ref group="注">例えば、私たちは[[ケーキ]]を食べる前に、[[商店]]においてある価格付けをされた[[商品]]としてのケーキを対価、つまり[[現金]]を払い買わなくてはならず、対価を支払いしない者は排除され、排除が可能である。</ref>。 == 分類 == {{経済学の財}} === 純粋公共財 === 非競合的かつ非排除的な狭義の公共財を[[純粋公共財]]という。この純粋公共財の典型的な例としては[[政府]]による[[外交]]や[[国防]]がしばしば挙げられる。[[国民]]の内の特定の集団が政府の[[外交政策]]や国防の利益を受けないように排除することが困難であり、また、集団を排除しなくてもそれによって追加的な費用が発生しないことが多い。ほかの例としては、花火大会における[[花火]]などがある<ref>{{Cite book |和書 |last=Mankiw |author=N・グレゴリー・マンキュー |first=N. Gregory |author-link=グレゴリー・マンキュー |title=マンキュー経済学 ミクロ編 |edition=4 |series=マンキュー経済学シリーズ |date=2019年9月27日 |publisher=東洋経済新報社 |isbn=978-4-492-31519-4 |translator=足立 英之、石川 城太、小川 英治、地主 敏樹、中馬 宏之、柳川 隆 |volume=1 |oclc=1285524003}}</ref>。 === 準公共財 === 厳密には純粋公共財ではないが、非競合性あるいは非排除性のいずれかを有する広義の公共財を[[準公共財]]という。 非競合的かつ排除的な財は、「'''クラブ財'''」と呼ばれる。たとえば、有線放送のようなサービスは、放送用のケーブル網の敷設や番組制作などには費用がかかるが、これを100人の消費者に供給する代わりに150人の消費者に供給することによってもそれらの費用は余り増加しない。排除可能性は高いが、競合性が低い例となる。 非排除的かつ競合的な財は、「'''コモンプール財'''('''共有資源''')」と呼ばれる。たとえば、一般道路や橋などは、ある程度までであれば利用者全員は問題なく便益を受けられるが、利用者が増えるに従って混雑費用が高まり、競合性は高い。個々の限界便益に他者へ与える外部費用が含まれていないためである。しかし利用者全員に実際に課金するためのコストが高く、排除性は低い。そのため市場に任せると過剰消費がなされる傾向にある('''[[共有地の悲劇]]''')。 == 公共財の提供 == === 政府や市場 === 国防などの純粋公共財<ref group="注">消費が競合的でない財は、消費者が増えても誰かの便益が減少するわけではない。そのため、経済的には追加的な消費者を拒むべき理由はなくなる。</ref>の提供にあたっては、対価を支払わない者も利用できる(非排除性)。そのため[[市場経済]]に任せた場合、[[フリーライダー]]の問題が起きて供給が過少となる。そこで、そのような公共財の供給は政府が行うべきとされる。 公園やプールなどのように、(準)公共財であっても民間での供給が可能なものが多い。民間が行う場合に供給が過少となるので、CSでのスクランブル放送のように排除性を高めるなど私的財に近付ける工夫をするなど、政府が介入を行う場合がある。 === コミュニティ === 公共財および共有資源の提供は、市場や政府の他に、[[共同体|コミュニティ]]による自主管理によっても行われている。[[エリノア・オストロム]]は、公共財の自主管理が長期間持続するための設計原理を分析し、コミュニティが効率的に公共財を管理できることを、フィールド調査と[[ゲーム理論]]によって示した{{Sfn|エリノア・オストロム|2000}}。この研究により、オストロムは2009年に[[ノーベル経済学賞]]を受賞した。 == 知識の公共財的性格 == [[知識]]もまた非競合性と非排除性をもち、公共財であると考えられている<ref>{{Cite book |和書 |author=小田切宏之 |title=企業経済学 |year=2010 |publisher=東洋経済新報社 |isbn=978-4-492-81301-0 |page=194 |edition=2}}</ref><ref group="注">[[ケネス・アロー]] (1962) によって、知識は公共財的性格のほかに、不可分割性と不確実性を持つ特殊な財であることが指摘されている{{要出典|date=2022年1月}}。</ref>。そのため、公共財と同様にフリーライダーが生じたり、知識生産(研究開発)への投資が過少になる可能性がある。 この問題の解消方策として * 公的機関による知識(という財)の供給。大学や国立研究所があてはまる。 * 新しく発明された知識に対し人為的に占有権を与え、フリーライダーを阻止する。[[知的財産権]]が該当する。 が採用されている。 フリーライダーを問題とは捉えず、推奨する考え方として[[コピーレフト]]や[[クリエイティブ・コモンズ]]がある。公共財としての知識は、クリエイティブ・コモンズ発起人でもある[[ローレンス・レッシグ]]によって、[[共有経済]]との関連も指摘されている<ref>{{Cite book |和書 |author=ローレンス・レッシグ |title=REMIX : ハイブリッド経済で栄える文化と商業のあり方 |url=https://www.shoeisha.co.jp/book/detail/9784798119809 |date=2010年02月26日 |publisher=翔泳社 |isbn=978-4-7981-1980-9 |page=第6章 |chapter=第6章 二つの経済:商業と共有 |translator=山形浩生 |oclc=674670877 |at=第6章}}</ref>。 == メリット財 == 公共財と混同されるものとして、私的財ではあるがある種の公共性を有する[[価値財|メリット財]]がある。たとえば医療、介護、義務教育などがメリット財とされる。これらのサービスは、あらゆる人が享受する権利をもつと考えられている。しかし、非競合性・非排除性の問題がないのであれば、これらの財は民間によって適切に供給され得る。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book |和書 |ref=harv |author=エリノア・オストロム |author-link=エリノア・オストロム |editor=デニス・C・ミューラー |editor-link=デニス・C・ミューラー |title=公共選択の展望 : ハンドブック |url=http://www.taga-shuppan.co.jp/books/books.php?id=501 |year=2000 |month=1 |publisher=多賀出版 |isbn=978-4-8115-5721-2 |chapter=市場でも国家でもなく:集合的行動領域での変換過程を結びつけること |translator=[[関谷登]]・[[大岩雄次郎]] |volume=1 |author2=ジェイムス・ウォーカー |author2-link=ジェイムス・ウォーカー |oclc=1183329891}} == 関連項目 == *[[公共]] *[[公共選択]] *[[コモンズの悲劇]] *[[小さな政府]]、[[大きな政府]] *[[情報経済学]] == 外部リンク == * {{Cite web|和書|url=http://www.caa.go.jp/seikatsu/koukyou/explain/ex04.html |title=市場の失敗 (2)公共財と準公共財 |accessdate=2011年5月13日 |work=用語解説 |publisher=消費者庁 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110323025540/http://www.caa.go.jp/seikatsu/koukyou/explain/ex04.html |archivedate=2011-03-23 |deadlinkdate=2020年5月27日}} * {{Kotobank}} {{ミクロ経済学}} {{経済学}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こうきようさい}} [[Category:公共経済学]] [[Category:社会]] [[Category:財]] [[Category:公共圏]]
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月の光
月の光(つきのひかり)は、太陽の光を反射した月の光のことであり、月光(げっこう)、月明かり(つきあかり)、月下/月華(げっか)、月影(つきかげ)等とも言う。英語では moonlight(ムーンライト)。 0.2ルクス程度の明るさで、夜空にひときわ明るく輝いている。その光は、おおよそ38万km離れた月面より反射され、地球に至る。 月齢によって様々に変化する様子や、しかしはかなげな光は古くから神秘的なものととらえられてきた。西洋では芸術作品、特に音楽の世界で月の光をモチーフにした曲が多く存在している。
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月の光(つきのひかり)は、太陽の光を反射した月の光のことであり、月光(げっこう)、月明かり(つきあかり)、月下/月華(げっか)、月影(つきかげ)等とも言う。英語では moonlight(ムーンライト)。 0.2ルクス程度の明るさで、夜空にひときわ明るく輝いている。その光は、おおよそ38万km離れた月面より反射され、地球に至る。 月齢によって様々に変化する様子や、しかしはかなげな光は古くから神秘的なものととらえられてきた。西洋では芸術作品、特に音楽の世界で月の光をモチーフにした曲が多く存在している。
{{Otheruses|いわゆる月光|その他}} {{Redirect|月影|音楽アルバム|月影 (工藤静香のアルバム)}} [[ファイル:Tonsvatnet, tåke og måne.JPG|thumb|250px|月の光に彩られた湖]] '''月の光'''(つきのひかり)は、[[太陽]]の[[光]]を反射した[[月]]の[[光]]のことであり、'''月光'''(げっこう)、'''月明かり'''(つきあかり)、'''月下/月華'''(げっか)、'''月影'''(つきかげ)<ref>「月影のいたらぬ里もあらじと思へば」([[古今和歌集]]収蔵)日本語では月光という意味以外にも月の形や、月光で映し出された物の姿なども指す。</ref>等とも言う。[[英語]]では moonlight(ムーンライト)。 0.2[[ルクス]]程度の明るさで、夜空にひときわ明るく輝いている。その光は、おおよそ38万[[キロメートル|km]]離れた月面より反射され、地球に至る。 [[月齢]]によって様々に変化する様子や、しかしはかなげな光は古くから神秘的なものととらえられてきた。西洋では芸術作品、特に音楽の世界で月の光をモチーフにした曲が多く存在している。 == 「月の光」と名のついた音楽作品 == * [[ポール・ヴェルレーヌ|ヴェルレーヌ]]の[[詩]]『[[月の光 (詩)|月の光]]』。および[[ガブリエル・フォーレ|フォーレ]]がそれに曲をつけた[[歌曲]]。ピアノ伴奏版と室内管弦楽伴奏版があり、後者は『[[マスクとベルガマスク]]』(ヴェルレーヌの詩を元に[[ルネ・フォーショワ]]が書き下ろした[[戯曲]])の劇中で使われたが、同名の組曲版には収録されていない。 * [[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]の『[[ベルガマスク組曲]]』の第3曲。ドビュッシーの作品の中で最も有名な曲の1つである。前項と同じくヴェルレーヌの詩から着想を得ている(組曲のタイトルである『[[ベルガマスク]]』は、ヴェルレーヌの詩の一節「マスクとベルガマスク(仮面劇と[[ベルガモ]]風舞曲)」から取られている)。もとは[[ピアノ曲]]であるが、種々の編曲により、色々な楽器で演奏されている。[[冨田勲]]による[[月の光 (冨田勲のアルバム)|シンセサイザー版]]は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で高い評価を受け、その後のシンセサイザー音楽ブームのきっかけになった。また、歌詞をつけて[[日本放送協会|NHK]]の『[[みんなのうた]]』で放映されたこともある。[[レオポルド・ストコフスキー|ストコフスキー]]による編曲は、[[ウォルト・ディズニー・カンパニー|ディズニー]]のアニメーション映画「[[ファンタジア (映画)|ファンタジア]]」で使用された。 映画「[[セブン・イヤーズ・イン・チベット]]」では、「月の光」を奏でるオルゴールが重要な役回りを演ずる。映画「[[オーシャンズ11]]」ではフィラでルディア交響楽団によるオーケストラ版がエンディングの噴水ショーの楽曲として使用された。 * ドビュッシーの『艶なる宴』(詩は[[ポール・ヴェルレーヌ|ヴェルレーヌ]])の中の1曲([[歌曲]])。初版と改訂版の2つの版を持ち、『艶なる宴』に収録されているのは後者である。 * フランス民謡(原題:[[:fr:Au clair de la lune|Au Clair de la Lune]])。日本語題は一般に「[[月の光に]]」とされる。1860年4月9日に[[フォノトグラフ]]にて記録された図形は、女性の唄う「月の光に」であり、フランス科学アカデミーはこれを「人類最古の録音」としている<ref>{{Cite web|和書 | url = https://www.afpbb.com/articles/-/2370877?pid=2782722 | archiveurl = https://web.archive.org/web/20131221020512/https://www.afpbb.com/articles/-/2370877?pid=2782722 | title = 世界最古の録音音声、最新技術でよみがえる | website = [[AFPBB News]] | date = 2008-3-28 | accessdate = 2011-4-7 | archivedate = 2013-12-21 }}</ref>。 * [[たま (バンド)|たま]]の楽曲。詩人である[[中原中也]]の同名の詩に[[石川浩司]]が曲を付けたもの。アルバム『[[そのろく]]』に収録されている。 **なお、「月光」や「ムーンライト」と名のついた音楽作品は、[[月光 (曖昧さ回避)|月光]]を参照されたい。 == 月の光をモチーフとした作品 == * 「月の光が降り注ぐテラス」([[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]の『[[前奏曲 (ドビュッシー)|前奏曲集 第2巻]]』の第7曲) == 脚注 == {{Wiktionary|月光}} {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{月}} {{デフォルトソート:つきのひかり}} [[Category:月]] [[Category:天文学に関する記事]] [[Category:光源]]
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素数
素数(そすう、英: primeあるいはprime number)とは、2 以上の自然数で、正の約数が 1 と自分自身のみであるもののことである。正の約数の個数が 2 である自然数と言い換えることもできる。1 より大きい自然数で素数でないものは合成数と呼ばれる。 日本では、英: prime number の日本語への訳語は「素数」とすることが1881年(明治14年)に決まった。 一般には、素数は代数体の整数環の素元として定義される(そこでは反数などの同伴なものも素数に含まれる)。このため、有理整数環 Z {\displaystyle \mathbb {Z} } での素数は有理素数(ゆうりそすう、英: rational prime)と呼ばれることもある。 最小の素数は 2 である。素数は無数に存在する。したがって、素数からなる無限数列が得られる。 素数が無数に存在することは、紀元前3世紀頃のエウクレイデス(以下ユークリッド)の著書『原論』で既に証明されていた。そこでの証明は、背理法により次のようになる: 自然数あるいは実数の中での素数の分布の様子は高度に非自明で、リーマン予想などの現代数学の重要な問題との興味深い結び付きが発見されている。 分散コンピューティング・プロジェクト GIMPS により、史上最大の素数の探求が行われている。2021年4月現在で知られている最大の素数は、2018年12月7日に発見された、それまでに分かっている中で51番目のメルセンヌ素数 2 − 1 であり、十進法で表記したときの桁数は2486万2048桁に及ぶ。 素数とは、自明な正の因数(1 と自分自身)以外に因数を持たない自然数であり、1 でない数のことである。つまり、正の因数の個数が 2 である自然数である。 例えば、2 は、正の因数が 1, 2 のみなので素数である。 素数でない 2 以上の自然数を合成数と呼ぶ。 合成数であることの判定法として、たとえば下記の4条件がある: 逆に、この4条件を、全て満たさない数でも素数とは限らない。例えば、91 は、正の因数が 1, 7, 13, 91 なので素数ではない。 また、2, 3 以外の素数は、最も近い6の倍数との差が 1 か −1 である。 2 でない素数は奇数であり、奇素数と呼ぶ。 100以下の素数は25個存在し、小さい順に次の通りである。 さらに、1000以下の素数は100以下のものを含め168個存在する(100以下を除けば143個)。101以上で1000以下の素数は小さい順に次の通りである。 「2 以上の自然数は、素数の積で表せる。その表し方は積の順序を除けば一意である」という、素因数分解の可能性・一意性が成立する(算術の基本定理)。素因数分解の可能性から、素数全体の成す集合は、2以上の自然数全体の成す集合とその乗法からなる半群の最小の生成系である。言い換えれば、これは「素数は自然数の構成要素である」などとなる。 素数の定義である「1 と自分自身でしか割り切れない」という条件(既約性)は、抽象代数学において、環の既約元の概念(一部の環では素元の概念と一致する)に抽象化され一般的に取り扱われる。一般の環で、任意の元は既約元の積に分解され、しかもその表示は一意であるという性質は稀有である。例えばネーター環では、任意の元は既約元分解が可能であるが、その表示が一意ではないネーター環の例はいくつも知られている。一意に既約元分解ができる環は一意分解環と呼ばれ、既約元分解は素元分解ともなる。 現代の定義では 1 は素数ではない。歴史を通しても 1 を素数に含めない数学者が多数派であったが、20世紀初頭の環論の成熟まで定義は統一されていなかった。プラトンやアリストテレスを含むほとんどの古代ギリシアの哲学者は 1 を数とさえ見なさず、素数性の考察の対象としなかった。スペウシッポスは 1 を数と見なし素数としたが、当時としては異端であった。この時代には素数を奇数の一部分と考え、2 を素数に含めない数学者もいた(ただしユークリッドをはじめとする多数派は 2 を素数に含めている)。アラビアではおおむね古代ギリシアに倣って 1 は数でないとされた。中世からルネサンスにかけて、1 が数として扱われるようになり、1 を最初の素数とする数学者も現れた。18世紀半ば、ゴールドバッハはオイラーに宛てた書簡で 1 を素数に挙げている(ただしオイラー自身は 1 を素数とは考えていなかった)。19世紀にも少数派だが 1 を素数に含める数学者はかなりいた。ハーディの『A Course of Pure Mathematics』では、1933年に出版された第6版までは 1 を素数に含めているが、1938年の第7版から 2 を最小の素数とするよう改訂されている。レーマー(英語版)の 1 を含む素数表は1956年まで出版された。ルベーグは 1 を素数だと考えた最後の専門的な数学者だと言われている。 1 も素数と定義すると、素数に関する多くの定理で、もとの「素数」を「1 以外の素数」と呼び替える記述の修正が必要になる。例えば 6 の素因数分解は、(積の順序を除いても) と無数に与えられることになり、一意性は「1 を含む素数」については成り立たない。エラトステネスの篩においては、1 も素数とすると、1 の倍数(すなわち他のすべての数)を消去し、残った唯一の数 1 を出力するので機能しない。さらに、1 以外の素数で成り立つ様々な性質がある(例えば、自然数とそれに対応するオイラーのφ関数や約数関数の値との関係など)。20世紀初頭までに 1 は素数ではなく「単数」という特別な分類に属するという見方が一般的になった。 紀元前1600年頃のエジプト第2中間期において、素数の初等的な性質が部分的に知られていたことが、リンド数学パピルスなどの資料によって示唆されている。例えば分数をエジプト式分数で表す場合、素数と合成数の場合で異なる計算をしなければならないからである。しかし、記録に残っている限りにおいて、明確に素数を研究対象としたのは古代ギリシア人が最初である。紀元前約300年頃に書かれたユークリッドの『原論』には素数が無数に存在することや、その他の素数の性質が証明されている。また、ユークリッドはメルセンヌ素数から完全数を構成する方法を示している。ギリシアの数学者、エラトステネスに因んで名付けられたエラトステネスの篩は、素数を列挙するための計算方法である。 古代ギリシア時代の後、17世紀になるまで素数の研究にはそれほどの進展が無かった。1640年に、ピエール・ド・フェルマーはフェルマーの小定理を(未証明ではあるが)述べた。この定理は後にライプニッツとオイラーによって証明された。 素数が無数に存在することは既に古代ギリシア時代から知られていて、ユークリッドが彼の著作『原論』の中で証明している。 上記のユークリッドによる証明以外にも、素数が無数に存在することの証明方法が存在する。 与えられた自然数 n が素数であるか合成数であるかを判定するためのアルゴリズムが多数考案されている。最も素朴な方法は、2 から √n 以下の素数まで順番に割っていく、試し割り法と呼ばれる方法である。n が √n 以下の全ての素数で割り切れなければ n は素数である。試し割り法は、n が大きくなるに従って、急速に速度が低下するため、実用的ではない。任意の数に適用できる試し割り法よりも高速なアルゴリズムが考案されている。また、特殊な形をした数に対してはより高速なアルゴリズムも存在する。素数判定は、与えられた数が素数であるか否かだけを判定するものであるが、素因数分解とはより強く、与えられた数の全ての素因数を列挙することであるとも言える。 上記の通り2を除く偶数、2桁以上で末尾が5の数、数字和が3の倍数となる数は合成数と分かるのでそれを省き、7以上の素数を順番に割る方法がある。 ある自然数までにどのくらいの素数があるのかという問題は、基本的だが非常に難しい問題である。 これに関して、次の素数定理は有名である。この定理は1896年に、アダマールとド・ラ・ヴァレ・プサンによって独立に証明された。 x 以下の素数の個数を π(x)(素数計数関数)とすると、 が成り立つ。この定理は、1792年に15歳のカール・フリードリヒ・ガウスによって予想されていた(ガウスが最初に予想したのかどうかは不明)。この定理の証明は、ゼータ関数と複素関数論を用いる高度なものであったが、1949年にアトル・セルバーグとポール・エルデシュは独立に初等的な証明を与えた。この評価式はリーマン予想を仮定すると大幅に精度をよくすることができる。 次のような定理もある。 この主張は「任意の素数 p の次の素数は 2p 未満」とも言い換えられる。したがって、2017年5月現在知られている最大の素数 2 − 1 の次の素数は 2 − 2 未満である。 一方で、例えば n と (n + 1) の間に素数が存在するかという問題は未解決である(ルジャンドル予想)。 素数が全く無い区間は、いくらでも長いものがあることが知られている。n ≥ 2 に対して、連続する n − 1 個の自然数 n! + 2, ..., n! + n はそれぞれ、それらより小さい 2, ..., n で割り切れるので、どれも素数でない。n は任意にとれるから、素数が全く無いいくらでも長い区間があると言える。これは一例にすぎず、実際にはもっと小さい所で、素数が全く無い長い区間が生じるようである。例えば、114 から 126 まで13個連続で合成数である。 2015年に、ゴールドバッハの予想検証プロジェクトは 4 × 10 以下の全ての素数(9京5676兆2609億0388万7607個、約 10個)を計算したと報告したが、結果は保存されていない。しかしながら、素数計数関数を計算するには、実際に素数を数えるより高速な公式が存在する。この公式を使って、10 以下に 19垓2532京0391兆6068億0396万8923個(約 2×10個)の素数があると計算された。 また、別の計算によると、リーマン予想が真であると仮定した場合、10 以下に 184垓3559京9767兆3492億0086万7866個(約 2×10個)の素数が存在する。 素数の逆数の和は(無限大に)発散する。この命題は『素数は無数に存在する』という命題を含んでいる(有限個ならば収束、すなわち発散しないはずである)が、それだけではなく素数の分布に関してより多くの情報を提供している。 この結果は最初にレオンハルト・オイラーによりゼータ関数を研究することでもたらされた。以下の証明はポール・エルデシュによる、より直接的で、また簡潔な証明である。素数が無数に存在することを証明に用いないため、その証明をも含んでいる。 素数の逆数和は収束すると仮定する。i 番目の素数を pi で表すと、 を満たす N が存在する。 n 以下の自然数のうち最大素因数が pN 以下のものからなる集合を An とする。任意の k ∈ An に対して、 と表示すると、v は高々 2 通り、u ≤ k ≤ n より An の元は、pN+1 以上の素因数を少なくとも1つ持つから、(1) より #An = n − #An より (2), (3) より n/2 < 2 √n, ∴ n < 2。これは n の任意性に矛盾。(証明終) 双子素数に限ると、逆数和は B2 = 1.902... に収束することが証明されている(ブルン定数)。 n番目の素数を求める素数生成式は存在しないと主張されることがあるが、これは誤りである(ウィルソンの定理やミルズの定理(英語版)を用いたものが存在する)。しかしながら、そのような式で実効的に計算可能(英語版)なものは知られていない。 以下は1964年に Willans C.P. が報告したウィルソンの定理に基づく公式で、n番目の素数 pn を求めることができる: オイラーの発見した式: は、自然数 n が n < 41 で全て素数となる。これは、虚二次体 Q ( − 163 ) {\displaystyle \mathbb {Q} ({\sqrt {-163}})} の類数が 1 であることと関係している。一般に、0 ≤ n < p で多項式 f(n) = n − n + p が素数の値を取るとき、素数 p の値を「オイラーの幸運数」という。オイラーの幸運数は p = 2, 3, 5, 11, 17, 41 の6つのみであり、これらはすべてヘーグナー数と対応する。 ルビーの多項式: は n = 0, ..., 44 で全て素数となる。 同様に は n = 0, ..., 42 で全て素数となる。 は n = 0, ..., 44 で絶対値は全て素数となる。 高い次数での多項式はあまり知られていないが は n = 0, ..., 25 で絶対値は全て素数となる。 ただし n − 34n + 381n − 1511 の n = 9, 12, 13 で −107 を取るなど、同じ素数が何度も出現する場合がある。 多変数の多項式では、全ての素数を生成することができる式がいくつか知られている。例えば、k + 2 が素数となる必要十分条件は、次のディオファントス方程式が自然数解を持つことである: 長い間、数論、その中でもとりわけ素数に関する研究は、その分野以外での応用の全くない純粋数学の見本と見なされていた。特に、イギリスの数論研究者であるハーディは、自身の研究が軍事的に何の重要性も持たないことを誇っていた。しかし、この見方は1970年代には覆されてしまった。素数が公開鍵暗号のアルゴリズムに使用できると広く知られるようになったためである。現在では素数はハッシュテーブルや擬似乱数生成にも用いられ、工学的応用上重要度の高いものとなっている。 公開鍵暗号のアルゴリズムとして、RSA暗号やディフィー・ヘルマン鍵共有といった、大きな数の素因数分解は困難であるという性質に基礎を置くものがある。RSA暗号は、2つの(大きな)素数の掛け算は比較的簡単に(効率的に)行えるが、その積を素因数分解して元の2つの素数を求めることは難しいという事実に基づいている。 自然界に現れる素数の一例として、素数ゼミと呼ばれるセミの一種がいる。アメリカ合衆国に分布するこのセミの成虫は、ある周期ごとに、13年ないしは17年間の周期で大量発生する。成虫になった後は、数週間だけを地上で成虫として過ごし交配と産卵を行う。このセミが素数周期で発生する理由として、寄生虫や捕食者に対抗するための進化であるという説や近縁種との交雑を避けるためであるという説がある。つまり、もしこのセミが12年の発生周期を持っていた場合、12の約数である2, 3, 4, 6年の寿命を持つ捕食者と同時に発生してしまうことになり、捕食対象にされやすくなる。また、地理的に近い場所で12年周期と15年周期のセミが存在した場合、60年ごとに2種は同時に発生し、交雑してしまう可能性がある。すると、雑種は発生周期がずれてしまい、同種のセミとの交尾の機会が失われる。素数の周期を持つものは交雑が起こりにくく、淘汰されにくいと考えられる。 また、ゼータ関数上の零点の分布の数式が、原子核のエネルギー間隔を表す式と一致することを示し、素数と核物理現象との関連性が示唆されている。 パナソニック株式会社が2011年にリリースしたiPad用アプリケーション「Panasonic Prime Smash!」は空中に打ち上げられたボールに書かれた数字が素数であればタップして得点、合成数であればスワイプすることで割り算し、素数になったらタップして得点にするゲームである。第15回文化庁メディア芸術祭エンターテインメント部門の審査委員会推薦作品に選ばれ、第6回企業ウェブグランプリ スチューデント部門特別賞を受賞した。 2016年にイギリスの数学者クリスチャン・ローソン=パーフェクトが公開した「これは素数ですか? (Is this prime?)」は、画面に表示される数字を素数と合成数に仕分けるゲームで、2021年7月にプレイ回数が300万回を突破した。このゲームのプログラムにはミラー–ラビン素数判定法が組み込まれている。 自然数で素数でないものが連続している区間を「素数砂漠」という。例えば{24, 25, 26, 27, 28} は「長さ 5 の素数砂漠」である。素数砂漠を挟む2個の素数は 3 以上であるため、共に奇数である。このことから、素数砂漠の長さは必ず奇数である。いくらでも長い素数砂漠が構成できる(#分布を参照)。 初めから60個の素数の間隔は
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"tag": "p", "text": "さらに、1000以下の素数は100以下のものを含め168個存在する(100以下を除けば143個)。101以上で1000以下の素数は小さい順に次の通りである。", "title": "定義と例" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "「2 以上の自然数は、素数の積で表せる。その表し方は積の順序を除けば一意である」という、素因数分解の可能性・一意性が成立する(算術の基本定理)。素因数分解の可能性から、素数全体の成す集合は、2以上の自然数全体の成す集合とその乗法からなる半群の最小の生成系である。言い換えれば、これは「素数は自然数の構成要素である」などとなる。", "title": "素因数分解の可能性・一意性" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "素数の定義である「1 と自分自身でしか割り切れない」という条件(既約性)は、抽象代数学において、環の既約元の概念(一部の環では素元の概念と一致する)に抽象化され一般的に取り扱われる。一般の環で、任意の元は既約元の積に分解され、しかもその表示は一意であるという性質は稀有である。例えばネーター環では、任意の元は既約元分解が可能であるが、その表示が一意ではないネーター環の例はいくつも知られている。一意に既約元分解ができる環は一意分解環と呼ばれ、既約元分解は素元分解ともなる。", "title": "素因数分解の可能性・一意性" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "現代の定義では 1 は素数ではない。歴史を通しても 1 を素数に含めない数学者が多数派であったが、20世紀初頭の環論の成熟まで定義は統一されていなかった。プラトンやアリストテレスを含むほとんどの古代ギリシアの哲学者は 1 を数とさえ見なさず、素数性の考察の対象としなかった。スペウシッポスは 1 を数と見なし素数としたが、当時としては異端であった。この時代には素数を奇数の一部分と考え、2 を素数に含めない数学者もいた(ただしユークリッドをはじめとする多数派は 2 を素数に含めている)。アラビアではおおむね古代ギリシアに倣って 1 は数でないとされた。中世からルネサンスにかけて、1 が数として扱われるようになり、1 を最初の素数とする数学者も現れた。18世紀半ば、ゴールドバッハはオイラーに宛てた書簡で 1 を素数に挙げている(ただしオイラー自身は 1 を素数とは考えていなかった)。19世紀にも少数派だが 1 を素数に含める数学者はかなりいた。ハーディの『A Course of Pure Mathematics』では、1933年に出版された第6版までは 1 を素数に含めているが、1938年の第7版から 2 を最小の素数とするよう改訂されている。レーマー(英語版)の 1 を含む素数表は1956年まで出版された。ルベーグは 1 を素数だと考えた最後の専門的な数学者だと言われている。", "title": "素因数分解の可能性・一意性" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1 も素数と定義すると、素数に関する多くの定理で、もとの「素数」を「1 以外の素数」と呼び替える記述の修正が必要になる。例えば 6 の素因数分解は、(積の順序を除いても)", "title": "素因数分解の可能性・一意性" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "と無数に与えられることになり、一意性は「1 を含む素数」については成り立たない。エラトステネスの篩においては、1 も素数とすると、1 の倍数(すなわち他のすべての数)を消去し、残った唯一の数 1 を出力するので機能しない。さらに、1 以外の素数で成り立つ様々な性質がある(例えば、自然数とそれに対応するオイラーのφ関数や約数関数の値との関係など)。20世紀初頭までに 1 は素数ではなく「単数」という特別な分類に属するという見方が一般的になった。", "title": "素因数分解の可能性・一意性" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "紀元前1600年頃のエジプト第2中間期において、素数の初等的な性質が部分的に知られていたことが、リンド数学パピルスなどの資料によって示唆されている。例えば分数をエジプト式分数で表す場合、素数と合成数の場合で異なる計算をしなければならないからである。しかし、記録に残っている限りにおいて、明確に素数を研究対象としたのは古代ギリシア人が最初である。紀元前約300年頃に書かれたユークリッドの『原論』には素数が無数に存在することや、その他の素数の性質が証明されている。また、ユークリッドはメルセンヌ素数から完全数を構成する方法を示している。ギリシアの数学者、エラトステネスに因んで名付けられたエラトステネスの篩は、素数を列挙するための計算方法である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "古代ギリシア時代の後、17世紀になるまで素数の研究にはそれほどの進展が無かった。1640年に、ピエール・ド・フェルマーはフェルマーの小定理を(未証明ではあるが)述べた。この定理は後にライプニッツとオイラーによって証明された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "素数が無数に存在することは既に古代ギリシア時代から知られていて、ユークリッドが彼の著作『原論』の中で証明している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "上記のユークリッドによる証明以外にも、素数が無数に存在することの証明方法が存在する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "与えられた自然数 n が素数であるか合成数であるかを判定するためのアルゴリズムが多数考案されている。最も素朴な方法は、2 から √n 以下の素数まで順番に割っていく、試し割り法と呼ばれる方法である。n が √n 以下の全ての素数で割り切れなければ n は素数である。試し割り法は、n が大きくなるに従って、急速に速度が低下するため、実用的ではない。任意の数に適用できる試し割り法よりも高速なアルゴリズムが考案されている。また、特殊な形をした数に対してはより高速なアルゴリズムも存在する。素数判定は、与えられた数が素数であるか否かだけを判定するものであるが、素因数分解とはより強く、与えられた数の全ての素因数を列挙することであるとも言える。", "title": "素数判定と素因数分解" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "上記の通り2を除く偶数、2桁以上で末尾が5の数、数字和が3の倍数となる数は合成数と分かるのでそれを省き、7以上の素数を順番に割る方法がある。", "title": "素数判定と素因数分解" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ある自然数までにどのくらいの素数があるのかという問題は、基本的だが非常に難しい問題である。 これに関して、次の素数定理は有名である。この定理は1896年に、アダマールとド・ラ・ヴァレ・プサンによって独立に証明された。", "title": "分布" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "x 以下の素数の個数を π(x)(素数計数関数)とすると、", "title": "分布" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "が成り立つ。この定理は、1792年に15歳のカール・フリードリヒ・ガウスによって予想されていた(ガウスが最初に予想したのかどうかは不明)。この定理の証明は、ゼータ関数と複素関数論を用いる高度なものであったが、1949年にアトル・セルバーグとポール・エルデシュは独立に初等的な証明を与えた。この評価式はリーマン予想を仮定すると大幅に精度をよくすることができる。", "title": "分布" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "次のような定理もある。", "title": "分布" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "この主張は「任意の素数 p の次の素数は 2p 未満」とも言い換えられる。したがって、2017年5月現在知られている最大の素数 2 − 1 の次の素数は 2 − 2 未満である。", "title": "分布" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "一方で、例えば n と (n + 1) の間に素数が存在するかという問題は未解決である(ルジャンドル予想)。", "title": "分布" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "素数が全く無い区間は、いくらでも長いものがあることが知られている。n ≥ 2 に対して、連続する n − 1 個の自然数 n! + 2, ..., n! + n はそれぞれ、それらより小さい 2, ..., n で割り切れるので、どれも素数でない。n は任意にとれるから、素数が全く無いいくらでも長い区間があると言える。これは一例にすぎず、実際にはもっと小さい所で、素数が全く無い長い区間が生じるようである。例えば、114 から 126 まで13個連続で合成数である。", "title": "分布" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2015年に、ゴールドバッハの予想検証プロジェクトは 4 × 10 以下の全ての素数(9京5676兆2609億0388万7607個、約 10個)を計算したと報告したが、結果は保存されていない。しかしながら、素数計数関数を計算するには、実際に素数を数えるより高速な公式が存在する。この公式を使って、10 以下に 19垓2532京0391兆6068億0396万8923個(約 2×10個)の素数があると計算された。", "title": "分布" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "また、別の計算によると、リーマン予想が真であると仮定した場合、10 以下に 184垓3559京9767兆3492億0086万7866個(約 2×10個)の素数が存在する。", "title": "分布" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "素数の逆数の和は(無限大に)発散する。この命題は『素数は無数に存在する』という命題を含んでいる(有限個ならば収束、すなわち発散しないはずである)が、それだけではなく素数の分布に関してより多くの情報を提供している。", "title": "素数に関連する主な性質" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "この結果は最初にレオンハルト・オイラーによりゼータ関数を研究することでもたらされた。以下の証明はポール・エルデシュによる、より直接的で、また簡潔な証明である。素数が無数に存在することを証明に用いないため、その証明をも含んでいる。", "title": "素数に関連する主な性質" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "素数の逆数和は収束すると仮定する。i 番目の素数を pi で表すと、", "title": "素数に関連する主な性質" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "を満たす N が存在する。", "title": "素数に関連する主な性質" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "n 以下の自然数のうち最大素因数が pN 以下のものからなる集合を An とする。任意の k ∈ An に対して、", "title": "素数に関連する主な性質" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "と表示すると、v は高々 2 通り、u ≤ k ≤ n より", "title": "素数に関連する主な性質" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "An の元は、pN+1 以上の素因数を少なくとも1つ持つから、(1) より", "title": "素数に関連する主な性質" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "#An = n − #An より", "title": "素数に関連する主な性質" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "(2), (3) より n/2 < 2 √n, ∴ n < 2。これは n の任意性に矛盾。(証明終)", "title": "素数に関連する主な性質" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "双子素数に限ると、逆数和は B2 = 1.902... に収束することが証明されている(ブルン定数)。", "title": "素数に関連する主な性質" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "n番目の素数を求める素数生成式は存在しないと主張されることがあるが、これは誤りである(ウィルソンの定理やミルズの定理(英語版)を用いたものが存在する)。しかしながら、そのような式で実効的に計算可能(英語版)なものは知られていない。", "title": "素数生成式" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "以下は1964年に Willans C.P. が報告したウィルソンの定理に基づく公式で、n番目の素数 pn を求めることができる:", "title": "素数生成式" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "オイラーの発見した式:", "title": "素数生成式" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "は、自然数 n が n < 41 で全て素数となる。これは、虚二次体 Q ( − 163 ) {\\displaystyle \\mathbb {Q} ({\\sqrt {-163}})} の類数が 1 であることと関係している。一般に、0 ≤ n < p で多項式 f(n) = n − n + p が素数の値を取るとき、素数 p の値を「オイラーの幸運数」という。オイラーの幸運数は p = 2, 3, 5, 11, 17, 41 の6つのみであり、これらはすべてヘーグナー数と対応する。", "title": "素数生成式" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "ルビーの多項式:", "title": "素数生成式" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "は n = 0, ..., 44 で全て素数となる。 同様に", "title": "素数生成式" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "は n = 0, ..., 42 で全て素数となる。", "title": "素数生成式" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "は n = 0, ..., 44 で絶対値は全て素数となる。", "title": "素数生成式" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "高い次数での多項式はあまり知られていないが", "title": "素数生成式" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "は n = 0, ..., 25 で絶対値は全て素数となる。 ただし n − 34n + 381n − 1511 の n = 9, 12, 13 で −107 を取るなど、同じ素数が何度も出現する場合がある。", "title": "素数生成式" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "多変数の多項式では、全ての素数を生成することができる式がいくつか知られている。例えば、k + 2 が素数となる必要十分条件は、次のディオファントス方程式が自然数解を持つことである:", "title": "素数生成式" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "長い間、数論、その中でもとりわけ素数に関する研究は、その分野以外での応用の全くない純粋数学の見本と見なされていた。特に、イギリスの数論研究者であるハーディは、自身の研究が軍事的に何の重要性も持たないことを誇っていた。しかし、この見方は1970年代には覆されてしまった。素数が公開鍵暗号のアルゴリズムに使用できると広く知られるようになったためである。現在では素数はハッシュテーブルや擬似乱数生成にも用いられ、工学的応用上重要度の高いものとなっている。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "公開鍵暗号のアルゴリズムとして、RSA暗号やディフィー・ヘルマン鍵共有といった、大きな数の素因数分解は困難であるという性質に基礎を置くものがある。RSA暗号は、2つの(大きな)素数の掛け算は比較的簡単に(効率的に)行えるが、その積を素因数分解して元の2つの素数を求めることは難しいという事実に基づいている。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "自然界に現れる素数の一例として、素数ゼミと呼ばれるセミの一種がいる。アメリカ合衆国に分布するこのセミの成虫は、ある周期ごとに、13年ないしは17年間の周期で大量発生する。成虫になった後は、数週間だけを地上で成虫として過ごし交配と産卵を行う。このセミが素数周期で発生する理由として、寄生虫や捕食者に対抗するための進化であるという説や近縁種との交雑を避けるためであるという説がある。つまり、もしこのセミが12年の発生周期を持っていた場合、12の約数である2, 3, 4, 6年の寿命を持つ捕食者と同時に発生してしまうことになり、捕食対象にされやすくなる。また、地理的に近い場所で12年周期と15年周期のセミが存在した場合、60年ごとに2種は同時に発生し、交雑してしまう可能性がある。すると、雑種は発生周期がずれてしまい、同種のセミとの交尾の機会が失われる。素数の周期を持つものは交雑が起こりにくく、淘汰されにくいと考えられる。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "また、ゼータ関数上の零点の分布の数式が、原子核のエネルギー間隔を表す式と一致することを示し、素数と核物理現象との関連性が示唆されている。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "パナソニック株式会社が2011年にリリースしたiPad用アプリケーション「Panasonic Prime Smash!」は空中に打ち上げられたボールに書かれた数字が素数であればタップして得点、合成数であればスワイプすることで割り算し、素数になったらタップして得点にするゲームである。第15回文化庁メディア芸術祭エンターテインメント部門の審査委員会推薦作品に選ばれ、第6回企業ウェブグランプリ スチューデント部門特別賞を受賞した。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "2016年にイギリスの数学者クリスチャン・ローソン=パーフェクトが公開した「これは素数ですか? (Is this prime?)」は、画面に表示される数字を素数と合成数に仕分けるゲームで、2021年7月にプレイ回数が300万回を突破した。このゲームのプログラムにはミラー–ラビン素数判定法が組み込まれている。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "自然数で素数でないものが連続している区間を「素数砂漠」という。例えば{24, 25, 26, 27, 28} は「長さ 5 の素数砂漠」である。素数砂漠を挟む2個の素数は 3 以上であるため、共に奇数である。このことから、素数砂漠の長さは必ず奇数である。いくらでも長い素数砂漠が構成できる(#分布を参照)。", "title": "素数砂漠" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "初めから60個の素数の間隔は", "title": "素数砂漠" } ]
素数とは、2 以上の自然数で、正の約数が 1 と自分自身のみであるもののことである。正の約数の個数が 2 である自然数と言い換えることもできる。1 より大きい自然数で素数でないものは合成数と呼ばれる。 日本では、英: prime number の日本語への訳語は「素数」とすることが1881年(明治14年)に決まった。 一般には、素数は代数体の整数環の素元として定義される(そこでは反数などの同伴なものも素数に含まれる)。このため、有理整数環 Z での素数は有理素数と呼ばれることもある。 最小の素数は 2 である。素数は無数に存在する。したがって、素数からなる無限数列が得られる。 素数が無数に存在することは、紀元前3世紀頃のエウクレイデス(以下ユークリッド)の著書『原論』で既に証明されていた。そこでの証明は、背理法により次のようになる: 自然数あるいは実数の中での素数の分布の様子は高度に非自明で、リーマン予想などの現代数学の重要な問題との興味深い結び付きが発見されている。 分散コンピューティング・プロジェクト GIMPS により、史上最大の素数の探求が行われている。2021年4月現在で知られている最大の素数は、2018年12月7日に発見された、それまでに分かっている中で51番目のメルセンヌ素数 282589933 − 1 であり、十進法で表記したときの桁数は2486万2048桁に及ぶ。
'''素数'''(そすう、{{lang-en-short|''prime''あるいは''prime number''}})とは、{{math|2}} 以上の[[自然数]]で、正の[[約数]]が {{math|[[1]]}} と自分自身のみであるもののことである。正の約数の個数が {{math|2}} である自然数と言い換えることもできる。{{math|1}} より大きい自然数で素数でないものは[[合成数]]と呼ばれる。 日本では、{{lang-en-short|prime number}} の日本語への訳語は「素数」とすることが[[1881年]]([[明治]]14年)に決まった<ref>{{Cite journal|和書 |title=創立80周年特集 |url=https://mathsoc.jp/pamph/history/80th/ |journal=[[数学 (雑誌)|数学]] |volume=9 |issue=2 |page=72 |year=1957 |doi=10.11429/sugaku1947.9.65}}</ref><ref>{{Cite journal|和書 |title=東京數學會社雑誌第四十二號附録 |journal=東京數學會社雑誌 |doi=10.11429/sugakukaisya1877.1881.42sup_1 |page=13 |year=1881}}</ref>。 一般には、素数は[[代数体]]の整数環の[[素元]]として定義される(そこでは[[反数]]などの[[整域#可除性、素元と既約元|同伴]]なものも素数に含まれる)。このため、有理[[整数]]環 <math>\mathbb Z</math> での素数は'''有理素数'''(ゆうりそすう、{{lang-en-short|''rational prime''}})と呼ばれることもある。 最小の素数は {{math|[[2]]}} である。素数は無数に存在する。したがって、素数からなる無限[[数列]]が得られる<ref name="名前なし-1">{{OEIS|A40}}</ref>。 :{{math2|[[2]], [[3]], [[5]], [[7]], [[11]], [[13]], [[17]], [[19]], [[23]], [[29]], [[31]], [[37]], [[41]], [[43]], [[47]], [[53]], [[59]], [[61]], [[67]], [[71]], [[73]], [[79]], [[83]], [[89]], [[97]],…}}<!--100以下の素数--> 素数が無数に存在することは、[[紀元前3世紀]]頃の[[エウクレイデス]](以下ユークリッド)の著書『[[ユークリッド原論|原論]]』で既に証明されていた。そこでの証明は、背理法により次のようになる: :『素数全体は有限個と仮定して、全ての素数の[[総乗]]に1を足した数をNとする。Nはどの素数で割っても余りが1となる。一方、Nはどの素数よりも大きいので、Nは素数ではない。すなわち、Nはある素数で割り切れる。これは、Nを整数で割った余りが一意であることに矛盾する。ゆえに、素数は無数にある。』 [[自然数]]あるいは[[実数]]の中での素数の分布の様子は高度に非自明で、[[リーマン予想]]などの現代数学の重要な問題との興味深い結び付きが発見されている。 [[分散コンピューティング]]・プロジェクト [[GIMPS]] により、史上最大の素数の探求が行われている。2021年4月現在で知られている最大の素数は、[[2018年]][[12月7日]]に発見された、それまでに分かっている中で51番目の[[メルセンヌ数|メルセンヌ素数]] {{math|2{{sup|82589933}} &minus; 1}} であり、[[十進法]]で表記したときの桁数は2486万2048桁に及ぶ<ref>{{Cite web |url=https://primes.utm.edu/largest.html#biggest |title=The Largest Known Primes |accessdate=2021-05-13 |date=2021-05-13 |publisher=The Prime Pages}}</ref>。 == 定義と例 == {|class="wikitable" style="font-size:95%;text-align:right;float:right;margin:0px 0px 3px 7px;line-height:1.3em" !colspan="10"|{{math|[[100]]}} 以下の素数一覧 |- | ||{{0}}{{math|[[2]]}}||{{math|[[3]]}}||{{0}}{{0}}||{{0}}{{math|[[5]]}}||{{0}}{{0}}||{{math|[[7]]}}||{{0}}{{0}}|| ||{{0}}{{0}} |- |{{math|[[11]]}}|| ||{{math|[[13]]}}|| || || ||{{math|[[17]]}}|| ||{{math|[[19]]}}|| |- | || ||{{math|[[23]]}}|| || || || || ||{{math|[[29]]}}|| |- |{{math|[[31]]}}|| || || || || ||{{math|[[37]]}}|| || || |- |{{math|[[41]]}}|| ||{{math|[[43]]}}|| || || ||{{math|[[47]]}}|| || || |- | || ||{{math|[[53]]}}|| || || || || ||{{math|[[59]]}}|| |- |{{math|[[61]]}}|| || || || || ||{{math|[[67]]}}|| || || |- |{{math|[[71]]}}|| ||{{math|[[73]]}}|| || || || || ||{{math|[[79]]}}|| |- | || ||{{math|[[83]]}}|| || || || || ||{{math|[[89]]}}|| |- | || || || || || ||{{math|[[97]]}}|| || || |} 素数とは、自明な正の因数({{math|1}} と自分自身)以外に因数を持たない自然数であり、{{math|1}} でない数のことである。つまり、正の因数の個数が 2 である自然数である。 例えば、{{math|2}} は、正の因数が {{math2|1, 2}} のみなので素数である。 素数でない {{math|2}} 以上の自然数を'''[[合成数]]'''と呼ぶ。 合成数であることの判定法として、たとえば下記の4条件がある: * [[4]]以上の[[偶数]]。(2で割り切れる) * [[10]]以上で末尾が[[5]]か[[0]]の数。(5で割り切れる) * [[6]]以上で、[[数字根]]が3, 6, 9となる数(3で割り切れる)。(20以上では、{{math2|[[21]], [[27]], [[33]], [[39]], [[51]], [[57]], [[63]], [[69]], [[81]], [[87]], [[93]], [[99]], …}}) * 一の位から見て奇数番目の位の数の和と、偶数番目の位の数の和との差が11の倍数であれば、11の倍数である(11で割り切れる)。(100以上では、{{math2|[[110]], [[121]], [[132]], [[143]], [[154]], [[165]], [[176]], [[187]], [[198]], [[209]], …}})<ref>{{Cite web|和書 |url=https://rikeinvest.com/math-a/juichibaisu/ |title=[数A]11の倍数の判定法、見分け方とその証明 |publisher=トムラボ |accessdate=2023-02-25}}</ref> 逆に、この4条件を、全て満たさない数でも素数とは限らない。例えば、{{math|[[91]]}} は、正の因数が {{math2|1, 7, 13, 91}} なので素数ではない。 また、{{math2|2, 3}} 以外の素数は、最も近い6の倍数との差が {{math|1}} か {{math|&minus;1}} である。 {{math|2}} でない素数は[[奇数]]であり、'''奇素数'''と呼ぶ。 100以下の素数は25個存在し、小さい順に次の通りである<ref name="名前なし-1"/>。 :{{math2|[[2]], [[3]], [[5]], [[7]], [[11]], [[13]], [[17]], [[19]], [[23]], [[29]], [[31]], [[37]], [[41]], [[43]], [[47]], [[53]], [[59]], [[61]], [[67]], [[71]], [[73]], [[79]], [[83]], [[89]], [[97]]}} さらに、1000以下の素数は100以下のものを含め168個存在する(100以下を除けば143個)。101以上で1000以下の素数は小さい順に次の通りである。 :{{math2|[[101]], [[103]], [[107]], [[109]], [[113]], [[127]], [[131]], [[137]], [[139]], [[149]], [[151]], [[157]], [[163]], [[167]], [[173]], [[179]], [[181]], [[191]], [[193]], [[197]], [[199]], [[211]], [[223]], [[227]], [[229]], [[233]], [[239]], [[241]], [[251]], [[257]], [[263]], [[269]], [[271]], [[277]], [[281]], [[283]], [[293]], [[307]], [[311]], [[313]], [[317]], [[331]], [[337]], [[347]], [[349]], [[353]], [[359]], [[367]], [[373]], [[379]], [[383]], [[389]], [[397]], [[401]], [[409]], [[419]], [[421]], [[431]], [[433]], [[439]], [[443]], [[449]], [[457]], [[461]], [[463]], [[467]], [[479]], [[487]], [[491]], [[499]], [[503]], [[509]], [[521]], [[523]], [[541]], [[547]], [[557]], [[563]], [[569]], [[571]], [[577]], [[587]], [[593]], [[599]], [[601]], [[607]], 613, 617, 619, 631, 641, 643, 647, 653, 659, 661, 673, 677, 683, 691, [[701]], [[709]], [[719]], [[727]], [[733]], [[739]], [[743]], [[751]], [[757]], 761, 769, [[773]], [[787]], [[797]], 809, 811, [[821]], [[823]], 827, 829, 839, [[853]], 857, [[859]], [[863]], 877, 881, 883, 887, 907, [[911]], 919, 929, 937, 941, 947, [[953]], 967, 971, 977, 983, 991, 997}} {{main|素数の一覧}} == 素因数分解の可能性・一意性 == {{main|算術の基本定理}} 「{{math|2}} 以上の自然数は、素数の[[積]]で表せる。その表し方は積の順序を除けば一意である」という、'''[[素因数分解]]'''の可能性・一意性が成立する('''[[算術の基本定理]]''')。素因数分解の可能性から、素数全体の成す集合は、2以上の自然数全体の成す集合とその乗法からなる[[半群]]の最小{{Efn|どの素数も他の自然数の積では表せないためこれ以上小さい生成系は存在しない。}}の[[生成 (数学)|生成]]系である。言い換えれば、これは「素数は自然数の構成要素である」などとなる<ref>http://www4.math.sci.osaka-u.ac.jp/~ogawa/pdfs/v_lec/HimejiNishi-2006-12.pdf</ref>。 素数の定義である「{{math|1}} と自分自身でしか割り切れない」という条件(既約性)は、[[抽象代数学]]において、[[環 (数学)|環]]の[[既約元]]の概念(一部の環では[[素元]]の概念と一致する)に抽象化され一般的に取り扱われる。一般の環で、任意の元は既約元の積に分解され、しかもその表示は一意であるという性質は稀有である。例えば[[ネーター環]]では、任意の元は既約元分解が可能であるが、その表示が一意ではないネーター環の例はいくつも知られている。一意に既約元分解ができる環は[[一意分解環]]と呼ばれ、既約元分解は素元分解ともなる。 === 1 は素数か === 現代の定義では {{math|1}} は素数ではない。歴史を通しても {{math|1}} を素数に含めない数学者が多数派であったが、20世紀初頭の[[環論]]の成熟まで定義は統一されていなかった<ref name="cx">{{Harvnb|Caldwell|Xiong|2012}}</ref>。[[プラトン]]や[[アリストテレス]]を含むほとんどの[[古代ギリシア]]の哲学者は {{math|1}} を数とさえ見なさず<ref name="crxk-34">{{harvnb|Caldwell|Reddick|Xiong|Keller|2012}}。古代ギリシアについては pp.3-4、アラビアについては p.6 を参照。</ref><ref>例えば David E. Joyce's の[[ユークリッド原論]]についてのコメンタリー [https://mathcs.clarku.edu/~djoyce/java/elements/bookVII/defVII1.html Book VII, definitions 1 and 2] を参照。</ref>、素数性の考察の対象としなかった。[[スペウシッポス]]は {{math|1}} を数と見なし素数としたが、当時としては異端であった<ref>{{Harvnb|Tarán|1981}}</ref>。この時代には素数を奇数の一部分と考え、{{math|2}} を素数に含めない数学者もいた(ただし[[ユークリッド]]をはじめとする多数派は {{math|2}} を素数に含めている)。[[アラビア数学|アラビア]]ではおおむね古代ギリシアに倣って {{math|1}} は数でないとされた<ref name="crxk-34"/>。[[中世]]から[[ルネサンス]]にかけて、{{math|1}} が数として扱われるようになり、{{math|1}} を最初の素数とする数学者も現れた<ref>{{harvnb|Caldwell|Reddick|Xiong|Keller|2012|pp=7-13}}。特にStevin、Brancker、Wallis、Prestetの項を参照。</ref>。18世紀半ば、[[クリスティアン・ゴルトバハ|ゴールドバッハ]]は[[レオンハルト・オイラー|オイラー]]に宛てた書簡で {{math|1}} を素数に挙げている(ただしオイラー自身は {{math|1}} を素数とは考えていなかった)<ref>{{harvnb|Caldwell|Reddick|Xiong|Keller|2012|p=15}}</ref>。19世紀にも少数派だが {{math|1}} を素数に含める数学者はかなりいた<ref name="cx"/>。[[ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディ|ハーディ]]の『A Course of Pure Mathematics』では、1933年に出版された第6版までは {{math|1}} を素数に含めているが、1938年の第7版から {{math|2}} を最小の素数とするよう改訂されている。{{仮リンク|デリック・ノーマン・レーマー|en|Derrick Norman Lehmer|label=レーマー}}の {{math|1}} を含む素数表は1956年まで出版された<ref>{{Harvnb|Conway|Guy|1996|pp=129f}}</ref>。[[アンリ・ルベーグ|ルベーグ]]は {{math|1}} を素数だと考えた最後の専門的な数学者だと言われている<ref>{{Harvnb|Derbyshire|2003|p=33}}</ref>。 {{math|1}} も素数と定義すると、素数に関する多くの定理で、もとの「素数」を「{{math|1}} 以外の素数」と呼び替える記述の修正が必要になる。例えば {{math|6}} の素因数分解は、(積の順序を除いても) :{{math2|6 {{=}} 2 × 3 {{=}} 1 × 2 × 3 {{=}} 1{{sup|2}} × 2 × 3 {{=}} 1{{sup|3}} × 2 × 3 {{=}}…}} と無数に与えられることになり、一意性は「{{math|1}} を含む素数」については成り立たない<ref name="cx"/>。[[エラトステネスの篩]]においては、{{math|1}} も素数とすると、{{math|1}} の倍数(すなわち他のすべての数)を消去し、残った唯一の数 {{math|1}} を出力するので機能しない<ref>{{Harvnb|Conway|Guy|1996|pp=129-130}}</ref>。さらに、{{math|1}} 以外の素数で成り立つ様々な性質がある(例えば、自然数とそれに対応する[[オイラーのφ関数]]や[[約数関数]]の値との関係など)<ref>φ関数については{{harvnb|Sierpiński|1988}}、[https://books.google.com/books?id=ktCZ2MvgN3MC&pg=PA245 p. 245]を参照。約数関数については{{Harvnb|Sandifer|2007}}、[https://books.google.com/books?id=sohHs7ExOsYC&pg=PA59 p. 59]を参照。</ref><ref>[http://primefan.tripod.com/Prime1ProCon.html "Arguments for and against the primality of 1"].</ref><ref>[https://primes.utm.edu/notes/faq/one.html "Why is the number one not prime?"]</ref>。20世紀初頭までに {{math|1}} は素数ではなく「[[可逆元|単数]]」という特別な分類に属するという見方が一般的になった<ref name="cx"/>。 == 歴史 == {{節スタブ}} [[紀元前16世紀|紀元前1600年]]頃の[[エジプト第2中間期]]において、素数の初等的な性質が部分的に知られていたことが、[[リンド数学パピルス]]などの資料によって示唆されている。例えば分数を[[エジプト式分数]]で表す場合、素数と合成数の場合で異なる計算をしなければならないからである。しかし、記録に残っている限りにおいて、明確に素数を研究対象としたのは古代ギリシア人が最初である。紀元前約300年頃に書かれたユークリッドの『[[ユークリッド原論|原論]]』には[[素数が無数に存在することの証明|素数が無数に存在すること]]や、その他の素数の性質が証明されている。また、ユークリッドは[[メルセンヌ数|メルセンヌ素数]]から[[完全数]]を構成する方法を示している。ギリシアの数学者、[[エラトステネス]]に因んで名付けられたエラトステネスの篩は、素数を列挙するための計算方法である。 古代ギリシア時代の後、[[17世紀]]になるまで素数の研究にはそれほどの進展が無かった。[[1640年]]に、[[ピエール・ド・フェルマー]]はフェルマーの小定理を(未証明ではあるが)述べた。この定理は後に[[ゴットフリート・ライプニッツ|ライプニッツ]]とオイラーによって証明された。 [[画像:Ulam 1.png|thumb|自然数を渦巻状に並べていき、素数だけを黒く塗ったもの([[ウラムの螺旋]])。<br />素数が高密度に集まった対角線、水平線、垂線が見て取れる。素数の分布が極めて難解であるために、この素数のパターンが示す事実については未だに明らかにされていない。]] 素数が無数に存在することは既に[[古代ギリシア]]時代から知られていて、[[エウクレイデス|ユークリッド]]が彼の著作『[[ユークリッド原論|原論]]』<ref name="euclid">{{Harvnb|ユークリッド|2011|loc=9-20}}</ref>の中で証明している。 === ユークリッドによる証明 === ;『原論』第9巻 命題20<ref name="euclid" /> :素数の個数はいかなる定められた素数の個数よりも多い。 :定められた個数の素数を {{math2|''p''{{sub|1}}, ''p''{{sub|2}}, …, ''p{{sub|n}}''}} とせよ。{{math2|''p''{{sub|1}}, ''p''{{sub|2}}, …, ''p{{sub|n}}''}} より多い個数の素数があると主張する。 ;『原論』による証明{{refnest|group=注釈|ユークリッドによる証明では、変数・数式・任意の個数を示すパラメーター {{mvar|n}} を使用せずに、定められた個数が 3個の素数 {{math2|''Α'', ''Β'', ''Γ''}} の場合に証明している。これを「準一般的」な証明という。詳細は[[素数が無数に存在することの証明#ユークリッド]]を参照。}} :定められた素数の個数が {{mvar|n}} 個であるとき、{{mvar|n}} 個の素数を小さい順番に並べて {{mvar|i}} 番目の素数を {{mvar|p{{sub|i}}}} とする。 :{{math2|1 < ''p''{{sub|1}} < ''p''{{sub|2}} < … < ''p{{sub|n}}''.}} :このとき、{{mvar|n}} 個の素数をすべて掛け合わせた数に {{math|1}} を加えた数を {{mvar|q}} とすると、 :{{math2|''q'' {{=}} ''p''{{sub|1}} × ''p''{{sub|2}} × … × ''p{{sub|n}}'' + 1}}. :{{mvar|q}} は有限個の自然数の積に {{math|1}} を加えた数なので {{math|1}} より大きい自然数である。ゆえに、{{mvar|q}} は素数または合成数のどちらかである。 :{{mvar|q}} が素数のとき、{{mvar|q}} は最大の素数 {{mvar|p{{sub|n}}}} より大きい素数になるので、定められた個数の素数よりも多くの素数が存在する。 :{{mvar|q}} が合成数のとき、{{mvar|q}} を割り切る素数が存在する。一方、{{mvar|q}} の定義より、すべての {{mvar|p{{sub|i}}}} で割った余りは {{math|1}} になるので、{{mvar|q}} はすべての {{mvar|p{{sub|i}}}} で割り切れない。したがって、すべての {{mvar|p{{sub|i}}}} 以外に素数が存在する。すなわち、定められた個数の素数よりも多くの素数が存在する。([[Q.E.D.|証明終]]) ;例 :自然数の有限集合 {{mvar|A}} の全ての要素を掛け合わせた自然数を {{math|''f''(''A'')}} とする。 :定められた個数の素数から成る集合を {{math2|''A''{{sub|3}} {{=}} {2, 3, 5} }} とするとき、{{math2|1=''f''(''A''{{sub|3}}) = 2 × 3 × 5 + 1 = 31}} は素数なので、新しい素数 {{math|31}} が得られる。したがって、定められた個数より多くの素数が存在する。 :定められた個数の素数から成る集合を {{math2|''A''{{sub|4}} {{=}} {2, 3, 5, 31} }} とするとき、{{math2|1=''f''(''A''{{sub|4}}) = 2 × 3 × 5 × 31 + 1 = 931 {{=}} 7 × 7 × 19}} なので、新しい素数 {{math|7}} と {{math|19}} が得られる。したがって、定められた個数より多くの素数が存在する。 === 他の証明 === 上記のユークリッドによる証明以外にも、素数が無数に存在することの証明方法が存在する。 * 素数の逆数の和が発散することを利用した証明{{refnest|group=注釈|[[レオンハルト・オイラー]]による。現代的な用語で言えば、[[リーマンゼータ関数]]のオイラー積表示を用いる<ref name="Ribenboim">{{Harvnb|Ribenboim|2001|loc=第1章}}</ref>。}}(''[[#素数の逆数和]]を参照'') * 2つの異なる[[フェルマー数]]が互いに素であることを利用した証明{{refnest|group=注釈|[[ジョージ・ポーヤ]]による<ref name="Ribenboim" /><ref name="Aigner&Ziegler">{{Harvnb|アイグナー|ツィーグラー|2012|loc=第1章}}</ref>。}} * 整数の集合に、[[等差数列]]の族を開基とする[[位相空間|位相]]を入れる証明{{refnest|group=注釈|[[ヒレル・ファステンバーグ]]による。[[:en:Furstenberg's proof of the infinitude of primes]]を参照。<!-- 日本語の文献では共立「素数大百科」にあるそうですが未確認なのでコメントアウトしておきます。どなたか確認されたら追加してください。 -->}} * {{math2|''n'' ≥ 2}} に対して、{{math|''n''(''n'' + 1)}} は少なくとも相異なる2個の素因数を持つことを利用した証明{{refnest|group=注釈|[[素数が無数に存在することの証明#サイダック]]を参照<ref>{{doi|10.2307/27642094}} https://primes.utm.edu/notes/proofs/infinite/Saidak.html</ref>。}}。おそらく最も短い証明。 == 素数判定と素因数分解 == {{main|素数判定|素因数分解}} 与えられた自然数 {{mvar|n}} が素数であるか合成数であるかを判定するための[[アルゴリズム]]が多数考案されている。最も素朴な方法は、{{math|2}} から {{math|{{sqrt|''n''}}}} 以下の素数まで順番に割っていく、'''[[試し割り法]]'''と呼ばれる方法である。{{mvar|n}} が {{math|{{sqrt|''n''}}}} 以下の全ての素数で割り切れなければ {{mvar|n}} は素数である。試し割り法は、{{mvar|n}} が大きくなるに従って、急速に速度が低下するため、実用的ではない。任意の数に適用できる試し割り法よりも高速なアルゴリズムが考案されている。また、特殊な形をした数に対してはより高速なアルゴリズムも存在する。素数判定は、与えられた数が素数であるか否かだけを判定するものであるが、素因数分解とはより強く、与えられた数の全ての素因数を列挙することであるとも言える。 上記の通り2を除く偶数、2桁以上で末尾が5の数、[[数字和]]が3の倍数となる数は[[合成数]]と分かるのでそれを省き、7以上の素数を順番に割る方法がある。 == 分布 == ある自然数までにどのくらいの素数があるのかという問題は、基本的だが非常に難しい問題である。 これに関して、次の'''[[素数定理]]'''は有名である。この定理は[[1896年]]に、[[ジャック・アダマール|アダマール]]とド・ラ・ヴァレ・プサンによって独立に証明された。 {{mvar|x}} 以下の素数の個数を {{math|{{π}}(''x'')}}('''[[素数計数関数]]''')とすると、 :<math>\pi (x)\sim \int_2^x \frac{dt}{\log t} \sim \frac{x}{\log x}\quad (x\to \infty)</math> が成り立つ。この定理は、[[1792年]]に15歳の[[カール・フリードリヒ・ガウス]]によって予想されていた(ガウスが最初に予想したのかどうかは不明)。この定理の証明は、[[リーマンゼータ関数|ゼータ関数]]と複素関数論を用いる高度なものであったが、[[1949年]]に[[アトル・セルバーグ]]と[[ポール・エルデシュ]]は独立に初等的な証明を与えた。この評価式はリーマン予想を仮定すると大幅に精度をよくすることができる。 次のような定理もある。 :「任意の自然数 {{mvar|n}} に対して、{{math2|''n'' < ''p'' ≤ 2''n''}} を満たす素数 {{mvar|p}} が存在する」('''[[ベルトランの仮説]]'''、[[パフヌティ・チェビシェフ|チェビシェフ]]の定理) この主張は「任意の素数 {{mvar|p}} の次の素数は {{math|2''p''}} 未満」とも言い換えられる。したがって、2017年5月現在知られている最大の素数 {{math|2{{sup|82589933}} &minus; 1}} の次の素数は {{math|2{{sup|82589934}} &minus; 2}} 未満である。 一方で、例えば {{math|''n''{{sup|2}}}} と {{math|(''n'' + 1){{sup|2}}}} の間に素数が存在するかという問題は未解決である([[ルジャンドル予想]])。 素数が全く無い区間は、いくらでも長いものがあることが知られている。{{math2|''n'' ≥ 2}} に対して、連続する {{math|''n'' &minus; 1}} 個の自然数 {{math2|''n''[[階乗|!]] + 2, …, ''n''! + ''n''}} はそれぞれ、それらより小さい {{math2|2, …, ''n''}} で割り切れるので、どれも素数でない。{{mvar|n}} は任意にとれるから、素数が全く無いいくらでも長い区間があると言える。これは一例にすぎず、実際にはもっと小さい所で、素数が全く無い長い区間が生じるようである。例えば、{{math|[[114]]}} から {{math|[[126]]}} まで{{math|13}}個連続で合成数である<ref>この区間の最初の値は{{OEIS|A008950}}を、終了の値は{{OEIS|A008995}}をその区間幅については{{OEIS|A008996}}を参照</ref>。 === 素数計数 === [[2015年]]に、[[ゴールドバッハの予想]]検証プロジェクトは {{math|4 × 10{{sup|18}}}} 以下の全ての素数(9京5676兆2609億{{0}}388万7607個、約 10{{sup|17}}個)を計算したと報告した<ref>Tomás Oliveira e Silva, [http://sweet.ua.pt/tos/goldbach.html Goldbach conjecture verification]. Retrieved 16 July 2013.</ref>が、結果は保存されていない。しかしながら、[[素数計数関数]]を計算するには、実際に素数を数えるより高速な公式が存在する。この公式を使って、{{math|10{{sup|23}}}} 以下に 19垓2532京{{0}}391兆6068億{{0}}396万8923個(約 2{{e|21}}個)の素数があると計算された。 また、別の計算によると、[[リーマン予想]]が真であると仮定した場合、{{math|10{{sup|24}}}} 以下に 184垓3559京9767兆3492億{{0|00}}86万7866個(約 2{{e|22}}個)の素数が存在する<ref>{{Cite web |title=Conditional Calculation of pi(10{{sup|24}}) |url=https://primes.utm.edu/notes/pi(10%5e24).html |author=Jens Franke |date=2010-7-29 |accessdate=2018-12-30}}</ref>。 === 分布の視覚化 === * [[エラトステネスの篩]] * [[ウラムの螺旋]] * プリヒタの素数円 == 素数に関連する主な性質 == === 素数の逆数和 === 素数の[[逆数]]の和は([[無限]]大に)[[発散級数|発散]]する。この命題は『素数は無数に存在する』という命題を含んでいる(有限個ならば[[収束級数|収束]]、すなわち発散しないはずである)が、それだけではなく素数の分布に関してより多くの情報を提供している。 この結果は最初に[[レオンハルト・オイラー]]により[[リーマンゼータ関数|ゼータ関数]]を研究することでもたらされた。以下の証明は[[ポール・エルデシュ]]による、より直接的で、また簡潔な証明である{{refnest|group=注釈|『天書の証明』第1章<ref name="Aigner&Ziegler" />を参照。原論文は {{Citation |last=Erdös |first=P. |authorlink=ポール・エルデシュ |date=1938-07 |title=Über die Reihe ∑ 1/p |journal=Mathematica, Zutphen B |publisher= |language=German |pages=1-2 |url=https://users.renyi.hu/~p_erdos/1938-12.pdf |format=PDF}}。}}。素数が無数に存在することを証明に用いないため、その証明をも含んでいる。 ;エルデシュによる証明 素数の逆数和は収束すると仮定する。{{mvar|i}} 番目の素数を {{mvar|p{{sub|i}}}} で表すと、 :<math>\sum_{i=N+1}^\infty \frac{1}{p_i} <\frac{1}{2} \cdots (1)</math> を満たす {{mvar|N}} が存在する。 {{mvar|n}} 以下の自然数のうち最大素因数が {{mvar|p{{sub|N}}}} 以下のものからなる集合を {{mvar|A{{sub|n}}}} とする。任意の {{math|''k'' ∈ ''A{{sub|n}}''}} に対して、 :{{math2|''k'' {{=}} ''u''{{sup|2}}''v''}}({{mvar|v}} の各素因数の指数は全て {{math|1}}) と表示すると、{{mvar|v}} は高々 {{math|2{{sup|''N''}}}} 通り、{{math|''u''{{sup|2}} ≤ ''k'' ≤ ''n''}} より :{{math|#''A{{sub|n}}'' ≤ 2{{sup|''N''}}{{sqrt|''n''}}}} …(2) {{mvar|A{{sub|n}}{{sup|c}}}} の元は、{{math|''p''{{sub|''N''+1}}}} 以上の素因数を少なくとも1つ持つから、(1) より :<math>\# {A_n}^c \le \sum_{i=N+1}^\infty \left[ \frac{n}{p_i} \right] \le n\sum_{i=N+1}^\infty \frac{1}{p_i} <\frac{n}{2}</math> {{math2|#''A{{sub|n}}{{sup|c}}'' {{=}} ''n'' &minus; #''A{{sub|n}}''}} より :{{math2|{{sfrac|''n''|2}} < #''A{{sub|n}}''}} …(3) (2), (3) より {{math2|{{sfrac|''n''|2}} < 2{{sup|''N''}} {{sqrt|''n''}}}}, ∴ {{math2|''n'' < 2{{sup|2''N''+2}}}}。これは {{mvar|n}} の任意性に矛盾。([[Q.E.D.|証明終]]) [[双子素数]]に限ると、逆数和は {{math2|''B''{{sub|2}} {{=}} 1.902…}} に収束することが証明されている([[ブルン定数]])。 === その他の性質 === * {{math2|(''a'', ''m'') {{=}} 1}} のとき、[[等差数列]]:{{math2|''a'', ''a'' + ''m'', ''a'' + 2''m'', …}} には素数の項が無数に含まれている。([[ディリクレの算術級数定理]]) ::ここで {{math2|''m'' {{=}} 10}} とすると、[[十進法|十進]]表記において一の位が {{math2|1, 3, 7, 9}} である素数はどれも無数にあることが分かる。 * 素数 {{mvar|p}} に対して、{{math2|(''a'', ''p'') {{=}} 1 ⇒ ''a''{{sup|''p''&minus;1}} ≡ 1 (mod ''p'')}}([[フェルマーの小定理]]) * {{mvar|p}} が素数 {{math2|⇔ (''p'' &minus; 1)! ≡ &minus;1 (mod ''p'')}}([[ウィルソンの定理]]) * 素数の2乗差は {{math|5}} の倍数, {{math|3}} の倍数, {{math|8}} の倍数のいずれかである。 :{{math2|1=5 ( = 3{{sup|2}} &minus; 2{{sup|2}}), 16 ( = 5{{sup|2}} &minus; 3{{sup|2}}), 21 ( = 5{{sup|2}} &minus; 2{{sup|2}}), 24 ( = 7{{sup|2}} &minus; 5{{sup|2}}), 40 ( = 7{{sup|2}} &minus; 3{{sup|2}}), …}} * [[約数の和]]が素数になる自然数は、{{math|2}} と素数かその累乗数の[[平方数]]である。しかし、素数やその累乗数の自乗であっても約数の和が素数になるとは限らない。約数の和が素数になる数が無限にあるかどうかの証明はされていない([[素数#未解決問題|後述]])。 * [[七進法|七進]]表記において、5以上の素数の[[数字根]]は、必ず1か5となる。 == 素数生成式 == {{main|en:Formula for primes}} {{mvar|n}}番目の素数を求める素数生成式は存在しないと主張されることがあるが、これは誤りである([[ウィルソンの定理]]や{{仮リンク|ミルズの定理|en|Mills' theorem}}を用いたものが存在する)<ref>[http://mathworld.wolfram.com/PrimeFormulas.html Prime Formulas -- from Wolfram MathWorld]</ref>。しかしながら、そのような式で{{仮リンク|実効的に計算可能|en|Efficiently-computable}}なものは知られていない。 以下は1964年に Willans C.P. が報告したウィルソンの定理に基づく公式で、{{mvar|n}}番目の素数 {{mvar|p{{sub|n}}}} を求めることができる: :<math>p(n)=1+ \textstyle\sum\limits_{m=1}^{2^n} \left\lfloor \sqrt[n]{ \dfrac{n}{\sum\limits_{k=1}^m \left\lfloor \cos^2 \frac{\left(k-1 \right)! +1}{k} \pi \right\rfloor}} \right\rfloor</math><ref>{{Citation |last=Willans |first=C. P |date=1964-12 |doi=10.2307/3611701 |issue=366 |pages=413-415 |journal=[[:The Mathematical Gazette|The Mathematical Gazette]] |title=On formulae for the {{mvar|n}}th prime number |volume=48 |jstor=3611701 |s2cid=126149459}}</ref> === 1変数多項式 === [[レオンハルト・オイラー|オイラー]]の発見した式: * {{math|''f''(''n'') {{=}} ''n''{{sup|2}} &minus; ''n'' + 41}} は、自然数 {{mvar|n}} が {{math2|''n'' < 41}} で全て素数となる。これは、虚[[二次体]] <math>\mathbb{Q}(\sqrt{-163})</math> の[[イデアル類群|類数]]が {{math|1}} であることと関係している<ref>{{Harvnb|Ribenboim|2001|loc=第3章}}</ref><ref>{{OEIS|A005846}}</ref>。一般に、{{math2|0 ≤ ''n'' < ''p''}} で多項式 {{math2|''f''(''n'') {{=}} ''n''{{sup|2}} &minus; ''n'' + ''p''}} が素数の値を取るとき、素数 {{mvar|p}} の値を「オイラーの幸運数」<ref>{{OEIS|A014556}}</ref>という。オイラーの幸運数は {{math2|''p'' {{=}} [[2]], [[3]], [[5]], [[11]], [[17]], [[41]]}} の6つのみであり、これらはすべて[[ヘーグナー数]]と対応する。 ルビーの多項式: * {{math|''f''(''n'') {{=}} 36''n''{{sup|2}} &minus; 810''n'' + 2753}} は {{math|''n'' {{=}} 0, …, 44}} で全て素数となる。 同様に * {{math|103''n''{{sup|2}} &minus; 3945''n'' + 34891}} (Ruby) * {{math|47''n''{{sup|2}} &minus; 1701''n'' + 10181}} (Fung) は {{math2|''n'' {{=}} 0, …, 42}} で全て素数となる。 * {{math|36''n''{{sup|2}} &minus; 2358''n'' + 36809}} (Willium) は {{math2|''n'' {{=}} 0, …, 44}} で絶対値は全て素数となる。 高い次数での多項式はあまり知られていないが * {{math|''n''{{sup|3}} &minus; 34''n''{{sup|2}} + 381''n'' &minus; 1511}} (Goetgheluck) * {{math|2''n''{{sup|3}} &minus; 45''n''{{sup|2}} + 331''n'' &minus; 3191}} (Goetgheluck) は {{math2|''n'' {{=}} 0, …, 25}} で絶対値は全て素数となる。 ただし {{math2|''n''{{sup|3}} &minus; 34''n''{{sup|2}} + 381''n'' &minus; 1511}} の {{math2|''n'' {{=}} 9, 12, 13}} で {{math|&minus;107}} を取るなど、同じ素数が何度も出現する場合がある。 === 多変数多項式 === 多変数の多項式では、全ての素数を生成することができる式がいくつか知られている。例えば、{{math|''k'' + 2}} が素数となる必要十分条件は、次の[[ディオファントス方程式]]が自然数解を持つことである<ref>Jones, James P.; Sato, Daihachiro; Wada, Hideo; Wiens, Douglas (1976), "Diophantine representation of the set of prime numbers", American Mathematical Monthly '''83''': 449-464, {{doi|10.2307/2318339}}</ref>: :{{math2|''wz + h + j &minus; q'' {{=}} 0}} :{{math2|(''gk'' + 2''g'' + ''k'' + 1)(''h'' + ''j'') + ''h'' &minus; ''z'' {{=}} 0}} :{{math2|16(''k'' + 1){{sup|3}}(''k'' + 2)(''n'' + 1){{sup|2}} + 1 &minus; ''f''{{sup|2}} {{=}} 0}} :{{math2|2''n'' + ''p'' + ''q'' + ''z'' &minus; ''e'' {{=}} 0}} :{{math2|''e''{{sup|3}}(''e'' + 2)(''a'' + 1){{sup|2}} + 1 &minus; ''o''{{sup|2}} {{=}} 0}} :{{math2|(''a''{{sup|2}} &minus; 1)''y''{{sup|2}} + 1 &minus; ''x''{{sup|2}} {{=}} 0}} :{{math2|16''r''{{sup|2}}''y''{{sup|4}}(''a''{{sup|2}} &minus; 1) + 1 &minus; ''u''{{sup|2}} {{=}} 0}} :{{math2|''n'' + ''l'' + ''v'' &minus; ''y'' {{=}} 0}} :{{math2|(''a''{{sup|2}} &minus; 1)''l''{{sup|2}} + 1 &minus; ''m''{{sup|2}} {{=}} 0}} :{{math2|''ai'' + ''k'' + 1 &minus; ''l'' &minus; ''i'' {{=}} 0}} :{{math2|[{''a'' + ''u''{{sup|2}}(''u''{{sup|2}} &minus; ''a'')}{{sup|2}} &minus; 1](''n'' + 4''dy''){{sup|2}} + 1 &minus; (''x'' + ''cu''){{sup|2}} {{=}} 0}} :{{math2|''p'' + ''l''(''a'' &minus; ''n'' &minus; 1) + ''b''(2''an'' + 2''a'' &minus; ''n''{{sup|2}} &minus; 2''n'' &minus; 2) &minus; ''m'' {{=}} 0}} :{{math2|''q'' + ''y''(''a'' &minus; ''p'' &minus; 1) + ''s''(2''ap'' + 2''a'' &minus; ''p''{{sup|2}} &minus; 2''p'' &minus; 2) &minus; ''x'' {{=}} 0}} :{{math2|''z'' + ''pl''(''a'' &minus; ''p'') + ''t''(2''ap'' &minus; ''p''{{sup|2}} &minus; 1) &minus; ''pm'' {{=}} 0}}<!-- 『誤解されやすいが、〜』節を削除。証明を誤読しているのか反例になっていないため。--> == 特殊な形をした素数 == * [[メルセンヌ数#メルセンヌ素数|メルセンヌ素数]]:{{math|2{{sup|''n''}} &minus; 1}}({{mvar|n}} は素数、{{math|''n'' {{=}} 2, 3, 5, 7, 13, …}}) * [[フェルマー数#フェルマー素数|フェルマー素数]]:{{math|2{{sup|2{{sup|''n''}}}} + 1}} * オイラー素数:{{math|''n''{{sup|2}} + ''n'' + 41}} * [[階乗素数]] ** {{math|''n''! + 1}}型 {{math2|(''n'' {{=}} 1, 2, 3, 11, 27, 37, 41, 73, 77, 116, 154, …)}} ** {{math|''n''! &minus; 1}}型 {{math2|(''n'' {{=}} 3, 4, 6, 7, 12, 14, 30, 32, 33, 38, 94, 166, …)}} * [[素数階乗素数]]:{{math|''p''# ± 1}}({{mvar|p}} は素数、{{math|''p''#}} は {{mvar|p}} の[[素数階乗]]) * [[レピュニット]] {{math2|''R''{{sub|2}}, ''R''{{sub|19}}, ''R''{{sub|23}}, …}}({{mvar|R{{sub|n}}}} は {{math|1}} が {{mvar|n}}個続く数、通常は[[位取り記数法|基数]]を {{math|10}} にとる) * [[双子素数]](差が {{math|2}} である2つの素数) * [[いとこ素数]](差が {{math|4}} である2つの素数) * [[セクシー素数]](差が {{math|6}} である2つの素数) * [[三つ子素数]](3つの素数の組 {{math|(''p'', ''p'' + 2, ''p'' + 6)}} または {{math2|(''p'', ''p'' + 4, ''p'' + 6)}}({{math2|(''p'', ''p'' + 2, ''p'' + 4}})型は {{math|([[3]], [[5]], [[7]])}} のみ。) * [[四つ子素数]]({{math|''p'', ''p'' + 2, ''p'' + 6, ''p'' + 8}} が全て素数) * [[ソフィー・ジェルマン素数]]({{mvar|p}} と {{math|2''p'' + 1}} がともに素数である時の {{mvar|p}} のこと) * [[安全素数]]({{mvar|p}} と {{math|2''p'' + 1}} がともに素数である時の {{math|2''p'' + 1}} のこと) * [[スーパー素数]](素数列における素数番目の素数) * [[切り捨て可能素数]](与えられた基数において {{math|0}} を含まず、左右から数を取っていった数がすべて素数である素数) * [[陳素数]]({{math|''p'' + 2}} が[[半素数]]またはともに素数) * [[正則素数]]([[円分体|円の {{mvar|p}} 分体]]の[[代数体#類数|類数]]を割り切らない奇素数) * 非正則素数(円の {{mvar|p}} 分体の類数を割り切る奇素数) * [[フィボナッチ素数]]([[フィボナッチ数]]の数列に含まれる素数) * ヴィーヘリッヒ素数 ({{math|2{{sup|''p''&minus;1}} ≡ 1 (mod ''p''{{sup|2}})}} を満たす素数 {{mvar|p}}) * その他の素数 ** {{math|''n''{{sup|2}} + 1}} の形で表せる素数<ref>{{OEIS|A002496}}</ref>:{{math|[[2]], [[5]], [[17]], [[37]], [[101]], [[197]], [[257]], [[401]], [[577]], [[677]], 1297, …}} ** {{math|''n''{{sup|4}} + 1}} の形で表せる素数<ref>{{OEIS|A037896}}</ref>:{{math|[[2]], [[17]], [[257]], 1297, 65537, 160001, …}} ** {{math|''n''{{sup|4}} + (''n'' + 1){{sup|4}}}} の形で表せる素数<ref>{{OEIS|A152913}}</ref>:{{math|[[17]], [[97]], [[337]], [[881]], 3697, …}} ** ある数の[[約数の和]]になる素数<ref>{{OEIS|A023195}}</ref>:{{math|[[3]], [[7]], [[13]], [[31]], [[127]], [[307]], 1093, …}} == 未解決問題 == * [[双子素数]]の予想:双子素数は無数に存在する、という予想。 * [[ゴールドバッハの予想]]:6 以上の全ての偶数は 2 つの奇素数の和で表すことができる、という予想。 * [[弱いゴールドバッハ予想]]:7 以上の全ての奇数は 3 つの素数の和で表すことができる、という予想。ただし[[ハラルド・ヘルフゴット]]による証明が[[2013年]]に発表されている<ref>{{Cite arXiv |eprint = 1305.2897 |title = Major arcs for Goldbach's theorem |last = Helfgott |first = H.A. |class = math.NT |year = 2013 }}</ref><ref>{{Cite arXiv |eprint = 1205.5252 |title = Minor arcs for Goldbach's problem |last = Helfgott |first = H.A. |class = math.NT |year = 2012 }}</ref><ref>[https://www.humboldt-professur.de/en/preistraeger/preistraeger-2015/harald-andres-helfgott Dossier Alexander von Humboldt-Professur - Alexander von Humboldt-Stiftung]</ref>。 * [[ルジャンドル予想]]:全ての {{mvar|n}} に対し、{{math|''n''{{sup|2}}}} と {{math|(''n'' + 1){{sup|2}}}} の間に素数が存在するかという予想。 * 既知の[[フェルマー数#フェルマー素数|フェルマー素数]]以外に、フェルマー数にフェルマー素数は存在するか? * [[メルセンヌ数|メルセンヌ素数]]は無数に存在するか? * [[ソフィー・ジェルマン素数]]、[[安全素数]]は無数に存在するか? * [[フィボナッチ数|フィボナッチ数列]]には、素数である項が無数に現れるか?([[フィボナッチ素数]]) * [[幸運数]]でも素数でもあるような数は無数に存在するか? * [[ハッピー数|ハッピー素数]]は無数に存在するか? * {{math|''n''{{sup|2}} + 1}} の形の素数は無数に存在するか?([[ブニャコフスキー予想]]) * [[約数#約数の和|約数の和]]の列になる素数は無数に存在するか? == 応用 == 長い間、[[数論]]、その中でもとりわけ素数に関する研究は、その分野以外での応用の全くない純粋数学の見本と見なされていた。特に、イギリスの数論研究者である[[ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディ|ハーディ]]は、自身の研究が軍事的に何の重要性も持たないことを誇っていた。しかし、この見方は1970年代には覆されてしまった。素数が公開鍵暗号のアルゴリズムに使用できると広く知られるようになったためである。現在では素数は[[ハッシュテーブル]]や[[擬似乱数]]生成にも用いられ、工学的応用上重要度の高いものとなっている。 === 公開鍵暗号 === {{main|公開鍵暗号}} 公開鍵暗号のアルゴリズムとして、[[RSA暗号]]や[[ディフィー・ヘルマン鍵共有]]といった、大きな数の[[素因数分解]]は困難であるという性質に基礎を置くものがある。RSA暗号は、2つの(大きな)素数の掛け算は比較的簡単に(効率的に)行えるが、その積を素因数分解して元の2つの素数を求めることは難しいという事実に基づいている。 === 自然界の素数 === 自然界に現れる素数の一例として、[[周期ゼミ|素数ゼミ]]と呼ばれる[[セミ]]の一種がいる。[[アメリカ合衆国]]に分布するこのセミの成虫は、ある周期ごとに、13年ないしは17年間の周期で大量発生する。成虫になった後は、数週間だけを地上で成虫として過ごし交配と産卵を行う。このセミが素数周期で発生する理由として、寄生虫や捕食者に対抗するための進化であるという説や近縁種との交雑を避けるためであるという説がある。つまり、もしこのセミが12年の発生周期を持っていた場合、12の約数である2, 3, 4, 6年の寿命を持つ捕食者と同時に発生してしまうことになり、捕食対象にされやすくなる。また、地理的に近い場所で12年周期と15年周期のセミが存在した場合、60年ごとに2種は同時に発生し、交雑してしまう可能性がある。すると、雑種は発生周期がずれてしまい、同種のセミとの交尾の機会が失われる。素数の周期を持つものは交雑が起こりにくく、淘汰されにくいと考えられる<ref>{{Harvnb|吉村|2008}}</ref>。 また、[[リーマンゼータ関数|ゼータ関数]]上の零点の分布の数式が、原子核のエネルギー間隔を表す式と一致することを示し、素数と核物理現象との関連性が示唆されている。 {{main|リーマン予想}} === コンピュータゲーム === [[パナソニックホールディングス|パナソニック株式会社]]が2011年にリリースした[[iPad]]用アプリケーション「Panasonic Prime Smash!」は空中に打ち上げられたボールに書かれた数字が素数であればタップして得点、合成数であればスワイプすることで割り算し、素数になったらタップして得点にするゲームである<ref>{{Cite news |title=素数の不思議をゲームで学ぶiPadアプリ |author=田崎恭子 |url=https://resemom.jp/article/2011/05/16/2398.html |publisher=イード |newspaper=リセマム |date=2011-05-16 |accessdate=2023-08-24}}</ref>。第15回[[文化庁メディア芸術祭]]エンターテインメント部門の審査委員会推薦作品に選ばれ<ref>{{Cite web|和書 |url=https://j-mediaarts.jp/division/entertainment/ |title=第15回 受賞作品文化庁メディア芸術祭エンターテインメント部門 |website=文化庁メディア芸術祭 |publisher=文化庁 |accessdate=2023-08-24}}</ref>、第6回企業ウェブグランプリ スチューデント部門特別賞を受賞した<ref>{{Cite news |title=「第6回企業ウェブ・グランプリ」受賞サイト決定、コンテンツへの思いがグランプリへ |author=池田真也 |url=https://webtan.impress.co.jp/e/2012/12/10/14313 |publisher=インプレス |newspaper=Web担当者Forum |date=2012-12-10 |accessdate=2023-08-24}}</ref>。 2016年にイギリスの数学者クリスチャン・ローソン=パーフェクトが公開した「これは素数ですか? (Is this prime?)」は、画面に表示される数字を素数と合成数に仕分けるゲームで、2021年7月にプレイ回数が300万回を突破した<ref name="MITTR210726" />。このゲームのプログラムには[[ミラー–ラビン素数判定法]]が組み込まれている<ref name="MITTR210726">{{Cite news |title=51、57、91は素数? 数学者が考えたオンライン・ゲームが人気 |newspaper=MIT Technology Review |author=シヴォーン・ロバーツ |date=2021-07-26 |url=https://www.technologyreview.jp/s/251275/is-57-a-prime-number-theres-a-game-for-that/ |publisher=KADOKAWA |accessdate=2023-08-24}}</ref>。 == 連続素数 == === 連続素数和 === {|class="wikitable" !連続数!!数!!参照!!含まれる素数列 |- |{{center|2}}||{{math|'''[[5]]''', [[8]], [[12]], [[18]], [[24]], [[30]], [[36]], [[42]], [[52]], [[60]], [[68]], [[78]], [[84]], …}}||{{OEIS2C|A001043}}|| |- |{{center|3}}||{{math|[[10]], [[15]], '''[[23]]''', '''[[31]]''', '''[[41]]''', [[49]], '''[[59]]''', '''[[71]]''', '''[[83]]''', '''[[97]]''', '''[[109]]''', …}}||{{OEIS2C|A034961}}||{{OEIS2C|A034962}} |- |{{center|4}}||{{math|'''[[17]]''', [[26]], [[36]], [[48]], [[60]], [[72]], [[88]], [[102]], [[120]], [[138]], [[152]], …}}||{{OEIS2C|A034963}}|| |- |{{center|5}}||{{math|[[28]], [[39]], '''[[53]]''', '''[[67]]''', '''[[83]]''', '''[[101]]''', [[119]], '''[[139]]''', [[161]], '''[[181]]''', …}}||{{OEIS2C|A034964}}||{{OEIS2C|A034965}} |- |{{center|6}}||{{math|'''[[41]]''', [[56]], [[72]], [[90]], [[112]], [[132]], [[156]], [[180]], [[204]], [[228]], …}}||{{OEIS2C|A127333}}|| |- |{{center|7}}||{{math|[[58]], [[75]], [[95]], [[119]], [[143]], [[169]], '''[[197]]''', '''[[223]]''', '''[[251]]''', '''[[281]]''', …}}||{{OEIS2C|A127334}}|| {{OEIS2C|A082246}} |- |{{center|8}}||{{math|[[77]], [[98]], [[124]], [[150]], [[180]], [[210]], [[240]], [[270]], [[304]], …}}||{{OEIS2C|A127335}}|| |- |{{center|9}}||{{math|[[100]], '''[[127]]''', [[155]], [[187]], [[221]], [[253]], [[287]], [[323]], [[363]], …}}||{{OEIS2C|A127336}}||{{OEIS2C|A082251}} |- |{{center|10}}||{{math|[[129]], [[158]], [[192]], [[228]], [[264]], [[300]], [[340]], [[382]], [[424]], …}}||{{OEIS2C|A127337}}|| |- |{{center|11}}||{{math|[[160]], [[195]], '''[[233]]''', '''[[271]]''', '''[[311]]''', '''[[353]]''', [[399]], '''[[443]]''', '''[[491]]''', …}}||{{OEIS2C|A127338}}||{{OEIS2C|A127340}} |- |{{center|12}}||{{math|'''[[197]]''', [[236]], [[276]], [[318]], [[364]], [[412]], [[460]], [[510]], [[562]], …}}||{{OEIS2C|A127339}}|| |- |{{center|13}}||{{math|[[238]], [[279]], [[323]], [[371]], [[423]], [[473]], [[527]], …}}|| ||{{OEIS2C|A127341}} |} {{main2|各連続素数和の最初の数|{{OEIS|A007504}}|この数が素数になる数|{{OEIS|A013918}}}} === 連続素数積 === {|class="wikitable" !連続数!!数!!参照 |- |{{center|2}}||{{math|[[6]], [[15]], [[35]], [[77]], [[143]], [[221]], [[323]], [[437]], [[667]], [[899]], 1147, 1517, 1763, …}}||{{OEIS2C|A006094}} |- |{{center|3}}||{{math|[[30]], [[105]], [[385]], [[1001]], 2431, 4199, 7429, 12673, 20677, 33263, 47027, …}}||{{OEIS2C|A046301}} |- |{{center|4}}||{{math|[[210]], 1155, 5005, 17017, 46189, 96577, 215441, 392863, 765049, …}}||{{OEIS2C|A046302}} |- |{{center|5}}||{{math|[[2310]], 15015, 85085, 323323, 1062347, 2800733, …}}||{{OEIS2C|A046303}} |- |{{center|6}}||{{math|30030, 255255, 1616615, 7436429, 30808063, 86822723, …}}||{{OEIS2C|A046324}} |- |{{center|7}}||{{math|510510, 4849845, …}}||{{OEIS2C|A046325}} |- |{{center|8}}||{{math|9699690, 111546435, …}}||{{OEIS2C|A046326}} |- |{{center|9}}||{{math|223092870, 3234846615, …}}||{{OEIS2C|A046327}} |- |{{center|10}}||{{math|6469693230, 100280245065, …}}||{{OEIS2C|A127342}} |- |{{center|11}}||{{math|200560490130, 3710369067405, …}}||{{OEIS2C|A127343}} |- |{{center|12}}||{{math|7420738134810, 152125131763605, …}}||{{OEIS2C|A127344}} |} {{main2|各連続素数積の最初の数|素数階乗}} == 素数砂漠 == 自然数で素数でないものが連続している区間を「'''素数砂漠'''」という。例えば{{math2|{{mset|24, 25, 26, 27, 28}}}} は「長さ 5 の素数砂漠」である。素数砂漠を挟む2個の素数は {{math|3}} 以上であるため、共に奇数である。このことから、素数砂漠の長さは必ず奇数である。いくらでも長い素数砂漠が構成できる([[#分布]]を参照)。 初めから60個の素数の間隔は<ref>{{OEIS|A001223}}</ref> :1, 2, 2, 4, 2, 4, 2, 4, 6, 2, 6, 4, 2, 4, 6, 6, 2, 6, 4, 2, 6, 4, 6, 8, 4, 2, 4, 2, 4, 14, 4, 6, 2, 10, 2, 6, 6, 4, 6, 6, 2, 10, 2, 4, 2, 12, 12, 4, 2, 4, 6, 2, 10, 6, 6, 6, 2, 6, 4, 2, … {{main|素数の間隔}}<!-- == 語呂合わせ == 1, 2桁の素数の暗記方法として、次のような語呂合わせが考え出されている。 {|class=wikitable |兄さん||5時に||[[セブン-イレブン|セブンイレブン]]||父さん||いいなと||ついていく||兄さん||買った肉を||裂いて||みんなで食べたら||41円しか||予算がない |- |{{math|2, 3}}||{{math|5}}||{{math|7, 11}}||{{math|13}}||{{math|17}}||{{math|19}}||{{math|23}}||{{math|29}}||{{math|31}}||{{math|37}}||{{math|41}}||{{math|43}} |} {|class=wikitable |しなった顔で||ごみ拾い||ゴクっと飲んで||六井さんが||むなしく||泣いた||ナミが||泣く泣く||[[破産]]した||白紙に戻した||[[宮内庁]] |- |{{math|47}}||{{math|53}}||{{math|59}}||{{math|61}}||{{math|67}}||{{math|71}}||{{math|73}}||{{math|79}}||{{math|83}}||{{math|89}}||{{math|97}} |} === 37未満まで === {|class=wikitable |兄さん||5時に||[[セブン-イレブン|セブンイレブン]]||父さん||いないけど||行く||兄さん||肉持って||[[バスキン・ロビンス|サーティーワン]] |- |{{math|2, 3}}||{{math|5}}||{{math|7, 11}}||{{math|13}}||{{math|17}}||{{math|19}}||{{math|23}}||{{math|29}}||{{math|31}} |}--> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Citation |last1=Aigner |first1=Martin |last2=Ziegler |first2=Günter M.|year=2010 |title=Proofs from THE BOOK |publisher=Springer-Verlag |edition=4th |isbn=978-3-642-00856-6 |url=https://www.springer.com/jp/book/9783642008566}} ** {{Cite book|和書 |author=M・アイグナー |coauthors=G・M・ツィーグラー |translator=[[蟹江幸博]] |title=天書の証明 |publisher=丸善出版 |edition=縮刷版 |date=2012-09-01 |isbn=978-4-621-06535-8 |url=https://pub.maruzen.co.jp/book_magazine/book_data/search/9784621065358.html |ref={{Harvid|アイグナー|ツィーグラー|2012}}}} * {{Cite journal |last1=Caldwell |first1=Chris K. |last2=Reddick |first2=Angela |last3=Xiong |first3=Yeng |last4=Keller |first4=Wilfrid |issue=9 |journal={{仮リンク|Journal of Integer Sequences|en|Journal of Integer Sequences}} |mr=3005523 |page=Article 12.9.8 |title=The history of the primality of one: a selection of sources |url=https://cs.uwaterloo.ca/journals/JIS/VOL15/Caldwell2/cald6.html |volume=15 |year=2012 |ref={{Harvid|Caldwell|Reddick|Xiong|Keller|2012}}}} * {{Cite journal |last1=Caldwell |first1=Chris K. |last2=Xiong |first2=Yeng |issue=9 |journal=Journal of Integer Sequences |mr=3005530 |page=Article 12.9.7 |title=What is the smallest prime? |url=https://cs.uwaterloo.ca/journals/JIS/VOL15/Caldwell1/cald5.pdf |volume=15 |year=2012 |ref={{Harvid|Caldwell|Xiong|2012}}}} * {{Citation |last1=Conway |first1=John Horton |author1-link=ジョン・ホートン・コンウェイ |last2=Guy |first2=Richard K. |author2-link=リチャード・ケネス・ガイ |title=The Book of Numbers |publisher=Copernicus |location=New York |isbn=978-0-387-97993-9 |year=1996}} **{{Cite book|和書 |author=J・H・コンウェイ |coauthors=R・K・ガイ |translator=[[根上生也]] |date=2012-01 |title=数の本 |publisher=[[丸善出版]] |isbn=978-4-621-06207-4|url=https://pub.maruzen.co.jp/book_magazine/book_data/search/9784621062074.html |ref={{Harvid|コンウェイ|ガイ|2012}}}} *{{Cite book|和書 |author=真実のみを記述する会 |title=素数表150000個 |publisher=[[暗黒通信団]] |date=2011-08 |isbn=978-4-87310-156-9 |url=http://ankokudan.org/d.htm?detail156-detailread-j.html |ref={{Harvid|真実のみを記述する会|2011}}}} *{{Cite book|和書 |author=Manfred Robert Schroeder |translator=[[平野浩太郎]]・[[野村孝徳]] 共 |title=科学と通信における数論 暗号,物理学,ディジタル情報,計算法,自己相似性を含む |volume=〈上〉 |publisher=[[パスカル研究会]](出版)[[コロナ社 (出版社)|コロナ社]](発売) |date=1995-02-01 |isbn=978-4-339-08216-6 |url=https://www.coronasha.co.jp/np/isbn/9784339082166/ |pages=33-68}} * {{Citation |last=Derbyshire |first=John |title=Prime Obsession: Bernhard Riemann and the Greatest Unsolved Problem in Mathematics |year=2003 |publisher=Joseph Henry Press |location=Washington, D.C. |isbn=978-0-309-08549-6 |oclc=249210614}} ** {{Cite book|和書 |author=ジョン・ダービーシャー |translator=[[松浦俊輔]] |date=2004-08-30 |title=素数に憑かれた人たち リーマン予想への挑戦 |publisher=[[日経BP社]](出版)[[日経BP出版センター]](発売) |isbn=978-4-8222-8204-2 |url=https://shop.nikkeibp.co.jp/front/commodity/0000/P82040/ |ref={{Harvid|ダービーシャー|松浦}}}} * {{Cite book|和書 |author=本橋洋一|authorlink=本橋洋一 |origdate=2009-11-01 |year=2012 |title=解析的整数論 |edition=第2刷 |volume=〈1〉素数分布論|series=朝倉数学大系|publisher=[[朝倉書店]] |isbn=978-4-254-11821-6 |url=https://www.asakura.co.jp/books/isbn/978-4-254-11821-6/}} - 第2刷 2012:加筆含む。 * {{Cite web|和書 |author=本橋洋一 |date=2005-03-26 |url=http://mathsoc.jp/publication/tushin/1001/motohashi.pdf |format=PDF |title=素数の翼に乗って |publisher=日本数学会年会市民講演 |accessdate=2016-12-29 |ref={{Harvid|本橋|2005}}}} * {{Cite book|和書 |author=ユークリッド |authorlink=エウクレイデス |translator=[[中村幸四郎]]・[[寺阪英孝]]・[[伊東俊太郎]]・[[池田美恵]] |date=2011-5-25 |title=ユークリッド原論 |edition=追補版 |publisher=[[共立出版]] |isbn=978-4-320-01965-2 |url=https://www.kyoritsu-pub.co.jp/bookdetail/9784320019652 |ref={{Harvid|ユークリッド|2011}}}} * {{Cite book|和書 |author=吉村仁 |authorlink=吉村仁 (生物学者) |date=2008-07-16 |title=17年と13年だけ大発生? 素数ゼミの秘密に迫る! |series=サイエンス・アイ新書 072 |publisher=[[ソフトバンククリエイティブ]] |isbn=978-4-7973-4258-1 |url=https://www.sbcr.jp/products/4797342581.html |ref={{Harvid|吉村|2008}}}} * {{Citation |last=Riesel |first=Hans |title=Prime numbers and computer methods for factorization |publisher=Birkhäuser |location=Basel, Switzerland |isbn=978-0-8176-3743-9 |year=1994}} * {{Citation |last=Ribenboim |first=Paulo |year=2004 |title=The Little Book of Bigger Primes |publisher=Springer-Verlag |edition=2nd |isbn=978-0-387-20169-6 |url=https://www.springer.com/jp/book/9780387201696}} ** {{Cite book|和書 |author=Paulo Ribenboim |translator=[[吾郷孝視]] |title=素数の世界―その探索と発見― |edition=第2版 |publisher=[[共立出版]] |date=2001-10-20 |isbn=978-4-320-01684-2 |url=https://www.kyoritsu-pub.co.jp/bookdetail/9784320016842 |ref={{Harvid|Ribenboim|2001}}}} * {{Cite book |title=How Euler Did It |series=MAA Spectrum |first=C. Edward |last=Sandifer |publisher=Mathematical Association of America |year=2007 |isbn=978-0-88385-563-8 |ref={{Harvid|Sandifer|2007}}}} * {{Cite book |last=Sierpiński |first=Wacław |author-link = ヴァツワフ・シェルピニスキ |title=Elementary Theory of Numbers |edition=2nd |volume=31 |series=North-Holland Mathematical Library |publisher=Elsevier |year=1988 |isbn=978-0-08-096019-7 |ref={{Harvid|Sierpiński|1988}}}} * {{Cite book |title=Speusippus of Athens: A Critical Study With a Collection of the Related Texts and Commentary |volume=39 |series=Philosophia Antiqua : A Series of Monographs on Ancient Philosophy |first=Leonardo |last=Tarán |publisher=Brill |year=1981 |isbn=978-90-04-06505-5 |pages=35-38 |url=https://books.google.com/books?id=cUPXqSb7V1wC&pg=PA35 |ref={{Harvid|Tarán|1981}}}} == 関連項目 == {{ウィキプロジェクトリンク|数学|[[画像:Nuvola apps edu mathematics blue-p.svg|34px|Project:数学]]}} {{ウィキポータルリンク|数学|[[画像:Nuvola apps edu mathematics-p.svg|34px|Portal:数学]]}} {{Div col}} * [[違法素数]] * [[エマープ]] * [[エラトステネスの篩]] * [[巨大な素数の一覧]] * [[コープランド-エルデシュ定数]] * [[素数の一覧]] * [[ピタゴラス素数]] * [[プライム (小惑星)]] - [[小惑星番号]]7919が1000番目の素数であることに因む小惑星。 * [[半素数]] * [[楔数]] * [[素数大富豪]] {{Div col end}} == 外部リンク == {{commonscat|Prime numbers}} * [https://primes.utm.edu/ The Prime Page] * {{MathWorld|title=Prime Number|urlname=PrimeNumber}} * {{nlab|title=prime number|urlname=prime+number}} * {{PlanetMath|title=prime|urlname=Prime}} * {{SpringerEOM|title=Prime number|urlname=Prime_number}} {{素数の分類}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:そすう}} [[Category:素数|*]] [[Category:初等数学]] [[Category:数論]] [[Category:整数の類]] [[Category:数学に関する記事]]
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東京大学物性研究所
東京大学物性研究所(とうきょうだいがくぶっせいけんきゅうしょ、英称:The Institute for Solid State Physics, the University of Tokyo)は、東京大学の附置研究所で、基礎物性科学を総合的に推進することを目的としている研究所。略称はISSPまたは物性研。 共同利用・共同研究拠点に指定されている(「物性科学研究拠点」)。 1999年までは六本木に所在した。 1957年4月1日、全国物性研究者の要望と日本学術会議の勧告および、文部省と科学技術庁の合意に基づき、設立。六本木の旧歩兵第三連隊兵舎の一角に設置された。 1980年代には先端的実験技術の開発が目標となり、設備重点5計画(超低温物性、超強磁場、極限レーザー、表面物性、軌道放射物性)を順に整備していった(1980年~1986年)。 1980年(「第2世代」)、従来の固有21部門を、極限物性(超強磁場、極限レーザー、表面物性、超低温物性、超高圧を含む)、軌道放射物性、中性子回折物性、凝縮系物性、理論の5大部門に改組。1996年(「第3世代」)、新物質科学、物性理論、先端領域、極限環境、先端分光の5大研究部門と軌道放射物性研究施設、中性子散乱研究施設、物質設計評価施設の3施設に改組された。 六本木キャンパスの一角で拡充を繰り返した設備は2000年、千葉県柏市柏の葉地区の柏キャンパスへ、東京大学の第3極として全面移転。なお、同時期に宇宙線研究所が移転、新領域創成科学研究科が新設されている。 2006年に「国際超強磁場科学研究施設」を新設、2011年に「計算物質科学研究センター」を新設、2012年、「極限コヒーレント光科学研究センター」が発足した。2016年には従来の部門を横断する組織構成の「機能物性研究グループ」「量子物質研究グループ」が発足した。 2019年、社会連携研究部門として「テータ統合型材料物性研究部門」が発足した。 2023年4月現在、凝縮系物性、物性理論、ナノスケール物性、機能物性研究グループ、量子物質研究グループ、社会連携-データ統合型材料物性の6研究部門と6附属研究施設からなる。 物性研究所は東京大学大学院の教育も担当している。以下の研究科・専攻から大学院生を受け入れている。
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東京大学物性研究所は、東京大学の附置研究所で、基礎物性科学を総合的に推進することを目的としている研究所。略称はISSPまたは物性研。 共同利用・共同研究拠点に指定されている(「物性科学研究拠点」)。 1999年までは六本木に所在した。
{{Infobox 研究所 |名称 = 東京大学物性研究所 |画像 = [[画像:Main Building of Institute for Solid State Physics of the University of Tokyo.jpg|250px|東京大学物性研究所 本館(A棟)。千葉県柏市。]] |脚注 = 東京大学物性研究所([[千葉県]][[柏市]]) |画像2 = |脚注2 = |正式名称 = <!--正式名称が外国語である場合に、現地の言葉で名称を記入。それ以外の場合は無記入でOK--> |英語名称 = The Institute for Solid State Physics, the University of Tokyo |略称 = 物性研、ISSP |組織形態 = 大学附置研究所<br>([[共同利用・共同研究拠点]]) |本部名称 = <!--拠点が多数あってすぐ下の住所がどこのものか不明瞭な様な場合に記入。本部、事務局、などと記入。それ以外の場合は無記入でOK--> |所在国 = {{JPN}} |所在地郵便番号 = 277-8581 |所在地 = [[千葉県]][[柏市]][[柏の葉]]五丁目1番地5<br>[[東京大学柏地区キャンパス|東京大学柏キャンパス]]内 |緯度度 = 35 |緯度分 = 54 |緯度秒 = 6.8 |経度度 = 139 |経度分 = 56 |経度秒 = 13.5 |予算 = |人数 = 2018年<ref>{{PDFlink|[https://www.issp.u-tokyo.ac.jp/maincontents/docs/youran2018.pdf 要覧2018]}}</ref><br>*教職員数定員 124人<br>*大学院生 131人 |代表 = |所長 = 廣井 善二 |理事長 = |代表職名 = <!--組織トップの肩書が上の三つ以外の場合、ここにその肩書を記入--> |代表氏名 = <!--組織トップの肩書が上の三つ以外の場合、すぐ上で肩書を記入し、ここに人物の名前を記入--> |活動領域 = |設立年月日 = [[1957年]][[4月1日]]<ref name="history">[https://www.issp.u-tokyo.ac.jp/maincontents/history.html 沿革 <nowiki>|</nowiki> 東京大学物性研究所]</ref> |前身 = |設立者 = |廃止年月日 = |後身 = |上位組織 = [[東京大学]] |所管 = |下位組織 = |関連組織 = |拠点 = |保有施設 = |保有装置 = |保有物分類1 = <!--施設でも装置でもない何かを保有している場合に、ここにその種別を記入。例えば船舶、衛星など--> |保有物名称1 = <!--すぐ上の種別に属する保有物の名称をここに記入。例えばしんかい6500、など--> |保有物分類2 = |保有物名称2 = |保有物分類3 = |保有物名称3 = |提供サービス = |プロジェクト = |参加プロジェクト = |発行雑誌 = |出版物 = |特記事項 = |公式サイト = [https://www.issp.u-tokyo.ac.jp/ 東京大学物性研究所] }} '''東京大学物性研究所'''(とうきょうだいがくぶっせいけんきゅうしょ、英称:The Institute for Solid State Physics, the University of Tokyo)は、[[東京大学]]の附置研究所で、基礎物性科学を総合的に推進する<ref name="about">[http://www.issp.u-tokyo.ac.jp/maincontents/stats.html 物性研について <nowiki>|</nowiki> 東京大学物性研究所]</ref>ことを目的としている研究所。略称は'''ISSP'''または'''物性研'''。 [[共同利用・共同研究拠点]]に指定されている(「物性科学研究拠点」<ref>{{PDFlink|[https://www.mext.go.jp/component/a_menu/science/detail/__icsFiles/afieldfile/2018/08/09/1342357_005_2.pdf 共同利用・共同研究拠点一覧 (H30.4.1)]}}</ref>)。 [[1999年]]までは[[六本木]]に所在した<ref name="roppongi">{{PDFlink|[https://www.city.minato.tokyo.jp/azabuchikusei/mirai/documents/01_roppongi.pdf 六本木周辺1]}} p.9</ref>。 == 概要 == [[1957年]]4月1日、全国物性研究者の要望と[[日本学術会議]]の勧告および、[[文部省]]と[[科学技術庁]]の合意に基づき<ref name="history" />、設立。[[六本木]]の[[歩兵第3連隊|旧歩兵第三連隊]]兵舎の一角に設置された<ref name="roppongi" />。 [[1980年代]]には先端的実験技術の開発が目標となり<ref name="history" />、設備重点5計画(超低温物性、超強磁場、極限レーザー、表面物性、軌道放射物性)を順に整備していった(1980年~1986年)。 [[1980年]](「第2世代」)、従来の固有21部門を、極限物性(超強磁場、極限レーザー、表面物性、超低温物性、超高圧を含む)、軌道放射物性、中性子回折物性、凝縮系物性、理論の5大部門に改組。[[1996年]](「第3世代」)、新物質科学、物性理論、先端領域、極限環境、先端分光の5大研究部門と軌道放射物性研究施設、中性子散乱研究施設、物質設計評価施設の3施設に改組された。 [[画像:The University of Tokyo.JPG|250px|thumb|東京大学柏キャンパス]] 六本木キャンパスの一角で拡充を繰り返した設備は[[2000年]]、[[千葉県]][[柏市]][[柏の葉]]地区の柏キャンパスへ、東京大学の第3極として全面移転。なお、同時期に[[東京大学宇宙線研究所|宇宙線研究所]]が移転、[[東京大学大学院新領域創成科学研究科|新領域創成科学研究科]]が新設されている。 2006年に「国際超強磁場科学研究施設」を新設、2011年に「計算物質科学研究センター」を新設、2012年、「極限コヒーレント光科学研究センター」が発足した。2016年には従来の部門を横断する組織構成の「機能物性研究グループ」「量子物質研究グループ」が発足した。 2019年、社会連携研究部門として「テータ統合型材料物性研究部門」が発足した。 2023年4月現在、凝縮系物性、物性理論、ナノスケール物性、機能物性研究グループ、量子物質研究グループ、社会連携-データ統合型材料物性の6研究部門と6附属研究施設からなる。 == 研究部門 == *凝縮系物性研究部門 *物性理論研究部門 *ナノスケール物性研究部門 *機能物性研究グループ *量子物質研究グループ *社会連携研究部門 **データ統合型材料物性研究部門 == 附属研究施設 == *物質設計評価施設 *中性子科学研究施設 *国際超強磁場科学研究施設 *計算物質科学研究センター *極限コヒーレント光科学研究センター **軌道放射物性研究施設 *共通施設 == 大学院教育 == 物性研究所は東京大学[[大学院]]の教育も担当している。以下の[[研究科]]・[[専攻]]から大学院生を受け入れている。 *東京大学大学院 **[[東京大学大学院理学系研究科・理学部|理学系研究科]] ***物理学専攻 ***化学専攻 **[[東京大学大学院工学系研究科・工学部|工学系研究科]] ***物理工学専攻 **[[東京大学大学院新領域創成科学研究科|新領域創成科学研究科]] ***物質系専攻 ***複雑理工学専攻 == 所在地 == *{{〒}}277-8581 [[千葉県]][[柏市]][[柏の葉]]五丁目1番地5 :[[東京大学柏地区キャンパス#柏キャンパス|東京大学柏キャンパス]]内 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == *{{PDFlink|[https://www.issp.u-tokyo.ac.jp/maincontents/docs/tayori55-4_Part8.pdf 物性研を卒業(中退)して]}}([[家泰弘]])- 柏移転時のことについて == 関連項目 == <!-- {{Commonscat|The Institute for Solid State Physics}}--> *[[研究所]] *[[柏の葉]] *[[毛利信男]] == 外部リンク == * [https://www.issp.u-tokyo.ac.jp/ 東京大学物性研究所] * [https://www.u-tokyo.ac.jp/adm/history/03_03_07_j.html 東京大学百年史 部局史四] {{Physics-stub}} {{Education-stub}} {{東京大学}} {{共同利用・共同研究拠点}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:とうきようたいかくふつせいけんきゆうしよ}} [[Category:物理学系の研究所]] [[Category:東京大学の研究所|ぶつせいけんきゆうじよ]] [[Category:千葉県の研究所]] [[Category:柏市の建築物]] [[Category:柏の葉国際キャンパスタウン]]<!-- [[en:The Institute for Solid State Physics]]-->
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エクリプス
エクリプス、イクリプス、エクリップス (eclipse) は、「日食」や「月食」など天文現象における「蝕」を意味する英語。ギリシア語で「姿を消す」「力を失う」ことを意味する εκλειπσιs (ékleipsis) から、ラテン語を経て英語へ取り込まれた。転じて(栄誉や名声、権勢などの)「失墜」などの意味でも使われる。
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エクリプス、イクリプス、エクリップス (eclipse) は、「日食」や「月食」など天文現象における「蝕」を意味する英語。ギリシア語で「姿を消す」「力を失う」ことを意味する εκλειπσιs (ékleipsis) から、ラテン語を経て英語へ取り込まれた。転じて(栄誉や名声、権勢などの)「失墜」などの意味でも使われる。
'''エクリプス'''、'''イクリプス'''、'''エクリップス''' ({{lang|en|eclipse}}) は、「[[日食]]」や「[[月食]]」など[[天文現象]]における「[[食 (天文)|蝕]]」を意味する[[英語]]。[[ギリシア語]]で「[[姿]]を消す」<ref name=weblio />「[[力]]{{要曖昧さ回避|date=2023年6月}}を失う」ことを意味する {{lang|el|εκλειπσιs}} (ékleipsis) から、[[ラテン語]]を経て英語へ取り込まれた。転じて([[栄誉]]や[[名誉|名声]]、[[権勢]]などの)「[[失墜]]」などの意味でも使われる<ref name=weblio>[https://ejje.weblio.jp/content/eclipse eclipseの意味・解説] [[Weblio]][[英和辞典]]</ref>。 == 科学 == * ある[[天体]]が別の天体の動きによって隠される天文現象。{{main|[[食 (天文)]]}} * [[カモ]]類の[[雄]]が繁殖期経過後、一時的に[[雌]]のような地味な羽色になる状態。{{main|[[鳥類用語#エクリプス]]}} * [[細胞]]に[[ウイルス]]を[[接種]]後、[[感染]]細胞内にウイルス粒子が検出できなくなる期間。{{main|[[暗黒期]]}} * エクリプス型 - [[化学]]における立体配座の一種。{{main|[[シス (化学)]]}} * [[ヤモリ]]の一種、[[ヒョウモントカゲモドキ]](レオパードゲッコー)の[[瞳]]のモルフのひとつ。 == 競馬 == * [[エクリプス (競走馬)]] - [[イギリス]]の[[競走馬]]。以下はこれにちなむ。 ** [[エクリプス系]] - エクリプスの子孫の総称。 ** [[ヤングエクリプス]] - イギリスの競走馬。エクリプスの子供。 ** エクリプスII - イギリスの競走馬。 ** [[アメリカンエクリプス]] - アメリカの競走馬。 ** [[エクリプス賞]] - アメリカ[[競馬]]の年間表彰制度。 ** [[エクリプスステークス]] - イギリスで行われている競馬のG1競走。 ** エクリプス賞 - [[フランス]]で行われている競馬のG3競走。{{main|[[フランスの競馬]]}} ** エクリプスステークス - ニュージーランドで行われている競馬のG3競走。{{main|[[ニュージーランドの競馬]]}} ** MRCエクリプスステークス - オーストラリアで行われている競馬のG3競走。{{main|[[オーストラリアの競馬]]}} ** インドエクリプスステークス - インドで行われている競馬のG2競走。 == 商品名・企業名 == * [[Eclipse (統合開発環境)]] - [[IBM]]が開発した[[統合開発環境]]の一種。 * [[Eclipse (コンピュータ)]] - [[データゼネラル]]製[[16ビット]][[ミニコンピュータ]]。 * [[ECLIPSE (ブランド)]] - [[デンソーテン|富士通テン→デンソーテン]]の[[カーオーディオ|車載用AV機器]]、および家庭用[[音響機器]]ブランド。イクリプスと読む。 * Eclipse([[ギター]])- [[イーエスピー|ESP]]製品の[[ギター]][[ブランド]]。[[エレクトリック・ギター]]、[[セミアコースティックギター]]、[[エレクトリック・アコースティックギター]]が存在する。 * [[エクリプス (航空機メーカー)]] - [[アメリカ合衆国]]の[[航空機メーカーの一覧#アメリカ合衆国|航空機メーカー]]。[[1998年]]に設立された[[エクリプス・アビエーション]]が[[2009年]]に会社清算、同年設立の[[エクリプス・エアロスペース]]が事業買収。 * {{仮リンク|エクリプス (ヨット)|en|Eclipse (yacht)}} - 世界最大だった[[ヨット]]。 * [[エクリプス日高]] - [[北海道]][[日高郡 (北海道)|日高郡]][[新ひだか町]]で[[ホテル]]を経営する[[会社#日本|会社]]。[[大井川鐵道]]などの[[親会社]]。 * [[三菱自動車工業]]製の[[自動車]]の車名。[[三菱・エクリプス#車名の由来]]を参照。 ** [[三菱・エクリプス]] - [[1989年]]発売の[[スポーツカー]]。[[北米]]市場では[[クライスラー]]との[[合弁会社]][[ダイアモンド・スター・モーターズ]] (DSM) により販売。前述の競走馬にちなみ命名<ref>[http://www.mitsubishi-motors.com/corporate/ir/share/pdf/e/fact2006.pdf 2006年三菱自動車カタログ(北米版)]{{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20120322203045/http://www.mitsubishi-motors.com/corporate/ir/share/pdf/e/fact2006.pdf |date=2012年3月22日 }} p.29、2008年8月30日閲覧。</ref>。 ** [[三菱・エクリプスクロス]] - [[2017年]]発売の[[クロスオーバーSUV]]。「エクリプス+クロスオーバー」より命名。三菱の[[乗用車]]に「エクリプス」の名が復活したが、こちらの由来については競走馬の件には触れられていない。 == 作品名・アーティスト名 == * [[ステファニー・メイヤー]]の[[小説]]『[[トワイライト (小説)|トワイライト]]』の第3期。 ** [[エクリプス/トワイライト・サーガ]] - 上記の小説を原作とした[[2010年]]のアメリカ[[映画]]。 * [[エクリプス (映画)]] - [[2017年]]の[[スペイン]]の[[ホラー映画]]。 * [[エクリプス (バンド)]] - [[スウェーデン]]の[[ハードロック]][[バンド_(音楽)#ロックバンド|バンド]]。 * [[エクリプス (イングヴェイ・マルムスティーンのアルバム)]] - [[スウェーデン]]のロック[[ギタリスト]]、[[イングヴェイ・マルムスティーン]]が[[1990年]]にリリースした[[アルバム]]および[[楽曲]]。[[プロレスラー]][[田上明]]の入場[[テーマ曲]]として知られる。 * [[エクリプス (アモルフィスのアルバム)]] - [[フィンランド]]のバンド、[[アモルフィス]]が[[2006年]]にリリースしたアルバム。 * [[エクリプス (ジャーニーのアルバム)]] - アメリカのロックバンド、[[ジャーニー (バンド)|ジャーニー]]が2011年にリリースしたアルバム。 * [[エクリプス (ツイン・シャドウのアルバム)]] - アメリカの[[ミュージシャン]]、[[ツイン・シャドウ]]が2015年にリリースした3作目のアルバムおよび楽曲。 * エクリプス(蝕)[[琵琶]]と[[尺八]]のための - [[作曲家]]の[[武満徹]]による楽曲。 * Eclipse - 日韓合同ダンスボーカルグループ[[ORβIT]]が2021年にリリースしたミニアルバム「[[Alter Ego (ORβITのアルバム)|Alter Ego]]」のタイトル曲。 * [[キムリップ #ソロシングル|Eclipse]] - [[今月の少女]]のメンバー[[キムリップ]]による楽曲。 * Eclipse - [[ピンク・フロイド]]の楽曲「[[狂気日食]]」の原題。 * [[エクリプス (NACHERRYの曲)]] - [[NACHERRY]]の楽曲。テレビアニメ『[[4人はそれぞれウソをつく]]』オープニングテーマ。 == 架空の名称 == * [[ふしぎ星の☆ふたご姫(Gyu!)のキャラクター一覧#月の国|エクリプス]] - [[テレビアニメ]]『[[ふしぎ星の☆ふたご姫]]』の[[登場人物]]シェイドの[[偽名]]。 * エクリプス - テレビアニメ『[[キディ・グレイド]]』『[[キディ・ガーランド]]』の登場人物。 * エクリップス - テレビアニメ『[[バスカッシュ!]]』に登場する[[アイドル]]グループ、およびそれを演じる[[声優]]グループ。 * エクリプスモード - [[特撮]]『[[ウルトラマンコスモス]]』の主役[[ヒーロー]]、ウルトラマンコスモスの強化形態の一種。 * エクリプス - [[コンピュータゲーム]]『[[スペースインベーダー|スペースインベーダー ゲットイーブン]]』に登場する[[ボスキャラクター]]。 * エクリプス - [[オンラインゲーム]]『[[ファンタジーアースゼロ]]』に登場する[[建築物]]。 * エクリプスクラス - 小説版『[[スター・ウォーズ・シリーズ|スターウォーズ]]』に登場する[[戦艦]]の等級名。全長17㎞にも及ぶ超巨大戦艦。 * エクリプス - [[任天堂]][[ゲームボーイアドバンス]]・[[ニンテンドーDS]]用[[ゲームソフト]]『[[黄金の太陽]]』シリーズに登場する特殊召喚の一つ。黄金の[[飛竜]]の形を取り、水2・風3のジンを使用する。 * エクリプス(蝕武祭)- [[ライトノベル]]『[[学戦都市アスタリスク]]』に登場する、非合法・ルール無用の武闘大会。 * エクリプス - ライトノベル『[[オーバーロード (小説)|オーバーロード]]』に登場する職業。 * エクリプス - テーブルトークロールプレイングゲーム『銀剣のステラナイツ』において、ゲームマスターがプレイヤーの一人とペアを組んで演じるエネミー。 * エクリプスー スマホゲーム『モンスターストライク[[モンスターストライク|』]]に登場するキャラクター。 * [[コズミック・イラの機動兵器#エクリプスガンダム|エクリプスガンダム]] - 漫画『機動戦士ガンダムSEED ECLIPSE』に登場する架空の兵器。 * ECLIPSE- テレビアニメ『[[ヴィジュアルプリズン]]』に登場するヴォーカルユニット。 == 脚注 == {{reflist}} ==関連項目== *[[蝕]] *[[食 (曖昧さ回避)]] *{{Prefix}} <!-- *{{prefix|イクリプス}} 2022.5現在まだない --> *{{prefix|eclipse}} *{{intitle}} {{Aimai}} {{DEFAULTSORT:えくりふす}} [[Category:英語の語句]] [[Category:同名の企業]] [[Category:同名の作品]]
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天皇賞
天皇賞(てんのうしょう)は、日本中央競馬会(JRA)が春・秋に年2回施行する中央競馬の重賞競走(GI)である。春は京都競馬場で「天皇賞(春)」(通称:春天)、秋は東京競馬場で「天皇賞(秋)」(通称:秋天)の表記(通称についてはJRAの過去成績掲載ページのURLにも使用されている)で施行されている。記事内ではそれぞれ「天皇賞(春)」または「春の競走」、「天皇賞(秋)」または「秋の競走」と表記する。 第1回とされる「帝室御賞典」は1937年(昭和12年)に行われているが、JRAが前身としている「The Emperor's Cup(エンペラーズカップ)」までさかのぼると1905年(明治38年)に起源を持ち、日本で施行される競馬の競走では最高の格付けとなるGIの中でも、長い歴史と伝統を持つ競走である。現在は賞金のほか、優勝賞品として皇室から楯が下賜されており、天皇賞を「盾」と通称することもある。 天皇賞のルーツをたどると、1905年(明治38年)5月6日に根岸(横浜)競馬場で創設されたThe Emperor's Cup(エンペラーズカップ)や、明治初期のMikado's Vaseにまでさかのぼることができる。これらの競走が誕生した背景には、当時の日本が直面していた外交問題が強く影響している(後述)。エンペラーズカップはのちに「帝室御賞典」の名称で定着し、明治末期から1937年(昭和12年)まで日本各地で年に10回行われていた。 一方、施行距離や競走条件は1911年(明治44年)から1937年(昭和12年)まで行われていた「優勝内国産馬連合競走」をおおむね継承している。この競走は年2回、3,200メートルの距離で行われ、各馬等しい条件で日本のチャンピオンを決め、日本一の賞金を与える競走だった。 これらを統合して始まったのが1937年(昭和12年)秋の帝室御賞典で、日本中央競馬会(JRA)ではこれを天皇賞の第1回としている。「帝室御賞典」は戦局悪化のため1944年(昭和19年)秋に中止され、終戦後の1947年(昭和22年)春に「平和賞」の名称で再開、同年秋から「天皇賞」と改称され現在に至っている。 1937年(昭和12年)以来「古馬の最高峰」として位置づけられた天皇賞は長らく番組体系の中心に据えられ、旧八大競走にも含まれるなど、その地位を保ち続けた。1着賞金も東京優駿(日本ダービー)などとともに国内最高クラスの競走だった。のちに有馬記念やジャパンカップが創設され、やがて国内最高賞金はジャパンカップが上回るものの、2020年現在も天皇賞は、ジャパンカップ、東京優駿(日本ダービー)、有馬記念に次ぐ高額賞金競走である。 1980年代以降に進められたさまざまな制度改革、賞金や競走条件の変遷を経てもなお、天皇賞は日本国内で現存する競馬の競走としてもっとも長い歴史と伝統を持ち、重要な競走のひとつに位置づけられている。 春の競走と秋の競走は開催地など競走条件が異なるものの同じ「天皇賞」であり、施行回数は春→秋と施行順に加算している。同一の競走名で1年に複数回施行する競走は、現在の中央競馬で本競走のみである。 王政復古後、明治新政府が直面した重要な外交問題のひとつは、欧米を中心とする諸外国との間に結ばれた不平等条約の改正であった。条約改正交渉を円滑に進めたい明治政府は、鹿鳴館に象徴されるように、西洋文化を積極的に採用した。競馬はその一つで、政府や明治天皇は明治初期から西洋式の競馬を行うなど、競馬場は重要な外交の舞台だった。中でも根岸(横浜)競馬場は幕末の開場以来、外国人が設立・運営しており、競馬会の会頭は歴代のイギリス公使が務めていた。明治天皇は条約改正を実現するため、日本の外交官や外務担当の政治家を伴い、頻繁に根岸競馬場へ赴いていた。 イギリスでは清教徒革命後の王政復古に際して、国王自ら競馬場に大競走(King's Plate、女王時代はQueen's Plate)を創設し、豪華な賞品を下賜した故事があり、これはイギリス王室の伝統のひとつだった。明治天皇はこの故事に倣い、根岸競馬場へ豪華な賞品(花器)を下賜した。これが1880年(明治13年)創設のMikado's Vaseである。 明治30年代になると、イギリスとの条約改正を皮切りに、不平等条約の改正が実現した。イギリスとの間には日英同盟が締結され、日露戦争の後ろ盾となった。その日露戦争で日本の軍馬の質や数が大幅に劣っていることが露呈すると、軍部は日英同盟を頼って優秀な軍馬の大量輸入を依頼した。これに応えたイギリスは、イギリス連邦で日本に近く、かつ馬産地だったオーストラリアから3,700頭あまりの馬(豪サラと呼ばれる)を日本へ緊急輸出した。 こうした一連のイギリスとの外交交渉で大きな役割を担ったのが、イギリス公使のクロード・マクドナルドである。マクドナルドは当初公使だったが、1905年(明治38年)に全権大使へ昇任した。マクドナルドと個人的な信頼関係を結んでいた明治天皇は昇任にあたり、マクドナルドへ「菊花御紋付銀製花盛器」を贈呈した。当時、マクドナルドは根岸競馬場の会頭を兼任しており、明治天皇から贈られた盃(当時は『尊重の重宝』と和訳している)を賞品として、1905年(明治38年)5月6日に「The Emperor's Cup(エンペラーズカップ)」を創設した。以来、根岸競馬場では毎年この競走に際して明治天皇から賞品が下賜されるようになった。これがのちに日本語で「帝室御賞典」などと訳されるようになり、JRAでは「天皇賞の前身」としている。 根岸競馬場は外国人が運営し、書類や記録はすべて英語表記だったため、“The Emperor's Cup” はときの担当者によってさまざまに和訳されていた。1905年(明治38年)には「皇帝陛下御賞盃」、1906年(明治39年)には「宮中御賞盃」と訳され、1907年(明治40年)からは新聞報道で使われていた「帝室御賞典」の訳で統一されるようになった(後述)。 明治天皇は1899年(明治32年)まで盛んに競馬場へ巡幸したが、同年に不平等条約改正が実現すると、以後は一切競馬場へ赴かなくなり、代わりに皇族や親王を名代として派遣するに留まっていた。これ以来、天皇自身による競馬観戦(いわゆる天覧競馬)は2005年(平成17年)の第132回天皇賞(秋)まで106年間行われなかった(後述)。 1906年(明治39年)に日本人による本格的な競馬倶楽部として東京競馬会が創設された際、責任者だった子爵の加納久宜は明治天皇の臨席と賞品の下賜を打診した。しかし開催10日前になって、賞品の下賜は許されたものの、明治天皇の巡幸は却下された。このとき行われた「皇室賞典」競走が当時の新聞によって「帝室御賞典」と報じられ、以後はこの名称で定着した。 明治天皇から賞品を下賜されて行う帝室御賞典は、すぐに全国の競馬倶楽部へ広まった。根岸・東京に続いて阪神へも年2回の下賜が認められ、馬産地の福島・札幌・函館・小倉へは年1回の下賜が認められた。 全国各地で年に10回行われるようになった「帝室御賞典」は、各競馬倶楽部が独自の競走条件で施行していたため、施行距離も斤量(負担重量)などの条件もまちまちで、競走名と天皇から御賞典が下賜される点以外に統一性はなかった。 一方、1911年(明治44年)に日本一の競走馬を決定する競走として、「優勝内国産馬連合競走(通称:連合二哩)」が帝室御賞典とは別に創設された。賞金は1着3,000円、2着でも1,500円で、当時日本国内の最高賞金競走だった(当時、帝室御賞典の1着馬には賞品が授与されるだけで、賞金はなかった)。距離は2マイル(約3,200メートル)、条件は馬齢重量で、出走できるのは各地の競馬倶楽部で行われた優勝戦の上位馬に限られていた。優勝内国産馬連合競走は当初年1回の施行だったが、のちに年2回施行になった。 昭和に入り戦時体制化が進むと、各地の競馬倶楽部は1936年(昭和11年)に発足した日本競馬会に統合され、一本化されることになった。日本競馬会は1937年(昭和12年)に各地の競馬倶楽部を統合し、年10回施行していた帝室御賞典は春に阪神競馬場(旧:鳴尾競馬場)、秋に東京競馬場で年2回施行することになった。年2回施行に改められてから初の競走は1937年(昭和12年)秋に東京で行われた帝室御賞典で、JRAではこれを天皇賞の第1回としている。競走の名称は「帝室御賞典」が採用され、競走の中身は「優勝内国産馬連合競走」が継承された。つまり、天皇(皇室)から御賞典が下賜される点は「帝室御賞典」を受け継いでおり、距離や競走条件などは「優勝内国産馬連合競走」から継承している。これが、現在の天皇賞である。また、帝室御賞典は古馬にとって最高峰の競走として位置づけられ、東京優駿(日本ダービー)など4歳馬の競走とは明確に線引きされた。 こうして「統一」された新しい帝室御賞典は、競走馬として日本一を決めるだけでなく、将来の種牡馬を選別するための最高の能力検査でもあった。また、天皇を頂点とした旧帝国憲法下の日本において、天皇からの賞典を受けることは平民(馬主)や農民(畜産家)にとって生涯の名誉となった。 日中戦争から太平洋戦争にいたる戦時中、帝室御賞典は下賜賞品を木製楯に代えながら続けられた(後述)。しかし、やがて戦局が悪化すると馬主に多くの戦死者が出るようになり、競走馬の所有権問題が浮上した。日本競馬会は全競走馬を買い上げることでこの問題を解決したが、全競走馬を買い上げたため「賞金や賞品を争う」という競馬の性格を維持できなくなった。さらに、1944年(昭和19年)春には軍部の命令により馬券(勝馬投票券)の発売を伴う競馬が禁止されたため、日本競馬会は農商省賞典四歳(現在:皐月賞)や東京優駿(日本ダービー)などの主要な大レースに限って、「能力検定競走」として競馬を行った。帝室御賞典は1944年(昭和19年)春は施行場を京都競馬場に移し、皇室からの賞品下賜は辞退したうえで「能力検定競走」として非公開で行われたが、同年秋は中止され、帝室御賞典は中断することとなった。その後、1945年(昭和20年)には戦争の激化により、能力検定競走は行われなくなった。 終戦後、競馬は1946年(昭和21年)秋に再開された。帝室御賞典は1947年(昭和22年)春からの再開を決め、日本競馬会は皇室へ賞品の下賜を打診した。しかし、この時点では連合国軍総司令部(GHQ)による皇室への処分などが確定していなかったため、下賜は時期尚早として見送られた。すでに御賞典競走を開催する前提で番組編成をしていた日本競馬会は急遽、競走名を「平和賞」に変更して施行した。 1947年(昭和22年)秋に予定していた「第2回平和賞」の前日に皇室から賞品(楯)の下賜が再開されることが決定し、名称を「天皇賞」に改めて施行された。「天皇賞」の名称で行われるのはこれが初めてとなるが、公式な施行回数は1937年(昭和12年)秋の帝室御賞典にさかのぼり、「第16回天皇賞」とされた。その後、天皇賞の施行主体も日本競馬会から国営競馬(農林省競馬部)を経て、1954年(昭和29年)より日本中央競馬会が引き継いだ。 現在は1944年(昭和19年)春の帝室御賞典(能力検定競走)と1947年(昭和22年)の平和賞も公式な施行回数に含まれており、能力検定競走は「第14回天皇賞」、平和賞は「第15回天皇賞」と同義に扱われている。その一方で、これらの競走では皇室から賞品が下賜されていないため、天皇賞の施行回数から除外する考え方がある。1968年(昭和43年)に日本中央競馬会が編纂した史料では、能力検定競走や平和賞を回数に数えない考え方が示されている。 再編され年2回施行となった帝室御賞典の時代から、天皇賞は古馬にとって最高峰の競走と位置づけられていた。当時の競走体系では、勝てば勝つほどより重い斤量を負担することになっており、定量で出走できる天皇賞を勝つと、以後は出走すればおおむね負担重量が60キロ後半から70キロ後半にまで跳ね上がった(現在、中央競馬の平地競走では60キロ以上の負担重量で出走する例がきわめて少なくなっている)。よって、馬にかかる負担を考慮すれば出走可能な競走は大きく限定されることになった。また帝室御賞典・天皇賞には1980年(昭和55年)まで「勝ち抜き制」があり、一度天皇賞(帝室御賞典)を勝った馬は、以降の天皇賞(帝室御賞典)に出走することができなかった。これは当時、天皇賞(帝室御賞典)を勝った馬が再度出走して敗れるようなことがあれば、優勝馬の威厳を下げてしまうとされた考え方に基づいており、天皇賞(帝室御賞典)を勝つほどの優れた競走馬は、優勝馬としての威厳を保ちつつ早く種牡馬になって競走馬の改良に貢献することが求められていた。なお、この制度に対しては、一部の競馬評論家の間で、批判されていた。 多くの古馬にとって、天皇賞優勝は最大の目標であると同時に、一度優勝するとその後の目標となるレースがほとんどなくなる。そのうえ、斤量がさらに増えることから、優勝後に引退する馬は少なくなかった。1937年(昭和12年、第1回)から1955年(昭和30年、第32回)までの優勝馬のうち5頭が優勝と同時に、10頭が優勝したシーズン限りで引退している。このほか、3頭が優勝後に地方競馬へ転出した。 1956年(昭和31年)、年末の中山競馬場で中山グランプリ(現在:有馬記念)が創設された。これは4歳馬も古馬も分け隔てなく、その年の一流馬を集めて行う競走となった。 天皇賞を勝った古馬の一流馬にとって、有馬記念は新たな目標となった。有馬記念創設から2013年(平成25年)までの天皇賞優勝馬で、天皇賞優勝を最後に引退した馬は5頭しかいない。 一方、天皇賞を優勝して国内の最高峰に立った馬の一部は、新たな目標を求めて海外へ遠征するようになった。1952年(昭和27年)にアメリカで創設された「ワシントンDC国際」がその代表格である。この競走は招待制で、日本からは天皇賞の優勝馬が招待を受けるようになった。ワシントンDC国際は11月に行われ、当時は11月下旬に行われていた天皇賞(秋)と同時期になる。当時、一度天皇賞を勝った馬は再出走が認められていなかった(勝ち抜き制)ため、秋にワシントンDC国際に挑み、12月に帰国して有馬記念へ出走する馬が現れた。 有馬記念創設以降、1981年(昭和56年)までの25年間で、天皇賞に勝った後海外遠征を行った馬は7頭いる。そのうち5頭は秋にワシントンDC国際へ、1頭は同時期のヨーロッパで凱旋門賞に挑んだ。しかしこれらの中から目標を達することができた馬はおらず、逆に欧米との力量差を突きつけられる結果になった。 天皇賞を勝つほどの一流馬が、日本以外の国でまったく勝てないという事実は、日本国内に2つの相反する考え方をもたらした。1つは強力な外国の競走馬が日本へ入ってくることで国内の馬産が衰退するという脅威論、もう1つはより強い外国馬との対戦によって日本馬のレベルアップを図ろうとする門戸開放論だった。 1970年代後半より「世界に通用する強い馬作り」が提唱され、実現したのが1981年(昭和56年)に創設されたジャパンカップである。ジャパンカップは外国から競走馬を招待し、日本の一流馬と対戦させることで、日本競馬に活力を与えようという意図で企画された。 帝室御賞典が1937年(昭和12年)秋から年2回施行とされて以来、伝統的に11月下旬の施行が定着していた天皇賞(秋)は、ジャパンカップに時期を譲り10月に前倒しされた。「ワシントンDC国際」に出走した外国馬がジャパンカップへ転戦しやすいように配慮した結果である。ジャパンカップは新設競走にして賞金額が東京優駿(日本ダービー)や天皇賞、有馬記念と並ぶ高額に設定され、これは古馬の競走体系が根幹から変わることを意味した。第1回ジャパンカップでは、直前の天皇賞(秋)をレコード勝ちした馬など当時の中央競馬を代表する陣容で臨んだ日本勢が外国勢の前に総崩れとなり、日本の競馬界に衝撃を与える結果となった。また、ジャパンカップの商業的な成功は日本のみならず、アジアの競馬にも変革をもたらすきっかけとなった。 ジャパンカップの創設以前より、世界の各国からは外国籍の馬主が日本のレースに所有馬を出走させられなかったり、外国馬に対する出走制限を設けていたりしたことなど、日本の競馬界に対する閉鎖性が指摘されるようになっていた。これらの指摘を受け、日本中央競馬会はジャパンカップの創設以来「競馬の国際化」を視野に入れた多角的な活動を展開するようになった。「国際化」とは、単に外国の競走馬を呼び寄せるだけでなく、制度面を含めた「国際標準」への適合を意味していた。 日本の競馬を「国際標準」へ適合させるため、日本中央競馬会はさまざまな施策を打ち出した。1984年(昭和59年)に導入された「グレード制」はそのひとつである。天皇賞も春・秋ともにGIとして格付けされたが、当初のグレード制は興行に主眼を置いた中央競馬独自の格付けに過ぎず、1970年代に欧米で作られた「グレード制・グループ制」とはまったく互換性のないものだった。その後、さまざまな開放策を実施した結果、2005年(平成17年)には天皇賞が春・秋ともに国際競走となり、外国調教馬の出走が可能になった。さらに、2007年(平成19年)からは格付けの互換性が認められるようになった。 1983年(昭和58年)11月、日本中央競馬会は昭和59年度の競馬番組について、グレード制の導入(前述)などの大幅改革を発表した。この中に、天皇賞(秋)の施行距離を芝2,000メートルに短縮することが盛り込まれていた。レースの性格を大きく変えることになるこの変更に対し、伝統的な3,200メートルの距離を尊重する意見や東京競馬場(芝2,000メートル)のコース形態に対する問題点を指摘する意見、また第1回ジャパンカップで日本勢が外国勢に大敗したことを踏まえ、スタミナよりもスピードの強化を重視する意見など賛否両論があったが、1984年(昭和59年)より天皇賞(秋)は施行距離が2,000メートルに短縮された。以来、天皇賞(秋)は中央競馬の「中距離ナンバー1決定戦」の性格を持つようになった。 競走の規則も見直しが図られた。1950年代に欧米で定着した降着制度は1991年(平成3年)から中央競馬でも導入されたが、この年の天皇賞(秋)で1位入線馬が18着に降着となった。これは日本での重賞1位入線馬の降着例として史上初だっただけでなく、当該馬が圧倒的な単勝1番人気に推されていたことも相まって大きな話題になった。 帝室御賞典時代からの制度では、1度優勝した馬に再出走を認めない勝ち抜き制が1981年(昭和56年)から廃止され、過去の優勝馬も再出走が可能になったほか、種牡馬・繁殖馬選定の観点から長年認められていなかった去勢馬(せん馬)の出走も2008年(平成20年)以降可能になった。また、1971年(昭和46年)から認められていなかった外国産馬の出走が2000年(平成12年)より可能になった。 1937年(昭和12年)秋の帝室御賞典(第1回)以来「古馬の最高峰」として位置づけられてきた天皇賞だったが、1987年(昭和62年)より天皇賞(秋)は4歳馬も出走が可能になった。また1980年代以降、短距離路線・ダート路線・牝馬路線の拡充が図られたことに加え、海外遠征も容易になった。これにより、さまざまなタイプの競走を選択できるようになり、天皇賞は「数ある頂点のひとつ」という位置づけになっている。とはいえ、国内のGI競走では2022年(令和4年)現在もジャパンカップ、有馬記念に次ぐ高額の1着賞金が設定されている(後述)。 国内最高クラスの賞金、皇室から下賜された天皇楯の権威、長い歴史と伝統などに裏打ちされ、今も天皇賞は「古馬最高の栄誉」とされている。 前述のとおり、天皇賞のルーツとなるMikado's VaseやThe Emperor's Cupなどでは、明治天皇から賞品が下賜されていた。これらは通常、貴金属としても美術品・工芸品としても価値が高いものであると同時に、「天皇から下賜された」という事実は金銭では贖えない栄誉を担うものだった。 明治天皇は日本各地へ巡幸して、その先々で競馬を天覧し、優勝騎手や馬主らに賞金や賞品を下賜した。下賜された品々は、樽酒や黄八丈、白絽の反物、白羽二重、美術品、工芸品などである。 根岸競馬は多くの賞金や賞品を外部のパトロンやスポンサーから得ており、とりわけ皇室や皇族はその代表格だった。たとえばロシア皇太子の名を冠した “Cesarewitch Gift” という競走の賞品を実際に提供していたのは日本の皇室だった。根岸競馬場で明治天皇が下賜したものは記録に残っているもので、「銅製花瓶」一対、「経一尺龍浮彫七宝入銀製花瓶」などがある。1900年(明治33年)にはロシア全権公使ローゼン男爵がMirror号の優勝により「銀製花鳥七宝菓子敷」を授与されている。ほかにも上野へ「金象眼銅製馬」を下賜した記録がある。なお、皇室以外では、根岸競馬の神奈川賞杯競走で神奈川県令が「青銅製酒杯」を賞賜している。 天皇賞のルーツとされるThe Emperor's Cupの創設にあたって、明治天皇が下賜した御賞典を受け取った日本レース倶楽部では「尊重の重宝」と邦訳した。一方、1906年(明治39年)秋に池上競馬場で行われた皇室賞典では「銀製花盛鉢」が下賜された。これは直径が約30センチ(1尺)、深さが約15センチ(5寸)の大銀鉢で、三本の脚がつき、菊花の文様が高彫されていたと伝わる。以後も菊花御紋付銀製花盛器(銀製鉢や洋杯)が下賜された。御賞典は拝領する側にも相応のマナーが必要とされ、馬主や関係者は拝領式の際、正装(モーニングか国民服、軍服でも可)で臨むこととされていた。 楯(プレート)の下賜もまた、イギリス王室の伝統となっている。国を追われ、亡命先のフランスで馬術を磨いたチャールズ2世は王政復古が成って戴冠すると、ニューマーケット競馬場を復興した。1665年に国王チャールズ2世はタウンプレート(The Town Plate、もしくはNewmarket Town Plate)という競走を作り、自ら優勝楯を提供した。国王自身が騎手として優勝したこともある。この競走は「King's Plate(女王の場合はQueen's Plate。Royal Plateとも呼ばれる)」として受け継がれ、現存する世界最古の競馬の競走である。 明治天皇の時代に始まった華やかな銀杯の下賜は、大正時代に勃発した第一次世界大戦の間も絶えることなく、30年以上続いた。一方、その間に中国大陸での動乱は激しくなり、1931年(昭和6年)の満州事変、1937年(昭和12年)には7月に盧溝橋事件、8月に上海事変が相次いで起きた。 その直後である1937年(昭和12年)9月、皇室は競馬会に対し、以後の御賞典下賜を年2回とするという通達を行っている。この通達により、年10回行われていた帝室御賞典は年2回施行になった(前述)。そして皇室は、帝室御賞典の回数を減らす分、御賞典をより立派なものにすることになる。また同時期、大陸での時局の緊迫化によって軍馬の需要が急増していた。軍部はより強固な馬政統制を行うため全国の競馬倶楽部を一本化して「日本競馬会」を作った。そして帝室御賞典は、軍部の求めるスタミナ溢れる馬を作るため、長距離の3,200メートルに改められた。 大陸での緊迫した情勢はさらに激しさを増し、日中戦争へと発展した。1939年(昭和14年)秋にはヨーロッパでドイツと連合軍が戦争を始め、日本に対しては「ABCD包囲網」と呼ばれる経済封鎖が1941年(昭和16年)より実施され、国内ではさまざまな物資が不足するようになった。これに伴う金属製品の統制を受け、帝室御賞典の賞杯は同年春から優勝楯に改められた。 新しい優勝楯の作成にあたり、宮内省は東京高等工芸学校教授の畑正吉にデザインを依頼。これをもとに鋳物師の持田増次郎が金物を製作し、金メッキを施した2寸(約6センチ)もある菊の紋章と、板金をはめこんだ「競馬恩賞」の文字をラワン板にあしらった金御紋章付楯(いわゆる「天皇楯」)となった。 天皇楯の下賜は1944年(昭和19年)春の「能力検定競走」で下賜を辞退したことにより中断し、秋には帝室御賞典が中止となった。 戦争で中断した競馬は終戦後に再開され、帝室御賞典は御賞典が下賜されなかったため、「平和賞」の名称で1947年(昭和22年)春に復活した(前述)。その後、1947年(昭和22年)秋に予定していた「第2回平和賞」の前日に皇室から天皇楯の下賜が決まったが、天皇楯はこれ以降持ち回り制になった。平和賞は急遽「天皇賞」に改称され、「第1回天皇賞」として施行された。ただし、前述の通りJRAでは1937年(昭和12年)秋の「帝室御賞典」を第1回としている。 表彰式で優勝馬主が楯を受け取る際は、白手袋を着用することが慣例となっている。 春(2022年(令和4年)、第165回)の1着賞金は2億円で、以下2着8000万円、3着5000万円、4着3000万円、5着2000万円。 秋(2022年(令和4年)、第166回)の1着賞金は2億円で、以下2着8000万円、3着5000万円、4着3000万円、5着2000万円。 1937年(昭和12年)に帝室御賞典が年2回施行に集約されて以来、天皇賞は日本国内で有数の高額賞金競走である。優勝馬の馬主に与えられる御賞典(優勝杯、優勝楯)の金銭的価値を一切考慮に入れないとしても、長い間、1着賞金の額は中央競馬で行われる競走の中でも上位を保ち続けた。2022年は、日本国内で施行する競馬の競走としてジャパンカップ・有馬記念の4億円に次いで、東京優駿(日本ダービー)、大阪杯、宝塚記念と同額の1着賞金が設定されている。 第1回(1937年秋の帝室御賞典)の1着馬には「本賞」として御賞典(優勝杯)、「副賞」として賞金1万円が与えられた。この賞金額は、当時国内の競走としては東京優駿(日本ダービー)の1着本賞1万円、横浜農林省賞典四・五歳呼馬(1943年で廃止)の1着本賞1万円と並び最高額だった。第1回は3着馬までにのみ賞金を与えていたが、翌年から帝室御賞典など国内主要18競走に限り、4着馬・5着馬にも賞金を与えるよう変更された。1954年(昭和29年)からは天皇賞の1着馬に与える副賞金も「本賞」に含めることになった。 1955年(昭和30年)当時、国内の1着最高賞金は東京優駿(日本ダービー)の200万円で、天皇賞の150万円がこれに次いでいた。1956年(昭和31年)に有馬記念(中山グランプリ)が創設され、1着賞金は東京優駿(日本ダービー)と同じく200万円とされた。翌1957年(昭和32年)には天皇賞の賞金が200万円に引き上げられ、天皇賞(春・秋)、東京優駿(日本ダービー)、有馬記念の4競走が国内最高額の競走となった。 1959年(昭和34年)には東京優駿(日本ダービー)の賞金が300万円に増額され再び「国内最高賞金」となり、天皇賞と有馬記念は東京優駿(日本ダービー)に次いで2番目の高額賞金競走となった。その後、各競走の賞金は年々増加を続けるが、東京優駿(日本ダービー)が1位、天皇賞と有馬記念が同額で2位という序列が1973年(昭和48年)まで続いた。 1974年(昭和49年)、天皇賞・東京優駿(日本ダービー)・有馬記念の賞金が同額になった。これ以降も賞金は伸び続けるが、これらの1着賞金は同額とされた。1981年(昭和56年)にジャパンカップが新設され、天皇賞(春・秋)、東京優駿(日本ダービー)、有馬記念を含めた5競走が日本では最高賞金の競走になった。1990年代に入ると賞金が1億円を超えるようになり、1995年(平成7年)には5競走ともに1着賞金が1億3,200万円となった。 2001年(平成13年)よりジャパンカップの1着賞金が2億5,000万円と大幅に引き上げられ、東京優駿(日本ダービー)・有馬記念も1着賞金が加増されたが、天皇賞の1着賞金は春・秋とも据え置かれた。 JRAが発表した2015年(平成27年)の重賞競走一覧によると、ジャパンカップ、有馬記念、天皇賞で1着賞金が増額。ジャパンカップは1着賞金が3億円となり、有馬記念は2億5,000万円、天皇賞は春・秋とも1億5,000万円にそれぞれ増額された。 大阪杯・天皇賞(春)・宝塚記念または、天皇賞(秋)・ジャパンカップ・有馬記念の3競走を同一年にすべて優勝したJRA所属馬には内国産馬2億円、外国産馬1億円の褒賞金が賞金とは別に交付される。この褒賞金は、クラス分けに用いる収得賞金には算入されない。 2005年(平成17年)の第132回天皇賞(秋)は「エンペラーズカップ100年記念」と副題がつけられ、第125代天皇・明仁と皇后美智子(いずれも肩書きは当時)が東京競馬場に来場し天皇賞を観戦した。当初は前年の2004年(平成16年)に予定されていたが、施行日の8日前に発生した新潟県中越地震の被害に配慮して取りやめとなっていた。天皇が天皇賞を観戦した例は史上初めてであり、天皇自身による競馬観戦(いわゆる天覧競馬)は1899年(明治32年)以来106年ぶりとなった。競走前に天皇・皇后は場内の競馬博物館で「エンペラーズカップ100年記念 栄光の天皇賞展」を鑑賞されている。競走後、優勝したヘヴンリーロマンスの松永幹夫騎手が貴賓席に対して馬上から最敬礼を行った。 2012年(平成24年)の第146回天皇賞(秋)は「近代競馬150周年記念」と副題がつけられ、7年ぶりに天覧競馬が実施された。競走後、優勝したエイシンフラッシュのミルコ・デムーロ騎手はコース内でいったん下馬して最敬礼を行った。本来、このような行為は騎乗馬が故障した場合を除き、競走後にコース内で騎手が下馬することを禁止するJRA競馬施行規程に抵触するものであったが、これを理由とした制裁は行われなかった。 なお、第125代天皇・明仁と皇后美智子は皇太子・皇太子妃だった1987年(昭和62年)に、天皇賞施行50周年を記念して行われた第96回天皇賞(秋)を台覧している。 2023年(令和5年)の第168回天皇賞(秋)は「競馬法100周年記念」と副題がつけられ、第126代天皇・徳仁と皇后雅子が来場し、11年ぶりに天覧競馬が実施された。第126代天皇・徳仁は皇太子時代に第81回東京優駿(日本ダービー)を観戦して以来、9年ぶりの競馬観戦。天皇としては即位後初めて、令和では初めての天覧競馬となった。競走前に天皇・皇后は場内のJRA競馬博物館で開催されている「競馬法100周年記念特別展 伝統の天皇賞 〜日本競馬のあゆみとともに〜」を鑑賞した。優勝したイクイノックスのクリストフ・ルメール騎手は馬上から、同馬の厩務員と共に最敬礼を行った。 1981年(昭和56年)の勝ち抜き制廃止以降、以下の競走馬が複数回優勝している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "天皇賞(てんのうしょう)は、日本中央競馬会(JRA)が春・秋に年2回施行する中央競馬の重賞競走(GI)である。春は京都競馬場で「天皇賞(春)」(通称:春天)、秋は東京競馬場で「天皇賞(秋)」(通称:秋天)の表記(通称についてはJRAの過去成績掲載ページのURLにも使用されている)で施行されている。記事内ではそれぞれ「天皇賞(春)」または「春の競走」、「天皇賞(秋)」または「秋の競走」と表記する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "第1回とされる「帝室御賞典」は1937年(昭和12年)に行われているが、JRAが前身としている「The Emperor's Cup(エンペラーズカップ)」までさかのぼると1905年(明治38年)に起源を持ち、日本で施行される競馬の競走では最高の格付けとなるGIの中でも、長い歴史と伝統を持つ競走である。現在は賞金のほか、優勝賞品として皇室から楯が下賜されており、天皇賞を「盾」と通称することもある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "天皇賞のルーツをたどると、1905年(明治38年)5月6日に根岸(横浜)競馬場で創設されたThe Emperor's Cup(エンペラーズカップ)や、明治初期のMikado's Vaseにまでさかのぼることができる。これらの競走が誕生した背景には、当時の日本が直面していた外交問題が強く影響している(後述)。エンペラーズカップはのちに「帝室御賞典」の名称で定着し、明治末期から1937年(昭和12年)まで日本各地で年に10回行われていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "一方、施行距離や競走条件は1911年(明治44年)から1937年(昭和12年)まで行われていた「優勝内国産馬連合競走」をおおむね継承している。この競走は年2回、3,200メートルの距離で行われ、各馬等しい条件で日本のチャンピオンを決め、日本一の賞金を与える競走だった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "これらを統合して始まったのが1937年(昭和12年)秋の帝室御賞典で、日本中央競馬会(JRA)ではこれを天皇賞の第1回としている。「帝室御賞典」は戦局悪化のため1944年(昭和19年)秋に中止され、終戦後の1947年(昭和22年)春に「平和賞」の名称で再開、同年秋から「天皇賞」と改称され現在に至っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1937年(昭和12年)以来「古馬の最高峰」として位置づけられた天皇賞は長らく番組体系の中心に据えられ、旧八大競走にも含まれるなど、その地位を保ち続けた。1着賞金も東京優駿(日本ダービー)などとともに国内最高クラスの競走だった。のちに有馬記念やジャパンカップが創設され、やがて国内最高賞金はジャパンカップが上回るものの、2020年現在も天皇賞は、ジャパンカップ、東京優駿(日本ダービー)、有馬記念に次ぐ高額賞金競走である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1980年代以降に進められたさまざまな制度改革、賞金や競走条件の変遷を経てもなお、天皇賞は日本国内で現存する競馬の競走としてもっとも長い歴史と伝統を持ち、重要な競走のひとつに位置づけられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "春の競走と秋の競走は開催地など競走条件が異なるものの同じ「天皇賞」であり、施行回数は春→秋と施行順に加算している。同一の競走名で1年に複数回施行する競走は、現在の中央競馬で本競走のみである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "王政復古後、明治新政府が直面した重要な外交問題のひとつは、欧米を中心とする諸外国との間に結ばれた不平等条約の改正であった。条約改正交渉を円滑に進めたい明治政府は、鹿鳴館に象徴されるように、西洋文化を積極的に採用した。競馬はその一つで、政府や明治天皇は明治初期から西洋式の競馬を行うなど、競馬場は重要な外交の舞台だった。中でも根岸(横浜)競馬場は幕末の開場以来、外国人が設立・運営しており、競馬会の会頭は歴代のイギリス公使が務めていた。明治天皇は条約改正を実現するため、日本の外交官や外務担当の政治家を伴い、頻繁に根岸競馬場へ赴いていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "イギリスでは清教徒革命後の王政復古に際して、国王自ら競馬場に大競走(King's Plate、女王時代はQueen's Plate)を創設し、豪華な賞品を下賜した故事があり、これはイギリス王室の伝統のひとつだった。明治天皇はこの故事に倣い、根岸競馬場へ豪華な賞品(花器)を下賜した。これが1880年(明治13年)創設のMikado's Vaseである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "明治30年代になると、イギリスとの条約改正を皮切りに、不平等条約の改正が実現した。イギリスとの間には日英同盟が締結され、日露戦争の後ろ盾となった。その日露戦争で日本の軍馬の質や数が大幅に劣っていることが露呈すると、軍部は日英同盟を頼って優秀な軍馬の大量輸入を依頼した。これに応えたイギリスは、イギリス連邦で日本に近く、かつ馬産地だったオーストラリアから3,700頭あまりの馬(豪サラと呼ばれる)を日本へ緊急輸出した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "こうした一連のイギリスとの外交交渉で大きな役割を担ったのが、イギリス公使のクロード・マクドナルドである。マクドナルドは当初公使だったが、1905年(明治38年)に全権大使へ昇任した。マクドナルドと個人的な信頼関係を結んでいた明治天皇は昇任にあたり、マクドナルドへ「菊花御紋付銀製花盛器」を贈呈した。当時、マクドナルドは根岸競馬場の会頭を兼任しており、明治天皇から贈られた盃(当時は『尊重の重宝』と和訳している)を賞品として、1905年(明治38年)5月6日に「The Emperor's Cup(エンペラーズカップ)」を創設した。以来、根岸競馬場では毎年この競走に際して明治天皇から賞品が下賜されるようになった。これがのちに日本語で「帝室御賞典」などと訳されるようになり、JRAでは「天皇賞の前身」としている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "根岸競馬場は外国人が運営し、書類や記録はすべて英語表記だったため、“The Emperor's Cup” はときの担当者によってさまざまに和訳されていた。1905年(明治38年)には「皇帝陛下御賞盃」、1906年(明治39年)には「宮中御賞盃」と訳され、1907年(明治40年)からは新聞報道で使われていた「帝室御賞典」の訳で統一されるようになった(後述)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "明治天皇は1899年(明治32年)まで盛んに競馬場へ巡幸したが、同年に不平等条約改正が実現すると、以後は一切競馬場へ赴かなくなり、代わりに皇族や親王を名代として派遣するに留まっていた。これ以来、天皇自身による競馬観戦(いわゆる天覧競馬)は2005年(平成17年)の第132回天皇賞(秋)まで106年間行われなかった(後述)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1906年(明治39年)に日本人による本格的な競馬倶楽部として東京競馬会が創設された際、責任者だった子爵の加納久宜は明治天皇の臨席と賞品の下賜を打診した。しかし開催10日前になって、賞品の下賜は許されたものの、明治天皇の巡幸は却下された。このとき行われた「皇室賞典」競走が当時の新聞によって「帝室御賞典」と報じられ、以後はこの名称で定着した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "明治天皇から賞品を下賜されて行う帝室御賞典は、すぐに全国の競馬倶楽部へ広まった。根岸・東京に続いて阪神へも年2回の下賜が認められ、馬産地の福島・札幌・函館・小倉へは年1回の下賜が認められた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "全国各地で年に10回行われるようになった「帝室御賞典」は、各競馬倶楽部が独自の競走条件で施行していたため、施行距離も斤量(負担重量)などの条件もまちまちで、競走名と天皇から御賞典が下賜される点以外に統一性はなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "一方、1911年(明治44年)に日本一の競走馬を決定する競走として、「優勝内国産馬連合競走(通称:連合二哩)」が帝室御賞典とは別に創設された。賞金は1着3,000円、2着でも1,500円で、当時日本国内の最高賞金競走だった(当時、帝室御賞典の1着馬には賞品が授与されるだけで、賞金はなかった)。距離は2マイル(約3,200メートル)、条件は馬齢重量で、出走できるのは各地の競馬倶楽部で行われた優勝戦の上位馬に限られていた。優勝内国産馬連合競走は当初年1回の施行だったが、のちに年2回施行になった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "昭和に入り戦時体制化が進むと、各地の競馬倶楽部は1936年(昭和11年)に発足した日本競馬会に統合され、一本化されることになった。日本競馬会は1937年(昭和12年)に各地の競馬倶楽部を統合し、年10回施行していた帝室御賞典は春に阪神競馬場(旧:鳴尾競馬場)、秋に東京競馬場で年2回施行することになった。年2回施行に改められてから初の競走は1937年(昭和12年)秋に東京で行われた帝室御賞典で、JRAではこれを天皇賞の第1回としている。競走の名称は「帝室御賞典」が採用され、競走の中身は「優勝内国産馬連合競走」が継承された。つまり、天皇(皇室)から御賞典が下賜される点は「帝室御賞典」を受け継いでおり、距離や競走条件などは「優勝内国産馬連合競走」から継承している。これが、現在の天皇賞である。また、帝室御賞典は古馬にとって最高峰の競走として位置づけられ、東京優駿(日本ダービー)など4歳馬の競走とは明確に線引きされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "こうして「統一」された新しい帝室御賞典は、競走馬として日本一を決めるだけでなく、将来の種牡馬を選別するための最高の能力検査でもあった。また、天皇を頂点とした旧帝国憲法下の日本において、天皇からの賞典を受けることは平民(馬主)や農民(畜産家)にとって生涯の名誉となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "日中戦争から太平洋戦争にいたる戦時中、帝室御賞典は下賜賞品を木製楯に代えながら続けられた(後述)。しかし、やがて戦局が悪化すると馬主に多くの戦死者が出るようになり、競走馬の所有権問題が浮上した。日本競馬会は全競走馬を買い上げることでこの問題を解決したが、全競走馬を買い上げたため「賞金や賞品を争う」という競馬の性格を維持できなくなった。さらに、1944年(昭和19年)春には軍部の命令により馬券(勝馬投票券)の発売を伴う競馬が禁止されたため、日本競馬会は農商省賞典四歳(現在:皐月賞)や東京優駿(日本ダービー)などの主要な大レースに限って、「能力検定競走」として競馬を行った。帝室御賞典は1944年(昭和19年)春は施行場を京都競馬場に移し、皇室からの賞品下賜は辞退したうえで「能力検定競走」として非公開で行われたが、同年秋は中止され、帝室御賞典は中断することとなった。その後、1945年(昭和20年)には戦争の激化により、能力検定競走は行われなくなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "終戦後、競馬は1946年(昭和21年)秋に再開された。帝室御賞典は1947年(昭和22年)春からの再開を決め、日本競馬会は皇室へ賞品の下賜を打診した。しかし、この時点では連合国軍総司令部(GHQ)による皇室への処分などが確定していなかったため、下賜は時期尚早として見送られた。すでに御賞典競走を開催する前提で番組編成をしていた日本競馬会は急遽、競走名を「平和賞」に変更して施行した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1947年(昭和22年)秋に予定していた「第2回平和賞」の前日に皇室から賞品(楯)の下賜が再開されることが決定し、名称を「天皇賞」に改めて施行された。「天皇賞」の名称で行われるのはこれが初めてとなるが、公式な施行回数は1937年(昭和12年)秋の帝室御賞典にさかのぼり、「第16回天皇賞」とされた。その後、天皇賞の施行主体も日本競馬会から国営競馬(農林省競馬部)を経て、1954年(昭和29年)より日本中央競馬会が引き継いだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "現在は1944年(昭和19年)春の帝室御賞典(能力検定競走)と1947年(昭和22年)の平和賞も公式な施行回数に含まれており、能力検定競走は「第14回天皇賞」、平和賞は「第15回天皇賞」と同義に扱われている。その一方で、これらの競走では皇室から賞品が下賜されていないため、天皇賞の施行回数から除外する考え方がある。1968年(昭和43年)に日本中央競馬会が編纂した史料では、能力検定競走や平和賞を回数に数えない考え方が示されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "再編され年2回施行となった帝室御賞典の時代から、天皇賞は古馬にとって最高峰の競走と位置づけられていた。当時の競走体系では、勝てば勝つほどより重い斤量を負担することになっており、定量で出走できる天皇賞を勝つと、以後は出走すればおおむね負担重量が60キロ後半から70キロ後半にまで跳ね上がった(現在、中央競馬の平地競走では60キロ以上の負担重量で出走する例がきわめて少なくなっている)。よって、馬にかかる負担を考慮すれば出走可能な競走は大きく限定されることになった。また帝室御賞典・天皇賞には1980年(昭和55年)まで「勝ち抜き制」があり、一度天皇賞(帝室御賞典)を勝った馬は、以降の天皇賞(帝室御賞典)に出走することができなかった。これは当時、天皇賞(帝室御賞典)を勝った馬が再度出走して敗れるようなことがあれば、優勝馬の威厳を下げてしまうとされた考え方に基づいており、天皇賞(帝室御賞典)を勝つほどの優れた競走馬は、優勝馬としての威厳を保ちつつ早く種牡馬になって競走馬の改良に貢献することが求められていた。なお、この制度に対しては、一部の競馬評論家の間で、批判されていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "多くの古馬にとって、天皇賞優勝は最大の目標であると同時に、一度優勝するとその後の目標となるレースがほとんどなくなる。そのうえ、斤量がさらに増えることから、優勝後に引退する馬は少なくなかった。1937年(昭和12年、第1回)から1955年(昭和30年、第32回)までの優勝馬のうち5頭が優勝と同時に、10頭が優勝したシーズン限りで引退している。このほか、3頭が優勝後に地方競馬へ転出した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1956年(昭和31年)、年末の中山競馬場で中山グランプリ(現在:有馬記念)が創設された。これは4歳馬も古馬も分け隔てなく、その年の一流馬を集めて行う競走となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "天皇賞を勝った古馬の一流馬にとって、有馬記念は新たな目標となった。有馬記念創設から2013年(平成25年)までの天皇賞優勝馬で、天皇賞優勝を最後に引退した馬は5頭しかいない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "一方、天皇賞を優勝して国内の最高峰に立った馬の一部は、新たな目標を求めて海外へ遠征するようになった。1952年(昭和27年)にアメリカで創設された「ワシントンDC国際」がその代表格である。この競走は招待制で、日本からは天皇賞の優勝馬が招待を受けるようになった。ワシントンDC国際は11月に行われ、当時は11月下旬に行われていた天皇賞(秋)と同時期になる。当時、一度天皇賞を勝った馬は再出走が認められていなかった(勝ち抜き制)ため、秋にワシントンDC国際に挑み、12月に帰国して有馬記念へ出走する馬が現れた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "有馬記念創設以降、1981年(昭和56年)までの25年間で、天皇賞に勝った後海外遠征を行った馬は7頭いる。そのうち5頭は秋にワシントンDC国際へ、1頭は同時期のヨーロッパで凱旋門賞に挑んだ。しかしこれらの中から目標を達することができた馬はおらず、逆に欧米との力量差を突きつけられる結果になった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "天皇賞を勝つほどの一流馬が、日本以外の国でまったく勝てないという事実は、日本国内に2つの相反する考え方をもたらした。1つは強力な外国の競走馬が日本へ入ってくることで国内の馬産が衰退するという脅威論、もう1つはより強い外国馬との対戦によって日本馬のレベルアップを図ろうとする門戸開放論だった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1970年代後半より「世界に通用する強い馬作り」が提唱され、実現したのが1981年(昭和56年)に創設されたジャパンカップである。ジャパンカップは外国から競走馬を招待し、日本の一流馬と対戦させることで、日本競馬に活力を与えようという意図で企画された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "帝室御賞典が1937年(昭和12年)秋から年2回施行とされて以来、伝統的に11月下旬の施行が定着していた天皇賞(秋)は、ジャパンカップに時期を譲り10月に前倒しされた。「ワシントンDC国際」に出走した外国馬がジャパンカップへ転戦しやすいように配慮した結果である。ジャパンカップは新設競走にして賞金額が東京優駿(日本ダービー)や天皇賞、有馬記念と並ぶ高額に設定され、これは古馬の競走体系が根幹から変わることを意味した。第1回ジャパンカップでは、直前の天皇賞(秋)をレコード勝ちした馬など当時の中央競馬を代表する陣容で臨んだ日本勢が外国勢の前に総崩れとなり、日本の競馬界に衝撃を与える結果となった。また、ジャパンカップの商業的な成功は日本のみならず、アジアの競馬にも変革をもたらすきっかけとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ジャパンカップの創設以前より、世界の各国からは外国籍の馬主が日本のレースに所有馬を出走させられなかったり、外国馬に対する出走制限を設けていたりしたことなど、日本の競馬界に対する閉鎖性が指摘されるようになっていた。これらの指摘を受け、日本中央競馬会はジャパンカップの創設以来「競馬の国際化」を視野に入れた多角的な活動を展開するようになった。「国際化」とは、単に外国の競走馬を呼び寄せるだけでなく、制度面を含めた「国際標準」への適合を意味していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "日本の競馬を「国際標準」へ適合させるため、日本中央競馬会はさまざまな施策を打ち出した。1984年(昭和59年)に導入された「グレード制」はそのひとつである。天皇賞も春・秋ともにGIとして格付けされたが、当初のグレード制は興行に主眼を置いた中央競馬独自の格付けに過ぎず、1970年代に欧米で作られた「グレード制・グループ制」とはまったく互換性のないものだった。その後、さまざまな開放策を実施した結果、2005年(平成17年)には天皇賞が春・秋ともに国際競走となり、外国調教馬の出走が可能になった。さらに、2007年(平成19年)からは格付けの互換性が認められるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1983年(昭和58年)11月、日本中央競馬会は昭和59年度の競馬番組について、グレード制の導入(前述)などの大幅改革を発表した。この中に、天皇賞(秋)の施行距離を芝2,000メートルに短縮することが盛り込まれていた。レースの性格を大きく変えることになるこの変更に対し、伝統的な3,200メートルの距離を尊重する意見や東京競馬場(芝2,000メートル)のコース形態に対する問題点を指摘する意見、また第1回ジャパンカップで日本勢が外国勢に大敗したことを踏まえ、スタミナよりもスピードの強化を重視する意見など賛否両論があったが、1984年(昭和59年)より天皇賞(秋)は施行距離が2,000メートルに短縮された。以来、天皇賞(秋)は中央競馬の「中距離ナンバー1決定戦」の性格を持つようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "競走の規則も見直しが図られた。1950年代に欧米で定着した降着制度は1991年(平成3年)から中央競馬でも導入されたが、この年の天皇賞(秋)で1位入線馬が18着に降着となった。これは日本での重賞1位入線馬の降着例として史上初だっただけでなく、当該馬が圧倒的な単勝1番人気に推されていたことも相まって大きな話題になった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "帝室御賞典時代からの制度では、1度優勝した馬に再出走を認めない勝ち抜き制が1981年(昭和56年)から廃止され、過去の優勝馬も再出走が可能になったほか、種牡馬・繁殖馬選定の観点から長年認められていなかった去勢馬(せん馬)の出走も2008年(平成20年)以降可能になった。また、1971年(昭和46年)から認められていなかった外国産馬の出走が2000年(平成12年)より可能になった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1937年(昭和12年)秋の帝室御賞典(第1回)以来「古馬の最高峰」として位置づけられてきた天皇賞だったが、1987年(昭和62年)より天皇賞(秋)は4歳馬も出走が可能になった。また1980年代以降、短距離路線・ダート路線・牝馬路線の拡充が図られたことに加え、海外遠征も容易になった。これにより、さまざまなタイプの競走を選択できるようになり、天皇賞は「数ある頂点のひとつ」という位置づけになっている。とはいえ、国内のGI競走では2022年(令和4年)現在もジャパンカップ、有馬記念に次ぐ高額の1着賞金が設定されている(後述)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "国内最高クラスの賞金、皇室から下賜された天皇楯の権威、長い歴史と伝統などに裏打ちされ、今も天皇賞は「古馬最高の栄誉」とされている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "前述のとおり、天皇賞のルーツとなるMikado's VaseやThe Emperor's Cupなどでは、明治天皇から賞品が下賜されていた。これらは通常、貴金属としても美術品・工芸品としても価値が高いものであると同時に、「天皇から下賜された」という事実は金銭では贖えない栄誉を担うものだった。", "title": "御賞典と天皇楯" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "明治天皇は日本各地へ巡幸して、その先々で競馬を天覧し、優勝騎手や馬主らに賞金や賞品を下賜した。下賜された品々は、樽酒や黄八丈、白絽の反物、白羽二重、美術品、工芸品などである。", "title": "御賞典と天皇楯" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "根岸競馬は多くの賞金や賞品を外部のパトロンやスポンサーから得ており、とりわけ皇室や皇族はその代表格だった。たとえばロシア皇太子の名を冠した “Cesarewitch Gift” という競走の賞品を実際に提供していたのは日本の皇室だった。根岸競馬場で明治天皇が下賜したものは記録に残っているもので、「銅製花瓶」一対、「経一尺龍浮彫七宝入銀製花瓶」などがある。1900年(明治33年)にはロシア全権公使ローゼン男爵がMirror号の優勝により「銀製花鳥七宝菓子敷」を授与されている。ほかにも上野へ「金象眼銅製馬」を下賜した記録がある。なお、皇室以外では、根岸競馬の神奈川賞杯競走で神奈川県令が「青銅製酒杯」を賞賜している。", "title": "御賞典と天皇楯" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "天皇賞のルーツとされるThe Emperor's Cupの創設にあたって、明治天皇が下賜した御賞典を受け取った日本レース倶楽部では「尊重の重宝」と邦訳した。一方、1906年(明治39年)秋に池上競馬場で行われた皇室賞典では「銀製花盛鉢」が下賜された。これは直径が約30センチ(1尺)、深さが約15センチ(5寸)の大銀鉢で、三本の脚がつき、菊花の文様が高彫されていたと伝わる。以後も菊花御紋付銀製花盛器(銀製鉢や洋杯)が下賜された。御賞典は拝領する側にも相応のマナーが必要とされ、馬主や関係者は拝領式の際、正装(モーニングか国民服、軍服でも可)で臨むこととされていた。", "title": "御賞典と天皇楯" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "楯(プレート)の下賜もまた、イギリス王室の伝統となっている。国を追われ、亡命先のフランスで馬術を磨いたチャールズ2世は王政復古が成って戴冠すると、ニューマーケット競馬場を復興した。1665年に国王チャールズ2世はタウンプレート(The Town Plate、もしくはNewmarket Town Plate)という競走を作り、自ら優勝楯を提供した。国王自身が騎手として優勝したこともある。この競走は「King's Plate(女王の場合はQueen's Plate。Royal Plateとも呼ばれる)」として受け継がれ、現存する世界最古の競馬の競走である。", "title": "御賞典と天皇楯" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "明治天皇の時代に始まった華やかな銀杯の下賜は、大正時代に勃発した第一次世界大戦の間も絶えることなく、30年以上続いた。一方、その間に中国大陸での動乱は激しくなり、1931年(昭和6年)の満州事変、1937年(昭和12年)には7月に盧溝橋事件、8月に上海事変が相次いで起きた。", "title": "御賞典と天皇楯" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "その直後である1937年(昭和12年)9月、皇室は競馬会に対し、以後の御賞典下賜を年2回とするという通達を行っている。この通達により、年10回行われていた帝室御賞典は年2回施行になった(前述)。そして皇室は、帝室御賞典の回数を減らす分、御賞典をより立派なものにすることになる。また同時期、大陸での時局の緊迫化によって軍馬の需要が急増していた。軍部はより強固な馬政統制を行うため全国の競馬倶楽部を一本化して「日本競馬会」を作った。そして帝室御賞典は、軍部の求めるスタミナ溢れる馬を作るため、長距離の3,200メートルに改められた。", "title": "御賞典と天皇楯" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "大陸での緊迫した情勢はさらに激しさを増し、日中戦争へと発展した。1939年(昭和14年)秋にはヨーロッパでドイツと連合軍が戦争を始め、日本に対しては「ABCD包囲網」と呼ばれる経済封鎖が1941年(昭和16年)より実施され、国内ではさまざまな物資が不足するようになった。これに伴う金属製品の統制を受け、帝室御賞典の賞杯は同年春から優勝楯に改められた。", "title": "御賞典と天皇楯" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "新しい優勝楯の作成にあたり、宮内省は東京高等工芸学校教授の畑正吉にデザインを依頼。これをもとに鋳物師の持田増次郎が金物を製作し、金メッキを施した2寸(約6センチ)もある菊の紋章と、板金をはめこんだ「競馬恩賞」の文字をラワン板にあしらった金御紋章付楯(いわゆる「天皇楯」)となった。", "title": "御賞典と天皇楯" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "天皇楯の下賜は1944年(昭和19年)春の「能力検定競走」で下賜を辞退したことにより中断し、秋には帝室御賞典が中止となった。", "title": "御賞典と天皇楯" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "戦争で中断した競馬は終戦後に再開され、帝室御賞典は御賞典が下賜されなかったため、「平和賞」の名称で1947年(昭和22年)春に復活した(前述)。その後、1947年(昭和22年)秋に予定していた「第2回平和賞」の前日に皇室から天皇楯の下賜が決まったが、天皇楯はこれ以降持ち回り制になった。平和賞は急遽「天皇賞」に改称され、「第1回天皇賞」として施行された。ただし、前述の通りJRAでは1937年(昭和12年)秋の「帝室御賞典」を第1回としている。", "title": "御賞典と天皇楯" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "表彰式で優勝馬主が楯を受け取る際は、白手袋を着用することが慣例となっている。", "title": "御賞典と天皇楯" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "春(2022年(令和4年)、第165回)の1着賞金は2億円で、以下2着8000万円、3着5000万円、4着3000万円、5着2000万円。", "title": "御賞典と天皇楯" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "秋(2022年(令和4年)、第166回)の1着賞金は2億円で、以下2着8000万円、3着5000万円、4着3000万円、5着2000万円。", "title": "御賞典と天皇楯" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "1937年(昭和12年)に帝室御賞典が年2回施行に集約されて以来、天皇賞は日本国内で有数の高額賞金競走である。優勝馬の馬主に与えられる御賞典(優勝杯、優勝楯)の金銭的価値を一切考慮に入れないとしても、長い間、1着賞金の額は中央競馬で行われる競走の中でも上位を保ち続けた。2022年は、日本国内で施行する競馬の競走としてジャパンカップ・有馬記念の4億円に次いで、東京優駿(日本ダービー)、大阪杯、宝塚記念と同額の1着賞金が設定されている。", "title": "御賞典と天皇楯" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "第1回(1937年秋の帝室御賞典)の1着馬には「本賞」として御賞典(優勝杯)、「副賞」として賞金1万円が与えられた。この賞金額は、当時国内の競走としては東京優駿(日本ダービー)の1着本賞1万円、横浜農林省賞典四・五歳呼馬(1943年で廃止)の1着本賞1万円と並び最高額だった。第1回は3着馬までにのみ賞金を与えていたが、翌年から帝室御賞典など国内主要18競走に限り、4着馬・5着馬にも賞金を与えるよう変更された。1954年(昭和29年)からは天皇賞の1着馬に与える副賞金も「本賞」に含めることになった。", "title": "御賞典と天皇楯" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "1955年(昭和30年)当時、国内の1着最高賞金は東京優駿(日本ダービー)の200万円で、天皇賞の150万円がこれに次いでいた。1956年(昭和31年)に有馬記念(中山グランプリ)が創設され、1着賞金は東京優駿(日本ダービー)と同じく200万円とされた。翌1957年(昭和32年)には天皇賞の賞金が200万円に引き上げられ、天皇賞(春・秋)、東京優駿(日本ダービー)、有馬記念の4競走が国内最高額の競走となった。", "title": "御賞典と天皇楯" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "1959年(昭和34年)には東京優駿(日本ダービー)の賞金が300万円に増額され再び「国内最高賞金」となり、天皇賞と有馬記念は東京優駿(日本ダービー)に次いで2番目の高額賞金競走となった。その後、各競走の賞金は年々増加を続けるが、東京優駿(日本ダービー)が1位、天皇賞と有馬記念が同額で2位という序列が1973年(昭和48年)まで続いた。", "title": "御賞典と天皇楯" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "1974年(昭和49年)、天皇賞・東京優駿(日本ダービー)・有馬記念の賞金が同額になった。これ以降も賞金は伸び続けるが、これらの1着賞金は同額とされた。1981年(昭和56年)にジャパンカップが新設され、天皇賞(春・秋)、東京優駿(日本ダービー)、有馬記念を含めた5競走が日本では最高賞金の競走になった。1990年代に入ると賞金が1億円を超えるようになり、1995年(平成7年)には5競走ともに1着賞金が1億3,200万円となった。", "title": "御賞典と天皇楯" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "2001年(平成13年)よりジャパンカップの1着賞金が2億5,000万円と大幅に引き上げられ、東京優駿(日本ダービー)・有馬記念も1着賞金が加増されたが、天皇賞の1着賞金は春・秋とも据え置かれた。", "title": "御賞典と天皇楯" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "JRAが発表した2015年(平成27年)の重賞競走一覧によると、ジャパンカップ、有馬記念、天皇賞で1着賞金が増額。ジャパンカップは1着賞金が3億円となり、有馬記念は2億5,000万円、天皇賞は春・秋とも1億5,000万円にそれぞれ増額された。", "title": "御賞典と天皇楯" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "大阪杯・天皇賞(春)・宝塚記念または、天皇賞(秋)・ジャパンカップ・有馬記念の3競走を同一年にすべて優勝したJRA所属馬には内国産馬2億円、外国産馬1億円の褒賞金が賞金とは別に交付される。この褒賞金は、クラス分けに用いる収得賞金には算入されない。", "title": "御賞典と天皇楯" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "2005年(平成17年)の第132回天皇賞(秋)は「エンペラーズカップ100年記念」と副題がつけられ、第125代天皇・明仁と皇后美智子(いずれも肩書きは当時)が東京競馬場に来場し天皇賞を観戦した。当初は前年の2004年(平成16年)に予定されていたが、施行日の8日前に発生した新潟県中越地震の被害に配慮して取りやめとなっていた。天皇が天皇賞を観戦した例は史上初めてであり、天皇自身による競馬観戦(いわゆる天覧競馬)は1899年(明治32年)以来106年ぶりとなった。競走前に天皇・皇后は場内の競馬博物館で「エンペラーズカップ100年記念 栄光の天皇賞展」を鑑賞されている。競走後、優勝したヘヴンリーロマンスの松永幹夫騎手が貴賓席に対して馬上から最敬礼を行った。", "title": "天覧競馬" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "2012年(平成24年)の第146回天皇賞(秋)は「近代競馬150周年記念」と副題がつけられ、7年ぶりに天覧競馬が実施された。競走後、優勝したエイシンフラッシュのミルコ・デムーロ騎手はコース内でいったん下馬して最敬礼を行った。本来、このような行為は騎乗馬が故障した場合を除き、競走後にコース内で騎手が下馬することを禁止するJRA競馬施行規程に抵触するものであったが、これを理由とした制裁は行われなかった。", "title": "天覧競馬" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "なお、第125代天皇・明仁と皇后美智子は皇太子・皇太子妃だった1987年(昭和62年)に、天皇賞施行50周年を記念して行われた第96回天皇賞(秋)を台覧している。", "title": "天覧競馬" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "2023年(令和5年)の第168回天皇賞(秋)は「競馬法100周年記念」と副題がつけられ、第126代天皇・徳仁と皇后雅子が来場し、11年ぶりに天覧競馬が実施された。第126代天皇・徳仁は皇太子時代に第81回東京優駿(日本ダービー)を観戦して以来、9年ぶりの競馬観戦。天皇としては即位後初めて、令和では初めての天覧競馬となった。競走前に天皇・皇后は場内のJRA競馬博物館で開催されている「競馬法100周年記念特別展 伝統の天皇賞 〜日本競馬のあゆみとともに〜」を鑑賞した。優勝したイクイノックスのクリストフ・ルメール騎手は馬上から、同馬の厩務員と共に最敬礼を行った。", "title": "天覧競馬" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "1981年(昭和56年)の勝ち抜き制廃止以降、以下の競走馬が複数回優勝している。", "title": "複数回優勝馬" } ]
天皇賞(てんのうしょう)は、日本中央競馬会(JRA)が春・秋に年2回施行する中央競馬の重賞競走(GI)である。春は京都競馬場で「天皇賞(春)」、秋は東京競馬場で「天皇賞(秋)」の表記(通称についてはJRAの過去成績掲載ページのURLにも使用されている)で施行されている。記事内ではそれぞれ「天皇賞(春)」または「春の競走」、「天皇賞(秋)」または「秋の競走」と表記する。 第1回とされる「帝室御賞典」は1937年(昭和12年)に行われているが、JRAが前身としている「The Emperor's Cup(エンペラーズカップ)」までさかのぼると1905年(明治38年)に起源を持ち、日本で施行される競馬の競走では最高の格付けとなるGIの中でも、長い歴史と伝統を持つ競走である。現在は賞金のほか、優勝賞品として皇室から楯が下賜されており、天皇賞を「盾」と通称することもある。
{{Otheruses|天皇賞全般|春に京都競馬場で3200mで行われる競走|天皇賞(春)|秋に東京競馬場で2000mで行われる競走|天皇賞(秋)}} [[ファイル:135th Tenno Sho Spring 2007 vol2 DSCN3842 20070429.JPG|thumb|250px|ゴール前の直線(第135回天皇賞(春))]] [[ファイル:2008 Tenno Sho.jpg|thumb|250px|ゴールの瞬間(第138回天皇賞(秋))]] [[ファイル:Negishi Horse Racing Track.jpg|thumb|250px|天皇賞の前身とされる「エンペラーズカップ」が行われていた[[横浜競馬場]](・[[根岸森林公園]]、根岸競馬記念公苑)]] [[ファイル:2015 1012 Mukojo Art Hall.jpg|thumb|250px|帝室御賞典(春)が第12回まで行われていた旧[[鳴尾競馬場|阪神(鳴尾)競馬場]](現在:[[武庫川女子大学附属中学校・高等学校]]芸術館)]] '''天皇賞'''(てんのうしょう)は、[[日本中央競馬会]](JRA)が春・秋に年2回施行する[[中央競馬]]の[[重賞]][[競馬の競走|競走]]([[競馬の競走格付け|GI]])である。春は[[京都競馬場]]で「'''[[天皇賞(春)|天皇賞(春)]]'''」(通称:'''春天''')、秋は[[東京競馬場]]で「'''[[天皇賞(秋)|天皇賞(秋)]]'''」(通称:'''秋天''')の表記(通称についてはJRAの過去成績掲載ページのURLにも使用されている)で施行されている。記事内ではそれぞれ「天皇賞(春)」または「春の競走」、「天皇賞(秋)」または「秋の競走」と表記する。 第1回とされる「帝室御賞典」は[[1937年]](昭和12年)に行われているが、JRAが前身としている「{{Lang|en|The Emperor's Cup}}(エンペラーズカップ)」までさかのぼると[[1905年]](明治38年)に起源を持ち<ref name="JRA注目" />、日本で施行される競馬の競走では最高の格付けとなるGIの中でも、長い歴史と伝統を持つ競走である<ref name="JRA注目" />。現在は賞金のほか、優勝賞品として皇室から楯が下賜されており、天皇賞を「盾」と通称することもある<ref name="sponichi20080502" /><ref name="サンスポ20140428" />。 == 歴史 == 天皇賞のルーツをたどると、1905年(明治38年)5月6日に[[横浜競馬場|根岸(横浜)競馬場]]で創設された{{Lang|en|The Emperor's Cup}}(エンペラーズカップ{{Refnest|JRAでは、これを天皇賞の前身としている<ref name="JRA注目" />。|group="注"}})や、明治初期の{{Lang|en|Mikado's Vase}}にまでさかのぼることができる<ref name="hyakka_ten" /><ref name="NRC_60-62" />。これらの競走が誕生した背景には、当時の日本が直面していた外交問題が強く影響している(後述)。エンペラーズカップはのちに「'''[[帝室御賞典]]'''」の名称で定着し、明治末期から1937年(昭和12年)まで日本各地で年に10回行われていた<ref name="hyakka_ten" />。 一方、施行距離や競走条件は1911年(明治44年)から1937年(昭和12年)まで行われていた「'''[[優勝内国産馬連合競走]]'''」をおおむね継承している。この競走は年2回、3,200メートルの距離で行われ、各馬等しい条件で日本のチャンピオンを決め、日本一の賞金を与える競走だった。 これらを統合して始まったのが1937年(昭和12年)秋の帝室御賞典で、日本中央競馬会(JRA)ではこれを天皇賞の第1回としている<ref name="JRA注目" />。「帝室御賞典」は戦局悪化のため1944年(昭和19年)秋に中止され、終戦後の1947年(昭和22年)春に「'''平和賞'''」の名称で再開、同年秋から「'''天皇賞'''」と改称され現在に至っている<ref name="JRA注目" />。 1937年(昭和12年)以来「古馬の最高峰」として位置づけられた天皇賞は長らく番組体系の中心に据えられ、旧[[八大競走]]にも含まれるなど、その地位を保ち続けた<ref name="JC_116" />。1着賞金も[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]などとともに国内最高クラスの競走<ref group="注">このほかに[[横浜農林省賞典四・五歳呼馬]]も同等の賞金であったが、長く続かなかったので割愛する。詳しくは[[#帝室御賞典の拡大と統一|帝室御賞典の拡大と統一]]節の注釈を参照。</ref>だった。のちに[[有馬記念]]や[[ジャパンカップ]]が創設され、やがて国内最高賞金はジャパンカップが上回るものの、2020年現在も天皇賞は、ジャパンカップ、東京優駿(日本ダービー)、有馬記念に次ぐ高額賞金競走である<ref name="R02重賞一覧" />。 1980年代以降に進められたさまざまな制度改革、賞金や競走条件の変遷を経てもなお、天皇賞は日本国内で現存する競馬の競走としてもっとも長い歴史と伝統を持ち、重要な競走のひとつに位置づけられている。 春の競走と秋の競走は開催地など競走条件が異なるものの同じ「天皇賞」であり、施行回数は春→秋と施行順に加算している。同一の競走名で1年に複数回施行する競走は、現在の中央競馬で本競走のみである<ref group="注">かつては[[目黒記念]]や、[[中山大障害]]などの障害重賞も年2回施行され、「目黒記念(春)」・「目黒記念(秋)」のように区別していたり、4歳牝馬特別や[[金杯 (競馬)|金杯]]のように同一の名称の競走が各地にあって、[[フィリーズレビュー|4歳牝馬特別(桜花賞トライアル)]]・[[フローラステークス|4歳牝馬特別(オークストライアル)]]、[[中山金杯|金杯(東)]]・[[京都金杯|金杯(西)]]となっていた。</ref>。 ; 用語の解説 : '''競走条件''':当該競走に出走できる馬の条件(クラス分けなど)を定めたもの<ref name="bangumi_2022hanshin2-2" />。馬齢・負担重量・施行コース・距離が含まれる場合がある(現在の競走条件は各競走記事を参照)。 : '''馬齢''':馬の年齢。実際の誕生日に関わらず、1月1日になると一律に1歳加算される。日本では2001年(平成13年)から国際基準に合わせた現行表記が採用され、満年齢(生まれたばかりの馬は0歳)で表記。2000年(平成12年)までは数え年(生まれたばかりの馬は1歳)で表記していた<ref name="用語辞典(馬齢)" />。記事内の本文では年代にあわせて旧表記と現行表記を使い分けているが、春・秋の競走記事内「歴代優勝馬」一覧表ではすべて現行表記に揃えている。 : '''負担重量(斤量)''':出走馬が背負う重量のこと。騎手の体重のほか、鞍などの馬具も含まれ、出走する各馬ごとに所定の条件のもと定められる。初期の競馬では「[[斤]](0.6キロ)」を重さの単位としていたことから、「斤量(きんりょう)」とも呼ばれる<ref name="用語辞典(斤量)" />。 : '''古馬''':4歳(旧馬齢表記では5歳)以上の馬を指す<ref name="競馬の基本" />。一般的に中央競馬の競走馬は2歳の夏から順次デビューし、同世代の馬と競いあいながら翌年(3歳時)の東京優駿(日本ダービー)をまず大目標とする。ダービー後、次の2歳馬がデビューする時期になると、3歳馬は年上の古馬と一緒にレースをするようになる。 : '''番組(競馬番組)''':日本の競馬は当該競馬場における1開催(現在の中央競馬は原則として4日 - 12日)をひとつの単位としており、施行する競走は開催ごとに定められている。同一開催で組まれる競走の割り当てを「競馬番組(または単に番組)」と呼んでいる<ref name="bangumi_2022hanshin2-2" />。 === 起源 === [[ファイル:Ukiyo-e sinobazunoike Horse racing.jpg|thumb|left|競馬を観戦する明治天皇<br />1884年(明治17年)、[[上野不忍池競馬]]]] [[ファイル:SirClaudeMacdonald.jpg|thumb|left|130px|クロード・マクドナルド]] [[王政復古 (日本)|王政復古]]後、[[明治維新|明治新政府]]が直面した重要な外交問題のひとつは、欧米を中心とする諸外国との間に結ばれた[[不平等条約]]の改正であった。[[条約改正]]交渉を円滑に進めたい明治政府は、[[鹿鳴館]]に象徴されるように、西洋文化を積極的に採用した。競馬はその一つで、政府や[[明治天皇]]は明治初期から西洋式の競馬を行うなど、競馬場は重要な外交の舞台だった<ref name="sisi_09" />。中でも根岸(横浜)競馬場は幕末の開場以来、外国人が設立・運営しており、競馬会の会頭は歴代の[[駐日英国大使|イギリス公使]]が務めていた{{Refnest|[[パワー・ヘンリー・ル・プア・トレンチ|トレンチ]]公使、[[アーネスト・サトウ|サトウ]]公使、[[クロード・マクドナルド|マクドナルド]]公使など<ref name="NRC_57" />。|group="注"}}。明治天皇は条約改正を実現するため、日本の外交官や外務担当の政治家を伴い、頻繁に根岸競馬場へ赴いていた<ref name="sisi_09"/><ref name="NRC_35-38" />{{Refnest|アーネスト・サトウなど、イギリスの外交官は皇族を根岸競馬のパトロンとして仰いだ<ref name="人名録" />。|group="注"}}。 [[イギリス]]では[[清教徒革命]]後の[[王政復古]]に際して<ref name="sekaisi_1649England" />、[[チャールズ2世 (イングランド王)|国王]]自ら競馬場に大競走({{Lang|en|King's Plate}}、女王時代は{{Lang|en|Queen's Plate}})を創設し<ref name="sekaisi_1649England" /><ref name="1660England">『[[#競馬の世界史|競馬の世界史]]』46 - 49頁</ref>、豪華な賞品を下賜した故事があり、これはイギリス王室の伝統のひとつだった<ref name="1660England" /><ref name="sisi_10" />。明治天皇はこの故事に倣い<ref name="sisi_10" />、根岸競馬場へ豪華な賞品(花器)を下賜した。これが1880年(明治13年)創設の{{Lang|en|Mikado's Vase}}である<ref name="hyakka_ten" />{{Refnest|旧幕府と借地契約を行って拓かれた横浜競馬場については、用地の賃貸料を巡って競馬場側と新政府の間に紛争があった。不平等条約(治外法権)の影響があって、交渉は難航したが、1880年(明治13年)になってようやく解決をみた。このとき、賃料で両者が合意するにあたり、政府側からは競馬場の運営組織の名称を“Japan”ではなく“Nippon”にすること等が要望され、競馬場側はこれを受け入れた。この結果、競馬場は政府の公認を得た形となり、明治天皇はこれを機に賞品を下賜した。いくつかの史料には、これ以前にも明治天皇が根岸競馬場を訪問していたという記録がある。その一方で、借地問題が未解決の競馬場に明治天皇が行幸するはずがないとして、これを否定する文献がある<ref name="NRC_12-38" />。|group="注"}}。 明治30年代になると、[[日英通商航海条約|イギリスとの条約改正]]を皮切りに、不平等条約の改正が実現した。イギリスとの間には[[日英同盟]]が締結され、[[日露戦争]]の後ろ盾となった。その日露戦争で日本の軍馬の質や数が大幅に劣っていることが露呈すると、軍部は日英同盟を頼って優秀な軍馬の大量輸入を依頼した。これに応えたイギリスは、[[イギリス連邦]]で日本に近く、かつ馬産地だった[[オーストラリア]]から3,700頭あまりの馬([[豪サラ]]と呼ばれる)を日本へ緊急輸出した<ref name="NRC_56-57" />。 こうした一連のイギリスとの外交交渉で大きな役割を担ったのが、イギリス[[特命全権公使|公使]]の[[クロード・マクドナルド]]である<ref name="NRC_60-62" />。マクドナルドは当初公使だったが、1905年(明治38年)に[[特命全権大使|全権大使]]へ昇任した。マクドナルドと個人的な信頼関係を結んでいた明治天皇は昇任にあたり、マクドナルドへ「菊花御紋付銀製花盛器」を贈呈した<ref name="siwa_2426">『[[#天皇賞競走史話|天皇賞競走史話]]』24 - 26頁</ref><ref name="NRC_60-62" />。当時、マクドナルドは根岸競馬場の会頭を兼任しており、明治天皇から贈られた盃(当時は『'''尊重の重宝'''』と和訳している)を賞品として、1905年(明治38年)5月6日に「{{Lang|en|The Emperor's Cup}}(エンペラーズカップ)」を創設した<ref name="JRA注目" /><ref name="siwa_2426" /><ref name="NRC_56-57" /><ref name="5hensen" />。以来、根岸競馬場では毎年この競走に際して明治天皇から賞品が下賜されるようになった。これがのちに日本語で「帝室御賞典」などと訳されるようになり<ref name="hyakka_ten" /><ref name="NRC_56-57" /><ref name="NRC_60-62" /><ref name="siwa_2426" /><ref name="5hensen" />、JRAでは「天皇賞の前身」としている<ref name="JRA注目" />。 根岸競馬場は外国人が運営し、書類や記録はすべて英語表記だったため、“{{Lang|en|The Emperor's Cup}}” はときの担当者によってさまざまに和訳されていた。1905年(明治38年)には「'''皇帝陛下御賞盃'''」{{Refnest|雑誌「優駿」では“The Emperor's Cup”の日本語訳として、これを採用している<ref name="tenran2005" />。|group="注"}}、1906年(明治39年)には「'''宮中御賞盃'''」と訳され<ref name="hyakka_ten" />、1907年(明治40年)からは新聞報道で使われていた「'''帝室御賞典'''」の訳で統一されるようになった(後述)<ref name="hyakka_ten" /><ref name="siwa_2426" />。 === 帝室御賞典の拡大と統一 === [[ファイル:Happy might.jpg|thumb|250px|1937年(昭和12年)秋の帝室御賞典(第1回天皇賞に相当)優勝馬・ハツピーマイト]] [[ファイル:Teisitu sensei.jpg|thumb|250px|帝室御賞典発走前に行われる騎手の選手宣誓]] 明治天皇は1899年(明治32年)まで盛んに競馬場へ巡幸したが、同年に不平等条約改正が実現すると、以後は一切競馬場へ赴かなくなり<ref name="sisi_11-12" /><ref name="NRC_35-38" />、代わりに[[皇族]]や[[親王]]を名代として派遣するに留まっていた<ref name="siwa_26-33" />。これ以来、天皇自身による競馬観戦(いわゆる天覧競馬)は2005年(平成17年)の第132回天皇賞(秋)まで106年間行われなかった([[#天覧競馬|後述]])。 1906年(明治39年)に日本人による本格的な[[競馬倶楽部]]として[[東京競馬倶楽部#東京競馬会|東京競馬会]]が創設された<ref name="siwa_26-33" />際、責任者だった[[子爵]]の[[加納久宜]]は明治天皇の臨席と賞品の下賜を打診した。しかし開催10日前になって、賞品の下賜は許されたものの、明治天皇の巡幸は却下された<ref name="帝国馬匹協会1937" /><ref name="siwa_26-33" />。このとき行われた「皇室賞典」競走が当時の新聞によって「帝室御賞典」と報じられ、以後はこの名称で定着した<ref name="hyakka_ten" /><ref name="siwa_26-33" />。 明治天皇から賞品を下賜されて行う帝室御賞典は、すぐに全国の競馬倶楽部へ広まった<ref name="hyakka_ten" /><ref name="siwa34-38" />。根岸・東京に続いて[[阪神競馬倶楽部|阪神]]へも年2回の下賜が認められ<ref name="hyakka_ten" /><ref name="siwa34-38" />、馬産地の[[福島競馬倶楽部|福島]]・[[札幌競馬倶楽部|札幌]]・[[函館競馬倶楽部|函館]]・[[小倉競馬倶楽部|小倉]]へは年1回の下賜が認められた<ref name="hyakka_ten" /><ref name="siwa34-38" />。 全国各地で年に10回行われるようになった「帝室御賞典」は、各競馬倶楽部が独自の競走条件で施行していたため、施行距離も斤量([[負担重量]])などの条件もまちまち<ref name="5hensen"/>で、競走名と天皇から御賞典が下賜される点以外に統一性はなかった<ref name="netkeiba_raceguide" />。 一方、1911年(明治44年)に日本一の競走馬を決定する競走として、「優勝内国産馬連合競走(通称:連合二哩)」が帝室御賞典とは別に創設された<ref name="siwa_59-62" />。賞金は1着3,000円、2着でも1,500円で、当時日本国内の最高賞金競走だった(当時、帝室御賞典の1着馬には賞品が授与されるだけで、賞金はなかった)。距離は2マイル(約3,200メートル)、条件は馬齢重量で、出走できるのは各地の競馬倶楽部で行われた優勝戦の上位馬に限られていた<ref name="siwa_59-62" />。優勝内国産馬連合競走は当初年1回の施行だったが、のちに年2回施行になった<ref name="siwa_59-62" />。 昭和に入り戦時体制化が進むと、各地の競馬倶楽部は1936年(昭和11年)に発足した[[日本競馬会]]に統合され、一本化されることになった<ref name="hyakka_ten" /><ref name="siwa_59-62" /><ref name="JRA注目" />。日本競馬会は1937年(昭和12年)に各地の競馬倶楽部を統合し、年10回施行していた帝室御賞典は春に阪神競馬場(旧:[[鳴尾競馬場]])、秋に東京競馬場で年2回施行することになった<ref name="JRA注目" /><ref name="hyakka_ten" /><ref name="siwa_59-62" />。年2回施行に改められてから初の競走は1937年(昭和12年)秋に東京で行われた帝室御賞典で、JRAではこれを天皇賞の第1回としている<ref name="JRA注目" /><ref name="hyakka_ten" /><ref name="siwa_59-62" />。競走の名称は「帝室御賞典」が採用され、競走の中身は「優勝内国産馬連合競走」が継承された。つまり、天皇(皇室)から御賞典が下賜される点は「帝室御賞典」を受け継いでおり、距離や競走条件などは「優勝内国産馬連合競走」から継承している。これが、現在の天皇賞である<ref name="siwa_59-62" />。また、帝室御賞典は古馬にとって最高峰の競走として位置づけられ、東京優駿(日本ダービー)など4歳馬<ref group="注">2001年(平成13年)以降の馬齢表記では3歳にあたる。</ref>の競走とは明確に線引きされた<ref name="JRA注目" /><ref name="hyakka_ten" /><ref name="siwa_59-62" /><ref name="5hensen" />。 こうして「統一」された新しい帝室御賞典は、競走馬として日本一を決めるだけでなく、将来の[[種牡馬]]を選別するための最高の能力検査でもあった<ref>『優駿』昭和16年10月号</ref>。また、天皇を頂点とした旧[[大日本帝国憲法|帝国憲法]]下の日本において、天皇からの賞典を受けることは平民(馬主)や農民(畜産家)にとって生涯の名誉となった<ref name="siwa_1" /><ref name="5hensen" />。 === 戦争の影響と天皇賞のはじまり === [[日中戦争]]から[[太平洋戦争]]にいたる戦時中、帝室御賞典は下賜賞品を木製楯に代えながら続けられた([[#御賞典と天皇楯|後述]])。しかし、やがて戦局が悪化すると馬主に多くの戦死者が出るようになり、競走馬の所有権問題が浮上した<ref name="siwa_70-72" />。日本競馬会は全競走馬を買い上げることでこの問題を解決したが、全競走馬を買い上げたため「賞金や賞品を争う」という競馬の性格を維持できなくなった。さらに、1944年(昭和19年)春には軍部の命令により馬券([[勝馬投票券]])の発売を伴う競馬が禁止されたため、日本競馬会は[[皐月賞|農商省賞典四歳(現在:皐月賞)]]や東京優駿(日本ダービー)などの主要な大レースに限って、「[[能力検定競走]]」として競馬を行った<ref name="siwa_70-72" />。帝室御賞典は1944年(昭和19年)春は施行場を[[京都競馬場]]に移し、皇室からの賞品下賜は辞退<ref name="siwa_70-72" />したうえで「能力検定競走」として非公開で行われた<ref name="JRA注目" />が、同年秋は中止され、帝室御賞典は中断することとなった。その後、1945年(昭和20年)には戦争の激化により、能力検定競走は行われなくなった<ref name="用語辞典(能力検定競走)" />。 終戦後、競馬は1946年(昭和21年)秋に再開された<ref name="siwa_72-75" />。帝室御賞典は1947年(昭和22年)春からの再開を決め、日本競馬会は皇室へ賞品の下賜を打診した。しかし、この時点では[[連合国軍最高司令官総司令部|連合国軍総司令部]](GHQ)による皇室への処分などが確定していなかったため、下賜は時期尚早として見送られた<ref name="siwa_72-75" />。すでに御賞典競走を開催する前提で番組編成をしていた日本競馬会は急遽、競走名を「'''平和賞'''」に変更して施行した<ref name="siwa_72-75" /><ref name="hyakka_ten" />。 1947年(昭和22年)秋に予定していた「第2回平和賞」の前日に皇室から賞品(楯)の下賜が再開されることが決定し、名称を「'''天皇賞'''」に改めて施行された<ref name="siwa_68-76" /><ref name="hyakka_ten"/>。「天皇賞」の名称で行われるのはこれが初めてとなるが、公式な施行回数は1937年(昭和12年)秋の帝室御賞典にさかのぼり、「第16回天皇賞」とされた<ref name="hyakka_ten" /><ref group="注">後日、日本競馬会が慣例に従って競走結果を宮内省へ奏上した際、公式に「第1回天皇賞」としている。日本中央競馬会の古い資料や出版物には、1947年(昭和22年)秋の天皇賞を“第1回天皇賞”と表現しているものがある。</ref>。その後、天皇賞の施行主体も日本競馬会から[[国営競馬#日本における国営競馬|国営競馬]](農林省競馬部)を経て、1954年(昭和29年)より日本中央競馬会が引き継いだ<ref name="用語辞典(国営競馬)" />。 現在は1944年(昭和19年)春の帝室御賞典(能力検定競走)と1947年(昭和22年)の平和賞も公式な施行回数に含まれており、能力検定競走は「第14回天皇賞」、平和賞は「第15回天皇賞」と同義に扱われている。その一方で、これらの競走では皇室から賞品が下賜されていないため、天皇賞の施行回数から除外する考え方がある<ref name="siwa_48-75-76" />。1968年(昭和43年)に日本中央競馬会が編纂した史料では、能力検定競走や平和賞を回数に数えない考え方が示されている<ref name="siwa_68-76" />。 === 国内古馬戦の最高峰 === 再編され年2回施行となった帝室御賞典の時代から、天皇賞は古馬にとって最高峰の競走と位置づけられていた<ref name="hyakka_ten" />。当時の競走体系では、勝てば勝つほどより重い斤量を負担することになっており<ref name="keibasi4_963" />、定量で出走できる天皇賞を勝つと、以後は出走すればおおむね負担重量が60キロ後半から70キロ後半にまで跳ね上がった(現在、中央競馬の平地競走では60キロ以上の負担重量で出走する例がきわめて少なくなっている)。よって、馬にかかる負担を考慮すれば出走可能な競走は大きく限定されることになった。また帝室御賞典・天皇賞には1980年(昭和55年)まで「勝ち抜き制」があり、一度天皇賞(帝室御賞典)を勝った馬は、以降の天皇賞(帝室御賞典)に出走することができなかった<ref name="keibasi4_963" />。これは当時、天皇賞(帝室御賞典)を勝った馬が再度出走して敗れるようなことがあれば、優勝馬の威厳を下げてしまうとされた<ref name="QR報道部" />考え方に基づいており、天皇賞(帝室御賞典)を勝つほどの優れた競走馬は、優勝馬としての威厳を保ちつつ早く種牡馬になって競走馬の改良に貢献することが求められていた<ref name="keibasi4_963" /><ref group="注">勝ち抜き制は[[毎日王冠]](第5回まで)や[[中山大障害]](1950年(昭和25年)まで)など、他の競走にも定められていたことがあるが、1980年まで制度が存続していたのは天皇賞だけである。</ref>。なお、この制度に対しては、一部の競馬評論家の間で、批判されていた{{Refnest|group="注"|特に、[[大橋巨泉]]が[[競馬エイト]]の予想のコーナー「巨泉でバッチリ」で、このことを痛烈に批判していた<ref name="Keiba 8 有馬記念" /><ref name="Keiba 8 天皇賞春" /><ref name="Keiba 8 天皇賞秋" />。}}。 多くの古馬にとって、天皇賞優勝は最大の目標であると同時に、一度優勝するとその後の目標となるレースがほとんどなくなる<ref group="注">わずかな例外として、帝室御賞典を統一した時に横浜競馬場に創設された横浜農林省賞典四・五歳呼馬がある。これは4歳と古馬の一流馬が対決するように企画され、しばしば帝室御賞典を勝った馬が出走した。しかし横浜競馬場が1943年(昭和18年)に閉鎖されたため、この競走は短い期間しか行われなかった。</ref>。そのうえ、斤量がさらに増えることから、優勝後に引退する馬は少なくなかった。1937年(昭和12年、第1回)から1955年(昭和30年、第32回)までの優勝馬のうち5頭が優勝と同時に、10頭が優勝したシーズン限りで引退している。このほか、3頭が優勝後に地方競馬へ転出した。 === 新たな目標を求めて === 1956年(昭和31年)、年末の中山競馬場で中山グランプリ(現在:有馬記念)が創設された<ref group="注">第1回のみ「中山グランプリ」の名称で施行され、第2回から「有馬記念」に改称された。</ref>。これは4歳馬も古馬も分け隔てなく、その年の一流馬を集めて行う競走となった<ref name="hyakka_ari" />。 天皇賞を勝った古馬の一流馬にとって、有馬記念は新たな目標となった<ref name="hyakka_ari" />。有馬記念創設から2013年(平成25年)までの天皇賞優勝馬で、天皇賞優勝を最後に引退した馬は5頭しかいない。 一方、天皇賞を優勝して国内の最高峰に立った馬の一部は、新たな目標を求めて海外へ遠征するようになった<ref name="siwa_80" />。1952年(昭和27年)にアメリカで創設された「[[ワシントンDCインターナショナル|ワシントンDC国際]]」がその代表格である<ref name="karakuri_65" /><ref name="JC_2730" />。この競走は招待制で、日本からは天皇賞の優勝馬が招待を受けるようになった<ref name="siwa_80" />。ワシントンDC国際は11月に行われ、当時は11月下旬に行われていた天皇賞(秋)と同時期になる。当時、一度天皇賞を勝った馬は再出走が認められていなかった(勝ち抜き制)ため、秋にワシントンDC国際に挑み、12月に帰国して有馬記念へ出走する馬が現れた<ref name="siwa_80" />。 有馬記念創設以降、1981年(昭和56年)までの25年間で、天皇賞に勝った後海外遠征を行った馬は7頭いる。そのうち5頭は秋にワシントンDC国際へ、1頭は同時期のヨーロッパで[[凱旋門賞]]に挑んだ<ref name="JC_2730" />。しかしこれらの中から目標を達することができた馬はおらず、逆に欧米との力量差を突きつけられる結果になった<ref name="JC_2730" />。 === ジャパンカップの創設 === 天皇賞を勝つほどの一流馬が、日本以外の国でまったく勝てないという事実は、日本国内に2つの相反する考え方をもたらした<ref name="JC_80154" />。1つは強力な外国の競走馬が日本へ入ってくることで国内の馬産が衰退するという脅威論、もう1つはより強い外国馬との対戦によって日本馬のレベルアップを図ろうとする門戸開放論だった<ref name="JC_80154" />。 1970年代後半より「世界に通用する強い馬作り」が提唱され、実現したのが1981年(昭和56年)に創設されたジャパンカップである<ref name="JC_80154" />。ジャパンカップは外国から競走馬を招待し、日本の一流馬と対戦させることで、日本競馬に活力を与えようという意図で企画された<ref name="karakuri_60" />。 帝室御賞典が1937年(昭和12年)秋から年2回施行とされて以来、伝統的に11月下旬の施行が定着していた天皇賞(秋)は、ジャパンカップに時期を譲り10月に前倒しされた<ref name="JC_116" />。「ワシントンDC国際」に出走した外国馬がジャパンカップへ転戦しやすいように配慮した結果である。ジャパンカップは新設競走にして賞金額が東京優駿(日本ダービー)や天皇賞、有馬記念と並ぶ高額に設定され、これは古馬の競走体系が根幹から変わることを意味した<ref name="JC_124" />。[[第1回ジャパンカップ]]では、直前の[[第84回天皇賞|天皇賞(秋)]]をレコード勝ちした馬など当時の中央競馬を代表する陣容で臨んだ日本勢が外国勢の前に総崩れとなり、日本の競馬界に衝撃を与える結果となった。また、ジャパンカップの商業的な成功は日本のみならず、アジアの競馬にも変革をもたらすきっかけとなった<ref name="karakuri_74-76" />。 === 国際化と天皇賞(秋)の距離短縮 === ジャパンカップの創設以前より、世界の各国からは外国籍の馬主が日本のレースに所有馬を出走させられなかったり、外国馬に対する出走制限を設けていたりしたことなど、日本の競馬界に対する閉鎖性が指摘されるようになっていた。これらの指摘を受け、日本中央競馬会はジャパンカップの創設以来「競馬の国際化」を視野に入れた多角的な活動を展開するようになった<ref name="畜産ZOO鑑" />。「国際化」とは、単に外国の競走馬を呼び寄せるだけでなく、制度面を含めた「国際標準」への適合を意味していた。 日本の競馬を「国際標準」へ適合させるため、日本中央競馬会はさまざまな施策を打ち出した。1984年(昭和59年)に導入された「[[競馬の競走格付け|グレード制]]」はそのひとつである。天皇賞も春・秋ともにGIとして格付けされたが、当初のグレード制は興行に主眼を置いた中央競馬独自の格付けに過ぎず、1970年代に欧米で作られた「グレード制・グループ制」とはまったく互換性のないものだった<ref name="karakuri_102-104" />。その後、さまざまな開放策を実施した結果、2005年(平成17年)には天皇賞が春・秋ともに国際競走となり、外国調教馬の出走が可能になった<ref name="JRA注目" />。さらに、2007年(平成19年)からは格付けの互換性が認められるようになった<ref name="karakuri_84-98" />。 1983年(昭和58年)11月、日本中央競馬会は昭和59年度の競馬番組について、グレード制の導入(前述)などの大幅改革を発表した<ref name="ayumi" />。この中に、天皇賞(秋)の施行距離を芝2,000メートルに短縮することが盛り込まれていた。レースの性格を大きく変えることになるこの変更に対し、伝統的な3,200メートルの距離を尊重する意見や東京競馬場(芝2,000メートル)のコース形態に対する問題点を指摘する意見{{Refnest|group="注"|「大レースは枠順による有利不利が起こらない条件で行うべき」と考えていた[[大川慶次郎]]は1998年(平成10年)に刊行した著書で当時を回想、天皇賞(秋)の距離を東京2000メートルに短縮することに対し当初から反対意見を唱えており、「2000メートルで施行するなら[[中山競馬場]]での施行、もしくは春を東京の3200メートルにして秋を京都の2000メートルで行ったらどうか」と提案していた<ref name="大川" />。なお、同著では当時競馬評論を行っていた大橋巨泉が距離短縮支持派だったと記載されている<ref name="大川" />。}}{{Refnest|カーブの半径やカーブまでの距離が危険であるという意見があるが、同様のコース設定は地方競馬や海外の競馬場にも多数存在しており、[[日本グレード格付け管理委員会|ダート競走格付け委員]]の[[山野浩一]]は「世界の競馬の中ではとても中程度の危険さとさえいえるものではない」としている<ref name="山野_457-459" />。|group="注"}}、また第1回ジャパンカップで日本勢が外国勢に大敗したことを踏まえ、スタミナよりもスピードの強化を重視する意見など賛否両論があったが、1984年(昭和59年)より天皇賞(秋)は施行距離が2,000メートルに短縮された<ref name="JRA注目" />。以来、天皇賞(秋)は中央競馬の「中距離ナンバー1決定戦」の性格を持つようになった<ref name="JRA注目" />。 競走の規則も見直しが図られた。1950年代に欧米で定着した[[降着制度]]は1991年(平成3年)から中央競馬でも導入された<ref name="ayumi" />が、この年の[[第104回天皇賞|天皇賞(秋)]]で1位入線馬が18着に降着となった。これは日本での重賞1位入線馬の降着例として史上初だっただけでなく、当該馬が圧倒的な単勝1番人気に推されていたことも相まって大きな話題になった<ref name="日刊競馬" />。 帝室御賞典時代からの制度では、1度優勝した馬に再出走を認めない勝ち抜き制が1981年(昭和56年)から廃止され、過去の優勝馬も再出走が可能になった<ref name="JRA注目" />ほか、種牡馬・繁殖馬選定の観点から長年認められていなかった去勢馬(せん馬)の出走も2008年(平成20年)以降可能になった<ref name="JRA注目" />。また、1971年(昭和46年)から認められていなかった外国産馬の出走が2000年(平成12年)より可能になった<ref group=注>1971年 - 1983年(昭和46年 - 58年)までは、[[持込馬]]に関しても外国産馬と同じ扱いで出走権が与えられなかったが、1984年(昭和59年)に内国産馬と同等扱いに戻された</ref><ref name="JRA注目" />。 1937年(昭和12年)秋の帝室御賞典(第1回)以来「古馬の最高峰」として位置づけられてきた天皇賞だったが、1987年(昭和62年)より天皇賞(秋)は4歳馬も出走が可能になった<ref name="JRA注目" />。また1980年代以降、短距離路線・ダート路線・牝馬路線の拡充が図られたことに加え、海外遠征も容易になった<ref name="karakuri_61-68" />。これにより、さまざまなタイプの競走を選択できるようになり、天皇賞は「数ある頂点のひとつ」という位置づけになっている。とはいえ、国内のGI競走では2022年(令和4年)現在もジャパンカップ、有馬記念に次ぐ高額の1着賞金が設定されている([[#賞金|後述]])<ref name="R04重賞一覧" />。 国内最高クラスの賞金、皇室から下賜された天皇楯の権威、長い歴史と伝統などに裏打ちされ、今も天皇賞は「古馬最高の栄誉<ref name="JRA注目" />」とされている。 {{Go to top}} == 御賞典と天皇楯 == [[#起源|前述]]のとおり、天皇賞のルーツとなるMikado's VaseやThe Emperor's Cupなどでは、明治天皇から賞品が下賜されていた。これらは通常、貴金属としても美術品・工芸品としても価値が高いものであると同時に、「天皇から下賜された」という事実は金銭では贖えない栄誉を担うものだった。 === 明治天皇と御賞典(賞品) === 明治天皇は日本各地へ巡幸して、その先々で競馬を天覧し、優勝騎手や馬主らに賞金や賞品を下賜した。下賜された品々は、樽酒や[[黄八丈]]、[[絽|白絽]]の反物、[[羽二重|白羽二重]]、美術品、工芸品などである<ref name="siwa_10-24" />{{Refnest|イギリス王室でも、競馬の賞品にワインや美術品、絵画、花器、名馬の毛で出来た鞭などを下賜していた。これらの賞品は金額に換算され、当時のリーディングサイアーの統計にも反映されている<ref name="sekaisi_70" />。|group="注"}}。 根岸競馬は多くの賞金や賞品を外部のパトロンやスポンサーから得ており、とりわけ皇室や皇族はその代表格だった。たとえば[[ツェサレーヴィチ|ロシア皇太子]]の名を冠した “Cesarewitch Gift” という競走の賞品を実際に提供していたのは日本の皇室だった<ref name="siwa_note" />。根岸競馬場で明治天皇が下賜したものは記録に残っているもので、「銅製花瓶」一対、「経一尺龍浮彫七宝入銀製花瓶」などがある<ref name="siwa1518" />。1900年(明治33年)には[[駐日ロシア大使|ロシア全権公使]][[ロマン・ローゼン|ローゼン男爵]]が[[ミラ (競走馬)|Mirror]]号の優勝により「銀製花鳥七宝菓子敷」を授与されている<ref name="siwa1518" />。ほかにも[[上野不忍池競馬|上野]]へ「[[象嵌|金象眼銅製馬]]」を下賜した記録がある<ref name="siwa_18-24" />。なお、皇室以外では、根岸競馬の神奈川賞杯競走で[[中島信行|神奈川県令]]が「青銅製酒杯」を賞賜している<ref name="NRC_Top13" />。 天皇賞のルーツとされるThe Emperor's Cupの創設にあたって、明治天皇が下賜した御賞典を受け取った[[日本レース・倶楽部|日本レース倶楽部]]では「尊重の重宝」と邦訳した。一方、1906年(明治39年)秋に[[池上競馬場]]で行われた皇室賞典では「銀製花盛鉢」が下賜された。これは直径が約30センチ(1[[尺]])、深さが約15センチ(5[[寸]])の大銀鉢で、三本の脚がつき、[[菊花紋章|菊花の文様]]が[[レリーフ|高彫]]されていたと伝わる<ref name="siwa_26-33" />。以後も[[菊花紋章|菊花御紋]]付銀製花盛器(銀製鉢や洋杯)が下賜された<ref name="siwa_68-70" />。御賞典は拝領する側にも相応のマナーが必要とされ、馬主や関係者は拝領式の際、正装([[モーニングコート|モーニング]]か[[国民服]]、軍服でも可)で臨むこととされていた<ref name="keibasi5_417" />{{Refnest|こうした式典は、はじめの頃は競走終了後に行われ、その間は馬券の発売を停止していた。1940年(昭和15年)からは、競走終了後に薬物検査を行うことになり、その結果が出てから拝戴式を行うため、帝室御賞典当日ではなく、後日行われるようになった<ref name="keibasi5_424-425" />。|group="注"}}{{Refnest|[[馬主|仮定名称]]と言って馬主名義を本名とは異なる名称にする制度があるが、1941年(昭和16年)から帝室御賞典では仮定名称の使用が禁じられ、馬主は実名で出走させなければならなくなった<ref name="keibasi5_420" />。|group="注"}}。 <gallery> ファイル:THE GRAND STAND YOKOHAMA RACE CLUB 1890.jpg|1888年の根岸(横浜)競馬場メインスタンドと御下賜賞品のブロンズ花瓶 ファイル:Goshouhai480.jpg|1899年5月9日に明治天皇から下賜された白銀花瓶(菊花御紋付銀製花盛器) ファイル:Emperor's Cup yokohama 1908.jpg|1908年の帝室御賞典で日本レースクラブに下賜された御紋付花盛器(横浜競馬場メインスタンド) </gallery> === 天皇楯 === [[ファイル:147th Tennosho spring (16 Ceremony 02) IMG 2652 20130428.JPG|thumb|right|150px|現在の御賞典となる天皇楯(第147回天皇賞)。馬主が白手袋を着用しているのがわかる<ref name="sponichi20080502" />。]] 楯(プレート)の下賜もまた、イギリス王室の伝統となっている。国を追われ、亡命先のフランスで馬術を磨いた[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]は王政復古が成って戴冠すると、[[ニューマーケット競馬場]]を復興した。1665年に国王チャールズ2世はタウンプレート(The Town Plate、もしくはNewmarket Town Plate)という競走を作り、自ら優勝楯を提供した。国王自身が騎手として優勝したこともある<ref name="NMhis" />。この競走は「King's Plate(女王の場合はQueen's Plate。Royal Plateとも呼ばれる)」として受け継がれ、現存する世界最古の競馬の競走である<ref name="NMhis" />{{Refnest|なお、翌年(1666年)のこの競走は初めて明文化された規則に則って行われた最古の競馬の競走として記録されている<ref name="bloodlines" />。|group="注"}}。 明治天皇の時代に始まった華やかな銀杯の下賜は、大正時代に勃発した[[第一次世界大戦]]の間も絶えることなく、30年以上続いた。一方、その間に中国大陸での動乱は激しくなり、1931年(昭和6年)の[[満州事変]]、1937年(昭和12年)には7月に[[盧溝橋事件]]、8月に[[第二次上海事変|上海事変]]が相次いで起きた。 その直後である1937年(昭和12年)9月、皇室は競馬会に対し、以後の御賞典下賜を年2回とするという通達を行っている。この通達により、年10回行われていた帝室御賞典は年2回施行になった([[#帝室御賞典の拡大と統一|前述]])。そして皇室は、帝室御賞典の回数を減らす分、御賞典をより立派なものにすることになる<ref name="siwa_59-62" />。また同時期、大陸での時局の緊迫化によって軍馬の需要が急増していた。軍部はより強固な馬政統制を行うため全国の競馬倶楽部を一本化して「日本競馬会」を作った。そして帝室御賞典は、軍部の求めるスタミナ溢れる馬を作るため、長距離の3,200メートルに改められた<ref name="siwa_59-62" />。 大陸での緊迫した情勢はさらに激しさを増し、[[日中戦争]]へと発展した。1939年(昭和14年)秋にはヨーロッパでドイツと連合軍が[[第二次世界大戦|戦争]]を始め、日本に対しては「[[ABCD包囲網]]」と呼ばれる経済封鎖が1941年(昭和16年)より実施され、国内ではさまざまな物資が不足するようになった。これに伴う金属製品の統制を受け、帝室御賞典の賞杯は同年春から優勝楯に改められた<ref name="siwa_68-70" />。 新しい優勝楯の作成にあたり、[[宮内省]]は[[東京高等工芸学校]]教授の[[畑正吉]]にデザインを依頼<ref name="siwa_68-70" />。これをもとに[[鋳物師]]の持田増次郎が金物を製作し、[[めっき|金メッキ]]を施した2寸(約6センチ)もある[[菊花紋章|菊の紋章]]と、板金をはめこんだ「競馬恩賞」の文字をラワン板にあしらった金御紋章付楯(いわゆる「'''天皇楯'''」)となった<ref name="siwa_68-70" /><ref name="siwa_72-75" />。 天皇楯の下賜は1944年(昭和19年)春の「能力検定競走」で下賜を辞退したことにより中断し、秋には帝室御賞典が中止となった。 === 戦後の天皇賞 === 戦争で中断した競馬は終戦後に再開され、帝室御賞典は御賞典が下賜されなかったため、「平和賞」の名称で1947年(昭和22年)春に復活した([[#戦争の影響と天皇賞のはじまり|前述]])。その後、1947年(昭和22年)秋に予定していた「第2回平和賞」の前日に皇室から天皇楯の下賜が決まった<ref name="siwa_72-75" />が、天皇楯はこれ以降持ち回り制になった<ref name="siwa_72-75" />。平和賞は急遽「天皇賞」に改称され、「第1回天皇賞{{Refnest|当時の日本競馬会は、宮内省へ結果を奏上した際に『第1回天皇賞』と報告している<ref name="siwa_72-75" />。|group="注"}}」として施行された<ref name="siwa_72-75" />。ただし、前述の通りJRAでは1937年(昭和12年)秋の「帝室御賞典」を第1回としている<ref name="JRA注目" />。 表彰式で優勝馬主が楯を受け取る際は、白手袋を着用することが慣例となっている<ref name="sponichi20080502" />。 === 賞金 === 春(2022年(令和4年)、第165回)の1着賞金は2億円で、以下2着8000万円、3着5000万円、4着3000万円、5着2000万円<ref name="jusyo_kansai" /><ref name="bangumi_2022hanshin2-2" />。 秋(2022年(令和4年)、第166回)の1着賞金は2億円で、以下2着8000万円、3着5000万円、4着3000万円、5着2000万円<ref name="jusyo_kanto" />。 1937年(昭和12年)に帝室御賞典が年2回施行に集約されて以来、天皇賞は日本国内で有数の高額賞金競走である。優勝馬の馬主に与えられる御賞典(優勝杯、優勝楯)の金銭的価値を一切考慮に入れないとしても、長い間、1着賞金の額は中央競馬で行われる競走の中でも上位を保ち続けた。2022年は、日本国内で施行する競馬の競走としてジャパンカップ・有馬記念の4億円に次いで、東京優駿(日本ダービー)、[[大阪杯]]、[[宝塚記念]]と同額の1着賞金が設定されている<ref name="R04重賞一覧" />{{Refnest|2022年(令和4年)の[[地方競馬]]で施行する競走では、[[JBCクラシック]](JpnI)と[[東京大賞典]](GI)の1着賞金1億円が最高額<ref name="keibagojp2021"/>。|group="注"}}。 ; 用語の解説 : '''付加賞''':中央競馬のみにある制度で、特別登録料の総額を1着から3着までの馬に対し、7:2:1の割合で配分した賞金<ref name="用語辞典(付加賞)" />。通常の入着賞金には含めない。 : '''特別登録料''':特別競走・重賞競走に出走するための事前エントリーである「特別登録(通常はレース1週間前の日曜日。GIや3歳クラシックではさらに早まる場合がある<ref name="bangumi_2022hanshin2-2" />)」の際に徴収され、料額は[[競馬法]]で300万円以下と定められている<ref name="用語辞典(付加賞)" />。中央競馬ではこの特別登録を経て、最終エントリーとなる「出馬投票(後述)」を行うことで出走申込手続きが完了する。 ; 主要な高額賞金競走における1着賞金の変遷 * 表中の項目は[http://jra.jp/datafile/seiseki/index.html JRAデータファイル]より作成(1955年から2014年まで)。 * いずれも1着賞金のみ(付加賞・褒賞金など1着賞金に含めないものは除く)の比較。単位:万円。 {| class="wikitable" style="text-align:center" !年!!天皇賞<br />(帝室御賞典)!!東京優駿!!有馬記念!!ジャパンカップ!!備考 |- |1937||(1.0)||1.0||-||-||{{Smaller|天皇賞の賞金は副賞。本賞は御賞典(優勝杯)}} |- |1938||(1.5)||||-||-||{{Smaller|4着・5着にも賞金を出すようになる}} |- |1941||||||-||-||{{Smaller|天皇賞の本賞が楯になる}} |- |1954||||||-||-||{{Smaller|天皇賞の副賞が本賞金に含まれるようになる}} |- |1955||150||200||-||-|| |- |1956||150||200||200||-||{{Smaller|中山グランプリ(現在:有馬記念)創設}} |- |1957||200||200||200||-||{{Smaller|3競走が最高額で並ぶ}} |- |1959||200||300||200||-||{{Smaller|再び東京優駿が単独最高額に}} |- |1960||300||500||300||-|| |- |1965||800||1000||800||-|| |- |1970||2000||2300||2000||-|| |- |1974||4000||4000||4000||-||{{Smaller|3競走が最高額で並ぶ}} |- |1975||4600||4600||4600||-|| |- |1980||6000||6000||6000||-|| |- |1981||6500||6500||6500||6500||{{Smaller|ジャパンカップ創設}} |- |1985||7800||7800||7800||7800|| |- |1990||11100||11100||11100||11100|| |- |1995||13200||13200||13200||13200|| |- |2000||13200||13200||18000||25000||{{Smaller|ジャパンカップが単独で最高賞金に}} |- |2001||13200||15000||18000||25000|| |- |2005||13200||15000||18000||25000|| |- |2010<ref name="H22重賞一覧" />||13200||15000||18000||25000|| |- |2011<ref name="H23重賞一覧" />||13200||15000||20000||25000|| |- |2012<ref name="H24重賞一覧" />||13200||15000||20000||25000|| |- |2013<ref name="H25重賞一覧" />||13200||20000||20000||25000|| |- |2014<ref name="H26重賞一覧" />||13200||20000||20000||25000|| |- |2015<ref name="H27重賞一覧" />||15000||20000||25000||30000||{{Smaller|天皇賞の賞金が20年ぶりに増額}} |- |2016<ref name="H28重賞一覧" />||15000||20000||30000||30000||{{Smaller|有馬記念とジャパンカップが17年ぶりに最高額で並ぶ}} |- |2017<ref name="H29重賞一覧" />||15000||20000||30000||30000|| |- |2020<ref name="R02重賞一覧" />||15000||20000||30000||30000|| |- |2021<ref name="R03重賞一覧" />||15000||20000||30000||30000|| |- |2022<ref name="R04重賞一覧" />||20000||20000||40000||40000||{{Smaller|天皇賞の賞金が7年ぶりに増額}} |- |2023<ref name="R05重賞一覧" />||22000||30000||50000||50000|| |} 第1回(1937年秋の帝室御賞典)の1着馬には「本賞」として御賞典(優勝杯)、「副賞」として賞金1万円が与えられた。この賞金額は、当時国内の競走としては[[東京優駿]](日本ダービー)の1着本賞1万円、[[横浜農林省賞典四・五歳呼馬]](1943年で廃止)の1着本賞1万円と並び最高額だった。第1回は3着馬までにのみ賞金を与えていたが、翌年から帝室御賞典など国内主要18競走に限り、4着馬・5着馬にも賞金を与えるよう変更された。1954年(昭和29年)からは天皇賞の1着馬に与える副賞金も「本賞」に含めることになった<ref name="日高軽種馬農協" />。 1955年(昭和30年)当時、国内の1着最高賞金は東京優駿(日本ダービー)の200万円で、天皇賞の150万円がこれに次いでいた。1956年(昭和31年)に有馬記念(中山グランプリ)が創設され、1着賞金は東京優駿(日本ダービー)と同じく200万円とされた。翌1957年(昭和32年)には天皇賞の賞金が200万円に引き上げられ、天皇賞(春・秋)、東京優駿(日本ダービー)、有馬記念の4競走が国内最高額の競走となった。 1959年(昭和34年)には東京優駿(日本ダービー)の賞金が300万円に増額され再び「国内最高賞金」となり、天皇賞と有馬記念は東京優駿(日本ダービー)に次いで2番目の高額賞金競走となった。その後、各競走の賞金は年々増加を続けるが、東京優駿(日本ダービー)が1位、天皇賞と有馬記念が同額で2位という序列が1973年(昭和48年)まで続いた。 1974年(昭和49年)、天皇賞・東京優駿(日本ダービー)・有馬記念の賞金が同額になった。これ以降も賞金は伸び続けるが、これらの1着賞金は同額とされた。1981年(昭和56年)にジャパンカップが新設され、天皇賞(春・秋)、東京優駿(日本ダービー)、有馬記念を含めた5競走が日本では最高賞金の競走になった。1990年代に入ると賞金が1億円を超えるようになり、1995年(平成7年)には5競走ともに1着賞金が1億3,200万円となった<ref group="注">2000年(平成12年)には特別ボーナスが創設され、同一年に天皇賞(秋)・ジャパンカップ・有馬記念の3競走をすべて勝った日本産馬には2億円、外国産馬には1億円が授与されるようになった。なお、このボーナスは1着賞金に含めていない。</ref>。 2001年(平成13年)よりジャパンカップの1着賞金が2億5,000万円と大幅に引き上げられ{{Refnest|2001年(平成13年)以降のジャパンカップは、世界でもトップクラスの高額賞金競走となった。海外の競馬では[[ドバイワールドカップ]](1着 約6億円)、[[メルボルンカップ]](1着 約3億4,000万円)、[[凱旋門賞]](1着 約3億2,000万円)、[[ブリーダーズカップ・クラシック]](1着 約2億8,000万円)などが主な高額賞金競走である。ジャパンカップは2014年(平成26年)時点で1着賞金が2億5,000万円。一定の条件を満たす馬はこれに1億3,000万円が加算され、年によっては世界1位の賞金になる<ref name="RacingPost" />。|group="注"}}、東京優駿(日本ダービー)・有馬記念も1着賞金が加増されたが、天皇賞の1着賞金は春・秋とも据え置かれた。 JRAが発表した2015年(平成27年)の重賞競走一覧によると、ジャパンカップ、有馬記念、天皇賞で1着賞金が増額。ジャパンカップは1着賞金が3億円となり、有馬記念は2億5,000万円、天皇賞は春・秋とも1億5,000万円にそれぞれ増額された<ref name="H27重賞一覧" />。 ==== 褒賞金制度 ==== [[大阪杯]]・天皇賞(春)・[[宝塚記念]]または、天皇賞(秋)・ジャパンカップ・有馬記念の3競走を同一年にすべて優勝したJRA所属馬には内国産馬2億円、外国産馬1億円の褒賞金が賞金とは別に交付される<ref>{{PDFLink|[http://jra.jp/keiba/program/pdf/housyoukin_1.pdf 同一年度に本会が定める競走に優勝した馬に対する褒賞金交付基準]}} - 日本中央競馬会、2015年11月23日閲覧</ref>。この褒賞金は、クラス分けに用いる収得賞金には算入されない。 ; 用語の解説 : '''内国産馬'''(ないこくさんば):外国産馬以外の馬で、原則として日本で産まれた馬を指す。ただし、外国へ一時的に輸出された繁殖牝馬が輸出前に日本で種付けを済ませ受胎(妊娠のこと)し、外国で産まれた子馬を0歳の12月31日までに輸入した場合、または外国で種付けされた繁殖牝馬が日本へ輸入されてから産まれた馬(持込馬という)は内国産馬として扱われる<ref name="用語辞典(内国産馬)" />。 == 天覧競馬 == 2005年(平成17年)の第132回天皇賞(秋)は「エンペラーズカップ100年記念」と副題がつけられ、第125代天皇・[[上皇明仁|明仁]]と[[上皇后美智子|皇后美智子]](いずれも肩書きは当時)が東京競馬場に来場し天皇賞を観戦した。当初は前年の2004年(平成16年)に予定されていたが、施行日の8日前に発生した[[新潟県中越地震]]の被害に配慮して取りやめとなっていた。天皇が天皇賞を観戦した例は史上初めてであり、天皇自身による競馬観戦(いわゆる天覧競馬)は1899年(明治32年)以来106年ぶりとなった<ref name="tenran2005" />。競走前に天皇・皇后は場内の[[JRA競馬博物館|競馬博物館]]で「エンペラーズカップ100年記念 栄光の天皇賞展」を鑑賞されている<ref name="tenran2005" />。競走後、優勝した[[ヘヴンリーロマンス]]の[[松永幹夫]]騎手が貴賓席に対して馬上から最敬礼を行った。 2012年(平成24年)の第146回天皇賞(秋)は「近代競馬150周年記念」と副題がつけられ、7年ぶりに天覧競馬が実施された。競走後、優勝した[[エイシンフラッシュ]]の[[ミルコ・デムーロ]]騎手はコース内でいったん下馬して最敬礼を行った。本来、このような行為は騎乗馬が故障した場合を除き、競走後にコース内で騎手が下馬することを禁止するJRA競馬施行規程{{Refnest|返し馬時に重りを馬場に捨て、競走後に下馬しコース上に捨てた重りを再び装着して検量室に戻るという不正を未然防止するため<ref name="JRA競馬施行規程" />。|group="注"}}に抵触するものであったが、これを理由とした制裁は行われなかった<ref name="JCAST" />。 なお、第125代天皇・明仁と皇后美智子は[[皇太子]]・[[皇太子妃]]だった1987年(昭和62年)に、天皇賞施行50周年を記念して行われた第96回天皇賞(秋)を[[台覧試合|台覧]]している<ref name="ayumi" />。 2023年(令和5年)の第168回天皇賞(秋)は「競馬法100周年記念」と副題がつけられ、第126代天皇・[[徳仁]]と[[皇后雅子]]が来場し、11年ぶりに天覧競馬が実施された。第126代天皇・徳仁は皇太子時代に第81回[[東京優駿]](日本ダービー)を観戦して以来、9年ぶりの競馬観戦。天皇としては即位後初めて、令和では初めての天覧競馬となった。競走前に天皇・皇后は場内のJRA競馬博物館で開催されている「競馬法100周年記念特別展 伝統の天皇賞 〜日本競馬のあゆみとともに〜」を鑑賞した<ref>{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/news/202310/102403.html|title=天皇陛下の東京競馬場への行幸|publisher=日本中央競馬会|date=2023-10-24|accessdate=2023-10-24}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jra.go.jp/news/202310/102903.html|title=開催競馬場・今日の出来事(10月29日(日曜))|publisher=日本中央競馬会|date=2023-10-29|accessdate=2023-10-30}}</ref>。優勝した[[イクイノックス]]の[[クリストフ・ルメール]]騎手は馬上から、同馬の厩務員と共に最敬礼を行った。 <gallery> file:Tennosho kinenhi.jpg|第132回競走への天皇・皇后行幸啓を記念する碑 file:2012 Tennō Shō (Autumn) 002.jpg|天覧競馬となった第146回天皇賞(秋)を優勝後、本馬場で下馬し貴賓席に最敬礼するミルコ・デムーロ </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2|2}} === 出典 === {{Reflist |refs= <ref name="jusyo_kanto">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2022/pdf/jusyo_kanto.pdf#page=39 |title=重賞競走一覧(レース別・関東) |publisher=日本中央競馬会 |page=39 |accessdate=2022年3月28日}}</ref> <ref name="jusyo_kansai">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2022/pdf/jusyo_kansai.pdf#page=16 |title=重賞競走一覧(レース別・関西) |publisher=日本中央競馬会 |page=16 |accessdate=2022年3月28日}}</ref> <ref name="JRA注目">{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/keiba/thisweek/2021/0502_1/race.html |title=歴史・コース:天皇賞(春) 今週の注目レース|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年4月27日}}</ref> <ref name="bangumi_2022hanshin2-2">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2022/pdf/bangumi/hanshin2-2.pdf |title=令和4年第2回阪神競馬番組(第7日 - 第12日) |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2022年3月28日}}</ref> <ref name="H22重賞一覧">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/pdf/h22-jusyo_2.pdf |title=平成22年度 重賞競走一覧 |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2014年6月21日}}</ref> <ref name="H23重賞一覧">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/pdf/h23-jusyo_2_2.pdf |title=平成23年度 重賞競走一覧(変更版) |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2014年6月21日}}</ref> <ref name="H24重賞一覧">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/pdf/h24-jusyo_2.pdf |title=平成24年度 重賞競走一覧 |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2014年6月21日}}</ref> <ref name="H25重賞一覧">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/pdf/h25-jusyo_2.pdf |title=平成25年度 重賞競走一覧 |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2014年6月21日}}</ref> <ref name="H26重賞一覧">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/pdf/h26-jusyo_2.pdf |title=平成26年度重賞競走一覧 |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2015年3月8日}}</ref> <ref name="H27重賞一覧">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/pdf/h27-jusyo_2.pdf |title=平成27年度重賞競走一覧 |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2016年4月25日}}</ref> <ref name="H28重賞一覧">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/pdf/h28-jusyo_2.pdf |title=平成28年度重賞競走一覧 |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2016年4月25日}}</ref> <ref name="H29重賞一覧">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/pdf/h29-jusyo_2.pdf |title=平成29年度重賞競走一覧 |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2017年5月1日}}</ref> <ref name="R02重賞一覧">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2020/pdf/jusyo_2.pdf |title=令和2年度重賞競走一覧 |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2020年6月20日}}</ref> <ref name="R03重賞一覧">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2021/pdf/jusyo_2.pdf |title=令和3年度重賞競走一覧 |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2021年4月27日}}</ref> <ref name="R04重賞一覧">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2022/pdf/jusyo_2.pdf |title=令和4年度重賞競走一覧 |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2022年3月28日}}</ref> <ref name="R05重賞一覧">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2023/pdf/jusyo_2.pdf |title=令和5年度重賞競走一覧 |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2023年10月30日}}</ref> <ref name="用語辞典(馬齢)">{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/kouza/yougo/w335.html |title=競馬用語辞典(馬齢) |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2014年6月26日}}</ref> <ref name="用語辞典(斤量)">{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/kouza/yougo/w229.html |title=競馬用語辞典(斤量) |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2014年6月26日}}</ref> <ref name="用語辞典(能力検定競走)">{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/kouza/yougo/w261.html |title=競馬用語辞典(能力検定競走) |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2014年6月27日}}</ref> <ref name="用語辞典(国営競馬)">{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/kouza/yougo/w255.html |title=競馬用語辞典(国営競馬) |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2014年7月11日}}</ref> <ref name="用語辞典(付加賞)">{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/kouza/yougo/w11.html |title=競馬用語辞典(付加賞) |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2014年6月26日}}</ref> <ref name="siwa_note">『[[#天皇賞競走史話|天皇賞競走史話]]』付属ノートより</ref> <ref name="siwa_1">『[[#天皇賞競走史話|天皇賞競走史話]]』1頁</ref> <ref name="sisi_09">『[[#天皇賞競走史話|天皇賞競走史話]]』9頁</ref> <ref name="sisi_10">『[[#天皇賞競走史話|天皇賞競走史話]]』10頁</ref> <ref name="siwa_10-24">『[[#天皇賞競走史話|天皇賞競走史話]]』10 - 24頁</ref> <ref name="sisi_11-12">『[[#天皇賞競走史話|天皇賞競走史話]]』11 - 12頁</ref> <ref name="siwa1518">『[[#天皇賞競走史話|天皇賞競走史話]]』15 - 18頁</ref> <ref name="siwa_18-24">『[[#天皇賞競走史話|天皇賞競走史話]]』18 - 24頁</ref> <ref name="siwa_26-33">『[[#天皇賞競走史話|天皇賞競走史話]]』26 - 33頁</ref> <ref name="siwa34-38">『[[#天皇賞競走史話|天皇賞競走史話]]』34 - 38頁</ref> <ref name="siwa_48-75-76">『[[#天皇賞競走史話|天皇賞競走史話]]』48頁、75 - 76頁</ref> <ref name="siwa_59-62">『[[#天皇賞競走史話|天皇賞競走史話]]』59 - 62頁</ref> <ref name="siwa_68-70">『[[#天皇賞競走史話|天皇賞競走史話]]』68 - 70頁</ref> <ref name="siwa_68-76">『[[#天皇賞競走史話|天皇賞競走史話]]』68 - 76頁ほか</ref> <ref name="siwa_70-72">『[[#天皇賞競走史話|天皇賞競走史話]]』70 - 72頁</ref> <ref name="siwa_72-75">『[[#天皇賞競走史話|天皇賞競走史話]]』72 - 75頁</ref> <ref name="siwa_80">『[[#天皇賞競走史話|天皇賞競走史話]]』80頁</ref> <ref name="NRC_Top13">『[[#鈴木|日本レース・クラブ50年史]]』巻頭および13頁</ref> <ref name="NRC_12-38">『[[#鈴木|日本レース・クラブ50年史]]』12 - 38頁</ref> <ref name="NRC_35-38">『[[#鈴木|日本レース・クラブ50年史]]』35 - 38頁</ref> <ref name="NRC_56-57">『[[#鈴木|日本レース・クラブ50年史]]』56 - 57頁</ref> <ref name="NRC_57">『[[#鈴木|日本レース・クラブ50年史]]』57頁ほか</ref> <ref name="NRC_60-62">『[[#鈴木|日本レース・クラブ50年史]]』60 - 62頁「帝室御賞典競走の誕生」</ref> <ref name="keibasi4_963">『[[#日本競馬史|日本競馬史]]』4巻、963頁</ref> <ref name="5hensen">『[[#日本競馬史|日本競馬史]]』5巻、416 - 425頁「帝室御賞典競走の変遷」</ref> <ref name="keibasi5_417">『[[#日本競馬史|日本競馬史]]』5巻417頁</ref> <ref name="keibasi5_420">『[[#日本競馬史|日本競馬史]]』5巻420頁</ref> <ref name="keibasi5_424-425">『[[#日本競馬史|日本競馬史]]』5巻424 - 425頁</ref> <ref name="hyakka_ten">「天皇賞競走」『[[#競馬百科|競馬百科]]』85 - 86頁</ref> <ref name="hyakka_ari">「有馬記念」『[[#競馬百科|競馬百科]]』、86頁</ref> <ref name="JC_2730">『[[#河村|ミスタージャパンカップと呼ばれた男]]』27 - 30頁</ref> <ref name="JC_80154">『[[#河村|ミスタージャパンカップと呼ばれた男]]』80 - 154頁</ref> <ref 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ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe、1749年8月28日 - 1832年3月22日)は、ドイツの詩人、劇作家、小説家、自然科学者、博学者(色彩論、形態学、生物学、地質学、自然哲学、汎神論)、政治家、法律家。ドイツを代表する文豪であり、小説『若きウェルテルの悩み』『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』、叙事詩『ヘルマンとドロテーア』、詩劇『ファウスト』など広い分野で重要な作品を残した。 その文学活動は大きく3期に分けられる。初期のゲーテはヘルダーに教えを受けたシュトゥルム・ウント・ドラングの代表的詩人であり、25歳のときに出版した『若きウェルテルの悩み』でヨーロッパ中にその文名を轟かせた。その後ヴァイマル公国の宮廷顧問(その後枢密顧問官・政務長官つまり宰相も務めた)となりしばらく公務に没頭するが、シュタイン夫人との恋愛やイタリアへの旅行などを経て古代の調和的な美に目覚めていき、『エグモント』『ヘルマンとドロテーア』『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』などを執筆、シラーとともにドイツ文学における古典主義時代を築いていく。 シラーの死を経た晩年も創作意欲は衰えず、公務や自然科学研究を続けながら『親和力』『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』『西東詩集』など円熟した作品を成した。大作『ファウスト』は20代から死の直前まで書き継がれたライフ・ワークである。ほかに旅行記『イタリア紀行』、自伝『詩と真実』や、自然科学者として「植物変態論」、「色彩論」などの著作を残している。 ゲーテ (Goethe) のドイツ語での発音は日本人には難しいこともあり、日本語表記は、古くは「ギョエテ」「ゲョエテ」「ギョーツ」「グーテ」「ゲエテ」など数十種類にものぼる表記が存在した。このことを諷して斎藤緑雨が「ギョエテとは俺のことかとゲーテ言い」と言ったというが、その出典は明らかではない。 矢崎源九郎は、29通りの表記があるとした。 以下は、品川力(しながわつとむ 1904 - 2006)による45通りの表記である。 ヴィテー,ヴーテー,ギェーテ,ギオーテ,ギューテ,ギュエテ,ギョウテ,ギョエテ,ギョーツ,ギョーテ(ギョーテー),ギョオテ,ギョート,ギョテ(ギョテー),ギョテーイ,ギョヲテ,グウイーテ,グーテ,ゲイテ,ゲエテ,ゲーテ,ケーテー,ゲエテー,ゲーテー,ゲォエテ,ゲテ,ゲョーテ,ゲョテー,ゲヱテー,ゴアタ,ゴイセ,ゴエテ(ゴヱテ),ふをぬ、げえて,及義的,歌徳,俄以得,俄義的,葛徳,驚天,暁蛙亭,芸陽亭,芸亭,芸天,就是葛徳,倪提以,哥徳 1749年8月28日、自由帝国都市であったフランクフルト・アム・マインの裕福な家庭にヨハン・ヴォルフガング・ゲーテとして生まれる。父方の家系はもとは蹄鉄工を家業としていたが、ゲーテの祖父にあたるフリードリヒ・ゲオルク・ゲーテはフランスで仕立て職人としての修業を積んだ後、フランクフルトで旅館経営と葡萄酒の取引で成功し大きな財を成した。その次男であるヨハン・カスパーがゲーテの父にあたる。彼は大学を出たのちにフランクフルト市の要職を志したがうまく行かず、枢密顧問官の称号を買い取った後は職に就かず文物の蒐集に没頭していた。母エリーザベトの実家テクストーア家は代々法律家を務める声望ある家系であり、母方の祖父は自由都市フランクフルトの最高の地位である市長も務めた。ゲーテは長男であり、ゲーテの生誕した翌年に妹のコルネーリアが生まれている。その後さらに3人の子供が生まれているがみな夭折し、ゲーテは2人兄妹で育った。ゲーテ家は明るい家庭的な雰囲気であり、少年時代のゲーテも裕福かつ快濶な生活を送った。当時のフランクフルトの多くの家庭と同じく宗派はプロテスタントであった。 父は子供たちの教育に関心を持ち、幼児のときから熱心に育てた。ゲーテは3歳の時に私立の幼稚園に入れられ、読み書きや算数などの初等教育を受けた。5歳から寄宿制の初等学校に通うが、7歳のとき天然痘にかかって実家に戻り、以後は父が家庭教師を呼んで語学や図画、乗馬、カリグラフィー、演奏、ダンスなどを学ばせた。ゲーテは語学に長けており、少年時代にはすでに英語、フランス語、イタリア語、ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語を習得している。少年時代のゲーテは読書を好み、『テレマック』や『ロビンソン・クルーソー』などの物語を始め手当たり次第に書物を読んだ(その中には『ファウスト』の民衆本も含まれる)。詩作が評判であったのも幼少の頃からであり、最も古いものではゲーテが8歳の時、母方の祖父母に宛てて書いた新年の挨拶の詩が残っている。 14歳の時、ゲーテは近所の料理屋の娘の親戚でグレートヒェンという年上の娘に初恋をするも、失恋に終わる。なおこのグレートヒェンの名前はゲーテの代表作『ファウスト』の第一部のヒロインの名に取られている。 1765年、ゲーテは16歳にして故郷を離れライプツィヒ大学の法学部に入学することになる。これは法学を学ばせて息子を出世させたいという父親の意向であるが、ゲーテ自身はゲッティンゲンで文学研究をしたかったと回顧している。ゲーテは「フォイアークーゲル」という名の大きな家に二間続きの部屋を借りて、最新のロココ調の服を着て都会風の生活をし、法学の勉強には身が入らなかった。この時期、ゲーテは通っていたレストランの娘で2、3歳年上のアンナ・カトリーナ・シェーンコプフ(愛称ケートヒェン)に恋をし、『アネッテ』という詩集を編んでいる。 しかし都会的で洗練された彼女に対するゲーテの嫉妬が彼女を苦しめることになり、この恋愛は破局に終わった。 ゲーテは3年ほどライプツィヒ大学に通ったが、その後病魔に襲われてしまい、退学を余儀なくされた(病名は不明であるが、症状から結核と見られている)。19歳のゲーテは故郷フランクフルトに戻り、その後1年半ほどを実家で療養することになる。この頃、ゲーテは母方の親戚スザンナ・フォン・クレッテンベルクと知り合った。彼女は真の信仰を魂の救済に見出そうとするヘルンフート派の信者であり、彼女との交流はゲーテが自身の宗教観を形成する上で大きな影響を与えた(後の『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』の第六部「美しい魂の告白」は彼女との対話と手紙から成っている)。またこの頃ゴットフリート・アルノルトの『教会と異端の歴史』を通じて異端とされてきた様々な説を学び、各々が自分の信じるものを持つことこそが真の信仰であるという汎神論的な宗教観を持つに至った。 またゲーテはこの時期に自然科学に興味を持ち、実験器具を買い集めて自然科学研究にも精を出している。ゲーテは地質学から植物学、気象学まで自然科学にも幅広く成果を残しているが、既にこの頃にはその基礎を作り上げていた。 1770年、ゲーテは改めて勉学へ励むため、フランス的な教養を身につけさせようと考えた父の薦めもあってフランス領シュトラースブルク大学に入学した。この地で学んだ期間は一年少しと短かったが、ゲーテは多くの友人を作ったほか、作家、詩人としての道を成す上での重要な出会いを体験している。とりわけ大きいのがヨハン・ゴットフリート・ヘルダーとの出会いである。ヘルダーはゲーテより5歳年長であるに過ぎなかったが、理性と形式を重んじる従来のロココ的な文学からの脱却を目指し、自由な感情の発露を目指すシュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)運動の立役者であり、既に一流の文芸評論家として名声もあった。当時無名の学生であったゲーテは彼のもとへ足繁く通い、ホメロスやシェークスピアの真価や聖書、民謡(フォルクス・リート)の文学的価値など、様々な新しい文学上の視点を教えられ、作家・詩人としての下地を作っていった。 またこの時期、ゲーテはフリーデリケ・ブリオンという女性と恋に落ちている。彼女はシュトラースブルクから30キロほど離れたゼーゼンハイムという村の牧師の娘であり、ゲーテは友人と共に馬車で旅行に出た際に彼女と出会った。彼女との恋愛から「野ばら」や「五月の歌」などの「体験詩」と呼ばれる抒情詩が生まれるが、しかしゲーテは結婚を望んでいたフリーデリケとの恋愛を自ら断ち切ってしまう。この出来事は後の『ファウスト』に書かれたグレートヒェンの悲劇の原型になったとも言われている。 1771年8月、22歳のゲーテは無事に学業を終え故郷フランクフルトに戻った。しかし父の願うような役所の仕事には就けなかったため、弁護士の資格を取り書記を一人雇って弁護士事務所を開設した。友人、知人が顧客を回してくれたため当初から仕事はそこそこあったが、しかしゲーテは次第に仕事への興味を失い文学活動に専念するようになった。ゲーテは作家のヨハン・ハインリヒ・メルクと知り合って彼の主宰する『フランクフルト学報』に文芸評論を寄せ、またこの年の10月から11月にかけて処女戯曲『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』の初稿を書き上げた。しかし本業をおいて文学活動に没頭する息子を心配した父により、ゲーテは法学を再修得するために最高裁判所のあったヴェッツラーへと送られることになった。 1772年4月にヴェッツラーに移ったゲーテは、ここでも法学には取り組まず、むしろ父から離れて文学に専念できることを喜んだ。ヴェッツラーはフランクフルトの北方に位置する小さな村であったが、ドイツ諸邦から有望な若者が集まっており、ゲーテは特にヨハン・クリスティアン・ケストナーやカール・イェルーザレムと親しい仲となった。6月9日、ゲーテはヴェッツラー郊外で開かれた舞踏会で19歳の少女シャルロッテ・ブッフに出会い熱烈な恋に落ちた。ゲーテは毎晩彼女の家を訪問するようになるが、まもなく彼女は友人ケストナーと婚約中の間柄であることを知る。ゲーテはあきらめきれず彼女に何度も手紙や詩を送り思いのたけを綴ったが、彼女を奪い去ることもできず、9月11日に誰にも知らせずにヴェッツラーを去った。 フランクフルトに戻ったゲーテは、表向きは再び弁護士となったが、シャルロッテのことを忘れられず苦しい日々を送った。シャルロッテの結婚が近づくと自殺すら考えるようになり、ベッドの下に短剣を忍ばせ毎夜自分の胸につき立てようと試みたという。そんな折、ヴェッツラーの友人イェルーザレムがピストル自殺したという報が届いた。原因は人妻との失恋である。この友人の自殺とシャルロッテへの恋という2つの体験が、ゲーテに『若きウェルテルの悩み』の構想を抱かせることとなった。 続く3年間をゲーテはフランクフルトで過ごしたが、この間にゲーテの文名を一気に世界的に高めることになる二つの作品が成立した。まずゲーテは『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』を改作したうえでメルクの援助を受けて1773年7月に自費出版を行なうが、この作品はすぐに評判となりほどなくドイツ中の注目を集めた。そして1774年9月、ヴェッツラーでの体験をもとにした書簡体小説『若きウェルテルの悩み』が出版されると若者を中心に熱狂的な読者が集まり、主人公ウェルテル風の服装や話し方が流行し、また作品の影響で青年の自殺者が急増するといった社会現象を起こし、ドイツを越えてヨーロッパ中にゲーテの名を轟かせることになった。また生涯をかけて書き継がれていくことになる『ファウスト』に着手したのもこの頃である。 この2作品によってシュトゥルム・ウント・ドラングの中心作家となったゲーテは、フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービとその兄ヨハン・ゲオルク・ヤコービ、ヨハン・カスパー・ラヴァーター、レッシング、クロプシュトックなど当代一流の文人たちと交流を持つようになった。また知見を広げるため、ヨーロッパ各地へ旅行も活発にし、1774年7月からはラーヴァーターと教育学者バーゼドといった友人たちと、ライン地方へ講演旅行に行っている。1774年12月には、後にゲーテを自国ヴァイマル公国に招くことになるカール・アウグスト公がパリ旅行の途上でフランクフルトのゲーテを訪問している。 このような中でゲーテはフランクフルト屈指の銀行家の娘であるリリー・シェーネマン(Lili Schönemann)と新たな恋に落ちた。1775年4月にはリリーの友人である女性実業家デルフの仲介によって婚約に至るが、しかし宗派や考え方の違いから両家の親族間のそりが合わず、この婚約も難航した。婚約直後にゲーテはしがらみから逃れるようにして単身でスイス旅行に行き、リリーへの思いを詩に託したが、結局この年の秋に婚約は解消することになった。リリーへの愛の中で味わった喜びと不安、苦悩は、アウグステ・ルイーゼ・ツー・シュトルベルク(Auguste Louise zu Stolberg)に宛てて記された「しばしば異常な情熱をこめた」(富士川英郎)書簡、いわゆる「グストヒェンへの手紙」(Briefe an Gustgen)に吐露されている。 1775年11月、ゲーテはカール・アウグスト公からの招請を受け、その後永住することになるヴァイマルに移った。当初はゲーテ自身短い滞在のつもりでおり、招きを受けた際もなかなか迎えがこなかったためイタリアへ向かってしまい、その途上のハイデルベルクのデルフ宅でヴァイマルからの連絡を受けあわてて引き返したほどであった。 当時のヴァイマル公国は面積1900平方キロメートル、人口6000人程度の小国であり、農民と職人に支えられた貧しい国であった。本来アウグスト公の住居となるはずの城も火災で焼け落ちたまま廃墟となっており、ゲーテの住まいも公爵に拝領した質素な園亭であった。アウグスト公は当時まだ18歳で、父エルンスト・アウグスト2世は17年前に20歳の若さで死亡し、代りに皇太后アンナ・アマーリア(アウグスト公の母親)が政務を取り仕切っていた。彼女は国の復興に力を注ぎ、詩人ヴィーラントを息子アウグストの教育係として招いたほか多くの優れた人材を集めていた。 26歳のゲーテはアウグスト公から兄のように慕われ、彼と共に狩猟や乗馬、ダンスや演劇を楽しんだ。王妃からの信頼も厚く、また先輩詩人ヴィーラントを始め多くの理解者に囲まれ、次第にこの地に留まりたいという思いを強くしていった。到着から半年後、ゲーテは公国の閣僚となりこの地に留まることになったが、ゲーテをこの地にもっとも強く引き付けたのはシャルロッテ・フォン・シュタイン夫人との恋愛であった。 ゲーテとシュタイン夫人との出会いは、ゲーテがヴァイマールに到着した数日後のことであった。彼女はヴァイマールの主馬頭の妻で、この時ゲーテよりも7つ上の33歳であり、すでに7人の子供がいた。しかしゲーテは彼女の調和的な美しさに惹かれ、彼女の元に熱心に通い、また多くの手紙を彼女に向けて書いた。すでに夫との仲が冷め切っていた夫人も青年ゲーテを暖かく迎え入れ、この恋愛はゲーテがイタリア旅行を行なうまで12年にも及んだ。この恋愛によってゲーテの無数の詩が生まれただけでなく、後年の『イフィゲーニエ』や『タッソー』など文学作品も彼女からの人格的な影響を受けており、ゲーテの文学がシュトルム・ウント・ドラングから古典主義へと向かっていく契機となった。 シュタイン夫人との恋愛が続いていた10年は同時にゲーテが政務に没頭した10年でもあり、この間は文学的には空白期間である。1780年の31歳の時、フランクフルトのロッジにてフリーメイソンに入会。4年後に書かれた「秘密」という叙事詩にはフリーメイソンをモデルとした秘密結社を登場させている。ゲーテは着実にヴァイマル公国の政務を果たし、1782年には神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世により貴族に列せられヴァイマル公国の宰相となった(以後、姓に貴族を表す「フォン」が付き、「ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ」と呼ばれるようになる)。政治家としてのゲーテはヴァイマル公国の産業の振興を図るとともに、イェーナ大学の人事を担当してシラー、フィヒテ、シェリングら当時の知識人を多数招聘し、ヴァイマル劇場の総監督としてシェイクスピアやカルデロンらの戯曲を上演し、文教政策に力を注いだ。 1786年、ゲーテはアウグスト公に無期限の休暇を願い出、9月にイタリアへ旅立った。もともとゲーテの父がイタリア贔屓であったこともあり、ゲーテにとってイタリアはかねてからの憧れの地であった。出発時ゲーテはアウグスト公にもシュタイン夫人にも行き先を告げておらず、イタリアに入ってからも名前や身分を偽って行動していた。出発時にイタリア行きを知っていたのは召使のフィリップ・ザイテルただ一人で、このことは帰国後シュタイン夫人との仲が断絶する原因となった。 ゲーテはまずローマに宿を取り、その後ナポリ、シチリア島を訪れるなどし、結局2年もの間イタリアに滞在していた。ゲーテはイタリア人の着物を着、イタリア語を流暢に操りこの地の芸術家と交流した。その間に友人の画家ティシュバインの案内で美術品を見に各地を訪れ、特に古代の美術品を熱心に鑑賞した。午前中はしばらく滞っていた文学活動に精を出し、1787年1月には『イフィゲーニエ』をこの地で完成させ、さらに『タッソー』『ファウスト断片』を書き進めている。また旅行中に読んだベンヴェヌート・チェッリーニの自伝を帰国後にドイツ語に訳し、約30年後にはイタリア滞在中の日記や書簡をもとに『イタリア紀行』を著した。 1788年にイタリア旅行から帰ったゲーテは芸術に対する思いを新たにしており、宮廷の人々との間に距離を感じるようになった。ゲーテはしばらく公務から外れたが、イタリア旅行中より刊行が始まった著作集は売れ行きが伸びず、ゲーテを失望させることになる。なお帰国してから2年後の1790年に2度目のイタリア旅行を行なっているが、1回目とは逆に幻滅を感じ数ヶ月で帰国している。 最初のイタリア旅行から戻った直後の1788年7月、ゲーテのもとにクリスティアーネ・ヴルピウスという23歳になる女性が訪れ、イェーナ大学を出ていた兄の就職の世話を頼んだ。彼女を見初めたゲーテは彼女を恋人にし、後に自身の住居に引き取って内縁の妻とした。帰国後まもなく書かれた連詩『ローマ哀歌』も彼女への恋心をもとに書かれたものである。しかし身分違いの恋愛は社交界の憤激の的となり、シュタイン夫人との決裂を決定的にすることになる。1789年には彼女との間に長男アウグストも生まれているが、ゲーテは1806年まで彼女と籍を入れなかった。なおゲーテとクリスティアーネの間にはその後4人の子供が生まれたがいずれも早くに亡くなり、長じたのはアウグスト一人である。 フランス革命に対しては、ゲーテは当初その自由を希求する精神に共感したが、その後革命自体が辿った無政府状態に対しては嫌悪を感じていた。 1792年7月にフランスがドイツに宣戦布告すると、プロイセン王国の甲騎兵連隊長であったアウグスト公に連れ立ってゲーテも従軍し、ヴァルミーの戦いに参加した。この戦いにおけるフランス革命軍の勝利に対し、 との言葉を残した。 また、1793年5月には、フランスに占領されたマインツの包囲軍に従軍している。 ゲーテとフリードリヒ・シラーは、共にドイツ文学史におけるシュトゥルム・ウント・ドラングとヴァイマル古典主義(「ドイツ古典主義」、「擬古典主義」などとも)を代表する作家として並び称されるが、出合った当初はお互いの誤解もあって打ち解けた仲とはならなかった。ゲーテは1788年にシラーをイェーナ大学の歴史学教授として招聘しているが、その後1791年にシラーが『群盗』を発表すると、すでに古典の調和的な美へと向かっていたゲーテは『群盗』の奔放さに反感を持ち、10歳年下のシラーに対して意識的に距離を置くようにしていた。シラーのほうもゲーテの冷たい態度を感じ、一時はゲーテに対し反感を持っていた。 だがその後1794年のイェーナにおける植物学会で言葉を交わすとゲーテはシラーが自身の考えに近づいていることを感じ、以後急速に距離を縮めていった。この年の6月13日にはシラーが主宰する『ホーレン』への寄稿を行っており、1796年には詩集『クセーニエン』(Xenien)を共同制作し、2行連詩形式(エピグラム)によって当時の文壇を辛辣に批評した。こうして互いに友情を深めるに連れ、2人はドイツ文学における古典主義時代を確立していくことになった。 この当時、自然科学研究にのめりこんでいたゲーテを励まし、「あなたの本領は詩の世界にあるのです」といってその興味を詩作へと向けさせたのもシラーであった。ゲーテはシラーからの叱咤激励を受けつつ、1796年に教養小説の傑作『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』を、翌年にはドイツの庶民層に広く読まれることになる叙事詩『ヘルマンとドロテーア』を完成させた。1799年にはシラーはヴァイマルへ移住し、二人の交流はますます深まる。また『ファウスト断片』を発表して以来、長らく手をつけずにいた『ファウスト』の執筆をうながしたのもまたシラーである。ゲーテは後に「シラーと出会っていなかったら、『ファウスト』は完成していなかっただろう」と語っている。 1805年5月9日、シラーは肺病のため若くして死去する。シラーの死の直前までゲーテはシラーに対して文学的助言を求める手紙を送付している。周囲の人々はシラーの死が与える精神的衝撃を憂慮し、ゲーテになかなかシラーの訃報を伝えられなかったという。実際にシラーの死を知ったゲーテは「自分の存在の半分を失った」と嘆き病に伏せっている。一般にドイツ文学史における古典主義時代は、ゲーテのイタリア旅行(1786年)に始まり、このシラーの死をもって終わるとされている。なお1794年からシラーが没するまでの約11年間で交わされた書簡は1000通余りである(訳書は下記)。 1806年、イエナ・アウエルシュタットの戦いに勝利したナポレオン軍がヴァイマルに侵攻した。この際酔っ払ったフランス兵がゲーテ宅に侵入して狼藉を働いたが、未だ内縁の妻であったクリスティアーネが駐屯していた兵士と力を合わせてゲーテを救った。ゲーテはその献身的な働きに心を打たれ、また自身の命の不確かさをも感じ、20年もの間籍を入れずにいたクリスティアーネと正式に結婚することに決めた。カール・アウグスト公が結婚の保証人となり、式は2人だけで厳かに行なわれた。 また1808年にナポレオンの号令によってヨーロッパ諸侯がエアフルトに集められると、アウグスト公に連れ立ってゲーテもこの地に向かい、ナポレオンと歴史的対面を果たしている。『若きウェルテルの悩み』の愛読者であったナポレオンはゲーテを見るなり「ここに人有り!(Voila un homme!)」と叫び感動を表した。 晩年のゲーテは腎臓を病み、1806年より頻繁にカールスバートに湯治に出かけるようになる。ここで得た安らぎや様々な交流は晩年の創作の原動力となった。1806年には長く書き継がれてきた『ファウスト』第1部がようやく完成し、コッタ出版の全集に収録される形で発表された。1807年にはヴィルヘルミーネ・ヘルツリープという18歳の娘に密かに恋をし、このときの体験から17編のソネットが書かれ、さらにこの恋愛から二組の男女の悲劇的な恋愛を描いた小説『親和力』(1809年)が生まれている。またこの年から自叙伝『詩と真実』の執筆を開始し、翌年には色彩の研究をまとめた『色彩論』を刊行している。1811年『詩と真実』を刊行。1816年、妻クリスティアーネが尿毒症による長い闘病の末に先立つ。 1817年、30年前のイタリア旅行を回想しつつ書いた『イタリア紀行』を刊行した。最晩年のゲーテは文学は世界的な視野を持たねばならないと考えるようになり、エマーソンなど多くの国外の作家から訪問を受け、バイロンに詩を送り、ユーゴー、スタンダールなどのフランス文学を読むなどしたほか、オリエントの文学に興味を持ってコーランやハーフェズの詩を愛読した。このハーフェズに憧れてみずから執筆した詩が『西東詩集』(1819年)である。 1821年『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』刊行。『修業時代』の続編であり、この作品では夢想的な全体性を否定し「諦念」の徳を説いている。またこの年、ゲーテはマリーエンバートの湯治場でウルリーケ・フォン・レヴェツォーという17歳の少女に最後の熱烈な恋をした。1823年にはアウグスト公を通じて求婚するも断られており、この60歳も年下の少女への失恋から「マリーエンバート悲歌」などの詩が書かれた。 1828年十月二十三日、ヨハン・ペーター・エッカーマンに対して、ドイツの統一と自由の交流を望んでいるが、政治的中央集権は望んでいないと語っている。続けて彼は、心臓では血流は強大だが、肢体では弱い、と中央集権を人体に譬え、隣国のフランスではパリから離れた所は殆ど発展していないが、ドイツの偉大な所は立派な国民文化が各地に均等に行き渡っている所であり、もしドレースデンやミュンヘンや、シュトゥットガルトやカッセルやブラウンシュヴァイク、ハノーファーといった都市が諸侯の居住地でなかったらば、もしフランクフルトやブレーメンやハンブルク、リューベックといった見事で大きな都市が大国の地方都市として併合されていたら、今日の姿と同様であるかは疑わしい、と述べている。 1830年10月、息子アウグスト・フォン・ゲーテが、旅先のローマにて病没し先立たれる。 ゲーテは死の直前まで『ファウスト 第2部』完成に精力を注ぎ、完成の翌1832年3月22日にその多産な生涯を終えた。「もっと光を!(Mehr Licht!)」が最後の言葉と伝えられている。墓はヴァイマル大公墓所(ドイツ語版)(Weimarer Fürstengruft)内にあり、シラーと隣り合わせになっている。 ゲーテは学生時代から自然科学研究に興味を持ち続け、文学活動や公務の傍らで人体解剖学、植物学、地質学、光学などの著作・研究を残している。20代のころから骨相学の研究者ヨハン・カスパー・ラヴァーターと親交のあったゲーテは骨学に造詣が深く、1784年にはそれまでヒトにはないと考えられていた前顎骨がヒトでも胎児の時にあることを発見し比較解剖学に貢献している。 自然科学についてゲーテの思想を特徴付けているのは原型(Urform)という概念である。ゲーテはまず骨学において、すべての骨格器官の基になっている「元器官」という概念を考え出し、脊椎がこれにあたると考えていた。1790年に著した「植物変態論」ではこの考えを植物に応用し、すべての植物は唯一つの「原植物」(独:de:Urpflanze)から発展したものと考え、また植物の花を構成する花弁や雄しべ等の各器官は様々な形に変化した「葉」が集合してできた結果であるとした。このような考えからゲーテはリンネの分類学を批判し、「形態学(Morphologie)」と名づけた新しい学問を提唱したが、これは進化論の先駆けであるとも言われている。 またゲーテは20代半ばのころ、ワイマール公国の顧問官としてイルメナウ鉱山を視察したことから鉱山学、地質学を学び、イタリア滞在中を含め生涯にわたって各地の石を蒐集しており、そのコレクションは1万9000点にも及んでいる。なお針鉄鉱の英名「ゲータイト(goethite)」はゲーテの名にちなむものであり、ゲーテと親交のあった鉱物学者によって1806年に名づけられた。 晩年のゲーテは光学の研究に力を注いだ。1810年に発表された『色彩論』は20年をかけた大著である。この書物でゲーテは青と黄をもっとも根源的な色とし、また色彩は光と闇との相互作用によって生まれるものと考えてニュートンのスペクトル分析を批判した。ゲーテの色彩論は発表当時から科学者の間でほとんど省みられることがなかったが、ヘーゲルやシェリングはゲーテの説に賛同している。 ゲーテの作品には非常に多くの作曲家が曲を付けている。特に重要なのは『魔王』『野ばら』『糸をつむぐグレートヒェン』『ガニュメート』などのフランツ・シューベルトによる歌曲であり、シューベルトが生涯作曲した600曲もの歌曲のうち70曲ほどがゲーテの作品に付けられた曲である。ゲーテ自身は曲が前面に出すぎて素朴さに欠けるとしてシューベルトの曲をあまり好まなかったが、シューベルトの死後の1830年に『魔王』を聴くと「全体のイメージが眼で見る絵のようにはっきりと浮かんでくる」と感動し評価を改めた。 ゲーテの音楽観は保守的なものであり、たとえば歌曲については民謡を理想とし、カール・フリードリヒ・ツェルターやヨハン・フリードリヒ・ライヒャルトらの作曲を好んだ。他にゲーテが評価した音楽家としてはヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトがおり、『ファウスト』に曲をつける権利があるのはモーツァルトだけだとも語っていた(エッカーマン『ゲーテとの対話』)。モーツァルトに言及した多くの文章も残っており、特に彼の音楽を「悪魔が人間を惑わすためにこの世に送り込んだ音楽」と評した言葉はよく知られている。モーツァルトのゲーテ歌曲には『すみれ』があり、特に早いゲーテ歌曲の一つであるが、モーツァルトは作曲した時ゲーテの作だとは知らなかった。 またゲーテはルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンにも高い評価を与えていた。初めて『運命』を聴いたときには非常に動揺し、「みんなが一斉にあんな音を同時に演奏したらどうなってしまうのだ、建物が壊れてしまうではないか」と言っていた(前掲書より)。ベートーヴェンもゲーテを尊敬し劇音楽『エグモント』やカンタータ『静かな海と楽しい航海』などゲーテの作品に曲をつけている。2人は1812年にカールスバートの温泉地で対面しており数日間の交流を持ったが、ゲーテはベートーヴェンの難聴に同情しつつもその陰気さや無礼さを嫌った。ほかにゲーテと親交のあった作曲家にはフェリックス・メンデルスゾーンがおり、序曲『静かな海と楽しい航海』などを作曲している。 ゲーテの作品のなかで最も多く曲が付けられているのは『ファウスト』であり、オペラだけでも50もの作品が作られている。『ファウスト』に基づく音楽で代表的なものは、エクトル・ベルリオーズの『ファウストの劫罰』(1846年)、シャルル・グノーのオペラ『ファウスト』(1859年)、アッリーゴ・ボーイトのオペラ『メフィストーフェレ』(1869年)、ロベルト・シューマンの『ファウストからの情景』(1844年-1859年)、フランツ・リスト の『ファウスト交響曲』(1857年-1880年)、グスタフ・マーラーの『交響曲第8番』(1906年)など。先に挙げたシューベルトの「糸をつむぐグレートヒェン」なども『ファウスト』からの曲である。 この他にゲーテの作品に基づく有名な音楽作品として、シューマン『ミニョンのためのレクイエム』、トマのオペラ『ミニョン』、ブラームスの『ゲーテの「冬のハルツの旅」からの断章』(アルト・ラプソディ)、マスネのオペラ『ウェルテル』、ヴォルフの『ゲーテの詩による歌曲集』、デュカスの『魔法使いの弟子』などがある。特にオペラ化に関しては成功作がフランスに多い。 ゲーテの晩年にはドイツでロマン派の文学が興隆し、その理論的支柱であったシュレーゲル兄弟をはじめ多くのロマン派の作家はゲーテ、シラーを範と仰いだ。しかし晩年「世界文学」を唱えるようになったゲーテはロマン派の国粋的な面を嫌うようになり、「ロマン派は病気だ」と言って批判的な立場を取った。ゲーテが死んだ翌年の1833年にはハインリヒ・ハイネがその死を受けて『ドイツ・ロマン派』を執筆し、同時代のドイツ文学の状況を総括した。 また近代言語学の祖であり『グリム童話』の編者でもあるヤーコプ・グリムが作成した『ドイツ語辞典』にはゲーテの全作品から非常に多くの引用が取られており、辞典の序文には「彼の著作から僅かでも欠如するよりは、他の人々の著作から多く欠如したほうが良い」と書かれている。マルティン・ルターによるドイツ語訳聖書によって大きく発展した現代ドイツ語がゲーテによって完成させられたことは今日では定説となっている(木村直司「ゲーテ像の変遷」)。 ゲーテはフランス革命の際に保守的な反応を取ったことから左翼的な思想の持ち主からはしばしば「偉大な俗物」と言われ批判を受けた。文学史上ではハイネやルートヴィヒ・ベルネ、青年ドイツの作家が彼の批判者である。もっともカール・マルクスは「ゲーテは偉大な詩人であるだけでなく、最も偉大なドイツ人の一人である」と述べており、レーニンもまたゲーテを愛読し、1917年に国外に逃亡した際にはネクラーソフの詩集とともにゲーテの『ファウスト』を携えていった(星野、前掲書)。 ゲーテの名声は19世紀半ばごろ一時下火となったが、1876年に発表されたヘルマン・グリムによる『ゲーテ』によってやや神格化を伴いつつ評価が確立した。1885年にはグリムが中心となってヴァイマルにゲーテ協会が設立され、今日に至るまでゲーテ研究の中心となっている。20世紀に入って以降もゲオルゲ、ホーフマンスタール、リルケらの詩人がゲーテの詩を範と仰ぎあるいそこからは霊感を受けており、特にノーベル文学賞を受賞したトーマス・マンは、ゲーテをドイツ人の代表者として頻繁にエッセイや講演で論じ、後期作品にゲーテが登場する長編『ヴァイマルのロッテ』、範とした『ファウスト博士』を執筆している。1927年にはゲーテを記念しフランクフルト・アム・マインでゲーテ賞が設けられており、戦後ビューヒナー賞にとって替わられるまで長くドイツ文学においてもっとも権威ある賞として機能した(三島憲一「戦後ドイツ」岩波新書)。 スイス生まれのドイツ文学者、作家のアドルフ・ムシュク(1934年生まれ)は、2012年長篇小説『レーヴェンシュテルン』(Löwenstern)を出版した。この作品の主人公ヘルマン・ルートヴィヒ・フォン・レーヴェンシュテルン(Hermann Ludwig von Löwenstern; 1777-1836)は、エストニア人であるが、同郷のロシア海軍提督アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルン(Adam Johann von Krusenstern; 1770-1846)が成し遂げたロシア最初の世界周航(1803-1806)に参加した人物である。レーヴェンシュテルンはこの小説の中で、ワイマールのゲーテを訪れた際に、日本について全く知らなかったゲーテにむかって、書物から得た知識をもとに当時の日本の事情について語ると、ゲーテから実際に日本へ行くようにと勧められたと述懐している 。 小惑星(3047) Goetheはゲーテの名前にちなんで命名された。 1871年(明治4年)に初めて日本でゲーテの名が紹介されたが、本格的な受容が起るのは明治20年代からである。作品の翻訳は1884年(明治17年)、井上勤が『ライネケ狐(de:Reineke Fuchs)』を『狐裁判』として訳したものが最初である(狐物語群#ゲーテのドイツ語作品)。この訳は当初自由出版社から出されていたが、1886年(明治19年)に版権が春陽堂に移って新たな初版が出され、1893年(明治26年)までに5版が出るほどよく読まれた。1889年(明治22年)には森鷗外が訳詩集『於母影』においてゲーテの詩を翻訳し、特にその中の「ミニヨン」の詩は当時の若い詩人たちに大きな影響を与えた。鴎外はゲーテを深く尊敬しており、『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』の翻訳や『ファウスト考』『ギョッツ考』などの論考を著し、1913年(大正2年)には日本初の『ファウスト』完訳を行なっている。 日本では明治20年代から30年代にかけては若手作家の間で「ウェルテル熱」が起り、島崎藤村、平田禿木、戸川秋骨、馬場孤蝶ら『文学界』同人の作家を中心に『若きウェルテルの悩み』が熱心に読まれた。特に島崎藤村は晩年までゲーテを愛読しており、随筆『桃の雫』(1936年)の中でゲーテに対する長年の思いを語っている。外国文学に批判的だった尾崎紅葉も晩年にはゲーテを熱心に読み、「泣いてゆく ヱルテルに会う 朧かな」を辞世の句として残した。また『ウェルテル』と並んで『ファウスト』も若い作家の間で熱心に読まれていた。文壇に「ウェルテル熱」が起る前に早世した北村透谷は『ファウスト』を熱心に読んでおり、『蓬莱曲』などの作品を書く上で大きな影響を受けている。倉田百三は代表作『出家とその弟子』を書く際、鴎外訳の『ファウスト』から様々な影響を受けたことを語っており、国木田独歩も『ファウスト』を熱心に読み影響を受けたことを『欺かざるの記』のなかで繰り返し述べている。他にゲーテを愛読しゲーテについての著述を残している者に長与善郎、堀辰雄、亀井勝一郎などがおり(以上、星野『ゲーテ』より)、水木しげるもゲーテの言動についてのエッセイを著している。 1931年(昭和6年)には日本ゲーテ協会が創設され、ドイツ文学の研究・紹介を行っている。また関西ゲーテ協会の主催で毎年ゲーテの誕生日の夜に「ゲーテ生誕の夕べ」が開催されており、そこではゲーテにちなんだ歌謡のコンサートや講演が開かれている。京都市には、日独文化交流機構のゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川がある 1964年(昭和39年)には実業家粉川忠によって東京都北区に東京ゲーテ記念館が運営され、日本語の翻訳本や原著だけでなく世界中の訳本や研究書、上演時の衣装などを含む関連資料を所蔵する世界的にも類例のない資料館となっている。 ゲーテ生誕の地であるフランクフルトから、ワイマールを経て、ゲーテが学業に励んだライプツィヒまでの400kmの街道は「ゲーテ街道」と称されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe、1749年8月28日 - 1832年3月22日)は、ドイツの詩人、劇作家、小説家、自然科学者、博学者(色彩論、形態学、生物学、地質学、自然哲学、汎神論)、政治家、法律家。ドイツを代表する文豪であり、小説『若きウェルテルの悩み』『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』、叙事詩『ヘルマンとドロテーア』、詩劇『ファウスト』など広い分野で重要な作品を残した。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "その文学活動は大きく3期に分けられる。初期のゲーテはヘルダーに教えを受けたシュトゥルム・ウント・ドラングの代表的詩人であり、25歳のときに出版した『若きウェルテルの悩み』でヨーロッパ中にその文名を轟かせた。その後ヴァイマル公国の宮廷顧問(その後枢密顧問官・政務長官つまり宰相も務めた)となりしばらく公務に没頭するが、シュタイン夫人との恋愛やイタリアへの旅行などを経て古代の調和的な美に目覚めていき、『エグモント』『ヘルマンとドロテーア』『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』などを執筆、シラーとともにドイツ文学における古典主義時代を築いていく。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "シラーの死を経た晩年も創作意欲は衰えず、公務や自然科学研究を続けながら『親和力』『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』『西東詩集』など円熟した作品を成した。大作『ファウスト』は20代から死の直前まで書き継がれたライフ・ワークである。ほかに旅行記『イタリア紀行』、自伝『詩と真実』や、自然科学者として「植物変態論」、「色彩論」などの著作を残している。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ゲーテ (Goethe) のドイツ語での発音は日本人には難しいこともあり、日本語表記は、古くは「ギョエテ」「ゲョエテ」「ギョーツ」「グーテ」「ゲエテ」など数十種類にものぼる表記が存在した。このことを諷して斎藤緑雨が「ギョエテとは俺のことかとゲーテ言い」と言ったというが、その出典は明らかではない。", "title": "表記と読み" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "矢崎源九郎は、29通りの表記があるとした。", "title": "表記と読み" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "以下は、品川力(しながわつとむ 1904 - 2006)による45通りの表記である。", "title": "表記と読み" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ヴィテー,ヴーテー,ギェーテ,ギオーテ,ギューテ,ギュエテ,ギョウテ,ギョエテ,ギョーツ,ギョーテ(ギョーテー),ギョオテ,ギョート,ギョテ(ギョテー),ギョテーイ,ギョヲテ,グウイーテ,グーテ,ゲイテ,ゲエテ,ゲーテ,ケーテー,ゲエテー,ゲーテー,ゲォエテ,ゲテ,ゲョーテ,ゲョテー,ゲヱテー,ゴアタ,ゴイセ,ゴエテ(ゴヱテ),ふをぬ、げえて,及義的,歌徳,俄以得,俄義的,葛徳,驚天,暁蛙亭,芸陽亭,芸亭,芸天,就是葛徳,倪提以,哥徳", "title": "表記と読み" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1749年8月28日、自由帝国都市であったフランクフルト・アム・マインの裕福な家庭にヨハン・ヴォルフガング・ゲーテとして生まれる。父方の家系はもとは蹄鉄工を家業としていたが、ゲーテの祖父にあたるフリードリヒ・ゲオルク・ゲーテはフランスで仕立て職人としての修業を積んだ後、フランクフルトで旅館経営と葡萄酒の取引で成功し大きな財を成した。その次男であるヨハン・カスパーがゲーテの父にあたる。彼は大学を出たのちにフランクフルト市の要職を志したがうまく行かず、枢密顧問官の称号を買い取った後は職に就かず文物の蒐集に没頭していた。母エリーザベトの実家テクストーア家は代々法律家を務める声望ある家系であり、母方の祖父は自由都市フランクフルトの最高の地位である市長も務めた。ゲーテは長男であり、ゲーテの生誕した翌年に妹のコルネーリアが生まれている。その後さらに3人の子供が生まれているがみな夭折し、ゲーテは2人兄妹で育った。ゲーテ家は明るい家庭的な雰囲気であり、少年時代のゲーテも裕福かつ快濶な生活を送った。当時のフランクフルトの多くの家庭と同じく宗派はプロテスタントであった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "父は子供たちの教育に関心を持ち、幼児のときから熱心に育てた。ゲーテは3歳の時に私立の幼稚園に入れられ、読み書きや算数などの初等教育を受けた。5歳から寄宿制の初等学校に通うが、7歳のとき天然痘にかかって実家に戻り、以後は父が家庭教師を呼んで語学や図画、乗馬、カリグラフィー、演奏、ダンスなどを学ばせた。ゲーテは語学に長けており、少年時代にはすでに英語、フランス語、イタリア語、ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語を習得している。少年時代のゲーテは読書を好み、『テレマック』や『ロビンソン・クルーソー』などの物語を始め手当たり次第に書物を読んだ(その中には『ファウスト』の民衆本も含まれる)。詩作が評判であったのも幼少の頃からであり、最も古いものではゲーテが8歳の時、母方の祖父母に宛てて書いた新年の挨拶の詩が残っている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "14歳の時、ゲーテは近所の料理屋の娘の親戚でグレートヒェンという年上の娘に初恋をするも、失恋に終わる。なおこのグレートヒェンの名前はゲーテの代表作『ファウスト』の第一部のヒロインの名に取られている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1765年、ゲーテは16歳にして故郷を離れライプツィヒ大学の法学部に入学することになる。これは法学を学ばせて息子を出世させたいという父親の意向であるが、ゲーテ自身はゲッティンゲンで文学研究をしたかったと回顧している。ゲーテは「フォイアークーゲル」という名の大きな家に二間続きの部屋を借りて、最新のロココ調の服を着て都会風の生活をし、法学の勉強には身が入らなかった。この時期、ゲーテは通っていたレストランの娘で2、3歳年上のアンナ・カトリーナ・シェーンコプフ(愛称ケートヒェン)に恋をし、『アネッテ』という詩集を編んでいる。 しかし都会的で洗練された彼女に対するゲーテの嫉妬が彼女を苦しめることになり、この恋愛は破局に終わった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ゲーテは3年ほどライプツィヒ大学に通ったが、その後病魔に襲われてしまい、退学を余儀なくされた(病名は不明であるが、症状から結核と見られている)。19歳のゲーテは故郷フランクフルトに戻り、その後1年半ほどを実家で療養することになる。この頃、ゲーテは母方の親戚スザンナ・フォン・クレッテンベルクと知り合った。彼女は真の信仰を魂の救済に見出そうとするヘルンフート派の信者であり、彼女との交流はゲーテが自身の宗教観を形成する上で大きな影響を与えた(後の『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』の第六部「美しい魂の告白」は彼女との対話と手紙から成っている)。またこの頃ゴットフリート・アルノルトの『教会と異端の歴史』を通じて異端とされてきた様々な説を学び、各々が自分の信じるものを持つことこそが真の信仰であるという汎神論的な宗教観を持つに至った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "またゲーテはこの時期に自然科学に興味を持ち、実験器具を買い集めて自然科学研究にも精を出している。ゲーテは地質学から植物学、気象学まで自然科学にも幅広く成果を残しているが、既にこの頃にはその基礎を作り上げていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1770年、ゲーテは改めて勉学へ励むため、フランス的な教養を身につけさせようと考えた父の薦めもあってフランス領シュトラースブルク大学に入学した。この地で学んだ期間は一年少しと短かったが、ゲーテは多くの友人を作ったほか、作家、詩人としての道を成す上での重要な出会いを体験している。とりわけ大きいのがヨハン・ゴットフリート・ヘルダーとの出会いである。ヘルダーはゲーテより5歳年長であるに過ぎなかったが、理性と形式を重んじる従来のロココ的な文学からの脱却を目指し、自由な感情の発露を目指すシュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)運動の立役者であり、既に一流の文芸評論家として名声もあった。当時無名の学生であったゲーテは彼のもとへ足繁く通い、ホメロスやシェークスピアの真価や聖書、民謡(フォルクス・リート)の文学的価値など、様々な新しい文学上の視点を教えられ、作家・詩人としての下地を作っていった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "またこの時期、ゲーテはフリーデリケ・ブリオンという女性と恋に落ちている。彼女はシュトラースブルクから30キロほど離れたゼーゼンハイムという村の牧師の娘であり、ゲーテは友人と共に馬車で旅行に出た際に彼女と出会った。彼女との恋愛から「野ばら」や「五月の歌」などの「体験詩」と呼ばれる抒情詩が生まれるが、しかしゲーテは結婚を望んでいたフリーデリケとの恋愛を自ら断ち切ってしまう。この出来事は後の『ファウスト』に書かれたグレートヒェンの悲劇の原型になったとも言われている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1771年8月、22歳のゲーテは無事に学業を終え故郷フランクフルトに戻った。しかし父の願うような役所の仕事には就けなかったため、弁護士の資格を取り書記を一人雇って弁護士事務所を開設した。友人、知人が顧客を回してくれたため当初から仕事はそこそこあったが、しかしゲーテは次第に仕事への興味を失い文学活動に専念するようになった。ゲーテは作家のヨハン・ハインリヒ・メルクと知り合って彼の主宰する『フランクフルト学報』に文芸評論を寄せ、またこの年の10月から11月にかけて処女戯曲『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』の初稿を書き上げた。しかし本業をおいて文学活動に没頭する息子を心配した父により、ゲーテは法学を再修得するために最高裁判所のあったヴェッツラーへと送られることになった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1772年4月にヴェッツラーに移ったゲーテは、ここでも法学には取り組まず、むしろ父から離れて文学に専念できることを喜んだ。ヴェッツラーはフランクフルトの北方に位置する小さな村であったが、ドイツ諸邦から有望な若者が集まっており、ゲーテは特にヨハン・クリスティアン・ケストナーやカール・イェルーザレムと親しい仲となった。6月9日、ゲーテはヴェッツラー郊外で開かれた舞踏会で19歳の少女シャルロッテ・ブッフに出会い熱烈な恋に落ちた。ゲーテは毎晩彼女の家を訪問するようになるが、まもなく彼女は友人ケストナーと婚約中の間柄であることを知る。ゲーテはあきらめきれず彼女に何度も手紙や詩を送り思いのたけを綴ったが、彼女を奪い去ることもできず、9月11日に誰にも知らせずにヴェッツラーを去った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "フランクフルトに戻ったゲーテは、表向きは再び弁護士となったが、シャルロッテのことを忘れられず苦しい日々を送った。シャルロッテの結婚が近づくと自殺すら考えるようになり、ベッドの下に短剣を忍ばせ毎夜自分の胸につき立てようと試みたという。そんな折、ヴェッツラーの友人イェルーザレムがピストル自殺したという報が届いた。原因は人妻との失恋である。この友人の自殺とシャルロッテへの恋という2つの体験が、ゲーテに『若きウェルテルの悩み』の構想を抱かせることとなった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "続く3年間をゲーテはフランクフルトで過ごしたが、この間にゲーテの文名を一気に世界的に高めることになる二つの作品が成立した。まずゲーテは『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』を改作したうえでメルクの援助を受けて1773年7月に自費出版を行なうが、この作品はすぐに評判となりほどなくドイツ中の注目を集めた。そして1774年9月、ヴェッツラーでの体験をもとにした書簡体小説『若きウェルテルの悩み』が出版されると若者を中心に熱狂的な読者が集まり、主人公ウェルテル風の服装や話し方が流行し、また作品の影響で青年の自殺者が急増するといった社会現象を起こし、ドイツを越えてヨーロッパ中にゲーテの名を轟かせることになった。また生涯をかけて書き継がれていくことになる『ファウスト』に着手したのもこの頃である。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "この2作品によってシュトゥルム・ウント・ドラングの中心作家となったゲーテは、フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービとその兄ヨハン・ゲオルク・ヤコービ、ヨハン・カスパー・ラヴァーター、レッシング、クロプシュトックなど当代一流の文人たちと交流を持つようになった。また知見を広げるため、ヨーロッパ各地へ旅行も活発にし、1774年7月からはラーヴァーターと教育学者バーゼドといった友人たちと、ライン地方へ講演旅行に行っている。1774年12月には、後にゲーテを自国ヴァイマル公国に招くことになるカール・アウグスト公がパリ旅行の途上でフランクフルトのゲーテを訪問している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "このような中でゲーテはフランクフルト屈指の銀行家の娘であるリリー・シェーネマン(Lili Schönemann)と新たな恋に落ちた。1775年4月にはリリーの友人である女性実業家デルフの仲介によって婚約に至るが、しかし宗派や考え方の違いから両家の親族間のそりが合わず、この婚約も難航した。婚約直後にゲーテはしがらみから逃れるようにして単身でスイス旅行に行き、リリーへの思いを詩に託したが、結局この年の秋に婚約は解消することになった。リリーへの愛の中で味わった喜びと不安、苦悩は、アウグステ・ルイーゼ・ツー・シュトルベルク(Auguste Louise zu Stolberg)に宛てて記された「しばしば異常な情熱をこめた」(富士川英郎)書簡、いわゆる「グストヒェンへの手紙」(Briefe an Gustgen)に吐露されている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1775年11月、ゲーテはカール・アウグスト公からの招請を受け、その後永住することになるヴァイマルに移った。当初はゲーテ自身短い滞在のつもりでおり、招きを受けた際もなかなか迎えがこなかったためイタリアへ向かってしまい、その途上のハイデルベルクのデルフ宅でヴァイマルからの連絡を受けあわてて引き返したほどであった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "当時のヴァイマル公国は面積1900平方キロメートル、人口6000人程度の小国であり、農民と職人に支えられた貧しい国であった。本来アウグスト公の住居となるはずの城も火災で焼け落ちたまま廃墟となっており、ゲーテの住まいも公爵に拝領した質素な園亭であった。アウグスト公は当時まだ18歳で、父エルンスト・アウグスト2世は17年前に20歳の若さで死亡し、代りに皇太后アンナ・アマーリア(アウグスト公の母親)が政務を取り仕切っていた。彼女は国の復興に力を注ぎ、詩人ヴィーラントを息子アウグストの教育係として招いたほか多くの優れた人材を集めていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "26歳のゲーテはアウグスト公から兄のように慕われ、彼と共に狩猟や乗馬、ダンスや演劇を楽しんだ。王妃からの信頼も厚く、また先輩詩人ヴィーラントを始め多くの理解者に囲まれ、次第にこの地に留まりたいという思いを強くしていった。到着から半年後、ゲーテは公国の閣僚となりこの地に留まることになったが、ゲーテをこの地にもっとも強く引き付けたのはシャルロッテ・フォン・シュタイン夫人との恋愛であった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ゲーテとシュタイン夫人との出会いは、ゲーテがヴァイマールに到着した数日後のことであった。彼女はヴァイマールの主馬頭の妻で、この時ゲーテよりも7つ上の33歳であり、すでに7人の子供がいた。しかしゲーテは彼女の調和的な美しさに惹かれ、彼女の元に熱心に通い、また多くの手紙を彼女に向けて書いた。すでに夫との仲が冷め切っていた夫人も青年ゲーテを暖かく迎え入れ、この恋愛はゲーテがイタリア旅行を行なうまで12年にも及んだ。この恋愛によってゲーテの無数の詩が生まれただけでなく、後年の『イフィゲーニエ』や『タッソー』など文学作品も彼女からの人格的な影響を受けており、ゲーテの文学がシュトルム・ウント・ドラングから古典主義へと向かっていく契機となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "シュタイン夫人との恋愛が続いていた10年は同時にゲーテが政務に没頭した10年でもあり、この間は文学的には空白期間である。1780年の31歳の時、フランクフルトのロッジにてフリーメイソンに入会。4年後に書かれた「秘密」という叙事詩にはフリーメイソンをモデルとした秘密結社を登場させている。ゲーテは着実にヴァイマル公国の政務を果たし、1782年には神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世により貴族に列せられヴァイマル公国の宰相となった(以後、姓に貴族を表す「フォン」が付き、「ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ」と呼ばれるようになる)。政治家としてのゲーテはヴァイマル公国の産業の振興を図るとともに、イェーナ大学の人事を担当してシラー、フィヒテ、シェリングら当時の知識人を多数招聘し、ヴァイマル劇場の総監督としてシェイクスピアやカルデロンらの戯曲を上演し、文教政策に力を注いだ。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1786年、ゲーテはアウグスト公に無期限の休暇を願い出、9月にイタリアへ旅立った。もともとゲーテの父がイタリア贔屓であったこともあり、ゲーテにとってイタリアはかねてからの憧れの地であった。出発時ゲーテはアウグスト公にもシュタイン夫人にも行き先を告げておらず、イタリアに入ってからも名前や身分を偽って行動していた。出発時にイタリア行きを知っていたのは召使のフィリップ・ザイテルただ一人で、このことは帰国後シュタイン夫人との仲が断絶する原因となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ゲーテはまずローマに宿を取り、その後ナポリ、シチリア島を訪れるなどし、結局2年もの間イタリアに滞在していた。ゲーテはイタリア人の着物を着、イタリア語を流暢に操りこの地の芸術家と交流した。その間に友人の画家ティシュバインの案内で美術品を見に各地を訪れ、特に古代の美術品を熱心に鑑賞した。午前中はしばらく滞っていた文学活動に精を出し、1787年1月には『イフィゲーニエ』をこの地で完成させ、さらに『タッソー』『ファウスト断片』を書き進めている。また旅行中に読んだベンヴェヌート・チェッリーニの自伝を帰国後にドイツ語に訳し、約30年後にはイタリア滞在中の日記や書簡をもとに『イタリア紀行』を著した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1788年にイタリア旅行から帰ったゲーテは芸術に対する思いを新たにしており、宮廷の人々との間に距離を感じるようになった。ゲーテはしばらく公務から外れたが、イタリア旅行中より刊行が始まった著作集は売れ行きが伸びず、ゲーテを失望させることになる。なお帰国してから2年後の1790年に2度目のイタリア旅行を行なっているが、1回目とは逆に幻滅を感じ数ヶ月で帰国している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "最初のイタリア旅行から戻った直後の1788年7月、ゲーテのもとにクリスティアーネ・ヴルピウスという23歳になる女性が訪れ、イェーナ大学を出ていた兄の就職の世話を頼んだ。彼女を見初めたゲーテは彼女を恋人にし、後に自身の住居に引き取って内縁の妻とした。帰国後まもなく書かれた連詩『ローマ哀歌』も彼女への恋心をもとに書かれたものである。しかし身分違いの恋愛は社交界の憤激の的となり、シュタイン夫人との決裂を決定的にすることになる。1789年には彼女との間に長男アウグストも生まれているが、ゲーテは1806年まで彼女と籍を入れなかった。なおゲーテとクリスティアーネの間にはその後4人の子供が生まれたがいずれも早くに亡くなり、長じたのはアウグスト一人である。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "フランス革命に対しては、ゲーテは当初その自由を希求する精神に共感したが、その後革命自体が辿った無政府状態に対しては嫌悪を感じていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1792年7月にフランスがドイツに宣戦布告すると、プロイセン王国の甲騎兵連隊長であったアウグスト公に連れ立ってゲーテも従軍し、ヴァルミーの戦いに参加した。この戦いにおけるフランス革命軍の勝利に対し、", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "との言葉を残した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "また、1793年5月には、フランスに占領されたマインツの包囲軍に従軍している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ゲーテとフリードリヒ・シラーは、共にドイツ文学史におけるシュトゥルム・ウント・ドラングとヴァイマル古典主義(「ドイツ古典主義」、「擬古典主義」などとも)を代表する作家として並び称されるが、出合った当初はお互いの誤解もあって打ち解けた仲とはならなかった。ゲーテは1788年にシラーをイェーナ大学の歴史学教授として招聘しているが、その後1791年にシラーが『群盗』を発表すると、すでに古典の調和的な美へと向かっていたゲーテは『群盗』の奔放さに反感を持ち、10歳年下のシラーに対して意識的に距離を置くようにしていた。シラーのほうもゲーテの冷たい態度を感じ、一時はゲーテに対し反感を持っていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "だがその後1794年のイェーナにおける植物学会で言葉を交わすとゲーテはシラーが自身の考えに近づいていることを感じ、以後急速に距離を縮めていった。この年の6月13日にはシラーが主宰する『ホーレン』への寄稿を行っており、1796年には詩集『クセーニエン』(Xenien)を共同制作し、2行連詩形式(エピグラム)によって当時の文壇を辛辣に批評した。こうして互いに友情を深めるに連れ、2人はドイツ文学における古典主義時代を確立していくことになった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "この当時、自然科学研究にのめりこんでいたゲーテを励まし、「あなたの本領は詩の世界にあるのです」といってその興味を詩作へと向けさせたのもシラーであった。ゲーテはシラーからの叱咤激励を受けつつ、1796年に教養小説の傑作『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』を、翌年にはドイツの庶民層に広く読まれることになる叙事詩『ヘルマンとドロテーア』を完成させた。1799年にはシラーはヴァイマルへ移住し、二人の交流はますます深まる。また『ファウスト断片』を発表して以来、長らく手をつけずにいた『ファウスト』の執筆をうながしたのもまたシラーである。ゲーテは後に「シラーと出会っていなかったら、『ファウスト』は完成していなかっただろう」と語っている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1805年5月9日、シラーは肺病のため若くして死去する。シラーの死の直前までゲーテはシラーに対して文学的助言を求める手紙を送付している。周囲の人々はシラーの死が与える精神的衝撃を憂慮し、ゲーテになかなかシラーの訃報を伝えられなかったという。実際にシラーの死を知ったゲーテは「自分の存在の半分を失った」と嘆き病に伏せっている。一般にドイツ文学史における古典主義時代は、ゲーテのイタリア旅行(1786年)に始まり、このシラーの死をもって終わるとされている。なお1794年からシラーが没するまでの約11年間で交わされた書簡は1000通余りである(訳書は下記)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1806年、イエナ・アウエルシュタットの戦いに勝利したナポレオン軍がヴァイマルに侵攻した。この際酔っ払ったフランス兵がゲーテ宅に侵入して狼藉を働いたが、未だ内縁の妻であったクリスティアーネが駐屯していた兵士と力を合わせてゲーテを救った。ゲーテはその献身的な働きに心を打たれ、また自身の命の不確かさをも感じ、20年もの間籍を入れずにいたクリスティアーネと正式に結婚することに決めた。カール・アウグスト公が結婚の保証人となり、式は2人だけで厳かに行なわれた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "また1808年にナポレオンの号令によってヨーロッパ諸侯がエアフルトに集められると、アウグスト公に連れ立ってゲーテもこの地に向かい、ナポレオンと歴史的対面を果たしている。『若きウェルテルの悩み』の愛読者であったナポレオンはゲーテを見るなり「ここに人有り!(Voila un homme!)」と叫び感動を表した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "晩年のゲーテは腎臓を病み、1806年より頻繁にカールスバートに湯治に出かけるようになる。ここで得た安らぎや様々な交流は晩年の創作の原動力となった。1806年には長く書き継がれてきた『ファウスト』第1部がようやく完成し、コッタ出版の全集に収録される形で発表された。1807年にはヴィルヘルミーネ・ヘルツリープという18歳の娘に密かに恋をし、このときの体験から17編のソネットが書かれ、さらにこの恋愛から二組の男女の悲劇的な恋愛を描いた小説『親和力』(1809年)が生まれている。またこの年から自叙伝『詩と真実』の執筆を開始し、翌年には色彩の研究をまとめた『色彩論』を刊行している。1811年『詩と真実』を刊行。1816年、妻クリスティアーネが尿毒症による長い闘病の末に先立つ。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1817年、30年前のイタリア旅行を回想しつつ書いた『イタリア紀行』を刊行した。最晩年のゲーテは文学は世界的な視野を持たねばならないと考えるようになり、エマーソンなど多くの国外の作家から訪問を受け、バイロンに詩を送り、ユーゴー、スタンダールなどのフランス文学を読むなどしたほか、オリエントの文学に興味を持ってコーランやハーフェズの詩を愛読した。このハーフェズに憧れてみずから執筆した詩が『西東詩集』(1819年)である。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1821年『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』刊行。『修業時代』の続編であり、この作品では夢想的な全体性を否定し「諦念」の徳を説いている。またこの年、ゲーテはマリーエンバートの湯治場でウルリーケ・フォン・レヴェツォーという17歳の少女に最後の熱烈な恋をした。1823年にはアウグスト公を通じて求婚するも断られており、この60歳も年下の少女への失恋から「マリーエンバート悲歌」などの詩が書かれた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1828年十月二十三日、ヨハン・ペーター・エッカーマンに対して、ドイツの統一と自由の交流を望んでいるが、政治的中央集権は望んでいないと語っている。続けて彼は、心臓では血流は強大だが、肢体では弱い、と中央集権を人体に譬え、隣国のフランスではパリから離れた所は殆ど発展していないが、ドイツの偉大な所は立派な国民文化が各地に均等に行き渡っている所であり、もしドレースデンやミュンヘンや、シュトゥットガルトやカッセルやブラウンシュヴァイク、ハノーファーといった都市が諸侯の居住地でなかったらば、もしフランクフルトやブレーメンやハンブルク、リューベックといった見事で大きな都市が大国の地方都市として併合されていたら、今日の姿と同様であるかは疑わしい、と述べている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1830年10月、息子アウグスト・フォン・ゲーテが、旅先のローマにて病没し先立たれる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ゲーテは死の直前まで『ファウスト 第2部』完成に精力を注ぎ、完成の翌1832年3月22日にその多産な生涯を終えた。「もっと光を!(Mehr Licht!)」が最後の言葉と伝えられている。墓はヴァイマル大公墓所(ドイツ語版)(Weimarer Fürstengruft)内にあり、シラーと隣り合わせになっている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "ゲーテは学生時代から自然科学研究に興味を持ち続け、文学活動や公務の傍らで人体解剖学、植物学、地質学、光学などの著作・研究を残している。20代のころから骨相学の研究者ヨハン・カスパー・ラヴァーターと親交のあったゲーテは骨学に造詣が深く、1784年にはそれまでヒトにはないと考えられていた前顎骨がヒトでも胎児の時にあることを発見し比較解剖学に貢献している。", "title": "自然科学者としての業績" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "自然科学についてゲーテの思想を特徴付けているのは原型(Urform)という概念である。ゲーテはまず骨学において、すべての骨格器官の基になっている「元器官」という概念を考え出し、脊椎がこれにあたると考えていた。1790年に著した「植物変態論」ではこの考えを植物に応用し、すべての植物は唯一つの「原植物」(独:de:Urpflanze)から発展したものと考え、また植物の花を構成する花弁や雄しべ等の各器官は様々な形に変化した「葉」が集合してできた結果であるとした。このような考えからゲーテはリンネの分類学を批判し、「形態学(Morphologie)」と名づけた新しい学問を提唱したが、これは進化論の先駆けであるとも言われている。", "title": "自然科学者としての業績" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "またゲーテは20代半ばのころ、ワイマール公国の顧問官としてイルメナウ鉱山を視察したことから鉱山学、地質学を学び、イタリア滞在中を含め生涯にわたって各地の石を蒐集しており、そのコレクションは1万9000点にも及んでいる。なお針鉄鉱の英名「ゲータイト(goethite)」はゲーテの名にちなむものであり、ゲーテと親交のあった鉱物学者によって1806年に名づけられた。", "title": "自然科学者としての業績" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "晩年のゲーテは光学の研究に力を注いだ。1810年に発表された『色彩論』は20年をかけた大著である。この書物でゲーテは青と黄をもっとも根源的な色とし、また色彩は光と闇との相互作用によって生まれるものと考えてニュートンのスペクトル分析を批判した。ゲーテの色彩論は発表当時から科学者の間でほとんど省みられることがなかったが、ヘーゲルやシェリングはゲーテの説に賛同している。", "title": "自然科学者としての業績" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "ゲーテの作品には非常に多くの作曲家が曲を付けている。特に重要なのは『魔王』『野ばら』『糸をつむぐグレートヒェン』『ガニュメート』などのフランツ・シューベルトによる歌曲であり、シューベルトが生涯作曲した600曲もの歌曲のうち70曲ほどがゲーテの作品に付けられた曲である。ゲーテ自身は曲が前面に出すぎて素朴さに欠けるとしてシューベルトの曲をあまり好まなかったが、シューベルトの死後の1830年に『魔王』を聴くと「全体のイメージが眼で見る絵のようにはっきりと浮かんでくる」と感動し評価を改めた。", "title": "ゲーテと音楽" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "ゲーテの音楽観は保守的なものであり、たとえば歌曲については民謡を理想とし、カール・フリードリヒ・ツェルターやヨハン・フリードリヒ・ライヒャルトらの作曲を好んだ。他にゲーテが評価した音楽家としてはヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトがおり、『ファウスト』に曲をつける権利があるのはモーツァルトだけだとも語っていた(エッカーマン『ゲーテとの対話』)。モーツァルトに言及した多くの文章も残っており、特に彼の音楽を「悪魔が人間を惑わすためにこの世に送り込んだ音楽」と評した言葉はよく知られている。モーツァルトのゲーテ歌曲には『すみれ』があり、特に早いゲーテ歌曲の一つであるが、モーツァルトは作曲した時ゲーテの作だとは知らなかった。", "title": "ゲーテと音楽" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "またゲーテはルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンにも高い評価を与えていた。初めて『運命』を聴いたときには非常に動揺し、「みんなが一斉にあんな音を同時に演奏したらどうなってしまうのだ、建物が壊れてしまうではないか」と言っていた(前掲書より)。ベートーヴェンもゲーテを尊敬し劇音楽『エグモント』やカンタータ『静かな海と楽しい航海』などゲーテの作品に曲をつけている。2人は1812年にカールスバートの温泉地で対面しており数日間の交流を持ったが、ゲーテはベートーヴェンの難聴に同情しつつもその陰気さや無礼さを嫌った。ほかにゲーテと親交のあった作曲家にはフェリックス・メンデルスゾーンがおり、序曲『静かな海と楽しい航海』などを作曲している。", "title": "ゲーテと音楽" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ゲーテの作品のなかで最も多く曲が付けられているのは『ファウスト』であり、オペラだけでも50もの作品が作られている。『ファウスト』に基づく音楽で代表的なものは、エクトル・ベルリオーズの『ファウストの劫罰』(1846年)、シャルル・グノーのオペラ『ファウスト』(1859年)、アッリーゴ・ボーイトのオペラ『メフィストーフェレ』(1869年)、ロベルト・シューマンの『ファウストからの情景』(1844年-1859年)、フランツ・リスト の『ファウスト交響曲』(1857年-1880年)、グスタフ・マーラーの『交響曲第8番』(1906年)など。先に挙げたシューベルトの「糸をつむぐグレートヒェン」なども『ファウスト』からの曲である。", "title": "ゲーテと音楽" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "この他にゲーテの作品に基づく有名な音楽作品として、シューマン『ミニョンのためのレクイエム』、トマのオペラ『ミニョン』、ブラームスの『ゲーテの「冬のハルツの旅」からの断章』(アルト・ラプソディ)、マスネのオペラ『ウェルテル』、ヴォルフの『ゲーテの詩による歌曲集』、デュカスの『魔法使いの弟子』などがある。特にオペラ化に関しては成功作がフランスに多い。", "title": "ゲーテと音楽" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "ゲーテの晩年にはドイツでロマン派の文学が興隆し、その理論的支柱であったシュレーゲル兄弟をはじめ多くのロマン派の作家はゲーテ、シラーを範と仰いだ。しかし晩年「世界文学」を唱えるようになったゲーテはロマン派の国粋的な面を嫌うようになり、「ロマン派は病気だ」と言って批判的な立場を取った。ゲーテが死んだ翌年の1833年にはハインリヒ・ハイネがその死を受けて『ドイツ・ロマン派』を執筆し、同時代のドイツ文学の状況を総括した。", "title": "受容と影響" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "また近代言語学の祖であり『グリム童話』の編者でもあるヤーコプ・グリムが作成した『ドイツ語辞典』にはゲーテの全作品から非常に多くの引用が取られており、辞典の序文には「彼の著作から僅かでも欠如するよりは、他の人々の著作から多く欠如したほうが良い」と書かれている。マルティン・ルターによるドイツ語訳聖書によって大きく発展した現代ドイツ語がゲーテによって完成させられたことは今日では定説となっている(木村直司「ゲーテ像の変遷」)。", "title": "受容と影響" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "ゲーテはフランス革命の際に保守的な反応を取ったことから左翼的な思想の持ち主からはしばしば「偉大な俗物」と言われ批判を受けた。文学史上ではハイネやルートヴィヒ・ベルネ、青年ドイツの作家が彼の批判者である。もっともカール・マルクスは「ゲーテは偉大な詩人であるだけでなく、最も偉大なドイツ人の一人である」と述べており、レーニンもまたゲーテを愛読し、1917年に国外に逃亡した際にはネクラーソフの詩集とともにゲーテの『ファウスト』を携えていった(星野、前掲書)。", "title": "受容と影響" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "ゲーテの名声は19世紀半ばごろ一時下火となったが、1876年に発表されたヘルマン・グリムによる『ゲーテ』によってやや神格化を伴いつつ評価が確立した。1885年にはグリムが中心となってヴァイマルにゲーテ協会が設立され、今日に至るまでゲーテ研究の中心となっている。20世紀に入って以降もゲオルゲ、ホーフマンスタール、リルケらの詩人がゲーテの詩を範と仰ぎあるいそこからは霊感を受けており、特にノーベル文学賞を受賞したトーマス・マンは、ゲーテをドイツ人の代表者として頻繁にエッセイや講演で論じ、後期作品にゲーテが登場する長編『ヴァイマルのロッテ』、範とした『ファウスト博士』を執筆している。1927年にはゲーテを記念しフランクフルト・アム・マインでゲーテ賞が設けられており、戦後ビューヒナー賞にとって替わられるまで長くドイツ文学においてもっとも権威ある賞として機能した(三島憲一「戦後ドイツ」岩波新書)。", "title": "受容と影響" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "スイス生まれのドイツ文学者、作家のアドルフ・ムシュク(1934年生まれ)は、2012年長篇小説『レーヴェンシュテルン』(Löwenstern)を出版した。この作品の主人公ヘルマン・ルートヴィヒ・フォン・レーヴェンシュテルン(Hermann Ludwig von Löwenstern; 1777-1836)は、エストニア人であるが、同郷のロシア海軍提督アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルン(Adam Johann von Krusenstern; 1770-1846)が成し遂げたロシア最初の世界周航(1803-1806)に参加した人物である。レーヴェンシュテルンはこの小説の中で、ワイマールのゲーテを訪れた際に、日本について全く知らなかったゲーテにむかって、書物から得た知識をもとに当時の日本の事情について語ると、ゲーテから実際に日本へ行くようにと勧められたと述懐している 。", "title": "受容と影響" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "小惑星(3047) Goetheはゲーテの名前にちなんで命名された。", "title": "受容と影響" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "1871年(明治4年)に初めて日本でゲーテの名が紹介されたが、本格的な受容が起るのは明治20年代からである。作品の翻訳は1884年(明治17年)、井上勤が『ライネケ狐(de:Reineke Fuchs)』を『狐裁判』として訳したものが最初である(狐物語群#ゲーテのドイツ語作品)。この訳は当初自由出版社から出されていたが、1886年(明治19年)に版権が春陽堂に移って新たな初版が出され、1893年(明治26年)までに5版が出るほどよく読まれた。1889年(明治22年)には森鷗外が訳詩集『於母影』においてゲーテの詩を翻訳し、特にその中の「ミニヨン」の詩は当時の若い詩人たちに大きな影響を与えた。鴎外はゲーテを深く尊敬しており、『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』の翻訳や『ファウスト考』『ギョッツ考』などの論考を著し、1913年(大正2年)には日本初の『ファウスト』完訳を行なっている。", "title": "受容と影響" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "日本では明治20年代から30年代にかけては若手作家の間で「ウェルテル熱」が起り、島崎藤村、平田禿木、戸川秋骨、馬場孤蝶ら『文学界』同人の作家を中心に『若きウェルテルの悩み』が熱心に読まれた。特に島崎藤村は晩年までゲーテを愛読しており、随筆『桃の雫』(1936年)の中でゲーテに対する長年の思いを語っている。外国文学に批判的だった尾崎紅葉も晩年にはゲーテを熱心に読み、「泣いてゆく ヱルテルに会う 朧かな」を辞世の句として残した。また『ウェルテル』と並んで『ファウスト』も若い作家の間で熱心に読まれていた。文壇に「ウェルテル熱」が起る前に早世した北村透谷は『ファウスト』を熱心に読んでおり、『蓬莱曲』などの作品を書く上で大きな影響を受けている。倉田百三は代表作『出家とその弟子』を書く際、鴎外訳の『ファウスト』から様々な影響を受けたことを語っており、国木田独歩も『ファウスト』を熱心に読み影響を受けたことを『欺かざるの記』のなかで繰り返し述べている。他にゲーテを愛読しゲーテについての著述を残している者に長与善郎、堀辰雄、亀井勝一郎などがおり(以上、星野『ゲーテ』より)、水木しげるもゲーテの言動についてのエッセイを著している。", "title": "受容と影響" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "1931年(昭和6年)には日本ゲーテ協会が創設され、ドイツ文学の研究・紹介を行っている。また関西ゲーテ協会の主催で毎年ゲーテの誕生日の夜に「ゲーテ生誕の夕べ」が開催されており、そこではゲーテにちなんだ歌謡のコンサートや講演が開かれている。京都市には、日独文化交流機構のゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川がある", "title": "受容と影響" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "1964年(昭和39年)には実業家粉川忠によって東京都北区に東京ゲーテ記念館が運営され、日本語の翻訳本や原著だけでなく世界中の訳本や研究書、上演時の衣装などを含む関連資料を所蔵する世界的にも類例のない資料館となっている。", "title": "受容と影響" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "ゲーテ生誕の地であるフランクフルトから、ワイマールを経て、ゲーテが学業に励んだライプツィヒまでの400kmの街道は「ゲーテ街道」と称されている。", "title": "史跡" } ]
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは、ドイツの詩人、劇作家、小説家、自然科学者、博学者(色彩論、形態学、生物学、地質学、自然哲学、汎神論)、政治家、法律家。ドイツを代表する文豪であり、小説『若きウェルテルの悩み』『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』、叙事詩『ヘルマンとドロテーア』、詩劇『ファウスト』など広い分野で重要な作品を残した。 その文学活動は大きく3期に分けられる。初期のゲーテはヘルダーに教えを受けたシュトゥルム・ウント・ドラングの代表的詩人であり、25歳のときに出版した『若きウェルテルの悩み』でヨーロッパ中にその文名を轟かせた。その後ヴァイマル公国の宮廷顧問(その後枢密顧問官・政務長官つまり宰相も務めた)となりしばらく公務に没頭するが、シュタイン夫人との恋愛やイタリアへの旅行などを経て古代の調和的な美に目覚めていき、『エグモント』『ヘルマンとドロテーア』『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』などを執筆、シラーとともにドイツ文学における古典主義時代を築いていく。 シラーの死を経た晩年も創作意欲は衰えず、公務や自然科学研究を続けながら『親和力』『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』『西東詩集』など円熟した作品を成した。大作『ファウスト』は20代から死の直前まで書き継がれたライフ・ワークである。ほかに旅行記『イタリア紀行』、自伝『詩と真実』や、自然科学者として「植物変態論」、「色彩論」などの著作を残している。
{{脚注の不足|date=2021-5}} {{redirect|ゲーテ}}<!--uやsなどドイツ語特有の文字が消えてしまうブラウザーでの編集は、なるべく控えて下さい。IEは問題無いようです。--> {{Infobox 作家 | name = ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ<br />Johann Wolfgang von Goethe | image = Goethe (Stieler 1828).jpg | imagesize = | caption = ゲーテ。70歳の時の肖像。(1828年)<!--1828年はゲーテは79歳になっていますが、肖像画自体は70歳の時のゲーテです。--> | pseudonym = | birth_name = ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ | birth_date = [[1749年]][[8月28日]] | birth_place = {{HRR1512}}<br>[[ファイル:Hissflagge der Stadt Frankfurt am Main.svg|border|25px]] [[帝国自由都市|自由帝国都市]][[フランクフルト・アム・マイン]] | death_date = {{死亡年月日と没年齢|1749|8|28|1832|3|22}} | death_place = [[ファイル:Flagge Großherzogtum Sachsen-Weimar-Eisenach (1813-1897).svg|border|25px]] [[ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国]]<br>[[ヴァイマル]] | occupation = [[小説家]]、[[劇作家]]、[[詩人]]、[[科学者]]、[[政治家]] | nationality = | period = | genre = [[詩]]、[[戯曲]]、[[小説]] | subject = | movement = [[シュトゥルム・ウント・ドラング]]<br />[[ヴァイマル古典主義]] | notable_works = 『[[若きウェルテルの悩み]]』(1774年)<br />『[[ヴィルヘルム・マイスターの修業時代]]』(1796年)<br />『[[ヘルマンとドロテーア]]』(1798年)<br />『[[親和力]]』(1809年)<br />『[[西東詩集]]』(1819年)<br />『[[ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代]]』(1821年)<br />『[[ファウスト (ゲーテ)|ファウスト]]』(1806年-1831年) | awards = | debut_works = 『[[ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン (ゲーテ)|鉄の手のゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン]]』(1773年) | spouse = [[クリスティアーネ・フォン・ゲーテ]] | partner = | children = [[アウグスト・フォン・ゲーテ]] | relations = | influences = [[ホメーロス|ホメロス]]、[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]、[[オシアン]]、[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]、[[ゴットホルト・エフライム・レッシング|レッシング]]、[[フリードリヒ・ゴットリープ・クロプシュトック|クロプシュトック]]、[[ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー|ヘルダー]]、[[ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン|ヴィンケルマン]]、[[バールーフ・デ・スピノザ|スピノザ]]、[[フリードリヒ・フォン・シラー|シラー]]、[[アルトゥル・ショーペンハウアー|ショーペンハウアー]]、[[ハーフェズ|ハーフィズ]] | influenced = [[フリードリヒ・フォン・シラー|シラー]]、[[シュレーゲル兄弟]]、[[クレメンス・ブレンターノ|ブレンターノ]]、[[ルートヴィヒ・ティーク|ティーク]]、[[フリードリヒ・ヘルダーリン|ヘルダーリン]]、[[アルトゥル・ショーペンハウアー|ショーペンハウアー]]、[[ノヴァーリス]]、[[E.T.A.ホフマン|ホフマン]]、[[ハインリヒ・ハイネ|ハイネ]]、[[フリードリヒ・ニーチェ|ニーチェ]]、[[ゲオルク・ビューヒナー|ビューヒナー]]、[[シュテファン・ゲオルゲ|ゲオルゲ]]、[[フーゴ・フォン・ホーフマンスタール|ホーフマンスタール]]、[[トーマス・マン]]、[[ハンス・カロッサ]]、[[ジョージ・ゴードン・バイロン|バイロン]]、[[パーシー・ビッシュ・シェリー|シェリー]]、[[ヘルマン・ヘッセ|ヘッセ]]、[[ヘンリー・ワズワース・ロングフェロー|ロングフェロー]]、[[ラルフ・ワルド・エマーソン|エマーソン]]、[[ジェラール・ド・ネルヴァル|ネルヴァル]]、[[アンドレ・ジッド|ジッド]]、[[ポール・ヴァレリー|ヴァレリー]]、[[ニコス・カザンザキス|カザンザキス]]、[[三島由紀夫]]、[[森鷗外]]、[[北村透谷]]、[[島崎藤村]]、[[国木田独歩]]、[[倉田百三]]、[[水木しげる]] | signature = Goethe Signature.svg | website = <!--| footnotes =--> }} '''ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ'''(Johann Wolfgang von Goethe<ref group="注釈">ドイツ語での発音は{{IPA|ˈjoːhan ˈvɔlfgaŋ fɔn ˈgøːtə}}({{Audio|De-Johann_Wolfgang_von_Goethe.ogg|音声}})</ref>、[[1749年]][[8月28日]] - [[1832年]][[3月22日]]<ref>{{Kotobank|ゲーテ}}</ref>)は、[[ドイツの歴史|ドイツ]]の[[詩人]]、[[劇作家]]、[[小説家]]、[[自然科学|自然科学者]]、[[博学者]]([[色彩論]]、[[形態学 (生物学)|形態学]]、[[生物学]]、[[地質学]]、[[自然哲学]]、[[汎神論]])、[[政治家]]、[[法律家]]。ドイツを代表する[[文豪]]であり、小説『[[若きウェルテルの悩み]]』『[[ヴィルヘルム・マイスターの修業時代]]』、叙事詩『[[ヘルマンとドロテーア]]』、詩劇『[[ファウスト (ゲーテ)|ファウスト]]』など広い分野で重要な作品を残した。 <!--切らないように-->その文学活動は大きく3期に分けられる。初期のゲーテは[[ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー|ヘルダー]]に教えを受けた[[シュトゥルム・ウント・ドラング]]の代表的詩人であり、25歳のときに出版した『若きウェルテルの悩み』でヨーロッパ中にその文名を轟かせた。その後[[ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国|ヴァイマル公国]]の宮廷顧問(その後[[枢密院|枢密顧問官]]・政務長官つまり[[宰相]]も務めた)となりしばらく公務に没頭するが、[[シャルロッテ・フォン・シュタイン|シュタイン夫人]]との恋愛やイタリアへの旅行などを経て古代の調和的な美に目覚めていき、『[[エグモント (戯曲)|エグモント]]』『ヘルマンとドロテーア』『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』などを執筆、[[フリードリヒ・フォン・シラー|シラー]]とともにドイツ文学における古典主義時代を築いていく。 シラーの死を経た晩年も創作意欲は衰えず、公務や自然科学研究を続けながら『[[親和力]]』『[[ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代]]』『[[西東詩集]]』など円熟した作品を成した。大作『ファウスト』は20代から死の直前まで書き継がれたライフ・ワークである。ほかに旅行記『[[イタリア紀行]]』、自伝『[[詩と真実]]』や、自然科学者として「植物変態論」、「[[色彩論]]」などの著作を残している。 == 表記と読み == ゲーテ (Goethe) のドイツ語での発音は日本人には難しいこともあり、日本語表記は、古くは「ギョエテ」「ゲョエテ」「ギョーツ」「グーテ」「ゲエテ」など数十種類にものぼる表記が存在した。このことを諷して[[斎藤緑雨]]が「ギョエテとは俺のことかとゲーテ言い」と言ったというが、その出典は明らかではない<ref>[https://goethe.jp/Q_and_A/q_goethetowaorenokotoka.html Q:「ギョエテとは俺のことかとゲーテいい」という言葉は誰が言い出したのですか?] ゲーテについてのQ&A、[[東京ゲーテ記念館]] </ref>。 [[矢崎源九郎]]は、29通りの表記があるとした<ref>矢崎源九郎『日本の外来語』p.170、岩波新書、1964年</ref>。 以下は、品川力(しながわつとむ 1904 - 2006)による45通りの表記である。 ヴィテー,ヴーテー,ギェーテ,ギオーテ,ギューテ,ギュエテ,ギョウテ,ギョエテ,ギョーツ,ギョーテ(ギョーテー),ギョオテ,ギョート,ギョテ(ギョテー),ギョテーイ,ギョヲテ,グウイーテ,グーテ,ゲイテ,ゲエテ,ゲーテ,ケーテー,ゲエテー,ゲーテー,ゲォエテ,ゲテ,ゲョーテ,ゲョテー,ゲヱテー,ゴアタ,ゴイセ,ゴエテ(ゴヱテ),ふをぬ、げえて,及義的,歌徳,俄以得,俄義的,葛徳,驚天,暁蛙亭,芸陽亭,芸亭,芸天,就是葛徳,倪提以,哥徳 <ref name="shinagawa_tsutomu">品川力『二十九人のゴッホ・四十五人のゲーテ』日本古書通信 18巻17号、pp.12-14、1953-12-15, [https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I5252122-00]</ref><ref>品川力『古書巡礼』青英舎、1982年。ISBN 978-4882330288 [https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E6%9B%B8%E5%B7%A1%E7%A4%BC-%E5%93%81%E5%B7%9D-%E5%8A%9B/dp/4882330288]</ref> == 生涯 == === 生い立ちと少年期 === [[ファイル:Frankfurt Am Main-Goethe-Haus-Ansicht am Grossen Hirschgraben.jpg|thumb|フランクフルトにあるゲーテの生家]] [[1749年]][[8月28日]]、[[自由帝国都市]]であった[[フランクフルト・アム・マイン]]の裕福な家庭に'''ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ'''として生まれる。父方の家系はもとは[[蹄鉄]]工を家業としていたが、ゲーテの祖父にあたる[[フリードリヒ・ゲオルク・ゲーテ]]はフランスで仕立て職人としての修業を積んだ後、フランクフルトで旅館経営と葡萄酒の取引で成功し大きな財を成した。その次男である[[ヨハン・カスパー・ゲーテ|ヨハン・カスパー]]がゲーテの父にあたる。彼は大学を出たのちにフランクフルト市の要職を志したがうまく行かず、枢密顧問官の称号を買い取った後は職に就かず文物の蒐集に没頭していた。母[[エリーザベト・ゲーテ|エリーザベト]]の実家テクストーア家は代々法律家を務める声望ある家系であり、母方の祖父は自由都市フランクフルトの最高の地位である市長も務めた。ゲーテは長男であり、ゲーテの生誕した翌年に妹の[[コルネーリア・ゲーテ|コルネーリア]]が生まれている。その後さらに3人の子供が生まれているがみな夭折し、ゲーテは2人兄妹で育った。ゲーテ家は明るい家庭的な雰囲気であり、少年時代のゲーテも裕福かつ快濶な生活を送った。当時のフランクフルトの多くの家庭と同じく宗派は[[プロテスタント]]であった。 父は子供たちの教育に関心を持ち、幼児のときから熱心に育てた。ゲーテは3歳の時に私立の幼稚園に入れられ、読み書きや算数などの初等教育を受けた。5歳から寄宿制の初等学校に通うが、7歳のとき天然痘にかかって実家に戻り、以後は父が家庭教師を呼んで語学や図画、乗馬、[[カリグラフィー]]、演奏、ダンスなどを学ばせた。ゲーテは語学に長けており、少年時代にはすでに[[英語]]、[[フランス語]]、[[イタリア語]]、[[ラテン語]]、[[ギリシア語]]、[[ヘブライ語]]を習得している。少年時代のゲーテは読書を好み、『[[テレマック]]』や『[[ロビンソン・クルーソー]]』などの物語を始め手当たり次第に書物を読んだ(その中には『[[ファウスト (伝説)|ファウスト]]』の民衆本も含まれる)。詩作が評判であったのも幼少の頃からであり、最も古いものではゲーテが8歳の時、母方の祖父母に宛てて書いた新年の挨拶の詩が残っている。 14歳の時、ゲーテは近所の料理屋の娘の親戚でグレートヒェンという年上の娘に初恋をするも、失恋に終わる。なおこのグレートヒェンの名前はゲーテの代表作『ファウスト』の第一部のヒロインの名に取られている。 === ライプツィヒ大学時代 === [[ファイル:Goeth 1768.jpg|thumb|left|180px|青年ゲーテの肖像(1765年 - 1768年頃)]] [[1765年]]、ゲーテは16歳にして故郷を離れ[[ライプツィヒ大学]]の[[法学部]]に入学することになる。これは[[法学]]を学ばせて息子を出世させたいという父親の意向であるが、ゲーテ自身はゲッティンゲンで文学研究をしたかったと回顧している。ゲーテは「フォイアークーゲル」という名の大きな家に二間続きの部屋を借りて、最新の[[ロココ調]]の服を着て都会風の生活をし、法学の勉強には身が入らなかった。この時期、ゲーテは通っていたレストランの娘で2、3歳年上の[[アンナ・カトリーナ・シェーンコプフ]](愛称ケートヒェン)に恋をし、『アネッテ』という詩集を編んでいる<ref group="注釈">『アネッテ』は出版はされず、友人が書き写していたものがゲーテの死後50年経ってヴァイマルの女官の家で発見された。20代のときに執筆していた『ファウスト』の初稿(『原ファウスト』)も同様の経緯で発見されている。</ref>。 しかし都会的で洗練された彼女に対するゲーテの嫉妬が彼女を苦しめることになり、この恋愛は破局に終わった。 ゲーテは3年ほどライプツィヒ大学に通ったが、その後病魔に襲われてしまい、退学を余儀なくされた(病名は不明であるが、症状から[[結核]]と見られている)。19歳のゲーテは故郷フランクフルトに戻り、その後1年半ほどを実家で療養することになる。この頃、ゲーテは母方の親戚[[スザンナ・フォン・クレッテンベルク]]と知り合った。彼女は真の信仰を魂の救済に見出そうとする[[ヘルンフート派]]の信者であり、彼女との交流はゲーテが自身の宗教観を形成する上で大きな影響を与えた(後の『[[ヴィルヘルム・マイスターの修業時代]]』の第六部「美しい魂の告白」は彼女との対話と手紙から成っている)。またこの頃[[ゴットフリート・アルノルト]]の『教会と異端の歴史』を通じて異端とされてきた様々な説を学び、各々が自分の信じるものを持つことこそが真の信仰であるという[[汎神論]]的な宗教観を持つに至った。 またゲーテはこの時期に[[自然科学]]に興味を持ち、実験器具を買い集めて自然科学研究にも精を出している。ゲーテは[[地質学]]から[[植物学]]、[[気象学]]まで自然科学にも幅広く成果を残しているが、既にこの頃にはその基礎を作り上げていた。 === シュトラースブルク大学時代 === [[ファイル:Johann Gottfried von Herder by Johann Ludwig Strecker, 1775.jpg|thumb|180px|ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー]] [[1770年]]、ゲーテは改めて勉学へ励むため、フランス的な教養を身につけさせようと考えた父の薦めもあってフランス領[[ストラスブール大学|シュトラースブルク大学]]に入学した。この地で学んだ期間は一年少しと短かったが、ゲーテは多くの友人を作ったほか、作家、詩人としての道を成す上での重要な出会いを体験している。とりわけ大きいのが[[ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー]]との出会いである。ヘルダーはゲーテより5歳年長であるに過ぎなかったが、理性と形式を重んじる従来の[[ロココ]]的な文学からの脱却を目指し、自由な感情の発露を目指す[[シュトゥルム・ウント・ドラング]](疾風怒濤)運動の立役者であり、既に一流の文芸評論家として名声もあった。当時無名の学生であったゲーテは彼のもとへ足繁く通い、[[ホメロス]]や[[シェークスピア]]の真価や[[聖書]]、民謡(フォルクス・リート)の文学的価値など、様々な新しい文学上の視点を教えられ、作家・詩人としての下地を作っていった。 またこの時期、ゲーテは[[フリーデリケ・ブリオン]]という女性と恋に落ちている。彼女はシュトラースブルクから30キロほど離れたゼーゼンハイムという村の牧師の娘であり、ゲーテは友人と共に馬車で旅行に出た際に彼女と出会った。彼女との恋愛から「野ばら」や「五月の歌」などの「体験詩」と呼ばれる抒情詩が生まれるが、しかしゲーテは結婚を望んでいたフリーデリケとの恋愛を自ら断ち切ってしまう。この出来事は後の『ファウスト』に書かれたグレートヒェンの悲劇の原型になったとも言われている<ref>グレートヒェンのモデルとされるもう一人の人物が、1772年1月14日フランクフルトにおいて公衆の面前で処刑された24歳の未婚の女性である。彼女は自ら我が子に手をかけたためにこの罰を受けた。Uwe Wittstock: War diese Strafe wirklich wohlverdient? Aus: ''Frankfurter Allgemeine Zeitung.''Samstag, 8. Januar 2022. Nr. 6, S. 16.</ref>。 [[1771年]]8月、22歳のゲーテは無事に学業を終え故郷フランクフルトに戻った。しかし父の願うような役所の仕事には就けなかったため、[[弁護士]]の資格を取り書記を一人雇って弁護士事務所を開設した。友人、知人が顧客を回してくれたため当初から仕事はそこそこあったが、しかしゲーテは次第に仕事への興味を失い文学活動に専念するようになった。ゲーテは作家の[[ヨハン・ハインリヒ・メルク]]と知り合って彼の主宰する『フランクフルト学報』に文芸評論を寄せ、またこの年の10月から11月にかけて処女戯曲『[[ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン (ゲーテ)|ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン]]』の初稿を書き上げた。しかし本業をおいて文学活動に没頭する息子を心配した父により、ゲーテは法学を再修得するために最高裁判所のあった[[ヴェッツラー]]へと送られることになった。 === 『ウェルテル』成立 === [[ファイル:Charlotte Buff.jpg|thumb|170px|シャルロッテ・ブッフ]][[ファイル:-1-_Die_Leiden_des_jungen_Werthers._Erstdruck.jpg|170px|thumb|『若きウェルテルの悩み』初版扉]] [[1772年]]4月にヴェッツラーに移ったゲーテは、ここでも法学には取り組まず、むしろ父から離れて文学に専念できることを喜んだ。ヴェッツラーはフランクフルトの北方に位置する小さな村であったが、ドイツ諸邦から有望な若者が集まっており、ゲーテは特にヨハン・クリスティアン・ケストナーや[[カール・イェルーザレム]]と親しい仲となった。6月9日、ゲーテはヴェッツラー郊外で開かれた舞踏会で19歳の少女[[シャルロッテ・ブッフ]]に出会い熱烈な恋に落ちた。ゲーテは毎晩彼女の家を訪問するようになるが、まもなく彼女は友人ケストナーと婚約中の間柄であることを知る。ゲーテはあきらめきれず彼女に何度も手紙や詩を送り思いのたけを綴ったが、彼女を奪い去ることもできず、9月11日に誰にも知らせずにヴェッツラーを去った。 フランクフルトに戻ったゲーテは、表向きは再び弁護士となったが、シャルロッテのことを忘れられず苦しい日々を送った。シャルロッテの結婚が近づくと自殺すら考えるようになり、ベッドの下に短剣を忍ばせ毎夜自分の胸につき立てようと試みたという。そんな折、ヴェッツラーの友人イェルーザレムがピストル自殺したという報が届いた。原因は人妻との失恋である。この友人の自殺とシャルロッテへの恋という2つの体験が、ゲーテに『若きウェルテルの悩み』の構想を抱かせることとなった。 続く3年間をゲーテはフランクフルトで過ごしたが、この間にゲーテの文名を一気に世界的に高めることになる二つの作品が成立した。まずゲーテは『[[ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン (ゲーテ)|ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン]]』を改作したうえでメルクの援助を受けて[[1773年]]7月に自費出版を行なうが、この作品はすぐに評判となりほどなくドイツ中の注目を集めた。そして[[1774年]]9月、ヴェッツラーでの体験をもとにした[[書簡体小説]]『[[若きウェルテルの悩み]]』が出版されると若者を中心に熱狂的な読者が集まり、主人公ウェルテル風の服装や話し方が流行し、また作品の影響で青年の自殺者が急増するといった社会現象を起こし、ドイツを越えてヨーロッパ中にゲーテの名を轟かせることになった。また生涯をかけて書き継がれていくことになる『[[ファウスト (ゲーテ)|ファウスト]]』に着手したのもこの頃である。 この2作品によってシュトゥルム・ウント・ドラングの中心作家となったゲーテは、[[フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービ]]とその兄ヨハン・ゲオルク・ヤコービ、[[ヨハン・カスパー・ラヴァーター]]、[[ゴットホルト・エフライム・レッシング|レッシング]]、[[フリードリヒ・ゴットリープ・クロプシュトック|クロプシュトック]]など当代一流の文人たちと交流を持つようになった。また知見を広げるため、ヨーロッパ各地へ旅行も活発にし、1774年7月からはラーヴァーターと教育学者バーゼドといった友人たちと、ライン地方へ講演旅行に行っている。1774年12月には、後にゲーテを自国[[ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国|ヴァイマル公国]]に招くことになる[[カール・アウグスト (ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公)|カール・アウグスト]]公がパリ旅行の途上でフランクフルトのゲーテを訪問している。 このような中でゲーテはフランクフルト屈指の銀行家の娘であるリリー・シェーネマン(Lili Schönemann)と新たな恋に落ちた。1775年4月にはリリーの友人である女性実業家デルフの仲介によって婚約に至るが、しかし宗派や考え方の違いから両家の親族間のそりが合わず、この婚約も難航した。婚約直後にゲーテはしがらみから逃れるようにして単身でスイス旅行に行き、リリーへの思いを詩に託したが、結局この年の秋に婚約は解消することになった。リリーへの愛の中で味わった喜びと不安、苦悩は、アウグステ・ルイーゼ・ツー・シュトルベルク(Auguste Louise zu Stolberg)に宛てて記された「しばしば異常な情熱をこめた」([[富士川英郎]])書簡、いわゆる「グストヒェンへの手紙」(''Briefe an Gustgen'')に吐露されている<ref>[[富士川英郎]]訳「グストヒェンへの手紙」〔 [[菊池栄一]]・富士川英郎・[[大山定一]]・[[伊藤武雄]]訳『ゲーテ全集 全12巻 第11巻』[[人文書院]] 1961年、78-103、408-411頁。〕</ref>。 === ヴァイマルへ === [[ファイル:Karl august von sachsen-weimar.jpg|thumb|170px|カール・アウグスト公]] [[ファイル:Charlotte von Stein.jpg|thumb|170px|シャルロッテ・フォン・シュタイン]] [[1775年]]11月、ゲーテはカール・アウグスト公からの招請を受け、その後永住することになる[[ヴァイマル]]に移った。当初はゲーテ自身短い滞在のつもりでおり、招きを受けた際もなかなか迎えがこなかったためイタリアへ向かってしまい、その途上の[[ハイデルベルク]]のデルフ宅でヴァイマルからの連絡を受けあわてて引き返したほどであった。 当時のヴァイマル公国は面積1900平方キロメートル、人口6000人程度の小国であり、農民と職人に支えられた貧しい国であった。本来アウグスト公の住居となるはずの城も火災で焼け落ちたまま廃墟となっており、ゲーテの住まいも公爵に拝領した質素な園亭であった。アウグスト公は当時まだ18歳で、父[[エルンスト・アウグスト2世 (ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ公)|エルンスト・アウグスト2世]]は17年前に20歳の若さで死亡し、代りに皇太后[[アンナ・アマーリア・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル|アンナ・アマーリア]](アウグスト公の母親)が政務を取り仕切っていた。彼女は国の復興に力を注ぎ、詩人[[クリストフ・マルティン・ヴィーラント|ヴィーラント]]を息子アウグストの教育係として招いたほか多くの優れた人材を集めていた。 26歳のゲーテはアウグスト公から兄のように慕われ、彼と共に狩猟や乗馬、ダンスや演劇を楽しんだ。王妃からの信頼も厚く、また先輩詩人ヴィーラントを始め多くの理解者に囲まれ、次第にこの地に留まりたいという思いを強くしていった。到着から半年後、ゲーテは公国の閣僚となりこの地に留まることになったが、ゲーテをこの地にもっとも強く引き付けたのは[[シャルロッテ・フォン・シュタイン]]夫人との恋愛であった。 ゲーテとシュタイン夫人との出会いは、ゲーテがヴァイマールに到着した数日後のことであった。彼女はヴァイマールの[[馬寮|主馬頭]]の妻で、この時ゲーテよりも7つ上の33歳であり、すでに7人の子供がいた。しかしゲーテは彼女の調和的な美しさに惹かれ、彼女の元に熱心に通い、また多くの手紙を彼女に向けて書いた。すでに夫との仲が冷め切っていた夫人も青年ゲーテを暖かく迎え入れ、この恋愛はゲーテがイタリア旅行を行なうまで12年にも及んだ。この恋愛によってゲーテの無数の詩が生まれただけでなく、後年の『[[イフィゲーニエ]]』や『[[タッソー]]』など文学作品も彼女からの人格的な影響を受けており、ゲーテの文学がシュトルム・ウント・ドラングから[[古典主義]]へと向かっていく契機となった。 シュタイン夫人との恋愛が続いていた10年は同時にゲーテが政務に没頭した10年でもあり、この間は文学的には空白期間である。[[1780年]]の31歳の時、フランクフルトの[[ロッジ]]にて[[フリーメイソン]]に入会。4年後に書かれた「秘密」という[[叙事詩]]にはフリーメイソンをモデルとした[[秘密結社]]を登場させている。ゲーテは着実にヴァイマル公国の政務を果たし、[[1782年]]には[[神聖ローマ皇帝]][[ヨーゼフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ2世]]により貴族に列せられヴァイマル公国の[[宰相]]となった(以後、姓に貴族を表す「[[フォン (前置詞)|フォン]]」が付き、「ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ」と呼ばれるようになる)。政治家としてのゲーテはヴァイマル公国の産業の振興を図るとともに、[[フリードリヒ・シラー大学イェーナ|イェーナ大学]]の人事を担当して[[フリードリヒ・フォン・シラー|シラー]]、[[ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ|フィヒテ]]、[[フリードリヒ・シェリング|シェリング]]ら当時の知識人を多数招聘し、ヴァイマル劇場の[[劇場監督|総監督]]として[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]や[[ペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカ|カルデロン]]らの戯曲を上演し、文教政策に力を注いだ。 === イタリア紀行 === [[ファイル:Johann Heinrich Wilhelm Tischbein 007.jpg|thumb|left|270px|ローマ近郊におけるゲーテの肖像(1786年/1787年、[[ヨハン・ハインリヒ・ヴィルヘルム・ティシュバイン]]画)]] [[1786年]]、ゲーテはアウグスト公に無期限の休暇を願い出、9月にイタリアへ旅立った。もともとゲーテの父がイタリア贔屓であったこともあり、ゲーテにとってイタリアはかねてからの憧れの地であった。出発時ゲーテはアウグスト公にもシュタイン夫人にも行き先を告げておらず、イタリアに入ってからも名前や身分を偽って行動していた。出発時にイタリア行きを知っていたのは召使のフィリップ・ザイテルただ一人で、このことは帰国後シュタイン夫人との仲が断絶する原因となった。 ゲーテはまずローマに宿を取り、その後[[ナポリ]]、[[シチリア|シチリア島]]を訪れるなどし、結局2年もの間イタリアに滞在していた。ゲーテはイタリア人の着物を着、イタリア語を流暢に操りこの地の芸術家と交流した。その間に友人の画家ティシュバインの案内で美術品を見に各地を訪れ、特に古代の美術品を熱心に鑑賞した。午前中はしばらく滞っていた文学活動に精を出し、[[1787年]]1月には『イフィゲーニエ』をこの地で完成させ、さらに『タッソー』『ファウスト断片』を書き進めている。また旅行中に読んだ[[ベンヴェヌート・チェッリーニ]]の自伝を帰国後にドイツ語に訳し、約30年後にはイタリア滞在中の日記や書簡をもとに『[[イタリア紀行]]』を著した。 [[1788年]]にイタリア旅行から帰ったゲーテは芸術に対する思いを新たにしており、宮廷の人々との間に距離を感じるようになった。ゲーテはしばらく公務から外れたが、イタリア旅行中より刊行が始まった著作集は売れ行きが伸びず、ゲーテを失望させることになる。なお帰国してから2年後の[[1790年]]に2度目のイタリア旅行を行なっているが、1回目とは逆に幻滅を感じ数ヶ月で帰国している。 最初のイタリア旅行から戻った直後の[[1788年]]7月、ゲーテのもとに[[クリスティアーネ・フォン・ゲーテ|クリスティアーネ・ヴルピウス]]という23歳になる女性が訪れ、イェーナ大学を出ていた兄の就職の世話を頼んだ。彼女を見初めたゲーテは彼女を恋人にし、後に自身の住居に引き取って内縁の妻とした。帰国後まもなく書かれた連詩『ローマ哀歌』も彼女への恋心をもとに書かれたものである。しかし身分違いの恋愛は社交界の憤激の的となり、シュタイン夫人との決裂を決定的にすることになる。[[1789年]]には彼女との間に長男[[アウグスト・フォン・ゲーテ|アウグスト]]も生まれているが、ゲーテは[[1806年]]まで彼女と籍を入れなかった。なおゲーテとクリスティアーネの間にはその後4人の子供が生まれたがいずれも早くに亡くなり、長じたのはアウグスト一人である。 === フランス革命期 === [[フランス革命]]に対しては、ゲーテは当初その自由を希求する精神に共感したが、その後革命自体が辿った[[無政府状態]]に対しては嫌悪を感じていた。 [[1792年]]7月にフランスがドイツに宣戦布告すると、[[プロイセン王国]]の甲騎兵連隊長であったアウグスト公に連れ立ってゲーテも従軍し、[[ヴァルミーの戦い]]に参加した。この戦いにおけるフランス革命軍の勝利に対し、{{Quotation|ここから、そしてこの日から、世界史の新たな時代が始まる。(Von hier und heute geht eine neue Epoche der Weltgeschichte aus, und ihr könnt sagen, ihr seid dabei gewesen.) |ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)|"The Oxford History of the French Revolution",p.193(William Doyle,2002,Oxford University Press,ISBN 978-0-19-925298-5)}}との言葉を残した。 また、1793年5月には、フランスに占領されたマインツの包囲軍に従軍している。 === シラーとの交流 === [[ファイル:Goethe Schiller Weimar 3.jpg|thumb|180px|ワイマールに立つゲーテとシラーの像]] ゲーテと[[フリードリヒ・フォン・シラー|フリードリヒ・シラー]]は、共にドイツ文学史における[[シュトゥルム・ウント・ドラング]]とヴァイマル古典主義(「ドイツ[[古典主義]]」、「擬古典主義」などとも)を代表する作家として並び称されるが、出合った当初はお互いの誤解もあって打ち解けた仲とはならなかった。ゲーテは1788年にシラーをイェーナ大学の歴史学教授として招聘しているが、その後[[1791年]]にシラーが『[[群盗]]』を発表すると、すでに古典の調和的な美へと向かっていたゲーテは『群盗』の奔放さに反感を持ち、10歳年下のシラーに対して意識的に距離を置くようにしていた。シラーのほうもゲーテの冷たい態度を感じ、一時はゲーテに対し反感を持っていた。 だがその後[[1794年]]のイェーナにおける植物学会で言葉を交わすとゲーテはシラーが自身の考えに近づいていることを感じ、以後急速に距離を縮めていった。この年の6月13日にはシラーが主宰する『ホーレン』への寄稿を行っており、[[1796年]]には詩集『クセーニエン』(Xenien)を共同制作し、2行連詩形式(エピグラム)によって当時の文壇を辛辣に批評した。こうして互いに友情を深めるに連れ、2人はドイツ文学における古典主義時代を確立していくことになった。 この当時、自然科学研究にのめりこんでいたゲーテを励まし、「あなたの本領は詩の世界にあるのです」といってその興味を詩作へと向けさせたのもシラーであった。ゲーテはシラーからの叱咤激励を受けつつ、[[1796年]]に教養小説の傑作『[[ヴィルヘルム・マイスターの修業時代]]』を、翌年にはドイツの庶民層に広く読まれることになる叙事詩『[[ヘルマンとドロテーア]]』を完成させた。[[1799年]]にはシラーはヴァイマルへ移住し、二人の交流はますます深まる。また『ファウスト断片』を発表して以来、長らく手をつけずにいた『ファウスト』の執筆をうながしたのもまたシラーである。ゲーテは後に「シラーと出会っていなかったら、『ファウスト』は完成していなかっただろう」と語っている。 [[1805年]][[5月9日]]、シラーは肺病のため若くして死去する。シラーの死の直前までゲーテはシラーに対して文学的助言を求める手紙を送付している。周囲の人々はシラーの死が与える精神的衝撃を憂慮し、ゲーテになかなかシラーの訃報を伝えられなかったという。実際にシラーの死を知ったゲーテは「自分の存在の半分を失った」と嘆き病に伏せっている。一般にドイツ文学史における古典主義時代は、ゲーテのイタリア旅行(1786年)に始まり、このシラーの死をもって終わるとされている。なお1794年からシラーが没するまでの約11年間で交わされた書簡は1000通余りである(訳書は下記)。 === 晩年のゲーテ === [[1806年]]、[[イエナ・アウエルシュタットの戦い]]に勝利したナポレオン軍がヴァイマルに侵攻した。この際酔っ払ったフランス兵がゲーテ宅に侵入して狼藉を働いたが、未だ内縁の妻であったクリスティアーネが駐屯していた兵士と力を合わせてゲーテを救った。ゲーテはその献身的な働きに心を打たれ、また自身の命の不確かさをも感じ、20年もの間籍を入れずにいたクリスティアーネと正式に結婚することに決めた。カール・アウグスト公が結婚の保証人となり、式は2人だけで厳かに行なわれた。 また[[1808年]]に[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の号令によってヨーロッパ諸侯が[[エアフルト]]に集められると、アウグスト公に連れ立ってゲーテもこの地に向かい、ナポレオンと歴史的対面を果たしている。『若きウェルテルの悩み』の愛読者であったナポレオンはゲーテを見るなり「ここに人有り!(Voila un homme!)」と叫び感動を表した。 晩年のゲーテは腎臓を病み、1806年より頻繁に[[カルロヴィ・ヴァリ|カールスバート]]に湯治に出かけるようになる。ここで得た安らぎや様々な交流は晩年の創作の原動力となった。1806年には長く書き継がれてきた『ファウスト』第1部がようやく完成し、コッタ出版の全集に収録される形で発表された。[[1807年]]には[[ヴィルヘルミーネ・ヘルツリープ]]という18歳の娘に密かに恋をし、このときの体験から17編のソネットが書かれ、さらにこの恋愛から二組の男女の悲劇的な恋愛を描いた小説『[[親和力]]』([[1809年]])が生まれている。またこの年から自叙伝『[[詩と真実]]』の執筆を開始し、翌年には色彩の研究をまとめた『[[色彩論]]』を刊行している。[[1811年]]『詩と真実』を刊行。[[1816年]]、妻クリスティアーネが尿毒症による長い闘病の末に先立つ。 [[1817年]]、30年前のイタリア旅行を回想しつつ書いた『[[イタリア紀行]]』を刊行した。最晩年のゲーテは文学は世界的な視野を持たねばならないと考えるようになり、エマーソンなど多くの国外の作家から訪問を受け、[[ジョージ・ゴードン・バイロン|バイロン]]に詩を送り、[[ヴィクトル・ユーゴー|ユーゴー]]、[[スタンダール]]などのフランス文学を読むなどしたほか、[[東洋|オリエント]]の文学に興味を持って[[クルアーン|コーラン]]や[[ハーフェズ]]の詩を愛読した。このハーフェズに憧れてみずから執筆した詩が『[[西東詩集]]』(1819年)である。 [[ファイル:Fritz Fleischer-Mehr Licht!.jpg|thumb|280px|ゲーテの死(フリッツ・フライシャー画、1900年)]] [[1821年]]『[[ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代]]』刊行。『修業時代』の続編であり、この作品では夢想的な全体性を否定し「諦念」の徳を説いている。またこの年、ゲーテは[[マリアーンスケー・ラーズニェ|マリーエンバート]]の湯治場で[[ウルリーケ・フォン・レヴェツォー]]という17歳の少女に最後の熱烈な恋をした。[[1823年]]にはアウグスト公を通じて求婚するも断られており、この60歳も年下の少女への失恋から「マリーエンバート悲歌」などの詩が書かれた。 1828年十月二十三日<ref>{{Cite book|和書 |title=ゲーテとの対話 |publisher=岩波書店 |page=223}}</ref>、[[ヨハン・ペーター・エッカーマン]]に対して、ドイツの統一と自由の交流を望んでいるが、政治的中央集権は望んでいないと語っている。続けて彼は、心臓では血流は強大だが、肢体では弱い、と中央集権を人体に譬え、隣国のフランスではパリから離れた所は殆ど発展していないが、ドイツの偉大な所は立派な国民文化が各地に均等に行き渡っている所であり、もし[[ドレースデン]]や[[ミュンヘン]]や、[[シュトゥットガルト]]や[[カッセル]]や[[ブラウンシュヴァイク]]、[[ハノーファー]]といった都市が諸侯の居住地でなかったらば、もし[[フランクフルト]]や[[ブレーメン]]や[[ハンブルク]]、[[リューベック]]といった見事で大きな都市が大国の地方都市として併合されていたら、今日の姿と同様であるかは疑わしい、と述べている。<ref>{{Cite book|和書 |title=ゲーテとの対話 |publisher=岩波書店 |pages=236-237}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://mises.org/library/politics-johann-wolfgang-goethe |title=The Politics of Johann Wolfgang Goethe |access-date=2023-4-12 |publisher=https://mises.org/}}</ref> [[1830年]]10月、息子アウグスト・フォン・ゲーテ<ref group="注釈">訳書に『もう一人のゲーテ アウグストの旅日記』(藤代幸一・石川康子訳、法政大学出版局、2001年)</ref>が、旅先のローマにて病没<ref group="注釈">旅行はエッカーマンが同行している。息子アウグストは1817年にオティリーという女性と結婚、3人の子供をもうけており、オティリーが臨死のゲーテを看取った。孫たちはいずれも子を成さず、1885年に最後に残った孫ワルター・フォン・ゲーテが亡くなりゲーテ家は途絶えた。</ref>し先立たれる。 ゲーテは死の直前まで『ファウスト 第2部』完成に精力を注ぎ、完成の翌[[1832年]][[3月22日]]にその多産な生涯を終えた。「もっと光を!(Mehr Licht!)」が最後の言葉と伝えられている{{efn|主治医に言った言葉とされるが、単に部屋が暗いので明かりを入れて欲しいという程度の意味だったとも言われる<ref>池内紀『ゲーテさんこんばんは』集英社</ref>。}}。墓は{{仮リンク|ヴァイマル大公墓所|de|Weimarer Fürstengruft}}(Weimarer Fürstengruft)内にあり、シラーと隣り合わせになっている。 == 自然科学者としての業績 == [[ファイル:Incisivum Sheep.jpg|thumb|160px|羊の間顎骨。これがヒトにもあることをゲーテは発見した。]] [[ファイル:Goethite3.jpg|thumb|160px|針鉄鉱(ゲータイト)]] [[ファイル:Goethe, Farbenkreis zur Symbolisierung des menschlichen Geistes- und Seelenlebens, 1809.jpg|thumb|140px|ゲーテの色彩環]] ゲーテは学生時代から[[自然科学]]研究に興味を持ち続け、文学活動や公務の傍らで人体解剖学、植物学、地質学、光学などの著作・研究を残している。20代のころから[[骨相学]]の研究者[[ヨハン・カスパー・ラヴァーター]]と親交のあったゲーテは[[骨学]]に造詣が深く、[[1784年]]にはそれまでヒトにはないと考えられていた[[上顎骨|前顎骨]]がヒトでも胎児の時にあることを発見し比較解剖学に貢献している。 自然科学についてゲーテの思想を特徴付けているのは原型(Urform)という概念である。ゲーテはまず骨学において、すべての骨格器官の基になっている「元器官」という概念を考え出し、脊椎がこれにあたると考えていた。[[1790年]]に著した「植物変態論」ではこの考えを植物に応用し、すべての植物は唯一つの「原植物」(独:[[:de:Urpflanze]])から発展したものと考え、また[[花|植物の花]]を構成する花弁や雄しべ等の各器官は様々な形に変化した「葉」が集合してできた結果であるとした。このような考えからゲーテは[[リンネ]]の分類学を批判し、「[[形態学 (生物学)|形態学]](Morphologie)」と名づけた新しい学問を提唱したが、これは[[進化論]]の先駆けであるとも言われている<ref>星野慎一『ゲーテ 人と思想』</ref>。 またゲーテは20代半ばのころ、ワイマール公国の顧問官として[[イルメナウ]][[鉱業|鉱山]]を視察したことから鉱山学、地質学を学び、イタリア滞在中を含め生涯にわたって各地の石を蒐集しており、そのコレクションは1万9000点にも及んでいる。なお[[針鉄鉱]]の英名「ゲータイト(goethite)」はゲーテの名にちなむものであり、ゲーテと親交のあった鉱物学者によって1806年に名づけられた。 晩年のゲーテは光学の研究に力を注いだ。[[1810年]]に発表された『[[色彩論]]』は20年をかけた大著である。この書物でゲーテは青と黄をもっとも根源的な色とし、また色彩は光と闇との相互作用によって生まれるものと考えて[[アイザック・ニュートン|ニュートン]]の[[スペクトル]]分析を批判した。ゲーテの色彩論は発表当時から科学者の間でほとんど省みられることがなかったが、[[ヘーゲル]]や[[シェリング]]はゲーテの説に賛同している。 ;科学研究での日本語訳(近年刊行) *『自然と象徴 自然科学論集』([[高橋義人 (ドイツ文学者)|高橋義人]]<ref group="注釈">研究に、高橋義人『形態と象徴 ゲーテと「緑の自然科学」』岩波書店、1988年</ref>・[[前田富士男]]編訳、[[冨山房|冨山房百科文庫]]、1982年)、のち新装版 *『色彩論 完訳版』(全2巻+別冊:高橋義人・前田富士男ほか訳・解説、工作舎、1999年) ISBN 9784875023203 *『色彩論』 [[木村直司]]訳([[ちくま学芸文庫]]、2001年) ISBN 9784480086198 *『ゲーテ 形態学論集 植物篇』、『動物篇』(木村直司編訳、ちくま学芸文庫、2009年3・4月) *『ゲーテ 地質学論集 鉱物篇』、『気象篇』(木村直司編訳、ちくま学芸文庫、2010年6・7月) *『ゲーテ全集(14) 自然科学論』(木村直司・高橋義人ほか訳、[[潮出版社]]、新版2003年) == ゲーテと音楽 == [[ファイル:Franz Schubert by Wilhelm August Rieder 1875.jpg|thumb|left|160px|ゲーテの詩に多くの曲をつけたシューベルト]] ゲーテの作品には非常に多くの作曲家が曲を付けている。特に重要なのは『[[魔王 (シューベルト)|魔王]]』『[[野ばら]]』『[[糸をつむぐグレートヒェン]]』『[[ガニュメート (シューベルト)|ガニュメート]]』などの[[フランツ・シューベルト]]による歌曲であり、シューベルトが生涯作曲した600曲もの歌曲のうち70曲ほどがゲーテの作品に付けられた曲である。ゲーテ自身は曲が前面に出すぎて素朴さに欠けるとしてシューベルトの曲をあまり好まなかったが、シューベルトの死後の1830年に『魔王』を聴くと「全体のイメージが眼で見る絵のようにはっきりと浮かんでくる」と感動し評価を改めた。 ゲーテの音楽観は保守的なものであり、たとえば[[歌曲]]については[[民謡]]を理想とし、[[カール・フリードリヒ・ツェルター]]や[[ヨハン・フリードリヒ・ライヒャルト]]らの作曲を好んだ。他にゲーテが評価した音楽家としては[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト]]がおり、『ファウスト』に曲をつける権利があるのはモーツァルトだけだとも語っていた(エッカーマン『[[ゲーテとの対話]]』)。モーツァルトに言及した多くの文章も残っており、特に彼の音楽を「悪魔が人間を惑わすためにこの世に送り込んだ音楽」と評した言葉はよく知られている。モーツァルトのゲーテ歌曲には『すみれ』があり、特に早いゲーテ歌曲の一つであるが、モーツァルトは作曲した時ゲーテの作だとは知らなかった。 またゲーテは[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン]]にも高い評価を与えていた。初めて『[[交響曲第5番 (ベートーヴェン)|運命]]』を聴いたときには非常に動揺し、「みんなが一斉にあんな音を同時に演奏したらどうなってしまうのだ、建物が壊れてしまうではないか」と言っていた(前掲書より)。ベートーヴェンもゲーテを尊敬し劇音楽『[[エグモント (劇音楽)|エグモント]]』やカンタータ『[[静かな海と楽しい航海 (ベートーヴェン)|静かな海と楽しい航海]]』などゲーテの作品に曲をつけている。2人は1812年にカールスバートの温泉地で対面しており数日間の交流を持ったが、ゲーテはベートーヴェンの難聴に同情しつつもその陰気さや無礼さを嫌った。ほかにゲーテと親交のあった作曲家には[[フェリックス・メンデルスゾーン]]がおり、序曲『[[静かな海と楽しい航海 (メンデルスゾーン)|静かな海と楽しい航海]]』などを作曲している。 [[ファイル:Tovenaarsleerling S Barth.png|thumb|200px|「[[魔法使いの弟子 (詩)|魔法使いの弟子]]」につけられた挿絵]] ゲーテの作品のなかで最も多く曲が付けられているのは『[[ファウスト (ゲーテ)|ファウスト]]』であり、オペラだけでも50もの作品が作られている。『ファウスト』に基づく音楽で代表的なものは、[[エクトル・ベルリオーズ]]の『[[ファウストの劫罰]]』(1846年)、[[シャルル・グノー]]の[[オペラ]]『[[ファウスト (グノー)|ファウスト]]』(1859年)、[[アッリーゴ・ボーイト]]のオペラ『メフィストーフェレ』(1869年)、[[ロベルト・シューマン]]の『[[ゲーテのファウストからの情景|ファウストからの情景]]』(1844年-1859年)、[[フランツ・リスト]] の『[[ファウスト交響曲]]』(1857年-1880年)、[[グスタフ・マーラー]]の『[[交響曲第8番 (マーラー)|交響曲第8番]]』(1906年)など。先に挙げたシューベルトの「糸をつむぐグレートヒェン」なども『ファウスト』からの曲である。 この他にゲーテの作品に基づく有名な音楽作品として、シューマン『[[ミニョンのためのレクイエム]]』、[[アンブロワーズ・トマ|トマ]]のオペラ『[[ミニョン]]』、[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]の『ゲーテの「冬のハルツの旅」からの断章』([[アルト・ラプソディ]])、[[ジュール・マスネ|マスネ]]のオペラ『[[ウェルテル (オペラ)|ウェルテル]]』、[[フーゴ・ヴォルフ|ヴォルフ]]の『ゲーテの詩による歌曲集』、[[ポール・デュカス|デュカス]]の『[[魔法使いの弟子]]』などがある。特にオペラ化に関しては成功作がフランスに多い。 == 受容と影響 == === 後世への影響 === [[ファイル:20-Mark-1975.jpg|thumb|230px|ゲーテの肖像を使用した20マルク紙幣(東ドイツ、1975年発行)]] ゲーテの晩年にはドイツで[[ロマン主義|ロマン派]]の文学が興隆し、その理論的支柱であった[[シュレーゲル兄弟]]をはじめ多くのロマン派の作家はゲーテ、シラーを範と仰いだ。しかし晩年「世界文学」を唱えるようになったゲーテはロマン派の国粋的な面を嫌うようになり、「ロマン派は病気だ」と言って批判的な立場を取った。ゲーテが死んだ翌年の[[1833年]]には[[ハインリヒ・ハイネ]]がその死を受けて『ドイツ・ロマン派』を執筆し、同時代のドイツ文学の状況を総括した。 また近代言語学の祖であり『[[グリム童話]]』の編者でもある[[ヤーコプ・グリム]]が作成した『ドイツ語辞典』にはゲーテの全作品から非常に多くの引用が取られており、辞典の序文には「彼の著作から僅かでも欠如するよりは、他の人々の著作から多く欠如したほうが良い」と書かれている。[[マルティン・ルター]]によるドイツ語訳聖書によって大きく発展した[[新高ドイツ語|現代ドイツ語]]がゲーテによって完成させられたことは今日では定説となっている(木村直司「ゲーテ像の変遷」)。 ゲーテはフランス革命の際に保守的な反応を取ったことから左翼的な思想の持ち主からはしばしば「偉大な俗物」と言われ批判を受けた。文学史上ではハイネや[[ルートヴィヒ・ベルネ]]、[[青年ドイツ]]の作家が彼の批判者である。もっとも[[カール・マルクス]]は「ゲーテは偉大な詩人であるだけでなく、最も偉大なドイツ人の一人である」と述べており、[[レーニン]]もまたゲーテを愛読し、[[1917年]]に国外に逃亡した際には[[ニコライ・ネクラーソフ|ネクラーソフ]]の詩集とともにゲーテの『ファウスト』を携えていった(星野、前掲書)。 ゲーテの名声は19世紀半ばごろ一時下火となったが、1876年に発表された[[ヘルマン・グリム]]による『ゲーテ』によってやや神格化を伴いつつ評価が確立した。[[1885年]]にはグリムが中心となってヴァイマルにゲーテ協会が設立され、今日に至るまでゲーテ研究の中心となっている。20世紀に入って以降も[[シュテファン・ゲオルゲ|ゲオルゲ]]、[[フーゴ・フォン・ホーフマンスタール|ホーフマンスタール]]、[[ライナー・マリア・リルケ|リルケ]]らの詩人がゲーテの詩を範と仰ぎあるいそこからは霊感を受けており、特に[[ノーベル文学賞]]を受賞した[[トーマス・マン]]は、ゲーテをドイツ人の代表者として頻繁にエッセイや講演で論じ、後期作品にゲーテが登場する長編『ヴァイマルのロッテ』、範とした『ファウスト博士』を執筆している。<br>[[1927年]]にはゲーテを記念しフランクフルト・アム・マインで[[ゲーテ賞]]が設けられており、戦後[[ゲオルク・ビューヒナー賞|ビューヒナー賞]]にとって替わられるまで長くドイツ文学においてもっとも権威ある賞として機能した(三島憲一「戦後ドイツ」岩波新書)。 [[スイス]]生まれの[[ドイツ文学]]者、作家の[[アドルフ・ムシュク]](1934年生まれ)は、[[2012年]]長篇小説『レーヴェンシュテルン』(''Löwenstern'')を出版した。この作品の主人公ヘルマン・ルートヴィヒ・フォン・レーヴェンシュテルン(Hermann Ludwig von Löwenstern; 1777-1836)は、[[エストニア]]人であるが、同郷の[[ロシア海軍]]提督[[アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルン]](Adam Johann von Krusenstern; 1770-1846)が成し遂げたロシア最初の世界周航(1803-1806)に参加した人物である。レーヴェンシュテルンはこの小説の中で、[[ワイマール]]の[[ゲーテ]]を訪れた際に、日本について全く知らなかったゲーテにむかって、書物から得た知識をもとに当時の日本の事情について語ると、ゲーテから実際に日本へ行くようにと勧められたと述懐している<ref>Adolf Muschg: ''Löwenstern''. München : C.H. Beck 2012 (ISBN 978 3 406 63951 7), S. 72-75.</ref> 。 [[小惑星]][[ゲーテ (小惑星)|(3047) Goethe]]はゲーテの名前にちなんで命名された<ref>{{cite web|url=https://minorplanetcenter.net/db_search/show_object?object_id=3047|title=(3047) Goethe = 1969 UG = 1976 JU6 = 1982 VO = 6091 P-L = PLS6091|publisher=MPC|accessdate=2021-09-09}}</ref>。 === 日本における受容 === [[1871年]]([[明治]]4年)に初めて日本でゲーテの名が紹介されたが、本格的な受容が起るのは明治20年代からである。作品の翻訳は[[1884年]](明治17年)、[[井上勤]]が『[[ライネケ狐]]([[:de:Reineke Fuchs]])』を『狐裁判』として訳したものが最初である([[狐物語群#ゲーテのドイツ語作品]])。この訳は当初自由出版社から出されていたが、[[1886年]](明治19年)に版権が春陽堂に移って新たな初版が出され、[[1893年]](明治26年)までに5版が出るほどよく読まれた。[[1889年]](明治22年)には[[森鷗外]]が訳詩集『[[於母影]]』においてゲーテの詩を翻訳し、特にその中の「ミニヨン」の詩は当時の若い詩人たちに大きな影響を与えた。鴎外はゲーテを深く尊敬しており、『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』の翻訳や『ファウスト考』『ギョッツ考』などの論考を著し、[[1913年]]([[大正]]2年)には日本初の『ファウスト』完訳を行なっている。 日本では明治20年代から30年代にかけては若手作家の間で「ウェルテル熱」が起り、[[島崎藤村]]、[[平田禿木]]、[[戸川秋骨]]、[[馬場孤蝶]]ら『文学界』同人の作家を中心に『若きウェルテルの悩み』が熱心に読まれた。特に島崎藤村は晩年までゲーテを愛読しており、随筆『桃の雫』(1936年)の中でゲーテに対する長年の思いを語っている。外国文学に批判的だった[[尾崎紅葉]]も晩年にはゲーテを熱心に読み、「泣いてゆく ヱルテルに会う 朧かな」を[[辞世の句]]として残した。また『ウェルテル』と並んで『ファウスト』も若い作家の間で熱心に読まれていた。文壇に「ウェルテル熱」が起る前に早世した[[北村透谷]]は『ファウスト』を熱心に読んでおり、『蓬莱曲』などの作品を書く上で大きな影響を受けている。[[倉田百三]]は代表作『[[出家とその弟子]]』を書く際、鴎外訳の『ファウスト』から様々な影響を受けたことを語っており、[[国木田独歩]]も『ファウスト』を熱心に読み影響を受けたことを『欺かざるの記』のなかで繰り返し述べている。他にゲーテを愛読しゲーテについての著述を残している者に[[長与善郎]]、[[堀辰雄]]、[[亀井勝一郎]]などがおり(以上、星野『ゲーテ』より)、[[水木しげる]]もゲーテの言動についてのエッセイを著している。 [[1931年]]([[昭和]]6年)には[[日本ゲーテ協会]]が創設され、ドイツ文学の研究・紹介を行っている。また[[関西ゲーテ協会]]の主催で毎年ゲーテの誕生日の夜に「ゲーテ生誕の夕べ」が開催されており、そこではゲーテにちなんだ歌謡のコンサートや講演が開かれている。[[京都市]]には、日独文化交流機構の[[ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川]]がある。 [[1964年]](昭和39年)には実業家[[粉川忠]]によって東京都北区に[[東京ゲーテ記念館]]が運営され、日本語の翻訳本や原著だけでなく世界中の訳本や研究書、上演時の衣装などを含む関連資料を所蔵する世界的にも類例のない資料館となっている。 == 著作一覧 == [[ファイル:Wilhelm Meisters Lehrjahre 1795.jpg|180px|thumb|『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』]] [[ファイル:Goethe Faust I 1808.jpg|180px|thumb|『ファウスト』第1部]] [[ファイル:Goethe 1819 West-östlicher Divan.jpg|180px|thumb|『西東詩集』]] [[ファイル:Goethe Dichtung und Wahrheit.jpg|180px|thumb|『詩と真実』]] === 小説 === * [[若きウェルテルの悩み]](''Die Leiden des jungen Werthers''、1774年) * [[ヴィルヘルム・マイスターの修業時代]](''Wilhelm Meisters Lehrjahre''、1796年) * [[親和力]](''Die Wahlverwandtschaften''、1809年) * [[ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代]](''Wilhelm Meisters Wanderjahre''、1821年) === 戯曲 === * [[ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン (ゲーテ)|ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン]](''Götz von Berlichingen mit der eisernen Hand''、1773年) * [[タウリス島のイフィゲーニエ]]<ref>[[エウリピデス]]『[[タウリケのイピゲネイア]]』からの着想による後期戯曲</ref>(''Iphigenie auf Tauris''、1787年) * [[エグモント (戯曲)|エグモント]](''Egmont''、1788年-1789年) * [[タッソー (ゲーテ)|トルクワト・タッソー]](''Torquato Tasso''、1790年) * [[ファウスト (ゲーテ)|ファウスト]] [[ファウスト 第一部|悲劇第一部]](''Faust, der Tragödie erster Theil''、1806年) * [[ファウスト 第二部|ファウスト 悲劇第二部]](''Faust, der Tragödie zweyter Theil''<!--この時代、zweiterは、 zweyterと綴っていたので、間違いではない -->、1831年) === 詩集 === * アネッテ(''Annette''、1767年) * 新詩集(''Neue Lieder''、1769年) * 雑詩集(''Vermischte Gedichte''、1789年) * [[ライネケ狐]](''Reineke Fuchs''、1794年) - 叙事詩 * [[ローマ悲歌]](''Römische Elegien''、1795年) * [[ヘルマンとドロテーア]](''Hermann und Dorothea''、1798年) - 叙事詩 * [[西東詩集]](''West-östlicher Divan''、1819年) * [[情熱の三部作]](''Trilogie der Leidenschaft''、1827年) === その他 === * [[色彩論]](''Zur Farbenlehre''、1810年) - 科学論文 * [[詩と真実|わが生涯より 詩と真実]](''Aus meinem Leben: Dichtung und Wahrheit''、1811年) - 自叙伝 * [[イタリア紀行]](''Italienische Reise''、1816年-1817年) - 旅行記 * 箴言と省察若くは格言と反省(''Maximen und Reflexionen''、1833) - 死後編輯の格言集 == 史跡 == ゲーテ生誕の地であるフランクフルトから、ワイマールを経て、ゲーテが学業に励んだライプツィヒまでの400kmの街道は「ゲーテ街道」と称されている<ref>{{cite book|和書|title=るるぶドイツ ロマンチック街道 2016年版|publisher=[[JTBパブリッシング]]|year=2016|page=57}}</ref>。 == ギャラリー == === ゲーテの肖像 === <gallery mode="nolines" widths="170" heights="150"> File:Goeth_1768.jpg|16歳頃のゲーテ(前掲、ヨハン・アダム・ケルン画、1765年-1768年頃) File:Goethe.png|26歳のゲーテ([[ゲオルク・メルヒオール・クラウス]] 画、1775年) File:JW Goethe by GM Kraus 1775 76.jpg|女性の[[シルエット]]を眺める青年ゲーテ(ゲオルク・メルヒオール・クラウス画、1775年-1776年) File:Goethe, Georg Oswald May,1779.jpg|30歳頃のゲーテ(ゲオルク・オズワルト・メイ画、1779年) File:Johann Heinrich Wilhelm Tischbein 007.jpg|[[カンパーニャ・ロマーナ]]における30代のゲーテ([[ヨハン・ハインリヒ・ヴィルヘルム・ティシュバイン|ティシュバイン]]画、1786年-1787年) File:Der junge Goethe, gemalt von Angelica Kauffmann 1787.JPG|イタリア時代のゲーテの肖像([[アンゲリカ・カウフマン (画家)|アンゲリカ・カウフマン]]画、1787年) File:Goethe_1791.jpg|40代のゲーテを描いた銅版画(ヨハン・ハインリヒ・リップス画、1791年) File:JohannWolfgangVonGoethe FriedrichBury.jpg|50歳頃のゲーテ([[フリードリヒ・ビュリー]]画、1800年) File:Goethe Kügelgen.jpg|60歳頃のゲーテ([[ゲルハルト・フォン・キューゲルゲン]]画、1808年) File:Johann_Wolfgang_Goethe_1811.jpg|60代のゲーテ([[ルイーゼ・ザイドラー]]画、1811年) File:Goethe raabe 1814.jpg|60代のゲーテ(ヨセフ・ラーベ画、1814年) File:Goethe (Stieler 1828).jpg|70歳のゲーテ。当時ゲーテは80歳近かったが、70歳の肖像として描かれている(前掲、[[ヨーゼフ・カール・シュティーラー]]画、1828年) File:Weimarer Klassik.jpg|イェーナ近郊にて。左から[[フリードリヒ・フォン・シラー|シラー]]、ヴィルヘルム・フンボルト、[[アレクサンダー・フンボルト]]、ゲーテ(アドルフ・ミュラー画、1797年頃) File:Oer-Weimarer Musenhof.jpg|ヴァイマル・ムーゼンホフにてシラーの朗読を聞くゲーテ。胸に手を入れているのがゲーテである(テオバルト・フォン・エール画、1860年) File:Goethe und Schreiber John@Weimar Anna Amalia Bibliothek.jpg|[[口述筆記]]を行なう晩年のゲーテ([[ヨハン・ヨーゼフ・シュメラー]]画、1834年) </gallery> === 近親者の肖像 === {{Gallery |width=160 |height=160 |lines=4 |Image:JohannCasparGoethe.jpg|ゲーテの父ヨハン・カスパー・ゲーテ(ゲオルク・フリードリヒ・シュモール画、1775年) |Image:Catharina Elisabeth Goethe 1776.jpg|ゲーテの母カタリーナ・エリザベート・ゲーテ(ゲオルク・オズワルト画、1776年) |Image:Cornelia Schlosser.jpg|ゲーテの妹コルネリア・シュロッサー(ゲーテ自身の筆による肖像を基にした木版画) |Image:Johann Conrad Seekatz 001.jpg|少年時代のゲーテの家族。羊飼いに扮している([[ヨハン・コンラート・ゼーカッツ]]画、1760年頃) }} === 恋人たちの肖像 === <gallery> Image:Friederike Brion1.jpg|21歳の頃恋に落ちたフリーデリケ・ブリオン。彼女との恋愛から初期の抒情詩が生まれた。 Image:Charlotte Buff.jpg|22歳のゲーテが思いを寄せ、後に『若きウェルテルの悩み』のヒロインのモデルとなった[[シャルロッテ・ブッフ]]。 Image:LiliSchoenemanGoethesVerlobteS46.jpg|20代の時の恋人リリー・シェーネマン。一時は婚約したもののその後婚約解消となった。 Image:Charlotte von Stein.jpg|20代から30代にかけてゲーテが愛をささげた[[シュタイン夫人]]。彼女との恋愛はゲーテが古典主義に向かう契機となった。 Image:Christiane-von-Goethe-Vulpius.jpg|妻クリスティアーネ。ゲーテは彼女との間に息子アウグストをもうけている。(ゲーテ自身の筆による) Image:MinchenHerzlieb1.jpg|50代のゲーテが恋をしたヴィルヘルミーネ・ヘルツリープ。18歳当時の彼女に対する密かな愛が『親和力』執筆の原動力となった。 Image:Marianne_von_Willemer.png|晩年に恋したマリアンネ・フォン・ヴィレマー。『西東詩集』の「ズライカの書」において「ズライカ」として登場する。 Image:Ulrike_von_Levetzow.jpg|80歳のゲーテが恋に落ちたウルリーケ・フォン・レヴェツォー。彼女への失恋から『マリーエンバート悲歌』が生まれた。 </gallery> === その他人物の肖像 === <gallery> Image:Johann Peter Eckermann.jpg|ゲーテの後半生を知るうえで重要な著作(『[[ゲーテとの対話]]』)を残し、秘書でもあった[[ヨハン・ペーター・エッカーマン]] </gallery> === ゲーテの住居 === <gallery> File:GoethesGeburtshausVorUmbau1755.jpg|ゲーテの生家(1775年以前) File:Goethehausfrankfurt.JPG|ゲーテの生家(2005年) File:030430-goethehaus.jpg|ヴァイマルでのゲーテの住居(2003年) File:Weimar Goethe Garten4.jpg|ヴァイマルでのゲーテの住居(中庭側、2006年) File:Weimar Goethe Garten5.jpg|ヴァイマルの住居の別館。ゲーテはここに石のコレクションを収めていた(2006年) File:Weimar Goethe Gartenhaus.jpg|イルム川近くにあるゲーテの園亭。ここで寝起きすることもしばしばだった(2006年) File:Goethehaus Frankfurt - Dichterzimmer.jpg|フランクフルト時代の書斎 File:Bundesarchiv Bild 183-67941-0003, Weimar, Goethehaus, Arbeitszimmer.jpg|ヴァイマル時代の書斎 File:Bundesarchiv Bild 183-67941-0006, Weimar, Goethehaus, Sterbezimmer.jpg|ゲーテが死去した部屋。ゲーテは肘掛椅子に坐ったまま、椅子の左側に寄りかかった状態で息を引き取った。 </gallery> === ゲーテの銅像 === <gallery> File:Goethe-denkmal-ffm001.jpg|フランクフルト・アム・マインのゲーテ広場にある銅像 File:Goetheskulptur Nachmarkt Leipzig.jpg|ライプツィヒにある、若き日のゲーテ像 File:Goethe-Denkmal.jpg|ローマにあるゲーテの記念碑 File:Goethe Schiller Weimar 3.jpg|ヴァイマル国立劇場前にあるゲーテとシラーの像(前掲) File:Edmund von Hellmer 01.JPG|ウィーンにあるゲーテ像 File:Wiesbadn - Museum Goethe.jpg|[[ヴィースバーデン]]にあるゲーテ像 </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * [[ヨハン・ペーター・エッカーマン|エッカーマン]] 『[[ゲーテとの対話]]』 [[山下肇]]訳、岩波文庫(上中下)、改版2012年 * [[小栗浩]] 『人間ゲーテ』 岩波新書、1978年 * [[星野慎一]] 『ゲーテ 人と思想』 清水書院(新書)、1981年、新版2014年 * [[手塚富雄]] 『人類の知的遺産〈45〉ゲーテ』 講談社、1982年 **『いきいきと生きよ ゲーテに学ぶ』 講談社現代新書、1968年/サンマーク文庫、2008年 * [[池内紀]] 『ゲーテさんこんばんは』 集英社、2001年/集英社文庫、2005年 * [[仲正昌樹]] 『教養としてのゲーテ入門』 新潮選書、2017年 ;以下は伝記研究 * [[木村直司]] 『ゲーテ研究 ゲーテの多面的人間像』 南窓社、1976年 * 木村直司 『ゲーテ研究 続 ドイツ古典主義の一系譜』 南窓社、1983年 * [[柴田翔]] 『闊歩するゲーテ』 筑摩書房、2009年 * ハイネマン 『ゲーテ伝』 [[大野俊一]]訳、岩波文庫(全4巻)、1955年-1958年 * リヒャルト・フリーデンタール 『ゲーテ その生涯と時代』 平野雅史訳、講談社(上・下)、1979年 * エミール・シュタイガー 『ゲーテ』 [[木庭宏]]訳、人文書院(全3巻)、1980年-1981年 * アルベルト・ビルショフスキ 『ゲーテ その生涯と作品』 [[高橋義孝]]・佐藤正樹訳、岩波書店、1996年 * グンドルフ 『ゲーテ研究』 小口優訳、未來社、新版1978年ほか ::全3巻、1 若きゲーテ、2 古典期のゲーテ、3 晩年のゲーテ == 作品集 == * 『ゲーテ全集』(全12巻)、人文書院、1960年-1961年。最終巻は作家論集 * 『ゲーテ全集』(全15巻)、潮出版社、1979年-1992年、新装版2003年。別巻『ゲーテ読本』(新版1999年) * 『ゲーテ=シラー往復書簡集』、森淑仁ほか3名訳、潮出版社(上下)、2016年 * 『ゲーテ ポケットマスターピース02』大宮勘一郎編、[[集英社文庫]]ヘリテージシリーズ、2015年 ==関連文献== * [[丸山武夫]]『ゲーテの自然感情:抒情詩を中心にして』第三書房、1974年 * [[菊池栄一]]『菊池栄一著作集』菊池栄一著作集刊行会編、人文書院、1984年 :1 自然科学者としてのゲーテ、2 唱和の世界、3 イタリアにおけるゲーテの世界、4 ゲーテ時代における文学と社会 == 関連項目 == {{wikisourcelang|de|Johann Wolfgang von Goethe|ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ}} {{Wikiquote|ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ}} {{Commons&cat|Johann Wolfgang von Goethe|Johann Wolfgang von Goethe}} * [[ヨハン・ペーター・エッカーマン|ヨハン・エッカーマン]] - [[ゲーテとの対話]] * [[ゲーテ街道]] * [[古典主義の都ヴァイマル]] * [[ゲーテの恋 〜君に捧ぐ「若きウェルテルの悩み」〜]] - [[2010年の映画|2010年]]の[[ドイツの映画|ドイツ映画]] * [[ゲーテ・メダル (曖昧さ回避)]] * {{仮リンク|フリーデリケ (オペレッタ)|label=フリーデリケ|de|Friederike (Operette)}}』([[フランツ・レハール]]の[[オペレッタ]]) == 外部リンク == * [http://wwwsoc.nii.ac.jp/ggj/ 日本ゲーテ協会] * [http://kakugen.aikotoba.jp/goethe.htm ゲーテ名言集] ([http://kakugen.aikotoba.jp/ 世界傑作格言集]) * [http://www.city.kita.tokyo.jp/misc/kanko/data/g/5.html 東京ゲーテ記念館] - 一般公開展示のほか、ゲーテに関する資料約15万点を所蔵。 * {{gutenberg author|id=Goethe+Johann+Wolfgang+von | name=ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ}}{{de icon}} * Zeno.orgにおける[http://www.zeno.org/Literatur/M/Goethe,+Johann+Wolfgang ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの作品]{{de icon}} * {{青空文庫著作者|1025|ゲーテ ヨハン・ヴォルフガング・フォン}} * [[物語倶楽部]]における[https://web.archive.org/web/20040812150027/http://www.sm.rim.or.jp/~osawa/AGG/goethe/index.html 生田春月訳 ゲエテ詩集] * {{Kotobank|ゲーテ}} {{ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:けて よはん うおるふかんく}} [[Category:ゲーテ|*]] [[Category:18世紀ドイツの哲学者]] [[Category:19世紀ドイツの哲学者]] [[Category:19世紀の自然科学者]] [[Category:18世紀ドイツの小説家]] [[Category:19世紀ドイツの小説家]] [[Category:18世紀ドイツの詩人]] [[Category:19世紀ドイツの詩人]] [[Category:18世紀ドイツの劇作家]] [[Category:19世紀ドイツの劇作家]] [[Category:ドイツ史の人物]] [[Category:国立科学アカデミー・レオポルディーナ会員]] [[Category:プロイセン科学アカデミー会員]] [[Category:ゲッティンゲン科学アカデミー会員]] [[Category:バイエルン科学アカデミー会員]] [[Category:ユネスコ記憶遺産]] [[Category:自然哲学者]] [[Category:ロマン派詩人]] [[Category:紀行作家]] [[Category:スピノザ主義者]] [[Category:汎神論者]] [[Category:フリーメイソン]] [[Category:レーゼドラマを書いた作家]] [[Category:庭園に関する人物]] [[Category:ドイツの紙幣の人物]] [[Category:ヴァイマルの歴史]] [[Category:テューリンゲンの歴史]] [[Category:ストラスブール大学出身の人物]] [[Category:フランクフルト・アム・マイン出身の人物]] [[Category:1749年生]] [[Category:1832年没]]
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Eclipse (統合開発環境)
Eclipse(イクリプス、英: Eclipse)は、コンピュータプログラミングにおいて使用される統合開発環境(IDE)である。ベースとなるワークスペースと、環境をカスタマイズするための拡張可能なプラグインシステムが含まれている。Eclipseは主にJavaで書かれており、主にJavaアプリケーションの開発に使用されるが、Ada 、ABAP、C 、C ++ 、C# 、Clojure 、COBOL 、D、Erlang、Fortran 、Groovy 、Haskell、JavaScript、Julia、 Lasso、Lua、NATURAL、Perl、PHP、Prolog、Python、R、Ruby(Ruby on Railsフレームワークを含む)、Rust、Scala、Schemeなどのプラグインを介して他のプログラミング言語のアプリケーションを開発するために使用することもできる。また,LaTeX(TeXlipseプラグイン経由)やソフトウェアMathematicaのパッケージを使ったドキュメントの開発にも利用できる。開発環境としては,JavaやScala用のEclipse Java開発ツール(JDT),C/C++用のEclipse CDT,PHP用のEclipse PDTなどを含んでいる。 初期のコードベースはIBM VisualAgeに由来している。Java開発ツールを含むEclipseソフトウェア開発キット(SDK)は、Java開発者向けのものである。ユーザーは、他のプログラミング言語の開発ツールキットなど、Eclipseプラットフォーム用に書かれたプラグインをインストールすることで、その機能を拡張することができ、独自のプラグインモジュールを書いてコントリビュートすることができる。Eclipseのバージョン3でOSGi実装(Equinox)が導入されて以来、プラグインは動的に停止することができ、(OSGI)バンドルと呼ばれている。 Eclipse ソフトウェア開発キット (SDK)はフリーでオープンソースのソフトウェアであり、 Eclipse Public Licenseの条件に基づいてリリースされているが、 GNU General Public Licenseとは互換性がない。 これは、GNU Classpathで実行される最初のIDEの1つであり、IcedTeaで問題なく実行される。 Eclipseの歴史は1990年代後半から始まる。当時の状況は、JBuilder、VisualCafe(英語版)、そしてIBMのVisualAge、PFUのteikadeなど第1世代のJava開発ツールが存在している。IBMは様々なプラットフォームの製品を抱えていることから、Javaのマルチプラットフォームの可能性に注目していた。単なるVisualAgeの代替ではなく、IBMや他社のツールを統合するための共通プラットフォームの開発という基本構想の下、1998年11月にIBMカナダでプロジェクトが開始された。開発に携わったのは、VisualAgeの開発を行ったObject Technology International (OTI) 研究所である。 その後、IBMはこのプラットフォームに搭載するツールの開発のために組織の編成を行い、さらにオープンソース化することで新しい開発者の引き込みを図った。2001年11月、IBMはEclipseをオープンソース化するとともに、他の組織 (ボーランド、MERANT、QNX Software Systems、ラショナルソフトウェア、レッドハット、SuSE、TogetherSoft(英語版)、Webgain(英語版)) と共同で初期のEclipse.orgであるEclipse Board of Stewardsを設立する。公開されたEclipseはたちまちのうちに多くの開発者の興味を惹くこととなった。同年IBMはVisualAgeの後継製品として、EclipseをベースにWebSphere Studioを開発、リリースした。 また、2003年の終わりには、Eclipse Board of Stewardsの参加メンバーも80を越えている。 しかし爆発的人気の陰で、Eclipseは、IBM以外の他団体から新たなツールが提供されないという問題を抱えていた。それは、IBMがEclipseの制御権を握っているという認識によるものであった。IBM側にも「EclipseはWebSphere Studioの共通基盤であるWebSphere Studio Workbenchの一部を公開した物である」という認識が存在した。Eclipseの勢いを止めないために、IBMとEclipseを切り離すことが必要とされた。2004年2月2日、Eclipse Board of Stewardsは、Eclipse組織の再構築を発表した。非営利組織Eclipse Foundationの結成と、Eclipseの全てをEclipse Foundationに移管することで、全ての団体や開発者を対等に扱うこととなった。このEclipse Foundationから、Eclipse 3.0、3.1、3.2がリリースされている。現在Eclipse Foundationは、115以上のメンバー企業、50以上のサブプロジェクトを抱えるオープンソース組織に成長している。 2006年、Eclipse Foundationは、Eclipse 3.2に10のオープンソースプロジェクトを合わせたリリースを行った。この製品は、Eclipse Callistoと呼ばれている。現在では毎年6月に同時リリース (Simultaneous Release)、その後9月と2月にそれぞれSR1とSR2 (Service Release) が行われている。同時リリースにはコードネームが付与されており、3.4まではガリレオ衛星に因んだ名が付けられていたが、3.5で予定されていたIoはI/Oと誤認されるおそれがあるため、ガリレオ衛星発見者のガリレオ・ガリレイよりとった名称であるGalileoへと変更された。また、2010年リリースの3.6はHelios(ギリシア神話の太陽神であるヘーリオス)と名付けられている。なお、Galileoからは頭文字がアルファベット順となるような名称が投票で選ばれている。 Eclipse 3.8は存在するが、3.7のバグフィクス版であること、すでに4.2のリリースが決まっていたことなどからWeb上では公表されていない。 Eclipse 4.9以降はコードネームが廃止になり、3か月ごとのリリースになった。 Eclipseの主な機能は以下のとおり。 機能統合環境にプラグインとしてさまざまな機能を組み込むことができるよう設計されている。その拡張性は非常に高く、Java開発環境自体が標準添付のプラグインとして実装されているほどであり、プラグイン次第でC++やPHP、Perl、C#、D言語、TeX、Python、Ruby、JavaScript、COBOL、AspectJ、Mathematica など多様な言語への対応が可能となっている。 プラグインはJavaで記述され、プラグイン開発環境自体もEclipseに標準で付属している。これは、Emacsがその主要機能を搭載したLISP言語で記述できることと対比できる。LISPの代わりにJavaを用いるEmacsのようなものなのだと例えられることもある。 Eclipse 3.0より、プラグインの機構にはOSGiフレームワークの実装であるEquinoxを採用している(Equinox自身もEclipse Foundationの傘下にあるサブプロジェクトである)。このため、EclipseプラグインはOSGiフレームワークに規定されているbundle形式で配布される。この機構はEclipse RCP (Rich Client Platform) においても同様である。 主なプラグインは後述する。 EclipseにはJava Debug Interface (JDI) を用いたグラフィカルデバッガが含まれている。 バージョン管理システムのCVSやSubversion、Git等を使ってソースコード管理を行うことができる。EclipseのCVS機能はコマンドラインのCVSコマンドを呼び出すフロントエンドとして動作するのではなく、自前のコードで直接CVSサーバと通信する(ssh、pserverの両方が利用可能)。 Javaソースコードから、JUnitテストコードの自動生成、テスト実行を行うことができる。Eclipse 3.2からは、Java SE 5のアノテーションに対応したJUnit 4を使うことが可能になった。 ビルドシステムAntと連携できる。Antは、Unix系のコマンドmakeを置き換えるプログラムで、Makefileに相当する各ソースコードの依存関係をXMLにより記述する。Antは、Javaで書かれており、ウェブサーバで知られるApache Software Foundationプロジェクトで開発されている。EclipseはAntをデフォルトで同梱している。 getter, setterメソッドの自動生成や、try-catchの自動追加、java.util.ResourceBundleによる文字列の外部化、クラス名・メソッド名・変数名の変更(それを参照している部分も自動的に書き換わる)、メソッドの移動や抽出などをウィザード形式で行ってくれる。 クラス名・メソッド名・変数名の補完や、自動整形、import文の整理・自動生成、必要なthrows節の自動追加、必要なメソッドスケルトンの自動生成などさまざまな編集支援機能を持つ。 JavaDevelopmentToolsに使用されているEclipse独自のJavaコンパイラ。 この為EclipseはJDKが無くてもJavaファイルのコンパイルが可能である。 Eclipseは他のJavaで記述されたIDE(JBuilderやSun ONE Studioなど)と比べて動作があきらかに軽快である。この軽快さはGUIツールキットにJava標準のSwingやAWT (Abstract Window Toolkit) を使用せず、Eclipse独自のGUIツールキットであるSWT (Standard Widget Toolkit) を採用していることで得られている。 SWTの位置づけはSwingではなくAWTに対応するが、AWTとSWTの違いは、AWTがオペレーティングシステム (OS) あるいはウィンドウシステムレベルの描画操作をネイティブメソッド群というレイヤ(つまりCあるいはC++で書かれたJNIメソッドのDLL・共有ライブラリエントリ)で抽象化し、それをさらにJavaのAPIで覆い、インタフェースが二重に重ねられているのに比べ、SWTではネイティブのウィンドウシステムのAPIとJNIメソッドがほぼ一対一に対応するように定義されており、JNIの層が量的・質的に非常に薄い、ということである。 言い換えると、ネイティブのウィンドウシステムのAPIレイヤと、JavaのGUIツールキットクラスライブラリとしてのレイヤの間のセマンティックギャップを埋めるのに、AWTではCコードとJavaコードの両方を使用するのに対して、SWTではCの部分が僅少でありJavaコードが実質的に主体である。 AWTにおいて、下位層のウィンドウシステムのAPIをOSを越えて共通のものにみせかけるための、DLLのエントリとして定義されるインターフェース層は、積極的な存在意義が無く、見通しを悪くしており、2回のセマンティクス変換が効率を悪くする可能性があり、柔軟性にかけ、拡張性に劣る。またJNIを使ったCコードというのは単なるCコードよりもはるかに可読性が悪く、デバッグも難しく、開発効率は極めて低い。 SWTではこのセマンティックギャップ吸収、つまりネイティブレベルの機能とJava APIの間の機能マッピングロジックが見通しよくJavaのみで記述されている。またAWTではソースの無いDLL中のエラーは基本的にデバッグ不能であるが、SWTでは生じた問題をネイティブAPIを呼び出す等価なCコードに書き換えることができ、問題の切り分けが容易である。 SWTはEclipseとは独立して、単独でJavaアプリケーションから利用することもできる。 SWTの利用時において、生産性を上げるために、JFaceというクラスライブラリがある。Model View Controllerのプログラミングスタイルを支援する。SWTよりも、より抽象化されたデータの取り扱いを可能にする。JFace自体はPure Javaである。 プラグインによる高い拡張性と、後述するEclipse Public License (EPL) が完全なコピーレフトではなく再配布も認めている事から、生みの親であるIBMに限らず様々な企業、団体からEclipseをベースとした有償、無償の製品が公開されている。また、それらはIDEに限らない。 Eclipse Public License (EPL) が適用される。EPLは、OSIオープンソース・コンソーシアムからオープンソースの認定を受けている。EPLはCommon Public License (CPL) から派生したライセンスである。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "Eclipse(イクリプス、英: Eclipse)は、コンピュータプログラミングにおいて使用される統合開発環境(IDE)である。ベースとなるワークスペースと、環境をカスタマイズするための拡張可能なプラグインシステムが含まれている。Eclipseは主にJavaで書かれており、主にJavaアプリケーションの開発に使用されるが、Ada 、ABAP、C 、C ++ 、C# 、Clojure 、COBOL 、D、Erlang、Fortran 、Groovy 、Haskell、JavaScript、Julia、 Lasso、Lua、NATURAL、Perl、PHP、Prolog、Python、R、Ruby(Ruby on Railsフレームワークを含む)、Rust、Scala、Schemeなどのプラグインを介して他のプログラミング言語のアプリケーションを開発するために使用することもできる。また,LaTeX(TeXlipseプラグイン経由)やソフトウェアMathematicaのパッケージを使ったドキュメントの開発にも利用できる。開発環境としては,JavaやScala用のEclipse Java開発ツール(JDT),C/C++用のEclipse CDT,PHP用のEclipse PDTなどを含んでいる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "初期のコードベースはIBM VisualAgeに由来している。Java開発ツールを含むEclipseソフトウェア開発キット(SDK)は、Java開発者向けのものである。ユーザーは、他のプログラミング言語の開発ツールキットなど、Eclipseプラットフォーム用に書かれたプラグインをインストールすることで、その機能を拡張することができ、独自のプラグインモジュールを書いてコントリビュートすることができる。Eclipseのバージョン3でOSGi実装(Equinox)が導入されて以来、プラグインは動的に停止することができ、(OSGI)バンドルと呼ばれている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "Eclipse ソフトウェア開発キット (SDK)はフリーでオープンソースのソフトウェアであり、 Eclipse Public Licenseの条件に基づいてリリースされているが、 GNU General Public Licenseとは互換性がない。 これは、GNU Classpathで実行される最初のIDEの1つであり、IcedTeaで問題なく実行される。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "Eclipseの歴史は1990年代後半から始まる。当時の状況は、JBuilder、VisualCafe(英語版)、そしてIBMのVisualAge、PFUのteikadeなど第1世代のJava開発ツールが存在している。IBMは様々なプラットフォームの製品を抱えていることから、Javaのマルチプラットフォームの可能性に注目していた。単なるVisualAgeの代替ではなく、IBMや他社のツールを統合するための共通プラットフォームの開発という基本構想の下、1998年11月にIBMカナダでプロジェクトが開始された。開発に携わったのは、VisualAgeの開発を行ったObject Technology International (OTI) 研究所である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "その後、IBMはこのプラットフォームに搭載するツールの開発のために組織の編成を行い、さらにオープンソース化することで新しい開発者の引き込みを図った。2001年11月、IBMはEclipseをオープンソース化するとともに、他の組織 (ボーランド、MERANT、QNX Software Systems、ラショナルソフトウェア、レッドハット、SuSE、TogetherSoft(英語版)、Webgain(英語版)) と共同で初期のEclipse.orgであるEclipse Board of Stewardsを設立する。公開されたEclipseはたちまちのうちに多くの開発者の興味を惹くこととなった。同年IBMはVisualAgeの後継製品として、EclipseをベースにWebSphere Studioを開発、リリースした。 また、2003年の終わりには、Eclipse Board of Stewardsの参加メンバーも80を越えている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "しかし爆発的人気の陰で、Eclipseは、IBM以外の他団体から新たなツールが提供されないという問題を抱えていた。それは、IBMがEclipseの制御権を握っているという認識によるものであった。IBM側にも「EclipseはWebSphere Studioの共通基盤であるWebSphere Studio Workbenchの一部を公開した物である」という認識が存在した。Eclipseの勢いを止めないために、IBMとEclipseを切り離すことが必要とされた。2004年2月2日、Eclipse Board of Stewardsは、Eclipse組織の再構築を発表した。非営利組織Eclipse Foundationの結成と、Eclipseの全てをEclipse Foundationに移管することで、全ての団体や開発者を対等に扱うこととなった。このEclipse Foundationから、Eclipse 3.0、3.1、3.2がリリースされている。現在Eclipse Foundationは、115以上のメンバー企業、50以上のサブプロジェクトを抱えるオープンソース組織に成長している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2006年、Eclipse Foundationは、Eclipse 3.2に10のオープンソースプロジェクトを合わせたリリースを行った。この製品は、Eclipse Callistoと呼ばれている。現在では毎年6月に同時リリース (Simultaneous Release)、その後9月と2月にそれぞれSR1とSR2 (Service Release) が行われている。同時リリースにはコードネームが付与されており、3.4まではガリレオ衛星に因んだ名が付けられていたが、3.5で予定されていたIoはI/Oと誤認されるおそれがあるため、ガリレオ衛星発見者のガリレオ・ガリレイよりとった名称であるGalileoへと変更された。また、2010年リリースの3.6はHelios(ギリシア神話の太陽神であるヘーリオス)と名付けられている。なお、Galileoからは頭文字がアルファベット順となるような名称が投票で選ばれている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "Eclipse 3.8は存在するが、3.7のバグフィクス版であること、すでに4.2のリリースが決まっていたことなどからWeb上では公表されていない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "Eclipse 4.9以降はコードネームが廃止になり、3か月ごとのリリースになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "Eclipseの主な機能は以下のとおり。", "title": "Eclipseの機能" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "機能統合環境にプラグインとしてさまざまな機能を組み込むことができるよう設計されている。その拡張性は非常に高く、Java開発環境自体が標準添付のプラグインとして実装されているほどであり、プラグイン次第でC++やPHP、Perl、C#、D言語、TeX、Python、Ruby、JavaScript、COBOL、AspectJ、Mathematica など多様な言語への対応が可能となっている。", "title": "Eclipseの機能" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "プラグインはJavaで記述され、プラグイン開発環境自体もEclipseに標準で付属している。これは、Emacsがその主要機能を搭載したLISP言語で記述できることと対比できる。LISPの代わりにJavaを用いるEmacsのようなものなのだと例えられることもある。", "title": "Eclipseの機能" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "Eclipse 3.0より、プラグインの機構にはOSGiフレームワークの実装であるEquinoxを採用している(Equinox自身もEclipse Foundationの傘下にあるサブプロジェクトである)。このため、EclipseプラグインはOSGiフレームワークに規定されているbundle形式で配布される。この機構はEclipse RCP (Rich Client Platform) においても同様である。", "title": "Eclipseの機能" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "主なプラグインは後述する。", "title": "Eclipseの機能" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "EclipseにはJava Debug Interface (JDI) を用いたグラフィカルデバッガが含まれている。", "title": "Eclipseの機能" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "バージョン管理システムのCVSやSubversion、Git等を使ってソースコード管理を行うことができる。EclipseのCVS機能はコマンドラインのCVSコマンドを呼び出すフロントエンドとして動作するのではなく、自前のコードで直接CVSサーバと通信する(ssh、pserverの両方が利用可能)。", "title": "Eclipseの機能" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "Javaソースコードから、JUnitテストコードの自動生成、テスト実行を行うことができる。Eclipse 3.2からは、Java SE 5のアノテーションに対応したJUnit 4を使うことが可能になった。", "title": "Eclipseの機能" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ビルドシステムAntと連携できる。Antは、Unix系のコマンドmakeを置き換えるプログラムで、Makefileに相当する各ソースコードの依存関係をXMLにより記述する。Antは、Javaで書かれており、ウェブサーバで知られるApache Software Foundationプロジェクトで開発されている。EclipseはAntをデフォルトで同梱している。", "title": "Eclipseの機能" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "getter, setterメソッドの自動生成や、try-catchの自動追加、java.util.ResourceBundleによる文字列の外部化、クラス名・メソッド名・変数名の変更(それを参照している部分も自動的に書き換わる)、メソッドの移動や抽出などをウィザード形式で行ってくれる。", "title": "Eclipseの機能" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "クラス名・メソッド名・変数名の補完や、自動整形、import文の整理・自動生成、必要なthrows節の自動追加、必要なメソッドスケルトンの自動生成などさまざまな編集支援機能を持つ。", "title": "Eclipseの機能" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "JavaDevelopmentToolsに使用されているEclipse独自のJavaコンパイラ。 この為EclipseはJDKが無くてもJavaファイルのコンパイルが可能である。", "title": "Eclipseの機能" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "Eclipseは他のJavaで記述されたIDE(JBuilderやSun ONE Studioなど)と比べて動作があきらかに軽快である。この軽快さはGUIツールキットにJava標準のSwingやAWT (Abstract Window Toolkit) を使用せず、Eclipse独自のGUIツールキットであるSWT (Standard Widget Toolkit) を採用していることで得られている。", "title": "SWT" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "SWTの位置づけはSwingではなくAWTに対応するが、AWTとSWTの違いは、AWTがオペレーティングシステム (OS) あるいはウィンドウシステムレベルの描画操作をネイティブメソッド群というレイヤ(つまりCあるいはC++で書かれたJNIメソッドのDLL・共有ライブラリエントリ)で抽象化し、それをさらにJavaのAPIで覆い、インタフェースが二重に重ねられているのに比べ、SWTではネイティブのウィンドウシステムのAPIとJNIメソッドがほぼ一対一に対応するように定義されており、JNIの層が量的・質的に非常に薄い、ということである。", "title": "SWT" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "言い換えると、ネイティブのウィンドウシステムのAPIレイヤと、JavaのGUIツールキットクラスライブラリとしてのレイヤの間のセマンティックギャップを埋めるのに、AWTではCコードとJavaコードの両方を使用するのに対して、SWTではCの部分が僅少でありJavaコードが実質的に主体である。", "title": "SWT" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "AWTにおいて、下位層のウィンドウシステムのAPIをOSを越えて共通のものにみせかけるための、DLLのエントリとして定義されるインターフェース層は、積極的な存在意義が無く、見通しを悪くしており、2回のセマンティクス変換が効率を悪くする可能性があり、柔軟性にかけ、拡張性に劣る。またJNIを使ったCコードというのは単なるCコードよりもはるかに可読性が悪く、デバッグも難しく、開発効率は極めて低い。", "title": "SWT" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "SWTではこのセマンティックギャップ吸収、つまりネイティブレベルの機能とJava APIの間の機能マッピングロジックが見通しよくJavaのみで記述されている。またAWTではソースの無いDLL中のエラーは基本的にデバッグ不能であるが、SWTでは生じた問題をネイティブAPIを呼び出す等価なCコードに書き換えることができ、問題の切り分けが容易である。", "title": "SWT" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "SWTはEclipseとは独立して、単独でJavaアプリケーションから利用することもできる。", "title": "SWT" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "SWTの利用時において、生産性を上げるために、JFaceというクラスライブラリがある。Model View Controllerのプログラミングスタイルを支援する。SWTよりも、より抽象化されたデータの取り扱いを可能にする。JFace自体はPure Javaである。", "title": "SWT" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "プラグインによる高い拡張性と、後述するEclipse Public License (EPL) が完全なコピーレフトではなく再配布も認めている事から、生みの親であるIBMに限らず様々な企業、団体からEclipseをベースとした有償、無償の製品が公開されている。また、それらはIDEに限らない。", "title": "Eclipseベースの製品" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "Eclipse Public License (EPL) が適用される。EPLは、OSIオープンソース・コンソーシアムからオープンソースの認定を受けている。EPLはCommon Public License (CPL) から派生したライセンスである。", "title": "ライセンス" } ]
Eclipseは、コンピュータプログラミングにおいて使用される統合開発環境(IDE)である。ベースとなるワークスペースと、環境をカスタマイズするための拡張可能なプラグインシステムが含まれている。Eclipseは主にJavaで書かれており、主にJavaアプリケーションの開発に使用されるが、Ada 、ABAP、C 、C ++ 、C# 、Clojure 、COBOL 、D、Erlang、Fortran 、Groovy 、Haskell、JavaScript、Julia、 Lasso、Lua、NATURAL、Perl、PHP、Prolog、Python、R、Ruby、Rust、Scala、Schemeなどのプラグインを介して他のプログラミング言語のアプリケーションを開発するために使用することもできる。また,LaTeX(TeXlipseプラグイン経由)やソフトウェアMathematicaのパッケージを使ったドキュメントの開発にも利用できる。開発環境としては,JavaやScala用のEclipse Java開発ツール(JDT),C/C++用のEclipse CDT,PHP用のEclipse PDTなどを含んでいる。 初期のコードベースはIBM VisualAgeに由来している。Java開発ツールを含むEclipseソフトウェア開発キット(SDK)は、Java開発者向けのものである。ユーザーは、他のプログラミング言語の開発ツールキットなど、Eclipseプラットフォーム用に書かれたプラグインをインストールすることで、その機能を拡張することができ、独自のプラグインモジュールを書いてコントリビュートすることができる。Eclipseのバージョン3でOSGi実装(Equinox)が導入されて以来、プラグインは動的に停止することができ、(OSGI)バンドルと呼ばれている。 Eclipse ソフトウェア開発キット (SDK)はフリーでオープンソースのソフトウェアであり、 Eclipse Public Licenseの条件に基づいてリリースされているが、 GNU General Public Licenseとは互換性がない。 これは、GNU Classpathで実行される最初のIDEの1つであり、IcedTeaで問題なく実行される。
{{出典の明記|date=2021年6月}} {{Infobox Software | name = Eclipse | logo = [[File:Eclipse-Luna-Logo.svg|250px]] | screenshot = [[File:Eclipse 4.12 screenshot.png|250px]] | caption = Eclipse 4.12 のスクリーンショット | developer = [[Eclipse Foundation]] | latest release version = 4.29 (2023-09)<ref>{{cite web | title = Simultaneous Release - Eclipsepedia | url = https://wiki.eclipse.org/Simultaneous_Release | website = wiki.eclipse.org | accessdate = 2023-09-19}}</ref> | latest release date = {{release date|2023|09|13}}<ref name="epd">{{cite web | title = Eclipse Project Downloads | url = http://download.eclipse.org/eclipse/downloads/ | website = download.eclipse.org | accessdate = 2023-09-19}}</ref> | latest preview version = 4.30 (2023-12) | latest preview date = | operating_system = [[クロスプラットフォーム]]| | language = Multilingual | genre = [[統合開発環境]]| | license = [[Eclipse Public License]] | website = [https://www.eclipse.org Eclipse.org] }} '''Eclipse'''(イクリプス、{{lang-en-short|Eclipse}})は、[[プログラミング|コンピュータプログラミング]]において使用される統合開発環境(IDE)である<ref>{{cite web|url=https://zeroturnaround.com/rebellabs/ides-vs-build-tools-how-eclipse-intellij-idea-netbeans-users-work-with-maven-ant-sbt-gradle/|title=IDEs vs. Build Tools: How Eclipse, IntelliJ IDEA & NetBeans users work with Maven, Ant, SBT & Gradle|website=zeroturnaround.com|accessdate=28 December 2018}}</ref>。ベースとなるワークスペースと、環境をカスタマイズするための拡張可能なプラグインシステムが含まれている。Eclipseは主に[[Java]]で書かれており、主にJavaアプリケーションの開発に使用されるが、[[Ada]] 、[[ABAP]]、[[C言語|C]] 、[[C++|C ++]] 、[[C Sharp|C#]] 、[[Clojure]] 、[[COBOL]] 、[[D言語|D]]、[[Erlang]]、[[FORTRAN|Fortran]] 、[[Groovy]] 、[[Haskell]]、[[JavaScript]]、[[Julia (プログラミング言語)|Julia]]、<ref>{{Cite web|url=https://github.com/JuliaComputing/JuliaDT|title=GitHub - JuliaComputing/JuliaDT: Julia Development Toolkit for Eclipse.|date=10 October 2018|website=github.com|accessdate=28 December 2018}}</ref> [[投げ縄(プログラミング言語)|Lasso]]、[[Lua]]、[[ソフトウェアAG|NATURAL]]、[[Perl]]、[[PHP (プログラミング言語)|PHP]]、[[Prolog]]、[[Python]]、[[R言語|R]]、[[Ruby]]([[Ruby on Rails]]フレームワークを含む)、[[Rust (プログラミング言語)|Rust]]、[[Scala]]、[[Scheme]]などのプラグインを介して他のプログラミング言語のアプリケーションを開発するために使用することもできる。また,[[LaTeX]](TeXlipseプラグイン経由)やソフトウェア[[Mathematica]]のパッケージを使ったドキュメントの開発にも利用できる。開発環境としては,JavaやScala用のEclipse Java開発ツール(JDT),C/C++用のEclipse CDT,PHP用のEclipse PDTなどを含んでいる。 初期のコードベースはIBM [[VisualAge]]に由来している。Java開発ツールを含むEclipse[[ソフトウェア開発キット]](SDK)は、Java開発者向けのものである。ユーザーは、他のプログラミング言語の開発ツールキットなど、Eclipseプラットフォーム用に書かれたプラグインをインストールすることで、その機能を拡張することができ、独自のプラグインモジュールを書いてコントリビュートすることができる。Eclipseのバージョン3で[[OSGi]]実装(Equinox)が導入されて以来、プラグインは動的に停止することができ、(OSGI)バンドルと呼ばれている。 Eclipse [[ソフトウェア開発キット]] (SDK)は[[FLOSS|フリーでオープンソースのソフトウェア]]であり、 [[Eclipse Public License]]の条件に基づいてリリースされているが、 [[GNU General Public License]]とは互換性がない。 <ref>{{Cite web|author=Free Software Foundation, Inc.|title=Various Licenses and Comments About Them|date=5 November 2012|url=https://www.gnu.org/licenses/license-list.html#EPL|accessdate=2014-04-17}}</ref> これは、[[GNU Classpath]]で実行される最初のIDEの1つであり、[[IcedTea]]で問題なく実行される。 == 歴史 == Eclipseの歴史は1990年代後半から始まる。当時の状況は、[[JBuilder]]、{{仮リンク|VisualCafe|en|Visual Café}}、そして[[IBM]]の[[VisualAge]]、[[PFU]]のteikadeなど第1世代のJava開発ツールが存在している。IBMは様々なプラットフォームの製品を抱えていることから、[[Java]]のマルチプラットフォームの可能性に注目していた。単なるVisualAgeの代替ではなく、IBMや他社のツールを統合するための共通プラットフォームの開発という基本構想の下、1998年11月にIBMカナダでプロジェクトが開始された。開発に携わったのは、VisualAgeの開発を行ったObject Technology International (OTI) 研究所である。 その後、IBMはこのプラットフォームに搭載するツールの開発のために組織の編成を行い、さらにオープンソース化することで新しい開発者の引き込みを図った。2001年11月、IBMはEclipseをオープンソース化するとともに、他の組織 ([[ボーランド]]、[[マイクロフォーカス|MERANT]]、[[ブラックベリー (企業)|QNX Software Systems]]、[[ラショナル|ラショナルソフトウェア]]、[[レッドハット]]、[[SUSE|SuSE]]、{{仮リンク|Borland Together|en|Borland Together|label=TogetherSoft}}、{{仮リンク|Webgain|en|WebGain}}) と共同で初期のEclipse.orgであるEclipse Board of Stewardsを設立する。公開されたEclipseはたちまちのうちに多くの開発者の興味を惹くこととなった。同年IBMはVisualAgeの後継製品として、EclipseをベースにWebSphere Studioを開発、リリースした。 また、2003年の終わりには、Eclipse Board of Stewardsの参加メンバーも80を越えている。 しかし爆発的人気の陰で、Eclipseは、IBM以外の他団体から新たなツールが提供されないという問題を抱えていた。それは、IBMがEclipseの制御権を握っているという認識によるものであった。IBM側にも「EclipseはWebSphere Studioの共通基盤であるWebSphere Studio Workbenchの一部を公開した物である」という認識が存在した。<ref>{{Cite web|url=https://ascii.jp/elem/000/000/340/340432/index-3.html|title=ASCII.jp:WebSphere Application Server、WebSphere Studio、WebSphere Host Integration (3/3)|accessdate=2019-11-17|publisher=KADOKAWA ASCII Research Laboratories, Inc.|date=2003年11月10日|author=小橋 一(日本IBM株式会社証券システム部)|website=ASCII.jp - TECH}}</ref>Eclipseの勢いを止めないために、IBMとEclipseを切り離すことが必要とされた。2004年2月2日、Eclipse Board of Stewardsは、Eclipse組織の再構築を発表した。非営利組織[[Eclipse Foundation]]の結成と、Eclipseの全てをEclipse Foundationに移管することで、全ての団体や開発者を対等に扱うこととなった。このEclipse Foundationから、Eclipse 3.0、3.1、3.2がリリースされている。現在Eclipse Foundationは、115以上のメンバー企業、50以上のサブプロジェクトを抱えるオープンソース組織に成長している。 2006年、Eclipse Foundationは、Eclipse 3.2に10のオープンソースプロジェクトを合わせたリリースを行った。この製品は、Eclipse Callistoと呼ばれている。現在では毎年6月に同時リリース (Simultaneous Release)、その後9月と2月にそれぞれSR1とSR2 (Service Release) が行われている。同時リリースにはコードネームが付与されており、3.4までは[[ガリレオ衛星]]に因んだ名が付けられていたが、3.5で予定されていた[[イオ (衛星)|Io]]は[[入出力|I/O]]と誤認されるおそれがあるため、ガリレオ衛星発見者の[[ガリレオ・ガリレイ]]よりとった名称であるGalileoへと変更された。また、2010年リリースの3.6はHelios(ギリシア神話の太陽神である[[ヘーリオス]])と名付けられている。なお、Galileoからは頭文字がアルファベット順となるような名称が投票で選ばれている。 Eclipse 3.8は存在するが、3.7のバグフィクス版であること、すでに4.2のリリースが決まっていたことなどからWeb上では公表されていない。 Eclipse 4.9以降はコードネームが廃止になり、3か月ごとのリリースになった。 {| class="wikitable" |- ! バージョン !! リリース日 !! コードネーム !! 由来 |- |1.0 |2001/11/29 | | |- |2.0 |2002/06 | | |- |2.1 |2003/03 | | |- |3.0 |2004/06 | | |- |3.1 |2005/06 | | |- | 3.2 || 2006/06/30 || Callisto || 木星の第4衛星[[カリスト (衛星)|カリスト]]。ガリレオ衛星の1つ。 |- | 3.3 || 2007/06/29 || Europa || 木星の第2衛星[[エウロパ (衛星)|エウロパ]]。ガリレオ衛星の1つ。 |- | 3.4 || 2008/06/25 || Ganymede || 木星の第3衛星[[ガニメデ (衛星)|ガニメデ]]。ガリレオ衛星の1つ。 |- | 3.5 || 2009/06/24 || Galileo || ガリレオ衛星の発見者[[ガリレオ・ガリレイ]]。 |- | 3.6 || 2010/06/23 || Helios || ギリシア神話の太陽神ヘーリオス。 |- | 3.7 || 2011/06/22 || Indigo || [[アイザック・ニュートン|ニュートン]]が[[プリズム]]によって光を7色に分解できることを発見したときに紫の内側の色に付けた名前。[[藍色]]。 |- | 4.2 || 2012/06/27 || Juno || ローマ神話に出てくる、女性と結婚を守護する女神[[ユーノー]]。[[ユーピテル]] (Jupiter) の妻であり、6月を意味する"June"の由来。 |- | 4.3 || 2013/06/26 || Kepler || 「[[ケプラーの法則]]」で有名なドイツの天文学者[[ヨハネス・ケプラー]]。 |- | 4.4 || 2014/06/25 || Luna || [[月]]を意味する。 |- | 4.5 || 2015/06/24 || Mars || [[火星]]を意味する。 |- | 4.6 || 2016/06/22 || Neon ||元素の一つ、[[ネオン]]を意味する。 |- | 4.7 || 2017/06/28 || Oxygen ||元素の一つ、[[酸素]]を意味する。 |- | 4.8 || 2018/06/27 || Photon ||[[光子]]を意味する。 |- | 4.9 || 2018/09/19 || 2018-09 ||(コードネーム廃止) |- | 4.10 || 2018/12/19 || 2018-12 || |- | 4.11 || 2019/03/20 || 2019-03 || |- | 4.12 || 2019/06/19 || 2019-06 || |- | 4.13 || 2019/09/18 || 2019-09 || |- | 4.14 || 2019/12/18 || 2019-12 || |- | 4.15 || 2020/03/18 || 2020-03 || |- | 4.16 || 2020/06/17 || 2020-06 || |- | 4.17 || 2020/09/16 || 2020-09 || |- | 4.18 || 2020/12/16 || 2020-12 || |- | 4.19 || 2021/03/17 || 2021-03 || |- | 4.20 || 2021/06/16 || 2021-06 || |- | 4.21 || 2021/09/15 || 2021-09 || |- | 4.22 || 2021/12/08 || 2021-12 || |- | 4.23 || 2022/03/16 || 2022-03 || |- | 4.24 || 2022/06/15 || 2022-06 || |- | 4.25 || 2022/09/14 || 2022-09 || |- | 4.26 || 2022/12/07 || 2022-12 || |- | 4.27 || 2023/03/15 || 2023-03 || |- | 4.28 || 2023/06/14 || 2023-06 || |- | 4.29 || 2023/09/13 || 2023-09 || |} == Eclipseの機能 == Eclipseの主な機能は以下のとおり。 === プラグイン === 機能統合環境に[[プラグイン]]としてさまざまな機能を組み込むことができるよう設計されている。その拡張性は非常に高く、Java開発環境自体が標準添付のプラグインとして実装されているほどであり、プラグイン次第で[[C++]]や[[PHP (プログラミング言語)|PHP]]、[[Perl]]、[[C Sharp|C#]]、[[D言語]]、[[TeX]]、[[Python]]、[[Ruby_(代表的なトピック)|Ruby]]、[[JavaScript]]、[[COBOL]]、[[AspectJ]]、[[Mathematica]] など多様な言語への対応が可能となっている。 プラグインはJavaで記述され、プラグイン開発環境自体もEclipseに標準で付属している。これは、[[Emacs]]がその主要機能を搭載した[[LISP]]言語で記述できることと対比できる。LISPの代わりにJavaを用いるEmacsのようなものなのだと例えられることもある。 Eclipse 3.0より、プラグインの機構には[[OSGi|OSGiフレームワーク]]の実装であるEquinoxを採用している(Equinox自身もEclipse Foundationの傘下にあるサブプロジェクトである)。このため、EclipseプラグインはOSGiフレームワークに規定されているbundle形式で配布される。この機構はEclipse RCP (Rich Client Platform) においても同様である。 主なプラグインは後述する。 === デバッグ・ステップ実行 === EclipseにはJava Debug Interface (JDI) を用いたグラフィカルデバッガが含まれている。 === バージョン管理システム連携 === [[バージョン管理システム]]の[[Concurrent Versions System|CVS]]や[[Apache Subversion|Subversion]]、[[Git]]等を使ってソースコード管理を行うことができる。EclipseのCVS機能はコマンドラインのCVSコマンドを呼び出すフロントエンドとして動作するのではなく、自前のコードで直接CVSサーバと通信する(ssh、pserverの両方が利用可能)。 === JUnit連携 === [[Java]]ソースコードから、[[JUnit]]テストコードの自動生成、テスト実行を行うことができる。Eclipse 3.2からは、[[Java Platform, Standard Edition|Java SE]] 5の[[アノテーション]]に対応した[[JUnit]] 4を使うことが可能になった。 === Ant連携 === ビルドシステム[[Apache Ant|Ant]]と連携できる。Antは、[[Unix系]]のコマンド[[make (UNIX)|make]]を置き換えるプログラムで、[[Makefile]]に相当する各ソースコードの依存関係を[[Extensible Markup Language|XML]]により記述する。Antは、Javaで書かれており、ウェブサーバで知られる[[Apache Software Foundation]]プロジェクトで開発されている。EclipseはAntをデフォルトで同梱している。 === リファクタリング === {{記事参照|リファクタリング}} getter, setterメソッドの自動生成や、try-catchの自動追加、{{Javadoc:SE|name=java.util.ResourceBundle|java/util|ResourceBundle}}による文字列の外部化、[[クラス (コンピュータ)|クラス]]名・[[メソッド]]名・変数名の変更(それを参照している部分も自動的に書き換わる)、メソッドの移動や抽出などをウィザード形式で行ってくれる。 === コード編集支援 === クラス名・メソッド名・変数名の補完や、自動整形、import文の整理・自動生成、必要なthrows節の自動追加、必要なメソッドスケルトンの自動生成などさまざまな編集支援機能を持つ。 === Eclipse Compiler for Java (ECJ) === JavaDevelopmentToolsに使用されているEclipse独自の[[Javaコンパイラ]]。 この為EclipseはJDKが無くてもJavaファイルのコンパイルが可能である。 == SWT == {{Main|Standard Widget Toolkit}} Eclipseは他のJavaで記述されたIDE([[JBuilder]]や[[Sun ONE Studio]]など)と比べて動作があきらかに軽快である。この軽快さはGUIツールキットにJava標準の[[Swing]]やAWT ([[Abstract Window Toolkit]]) を使用せず、Eclipse独自のGUIツールキットであるSWT ([[Standard Widget Toolkit]]) を採用していることで得られている。 SWTの位置づけはSwingではなくAWTに対応するが、AWTとSWTの違いは、AWTが[[オペレーティングシステム]] (OS) あるいはウィンドウシステムレベルの描画操作をネイティブメソッド群というレイヤ(つまり[[C言語|C]]あるいは[[C++]]で書かれた[[Java Native Interface|JNI]]メソッドのDLL・共有ライブラリエントリ)で抽象化し、それをさらにJavaの[[アプリケーションプログラミングインタフェース|API]]で覆い、[[インタフェース (情報技術)|インタフェース]]が二重に重ねられているのに比べ、SWTではネイティブのウィンドウシステムのAPIとJNIメソッドがほぼ一対一に対応するように定義されており、JNIの層が量的・質的に非常に薄い、ということである。 言い換えると、ネイティブのウィンドウシステムのAPIレイヤと、JavaのGUIツールキットクラスライブラリとしてのレイヤの間のセマンティックギャップを埋めるのに、AWTではCコードとJavaコードの両方を使用するのに対して、SWTではCの部分が僅少でありJavaコードが実質的に主体である。 AWTにおいて、下位層の[[ウィンドウシステム]]のAPIをOSを越えて共通のものにみせかけるための、DLLのエントリとして定義されるインターフェース層は、積極的な存在意義が無く、見通しを悪くしており、2回の[[セマンティクス]]{{要曖昧さ回避|date=2023年6月}}変換が効率を悪くする可能性があり、柔軟性にかけ、拡張性に劣る。またJNIを使ったCコードというのは単なるCコードよりもはるかに可読性が悪く、[[デバッグ]]も難しく、開発効率は極めて低い。 SWTではこのセマンティックギャップ吸収、つまりネイティブレベルの機能とJava APIの間の機能マッピングロジックが見通しよくJavaのみで記述されている。またAWTではソースの無いDLL中のエラーは基本的にデバッグ不能であるが、SWTでは生じた問題をネイティブAPIを呼び出す等価なCコードに書き換えることができ、問題の切り分けが容易である。 SWTはEclipseとは独立して、単独でJavaアプリケーションから利用することもできる。 === JFace === {{Main|JFace}} SWTの利用時において、生産性を上げるために、JFaceというクラスライブラリがある。[[Model View Controller]]のプログラミングスタイルを支援する。SWTよりも、より抽象化されたデータの取り扱いを可能にする。JFace自体はPure Javaである。 == 主なプラグイン == ; WTP (Web Tools Platform) : [[Apache Tomcat|Tomcat]]、[[Jakarta EE]]などのウェブ系開発に必要なものが一通りそろっているEclipse.orgで開発されているプラグイン。 : [[JavaScript]]、[[HyperText Markup Language|HTML]]、[[Cascading Style Sheets|CSS]]、[[Extensible Markup Language|XML]]、[[JavaServer Pages|JSP]]のエディタ、[[データベース]]エクスプローラー、サーバエクスプローラーも内蔵。 : 将来、Ajax開発環境も取り込まれる予定。Lombozプラグインが原型。 ; VE (Visual Editor) : Eclipseで[[Abstract Window Toolkit|AWT]]/[[Swing]]/[[SWT]]のGUI開発ができるEclipse.orgから出ているプラグイン。開発は止まっている。 ; Tomcatプラグイン : [[Java Servlet]]・[[JavaServer Pages|JSP]]コンテナである[[Apache Tomcat|Tomcat]]と連携できる。Sysdeoプラグイン、LombozプラグインなどによってもTomcatと連携することができる。 ; JBoss IDE : Java Jakarta EEアプリケーションサーバの[[JBoss]]との連携ができる。 ; UMLプラグイン : [[統一モデリング言語|UML]]の[[ユースケース図]]、[[クラス図]]、[[シーケンス図]]、[[コラボレーション図]]、[[配置図]]などを編集、およびクラス図などからJavaコードの生成・双方向編集 ([[MDA]])、[[リバースエンジニアリング]]などを行うことができる。 : プラグインとしてはOmondo (EclipseUML) プラグインなどがある。 ; DoJaプラグイン : [[iアプリ]]のプロジェクトの作成、ビルド、[[エミュレータ (コンピュータ)|エミュレータ]]の起動を行うことができる。 ; AJDT (AspectJ Development Tools) プラグイン : [[Java]]を[[アスペクト指向プログラミング]]言語として拡張した[[AspectJ]]によるプログラミングを行うことができる。 ; CDT (C/C++ Development Tooling) : [[C言語|C]]/[[C++]]の開発をできるようにするプラグイン。 ; [[DTP]] (Data Tools Platform) : [[関係データベース管理システム]] (RDBMS) などによるデータ中心のアプリケーション開発をサポートするプラグイン。 ; TPTP (Test & Performance Tools Platform) : テスト、モニタリング、トレーシング、プロファイリングなどを可能にするプラグイン。 ; [[BIRT]] (Business Intelligence and Reporting Tools) : レポート、帳票作成をサポートするプラグイン。 ; DSDP (Device Software Development Platform) : [[組み込み]][[デバイスドライバ|デバイスソフトウェア]]開発を支援するプラグイン。 ; STP (SOA Tools Platform) : [[サービス指向アーキテクチャ]] (Service Oriented Architecture, SOA) 開発を支援するプラグイン。 ; [https://checkstyle.org/eclipse-cs/#!/ Checkstyleプラグイン] : [[コーディングスタイル]]をチェックする[https://checkstyle.org/eclipse-cs/#!/ Checkstyle]をEclipseで使うことができる。 ; FindBugsプラグイン : [[Java]][[ソースコード]]からバグパターンを検出するプラグイン。 ; [http://www.valtech.jp/papilio.htm Papilioプラグイン] : Eclipse上で[[バグ管理システム]] (BTS) を実現したプラグイン。従来の代表的なBTS(BugzillaやScarabなど)と違い、WebサーバやDBサーバを構築する必要がない。 ; ByteCode Outline プラグイン : [[Java]]ソースコードを編集中にリアルタイムで、そのソースコードの[[Javaバイトコード|バイトコード]]を表示するプラグイン。 ; m2eclipse : Eclipseプロジェクトを[[Apache Maven|Maven 2]]のプロジェクトとしても使うことができ、マウスによるMavenの実行、Maven[[リポジトリ]]からライブラリの自動ダウンロード、自動インストールを可能にするプラグイン。 ; Maven Repo Search プラグイン : Mavenのリポジトリを検索し、検索結果から表示されたライブラリリストからライブラリに合わせた<dependency>タグを生成し、[[クリップボード]]に貼り付ける[[プラグイン]]。 ; EPIC Perlプラグイン : [[Perl]]開発を可能にするプラグイン。 ; PHPプラグイン : [[PHP (プログラミング言語)|PHP]]開発を可能にするプラグイン。主なプラグインとしては、PDT (PHP Development Tools)、PHPEclipse、PHP-IDE、TruStudioなどがある。 ; RDT (Ruby Development Tools) : [[Ruby_(代表的なトピック)|Ruby]]開発を可能にするプラグイン。 ; RadRails プラグイン : [[Ruby on Rails]]開発環境を提供するプラグイン。 ; [http://pydev.org/ PyDev] : [[Python]]開発を可能にするプラグイン。 ; Monalipse : Eclipseで[[2ちゃんねる]]を閲覧できる[[2ちゃんねるブラウザ]]プラグイン。 ; [http://eclipsefp.sourceforge.net/ EclipseFP] : [[Haskell]]、[[Objective Caml]]開発を可能にするプラグイン。Objective Caml関連は、OCaml Development Toolsに引き継がれた(後述)。 ; [http://ocamldt.free.fr/ OCaml Development Tools (ODT)] : Objective Caml開発を可能にするプラグイン。 ; ADT (Android Development Tools) プラグイン : [[Google]]が開発した携帯電話用プラットフォームである[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]用のプロジェクトの作成、ビルド、エミュレータの起動を行うためのプラグインであり、[[Google]]から公式IDEとして認定されていたが、2015年6月に、同年末で開発・サポートを終了することが発表され<ref name="ADT">{{Cite web|和書|title=グーグル、「Eclipse」での「Android」アプリ開発のサポートを2015年末で終了 |publisher=ASAHI INTERACTIVE, Inc |date=2015-6-30 |url=http://japan.zdnet.com/article/35066669/ |accessdate=2015-8-24}}</ref>、実際に開発・サポートが終了した。 ; Google Plugin for Eclipse :[[Google]]が開発した[[Google Web Toolkit]]と[[Google App Engine]]によるウェブアプリケーションのプロジェクト作成、ローカルサーバーでの実行、Googleのインフラストラクチャへのデプロイ、などを行う。 ; [https://developer.salesforce.com/page/JP_Force.com_IDE?useskin=dfcjskin Force.com IDE] : [[セールスフォース・ドットコム]]の提供するクラウドプラットフォームのForce.com上で動作するForce.comアプリケーションの開発を可能にするプラグイン。2019年10月12日に廃止され、[[Visual Studio Code]]用プラグイン[https://developer.salesforce.com/tools/vscode/ Salesforce Extensions for Visual Studio Code]へ置き換えられた。<ref>{{Cite web|url=https://developer.salesforce.com/docs/atlas.en-us.eclipse.meta/eclipse/ide_getting_started.htm|title=Force.com IDE Retired {{!}} Force.com IDE Developer Guide (Retired) {{!}} Salesforce Developers|accessdate=2019-11-17|publisher=Salesforce|website=Salesforce Developers}}</ref> ; [https://www.wolfram.com/workbench/ Wolfram Workbench] : [[ウルフラム・リサーチ]]社の提供する、[[Mathematica]]開発環境を提供するプラグイン。有償。 ; [http://goclipse.github.io/ GoClipse] : [[Go (プログラミング言語)|Go言語]]用のプラグイン。 == 日本語化 == ; [http://www.eclipse.org/babel/ Babel] : 多言語化のためのEclipseのIncubationプロジェクト。 ; [http://mergedoc.sourceforge.jp/ Pleiades(Eclipse プラグイン日本語化プラグイン)] : AOP により動的に日本語化するプラグイン。プラグイン単体の他、複数の有用なプラグインとEclipse本体を含めた「Pleiades All in One」も配布されている。 ; [https://osdn.net/projects/blancofw/wiki/nlpack Eclipse 日本語化言語パック(サードパーティ版)]:以前は、IBMが無償で日本語パックを提供していたが、提供されなくなったためBlancoプロジェクトにより作成されている。翻訳内容は、Pleiadesの内容と同じ。 == Eclipseベースの製品 == プラグインによる高い拡張性と、後述する[[Eclipse Public License]] (EPL) が完全な[[コピーレフト]]ではなく再配布も認めている事から、生みの親であるIBMに限らず様々な企業、団体からEclipseをベースとした有償、無償の製品が公開されている。また、それらは[[統合開発環境|IDE]]に限らない。 ;WebSphere Studio :VisualAge の後継製品となるIBM [[WebSphere]]ブランドの[[統合開発環境]]。Eclipseに有料プラグイン製品を組み合わせた製品であり、そういった観点では上記の有償プラグイン各種と変わらない。<ref>{{Cite web|和書|url=https://tech.nikkeibp.co.jp/it/members/ITPro/J2EE/20031030/1/|title=EclipseとWebSphere Studioはどう違うのか {{!}} 日経 xTECH(クロステック)|accessdate=2019-11-17|publisher=Nikkei Business Publications, Inc.|author=星 暁雄=日経BP Javaプロジェクト|website=日経 xTECH(クロステック)|date=2003-10-31}}</ref>Eclipse相当の共通基盤はWebSphere Studio Workbenchと呼ぶ。現在は営業活動が終了し、Rational Application Developerに置換されている。 ;IBM Rational Application Developer for WebSphere Software :WebSphere Studioの後継製品。IBM [[Rational]]ブランドの[[統合開発環境]]。 ;[[IBM Notes|HCL Notes]] :[[ロータス]]→[[IBM]]→{{仮リンク|HCL Technologies|en|HCL Technologies}}へと事業売却された[[グループウェア]]用[[ミドルウェア]]製品。旧称 IBM Lotus Notes。IBM Lotus Notes/Domino 8以降、従来のWindowsアプリケーションであるNotes Basicと、Eclipse RCP ベースのLotus Expeditor 上に構築するNotes Standard Editionの2種が同梱されるようになった。 ;{{仮リンク|MyEclipse|en|MyEclipse}} :{{仮リンク|Genuitec|en|Genuitec}}製の[[統合開発環境]]。 ;[[JBuilder]] :[[ボーランド]]→[[エンバカデロ・テクノロジーズ]]製の[[Java]][[統合開発環境]]。IBMのVisualAgeと競合していたが、JBuilder 2007 以降は、Eclipseベースになっている。 ;[[Adobe Flash Builder]] :Adobe製の[[Apache Flex]]用[[統合開発環境]]。 ;e² studio :[[ルネサスエレクトロニクス]]製のルネサスマイコン用[[統合開発環境]]。 ;[[Aptana]] :EclipseベースのWebオーサリングツール。 ;Code Composer Studio :[[テキサス・インスツルメンツ]]製のマイコン用統合開発環境。 == ライセンス == [[Eclipse Public License]] (EPL) が適用される[http://www.eclipse.org/org/documents/epl-v10.php]。EPLは、OSIオープンソース・コンソーシアムからオープンソースの認定を受けている。EPLは[[Common Public License]] (CPL) から派生したライセンスである。 == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == {{Portal|FLOSS|[[ファイル:FLOSS logo.svg|41px]]}} * [https://www.eclipse.org/ Eclipse公式サイト] {{En icon}} {{Integrated development environments}} {{FOSS}} {{Webオーサリングソフト}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:Eclipse}} [[Category:Eclipse|*]] [[Category:Java開発ツール]] [[Category:統合開発環境]] [[Category:オープンソースソフトウェア]] [[Category:Eclipse Foundation]] [[Category:フリーUMLツール]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Eclipse_(%E7%B5%B1%E5%90%88%E9%96%8B%E7%99%BA%E7%92%B0%E5%A2%83)
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ニューロン (曖昧さ回避)
ニューロン (Neuron)
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ニューロン (Neuron) 神経細胞の英語名。 脳を構成する神経細胞を模倣しようとして作られたコンピュータであるニューロコンピュータを構成するノードで、神経細胞に相当する単位。 麻雀を普及している非営利団体。 ダッソー社が開発中の無人航空機nEUROn。
'''ニューロン''' (Neuron) * [[神経細胞]]の英語名。 * [[脳]]を構成する神経細胞を模倣しようとして作られた[[コンピュータ]]である[[ニューロコンピュータ]]を構成するノードで、神経細胞に相当する単位。 * [[麻雀]]を普及している非営利団体。 * [[ダッソー]]社が開発中の無人航空機[[ダッソー nEUROn|nEUROn]]。 {{aimai}} {{デフォルトソート:にゆうろん}} [[Category:英語の語句]]
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朝鮮語
朝鮮語(、朝: 조선어, 조선말)または韓国語(、ハングル: 한국어; ハンチャ: 韓國語)(英: Korean language)は、主に朝鮮半島で使用されている言語で、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と大韓民国(韓国)の国語である。北朝鮮における国語名は「文化語(朝鮮語)」、韓国における国語名は「標準語(大韓民国)」。 日本の言語学・音韻論など学術的には、表記として「朝鮮語」・「韓国語」が両方とも用いられる。「朝鮮語の呼称問題」を参照。 約5,200万の韓国人、2,500万以上の北朝鮮人、約280万のアメリカ合衆国やカナダの韓国系アメリカ人、韓国系カナダ人、約170万の中国籍である朝鮮族、約80万の在日韓国・朝鮮人と朝鮮系日本人、約70万のロシアや中央アジア、ヨーロッパの高麗人と韓国人の間で話される。ただし、これらのうちウズベキスタン・カザフスタンなど、中央アジアで話されている言語は「高麗語(コリョマル)」として、別言語扱いとされる場合もある。 現在の大韓民国(韓国)の標準語はソウル特別市の方言がベースになっており、他方朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の文化語は平壌直轄市の言葉を基準にしているが、朝鮮王朝の首都が一定して漢城府(現ソウル)であったため、両方ソウルの方言が起源である。 音韻面では、子音に有気音と無気音の対立がある。連音(フランス語で用いられる用語のリエゾンとしばしば混同されるが、実際にはそれに合わせれば「アンシェヌマン」である)が起こることも特徴である。音節構造においては、ほとんどが母音で終わる開音節の日本語とは異なり、子音で終わる閉音節も多く現れる。ただし、在日朝鮮語では日本語の影響で閉音節の発音はほぼ崩壊している。 言語類型論の観点から見ると、日本語と同じ膠着語であり、修飾語は被修飾語に先行し、前置詞ではなく後置詞を用いる。歴史的に日本語やベトナム語と同様に漢字文化の影響があるが、現在の表記には主にハングルが用いられる。 韓国、北朝鮮でそれぞれ規範形の定められている複数中心地言語でもある。言語学的な基準からすると韓国で話されている言語と北朝鮮で話されている言語は同一の言語である(つまり、韓国・北朝鮮とも双方の言語を同一の言語と見なしている)が、南北には発音・語彙・文法・正書法などに違いが存在する。 ISO 639による言語コードは2字ではko、3字ではkorで表される。 日本では、伝統的に「朝鮮半島」や「朝鮮民族」などと同様に「朝鮮」の名を冠した「朝鮮語」という呼称が用いられている。しかし、朝鮮半島が南北に分かれ、日本が韓国としか国交がない現状を反映し、現在では、日常生活では「韓国語」と呼ぶことが多くなっている。そのほか、「コリア語」「韓国朝鮮語」「高麗語」など多くの呼称が存在する。また、本来ハングルは文字の名前であり言語の名前ではないが、言語名として「ハングル」を用いることもあり、日本放送協会(NHK)は「ハングル講座」を放送している。ハングル能力検定試験協会は「『韓国・朝鮮語』を統括する意味で『ハングル』を用いて」いると説明している。 一方、韓国では「韓国語」に相当する「한국어(、ハングゴ)」「한국말(、ハングンマル)」という呼称が用いられており、北朝鮮においては「朝鮮語」に相当する「조선말(、チョソンマル)」「조선어(、チョソノ)」という呼称が用いられている。この他に朝鮮民族どうしの表現として「国語」に相当する「국어(國語、クゴ)」や、朝鮮語の固有語で「我々の言葉」を意味する「우리말(ウリマル)」という表現も用いられる。 また、中国では、1949年の建国から社会主義陣営に所属しており、当初から北朝鮮を朝鮮半島全体の唯一の正統政府としていた立場から、朝鮮民族の国家、民族や言語、文化に冠する呼称に「朝鮮」(簡体字で「朝鲜」)を使用し、中国の国民を構成する朝鮮系の集団やその言語に対してもこの名称を用いて、「朝鮮族」や「朝鮮語」と呼称してきた。 しかし、1992年に韓国と中国が国交を樹立してからは、韓国との直接交流が進展し、韓国資本の裏付けにより、韓国式の語彙や文字配列をそのまま移植した語学テキストや辞典類が「韓国語」の名称を冠して発行されるようになった。その結果、韓国の朝鮮語を指す「韓国語」「韓語」は、中国の延辺朝鮮語や北朝鮮の朝鮮語を指す「朝鮮語」とともに併用されるようになってきている。 日本外務省および中華人民共和国外交部の公式ウェブサイトにおいては国に応じて別の呼称を使用している(韓国の公用語は韓国語、北朝鮮の公用語は朝鮮語とされる)。 中国本土を除く中華圏(香港、マカオ、台湾)では政治的な理由で「韓語」としか呼ばない。 また、中央アジアの朝鮮人の間では「高麗語」(고려말、高麗말、Корё маль、コリョマル)という呼称が用いられている。多くのヨーロッパ言語では高麗に由来する Korean (英語)などの名称を用いており、中立性の問題は提起されていない。 一般的には分類上アルタイ諸語か孤立した言語と見なされるが、済州語を別の言語として、両者を朝鮮語族にまとめることもある。 アルタイ諸語との関係、また日本語との関係もしばしば議論の的となる。学者によっては、日本語と共にアルタイ諸語に含める場合もある。 統語面では、基本語順はSOV型であり、日本語と類型論的に同じ語順を持つ(なお、語順はそれ単独では同一系統の言語であることを示す証拠にはなり得ない。なぜなら、SOV型は世界の言語の約50%が属す普遍的な語順であり、また同一系統であっても言語によって、更には同一言語であっても時代によって基本語順が異なることがあるため)。否定や法の表現では逆位となる場合やいわゆる「かばん語」によって否定表現が一語となっているものがある。助詞で主題を表示する点は日本語と共通している。 音韻的な面では、古い時代では語頭に流音(ラ行)・有声阻害音(濁音)が立たない点、母音調和が見られる点、母音連続を避ける点などが日本語と共通する。これらはアルタイ諸語に共通して見られる特徴でもあり、朝鮮語及び日本語がアルタイ語族であるという論拠の一つになっている。但し朝鮮語の音節が閉音節(CVC)を基本としているのに対し、日本語は開音節(CV)を基本としているなど、相違点も見られる。 その一方で語彙は、漢字語あるいは字音語を除き、一定の音韻対応によって系統的に同一の祖形に当てはまるものは見出されていない。 江戸時代から、様々な側面から日本語と朝鮮語の類似性を指摘する研究者はたびたび現れている(金澤庄三郎など)。小倉進平は対馬方言と朝鮮語の関係を研究したが、対馬方言への朝鮮語の借用以上のものは見出していない。漢字の呉音は古くは「対馬音」と呼ばれ、研究者の中には朝鮮字音から直接輸入されたと考える者もあったが、河野六郎の研究などによりその重層性が明らかにされていった。 かつてのような単純な説は出されることはなくなったが、現在でも様々な資料と方法によって親族関係を見出そうとする研究が続けられている。共通点については言語連合(Sprachbund, language union、例:バルカン言語連合)の可能性もある。 朝鮮語が孤立した言語でないとしたらアルタイ語族に属すであろうという意見もある。ただし、テュルク語群、モンゴル語群、ツングース語群には文法的に非常に似ていて類似性があるものの、それらが共通の祖語を持つアルタイ語族であるということは今のところ証明されるめどは立っていない。 歴史学の見地から考えると、百済、新羅、高句麗では言語体系が異なるという説もある。しかし、日本のように百済、新羅、高句麗から高麗王朝と朝鮮王朝まで朝鮮民族の王朝がずっと支配層として続いており、昔と現代の言語体系はほとんど変わっていないという説もある。朝鮮語はアルタイ語のうち、ツングース語族との関係が最も深いと考えられており、唯一まとまった文字資料をもつ満州語との比較研究が行われている。 朝鮮語を公用語と定めている韓国と北朝鮮は、それぞれ別々の標準変種を規定している。韓国における標準変種は「標準語」(표준어)であり、「ソウルの教養ある人々が使用する言語」と規定される。また、北朝鮮における標準変種は「文化語」(문화어)であり、「平壌の労働者階級が使用する言語」と規定される。ただし、北朝鮮の標準語も実際には伝来のソウル方言を基礎としており、元来の南北の方言差に由来する標準語の差異は、皆無ではないもののかなり限定的である。また、中国領内の延辺朝鮮語は、基本的に北朝鮮の標準語を規範としている。 日本統治前は、朝鮮半島南部と北部出身者が会話した場合に地域間の訛音差から話が通じないことがあった。学校教育推進のために一定の指針となる標準語を求めた朝鮮総督府は、普通学校における標準語の規範を永く首都とされてきた京城府(現ソウル特別市)の中流階級が使用する言語とした。これにより南北双方の言語とも20世紀前半のソウル方言が基礎となったが、韓国と北朝鮮がそれぞれ独自の言語政策に基づいて標準語を発展させていった結果、語彙・正書法・辞典における文字配列の順序などで、韓国における「한국어」「한국말」と北朝鮮における「조선말」「조선어」の間に相異が出ている。たとえば韓国と北朝鮮では、独立後に漢字表記の廃止と日本語語彙の置き換えが着手されたが、それぞれが個別に行った結果、韓国における「韓国語」と北朝鮮における「朝鮮語」の相違を拡大することになった。 韓国と北朝鮮の言葉の違いに関しては朝鮮語の南北差を参照。 朝鮮語の方言は大きく本土方言と済州方言に分けられ、そのうちの本土方言は西北方言(平安道方言)、東北方言(咸鏡道方言)、中部方言(黄海道、江原道、京畿道、忠清道方言)、西南方言(全羅道方言)、東南方言(慶尚道方言)の5つに分類される。韓国の標準語の基礎になったソウル方言は中部方言に属し、日本においても比較的知られている釜山方言や大邱方言は東南方言に属する。 朝鮮語の音節は (C) V (C) の構造を持つ。 短母音は本土方言 /a/、/ɛ/、/e/、/i/、/ɔ/、/o/、/u/、/ɯ/ の八つであり、ソウル方言では /ɛ/ と /e/ の区別はなくなり(融合・合流)、母音音素が7つになっている。二重母音は/ɰi/のみである。母音調和は中期朝鮮語には存在したが、現代語ではその痕跡を残すだけにとどまる。 子音は破裂音 /p/、/pʻ/、/ph/、/t/、/tʻ/、/th/、/k/、/kʻ/、/kh/、破擦音 /ʨ, ʨʻ, ʨh/、摩擦音/s/、/sʻ/、/h/、鼻音 /m/、/n/、/ŋ/、流音 /l/ が存在する。破裂音及び破擦音は平音、濃音、激音が対立し、摩擦音の /s/ は平音、濃音が対立する。 語頭においては /l/、/ŋ/ が立つことができず、/i/、/j/ の前に /n/ が立つこともできない(外来語は除外)。音節末においては平音/濃音/激音の対立が中和され、また破擦音及び摩擦音が /t/ に中和されるため、/p/、/t/、/k/、/m/、/n/、/ŋ/、/l/ しか現れることがない。また音節末の破裂音 /p/、/t/、/k/ は内破音(無開放閉鎖音)として発音され、多くの日本語母語話者にとって聴き取りの難しいものである。 また、さまざまな同化規則が存在する。 朝鮮半島に漢字が伝えられて以来、吏読や郷札、口訣など漢字の音や訓を用いて朝鮮語を表記する方法がいくつか試みられた。しかし朝鮮語と中国語の言語構造の違いや朝鮮語音韻の複雑さから普及度は小さかった。本格的な表記が始まったのは1443年の訓民正音制定以降である。最初期の表記法は一部の例外を除いて文字を発音通りに綴る表音主義的な表記法であった。16世紀からは形態主義的な表記法も徐々に取り入れられ始めたが、知識人の書く文章では形態主義的綴り、庶民の書く文章では表音主義的綴りが多く見られた。 19世紀末期には福沢諭吉の発案によって日本語の漢字かな交じり表記と似た漢字ハングル交じりで書かれた朝鮮語が文言(漢文)と並ぶ行政語の地位を獲得し、1883年に井上角五郎が創刊した漢城旬報が1886年に漢城周報に紙名を改名した後に採用した。 正書法も徐々に固まりつつあったが、それらが根付く前に朝鮮は日本統治時代へと突入することになる。漢字ハングル交じり表記は後の時代にも新聞の見出しや書物の表題、序文などに見られるが、それによって本文が書かれた書物はほとんど存在しない。 日韓合邦後に、金沢庄三郎と小倉進平の両博士を中心とする日本人言語学者は、近代朝鮮語の表記を科学的に体系化して言語として完成させた。 小倉博士の「朝鮮語学史」によれば、朝鮮が清の文化から離脱し独自性を強調するために国学・国文の使用を鼓舞しハングルを奨励しはじめたのは、1897年の日清戦争後からで、朝鮮が大韓帝国として清から独立してからであった。 朝鮮総督府は併合初期の1911年に、「諺文綴字法研究会」を発足させて、1912年に「普通学校用諺文綴字法」を定めたが、これはそれまでの民間の慣習的表記法を整理し成文化したものである。 正書法は「朝鮮語綴字法統一案」(1933年)など更に数度の修正を経て、2008年現在、韓国では「ハングル正書法」(1988年)、北朝鮮では「朝鮮語規範集」(1966年制定、1987年改正)が用いられている。南北の正書法共通の最大の特徴は、形態主義を採ることと分かち書きをすることである。 朝鮮語には連音や同化などの音韻規則が豊富であり、一つの形態素が音韻的な環境によって別々の音声として現れることが多々ある。音声が異なっていても同じ形態素であれば、可能な限り同じ文字で表記しようというのが形態主義である。分かち書きの単位は日本語における文節に近いが、南北の現行の正書法では分かち書きの規定が互いに若干異なる。概して南は分かち書きを多用する傾向にあり、北は分かち書きが少ない傾向にある。 また、朝鮮語をラテン文字で表記する方法については朝鮮語のローマ字表記法を参照。 インド・ヨーロッパ語族やアフロ・アジア語族に見られる性・数の概念はなく、性・数・格の一致の概念もない。 朝鮮語の語彙は大きく分けて固有語、漢字語(古典中国語系語彙)、外来語の3つの階層から成り立っている。特に韓国における朝鮮語の外来語のほとんどは英語であり、固有語の上に漢字語(古典中国語系語彙)と英語などの欧米系借用語の2つの上層を持つという意味において日本語に似た語彙構造を持っているということができる。それぞれの階層の語が語彙全体の中で占める割合を日本語と比べた場合、固有語と外来語は割合がやや少なく、漢字語は割合がやや高い。 1層目の固有語は古来の朝鮮語である。全ての品詞に広く分布しており、朝鮮語の語彙の核であるが、日本語と同様基本語彙の中にも漢字語に侵食されているものがあり、その比率は日本語よりも高めである。たとえば、山を表す산/san/、川を表す강/gaŋ/はそれぞれ「山」、「江」であり、元々あった山と川を表す固有語(뫼, 가람)は残存しているものの、意味の縮小と非日常語化を余儀なくされた。 近代以降は日本留学生が和製漢語を取り入れ始め、和製漢語に翻訳された西洋の近代用語を中心に漢字表記語の借用が行われた。日本語から流入した漢字表記語には、日本語においても音読みの「漢語」として存在したものだけでなく、「取扱」(とりあつかい)→취급/chwigɯp/、「引下(げ)」(ひきさげ)→인하/inha/のように日本語では訓読みをしたものも含まれる。 漢字語は名詞、動詞、形容詞に見られる。名詞はそのまま取り込まれたが、動詞、形容詞は朝鮮語の活用体系に合わせるため、-하다/hada/を付けて取り込まれた。これは日本語におけるサ変動詞、形容動詞がそれぞれ語幹に「~する」、「〜だ・な」を付けて活用するのと同じである。 漢字の読音は日本語の場合とは異なり、1字に対してほぼ1つに統一されている。稀に1つの漢字が複数の音を持つ場合があるが、それは日本語の漢音・呉音のように複数の時代の中国音を反映しているのではなく、中国語における一字多音を反映していることが多い。たとえば、悪には악/ak/と오/o/の2つの読音があるが、악/ak/は「悪い」という意味であり、오/o/は「憎む」という意味であり、もともと中国語において存在した区別を反映している。なおこの場合、日本語ではアク・オ、普通話では è ・ wù に、それぞれ対応する。 三層目は(漢字語以外の)外来語である。韓国においては英語、北朝鮮においてはロシア語が主な輸入源となった。外来語を取り込む方法は漢字語に準ずる(名詞はそのまま、動詞、形容詞は하다を付ける)。 その他の外来要素としては、主に植民地時代に流入した日本語と高麗末期に元朝から流入したモンゴル語がある。ここでいう日本語とは、朝鮮漢字音読みで取り入れられた和製漢語を除き、和語および日本語読みの漢語、外来語を日本語の発音に近い形で受け入れたものである。たとえば「勝負」は古典中国語由来の朝鮮漢字音で読む승부/sɯŋbu/という形で朝鮮語に定着している単語であるが、日本漢字音「ショウブ」に由来する쇼부/sjobu/という形でも流入した。このようにして日本語から取り込まれた語彙には、「弁当」벤또/bentto/、「うどん」우동/udoŋ/、「バケツ」바께쓰/bakkessɯ/などがあるが、韓国・北朝鮮の両政府はこのような日本語からの借用語を排除する政策を採ったため、現在では高齢者を中心に限られた範囲で俗語として扱われていることが多い。品詞は名詞、副詞が多く、副詞は本来の日本語が持っているニュアンスとは微妙に異なることが多い。これらの語彙は朝鮮語の語彙全体からして非常に低い割合でしかないが、日本統治時代の残滓と考えられたため問題視されたのである。モンゴル語は当時はかなりの影響力があったとする学説もあるが、現代ではごく僅かな特殊語彙に痕跡をとどめるのみである。 韓国と北朝鮮ではそれぞれ別々に言語政策を取ったため、2つの地域では語彙にも差が見られる(詳細は「朝鮮語の南北差」を参照)。また、中国の朝鮮族によって話されている中国朝鮮語は中国語の強い影響を受けている。中国語を朝鮮語音で読んで取り入れる場合もあれば、中国語音をそのまま取り入れる場合もある。たとえば、「卒業」は韓国においては同じ漢字を朝鮮語読みで졸업/chorɔp/というが、中国では「毕业(畢業)」を朝鮮語読みして필업/pirɔp/という。また、「コンピューター」は韓国では英語に由来する컴퓨터/kɔmpjutɔ/だが、中国では「电脑(電脳)」の中国語音に由来する뗀노/ttenno/である。中央アジアにおいてもロシア語の動詞 стрoйть(建てる)から不定詞語尾 -ть を取って代わりに-하다を付けて 스트레이하다/sɯtɯreihada/とするなどのロシア語流入が行われている。 また、朝鮮語が輸入した英語であるコングリッシュには元の英語にない独自の英語の語彙も存在する。 ※使用する人口が多い順
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "朝鮮語(、朝: 조선어, 조선말)または韓国語(、ハングル: 한국어; ハンチャ: 韓國語)(英: Korean language)は、主に朝鮮半島で使用されている言語で、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と大韓民国(韓国)の国語である。北朝鮮における国語名は「文化語(朝鮮語)」、韓国における国語名は「標準語(大韓民国)」。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "日本の言語学・音韻論など学術的には、表記として「朝鮮語」・「韓国語」が両方とも用いられる。「朝鮮語の呼称問題」を参照。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "約5,200万の韓国人、2,500万以上の北朝鮮人、約280万のアメリカ合衆国やカナダの韓国系アメリカ人、韓国系カナダ人、約170万の中国籍である朝鮮族、約80万の在日韓国・朝鮮人と朝鮮系日本人、約70万のロシアや中央アジア、ヨーロッパの高麗人と韓国人の間で話される。ただし、これらのうちウズベキスタン・カザフスタンなど、中央アジアで話されている言語は「高麗語(コリョマル)」として、別言語扱いとされる場合もある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "現在の大韓民国(韓国)の標準語はソウル特別市の方言がベースになっており、他方朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の文化語は平壌直轄市の言葉を基準にしているが、朝鮮王朝の首都が一定して漢城府(現ソウル)であったため、両方ソウルの方言が起源である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "音韻面では、子音に有気音と無気音の対立がある。連音(フランス語で用いられる用語のリエゾンとしばしば混同されるが、実際にはそれに合わせれば「アンシェヌマン」である)が起こることも特徴である。音節構造においては、ほとんどが母音で終わる開音節の日本語とは異なり、子音で終わる閉音節も多く現れる。ただし、在日朝鮮語では日本語の影響で閉音節の発音はほぼ崩壊している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "言語類型論の観点から見ると、日本語と同じ膠着語であり、修飾語は被修飾語に先行し、前置詞ではなく後置詞を用いる。歴史的に日本語やベトナム語と同様に漢字文化の影響があるが、現在の表記には主にハングルが用いられる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "韓国、北朝鮮でそれぞれ規範形の定められている複数中心地言語でもある。言語学的な基準からすると韓国で話されている言語と北朝鮮で話されている言語は同一の言語である(つまり、韓国・北朝鮮とも双方の言語を同一の言語と見なしている)が、南北には発音・語彙・文法・正書法などに違いが存在する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ISO 639による言語コードは2字ではko、3字ではkorで表される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "日本では、伝統的に「朝鮮半島」や「朝鮮民族」などと同様に「朝鮮」の名を冠した「朝鮮語」という呼称が用いられている。しかし、朝鮮半島が南北に分かれ、日本が韓国としか国交がない現状を反映し、現在では、日常生活では「韓国語」と呼ぶことが多くなっている。そのほか、「コリア語」「韓国朝鮮語」「高麗語」など多くの呼称が存在する。また、本来ハングルは文字の名前であり言語の名前ではないが、言語名として「ハングル」を用いることもあり、日本放送協会(NHK)は「ハングル講座」を放送している。ハングル能力検定試験協会は「『韓国・朝鮮語』を統括する意味で『ハングル』を用いて」いると説明している。", "title": "言語名" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "一方、韓国では「韓国語」に相当する「한국어(、ハングゴ)」「한국말(、ハングンマル)」という呼称が用いられており、北朝鮮においては「朝鮮語」に相当する「조선말(、チョソンマル)」「조선어(、チョソノ)」という呼称が用いられている。この他に朝鮮民族どうしの表現として「国語」に相当する「국어(國語、クゴ)」や、朝鮮語の固有語で「我々の言葉」を意味する「우리말(ウリマル)」という表現も用いられる。", "title": "言語名" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "また、中国では、1949年の建国から社会主義陣営に所属しており、当初から北朝鮮を朝鮮半島全体の唯一の正統政府としていた立場から、朝鮮民族の国家、民族や言語、文化に冠する呼称に「朝鮮」(簡体字で「朝鲜」)を使用し、中国の国民を構成する朝鮮系の集団やその言語に対してもこの名称を用いて、「朝鮮族」や「朝鮮語」と呼称してきた。", "title": "言語名" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "しかし、1992年に韓国と中国が国交を樹立してからは、韓国との直接交流が進展し、韓国資本の裏付けにより、韓国式の語彙や文字配列をそのまま移植した語学テキストや辞典類が「韓国語」の名称を冠して発行されるようになった。その結果、韓国の朝鮮語を指す「韓国語」「韓語」は、中国の延辺朝鮮語や北朝鮮の朝鮮語を指す「朝鮮語」とともに併用されるようになってきている。", "title": "言語名" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "日本外務省および中華人民共和国外交部の公式ウェブサイトにおいては国に応じて別の呼称を使用している(韓国の公用語は韓国語、北朝鮮の公用語は朝鮮語とされる)。", "title": "言語名" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "中国本土を除く中華圏(香港、マカオ、台湾)では政治的な理由で「韓語」としか呼ばない。", "title": "言語名" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "また、中央アジアの朝鮮人の間では「高麗語」(고려말、高麗말、Корё маль、コリョマル)という呼称が用いられている。多くのヨーロッパ言語では高麗に由来する Korean (英語)などの名称を用いており、中立性の問題は提起されていない。", "title": "言語名" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "一般的には分類上アルタイ諸語か孤立した言語と見なされるが、済州語を別の言語として、両者を朝鮮語族にまとめることもある。", "title": "系統" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "アルタイ諸語との関係、また日本語との関係もしばしば議論の的となる。学者によっては、日本語と共にアルタイ諸語に含める場合もある。", "title": "系統" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "統語面では、基本語順はSOV型であり、日本語と類型論的に同じ語順を持つ(なお、語順はそれ単独では同一系統の言語であることを示す証拠にはなり得ない。なぜなら、SOV型は世界の言語の約50%が属す普遍的な語順であり、また同一系統であっても言語によって、更には同一言語であっても時代によって基本語順が異なることがあるため)。否定や法の表現では逆位となる場合やいわゆる「かばん語」によって否定表現が一語となっているものがある。助詞で主題を表示する点は日本語と共通している。", "title": "系統" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "音韻的な面では、古い時代では語頭に流音(ラ行)・有声阻害音(濁音)が立たない点、母音調和が見られる点、母音連続を避ける点などが日本語と共通する。これらはアルタイ諸語に共通して見られる特徴でもあり、朝鮮語及び日本語がアルタイ語族であるという論拠の一つになっている。但し朝鮮語の音節が閉音節(CVC)を基本としているのに対し、日本語は開音節(CV)を基本としているなど、相違点も見られる。", "title": "系統" }, { "paragraph_id": 19, 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"朝鮮語の方言は大きく本土方言と済州方言に分けられ、そのうちの本土方言は西北方言(平安道方言)、東北方言(咸鏡道方言)、中部方言(黄海道、江原道、京畿道、忠清道方言)、西南方言(全羅道方言)、東南方言(慶尚道方言)の5つに分類される。韓国の標準語の基礎になったソウル方言は中部方言に属し、日本においても比較的知られている釜山方言や大邱方言は東南方言に属する。", "title": "方言・変種" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "朝鮮語の音節は (C) V (C) の構造を持つ。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "短母音は本土方言 /a/、/ɛ/、/e/、/i/、/ɔ/、/o/、/u/、/ɯ/ の八つであり、ソウル方言では /ɛ/ と /e/ の区別はなくなり(融合・合流)、母音音素が7つになっている。二重母音は/ɰi/のみである。母音調和は中期朝鮮語には存在したが、現代語ではその痕跡を残すだけにとどまる。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "子音は破裂音 /p/、/pʻ/、/ph/、/t/、/tʻ/、/th/、/k/、/kʻ/、/kh/、破擦音 /ʨ, ʨʻ, ʨh/、摩擦音/s/、/sʻ/、/h/、鼻音 /m/、/n/、/ŋ/、流音 /l/ が存在する。破裂音及び破擦音は平音、濃音、激音が対立し、摩擦音の /s/ は平音、濃音が対立する。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "語頭においては /l/、/ŋ/ が立つことができず、/i/、/j/ の前に /n/ が立つこともできない(外来語は除外)。音節末においては平音/濃音/激音の対立が中和され、また破擦音及び摩擦音が /t/ に中和されるため、/p/、/t/、/k/、/m/、/n/、/ŋ/、/l/ しか現れることがない。また音節末の破裂音 /p/、/t/、/k/ は内破音(無開放閉鎖音)として発音され、多くの日本語母語話者にとって聴き取りの難しいものである。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "また、さまざまな同化規則が存在する。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "朝鮮半島に漢字が伝えられて以来、吏読や郷札、口訣など漢字の音や訓を用いて朝鮮語を表記する方法がいくつか試みられた。しかし朝鮮語と中国語の言語構造の違いや朝鮮語音韻の複雑さから普及度は小さかった。本格的な表記が始まったのは1443年の訓民正音制定以降である。最初期の表記法は一部の例外を除いて文字を発音通りに綴る表音主義的な表記法であった。16世紀からは形態主義的な表記法も徐々に取り入れられ始めたが、知識人の書く文章では形態主義的綴り、庶民の書く文章では表音主義的綴りが多く見られた。", "title": "表記" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "19世紀末期には福沢諭吉の発案によって日本語の漢字かな交じり表記と似た漢字ハングル交じりで書かれた朝鮮語が文言(漢文)と並ぶ行政語の地位を獲得し、1883年に井上角五郎が創刊した漢城旬報が1886年に漢城周報に紙名を改名した後に採用した。", "title": "表記" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "正書法も徐々に固まりつつあったが、それらが根付く前に朝鮮は日本統治時代へと突入することになる。漢字ハングル交じり表記は後の時代にも新聞の見出しや書物の表題、序文などに見られるが、それによって本文が書かれた書物はほとんど存在しない。", "title": "表記" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "日韓合邦後に、金沢庄三郎と小倉進平の両博士を中心とする日本人言語学者は、近代朝鮮語の表記を科学的に体系化して言語として完成させた。", "title": "表記" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "小倉博士の「朝鮮語学史」によれば、朝鮮が清の文化から離脱し独自性を強調するために国学・国文の使用を鼓舞しハングルを奨励しはじめたのは、1897年の日清戦争後からで、朝鮮が大韓帝国として清から独立してからであった。", "title": "表記" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "朝鮮総督府は併合初期の1911年に、「諺文綴字法研究会」を発足させて、1912年に「普通学校用諺文綴字法」を定めたが、これはそれまでの民間の慣習的表記法を整理し成文化したものである。", "title": "表記" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "正書法は「朝鮮語綴字法統一案」(1933年)など更に数度の修正を経て、2008年現在、韓国では「ハングル正書法」(1988年)、北朝鮮では「朝鮮語規範集」(1966年制定、1987年改正)が用いられている。南北の正書法共通の最大の特徴は、形態主義を採ることと分かち書きをすることである。", "title": "表記" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "朝鮮語には連音や同化などの音韻規則が豊富であり、一つの形態素が音韻的な環境によって別々の音声として現れることが多々ある。音声が異なっていても同じ形態素であれば、可能な限り同じ文字で表記しようというのが形態主義である。分かち書きの単位は日本語における文節に近いが、南北の現行の正書法では分かち書きの規定が互いに若干異なる。概して南は分かち書きを多用する傾向にあり、北は分かち書きが少ない傾向にある。", "title": "表記" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "また、朝鮮語をラテン文字で表記する方法については朝鮮語のローマ字表記法を参照。", "title": "表記" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "インド・ヨーロッパ語族やアフロ・アジア語族に見られる性・数の概念はなく、性・数・格の一致の概念もない。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "朝鮮語の語彙は大きく分けて固有語、漢字語(古典中国語系語彙)、外来語の3つの階層から成り立っている。特に韓国における朝鮮語の外来語のほとんどは英語であり、固有語の上に漢字語(古典中国語系語彙)と英語などの欧米系借用語の2つの上層を持つという意味において日本語に似た語彙構造を持っているということができる。それぞれの階層の語が語彙全体の中で占める割合を日本語と比べた場合、固有語と外来語は割合がやや少なく、漢字語は割合がやや高い。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1層目の固有語は古来の朝鮮語である。全ての品詞に広く分布しており、朝鮮語の語彙の核であるが、日本語と同様基本語彙の中にも漢字語に侵食されているものがあり、その比率は日本語よりも高めである。たとえば、山を表す산/san/、川を表す강/gaŋ/はそれぞれ「山」、「江」であり、元々あった山と川を表す固有語(뫼, 가람)は残存しているものの、意味の縮小と非日常語化を余儀なくされた。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "近代以降は日本留学生が和製漢語を取り入れ始め、和製漢語に翻訳された西洋の近代用語を中心に漢字表記語の借用が行われた。日本語から流入した漢字表記語には、日本語においても音読みの「漢語」として存在したものだけでなく、「取扱」(とりあつかい)→취급/chwigɯp/、「引下(げ)」(ひきさげ)→인하/inha/のように日本語では訓読みをしたものも含まれる。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "漢字語は名詞、動詞、形容詞に見られる。名詞はそのまま取り込まれたが、動詞、形容詞は朝鮮語の活用体系に合わせるため、-하다/hada/を付けて取り込まれた。これは日本語におけるサ変動詞、形容動詞がそれぞれ語幹に「~する」、「〜だ・な」を付けて活用するのと同じである。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "漢字の読音は日本語の場合とは異なり、1字に対してほぼ1つに統一されている。稀に1つの漢字が複数の音を持つ場合があるが、それは日本語の漢音・呉音のように複数の時代の中国音を反映しているのではなく、中国語における一字多音を反映していることが多い。たとえば、悪には악/ak/と오/o/の2つの読音があるが、악/ak/は「悪い」という意味であり、오/o/は「憎む」という意味であり、もともと中国語において存在した区別を反映している。なおこの場合、日本語ではアク・オ、普通話では è ・ wù に、それぞれ対応する。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "三層目は(漢字語以外の)外来語である。韓国においては英語、北朝鮮においてはロシア語が主な輸入源となった。外来語を取り込む方法は漢字語に準ずる(名詞はそのまま、動詞、形容詞は하다を付ける)。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "その他の外来要素としては、主に植民地時代に流入した日本語と高麗末期に元朝から流入したモンゴル語がある。ここでいう日本語とは、朝鮮漢字音読みで取り入れられた和製漢語を除き、和語および日本語読みの漢語、外来語を日本語の発音に近い形で受け入れたものである。たとえば「勝負」は古典中国語由来の朝鮮漢字音で読む승부/sɯŋbu/という形で朝鮮語に定着している単語であるが、日本漢字音「ショウブ」に由来する쇼부/sjobu/という形でも流入した。このようにして日本語から取り込まれた語彙には、「弁当」벤또/bentto/、「うどん」우동/udoŋ/、「バケツ」바께쓰/bakkessɯ/などがあるが、韓国・北朝鮮の両政府はこのような日本語からの借用語を排除する政策を採ったため、現在では高齢者を中心に限られた範囲で俗語として扱われていることが多い。品詞は名詞、副詞が多く、副詞は本来の日本語が持っているニュアンスとは微妙に異なることが多い。これらの語彙は朝鮮語の語彙全体からして非常に低い割合でしかないが、日本統治時代の残滓と考えられたため問題視されたのである。モンゴル語は当時はかなりの影響力があったとする学説もあるが、現代ではごく僅かな特殊語彙に痕跡をとどめるのみである。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "韓国と北朝鮮ではそれぞれ別々に言語政策を取ったため、2つの地域では語彙にも差が見られる(詳細は「朝鮮語の南北差」を参照)。また、中国の朝鮮族によって話されている中国朝鮮語は中国語の強い影響を受けている。中国語を朝鮮語音で読んで取り入れる場合もあれば、中国語音をそのまま取り入れる場合もある。たとえば、「卒業」は韓国においては同じ漢字を朝鮮語読みで졸업/chorɔp/というが、中国では「毕业(畢業)」を朝鮮語読みして필업/pirɔp/という。また、「コンピューター」は韓国では英語に由来する컴퓨터/kɔmpjutɔ/だが、中国では「电脑(電脳)」の中国語音に由来する뗀노/ttenno/である。中央アジアにおいてもロシア語の動詞 стрoйть(建てる)から不定詞語尾 -ть を取って代わりに-하다を付けて 스트레이하다/sɯtɯreihada/とするなどのロシア語流入が行われている。 また、朝鮮語が輸入した英語であるコングリッシュには元の英語にない独自の英語の語彙も存在する。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "※使用する人口が多い順", "title": "使用国家" } ]
朝鮮語(ちょうせんご、または韓国語(かんこくご、は、主に朝鮮半島で使用されている言語で、朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国の国語である。北朝鮮における国語名は「文化語」、韓国における国語名は「標準語」。 日本の言語学・音韻論など学術的には、表記として「朝鮮語」・「韓国語」が両方とも用いられる。「朝鮮語の呼称問題」を参照。
{{pp-dispute}} {{Otheruses|言語|現在主に使われている文字|ハングル}} {{改名提案|date=2023年11月}} {{出典の明記|date=2019年11月}} {{Infobox Language|name=朝鮮語 | nativename = {{lang|ko|조선말}}({{lang|ko|朝鮮말}})・{{lang|ko|한국어}}({{lang|ko|韓國語}}) | pronunciation = {{ubl|{{IPA-ko|tso.sɔn.mal|}}(朝鮮語)|{{IPA-ko|ha(ː)n.ɡu.ɡʌ|}}(韓国語)}} | image = [[File:Hangugeo-Chosonmal.svg|120px]] | states ={{ROK}}<br/>{{DPRK}} | region = {{PRC}}[[長白朝鮮族自治県]] | ethnicity = [[朝鮮民族]] |speakers=約8,000万人<ref>Korean Made Simple: A beginner's guide to learning the Korean language, CreateSpace Independent Publishing Platform (2014), {{ISBN2|978-1497445826}}, P. 136</ref><!--ノート参照。書き換えの場合はその前にノートで議論を。--> |family=[[朝鮮語族]]([[孤立した言語]]で論争あり。詳細は[[#系統]]を参照。) | ancestor = [[朝鮮祖語]] | ancestor2 = [[古代朝鮮語]]{{inlb|style=margin-left: 1em; text-indent: -1em|([[高句麗語]]・{{inlb|style=text-indent: 0|[[百済語]]・}}{{inlb|style=text-indent: 0|[[新羅語]])}}}} | ancestor3 = [[中世朝鮮語]]([[高麗語 (中世語)|高麗語]]) | ancestor4 = [[近世朝鮮語]] | dialects = [[朝鮮語の方言]]を参照 | stand1 = [[標準語 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{{flagicon|PRK}} 朝鮮語 |chosŏn'gŭl = {{linktext|조선말}} |hanja = {{linktext|朝鮮말}} |katakana = チョソンマル |hiragana = |rr = Joseonmal |mr = Chosŏnmal |alphabet = Korean }} {{+float}} {{読み仮名|'''朝鮮語'''|ちょうせんご|{{Lang-ko-short|links=no|조선말・한국어}}、{{lang-en-short|Korean}}}}は、主に[[朝鮮半島]]で使用されている[[言語]]で、[[大韓民国]](韓国)と[[朝鮮民主主義人民共和国]](北朝鮮)の[[国語]]である。{{読み仮名|'''韓国語'''|かんこくご}}と呼ぶこともある。 この言語の名称については議論があるが([[#言語名|後述]])、日本の[[言語学]]・[[音韻論]]など学術的には、表記として「朝鮮語」が用いられることから、本項目では「朝鮮語」に統一し記述する(詳細は「[[朝鮮語の呼称問題]]」を参照)。 == 概要 == [[ファイル:The oldest Korean dictionary.jpg|300px|thumb|最古の朝鮮語辞書、『朝鮮語辞典』]] {{+float}} 約5,200万の韓国人、2,500万以上の北朝鮮人<ref>{{Cite news|url=https://jp.yna.co.kr/view/AJP20160916001600882|title=北朝鮮の人口が2500万人突破 高齢化進む|newspaper=[[聯合通信|聯合]]ニュース|date=2016-09-18|accessdate=2022-08-20}}</ref>、約280万のアメリカ合衆国やカナダの韓国系アメリカ人、韓国系カナダ人、約190万の中国籍である[[朝鮮族]]、約80万の[[在日韓国・朝鮮人]]と朝鮮系日本人、約70万のロシアや中央アジア、ヨーロッパの[[高麗人]]と韓国人の間で話される<ref>大江孝男「ちょうせんご|朝鮮語」【監修】[[伊藤亜人]]+[[大村益夫]]+[[高崎宗司]]+[[武田幸男]]+[[吉田光男]]+[[梶村秀樹]]『[新版] 韓国 朝鮮を知る事典』[[平凡社]]、2014年3月19日 新版第1刷発行、ISBN 978-4-582-12647-1、352頁。</ref>。ただし、これらのうちウズベキスタン・カザフスタンなど、[[中央アジア]]で話されている言語は「[[コリョマル|高麗語]](コリョマル)」として、別言語扱いとされる場合もある。 現在の[[大韓民国]](韓国)の[[標準語 (大韓民国)|標準語]]は[[ソウル特別市]]の方言がベースになっており、他方[[朝鮮民主主義人民共和国]](北朝鮮)の[[文化語 (朝鮮語)|文化語]]は[[平壌直轄市]]の言葉を基準にしているが、[[朝鮮王朝]]の首都が一定して[[漢城府]](現ソウル)であったため、両方ソウルの方言が起源である<ref>{{Cite web|url=http://kiyou.lib.agu.ac.jp/pdf/kiyou_14F/14_37_1F/14_37_1_115.pdf|title=北朝鮮における言語政策 「第 l 次・第 2 次金日成教示」の分析|accessdate=2019/07/03|publisher=愛知学院大学学術紀要データベース|author=文嬉眞|page=135}}</ref>。 [[音韻]]面では、子音に[[有気音]]と[[無気音]]の対立がある。[[連音]]([[フランス語]]で用いられる用語の[[リエゾン]]としばしば混同されるが、実際にはそれに合わせれば「[[アンシェヌマン]]」である<ref>野間秀樹(2010)『ハングルの誕生』平凡社新書、165ページ。</ref>)が起こることも特徴である。音節構造においては、ほとんどが[[母音]]で終わる[[音節|開音節]]の日本語とは異なり、[[子音]]で終わる[[音節|閉音節]]も多く現れる。ただし、[[在日朝鮮語]]では日本語の影響で[[音節|閉音節]]の発音はほぼ崩壊している。 [[言語類型論]]の観点から見ると、[[日本語]]と同じ[[膠着語]]であり、修飾語は被修飾語に先行し、[[前置詞]]ではなく[[後置詞]]を用いる。歴史的に日本語や[[ベトナム語]]と同様に[[漢字文化]]の影響があるが、現在の表記には主に[[ハングル]]が用いられる。 韓国、北朝鮮でそれぞれ規範形の定められている[[複数中心地言語]]でもある。[[言語学]]的な基準からすると韓国で話されている言語と北朝鮮で話されている言語は同一の言語である(つまり、韓国・北朝鮮とも双方の言語を同一の言語と見なしている)が、南北には[[発音]]・[[語彙]]・[[文法]]・[[正書法]]などに違いが存在する。 [[ISO 639]]による言語コードは2字では<code>ko</code>、3字では<code>kor</code>で表される。 == 言語名 == {{See also|朝鮮語の呼称問題}} 日本では、伝統的に「朝鮮半島」や「朝鮮民族」などと同様に「朝鮮」の名を冠した「'''朝鮮語'''」という呼称が用いられている。しかし、朝鮮半島が南北に分かれ、日本が韓国としか国交がない現状を反映し、現在では、日常生活では「'''韓国語'''」と呼ぶことが多くなっている<!-- googleでの検索結果 韓国語約 191,000,000 件 朝鮮語 40,100,000 件 --><ref>{{Cite web |url=https://www.pref.kagawa.lg.jp/ |title=香川県 |access-date=2023年3月27日 |publisher=香川県}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.sej.co.jp/# |title=セブンイレブン |access-date=2023年3月27日 |publisher=セブンイレブン}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.mhlw.go.jp/new-info/kobetu/roudou/gyousei/kantoku/korea.html |title=労働条件ハンドブック(韓国語) |access-date=2023年3月27日 |publisher=厚生労働省}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.family.co.jp/for_tourist/kr.html |title=日本にようこそ |access-date=2023年3月27日 |publisher=ファミリーマート}}</ref>。そのほか、「コリア語」<ref>{{Cite web|title=アジア地域言語紹介・コリア語|url=http://www.daito.ac.jp/gakubu/kokusai/language/korean.html|website=www.daito.ac.jp|accessdate=2021-05-07}}</ref>「韓国朝鮮語」<ref>{{Cite web|title=東大ではこれだけの外国語を学べます—特集 東大生、語学を楽しむ。(1){{!}} キミの東大 高校生・受験生が東京大学をもっと知るためのサイト|url=https://kimino.ct.u-tokyo.ac.jp/3720/|website=キミの東大|date=2019-11-28|accessdate=2021-05-07|language=ja}}</ref>「高麗語」など多くの呼称が存在する<ref>{{Cite journal|和書|author=金泰虎(キム・タエホ)|year=2004|title=日本における「朝鮮語」の名称|url=https://doi.org/10.14990/00000402|journal=言語と文化|issue=8|pages=183-204|publisher=甲南大学国際言語文化センター|doi=10.14990/00000402|issn=13476610|naid=110002556782}}</ref>。また、本来[[ハングル]]は文字の名前であり言語の名前ではないが、言語名として「ハングル」を用いることもあり、[[日本放送協会]](NHK)は「[[ハングル講座]]」を放送している。ハングル能力検定試験協会は「『韓国・朝鮮語』を統括する意味で『ハングル』を用いて」いると説明している<ref>{{Cite web|title=ごあいさつ・協会概要|url=https://hangul.or.jp/about/outline/|website=ハングル能力検定協会|accessdate=2021-05-07|language=ja}}</ref>。 一方、[[大韓民国|韓国]]では「韓国語」に相当する「{{読み仮名|'''{{lang|ko|한국어}}'''|{{lang|ko-Hani|韓國語}}|ハングゴ}}」「{{読み仮名|'''{{lang|ko|한국말}}'''|{{lang|ko-Hani|韓國말}}|ハングンマル}}」という呼称が用いられており、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]においては「朝鮮語」に相当する「{{読み仮名|'''{{lang|ko|조선말}}'''|{{lang|ko-Hani|朝鮮말}}|チョソンマル}}」「{{読み仮名|'''{{lang|ko|조선어}}'''|{{lang|ko-Hani|朝鮮語}}|チョソノ}}」という呼称が用いられている。この他に朝鮮民族どうしの表現として「国語」に相当する「'''{{lang|ko|국어}}'''({{lang|ko-Hani|國語}}、クゴ)」や、朝鮮語の固有語で「我々の言葉」を意味する「'''{{lang|ko|우리말}}'''(ウリマル)」という表現も用いられる。 また、[[中華人民共和国|中国]]では、1949年の建国から社会主義陣営に所属しており、当初から北朝鮮を朝鮮半島全体の唯一の正統政府としていた立場から、朝鮮民族の国家、民族や言語、文化に冠する呼称に「[[朝鮮]]」([[簡体字]]で「{{lang|zh-hans|朝鲜}}」)を使用し、中国の国民を構成する朝鮮系の集団やその言語に対してもこの名称を用いて、「朝鮮族」や「朝鮮語」と呼称してきた。 しかし、1992年に韓国と中国が国交を樹立してからは、韓国との直接交流が進展し、韓国資本の裏付けにより、韓国式の語彙や文字配列をそのまま移植した語学テキストや辞典類が「韓国語」の名称を冠して発行されるようになった。その結果、韓国の朝鮮語を指す「韓国語」「韓語」は、中国の[[延辺朝鮮語]]や北朝鮮の朝鮮語を指す「朝鮮語」とともに併用されるようになってきている。 [[日本外務省]]および[[中華人民共和国外交部]]の公式ウェブサイトにおいては国に応じて別の呼称を使用している(韓国の公用語は韓国語<ref>{{Cite web|title=大韓民国基礎データ|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/korea/data.html|website=Ministry of Foreign Affairs of Japan|accessdate=2021-05-03|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|title=国家概况 — 中华人民共和国外交部|url=https://www.fmprc.gov.cn/web/gjhdq_676201/gj_676203/yz_676205/1206_676524/1206x0_676526/|website=www.fmprc.gov.cn|accessdate=2021-05-03}}</ref>、北朝鮮の公用語は朝鮮語とされる<ref>{{Cite web|title=北朝鮮基礎データ|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/n_korea/data.html|website=Ministry of Foreign Affairs of Japan|accessdate=2021-05-03|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|title=国家概况 — 中华人民共和国外交部|url=https://www.fmprc.gov.cn/web/gjhdq_676201/gj_676203/yz_676205/1206_676404/1206x0_676406/|website=www.fmprc.gov.cn|accessdate=2021-05-03}}</ref>)。 [[中国本土]]を除く[[中華圏]]([[香港]]<ref>{{Cite web|title=【遊中亞】流放中亞的朝鮮族 不諳韓語最愛泡菜|url=https://hk.lifestyle.appledaily.com/lifestyle/travel/daily/article/20190222/20617771|website=Apple Daily 蘋果日報|accessdate=2019-07-03}}</ref>、[[マカオ]]<ref>{{Cite web|title=韓語交流協會|url=https://www.io.gov.mo/cn/entities/priv/rec/5509|website=www.io.gov.mo|accessdate=2019-07-03}}</ref>、[[中華民国|台湾]]<ref>{{Cite web|title=韓國人也不知道的韓語知識:掛電話時為何要說「您請回去」?|url=https://www.thenewslens.com/article/105470|website=The News Lens 關鍵評論網|date=2018-10-11|accessdate=2019-07-03|language=zh-Hant-TW|last=精選書摘}}</ref>)では政治的な理由で「'''韓語'''」としか呼ばない。 また、中央アジアの朝鮮人の間では「'''高麗語'''」({{lang|ko|고려말}}、{{lang|ko-Hani|高麗말}}、{{lang|ko-Cyrl|Корё маль}}、コリョマル)という呼称が用いられている。多くのヨーロッパ言語では[[高麗]]に由来する {{lang|en|Korean}} ([[英語]])などの名称を用いており、中立性の問題は提起されていない。 == 系統 == 一般的には分類上[[アルタイ諸語]]か[[孤立した言語]]と見なされるが、[[済州語]]を別の言語として、両者を[[朝鮮語族]]にまとめることもある。 [[アルタイ諸語]]との関係、また日本語との関係もしばしば議論の的となる。学者によっては、日本語と共にアルタイ諸語に含める場合もある。 === 日本語との比較 === {{see also|日本語と朝鮮語の比較}} [[統語]]面では、基本[[語順]]は[[SOV型]]であり、日本語と[[言語類型論|類型論]]的に同じ語順を持つ(なお、語順はそれ単独では同一系統の言語であることを示す証拠にはなり得ない。なぜなら、SOV型は世界の言語の約50%が属す普遍的な語順であり、また同一系統であっても言語によって、更には同一言語であっても時代によって基本語順が異なることがあるため)。[[否定]]や[[法 (文法)|法]]の表現では逆位となる場合やいわゆる「[[かばん語]]」によって否定表現が一語となっているものがある。[[助詞]]で[[主題]]を表示する点は日本語と共通している。 音韻的な面では、古い時代では語頭に[[流音]](ラ行)・[[有声]][[阻害音]](濁音)が立たない点、[[母音調和]]が見られる点、[[母音]]連続を避ける点などが日本語と共通する。これらは[[アルタイ諸語]]に共通して見られる特徴でもあり、朝鮮語及び日本語がアルタイ語族であるという論拠の一つになっている。但し朝鮮語の音節が閉音節(CVC)を基本としているのに対し、日本語は開音節(CV)を基本としているなど、相違点も見られる。 その一方で[[語彙]]は、[[漢字語 (朝鮮語)|漢字語]]あるいは[[字音語]]を除き、一定の音韻対応によって系統的に同一の祖形に当てはまるものは見出されていない。 江戸時代から、様々な側面から日本語と朝鮮語の類似性を指摘する研究者はたびたび現れている([[金澤庄三郎]]など)。[[小倉進平]]は[[対馬方言]]と朝鮮語の関係を研究したが、対馬方言への朝鮮語の借用以上のものは見出していない。[[漢字]]の[[呉音]]は古くは「対馬音」と呼ばれ、研究者の中には[[朝鮮字音]]から直接輸入されたと考える者もあったが、[[河野六郎]]の研究などによりその重層性が明らかにされていった。 かつてのような単純な説は出されることはなくなったが、現在でも様々な資料と方法によって親族関係を見出そうとする研究が<!-- 韓国や欧米では(←本当にこれらの地域限定?) -->続けられている。<!-- 音韻や語彙が大きく違うために根本的に異なる可能性が高く、同系語としての関係を考えた場合でも相当な過去にまで遡らなくてはならないと考えられる。(←記述の必要性が不明) -->共通点については[[言語連合]]({{de|Sprachbund}}, {{en|language union}}、例:[[バルカン言語連合]])の可能性もある。 === アルタイ語族 === 朝鮮語が[[孤立した言語]]でないとしたら[[アルタイ語族]]に属すであろうという意見もある。ただし、テュルク語群、モンゴル語群、ツングース語群には文法的に非常に似ていて類似性があるものの、それらが共通の祖語を持つアルタイ語族であるということは今のところ証明されるめどは立っていない。 歴史学の見地から考えると、百済、新羅、高句麗では言語体系が異なるという説もある。しかし、日本のように百済、新羅、高句麗から高麗王朝と朝鮮王朝まで朝鮮民族の王朝がずっと支配層として続いており、昔と現代の言語体系はほとんど変わっていないという説もある<ref>Kim, Nam-Kil (1992), "Korean", International Encyclopedia of Linguistics, 2, pp. 282–86, scholars have tried to establish genetic relationships between Korean and other languages and major language families, but with little success</ref>。朝鮮語はアルタイ語のうち、ツングース語族との関係が最も深いと考えられており、唯一まとまった文字資料をもつ[[満州語]]との比較研究が行われている。 == 方言・変種 == === 標準語 === 朝鮮語を公用語と定めている韓国と北朝鮮は、それぞれ別々の標準変種を規定している。韓国における標準変種は「'''[[大韓民国標準語|標準語]]'''」({{lang|ko|표준어}})であり、「[[ソウル特別市|ソウル]]の[[教養]]ある人々が使用する言語」と規定される。また、北朝鮮における標準変種は「'''[[文化語]]'''」({{lang|ko|문화어}})であり、「[[平壌直轄市|平壌]]の[[労働者階級]]が使用する言語」と規定される。ただし、北朝鮮の標準語も実際には伝来の[[ソウル方言]]を基礎としており、元来の南北の[[方言]]差に由来する標準語の差異は、皆無ではないもののかなり限定的である。また、中国領内の[[中国朝鮮語|延辺朝鮮語]]は、基本的に北朝鮮の標準語を規範としている。 日本統治前は、朝鮮半島南部と北部出身者が会話した場合に地域間の訛音差から話が通じないことがあった。学校教育推進のために一定の指針となる標準語を求めた[[朝鮮総督府]]は、普通学校における標準語の規範を永く首都とされてきた[[京城府]](現[[ソウル特別市]])の中流階級が使用する言語とした<ref> 『綜合教育教科書 : 各科教授法・教育制度・学校管理法. 乙』帝国地方行政学会、[[1923年]]、朝鮮語教育及び漢文の推進(朝鮮語教授の要旨の項)、{{NDLJP|924525/47}}</ref>。これにより南北双方の言語とも20世紀前半のソウル方言が基礎となったが、韓国と北朝鮮がそれぞれ独自の言語政策に基づいて標準語を発展させていった結果、語彙・正書法・辞典における文字配列の順序などで、韓国における「{{lang|ko|한국어}}」「{{lang|ko|한국말}}」と北朝鮮における「{{lang|ko|조선말}}」「{{lang|ko|조선어}}」の間に相異が出ている<ref group="注">[[ドイツ語]]の場合、[[ドイツ]]、[[オーストリア]]、[[スイス]]の三カ国の文部省が共同で[[正書法]]の改訂に携わる制度があり、{{要出典範囲|date=2011年11月|すくなくとも書面語におけるドイツ語の一体性は国境をこえて保持されている}}。<!-- スイス・ドイツ語ではエスツェットを使わなかったような。勘違いだったらすみません。--></ref>。たとえば韓国と北朝鮮では、独立後に[[朝鮮漢字|漢字表記]]の廃止と日本語語彙の置き換えが着手されたが、それぞれが個別に行った結果、韓国における「韓国語」と北朝鮮における「朝鮮語」の相違を拡大することになった。 韓国と北朝鮮の言葉の違いに関しては''[[朝鮮語の南北差]]''を参照。 === 方言 === [[ファイル:Map of Korean dialects.png|thumb|right|200px|小倉進平による方言区分(1940)]] {{+float|10em}}{{main|朝鮮語の方言}} 朝鮮語の方言は大きく[[本土方言 (朝鮮語)|本土方言]]と[[済州方言]]に分けられ、そのうちの本土方言は[[西北方言]](平安道方言)、[[東北方言 (朝鮮語)|東北方言]](咸鏡道方言)、[[中部方言 (朝鮮語)|中部方言]](黄海道、江原道、京畿道、忠清道方言)、[[西南方言]](全羅道方言)、[[東南方言]](慶尚道方言)の5つに分類される。韓国の標準語の基礎になった[[ソウル方言]]は中部方言に属し、日本においても比較的知られている[[釜山方言]]や[[大邱方言]]は東南方言に属する。 {{ul |[[本土方言 (朝鮮語)|本土方言]]{{ul |[[西北方言]]([[平安道]]方言) |[[東北方言 (朝鮮語)|東北方言]]([[咸鏡道]]方言) |[[中部方言 (朝鮮語)|中部方言]]([[黄海道]]、[[江原道 (朝鮮八道)|江原道]]、[[京畿道]]、[[忠清道]]方言){{col-list|10em| *[[ソウル方言]] *[[嶺東方言]] *[[忠清方言]] }} |[[西南方言]]([[全羅道]]方言) |[[東南方言]]([[慶尚道]]方言){{col-list|10em| *[[釜山方言]] *[[大邱方言]] }} }} |[[済州方言]] }} === 他言語との接触によって生じた朝鮮語の変種 === ;[[在日朝鮮語]] :[[在日韓国・朝鮮人]]が家庭内や仲間内で用いる朝鮮語。語彙や発音の面で日本語の影響を強く受けている。したがって、日本人の朝鮮語学習者と同じような発音となる傾向が非常に多く、また日本語からの借用語が極めて多い。また、在日朝鮮語を使用するのはオールドカマーである特別永住者が中心で[[慶尚道]]・[[全羅道]]・[[済州道]]などの南部地方出身者が多いため、中部方言である[[ソウル方言]]とは相違がある場合が多い。 ;[[在米朝鮮語]] :[[韓国系アメリカ人]]がコリアン・スクール等で習う韓国語。こちらは英語なまりの韓国語になる場合が多く、英語からの借用語を多く使う傾向がある。 ;[[中国朝鮮語]] :[[中国]]に居住する[[朝鮮族]]の間で使用される朝鮮語。 ;[[コリョマル]] :[[高麗人]](旧ソ連、中央アジアに住む朝鮮民族)が用いる朝鮮語。中国朝鮮語同様、ベースは近代化以前の地方方言であり、音韻・語彙・統語全ての面で[[ロシア語]]の影響を強く受けている。現在では若年層が習得することのほとんど無い、絶滅危機に瀕した言語変種である。<!--未検証につきコメントアウト :[[朝鮮族]]の支族である田族や孫族が使う言語であり、広範囲における違いがある。田族は日本に強制連行され、在日第二中国朝鮮族となっている。原因は不明だが、朝鮮語の他にもロシア語や[[モンゴル語]]の影響も出ている。--> == 音韻 == {{main|朝鮮語の音韻}} 朝鮮語の[[音節]]は (C) V (C) の構造を持つ。 短母音は本土方言 {{ipa|a}}、{{ipa|ɛ}}、{{ipa|e}}、{{ipa|i}}、{{ipa|ɔ}}、{{ipa|o}}、{{ipa|u}}、{{ipa|ɯ}} の八つであり、[[ソウル方言]]では {{ipa|ɛ}} と {{ipa|e}} の区別はなくなり(融合・合流)、母音音素が7つになっている。[[二重母音]]は{{ipa|ɰi}}のみである。[[母音調和]]は[[中期朝鮮語]]には存在したが、現代語ではその痕跡を残すだけにとどまる。 [[子音]]は[[破裂音]] {{ipa|p}}、{{ipa|pʻ}}、{{ipa|pʰ}}、{{ipa|t}}、{{ipa|tʻ}}、{{ipa|tʰ}}、{{ipa|k}}、{{ipa|kʻ}}、{{ipa|kʰ}}、[[破擦音]] {{ipa|ʨ, ʨʻ, ʨʰ}}、[[摩擦音]]{{ipa|s}}、{{ipa|sʻ}}、{{ipa|h}}、[[鼻音]] {{ipa|m}}、{{ipa|n}}、{{ipa|ŋ}}、[[流音]] {{ipa|l}} が存在する。破裂音及び破擦音は'''平音'''、'''濃音'''、'''激音'''が対立し、摩擦音の {{ipa|s}} は'''平音'''、'''濃音'''が対立する。 語頭においては {{ipa|l}}、{{ipa|ŋ}} が立つことができず、{{ipa|i}}、{{ipa|j}} の前に {{ipa|n}} が立つこともできない(外来語は除外)。音節末においては平音/濃音/激音の対立が中和され、また破擦音及び摩擦音が {{ipa|t}} に中和されるため、{{ipa|p}}、{{ipa|t}}、{{ipa|k}}、{{ipa|m}}、{{ipa|n}}、{{ipa|ŋ}}、{{ipa|l}} しか現れることがない。また音節末の破裂音 {{ipa|p}}、{{ipa|t}}、{{ipa|k}} は[[内破音]](無開放閉鎖音)として発音され、多くの日本語母語話者にとって聴き取りの難しいものである。 また、さまざまな[[同化 (音声学)|同化]]規則が存在する。 == 表記 == {{main|朝鮮語の正書法|ハングル}} {{See also|朝鮮漢字}} 朝鮮半島に[[漢字]]が伝えられて以来、[[吏読]]や[[郷札]]、[[口訣]]など漢字の音や訓を用いて朝鮮語を表記する方法がいくつか試みられた。しかし朝鮮語と中国語の言語構造の違いや朝鮮語音韻の複雑さから普及度は小さかった。本格的な表記が始まったのは1443年の[[訓民正音]]制定以降である。最初期の表記法は一部の例外を除いて文字を発音通りに綴る表音主義的な表記法であった。16世紀からは形態主義的な表記法も徐々に取り入れられ始めたが、知識人の書く文章では形態主義的綴り、庶民の書く文章では表音主義的綴りが多く見られた。 19世紀末期には[[福沢諭吉]]の発案によって日本語の漢字かな交じり表記と似た漢字ハングル交じりで書かれた朝鮮語が文言(漢文)と並ぶ行政語の地位を獲得し、1883年に[[井上角五郎]]が創刊した[[漢城旬報]]が1886年に[[漢城周報]]に紙名を改名した後に採用した。 正書法も徐々に固まりつつあったが、それらが根付く前に朝鮮は日本統治時代へと突入することになる。漢字ハングル交じり表記は後の時代にも新聞の見出しや書物の表題、序文などに見られるが、それによって本文が書かれた書物<ref group="注">たとえば朝鮮総督府が発行した朝鮮語教科書がある。</ref>はほとんど存在しない。 日韓合邦後に、[[金沢庄三郎]]と[[小倉進平]]の両博士を中心とする日本人言語学者は、近代朝鮮語の表記を科学的に体系化して言語として完成させた。 小倉博士の「朝鮮語学史」によれば、朝鮮が清の文化から離脱し独自性を強調するために国学・国文の使用を鼓舞しハングルを奨励しはじめたのは、1897年の[[日清戦争]]後からで、朝鮮が[[大韓帝国]]として清から独立してからであった。 朝鮮総督府は併合初期の[[1911年]]に、「諺文綴字法研究会」を発足させて、1912年に「[[普通学校用諺文綴字法]]」を定めたが、これはそれまでの民間の慣習的表記法を整理し成文化したものである。 正書法は「[[朝鮮語綴字法統一案]]」(1933年)など更に数度の修正を経て、2008年現在、韓国では「[[ハングル正書法]]」(1988年)、北朝鮮では「[[朝鮮語規範集]]」(1966年制定、1987年改正)が用いられている。南北の正書法共通の最大の特徴は、形態主義を採ることと[[分かち書き]]をすることである。 朝鮮語には[[連音]]や[[同化 (音声学)|同化]]などの音韻規則が豊富であり、一つの形態素が音韻的な環境によって別々の音声として現れることが多々ある。音声が異なっていても同じ形態素であれば、可能な限り同じ文字で表記しようというのが形態主義である。分かち書きの単位は日本語における文節に近いが、南北の現行の正書法では分かち書きの規定が互いに若干異なる。概して南は分かち書きを多用する傾向にあり、北は分かち書きが少ない傾向にある。 また、朝鮮語を[[ラテン文字]]で表記する方法については[[朝鮮語のローマ字表記法]]を参照。 == 文法 == {{main|朝鮮語の文法}} === 形態論 === [[インド・ヨーロッパ語族]]や[[アフロ・アジア語族]]に見られる[[性 (文法)|性]]・[[数 (文法)|数]]の概念はなく、性・数・[[格]]の一致の概念もない。 *[[名詞]]の格は[[格助詞]]によって表される。話し言葉では格を明示しなくても文脈上明らかであれば省略する。 *一つの名詞が複数の格助詞をとることができる。二つの格助詞が組み合わさって新しい意味を持つこともある。 *[[動詞]]は語幹のみでは文節を形成することができず、必ず終結語尾を必要とする。 *動詞と終結語尾の間には[[時制]]や[[相 (言語学)|アスペクト]]、主体敬語を表す先語末語尾を挿入することができる。 *[[形容詞]]は動詞とほぼ同じ活用をする。また、日本語と異なり形容詞と[[形容動詞]]の分化はない。 *冠形詞は名詞を修飾する不変化詞で、日本語の[[連体詞]]に相当する。 *[[敬語]]には対者敬語、主体敬語、客体敬語の三つがあり、日本語の丁寧語、謙譲語、尊敬語にほぼ相当する。 *名詞、助詞、動詞には敬語を表す特別な語彙([[補充形]])があり、敬語を表す名詞接尾辞、敬語を表す動詞(主体敬語を表す語尾先語末語尾と対者敬語を表す終結語尾)がある。 *対者敬語を表す終結語尾は敬意の程度が6段階に分かれるが、そのうちよく使われるのは4段階のみである。 *標準日本語の敬語はウチとソトの概念に関して相対的であるが、朝鮮語の敬語は序列(血縁的なものも含む)に関して相対的である。 **(母に対して){{lang|ko|아버지께서 오셨어요.}}(お父さんがいらっしゃいました)<!---(Abujiggaeseo oseoteoyo)--> **(祖父に対して){{lang|ko|아버지가 왔어요.}}(お父さんが来ました)<!---(Abujiga wateoyo)---> == 語彙 == 朝鮮語の語彙は大きく分けて[[固有語]]、[[漢字語 (朝鮮語)|漢字語]](古典中国語系語彙)、[[外来語]]の3つの階層から成り立っている。特に韓国における朝鮮語の外来語のほとんどは英語であり、固有語の上に漢字語(古典中国語系語彙)と英語などの欧米系借用語の2つの上層を持つという意味において日本語に似た語彙構造を持っているということができる。それぞれの階層の語が語彙全体の中で占める割合を日本語と比べた場合、固有語と外来語は割合がやや少なく、漢字語は割合がやや高い。 1層目の固有語は古来の朝鮮語である。全ての[[品詞]]に広く分布しており、朝鮮語の語彙の核であるが、日本語と同様基本語彙の中にも漢字語に侵食されているものがあり、その比率は日本語よりも高めである。たとえば、山を表す{{lang|ko|산}}{{ipa|san}}、川を表す{{lang|ko|강}}{{ipa|gaŋ}}はそれぞれ「山」、「江」であり、元々あった山と川を表す固有語({{lang|ko|뫼}}, {{lang|ko|가람}})は残存しているものの、意味の縮小と非日常語化を余儀なくされた。 近代以降は日本留学生が和製漢語を取り入れ始め、和製漢語に翻訳された西洋の近代用語を中心に漢字表記語の借用が行われた。日本語から流入した漢字表記語には、日本語においても音読みの「漢語」として存在したものだけでなく、「取扱」(とりあつかい)→{{lang|ko|취급}}{{ipa|chwigɯp}}、「引下(げ)」(ひきさげ)→{{lang|ko|인하}}{{ipa|inha}}のように日本語では訓読みをしたものも含まれる。 漢字語は[[名詞]]、[[動詞]]、[[形容詞]]に見られる。名詞はそのまま取り込まれたが、動詞、形容詞は朝鮮語の活用体系に合わせるため、{{lang|ko|-하다}}{{ipa|hada}}を付けて取り込まれた。これは日本語におけるサ変動詞、形容動詞がそれぞれ語幹に「~する」、「〜だ・な」を付けて活用するのと同じである。 漢字の読音は日本語の場合とは異なり、1字に対してほぼ1つに統一されている。稀に1つの漢字が複数の音を持つ場合があるが、それは日本語の[[漢音]]・[[呉音]]のように複数の時代の中国音を反映しているのではなく、中国語における一字多音を反映していることが多い<ref group="注">{{要出典範囲|なお、例外的な場合として、一部の熟語でのみ異なる発音になるもの(例: 識の通常の発音は식であるが、熟語「標識」においては지と発音される。)や姓に用いられる場合にのみ異なる発音になるもの(金の通常の発音は금であるが、姓「金」においては김と発音される。)がある。|date=2020年5月}}</ref>。たとえば、悪には{{lang|ko|악}}{{ipa|ak}}と{{lang|ko|오}}{{ipa|o}}の2つの読音があるが、{{lang|ko|악}}{{ipa|ak}}は「悪い」という意味であり、{{lang|ko|오}}{{ipa|o}}は「憎む」という意味であり、もともと中国語において存在した区別を反映している。なおこの場合、日本語ではアク・オ、[[普通話]]では è ・ wù に、それぞれ対応する。 三層目は(漢字語以外の)外来語である。韓国においては[[英語]]、北朝鮮においてはロシア語が主な輸入源となった。外来語を取り込む方法は漢字語に準ずる(名詞はそのまま、動詞、形容詞は{{lang|ko|하다}}を付ける)。 その他の外来要素としては、主に植民地時代に流入した日本語と高麗末期に[[元 (王朝)|元朝]]から流入した[[モンゴル語]]がある。ここでいう日本語とは、[[朝鮮漢字音]]読みで取り入れられた和製漢語を除き、和語および日本語読みの漢語、外来語を日本語の発音に近い形で受け入れたものである。たとえば「勝負」は古典中国語由来の朝鮮漢字音で読む{{lang|ko|승부}}{{ipa|sɯŋbu}}という形で朝鮮語に定着している単語であるが、日本漢字音「ショウブ」に由来する{{lang|ko|쇼부}}{{ipa|sjobu}}という形でも流入した。このようにして日本語から取り込まれた語彙には、「弁当」{{lang|ko|벤또}}{{ipa|bentto}}、「うどん」{{lang|ko|우동}}{{ipa|udoŋ}}、「バケツ」{{lang|ko|바께쓰}}{{ipa|bakkessɯ}}などがあるが、韓国・北朝鮮の両政府はこのような日本語からの借用語を排除する政策を採ったため、現在では高齢者を中心に限られた範囲で俗語として扱われていることが多い。[[品詞]]は名詞、[[副詞]]が多く、副詞は本来の日本語が持っている[[ニュアンス]]とは微妙に異なることが多い。これらの語彙は朝鮮語の語彙全体からして非常に低い割合でしかないが、日本統治時代の残滓と考えられたため問題視されたのである。モンゴル語は当時はかなりの影響力があったとする学説もあるが、現代ではごく僅かな特殊語彙に痕跡をとどめるのみである。 韓国と北朝鮮ではそれぞれ別々に[[言語政策]]を取ったため、2つの地域では語彙にも差が見られる(詳細は「[[朝鮮語の南北差]]」を参照)。また、中国の[[朝鮮族]]によって話されている[[中国朝鮮語]]は中国語の強い影響を受けている。中国語を朝鮮語音で読んで取り入れる場合もあれば、中国語音をそのまま取り入れる場合もある。たとえば、「卒業」は韓国においては同じ漢字を朝鮮語読みで{{lang|ko|졸업}}{{ipa|chorɔp}}というが、中国では「{{lang|zh|毕业}}(畢業)」を朝鮮語読みして{{lang|ko|필업}}{{ipa|pirɔp}}という。また、「コンピューター」は韓国では英語に由来する{{lang|ko|컴퓨터}}{{ipa|kɔmpjutɔ}}だが、中国では「{{lang|zh|电脑}}(電脳)」の中国語音に由来する{{lang|ko|뗀노}}{{ipa|ttenno}}である。中央アジアにおいてもロシア語の動詞 {{lang|ru|стрoйть}}(建てる)から不定詞語尾 {{lang|ru|-ть}} を取って代わりに{{lang|ko|-하다}}を付けて {{lang|ko|스트레이하다}}{{ipa|sɯtɯreihada}}{{要出典|date=2018年4月}}とするなどのロシア語流入が行われている。 また、朝鮮語が輸入した英語である[[コングリッシュ]]には元の英語にない独自の英語の語彙も存在する。 == 使用国家 == === 朝鮮語を公用語とする地域 === ※使用する人口が多い順 *{{ROK}} *{{PRK}}[[朝鮮民主主義人民共和国]] *{{PRC}} ** [[吉林省]] ** [[延辺朝鮮族自治州]] ** [[長白朝鮮族自治県]] === 朝鮮語を主要外国語とする国 === <!--※五十音順--> {{div col||15em}} *{{AZE}} *{{USA}} *{{IND}} *{{IDN}} *{{UZB}} *{{AUS}} *{{KAZ}} *{{KIR}} *{{THA}} *{{PRC}} *{{ROC}} *{{GER}} *{{TKM}} *{{TUR}} *{{JPN}} *{{PHL}} *{{FRA}} *{{BLR}} *{{MYS}} *{{ZAF}} *{{RUS}} {{div col end}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2|30em}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 参考文献 == *{{Cite journal|和書|url=https://doi.org/10.15002/00002829 |author=内山政春 |title=言語名称「朝鮮語」および「韓国語」の言語学的考察 |journal=異文化 論文編 |publisher=法政大学国際文化学部 |date=2004-04 |issue=5 |pages=73-107 |naid=120000993866 |doi=10.15002/00002829 |ISSN=13493256 |ref=harv}} == 関連項目 == {{InterWiki|code=ko}}{{sisterlinks|d=Q9176|display=韓国語・朝鮮語|voy=Korean phrasebook|wikt=Category:Korean language|b=Korean|v=Korean|s=no|m=no|mw=no|species=no|c=Category:Korean language|n=no|q=Korean language}} {{+float|10em}} {{div col|25em}} *朝鮮語の歴史 **[[古代朝鮮語]] **[[高麗語 (中世語)]] **[[中期朝鮮語]] **[[近世朝鮮語]] *[[朝鮮民主主義人民共和国の文法論]] *[[朝鮮語の国語純化]] *[[朝鮮における漢字]] *[[ネイティブスピーカーの数が多い言語の一覧]] *[[日本語と朝鮮語の比較]] *[[朝鮮語の呼称問題]] {{div col end}} == 外部リンク == {{div col||20em}} *辞典 **[https://stdict.korean.go.kr/ 国立国語院標準国語大辞典] **[http://alldic.daum.net/index.do?dic=jp Daum 韓日/日韓辞書] **[http://krdic.naver.com/ NAVER国語辞書] **[http://www.uriminzokkiri.com/index.php?ptype=ckodic 朝鮮語大辞典](北朝鮮) **[http://www.kpedia.jp/ Kpedia] **[http://openslang.com オープンスラング辞典] **[https://opendict.korean.go.kr/ ウリマルセム] -{{inlb|&nbsp;国立国語院のユーザー参加型辞典}} *各種資格試験 **[http://www.hangul.or.jp/ ハングル能力検定協会] **[http://www.kref.or.jp/ 韓国語能力試験(TOPIK)] **[http://www.kets.or.kr/jpn/ 韓国語能力評価試験(KLAT)] **[http://www.klt.or.kr/ KBS韓国語能力試験] **[http://exam.ybmnet.co.kr/kpe/ KPE韓国語能力試験] {{div col end}} {{朝鮮}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ちようせんこ}} [[Category:朝鮮語|*]] [[Category:韓国の言語]] [[Category:朝鮮の言語]] [[Category:アジアの言語]] [[Category:SOV型言語]]
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神経細胞
神経細胞(しんけいさいぼう、ニューロン、neuron)は、神経系を構成する細胞で、その機能は情報処理と情報伝達に特化しており、動物に特有である。なお、日本においては「神経細胞」という言葉でニューロン(neuron)ではなく神経細胞体(soma)を指す慣習があるが、本稿では「神経細胞」の語を、一つの細胞の全体を指して「ニューロン」と同義的に用いる。 神経細胞の基本的な機能は、神経細胞へ入力刺激が入ってきた場合に、活動電位を発生させ、他の細胞に情報を伝達することである。ひとつの神経細胞に複数の細胞から入力したり、活動電位がおきる閾値を変化させたりすることにより、情報の修飾が行われる。 神経細胞は主に3つの部分に区分けされ、細胞核のある細胞体、他の細胞からの入力を受ける樹状突起、他の細胞に出力する軸索に分けられる。樹状突起と軸索は発生的にはほぼ同じ過程をたどるため、両者をまとめて神経突起(neurite)とも言う。前の細胞の軸索終末と後ろの細胞の樹状突起の間の情報を伝達する部分には、微小な間隙を持つシナプスと呼ばれる化学物質による伝達構造が形成されている。 神経細胞の中には、光や機械的刺激などに反応する感覚細胞や、筋繊維に出力する運動神経の細胞などもある。 なお「ニューロン」は、「神経元」とも訳され、神経系の構成単位を意味する語として生み出された造語である。神経の構造に関する論争の中で作られた。詳細は歴史の節を参照。現在においては、単に細胞の名前として「神経細胞」と同義的に用いられる。 細胞体(cell body, soma)は神経細胞の中で細胞核などの細胞小器官が集中し、樹状突起と軸索が会合する部位である。神経細胞内でのタンパク合成など、一般的な細胞としての機能はほとんどここで行われる。細胞体の大きさはヒトでは直径3~18マイクロメートル程度だが、無脊椎動物の中には1ミリメートルに達するものもある。細胞骨格には中間径フィラメントの一種であるニューロフィラメントが高密度で分布する。細胞体には神経細胞以外の細胞に存在する微細管に相当する神経細管が存在し、細胞体と樹状突起や軸索間の物質輸送に関連していると考えられている。また、核の周辺部には粗面小胞体の集塊であるニッスル物質が存在し、ニッスル染色によって染色される。このことから、細胞体ではタンパク合成が盛んであることがわかる。 軸索(axon)とは、細胞体から延びている突起状の構造で、神経細胞において信号の出力を担う。神経細胞中では長さが大きく異なってくる部分であり、ヒトの場合、隣接する細胞に接続するための数ミリメートル程度のものから、脊髄中に伸びる数十センチメートルのものまである。軸索は基本的に一つの細胞体からは一本しか伸びていないが、しばしば軸索側枝(axon collateral)と呼ばれる枝分かれを形成する。 軸索は、その細長い構造を維持するために長い細胞骨格を有する。この細胞骨格は、細胞体で合成された物質を軸索の先端まで輸送するためのレールとしても振舞う。また軸索は、細胞内外のイオンの濃度勾配を利用して情報を伝達するが、そのため軸索表面には多くのイオンチャネルが存在する。軸索が細胞体から伸び始める場所は軸索小丘(axon hillock、または軸索起始部、axon initial segment)と呼ばれており、イオンチャネルが高密度で存在する。 軸索の一部には、グリア細胞が巻きついて出来た髄鞘(ミエリン)と呼ばれる構造を持つものがある。髄鞘を構成する細胞は、中枢神経系ではオリゴデンドロサイト、また末梢神経系ではシュワン細胞である。髄鞘は脂質二重層で構成された細胞膜が何重にも巻きつく形で構成されている。脂質は絶縁体の性質を持つため、髄鞘は、イオン電流の漏洩を防ぎ、電気的信号の伝導速度を上げる効果を持つ跳躍伝導にも寄与している。髄鞘のある軸索を有髄繊維、無い軸索を無髄繊維と呼ぶ。髄鞘に対して核の存在する外側の部分を神経鞘といい、髄鞘を持たない神経を無髄神経という。ここで注意したいのは無髄神経も神経鞘は持っているということである。 軸索の先端は他の細胞と接続してシナプスを形成する。軸索のシナプス結合部はやや膨大しており、これをシナプス前終末(presynaptic terminal)と呼ぶ。シナプス前終末には神経伝達物質を貯蔵しているシナプス小胞、電位依存性のカルシウムイオンチャネル、神経伝達物質を回収するためのトランスポーター、およびシナプス後細胞からのフィードバックやシナプス前抑制などの役割を受け持つ各種の受容体が存在し、これによって軸索はシナプスを通じて他の細胞に信号を伝達する。 樹状突起(dendrite)は、細胞体から文字どおり木の枝のように分岐しながら広がる構造であり、他の神経細胞などから信号を受け取る働きをする。一つの神経細胞に、軸索は基本的には一本しかないが、樹状突起は何本もありうる。小脳のプルキンエ細胞のように、樹状突起が特徴的な形を示す神経細胞も少なくない。樹状突起には、他の細胞との間のシナプスがたくさんある。ニューロンの種類によっては(大脳新皮質の錐体細胞 (神経細胞)や、線条体の中型有棘ニューロンなど)、樹状突起の上に小さなとげ状の隆起である棘(スパイン、spine)が無数にあってシナプス部位として機能しており、神経活動などに依存して棘の形態が変化し、電流の流れ方が変化したり、シナプスそのものが形成・消滅したりすることが神経可塑性のメカニズムの一つだと考えられている。軸索との区別の一つの指標として、樹状突起には小胞体やリボソームが存在するが、軸索にはほとんど無いことがあげられる。 グリア細胞は神経系を構成する神経細胞ではない細胞であり、神経系の維持に関与する細胞群のことを言う。神経細胞に対し、位置の固定や栄養素の供給など恒常性の維持を担う細胞、髄鞘(ミエリン)の構成などの機能をもつ細胞、免疫系のような振る舞いをする細胞などがある。近年、シグナル伝達への関与を示唆する証拠が見つかりつつある。ヒトの脳では、細胞数で神経細胞の50倍ほど存在していると見積もられていたが近年の研究によると、他の動物の脳も含めグリア細胞と神経細胞はほぼ同じ割合で存在しているとされている。 動物の体液には多量のカリウムイオン、ナトリウムイオン、塩化物イオンなどが含まれているが、細胞外液と神経細胞の細胞質のイオン構成は通常大きく異なっており、細胞内外で電位差がある。微小電極を用いて細胞内外の電位差を測定すると、細胞内は細胞外に比べ-60~-70mVほど負の電位を示す。これを静止膜電位と呼ぶ。これらのイオンは細胞膜を透過して拡散するため、神経細胞の膜貫通タンパクのナトリウムポンプなどによりATPを利用してエネルギーを消費しながらイオンを輸送し、濃度差を維持している。 活動電位は非常に短時間の電位変化であり振幅は一定している。これを計って時間を軸にグラフを描くと、活動電位は針のような急速な電位変化として描画されることが多い。このため電気工学的にインパルスと呼ばれることもある。 神経細胞でも代謝は一般の細胞と同じく、タンパク質等の合成には核を必要とする。つまり神経細胞では細胞体でタンパク質が合成される。神経細胞は長い軸索を持つことが多いが、細胞体で生産された物質が拡散によって軸索先端にまで達するには時間がかかり、主に微小管上のモータータンパクによって能動的に軸索先端に輸送される。 シナプスでは盛んに神経伝達物質が放出されているが、放出された神経伝達物質の一部は能動的に回収され、シナプス小胞に再充填される。 神経細胞では、静止膜電位の維持と活動電位からの回復のために莫大なATPを消費している。ヒトの脳の質量は体重の2%程度なのに対し、グルコース消費量は全身の25%と非常に多い。 神経細胞の増殖は、ヒトでは小児期に、神経幹細胞が盛んに分裂して分化することで起こる。 神経細胞は分化が進むとともに、軸索誘導によって特定の位置にある神経細胞が特定の細胞に軸索を伸ばし、シナプスを形成して神経回路を形成していく。軸索を誘導する因子として、標的細胞側から出される特定の化学物質が関与していると言われている。 神経細胞間の接続関係の調節には、神経栄養因子(ニューロトロフィン; NGF、BDNF、NT-3、NT-4)とその特異的受容体(TrkA、TrkB、TrkC)が関与しているといわれる。BDNFは中枢神経に特に豊富で、神経活動依存的に合成・分泌される。これらの物質を受け取った細胞の活動やシナプスの接続関係を強化するため、神経系の学習・記憶を制御する中心的な物質と考えられている。また、神経細胞群は初期に過剰な接続を形成した後、必要なものだけを残してシナプスを減らすと考えられている。これは「刈り込み」と呼ばれている。 20世紀初頭のラモン・イ・カハール以来、ヒトの成人の脳では新たな神経細胞は形成されないと考えられてきたが、1990年代に神経幹細胞と新生神経細胞が成人の脳にも存在することが示され、成人で神経新生が起こる可能性も検討されている。ただし、その生理的意味はよく分かっていない。 神経細胞の一部が傷つけられると、その場所よりも細胞体から遠い側は変性して壊れてしまう。これを順行性変性という。細胞体のある側にも変性が進行することがあり、これを逆行性変性という。また、神経細胞は互いに神経栄養因子などをやり取りしており、シナプスで接続している細胞が壊れた場合にも、神経栄養因子の不足からプログラム細胞死を起こすことがある。この場合も、前シナプス細胞が死んだことにより後シナプス細胞が死ぬ場合を順行性変性、後シナプス細胞が死んだことにより前シナプス細胞が死ぬ場合を逆行性変性と呼ぶことがある。 障害の程度が激しくて細胞体が死んでしまうと、その神経はもはや再生不能である。しかし、末梢神経の場合には、細胞体が生きていれば、再び軸索を伸ばして目的細胞との結合を回復できることが多い。その過程には、基底膜やシュワン細胞の関与が必要とされる。一方、末梢神経に比べて中枢神経はほとんど再生能力がなく、脳や脊髄の損傷は生涯に渡って後遺症を残すことが少なくない。末梢神経の再生を促進する再生医療技術が実用期に入っているが、中枢神経の再生は開発途上である。人工神経を参照。 以下は神経細胞の形態による分類であり、細胞の機能が特定されていない場合の一般的分類である。あちこちの神経細胞が同じ名前で呼ばれるが、基本的に形態以外の共通点は考慮されていない。しかし局所的には形態の違い、すなわち軸索の伸びる先や樹状突起の持つシナプス数は機能の違いを反映していると仮定した研究が多い。 大脳皮質においては、錐体細胞は皮質領野間や皮質と核をつなぐ興奮性の細胞であり、星状細胞は領野内での抑制性および興奮性の介在神経細胞と考えられている。これら介在神経細胞は、形態から細かく数十種類に分類されることがある。 以下は特定の部位に存在し、特徴的な機能・形態を持つ分類である。 19世紀後半、中枢神経をはじめとした神経系が網状構造をとることまでは知られていたが、カミッロ・ゴルジらは、神経繊維は末端で互いに途切れることなく連続して網を形成しているとする網状説を主張し、ラモン・イ・カハールらの神経線維も細胞の集合であるとするニューロン説と対立した。1906年のノーベル生理学・医学賞はゴルジとカハールが同時受賞し、両者はまったく正反対の立場で受賞記念講演を行っている。なお、ゴルジ染色法によりニューロン説が有力となり、電子顕微鏡や分子設計による染色法の発達に伴って、神経の細胞としての微小構造や特性の解明が急速に進んだ。 終脳(大脳)は見た目の色で表面の灰白質と内部の白質に分けられるが、細胞体は主に灰白質にあり、白質はそこから伸びた軸索が束になったものが主である。髄鞘は神経細胞より白っぽく見える。白質が白く見えるのは灰白質に比べて有髄神経線維が多いからである。
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神経細胞(しんけいさいぼう、ニューロン、neuron)は、神経系を構成する細胞で、その機能は情報処理と情報伝達に特化しており、動物に特有である。なお、日本においては「神経細胞」という言葉でニューロン(neuron)ではなく神経細胞体(soma)を指す慣習があるが、本稿では「神経細胞」の語を、一つの細胞の全体を指して「ニューロン」と同義的に用いる。
{{Redirect|ニューロン}} {{神経細胞の図|髄鞘をもつ神経細胞の構造図}} '''神経細胞'''(しんけいさいぼう、'''ニューロン'''、neuron)は、[[神経系]]を構成する[[細胞]]で、その機能は[[情報処理]]と情報伝達に特化しており、[[動物]]に特有である。なお、日本においては「神経細胞」という言葉でニューロン(neuron)ではなく神経細胞体(soma)を指す慣習があるが、本稿では「神経細胞」の語を、一つの細胞の全体を指して「ニューロン」と同義的に用いる。 [[Image:Complete neuron cell diagram ja.svg|thumb|300px|''''''神経細胞'''の構造図''' [[:en:Dendrites]]=[[樹状突起]]、[[:en:Rough ER]] ([[:en:Nissl body]])=[[粗面小胞体]]([[ニッスル小体]])、[[:en:Polyribosomes]]=[[ポリリボソーム]]、[[:en:Ribosomes]]=[[リボソーム]]、[[:en:Golgi apparatus]]=[[ゴルジ体]]、[[:en:Nucleus]]=[[細胞核]]、[[:en:Nucleolus]]=[[核小体]]、[[:en:Membrane]]=[[膜]]、[[:en:Microtubule]]=[[微小管]]、[[:en:Mitochondrion]]=[[ミトコンドリア]]、[[:en:Smooth ER]]=[[滑面小胞体]]、[[:en:Synapse]] (Axodendritic)=[[シナプス]]([[軸索]][[樹状突起]]) [[:en:Synapse]]=[[シナプス]]、 [[:en:Microtubule]] [[:en:Neurofibrils]]=[[微小管]][[ニューロフィラメント]]、[[:en:Neurotransmitter]]=[[神経伝達物質]]、[[:en:Receptor]]=[[受容体]]、 [[:en:Synaptic vesicles]]=[[シナプス小胞]]、[[:en:Synaptic cleft]]=[[シナプス]]間隙、 [[:en:Axon terminal]]=[[軸索]]末端、[[:en:Node of Ranvier]] =[[ランヴィエの絞輪]] 、[[:en:Myelin Sheath]]([[:en:Schwann cell]])=[[ミエリン鞘]]([[シュワン細胞]])、[[:en:Axon hillock]]=[[軸索小丘]]、 [[:en:Nucleus]] ([[:en:Schwann cell]])=[[細胞核]]([[シュワン細胞]])、[[:en:Microfilament]]=[[マイクロフィラメント]]、[[:en:Axon]]=[[軸索]] ]] == 概略 == [[Image:NisslHippo2.jpg|thumb|250px|この画像はニッスル[[染色]]された齧歯類[[海馬 (脳)|海馬]]の組織断片である。<br/>様々な分類の細胞が見える。]] 神経細胞の基本的な機能は、神経細胞へ入力刺激が入ってきた場合に、[[活動電位]]を発生させ、他の細胞に情報を伝達することである。ひとつの神経細胞に複数の細胞から入力したり、活動電位がおきる閾値を変化させたりすることにより、情報の[[修飾]]が行われる。 神経細胞は主に3つの部分に区分けされ、[[細胞核]]のある細胞体、他の細胞からの入力を受ける[[樹状突起]]、他の細胞に出力する[[軸索]]に分けられる。樹状突起と軸索は発生的にはほぼ同じ過程をたどるため、両者をまとめて[[神経突起]](neurite)とも言う。前の細胞の[[軸索終末]]と後ろの細胞の樹状突起の間の情報を伝達する部分には、微小な間隙を持つ[[シナプス]]と呼ばれる化学物質による伝達構造が形成されている。 神経細胞の中には、[[光]]や[[機械的刺激]]などに反応する[[感覚細胞]]や、筋繊維に出力する[[運動神経]]の細胞などもある。 なお「ニューロン」は、「神経元」とも訳され、神経系の構成単位を意味する語として生み出された造語である。神経の構造に関する論争の中で作られた。詳細は[[#歴史|歴史]]の節を参照。{{いつ範囲|現在|date=2016年11月}}においては、単に細胞の名前として「神経細胞」と同義的に用いられる。 == 細胞構築 == === 細胞体 === '''細胞体'''(cell body, soma)は神経細胞の中で[[細胞核]]などの[[細胞小器官]]が集中し、樹状突起と軸索が会合する部位である。神経細胞内での[[蛋白質|タンパク合成]]など、一般的な細胞としての機能はほとんどここで行われる。細胞体の大きさは[[ヒト]]では直径3~18マイクロメートル程度だが、[[無脊椎動物]]の中には1ミリメートルに達するものもある。[[細胞骨格]]には[[中間径フィラメント]]の一種である[[ニューロフィラメント]]が高密度で分布する。細胞体には神経細胞以外の細胞に存在する[[微細管]]に相当する神経細管が存在し、細胞体と樹状突起や軸索間の物質輸送に関連していると考えられている。また、核の周辺部には[[粗面小胞体]]の集塊である[[ニッスル物質]]が存在し、[[ニッスル染色]]によって染色される。このことから、細胞体ではタンパク合成が盛んであることがわかる。 === 軸索 === 軸索(axon)とは、細胞体から延びている突起状の構造で、神経細胞において信号の出力を担う。神経細胞中では長さが大きく異なってくる部分であり、ヒトの場合、隣接する細胞に接続するための数ミリメートル程度のものから、[[脊髄]]中に伸びる数十センチメートルのものまである。軸索は基本的に一つの細胞体からは一本しか伸びていないが、しばしば軸索側枝(axon collateral)と呼ばれる枝分かれを形成する。 軸索は、その細長い構造を維持するために長い細胞骨格を有する。この細胞骨格は、細胞体で合成された物質を軸索の先端まで輸送するための[[レール]]としても振舞う。また軸索は、細胞内外の[[イオン]]の濃度勾配を利用して情報を伝達するが、そのため軸索表面には多くの[[イオンチャネル]]が存在する。軸索が細胞体から伸び始める場所は'''軸索小丘'''(axon hillock、または'''軸索起始部'''、axon initial segment)と呼ばれており、イオンチャネルが高密度で存在する。 軸索の一部には、[[グリア細胞]]が巻きついて出来た'''[[髄鞘]]'''(ミエリン)と呼ばれる構造を持つものがある。髄鞘を構成する細胞は、[[中枢神経系]]では[[希突起膠細胞|オリゴデンドロサイト]]、また[[末梢神経系]]では[[シュワン細胞]]である。髄鞘は[[脂質二重層]]で構成された細胞膜が何重にも巻きつく形で構成されている。脂質は[[絶縁体]]の性質を持つため、髄鞘は、イオン電流の漏洩を防ぎ、電気的信号の伝導速度を上げる効果を持つ[[跳躍伝導]]にも寄与している。髄鞘のある軸索を'''有髄繊維'''、無い軸索を'''無髄繊維'''と呼ぶ。髄鞘に対して核の存在する外側の部分を[[神経鞘]]といい、髄鞘を持たない神経を[[無髄神経]]という。ここで注意したいのは無髄神経も神経鞘は持っているということである。 軸索の先端は他の細胞と接続して[[シナプス]]を形成する。軸索のシナプス結合部はやや膨大しており、これをシナプス前終末(presynaptic terminal)と呼ぶ。シナプス前終末には[[神経伝達物質]]を貯蔵している[[シナプス小胞]]、[[電位]]依存性の[[カルシウム]][[イオンチャネル]]、神経伝達物質を回収するためのトランスポーター、およびシナプス後細胞からの[[フィードバック]]やシナプス前抑制などの役割を受け持つ各種の[[受容体]]が存在し、これによって軸索は[[シナプス]]を通じて他の細胞に信号を伝達する。 === 樹状突起 === 樹状突起(dendrite)は、細胞体から文字どおり木の枝のように分岐しながら広がる構造であり、他の神経細胞などから信号を受け取る働きをする。一つの神経細胞に、軸索は基本的には一本しかないが、樹状突起は何本もありうる。[[小脳]]の[[プルキンエ細胞]]のように、樹状突起が特徴的な形を示す神経細胞も少なくない。樹状突起には、他の細胞との間のシナプスがたくさんある。ニューロンの種類によっては([[大脳新皮質]]の[[錐体細胞 (神経細胞)]]や、[[線条体]]の中型有棘ニューロンなど)、樹状突起の上に小さなとげ状の隆起である'''[[樹状突起スパイン|棘]]'''(スパイン、spine)が無数にあってシナプス部位として機能しており、神経活動などに依存して棘の形態が変化し、電流の流れ方が変化したり、シナプスそのものが形成・消滅したりすることが神経可塑性のメカニズムの一つだと考えられている。軸索との区別の一つの指標として、樹状突起には[[小胞体]]や[[リボソーム]]が存在するが、軸索にはほとんど無いことがあげられる。 === グリア細胞 === {{main|グリア細胞}} グリア細胞は神経系を構成する神経細胞ではない細胞であり、神経系の維持に関与する細胞群のことを言う。神経細胞に対し、位置の固定や栄養素の供給など[[恒常性]]の維持を担う細胞、髄鞘(ミエリン)の構成などの機能をもつ細胞、免疫系のような振る舞いをする細胞などがある。近年、シグナル伝達への関与を示唆する証拠が見つかりつつある。ヒトの脳では、細胞数で神経細胞の50倍ほど存在していると見積もられていたが近年の研究によると、他の動物の脳も含めグリア細胞と神経細胞はほぼ同じ割合で存在しているとされている。 == 細胞生理 == === 活動電位 === {{main|活動電位}} 動物の体液には多量の[[カリウム]]イオン、[[ナトリウム]]イオン、[[塩化物イオン]]などが含まれているが、細胞外液と神経細胞の細胞質のイオン構成は通常大きく異なっており、細胞内外で電位差がある。微小電極を用いて細胞内外の電位差を測定すると、細胞内は細胞外に比べ-60~-70mVほど負の電位を示す。これを'''[[膜電位#静止膜電位|静止膜電位]]'''と呼ぶ。これらのイオンは細胞膜を透過して拡散するため、神経細胞の膜貫通タンパクの[[Na+/K+-ATPアーゼ|ナトリウムポンプ]]などにより[[アデノシン三リン酸|ATP]]を利用してエネルギーを消費しながらイオンを輸送し、濃度差を維持している。 活動電位は非常に短時間の電位変化であり振幅は一定している。これを計って時間を軸に[[統計図表|グラフ]]を描くと、活動電位は針のような急速な電位変化として描画されることが多い。このため電気工学的に'''インパルス'''と呼ばれることもある。 === 代謝 === 神経細胞でも[[代謝]]は一般の細胞と同じく、タンパク質等の合成には核を必要とする。つまり神経細胞では細胞体でタンパク質が合成される。神経細胞は長い軸索を持つことが多いが、細胞体で生産された物質が拡散によって軸索先端にまで達するには時間がかかり、主に[[微小管]]上の[[分子モーター|モータータンパク]]によって能動的に軸索先端に輸送される。 シナプスでは盛んに神経伝達物質が放出されているが、放出された神経伝達物質の一部は能動的に回収され、シナプス小胞に再充填される。 神経細胞では、静止[[膜電位]]の維持と活動電位からの回復のために莫大なATPを消費している。ヒトの脳の質量は体重の2%程度なのに対し、[[グルコース]]消費量は全身の25%と非常に多い。 === 増殖と成長 === 神経細胞の増殖は、[[ヒト]]では小児期に、[[神経幹細胞]]が盛んに分裂して分化することで起こる。 神経細胞は[[分化 (細胞)|分化]]が進むとともに、[[軸索誘導]]によって特定の位置にある神経細胞が特定の細胞に軸索を伸ばし、[[シナプス形成|シナプスを形成]]して[[神経回路形成|神経回路を形成]]していく。軸索を誘導する因子として、標的細胞側から出される特定の化学物質が関与していると言われている。 神経細胞間の接続関係の調節には、神経栄養因子(ニューロトロフィン; NGF、[[BDNF]]、NT-3、NT-4)とその特異的受容体(TrkA、[[TrkB]]、[[TrkC]])が関与しているといわれる。BDNFは中枢神経に特に豊富で、神経活動依存的に合成・分泌される。これらの物質を受け取った細胞の活動やシナプスの接続関係を強化するため、神経系の学習・記憶を制御する中心的な物質と考えられている。<ref name="BDNF">{{cite journal | author=Yamada K, Nabeshima T |title=Brain-derived neurotrophic factor/TrkB signaling in memory processes. |journal=J. Pharmacol. Sci. |volume=91 |issue= 4 |pages= 267-70 |year= 2004 |pmid= 12719654 |doi= }}</ref>また、神経細胞群は初期に過剰な接続を形成した後、必要なものだけを残してシナプスを減らすと考えられている。これは「刈り込み」と呼ばれている。 <ref name="刈り込み">{{Cite web|和書|url=http://www.nig.ac.jp/hot/2006/kondo0609-j.html|title=神経細胞の「外科手術」に必要な目印を発見|accessdate = 2008-01-15|publisher=国立遺伝学研究所 }}</ref> [[20世紀]]初頭の[[サンティアゴ・ラモン・イ・カハール|ラモン・イ・カハール]]以来、[[ヒト]]の成人の[[脳]]では新たな神経細胞は形成されないと考えられてきたが、[[1990年代]]に神経幹細胞と新生神経細胞が成人の脳にも存在することが示され、成人で[[神経発生 |神経新生]]が起こる可能性も検討されている。ただし、その生理的意味はよく分かっていない。 === 変性と再生 === 神経細胞の一部が傷つけられると、その場所よりも細胞体から遠い側は変性して壊れてしまう。これを'''順行性変性'''という。細胞体のある側にも変性が進行することがあり、これを'''逆行性変性'''という。また、神経細胞は互いに神経栄養因子などをやり取りしており、シナプスで接続している細胞が壊れた場合にも、神経栄養因子の不足から[[プログラム細胞死]]を起こすことがある。この場合も、前シナプス細胞が死んだことにより後シナプス細胞が死ぬ場合を順行性変性、後シナプス細胞が死んだことにより前シナプス細胞が死ぬ場合を逆行性変性と呼ぶことがある。 障害の程度が激しくて細胞体が死んでしまうと、その神経はもはや再生不能である。しかし、[[末梢神経]]の場合には、細胞体が生きていれば、再び軸索を伸ばして目的細胞との結合を回復できることが多い。その過程には、[[基底膜]]や[[シュワン細胞]]の関与が必要とされる。一方、末梢神経に比べて[[中枢神経]]はほとんど再生能力がなく、[[脳]]や[[脊髄]]の損傷は生涯に渡って[[後遺症]]を残すことが少なくない。<!--神経の再生について詳しいことは分かっておらず、[[再生医療]]と関係して、今後の進歩が期待される。-->末梢神経の再生を促進する再生医療技術が実用期に入っているが、中枢神経の再生は開発途上である。[[人工神経 (再生医療)|人工神経]]を参照。 == 種類と分布 == === 一般的分類 === 以下は神経細胞の形態による分類であり、細胞の機能が特定されていない場合の一般的分類である。あちこちの神経細胞が同じ名前で呼ばれるが、基本的に形態以外の共通点は考慮されていない。しかし局所的には形態の違い、すなわち軸索の伸びる先や樹状突起の持つシナプス数は機能の違いを反映していると仮定した研究が多い。 ; [[錐体細胞 (神経細胞)|錐体細胞]]:[[ピラミッド]]状に見える細胞。 ; 星状細胞:樹状突起が四方八方に伸び、トゲトゲの球形に見える細胞。 ; 顆粒細胞:樹状突起が少なく粒状に見える細胞。 <gallery> Image:GolgiStainedPyramidalCell.jpg|錐体細胞([[ゴルジ染色]]) </gallery> [[大脳皮質]]においては、錐体細胞は皮質領野間や皮質と核をつなぐ興奮性の細胞であり、星状細胞は領野内での抑制性および興奮性の介在神経細胞と考えられている。これら介在神経細胞は、形態から細かく数十種類に分類されることがある。 === 特徴的分類 === 以下は特定の部位に存在し、特徴的な機能・形態を持つ分類である。 ; [[網膜]][[神経節]]細胞 : 網膜に細胞体があり、軸索が束となって[[視神経]]を形成している細胞 ; [[プルキンエ細胞]] : [[小脳]]のプルキンエ細胞層に見られる、[[うちわ]]型の樹状突起を持つ細胞。うちわを重ねるように密集して存在し、さらにプルキンエ細胞の重なりを貫くように平行繊維が伸びてシナプスを形成しており、システマティックな構造を形成している。 <gallery> Image:Gray624.png|網膜神経節細胞 (D,E) Image:Gray628.png|プルキンエ細胞 </gallery> == 歴史 == [[19世紀]]後半、中枢神経をはじめとした神経系が網状構造をとることまでは知られていたが、[[カミッロ・ゴルジ]]らは、神経繊維は末端で互いに途切れることなく連続して網を形成しているとする'''網状説'''を主張し、ラモン・イ・カハールらの神経線維も細胞の集合であるとする'''[[サンティアゴ・ラモン・イ・カハール#ニューロン説|ニューロン説]]'''と対立した。[[1906年]]の[[ノーベル生理学・医学賞]]はゴルジとカハールが同時受賞し、両者はまったく正反対の立場で受賞記念講演を行っている。なお、[[ゴルジ染色法]]によりニューロン説が有力となり、[[電子顕微鏡]]や分子設計による染色法の発達に伴って、神経の細胞としての微小構造や特性の解明が急速に進んだ。 == 付記 == 終脳([[大脳]])は見た目の色で表面の[[灰白質]]と内部の[[白質]]に分けられるが、細胞体は主に灰白質にあり、白質はそこから伸びた軸索が束になったものが主である。髄鞘は神経細胞より白っぽく見える。白質が白く見えるのは灰白質に比べて有髄神経線維が多いからである。 == 脚注 == {{reflist}} == 関連項目 == * [[神経]] - [[神経系]] - [[神経幹細胞]] - [[小膠細胞#神経食現象|神経食現象]] * [[シグナル伝達]] - [[シナプス]] - [[神経伝達物質]] - [[神経成長因子]] * [[細胞]] - [[代謝]] * [[脳]] - [[大脳皮質]] - [[脳科学]]([[神経科学]]) - [[脳神経外科学]] - [[解剖学]] * [[脳機能局在論]] - [[脳機能マッピング]] - [[脳機能イメージング]] - [[心理学]] * [[ニューロン]] [[人工知能]] [[ニューラルネットワーク]] * [[人工神経 (再生医療)]] * [[動物のニューロンの数の一覧]] == 外部リンク == * [https://bunseiri.com/?p=388 神経細胞とシグナル伝達] ([https://bunseiri.com/ ビジュアル生理学] 内の項目) * {{Kotobank}} {{Commons|category:neuroscience|神経細胞}} {{Spedia|Neuron|Neuron}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しんけいさいほう}} [[Category:神経]] [[Category:動物細胞]]
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写像
写像(しゃぞう、英: mapping, map)は、二つの集合が与えられたときに、一方の集合の各元に対し、他方の集合のただひとつの元を指定して結びつける対応のことである。関数、変換、作用素、射などが写像の同義語として用いられることもある。 ブルバキに見られるように、写像は集合とともに現代数学の基礎となる道具の一つである。現代的な立場では、「写像」と(一価の)「関数」は論理的におなじ概念を表すものと理解されているが、歴史的には「関数」の語は解析学に出自を持つものであり、一部には必ずしも写像でないものも関数の名の下におなじ範疇に扱われる(多価関数参照)。文献によっては「数の集合(大抵の場合実数体 R または複素数体 C の部分集合)を終域に持つ写像」をして特に「関数」と呼び、「写像」はより一般の場合に用いる。関数、二項関係、対応の各項も参照のこと。 集合 A の各元に対してそれぞれ集合 B の元をただひとつずつ指定するような規則 f が与えられているとき、f を「定義域(あるいは始域) A から終域 B への写像」といい などと表す。また f は A で(あるいは A の上で)定義されているといい、あるいはまた f は B に(あるいは B の中に)値を持つという。始域 A を sour(f)、終域 B を tar(f) のように記すこともある。また、A の元 a に対して f によって指定される B の元が b である(このことを、a が f によって b に写されるという)とき、b を a における f の像あるいは値(あたい、value)と呼び、b を f(a) で表す。 f によって A の元 a が B の元 f(a) に写されることは、 a ↦ f(a) という記法で表される。変数 x を用いて x ↦ f(x) のように写像を表すとき、f は、 A をわたる(または動く)変数 x の関数である、あるいは変数 x に従属するという。 2つの写像 f : A→B、 g : A→B の相等関係について、次が成り立つ: f = g ⇔ ∀a∈A ( f(a) = g(a) )。 集合論においては、集合 A, B の元の順序対からなる集合(すなわち二項関係)f が の二つをみたすとき、f を A から B への関数と呼び、f: A → B で表す。またこのとき、(x, y) ∈ f であることを f(x) = y と書く。この文脈では、f と f のグラフ {(x, y) | y = f(x)} を同一視し、関数と写像を同じ意味に用いる。 二つの写像 f と g の相等は、集合として同一であるということ、すなわち ということであるが、これは( f と g の定義域が等しく、かつ)任意の a ∈ A に対して f(a) = g(a) であることと同値である。 一方、圏論の用語との整合性を重んじる文脈では、次のようになる。 集合 A, B の元の順序対からなる集合(すなわち二項関係)Gf が の二つをみたすとき、三つ組 f := (A, B, Gf) をこの関数関係 Gf から定まる A から B への写像と呼び、f: A → B で表す。またこのとき、(x, y) ∈ Gf であることを f(x) = y と書き、Gf = {(x, y) | y = f(x)} を写像 f のグラフと呼ぶ。二つの写像 (A, B, Gf) と (C, D, Gg) の相等は、三つ組としての相等をいう。特に、f, g がともに A から B への写像のとき、f と g が等しいというのは、この二つの写像のグラフGf と Gg とが A × B の集合として同一であるということ、すなわち ということであるが、これは任意の a ∈ A に対して f(a) = g(a) であることと同値なので、素朴な意味で写像 f と g が等しいと言ったときと同じ意味となる。 圏論の用語と整合性をとる文脈では、写像の相等を扱う際の、二つの写像が「ともに A から B への」写像であるという但し書きは重要である。例えば A から B への写像 f と A から B ⊆ B′ なる B′ への写像 g について、集合として f = g(つまりグラフが一致)でも三つ組としては異なるから、この二つの写像は同一でない。実際、x ↦ x なる元の対応で定められる二つの写像 f: R → R と g: R → R≥0 を考えると後者は全射性を持つが前者はそうでない(値域・終域の各項も参照)。 また、超限帰納法を用いるなどして写像を集合論的に構成する場合、始域や終域としては「すべての集合」のような真の類を考えることもある。そのような場合でも定義域 A を集合に制限すれば順序対の集まり f|A や値域 f(A) も集合となる。 など。これらはどれも、圏論における射の例になっている。(#射・関手) X, Y を集合とする。写像 f: X → Y が X の任意の元 x, y に対して f(x) = f(y) をみたすとき、f は定値写像といわれる。X が空でないとき、定値写像とはその像が一元集合となるものである。X が空であるときは、文献によって扱いが異なる。 B′ を B の部分集合とするとき、f によって B′ に写される始域 A の元全体からなる集合 {a ∈ A | f(a) ∈ B′} を B′ の逆像または原像といい、f(B′) で表す。 A の部分集合 X の元の f による像たちの全体からなる終域 B の部分集合 {f(a) | a ∈ X} を X の f による像といい、f[X], f′′X などで表す。特に f の A による像 f[A] を f の値域 (range) と呼び、ran(f), Im(f) などで表す。つまり、写像 f: A → B あるいは Gf ⊆ A × B の値域 ran(f) は で定義される。 2つの写像 f : A→B、 g : B→C が与えられたとする。そのとき、 A の元 a に C の元 g(f(a)) を対応させる A から C への写像が1つ得られる。その写像を f と g との合成写像(あるいは積)といい、 g∘f(または gf )で表す: g∘f : A→C、 ∀a∈A ( (g∘f)(a) = g(f(a)) )。 写像 f : A→B、 g : B→C、 h : C→D が与えられたとき、 が成り立つ。(なお、写像の合成について交換律は成り立たない)これらのことから、特に A からそれ自身への写像(A 上の変換)全体の集合は恒等写像を単位元とする非可換モノイドをなすことがわかる。 右全域性「f: A → B について ran(f) = B」が成り立つとき(つまり値域と終域が一致するとき)、f を A から B への全射という。 左一意性「A の任意の元 a1, a2 に対して、a1 ≠ a2 ならば f(a1) ≠ f(a2)」が成り立つとき、 f を単射という。包含写像は単射である。単射の制限写像も単射である。 A から B への全射 f がさらに単射でもあるとき、f は A から B への全単射であると言われる。定義域を A とする任意の単射 f はあきらかにその値域 f(A) への全単射である。 f を A から B への全単射とする。そのとき、 B の元 b に対して、 f(a) = b であるような A の元 a がちょうど1つ存在する。そこで、 B の元 b にそのような A の元 a を対応させる B から A への写像を f の逆写像といい、f と表す。定義より次が成り立つ: f : B→A、 ∀a∈A ∀b∈B ( f(b) = a ⇔ f(a) = b )。 fは B から A への全単射である。f の構成から、 であることが分かる。 A からそれ自身への全単射全体の集合を S(A) とすると、写像の合成は結合法則を満たし、恒等写像を単位元として、任意の全単射が逆写像を逆元に持つから、これは群をなす。特に A が n 個の元からなる有限集合の場合の S(A) を n 次対称群という。 f: A → B, g: C → D の合成 g ∘ f: A → D が定義可能で全単射であるとき、g が全射であることおよび f が単射であることが容易に確かめられるが、このことの逆も次の意味で成り立つ。 この二つの事実には、正確に逆が成り立つ。従って、全射と単射を次のように定義することもできる; 既知の写像から別の新たな写像を構成する方法をいくつか示す。 写像の定義域をより小さな部分集合に取り換えることで写像の制限 (restriction) または縮小が定義される。すなわち、写像 f: X → Y と部分集合 S ⊆ X が任意に与えられたとき、任意の s ∈ S に対して f|S(s) := f(s) と置くことにより定義される写像 f|S: S → Y を写像 f の S への(定義域の)制限と呼ぶ。写像 h の適当な制限が f に一致するとき、h は f の延長 (continuation) または拡大もしくは拡張 (extension) であるという。終域の制限や延長を考えることもある。また写像の制限の記号は誤解のおそれが無い限り省略されることも多い。 ふたつの写像 f: X → Y, g: W → Y で、それらの定義域が交わりを持たない (X ∩ W = ∅) とき、これらのグラフの合併として写像の直和 f ⊕ g: X ∪ W → Y を定義する。これは具体的に と書ける区分的に定義された写像である。より一般に、X ∩ W ≠ ∅ のとき、二つの写像の X ∩ W への制限が f|X∩W = g|X∩W を満たすとき、直和写像 f ⊕ g は well-defined で、 を満たす。直和 f ⊕ g は f, g の共通の延長として最小であり、直和のグラフはそれぞれの写像のグラフの合併である。直和は可換である。 さらに一般の場合に、f: X → Y の g: W → Y による上書き和 (override union) と呼ばれる g の延長 f ⊕ g: X ∪ W → Y が g および f|X∖W のグラフの合併として与えられ、 と書ける。上書き和は一般には可換でない。 ふたつの写像 f: X → Z, g: Y → W に対して、写像の直積 f × g: X × Y → Z × W は で与えられる。 任意の写像 f: X → Y に対し、X 上の二項関係 ∼f を で定めると ∼f は同値関係で、写像 f に付随する同値関係と呼ばれる。この同値関係による類別を考えることにより X は等位集合 C(y) = f(y) (y ∈ Y) の和に分割される。このとき、商集合 X/∼f からの写像 は well-defined で、f の同値関係 ∼f による商写像あるいは f に付随する全単射と呼ぶ。写像系列 あるいは等式 f = ι ∘ φ ∘ π (ただし、π は自然な全射、ι は自然な単射)を写像 f の標準分解と呼ぶ。 X から Y への写像全体の成す集合は配置集合 (独: Belegungsmenge) と呼ばれ、しばしば指数記法に従って Y(あるいは Y)と書かれる。圏論の言葉で言えば配置集合は集合と写像の圏の指数である。配置集合は [ X → Y ] , F ( X , Y ) , Map ( X , Y ) {\displaystyle [X\to Y],\ {\mathcal {F}}(X,Y),\ \operatorname {Map} (X,Y)} とも書かれる。 カリー化 C → (C) は のように二変数写像をある種一変数化する、配置集合の間の同型である。 複数の集合と写像を一度に扱う必要があるとき、図式や系列と呼ばれる道具を用いると記述が簡素になる。ホモロジー代数や圏論の文脈ではよく用いられる。写像の図式とは、いくつかの集合を頂点とし、それらの集合間の写像を有向辺にもつようなグラフである。簡単な図式の例としては鎖 A 1 → f 1 A 2 → f 2 A 3 {\displaystyle A_{1}{\stackrel {f_{1}}{{}\to {}}}A_{2}{\stackrel {f_{2}}{{}\to {}}}A_{3}} や などを挙げることができる。任意の頂点から別の任意の頂点への写像が経路の取り方に依らないとき、図式は可換であるという。例えば h = g ∘ f のとき図式 は可換であり、逆もまた成り立つ。 一般には、定義域と始域が異なる(値の定められていない始域の元が存在する)という場合も考え得る。集合 A, B の元の順序対からなる集合(すなわち二項関係)Gf が をみたすとき Gf は A から B への関数関係であると言われる。このとき、三つ組 f := (A, B, Gf) をこの関数関係 Gf から定まる A から B への部分写像と呼び、f: A → B で表す。部分写像 f: A → B すなわち Gf ⊆ A × B の定義域 dom(f) と値域 ran(f) は次のように定義される: 写像の定義の際には課した関係の全域性は、部分写像 f の定義域 dom(f) が始域 A に一致することをいうものであり、全域的な部分写像を特に全域写像 (total mapping) と呼ぶ。すなわち、全域写像は写像の同義語である。 写像の多変数化による一般化を考えると、それは始域を何らかの直積集合に取り換えた通常の意味の写像として扱える。とくに一つの集合 M に対して M × M ×...× M → M なる形の多変数写像は M の複数の元から別の新しい元を作り出す操作と見做して算法と呼ばれる。 多値の関数の場合も終域を直積集合に取り換えた写像として定式化することができる場合もあり、例えばベクトル値関数 はスカラー値関数の直積として理解できる。しかし単純にそのように捉えることができない場合、あるいは捉えないほうがよい場合もある。例えば多価の複素解析関数は、分岐切断を超えてそれぞれの分枝の間に素性の良い関係性を記述することができ、適当なリーマン面上で定義された通常の関数と考えることが有効である。 写像は集合と写像の圏における射であり、一般に具体圏(英語版)における射はある種の写像として与えられるが、一般の圏における射は必ずしも写像でない。 圏の間の関手は、集合の間の写像と似た概念だが、対象同士の対応関係とともに対象間の射についても同時に対応関係を記述する。さらに、関手間の射として自然変換の概念が定式化される。
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と部分集合 S ⊆ X が任意に与えられたとき、任意の s ∈ S に対して f|S(s) := f(s) と置くことにより定義される写像 f|S: S → Y を写像 f の S への(定義域の)制限と呼ぶ。写像 h の適当な制限が f に一致するとき、h は f の延長 (continuation) または拡大もしくは拡張 (extension) であるという。終域の制限や延長を考えることもある。また写像の制限の記号は誤解のおそれが無い限り省略されることも多い。", "title": "写像の構成法" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ふたつの写像 f: X → Y, g: W → Y で、それらの定義域が交わりを持たない (X ∩ W = ∅) とき、これらのグラフの合併として写像の直和 f ⊕ g: X ∪ W → Y を定義する。これは具体的に", "title": "写像の構成法" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "と書ける区分的に定義された写像である。より一般に、X ∩ W ≠ ∅ のとき、二つの写像の X ∩ W への制限が f|X∩W = g|X∩W を満たすとき、直和写像 f ⊕ g は well-defined で、", "title": "写像の構成法" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "を満たす。直和 f ⊕ g は f, g の共通の延長として最小であり、直和のグラフはそれぞれの写像のグラフの合併である。直和は可換である。", "title": "写像の構成法" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "さらに一般の場合に、f: X → Y の g: W → Y による上書き和 (override union) と呼ばれる g の延長 f ⊕ g: X ∪ W → Y が g および f|X∖W のグラフの合併として与えられ、", "title": "写像の構成法" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "と書ける。上書き和は一般には可換でない。", "title": 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\\operatorname {Map} (X,Y)} とも書かれる。", "title": "写像の集合" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "カリー化 C → (C) は", "title": "写像の集合" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "のように二変数写像をある種一変数化する、配置集合の間の同型である。", "title": "写像の集合" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "複数の集合と写像を一度に扱う必要があるとき、図式や系列と呼ばれる道具を用いると記述が簡素になる。ホモロジー代数や圏論の文脈ではよく用いられる。写像の図式とは、いくつかの集合を頂点とし、それらの集合間の写像を有向辺にもつようなグラフである。簡単な図式の例としては鎖 A 1 → f 1 A 2 → f 2 A 3 {\\displaystyle A_{1}{\\stackrel {f_{1}}{{}\\to {}}}A_{2}{\\stackrel {f_{2}}{{}\\to {}}}A_{3}} や", "title": "写像図式" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "などを挙げることができる。任意の頂点から別の任意の頂点への写像が経路の取り方に依らないとき、図式は可換であるという。例えば h = g ∘ f のとき図式", "title": "写像図式" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "は可換であり、逆もまた成り立つ。", "title": "写像図式" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "一般には、定義域と始域が異なる(値の定められていない始域の元が存在する)という場合も考え得る。集合 A, B の元の順序対からなる集合(すなわち二項関係)Gf が", "title": "一般化と応用" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "をみたすとき Gf は A から B への関数関係であると言われる。このとき、三つ組 f := (A, B, Gf) をこの関数関係 Gf から定まる A から B への部分写像と呼び、f: A → B で表す。部分写像 f: A → B すなわち Gf ⊆ A × B の定義域 dom(f) と値域 ran(f) は次のように定義される:", "title": "一般化と応用" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "写像の定義の際には課した関係の全域性は、部分写像 f の定義域 dom(f) が始域 A に一致することをいうものであり、全域的な部分写像を特に全域写像 (total mapping) と呼ぶ。すなわち、全域写像は写像の同義語である。", "title": "一般化と応用" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "写像の多変数化による一般化を考えると、それは始域を何らかの直積集合に取り換えた通常の意味の写像として扱える。とくに一つの集合 M に対して M × M ×...× M → M なる形の多変数写像は M の複数の元から別の新しい元を作り出す操作と見做して算法と呼ばれる。", "title": "一般化と応用" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "多値の関数の場合も終域を直積集合に取り換えた写像として定式化することができる場合もあり、例えばベクトル値関数 はスカラー値関数の直積として理解できる。しかし単純にそのように捉えることができない場合、あるいは捉えないほうがよい場合もある。例えば多価の複素解析関数は、分岐切断を超えてそれぞれの分枝の間に素性の良い関係性を記述することができ、適当なリーマン面上で定義された通常の関数と考えることが有効である。", "title": "一般化と応用" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "写像は集合と写像の圏における射であり、一般に具体圏(英語版)における射はある種の写像として与えられるが、一般の圏における射は必ずしも写像でない。", "title": "一般化と応用" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "圏の間の関手は、集合の間の写像と似た概念だが、対象同士の対応関係とともに対象間の射についても同時に対応関係を記述する。さらに、関手間の射として自然変換の概念が定式化される。", "title": "一般化と応用" } ]
写像は、二つの集合が与えられたときに、一方の集合の各元に対し、他方の集合のただひとつの元を指定して結びつける対応のことである。関数、変換、作用素、射などが写像の同義語として用いられることもある。 ブルバキに見られるように、写像は集合とともに現代数学の基礎となる道具の一つである。現代的な立場では、「写像」と(一価の)「関数」は論理的におなじ概念を表すものと理解されているが、歴史的には「関数」の語は解析学に出自を持つものであり、一部には必ずしも写像でないものも関数の名の下におなじ範疇に扱われる(多価関数参照)。文献によっては「数の集合を終域に持つ写像」をして特に「関数」と呼び、「写像」はより一般の場合に用いる。関数、二項関係、対応の各項も参照のこと。
{{出典の明記|date=2021年4月}} {{専門的|date=2021年4月}} '''写像'''(しゃぞう、{{Lang-en-short|mapping, map}})は、二つの[[集合]]が与えられたときに、一方の集合の各[[元 (数学)|元]]に対し、他方の集合のただひとつの元<!-- からなる集合 -- なるほど 一般の"対応"では結び付けられる先は集合ですが、一般の"対応"がどのように特殊化されたものが"写像"なのかを表現しなくとも写像の概要を説明できるでしょう。 シングルトンをその要素と同一視しても写像がどんなものかは説明できて 本文の #素朴な説明 のところとも整合する -->を指定して結びつける[[対応 (数学)|対応]]のことである。'''[[関数_(数学)|関数]]'''、'''[[変換 (数学)|変換]]'''、'''[[作用素]]'''、'''[[射 (圏論)|射]]'''などが写像の同義語として用いられる<ref>例えば{{harv|ケリー|1968|p=10}}は「'''関数''','''対応''','''写像''','''作用素'''をすべて同じ意味で使用することにする」という断り書きをつけている。</ref><ref>The words '''map''' or '''mapping''', '''transformation''', '''correspondence''', and '''operator''' are often used synonymously. {{harv|Halmos|1970|p=30}}. (訳文: '''写像'''、'''変換'''、'''対応'''および'''作用素'''の語がしばしば (関数の) 同義語として用いられる)</ref>こともある。 [[ニコラ・ブルバキ|ブルバキ]]に見られるように、写像は集合とともに現代数学の基礎となる道具の一つである。現代的な立場では、「写像」と(一価の)「[[関数_(数学)|関数]]」は論理的におなじ概念を表すものと理解されているが、歴史的には「関数」の語は[[解析学]]に出自を持つものであり、一部には必ずしも写像でないものも関数の名の下におなじ範疇に扱われる([[多価関数]]参照)。文献によっては「数の集合(大抵の場合[[実数]]体 {{math|'''R'''}} または[[複素数]]体 {{math|'''C'''}} の部分集合)を[[終域]]に持つ写像」をして特に「関数」と呼び、「写像」はより一般の場合に用いる<ref>例えば {{harvnb|Lang|1971|p=83}}, {{harvnb|松坂|1968|p=28}}, PlanetMath など</ref><ref>{{Harvtxt|松本|1988}} は、多様体上の実数値写像を関数と呼んでいる。</ref>。[[関数_(数学)|関数]]、[[二項関係]]、[[対応 (数学)|対応]]の各項も参照のこと。 == 定義 == === 素朴な説明 === {{seealso|関数 (数学)}} 集合 {{mvar|A}} の各元に対してそれぞれ集合 {{mvar|B}} の元をただひとつずつ指定するような規則 {{mvar|f}} が与えられているとき、{{mvar|f}} を「'''[[定義域]]'''(あるいは'''始域''') {{mvar|A}} から'''[[終域]]''' {{mvar|B}} への'''写像'''」といい : <math>f\colon A \to B,\quad A \stackrel{f}{{}\to{}} B</math> などと表す。また {{mvar|f}} は {{mvar|A}} で(あるいは {{mvar|A}} の上で)定義されているといい、あるいはまた {{mvar|f}} は {{mvar|B}} に(あるいは {{mvar|B}} の中に)値を持つという。始域 {{mvar|A}} を {{math|sour(''f'')}}、終域 {{mvar|B}} を {{math|tar(''f'')}} のように記すこともある。また、{{mvar|A}} の元 {{mvar|a}} に対して {{mvar|f}} によって指定される {{mvar|B}} の元が {{mvar|b}} である(このことを、{{mvar|a}} が {{mvar|f}} によって {{mvar|b}} に'''写される'''という)とき、{{mvar|b}} を {{mvar|a}} における {{mvar|f}} の[[像 (数学)|像]]あるいは'''値'''(あたい、{{lang|en|value}})と呼び、{{mvar|b}} を {{math|''f''(''a'')}} で表す。 {{mvar|f}} によって {{mvar|A}} の元 {{mvar|a}} が {{mvar|B}} の元 {{math|''f''(''a'')}} に写されることは、 {{indent|{{math|''a'' &#x21A6; ''f''(''a'')}}}} という記法で表される{{sfn|松坂|1968|p=298}}。{{要出典範囲|[[変数 (数学)|変数]] {{mvar|x}} を用いて {{math|''x'' {{mapsto}} ''f''(''x'')}} のように写像を表すとき、{{mvar|f}} は、 {{mvar|A}} をわたる(または動く)変数 {{mvar|x}} の関数である、あるいは変数 {{mvar|x}} に従属するという|date=2019年10月}}。 ====相等関係==== 2つの写像 {{math|''f'' : ''A''&rarr;''B''}}、 {{math|''g'' : ''A''&rarr;''B''}} の相等関係について、次が成り立つ: {{indent|{{math|''f'' {{=}} ''g'' &hArr; ∀''a''∈''A'' ( ''f''(''a'') {{=}} ''g''(''a'') )}}{{sfn|松坂|1968|p=24, 37, 38}}。}} === 関係の一種として定義する場合 === {{seealso|二項関係}} 集合論においては、集合 {{mvar|A}}, {{mvar|B}} の元の順序対からなる集合(すなわち[[二項関係]]){{mvar|f}} が * {{math|''x'' &isin; ''A''}} ならば {{math|(''x'', ''y'') &isin; ''f''}} を満たす {{math|''y'' &isin; ''B''}} が存在する * {{math|(''x'', ''y''<sub>1</sub>) &isin; ''f''}} かつ {{math|(''x'', ''y''<sub>2</sub>) &isin; ''f''}} ならば {{math|''y''<sub>1</sub> {{=}} ''y''<sub>2</sub>}} の二つをみたすとき、{{math|''f''}} を {{mvar|A}} から {{mvar|B}} への関数と呼び<ref>{{harvnb|Kunen|1980|p=14}}</ref>、{{math|''f'': ''A'' &rarr; ''B''}} で表す。またこのとき、{{math|(''x'',&thinsp;''y'') &isin; ''f''}} であることを {{math|''f''(''x'') {{=}} ''y''}} と書く。この文脈では、{{mvar|f}} と {{mvar|f}} の[[グラフ (関数)|グラフ]] {{math|{(''x'', ''y'') {{!}} ''y'' {{=}} ''f''(''x'')}}} を同一視し、関数と写像を同じ意味に用いる。 二つの写像 {{mvar|f}} と {{mvar|g}} の[[相等関係|相等]]は、集合として同一であるということ、すなわち :{{math|∀''x''∀''y'' ( (''x'',''y'') &isin; ''f'' &hArr; (''x'',''y'') &isin; ''g'' )}} ということであるが、これは( {{mvar|f}} と {{mvar|g}} の定義域が等しく、かつ)任意の {{math|''a'' &isin; ''A''}} に対して {{math|''f''(''a'') {{=}} ''g''(''a'')}} であることと同値である。 ===3つの集合からなる組の一種として定義する場合=== 一方、圏論の用語との整合性を重んじる文脈では、次のようになる。 集合 {{mvar|A}}, {{mvar|B}} の元の順序対からなる集合(すなわち[[二項関係]]){{mvar|G{{sub|f}}}} が * '''全域性''': {{math|''x'' &isin; ''A''}} ならば {{math|(''x'', ''y'') &isin; ''G''{{sub|''f''}}}} を満たす {{math|''y'' &isin; ''B''}} が存在する * '''右一意'''または'''関数的''': {{math|(''x'', ''y''<sub>1</sub>) &isin; ''G''{{sub|''f''}}}} かつ {{math|(''x'', ''y''<sub>2</sub>) &isin; ''G''{{sub|''f''}}}} ならば {{math|''y''<sub>1</sub> {{=}} ''y''<sub>2</sub>}} の二つをみたすとき、三つ組 {{math|''f'' :{{=}} (''A'', ''B'', ''G''{{sub|''f''}})}} をこの関数関係 {{mvar|G{{sub|f}}}} から定まる {{mvar|A}} から {{mvar|B}} への写像と呼び、{{math|''f'': ''A'' &rarr; ''B''}} で表す。またこのとき、{{math|(''x'',&thinsp;''y'') &isin; ''G''{{sub|''f''}}}} であることを {{math|''f''(''x'') {{=}} ''y''}} と書き、{{math|''G''{{sub|''f''}} {{=}} {(''x'', ''y'') {{!}} ''y'' {{=}} ''f''(''x'')} }}を写像 {{mvar|f}} の[[グラフ (関数)|グラフ]]と呼ぶ。二つの写像 {{math|(''A'', ''B'', ''G''{{sub|''f''}})}} と {{math|(''C'', ''D'', ''G''{{sub|''g''}})}} の[[相等関係|相等]]は、三つ組としての[[等式|相等]]をいう。特に、{{mvar|f}}, {{mvar|g}} がともに {{mvar|A}} から {{mvar|B}} への写像のとき、{{mvar|f}} と {{mvar|g}} が等しいというのは、この二つの写像のグラフ{{math|''G''{{sub|''f''}} }} と {{math|''G''{{sub|''g''}} }}とが {{math|''A'' &times; ''B''}} の集合として同一であるということ、すなわち :{{math|∀''x''∀''y'' ( (''x'',''y'') &isin; ''G''{{sub|''f''}} &hArr; (''x'',''y'') &isin; ''G''{{sub|''g''}})}} ということであるが、これは任意の {{math|''a'' &isin; ''A''}} に対して {{math|''f''(''a'') {{=}} ''g''(''a'')}} であることと同値なので、素朴な意味で写像 {{mvar|f}} と {{mvar|g}} が等しいと言ったときと同じ意味となる。 圏論の用語と整合性をとる文脈では、写像の相等を扱う際の、二つの写像が「ともに {{mvar|A}} から {{mvar|B}} への」写像であるという但し書きは重要である。例えば {{mvar|A}} から {{mvar|B}} への写像 {{mvar|f}} と {{mvar|A}} から {{math|''B'' &sube; ''B''&prime;}} なる {{math|''B''&prime;}} への写像 {{mvar|g}} について、集合として {{math|''f'' {{=}} ''g''}}(つまりグラフが一致)でも三つ組としては異なるから、この二つの写像は同一でない。実際、{{math|''x'' &#x21a6; ''x''<sup>2</sup>}} なる元の対応で定められる二つの写像 {{math|''f'': '''R''' &rarr; '''R'''}} と {{math|''g'': '''R''' &rarr; '''R'''<sub>&ge;0</sub>}} を考えると後者は[[全射性]]を持つが前者はそうでない<ref>{{harvtxt|松本|2004}}, 注意 1.1.6, 定義 1.1.7 なども参照</ref>([[値域]]・[[終域]]の各項も参照)。 {{要出典範囲|また、[[超限帰納法]]を用いるなどして写像を集合論的に構成する場合、始域や終域としては「すべての集合」のような[[クラス (集合論)|真の類]]を考えることもある|date=2019年10月}}。{{要出典範囲|そのような場合でも定義域 {{mvar|A}} を集合に制限すれば順序対の集まり {{mvar|f{{!}}<sub>A</sub>}} や値域 {{mvar|f(A)}} も集合となる|date=2019年10月}}。 == 例 == === 自明な写像 === * 集合 {{mvar|A}} の任意の元 {{mvar|a}} に対して {{mvar|a}} 自身を対応させると、これは {{mvar|A}} から {{mvar|A}} への写像になる。この写像を[[恒等写像]]といい、{{math|I<sub>''A''</sub>}} や {{math|id<sub>''A''</sub>}} や {{math|'''1'''<sub>''A''</sub>}} などで表す。 * {{mvar|B}} を {{mvar|A}} の部分集合とするとき、{{mvar|B}} の任意の元 {{mvar|b}} に対して {{mvar|b}} 自身を {{mvar|A}} の元として対応させる {{mvar|B}} から {{mvar|A}} への写像を[[包含写像]]といい、{{math|i<sub>''A'', ''B''</sub>}} や {{math|inc<sub>''A'', ''B''</sub>}} などで表す。 * {{math|''f'': ''A'' &rarr; ''B''}} とする。{{mvar|A}} の部分集合 {{math|''A''&prime;}} について、{{math|''A''&prime;}} の各元 {{mvar|a}} に対して {{mvar|B}} の元 {{math|''f''(''a'')}} を対応させると、これは {{math|''A''&prime;}} から {{mvar|B}} への写像になる。この写像を {{mvar|f}} の {{math|''A''&prime;}} への[[制限写像]]といい、{{math|''f''{{!}}<sub>''A''&prime;</sub>}} と表す。 * {{mvar|A}} が[[空集合]]のとき、{{mvar|A}} から {{mvar|B}} への写像はただ一つ存在し、これを[[空写像]]と呼ぶ。空写像に対応するグラフは空集合である。{{mvar|A}} の元が存在しないので何の対応も定めてはいないが、これも立派な写像である。素朴な定義では、{{mvar|f}} が写像であるとは「{{mvar|a}} が {{mvar|A}} の元ならば {{mvar|B}} の元 {{math|''f''(''a'')}} がただ一つ定まる」が成り立つことであったが、{{mvar|A}} が空集合ならば「{{mvar|a}} が {{mvar|A}} の元」は[[論理包含#例|偽であるから、この命題は真]]である。この議論は {{mvar|A}} と {{mvar|B}} が共に空集合である場合も通用するので、空集合から空集合への写像は空写像ただ一つである{{efn|この事実は[[0の0乗]]を 1 と定義する理由の一つに挙げられる(ただし、いつもそのように定義するわけではない)}}。 === 一般の例 === *{{math|''x'' &isin; '''R'''}} に [[絶対値]] {{math|{{abs|''x''}}}} を対応させる {{math|{{abs|・}}: '''R''' &rarr; [0, ∞)}} は写像である。これは全射であるが単射ではない。 *{{math|''GL''(''n'', '''R''')}} を {{mvar|n}} 次実[[一般線型群]]、即ち[[正則行列|正則]]な実 {{mvar|n}} 次正方行列の全体とする。行列 {{math|''A'' &isin; ''GL''(''n'', '''R''')}} にその[[行列式]] <math>\det A \in \mathbb{R}^\times:=\R \setminus \{0\}</math> を対応させる対応 {{math|det: ''GL''(''n'', '''R''') &rarr; '''R'''<sup>&times;</sup>}} は写像になる。これも全射であるが {{math|''n'' &ge; 2}} のとき単射ではない。 *{{math|'''R'''<sub>2</sub>[''x'']}} を {{math|{{mset|''ax''<sup>2</sup> + ''bx'' + ''c'' | ''a'', ''b'', ''c'' &isin; '''R''', ''a'' ≠ 0}}}} (実係数2次[[多項式]]全体)で定める。多項式 {{math|''ax''<sup>2</sup> + ''bx'' + ''c'' &isin; '''R'''<sub>2</sub>[''x'']}} にその[[判別式]] {{math|''D'' {{=}} ''b''<sup>2</sup> &minus; 4''ac'' &isin; '''R'''}} を対応させる対応 {{math|''D'': '''R'''<sub>2</sub>[''x''] &rarr; '''R'''}} は写像である。これも全射であるが単射ではない。 *<math>x \in \mathbb{R}</math> に <math>\lfloor x \rfloor := \max\{n \in \mathbb{Z} \mid x \geq n\}</math> (<math>x</math> 以下の最大の整数)を対応させる対応 <math>\lfloor \cdot \rfloor \colon \mathbb{R} \to \mathbb{Z}</math> は[[床関数]]といわれる。同様に、<math>\lceil x \rceil:=\min\{n \in \mathbb{Z} \mid x \leq n\}</math> (<math>x</math> 以上の最小の整数)を対応させる対応 <math>\lceil \cdot \rceil \colon \mathbb{R} \to \mathbb{Z}</math> は[[天井関数]]といわれる。どちらも、全射であるが単射ではない。 *<math>z=a+bi \in \mathbb{C}</math> に実部, 虚部を対応させる写像 <math> \mathrm{Re} \colon \mathbb{C} \ni z \mapsto a \in \mathbb{R}</math>, <math>\mathrm{Im} \colon \mathbb{C} \ni z \mapsto b \in \mathbb{R} </math> はともに全射であるが単射でない. *{{mvar|n}} 個の空でない集合 {{mvar|''X''<sub>1</sub>,...,''X''<sub>n</sub>}} の直積集合 <math>X_1 \times \cdots \times X_n</math> から {{mvar|''X''<sub>i</sub>}} への写像 {{mvar|''p''<sub>i</sub>}} を次のように定める: <math>p_i \colon X_1 \times \cdots \times X_n \ni (x_1,\dots,x_n) \mapsto x_i \in X_i.</math> これは <math>X_1 \times \cdots \times X_n</math> から {{mvar|''X''<sub>i</sub>}} への'''第''' <math>i</math> '''[[射影 (集合論)|射影]]'''(<math>i</math> -th projection)といわれる. これは全射であるが単射でない. === 各分野で代表的な写像 === * [[線型空間]]の間の[[線型写像]] * [[群 (数学)|群]]や[[環 (数学)|環]]等の間の[[準同型写像]] * [[距離空間]]や[[位相空間]]の間の[[連続写像]] * [[順序集合]]の間の[[単調写像]] * [[可微分多様体]]間の[[可微分写像]] など。これらはどれも、[[圏論]]における[[射 (圏論)|射]]の例になっている。([[#射・関手]]) === 定値写像 === {{mvar|X, Y}} を集合とする。写像 {{math|''f'': ''X'' &rarr; ''Y''}} が {{mvar|X}} の任意の元 {{mvar|x, y}} に対して {{math|1=''f''(''x'') = ''f''(''y'')}} をみたすとき、{{mvar|f}} は[[定値写像]]といわれる。{{mvar|X}} が空でないとき、定値写像とはその[[像 (数学)|像]]が一元集合となるものである。{{mvar|X}} が空であるときは、文献によって扱いが異なる。 == 基本概念 == === 像・逆像 === {{main|像 (数学)|値域}} {{math|''B''&prime;}} を {{mvar|B}} の部分集合とするとき、{{mvar|f}} によって {{math|''B''&prime;}} に写される始域 {{mvar|A}} の元全体からなる集合 {{math|{{mset|''a'' &isin; ''A'' | ''f''(''a'') &isin; ''B''&prime;}}}} を {{math|''B''&prime;}} の[[逆像]]または原像といい、{{math|''f''<sup>&minus;1</sup>(''B''&prime;)}} で表す{{efn|ここに、{{math|''f''<sup>&minus;1</sup>}} は単なる符牒であって必ずしも写像を定義しないが、[[対応 (数学)|対応]]と考えることができるし、写像 {{mvar|f}} が[[逆写像|逆]]を持てばそれに一致する。}}。 {{mvar|A}} の部分集合 {{mvar|X}} の元の {{mvar|f}} による像たちの全体からなる終域 {{mvar|B}} の部分集合 {{math|{{mset|''f''(''a'') | ''a'' &isin; ''X''}}}} を {{mvar|X}} の {{mvar|f}} による[[像 (数学)|像]]といい、{{math|''f''[''X'']}}, {{math|''f''″''X''}} などで表す。特に {{mvar|f}} の {{mvar|A}} による像 {{math|''f''[''A'']}} を {{mvar|f}} の'''[[値域]]''' {{lang|en|(range)}} と呼び、{{math|ran(''f'')}}, {{math|Im(''f'')}} などで表す{{efn|部分写像を写像と呼ぶ立場と同様に、やはり値域と終域を明示的に区別しない立場もある。またこの立場では値域と終域とを区別せずに'''コドメイン''' {{lang|en|(codomain)}} あるいは'''ターゲット''' {{lang|en|(target)}} と呼ぶこともある。}}。つまり、写像 {{math|''f'': ''A'' &rarr; ''B''}} あるいは {{math|''G''{{sub|''f''}} &sube; ''A'' &times; ''B''}} の[[値域]] {{math|ran(''f'')}} は :<math>\operatorname{ran}(f) = \{y \mid \exists x ((x,y)\in G_f)\}\subseteq B</math> で定義される。 === 合成 === {{main|写像の合成}} 2つの写像 {{math|''f'' : ''A''&rarr;''B''}}、 {{math|''g'' : ''B''&rarr;''C''}} が与えられたとする。そのとき、 {{mvar|A}} の元 {{mvar|a}} に {{mvar|C}} の元 {{math|''g''(''f''(''a''))}} を対応させる {{mvar|A}} から {{mvar|C}} への写像が1つ得られる{{sfn|松坂|1968|p=34}}。その写像を {{mvar|f}} と {{mvar|g}} との'''[[合成写像]]'''(あるいは'''積''')といい、 {{math|''g''&#x2218;''f''}}(または {{mvar|gf}} )で表す: {{indent|{{math|''g''&#x2218;''f'' : ''A''&rarr;''C''}}、 {{math|∀''a''∈''A'' ( (''g''&#x2218;''f'')(''a'') {{=}} ''g''(''f''(''a'')) )}}{{sfn|松坂|1968|p=34}}。}} 写像 {{math|''f'' : ''A''&rarr;''B''}}、 {{math|''g'' : ''B''&rarr;''C''}}、 {{math|''h'' : ''C''&rarr;''D''}} が与えられたとき、 *{{math|(''h''&#x2218;''g'')&#x2218;''f'' {{=}} ''h''&#x2218;(''g''&#x2218;''f'')}}  ([[結合律]])、 *{{math|''f''&#x2218;''I''{{sub|''A''}} {{=}} ''f''}}、 {{math|''I''{{sub|''B''}}&#x2218;''f'' {{=}} ''f''}} が成り立つ{{sfn|松坂|1968|p=35|loc=定理 6}}。(なお、写像の合成について[[交換法則|交換律]]は成り立たない{{sfn|松坂|1968|p=36}})これらのことから、特に {{mvar|A}} からそれ自身への写像({{mvar|A}} 上の[[変換 (数学)|変換]])全体の集合は恒等写像を[[単位元]]とする非可換[[モノイド]]をなすことがわかる。 === 全射・単射および逆写像 === [[Image:Surjection.svg|thumb|right|全射であり単射でない。]] [[Image:Funcao venn.png|thumb|right|単射であり全射でない。]] [[Image:Bijection.svg|thumb|right|全単射。]] {{main|{{仮リンク|全射・単射・全単射|en|Bijection, injection and surjection}}}} {{seealso|全射|単射|全単射|逆写像}} ====全射・単射・全単射==== 右全域性「{{math|''f'': ''A'' &rarr; ''B''}} について {{math|ran(''f'') {{=}} ''B''}}」が成り立つとき(つまり値域と終域が一致するとき)、{{mvar|f}} を {{mvar|A}} から {{mvar|B}} への[[全射]]という。 左一意性「{{mvar|A}} の任意の元 {{math|''a''<sub>1</sub>, ''a''<sub>2</sub>}} に対して、{{math|''a''<sub>1</sub> &ne; ''a''<sub>2</sub>}} ならば {{math|''f''(''a''<sub>1</sub>) &ne; ''f''(''a''<sub>2</sub>)}}」が成り立つとき、 {{mvar|f}} を[[単射]]という。包含写像は単射である。単射の制限写像も単射である。 {{mvar|A}} から {{mvar|B}} への全射 {{mvar|f}} がさらに単射でもあるとき、{{mvar|f}} は {{mvar|A}} から {{mvar|B}} への[[全単射]]であると言われる。定義域を {{mvar|A}} とする任意の単射 {{mvar|f}} はあきらかにその値域 {{math|''f''(''A'')}} への全単射である。 ====逆写像==== {{mvar|f}} を {{mvar|A}} から {{mvar|B}} への全単射とする。そのとき、 {{mvar|B}} の元 {{mvar|b}} に対して、 {{math|''f''(''a'') {{=}} ''b''}} であるような {{mvar|A}} の元 {{mvar|a}} がちょうど1つ存在する。そこで、 {{mvar|B}} の元 {{mvar|b}} にそのような {{mvar|A}} の元 {{mvar|a}} を対応させる {{mvar|B}} から {{mvar|A}} への写像を {{mvar|f}} の[[逆写像]]といい、{{math|''f''<sup>&minus;1</sup>}} と表す。定義より次が成り立つ: {{indent|{{math|''f''{{sup|&minus;1}} : ''B''&rarr;''A''}}、 {{math|∀''a''∈''A'' ∀''b''∈''B'' ( ''f''{{sup|&minus;1}}(''b'') {{=}} ''a'' &hArr; ''f''(''a'') {{=}} ''b'' )}}{{sfn|松坂|1968|p=34}}。}} {{math|''f''<sup>&minus;1</sup>}}は {{mvar|B}} から {{mvar|A}} への全単射である。{{math|''f''<sup>&minus;1</sup>}} の構成から、 :<math>f^{-1} \circ f = \operatorname{id}_A,\quad f\circ f^{-1} = \operatorname{id}_B</math> であることが分かる。 ====関連概念および定理==== {{mvar|A}} からそれ自身への全単射全体の集合を {{math|''S''(''A'')}} とすると、写像の合成は結合法則を満たし、恒等写像を単位元として、任意の全単射が逆写像を逆元に持つから、これは[[群 (数学)|群]]をなす。特に {{mvar|A}} が {{mvar|n}} 個の元からなる有限集合の場合の {{math|''S''(''A'')}} を {{mvar|n}} 次'''[[対称群]]'''という。 {{math|''f'': ''A'' &rarr; ''B''}}, {{math|''g'': ''C'' &rarr; ''D''}} の合成 {{math|''g'' ∘ ''f'': ''A'' &rarr; ''D''}} が定義可能で全単射であるとき、{{mvar|g}} が全射であることおよび {{mvar|f}} が単射であることが容易に確かめられるが、このことの逆も次の意味で成り立つ。 * {{math|''f'': ''A'' &rarr; ''B''}} が全射であるとき、([[選択公理]]を仮定すると){{mvar|B}} から {{mvar|A}} への写像 {{mvar|r}} が存在して右可逆性 {{math|''f'' ∘ ''r'' {{=}} id<sub>''B''</sub>}} が成り立つ。この {{mvar|r}} のことを、{{mvar|f}} の'''右逆写像'''という。 * {{math|''f'': ''A'' &rarr; ''B''}} ({{math|''A'' &ne; &empty;}})が単射であるとき、''B'' から {{mvar|A}} への写像 {{mvar|l}} が存在して左可逆性 {{math|''l'' ∘ ''f'' {{=}} id<sub>''A''</sub>}} が成り立つ。この {{mvar|l}} のことを、{{mvar|f}} の'''左逆写像'''という。 この二つの事実には、正確に逆が成り立つ。従って、全射と単射を次のように定義することもできる; :写像 {{mvar|f}} が右逆写像を持つとき、{{mvar|f}} を全射といい、{{mvar|f}} が左逆写像を持つとき、{{mvar|f}} を単射という。 {{seealso|モノ射|エピ射}} == 写像の構成法 == 既知の写像から別の新たな写像を構成する方法をいくつか示す。 === 制限と延長 === {{main|制限 (数学)|}} 写像の定義域をより小さな部分集合に取り換えることで写像の'''制限''' (restriction) または縮小{{sfn|松坂|1968|p=36}}が定義される。すなわち、写像 {{math|''f'': ''X'' → ''Y''}} と部分集合 {{math|''S'' &sube; ''X''}} が任意に与えられたとき、任意の {{math|''s'' &isin; ''S''}} に対して {{math|''f''{{!}}{{sub|''S''}}(''s'') :{{=}} ''f''(''s'')}} と置くことにより定義される写像 {{math|''f''{{!}}{{sub|''S''}}: ''S'' → ''Y''}} を写像 {{mvar|f}} の {{mvar|S}} への(定義域の)制限と呼ぶ。写像 {{mvar|h}} の適当な制限が {{mvar|f}} に一致するとき、{{mvar|h}} は {{mvar|f}} の'''延長''' (continuation) または拡大{{sfn|松坂|1968|p=37}}もしくは拡張 (extension) であるという。終域の制限や延長を考えることもある。また写像の制限の記号は誤解のおそれが無い限り省略されることも多い。 === 直和 === {{main|区分的に定義された写像}} ふたつの写像 {{math|''f'': ''X'' → ''Y''}}, {{math|''g'': ''W'' → ''Y''}} で、それらの定義域が交わりを持たない ({{math|''X''&thinsp;&cap;&thinsp;''W'' {{=}} &empty;}}) とき、これらのグラフの[[合併 (集合論)|合併]]として写像の直和 {{math|''f''&thinsp;⊕&thinsp;''g'': ''X''&thinsp;&cup;&thinsp;''W'' → ''Y''}} を定義する。これは具体的に : <math>(f\oplus g)(\xi) = \begin{cases} f(\xi) & (\xi\in X)\\ g(\xi) & (\xi\in W) \end{cases}</math> と書ける区分的に定義された写像である。より一般に、{{math|''X''&thinsp;&cap;&thinsp;''W'' &ne; &empty;}} のとき、二つの写像の {{math|''X''&thinsp;&cap;&thinsp;''W''}} への制限が {{math|''f''{{!}}{{sub|''X''&cap;''W''}} {{=}} ''g''{{!}}{{sub|''X''&cap;''W''}}}} を満たすとき、直和写像 {{math|''f''&thinsp;&oplus;&thinsp;''g''}} は [[well-defined]] で、 : <math>(f\oplus g)(\xi) = \begin{cases} f(\xi) & (\xi\in X\smallsetminus W)\\ f|_{X\cap W}(\xi)=g|_{X\cap W}(\xi) & (\xi\in X\cap W) \\ g(\xi) & (\xi\in W \smallsetminus X) \end{cases}</math> を満たす。直和 {{math|''f''&thinsp;&oplus;&thinsp;''g''}} は {{mvar|f}}, {{mvar|g}} の共通の延長として最小であり、直和のグラフはそれぞれの写像のグラフの合併である。直和は[[交換法則|可換]]である。 さらに一般の場合に、{{math|''f'': ''X'' → ''Y''}} の {{math|''g'': ''W'' → ''Y''}} による上書き和 (override union) と呼ばれる {{mvar|g}} の延長 {{math|''f''&thinsp;⊕&thinsp;''g'': ''X''&thinsp;∪&thinsp;''W'' → ''Y''}} が {{mvar|g}} および {{mvar|f{{!}}{{sub|X&#x2216;W}}}} のグラフの合併として与えられ、 : <math>(f\oplus g)(\xi) = \begin{cases} f(\xi) & (\xi\in X)\\ g(\xi) & (\xi\in W\smallsetminus X) \end{cases}</math> と書ける。上書き和は一般には可換でない。 === 直積 === ふたつの写像 {{math|''f'': ''X'' → ''Z''}}, {{math|''g'': ''Y'' → ''W''}} に対して、写像の直積 {{math|''f''&thinsp;&times;&thinsp;''g'': ''X''&thinsp;&times;&thinsp;''Y'' → ''Z''&thinsp;&times;&thinsp;''W''}} は : <math>(f\times g)(x,y) := (f(x),g(y))\quad (x\in X,\,y\in Y)</math> で与えられる。 === 商と標準分解 === 任意の写像 {{math|''f'': ''X'' → ''Y''}} に対し、{{mvar|X}} 上の[[二項関係]] {{math|&sim;{{sub|''f''}}}} を : <math>a \sim_f b \iff f(a)=f(b)</math> で定めると {{math|&sim;{{sub|''f''}}}} は[[同値関係]]で、写像 {{mvar|f}} に'''付随する同値関係'''{{sfn|松坂|1968|p=55}}と呼ばれる。この同値関係による類別を考えることにより {{mvar|X}} は[[等位集合]] {{math|''C''(''y'') {{=}} ''f''{{sup|&minus;1}}(''y'') (''y'' &isin; ''Y'')}} の[[非交和|和]]に[[集合の分割|分割]]される。このとき、[[商集合]] {{mvar|X/&sim;{{sub|f}}}} からの写像 : <math>\varphi\colon X/{\sim_f} \to \operatorname{ran}(f) (\sub Y);\; C(y) \mapsto y</math> は [[well-defined]] で、{{mvar|f}} の同値関係 {{math|&sim;{{sub|''f''}}}} による[[商写像]]あるいは {{mvar|f}} に'''付随する全単射'''{{sfn|松坂|1968|p=59}}と呼ぶ。写像系列 : <math>f\colon X \stackrel{\pi}{{}\twoheadrightarrow{}} X/{\sim_f} \stackrel{\varphi}{{}\to{}} \operatorname{ran}(f) \stackrel{\iota}{{}\hookrightarrow{}} Y,</math> あるいは等式 {{math|''f'' {{=}} &iota; ∘ &phi; ∘ &pi;}} (ただし、{{math|&pi;}} は[[自然な全射]]、{{math|&iota;}} は[[自然な単射]])を写像 {{mvar|f}} の'''標準分解'''{{sfn|松坂|1968|p=59}}と呼ぶ。 == 写像の集合 == {{main|配置集合}} {{mvar|X}} から {{mvar|Y}} への写像全体の成す集合は'''配置集合'''{{sfn|松坂|1968|p=38}} ({{lang-de-short|Belegungsmenge}}<ref>{{citation|title=Georg Cantor|author=Dauben|year=1990|url={{google books|id=n3t4b6GUlhAC|page=174|text=Belegungsmenge|plainurl=yes}}|page=174}}</ref>) と呼ばれ、しばしば指数記法に従って {{mvar|Y{{sup|X}}}}(あるいは {{mvar|{{sup|X}}Y}})と書かれる。{{要出典範囲|圏論の言葉で言えば配置集合は[[集合の圏|集合と写像の圏]]の[[冪対象|指数]]である|date=2019年10月}}。配置集合は <math>[X \to Y],\ \mathcal{F}(X,Y),\ \operatorname{Map}(X,Y)</math> とも書かれる。 * [[濃度 (数学)|濃度]]の冪は配置集合の濃度と定義される: {{math|{{abs|''B''{{sup|''A''}}}} {{=}} {{abs|''B''}}{{sup|{{abs|''A''}}}}}}<ref>{{citation|title=Georg Cantor|author=Dauben|year=1990|url={{google books|id=n3t4b6GUlhAC|page=174|text=exponentiation|plainurl=yes}}|page=174}}</ref>。 {{要出典範囲|[[カリー化]] {{math|{{sup|''A''&times;''B''}}''C'' → {{sup|''A''}}({{sup|''B''}}''C'')}} は|date=2019年10月}} : {{要出典範囲|<math>f \mapsto g \quad (C\ni f(a,b) = g(a)(b);\; g: A \to [B\to C])</math>|date=2019年10月}} {{要出典範囲|のように二変数写像をある種一変数化する、配置集合の間の同型である|date=2019年10月}}。 == 写像図式 == {{main|可換図式}} 複数の集合と写像を一度に扱う必要があるとき、図式や系列と呼ばれる道具を用いると記述が簡素になる。[[ホモロジー代数]]や[[圏論]]の文脈ではよく用いられる。写像の図式{{sfn|松坂|1968|p=296}}とは、いくつかの集合を頂点とし、それらの集合間の写像を有向辺にもつような[[グラフ (グラフ理論)|グラフ]]である。簡単な図式の例としては鎖 <math>A_1\stackrel{f_1}{{}\to{}}A_2\stackrel{f_2}{{}\to{}}A_3</math> や <gallery> File:Morphism-Composition-with-name.svg|写像の合成: 可換三角形 File:Commutative square.svg|可換矩形 </gallery> などを挙げることができる。任意の頂点から別の任意の頂点への写像が経路の取り方に依らないとき、図式は[[可換図式|可換]]であるという{{sfn|松坂|1968|p=297}}。例えば {{math|''h'' {{=}} ''g'' ∘ ''f''}} のとき図式 : [[File:Morphism-Composition-with-name.svg|200px]] は可換であり、逆もまた成り立つ。 == 一般化と応用 == === 部分写像 === {{main|[[部分写像]]}} 一般には、定義域と始域が異なる(値の定められていない始域の元が存在する)という場合も考え得る。集合 {{mvar|A}}, {{mvar|B}} の元の順序対からなる集合(すなわち[[二項関係]]){{mvar|G{{sub|f}}}} が * '''右一意性''': {{math|(''x'', ''y''<sub>1</sub>) &isin; ''G''{{sub|''f''}}}} かつ {{math|(''x'', ''y''<sub>2</sub>) &isin; ''G''{{sub|''f''}}}} ならば {{math|''y''<sub>1</sub> {{=}} ''y''<sub>2</sub>}} をみたすとき {{mvar|G{{sub|f}}}} は {{mvar|A}} から {{mvar|B}} への'''関数関係'''であると言われる。このとき、三つ組 {{math|''f'' :{{=}} (''A'', ''B'', ''G''{{sub|''f''}})}} をこの関数関係 {{mvar|G{{sub|f}}}} から定まる {{mvar|A}} から {{mvar|B}} への部分写像と呼び{{efn|全域的でないものに限って部分写像と言っている場合もある。}}、{{math|''f'': ''A'' &rarr; ''B''}} で表す。部分写像 {{math|''f'': ''A'' &rarr; ''B''}} すなわち {{math|''G''{{sub|''f''}} &sube; ''A'' &times; ''B''}} の'''定義域''' {{math|dom(''f'')}} と'''値域''' {{math|ran(''f'')}} は次のように定義される: :<math> \operatorname{dom}(f) = \{x \mid \exists y ((x,y)\in G_f)\}\subseteq A,\quad \operatorname{ran}(f) = \{y \mid \exists x ((x,y)\in G_f)\}\subseteq B.</math> 写像の定義の際には課した関係の全域性は、部分写像 {{mvar|f}} の定義域 {{math|dom(''f'')}} が始域 {{mvar|A}} に一致することをいうものであり、全域的な部分写像を特に'''全域写像''' ({{lang|en|total mapping}}) と呼ぶ。すなわち、全域写像は写像の同義語である{{efn|部分写像と全域写像を総称して写像と呼ぶ流儀もある。これは、定義域と始域の区別を重視しない立場であるということもでき、この立場で始域や定義域を区別せずに'''ドメイン''' {{lang|en|(domain)}}あるいは'''ソース'''{{lang|en|(source)}}と呼ぶこともある。}}。 === 多変数・多価の写像 === {{main|多変数関数|多価関数}} 写像の多変数化による一般化を考えると、それは始域を何らかの[[直積集合]]に取り換えた通常の意味の写像として扱える。とくに一つの集合 {{mvar|M}} に対して {{math|''M'' &times; ''M'' &times;…&times; ''M'' → ''M''}} なる形の多変数写像は {{mvar|M}} の複数の元から別の新しい元を作り出す操作と見做して[[算法]]と呼ばれる{{sfn|松坂|1968|p=50}}。 多値の関数の場合も終域を直積集合に取り換えた写像として定式化することができる場合もあり、例えば[[ベクトル値関数]] はスカラー値関数の直積として理解できる。しかし単純にそのように捉えることができない場合、あるいは捉えないほうがよい場合もある。例えば多価の複素[[解析関数]]は、分岐切断を超えてそれぞれの分枝の間に素性の良い関係性を記述することができ、適当な[[リーマン面]]上で定義された通常の関数と考えることが有効である。 === 射・関手 === {{main|射 (圏論)|関手}} 写像は[[集合の圏|集合と写像の圏]]における[[射 (圏論)|射]]であり、一般に{{仮リンク|具体圏|en|concrete category}}における射はある種の写像として与えられるが、一般の圏における射は必ずしも写像でない。 圏の間の[[関手]]は、集合の間の写像と似た概念だが、対象同士の対応関係とともに対象間の射についても同時に対応関係を記述する。さらに、関手間の射として[[自然変換]]の概念が定式化される。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{cite book|和書|author=ニコラ・ブルバキ|series=数学原論|title=集合論 要約|translator=前原昭二|year=1968}} * {{cite book |ref=harv |last=Halmos |first=Paul R. |year=1970 |title=Naive Set Theory |publisher=Springer-Verlag |isbn=0-387-90092-6 |url=https://books.google.co.jp/books?id=x6cZBQ9qtgoC&redir_esc=y&hl=ja}} * {{cite book|和書|author=ジョン L. ケリ-|translator=児玉之宏|title=位相空間論|publisher=吉岡書店|year=1968}} * {{cite book |ref=harv |last=Kunen |first=Kenneth |year=1980 |title=Set Theory An Introduction to Independence Proofs|publisher=North-Holland |isbn=0-444-86839-9}} * {{citation|first=Serge|last=Lang|title=Linear Algebra|edition=2nd|year=1971|publisher=Addison-Wesley}} * {{Cite book | 和書 | last1 = 松本 | first1 = 幸夫 | year = 1988 | title = 多様体の基礎 | series = 基礎数学5 | publisher = 東京大学出版会 | isbn = 978-4-13-062103-8 | ref = harv }} * {{cite book|和書|author=松坂和夫|title=集合・位相入門|publisher=岩波書店|year=1968|isbn=4-00-005424-4}} == 関連項目 == * [[射 (圏論)]] * [[列 (数学)]] * [[族 (数学)]] == 外部リンク == * {{MathWorld|urlname=Map|title=Map}} * {{PlanetMath|urlname=Mapping|title=mapping}} * {{Cite web|和書|url=http://www.math.sci.hiroshima-u.ac.jp/~m-MAT/TEACH/daisu-a.pdf|format=PDF|author=松本眞|title=代数系入門|publisher=広島大学 理学部数学科 松本研究室|year=2004|accessdate=2012年5月}} * {{Kotobank}} {{authority control}} {{DEFAULTSORT:しやそう}} [[Category:写像|*]] [[Category:集合の基本概念]] [[Category:数学に関する記事]]
2003-05-02T19:00:21Z
2023-11-14T02:35:35Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%99%E5%83%8F
7,635
フロッピー
フロッピー(英: FLOPPY)、柔らかいの意味。
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フロッピー、柔らかいの意味。 フロッピーディスクの略。 FLOPPY (ユニット) - 日本のテクノポップユニット。 The Floppy Show - アメリカの子供用テレビ番組。
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イオ (衛星)
イオ (Jupiter I Io) は、木星の第1衛星である。4つのガリレオ衛星の中で最も内側を公転する衛星である。太陽系の衛星の中で4番目に大きく、また最も高密度の衛星である。太陽系の中で最も水を含む割合が少ない天体でもあり、多くの活火山をもつ衛星として知られている。1610年に発見され、ギリシア神話に登場する女神イーオーに因んで命名された。 イオには400個を超える火山があり、太陽系内で最も地質学的に活発な天体である。この極端な地質活動は、木星と他のガリレオ衛星であるエウロパ、ガニメデとの重力相互作用に伴うイオ内部での潮汐加熱の結果である。いくつかの火山は硫黄と二酸化硫黄の噴煙を発生させており、その高さは表面から 500 km にも達する。イオの表面には100以上の山も見られ、イオの岩石地殻の底部における圧縮によって持ち上げられ形成されたと考えられる。これらのうちいくつかはエベレストよりも高い。大部分が水の氷からなる大部分の太陽系遠方の衛星とは異なり、イオの主成分は岩石であり、溶けた鉄もしくは硫化鉄の核を岩石が取り囲んだ構造をしている。イオの表面の大部分は、硫黄と二酸化硫黄の霜で覆われた広い平原からなっている。 イオの火山活動は表面の独特の特徴を生み出している。イオの火山噴出物と溶岩流は表面の様相を大きく変化させ、黄、赤、白、黒と緑の微妙な色彩で彩っている。これらの多くは硫黄の同素体と硫黄化合物からなっている。また、長さが 500 km 以上にもおよぶ多数の溶岩流が表面に見られる。この火山活動によって生成される物質が、イオの薄く不完全な大気と木星の磁気圏を作り上げている。イオの火山噴出物は木星の周りの大きなプラズマトーラスを形成している。 イオは17世紀と18世紀における天文学の発展において大きな役割を果たした。イオは1610年1月にガリレオ・ガリレイによって、他のガリレオ衛星と共に発見された。この発見は地動説を後押しし、ケプラーの法則の発展につながり、さらにはオーレ・レーマーによる光速度の初めての具体的な測定にもつながった。地球からは、19世紀後半から20世紀初頭にかけてはイオは点として観測されていたにとどまったが、その後は暗い赤い極域や明るい赤道領域などの大規模な表面の特徴が分解できるようになった。1979年にはボイジャー計画によって2つの探査機による観測が行われ、多数の火山活動や大きな山、明確な衝突クレーターが見られない若い表面など、地質学的に活発な姿が明らかになった。ガリレオ探査機は1990年代と2000年代初頭に数回の近接フライバイを行い、イオの内部構造と表面組成に関するデータを取得している。これらの探査機は、イオと木星の磁気圏の関連も明らかにし、イオの軌道を中心とする高エネルギーの放射線帯の存在も発見した。イオは1日あたり 36 Sv もの電離放射線を受けている。 その後、2000年には探査機カッシーニ、2007年には冥王星探査機ニュー・ホライズンズ、2017年以降はジュノーによるさらなる観測が行われ、並行して地上望遠鏡やハッブル宇宙望遠鏡による観測も行われている。 イオは1610年1月7日に、ガリレオ・ガリレイがパドヴァ大学においてガリレオ式望遠鏡を用いて発見した。しかしその観測では望遠鏡の性能不足のため、ガリレオはイオとエウロパを区別することが出来ず、両者は1つの光点として記録された。ガリレオがイオとエウロパを別々の天体として観測したのは翌日の1610年1月8日のことであり、この日付が国際天文学連合 (IAU) に発見日として認められている。イオとその他のガリレオ衛星の発見は、1610年3月の『星界の報告』で発表された。 1614年にシモン・マリウスが出版した『Mundus Jovialis』の中で、マリウスはガリレオの発見より1週間前の1609年にイオとその他のガリレオ衛星を発見したと主張した。ガリレオはこの主張を疑い、マリウスのこの著作は盗作であるとして退けた。マリウスの観測記録はユリウス暦の1609年12月29日から始まっており、これはガリレオが用いていたグレゴリオ暦では1610年1月8日にあたる。ガリレオがマリウスより先に発見を発表していることから、ガリレオが発見者として記録されている。 シモン・マリウスはガリレオ衛星の発見者とは認められなかったものの、彼がガリレオ衛星に対して提案した名称は採用されている。彼は1614年の出版物 Mundus Iovialis anno M.DC.IX Detectus Ope Perspicilli Belgici の中でガリレオ衛星の最も内側のものにいくつかの名前を提案しており、その中には「木星の水星 (The Mercury of Jupiter)」や「木星の一番目の惑星 (The First of the Jovian Planets)」というものもあった。1613年のヨハネス・ケプラーの助言に基づき、彼はギリシア神話のゼウスや、それに相当するローマ神話のユーピテルの愛人から名前を与えることを考案した。彼は木星の最も内側の大衛星に対し、ギリシア神話の登場人物であるイーオーに因んで名前を与えた。マリウスが提案した名前は20世紀中頃までは広く受け入れられていなかった。初期の天文学の文献の多くでは、イオは一般にローマ数字を用いて Jupiter I と表記されたり (これはガリレオが導入した表記である)、あるいは「木星の一番目の衛星」と表記された。 なお、同名の小惑星イオも存在する。 イオ表面の地形は、イオの神話の人物や場所、様々な神話における火や火山、太陽、雷の神、そしてダンテの『神曲』の人物や場所など、その火山性の表面にふさわしい名前が付けられている。ボイジャー1号によって表面の近接画像が初めて得られて以降、国際天文学連合はイオの火山や山、平野や大きなアルベドの特徴に対して、225の名称を承認している。承認されたイオの火山性の地形の中には、「パテラ」(火山性凹地)、「フルクトゥス」(溶岩流)、活火山 (特定の火山において、噴火活動が最初の火山活動の兆候であったもの) などがある。命名された山、平原、層状の地形、楯状火山は、それぞれ名称に mons、mensa (テーブル)、planum、tholus (ロタンダ) を含んでいる。明るいアルベドを持つ領域は regio という用語が使用されている。命名された地形の例としては、プロメテウス火山、パン卓状台地 (Pan Mensa) などがある。 日本と関連したものには、日本神話に由来するアマテラス・パテラ、ヒルコ・パテラ、スサノオ・パテラ、マスビ・フルクトゥス、不動明王(アチャラ・ナータ)に由来するアチャラ・フルクトゥス、アイヌの神話に由来するフチ・パテラ、日本語に由来するカミナリ・パテラ、ライデン・パテラ、センゲン・パテラがある。 発見されてから250年ほどの間は、イオは望遠鏡で5等級の点として観測される天体のままであった。17世紀の間にイオやその他のガリレオ衛星は、経度の決定する初期の手法、ケプラーの第三法則の検証、木星と地球の間を光が進むのに必要な時間の決定など、様々な目的を果たすために用いられた。天文学者のジョヴァンニ・カッシーニらによって作成された天体暦に基づき、ピエール=シモン・ラプラスはイオ、エウロパ、ガニメデの共鳴軌道を説明するための数学理論を構築した。この共鳴はのちにこれら3つの衛星の地質に大きな影響を及ぼすことが判明した。 19世紀後半から20世紀にかけての望遠鏡技術の進歩により、天文学者はイオの大規模な表面の特徴を光学的に分解できるようになった。1890年代に、エドワード・エマーソン・バーナードがイオの赤道領域と極領域の明るさに違いがあることを初めて観測した。バーナードと同期の天文学者であるウィリアム・ヘンリー・ピッカリングはイオが卵状の形状をしていると解釈し、バーナードも初めは2つの分離した天体からなると考えていたが、後に2つの領域で色とアルベドが異なることが原因であると正しく解釈した。後の望遠鏡観測で、イオの明確な赤茶色の極域と、黄白色の赤道帯が確認された。 20世紀中盤の望遠鏡観測では、イオの異様な性質が明らかになり始めた。分光観測からは、他のガリレオ衛星とは異なり表面に水が全く存在していないことが示唆された。同じ観測では、表面はナトリウム塩と硫黄からなる揮発性物質が占めていることが示唆された。電波望遠鏡観測では、イオの軌道周期と結びついたデカメートル波の波長でのバーストなどに見られるような、木星の磁気圏にイオが及ぼす影響も明らかになった。 イオを通過した初めての探査機は、パイオニア計画のパイオニア10号と11号であり、それぞれ1973年12月3日と1974年12月2日にイオ付近を通過した。電波追跡によりイオの質量の推定値が改善され、そのサイズに関する情報からイオがガリレオ衛星の中で最大の密度を持つこと、また水氷ではなく主に珪酸塩の岩石からなることが示唆された。パイオニアはさらに薄い大気の存在と、イオの軌道付近の強い放射線帯の存在を明らかにした。両探査機で得られた画像のうち、パイオニア11号に搭載されたカメラによって撮影された北極領域の画像のみが良質のものであった。近接画像はパイオニア10号の接近の際にも撮影することが予定されていたが、これらは高放射線環境のせいで失われてしまった。 ボイジャー計画による2つの探査機ボイジャー1号と2号が1979年にイオを通過した際は、進化した撮像システムによってさらに詳細な画像が得られた。ボイジャー1号は1979年3月5日に 20,600 km の距離を通過した。接近の最中に送信された画像からは、奇妙な、多色に彩られた衝突クレーターのない風景が明らかになった。最も高い解像度の画像では、奇妙な形状の穴、エベレスト山よりも高い山々、溶岩流に似た地形を持つ、比較的若い表面が見られた。 近接遭遇の直後に、ボイジャーのナビゲーションエンジニアである Linda A. Morabito は、画像の1つに表面から噴出する噴煙に気が付いた。ボイジャー1号が撮影したその他の画像を解析したところ、表面に散在する同様の噴煙が9つ発見され、イオは活発な火山活動を起こしていることが明らかになった。この結果は、ボイジャー1号の接近の直前に発表された、Stan Peale, Patrick Cassen, と R. T. Reynolds による論文の中で予測されていた。Peale らは、イオの内部はエウロパ、ガニメデとの軌道共鳴によって引き起こされる大きな潮汐加熱を経験するということを計算していた。このフライバイで取得されたデータは、イオの表面は硫黄と二酸化硫黄の霜で覆われていることを示した。これらの化合物はイオの薄い大気の成分でもあり、またイオの軌道を中心としたプラズマトーラスの成分でもある。 ボイジャー2号は1979年7月9日に 1,130,000 km の距離を通過した。ボイジャー1号ほどは接近しなかったものの、両探査機で撮影された画像を比較することで、4ヶ月の間に表面の様子がいくらか変化している様子を見ることができた。さらに、ボイジャー2号が木星系を離れる際に三日月状に太陽光が当たるイオの観測からは、3月に観測された9つの噴煙のうち7つは1979年7月の段階で活動しており、ペレ火山だけが2機のフライバイの間に活動を停止したことが明らかになった。 ガリレオ探査機は、地球から6年の歳月をかけて1995年に木星に到達し、ボイジャーの2機の観測や、それ以降に地上から行われた観測による発見の追跡調査を行った。イオは木星の最も強力な放射線帯のうちのひとつの中に位置しているため長期にわたる近接フライバイは行われなかったが,木星系を探査する2年間の主要ミッションのための軌道に入る直前にイオに接近した。1995年12月7日の近接フライバイの際には画像は撮影しなかったが、内部太陽系の岩石惑星に見られるのに似た大きな鉄の核の発見などの重要な成果が得られた。 接近画像を取得しなかったことや、データの送信に大きな制限を与えた機器の異常などの影響はあったものの、ガリレオの主要ミッションの間にいくつかの重要な発見がなされた。ガリレオはピッラン火口での大きな噴火の影響を観測し、火山噴火はマグネシウムが豊富な苦鉄質と超苦鉄質岩の珪酸塩のマグマからなることを確認した。イオの遠方からの撮影は主要ミッション中のほぼ全ての軌道で得られ、多数の活発な火山 (表面で冷却するマグマからの熱放射と火山の噴煙の両方)、形状が大きく異なる多数の山、およびボイジャーが観測した時期とガリレオの時期やガリレオミッション中でのいくつかの表面の変化の存在が明らかになった。 ガリレオのミッションは1997年と2000年の二度にわたって延長された。これらの延長ミッションの最中に、ガリレオによるイオへの接近は1999年後半に3回、2000年前半、2001年後半に3回、2002年前半に行われた。これらの接近での観測では、イオの火山と山で発生する地質学的プロセスを明らかにし、磁場の存在を否定し、火山活動の規模を示した。2000年12月には、カッシーニが土星に向かう最中に木星系に遠方かつ短時間の接近を行い、ガリレオとの共同観測が実現した。これらの観測では、トゥワシュトラ火口 (Tvashtar Paterae) における新しい噴煙が明らかになり、イオのオーロラについての知見も得られた。 2003年にガリレオ探査機が計画的に木星大気に突入してミッションが終了した後は、イオの火山活動の新しい観測は地上望遠鏡から行われた。特に、ハワイのケック望遠鏡での補償光学を用いた撮像とハッブル宇宙望遠鏡での撮像により、天文学者はイオの活発な火山をモニターすることが出来た。この撮像観測により、木星付近にまで探査機を送り込まずとも、科学者たちはイオの火山活動を監視することが出来た。 ニュー・ホライズンズは冥王星とエッジワース・カイパーベルトに向かう途上で、2007年2月28日に木星系を通過した。この遭遇の最中に、遠方からのイオの観測が多数行われた。この時の画像の中にはトゥワシュトラ火口における大きな噴煙も含まれており、1979年のペレ火山の噴煙の観測以来初めてとなる、イオの最大級の火山噴火の詳細な観測が行われた。ニュー・ホライズンズはギッル火口 (Girru Patera) 付近の噴火の初期段階の画像も取得しており、ガリレオの観測以降に発生したいくつかの火山噴火も捉えている。 木星系の探査ミッションには、進行中のものが1つ、間近に迫ったものが1つある。2011年8月5日に打ち上げられたジュノーは撮影能力は限られているものの、赤外線オーロラマッピング装置 JIRAM を用いてイオの火山活動をモニターすることができる。 Jupiter Icy Moon Explolerは欧州宇宙機関によって計画されているミッションで、最終的にはガニメデの周回軌道に入ることが予定されている。JUICE は2022年に打ち上げ、2030年1月に木星に到達することが予定されている。JUICE はイオをフライバイする予定はないが、ガニメデ周回軌道へ投入する前の2年間の木星周遊段階では、狭角カメラなどの搭載した機器を用いてイオの火山活動をモニターし、表面組成を測定することが予定されている。 Io Volcano Observer (IVO) はディスカバリー計画として提案されている2021年打ち上げ予定のミッションである。2026年から開始する木星周回軌道でのミッションにおいて、複数回のイオのフライバイを行うことが計画されている。 イオは木星の中心から 421,700 km の距離を公転しており、木星の雲頂からの距離は 350,000 km である。ガリレオ衛星の中では最も内側を公転しており、軌道はテーベとエウロパの間にある。木星の木星内部衛星群を含むと、内側から5番目の衛星である。木星の周りをおよそ42.5時間かけて1周している (1晩の観測でその動きが観測できるほど速い)。 イオはエウロパと 2:1 の平均運動共鳴を起こしており、またガニメデとは 4:1 の平均運動共鳴を起こしている。そのためイオが木星を2周する間にエウロパは1周し、イオが4周する間にガニメデは1周する。この関係はラプラス共鳴と呼ばれる。この共鳴によってイオの軌道離心率は0.0041に保たれており、地質学的活動を起こす主要な熱源となっている。この強制的な軌道離心率が無ければ、イオの軌道は潮汐力によって円軌道化され、地質学的に不活発な天体になるだろう。 他のガリレオ衛星や月と同様に、イオの自転は公転周期と同期しており、同じ面を木星に向け続けている。この同期性を元にイオの経度系が定義されている。イオの本初子午線は、木星直下点で赤道と交差するように定義されている。常に木星を向いている面は sub-Jovian hemisphere (木星に面する半球) と呼ばれ、反対側は anti-Jovian hemisphere (木星から見て反対側の半球) と呼ばれる。常にイオが公転する方向を向いた側は leading hemisphere (先行半球)、常に公転する方向の逆を向いた側は trailing hemisphere (後行半球) として知られている。 イオの表面からは、木星の視直径は 19.5° に見える。これは地球から見た月の見かけの大きさの39倍である。 イオは木星の磁気圏を形作る上で重要な役割を果たしている。イオは 400,000 ボルトもの電圧の発電機として働き、300万アンペアの電流を生成し、木星に磁気圏を2倍以上の大きさに膨張させるイオンを放出する。木星の磁気圏はイオの薄い大気からのガスとダストを掃き集めており、その量は1秒あたり1トンにもおよぶ。この物質は大部分がイオンか原子状の硫黄、酸素と塩素、原子状のナトリウムやカリウム、分子状の二酸化硫黄と硫黄、そして塩化ナトリウムの塵である。これらの物質はイオの火山活動に起源を持つものだが、木星の磁気圏に散逸し惑星間空間にやってくる物質はイオの大気から直接来るものである。これらの物質は、その電離状態や組成に依存するが、最終的に様々な中性物質の雲や木星磁気圏内の放射線帯に到達し、場合によってはその後木星系から放出されることもある。 表面からイオ半径の6倍程度の距離までに広がりイオを取り囲んでいるのは、中性の硫黄、酸素、ナトリウム、カリウム原子の雲である。これらの粒子はイオの高層大気に起源を持ち、プラズマガストーラス中のイオンとの衝突によって励起され、その他の過程によってイオのヒル球 (イオの重力が木星の重力を上回る領域) を満たしている。この物質の一部はイオの重力を振り切って木星を周回する軌道に入る。20時間かけてこれらの粒子はイオから拡散してバナナ型の中性雲を形成し、この構造はイオの軌道の内側ではイオの前方に向かって、イオの軌道の外側ではイオの後方に向かって、木星半径の6倍の距離にまで広がる。これらの粒子を励起する衝突過程は、時々プラズマトーラス中のナトリウムイオンに電子を供給して再結合し、これによって生成された新しい高速の中性粒子はトーラスから除去される。これらの粒子は 70 km/s 程度の速度を得て (イオの軌道速度は 17 km/s である)、イオから遠ざかるジェットとして放出される。 イオは、イオプラズマトーラスとして知られる強い放射線帯の中を公転している。この電離した硫黄、酸素、ナトリウム、塩素のドーナツ型の環にあるプラズマは、イオを取り囲む「雲」の中にある中性原子が電離され木星の磁気圏によって運ばれる際に発生する。中性の雲の中にある粒子とは異なり、これらの粒子は木星の磁気圏と共回転し、木星の周りを 74 km/s で公転する。木星磁場の他の部分と同様にプラズマトーラスは木星の赤道面 (そしてイオの軌道面) に対して傾いているため、イオはある時はプラズマトーラスの中心より上にあり、ある時は下にある。先述の通りこれらのイオンは高速で高エネルギーであるため、イオの大気や広がった中性雲から中性原子や分子を除去する働きがある。 トーラスは3つの区分から成り立っている。1つ目はイオの軌道のすぐ外側にある「温かい」トーラスである。2つ目は「リボン」として知られる垂直方向に広がった領域で、木星からイオまでの距離に位置しており、中性物質の起源と冷却するプラズマからなる。3つ目は「冷たい」トーラスで、木星へ向かって徐々にらせん状に落下していく粒子からなる。「温かい」トーラス内の粒子はトーラス内に平均で40日とどまった後に脱出し、木星の異常に大きい磁気圏の部分的な原因となり、外向きの圧力で磁気圏を内部から膨張させている。イオからの粒子は磁気圏プラズマの変動として検出され、これはニュー・ホライズンズによって非常に長い磁気圏尾として検出された。プラズマトーラス内の同じような変動を研究するためには、それが放射する紫外線を測定するという方法もある。このような変動は、プラズマトーラス内の物質の究極的な源であるイオの火山活動とは明確には結び付いていないものの、中性ナトリウムの雲を介して関連している。 探査機ユリシーズが1992年に木星に接近した際、木星系から放出されるダストサイズの粒子の流れを検出している。離散した流れの中にあるダストは数百 km/s 以上の速度で木星から遠ざかっており、粒径の平均は 10 μm で、塩化ナトリウムが主成分であった。ガリレオ探査機によるダストの測定では、これらのダストの流れはイオが起源であることが示されたが、どのように形成されたのか、イオの火山活動が起源なのかあるいは表面から除去された物質が起源なのかについては明らかになっていない。 イオを横切っている木星の磁力線は磁束管として知られる電流を生み出して、イオの大気および中性雲と、木星の極域の高層大気を結合している。この電流は、"Io footprint" (イオの足跡) として知られている木星の極域でのオーロラ発光や、イオの大気でのオーロラを生み出している。このオーロラ相互作用による粒子は可視光の波長で木星の極域を暗く見せる。地球と木星に対するイオとそのオーロラの足跡の位置は、地球から見たときの木星電波放射に強い影響を与える。イオが見えている時は、木星からの電波は大幅に増加する。現在木星を公転する軌道に入るジュノーは、この過程を明らかにする観測を行っている。イオの電離圏を横切らなかった木星の磁力線も電流を誘導し、イオの内部に誘導磁場を生成する。イオの誘導磁場は、表面から 50 km 下にある部分的に溶融した珪酸塩マグマの中で発生すると考えられている。同様の誘導磁場はガリレオ探査機によって他のガリレオ衛星にも発見されており、これらの衛星内部の液体の水の海で発生している。 イオは地球の衛星である月よりわずかに大きい。平均半径は 1821.3 km と月より 5% だけ大きく、質量は 8.9319×10 kg と月より 21% 重い。わずかに楕円体の形状をしており、長軸を木星の方向に向けている。ガリレオ衛星の中では質量・半径は共にガニメデとカリストに劣るものの、エウロパは上回っている。 イオの主成分は珪酸塩の岩石と鉄であり、水の氷と珪酸塩岩石の混合物が主成分である太陽系遠方の他の衛星とは異なり、全体の組成は地球型惑星に近い。イオの密度は 3.5275 g/cm であり、太陽系のどの衛星よりも高密度である。ガリレオ衛星、特に密度がおよそ 1.9 g/cm であるガニメデとカリストと比べると際立って高い。また月の密度である 3.344 g/cm をわずかに上回る。ボイジャーとガリレオによるイオの質量、半径、四重極重力係数 (天体内部で質量がどう分布しているかに関係する数値) の測定に基づくモデルでは、内部は岩石豊富な地殻とマントル、鉄もしくは硫化鉄が豊富な核に分化していることが示唆されている。イオの金属核は質量のおよそ 20% を占める。核に含まれる硫黄の量に依存するが、核がほとんど鉄でできていた場合は半径が 350〜650 km、鉄と硫黄の混合物で出来ていた場合は 550〜900 km と推定されている。ガリレオの磁気センサでは内部のイオの固有磁場を検出することが出来ず、核は対流を起こしていないことが示唆された。しかしその後のデータの再解析では磁場があることが示されている。 イオの内部組成のモデルでは、マントルは少なくとも 75% がマグネシウム豊富な苦土橄欖石で出来ており、全体の組成はL型普通コンドライトやLL型普通コンドライトの隕石と似ていることが示唆されている。ケイ素に対する鉄の量は月や地球よりは大きいが、火星よりは小さい。イオで観測された熱流を説明するためイオのマントルは 10〜20% が溶けていると考えられるが、高温の火山活動が観測されている領域では溶融率は高い可能性がある。しかし2009年に行われたガリレオ探査機の磁気センサデータの再解析では、イオに誘導磁場が存在することが明らかになり、これを説明するためには表面から 50 km 下にマグマオーシャンが存在している必要がある。2011年に発表されたさらなる解析では、このようなマグマオーシャンの直接証拠が得られた。この層は厚さ 50 km で、イオのマントルのおよそ 10% を占めると推定されている。マグマオーシャンの温度は 1200 °C に達すると推定されている。イオのマントルの 10〜20% が部分的に溶融しているという事が、マグマオーシャンにおける溶融した珪酸塩の必要量と矛盾しないかどうかは分かっていない。玄武岩とイオの火山活動による硫黄の堆積物からなるイオのリソスフェアは、少なくとも 12 km の厚みを持ち、また 40 km よりは薄い。 放射性同位体の崩壊熱が主な内部熱源である地球や月とは異なり、イオの主要な熱源は潮汐散逸であり、これはエウロパとガニメデとの軌道共鳴の結果である。この加熱は、イオの木星からの距離、軌道離心率、内部組成と物理的な状態に依存する。エウロパとガニメデとのラプラス共鳴は、イオの軌道が潮汐散逸によって完全に円軌道化されるのを防ぎ、軌道離心率の値を維持している。この共鳴はイオと木星の距離を維持するのも助けている。共鳴が存在しなければ、イオにはたらく木星の潮汐力によってイオは徐々に外側に移動してしまうであろう。イオの潮汐バルジの垂直方向長さはイオが近点と遠点にいる時では最大で 100 m ほど変化する。この変化する潮汐力によってイオの内部では摩擦や潮汐散逸が発生し、イオの内部に大きな潮汐加熱をもたらし、イオのマントルと核の大部分を溶融させる。共鳴がなかった場合はこの潮汐散逸は軌道離心率を減少させ、円軌道にするようにはたらくことになる。潮汐加熱によって生み出されるエネルギーは、放射性物質の崩壊のみで生み出されるエネルギーの最大で200倍になる。この熱は火山活動という形で解放され、測定されている高い熱輸送を生み出す (全球で (0.6-1.6×10 W))。イオの軌道モデルは、イオ内部での潮汐加熱の量は時間と共に変化していることを示唆している。しかし現在の潮汐散逸の量は観測されている熱流量とは矛盾しない。潮汐加熱と対流のモデルでは、潮汐エネルギー散逸と地表へのマントル対流の熱を同時に説明できるような、衛星の粘性分布を見つけることが出来ていない。 木星とその衛星エウロパからの引力による潮汐加熱がイオに見られる多くの火山の熱源になっているという点については広く受け入れられているものの、火山は潮汐加熱で予測される位置には存在しておらず、東に 30〜60° ずれている。Tyler らによる2015年の論文では、この東へのずれは地下にある溶けた岩石の海によって引き起こされている可能性が示唆された。このマグマの動きが、マグマの粘度による摩擦を介してさらなる熱を生成する。論文の著者らは、この地下の海は溶けた岩石と固体の岩石の混合物であると考えている。 太陽系内の他の衛星も潮汐加熱を受けており、同様に地下のマグマや水の海の摩擦を介して熱を生成していると思われる。内部海で熱を生み出すことのできるこのメカニズムは、エウロパやエンケラドゥスのような天体における生命の可能性を高めると考えられる。 太古からの月や火星、水星の表面についての経験に基づき、科学者はボイジャー1号の観測でイオの表面にも多数の衝突クレーターが発見されると期待していた。イオの表面のクレーター密度からは、イオの年齢についての情報を得ることができる。しかし実際の表面は衝突クレーターがほとんど完全に見られず、代わりに見られたのは高い山が点在する滑らかな平原、様々な形や大きさをした穴、火山性の溶岩流で覆われた表面であり、科学者たちは驚かされた。それまでに観測されていたほとんどの天体と比較すると、イオの表面は多様な硫黄化合物からなる色彩に富んだ物質によって覆われており、その見た目は腐ったオレンジやピザと比較された。クレーターがほとんど存在しないということは、イオの表面は地球と同様に地質学的に若いということを意味している。つまり、クレーターが形成されるそばから火山物質が埋めてしまうのである。この結果は、ボイジャー1号によって少なくとも9つの活火山が観測されたことにより、見事に確認された。 イオの色彩豊かな見た目は、その大規模な火山活動による輝石などの珪酸塩岩石、硫黄、二酸化硫黄などの物質の堆積の結果である。二酸化硫黄からなる霜はイオの表面に普遍的に存在しており、白や灰色で覆われた広大な領域を形成している。硫黄も同様にイオの大部分で見られ、黄色や黄緑色の領域を形成している。中緯度や極域に堆積した硫黄はしばしば放射線によって損傷され、通常は安定な八硫黄を破壊する。これによりイオの赤茶色の極域の模様が生成される。 爆発的な火山活動はしばしば傘状の噴煙を作り、表面を硫黄や珪酸塩を含む物質で彩る。イオ表面に堆積する噴煙は、噴煙中に存在する硫黄と二酸化硫黄の量に依存して赤や白を示す。一般的に、脱ガスする溶岩からの火口で形成される噴煙は大量の S2 を含んでおり、赤い扇状の堆積物を残す。あるいは極端な場合は、しばしば中央火口から 450 km にも達するような大きな赤いリングを形成する。赤いリングの噴煙堆積物の顕著な例はペレ火山に見られる。この赤い堆積物は主に三鎖と四鎖の硫黄分子、二酸化硫黄からなっており、あるいは塩化スルフリルも含んでいる可能性がある。珪酸塩岩石の溶岩流の縁に形成された噴煙は、溶岩と既存の硫黄・二酸化硫黄の堆積物との相互作用によって白か灰色の堆積物を生成する。 イオの組成の地図とイオが高い密度を持つという事実から、イオは微量の水しか含んでいないか、あるいは水を含まない組成であることが示唆される。ただし氷や含水鉱物の小さな穴は暫定的に発見されており、代表的なものはギシュ・バル火口の北西斜面に存在している。イオは太陽系の既知の天体の中では最も水の含有量が少ない天体である。この水の少なさは、木星は太陽系の形成と進化の初期段階ではイオ付近から揮発性物質を失わせるのに十分な高温であったが、さらに遠方まで失わせることは出来なかったことが原因であると考えられる。 強制されたイオの軌道離心率によって生み出される潮汐加熱により、イオは数百もの火山と広大な溶岩流を持った、太陽系の中でも最も火山活動が活発な天体となっている。大きな噴火の最中は、溶岩流は数十 km から数百 km に達することもあり、この溶岩はマグネシウムが豊富な苦鉄質や超苦鉄質岩を含む玄武岩からなる。この活動の副産物として、硫黄、二酸化硫黄ガスと灰のような火山砕屑岩が宇宙空間に最大で 200 km の高さにまで吹き上げられる。これにより傘状の噴煙が生成され、周囲の地形を赤や黒、白で彩られ、イオの不完全な大気や木星の磁気圏に物質が供給されている。 イオの表面は "paterae" として知られる火山性凹地が点在しており、その凹地は一般的には平坦な底部と、それを区切る急な壁から成り立っている。この地形は地球におけるカルデラに似ているが、地球のものと同様に空洞になったマグマ溜りが陥没することで形成されているのかどうかは分かっていない。ある仮説では、これらの地形は火山の土台部分が露出することによって形成され、上にあった物質は吹き飛ばされたか土台と一体化したかのどちらかであるとしている。この過程の様々な段階の paterae は、チャク・カマシュトリ領域 (Chaac-Camaxtli region) のガリレオ探査機を用いて観測されている。地球と火星における同様の地形とは異なり、これらの凹地は一般に楯状火山の頂上には見られず、また平均直径が 41 km と大きなサイズを持つ。最も大きなものは直径 202 km のロキ火口(英語版) (Loki Patera) である。ロキ火口はイオで最も強力な火山であり、イオ全体の熱出力に対して平均で 25% の割合を占めている。形成メカニズムがなんであれ、多くの火口の形態と分布はこれらの地形は構造的に制御されていることを示唆し、少なくとも半分は断層や山によって区切られている。これらの地形はしばしば火山噴火の場所となり、ギシュ・バル火口 (Gish Bar Patera) で2001年に見られた噴火のような paterae の底部を広がるような溶岩流を発生させたり、あるいは溶岩湖を形成したりする。イオの溶岩湖には、ペレ火口のように常に溶岩の外皮が入れ替わっているものや、ロキ火口のように散発的に入れ替わっているものがある。 溶岩流はイオの別の火山性地形も生み出す。火口の噴出孔から表面に噴出したマグマや割れ目から平原に流出したマグマは、ハワイのキラウエア火山で見られるような膨張し混合した溶岩流を生み出す。ガリレオ探査機が撮影した画像で、プロメテウス (Prometheus) 火山やアミラニ (Amirani) 火山で発生しているようなイオの大きな溶岩流の大部分は、古い溶岩流の上における小さな溶岩の流出によって生成されていることが明らかになっている。大きな溶岩流の発生もイオで観測されている。例えばプロメテウス火山の溶岩流の最先端は、1979年のボイジャーの観測と1996年のガリレオの初めての観測の間で 75〜95 km 移動している。1997年に発生した大噴火では面積にして 3500 km もの新鮮な溶岩が噴出し、隣接するピッラン火口の底部が溶岩で氾濫した。 ボイジャーの画像の分析から、科学者たちはこれらの溶岩流は主に様々な溶融した硫黄化合物からなると考えた。しかし、その後の地上からの赤外線観測とガリレオ探査機による測定では、これらの溶岩流は苦鉄質や超苦鉄質岩を含む玄武岩が主成分であることが示唆された。この仮説はイオの「ホットスポット」と呼ばれる熱放射をしている場所における温度測定の結果に基づいている。それによると、ホットスポットの温度は少なくとも 1300 K であり、場所によっては 1600 K に達することもある。噴火の温度は初期の推定では 2000 K に達することが示唆されていたが、これは後に温度モデルに誤った熱モデルを用いたことによる過大評価であることが示された。 ペレ火口とロキ火口での噴煙の発見は、イオが地質学的に活発であることを示した初めてのサインであった。一般的にこれらの噴煙は、イオの火山から硫黄や二酸化硫黄のような揮発性物質が上空へ向かって 1 km/s に達する速度で噴出された時に形成され、ガスと塵による傘状の雲を形成する。これらの火山の噴煙中に発見される可能性のある物質として、ナトリウム、カリウムや塩素がある。これらの噴煙は、2つの可能性のうち1つの方法で形成されるように思われる。ペレ火口から噴出しているようなイオの最大級の噴煙は、溶解した硫黄と二酸化硫黄ガスが火山の噴出孔や溶岩湖から噴出するマグマから解放される際に発生し、しばしば珪酸塩の火山砕屑物が共に引きずられて噴出する。これらの噴煙は短鎖硫黄による赤と珪酸塩の火山砕屑物による黒の堆積物を表面に形成する。このようにして発生した噴煙はイオで観測された最大級のものになり、直径 1000 km を超える赤いリング状の模様を形成する。この形態の噴煙は、例えばペレ火口、トゥワシュトラ火口、ダジボーグ火口 (Dazhbog Patera) で見られる。別の形態の噴煙は、侵入する溶岩流がその下にある二酸化硫黄の霜を蒸発させた時に発生し、硫黄を上空へ送り出す。この形態の噴煙は、しばしば二酸化硫黄からなる明るい円状の堆積物を生成する。これらの噴煙の高度は 100 km を下回るものが多く、イオにおいて最も長寿命の噴煙である。プロメテウス火山、アミラニ火山、マスビ (Masubi) 火山で見られる噴煙がこの例である。噴出した硫黄化合物は、イオの上部地殻からリソスフェアのより深いところでの硫黄溶解度が減少するところに濃集しており、ホットスポットの噴火様式を決定する要因となる。 イオは100から150の山を持つ。これらの構造は、高さは平均で 6 km、最も高いものはボオサウレ山脈(英語版) (Boösaule Montes) の南の 17.5 ± 1.5 である。山地はしばしば長く連なり、平均で 157 km の長さに達する。また地球で見られるものとは異なり、全球的なテクトニクスの特徴は見られず孤立した構造をしている。これらの山地の途方もない地形を支えるためには、硫黄ではなく主に珪酸塩岩石からなる組成が必要である。 イオに独特な外観を与えている大規模な火山活動があるにも関わらず、山地のほとんど全てはテクトニックな構造をしており、火山によって形成されたものではない。そのかわりに、イオの大部分の山地はリソスフェア底部における圧縮応力の結果として形成されたものであり、衝上断層によってイオの地殻の塊を隆起させ傾けている。山地の形成を起こす圧縮応力は、火山物質の継続的な埋没による地盤沈下の結果として発生する。山地の全球的な分布は、火山構造の分布とは対照的である。つまり、山地は火山が少ない領域に多く、逆に火山は山地が少ない領域に多い。このことは、イオのリソスフェアの大規模な領域で、山地の形成を起こす圧縮と、火口を形成する伸張が支配的であることを示唆している。しかし局所的には山地と火口が互いに隣接している場合もあり、マグマはしばしば地表に到達するために山地の形成中に生まれた断層を通って噴出していることを示唆している。 イオの山地 (周囲の平原から盛り上がっている構造を指す) は、様々な形態を見せる。台地がもっとも一般的な形態である。これらの構造は、起伏の大きな表面を持つ、大きく頂上が平坦なメサに似ている。他の山地は傾斜した地殻の塊のように見え、かつては平らな表面であった緩やかな斜面と、圧縮応力によって隆起したかつての地下の物質からなる急斜面を伴う。どちらの形態の山地も、しばしば1つ以上の縁に沿って急な断崖を持っている。山地のうち火山活動に起源を持つものはごく一部である。このようなタイプの山地は小規模な楯状火山に似ており、中央の小さいカルデラの付近の急斜面 (6〜7°) と、縁に沿った緩やかな斜面を持つ。これらの火山性の山地はイオにおける平均的な山地よりも小さいものが多く、平均の高さはわずか 1〜2 km、幅は 40〜60 km である。さらに緩やかな斜面を持つその他の楯状火山の存在がいくつかのイオの火山の形態から推論されており、その例がラー火口 (Ra Patera) のような中央の火口から薄い溶岩流が流出している地形である。 ほとんど全ての山地は劣化している段階にあるように思われる。イオの山地の基盤部分では大規模な地すべり堆積物が広範に見られており、物質移動が山地の劣化の主要な形態であることを示唆している。イオのメサと台地では波打った形状の縁が一般的に見られ、これはイオの地殻からの二酸化硫黄による掘り起こし (sapping) により、山地の縁に沿って脆弱な領域が出来ているためである。 イオは極めて薄い大気を持っている。主成分は二酸化硫黄 (SO2) で、微量成分として一酸化硫黄 (SO)、塩化ナトリウム (NaCl)、硫黄原子と酸素を含む。大気は、一日の時間や緯度、火山活動、表面の霜の存在量によって密度と温度が共に大きく変化する。イオにおける大気圧の最大値は 3.3×10〜3×10 Pa であり、空間的にはイオの木星の反対側の半球と赤道に沿った領域、時間的には表面の霜の温度が最も高くなる昼下がりが最も大気圧が大きい。火山の噴煙における局所的な最大値も見られ、これは 5×10〜4×10 Pa になる。イオの大気圧はイオの夜面で最も低くなり、0.1×10〜1×10 Pa にまで低下する。 イオの大気温度の範囲は、低いものでは二酸化硫黄が表面の霜と蒸気圧平衡になる温度から、高いものでは大気高層で大気密度が低く、イオのプラズマトーラスからの加熱とイオの磁束管からのジュール加熱によって 1800 K に達するような場合まで様々である。この低圧の影響で、夜側では大気の影響は表面付近に限定される。ただし霜の多い領域から少ない領域へ二酸化硫黄が一時的に再分配される場合や、噴煙の物質が昼側の厚い大気に再突入した際の噴煙堆積物のサイズの拡大は例外である。イオの大気は非常に薄いため、イオを探査するための将来のあらゆる着陸機はエアロシェル型の熱シールドに入れる必要は無いが、そのかわりに軟着陸するためには逆噴射スラスタが必要である。また放射線を減衰させる厚い大気が無いため、着陸機は強い木星放射線に耐えられるような頑丈さが必要とされる。 イオの大気中のガスは木星の磁気圏によってはぎ取られ、イオを取り囲む中性粒子の雲へと散逸するか、またはイオの軌道上にあるが木星の磁気圏と共回転するイオン化された粒子の環であるイオのプラズマトーラスへと散逸する。このプロセスによって1秒あたりおよそ1トンもの大気がイオから持ち去られているため、大気は常に補充されているはずである。二酸化硫黄の最も重要な起源は火山の噴煙であり、平均で1秒あたり ×10 kg もの二酸化硫黄を大気中に放出するが、その大部分は再び表面に凝縮する。イオの大気中の二酸化硫黄の大部分は、表面に凍りついた二酸化硫黄の太陽光による昇華によって維持されている。昼側の大気の大部分は、表面が最も暖かく最も活動的な火山の噴煙が存在する、赤道から 40° 以内に限られている。大気の大部分が昇華によって生み出されているという考えは、二酸化硫黄の霜が最も多い木星の反対側の半球でイオの大気が最も高密度になるという観測事実と一致し、またイオが太陽に近いほど密度が高いという観測事実とも一致する。しかし火山の噴出孔付近で観測された最も高い大気密度を説明するためには、火山の噴煙からの寄与も必要である。 大気中の二酸化硫黄の密度は表面温度と直接関係しているため、夜の間、もしくはイオが木星の影に入っている間は、イオの大気は部分的に崩壊する (柱密度が ~80% 減少する)。木星による日食の際の大気崩壊は、大気下部に一酸化硫黄の拡散層が形成されることによっていくらか抑えられるものの、イオの夜側での大気圧はイオでの南中過ぎにおける最大気圧時よりも2〜4桁も小さくなる。塩化ナトリウム、一酸化硫黄、酸素原子や硫黄原子といったイオの大気の微量成分の起源は、火山の脱ガス、太陽の紫外線放射による二酸化硫黄の光解離や化学分解、木星の磁気圏からの荷電粒子による表面堆積物のスパッタリングである。 様々な科学者によって、イオが木星の影を通過する際にイオの大気が表面に凝華するという仮説が提唱されてきた。これの証拠は「食後の増光」であり、食の直後は表面が霜で覆われているために衛星がわずかに明るく見えるというものである。およそ15分で明るさは通常時に戻るが、これは昇華によって霜が消失したためと考えられる。食直後の増光は、地上望遠鏡からの観測の他に、カッシーニに搭載された機器を用いて近赤外線波長でも観測された。2013年にはジェミニ天文台での観測によって、木星による食の最中の二酸化硫黄大気の崩壊と、食の直後の大気の再形成が直接測定され、この現象の存在がさらに支持されることとなった。 イオが木星による食を経験している最中の高分解能の撮像観測から、オーロラ状の発光の存在が明らかになっている。地球でのオーロラと同様に大気に粒子放射線が衝突することによって発生しているが、イオの場合は荷電粒子は太陽風起源ではなく木星の磁場から来たものである。オーロラは通常惑星の磁極周辺で発生するが、イオのオーロラの場合は赤道周辺が最も明るい。イオは自身の固有磁場を持っていない。そのため、木星の磁場に沿って移動する電子はイオの大気に直接衝突する。磁力線がイオに垂直になる場所 (つまり赤道付近) ではイオの大気を電子が通過する経路が最も長くなるためより多くの電子が大気に衝突し、最も明るいオーロラを生み出す。イオと磁力線が垂直に交わる部分で発生するオーロラは、木星の傾いた磁気双極子の向きが変化するのに伴って揺れ動くのが観測されている。イオの周縁に沿った酸素原子からの微かなオーロラ (右図の赤い発光) と、イオの夜側でのナトリウム原子によるオーロラ (同じ図の緑の発光) も同じく観測されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "イオ (Jupiter I Io) は、木星の第1衛星である。4つのガリレオ衛星の中で最も内側を公転する衛星である。太陽系の衛星の中で4番目に大きく、また最も高密度の衛星である。太陽系の中で最も水を含む割合が少ない天体でもあり、多くの活火山をもつ衛星として知られている。1610年に発見され、ギリシア神話に登場する女神イーオーに因んで命名された。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "イオには400個を超える火山があり、太陽系内で最も地質学的に活発な天体である。この極端な地質活動は、木星と他のガリレオ衛星であるエウロパ、ガニメデとの重力相互作用に伴うイオ内部での潮汐加熱の結果である。いくつかの火山は硫黄と二酸化硫黄の噴煙を発生させており、その高さは表面から 500 km にも達する。イオの表面には100以上の山も見られ、イオの岩石地殻の底部における圧縮によって持ち上げられ形成されたと考えられる。これらのうちいくつかはエベレストよりも高い。大部分が水の氷からなる大部分の太陽系遠方の衛星とは異なり、イオの主成分は岩石であり、溶けた鉄もしくは硫化鉄の核を岩石が取り囲んだ構造をしている。イオの表面の大部分は、硫黄と二酸化硫黄の霜で覆われた広い平原からなっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "イオの火山活動は表面の独特の特徴を生み出している。イオの火山噴出物と溶岩流は表面の様相を大きく変化させ、黄、赤、白、黒と緑の微妙な色彩で彩っている。これらの多くは硫黄の同素体と硫黄化合物からなっている。また、長さが 500 km 以上にもおよぶ多数の溶岩流が表面に見られる。この火山活動によって生成される物質が、イオの薄く不完全な大気と木星の磁気圏を作り上げている。イオの火山噴出物は木星の周りの大きなプラズマトーラスを形成している。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "イオは17世紀と18世紀における天文学の発展において大きな役割を果たした。イオは1610年1月にガリレオ・ガリレイによって、他のガリレオ衛星と共に発見された。この発見は地動説を後押しし、ケプラーの法則の発展につながり、さらにはオーレ・レーマーによる光速度の初めての具体的な測定にもつながった。地球からは、19世紀後半から20世紀初頭にかけてはイオは点として観測されていたにとどまったが、その後は暗い赤い極域や明るい赤道領域などの大規模な表面の特徴が分解できるようになった。1979年にはボイジャー計画によって2つの探査機による観測が行われ、多数の火山活動や大きな山、明確な衝突クレーターが見られない若い表面など、地質学的に活発な姿が明らかになった。ガリレオ探査機は1990年代と2000年代初頭に数回の近接フライバイを行い、イオの内部構造と表面組成に関するデータを取得している。これらの探査機は、イオと木星の磁気圏の関連も明らかにし、イオの軌道を中心とする高エネルギーの放射線帯の存在も発見した。イオは1日あたり 36 Sv もの電離放射線を受けている。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "その後、2000年には探査機カッシーニ、2007年には冥王星探査機ニュー・ホライズンズ、2017年以降はジュノーによるさらなる観測が行われ、並行して地上望遠鏡やハッブル宇宙望遠鏡による観測も行われている。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "イオは1610年1月7日に、ガリレオ・ガリレイがパドヴァ大学においてガリレオ式望遠鏡を用いて発見した。しかしその観測では望遠鏡の性能不足のため、ガリレオはイオとエウロパを区別することが出来ず、両者は1つの光点として記録された。ガリレオがイオとエウロパを別々の天体として観測したのは翌日の1610年1月8日のことであり、この日付が国際天文学連合 (IAU) に発見日として認められている。イオとその他のガリレオ衛星の発見は、1610年3月の『星界の報告』で発表された。", "title": "発見" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1614年にシモン・マリウスが出版した『Mundus Jovialis』の中で、マリウスはガリレオの発見より1週間前の1609年にイオとその他のガリレオ衛星を発見したと主張した。ガリレオはこの主張を疑い、マリウスのこの著作は盗作であるとして退けた。マリウスの観測記録はユリウス暦の1609年12月29日から始まっており、これはガリレオが用いていたグレゴリオ暦では1610年1月8日にあたる。ガリレオがマリウスより先に発見を発表していることから、ガリレオが発見者として記録されている。", "title": "発見" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "シモン・マリウスはガリレオ衛星の発見者とは認められなかったものの、彼がガリレオ衛星に対して提案した名称は採用されている。彼は1614年の出版物 Mundus Iovialis anno M.DC.IX Detectus Ope Perspicilli Belgici の中でガリレオ衛星の最も内側のものにいくつかの名前を提案しており、その中には「木星の水星 (The Mercury of Jupiter)」や「木星の一番目の惑星 (The First of the Jovian Planets)」というものもあった。1613年のヨハネス・ケプラーの助言に基づき、彼はギリシア神話のゼウスや、それに相当するローマ神話のユーピテルの愛人から名前を与えることを考案した。彼は木星の最も内側の大衛星に対し、ギリシア神話の登場人物であるイーオーに因んで名前を与えた。マリウスが提案した名前は20世紀中頃までは広く受け入れられていなかった。初期の天文学の文献の多くでは、イオは一般にローマ数字を用いて Jupiter I と表記されたり (これはガリレオが導入した表記である)、あるいは「木星の一番目の衛星」と表記された。", "title": "命名" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "なお、同名の小惑星イオも存在する。", "title": "命名" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "イオ表面の地形は、イオの神話の人物や場所、様々な神話における火や火山、太陽、雷の神、そしてダンテの『神曲』の人物や場所など、その火山性の表面にふさわしい名前が付けられている。ボイジャー1号によって表面の近接画像が初めて得られて以降、国際天文学連合はイオの火山や山、平野や大きなアルベドの特徴に対して、225の名称を承認している。承認されたイオの火山性の地形の中には、「パテラ」(火山性凹地)、「フルクトゥス」(溶岩流)、活火山 (特定の火山において、噴火活動が最初の火山活動の兆候であったもの) などがある。命名された山、平原、層状の地形、楯状火山は、それぞれ名称に mons、mensa (テーブル)、planum、tholus (ロタンダ) を含んでいる。明るいアルベドを持つ領域は regio という用語が使用されている。命名された地形の例としては、プロメテウス火山、パン卓状台地 (Pan Mensa) などがある。", "title": "命名" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "日本と関連したものには、日本神話に由来するアマテラス・パテラ、ヒルコ・パテラ、スサノオ・パテラ、マスビ・フルクトゥス、不動明王(アチャラ・ナータ)に由来するアチャラ・フルクトゥス、アイヌの神話に由来するフチ・パテラ、日本語に由来するカミナリ・パテラ、ライデン・パテラ、センゲン・パテラがある。", "title": "命名" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "発見されてから250年ほどの間は、イオは望遠鏡で5等級の点として観測される天体のままであった。17世紀の間にイオやその他のガリレオ衛星は、経度の決定する初期の手法、ケプラーの第三法則の検証、木星と地球の間を光が進むのに必要な時間の決定など、様々な目的を果たすために用いられた。天文学者のジョヴァンニ・カッシーニらによって作成された天体暦に基づき、ピエール=シモン・ラプラスはイオ、エウロパ、ガニメデの共鳴軌道を説明するための数学理論を構築した。この共鳴はのちにこれら3つの衛星の地質に大きな影響を及ぼすことが判明した。", "title": "観測の歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "19世紀後半から20世紀にかけての望遠鏡技術の進歩により、天文学者はイオの大規模な表面の特徴を光学的に分解できるようになった。1890年代に、エドワード・エマーソン・バーナードがイオの赤道領域と極領域の明るさに違いがあることを初めて観測した。バーナードと同期の天文学者であるウィリアム・ヘンリー・ピッカリングはイオが卵状の形状をしていると解釈し、バーナードも初めは2つの分離した天体からなると考えていたが、後に2つの領域で色とアルベドが異なることが原因であると正しく解釈した。後の望遠鏡観測で、イオの明確な赤茶色の極域と、黄白色の赤道帯が確認された。", "title": "観測の歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "20世紀中盤の望遠鏡観測では、イオの異様な性質が明らかになり始めた。分光観測からは、他のガリレオ衛星とは異なり表面に水が全く存在していないことが示唆された。同じ観測では、表面はナトリウム塩と硫黄からなる揮発性物質が占めていることが示唆された。電波望遠鏡観測では、イオの軌道周期と結びついたデカメートル波の波長でのバーストなどに見られるような、木星の磁気圏にイオが及ぼす影響も明らかになった。", "title": "観測の歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "イオを通過した初めての探査機は、パイオニア計画のパイオニア10号と11号であり、それぞれ1973年12月3日と1974年12月2日にイオ付近を通過した。電波追跡によりイオの質量の推定値が改善され、そのサイズに関する情報からイオがガリレオ衛星の中で最大の密度を持つこと、また水氷ではなく主に珪酸塩の岩石からなることが示唆された。パイオニアはさらに薄い大気の存在と、イオの軌道付近の強い放射線帯の存在を明らかにした。両探査機で得られた画像のうち、パイオニア11号に搭載されたカメラによって撮影された北極領域の画像のみが良質のものであった。近接画像はパイオニア10号の接近の際にも撮影することが予定されていたが、これらは高放射線環境のせいで失われてしまった。", "title": "観測の歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ボイジャー計画による2つの探査機ボイジャー1号と2号が1979年にイオを通過した際は、進化した撮像システムによってさらに詳細な画像が得られた。ボイジャー1号は1979年3月5日に 20,600 km の距離を通過した。接近の最中に送信された画像からは、奇妙な、多色に彩られた衝突クレーターのない風景が明らかになった。最も高い解像度の画像では、奇妙な形状の穴、エベレスト山よりも高い山々、溶岩流に似た地形を持つ、比較的若い表面が見られた。", "title": "観測の歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "近接遭遇の直後に、ボイジャーのナビゲーションエンジニアである Linda A. Morabito は、画像の1つに表面から噴出する噴煙に気が付いた。ボイジャー1号が撮影したその他の画像を解析したところ、表面に散在する同様の噴煙が9つ発見され、イオは活発な火山活動を起こしていることが明らかになった。この結果は、ボイジャー1号の接近の直前に発表された、Stan Peale, Patrick Cassen, と R. T. Reynolds による論文の中で予測されていた。Peale らは、イオの内部はエウロパ、ガニメデとの軌道共鳴によって引き起こされる大きな潮汐加熱を経験するということを計算していた。このフライバイで取得されたデータは、イオの表面は硫黄と二酸化硫黄の霜で覆われていることを示した。これらの化合物はイオの薄い大気の成分でもあり、またイオの軌道を中心としたプラズマトーラスの成分でもある。", "title": "観測の歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ボイジャー2号は1979年7月9日に 1,130,000 km の距離を通過した。ボイジャー1号ほどは接近しなかったものの、両探査機で撮影された画像を比較することで、4ヶ月の間に表面の様子がいくらか変化している様子を見ることができた。さらに、ボイジャー2号が木星系を離れる際に三日月状に太陽光が当たるイオの観測からは、3月に観測された9つの噴煙のうち7つは1979年7月の段階で活動しており、ペレ火山だけが2機のフライバイの間に活動を停止したことが明らかになった。", "title": "観測の歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ガリレオ探査機は、地球から6年の歳月をかけて1995年に木星に到達し、ボイジャーの2機の観測や、それ以降に地上から行われた観測による発見の追跡調査を行った。イオは木星の最も強力な放射線帯のうちのひとつの中に位置しているため長期にわたる近接フライバイは行われなかったが,木星系を探査する2年間の主要ミッションのための軌道に入る直前にイオに接近した。1995年12月7日の近接フライバイの際には画像は撮影しなかったが、内部太陽系の岩石惑星に見られるのに似た大きな鉄の核の発見などの重要な成果が得られた。", "title": "観測の歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "接近画像を取得しなかったことや、データの送信に大きな制限を与えた機器の異常などの影響はあったものの、ガリレオの主要ミッションの間にいくつかの重要な発見がなされた。ガリレオはピッラン火口での大きな噴火の影響を観測し、火山噴火はマグネシウムが豊富な苦鉄質と超苦鉄質岩の珪酸塩のマグマからなることを確認した。イオの遠方からの撮影は主要ミッション中のほぼ全ての軌道で得られ、多数の活発な火山 (表面で冷却するマグマからの熱放射と火山の噴煙の両方)、形状が大きく異なる多数の山、およびボイジャーが観測した時期とガリレオの時期やガリレオミッション中でのいくつかの表面の変化の存在が明らかになった。", "title": "観測の歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ガリレオのミッションは1997年と2000年の二度にわたって延長された。これらの延長ミッションの最中に、ガリレオによるイオへの接近は1999年後半に3回、2000年前半、2001年後半に3回、2002年前半に行われた。これらの接近での観測では、イオの火山と山で発生する地質学的プロセスを明らかにし、磁場の存在を否定し、火山活動の規模を示した。2000年12月には、カッシーニが土星に向かう最中に木星系に遠方かつ短時間の接近を行い、ガリレオとの共同観測が実現した。これらの観測では、トゥワシュトラ火口 (Tvashtar Paterae) における新しい噴煙が明らかになり、イオのオーロラについての知見も得られた。", "title": "観測の歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2003年にガリレオ探査機が計画的に木星大気に突入してミッションが終了した後は、イオの火山活動の新しい観測は地上望遠鏡から行われた。特に、ハワイのケック望遠鏡での補償光学を用いた撮像とハッブル宇宙望遠鏡での撮像により、天文学者はイオの活発な火山をモニターすることが出来た。この撮像観測により、木星付近にまで探査機を送り込まずとも、科学者たちはイオの火山活動を監視することが出来た。", "title": "観測の歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ニュー・ホライズンズは冥王星とエッジワース・カイパーベルトに向かう途上で、2007年2月28日に木星系を通過した。この遭遇の最中に、遠方からのイオの観測が多数行われた。この時の画像の中にはトゥワシュトラ火口における大きな噴煙も含まれており、1979年のペレ火山の噴煙の観測以来初めてとなる、イオの最大級の火山噴火の詳細な観測が行われた。ニュー・ホライズンズはギッル火口 (Girru Patera) 付近の噴火の初期段階の画像も取得しており、ガリレオの観測以降に発生したいくつかの火山噴火も捉えている。", "title": "観測の歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "木星系の探査ミッションには、進行中のものが1つ、間近に迫ったものが1つある。2011年8月5日に打ち上げられたジュノーは撮影能力は限られているものの、赤外線オーロラマッピング装置 JIRAM を用いてイオの火山活動をモニターすることができる。", "title": "観測の歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "Jupiter Icy Moon Explolerは欧州宇宙機関によって計画されているミッションで、最終的にはガニメデの周回軌道に入ることが予定されている。JUICE は2022年に打ち上げ、2030年1月に木星に到達することが予定されている。JUICE はイオをフライバイする予定はないが、ガニメデ周回軌道へ投入する前の2年間の木星周遊段階では、狭角カメラなどの搭載した機器を用いてイオの火山活動をモニターし、表面組成を測定することが予定されている。", "title": "観測の歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "Io Volcano Observer (IVO) はディスカバリー計画として提案されている2021年打ち上げ予定のミッションである。2026年から開始する木星周回軌道でのミッションにおいて、複数回のイオのフライバイを行うことが計画されている。", "title": "観測の歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "イオは木星の中心から 421,700 km の距離を公転しており、木星の雲頂からの距離は 350,000 km である。ガリレオ衛星の中では最も内側を公転しており、軌道はテーベとエウロパの間にある。木星の木星内部衛星群を含むと、内側から5番目の衛星である。木星の周りをおよそ42.5時間かけて1周している (1晩の観測でその動きが観測できるほど速い)。", "title": "軌道と自転" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "イオはエウロパと 2:1 の平均運動共鳴を起こしており、またガニメデとは 4:1 の平均運動共鳴を起こしている。そのためイオが木星を2周する間にエウロパは1周し、イオが4周する間にガニメデは1周する。この関係はラプラス共鳴と呼ばれる。この共鳴によってイオの軌道離心率は0.0041に保たれており、地質学的活動を起こす主要な熱源となっている。この強制的な軌道離心率が無ければ、イオの軌道は潮汐力によって円軌道化され、地質学的に不活発な天体になるだろう。", "title": "軌道と自転" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "他のガリレオ衛星や月と同様に、イオの自転は公転周期と同期しており、同じ面を木星に向け続けている。この同期性を元にイオの経度系が定義されている。イオの本初子午線は、木星直下点で赤道と交差するように定義されている。常に木星を向いている面は sub-Jovian hemisphere (木星に面する半球) と呼ばれ、反対側は anti-Jovian hemisphere (木星から見て反対側の半球) と呼ばれる。常にイオが公転する方向を向いた側は leading hemisphere (先行半球)、常に公転する方向の逆を向いた側は trailing hemisphere (後行半球) として知られている。", "title": "軌道と自転" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "イオの表面からは、木星の視直径は 19.5° に見える。これは地球から見た月の見かけの大きさの39倍である。", "title": "軌道と自転" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "イオは木星の磁気圏を形作る上で重要な役割を果たしている。イオは 400,000 ボルトもの電圧の発電機として働き、300万アンペアの電流を生成し、木星に磁気圏を2倍以上の大きさに膨張させるイオンを放出する。木星の磁気圏はイオの薄い大気からのガスとダストを掃き集めており、その量は1秒あたり1トンにもおよぶ。この物質は大部分がイオンか原子状の硫黄、酸素と塩素、原子状のナトリウムやカリウム、分子状の二酸化硫黄と硫黄、そして塩化ナトリウムの塵である。これらの物質はイオの火山活動に起源を持つものだが、木星の磁気圏に散逸し惑星間空間にやってくる物質はイオの大気から直接来るものである。これらの物質は、その電離状態や組成に依存するが、最終的に様々な中性物質の雲や木星磁気圏内の放射線帯に到達し、場合によってはその後木星系から放出されることもある。", "title": "木星磁気圏との相互作用" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "表面からイオ半径の6倍程度の距離までに広がりイオを取り囲んでいるのは、中性の硫黄、酸素、ナトリウム、カリウム原子の雲である。これらの粒子はイオの高層大気に起源を持ち、プラズマガストーラス中のイオンとの衝突によって励起され、その他の過程によってイオのヒル球 (イオの重力が木星の重力を上回る領域) を満たしている。この物質の一部はイオの重力を振り切って木星を周回する軌道に入る。20時間かけてこれらの粒子はイオから拡散してバナナ型の中性雲を形成し、この構造はイオの軌道の内側ではイオの前方に向かって、イオの軌道の外側ではイオの後方に向かって、木星半径の6倍の距離にまで広がる。これらの粒子を励起する衝突過程は、時々プラズマトーラス中のナトリウムイオンに電子を供給して再結合し、これによって生成された新しい高速の中性粒子はトーラスから除去される。これらの粒子は 70 km/s 程度の速度を得て (イオの軌道速度は 17 km/s である)、イオから遠ざかるジェットとして放出される。", "title": "木星磁気圏との相互作用" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "イオは、イオプラズマトーラスとして知られる強い放射線帯の中を公転している。この電離した硫黄、酸素、ナトリウム、塩素のドーナツ型の環にあるプラズマは、イオを取り囲む「雲」の中にある中性原子が電離され木星の磁気圏によって運ばれる際に発生する。中性の雲の中にある粒子とは異なり、これらの粒子は木星の磁気圏と共回転し、木星の周りを 74 km/s で公転する。木星磁場の他の部分と同様にプラズマトーラスは木星の赤道面 (そしてイオの軌道面) に対して傾いているため、イオはある時はプラズマトーラスの中心より上にあり、ある時は下にある。先述の通りこれらのイオンは高速で高エネルギーであるため、イオの大気や広がった中性雲から中性原子や分子を除去する働きがある。", "title": "木星磁気圏との相互作用" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "トーラスは3つの区分から成り立っている。1つ目はイオの軌道のすぐ外側にある「温かい」トーラスである。2つ目は「リボン」として知られる垂直方向に広がった領域で、木星からイオまでの距離に位置しており、中性物質の起源と冷却するプラズマからなる。3つ目は「冷たい」トーラスで、木星へ向かって徐々にらせん状に落下していく粒子からなる。「温かい」トーラス内の粒子はトーラス内に平均で40日とどまった後に脱出し、木星の異常に大きい磁気圏の部分的な原因となり、外向きの圧力で磁気圏を内部から膨張させている。イオからの粒子は磁気圏プラズマの変動として検出され、これはニュー・ホライズンズによって非常に長い磁気圏尾として検出された。プラズマトーラス内の同じような変動を研究するためには、それが放射する紫外線を測定するという方法もある。このような変動は、プラズマトーラス内の物質の究極的な源であるイオの火山活動とは明確には結び付いていないものの、中性ナトリウムの雲を介して関連している。", "title": "木星磁気圏との相互作用" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "探査機ユリシーズが1992年に木星に接近した際、木星系から放出されるダストサイズの粒子の流れを検出している。離散した流れの中にあるダストは数百 km/s 以上の速度で木星から遠ざかっており、粒径の平均は 10 μm で、塩化ナトリウムが主成分であった。ガリレオ探査機によるダストの測定では、これらのダストの流れはイオが起源であることが示されたが、どのように形成されたのか、イオの火山活動が起源なのかあるいは表面から除去された物質が起源なのかについては明らかになっていない。", "title": "木星磁気圏との相互作用" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "イオを横切っている木星の磁力線は磁束管として知られる電流を生み出して、イオの大気および中性雲と、木星の極域の高層大気を結合している。この電流は、\"Io footprint\" (イオの足跡) として知られている木星の極域でのオーロラ発光や、イオの大気でのオーロラを生み出している。このオーロラ相互作用による粒子は可視光の波長で木星の極域を暗く見せる。地球と木星に対するイオとそのオーロラの足跡の位置は、地球から見たときの木星電波放射に強い影響を与える。イオが見えている時は、木星からの電波は大幅に増加する。現在木星を公転する軌道に入るジュノーは、この過程を明らかにする観測を行っている。イオの電離圏を横切らなかった木星の磁力線も電流を誘導し、イオの内部に誘導磁場を生成する。イオの誘導磁場は、表面から 50 km 下にある部分的に溶融した珪酸塩マグマの中で発生すると考えられている。同様の誘導磁場はガリレオ探査機によって他のガリレオ衛星にも発見されており、これらの衛星内部の液体の水の海で発生している。", "title": "木星磁気圏との相互作用" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "イオは地球の衛星である月よりわずかに大きい。平均半径は 1821.3 km と月より 5% だけ大きく、質量は 8.9319×10 kg と月より 21% 重い。わずかに楕円体の形状をしており、長軸を木星の方向に向けている。ガリレオ衛星の中では質量・半径は共にガニメデとカリストに劣るものの、エウロパは上回っている。", "title": "地質" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "イオの主成分は珪酸塩の岩石と鉄であり、水の氷と珪酸塩岩石の混合物が主成分である太陽系遠方の他の衛星とは異なり、全体の組成は地球型惑星に近い。イオの密度は 3.5275 g/cm であり、太陽系のどの衛星よりも高密度である。ガリレオ衛星、特に密度がおよそ 1.9 g/cm であるガニメデとカリストと比べると際立って高い。また月の密度である 3.344 g/cm をわずかに上回る。ボイジャーとガリレオによるイオの質量、半径、四重極重力係数 (天体内部で質量がどう分布しているかに関係する数値) の測定に基づくモデルでは、内部は岩石豊富な地殻とマントル、鉄もしくは硫化鉄が豊富な核に分化していることが示唆されている。イオの金属核は質量のおよそ 20% を占める。核に含まれる硫黄の量に依存するが、核がほとんど鉄でできていた場合は半径が 350〜650 km、鉄と硫黄の混合物で出来ていた場合は 550〜900 km と推定されている。ガリレオの磁気センサでは内部のイオの固有磁場を検出することが出来ず、核は対流を起こしていないことが示唆された。しかしその後のデータの再解析では磁場があることが示されている。", "title": "地質" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "イオの内部組成のモデルでは、マントルは少なくとも 75% がマグネシウム豊富な苦土橄欖石で出来ており、全体の組成はL型普通コンドライトやLL型普通コンドライトの隕石と似ていることが示唆されている。ケイ素に対する鉄の量は月や地球よりは大きいが、火星よりは小さい。イオで観測された熱流を説明するためイオのマントルは 10〜20% が溶けていると考えられるが、高温の火山活動が観測されている領域では溶融率は高い可能性がある。しかし2009年に行われたガリレオ探査機の磁気センサデータの再解析では、イオに誘導磁場が存在することが明らかになり、これを説明するためには表面から 50 km 下にマグマオーシャンが存在している必要がある。2011年に発表されたさらなる解析では、このようなマグマオーシャンの直接証拠が得られた。この層は厚さ 50 km で、イオのマントルのおよそ 10% を占めると推定されている。マグマオーシャンの温度は 1200 °C に達すると推定されている。イオのマントルの 10〜20% が部分的に溶融しているという事が、マグマオーシャンにおける溶融した珪酸塩の必要量と矛盾しないかどうかは分かっていない。玄武岩とイオの火山活動による硫黄の堆積物からなるイオのリソスフェアは、少なくとも 12 km の厚みを持ち、また 40 km よりは薄い。", "title": "地質" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "放射性同位体の崩壊熱が主な内部熱源である地球や月とは異なり、イオの主要な熱源は潮汐散逸であり、これはエウロパとガニメデとの軌道共鳴の結果である。この加熱は、イオの木星からの距離、軌道離心率、内部組成と物理的な状態に依存する。エウロパとガニメデとのラプラス共鳴は、イオの軌道が潮汐散逸によって完全に円軌道化されるのを防ぎ、軌道離心率の値を維持している。この共鳴はイオと木星の距離を維持するのも助けている。共鳴が存在しなければ、イオにはたらく木星の潮汐力によってイオは徐々に外側に移動してしまうであろう。イオの潮汐バルジの垂直方向長さはイオが近点と遠点にいる時では最大で 100 m ほど変化する。この変化する潮汐力によってイオの内部では摩擦や潮汐散逸が発生し、イオの内部に大きな潮汐加熱をもたらし、イオのマントルと核の大部分を溶融させる。共鳴がなかった場合はこの潮汐散逸は軌道離心率を減少させ、円軌道にするようにはたらくことになる。潮汐加熱によって生み出されるエネルギーは、放射性物質の崩壊のみで生み出されるエネルギーの最大で200倍になる。この熱は火山活動という形で解放され、測定されている高い熱輸送を生み出す (全球で (0.6-1.6×10 W))。イオの軌道モデルは、イオ内部での潮汐加熱の量は時間と共に変化していることを示唆している。しかし現在の潮汐散逸の量は観測されている熱流量とは矛盾しない。潮汐加熱と対流のモデルでは、潮汐エネルギー散逸と地表へのマントル対流の熱を同時に説明できるような、衛星の粘性分布を見つけることが出来ていない。", "title": "地質" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "木星とその衛星エウロパからの引力による潮汐加熱がイオに見られる多くの火山の熱源になっているという点については広く受け入れられているものの、火山は潮汐加熱で予測される位置には存在しておらず、東に 30〜60° ずれている。Tyler らによる2015年の論文では、この東へのずれは地下にある溶けた岩石の海によって引き起こされている可能性が示唆された。このマグマの動きが、マグマの粘度による摩擦を介してさらなる熱を生成する。論文の著者らは、この地下の海は溶けた岩石と固体の岩石の混合物であると考えている。", "title": "地質" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "太陽系内の他の衛星も潮汐加熱を受けており、同様に地下のマグマや水の海の摩擦を介して熱を生成していると思われる。内部海で熱を生み出すことのできるこのメカニズムは、エウロパやエンケラドゥスのような天体における生命の可能性を高めると考えられる。", "title": "地質" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "太古からの月や火星、水星の表面についての経験に基づき、科学者はボイジャー1号の観測でイオの表面にも多数の衝突クレーターが発見されると期待していた。イオの表面のクレーター密度からは、イオの年齢についての情報を得ることができる。しかし実際の表面は衝突クレーターがほとんど完全に見られず、代わりに見られたのは高い山が点在する滑らかな平原、様々な形や大きさをした穴、火山性の溶岩流で覆われた表面であり、科学者たちは驚かされた。それまでに観測されていたほとんどの天体と比較すると、イオの表面は多様な硫黄化合物からなる色彩に富んだ物質によって覆われており、その見た目は腐ったオレンジやピザと比較された。クレーターがほとんど存在しないということは、イオの表面は地球と同様に地質学的に若いということを意味している。つまり、クレーターが形成されるそばから火山物質が埋めてしまうのである。この結果は、ボイジャー1号によって少なくとも9つの活火山が観測されたことにより、見事に確認された。", "title": "地質" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "イオの色彩豊かな見た目は、その大規模な火山活動による輝石などの珪酸塩岩石、硫黄、二酸化硫黄などの物質の堆積の結果である。二酸化硫黄からなる霜はイオの表面に普遍的に存在しており、白や灰色で覆われた広大な領域を形成している。硫黄も同様にイオの大部分で見られ、黄色や黄緑色の領域を形成している。中緯度や極域に堆積した硫黄はしばしば放射線によって損傷され、通常は安定な八硫黄を破壊する。これによりイオの赤茶色の極域の模様が生成される。", "title": "地質" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "爆発的な火山活動はしばしば傘状の噴煙を作り、表面を硫黄や珪酸塩を含む物質で彩る。イオ表面に堆積する噴煙は、噴煙中に存在する硫黄と二酸化硫黄の量に依存して赤や白を示す。一般的に、脱ガスする溶岩からの火口で形成される噴煙は大量の S2 を含んでおり、赤い扇状の堆積物を残す。あるいは極端な場合は、しばしば中央火口から 450 km にも達するような大きな赤いリングを形成する。赤いリングの噴煙堆積物の顕著な例はペレ火山に見られる。この赤い堆積物は主に三鎖と四鎖の硫黄分子、二酸化硫黄からなっており、あるいは塩化スルフリルも含んでいる可能性がある。珪酸塩岩石の溶岩流の縁に形成された噴煙は、溶岩と既存の硫黄・二酸化硫黄の堆積物との相互作用によって白か灰色の堆積物を生成する。", "title": "地質" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "イオの組成の地図とイオが高い密度を持つという事実から、イオは微量の水しか含んでいないか、あるいは水を含まない組成であることが示唆される。ただし氷や含水鉱物の小さな穴は暫定的に発見されており、代表的なものはギシュ・バル火口の北西斜面に存在している。イオは太陽系の既知の天体の中では最も水の含有量が少ない天体である。この水の少なさは、木星は太陽系の形成と進化の初期段階ではイオ付近から揮発性物質を失わせるのに十分な高温であったが、さらに遠方まで失わせることは出来なかったことが原因であると考えられる。", "title": "地質" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "強制されたイオの軌道離心率によって生み出される潮汐加熱により、イオは数百もの火山と広大な溶岩流を持った、太陽系の中でも最も火山活動が活発な天体となっている。大きな噴火の最中は、溶岩流は数十 km から数百 km に達することもあり、この溶岩はマグネシウムが豊富な苦鉄質や超苦鉄質岩を含む玄武岩からなる。この活動の副産物として、硫黄、二酸化硫黄ガスと灰のような火山砕屑岩が宇宙空間に最大で 200 km の高さにまで吹き上げられる。これにより傘状の噴煙が生成され、周囲の地形を赤や黒、白で彩られ、イオの不完全な大気や木星の磁気圏に物質が供給されている。", "title": "地質" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "イオの表面は \"paterae\" として知られる火山性凹地が点在しており、その凹地は一般的には平坦な底部と、それを区切る急な壁から成り立っている。この地形は地球におけるカルデラに似ているが、地球のものと同様に空洞になったマグマ溜りが陥没することで形成されているのかどうかは分かっていない。ある仮説では、これらの地形は火山の土台部分が露出することによって形成され、上にあった物質は吹き飛ばされたか土台と一体化したかのどちらかであるとしている。この過程の様々な段階の paterae は、チャク・カマシュトリ領域 (Chaac-Camaxtli region) のガリレオ探査機を用いて観測されている。地球と火星における同様の地形とは異なり、これらの凹地は一般に楯状火山の頂上には見られず、また平均直径が 41 km と大きなサイズを持つ。最も大きなものは直径 202 km のロキ火口(英語版) (Loki Patera) である。ロキ火口はイオで最も強力な火山であり、イオ全体の熱出力に対して平均で 25% の割合を占めている。形成メカニズムがなんであれ、多くの火口の形態と分布はこれらの地形は構造的に制御されていることを示唆し、少なくとも半分は断層や山によって区切られている。これらの地形はしばしば火山噴火の場所となり、ギシュ・バル火口 (Gish Bar Patera) で2001年に見られた噴火のような paterae の底部を広がるような溶岩流を発生させたり、あるいは溶岩湖を形成したりする。イオの溶岩湖には、ペレ火口のように常に溶岩の外皮が入れ替わっているものや、ロキ火口のように散発的に入れ替わっているものがある。", "title": "地質" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "溶岩流はイオの別の火山性地形も生み出す。火口の噴出孔から表面に噴出したマグマや割れ目から平原に流出したマグマは、ハワイのキラウエア火山で見られるような膨張し混合した溶岩流を生み出す。ガリレオ探査機が撮影した画像で、プロメテウス (Prometheus) 火山やアミラニ (Amirani) 火山で発生しているようなイオの大きな溶岩流の大部分は、古い溶岩流の上における小さな溶岩の流出によって生成されていることが明らかになっている。大きな溶岩流の発生もイオで観測されている。例えばプロメテウス火山の溶岩流の最先端は、1979年のボイジャーの観測と1996年のガリレオの初めての観測の間で 75〜95 km 移動している。1997年に発生した大噴火では面積にして 3500 km もの新鮮な溶岩が噴出し、隣接するピッラン火口の底部が溶岩で氾濫した。", "title": "地質" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ボイジャーの画像の分析から、科学者たちはこれらの溶岩流は主に様々な溶融した硫黄化合物からなると考えた。しかし、その後の地上からの赤外線観測とガリレオ探査機による測定では、これらの溶岩流は苦鉄質や超苦鉄質岩を含む玄武岩が主成分であることが示唆された。この仮説はイオの「ホットスポット」と呼ばれる熱放射をしている場所における温度測定の結果に基づいている。それによると、ホットスポットの温度は少なくとも 1300 K であり、場所によっては 1600 K に達することもある。噴火の温度は初期の推定では 2000 K に達することが示唆されていたが、これは後に温度モデルに誤った熱モデルを用いたことによる過大評価であることが示された。", "title": "地質" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "ペレ火口とロキ火口での噴煙の発見は、イオが地質学的に活発であることを示した初めてのサインであった。一般的にこれらの噴煙は、イオの火山から硫黄や二酸化硫黄のような揮発性物質が上空へ向かって 1 km/s に達する速度で噴出された時に形成され、ガスと塵による傘状の雲を形成する。これらの火山の噴煙中に発見される可能性のある物質として、ナトリウム、カリウムや塩素がある。これらの噴煙は、2つの可能性のうち1つの方法で形成されるように思われる。ペレ火口から噴出しているようなイオの最大級の噴煙は、溶解した硫黄と二酸化硫黄ガスが火山の噴出孔や溶岩湖から噴出するマグマから解放される際に発生し、しばしば珪酸塩の火山砕屑物が共に引きずられて噴出する。これらの噴煙は短鎖硫黄による赤と珪酸塩の火山砕屑物による黒の堆積物を表面に形成する。このようにして発生した噴煙はイオで観測された最大級のものになり、直径 1000 km を超える赤いリング状の模様を形成する。この形態の噴煙は、例えばペレ火口、トゥワシュトラ火口、ダジボーグ火口 (Dazhbog Patera) で見られる。別の形態の噴煙は、侵入する溶岩流がその下にある二酸化硫黄の霜を蒸発させた時に発生し、硫黄を上空へ送り出す。この形態の噴煙は、しばしば二酸化硫黄からなる明るい円状の堆積物を生成する。これらの噴煙の高度は 100 km を下回るものが多く、イオにおいて最も長寿命の噴煙である。プロメテウス火山、アミラニ火山、マスビ (Masubi) 火山で見られる噴煙がこの例である。噴出した硫黄化合物は、イオの上部地殻からリソスフェアのより深いところでの硫黄溶解度が減少するところに濃集しており、ホットスポットの噴火様式を決定する要因となる。", "title": "地質" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "イオは100から150の山を持つ。これらの構造は、高さは平均で 6 km、最も高いものはボオサウレ山脈(英語版) (Boösaule Montes) の南の 17.5 ± 1.5 である。山地はしばしば長く連なり、平均で 157 km の長さに達する。また地球で見られるものとは異なり、全球的なテクトニクスの特徴は見られず孤立した構造をしている。これらの山地の途方もない地形を支えるためには、硫黄ではなく主に珪酸塩岩石からなる組成が必要である。", "title": "地質" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "イオに独特な外観を与えている大規模な火山活動があるにも関わらず、山地のほとんど全てはテクトニックな構造をしており、火山によって形成されたものではない。そのかわりに、イオの大部分の山地はリソスフェア底部における圧縮応力の結果として形成されたものであり、衝上断層によってイオの地殻の塊を隆起させ傾けている。山地の形成を起こす圧縮応力は、火山物質の継続的な埋没による地盤沈下の結果として発生する。山地の全球的な分布は、火山構造の分布とは対照的である。つまり、山地は火山が少ない領域に多く、逆に火山は山地が少ない領域に多い。このことは、イオのリソスフェアの大規模な領域で、山地の形成を起こす圧縮と、火口を形成する伸張が支配的であることを示唆している。しかし局所的には山地と火口が互いに隣接している場合もあり、マグマはしばしば地表に到達するために山地の形成中に生まれた断層を通って噴出していることを示唆している。", "title": "地質" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "イオの山地 (周囲の平原から盛り上がっている構造を指す) は、様々な形態を見せる。台地がもっとも一般的な形態である。これらの構造は、起伏の大きな表面を持つ、大きく頂上が平坦なメサに似ている。他の山地は傾斜した地殻の塊のように見え、かつては平らな表面であった緩やかな斜面と、圧縮応力によって隆起したかつての地下の物質からなる急斜面を伴う。どちらの形態の山地も、しばしば1つ以上の縁に沿って急な断崖を持っている。山地のうち火山活動に起源を持つものはごく一部である。このようなタイプの山地は小規模な楯状火山に似ており、中央の小さいカルデラの付近の急斜面 (6〜7°) と、縁に沿った緩やかな斜面を持つ。これらの火山性の山地はイオにおける平均的な山地よりも小さいものが多く、平均の高さはわずか 1〜2 km、幅は 40〜60 km である。さらに緩やかな斜面を持つその他の楯状火山の存在がいくつかのイオの火山の形態から推論されており、その例がラー火口 (Ra Patera) のような中央の火口から薄い溶岩流が流出している地形である。", "title": "地質" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "ほとんど全ての山地は劣化している段階にあるように思われる。イオの山地の基盤部分では大規模な地すべり堆積物が広範に見られており、物質移動が山地の劣化の主要な形態であることを示唆している。イオのメサと台地では波打った形状の縁が一般的に見られ、これはイオの地殻からの二酸化硫黄による掘り起こし (sapping) により、山地の縁に沿って脆弱な領域が出来ているためである。", "title": "地質" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "イオは極めて薄い大気を持っている。主成分は二酸化硫黄 (SO2) で、微量成分として一酸化硫黄 (SO)、塩化ナトリウム (NaCl)、硫黄原子と酸素を含む。大気は、一日の時間や緯度、火山活動、表面の霜の存在量によって密度と温度が共に大きく変化する。イオにおける大気圧の最大値は 3.3×10〜3×10 Pa であり、空間的にはイオの木星の反対側の半球と赤道に沿った領域、時間的には表面の霜の温度が最も高くなる昼下がりが最も大気圧が大きい。火山の噴煙における局所的な最大値も見られ、これは 5×10〜4×10 Pa になる。イオの大気圧はイオの夜面で最も低くなり、0.1×10〜1×10 Pa にまで低下する。", "title": "大気" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "イオの大気温度の範囲は、低いものでは二酸化硫黄が表面の霜と蒸気圧平衡になる温度から、高いものでは大気高層で大気密度が低く、イオのプラズマトーラスからの加熱とイオの磁束管からのジュール加熱によって 1800 K に達するような場合まで様々である。この低圧の影響で、夜側では大気の影響は表面付近に限定される。ただし霜の多い領域から少ない領域へ二酸化硫黄が一時的に再分配される場合や、噴煙の物質が昼側の厚い大気に再突入した際の噴煙堆積物のサイズの拡大は例外である。イオの大気は非常に薄いため、イオを探査するための将来のあらゆる着陸機はエアロシェル型の熱シールドに入れる必要は無いが、そのかわりに軟着陸するためには逆噴射スラスタが必要である。また放射線を減衰させる厚い大気が無いため、着陸機は強い木星放射線に耐えられるような頑丈さが必要とされる。", "title": "大気" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "イオの大気中のガスは木星の磁気圏によってはぎ取られ、イオを取り囲む中性粒子の雲へと散逸するか、またはイオの軌道上にあるが木星の磁気圏と共回転するイオン化された粒子の環であるイオのプラズマトーラスへと散逸する。このプロセスによって1秒あたりおよそ1トンもの大気がイオから持ち去られているため、大気は常に補充されているはずである。二酸化硫黄の最も重要な起源は火山の噴煙であり、平均で1秒あたり ×10 kg もの二酸化硫黄を大気中に放出するが、その大部分は再び表面に凝縮する。イオの大気中の二酸化硫黄の大部分は、表面に凍りついた二酸化硫黄の太陽光による昇華によって維持されている。昼側の大気の大部分は、表面が最も暖かく最も活動的な火山の噴煙が存在する、赤道から 40° 以内に限られている。大気の大部分が昇華によって生み出されているという考えは、二酸化硫黄の霜が最も多い木星の反対側の半球でイオの大気が最も高密度になるという観測事実と一致し、またイオが太陽に近いほど密度が高いという観測事実とも一致する。しかし火山の噴出孔付近で観測された最も高い大気密度を説明するためには、火山の噴煙からの寄与も必要である。", "title": "大気" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "大気中の二酸化硫黄の密度は表面温度と直接関係しているため、夜の間、もしくはイオが木星の影に入っている間は、イオの大気は部分的に崩壊する (柱密度が ~80% 減少する)。木星による日食の際の大気崩壊は、大気下部に一酸化硫黄の拡散層が形成されることによっていくらか抑えられるものの、イオの夜側での大気圧はイオでの南中過ぎにおける最大気圧時よりも2〜4桁も小さくなる。塩化ナトリウム、一酸化硫黄、酸素原子や硫黄原子といったイオの大気の微量成分の起源は、火山の脱ガス、太陽の紫外線放射による二酸化硫黄の光解離や化学分解、木星の磁気圏からの荷電粒子による表面堆積物のスパッタリングである。", "title": "大気" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "様々な科学者によって、イオが木星の影を通過する際にイオの大気が表面に凝華するという仮説が提唱されてきた。これの証拠は「食後の増光」であり、食の直後は表面が霜で覆われているために衛星がわずかに明るく見えるというものである。およそ15分で明るさは通常時に戻るが、これは昇華によって霜が消失したためと考えられる。食直後の増光は、地上望遠鏡からの観測の他に、カッシーニに搭載された機器を用いて近赤外線波長でも観測された。2013年にはジェミニ天文台での観測によって、木星による食の最中の二酸化硫黄大気の崩壊と、食の直後の大気の再形成が直接測定され、この現象の存在がさらに支持されることとなった。", "title": "大気" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "イオが木星による食を経験している最中の高分解能の撮像観測から、オーロラ状の発光の存在が明らかになっている。地球でのオーロラと同様に大気に粒子放射線が衝突することによって発生しているが、イオの場合は荷電粒子は太陽風起源ではなく木星の磁場から来たものである。オーロラは通常惑星の磁極周辺で発生するが、イオのオーロラの場合は赤道周辺が最も明るい。イオは自身の固有磁場を持っていない。そのため、木星の磁場に沿って移動する電子はイオの大気に直接衝突する。磁力線がイオに垂直になる場所 (つまり赤道付近) ではイオの大気を電子が通過する経路が最も長くなるためより多くの電子が大気に衝突し、最も明るいオーロラを生み出す。イオと磁力線が垂直に交わる部分で発生するオーロラは、木星の傾いた磁気双極子の向きが変化するのに伴って揺れ動くのが観測されている。イオの周縁に沿った酸素原子からの微かなオーロラ (右図の赤い発光) と、イオの夜側でのナトリウム原子によるオーロラ (同じ図の緑の発光) も同じく観測されている。", "title": "大気" } ]
イオ は、木星の第1衛星である。4つのガリレオ衛星の中で最も内側を公転する衛星である。太陽系の衛星の中で4番目に大きく、また最も高密度の衛星である。太陽系の中で最も水を含む割合が少ない天体でもあり、多くの活火山をもつ衛星として知られている。1610年に発見され、ギリシア神話に登場する女神イーオーに因んで命名された。 イオには400個を超える火山があり、太陽系内で最も地質学的に活発な天体である。この極端な地質活動は、木星と他のガリレオ衛星であるエウロパ、ガニメデとの重力相互作用に伴うイオ内部での潮汐加熱の結果である。いくつかの火山は硫黄と二酸化硫黄の噴煙を発生させており、その高さは表面から 500 km にも達する。イオの表面には100以上の山も見られ、イオの岩石地殻の底部における圧縮によって持ち上げられ形成されたと考えられる。これらのうちいくつかはエベレストよりも高い。大部分が水の氷からなる大部分の太陽系遠方の衛星とは異なり、イオの主成分は岩石であり、溶けた鉄もしくは硫化鉄の核を岩石が取り囲んだ構造をしている。イオの表面の大部分は、硫黄と二酸化硫黄の霜で覆われた広い平原からなっている。 イオの火山活動は表面の独特の特徴を生み出している。イオの火山噴出物と溶岩流は表面の様相を大きく変化させ、黄、赤、白、黒と緑の微妙な色彩で彩っている。これらの多くは硫黄の同素体と硫黄化合物からなっている。また、長さが 500 km 以上にもおよぶ多数の溶岩流が表面に見られる。この火山活動によって生成される物質が、イオの薄く不完全な大気と木星の磁気圏を作り上げている。イオの火山噴出物は木星の周りの大きなプラズマトーラスを形成している。 イオは17世紀と18世紀における天文学の発展において大きな役割を果たした。イオは1610年1月にガリレオ・ガリレイによって、他のガリレオ衛星と共に発見された。この発見は地動説を後押しし、ケプラーの法則の発展につながり、さらにはオーレ・レーマーによる光速度の初めての具体的な測定にもつながった。地球からは、19世紀後半から20世紀初頭にかけてはイオは点として観測されていたにとどまったが、その後は暗い赤い極域や明るい赤道領域などの大規模な表面の特徴が分解できるようになった。1979年にはボイジャー計画によって2つの探査機による観測が行われ、多数の火山活動や大きな山、明確な衝突クレーターが見られない若い表面など、地質学的に活発な姿が明らかになった。ガリレオ探査機は1990年代と2000年代初頭に数回の近接フライバイを行い、イオの内部構造と表面組成に関するデータを取得している。これらの探査機は、イオと木星の磁気圏の関連も明らかにし、イオの軌道を中心とする高エネルギーの放射線帯の存在も発見した。イオは1日あたり 36 Sv もの電離放射線を受けている。 その後、2000年には探査機カッシーニ、2007年には冥王星探査機ニュー・ホライズンズ、2017年以降はジュノーによるさらなる観測が行われ、並行して地上望遠鏡やハッブル宇宙望遠鏡による観測も行われている。
{{天体 基本 | 幅 = | 色 = 衛星 | 和名 = イオ | 英名 = Io | 画像ファイル = Io highest resolution true color.jpg | 画像サイズ = 250px | 画像説明 = イオ([[ガリレオ (探査機)|ガリレオ]]撮影) | 仮符号・別名 = '''Jupiter I''', J 1 | 視等級 = 5.02 ± 0.03<ref name=jpl/> | 軌道の種類 = [[ガリレオ衛星]] }} {{天体 発見 | 色 = 衛星 | 発見日 = [[1610年]][[1月7日]] | 発見者 = [[ガリレオ・ガリレイ]]<br />([[シモン・マリウス]]) }} {{天体 軌道 | 色 = 衛星 | 平均公転半径 = 421,700 [[キロメートル|km]] | 近点・遠点対象 = 木 | 近点距離 = 420,000 km | 遠点距離 = 423,400 km | 離心率 = 0.0041 | 公転周期 = 1 日 18 時間 27.6 分<br />(1.769 日) | 軌道傾斜角 = 0.040 [[度 (角度)|度]] | 主惑星 = [[木星]] }} {{天体 物理 | 色 = 衛星 | 半径 = 1821.6 ± 0.5 [[キロメートル|km]]<ref name=jpl/> | 赤道直径 = 3,643.2 km | 表面積 = [[1 E13 m2|4.191 {{e|7}}]] [[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]] | 質量 = 8.94 {{e|22}} [[キログラム|kg]] | 相対対象 = 木星 | 相対質量 = 4.704 {{e|-5}} | 平均密度 = 3.528 ± 0.006 [[グラム毎立方センチメートル|g/cm<sup>3</sup>]] | 表面重力 = 1.79 [[加速度|m/s<sup>2</sup>]]<br />(0.183 [[重力加速度|G]]) | 脱出速度 = 2.6 km/s | 自転周期 = 1 日 18 時間 27.6 分<br />(公転と同期) | アルベド = 0.63 ± 0.02<ref name=jpl/> | 赤道傾斜角 = 1.5424 度 | 最小表面温度 = 90 [[ケルビン|K]] | 平均表面温度 = 130 K | 最大表面温度 = 2000 K | 大気圧 = 変動が大きい | 大気 = {{天体 項目|[[二酸化硫黄]]| 90 %}} }} {{天体 終了 | 色 = 衛星 }} '''イオ'''<ref>{{Cite web|和書|publisher=[[国立科学博物館]]|url=https://www.kahaku.go.jp/exhibitions/vm/resource/tenmon/space/data/01satellite.html |accessdate=2019-03-08|title=太陽系内の衛星表}}</ref><ref name="ox">{{Cite book|和書|title = オックスフォード天文学辞典|edition = 初版第1刷|publisher = 朝倉書店|page = 20|isbn = 4-254-15017-2}}</ref> (Jupiter I Io) は、[[木星]]の第1[[木星の衛星|衛星]]である。4つの[[ガリレオ衛星]]の中で最も内側を公転する[[衛星]]である。[[太陽系]]の衛星の中で4番目に大きく、また最も高密度<ref name=univtoday/>の衛星である。太陽系の中で最も水を含む割合が少ない天体でもあり<ref name=univtoday/>、多くの[[活火山]]をもつ衛星として知られている。[[1610年]]に発見され、[[ギリシア神話]]に登場する女神[[イーオー]]に因んで命名された。 イオには400個を超える[[火山]]があり、太陽系内で最も地質学的に活発な天体である<ref name="book"/><ref name="Lopes2004"/>。この極端な地質活動は、木星と他のガリレオ衛星である[[エウロパ (衛星)|エウロパ]]、[[ガニメデ (衛星)|ガニメデ]]との重力相互作用に伴うイオ内部での[[潮汐力|潮汐]]加熱の結果である<ref name=Peale1979a/>。いくつかの火山は[[硫黄]]と[[二酸化硫黄]]の[[噴煙]]を発生させており、その高さは表面から 500 km にも達する。イオの表面には100以上の山も見られ、イオの岩石[[地殻]]の底部における圧縮によって持ち上げられ形成されたと考えられる。これらのうちいくつかは[[エベレスト]]よりも高い<ref name="Schenk2001"/>。大部分が[[水]]の[[氷]]からなる大部分の太陽系遠方の衛星とは異なり、イオの主成分は[[岩石]]であり、溶けた[[鉄]]もしくは[[硫化鉄]]の[[核 (天体)|核]]を岩石が取り囲んだ構造をしている。イオの表面の大部分は、硫黄と二酸化硫黄の霜で覆われた広い平原からなっている。 イオの火山活動は表面の独特の特徴を生み出している。イオの火山噴出物と溶岩流は表面の様相を大きく変化させ、黄、赤、白、黒と緑の微妙な色彩で彩っている。これらの多くは硫黄の[[同素体]]と硫黄化合物からなっている。また、長さが 500 km 以上にもおよぶ多数の溶岩流が表面に見られる。この火山活動によって生成される物質が、イオの薄く不完全な大気と木星の[[磁気圏]]を作り上げている。イオの火山噴出物は木星の周りの大きな[[プラズマ]][[ガストーラス|トーラス]]を形成している。 イオは17世紀と18世紀における[[天文学]]の発展において大きな役割を果たした。イオは1610年1月に[[ガリレオ・ガリレイ]]によって、他のガリレオ衛星と共に発見された。この発見は[[地動説]]を後押しし、[[ケプラーの法則]]の発展につながり、さらには[[オーレ・レーマー]]による[[光速#光速度の測定|光速度の初めての具体的な測定]]にもつながった。地球からは、19世紀後半から20世紀初頭にかけてはイオは点として観測されていたにとどまったが、その後は暗い赤い極域や明るい赤道領域などの大規模な表面の特徴が分解できるようになった。[[1979年]]には[[ボイジャー計画]]によって2つの探査機による観測が行われ、多数の火山活動や大きな山、明確な[[クレーター|衝突クレーター]]が見られない若い表面など、地質学的に活発な姿が明らかになった。[[ガリレオ (探査機)|ガリレオ]]探査機は1990年代と2000年代初頭に数回の近接フライバイを行い、イオの内部構造と表面組成に関するデータを取得している。これらの探査機は、イオと木星の磁気圏の関連も明らかにし、イオの軌道を中心とする高エネルギーの放射線帯の存在も発見した。イオは1日あたり 36 [[シーベルト|Sv]] もの[[放射線|電離放射線]]を受けている<ref name="radiation"/>。 その後、[[2000年]]には探査機[[カッシーニ (探査機)|カッシーニ]]、[[2007年]]には[[冥王星]]探査機[[ニュー・ホライズンズ]]、[[2017年]]以降は[[ジュノー (探査機)|ジュノー]]によるさらなる観測が行われ、並行して地上望遠鏡や[[ハッブル宇宙望遠鏡]]による観測も行われている。 == 発見 == [[File:Galileo.arp.300pix.jpg|thumb|upright|left|イオの発見者であるガリレオ・ガリレイ]] イオは1610年1月7日に、[[ガリレオ・ガリレイ]]が[[パドヴァ大学]]において[[ガリレオ式望遠鏡]]を用いて発見した。しかしその観測では望遠鏡の性能不足のため、ガリレオはイオと[[エウロパ (衛星)|エウロパ]]を区別することが出来ず、両者は1つの光点として記録された。ガリレオがイオとエウロパを別々の天体として観測したのは翌日の1610年1月8日のことであり、この日付が[[国際天文学連合]] (IAU) に発見日として認められている<ref name="IAUMoonDiscoveries"/>。イオとその他のガリレオ衛星の発見は、1610年3月の『[[星界の報告]]』で発表された<ref name="IobookChap2"/>。 [[1614年]]に[[シモン・マリウス]]が出版した『''Mundus Jovialis''』の中で、マリウスはガリレオの発見より1週間前の[[1609年]]にイオとその他のガリレオ衛星を発見したと主張した。ガリレオはこの主張を疑い、マリウスのこの著作は盗作であるとして退けた。マリウスの観測記録は[[ユリウス暦]]の1609年12月29日から始まっており、これはガリレオが用いていた[[グレゴリオ暦]]では1610年1月8日にあたる<ref name="GaliloProjectMarius"/>。ガリレオがマリウスより先に発見を発表していることから、ガリレオが発見者として記録されている<ref name="JPLDiscovery"/>。 == 命名 == {{See also|イオの地形一覧}} [[File:Io, Earth & Moon size comparison.jpg|left|thumb|イオ (左下) と[[月]] (左上) と[[地球]]のサイズの比較。]] [[シモン・マリウス]]はガリレオ衛星の発見者とは認められなかったものの、彼がガリレオ衛星に対して提案した名称は採用されている。彼は[[1614年]]の出版物 ''Mundus Iovialis anno M.DC.IX Detectus Ope Perspicilli Belgici'' の中でガリレオ衛星の最も内側のものにいくつかの名前を提案しており、その中には「木星の水星 (The Mercury of Jupiter)」や「木星の一番目の惑星 (The First of the Jovian Planets)」というものもあった<ref name="Marius"/>。[[1613年]]の[[ヨハネス・ケプラー]]の助言に基づき、彼は[[ギリシア神話]]の[[ゼウス]]や、それに相当する[[ローマ神話]]の[[ユーピテル]]の愛人から名前を与えることを考案した。彼は木星の最も内側の大衛星に対し、ギリシア神話の登場人物である[[イーオー]]に因んで名前を与えた<ref name="Marius"/><ref name="Marius2"/>。マリウスが提案した名前は20世紀中頃までは広く受け入れられていなかった<ref name="marazzini"/>。初期の天文学の文献の多くでは、イオは一般に[[ローマ数字]]を用いて '''Jupiter I''' と表記されたり (これはガリレオが導入した表記である)、あるいは「木星の一番目の衛星」と表記された<ref name="Barnard1894"/><ref name="Barnard1891"/>。 なお、同名の小惑星[[イオ (小惑星)|イオ]]も存在する。 イオ表面の地形は、イオの神話の人物や場所、様々な神話における火や火山、太陽、雷の神、そして[[ダンテ・アリギエーリ|ダンテ]]の『[[神曲]]』の人物や場所など、その火山性の表面にふさわしい名前が付けられている<ref name="NameCategories"/>。[[ボイジャー1号]]によって表面の近接画像が初めて得られて以降、[[国際天文学連合]]はイオの火山や山、平野や大きな[[アルベド]]の特徴に対して、225の名称を承認している。承認されたイオの火山性の地形の中には、「パテラ」(火山性凹地)、「フルクトゥス」(溶岩流)、活火山 (特定の火山において、噴火活動が最初の火山活動の兆候であったもの) などがある。命名された山、平原、層状の地形、楯状火山は、それぞれ名称に ''mons''、''mensa'' (テーブル)、''planum''、''tholus'' ([[ロタンダ]]) を含んでいる<ref name="NameCategories"/>。明るいアルベドを持つ領域は ''regio'' という用語が使用されている。命名された地形の例としては、プロメテウス火山、パン卓状台地 (Pan Mensa) などがある<ref name="Featurenames"/>。 [[日本]]と関連したものには、[[日本神話]]に由来する[[アマテラス火口|アマテラス・パテラ]]、[[ヒルコ]]・パテラ、[[スサノオ]]・パテラ、マスビ<!--ホムスビ(カグツチ)-->・フルクトゥス、[[不動明王]](アチャラ・ナータ)に由来するアチャラ・フルクトゥス、[[アイヌ]]の神話に由来する[[フチ火口|フチ・パテラ]]、日本語に由来する[[カミナリ火口|カミナリ・パテラ]]、ライデン・パテラ、センゲン<!--浅間-->・パテラがある。 {{clear left}} == 観測の歴史 == {{See also|en:Exploration of Io}} === 発見から探査機による観測以前 === 発見されてから250年ほどの間は、イオは望遠鏡で5等級の点として観測される天体のままであった。17世紀の間にイオやその他のガリレオ衛星は、経度の決定する初期の手法<ref name="longitude"/>、[[ケプラーの法則|ケプラーの第三法則]]の検証、木星と地球の間を[[光]]が進むのに必要な時間の決定など、様々な目的を果たすために用いられた<ref name="IobookChap2"/>。天文学者の[[ジョヴァンニ・カッシーニ]]らによって作成された[[天体暦]]に基づき、[[ピエール=シモン・ラプラス]]はイオ、[[エウロパ (衛星)|エウロパ]]、[[ガニメデ (衛星)|ガニメデ]]の[[軌道共鳴|共鳴軌道]]を説明するための数学理論を構築した<ref name="IobookChap2"/>。この共鳴はのちにこれら3つの衛星の地質に大きな影響を及ぼすことが判明した。 19世紀後半から20世紀にかけての望遠鏡技術の進歩により、天文学者はイオの大規模な表面の特徴を[[分解能|光学的に分解]]できるようになった。1890年代に、[[エドワード・エマーソン・バーナード]]がイオの赤道領域と極領域の明るさに違いがあることを初めて観測した。バーナードと同期の天文学者である[[ウィリアム・ヘンリー・ピッカリング]]はイオが卵状の形状をしていると解釈し、バーナードも初めは2つの分離した天体からなると考えていたが、後に2つの領域で色と[[アルベド]]が異なることが原因であると正しく解釈した<ref name="Barnard1894"/><ref name="Barnard1891"/><ref name="Dobbins"/>。後の望遠鏡観測で、イオの明確な赤茶色の極域と、黄白色の赤道帯が確認された<ref name="Minton1973"/>。 20世紀中盤の望遠鏡観測では、イオの異様な性質が明らかになり始めた。分光観測からは、他のガリレオ衛星とは異なり表面に水が全く存在していないことが示唆された<ref name="Lee1972"/>。同じ観測では、表面は[[ナトリウム]]塩と[[硫黄]]からなる揮発性物質が占めていることが示唆された<ref name="Fanale1974"/>。[[電波望遠鏡]]観測では、イオの軌道周期と結びついた[[短波|デカメートル波]]の[[波長]]でのバーストなどに見られるような、木星の[[磁気圏]]にイオが及ぼす影響も明らかになった<ref name="Bigg1964"/>。 === パイオニア === イオを通過した初めての探査機は、[[パイオニア計画]]の[[パイオニア10号]]と[[パイオニア11号|11号]]であり、それぞれ[[1973年]]12月3日と[[1974年]]12月2日にイオ付近を通過した<ref name="PioneerChap5"/>。電波追跡によりイオの質量の推定値が改善され、そのサイズに関する情報からイオがガリレオ衛星の中で最大の密度を持つこと、また水氷ではなく主に珪酸塩の岩石からなることが示唆された<ref name="Anderson1974"/>。パイオニアはさらに薄い大気の存在と、イオの軌道付近の強い放射線帯の存在を明らかにした。両探査機で得られた画像のうち、パイオニア11号に搭載されたカメラによって撮影された北極領域の画像のみが良質のものであった<ref name="Pioneer11image"/>。近接画像はパイオニア10号の接近の際にも撮影することが予定されていたが、これらは高放射線環境のせいで失われてしまった<ref name="PioneerChap5"/>。 === ボイジャー === [[File:Io VGR South polar color mosaic.jpg|thumb|[[ボイジャー1号]]によるイオの南極領域の[[モザイク写真]]。画像中には[[太陽系の天体で最も高い山の一覧|イオで最も標高が高い10の山]]のうち2つが写っている。上の左端のエヴィア山脈 (Euboea Montes) と下部のハエムス山脈 (Haemus Montes) である。]] [[ボイジャー計画]]による2つの探査機[[ボイジャー1号]]と[[ボイジャー2号|2号]]が[[1979年]]にイオを通過した際は、進化した撮像システムによってさらに詳細な画像が得られた。ボイジャー1号は1979年3月5日に 20,600 km の距離を通過した<ref name="VoyagerDesc"/>。接近の最中に送信された画像からは、奇妙な、多色に彩られた[[クレーター|衝突クレーター]]のない風景が明らかになった<ref name="Smith1979"/><ref name="upi"/>。最も高い解像度の画像では、奇妙な形状の穴、[[エベレスト山]]よりも高い山々、溶岩流に似た地形を持つ、比較的若い表面が見られた。 近接遭遇の直後に、ボイジャーのナビゲーションエンジニアである Linda A. Morabito は、画像の1つに表面から噴出する噴煙に気が付いた<ref name="Morabito1979"/>。ボイジャー1号が撮影したその他の画像を解析したところ、表面に散在する同様の噴煙が9つ発見され、イオは活発な火山活動を起こしていることが明らかになった<ref name="Strom1979"/>。この結果は、ボイジャー1号の接近の直前に発表された、Stan Peale, Patrick Cassen, と R. T. Reynolds による論文の中で予測されていた。Peale らは、イオの内部はエウロパ、ガニメデとの軌道共鳴によって引き起こされる大きな潮汐加熱を経験するということを計算していた<ref name="Peale1979a"/>。このフライバイで取得されたデータは、イオの表面は硫黄と[[二酸化硫黄]]の霜で覆われていることを示した。これらの化合物はイオの薄い大気の成分でもあり、またイオの軌道を中心とした[[プラズマ]][[ガストーラス|トーラス]]の成分でもある<ref name="Soderblom1980"/><ref name="Pearl1979"/><ref name="Broadfoot1979"/>。 ボイジャー2号は1979年7月9日に 1,130,000 km の距離を通過した。ボイジャー1号ほどは接近しなかったものの、両探査機で撮影された画像を比較することで、4ヶ月の間に表面の様子がいくらか変化している様子を見ることができた。さらに、ボイジャー2号が木星系を離れる際に三日月状に太陽光が当たるイオの観測からは、3月に観測された9つの噴煙のうち7つは1979年7月の段階で活動しており、ペレ火山だけが2機のフライバイの間に活動を停止したことが明らかになった<ref name="Strom1982"/>。 === ガリレオ === [[Image:PIA01667-Io's Pele Hemisphere After Pillan Changes.jpg|right|thumb|色を強調したガリレオの画像では、ピッラン火口 (Pillan Patera) が1997年に起こした大噴火によって形成された暗いスポットが見える。暗いスポットは、ペレ火山による硫黄の短鎖同素体による赤いリング模様の一部を覆っている。]] [[ガリレオ (探査機)|ガリレオ]]探査機は、地球から6年の歳月をかけて[[1995年]]に木星に到達し、ボイジャーの2機の観測や、それ以降に地上から行われた観測による発見の追跡調査を行った。イオは木星の最も強力な放射線帯のうちのひとつの中に位置しているため長期にわたる近接フライバイは行われなかったが,木星系を探査する2年間の主要ミッションのための軌道に入る直前にイオに接近した。1995年12月7日の近接フライバイの際には画像は撮影しなかったが、内部太陽系の[[地球型惑星|岩石惑星]]に見られるのに似た大きな鉄の[[核 (天体)|核]]の発見などの重要な成果が得られた<ref name="Anderson1996"/>。 接近画像を取得しなかったことや、データの送信に大きな制限を与えた機器の異常などの影響はあったものの、ガリレオの主要ミッションの間にいくつかの重要な発見がなされた。ガリレオはピッラン火口での大きな噴火の影響を観測し、火山噴火は[[マグネシウム]]が豊富な[[苦鉄質]]と[[超苦鉄質岩]]の珪酸塩の[[マグマ]]からなることを確認した<ref name="Mcewen1998b"/>。イオの遠方からの撮影は主要ミッション中のほぼ全ての軌道で得られ、多数の活発な火山 (表面で冷却するマグマからの熱放射と火山の噴煙の両方)、形状が大きく異なる多数の山、およびボイジャーが観測した時期とガリレオの時期やガリレオミッション中でのいくつかの表面の変化の存在が明らかになった<ref name="IobookChap3"/>。 ガリレオのミッションは[[1997年]]と[[2000年]]の二度にわたって延長された。これらの延長ミッションの最中に、ガリレオによるイオへの接近は1999年後半に3回、2000年前半、2001年後半に3回、2002年前半に行われた。これらの接近での観測では、イオの火山と山で発生する地質学的プロセスを明らかにし、磁場の存在を否定し、火山活動の規模を示した<ref name="IobookChap3"/>。2000年12月には、[[カッシーニ (探査機)|カッシーニ]]が[[土星]]に向かう最中に木星系に遠方かつ短時間の接近を行い、ガリレオとの共同観測が実現した。これらの観測では、トゥワシュトラ火口 (Tvashtar Paterae) における新しい噴煙が明らかになり、イオの[[オーロラ (代表的なトピック)|オーロラ]]についての知見も得られた<ref name="Porco2003"/>。 === その後の観測 === [[File:Iosurface.jpg|thumb|300px|ガリレオとニュー・ホライズンズの観測の8年間における表面の特徴の変化。]] [[2003年]]にガリレオ探査機が計画的に木星大気に突入してミッションが終了した後は、イオの火山活動の新しい観測は地上望遠鏡から行われた。特に、[[ハワイ州|ハワイ]]の[[W・M・ケック天文台|ケック望遠鏡]]での[[補償光学]]を用いた撮像とハッブル宇宙望遠鏡での撮像により、天文学者はイオの活発な火山をモニターすることが出来た<ref name="Marchis2005"/><ref name="SpencerBlog02232007"/>。この撮像観測により、木星付近にまで探査機を送り込まずとも、科学者たちはイオの火山活動を監視することが出来た。 ==== ニュー・ホライズンズ ==== [[ニュー・ホライズンズ]]は[[冥王星]]と[[エッジワース・カイパーベルト]]に向かう途上で、[[2007年]]2月28日に木星系を通過した。この遭遇の最中に、遠方からのイオの観測が多数行われた。この時の画像の中にはトゥワシュトラ火口における大きな噴煙も含まれており、1979年のペレ火山の噴煙の観測以来初めてとなる、イオの最大級の火山噴火の詳細な観測が行われた<ref name="Spencer2007"/>。ニュー・ホライズンズはギッル火口 (Girru Patera) 付近の噴火の初期段階の画像も取得しており、ガリレオの観測以降に発生したいくつかの火山噴火も捉えている<ref name="Spencer2007"/>。 === 進行中および将来の計画 === 木星系の探査ミッションには、進行中のものが1つ、間近に迫ったものが1つある。[[2011年]]8月5日に打ち上げられた[[ジュノー (探査機)|ジュノー]]は撮影能力は限られているものの、赤外線オーロラマッピング装置 JIRAM を用いてイオの火山活動をモニターすることができる。 [[JUICE (探査機)|Jupiter Icy Moon Exploler]]は[[欧州宇宙機関]]によって計画されているミッションで、最終的にはガニメデの周回軌道に入ることが予定されている<ref name="JUICEannouncement"/>。JUICE は2022年に打ち上げ、2030年1月に木星に到達することが予定されている<ref name="JUICEYellowBook"/>。JUICE はイオをフライバイする予定はないが、ガニメデ周回軌道へ投入する前の2年間の木星周遊段階では、狭角カメラなどの搭載した機器を用いてイオの火山活動をモニターし、表面組成を測定することが予定されている。 [[:en:Io Volcano Observer|Io Volcano Observer]] (IVO) は[[ディスカバリー計画]]として提案されている2021年打ち上げ予定のミッションである。2026年から開始する木星周回軌道でのミッションにおいて、複数回のイオのフライバイを行うことが計画されている<ref name="McEwenLPSC2015"/>。 == 軌道と自転 == [[File:Galilean moon Laplace resonance animation.gif|thumb|300px|right|イオ、エウロパとガニメデの[[軌道共鳴|ラプラス共鳴]]のアニメーション。]] {{See also|en:Tidal heating}} イオは木星の中心から 421,700 km の距離を公転しており、木星の雲頂からの距離は 350,000 km である。[[ガリレオ衛星]]の中では最も内側を公転しており、軌道は[[テーベ (衛星)|テーベ]]と[[エウロパ (衛星)|エウロパ]]の間にある。木星の[[木星内部衛星群]]を含むと、内側から5番目の衛星である。木星の周りをおよそ42.5時間かけて1周している (1晩の観測でその動きが観測できるほど速い)。 イオはエウロパと 2:1 の[[軌道共鳴|平均運動共鳴]]を起こしており、また[[ガニメデ (衛星)|ガニメデ]]とは 4:1 の平均運動共鳴を起こしている。そのためイオが木星を2周する間にエウロパは1周し、イオが4周する間にガニメデは1周する。この関係は[[軌道共鳴|ラプラス共鳴]]と呼ばれる。この共鳴によってイオの[[軌道離心率]]は0.0041に保たれており、地質学的活動を起こす主要な熱源となっている<ref name="Peale1979a"/>。この強制的な軌道離心率が無ければ、イオの軌道は[[潮汐力]]によって円軌道化され、地質学的に不活発な天体になるだろう。 他のガリレオ衛星や[[月]]と同様に、イオの自転は[[自転と公転の同期|公転周期と同期]]しており、同じ面を木星に向け続けている。この同期性を元にイオの経度系が定義されている。イオの[[本初子午線]]は、木星直下点で赤道と交差するように定義されている。常に木星を向いている面は sub-Jovian hemisphere (木星に面する半球) と呼ばれ、反対側は anti-Jovian hemisphere (木星から見て反対側の半球) と呼ばれる。常にイオが公転する方向を向いた側は leading hemisphere (先行半球)<ref name="leading"/><ref name="trailing"/>、常に公転する方向の逆を向いた側は trailing hemisphere (後行半球)<ref name="trailing"/> として知られている<ref name="Lopes2005"/>。 イオの表面からは、木星の視直径は 19.5&deg; に見える。これは地球から見た月の見かけの大きさの39倍である。 == 木星磁気圏との相互作用 == [[File:Jupiter magnetosphere schematic.jpg|thumb|300px|木星の磁気圏とイオ (画像中央) に影響される成分の模式図。プラズマトーラス (赤)、中性物質の雲 (黄色)、磁束管 (緑)、磁力線 (青) が描かれている<ref name="SpencerGraphic"/>。]] イオは木星の[[磁気圏]]を形作る上で重要な役割を果たしている。イオは 400,000 ボルトもの電圧の発電機として働き、300万アンペアの電流を生成し、木星に磁気圏を2倍以上の大きさに膨張させる[[イオン]]を放出する<ref name="nasa-jup-io"/>。木星の磁気圏はイオの薄い大気からのガスとダストを掃き集めており、その量は1秒あたり1トンにもおよぶ<ref name="IobookChap11"/>。この物質は大部分がイオンか[[原子]]状の[[硫黄]]、[[酸素]]と[[塩素]]、原子状の[[ナトリウム]]や[[カリウム]]、[[分子]]状の二酸化硫黄と硫黄、そして[[塩化ナトリウム]]の塵である<ref name="IobookChap11" /><ref name="Postberg2006"/>。これらの物質はイオの火山活動に起源を持つものだが、木星の磁気圏に散逸し惑星間空間にやってくる物質はイオの大気から直接来るものである。これらの物質は、その電離状態や組成に依存するが、最終的に様々な中性物質の雲や木星磁気圏内の放射線帯に到達し、場合によってはその後木星系から放出されることもある。 表面からイオ半径の6倍程度の距離までに広がりイオを取り囲んでいるのは、中性の硫黄、酸素、ナトリウム、カリウム原子の雲である。これらの粒子はイオの高層大気に起源を持ち、[[プラズマ]][[ガストーラス]]中のイオンとの衝突によって励起され、その他の過程によってイオの[[ヒル球]] (イオの重力が木星の重力を上回る領域) を満たしている。この物質の一部はイオの重力を振り切って木星を周回する軌道に入る。20時間かけてこれらの粒子はイオから拡散してバナナ型の中性雲を形成し、この構造はイオの軌道の内側ではイオの前方に向かって、イオの軌道の外側ではイオの後方に向かって、木星半径の6倍の距離にまで広がる<ref name="IobookChap11" />。これらの粒子を励起する衝突過程は、時々プラズマトーラス中のナトリウムイオンに[[電子]]を供給して再結合し、これによって生成された新しい高速の中性粒子はトーラスから除去される。これらの粒子は 70 km/s 程度の速度を得て (イオの軌道速度は 17 km/s である)、イオから遠ざかるジェットとして放出される<ref name="Burger1999"/>。 イオは、イオプラズマトーラスとして知られる強い放射線帯の中を公転している。この電離した硫黄、酸素、ナトリウム、塩素の[[ドーナツ]]型の環にあるプラズマは、イオを取り囲む「雲」の中にある中性原子が電離され木星の磁気圏によって運ばれる際に発生する<ref name="IobookChap11" />。中性の雲の中にある粒子とは異なり、これらの粒子は木星の磁気圏と共回転し、木星の周りを 74 km/s で公転する。木星磁場の他の部分と同様にプラズマトーラスは木星の赤道面 (そしてイオの軌道面) に対して傾いているため、イオはある時はプラズマトーラスの中心より上にあり、ある時は下にある。先述の通りこれらのイオンは高速で高エネルギーであるため、イオの大気や広がった中性雲から中性原子や分子を除去する働きがある。 トーラスは3つの区分から成り立っている。1つ目はイオの軌道のすぐ外側にある「温かい」トーラスである。2つ目は「リボン」として知られる垂直方向に広がった領域で、木星からイオまでの距離に位置しており、中性物質の起源と冷却するプラズマからなる。3つ目は「冷たい」トーラスで、木星へ向かって徐々にらせん状に落下していく粒子からなる<ref name="IobookChap11" />。「温かい」トーラス内の粒子はトーラス内に平均で40日とどまった後に脱出し、木星の異常に大きい磁気圏の部分的な原因となり、外向きの圧力で磁気圏を内部から膨張させている<ref name="Krimigis2002"/>。イオからの粒子は磁気圏プラズマの変動として検出され、これはニュー・ホライズンズによって非常に長い[[磁気圏|磁気圏尾]]として検出された。プラズマトーラス内の同じような変動を研究するためには、それが放射する[[紫外線]]を測定するという方法もある。このような変動は、プラズマトーラス内の物質の究極的な源であるイオの火山活動とは明確には結び付いていないものの、中性ナトリウムの雲を介して関連している<ref name="Mendillo2004"/>。 探査機[[ユリシーズ (探査機)|ユリシーズ]]が1992年に木星に接近した際、木星系から放出されるダストサイズの粒子の流れを検出している<ref name="Grun1993"/>。離散した流れの中にあるダストは数百 km/s 以上の速度で木星から遠ざかっており、粒径の平均は 10 µm で、塩化ナトリウムが主成分であった<ref name="Postberg2006" /><ref name="Zook1996"/>。ガリレオ探査機によるダストの測定では、これらのダストの流れはイオが起源であることが示されたが、どのように形成されたのか、イオの火山活動が起源なのかあるいは表面から除去された物質が起源なのかについては明らかになっていない<ref name="Grun1996"/>。 イオを横切っている木星の[[磁力|磁力線]]は磁束管として知られる[[ファラデーの電磁誘導の法則|電流を生み出して]]、イオの大気および中性雲と、木星の極域の高層大気を結合している<ref name="IobookChap11" />。この電流は、"Io footprint" (イオの足跡) として知られている木星の極域での[[オーロラ (代表的なトピック)|オーロラ]]発光や、イオの大気でのオーロラを生み出している。このオーロラ相互作用による粒子は[[可視光]]の波長で木星の極域を暗く見せる。地球と木星に対するイオとそのオーロラの足跡の位置は、地球から見たときの木星電波放射に強い影響を与える。イオが見えている時は、木星からの電波は大幅に増加する<ref name=Bigg1964/><ref name="IobookChap11" />。現在木星を公転する軌道に入る[[ジュノー (探査機)|ジュノー]]は、この過程を明らかにする観測を行っている。イオの電離圏を横切らなかった木星の磁力線も電流を誘導し、イオの内部に誘導磁場を生成する。イオの誘導磁場は、表面から 50 km 下にある部分的に溶融した珪酸塩マグマの中で発生すると考えられている<ref name="KerrInducedField"/>。同様の誘導磁場はガリレオ探査機によって他のガリレオ衛星にも発見されており、これらの衛星内部の液体の水の海で発生している。 == 地質 == イオは地球の衛星である[[月]]よりわずかに大きい。平均半径は 1821.3 km と月より 5% だけ大きく、質量は 8.9319{{e|22}} kg と月より 21% 重い。わずかに[[楕円体]]の形状をしており、長軸を木星の方向に向けている。[[ガリレオ衛星]]の中では質量・半径は共に[[ガニメデ (衛星)|ガニメデ]]と[[カリスト (衛星)|カリスト]]に劣るものの、[[エウロパ (衛星)|エウロパ]]は上回っている。 === 内部 === [[File:Io diagram.svg|thumb|イオの内部組成のモデル。]] イオの主成分は珪酸塩の[[岩石]]と[[鉄]]であり、[[水]]の[[氷]]と珪酸塩岩石の混合物が主成分である[[太陽系]]遠方の他の衛星とは異なり、全体の組成は[[地球型惑星]]に近い。イオの密度は 3.5275 g/cm<sup>3</sup> であり、太陽系のどの衛星よりも高密度である。ガリレオ衛星、特に密度がおよそ 1.9 g/cm<sup>3</sup> であるガニメデとカリストと比べると際立って高い。また月の密度である 3.344 g/cm<sup>3</sup> をわずかに上回る<ref name="Schubert2004"/>。ボイジャーとガリレオによるイオの質量、半径、四重極重力係数 (天体内部で質量がどう分布しているかに関係する数値) の測定に基づくモデルでは、内部は岩石豊富な[[地殻]]と[[マントル]]、[[鉄]]もしくは[[硫化鉄]]が豊富な[[核 (天体)|核]]に分化していることが示唆されている<ref name=Anderson1996/>。イオの金属核は質量のおよそ 20% を占める<ref name="Anderson2001"/>。核に含まれる硫黄の量に依存するが、核がほとんど鉄でできていた場合は半径が 350〜650 km、鉄と硫黄の混合物で出来ていた場合は 550〜900 km と推定されている。ガリレオの[[磁気センサ]]では内部のイオの固有磁場を検出することが出来ず、核は[[対流]]を起こしていないことが示唆された<ref name="Kivelson2001"/>。しかしその後のデータの再解析では磁場があることが示されている。 イオの内部組成のモデルでは、マントルは少なくとも 75% がマグネシウム豊富な[[カンラン石|苦土橄欖石]]で出来ており、全体の組成は[[普通コンドライト|L型普通コンドライト]]やLL型普通コンドライトの[[隕石]]と似ていることが示唆されている。[[ケイ素]]に対する鉄の量は月や地球よりは大きいが、[[火星]]よりは小さい<ref name="Sohl2002"/><ref name="Kuskov2001"/>。イオで観測された熱流を説明するためイオのマントルは 10〜20% が溶けていると考えられるが、高温の火山活動が観測されている領域では溶融率は高い可能性がある<ref name="IobookChap5"/>。しかし2009年に行われたガリレオ探査機の磁気センサデータの再解析では、イオに誘導磁場が存在することが明らかになり、これを説明するためには表面から 50 km 下に[[マグマオーシャン]]が存在している必要がある<ref name="KerrInducedField" />。2011年に発表されたさらなる解析では、このようなマグマオーシャンの直接証拠が得られた<ref name="magmaocean"/>。この層は厚さ 50 km で、イオのマントルのおよそ 10% を占めると推定されている。マグマオーシャンの温度は 1200 ℃ に達すると推定されている。イオのマントルの 10〜20% が部分的に溶融しているという事が、マグマオーシャンにおける溶融した珪酸塩の必要量と矛盾しないかどうかは分かっていない<ref name="PerryInducedMagmaOcean"/>。[[玄武岩]]とイオの火山活動による硫黄の堆積物からなるイオの[[リソスフェア]]は、少なくとも 12 km の厚みを持ち、また 40 km よりは薄い<ref name="Anderson2001" /><ref name="Jaeger2003"/>。 === 潮汐加熱 === {{See also|en:Tidal heating of Io}} [[放射性同位体]]の崩壊熱が主な内部熱源である地球や月とは異なり、イオの主要な熱源は潮汐散逸であり、これはエウロパとガニメデとの軌道共鳴の結果である<ref name=Peale1979a/>。この加熱は、イオの木星からの距離、軌道離心率、内部組成と物理的な状態に依存する<ref name="IobookChap5" />。エウロパとガニメデとの[[軌道共鳴|ラプラス共鳴]]は、イオの軌道が潮汐散逸によって完全に円軌道化されるのを防ぎ、軌道離心率の値を維持している。この共鳴はイオと木星の距離を維持するのも助けている。共鳴が存在しなければ、イオにはたらく木星の潮汐力によってイオは徐々に外側に移動してしまうであろう<ref name="Yoder1979"/>。イオの[[バルジ|潮汐バルジ]]の垂直方向長さはイオが[[近点・遠点|近点]]と遠点にいる時では最大で 100 m ほど変化する<ref name="miyamoto2010"/>。この変化する潮汐力によってイオの内部では摩擦や潮汐散逸が発生し、イオの内部に大きな潮汐加熱をもたらし、イオのマントルと核の大部分を溶融させる。共鳴がなかった場合はこの潮汐散逸は軌道離心率を減少させ、円軌道にするようにはたらくことになる。潮汐加熱によって生み出されるエネルギーは、放射性物質の崩壊のみで生み出されるエネルギーの最大で200倍になる<ref name="book" />。この熱は火山活動という形で解放され、測定されている高い[[伝熱|熱輸送]]を生み出す (全球で (0.6-1.6{{e|14}} [[ワット (単位)|W]]))<ref name="IobookChap5" />。イオの軌道モデルは、イオ内部での潮汐加熱の量は時間と共に変化していることを示唆している。しかし現在の潮汐散逸の量は観測されている熱流量とは矛盾しない<ref name="IobookChap5" /><ref name="Lainey2009"/>。潮汐加熱と対流のモデルでは、潮汐エネルギー散逸と地表へのマントル対流の熱を同時に説明できるような、衛星の粘性分布を見つけることが出来ていない<ref name="Lainey2009" /><ref name="Moore2003geophys"/>。 木星とその衛星エウロパからの引力による潮汐加熱がイオに見られる多くの火山の熱源になっているという点については広く受け入れられているものの、火山は潮汐加熱で予測される位置には存在しておらず、東に 30〜60&deg; ずれている<ref name="Steigerwald2015"/>。Tyler らによる2015年の論文では、この東へのずれは地下にある溶けた岩石の海によって引き起こされている可能性が示唆された。このマグマの動きが、マグマの[[粘度]]による摩擦を介してさらなる熱を生成する。論文の著者らは、この地下の海は溶けた岩石と固体の岩石の混合物であると考えている<ref name="Tyler2015"/>。 太陽系内の他の衛星も潮汐加熱を受けており、同様に地下のマグマや水の海の摩擦を介して熱を生成していると思われる。内部海で熱を生み出すことのできるこのメカニズムは、エウロパや[[エンケラドゥス (衛星)|エンケラドゥス]]のような天体における[[生命]]の可能性を高めると考えられる<ref name="space20150914"/><ref name="nasajpl20150915"/>。 === 表面 === [[File:Io from Galileo and Voyager missions.jpg|thumb|right|300px|イオの表面]] [[File:Iorotateing1day.ogv|thumb|right|イオ表面の回転画像。大きな赤いリングはペレ火山を取り囲んでいる。]] 太古からの月や火星、[[水星]]の表面についての経験に基づき、科学者はボイジャー1号の観測でイオの表面にも多数の[[クレーター|衝突クレーター]]が発見されると期待していた。イオの表面のクレーター密度からは、イオの年齢についての情報を得ることができる。しかし実際の表面は衝突クレーターがほとんど完全に見られず、代わりに見られたのは高い山が点在する滑らかな平原、様々な形や大きさをした穴、火山性の溶岩流で覆われた表面であり、科学者たちは驚かされた<ref name=Smith1979/>。それまでに観測されていたほとんどの天体と比較すると、イオの表面は多様な硫黄化合物からなる色彩に富んだ物質によって覆われており、その見た目は腐ったオレンジやピザと比較された<ref name="Britt2000"/><ref name="Calder2005"/>。クレーターがほとんど存在しないということは、イオの表面は地球と同様に地質学的に若いということを意味している。つまり、クレーターが形成されるそばから火山物質が埋めてしまうのである。この結果は、ボイジャー1号によって少なくとも9つの活火山が観測されたことにより、見事に確認された<ref name=Strom1979/>。 ==== 表面組成 ==== イオの色彩豊かな見た目は、その大規模な火山活動による[[輝石]]などの珪酸塩岩石、硫黄、二酸化硫黄などの物質の堆積の結果である<ref name="IobookChap9"/>。二酸化硫黄からなる霜はイオの表面に普遍的に存在しており、白や灰色で覆われた広大な領域を形成している。硫黄も同様にイオの大部分で見られ、黄色や黄緑色の領域を形成している。中緯度や極域に堆積した硫黄はしばしば[[放射線]]によって損傷され、通常は安定な[[八硫黄]]を破壊する。これによりイオの赤茶色の極域の模様が生成される<ref name=Barnard1894/>。 [[File:First Geologic Map of Jupiter’s Moon Io.jpg|thumb|left|イオの地質図]] 爆発的な火山活動はしばしば傘状の噴煙を作り、表面を硫黄や珪酸塩を含む物質で彩る。イオ表面に堆積する噴煙は、噴煙中に存在する硫黄と二酸化硫黄の量に依存して赤や白を示す。一般的に、脱ガスする溶岩からの火口で形成される噴煙は大量の S<sub>2</sub> を含んでおり、赤い扇状の堆積物を残す。あるいは極端な場合は、しばしば中央火口から 450 km にも達するような大きな赤いリングを形成する<ref name="Spencer2000b"/>。赤いリングの噴煙堆積物の顕著な例はペレ火山に見られる。この赤い堆積物は主に三鎖と四鎖の硫黄分子、二酸化硫黄からなっており、あるいは[[塩化スルフリル]]も含んでいる可能性がある<ref name="IobookChap9" />。珪酸塩岩石の溶岩流の縁に形成された噴煙は、溶岩と既存の硫黄・二酸化硫黄の堆積物との相互作用によって白か灰色の堆積物を生成する。 イオの組成の地図とイオが高い密度を持つという事実から、イオは微量の[[水]]しか含んでいないか、あるいは水を含まない組成であることが示唆される。ただし氷や含水鉱物の小さな穴は暫定的に発見されており、代表的なものはギシュ・バル火口の北西斜面に存在している<ref name="Doute2004"/>。イオは太陽系の既知の天体の中では最も水の含有量が少ない天体である<ref name="Seeds2012"/>。この水の少なさは、木星は[[太陽系の形成と進化]]の初期段階ではイオ付近から揮発性物質を失わせるのに十分な高温であったが、さらに遠方まで失わせることは出来なかったことが原因であると考えられる<ref name="astrobio20140306"/>。 {{clear left}} ==== 火山活動 ==== {{Main|イオの火山活動}} {{See also|en:List of volcanic features on Io}} [[File:Tvastarpic2.jpg|thumb|300px|火山領域トゥワシュトラ火口の活発な溶岩流 (空白の領域は元データにおいて飽和している部分)。画像はガリレオ探査機によって1999年11月と2000年2月に撮影された。]] 強制されたイオの[[軌道離心率]]によって生み出される潮汐加熱により、イオは数百もの火山と広大な溶岩流を持った、太陽系の中でも最も火山活動が活発な天体となっている。大きな噴火の最中は、溶岩流は数十 km から数百 km に達することもあり、この溶岩は[[マグネシウム]]が豊富な[[苦鉄質]]や[[超苦鉄質岩]]を含む[[玄武岩]]からなる。この活動の副産物として、硫黄、二酸化硫黄ガスと灰のような[[火山砕屑岩]]が宇宙空間に最大で 200 km の高さにまで吹き上げられる。これにより傘状の噴煙が生成され、周囲の地形を赤や黒、白で彩られ、イオの不完全な大気や木星の磁気圏に物質が供給されている。 イオの表面は "paterae" として知られる火山性凹地が点在しており、その凹地は一般的には平坦な底部と、それを区切る急な壁から成り立っている<ref name="Radebaugh2001"/>。この地形は地球における[[カルデラ]]に似ているが、地球のものと同様に空洞になった[[マグマ溜り]]が陥没することで形成されているのかどうかは分かっていない。ある仮説では、これらの地形は火山の土台部分が露出することによって形成され、上にあった物質は吹き飛ばされたか土台と一体化したかのどちらかであるとしている<ref name="Keszthelyi2004"/>。この過程の様々な段階の paterae は、チャク・カマシュトリ領域 ([[:en:Chaac-Camaxtli region|Chaac-Camaxtli region]]) のガリレオ探査機を用いて観測されている<ref name=Williams/>。地球と火星における同様の地形とは異なり、これらの凹地は一般に楯状火山の頂上には見られず、また平均直径が 41 km と大きなサイズを持つ。最も大きなものは直径 202 km の{{仮リンク|ロキ火口|en|Loki Patera}} (Loki Patera) である<ref name="Radebaugh2001" />。ロキ火口はイオで最も強力な火山であり、イオ全体の熱出力に対して平均で 25% の割合を占めている<ref name="Loki"/>。形成メカニズムがなんであれ、多くの火口の形態と分布はこれらの地形は構造的に制御されていることを示唆し、少なくとも半分は断層や山によって区切られている<ref name="Radebaugh2001" />。これらの地形はしばしば火山噴火の場所となり、ギシュ・バル火口 (Gish Bar Patera) で2001年に見られた噴火のような paterae の底部を広がるような溶岩流を発生させたり、あるいは[[溶岩湖]]を形成したりする<ref name="Lopes2004"/><ref name="Perry2003"/>。イオの溶岩湖には、ペレ火口のように常に溶岩の外皮が入れ替わっているものや、ロキ火口のように散発的に入れ替わっているものがある<ref name="Radebaugh2004"/><ref name="Howell2007"/>。 [[File:Tvashtarvideo.gif|left|thumb|[[ニュー・ホライズンズ]]が撮影した画像では、イオのトゥワシュトラ火口から高さ 330 km にまで噴出する物質が発見された。]] [[File:189401-JupiterMoon-Io-PlumeNearTerminator-Juno-20181221.jpg|thumb|[[ジュノー (探査機)|ジュノー]]が2018年12月21日に撮影した、[[明暗境界線]]付近の噴煙<ref name="EA-20181231"/>。]] 溶岩流はイオの別の火山性地形も生み出す。火口の噴出孔から表面に噴出したマグマや割れ目から平原に流出したマグマは、ハワイの[[キラウエア火山]]で見られるような膨張し混合した溶岩流を生み出す。ガリレオ探査機が撮影した画像で、プロメテウス (Prometheus) 火山やアミラニ (Amirani) 火山で発生しているようなイオの大きな溶岩流の大部分は、古い溶岩流の上における小さな溶岩の流出によって生成されていることが明らかになっている<ref name="Keszthelyi2001"/>。大きな溶岩流の発生もイオで観測されている。例えばプロメテウス火山の溶岩流の最先端は、1979年のボイジャーの観測と1996年のガリレオの初めての観測の間で 75〜95 km 移動している。1997年に発生した大噴火では面積にして 3500 km<sup>2</sup> もの新鮮な溶岩が噴出し、隣接するピッラン火口の底部が溶岩で氾濫した<ref name="Mcewen1998b"/>。 ボイジャーの画像の分析から、科学者たちはこれらの溶岩流は主に様々な溶融した硫黄化合物からなると考えた。しかし、その後の地上からの[[赤外線]]観測とガリレオ探査機による測定では、これらの溶岩流は[[苦鉄質]]や[[超苦鉄質岩]]を含む[[玄武岩]]が主成分であることが示唆された。この仮説はイオの「ホットスポット」と呼ばれる熱放射をしている場所における温度測定の結果に基づいている。それによると、ホットスポットの温度は少なくとも 1300 K であり、場所によっては 1600 K に達することもある<ref name="Keszthelyi2007"/>。噴火の温度は初期の推定では 2000 K に達することが示唆されていたが<ref name="Mcewen1998b"/>、これは後に温度モデルに誤った熱モデルを用いたことによる過大評価であることが示された<ref name="Keszthelyi2007" />。 ペレ火口とロキ火口での噴煙の発見は、イオが地質学的に活発であることを示した初めてのサインであった<ref name="Morabito1979"/>。一般的にこれらの噴煙は、イオの火山から硫黄や二酸化硫黄のような揮発性物質が上空へ向かって 1 km/s に達する速度で噴出された時に形成され、ガスと塵による傘状の雲を形成する。これらの火山の噴煙中に発見される可能性のある物質として、ナトリウム、カリウムや塩素がある<ref name="Roesler1999"/><ref name="Geissler1999"/>。これらの噴煙は、2つの可能性のうち1つの方法で形成されるように思われる<ref name="McEwen1983"/>。ペレ火口から噴出しているようなイオの最大級の噴煙は、溶解した硫黄と二酸化硫黄ガスが火山の噴出孔や溶岩湖から噴出するマグマから解放される際に発生し、しばしば珪酸塩の[[火山砕屑物]]が共に引きずられて噴出する<ref name="Battaglia2014"/>。これらの噴煙は短鎖硫黄による赤と珪酸塩の火山砕屑物による黒の堆積物を表面に形成する。このようにして発生した噴煙はイオで観測された最大級のものになり、直径 1000 km を超える赤いリング状の模様を形成する。この形態の噴煙は、例えばペレ火口、トゥワシュトラ火口、ダジボーグ火口 (Dazhbog Patera) で見られる。別の形態の噴煙は、侵入する溶岩流がその下にある二酸化硫黄の霜を蒸発させた時に発生し、硫黄を上空へ送り出す。この形態の噴煙は、しばしば二酸化硫黄からなる明るい円状の堆積物を生成する。これらの噴煙の高度は 100 km を下回るものが多く、イオにおいて最も長寿命の噴煙である。プロメテウス火山、アミラニ火山、マスビ (Masubi) 火山で見られる噴煙がこの例である。噴出した硫黄化合物は、イオの上部地殻からリソスフェアのより深いところでの硫黄溶解度が減少するところに濃集しており、ホットスポットの噴火様式を決定する要因となる<ref name="Battaglia2014"/><ref name="Battaglia2015"/><ref name="Battaglia2018"/>。 {{clear left}} ==== 山地 ==== {{See also|en:Mountains of Io|en:List of mountains on Io}} [[File:Tohil Mons.jpg|right|thumb|[[ガリレオ (探査機)|ガリレオ]]による、高さ 5.4 km の トヒル山 (Tohil Mons) の[[グレースケール]]画像。]] イオは100から150の山を持つ。これらの構造は、高さは平均で 6 km、最も高いものは{{仮リンク|ボオサウレ山脈|en|Boösaule Montes}} (Boösaule Montes) の南の 17.5 ± 1.5 である<ref name="Schenk2001"/>。山地はしばしば長く連なり、平均で 157 km の長さに達する。また地球で見られるものとは異なり、全球的なテクトニクスの特徴は見られず孤立した構造をしている<ref name="Schenk2001"/>。これらの山地の途方もない地形を支えるためには、硫黄ではなく主に珪酸塩岩石からなる組成が必要である<ref name="Clow1980"/>。 イオに独特な外観を与えている大規模な火山活動があるにも関わらず、山地のほとんど全てはテクトニックな構造をしており、火山によって形成されたものではない。そのかわりに、イオの大部分の山地はリソスフェア底部における圧縮応力の結果として形成されたものであり、[[衝上断層]]によってイオの地殻の塊を隆起させ傾けている<ref name="SchenkBulmer1998"/>。山地の形成を起こす圧縮応力は、火山物質の継続的な埋没による[[地盤沈下]]の結果として発生する<ref name="SchenkBulmer1998"/>。山地の全球的な分布は、火山構造の分布とは対照的である。つまり、山地は火山が少ない領域に多く、逆に火山は山地が少ない領域に多い<ref name="McKinnon2001"/>。このことは、イオのリソスフェアの大規模な領域で、山地の形成を起こす圧縮と、火口を形成する伸張が支配的であることを示唆している<ref name="Tackley2001"/>。しかし局所的には山地と火口が互いに隣接している場合もあり、マグマはしばしば地表に到達するために山地の形成中に生まれた断層を通って噴出していることを示唆している<ref name="Radebaugh2001" />。 イオの山地 (周囲の平原から盛り上がっている構造を指す) は、様々な形態を見せる。[[台地]]がもっとも一般的な形態である<ref name="Schenk2001"/>。これらの構造は、起伏の大きな表面を持つ、大きく頂上が平坦な[[メサ]]に似ている。他の山地は傾斜した地殻の塊のように見え、かつては平らな表面であった緩やかな斜面と、圧縮応力によって隆起したかつての地下の物質からなる急斜面を伴う。どちらの形態の山地も、しばしば1つ以上の縁に沿って急な断崖を持っている。山地のうち火山活動に起源を持つものはごく一部である。このようなタイプの山地は小規模な[[楯状火山]]に似ており、中央の小さい[[カルデラ]]の付近の急斜面 (6〜7&deg;) と、縁に沿った緩やかな斜面を持つ<ref name="Schenk2004"/>。これらの火山性の山地はイオにおける平均的な山地よりも小さいものが多く、平均の高さはわずか 1〜2 km、幅は 40〜60 km である。さらに緩やかな斜面を持つその他の楯状火山の存在がいくつかのイオの火山の形態から推論されており、その例がラー火口 (Ra Patera) のような中央の火口から薄い溶岩流が流出している地形である<ref name="Schenk2004" />。 ほとんど全ての山地は劣化している段階にあるように思われる。イオの山地の基盤部分では大規模な[[地すべり]]堆積物が広範に見られており、物質移動が山地の劣化の主要な形態であることを示唆している。イオのメサと台地では波打った形状の縁が一般的に見られ、これはイオの地殻からの二酸化硫黄による掘り起こし (sapping) により、山地の縁に沿って脆弱な領域が出来ているためである<ref name="Moore2001"/>。 == 大気 == [[File:Io Aurorae color.jpg|thumb|right|イオの高層大気でのオーロラの発光。色の違いは大気の異なる成分からの放射を表している (緑はナトリウム、赤は酸素、青は二酸化硫黄などの火山ガスからの放射)。画像はイオが[[食 (天文)|食]]の最中に撮影されたものである。]] イオは極めて薄い[[大気]]を持っている。主成分は[[二酸化硫黄]] (SO<sub>2</sub>) で、微量成分として[[一酸化硫黄]] (SO)、塩化ナトリウム (NaCl)、[[硫黄]][[原子]]と[[酸素]]を含む<ref name="IobookChap10"/>。大気は、一日の時間や緯度、火山活動、表面の霜の存在量によって密度と温度が共に大きく変化する。イオにおける大気圧の最大値は 3.3{{e|-5}}〜3{{e|-4}} [[パスカル (単位)|Pa]] であり、空間的にはイオの木星の反対側の半球と赤道に沿った領域、時間的には表面の霜の温度が最も高くなる昼下がりが最も大気圧が大きい<ref name="IobookChap10" /><ref name="Walker2010"/><ref name="Spencer2005"/>。火山の噴煙における局所的な最大値も見られ、これは 5{{e|-4}}〜4{{e|-3}} Pa になる<ref name=Pearl1979/>。イオの大気圧はイオの夜面で最も低くなり、0.1{{e|-7}}〜1{{e|-7}} Pa にまで低下する<ref name="IobookChap10" /><ref name="Walker2010" />。 イオの大気温度の範囲は、低いものでは二酸化硫黄が表面の霜と[[蒸気圧|蒸気圧平衡]]になる温度から、高いものでは大気高層で大気密度が低く、イオのプラズマトーラスからの加熱とイオの磁束管からのジュール加熱によって 1800 K に達するような場合まで様々である<ref name="IobookChap10" /><ref name="Walker2010" />。この低圧の影響で、夜側では大気の影響は表面付近に限定される。ただし霜の多い領域から少ない領域へ二酸化硫黄が一時的に再分配される場合や、噴煙の物質が昼側の厚い大気に再突入した際の噴煙堆積物のサイズの拡大は例外である<ref name="IobookChap10" /><ref name="Walker2010" />。イオの大気は非常に薄いため、イオを探査するための将来のあらゆる着陸機はエアロシェル型の熱シールドに入れる必要は無いが、そのかわりに[[着陸|軟着陸]]するためには[[逆噴射]]スラスタが必要である。また[[放射線]]を減衰させる厚い大気が無いため、着陸機は強い木星放射線に耐えられるような頑丈さが必要とされる。 イオの大気中のガスは木星の磁気圏によってはぎ取られ、イオを取り囲む中性粒子の雲へと散逸するか、またはイオの軌道上にあるが木星の磁気圏と共回転するイオン化された粒子の環であるイオのプラズマトーラスへと散逸する<ref name="Krimigis2002" />。このプロセスによって1秒あたりおよそ1トンもの大気がイオから持ち去られているため、大気は常に補充されているはずである<ref name="IobookChap11" />。二酸化硫黄の最も重要な起源は火山の噴煙であり、平均で1秒あたり {{e|4}} kg もの二酸化硫黄を大気中に放出するが、その大部分は再び表面に凝縮する<ref name=autogenerated2/>。イオの大気中の二酸化硫黄の大部分は、表面に凍りついた二酸化硫黄の太陽光による[[昇華 (化学)|昇華]]によって維持されている<ref name="Moullet2010"/>。昼側の大気の大部分は、表面が最も暖かく最も活動的な火山の噴煙が存在する、赤道から 40&deg; 以内に限られている<ref name="Feaga2009"/>。大気の大部分が昇華によって生み出されているという考えは、二酸化硫黄の霜が最も多い木星の反対側の半球でイオの大気が最も高密度になるという観測事実と一致し、またイオが太陽に近いほど密度が高いという観測事実とも一致する<ref name="IobookChap10" /><ref name="Moullet2010" /><ref name="AlohaIo"/>。しかし火山の噴出孔付近で観測された最も高い大気密度を説明するためには、火山の噴煙からの寄与も必要である<ref name="IobookChap10" />。 大気中の二酸化硫黄の密度は表面温度と直接関係しているため、夜の間、もしくはイオが木星の影に入っている間は、イオの大気は部分的に崩壊する ([[柱密度]]が ~80% 減少する)<ref name="Tsang2016"/>。木星による日食の際の大気崩壊は、大気下部に一酸化硫黄の拡散層が形成されることによっていくらか抑えられるものの、イオの夜側での大気圧はイオでの南中過ぎにおける最大気圧時よりも2〜4桁も小さくなる<ref name="Walker2010" /><ref name="Moore2009"/>。塩化ナトリウム、一酸化硫黄、酸素原子や硫黄原子といったイオの大気の微量成分の起源は、火山の脱ガス、太陽の[[紫外線]]放射による二酸化硫黄の光[[解離]]や[[化学分解]]、木星の磁気圏からの荷電粒子による表面堆積物の[[スパッタリング]]である<ref name="Moullet2010" />。 様々な科学者によって、イオが木星の影を通過する際にイオの大気が表面に[[凝華]]するという仮説が提唱されてきた。これの証拠は「[[食 (天文)|食]]後の増光」であり、食の直後は表面が霜で覆われているために衛星がわずかに明るく見えるというものである。およそ15分で明るさは通常時に戻るが、これは[[昇華 (化学)|昇華]]によって霜が消失したためと考えられる<ref name="Fanale1981"/><ref name="Nelson1993"/><ref name="Veverka1981"/><ref name="Secosky1994"/>。食直後の増光は、地上望遠鏡からの観測の他に、[[カッシーニ (探査機)|カッシーニ]]に搭載された機器を用いて[[赤外線|近赤外線]]波長でも観測された<ref name="Bellucci2004"/>。2013年には[[ジェミニ天文台]]での観測によって、木星による食の最中の二酸化硫黄大気の崩壊と、食の直後の大気の再形成が直接測定され、この現象の存在がさらに支持されることとなった<ref name="collapse"/><ref name="Tsang2016_eclipse"/>。 イオが木星による食を経験している最中の高分解能の撮像観測から、[[オーロラ (代表的なトピック)|オーロラ]]状の発光の存在が明らかになっている<ref name="Geissler1999"/>。地球でのオーロラと同様に大気に粒子放射線が衝突することによって発生しているが、イオの場合は荷電粒子は[[太陽風]]起源ではなく木星の磁場から来たものである。オーロラは通常惑星の磁極周辺で発生するが、イオのオーロラの場合は赤道周辺が最も明るい。イオは自身の固有磁場を持っていない。そのため、木星の磁場に沿って移動する[[電子]]はイオの大気に直接衝突する。磁力線がイオに垂直になる場所 (つまり赤道付近) ではイオの大気を電子が通過する経路が最も長くなるためより多くの電子が大気に衝突し、最も明るいオーロラを生み出す。イオと磁力線が垂直に交わる部分で発生するオーロラは、木星の傾いた磁気双極子の向きが変化するのに伴って揺れ動くのが観測されている<ref name="Retherford2000"/>。イオの周縁に沿った酸素原子からの微かなオーロラ (右図の赤い発光) と、イオの夜側でのナトリウム原子によるオーロラ (同じ図の緑の発光) も同じく観測されている<ref name="Geissler1999" />。 == イオを扱った作品 == {{main|[[地球以外の実在天体を扱った事物#木星]]|[[:en:Jupiter's moons in fiction#Io]]<!--各種作品についてはこちらにお願いします-->}} == 出典 == {{Reflist|2|refs= <ref name=jpl>{{Cite web|和書|url=https://ssd.jpl.nasa.gov/sats/phys_par/#legend|title=Plantary Satellite Physical Parameters|work=JPL Propulsion Laboratory|accessdate=2015-11-20}}</ref> <ref name="book">{{cite book |title=Encyclopedia of the Solar System |chapter=Io: The Volcanic Moon |author=Rosaly MC Lopes |publisher=Academic Press |date=2006 |editor1=Lucy-Ann McFadden |editor2=Paul R. Weissman |editor3=Torrence V. Johnson |pages=419–431 |isbn=978-0-12-088589-3}}</ref> <ref name="Lopes2004">{{cite journal |title=Lava lakes on Io: Observations of Io’s volcanic activity from Galileo NIMS during the 2001 fly-bys |journal=Icarus |last=Lopes |first=R. M. 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ムーミン
ムーミン(スウェーデン語: Mumin、フィンランド語: Muumi、英語: Moomin)は、フィンランドの作家トーベ・ヤンソンの「ムーミン・シリーズ」と呼ばれる一連の小説と絵本、および末弟ラルス・ヤンソンと共に描いた「ムーミン漫画」作品の総称、あるいはそれらとそれらを原作とする二次著作作品の総称。または、同作品に登場する架空の生物の種族名であり、同時に主人公(主要な登場生物)の名前でもある「ムーミントロール」の略称あるいは愛称。 トロールは北欧の民間伝承に登場する、広い意味での妖精の一種である。 『ムーミン谷の十一月』(講談社刊/鈴木徹郎訳)の訳者解説によれば、「ムーミンは動物か、人間か?」と問われたトーベの答えは、スウェーデン語の「Varelser」(存在するもの) でありトーベはムーミンのことを決して妖精とは答えなかったそうだ。 精霊や妖怪ではなく、目にははっきり見えなくてもすぐ近くで生きている存在だと、伝えたかったためかもしれない。 ムーミンの物語に登場するトロールは、名前こそ借りているもののこれとは異なる、トーベ・ヤンソンが独自に創造した架空のいきものである。人型の登場人物も人間ではなく、同様に架空の小人の一種である。なお、原作中で登場するキャラのうち、『ムーミンパパの思い出』に登場するミムラたちが住む丸い丘の国の王様はミムラやムーミントロールたちよりわざわざ圧倒的に大きく描かれているので人間の可能性がある。 第一作である「大きな洪水と小さなトロール」では、こうしたトロールたちは人間と同じ世界で共存しているが人間には察知されない存在として描かれた。昔はタイルストーブの裏に隠れて住んでいたという記述があり、その大きさは人間よりも遥かに小さいものと設定されていた(終盤の籐椅子に乗っているシーンで猫の親子と比較するとムーミンママが子猫程度)ことがうかがえる。 ただしムーミン達の大きさは作者自身も細かく決めていたわけではないらしく、次作の『ムーミン谷の彗星』では子猫の肩高がスニフの足程度に描かれている(なお、この本は何度か改訂版が出されており、初版の『彗星追跡(KOMETJAKTEN)』ではこの生物は子猫ではなくキヌザル(マーモセット)であった。ただしキヌザルもいちばん小さいピグミーマーモセットでさえ体長11~15cmなので子猫と比べて極端に小さいわけではない。)のに、同じ話内で実物は体長30cmほどのじゃこうねずみ(マスクラット)がスニフより大きいムーミンパパよりさらに大柄に描かれているという描写があるほか、コミックス版では何度か登場する「フィリフヨンカが飼っている牛」がムーミンたちと比べ現実における人間と牛ぐらいの比率になるなど、人間並みになっている描写もある。 ムーミントロールたちは、妖精たちの住む谷・ムーミン谷(典: Mumindalen)に住んでいる。 ムーミン谷には、東に「おさびし山」(典: Ensliga bergen、英: Lonely Mountains。正しくは「お寂し山」)がそびえ、その麓から川が流れている。その川にはムーミンパパの作った橋がかかっていて、その橋の先にムーミン屋敷がある。ムーミン屋敷の北側には、ライラックの茂みがある。西は海に面しており、桟橋の先には水浴び小屋がある。 ムーミンシリーズはキャラクターが多く情報量が膨大になるうえ、トーベ・ヤンソン本人によるものだけでも小説、絵本、新聞連載漫画、戯曲など様々なメディアで性格付けや人間関係などが異なることがよく見られ、レギュラーキャラクターもメディアごとに違うため、ここには主要キャラであっても名前などは記載しない。 作者のトーベ・ヤンソンは画家でもあり、ムーミンの原型となるキャラクターは小説執筆以前にも風刺雑誌『ガルム』などでたびたび描かれていた。小説として初めて登場するのは1945年にスウェーデン語で著された『小さなトロールと大きな洪水』で、その後ムーミン・シリーズとして知られる計9作品に登場するようになる。 造形的には、トーベが10代の頃、次弟ペル・ウーロフ・ヤンソンとの口ゲンカに負けたときに、トイレの壁に悔し紛れに描いた『SNORK(スノーク、とても醜い生き物)』として描いたものが、ムーミントロールのルーツであるとされる。ネーミングは叔父の家へ下宿をし学校へ通っている時代、勉強の合間に冷蔵庫から食べ物を失敬しては夜食にしていたのだが、あるときに叔父から注意され「この裏にはムゥーミントロールというお化けがいるからつまみ食いはやめなさい。首筋に冷たい息を吹きかけてくるぞ。」と言われたことがきっかけである。 小説は子供向けの作品の体裁をとっているが、その内容は必ずしも子供向けではない。第二次大戦の戦中・戦後に執筆された初期の作品には、洪水や彗星の襲来など自然災害が繰り返し描かれる。新聞連載漫画の大成功によってもたらされた「ムーミンブーム」にほとほと疲れ果てた頃に書かれた第6作『ムーミン谷の冬』を契機として、後期の作品はよりはっきりと内観的であり、おとぎ話の体裁をとった純文学といってよい内容を備えている。 また、小説の挿絵もトーベが行っており、初期はインクの濃淡で描かれていたが、次第に細かな線のみで表現されるようになった。 朝日新聞の千葉恵理子によると、トーベはこの作風の変化を画家としての進歩だと受け取り、改訂する際に初期作品の挿絵を線による挿絵に差し替えたとされている。 1954年からイギリスの大衆紙「イブニング・ニュース(英語版)」 にムーミントロールの漫画が週に6日掲載された。トーベ・ヤンソンが漫画を描きスウェーデン語のセリフをコマに書くと、語学が堪能な末弟のラルス・ヤンソンがセリフを英語に翻訳した原稿が印刷に回る。途中ラルスが作品のアイディア自体を提供する時期を経て、1960年以降はラルスが引き継ぎ、1975年まで合計73作品が連載された。うち21作はトーベの絵である。 小説作品は長編・短編集あわせて9作品が刊行されている。ムーミンの原作はスウェーデン語で書かれた。以下、日本語題名は講談社の全集による。 最古の日本語訳は1964年、講談社から出版された『少年少女新世界文学全集 第27巻』所収の「ムーミン谷の冬」(翻訳:山室静、挿絵:池田龍雄)である。同作の挿絵ではムーミンはマフラーを巻いている(以後、特記なきものはすべて講談社からの出版)。 続いて1965年には、偕成社の『世界の子どもの本』シリーズから『ムーミン谷はおおさわぎ』(翻訳:矢崎源九郎、挿絵:赤星亮衛。『ムーミン谷の夏まつり』の日本語訳)が出版された。同書では、スナフキンは「かぎタバコ屋くん」、ミイは「おちびのミュー子」などと翻訳されている。同年には『たのしいムーミン一家』(翻訳:山室静)が、初めて原作者のトーベ・ヤンソンによる挿絵を使用して出版された。『たのしい――』には、冒頭に、シリーズ刊行に当たってのムーミンママからの日本の読者に向けた挨拶(講談社から手紙が来たのがこの作品が誕生するきっかけであったこと、トロルと自分達ムーミンの違いについてなど)が記されている。 1968年には『トーベ=ヤンソン全集』が出版され、当時原書が絶版だった『小さなトロールと大きな洪水』を除く原作本全8作がすべて翻訳・出版されることとなった。 テレビアニメ『楽しいムーミン一家』(漢字表記と平仮名表記の違いで分かるように別の作品)の放送が開始された1990年からは、初めて原著に忠実な編成の『ムーミン童話全集』が全9巻で出版され、同全集版が『小さなトロールと大きな洪水』の初日本語訳となった。 文庫版の出版も行われた。1972年に少年少女講談社文庫に『たのしいムーミン一家』が収録されたのを皮切りに、1978年からは講談社文庫に、1980年からは青い鳥文庫に収録されている。 トーベ・ヤンソンが初めてムーミンを漫画化したのは1947年のスウェーデン語の新聞『ニィ・ティド(en:Ny Tid (Finland)・fi:Ny Tid)』紙の児童欄であり 、『ムーミン谷の彗星』を漫画化した(トフスランとビフスランたちが出てくるなど、内容は多少違う)『ムーミントロールと地球の終わり』だが、1年間の連載予定が半年で打ち切りになり、以後のコミックシリーズとは無関係になっている。(なお、同作品はムーミンコミックス14.『ひとりぼっちのムーミン』に収録されている)。 その後、1950年に第3作『たのしいムーミン一家』の英語版が出ると、当時世界最大の発行部数を誇った、イギリスの夕刊紙「イブニング・ニュース(英語版)」から、「ムーミンを主役とした新聞漫画を描いてみないか」と申し入れを受ける。こうしてコミック版ムーミンは1954年から、1975年まで日曜日を除く週6日掲載され、たちまち大人気となり、世界各国に配信されて愛されるようになる。 当初、トーベは60年に連載を終えるつもりだったが、契約上では新聞社側が作者を替えて連載を継続させる権利を有していた。最終的に、トーベからの相談を受けた末弟ラルス・ヤンソンが、3か月の特訓の末に漫画の制作を引き継いだ。 新聞漫画の読み手は大人が中心だったことから、コミック版は小説版よりも、ムーミンパパの冒険や失敗に加え、社会に対する風刺が題材に取り上げられることが増えた大人向けの作品である。 また、朝日新聞の記者・千葉恵理子は、日本で行われたコミック版の展覧会の記事の中で、姉弟の作風の違いについて指摘している。たとえば、トーベの描くムーミンは全体的に丸みを帯びた柔らかなデザインであるのに対し、ラルスのムーミンは鼻が若干とがっていて、表情がわかりやすいとしている。また、トーベは光の当たり方や遠近感を重視して自然を描くのに対し、ラルスはホースなどの小道具を、コマ割りの枠に使うなど漫画的な表現を多用している。 1969年には漫画版が、講談社から「ムーミンまんがシリーズ」(訳者名の記載なし。※出版社の講談社スタッフが訳をしたという。解説;草森紳一)として初めて日本語訳された。同書は全73話中29話を抜粋した、全10巻のシリーズである。右綴じのため、画像は左右反転の印刷である。また、カルピスまんが劇場版アニメに倣い、スノークのお嬢さんは「ノンノン」と翻訳されている。 1991年には福武書店(現:ベネッセコーポレーション)から、『えほんこみっくす ムーミンの冒険日記』(翻訳;野中しぎ)として全10巻で出版された。コマの周囲に色が施された2色刷りで、横長で2段組の構成である。訳者の野中がプロデューサーを務めたテレビアニメ『楽しいムーミン一家』に倣い、スノークのお嬢さんは「フローレン」と翻訳されている。 2000年には筑摩書房から『ムーミン・コミックス』(翻訳:冨原眞弓)として出版された。これまでの日本語訳は、英語版からの翻訳であったのに対し、当作品はスウェーデン語からの翻訳である。トーベ作の全21話とラルス作の全52話中21話、計42話が収録されている。装幀は祖父江慎。スノークのお嬢さんは「スノークの女の子」と訳されている。 講談社版「ムーミンまんがシリーズ」(訳者不明、草森紳一解説)はトーベとラルスの作品29作を収録している。 ※ スノークのお嬢さんは、アニメーション『ムーミン』での音響監督の田代敦巳が名前が付けられていないのは味気ないからと、演出を担当したスタッフ、大隅正秋の妻の愛称である「ノンちゃん」から採って名づけた“ノンノン”と訳されている。 ※ 共同執筆者の弟ラルス・ヤンソンの絵である作品も掲載されているが、ラルス・ヤンソンの名前は記載されていない。 ※ 作品の枠の一部に2人が書いたサインは消されている。日本向けに左右反転されており右開きになっている。セリフは縦書きに変更されている。 福武書店版『ムーミンの冒険日記』(野中しぎ訳)はトーベの作品10作を収録している。 ※ スノークのお嬢さんは、訳者がテレスクリーンでプロデューサーとして係わったアニメーション『楽しいムーミン一家』と同じく、ドイツ語のフローレンを名前とされた。 ※ 原作者ではあっても、ラルスの作品は扱われていなかったにも関わらず、執筆者紹介は姉弟一緒の写真付きで掲載されている。 ※ アニメーション『楽しいムーミン一家』では、原作者の一人ラルスの名前のクレジットは、愛称の「ラッセ」と表記されていたが、当作品では本名のラルスになっている。 筑摩書房版『ムーミンコミックス』(冨原眞弓訳)はトーベとラルスの作品42作と漫画の元となったトーベの作品1作を収録している。他2社と違いスウェーデン語版を基にしている。スノークのお嬢さんはスノークの女の子と訳されている。 ※ 10『春の気分』に収録された「南の島へくりだそう」は、後述する『劇場版ムーミン 南の海で楽しいバカンス』の原作。 小説や漫画版のエピソードを編集して幼児向け絵本にしたものもあるが、ここでは絵本として書き下ろされた作品を扱う。 以下に挙げる日本語訳はすべて講談社からの出版である。 1965年、『世界の童話 10 北欧・南欧童話集』に「さて、それから」(翻訳:下村隆一、山室静、挿絵:井上洋介)が収録された。これが絵本『それから どうなるの?』の初日本語訳である。 その後、1971年に山室静の翻訳で『それからどうなるの』(当時の訳題には疑問符はない)『さびしがりやのクニット』が出版された。縦組み右綴じの構成で、イラストは反転しての印刷であった。1980年に小野寺百合子の翻訳で『ムーミン谷へのふしぎな旅』が出版。 1991年に渡部翠の新訳で『それからどうなるの?』『さびしがりやのクニット』『ムーミン谷へのふしぎな旅』が出版される。2014年に同じく渡部翠の翻訳で『ムーミンやしきはひみつのにおい』が出版された。 日本の最初のアニメシリーズより10年早く、この人形劇はアウグスブルク人形箱によって制作され、1959年8月16日から1960年10月23日まで、6話ずつ2期放映された。『たのしいムーミン一家』と『ムーミン谷の夏まつり』の全2期である。第1期は1959年8月16日から1959年8月21日まで、第2期は1960年9月18日から1960年10月23日まで放映された。第1期は1話30分、第2期は1話25分で、ヒルデ・ノッカーとスノークがエピソードを紹介した。 ようやく太陽が雪を消し、ムーミン谷の青々とした草原が再び姿を現した若い春、小さなムーミンとスナッフルプは冬眠から最初に目覚める。ふたりは奇跡的な特性を持つ不思議な帽子を見つける。それはまるで忠実な犬のように早起きの二人に付きまとい、成長し、多くの驚きを引き起こすようだ。大きな黒い帽子をかぶり、赤く光る目をした背の高い男がその中心的な役割を担っていたのだ......しかし、帽子の謎が解ける前に、新たな問題が発生する。トフスランとヴィフスランという二人の小さな見知らぬ男が、ムーミン一家に助けを求めてきたのだ。氷のようなモーラは彼らを追いかけ、スーツケースに隠した唯一の持ち物を奪おうとする。お人好しのムーミン一家は、二人の助けを拒むことはできないが、氷のようなモーラを相手にするわけにはいかない。 ムーミンがスナッフルの帰りを心待ちにしていたその時、ムーミン谷の端にある火山が噴火し、高波が押し寄せた。 谷全体が浸水し、ムーミン園の上階だけが水に浸かった。ムーミンたちは別の避難場所を探さなければならなかった。 そこで役に立ったのが、水に浮く家だった。しかし、その建物は見た目とは裏腹に普通の家ではなく、廃墟でもなかった。 同時に、スニフは新しい出会いを果たす。一方には、愛らしいが寂しがり屋で、それゆえにいつもどこか悲しげなフィリージョンクがいる。一方、不機嫌な公園管理人は、面白半分にあちこちに禁止の看板を立て、森の子供たちの生活を別の意味でも難しくしている。スニフは、この不機嫌な紳士に相応しいものを与えてやろうと決意する。 文章は『アウクスブルガー・パッペンキステの不思議な世界』より引用・編集。 このシリーズは、フランクフルト・アム・マインで開催されたラジオ展示会(1959年8月14日~23日)から生中継された。人形劇団の移動舞台は、展覧会場のテレビカメラの前に設置された。その結果、1957年から使われていた小型のテレビ人形ボックス(インサート・ボックスとも呼ばれる)の代わりに、移動舞台の大きなカバーが開かれた。 この6つのエピソードは、ヒルデ・ノッカーが司会を務め、時折コメントを述べた。しかし、司会者は彼女だけではなかった。人形遣いのマーゴット・シェレマンが率いる "スノーキー "というキャラクターが、ヒルデ・ノッカーと一緒にテーブルの上で司会を務めた。 そして、それは始まった: アナウンサー:子供たちよ、こんにちは。ドイツのテレビがサプライズを用意しました。このラジオ展の会場にいる皆さん、そしてご自宅のスクリーンの前にいる皆さん。- ムーミン一家をご存知ですか?いいえ、それなら気をつけてください。 スノーク:(まだ見えない、テーブルの下で)プー! プー! プー! プー! プー! プー! プー! プー! プー! プー! プー! プー! プー! プー! プー ああ、きれいなおねえさん、お願い、起こしてくれる? アナウンサー:(やってくれる)さて、あなたは誰ですか? スノーク:ありがとうございます。ありがとうございます。シュノークです! アナウンサー:シュノーク? シュノーク:シュノークです。いい名前でしょう?あなたのお名前は? アナウンサー:ヒルデ・ノッカーです。 シュノーク:これもとてもいい名前ですね。ヒルデ。今から「あなた」と言います。- いいですか? アナウンサー:はい、出身を教えていただければ。 シュノーク:秘密です!残念ながら言えません。でも......今、ムーミン一家の話をしていましたよね? アナウンサー:もちろんです。 スノーク:ありがとうございます。私はムーミン一家にとても近い親戚なんです。実は私もムーミンファミリーの一員なんですが、普段はあちこちを旅しているんです。 アナウンサー:はい、スノークさん。では、ムーミン一家についてお聞かせください。 スノーク:おかしな会社について?ええ、ぜひ。ムーミン一家はムーミン谷に住んでいます。ムーミン谷の地図はお持ちではないですか? アナウンサー:残念ながらありません。 スノーク:大丈夫です。今度、自分で描いた地図を持ってきますから。- ムーミン谷の少し左側にムーミンの家があります。そこにムーミンのお父さんとお母さんとムーミンが住んでいる。それが3人。それからシュニュフェル、シュナプフェリヒ、ヘムル、スノークの女の子、これで4人。3人と4人で6人です。 アナウンサー:いや、7人だよ、シュノーク。 シュノーク:そうですか?まあ、それについては議論しないことにしよう。でも、8匹いることは確かなんだ......ああ、そうだ、ジャコウネコだ。でも彼はもうこの家には住んでいないんだ。あまりに臭いパイプを吸うので追い出されたのだ。恐ろしいハーブだ。ヘーゼルナッツの葉をモミの蜂蜜に漬けて天日干しにしたもの。おいしそうだけど、ひどく臭いんだ。まあ、そんなことは今はどうでもいい。では、ムーミン一家・・・お時間ありますよね? アナウンサー:もちろんありますよ。 スノーク:どうして私たちなんですか? アナウンサー:(カメラを指さし、スノークはヒントを追う) スノーク:ああ......そうだ......なんと......たくさんの子供たちだ。みんな、ピ・フー!ピフー!フリッツル、鼻を拭きなさい、そうしないと水滴が落ちるよ!はい、何から始めましょうか? アナウンサー:最初から始めるのが一番です。 スノーク:素晴らしいアイデアだ。気をつけましょう!遠いムーミン谷に冬がやってきた。冬は一年中降り続き、一面ふかふかの雪に覆われました。ムーミン一家はベッドにもぐりこみ、長い冬の眠りにつきました。数週間が過ぎ、ついに空に大きな光が再び輝き、大小のつららが木々の上で泣き始める日がやってきた。そして春一番が吹くと、カッコウがムーミン谷にやってきて、眠りについている人たちを起こした。しかし、なぜ私が長々と話を続けなければならないのだろう?始まればすぐにわかることだ。そして:行こう、行こう。(アナウンサーに)言ってください:行け!!! アナウンサー:Go! そう言って、2人はボックスに向かい、ボックスが開き--試合が始まった。しかし、30分ほどして再び蓋が閉まったとき、物語はまだ語られていなかった。物語はそれから5日間続いた。 このパフォーマンスは、テレビのライブカメラだけでなく、見本市の観客のためのものでもあったため、通常のオープニングとクロージングのクレジットは省かれ、劇場で上演されるような短いミュージカル・テーマに合わせた蓋と幕の開閉に限定された。 6回のライブ放送は、テレビモニターからフィルムカメラで撮影され、再放送のためのフィルム記録(FAZ)が作成された。 以下の放送時間の詳細は、バイエルン放送がドイツのテレビ番組用に作成した放送記録から引用したもので、秒単位(少なくとも分単位)で正確なものもある。残念ながら、1959年8月17日のログは残っていないため、この場合は前の番組アナウンスの放送時間しか評価できない。 1959年8月16日から21日にかけて放送された第1期のフィルム録画(FAZ)は、繰り返し放送には適さないことが判明した。編集者のヘルガ・マウエルスベルガー(Helga Mauersberger)は、パペンチェストをHRの午後の番組で繰り返し放送することに決めていた。しかし、視覚的に認識できる明確なラインは彼女にとって重要だった。 その結果、第1期のための数分の新しい素材が、第2期の撮影中(1960年5月9日〜14日)にも作られ、後の再放送に使えるようになった。1959年のFAZのオープニング・クレジットとエンディング・クレジットは、このようにして撮影された新しいオープニング・クレジットとエンディング・クレジットが、小さなテレビ・ボックスの蓋で置き換わった。ここから削除された、移動舞台の蓋を映した映像は、おそらく破棄されたのだろう。 1963年にオーストリア放送協会(ORF)でこのシリーズが再放送されたためである。このため、ドイツ人司会者ヒルデ・ノッカーとスノークの紹介とトランジションはカットされた。ORFの編集版では、スノークが単独で登場する2つの短いトランジションシーンだけが残された。それ以降、各エピソードはボックスカバーから始まるため、それぞれ数分短くなった。ある映像のカット。 残念ながら、この素材もおそらく破棄された。現在、HRによれば、プレゼンターのいない1963年版だけが残っている。 ORFの放送は1963年3月24日に始まったが、詳細は不明。おそらく毎週放送されたのだろう。 ドイツではその後、1969年10月1日から1969年10月9日まで、ヘッセン州のテレビ番組で(ORFの短縮版で)放送された。エピソードリストには、オリジナル版と編集版から第1期の各エピソードの放送時間と放送日が記載される。 編集版の第1話は16mmリバーサルフィルムで撮影され、他の5話はポジフィルムで撮影された。 文章は『アウクスブルガー・パッペンキステの不思議な世界』より引用・編集。 第2期は、フランクフルトにあるヘッセン放送のスタジオでテレビカメラを使って撮影された。映像は演奏中に直接ミキシングされた。テレビへの直接送信はなかったが、ライブ放送の常套手段である。スタジオのモニターに向けられたフィルム・カメラが、こうして作られたミックスを後の放送用に記録した(いわゆるフィルム・レコーディング)。これによって、ヒルデ・ノッカーとスノークのエピソードの紹介も作られた。これらのイントロダクションは、第2期が放送される前の1959年の第1期のオリジナル放送にも登場した。 残念ながら、ヒルデ・ノッカーとスノークが登場する紹介シーンは、1960年の第2期放送のときだけだった。最終回では、ムーミン社会がスニフの望遠鏡を覗きながら、ヒルデとスノークが子供たちとムーミンに別れを告げるシーンが映し出された。最終回の放送時間は24分だった。 これらのシークエンスは、1963年にオーストリア放送協会(ORF)が第2期を放送した際に削除された。ヘッセン放送によれば、現在残っているのは、ヒルデ・ノッカーとスノークのイントロがないバージョンだけだという。 ORFの放送の詳細はわかっていない。エピソードが5月25日(土)、29日(水)、6月9日(日)に放送された形跡がある。09.06. 最終回は1963年6月19日に放送された。 この第2期の短縮版は1969年に再放送された。ヘッセン州の国営テレビで1969年10月13日から10月21日まで放送された。第5話の放送は29分から28分に短縮されたようだが、現存するフィルムは24分である。 ※ 以下のテレビアニメーション・アニメーション映画・パペットアニメーションに付記された年代は製作国の上映日が無い場合、日本における放送・公開年となる。 1969年(昭和44年)10月5日 - 1970年(昭和45年)12月27日,フジテレビ系列にてカラー放送.企画製作は瑞鷹エンタープライズ.アニメーション制作は第1話 - 第26話まで東京ムービー(Aプロダクション).キャラクターデザインは大塚康生であったために,大塚ムーミンとして親しまれてきた.第27話以降最終回までは,東京ムービーが降板したために,間を措かずに虫プロダクションへと交代した.なお制作会社の交代については,トーベ・ヤンソンの要望のため,あるいは,赤字を垂れ流す番組を切り捨てるためともいわれるが,演出を務めた大隅正秋によれば,大隅や大塚らの制作チームは,はじめから26話までの約束で参加していた(その後には「ルパン三世」の制作が控えていた)のであり,途中で辞めたのではないと云い,トーベからの要望は体の良い表向きの理由としてクレームだと誇張して喧伝されたのだという.放送時間帯は日曜日19時30分 - 20時00分の30分番組であった.「カルピスまんが劇場」の第2作である. 1972年(昭和47年)1月9日 - 同年12月31日,フジテレビ系列にて毎週日曜日の19:30〜20:00に放送.企画製作は瑞鷹エンタープライズ.アニメーション制作は虫プロダクション.番組表によっては「新ムーミン」と表記されることもあった. 瑞鷹エンタープライズ版は、本放送終了後も1969年版・1972年版共に再放送ででも好評を得ていて、ソフトの売れ行きも好調で,1990年の「楽しいムーミン一家」の放送開始の前日までは,1969年版と1972年版ともに再放送やVHSビデオソフト・レーザーディスクソフトへの作品配給や、キャラクターグッズの発売許諾を行っていたが、1990年からドイツのテレスクリーン(現在はStudio 100の孫会社)製作による「楽しいムーミン一家」の放送が開始されて以後、日本国内において瑞鷹エンタープライズ版の作品の再放送・配信・パッケージソフト化は正規の形では一切行われていない。一方で、瑞鷹エンタープライズ版でキャラクターデザインを担当していた大塚康生は、21世紀初頭でも台湾では瑞鷹エンタープライズ版が繰り返し再放送されていると証言している。本国の公式サイトで1969年版と1972年版のそれぞれ第一話の動画は見ることができる。 1977年にトーベ・ヤンソン監修のもとポーランドで作られたテレビ放映用ストップモーション・アニメーション(人形アニメ)。全78話。日本では1969年版と1972年版の日本製TVアニメーションで脚本を手掛けた鈴木良武が監修に入りムーミンの声を演じた女優岸田今日子が一人で全てのキャラクターの吹き替えを演じ、1979年よりNHK BS2「衛星アニメ劇場」枠で放送された。その後2003年にプチグラパブリッシング配給により36話が劇場公開され、同年アスミックからDVD-BOXも発売された。 1977年の『ムーミン・パペット・アニメーション』の、フィンランド本国によるデジタルリマスター版。日本では新たに段田安則と松たか子の二人が全キャラクターを演じ分ける形で再吹き替えが行われ、2012年3月24日~2013年3月26日にNHK BSプレミアムにて放送された。後にNHKエンタープライズによりDVDも発売された。 1990年(平成2年)4月12日 - 1991年(平成3年)10月3日テレビ東京系列にて放送。製作はテレスクリーン。ヤンソン姉弟の監修のもと、プロデューサーであるデニス・リブソンらフィンランドスタッフが参加。名倉靖博がトーベの原作を基にキャラクターデザインを行った。制作協力はテレイメージ(現: ワコープロ)、ビジュアル80。 1991年(平成3年)10月10日 - 1992年(平成4年)3月26日、テレビ東京系列にて放送。『楽しいムーミン一家』の第2シリーズとして、休止期間を挟まずに放送された。こちらにはオープニングには登場するスノークが全く出なくなり、白鳥英美子のナレーションもなくなった。原作は主にコミックスから採られている。 原題は「MoominValley」。フィンランド本国で2019年春放送。フィンランドとスウェーデンに本拠を置くガッツィー・アニメーションズが制作を務め、最先端の2D/3Dハイブリッド技術を使用して作られる。ストーリーは、原作のオリジナルストーリーに基づきリメイクされる。日本でも2019年4月4日19時半からNHK BS4K,2021年11月6日10時半からNHK eテレにて放送開始。 1992年8月8日に松竹の配給で公開。上映時間: 62分、製作国: 日本 ムーミン・パペット・アニメーション(デジタルリマスター版)の一部を劇場版として再編集した作品群。 2008年公開、日本ではアスミック・エース配給により2009年に公開。吹き替えはムーミン:野島健児、ムーミンパパ:稲葉実、ムーミンママ:高島雅羅、スノークのおじょうさん:永田亮子、ミイ:水田わさび、スナフキン:白熊寛嗣。ナレーションを小泉今日子が務めた。角川エンタテインメントからDVDが発売された。 小説「ムーミン谷の彗星」を原作とするエピソードを抜き出し、劇場用長編アニメーションとして2010年に制作された。主題歌をビョークが歌い、声の出演はマッツ・ミケルセンやアレクサンダー・スカルスガルドなどが担当する。日本では2015年にチャイルドフィルムの配給によって公開された。吹き替えはスノークのお嬢さん以外『楽しいムーミン一家』のメインキャストらが務めている。ビクターエンタテインメントからDVDが発売されている。 2017年12月2日に公開。ムーミン・パペット・アニメーション劇場版第3弾。日本語吹き替え版の声優は一新され、主人公・ムーミントロールは宮沢りえ、それ以外の男キャラを森川智之、女キャラを朴璐美、ナレーションは神田沙也加が務めた。 配給は東映。Blu-ray・DVDはアミューズから発売。 2015年(平成27年)2月13日に公開。製作国はフィンランド・フランス。 トーベ・ヤンソン生誕100周年を記念し、初めて母国フィンランドで製作された長編アニメーション作品(フランスとの共同制作)。監督はグザヴィエ・ピカルド、プロデューサーはハンナ・ヘミラ。 グザヴィエ・ピカルドは日本の本屋さんでたまたまムーミンを見つけ知った。押井守監督とも親交があり、日本で公開されることはとても嬉しいと語った。日本語吹き替え版はパペット・アニメーション版『~彗星』から5年ぶりに『楽しいムーミン一家』のメインキャストらが担当。興行収入は2億7000万円。 2023年(令和5年)12月29日に公開。製作国はフィンランド。日本の配給は東映ビデオ。21世紀に入ってから初めて新規に製作されたパペットアニメーションで、スタッフは20世紀版から一新。監督はアイラ・カーベラン、プロデューサーはアイラ監督およびトム・カーベラン。日本語吹き替え版については上述の『~南の海で楽しいバカンス』に引き続き『楽しいムーミン一家』のメインキャストらが担当した。 ストーリーは小説「ムーミンパパの思い出」を原作とするエピソードを抜き出し、いくつかのエピソードを追加して構成。若き日のムーミンパパを事実上の主人公とし、スナフキンやスニフの親との関わりやムーミンママとパパの馴れ初めを交えつつ、パパ一行の冒険の日々が描かれる。 以下に挙げる作品はすべて講談社からの出版である。 1969年に「カルピスまんが劇場」枠でテレビアニメ『ムーミン』の放送が開始されると、同アニメに準拠した絵本『カラーテレビ版ムーミン名作絵ばなし』(全22冊)も出版された。1972年には、1972年版アニメに準拠した絵本『講談社のムーミン・ブック』(全20冊)も出版されている。これらの絵本では、カルピスまんが劇場版アニメに倣い、スノークのお嬢さんは「ノンノン」と翻訳されている。 本節ではテレビなどの電子ディスプレイを用いる、いわゆる「テレビゲーム」について解説する。 2015年のバレエ作品。 2017年のバレエ作品。 日本では、DDI(現:KDDI)の特定通話先割引サービス『なかよしネット』のテレビCMにキャラクターが起用されたことがあるほか、富山県の地方銀行である北陸銀行のイメージキャラクターに採用されていた事もある。 ムーミンワールド(フィンランド語: Muumimaailma)はフィンランド西スオミ州南西スオミ県トゥルクに近いカイロ島のナーンタリにあるムーミンに関するテーマパーク。 フィンランド以外では初めての「ムーミン」のテーマパークとして、埼玉県飯能市に「Metsä(メッツァ)」が2017年にオープンすることが、2015年6月30日に発表された。「メッツア(metsä)」はフィンランド語で“森”という意味。宮沢湖の周辺の約18万7000平方メートル(東京ドーム4個分)の用地に展開され、有料の「ムーミンゾーン」と無料の「パブリックゾーン」が設けられる。 『We Love MOOMIN』は日本で運営されているムーミンのファンクラブ。ムーミンのイベントへの優先参加やSNSキャンペーン、モニタープレゼント、グッズやツアーの先行販売などの体験型企画の他に、ムーミンのスタンプや壁紙などコンテンツが取り放題。プレミアムコースに登録すると、会員それぞれにムーミン谷の住所が記載された「ムーミン谷住民票」が発行される。 2018年1月13日、日本の大学入試センター試験(本試験)の地理Bの第5問-問4で、アニメ版『ムーミン』に関する問題が出題され、インターネット上で話題を呼んだ。問題の内容は、スウェーデンを舞台にした『ニルスのふしぎな旅』(アニメ版)とスウェーデン語の「Vad kostar det?(ヴァッ コスタ デッ〈それ いくら?〉)」を例に、ノルウェーとフィンランドを舞台にしたアニメについて、フィンランドに関するアニメとフィンランド語との正しい組み合せを4択から選ぶというもので、アニメは『ムーミン』『小さなバイキングビッケ』の2択、言語は「Hva koster det?(ヴァ コステル デ〈いくらですか?〉)」「Paljonko se maksaa?(パリヨンコ セ マクサー〈いくらですか?〉)」の2択となっていた。受験生とみられる戸惑いのツイートや、ムーミン公式サイトのTwitterアカウントに対して「ムーミンは地理に関係ないのでは」といったツイートが集中し、騒動に発展した。 「ムーミン」「センター地理」がTwitterのトレンドワードになり、反響を呼んだことからムーミン公式サイトTwitterはこれに対し以下のコメントを記している。 また、駐日フィンランド大使の公式Twitterは「ムーミン谷はきっとみんなの心の中にあるのかな」とツイートした。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ムーミン(スウェーデン語: Mumin、フィンランド語: Muumi、英語: Moomin)は、フィンランドの作家トーベ・ヤンソンの「ムーミン・シリーズ」と呼ばれる一連の小説と絵本、および末弟ラルス・ヤンソンと共に描いた「ムーミン漫画」作品の総称、あるいはそれらとそれらを原作とする二次著作作品の総称。または、同作品に登場する架空の生物の種族名であり、同時に主人公(主要な登場生物)の名前でもある「ムーミントロール」の略称あるいは愛称。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "トロールは北欧の民間伝承に登場する、広い意味での妖精の一種である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "『ムーミン谷の十一月』(講談社刊/鈴木徹郎訳)の訳者解説によれば、「ムーミンは動物か、人間か?」と問われたトーベの答えは、スウェーデン語の「Varelser」(存在するもの) でありトーベはムーミンのことを決して妖精とは答えなかったそうだ。 精霊や妖怪ではなく、目にははっきり見えなくてもすぐ近くで生きている存在だと、伝えたかったためかもしれない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ムーミンの物語に登場するトロールは、名前こそ借りているもののこれとは異なる、トーベ・ヤンソンが独自に創造した架空のいきものである。人型の登場人物も人間ではなく、同様に架空の小人の一種である。なお、原作中で登場するキャラのうち、『ムーミンパパの思い出』に登場するミムラたちが住む丸い丘の国の王様はミムラやムーミントロールたちよりわざわざ圧倒的に大きく描かれているので人間の可能性がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "第一作である「大きな洪水と小さなトロール」では、こうしたトロールたちは人間と同じ世界で共存しているが人間には察知されない存在として描かれた。昔はタイルストーブの裏に隠れて住んでいたという記述があり、その大きさは人間よりも遥かに小さいものと設定されていた(終盤の籐椅子に乗っているシーンで猫の親子と比較するとムーミンママが子猫程度)ことがうかがえる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ただしムーミン達の大きさは作者自身も細かく決めていたわけではないらしく、次作の『ムーミン谷の彗星』では子猫の肩高がスニフの足程度に描かれている(なお、この本は何度か改訂版が出されており、初版の『彗星追跡(KOMETJAKTEN)』ではこの生物は子猫ではなくキヌザル(マーモセット)であった。ただしキヌザルもいちばん小さいピグミーマーモセットでさえ体長11~15cmなので子猫と比べて極端に小さいわけではない。)のに、同じ話内で実物は体長30cmほどのじゃこうねずみ(マスクラット)がスニフより大きいムーミンパパよりさらに大柄に描かれているという描写があるほか、コミックス版では何度か登場する「フィリフヨンカが飼っている牛」がムーミンたちと比べ現実における人間と牛ぐらいの比率になるなど、人間並みになっている描写もある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ムーミントロールたちは、妖精たちの住む谷・ムーミン谷(典: Mumindalen)に住んでいる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ムーミン谷には、東に「おさびし山」(典: Ensliga bergen、英: Lonely Mountains。正しくは「お寂し山」)がそびえ、その麓から川が流れている。その川にはムーミンパパの作った橋がかかっていて、その橋の先にムーミン屋敷がある。ムーミン屋敷の北側には、ライラックの茂みがある。西は海に面しており、桟橋の先には水浴び小屋がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ムーミンシリーズはキャラクターが多く情報量が膨大になるうえ、トーベ・ヤンソン本人によるものだけでも小説、絵本、新聞連載漫画、戯曲など様々なメディアで性格付けや人間関係などが異なることがよく見られ、レギュラーキャラクターもメディアごとに違うため、ここには主要キャラであっても名前などは記載しない。", "title": "登場人物" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "作者のトーベ・ヤンソンは画家でもあり、ムーミンの原型となるキャラクターは小説執筆以前にも風刺雑誌『ガルム』などでたびたび描かれていた。小説として初めて登場するのは1945年にスウェーデン語で著された『小さなトロールと大きな洪水』で、その後ムーミン・シリーズとして知られる計9作品に登場するようになる。", "title": "ムーミン・シリーズ (原作)" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "造形的には、トーベが10代の頃、次弟ペル・ウーロフ・ヤンソンとの口ゲンカに負けたときに、トイレの壁に悔し紛れに描いた『SNORK(スノーク、とても醜い生き物)』として描いたものが、ムーミントロールのルーツであるとされる。ネーミングは叔父の家へ下宿をし学校へ通っている時代、勉強の合間に冷蔵庫から食べ物を失敬しては夜食にしていたのだが、あるときに叔父から注意され「この裏にはムゥーミントロールというお化けがいるからつまみ食いはやめなさい。首筋に冷たい息を吹きかけてくるぞ。」と言われたことがきっかけである。", "title": "ムーミン・シリーズ (原作)" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "小説は子供向けの作品の体裁をとっているが、その内容は必ずしも子供向けではない。第二次大戦の戦中・戦後に執筆された初期の作品には、洪水や彗星の襲来など自然災害が繰り返し描かれる。新聞連載漫画の大成功によってもたらされた「ムーミンブーム」にほとほと疲れ果てた頃に書かれた第6作『ムーミン谷の冬』を契機として、後期の作品はよりはっきりと内観的であり、おとぎ話の体裁をとった純文学といってよい内容を備えている。 また、小説の挿絵もトーベが行っており、初期はインクの濃淡で描かれていたが、次第に細かな線のみで表現されるようになった。 朝日新聞の千葉恵理子によると、トーベはこの作風の変化を画家としての進歩だと受け取り、改訂する際に初期作品の挿絵を線による挿絵に差し替えたとされている。", "title": "ムーミン・シリーズ (原作)" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1954年からイギリスの大衆紙「イブニング・ニュース(英語版)」 にムーミントロールの漫画が週に6日掲載された。トーベ・ヤンソンが漫画を描きスウェーデン語のセリフをコマに書くと、語学が堪能な末弟のラルス・ヤンソンがセリフを英語に翻訳した原稿が印刷に回る。途中ラルスが作品のアイディア自体を提供する時期を経て、1960年以降はラルスが引き継ぎ、1975年まで合計73作品が連載された。うち21作はトーベの絵である。", "title": "ムーミン・シリーズ (原作)" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "小説作品は長編・短編集あわせて9作品が刊行されている。ムーミンの原作はスウェーデン語で書かれた。以下、日本語題名は講談社の全集による。", "title": "ムーミン・シリーズ (原作)" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "最古の日本語訳は1964年、講談社から出版された『少年少女新世界文学全集 第27巻』所収の「ムーミン谷の冬」(翻訳:山室静、挿絵:池田龍雄)である。同作の挿絵ではムーミンはマフラーを巻いている(以後、特記なきものはすべて講談社からの出版)。", "title": "ムーミン・シリーズ (原作)" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "続いて1965年には、偕成社の『世界の子どもの本』シリーズから『ムーミン谷はおおさわぎ』(翻訳:矢崎源九郎、挿絵:赤星亮衛。『ムーミン谷の夏まつり』の日本語訳)が出版された。同書では、スナフキンは「かぎタバコ屋くん」、ミイは「おちびのミュー子」などと翻訳されている。同年には『たのしいムーミン一家』(翻訳:山室静)が、初めて原作者のトーベ・ヤンソンによる挿絵を使用して出版された。『たのしい――』には、冒頭に、シリーズ刊行に当たってのムーミンママからの日本の読者に向けた挨拶(講談社から手紙が来たのがこの作品が誕生するきっかけであったこと、トロルと自分達ムーミンの違いについてなど)が記されている。", "title": "ムーミン・シリーズ (原作)" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1968年には『トーベ=ヤンソン全集』が出版され、当時原書が絶版だった『小さなトロールと大きな洪水』を除く原作本全8作がすべて翻訳・出版されることとなった。", "title": "ムーミン・シリーズ (原作)" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "テレビアニメ『楽しいムーミン一家』(漢字表記と平仮名表記の違いで分かるように別の作品)の放送が開始された1990年からは、初めて原著に忠実な編成の『ムーミン童話全集』が全9巻で出版され、同全集版が『小さなトロールと大きな洪水』の初日本語訳となった。", "title": "ムーミン・シリーズ (原作)" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "文庫版の出版も行われた。1972年に少年少女講談社文庫に『たのしいムーミン一家』が収録されたのを皮切りに、1978年からは講談社文庫に、1980年からは青い鳥文庫に収録されている。", "title": "ムーミン・シリーズ (原作)" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "トーベ・ヤンソンが初めてムーミンを漫画化したのは1947年のスウェーデン語の新聞『ニィ・ティド(en:Ny Tid (Finland)・fi:Ny Tid)』紙の児童欄であり 、『ムーミン谷の彗星』を漫画化した(トフスランとビフスランたちが出てくるなど、内容は多少違う)『ムーミントロールと地球の終わり』だが、1年間の連載予定が半年で打ち切りになり、以後のコミックシリーズとは無関係になっている。(なお、同作品はムーミンコミックス14.『ひとりぼっちのムーミン』に収録されている)。", "title": "ムーミン・シリーズ (原作)" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "その後、1950年に第3作『たのしいムーミン一家』の英語版が出ると、当時世界最大の発行部数を誇った、イギリスの夕刊紙「イブニング・ニュース(英語版)」から、「ムーミンを主役とした新聞漫画を描いてみないか」と申し入れを受ける。こうしてコミック版ムーミンは1954年から、1975年まで日曜日を除く週6日掲載され、たちまち大人気となり、世界各国に配信されて愛されるようになる。 当初、トーベは60年に連載を終えるつもりだったが、契約上では新聞社側が作者を替えて連載を継続させる権利を有していた。最終的に、トーベからの相談を受けた末弟ラルス・ヤンソンが、3か月の特訓の末に漫画の制作を引き継いだ。", "title": "ムーミン・シリーズ (原作)" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "新聞漫画の読み手は大人が中心だったことから、コミック版は小説版よりも、ムーミンパパの冒険や失敗に加え、社会に対する風刺が題材に取り上げられることが増えた大人向けの作品である。 また、朝日新聞の記者・千葉恵理子は、日本で行われたコミック版の展覧会の記事の中で、姉弟の作風の違いについて指摘している。たとえば、トーベの描くムーミンは全体的に丸みを帯びた柔らかなデザインであるのに対し、ラルスのムーミンは鼻が若干とがっていて、表情がわかりやすいとしている。また、トーベは光の当たり方や遠近感を重視して自然を描くのに対し、ラルスはホースなどの小道具を、コマ割りの枠に使うなど漫画的な表現を多用している。", "title": "ムーミン・シリーズ (原作)" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1969年には漫画版が、講談社から「ムーミンまんがシリーズ」(訳者名の記載なし。※出版社の講談社スタッフが訳をしたという。解説;草森紳一)として初めて日本語訳された。同書は全73話中29話を抜粋した、全10巻のシリーズである。右綴じのため、画像は左右反転の印刷である。また、カルピスまんが劇場版アニメに倣い、スノークのお嬢さんは「ノンノン」と翻訳されている。", "title": "ムーミン・シリーズ (原作)" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1991年には福武書店(現:ベネッセコーポレーション)から、『えほんこみっくす ムーミンの冒険日記』(翻訳;野中しぎ)として全10巻で出版された。コマの周囲に色が施された2色刷りで、横長で2段組の構成である。訳者の野中がプロデューサーを務めたテレビアニメ『楽しいムーミン一家』に倣い、スノークのお嬢さんは「フローレン」と翻訳されている。", "title": "ムーミン・シリーズ (原作)" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2000年には筑摩書房から『ムーミン・コミックス』(翻訳:冨原眞弓)として出版された。これまでの日本語訳は、英語版からの翻訳であったのに対し、当作品はスウェーデン語からの翻訳である。トーベ作の全21話とラルス作の全52話中21話、計42話が収録されている。装幀は祖父江慎。スノークのお嬢さんは「スノークの女の子」と訳されている。", "title": "ムーミン・シリーズ (原作)" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "講談社版「ムーミンまんがシリーズ」(訳者不明、草森紳一解説)はトーベとラルスの作品29作を収録している。", "title": "ムーミン・シリーズ (原作)" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "※ スノークのお嬢さんは、アニメーション『ムーミン』での音響監督の田代敦巳が名前が付けられていないのは味気ないからと、演出を担当したスタッフ、大隅正秋の妻の愛称である「ノンちゃん」から採って名づけた“ノンノン”と訳されている。", "title": "ムーミン・シリーズ (原作)" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "※ 共同執筆者の弟ラルス・ヤンソンの絵である作品も掲載されているが、ラルス・ヤンソンの名前は記載されていない。", "title": "ムーミン・シリーズ (原作)" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "※ 作品の枠の一部に2人が書いたサインは消されている。日本向けに左右反転されており右開きになっている。セリフは縦書きに変更されている。", "title": "ムーミン・シリーズ (原作)" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "福武書店版『ムーミンの冒険日記』(野中しぎ訳)はトーベの作品10作を収録している。", "title": "ムーミン・シリーズ (原作)" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "※ スノークのお嬢さんは、訳者がテレスクリーンでプロデューサーとして係わったアニメーション『楽しいムーミン一家』と同じく、ドイツ語のフローレンを名前とされた。", "title": "ムーミン・シリーズ (原作)" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "※ 原作者ではあっても、ラルスの作品は扱われていなかったにも関わらず、執筆者紹介は姉弟一緒の写真付きで掲載されている。", "title": "ムーミン・シリーズ (原作)" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "※ アニメーション『楽しいムーミン一家』では、原作者の一人ラルスの名前のクレジットは、愛称の「ラッセ」と表記されていたが、当作品では本名のラルスになっている。", "title": "ムーミン・シリーズ (原作)" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "筑摩書房版『ムーミンコミックス』(冨原眞弓訳)はトーベとラルスの作品42作と漫画の元となったトーベの作品1作を収録している。他2社と違いスウェーデン語版を基にしている。スノークのお嬢さんはスノークの女の子と訳されている。", "title": "ムーミン・シリーズ (原作)" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "※ 10『春の気分』に収録された「南の島へくりだそう」は、後述する『劇場版ムーミン 南の海で楽しいバカンス』の原作。", "title": "ムーミン・シリーズ (原作)" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "小説や漫画版のエピソードを編集して幼児向け絵本にしたものもあるが、ここでは絵本として書き下ろされた作品を扱う。", "title": "ムーミン・シリーズ (原作)" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "以下に挙げる日本語訳はすべて講談社からの出版である。", "title": "ムーミン・シリーズ (原作)" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1965年、『世界の童話 10 北欧・南欧童話集』に「さて、それから」(翻訳:下村隆一、山室静、挿絵:井上洋介)が収録された。これが絵本『それから どうなるの?』の初日本語訳である。", "title": "ムーミン・シリーズ (原作)" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "その後、1971年に山室静の翻訳で『それからどうなるの』(当時の訳題には疑問符はない)『さびしがりやのクニット』が出版された。縦組み右綴じの構成で、イラストは反転しての印刷であった。1980年に小野寺百合子の翻訳で『ムーミン谷へのふしぎな旅』が出版。", "title": "ムーミン・シリーズ (原作)" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1991年に渡部翠の新訳で『それからどうなるの?』『さびしがりやのクニット』『ムーミン谷へのふしぎな旅』が出版される。2014年に同じく渡部翠の翻訳で『ムーミンやしきはひみつのにおい』が出版された。", "title": "ムーミン・シリーズ (原作)" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "日本の最初のアニメシリーズより10年早く、この人形劇はアウグスブルク人形箱によって制作され、1959年8月16日から1960年10月23日まで、6話ずつ2期放映された。『たのしいムーミン一家』と『ムーミン谷の夏まつり』の全2期である。第1期は1959年8月16日から1959年8月21日まで、第2期は1960年9月18日から1960年10月23日まで放映された。第1期は1話30分、第2期は1話25分で、ヒルデ・ノッカーとスノークがエピソードを紹介した。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ようやく太陽が雪を消し、ムーミン谷の青々とした草原が再び姿を現した若い春、小さなムーミンとスナッフルプは冬眠から最初に目覚める。ふたりは奇跡的な特性を持つ不思議な帽子を見つける。それはまるで忠実な犬のように早起きの二人に付きまとい、成長し、多くの驚きを引き起こすようだ。大きな黒い帽子をかぶり、赤く光る目をした背の高い男がその中心的な役割を担っていたのだ......しかし、帽子の謎が解ける前に、新たな問題が発生する。トフスランとヴィフスランという二人の小さな見知らぬ男が、ムーミン一家に助けを求めてきたのだ。氷のようなモーラは彼らを追いかけ、スーツケースに隠した唯一の持ち物を奪おうとする。お人好しのムーミン一家は、二人の助けを拒むことはできないが、氷のようなモーラを相手にするわけにはいかない。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ムーミンがスナッフルの帰りを心待ちにしていたその時、ムーミン谷の端にある火山が噴火し、高波が押し寄せた。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "谷全体が浸水し、ムーミン園の上階だけが水に浸かった。ムーミンたちは別の避難場所を探さなければならなかった。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "そこで役に立ったのが、水に浮く家だった。しかし、その建物は見た目とは裏腹に普通の家ではなく、廃墟でもなかった。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "同時に、スニフは新しい出会いを果たす。一方には、愛らしいが寂しがり屋で、それゆえにいつもどこか悲しげなフィリージョンクがいる。一方、不機嫌な公園管理人は、面白半分にあちこちに禁止の看板を立て、森の子供たちの生活を別の意味でも難しくしている。スニフは、この不機嫌な紳士に相応しいものを与えてやろうと決意する。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "文章は『アウクスブルガー・パッペンキステの不思議な世界』より引用・編集。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "このシリーズは、フランクフルト・アム・マインで開催されたラジオ展示会(1959年8月14日~23日)から生中継された。人形劇団の移動舞台は、展覧会場のテレビカメラの前に設置された。その結果、1957年から使われていた小型のテレビ人形ボックス(インサート・ボックスとも呼ばれる)の代わりに、移動舞台の大きなカバーが開かれた。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "この6つのエピソードは、ヒルデ・ノッカーが司会を務め、時折コメントを述べた。しかし、司会者は彼女だけではなかった。人形遣いのマーゴット・シェレマンが率いる \"スノーキー \"というキャラクターが、ヒルデ・ノッカーと一緒にテーブルの上で司会を務めた。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "そして、それは始まった:", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "アナウンサー:子供たちよ、こんにちは。ドイツのテレビがサプライズを用意しました。このラジオ展の会場にいる皆さん、そしてご自宅のスクリーンの前にいる皆さん。- ムーミン一家をご存知ですか?いいえ、それなら気をつけてください。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "スノーク:(まだ見えない、テーブルの下で)プー! プー! プー! プー! プー! プー! プー! プー! プー! プー! プー! プー! プー! プー! プー ああ、きれいなおねえさん、お願い、起こしてくれる?", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "アナウンサー:(やってくれる)さて、あなたは誰ですか?", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "スノーク:ありがとうございます。ありがとうございます。シュノークです!", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "アナウンサー:シュノーク?", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "シュノーク:シュノークです。いい名前でしょう?あなたのお名前は?", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "アナウンサー:ヒルデ・ノッカーです。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "シュノーク:これもとてもいい名前ですね。ヒルデ。今から「あなた」と言います。- いいですか?", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "アナウンサー:はい、出身を教えていただければ。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "シュノーク:秘密です!残念ながら言えません。でも......今、ムーミン一家の話をしていましたよね?", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "アナウンサー:もちろんです。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "スノーク:ありがとうございます。私はムーミン一家にとても近い親戚なんです。実は私もムーミンファミリーの一員なんですが、普段はあちこちを旅しているんです。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "アナウンサー:はい、スノークさん。では、ムーミン一家についてお聞かせください。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "スノーク:おかしな会社について?ええ、ぜひ。ムーミン一家はムーミン谷に住んでいます。ムーミン谷の地図はお持ちではないですか?", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "アナウンサー:残念ながらありません。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "スノーク:大丈夫です。今度、自分で描いた地図を持ってきますから。- ムーミン谷の少し左側にムーミンの家があります。そこにムーミンのお父さんとお母さんとムーミンが住んでいる。それが3人。それからシュニュフェル、シュナプフェリヒ、ヘムル、スノークの女の子、これで4人。3人と4人で6人です。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "アナウンサー:いや、7人だよ、シュノーク。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "シュノーク:そうですか?まあ、それについては議論しないことにしよう。でも、8匹いることは確かなんだ......ああ、そうだ、ジャコウネコだ。でも彼はもうこの家には住んでいないんだ。あまりに臭いパイプを吸うので追い出されたのだ。恐ろしいハーブだ。ヘーゼルナッツの葉をモミの蜂蜜に漬けて天日干しにしたもの。おいしそうだけど、ひどく臭いんだ。まあ、そんなことは今はどうでもいい。では、ムーミン一家・・・お時間ありますよね?", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "アナウンサー:もちろんありますよ。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "スノーク:どうして私たちなんですか?", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "アナウンサー:(カメラを指さし、スノークはヒントを追う)", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "スノーク:ああ......そうだ......なんと......たくさんの子供たちだ。みんな、ピ・フー!ピフー!フリッツル、鼻を拭きなさい、そうしないと水滴が落ちるよ!はい、何から始めましょうか?", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "アナウンサー:最初から始めるのが一番です。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "スノーク:素晴らしいアイデアだ。気をつけましょう!遠いムーミン谷に冬がやってきた。冬は一年中降り続き、一面ふかふかの雪に覆われました。ムーミン一家はベッドにもぐりこみ、長い冬の眠りにつきました。数週間が過ぎ、ついに空に大きな光が再び輝き、大小のつららが木々の上で泣き始める日がやってきた。そして春一番が吹くと、カッコウがムーミン谷にやってきて、眠りについている人たちを起こした。しかし、なぜ私が長々と話を続けなければならないのだろう?始まればすぐにわかることだ。そして:行こう、行こう。(アナウンサーに)言ってください:行け!!!", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "アナウンサー:Go!", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "そう言って、2人はボックスに向かい、ボックスが開き--試合が始まった。しかし、30分ほどして再び蓋が閉まったとき、物語はまだ語られていなかった。物語はそれから5日間続いた。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "このパフォーマンスは、テレビのライブカメラだけでなく、見本市の観客のためのものでもあったため、通常のオープニングとクロージングのクレジットは省かれ、劇場で上演されるような短いミュージカル・テーマに合わせた蓋と幕の開閉に限定された。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "6回のライブ放送は、テレビモニターからフィルムカメラで撮影され、再放送のためのフィルム記録(FAZ)が作成された。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "以下の放送時間の詳細は、バイエルン放送がドイツのテレビ番組用に作成した放送記録から引用したもので、秒単位(少なくとも分単位)で正確なものもある。残念ながら、1959年8月17日のログは残っていないため、この場合は前の番組アナウンスの放送時間しか評価できない。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "1959年8月16日から21日にかけて放送された第1期のフィルム録画(FAZ)は、繰り返し放送には適さないことが判明した。編集者のヘルガ・マウエルスベルガー(Helga Mauersberger)は、パペンチェストをHRの午後の番組で繰り返し放送することに決めていた。しかし、視覚的に認識できる明確なラインは彼女にとって重要だった。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "その結果、第1期のための数分の新しい素材が、第2期の撮影中(1960年5月9日〜14日)にも作られ、後の再放送に使えるようになった。1959年のFAZのオープニング・クレジットとエンディング・クレジットは、このようにして撮影された新しいオープニング・クレジットとエンディング・クレジットが、小さなテレビ・ボックスの蓋で置き換わった。ここから削除された、移動舞台の蓋を映した映像は、おそらく破棄されたのだろう。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "1963年にオーストリア放送協会(ORF)でこのシリーズが再放送されたためである。このため、ドイツ人司会者ヒルデ・ノッカーとスノークの紹介とトランジションはカットされた。ORFの編集版では、スノークが単独で登場する2つの短いトランジションシーンだけが残された。それ以降、各エピソードはボックスカバーから始まるため、それぞれ数分短くなった。ある映像のカット。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "残念ながら、この素材もおそらく破棄された。現在、HRによれば、プレゼンターのいない1963年版だけが残っている。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "ORFの放送は1963年3月24日に始まったが、詳細は不明。おそらく毎週放送されたのだろう。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "ドイツではその後、1969年10月1日から1969年10月9日まで、ヘッセン州のテレビ番組で(ORFの短縮版で)放送された。エピソードリストには、オリジナル版と編集版から第1期の各エピソードの放送時間と放送日が記載される。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "編集版の第1話は16mmリバーサルフィルムで撮影され、他の5話はポジフィルムで撮影された。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "文章は『アウクスブルガー・パッペンキステの不思議な世界』より引用・編集。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "第2期は、フランクフルトにあるヘッセン放送のスタジオでテレビカメラを使って撮影された。映像は演奏中に直接ミキシングされた。テレビへの直接送信はなかったが、ライブ放送の常套手段である。スタジオのモニターに向けられたフィルム・カメラが、こうして作られたミックスを後の放送用に記録した(いわゆるフィルム・レコーディング)。これによって、ヒルデ・ノッカーとスノークのエピソードの紹介も作られた。これらのイントロダクションは、第2期が放送される前の1959年の第1期のオリジナル放送にも登場した。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "残念ながら、ヒルデ・ノッカーとスノークが登場する紹介シーンは、1960年の第2期放送のときだけだった。最終回では、ムーミン社会がスニフの望遠鏡を覗きながら、ヒルデとスノークが子供たちとムーミンに別れを告げるシーンが映し出された。最終回の放送時間は24分だった。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "これらのシークエンスは、1963年にオーストリア放送協会(ORF)が第2期を放送した際に削除された。ヘッセン放送によれば、現在残っているのは、ヒルデ・ノッカーとスノークのイントロがないバージョンだけだという。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "ORFの放送の詳細はわかっていない。エピソードが5月25日(土)、29日(水)、6月9日(日)に放送された形跡がある。09.06. 最終回は1963年6月19日に放送された。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "この第2期の短縮版は1969年に再放送された。ヘッセン州の国営テレビで1969年10月13日から10月21日まで放送された。第5話の放送は29分から28分に短縮されたようだが、現存するフィルムは24分である。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "※ 以下のテレビアニメーション・アニメーション映画・パペットアニメーションに付記された年代は製作国の上映日が無い場合、日本における放送・公開年となる。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "1969年(昭和44年)10月5日 - 1970年(昭和45年)12月27日,フジテレビ系列にてカラー放送.企画製作は瑞鷹エンタープライズ.アニメーション制作は第1話 - 第26話まで東京ムービー(Aプロダクション).キャラクターデザインは大塚康生であったために,大塚ムーミンとして親しまれてきた.第27話以降最終回までは,東京ムービーが降板したために,間を措かずに虫プロダクションへと交代した.なお制作会社の交代については,トーベ・ヤンソンの要望のため,あるいは,赤字を垂れ流す番組を切り捨てるためともいわれるが,演出を務めた大隅正秋によれば,大隅や大塚らの制作チームは,はじめから26話までの約束で参加していた(その後には「ルパン三世」の制作が控えていた)のであり,途中で辞めたのではないと云い,トーベからの要望は体の良い表向きの理由としてクレームだと誇張して喧伝されたのだという.放送時間帯は日曜日19時30分 - 20時00分の30分番組であった.「カルピスまんが劇場」の第2作である.", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "1972年(昭和47年)1月9日 - 同年12月31日,フジテレビ系列にて毎週日曜日の19:30〜20:00に放送.企画製作は瑞鷹エンタープライズ.アニメーション制作は虫プロダクション.番組表によっては「新ムーミン」と表記されることもあった.", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "瑞鷹エンタープライズ版は、本放送終了後も1969年版・1972年版共に再放送ででも好評を得ていて、ソフトの売れ行きも好調で,1990年の「楽しいムーミン一家」の放送開始の前日までは,1969年版と1972年版ともに再放送やVHSビデオソフト・レーザーディスクソフトへの作品配給や、キャラクターグッズの発売許諾を行っていたが、1990年からドイツのテレスクリーン(現在はStudio 100の孫会社)製作による「楽しいムーミン一家」の放送が開始されて以後、日本国内において瑞鷹エンタープライズ版の作品の再放送・配信・パッケージソフト化は正規の形では一切行われていない。一方で、瑞鷹エンタープライズ版でキャラクターデザインを担当していた大塚康生は、21世紀初頭でも台湾では瑞鷹エンタープライズ版が繰り返し再放送されていると証言している。本国の公式サイトで1969年版と1972年版のそれぞれ第一話の動画は見ることができる。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "1977年にトーベ・ヤンソン監修のもとポーランドで作られたテレビ放映用ストップモーション・アニメーション(人形アニメ)。全78話。日本では1969年版と1972年版の日本製TVアニメーションで脚本を手掛けた鈴木良武が監修に入りムーミンの声を演じた女優岸田今日子が一人で全てのキャラクターの吹き替えを演じ、1979年よりNHK BS2「衛星アニメ劇場」枠で放送された。その後2003年にプチグラパブリッシング配給により36話が劇場公開され、同年アスミックからDVD-BOXも発売された。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "1977年の『ムーミン・パペット・アニメーション』の、フィンランド本国によるデジタルリマスター版。日本では新たに段田安則と松たか子の二人が全キャラクターを演じ分ける形で再吹き替えが行われ、2012年3月24日~2013年3月26日にNHK BSプレミアムにて放送された。後にNHKエンタープライズによりDVDも発売された。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "1990年(平成2年)4月12日 - 1991年(平成3年)10月3日テレビ東京系列にて放送。製作はテレスクリーン。ヤンソン姉弟の監修のもと、プロデューサーであるデニス・リブソンらフィンランドスタッフが参加。名倉靖博がトーベの原作を基にキャラクターデザインを行った。制作協力はテレイメージ(現: ワコープロ)、ビジュアル80。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "1991年(平成3年)10月10日 - 1992年(平成4年)3月26日、テレビ東京系列にて放送。『楽しいムーミン一家』の第2シリーズとして、休止期間を挟まずに放送された。こちらにはオープニングには登場するスノークが全く出なくなり、白鳥英美子のナレーションもなくなった。原作は主にコミックスから採られている。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "原題は「MoominValley」。フィンランド本国で2019年春放送。フィンランドとスウェーデンに本拠を置くガッツィー・アニメーションズが制作を務め、最先端の2D/3Dハイブリッド技術を使用して作られる。ストーリーは、原作のオリジナルストーリーに基づきリメイクされる。日本でも2019年4月4日19時半からNHK BS4K,2021年11月6日10時半からNHK eテレにて放送開始。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "1992年8月8日に松竹の配給で公開。上映時間: 62分、製作国: 日本", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "ムーミン・パペット・アニメーション(デジタルリマスター版)の一部を劇場版として再編集した作品群。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "2008年公開、日本ではアスミック・エース配給により2009年に公開。吹き替えはムーミン:野島健児、ムーミンパパ:稲葉実、ムーミンママ:高島雅羅、スノークのおじょうさん:永田亮子、ミイ:水田わさび、スナフキン:白熊寛嗣。ナレーションを小泉今日子が務めた。角川エンタテインメントからDVDが発売された。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "小説「ムーミン谷の彗星」を原作とするエピソードを抜き出し、劇場用長編アニメーションとして2010年に制作された。主題歌をビョークが歌い、声の出演はマッツ・ミケルセンやアレクサンダー・スカルスガルドなどが担当する。日本では2015年にチャイルドフィルムの配給によって公開された。吹き替えはスノークのお嬢さん以外『楽しいムーミン一家』のメインキャストらが務めている。ビクターエンタテインメントからDVDが発売されている。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "2017年12月2日に公開。ムーミン・パペット・アニメーション劇場版第3弾。日本語吹き替え版の声優は一新され、主人公・ムーミントロールは宮沢りえ、それ以外の男キャラを森川智之、女キャラを朴璐美、ナレーションは神田沙也加が務めた。 配給は東映。Blu-ray・DVDはアミューズから発売。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "2015年(平成27年)2月13日に公開。製作国はフィンランド・フランス。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "トーベ・ヤンソン生誕100周年を記念し、初めて母国フィンランドで製作された長編アニメーション作品(フランスとの共同制作)。監督はグザヴィエ・ピカルド、プロデューサーはハンナ・ヘミラ。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "グザヴィエ・ピカルドは日本の本屋さんでたまたまムーミンを見つけ知った。押井守監督とも親交があり、日本で公開されることはとても嬉しいと語った。日本語吹き替え版はパペット・アニメーション版『~彗星』から5年ぶりに『楽しいムーミン一家』のメインキャストらが担当。興行収入は2億7000万円。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "2023年(令和5年)12月29日に公開。製作国はフィンランド。日本の配給は東映ビデオ。21世紀に入ってから初めて新規に製作されたパペットアニメーションで、スタッフは20世紀版から一新。監督はアイラ・カーベラン、プロデューサーはアイラ監督およびトム・カーベラン。日本語吹き替え版については上述の『~南の海で楽しいバカンス』に引き続き『楽しいムーミン一家』のメインキャストらが担当した。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "ストーリーは小説「ムーミンパパの思い出」を原作とするエピソードを抜き出し、いくつかのエピソードを追加して構成。若き日のムーミンパパを事実上の主人公とし、スナフキンやスニフの親との関わりやムーミンママとパパの馴れ初めを交えつつ、パパ一行の冒険の日々が描かれる。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "以下に挙げる作品はすべて講談社からの出版である。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "1969年に「カルピスまんが劇場」枠でテレビアニメ『ムーミン』の放送が開始されると、同アニメに準拠した絵本『カラーテレビ版ムーミン名作絵ばなし』(全22冊)も出版された。1972年には、1972年版アニメに準拠した絵本『講談社のムーミン・ブック』(全20冊)も出版されている。これらの絵本では、カルピスまんが劇場版アニメに倣い、スノークのお嬢さんは「ノンノン」と翻訳されている。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "本節ではテレビなどの電子ディスプレイを用いる、いわゆる「テレビゲーム」について解説する。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "2015年のバレエ作品。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "2017年のバレエ作品。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "日本では、DDI(現:KDDI)の特定通話先割引サービス『なかよしネット』のテレビCMにキャラクターが起用されたことがあるほか、富山県の地方銀行である北陸銀行のイメージキャラクターに採用されていた事もある。", "title": "二次著作" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "ムーミンワールド(フィンランド語: Muumimaailma)はフィンランド西スオミ州南西スオミ県トゥルクに近いカイロ島のナーンタリにあるムーミンに関するテーマパーク。", "title": "テーマパーク" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "フィンランド以外では初めての「ムーミン」のテーマパークとして、埼玉県飯能市に「Metsä(メッツァ)」が2017年にオープンすることが、2015年6月30日に発表された。「メッツア(metsä)」はフィンランド語で“森”という意味。宮沢湖の周辺の約18万7000平方メートル(東京ドーム4個分)の用地に展開され、有料の「ムーミンゾーン」と無料の「パブリックゾーン」が設けられる。", "title": "テーマパーク" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "『We Love MOOMIN』は日本で運営されているムーミンのファンクラブ。ムーミンのイベントへの優先参加やSNSキャンペーン、モニタープレゼント、グッズやツアーの先行販売などの体験型企画の他に、ムーミンのスタンプや壁紙などコンテンツが取り放題。プレミアムコースに登録すると、会員それぞれにムーミン谷の住所が記載された「ムーミン谷住民票」が発行される。", "title": "ファンクラブ" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "2018年1月13日、日本の大学入試センター試験(本試験)の地理Bの第5問-問4で、アニメ版『ムーミン』に関する問題が出題され、インターネット上で話題を呼んだ。問題の内容は、スウェーデンを舞台にした『ニルスのふしぎな旅』(アニメ版)とスウェーデン語の「Vad kostar det?(ヴァッ コスタ デッ〈それ いくら?〉)」を例に、ノルウェーとフィンランドを舞台にしたアニメについて、フィンランドに関するアニメとフィンランド語との正しい組み合せを4択から選ぶというもので、アニメは『ムーミン』『小さなバイキングビッケ』の2択、言語は「Hva koster det?(ヴァ コステル デ〈いくらですか?〉)」「Paljonko se maksaa?(パリヨンコ セ マクサー〈いくらですか?〉)」の2択となっていた。受験生とみられる戸惑いのツイートや、ムーミン公式サイトのTwitterアカウントに対して「ムーミンは地理に関係ないのでは」といったツイートが集中し、騒動に発展した。", "title": "2018年度大学入試センター試験の出題を巡る騒動" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "「ムーミン」「センター地理」がTwitterのトレンドワードになり、反響を呼んだことからムーミン公式サイトTwitterはこれに対し以下のコメントを記している。", "title": "2018年度大学入試センター試験の出題を巡る騒動" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "また、駐日フィンランド大使の公式Twitterは「ムーミン谷はきっとみんなの心の中にあるのかな」とツイートした。", "title": "2018年度大学入試センター試験の出題を巡る騒動" } ]
ムーミンは、フィンランドの作家トーベ・ヤンソンの「ムーミン・シリーズ」と呼ばれる一連の小説と絵本、および末弟ラルス・ヤンソンと共に描いた「ムーミン漫画」作品の総称、あるいはそれらとそれらを原作とする二次著作作品の総称。または、同作品に登場する架空の生物の種族名であり、同時に主人公(主要な登場生物)の名前でもある「ムーミントロール」の略称あるいは愛称。
{{Otheruses}} '''ムーミン'''({{lang-sv|Mumin}}、{{lang-fi|Muumi}}、{{lang-en|Moomin}})は、[[フィンランド]]の[[作家]][[トーベ・ヤンソン]]の「'''ムーミン・シリーズ'''」と呼ばれる一連の[[小説]]と絵本、および末弟[[ラルス・ヤンソン]]と共に描いた<ref group="注">次弟の[[ペル・ウーロフ・ヤンソン]]もトーベと写真絵本を製作している。</ref>「'''ムーミン'''[[漫画]]」作品の総称、あるいはそれらとそれらを原作とする二次著作作品の総称。または、同作品に登場する架空の[[生物]]の[[種族 (ファンタジー)|種族]]名であり、同時に主人公(主要な登場生物)の名前でもある「'''ムーミントロール'''」の略称あるいは愛称。 ==概要== [[ファイル:Akebono-kodomonomori-park,hanno.JPG|thumb|[[埼玉県]][[飯能市]]にある[[あけぼの子どもの森公園]]。ムーミン谷をモチーフにしており、ムーミン屋敷やムーミンに関する資料館「森の家」などがある。]] ===設定=== トロールは北欧の民間伝承に登場する、広い意味での妖精の一種である。 {{seealso|トロール}} 『ムーミン谷の十一月』(講談社刊/鈴木徹郎訳)の訳者解説によれば、「ムーミンは動物か、人間か?」と問われたトーベの答えは、スウェーデン語の'''「Varelser」(存在するもの)''' でありトーベはムーミンのことを決して妖精とは答えなかったそうだ。 精霊や妖怪ではなく、目にははっきり見えなくてもすぐ近くで生きている存在だと、伝えたかったためかもしれない。 ムーミンの物語に登場するトロールは、名前こそ借りているもののこれとは異なる、トーベ・ヤンソンが独自に創造した架空のいきものである。人型の登場人物も人間ではなく、同様に架空の小人の一種である<ref group="注">ヒューマノイドのキャラもよく見ると尻尾が生えていたり(『ムーミンパパの思い出』のミムラ一族など)、髪が発光したり(『小さなトロールと大きな洪水』のチューリッパ)、足の指が長い(おしゃまさん<トゥーティッキ>)など人間離れした部位があったりすることが多い。</ref>。なお、原作中で登場するキャラのうち、『ムーミンパパの思い出』に登場するミムラたちが住む丸い丘の国の王様はミムラやムーミントロールたちよりわざわざ圧倒的に大きく描かれているので人間の可能性がある。 第一作である「大きな洪水と小さなトロール」では、こうしたトロールたちは人間と同じ世界で共存しているが人間には察知されない存在として描かれた。昔はタイルストーブの裏に隠れて住んでいたという記述があり、その大きさは人間よりも遥かに小さいものと設定されていた(終盤の籐椅子に乗っているシーンで猫の親子と比較するとムーミンママが子猫程度)ことがうかがえる。 ただしムーミン達の大きさは作者自身も細かく決めていたわけではないらしく、次作の『ムーミン谷の彗星』では子猫の肩高がスニフの足程度に描かれている(なお、この本は何度か改訂版が出されており、初版の『彗星追跡(KOMETJAKTEN)』ではこの生物は子猫ではなくキヌザル(マーモセット)であった<ref>萩原まみ 著「トーベの南国への憧れがみられる『彗星追跡』」『週刊ムーミンハウスをつくる 10』デアゴスティーニ・ジャパン、2017年11月21日発行、雑誌33503-11/21、P5。</ref>。ただしキヌザルもいちばん小さい[[ピグミーマーモセット]]でさえ体長11~15cmなので子猫と比べて極端に小さいわけではない。)のに、同じ話内で実物は体長30cmほどのじゃこうねずみ([[マスクラット]])がスニフより大きいムーミンパパよりさらに大柄に描かれているという描写があるほか、コミックス版では何度か登場する「フィリフヨンカが飼っている牛」がムーミンたちと比べ現実における人間と牛ぐらいの比率になるなど、人間並みになっている描写もある。 <!--しかし、巻を進めるに連れ登場人物たちは擬人化の度合いを強めていき、彼らに見合った大きさの新聞を読んだり、切手を集めたりといった描写が現れる(すなわち、トロールたちはこれらを発行するだけの独自の文明社会を築いているということになる)。こうした流れはコミックスにおいて更に顕著になる。映画化もされたコミックスの一エピソード「南の島へくりだそう」では、ムーミンらが訪れたリゾートホテルの宿泊客(映画スターや貴族を含む)も、従業員も全員トロールである。ここに至ってはその世界観は、人間に代わりトロールたちが暮らす架空世界と考えるほかない。 このようにムーミンシリーズは、トールキンの「指輪物語」を典型とする、あらかじめ綿密に設定された世界観に従い、その世界そのものを描き出そうとするタイプのファンタジーでは全くないということができる。ムーミンの世界観は時代により作品により媒体により、良く言えば自由に柔軟に、悪く言えば一貫性無く適当に変化しており、Wikipediaのようなトリビアルな追求の対象にはそもそもそぐわないものである。 ←さすがに独自研究ぎみではないでしょうか?--> ===舞台=== ムーミントロールたちは、[[妖精]]たちの住む谷・'''ムーミン谷'''({{lang-sv-short|Mumindalen}})に住んでいる。 ムーミン谷には、東に「おさびし山」({{lang-sv-short|Ensliga bergen}}、{{lang-en-short|Lonely Mountains}}。正しくは「お寂し山」)がそびえ、その麓から川が流れている。その川にはムーミンパパの作った橋がかかっていて、その橋の先にムーミン屋敷がある。ムーミン屋敷の北側には、[[ライラック]]の茂みがある。西は海に面しており、桟橋の先には水浴び小屋がある。 ==登場人物== ムーミンシリーズはキャラクターが多く情報量が膨大になるうえ、トーベ・ヤンソン本人によるものだけでも小説、絵本、新聞連載漫画、戯曲など様々なメディアで性格付けや人間関係などが異なることがよく見られ、レギュラーキャラクターもメディアごとに違うため、ここには主要キャラであっても名前などは記載しない。 {{main|ムーミンの登場人物}} ==ムーミン・シリーズ (原作)== 作者の[[トーベ・ヤンソン]]は[[画家]]でもあり、ムーミンの原型となるキャラクターは小説執筆以前にも風刺雑誌『[[ガルム (雑誌)|ガルム]]』などでたびたび描かれていた<ref>冨原眞弓『トーヴェ・ヤンソンとガルムの世界―ムーミントロールの誕生』青土社、2009年、318-322頁。</ref>。小説として初めて登場するのは1945年に[[スウェーデン語]]で著された『小さなトロールと大きな洪水』で、その後ムーミン・シリーズとして知られる計9作品に登場するようになる。 造形的には、トーベが10代の頃、次弟[[ペル・ウーロフ・ヤンソン]]との口ゲンカに負けたときに、トイレの壁に悔し紛れに描いた『SNORK(スノーク、とても醜い生き物)』として描いたものが、ムーミントロールの[[発祥|ルーツ]]であるとされる。ネーミングは叔父の家へ下宿をし学校へ通っている時代、勉強の合間に冷蔵庫から食べ物を失敬しては夜食にしていたのだが、あるときに叔父から注意され「この裏にはムゥーミントロールというお化けがいるからつまみ食いはやめなさい。首筋に冷たい息を吹きかけてくるぞ。」と言われたことがきっかけである。 小説は子供向けの作品の体裁をとっているが、その内容は必ずしも子供向けではない。第二次大戦の戦中・戦後に執筆された初期の作品には、洪水や[[彗星]]の襲来など自然災害が繰り返し描かれる。新聞連載漫画の大成功によってもたらされた「ムーミンブーム」にほとほと疲れ果てた頃に書かれた第6作『ムーミン谷の冬』を契機として、後期の作品はよりはっきりと内観的であり、おとぎ話の体裁をとった純文学といってよい内容を備えている。 また、小説の挿絵もトーベが行っており、初期はインクの濃淡で描かれていたが、次第に細かな線のみで表現されるようになった{{R|asahi20210202}}。 朝日新聞の千葉恵理子によると、トーベはこの作風の変化を画家としての進歩だと受け取り、改訂する際に初期作品の挿絵を線による挿絵に差し替えたとされている{{R|asahi20210202}}。 1954年からイギリスの[[大衆紙]]「{{仮リンク|イブニング・ニュース (ロンドン)|label=イブニング・ニュース|en|The Evening News (London newspaper)}}」 にムーミントロールの漫画が週に6日掲載された{{R|asahi20210202}}。トーベ・ヤンソンが漫画を描きスウェーデン語のセリフをコマに書くと、語学が堪能な末弟の[[ラルス・ヤンソン]]がセリフを英語に翻訳した原稿が印刷に回る。途中ラルスが作品のアイディア自体を提供する時期を経て、1960年以降はラルスが引き継ぎ、1975年まで合計73作品が連載された{{R|asahi20210202}}。うち21作はトーベの絵である。 ===小説作品=== 小説作品は長編・短編集あわせて9作品が刊行されている。ムーミンの原作はスウェーデン語で書かれた。以下、日本語題名は講談社の全集による。 *『{{仮リンク|小さなトロールと大きな洪水|en|The Moomins and the Great Flood}}』 {{lang-sv-short|''Småtrollen och den stora översvämningen''}} - 1945 *: この作品のみ邦訳が大きく遅れたため、講談社全集では「別巻」として以後の巻番号が1巻づつくりあがっている。ただし内容的には外伝やパラレルものではなくそのまま以後の巻に話が続いている(『たのしいムーミン一家』のありじごくのエピソードで「前にママに砂をかけた」説明など)。 *『{{仮リンク|ムーミン谷の彗星|en|Comet in Moominland}}』 {{lang-sv-short|''Kometjakten''}} / {{lang-sv-short|''Mumintrollet på kometjakt''}} / {{lang-sv-short|''Kometen kommer''}} - 1946(1956年改訂・1968年三訂) *『[[たのしいムーミン一家]]』 {{lang-sv-short|''Trollkarlens hatt''}} - 1948 *『{{仮リンク|ムーミンパパの思い出|en|The Exploits of Moominpappa}}』 {{lang-sv-short|''Muminpappans bravader''}} /{{lang-sv-short|''Muminpappans memoarer''}} - 1950 (日本語版、講談社 1969年 のち講談社文庫 新版2011年、翻訳者:[[小野寺百合子]]) *『{{仮リンク|ムーミン谷の夏まつり|en|Moominsummer Madness}}』 {{lang-sv-short|''Farlig midsommar''}} - 1954 *『{{仮リンク|ムーミン谷の冬|en|Moominland Midwinter}}』 {{lang-sv-short|''Trollvinter''}} - 1957 *: [[国際アンデルセン賞]]作家賞受賞作品。 *: (あらすじ)ムーミン一家では11月から4月までの長い冬、冬眠をすることが先祖からの慣わしであった。しかしある年、なぜかムーミントロールだけが眠りから覚めてしまう。ムーミントロールにとって初めての冬は、たくさんの不思議で溢れていた *『{{仮リンク|ムーミン谷の仲間たち|en|Tales from Moominvalley}}』 {{lang-sv-short|''Det osynliga barnet''}} - 1962 *『{{仮リンク|ムーミンパパ海へいく|en|Moominpappa at Sea}}』 {{lang-sv-short|''Pappan och havet''}} - 1965 (日本語版、講談社1968年 のち講談社文庫 新版2011年、翻訳者:[[小野寺百合子]]) *『{{仮リンク|ムーミン谷の十一月|en|Moominvalley in November}}』{{lang-sv-short|''Sent i november''}} - 1970 ====日本における受容(小説作品)==== 最古の日本語訳は[[1964年]]、[[講談社]]から出版された『少年少女新世界文学全集 第27巻』所収の「ムーミン谷の冬」(翻訳:[[山室静]]、挿絵:[[池田龍雄]])である<ref name=moe1512_15>『MOE』2015年12月号、15頁。</ref>。同作の挿絵ではムーミンはマフラーを巻いている<ref name=moe1512_15 />(以後、特記なきものはすべて講談社からの出版)。 続いて[[1965年]]には、[[偕成社]]の『世界の子どもの本』シリーズから『ムーミン谷はおおさわぎ』(翻訳:[[矢崎源九郎]]、挿絵:[[赤星亮衛]]。『ムーミン谷の夏まつり』の日本語訳)が出版された<ref name=moe1512_15 />。同書では、スナフキンは「かぎタバコ屋くん」、ミイは「おちびのミュー子」などと翻訳されている<ref name=moe1512_15 />。同年には『たのしいムーミン一家』(翻訳:山室静)が、初めて原作者のトーベ・ヤンソンによる挿絵を使用して出版された<ref name=moe1512_16>『MOE』2015年12月号、16頁。</ref>。『たのしい――』には、冒頭に、シリーズ刊行に当たってのムーミンママからの日本の読者に向けた挨拶(講談社から手紙が来たのがこの作品が誕生するきっかけであったこと、[[トロル]]と自分達ムーミンの違いについてなど)が記されている。 [[1968年]]には『トーベ=ヤンソン全集』が出版され、当時原書が絶版だった『小さなトロールと大きな洪水』を除く原作本全8作がすべて翻訳・出版されることとなった<ref name=moe1512_16 />。 テレビアニメ『[[楽しいムーミン一家]]』(漢字表記と平仮名表記の違いで分かるように別の作品)の放送が開始された[[1990年]]からは、初めて原著に忠実な編成の『ムーミン童話全集』が全9巻で出版され、同全集版が『小さなトロールと大きな洪水』の初日本語訳となった<ref name=moe1512_18>『MOE』2015年12月号、18頁。</ref>。 文庫版の出版も行われた。[[1972年]]に[[少年少女講談社文庫]]に『たのしいムーミン一家』が収録されたのを皮切りに、[[1978年]]からは[[講談社文庫]]に、[[1980年]]からは[[青い鳥文庫]]に収録されている<ref name=moe1512_17 />。 ===漫画作品=== [[トーベ・ヤンソン]]が初めてムーミンを漫画化したのは1947年のスウェーデン語の新聞『ニィ・ティド([[:en:Ny Tid (Finland)]]・[[:fi:Ny Tid]])』紙の児童欄であり<ref>Marten, Peter. & Panzar, Katja (ed.). ''Starting a Great Adventure''. {{仮リンク|Blue Wings|fi|Blue Wings}} Magazine. Nov. 2007.</ref> 、『ムーミン谷の彗星』を漫画化した(トフスランとビフスランたちが出てくるなど、内容は多少違う)『ムーミントロールと地球の終わり』<ref group="注">講談社版全集の訳者あとがき(『小さなトロールと大きな洪水』や『ムーミンパパ海に行く』など)ではこれのことを指しているらしい『ムーミントロールと世界のおわり』について「1940年代初めに書かれたムーミンシリーズの原型」といったような説明があるが誤り。</ref>だが、1年間の連載予定が半年で打ち切りになり、以後のコミックシリーズとは無関係になっている。<ref>萩原まみ 著「コミックスの原点『ムーミントロールと地球の終わり』」『週刊ムーミンハウスをつくる 11』デアゴスティーニ・ジャパン、2017年11月28日発行、雑誌33504-11/28、P5.</ref>(なお、同作品はムーミンコミックス14.『ひとりぼっちのムーミン』に収録されている)。 その後、1950年に第3作『たのしいムーミン一家』の英語版が出ると、当時世界最大の発行部数を誇った、イギリスの夕刊紙「{{仮リンク|イブニング・ニュース (ロンドン)|label=イブニング・ニュース|en|The Evening News (London newspaper)}}」から、「ムーミンを主役とした新聞漫画を描いてみないか」と申し入れを受ける。こうしてコミック版ムーミンは1954年から、1975年まで日曜日を除く週6日掲載され、たちまち大人気となり、世界各国に配信されて愛されるようになる<ref group="注">この時配信を請け負ったのがスウェーデンのブルス・プレス(Bulls Press)で、同社は今日もムーミンの全ての権利の総代理店である。</ref><ref name=NyTid>{{cite web|url=http://www.nytid.fi/arkiv/artikelnt-684-1577.html |title=När Mumin Erövrade Världen |publisher=[[Ny Tid (Finland)|Ny Tid]] |access-date=4 February 2009 |date=1 December 2000 |language=sv |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20070927073203/http://www.nytid.fi/arkiv/artikelnt-684-1577.html |archive-date=September 27, 2007 }}</ref><ref name=DnQ>{{cite web | url=http://www.drawnandquarterly.com/newsList.php?item=a43cd3af3e53ad | title=D+Q to publish 'Moomin: the complete Tove Jasson comic strip' | publisher={{仮リンク|Drawn & Quarterly|fi|Drawn & Quarterly}}| access-date=4 February 2009 | date=19 January 2006 | url-status=live | archive-url=https://web.archive.org/web/20080627143603/http://www.drawnandquarterly.com/newsList.php?item=a43cd3af3e53ad | archive-date=27 June 2008 }}</ref><ref name="asahi20210202">{{Cite news|title=ムーミンの足跡をたどって 茨城と静岡で展覧会|url=https://www.asahi.com/articles/DA3S14786436.html|newspaper=朝日新聞(夕刊)|page=3|author=千葉恵理子|accessdate=2021-02-06|date=2021年2月2日}}</ref>。 当初、トーベは60年に連載を終えるつもりだったが、契約上では新聞社側が作者を替えて連載を継続させる権利を有していた{{R|asahi20210202}}。最終的に、トーベからの相談を受けた末弟'''[[ラルス・ヤンソン]]'''が、3か月の特訓の末に漫画の制作を引き継いだ{{R|asahi20210202}}。 新聞漫画の読み手は大人が中心だったことから、コミック版は小説版よりも、ムーミンパパの冒険や失敗に加え、社会に対する'''風刺'''が題材に取り上げられることが増えた{{R|asahi20210202}}'''大人向け'''の作品である。 また、朝日新聞の記者・千葉恵理子は、日本で行われたコミック版の展覧会の記事の中で、姉弟の作風の違いについて指摘している{{R|asahi20210202}}。たとえば、トーベの描くムーミンは全体的に丸みを帯びた柔らかなデザインであるのに対し、ラルスのムーミンは鼻が若干とがっていて、表情がわかりやすいとしている{{R|asahi20210202}}。また、トーベは光の当たり方や遠近感を重視して自然を描くのに対し、ラルスはホースなどの小道具を、コマ割りの枠に使うなど漫画的な表現を多用している{{R|asahi20210202}}。 ====日本における受容(漫画作品)==== [[1969年]]には漫画版が、講談社から「ムーミンまんがシリーズ」(訳者名の記載なし。※出版社の講談社スタッフが訳をしたという。解説;[[草森紳一]])として初めて日本語訳された<ref name=moe1512_18 />。同書は全73話中29話を抜粋した、全10巻のシリーズである<ref name=moe1512_18 />。右綴じのため、画像は左右反転の印刷である<ref name=moe1512_18 />。また、カルピスまんが劇場版アニメに倣い、スノークのお嬢さんは'''「ノンノン」'''と翻訳されている<ref name=moe1512_18 />。 [[1991年]]には福武書店(現:[[ベネッセコーポレーション]])から、『えほんこみっくす ムーミンの冒険日記』(翻訳;[[野中しぎ]])として全10巻で出版された<ref name=moe1512_19>『MOE』2015年12月号、19頁。</ref>。コマの周囲に色が施された2色刷りで、横長で2段組の構成である<ref name=moe1512_19 />。訳者の野中がプロデューサーを務めたテレビアニメ『[[楽しいムーミン一家]]』に倣い、スノークのお嬢さんは'''「フローレン」'''と翻訳されている<ref name=moe1512_19 />。 [[2000年]]には[[筑摩書房]]から『ムーミン・コミックス』(翻訳:[[冨原眞弓]])として出版された<ref name=moe1512_19 />。これまでの日本語訳は、英語版からの翻訳であったのに対し、当作品はスウェーデン語からの翻訳である<ref name=moe1512_19 />。トーベ作の全21話とラルス作の全52話中21話、計42話が収録されている<ref name=moe1512_19 />。装幀は[[祖父江慎]]<ref name=moe1512_19 />。スノークのお嬢さんは'''「スノークの女の子」'''と訳されている。 ====講談社版「ムーミンまんがシリーズ」==== {{main|ムーミンまんがシリーズ}} 講談社版「ムーミンまんがシリーズ」(訳者不明、草森紳一解説)はトーベとラルスの作品29作を収録している。 * ムーミンまんがシリーズ1『とってもムーミン』1969 * ムーミンまんがシリーズ2『びっくりムーミン』1970 * ムーミンまんがシリーズ3『それいけムーミン』1970 * ムーミンまんがシリーズ4『ぐっときてムーミン』1970 * ムーミンまんがシリーズ5『ハレハレムーミン』1970 * ムーミンまんがシリーズ6『ムーミンワルツ』1970 * ムーミンまんがシリーズ7『あのひのムーミン』1970 * ムーミンまんがシリーズ8『いうなればムーミン』1970 * ムーミンまんがシリーズ9『やったぜムーミン』1970 * ムーミンまんがシリーズ10『そこぬけムーミン』1970 ※ スノークのお嬢さんは、アニメーション『ムーミン』での音響監督の田代敦巳が名前が付けられていないのは味気ないからと、演出を担当したスタッフ、大隅正秋の妻の愛称である「ノンちゃん」から採って名づけた'''“ノンノン”'''と訳されている。 ※ 共同執筆者の弟[[ラルス・ヤンソン]]の絵である作品も掲載されているが、[[ラルス・ヤンソン]]の名前は記載されていない。 ※ 作品の枠の一部に2人が書いたサインは消されている。日本向けに左右反転されており右開きになっている。セリフは縦書きに変更されている。 ====福武書店(現:ベネッセ)版『ムーミンの冒険日記』==== 福武書店版『ムーミンの冒険日記』(野中しぎ訳)はトーベの作品10作を収録している。 * 絵本コミックス ムーミンの冒険日記1.『ムーミン英雄になる』1991 * 絵本コミックス ムーミンの冒険日記2.『ムーミンパパの幸せな日々』1991 * 絵本コミックス ムーミンの冒険日記3.『ご先祖さまは難破船あらし!?』1991 * 絵本コミックス ムーミンの冒険日記4.『ムーミン家をたてる』1991 * 絵本コミックス ムーミンの冒険日記5.『ジャングルになったムーミン谷』1991 * 絵本コミックス ムーミンの冒険日記6.『ムーミン谷に彗星がふる日』1992 * 絵本コミックス ムーミンの冒険日記7.『ムーミン南の海へゆく』1992 * 絵本コミックス ムーミンの冒険日記8.『ムーミン谷のスポーツ大会騒動』1992 * 絵本コミックス ムーミンの冒険日記9.『ムーミン一家とメイドのミザベル』1992 * 絵本コミックス ムーミンの冒険日記10.『ムーミン谷に火星ジン!?』1993 ※ スノークのお嬢さんは、訳者がテレスクリーンでプロデューサーとして係わったアニメーション『[[楽しいムーミン一家]]』と同じく、ドイツ語の'''フローレン'''を名前とされた。 ※ 原作者ではあっても、ラルスの作品は扱われていなかったにも関わらず、執筆者紹介は姉弟一緒の写真付きで掲載されている。 ※ アニメーション『楽しいムーミン一家』では、原作者の一人ラルスの名前のクレジットは、愛称の「'''ラッセ'''」と表記されていたが、当作品では本名のラルスになっている。 ====筑摩書房版『ムーミンコミックス』==== 筑摩書房版『ムーミンコミックス』(冨原眞弓訳)はトーベとラルスの作品42作と漫画の元となったトーベの作品1作を収録している。他2社と違いスウェーデン語版を基にしている。スノークのお嬢さんはスノークの女の子と訳されている。 * ムーミンコミックス1.『黄金のしっぽ』2000 * ムーミンコミックス2.『あこがれの遠い土地』2000 * ムーミンコミックス3.『ムーミン、海へいく』2000 * ムーミンコミックス4.『恋するムーミン』2000 * ムーミンコミックス5.『ムーミン谷のクリスマス』2000 * ムーミンコミックス6.『おかしなお客さん』2000 * ムーミンコミックス7.『まいごの火星人』2001 * ムーミンコミックス8.『ムーミンパパとひみつ団』2001 * ムーミンコミックス9.『彗星がふってくる日』2001 * ムーミンコミックス10.『春の気分』2001 * ムーミンコミックス11.『魔法のカエルとおとぎの国』2001 * ムーミンコミックス12.『ふしぎなごっこ遊び』2001 * ムーミンコミックス13.『しあわせな日々』2001 * ムーミンコミックス14.『ひとりぼっちのムーミン』2001 ※ 10『春の気分』に収録された「南の島へくりだそう」は、後述する『劇場版ムーミン 南の海で楽しいバカンス』の原作。 ===絵本=== 小説や漫画版のエピソードを編集して幼児向け絵本にしたものもあるが、ここでは絵本として書き下ろされた作品を扱う。 *『それから どうなるの?』<ref>{{cite book|和書|title=それから どうなるの? |others=(講談社の翻訳絵本―トーベ・ヤンソンのムーミン絵本)|author1=トーベ・ヤンソン|author2=渡部 翠 (翻訳)|publisher=講談社|year=1991|ISBN=978-4-0618-7871-6|ref=harv}}</ref> (『Hur gick det sen?』 1952)英語版は2001年の発行<ref>ハードカバー {{cite book|title=The Book About Moomin, Mymble and Little My (Sort of Childrens Classics)|language=英語 |author1=Tove Jansson|others=Sophie Hannah (英訳) |date=2001-10-04| page=28|publisher=Sort of Books|ISBN=978-0-9535-2274-3|ref=harv}}</ref>、また初の iPad 版がある<ref>英語版。更新:2013年4月8日、Version: 1.2.0、Size: 51.6 MB。© 2013 Spinfy Oy, WSOY, Moomin Characters Oy, Sort of Books{{cite web|url=https://itunes.apple.com/us/app/moomin-mymble-and-little-my/id531261142?mt=8|title=Moomin, Mymble and Little My|author=Tove Jansson|publisher=Spinfy Oy|accessdate=2015-10-30|ref=harv}}</ref>.(''[[:en:The Book about Moomin, Mymble and Little My]]'') **ページに穴が開いていて、次のページの一部が見えるという構図の仕掛け絵本。ストーリーはムーミンがお使いに行く途中にミィを探すミムラ姉さんと出会い、一緒に探しているとトラブルに巻き込まれるというもの。 *『さびしがりやのクニット』<ref>{{cite book|和書|title=さびしがりやのクニット|others=(講談社の翻訳絵本―トーベ・ヤンソンのムーミン絵本) |author1=トーベ・ヤンソン|author2=渡部 翠 (翻訳)|publisher=講談社|year=1991|isbn=978-4-0618-7872-3|ref=harv}}</ref> (『Vem ska trösta Knyttet?』1960) 英語版は2010年の発行<ref>{{cite book|title=Who Will Comfort Toffle?|author=Tove Jansson|page=24|publisher=Drawn & Quarterly Pubns|series=Reprint版|date=2010-11-09|language=英語|ISBN=978-1-7704-6017-1|ref=harv}}</ref>.([[:en:Who Will Comfort Toffle?]]'') *:クニットというトロール(はい虫という、ムーミントロールとは別の種族)が主人公の、[[スピンオフ]]的な作品。 *『ムーミン谷への ふしぎな旅』<ref>{{cite book|和書|title=ムーミン谷への ふしぎな旅|others= (トーベ・ヤンソンのムーミン絵本) |author1=トーベ・ヤンソン|author2=渡部 翠 (翻訳)|publisher=講談社|year=1991|isbn=978-4-0618-7873-0|ref=harv}}</ref> (『Den farliga resan』1977) 英語版は1978年の発行<ref>初版{{cite book|title=Dangerous Journey |others=Paperback|author1= Tove Jansson| author2=Kingsley Hart (翻訳)|date=1978-09-01|publisher= Ernest Benn Ltd|ISBN=978-0-5100-0038-7|ref=harv}}と改訂版がある{{cite book|title=The Dangerous Journey: A Tale of Moomin Valley (Moomin Valley Trilogy)|author=Tove Jansson|publisher=Sort of Books|date=2010-11-01|language=英語|isbn=978-0-9548-9959-2|ref=harv}}</ref>。([[:en:The Dangerous Journey]]'') *:スサンナという異世界から来た女の子が主人公のスピンオフ作品。 *『ムーミンやしきはひみつのにおい』<ref>{{cite book|和書|title=ムーミンやしきはひみつのにおい|author1=トーベ・ヤンソン|author2=渡部 翠 (翻訳)|publisher=講談社|other=(講談社の翻訳絵本) |year=2014|isbn=978-4062830829|ref=harv}}</ref>(『Skurken i Muminhuset』 1980) 次弟'''[[ペル・ウーロフ・ヤンソン]]'''の写真にトーベが文章を書いたもの。長らく未邦訳であったが、トーベ・ヤンソン生誕100週年に当たる2014年に翻訳出版された。フィンランド版は青い表紙であるが、日本語版は茶色い表紙である。紙質も違い、フィンランド版は約4,000円(本体のみ)。取り寄せ可能。 ====日本における受容(絵本作品)==== 以下に挙げる日本語訳はすべて講談社からの出版である。 [[1965年]]、『世界の童話 10 北欧・南欧童話集』に「さて、それから」(翻訳:[[下村隆一]]、山室静、挿絵:[[井上洋介]])が収録された<ref name=moe1512_15 />。これが絵本『それから どうなるの?』の初日本語訳である<ref name=moe1512_15 />。 その後、[[1971年]]に山室静の翻訳で『それからどうなるの』(当時の訳題には[[疑問符]]はない)『さびしがりやのクニット』が出版された<ref name=moe1512_19 />。縦組み右綴じの構成で、イラストは反転しての印刷であった<ref name=moe1512_19 />。[[1980年]]に[[小野寺百合子]]の翻訳で『ムーミン谷へのふしぎな旅』が出版<ref name=moe1512_19 />。 [[1991年]]に[[渡部翠]]の新訳で『それからどうなるの?』『さびしがりやのクニット』『ムーミン谷へのふしぎな旅』が出版される<ref name=moe1512_19 />。[[2014年]]に同じく渡部翠の翻訳で『ムーミンやしきはひみつのにおい』が出版された<ref name=moe1512_19 />。 ==二次著作== ===テレビアニメーション=== ====ムーミン (1969年)==== {{main|ムーミン (アニメ)#ムーミン(1969年版)}} [[1969年]](昭和44年)10月5日 - [[1970年]](昭和45年)12月27日,[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列にてカラー放送.企画製作は[[瑞鷹 (アニメ制作会社)|瑞鷹エンタープライズ]].アニメーション制作は第1話 - 第26話まで[[東京ムービー]]([[シンエイ動画|Aプロダクション]]).キャラクターデザインは[[大塚康生]]であったために,大塚ムーミンとして親しまれてきた.第27話以降最終回までは,東京ムービーが降板したために,間を措かずに[[虫プロダクション]]へと交代した.なお制作会社の交代については,トーベ・ヤンソンの要望のため,あるいは,赤字を垂れ流す番組を切り捨てるためともいわれるが,演出を務めた大隅正秋によれば,大隅や大塚らの制作チームは,はじめから26話までの約束で参加していた(その後には「ルパン三世」の制作が控えていた)のであり,途中で辞めたのではないと云い,トーベからの要望は体の良い表向きの理由としてクレームだと誇張して喧伝されたのだという.放送時間帯は日曜日19時30分 - 20時00分の30分番組であった.「[[世界名作劇場|カルピスまんが劇場]]」の第2作である. ====ムーミン (1972年)==== {{main|ムーミン (アニメ)#ムーミン(1972年版)}} [[1972年]](昭和47年)1月9日 - 同年12月31日,[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列にて毎週日曜日の19:30〜20:00に放送.企画製作は'''瑞鷹エンタープライズ'''.アニメーション制作は'''虫プロダクション'''.番組表によっては'''「新ムーミン」'''と表記されることもあった. ====瑞鷹エンタープライズ作品の再放送とソフト販売==== '''[[瑞鷹エンタープライズ]]'''版は、本放送終了後も1969年版・1972年版共に再放送ででも好評を得ていて、ソフトの売れ行きも好調で,1990年の「'''[[楽しいムーミン一家]]'''」の放送開始の前日までは,1969年版と1972年版ともに再放送や[[VHSビデオ]][[ソフトウェア|ソフト]]・[[レーザーディスク]][[ソフトウェア|ソフト]]への作品配給や、キャラクターグッズの発売許諾を行っていた<ref group="注">この時期の商品には著作権表示が©瑞鷹または©ZUIYOとなっているものがある。</ref>が、1990年からドイツの[[:en:Telescreen (company)|テレスクリーン]](現在は[[:en:Studio 100|Studio 100]]の孫会社)製作による「'''[[楽しいムーミン一家]]'''」の放送が開始されて以後、日本国内において瑞鷹エンタープライズ版の作品の再放送・配信・パッケージソフト化は正規の形では一切行われていない。一方で、瑞鷹エンタープライズ版でキャラクターデザインを担当していた[[大塚康生]]は、21世紀初頭でも[[台湾]]では瑞鷹エンタープライズ版が繰り返し再放送されていると証言している<ref>{{Cite web|和書|url=http://osumi.air-nifty.com/blog/2008/09/vol9-9e6f.html |title=vol.9 世界の人を魅了した初代ムーミン|publisher=おおすみ正秋の仕事場|accessdate=2022-03-29}}</ref>。本国の公式サイトで1969年版と1972年版のそれぞれ第一話の動画は見ることができる<ref>[https://www.moomin.com/en/blog/moomin-animations-mumin-1969-1970-shin-mumin-1972/#42f2b8b6Japanese Moomin animations: Moomin (1969-1970) & Shin Moomin (1972)] - Moomin</ref>。 ====ムーミン・パペット・アニメーション ==== =====ムーミン・パペット・アニメーション (1979年)===== [[1977年]]にトーベ・ヤンソン監修のもとポーランドで作られたテレビ放映用[[ストップモーション・アニメーション]]([[人形アニメ]])。全78話。日本では1969年版と1972年版の日本製TVアニメーションで脚本を手掛けた[[鈴木良武]]が監修に入りムーミンの声を演じた女優[[岸田今日子]]が一人で全てのキャラクターの吹き替えを演じ、1979年よりNHK BS2「衛星アニメ劇場」枠で放送された。その後2003年にプチグラパブリッシング配給により36話が劇場公開され、同年アスミックからDVD-BOXも発売された。 =====ムーミン・パペット・アニメーション (2012年)===== [[1977年]]の『ムーミン・パペット・アニメーション』の、フィンランド本国による[[デジタルリマスター]]版。日本では新たに[[段田安則]]と[[松たか子]]の二人が全キャラクターを演じ分ける形で再吹き替えが行われ、2012年3月24日~2013年3月26日にNHK BSプレミアムにて放送された。後にNHKエンタープライズによりDVDも発売された。 ====楽しいムーミン一家 ==== {{main|楽しいムーミン一家}} =====楽しいムーミン一家 (1990年)===== [[1990年]](平成2年)4月12日 - [[1991年]](平成3年)10月3日[[テレビ東京]]系列にて放送。製作はテレスクリーン。ヤンソン姉弟の監修のもと、プロデューサーである[[デニス・リブソン]]らフィンランドスタッフが参加。[[名倉靖博]]がトーベの原作を基にキャラクターデザインを行った。制作協力はテレイメージ(現: [[ワコープロ]])、ビジュアル80。 =====楽しいムーミン一家 冒険日記 (1991年)===== [[1991年]](平成3年)10月10日 - [[1992年]](平成4年)3月26日、テレビ東京系列にて放送。『楽しいムーミン一家』の第2シリーズとして、休止期間を挟まずに放送された。こちらにはオープニングには登場するスノークが全く出なくなり、[[白鳥英美子]]のナレーションもなくなった。原作は主にコミックスから採られている。 ====ムーミン谷のなかまたち (2019年)==== {{Main|ムーミン谷のなかまたち}} 原題は「[[:en:Moominvalley_(TV_series)|MoominValley]]」。フィンランド本国で2019年春放送。フィンランドとスウェーデンに本拠を置くガッツィー・アニメーションズが制作を務め、最先端の2D/3Dハイブリッド技術を使用して作られる。ストーリーは、原作のオリジナルストーリーに基づきリメイクされる。日本でも2019年4月4日19時半から[[NHK BS4K]],2021年11月6日10時半からNHK eテレにて放送開始。<ref>{{Cite web|title=The new Moominvalley animation to premiere in Japan in April!|url=https://www.moomin.com/en/blog/the-new-moominvalley-animation-to-premiere-in-japan-in-april/|website=Moomin|date=2019-02-13|accessdate=2019-02-13|language=en-US}}</ref> ===劇場用アニメーション映画=== ====楽しいムーミン一家 ムーミン谷の彗星 (1992年)==== {{main|楽しいムーミン一家 ムーミン谷の彗星}} [[1992年]]8月8日に松竹の配給で公開。上映時間: 62分、製作国: 日本 ====劇場版ムーミン パペット・アニメーション==== [[ムーミン#ムーミン・パペット・アニメーション (2012年)|ムーミン・パペット・アニメーション]](デジタルリマスター版)の一部を劇場版として再編集した作品群。 =====劇場版ムーミン パペット・アニメーション 〜ムーミン谷の夏まつり〜 (2008年)===== 2008年公開、日本ではアスミック・エース配給により2009年に公開。吹き替えはムーミン:[[野島健児 (声優)|野島健児]]、ムーミンパパ:[[稲葉実]]、ムーミンママ:[[高島雅羅]]、スノークのおじょうさん:[[永田亮子]]、ミイ:[[水田わさび]]、スナフキン:[[白熊寛嗣]]。ナレーションを[[小泉今日子]]が務めた。角川エンタテインメントからDVDが発売された。 =====劇場版 ムーミン谷の彗星 パペット・アニメーション (2010年)===== 小説「ムーミン谷の彗星」を原作とするエピソードを抜き出し、劇場用長編アニメーションとして2010年に制作された。主題歌を[[ビョーク]]が歌い、声の出演は[[マッツ・ミケルセン]]や[[アレクサンダー・スカルスガルド]]などが担当する。日本では2015年にチャイルドフィルムの配給によって公開された。吹き替えはスノークのお嬢さん以外『[[楽しいムーミン一家]]』のメインキャストらが務めている。ビクターエンタテインメントからDVDが発売されている。 ===== ムーミン谷とウィンターワンダーランド (2017年) ===== 2017年12月2日に公開。ムーミン・パペット・アニメーション劇場版第3弾。日本語吹き替え版の声優は一新され、主人公・ムーミントロールは[[宮沢りえ]]、それ以外の男キャラを[[森川智之]]、女キャラを[[朴璐美]]、ナレーションは[[神田沙也加]]が務めた。 配給は[[東映]]。Blu-ray・DVDは[[アミューズ]]から発売。 ==== 劇場版 ムーミン 南の海で楽しいバカンス(2015年)==== {{main|劇場版 ムーミン 南の海で楽しいバカンス}} [[2015年]](平成27年)2月13日に公開。製作国はフィンランド・フランス。 トーベ・ヤンソン生誕100周年を記念し、初めて母国フィンランドで製作された長編アニメーション作品(フランスとの共同制作)。監督は[[グザヴィエ・ピカルド]]、プロデューサーはハンナ・ヘミラ。 グザヴィエ・ピカルドは日本の本屋さんでたまたまムーミンを見つけ知った。[[押井守]]監督とも親交があり、日本で公開されることはとても嬉しいと語った<ref>{{Cite web|url= http://hokuwalk.com/Spe/page/page_id/022015021000015001/ |title= 【特集】「劇場版ムーミン 南の海で楽しいバカンス」グザヴィエ・ピカルド監督来日インタビュー! |website= 北欧総合情報サイト【北欧区】hokuwalk.com |date= 2015-02-10 |accessdate= 2023-11-26 }}</ref>。日本語吹き替え版はパペット・アニメーション版『~彗星』から5年ぶりに『楽しいムーミン一家』のメインキャストらが担当。興行収入は2億7000万円<ref>「[[キネマ旬報]]」2016年3月下旬号 55頁</ref>。 ==== パペットアニメ ムーミンパパの思い出 (2023年)==== [[2023年]](令和5年)12月29日に公開。製作国はフィンランド。日本の配給は[[東映ビデオ]]。21世紀に入ってから初めて新規に製作されたパペットアニメーションで、スタッフは20世紀版から一新。監督はアイラ・カーベラン、プロデューサーはアイラ監督およびトム・カーベラン。日本語吹き替え版については上述の『~南の海で楽しいバカンス』に引き続き『楽しいムーミン一家』のメインキャストらが担当した。 ストーリーは小説「ムーミンパパの思い出」を原作とするエピソードを抜き出し、いくつかのエピソードを追加して構成。若き日のムーミンパパを事実上の主人公とし、スナフキンやスニフの親との関わりやムーミンママとパパの馴れ初めを交えつつ、パパ一行の冒険の日々が描かれる。 ===アニメ絵本=== 以下に挙げる作品はすべて講談社からの出版である。 [[1969年]]に「[[世界名作劇場|カルピスまんが劇場]]」枠でテレビアニメ『[[ムーミン (アニメ)#ムーミン(1969年版)|ムーミン]]』の放送が開始されると、同アニメに準拠した絵本『カラーテレビ版ムーミン名作絵ばなし』(全22冊)も出版された<ref name=moe1512_17>『MOE』2015年12月号、17頁。</ref>。[[1972年]]には、[[ムーミン (アニメ)#ムーミン(1972年版)|1972年版アニメ]]に準拠した絵本『講談社のムーミン・ブック』(全20冊)も出版されている<ref name=moe1512_17 />。これらの絵本では、カルピスまんが劇場版アニメに倣い、スノークのお嬢さんは「ノンノン」と翻訳されている<ref name=moe1512_17 />。 ===歌の本=== * 『Visor från Mumindalen』(未訳『ムーミン谷の歌』) 1993 挿し絵はトーベ・ヤンソン。弟のラルス・ヤンソン、Erna Tauro 出演。フィンランドで出版 (スウェーデン語版)<ref>{{cite book|title=Visor från Mumindalen|author1=Tove Jansson|author2=Lars Jansson|author3=Erna Tauro|language = Swedish|country=Finland|publisher=Albert Bonniers Förlag, Schildts|year=1993|page= 44|ref=harv}}</ref> ===CD および MP3=== * {{cite book|和書|publisher=東芝 EMI (TOCT-9820)|others=CD|title='''ムーミン'''(懐かしの[[ミュージッククリップ]]20)|year=1997|no.=TOCT-9820|ref=harv}} NDLC=YMC11 * {{cite book|和書|title=フジテレビ 世界名作アニメ主題歌ベスト (PCCG-00646)|date=2004-05-19|publisher=ポニーキャニオン|ref=harv}} * {{cite book|和書|publisher=日本コロムビア (CC-4587)|title=おはなしムーミン ~ムーミン谷に春がきた~|others=CD|date=1990-02-01|ref=harv}} 「タイムトリップCD」シリーズとして再発売されたドラマCD。 * {{cite book|和書|publisher=日本コロムビア (CC-4587)|title=おはなしムーミン ~ムーミン谷に春がきた~|others=LP|date=1971-09-01|ref=harv}} 品番 KKS-20077 * {{cite book|和書|title=テレビまんが主題歌のあゆみ |others=テレビ主題歌 [Soundtrack] (『ムーミン』から「ねえ!ムーミン」)|author1=上高田少年合唱団|author2=ボーカルショップ|author3=曽我町子|author4=大山のぶ代 他 |volume=ディスク: 2|publisher=日本コロムビア (COCX-33498-9)|date=2005-12-21|ref=harv}} * {{cite book|和書|title=楽しいムーミン一家 スナフキンの旅立ち|others=CD|publisher=キングレコード (KICA-32)|year=1990|ref=harv}} 「(9) 夢の世界へ(楽しいムーミン一家)」他。 * {{cite book|和書|title=楽しいムーミン一家 スナフキンの旅立ち|others=CD|author=白鳥英美子 他|publisher=キングレコード (KICA-36)|year=1990|ref=harv}} 「(1) 夢の世界へ〜ムーミン谷・秋です」他。 * {{cite book|和書|title=楽しいムーミン一家 CD|author=白鳥英美子|publisher=キングレコード (スターチャイルド) (KIDA-5)|year=1990|ref=harv}} 「夢の世界へ」他。 * {{cite book|和書|title=楽しいムーミン一家|publisher=キングレコード (スターチャイルド) (KICA-18)|year=1991|ref=harv}} (1) ムーミン谷・冬他。NDLC=YMC13 * {{cite book|和書|title=楽しいムーミン一家|publisher=キングレコード (スターチャイルド) (KIDA-20)|year=1991|ref=harv}} (1) 「おまじないのうた」他。NDLC=YMC13 * {{cite book|和書|title=楽しいムーミン一家 CD|author=白鳥英美子|publisher=キングレコード (スターチャイルド) (KIDA-32)|year=1991|ref=harv}} (1) ヘソまがりんちょの歌 他。 * {{cite book|和書|title=ムーミン (TVサントラ)|author=武藤礼子 その他 |others=CD|date=1997-06-25|publisher=EMIミュージック・ジャパン|ASIN=B00005GLYX|EAN=4988006140738|ref=harv}} * {{cite book|和書|title=TWIN BEST 懐かしのアニメ主題歌集 |author1=宮里久美|author2=伊藤さやか|author3=加茂晴美|author4=小山茉美 他|date=1998-12-02|publisher=ビクターエンタテインメント|ASIN= B00005GXG6|EAN= 4988002376438|ref=harv}} VICL-41047 20. ムーミンのうた~「ムーミン」より * {{cite book|和書|title=ウクレレムーミン CD|author=IWAO (山口岩男)|publisher=Victor Entertainment (VICL-62673)|date=2007-12-05|ref=harv}} 「夢の世界へ」他。 * {{cite book|和書|title=ムーミンのうた (「ムーミン」より) MP3|publisher=Angelicオルゴール|date=2008-01-01|ref=harv}} *『Moomin Voices - Muminröster』2002 CD アルバム{{cite web|url=http://www.amazon.com/Moomin-Voices-Mika-Pohjola/dp/B00006RZ2N/ref=tmm_acd_title_0?_encoding=UTF8&qid=1446303269&sr=1-1-mp3-albums-bar-strip-0|title=Moomin Voices - Muminröster|author1=Tove Jansson|author2=Mika Pohjola|author3=Erna Tauro|author4=Johanna Grussner|publisher=CD Baby|date=2002-09-28|language = |ASIN=B00006RZ2N|volume=|accessdate=2015-10-30|ref=hrv}}、MP3 版も販売。 *『Vem Ska Trosta Knyttet』2010 絵本『さびしがりやのクニット』に基づくオーディオCD。Peter Lundblad and Torbjörn Eklund の演奏でスウェーデンで出版。Johan Hagelbäck 製作のアニメに使われ (1980年)、さらにアニメから児童劇が派生している<ref group="注">ジャンルは[[アシッド・ハウス]]。{{cite web|url=http://www.amazon.com/Vem-Trosta-Knyttet-Peter-Lundblad/dp/B000TM06WG/ref=sr_1_fkmr0_1?ie=UTF8&qid=1446299797&sr=8-1-fkmr0&keywords=Peter+Lundblad+and+Torbjörn+Eklund|title=Vem Ska Trosta Knyttet|others=Audio CD |date=2010-02-16|language = Swedish|ASIN=B000TM06WG|accessdate=2015-10-30|ref=hrv}}</ref>。 *『The Best Of Moomin Voices - De Bästa Mumin』2015 MP3 版 {{cite web|url=http://www.amazon.com/Best-Moomin-Voices-Bästa-Mumin/dp/B00RPPNN16/ref=sr_1_2?s=dmusic&ie=UTF8&qid=1446303269&sr=1-2-mp3-albums-bar-strip-0&keywords=Erna+Tauro|title=Moomin Voices - De Bästa Mumin|others=Audio CD |author1=Tove Jansson|author2=Mika Pohjola|author3=Erna Tauro |author4=Johanna Grüssner|publisher=Bluemusicgroup.Com|date=2015-01-01|language = |ASIN=B00RPPNN16|volume=|accessdate=2015-10-30|ref=hrv}}。 ===映像作品=== * バンダイ [[LD]]『'''ムーミン'''』。vol.1〜vol.7、1989〜1990 (全7巻。東京ムービー制作の第1話〜第26話を収録。)<ref>{{Cite web|和書|title=ムーミン谷へのみち Road to Moominvalley|url=http://www008.upp.so-net.ne.jp/road/anime/syouwa.html|accessdate=2015-10-30|ref=harv}}</ref> **ムーミン VOL.1 第1〜4話 (BELL-285) 収録時間 106分 1枚組2面 **ムーミン VOL.2 第5〜8話 (BELL-287) 収録時間 106分 1枚組2面 **ムーミン VOL.3 第9〜12話 (BELL-289) 収録時間 106分 1枚組2面 **ムーミン VOL.4 第13〜16話 (BELL-291) 収録時間 106分 1枚組2面 **ムーミン VOL.5 第17〜20話 (BELL-293) 収録時間 106分 1枚組2面 **ムーミン VOL.6 第21〜24話 (BELL-295) 収録時間 106分 1枚組2面 **ムーミン VOL.7 第25〜26話 (BELL-297) 収録時間 50分 1枚組片面 * バップ ビデオ[[VHS]]『'''ムーミン'''』「愛の巻」、「夢の巻」。 レンタルビデオ用。 一般向けにも販売しており、1巻8,800円で売られていた。 **「夢の巻」 金の馬 銀の馬 (第34話) 、影なんか怖くない (第64話) **「愛の巻」 小さなみにくいペット (第37話) 、ピアノなんか大嫌い (第49話) * バップ ビデオ '''新'''『ムーミン』 1969 全26巻。各2話、全52話を収録。 * ビクタービデオ[[DVD]] BOX『Moomin』 (楽しいムーミン一家) 上下巻 (バラ売りあり)。 DVD発売以前にはVHSでも発売されていた。 Blu-rayも発売されたが冒険日記は未収録。 ===ゲーム=== 本節ではテレビなどの電子ディスプレイを用いる、いわゆる「テレビゲーム」について解説する。 ;『ムーミン〜ようこそ!ムーミン谷へ〜』 :ムーミンを題材にしたスマホ向け箱庭アプリ。2015年5月21日にポッピンゲームズジャパンより配信中<ref>[http://moominvalley.poppin-games.com/ ムーミン〜ようこそ!ムーミン谷へ〜]</ref>。 ;『スナフキン:ムーミン谷のメロディ』(英語原題『Snufkin: Melody of Moominvalley 』) :スナフキンを操作してムーミン谷を散歩する(他にも色々できる)[[オープンワールド]]スタイルのアドベンチャーゲーム。2024年に海外ゲームメーカー・Hyper Games(ハイパーゲームズ)より[[Steam]]プラットフォーム(※)を利用して配信予定<ref>[https://www.snufkin.game/jp スナフキン:ムーミン谷のメロディ]</ref>。 : (※)SteamはPCアーキテクチャ系デバイス(パソコン・[[Ultra-Mobile PC|UMPC]]など)を使うことが基本のサービス。Steamに依存しない一般的な家庭用ゲーム機でもリリース予定。 ===バレエ=== ====ムーミン谷の彗星==== 2015年のバレエ作品。 ====たのしいムーミン一家〜ムーミンと魔法使いの帽子〜==== {{main|たのしいムーミン一家〜ムーミンと魔法使いの帽子〜}} 2017年のバレエ作品。 ===広告への起用=== 日本では、[[第二電電|DDI]](現:[[KDDI]])の特定通話先割引サービス<ref>『[https://www.kddi.com/extlib/files/corporate/teletora/pdf/kddi_toranomaki2022.pdf テレコミュニケーション虎の巻2022]』、KDDI、2022年、35頁。</ref>『なかよしネット』のテレビCMにキャラクターが起用されたことがある<ref>[https://web.archive.org/web/20131213042658/http://www.liberty-anime.co.jp/pg47.html TVCF of liberty animation studio] - 「DDI『なかよしネット』 【キャラアニメ】」を参照。2021年6月13日閲覧。</ref>ほか、富山県の地方銀行である[[北陸銀行]]のイメージキャラクターに採用されていた事もある。 ==テーマパーク== [[ファイル:Metso 4.JPG|thumb|ムーミン谷博物館は、[[フィンランド]]・[[タンペレ]]所在のメッソ図書館にある<ref>[https://www.muumimuseo.fi/ja/etusivu-japani/ ムーミン美術館]</ref>。]] ===ムーミンワールド=== '''ムーミンワールド'''({{lang-fi|Muumimaailma}})は[[フィンランド]][[西スオミ州]][[南西スオミ県]][[トゥルク]]に近いカイロ島の[[ナーンタリ]]にあるムーミンに関する[[テーマパーク]]。 === メッツァ === {{main|メッツァ (テーマパーク)}} フィンランド以外では初めての「ムーミン」のテーマパークとして、[[埼玉県]][[飯能市]]に「'''Metsä(メッツァ)'''」が2017年にオープンすることが、2015年6月30日に発表された<ref>{{Cite web|和書|url= https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1506/30/news130.html |title= ムーミンのテーマパークが2017年に埼玉・宮沢湖周辺にオープン 面積は東京ドーム4個分 |publisher= ねとらぼ |date= 2015-06-30 |accessdate= 2015-07-01 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url= http://www.asahi.com/articles/ASH6Z5PWZH6ZUTNB00Z.html |title= 埼玉にムーミンのテーマパーク フィンランド以外で初 |publisher= 朝日新聞デジタル |date= 2015-07-01 |accessdate= 2023-11-26 |archiveurl= https://archive.is/r4I09 |archivedate= 2015-07-01 }}</ref>。「メッツア(metsä)」はフィンランド語で“森”という意味。[[宮沢湖]]の周辺の約18万7000平方メートル([[東京ドーム]]4個分)の用地に展開され、有料の「ムーミンゾーン」と無料の「パブリックゾーン」が設けられる。 ==ファンクラブ== ;The Official MOOMIN Fan Club :本国フィンランドが運営するムーミン公式サイト<ref>[https://www.moomin.com/en/ Home - Moomin : Moomin]</ref>内のMoomin's webshopにて、メールアドレスを登録することで10%オフの値引きが受けられるサービスである。 === ムーミン公式ファンクラブ『We Love MOOMIN』 === 『We Love MOOMIN』は日本で運営されているムーミンの[[ファンクラブ]]<ref>[http://love-moomin.jp/ We Love MOOMIN]</ref>。ムーミンのイベントへの優先参加や[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]キャンペーン、モニタープレゼント、グッズやツアーの先行販売などの体験型企画の他に、ムーミンのスタンプや壁紙などコンテンツが取り放題。プレミアムコースに登録すると、会員それぞれにムーミン谷の住所が記載された「ムーミン谷住民票」が発行される。 == 2018年度大学入試センター試験の出題を巡る騒動 == === 経緯 === [[2018年]][[1月13日]]、[[日本]]の[[大学入試センター試験]](本試験)の地理Bの第5問-問4で、アニメ版『ムーミン』に関する問題が出題され、[[インターネット]]上で話題を呼んだ<ref name="sankei1">{{cite news|url=http://www.sankei.com/smp/life/news/180113/lif1801130047-s1.html|title=地理Bにムーミン ネットでは戸惑いも|newspaper=産経ニュース|date=2018-01-13|accessdate=2023-11-26 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20180117011844/http://www.sankei.com/smp/life/news/180113/lif1801130047-s1.html |archivedate= 2018-01-17 }}</ref>。問題の内容は、[[スウェーデン]]を舞台にした『[[ニルスのふしぎな旅]]』(アニメ版)と[[スウェーデン語]]の「''Vad kostar det?''(ヴァッ コスタ デッ〈それ いくら?〉)」を例に、[[ノルウェー]]とフィンランドを舞台にしたアニメについて、フィンランドに関するアニメと[[フィンランド語]]との正しい組み合せを4択から選ぶというもので、アニメは『ムーミン』『[[小さなバイキングビッケ]]』の2択、言語は「''Hva koster det?''(ヴァ コステル デ〈いくらですか?〉)」「''Paljonko se maksaa?''(パリヨンコ セ マクサー〈いくらですか?〉)」の2択となっていた<ref name="sankei1"/>。受験生とみられる戸惑いのツイートや、ムーミン公式サイトの[[Twitter]]アカウントに対して「ムーミンは地理に関係ないのでは」といったツイートが集中し、騒動に発展した<ref name="sankei1"/>。 === 出題に対して議論された点 === ; ムーミンの舞台はどこなのか : 『ムーミン』はフィンランドの作品として認知されている<ref name="sankei2">{{cite news|url=https://www.sankei.com/article/20180114-NTSJQETT7VJIJNWK3K6LH3QUSI/|title=「ムーミンの舞台はフィンランドではなくムーミン谷」ネット上で「出題ミス」の指摘相次ぐ|newspaper=産経ニュース|date=2018-01-14|accessdate=2018-01-16}}</ref>が、出題された問題には「(『ムーミン』と『小さなバイキングビッケ』は)ノルウェーとフィンランドを舞台にしたアニメーション」と記されており、問題製作者が「原作に『(ムーミンの舞台である)ムーミン谷はフィンランドに存在する』という説明がある」と誤解して起きた出題ミスであると指摘する声もある<ref name="sankei2"/>。[[大阪大学]][[大学院]]のスウェーデン語研究室准教授の古谷大輔(北欧史)は、『ムーミン』原作の舞台について「架空の場所のムーミン谷とされる。フィンランドが舞台だと明示されていない」とし、さらに『小さなバイキングビッケ』の舞台も「ノルウェーが舞台とは断言できない」としており<ref name="kyodo01">{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO2569476015012018CC1000/|title=ムーミン舞台のセンター試験設問に疑問 阪大准教授|newspaper=日本経済新聞|date=2018-01-15|accessdate=2018-01-15}}</ref>、1月15日に研究室として、舞台の国を特定した根拠について[[大学入試センター]]に説明を求める意見書を提出し<ref name="kyodo01" />、外国語学部スウェーデン語専攻のサイトで見解を公開した<ref>{{Cite web|url= https://www.sfs.osaka-u.ac.jp/user/swedish/ |title= 平成30年度大学入試センター試験 地理歴史(地理B)第5問問4への見解 |publisher= 大阪大学外国語学部スウェーデン語専攻 |date= 2018-01-15 |accessdate= 2023-11-26 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20180115093641/https://www.sfs.osaka-u.ac.jp/user/swedish/ |archivedate= 2018-01-15 }}</ref>。 : 日本のムーミン公式サイトには、トーベの言葉として「フィンランドにあるムーミン谷は、たぶんあなたが思っているほどあなたのところから遠くへだたってはいない」との記載がある<ref>{{Cite web|和書|url = http://moomin.co.jp/books/2740 |title = 解説書 ムーミン谷への旅 |publisher = 株式会社タトル・モリ エイジェンシー |accessdate = 2018-01-15 }}</ref>一方で、[[国立国会図書館]]のサイトには、トーベの言葉として「ムーミン谷は、スウェーデンの祖父が住むしあわせな谷と、フィンランドの島々とが一緒になって―それもうまいぐあいに混ざりあって―できあがったものです」との記載がある<ref>{{Cite web|和書|url = https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_998470_po_2006-07tomihara.pdf?contentNo=1 |title = 近くて遠いムーミン谷 |publisher = 国立国会図書館 |accessdate = 2018-01-16 }}</ref>。 ; 与えられた出題内容のみで正解が得られるのか : この問題に関しては、もう一方の選択肢に書かれた「[[ヴァイキング|バイキング]]」と言語区分<ref group="注">スウェーデン語とノルウェー語は同じ[[インド・ヨーロッパ語族]][[ゲルマン語派]][[北ゲルマン語群]]に属する非常に近しい言語であり、問題に記載された例文に共通性が見られるのに対し、フィンランド語は[[ウラル語族]]に属するため、他言語とは綴りが大きく異なっている。</ref>についての知識があれば正解を得ることができる<ref name="sankei1"/>{{Refnest|group="注"|なお、アニメ版「小さなバイキングビッケ」はスウェーデンの作家がスウェーデン語で書いた作品が原作となって[[ドイツ]]と日本の企業が共同制作したものであり、舞台も「北欧」となっている<ref>[http://www.vicke.ne.jp/ 2017年11月からノルウエーサーモンPRビッケ新デザイン登場!!] - 「小さなバイキングビッケ」公式ホームページ</ref>。}}という意見があった。しかし、「バイキング」の記述からアニメの舞台を導き出す方法に関しては、'''アニメが架空の話であるという前提が抜け落ちており'''、現実とは異なり、創作によってどのような設定も持ちうる可能性が考慮されていない。また、『小さなバイキングビッケ』における、アニメ内でのバイキングの設定は、史実とは異なるステレオタイプで描かれているとされている。{{main|小さなバイキング#ステレオタイプについて}} === 出題後の反響 === 「ムーミン」「センター地理」がTwitterのトレンドワードになり、反響を呼んだことからムーミン公式サイトTwitterはこれに対し以下のコメントを記している<ref>{{Cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/01/13/kiji/20180113s00041000114000c.html|title=センター試験地理「ムーミン」出題が話題 不正解受験生嘆き 公式ツイッター「反省」|newspaper= Sponichi Annex|publisher=スポーツニッポン新聞社|date=2018-01-13|accessdate=2018-01-13}}</ref>。 {{Quotation|「ムーミンの舞台はフィンランドかノルウェーか…という問題がセンター試験で出て、お怒りのみなさんも多いようで…。まだまだ知られてないんだな、と反省、もっと知ってもらえるよう公式サイトも頑張ります!これを機にムーミンの世界について知ってもらえると、うれしいな」|[https://twitter.com/moomin_jp/status/952041519325708289 ムーミン公式の2018年1月13日のツイート]}} また、駐日フィンランド大使の公式Twitterは「ムーミン谷はきっとみんなの心の中にあるのかな」とツイートした<ref>{{Cite tweet|author=駐日フィンランド大使館 |user=FinEmbTokyo |number=952824050476138501 |title=ムーミンはフィンランド生まれだけど、ムーミン谷はどこに?… |accessdate=2023-11-26 }}</ref>。 === 出題内容に対する見解 === ; 大学入試センター : 2018年[[1月17日]]、センター試験を運営する大学入試センターは、今回のセンター試験での出題に関して「キャラクターの知識は直接必要なく、地理Bの知識、思考力を問う設問として支障はなかったと考えている」と答えた<ref name="sankei5">{{cite news|url=http://www.sankei.com/smp/west/news/180117/wst1801170044-s1.html|title=「ムーミン」出題、入試センター「設問として支障ない」と見解|newspaper=産経WEST|date=2018-01-17|accessdate=2023-11-26 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20180118010635/http://www.sankei.com/smp/west/news/180117/wst1801170044-s1.html |archivedate= 2018-01-18 }}</ref>。その理由として、 * 試験問題に印刷されている、ムーミンの画像に描かれた背景から「'''低平で森林と湖沼が広がるフィンランドが類推される'''」という点。 * 言語の組み合わせを答える問題について、「'''教科書で取り上げられている言語区分の知識に基づき判断できる'''」という点。 : を挙げている<ref name="sankei5"/>が、ムーミンの画像は、白黒で、平地と針葉樹が1本を背景にムーミンとスノークのおじょうさんが手を取り合っているだけの図であり、低平で森林と湖沼が広がると言われる描写はされておらず、それをもってフィンランドを類推するのは無理があった。また、アニメの舞台設定を断定した根拠については確認できていないとしている。 : 翌18日、大学入試センターは『ムーミン』の舞台をフィンランドとした根拠について、「日本の書籍に原作者のコメントとして『フィンランドにあるムーミン谷』との記述が見られる」と回答した<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.yomiuri.co.jp/national/20180119-OYT1T50018.html |title= ムーミンの舞台、正答の根拠は「日本の書籍」 |publisher= 読売新聞 |date= 2018-01-19 |accessdate= 2018-01-20 }}{{リンク切れ|date=2023年11月}}</ref>。 ; 政府関係者 : 2018年[[1月15日]]、[[内閣官房長官]]の[[菅義偉]]は、記者会見において、今回のセンター試験の出題内容に関する質問に対して、「報道は承知している」とした上で、「大学入試の個々の問題なので、政府の立場でコメントすることは控えたい」と答えた<ref name="sankei3">{{cite news|url=https://www.sankei.com/article/20180115-MHZRHEHFBRJIJCRDO34M7UR3YE/|title=ムーミン谷の国名、菅義偉官房長官コメント避ける「大学入試の個々の問題」|newspaper=産経ニュース|date=2018-01-15|accessdate=2018-01-16}}</ref>。 : また、翌[[1月16日|16日]]には[[文部科学大臣]]である[[林芳正]]の記者会見にも質問が及び、「センター試験については、より思考力を重視した作問の改善をこれまでも進めてきている。個別の出題についてコメントすることは差し控えたい。出題意図などの問い合わせについては([[文部科学省]]の管轄下である)大学入試センターで適切に対応してもらいたい」と述べた<ref name="sankei4">{{cite news|url=https://www.sankei.com/article/20180116-SYAUOSPJWZMZXJON77RR66T5GA/|title=林芳正文科相、ムーミン谷の場所はコメント避ける「スナフキンとミイのやり取り面白かった」|newspaper=産経ニュース|date=2018-01-16|accessdate=2018-01-16}}</ref>。さらに、『ムーミン』の舞台に関する質問に対しては「ムーミンは子供の頃、見ていた。スナフキンと[[ちびのミイ|ミイ]]のやり取りは大変面白かったと記憶している。(ムーミン谷の)場所については問題との関わりがあるのでコメントは差し控えたい」と回答している<ref name="sankei4"/>。 ; 著作権利者・アニメ製作会社 : 『ムーミン』の著作権者の委託を受けた会社が運営するムーミンの日本語公式サイトでは「ムーミン谷はフィンランドを含む実在の場所にあるものではなく、ファンタジーの世界である」との公式見解を発表しているが、一方で今回の出題では原作ではなくアニメ版について尋ねており、[[電子メール|eメール]]や[[ファクシミリ|ファックス]]が普及していない時代の作品で原作者の監修がままならなかった事情や権利者の手元に十分な資料がないことから、舞台がフィンランドと設定されているかは第三者の検証に委ねたいとしている<ref>{{Cite web|和書|url=http://line.love-moomin.jp/20180116/moomin_official01.html|title=ムーミン谷はどこにある? ~センター試験地理Bの出題に寄せて~|publisher=ムーミン公式サイト|date=2018-1-16|accessdate=2022-6-17}}</ref>。 : また、アニメを手がけた会社は「舞台は不明」としている<ref name="asahi20180116">{{cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASL1J5TGRL1JUTIL049.html|title=ムーミンの舞台、入試センター「設問に支障なし」|newspaper=朝日新聞|date=2018-01-16|accessdate=2023-11-26 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20180116145649/https://www.asahi.com/articles/ASL1J5TGRL1JUTIL049.html |archivedate= 2018-01-16 }}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|30em}} ==参考文献== * 高橋静男ほか編『ムーミン童話の百科事典』 講談社 (1996年) / ISBN 4-06-207999-2 * 冨原眞弓『ムーミンを読む』 講談社 (2004年) / ISBN 4-06-212340-1 * ミルヤ・キヴィ文『ようこそ!ムーミン谷へ -ムーミン谷博物館コレクション-』(講談社 [[2005年]]) / ISBN 4-06-212784-9 * 雑誌Pen 2015年2月15日号 CCCメディアハウス (2015年2月2日) 「特集 映画公開で再び注目される永遠の名作 ムーミン完全読本」 * バンダイ[[LD]]『'''ムーミン'''』の解説書 vol1〜vol7 (1989〜1990年) * vapビデオ[[VHS]]『'''ムーミン'''』愛の巻、夢の巻 および'''新'''『'''ムーミン'''』vol0〜vol25解説書 * ビクタービデオ[[DVD]]-BOX『Moomin』(楽しいムーミン一家) 上下巻解説書 * トーベ・ヤンソン(※ ラルス・ヤンソン ※ 名前の記載無しだが明らかにラルスの作品と判るものも掲載されている。)「ムーミンまんがシリーズ」1(とってもムーミン他) ※ 英語版からの訳 訳者不明 草森紳一解説 講談社 [[1968年]]11月 (分)8-3-71(製)216436(出)2253(0) * トーベ・ヤンソン、ラルス・ヤンソン『ムーミンの冒険日記』野中しぎ訳、※ 英語版からの訳 [[1991年]] 福武書店 / ISBN 4-8288-4968-8 C8798 * トーベ・ヤンソン,ラルス・ヤンソン『ムーミンコミックス』冨原眞弓訳、※ スウェーデン語版からの訳 [[2001年]]8月 筑摩書房 / ISBN 4-480-77054-2 * 東芝EMI [[CD]]『'''ムーミン'''』(懐かしの[[ミュージッククリップ]]20)解説書 * 芸術新潮 2009年5月号 特集、ムーミンを生んだ芸術家トーヴェ・ヤンソンのすべて 新潮社 * [[MOE (雑誌)|MOE]] 巻頭大特集 ムーミンと北欧の物語。1998年2月1日発行。第19巻。第11号通巻220号 白泉社 * MOE おめでとう60周年!ムーミン 月刊モエ2006年1月号 巻頭大特集、誕生60周年おめでとう!オーロラの国からムーミンがやってきた! 第28巻第1号 通巻315号 白泉社 * MOE ムーミン出版70年 月刊モエ2015年12月号 巻頭大特集、フィンランド現地取材、ムーミン 童話・絵本・コミックスのすべて。 白泉社 / ASIN: B016031X06 * ku:nel[クウネル]2007年1月1日。ムーミンのひみつ 第5巻第1号。 マガジンハウス * キングレコード [[CD]]『[[楽しいムーミン一家]]』(スナフキンの旅立ち)(KIKA36)解説書 * キングレコード CD『楽しいムーミン一家』(VOL1)(KIKA18)解説書 ==関連項目== {{Commonscat|Moomins}} * [[トロール]] * [[フィンエアー]] - フィンランドの航空会社。日本路線にムーミンを描いた特別塗装機を就航させていた。 * [[いすみ鉄道]] - 日本の鉄道会社。「ムーミン列車」を運行するほか、[[国吉駅]]売店にてムーミングッズを販売している。 * [[松任谷由実]] - 日本の[[歌手]]。中学生時代、ムーミンにちなみ当時親しかった[[シー・ユー・チェン]]から「ユーミン」と呼ばれ、のちに歌手デビューした際にファンの間で[[愛称]]として定着。 * [[ライオン製品一覧|キシリデントライオン]] - ライオンの歯磨き粉。2016年製造までは子供用はムーミンのデザインだったが、2016年末の製造を以て廃止された。 ==外部リンク== ; {{Anchors|当事者発信}}当事者発信 * {{Wikicite |ref={{SfnRef|official}} |reference={{Official website|www.moomin.co.jp|ムーミン公式サイト―Moomin Characters Official Website}}}} * {{Wikicite |ref={{SfnRef|Twitter}} |reference={{Twitter|moomin_jp|ムーミン公式}} }} * {{Wikicite |ref={{SfnRef|Facebook}} |reference={{Facebook|moomin_jp}} }} * {{Wikicite |ref={{SfnRef|LINE}} |reference={{LINE公式アカウント|moomin.jp}} }} ; {{Anchors|関係者発信}}関係者発信 * {{Cite web|和書|title=ムーミン公式ファンクラブ We Love MOOMIN |url=https://love-moomin.jp/?aff_id=309 |publisher= |website=公式ウェブサイト |work= |accessdate=2020-12-20 |ref={{SfnRef|fan club}} }} * {{Cite web|和書|title=トーベ・ヤンソンあけぼの子どもの森公園 |url=https://www.city.hanno.lg.jp/akebono |publisher=[[飯能市]] |work= |accessdate=2020-12-20 |ref={{SfnRef|あけぼの}} }}※[[あけぼの子どもの森公園|トーベ・ヤンソンあけぼの子どもの森公園]](公式ウェブサイト)。 * {{Cite web |title=Maailman ainoa Muumimuseo on Tampere-talossa! |url=https://www.muumimuseo.fi/ |publisher=Maailman ainoa Muumimuseo |language=fi |accessdate=2020-12-20 |ref={{SfnRef|Muumimuseo}} }}※{{仮リンク|ムーミン博物館|en|Muumimuseo}}(タンペレ市立美術館内) ** [http://muumilaakso.tampere.fi/ja/]{{ja icon}}{{リンク切れ|date=2020年12月20日}} * {{Cite web|和書|title=ムーミン〜ようこそ!ムーミン谷へ〜 |url=http://moominvalley.poppin-games.com/ |publisher=ポッピンゲームズジャパン株式会社 |accessdate=2020-12-20 |ref={{SfnRef|PoppinGames}} }} * {{Cite web|和書|title=ムーミン 公式オンラインショップ PEIKKO |url=https://www.peikko-moomin.jp/ |publisher=ゾーウィー株式会社 (Zowie Corporation) |accessdate=2020-12-20 |ref={{SfnRef|Zowie}} }} * [http://www.mxtv.co.jp/moomin/ TOKYO MX 楽しいムーミン一家 番組紹介ページ]{{リンク切れ|date=2020年12月20日}} * [http://www.moomins-movie.com/ 映画『劇場版 ムーミン 南の海で楽しいバカンス』公式サイト]{{リンク切れ|date=2020年12月20日}} * {{Cite web |date=2003 |title=Moomin Voices - Muminröster |url=http://moominswe.bluemusicgroup.com/ |publisher=Blue Music Group |language=en |accessdate=2020-12-20 |ref={{SfnRef|BlueMusicGroup|2003}} }} * {{Cite web |title="Kaikki hauska on hyvää vatsalle." - Muumimamma |url=http://www.muumimaailma.fi |publisher=Muumimamma |language=fi |accessdate=2020-12-20 |ref={{SfnRef|Muumimamma}} }} * [http://www.vaski.fi Väski] Adventure Island for children {{リンク切れ|date=2020年12月20日}} {{ムーミン}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:むうみん}} [[Category:ムーミン|*]] [[Category:ファンタジー小説のシリーズ]] [[Category:トーベ・ヤンソン]] [[Category:フィンランドの文化]]
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ムーミントロール
ムーミントロール(スウェーデン語: Mumintrollet、フィンランド語: Muumipeikko)は、トーベ・ヤンソンによる一連の著作に登場する妖精に似た生き物。 もともとは、英国の新聞イブニング・ニュース紙に掲載されたヤンソンの漫画の主人公だが、これとは独立したスウェーデン語により童話が書かれるようになった。『楽しいムーミン一家』『ムーミン谷の仲間たち』ほか、多くの作品に登場する。家族構成は、父・ムーミンパパと母・ムーミンママ。フィンランドのどこかにある「Muumin Dalen」(ムーミン谷)と呼ばれる場所で、ひっそりと暮らしている。見た目は、立ち上がったカバのようである(「楽しいムーミン一家」ではカバに間違えられて怒るエピソードがあった)。冬になると家にこもって冬眠する。先祖は大きなストーブの裏側に住んでいた。 「ムーミントロール」という名前は、北欧の伝説に現れる妖精トロールからとられている。実際には、「ムーミン」という名前は妖精の種族を表すようだが、童話での「ムーミントロール」は、主人公の名前として使われている。 小説では体の大きさは電話帳くらいのサイズとされるが、コミック版のムーミンでは人間と同じである。 ヤンソンが、ムーミントロールの原型らしきものを最初に描いたのは、政治風刺誌『ガルム』誌上であり、当時は画中の隅のほうにいる小さな目立たないキャラクターにすぎなかった。それ以外にも、ヤンソンは、ムーミンかどうかはわからないものの、トロールのシルエットを描いた作品を残している(「黒いムーミントロール」)。もともと北欧では、トロールは人間にとって気味のわるい生き物であるとされており、ヤンソンは叔父から「夜中に背後から息をふきかけてくるトロール」の話を聞かされたという記述がある。ムーミントロールのイメージは、初期のこのようなおどろおどろしいものから、徐々に現在のような形に変化していったと考えられる。
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ムーミントロールは、トーベ・ヤンソンによる一連の著作に登場する妖精に似た生き物。
'''ムーミントロール'''({{lang-sv|Mumintrollet}}、{{lang-fi|Muumipeikko}})は、[[トーベ・ヤンソン]]による一連の著作に登場する[[妖精]]に似た生き物。 == 概説 == もともとは、[[イギリス|英国]]の新聞イブニング・ニュース紙に掲載されたヤンソンの漫画の主人公だが、これとは独立したスウェーデン語により[[童話]]が書かれるようになった。『楽しいムーミン一家』『ムーミン谷の仲間たち』ほか、多くの作品に登場する。家族構成は、父・[[ムーミンパパ]]と母・[[ムーミンママ]]。[[フィンランド]]のどこかにある「Muumin Dalen」(ムーミン谷)と呼ばれる場所で、ひっそりと暮らしている。見た目は、立ち上がった[[カバ]]のようである(本人たちはそれを気にしており、「楽しいムーミン一家」ではカバに間違えられて怒るエピソードがあった)。<!-- 内容に関係がないこの前後の文章を「だが」で繋ぎたがる意図は何か?「見た目はカバのようだが、冬眠する。だから、カバではない」とでも言いたいのか?-->冬になると家にこもって冬眠する<!--(「楽しいムーミン一家」では[[クリスマス]]を唯一知るエピソードがある)←この文章はどういう意味?ムーミンたちは冬眠しているから冬の行事を一切知らないが、唯一クリスマスだけは知っているということ?それとも、他のトロールたちは知らないが、ムーミンだけはクリスマスを知っているということ?それとも他の意味?わかるように推敲してからコメントアウトを解除すること -->。先祖は大きなストーブの裏側に住んでいた。 「ムーミントロール」という名前は、北欧の伝説に現れる妖精[[トロール]]からとられている。実際には、「[[ムーミン]]」という名前は妖精の種族を表すようだが、童話での「ムーミントロール」は、主人公の名前として使われている。 小説では体の大きさは電話帳くらいのサイズとされるが、コミック版の[[ムーミン]]では人間と同じである。 == 歴史 == ヤンソンが、ムーミントロールの原型らしきものを最初に描いたのは、政治風刺誌『[[ガルム (雑誌)|ガルム]]』誌上であり、当時は画中の隅のほうにいる小さな目立たないキャラクターにすぎなかった。それ以外にも、ヤンソンは、ムーミンかどうかはわからないものの、トロールのシルエットを描いた作品を残している(「黒いムーミントロール」)。もともと北欧では、[[トロール]]は人間にとって気味のわるい生き物であるとされており、ヤンソンは叔父から「夜中に背後から息をふきかけてくるトロール」の話を聞かされたという記述がある<ref>{{cite book|和書|title=ムーミン谷への旅—トーベ・ヤンソンとムーミンの世界|isbn=978-4062068628|asin=4062068621|publisher=講談社}}</ref>。ムーミントロールのイメージは、初期のこのようなおどろおどろしいものから、徐々に現在のような形に変化していったと考えられる。 == 関連項目 == *[[トロール]] *[[妖精]] *[[神話]]([[北欧神話]]/[[ギリシャ神話]]) *[[北ヨーロッパ|北欧]] *[[国鉄EF55形電気機関車]] == 外部リンク == *{{Wayback|url=http://www31.ocn.ne.jp/~kmatsum/tonttu/muumi.html |title=ムーミンはトントではない |date=20040411151836}} *[http://www.tampere.fi/muumi/japanise/index.htm フィンランド・タンペレのムーミン谷博物館(日本語)] *[https://www.moomin.co.jp/characters/moomintroll ムーミントロール] ムーミン公式サイト == 出典 == <references/> {{ムーミン}} {{DEFAULTSORT:むうみんとろおる}} [[Category:ムーミン]] [[Category:フィクションの妖精]]
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ドン・ガバチョ
ドン・ガバチョは、NHK放映の人形劇『ひょっこりひょうたん島』(原作:井上ひさし、山元護久)の登場人物でひょうたん島の大統領である。 ドン・ガバチョは、デッパソッパヨーロッパのイギリカ国ドンドン市ふくら小路1番地出身の、ひょうたん島大統領である。もともと政治家で、ひょうたん島に取り残された子供たちが見ていたテレビに映っていたが、借金取りに詰め寄られてテレビ画面から抜けて逃げ込んで、ひょうたん島の一住民となった。海賊からの手紙を受け取る代表者を決めるために選挙を行い、大統領となる。「みなさーん」と言いながら演説を始めることが多い。また「ブフブハ」という咳払いや、「ハタハッハ」という変わった笑い方をする。 大変なお喋り好きで煙たがられることも多いが、語学にかけては正真正銘の大天才で、本人も57ヵ国語を話せると語っており、劇中に登場する全ての言語を理解していた。 NHK開局50年の際にはマスコットキャラクターにもなり、NHKプレマップでNHKの番組を紹介したりなどした。 とても楽天的な性格で日和見主義であり、何度行き詰っても「今日がだめならあしたにしましょ。あしたがだめならあさってにしましょ。......どこまで行っても明日がある」と歌う(「ドン・ガバチョの未来を信ずる歌」)あきらめない根性は、積極思考の塊のようである。 オリジナル版では藤村有弘が声優を務め、藤村が得意とする“インチキ外国語”を巧みに操った。1967年に東映動画(現:東映アニメーション)で『ひょっこりひょうたん島』がアニメ映画化された時も、藤村が務めた。 リメイク版製作の時点で藤村がすでに亡くなっていたため、名古屋章が2代目となる。2003年2月1日の『人間レコードの巻』まで務めた。なお、リメイク版製作前の1990年の日通のひょうたん島のキャラクターによるCMに登場した際には、放映当時のソノシートからサンプリングした藤村の声をあてた(「みなさーん」と「ブフブハ」の二言だけであるが)。 名古屋死去後のプレマップ版、「テレビまつりだ! ぐ〜チョコランタンとともだちいっぱいオンステージ」では栗田貫一が3代目となった。原作者の井上が栗田がバラエティで披露したモノマネを見て、後任に指名したという。以降は2013年2月11日に放送した『ざわざわ森のがんこちゃんスペシャルショー 「プリンプリンと大ぼうけん!」』、『ワンワンパッコロ!キャラともワールド』2020年11月29日放送分にガバチョが登場した際、栗田が声優として参加した。
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ドン・ガバチョは、NHK放映の人形劇『ひょっこりひょうたん島』の登場人物でひょうたん島の大統領である。
{{Pathnav|ひょっこりひょうたん島|frame=1}} {{複数の問題|ソートキー=番組NHK |出典の明記=2016年3月2日 (水) 10:54 (UTC) |独自研究=2016年3月2日 (水) 10:54 (UTC) }} '''ドン・ガバチョ'''は、[[日本放送協会|NHK]]放映の[[人形劇]]『[[ひょっこりひょうたん島]]』(原作:[[井上ひさし]]、[[山元護久]])の登場人物でひょうたん島の大統領である。 == 概要 == ドン・ガバチョ<ref group="注">[[スペイン語]]で[[ドン_(尊称)|ドン]]は男性に対する[[尊称]]であり、[[:en:Gabacho]](ガバチョ、バにアクセント)はフランス人に対する[[蔑称]]である</ref>は、デッパソッパヨーロッパのイギリカ国ドンドン市ふくら小路1番地出身の、ひょうたん島[[大統領]]である。もともと[[政治家]]で、ひょうたん島に取り残された子供たちが見ていた[[テレビ]]に映っていたが、借金取りに詰め寄られてテレビ画面から抜けて逃げ込んで、ひょうたん島の一住民となった。海賊からの手紙を受け取る代表者を決めるために選挙を行い、大統領となる。「みなさーん」と言いながら演説を始めることが多い。また「ブフブハ」という咳払いや、「ハタハッハ」という変わった笑い方をする<ref group="注">いずれも、もともとは台本の誤植を[[藤村有弘]]がそのまま読んだのが使用され、定着したもの。なお「アルカジル王国編」(リメイク版では「アラビアンナイト編」)でガバチョがお化けになった時は「ハタ'''ヒッヒ'''」に変わった。</ref>。 大変なお喋り好きで煙たがられることも多いが、語学にかけては正真正銘の大天才で、本人も57ヵ国語を話せると語っており、劇中に登場する全ての言語を理解していた。 NHK開局50年の際にはマスコットキャラクターにもなり、[[NHKプレマップ]]でNHKの番組を紹介したりなどした。 とても楽天的な性格で日和見主義であり、何度行き詰っても「今日がだめならあしたにしましょ。あしたがだめならあさってにしましょ。……どこまで行っても明日がある」と歌う(「ドン・ガバチョの未来を信ずる歌」)あきらめない根性は、積極思考の塊のようである。 == 声優 == オリジナル版では[[藤村有弘]]が声優を務め、藤村が得意とする“インチキ外国語”を巧みに操った。[[1967年]]に[[東映アニメーション|東映動画(現:東映アニメーション)]]で『ひょっこりひょうたん島』が[[アニメーション映画|アニメ映画]]化された時も、藤村が務めた。 リメイク版製作の時点で藤村がすでに亡くなっていたため、[[名古屋章]]が2代目となる。[[2003年]][[2月1日]]の『人間レコードの巻』まで務めた。なお、リメイク版製作前の1990年の日通のひょうたん島のキャラクターによるCMに登場した際には、放映当時の[[ソノシート]]から[[サンプリング]]した藤村の声をあてた(「みなさーん」と「ブフブハ」の二言だけであるが)。 名古屋死去後のプレマップ版、「[[テレビまつりだ! ぐ〜チョコランタンとともだちいっぱいオンステージ]]」では[[栗田貫一]]が3代目となった。原作者の井上が栗田がバラエティで披露したモノマネを見て、後任に指名したという<ref>2003年7月23日「[[デイリースポーツ]]」より</ref>。以降は[[2013年]]2月11日に放送した『[[ざわざわ森のがんこちゃん]]スペシャルショー 「プリンプリンと大ぼうけん!」』、『[[ワンワンパッコロ!キャラともワールド]]』[[2020年]]11月29日放送分にガバチョが登場した際、栗田が声優として参加した<ref>{{Cite web|和書|date=2013-02-05 |url=http://www.nhk.or.jp/school-blog/300/144878.html |title=ざわざわ森のがんこちゃんスペシャルショー「プリンプリンと大ぼうけん!」 (2/11) |work=NHK for School ブログ |publisher=日本放送協会 |accessdate=2013-03-26}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://cgi2.nhk.or.jp/chronicle/pg/page010-01-01.cgi?recId=0001000000000000%4000000000000000000000007E-7E5F00000000000000000000 |title=番組表検索結果詳細 |work=NHKクロニクル放送番組表検索 |publisher=日本放送協会 |accessdate=2013-03-26|deadlinkdate=2016-03-02}}</ref><ref>{{Citation|title=▽ひょっこりひょうたん島 - ワンワンパッコロ!キャラともワールド|last=日本放送協会|url=https://www.nhk.jp/p/wanpaco/ts/7N338X34NZ/episode/te/XR54456XN3/|language=ja|accessdate=2022-01-29}}</ref>。 ==『ひょうたん島』以外への出演== *1970年放送開始の「[[ネコジャラ市の11人]]」には「バンチョ・ホーホケ卿」という「[[百科事典]]から飛び出してきた藤村有弘演じる政治家」というガバチョをモデルにしたキャラが登場する。声もガバチョと同じ藤村が担当し、ガバチョの「みなさーん」を彼の口癖に流用、またガバチョの「ハタハッハ」を、「'''アラ'''ハッハ'''ッハ'''」にアレンジして流用した。 *1979年放送の『[[プリンプリン物語]]』第25回に出演した。ただ一人残った島民としてプリンプリンらにエールを送る。なおこの放送回のVTRはNHKに保存されておらず、2003年に『プリンプリン』が再放送された時は放映できなかった。2016年に同番組で人形操作を担当していた伊東万里子からビデオテープが提供され、37年ぶりに陽の目を見る事となった。 *[[反戦]][[市民活動|市民]]集会「World Peace Now」([[イラク戦争]]開戦直後の[[2003年]][[3月21日]](日本時間)の回)に、博士の作った、どんな悪人も善人にできる新薬「ヨクナール」を持って馳せ参じる([[人形劇団ひとみ座]]による協力)。 *NHKがテレビ放送開始50年を迎えた2003年1月、当時の[[郵政事業庁]]から発行された[[特殊切手]]「テレビ50年記念」にNHKと同じく、開局50周年を迎えた[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の[[局名告知]]「[[鳩の休日]]」と共に本キャラクターが切手の題材として採用された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.post.japanpost.jp/kitte_hagaki/stamp/tokusyu/2003/0131/|title=平成15年特殊切手「テレビ50年記念」|accessdate=2020-10-04|publisher=|website=郵便事業庁}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} {{NHK人形劇}} {{DEFAULTSORT:とんかはちよ}} [[Category:テレビの登場人物]] [[Category:架空の政治家]]
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ドッジボール
ドッジボール(dodgeball)は、子供の顔くらいの大きさのボール(多くはバレーボールなど)を使い、相手の頭部以外の身体にボールを当てるスポーツまたはゲーム。多くは2つのチームに分かれて大人数で行う。漢字では避球と表記する。主に小学校などで多く行われている。日本ドッジボール協会(JDBA)が設立されるまでは、スポーツというよりも、遊びの一つとして存在していた。そのため、様々なルールが各地の子供たち独特の感覚で決められ、近所の小学校であっても微妙な違いがあるなどした。 ドッジボールの名称は英語のdodge(素早く身をかわす)からきている。呼び方は地域などにより異なることがあり、「ドッチボール」や「ドッヂボール」などと書かれることもある。 日本ドッジボール協会によれば、発祥はイギリスという説もあり、原型は1900 - 40年頃であるとされている。1909年(明治42年)、「可児徳と坪井玄道によって円形デッドボールという名称で日本に初めて紹介された」と同協会はしているが、実際には可児と坪井がドッジボールを伝えた同年刊行の『小學校運動遊戯』には「ドッヂボール」と書かれている。同書に掲載のルールは4種類あり、次の通りである。(「ルール1」等の名称は説明のために便宜上付けたもので、『小學校運動遊戯』中の表現ではない。) 可児徳は1913年(大正2年)に矢島鐘二と共著でデッドボールのルールを紹介している。(この頃にはデッドボールという名称が一般的であった。) 1917年(大正6年)に永井道明が方形のコートを伝えた。永井はドイツ・ベルリンの小学校でたまたま子供たちが楽しそうに方形のコートで行っているのを見かけ、これを伝えたのであった。ベルリンの小学校では室内競技として行われていたが、永井は日本の国情には屋外の方が適していると考え、屋外競技に変更した。また事あるごとに講習会や実地授業などの場で指導し、普及に努めた。さらに2度目の欧米外遊の際に更なる研究を行い、日本に帰国後、自身が会長を務める東京府体育研究会で1年4か月かけて議論を重ね、1924年(大正13年)に「デッドボール競技規定」を制定、防御側の選手がボールを受け取ることができるルールに改良した。こうしてドッジボールは「日本独自の球技」となり、この意味ではドッジボールの考案者は永井道明ということになる。東京府体育研究会の制定したルールは次の通り。 1926年(大正15年)5月、「学校体操教授要目」の改正に際し、大谷武一はデッドボールと呼ばれていたこの競技を「ドッヂボール」に改名した。また、可児・坪井らが伝えたものを「円形ドッヂボール」、永井が伝えたものを「方形ドッヂボール」と呼んだ。なぜ大谷がドッヂボールに改名したのかは不明であるが、デッド(dead=死)という語から来る忌避感、現代風に言えば言葉狩りであるという説がある。理由はともかく、後世にはデッドボールではなくドッジボールの名が残ることとなる。 1937年(昭和12年)発行の佐々木等著『学校球技』では、「避球(ドッヂボール)」として掲載されている。この中で避球の教育的効果は「協同の精神と協同の動作とを練磨し、身体の敏捷さを増し、相手の動きに対する判断を正確にすること」と述べられている。同書の中で佐々木は「円形避球」を小学3・4年生向き、方形避球を小学5・6年生向きとし、「首から上に当ててはいけない」、「初心者のうちは人に直接当てず、地面にバウンドさせて人に当ててもよい」、「熟練したら内野の人がボールを受け止めてもよい」というルールを紹介している。 ボールを強く当てすぎて怪我をしないように、顔面や肩から上などに当てることを禁止し、当たった場合はノーカウントとなる場合もある(いわゆる「顔面セーフ」ルール)。 ボールを2個使用する“ダブルドッジ”というものも存在する。ダブルドッジでは、相手から投げられたボールを、自分のボールに当ててはね返した場合、セーフとするルールも存在する。 ボールの代わりに“ドッヂビー”とよばれるやわらかいフライングディスクを用いることがある。これは、顔面に当たっても痛くないことや、強く投げても速度が遅いために、老若男女が混合したチームでもハンデなしで試合を行うことができる。 コートを二分せずに長方形のコートをそのまま内野、その外側を外野とする「中当て」というドッジボールの亜種も存在する。 基本的にファールを犯した場合、相手ボールになる。 また、下記『炎の闘球児 ドッジ弾平』の内容を元にした「スーパードッジボール」ルールもある。主な相違点は、 といった、攻撃的で短期決戦のルールに改められている。「闘球」の漢字を当てることで、攻撃重視を強調している(なお闘球とは本来ラグビーの訳語である)。 フェミニストの勝部元気がTwitterで「ドッジボールを学校でやらせるのを早く禁止するべき。他人にボールをぶつける野蛮なスポーツであり、イジメにも繋がりやすいことを考えれば、義務教育で全員参加させるべきではない」「暴力性が強く、運動が苦手な人は恐怖心に苛まされるし、イジメに繋がることも多いし、実際に加害精神で相手にボールをぶつける人も多く、子供の心に大きな傷を与えるもの」と投稿し、インターネット上で賛否両論を呼んだ。実際に、2019年(平成31年/令和元年)現在の日本では「いじめにつながる」との理由からドッジボールを禁止する小学校が存在し、ボールを転がして当てる「コロコロドッジボール」に切り替えた学校もある。また同年には、カナダのブリティッシュコロンビア大学の教授が「非人間的で、人間に害を及ぼす」として教育の場からドッジボールを廃止すべきとする論文を公表した。 なお、ドッジボールを日本に伝えた1人である可児徳が著者に入っている『理論実際 競技と遊戯』では、ボールを強く投げることを禁止し、なるべく軽く投げるよう注意する、と注意点を挙げている。
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ドッジボール(dodgeball)は、子供の顔くらいの大きさのボール(多くはバレーボールなど)を使い、相手の頭部以外の身体にボールを当てるスポーツまたはゲーム。多くは2つのチームに分かれて大人数で行う。漢字では避球と表記する。主に小学校などで多く行われている。日本ドッジボール協会(JDBA)が設立されるまでは、スポーツというよりも、遊びの一つとして存在していた。そのため、様々なルールが各地の子供たち独特の感覚で決められ、近所の小学校であっても微妙な違いがあるなどした。 ドッジボールの名称は英語のdodge(素早く身をかわす)からきている。呼び方は地域などにより異なることがあり、「ドッチボール」や「ドッヂボール」などと書かれることもある。
{{未検証|date=2007年3月}} {{スポーツ | 名前 = ドッジボール | 画像 = [[ファイル:Dodgeball.jpg|250px]] | 見出し = ジャンプしてボールをよける選手 | 競技統括団体 = [[世界ドッジボール連盟]]・[[ワールドドッジボール]] | 通称 = ドッジ、避球 | 起源 = | 競技登録者 = | クラブ = | 身体接触 = 無 | 選手 = 12から20人(コート上12人、外野+内野) | 男女 = 有 | カテゴリ = 屋内競技 | ボール = ドッジボール | オリンピック = }} '''ドッジボール'''(dodgeball)は、子供の顔くらいの大きさの[[ボール]](多くは[[バレーボール]]など)を使い、相手の頭部以外の身体にボールを当てる[[スポーツ]]またはゲーム。多くは2つのチームに分かれて大人数で行う。漢字では'''避球'''と表記する。主に[[小学校]]などで多く行われている。[[日本ドッジボール協会]](JDBA)が設立されるまでは、スポーツというよりも、遊びの一つとして存在していた。そのため、様々なルールが各地の子供たち独特の感覚で決められ、近所の小学校であっても微妙な違いがあるなどした。 ドッジボールの名称は英語のdodge(素早く身をかわす)からきている。呼び方は地域などにより異なることがあり、「ドッチボール」や「ドッヂボール」などと書かれることもある。 == 歴史 == {{see also|[https://www.dodgeball.or.jp/%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%B8%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/ 日本ドッジボール協会ホームページ:ドッジボールの歴史]}} 日本ドッジボール協会によれば、発祥は[[イギリス]]という説もあり、原型は1900 - 40年頃であるとされている。[[1909年]]([[明治]]42年)、「[[可児徳]]と[[坪井玄道]]によって'''円形デッドボール'''という名称で日本に初めて紹介された」と同協会はしているが、実際には可児と坪井がドッジボールを伝えた同年刊行の『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/860129 小學校運動遊戯]』には「'''ドッヂボール'''」と書かれている{{sfn|小久保|2016|p=29}}。同書に掲載のルールは4種類あり、次の通りである{{sfn|坪井・可兒|1909|pp=60-64}}。(「ルール1」等の名称は説明のために便宜上付けたもので、『小學校運動遊戯』中の表現ではない。) * 共通事項:競技人数は20 - 60人、使用する[[ボール]]は大ゴム球([[ボール (バスケットボール)|バスケットボール]]または[[サッカーボール|フットボール]])、対象は小学5年生以上{{sfn|坪井・可兒|1909|p=60}} * ルール1{{sfn|坪井・可兒|1909|pp=60-62}} # 参加者を甲乙2組に分け、甲組は円形に整列し、乙組は円内の任意の位置に付く。 # 甲組は円内の敵にボールを投げ、当てようとし、乙組は当てられないように走ったりボールを避けたりする。 # 甲組は交互にボールを投げ、円外にボールが出た場合は拾いに行って味方にパスする。 # 乙組はボールに触れてはならない。触れた場合はアウトになり、円外に出て甲組に加わる。 # 甲組は円内にボールを拾いに行くことはできるが、円内から投げたボールが敵に当たってもアウトにはならない。 # 乙組の全員が当てられるまで続け、最後に当てられた人を乙組の勝者とする。 # 攻守交代し、甲組の全員が当てられるまで続け、甲組の勝者を決定する。 # 甲乙の両勝者のみを円内に入れ、他の参加者全員でボールを投げて当てようとし、当てられなかった方を総合優勝とする。 * ルール2{{sfn|坪井・可兒|1909|pp=62-63}} # 基本的にはルール1に準じるが、当てられた人は甲組に加わらず、乙組全員を当てるまでの時間を計測する。 # 攻守交代し、甲組全員を当てるまでの時間を計測する。 # 全員を当てるのにかかった時間の短い方の組を勝利とする。 * ルール3{{sfn|坪井・可兒|1909|p=63}} # ルール2で3 - 5回戦行い、合計時間の短い方の組を勝利とする。 * ルール4{{sfn|坪井・可兒|1909|pp=63-64}} # 2つの円を用意し、甲組・乙組それぞれが円形に整列する。 # 甲組・乙組それぞれ5 - 7人を敵の組の円内に送る。 # 甲組・乙組が同時にボールを投げ始め、先に円内の敵を全員当てた方の組を勝利とする。 可児徳は[[1913年]](大正2年)に矢島鐘二と共著でデッドボールのルールを紹介している{{sfn|可兒・矢島|1913|pp=389-390}}。(この頃にはデッドボールという名称が一般的であった。) # 参加者を甲乙2組に分け、甲組は円形に整列し足元に自身が入るだけの小円を描き、乙組は円内の任意の位置に付く。 # 甲組は円内の敵にボールを投げ、当てようとし、乙組は当てられないように逃げ回る。甲組は小円から出てはいけない。 # 当てられた乙組の者は円外に出て整列し、全員を当てられるまでの時間を計測する。 # 攻守交代し、甲組全員を当てるまでの時間を計測する。 # 全員を当てるのにかかった時間の短い方の組を勝利とする。 [[1917年]](大正6年)に[[永井道明]]が方形のコートを伝えた{{sfn|小久保|2016|p=29}}。永井は[[ドイツ]]・[[ベルリン]]の[[小学校]]でたまたま子供たちが楽しそうに方形のコートで行っているのを見かけ、これを伝えたのであった{{sfn|小久保|2016|p=32}}。ベルリンの小学校では室内競技として行われていたが、永井は日本の国情には屋外の方が適していると考え、屋外競技に変更した{{sfn|小久保|2016|pp=32-33}}。また事あるごとに講習会や実地授業などの場で指導し、普及に努めた{{sfn|小久保|2016|p=32}}。さらに2度目の欧米外遊の際に更なる研究を行い、日本に帰国後、自身が会長を務める東京府体育研究会で1年4か月かけて議論を重ね、[[1924年]](大正13年)に「デッドボール競技規定」を制定、防御側の選手がボールを受け取ることができるルールに改良した{{sfn|小久保|2016|p=29, 32}}。こうしてドッジボールは「日本独自の球技」となり、この意味ではドッジボールの考案者は永井道明ということになる{{sfn|小久保|2016|p=38}}。東京府体育研究会の制定したルールは次の通り{{sfn|東京府體育研究會 編|1925|pp=16-24}}。 # 1チームは20人とし、15人を内野に、5人を外野に配置する。 # 審判員がコート中央のセンターサークルでボールを真上に投げ上げ、競技を開始する。 # ボールを取ったものは相手チームの選手に当てるか、味方にパスする。 # ボールを取ったものは5秒以上ボールを保持してはいけない。また3歩以上歩いたり2回以上ジャンプしてはならない。 # ボールに当てられた者はデッド(アウト)となり、外野に出る。ただし、1回の投球で2人以上当たった場合は最初に当たった1人のみ外野に出る。 # 外野の人が相手チームの内野を当てた場合は内野に復活する。 # どちらかのチームが全滅するか、競技時間が20分経過した場合は終了となる。 # ここまでが1ハーフで、コートを交代してもう1度競技を行う。 # 2度の競技で内野に残っていた人数の合計が多い方のチームを勝利とする。 [[1926年]](大正15年)5月、「学校体操教授要目」の改正に際し、[[大谷武一]]はデッドボールと呼ばれていたこの競技を「ドッヂボール」に改名した{{sfn|小久保|2016|p=36}}。また、可児・坪井らが伝えたものを「円形ドッヂボール」、永井が伝えたものを「方形ドッヂボール」と呼んだ{{sfn|小久保|2016|p=36}}。なぜ大谷がドッヂボールに改名したのかは不明であるが、デッド(dead=死)という語から来る忌避感、現代風に言えば[[言葉狩り]]であるという説がある{{sfn|小久保|2016|pp=36-37}}。理由はともかく、後世にはデッドボールではなくドッジボールの名が残ることとなる{{sfn|小久保|2016|p=39}}。 1937年(昭和12年)発行の[[佐々木等]]著『学校球技』では、「避球(ドッヂボール)」として掲載されている{{sfn|佐々木|1943|p=130}}。この中で避球の教育的効果は「協同の精神と協同の動作とを練磨し、身体の敏捷さを増し、相手の動きに対する判断を正確にすること」と述べられている{{sfn|佐々木|1943|p=130}}。同書の中で佐々木は「円形避球」を小学3・4年生向き、方形避球を小学5・6年生向きとし、「首から上に当ててはいけない」、「初心者のうちは人に直接当てず、地面にバウンドさせて人に当ててもよい」、「熟練したら内野の人がボールを受け止めてもよい」というルールを紹介している{{sfn|佐々木|1943|pp=130-134}}。 == おおまかなルール== * [[長方形]]のコートを二分し、それぞれのチームの陣地とする。原則的に自分の陣地から出るのは禁止(後述するスーパードッジの場合はアウトにはならず、ボール支配権がかわる)。 * 自分の陣地の中(「'''内野'''」とも言う)と、相手のコートの周囲(「'''場外'''」「'''外野'''」とも言う)に人を配置する(外野を配置せずに開始する場合もある)。 * 攻撃(ボールの支配権を持っているチーム) : 敵陣の中に向かってボールを投げ、中にいる人に当てる。 * 守備(ボールの支配権を持っていないチーム) : 陣地内では、相手の投げたボールに当たらないように逃げる。もしくは受け止める。ボールを当てられた人はアウトとなり、場外へ出る。 :当たってもバウンドする前に当人が捕球した場合はセーフ。バウンドする前に他人が捕球した場合はセーフ(アシストキャッチ)であったり、受け取れなかった人間のみアウトにするなどさまざまなルールがある。又は、ノーバウンドで2人以上に当たった場合、最初に当たった人のみがアウトになるルールや、当たった人全員がアウトになる(ダブルアウト)ルールがある。また、当たった人からバウンドし相手側のチームの人に当たった場合、アウトになるのは相手の人のみ(最後に当たった側のチーム)ルールもある。ただし、一度地面でバウンドしたボールに当たった場合はアウトにならない。アウトになった状態の人が場外に出る前にボールに触れることは原則禁止であるが、故意に触った場合、「死人ボール」として相手ボールになるルールも存在する。 * 攻守の入れ替わり : ボールを受け止める、もしくはワン・バウンドボールを拾うと、ボールの支配権が入れ替わるため、攻守が入れ替わる。 * 復活 : 場外の人が敵にボールを当てた場合は、当てた人自身が自分の陣地内に戻ることができる。また、1回のゲームにつき1度だけ誰か一人まで復活できるというルールもある。ゲーム開始から場外にいる場合(元外)は、自分のチームにボールを当てられた人が出た時に、1度だけ交代で陣地の中に入れるというルールもある。ただし、このルールが公式戦で用いられる事は稀である。また後述するスーパードッジのように、一度場外に出ると二度と自分の陣地内に戻れないルールも存在する。 * 相手の陣地に人間がいなくなったら、パーフェクトゲームとなり、勝ちとなる。 * 制限時間が存在する場合は内野(または外野)の人間の数の多寡で勝負を決する。特に外野の人数が多い方が負けとなる。 ボールを強く当てすぎて怪我をしないように、[[顔]]面や[[肩]]から上などに当てることを禁止し、当たった場合はノーカウントとなる場合もある(いわゆる「顔面セーフ」ルール)。 ボールを2個使用する“ダブルドッジ”というものも存在する。ダブルドッジでは、相手から投げられたボールを、自分のボールに当ててはね返した場合、セーフとするルールも存在する。 ボールの代わりに“[[ドッヂビー]]”とよばれるやわらかいフライングディスクを用いることがある。これは、顔面に当たっても痛くないことや、強く投げても速度が遅いために、老若男女が混合したチームでもハンデなしで試合を行うことができる。 コートを二分せずに長方形のコートをそのまま内野、その外側を外野とする「'''中当て'''」というドッジボールの亜種も存在する。 === 禁止事項 === ==== ファール ==== 基本的にファールを犯した場合、相手ボールになる。 * ダブルパス…内野同士または外野同士でボールを渡してはいけない。 * ジャンパーアタック…ジャンパーへ第1投の攻撃をしてはいけない(ただし、ジャンパーが故意に第1投に触れた場合を除く)。 * ジャンパーキャッチ…ジャンパーが第1投を捕ってはいけない(サドンデス時に内野が1-1の時はセーフ)。 * オーバーライン…投球時、捕球時にラインを踏んではいけない。 * キープ・フォー・ファイブ(オーバータイム)…ボールを取った場合は5秒以内に投げなければいけない。 * ホールディング…相手コートにあるボールをかき寄せてはいけない。 * タッチ・ザ・ボディ…相手選手に故意に触れてはいけない。 * ヘッドアタック…顔面や頭部を故意に攻撃してはいけない(小学校などで授業・休み時間に行われる場合、「首から上にボールが当たった場合はセーフ」というルールになることが多い。しかし相手ボールになるというルールが無いことが多く「首より下に当てなければ何回でもボールを当てられる」といじめに使われることがある)。 * ファイブパス…内野・外野のパス回しは4回まで。5回以上パス回ししてはいけない。 * フライングスロー…審判のホイッスルより前に投球してはいけない。 * イリーガル・キャッチ(スロー)…バレーのトスやレシーブのように、ボールを一回バウンドさせて捕球あるいはアタックしてはならない(パスカット時に行った場合はアウトプレイとして外野へ行く)。 * アウトプレイ…アウトになり、内野から外野へ移動する際、相手の内野コートを横切って移動してはならない。 ==== その他 ==== * 外野がアウトを取った後、そのボールに触った場合、内野へ戻れない。 * 内野・外野への移動はコートの外側を通らなければならない。 * アシストキャッチ…味方が相手プレイヤーからの投球をはじいた時、ボールが地面に付く前に味方もしくは自分が捕ればセーフ。 === JDBAのドッジボールルール === * 外野から当てれば戻れるが、例外もある。(内野復帰権の行使等) * ゲーム開始から外野にいた者も、勝手に戻って良い。 == ドッジボールから派生した競技 == {{main|[[ドッジボールから派生したスポーツの一覧]]}} === スーパードッジボール === * 長方形のコートを二分し、それぞれのチームの陣地とする。原則的に自分の陣地から出るのは禁止。なお、スーパードッジの場合は自陣から出てもアウトにはならず、ボール支配権が変わる。 * 自分の陣地の中(「'''内野'''」とも言う)と、相手のコートの周囲(「'''場外'''」「'''外野'''」とも言う)に人を配置する。 * 攻撃 - 敵陣の中に向かってボールを投げ、中にいる人に当てる。 * 守備 - 陣地内では、相手の投げたボールに当たらないように逃げる。もしくは受け止める。ボールに当てられた人はアウトとなり、場外へ出る(当たってもバウンドする前にほかの人が受け取る。又は、自分がとった場合はセーフ)。ただし一度地面に着いた「ワン・バウンド」ボールに当たった場合は、アウトにならないまた、スーパードッジの場合複数人が当てられた場合は、最初に当てられた人のみアウトになる。子育連の親善競技などでは複数人アウトになる * ボールを受け止める、もしくはワン・バウンドボールを拾うと、攻守が入れ替わる。 * 復活 - 場外の人が、敵にボールを当てた場合は、自分の陣地内に戻ることができる。また、はじめから場外にいる人(元外)は、自分のチームにボールを当てられた人が出た時に、1度だけ交代で陣地の中に入れるというルールもある。但し、このルールが公式戦で用いられる事は稀である。 * 相手の陣地に人間がいなくなったら、パーフェクトゲームとなり、勝ち。制限時間が存在する場合は内野の人間の数の多寡で勝負を決する。 また、[[ドッジボール#ドッジボールを扱った作品|下記]]『炎の闘球児 ドッジ弾平』の内容を元にした「スーパードッジボール」ルールもある。主な相違点は、 * 用語の違い‐通常のドッジボールにおけるアウトを、スーパードッジボールの場合は「'''ヒット'''」と呼ぶ。 * 人数 - 内野4人、元外3人の7人制。 * 復活ルールが存在せず、ヒットされると二度と陣地へ戻れない。ただし元外の人のみは、ヒットされた人と交代で陣地に入ることができる。そのため、ヒットされた人とされていない人を判別するハチマキの着用が義務付けられており、ヒットされた人はハチマキを外さなければならない。 * ボールを持ったチームは、ボールを得てから(パス回しの時間も含め)30秒以内に相手コートの内野に投げなければならない(『ドッジ弾平』作中では「'''ショット'''」と呼ぶ)。 * 一度に複数人ヒットが有効である。 * 顔面に当ててもヒットになる。 といった、攻撃的で短期決戦のルールに改められている。「'''闘球'''」の漢字を当てることで、攻撃重視を強調している(なお闘球とは本来[[ラグビーフットボール|ラグビー]]の訳語である)。 === てんか・かたき(通称) === {{See also|かたき}} * 基本的にコートは決まっておらず、競技者のボールが届く範囲で主に壁、柵、道路などによって区切られる。 * 人数はあまり多くなく10人くらいがちょうど良い。 * 全員が1対複数で、チームを作ることはない。 * ボールを持って歩けるのは3歩以内。 * 相手が投げた球に当たるとアウトになる。しかし、相手が3歩より多くあるいて投げた球、もしくはワンバウンドした球は当たってもセーフになる。 * アウトになったプレーヤーはプレーができなくなり、プレーの邪魔にならないようにする(範囲が決まっている場合は外に出る等)。 * アウトになったプレーヤーは、自身を当てた相手プレーヤーがアウトになるとプレーを再開できる。この行為が[[仇討ち]]に似ていることから、「かたき」の名称もある。 : 例:「プレイヤーA」が「プレイヤーB」に当てられてアウトになると、「プレイヤーA」はゲームから外れ、待機する。その後、「プレイヤーB」が他のプレイヤーに当てられてアウトになると、「プレイヤーA」は復活する。 * プレーヤーが当たったかどうかは第三者が判定をする。 * 全員が一人にあてられたらその時点で終了。その後続けるかどうかは時間と天候と気分による。 ; ゲームの進め方 # ボールを蹴る、上に投げるなどして最初にとった人から始める。 # とった場所(範囲がある場合はそこに一番近い端)からボールを投げてゲームが始まる。 # 上記のルールに従ってゲームを進行する。 :所によって、5回当てられるとプレイができないなどのルールがある。 ; 呼称 : 通称の「てんか」は、「[[がんばこ]]」とも呼ばれるボールを使った別種の遊戯の別称「てんかおとし」と類似し重なっている。<!--混同して慣用されている可能性がある。-->いずれも広く一律に定まった呼称はない。 === 王様ドッジ === * 基本的なルールはドッジボールと同じである。 * 王様担当の人は鉢巻などの目立つものを装備する。 ; ゲームの進め方 # 1チームの人数は最低6人ほど。 # 開始は公式ルールと同じである。 # 普通のドッジボールと同じ要領で進めて、王様が当てられたチームが負けとなる。 # 開始早々王様を狙うのは禁止、した場合はその者が退場(セルフルール) # 同じ人を連続で狙うのは禁止、した場合は行った者全員が退場(セルフルール) # 制限時間制の場合は、時間が過ぎるまで王様が逃げ切った場合は、勝ちとなる(たとえ王様一人でも) # 双方の王様が残っている場合は、外野の人数が少ない方が勝ちとなる(公式ルール) === 戦争ドッジ === * 外野が存在しないなど以外は、ドッジボールとルールは同じ。 ; ゲームの進め方 # 人数は通常のドッジボールと変わらない。 # 相手チームのボールが当たった際は、相手チームに入る(外野には行かない)。 # 内野から出た場合、ボールに近いチームの誰かが取りに行く。 # 相手チームを全滅させた場合、勝利となる。 # タイムオーバーとなった場合は、残った人数の多いチームが勝利となる。 == 問題提起 == [[フェミニスト]]の[[勝部元気]]が[[Twitter]]で「ドッジボールを学校でやらせるのを早く禁止するべき。他人にボールをぶつける野蛮なスポーツであり、イジメにも繋がりやすいことを考えれば、義務教育で全員参加させるべきではない」「暴力性が強く、運動が苦手な人は恐怖心に苛まされるし、イジメに繋がることも多いし、実際に加害精神で相手にボールをぶつける人も多く、子供の心に大きな傷を与えるもの」と投稿し、インターネット上で賛否両論を呼んだ<ref>{{Cite web|和書|url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1506/04/news116.html|title=学校でドッジボールは禁止すべき?コラムニストの提言に賛否|publisher=[[ねとらぼ]]|accessdate=2019-11-25|date=2015-06-04|author=林健太}}</ref>。実際に、[[2019年]](平成31年/令和元年)現在の日本では「いじめにつながる」との理由からドッジボールを禁止する[[小学校]]が存在し、ボールを転がして当てる「コロコロドッジボール」に切り替えた学校もある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.news-postseven.com/archives/20190403_1341591.html|title=小学校の遠足で「おやつ離れ」 なぜそうなったのか?|date=2019-04-03|work=[[週刊ポスト]]2019年4月12日号|publisher=[[NEWSポストセブン]]|accessdate=2019-06-19}}</ref>。また同年には、[[カナダ]]の[[ブリティッシュコロンビア大学]]の[[教授]]が「非人間的で、人間に害を及ぼす」として教育の場からドッジボールを廃止すべきとする[[論文]]を公表した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.narinari.com/Nd/20190654915.html|title=“ドッジボール廃止論”が話題「非人間的、人間に害」|publisher=[[ナリナリドットコム]]|accessdate=2019-11-25|date=2019-06-10|author=}}</ref>。 なお、ドッジボールを日本に伝えた1人である可児徳が著者に入っている『理論実際 競技と遊戯』では、ボールを強く投げることを禁止し、なるべく軽く投げるよう注意する、と注意点を挙げている{{sfn|可兒・石橋・寺岡|1919|p=381}}。 == ドッジボールを扱った作品 == === 漫画 === * [[炎の闘球児 ドッジ弾平]]([[こしたてつひろ]]) ** [[炎の闘球女 ドッジ弾子]](こしたてつひろ) * [[平成学園DC 爆風ドッジ]]([[森浩美]]・[[村上としや]]) * [[がんばれ!ドッジファイターズ]](村上としや・[[斉藤むねお]]) * [[HUNTER×HUNTER]]([[冨樫義博]]) * [[はずんでキャッチ]]([[富所和子]]) * [[団地ともお]]([[小田扉]]) 19巻 第3話 * [[ドドドドドッジ!]](勝見直人) === 映画 === * [[ドッジボール (映画)|ドッジボール]] - [[2004年]] [[アメリカ合衆国の映画|アメリカ映画]] * [[ドッジGO!GO!]] - [[2002年]] 日韓合作 === ゲーム === * [[熱血高校ドッジボール部]] - [[テクノスジャパン]]の[[アーケードゲーム]]。[[くにおくんシリーズ]]の一つで、[[ファミリーコンピュータ]]など多数の機種に移植・リメイクされている。 * ドッジボーイ([[トンキンハウス]])([[ゲームボーイ]]、1991年12月6日発売) * 炎の闘球児ドッジ弾平 ** ファミリーコンピュータ版([[サン電子|サンソフト]]) 1992年3月28日発売 ** [[スーパーファミコン]]版(サンソフト) 1992年7月31日発売 ** ゲームボーイ版([[ハドソン]]) 1992年4月24日発売 ** [[メガドライブ]]版(セガ) 1992年7月10日発売 ** [[ゲームギア]]版(セガ) 1992年8月7日発売 ** [[PCエンジン]][[HuCARD]]版(ハドソン) 1992年9月25日発売 * 炎の闘球児ドッジ弾平2(サンソフト)(ファミリーコンピュータ、1993年3月26日発売) * [[バトルドッジボール 闘球大激突!]]([[バンプレスト]])(スーパーファミコン、1991年7月20日発売) * バトルドッジボール(バンプレスト)(ゲームボーイ、1992年10月16日発売) * [[バトルドッジボールII]](バンプレスト)(スーパーファミコン、1993年7月23日発売) * サイバードッジ(トンキンハウス)(PCエンジン、1992年7月31日発売) * GO!GO!ドッジリーグ([[パック・イン・ビデオ]])(スーパーファミコン、1993年9月24日発売) * ドッチDEボール!(ユーメディア)([[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]、1998年5月14日発売) * 爆熱ドッジボールファイターズ([[アトラス (ゲーム会社)|アトラス]])([[ゲームボーイアドバンス]]、2001年3月21日発売) * [[SIMPLEシリーズ|SIMPLE1500シリーズ]] Vol.76 THE ドッヂボール([[ディースリー・パブリッシャー]])(PlayStation、2001年10月25日発売) * SIMPLEキャラクター2000シリーズ [[魁!!男塾]] THE 怒馳暴流(ドッチボール)([[バンダイ]])(PlayStation、2002年8月29日発売) * 虹色ドッジボール 乙女たちの青春(アトラス)(PlayStation、2002年12月12日発売) * SIMPLE 2000シリーズVol.46 THE ドッヂボール(ディースリー・パブリッシャー)([[PlayStation 2]]、2004年4月22日発売) * がんばれ!ドッジファイターズ(バンダイ)(ゲームボーイアドバンス、2005年1月27日発売) * [[Robot Roller-Derby Disco Dodgeball]]([[コンピュータゲーム]]、[[2015年]][[2月19日]]リリース) == 脚注 == {{Reflist|3}} == 参考文献 == * {{cite journal|和書|author=可兒德・石橋藏五郎・寺岡英吉|title=理論実際 競技と遊戯|publisher=中文館書店|date=1919-03-10|page=552|ref={{sfnref|可兒・石橋・寺岡|1919}}}}{{全国書誌番号|43009694}} * {{cite journal|和書|author=可兒德・矢島鐘二|title=小学校遊戯の理論及實際|publisher=東京寶文館|date=1913-06-20|page=525|ref={{sfnref|可兒・矢島|1913}}}}{{全国書誌番号|43009616}} * {{cite journal|和書|author=小久保圭一郎|date=2016|title=わが国発祥球戯としてのドッジボール〜永井道明と大谷武一の貢献〜|journal=保育の実践と研究|publisher=スペース新社保育研究室|volume=21|issue=3|page=29-39|naid=40021026199|ref={{sfnref|小久保|2016}}}} * {{cite book|和書|author=佐々木等|title=學校球技|publisher=目黑書店|series=7版|date=1943-04-05|page=406|ref={{sfnref|佐々木|1943}}}}{{全国書誌番号|46048340}} * {{cite book|和書|author=坪井玄道・可兒德|title=小學校運動遊戯|publisher=[[大日本図書|大日本圖書]]|date=1909-04-12|page=141|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/860129|ref={{sfnref|坪井・可兒|1909}}}}{{全国書誌番号|40075699}} * {{cite book|和書|editor=東京府體育研究會 編|title=方形デットボール沿革ト規定|publisher=東京府體育研究會|date=1925-07-12|page=27|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/920744|ref={{sfnref|東京府體育研究會 編|1925}}}}{{全国書誌番号|42014630}} == 関連項目 == * [[かたき]] * [[ひらめ筋GOLD]] * [[全日本ドッジボール選手権大会]] * [[エースドッジボール]] * [[バラ当て]] == 外部リンク == * [https://www.dodgeball.or.jp/ JDBA日本ドッジボール協会] {{スポーツ一覧}} {{チームスポーツ}} {{球技}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:とつしほる}} [[Category:ドッジボール|*]]
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Music Macro Language
Music Macro Language(ミュージック・マクロ・ランゲージ)とは音楽演奏を表現するデータ記述言語ないしドメイン固有言語である。MMLと略されることが多いが、XMLの一種であるMusic Markup Languageも音楽を表現するものでそちらもMMLと略されるため、混同されることがある。 楽曲として聞くに堪える音声信号を直接表現するとデータ量が膨大になるため、また人間可読な文字列として簡単にシーケンスデータを入力するため、初期のパソコンでの音楽演奏によく使われた。独立した演奏プログラムとしての実装と、BASICに埋込みの、PLAY文で演奏するものと、どちらが先かは定かではない。 現代でも簡単にシーケンスデータを表現するものとしてよく使われている。SMFや各種演奏ソフト用のデータ形式に変換するものをMMLコンパイラと呼んでいる。 方言は音源や実装により多種多様である。ここでは代表的(比較的どれでも共通)なものを挙げるが、違っているものもある。大文字小文字を区別しないものが多いが、区別して別のコマンドとしているものもある。 やや一般的でないものに、次のものが挙げられる。 古いパソコンの一部の演奏系では、実際の分解能が低いために、テンポや音長の指定のしかたによっては強烈な「テンポずれ」と呼ばれる、分数で表現される厳密値との時間ズレが発生した。これを回避するために、様々な運用上の工夫がされた。 多用された技法の1つに「最短音符合わせ」というものがある。「みんな一斉にまとめてずれれば、ずれがわからない」という理屈であり、全ての音長を、短い音符の連続で記すが、可読性は非常に悪くなる。以下に一例を記す。 その後、さまざまな個人や企業が音源ドライバを開発したが、それらはテンポずれが発生しないように設計されていた。また、テンポずれが発生する環境でも、最短音符合わせを使わずにテンポずれを防ぐ技法が編み出された。そのため、可読性が悪い最短音符合わせは、次第に使われなくなっていった。 後発の音源ドライバにおいても発生した事象として「特定のテンポにおいて、目的とする音長が再現されない結果リズム感を損ねた再生が行われる」ことがある。これは「1秒間のtick数×60÷テンポ数」が整数、かつその値を「音符の分数÷4」で割った値が整数、という条件を満たさないことが原因で発生する。逆にこの条件を満たすテンポと分数で作られた曲は音長のズレや曲の破綻が発生しない。 分解能の低さは、テクノポップなどのグルーブ感(音長やリズムの微妙な変化とその一定性)を重視する音楽の多くをPCとMMLでは再現困難または不能とする。また、通常の4分音符や8分音符という長さのみでの表現はそもそも不可能な曲もある。しかし「tickが1/60秒のシステムの場合は、テンポ225に設定することで64分音符をtick1回分の長さとして扱うことが可能」というテクニックで、テンポと音長の組み合わせでは再現できなかった音長の楽曲が演奏可能となる。 これにより一部のテクノやハウスなどの楽曲も演奏可能になる。またこのように4の倍数以外の音長で構成される曲のテンポは非整数値となる。この手法も後に絶対音長を指定できる音源ドライバが登場して以降、使用頻度は減少する。
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Music Macro Language(ミュージック・マクロ・ランゲージ)とは音楽演奏を表現するデータ記述言語ないしドメイン固有言語である。MMLと略されることが多いが、XMLの一種であるMusic Markup Languageも音楽を表現するものでそちらもMMLと略されるため、混同されることがある。 楽曲として聞くに堪える音声信号を直接表現するとデータ量が膨大になるため、また人間可読な文字列として簡単にシーケンスデータを入力するため、初期のパソコンでの音楽演奏によく使われた。独立した演奏プログラムとしての実装と、BASICに埋込みの、PLAY文で演奏するものと、どちらが先かは定かではない。 現代でも簡単にシーケンスデータを表現するものとしてよく使われている。SMFや各種演奏ソフト用のデータ形式に変換するものをMMLコンパイラと呼んでいる。
'''Music Macro Language'''(ミュージック・マクロ・ランゲージ)とは音楽演奏を表現する[[データ記述言語]]ないし[[ドメイン固有言語]]である。'''MML'''と略されることが多いが、[[Extensible Markup Language|XML]]の一種である[[Music Markup Language]]も音楽を表現するものでそちらもMMLと略されるため、混同されることがある。 楽曲として聞くに堪える音声信号を直接表現するとデータ量が膨大になるため、また人間可読な文字列として簡単にシーケンスデータを入力するため、初期の[[パソコン]]での音楽演奏によく使われた。独立した演奏プログラムとしての実装と、[[BASIC]]に埋込みの、<code>PLAY</code>文で演奏するものと、どちらが先かは定かではない。 現代でも簡単にシーケンスデータを表現するものとしてよく使われている。[[Standard MIDI File|SMF]]や各種演奏ソフト用のデータ形式に変換するものをMMLコンパイラと呼んでいる。 == 主なコマンド == 方言は音源や実装により多種多様である。ここでは代表的(比較的どれでも共通)なものを挙げるが、違っているものもある。大文字小文字を区別しないものが多いが、区別して別のコマンドとしているものもある。 ;<code>C D E F G A B</code> :それぞれ、ドレミファソラシの[[音符]]。 ;<code>[[変化記号|#]] + -</code> :音符の後につけて半音上げ下げを表す。#と+は同じ意味。 ;<code>R</code> :休符(レスト)。 ;数字 <code>.</code> :音符や休符の後につけ、音の長さを表す。<code>2</code>=2分音符。<code>.</code>は付点で長さを1.5倍する。<code>4.</code>=付点4分音符。ただし1.5倍するという表現は適切ではありません。何故なら複付点という存在がありその場合は1+0.5+0.25の1.75倍になるからです。正確には乗算ではなく加算をしているのです。 ;<code>&amp;</code> :二つの音符を連結する。[[タイ (音楽記号)|タイ]]を表す。前後の音階が異なる場合、無視される、[[スラー]]として処理される、[[ポルタメント]]として処理される、など、扱いは実装によって異なり、一定ではない。 ;<code>O</code> :[[オクターブ]]指定 ;<code>&gt; &lt;</code> :オクターブの上下。どちらがアップダウンを意味するかは実装によって異なる ;<code>L</code> :<code>A</code> - <code>G</code>や<code>R</code>の後に数字をつけないときの音の長さ(レングス)を指定。初期値は4であることが多い。 ;<code>V</code> :音量(ボリューム)を指定 ;<code>@</code> :[[FM音源]]などでの音色の指定 ;<code>T</code> :[[テンポ]]を指定。たとえば「<code>T120</code>」なら120BPMで演奏する。プラットフォームによってはテンポのずれが発生する。 やや一般的でないものに、次のものが挙げられる。 ;<code>N</code> :通常のオクターブ+CDEFGABではなく、音の高さを数値で直接指定する。 ;<code>Q</code> :発音の長さを指定する。[[レガート]]や[[スタッカート]]を表現する。 ;<code>P</code> :左右の定位(パン)を設定する。噛み砕いて言えば[[ステレオ]]設定である。 ;<code>S</code> :[[Programmable Sound Generator|PSG]]の[[ADSR|エンベロープ]]の種類を選択する。 ;<code>M</code> :PSGのエンベロープの周期を設定する。 ;<code>Y</code> :ハードウェア固有のパラメータ設定。 == 「テンポずれ」対策 == 古い[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]の一部の演奏系では、実際の分解能が低いために、テンポや音長の指定のしかたによっては強烈な「テンポずれ」と呼ばれる、分数で表現される厳密値との時間ズレが発生した。これを回避するために、様々な運用上の工夫がされた。 === 対策1・最短音符合わせ === 多用された技法の1つに「最短音符合わせ」というものがある。「みんな一斉にまとめてずれれば、ずれがわからない」という理屈であり、全ての音長を、短い音符の連続で記すが、可読性は非常に悪くなる。以下に一例を記す。 ;通常の表現 :<code>C4D4E4F4</code> もしくは <code>L4CDEF</code> ;最短音符合わせ :<code>L16C&amp;C&amp;C&amp;CD&amp;D&amp;D&amp;DE&amp;E&amp;E&amp;EF&amp;F&amp;F&amp;F</code> その後、さまざまな個人や企業が音源ドライバを開発したが、それらはテンポずれが発生しないように設計されていた。また、テンポずれが発生する環境でも、最短音符合わせを使わずにテンポずれを防ぐ技法が編み出された<ref>たとえば[[N88-BASIC]]の場合、<code>T</code>コマンドの値を88/176/177等に固定し、<code>Y</code>コマンドでOPNのTIMER-Bを操作してテンポを指定することにより、テンポずれを防ぐことができる。</ref>。そのため、可読性が悪い最短音符合わせは、次第に使われなくなっていった。 === 対策2・使用するテンポの限定 === 後発の音源ドライバにおいても発生した事象として「特定のテンポにおいて、目的とする音長が再現されない結果リズム感を損ねた再生が行われる」ことがある。これは「1秒間のtick数×60÷テンポ数」が整数、かつその値を「音符の分数÷4」で割った値が整数、という条件を満たさないことが原因で発生する。逆にこの条件を満たすテンポと分数で作られた曲は音長のズレや曲の破綻が発生しない。 ;例: 1秒間のtick数が60(1分間のtick数が3600)のシステムにおける使用可能なテンポの例 :'''60''', '''75''', '''80''', '''90''', '''100''', '''120''', '''150''', '''180''', '''200''', '''225''', '''240''' など ==== 応用・テンポ数225と64分音符による音長表現法 ==== 分解能の低さは、[[テクノポップ]]などのグルーブ感(音長やリズムの微妙な変化とその一定性)を重視する音楽の多くをPCとMMLでは再現困難または不能とする。また、通常の4分音符や8分音符という長さのみでの表現はそもそも不可能な曲もある。しかし「tickが1/60秒のシステムの場合は、テンポ225に設定することで64分音符をtick1回分の長さとして扱うことが可能」というテクニックで、テンポと音長の組み合わせでは再現できなかった音長の楽曲が演奏可能となる。 ;例:7/60音長(<code>x16..</code>)に設定すると、テンポ128.571(以下略)の16分音符となる これにより一部のテクノやハウスなどの楽曲も演奏可能になる。またこのように4の倍数以外の音長で構成される曲のテンポは非整数値となる。この手法も後に絶対音長を指定できる音源ドライバが登場して以降、使用頻度は減少する。 == 脚注 == <references /> == 関連項目 == *[[チップチューン]] *[[N88-BASIC]] *[[ABC記譜法]] *[[Ray (ソフトウェア)]] == 外部リンク == *[http://gorry.haun.org/spice/index.html SPICE] *[http://oto.chu.jp/ テキスト音楽「サクラ」] *{{Wayback|url=http://homepage3.nifty.com/y_ohta/packen/index.htm |title=714MIDI・みゅあっぷ98 |date=20041122130332}} *[http://www.z-z-z.jp/index.htm Z-MUSIC] *[http://www002.upp.so-net.ne.jp/ahiroe/msx/mlecture.html#tempo MuSICA 講座・テンポずれ対策] *[http://takt.sourceforge.net/ Takt] {{デフォルトソート:みゆしつくまくろらんけし}} [[Category:コンピュータ言語]] [[Category:音声ファイルフォーマット]] [[Category:記譜法]]
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ハンドベースボール
ハンドベースボールは、ソフトビニール製やゴム製などのやわらかいボールを用いて行う簡易野球。バットの代わりに、手のひらでボールを打ち、捕球も素手で行う。略してハンベ、ハンドベース、または日本語で手打ち野球とも呼ばれる。 空き地や神社の境内など狭い場所でも行える子供の遊び。ベースやバッターボックスなどは、棒などで地面に書く。ルールは野球に準じるが、場所が狭い場合あるいは人数が足りない場合などには、3塁ベースを省略した三角ベースとすることもある。 バッターは利き手の親指を中に握り、曲げた指と手首の間でボールを打つ。 投手は下投げによる投球フォーム。 ショートは2名いる為、1チーム10名で行う。2アウト交代や、ファウルを3回すると1アウトなど意外にルールは厳しい。各地区優勝したチームは市民球場で大会なども行われたりする。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ハンドベースボールは、ソフトビニール製やゴム製などのやわらかいボールを用いて行う簡易野球。バットの代わりに、手のひらでボールを打ち、捕球も素手で行う。略してハンベ、ハンドベース、または日本語で手打ち野球とも呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "空き地や神社の境内など狭い場所でも行える子供の遊び。ベースやバッターボックスなどは、棒などで地面に書く。ルールは野球に準じるが、場所が狭い場合あるいは人数が足りない場合などには、3塁ベースを省略した三角ベースとすることもある。 バッターは利き手の親指を中に握り、曲げた指と手首の間でボールを打つ。 投手は下投げによる投球フォーム。 ショートは2名いる為、1チーム10名で行う。2アウト交代や、ファウルを3回すると1アウトなど意外にルールは厳しい。各地区優勝したチームは市民球場で大会なども行われたりする。", "title": null } ]
ハンドベースボールは、ソフトビニール製やゴム製などのやわらかいボールを用いて行う簡易野球。バットの代わりに、手のひらでボールを打ち、捕球も素手で行う。略してハンベ、ハンドベース、または日本語で手打ち野球とも呼ばれる。 空き地や神社の境内など狭い場所でも行える子供の遊び。ベースやバッターボックスなどは、棒などで地面に書く。ルールは野球に準じるが、場所が狭い場合あるいは人数が足りない場合などには、3塁ベースを省略した三角ベースとすることもある。 バッターは利き手の親指を中に握り、曲げた指と手首の間でボールを打つ。 投手は下投げによる投球フォーム。 ショートは2名いる為、1チーム10名で行う。2アウト交代や、ファウルを3回すると1アウトなど意外にルールは厳しい。各地区優勝したチームは市民球場で大会なども行われたりする。
{{複数の問題|出典の明記=2015年1月10日 (土) 06:00 (UTC)|特筆性=2015年1月10日 (土) 06:00 (UTC)}} '''ハンドベースボール'''は、ソフトビニール製やゴム製などのやわらかい[[ボール]]を用いて行う簡易[[野球]]。[[バット_(野球)|バット]]の代わりに、手のひらでボールを打ち、捕球も素手で行う。略して'''ハンベ'''、'''ハンドベース'''、または日本語で'''手打ち野球'''とも呼ばれる。 [[空き地]]や[[神社]]の境内など狭い場所でも行える子供の遊び。[[塁 (野球)|ベース]]や[[打席|バッターボックス]]などは、棒などで地面に書く。ルールは[[野球]]に準じるが、場所が狭い場合あるいは人数が足りない場合などには、3塁ベースを省略した[[三角ベース]]とすることもある。 バッターは利き手の親指を中に握り、曲げた指と手首の間でボールを打つ。 投手は下投げによる投球フォーム。 ショートは2名いる為、1チーム10名で行う。2アウト交代や、ファウルを3回すると1アウトなど意外にルールは厳しい。各地区優勝したチームは市民球場で大会なども行われたりする。 {{球技}} {{Sports-stub}} {{デフォルトソート:はんとへえすほおる}} [[Category:球技]] [[Category:野球の派生競技]] [[Category:子供の遊び]]
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紙飛行機
紙飛行機(かみひこうき、英語: paper airplane, paper plane, etc.)とは、紙で飛行機を模した形を作り、飛ばして遊ぶもの。一枚の紙を折って作る折り紙飛行機を指すことが多いが、部品を紙から切り抜き貼り合わせて作る組立て式紙飛行機もある。なお「飛行機」は動力付きの固定翼機を指す言葉であるため、通常は動力を持たない紙飛行機は厳密には「紙航空機」ないし「紙滑空機(グライダー)」と呼称されるべきであり、英語でもペーパーグライダーやペーパーダートとも言うものの、慣習的に紙飛行機、ペーパーエアプレーン、もしくはペーパープレーンとするのが一般的である。当記事でも以下「飛行機」とする。 ペーパークラフトの一種であるが他の多くのペーパークラフトが形に重きを置くのに対し、飛ぶ(滑空する)という工学的な機能に重きを置く点が特徴である。 模型航空の競技などにおける分類ではフリーフライトとなる。 紙で玩具をつくることが始まったのは凧を発明した約2000年前の中国だと考えられているが、紙飛行機発祥の地を正確に説明することはできていない。1859年のイギリスで出版された子供の遊びに関する本には「PAPER DART(1枚の紙を折って作り、的を狙ったり、男の子が戦争ごっこで投げ合う玩具)」の記事があり、折り紙飛行機が普遍的な玩具であったことを示している。 組立て式紙飛行機については、木材や竹などを使った(翼など紙を張ることもある)模型飛行機は有人の動力飛行機以前に作られ、実機の参考や試作とされてきたが、紙飛行機についてはよくわかっていない。 紙飛行機の製作が分かっている最古の年代は1909年だと言われているが、最も広く認められているのはノースロップ社のジャック・ノースロップが1930年につくったものである。ノースロップは現実の飛行機のアイデアを得るために、紙飛行機をテストとして使っていた(ノースロップ社が開発に挑戦した無尾翼機やジャック・ノースロップが並々ならぬ熱意を注いだ全翼機は設計が非常に難しい)。 ドイツでは、第一次大戦後の空白期(ヴェルサイユ条約で軍用機の禁止にとどまらず動力機は制限された)に、後のHe111やJu 88などの原型(民間機として設計された)など重要な計画で基本性能と構成の確認のために紙製の模型を使った。 紙飛行機のデザインは速度・揚力・型といった面で長い年月をかけて改善され続けてきた。 正方形ないし矩形(たいていは白銀比か黄金比ぐらい)の紙を使うことが多い。それ以外の形を使ったり補助的に切ったり切り取るものもある。これらの紙を折って作るもので、折り紙の一種でもある。普通は手で投げて飛ばす。日本のものでは、古くはトンビと呼ばれるものや、よく知られているものとしては滞空時間の長いへそ飛行機、まっすぐ遠くへ飛ぶやり飛行機や、先尾翼風の翼のあるイカ飛行機、宙返りが得意なツバメ飛行機などがある。 いずれのタイプでも、正確で強い中心線が左右のバランスを取り直進性を高めることにつながる(以降の折り方は左右対称で行われる)。多くの飛行機では、次に機首側を三角形にして折り込んでいく。これは重心を前寄りにするためである。一般に機首が上がれば揚力が大きく、下がれば小さくなるため、重心を空力中心のやや前方にすれば迎え角を自動的に調整する効果(風見安定)が期待できる。充分な面積を持つ、ゆがみのない翼をつくり、空中で水平に広がる角度に調整できていれば、途中どのような折り方をしても最終的には何とか飛ぶことが期待できる。 広島県福山市には約800種類の紙で作った色とりどりの紙飛行機が展示された「紙ヒコーキ博物館」がある。毎週土曜日のみの開館だが専門家が在館しており、良く飛ぶ折り紙ヒコーキを教わることができる。また、同県神石高原町の米見山山頂公園には「とよまつ紙ヒコーキ・タワー」があり、地上15mの展望室から自分で折った紙飛行機を飛ばすことが出来る。 戸田氏は、2010年には自身の記録を更新。 記録は29.20秒で、2021年現在、未だに更新されていない。 主にケント紙に下記のように罫書きしたものを切り抜き、貼り合わせて組み立てる。良くできた機体では数十秒間滑空する。「きりぬく本」として印刷済みのケント紙を製本した書籍も存在している。 著名な日本人設計者に二宮康明がいる。 この構造はハンドランチ機に使われることが多いが、一部のプロフィル機にも採用されていたりする。胴体は展開図を立体に組み、形を作っている。ハンドランチ機の主翼には桁(スパー)が入っていることが多く、桁は主に短冊状に切った紙を5枚程度積層して作る。 機体の胴体、主翼共に紙を積層して作られる。 罫書きの例 模型の航空工学については模型航空#模型航空機の工学理論など、学術面の研究も参照の事。 通常の飛行機の翼断面形状(翼型)は上に凸であるのに対し、紙飛行機はたいてい薄い板状である。紙飛行機の翼型を、飛行機を真似てキャンバー(ふくらみ)を付けたり前縁を丸くしても性能は良くならないと言う。同様にトンボの翼型も前縁が尖っており、かつギザギザであるがこのほうが性能が良い。これはレイノルズ数の違いが原因であると言われている。レイノルズ数は速度と注目する長さに比例するため、紙飛行機やトンボにとっての空気の流れは、飛行機と比べると3ケタほど小さなレイノルズ数であり、小さくてゆっくりと飛ぶものほど空気の粘り気の影響を強く受けることになる。ゴムのカタパルトで時速100kmを超える高速で発射される紙飛行機の場合には、発射直後と上空を時速数キロでゆっくりと滑空している場合でとはレイノルズ数がまったく異なる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "紙飛行機(かみひこうき、英語: paper airplane, paper plane, etc.)とは、紙で飛行機を模した形を作り、飛ばして遊ぶもの。一枚の紙を折って作る折り紙飛行機を指すことが多いが、部品を紙から切り抜き貼り合わせて作る組立て式紙飛行機もある。なお「飛行機」は動力付きの固定翼機を指す言葉であるため、通常は動力を持たない紙飛行機は厳密には「紙航空機」ないし「紙滑空機(グライダー)」と呼称されるべきであり、英語でもペーパーグライダーやペーパーダートとも言うものの、慣習的に紙飛行機、ペーパーエアプレーン、もしくはペーパープレーンとするのが一般的である。当記事でも以下「飛行機」とする。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ペーパークラフトの一種であるが他の多くのペーパークラフトが形に重きを置くのに対し、飛ぶ(滑空する)という工学的な機能に重きを置く点が特徴である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "模型航空の競技などにおける分類ではフリーフライトとなる。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "紙で玩具をつくることが始まったのは凧を発明した約2000年前の中国だと考えられているが、紙飛行機発祥の地を正確に説明することはできていない。1859年のイギリスで出版された子供の遊びに関する本には「PAPER DART(1枚の紙を折って作り、的を狙ったり、男の子が戦争ごっこで投げ合う玩具)」の記事があり、折り紙飛行機が普遍的な玩具であったことを示している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "組立て式紙飛行機については、木材や竹などを使った(翼など紙を張ることもある)模型飛行機は有人の動力飛行機以前に作られ、実機の参考や試作とされてきたが、紙飛行機についてはよくわかっていない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "紙飛行機の製作が分かっている最古の年代は1909年だと言われているが、最も広く認められているのはノースロップ社のジャック・ノースロップが1930年につくったものである。ノースロップは現実の飛行機のアイデアを得るために、紙飛行機をテストとして使っていた(ノースロップ社が開発に挑戦した無尾翼機やジャック・ノースロップが並々ならぬ熱意を注いだ全翼機は設計が非常に難しい)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ドイツでは、第一次大戦後の空白期(ヴェルサイユ条約で軍用機の禁止にとどまらず動力機は制限された)に、後のHe111やJu 88などの原型(民間機として設計された)など重要な計画で基本性能と構成の確認のために紙製の模型を使った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "紙飛行機のデザインは速度・揚力・型といった面で長い年月をかけて改善され続けてきた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "正方形ないし矩形(たいていは白銀比か黄金比ぐらい)の紙を使うことが多い。それ以外の形を使ったり補助的に切ったり切り取るものもある。これらの紙を折って作るもので、折り紙の一種でもある。普通は手で投げて飛ばす。日本のものでは、古くはトンビと呼ばれるものや、よく知られているものとしては滞空時間の長いへそ飛行機、まっすぐ遠くへ飛ぶやり飛行機や、先尾翼風の翼のあるイカ飛行機、宙返りが得意なツバメ飛行機などがある。", "title": "折り紙飛行機" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "いずれのタイプでも、正確で強い中心線が左右のバランスを取り直進性を高めることにつながる(以降の折り方は左右対称で行われる)。多くの飛行機では、次に機首側を三角形にして折り込んでいく。これは重心を前寄りにするためである。一般に機首が上がれば揚力が大きく、下がれば小さくなるため、重心を空力中心のやや前方にすれば迎え角を自動的に調整する効果(風見安定)が期待できる。充分な面積を持つ、ゆがみのない翼をつくり、空中で水平に広がる角度に調整できていれば、途中どのような折り方をしても最終的には何とか飛ぶことが期待できる。", "title": "折り紙飛行機" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "広島県福山市には約800種類の紙で作った色とりどりの紙飛行機が展示された「紙ヒコーキ博物館」がある。毎週土曜日のみの開館だが専門家が在館しており、良く飛ぶ折り紙ヒコーキを教わることができる。また、同県神石高原町の米見山山頂公園には「とよまつ紙ヒコーキ・タワー」があり、地上15mの展望室から自分で折った紙飛行機を飛ばすことが出来る。", "title": "折り紙飛行機" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "戸田氏は、2010年には自身の記録を更新。 記録は29.20秒で、2021年現在、未だに更新されていない。", "title": "折り紙飛行機" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "主にケント紙に下記のように罫書きしたものを切り抜き、貼り合わせて組み立てる。良くできた機体では数十秒間滑空する。「きりぬく本」として印刷済みのケント紙を製本した書籍も存在している。", "title": "組立て式紙飛行機" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "著名な日本人設計者に二宮康明がいる。", "title": "組立て式紙飛行機" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "この構造はハンドランチ機に使われることが多いが、一部のプロフィル機にも採用されていたりする。胴体は展開図を立体に組み、形を作っている。ハンドランチ機の主翼には桁(スパー)が入っていることが多く、桁は主に短冊状に切った紙を5枚程度積層して作る。", "title": "組立て式紙飛行機" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "機体の胴体、主翼共に紙を積層して作られる。", "title": "組立て式紙飛行機" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "罫書きの例", "title": "組立て式紙飛行機" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "模型の航空工学については模型航空#模型航空機の工学理論など、学術面の研究も参照の事。", "title": "航空工学的側面 - 低レイノルズ数の飛行" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "通常の飛行機の翼断面形状(翼型)は上に凸であるのに対し、紙飛行機はたいてい薄い板状である。紙飛行機の翼型を、飛行機を真似てキャンバー(ふくらみ)を付けたり前縁を丸くしても性能は良くならないと言う。同様にトンボの翼型も前縁が尖っており、かつギザギザであるがこのほうが性能が良い。これはレイノルズ数の違いが原因であると言われている。レイノルズ数は速度と注目する長さに比例するため、紙飛行機やトンボにとっての空気の流れは、飛行機と比べると3ケタほど小さなレイノルズ数であり、小さくてゆっくりと飛ぶものほど空気の粘り気の影響を強く受けることになる。ゴムのカタパルトで時速100kmを超える高速で発射される紙飛行機の場合には、発射直後と上空を時速数キロでゆっくりと滑空している場合でとはレイノルズ数がまったく異なる。", "title": "航空工学的側面 - 低レイノルズ数の飛行" } ]
紙飛行機とは、紙で飛行機を模した形を作り、飛ばして遊ぶもの。一枚の紙を折って作る折り紙飛行機を指すことが多いが、部品を紙から切り抜き貼り合わせて作る組立て式紙飛行機もある。なお「飛行機」は動力付きの固定翼機を指す言葉であるため、通常は動力を持たない紙飛行機は厳密には「紙航空機」ないし「紙滑空機(グライダー)」と呼称されるべきであり、英語でもペーパーグライダーやペーパーダートとも言うものの、慣習的に紙飛行機、ペーパーエアプレーン、もしくはペーパープレーンとするのが一般的である。当記事でも以下「飛行機」とする。 ペーパークラフトの一種であるが他の多くのペーパークラフトが形に重きを置くのに対し、飛ぶ(滑空する)という工学的な機能に重きを置く点が特徴である。 模型航空の競技などにおける分類ではフリーフライトとなる。
{{Otheruses}} {{出典の明記|date=2012年9月}} [[ファイル:Glybbs Paper Plane.jpg|thumb|right|300px|折り紙飛行機]] [[ファイル:N-424_Paper_Plane.gif|thumb|right|300px|組立て式紙飛行機]] '''紙飛行機'''(かみひこうき、{{lang-en|[[wikt:en:paper airplane|paper airplane]], [[wikt:en:paper plane|paper plane]], etc.}})とは、[[紙]]で[[飛行機]]を模した形を作り、飛ばして遊ぶもの。一枚の紙を折って作る'''[[折り紙]]飛行機'''を指すことが多いが、部品を紙から切り抜き貼り合わせて作る'''組立て式紙飛行機'''もある。なお「飛行機」は[[エンジン|動力]]付きの[[固定翼機]]を指す言葉であるため、通常は動力を持たない紙飛行機は厳密には「紙[[航空機]]」ないし「紙滑空機([[グライダー]])」と呼称されるべきであり、英語でもペーパーグライダーやペーパーダートとも言うものの、慣習的に紙飛行機、ペーパーエアプレーン、もしくはペーパープレーンとするのが一般的である。当記事でも以下「飛行機」とする。 [[ペーパークラフト]]の一種であるが他の多くのペーパークラフトが形に重きを置くのに対し、飛ぶ(滑空する)という工学的な機能に重きを置く点が特徴である。 [[模型航空]]の競技などにおける分類では[[フリーフライト (模型航空)|フリーフライト]]となる。 == 歴史 == 紙で[[玩具]]をつくることが始まったのは[[凧]]を発明した約2000年前の[[中国]]だと考えられているが<ref>{{Cite web|author=|date=2019-07-02|url=https://www.teachengineering.org/lessons/view/cub_airplanes_lesson06|title=Lesson: Take Off with Paper Airplanes|publisher=TeachEngineering|accessdate=2019-07-25}}</ref>、紙飛行機発祥の地を正確に説明することはできていない。[[1859年]]の[[イギリス]]で出版された子供の遊びに関する本には「PAPER DART(1枚の紙を折って作り、的を狙ったり、男の子が戦争ごっこで投げ合う玩具)」の記事があり<ref>{{Cite book |title= Games and sports for young boys |page=92 |date= 1859 |publisher = [[ラウトレッジ|ROUTLEDGE, WARNE, AND ROUTLEDGE]] |url=https://books.google.co.jp/books?id=IkECAAAAQAAJ }}。なお{{Cite book |title= Cassell's book of in-door amusements, card games and fireside fun |page=72 |date= 1882 |publisher = Cassell, Petter, Galpin & Company |url=https://books.google.co.jp/books?id=FDgCAAAAQAAJ }}に展開図が見られ、現代の一般的な紙飛行機と同じであることが分かる。</ref>、折り紙飛行機が普遍的な玩具であったことを示している。 組立て式紙飛行機については、木材や竹などを使った(翼など紙を張ることもある)[[模型航空機|模型飛行機]]は有人の動力飛行機以前に作られ、実機の参考や試作とされてきたが、紙飛行機についてはよくわかっていない。 紙飛行機の製作が分かっている最古の年代は1909年だと言われている{{要出典|date=2011年5月}}が、最も広く認められているのは[[ノースロップ]]社の[[ジャック・ノースロップ]]が1930年につくったものである{{要出典|date=2011年5月}}。ノースロップは現実の飛行機のアイデアを得るために、紙飛行機をテストとして使っていた(ノースロップ社が開発に挑戦した[[無尾翼機]]やジャック・ノースロップが並々ならぬ熱意を注いだ[[全翼機]]は設計が非常に難しい)。 ドイツでは、第一次大戦後の空白期([[ヴェルサイユ条約]]で[[軍用機]]の禁止にとどまらず動力機は制限された)に、後の[[ハインケル He111|He111]]や[[Ju 88 (航空機)|Ju 88]]などの原型(民間機として設計された)など重要な計画で基本性能と構成の確認のために紙製の模型を使った{{要出典|date=2011年5月}}。 紙飛行機のデザインは速度・揚力・型といった面で長い年月をかけて改善され続けてきた。 == 折り紙飛行機 == [[ファイル:Origami airplane.svg|thumb|280px|紙飛行機の折り方(一例)]] [[正方形]]ないし[[長方形|矩形]](たいていは[[白銀比]]か[[黄金比]]ぐらい)の紙を使うことが多い。それ以外の形を使ったり補助的に切ったり切り取るものもある。これらの紙を折って作るもので、[[折り紙]]の一種でもある。普通は[[手]]で投げて飛ばす。[[日本]]のものでは、古くは'''トンビ'''と呼ばれるものや、よく知られているものとしては滞空時間の長い'''へそ飛行機'''、まっすぐ遠くへ飛ぶ'''やり飛行機'''や、[[エンテ型|先尾翼]]風の翼のある'''イカ飛行機'''、宙返りが得意な'''ツバメ飛行機'''などがある。 いずれのタイプでも、正確で強い中心線が[[左右]]のバランスを取り直進性を高めることにつながる(以降の折り方は左右対称で行われる)。多くの飛行機では、次に機首側を[[三角形]]にして折り込んでいく。これは[[重心]]を前寄りにするためである。一般に機首が上がれば[[揚力]]が大きく、下がれば小さくなるため、重心を空力中心のやや前方にすれば[[迎角|迎え角]]を自動的に調整する効果([[風見鶏#風見安定|風見安定]])が期待できる。充分な面積を持つ、ゆがみのない翼をつくり、空中で水平に広がる角度に調整できていれば、途中どのような折り方をしても最終的には何とか飛ぶことが期待できる。 [[広島県]][[福山市]]には約800種類の紙で作った色とりどりの紙飛行機が展示された「紙ヒコーキ博物館」がある。毎週土曜日のみの開館だが専門家が在館しており、良く飛ぶ折り紙ヒコーキを教わることができる。また、同県[[神石高原町]]の米見山山頂公園には「とよまつ紙ヒコーキ・タワー」があり、地上15mの展望室から自分で折った紙飛行機を飛ばすことが出来る。 === 世界記録 === ; 屋内飛行距離の記録([[ギネス世界記録|ギネス・ワールドレコーズ]]) : 登録種目名は "Farthest flight by a paper aircraft"<ref name="GWR 20120827">{{Cite web|和書|date=2012-08-27 |title=今週のギネス世界記録【8月27日~8月31日】|url=http://japangenki.com/2012/08/806.html |work=(公式ウェブサイト)|publisher=ギネス・ワールド・レコーズ 地域活性化委員会 |accessdate=2012-09-13}}</ref>。[[2012年]]2月26日、元[[アメリカンフットボール]]選手の[[アメリカ合衆国|アメリカ人]]{{仮リンク|ジョー・エイブ|en|Joe Ayoob}}は、[[アメリカ合衆国]][[カリフォルニア州]]にある{{仮リンク|マクレラン空軍基地|en|McClellan Air Force Base}}の屋内環境(無風環境)にて、A4判の紙を切らずに作った紙飛行機(折り紙飛行機。デザイン:ジョン・M・コリンズ)を用いて226[[フィート|ft]] 10[[インチ|in]] (69.1388[[メートル|m]]) の飛行距離を叩き出し、[[ギネス世界記録]]を更新した<ref name="ESPN 20120229">{{Cite web |author=Thomas Neumann |date=2012-02-29 |title=Joe Ayoob sets paper airplane record |url=http://espn.go.com/espn/page2/story/_/id/7625552/former-cal-quarterback-joe-ayoob-sets-world-record-longest-throw-paper-airplane |work=ESPN.com |language=en |publisher=[[ESPN]] |accessdate=2012-09-14}}■映像あり。</ref><ref name="GWR 20120827" />。更新前の世界記録はスティーブン・クリーガーが[[2003年]]に記録した207ft 4in (63.1952m) であった<ref name="ESPN 20120229" />。 ; 屋内飛行(滑空)時間の記録(ギネス・ワールドレコーズ) : [[2009年]]([[平成]]21年)4月11日、日本折り紙ヒコーキ協会(現 折り紙ヒコーキ協会)会長の戸田拓夫は、[[広島県]][[福山市]]にある[[広島県立ふくやま産業交流館]](ビッグ・ローズ)の屋内環境(無風環境)にて、A5判の[[サトウキビ]]加工紙を切らずに作った紙飛行機(折り紙飛行機)を用いて飛行滞空時間27秒9を叩き出し、ギネス世界記録を更新した<ref>{{Cite web|和書|date=2009-04 |title=速報! ギネス記録更新! |url=http://www.oriplane.com/ja/gunnesu%20douga.html |work=(公式ウェブサイト)|publisher=日本折り紙ヒコーキ協会 |accessdate=2012-09-14}}■映像あり。</ref>。更新前の世界記録はアメリカ合衆国のケン・ブラックバーンが持つ27秒6であった<ref>{{Cite web |date=2008 |title=Ken Blackburn's Paper Airplanes |url=http://www.paperplane.org/about.html |work=(official website) |language=en |publisher=Ken Blackburn |accessdate=2012-09-13}}</ref>。 戸田氏は、2010年には自身の記録を更新。 記録は29.20秒で、2021年現在、未だに更新されていない。 == 組立て式紙飛行機 == 主にケント紙に下記のように罫書きしたものを切り抜き、貼り合わせて組み立てる。良くできた機体では数十秒間滑空する。「きりぬく本」として印刷済みのケント紙を製本した書籍も存在している。 著名な日本人設計者に[[二宮康明]]がいる。 === 組立て方 === ==== 立体構造の機体 ==== この構造はハンドランチ機に使われることが多いが、一部のプロフィル機にも採用されていたりする。胴体は展開図を立体に組み、形を作っている。ハンドランチ機の主翼には桁(スパー)が入っていることが多く、桁は主に短冊状に切った紙を5枚程度積層して作る。 ==== 積層構造の機体 ==== 機体の胴体、主翼共に紙を積層して作られる。 [http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/6/65/%E7%B4%99%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E6%A9%9F%EF%BC%91.pdf 罫書きの例] # 胴体の組立て ## 部品1の両側に部品2と3を貼り付ける ## (1)の両側に部品4と5を貼り付ける ## (2)の両側に部品6と7を貼り付ける # 主翼の組立て ## 部品8の裏側に部品9を貼り付ける ## 主翼をわずかにかまぼこ型になるように曲げ([[キャンバー]])を入れる。揚力の向上というよりも、曲げ強度の増加と失速特性の改善の上で意味がある([[#航空工学的側面 - 低レイノルズ数の飛行]] 参照)。ただし、ほぼ一定の速度で飛行するゴム動力の模型飛行機などと異なり、速度の変化が大きい紙飛行機の場合、発射直後の上昇性能を確保して飛行時間を延ばすことを重視するので、抵抗が増えるほどのキャンバーは総合的には滞空時間が短縮する結果となる。 # 全体の組立て ## 胴体に部品10(水平尾翼)を貼り付ける ## 胴体に主翼(部品8+9)を貼り付ける === 機体の調整 === * 風が弱くて広い場所(公園の広場など)で行う。 * 機体の全体のバランスを見る。見方は利き手に機体を持ち、片目で機首側から見る。まず、胴体の曲がりを見て、曲がっているのであれば真っ直ぐになるように直す。次に水平尾翼の曲がりを水平になるよう修正し、垂直尾翼も真っ直ぐになるよう修正する。また、主翼の左右のバランスも見ておく必要がある。ねじれている場合や、キャンバーの大きさが左右の翼で違う場合は、上昇時に機体が回転したり、滑空時に[[螺旋|スパイラル]]降下になったりとうまく飛ばないので修正しなければならない。特に主翼の左右の[[揚力]]差は気づきにくく、やりがちなミスなので注意すること。 * 風上に向かい、目の高さに機体を持ち、前へ押し出すように投げ出す。 * 滑空時、右か左に旋回するようであれば、再度、主翼、垂直尾翼、水平尾翼のねじれを確認する。機首を下げて降下する場合は、水平尾翼が下側に反れていないか確認する。それでも直らないなら、重り(鉛板やクリップ等)の量を減らしてみる。この2つの操作を行っても駄目なら、水平尾翼の後ろへり(特に端の部分)を機首の下がり具合に応じて上げる。逆に機首が上がる場合は水平尾翼が上側に反れていないか確認する。それでも直らないなら、機首に重りを加える。この2つの操作を行っても駄目なら、水平尾翼の後ろへり(特に端の部分)を機首の上がり具合に応じて下げる。 * これらの操作を行って、機体がストレートボールのように滑空すれば、これで滑空の調整は終了である。 * 最後に、水平尾翼を傾けておく。これはスタブティルトと言い、機体を旋回させるために必要な操作である。左旋回をさせたい場合、右下がりに傾ける(傾きを大きくするとより旋回半径が小さくなる)。右旋回の場合は逆の操作を行う。旋回のために[[補助翼|エルロン]]、[[方向舵|ラダー]]、[[昇降舵|エレベーター]]を使うのは極力控える方が良い。なぜなら、機体のバランスを大きく崩してしまう可能性があるからである。 * 次に上昇の調整を行う。まず、カタパルト場合は機体を6割ぐらいの力で水平に射出する。手投げの場合は6割の力で水平より少し上に投げる(地面に叩きつけることを防ぐため)。機体が上昇している時に宙返り気味、もしくは宙返りしてしまう場合は、水平尾翼の後ろへり(特に中心部分)を機首の上がり具合に応じて下げる。機体が緩く上昇して、滑空に移るようであれば調整は完了である。あとは7、8、9割...と力を強めて、その都度宙返りの修正を行う。もし、カタパルト機で垂直上昇させたい場合は、最後に機体を地面に対し90度に向けて10割の力で射出し、まっすぐ上空に上昇するよう調整する。上昇後、機体が急降下するなら、水平尾翼の後ろへり(特に端の部分)を機首の下がり具合に応じて上げる。機体が真っ直ぐ上昇した後、滑らかに滑空姿勢へ移行すれば調整は完了である。 === カタパルト式と手投げ式 === ; カタパルト式(PLG:パチンコ・ランチ・グライダー) : カタパルト式とは支持棒の先に結んだゴムを機体のフックに掛け、伸びたゴムが収縮するエネルギーで機体を射出する方法である。 : 上昇する軌道により、「らせん上昇」と「垂直上昇」に分けることができる。 :; らせん上昇 :: あらかじめ左に旋回するように調整した機体を、右に45度~60度に傾けて、地上に対して30度~45度の角度で射出するもので、機体は大きく右旋回をしながら上昇し、その後左に旋回しながら降下する(右利きの場合)。尚、機体重量が大きい機体(プロフィル機)は上昇を右旋回、滑空も右旋回とした方が良いだろう。 :; 垂直上昇 :: 地上に対し80度~90度の角度で、機体を射出する。機体を宙返りさせずに上昇させるためには、独特の機体設計と高度な機体調整の技術が必要である。 :; 機体の大きさ :: 「[[全日本紙飛行機選手権大会]]」においては、2009年度まで行われていた種目に全幅は185ミリ以上という競技規定があった。 ; 手投げ式(HLG:ハンド・ランチ・グライダー) : 手投げ式には、「野球投げ」と「サイドアームランチ=SAL」の2つの方法がある。手投げ式の紙飛行機は、胴体や主翼が「貼り合せ構造」から「中空構造」と進化し、より滑空性能が高い大型機(翼幅約250㎜以上)が主流となっている。ハンドランチはカタパルトとは異なり、人の体の動かし方や考え方などにより、その投げ方には違いが出やすいため、この項に書かれていることはあくまで参考として読んでほしい。 :; 野球投げ :: 機体の持ち方は人差し指と中指を伸ばして主翼の後ろにかけ、胴体を親指と薬指で持つ。投げ方は人や機体によって様々ではあるが、主な投げ方としては、機体を45度から60度に傾け、右斜め上に向かって投げ上げる。尚、左手で投げる場合は動作が逆になる。 :; サイドアームランチ :: 主に翼幅が300㎜を超すような機体に使われる手法である。右利きの場合は左翼の翼端または翼端に付いている「ペグ」という突起を持ち、[[野球]]の[[サイドスロー]]のような動きで機体を投げる。機体が手から離れる瞬間、機体のロール軸、ピッチ軸の角度が水平になるように心がける。また尾翼設計も重要であり、安定性に優れた[[尾翼|Y字尾翼]]がよく使われる。野球投げ用の機体とは異なり、SAL用機体には投げ上げ時、後部胴体に大きな負荷がかかる。そのため、胴体はより[[剛性]]を高くする必要がある。 == 航空工学的側面 - 低レイノルズ数の飛行 == ''模型の航空工学については[[模型航空#模型航空機の工学理論など、学術面の研究]]も参照の事。'' 通常の飛行機の翼断面形状(翼型)は上に凸であるのに対し、紙飛行機はたいてい薄い板状である。紙飛行機の翼型を、飛行機を真似てキャンバー(ふくらみ)を付けたり前縁を丸くしても性能は良くならないと言う。同様に[[トンボ]]の翼型も前縁が尖っており、かつギザギザであるがこのほうが性能が良い。これは[[レイノルズ数]]の違いが原因であると言われている。レイノルズ数は速度と注目する長さに比例するため、紙飛行機やトンボにとっての[[空気]]の[[流れ]]は、飛行機と比べると3ケタほど小さなレイノルズ数であり、小さくてゆっくりと飛ぶものほど空気の粘り気の影響を強く受けることになる。ゴムのカタパルトで時速100kmを超える高速で発射される紙飛行機の場合には、発射直後と上空を時速数キロでゆっくりと滑空している場合でとはレイノルズ数がまったく異なる。 == 紙飛行機を題材とした作品 == * [[365日の紙飛行機]] / 歌:[[AKB48]]([[2015年]]) * [[メイド イン ワリオ#移植されたサブゲーム|紙ヒコーキ]]([[2008年]]) - [[任天堂]]のコンピュータゲーム == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == {{参照方法|date=2012年9月}} ; 折り紙 * 誠文堂新光社『折り紙手品』- 一風変わった折り紙飛行機をいくつか収録している。ハードカバー版には収録されているがペーパーバック版では割愛されてしまった作品がある ; 組立て * 誠文堂新光社『よく飛ぶ紙飛行機集』シリーズ他同社より多数 - 直接切り抜いて作れる本も多い * 誠文堂新光社『[[子供の科学]]』- 2016年まで、[[二宮康明]]による切り抜いて作れる綴じ込み付録を毎号1機収録していた。 == 関連項目 == {{commonscat|Paper aircraft}} * [[二宮康明]] == 外部リンク == * [http://www.oriplane.com/ 日本折り紙ヒコーキ協会] * [http://jkougen.jp/kankou/pages/sisetu-p/kamihiko-ki.html とよまつ紙ヒコーキ・タワー] {{Toy-stub}} {{Entertainment-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かみひこうき}} [[Category:紙飛行機|*]] [[Category:折り紙]] [[Category:玩具]] [[Category:子供の遊び]] [[Category:模型航空機]] [[Category:科学教材]]
2003-05-03T01:32:26Z
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ガンダルフ
ガンダルフ(Gandalf)は、J・R・R・トールキンの中つ国を舞台とした小説、『ホビットの冒険』、『指輪物語』の登場人物。かれは魔法使い(イスタリ)の一人で、白の会議の一員であった。灰色のガンダルフ(Gandalf the Grey)、白のガンダルフ(Gandalf the White)などと呼ばれた。中つ国のエルフが使うシンダール語での呼び名はミスランディア (Mithrandir)。ドワーフの呼び名はサルクーン (Tharkûn)。 白い顎髭に青いとんがり帽子、長い杖がトレードマークで、灰色のローブを身に纏っていた登場時点では灰色のガンダルフと呼ばれていた。彼は人間の老人のように見えるが、実際は人間ではなく、西の海の果ての神々の住む国アマンから、冥王サウロンに立ち向かう勢力を一つに束ね、彼らを助けるべく遣わされた5人の賢者イスタリの一人とされる。 実はその正体はマイアであり、アマンでの本名はオローリン (Olórin) といい、マイアールの中で最も賢明な者であったとされている。彼はローリエンに住まっていたが、マンウェとヴァルダに仕えており、ニエンナから深い憐憫の心を学んだと言われている。彼が中つ国に到達したとき、灰色港の領主「船造り」キーアダンから三つの指輪の一つ、ナルヤを讓り受ける。 『ホビットの冒険』ではビルボをドワーフ達の遠征に加えて、暫く旅路を同行している。彼は物語の途中で一旦姿を消し、その間に闇の森南部の死人占い師(モルドールに潜む以前のサウロン)を白の会議の一員として攻撃し、撃退した。この経緯は作中でも簡単に触れられていたが、『指輪物語』ではさらに詳しく語られることとなる。 『指輪物語』ではフロドら指輪の仲間とともに旅立ち、その途中で難敵バルログと対峙して一行とはぐれ危うく消滅しかけるも白のガンダルフとなって復活、サウロンの勢力に対抗する人々を助け、指輪を葬った後のフロドらとも再会を果たした。後にフロドやビルボらとともに西の海の彼方、アマンへと去る。 作品発表当時の60年代後半、ベトナム戦争で自国の支配層に失望したアメリカの学生やヒッピーたちに、「ガンダルフを大統領に!」をスローガンにしたムーブメントが盛り上がり、デモ行進なども行われた。 彼は火や光・煙を扱わせたら随一の花火使い......だと平和なホビット庄ではみなされており、彼の扱う花火の技は、ビルボ・バギンズが最後にホビット庄で開いた111歳の誕生日(フロド・バギンズ33歳の誕生日でもある)のお祝いに大いに華を添えた。 また彼は火薬に拠らずとも光と炎を操る力を持ち、こちらはホビット庄では余り知られていないものの、彼の元々の仕事である危険な任務に際し、重要な局面で発揮されている。名剣グラムドリング(『ホビットの冒険』でトロルの強奪品より発見された)を持ち、この剣を使うことも辞さない。 その性格は、彼の操る火にも関連付けられる。炎のように激しく・また熱く、火のように明るく・また暖かい人物である。激しやすくもあるが冷静でもあり、これと同時に広く古い伝承に光を当て、多くの危機に警鐘を鳴らす人でもある。だがしばしば、彼が先駆けて警告する様々な事象が極めて不吉な事件であるために、蛇の舌に至っては不吉の前触れと表現した。 彼は一つところに留まる代わりに、常に放浪の旅を続けており、人々を支配したり誰かに仕えたりするかわりにその友となって力を貸して歩いている。交友も広く、諸国の王侯・貴族に面識がある一方で、ビヨルンやトム・ボンバディル、グワイヒア、ドゥーネダインのような中つ国でも強い力を持ちながら知る人も少ない特殊な存在とも交流があり、またブリー村のバーリマン・バタバーのような一介の宿屋の主人とも親しい。この人脈の広さも彼の力となっている。 上述の通り火や光に関連したものも多いが、必ずしもそれだけとは言えないほど幅広い。使用する場面は比較的多くあるものの、制約通り決して乱用はせず、要所要所の重要な局面に限られている(ただし、薪に火を灯したり、パイプの煙や花火を操る、飲食物の味を変えるなど日常においてはそれなりに使用している模様)。ガンダルフらイスタリは、マイアとしての力を発揮することを禁じられているため、作中登場する彼らの魔法はそうしたマイアの力とは別個ものと考えられる。以下のようなものがある。 古ノルド語で「魔法(ガンド)の心得のある妖精」を意味するガンダールヴル(Gandálfr)の英語化であるGandalfを語源とする。元々この名前は『ホビットの冒険』に登場するドワーフの頭領につけられていたが、彼がトーリン・オーケンシールドに改名されたのに伴い、より魔法使いにふさわしい、一行を助ける魔法使いの名前になった。 エルフの呼び名である「ミスランディア」は、シンダール語で「灰色の放浪者」という意味であり、「灰色」を意味するmithと「放浪者」randirで構成されている。
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ガンダルフ(Gandalf)は、J・R・R・トールキンの中つ国を舞台とした小説、『ホビットの冒険』、『指輪物語』の登場人物。かれは魔法使い(イスタリ)の一人で、白の会議の一員であった。灰色のガンダルフ、白のガンダルフなどと呼ばれた。中つ国のエルフが使うシンダール語での呼び名はミスランディア (Mithrandir)。ドワーフの呼び名はサルクーン (Tharkûn)。
{{Otheruses|トールキンの創作物|北欧神話|ガンダールヴル|インド神話|ガンダルヴァ}} {{Expand English|Gandalf|date=2021年5月|fa=yes}} [[File:Gandalf sculpture on top of The Embassy Theatre, Wellington.jpg|200px|thumb|[[ウェリントン]]の映画館にあるガンダルフの彫像]] '''ガンダルフ'''('''{{En|Gandalf}}''')は、[[J・R・R・トールキン]]の[[中つ国 (トールキン)|中つ国]]を舞台とした小説、『[[ホビットの冒険]]』、『[[指輪物語]]』の登場人物。かれは[[魔法使い]]([[イスタリ]])の一人で、[[白の会議]]の一員であった。'''灰色のガンダルフ'''(''{{En|Gandalf the Grey}}'')、'''白のガンダルフ'''(''{{En|Gandalf the White}}'')などと呼ばれた。中つ国のエルフが使う[[シンダール語]]での呼び名は'''ミスランディア''' (''{{ラテン翻字|sjn|Mithrandir}}'')。[[ドワーフ (トールキン)|ドワーフ]]の呼び名は'''サルクーン''' (''{{ラテン翻字|iso|Tharkûn}}'')。 == 概要 == 白い顎髭に青いとんがり帽子、長い杖がトレードマークで、灰色のローブを身に纏っていた登場時点では'''灰色のガンダルフ'''と呼ばれていた。彼は人間の老人のように見えるが、実際は人間ではなく、西の海の果ての神々の住む国[[アマン (トールキン)|アマン]]から、冥王[[サウロン]]に立ち向かう勢力を一つに束ね、彼らを助けるべく遣わされた5人の賢者[[イスタリ]]の一人とされる。 実はその正体は[[マイアール|マイア]]であり、アマンでの本名は'''オローリン''' ({{ラテン翻字|qya|''Olórin''}}) といい、マイアールの中で最も賢明な者であったとされている。<ref>J.R.R. トールキン『新版 シルマリルの物語』 評論社 2003年 72頁</ref>彼はローリエンに住まっていたが、[[マンウェ]]と[[ヴァラ#ヴァルダ|ヴァルダ]]に仕えており、[[ヴァラ#ニエンナ|ニエンナ]]から深い憐憫の心を学んだと言われている。彼が中つ国に到達したとき、灰色港の領主「船造り」[[キーアダン]]から[[三つの指輪]]の一つ、ナルヤを讓り受ける。 『[[ホビットの冒険]]』では[[ビルボ・バギンズ|ビルボ]]を[[ドワーフ (トールキン)|ドワーフ]]達の遠征に加えて、暫く旅路を同行している。彼は物語の途中で一旦姿を消し、その間に闇の森南部の[[ネクロマンサー|死人占い師]]([[モルドール]]に潜む以前の[[サウロン]])を白の会議の一員として攻撃し、撃退した。この経緯は作中でも簡単に触れられていたが、『指輪物語』ではさらに詳しく語られることとなる。 『[[指輪物語]]』では[[フロド・バギンズ|フロド]]ら[[指輪の仲間]]とともに旅立ち、その途中で難敵[[バルログ]]と対峙して一行とはぐれ危うく消滅しかけるも'''白のガンダルフ'''となって復活、サウロンの勢力に対抗する人々を助け、指輪を葬った後のフロドらとも再会を果たした。後にフロドやビルボらとともに西の海の彼方、アマンへと去る。 作品発表当時の60年代後半、[[ベトナム戦争]]で自国の支配層に失望したアメリカの学生や[[ヒッピー]]たちに、「ガンダルフを大統領に!」をスローガンにしたムーブメントが盛り上がり、デモ行進なども行われた。 == 人物像 == 彼は火や光・煙を扱わせたら随一の[[花火]]使い……だと平和な[[ホビット庄]]ではみなされており、彼の扱う花火の技は、ビルボ・バギンズが最後にホビット庄で開いた111歳の誕生日(フロド・バギンズ33歳の誕生日でもある)のお祝いに大いに華を添えた。 また彼は[[火薬]]に拠らずとも光と炎を操る力を持ち、こちらはホビット庄では余り知られていないものの、彼の元々の仕事である危険な任務に際し、重要な局面で発揮されている。名剣[[グラムドリング]](『ホビットの冒険』でトロルの強奪品より発見された)を持ち、この剣を使うことも辞さない。 その性格は、彼の操る[[火]]にも関連付けられる。炎のように激しく・また熱く、火のように明るく・また暖かい人物である。激しやすくもあるが冷静でもあり、これと同時に広く古い伝承に光を当て、多くの危機に警鐘を鳴らす人でもある。だがしばしば、彼が先駆けて警告する様々な事象が極めて不吉な事件であるために、[[蛇の舌]]に至っては不吉の前触れと表現した。 彼は一つところに留まる代わりに、常に放浪の旅を続けており、人々を支配したり誰かに仕えたりするかわりにその友となって力を貸して歩いている。交友も広く、諸国の王侯・貴族に面識がある一方で、[[ビヨルン]]や[[トム・ボンバディル]]、[[グワイヒア]]、[[ドゥーネダイン]]のような中つ国でも強い力を持ちながら知る人も少ない特殊な存在とも交流があり、また[[ブリー村]]の[[バーリマン・バタバー]]のような一介の宿屋の主人とも親しい。この人脈の広さも彼の力となっている。 == 魔法 == 上述の通り火や光に関連したものも多いが、必ずしもそれだけとは言えないほど幅広い。使用する場面は比較的多くあるものの、制約通り決して乱用はせず、要所要所の重要な局面に限られている(ただし、薪に火を灯したり、パイプの煙や花火を操る、飲食物の味を変えるなど日常においてはそれなりに使用している模様)。ガンダルフらイスタリは、マイアとしての力を発揮することを禁じられているため、作中登場する彼らの魔法はそうしたマイアの力とは別個ものと考えられる。以下のようなものがある。 *炎、光、煙を操る。[[花火]]の製造や[[パイプ (たばこ)|パイプ]]の煙を操るなどの比較的平和な用法のほか、旅の途中では攻撃手段、照明、目くらまし等として発揮された。超自然的な技なのか単に火薬を用いているのかは曖昧で、明確に超自然的技術と断定できるのは[[シンダール語]]で呪文を叫んだ場合と[[モリア (トールキン)|モリア]]等で杖先に明かりをともした場合のみである。 **呪文を唱えた例としては、[[カラズラス]]越えにおいて湿気た薪に火をつける、<ref>J.R.R. トールキン『新版 指輪物語3 旅の仲間 下1』評論社文庫 1992年、181頁</ref>[[エレギオン]]の荒野において焚火の薪を爆裂させて襲ってきた狼を攻撃する、<ref>J.R.R. トールキン『新版 指輪物語3 旅の仲間 下1』評論社文庫 1992年、200頁</ref>といった例がある。 **逆に火薬によるものか超自然的なものか不明な例として、襲ってきたゴブリンを雷のような閃光を発して殺す(後に自ら「火花を使った」と発言している)、<ref>J.R.R. トールキン『ホビットの冒険』上巻 岩波少年文庫 2002年、123頁</ref>松ぼっくりを発火させて狼たちを焼く、<ref>J.R.R. トールキン『ホビットの冒険』上巻 岩波少年文庫 2002年、205頁</ref>といった例がある。 **雷撃のような光と熱を操る。フロドらはブリー村を出たのちに[[風見が丘]]方向で雷電のような光が走るのを目撃し、当地にいたった時には頂上一帯が焼け焦げているのを発見する。<ref>J.R.R. トールキン『新版 指輪物語2 旅の仲間 上2』評論社文庫 1992年、185から186頁及び193頁</ref>これはガンダルフが[[ナズグル]]と交戦して火焔を発したためであると後に語られている。<ref>J.R.R. トールキン『新版 指輪物語3 旅の仲間 下1』評論社文庫 1992年、119頁</ref> ***ケレブディルの山頂での[[バルログ]]との戦闘について、ガンダルフ自身は第三者がこの戦いを遠方から眺めたら「嵐が吹き荒れ、雷鳴がとどろき、稲妻が山頂を直撃したり跳ね返り、火炎が発生した」という旨の感想を抱くだろうと述べている<ref>J.R.R. トールキン『新版 指輪物語6 二つの塔』”白の乗り手”</ref>。 **掲げた右手から光芒を発してナズグルを退散させる。これが単なる光なのか、ナズグルを撃退する何らかの力が込められているのかは不明だが、原語では「White Fire(白い焔)<ref>The Lord of the Rings. The Return of the King. The Siege of Gondor.</ref>」という表記がされている。<ref>J.R.R. トールキン『新版 指輪物語8 王の帰還 上』評論社文庫 1992年、162頁</ref><ref name="名前なし-1">J.R.R. トールキン『新版 指輪物語8 王の帰還 上』評論社文庫 1992年、188頁</ref> **杖から閃光と衝撃波のようなものを放ち、堅固な構造物を崩落させる。原作ではモリアでバルログと対峙した際に、杖を打ち付けて橋を崩壊させた。(この時には杖も砕け散っている)<ref>J.R.R. トールキン『新版 指輪物語4 旅の仲間 下2』評論社文庫 1992年、30頁</ref> *[[ビルボ・バギンズ|ビルボ]]が指輪を手放すのを渋って逆上した際、恐ろしげに巨大化して威圧した。これは超自然的なものなのか単に照明と影のトリックなのか、あるいは心理的効果なのかは不明。<ref>J.R.R. トールキン『新版 指輪物語1 旅の仲間 上1』評論社文庫 1992年、74頁</ref> **対照的に、外見は弱々しい老人のままながら全身が淡く輝くという場面がしばしばある。これは[[バルログ]]や[[ナズグル]]といった強敵と対峙した際に顕著である。<ref>J.R.R. トールキン『新版 指輪物語4 旅の仲間 下2』評論社文庫 1992年、29頁</ref><ref name="名前なし-2">J.R.R. トールキン『新版 指輪物語5 二つの塔 上1』評論社文庫 1992年、203頁</ref><ref name="名前なし-1"/> *[[ブルイネン]]の水流は[[エルロンド]]の命によるものとされるが、ガンダルフは波頭に光り輝く馬と騎士を造形して手を貸したと述べている。<ref>J.R.R. トールキン『新版 指輪物語3 旅の仲間 下1』評論社文庫 1992年、21から22頁</ref> *呪文や言葉によって対象(生物・無生物問わず)に命令することができる。 **扉に閉じるよう命令する。モリアで敵の追跡を防ぐために用いたが、バルログが対抗して扉を開こうとしたために力が拮抗し、最後には扉と部屋全体が崩壊してしまった。<ref>J.R.R. トールキン『新版 指輪物語4 旅の仲間 下2』評論社文庫 1992年、19から22頁</ref> **呪いで衰弱していた[[セオデン]]を言葉によって回復させた。これはセオデンの衰弱の原因である呪い自体が超自然的なものなのか心理的なものなのか曖昧であり、それを退けたガンダルフの手腕も同様である。<ref>J.R.R. トールキン『新版 指輪物語6 二つの塔 上2』評論社文庫 1992年、26から30頁</ref> **言葉で操ろうとするサルマンを逆に言葉で服従させ、最終的に彼の杖を触れずして折った。<ref>J.R.R. トールキン『新版 指輪物語6 二つの塔 上2』評論社文庫 1992年、185頁</ref> **明確ではないが、動物とある程度会話ができるととれる節がある。(フロドによる追悼の歌の文句や、小馬のビルや愛馬の飛蔭に語りかけて心を通わせる場面、等)<ref>J.R.R. トールキン『新版 指輪物語5 二つの塔 上1』評論社文庫 1992年、228から229頁</ref> *相手の思考をある程度読み取ることができる。一般的な相手(ホビットのフロドのような)であれば容易であるらしい。一方[[デネソール]]のような強固な意志の持ち主が相手だと、互いに思念の争いに発展する模様。 **[[アモン・ヘン]]でサウロンに見入られたフロドが指輪を外そうと葛藤する場面があるが、ガンダルフはこの際サウロンの目をフロドから逸らそうと思念で対決したと後に語っており、その反映がフロドの内心の葛藤である可能性もある。<ref>J.R.R. トールキン『新版 指輪物語5 二つの塔 上1』評論社文庫 1992年、206から207頁</ref> *[[サルマン]]と勘違いして攻撃を加えてきた[[アラゴルン]]一行に対し、斧を手から離れさせる、剣を灼熱させる、矢を空中で燃やすなどの手段で武装解除させた。<ref name="名前なし-2"/> **狂気の[[デネソール]]が部下を斬ろうとした際、ガンダルフが片手を挙げただけで、その剣は空中に舞い上がり後方に跳ね飛んだ。<ref>J.R.R. トールキン『新版 指輪物語8 王の帰還 上』評論社文庫 1992年、266頁</ref> *[[パランティア]]でサウロンと交信してしまった[[ペレグリン・トゥック|ピピン]]に活を入れた。これも超自然的なものなのか不明。<ref>J.R.R. トールキン『新版 指輪物語6 二つの塔 上2』評論社文庫 1992年、208から209頁</ref> *友人のバーリマン・バタバーに対し、彼の宿屋のビールの出来がよくなるよう魔法をかけよう、と請け合う。上機嫌な気持ちから出た軽口に過ぎないのか、本当にそのようなことが可能なのかは不明。<ref>J.R.R. トールキン『新版 指輪物語3 旅の仲間 下1』評論社文庫 1992年、118頁</ref> *[[エレボール]]奪還の旅よりも以前に矢傷を負った大鷲の王を治癒したことがあるが、これが魔法によるものか否かは不明瞭である。<ref>J.R.R. トールキン『ホビットの冒険』上巻 岩波少年文庫 2002年、219頁</ref> *[[ロード・オブ・ザ・リング (2001年の映画)|実写映画版]]のみの描写に、サルマンと不可視の力で戦う、[[カラズラス]]の吹雪を止めようとシンダール語の呪文を唱える、剣に雷を帯電させて[[バルログ]]に止めを刺す、光の結界によって敵の攻撃から身を防いだり幻覚を吹き飛ばす、といったものがある。また上記原作中の描写で映画にも登場したものの中には、明確に超自然的効果としている描写もある。最もこうした力を使用するのは要所に限られ、基本的にはグラムドリングと杖を使って戦う原作と同じ描写である。 *1977年のランキン・バス版では、オークと[[ワーグ]]の軍勢を追い払うために投げた松ぼっくりが、火炎ではなくて青白い発光と共に電撃がほとばしる爆発物となっていた。 *[[ラルフ・バクシ]]版では、サルマンとの戦いで二名の間には電撃や火花が走っていた。 == 語源 == [[古ノルド語]]で「魔法([[ガンド]])の心得のある[[エルフ|妖精]]」<!--Gandálfrの原義としてのエルフはトールキンのエルフではないため、リンク先を訂正しました。-->を意味する[[ガンダールヴル]]({{lang|non|Gandálfr}})<ref>『エッダ 古代北欧歌謡集』p.18。</ref>の英語化である{{En|Gandalf}}を語源とする。元々この名前は『ホビットの冒険』に登場するドワーフの頭領につけられていたが、彼が[[トーリン・オーケンシールド]]に改名されたのに伴い、より魔法使いにふさわしい、一行を助ける魔法使いの名前になった<ref>H.カーペンター、p.210。</ref>。 エルフの呼び名である「ミスランディア」は、[[シンダール語]]で「灰色の放浪者」という意味であり、「灰色」を意味する''mith''と「放浪者」''randir''で構成されている<ref>伊藤、p.147。</ref>。 ==出典 == <references /> == 参考文献 == *C.トールキン編『[[終わらざりし物語]]』、河出書房新社、2003年。 *Edited by Christopher Tolkien, ''Unfinished Tales'', George Allen & Unwin, 1980. *H.カーペンター『J.R.R.トールキン -或る伝記-』菅原啓州訳、評論社、2002年。 *伊藤盡『エルフ語を読む』、青春出版社、2004年。 *V.G.ネッケル他編『エッダ 古代北欧歌謡集』谷口幸男訳、新潮社、1973年。 {{Ainur}} {{ホビットの冒険}} {{指輪物語}} {{DEFAULTSORT:かんたるふ}} [[Category:マイアール]] [[Category:中つ国の登場人物]] [[Category:架空の魔術師]] [[de:Figuren in Tolkiens Welt#Gandalf]] [[simple:Middle-earth characters#Gandalf]]
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エーオース
エーオース(古代ギリシア語、イオニア方言: Ἠώς, Ēōs)またはヘオース(アッティカ方言: Ἑώς, Heōs)は、ギリシア神話に登場する暁の女神である。その名は古典ギリシア語で「暁」を意味し、暁の神格化である。ティーターンの系譜に属し、様々な恋の物語が彼女をめぐって存在する。聖鳥、聖虫は雄鶏、蝉。日本語では長母音を省略してエオスとも呼ぶ。 エーオースはその名の通り、暁の女神である。ティーターンであるヒュペリーオーンとテイアー女神のあいだに生まれた。兄弟には、同じく自然現象や天体の神格化と言える、ヘーリオス(太陽)とセレーネー(月)がいる。また、同じくティーターンの系譜にあるアストライオスとの間で、三柱のアネモイ(風)、すなわちゼピュロス(西風・春風)、ボレアース(北風)、ノトス(南風)、そしてすべての星々を生んだとされる。 エーオースはイーリオス王ラーオメドーンの子ティートーノスとの間に、英雄メムノーンとエーマティオーンをもうけた。エーマティオーンはヘーラクレースに討たれた。メムノーンは、父ティートーノスがイーリオス王プリアモスの兄弟だったため、エチオピア勢を率いてトロイア戦争に参加した。 オーリーオーンに恋をしたエーオースはその当時盲目であった彼の目を兄であるヘーリオスに治してもらう。その後、晴れてオーリーオーンと恋仲となったエーオースだったが、彼と会いたいがために自身の仕事を早く切り上げるようになったため、その交際中、夜明けの時間が短くなってしまったという。 ローマ神話では、アウローラ(ラテン語: Aurōra)が対応する女神である。 アッティカ方言では、ヘオースというが、これも「暁」の意である。叙事詩での定型修飾称号に、「薔薇色の指持つ(古代ギリシャ語: ῥοδοδάκτυλος, ラテン文字転写: rhododaktylos)」や「黄金の腕持つ」あるいは「黄金の御座にまします(古代ギリシャ語: χρυσόθρονος, ラテン文字転写: khrysothronos)」などがある。ἠριγένεια Ἠώς(エーリゲネイア・エーオース)とは「早きに生まれた暁」の意味である。ホメーロスは«ῥοδοδάκτυλος Ἠώς»すなわち「薔薇色の指もてる暁が」と述べる。こうして、ホメーロスなどの叙事詩では、一日の記述が「ばら色の指をした暁の女神エーオース」などの表現ではじまる。
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エーオースまたはヘオースは、ギリシア神話に登場する暁の女神である。その名は古典ギリシア語で「暁」を意味し、暁の神格化である。ティーターンの系譜に属し、様々な恋の物語が彼女をめぐって存在する。聖鳥、聖虫は雄鶏、蝉。日本語では長母音を省略してエオスとも呼ぶ。
{{redirect|エオス|小惑星|エオス (小惑星)}} {{Infobox deity | type = Greek | name = エーオース<br/>Ἠώς | image = William-Adolphe Bouguereau (1825-1905) - Dawn (1881).jpg | image_size = 200px | caption = {{small|[[ウィリアム・アドルフ・ブグロー]]の[[1811年]]の絵画『暁の女神』。[[バーミングハム美術館]]所蔵。}} | deity_of = {{small|[[明け方|暁]]の女神}} | birth_place = | death_place = | cult_center = | affiliation = [[ティーターン]] | abode = 天空(雲の上) | weapon = | symbol = [[ニワトリ|雄鶏]], [[セミ|蝉]] | consort = [[アストライオス]] | parents = [[ヒュペリーオーン]], [[テイアー]] | siblings = [[ヘーリオス]], [[セレーネー]] | children = [[アネモイ]], [[アストライアー]], [[ポースポロス]], [[ヘスペロス]] | mount = | Roman_equivalent = [[アウローラ]] | festivals = }} '''エーオース'''([[古代ギリシア語]]、[[ギリシア語イオニア方言|イオニア方言]]: {{翻字併記|grc|'''Ἠώς'''|Ēōs|N}})または'''ヘオース'''([[アッティカ方言]]: {{翻字併記|grc|'''Ἑώς'''|Heōs|N}})は、[[ギリシア神話]]に登場する[[明け方|暁]]の[[女神]]である。その名は[[古典ギリシア語]]で「暁」を意味し、暁の神格化である。[[ティーターン]]の系譜に属し、様々な恋の物語が彼女をめぐって存在する。聖鳥、聖虫は[[ニワトリ|雄鶏]]、[[セミ|蝉]]。[[日本語]]では[[長母音]]を省略して'''エオス'''とも呼ぶ。 == 概説 == エーオースはその名の通り、暁の女神である。ティーターンである[[ヒュペリーオーン]]と[[テイアー]]女神のあいだに生まれた。兄弟には、同じく自然現象や天体の神格化と言える、[[ヘーリオス]](太陽)と[[セレーネー]](月)がいる<ref>アポロドーロス『ギリシア神話』第1巻2・2。</ref>。また、同じくティーターンの系譜にある[[アストライオス]]との間で、三柱の[[アネモイ]]([[風]])、すなわち[[アネモイ#西風ゼピュロス|ゼピュロス]](西風・春風)、[[アネモイ#北風ボレアース|ボレアース]](北風)、[[アネモイ#南風ノトス|ノトス]](南風)、そしてすべての星々を生んだとされる<ref>アポロドーロス『ギリシア神話』第1巻2・4。および、ヘーシオドス『神統記』378行-382行。</ref>。 == 神話 == === ティートーノスとの恋と定め === [[File:Eos Memnon Louvre G115.jpg|thumb|200px|メムノーンを抱き上げるエーオースを描いたアッティカの赤絵式杯。紀元前490年-480年頃([[ルーヴル美術館]]蔵)]] エーオースは[[イリオス|イーリオス]]王[[ラーオメドーン]]の子[[ティートーノス]]との間に、英雄[[メムノーン]]と[[エーマティオーン]]をもうけた。エーマティオーンは[[ヘーラクレース]]に討たれた。メムノーンは、父ティートーノスがイーリオス王[[プリアモス]]の兄弟だったため、[[エチオピア]]勢を率いて[[トロイア戦争]]に参加した。 === ケパロスとの恋 === {{節stub}} === オーリーオーンとの恋 === オーリーオーンに恋をしたエーオースはその当時盲目であった彼の目を兄であるヘーリオスに治してもらう。その後、晴れてオーリーオーンと恋仲となったエーオースだったが、彼と会いたいがために自身の仕事を早く切り上げるようになったため、その交際中、夜明けの時間が短くなってしまったという。 == ローマ神話での対応と別名 == [[ローマ神話]]では、'''[[アウローラ]]'''({{lang-la|Aurōra}})が対応する女神である。 アッティカ方言では、'''ヘオース'''というが、これも「暁」の意である。叙事詩での定型修飾称号に、「薔薇色の指持つ({{翻字併記|grc|ῥοδοδάκτυλος|rhododaktylos}})」や「黄金の腕持つ」あるいは「黄金の御座にまします({{翻字併記|grc|χρυσόθρονος|khrysothronos}})」などがある。{{lang|grc|ἠριγένεια Ἠώς}}({{lang|grc-Kana|エーリゲネイア・エーオース}})とは「早きに生まれた暁」の意味である。[[ホメーロス]]は{{lang|grc|«ῥοδοδάκτυλος Ἠώς»}}すなわち「薔薇色の指もてる暁が」と述べる。こうして、ホメーロスなどの[[叙事詩]]では、一日の記述が「ばら色の指をした暁の女神エーオース」などの表現ではじまる。 == ギャラリー == <gallery widths="170px" heights="160px" style="font-size:smaller">Gérard de Lairesse - Apollo and Aurora - WGA12386.jpg|[[ヘラルト・デ・ライレッセ]]『アポロとアウロラ』(1671年) [[メトロポリタン美術館]]所蔵 Guérin-amouretomphale.jpg|[[ピエール=ナルシス・ゲラン]]『アウロラとケパロス』(1810年) [[ルーヴル美術館]]所蔵 Anne-Louis Girodet-Trioson - Aurora, 1814-15.jpg|[[アンヌ=ルイ・ジロデ=トリオソン]]『アウロラ』(1814-1815年頃) {{仮リンク|コンピエーニュ城|en|Château de Compiègne}}所蔵 Juan Antonio Ribera - La Aurora, 1819.jpg|[[フアン・アントニオ・リベーラ]]『アウロラ』(1819年) [[プラド美術館]]所蔵 Adolphe-Alexandre Lesrel - L'Aurore, 1868.jpg|[[アドルフ・アレクサンドル・レスレル]]『アウロラ』(1868年) 個人所蔵 Eos.jpg|[[イーヴリン・ド・モーガン]]『エオス』(1895年) [[コロンビア美術館]]所蔵 </gallery> == 脚注 == {{reflist}} == 参考書籍 == * [[アポロドーロス]]『[[ビブリオテーケー|ギリシア神話]]』[[高津春繁]]訳、[[岩波文庫]](1953年) * [[ヘシオドス]]『[[神統記]]』[[廣川洋一]]訳、岩波文庫(1984年) * [[呉茂一]]『ギリシア神話』、[[新潮社]](1956年) * 高津春繁『ギリシア・ローマ神話辞典』、[[岩波書店]](1960年) * フェリックス・ギラン『ギリシア神話』中島健訳、[[青土社]](1991年) == 関連項目 == {{Commonscat|Eos}} * [[ヘーリオス]] * [[セレーネー]] * [[アネモイ]] {{ギリシア神話}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ええおおす}} [[Category:ギリシア神話の神]] [[Category:女神]]
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かるた
かるた(歌留多、ポルトガル語: carta)とは、遊戯や博打に使用される札。またその遊戯を指す。花札、歌がるた、トランプなどの種類がある。 ポルトガルから伝えられ、ポルトガル語の「carta」の音に「加留多」、「賀留多」、「骨牌」などの漢字が当てられた。 文字札・絵札ともに、あいうえお46枚ずつの札がある。一音につき一セットの読み札・取り札が用意されている。 2人以上で行う。 子供が文字を覚えるための遊びでもある。 ポルトガル語のcartaが語源で「NOVO DICIONARIO DA LINGUA PORTUGUESA」によるとトランプやタロットの一枚一枚を意味しており(他にも手紙や証書などの意味がある)、英語のcardと同じ語源である。本来は外来語だが、新聞等では国語化しているものとして扱われ、通常は片仮名ではなく平仮名で書かれる。 語源はポルトガル語だが、同様の遊戯は日本とポルトガルとの接触前からあったものと考えられている。元々は、平安時代の二枚貝の貝殻をあわせる遊び「貝覆い(貝合せ)」である。これとヨーロッパ由来のカードゲームが融合し、元禄時代頃に今日の遊び方となった。 日本のかるたは、16世紀末頃、筑後国三池(現在の福岡県大牟田市)で作り始められたと言われており、大牟田市には三池カルタ・歴史資料館がある。 いろは47文字に対応した「いろはかるた」が最も古典的で有名である。なお、歴史的仮名遣いや字音仮名遣いに必ずしも準拠しているものではない。 ことわざを使っているが、内容は江戸、京都・大坂など上方、尾張などで各々異なっており、地方の特色が表れて、「郷土かるた」も各地に存在する。「犬も歩けば棒に当たる」で始まるものは、江戸かるた(犬棒かるた)である。 以下に示すものは伝統的な札の一例である。2012年現在市販されているものには、一部の札が差し替えられているものも多い(「ゐ」「ゑ」「京」の削除対象も含む)。江戸いろはかるたの場合では、表現が難解あるいは死語となっている(「月夜に釜を抜く」→「月とすっぽん」、「総領の甚六」→「損して得取れ」など、「芋の煮えたもご存じない」「子は三界の首かせ」も同様に差し替え対象となっている)、下品な表現が含まれる(「屁をひって尻すぼめる」→「下手の長談義」[上方より流用])、差別的ニュアンスがある(「かったいの瘡うらみ」→「かえるの面に水」など)などが差し替えの理由として挙げられる。「良薬は口に苦し」はもともとは慣用仮名遣いの「れうやく」、「れ」の札だったが(字音仮名遣いでは「りやうやく」)、現代仮名遣いの「りょうやく」、「り」の札に配置変更され、元の「り」の札、「律義者の子だくさん」が不採用となったこともある。こういった時代に合わせた変化については賛否両論となっている。
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かるたとは、遊戯や博打に使用される札。またその遊戯を指す。花札、歌がるた、トランプなどの種類がある。 ポルトガルから伝えられ、ポルトガル語の「carta」の音に「加留多」、「賀留多」、「骨牌」などの漢字が当てられた。
{{Otheruseslist|カードゲームとしての「かるた」の全般|「歌がるた」|小倉百人一首|「小倉百人一首」の札を2人が取り合う「競技」|競技かるた|「かるた」のその他の用法|カルタ}} [[ファイル:Playing uta garuta.jpg|thumb|270px|かるたをする女性達(1900年頃)]] [[ファイル:Obake Karuta 4-07.jpg|thumb|210px|お化けかるた『ゑのくまのくび』(19世紀初頭)]] '''かるた'''(歌留多、{{lang-pt|carta}})とは、遊戯や博打に使用される札。またその遊戯を指す。[[花札]]、[[小倉百人一首|歌がるた]]、[[トランプ]]などの種類がある。 ポルトガルから伝えられ、ポルトガル語の「''carta''」の音に「加留多」、「賀留多」、「骨牌」などの漢字が当てられた。 == 道具 == 文字札・絵札ともに、[[五十音|あいうえお]]46枚ずつの札がある。一音につき一セットの読み札・取り札が用意されている。 *'''文字札・読み札''' - 取り札の絵の内容を書いた短い文章が書かれており、読み手(多くは大人)が声に出して読む。 *'''絵札・取り札'''- 読み札の内容を描いた絵と、読み札の文言の頭文字がひらがなで目立つように書いてあり、読み札を読むのに合わせて取り人が手を出して札を取る。ただし、[[小倉百人一首]]では絵はなく和歌の下の句が書かれている。 == ルール == 2人以上で行う。 #取り札を平面(畳の上が多い)に広げ、取る人に見やすくする。 #読み人が読み札を読む。 #できるだけ早く、読み札に合った取り札を叩く(はじく、または押さえることもある)。先に叩いた方がその札を手に入れる(札を取る)。 #全ての読み札、取り札がなくなるまで繰り返す。 #より多くの取り札を取った方の勝ち。 子供が文字を覚えるための遊びでもある。 == 起源 == ポルトガル語のcartaが[[語源]]で「NOVO DICIONARIO DA LINGUA PORTUGUESA」によるとトランプやタロットの一枚一枚を意味しており(他にも手紙や証書などの意味がある)、英語のcardと同じ語源である<ref>{{Cite journal|和書|url=http://rp-kumakendai.pu-kumamoto.ac.jp/dspace/handle/123456789/1861 |author=馬場良二 |title=ポルトガル語からの外来語 |journal=国文研究 |publisher=熊本県立大学日本語日本文学会 |date=2008-05 |volume=53 |pages=120(1)-111(10) |naid=120006773363 }}</ref>。本来は[[外来語]]だが、新聞等では[[国語]]化しているものとして扱われ、通常は片仮名ではなく平仮名で書かれる<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi-kotoba.jp/photo-20210825|title=「かるた」 国語化している外来語|date=2021-08-25|work=毎日ことば|publisher=毎日新聞 校閲センター|accessdate=2021-08-27}}</ref>。 語源はポルトガル語だが、同様の遊戯は日本とポルトガルとの接触前からあったものと考えられている。元々は、[[平安時代]]の二枚貝の貝殻をあわせる遊び「貝覆い([[貝合わせ|貝合せ]])」である。これとヨーロッパ由来のカードゲームが融合し、[[元禄]]時代頃に今日の遊び方となった。 日本のかるたは、16世紀末頃、筑後国三池(現在の[[福岡県]][[大牟田市]])で作り始められたと言われており、大牟田市には三池カルタ・歴史資料館がある<ref>[http://karuta-rekishi.com/ 三池カルタ・歴史資料館] </ref>。 == 古典的ないろはかるた == [[いろは歌|いろは]]47文字に対応した「いろはかるた」が最も古典的で有名である。なお、[[歴史的仮名遣い]]や[[字音仮名遣い]]に必ずしも準拠しているものではない。 [[ことわざ]]を使っているが、内容は[[江戸]]、[[京都]]・[[大阪|大坂]]など[[上方]]、[[尾張]]などで各々異なっており、地方の特色が表れて、「'''郷土かるた'''」も各地に存在する。「'''犬も歩けば棒に当たる'''」で始まるものは、江戸かるた(犬棒かるた)である。 以下に示すものは伝統的な札の一例である<ref group="注">同じ地域でも内容にはバリエーションがある。[[牧村史陽]]編『大阪ことば事典』(講談社、1979年 ISBN 4-06-158658-0 (講談社学術文庫版))付録の「いろはたとえ」(765-772頁)にはいろはかるたの成立過程についての考察に加え、アンケート、および実例に基づく明治期の大阪を中心としたいろはかるたのバリエーションが採録されている。</ref>。2012年現在市販されているものには、一部の札が差し替えられているものも多い(「ゐ」「ゑ」「京」の削除対象も含む)。江戸いろはかるたの場合では、表現が難解あるいは死語となっている(「月夜に釜を抜く」→「月とすっぽん」、「総領の甚六」→「損して得取れ」など、「芋の煮えたもご存じない」「子は三界の首かせ」も同様に差し替え対象となっている)、下品な表現が含まれる(「屁をひって尻すぼめる」→「下手の長談義」[上方より流用])、差別的ニュアンスがある(「かったいの瘡うらみ」→「かえるの面に水」など)などが差し替えの理由として挙げられる。「良薬は口に苦し」はもともとは慣用仮名遣いの「れうやく」、「れ」の札だったが(字音仮名遣いでは「りやうやく」)、現代仮名遣いの「りょうやく」、「り」の札に配置変更され、元の「り」の札、「律義者の子だくさん」が不採用となったこともある。こういった時代に合わせた変化については賛否両論となっている<ref>{{ wayback | date = 20030126103408 | url = http://www.yomiuri.co.jp/top/20030125it09.htm | title = 「江戸いろはカルタ“毒”抜きに」}} 読売新聞 2003年1月25日</ref>。 {| class="wikitable" |- !仮名 !!江戸!!上方!!尾張 |- |い||[[wikt:犬も歩けば棒に当たる|犬も歩けば棒に当たる]]||一寸先は闇||[[wikt:一を聞いて十を知る|一を聞いて十を知る]] |- |ろ||[[wikt:論より証拠|論より証拠]]||[[wikt:論語読みの論語知らず|論語読みの論語知らず]]||六十の三つ子 |- |は||[[wikt:花より団子|花より団子]]||針の穴から天覗く||[[wikt:花より団子|花より団子]] |- |に||憎まれっ子世にはばかる||二階から目薬||憎まれっ子頭堅し |- |ほ||[[wikt:骨折り損のくたびれ儲け|骨折り損のくたびれ儲け]]||仏の顔も三度||惚れたが因果 |- |へ||屁をひって尻すぼめる||[[wikt:下手の長談義|下手の長談義]]||下手の長談義 |- |と||年寄りの冷や水||豆腐に鎹||遠くの一家より近くの隣 |- |ち||ちりも積もれば山となる||地獄(ぢごく)の沙汰も金次第||地獄の沙汰も金次第 |- |り||律義者の子沢山||綸言汗のごとし||綸言汗のごとし |- |ぬ||[[wikt:盗人の昼寝|盗人の昼寝]]||[[wikt:糠に釘|糠に釘]]||盗人の昼寝 |- |る||[[wikt:瑠璃も玻璃も照らせば光る|瑠璃も玻璃も照らせば光る]]||[[wikt:類をもって集まる|類をもって集まる]]||類をもって集まる |- |を||[[wikt:老いては子に従え|老いては子に従え]]<br>(「老い」は「おい」が正しい)||鬼も十八<br>(「鬼」は「おに」が正しい)||鬼の女房に鬼神 |- |わ||破れ鍋に綴じ蓋||[[wikt:笑う門には福来る|笑う門には福来る]]||若いときは二度ない |- |か||[[かったい]]の瘡(かさ)うらみ||かえるの面に水||陰うらの豆もはじけ時 |- |よ||葦(よし)の髄(ずい)から天井のぞく||夜目遠目笠のうち||横槌で庭掃く |- |た||旅は道連れ世は情け||立て板に水||大食上戸餅食らい |- |れ||れうやく(良薬)は口に苦し<br>(「良」は「りやう」が正しい)||[[wikt:連木で腹切る|連木で腹切る]]||連木で腹切る |- |そ||[[wikt:総領の甚六|総領の甚六]]||[[wikt:袖の振り合わせも他生の縁|袖の振り合わせも他生の縁]]||袖の振り合わせも他生の縁 |- |つ||[[wikt:月と鼈|月とすっぽん]]||月夜に釜を抜かれる||爪に火をともす |- |ね||念には念を入れよ||[[wikt:猫に小判|猫に小判]]||寝耳に水 |- |な||[[wikt:泣きっ面に蜂|泣きっ面に蜂]]||なす時の閻魔顔||習わぬ経は読めぬ |- |ら||楽あれば苦あり||来年の事を言えば鬼が笑う||楽して楽知らず |- |む||無理が通れば道理引っ込む||馬(むま)の耳に風||無芸大食 |- |う||[[wikt:嘘から出た実|嘘から出た真]]||氏より育ち||牛を馬にする |- |ゐ||芋の煮えたもご存じない<br />(「芋」は「いも」が正しい)||鰯の頭も信心から<br>(「鰯」は「いわし」が正しい)||炒り豆に花が咲く<br>(「炒り」は「いり」が正しい) |- |の||喉元過ぎれば熱さを忘れる||ノミと言えば槌||野良の節句働き |- |お||[[wikt:鬼に金棒|鬼に金棒]]||[[wikt:負うた子に教えられて浅瀬を渡る|負うた子に教えられて浅瀬を渡る]]||[[wikt:陰陽師身の上知らず|陰陽師身の上知らず]] |- |く||臭いものに蓋をする||臭い物に蝿がたかる||果報(くゎはう)は寝て待て |- |や||[[wikt:安物買いの銭失い|安物買いの銭失い]]||闇に鉄砲||闇に鉄砲 |- |ま||負けるが勝ち||まかぬ種は生えぬ||待てば海路の日和あり |- |け||[[wikt:芸は身を助く|芸は身を助く]]||下駄と焼き味噌||下戸の建てた蔵はない |- |ふ||文はやりたし書く手は持たぬ||武士は食わねど高楊枝||武士は食わねど高楊枝 |- |こ||子は三界の首枷||これにこりよ道才坊||こころざしは松の葉 |- |え||[[wikt:得手に帆を揚ぐ|えてに帆を上ぐ]]||縁と月日||閻魔の色事 |- |て||亭主の好きな赤烏帽子||寺から里へ||天道人殺さず |- |あ||[[wikt:頭隠して尻隠さず|頭隠して尻隠さず]]||足元から鳥が立つ||阿呆につける薬はない |- |さ||三遍回って煙草にしょ||竿の先に鈴||触らぬ神にたたりなし |- |き||聞いて極楽見て地獄||鬼神に横道なし||義理と褌かかねばならぬ |- |ゆ||油断大敵||幽霊の浜風<br>(「幽」は「いう」が正しい)||油断大敵 |- |め||目の上のこぶ||盲の垣のぞき||目の上のこぶ |- |み||[[wikt:身から出た錆|身から出た錆]]||身は身で通る||蓑売りの古蓑 |- |し||[[wikt:知らぬが仏|知らぬが仏]]||しはん坊の柿のさね||尻食へ観音 |- |ゑ||縁は異なもの味なもの<br>(「縁」は「えん」が正しい)||縁の下の舞||[[wikt:縁の下の力持ち|縁の下の力持ち]] |- |ひ||貧乏暇なし||瓢箪から駒<br>(「瓢」は「へう」が正しい)||貧僧の重ね食い |- |も||[[wikt:門前の小僧習わぬ経を読む|門前の小僧習わぬ経を読む]]||餅は餅屋||桃栗三年柿八年 |- |せ||急いては事を仕損じる||せんちで饅頭||背戸の馬も相口 |- |す||粋は身を食う||雀百まで踊り忘れぬ||墨に染まれば黒くなる |- |京||京の夢大阪の夢||京に田舎あり|| |} == その他のかるた == * 小倉百人一首 :「[[小倉百人一首]]」のことを「かるた」と称する場合がある。また「小倉百人一首」を用いて[[全日本かるた協会]]が定めた規則で行われる「[[競技かるた]]」のことを「かるた」と称する場合がある。 * 地方伝統の「かるた」 :日本各地には、ほかにも各地方の伝統や名物などを読み込んだかるたがある。代表的なものに、[[群馬県]]全域で親しまれている[[上毛かるた]]がある。それ以外にも北海道弁かるたや津軽弁かるたなど、各地方でCD付きの[[方言]]かるたも発売されている。こうした「郷土かるた」は千数百種類に達するとみられる<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXKZO29353330T10C18A4BC8000/ 山口幸男:郷土かるた 地域愛育む◇群馬の「上毛かるた」きっかけ、30年にわたり調査◇]『日本経済新聞』朝刊2018年4月16日(文化面)</ref>。 * 企画物としての「かるた」 :キャンペーンとして、かるたが作られることもある。たとえば1938年、[[内務省 (日本)|内務省]]社会局保険部が標語を募って「健康いろは歌留多」が作られた<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=ZCpiuo0cY50C&pg=frontcover 紙業提要] 王子製紙 1938年</ref>。 :その他、[[テレビアニメ]]・[[特撮]]番組のキャラクター等を用いたかるたも多く市販されている。 == 文学のかるた == * [[金色夜叉]] - お宮と富山の出会いの場がかるた会である。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * 『実用ことわざ 慣用句辞典』 [[三省堂]]編修所編、三省堂、1987年 * [http://www.karuta.or.jp/ 一般社団法人全日本かるた協会]‐[[小倉百人一首]]、とりわけ競技かるたを振興する組織 == 関連項目 == * [[百人一首]] * [[競技かるた]] * [[上毛かるた]] * [[天正かるた]] * [[うんすんカルタ]] * [[花札]] * [[株札]] * [[手本引]] * [[トランプ]] * [[大石天狗堂]] * [[エンゼルプレイングカード]] == 外部リンク == * [https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000224083 「かるた」について、日本においての起源や、その歴史、名前の由来について。正月遊びにおける、かるたの位... | レファレンス協同データベース] * [https://japanplayingcardmuseum.com/ 日本かるた文化館] * [http://karuta-rekishi.com/history/ カルタの歴史 大牟田の歴史 | 三池カルタ・歴史資料館] * [https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000261502 かるたを作りたい。作り方の載っている本はあるか。| レファレンス協同データベース] {{日本の遊戯}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かるた}} [[Category:かるた|*]] [[Category:カードゲーム]] [[Category:日本のゲーム]] [[Category:新春の季語]] [[Category:ポルトガル語からの借用語]]
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Iアプリ
iアプリ(英:i-αppli)とは、NTTドコモの携帯電話(mova503i以降およびFOMAの各シリーズに限られる)で実行出来るJavaを使用するJavaアプリケーションおよびサービスである。 2001年に発売された503iシリーズではじめてiアプリの実行機能が搭載された。iアプリの実体はDoJaプロファイルに従って作成されたJavaアプリケーションである。機種やインフラの整備に合わせて、仕様が拡充されて多くの仕様が存在する。 同業他社より、EZアプリ(au)、S!アプリ(SoftBank)と同じ様なサービスが行われている。 2008年冬モデルのFOMAの一部機種からは、iアプリオンラインに対応している。これは、複数のユーザーとリアルタイムでの通信が可能になるシステムである。また、iアプリコールを使って、端末の電話帳を利用し、複数の相手のiアプリの起動を促す事ができる。 iアプリの機能拡張版で、mova505iシリーズ、FOMA900iシリーズ以降の機種で実行できる。「トラステッドiアプリ」とも呼ばれる。電話帳の登録・変更・削除、iモードメールの制御、リダイアル履歴、着信メロディなどの携帯電話本体のデータの利用がアプリ上で行えるようになったほか、ダウンロード元サーバ以外のサーバと通信することができるようになった。 その仕様上、コンピュータウイルス的なプログラムが作られてしまう危険もあるため、開発用のライブラリはセキュリティ上、iモード公式サイトの契約を結んでいるコンテンツプロバイダのみに公開され、長らく一般には公開されていなかった。これにより、一般のiアプリ開発者はDoJa3.0以降の機能を使用することが出来るが、iアプリDXを作ることができない状態が続いていた。 2010年8月26日になってようやく開発環境が公開され、個人がiアプリDXを開発できるようになった。これにはGPSの利用、電話帳データへのアクセス、課金機能などの全ての機能が含まれる。これに合わせて2010年12月6日にはiモード向け「ドコモマーケット」(従来はAndroid向けのみ)が開設され、ここで個人が有料/無料アプリを公開することも可能になった。 主にゲームなどの他、メールなどのツール、さらにはフルブラウザなど多くの種類のアプリが出て利用されている。 DoJa 1.0。プログラム容量が20KB(ダウンロード10KB、スクラッチパッド10KB)。 DoJa 2.0になり、プログラム容量が130KB(ダウンロード30KB、スクラッチパッド100KB)になった。マスコットカプセル2.0による3D描画機能が追加された。 DoJa 3.0になり、プログラム容量が230KB(ダウンロード30KB、スクラッチパッド200KB)になった。マスコットカプセル3.0による3D描画機能が追加された。iアプリの仕様を拡張したiアプリDXにも対応するようになり、アプリ上でiモードメールの参照も出来る様になった。同時に行われたスクラッチパッドの拡張でゲーム機に迫る表現力も持つようになった。 movaに関してその後発売された505iS、506i、506iSで仕様拡張は行われていない。 mova503iと大差ない。DoJa 1.0。プログラム容量が20KB以上(ダウンロード10KB以上、スクラッチパッド10KB以上)。 mova504iと大差ないが、画面サイズが拡大されている。プログラム容量が130KB(ダウンロード30KB、スクラッチパッド100KB)。DoJa 2.1。 DoJa 3.5で、505i相当をさらに拡張した500KB(ダウンロード100KB、スクラッチパッド400KB)になった。これまで、movaのそれを下回っていたが、遂に逆転する事になった。愛称はパワーアップiアプリ。 DoJa 4.0で、プログラム容量は500KB(ダウンロード100KB、スクラッチパッド400KB)と変わらないが、マスコットカプセル3.0に加え同4.0による3D描画機能と3Dサウンド制御機能を追加された。 プログラム容量が230KB(ダウンロード30KB、スクラッチパッド200KB)と505iと変わらない。マスコットカプセル3.0による3D描画機能はあるが同4.0による3D描画機能と3Dサウンド制御機能は非対応である以外は901iと能力は変わらない。901iを簡略化したDoJa 4.0LE。 DoJa 4.1で、プログラム容量は500KB(ダウンロード100KB、スクラッチパッド400KB)と変わらないが、デジタル署名関連機能の追加、SDカードにソフトを保存できる「SD-Binding」等が追加された。 DoJa 5.0で、プログラム容量は1MB(ダウンロード、スクラッチパッドは可変で境界線は無くなり外部メモリーを使えば1MB以上も可能)。メガiアプリの愛称。ハードウェアを使用するOpen GL ES 1.0相当のクラスやBluetoothのクラスが追加。703iシリーズの一部の機種でも採用されている。904i、905i、906iでは仕様拡張は行われていない。 プログラム容量はmova504iと同等の130KB(ダウンロード30KB、スクラッチパッド100KB)。 DoJa 1.55e。mova503i相当となっている。
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iアプリとは、NTTドコモの携帯電話(mova503i以降およびFOMAの各シリーズに限られる)で実行出来るJavaを使用するJavaアプリケーションおよびサービスである。
{{出典の明記|date=2020年6月}} {{小文字|title=iアプリ}} '''iアプリ'''([[英語|英]]:'''i-αppli''')とは、[[NTTドコモ]]の[[携帯電話]]([[mova]]503i以降および[[FOMA]]の各シリーズに限られる)で実行出来る[[Java]]を使用する[[Javaアプリケーション]]およびサービスである。 == 仕様 == [[2001年]]に発売された503iシリーズではじめてiアプリの実行機能が搭載された。iアプリの実体は[[DoJaプロファイル]]に従って作成されたJavaアプリケーションである。機種やインフラの整備に合わせて、仕様が拡充されて多くの仕様が存在する。 同業他社より、[[EZアプリ]]([[Au (携帯電話)|au]])、[[S!アプリ]]([[SoftBank (携帯電話)|SoftBank]])と同じ様なサービスが行われている。 [[2008年]]冬モデルのFOMAの一部機種からは、'''iアプリオンライン'''に対応している。これは、複数のユーザーとリアルタイムでの通信が可能になるシステムである。また、iアプリコールを使って、端末の電話帳を利用し、複数の相手のiアプリの起動を促す事ができる。 == iアプリDX == iアプリの機能拡張版で、mova505iシリーズ、FOMA900iシリーズ以降の機種で実行できる。「トラステッドiアプリ」とも呼ばれる。電話帳の登録・変更・削除、iモードメールの制御、リダイアル履歴、[[着信メロディ]]などの携帯電話本体のデータの利用がアプリ上で行えるようになったほか、ダウンロード元サーバ以外のサーバと通信することができるようになった。 その仕様上、[[コンピュータウイルス]]的なプログラムが作られてしまう危険もあるため、開発用のライブラリは[[コンピュータセキュリティ|セキュリティ]]上、iモード[[公式サイト (携帯電話)|公式サイト]]の契約を結んでいる[[コンテンツプロバイダ]]のみに公開され、長らく一般には公開されていなかった。これにより、一般のiアプリ開発者はDoJa3.0以降の機能を使用することが出来るが、iアプリDXを作ることができない状態が続いていた。 2010年8月26日になってようやく開発環境が公開され、個人がiアプリDXを開発できるようになった。これには[[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]]の利用、電話帳データへのアクセス、課金機能などの全ての機能が含まれる。これに合わせて2010年12月6日にはiモード向け「[[ドコモマーケット]]」(従来は[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]向けのみ)が開設され、ここで個人が有料/無料アプリを公開することも可能になった。 == 利用目的 == 主にゲームなどの他、メールなどのツール、さらにはフルブラウザなど多くの種類のアプリが出て利用されている。 == 仕様 == === mova === ==== 503i ==== DoJa 1.0。プログラム容量が20KB(ダウンロード10KB、スクラッチパッド10KB)。 ==== 504i ==== DoJa 2.0になり、プログラム容量が130KB(ダウンロード30KB、スクラッチパッド100KB)になった。マスコットカプセル2.0による3D描画機能が追加された。 ==== 505i ==== DoJa 3.0になり、プログラム容量が230KB(ダウンロード30KB、スクラッチパッド200KB)になった。マスコットカプセル3.0による3D描画機能が追加された。iアプリの仕様を拡張したiアプリDXにも対応するようになり、アプリ上でiモードメールの参照も出来る様になった。同時に行われたスクラッチパッドの拡張でゲーム機に迫る表現力も持つようになった。 movaに関してその後発売された505iS、506i、506iSで仕様拡張は行われていない。 === FOMA === ==== 2101/2001 ==== mova503iと大差ない。DoJa 1.0。プログラム容量が20KB以上(ダウンロード10KB以上、スクラッチパッド10KB以上)。 ==== 2102/2051 ==== mova504iと大差ないが、画面サイズが拡大されている。プログラム容量が130KB(ダウンロード30KB、スクラッチパッド100KB)。DoJa 2.1。 ==== 900i ==== DoJa 3.5で、505i相当をさらに拡張した500KB(ダウンロード100KB、スクラッチパッド400KB)になった。これまで、movaのそれを下回っていたが、遂に逆転する事になった。愛称はパワーアップiアプリ。 ==== 901i ==== DoJa 4.0で、プログラム容量は500KB(ダウンロード100KB、スクラッチパッド400KB)と変わらないが、マスコットカプセル3.0に加え同4.0による3D描画機能と3Dサウンド制御機能を追加された。 ==== 700i ==== プログラム容量が230KB(ダウンロード30KB、スクラッチパッド200KB)と505iと変わらない。[[MascotCapsule|マスコットカプセル]]3.0による3D描画機能はあるが同4.0による3D描画機能と3Dサウンド制御機能は非対応である以外は901iと能力は変わらない。901iを簡略化したDoJa 4.0LE。 ==== 902i ==== DoJa 4.1で、プログラム容量は500KB(ダウンロード100KB、スクラッチパッド400KB)と変わらないが、デジタル署名関連機能の追加、SDカードにソフトを保存できる「SD-Binding」等が追加された。 ==== 903i ==== DoJa 5.0で、プログラム容量は1MB(ダウンロード、スクラッチパッドは可変で境界線は無くなり外部メモリーを使えば1MB以上も可能)。'''メガiアプリ'''の愛称。ハードウェアを使用するOpen GL ES 1.0相当のクラスやBluetoothのクラスが追加。703iシリーズの一部の機種でも採用されている。904i、905i、906iでは仕様拡張は行われていない。 ==== SIMPURE(600i) ==== プログラム容量はmova504iと同等の130KB(ダウンロード30KB、スクラッチパッド100KB)。 ==== NM850iG ==== DoJa 1.55e。mova503i相当となっている。 == 関連項目 == *[[DoJaプロファイル]] *[[S!アプリ]] *[[オープンアプリプレイヤー]] *[[EZアプリ (Java)]] *[[日本における携帯電話]] *[[スマートフォン]] *[[ドコモマーケット]] == 外部リンク == *[https://www.docomo.ne.jp/service/iappli/ iアプリ | サービス・機能 | NTTドコモ] *[https://www.docomo.ne.jp/service/developer/make/content/iappli/ iアプリ | サービス・機能 | NTTドコモ] - 開発者向け情報 {{Docomoのサービス}} {{DEFAULTSORT:あいあふり}} [[Category:Iモード]] [[Category:携帯電話アプリ|*あいあぷり]]
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GCC GNUコンパイラコレクション(GNU Compiler Collection) GNU C Compiler 湾岸協力会議(gulf Cooperation Council) 地球気候連合(Global Climate Coalition)
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西東京市
西東京市(にしとうきょうし)は、東京都の多摩地域北東部に位置する市。 2001年1月21日、田無市と保谷市が合併して発足した。21世紀最初の新設合併により誕生した市である。 地形的には武蔵野台地のほぼ中央に位置し、関東ローム層に覆われている。水利の便の乏しい多摩地域にあって市内に石神井川、白子川、新川(白子川支流)と玉川上水から分水した千川上水があり、比較的水利に恵まれた土地である。市域は東西4.8キロメートル、南北に5.6キロメートル、北側がすぼまった葉の形をしている。区部と境界を接している隣接5市の内の一つである。 交通は東京の中心へ向かう東西が主で青梅街道、五日市街道の主要道路、鉄道も西武池袋線、西武新宿線がいずれも市内を東西に連絡している。鉄道は南北への連絡はなく、南北の移動は市域のほぼ中央にあたる谷戸新道、境新道を用いてバスや自家用車などでの利用が中心となる。 市内の中心は、西武新宿線西武柳沢駅、田無駅北側と西武池袋線ひばりヶ丘駅、保谷駅南側となる。 以下に西東京市成立までの歴史を記述する。(出典)なお、西原総合教育施設内の西東京市郷土資料室にて史料を展示している。 市内にはいくつかの遺跡があり、旧石器時代から人類が住んでいたことがわかっている。最も大規模なものは環状集落の下野谷遺跡(国の史跡)で、旧石器時代末の細石器群や縄文時代の竪穴建物跡約390棟、竪穴4基、掘立式建物跡19棟など非常に多くの遺構が発掘されている。また、東伏見稲荷神社遺跡では1940年に旧石器が発見されているが、これは日本で初めて旧石器時代の遺跡として認定された岩宿遺跡の発見(1946年)よりも早い(ただし、東伏見稲荷神社遺跡はその時点で旧石器時代のものと認定されていない。)。これらはいずれも市内南部の石神井川流域にある。一方、市内北部の白子川流域からは、北宮ノ脇遺跡(旧石器時代、縄文時代)、上前遺跡(縄文時代)、中荒屋敷遺跡(旧石器時代、縄文時代、弥生時代)などが発見されている。 西東京市の地域が属する武蔵国が設置されたのは飛鳥時代である。田無地域は多摩郡、保谷地域は新羅郡に属していた。なお、市内の西原遺跡から奈良時代の土器が、坂下遺跡からは平安時代の建物跡や土器類が出土している。 市内北部を流れる白子川(大泉堀)の流域に下保谷、中部を流れる新川の流域に上保谷と田無の集落が形成された。保谷の地名は熊野那智大社文書(1504年〜1555年)に「ほゝや」の文字が、小田原衆所領役帳(後北条役帳)(1559年(永禄2年))には「保屋」「田無」の文字が見られ、この頃には保谷・田無の地に集落が成立していることがわかる。また、14世紀の後半には、宮山(谷戸町付近)に尉殿権現が、16世紀には下保谷村総鎮守の三十番神社(現天神社)が建立されている。(その後、尉殿権現は17世紀に上保谷の尉殿権現(現尉殿神社)と田無の尉殿権現(現田無神社)に分祀されている。) 1600年頃、江戸城造営のための石灰運搬のため青梅街道が開削され、田無にはこの街道の宿駅が置かれた。この際、谷戸などの住民が宿駅周辺に移住し、以後、田無は青梅街道の宿場町、交通の要所として栄えていく。一方、保谷では享保期(1716年〜1736年)以降に下保谷新田(現在のひばりが丘周辺)と上保谷新田(現在の新町周辺)が開墾された。特に玉川上水の分水である千川上水の整備により開墾された上保谷新田は順調に開発が進み、後に上保谷新田村として上保谷村から独立している。 1889年(明治22年)4月1日、町村制の施行に伴い、当時の下保谷村、上保谷村、上保谷新田村が合併し保谷村が成立した。この際、旧村域はそれぞれ保谷村の大字「下保谷」「上保谷」「上保谷新田」となっている。一方、田無では、これに先立ち1879年(明治12年)に田無村が町制を施行し田無町となっている。 1889年に開通した甲武鉄道(現在のJR中央線)は、当初、青梅街道沿いに敷設する計画だった。しかしながら、田無の農民・商人の反対により、そのルートは町内を大きく外れた。このことで、田無は次第にその優先的な地位を失う。一方、保谷では地元の有力者が駅舎などの土地を寄付するなど積極的に武蔵野鉄道池袋線(現在の西武池袋線)を誘致し、池袋〜飯能が1915年(大正4年)が開通した際に保谷駅が開設された。また、1922年(大正11年)の池袋〜所沢間の電化の際には保谷車庫が開設されている。その後、1924年(大正13年)に池袋線にひばりヶ丘駅(開業当時は田無町駅)が設置、1927年には西武鉄道村山線(現在の西武新宿線)開通と同時に東伏見駅(開業当時は上保谷駅)、西武柳沢駅、田無駅が設置された。保谷市内の4駅、田無駅ともターミナル駅である池袋、新宿から15-25分程度と比較的近いこともあり、後に両市とも東京のベッドタウンとして発展した。 昭和初期、田無町には中島飛行機発動機試運転工場が開設され、1937年(昭和12)の日中戦争開始前後から軍需工場の進出が本格化した。中島飛行機田無鋳鍛工場(後に中島航空金属に改称)、豊和重工業、東洋鍛工田無工場などが相次いで開設された。戦時中は、旧田無市内の軍需工場が空襲を受け、旧保谷市南部も中島飛行機武蔵野工場に近いため空襲を受けている(但し西東京市、東久留米市にまたがっていた中島航空金属田無工場はほとんど空襲は受けなかった)。そのため南部で隣接する武蔵野市とともに不発弾が発見されることがある。他に1936年(昭和11年)にはシチズン時計が田無工場を開設(その後、2001年(平成13年)には本社も西東京市に移転)、1941年(昭和16年)には保谷町に東洋光学硝子製造所(現HOYA)が創業と、この時代に企業の市内への進出が続いている。この頃、保谷では1940年(昭和15年)に町制を施行している。 戦後は、1959年(昭和34年)に日本住宅公団最大の公団住宅であるひばりが丘団地が保谷町・田無町(および久留米町)にまたがる地域に造成されるなど両市とも順調に人口が増加し、1967年(昭和42年)には保谷町、田無町とも市制を施行して、それぞれ保谷市、田無市となっている。 旧保谷市は旧田無市の北、東、南を囲むような形をしており、特に南部が細長い市形となっていたため、行政効率などの点で田無市との合併が古くから考えられてきていた。また、ひばりが丘団地が2市と東久留米市にまたがっており、1950年代から1960年代の市制施行前には田無・保谷・久留米(現・東久留米市)の3町での合併構想もあった。 新市名の選考にあたっては、まず公募によって集まった名称から「西東京市」「けやき野市」「北多摩市」「ひばり市」「みどり野市」の5つが候補として絞り込まれた。これを受けて実施された市民意向調査によって最も多くの支持を集めた「西東京市」が、合併協議会によって新市名と決定された。 しかし、単に『東○○市』『西○○市』といった方角名称にすることに対しては、同時期に合併が行われた『さいたま市』(埼玉県)や『東かがわ市』(香川県)などと同様に、「安易過ぎる」との批判も多い。しかし、この『西東京市』以降、方角自治体が続々と誕生している。なお、それ以前にも東大阪市や東広島市のような例はあった。 「西東京」という呼称は、「旧東京市の西」ではなく、「旧東京府の西部」を指すことが多かった。例えば西東京バスは青梅、日野、八王子地区に路線を持っている。そのため、旧東京府の中央部にある市にこの名称を付ける事に疑問を呈する意見もあった。合併協議会でも、東京という市は存在せず、位置的に正確な表現とは言えないのではないかという意見があった。 なお、本市発足に先立って、2市を主な対象とした「エフエム西東京」が開局している。ただしこの局と市名との関連はない模様である。 歴史的には、「東京」という地名は、明治維新期に「東の京」という意味から名付けられた。「西東京」では「東の京の西」という意味になる。なお、現在の東京都全体から見てむしろ中央より東寄りに位置することは、その名称に対する疑問の一因である。さらに、西東京市の領域は元々東京府に属していたわけではなく、旧田無市は神奈川県、旧保谷市は埼玉県に属していた。 北多摩市にした場合、北多摩郡の範囲(多摩郡からの分割時点で2町1駅36村)に比べて、西東京市の範囲が北東に寄りすぎており、かつ保谷市は1907年(明治40年)に東京府北多摩郡に編入されるまで埼玉県新座郡(新羅郡)(1896年(明治29年)に北足立郡に合併)に属しており、多摩郡の支配地域ではなかったという問題がある。合併協議会でも、多摩市と混乱を生じる可能性や、地域的に北多摩郡の一部に過ぎず適当ではないといった意見が出されている。 また、市内の地名にも方角が付くものが多く(例:南町、東町、北町)、「東京都西東京市南町」などと方角だらけの住所表記となってしまう地域も多い。なお、「西東京市」は名称の中に方角が2つ含まれる全国唯一の市である。 2007年(平成19年)11月「報酬審議会」で他市との比較を理由に10パーセント引き上げが答申された。答申通り報酬は改訂され、2008年(平成20年)4月1日より市長月額8万5千円の増額(月額105万円の報酬)、議員月額5万5千円の増額(月額55万円の報酬)となった。これに対して、市民から複数の報酬引き上げ撤回を求める陳情 が提出されるもいずれも不採択となり、「市長・議員の報酬は増額、市民へは増税」として新聞・テレビ等でも取り上げられた。 また、引き上げ分の受け取りを拒否した市議会議員森てるおに対して、市側は報酬(全額)の支払いを停止して法務局に全額を供託する事態となった。 2021年の市長選挙にて、池澤隆史候補陣営の確認団体「明日の西東京を創る会」が、対立候補の平井竜一(前神奈川県逗子市長)を非難する内容(下記参照)の法定ビラを市長選投票日直前に西東京市内全域に配布した。 選挙は約1,500票の差で池澤が当選したが、選挙後に平井を推した西東京市議などが抗議の署名活動を行う事態となった。 東京都内では東京23区・八王子市・町田市・府中市・調布市に次ぎ6番目(市町村では5番目)に人口が多い。合併後人口は増加傾向にある。2015年に行われた国勢調査では人口が20万人を超えた。 2005年の夜間人口(居住者)は189,386人である。市外からの通勤者と通学生および居住者のうちの市内に昼間残留する人口の合計である昼間人口は148,056人で、昼は夜の0.782倍の人口で、夜間に比べて昼の人口は4万1千人ほど減る。昼夜間人口比0.782は東京23区および東京都市部25市の中で狛江市、稲城市に次いで3番目に小さい数字で、西東京市がオフィスや工場・学校が少なく住宅の多い街であることが示されている。 通勤者・通学者で見ると市内から市外へ出る通勤者59,549人、市外から市内へ入る通勤者は24,210人と通勤者では市外へ出る通勤者のほうが多く、学生でも市内から市外に出る通学生は11,024人、市外から市内へ入る通学生は5,033人と学生でも昼は市外へ流出する人数のほうが多い。 西東京市では、全域で住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されている。 合併時の経緯で旧保谷・田無両市役所を流用し2庁舎体制としている。 市長室は田無庁舎にあるため実質的な代表庁舎は田無庁舎であるが、部署により設置庁舎を分散させている。 谷戸出張所と中原出張所は統合し、移転。(2009年(平成21年)5月7日開設) 平成24年度 警視庁田無警察署が本市(東町4丁目15番の一部は石神井警察署が管轄)と東久留米市全域を管轄している。西東京市発足前後で変化はない。警察署名は主たる自治体名から取るように定められているが(警察法施行令)、2市を管轄しているため、西東京警察署への改称はされなかった。 消防は東京消防庁へ業務を委託している。 西東京消防署(旧保谷消防署)が市内全域を管轄している。 東京都水道局に統合。東村山浄水場の配水地域であるが、市内には保谷町、西東京栄町、芝久保の3浄水所(地下水汲み上げ)もある。 市の下水道課が管理。 保谷庁舎のごみ減量推進課にて市内全域の家庭系一般廃棄物の収集を実施。 販売は、10枚単位 柳泉園組合(東久留米市、清瀬市、西東京市が設置した一般廃棄物の処理施設)で可燃ごみの燃焼処理・不燃ごみ・資源ごみの中間処理を実施する。 東京たま広域資源循環組合の谷戸沢処分場(処分終了)、二ツ塚処分場(現用)にて埋立処分およびセメント化事業を実施する。 東京法務局田無出張所 自衛隊東京地方協力本部三多摩地区隊本部西東京地域事務所 - 田無町4丁目28-13 就業人口 隣接する武蔵野市に中島飛行機武蔵製作所があり、当市内にはその関連工場・施設(中島航空金属田無製作所。跡地はひばりが丘団地となった)があったため、数次の空襲を受ける。戦後、当市内のそれら関連工場・施設は民需に転換して存続したが、旧保谷市の革新市政の政策や近年の産業構造の改革等により、その多くが閉鎖された。跡地は大規模マンションなどになっており、人口増につながっている。 以前は明治薬科大学があったが清瀬市に移転している。跡地はマンションなどに整備された。 東町1丁目の文理台公園は1936年(昭和11年)9月に旧東京文理科大学保谷運動場として開設されたもので、かつては400mトラックと投擲場、跳躍場、サッカーおよびラグビーのゴール、さらに教官室と2階建ての合宿所も備えていた。 市域内に公立病院はないが当市も参画する昭和病院組合が小平市に公立昭和病院を開設。その通院連絡のため、西武柳沢駅から同病院前を経て青梅車庫へ至る都営バス梅70系統が運行されていたが、2015年3月31日をもって運行短縮によって(小平市の花小金井駅以遠の運行に)、当市内を運行しなくなった。 市の東西を以下の2路線が走り東京都中心部と結ばれている。JTB時刻表では市の代表駅を田無庁舎最寄りの田無駅としている。 この他、小平市にある花小金井駅も市境に近く、芝久保町などは同駅が最寄となる。 なし。東京都道5号新宿青梅線に並行する形で、地域高規格道路の多摩新宿線が通るルート構想があるが、具体化していない。 なお、各公共施設については武蔵野市、三鷹市、小金井市と相互に利用協定を結んでいる。
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"text": "北多摩市にした場合、北多摩郡の範囲(多摩郡からの分割時点で2町1駅36村)に比べて、西東京市の範囲が北東に寄りすぎており、かつ保谷市は1907年(明治40年)に東京府北多摩郡に編入されるまで埼玉県新座郡(新羅郡)(1896年(明治29年)に北足立郡に合併)に属しており、多摩郡の支配地域ではなかったという問題がある。合併協議会でも、多摩市と混乱を生じる可能性や、地域的に北多摩郡の一部に過ぎず適当ではないといった意見が出されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "また、市内の地名にも方角が付くものが多く(例:南町、東町、北町)、「東京都西東京市南町」などと方角だらけの住所表記となってしまう地域も多い。なお、「西東京市」は名称の中に方角が2つ含まれる全国唯一の市である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2007年(平成19年)11月「報酬審議会」で他市との比較を理由に10パーセント引き上げが答申された。答申通り報酬は改訂され、2008年(平成20年)4月1日より市長月額8万5千円の増額(月額105万円の報酬)、議員月額5万5千円の増額(月額55万円の報酬)となった。これに対して、市民から複数の報酬引き上げ撤回を求める陳情 が提出されるもいずれも不採択となり、「市長・議員の報酬は増額、市民へは増税」として新聞・テレビ等でも取り上げられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "また、引き上げ分の受け取りを拒否した市議会議員森てるおに対して、市側は報酬(全額)の支払いを停止して法務局に全額を供託する事態となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2021年の市長選挙にて、池澤隆史候補陣営の確認団体「明日の西東京を創る会」が、対立候補の平井竜一(前神奈川県逗子市長)を非難する内容(下記参照)の法定ビラを市長選投票日直前に西東京市内全域に配布した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "選挙は約1,500票の差で池澤が当選したが、選挙後に平井を推した西東京市議などが抗議の署名活動を行う事態となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "東京都内では東京23区・八王子市・町田市・府中市・調布市に次ぎ6番目(市町村では5番目)に人口が多い。合併後人口は増加傾向にある。2015年に行われた国勢調査では人口が20万人を超えた。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2005年の夜間人口(居住者)は189,386人である。市外からの通勤者と通学生および居住者のうちの市内に昼間残留する人口の合計である昼間人口は148,056人で、昼は夜の0.782倍の人口で、夜間に比べて昼の人口は4万1千人ほど減る。昼夜間人口比0.782は東京23区および東京都市部25市の中で狛江市、稲城市に次いで3番目に小さい数字で、西東京市がオフィスや工場・学校が少なく住宅の多い街であることが示されている。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "通勤者・通学者で見ると市内から市外へ出る通勤者59,549人、市外から市内へ入る通勤者は24,210人と通勤者では市外へ出る通勤者のほうが多く、学生でも市内から市外に出る通学生は11,024人、市外から市内へ入る通学生は5,033人と学生でも昼は市外へ流出する人数のほうが多い。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "西東京市では、全域で住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されている。", "title": "町名" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "合併時の経緯で旧保谷・田無両市役所を流用し2庁舎体制としている。 市長室は田無庁舎にあるため実質的な代表庁舎は田無庁舎であるが、部署により設置庁舎を分散させている。", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "谷戸出張所と中原出張所は統合し、移転。(2009年(平成21年)5月7日開設)", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "平成24年度", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "警視庁田無警察署が本市(東町4丁目15番の一部は石神井警察署が管轄)と東久留米市全域を管轄している。西東京市発足前後で変化はない。警察署名は主たる自治体名から取るように定められているが(警察法施行令)、2市を管轄しているため、西東京警察署への改称はされなかった。", "title": "公共機関" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "消防は東京消防庁へ業務を委託している。 西東京消防署(旧保谷消防署)が市内全域を管轄している。", "title": "公共機関" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "東京都水道局に統合。東村山浄水場の配水地域であるが、市内には保谷町、西東京栄町、芝久保の3浄水所(地下水汲み上げ)もある。", "title": "公共機関" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "市の下水道課が管理。", "title": "公共機関" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "保谷庁舎のごみ減量推進課にて市内全域の家庭系一般廃棄物の収集を実施。", "title": "公共機関" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "販売は、10枚単位", "title": "公共機関" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "柳泉園組合(東久留米市、清瀬市、西東京市が設置した一般廃棄物の処理施設)で可燃ごみの燃焼処理・不燃ごみ・資源ごみの中間処理を実施する。", "title": "公共機関" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "東京たま広域資源循環組合の谷戸沢処分場(処分終了)、二ツ塚処分場(現用)にて埋立処分およびセメント化事業を実施する。", "title": "公共機関" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "東京法務局田無出張所", "title": "公共機関" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "自衛隊東京地方協力本部三多摩地区隊本部西東京地域事務所 - 田無町4丁目28-13", "title": "公共機関" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "就業人口", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "隣接する武蔵野市に中島飛行機武蔵製作所があり、当市内にはその関連工場・施設(中島航空金属田無製作所。跡地はひばりが丘団地となった)があったため、数次の空襲を受ける。戦後、当市内のそれら関連工場・施設は民需に転換して存続したが、旧保谷市の革新市政の政策や近年の産業構造の改革等により、その多くが閉鎖された。跡地は大規模マンションなどになっており、人口増につながっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "以前は明治薬科大学があったが清瀬市に移転している。跡地はマンションなどに整備された。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "東町1丁目の文理台公園は1936年(昭和11年)9月に旧東京文理科大学保谷運動場として開設されたもので、かつては400mトラックと投擲場、跳躍場、サッカーおよびラグビーのゴール、さらに教官室と2階建ての合宿所も備えていた。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "市域内に公立病院はないが当市も参画する昭和病院組合が小平市に公立昭和病院を開設。その通院連絡のため、西武柳沢駅から同病院前を経て青梅車庫へ至る都営バス梅70系統が運行されていたが、2015年3月31日をもって運行短縮によって(小平市の花小金井駅以遠の運行に)、当市内を運行しなくなった。", "title": "病院" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "市の東西を以下の2路線が走り東京都中心部と結ばれている。JTB時刻表では市の代表駅を田無庁舎最寄りの田無駅としている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "この他、小平市にある花小金井駅も市境に近く、芝久保町などは同駅が最寄となる。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "なし。東京都道5号新宿青梅線に並行する形で、地域高規格道路の多摩新宿線が通るルート構想があるが、具体化していない。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "なお、各公共施設については武蔵野市、三鷹市、小金井市と相互に利用協定を結んでいる。", "title": "施設" } ]
西東京市(にしとうきょうし)は、東京都の多摩地域北東部に位置する市。 2001年1月21日、田無市と保谷市が合併して発足した。21世紀最初の新設合併により誕生した市である。
{{日本の市 | 画像 = Tanashi jinja2.JPG | 画像の説明 = [[田無神社]]の拝殿 | 市旗 = [[ファイル:Flag of Nishitokyo, Tokyo.svg|border|100px|西東京市旗]] | 市旗の説明 = 西東京[[市町村旗|市旗]] | 市章 = [[ファイル:Emblem_of_Nishitokyo,_Tokyo.svg|80px|西東京市章]] | 市章の説明 = 西東京[[市町村章|市章]]<br><small>[[2002年]][[1月21日]]制定</small> | 自治体名 = 西東京市 | 都道府県 = 東京都 | コード = 13229-2 | 隣接自治体 = [[練馬区]]、[[東久留米市]]、[[小平市]]、[[小金井市]]、[[武蔵野市]]<br />[[埼玉県]][[新座市]] | 木 = [[ケヤキ]]<br />[[ハナミズキ]]<br />(2004年1月21日制定) | 花 = [[ツツジ]](春)<br />[[ヒマワリ]](夏)<br />[[コスモス]](秋)<br />[[スイセン]](冬)<br />(2004年1月21日制定) | シンボル名 = その他 | 鳥など = 市歌:大好きです、西東京 | 郵便番号 = 188-8666 | 所在地 = 西東京市南町五丁目6番13号<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-13|display=inline,title}}<br />[[ファイル:Nishitokyo city hall Tanashi building.JPG|center|250px]] | 外部リンク = {{Official website}} | 位置画像 = {{基礎自治体位置図|13|229|image=Nishitokyo in Tokyo Prefecture Ja.svg|村の色分け=no}}<br />{{Maplink2|zoom=11|frame=yes|plain=yes|frame-align=center|frame-width=230|frame-height=220|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2|frame-latitude=35.736 |frame-longitude=139.549}} | 特記事項 = }} [[ファイル:TaroTokyo-20100719-SkyTowerNishiTokyo-01.jpg|thumb|300px|市のランドマークといえる電波塔<br>[[スカイタワー西東京|スカイタワー西東京(田無タワー)]]]] '''西東京市'''(にしとうきょうし)は、[[東京都]]の[[多摩地域]]北東部に位置する[[市]]。 [[2001年]]([[平成]]13年)[[1月21日]]に[[田無市]]と[[保谷市]]が[[日本の市町村の廃置分合|合併]]して発足した<ref name="gappeikyo">[http://www.city.nishitokyo.lg.jp/siseizyoho/tokei/gappei/gappeikyo.html 田無市・保谷市合併協議会] 西東京市公式サイト</ref>。[[21世紀]]最初の[[日本の市町村の廃置分合#合体(新設合併)と編入(編入合併)|新設合併]]により誕生した市である。 == 地理 == [[ファイル:西東京市衛星写真001.jpg|thumb|180px|right|西東京市の[[ランドサット]]衛星写真。]] 地形的には[[武蔵野台地]]のほぼ中央に位置し、[[関東ローム層]]に覆われている。水利の便の乏しい多摩地域にあって市内に[[石神井川]]、[[白子川]]、新川(白子川支流)と[[玉川上水]]から分水した[[千川上水]]があり、比較的水利に恵まれた土地である。市域は東西4.8キロメートル、南北に5.6キロメートル、北側がすぼまった葉の形をしている。区部と境界を接している隣接5市の内の一つである。 [[交通]]は[[東京]]の中心へ向かう東西が主で[[青梅街道]]、[[五日市街道]]の主要[[道路]]、[[鉄道]]も[[西武池袋線]]、[[西武新宿線]]がいずれも市内を東西に連絡している。鉄道は南北への連絡はなく、南北の移動は市域のほぼ中央にあたる谷戸新道、境新道を用いて[[バス (交通機関)|バス]]や自家用車などでの利用が中心となる。 {{see also|多摩南北道路#多摩南北道路1号線(調布保谷線)}} === 隣接している自治体 === * 東 - [[練馬区]] * 北 - [[埼玉県]][[新座市]] * 北西 - [[東久留米市]] * 西 - [[小平市]] * 南 - [[小金井市]]、[[武蔵野市]] == 歴史 == 以下に西東京市成立までの歴史を記述する。(出典<ref name="田無・保谷の歴史">田無・保谷の歴史</ref><ref name="保谷の昔">保谷の昔と村人たち</ref>)なお、西原総合教育施設内の西東京市郷土資料室にて史料を展示している<ref>[http://www.city.nishitokyo.lg.jp/sisetu/other/kyodo.html 郷土資料室(西東京市Web)]</ref>。 === 原始 === 市内にはいくつかの遺跡があり、[[日本の旧石器時代|旧石器時代]]から人類が住んでいたことがわかっている。最も大規模なものは[[環状集落]]の[[下野谷遺跡]](国の[[史跡]])で、旧石器時代末の細石器群や[[縄文時代]]の[[竪穴建物]]跡約390棟、竪穴4基、[[掘立式建物]]跡19棟など非常に多くの遺構が発掘されている。また、東伏見稲荷神社遺跡では1940年に旧石器が発見されているが、これは日本で初めて旧石器時代の遺跡として認定された[[岩宿遺跡]]の発見([[1946年]])よりも早い(ただし、東伏見稲荷神社遺跡はその時点で旧石器時代のものと認定されていない。)。これらはいずれも市内南部の[[石神井川]]流域にある。一方、市内北部の[[白子川]]流域からは、北宮ノ脇遺跡(旧石器時代、縄文時代)、上前遺跡(縄文時代)、中荒屋敷遺跡(旧石器時代、縄文時代、[[弥生時代]])などが発見されている。 === 古代 === 西東京市の地域が属する[[武蔵国]]が設置されたのは[[飛鳥時代]]である。田無地域は[[多摩郡]]、保谷地域は[[新座郡|新羅郡]]に属していた。なお、市内の西原遺跡から[[奈良時代]]の土器が、坂下遺跡からは[[平安時代]]の建物跡や土器類が出土している。 === 中世 === 市内北部を流れる白子川(大泉堀)の流域に下保谷、中部を流れる新川の流域に上保谷と田無の集落が形成された。保谷の地名は熊野那智大社文書([[1504年]]〜[[1555年]])に「ほゝや」の文字が、小田原衆所領役帳(後北条役帳)(1559年([[永禄]]2年))には「保屋」「田無」の文字が見られ、この頃には保谷・田無の地に集落が成立していることがわかる。また、[[14世紀]]の後半には、宮山([[谷戸町]]付近)に尉殿権現が、16世紀には下保谷村総鎮守の三十番神社(現[[天神社 (西東京市)|天神社]])が建立されている。(その後、尉殿権現は[[17世紀]]に上保谷の尉殿権現(現・[[尉殿神社]])と田無の尉殿権現(現・[[田無神社]])に分祀されている。) === 近世 === [[1600年]]頃、[[江戸城]]造営のための石灰運搬のため[[青梅街道]]が開削され、田無にはこの街道の[[宿場|宿駅]]が置かれた。この際、谷戸などの住民が宿駅周辺に移住し、以後、田無は青梅街道の宿場町、交通の要所として栄えていく。一方、保谷では[[享保]]期([[1716年]]〜[[1736年]])以降に下保谷新田(現在の[[ひばりが丘 (東京都)|ひばりが丘]]周辺)と上保谷新田(現在の[[新町 (西東京市)|新町]]周辺)が開墾された。特に[[玉川上水]]の分水である[[千川上水]]の整備により開墾された上保谷新田は順調に開発が進み、後に上保谷村から独立している。 === 近現代 === [[1889年]]([[明治]]22年)4月1日、町村制の施行に伴い、当時の下保谷村、上保谷村、上保谷新田が合併し保谷村が成立した。この際、旧村域はそれぞれ保谷村の大字「下保谷」「上保谷」「上保谷新田」となっている。一方、田無では、これに先立ち[[1879年]](明治12年)に田無村が町制を施行し田無町となっている。 ====鉄道誘致==== 1889年に開通した[[甲武鉄道]](現在の[[中央本線|JR中央線]])は、当初、青梅街道沿いに敷設する計画だった。しかしながら、田無の農民・商人の反対により、そのルートは町内を大きく外れた。このことで、田無は次第にその優先的な地位を失う。<ref group="注">甲武鉄道は、青梅街道沿いのルートを断念した後に計画した[[甲州街道]]沿いのルートも[[調布市|調布]]の住民の反対で断念し、両街道の中間を通る現在のルートとなっている。</ref>一方、保谷では地元の有力者が駅舎などの土地を寄付するなど積極的に[[西武鉄道|武蔵野鉄道]][[西武池袋線|池袋線]](現在の西武池袋線)を誘致し、[[池袋駅|池袋]]〜[[飯能駅|飯能]]が[[1915年]]([[大正]]4年)が開通した際に[[保谷駅]]が開設された。<ref group="注">このためか《西武池袋線開業当時の保谷駅隣駅の》[[石神井公園駅]](開業当時は石神井駅)〜 [[東久留米駅]]間のルートは、両駅間の直線ルートよりかなり南にずれて保谷駅を通っている。</ref>また、[[1922年]](大正11年)の池袋〜[[所沢駅|所沢]]間の電化の際には[[保谷車両管理所|保谷車庫]]が開設されている。その後、[[1924年]](大正13年)に池袋線に[[ひばりヶ丘駅]](開業当時は田無町駅)が設置、1927年には西武鉄道村山線(現在の[[西武新宿線]])開通と同時に[[東伏見駅]](開業当時は上保谷駅)、[[西武柳沢駅]]、[[田無駅]]が設置された。保谷市内の4駅、田無駅とも[[ターミナル駅]]である池袋、新宿から15-25分程度と比較的近いこともあり、後に両市とも東京のベッドタウンとして発展した。 ====産業化・軍需工場進出==== 昭和初期、田無町には[[中島飛行機|中島飛行機発動機]]試運転工場が開設され、1937年(昭和12)の日中戦争開始前後から[[軍需]][[工場]]の進出が本格化した。中島飛行機田無鋳鍛工場(後に中島航空金属に改称)、豊和重工業、東洋鍛工田無工場などが相次いで開設された。[[戦中|戦時中]]は、旧田無市内の軍需工場が[[空襲]]を受け、旧保谷市南部も中島飛行機武蔵野工場に近いため空襲を受けている(但し西東京市、東久留米市にまたがっていた中島航空金属田無工場はほとんど空襲は受けなかった)。そのため南部で隣接する武蔵野市とともに[[不発弾]]が発見されることがある。他に[[1936年]](昭和11年)には[[シチズン時計]]が田無工場を開設(その後、[[2001年]](平成13年)には本社も西東京市に移転)、[[1941年]](昭和16年)には保谷町に東洋光学硝子製造所(現・[[HOYA]])が創業と、この時代に企業の市内への進出が続いている。この頃、保谷では[[1940年]](昭和15年)に町制を施行している。 ===戦後=== [[戦後]]は、[[1959年]](昭和34年)に日本住宅公団最大の公団住宅である[[ひばりが丘団地]]が保谷町・田無町(および[[東久留米市|久留米町]])にまたがる地域に造成されるなど両市とも順調に人口が増加し、[[1967年]](昭和42年)には保谷町、田無町とも市制を施行して、それぞれ保谷市、田無市となっている。 ====年表==== {{Main2|合併以前の年表については、[[田無市]]および[[保谷市]]の項を}} * [[2001年]](平成13年)[[1月21日]] - 田無市・保谷市が[[日本の市町村の廃置分合#合体|新設合併]]して'''西東京市'''が発足。 * [[2002年]](平成14年)[[1月21日]] - 市章を制定。 * [[2002年]](平成14年)[[3月23日]] - [[はなバス]]を運行開始。 * [[2003年]](平成15年)[[4月1日]] - [[保谷駅]]北口駅前広場完成。 * [[2005年]](平成17年)[[2月18日]] - [[坂口光治]]市長就任。 * [[2005年]](平成17年)[[4月29日]] - [[西東京いこいの森公園]]開園。 * [[2012年]](平成24年)[[3月4日]] - 保谷駅南口駅前広場完成。 * [[2013年]](平成25年)[[2月18日]] - [[丸山浩一]]市長就任。 * [[2013年]](平成25年)[[4月21日]] - [[東伏見公園]]一部開園。 * [[2015年]](平成27年)[[8月2日]] - [[伏見通り]]が全線開通。 * [[2019年]](平成31年)[[3月16日]] - [[ひばりヶ丘駅]]北口駅前広場完成。 *[[2021年]] (令和3年) [[2月18日]] - [[池沢隆史]]市長就任。 ====合併の経緯==== 旧保谷市は旧田無市の北、東、南を囲むような形をしており、特に南部が細長い市形となっていたため、[[行政]]効率などの点で田無市との合併が古くから考えられてきていた。また、[[ひばりが丘団地]]が2市と[[東久留米市]]にまたがっており、1950年代から1960年代の市制施行前には田無・保谷・久留米(現・[[東久留米市]])の3町での合併構想もあった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.nishitokyo.lg.jp/siseizyoho/tokei/gappei/gappeikyo.files/gappei_kiroku.pdf|title=田無市・保谷市合併の記録(PDF:25,973KB)|accessdate=2018-12-27|publisher=西東京市|page=6}}</ref>。 ====名称問題==== 新市名の選考にあたっては、まず公募によって集まった名称から「'''西東京市'''」「'''けやき野市'''」「'''北多摩市'''」「'''ひばり市'''」「'''みどり野市'''」の5つが候補として絞り込まれた。これを受けて実施された市民意向調査によって最も多くの支持を集めた「西東京市」が、合併協議会によって新市名と決定された<ref>[http://www.city.nishitokyo.lg.jp/siseizyoho/symbol/yurai.html 西東京市名称の由来] 西東京市Web</ref>。 しかし、単に『東○○市』『西○○市』といった[[方角地名|方角名称]]にすることに対しては、同時期に合併が行われた『[[さいたま市]]』([[埼玉県]])や『[[東かがわ市]]』([[香川県]])などと同様に、「安易過ぎる」との批判も多い。しかし、この『西東京市』以降、方角自治体が続々と誕生している。なお、それ以前にも[[東大阪市]]や[[東広島市]]のような例はあった。 「西東京」という呼称は、「旧[[東京市]]の西」ではなく、「旧[[東京府]]の西部」を指すことが多かった。例えば[[西東京バス]]は青梅、日野、八王子地区に路線を持っている。そのため、旧東京府の中央部にある市にこの名称を付ける事に疑問を呈する意見もあった。合併協議会でも、東京という市は存在せず、位置的に正確な表現とは言えないのではないかという意見があった<ref name="pdf006">[http://www.city.nishitokyo.lg.jp/old/kyogikai2/name/pdf/006.pdf 新市名候補選定小委員会報告について]</ref>。 なお、本市発足に先立って、2市を主な対象とした「[[エフエム西東京]]」が開局している。ただしこの局と市名との関連はない模様である。 歴史的には、「東京」という地名は、[[明治維新]]期に「東の京」という意味から名付けられた。「西東京」では「東の京の西」という意味になる。なお、現在の東京都全体から見てむしろ中央より東寄りに位置することは、その名称に対する疑問の一因である。さらに、西東京市の領域は元々[[東京府]]に属していたわけではなく、旧田無市は[[神奈川県]]、旧保谷市は[[埼玉県]]に属していた。 北多摩市にした場合、北多摩郡の範囲(多摩郡からの分割時点で2町1駅36村)に比べて、西東京市の範囲が北東に寄りすぎており、かつ保谷市は[[1907年]](明治40年)に東京府[[北多摩郡]]に編入されるまで埼玉県[[新座郡]](新羅郡)([[1896年]](明治29年)に[[北足立郡]]に合併)に属しており、多摩郡の支配地域ではなかったという問題がある。合併協議会でも、[[多摩市]]と混乱を生じる可能性や、地域的に北多摩郡の一部に過ぎず適当ではないといった意見が出されている<ref name="pdf006" />。 また、市内の地名にも[[方位|方角]]が付くものが多く(例:[[南町 (西東京市)|南町]]、[[東町 (西東京市)|東町]]、[[北町 (西東京市)|北町]])、「'''東'''京都'''西東'''京市'''南'''町」などと方角だらけの住所表記となってしまう地域も多い。なお、「西東京市」は名称の中に方角が2つ含まれる全国唯一の市である<ref group="注">西と東。なお、[[町]]では[[青森県]][[上北郡]]の「[[東北町]]」、[[村]]では[[沖縄県]][[島尻郡]]の「[[北大東村]]」と「[[南大東村]]」が在る。</ref>。 ====特別職報酬引き上げ問題==== [[2007年]](平成19年)11月「報酬審議会」で他市との比較を理由に10パーセント引き上げが答申された<ref>[http://www.city.nishitokyo.lg.jp/siseizyoho/sesaku_keikaku/singikaietctosin/other/tokubetu01.html 特別職報酬等審議会:平成19年11月20日答申 - 特別職の職員の報酬等について]</ref>。答申通り報酬は改訂され、[[2008年]](平成20年)4月1日より市長月額8万5千円の増額(月額105万円の報酬)、議員月額5万5千円の増額(月額55万円の報酬)となった。これに対して、市民から複数の報酬引き上げ撤回を求める陳情<ref>[http://www.city.nishitokyo.lg.jp/smph/sigikai/nittei_kekka/anken_kekka/kekka200803te.html 陳情第34号 陳情第35号 陳情第40号]</ref> が提出されるもいずれも不採択となり、「市長・議員の[[報酬]]は増額、市民へは増税」として[[新聞]]・[[テレビ]]等でも取り上げられた。 また、引き上げ分の受け取りを拒否した市議会議員[[森てるお]]に対して、市側は報酬(全額)の支払いを停止して[[東京法務局|法務局]]に全額を供託する事態となった。 ====市長選挙でのネガティブキャンペーン問題==== [[2021年]]の市長選挙にて、[[池澤隆史]]候補陣営の確認団体「明日の西東京を創る会」が、対立候補の[[平井竜一]](前[[神奈川県]][[逗子市]]長)を非難する内容(下記参照)の法定ビラを市長選投票日直前に西東京市内全域に配布した<ref>{{Cite web|和書|title=西東京市長選「国政のとばっちり」 自公推薦候補が苦戦|url=https://www.asahi.com/articles/ASP2873Z0P28UTIL005.html|accessdate=2021-04-12|website=[[朝日新聞]]}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=「ネガティブキャンペーン」抗議のネット署名活動始まる 西東京市長選挙の池澤陣営配布ビラ|url=https://www.skylarktimes.com/?p=27519|accessdate=2021-04-10|website=ひばりタイムズ}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=「ネガキャン選挙を許さない!」 西東京市長選への抗議活動始まる|url=https://www.town-t.com/?p=17338|accessdate=2021-04-10|website=タウン通信}}</ref>。 * 表面には、「逗子での失敗のリベンジは逗子でやってください。ここは西東京です。」というスローガン<ref>{{Cite web|和書|title=西東京市の「ムラ社会」的選挙が妨げる、第三極保守政党という新風|url=https://ironna.jp/article/17025|accessdate=2021-04-12|website=iRonnna}}</ref> * 裏面には、新聞記事などから平井の否定的な評価のみを抜粋した引用と「西東京市のまちづくりは、西東京市民の手で!共産・左翼に市政を渡すな!!」というスローガン 選挙は約1,500票の差で池澤が当選したが、選挙後に平井を推した西東京市議などが抗議の署名活動を行う事態となった<ref>{{Cite web|和書|title=ネガキャン選挙許さない! 西東京市長選 落選陣営が署名活動|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/87095|accessdate=2021-04-10|website=[[東京新聞]]}}</ref>。 == 人口 == 東京都内では[[東京都区部|東京23区]]・[[八王子市]]・[[町田市]]・[[府中市 (東京都)|府中市]]・[[調布市]]に次ぎ6番目(市町村では5番目)に人口が多い。合併後人口は増加傾向にある。2015年に行われた国勢調査では人口が20万人を超えた。 {{人口統計|code=13229|name=西東京市|image=Population distribution of Nishitokyo, Tokyo, Japan.svg}} === 昼夜間人口 === 2005年の夜間人口([[居住]]者)は189,386人である。市外からの[[通勤]]者と[[通学]]生および居住者のうちの市内に昼間残留する人口の合計である[[昼間人口]]は148,056人で、[[昼]]は[[夜]]の0.782倍の人口で、夜間に比べて昼の人口は4万1千人ほど減る。昼夜間人口比0.782は東京23区および東京都市部25市の中で狛江市、稲城市に次いで3番目に小さい数字で、西東京市がオフィスや工場・[[学校]]が少なく[[住宅]]の多い街であることが示されている。 通勤者・通学者で見ると市内から市外へ出る通勤者59,549人、市外から市内へ入る通勤者は24,210人と通勤者では市外へ出る通勤者のほうが多く、学生でも市内から市外に出る通学生は11,024人、市外から市内へ入る通学生は5,033人と学生でも昼は市外へ流出する人数のほうが多い<ref>東京都編集『東京都の昼間人口2005』平成20年発行152-153ページ。</ref>。<ref group="注">平成22年国勢調査によれば、東京都[[東京都区部|特別区部]]への[[通勤]]率は42.9%である。</ref><ref group="注">国勢調査では[[年齢]]不詳のものが東京都だけで16万人いるが、この項の昼夜間人口に関しては年齢不詳の人物は数字に入っておらず、数字の間に若干の誤差がある。</ref> == 町名 == 西東京市では、全域で[[住居表示に関する法律]]に基づく[[住居表示]]が実施されている。 <!-- 町名の順序は、西東京市統計書等公的資料の順序に倣った。 --> ===西東京市役所管内=== {|class="wikitable" style="width:100%" style="font-size:small" |+西東京市役所管内(108町丁) !style="width:14%"|町名 !style="width:12%"|設置年月日 !style="width:12%"|住居表示実施年月日 !style="width:40%"|住居表示実施直前の町名 !style="width:10%"|備考 |- |{{ruby|'''[[田無町]]'''|たなしちょう}}'''一丁目''' |2001年1月21日 |1966年9月1日 |字柳沢、字下宿、字南芝久保、字上宿、字北原の各一部 | |- |'''田無町二丁目''' |2001年1月21日 |1966年9月1日 |字柳沢、字下宿、字南芝久保、字上宿、字北原の各一部 | |- |'''田無町三丁目''' |2001年1月21日 |1966年9月1日 |字柳沢、字下宿、字南芝久保、字上宿、字北原の各一部 | |- |'''田無町四丁目''' |2001年1月21日 |1966年9月1日 |字柳沢、字下宿、字南芝久保、字上宿、字北原の各一部 | |- |'''田無町五丁目''' |2001年1月21日 |1966年9月1日 |字柳沢、字下宿、字南芝久保、字上宿、字北原の各一部 | |- |'''田無町六丁目''' |2001年1月21日 |1966年9月1日 |字柳沢、字下宿、字南芝久保、字上宿、字北原の各一部 | |- |'''田無町七丁目''' |2001年1月21日 |1966年9月1日 |字柳沢、字下宿、字南芝久保、字上宿、字北原の各一部 | |- |{{ruby|'''[[南町 (西東京市)|南町]]'''|みなみちょう}}'''一丁目''' |2001年1月21日 |1966年9月1日 |字柳沢、字下宿、字南芝久保、字上宿、字下向台の各一部 | |- |'''南町二丁目''' |2001年1月21日 |1966年9月1日 |字柳沢、字下宿、字南芝久保、字上宿、字下向台の各一部 | |- |'''南町三丁目''' |2001年1月21日 |1966年9月1日 |字柳沢、字下宿、字南芝久保、字上宿、字下向台の各一部 | |- |'''南町四丁目''' |2001年1月21日 |1966年9月1日 |字柳沢、字下宿、字南芝久保、字上宿、字下向台の各一部 | |- |'''南町五丁目''' |2001年1月21日 |1966年9月1日 |字柳沢、字下宿、字南芝久保、字上宿、字下向台の各一部 | |- |'''南町六丁目''' |2001年1月21日 |1966年9月1日 |字柳沢、字下宿、字南芝久保、字上宿、字下向台の各一部 | |- |{{ruby|'''[[西原町 (西東京市)|西原町]]'''|にしはらちょう}}'''一丁目''' |2001年1月21日 |1967年10月1日 |字下宿、字北芝久保、字上宿、字西原の各一部 | |- |'''西原町二丁目''' |2001年1月21日 |1967年10月1日 |字下宿、字北芝久保、字上宿、字西原の各一部 | |- |'''西原町三丁目''' |2001年1月21日 |1967年10月1日 |字下宿、字北芝久保、字上宿、字西原の各一部 | |- |'''西原町四丁目''' |2001年1月21日 |1967年10月1日 |字下宿、字北芝久保、字上宿、字西原の各一部 | |- |'''西原町五丁目''' |2001年1月21日 |1967年10月1日 |字下宿、字北芝久保、字上宿、字西原の各一部 | |- |{{ruby|'''[[緑町 (西東京市)|緑町]]'''|みどりちょう}}'''一丁目''' |2001年1月21日 |1967年10月1日 |字西原、字北原、字谷戸の各一部 | |- |'''緑町二丁目''' |2001年1月21日 |1967年10月1日 |字西原、字北原、字谷戸の各一部 | |- |'''緑町三丁目''' |2001年1月21日 |1967年10月1日 |字西原、字北原、字谷戸の各一部 | |- |{{ruby|'''[[谷戸町]]'''|やとちょう}}'''一丁目''' |2001年1月21日 |1967年10月1日 |字谷戸の一部 | |- |'''谷戸町二丁目''' |2001年1月21日 |1967年10月1日 |字谷戸の一部 | |- |'''谷戸町三丁目''' |2001年1月21日 |1967年10月1日 |字谷戸の一部 | |- |{{ruby|'''[[北原町 (西東京市)|北原町]]'''|きたはらちょう}}'''一丁目''' |2001年1月21日 |1967年10月1日 |字柳沢、字北原の各一部 | |- |'''北原町二丁目''' |2001年1月21日 |1967年10月1日 |字柳沢、字北原の各一部 | |- |'''北原町三丁目''' |2001年1月21日 |1967年10月1日 |字柳沢、字北原の各一部 | |- |{{ruby|'''[[向台町]]'''|むこうだいちょう}}'''一丁目''' |2001年1月21日 |1968年9月1日 |字柳沢、字下向台、字上向台の各全部 | |- |'''向台町二丁目''' |2001年1月21日 |1968年9月1日 |字柳沢、字下向台、字上向台の各全部 | |- |'''向台町三丁目''' |2001年1月21日 |1968年9月1日 |字柳沢、字下向台、字上向台の各全部 | |- |'''向台町四丁目''' |2001年1月21日 |1968年9月1日 |字柳沢、字下向台、字上向台の各全部 | |- |'''向台町五丁目''' |2001年1月21日 |1968年9月1日 |字柳沢、字下向台、字上向台の各全部 | |- |'''向台町六丁目''' |2001年1月21日 |1968年9月1日 |字柳沢、字下向台、字上向台の各全部 | |- |{{ruby|'''[[芝久保町]]'''|しばくぼちょう}}'''一丁目''' |2001年1月21日 |1968年9月1日 |字南芝久保、字北芝久保の各全部 | |- |'''芝久保町二丁目''' |2001年1月21日 |1968年9月1日 |字南芝久保、字北芝久保の各全部 | |- |'''芝久保町三丁目''' |2001年1月21日 |1968年9月1日 |字南芝久保、字北芝久保の各全部 | |- |'''芝久保町四丁目''' |2001年1月21日 |1968年9月1日 |字南芝久保、字北芝久保の各全部 | |- |'''芝久保町五丁目''' |2001年1月21日 |1968年9月1日 |字南芝久保、字北芝久保の各全部 | |- |{{ruby|'''[[新町 (西東京市)|新町]]'''|しんまち}}'''一丁目''' |2001年1月21日 |1967年1月1日 |大字上保谷新田の小字シラシクボ通、大日堂、鎮守前、鎮守台、堀分北、新橋道東、新橋道西 | |- |'''新町二丁目''' |2001年1月21日 |1967年1月1日 |大字上保谷新田の小字シラシクボ通、大日堂、鎮守前、鎮守台、堀分北、新橋道東、新橋道西 | |- |'''新町三丁目''' |2001年1月21日 |1967年1月1日 |大字上保谷新田の小字シラシクボ通、大日堂、鎮守前、鎮守台、堀分北、新橋道東、新橋道西 | |- |'''新町四丁目''' |2001年1月21日 |1967年1月1日 |大字上保谷新田の小字シラシクボ通、大日堂、鎮守前、鎮守台、堀分北、新橋道東、新橋道西 | |- |'''新町五丁目''' |2001年1月21日 |1967年1月1日 |大字上保谷新田の小字シラシクボ通、大日堂、鎮守前、鎮守台、堀分北、新橋道東、新橋道西 | |- |'''新町六丁目''' |2001年1月21日 |1967年1月1日 |大字上保谷新田の小字シラシクボ通、大日堂、鎮守前、鎮守台、堀分北、新橋道東、新橋道西 | |- |{{ruby|'''[[柳沢 (西東京市)|柳沢]]'''|やぎさわ}}'''一丁目''' |2001年1月21日 |1966年5月1日 |大字上保谷の小字柳沢(一部)、上柳沢、大字上保谷新田の小字坂上(一部)、葭窪北台 | |- |'''柳沢二丁目''' |2001年1月21日 |1966年5月1日 |大字上保谷の小字柳沢(一部)、上柳沢、大字上保谷新田の小字坂上(一部)、葭窪北台 | |- |'''柳沢三丁目''' |2001年1月21日 |1966年5月1日 |大字上保谷の小字柳沢(一部)、上柳沢、大字上保谷新田の小字坂上(一部)、葭窪北台 | |- |'''柳沢四丁目''' |2001年1月21日 |1966年5月1日 |大字上保谷の小字柳沢(一部)、上柳沢、大字上保谷新田の小字坂上(一部)、葭窪北台 | |- |'''柳沢五丁目''' |2001年1月21日 |1966年5月1日 |大字上保谷の小字柳沢(一部)、上柳沢、大字上保谷新田の小字坂上(一部)、葭窪北台 | |- |'''柳沢六丁目''' |2001年1月21日 |1966年5月1日 |大字上保谷の小字柳沢(一部)、上柳沢、大字上保谷新田の小字坂上(一部)、葭窪北台 | |- |{{ruby|'''[[東伏見]]'''|ひがしふしみ}}'''一丁目''' |2001年1月21日 |1966年5月1日 |大字上保谷の小字下柳沢(一部)、千駄山(一部)、下野谷、坂上、上柳沢(一部)、大字上保谷新田の小字坂上(一部) | |- |'''東伏見二丁目''' |2001年1月21日 |1966年5月1日 |大字上保谷の小字下柳沢(一部)、千駄山(一部)、下野谷、坂上、上柳沢(一部)、大字上保谷新田の小字坂上(一部) | |- |'''東伏見三丁目''' |2001年1月21日 |1966年5月1日 |大字上保谷の小字下柳沢(一部)、千駄山(一部)、下野谷、坂上、上柳沢(一部)、大字上保谷新田の小字坂上(一部) | |- |'''東伏見四丁目''' |2001年1月21日 |1966年5月1日 |大字上保谷の小字下柳沢(一部)、千駄山(一部)、下野谷、坂上、上柳沢(一部)、大字上保谷新田の小字坂上(一部) | |- |'''東伏見五丁目''' |2001年1月21日 |1966年5月1日 |大字上保谷の小字下柳沢(一部)、千駄山(一部)、下野谷、坂上、上柳沢(一部)、大字上保谷新田の小字坂上(一部) | |- |'''東伏見六丁目''' |2001年1月21日 |1966年5月1日 |大字上保谷の小字下柳沢(一部)、千駄山(一部)、下野谷、坂上、上柳沢(一部)、大字上保谷新田の小字坂上(一部) | |- |{{ruby|'''[[保谷町]]'''|ほうやちょう}}'''一丁目''' |2001年1月21日 |1965年5月1日 |大字上保谷の小字平松、桶久保(一部)、千駄山(一部)、立野、柳沢(一部)、西浦 | |- |'''保谷町二丁目''' |2001年1月21日 |1965年5月1日 |大字上保谷の小字平松、桶久保(一部)、千駄山(一部)、立野、柳沢(一部)、西浦 | |- |'''保谷町三丁目''' |2001年1月21日 |1965年5月1日 |大字上保谷の小字平松、桶久保(一部)、千駄山(一部)、立野、柳沢(一部)、西浦 | |- |'''保谷町四丁目''' |2001年1月21日 |1965年5月1日 |大字上保谷の小字平松、桶久保(一部)、千駄山(一部)、立野、柳沢(一部)、西浦 | |- |'''保谷町五丁目''' |2001年1月21日 |1965年5月1日 |大字上保谷の小字平松、桶久保(一部)、千駄山(一部)、立野、柳沢(一部)、西浦 | |- |'''保谷町六丁目''' |2001年1月21日 |1965年5月1日 |大字上保谷の小字平松、桶久保(一部)、千駄山(一部)、立野、柳沢(一部)、西浦 | |- |{{ruby|'''[[富士町 (西東京市)|富士町]]'''|ふじまち}}'''一丁目''' |2001年1月21日 |1965年5月1日 |大字上保谷の小字一里塚、高塚、関道、下柳沢(一部)、桶久保(一部)、千駄山(一部) | |- |'''富士町二丁目''' |2001年1月21日 |1965年5月1日 |大字上保谷の小字一里塚、高塚、関道、下柳沢(一部)、桶久保(一部)、千駄山(一部) | |- |'''富士町三丁目''' |2001年1月21日 |1965年5月1日 |大字上保谷の小字一里塚、高塚、関道、下柳沢(一部)、桶久保(一部)、千駄山(一部) | |- |'''富士町四丁目''' |2001年1月21日 |1965年5月1日 |大字上保谷の小字一里塚、高塚、関道、下柳沢(一部)、桶久保(一部)、千駄山(一部) | |- |'''富士町五丁目''' |2001年1月21日 |1965年5月1日 |大字上保谷の小字一里塚、高塚、関道、下柳沢(一部)、桶久保(一部)、千駄山(一部) | |- |'''富士町六丁目''' |2001年1月21日 |1965年5月1日 |大字上保谷の小字一里塚、高塚、関道、下柳沢(一部)、桶久保(一部)、千駄山(一部) | |- |{{ruby|'''[[中町 (西東京市)|中町]]'''|rowspan=6 |なかまち}}'''一丁目''' |2001年1月21日 |1967年1月1日 |大字上保谷の小字三軒家(一部)、天神山、鳥久保、荒井竹(一部)、苗木山 | |- |'''中町二丁目''' |2001年1月21日 |1967年1月1日 |大字上保谷の小字三軒家(一部)、天神山、鳥久保、荒井竹(一部)、苗木山 | |- |'''中町三丁目''' |2001年1月21日 |1967年1月1日 |大字上保谷の小字三軒家(一部)、天神山、鳥久保、荒井竹(一部)、苗木山 | |- |'''中町四丁目''' |2001年1月21日 |1967年1月1日 |大字上保谷の小字三軒家(一部)、天神山、鳥久保、荒井竹(一部)、苗木山 | |- |'''中町五丁目''' |2001年1月21日 |1967年1月1日 |大字上保谷の小字三軒家(一部)、天神山、鳥久保、荒井竹(一部)、苗木山 | |- |'''中町六丁目''' |2001年1月21日 |1967年1月1日 |大字上保谷の小字三軒家(一部)、天神山、鳥久保、荒井竹(一部)、苗木山 | |- |{{ruby|'''[[東町 (西東京市)|東町]]'''|rowspan=6 |ひがしちょう}}'''一丁目''' |2001年1月21日 |1967年1月1日 |大字下保谷の小字西松ノ木(一部)、南松ノ木(一部)、北新田、東新田、西新田、中西台 | |- |'''東町二丁目''' |2001年1月21日 |1967年1月1日 |大字下保谷の小字西松ノ木(一部)、南松ノ木(一部)、北新田、東新田、西新田、中西台 | |- |'''東町三丁目''' |2001年1月21日 |1967年1月1日 |大字下保谷の小字西松ノ木(一部)、南松ノ木(一部)、北新田、東新田、西新田、中西台 | |- |'''東町四丁目''' |2001年1月21日 |1967年1月1日 |大字下保谷の小字西松ノ木(一部)、南松ノ木(一部)、北新田、東新田、西新田、中西台 | |- |'''東町五丁目''' |2001年1月21日 |1967年1月1日 |大字下保谷の小字西松ノ木(一部)、南松ノ木(一部)、北新田、東新田、西新田、中西台 | |- |'''東町六丁目''' |2001年1月21日 |1967年1月1日 |大字下保谷の小字西松ノ木(一部)、南松ノ木(一部)、北新田、東新田、西新田、中西台 | |- |{{ruby|'''[[泉町 (西東京市)|泉町]]'''|rowspan=6 |いずみちょう}}'''一丁目''' |2001年1月21日 |1967年1月1日 |大字上保谷の小字山合(一部)、三軒家(一部)、荒井竹(一部)、大門、上宿(一部)、大字下保谷の小字南松ノ木(一部) | |- |'''泉町二丁目''' |2001年1月21日 |1967年1月1日 |大字上保谷の小字山合(一部)、三軒家(一部)、荒井竹(一部)、大門、上宿(一部)、大字下保谷の小字南松ノ木(一部) | |- |'''泉町三丁目''' |2001年1月21日 |1967年1月1日 |大字上保谷の小字山合(一部)、三軒家(一部)、荒井竹(一部)、大門、上宿(一部)、大字下保谷の小字南松ノ木(一部) | |- |'''泉町四丁目''' |2001年1月21日 |1967年1月1日 |大字上保谷の小字山合(一部)、三軒家(一部)、荒井竹(一部)、大門、上宿(一部)、大字下保谷の小字南松ノ木(一部) | |- |'''泉町五丁目''' |2001年1月21日 |1967年1月1日 |大字上保谷の小字山合(一部)、三軒家(一部)、荒井竹(一部)、大門、上宿(一部)、大字下保谷の小字南松ノ木(一部) | |- |'''泉町六丁目''' |2001年1月21日 |1967年1月1日 |大字上保谷の小字山合(一部)、三軒家(一部)、荒井竹(一部)、大門、上宿(一部)、大字下保谷の小字南松ノ木(一部) | |- |{{ruby|'''[[住吉町 (西東京市)|住吉町]]'''|rowspan=6 |すみよしちょう}}'''一丁目''' |2001年1月21日 |1967年1月1日 |大字上保谷の小字又六(一部)、入道(一部)、山合(一部)、上宿(一部)、大字下保谷の小字中島(一部)、南入(一部) | |- |'''住吉町二丁目''' |2001年1月21日 |1967年1月1日 |大字上保谷の小字又六(一部)、入道(一部)、山合(一部)、上宿(一部)、大字下保谷の小字中島(一部)、南入(一部) | |- |'''住吉町三丁目''' |2001年1月21日 |1967年1月1日 |大字上保谷の小字又六(一部)、入道(一部)、山合(一部)、上宿(一部)、大字下保谷の小字中島(一部)、南入(一部) | |- |'''住吉町四丁目''' |2001年1月21日 |1967年1月1日 |大字上保谷の小字又六(一部)、入道(一部)、山合(一部)、上宿(一部)、大字下保谷の小字中島(一部)、南入(一部) | |- |'''住吉町五丁目''' |2001年1月21日 |1967年1月1日 |大字上保谷の小字又六(一部)、入道(一部)、山合(一部)、上宿(一部)、大字下保谷の小字中島(一部)、南入(一部) | |- |'''住吉町六丁目''' |2001年1月21日 |1967年1月1日 |大字上保谷の小字又六(一部)、入道(一部)、山合(一部)、上宿(一部)、大字下保谷の小字中島(一部)、南入(一部) | |- |{{ruby|'''[[ひばりが丘 (東京都)|ひばりが丘]]'''|rowspan=4 |ひばりがおか}}'''一丁目''' |2001年1月21日 |1967年11月1日 |大字上保谷の小字又六(一部)、大字下保谷の小字北原(一部)、中原、南原、大南新田、および字西原(一部)、字谷戸(一部) | |- |'''ひばりが丘二丁目''' |2001年1月21日 |1967年11月1日 |大字上保谷の小字又六(一部)、大字下保谷の小字北原(一部)、中原、南原、大南新田、および字西原(一部)、字谷戸(一部) | |- |'''ひばりが丘三丁目''' |2001年1月21日 |1967年11月1日 |大字上保谷の小字又六(一部)、大字下保谷の小字北原(一部)、中原、南原、大南新田、および字西原(一部)、字谷戸(一部) | |- |'''ひばりが丘四丁目''' |2001年1月21日 |1967年11月1日 |大字上保谷の小字又六(一部)、大字下保谷の小字北原(一部)、中原、南原、大南新田、および字西原(一部)、字谷戸(一部) | |- |{{ruby|'''[[ひばりが丘北]]'''|rowspan=4 |ひばりがおかきた}}'''一丁目''' |2001年1月21日 |1968年11月1日 |大字上保谷の小字又六(一部)、入道(一部)、大字下保谷の小字東入(一部)、入後、北原(一部) | |- |'''ひばりが丘北二丁目''' |2001年1月21日 |1968年11月1日 |大字上保谷の小字又六(一部)、入道(一部)、大字下保谷の小字東入(一部)、入後、北原(一部) | |- |'''ひばりが丘北三丁目''' |2001年1月21日 |1968年11月1日 |大字上保谷の小字又六(一部)、入道(一部)、大字下保谷の小字東入(一部)、入後、北原(一部) | |- |'''ひばりが丘北四丁目''' |2001年1月21日 |1968年11月1日 |大字上保谷の小字又六(一部)、入道(一部)、大字下保谷の小字東入(一部)、入後、北原(一部) | |- |{{ruby|'''[[栄町 (西東京市)|栄町]]'''|rowspan=3 |さかえちょう}}'''一丁目''' |2001年1月21日 |1968年11月1日 |大字上保谷の小字入道(一部)、大字下保谷の小字東入(一部)、西入、中島(一部)、南入(一部) | |- |'''栄町二丁目''' |2001年1月21日 |1968年11月1日 |大字上保谷の小字入道(一部)、大字下保谷の小字東入(一部)、西入、中島(一部)、南入(一部) | |- |'''栄町三丁目''' |2001年1月21日 |1968年11月1日 |大字上保谷の小字入道(一部)、大字下保谷の小字東入(一部)、西入、中島(一部)、南入(一部) | |- |{{ruby|'''[[北町 (西東京市)|北町]]'''|rowspan=6 |きたまち}}'''一丁目''' |2001年1月21日 |1968年11月1日 |大字下保谷の小字北荒屋敷、北宮ノ脇(一部)上後、上前(一部)、坊ヶ谷戸(一部)、東入(一部) | |- |'''北町二丁目''' |2001年1月21日 |1968年11月1日 |大字下保谷の小字北荒屋敷、北宮ノ脇(一部)上後、上前(一部)、坊ヶ谷戸(一部)、東入(一部) | |- |'''北町三丁目''' |2001年1月21日 |1968年11月1日 |大字下保谷の小字北荒屋敷、北宮ノ脇(一部)上後、上前(一部)、坊ヶ谷戸(一部)、東入(一部) | |- |'''北町四丁目''' |2001年1月21日 |1968年11月1日 |大字下保谷の小字北荒屋敷、北宮ノ脇(一部)上後、上前(一部)、坊ヶ谷戸(一部)、東入(一部) | |- |'''北町五丁目''' |2001年1月21日 |1968年11月1日 |大字下保谷の小字北荒屋敷、北宮ノ脇(一部)上後、上前(一部)、坊ヶ谷戸(一部)、東入(一部) | |- |'''北町六丁目''' |2001年1月21日 |1968年11月1日 |大字下保谷の小字北荒屋敷、北宮ノ脇(一部)上後、上前(一部)、坊ヶ谷戸(一部)、東入(一部) | |- |{{ruby|'''[[下保谷]]'''|rowspan=5 |しもほうや}}'''一丁目''' |2001年1月21日 |1968年11月1日 |大字下保谷の小字中荒屋敷、南荒屋敷(一部)、北宮ノ脇(一部)、南宮ノ脇、上前(一部)、坊ヶ谷戸(一部)、東松ノ木、西松ノ木(一部)、南松ノ木(一部) | |- |'''下保谷二丁目''' |2001年1月21日 |1968年11月1日 |大字下保谷の小字中荒屋敷、南荒屋敷(一部)、北宮ノ脇(一部)、南宮ノ脇、上前(一部)、坊ヶ谷戸(一部)、東松ノ木、西松ノ木(一部)、南松ノ木(一部) | |- |'''下保谷三丁目''' |2001年1月21日 |1968年11月1日 |大字下保谷の小字中荒屋敷、南荒屋敷(一部)、北宮ノ脇(一部)、南宮ノ脇、上前(一部)、坊ヶ谷戸(一部)、東松ノ木、西松ノ木(一部)、南松ノ木(一部) | |- |'''下保谷四丁目''' |2001年1月21日 |1968年11月1日 |大字下保谷の小字中荒屋敷、南荒屋敷(一部)、北宮ノ脇(一部)、南宮ノ脇、上前(一部)、坊ヶ谷戸(一部)、東松ノ木、西松ノ木(一部)、南松ノ木(一部) | |- |'''下保谷五丁目''' |2001年1月21日 |1968年11月1日 |大字下保谷の小字中荒屋敷、南荒屋敷(一部)、北宮ノ脇(一部)、南宮ノ脇、上前(一部)、坊ヶ谷戸(一部)、東松ノ木、西松ノ木(一部)、南松ノ木(一部) | |- |} {{See also|西東京市の町名}} === 合併に伴う町名変更 === * 田無市本町一〜七丁目→西東京市田無町一〜七丁目 * 保谷市本町一〜六丁目→西東京市保谷町一〜六丁目 * 田無市[[ひばりが丘団地]]→西東京市ひばりが丘三丁目2番(編入) ==地域== === 住宅団地 === * [[都市再生機構]](UR)※旧[[日本住宅公団]] **[[ひばりが丘団地]](ひばりが丘三丁目および東久留米市ひばりが丘団地 1959年)→全面建替により現・ひばりが丘パークヒルズ **プロムナード東伏見(富士町) **グリーンプラザひばりが丘南(谷戸町) **グリーンハイツ武蔵境通り(新町) **新柳沢団地(柳沢) - 西東京都市計画事業(一団地の住宅施設、1994年) **東伏見団地(富士町) - 西東京都市計画事業(一団地の住宅施設、富士町、1958年) **西原グリーンハイツ(西原町) **パークサイド田無向台(向台町) *[[東京都住宅供給公社]](JKK東京) **田無西原団地(西原町) - 西東京都市計画事業(一団地の住宅施設、1963年) **田無南芝久保団地(芝久保町) - 西東京都市計画事業(一団地の住宅施設、1964年) **田無アスタ住宅(田無町) *[[東京都都市整備局]](都営住宅) **田無芝久保一丁目アパート **西原町四丁目アパート **田無本町七丁目アパート **田無谷戸町二丁目アパート **田無南町三丁目アパート **田無緑町三丁目アパート **ひばりが丘二丁目アパート **下保谷二丁目アパート **東伏見二丁目アパート **柳沢一丁目アパート **柳沢二丁目アパート **柳沢六丁目アパート 他多数 == 行政 == === 市長 === * [[池澤隆史]]([[2021年]][[2月18日]]就任、1期目) ; 歴代市長 {| class="wikitable" !代!!氏名!!ふりがな!!就任日!!退任日!!備考 |- | 初代 || [[保谷高範]] || ほうや こうはん || [[2001年]](平成13年)2月18日 || [[2005年]](平成17年)2月17日 || 旧保谷市長 |- | 2-3代 || [[坂口光治]] || さかぐち こうじ || 2005年(平成17年)2月18日 || 2013年(平成25年)2月17日 || |- | 4-5代 || [[丸山浩一]] || まるやま こういち || [[2013年]](平成25年)2月18日 || 2021年(令和3年)2月17日 || |- | 6代 || [[池澤隆史]] || いけざわ たかし || 2021年(令和3年)2月18日 || || |} === 市庁舎 === * 田無庁舎:西東京市南町五丁目6番13号 * 保谷庁舎:西東京市中町一丁目5番1号 合併時の経緯で旧保谷・田無両市役所を流用し2庁舎体制としている。市長室は田無庁舎にあり、部署により設置庁舎を分散させている。 === 出張所 === * 柳橋出張所:新町一丁目4番25号 * ひばりヶ丘駅前出張所:住吉町三丁目10番25号(HIBARI TOWER1階) === 財政 === 平成24年度 * 歳入総額 656億1792万円 * 歳出総額 642億3222万円 * 財政力指数 0.87 === 課題 === * 商店街の活性化 ** 市の中心地としては、[[西武柳沢駅]]、[[田無駅]]北側、[[ひばりヶ丘駅]]、[[保谷駅]]南側となる。[[池袋]]、[[新宿]]、[[吉祥寺]]、[[渋谷]]などの中心[[商業地区]]へのアクセスが容易なこともあり、市内の1店舗あたりの購買金額が[[東京]]の各市の平均を下まわっている、そのため市内を4地区にわけ、それぞれに核となる商業活性化を図ることが進められている。 * 道路事情 ** [[ファイル:HoyaStation_NorthStreet.jpg|thumb|2004年9月における[[保谷駅]]北口の都市計画道路。遠方に北口。2005年1月現在で駅前ロータリーから200m程度の距離までは[[道路]]幅が広く整備されているが、以北は木杭に鉄線を結んだ状態の空き地のままである。]]西東京市内は旧田無、旧保谷ともに市街化が急激に進んだため、道路整備が追いつかず市内には隘路が多く残っている。また市内の[[歩道]]の整備率が都内各市の平均を下まわっており、整備がもとめられている。 === 広域行政 === * [[多摩北部都市広域行政圏協議会]] *: 多摩地域北東部の、西東京市、小平市、東村山市、清瀬市、東久留米市の5市で施設の相互利用、イベントの共同開催などを行っている。通称「多摩六都」。「六都」とは合併前の田無、保谷を含めたもので、名称は合併後も継承されている。本市内に[[多摩六都科学館]]を持つ。 * 柳泉園組合 *: 西東京市と東久留米市、清瀬市の3市で組織。ごみ処理の事業を行う。[[清掃工場|ごみ処理工場]]は東久留米市下里の東村山市境近くに設置されている。 * 昭和病院組合 *: [[清瀬市|清瀬]]、[[小金井市|小金井]]、[[小平市|小平]]、[[東久留米市|東久留米]]、[[東村山市|東村山]]、[[東大和市|東大和]]および西東京市により組織され、小平市にある[[公立昭和病院]]を運営している。 * 武蔵野、三鷹、小金井、および西東京市の4市間で、公共施設の共同利用を行っている。 === 交流自治体 === * 日本国内 ** [[福島県]][[南会津郡]][[下郷町]] **: [[1980年]](昭和55年)[[4月29日]]、旧・保谷市と姉妹都市締結 ** [[山梨県]][[北巨摩郡]][[須玉町]](現・[[北杜市]]) **: [[1999年]](平成11年)[[2月4日]]、旧・田無市と姉妹都市締結 ** [[千葉県]][[勝浦市]] **: [[2003年]](平成15年)[[10月22日]]、西東京市として友好都市締結 ** [[茨城県]][[行方市]] **: [[2006年]](平成18年)[[11月]]-災害時相互応援協定を締結した。 * [[日本]][[海外|国外]]の[[都市]]との交流は検討中となっている。 == 議会 == === 西東京市議会 === {{main|西東京市議会}} === 東京都議会 === ;2021年東京都議会議員選挙 * 選挙区:西東京市選挙区 * 定数:2人 * 任期:2021年7月23日 - 2021年7月22日 * 投票日:2021年7月4日 * 当日有権者数:169,879人 * 投票率:40.03% {| class="wikitable" ! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 党派名 !! 新旧別 !! 得票数 |- | 浜中義豊 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 38 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="text-align:center" | 新 || 21,160票 |- | [[桐山ひとみ]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 50 || [[都民ファーストの会]] || style="text-align:center" | 現 || 18,580票 |- | 石毛茂 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 68 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || style="text-align:center" | 現 || 16,751票 |- | 井手重美津子 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 57 || [[日本共産党]] || style="text-align:center" | 新 || 10,534票 |} ;2017年東京都議会議員選挙 * 選挙区:西東京市選挙区 * 定数:2人 * 投票日:2017年7月2日 * 当日有権者数:164,790人 * 投票率:49.18% {| class="wikitable" ! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 党派名 !! 新旧別 !! 得票数 |- | 桐山ひとみ || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 46 || 都民ファーストの会 || style="text-align:center" | 新 || 30,650票 |- | 石毛茂 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 64 || 都民ファーストの会 || style="text-align:center" | 現 || 20,647票 |- | 山田忠昭 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 68 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="text-align:center" | 現 || 16,511票 |- | 中村駿 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 30 || [[日本共産党]] || style="text-align:center" | 新 || 12,102票 |} === 衆議院 === * 選挙区:[[東京都第19区|東京19区]] ([[国分寺市]]・[[小平市]]・西東京市) * 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日 * 投票日:2021年10月31日 * 当日有権者数:439,147人 * 投票率:60.00% {| class="wikitable" ! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複 |- style="background-color:#ffc0cb" | align="center" | 当 || [[末松義規]] || align="center" | 64 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || align="center" | 前 || 111,267票 || align="center" | ○ |- style="background-color:#ffdddd;" | 比当 || [[松本洋平]] || align="center" | 48 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 前 || 109,131票 || align="center" | ○ |- | || 山崎英昭 || align="center" | 48 || [[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]] || align="center" | 新 || align="right" | 38,182票 || align="center" | ○ |} == 公共機関 == === 警察 === [[田無警察署|警視庁田無警察署]]が本市(東町4丁目15番の一部は[[石神井警察署]]が管轄)と[[東久留米市]]全域を管轄している。西東京市発足前後で変化はない。[[警察署]]名は主たる自治体名から取るように定められているが(警察法施行令)、2市を管轄しているため、西東京警察署への改称はされなかった。 === 消防 === 消防は[[東京消防庁]]へ業務を委託している。 [[西東京消防署]](旧保谷消防署)が市内全域を管轄している。 <!--隣の東久留米市では独自の消防本部を持っていたため<ref>[[2010年]](平成22年)4月より東京消防庁への委託により同庁[[東久留米消防署]]が発足。</ref>、消防署の管轄範囲は警察署とは一致しない。--> * 西東京消防署(中町1-1-6)指揮隊、ポンプ隊2([[特別消火中隊]])はしご隊1、救急隊1 ** 保谷出張所(下保谷1-2-4)ポンプ隊2 ** 田無出張所(向台町2-3-6)ポンプ隊2、[[救急隊]]1 ** 西原出張所(西原町2-1-14)ポンプ隊1、救急隊1 === 日本郵政グループ === ;郵便局 :市内に[[西東京郵便局]]、伏見通郵便局など19局が存在。元は[[集配郵便局]]の管轄について旧田無市が田無郵便局、旧保谷市が保谷郵便局となっていたが、両市合併後、田無郵便局に保谷郵便局が統合される形で西東京郵便局となった。この名残で、郵便番号は旧田無市域は上三桁が'''188'''、旧保谷市域は上三桁が'''202'''と異なる番号が与えられている。 ;ゆうちょ銀行 :西東京店(西東京郵便局に併設)が直営店として取扱を実施。その他の郵便局は代理店として窓口業務を行う。 ;かんぽ生命 :市内に直営店は存在しない。各郵便局が代理店として窓口業務を行う。法人営業は[[小金井郵便局|小金井支店]]が担当。 === 電話 === * 市外局番は殆どが'''042'''で、新町の一部は[[武蔵野市]]・[[三鷹市]]の一部と同じ'''0422'''である。なお、[[2006年]](平成18年)[[4月29日]]以前は東久留米市、清瀬市の全域、小平市、新座市、調布市と同じく0424だった。 * [[単位料金区域|単位料金区域(MA)]] は武蔵野三鷹MAで、本市のほかに武蔵野市・[[東久留米市]]・[[清瀬市]]の各全域、[[調布市]]中西部、三鷹市のほぼ全域、[[小平市]]・[[狛江市]]・[[府中市 (東京都)|府中市]]・[[小金井市]]・[[埼玉県]][[新座市]]の各一部が同MA内である。このうち本市新町・武蔵野市、三鷹市のほぼ全域、調布市・小金井市の各一部を除いては同じ市外局番の042である。これらの地域は同じMA内であるため、この2つの市外局番相互間でも市内通話となる。 * 天気予報は東京地方のエリアで、以前は電話案内サービス177で東京23区の市外局番である03エリア(東京MA)とこのMAだけが東京都心の天気現況(風・気温・湿度)のアナウンスで残りの多摩地域は八王子のものをアナウンスしたが、[[2006年]](平成18年)1月から東京地方全域(23区・多摩)同じアナウンスとなり天気現況も東京都心と八王子両方アナウンスするようになった。 * [[2006年]](平成18年)4月29日から市外局番が'''042'''となったが、同じ市外局番には以下のエリアが存在しており、これらのエリアに電話するには、同じ042でも市外局番からダイヤルしなければならない(天気予報は旧市外局番+177をダイヤル)。 ** [[立川市]]・[[日野市]]・[[昭島市]]など西多摩地域([[青梅市]]・[[奥多摩町]]を除く)のエリア([[1997年]](平成9年)変更・変更前0425) ** [[国分寺市]]・府中市・東村山市などの中多摩エリア([[1998年]](平成10年)4月変更・変更前0423) ** [[町田市]]・[[神奈川県]][[相模原市]]津久井地区などのエリア([[1998年]](平成10年)10月変更・変更前0427・ただし天気予報は町田市向けは04273-177、相模原市向けは04278-177) ** 埼玉県[[飯能市]]・[[日高市]]のエリア([[2004年]](平成16年)変更・変更前0429) ** [[八王子市]]などのエリア([[2006年]](平成18年)3月5日変更・変更前0426・ただし天気予報は八王子市向けが0426-177、相模原市相模湖・藤野両地区向けは04268-177) : (以前は埼玉県[[所沢市]]・[[入間市]]・[[狭山市]]も042だったが、[[2004年]](平成16年)に現在の04に変更された。なお天気予報は0429-177のまま) === 上水道 === [[東京都水道局]]に統合。[[東村山浄水場]]の配水地域であるが、市内には保谷町、西東京栄町、芝久保の3浄水所([[地下水]]汲み上げ)もある。 === 下水道 === 市の下水道課が管理。 === 一般廃棄物 === ==== 収集 ==== 保谷庁舎のごみ減量推進課にて市内全域の家庭系一般廃棄物の収集を実施。 : [[2007年]](平成19年)9月以降は可燃ごみ・不燃ごみを個別収集 : [[2007年]](平成19年)10月以降はプラスチック容器包装類を分別収集 : [[2008年]](平成20年)1月以降は可燃ごみ・不燃ごみ・プラスチック容器包装類の収集を有料化 : [[2010年]](平成22年)10月から指定収集袋(ごみ袋)の金額を改定(減額) {| class="wikitable" |+ 家庭ごみ有料化に伴う市指定袋の一覧 !ゴミの種類!!色!!サイズ!!ごみ処理手数料 |- |rowspan="4"|可燃ゴミ<br />不燃ゴミ<br />共通 |rowspan="4"|黄| |5L相当||一枚 7.5円 |- |10L相当||一枚 15円 |- |20L相当||一枚 30円 |- |40L相当||一枚 60円 |- |rowspan="3"|容器包装プラスティック |rowspan="3"|グレー |10L相当||一枚 5円 |- |20L相当||一枚 10円 |- |40L相当||一枚 20円 |} 販売は、10枚単位 ==== 中間処理 ==== [[柳泉園組合]](東久留米市、清瀬市、西東京市が設置した一般廃棄物の処理施設)で可燃ごみの燃焼処理・不燃ごみ・資源ごみの中間処理を実施する。 ==== 最終処理 ==== [[東京たま広域資源循環組合]]の[[谷戸沢処分場]](処分終了)、[[二ツ塚処分場]](現用)にて埋立処分およびセメント化事業を実施する。 ==== 東京都管轄区域の行政機関 ==== [[東京法務局]]田無出張所 === 国の行政機関 === [[自衛隊東京地方協力本部]]三多摩地区隊本部西東京地域事務所 - 田無町4丁目28-13 == 経済 == === 産業 === '''就業人口''' * 一次産業 735人 ** 市内の約13%は耕地、水田も0.5%ほど存在する。 * 二次産業 18,415人 ** 市内には約306か所の製造業、644か所の建設業の事業所が存在する。 * 三次産業 65,722人 ** 市内には卸売商店が207店、小売業店舗が1516店存在する。 === 主な事業所 === [[ファイル:Citizen Watch Co., Ltd. Head office.jpg|280px|thumb|シチズン時計本社・田無工場]] * [[シチズン時計]] - 本社・田無工場 * [[住友重機械工業]] - 田無製造所 機能縮小で、一部敷地がマンションとなった。 * [[損害保険ジャパン]]事務本部ビル - [[SOMPOビジネスサービス]]本社 損保ジャパンのコンピュータ・センター * 株式会社[[共同観光バス]] - 観光[[バス会社]]。<!-- 会社の評判は書かなくてよろしい --> * 株式会社[[大成観光バス]] - 観光バス会社。 * [[田無交通]] * [[東都自動車交通]]株式会社 - 三鷹営業所 * [[シンエイ動画]] - アニメプロダクション。『[[ドラえもん (2005年のテレビアニメ)|ドラえもん]]』『[[クレヨンしんちゃん (アニメ)|クレヨンしんちゃん]]』などを製作している。 * [[Triple A (アニメ制作会社)|Triple A]] - アニメプロダクション。 * [[デイヴィッドプロダクション]] - アニメプロダクション。 * [[アニメフィルム]] - 東京アニメーションフィルムの業務を引き継いだアニメ会社と撮影スタジオ。 * [[あにまる屋]] - かつてシンエイ動画の下請けをしたアニメ会社。隣にはアニメフィルムがある。 * [[東興通信社]] - 西東京市周辺の地方情報[[通信社]]。無料のミニコミ紙を発行していたが[[2008年]](平成20年)9月末で休刊。 * [[タウン通信]] - 西東京市(全域)、[[東久留米市]](全域)、[[小平市]](東部)、[[新座市]](一部)のエリアに新聞折込と一緒に[[タウン誌]]を配る情報誌出版社。<!-- 東興通信の撤退後に参入 --> * [[旭製菓]] - [[かりんとう]]を製造している製菓会社。 * [[保谷納豆]] - 納豆の製造メーカー。本社は当市、工場は東村山市にある。 * [[柳内商店]]・やなぎうちカステラ本舗 - [[カステラ]]製造の製菓店。[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の[[ぶらり途中下車の旅]]でも取り上げられた。 * [[藤和ハウス]] - 不動産業。田無駅前に本社本店。 * [[東栄住宅]] - 不動産業。芝久保町に本社。 * [[アーネストワン]] - 不動産業。北原町に本社。 * [[東京電力]] - 武蔵野変電所 * [[東京ガス]] - 保谷導管事業所 === かつて存在した事業所 === 隣接する武蔵野市に[[中島飛行機]]武蔵製作所があり、当市内にはその関連工場・施設(中島航空金属田無製作所。跡地はひばりが丘団地となった)があったため、数次の空襲を受ける。戦後、当市内のそれら関連工場・施設は民需に転換して存続したが、旧保谷市の革新市政の政策や近年の産業構造の改革等により、その多くが閉鎖された。跡地は[[大規模マンション]]などになっており、人口増につながっている。 * 石川島播磨重工業(現:[[IHI]]) - 田無工場 工場統合にともない閉鎖された。跡地はマンション「ヴィーガーデン ザ・レジデンス」や商業施設が建設されている。 * [[クリスタルガラス]]食器、眼鏡、[[ハードディスクドライブ|HDD]]等の電子部品等で知られる[[HOYA]]は、以前、保谷町にあったことが社名の由来。 * [[ファミリーレストラン]]チェーン[[すかいらーく]]は、前身のことぶき食品がひばりが丘団地内にあったことに由来([[ヒバリ]]の英名「(sky)lark」)。 * 製薬の[[三共 (製薬会社)|三共]]も田無工場を持っていた。工場跡地は[[マックスバリュ]]田無芝久保店などになった。 * [[バンプレスト]]は創業当時、豊栄産業(ホーエイ)の名で南町から始まり、本町などに本社を置いた。 * [[大戸屋]]の本部が田無本町に存在していた。 * 朝比奈機械(現[[東芝機械]])の本社工場が柳沢に存在したが、現在はマンションとなる。 * [[東ハト|東鳩製菓]]の保谷工場が東伏見に、田無工場が芝久保町に存在した。現在、保谷工場跡地、田無工場跡地ともにマンションとなる。 * [[協同乳業]]の東京工場が新町にあった(現在はマンション)。 * 東北金属工業(現 [[トーキン]])の東京事業所が柳沢にあった(現在はマンション)。 * [[川村精管工業]]の保谷工場が柳沢に存在した。現在はマンションとなる。 * [[日本チューナー]](芝久保町) === 商業施設 === * [[アスタビル]] - 田無駅北口の再開発ビル。商業施設のほか[[みずほ銀行]]、市民ホール・[[エクセル田無|場外馬券売場]]、屋上フットサル場、集合住宅で構成。 ** [[リヴィン|LIVIN]]田無店 - 東側地下1階 - 5階 ** アスタ専門店街 - 西側地下1階 - 3階 *** [[イトーヨーカドー]]田無店(閉店) - 専門店街内2階の一部、衣料品のみの小型店。2021年2月14日に閉店。跡地は[[ノジマ]]が出店。 * [[西友]] ** LIVIN田無店 - アスタ東側地下1階 - 5階。1995年から1999年までは田無西武として営業。 ** ひばりヶ丘店 - ひばりヶ丘駅南口。<!-- 「ひばりが丘店」ではない -->2016年10月に2階から上を専門店フロアとしてリニューアル。 ** ひばりが丘団地店 - ひばりが丘団地内(中原小学校停留所前)に設置。旧店は現在のひばりが丘団地停留所前にあった(当時は「団地西友前」の停留所名)。 ** 保谷店 - 保谷駅直結。駅前再開発により旧店舗閉鎖、完成した再開発ビルに再出店。 * ひばりが丘[[パルコ]] - ひばりヶ丘駅南口アリエビルに設置。上層階は集合住宅。 * フレスポひばりが丘 - 谷戸町 ** [[オーケー]]ひばりが丘店 * [[いなげや]] ** 保谷町店 - 旧保谷市本町(現:保谷町)に所在した旧保谷本町店を2014年に閉鎖し建て替え。2年間の休業を経て2016年に現在の店舗を開店。2階には[[上新電機|ジョーシン]]西東京保谷店が入居。 ** 西東京富士町店 - 富士町六丁目に2013年オープン。 ** ブルーミングブルーミーひばりヶ丘パルコ店 - ひばりヶ丘パルコ地下1階に出店していた[[クイーンズ伊勢丹]]の跡に2018年に居抜き出店。 * [[マックスバリュ関東|マックスバリュ]] ** 田無芝久保店 - [[三共 (製薬会社)|三共]]田無工場跡 * [[サミット (チェーンストア)|サミット]] ** 向台町店 - [[IHI]]田無工場跡(ヴィーガーデン西東京)、2階には[[コジマ|コジマ×ビックカメラ]]西東京店が入店。 * [[ビッグ・エー]] ** 田無向台店 ** 西東京谷戸町店 * [[生活協同組合コープみらい|コープみらい]](旧:[[生活協同組合コープとうきょう|コープとうきょう]]) ** 東伏見店 ** ひばりが丘店 * [[コーナン|コーナン商事]] ** コーナンPRO[[ドイト]]小金井公園店 - [[ドン・キホーテ (企業)|ドン・キホーテ]]五日市街道小金井公園店を改装して2015年4月にドイトプロ小金井公園店として開業。親会社の[[パン・パシフィック・インターナショナルホールディングス]]がドイト事業をコーナン商事に譲渡した事に伴い、現在の屋号に変更。 ** コーナン西東京田無店・コーナンPRO西東京田無店 - 田無ファミリーランドのバッティングセンター、ゲームコーナーだった敷地の一部に2020年9月にオープン。 * [[ロピア]] ** ロピア田無店 - コーナン西東京田無店内に2020年9月にオープン。 * [[ビック・ライズ]] ** 食品館あおば田無店 - 2021年1月21日開店。 *** 元々はいなげや田無芝久保店だったが、2018年3月末閉店。 *** その後2018年6月2日より[[ビバホーム]]田無芝久保店となったが、2020年8月16日に閉店。 *** いなげや出店時には敷地内にいなげやグループの[[ウェルパーク]]が出店していたが、ビバホーム出店時に調剤薬局のみ継続して出店し、LIXILビバ(当時)初の調剤薬局併設店舗として運営されていた。 *** ビバホーム閉店後もウェルパーク調剤薬局のみ営業を継続しており、食品館あおば出店時に[[サンドラッグ]]西東京芝久保店も敷地内に開店しているため、ドラッグストア部分はサンドラッグ、調剤薬局部分はウェルパークと両者が共存している。 == 教育 == === 小学校 === {{See also|東京都小学校の廃校一覧#西東京市}} {{Col| * [[西東京市立田無小学校]] * [[西東京市立保谷小学校]] * [[西東京市立保谷第一小学校]] * [[西東京市立保谷第二小学校]] * [[西東京市立谷戸小学校]] * [[西東京市立東伏見小学校]] * [[西東京市立中原小学校]] * [[西東京市立向台小学校]] * [[西東京市立碧山小学校]] * [[西東京市立芝久保小学校]] | * [[西東京市立栄小学校]] * [[西東京市立谷戸第二小学校]] * [[西東京市立東小学校]] * [[西東京市立柳沢小学校]] * [[西東京市立上向台小学校]] * [[西東京市立本町小学校]] * [[西東京市立住吉小学校]] * [[西東京市立けやき小学校]] }} === 中学校 === {{See also|東京都中学校の廃校一覧#西東京市}} * [[西東京市立田無第一中学校]] * [[西東京市立田無第二中学校]] * [[西東京市立田無第三中学校]] * [[西東京市立田無第四中学校]] * [[西東京市立柳沢中学校]] * [[西東京市立保谷中学校]] * [[西東京市立青嵐中学校]] * [[西東京市立ひばりが丘中学校]] * [[西東京市立明保中学校]] * [[武蔵野大学中学校・高等学校|武蔵野大学中学校]] === 高等学校 === * [[東京都立田無高等学校]] * [[東京都立保谷高等学校]] * [[東京都立田無工科高等学校]] * [[文華女子高等学校]] * [[武蔵野大学中学校・高等学校|武蔵野大学高等学校]] * [[岩倉高等学校]]付属西東京運動場 === 大学 === * [[武蔵野大学]]武蔵野キャンパス * [[早稲田大学]]東伏見キャンパス * [[東京大学大学院農学生命科学研究科附属生態調和農学機構]]([[東京大学#その他の施設|東京大学田無キャンパス]]) ** 田無演習林 ** 農場博物館 ** 東大ハス見本園 ** 東京大学原子核研究所跡記念碑 [[1953年]](昭和28年) - [[2000年]](平成12年)頃まで実験用核施設が存在していた。現在は柏や和光に分かれて移転し跡地は西東京いこいの森公園になっている。 以前は[[明治薬科大学]]があったが[[清瀬市]]に移転している。跡地はマンションなどに整備された。 東町1丁目の[[文理台公園]]は[[1936年]](昭和11年)9月に[[東京文理科大学 (旧制)|旧東京文理科大学]]保谷運動場として開設されたもので、かつては400mトラックと投擲場、跳躍場、サッカーおよびラグビーのゴール、さらに教官室と2階建ての合宿所も備えていた<ref>東京文理科大学、東京高等師範学校編 『[東京文理科大学・東京高等師範学校]創立七十年』 1941年、146-147頁</ref>。 === 保育園 === ;市立 {{colbegin|4}} *田無保育園(公設民営) *そよかぜ保育園(公設民営) *向台保育園 *西原保育園 *みどり保育園(公設民営) *芝久保保育園(公設民営) *けやき保育園 *ひばりが丘保育園 *はこべら保育園 *ひがしふしみ保育園(公設民営) *こまどり保育園 *ほうやちょう保育園(公設民営) *すみよし保育園 *なかまち保育園 *ひがし保育園 *[[西東京市立しもほうや保育園|しもほうや保育園]](公設民営) *やぎさわ保育園 {{colend}} ;私立 {{colbegin|4}} *サムエル保育園 *田無北原保育園 *きたしば保育園 *[[柳橋保育園]] *和泉保育園 *アスクたなし保育園 *レイモンド田無保育園 *Nicot田無 *サムエル保育園分園 *グローバルキッズ柳沢園 *[[谷戸のびのび保育園]] *アスクたなし南町保育園 *田無ひまわり保育園 {{colend}} === その他 === * [[筑波大学附属小学校]]保谷農園 - 元[[東京教育大学]]附属小学校のため、同大運動場跡である文理台公園に隣接。 * [[東京都立田無特別支援学校]]高等部 == 病院 == * [[佐々総合病院]] * 田無病院 * 西東京中央総合病院 * 山田病院 * 保谷厚生病院 * [[徳洲会|武蔵野徳洲会病院]] 市域内に[[公立病院]]はないが当市も参画する昭和病院組合が小平市に[[公立昭和病院]]を開設。その通院連絡のため、西武柳沢駅から同病院前を経て[[都営バス青梅支所|青梅車庫]]へ至る[[都営バス]][[都営バス青梅支所#梅70系統|梅70系統]]が運行されていたが、[[2015年]][[3月31日]]をもって運行短縮によって(小平市の[[花小金井駅]]以遠の運行に)、当市内を運行しなくなった。 == 交通 == === 鉄道 === [[File:Hoya Station.jpg|thumb|right|保谷駅]] [[File:Tanashi-Sta 20200802 1.jpg|thumb|right|田無駅]] 市の東西を以下の2路線が走り東京都中心部と結ばれている。[[JTBパブリッシング|JTB]]時刻表では市の代表駅を田無庁舎最寄りの田無駅としている。 ;[[西武鉄道]] * [[西武池袋線|池袋線]] ** [[保谷駅]] - [[ひばりヶ丘駅]] * [[西武新宿線|新宿線]] ** [[東伏見駅]] - [[西武柳沢駅]] - [[田無駅]] この他、[[小平市]]にある[[花小金井駅]]も市境に近く、芝久保町などは同駅が最寄となる。 === バス === * [[西武バス]] - 市内西原町に滝山営業所西原車庫がある。かつては田無駅前に田無営業所があったが再開発のため縮小移転した。なお、市内の路線は西原車庫(ひばりヶ丘駅 - 田無駅 - [[武蔵境駅]]発着の3路線)のほか、[[西武バス滝山営業所|滝山営業所]](ひばりヶ丘 - [[三鷹駅]]と花小金井 - [[吉祥寺駅]])と[[西武バス上石神井営業所|上石神井営業所]](保谷駅発着)、[[西武バス新座営業所|新座営業所]](ひばりヶ丘駅北口発着)、[[西武バス練馬営業所|練馬営業所]]([[日本の深夜バス|深夜急行バス]])も担当。 ** 市内各路線 ひばりヶ丘、田無両駅を中心に、保谷駅と東伏見駅の駅前に発着。西武柳沢駅は駅近くに発着。これらの多くは[[中央本線|中央線]][[三鷹駅]]・[[吉祥寺駅]]・[[武蔵境駅]]へ連絡する。運賃は東伏見以南・以東が都区内均一制、それ以外は区間制になる。なお、上石神井担当の保谷発着路線と滝山担当の吉64(花小金井駅 - 田無駅入口 - 吉祥寺駅)は前のり信用方式(乗車時に行先を告げて運賃を支払う)による運賃収受、他は整理券方式による後のり後払い制になる。 ** [[はなバス|西東京市コミュニティバスはなバス]]第1 - 3ルート(委託運行)。はなバスは大人150円、小児・割引対象者は100円均一。西原町の西原車庫ではなく、[[東久留米市]]にある西武バス滝山営業所に委託されている。 ** [[みどりバス]] - 練馬区のコミュニティバス。保谷駅発着路線([[光が丘駅]]行)がある。 * [[関東バス]] [[関東バス武蔵野営業所|武蔵野営業所]]の担当。 ** 市内各路線 西武柳沢、保谷、東伏見の3駅から三鷹・吉祥寺方面への路線が発着。また、田無駅近辺や多摩六都科学館、向台町五丁目、ヴィーガーデン西東京など(武蔵境駅含む)にも発着。なお、東伏見以北・以西は区間制運賃のため、前のり信用方式での運賃収受を行う。 ** [[はなバス|西東京市コミュニティバスはなバス]]第4南・北ルート(委託運行)。はなバスは大人150円、小児・割引対象者は100円均一。 * 上記の通り、[[都営バス]]が青梅から西武柳沢駅前まで乗り入れていたが、2015年3月末で廃止となった。[[1984年]]までは当市(当時の田無市・保谷市)内を通り[[阿佐ケ谷駅]]([[杉並区]])まで運行していた。 {{main|都営バス青梅支所#梅70系統}} <gallery> Nishitokyo-city-hanabusA8-321 1791.jpg|西東京市コミュニティバス「はなバス」の車両。ひばりヶ丘駅南口にて </gallery> === 道路 === ==== 高速道路・国道 ==== なし。[[東京都道5号新宿青梅線]]に並行する形で、[[地域高規格道路]]の[[多摩新宿線]]が通るルート構想があるが<ref>{{Citation|和書|editor=東京都都市計画局施設計画部街路計画課|date=1996-5|title=[https://catalog.library.metro.tokyo.lg.jp/winj/opac/switch-detail.do?lang=ja&bibid=1102294971 多摩新宿線整備構想に関する基本調査報告書]|publisher=東京都|page=45|ref=harv}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=東京都都市整備局|url=https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/keikaku_chousa_singikai/pdf/keikaku_03-2.pdf|title=都市計画のあらまし 令和3年版 第3章第2節 施設計画|accessdate=2023-4-30}}</ref>、具体化していない。 ==== 都道(主要地方道) ==== * [[東京都道・埼玉県道4号東京所沢線]] ** 本線:[[青梅街道]]・[[所沢街道]](田無町一丁目交差点を境に名称が変わる) ** 支線([[バイパス]]。[[都市計画道路]]西東京3・4・9号保谷東村山線):東大農場通り(通称。北原町2丁目 - 六角地蔵尊前交差点)、新所沢街道(通称。西原町4丁目 - 東久留米市境 - 東村山市方面) - 両道路間および東大農場通り以東は事業中。 * [[東京都道5号新宿青梅線]] **[[青梅街道]](田無町一丁目交差点以西) **[[新青梅街道]](北原交差点以西) * [[東京都道7号杉並あきる野線]] -- [[五日市街道]](他に支線あり、東伏見以南の一部が[[伏見通り]]([[多摩南北道路#多摩南北道路1号線(調布保谷線)|調布保谷線]])に該当) * [[東京都道8号千代田練馬田無線]] -- [[富士街道]] * [[東京都道12号調布田無線]] -- [[武蔵境通り]] * [[東京都道・埼玉県道24号練馬所沢線]] * [[東京都道・埼玉県道25号飯田橋石神井新座線]] -- [[片山県道]] * [[東京都道・埼玉県道36号保谷志木線]] -- [[片山県道]] ==== 都道(多摩南北道路) ==== * [[多摩南北道路]][[多摩南北道路#多摩南北道路1号線(調布保谷線)|1号線 --調布保谷線]]([[伏見通り]])(都道234号・233号・7号の各支線) ==== 都道(一般都道) ==== * [[東京都道112号ひばりケ丘停車場線]] -- [[谷戸新道]] * [[東京都道132号小川山田無線]] -- [[鈴木街道]] * [[東京都道233号東大泉田無線]] -- [[保谷新道]](本線)、[[伏見通り]](支線・[[調布保谷線]])(東伏見~保谷庁舎) * [[東京都道・埼玉県道234号前沢保谷線]] -- [[伏見通り]](支線・[[調布保谷線]])(保谷庁舎以北)、(本線は通称名なし) * [[東京都道245号杉並田無線]] -- [[新青梅街道]](北原交差点以東) * [[東京都道253号保谷狭山自然公園自転車道線]] -- 多摩湖自転車歩行者道 == 施設 == === スポーツ施設 === * スポーツセンター(第一、第二体育室、温水プール、トレーニング室他) - 保谷庁舎隣接 * 南町スポーツ・文化交流センター きらっと(第一、第二体育室他) - 田無庁舎・中央図書館隣接 * 総合体育館(第一、第二体育室他) * 健康広場 * 市民公園グラウンド * 向台運動場 - [[1984年]](昭和59年)9月オープン。 * 西原広場 * 北原運動場 - [[1982年]](昭和57年)4月オープン。 * 芝久保運動場 - [[1983年]](昭和58年)3月オープン。 * 芝久保第二運動場 * ひばりが丘運動場 * 武道場 * [[東伏見アイスアリーナ]]([[西武グループ]]所有) === 主な公園 === {{colbegin|4}} * 西東京いこいの森公園 - 合併記念公園として建設 * 上保谷新田公園 * 谷戸二丁目第二公園 * 青嵐台公園 * ひばりが丘北わんぱく公園 * 北町坊が谷戸公園 * あらやしき公園 * 白子南公園 * 北町第四公園 * 中島公園 * たけのこ公園 * 下保谷第一公園 * 下保谷森林公園 * 住吉町第三公園 * 谷戸イチョウ公園 * はなみずき公園 * 泉町きつつき公園 * 泉町第三公園 * [[文理台公園]] - [[東京文理科大学 (旧制)|旧東京文理科大学]]保谷運動場跡、[[1984年]](昭和59年)開園 * なえぎ山公園 * 西原自然公園 - [[1979年]](昭和54年)7月開園 * 保谷なかよし公園 * 北原第一公園 * 西浦公園 * 保谷第一公園 * さくら公園 * 東伏見北公園 * 保谷第二公園 * 芝久保第一公園 * けやき台公園 * しじゅうから公園 * むくのき公園 * 柳沢せせらぎ公園 * 柳沢第四公園 * 上向台公園 * 田無市民公園 * 向台公園 - [[1981年]](昭和56年)4月開園 * 向台第二公園 - [[1979年]](昭和54年)7月開園 * 美向台公園 * さざんか公園 * 新町つつじ公園 * 新町さつき公園 * 谷戸せせらぎ公園 * 芝久保町一丁目さくらの丘公園 * 谷戸セントラルパーク * 下野谷遺跡公園 * あおぞら公園 * 北宮ノ脇公園 - [[1999年]](平成11年)7月1日開園 * 芝久保町三丁目ふれあい公園 * 下野谷遺跡公園 {{colend}} === 都立公園 === * [[小金井公園|都立小金井公園]] * [[東伏見公園]](総合公園) * 狭山・境緑道([[東京都道253号保谷狭山自然公園自転車道線|多摩湖自転車歩行者道]]) === 市管理広場 === * 千駄山広場 東伏見公園の計画地の一部 * 狭山児童広場 === 緑地保全地域 === * 碧山森緑地保全地域 * 保谷北町緑地保全地域 === 図書館 === *[[西東京市図書館]] ** 中央図書館 - [[1975年]](昭和50年)8月開館。田無庁舎隣接。地域・行政資料室を設置<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.library.city.nishitokyo.lg.jp/libguide?3&pid=13|title=中央図書館|publisher=西東京市図書館|accessdate=2018-6-10}}</ref>。 ** 柳沢図書館 - [[1987年]](昭和62年)4月開館。 ** 保谷駅前図書館 - [[2008年]](平成20年)6月開館(下保谷図書館(同年5月閉館)から移転)。 ** 芝久保図書館 - [[1982年]](昭和57年)4月開館。 ** 谷戸図書館 - [[1984年]](昭和59年)9月開館。 ** ひばりが丘図書館 - [[1994年]](平成6年)6月開館。 ** 新町福祉会館図書サービス - 旧・新町分室(2015年9月閉室し図書サービスに移行)<ref>{{PDFlink|[http://www.library.city.nishitokyo.lg.jp/images/upload/gaiyo2015.pdf 西東京市図書館 事業概要 P.11]|西東京市 2016年8月}}</ref>。予約・受取・返却・蔵書検索のみ扱う。 ** 東伏見ふれあいプラザ図書サービス - 予約・受取・返却・蔵書検索のみ扱う。 : 本市内に在住・在勤・在学者、[[小平市]]・[[東村山市]]・[[清瀬市]]・[[東久留米市]]・[[武蔵野市]]・[[三鷹市]]・[[小金井市]]・[[練馬区]]および[[新座市]]在住者は誰でも、無料で本が借りられる<ref name="library">{{Cite web|和書|url=https://www.library.city.nishitokyo.lg.jp/contents?6&pid=20|title=登録 利用カードの発行|publisher=西東京市|accessdate=2018-5-1}}</ref>。 : 清瀬市・[[東久留米市立図書館|東久留米市]]・東村山市・小平市各図書館の利用カード所持者でも利用登録が可能である<ref name="library"/>。 === ホール === [[ファイル:komorebi 1.jpg|thumb|240px|保谷こもれびホール]] * 西東京市民会館 - 旧・田無市民会館。1969年開館。2019年3月31日をもって老朽化のため閉館<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.nishitokyo.lg.jp/sisetu/hall/simin.html|title=西東京市民会館 (閉館しました)|publisher=西東京市|date=2019-07-26|accessdate=2020-08-03}}</ref> * 保谷こもれびホール - 保谷庁舎隣接。 * コール田無 * アスタ市民ホール([[エクセル田無]]:会員制[[場外馬券売場]]) === その他 === * [[スカイタワー西東京]] *: 通称'''西東京タワー'''または'''田無タワー'''。 * [[多摩六都科学館]] *: 小平市、東村山市、清瀬市、東久留米市、西東京市で組織する一部事務組合「多摩六都科学館組合」が設置している施設。 *:世界一と[[ギネス世界記録]]に認定された[[プラネタリウム]]がある。 * 西東京市郷土資料室(西原総合教育施設内) なお、各公共施設については[[武蔵野市]]、[[三鷹市]]、[[小金井市]]と相互に利用協定を結んでいる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.nishitokyo.lg.jp/sisetu/shisetsu/4shimap.html|title=4市公共施設利用ガイドマップができました!|publisher=西東京市|date=2013-04-01|accessdate=2018-06-10}}</ref>。 === かつてあった施設 === * [[東京大学宇宙線研究所|東京大学原子核研究所]] *: 「[[東京大学]]」の[[原子核]]の研究所で、跡地は「いこいの森公園」となっている。 == 地域放送 == * [[コミュニティ放送|コミュニティFM]] ** [[エフエム西東京]] - [[1998年]](平成10年)1月に開局。周波数84.2MHz、出力20W、スカイタワー西東京から送信している。市も番組の提供を行っている。 * [[ケーブルテレビ]] ** [[J:COM 西東京]] - [[ジェイコムイースト]]が運営する。センターは[[東久留米市]]にある。 == 名所・旧跡 == === 神社・寺 === * [[田無神社]] ** [[鎌倉時代]]([[13世紀]])に尉殿神社として成立 ** [[1622年]](元和8年)現在の尉殿神社を分祀 ** [[1670年]](寛文10年)現在の場所に遷座 ** [[1872年]](明治5年)田無神社に改称 ** 祭神:大国主命(おおくにぬしのみこと) ** 本殿および拝殿は東京都指定有形文化財 * [[東伏見稲荷神社]] ** [[1929年]](昭和4年)[[京都]][[伏見稲荷大社|伏見稲荷神社]]より分霊。同神社には第2次大戦末期、中島飛行機武蔵野工場で空襲により殉職した二百余名の慰霊碑がある。 * [[総持寺 (西東京市)|総持寺]] ** [[1875年]](明治8年)3か所の寺を統合し田無村の総鎮守となる。 ** [[関東三十六不動霊場]]の第十番札所 * 保谷山[[福泉寺 (西東京市)|福泉寺]] ** [[1587年]]([[天正]]14年)1月16日、日眼上人により創建 ** [[保谷駅]]北口ロータリーを発しこの寺院の前を通る道路は「福泉寺通り」と呼ばれる。 ** [[日蓮宗]] * [[天神社 (西東京市)|天神社]] ** 天正年間([[1573年]] - [[1591年]])に創建 ** 下保谷村の総鎮守で[[三十番神]]を祭っていたが、[[1868年]]([[明治]]元年)の神仏分離の際に天神社となる。 ** 祭神:[[菅原道真]] * [[尉殿神社]] ** [[1622年]]([[元和 (日本)|元和]]8年、[[谷戸町|谷戸]]にあった尉殿大権現(現田無神社)より分祀 ** 上保谷村の鎮守 ** 祭神:[[級長戸辺命]]、大日霊貴命([[天照大神]]) * 慈光山[[寶樹院 (西東京市)|寶樹院]] ** 源空法印により創建、保谷四軒寺のひとつ ** [[多摩八十八ヶ所霊場]]三十四番札所 ** [[真言宗智山派]] * 光明山[[如意輪寺 (西東京市)|如意輪寺]] ** 創建年代不詳(正保4年([[1647年]])銘の墓石があることよりそれ以前と推定される)、保谷四軒寺のひとつ ** [[武蔵野三十三観音霊場]]四番札所、多摩八十八ヶ所霊場三十五番札所 ** 真言宗智山派 * 金輪山[[寳晃院]] ** 創建年代不詳、保谷四軒寺のひとつ ** 多摩八十八ヶ所霊場三十六番札所 ** 真言宗智山派 * 祥高山[[東禅寺 (西東京市)|東禅寺]] ** 蘭室芳大和尚により開山、保谷四軒寺のひとつ ** [[曹洞宗]] <gallery> Tanashi jinja3.JPG|田無神社(2009年4月10日撮影) Souji-ji1.JPG|総持寺(2009年4月10日撮影) </gallery> === 遺跡 === * [[下野谷遺跡公園]] ** 東伏見6-4に発見された[[縄文時代]]の[[集落]]で[[遺跡]]。 ** [[2015年]](平成27年)[[3月10日]]に[[史跡|国史跡指定]]にされた<ref name="asahi-np-2015-3-11">“縄文・下野谷遺跡が国史跡に 22日に祝う催し、講演や解説”. [[朝日新聞]](朝日新聞社). (2015年3月11日)</ref>。 === 祭・イベント === * 西東京市民まつり ** [[2001年]](平成13年)より、毎年11月の2日間にわたってひばりが丘団地野球場・運動場で開催。特設ステージでは各団体の歌や踊りなどが発表され、多くの出店がある。市民の半分以上が訪れるといわれ、ひばりヶ丘駅から会場まではパレードも行われる。2005年度は西東京いこいの森公園(仮称:合併記念公園)の開園にともない、会場がそちらへ移転され、11月12日(土)13日(日)の2日間にわたって開催された。 * [[西東京市民映画祭]] == 著名な出身者 == {{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2017年10月}} <!--五十音順でお願いします--> === 政界 === * [[小俣篤]] - [[国土交通省]][[国土技術政策総合研究所]]長 * [[西田実仁]] - [[日本の国会議員|参議院議員]] === スポーツ === * [[芦野祥太郎]] - プロレスラー。[[WRESTLE-1]]所属 * [[井口資仁]] - 元プロ野球選手。[[千葉ロッテマリーンズ]][[プロ野球監督|監督]](旧田無市出身)西東京市民栄誉賞の第1号受賞者(これ以降市民栄誉賞は出ていない) * [[岡田正義]] - サッカー審判員。[[1998 FIFAワールドカップ|1998年ワールドカップ・フランス大会]]主審(旧保谷市出身) * [[紺野麻里]] - 元バスケットボール選手。[[アテネオリンピック (2004年)|アテネ五輪]]女子バスケットボール[[日本代表]](旧田無市出身) * [[ジャッキー広江]] - プロレスの元[[レフェリー (プロレス)|レフェリー]] * [[T-98|T-98(今村卓也)]] - キックボクサー。クロスポイント吉祥寺所属(旧保谷市出身) * [[中野遼太郎]] - 元プロサッカー選手。{{Flagicon|LVA}} [[FKイェルガヴァ]]コーチ * [[萩原淳 (野球)|萩原淳]] - 元プロ野球選手。[[滋賀ユナイテッドベースボールクラブ]]野手総合[[プロ野球コーチ|コーチ]](旧保谷市出身) * [[蓮見知弘]] - 元プロサッカー選手。[[東京ヴェルディ1969|東京ヴェルディ]]ジュニア監督(旧保谷市出身) * [[廣永遼太郎]] - プロサッカー選手。[[ヴィッセル神戸]]所属 * [[本橋卓巳]] - 元プロサッカー選手。[[松本山雅FC]]U-15監督 * [[森薗政崇]] - [[卓球]]選手。[[岡山リベッツ]]所属 * [[森薗美咲]] - 卓球選手。[[トップおとめピンポンズ名古屋]] 所属 * [[李忠成]] - プロサッカー選手。[[京都サンガF.C.]]所属。[[サッカー日本代表|元日本代表]](旧保谷市出身) * [[宮川紗江]] - 体操選手。リオ五輪代表<ref>http://www.city.nishitokyo.lg.jp/event/rekishi_bunka/28shimin-matsuri.html{{リンク切れ|date=2021年11月}}</ref> * [[宮崎智彦]] - プロサッカー選手。[[ジュビロ磐田]]所属 * [[棟朝銀河]] - トランポリン選手。[[2016年リオデジャネイロオリンピックの体操競技#トランポリン|リオデジャネイロ五輪]][[日本代表]] * [[六平光成]] - プロサッカー選手。[[ギラヴァンツ北九州]]所属 * [[河野臨]] - 囲碁棋士 * 菅原悠太 - サッカー選手。U-16日本代表。[[FC東京の下部組織|FC東京U-18]]所属 === 芸能 === * 阿部磨有香 - [[お笑いタレント]]。[[少年少女 (お笑いコンビ)|少年少女]] のメンバー * [[完熟フレッシュ]] - お笑い芸人(父は[[山口県]][[宇部市]]出身、娘の池田レイラは西東京市出身 / 西東京市PR親善大使<ref>{{Cite web|和書|title=完熟フレッシュを西東京市PR親善大使に任命(令和元年12月21日) |url=https://www.city.nishitokyo.lg.jp/siseizyoho/koho/pr_taishi/prtaishi_ninmei/kanjyuku_fresh_20191221.html |website=www.city.nishitokyo.lg.jp |access-date=2022-12-01 |language=ja}}</ref>) * [[石橋遼大]] - [[お笑いタレント]]。[[四千頭身]] のメンバー * [[岩崎う大]] - [[お笑いタレント]]。[[かもめんたる]] のメンバー * [[大友龍三郎]] - 声優(旧田無市出身) * [[大森元貴]] - 歌手([[Mrs. GREEN APPLE]]) * [[小川はる子]] - 歌手(旧保谷市出身) * [[乙葉]] - [[タレント]]。(長野県出身としているが、出生地は本市。長野県の高校を卒業後、[[武蔵野大学|武蔵野女子大学(現在の武蔵野大学)]]に通っていた) * [[GAKU-MC]] - ミュージシャン。[[EAST END]] のメンバー(旧保谷市出身) * [[きゃりーぱみゅぱみゅ]] - モデル・歌手(旧田無市出身) * [[木村文乃]] - 女優 * [[桐生コウジ]] - 俳優 * [[黒川芽以]] - 女優 * [[倖田梨紗]] - AV女優 * [[小杉まりも]] - お笑い芸人 * [[サンディー]] - 歌手(旧田無市出身) * [[清水美砂]] - 女優(旧田無市出身) * [[多部未華子]] - 女優 * [[田中美保 (モデル)|田中美保]] - モデル、女優 * [[永野芽郁]] - 女優 * [[野島昭生]] - 声優 * [[林家久蔵]] - 落語家(旧保谷市出身) * [[松元治郎]] - 元[[WANDS]]メンバー、歌手、バー経営者(旧田無市出身) * [[山下真治]] - お笑いタレント、ヒライケンジ * [[矢沢心]] - タレント * [[溝口友作]] - 映画監督 * [[筧昌也]] - 映画監督 * [[藤枝亜弥]] - 元女優(旧田無市出身) * [[竹村桐子]] - ジュニアアイドル、モデル(旧田無市出身) === アナウンサー === * [[磯野正典]] - [[東海テレビ放送]]元[[アナウンサー]](旧保谷市出身) * [[箕田和男]] - [[琉球放送]]アナウンサー(旧田無市出身) * [[平井理央]] - フリーアナウンサー、元[[フジテレビジョン]]アナウンサー * [[三上公也]] - [[ラジオ関西]]アナウンサー(旧田無市出身) * [[南波雅俊]] - [[TBSテレビ|TBS]]アナウンサー、元[[日本放送協会|NHK]]アナウンサー === 作家 === * [[秋元康]] - 放送作家(旧保谷市出身) * [[稲穂健市]] - 科学技術[[ジャーナリスト]] * [[大塚英志]] - 小説家(旧田無市出身) * [[佐藤東弥]] - [[テレビドラマ]][[演出家]](旧田無市出身) * [[福満しげゆき]] - 漫画家(旧田無市出身) * [[山村レイコ]] - [[エッセイスト]](旧田無市出身) == ゆかりの人物 == * [[伊東月草]] - 俳人 * [[佐藤純彌]] - 映画監督、本市在住。[[西東京市民映画祭]]審査委員長も務める。 * [[高畑淳子]] - 女優。本市在住 * [[竹崎有斐]] - 童話作家 * [[常田富士男]] - 俳優。本市在住。[[1977年]](昭和52年)の保谷市長選に立候補したが落選した。 * [[原武史]] - 政治学者。ひばりが丘団地旧88号棟に在住していた<ref>『レッドアローとスターハウス もう一つの戦後思想史』 - 新潮社 2012年 ISBN 978-4-10-332841-4</ref>。 * [[茨木のり子]] - 詩人。死去するまで本市在住。 * [[高橋美香 (フォトジャーナリスト)|高橋美香]] - フォトジャーナリスト。本市在住。 * [[ワタナベマホト]] - 元[[YouTuber]]、[[ヒップホップ]][[音楽ユニット|ユニット]]・[[カイワレハンマー]]のメンバー。大分出身だが、育ったのが本市としている。 * [[JUN SKY WALKER(S)]] - 2019年より西東京市PR親善大使<ref>{{Cite web|和書|title=JUN SKY WALKER(S)を西東京市PR親善大使に任命(令和元年10月29日) |url=https://www.city.nishitokyo.lg.jp/siseizyoho/koho/pr_taishi/prtaishi_ninmei/jun_sky_warkers_20191029.html |website=www.city.nishitokyo.lg.jp |access-date=2022-09-04 |language=ja}}</ref>。自由学園寮生時代に結成され、最寄り駅だったひばりヶ丘駅周辺はバンド結成の地とされる。 == 所縁のある作品 == {{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2017年10月}} * [[ドラえもん]] - [[藤子・F・不二雄]]原作の漫画、アニメ作品。同じ東京都の練馬区や多摩地域と並んで、西東京市の前身である田無市が[[野比のび太]]たちの住所であると推定できる描写が、いくらか存在している。詳しくは[[野比のび太#住所]]を参照。 * [[ケロロ軍曹]] - [[吉崎観音]]原作の漫画、アニメ作品。劇中にスカイタワー西東京をモデルとした塔が「西澤タワー」として登場するなどしている。原作では武蔵野市をモデルとした「武蔵市」がその役を果たしているのに対し、アニメでは西東京市をモデルとした「奥東京市」が舞台の中核となっている。 * [[あたしンち]] - [[けらえいこ]]原作の漫画、アニメ作品。劇中で田無駅、スカイタワー西東京、西武線、西武バス、はなバスなど、市内(特に田無地域)の風景・交通機関が頻繁に登場する。[[2011年]]に西東京市が誕生10周年を記念し、本作のキャラクター絵柄入りの[[住民票]]を発行した。 * [[シャーマンキング]] - 漫画、アニメ作品。原作の劇中で主人公たちが住んでいる町が「[[ひばりが丘 (東京都)|ひばりヶ丘]]」をモデルとした「ふんばりヶ丘」が出ているなど、このエリアをモデルとしている。 * [[ウルトラマン80]] - 特撮テレビ作品。中学校を舞台としたこのシリーズ前半では、市内にある青嵐中学校が校舎のロケに使用された。 * [[魔人探偵脳噛ネウロ]] - 漫画作品。東西京市(ひがしさいきょうし)という市が作中に出てきている。 * [[カラスヤサトシ]]・おのぼり物語 - [[カラスヤサトシ]]による作品。「カラスヤサトシ」はエッセイ的4コマ漫画で西東京市が頻繁に登場。「おのぼり物語」は関西から上京して西東京市に住み始めた作者の物語。西東京市が(その名称を含め)すべて好きだと言及している。 * [[夕凪の街 桜の国]] - [[こうの史代]]作の漫画作品。夕凪の街編の[[広島市]]に対し、桜の国編の舞台が当市となっている。 * [[鉄塔 武蔵野線]] - [[銀林みのる]]作の小説。旧保谷市域(作品が書かれた当時は保谷市)を通る実在した送電線「武蔵野線」が舞台の作品。後に映画化されている。 * [[同棲レシピ]] - [[大島永遠]]作の漫画。主人公達が住んでいる[[アパート]]が、西東京市内にあるという設定。 * [[はれときどきぶた (テレビアニメ)]] - 旧保谷市域が舞台のモデル。 * [[マリア様がみてる (アニメ)]] - 市内の[[武蔵野大学]](前武蔵野女子大学)キャンパスがアニメ版の学校のモデルとされている。 * [[危険がウォーキング]] - [[星里もちる]]作の漫画。ひばりヶ丘駅や谷戸近辺が舞台と思しき描写が多い。 * [[消えた2ページ]]、[[もうひとつの国]]、[[ミリ子は負けない]]、[[ミリ子は泣かない]]、[[たぬき先生大じっけん]]、[[ばけばけぎつね]] - [[寺村輝夫]]の児童文学。自宅周辺を舞台にした表現が多い。『ミリ子は泣かない』のわかば学級は、田無小学校に実在する[[養護学級]]。 * [[ソードアート・オンライン]] - 西東京市に主人公の通う特別学校がある。 * Let's Go ヒバリヒルズ - [[JUN SKY WALKER(S)]]による楽曲。アルバム『Let's Go Hibari-hills』等に収録。90年代のひばりヶ丘駅周辺を歌った楽曲。プロモーションビデオも同地で撮影された。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{Commonscat}} * [[田無市]] * [[保谷市]] * [[はなバス]] * [[多摩六都科学館]] == 外部リンク == * {{Official website|name=西東京市}} * [https://www.city.nishitokyo.lg.jp/siseizyoho/tokei/gappei/gappeikyo.html 田無市・保谷市合併協議会] - 西東京市公式サイト * [https://www.city.nishitokyo.lg.jp/siseizyoho/syokai/ayumi/nenpyo_hoya.html 年表(保谷版)] - 西東京市公式サイト * [https://www.city.nishitokyo.lg.jp/siseizyoho/syokai/ayumi/nenpyo_tanasi.html 年表(田無版)] - 西東京市公式サイト * {{PDFlink|[https://www.city.nishitokyo.lg.jp/siseizyoho/syokai/ayumi/gappei_ayumi.files/00gappei_ayumi.pdf 西東京市合併10年のあゆみ 田無市・保谷市合併の記録]}} - 西東京市公式サイト * {{Osmrelation|5302330}} <!--{{Geographic Location |Centre = 西東京市 |North = [[埼玉県]][[新座市]] |Northeast = |East = [[練馬区]] |Southeast = |South = [[武蔵野市]] |Southwest = [[小金井市]] |West = [[小平市]] |Northwest = [[東久留米市]] }}--> {{西東京市の町名}} {{東京都の自治体}} {{多摩地域の市町村}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:にしとうきようし}} [[Category:西東京市|*]] [[Category:東京都の市町村]] [[Category:北多摩地域]] [[Category:2001年設置の日本の市町村]]
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Modula-2
■カテゴリ / ■テンプレート Modula-2(モジュラ・ツー)は、コンピュータのプログラミング言語の一種で、1978年頃にチューリッヒ工科大学のニクラウス・ヴィルトにより、先立って構想されたプログラミング言語「Modula」の後継として創案されたものである。汎用手続き型言語で、構文の多くは同様にヴィルトの手掛けたPascal言語に基いたものとなっている。名前「Modula-2」は「モジュールの」を意味する英語「modular」に由来する。 Pascal との上位互換にはなっていない。Pascal にモジュールの概念を追加し、分割コンパイルやソフトウェア部品のライブラリ化による再利用が可能である。また、単一の処理装置での並行処理を可能にするコルーチンや、データ抽象化の機能を持つ。一方では、ハードウェアへの直接アクセスなども可能にしている。各ライブラリは、定義モジュールと実現モジュールの2つのファイルから構成され、ライブラリの整合性はリンク時に厳密に検査される。全体として、Adaの縮小版のような仕様である。 ヴィルト自身がビットスライスプロセッサを使用し、ハードウェア管理から、独自のウインドウシステムを持つオペレーティングシステムを含めたオリジナルのワークステーションシステム Lilith の全体を Modula-2 だけで構築して見せ、その実用性と強力さを示した。 発表当時は、究極の手続き型言語ともてはやされたが、現在では、Ada と同様、あまり広く使用されているとは言えない。 Modula-2 は、ISO 10514 として規格化されている。対応する日本工業規格は存在しない。 ヴィルトの著作『Programming in Modula-2』(Springer-Verlag, 1982年初版、1988年4版)は、Modula-2 の紹介とレポートから構成され、あまり厳密ではないが標準的なものとして扱われる。3版は邦訳が出ている。 ほかに、ヴィルトによる Modula-2 の著作で、邦訳されているものに以下のものがある。
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Modula-2(モジュラ・ツー)は、コンピュータのプログラミング言語の一種で、1978年頃にチューリッヒ工科大学のニクラウス・ヴィルトにより、先立って構想されたプログラミング言語「Modula」の後継として創案されたものである。汎用手続き型言語で、構文の多くは同様にヴィルトの手掛けたPascal言語に基いたものとなっている。名前「Modula-2」は「モジュールの」を意味する英語「modular」に由来する。
{{Infobox プログラミング言語|名前=Modula-2|ロゴ=|パラダイム=[[手続き型プログラミング言語|手続き型]]|登場時期=1978年頃|設計者=[[ニクラウス・ヴィルト]]|開発者=|最新リリース=|型付け=強い[[静的型付け]]|処理系=[http://www.excelsior-usa.com/xdsx86win.html XDS], [http://www.sysecol.ethz.ch/SimSoftware/RAMSES/MacMETH.html MacMETH]||方言=|影響を受けた言語=[[Mesa]]、[[Pascal]]|影響を与えた言語=|ウェブサイト=}} {{プログラミング言語}} '''Modula-2'''(モジュラ・ツー)は、[[コンピュータ]]の[[プログラミング言語]]の一種で、1978年頃に[[チューリッヒ工科大学]]の[[ニクラウス・ヴィルト]]により、先立って構想されたプログラミング言語「[[Modula]]」の後継として創案されたものである。汎用[[手続き型言語]]で、構文の多くは同様にヴィルトの手掛けた[[Pascal|Pascal言語]]に基いたものとなっている。名前「Modula-2」は「モジュールの」を意味する英語「<u>modula</u>r」に由来する。 ==特徴== Pascal との上位互換にはなっていない。Pascal にモジュールの概念を追加し、分割コンパイルやソフトウェア部品のライブラリ化による再利用が可能である。また、単一の処理装置での[[並行処理]]を可能にする[[コルーチン]]や、[[データ抽象化]]の機能を持つ。一方では、ハードウェアへの直接アクセスなども可能にしている。各ライブラリは、定義モジュールと実現モジュールの2つのファイルから構成され、ライブラリの整合性はリンク時に厳密に検査される。全体として、[[Ada]]の縮小版のような仕様である。 ヴィルト自身が[[ビットスライスプロセッサ]]を使用し、ハードウェア管理から、独自のウインドウシステムを持つ[[オペレーティングシステム]]を含めたオリジナルの[[ワークステーション]]システム [[Lilith]] の全体を Modula-2 だけで構築して見せ、その実用性と強力さを示した。 発表当時は、究極の手続き型言語ともてはやされたが、現在では、Ada と同様、あまり広く使用されているとは言えない。 ==Pascal との共通点 == *配列の範囲等の実行時検査が可能である。 *手続きや関数を入れ子にできる。 *引数は値渡しと参照渡しが使用できる。 *手続きや関数の内部で定義された名前はその外部からは参照できない。 ==Pascalとの相違点 == *大文字と小文字は区別される、予約語は全て大文字。 *予約語 AND([[論理積]]) のかわりに「[[アンパサンド|&]]」、NOT([[否定]]) のかわりに「[[チルダ|~]]」が使える。不等号は「[[番号記号|#]]」を使う。 *部分範囲型は "[..]" でくくる。集合型は "{..}" でくくる。注釈は "(*..*)" でくくる。注釈は入れ子にできる。 *整数型は符号のある INTEGER と符号なしの CARDINAL を区別する。 *十進数以外に、二進・八進・十六進数で定数を指定することができる。 *文字列定数は「[[アポストロフィ|']]」以外に「[[ダブルクオーテーション|"]]」で囲むこともでき、添え字 0 からはじまる文字の配列として扱われる。文字列は[[C言語]]と同様、コード 0 の文字(0C)によって終了する。 *<code>IF</code> 文などの制御文は複数の文を対象とするため、明示的に予約語 <code>END</code> で閉じる。else if のかわりに ELSIF を用いる。 * CASE文の各選択肢には複数の文を書くことができ、選択肢は [[バーティカルバー|&#124;]] で区切る。ELSE も存在する。RECORD CASE の書き方も少し異なる。 *<code>GOTO</code> 文はない。代わりに無限ループを構成する <code>LOOP</code> 文とそれから脱出する <code>EXIT</code> 文を持つ。 *<code>FOR</code>文は予約語 <code>BY</code> によって増分を 1 か -1 以外にもできる。予約語 <code>DOWNTO</code> はない。 *手続きと関数の定義は同じ予約語 <code>PROCEDURE</code> で開始する。関数は RETURN 文で値を返すことができる。手続きの終わりを示す END の後ろには手続き名を書く必要がある。手続き型の変数が存在する。 *手続きの引数として整合配列を使用できる。整合配列は一次元に限られ、添え字 0 から始まる。配列 a の最大の添え字は HIGH(a) によって取得できる。 *標準手続きは原則としてライブラリとして提供される。ただし CHR, ORD などは Modula-2 でも標準手続きである。 *モジュールが存在する。モジュールは初期化部分を持ち、どの識別子をモジュール外から参照できるかを定義できる。分割コンパイルもモジュールを単位に行う。 *絶対参照、出入力ポート制御、ビット型などの、ハードウェアを直接操作する低レベル機能を持つ。 *コルーチンを持つ。 ==例== <syntaxhighlight lang="modula2"> MODULE sample ; FROM InOut IMPORT WriteLn,WriteString ; BEGIN WriteString('This is Modula-2') ; WriteLn END sample. </syntaxhighlight> == 標準 == Modula-2 は、ISO 10514 として規格化されている。対応する[[日本工業規格]]は存在しない。 * ISO 10514-1:1996 * ISO 10514-2:1998 ([[ジェネリックプログラミング]]) * ISO 10514-3:1998 ([[オブジェクト指向]]) ヴィルトの著作『Programming in Modula-2』(Springer-Verlag, 1982年初版、1988年4版)は、Modula-2 の紹介とレポートから構成され、あまり厳密ではないが標準的なものとして扱われる。3版は邦訳が出ている。 * {{cite book|和書|author=Niklaus Wirth|title=Modula-2プログラミング|translator=斎藤信男|publisher=マイクロソフトウェア|edition=改訂第3版|year=1986}} ほかに、ヴィルトによる Modula-2 の著作で、邦訳されているものに以下のものがある。 * {{cite book|和書|author=N. ヴィルト|title=アルゴリズムとデータ構造|translator=浦昭二; 國府方久史|publisher=近代科学社|year=1990|isbn=4764901625}} * {{cite book|和書|author=ニクラウス・ヴィルト|title=翻訳系構成法序論|translator=筧捷彦|publisher=近代科学社|year=1986}} ==関連項目== *[[Pascal]] &mdash; ヴィルト自身が作った Modula-2 の元になった言語 *[[Modula]] &mdash; Modula-2 の前段階の言語 *[[Modula-3]] &mdash; Modula-2 の[[オブジェクト指向言語]]へ拡張 *[[Mesa]] &mdash; 影響を受けたとされる *[[Simula]] - 影響を受けたとされる *[[Oberon]] - [[オブジェクト指向言語]]、ヴィルトの次の作品 ==外部リンク== * [http://www.arjay.bc.ca/Modula-2/m2faq.html Modula-2 Frequently Asked Questions] {{en icon}} * [http://sc22wg13.twi.tudelft.nl/ ISO/IEC JTC1/SC22/WG13 Modula-2] {{en icon}} * [http://www.cfbsoftware.com/modula2/ Lilith and Modula-2] {{en icon}} * [http://www.nongnu.org/gm2/ GNU Modula-2] {{en icon}} * [http://www.modula2.org/adwm2/ ADW Modula-2] (かつて Stony Brook Modula-2 と呼ばれた処理系) {{en icon}} * [http://gpmclr.codeplex.com/ Gardens Point Modula-2 (GPM/CLR)](.Net 用の処理系) {{en icon}} {{Normdaten}} [[Category:プログラミング言語|MODULA2]]
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あきる野市
あきる野市(あきるのし)は、東京都多摩地域西部に位置する市。 1995年(平成7年)9月1日に秋川市と五日市町が合併して発足した。 東京都心から40 - 50 km圏にあり、東西18 km、南北12.7 kmに広がる市である。市の西部(旧五日市町付近)は関東山地の一部をなす山々がそびえ、中心部に五日市盆地が広がる。東部(旧秋川市付近)は秋川左岸の河岸段丘である秋留台地・草花丘陵がひろがる。 年間平均気温は約13°C。内陸性気候であり、中央高地式気候の特徴が見られる。冬は都心と比べると冷え込みが厳しく、ほぼ毎日冬日で山間部に近い地域では積雪も多い。真冬日も存在する。旧秋川市付近の東部と旧五日市町付近の西部とでは気候に違いが見られ、西部のほうが東部より全体的に気温が低い。標高が高いことも関係し、西部では夏はそれほど暑くならない。 あきる野市発足以前 あきる野市発足後 古来より「秋留」「阿伎留」の地名があったことと、旧五日市町に「阿伎留神社」があることに起因する。市名を決める際、秋川市が主張する「秋留」と、五日市町が主張する「阿伎留」で二分し、ひらがな表記とすることで決着がついた。漢字文化圏である中国では「秋留野市」と表記されている。 合併後の新市庁舎は秋川市・五日市町の双方が旧秋川市庁舎を用いることに賛成したため、同庁舎が用いられることとなった。なお合併にあたり、五日市町では市庁舎を秋川市側に譲ることで新市名に「五日市」の名前を残すことに力を入れようとする動きがあった一方、秋川市側は「秋川市」かまったくの新市名にすることを主張。1995年3月10日に開かれた第9回合併協議会で、秋川市側は「あきる野」か「阿伎留」の案を挙げた一方、五日市町側は「秋川五日市市」案を挙げたが、最終的には五日市町側が譲歩する形で「あきる野市」に決まった。 2005年時点で、夜間人口(居住者)は79,581人である。市外からの通勤者と通学生および居住者のうちの市内に昼間残留する人口の合計である昼間人口は67,814人で、昼は夜の0.852倍の人口であり、夜間に比べて昼の人口は1万2千人弱ほど減る。 通勤者・通学者で見ると、市内から市外へ出る通勤者21,596人、市外から市内へ入る通勤者は11,127人で、通勤者では市外へ出る通勤者のほうが多く、学生でも市内から市外に出る通学生は3,456人、市外から市内へ入る通学生は2,158人と、学生でも昼は市外へ流出する人数のほうが多い。なお、国勢調査では年齢不詳のものが東京都だけで16万人おり、この項の昼夜間人口に関しては年齢不詳の人物は数字に入っていないため、数字の間に若干の誤差は生じる。 あきる野市では住居表示に関する法律に基づく住居表示は実施されていないが、土地区画整理事業施行区域等においては、町名と地番を整理する方法(町名地番整理)により住所整理が実施されている。 ※ 市内にある金融機関は、りそな銀行・西武信用金庫・青梅信用金庫・多摩信用金庫・JAあきがわである。 国内 海外 市立図書館についての詳細は、あきる野市図書館ホームページを参照。 秋川駅は、市内の駅で最も乗降客数が多い。 高速道路 一般国道 都道 主要地方道 一般都道 ※JR五日市線の駅(前述)周辺の施設も参照。
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あきる野市(あきるのし)は、東京都多摩地域西部に位置する市。 1995年(平成7年)9月1日に秋川市と五日市町が合併して発足した。
{{日本の市 |画像 = 東京サマーランド.JPG |画像の説明 = [[東京サマーランド]] |市旗 = [[ファイル:Flag of Akiruno, Tokyo.svg|border|100px|あきる野市旗]] |市旗の説明 = あきる野[[市町村旗|市旗]] |市章 = [[ファイル:Emblem of Akiruno, Tokyo.svg|70px|あきる野市章]] |市章の説明 = あきる野[[市町村章|市章]]<br />1996年11月1日制定 |自治体名 = あきる野市 |都道府県 = 東京都 |コード = 13228-4 |隣接自治体 = [[八王子市]]、[[福生市]]、[[羽村市]]、[[青梅市]]、[[西多摩郡]][[日の出町]]、[[奥多摩町]]、[[檜原村]] |木 = [[モクセイ]] |花 = [[キク]] |シンボル名 = 市の鳥 |鳥など = [[セキレイ]] |郵便番号 = 197-0814 |所在地 = あきる野市二宮350番地<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-13|display=inline,title}}<br />[[file:Akiruno City Hall.JPG|250px]] |外部リンク = {{Official website}} |位置画像 = {{基礎自治体位置図|13|228|image=Akiruno in Tokyo Prefecture Ja.svg|村の色分け=no}}{{Maplink2|zoom=10|frame=yes|plain=no|frame-align=center|frame-width=300|frame-height=200|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2}} |特記事項 = }} [[ファイル:Akirunoshi-Landsat001.jpg|thumb|市域の[[ランドサット]]衛星写真]] '''あきる野市'''(あきるのし)は、[[東京都]][[多摩地域]]西部に位置する[[市]]。 [[1995年]](平成7年)[[9月1日]]に[[秋川市]]と[[五日市町 (東京都)|五日市町]]が合併して発足した<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=秋川市・五日市町合併の記録|url=https://www.city.akiruno.tokyo.jp/0000001165.html|website=あきる野市|accessdate=2020-05-18|publisher=|date=2011年2月2日}}</ref>。 == 地理 == [[都心#東京の都心部|東京都心]]から40 - 50&nbsp;[[キロメートル|km]]圏にあり、東西18&nbsp;km、南北12.7&nbsp;kmに広がる市である。市の西部(旧[[五日市町 (東京都)|五日市町]]付近)は[[関東山地]]の一部をなす山々がそびえ、中心部に[[五日市盆地]]が広がる。東部(旧[[秋川市]]付近)は[[秋川 (東京都)|秋川]]左岸の[[河岸段丘]]である[[秋留台地]]・草花丘陵がひろがる。 年間平均気温は約13[[セルシウス度|℃]]。[[内陸性気候]]であり、[[中央高地式気候]]の特徴が見られる。冬は都心と比べると冷え込みが厳しく、ほぼ毎日[[冬日]]で山間部に近い地域では[[積雪]]も多い。[[真冬日]]も存在する。旧秋川市付近の東部と旧五日市町付近の西部とでは気候に違いが見られ、西部のほうが東部より全体的に気温が低い。標高が高いことも関係し、西部では夏はそれほど暑くならない。 * 山 : [[戸倉三山]]([[臼杵山 (東京都)|臼杵山]]、[[市道山]]、[[刈寄山]])、馬頭刈山、富士見台(本市の最高峰)、[[金比羅山 (東京都)|金比羅山]] * 川 : [[秋川 (東京都)|秋川]]、[[平井川]]、[[多摩川]]、養沢川、盆堀川、鯉川、氷沢川 === 隣接している自治体 === * 東 - [[福生市]]、[[羽村市]] * 西 - [[奥多摩町]]、[[檜原村]] * 南 - [[八王子市]] * 北 - [[青梅市]]、[[日の出町]] *: 奥多摩町とは約300メートル接しているが、山岳地帯にあるため、道路では接していない。なお、この境目は[[御岳山 (東京都)|御岳山]]と[[大岳山 (東京都)|大岳山]]を結ぶ[[尾根]]道で、境界線上にある峠は芥場峠と呼ばれ、御岳山と大岳山のハイキングコースの要所である。 == 歴史 == === 年表 === '''あきる野市発足以前''' * [[1925年]](大正14年)[[4月21日]] - [[五日市鉄道]](現在の[[東日本旅客鉄道|JR]][[五日市線]])が開業。 * [[1955年]](昭和30年)[[4月1日]] ** 東秋留村・西秋留村・多西村が合併し'''秋多'''(あきた)町が発足。 ** 五日市町と増戸村、戸倉村、小宮村が合併、新たな五日市町が発足。 * [[1971年]](昭和46年) - 秋多町が八王子市高月町切欠を編入。 * [[1972年]](昭和47年)[[5月5日]] - 秋多町が市制施行・改称し、'''秋川市'''が発足(市制施行に際し、五日市町と日の出町から秋川流域4町村合併の要望があり、「単独市制施行は合併を前提とする」との協約書を締結<ref name="gappei">{{Cite web|和書|url=http://www.city.akiruno.tokyo.jp/cmsfiles/contents/0000001/1165/gappei_no_kiroku_004.pdf |title=〔秋川市・五日市町合併の記録〕第2章 合併の経緯 |publisher=あきる野市 |accessdate=2018-03-11 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.akiruno.tokyo.jp/cmsfiles/contents/0000001/1165/gappei_no_kiroku_101.pdf |title=〔秋川市・五日市町合併の記録〕資料編 合併協議会(4町村)|publisher=あきる野市 |accessdate=2018-03-11 }}</ref>)。 * [[1982年]](昭和57年) - [[国道411号]]が制定。 * [[1989年]](平成元年) - 秋川市草花の一部を福生市へ編入<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.akiruno.tokyo.jp/0000000291.html |title=あきる野市の沿革 |publisher=あきる野市 |accessdate=2018-03-11 }}</ref>。 '''あきる野市発足後''' * [[1995年]](平成7年)[[9月1日]] - [[秋川市]]と[[五日市町 (東京都)|五日市町]]が合併し、'''あきる野市'''が発足<ref name=":0" />(1972年の市制施行時の経過から、[[日の出町]]と[[檜原村]]にも合併参加を呼びかけたが「時期尚早」として参加しなかったため、秋川市と五日市町で合併<ref name="gappei"/>)。 * [[2004年]](平成16年)4月1日 - [[防災行政無線]]が開局。 * [[2005年]](平成17年)[[3月21日]] - [[あきる野インターチェンジ]]が供用開始。 * [[2007年]](平成19年) ** [[4月15日]] - [[秋川渓谷瀬音の湯]]がオープン(総工費約25億円)。あきる野市の[[第三セクター]]「新四季創造株式会社」が運営。 ** [[8月1日]] - あきる野市中央図書館がオープン(秋川図書館を移転、総工費約24億円) * [[2012年]](平成24年)4月1日 - 小宮小学校が閉校し、五日市小学校と統合。 * [[2013年]](平成25年)4月1日 - 戸倉小学校が閉校し、五日市小学校と統合。 === 市名の由来 === 古来より「秋留」「阿伎留」の地名があったことと、旧五日市町に「[[阿伎留神社]]」があることに起因する。{{要出典範囲|市名を決める際、秋川市が主張する「秋留」と、五日市町が主張する「阿伎留」で二分し|date=2023年11月|title=調べてみたが、秋川市が「秋留」、五日市町が「阿伎留」で対立したと述べている信頼できる出典が見当たらない。次の段落に書かれているように秋川市が新市名案に「あきる野」または「阿伎留」を挙げ、五日市町が新市名に「五日市」の名前を入れるよう主張して対立したという記述であれば存在する。}}、[[ひらがな・カタカナ地名|ひらがな表記]]とすることで決着がついた。漢字文化圏である中国では「秋留野市」と表記されている<ref>「'''阿伎留'''野市」の表記はみられない。</ref>。 合併後の新市庁舎は秋川市・五日市町の双方が旧秋川市庁舎を用いることに賛成したため、同庁舎が用いられることとなった<ref name="西多摩19950224"/>。なお合併にあたり、五日市町では市庁舎を秋川市側に譲ることで新市名に「五日市」の名前を残すことに力を入れようとする動きがあった一方、秋川市側は「秋川市」かまったくの新市名にすることを主張<ref name="西多摩19950224">『[[西多摩新聞]]』1995年2月24日付(第1479号)1頁「合併庁舎は秋川市に」(西多摩新聞社)</ref>。1995年3月10日に開かれた第9回合併協議会で、秋川市側は「あきる野」か「阿伎留」の案を挙げた一方、五日市町側は「秋川五日市市」案を挙げたが、最終的には五日市町側が譲歩する形で「あきる野市」に決まった<ref>『西多摩新聞』1995年3月17日付(第1482号)1頁「秋川市五日市町合併 新市名「あきる野」 「五日市」押し切られる 五日市町内部に乱れ」(西多摩新聞社)</ref>。 === 行政区画の変遷 === * '''変遷の年表''' {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed |- ! colspan="3"| あきる野市市域の変遷(年表) |- ! 年 ! 月日 ! 現あきる野市市域に関連する行政区域変遷 |- | [[1889年]](明治22年) | [[4月1日]] | style="text-align:left;" | [[町村制]]施行により、以下の村が発足。<ref>角川日本地名大辞典編纂委員会『[[角川日本地名大辞典]] 13 東京都』、[[角川書店]]、1978年、ISBN 4040011309<nowiki/>より</ref><ref>日本加除出版株式会社編集部『全国市町村名変遷総覧』、[[日本加除出版]]、2006年、ISBN 4817813180<nowiki/>より</ref> * '''旧[[秋川市]]''' ** '''[[東秋留村]]''' ← 雨間村・野辺村・小川村・二宮村・平沢村 ** '''[[西秋留村]]''' ← 引田村・淵上村・上代継村・下代継村・油平村・牛沼村 ** '''[[草花村]]''' ← 草花村単独で村制施行 ** '''[[菅生村 (東京府)|菅生村]]''' ← 菅生村単独で村制施行 ** '''[[瀬戸岡村]]''' ← 瀬戸岡村単独で村制施行 ** '''[[原小宮村]]''' ← 原小宮村単独で村制施行 * '''旧[[五日市町 (東京都)|五日市町]]''' ** '''五日市町''' ← 五日市町・小中野村 ** '''[[明治村 (東京府)|明治村]]''' ← 館谷村・入野村・深沢村と五日市町の一部 ** '''[[三ッ里村]]''' ← 高尾村・留原村・小和田村 ** '''[[増戸村]]''' ← 山田村・伊奈村・網代村・横沢村・三内村 ** '''[[戸倉村 (東京都)|戸倉村]]''' ← 戸倉村と乙津村の一部 ** '''[[小宮村]]''' ← 乙津村・養沢村 |- | [[1893年]](明治26年) | 4月1日 | style="text-align:left;" | 西多摩郡は[[南多摩郡]]・[[北多摩郡]]とともに[[東京府]]へ編入。 |- | [[1918年]](大正7年) | [[12月1日]] | style="text-align:left;" | 五日市町・明治村・三ッ里村が合併し'''五日市町'''が発足。 |- | [[1921年]](大正10年) | 4月1日 | style="text-align:left;" | 草花村・菅生村・瀬戸岡村・原小宮村が合併し'''[[多西村]]'''が発足。 |- | [[1943年]](昭和18年) | [[7月1日]] | style="text-align:left;" | [[東京都制|都制]]施行により、東京府、[[東京市]]が合併し[[東京都]]が発足。 |- | [[1955年]](昭和30年) | 4月1日 | style="text-align:left;" | * 多西村・東秋留村・西秋留村とともに合併し'''秋多町'''が発足。 * 五日市町・増戸村・小宮村・戸倉村とともに合併し、'''五日市町'''が発足。 |- | [[1971年]](昭和46年) | 4月1日 | style="text-align:left;" | 八王子市の一部(切欠)は秋多町に編入。 |- | [[1972年]](昭和47年) | [[5月5日]] | style="text-align:left;" | 秋多町が市制施行・改称して'''[[秋川市]]'''となる。 |- | [[1995年]](平成7年) | [[9月1日]] | style="text-align:left;" | 秋川市と五日市町が合併し'''あきる野市'''が発足。 |} * '''変遷表''' {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed |- ! colspan="9" | あきる野市市域の変遷表 |- ! colspan="2" | 1868年<br />以前 ! 明治元年 - 明治22年 ! 明治22年<br />4月1日 ! 明治22年 - 昭和19年 ! colspan="2" | 昭和20年 - 昭和64年 ! 平成元年 - 現在 ! 現在 |- | bgcolor="#99ccff" | | bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 雨間村 | bgcolor="#99ccff" rowspan="5" | ''東秋留村'' | bgcolor="#99ccff" rowspan="5" | ''[[東秋留村]]'' | bgcolor="#66ffff" rowspan="16" | 昭和30年4月1日<br />'''秋多町''' | style="color:white;" bgcolor="#e66b58" rowspan="17" | 昭和47年5月5日<br />'''秋川市'''に市制改称 | style="color:white;" bgcolor="#e66b58" rowspan="35" | 平成7年9月1日<br />'''あきる野市''' | style="color:white;" bgcolor="#e66b58" rowspan="35" | '''あきる野市''' |- | bgcolor="#99ccff" | | bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 野辺村 |- | bgcolor="#99ccff" | | bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 小川村 |- | bgcolor="#99ccff" | | bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 二宮村 |- | bgcolor="#99ccff" | | bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 平沢村 |- | bgcolor="#99ccff" | | bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 引田村 | bgcolor="#99ccff" rowspan="6" | ''西秋留村'' | bgcolor="#99ccff" rowspan="6" | ''[[西秋留村]]'' |- | bgcolor="#99ccff" | | bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 淵上村 |- | bgcolor="#99ccff" | | bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 上代継村 |- | bgcolor="#99ccff" | | bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 下代継村 |- | bgcolor="#99ccff" | | bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 油平村 |- | bgcolor="#99ccff" | | bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 牛沼村 |- | bgcolor="#99ccff" | | bgcolor="#99ccff" | 上草花村 | bgcolor="#99ccff" rowspan="2" | 明治初年頃<br />草花村 | bgcolor="#99ccff" rowspan="2" | ''[[草花村]]'' | bgcolor="#99ccff" rowspan="5" | 大正10年4月1日<br />''多西村'' |- | bgcolor="#99ccff" | | bgcolor="#99ccff" | 下草花村 |- | bgcolor="#99ccff" | | bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 菅生村 | bgcolor="#99ccff" | ''[[菅生村 (東京府)|菅生村]]'' |- | bgcolor="#99ccff" | | bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 瀬戸岡村 | bgcolor="#99ccff" | ''[[瀬戸岡村]]'' |- | bgcolor="#99ccff" | | bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 原小宮村 | bgcolor="#99ccff" | ''[[原小宮村]]'' |- | bgcolor="#99ccff" | | bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 高月村の一部(切欠) | bgcolor="#99ccff" | ''[[加住村]]''<br />の一部(切欠) | bgcolor="#99ccff" | ''[[加住村]]''の一部(切欠) | bgcolor="#66ffff" | 昭和30年4月1日<br />[[八王子市]]に編入<br />昭和46年4月1日<br />秋多町に編入 |- | bgcolor="#99ccff" | | bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 小中野村 | bgcolor="#66ffff" rowspan="2" | ''五日市町'' | bgcolor="#66ffff" rowspan="9" | 大正7年12月1日<br />''五日市町'' | bgcolor="#66ffff" rowspan="18" colspan="2" | 昭和30年4月1日<br />'''五日市町''' |- | bgcolor="#99ccff" | &nbsp; | bgcolor="#99ccff" rowspan="2" | 五日市村 | bgcolor="#66ffff" rowspan="2" | 明治12年<br />五日市町 |- | bgcolor="#99ccff" | &nbsp; | bgcolor="#99ccff" rowspan="4" | ''[[明治村 (東京府)|明治村]]'' |- | bgcolor="#99ccff" | | bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 館谷村 |- | bgcolor="#99ccff" | | bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 入野村 |- | bgcolor="#99ccff" | | bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 深沢村 |- | bgcolor="#99ccff" | | bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 高尾村 | bgcolor="#99ccff" rowspan="3" | ''[[三ッ里村]]'' |- | bgcolor="#99ccff" | | bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 留原村 |- | bgcolor="#99ccff" | | bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 小和田村 |- | bgcolor="#99ccff" | | bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 山田村 | bgcolor="#99ccff" rowspan="5" | ''増戸村'' | bgcolor="#99ccff" rowspan="5" | ''[[増戸村]]'' |- | bgcolor="#99ccff" | | bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 伊奈村 |- | bgcolor="#99ccff" | | bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 網代村 |- | bgcolor="#99ccff" | | bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 横沢村 |- | bgcolor="#99ccff" | | bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 三内村 |- | bgcolor="#99ccff" | | bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 戸倉村 | bgcolor="#99ccff" rowspan="2" | ''戸倉村'' | bgcolor="#99ccff" rowspan="2" | ''[[戸倉村 (東京都)|戸倉村]]'' |- | bgcolor="#99ccff" | &nbsp; | bgcolor="#99ccff" rowspan="2" colspan="2" | 乙津村 |- | bgcolor="#99ccff" | &nbsp; | bgcolor="#99ccff" rowspan="2" | ''小宮村'' | bgcolor="#99ccff" rowspan="2" | ''[[小宮村]]'' |- | bgcolor="#99ccff" | | bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 養沢村 |} == 人口 == {{人口統計|code=13228|name=あきる野市|image=Population distribution of Akiruno, Tokyo, Japan.svg}} === 昼夜間人口 === 2005年時点で、夜間人口(居住者)は79,581人である。市外からの通勤者と通学生および居住者のうちの市内に昼間残留する人口の合計である[[昼間人口]]は67,814人で、昼は夜の0.852倍の人口であり、夜間に比べて昼の人口は1万2千人弱ほど減る。 通勤者・通学者で見ると、市内から市外へ出る通勤者21,596人、市外から市内へ入る通勤者は11,127人で、通勤者では市外へ出る通勤者のほうが多く、学生でも市内から市外に出る通学生は3,456人、市外から市内へ入る通学生は2,158人と、学生でも昼は市外へ流出する人数のほうが多い<ref>東京都編集『東京都の昼間人口2005』平成20年発行152-153ページ</ref>。なお、国勢調査では年齢不詳のものが東京都だけで16万人おり、この項の昼夜間人口に関しては年齢不詳の人物は数字に入っていないため、数字の間に若干の誤差は生じる。 == 地域 == あきる野市では[[住居表示に関する法律]]に基づく[[住居表示]]は実施されていないが、[[土地区画整理事業]]施行区域等においては、町名と[[地番]]を整理する方法(町名地番整理)により住所整理が実施されている。 <!-- 町名の順序は、あきる野市統計書等公的資料の順序による。 --> ===あきる野市役所管内=== {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small;" |+あきる野市役所管内(56町丁) !style="width:12%"|町名 !style="width:12%"|町区域設定年月日 !style="width:12%"|住居表示実施年月日 !style="width:36%"|住居表示実施前の町名等 !style="width:16%"|備考 |- |{{ruby|'''雨間'''|あめま}} |1995年9月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''秋留'''|あきる}}'''一丁目''' |2002年11月1日<ref group="†" name="****" /> |未実施<ref group="†" name="*" /> | | |- |'''秋留二丁目''' |2002年11月1日<ref group="†" name="****" /> |未実施<ref group="†" name="*" /> | | |- |'''秋留三丁目''' |2002年11月1日<ref group="†" name="****" /> |未実施<ref group="†" name="*" /> | | |- |'''秋留四丁目''' |2002年11月1日<ref group="†" name="****" /> |未実施<ref group="†" name="*" /> | | |- |'''秋留五丁目''' |2002年11月1日<ref group="†" name="****" /> |未実施<ref group="†" name="*" /> | | |- |{{ruby|'''野辺'''|のべ}} |1995年9月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[小川 (あきる野市)|小川]]'''|おがわ}} |1995年9月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''小川東'''|おがわひがし}}'''一丁目''' |1995年9月1日<ref group="†" name="**" /> |未実施<ref group="†" name="*" /> | | |- |'''小川東二丁目''' |1995年9月1日<ref group="†" name="**" /> |未実施<ref group="†" name="*" /> | | |- |'''小川東三丁目''' |1995年9月1日<ref group="†" name="**" /> |未実施<ref group="†" name="*" /> | | |- |{{ruby|'''二宮'''|にのみや}} |1995年9月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''二宮東'''|にのみやひがし}}'''一丁目''' |1995年9月1日<ref group="†" name="**" /> |未実施<ref group="†" name="*" /> | | |- |'''二宮東二丁目''' |1995年9月1日<ref group="†" name="**" /> |未実施<ref group="†" name="*" /> | | |- |'''二宮東三丁目''' |1995年9月1日<ref group="†" name="**" /> |未実施<ref group="†" name="*" /> | | |- |{{ruby|'''平沢'''|ひらさわ}} |1995年9月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''平沢東'''|ひらさわひがし}}'''一丁目''' |1995年9月1日<ref group="†" name="**" /> |未実施<ref group="†" name="*" /> | | |- |{{ruby|'''平沢西'''|ひらさわにし}}'''一丁目''' |2008年3月20日<ref group="†" name="*****" /> |未実施<ref group="†" name="*" /> | | |- |{{ruby|'''切欠'''|きっかけ}} |1995年9月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''草花'''|くさばな}} |1995年9月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''菅生'''|すがお}} |1995年9月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''瀬戸岡'''|せどおか}} |1995年9月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''原小宮'''|はらこみや}} |1995年9月1日 |未実施 | | |- |'''原小宮一丁目''' |2008年3月20日<ref group="†" name="*****" /> |未実施<ref group="†" name="*" /> | | |- |'''原小宮二丁目''' |2008年3月20日<ref group="†" name="*****" /> |未実施<ref group="†" name="*" /> | | |- |{{ruby|'''引田'''|ひきだ}} |1995年9月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''渕上'''|ふちがみ}} |1995年9月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''上代継'''|かみよつぎ}} |1995年9月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''下代継'''|しもよつぎ}} |1995年9月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''牛沼'''|うしぬま}} |1995年9月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''油平'''|あぶらだい}} |1995年9月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''秋川'''|あきがわ}}'''一丁目''' |1995年9月1日<ref group="†" name="***" /> |未実施<ref group="†" name="*" /> | | |- |'''秋川二丁目''' |1995年9月1日<ref group="†" name="***" /> |未実施<ref group="†" name="*" /> | | |- |'''秋川三丁目''' |1995年9月1日<ref group="†" name="***" /> |未実施<ref group="†" name="*" /> | | |- |'''秋川四丁目''' |1995年9月1日<ref group="†" name="***" /> |未実施<ref group="†" name="*" /> | | |- |'''秋川五丁目''' |1995年9月1日<ref group="†" name="***" /> |未実施<ref group="†" name="*" /> | | |- |'''秋川六丁目''' |1995年9月1日<ref group="†" name="***" /> |未実施<ref group="†" name="*" /> | | |- |{{ruby|'''山田'''|やまだ}} |1995年9月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''上ノ台'''|うえのだい}} |1995年9月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''網代'''|あじろ}} |1995年9月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''伊奈'''|いな}} |1995年9月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''横沢'''|よこさわ}} |1995年9月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''三内'''|さんない}} |1995年9月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''五日市'''|いつかいち}} |1995年9月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''小中野'''|こなかの}} |1995年9月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''小和田'''|こわだ}} |1995年9月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''留原'''|ととはら}} |1995年9月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''高尾'''|たかお}} |1995年9月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''舘谷'''|たてや}} |1995年9月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''入野'''|いりの}} |1995年9月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''深沢'''|ふかさわ}} |1995年9月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''戸倉'''|とくら}} |1995年9月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''乙津'''|おつ}} |1995年9月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''養沢'''|ようざわ}} |1995年9月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''小峰台'''|こみねだい}} |1995年9月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''舘谷台'''|たてやだい}} |2000年3月xx日<ref group="†" name="******" /> |未実施 | | |- |} <references group="†"> <ref group="†" name="*">町名地番整理実施区域</ref> <ref group="†" name="**">旧・秋川市における町区域の設定の効力発生日は1987年10月1日(玉見ヶ崎土地区画整理事業換地処分公告があった日(1987年9月30日)の翌日)。</ref> <ref group="†" name="***">旧・秋川市における町区域の設定の効力発生日は1995年3月xx日(西秋留駅北口土地区画整理事業換地処分公告があった日(1995年3月xx日)の翌日)。</ref> <ref group="†" name="****">あきる野市雨間土地区画整理事業換地処分公告があった日(2002年10月31日)の翌日。</ref> <ref group="†" name="*****">あきる野市原小宮土地区画整理事業換地処分公告があった日(2008年3月19日)の翌日。</ref> <ref group="†" name="******">武蔵五日市駅土地区画整理事業換地処分公告があった日(2000年3月xx日)の翌日。</ref> </references> == 行政 == === 市長 === *市長:[[中嶋博幸]](1期目) ;歴代市長 {| class="wikitable" |- !代!!氏名!!就任!!退任!!備考 |- | 初代 || 田中雅夫 || [[1995年]][[10月15日]]|| [[2007年]][[10月14日]] || 旧五日市町長 |- | 2代 || [[臼井孝]] || 2007年10月15日 || 2015年10月14日 ||旧秋川市長 |- | 3代 || [[澤井敏和]] || 2015年10月15日 || 2019年10月14日 || |- | 4代 || [[村木英幸]] || 2019年10月15日 || [[2022年]][[7月29日]]|| [[不信任決議]]により失職<ref>{{Cite web|和書|title=東京 あきる野市議会 不信任再議決で村木英幸市長が失職|NHK 首都圏のニュース |url=https://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20220728/1000082837.html |website=NHK NEWS WEB |access-date=2022-07-29 |date=2022年07月28日}}</ref> |- |5代 |中嶋博幸 |2022年[[9月4日]]<ref>{{Cite web|和書|title=[東京]あきる野市長選、中嶋氏が新人の争いを制して初当選 |url=https://seijiyama.jp/article/news/el20220904-42.html |website=政治山 |access-date=2022-09-05 |language=ja |date=2022/9/4}}</ref> |現職 | |} * 市職員数 : 470人(2013年1月1日)<ref name="行財政">[http://www.city.akiruno.tokyo.jp/cmsfiles/contents/0000004/4301/17.pdf あきる野市 統計書 16 行財政]</ref> * 当初予算規模(2011年度) : 296.431億円(一般会計)、174.021億円(特別会計)<ref name="行財政" /> * 財政力を示す[[財政力指数]]は0.81(2009年度)。平成14年度以降は微増傾向にあったが、平成21年度は前年度比で0.02ポイント減少し、類似団体と比較して0.03ポイント下回っている。主な要因としては、景気の悪化による法人市民税の減少や、大手企業の撤退等による[[固定資産税]](償却資産)の減少などが挙げられる。 * 給与水準を示す[[ラスパイレス指数]]は98.7(2009年度)。全国市、類似団体平均ともに下回り、東京都26市中においても最下位(26位)にある。 === 行政機構 === {{col| * 議会事務局 * 企画政策部 ** 企画政策課 ** 市長公室 ** 財政課 * 総務部 ** 総務課 ** 情報システム課 ** 職員課 ** 契約管財課 ** 地域防災課 * 市民部 ** 市民課 ** 五日市出張所 ** 保険年金課 ** 課税課 ** 徴税課 * 環境経済部 ** 環境政策課 ** 生活環境課 ** 農林課 ** 観光商工課 ** 観光まちづくり活動課 | * 健康福祉部 ** 生活福祉課 ** 障がい者支援課 ** 高齢者支援課 ** 健康課 * 子ども家庭部 ** 子ども政策課 ** 子育て支援課 ** 保育課 * 都市整備部 ** 都市計画課 ** 区画整理推進室 ** 管理課 ** 建設課 ** 施設営繕課 * 会計管理者 ** 会計課 * 教育部 ** 教育総務課 ** 指導室 ** 学校給食課 ** 生涯学習スポーツ課 ** 図書館 | * 選挙管理委員会事務局 * 監査委員事務局 * 農業委員会事務局(農林課担当) }} === 市役所ならびに出張所 === * 市役所 **所在地 - あきる野市二宮350番地 **アクセス方法 - [[秋川駅]]より徒歩10-15分程度。[[秋川駅]]より「[[るのバス]]」又は[[西東京バス]]市役所経由福生駅方面行き又は[[福生駅]]より市役所経由秋川駅・武蔵五日市駅行きで、あきる野市役所秋川庁舎(るのバスは「あきる野市役所」)下車。※バスにより料金やバス停(るのバスは市役所正面玄関、路線バスは五日市街道沿い)が違う。 * 五日市出張所(旧五日市町役場) **所在地 - あきる野市五日市411番地 **アクセス方法 - [[武蔵五日市駅]]より徒歩10-15分程度。[[福生駅]]や八王子・[[秋川駅]]方面から来るバス又は[[武蔵五日市駅]]始発など西東京バスで五日市下車徒歩約5分程度。「るのバス」で五日市出張所下車。※バスにより料金やバス停(るのバスは出張所前、路線バスは五日市街道沿い)が違う。 * 増戸連絡所(五日市ファインプラザ内) **所在地 - あきる野市伊奈859番地3 **アクセス方法 - 武蔵増戸駅より市民体育館方面へ歩く。 === 指定金融機関 === * [[りそな銀行]](あきる野支店)が、税金の収納などの業務を行っている。 * なお、市役所(本庁舎)内にはりそな銀行・[[多摩信用金庫]]・[[秋川農業協同組合|JAあきがわ]]のATMがある。 ※ 市内にある金融機関は、りそな銀行・[[西武信用金庫]]・[[青梅信用金庫]]・多摩信用金庫・JAあきがわである。 === 広域行政 === * [[東京都三市収益事業組合]] - 多摩、稲城、あきる野の3市で[[江戸川競艇場|江戸川競艇]]を開催している。 == 議会 == === あきる野市議会 === {{Main|あきる野市議会}} === 東京都議会 === ;2021年東京都議会議員選挙 * 選挙区:西多摩選挙区([[福生市]]、[[羽村市]]、あきる野市、[[瑞穂町]]、[[日の出町]]、[[檜原村]]、[[奥多摩町]]) * 定数:2人 * 任期:2021年7月23日 - 2025年7月22日 * 投票日:2021年7月4日 * 当日有権者数:205,078人 * 投票率:35.79% {| class="wikitable" ! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 党派名 !! 新旧別 !! 得票数 |- | 清水康子 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 54 || [[都民ファーストの会]] || style="text-align:center" | 現 || 27,748票 |- | 田村利光 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 54 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="text-align:center" | 現 || 26,507票 |- | 宮崎太朗 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 41 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || style="text-align:center" | 新 || 15,077票 |- | 高沢一成 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 47 || 無所属 || style="text-align:center" | 新 || style="text-align:right" | 2,126票 |- | 角田統領 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 72 || [[諸派]] || style="text-align:center" | 新 || style="text-align:right" | 555票 |} ;2017年東京都議会議員選挙 * 選挙区:西多摩選挙区 * 定数:2人 * 投票日:2017年7月2日 * 当日有権者数:209,019人 * 投票率:47.21% {| class="wikitable" ! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 党派名 !! 新旧別 !! 得票数 |- | 清水康子 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 50 || 都民ファーストの会 || style="text-align:center" | 新 || 33,526票 |- | 田村利光 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 50 || 自由民主党 || style="text-align:center" | 新 || 27,771票 |- | 島田幸成 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 49 || 無所属 || style="text-align:center" | 現 || 23,468票 |- | 西村雅人 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 50 || [[日本共産党]] || style="text-align:center" | 新 || 12,469票 |} === 衆議院 === * 選挙区:[[東京都第25区|東京25区]]([[青梅市]]・[[昭島市]]・[[福生市]]・あきる野市・[[羽村市]]・[[西多摩郡]]) * 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日 * 投票日:2021年10月31日 * 当日有権者数:413,266人 * 投票率:54.90% {| class="wikitable" ! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複 |- | style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="background-color:#ffc0cb;" | [[井上信治]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 52 || style="background-color:#ffc0cb;" | [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 前 || style="background-color:#ffc0cb;" | 131,430票 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | ○ |- | || 島田幸成 || style="text-align:center;" | 53 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || style="text-align:center;" | 新 || style="text-align:right;" | 89,991票 || style="text-align:center;" | ○ |} == 都の行政機関 == * 東京都西多摩保健所(本:青梅市東青梅) ** 秋川地域センター(あきる野市役所五日市出張所内) * 東京都西多摩建設事務所(本:青梅市東青梅) ** あきる野工区 * 東京都森林事務所(本:青梅市河辺町) ** 秋川林務出張所 * [[東京都水道局]]あきる野サービスステーション(秋川) * [[福生警察署|警視庁福生警察署]](本:福生市加美平)(旧秋川市域を管轄) ** 秋川駅前交番 ** 草花駐在所, 菅生駐在所, 渕上駐在所, 油平駐在所, 野辺駐在所, 小川駐在所, 二宮駐在所 * [[五日市警察署|警視庁五日市警察署]](旧五日市町域を管轄) ** 五日市駅前交番 ** 留原駐在所, 伊奈駐在所, 山田駐在所, 戸倉駐在所, 小宮駐在所 * [[秋川消防署|東京消防庁秋川消防署]](伊奈) ** 秋留台消防出張所(秋川) == 姉妹都市・提携都市 == '''国内''' * [[栗原市]]([[宮城県]]) ** [[1985年]](昭和60年)[[2月11日]]、旧五日市町が旧[[志波姫町]]と友好姉妹都市盟約。 * [[大島町]](東京都) ** [[1985年]](昭和60年)[[4月14日]]、旧五日市町が友好姉妹都市盟約。 * 両自治体とも[[1996年]](平成8年)[[1月28日]]にあきる野市として友好姉妹都市盟約を継承した。 '''海外''' * {{flagicon|USA}} [[マールボロ (マサチューセッツ州)|マールボロ]]市([[アメリカ合衆国]] [[マサチューセッツ州]]) ** [[1998年]](平成10年)[[11月3日]]、姉妹都市提携 == 学校教育 == === 小学校 === * 市立 ** 東秋留小学校 ** 屋城小学校 ** 前田小学校 ** 南秋留小学校 ** 西秋留小学校 ** 一の谷小学校 ** 多西小学校 ** 草花小学校 ** 増戸小学校 ** 五日市小学校 * 私立 ** 菅生学園初等学校 === 中学校 === * 市立 ** 秋多中学校 ** 東中学校 ** 西中学校 ** 御堂中学校 ** 増戸中学校 ** 五日市中学校 * 私立 ** [[東海大学菅生高等学校・中等部|東海大学菅生高校中等部]](旧・東海大学菅生中学校) === 高等学校 === * 都立 ** [[東京都立秋留台高等学校|秋留台高校]] - [[1977年]](昭和52年)開校。[[2003年]](平成15年)から[[支援教育を行う普通学校|エンカレッジスクール]]となる。文化祭は「オリオン祭」と称する。 ** [[東京都立五日市高等学校|五日市高校]] - [[1948年]](昭和23年)開校。通称「五高」。普通科と商業科からなる。定時制も併設。 * 私立 ** [[東海大学菅生高等学校・中等部|東海大学菅生高校]] === その他 === * [[東京都立あきる野学園]] - 特別支援学校 == 社会教育 == === 公民館・ホール === * 中央公民館 * 秋川キララホール(市民文化ホール) * [[あきる野ルピア]](産業文化複合施設) * 五日市会館 * 五日市地域交流センター(まほろばホール) === 図書館 === [[公立図書館|市立図書館]]についての詳細は、[https://www.library.akiruno.tokyo.jp/ あきる野市図書館ホームページ]を参照。 * 中央図書館(秋川) * 中央図書館増戸分室(伊奈) * 東部図書館エル(野辺) * 五日市図書館(五日市) **五日市図書館戸倉分室(戸倉)2009年3月31日閉室 **五日市図書館小宮分室(乙津)2009年3月31日閉室 *[[少女まんが館]](網代)- [[私立図書館]] === 資料館 === * 二宮考古館 * 五日市郷土館 === 生涯学習施設 === * あきる野生涯学習センター([[あきる野ルピア]]内) * アートスタジオ五日市 === コミュニティ会館 === * 小宮会館 * 戸倉会館 * 北伊奈会館 * 代継会館 === 地区会館(学習等供用施設)=== * 二宮地区会館 * 千代里会館 * 御堂会館 * 鳥居場会館 * 玉見会館 * 野辺地区会館 * 草花台会館 * 楓ヶ原会館 * 増戸会館 === 体育施設 === * 秋川体育館 * 五日市ファインプラザ * 市民プール * 総合グラウンド * 山田グラウンド * 小和田グラウンド * いきいきセンター * 秋川グリーンスポーツ公園 * [[あきる野市民球場]] * 油平クラブハウス * 小峰運動公園 * 戸倉運動場 * 東京都立秋留台公園陸上競技場 === 主な公園 === * 草花公園 * 秋留台公園 * 網代緑地 * 高尾公園 == 医療機関 == *[[公立阿伎留医療センター]] *秋川病院 *あきる台病院 *櫻井病院 *草花クリニック == 郵便 == * [[あきる野郵便局]] * あきる野小川郵便局 *秋川野辺郵便局 * 多西郵便局 * 西秋留郵便局 * 東秋留郵便局 * 増戸郵便局 * 武蔵五日市駅前郵便局 * 五日市仲町郵便局 * 乙津郵便局 == 交通 == === 鉄道 === * [[東日本旅客鉄道|JR東日本]] ** {{Color|#f15a22|■}}[[File:JR JC line symbol.svg|25px]][[五日市線]] *** [[東秋留駅]] - [[秋川駅]] - [[武蔵引田駅]] - [[武蔵増戸駅]] - [[武蔵五日市駅]] 秋川駅は、市内の駅で最も乗降客数が多い。 === バス === * [[西東京バス]] **[[西東京バス五日市営業所|五日市営業所]] *** あきる野市[[コミュニティバス]]「[[るのバス]]」の運行も受託している。 ** [[西東京バス楢原営業所|楢原営業所]] (主にサマーランド - 八王子方面のバス) ** [[西東京バス青梅営業所|青梅営業所]] === 道路 === '''[[高速道路]]''' * {{Ja Exp Route Sign|C4}}[[首都圏中央連絡自動車道]](圏央道) ** [[あきる野インターチェンジ|あきる野IC]] '''[[一般国道]]''' * [[国道411号]]([[滝山街道]]) '''[[都道府県道|都道]]''' '''[[主要地方道]]''' * [[東京都道7号杉並あきる野線]]([[五日市街道]]) * 東京都道7号杉並あきる野線([[東京都道7号杉並あきる野線#支線|睦橋通り]]) * [[東京都道29号立川青梅線]] * [[東京都道31号青梅あきる野線]](秋川街道) * [[東京都道32号八王子五日市線]](秋川街道) * [[山梨県道・東京都道33号上野原あきる野線|東京都道33号上野原あきる野線]](檜原街道) * [[東京都道46号八王子あきる野線]](滝山街道) * [[東京都道61号山田宮の前線]] '''[[都道府県道|一般都道]]''' * [[東京都道163号羽村瑞穂線]] * [[東京都道165号伊奈福生線]] * [[東京都道166号瑞穂あきる野八王子線]] * [[東京都道168号東秋留停車場線]] * [[東京都道169号淵上日野線]](新滝山街道) * [[東京都道176号楢原あきる野線]] * [[東京都道184号奥多摩あきる野線]] * [[東京都道185号山田平井線]] * [[東京都道201号十里木御嶽停車場線]] * [[東京都道250号あきる野羽村線]] == 地域メディア == * [[ケーブルテレビ]] ** [[ジェイコム八王子]] *: 一部地域エリアのみ。受信エリアが限られるため集合住宅などに多い傾向にある。 * [[#地域紙(地域新聞)|地方新聞]] ** 『[[西多摩新聞]]』 - 発行元である西多摩新聞社の本社は[[福生市]]にある。 ** 『[[Weekly News 西の風]]』 - 発行元である西の風新聞社の本社は市内の旧五日市町にある。 ** 『[[秋川新聞]]』([[廃刊になった日本の新聞一覧|廃刊]]) - 発行元である新五日市社は旧五日市町に拠点を置いており、秋川流域4市町村(現在の市域および檜原村・日の出町)で発行されていたが、1989年に発行人の息子である[[宮崎勤]]が[[東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件]]の犯人として逮捕された影響で廃刊となった。 == 名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事 == [[ファイル:阿伎留神社 正面.JPG|thumb|250px|阿伎留神社]] === 名所・旧跡 === * 秋川渓谷 * 三ツ合[[鍾乳洞]] * 大岳鍾乳洞 * 養沢鍾乳洞 * 瀬戸岡古墳 *大塚古墳 *前田耕地跡 === 寺社・墓苑 === * [[二宮神社 (あきる野市)|二宮神社]] * 雨武主神社 * [[阿伎留神社]] * [[大悲願寺]] * 広徳寺 * 観音堂 * 保泉院 * 花蔵院 * 稲足神社 * 天満宮 * 能満禅寺 * 成就院 * 龍珠院 * 日天神社 * 真光院 * 普光禅寺 * 正一位岩走神社 * [[西多摩霊園]] - [[山田耕筰]]の石碑がある * [[あきる野本願寺]] - [[築地本願寺]]の分院 * 秋川霊園([[日の出町]]) === 祭・イベント === * [[あきる野映画祭]] - ([[1984年]](昭和59年) - )毎年7月の最終週の4・5日間開催。いろいろなジャンルの映画20作品程度を上映。 * あきる野夏まつり - 毎年8月第1土曜開催。中心会場は秋川駅前大通りと秋留野広場。 * [[ヨルイチ (あきる野市)|ヨルイチ]] - 毎年8月最終土曜日開催。会場は武蔵五日市駅から小中野までの檜原街道沿い。 * しょうが祭り - 毎年9月9日開催。[[露天商|露店]]で販売されている[[ショウガ|生姜]]を食べると一年間健康に過ごせるとされる。 *正一位岩走神社例大祭 ‐ 毎年9月[[敬老の日]]の前の土日開催。大規模にもかかわらずあまり知られていない。[[神輿]]12基、[[獅子舞|獅子頭]]2つ、太鼓車、神社神輿、[[山車]]2(3)台、囃子車4(3)台。 *阿伎留神社例大祭 - 毎年9月28日~9月30日開催。珍しい六角型神輿が檜原街道や氏子を回る。 === 名物・特産品 === *[[のらぼう菜]] *[[とうもろこし]](秋川とうもろこし) * 秋川牛 - [[和牛]]の一品種。 * 醤油(近藤醸造) * だんべえ汁 - [[多摩弁|五日市弁]]の「…だんべえ(…でしょうの意味)」を冠した[[ご当地グルメ]]。元々[[だんご汁]]として食べられていたものを地元の食材に特化したものとして販売。「[[日本山岳耐久レース]]」をはじめ、さまざまなイベントで提供される。 * あきる野多摩産材の工芸品 * [[おやき]] - 信州名物のおやきと中身は異なる。 == 経済 == === 商業施設 === ※JR五日市線の駅(前述)周辺の施設も参照。 *[[あきる野ショッピングシティ]] **[[あきる野ショッピングシティ|あきる野ルピア]] **あきる野[[東急ストア|とうきゅう]] *[[いなげや]] - あきる野北伊奈店、あきる野雨間店、あきる野新草花店、ina21五日市店 *[[マルフジ]]舘谷店 *[[ジェーソン]]野辺店 *[[コメリ]] - あきる野伊奈店、あきる野二宮店 *[[ケーヨーデイツー]]あきる野店 *[[富士薬品]]ドラッグストアグループ(セイムス・[[バイゴー]])- 市内に数店舗 *[[サンドラッグ]] - 市内に3店舗 *[[イエローハット]]秋川店 === レジャー施設 === * [[東京サマーランド]] ** かつてはサマーランドの隣に「[[東京セサミプレイス]]」があったが、[[2006年]](平成18年)12月31日をもって閉鎖された。 ** [[2004年]](平成16年)7月28日 - [[2007年]](平成19年)11月25日まで「[[東京ムツゴロウ動物王国]]」があった。 * 五日市[[青少年旅行村]] * [[秋川渓谷瀬音の湯]] * 立川国際ゴルフカントリー倶楽部(旧秋川市) * 東京五日市カントリー倶楽部(旧五日市町) * 養沢キャンプ場 * 網代温泉 === 市内に本社・事業所を置く企業 === * 株式会社東京サマーランド - 上代継白岩600番地 * [[秋川農業協同組合]] - 秋川3-1-1 * 近藤醸造株式会社 - キッコーゴ醤油<ref>{{Cite web|和書|title=【キッコーゴ丸大豆醤油】東京都あきる野市の醤油工場|url=https://www.kondojozo.com/|website=近藤醸造株式会社|accessdate=2020-05-20|language=ja|publisher=}}</ref> *[[野崎酒造]] - [[地酒]]「喜正」 *[[中村酒造]] - 地酒「千代鶴」 * パーク商事株式会社 - 上代継68-1<ref>{{Cite web|和書|title=パーク商事株式会社|url=http://www.parksyouji.co.jp/index.html|accessdate=2023-12-16|publisher=}}</ref>。[[パチンコ店]]を経営 * [[インスパイアード|株式会社インスパイアード]] - 山田917-9。[[アニメ制作会社|アニメーション制作会社]] * [[マサダ製作所|株式会社マサダ製作所]] - 二宮東2-1-1。[[ジャッキ|油圧ジャッキ]]製造 * 細谷火工株式会社 - 下代継181。[[火工品]]製造・処分業<ref>{{Cite web|和書|title=トップページ|url=http://www.hosoya-pyro.co.jp/|website=細谷火工株式会社|accessdate=2020-05-20|publisher=}}</ref> * ジェーシーシーエンジニアリング株式会社 - 二宮東3-3-3。[[コンデンサ]]製造 * 成友興業株式会社 - 草花1141-1。[[建設業]]・道路工事 * 株式会社ネオテック - 草花1441-4(本社)、雨間735-5(営業所)。ビル[[空気調和設備|空調設備]]工事 * 株式会社テクノアップ・ライズ - 秋川6-17-13。建設・[[解体屋|解体業]] * [[横河電機]]小峰事業所 - 小峰台2 * 西東京バス五日市営業所 - 舘谷台24 == 著名な出身者 == === 文化 === * [[坂本龍之輔]] - 教育家 * [[田中丘隅]] - 民政家 * [[古矢徹]] - 編集者 * [[阪本牙城]] - 漫画家 === 芸能 === * [[優香]] - タレント * [[荻島真一]] - 俳優 * [[有吉ひとみ]] - 女優 * [[夏純子]] - 女優 * [[三遊亭歌笑]] - 落語家(3代目・4代目) * [[堀啓知]] - [[北海道放送]] (HBC) アナウンサー * [[三田りょう]] - 演歌歌手) * [[WONK#メンバー|長塚健斗]] - ヴォーカリスト([[WONK]]) * [[都倉悠太]] - [[日本放送協会|NHK]]アナウンサー === スポーツ === * [[森井大輝]] - [[トリノパラリンピック]]大回転銀メダリスト * [[網野友雄]] - [[バスケットボール]]元日本代表 * [[玉ノ川脇太郎]] - 元[[大相撲]][[力士]](最高位:[[前頭]]) * [[木村沙織]] - 元プロ[[バレーボール]]選手、[[2012年ロンドンオリンピック|ロンドンオリンピック]]銅メダリスト * [[吉岡可奈]] - [[ヴィクトリーナ姫路]] === その他 === * [[宮崎勤]] - [[東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件]]の犯人 == スポーツチーム == * [[西多摩倶楽部]] - [[社会人野球]]の[[クラブチーム (社会人野球)|クラブチーム]]。プロ野球選手も輩出している。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == *[[秋川市]] / [[五日市町 (東京都)]] *[[ひらがな・カタカナ地名#ひらがな・カタカナ市町村名一覧]] * [[五日市憲法]] * 映画「[[五日市物語]]」([[2011年]](平成23年)) == 外部リンク == {{Commonscat}} * {{Official website}} * [https://www.city.akiruno.tokyo.jp/0000001165.html 秋川市・五日市町合併の記録] - あきる野市公式サイト * {{Googlemap|あきる野市}} {{Geographic Location |Centre = あきる野市 |North = [[青梅市]]<br />[[西多摩郡]][[日の出町]] |Northeast = [[羽村市]] |East = [[福生市]] |Southeast = |South = [[八王子市]] |Southwest = |West = 西多摩郡[[檜原村]] |Northwest = 西多摩郡[[奥多摩町]] }} {{東京都の自治体}} {{多摩地域の市町村}} {{あきる野市の町名}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:あきるのし}} [[Category:あきる野市|*]] [[Category:東京都の市町村]] [[Category:西多摩地域]] 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Modula-3
Modula-3(モジュラ スリー)は、Pascal 系の言語である Modula-2 の上位になるオブジェクト指向言語。1980年代の後半に、DEC(現在のヒューレット・パッカード)とオリベッティによって作られた。
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Modula-3は、Pascal 系の言語である Modula-2 の上位になるオブジェクト指向言語。1980年代の後半に、DEC(現在のヒューレット・パッカード)とオリベッティによって作られた。
{{lang|en|'''Modula-3'''}}(モジュラ スリー)は、{{lang|fr|[[Pascal]]}} 系の言語である {{lang|en|[[Modula-2]]}} の上位になる[[オブジェクト指向言語]]。[[1980年代]]の後半に、[[ディジタル・イクイップメント・コーポレーション|DEC]](現在の[[ヒューレット・パッカード]])と[[オリベッティ]]によって作られた。 ==関連項目== *{{lang|en|[[CVSup]]}} - {{lang|en|Modula-3}} で書かれているソフトウェア ==外部リンク== * [http://www.modula3.org Modula-3 Resource Page] * [https://modula3.elegosoft.com/cm3/ {{lang|en|Critical Mass Modula-3 (CM3)}}] &mdash; オープンソースの最新の実装。SRCの {{lang|en|Modula-3}} の実装に拡張を施している。 {{Computer-stub}} {{Normdaten}} [[Category:オブジェクト指向言語|MODULA3]]
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物質設計
物質設計(ぶっしつせっけい, Material design):実験、理論などの様々な経験的、非経験的手法を用いて、未知(或いは新奇)の物質を設計すること。 物質設計の手段として、コンビナトリアルケミストリー(コンビナトリアル化学)手法などが注目されており、長年物質の設計を目指して、有機、無機、金属材料などの物質設計者が発見から設計への移行を目指してその探索手法を高度化させてきた。そのベースは、20世紀に確立された量子力学を基盤とする手法と、これもまた画期的であった熱力学を基盤とする手法から様々と発展してきた。たとえば、金属工学の分野では近年自己潤滑性が発現することが脚光を浴びていたり、有機化学の分野では、分子レベルの視点が重要でその分子は、数個~数十個レベルであったので量子計算が次々と成功した。しかしたとえば金属のような結晶性物質の場合その特性は、原子の数が天文学的量になるため統計量を用いる熱力学的なアプローチにより解決する方向が主流である。しかしながら熱力学的等方性近似が破綻する遷移金属化合物や強相関相互作用系結晶の場合などは量子的解析な方向性が強く求められ、そこに様々な魅力的材料物性発現の報告例がみうけられる場合が多い。 金属の場合、物質設計は材料設計ということが多くこれは、合金設計とプロセス設計の二つを包括する概念である。合金設計の中は大別すると成分設計と材料(予測)評価に分けられる。
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物質設計(ぶっしつせっけい, Material design):実験、理論などの様々な経験的、非経験的手法を用いて、未知(或いは新奇)の物質を設計すること。  物質設計の手段として、コンビナトリアルケミストリー(コンビナトリアル化学)手法などが注目されており、長年物質の設計を目指して、有機、無機、金属材料などの物質設計者が発見から設計への移行を目指してその探索手法を高度化させてきた。そのベースは、20世紀に確立された量子力学を基盤とする手法と、これもまた画期的であった熱力学を基盤とする手法から様々と発展してきた。たとえば、金属工学の分野では近年自己潤滑性が発現することが脚光を浴びていたり、有機化学の分野では、分子レベルの視点が重要でその分子は、数個~数十個レベルであったので量子計算が次々と成功した。しかしたとえば金属のような結晶性物質の場合その特性は、原子の数が天文学的量になるため統計量を用いる熱力学的なアプローチにより解決する方向が主流である。しかしながら熱力学的等方性近似が破綻する遷移金属化合物や強相関相互作用系結晶の場合などは量子的解析な方向性が強く求められ、そこに様々な魅力的材料物性発現の報告例がみうけられる場合が多い。  金属の場合、物質設計は材料設計ということが多くこれは、合金設計とプロセス設計の二つを包括する概念である。合金設計の中は大別すると成分設計と材料(予測)評価に分けられる。
{{複数の問題 | 出典の明記 = 2011年3月 | 特筆性 = 2021年6月13日 (日) 12:04 (UTC) }} '''物質設計'''('''ぶっしつせっけい''', Material design):[[実験]]、[[理論]]などの様々な経験的、非経験的手法を用いて、未知(或いは新奇)の[[物質]]を[[設計]]すること。  物質設計の手段として、[[コンビナトリアルケミストリー]](コンビナトリアル化学)手法などが注目されており、長年物質の設計を目指して、有機、無機、金属材料などの物質設計者が発見から設計への移行を目指してその探索手法を高度化させてきた。そのベースは、20世紀に確立された量子力学を基盤とする手法と、これもまた画期的であった熱力学を基盤とする手法から様々と発展してきた。たとえば、金属工学の分野では近年自己潤滑性が発現することが脚光を浴びていたり、有機化学の分野では、分子レベルの視点が重要でその分子は、数個~数十個レベルであったので量子計算が次々と成功した。しかしたとえば金属のような結晶性物質の場合その特性は、原子の数が天文学的量になるため統計量を用いる熱力学的なアプローチにより解決する方向が主流である。しかしながら熱力学的等方性近似が破綻する遷移金属化合物や強相関相互作用系結晶の場合などは量子的解析な方向性が強く求められ、そこに様々な魅力的材料物性発現の報告例がみうけられる場合が多い。  金属の場合、物質設計は材料設計ということが多くこれは、合金設計とプロセス設計の二つを包括する概念である。合金設計の中は大別すると成分設計と材料(予測)評価に分けられる。 ==関連項目== *[[物性物理学]] {{DEFAULTSORT:ふつしつせつけい}} [[Category:物質]] [[Category:化学]]
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ウィグナーザイツ胞
ウィグナーザイツ胞(ウィグナーサイツほう、英: Wigner-Seitz cell)またはウィグナーサイツ胞とは、ある格子点と、その周りの格子点との間の垂直二等分面で囲まれた領域における最小のセル(胞)のことである。ユージン・ウィグナーとフレデリック・ザイツが名前の由来。ウィグナーザイツ胞は、自動的にその結晶の基本単位格子となる。 具体的な例として正方格子を挙げると、
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ウィグナーザイツ胞またはウィグナーサイツ胞とは、ある格子点と、その周りの格子点との間の垂直二等分面で囲まれた領域における最小のセル(胞)のことである。ユージン・ウィグナーとフレデリック・ザイツが名前の由来。ウィグナーザイツ胞は、自動的にその結晶の基本単位格子となる。 具体的な例として正方格子を挙げると、 まず隣り合う格子点に直線を引く 各直線の垂直二等分線を引く それらの垂直二等分線で囲まれる領域が、ウィグナーザイツ胞である。
{{出典の明記|date=2012年12月5日 (水) 04:28 (UTC)}} '''ウィグナーザイツ胞'''(ウィグナーサイツほう、{{lang-en-short|Wigner-Seitz cell}})または'''ウィグナーサイツ胞'''とは、ある[[格子点]]と、その周りの格子点との間の[[垂直二等分線|垂直二等分面]]で囲まれた領域における最小のセル(胞)のことである。[[ユージン・ウィグナー]]と[[フレデリック・ザイツ]]が名前の由来。ウィグナーザイツ胞は、自動的にその結晶の基本単位格子となる。 具体的な例として正方格子を挙げると、 [[画像:Wigner-seitz_cell.png]] #まず隣り合う格子点に直線を引く #各直線の垂直二等分線を引く #それらの垂直二等分線で囲まれる領域が、ウィグナーザイツ胞である。 == 関連項目 == * [[単位胞]] * [[ブリュアンゾーン]] * [[物理学]] * [[物性物理]] * [[結晶構造]] {{physics-stub}} {{DEFAULTSORT:ういくなあさいつほう}} [[Category:固体物理学]] [[Category:ユージン・ウィグナー]] [[Category:物理学のエポニム]]
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界面準位
界面準位(かいめんじゅんい, 英: Interface state)は、界面の存在(あるいは形成)によって生じる電子の準位(電子状態)のことである。
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界面準位は、界面の存在(あるいは形成)によって生じる電子の準位(電子状態)のことである。
{{字引|date=2010年10月25日 (月) 22:46 (UTC)}} '''界面準位'''(かいめんじゅんい, {{lang-en-short|Interface state}})は、[[界面]]の存在(あるいは形成)によって生じる[[電子]]の[[準位]](電子状態)のことである。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == == 関連項目 == * [[物性物理学]] * [[表面準位]] * [[不純物半導体|不純物準位]] {{Physics-stub}} {{DEFAULTSORT:かいめんしゆんい}} [[Category:半導体]] [[Category:固体物理学]]
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表面準位
表面準位 (ひょうめんじゅんい、Surface states) とは、材料の表面で見られる電子状態。表面で終わる固体材料からのシャープな遷移により形成され、表面に最も近い原子層でのみ見られる。表面を持つ材料の終端は、バルク材料から真空への電子バンド構造に変化をもたらす。表面のポテンシャルが弱くなると、新たな電子状態、いわゆる表面準位が形成される。 ブロッホの定理で述べられているように、完全に周期的なポテンシャル(結晶)である単一電子シュレーディンガー方程式の固有状態はブロッホ波である。 ここで u n k ( r ) {\displaystyle u_{n{\boldsymbol {k}}}({\boldsymbol {r}})} は結晶と同じ周期性を持つ関数であり、nはバンドインデックス、kは波数である。与えられたポテンシャルに許容される波数は、普通のボルン・フォン・カルマン周期境界条件を適用することで見つけられる。結晶の終端つまり表面の形成は、完全な周期性からの逸脱をはっきりと起こす。結果として周期的境界条件が表面に垂直な方向で放棄されると、電子の振る舞いはバルク内の振る舞いからは逸脱し、電子構造でいくらかの修正が予想される。 図1に示すように、1次元の結晶ポテンシャルの単純化したモデルを書くことができる。結晶においてポテンシャルは格子の周期性aを持つが、表面近くでは真空準位の値に何らかの形で到達しなければならない。図1に示すステップポテンシャル(実線)は、極端な単純化であり、単純なモデル計算に最も便利である。実際の表面では、ポテンシャルは鏡像電荷と表面双極子の形成の影響を受け、破線で示されているようになる。 図1のポテンシャルを考えると、1次元単一電子シュレーディンガー方程式は、定性的に異なる2つのタイプの解が与えられることが示される。 1番目のタイプの解は金属と半導体の両方で得られる。ただし、半導体では関連する固有エネルギーは許容エネルギーバンドの1つに属している必要がある。2番目のタイプの解は半導体の禁制エネルギーギャップだけでなく、金属の投影されたバンド構造の「局所ギャップ」にも存在する。これらの状態のエネルギーは全てバンドギャップ内にあることが示される。結果として結晶内ではこれらの状態はバルクへの指数関数的減衰の原因となる波数の虚部により特徴づけられる。 表面準位に議論においては、アメリカの物理学者ウィリアム・ショックレーにちなむショックレー準位とロシアの物理学者イーゴリ・タムにちなむタム準位を一般的に区別する。しかし、2つの用語の間に実際の物理的な区別はなく、表面準位を記述する際の数学的なアプローチが異なるのみである。 全ての材料はトポロジカル不変量である単一番号により分類される。これは、幾何学的トポロジーにおいて種数を計算するのと同じような方法でブリルアンゾーン上で統合されるバルク電子波動関数から構築される。特定の材料では、特定のバルクエネルギーバンドが強いスピン軌道結合により反転するときトポロジカル不変量が変化する。非自明なトポロジーを持つ絶縁体、いわゆるトポロジカル絶縁体と自明なトポロジーを持つ絶縁体の間の界面は金属でなくてはならない。さらに、表面準位は時間反転対称性により守られた交点を持つ線形ディラックのような分散を必ず持つ。この準位は乱雑のもとでロバストであると予測され、簡単に局所化することはできない。 参照:http://rmp.aps.org/abstract/RMP/v82/i4/p3045_1 金属表面の準位の基本的な特性を導出するために使われる単純なモデルは、同じ原子の半無限的な周期的連鎖である。このモデルにおいては、連鎖の終わりは表面を表し、ここでポテンシャルはステップ関数の形で真空の値V0に達する(図1)。結晶内では、ポテンシャルは格子の周期性aで周期的であると推定される。ショックレー準位は、1次元の単一電子シュレーディンガー方程式の解として見いだされる。 周期的ポテンシャルは ここでlは整数、Pは規格化因子。解は2つの範囲z<0とz>0で独立に求める必要がある。境界(z=0)では波動関数とその導関数の連続性に関する通常条件が適用される。ポテンシャルは結晶の内部では周期的に深いため、電子波動関数はブロッホ波である必要がある。結晶内の解は入射波と表面からの反射波の線形結合である。z>0では、解は真空に向かい指数関数的に減衰する必要がある。 図2に金属表面の状態の波動関数を定性的に示す。これは表面より外で指数関数的に減衰するテールを持つ拡大したブロッホ波である。テールの結果生じるのは、結晶のすぐ内における負の電荷密度の不足と、表面する外の負電荷密度の増加であり、これにより双極子二重層が形成される。双極子は表面のポテンシャルを摂動させ、例えば金属の仕事関数を変化させる。 ほとんど自由な電子の近似を用いて、狭ギャップ半導体の表面準位の基本的特性を導出することができる。この場合、半無限線形連鎖モデルも有用である。しかし、ここでは原子鎖に沿ったポテンシャルはコサイン関数として変化すると仮定する。 V ( z ) = V [ exp ( i 2 π z a ) + exp ( − i 2 π z a ) ] = 2 V cos ( 2 π z a ) , {\displaystyle {\begin{alignedat}{2}V(z)&=V\left[\exp \left(i{\frac {2\pi z}{a}}\right)+\exp \left(-i{\frac {2\pi z}{a}}\right)\right]\\&=2V\cos \left({\frac {2\pi z}{a}}\right),\\\end{alignedat}}} 一方で、表面ではポテンシャルは高さV0のステップ関数としてモデル化される。シュレーディンガー方程式の解は2つの範囲z < 0とz > 0に対して独立に得る必要がある。ほとんど自由な電子の近似の意味では、z < 0で得られる解はブリルアンゾーンの境界 k = ± π / a {\displaystyle k=\pm \pi /a} から離れた波数ベクトルに対して平面波の特性を持つ。ここで分散関係は図4に示すように放物線になる。ブリルアンゾーンの境界ではブラッグ反射が起こり、波動ベクトル k = π / a {\displaystyle k=\pi /a} と k = − π / a {\displaystyle k=-\pi /a} からなる定在波が生じる。 G = 2 π / a {\displaystyle G=2\pi /a} は逆格子の格子ベクトルである(図4参照)。今回対象とするものの解はブリルアンゾーンの境界に近いため、 k ⊥ = ( π / a ) + κ {\displaystyle k_{\perp }={\bigl (}\pi /a{\bigr )}+\kappa } (κは少量)とする。任意定数A,Bはシュレーディンガー方程式への代入により求められる。これにより固有値が求まる。 このことは禁制ギャップの幅が2Vで与えられるブリルアンゾーンのエッジにおけるバンド分裂を示す。異なるバンドに起因する結晶深くの電子波動関数は で与えられる。Cは規格化定数である。 z = 0近くの表面では、バルクの解は指数関数的に減衰する解に合わせる必要があり、このことはポテンシャル定数V0と両立できる。 許容バンド内にある全てのとりうるエネルギー固有値に対して整合条件が満たされることを示すことができる。金属の場合と同様に、この種の解は結晶内に広がる定常波のブロッホ波を表し、表面で真空に向かってあふれる。波動関数の定性的なプロットを図2に示されている。 κの虚数の値を考慮するとき、すなわちz ≤ 0でκ = - i·qのとき、 と定義できる、結晶に入り振幅が減衰する解を得る。 エネルギー固有値は と与えられる。必要に応じEは大きな負のzに対して実数である。さらに 0 ≤ q ≤ q m a x = m a V ħ 2 π {\displaystyle 0\leq q\leq q_{max}={\frac {maV}{\hbar ^{2}\pi }}} の範囲では、表面準位の全てのエネルギーは禁制帯に入る。バルクの解を指数関数的に減衰する真空解に整合させることにより、再び完全解が見つかる。結果として結晶と真空の両方で減衰する表面に局在した状態が生じる。定性的なプロットは図3に示されている。 単原子線形鎖の表面準位の結果は、3次元結晶の場合に対して簡単に一般化することができる。表面格子は2次元で周期性があるため、ブロッホの定理は表面に平行な並進に対しても成り立つ必要がある。結果として、表面準位は表面に平行なk値 k | | = ( k x , k y ) {\displaystyle {\textbf {k}}_{||}=(k_{x},k_{y})} と1次元の表面準位を表す関数の積として書くことができる。 この準位のエネルギーは、項 E | | {\displaystyle E_{||}} により増加し、 を得る。ここでmは電子の有効質量。結晶表面、つまりz=0での整合条件は、各 k | | {\displaystyle {\textbf {k}}_{||}} に対してそれぞれ満たされ、各 k | | {\displaystyle {\textbf {k}}_{||}} に対して1つである必要がある。しかし、表面準位の一般的に異なるエネルギー準位が得られる。 表面準位はエネルギー E s {\displaystyle E_{s}} と表面に平行な波動ベクトル k | | {\displaystyle {\textbf {k}}_{||}} により書かれるが、バルク準位は k | | {\displaystyle \mathbf {k} _{||}} と k ⊥ {\displaystyle \mathbf {k} _{\perp }} 波数の両方により特徴づけられる。したがって表面の2次元ブリルアンゾーンでは、 k | | {\displaystyle \mathbf {k} _{||}} の各値に対して k ⊥ {\displaystyle \mathbf {k} _{\perp }} のロッドがバルクの3次元ブリルアンゾーンに延びている。これらのロッドにより切られているバルクエネルギーバンドにより、結晶の深くまで進む準位が可能になる。よって、一般的には真の表面準位と表面共鳴は区別される。真の表面準位は、バルクエネルギーバンドで減衰しないエネルギーバンドにより特徴づけられる。これらは禁制エネルギーギャップにのみ存在するため、図3に示すように表面に局在する。表面とバルク準位が縮退するエネルギーでは、表面とバルク準位が混ざり合い表面共鳴を形成する。このような準位はブロッホ波同様バルクの奥まで伝播することができるが、表面近くでは振幅が増大する。 強結合モデルのフレームワークで計算される表面準位はしばしばタム準位と呼ばれる。強結合のアプローチでは、電子波動関数は通常、LCAO法として表される(図5参照)。この図では、表面の存在がバルク準位のエネルギーとは異なるエネルギーの表面準位を生じさせることを理解するのは簡単である。最上部の表面層にある原子は片側に結合パートナーがないため、その軌道は隣接する原子の軌道とあまり重ならない。したがって、結晶を形成する原子のエネルギー準位の分裂とシフトは、バルクよりも表面で小さくなる。 特定の軌道が化学結合、例えばSiまたはGeのsp混成の原因である場合、表面の存在に強く影響され、結合が切断され、軌道の残りのローブ(丸い部分)が表面から突き出る。これはダングリングボンドと呼ばれる。このエネルギー準位は、バルクの値から大きくシフトすると予想される。 ショックレー準位の記述に用いられるほとんど自由な電子モデルとは対照的に、タム準位は遷移金属やワイドギャップ半導体の記述にも適している。 きれいで秩序だった表面から生じる表面準位は通常、内的(intrinsic)と呼ばれる。これらには再構成された表面から生じる準位が含まれている。ここでは2次元の並進対称性により表面のk空間にバンド構造が生じる。 外的要因(extrinsic)の表面準位は通常、きれいで秩序だった表面に由来しない準位として定義される。extrinsicのカテゴリに入る表面は 一般的に、extrinsicな表面準位は化学的、物理的、構造的特性から簡単に特徴づけることができない。 表面準位の分散を測定する実験技術は角度分解光電子分光(ARPES)もしくは角度分解紫外光電子分光法(ARUPS)である。
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表面準位 とは、材料の表面で見られる電子状態。表面で終わる固体材料からのシャープな遷移により形成され、表面に最も近い原子層でのみ見られる。表面を持つ材料の終端は、バルク材料から真空への電子バンド構造に変化をもたらす。表面のポテンシャルが弱くなると、新たな電子状態、いわゆる表面準位が形成される。
'''表面準位''' (ひょうめんじゅんい、'''Surface states''') とは、材料の[[曲面|表面]]で見られる[[電子状態]]。表面で終わる固体材料からのシャープな遷移により形成され、表面に最も近い原子層でのみ見られる。表面を持つ材料の終端は、バルク材料から[[真空]]への[[バンド構造|電子バンド構造]]に変化をもたらす。表面のポテンシャルが弱くなると、新たな電子状態、いわゆる表面準位が形成される<ref name="BasicSurfaceStates">{{cite book|author1=Sidney G. Davison |author2=Maria Steslicka |title= Basic Theory of Surface States|publisher=Clarendon Press|year=1992|url=https://books.google.com/books?id=rR-PUXTHXIkC|isbn=0-19-851990-7}}</ref>。 ==凝縮体の界面における表面準位の起源== {{ external media | align=right | image1 = [[:en:File:FigPotential.PNG|'''図1''' 理想的な表面で終わる周期的な結晶ポテンシャルの簡略化1次元モデル。表面では、モデルのポテンシャルが急に真空準位にとぶ(実線)。破線はより現実的なグラフを表しており、ポテンシャルはある程度の距離で真空準位に達する。]] }} {{ external media | align=right | image1 = [[:en:File:Solution1.PNG|'''図2''' バルク準位に対応する1次元シュレーディンガー方程式の解の実部。これらの準位はバルクでブロッホの特徴を持ち、真空にいくと指数関数的に減衰する。]] }} {{ external media | align=right | image1 = [[:en:File:Solution2.PNG|'''図3''' 表面準位に対応する1次元シュレーディンガーの解の実部。これらの準位は真空とバルク結晶の両方で減衰するため、結晶表面に局在する準位を表す。]] }} [[ブロッホの定理]]で述べられているように、完全に周期的なポテンシャル(結晶)である単一電子シュレーディンガー方程式の固有状態はブロッホ波である<ref name="Kittel">{{cite book|author=C. Kittel|title= Introduction to Solid State Physics|publisher=Wiley|year=1996|pages=80–150|isbn=0-471-14286-7}}</ref>。 :<math> \begin{align} \Psi_{n\boldsymbol{k}} &=\mathrm{e}^{i\boldsymbol{k}\cdot\boldsymbol{r}}u_{n\boldsymbol{k}}(\boldsymbol{r}). \end{align} </math> ここで<math>u_{n\boldsymbol{k}}(\boldsymbol{r})</math>は結晶と同じ周期性を持つ関数であり、''n''はバンドインデックス、'''k'''は波数である。与えられたポテンシャルに許容される波数は、普通のボルン・フォン・カルマン周期境界条件を適用することで見つけられる<ref name="Kittel" />。結晶の終端つまり表面の形成は、完全な周期性からの逸脱をはっきりと起こす。結果として周期的境界条件が表面に垂直な方向で放棄されると、電子の振る舞いはバルク内の振る舞いからは逸脱し、電子構造でいくらかの修正が予想される。 '''図1'''に示すように、1次元の結晶ポテンシャルの単純化したモデルを書くことができる<ref name="Oura">{{cite book|author1=K. Oura |author2=V.G. Lifshifts |author3=A.A. Saranin |author4=A. V. Zotov |author5=M. Katayama |title=Surface Science|publisher=Springer-Verlag, Berlin Heidelberg New York|year=2003|chapter=11}}</ref>。結晶においてポテンシャルは格子の周期性''a''を持つが、表面近くでは真空準位の値に何らかの形で到達しなければならない。'''図1'''に示すステップポテンシャル(実線)は、極端な単純化であり、単純なモデル計算に最も便利である。実際の表面では、ポテンシャルは鏡像電荷と表面双極子の形成の影響を受け、破線で示されているようになる。 '''図1'''のポテンシャルを考えると、1次元単一電子シュレーディンガー方程式は、定性的に異なる2つのタイプの解が与えられることが示される<ref name="Feng">{{cite book|author1=Feng Duan |author2=Jin Guojin | title=Condensed Matter Physics:Volume 1|publisher=World Scientific| year=2005|chapter=7|isbn=981-256-070-X}}</ref>。 *1番目のタイプの準位(図2参照)は結晶内に広がり、そこにブロッホ特性を持つ。これらのタイプの解は真空に達すると指数関数的に減衰するテールで終わるバルク準位と一致する。 *2番目のタイプの準位(図3参照)は真空とバルク結晶の両方で指数関数的に減衰する。これらのタイプの解は表面準位に一致し、波動関数は結晶表面近くに局在する。 1番目のタイプの解は[[金属]]と[[半導体]]の両方で得られる。ただし、半導体では関連する[[固有エネルギー]]は許容エネルギーバンドの1つに属している必要がある。2番目のタイプの解は半導体の[[バンドギャップ|禁制エネルギーギャップ]]だけでなく、金属の投影されたバンド構造の「局所ギャップ」にも存在する。これらの状態のエネルギーは全てバンドギャップ内にあることが示される。結果として結晶内ではこれらの状態はバルクへの[[指数関数的減衰]]の原因となる[[波数]]の虚部により特徴づけられる。 ===ショックレー準位とタム準位=== 表面準位に議論においては、アメリカの物理学者[[ウィリアム・ショックレー]]にちなむショックレー準位<ref name="Shockley">{{cite journal|author=W. Shockley| journal= Phys. Rev.|volume=56|issue=4|pages=317|year=1939|doi=10.1103/PhysRev.56.317|title=On the Surface States Associated with a Periodic Potential|bibcode = 1939PhRv...56..317S }}</ref>とロシアの物理学者[[イーゴリ・タム]]にちなむタム準位<ref name="Tamm">{{cite journal|author=I. Tamm| journal= Phys. Z. Sowjetunion|title=On the possible bound states of electrons on a crystal surface|volume=1|pages=733|year=1932}}</ref>を一般的に区別する。しかし、2つの用語の間に実際の物理的な区別はなく、表面準位を記述する際の数学的なアプローチが異なるのみである。 *歴史的には、きれいで理想的な表面の[[ほとんど自由な電子]]近似のフレームワークで[[シュレーディンガー方程式]]の解として生じる表面準位は、'''ショックレー準位'''と呼ばれる。よって、ショックレー準位は結晶の終端のみに関連する電子ポテンシャルの変化により生じる準位である。このアプローチは通常の金属といくつかの{{仮リンク|狭ギャップ半導体|en|narrow gap semiconductors}}を記述するのに適している。図1,2はほとんど自由な電子近似を用いて得られたショックレー準位の例である。 *[[強結合近似|強結合]]モデルのフレームワークで計算される表面準位は、しばしば'''タム準位'''と呼ばれる。強結合のアプローチでは、電子[[波動関数]]は普通[[LCAO法]]で表現される。ショックレー準位を記述するのに使われるほとんど自由な電子モデルとは対照的に、タム準位は[[遷移金属]]と[[ワイドギャップ半導体]]の記述にも適している<ref name="Oura" />。 ===トポロジカル表面準位=== {{see also|トポロジカル絶縁体}} 全ての材料はトポロジカル不変量である単一番号により分類される。これは、[[幾何学的トポロジー]]において[[種数]]を計算するのと同じような方法でブリルアンゾーン上で統合されるバルク電子波動関数から構築される。特定の材料では、特定のバルクエネルギーバンドが強いスピン軌道結合により反転するときトポロジカル不変量が変化する。非自明なトポロジーを持つ絶縁体、いわゆるトポロジカル絶縁体と自明なトポロジーを持つ絶縁体の間の界面は金属でなくてはならない。さらに、表面準位は時間反転対称性により守られた交点を持つ線形ディラックのような分散を必ず持つ。この準位は乱雑のもとでロバストであると予測され、簡単に局所化することはできない。 参照:http://rmp.aps.org/abstract/RMP/v82/i4/p3045_1 ==ショックレー準位== ===金属の表面準位=== 金属表面の準位の基本的な特性を導出するために使われる単純なモデルは、同じ原子の半無限的な周期的連鎖である<ref name="BasicSurfaceStates"/>。このモデルにおいては、連鎖の終わりは表面を表し、ここでポテンシャルは[[ステップ関数]]の形で真空の値V<sub>0</sub>に達する('''図1''')。結晶内では、ポテンシャルは格子の周期性'''a'''で周期的であると推定される。ショックレー準位は、1次元の単一電子シュレーディンガー方程式の解として見いだされる。 :<math> \begin{align} \left[-\frac{\hbar^2}{2m}\frac{d^2}{dz^2}+V(z)\right]\Psi(z) &=& E\Psi(z), \end{align} </math> 周期的ポテンシャルは :<math> \begin{align} V(z)=\left\{ \begin{array}{cc} P\delta(z+la),& \textrm{for}\quad z<0 \\ V_0,&\textrm{for} \quad z>0 \end{array}\right., \end{align} </math> ここで''l''は整数、''P''は規格化因子。解は2つの範囲''z''<0と''z>0''で独立に求める必要がある。境界(z=0)では波動関数とその導関数の連続性に関する通常条件が適用される。ポテンシャルは結晶の内部では周期的に深いため、電子[[波動関数]]は[[ブロッホ波]]である必要がある。結晶内の解は入射波と表面からの反射波の線形結合である。''z''>0では、解は真空に向かい指数関数的に減衰する必要がある。 :<math> \begin{align} \Psi(z) &=& \left\{ \begin{array}{cc} Bu_{-k}e^{-ikz}+Cu_{k}e^{ikz},&\textrm{for} \quad z<0\\ A\exp\left[-\sqrt{2m(V_0-E)}\frac{z}{\hbar}\right],& \textrm{for}\quad z>0 \end{array}\right., \end{align} </math> '''図2'''に金属表面の状態の波動関数を定性的に示す。これは表面より外で指数関数的に減衰するテールを持つ拡大したブロッホ波である。テールの結果生じるのは、結晶のすぐ内における負の[[電荷密度]]の不足と、表面する外の負電荷密度の増加であり、これにより双極子[[電気二重層|二重層]]が形成される。双極子は表面のポテンシャルを摂動させ、例えば金属の[[仕事関数]]を変化させる。 ===半導体の表面準位=== {{ external media | align=right | image1 = [[:en:File:BandstructureNFE.PNG|'''図4''' ほとんど自由な電子の電子バンド構造の図。ブリルアンゾーンの境界から離れると電子波動関数は平面波の特性を持ち、分散関係は放物線になる。ブリルアンゾーンの境界では波動関数は入射波とブラッグ反射波からなる定在波である。最終的にこれによりバンドギャップが形成される。]] }} ほとんど自由な電子の近似を用いて、狭ギャップ半導体の表面準位の基本的特性を導出することができる。この場合、半無限線形連鎖モデルも有用である<ref name="Feng" />。しかし、ここでは原子鎖に沿ったポテンシャルはコサイン関数として変化すると仮定する。 <math> \begin{alignat}{2} V(z)&= V\left[\exp\left(i\frac{2\pi z}{a}\right)+\exp\left(-i\frac{2\pi z}{a}\right)\right] \\ &=2 V\cos\left(\frac{2\pi z}{a}\right), \\ \end{alignat} </math> 一方で、表面ではポテンシャルは高さV<sub>0</sub>のステップ関数としてモデル化される。シュレーディンガー方程式の解は2つの範囲z < 0とz > 0に対して独立に得る必要がある。ほとんど自由な電子の近似の意味では、z < 0で得られる解はブリルアンゾーンの境界<math>k=\pm\pi/a</math>から離れた波数ベクトルに対して平面波の特性を持つ。ここで分散関係は'''図4'''に示すように放物線になる。ブリルアンゾーンの境界ではブラッグ反射が起こり、[[波動ベクトル]]<math>k = \pi/a</math>と<math>k=-\pi/a</math>からなる[[定在波]]が生じる。 :<math> \begin{align} \Psi(z) &= Ae^{ik z}+ Be^{i[k -(2\pi/a) ]z}. \end{align} </math> <math>G=2\pi/a</math>は[[逆格子]]の[[格子ベクトル]]である('''図4'''参照)。今回対象とするものの解はブリルアンゾーンの境界に近いため、<math>k_\perp=\bigl(\pi/a\bigr)+\kappa</math>(''κ''は少量)とする。任意定数''A'',''B''はシュレーディンガー方程式への代入により求められる。これにより固有値が求まる。 :<math> \begin{align} E &= \frac{\hbar^2}{2m}\left(\frac{\pi}{a}+\kappa\right)^2\pm |V|\left[-\frac{\hbar^2 \pi \kappa}{m a |V|}\pm \sqrt{\left(\frac{\hbar^2 \pi \kappa}{ma |V|}\right)^2+1}\right] \end{align} </math> このことは[[バンドギャップ|禁制ギャップ]]の幅が2Vで与えられる[[ブリルアンゾーン]]のエッジにおけるバンド分裂を示す。異なるバンドに起因する結晶深くの電子波動関数は :<math> \begin{align} \Psi_i &= Ce^{i\kappa z} \left( e^{i\pi z/a} + \left[-\frac{\hbar^2 \pi \kappa}{m a |V|}\pm \sqrt{\left(\frac{\hbar^2 \pi \kappa}{ma |V|}\right)^2+1}\right]e^{-i\pi z/a}\right) \end{align} </math> で与えられる。''C''は規格化定数である。 ''z = 0''近くの表面では、バルクの解は指数関数的に減衰する解に合わせる必要があり、このことはポテンシャル定数''V<sub>0</sub>''と両立できる。 :<math> \begin{align} \Psi_0 &= D\exp\left[-\sqrt{\frac{2m}{\hbar^2}(V_0-E)}z\right] \end{align} </math> 許容バンド内にある全てのとりうるエネルギー[[固有値]]に対して整合条件が満たされることを示すことができる。金属の場合と同様に、この種の解は結晶内に広がる定常波のブロッホ波を表し、表面で[[真空]]に向かってあふれる。波動関数の定性的なプロットを図2に示されている。 ''κ''の虚数の値を考慮するとき、すなわち''z ≤ 0''で''κ = - i·q''のとき、 :<math> \begin{align} i \sin(2\delta) &= -i\frac{\hbar^2 \pi q}{maV} \end{align} </math> と定義できる、結晶に入り振幅が減衰する解を得る。 :<math> \begin{align} \Psi_i(z\leq0) &= Fe^{qz}\left[\exp\left[i\left(\frac{\pi}{a}z\pm\delta\right)\right]\pm\exp\left[-i\left(\frac{\pi}{a}z\pm\delta\right)\right]\right]e^{\mp i\delta} \end{align} </math> エネルギー固有値は :<math> \begin{align} E &= \frac{\hbar^2}{2m}\left[\left(\frac{\pi}{a}\right)^2-q^2\right]\pm V\sqrt{1-\left(\frac{\hbar^2\pi q}{maV}\right)^2} \end{align} </math> と与えられる。必要に応じEは大きな負のzに対して実数である。さらに<math>0\leq q\leq q_{max}=\frac{m a V} {\hbar^2 \pi}</math>の範囲では、表面準位の全てのエネルギーは禁制帯に入る。バルクの解を指数関数的に減衰する真空解に整合させることにより、再び完全解が見つかる。結果として結晶と真空の両方で減衰する表面に局在した状態が生じる。定性的なプロットは'''図3'''に示されている。 ===3次元結晶の表面準位=== {{ external media | align=right | image1 = [[:en:File:Orbitals.PNG|'''図5''' プラチナ原子のような軌道。示された軌道は密度汎関数計算で使われるダブルゼータ基底関数系の一部である。軌道は通常の量子数(n,l,m)により区別される。]] }} [[量子細線|単原子線形鎖]]の表面準位の結果は、3次元結晶の場合に対して簡単に一般化することができる。表面格子は2次元で周期性があるため、ブロッホの定理は表面に平行な並進に対しても成り立つ必要がある。結果として、表面準位は表面に平行なk値<math>\textbf{k}_{||}=(k_x,k_y)</math>と1次元の表面準位を表す関数の積として書くことができる。 :<math> \begin{align} \Psi_0(\textbf{r}) &=& \psi_0(z)u_{\textbf{k}_{||}}(\textbf{r}_{||})e^{-i\textbf{r}_{||}\cdot\textbf{k}_{||}} \end{align} </math> この準位のエネルギーは、項<math>E_{||}</math>により増加し、 :<math> \begin{align} E_s = E_0 + \frac{\hbar^2\textbf{k}^2_{||}}{2m^*}, \end{align} </math> を得る。ここで''m<sup>*</sup>''は電子の有効質量。結晶表面、つまりz=0での整合条件は、各<math>\textbf{k}_{||}</math>に対してそれぞれ満たされ、各<math>\textbf{k}_{||}</math>に対して1つである必要がある。しかし、表面準位の一般的に異なるエネルギー準位が得られる。 ===真の表面準位と表面共鳴=== 表面準位はエネルギー<math>E_s</math>と表面に平行な波動ベクトル<math>\textbf{k}_{||}</math>により書かれるが、バルク準位は<math>\mathbf{k}_{||}</math>と<math>\mathbf{k}_\perp</math>波数の両方により特徴づけられる。したがって表面の2次元[[ブリルアンゾーン]]では、<math>\mathbf{k}_{||}</math>の各値に対して<math>\mathbf{k}_\perp</math>のロッドがバルクの3次元ブリルアンゾーンに延びている。これらのロッドにより切られているバルク[[エネルギーバンド]]により、結晶の深くまで進む準位が可能になる。よって、一般的には真の表面準位と表面共鳴は区別される。真の表面準位は、バルクエネルギーバンドで減衰しないエネルギーバンドにより特徴づけられる。これらは[[バンドギャップ|禁制エネルギーギャップ]]にのみ存在するため、'''図3'''に示すように表面に局在する。表面とバルク準位が縮退するエネルギーでは、表面とバルク準位が混ざり合い[[表面共鳴]]を形成する。このような準位はブロッホ波同様バルクの奥まで伝播することができるが、表面近くでは振幅が増大する。 ==タム準位== 強結合モデルのフレームワークで計算される表面準位はしばしばタム準位と呼ばれる。強結合のアプローチでは、電子波動関数は通常、[[LCAO法]]として表される(図5参照)。この図では、表面の存在がバルク準位のエネルギーとは異なるエネルギーの表面準位を生じさせることを理解するのは簡単である。最上部の表面層にある原子は片側に結合パートナーがないため、その軌道は隣接する原子の軌道とあまり重ならない。したがって、結晶を形成する原子のエネルギー準位の分裂とシフトは、バルクよりも表面で小さくなる。 特定の[[原子軌道|軌道]]が化学結合、例えばSiまたはGeの''sp<sup>3</sup>''混成の原因である場合、表面の存在に強く影響され、結合が切断され、軌道の残りのローブ(丸い部分)が表面から突き出る。これは[[ダングリングボンド]]と呼ばれる。このエネルギー準位は、バルクの値から大きくシフトすると予想される。 ショックレー準位の記述に用いられるほとんど自由な電子モデルとは対照的に、タム準位は[[遷移金属]]や[[ワイドギャップ半導体]]の記述にも適している。 ==外的要因の表面準位== きれいで秩序だった表面から生じる表面準位は通常、内的(''[[intrinsic]]'')と呼ばれる。これらには再構成された表面から生じる準位が含まれている。ここでは2次元の並進対称性により表面のk空間にバンド構造が生じる。 外的要因(''[[extrinsic]]'')の表面準位は通常、きれいで秩序だった表面に由来しない準位として定義される。''extrinsic''のカテゴリに入る表面は<ref name="Seidel">{{cite book|author1=Frederick Seitz |author2=Henry Ehrenreich |author3=David Turnbull |title= Solid State Physics|publisher=Academic Press|year=1996|pages=80–150|isbn=0-12-607729-0}}</ref> #表面の並進対称性が壊れている欠陥のある表面 #吸着質のある表面 #半導体酸化物もしくは半導体金属界面など2つの材料間の界面 #固体相と液体相の界面 一般的に、''extrinsic''な表面準位は化学的、物理的、構造的特性から簡単に特徴づけることができない。 ==角度分解光電子分光(ARPES)== 表面準位の分散を測定する実験技術は[[角度分解光電子分光]](ARPES)もしくは角度分解[[紫外光電子分光法]](ARUPS)である。 ==脚注== {{reflist|2}} ==関連項目== *[[界面準位]] *[[不純物準位]] *[[物性物理学]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{デフォルトソート:ひようめんしゆんい}} [[Category:固体物理学]] [[Category:物質科学]] [[Category:半導体構造]]
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テトスへの手紙
『テトスへの手紙』(テトスへのてがみ、テトスへの書)は新約聖書中の一書簡である。(希: Titon, 羅: Titum)。日本ハリストス正教会では『ティトに達する書』という。 保守的な聖書学者尾山令仁は、この手紙はパウロが殉教する直前のAD67年にローマの獄中で書いたものであると考えている。 パウロからクレタに残された彼の弟子であるテトス(『第2コリント書』 8:23)へ宛てた形をとる。 内容は、クレタにおいて長老と監督者を立ててもらうための依頼とその基準の教示、異教・異端に対する警告である。 文体や思想、パウロ時代の教会組織の構造との食違い等から、近代聖書批評学の立場では2世紀初頭成立の偽作と考えられる。『第1テモテ書』に似る。 なお、第一章には 彼らのうちの一人、預言者自身が次のように言いました。「クレタ人はいつもうそつき、悪い獣、怠惰な大食漢だ。」(テトス 1:12、新共同訳聖書) という言及があり、論理学でいう自己言及のパラドックス(エピメニデスのパラドックス)の有名な例としてしばしば引かれる。
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{{新約聖書}} 『'''テトスへの手紙'''』(テトスへのてがみ、テトスへの書)は[[新約聖書]]中の一書簡である。({{lang-el-short|Titon}}, {{lang-la-short|Titum}})。[[日本ハリストス正教会]]では『'''ティトに達する書'''』という。 保守的な聖書学者[[尾山令仁]]は、この手紙はパウロが殉教する直前のAD[[67年]]にローマの獄中で書いたものであると考えている<ref>『聖書の概説』尾山令仁 羊群社</ref>。 == 内容 == [[パウロ]]から[[クレタ]]に残された彼の弟子である[[テトス]](『[[コリントの信徒への手紙二|第2コリント書]]』 8:23)へ宛てた形をとる<ref>[[s:テトスヘの手紙(口語訳)#1:1|テトスヘの手紙(口語訳)#1:1]]</ref>。 内容は、クレタにおいて長老と監督者を立ててもらうための依頼とその基準の教示、異教・異端に対する警告である。 == 批判等 == 文体や思想、パウロ時代の教会組織の構造との食違い等から、近代聖書批評学の立場では2世紀初頭成立の偽作と考えられる。『[[テモテへの手紙一|第1テモテ書]]』に似る。 なお、第一章には<blockquote>彼らのうちの一人、預言者自身が次のように言いました。「クレタ人はいつもうそつき、悪い獣、怠惰な大食漢だ。」(テトス 1:12、[[新共同訳聖書]])</blockquote>という言及があり、[[論理学]]でいう[[自己言及のパラドックス]]([[エピメニデスのパラドックス]])の有名な例としてしばしば引かれる。 == 脚注 == <references /> == 関連項目 == {{Wikisource|テトスヘの手紙(口語訳)}} {{Wikisource|テトスへの書(文語訳)}} * [[エピメニデスのパラドックス]] * [[パウロ書簡]] {{パウロ書簡}} {{DEFAULTSORT:てとすへのてかみ}} [[Category:パウロ書簡]]
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国家
国家(こっか、英: state)とは、国と同様に、「一定の領土と国民と排他的な統治組織とを供えた政治共同体」や、「一定の領土を基礎にして、固有の統治権によって統治される、継続的な公組織的共同社会」と言える。 プラトンの著作の原題である「ポリテイア」(希: Πολιτεία, politeia)を『国家』と翻訳する場合もある。また、英語の「コモンウェルス」(commonwealth)やラテン語の「レス・プブリカ」(res publica)なども広い意味において、国家と訳される場合がある。 英語の「ステート」(state)の語源は、ラテン語の「スタトゥス」(status)である。伊: statoは「状態」を意味するが、フィレンツェの政治思想家ニッコロ・マキャヴェッリによって伊: lo stato「かかる(その)状態」を「現在の支配体制」という意味に転用された。彼は『君主論』で「政治共同体がはじめにあり、次いでそれに対応した支配機構が作られる」というそれまでの政治思想の想定を近世ヨーロッパの現実に即して逆転させ、「まず支配機構たる国家(stato)があり、それが各々の力に応じて土地と人民を領有する」というモデルを提示した。政治共同体の要素をそぎ落として把握した支配機構がマキャヴェッリのいう伊: statoであった。 国家は政治制度の集合体、領土の単位、哲学的な理念、弾圧や圧政の手段など多様な文脈で論じられる対象である。このような意味の混合は、国家をどのように捉えるかという着眼点において様々な立場を採りうることが原因である。例えば倫理的、機能的、そして組織的な観点を置くことができる。 哲学者ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルの国家理論では国家を倫理的な観点から論じており、家族、市民社会、そして国家に大別している。そして家族は限定的な利他主義、市民社会は普遍的な利己主義、そして国家を普遍的な利他主義の領域であると位置づけていた。つまり「国家は家族のような利他性を備えていながらも市民社会の普遍性を持った社会的な存在として考えられる」。 機能の観点から見れば、国家は社会に対して担う役割から捉えることができる。国家の中心的な機能とは社会秩序を継続的に維持することであり、社会的安定を担保することである。例えばマルクス主義は、国内の資本主義のシステムを長期的に存続させる国家の機能性を強調している。 「組織的な観点では、国家とは広義には「政府の組織」であり、市民社会とは区別される公的制度である。」「つまり政府・議会・官僚・軍隊・警察・裁判所・社会保障体制などさまざまな制度から成立している組織として国家は概念化することができる。」 さらに、国家の諸々の側面について観察すると国家にはいくつかの特徴がある、と指摘する文献もある(Andrew Heywood.(2002)Politcs(2nd ed.)(N.Y.: Palgrave Macmillan)の「国家」の項目における87-88項)。まず国家とは主権を備えており、それは社会における全ての集団よりも上位に位置する絶対的権力として行使されるものであり、政治思想家のトマス・ホッブズは自著で国家を海の怪物であるリヴァイアサンと描写した。 国家は公的な組織であり、私的な利益を確保しようとする家族や会社などから構成される市民社会から区別されるべき存在である。 社会学者マックス・ウェーバーは、国家は「正当化された暴力」を独占していると指摘した。 人類史上最古の国家がいつ成立したか正確には判明していないが、集約的な農耕による集住が進んでいた古代メソポタミアにおいて、紀元前3300年ごろにはウルク市が完全に都市としての実体を備え、都市国家化したと考えられている。その後都市は周辺のメソポタミア南部各地に成立し、紀元前2900年ごろからは各地にシュメール人の都市国家が分立して抗争を繰り返すようになった。その後も、19世紀の帝国主義時代に列強諸国によって世界分割が行われるまでは、世界各地に国家に所属していない社会や土地が存在していた。 現代のような主権国家体制が成立したのは近世のヨーロッパであり、三十年戦争の講和条約として1648年に締結されたウェストファリア条約によって、各主権国家が自らの領域内にたいして排他的に公権力を行使し、各国の主権は相互に不可侵であることが確認され、ウェストファリア体制と呼ばれる世界秩序が確立した。次いで、一部の民族が国民化していき、主権国家と結合して18世紀ごろにヨーロッパにおいて国民国家が出現した。ウェストファリア体制は当初ヨーロッパのみの国際秩序であったが、19世紀後半になるとアメリカや日本といった他地域の大国がこの秩序に参入する一方で、大国は帝国主義を掲げてアジアやアフリカの多くの地域を植民地化し、この体制は世界的なものとなった。さらに20世紀後半になるとこれら植民地が相次いで独立し、国家の数が大幅に増大した。20世紀後半以降は、1961年に発効した南極条約によって領土権を凍結された南緯60度以南の南極大陸およびその属島を除く、地球上のすべての陸地がいずれかの主権国家によって領有されている。一方、20世紀に入ると国際連盟や国際連合といった超国家的な国際機関が創設されるようになった。 法学・政治学においては、以下の「国家の三要素」を持つものを「国家」とする。これは、ドイツの法学者・国家学者であるゲオルク・イェリネックの学説に基づくものであるが、今日では、一般に国際法上の「国家」の承認要件として認められている。 この3つが三要素とされる。モデルにおいては、国家とは、権力が領域と人民を内外の干渉を許さず統治する存在であると捉えられているのである。領域に対する権力を領土高権(Gebietshoheit)、人民に対する権力を対人高権(Personalhoheit)という。国際法上、これらの三要素を有するものは国家として認められるが、満たさないものは国家として認められない。この場合、認めるか認めないかを実際に判断するのは他の国家なので、他国からの承認を第4の要素に挙げる場合もある(モンテビデオ条約の項目および国家の資格要件も参照のこと)。 国際法上国家と言えるか否かについて、モンテビデオ条約第1条には以下のように定められた。 実際には、この条件を完全には満たさない国家もいくつか存在している。例えば、モナコは長らくフランスの保護下にあり、2005年のフランス・モナコ友好協力条約によって制限が緩和されるまで、外交にはフランスの承認が必要だった。また条約改定後も、モナコの防衛はフランスの責任となっている。また、自由連合の形態を取る国家では、防衛権など主権の一部を他国に委ねることになっている。このため、自由連合は独立国家と非独立状態の中間的な形態と見なされており、とくに外交権を委任しているニュージーランドの自由連合を国家承認する国家は少ない。アメリカはミクロネシア連邦・マーシャル諸島・パラオの3カ国と個別に自由連合盟約を結んでおり、これらの国から防衛権を委ねられている。同様に、ニュージーランドもクック諸島およびニウエと自由連合条約を締結しており、防衛権および一部外交権を委任されている。 また、国家の承認はすべての国家間において行われるわけではなく、何らかの理由によって、他国で広く承認されている国家を国家承認しない場合もあり得る。日本の場合、1965年の日韓基本条約第3条において大韓民国を朝鮮半島における唯一の合法的政府と定めているため、半島北半部にある朝鮮民主主義人民共和国の国家承認を行っていない。 このほかにも最初の3つの条件を満たすのにもかかわらず、他国からの承認がまったく、もしくはわずかしか得られない国家もいくつか存在する。中華民国は国家の三要素を完全に満たしているが、「一つの中国」の原則をめぐって中華人民共和国と激しく対立しており、中華人民共和国側が中華民国の承認に対し圧力をかけているため、2020年時点で中華民国を承認している国家はわずか15か国にすぎない。また、2008年にセルビアから独立を一方的に宣言したコソボについては国家承認をめぐって国際世論が真っ二つに割れ、2020年9月時点では日本を含む100カ国が国家承認を行っている一方、セルビアやロシア、中国など残りの約90カ国はこれを認めていない。こうした国家は未承認国家と呼ばれ、旧ソヴィエト連邦地域に多いものの、世界中に点在している。 要件を満たさない支配機構や政治共同体も存在しうる。国家は近代の歴史的産物(近代国家も参照)であり、それ以前には存在しなかった。例えば前近代社会において、しばしば多くの国家が多様な自治的組織を持つ多種多様な人間集団、すなわち社団の複合体として成立し、中央政府機構はこれら社団に特権を付与することで階層秩序を維持していた。こうした国家体制を社団国家と称し、日本の幕藩体制やフランスのアンシャン・レジームが典型例として挙げられる。例えば、幕藩体制において公家の団体である朝廷とその首長の天皇は幕府の首長に征夷大将軍の官位を与えることで権威を保証し、幕府は大名や旗本の領国経営組織という武士の団体に主従制に基づく特権を付与して臣従と忠誠を求め、幕府や大名領国のような領主権力は百姓の団体である惣村や町人の団体である町(ちょう)に身分特権と自治権を付与することで民政を行っていた。そこには如何なる排他的な主権者も見出すことはできない。 こうした社団国家においては個々の社団が中央政府機構からの離脱や復帰を行う現象が見られ、また江戸時代の琉球王国が日本と中華帝国(明もしくは清)に両属の態度をとっていたように国民の固定化は不完全であった。当然、社団の離脱、復帰に伴い領域も変動しえた。 さらに権力に関しても、幕藩体制における各藩が独自の軍事機構を持ち、幕府の藩内内政への干渉権が大幅に制限されていたように、決して主権的ではなかった。 現代社会において近代国家の表看板を掲げていても、2021年にターリバーンが実効支配する前のアフガニスタンのように内部の実情は複数の自立的共同体が必ずしも国家機構の主権下に服さずに国家体制の構成要素となっている国家は存続している。今日の国際関係は、近代的主権国家間の関係を前提として成立しており、こうした国家の存在は様々な紛争の火種を内包している。さらに、この問題は同時に、近代的主権国家の歴史的な特殊性の問題点を投げかけているともいえる。 社会学における国家の定義は法学や政治学とは異なり、国家の権力の中身ではなく、あくまでその形式のほうに向けられている。社会学的な国家(ここでは近代国家)の定義でもっとも代表的なものがマックス・ウェーバーによるものである。ウェーバーは2つの側面から国家を理解していた。1つ目は、警察や軍隊などの暴力手段を合法的に独占していること、そして2つ目は、官僚や議員など統治組織の維持そのものを職業として生計を立てる専門家によって構成されている政治的共同体であるということである。この定義を詳しく見ると、以下のようにまとめることができる。 (1)中世のヨーロッパでは、国家は軍事組織をほとんど独占しておらず、戦争は貴族の私兵や傭兵隊などによって賄われるのが通例であり、国家が直接的に訓練・組織化に関わることは少なかった。しかし、17世紀以降の絶対王政と国家間戦争の激化により、王国に排他的な忠誠を誓う「常備軍」を整備しはじめ、次第に底辺の家族や村落の中にまで徴税や徴兵の権力が介入していくようになる。それに伴って、国家に動員される民衆の間には自ずと政治意識や権利意識も生じ始め、国家の利益を直接的に代表するのは世襲身分による王家や貴族ではなく、われわれ平等な「国民」であるという理解が次第に形成され、これが18世紀末以降に革命を帰結させていくことになる。「国民」意識が教育制度などを通じて浸透するようになると、もはや国家が直接的な強制力を行使して兵士を徴収する徴兵制よりも、第二次大戦以降には「国民」の中から志願兵を募るという方向へと転換し、軍隊はより一層「専門化」していくことになる。 (2)中世以前の国家は、国王と臣下、領主、都市国家、地域共同体といった様々な中間集団との重層的な関係の中にあり、国家は家族・親族の領域と未分化の状態であった。しかし、戦争の規模の拡大と市場経済化および産業化の波は、国家と個人の直接的な関係と社会の均質的画一化を推し進めるものであり、これらに対応するためには、国家を統一的に運営するためのルール(法律)と、専門的な職業家(官僚・議員)を必要とするようになった。こうして、国家が統治組織として専門分化することにより、統治される対象としての「社会(市民社会)」が自律的な領域として分化していくことになる。 近年は、強力な官僚制と「物理的暴力の独占」を強調するというウェーバーの議論に対して、そもそも国家はそのように堅固な統一性をもった統治組織なのではなく、民意や社会の変動の前に不安定で不統一的なものであるという説明がなされることもある。現代社会を批評する議論の中には、国民国家が既に無意味になってしまったかのように語られることもあるが、社会学の国家論ではほとんど否定されている。 国家というものの在り方をめぐっては、さまざまな国家論が立てられ、論争が行われてきた。 国家の起源や支配の正統性の根拠としては、いくつかの説が存在する。近代に入るとヨーロッパにおいて、君主の統治権は神から付与され、神以外の何者にも拘束されないとするという王権神授説が広まった。これに対し、各個人が社会契約を結んで所持する権利の一部を国家に委譲し、残余の権利の保障を受けるという社会契約説がトマス・ホッブズやジョン・ロック、ジャン=ジャック・ルソーらによって唱えられ、近代民主主義国家成立の思想的基盤となった。 国家が社会にどこまで干渉するかをめぐっては、かつて19世紀においては制限選挙による社会上層のみの政治参加のもと、国家による社会への干渉を最小限にまで抑えた「自由主義国家論」が主流であり、防衛・安全保障および治安維持など最小限の役割のみを果たす小さな政府、いわゆる「夜警国家」が主流であった。これに対し、20世紀に入ると格差の拡大による貧困層の増大、およびそれによる社会主義・共産主義の勢力の増大に対抗するため、さらに選挙権が拡大され普通選挙が実施されることによって下層民にも政治参加の道が開かれたことから、「福祉国家論」による「福祉国家」など、国家が積極的に社会へと介入する大きな政府が主流となった。ただしこの2つの考え方の対立はその後も続いており、どこまで国家の社会への介入を認めるかは各国の選挙においても主要な争点となり続けている。 また、権力の分立という観点においては、19世紀の小さな政府のもとでは立法を担う議会(国政議会)が優越する、いわゆる立法国家が主流であったが、20世紀に入ると大きな政府化による国家の機能の著しい増大とともに行政権が政策立案能力をも保持するようになり、いわゆる行政国家化が進んだ。 国家と社会の関係に関しては、国家主権は絶対であり他の社会集団に優越するとした一元的国家論が古くから存在したが、20世紀に入るとそれに対し、国家も社会集団の一つであり、他の社会集団に対しての優越はそれほど大きなものではないとする多元的国家論が現れた。 その他の国家論に関しては以下を参照のこと。 国家はその構成単位から、単一国家と連邦国家に分けられる。単一国家においては中央政府が唯一の主権を保持しており、各地方自治体にいくらかの権限を与えることになる。これに対し連邦国家では、構成国家はそれぞれ主権と領域と国民を有する独立国家であるが、国家同士の自由意志による契約にもとづいて主権の一部を互いに委譲または委託して連邦政府を組織する、という形式をとる。したがって、形式上では、連邦構成国はその意志によって主権を取り戻して連邦を離脱する権利を留保していることになる。しかし、多くの連邦国家においては連邦政府が強大な権限を有するようになって連邦が形骸化し、構成国は実質的には離脱の自由を持たない、というのが実態である。かつてこうした緩やかな国家連合的な形態で発足したアメリカやスイスにおいても、スイスでは1847年の分離同盟戦争で、アメリカでは1861年から1865年にかけての南北戦争でそれぞれ中央集権派が勝利して州の権利が制限され、単一の国家へと移行していった。 ただし、連邦国家において州の権利は一般的に強く、また政治的にもすでにまとまった政治単位として存在しているため、中央政府の統制がなんらかの理由で弱まった場合は実際に州が連邦から離脱することもあり得る。1991年にはソビエト連邦を構成する12の連邦構成共和国が連邦からの離脱を表明し、構成国の存在しなくなったソビエト連邦は崩壊することとなった。また、同じく1991年にはユーゴスラビア構成国のうちスロベニアとクロアチアが連邦離脱を表明し、ほかの構成国も追随したものの、セルビアを中心とするユーゴスラビア政府はこれを認めず、長期にわたるユーゴスラビア紛争が勃発した。 国家の起源には諸説あり、定説はないと言っていい。それは特に現代において、国家の形が多様であり、ひとつのモデルで説明しきれないことを表している。しかし、国家を静態的ではなく、動態的に捉えることは非常に重要である。動態的な国家起源のモデルを設定してそれを理念型とすることで、多様な国家の成り立ちをよりよく理解することができるようになるからである。 国家起源の動態モデルの例としてカール・ドイッチュの説がある。 ドイッチュは国家の起源を社会的コミュニケーションの連続性から説明する。彼によれば、国民 (nation) とは次の2種類のコミュニケーションの積み重ねの産物である。すなわち、第1に、財貨・資本・労働の移動に関するものである。第2に、情報に関するものである。西欧における資本主義の発展に伴って、交通や出版、通信の技術も発達し、これら2種類のコミュニケーションが進展し徐々に密度を増すと、財貨・資本・労働の結びつきが周辺と比較して強い地域が出現する。ドイッチュはこれを経済社会 (society) と呼ぶ。また同時に、言語と文化(行動様式・思考様式の総体)における共通圏が成立するようになる。ドイッチュはこれを文化情報共同体 (community) と呼ぶ。 言語や文化など多くの共通点を持つ人間集団は「国民」(nation)と呼ばれ、この集団が実際に政府を樹立し成立するのが「国民国家」nation-stateである。 しかし、現代における国家は必ずしもこうした理念型に合致するものではない。まともなコミュニケーションの進展も存在せず、それ故に「国民」(nation) と呼べる実体が全く不在の場所に国家 (state) だけが存在するという場合もあれば、ひとつの国家 (state) の中に異なる政府の樹立を求める民族 (nation) が複数存在する場合もある。前者の典型的な例はアフリカであり、アフリカ分割時に各宗主国によって恣意的にひかれた国境線を踏襲したまま独立したため、国境線と民族分布とは多くの場合一致していなかった。独立後に各国政府は国民の形成を急いだが、国内に存在する各民族のナショナリズムを「トライバリズム」(部族主義)と呼んで非難し抑圧する一方で、指導者が自らの属する民族を重用し政府内を自民族で固めるといったことをしばしば行った。このため国民の形成はほとんどの国家において掛け声倒れに終わってしまい、逆に民族間の激しい抗争が繰り返されるようになった。後者の例としては、第一次世界大戦後の東ヨーロッパが挙げられる。東欧に林立した新独立国は国民国家として構想され、どの国においても主要民族が人口の大半を占めていたものの、いずれの国家も国内に少なくない数の非主要民族を抱えており、国民統合を進めるため強硬な同化政策や排除を進める国家側と、それに抵抗する少数派とが激しく対立した。またこれらの少数派民族の中には、旧帝国時代には支配層だったドイツ人やマジャール人などが含まれており、彼らは国土の縮小した自民族の国家と連携して戦後秩序の改正を求めるようになり、第二次世界大戦に少なからぬ影響を与えた。第二次世界大戦後のヨーロッパにおいては、これまでの国民国家 (nation-state) を包括するような大きな主体の出現が議論されている。それに対して、さらに細分化された民族 (people) が自らの政府の樹立を望んで国民 (nation) となろうとしているようにも見える地域も無数に存在している。こうしたことはEUの発展するヨーロッパにおいても見られる。 静態的な国家論だけでは国家を捉え切ることは非常に困難であると考えられる。 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"実際には、この条件を完全には満たさない国家もいくつか存在している。例えば、モナコは長らくフランスの保護下にあり、2005年のフランス・モナコ友好協力条約によって制限が緩和されるまで、外交にはフランスの承認が必要だった。また条約改定後も、モナコの防衛はフランスの責任となっている。また、自由連合の形態を取る国家では、防衛権など主権の一部を他国に委ねることになっている。このため、自由連合は独立国家と非独立状態の中間的な形態と見なされており、とくに外交権を委任しているニュージーランドの自由連合を国家承認する国家は少ない。アメリカはミクロネシア連邦・マーシャル諸島・パラオの3カ国と個別に自由連合盟約を結んでおり、これらの国から防衛権を委ねられている。同様に、ニュージーランドもクック諸島およびニウエと自由連合条約を締結しており、防衛権および一部外交権を委任されている。", "title": "法学上の定義" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "また、国家の承認はすべての国家間において行われるわけではなく、何らかの理由によって、他国で広く承認されている国家を国家承認しない場合もあり得る。日本の場合、1965年の日韓基本条約第3条において大韓民国を朝鮮半島における唯一の合法的政府と定めているため、半島北半部にある朝鮮民主主義人民共和国の国家承認を行っていない。", "title": "法学上の定義" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "このほかにも最初の3つの条件を満たすのにもかかわらず、他国からの承認がまったく、もしくはわずかしか得られない国家もいくつか存在する。中華民国は国家の三要素を完全に満たしているが、「一つの中国」の原則をめぐって中華人民共和国と激しく対立しており、中華人民共和国側が中華民国の承認に対し圧力をかけているため、2020年時点で中華民国を承認している国家はわずか15か国にすぎない。また、2008年にセルビアから独立を一方的に宣言したコソボについては国家承認をめぐって国際世論が真っ二つに割れ、2020年9月時点では日本を含む100カ国が国家承認を行っている一方、セルビアやロシア、中国など残りの約90カ国はこれを認めていない。こうした国家は未承認国家と呼ばれ、旧ソヴィエト連邦地域に多いものの、世界中に点在している。", "title": "法学上の定義" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "要件を満たさない支配機構や政治共同体も存在しうる。国家は近代の歴史的産物(近代国家も参照)であり、それ以前には存在しなかった。例えば前近代社会において、しばしば多くの国家が多様な自治的組織を持つ多種多様な人間集団、すなわち社団の複合体として成立し、中央政府機構はこれら社団に特権を付与することで階層秩序を維持していた。こうした国家体制を社団国家と称し、日本の幕藩体制やフランスのアンシャン・レジームが典型例として挙げられる。例えば、幕藩体制において公家の団体である朝廷とその首長の天皇は幕府の首長に征夷大将軍の官位を与えることで権威を保証し、幕府は大名や旗本の領国経営組織という武士の団体に主従制に基づく特権を付与して臣従と忠誠を求め、幕府や大名領国のような領主権力は百姓の団体である惣村や町人の団体である町(ちょう)に身分特権と自治権を付与することで民政を行っていた。そこには如何なる排他的な主権者も見出すことはできない。", "title": "法学上の定義" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "こうした社団国家においては個々の社団が中央政府機構からの離脱や復帰を行う現象が見られ、また江戸時代の琉球王国が日本と中華帝国(明もしくは清)に両属の態度をとっていたように国民の固定化は不完全であった。当然、社団の離脱、復帰に伴い領域も変動しえた。", "title": "法学上の定義" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "さらに権力に関しても、幕藩体制における各藩が独自の軍事機構を持ち、幕府の藩内内政への干渉権が大幅に制限されていたように、決して主権的ではなかった。", "title": "法学上の定義" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "現代社会において近代国家の表看板を掲げていても、2021年にターリバーンが実効支配する前のアフガニスタンのように内部の実情は複数の自立的共同体が必ずしも国家機構の主権下に服さずに国家体制の構成要素となっている国家は存続している。今日の国際関係は、近代的主権国家間の関係を前提として成立しており、こうした国家の存在は様々な紛争の火種を内包している。さらに、この問題は同時に、近代的主権国家の歴史的な特殊性の問題点を投げかけているともいえる。", "title": "法学上の定義" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "社会学における国家の定義は法学や政治学とは異なり、国家の権力の中身ではなく、あくまでその形式のほうに向けられている。社会学的な国家(ここでは近代国家)の定義でもっとも代表的なものがマックス・ウェーバーによるものである。ウェーバーは2つの側面から国家を理解していた。1つ目は、警察や軍隊などの暴力手段を合法的に独占していること、そして2つ目は、官僚や議員など統治組織の維持そのものを職業として生計を立てる専門家によって構成されている政治的共同体であるということである。この定義を詳しく見ると、以下のようにまとめることができる。", "title": "社会学的な定義" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "(1)中世のヨーロッパでは、国家は軍事組織をほとんど独占しておらず、戦争は貴族の私兵や傭兵隊などによって賄われるのが通例であり、国家が直接的に訓練・組織化に関わることは少なかった。しかし、17世紀以降の絶対王政と国家間戦争の激化により、王国に排他的な忠誠を誓う「常備軍」を整備しはじめ、次第に底辺の家族や村落の中にまで徴税や徴兵の権力が介入していくようになる。それに伴って、国家に動員される民衆の間には自ずと政治意識や権利意識も生じ始め、国家の利益を直接的に代表するのは世襲身分による王家や貴族ではなく、われわれ平等な「国民」であるという理解が次第に形成され、これが18世紀末以降に革命を帰結させていくことになる。「国民」意識が教育制度などを通じて浸透するようになると、もはや国家が直接的な強制力を行使して兵士を徴収する徴兵制よりも、第二次大戦以降には「国民」の中から志願兵を募るという方向へと転換し、軍隊はより一層「専門化」していくことになる。", "title": "社会学的な定義" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "(2)中世以前の国家は、国王と臣下、領主、都市国家、地域共同体といった様々な中間集団との重層的な関係の中にあり、国家は家族・親族の領域と未分化の状態であった。しかし、戦争の規模の拡大と市場経済化および産業化の波は、国家と個人の直接的な関係と社会の均質的画一化を推し進めるものであり、これらに対応するためには、国家を統一的に運営するためのルール(法律)と、専門的な職業家(官僚・議員)を必要とするようになった。こうして、国家が統治組織として専門分化することにより、統治される対象としての「社会(市民社会)」が自律的な領域として分化していくことになる。", "title": "社会学的な定義" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "近年は、強力な官僚制と「物理的暴力の独占」を強調するというウェーバーの議論に対して、そもそも国家はそのように堅固な統一性をもった統治組織なのではなく、民意や社会の変動の前に不安定で不統一的なものであるという説明がなされることもある。現代社会を批評する議論の中には、国民国家が既に無意味になってしまったかのように語られることもあるが、社会学の国家論ではほとんど否定されている。", "title": "社会学的な定義" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "国家というものの在り方をめぐっては、さまざまな国家論が立てられ、論争が行われてきた。", "title": "様々な国家論" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "国家の起源や支配の正統性の根拠としては、いくつかの説が存在する。近代に入るとヨーロッパにおいて、君主の統治権は神から付与され、神以外の何者にも拘束されないとするという王権神授説が広まった。これに対し、各個人が社会契約を結んで所持する権利の一部を国家に委譲し、残余の権利の保障を受けるという社会契約説がトマス・ホッブズやジョン・ロック、ジャン=ジャック・ルソーらによって唱えられ、近代民主主義国家成立の思想的基盤となった。", "title": "様々な国家論" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "国家が社会にどこまで干渉するかをめぐっては、かつて19世紀においては制限選挙による社会上層のみの政治参加のもと、国家による社会への干渉を最小限にまで抑えた「自由主義国家論」が主流であり、防衛・安全保障および治安維持など最小限の役割のみを果たす小さな政府、いわゆる「夜警国家」が主流であった。これに対し、20世紀に入ると格差の拡大による貧困層の増大、およびそれによる社会主義・共産主義の勢力の増大に対抗するため、さらに選挙権が拡大され普通選挙が実施されることによって下層民にも政治参加の道が開かれたことから、「福祉国家論」による「福祉国家」など、国家が積極的に社会へと介入する大きな政府が主流となった。ただしこの2つの考え方の対立はその後も続いており、どこまで国家の社会への介入を認めるかは各国の選挙においても主要な争点となり続けている。", "title": "様々な国家論" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "また、権力の分立という観点においては、19世紀の小さな政府のもとでは立法を担う議会(国政議会)が優越する、いわゆる立法国家が主流であったが、20世紀に入ると大きな政府化による国家の機能の著しい増大とともに行政権が政策立案能力をも保持するようになり、いわゆる行政国家化が進んだ。", "title": "様々な国家論" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "国家と社会の関係に関しては、国家主権は絶対であり他の社会集団に優越するとした一元的国家論が古くから存在したが、20世紀に入るとそれに対し、国家も社会集団の一つであり、他の社会集団に対しての優越はそれほど大きなものではないとする多元的国家論が現れた。", "title": "様々な国家論" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "その他の国家論に関しては以下を参照のこと。", "title": "様々な国家論" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "国家はその構成単位から、単一国家と連邦国家に分けられる。単一国家においては中央政府が唯一の主権を保持しており、各地方自治体にいくらかの権限を与えることになる。これに対し連邦国家では、構成国家はそれぞれ主権と領域と国民を有する独立国家であるが、国家同士の自由意志による契約にもとづいて主権の一部を互いに委譲または委託して連邦政府を組織する、という形式をとる。したがって、形式上では、連邦構成国はその意志によって主権を取り戻して連邦を離脱する権利を留保していることになる。しかし、多くの連邦国家においては連邦政府が強大な権限を有するようになって連邦が形骸化し、構成国は実質的には離脱の自由を持たない、というのが実態である。かつてこうした緩やかな国家連合的な形態で発足したアメリカやスイスにおいても、スイスでは1847年の分離同盟戦争で、アメリカでは1861年から1865年にかけての南北戦争でそれぞれ中央集権派が勝利して州の権利が制限され、単一の国家へと移行していった。", "title": "単一国家と連邦国家" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ただし、連邦国家において州の権利は一般的に強く、また政治的にもすでにまとまった政治単位として存在しているため、中央政府の統制がなんらかの理由で弱まった場合は実際に州が連邦から離脱することもあり得る。1991年にはソビエト連邦を構成する12の連邦構成共和国が連邦からの離脱を表明し、構成国の存在しなくなったソビエト連邦は崩壊することとなった。また、同じく1991年にはユーゴスラビア構成国のうちスロベニアとクロアチアが連邦離脱を表明し、ほかの構成国も追随したものの、セルビアを中心とするユーゴスラビア政府はこれを認めず、長期にわたるユーゴスラビア紛争が勃発した。", "title": "単一国家と連邦国家" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "国家の起源には諸説あり、定説はないと言っていい。それは特に現代において、国家の形が多様であり、ひとつのモデルで説明しきれないことを表している。しかし、国家を静態的ではなく、動態的に捉えることは非常に重要である。動態的な国家起源のモデルを設定してそれを理念型とすることで、多様な国家の成り立ちをよりよく理解することができるようになるからである。", "title": "国家の起源" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "国家起源の動態モデルの例としてカール・ドイッチュの説がある。", "title": "国家の起源" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ドイッチュは国家の起源を社会的コミュニケーションの連続性から説明する。彼によれば、国民 (nation) とは次の2種類のコミュニケーションの積み重ねの産物である。すなわち、第1に、財貨・資本・労働の移動に関するものである。第2に、情報に関するものである。西欧における資本主義の発展に伴って、交通や出版、通信の技術も発達し、これら2種類のコミュニケーションが進展し徐々に密度を増すと、財貨・資本・労働の結びつきが周辺と比較して強い地域が出現する。ドイッチュはこれを経済社会 (society) と呼ぶ。また同時に、言語と文化(行動様式・思考様式の総体)における共通圏が成立するようになる。ドイッチュはこれを文化情報共同体 (community) と呼ぶ。", "title": "国家の起源" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "言語や文化など多くの共通点を持つ人間集団は「国民」(nation)と呼ばれ、この集団が実際に政府を樹立し成立するのが「国民国家」nation-stateである。", "title": "国家の起源" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "しかし、現代における国家は必ずしもこうした理念型に合致するものではない。まともなコミュニケーションの進展も存在せず、それ故に「国民」(nation) と呼べる実体が全く不在の場所に国家 (state) だけが存在するという場合もあれば、ひとつの国家 (state) の中に異なる政府の樹立を求める民族 (nation) が複数存在する場合もある。前者の典型的な例はアフリカであり、アフリカ分割時に各宗主国によって恣意的にひかれた国境線を踏襲したまま独立したため、国境線と民族分布とは多くの場合一致していなかった。独立後に各国政府は国民の形成を急いだが、国内に存在する各民族のナショナリズムを「トライバリズム」(部族主義)と呼んで非難し抑圧する一方で、指導者が自らの属する民族を重用し政府内を自民族で固めるといったことをしばしば行った。このため国民の形成はほとんどの国家において掛け声倒れに終わってしまい、逆に民族間の激しい抗争が繰り返されるようになった。後者の例としては、第一次世界大戦後の東ヨーロッパが挙げられる。東欧に林立した新独立国は国民国家として構想され、どの国においても主要民族が人口の大半を占めていたものの、いずれの国家も国内に少なくない数の非主要民族を抱えており、国民統合を進めるため強硬な同化政策や排除を進める国家側と、それに抵抗する少数派とが激しく対立した。またこれらの少数派民族の中には、旧帝国時代には支配層だったドイツ人やマジャール人などが含まれており、彼らは国土の縮小した自民族の国家と連携して戦後秩序の改正を求めるようになり、第二次世界大戦に少なからぬ影響を与えた。第二次世界大戦後のヨーロッパにおいては、これまでの国民国家 (nation-state) を包括するような大きな主体の出現が議論されている。それに対して、さらに細分化された民族 (people) が自らの政府の樹立を望んで国民 (nation) となろうとしているようにも見える地域も無数に存在している。こうしたことはEUの発展するヨーロッパにおいても見られる。", "title": "国家の起源" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "静態的な国家論だけでは国家を捉え切ることは非常に困難であると考えられる。", "title": "国家の起源" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "国家はいかなる場合でも領域内において十全に統治権を行使できるというわけではなく、行政能力の不足などの様々な事情によって統治が行き届かない場合もある。このような国家は治安維持能力や行政サービス能力が低いため、国民に十分な治安や医療などを提供できない。こうした国家は「失敗国家」と呼ばれ、ひどい場合は暴力の独占を保つことができず、国土の各所に軍閥が割拠して内戦が勃発する。さらにこれが進行すると1991年以降のソマリアのように中央政府そのものが事実上崩壊し、無政府状態となる例も存在する。こうした失敗国家では、たとえば2014年から数年間イラクとシリアの一部に成立したイスラーム国のようにテロ組織が領域支配を行ったり、またソマリアにおいてソマリア沖の海賊の跳梁が起きたように、非合法武力組織の浸透を許し周辺の治安悪化の大きな原因となることがある。", "title": "国家の崩壊" } ]
国家とは、国と同様に、「一定の領土と国民と排他的な統治組織とを供えた政治共同体」や、「一定の領土を基礎にして、固有の統治権によって統治される、継続的な公組織的共同社会」と言える。
{{otheruses||プラトンの著書|国家 (対話篇)}} {{出典の明記|date=2021年2月}} '''国家'''(こっか、{{Lang-en-short|state}})とは、[[国]]と同様に、「一定の[[領土]]と[[国民]]と排他的な[[統治]][[組織]]とを供えた[[政治]][[共同体]]<ref name="Britannica">ブリタニカ国際大百科事典、小項目辞典【国家】</ref>」や、「一定の領土を基礎にして、固有の[[統治権]]によって統治される、継続的な[[組織 (社会科学)#公式組織と非公式組織|公組織]]的共同社会<ref name="Britannica" />」と言える。 == 概説 == [[プラトン]]の著作の原題である「ポリテイア」({{lang-el-short|''Πολιτεία''}}, politeia)を『[[国家 (対話篇)|国家]]』と翻訳する場合もある。また、[[英語]]の「[[コモンウェルス]]」(commonwealth)や[[ラテン語]]の「[[レス・プブリカ]]」(res publica)なども広い意味において、国家と訳される場合がある。 英語の「ステート」(state)の[[語源]]は、[[ラテン語]]の「スタトゥス」(status)である<ref>「国際関係学 地球社会を理解するために 第2版」p75 滝田賢治・大芝亮・都留康子編 有信堂高文社 2017年4月20日第2版第1刷発行</ref>。{{要出典範囲|{{lang-it-short|stato}}は「状態」を意味するが、フィレンツェの政治思想家[[ニッコロ・マキャヴェッリ]]によって{{lang-it-short|lo stato}}「かかる(その)状態」を「現在の支配体制」という意味に転用された。彼は『[[君主論]]』で「政治共同体がはじめにあり、次いでそれに対応した支配機構が作られる」というそれまでの政治思想の想定を[[近世]][[ヨーロッパ]]の現実に即して逆転させ、「まず支配機構たる国家(stato)があり、それが各々の力に応じて土地と人民を領有する」というモデルを提示した。政治共同体の要素をそぎ落として把握した支配機構がマキャヴェッリのいう{{lang-it-short|stato}}であった。|date=2021年12月}} 国家は政治制度の集合体、[[領土]]の単位、[[哲学]]的な理念、弾圧や圧政の手段など多様な文脈で論じられる対象である。このような意味の混合は、国家をどのように捉えるかという着眼点において様々な立場を採りうることが原因である。例えば[[倫理]]的、[[機能]]的、そして[[組織 (社会科学)|組織]]的な観点を置くことができる。 哲学者[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル]]の国家理論では国家を[[倫理]]的な観点から論じており、[[家族]]、[[市民社会]]、そして国家に大別している。そして家族は限定的な[[利他主義]]、市民社会は普遍的な[[利己主義]]、そして国家を普遍的な利他主義の領域であると位置づけていた<ref group="注">どの論者がヘーゲルの指摘を挙げたか出典を示さなければいけない。あるいはヘーゲルのどの本のどの章なのか示さなければならない。</ref>。つまり「国家は家族のような利他性を備えていながらも市民社会の普遍性を持った社会的な存在として考えられる{{要出典|date=2021年12月}}」。 機能の観点から見れば、国家は社会に対して担う役割から捉えることができる。国家の中心的な機能とは社会秩序を継続的に維持することであり、社会的安定を担保することである。例えば[[マルクス主義]]は、国内の[[資本主義]]のシステムを長期的に存続させる国家の機能性を強調している。 「組織的な観点では、国家とは広義には「[[政府]]の組織」であり、市民社会とは区別される公的制度である{{要出典|date=2021年12月}}。」「つまり政府・[[議会]]・[[官僚]]・[[軍隊]]・[[警察]]・[[裁判所]]・[[社会保障]]体制などさまざまな制度から成立している組織として国家は概念化することができる{{要出典|date=2021年12月}}。」 さらに、国家の諸々の側面について観察すると国家にはいくつかの特徴がある、と指摘する文献もある(Andrew Heywood.(2002)Politcs(2nd ed.)(N.Y.: Palgrave Macmillan)の「国家」の項目における87-88項)。まず国家とは主権を備えており、それは社会における全ての集団よりも上位に位置する絶対的権力として行使されるものであり、政治思想家の[[トマス・ホッブズ]]は自著で国家を海の怪物である[[リヴァイアサン]]と描写した。 {{要出典範囲|国家は公的な組織であり、私的な利益を確保しようとする家族や会社などから構成される市民社会から区別されるべき存在である|date=2021年12月}}。{{いつ|date=2021年12月}}{{誰|date=2021年12月}} <!--{{要出典範囲|基本的に国家とは正当化の一つの実践であり、議会が社会の利害を反映する限りにおいて国家の決断は社会成員の合意として受け入れられる。|date=2021年12月}}--> 社会学者[[マックス・ウェーバー]]は、国家は[[暴力の独占|「正当化された暴力」を独占]]していると指摘した<ref>「国際関係学 地球社会を理解するために 第2版」p75 滝田賢治・大芝亮・都留康子編 有信堂高文社 2017年4月20日第2版第1刷発行</ref>。 == 歴史 == 人類史上最古の国家がいつ成立したか正確には判明していないが、集約的な農耕による集住が進んでいた古代[[メソポタミア]]において、[[紀元前3300年]]ごろには[[ウルク (メソポタミア)|ウルク]]市が完全に[[都市]]としての実体を備え、[[都市国家]]化したと考えられている<ref>「都市の起源 古代の先進地域西アジアを掘る」p20-22 小泉龍人 講談社 2016年3月10日第1刷発行</ref>。その後都市は周辺のメソポタミア南部各地に成立し、[[紀元前2900年]]ごろからは各地に[[シュメール人]]の都市国家が分立して抗争を繰り返すようになった<ref>「文明の誕生」p4 小林登志子 中公新書 2015年6月25日発行</ref>。その後も、19世紀の[[帝国主義]]時代に[[列強]]諸国によって[[世界分割]]が行われるまでは、世界各地に国家に所属していない社会や土地が存在していた。 現代のような[[主権国家体制]]が成立したのは近世のヨーロッパであり、[[三十年戦争]]の講和条約として1648年に締結された[[ウェストファリア条約]]によって、各主権国家が自らの領域内にたいして排他的に公権力を行使し、各国の主権は相互に不可侵であることが確認され、[[ウェストファリア体制]]と呼ばれる[[世界秩序]]が確立した<ref>「国際平和論」p2 福富満久 岩波書店 2014年9月26日第1刷発行</ref>。次いで、一部の民族が国民化していき、主権国家と結合して18世紀ごろにヨーロッパにおいて国民国家が出現した<ref>「グローバリゼーション 現代はいかなる時代なのか」p24-25 正村俊之 有斐閣 2009年9月10日初版第1刷発行</ref>。ウェストファリア体制は当初ヨーロッパのみの国際秩序であったが、19世紀後半になるとアメリカや日本といった他地域の大国がこの秩序に参入する一方で、大国は[[帝国主義]]を掲げてアジアやアフリカの多くの地域を植民地化し、この体制は世界的なものとなった<ref>「国際関係学 地球社会を理解するために 第2版」p9 滝田賢治・大芝亮・都留康子編 有信堂高文社 2017年4月20日第2版第1刷発行</ref>。さらに20世紀後半になるとこれら植民地が相次いで独立し、国家の数が大幅に増大した<ref>「グローバリゼーション 現代はいかなる時代なのか」p71-72 正村俊之 有斐閣 2009年9月10日初版第1刷発行</ref>。20世紀後半以降は、1961年に発効した[[南極条約]]によって領土権を凍結された[[南緯60度]]以南の[[南極大陸]]およびその属島<ref>「現代国際法講義 第5版」p176 杉原高嶺・水上千之・臼杵知史・吉井淳・加藤信行・高田映 著 有斐閣 平成24年6月10日第5版第1刷発行</ref>を除く、地球上のすべての陸地がいずれかの主権国家によって領有されている。一方、20世紀に入ると[[国際連盟]]や[[国際連合]]といった超国家的な国際機関が創設されるようになった<ref>「グローバリゼーション 現代はいかなる時代なのか」p72-73 正村俊之 有斐閣 2009年9月10日初版第1刷発行</ref>。 == 法学上の定義 == [[法学]]・[[政治学]]においては、以下の「国家の三要素」を持つものを「国家」とする。これは、[[ドイツ]]の法学者・国家学者である[[ゲオルク・イェリネック]]の学説に基づくものであるが、今日では、一般に[[国際法]]上の[[国家承認|「国家」の承認]]要件として認められている。 === 国家の三要素 === * [[領域 (国家)|領域]](Staatsgebiet:領土、領水、領空)- 一定に区画されている。 * [[人民]](Staatsvolk:[[国民]]、住民)- 恒久的に属し、一時の好悪で脱したり復したりはしない。 * [[権力]](Staatsgewalt)ないし[[主権]]- 正統な物理的実力のことである。この実力は、対外的・対内的に排他的に行使できなければならない、つまり、主権的(souverän)でなければならない。 この3つが三要素とされる<ref>{{Cite web|和書|url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%9B%BD%E5%AE%B6/#jn-79835|title=国家(こっか)の意味|publisher=goo国語辞書|accessdate=2020-11-05}}</ref>。[[モデル (人文科学)|モデル]]においては、国家とは、権力が領域と人民を内外の干渉を許さず統治する存在であると捉えられているのである。領域に対する権力を領土高権(Gebietshoheit)、人民に対する権力を対人高権(Personalhoheit)という。[[国際法]]上、これらの三要素を有するものは国家として認められるが、満たさないものは国家として認められない。この場合、認めるか認めないかを実際に判断するのは他の国家なので、他国からの承認を第4の要素に挙げる場合もある<ref>「現代人の社会学・入門 グローバル化時代の生活世界」p268-269 西原和久・油井清光編 有斐閣 2010年12月20日初版第1刷発行</ref>([[モンテビデオ条約 (1933年)#内容|モンテビデオ条約の項目]]および[[国家の資格要件]]も参照のこと)。 === 国家の資格要件 === {{See also|国家の資格要件}} [[国際法]]上'''国家'''と言えるか否かについて、[[モンテビデオ条約 (1933年)|モンテビデオ条約]]第1条には以下のように定められた<ref name="戸田23-24">戸田(2016)、23-24頁。</ref>。 {{quotation|日本語訳:国際法上の人格としての国はその要件として、(a)永続的住民、(b)明確な領域、(c)政府、及び、(d)他国と関係を取り結ぶ能力を備えなければならない<ref name="モンテビデオ条約1条翻訳引用">戸田(2016)、23頁、24頁におけるモンテビデオ条約第1条日本語訳を引用。</ref>。 <br/>英語原文:The state as a person of international law should possess the following qualifications: a ) a permanent population; b ) a defined territory; c ) government; and d) capacity to enter into relations with the other states.<ref>[[:s:en:Montevideo Convention#Article 1]]</ref>|モンテビデオ条約第1条}} 実際には、この条件を完全には満たさない国家もいくつか存在している。例えば、[[モナコ]]は長らく[[フランス]]の保護下にあり、2005年のフランス・モナコ友好協力条約によって制限が緩和されるまで、外交にはフランスの承認が必要だった。また条約改定後も、モナコの防衛はフランスの責任となっている<ref>https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/monaco/data.html 「モナコ基礎データ」日本国外務省 令和2年9月3日 2021年5月12日閲覧</ref>。また、[[自由連合 (国家間関係)|自由連合]]の形態を取る国家では、防衛権など主権の一部を他国に委ねることになっている。このため、自由連合は独立国家と非独立状態の中間的な形態と見なされており<ref>https://imidas.jp/genre/detail/D-115-0030.html 「自由連合(オセアニア) Compact of Free Association」Imidas 2011/02 2021年5月12日閲覧</ref>、とくに外交権を委任しているニュージーランドの自由連合を国家承認する国家は少ない<ref>https://www.ninomiyashoten.co.jp/atlas_news/cook_islands 「クック諸島を日本が国家承認」二宮書店 2011年3月26日 2021年5月12日閲覧</ref>。アメリカは[[ミクロネシア連邦]]・[[マーシャル諸島]]・[[パラオ]]の3カ国と個別に[[自由連合盟約]]を結んでおり、これらの国から防衛権を委ねられている<ref>https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/micronesia/data.html 「ミクロネシア基礎データ」日本国外務省 令和2年7月17日 2021年5月12日閲覧</ref><ref>https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/marshall/data.html#section1 「マーシャル基礎データ」日本国外務省 令和2年7月17日 2021年5月12日閲覧</ref><ref>https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/palau/data.html 「パラオ基礎データ」日本国外務省 令和3年2月10日 2021年5月12日閲覧</ref>。同様に、[[ニュージーランド]]も[[クック諸島]]および[[ニウエ]]と自由連合条約を締結しており、防衛権および一部外交権を委任されている<ref>https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/cook/data.html 「クック諸島基礎データ」日本国外務省 令和3年2月10日 2021年5月12日閲覧</ref><ref>https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/niue/data.html 「ニウエ基礎データ」日本国外務省 令和3年2月10日 2021年5月12日閲覧</ref>。 また、国家の承認はすべての国家間において行われるわけではなく、何らかの理由によって、他国で広く承認されている国家を国家承認しない場合もあり得る。日本の場合、1965年の[[日韓基本条約]]第3条において[[大韓民国]]を[[朝鮮半島]]における唯一の合法的政府と定めている<ref>https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/A-S40-237.pdf 「日韓基本条約」日本国外務省 2021年5月13日閲覧</ref>ため、半島北半部にある[[朝鮮民主主義人民共和国]]の国家承認を行っていない<ref>https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b164322.htm 「衆議院議員鈴木宗男君提出朝鮮民主主義人民共和国を巡る国家承認、政府承認に関する再質問に対する答弁書」日本国衆議院 2021年5月12日閲覧</ref>。 このほかにも最初の3つの条件を満たすのにもかかわらず、他国からの承認がまったく、もしくはわずかしか得られない国家もいくつか存在する。[[中華民国]]は国家の三要素を完全に満たしているが、「[[一つの中国]]」の原則をめぐって[[中華人民共和国]]と激しく対立しており、中華人民共和国側が中華民国の承認に対し圧力をかけているため、2020年時点で中華民国を承認している国家はわずか15か国にすぎない<ref>https://web.archive.org/web/20200111094611/https://www.nhk.or.jp/kokusaihoudou/bs22/special/2019/12/1225.html 「台湾ってどうして国じゃないの?」国際報道2020 NHK BS1 2021年5月13日閲覧</ref>。また、2008年に[[セルビア]]から独立を一方的に宣言した[[コソボ]]については国家承認をめぐって国際世論が真っ二つに割れ、2020年9月時点では日本を含む100カ国が国家承認を行っている一方<ref>https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/kosovo/data.html 「コソボ基礎データ」日本国外務省 令和3年4月5日 2021年5月13日閲覧</ref>、セルビアや[[ロシア]]、中国など残りの約90カ国はこれを認めていない<ref>https://www2.jiia.or.jp/RESR/column_page.php?id=154 「コソボ独立宣言とその影響」小窪千早 公益財団法人日本国際問題研究所 2008-03-13 2021年5月13日閲覧</ref>。こうした国家は[[国家承認を得た国連非加盟の国と地域の一覧|未承認国家]]と呼ばれ、旧[[ソヴィエト連邦]]地域に多いものの、世界中に点在している<ref>https://wedge.ismedia.jp/articles/-/4710 「なぜ「未承認国家」は生まれるのか 不安定化する世界を読み解く」WEDGE Infinity 2015年2月13日 2021年5月13日閲覧</ref>。 === 現代的な基準外の国家 === 要件を満たさない支配機構や政治共同体も存在しうる。国家は[[近代]]の歴史的産物([[近代国家]]も参照)であり、それ以前には存在しなかった。例えば前近代社会において、しばしば多くの国家が多様な自治的組織を持つ多種多様な人間集団、すなわち[[社団]]の複合体として成立し、中央政府機構はこれら社団に特権を付与することで階層秩序を維持していた。こうした国家体制を社団国家と称し、[[日本]]の[[幕藩体制]]や[[フランス]]の[[アンシャン・レジーム]]が典型例として挙げられる。例えば、幕藩体制において[[公家]]の団体である[[朝廷 (日本)|朝廷]]とその首長の[[天皇]]は[[幕府]]の首長に[[征夷大将軍]]の官位を与えることで権威を保証し、幕府は[[大名]]や[[旗本]]の領国経営組織という[[武士]]の団体に主従制に基づく特権を付与して臣従と忠誠を求め、幕府や大名領国のような[[領主]]権力は[[百姓]]の団体である[[惣村]]や[[町人]]の団体である[[町]](ちょう)に身分特権と自治権を付与することで民政を行っていた。そこには如何なる排他的な主権者も見出すことはできない。 こうした社団国家においては個々の社団が中央政府機構からの離脱や復帰を行う現象が見られ、また[[江戸時代]]の[[琉球王国]]が日本と[[中華帝国]]([[明]]もしくは[[清]])に両属の態度をとっていたように国民の固定化は不完全であった。当然、社団の離脱、復帰に伴い領域も変動しえた。 さらに権力に関しても、幕藩体制における各[[藩]]が独自の軍事機構を持ち、[[江戸幕府|幕府]]の藩内内政への干渉権が大幅に制限されていたように、決して主権的ではなかった。 現代社会において近代国家の表看板を掲げていても、2021年に[[ターリバーン]]が実効支配する前の[[アフガニスタン]]のように内部の実情は複数の自立的共同体が必ずしも国家機構の主権下に服さずに国家体制の構成要素となっている国家は存続している。今日の[[国際関係]]は、近代的主権国家間の関係を前提として成立しており、こうした国家の存在は様々な[[紛争]]の火種を内包している。さらに、この問題は同時に、近代的主権国家の歴史的な特殊性の問題点を投げかけているともいえる。 == 社会学的な定義 == 社会学における国家の定義は法学や政治学とは異なり、国家の権力の中身ではなく、あくまでその形式のほうに向けられている。社会学的な国家(ここでは近代国家)の定義でもっとも代表的なものがマックス・ウェーバーによるものである。ウェーバーは2つの側面から国家を理解していた。1つ目は、警察や軍隊などの[[暴力の独占|暴力手段を合法的に独占]]していること<ref>「現代人の社会学・入門 グローバル化時代の生活世界」p267 西原和久・油井清光編 有斐閣 2010年12月20日初版第1刷発行</ref>、そして2つ目は、官僚や議員など統治組織の維持そのものを職業として生計を立てる専門家によって構成されている政治的共同体であるということである。この定義を詳しく見ると、以下のようにまとめることができる。 (1)中世のヨーロッパでは、国家は軍事組織をほとんど独占しておらず、戦争は貴族の私兵や傭兵隊などによって賄われるのが通例であり、国家が直接的に訓練・組織化に関わることは少なかった。しかし、17世紀以降の絶対王政と国家間戦争の激化により、王国に排他的な忠誠を誓う「常備軍」を整備しはじめ、次第に底辺の家族や村落の中にまで徴税や徴兵の権力が介入していくようになる。それに伴って、国家に動員される民衆の間には自ずと政治意識や権利意識も生じ始め、国家の利益を直接的に代表するのは世襲身分による王家や貴族ではなく、われわれ平等な「国民」であるという理解が次第に形成され、これが18世紀末以降に革命を帰結させていくことになる。「国民」意識が教育制度などを通じて浸透するようになると、もはや国家が直接的な強制力を行使して兵士を徴収する徴兵制よりも、第二次大戦以降には「国民」の中から志願兵を募るという方向へと転換し、軍隊はより一層「専門化」していくことになる。 (2)中世以前の国家は、国王と臣下、領主、都市国家、地域共同体といった様々な中間集団との重層的な関係の中にあり、国家は家族・親族の領域と未分化の状態であった。しかし、戦争の規模の拡大と市場経済化および産業化の波は、国家と個人の直接的な関係と社会の均質的画一化を推し進めるものであり、これらに対応するためには、国家を統一的に運営するためのルール(法律)と、専門的な職業家(官僚・議員)を必要とするようになった。こうして、国家が統治組織として専門分化することにより、統治される対象としての「社会(市民社会)」が自律的な領域として分化していくことになる。 近年は、強力な官僚制と「物理的[[暴力の独占]]」を強調するというウェーバーの議論に対して、そもそも国家はそのように堅固な統一性をもった統治組織なのではなく、民意や社会の変動の前に不安定で不統一的なものであるという説明がなされることもある。現代社会を批評する議論の中には、国民国家が既に無意味になってしまったかのように語られることもあるが、社会学の国家論ではほとんど否定されている。 == 様々な国家論 == 国家というものの在り方をめぐっては、さまざまな国家論が立てられ、論争が行われてきた。 国家の起源や支配の正統性の根拠としては、いくつかの説が存在する。近代に入るとヨーロッパにおいて、君主の統治権は神から付与され、神以外の何者にも拘束されないとするという[[王権神授説]]が広まった。これに対し、各個人が[[社会契約]]を結んで所持する権利の一部を国家に委譲し、残余の権利の保障を受けるという社会契約説が[[トマス・ホッブズ]]や[[ジョン・ロック]]、[[ジャン=ジャック・ルソー]]らによって唱えられ、近代民主主義国家成立の思想的基盤となった<ref>「政治学・行政学の基礎知識 第3版」p66-67 堀江湛編 一藝社 2014年9月30日第3版1刷</ref>。 国家が社会にどこまで干渉するかをめぐっては、かつて[[19世紀]]においては制限選挙による社会上層のみの政治参加のもと、国家による社会への干渉を最小限にまで抑えた「[[自由主義国家論]]」が主流であり、防衛・安全保障および治安維持など最小限の役割のみを果たす[[小さな政府]]、いわゆる「夜警国家」が主流であった。これに対し、[[20世紀]]に入ると格差の拡大による貧困層の増大、およびそれによる社会主義・共産主義の勢力の増大に対抗するため、さらに選挙権が拡大され[[普通選挙]]が実施されることによって下層民にも政治参加の道が開かれたことから、「[[福祉国家論]]」による「福祉国家」など、国家が積極的に社会へと介入する[[大きな政府]]が主流となった<ref>「第三版 政治学入門」p120-121 加藤秀治郎 芦書房 2011年4月15日第3版第1刷</ref>。ただしこの2つの考え方の対立はその後も続いており、どこまで国家の社会への介入を認めるかは各国の選挙においても主要な争点となり続けている。 また、権力の分立という観点においては、19世紀の小さな政府のもとでは[[立法]]を担う[[議会]](国政議会)が優越する、いわゆる[[立法国家]]が主流であったが、20世紀に入ると大きな政府化による国家の機能の著しい増大とともに行政権が政策立案能力をも保持するようになり、いわゆる[[行政国家]]化が進んだ<ref>「第三版 政治学入門」p120-121 加藤秀治郎 芦書房 2011年4月15日第3版第1刷</ref>。 国家と社会の関係に関しては、国家主権は絶対であり他の社会集団に優越するとした一元的国家論が古くから存在したが、20世紀に入るとそれに対し、国家も社会集団の一つであり、他の社会集団に対しての優越はそれほど大きなものではないとする[[多元的国家論]]が現れた<ref>「増補 スタンダード政治学」p238-239 加藤秀治郎・中村昭雄 芦書房 1994年4月15日増補改訂版第3刷</ref>。 その他の国家論に関しては以下を参照のこと。 * [[階級国家]]論(マルクス主義的国家論) * [[国家有機体説]](有機的国家論) * [[兵役国家]] * 国家理性 * [[神国]] == 単一国家と連邦国家 == 国家はその構成単位から、[[単一国家]]と[[連邦|連邦国家]]に分けられる。単一国家においては中央政府が唯一の主権を保持しており、各地方自治体にいくらかの権限を与えることになる<ref>「現代政治学 第3版」p180 加茂利男・大西仁・石田徹・伊東恭彦著 有斐閣 2007年9月30日第3版第1刷</ref>。これに対し連邦国家では、構成国家はそれぞれ主権と領域と国民を有する独立国家であるが、国家同士の自由意志による契約にもとづいて主権の一部を互いに委譲または委託して連邦政府を組織する、という形式をとる<ref>「現代政治学 第3版」p176 加茂利男・大西仁・石田徹・伊東恭彦著 有斐閣 2007年9月30日第3版第1刷</ref>。したがって、形式上では、連邦構成国はその意志によって主権を取り戻して連邦を離脱する権利を留保していることになる。しかし、多くの連邦国家においては連邦政府が強大な権限を有するようになって連邦が形骸化し、構成国は実質的には離脱の自由を持たない、というのが実態である。かつてこうした緩やかな国家連合的な形態で発足した[[アメリカ]]や[[スイス]]においても、スイスでは[[1847年]]の[[分離同盟戦争]]で<ref>森田安一『物語 スイスの歴史』中公新書 p182-187 2000年7月25日発行</ref>、アメリカでは[[1861年]]から[[1865年]]にかけての[[南北戦争]]でそれぞれ中央集権派が勝利して州の権利が制限され、単一の国家へと移行していった。 ただし、連邦国家において州の権利は一般的に強く、また政治的にもすでにまとまった政治単位として存在しているため、中央政府の統制がなんらかの理由で弱まった場合は実際に州が連邦から離脱することもあり得る<ref name="名前なし-1">塩川伸明 『民族とネイション - ナショナリズムという難問』p156-158 岩波新書、2008年 ISBN 9784004311560</ref>。[[1991年]]には[[ソビエト連邦]]を構成する12の[[ソビエト連邦構成共和国|連邦構成共和国]]が連邦からの離脱を表明し、構成国の存在しなくなった[[ソビエト連邦の崩壊|ソビエト連邦は崩壊]]することとなった。また、同じく1991年には[[ユーゴスラビア]]構成国のうち[[スロベニア]]と[[クロアチア]]が連邦離脱を表明し、ほかの構成国も追随したものの、[[セルビア]]を中心とするユーゴスラビア政府はこれを認めず、長期にわたる[[ユーゴスラビア紛争]]が勃発した<ref name="名前なし-1"/>。 == 国家の起源 == 国家の起源には諸説あり、定説はないと言っていい。それは特に現代において、国家の形が多様であり、ひとつのモデルで説明しきれないことを表している。しかし、国家を静態的ではなく、動態的に捉えることは非常に重要である。動態的な国家起源のモデルを設定してそれを[[理念型]]とすることで、多様な国家の成り立ちをよりよく理解することができるようになるからである。 国家起源の動態モデルの例として[[カール・ドイッチュ]]の説がある。 ドイッチュは国家の起源を社会的[[コミュニケーション]]の連続性から説明する。彼によれば、国民 (nation) とは次の2種類の[[コミュニケーション]]の積み重ねの産物である。すなわち、第1に、[[財貨]]・[[資本]]・[[労働]]の移動に関するものである。第2に、情報に関するものである。[[西ヨーロッパ|西欧]]における[[資本主義]]の発展に伴って、交通や出版、通信の技術も発達し、これら2種類のコミュニケーションが進展し徐々に密度を増すと、財貨・資本・労働の結びつきが周辺と比較して強い地域が出現する。ドイッチュはこれを経済社会 (society) と呼ぶ。また同時に、言語と文化(行動様式・思考様式の総体)における共通圏が成立するようになる。ドイッチュはこれを文化情報共同体 (community) と呼ぶ。 言語や文化など多くの共通点を持つ人間集団は「国民」(nation)と呼ばれ、この集団が実際に政府を樹立し成立するのが「国民国家」nation-stateである<ref>「国際関係学 地球社会を理解するために 第2版」p76-77 滝田賢治・大芝亮・都留康子編 有信堂高文社 2017年4月20日第2版第1刷発行</ref>。 しかし、現代における国家は必ずしもこうした理念型に合致するものではない。まともなコミュニケーションの進展も存在せず、それ故に「国民」(nation) と呼べる実体が全く不在の場所に国家 (state) だけが存在するという場合もあれば、ひとつの国家 (state) の中に異なる政府の樹立を求める民族 (nation) が複数存在する場合もある。前者の典型的な例はアフリカであり、[[アフリカ分割]]時に各宗主国によって恣意的にひかれた国境線を踏襲したまま独立したため、国境線と民族分布とは多くの場合一致していなかった。独立後に各国政府は国民の形成を急いだが、国内に存在する各民族のナショナリズムを「トライバリズム」(部族主義)と呼んで非難し抑圧する一方で、指導者が自らの属する民族を重用し政府内を自民族で固めるといったことをしばしば行った。このため国民の形成はほとんどの国家において掛け声倒れに終わってしまい、逆に民族間の激しい抗争が繰り返されるようになった<ref>「新書アフリカ史」第8版(宮本正興・松田素二編)、2003年2月20日(講談社現代新書)p494-498</ref>。後者の例としては、[[第一次世界大戦]]後の[[東ヨーロッパ]]が挙げられる。東欧に林立した新独立国は国民国家として構想され、どの国においても主要民族が人口の大半を占めていたものの、いずれの国家も国内に少なくない数の非主要民族を抱えており、国民統合を進めるため強硬な同化政策や排除を進める国家側と、それに抵抗する少数派とが激しく対立した。またこれらの少数派民族の中には、旧帝国時代には支配層だった[[ドイツ人]]や[[マジャール人]]などが含まれており、彼らは国土の縮小した自民族の国家と連携して戦後秩序の改正を求めるようになり、第二次世界大戦に少なからぬ影響を与えた<ref>「ナショナリズム 1890-1940」 p111-112 オリヴァー・ジマー 福井憲彦訳 岩波書店 2009年8月27日第1刷</ref>。第二次世界大戦後のヨーロッパにおいては、これまでの国民国家 (nation-state) を包括するような大きな主体の出現が議論されている。それに対して、さらに細分化された民族 (people) が自らの政府の樹立を望んで国民 (nation) となろうとしているようにも見える地域も無数に存在している。こうしたことはEUの発展するヨーロッパにおいても見られる。 静態的な国家論だけでは国家を捉え切ることは非常に困難であると考えられる。 == 国家の崩壊 == 国家はいかなる場合でも領域内において十全に統治権を行使できるというわけではなく、行政能力の不足などの様々な事情によって統治が行き届かない場合もある。このような国家は治安維持能力や行政サービス能力が低いため、国民に十分な治安や医療などを提供できない。こうした国家は「[[失敗国家]]」と呼ばれ、ひどい場合は[[暴力の独占]]を保つことができず、国土の各所に[[軍閥]]が割拠して[[内戦]]が勃発する。さらにこれが進行すると1991年以降の[[ソマリア]]のように中央政府そのものが事実上崩壊し、[[無政府状態]]となる例も存在する<ref>「国家の破綻」p22-23 武内進一(「平和構築・入門」所収 藤原帰一・大芝亮・山田哲也編著 有斐閣 2011年12月10日初版第1刷)</ref>。こうした失敗国家では、たとえば2014年から数年間[[イラク]]と[[シリア]]の一部に成立した[[ISIL|イスラーム国]]のようにテロ組織が領域支配を行ったり、またソマリアにおいて[[ソマリア沖の海賊]]の跳梁が起きたように<ref>「国際関係学 地球社会を理解するために 第2版」p132-137 滝田賢治・大芝亮・都留康子編 有信堂高文社 2017年4月20日第2版第1刷発行</ref>、非合法武力組織の浸透を許し周辺の治安悪化の大きな原因となることがある<ref>「国際関係学 地球社会を理解するために 第2版」p81 滝田賢治・大芝亮・都留康子編 有信堂高文社 2017年4月20日第2版第1刷発行</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == {{参照方法|date=2012年7月}} *Badie, B., P. Birnbaum. 1983. The sociology of the state. Chicago: Chicago Univ. Press. **小山勉訳『国家の歴史社会学』日本経済評論社、1990年 *Black, A. 1988. State, community and human desire. Hemel Hempstead: Harvester Wheatsheaf. *Bosanquet, B. 1899. The philosophical theory of the state. London: Macmillan. *Carnoy, M. 1984. The state and political theory. Princeton: Princeton Univ. Press. **加藤哲郎、昼神洋史、黒沢惟昭訳『国家と政治理論』御茶の水書房、1992年 *Cheyette, F. L. 1982. The invention of the state. in B. K. Lackner, K. R. Philip. eds. Essays in medieval civilization: The walter prescott web memorial lectures. Austin: Univ. of Texas. *D'Entreves, A. P. 1967. The notion of the state. Oxford: Clarendon Press. *Dunleavy, P., B. O'Leary 1987. Theories of the State. London: Palgrave. *Dyson, K. H. F. 1980. State tradition in western Europe: A study of an idea and institution. Oxford: Martin Robertson. *Evans, P. B., Rueschmeyer, D., Skocpol, T. eds. 1985. Bringing the state back in. Cambridge: Cambridge Univ. Press. *Jessop, B. 1990. 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The formation of national state in western Europe. Princeton: Princeton Univ. Press. *Tivey, L. ed. 1981. The nation state: The formation of modern politics. Oxford: Martin Robertson. *Vincent, A. 1987. Theories of the state. Oxford: Basil Blackwell. *Weber, M. 1948. Politics as a vocation. in H. H. Gerth, C. Wright Mills. eds. From Max Weber. London: Routledge & Kegan Paul. **脇圭平訳『職業としての政治』岩波書店、1980年 *比較法制研究所『戦争装置としての国家』未来社、2004年 *比較文明学会『比較文明31【特集】文明と国家--ポスト・グローバル化からの再論』行人社、2015年 == 関連項目 == {{Sisterlinks}} * [[国]] - [[国の一覧]] ** [[国家承認を得た国連非加盟の国と地域の一覧]] ** [[日本が承認していない国一覧]] ** [[独立主張のある地域一覧]] * [[国家の承認]] * [[継承国]] * [[ミニ国家]] * [[国家主義]] * [[国民国家]] * [[政府]] * [[自由連合盟約]] * [[亡命政府]] * [[ミクロネーション]] * [[従属国]] * [[暴力の独占]] - [[暴力的な非国家主体]] * [[国家の内部における国家]] * [[主権]] * [[崩壊国家]] * [[モンテビデオ条約 (1933年)]] - 国家の権利及び義務に関する条約 * [[国家の日]] - '''ナショナル・デー'''という別名を用いられる事がある == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{国の指標}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こつか}} [[Category:国家|*]] [[Category:行政区画の単位]] [[Category:政治地理学]]
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7,675
十年紀
十年紀(じゅうねんき)は、英語の「decade」(デケイド、ディケイド)やラテン語の「decennium」(デケニウム、ディセニウム)の訳語で、紀年を10年単位で区切ったもの。紀年単位の一つ。 西暦における十年紀の区切り方については、世紀や千年紀の区切り方に関する概念と同様である。西暦には0年が存在せず1年よりカウントが始まるため、本来は西暦の下一桁が1 - 0の10年間を一つの区切りとする。しかし、–0年代という表現の場合は西暦の下一桁が0 - 9の10年間で区切るのが一般的である。例えば、2000年代(英語では2000s)といった場合、一般的には2000年から2009年までの10年間を指すが、上述のように西暦を定義通りに区切ると、2001年から2010年までの10年間が一つの括り(十年紀)となる。 そういった違いを認識した上で時代区分が行われていても、受け手の捉え方の違いから欧米などの日本国外ではしばしば混乱を招いている。しかし、日本国内では世紀は一般的であっても、十年紀で西暦を区切る用法は一般的ではなく、10年で時代を区切るのは–0年代での用法となることが多いため、そういった混乱を招くのは希である。また、固有名詞としては...の十年、旬年と訳されることが多い(例:国際防災の十年、国際防災旬年)。 紀年単位としての用法以外では、ミュージシャンや歌手、バンドなどのデビューや結成10周年を記念したアルバムや作品集などのタイトルに、十年紀の英語表現である“decade”(デケイド、ディケイド)が使われることも多い。 ちなみに、十年紀の半分の5年間(=五年紀)については英語で“lustrum”(ラストラム、古代ローマで5年ごとに実施されていた国勢調査の期間〈=5年間〉に由来)という表現がある。
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十年紀(じゅうねんき)は、英語の「decade」(デケイド、ディケイド)やラテン語の「decennium」(デケニウム、ディセニウム)の訳語で、紀年を10年単位で区切ったもの。紀年単位の一つ。
{{単位|名称=十年紀|単位系=[[暦法]]|物理量=[[時間]]|定義=10[[年]]|SI=3.1536×10<sup>8</sup>[[秒]]|画像=}} {{読み仮名_ruby不使用|'''十年紀'''|じゅうねんき}}は、[[英語]]の「'''{{lang|en|decade}}'''」(デケイド、ディケイド)や[[ラテン語]]の「'''{{lang|la|decennium}}'''」(デケニウム、ディセニウム)の[[訳語]]で、[[紀年法|紀年]]を10年単位で区切ったもの。紀年単位の一つ。 == 概説 == [[西暦]]における十年紀の区切り方については、[[世紀]]や[[ミレニアム|千年紀]]の区切り方に関する概念と同様である。西暦には[[0年]]が存在せず[[1年]]よりカウントが始まるため、'''本来は西暦の下一桁が1 - 0の10年間'''を一つの区切りとする。しかし、'''–0[[年代]]'''という表現の場合は'''西暦の下一桁が0 - 9の10年間'''で区切るのが一般的である。例えば、'''[[2000年代]]'''(英語では2000s)といった場合、一般的には[[2000年]]から[[2009年]]までの10年間を指すが、上述のように西暦を定義通りに区切ると、[[2001年]]から[[2010年]]までの10年間が一つの括り('''十年紀''')となる。 そういった違いを認識した上で[[時代区分]]が行われていても、受け手の捉え方の違いから[[欧米]]などの[[日本]]国外ではしばしば混乱を招いている。しかし、日本国内では世紀は一般的であっても、十年紀で西暦を区切る用法は一般的ではなく、10年で時代を区切るのは'''–0年代'''での用法となることが多いため、そういった混乱を招くのは希である。また、[[固有名詞]]としては'''...の十年'''、'''[[旬 (単位)|旬]]年'''と訳されることが多い(例:国際防災の十年、国際防災旬年)。 紀年単位としての用法以外では、ミュージシャンや歌手、バンドなどのデビューや結成10周年を記念した[[アルバム]]や作品集などのタイトルに、十年紀の英語表現である“'''decade'''”(デケイド、ディケイド)が使われることも多い。 ちなみに、十年紀の半分の5年間(=''五年紀'')については英語で“'''[[:en:Lustrum|lustrum]]'''”(ラストラム、[[古代ローマ]]で5年ごとに実施されていた[[国勢調査]]の期間〈=5年間〉に由来)という表現がある。 == 年表 == {| border="0" cellspacing="1" cellpadding="3" style="font-size:95%; border:solid #aaa 1px;margin-left:auto; margin-right:auto;" |- style="background:#eee;" |rowspan=2 style="background:#ccc;"| [[17世紀]]||style="background:#ddd;"|[[1690年代]]||[[1690年|1690]]||[[1691年|1691]]||[[1692年|1692]]||[[1693年|1693]]||[[1694年|1694]]||[[1695年|1695]]||[[1696年|1696]]||[[1697年|1697]]||[[1698年|1698]]||[[1699年|1699]] |- |rowspan=2 style="background:#ddd;"|[[1700年代]]||[[1700年|1700]]|| || || || || || || || || |- |rowspan=11 style="background:#ccc;"|[[18世紀]]|| ||[[1701年|1701]]||[[1702年|1702]]||[[1703年|1703]]||[[1704年|1704]]||[[1705年|1705]]||[[1706年|1706]]||[[1707年|1707]]||[[1708年|1708]]||[[1709年|1709]] |- style="background:#eee;" | 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藤沢市
藤沢市(ふじさわし)は、神奈川県の東南部に位置する市。湘南地域の最東端に位置し、横浜地域及び横須賀三浦地域に接する。 1940年市制施行。保健所政令市に指定されている。住宅・観光・産業・文教都市、景観行政団体。全国的に有名な江の島(江ノ島)、片瀬・鵠沼・辻堂海岸を有し観光都市としての性格も併せ持つ。温暖かつ穏やかな気候を求める人々やサーフィンなどマリンスポーツ愛好者など、良好な自然・住・教育環境を求める人等により第二次世界大戦前より人口が増加し続けている。 神奈川県の行政区域では湘南に含まれるが、東京・横浜のベッドタウンとしての性質が強い。JR、私鉄(小田急・相鉄・江ノ電)、地下鉄(横浜市営地下鉄)、モノレール(湘南モノレール)の駅が存在し、利便性が比較的高い。このため、他の湘南エリアよりも海から遠い内陸部の人口比率が高く、人口は約44万人となっている。 江戸時代には鎌倉仏教の一つである時宗総本山である清浄光寺(遊行寺)の門前町として、東海道の6番目の宿場町である藤沢宿、また江ノ島詣の足場として栄え、その姿は歌川広重の東海道五十三次にも描かれている。 明治時代-第二次世界大戦の間、気候も温暖であることから、南部の鵠沼・片瀬地区は明治時代中期より日本初の計画別荘地として開発され、大正期以降、皇族や政治家、数多くの学者や文化人などが居を構えた事で、別荘地・保養地・避暑地として発達し、芥川龍之介、武者小路実篤、岸田劉生ら多くの文化人の創作活動の場となった。第二次世界大戦時は艦船・地上基地のレーダー技術者養成として、海軍電測学校が市内に開かれた。また、航空用電波兵器・光学兵器整備訓練教育を実施する藤沢海軍航空隊が開隊され、藤沢空と電測学校の連携を図った。 第二次世界大戦後は東京のベッドタウン化が進み人口が急増すると共に、JR(東海道線〈湘南新宿ライン・上野東京ライン〉)、小田急(江ノ島線)、江ノ電の3つの鉄道が集まる藤沢駅を中心に商業施設が集積している。また、慶應義塾大学(湘南藤沢キャンパス(SFC))をはじめ、湘南工科大学(湘南キャンパス)、多摩大学(湘南キャンパス)、日本大学(湘南キャンパス)を有する文教都市でもある。市民の自主的な文化活動も活発で、1951年には「藤沢市展」が発足し、1973年には全国初の市民オペラ「藤沢市民オペラ」が開催され、今日まで続いている。さらに1992年から藤沢オペラコンクールもスタートし、若手オペラ歌手の登竜門に位置づけられるようになった。一方で市内には博物館・美術館を名乗る施設こそないものの、蒐集品展示施設としては1974年開設の藤沢市文書館(市町村レベルでは日本初)や湘南台文化センター子ども館、2016年開設の藤澤浮世絵館があり、博物館の性質が強い施設としては県営の交通展示館(辻堂海浜公園内)、民営のいすゞプラザが挙げられる。 市の南部に位置する鵠沼海岸は、古くより海水浴場が開かれ、現在は片瀬西浜・鵠沼海水浴場として年間来客数300万人を超す日本一の海水浴場として知られ、日本におけるサーフィン(諸説あり)・ビーチバレー発祥の地である。片瀬東浜海水浴場は、明治初期から外国人による海水浴が行われた伝統を持つ。また、江の島は源頼朝祈願により祀られた江ノ島弁財天の参詣地として賑わい、1964年開催の東京オリンピックではヨット競技会場(湘南港)に選ばれ、また、2021年開催の東京オリンピックでもセーリング競技が開催された。現在でも夏季や初詣時期以外においても年間を通じ約1,200万人もの観光客を集める湘南随一の観光地である。市の海岸部(片瀬・鵠沼・辻堂海岸、江の島)はヨット、サーフィン、ボードセーリング、ビーチバレー等マリンスポーツ、海水浴、釣り、ビーチコーミング、新江ノ島水族館等の一大マリンリゾート地であり、アメリカ・フロリダ州マイアミビーチ市と姉妹都市となっていることから「東洋のマイアミビーチ」と度々称される。 市北部は湘南台を中心とした地域である。湘南台駅が小田急江ノ島線・相鉄いずみ野線・横浜市営地下鉄ブルーライン)の3路線が接続しており、その利便性から乗換駅として、また慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)の玄関口として発展している。また、いすゞ自動車のマザー工場である藤沢工場をはじめとする大規模製造工場と関連工場がある。ちなみに藤沢市の工業は製造品出荷額等において神奈川県下では横浜市、川崎市に次ぐ第3位である。 一方南部JR東海道線沿線に進出していた関東特殊製鋼や武田薬品工業(2006年3月)など撤退があった。このため、産業・工業都市としての再興政策を積極的に行い、関東特殊製鋼跡地は辻堂駅前と言う立地条件を生かしてを整備する湘南C-Xプロジェクト(テラスモール湘南)などの振興策を開始し、武田薬品工業の自社工場跡地は2018年4月に湘南ヘルスイノベーションパーク (湘南アイパーク)となった。また、2009年までに撤退が完了している辻堂元町のパナソニック関連工場跡地では、太陽光発電や家庭用蓄電池などを大規模に配備した新しい街を作る「Fujisawa サスティナブル・スマートタウン(Fujisawa SST)構想」が発表され、2014年に街開き(一部完成)を迎えた。 神奈川県のほぼ中央南に所在し、相模湾に面している。旧東海道より南側は湘南砂丘地帯と呼ばれる海岸平野で、北側は相模野台地及び高座丘陵となっているが境川および引地川からの起伏は大きくない。南東部は片瀬山と呼ばれる三浦丘陵の西端部となり、その一部は孤立して江の島となる。江の島は市の最南部。 人口は神奈川県の政令指定都市である横浜・川崎・相模原の各市に次ぎ県内4位(44万4092人(令和2年国勢調査結果(確定値)によるもの))である。全国の市では37位(2022年1月1日現在の法定人口)。 海や、江ノ島等を好む方の移住、テレワーク、ワーケーションの開始による移住から、人口は増加傾向である。 藤沢市では、一部の区域で住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されている。住居表示実施前の町名等欄で下線がある町名はその全部、それ以外はその一部である。 市内には漁港、養豚場、農園、果樹園などがある。 湘南野菜は安全・安心・新鮮で味も美味しい野菜のブランド。北西部を中心に市内に多数ある直売所やスーパー等で購入可能である。 魚介類は市外の魚市場、市内外の鮮魚仲卸業者や直売・朝市、江ノ島周辺の飲食店等を通して消費者に提供している。 果樹園が市の北東部(湘南台・長後周辺)に多くあり、特に大粒ブドウとして全国に普及した藤稔の原産地である。これらの果樹は直売所 を通じて販売が行われている。 中世において藤沢での酒造りは廃れていたが、大正年間以降は酒類生産地としての側面をもつ。酒造業者は平野藤右衛門がいた。 1919年(大正8年)に創業した大日本醸造は、一帯で収穫されるサツマイモや雑穀を原料に、鈴木梅太郎が発明した合成清酒「新進」を藤沢工場で量産開始、販売した。やがて他社製品を含め大量生産されるようになった合成清酒は日本中に広まった。1961年(昭和36年)に大和醸造は三楽酒造に吸収、後にキリンHD子会社のメルシャンとなり、国内総生産量日本一のワイン製造拠点として稼働中である。 また、南藤沢のオーケーストア藤沢店が立つ敷地には、かつて存在した酒造メーカー、東京醸造株式会社の工場があった。藤沢蒸溜所で製造された「トミー・モルトウィスキー」は、日本国内の本格的モルトウイスキーとしては1929年発売のサントリー「白札」に次ぎ、1937年(昭和12年)に発売された(3番目が1940年発売の「ニッカウヰスキー」)。 戦後、東京醸造は倒産したものの、藤沢工場は壽屋、つぎに森永醸造へと渡り、製造は1960年代後半に閉鎖されるまで続いた。 藤沢市図書館全体としては録音・映像資料貸出、貸出返却システムの導入、障碍を持つ利用者への対応など進歩的な取り組みが見られる。しかし、南市民図書館の施設は旧中央図書館時代から使用されている老朽化が著しく、バリアフリー設備も不十分なため、隣接する藤沢市民会館を含めた複合施設への建替・移転が検討されている。 民間施設、廃止された施設は藤沢市のスポーツを参照。 一部の公園付帯施設は省略。詳細は スポーツ施設と事業(藤沢市みらい創造財団) を参照。 この他、多くの公民館に200人程度のホール兼用体育室が備わる。 藤沢市の鉄道路線は市域南部を東西にJR線、市域東部を南北に江ノ島線(小田急)、そして、湘南モノレールが市域南東部の片瀬地区を通過している。 藤沢駅は市役所等行政施設の最寄り駅であり、市の中心となる駅である。JR線、小田急線、江ノ島電鉄線の乗り入れがある。(観光路線として有名な江ノ電へも乗り換え可能である。江ノ電は藤沢駅を起点として江ノ島駅方面へ南下し、相模湾岸を沿いながら鎌倉駅方面へ向かう。) 辻堂駅は南西部の交通拠点駅であり、2000年代から同駅北口にあった関東特殊製鋼跡地を「湘南C-X」として再開発された。 湘南台駅は、小田急、相鉄、横浜市営地下鉄の3つの鉄道事業者が乗り入れ、北部の交通結節点となっている。(同駅は1999年にいずみ野線(相鉄)とブルーライン(横浜市営地下鉄)延伸以来、利用者が延伸前年、1998年の約5万人から2018年には約18万人と3倍増した。) 市内主要駅を中心に複数事業者によるネットワークが形成されるほか、地域によってはバスを補完する乗合タクシーの運行がみられる。 また、2005年に神奈川県内初、「ツインライナー(大型連節バス)」(湘南台駅西口~慶応大学間)の運行が開始された。これは、1999年に湘南台駅へ相鉄いずみ野線と横浜市営地下鉄が延伸以降、バス路線が慢性的な輸送力不足となり、この問題を解決するために導入されたものである。2018年には辻堂駅北口~湘南ライフタウン・慶応大学間でも運行が開始された。 (湘南台駅の利用者は延伸前年である1998年の約5万人から2002年には約10万人と倍増した。2003年に国土交通省、神奈川県、神奈川県警察、慶応大学と神奈川中央交通により「新たな公共交通システム導入検討委員会」が発足し、2004年に新たな公共交通システムとして、通常のバスの約2倍の輸送力を持つ「ツインライナー」の導入が提言され、2005年に運行が開始された。その輸送力とともに藤沢市などと連携し「PTPS」(公共車両優先システム ※2)を強化している。) その他、藤沢駅、辻堂駅から空港リムジンバス、高速バスが発着する。 路線系統の詳細は各営業所の項を、駅前乗り場の詳細は鉄道各駅バス路線の項を参照。 1997年にスタートした藤沢市独自の政策で、住民の要望を市が集約し、事業者とも協議し新規路線開発を提案する制度。同年開始したオムニバスタウン制度対象ではない。 自治体が主体となって運行するコミュニティバスとは異なり、運行は事業者に一任され、市は路線や運行ダイヤの要望など住民側の意見を取りまとめる役となる他、バス購入費の補助も行う。営業不振の場合、市を通して市民に利用を呼びかける等フォローが行われ、新規路線として再編成された例もある。 以下に本制度により開設された路線を挙げる。(神)は神奈中、(江)は江ノ電バス運行路線。 高速道路・有料道路 また、過去には湘南港を発着する大型船舶の定期海上航路が存在した。 "湘南"や"江の島"が全国的に有名である。海岸線沿いの国道134号は、とりわけ休日において渋滞が目立つ。 晴れた日の片瀬・鵠沼・辻堂海岸からの眺望は素晴らしく、東から西に城ケ島、三浦半島、江の島、伊豆大島、利島、伊豆半島、烏帽子岩、箱根、富士山、湘南平、丹沢・大山が一望できる。(江の島の展望台からはさらに横浜ランドマークタワー、ベイブリッジ、南アルプス、高尾山等の360度の眺望が可能)また、三浦半島・江の島から昇る朝日、箱根・富士山に沈む夕日も美しいことで有名である。 市内に存在するスポーツ施設については、運動施設 および 藤沢市のスポーツを参照。有名選手については出身人物、ゆかりの人物を参照。 注記がないものは連載終了した作品である。 藤沢市における映像制作支援制度については湘南藤沢フィルム・コミッションの項を参照。 神奈川県のご当地ソング一覧も合わせ参照 藤沢(江の島・鵠沼・辻堂、江ノ電等)が舞台または描かれた歌 藤沢市は、湘南ナンバー(神奈川運輸支局)を割り当てられている。 厚木飛行場を離着陸する軍用機の飛行経路に位置し、騒音が特に激しい地域に対しては環境整備法に基づき住宅防音工事および空調用光熱費の助成対象地域に指定されている。おおむね藤沢バイパスより北側の引地川以西に限られていたが、2006年(平成18年)の基準見直しによりWECPNL75以上の地域も追加となり、海岸線に至る広範囲において家屋竣工時期などの諸条件を満たした家屋で申請可能となった。 1988年、湘南ライフタウン区域内の茅ヶ崎市民が藤沢市への編入を求める住民運動が発生した。茅ヶ崎市からの教育事務委託という形で小学生の越境通学が認められた例のように、該当する地域に対し教育面で不利が生じないよう措置され、(少なくとも行政上は)一応の解決をみた。 市公式マスコットとして、2009年、市鳥をモチーフとした「カワセミくん」が登場し、市の刊行物で多用された。その後、命名募集コンテストなどを経て、ふじキュン♡が2015年に登場。交代の経緯は不明。他に、選挙投票率向上キャンペーンに登場する「ひょう太」がいる。
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"湘南台駅は、小田急、相鉄、横浜市営地下鉄の3つの鉄道事業者が乗り入れ、北部の交通結節点となっている。(同駅は1999年にいずみ野線(相鉄)とブルーライン(横浜市営地下鉄)延伸以来、利用者が延伸前年、1998年の約5万人から2018年には約18万人と3倍増した。)", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "市内主要駅を中心に複数事業者によるネットワークが形成されるほか、地域によってはバスを補完する乗合タクシーの運行がみられる。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "また、2005年に神奈川県内初、「ツインライナー(大型連節バス)」(湘南台駅西口~慶応大学間)の運行が開始された。これは、1999年に湘南台駅へ相鉄いずみ野線と横浜市営地下鉄が延伸以降、バス路線が慢性的な輸送力不足となり、この問題を解決するために導入されたものである。2018年には辻堂駅北口~湘南ライフタウン・慶応大学間でも運行が開始された。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "(湘南台駅の利用者は延伸前年である1998年の約5万人から2002年には約10万人と倍増した。2003年に国土交通省、神奈川県、神奈川県警察、慶応大学と神奈川中央交通により「新たな公共交通システム導入検討委員会」が発足し、2004年に新たな公共交通システムとして、通常のバスの約2倍の輸送力を持つ「ツインライナー」の導入が提言され、2005年に運行が開始された。その輸送力とともに藤沢市などと連携し「PTPS」(公共車両優先システム ※2)を強化している。)", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "その他、藤沢駅、辻堂駅から空港リムジンバス、高速バスが発着する。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "路線系統の詳細は各営業所の項を、駅前乗り場の詳細は鉄道各駅バス路線の項を参照。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1997年にスタートした藤沢市独自の政策で、住民の要望を市が集約し、事業者とも協議し新規路線開発を提案する制度。同年開始したオムニバスタウン制度対象ではない。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "自治体が主体となって運行するコミュニティバスとは異なり、運行は事業者に一任され、市は路線や運行ダイヤの要望など住民側の意見を取りまとめる役となる他、バス購入費の補助も行う。営業不振の場合、市を通して市民に利用を呼びかける等フォローが行われ、新規路線として再編成された例もある。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "以下に本制度により開設された路線を挙げる。(神)は神奈中、(江)は江ノ電バス運行路線。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "高速道路・有料道路", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "また、過去には湘南港を発着する大型船舶の定期海上航路が存在した。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "\"湘南\"や\"江の島\"が全国的に有名である。海岸線沿いの国道134号は、とりわけ休日において渋滞が目立つ。", "title": "名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事・スポーツ・その他" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "晴れた日の片瀬・鵠沼・辻堂海岸からの眺望は素晴らしく、東から西に城ケ島、三浦半島、江の島、伊豆大島、利島、伊豆半島、烏帽子岩、箱根、富士山、湘南平、丹沢・大山が一望できる。(江の島の展望台からはさらに横浜ランドマークタワー、ベイブリッジ、南アルプス、高尾山等の360度の眺望が可能)また、三浦半島・江の島から昇る朝日、箱根・富士山に沈む夕日も美しいことで有名である。", "title": "名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事・スポーツ・その他" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "市内に存在するスポーツ施設については、運動施設 および 藤沢市のスポーツを参照。有名選手については出身人物、ゆかりの人物を参照。", "title": "名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事・スポーツ・その他" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "注記がないものは連載終了した作品である。", "title": "藤沢市を舞台とした作品" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "藤沢市における映像制作支援制度については湘南藤沢フィルム・コミッションの項を参照。", "title": "藤沢市を舞台とした作品" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "神奈川県のご当地ソング一覧も合わせ参照", "title": "藤沢市を舞台とした作品" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "藤沢(江の島・鵠沼・辻堂、江ノ電等)が舞台または描かれた歌", "title": "藤沢市を舞台とした作品" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "藤沢市は、湘南ナンバー(神奈川運輸支局)を割り当てられている。", "title": "ナンバープレート" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "厚木飛行場を離着陸する軍用機の飛行経路に位置し、騒音が特に激しい地域に対しては環境整備法に基づき住宅防音工事および空調用光熱費の助成対象地域に指定されている。おおむね藤沢バイパスより北側の引地川以西に限られていたが、2006年(平成18年)の基準見直しによりWECPNL75以上の地域も追加となり、海岸線に至る広範囲において家屋竣工時期などの諸条件を満たした家屋で申請可能となった。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1988年、湘南ライフタウン区域内の茅ヶ崎市民が藤沢市への編入を求める住民運動が発生した。茅ヶ崎市からの教育事務委託という形で小学生の越境通学が認められた例のように、該当する地域に対し教育面で不利が生じないよう措置され、(少なくとも行政上は)一応の解決をみた。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "市公式マスコットとして、2009年、市鳥をモチーフとした「カワセミくん」が登場し、市の刊行物で多用された。その後、命名募集コンテストなどを経て、ふじキュン♡が2015年に登場。交代の経緯は不明。他に、選挙投票率向上キャンペーンに登場する「ひょう太」がいる。", "title": "その他" } ]
藤沢市(ふじさわし)は、神奈川県の東南部に位置する市。湘南地域の最東端に位置し、横浜地域及び横須賀三浦地域に接する。
{{日本の市 | 画像 = Fujisawa montage.jpg | 画像の説明 = <table style="width:280px; margin:2px auto; border-collapse:collapse"> <tr><td style="width:100%" colspan="2">[[江の島]]から望む藤沢市街</tr> <tr><td style="width:50%">[[ビーチバレージャパン]]<td style="width:50%">[[遊行寺]]</tr> <tr><td style="width:50%">[[鵠沼海岸]]と[[江の島]]<td style="width:50%">[[湘南台文化センター]]</tr> </table> | 市旗 = [[ファイル:Flag of Fujisawa, Kanagawa.svg|100px|border|藤沢市旗]] | 市旗の説明 = 藤沢[[市町村旗|市旗]]<br />[[1950年]][[10月1日]]制定 | 市章=[[ファイル:神奈川県藤沢市市章.svg|85px|藤沢市章]] | 市章の説明 = 藤沢[[市町村章|市章]]<br />[[1950年]][[10月1日]]制定 | 自治体名 = 藤沢市 | 都道府県 = 神奈川県 | コード = 14205-1 | 隣接自治体 = [[横浜市]]、[[綾瀬市]]、[[海老名市]]、[[鎌倉市]]、[[茅ヶ崎市]]、[[大和市]]、[[高座郡]][[寒川町]] | 木 = [[クロマツ]] | 花 = [[フジ (植物)|フジ]] | シンボル名 = 市の鳥 | 鳥など = [[カワセミ]] | 郵便番号 = 251-8601 | 所在地 = 藤沢市朝日町1番地1<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-14|display=inline,title}}<br />[[ファイル:Fujisawa City Hall, Fujisawa, Kanagawa, 2019-01-29.jpg |250px|center|[[藤沢市役所]]]] {{Maplink2|zoom=10|frame=yes|plain=no|frame-align=center|frame-width=230|frame-height=200|frame-latitude=35.338833|frame-longitude=139.491111|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2|type2=point|marker2=town-hall|text=市庁舎位置}} | 外部リンク = {{Official website}} | 位置画像 = {{基礎自治体位置図|14|205|image=Fujisawa in Kanagawa Prefecture Ja.svg|村の色分け=yes}} | 特記事項 = [[市外局番]]:0466(市内全域) }} {{Location map|Japan Mapplot|coordinates={{Coord|35.338833|139.491111}}|caption=藤沢市|width=256}} '''藤沢市'''(ふじさわし)は、[[神奈川県]]の東南部に位置する[[市]]。[[湘南地域]]の最東端に位置し、[[横浜市|横浜地域]]及び[[三浦半島|横須賀三浦地域]]に接する。 == 概要 == [[ファイル:Fujisawa city center area Aerial photograph.1988.jpg|thumb|280px|藤沢市中心部周辺の空中写真。市域最南部に[[江の島]]。1988年撮影の23枚を合成作成。<br />{{国土航空写真}}。]] [[1940年]]市制施行。[[保健所政令市]]に指定されている。住宅・観光・産業・[[文教都市]]、[[景観行政団体]]。全国的に有名な[[江の島]](江ノ島)、[[片瀬 (藤沢市)|片瀬]]・[[鵠沼]]・[[辻堂海岸]]を有し[[観光都市]]としての性格も併せ持つ。温暖かつ穏やかな気候を求める人々や[[サーフィン]]など[[マリンスポーツ]]愛好者など、良好な自然・住・教育環境を求める人等により[[第二次世界大戦]]前より人口が増加し続けている。 神奈川県の行政区域では[[湘南]]に含まれるが、[[東京都|東京]]・[[横浜市|横浜]]の[[ベッドタウン]]としての性質が強い。[[東日本旅客鉄道|JR]]、私鉄([[小田急電鉄|小田急]]・[[相模鉄道|相鉄]]・[[江ノ電]])、[[地下鉄]]([[横浜市営地下鉄]])、[[モノレール]]([[湘南モノレール]])の駅が存在し、利便性が比較的高い。このため、他の[[湘南]]エリアよりも海から遠い内陸部の人口比率が高く、[[藤沢市#人口|人口]]は約44万人となっている。 [[江戸時代]]には[[鎌倉仏教]]の一つである[[時宗]]総本山である[[清浄光寺]](遊行寺)の[[門前町]]として、[[東海道]]の6番目の[[宿場町]]である[[藤沢宿]]、また[[江の島|江ノ島]]詣の足場として栄え、その姿は[[歌川広重]]の[[東海道五十三次]]にも描かれている。 [[明治|明治時代]]-[[第二次世界大戦]]の間、気候も温暖であることから、南部の鵠沼・片瀬地区は明治時代中期より日本初の計画[[別荘地]]として開発され、[[大正時代|大正]]期以降、[[皇族]]や[[政治家]]、数多くの[[学者]]や[[文化人]]などが居を構えた事で、[[別荘地]]・保養地・[[避暑地]]として発達し、[[芥川龍之介]]、[[武者小路実篤]]、[[岸田劉生]]ら多くの文化人の創作活動の場となった。第二次世界大戦時は艦船・地上基地のレーダー技術者養成として、[[海軍電測学校]]が市内に開かれた。また、航空用電波兵器・光学兵器整備訓練教育を実施する[[藤沢海軍航空隊]]が開隊され、藤沢空と電測学校の連携を図った。 第二次世界大戦後は[[東京]]の[[ベッドタウン]]化が進み人口が急増すると共に、JR([[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]〈[[湘南新宿ライン]]・[[上野東京ライン]]〉)、小田急([[小田急江ノ島線|江ノ島線]])、江ノ電の3つの鉄道が集まる[[藤沢駅]]を中心に商業施設が集積している。また、[[慶應義塾大学]]([[慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス|湘南藤沢キャンパス]](SFC))をはじめ、[[湘南工科大学]](湘南キャンパス)、[[多摩大学]](湘南キャンパス)、[[日本大学]]([[日本大学生物資源科学部・大学院生物資源科学研究科及び獣医学研究科|湘南キャンパス]])を有する文教都市でもある。市民の自主的な文化活動も活発で、[[1951年]]には「[[藤沢市展]]」が発足し、[[1973年]]には全国初の市民オペラ「[[藤沢市民オペラ]]」が開催され、今日まで続いている。さらに[[1992年]]から藤沢オペラコンクールもスタートし、若手オペラ歌手の登竜門に位置づけられるようになった。一方で市内には[[博物館]]・[[美術館]]を名乗る施設こそないものの、蒐集品展示施設としては[[1974年]]開設の[[藤沢市文書館]](市町村レベルでは日本初)や[[湘南台文化センター]]子ども館、2016年開設の[[藤沢市藤澤浮世絵館|藤澤浮世絵館]]があり、博物館の性質が強い施設としては県営の交通展示館([[辻堂海浜公園]]内)、民営の[[いすゞプラザ]]が挙げられる。 市の南部に位置する[[鵠沼海岸]]は、古くより[[海水浴場]]が開かれ、現在は[[片瀬西浜・鵠沼海水浴場]]として年間来客数300万人を超す日本一の海水浴場として知られ、日本におけるサーフィン(諸説あり)・[[ビーチバレー]]発祥の地である。[[片瀬東浜海水浴場]]は、明治初期から外国人による[[海水浴]]が行われた伝統を持つ。また、江の島は[[源頼朝]]祈願により祀られた[[江ノ島弁財天]]の参詣地として賑わい、[[1964年]]開催の[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]では[[ヨット]]競技会場([[湘南港]])に選ばれ、また、[[2021年]]開催の[[2020年夏季オリンピック|東京オリンピック]]でも[[セーリング]]競技が開催された。現在でも夏季や初詣時期以外においても年間を通じ約1,200万人もの観光客を集める[[湘南]]随一の観光地である。市の海岸部(片瀬・鵠沼・辻堂海岸、江の島)はヨット、サーフィン、[[ボードセーリング]]、ビーチバレー等マリンスポーツ、[[海水浴]]、[[釣り]]、[[ビーチコーミング]]、[[新江ノ島水族館]]等の一大マリンリゾート地であり、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[フロリダ州]][[マイアミビーチ]]市と姉妹都市となっていることから「[[東洋のマイアミビーチ]]」と度々称される。 市北部は[[湘南台]]を中心とした地域である。[[湘南台駅]]が小田急江ノ島線・[[相鉄いずみ野線]]・[[横浜市営地下鉄ブルーライン]])の3路線が接続しており、その利便性から乗換駅として、また[[慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス]](SFC)の玄関口として発展している。また、[[いすゞ自動車]]のマザー工場である藤沢工場をはじめとする大規模製造工場と関連工場がある。ちなみに藤沢市の工業は製造品出荷額等において神奈川県下では横浜市、川崎市に次ぐ第3位である<ref>{{Cite web|和書|title=藤沢市の商工業|url=http://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/indus1/shigoto/shokogyo/shogyo/shokogyo.html|website=藤沢市|accessdate=2020-06-01|language=ja|last=藤沢市}}</ref>。 一方南部JR東海道線沿線に進出していた[[関東特殊製鋼]]や[[武田薬品工業]]([[2006年]]3月)など撤退があった。このため、産業・工業都市としての再興政策を積極的に行い、関東特殊製鋼跡地は[[辻堂駅]]前と言う立地条件を生かしてを整備する[[湘南C-X]]プロジェクト([[テラスモール湘南]])などの振興策を開始し、武田薬品工業の自社工場跡地は2018年4月に[[湘南ヘルスイノベーションパーク]] (湘南アイパーク)となった。また、[[2009年]]までに撤退が完了している[[辻堂元町]]の[[パナソニック]]関連工場跡地では、[[太陽光発電]]や家庭用[[蓄電池]]などを大規模に配備した新しい街を作る「[[Fujisawa サスティナブル・スマートタウン]](Fujisawa SST)構想」が発表され、[[2014年]]に街開き(一部完成)を迎えた。 == 地理 == 神奈川県のほぼ中央南に所在し、[[相模湾]]に面している。旧東海道より南側は[[湘南]]砂丘地帯と呼ばれる海岸平野で、北側は[[相模野台地]]及び高座丘陵となっているが[[境川 (東京都・神奈川県)|境川]]および[[引地川]]からの起伏は大きくない。南東部は[[片瀬山]]と呼ばれる[[三浦丘陵]]の西端部となり、その一部は孤立して[[江の島]]となる。江の島は市の最南部。 * 川 - [[目久尻川]]、[[小出川]]、[[境川 (東京都・神奈川県)|境川]]、[[引地川]]、[[柏尾川]]、[[蓼川]]、[[一色川 (神奈川県)|一色川]] {{Tsujido, Fujisawa weatherbox}} === 隣接している自治体・行政区 === * [[横浜市]]([[戸塚区]]、[[泉区 (横浜市)|泉区]]) *[[鎌倉市]] **藤沢市片瀬3丁目に囲まれた[[飛地]]が存在する。(鎌倉市津の一部) * [[茅ヶ崎市]] * [[綾瀬市]] **綾瀬市上土棚南5丁目に囲まれた飛地が存在する。(藤沢市下土棚の一部) * [[海老名市]] * [[大和市]] * [[高座郡]][[寒川町]] == 歴史 == * 古代 - 東海道付近まで海が入り込み、[[相模野台地]]上に[[竪穴建物]]群([[集落]]の[[遺跡]])や[[貝塚]]がある。 * [[675年]]ころ([[天武天皇|天武]]4年) - 『[[日本書紀]]』に[[高座郡]]記される。 * [[723年]]([[養老]]7年) - 信濃国諏訪大社を勧請し、現在の藤沢市[[片瀬 (藤沢市)|片瀬]]に[[諏訪神社 (藤沢市片瀬)|片瀬諏訪神社]]が創建される。他郷へ御分霊で最古。 * [[奈良時代]]-[[平安時代]] - 土甘(とかみ)郷、大庭郷、村岡郷が定まる。 * 1104年 - 1106年([[長治]]年間) - [[大庭御厨]]成立。 * [[1325年]]([[正中 (日本)|正中]]2年) - [[呑海|呑海上人]]、[[時宗]]総本山清浄光寺(遊行寺)を建立。 * [[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]初め頃 - 風間信濃守や村岡三郎らの風間一族によって村岡城築城。 * 14世紀 - [[太平記]]第十巻、鎌倉合戦の事のくだりに藤沢の地名が記されている。藤沢の由来は不詳。淵沢、藤諏訪、富士見沢などからの転訛、[[源頼朝]]が[[感応院 (藤沢市)|感応院]]にある三嶋大明神を勧請するさい[[藤沢清親]]に奉行させたためなどの仮説もある。[[建武の新政]]期に相模の国藤沢の住人藤沢行親が足利尊氏方につき功を挙げたとある<ref>{{Cite journal |和書|author=箕輪町 |url=http://www.town.minowa.lg.jp/html/pageview_sengoku/html/0003.html |title=武田氏の信濃侵攻と箕輪|publisher=美濃輪町役場 |accessdate=2020-03-06}}</ref>。 * 1512年(永正9年) - 伊勢宗端(北条早雲)により[[大庭城]]落城。以降廃城。 * [[1601年]]([[慶長]]6年) - 徳川家康により東海道の宿場[[藤沢宿]]が設けられる。慶長5年以前から、鷹狩りなどを目的として[[藤沢御殿]]が設けられていた。 * [[1728年]]([[享保]]13年) - [[相州炮術調練場]]が置かれる。 * [[1872年]]([[明治]]5年)[[3月 (旧暦)|3月]] - 羽鳥村に郷学校'''読書院'''([[耕余塾|耕余義塾]]の前身)開設。 <!-- 日本の歴史の記述では明治6年1月1日以後は西暦を優先表記、それ以前は和暦(旧暦)を優先表記し西暦に変換 --> * [[1877年]](明治10年)[[7月17日]] - [[エドワード・S・モース]]が江の島に日本初の臨海研究施設である[[江ノ島臨海実験所]]を設置。[[日本初]]の[[海洋生物学]] [[発祥]]の地は湘南の[[江の島]]。 * [[1878年]](明治11年) - [[郡区町村編制法]]が実施され、高座郡役所が藤沢におかれる。当市域内に以下の町村が編成される。 : 高座郡 :: 藤沢宿大久保町、藤沢宿坂戸町、鵠沼村、稲荷村、大庭村、羽鳥村、辻堂村、下土棚村、亀井野村、円行村、石川村、今田村、西俣野村、打戻村、獺郷村、宮原村、用田村、葛原村、菖蒲沢村、長後村、七ツ木村、千束村、遠藤村 : [[鎌倉郡]] :: 藤沢宿大鋸町、藤沢宿西富町、柄沢村、弥勒寺村、渡内村、高谷村、小塚村、宮前村、[[川名|川名村]]、片瀬村、江の島 * [[1882年]](明治15年) - [[サムエル・コッキング]]が江の島に[[植物園]]を設立する。 * [[1883年]](明治16年) - 七ツ木村と千束村が合併して高倉村となる。 * [[1887年]](明治20年) - [[横浜駅|横浜]]-[[国府津駅|国府津]]間の[[鉄道]](後の[[東海道本線]])が開通し、[[藤沢駅|藤沢停車場]]が開業。 * [[1888年]](明治21年) - 藤沢宿大久保町と藤沢宿坂戸町が合併して藤沢大坂町となる。 [[ファイル:Kanagawa_Koza-gun_1889.png|thumb|right|200px|[[高座郡]](1889年)<br />1.藤沢大坂町 2.鵠沼村 3.明治村<br />8.小出村 9.御所見村 22.渋谷村<br />23.六会村]] [[ファイル:Kanagawa_Kamakura-gun_1889.png|thumb|right|200px|[[鎌倉郡]](1889年)<br />12.川口村 14.村岡村 20.藤沢大富町]] * [[1889年]](明治22年)[[4月1日]] - [[町村制]]の施行により<ref>{{Cite wikisource|title=市制町村制施行ノ件 (明治22年神奈川県令第10号)|author=1889年(明治22年)3月11日神奈川県令第10号|wslanguage=ja}}</ref>、当市域に以下の町村が発足する<ref name="kenrei9">1989年(明治22年)3月31日神奈川県令第9号「町村分合改稱」別冊</ref>。 : 高座郡 :: [[藤沢大坂町]] ←藤沢大坂町 :: [[鵠沼村]] ←鵠沼村 :: [[明治村 (神奈川県)|明治村]] ←羽鳥村・大庭村・辻堂村・稲荷村 :: [[六会村]] ←円行村・亀井野村・下土棚村・西俣野村・今田村・石川村 :: [[御所見村]] ←用田村・葛原村・菖蒲沢村・獺郷村・打戻村・宮原村 ::* 長後村・高倉村は、福田村・上和田村・下和田村とともに[[渋谷村]]の一部となる。 ::* 遠藤村は、堤村・行谷村・下寺尾村・芹沢村とともに[[小出村 (神奈川県)|小出村]]の一部となる。 : [[鎌倉郡]] :: [[藤沢大富町]] ←藤沢宿大鋸町・藤沢宿西富町 :: [[村岡村 (神奈川県)|村岡村]] ←弥勒寺村・小塚村・宮前村・高谷村・渡内村・柄沢村・川名村 :: [[片瀬町|川口村]] ←片瀬村・江の島 * [[1891年]](明治24年)[[10月24日]]-[[10月26日]] - [[明治天皇]]が、[[近衛兵]]秋期演習観戦のため、藤沢町や六会村を視察する。 * [[1897年]](明治30年) - [[江の島]]・片瀬間に村営[[桟橋]]が完成する。鵠沼に[[旅館東屋]]が開業。 * [[1902年]](明治35年) - 江之島電気鉄道の藤沢-片瀬間(現:[[江ノ島電鉄]])が開通(日本で6番目の電気鉄道)。 * [[1907年]](明治40年) ** [[9月18日]] - 本市が、[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[第1師団 (日本軍)|第1師団]][[歩兵第49連隊]]の徴募区となる。 ** [[10月1日]] - 高座郡藤沢大坂町が鎌倉郡藤沢大富町を編入する。 {{Wikisource|鵠沼村明治村ヲ藤澤町ニ合併|鵠沼村明治村ヲ藤澤町ニ合併|神奈川県告示文}} * [[1908年]](明治41年)[[4月1日]] - 藤沢大坂町・鵠沼村・明治村が合併して'''高座郡藤沢町'''が発足。 * [[1910年]](明治43年) - 江之島電気鉄道の藤沢-鎌倉間が全通する。 * [[1916年]](大正5年)[[12月1日]] - 東海道本線[[辻堂駅]]開業。 * [[1919年]](大正8年) - 大日本醸造、藤沢町内に工場設置(現・[[メルシャン]]藤沢工場)<ref name="smtrc-p06">{{Cite web|和書|url=https://smtrc.jp/town-archives/city/fujisawa/p06.html | title=藤沢・江の島 戦前の漁業・工業 | publisher=[[三井住友トラスト不動産]] | accessdate=2020-04-19}}</ref>。 * [[1923年]](大正12年)[[9月1日]] - [[関東大震災]]により市域で4000余戸が倒壊する。 * [[1926年]] ** (大正15年) - [[横須賀海軍砲術学校辻堂演習場]]が置かれる。 ** (昭和初年) - [[龍口寺]]に[[長野県]]([[信濃国]])[[松代藩]]の藩邸(通称:養蚕御殿)が移築される。現在は大書院として使われている。 * [[1929年]](昭和4年)4月1日 - 小田原急行鉄道(現:[[小田急電鉄]])[[小田急江ノ島線|江ノ島線]]が開通する。 [[ファイル:Fujisawa in 1930s.jpg|thumb|right|200px|昭和初期の遊行寺橋(1933年7月)<br /> 奥に[[清浄光寺]]山門、右奥の白い建物は神奈川県農工銀行藤沢支店]] * [[1932年]](昭和7年)5月29日 - [[藤沢カントリー倶楽部]]本開業。([[グリーンハウス (藤沢市)|グリーンハウス]]の記事も参照) * [[1933年]](昭和8年)[[4月1日]] - 川口村が町制を施行し鎌倉郡[[片瀬町]]と改称する。 {{Wikisource|藤澤市設置|藤澤市設置|内務省告示文}} * [[1937年]](昭和12年) - 東京醸造(廃業)、藤沢町内の工場にて製造された[[ウイスキー]]を発売開始<ref name="smtrc-p06" />。 <!-- 藤沢蒸溜所の開設年が不明のため、製品発売年を代わりに記載した。参考・https://w.atwiki.jp/jwhisky/pages/47.html など --> * [[1940年]](昭和15年)[[10月1日]] - 藤沢町が市制を施行し'''藤沢市'''が発足。人口約3万人。当日、大野守衛市長代理や市民が[[伊勢山 (藤沢市)|伊勢山]]で市制施行を祝った。片瀬町、村岡村との合併交渉が行われ「藤沢市」「藤沢江の島市」「湘南市」の新市名案もあったが結果は「藤沢市」の新市名で単独市制施行となった<ref>[[#藤沢-わがまちのあゆみ-(増補版)|『藤沢-わがまちのあゆみ-』1984年、増補版。]]269、270頁。</ref>。 * [[1941年]](昭和16年)[[6月1日]] - 村岡村を編入する<ref>同年[[6月3日]]、神奈川県告示第461号</ref>。 * [[1942年]](昭和17年) **[[2月1日]] - [[味噌]]と[[醤油]]の配給制度が始まる([[横浜市]]、[[川崎市]]、[[横須賀市]]、平塚市、鎌倉市、[[小田原市]]も同日から開始)<ref>六大府県で味噌、醤油の割当配当(昭和17年1月8日 朝日新聞(夕刊))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p124 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。同時に[[衣料品]]にも点数切符制が導入された。 **[[3月10日]] - 六会村を編入する<ref>同年[[3月9日]]、神奈川県告示第112号</ref>。 * [[1944年]](昭和19年) ** 6月1日 - [[藤沢海軍航空隊]](司令部・通信学校:善行七丁目、[[藤沢飛行場]]:本藤沢四丁目、稲荷一丁目)と[[海軍電測学校]](土棚あたり)が開設される。 ** [[11月3日]] - 渋谷村が町制を施行して渋谷町となる。 * [[1945年]](昭和20年) : 2月10日を皮切りに、米軍機による空襲が散発的に始まる([[藤沢空襲]] 参照)。藤沢市域における終戦までの死者は21人<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_23.html | title=藤沢市における戦災の状況|publisher=[[総務省]]|year=2017|accessdate=2019-08-15}}</ref>。 :* 5月24日 - 25日にかけて米軍[[B-29 (航空機)|B-29]]爆撃機による焼夷弾攻撃で市内の民家が被災。 :* 7月30日 - 辻堂付近にて米海軍機による空襲。5名死亡。 ** 9月 - [[在日米海軍辻堂演習場|辻堂演習場]]、米軍に接収される。 * [[1947年]](昭和22年)4月1日 - 片瀬町を編入する<ref>同年[[4月17日]]、神奈川県告示第145号</ref>。 * [[1948年]](昭和23年)[[7月1日]] - 市立図書館が開館。 * [[1951年]](昭和26年) ** [[4月13日]] - 藤沢市庁舎(旧本館、現存せず)が落成{{efn|<ref>[http://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/kouhou/khf110225/hiroba01.html 広報ふじさわ2011年2月25日号] 藤沢市</ref>広報ふじさわ2011年2月25日号には同年3月10日竣工とある。また同記事によれば竣工式典は5月13日とも。}}<ref name="藤沢市史">[https://digital.city.fujisawa.kanagawa.jp/introduction/history/list.php 藤沢市歴史年表] 藤沢市文書館</ref>。 ** [[11月3日]] - 旧藤沢市庁舎敷地を利用して藤沢公民館が開館する<ref name="藤沢市史" />。 ** [[12月24日]] - 御所見村との境界を変更する<ref>[[s:市村の境界変更 (昭和27年総理府告示第101号)|昭和27年5月6日、総理府告示第101号]]</ref>。 * [[1955年]](昭和30年)[[4月5日]] - 小出村大字遠藤、御所見村および渋谷町のうち長後ならびに高倉を編入する<ref>{{Cite wikisource|title=市町村の廃置分合 (昭和30年総理府告示第909号)|author=1955年(昭和30年)3月30日総理府告示第909号|wslanguage=ja}}</ref>。 *: 小出村の残りの地区は[[茅ヶ崎市]]へ編入。渋谷町の残りの地区は渋谷村となり、[[1956年]](昭和31年)[[9月1日]]に大和町(現:[[大和市]])に編入。 * [[1957年]](昭和32年)[[10月20日]] - [[綾瀬市|綾瀬町]]との境界を変更する<ref>[[s:市町の境界変更 (昭和32年総理府告示第445号)|同日、総理府告示第445号]]</ref>。 * [[1959年]](昭和34年) ** [[3月5日]] - [[アメリカ合衆国]][[マイアミ・ビーチ]]市と姉妹都市提携(藤沢市議会議決の日)。これにより、海岸部観光地を[[東洋のマイアミビーチ]]として売り出す。 ** [[6月25日]] - [[在日米海軍辻堂演習場]]が返還される。 ** [[7月15日]] - [[横浜市]]との境界を変更する<ref>[[s:市の境界変更 (昭和34年総理府告示第256号)|同日、総理府告示第256号]]</ref>。 ** 9月24日 - 「[[黒いジェット機事件]]」米軍偵察機[[ロッキード]][[U-2 (航空機)|U-2]]が藤沢飛行場に不時着<ref>{{Cite web|和書|url=https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=103305254X01419591201 |title=衆議院会議録情報 第033回国会 本会議 第14号 |publisher=国会会議録検索システム |accessdate=2019-05-19 }}</ref>。 * [[1960年]](昭和35年) ** [[7月25日]] - 綾瀬町との境界を変更する<ref>[[s:市町の境界変更 (昭和35年自治省告示第33号)|同日、自治省告示第33号]]</ref>。 ** [[10月1日]] - 小田急線江ノ島線[[善行駅]]開業。 * [[1961年]](昭和36年) ** 4月21日 - 藤沢市高倉墜落事故。[[厚木海軍飛行場]]から離陸した岩国海兵隊航空基地所属の[[A-4 (航空機)|A4Dスカイホーク]]が高倉に墜落、パイロットは死亡。住民の死者1人、負傷者2人<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/22878.pdf |title=III米軍の事件・事故 |format=PDF |publisher=神奈川県 |accessdate=2019-05-19 }}</ref>。 ** [[7月29日]] - 長野県[[松本市]]と姉妹都市提携(松本市から来藤した日を提携日とする)。 ** [[10月25日]] - [[鎌倉市]]との境界を変更する<ref>[[s:市の境界変更 (昭和36年自治省告示第322号)|同日、自治省告示第322号]]</ref>。 * [[1962年]] 12月4日 - 藤沢駅前南口で大火災。再開発の契機となる<ref name="391gaiku">{{Cite journal|和書|url=https://doi.org/10.3130/aija.78.1301| title=藤沢駅前南部第一防災建築街区造成の都市計画史的意義に関する考察|author=中島直人|year=2013|doi=10.3130/aija.78.1301|accessdate=2019-08-15}}</ref>。 * [[1963年]](昭和38年) ** [[1月25日]] - 横浜市との境界を変更する<ref>[[s:市の境界変更 (昭和38年自治省告示第2号)|同日、自治省告示第2号]]</ref>。 ** [[6月24日]] - [[藤沢バイパス]]が開通する。 * [[1964年]](昭和39年) - [[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]のヨットレースが江の島で開催される。 * [[1965年]](昭和40年)11月20日 - フジサワ名店ビル竣工<ref name="391gaiku" />。([[防災建築街区造成法#藤沢市(391街区)]]の節も参照) * [[1966年]](昭和41年) ** 11月7日 - 小田急線江ノ島線[[湘南台駅]]開業。 ** 12月18日 - ダイヤモンドビル竣工<ref name="391gaiku" />。 * [[1967年]](昭和42年)[[1月13日]] - 同市藤沢(管轄:[[藤沢警察署]])で[[藤沢市女子高生殺害事件]]が発生。事件後、[[神奈川県警察|神奈川県警]]は市北部を「防犯重点地区」に指定して防犯体制を強化した<ref>『[[読売新聞]]』1967年8月29日東京朝刊第14版神奈川県版京浜地方面16頁「藤沢の女高生殺し解決 第三の犠牲者出すまい “慣れ”が一番危険 新興地、暗い夜道に魔手」([[読売新聞東京本社]]・横浜支局)</ref>。 * [[1971年]](昭和46年) ** [[3月25日]] - 横浜市および大和市との境界を変更する<ref>[[s:市の境界変更 (昭和46年自治省告示第53号)|同日、自治省告示第53号]]</ref>。 ** 西部土地区画整理事業が開始される。(現在の[[湘南ライフタウン]]・[[1992年]](平成4年)事業完了) * [[1973年]](昭和48年) 10月10日 - 第一回[[藤沢市民オペラ]]公演。 [[ファイル:夜の藤沢駅南口.JPG|thumb|250px|藤沢駅南口(2006年)]] * [[1974年]](昭和49年) **4月 - 市役所の隔週週休二日制が始まる。県下の自治体では初導入<ref>高まる週休二日制熱 ためらう国よそ目に『朝日新聞』昭和49年(1974年)10月3日朝刊、21面</ref>。 ** 5月25日 - 藤沢駅南口に[[江ノ電百貨店]](現・[[小田急百貨店]]藤沢店)開業<ref name="藤沢市史" />。 ** 6月7日 - 江ノ島鎌倉観光(現・[[江ノ島電鉄]])藤沢駅が現在位置へ移転<ref name="藤沢市史" />。 ** 8月1日 - 藤沢駅南口の[[ペデストリアンデッキ]]完成(後に拡張)<ref name="藤沢市史" />。 * [[1975年]](昭和50年) ** 地域市民の家整備事業が開始される<ref>{{Cite journal|title=神奈川県藤沢市の地域活動とコミュニティ基幹施設の形成|url=http://www.cit.nihon-u.ac.jp/laboratorydata/kenkyu/kouennkai/reference/No.45/pdf/7-1.pdf|issn=2186-5647|author=岩田琴絵、浅野平八}}</ref>。翌[[1976年]][[4月1日]]、第一号となる藤が岡市民の家が開設。[[4月27日]]本鵠沼、[[5月28日]]片瀬山、と続く<ref name="藤沢市史" />。 ** 藤沢駅北口再開発事業開始。([[1978年]]11月 藤沢さいかや移転開業。[[1979年]]9月 丸井藤沢店開店・サンパール広場完成により事業完了)<ref name="藤沢市史" /> * [[1976年]](昭和51年)5月15日 - 労働会館が開館する<ref name="藤沢市史" />。 * [[1978年]](昭和53年) - [[防災行政無線]]運用開始(当時の夕方のチャイムは「[[ウェストミンスターの鐘]](鐘系)」)。 * [[1981年]](昭和56年)[[11月5日]] - [[中華人民共和国]][[昆明市]]と友好都市提携(友好都市提携調印の日)。 * [[1982年]](昭和57年)[[5月27日]] - [[辻堂神台]]二丁目(管轄:藤沢警察署)で[[藤沢市母娘ら5人殺害事件]]([[警察庁広域重要指定事件|警察庁広域重要指定112号事件]])が発生。同年6月24日に犯人を逮捕<ref>『[[神奈川新聞]]』1982年6月25日朝刊B版1面1頁「藤沢の母娘惨殺 F、犯行を全面自供 4週間ぶり解決 連続殺人『戸塚』『尼崎』も自供」(神奈川新聞社)</ref>。 * [[1983年]](昭和58年)5月 市庁舎新館(当時)が竣工。[[6月6日]] 業務開始<ref name="藤沢市史" />。 * [[1984年]](昭和59年)4月15日 - 地域子供の家事業第一号として湘南台子どもの家が開設<ref name="藤沢市史"/>。 * [[1985年]](昭和60年)3月31日 - [[大庭城址公園]]開園。 * [[1986年]](昭和61年)10月25日 - 総合市民図書館開館<ref name="藤沢市史" />。 * [[1987年]](昭和62年)[[12月2日]] - [[カナダ]]国[[ウィンザー (オンタリオ州)|ウィンザー]]市と姉妹都市提携(姉妹都市提携調印の日)。 * [[1988年]](昭和63年) **[[3月30日]] - [[新湘南バイパス]]開通。 ** [[11月26日]] - [[ヤルタ|ヤルタ市]]より代表団が訪問する<ref name="藤沢市史" />{{efn|その後まもなく[[ソビエト連邦]]崩壊もあってか、公式な市民交流は現在行われていない。しかし少なくとも姉妹都市宣言の動きがあったであろう事を窺わせる根拠として、ヤルタ現地にはFUJISAWAと刻まれたタイルが現存している<ref>[https://www.jic-web.co.jp/photo/UA_crimea/ クリミア] ジェーアイシー旅行センター</ref>(何故かキリル文字ではない。藤沢側から贈られた物なのか、藤沢側に対になる物が存在したのか、不明な点が多い)。また根拠は不明であるが、他言語版のWikipediaを筆頭に[[:ru:Ялта|ヤルタ市(ロシア語)]]と当市を姉妹都市とする記述が散見される。}}。<!-- この件に関して明文化された資料は少なくともネットでは見当たらないものの、藤沢市の担当者に直接問い合わせた結果、以上のような回答を得ています。たまに問い合わせがあるらしく、担当課ではFAQとのこと。--> * [[1991年]]([[平成]]3年)[[10月1日]] - 防災行政無線のチャイムの音色を変更する。 * 1996年([[平成]]8年)- 藤沢用田バイパスの約1万8500年前から1万9500年前の地層で、建造物の柱に使われていたと思われる炭化した木片が出土<ref>『朝日新聞』1996年11月16日。</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=辻誠一郎|date=1999|title=AMS法による年代測定の考古・歴史学領域での期待|url=https://doi.org/10.18999/sumrua.10.56|journal=名古屋大学加速器質量分析計業績報告書|issue=10|pages=56-59|publisher=名古屋大学年代測定資料研究センター 天然放射性元素測定小委員会|accessdate=2016-05-15|doi=10.18999/sumrua.10.56}}</ref>。 * [[1997年]](平成9年)2月 - 市民電子会議室の実験運用開始<ref name="shimindenshikaigi">{{Cite web|和書|url=https://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/jiti-s2/kurashi/shimin/shimin/documents/000369010.pdf | publisher=藤沢市 | title=市役所エリア 3 会議室報告書|date=2012-02-01|accessdate=2019-12-24}}</ref><ref>[https://www.soumu.go.jp/denshijiti/ict/introduction/2.html 住民参画システム利用の手引き] - [[総務省]]</ref>{{efn|会議室の愛称「電縁都市ふじさわ」は後に藤沢市公式サイト自体の名称に転じ、しばらく用いられた。また、市が提供する地図情報提供サービスは「ふじさわ電縁マップ」と命名されていた。後に [https://www.sonicweb-asp.jp/gis_fujisawa_map/ GISふじさわマップ] に改名し継続中。}}。 * [[1999年]](平成11年)- 湘南台駅に、[[相鉄いずみ野線]]と[[横浜市営地下鉄ブルーライン]]が延伸開業する。 * [[2000年]](平成12年) ** 市制施行60周年記念として特別刊行物を発行し、市民に配布。 ** [[3月23日]] - [[荏原製作所]]による、[[引地川]]への[[ダイオキシン]]流出が発覚。 * [[2001年]](平成13年)4月 - 市民電子会議室の本運用を開始<ref name="shimindenshikaigi" />{{efn|国内自治体のネットコミュニティとして成功事例の一つに挙げられることもあった<ref>{{Cite web|和書|url=https://tech.nikkeibp.co.jp/it/free/NGT/govtech/20050725/165220/ | title=【神奈川県藤沢市】電子会議室の議論を市政に反映 | publisher=日経BP | date=2002-03-27 | accessdate=2019-12-14}}</ref>。}} * [[2002年]](平成14年)[[11月15日]] - [[大韓民国]][[保寧市]]と姉妹都市提携(姉妹都市提携調印の日)。 [[ファイル:Luz Shonan Tsujido.jpg|thumb|250px|再開発後の辻堂駅北口]] * [[2005年]](平成17年)- 「辻堂神台一丁目地区土地区画整理事業」([[関東特殊製鋼]]跡地、[[湘南C-X]])が開始される([[2009年]](平成21年)事業完了)。 * [[2006年]](平成18年)10月1日 - 防災行政無線の夕方のチャイム「[[夕焼け小焼け]](旧音源)」放送開始。 * [[2007年]](平成19年)3月18日 - 第1回[[湘南国際マラソン]]開催 * [[2014年]](平成26年)- 「Fujisawaサスティナブル・スマートタウン土地区画整理事業」([[パナソニック]]の工場跡地)が開始される<ref>[http://fujisawasst.jp/index2.html 藤沢市]</ref>。 * [[2014年]](平成26年)- [[学研パブリッシング]]の調査で、「主婦が幸せに暮らせる街ランキング」で全国1位となった<ref>[https://web.archive.org/web/20141223041349/http://www.sankeibiz.jp/econome/news/141221/ecc1412211718003-n1.htm 幸せに暮らせる街ランキング 産経Biz]</ref>。 * [[2016年]](平成28年) ** 3月21日- 労働会館、改築のため閉館<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.townnews.co.jp/0601/2016/03/25/325931.html | title=労働会館が閉館 モダニズム建築解体へ | date=2016-03-25 | accessdate=2020-04-21| publisher=タウンニュース藤沢版}}</ref>。 ** 7月16日 - [[藤沢市藤澤浮世絵館]]が開館。 * [[2017年]](平成29年) ** 8月3日 - 江の島大橋が3車線化され、供用開始。 ** 9月30日 - 電子会議室を閉鎖<ref>[https://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/jiti-s2/kurashi/shimin/shimin/denshi.html 藤沢市市民電子会議室のサイトを閉鎖(事業終了)いたしました。] - 藤沢市</ref><ref>[https://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/jiti-s2/kurashi/shimin/shimin/denshi-gaiyo.html 藤沢市市民電子会議室の経過] - 藤沢市</ref>。 ** 12月16日 - 新庁舎落成式。 * [[2018年]](平成30年)1月4日 - 新庁舎の供用開始。 * [[2019年]]([[令和]]元年) ** 4月1日 - 藤沢公民館・労働会館等複合施設「Fプレイス」開所<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.townnews.co.jp/0601/2019/03/29/475710.html | title=「Fプレイス」来月開所 | publisher=タウンニュース藤沢版 | date=2019-03-29 | accessdate=2020-04-21}}</ref>。同日、藤沢公民館が同施設へ移転。 ** 7月1日 - 南市民図書館、改築のため [[小田急百貨店#ODAKYU 湘南 GATE|ODAKYU湘南GATE]] 6階にて暫定供用開始<ref>[https://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/sogotosyo/kyoiku/bunka/toshokan/20190701open_minami.html 7月1日オープン!南市民図書館がODAKYU湘南GATE6階に移転しました!] - 藤沢市</ref>。 **12月21日 - 藤沢駅北口ペデストリアンデッキ(サンパール広場)全面的利用開始<ref>{{Cite web|和書|title=藤沢駅北口ペデストリアンデッキ(サンパール広場)が新しく生まれ変わりました!|url=http://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/fujisawa-eki/fujisawaekikitaguchidekkirinyualu.html|website=藤沢市|accessdate=2020-05-04|language=ja|last=藤沢市}}</ref>。 * [[2020年]]([[令和]]2年) ** 1月6日 - 藤沢市役所分庁舎供用開始。 * [[2021年]]([[令和]]3年)- [[2020年東京オリンピックのセーリング競技|2020年東京オリンピックセーリング競技]]が[[江の島ヨットハーバー]]([[神奈川県]]藤沢市[[江の島]])にて開催される。 * [[2022年]] - 神奈川県は鵠沼石上1丁目、鵠沼橘1丁目、藤沢、南藤沢を[[暴力団排除条例#暴力団排除特別強化地域|暴力団排除特別強化地域]]に指定した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.police.pref.kanagawa.jp/pdf/c8040_01.pdf |title=神奈川県暴力団排除条例(平成22年神奈川県条例第75号) 令和4年改正 令和4年11月1日施行|publisher=神奈川県 |date=2022年 |accessdate=2022-09-19}}</ref>。 == 人口 == 人口は神奈川県の政令指定都市である横浜・川崎・相模原の各市に次ぎ県内4位(44万4092人(令和2年国勢調査結果(確定値)によるもの)<ref group="注釈">令和2年国税調査結果(確定値)によるものである。</ref><ref>{{Cite news |url=https://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/bunsho/shise/toke/jinko/jinko/documents/01monthly20231101suii.pdf|title=藤沢市の人口と世帯数の推移|accessdate=2023-11-08}}</ref>)である。全国の市では37[[日本の市の人口順位|位]](2022年1月1日現在の[[法定人口]])。 海や、江ノ島等を好む方の移住、テレワーク、ワーケーションの開始による移住から、人口は増加傾向である。{{人口統計|code=14205|name=藤沢市|image=Population distribution of Fujisawa, Kanagawa, Japan.svg}} == 地域 == === 町名 === 藤沢市では、一部の区域で[[住居表示に関する法律]]に基づく[[住居表示]]が実施されている。住居表示実施前の町名等欄で下線がある町名はその全部、それ以外はその一部である。 {{hidden begin |title = 藤沢市役所管内(52町丁) |titlestyle = text-align:center; |border = solid }} {{hidden end}} {{hidden begin |title = [[片瀬 (藤沢市)|片瀬地区]](16町丁) |titlestyle = text-align:center; |border = solid }} {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" !町名 !町名の読み !町区域設定年月日 !住居表示実施年月日 !住居表示実施前の町名等 !備考 |- |'''[[片瀬 (藤沢市)|片瀬一丁目]]''' |rowspan="5" style="border-bottom:1px solid"|かたせ |1966年10月1日 |1966年10月1日 |大字片瀬字大源太・字宮畑 | |- |'''[[片瀬 (藤沢市)|片瀬二丁目]]''' |1966年10月1日 |1966年10月1日 |大字片瀬字新屋敷・字宮畑・字西原・字浪合・字立石・字鯨骨・字赤山 | |- |'''[[片瀬 (藤沢市)|片瀬三丁目]]''' |1966年10月1日 |1966年10月1日 |大字片瀬字鯨骨・字赤山・字狢ケ谷・字下ノ谷・字龍口下 | |- |'''[[片瀬 (藤沢市)|片瀬四丁目]]''' |1966年10月1日 |1966年10月1日 |大字片瀬字下ノ谷・字鯨骨・<u>字西方</u> | |- |'''[[片瀬 (藤沢市)|片瀬五丁目]]''' |1966年10月1日 |1966年10月1日 |大字片瀬字西原・字新屋敷 | |- |'''[[片瀬海岸|片瀬海岸一丁目]]''' |rowspan="3" style="border-bottom:1px solid"|かたせかいがん |1966年10月1日 |1966年10月1日 |大字片瀬<u>字東浜</u>・字下ノ谷 | |- |'''[[片瀬海岸|片瀬海岸二丁目]]''' |1965年10月1日 |1965年10月1日 |大字片瀬字西浜 | |- |'''[[片瀬海岸|片瀬海岸三丁目]]''' |1965年10月1日 |1965年10月1日 |大字片瀬字西浜 | |- |'''[[片瀬山|片瀬山一丁目]]''' |rowspan="5" style="border-bottom:1px solid"|かたせやま |1973年10月1日 |1973年10月1日 |大字片瀬山字宮畑・字北ノ谷・字立石 | |- |'''[[片瀬山|片瀬山二丁目]]''' |1973年10月1日 |1973年10月1日 |大字片瀬字北ノ谷・字浪合・字立石 | |- |'''[[片瀬山|片瀬山三丁目]]''' |1973年10月1日 |1973年10月1日 |大字片瀬字北ノ谷・字立石・字大丸・字狢ケ谷 | |- |'''[[片瀬山|片瀬山四丁目]]''' |1973年10月1日 |1973年10月1日 |大字片瀬字立石・字浪合・字赤山・字狢ケ谷 | |- |'''[[片瀬山|片瀬山五丁目]]''' |1973年10月1日 |1973年10月1日 |大字片瀬字立石・字浪合・字赤山 | |- |'''[[片瀬目白山]]''' |かたせめじろやま |1973年10月1日 |1973年10月1日 |大字片瀬字狢ケ谷・字赤山 | |- |'''[[江の島|江の島一丁目]]''' |rowspan="2" style="border-bottom:1px solid"|えのしま |1966年10月1日 |1966年10月1日 |大字江之島字西町・字須田町・<u>字東町</u> | |- |'''[[江の島|江の島二丁目]]''' |1966年10月1日 |1966年10月1日 |大字江之島字西町・字須田町 | |- |} {{hidden end}} {{hidden begin |title = [[鵠沼|鵠沼地区]](16町丁) |titlestyle = text-align:center; |border = solid }} {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" !町名 !町名の読み !町区域設定年月日 !住居表示実施年月日 !住居表示実施前の町名等 !備考 |- |'''[[南藤沢]]''' |みなみふじさわ |1982年8月29日 |1982年8月29日 |大字鵠沼字奥田・字東花立、大字藤沢字大道東・字東横須賀 | |- |'''[[鵠沼東]]''' |くげぬまひがし |1982年8月29日 |1982年8月29日 |大字鵠沼字奥田・字砥上、大字藤沢字大道東 | |- |'''[[鵠沼海岸|鵠沼海岸一丁目]]''' |rowspan="8" style="border-bottom:1px solid"|くげぬまかいがん |1964年8月1日 |1964年8月1日 |大字鵠沼字下藤ケ谷・字下岡・字上鰯 | |- |'''[[鵠沼海岸|鵠沼海岸二丁目]]''' |1964年8月1日 |1964年8月1日 |大字鵠沼字中岡・字下岡・字下鰯・字上鰯 | |- |'''[[鵠沼海岸|鵠沼海岸三丁目]]''' |1964年8月1日 |1964年8月1日 |大字鵠沼字上鰯・字中岡・字下鰯 | |- |rowspan="2"|'''[[鵠沼海岸|鵠沼海岸四丁目]]''' |rowspan="2"|1964年8月1日 |1964年8月1日 |大字鵠沼字上鰯・字高根 | |- |1967年10月1日 |大字鵠沼<u>字高根</u> |21番街区 |- |'''[[鵠沼海岸|鵠沼海岸五丁目]]''' |1965年10月1日 |1965年10月1日 |大字鵠沼字上鰯・字高根 | |- |'''[[鵠沼海岸|鵠沼海岸六丁目]]''' |1965年10月1日 |1965年10月1日 |大字鵠沼<u>字八部</u>・字藤原 | |- |'''[[鵠沼海岸|鵠沼海岸七丁目]]''' |1965年10月1日 |1965年10月1日 |大字鵠沼字柳原・字中岡・字下鰯 | |- |'''[[鵠沼松が岡|鵠沼松が岡一丁目]]''' |rowspan="5" style="border-bottom:1px solid"|くげぬままつがおか |1964年8月1日 |1964年8月1日 |大字鵠沼字下藤ケ谷 | |- |'''[[鵠沼松が岡|鵠沼松が岡二丁目]]''' |1964年8月1日 |1964年8月1日 |大字鵠沼字下藤ケ谷・字上藤ケ谷・字下岡 | |- |'''[[鵠沼松が岡|鵠沼松が岡三丁目]]''' |1964年8月1日 |1964年8月1日 |大字鵠沼字上藤ケ谷・字下岡 | |- |'''[[鵠沼松が岡|鵠沼松が岡四丁目]]''' |1964年8月1日 |1964年8月1日 |大字鵠沼字下岡・字中岡 | |- |'''[[鵠沼松が岡|鵠沼松が岡五丁目]]''' |1964年8月1日 |1964年8月1日 |大字鵠沼字中岡・字柳原 | |- |'''[[鵠沼桜が岡|鵠沼桜が岡一丁目]]''' |rowspan="4" style="border-bottom:1px solid"|くげぬまさくらがおか |1965年1月1日 |1965年1月1日 |大字鵠沼字川袋・字砥上・字桜小路 | |- |'''[[鵠沼桜が岡|鵠沼桜が岡二丁目]]''' |1965年1月1日 |1965年1月1日 |大字鵠沼字上岡・字上藤ケ谷 | |- |'''[[鵠沼桜が岡|鵠沼桜が岡三丁目]]''' |1965年1月1日 |1965年1月1日 |大字鵠沼字上岡・字中岡・字柳原 | |- |'''[[鵠沼桜が岡|鵠沼桜が岡四丁目]]''' |1965年1月1日 |1965年1月1日 |大字鵠沼字堀南・字東原・字川袋 | |- |'''[[鵠沼藤が谷|鵠沼藤が谷一丁目]]''' |rowspan="4" style="border-bottom:1px solid"|くげぬまふじがや |1965年1月1日 |1965年1月1日 |大字鵠沼字中藤ケ谷・字上藤ケ谷、大字片瀬字大源太 | |- |'''[[鵠沼藤が谷|鵠沼藤が谷二丁目]]''' |1965年1月1日 |1965年1月1日 |大字鵠沼字中藤ケ谷・字下藤ケ谷 | |- |'''[[鵠沼藤が谷|鵠沼藤が谷三丁目]]''' |1965年1月1日 |1965年1月1日 |大字鵠沼字下藤ケ谷・字上藤ケ谷 | |- |'''[[鵠沼藤が谷|鵠沼藤が谷四丁目]]''' |1965年1月1日 |1965年1月1日 |大字鵠沼字上藤ケ谷・字中藤ケ谷・字桜小路・字川袋 | |- |'''[[本鵠沼|本鵠沼一丁目]]''' |rowspan="5" style="border-bottom:1px solid"|ほんくげぬま |1965年10月1日 |1965年10月1日 |大字鵠沼字東花立・字花立・字東原・字中井 | |- |'''[[本鵠沼|本鵠沼二丁目]]''' |1965年10月1日 |1965年10月1日 |大字鵠沼字中井・字原・字堀南 | |- |'''[[本鵠沼|本鵠沼三丁目]]''' |1965年10月1日 |1965年10月1日 |大字鵠沼字原・字柳原 | |- |'''[[本鵠沼|本鵠沼四丁目]]''' |1965年10月1日 |1965年10月1日 |大字鵠沼字藤原・字下の沢・字中井 | |- |'''[[本鵠沼|本鵠沼五丁目]]''' |1965年10月1日 |1965年10月1日 |大字鵠沼字花立・字中井・字南宮越・字下の沢 | |- |'''[[鵠沼花沢町]]''' |くげぬまはなざわちょう |1982年8月29日 |1982年8月29日 |大字鵠沼字東花立、大字藤沢字東横須賀・字中横須賀 | |- |'''[[鵠沼橘|鵠沼橘一丁目]]''' |rowspan="2" style="border-bottom:1px solid"|くげぬまたちばな |1982年8月29日 |1982年8月29日 |大字鵠沼字奥田・字東花立・字砥上 | |- |'''[[鵠沼橘|鵠沼橘二丁目]]''' |1982年8月29日 |1982年8月29日 |大字鵠沼字東花立・<u>字川袋</u>・<u>字東原</u> | |- |'''[[鵠沼石上|鵠沼石上一丁目]]''' |rowspan="3" style="border-bottom:1px solid"|くげぬまいしがみ |1982年8月29日 |1982年8月29日 |大字鵠沼字砥上・字奥田、大字藤沢字大道東 | |- |'''[[鵠沼石上|鵠沼石上二丁目]]''' |1982年8月29日 |1982年8月29日 |大字鵠沼字砥上 | |- |'''[[鵠沼石上|鵠沼石上三丁目]]''' |1982年8月29日 |1982年8月29日 |大字鵠沼字砥上 | |- |'''[[片瀬 (藤沢市)|片瀬]]''' |かたせ |1947年4月1日 |未実施 | | |- |'''鵠沼'''の一部<ref group="†" name="**" /> |くげぬま |1940年10月1日 |未実施 | | |- |} {{hidden end}} {{hidden begin |title = [[辻堂地区 (藤沢市)|辻堂地区]](21町丁) |titlestyle = text-align:center; |border = solid }} {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" !町名 !町名の読み !町区域設定年月日 !住居表示実施年月日 !住居表示実施前の町名等 !備考 |- |'''[[辻堂 (藤沢市)|辻堂一丁目]]''' |rowspan="6" style="border-bottom:1px solid"|つじどう |1999年7月18日 |1999年7月18日 |大字辻堂字熊ノ森・字堺田 | |- |'''[[辻堂 (藤沢市)|辻堂二丁目]]''' |1999年7月18日 |1999年7月18日 |大字辻堂字熊ノ森・字堺田 | |- |'''[[辻堂 (藤沢市)|辻堂三丁目]]''' |1999年7月18日 |1999年7月18日 |大字辻堂字砂場・字久根下 | |- |'''[[辻堂 (藤沢市)|辻堂四丁目]]''' |1999年7月18日 |1999年7月18日 |大字辻堂字砂場・字久根下 | |- |'''[[辻堂 (藤沢市)|辻堂五丁目]]''' |1999年7月18日 |1999年7月18日 |大字辻堂字高砂・字弥平田・<u>字出口</u>・<u>字大ヤゲン</u> | |- |'''[[辻堂 (藤沢市)|辻堂六丁目]]''' |1999年7月18日 |1999年7月18日 |大字辻堂字砂場・字久根下・字高砂・字弥平田・<u>字勘久</u> | |- |'''[[辻堂元町|辻堂元町一丁目]]''' |rowspan="6" style="border-bottom:1px solid"|つじどうもとまち |1967年10月1日 |1967年10月1日 |大字辻堂字熊ノ森・字土打 | |- |'''[[辻堂元町|辻堂元町二丁目]]''' |1967年10月1日 |1967年10月1日 |大字辻堂字土打・字後山・字ガル池・字大荒久・字高山・字一ノ坪 | |- |'''[[辻堂元町|辻堂元町三丁目]]''' |1967年10月1日 |1967年10月1日 |大字辻堂字熊ノ森・字後山・字一ノ坪・字出口・字久根下 | |- |'''[[辻堂元町|辻堂元町四丁目]]''' |1967年10月1日 |1967年10月1日 |大字辻堂字出口・字一ノ坪・字堂面 | |- |'''[[辻堂元町|辻堂元町五丁目]]''' |1967年10月1日 |1967年10月1日 |大字辻堂字一ノ坪・字大荒久・字長久保・字堂面 | |- |'''[[辻堂元町|辻堂元町六丁目]]''' |1967年10月1日 |1967年10月1日 |大字辻堂字高山・字大荒久・字猪王面・字長久保 | |- |'''[[辻堂太平台|辻堂太平台一丁目]]''' |rowspan="2" style="border-bottom:1px solid"|つじどうたいへいだい |1967年10月1日 |1967年10月1日 |大字辻堂字堂面・字太平台 | |- |'''[[辻堂太平台|辻堂太平台二丁目]]''' |1967年10月1日 |1967年10月1日 |大字辻堂字長久保・字堂面・字太平台 | |- |'''[[辻堂東海岸|辻堂東海岸一丁目]]''' |rowspan="4" style="border-bottom:1px solid"|つじどうひがしかいがん |1967年10月1日 |1967年10月1日 |大字辻堂字太平台・字出口・字浜見山・<u>字チヨン</u> | |- |'''[[辻堂東海岸|辻堂東海岸二丁目]]''' |1967年10月1日 |1967年10月1日 |大字辻堂字浜見山・字地蔵袋 | |- |'''[[辻堂東海岸|辻堂東海岸三丁目]]''' |1967年10月1日 |1967年10月1日 |大字辻堂字浜見山・字地蔵袋 | |- |'''[[辻堂東海岸|辻堂東海岸四丁目]]''' |1967年10月1日 |1967年10月1日 |大字辻堂字浜見山・字地蔵袋 | |- |'''[[辻堂西海岸|辻堂西海岸一丁目]]''' |rowspan="3" style="border-bottom:1px solid"|つじどうにしかいがん |1967年10月1日 |1967年10月1日 |大字辻堂字出口・字大ヤゲン・字弥平田・字砂山・字浜見山 | |- |'''[[辻堂西海岸|辻堂西海岸二丁目]]''' |1967年10月1日 |1967年10月1日 |大字辻堂字勘久・字高砂・字弥平田・字砂山 | |- |'''[[辻堂西海岸|辻堂西海岸三丁目]]''' |1967年10月1日 |1967年10月1日 |大字辻堂字勘久・字砂山・字大ヤゲン・字浜見山 | |- |} {{hidden end}} {{hidden begin |title = 村岡地区(22町丁) |titlestyle = text-align:center; |border = solid }} {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" !町名 !町名の読み !町区域設定年月日 !住居表示実施年月日 !住居表示実施前の町名等 !備考 |- |'''[[弥勒寺 (藤沢市)|弥勒寺]]''' |みろくじ |1941年6月1日 |未実施 | | |- |'''[[弥勒寺 (藤沢市)|弥勒寺一丁目]]''' |rowspan="4" style="border-bottom:1px solid"|みろくじ |1977年3月1日 |1977年3月1日 |大字大鋸字下河内、大字小塚字下河内、大字弥勒寺字前河内・字弥勒寺谷 | |- |'''[[弥勒寺 (藤沢市)|弥勒寺二丁目]]''' |1977年3月1日 |1977年3月1日 |大字小塚字下河内、大字弥勒寺字弥勒寺谷 | |- |'''[[弥勒寺 (藤沢市)|弥勒寺三丁目]]''' |1977年3月1日 |1977年3月1日 |大字渡内字下河内、大字宮前字下河内、鶴巻 | |- |'''[[弥勒寺 (藤沢市)|弥勒寺四丁目]]''' |1977年3月1日 |1977年3月1日 |大字小塚字下河内、大字弥勒寺字御幣下、大字渡内字御幣下、大字柄沢字大塚山 | |- |'''[[宮前 (藤沢市)|宮前]]''' |みやまえ |1941年6月1日 |未実施 | | |- |'''[[小塚]]''' |こつか |1941年6月1日 |未実施 | | |- |'''[[高谷 (藤沢市)|高谷]]''' |たかや |1941年6月1日 |未実施 | | |- |'''高谷''' |たかや |1992年11月8日 |1992年11月8日 |大字高谷字天嶽院下、大字渡内字天嶽院下、<u>鶴巻</u>、村岡東2、村岡東3 | |- |'''[[渡内]]''' |わたうち |1941年6月1日 |未実施 | | |- |'''[[渡内|渡内一丁目]]''' |rowspan="5" style="border-bottom:1px solid"|わたうち |1992年11月8日 |1992年11月8日 |大字高谷字天嶽院下、大字渡内字天嶽院下、村岡東3 | |- |'''[[渡内|渡内二丁目]]''' |1992年11月8日 |1992年11月8日 |大字渡内字天嶽院下・字本在寺・<u>字御幣下</u>、村岡東3 | |- |'''[[渡内|渡内三丁目]]''' |1992年11月8日 |1992年11月8日 |大字渡内字本在寺、大字宮前字本在寺、村岡東3、村岡東4 | |- |'''[[渡内|渡内四丁目]]''' |2006年11月4日 |2006年11月4日 |大字渡内字本在寺、大字柄沢<u>字本在寺</u>、大字小塚字本在寺、大字宮前<u>字本在寺</u> | |- |'''[[渡内|渡内五丁目]]''' |2018年11月17日<ref group="村" name="村岡2018">{{Cite web|和書|url=http://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/tosei/documents/kyuushin-shinkyuutaishouhyou1116.pdf|title=藤沢都市計画事業柄沢特定土地区画整理事業 住所対照表 | publisher=藤沢市 | date=2018-11-17 | accessdate=2020-05-26}}</ref> |2018年11月17日 |大字渡内、大字柄沢、大字小塚 | |- |'''[[柄沢]]''' |からさわ |1941年6月1日 |未実施 | | |- |'''[[柄沢|柄沢一丁目]]''' |rowspan="2" style="border-bottom:1px solid"|からさわ |2018年11月17日<ref group="村" name="村岡2018" /> |2018年11月17日 |大字柄沢 | |- |'''[[柄沢|柄沢二丁目]]''' |2018年11月17日<ref group="村" name="村岡2018" /> |2018年11月17日 |大字柄沢 | |- |'''[[並木台|並木台一丁目]]''' |rowspan="2" style="border-bottom:1px solid"|なみきだい |2018年11月17日<ref group="村" name="村岡2018" /> |2018年11月17日 |大字渡内、大字柄沢、大字小塚 | |- |'''[[並木台|並木台二丁目]]''' |2018年11月17日<ref group="村" name="村岡2018" /> |2018年11月17日 |大字柄沢 | |- |'''[[村岡東|村岡東一丁目]]''' |rowspan="4" style="border-bottom:1px solid"|むらおかひがし |1976年10月13日<ref group="村" name="**" /> |未実施<ref group="†" name="*" /> | | |- |'''[[村岡東|村岡東二丁目]]''' |1976年10月13日<ref group="村" name="**" /><ref group="村" name="***" /> |未実施<ref group="†" name="*" /> | | |- |'''[[村岡東|村岡東三丁目]]''' |1976年10月13日<ref group="村" name="**" /> |未実施<ref group="†" name="*" /> | | |- |'''[[村岡東|村岡東四丁目]]''' |1976年10月13日<ref group="村" name="**" /> |未実施<ref group="†" name="*" /> | | |- |'''[[川名]]''' |かわな |1941年6月1日 |未実施 | | |- |'''[[川名|川名一丁目]]''' |rowspan="2" style="border-bottom:1px solid"|かわな |1966年10月1日 |1966年10月1日 |大字川名字市場・字通り町・字森久・字原、大字弥勒寺字前河内、大字高谷字前河内、大字小塚字前河内 | |- |'''[[川名|川名二丁目]]''' |1966年10月1日 |1966年10月1日 |大字川名字原 | |- |} {{hidden end}} {{hidden begin |title = 藤沢地区(27町丁) |titlestyle = text-align:center; |border = solid }} {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" !町名 !町名の読み !町区域設定年月日 !住居表示実施年月日 !住居表示実施前の町名等 !備考 |- |'''朝日町''' |あさひちょう |1960年3月26日 |未実施 | | |- |'''藤沢'''の一部'''(南)''' |ふじさわ |1940年10月1日 |未実施 | | |- |'''[[藤沢 (藤沢市)|藤沢一丁目]]''' |rowspan="5" style="border-bottom:1px solid"|ふじさわ |1969年10月1日 |1969年10月1日 |大字藤沢字大道東・字東横須賀・字御殿辺・字中横須賀 | |- |'''[[藤沢 (藤沢市)|藤沢二丁目]]''' |1969年10月1日 |1969年10月1日 |大字藤沢字中横須賀・字西横須賀・字御殿辺・字白旗廻 | |- |'''[[藤沢 (藤沢市)|藤沢三丁目]]''' |1969年10月1日 |1969年10月1日 |大字藤沢字西横須賀・字風早・字花ノ木・字白旗廻 | |- |'''[[藤沢 (藤沢市)|藤沢四丁目]]''' |1969年10月1日 |1969年10月1日 |大字藤沢字西横須賀・字風早・字石名坂、大字鵠沼字引地 | |- |'''[[藤沢 (藤沢市)|藤沢五丁目]]''' |1969年10月1日 |1969年10月1日 |大字藤沢字石名坂、大字稲荷字引地脇、大字鵠沼字引地 | |- |'''[[本町 (藤沢市)|本町一丁目]]''' |rowspan="4" style="border-bottom:1px solid"|ほんちょう |1966年10月1日 |1966年10月1日 |大字藤沢字東横須賀・字中横須賀 | |- |'''[[本町 (藤沢市)|本町二丁目]]''' |1966年10月1日 |1966年10月1日 |大字藤沢字中横須賀・字西横須賀、大字鵠沼字花立・字横須賀 | |- |'''[[本町 (藤沢市)|本町三丁目]]''' |1966年10月1日 |1966年10月1日 |大字藤沢字中横須賀・字西横須賀、大字鵠沼字横須賀・字引地内田、大字鵠沼<u>字長塚</u> | |- |'''[[本町 (藤沢市)|本町四丁目]]''' |1966年10月1日 |1966年10月1日 |大字藤沢字中横須賀・字西横須賀 | |- |'''鵠沼'''の一部 |くげぬま |1940年10月1日 |未実施 | | |- |'''[[鵠沼神明|鵠沼神明一丁目]]''' |rowspan="5" style="border-bottom:1px solid"|くげぬましんめい |1965年10月1日 |1965年10月1日 |大字鵠沼字花立・字横須賀・字南宮越 | |- |'''[[鵠沼神明|鵠沼神明二丁目]]''' |1965年10月1日 |1965年10月1日 |大字鵠沼字南宮越・字長塚・字中井 | |- |'''[[鵠沼神明|鵠沼神明三丁目]]''' |1965年10月1日 |1965年10月1日 |大字鵠沼<u>字西宮越</u> | |- |'''[[鵠沼神明|鵠沼神明四丁目]]''' |1965年10月1日 |1965年10月1日 |大字鵠沼字引地内田 | |- |'''[[鵠沼神明|鵠沼神明五丁目]]''' |1965年10月1日 |1965年10月1日 |大字鵠沼字長塚・字引地内田 | |- |'''[[西富]]''' |にしとみ |1940年10月1日 |未実施 | | |- |'''[[西富|西富一丁目]]''' |rowspan="2" style="border-bottom:1px solid"|にしとみ |1969年10月1日 |1969年10月1日 |大字西富字西富・字山谷・字大門・字光徳・字竹ノ下、大字大鋸字大鋸 | |- |'''[[西富|西富二丁目]]''' |1969年10月1日 |1969年10月1日 |大字西富字岸・字竹ノ下・字西富、大字大鋸字鯉ケ淵・字小清水 | |- |'''[[大鋸 (藤沢市)|大鋸]]''' |だいぎり |1940年10月1日 |未実施 | | |- |'''[[大鋸 (藤沢市)|大鋸一丁目]]''' |rowspan="3" style="border-bottom:1px solid"|だいぎり |1969年10月1日 |1969年10月1日 |大字大鋸字御幣・字河原、大字弥勒寺字下河内 | |- |'''[[大鋸 (藤沢市)|大鋸二丁目]]''' |1969年10月1日 |1969年10月1日 |大字大鋸字御幣・字河原・<u>字船久保</u>・字大鋸・字瑞光 | |- |'''[[大鋸 (藤沢市)|大鋸三丁目]]''' |1969年10月1日 |1969年10月1日 |大字西富字大門・字山谷、大字大鋸字瑞光・字天神台・字牛沢 | |- |'''[[藤が岡|藤が岡一丁目]]''' |rowspan="3" style="border-bottom:1px solid"|ふじがおか |1966年3月1日 |1969年10月1日 |<u>藤が岡1</u> | |- |'''[[藤が岡|藤が岡二丁目]]''' |1966年3月1日 |1969年10月1日 |<u>藤が岡2</u> | |- |'''[[藤が岡|藤が岡三丁目]]''' |1966年3月1日 |1969年10月1日 |<u>藤が岡3</u> | |- |} {{hidden end}} {{hidden begin |title = 明治地区(16町丁) |titlestyle = text-align:center; |border = solid }} {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" !町名 !町名の読み !町区域設定年月日 !住居表示実施年月日 !住居表示実施前の町名等 !備考 |- |'''[[辻堂神台|辻堂神台一丁目]]''' |rowspan="2" style="border-bottom:1px solid"|つじどうかんだい |1968年10月1日 |1968年10月1日 |大字辻堂字熊ノ森・字堺田・字初タラ・字土打・字東神台 | |- |'''[[辻堂神台|辻堂神台二丁目]]''' |1968年10月1日 |1968年10月1日 |大字辻堂字西神台・字東神台・字土打、大字羽鳥字四ッ谷 | |- |'''[[辻堂新町|辻堂新町一丁目]]''' |rowspan="4" style="border-bottom:1px solid"|つじどうしんまち |1968年10月1日 |1968年10月1日 |大字辻堂字熊ノ森・字土打、大字羽鳥字萩原 | |- |'''[[辻堂新町|辻堂新町二丁目]]''' |1968年10月1日 |1968年10月1日 |大字辻堂<u>字後山</u>、大字羽鳥字打越・字汲田 | |- |'''[[辻堂新町|辻堂新町三丁目]]''' |1968年10月1日 |1968年10月1日 |大字辻堂字ガル池・字高山、大字羽鳥字汲田・字柏木 | |- |'''[[辻堂新町|辻堂新町四丁目]]''' |1968年10月1日 |1968年10月1日 |大字辻堂<u>字猪王面</u>・字高山・字ガル池 | |- |'''[[羽鳥 (藤沢市)|羽鳥一丁目]]''' |rowspan="5" style="border-bottom:1px solid"|はとり |1968年10月1日 |1968年10月1日 |大字羽鳥字四ッ谷・字萩原、大字辻堂字東神台・字土打 | |- |'''[[羽鳥 (藤沢市)|羽鳥二丁目]]''' |1968年10月1日 |1968年10月1日 |大字羽鳥字丸山・字打越・字駒形 | |- |'''[[羽鳥 (藤沢市)|羽鳥三丁目]]''' |1968年10月1日 |1968年10月1日 |大字羽鳥字丸山・字駒形・字打越・字萩原・字汲田 | |- |'''[[羽鳥 (藤沢市)|羽鳥四丁目]]''' |1968年10月1日 |1968年10月1日 |大字羽鳥字駒形・字引地・字柏木・字汲田 | |- |'''[[羽鳥 (藤沢市)|羽鳥五丁目]]''' |1968年10月1日 |1968年10月1日 |大字羽鳥字引地・字柏木・字汲田、大字辻堂字ガル池・字高山 | |- |'''[[城南 (藤沢市)|城南一丁目]]''' |rowspan="5" style="border-bottom:1px solid"|じょうなん |1968年10月1日 |1968年10月1日 |大字大庭字折戸、大字稲荷字四ッ裏、大字羽鳥字四ッ谷、大字辻堂<u>字餅塚</u>・字西神台 | |- |'''[[城南 (藤沢市)|城南二丁目]]''' |1968年10月1日 |1968年10月1日 |大字大庭字折戸・字下ノ谷・字南山・字御伊勢宮、大字稲荷字四ッ裏 | |- |'''[[城南 (藤沢市)|城南三丁目]]''' |1968年10月1日 |1968年10月1日 |大字大庭字御伊勢宮・字城下・字引地、大字稲荷字引地脇・字引地下 | |- |'''[[城南 (藤沢市)|城南四丁目]]''' |1968年10月1日 |1968年10月1日 |大字大庭字御伊勢宮・字引地、大字稲荷字引地脇、大字羽鳥字引地・字駒形 | |- |'''[[城南 (藤沢市)|城南五丁目]]''' |1968年10月1日 |1968年10月1日 |大字大庭字折戸・字下ノ谷・字南山・字御伊勢宮、大字稲荷字四ッ裏、大字羽鳥字丸山・字四ッ谷 | |- |} {{hidden end}} {{hidden begin |title = 善行地区(34町丁) |titlestyle = text-align:center; |border = solid }} {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" !町名 !町名の読み !町区域設定年月日 !住居表示実施年月日 !住居表示実施前の町名等 !備考 |- |'''藤沢'''の一部'''(北)''' |ふじさわ |1940年10月1日 |未実施 | | |- |'''[[善行 (藤沢市)|善行一丁目]]''' |rowspan="8" style="border-bottom:1px solid"|ぜんぎょう |1967年10月25日 |未実施<ref group="†" name="*" /> | | |- |'''[[善行 (藤沢市)|善行二丁目]]''' |1967年10月25日 |未実施<ref group="†" name="*" /> | | |- |'''[[善行 (藤沢市)|善行三丁目]]''' |1967年10月25日 |未実施<ref group="†" name="*" /> | | |- |'''[[善行 (藤沢市)|善行四丁目]]''' |1989年11月5日 |未実施 | | |- |'''[[善行 (藤沢市)|善行五丁目]]''' |1989年11月5日 |1989年11月5日 |大字藤沢字椎名谷・字乾塚、大字亀井野字山之神西 | |- |rowspan="2"|'''[[善行 (藤沢市)|善行六丁目]]''' |1990年11月4日 |1990年11月4日 |大字藤沢字椎名谷・字渋沢・字庚申塚、大字亀井野字山之神西 | |- |1996年10月6日 |1996年10月6日 |大字藤沢<u>字庚申塚</u> | |- |'''[[善行 (藤沢市)|善行七丁目]]''' |1990年11月4日 |1990年11月4日 |大字藤沢字渋沢・字庚申塚・字善行・字立石・字伊勢山辺・<u>字本入</u> | |- |'''[[本藤沢|本藤沢一丁目]]''' |rowspan="7" style="border-bottom:1px solid"|ほんふじさわ |1987年11月8日 |1987年11月8日 |大字藤沢字石名坂・字花ノ木 | |- |'''[[本藤沢|本藤沢二丁目]]''' |1987年11月8日 |1987年11月8日 |大字藤沢字石名坂・字大原・字花ノ木 | |- |'''[[本藤沢|本藤沢三丁目]]''' |1987年11月8日 |1987年11月8日 |大字藤沢字石名坂・字石原谷 | |- |'''[[本藤沢|本藤沢四丁目]]''' |1987年11月8日 |1987年11月8日 |大字藤沢字大原・字唐池・字石原谷、大字稲荷字天神原・字池ノ辺・字中郷、大字大庭字持瀬 | |- |'''[[本藤沢|本藤沢五丁目]]''' |1987年11月8日 |1987年11月8日 |大字藤沢字石原谷 | |- |'''[[本藤沢|本藤沢六丁目]]''' |1987年11月8日 |1987年11月8日 |大字藤沢字石原谷・字善行・字本入 | |- |'''[[本藤沢|本藤沢七丁目]]''' |1987年11月8日 |1987年11月8日 |大字藤沢字石原谷・字花ノ木・字本入 | |- |'''[[善行団地]]''' |ぜんぎょうだんち |1987年11月8日 |1987年11月8日 |大字藤沢字中原・字唐池、大字石川字色子、大字大庭字唐池、稲荷<u>字唐池</u> | |- |'''[[立石 (藤沢市)|立石一丁目]]''' |rowspan="4" style="border-bottom:1px solid"|たていし |1988年11月6日 |1988年11月6日 |大字藤沢字立石・字伊勢山辺 | |- |'''[[立石 (藤沢市)|立石二丁目]]''' |1988年11月6日 |1988年11月6日 |大字藤沢字立石・字庚申塚 | |- |'''[[立石 (藤沢市)|立石三丁目]]''' |1988年11月6日 |未実施 | | |- |'''[[立石 (藤沢市)|立石四丁目]]''' |1988年11月6日 |未実施 | | |- |'''[[花の木]]''' |はなのき |1989年2月12日 |1989年2月12日 |大字藤沢<u>字花ノ木</u>・字本入・字白旗廻 | |- |'''[[みその台]]''' |みそのだい |1989年2月12日 |1989年2月12日 |大字藤沢字本入・字善行・字伊勢山辺・字白旗廻 | |- |'''[[善行坂|善行坂一丁目]]''' |rowspan="2" style="border-bottom:1px solid"|ぜんぎょうざか |1989年2月12日 |1989年2月12日 |大字藤沢<u>字石原谷</u>・字唐池・字善行 | |- |'''[[善行坂|善行坂二丁目]]''' |1989年2月12日 |1989年2月12日 |大字藤沢字唐池 | |- |'''[[白旗 (藤沢市)|白旗一丁目]]''' |rowspan="4" style="border-bottom:1px solid"|しらはた |1994年8月14日 |1994年8月14日 |大字藤沢字白旗廻 | |- |'''[[白旗 (藤沢市)|白旗二丁目]]''' |1994年8月14日 |1994年8月14日 |大字藤沢字白旗廻・字伊勢山辺 | |- |'''[[白旗 (藤沢市)|白旗三丁目]]''' |1994年8月14日 |1994年8月14日 |大字藤沢字白旗廻・字伊勢山辺 | |- |'''[[白旗 (藤沢市)|白旗四丁目]]''' |1994年8月14日 |1994年8月14日 |大字藤沢字伊勢山辺・字立石 | |- |'''[[大庭 (藤沢市)|大庭]]'''の一部 |おおば |1940年10月1日 |未実施 | | |- |'''[[稲荷 (藤沢市)|稲荷]]''' |いなり |1940年10月1日 |未実施 | | |- |'''[[稲荷 (藤沢市)|稲荷一丁目]]''' |いなり |1987年11月8日 |1987年11月8日 |大字稲荷字中郷・<u>字引地脇</u>、大字藤沢字大原 | |- |'''亀井野'''の一部 |かめいの |1942年3月10日 |未実施 | | |- |'''西俣野'''の一部 |にしまたの |1942年3月10日 |未実施 | | |- |'''[[石川 (藤沢市)|石川]]'''の一部 |いしかわ |1942年3月10日 |未実施 | | |- |} {{hidden end}} {{hidden begin |title = 湘南大庭地区(3町丁) |titlestyle = text-align:center; |border = solid }} {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" !町名 !町名の読み !町区域設定年月日 !住居表示実施年月日 !住居表示実施前の町名等 !備考 |- |'''[[大庭 (藤沢市)|大庭]]'''の一部 |おおば |1940年10月1日 |未実施 | | |- |'''[[石川 (藤沢市)|石川]]'''の一部 |いしかわ |1942年3月10日 |未実施 | | |- |'''[[遠藤 (藤沢市)|遠藤]]'''の一部 |えんどう |1955年4月5日 |未実施 | | |- |} {{hidden end}} {{hidden begin |title = 六会地区(町丁) |titlestyle = text-align:center; |border = solid }} {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" !町名 !町名の読み !町区域設定年月日 !住居表示実施年月日 !住居表示実施前の町名等 !備考 |- |'''[[亀井野]]''' |かめいの |1994年8月14日 |1994年8月14日 | | |- |'''[[亀井野|亀井野一丁目]]''' |rowspan="4"|かめいの |1994年8月14日 |1994年8月14日 | | |- |'''[[亀井野|亀井野二丁目]]''' |1994年8月14日 |1994年8月14日 | | |- |'''[[亀井野|亀井野三丁目]]''' |1994年8月14日 |1994年8月14日 | | |- |'''[[亀井野|亀井野四丁目]]''' |1994年8月14日 |1994年8月14日 | | |- |'''[[円行 (藤沢市)|円行一丁目]]''' |えんぎょう |1994年8月14日 |1994年8月14日 | | |- |'''[[石川 (藤沢市)|石川一丁目]]''' |rowspan="4"|いしかわ |1994年8月14日 |1994年8月14日 | | |- |'''[[石川 (藤沢市)|石川二丁目]]''' |1994年8月14日 |1994年8月14日 | | |- |'''[[石川 (藤沢市)|石川三丁目]]''' |1994年8月14日 |1994年8月14日 | | |- |'''[[石川 (藤沢市)|石川四丁目]]''' |1994年8月14日 |1994年8月14日 | | |- |'''[[西俣野]]''' |にしまたの |1994年8月14日 |1994年8月14日 | | |- |'''[[天神町 (藤沢市)|天神町一丁目]]''' |rowspan="3"|てんじんちょう |1994年8月14日 |1994年8月14日 | | |- |'''[[天神町 (藤沢市)|天神町二丁目]]''' |1994年8月14日 |1994年8月14日 | | |- |'''[[天神町 (藤沢市)|天神町三丁目]]''' |1994年8月14日 |1994年8月14日 | | |- |} {{hidden end}} {{hidden begin |title = 湘南台地区(町丁) |titlestyle = text-align:center; |border = solid }} {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" !町名 !町名の読み !町区域設定年月日 !住居表示実施年月日 !住居表示実施前の町名等 !備考 |- |'''[[湘南台|湘南台一丁目]]''' |rowspan="7"|しょうなんだい |1994年8月14日 |1994年8月14日 | | |- |'''[[湘南台|湘南台二丁目]]''' |1994年8月14日 |1994年8月14日 | | |- |'''[[湘南台|湘南台三丁目]]''' |1994年8月14日 |1994年8月14日 | | |- |'''[[湘南台|湘南台四丁目]]''' |1994年8月14日 |1994年8月14日 | | |- |'''[[湘南台|湘南台五丁目]]''' |1994年8月14日 |1994年8月14日 | | |- |'''[[湘南台|湘南台六丁目]]''' |1994年8月14日 |1994年8月14日 | | |- |'''[[湘南台|湘南台七丁目]]''' |1994年8月14日 |1994年8月14日 | | |- |'''[[桐原町]]''' |きりはらちょう |1994年8月14日 |1994年8月14日 | | |- |'''[[土棚 (藤沢市)|土棚]]''' |つちだな |1994年8月14日 |1994年8月14日 | | |- |'''[[円行 (藤沢市)|円行一丁目]]''' |rowspan="2"|えんぎょう |1994年8月14日 |1994年8月14日 | | |- |'''[[円行 (藤沢市)|円行二丁目]]''' |1994年8月14日 |1994年8月14日 | | |- |} {{hidden end}} {{hidden begin |title = 遠藤地区(4町丁) |titlestyle = text-align:center; |border = solid }} {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" !町名 !町名の読み !町区域設定年月日 !住居表示実施年月日 !住居表示実施前の町名等 !備考 |- |'''[[石川 (藤沢市)|石川五丁目]]''' |rowspan="2" style="border-bottom:1px solid"|いしかわ |1994年9月23日<ref group="遠" name="**" /> |未実施<ref group="†" name="*" /> | | |- |'''[[石川 (藤沢市)|石川六丁目]]''' |1994年9月23日<ref group="遠" name="**" /> |未実施<ref group="†" name="*" /> | | |- |'''[[石川 (藤沢市)|石川]]'''の一部<ref group="遠" name="***" /> |いしかわ |1942年3月10日 |未実施 | | |- |'''[[遠藤 (藤沢市)|遠藤]]'''の一部<ref group="遠" name="****" /> |えんどう |1955年4月5日 |未実施 | | |- |} {{hidden end}} {{hidden begin |title = 長後地区(3町丁) |titlestyle = text-align:center; |border = solid }} {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" !町名 !町名の読み !町区域設定年月日 !住居表示実施年月日 !住居表示実施前の町名等 !備考 |- |'''[[長後]]''' |ちょうご |1955年4月5日 |未実施 | | |- |'''[[高倉 (藤沢市)|高倉]]''' |たかくら |1955年4月5日 |未実施 | | |- |'''[[下土棚]]''' |しもつちだな |1942年3月10日 |未実施 | | |- |} {{hidden end}} {{hidden begin |title = 御所見地区(6町丁) |titlestyle = text-align:center; |border = solid }} {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" !町名 !町名の読み !町区域設定年月日 !住居表示実施年月日 !住居表示実施前の町名等 !備考 |- |'''[[用田 (藤沢市)|用田]]''' |ようだ |1955年4月5日 |未実施 | | |- |'''[[葛原 (藤沢市)|葛原]]''' |くずはら |1955年4月5日 |未実施 | | |- |'''[[菖蒲沢]]''' |しょうぶさわ |1955年4月5日 |未実施 | | |- |'''[[打戻]]''' |うちもどり |1955年4月5日 |未実施 | | |- |'''[[獺郷]]''' |おそごう |1955年4月5日 |未実施 | | |- |'''[[宮原 (藤沢市)|宮原]]''' |みやばら |1955年4月5日 |未実施 | | |- |} <references group="†"> <ref group="†" name="*">町名地番整理実施区域(村岡東二丁目、村岡東三丁目の各一部を除く。)</ref> <ref group="†" name="**">字砥上の区域に限る。</ref> </references> <references group="村"> <ref group="村" name="**">村岡東部土地区画整理事業換地処分公告があった日(1976年10月12日)の翌日(現・村岡東二丁目、村岡東三丁目の各一部に事業区域外が含まれる)。</ref> <ref group="村" name="***">町区域の一部に村岡東二丁目土地区画整理事業(2014年10月10日換地処分公告)が含まれる。</ref> </references> <references group="遠"> <ref group="遠" name="**">北部第二(一地区)土地区画整理事業換地処分公告があった日(1994年9月22日)の翌日。</ref> <ref group="遠" name="***">石川六丁目、遠藤、菖蒲沢及び桐原町に囲まれた区域。</ref> <ref group="遠" name="****">都市計画道路3・4・7号亀井野二本松線より北の区域。</ref> </references> {{hidden end}} === 郵便 === ; 郵便番号 * '''251-00xx'''、'''251-08xx'''(大庭・善行・立石以南の地域) - [[藤沢郵便局 (神奈川県)|藤沢郵便局]]が管轄・集配を担当する。 * '''252-08xx'''(石川・亀井野・西俣野以北の地域) - [[藤沢北郵便局]]が管轄・集配を担当する。 == 行政 == * 市長:[[鈴木恒夫 (藤沢市長)|鈴木恒夫]]([[2012年]][[2月26日]]就任、3期目) === 歴代市長 === * 初代 [[大野守衛]](1941年 - 1942年)※ [[1940年]](昭和15年)市長代理 * 2代 [[金子小一郎]](1942年 - 1946年) * 3 - 4代 [[飛嶋繁]](1946年 - 1948年) * 5代 [[伊沢十郎]](1948年 - 1952年) * 6 - 10代 金子小一郎(1952年 - 1972年) * 11 - 17代 [[葉山峻]](1972年 - 1996年) * 18 - 20代 [[山本捷雄]](1996年 - 2008年) * 21代 [[海老根靖典]](2008年 - 2012年) * 22 - 24代 [[鈴木恒夫 (藤沢市長)|鈴木恒夫]](2012年 - ) === 行政機関 === ; 市 * [[藤沢市役所]] * [[藤沢市消防局]] * [[藤沢市民病院]] <!-- 図書館などは施設の節に移行 --> ; 県 * 神奈川県湘南地域県政総合センター(藤沢市・[[平塚市]]・[[茅ヶ崎市]]・[[秦野市]]・[[伊勢原市]]・[[寒川町]]・[[大磯町]]・[[二宮町]]) * [[藤沢警察署|神奈川県藤沢警察署]] * [[藤沢北警察署|神奈川県藤沢北警察署]] * 神奈川県立総合療育相談センター * 神奈川県中央児童相談所 * かながわ人材育成支援センター * 神奈川県教育委員会教育局湘南三浦教育事務所(藤沢市・[[横須賀市]]・茅ヶ崎市・[[鎌倉市]]・[[逗子市]]・[[三浦市]]・[[葉山町]]・寒川町)(横須賀市は、給与課に係る業務に限る) * [[神奈川県企業庁]]水道局藤沢営業所 * 神奈川県立総合教育センター ; 国 * 藤沢労働基準監督署 * [[日本年金機構]]藤沢年金事務所 * [[東京国税局#神奈川県|藤沢税務署]] * [[東京国税局]]税務相談室藤沢分室 * [[東京法務局#横浜地方法務局|横浜地方法務局]]湘南支局<ref group="注釈">横浜、川崎市域を除く県下の商業・法人登記の申請事務を行なっている。</ref> * 藤沢区検察庁 * [[海上保安庁]]湘南海上保安署 == 議会 == === 市議会 === {{main|藤沢市議会}} * 定数:36名 * 任期:2019年(令和元年)5月1日 - 2023年(令和5年)4月30日 * 議長:加藤一(ふじさわ湘風会、4期) * 副議長:有賀正義(民主・無所属クラブ、4期) {| class="wikitable" |- !会派名!!議席数!!議員名(◎は代表) |- | 民主・無所属クラブ || style="text-align:right" | 10 || ◎柳田秀憲、安藤好幸、神尾江里、谷津英美、清水竜太郎、友田宗也、大矢徹、永井譲、竹村雅夫、有賀正義 |- | 市民クラブ藤沢 || style="text-align:right" | 9 || ◎佐賀和樹、石井世悟、西智、桜井直人、栗原貴司、松長由美絵、北橋節男、山口政哉、井上裕介 |- | ふじさわ湘風会 || style="text-align:right" | 7 || ◎吉田淳基、杉原栄子、甘粕和彦、佐野洋、堺英明、神村健太郎、加藤一 |- | 藤沢市[[公明党]] || style="text-align:right" | 5 || ◎松下賢一郎、平川和美、東木久代、武藤正人、塚本昌紀 |- | [[日本共産党]]藤沢市議会議員団 || style="text-align:right" | 4 || ◎柳沢潤次、土屋俊則、味村耕太郎、山内幹郎 |- | アクティブ藤沢 || style="text-align:right" | 1 || ◎原田建 |- |計 || style="text-align:right" | 36 || |} === 神奈川県議会(藤沢市選挙区) === {{See also|神奈川県議会}} * 定数:5名 * 任期:2019年(平成31年)4月30日 - 2023年(令和5年)4月29日 {| class="wikitable" |- !氏名!!会派名 |- | 市川和広 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]]神奈川県議会議員団 |- | 脇礼子 || [[立憲民主党 (日本 2017)|立憲民主党]]・民権クラブ神奈川県議会議員団 |- | 国松誠 || 自由民主党神奈川県議会議員団 |- | 松長泰幸 || 県政会神奈川県議会議員団 |- | 渡辺ひとし || [[公明党]]神奈川県議会議員団 |} === 衆議院 === * 藤沢市は、[[高座郡]][[寒川町]]と構成される[[神奈川12区]]が[[衆議院]]議員の選挙区となる。 * 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日 {| class="wikitable" |- !氏名 !党派名 !当選回数 !備考 |- |[[阿部知子]] |[[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] |style="text-align:center"|8 |選挙区 |- |[[星野剛士]] |[[自由民主党 (日本)|自由民主党]] |style="text-align:center"|4 |比例復活 |} == 司法 == * 藤沢簡易裁判所 == 産業 == {{Category see also|藤沢市の企業}} === 藤沢市に本社・工場を置く企業 === ;[[東京証券取引所|東証]]1部上場、およびその子会社 <!--銘柄コード順とした(事業所名に続く数字)--> {{columns-list|colwidth=20em| * [[ヤクルト]]:湘南化粧品工場 <!--2267--> * [[メルシャン]]:藤沢工場 <!--2536--> * [[日本精工]]:藤沢工場・藤沢技術センター・桐原工場 <!--6471--> * [[日本精工|NSKマイクロプレシジョン]]:藤沢工場<!--日本精工(6471)子会社--> * [[神戸製鋼所]]:藤沢事業所 <!-- 5406 --> * [[オイレス工業]]:本社・藤沢事業場 <!-- 6282 --> * [[日本ギア工業]]:本社・藤沢事業所 <!-- 6356 --> * [[荏原製作所]]:藤沢事業所(藤沢工場) <!--6361--> * [[ミネベアミツミ]]:藤沢工場 <!--6479--> * [[ソニー|Sony]]:湘南テクノロジーセンター <!-- 6758 --> * [[池上通信機]]:システムセンター{{efn|同社の公式サイト中国語版では2020年現在も藤沢工場と記述している<ref>{{Cite web|和書|url=https://cn.ikegami.co.jp/location | title=办公室/工厂 | publisher=[[池上通信機]] | accessdate=2020-05-23}}</ref>}}<!-- 6771 --> * [[アズビル]]:藤沢テクノセンター <!-- 6845 --> * [[いすゞ自動車]]:藤沢工場 <!-- 7202 --> * [[アイパック]]:本社・藤沢工場 <!--いすゞ自動車(7202)子会社--> * [[いすゞ車体]]:本社・藤沢工場 <!--いすゞ自動車(7202)子会社--> * [[いすゞテクノ]]:本社 <!--いすゞ自動車(7202)子会社--> * [[日野自動車#販売会社|横浜日野自動車]]:本社 <!--日野自動車(7205)子会社--> * [[東京ラヂエーター製造]]:本社・藤沢工場 <!-- 7235 --> * [[NOK (企業)|NOK]]:湘南開発センター(藤沢事業場)<!-- 7240 --> * [[シロキ工業]]:藤沢工場(および登記上本店) <!-- 7243 --> * [[プレス工業]]:藤沢工場 <!-- 7246 --> * [[佐藤商事]]:機械部・神奈川コイルセンターほか <!-- 8065 --> * [[江ノ島電鉄]]:本社 <!--小田急電鉄(9007)の子会社、1978年までは東証2部 9011--> * [[江ノ電バス]]:本社 <!--江ノ島電鉄子会社--> * [[神奈川中央交通#グループ会社|神奈川中央交通東]]:本社 <!-- 神奈川中央交通(9081)子会社 --> * [[神中興業]]:本社工場・藤沢工場 <!-- 神奈川中央交通(9081)子会社 --> * [[ステップ (学習塾)|ステップ]]:本社 <!--9795--> }} ;東証2部上場、およびその子会社 * [[魚喜]]:本社<!--東証2部 2683--> * オーゼックステクノ(もと[[フジオーゼックス]]本社・藤沢工場)<!--東証2部 7299--> {{columns-list|colwidth=20em| }} ;[[JASDAQ]]上場 * [[元旦ビューティ工業]]:本社 <!--JQ5935 --> ;[[NASDAQ]]上場 * [[ウエスタンデジタル]]社[[HGST]]ジャパン藤沢工場(もと[[日立グローバルストレージテクノロジーズ]]藤沢工場、[[日本IBM]][[日本IBM藤沢事業所|藤沢工場・研究所]]) ;非上場等 {{columns-list|colwidth=20em| <!-- 以下、業種、読み順とした --> * [[秋本食品]]:藤沢工場 <!-- 非上場、食品 --> * [[近藤乳業]]:本社・湘南工場 <!-- 非上場、食品 --> * [[大和食品工業]]:湘南藤沢工場 <!-- 非上場、食品、カイザーハム --> * [[宝製菓 (神奈川県)|宝製菓]]:藤沢工場 <!-- 非上場、食品 --> * [[古久家]]:本社 <!-- 非上場、食品 --> * [[スターモア化粧品|湘南スターモア化粧品]] <!-- 非上場、化学・医薬品 --> * [[佐賀鉄工所]]:本部・藤沢工場 <!-- 非上場、機械部品製造 --> * [[湘南薬品]]:本社 <!-- 非上場、小売業 --> * [[ニュー・クイック]]:本社 <!-- 非上場、小売業 --> * [[やまか]]:本社 <!-- 非上場、小売業 --> * [[アゾンインターナショナル]]:本社 <!-- 非上場、製造業 --> * [[ジル (企業)|ジル]] <!-- 非上場、製造業 --> <!-- [[EXA (企業)|EXA]] 非上場、サービス、特筆性を満たしていない可能性により除去 --> * [[サンキホーム]] <!-- 非上場、サービス --> * [[タウンネットワークサービス]]:本社 <!-- 非上場、サービス --> * [[つちやエンジニアリング]] <!-- 非上場、サービス、合同会社 --> * [[シフト (ゲーム会社)|シフト]] <!-- 非上場、サービス --> * [[湘南グリーンサービス]] <!-- 非上場、サービス --> * [[タックルベリー]]:本社 <!-- 非上場、サービス --> * [[新堀ギター音楽院|新堀ギターアカデミー]]:本社 <!-- 非上場、サービス --> * [[パパラギ ダイビングスクール]]:本社 <!-- 非上場、サービス --> * [[山神ボクシングジム]]<!-- 非上場、サービス、有限会社 --> * [[湘南ユナイテッドBC|湘南ユナイテッド藤沢]]:本社<!-- 非上場、サービス --> }} ; 過去に本社・工場を置いていた企業 {{columns-list|colwidth=20em| * [[武田薬品工業]](2006年湘南工場閉鎖、跡地は[[湘南アイパーク]])<!-- 4502 --> * [[日本電気硝子]](2015年藤沢事業場閉鎖)<!-- 5214 --> * [[関東特殊製鋼]](2002年藤沢工場閉鎖)<!-- 5633 --> * [[ジーエス・ユアサコーポレーション#GS(日本電池)|日本電池]] (2001年藤沢工場閉鎖)<!-- 6674 --> * [[パナソニックホールディングス#過去のメインブランド・商標|松下電器産業]] (2009年藤沢工場閉鎖)<!-- 6752 --> * [[コロワイド]](2000年本社移転) <!-- 7616 --> * [[東芝電池|岡田電池]](1932年工場閉鎖) * [[東京醸造|東京醸造株式会社]](1955年廃業) * [[大和醸造]](1961年統合) * [[湘南海童社]](2013年廃業) * [[ロピア]](2019年本社移転) <!-- 非上場、小売業 --> }} ; 過去に存在した商人など * 青木忠平、藤野森好(青物、[[乾物]])<ref name="nozoki1926">[{{NDLDC|921304/35}} 『武相のぞき』]59 - 61頁([[国立国会図書館デジタルコレクション]])。2022年1月25日閲覧。</ref> * 尾島正吉(牛豚[[ハム]]製造)<ref name="nozoki1926"/> * 榎本市右衛門(米穀)<ref name="nozoki1926"/> * 今井治兵衛(米肥)<ref name="nozoki1926"/> * 飯塚東作(米肥[[木炭]])<ref name="nozoki1926"/> * 大澤倫、大澤利七、寺田忠義([[材木商]])<ref name="nozoki1926"/> * 寺田三郎兵衛(稲元屋丸三[[呉服]]店)<ref name="nozoki1926"/> * 小塚寅吉(洋品商)<ref name="nozoki1926"/> * 青木保太郎(土木[[建築]]業者)<ref name="nozoki1926"/> * 斎藤清右衛門(製[[茶]])<ref name="nozoki1926"/> * 鈴木竹次郎([[サツマイモ|甘藷]]問屋)<ref name="nozoki1926"/> ; 過去に存在した屠場 * 藤沢[[屠場]]<ref name="chikusan9">[{{NDLDC|3464401/26}} 『神奈川の畜産 昭和九年三月』]27頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年1月25日閲覧。</ref> - 『神奈川の畜産 昭和九年三月』によると個人経営で、屠場主は尾島隆利である<ref name="chikusan9"/>。 === 農業・漁業 === 市内には漁港、養豚場、農園、果樹園などがある。 ==== 漁港 ==== * [[片瀬漁港]] ; 特産品 湘南野菜は安全・安心・新鮮で味も美味しい野菜のブランド。北西部を中心に市内に多数ある直売所やスーパー等で購入可能である。 魚介類は市外の魚市場、市内外の鮮魚仲卸業者や直売・朝市、江ノ島周辺の飲食店等を通して消費者に提供している。 果樹園が市の北東部(湘南台・長後周辺)に多くあり、特に大粒ブドウとして全国に普及した[[藤稔]]の原産地である。これらの果樹は[https://nouenweb.enopo.net/ 直売所] を通じて販売が行われている。 * [[湘南しらす]](釜揚げしらす等) * [[藤稔]]([[ブドウ]]) * [[高座豚]] * [[たたみいわし|湘南たたみいわし]] * 湘南ハマグリ * 江の島カマス * 湘南わかめ * 貝細工 * 湘南トマト * 湘南キャベツ * 湘南キュウリ * 湘南きくいも === 酒造業 === [[File:Mercian Corp. Fujisawa Factory, Fujisawa, Kanagawa, 002.jpg|right|thumb|256px|メルシャン藤沢工場 (2019年撮影)]] 中世において藤沢での酒造りは廃れていたが<ref>{{Cite web|和書|url=http://shonan-fujisawa.jp/sakamoto/spage3004.html | title= ふじさわの街を歩く ~ 藤沢で造られた酒 | accessdate=2020-04-19 | publisher=[http://shonan-fujisawa.jp/ 湘南ふじさわウォーキング協会] }}</ref>、[[大正]]年間以降は酒類生産地としての側面をもつ。酒造業者は平野藤右衛門がいた<ref name="nozoki1926"/>。 [[1919年]](大正8年)に創業した[[大和醸造|大日本醸造]]{{efn|大日本醸造は後に大和醸造に吸収された}}は、一帯で収穫される[[サツマイモ]]や[[雑穀]]を原料に、[[鈴木梅太郎]]が発明した[[合成清酒#理研酒|合成清酒]]「'''新進'''」を藤沢工場で量産開始、販売した{{efn|ただし、理研酒にさきがけ[[合成清酒#新日本酒|新日本酒]]が小規模ながら流通しており、「新進」が日本初の合成清酒ということではないことに注意<ref>[{{NDLDC|10511571}} 『合成清酒の製造に関する研究(第1報)』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。}}。やがて他社製品を含め大量生産されるようになった合成清酒は日本中に広まった。[[1961年]](昭和36年)に大和醸造は三楽酒造に吸収、後に[[キリンホールディングス|キリンHD]]子会社の[[メルシャン]]となり、国内総生産量日本一の[[ワイン]]製造拠点として稼働中である{{efn|2014年度の国内[[ワイン]]生産量第1位の神奈川県の中でも、[[果実酒]]生産量の95%を占め生産量日本一である<ref>{{Cite web|和書|author= |date=2016-07-18 |url=https://dot.asahi.com/articles/-/95718 |title=神奈川県にあるワイン生産量日本一の自治体は? |publisher=AERA dot. 朝日新聞 |accessdate=2017-09-11}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author= |date=2016-06-07 |url=https://style.nikkei.com/article/DGXKZO03280200W6A600C1L83000?channel=DF140920160949 |title=「畑」なきワイン県、神奈川 実は生産量日本一、2016年6月7日 日本経済新聞 朝刊|publisher=NIKKEI STYLE |accessdate=2017-09-11}}</ref>。}}。 {{See | 大和醸造}} また、南藤沢の[[オーケー|オーケーストア]]藤沢店が立つ敷地には、かつて存在した酒造メーカー、[[東京醸造|東京醸造株式会社]]の工場があった<ref name="smtrc-p06" />。藤沢蒸溜所で製造された「トミー・モルトウィスキー」は、日本国内の本格的モルトウイスキーとしては[[1929年]]発売の[[サントリー]]「[[サントリーホワイト|白札]]」に次ぎ、[[1937年]](昭和12年)に発売された(3番目が1940年発売の「[[ニッカウヰスキー]]」)。 戦後、東京醸造は倒産したものの、藤沢工場は[[サントリー|壽屋]]、つぎに[[福徳長酒類|森永醸造]]へと渡り、製造は1960年代後半に閉鎖されるまで続いた<ref>{{Cite web|和書|url=http://shonan-fujisawa.jp/sakamoto/spage4016.html | title=藤沢でつくられたモルトウイスキー | accessdate=2020-04-19 | publisher=[http://shonan-fujisawa.jp/ 湘南ふじさわウォーキング協会]}}</ref>。 {{See | [[ジャパニーズ・ウイスキー#歴史]]}} == 姉妹都市・提携都市 == [[ファイル:Enoshima MiamiBeachArea Monument.jpg|right|thumb|256px|[[江の島]]の[[江の島サムエル・コッキング苑|サムエル・コッキング苑]]内、マイアミビーチ広場に立つ[[アール・デコ]]調のモニュメント。''MIAMI BEACH AREA'' の文字盤下部の箱には、マイアミビーチ市から贈られた「友好の鍵」が納められている。]] === 国内 === ; 姉妹都市 * {{Flagicon|長野県}}[[松本市]]([[長野県]]) - [[1961年]](昭和36年)[[7月29日]] 姉妹都市提携締結。 ; 提携都市 * {{Flagicon|愛知県}}[[江南市]]([[愛知県]]) - [[2004年]](平成16年)[[9月1日]] [[災害時相互応援協定]]締結。 === 海外 === ; 姉妹都市 * {{Flagicon|USA}} [[マイアミビーチ]]市 - [[1959年]](昭和34年)[[3月5日]]提携。{{main|東洋のマイアミビーチ}} * {{Flagicon|CAN}} [[ウィンザー (オンタリオ州)|ウィンザー]]市 - [[1987年]](昭和62年)[[12月2日]]提携 * {{Flagicon|KOR}} [[保寧市]] - [[2002年]](平成14年)[[11月15日]]提携 ; 友好都市 * {{Flagicon|CHN}} [[昆明市]] - [[1981年]](昭和56年)[[11月5日]]提携 == 医療 == * [[藤沢市民病院]] * [[藤沢湘南台病院]] * [[湘南慶育病院]] * [[湘南藤沢徳洲会病院]] * [[藤沢市保健医療センター]] == 教育 == === 大学 === {{columns-list|colwidth=30em| * [[慶應義塾大学]][[慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス|湘南藤沢キャンパス]] * [[湘南工科大学]] * [[多摩大学]]湘南キャンパス * [[日本大学]][[日本大学生物資源科学部・大学院生物資源科学研究科及び獣医学研究科|生物資源科学部]] }} === 専門学校 === ;公立 *[http://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/kango/index.html 藤沢市立看護専門学校] **[[1970年]](昭和45年)に藤沢市立高等看護学院として開校、[[1984年]](昭和59年)に専修学校として認可され現在の名称に改称<ref>{{Cite web|和書| url=https://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/kyoumu/index.html | title=本校の沿革 | publisher=藤沢市立看護専門学校 | accessdate=2020-06-20}}</ref>。 ;私立 {{columns-list|colwidth=30em| *[[新堀ギター音楽院|国際新堀芸術学院]]藤沢本校([[専修学校]]併設) *[http://www.shounankango.ac.jp/ 湘南看護専門学校] }} *[[日本ガーデンデザイン専門学校]] === 高等学校 === ; 公立 {{columns-list|colwidth=20em| * [[神奈川県立湘南高等学校]] * [[神奈川県立湘南台高等学校]] * [[神奈川県立藤沢工科高等学校]] * [[神奈川県立藤沢清流高等学校]] * [[神奈川県立藤沢総合高等学校]] * [[神奈川県立藤沢西高等学校]] }} ; 私立 {{columns-list|colwidth=20em| * [[鵠沼高等学校]] * [[慶應義塾湘南藤沢中・高等部|慶應義塾湘南藤沢高等部]]※中高併設 * [[湘南学園中学校・高等学校|湘南学園高等学校]]※中高併設 * [[湘南工科大学附属高等学校]] * [[湘南白百合学園中学・高等学校|湘南白百合学園高等学校]]※中高併設 * [[藤嶺学園藤沢中学校・高等学校|藤嶺学園藤沢高等学校]]※中高併設 * [[日本大学藤沢高等学校・中学校|日本大学藤沢高等学校]]※中高併設 * [[藤沢翔陵高等学校]] * [[聖園女学院中学校・高等学校|聖園女学院高等学校]]※中高併設 }} === 中学校 === ; 公立 {{columns-list|colwidth=20em| * [[藤沢市立秋葉台中学校]] * [[藤沢市立大清水中学校]] * [[藤沢市立大庭中学校]] * [[藤沢市立片瀬中学校]] * [[藤沢市立鵠沼中学校]] * [[藤沢市立御所見中学校]] * [[藤沢市立湘南台中学校]] * [[藤沢市立湘洋中学校]] * [[藤沢市立善行中学校]] * [[藤沢市立高倉中学校]] * [[藤沢市立高浜中学校]] * [[藤沢市立滝の沢中学校]] * [[藤沢市立第一中学校]] * [[藤沢市立長後中学校]] * [[藤沢市立羽鳥中学校]] * [[藤沢市立藤ヶ岡中学校]] * [[藤沢市立六会中学校]] * [[藤沢市立村岡中学校]] * [[藤沢市立明治中学校]] }} ; 私立 {{columns-list|colwidth=20em| * [[慶應義塾湘南藤沢中・高等部|慶應義塾湘南藤沢中等部]]※中高併設 * [[湘南学園中学校・高等学校|湘南学園中学校]]※中高併設 * [[湘南白百合学園中学・高等学校|湘南白百合学園中学校]]※中高併設 * [[藤嶺学園藤沢中学校・高等学校|藤嶺学園藤沢中学校]]※中高併設 * [[日本大学藤沢中学校・高等学校|日本大学藤沢中学校]]※中高併設 * [[聖園女学院中学校・高等学校|聖園女学院中学校]]※中高併設 }} === 小学校 === ; 公立 {{columns-list|colwidth=20em| * [[藤沢市立秋葉台小学校]] * [[藤沢市立石川小学校]] * [[藤沢市立大越小学校]] * [[藤沢市立大清水小学校]] * [[藤沢市立大庭小学校]] * [[藤沢市立片瀬小学校]] * [[藤沢市立亀井野小学校]] * [[藤沢市立鵠沼小学校]] * [[藤沢市立小糸小学校]] * [[藤沢市立鵠南小学校]] * [[藤沢市立鵠洋小学校]] * [[藤沢市立駒寄小学校]] * [[藤沢市立御所見小学校]] * [[藤沢市立湘南台小学校]] * [[藤沢市立新林小学校]] * [[藤沢市立善行小学校]] * [[藤沢市立高砂小学校]] * [[藤沢市立高谷小学校]] * [[藤沢市立滝の沢小学校]] * [[藤沢市立大鋸小学校]] * [[藤沢市立大道小学校]] * [[藤沢市立長後小学校]] * [[藤沢市立辻堂小学校]] * [[藤沢市立天神小学校]] * [[藤沢市立中里小学校]] * [[藤沢市立羽鳥小学校]] * [[藤沢市立浜見小学校]] * [[藤沢市立藤沢小学校]] * [[藤沢市立富士見台小学校]] * [[藤沢市立本町小学校]] * [[藤沢市立俣野小学校]] * [[藤沢市立六会小学校]] * [[藤沢市立村岡小学校]] * [[藤沢市立明治小学校]] * [[藤沢市立八松小学校]] }} ; 私立 {{columns-list|colwidth=20em| * [[湘南学園小学校]] * [[湘南白百合学園小学校]] * [[日本大学藤沢小学校]] }} === 特別支援学校 === ; 公立 {{columns-list|colwidth=30em| * [[神奈川県立藤沢養護学校]] * [[藤沢市立白浜養護学校]] }} === 各種学校 === <!-- 自動車学校は[[各種学校]]に含まれる --> {{columns-list|colwidth=30em| *三共自動車学校 *藤沢高等自動車学校 |{{リスト|三共自動車学校|藤沢高等自動車学校|湘南台自動車学校}} }} == マスコミ == ; 放送事業者 * [[ジェイコム湘南]](旧[[藤沢ケーブルテレビ]]・[[2001年]](平成13年)4月に[[シーエーティーヴィ横須賀]]ならびに茅ヶ崎市をサービスエリアとする旧ジェイコム湘南と合併) ; ラジオ放送 * コミュニティ放送 ** [[藤沢エフエム放送]] == 文教施設 == * [[藤沢市民会館]] * [[湘南台文化センター]] * [[藤沢市文書館]] * 藤沢青少年会館 * 辻堂青少年会館 * 地域市民の家 * 地域子供の家・児童館 === 図書館 === 藤沢市図書館全体としては録音・映像資料貸出、貸出返却システムの導入、障碍を持つ利用者への対応など進歩的な取り組みが見られる{{efn|現在、藤沢市以外の公立図書館に於いてもCDの貸出しはごく普通に行われているが、藤沢市での貸出しは全国的にも非常に早い段階で開始されている。[[著作権法]]が改正され、[[著作権法#その他の支分権|貸与権]]に関する整備が行われたことに関連し図書館における(映画を除く)著作物の無償貸与が合法と明文化されたのは[[1984年]]のことであった<ref>[https://www.nii.ac.jp/hrd/ja/librarian/h17/h17_lib7.pdf 大学図書館における著作権 中本 誠] 国立情報学研究所</ref>。同年12月に着工した藤沢市総合市民図書館は[[1986年]]開館時当初から<ref>[https://www.lib.city.fujisawa.kanagawa.jp/pdf/15_tosho_gaiyou.pdf 藤沢市図書館概要] 藤沢市図書館</ref>、CD貸出はもとより、[[IBM]]製端末を使用した蔵書検索・貸出返却システムの導入、同システムにおける個人情報保護の宣言<ref>[http://www.lib.city.fujisawa.kanagawa.jp/privacy.html 個人情報の取り扱いについて] 藤沢市図書館</ref>など当時としては先駆的な試みが盛り込まれ、全国から図書館関係者の視察が相次いだという <ref>[https://www.klnet.pref.kanagawa.jp/common/advisor_report20130214.htm アドバイザー武清氏の経歴と藤沢市の図書館について] 神奈川県立図書館</ref>。1988年、総合市民図書館は[[日本図書館協会]]より[[日本図書館協会建築賞]]優秀賞を受賞している。}}。しかし、南市民図書館の施設は旧中央図書館時代から使用されている老朽化が著しく、バリアフリー設備も不十分なため、隣接する藤沢市民会館を含めた複合施設への建替・移転が検討されている<ref>[https://www.townnews.co.jp/0601/2018/06/08/435571.html 藤沢市民会館 再整備 年度内にも方針] タウンニュース. 2018年11月26日閲覧。</ref>。 {{main| [[藤沢市図書館]]}} * 総合市民図書館 * 南市民図書館(旧中央図書館、2019年にODAKYU湘南GATE6階へ暫定移転<ref>{{Cite web|和書|title=7月1日オープン!南市民図書館がODAKYU湘南GATE6階に移転しました! - 藤沢市図書館|url=https://www.lib.city.fujisawa.kanagawa.jp/info;jsessionid=9CB5B37971FE9A093C8167AC43B9DDD5?0&pid=5409|website=www.lib.city.fujisawa.kanagawa.jp|accessdate=2020-05-17}}</ref>) * 辻堂市民図書館 * 湘南大庭市民図書館 === 運動施設 === 民間施設、廃止された施設は{{C|藤沢市のスポーツ}}を参照。 ==== 市営 ==== 一部の公園付帯施設は省略。詳細は [https://f-mirai.jp/sports スポーツ施設と事業(藤沢市みらい創造財団) ] を参照。 この他、多くの公民館に200人程度のホール兼用体育室が備わる。 * 秋葉台公園 ** [[藤沢市秋葉台文化体育館|秋葉台文化体育館]] - 市内最大の屋内体育館。観客席3000の第一体育室、武道場、弓道場など。 ** [[藤沢市秋葉台公園プール|秋葉台公園プール]] - 観客席353の50mプール、流れるプール、屋内25mプールなど ** [[秋葉台公園球技場]] - 観客席1436のサッカー・ラグビー向け人工芝フィールド。照明設備有り * [[秩父宮記念体育館]] - 観客席793のメインアリーナ、武道場、弓道場など。 * [[鵠沼運動公園]] (八部公園) - [[藤沢市八部野球場|八部野球場]]、プール、テニスコートなど * [[鵠沼海浜公園]] - 3m[[ハーフパイプ]]を併設した[[スケートパーク]] * [[藤沢市石名坂温水プール]] * [[藤沢市少年の森]] - [[フィールドアスレチック|アスレチック]]コースなど。キャンプ場では宿泊も可能(要予約) * '''緑の広場''' - 藤沢市においては、民間遊休地を借り上げ、市民に開放した多目的広場を指す。市内に点在し、規模や用途はまちまち。利用ルールは統一されておらず、予約制の球技場や[[ゲートボール]]コートとされる場合、遊具が設置され公園と見分けがつかない場合、さらには[[市民農園]]用地の場合もある。 ==== 県営 ==== * [[神奈川県立スポーツセンター]] ** [[神奈川県立スポーツセンター陸上競技場]] - 第2種公認、観客席は約5200(芝生席を含む) ** 照明設備付[[フットサル]]コート、球技場、屋内プール、体育館、テニスコートなど * [[湘南海岸公園 (藤沢市)|湘南海岸公園]] - テニスコート、サーフビレッジ、ランニングステーション * [[辻堂海浜公園]] - プール(ジャンボプール)、多目的グラウンドなど * [[江の島ヨットハーバー]] * [[神奈川県道451号藤沢大和自転車道線|境川サイクリングロード]] == 交通 == === 鉄道路線 === {{Vertical_images_list |幅=280px |画像1=Fujisawa-Sta-N.JPG| |説明1=藤沢駅周辺 |画像2=Terracemall Shonan North Bus Terminal Side.jpg |説明2=辻堂駅北口にある大型商業施設「[[テラスモール湘南]]」 |画像3=Shonandai Station 01.jpg |説明3=湘南台駅周辺 }} 藤沢市の鉄道路線は市域南部を東西に[[JR]]線、市域東部を南北に[[小田急江ノ島線|江ノ島線]](小田急)、そして、[[湘南モノレール]]が市域南東部の片瀬地区を通過している。 [[藤沢駅]]は市役所等行政施設の最寄り駅であり、市の中心となる駅である。[[JR]]線、[[小田急江ノ島線|小田急]]線、[[江ノ島電鉄]]線の乗り入れがある。(観光路線として有名な[[江ノ島電鉄線|江ノ電]]へも乗り換え可能である。江ノ電は藤沢駅を起点として[[江ノ島駅]]方面へ南下し、[[相模湾]]岸を沿いながら[[鎌倉駅]]方面へ向かう。) [[辻堂駅]]は南西部の交通拠点駅であり、2000年代から同駅北口にあった[[関東特殊製鋼]]跡地を「[[湘南C-X]]」として再開発された。 [[湘南台駅]]は、[[小田急電鉄|小田急]]、[[相模鉄道|相鉄]]、[[横浜市営地下鉄]]の3つの鉄道事業者が乗り入れ、北部の交通結節点となっている。(同駅は[[1999年]]に[[相鉄いずみ野線|いずみ野線]](相鉄)と[[横浜市営地下鉄ブルーライン|ブルーライン]](横浜市営地下鉄)延伸以来、利用者が延伸前年、'''[[1998年]]の約5万人から[[2018年]]には約18万人と3倍増'''した。) ; [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) : [[ファイル:JR JT line symbol.svg|17px|left]] [[東海道線 (JR東日本)|東海道本線]] ::* - [[藤沢駅]] - [[辻堂駅]] - ; [[小田急電鉄]] : [[ファイル:Odakyu enoshima.svg|18px|OE|left]] [[小田急江ノ島線|江ノ島線]] ::* - [[長後駅]] - [[湘南台駅]] - [[六会日大前駅]] - [[善行駅]] - [[藤沢本町駅]] - [[藤沢駅]] - [[本鵠沼駅]] - [[鵠沼海岸駅]] - [[片瀬江ノ島駅]] ; [[相模鉄道]] : [[ファイル:Sotetsu line symbol.svg|17px|so|left]] [[相鉄いずみ野線|いずみ野線]] ::* - [[湘南台駅]] ; [[横浜市営地下鉄]] : [[ファイル:Yokohama Municipal Subway Blue Line symbol.svg|17px|B|left]] [[横浜市営地下鉄ブルーライン|ブルーライン]] ::* - [[湘南台駅]] ; [[江ノ島電鉄]] : [[ファイル:Number prefix Enoden.svg|17px|EN|left]] [[江ノ島電鉄線]] ::* [[藤沢駅]] - [[石上駅]] - [[柳小路駅]] - [[鵠沼駅]] - [[湘南海岸公園駅]] - [[江ノ島駅]] - ; [[湘南モノレール]] :* [[湘南モノレール江の島線|江の島線]] ::* - [[目白山下駅]] - [[湘南江の島駅]] ; 計画中の路線 * 相鉄いずみ野線の延伸 ** 湘南台駅から[[東海道新幹線]]の[[相模新駅|新駅]]設置計画がある[[高座郡]][[寒川町]]倉見地区までの約8km。2016年に、[[国土交通省]]における[[交通政策審議会]]の「[[東京圏における今後の都市鉄道のあり方について]]」の答申において、2030年までに整備すべき24路線の一つに位置づけられた。現在は[[慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス]]付近の3.3kmを第一区間と位置付け、先行整備する計画が進められている。市内秋葉台公園の北東側にA駅、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス付近にB駅を想定し、それぞれの駅周辺のまちづくりについて検討を進めている<ref>{{Cite web|和書|title=いずみ野線延伸計画の検討|url=http://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/tosikei/machizukuri/toshi/shisaku/izuminosen-enshin.html|website=藤沢市|accessdate=2020-05-04|language=ja|last=藤沢市}}</ref>。(寒川町倉見地区には新幹線新駅設置に伴う都市基盤の整備のため、「[[ツインシティ (平塚市・寒川町)|ツインシティ]]整備計画」が策定されており、[[神奈川県]]における全国との交流・連携の窓口として「南のゲート」として位置づけられ、[[リニア中央新幹線]]の新駅が設置される[[相模原市]]の[[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]]周辺の「北のゲート」と共に対をなす計画となっている。なお、藤沢市は神奈川県、経済団体及び[[厚木市]]等の近隣自治体と共に「[https://www.pref.kanagawa.jp/cnt/p19869.html 神奈川県東海道新幹線新駅設置促進期成同盟]」に加盟している。) * JR東海道線の[[湘南貨物駅|村岡新駅(仮称)]] ** [[大船駅]] - [[藤沢駅]]間の中間地点である村岡地区における新駅設置計画。当地にはかつて湘南貨物駅があった。2018年には神奈川県、藤沢市及び村岡地区と隣接する[[鎌倉市]]と「村岡新駅(仮称)設置協議会」を設立した。村岡地区には[[武田薬品工業]][[湘南ヘルスイノベーションパーク]]があり、同社における研究開発の拠点となっている。また、村岡地区に隣接する鎌倉市深沢地区にあった[[東日本旅客鉄道大船工場|JR大船工場]]の跡地と道路で結び、一体的な都市開発を行う方針となっている。 ** 2021年2月8日神奈川県、藤沢市、鎌倉市とJR東日本は、村岡新駅を設置することに合意し、覚書を締結した。<ref>{{Cite web|和書|title=村岡新駅(仮称)の設置について |url=https://www.pref.kanagawa.jp/docs/gd6/cnt/f535309.html |website=神奈川県 |accessdate=2022-02-06 |language=ja |last=神奈川県}}</ref> ; 備考 *[[江ノ島電鉄|江ノ電]]は、[[1902年]](明治35年)[[藤沢駅|藤沢]] - 片瀬(現・[[江ノ島駅]])間で開業し、藤沢駅を起点とし、本社は藤沢市[[片瀬海岸]]にある。(鎌倉までの全線が開通したのは[[1910年]](明治43年)) * [[東海道新幹線]]が[[新横浜駅]] - [[小田原駅]]間で藤沢市北部地域を通過している。地図上では (新横浜駅←)大和市 - '''藤沢市'''(長後) - 綾瀬市 - '''藤沢市'''(葛原・用田) - 海老名市 - '''藤沢市'''(宮原) - 寒川町(→小田原駅)となっており、藤沢市を3度通過している。 * 過去に存在した駅として、旅客駅(村岡新駅)の新設計画がある[[湘南貨物駅]]の他、江ノ島電鉄の前身である[[江ノ島電鉄線#歴史|江ノ島電気鉄道]]に多数。 * 藤沢市内には、在来線(JR東日本、小田急、江ノ電、相鉄)、新幹線(JR東海)、地下鉄(横浜市営地下鉄)、[[モノレール#懸垂式|懸垂式モノレール]](湘南モノレール)の4形態の鉄道が走る。そのうち江ノ電は併用軌道の路面電車という形態でも市内を通過する。 * 村岡新駅構想に先立ち、[[根岸線]]に対し開業以前から[[大船駅|大船]]以西延長の要望が出ていたが実現しなかった<ref>[[藤沢市文書館]]の [http://digital.city.fujisawa.kanagawa.jp/introduction/history/ 歴史年表] によれば、1956年(昭和31年)6月11日、藤沢市議会が国鉄に対し要望書提出とある。</ref> * かつて、江の島へ渡る[[江ノ島電鉄#未成線|海上索道]]<ref>[{{NDLDC|2956917/9}} 「鉄道免許状下付」『官報』1928年7月5日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>、[[モノレール#跨座式|跨座式モノレール]]([[ドリーム開発ドリームランド線|ドリーム交通]]。)の[[六会日大前駅|六会]]・[[長後駅]]延伸、[[湘南ライフタウン]]方面への[[ガイドウェイバス]]・[[ライトレール|LRT]]が計画されたことがある<ref>[https://www.mlit.go.jp/common/001040094.pdf 藤沢市地域公共交通高度化のための基盤整備調査] 国土交通省</ref>。 === 路線バス === [[ファイル:Twinliner Kanachu 01.jpg|thumb|250px|藤沢市北部を運行するツインライナー。[[ドイツ]]製の[[メルセデス・ベンツ・シターロ|メルセデスベンツ]]、[[ネオプラン・セントロライナー|ネオプラン]]の車両が運行されている。]] 市内主要駅を中心に複数事業者によるネットワークが形成されるほか、地域によってはバスを補完する[[乗合タクシー]]の運行がみられる。 また、[[2005年]]に[[神奈川県]]内初、「[[ツインライナー]](大型[[連節バス]])」(湘南台駅西口~慶応大学間)の運行が開始された。これは、[[1999年]]に[[湘南台駅]]へ[[相鉄いずみ野線]]と[[横浜市営地下鉄]]が延伸以降、バス路線が慢性的な輸送力不足となり、この問題を解決するために導入されたものである。[[2018年]]には辻堂駅北口~湘南ライフタウン・慶応大学間でも運行が開始された。 (湘南台駅の利用者は延伸前年である[[1998年]]の約5万人から[[2002年]]には約10万人と倍増した。[[2003年]]に[[国土交通省]]、神奈川県、[[神奈川県警察]]、[[慶應義塾大学|慶応大学]]と[[神奈川中央交通]]により「新たな公共交通システム導入検討委員会」が発足し、[[2004年]]に新たな公共交通システムとして、通常のバスの約2倍の輸送力を持つ「ツインライナー」の導入が提言され、2005年に運行が開始された<ref>{{Cite web|和書|title=神奈川中央交通ホームページ 新たな公共システム|url=http://www.kanachu.co.jp/service/twinliner/newsystem.html|accessdate=2018-08-14}}</ref>。その輸送力とともに藤沢市などと連携し「[[公共車両優先システム|PTPS]]」(公共車両優先システム ※2)を強化している。) その他、[[藤沢駅#バス路線|藤沢駅]]、[[辻堂駅#バス路線|辻堂駅]]から[[空港リムジンバス]]、[[高速バス]]が発着する。 路線系統の詳細は各営業所の項を、駅前乗り場の詳細は鉄道各駅バス路線の項を参照。 * [[神奈川中央交通]] ** [[神奈川中央交通茅ヶ崎営業所|茅ヶ崎営業所]] ** [[神奈川中央交通綾瀬営業所|綾瀬営業所]] ** [[神奈川中央交通戸塚営業所|戸塚営業所]] * 神奈川中央交通東 ** [[神奈川中央交通東・藤沢営業所|藤沢営業所]] * [[江ノ電バス藤沢]] ** [[江ノ電バス藤沢・湘南営業所|湘南営業所]] * [[京浜急行バス]] ; 地域提案型バス 1997年にスタートした藤沢市独自の政策で、住民の要望を市が集約し、事業者とも協議し新規路線開発を提案する制度。同年開始した[[オムニバスタウン]]制度対象ではない。 自治体が主体となって運行する[[コミュニティバス]]とは異なり、運行は事業者に一任され、市は路線や運行ダイヤの要望など住民側の意見を取りまとめる役となる他、バス購入費の補助も行う<ref>[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/869288.pdf 3-A-11地域提案型コミュニティバスの運行(p.89)] 神奈川県</ref>。営業不振の場合、市を通して市民に利用を呼びかける等フォローが行われ<ref>[https://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/tosikei/machizukuri/kotsu/kokyo/documents/000374524_1.pdf 御所見地区(ふじみ号)の今後の取組み資料] 藤沢市</ref>、新規路線として再編成された例もある<ref>[https://www.townnews.co.jp/0601/2014/08/15/247807.html 遠藤・御所見地区周辺バス路線が新設・廃止] タウンニュース藤沢版 [[2014年]]8月15日号</ref>。 以下に本制度により開設された路線を挙げる。(神)は神奈中、(江)は江ノ電バス運行路線。<ref>[https://www.odakyu.jp/company/socialactivities/environment_report/2016/7/ 環境報告書2016 事例紹介] 小田急電鉄</ref> * [[神奈川中央交通東・藤沢営業所#藤沢駅北口 - 藤が岡循環|藤が岡線]] -(神)旧称・湘南ロコ号 * [[江ノ電バス藤沢・湘南営業所#渡内循環線|渡内循環線]] - (江)こまわりくん * [[神奈川中央交通茅ヶ崎営業所|病院辻堂線]] -(神)([[2002年]]高山車庫へ、[[2018年]]藤沢駅へ延伸) * [[神奈川中央交通綾瀬営業所#長後駅西口 - 上土棚団地・湘南台駅方面|上土棚団地線]] -(神) * [[神奈川中央交通綾瀬営業所#長後駅西口 - 上土棚団地・湘南台駅方面|こぶし荘線]] -(神) * 南海岸線 -([[神奈川中央交通東・藤沢営業所#辻堂駅南口 - 辻堂団地方面|神]])・([[江ノ電バス湘南営業所#辻堂 - 辻堂団地線(辻堂西海岸経由)|江]]) - 現行 辻03系統 * [[神奈川中央交通東・藤沢営業所#善行駅 - 善行団地方面|善行団地北周り線]] -(神) * [[神奈川中央交通東・藤沢営業所#六会日大前駅 - 天神町循環|天神町循環線]] -(神)てんじんミニバス * [[江ノ電バス湘南営業所#教養センター循環線|教養センター循環線]] - (江)こまわりくん * [[神奈川中央交通綾瀬営業所#沿革|御所見南部循環線]](廃止、湘南台宮原線へ再編)ふじみ号 * [[神奈川中央交通東・藤沢営業所#善行駅 - 善行団地方面|善行団地循環線]] -(神) * [[神奈川中央交通東・藤沢営業所#藤沢駅北口 - 柄沢循環|柄沢循環線]] -(神) * [[神奈川中央交通東・藤沢営業所#藤沢駅北口 - 柄沢循環|柄沢大船線]] -(神) * [[神奈川中央交通綾瀬営業所#湘南台駅 - 遠藤 - 慶応大学方面|湘南台宮原線]] -(神)現行 湘19系統 === 道路 === '''[[高速道路]]'''・'''[[有料道路]]''' * [[首都圏中央連絡自動車道]]:[[藤沢インターチェンジ|藤沢IC]] ** [[新湘南バイパス]] ** [[横浜湘南道路]](未開通) ; [[一般国道]] {{columns-list|colwidth=30em| * [[国道1号]] ** [[藤沢バイパス]] ** '''新湘南バイパス''' * [[国道134号]] * [[国道467号]] * [[国道468号]](未開通) ** '''横浜湘南道路'''(未開通) }} ; [[主要地方道]] {{columns-list|colwidth=20em| * [[神奈川県道22号横浜伊勢原線]] ** [[用田バイパス]] * [[神奈川県道30号戸塚茅ヶ崎線]] * [[神奈川県道32号藤沢鎌倉線]] * [[神奈川県道42号藤沢座間厚木線]] * [[神奈川県道43号藤沢厚木線]] * [[神奈川県道44号伊勢原藤沢線]] * [[神奈川県道45号丸子中山茅ヶ崎線]] * [[神奈川県道47号藤沢平塚線]] }} ; その他の県道 {{columns-list|colwidth=20em| * [[神奈川県道302号小袋谷藤沢線]] * [[神奈川県道305号江の島線]] * [[神奈川県道306号藤沢停車場線]] * [[神奈川県道307号辻堂停車場羽鳥線]] * [[神奈川県道308号辻堂停車場辻堂線]] * [[神奈川県道312号田谷藤沢線]] * [[神奈川県道403号菖蒲沢戸塚線]] * [[神奈川県道404号遠藤茅ヶ崎線]] * [[神奈川県道451号藤沢大和自転車道線]] }} === 船舶 === * [https://www.fujisawa-kanko.jp/access/bentenmaru.html 遊覧船べんてん丸] 江の島弁天橋たもとの船着き場{{efn|片瀬江ノ島駅より徒歩で江の島に渡る場合、2つの弁天橋を渡ることになる。駅正面すぐ、境川にかかる短い歩行者専用橋が弁天橋。地下通路を過ぎると現れる長い歩行者専用橋が江の島弁天橋であり、船着き場は後者の陸側、境川左岸にある。尚、自動車専用橋は[[神奈川県道305号江の島線|江の島大橋]]という。}}と、江の島南岸の稚児が淵を結ぶ。休日を中心に不定期運航。[[江の島#定期遊覧船]]も参照のこと。 また、過去には[[湘南港]]を発着する[[大型船舶]]の定期海上航路が存在した。 * 江の島―熱海―伊東航路 1963年12月5日就航<ref name="oer50thch">小田急五十年史 (1980年12月刊)</ref>。日本高速船株式会社{{efn|1963年設立された[[小田急電鉄]]関連企業。[[日本高速フェリー]]とは別の法人。}}の水中翼船が毎日1往復、江の島から熱海を片道45分で結んでいた<ref>熱海新聞 1964年1月1日</ref>。1968年7月31日廃止<ref name="oer50thch" />。 * 横浜―江の島―大島航路 1965年1月24日就航<ref>毎日新聞 1965年1月24日</ref>。運航会社は[[東海汽船]]。新造旅客船「[[さくら丸 (東海汽船)|さくら丸]]」が充当される。所要時間は片道約3時間。最盛期には年間16万人の輸送実績を上げたものの次第に低迷。1974年1月16日休止、翌1975年廃止<ref name="townnews20090508">タウンニュース 藤沢版 2009年5月8日</ref>。 * 2009年6月26日、[[東海汽船]]の[[ジェットフォイル]]、[[東海汽船#船舶|セブンアイランド虹]]を藤沢市がチャーターし、臨時便ではあるが大島航路が復活することとなった<ref name="townnews20090508" />。これを契機に、以降も年数回のペースで大島・新島便が運航されている。江の島から大島の所要時間は片道約1時間。乗船にあたっては同社が企画・募集するツアー参加が必要となる。 == 名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事・スポーツ・その他 == [[ファイル:Enoshima view from Kugenuma beach.jpg|thumb|250px|江の島]] "湘南"や"江の島"が全国的に有名である。海岸線沿いの[[国道134号]]は、とりわけ休日において[[渋滞]]が目立つ{{efn|湘南地域において、交通量増加に見合う道路網整備が遅れたという背景もあるが、一時期は廃線の危機にあった江ノ電の復活につながった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.enoden.co.jp/train/museum/memoirs/chapter-7/story-3/ | title=モータリゼーションと江ノ電 | publisher = [[江ノ島電鉄]] | accessdate=2020-02-25}}</ref>。なお、市内区間の大部分については、[[1985年]](昭和60年)の4車線化により改善された。}}。 晴れた日の片瀬・鵠沼・辻堂海岸からの眺望は素晴らしく、東から西に[[城ヶ島|城ケ島]]、[[三浦半島]]、江の島、[[伊豆大島]]、[[利島]]、[[伊豆半島]]、[[姥島|烏帽子岩]]、[[箱根]]、[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]、[[湘南平]]、[[丹沢山地|丹沢]]・[[大山 (神奈川県)|大山]]が一望できる。(江の島の[[江の島灯台|展望台]]からはさらに[[横浜ランドマークタワー]]、[[横浜ベイブリッジ|ベイブリッジ]]、[[赤石山脈|南アルプス]]、[[高尾山]]等の360度の眺望が可能)また、三浦半島・江の島から昇る朝日、箱根・富士山に沈む夕日も美しいことで有名である。 === 名所・旧跡・観光スポット === * [[江の島]] ([[神奈川県指定文化財一覧#史跡名勝|神奈川県指定史跡名勝]])、[[かながわの景勝50選]](稚児ヶ淵)、[[かながわの美林50選]] ** [[江島神社]] ** 江の島弁財天 ** [[児玉神社 (藤沢市)|児玉神社]] ** [[江の島サムエル・コッキング苑|サムエル・コッキング苑]] - [[かながわの花の名所100選]](ツバキ)、[[関東三大イルミネーション]] * [[大庭城|大庭城址公園]] - [[かながわの花の名所100選]](ヤマザクラ) * [[大庭神社]] * [[皇大神宮 (藤沢市)|皇大神宮]] * [[白旗神社 (藤沢市)|白旗神社]] * 源義経首洗井戸 [[ファイル:SHOUJOUKOUJI.JPG|right|thumb|250px|[[時宗]]総本山・清浄光寺]] * [[清浄光寺]](遊行寺)- [[時宗]]総本山、[[登録有形文化財]]、[http://yugyoji-museum.world.coocan.jp/ 遊行寺宝物館] * [[養命寺 (藤沢市)|養命寺]] - 薬師如来坐像(国・[[重要文化財]]) * [[常光寺 (藤沢市)|常光寺]] - [[かながわ名木100選]](カヤ)<ref>[http://www.kanagawajumokuikai.jp/6.sub.html かながわ名木100選] 一般社団法人日本樹木医会神奈川県支部</ref> * [[龍口寺]] - [[龍ノ口法難|龍口刑場跡]]、[[かながわの花の名所100選]](ツバキ) * [[常立寺]] - 枝垂梅で有名 * [[聶耳]](ニエアル)記念碑 * [[旧三觜八郎右衛門家住宅]] - [[登録有形文化財]] * 旧モーガン邸<ref>[http://www.national-trust.or.jp/protection/index.php?c=protection_view&pk=1491202015 旧モーガン邸とは] 日本ナショナルトラスト</ref> * [[湘南海岸]] - [[かながわの美林50選]](マツ林) ** [[片瀬東浜海水浴場]] ** [[新江ノ島水族館]] ** [[湘南海岸公園 (藤沢市)|湘南海岸公園]] ** [[片瀬西浜・鵠沼海水浴場]] ** [[鵠沼海岸]] ** [[湘南海岸・砂浜のみち]] ** [[辻堂海岸]]([[林古渓]]作詞 [[唱歌]]「浜辺の歌」詞の舞台) ** [[辻堂海浜公園]] - ジャンボプール<ref>[http://www.kanagawa-park.or.jp/tujidou/pool.html 県立辻堂海浜公園公式ホームページ ジャンボプール] 公益財団法人神奈川県公園協会</ref>、交通公園<ref>[http://www.kanagawa-park.or.jp/tujidou/kotukoen.html 県立辻堂海浜公園公式ホームページ 交通公園] 公益財団法人神奈川県公園協会</ref>、交通展示館<ref>[http://www.kanagawa-park.or.jp/tujidou/kotutenji.html 県立辻堂海浜公園公式ホームページ 交通展示館] 公益財団法人神奈川県公園協会</ref> ** [[辻堂海水浴場]] * [[伊勢山 (藤沢市)|伊勢山]]緑地(通称 : 伊勢山公園) - [[かながわの花の名所100選]](ソメイヨシノ) * [[大清水境川アジサイロード]] * [[新林公園]] 旧小池邸(藤沢市指定文化財)<ref>[http://f-machikyo.or.jp/kouen02.htm 新林公園] 藤沢市まちづくり協会</ref> * [[長久保公園都市緑化植物園]] * [[引地川親水公園]] * [[グリーンハウス (藤沢市)|グリーンハウス]](改修工事中、2020年4月再オープン予定)<ref>[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/life/1161921_4119217_misc.pdf 県立体育センター等特定事業入札説明書] 神奈川県</ref> * [[神奈川県道451号藤沢大和自転車道線|境川サイクリングロード]] * [https://fujisawashuku-kouryukan.com/ ふじさわ宿交流館] * [[いすゞプラザ]] - 歴代トラック実車展示を中心とした民営自動車博物館 === 祭事・催事 === {| class="wikitable" |- ! 名称 !! 開催時期(変更の場合あり) !! 備考 |- | 江の島寒中神輿錬成大会 || 1月20日前後の日曜日 | |- | [[湘南藤沢市民マラソン]] || 1月下旬の日曜日 | |- | 湘南江の島春祭り || 3月半ばの土日 | |- | 江の島天王祭 || 3月半ばの土日 | |- | [[湘南台七夕まつり]] || 7月初めの7日間 | |- |マイアミビーチショー”夏”花火 |2022年7月12日、8月19日、8月23日 | |- | 清浄光寺(遊行寺)遊行の盆 || 7月末の金土日 | |- | [[辻堂諏訪神社例大祭]] || 7月26日、27日 | 人形山車4台 |- | 藤沢江の島 納涼花火 || 8月 | '''2019年 中止'''<ref name="2019hanabi">{{Cite web|和書|url=https://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/kankou/2019noryohanabi.html |title=開催中止について|publisher=藤沢市|date=2019-05-29|accessdate=2019-07-19}}</ref> |- | [[皇大神宮 (藤沢市)|皇大神宮]]例大祭 || 8月17日 | 人形山車9台 |- | 片瀬諏訪神社例大祭 || 8月23日 - 27日 | 山車5台 |- | 龍口寺法難会式 || 9月11日 - 13日 | |- | 藤沢市民まつり{{efn|1954年(昭和29年)から1965年まで「藤まつり」の名称で5月に開催されていたのが前身で1968年に「藤沢祭」となり、1974年に「藤沢市民祭り」1977年から「藤沢市民まつり」の名称になった<ref>[[#ふるさとの思い出 写真集 明治大正昭和 藤沢|『ふるさとの思い出 写真集 明治大正昭和 藤沢』1979年。]]142、149頁。</ref>。}} || 9月末の土日<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/jiti-s2/kurashi/shimin/chiiki/shiminmatsuri.html |title=藤沢市民祭り |publisher=藤沢市 |accessdate=2019-05-19 }}</ref> | |- | [[ふじさわ江の島花火大会]] || 10月中旬の土曜日 | '''2019年 中止'''<ref name="2019hanabi" /> |- | 秋の江の島大道芸まつり・[[ドラゴンボート]]レース ||10月20日前後の土日 | |- | [[湘南国際マラソン]] || 11月か12月が多い | |} === 伝統芸能 === * 西富囃子 * 川名囃子 * 江の島囃子:[[2001年]](平成13年)2月13日に[[神奈川県指定文化財一覧#無形民俗文化財|神奈川県の無形民俗文化財]]に指定された。 === スポーツ === 市内に存在するスポーツ施設については、[[藤沢市#運動施設|運動施設]] および {{C|藤沢市のスポーツ}}を参照。有名選手については[[藤沢市#スポーツ 2|出身人物]]、[[藤沢市#スポーツ 3|ゆかりの人物]]を参照。 {{See also|[[鵠沼海岸#鵠沼海岸が発展のきっかけとなったビーチスポーツ|鵠沼海岸が発展のきっかけとなったビーチスポーツ]]}} * [[ビーチバレージャパン]] * [[湘南藤沢市民マラソン]] * [[いすゞ自動車硬式野球部]] - 市内に存在した[[社会人野球]]の企業チーム。2002年に[[第73回都市対抗野球大会|都市対抗野球]]を制したが、同年末に活動を休止した。 * [[湘南ベルマーレ]] - [[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]所属のプロサッカークラブ。「ベルマーレ平塚」として[[1994年]]にJリーグ加盟。[[1999年]]まではホームタウンは[[平塚市]]単独だったが、新会社に移行した[[2000年]]からホームタウンが広域化され、藤沢市もホームタウンとなった。なお、運営会社とスタジアムは[[平塚市]]に所在している。 * [[湘南ユナイテッドBC]] - 藤沢市をメインに、近隣である[[茅ヶ崎市]]・[[寒川町]]とホームタウンとして、2022-23シーズンの[[ジャパン・バスケットボールリーグ|B3.LEAGUE]]参入を目指すプロバスケットボールチーム。 * [[東京箱根間往復大学駅伝競走]](箱根駅伝) - 往路・第3区間(戸塚中継所-平塚中継所)および復路・第8区間(平塚中継所-戸塚中継所)が、市内の[[神奈川県道30号戸塚茅ヶ崎線]](旧[[東海道]]){{efn|[[1963年]](昭和38年)の藤沢バイパス開通により移管されるまで[[国道1号]]であった。}}をコースとしており、藤沢ポイントとして計測所も設けられている。清浄光寺(遊行寺)東側の坂は遊行寺坂と呼ばれ、復路・第8区間では上りとなり難所として知られている。 * [[大相撲]]藤沢場所 - 春に行われる地方巡業。[[2019年]]で通算27回。例年満員御礼となり、[[日本相撲協会|相撲協会]]からも高く評価されている<ref>{{Cite web|和書| url=https://www.townnews.co.jp/0601/2020/03/13/521373.html | title=大相撲藤沢場所、中止に | publisher=タウンニュース藤沢版 | date=2020-03-13 | accessdate=2020-04-21}}</ref>。 == 名誉市民 == * [[片山哲]](第46代[[内閣総理大臣]]) * [[降旗徳弥]](元[[松本市]]長) * [[内山岩太郎]](元[[神奈川県]]知事) * [[深沢松美]](元松本市長) * [[金子小一郎]](元藤沢市長) * [[和合正治]](元松本市長) * [[片岡球子]](日本画家・[[文化勲章]]受章者) * [[有賀正]](前松本市長) * [[加藤東一]](日本画家・[[文化功労者]]) * 田島比呂子(田島博・友禅作家・[[人間国宝]]) * [[岡崎洋]](前神奈川県知事) * [[葉山峻]](元藤沢市長) * [[菅谷昭]](松本市長) * 山本捷雄(元藤沢市長) * [[船村徹]](作曲家・[[文化勲章]]受章者) * [[吉野彰]](工学博士・[[ノーベル化学賞]]受賞者) == 出身人物 == === 政治家 === * [[秦野章]](政治家、元[[法務大臣]]) * [[葉山峻]](元市長、元[[衆議院議員]]) * [[平野友輔]](衆議院議員) * [[星野剛士]](衆議院議員) * [[桜井郁三]](前衆議院議員) * [[鈴木恒夫 (藤沢市長)|鈴木恒夫]](藤沢市長) === 財界 === * [[山木利満]](元[[小田急電鉄]]社長、元[[日本民営鉄道協会]]会長) * [[魚津君明]]([[起業家]]、[[成功]][[転職]][[アドバイザー]]、[[著作家]]。グランツエージェント[[社長]]、キャリクリ[[社長]]) * [[谷口大典]](実業家、フリーライター、旅行家) === 官界 === * [[岡本行夫]](外交官、元[[内閣総理大臣補佐官]]) * [[金沢和夫]](元[[総務省]]審議官、熊本県・兵庫県[[副知事 (日本)|副知事]]) === 学者 === * [[内野吾郎]]([[国文学]]者、[[國學院大學]]名誉教授) * [[林巳奈夫]]([[考古学]]者) * [[平山洋]](倫理学者、[[思想史]]研究者) * [[中村研一 (政治学者)]] === マスコミ === * [[辻岡義堂]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]][[日本のアナウンサー|アナウンサー]]) * [[久冨慶子]]([[テレビ朝日]]アナウンサー) * [[鈴江奈々]](日本テレビアナウンサー) * [[小菅晴香]]([[フリーアナウンサー]]) * [[長谷部愛]]([[気象予報士]]) * [[鈴木翔太 (アナウンサー)|鈴木翔太 ]]([[東海テレビ放送|東海テレビ]]アナウンサー) === スポーツ === * [[大沢啓二]](元[[プロ野球選手]]・監督、野球評論家) * [[大沢紀三男]](元プロ野球選手・監督) * [[大沢清]](元プロ野球選手・監督) * [[小笠原慎之介]](プロ野球選手) * [[小笠原智一]](プロ野球選手) * [[金子一輝]](元プロ野球選手) * [[斉藤宜之]](元プロ野球選手) * [[佐藤友亮]](元プロ野球選手) * [[佐野川リョウ]](元海外リーグプロ野球選手) * [[高橋周平]](プロ野球選手) * [[森山孔介]](元プロ野球選手) * [[佐々木希 (野球)|佐々木希]](元女子プロ野球選手) * [[藤原里華]](プロテニス選手) * [[添田豪]](プロテニス選手) * [[諏訪魔]] ([[プロレスラー]]([[全日本プロレス]])) * [[河上隆一]] ([[プロレスラー]]([[大日本プロレス]])) * [[上福ゆき]] ([[プロレスラー]]([[東京女子プロレス]])) * [[久保田和樹]](元プロ[[ボクサー (スポーツ)|ボクサー]]) * [[岡見勇信]] ([[総合格闘家]]) * [[青木勇人 (バスケットボール)|青木勇人]] (プロ[[バスケットボール選手]]) * [[池住美穂]](元女子[[バスケットボール選手]]) * [[立石諒]](元[[競泳選手]]) * [[福森晃斗]]([[プロサッカー選手]])([[北海道コンサドーレ札幌]]所属) * [[見木友哉]](プロサッカー選手)([[ジェフユナイテッド千葉]]所属) * [[鳥海芳樹]]([[プロサッカー選手]])([[ヴァンフォーレ甲府]]所属) * [[石井大生]]([[プロサッカー選手]])([[湘南ベルマーレ]]所属) * [[栗原由太]]([[ラグビーフットボール|ラグビー]]選手)([[リコーブラックラムズ]]所属) * [[山田恵里]]([[ソフトボール]]選手)([[2004年アテネオリンピックのソフトボール競技|アテネ五輪]]銅メダリスト、[[2008年北京オリンピックのソフトボール競技|北京五輪]]・[[2020年東京オリンピックのソフトボール競技|東京五輪]]金メダリスト) === 文学 === * [[中里恒子]] (小説家、女性初の[[芥川龍之介賞|芥川賞]]受賞者) * [[芥川耿子]](エッセイスト、児童文学作家) * [[遠野遥]](小説家、平成生まれ初の[[芥川龍之介賞|芥川賞]]受賞者) === 芸術・芸能 === {{columns-list|colwidth=30em| * [[中居正広]]([[SMAP]]の元リーダー) * [[徳山璉]]([[声楽家]]) * [[麻上洋子]]([[講談師]]、[[声優]]。一龍斎春水) * [[志村幸美]](元[[劇団四季]]所属女優) * [[白井貴子 (歌手)|白井貴子]]([[シンガーソングライター]]) * [[吉田聡]]([[漫画家]]) * [[山下容莉枝]]([[俳優|女優]]、声優) * [[榎本俊二]](漫画家) * [[チバユウスケ]]([[thee michelle gun elephant]]ボーカル) * [[長崎みなみ]](声優) * [[藤井結夏]](女優、声優) * [[藤井真世]](女優) * [[土屋武士]](レーサー) * [[南流石]]([[振付師]]) * [[YOKAN]]([[音楽家|ミュージシャン]]、[[管楽器]]奏者) * [[港千尋]](写真家、作家) * [[高岡早紀]](女優) * [[高岡由美子]](元モデル) * [[SU (RIP SLYME)|SU]]([[RIP SLYME]]) * [[RED RICE]]([[湘南乃風]]) * [[DJ FUMIYA]]([[RIP SLYME]]) * [[浅田好未]](元[[パイレーツ (お笑いコンビ)|パイレーツ]]) * [[森知子]](元[[チェキッ娘]]) * [[扇愛奈]]([[シンガーソングライター]]) * [[末永遥]](女優) * [[中村真梨花]]([[女流棋士 (将棋)|女流棋士]]) * [[山嵐 (バンド)|山嵐]](YUYA OGAWA以外のメンバー) * [[北山みつき]]([[演歌]]歌手) * [[安藤誠之]]([[DREAMPOLICE]]ボーカル) * [[水島大宙]]([[声優]]) * [[西村麗子]](元ミュージカル俳優) * [[大矢剛康]](俳優) * [[島津冬樹]](段ボールアーティスト) * [[正木慎也]]([[忍者]]のメインボーカル) * [[白石隼也]](俳優、タレント) * [[今井翼]](元[[タッキー&翼]]) * [[竹内里紗 (映画監督)|竹内里紗]]([[映画監督]]) * [[鳥山雄司]]([[ギタリスト]]、作曲家) * [[安斉かれん]](歌手、女優) }} == ゆかりの人物 == {{See also|鵠沼|鵠沼海岸|神奈川県立湘南高等学校}} === 皇族 === * [[秩父宮雍仁親王]](鵠沼桜が岡の別邸で[[薨去]]。この縁から藤沢市は市立体育館に秩父宮の名を冠す) * [[東久邇宮]][[師正王]](市内鵠沼海岸の[[吉村鉄之助]]別荘に避暑滞在中、[[関東大震災]]に遭難し薨去) ==== 皇族関係 ==== * [[小室圭]]([[秋篠宮文仁親王]]第1女子[[小室眞子|眞子]]の夫で、アメリカ・ニューヨーク州の弁護士) - 小室圭本人は横浜市出身だが、父親が藤沢市善行坂出身である。 === 政治家・官僚 === * [[広田弘毅]](政治家、元[[内閣総理大臣]]) * [[片山哲]](政治家、元内閣総理大臣) * [[藤井裕久]](政治家、元[[財務大臣 (日本)|財務大臣]]) * [[水戸将史]]([[参議院議員]]) * [[中塚一宏]]([[衆議院議員]]) * [[杉原千畝]]([[官僚]]、[[外交官]]。晩年、藤沢市に住んだ) === 財界 === * [[高瀬弥一]](実業家) * [[天野芳太郎]](実業家) === 学者 === * [[和辻哲郎]]([[哲学者]]、[[倫理学]]者) * [[安倍能成]](哲学者) * [[林達夫]]([[思想家]]、評論家) * [[林巳奈夫]]([[考古学者]]、林達夫の長男) * [[板倉宏]]([[刑法学]]者) * [[江口朴郎]]([[歴史学者]]) * [[松岡静雄]]([[民族学]]者) * [[大類伸]]([[歴史学者]]) * [[高木和男]]([[栄養学]]者 少年期に移住<ref>[http://shounaneishi.blog100.fc2.com/blog-entry-3.html NPO湘南栄養指導センター] 設立者 高木和男</ref>) * [[平野雅章 (経営学者)|平野雅章]](経営学者) * [[吉野彰]]([[化学者]]) === マスコミ === * [[扇一平]]([[文化放送]][[アナウンサー]]) * [[國枝すみれ]]([[毎日新聞社]][[記者]]) === スポーツ === * [[織田幹雄]] - 元[[陸上選手]]・日本人初のオリンピック金メダリスト * [[野村収]] - 元プロ野球選手 * [[杉山愛]] - 元プロ[[テニス選手]] * [[諏訪魔]] - [[プロレスラー]] * [[福田正博]] - 元[[プロサッカー選手]]([[浦和レッドダイヤモンズ|浦和レッズ]]) * [[石井美樹]] - 女子[[バレーボール選手]] * [[高木駿]] - プロサッカー選手([[大分トリニータ]]) * [[今井志穂]] - 元女子野球選手 * [[山田恵里]] - 女子[[ソフトボール]]選手、金メダリスト * [[都筑有夢路]] - 女子[[サーファー]]、銅メダリスト * [[本多灯]] - 男子[[競泳]]選手、銀メダリスト * [[武藤弘樹]] - 男子[[アーチェリー]]選手、銅メダリスト === 文学 === * [[芥川龍之介]] * [[武者小路実篤]] * [[内藤千代子]]([[小説家]]) * [[いいだもも]]([[作家]]、評論家) * [[阿部昭]](小説家) * [[今井達夫]](小説家) * [[加古里子]]([[絵本作家]]、児童文学者「かこさとし」) * [[佐江衆一]](小説家)「藤沢さんぽみち 藤沢三十六景」執筆 * [[内藤千代子]](小説家) * [[室伏哲郎]](作家、評論家) * [[平井和正]](小説家) === 芸術・芸能 === {{columns-list|colwidth=30em| * [[赤木圭一郎]]([[映画俳優]]) * [[芥川比呂志]]([[俳優]]) * [[芥川也寸志]]([[作曲家]]) * [[甘糟記子]]([[ファッションモデル]]) * [[安斎肇]]([[イラストレーター]])市内在住<ref>[http://hotweb.tokyo-np.co.jp/myhome/201502.html ようこそ!マイホームタウン] 東京新聞ほっとweb</ref> * [[杏里]] - 初代「ふじさわ観光親善大使」 * [[井口小夜子]]([[童謡歌手]]) * [[磯部俶]](作曲家) * [[大島渚]]([[映画監督]]) * [[大野幹代]](元[[CoCo (アイドルグループ)|CoCo]]) * [[風間トオル]] - 市内在住(俳優・[[モデル (職業)|モデル]]) * [[片岡球子]]([[日本画家]]) * [[桂文枝 (5代目)]]([[落語家]]、[[海軍電測学校]]に在籍した) * [[菊地信義]]([[装幀家]]) * [[岸田劉生]]([[洋画家]]) * [[黒崎義介]]([[童画|童画家]]) * [[木原実 (タレント)|木原実]](俳優、声優、[[気象予報士]]) * [[小森和子]]([[映画評論家]]、タレント) * [[小山明子]]([[俳優|女優]]) * [[佐々木壮六]]([[洋画家]])市内在住、創作活動 * [[菅沼五郎]]([[彫刻家]]) * [[セイン・カミュ]]([[外国人タレント]]) * [[武田双雲]](書道家)市内在住、鵠沼海岸でギャラリーカフェ経営 * [[多田武彦]](作曲家) * [[田村孝之介]](洋画家) * [[ちあきなおみ]]([[歌手]]) * [[土屋昇平]] - 市内在住(作曲家) * [[堤剛]]([[チェリスト]]) * [[つるの剛士]] - 2008年から市内在住(俳優)※福岡県北九州市生まれ * [[富田京子]](元[[プリンセス・プリンセス]]) * [[中島誠之助]](骨董商・古美術鑑定家) * [[西田ひかる]]([[タレント]]、女優) * [[根本雄伯]]([[ホルン]]奏者) * [[林隆三]](俳優) * [[ビッグ錠]]([[漫画家]]) * [[福永陽一郎]](指揮者) * [[船村徹]](作曲家、45年以上在住) * [[真木蔵人]] - 藤沢駅近くで「three dice」をプロデュース * [[正木慎也]](元[[忍者 (グループ)|忍者]]) * [[三浦りさ子]]([[ファッションモデル]]、[[三浦知良]]選手夫人) * [[森次晃嗣]] - [[ウルトラセブン]] [[ウルトラセブン (キャラクター)#モロボシ・ダン|モロボシ・ダン]]役、藤沢市鵠沼海岸でレストランを経営。 * [[安田謙一郎]](チェリスト) * [[萬屋錦之介]](俳優) * [[H-MAN]](レゲエDJ) * [[NANJAMAN]](レゲエDJ) * 片岡嗣実(元[[パーキッツ]]) }} == 藤沢市を舞台とした作品 == {{See also|[[鵠沼#鵠沼を舞台にした作品|鵠沼(作品の節)]]|[[鵠沼海岸#鵠沼海岸を主に描いた芸術作品|鵠沼海岸(芸術の節)]]|[[江の島#文化|江の島(文化の節)]]}} === 漫画 === 注記がないものは連載終了した作品である。 * [[MFゴースト]]([[しげの秀一]]作 [[講談社]] [[週刊ヤングマガジン]] '''連載中''') : [[箱根]]でのカーレースが中心であるが、主人公とヒロインが[[片瀬江ノ島駅]]から帰宅する場面で[[片瀬海岸]]在住と判る{{efn|[[頭文字D]]の作品世界における近未来とされるが、片瀬江ノ島駅の描写は改築前に酷似している。}}。第一巻表紙を始め、[[江の島]]も頻繁に登場する。 * [[アイシールド21]]([[稲垣理一郎]]、[[村田雄介]]作 [[集英社]] [[週刊少年ジャンプ]]) : 江の島付近に本来は存在しない陸上競技場が登場。江の島は実名で登場している。 * [[疾風伝説 特攻の拓]]([[佐木飛朗斗]]、[[所十三]]作 講談社 週刊少年マガジン) : 作中に登場する「鵠沼南台中学校」のモデルは[[藤沢市立鵠沼中学校]]。また、物語の途上で鵠沼、江の島などが舞台として登場している。 * [[ケンコー全裸系水泳部 ウミショー]] ([[はっとりみつる]]作 講談社 週刊少年マガジン) : 作中は神奈川県海猫市となっている。 * [[健太やります!]]([[満田拓也]]作 [[小学館]] [[週刊少年サンデー]]) : バレーボールの強豪校として登場する私立誠陵学園高校や藤沢実業高校は「[[藤沢翔陵高等学校]]」などがモデルになっている。 * [[湘南純愛組!]]([[藤沢とおる]]作 講談社 週刊少年マガジン) : 藤沢市内に本来存在しない「辻堂高校」「江ノ島商業」などが登場。それ以外は藤沢の街並や江の島などの風景が描かれている。 * [[SLAM DUNK]]([[井上雄彦]]作 集英社 週刊少年ジャンプ) : 作品中に登場する湘北高校は、藤沢市内に実在する「[[湘南高等学校]]」(外観は都立武蔵野北高校)、海南大付属高校は「[[湘南工科大学附属高等学校]]」がモデルになっている。余談で、陵南高校は藤沢市に隣接している鎌倉市の「[[神奈川県立鎌倉高等学校]]」、翔陽高校は同じく隣接の横浜市の「[[松陽高校]]」がモデル。 * [[ノイローゼ・ダンシング]]([[山下ユタカ]]作 講談社 週刊ヤングマガジン) : [[神奈川県道312号田谷藤沢線]]に面した街並や、[[藤沢駅]]周辺の風景などが描かれている。 * [[ピンポン (漫画)|ピンポン]]([[松本大洋]]作 小学館 [[ビッグコミックスピリッツ]]) : 作中に登場する片瀬高校は「[[七里ガ浜高等学校]]」がモデルになっている。また、江ノ電と共に江の島近辺の風景が描かれている。 * [[ホットロード]]([[紡木たく]]作 集英社 [[別冊マーガレット]]) : 湘南エリア一帯が舞台で、主人公が[[鵠沼海岸]]の近辺に住んでいる。 * [[魔法先生ネギま!]]([[赤松健]]作 講談社 週刊少年マガジン) : 小田急[[片瀬江ノ島駅]]のパロディ「片瀬白ノ島駅」が登場した。 * [[みずたまリンドウ]]([[宗我部としのり]]作([[メディアファクトリー]]『[[月刊コミックアライブ]]』) : ヒロインは江ノ島の架空神社の[[巫女]]。 * 妖魔の騎士([[葉月秋子]]作([[秋田書店]]『月刊サスペリア』 現『[[サスペリアミステリー]]』)) : 地名は表れないが、作中主人公が走る自宅に近い海岸のモデルは[[鵠沼海岸]]と見られ、今はなき[[東急レストハウス]]が描かれている。 * [[ベイビーステップ]]([[勝木光]]作 講談社 週刊少年マガジン) : 作中の登場人物、丸尾栄一郎及び鷹崎奈津の所属する南テニスクラブ(通称STC)は、藤沢市に実在する[[荏原湘南スポーツセンター]](通称荏原SSC)、また2人の通う大杉高校の校舎等は同市にある「[[藤沢翔陵高等学校]]」がモデルになっている。 * [[エリアの騎士]]([[月山可也]]作 講談社 週刊少年マガジン) : 主人公の逢沢駆は、実在はしない江ノ島高校のサッカー部の出身である。 * [[江の島ワイキキ食堂]]([[岡井ハルコ]]作 [[少年画報社]] [[ねこぱんち]]) : 江島神社辺津宮近くにある架空の食堂が舞台。 * [[神様、キサマを殺したい。]]([[松橋犬輔]]作 集英社 [[少年ジャンプ+]]) * [[ほづみりや|Vet's Egg]] ([[ほづみりや]]作 講談社 [[月刊アフタヌーン]]) : [[日本大学生物資源科学部・大学院生物資源科学研究科及び獣医学研究科|日大獣医学科]]が舞台のモデル。作者は同学科の卒業生<ref>[http://www.brs.nihon-u.ac.jp/news/2237.html 日本大学 ニュース]</ref>。 === アニメ === * [[BLEACH (アニメ)|BLEACH]]:「空座町(からくらちょう)」は、藤沢市の位置に存在している。 * [[ぼくらの]] 冒頭に登場する島が江ノ島。 * [[侵略!イカ娘|侵略!?イカ娘]] 東浜海水浴場、江の島 青銅の鳥居、江ノ島駅、「片瀬東浜」交差点が登場する。 * [[陸上防衛隊まおちゃん]]:防衛隊本部は江ノ島がモデルとなっている。 * [[天空のエスカフローネ]]:作中の現実世界の舞台は大部分が鎌倉市であるが、主人公が学校からの帰宅中に立ち寄った場所として藤沢駅北口が1カット描かれている。 * [[うた∽かた]]:舞台は鎌倉市だが、江ノ島を訪れる回がある。 * [[つり球]]:江ノ島周辺が舞台。主人公・真田ユキらが江ノ島に住んでおり、隣接する鎌倉市の高校に通っている。 * [[TARI TARI]]:江ノ島〜鎌倉周辺が舞台。主人公・坂井和奏が江ノ島の土産物店に住んでおり、隣接する鎌倉市の高校に通っている。 * [[ベイビーステップ]]:藤沢市善行が舞台となっている。 * [[エリアの騎士]]:江ノ島が舞台となっている。(放送は2012年9月に終了) * [[きみの声をとどけたい]]:概ね[[江ノ電]]の[[江ノ島駅]]から[[鎌倉高校前駅]]にかけての地域をモデルとしている。特に藤沢市内では、[[龍口寺]]をモデルにした寺院が物語の重要な施設の一つとして登場する。 * [[Just Because!]] : 主人公たちが通う高校は[[神奈川県立深沢高等学校|県立深沢高]]がモデルで、同校は鎌倉市と藤沢市の境界上に位置する。市内の[[新江ノ島水族館]]といった有名スポット、市街地、住宅地、田園風景が描かれる。[[ビックカメラ]]藤沢店ではタイアップ企画として同店限定の店内放送が実施された。(終了) * [[青春ブタ野郎シリーズ|青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない]] : 主に江ノ電沿線が舞台となっており、作中では藤沢駅や江の島でのシーンがある。 藤沢市における映像制作支援制度については[[湘南藤沢フィルム・コミッション]]の項を参照。 === ゲーム === * [[ゴッドイーター]]:主人公の所属する極東支部の所在地は「旧神奈川県藤沢市」とされている。 * [[月の彼方で逢いましょう]]:鎌倉市とともに主人公の生活圏となる === ドラマ === * [[おれは男だ!]] : [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系のテレビドラマで、青葉高校のロケは、藤沢商業高等学校(現:[[藤沢翔陵高等学校]])。 * [[青い瞳の聖ライフ]] : [[フジテレビジョン|フジテレビ]]系のテレビドラマ。 * [[太陽と海の教室]] : フジテレビ系のテレビドラマ<ref name="koho2010-3-10-p2">{{Cite web|和書|author= |date= |url=http://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/kouhou/khf100310/sisei02.html |title=ロケ支援から地域を豊かに! 〜湘南藤沢フィルム・コミッション |publisher=藤沢市 |accessdate=2018-08-16}}</ref>。 * [[とめはねっ! 鈴里高校書道部#テレビドラマ]] : NHKのテレビドラマ<ref name="koho2010-3-10-p2" />。 * [[流れ星 (2010年のテレビドラマ)|流れ星]] : フジテレビ系のテレビドラマ。 * [[終電バイバイ]] : [[TBSテレビ|TBS]]系のテレビドラマ。登場回は第5話「片瀬江ノ島駅」。 * [[パーフェクトワールド (有賀リエの漫画)|パーフェクトワールド]] 2019年:重要デート先として、江ノ島が登場。 === 映画 === *むぎめし学園 (1953年):当時善行に存在した[[唐池学園]]の[[戦災孤児]]と教師たちの姿を描いた作品。[http://db.eiren.org/contents/03000008188.html 映連データベース] * 出撃 - 1963年(昭和38年)、日活、監督 : [[滝沢英輔]]、出演 : [[伊藤孝雄]]。藤沢飛行場でロケーション撮影<ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=https://www.nikkatsu.com/movie/20765.html |title=出撃 |publisher=日活 |accessdate=2022-09-11}}</ref>。 *[[20世紀少年 (映画)|20世紀少年]]2008年 - 2009年 : 藤沢駅北口周辺で[[ロケーション撮影]]がされた<ref name="koho2010-3-10-p2" />。 *[[陽だまりの彼女]](2013年):主人公たちの出身地が藤沢。江ノ島も登場。 * [[未来シャッター]](2015年) [[高橋和勧]] 監督 <ref>[https://shop.gyosei.jp/products/detail/8414 月刊 ガバナンス「FACE/高橋和勧」、2014年2月号閲覧。]</ref>:藤沢市内外を舞台に[[公共機関]]、[[教育機関]]、地域金融機関、[[労働組合]]、企業や[[商工業]]事業者、[[寺院]]ら多数が撮影に協力し実在の人物も本人役でも登場する。故[[菅原文太]]が内諾していたナレーションは、[[宇梶剛士]]が遺志を引き継いでいる<ref>[http://s945ebaec4d9d20e5.jimcontent.com/download/version/1435317449/module/12124401590/name/20150626_%E8%A6%8B%E3%81%A6%E7%B5%82%E3%82%8F%E3%82%8A%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%8F%E3%80%81%E8%A6%8B%E3%81%9F%E5%BE%8C%E3%81%8C%E9%87%8D%E8%A6%81%E3%81%AA%E6%98%A0%E7%94%BB%E3%80%80%20%E5%B8%82%E6%B0%91%E5%85%A8%E5%93%A1%E5%8F%82%E5%8A%A0%E5%9E%8B%E3%81%AE%E3%80%8C%E6%9C%AA%E6%9D%A5%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%80%8D%20_%20%E6%A0%AA%E5%BC%8F%E4%BC%9A%E7%A4%BE%E5%85%B1%E5%90%8C%E9%80%9A%E4%BF%A1%E7%A4%BE.pdf] [[共同通信社]]<span>、2015年6月23日配信、閲覧</span></ref><ref>[https://www.athome.co.jp/vox/ovo/all/45498/ 見て終わりではなく、見た後が重要な映画 市民全員参加型の「未来シャッター」 |] [[共同通信社]]<span>(OVO オーヴォより)、2015年6月24日配信、閲覧</span></ref>。[[遊行寺]]74代[[遊行上人]][[他阿真円]]、[[日本大学]]生物資源科学部、湘南キャンパスの農場、藤沢市観光センター、[[ワーカーズコープ]]等。“人間は本来なにを目的にしているのか、などを問う作品”<ref>[http://mainichi.jp/articles/20160221/ddl/k14/040/087000c 藤沢の未来語ろう、映画鑑賞と交流会/神奈川、毎日新聞、2016年2月21日掲載]</ref> *[[パーフェクトワールド (有賀リエの漫画)|パーフェクトワールド]] 君といる奇跡 2018年:重要デート先として、江ノ島が登場。 : === 文学 === {{Main|[[鵠沼#鵠沼を舞台にした作品|鵠沼(作品)]]|[[鵠沼海岸#文学|鵠沼海岸(文学)]]|[[江の島#文学作品|江の島(文学)]]|[[小栗判官]]}} * 夕焼け少年 : [[嵐山光三郎]] 著。終戦直後の[[藤沢駅]]周辺を舞台にした自伝的小説。 * [[青春ブタ野郎シリーズ]] : [[鴨志田一]] 著の小説作品群。後にアニメ化。 === 歌 === {{See also|[[江の島#音楽|江の島(音楽の節)]]}}    [[神奈川県のご当地ソング一覧#藤沢市|神奈川県のご当地ソング一覧]]も合わせ参照 藤沢(江の島・鵠沼・辻堂、江ノ電等)が舞台または描かれた歌 {{columns-list|colwidth=30em| * [[真白き富士の根]] * 浜辺の歌 * 江の島悲歌([[菅原都々子]]) * 江の島夜歌(菅原都々子) * 江の島月夜(菅原都々子) * 湘南 夏([[かぐや姫 (フォークグループ)|かぐや姫]]) * [[江ノ島]]([[サニーデイ・サービス]]) * [[NUDE MAN#収録曲|夏をあきらめて]](サザンオールスターズ、[[研ナオコ]]) * [[DIRTY OLD MAN 〜さらば夏よ〜#収録曲|太陽に吠える!!]](サザンオールスターズ) * [[ステレオ太陽族#収録曲|夜風のオン・ザ・ビーチ]](サザンオールスターズ) * [[01MESSENGER 〜電子狂の詩〜#収録曲|SEA SIDE WOMAN BLUES]](サザンオールスターズ) * [[マンピーのG★SPOT#収録曲|メリージェーンと琢磨仁]](サザンオールスターズ) * [[湘南My Love]]([[TUBE]]) * はよつけ鎌倉(TUBE) * [[OASIS (TUBEのアルバム)|Fujisawa Sunlight]](TUBE) * [[灼熱らぶ]](TUBE) * 紫陽花のうた([[浜田省吾]]) * ゆれて湘南([[石川秀美]]) * ひねくれて藤沢([[扇愛奈]])ミニアルバム「扇愛奈入ります」内に収録 * [[藤沢ルーザー]]([[ASIAN KUNG-FU GENERATION]]) * 鵠沼サーフ(ASIAN KUNG-FU GENERATION) * [[転がる岩、君に朝が降る|江ノ島エスカー]](ASIAN KUNG-FU GENERATION) * シャボン([[長山洋子]]) * 真夏の鵠沼(「5050」) * 私の水平線([[大光寺圭]]) * 長後街道(大光寺圭) * 藤沢のうた([[増田ジゴロウ]]) * このまちにうまれて(つじむらゆみこ) * 好きだけでよかった(つじむらゆみこ) * 江ノ島オーケン物語([[特撮 (バンド)]]) * 真夏の屯田兵〜yeah! yeah! yeah!〜([[The Mirraz]])}} == ナンバープレート == 藤沢市は、湘南ナンバー([[神奈川運輸支局]])を割り当てられている。 ; 湘南ナンバー割り当て地域 * 平塚市・藤沢市・茅ヶ崎市・小田原市・秦野市・伊勢原市・南足柄市・高座郡(寒川町)・中郡(大磯町、二宮町)・足柄上郡(大井町、開成町、中井町、松田町、山北町)・足柄下郡(箱根町、真鶴町、湯河原町) == その他 == [[厚木海軍飛行場|厚木飛行場]]を離着陸する軍用機の飛行経路に位置し、騒音が特に激しい地域に対しては[[防衛施設周辺の生活環境の整備等に関する法律|環境整備法]]に基づき住宅防音工事および空調用光熱費の助成対象地域に指定されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mod.go.jp/rdb/s-kanto/20_Second_level/03_bout/03_peripheral/jyutakubouon/jyutakubouon001/aramasi.pdf| title=住宅防音工事のあらまし|source=pdf|publisher=[[南関東防衛局]]|year=2019|accessdate=2019-08-15}}</ref>。おおむね[[藤沢バイパス]]より北側の引地川以西に限られていたが、[[2006年]](平成18年)の基準見直しにより[[WECPNL]]75以上の地域も追加となり、海岸線に至る広範囲において家屋竣工時期などの諸条件を満たした家屋で申請可能となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mod.go.jp/rdb/s-kanto/20_Second_level/03_bout/03_peripheral/jyutakubouon/jyutakubouon001/hp-fujisawashi.pdf| title=厚木飛行場に係る第一種区域等指定参考図・藤沢市|source=pdf|publisher=南関東防衛局|year=2008|accessdate=2019-08-15}}</ref>。 1988年、[[湘南ライフタウン]]区域内の[[茅ヶ崎市|茅ヶ崎]]市民が藤沢市への編入を求める住民運動が発生した。茅ヶ崎市からの教育事務委託という形で小学生の越境通学が認められた例のように、該当する地域に対し教育面で不利が生じないよう措置され、(少なくとも行政上は)一応の解決をみた。 {{main | 湘南ライフタウン#市境問題}} 市公式マスコットとして、2009年、市鳥をモチーフとした「カワセミくん」<ref>[http://chara.yapy.jp/chara/fujisawa_kawasemikun/ イメキャラBOOK] カワセミくん</ref>が登場し、市の刊行物で多用された。その後、命名募集コンテストなどを経て、ふじキュン♡<ref>[https://www.fujisawa-citypromo.com/fujikyun/index.html キュンとするまち。藤沢] プロフィール</ref>が2015年に登場。交代の経緯は不明。他に、選挙投票率向上キャンペーンに登場する「ひょう太」<ref>[https://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/senkan/kurashi/senkyo/sedo/nagare.html ひょう太による投票の流れ] 活動例</ref>がいる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === <!-- ※出典(脚注):[[Help:脚注|ref]]タグ(<nowiki><ref>と</ref></nowiki>)の間に記述された内容はここに列挙されます。追加した本文中の情報の後に脚注(refタグ)を導入し、実際に参考にした出典(書籍、論文、資料やウェブページ、およびその文献参照ページなど)の明示に用いてください。--> {{Reflist|colwidth=30em}} == 参考文献 == <!-- ※参考文献:実際に参考にした文献一覧(本文中の追加した情報の後に脚注を導入し文献参照ページを示して、実際に参考にした出典〈書籍、論文、資料やウェブページなど〉のみを列挙して下さい。実際には参考にしていないが、さらにこの項目を理解するのに役立つ関連した文献は、「関連文献」などとセクション名を分けて区別して下さい。)。文献の提示がない場合はコメントアウトとしておく。--> * 荒井酒竹『武相のぞき』武相大観社、1926年。 * 『神奈川の畜産 昭和九年三月』神奈川縣内務部、1934年。 * {{Cite book |和書 |author =服部清道 |title = ふるさとの思い出 写真集 明治大正昭和 藤沢 |date = 1979-07-20 |publisher = 国会刊行会 |ref = ふるさとの思い出 写真集 明治大正昭和 藤沢 }} * {{Cite book |和書 |author = |editor = [[児玉幸多]] |title = 藤沢-わがまちのあゆみ- |edition = 増補版 |date = 1984-10-01 |publisher = [[藤沢市文書館]] |series = |isbn = |page = |pages = |ref = 藤沢-わがまちのあゆみ-(増補版) }} == 関連項目 == <!-- ※関連項目:本文記事を理解する上での補足として役立つ、関連性のある項目へのウィキ間リンク(姉妹プロジェクトリンク、言語間リンク)、ウィキリンク(ウィキペディア内部リンク)。可能なら本文内に埋め込んで下さい。--> {{Sisterlinks|wikt=no|b=no|q=no|s=|commons=藤沢市|commonscat=Fujisawa, Kanagawa|n=|v=no|voy=Fujisawa|d=Q386661|species=Fujisawa Kanagawa}} * {{Prefix|藤沢市}} * [[日本の市町村の廃置分合]] * [[大山道|田村通り大山道]] * [[SiM]] - ロックバンド<!-- メンバー3名の地元は辻堂。(詳細は当該項を参照)--> * [[チロル (バンド)]] - メンバー全員が[[神奈川県立藤沢総合高等学校|藤沢総合高校]]卒業生のロックバンド。 == 外部リンク == * {{Osmrelation|2689443}} * {{ウィキトラベル インライン|藤沢市|藤沢市}} * {{Official website|name=藤沢市}} * {{Facebook|fujisawacity|カラフルフジサワ(藤沢市)}} * {{Twitter|Bousai_Fujisawa|ふじさわ防災ナビ〜ツイッター}} * {{Instagram|fujisawakyun|キュンとするまち。藤沢【藤沢市公式】}} * {{LINE公式アカウント|fujisawacity}} * [https://www.enopo.jp/ えのしま・ふじさわポータルサイト] - [[えのしま・ふじさわポータルサイト]]官民協働の地域情報[[ポータルサイト]] * [https://www.fta-shonan.jp/ 藤沢市観光協会] * [http://digital.city.fujisawa.kanagawa.jp/ 藤沢市文書館] - 古地図、写真図画、藤沢市史( 当館について > 市史編さん > 藤沢市歴史年表 ) {{Geographic Location |Centre = 藤沢市 |North = [[綾瀬市]] / [[大和市]] |Northeast = [[横浜市]][[泉区 (横浜市)|泉区]] |East = [[横浜市]][[戸塚区]]<br />[[鎌倉市]] |Southeast = |South = [[相模湾]] |Southwest = |West = [[寒川町]]<br />[[茅ヶ崎市]] 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主権
主権(しゅけん、仏: Souveraineté、英: Sovereignty)とは、国家の構成要素のうち、最高・独立・絶対の権力、または近代的な領域国家における意思決定と秩序維持における最高で最終的な政治的権威を指す。国家主権(こっかしゅけん)のこと。国が国家であるために有する権利。 具体的には以下の3つが基本的意義となる。 元々のフランス語、英語での意味は「至上、最高、他より上位の」であり、多義的な用語・概念で、論者によって様々な意味が盛りこまれるため、また、国家や政府、そして国家の独立や民主主義に関するものであるため、主権概念については多くの論争がある。 また国際関係を規律する国際法では各国の主権が平等で尊重されるとともに制限されるなど多くの問題を残している。 元々はヨーロッパの政治において「至高性」を指す用語・概念で、フランス国王の権力が、一方ではローマ皇帝や教皇に対し、他方で封建領主に対して、独立であったり最高の存在であることを示すための用語として登場した。 宗教戦争の最中、反抗的な封建諸侯に対してフランス王の権力を正当化するためにジャン・ボダンは「主権とは国家の絶対的かつ恒久的権力である」と定義した。ボダンはsouverainetie(主権)と共にmajeste(至上権、尊厳、権威)やsumma potestas(最高の権能)も同義語として使っている。ボダンの主権論は封建主義からナショナリズムへの移行を促進することとなった。 トマス・ホッブズは主権概念は近代化され、全ての正式の国家において特定の個人または人々の体は至高かつ絶対の権威を保有すると法で布告すべきであるし、この権威を分けることは国家の統一性を本質上破壊するものであるとした。ロックやルソーらの社会契約論によって国民主権・人民主権(Popular sovereignty)の教義が生まれ、アメリカ合衆国の独立(1776年)やフランス革命にも影響を与えた。 国際法における概念としては、ヨーロッパ全土を巻き込んだ宗教戦争の到達点であるヴェストファーレン条約によって確立された。その後、近代国家が形成され発展する過程で、さまざまな政治的背景を織り込みつつ、様々な意味で用いられるようになった用語である。 語源はラテン語のsuperanus であり、フランス語souverainetéである。 また、日本語で「主権」と翻訳したことで権利の概念と紛らわしいことも指摘されている。 主権の基本的意義とは、「国家(領土・領海・国民・国家体制など)を支配する権限」である。言い換えれば、一定の境界(領界)を持つ基盤的な集団的自己決定権、すなわち国家機関と国民の行動に関してその正当・不当の如何を確定する国家における権利のことを指す。 具体的な内容については、実定法上も用いられるものとして、次の三つの基本的意義が一般的な理解としてある。 第一に、国権(国民を統治し支配する国の権力)ないし統治権、国民および国土(領土)を支配する権利(例:ポツダム宣言8項)。 「国家が内に対して最高至上である」ということが、「主権」の内容として語られる。近代国家においては、国家は、自らの領土において、いかなる反対の意思を表示する個人・団体に対しても、最終的には、物理的実力(physische Gewalt)を用いて、自己の意思を貫徹することができる。この意味で、国家は対内的に至高の存在であり、これを「主権的」と表現するのである。私法上の権利と区別された公法上の権利であるという意味で高権とよばれることもあり、国民に対する支配権を「対人高権」、領土に対する統治権即ち「領土高権」という。 主権は国家における最高の統治権であるが、統治権一般、国家機構が行使する統治の実権とは別ものであり、主権以外の統治権が明確であるのに対して民主主義国家においては主権は不明確であり、その所在である主権者も曖昧模糊としている。 第二に、国権の属性としての最高独立性(例:日本国憲法前文3項)。国家が他国からの干渉を受けずに独自の意思決定を行う権利としての国家主権。内政不干渉の原則および国家主権平等の原則(国際連合憲章第2条第7項、友好関係原則宣言)では、各国は明確な領域に基づく国家管轄権を確立し、その管轄領域内への他の国家の介入を排除される。したがって、主権を排他的管轄権としての公権力と定義することもできる。 グスタフ・ラートブルフは「主権は国際法的主体性に外ならない。即ち国家は主権的であるが故に国際法主体であるのではなく,国際法主体であるが故に主権的であるのである」とし、主権は国際法、国際関係を前提としたものであるとする。 ハインリヒ・トリーペルは国際法の基礎を国家間の合意におき、またH.コルテ(Korete)は主権を他の支配力からの独立として把握し、H.ヤライス(Jahrreiss)は外部の支配者に従属することのない場合に国家が主権的であるとした。したがって対外的には主権と独立は同義であるとされた。1923年アメリカのモンタナ州最高裁判所は主権を「それによって独立国家が統治せられる最高・絶対・無制約の権力」と定義した。このように国家が他の国家権力に拘束されないことを対外主権という。 近代国際法においては、国家間の「主権平等の原則」が認められており、国家は主権的地位において平等であるとされる(国際連合憲章2条、友好関係原則宣言)。主権平等原則に基づき、一国一票制をとっている 第三に、国家統治のあり方を終局的に決定しうる権威ないし力。国家の政治を最終的に決定する権利(例:国民主権や君主主権といわれる場合の主権観念のこと。日本国憲法前文1段および1条。 ある国家のうちで、「国政の在り方を最終的に決定する最高の地位にある機関は『誰』なのか?」あるいは「実際に最終的に決定する『力』を持っているのは『誰』なのか?」という帰属主体の問題も「主権」の問題として語られる。その場合の「最終的に決定する『力』」とは何かという問題もあるが、一般には、最高法規である憲法を制定する権力、即ち、憲法制定権力(独:erfassunggebende Gewalt, 仏:pouvoir constituant)であるとされている。ただし、その性質については、本当の「力」であるという実力説、機関としての権限であるという権限説や監督権力説など諸説がある。 主権を権力とする主張(ボダン、アイザイア・バーリン、Jo-Anne Pemberton ペンバートン)に対して、主権を権威とする主張もある(ウィリアム・ブラックストン、アーネスト・バーカー、オークショット、ロバート・ジャクソン)。アーネスト・バーカーは「主権は最終決定権を持つ権威である」と定義する。また、権力と権威を複合的な力としてヒンズリーは「共同体に最終的・絶対的な政治的権威」として主権を定義する。 戦後は、平和主義と国際協調主義の下、主権を制限し、または国際機関に委譲できる旨の規定を有する憲法(ドイツ連邦共和国基本法第24条、イタリア共和国憲法第11条)があるが、これが伝統的な絶対性を特徴とする主権概念の相対化を示すものであるかどうかは議論がなされている。 他方、佐々木毅は主権制限論に対して内在的制限と外在的制限という二つの基準を設定し、内在的制限では主権の絶対性は制限を内包したものと解し、他方の外在的制限では、主権は無制限絶対的であるが他の国家構成要素との関係で外在的に制限を受けるとする。このような制約外在説では、ボダンのいう「正しき統治」は統治論の問題となり、主権を主権たらしめるものは諸制限への服従ではなくその権力の永遠性と絶対性であり、従って主権論の中でその制限論に言及する必要はないとされる。 古典期以前の君主政ギリシアには「主権」の概念はなかったが、少なくともアリストテレスの時代には主権概念の萌芽は存在した。古代ギリシアのポリスは国家とも訳されるが、明確にその意義は区別されていない。しかし、アリストテレスにとって人間はポリス的存在であり、また政治社会ポリスは人間集団または共同体の最高形態であった。ポリスは部族社会から十分に分離されたものではなかったし、国家の形態を生み出したわけではなかった。しかし、アリストテレスは『政治学』で、至高の権力を有する役(国政に携わる役職)を秩序づけたものを国制としており、ここに主権概念の萌芽を見ることができる。アリストテレスのこの定義はボダンの主権理論に影響を与えたが、ボダンのような「主権による統治」といった観念はみられない。 ローマのimperiumは主権概念に近いものであったが、市民権または軍事上の命令権にすぎなかった。ローマの法学者で『ローマ法大全』にその多くの学説が採録されたドミティウス・ウルピアーヌスは「元首は法に拘束されず」(princeps legibus solutus est)、「元首の意思は法律としての効力を有する」(Quod principi placuit、legis habet vigorem)と法解釈をした。このウルピアーヌスの命題についてダントレーヴはsummma potestas(最高の権力)の存在が前提とされているという。また、ウルピアーヌスのlegibus solutusは、法を超越した主権者という思想、法の拘束から解放された主権というボダンにも影響を与えた。 10世紀になるとフランスでsouvrainという言葉が使用されており、これはラテン語supremusに由来するもので「最上位のもの」であった。当時は国内の権力が多元化しており、国王のみを主権者とはみずに、「すべてのバロンは封土内において主権者である」として封建諸侯も主権者とよばれた。 1100年頃ボローニャに法学校ができ、やがて大学へと発展して、1240年にローマ法大全の標準注釈が編纂されると、全ヨーロッパから留学生が集まるようになり、ローマ法が普及していった。中世のフランスのレジスト(Legisten、レギステン)と呼ばれるローマ法の注釈学者の一派が主権概念に先鞭をつけたとされる。ローマ法普及に伴いカトリック教会は、宗教的権威を背景に教会法を制定し、独自に教皇領を持って世俗的な権力を行使するようになっていった。ダントレーヴによれば、主権概念が最初に整然と仕上げられたのは、教会を弁護する教会法の学説においてであった。教皇は地上における最高の権威・権力の完全性(plenitudo potestatis)を持つとされ、これは近代的な主権概念に近い。中世ヨーロッパはレス・プブリカ・クリスティアナ(キリスト教共同体)とよばれる普遍社会を形成していたが、教皇と皇帝の二つの焦点が秩序を支配する権威とみなされていた。 1302年に、フランス王フィリップ4世と課税問題で対立した教皇ボニファティウス8世はウナム・サンクタム教皇勅書を出し、教皇の権威は他のあらゆる地上の権力に優越するとし、地上に二人の平等な代理者(教皇と皇帝)を置くことは異端とした。これは単一性論議といわれ、唯一の最高の権力の保持者という考えは、教皇と皇帝による世界の二重支配を不条理とするとともに、これこそまさしく主権の論理であったと、ダントレーヴはいう。しかし、アナーニ事件で教皇を襲撃するなど、フランス王はローマへの圧力を強め、教皇座をアヴィニョンに置いてアヴィニョン捕囚となり、さらに1378年から1417年まで教会大分裂となった 中世ヨーロッパの秩序においては、神聖ローマ皇帝や諸侯は、ローマ・カトリック教会の宗教的権威に従属し(参照:カノッサの屈辱)、世俗的支配関係は、土地を媒介として重層的に支配服従関係が織り成される封建制により規律されていた。例えば、神聖ローマ帝国においては、領邦君主は帝国等族として皇帝に従属し、領邦においては、領邦等族が領邦君主に従属していた。 ゲオルグ・イェリネックは中世において国家の独立を否定する勢力として教会、神聖ローマ帝国、大封地所有者(レーンストレーガー)および社団(ケルパーシャフテン)があり、この3つの勢力との戦いによって主権の観念が成立したとする。 封建時代には、封建的主従関係は幾重にも重なったため、古代ローマのインペリウムやポテスタスといった命令権のような公権力、支配権の公的な性質は消滅していた。そして、個々の国家の完全な独立という観念は中世末までに普遍的に承認されていたといわれ、主権概念誕生の条件は整っていたのである。 近代初期になると、君主が国内の権力が徐々に君主に集中して絶対王政が確立するに従い、中世的秩序は徐々に崩壊し近代国家が成立する。 フランスでは、神聖ローマ帝国(現在のドイツ)に対抗するという政治的な理由から、フィリップ2世が1219年ローマ法の適用を禁止し、神聖ローマ皇帝に対する独立性を擁護するための理論を模索した。フィリップ4世は、レジストと呼ばれるローマ法学者を重用し、君主の神聖ローマ皇帝、ローマ教皇からの対外的独立性を擁護するための理論の確立を図り、1302年に聖職者、貴族、平民の代表者を集めて全国身分会議(l'États généraux)を開催した。1303年のアナーニ事件をはじめとするバビロン虜囚をきっかけに教皇、ローマ・カトリック教会の権威は失墜した。ガリカニスムではローマ教皇に対しフランス教会の自立を主張した。 マルティン・ルター等の宗教改革により、カトリック教会の宗教的・政治的権威が揺らぎ、宗派間の対立が激化し、多くの宗教戦争が起った。1555年、宗派間対立の妥協として、アウクスブルクの和議により「ある者に領土の属する場合には、その者に宗教もまた属する(cuius regio, eius religio)」という領邦教会制が生まれた。この結果、領邦君主が領邦の宗教をルター派とすることにより、カトリック教会の支配から独立することが可能となった。 ジャン・ボダンはユグノー戦争の時代に、教会や帝国から独立した国家の本質的特徴そを主権とした最初の思想家である。1576年にボダンは『Les Six livres de la République(国家論)』で「主権(souverainete)とは国家(Republique)の絶対的かつ恒久的権力である」と定義した。また同書ラテン語版(1586年)では「統治大権 (majestas)とは、市民と臣民に対する最高にして且つ法 (の拘束) から解放された権力(legibusquesolutapotestas)である」と定義する。ボダンはsouverainetieと共にmajeste(至上権、尊厳、権威)やsumma potestas(最高の権能)も同義語として使っている。これに対してJ.アルトジュースは1603年『政治方法論解説』でボダンのいう絶対的つまり最高にしてすべての法から解放された権力は専制政治であると批判し、神法・自然法こそ最高法であるとした。ただし、ボダンは国家を「主権的権力をもってするところの正しき統治」と定義するが、その究極の基準として神法・自然法重視の大前提があるともいわれる。他方ボダンは暴君もまた主権者であるとするが、これは当時の戦争における無政府状態に対して「世界で最悪の暴政よりも悪しきもの」としており、戦争のなかの無政府状態における危機を克服するものは、絶対的な国家権力としての主権のみであることを念頭に置くべきである。こうしてボダンによって君主主権が確立し、中世には消滅していた公権力が復活し、近代的民族国家すなわち絶対主義国家が成立していくことになった。 1648年、ヨーロッパの主要国が参加した三十年戦争の講和条約として、ヴェストファーレン条約が締結された結果、ヴェストファーレン体制という勢力均衡の国際的な枠組が生まれ、国際法上国家は平等であるという原則、主権国家体制が形成された。ヴェストファーレン条約によって神聖ローマ皇帝とローマ教皇の権威が否定され、独立した国家(Staat)が帝国(Kaisertum) に代わって成立した。 17世紀フランスでは、ルイ14世が絶対王制を確立し、自国内の最高統治権を把握した。「朕は国家なり」との言葉のとおり王権神授説に基づき主権を有する君主=国家と考えられていた。主権概念は絶対主義体制を正当化する原理として登場し、その過程で主権概念を原理とする国民国家 nation-stateが誕生した。 ホッブズは、ボダンの主権論と社会契約説を結びつけて、絶対王制を擁護した。ホッブスは分割された諸権力は相互に滅ぼしあうとして主権分割説に反対した。その後、ロックやモンテスキューによって立法権と執行権と裁判権などに統治権力を分割した権力分立論が形成された。フランス革命に影響を与えたルソーは主権を意志(一般意志)とみなし、主権は分割されえない不可分の単一のものであり、主権者は統治者ではなく人民であると述べた。 ブラックストンは『イギリス法釈義』(1765-69)で、主権の自然的基礎には、共同体の利害を識別する知恵、利害を追求する上で必要な徳、そしてこれらの知恵と意図を行動に移する権力または強さの3つがあり、これらの主権の基礎は、十分に組織されたあらゆる政府において必要なものであり、またあらゆる政府には至高の、抵抗できない、絶対の、支配されない権威があり、そこにjura summi imperii(最高権力)は属すると主張した。ブラックストンの解釈はイギリス、そしてアメリカ合衆国にも非常に強い影響を与えた。 1775年、アメリカ独立戦争が起こり、1783年、パリ条約でイギリスがアメリカ合衆国を主権国家として認めた。アキル・アマーはアメリカ合衆国憲法では人民主権が定められたとする。 19世紀イギリスの法学者オースティンはブラックストンの教説に影響を受けて、あらゆる政体は主権を保持すべきであると主張した。またオースティンは主権は、法を制定する最高機関の国民議会に属するとし、また法は主権者の命令であるとした。オースティンの主著The Province of Jurisprudence Determined(1832年)では、主権者と主権体( a sovereign person or body)の法概念を生み出した。 ベンサムは『統治論断片』においてブラックストンを批判的にとらえ、「政府の権威は代表者会議によってさえも制限されないし、ドイツ帝国やネーデルラント王国やスイス各州や古代アカイア同盟における政府などは存在しないといえる」と述べた。オースティンと違ってベンサムはアメリカのような連邦制国家に主権は認めなかった。ベンサムとオースティンは規範的な意味ではない「服従の習慣」が政治と法の理解に欠かせないとした。ベンサムによれば、国民が統治者へ服従するという習慣があることによって政治的社会は存在する。オースティンと違ってベンサムは服従という習慣がいかに主権を限定できるのかについて、服従傾向は制限しうるのであり、諸国民は自分の国家にも他の統治組織にも服従しない準備があるとしている。ベンサムは自然権論や社会契約説をフィクションであるとしてフランス人権宣言などは法秩序と両立しない危険な過ちであるとして批判した。しかし、ベンサムは1820年代に執筆した憲法案において国家権力は憲法などの法構成権力(Constitutive power)に負っているとし、その法権力は国民の総体に属するとし、国民の幸福のための安定保障は人民の主権ということにまとめることができるとした。ベンサム憲法において国家権力は、立法・行政・司法権力にあり、法構成権力(Constitutive power)という思想が誕生した。こうしてベンサムは主権を「私達人民」へと移譲し、ホッブズ的な主権理解を変革することに成功した。現在では主権を絶対的で無制約なものと理解する人は少ないし、主権はもっと幅広い思想として規定されており、国家の権力と権威は諸集団や制度の多元性ののなかへ分けられている。 またダイシーも国会主権(Parliamentary Sovereignty)と法の支配を主張した。また、アメリカ合衆国最高裁判所はマーベリー対マディソン事件において違憲かどうかを司法審査する違憲審査制を世界で初めて確立したが、これは司法主権とはいえない。いぇーい このほかハロルド・ラスキやヒューゴ・クラベ(Hugo Krabbe)などの多元主義国家論は、国家の統治は様々な政治的、経済的、社会的、宗教的集団によって担われていると考え、国家のみが特別な権威をもっているのではないとし、国家主権を避け、団体主権、共有主権、分割主権などが主張された。 フランス革命当時、君主主権を否定する共和主義運動には人民主権論と国民主権論があり3つのグループがあった。第一の国民主権グループはブリソ、トマス・ペイン、コンドルセらで、最終決定権を議会に置く。第二の人民主権グループ、コルドリエクラブや両性愛国者友愛協会らは、主権は人民にあり、議会はそれに従うべきであるとする。第三の人民主権グループ、パリ市民やマルセイユ連盟兵らは8月10日事件の直前に、議会が義務不履行の場合、住民が公権力を代行するとする。 1789年の人間と市民の権利の宣言では主権が国民に属すると明言された(第3条)。 1791年憲法が成立すると、第3編「公権力」1条では以下のように国民主権について定められた。 主権は、一で、分割できず、譲り渡すことができず、かつ時効にかからない。主権は国民に属する。人民のいかなる部分も、いかなる個人も、主権の行使を僭取することができない。(山本浩三訳) 1791年憲法では、主権は国民に属し、人民および個人は国民に属する主権を奪うことができないとされた。この「国民」は、国民各人ではなく、超個人的な国民集団のことであるとマルベールはいうが、この国民とは抽象的な概念のことであった。また1791年憲法において国民主権が明記されたのは、君主主権に対するのはもちろんのこと、革命期に主張された人民主権にも対抗するものであった。革命フランス憲法における国民主権では、特定の有権者や集団に主権が属するのではなく、「国民(Nation)」に属する。 さらに1791年憲法第3編「公権力」2条では、 La Nation, de qui seule émanent tous les Pouvoirs, ne peut les exercer que par délégation. - La Constitution française est représentative : les représentants sont le Corps législatif et le roi. と書かれており、主権は立法府(議会)によってのみ行使されるとされた。すなわち、主権は移譲できないが、国民から委任された代表機関として議会は主権を行使するとされ た。このように主権は人民でなく国民に属するため、フランスの政体は、人民が直接に主権を行使する直接民主制ではないことが明記されるとともに、国王(執行府)は議会が定めた法律に従って執行権を行使する(法の支配)。また、1791年憲法では政府は君主制であると明記された(第3編4条)。しかし、8月10日事件によって1791年憲法は破綻した。 ジロンド派の1793年憲法では主権が人民にあると明記された(第25条)が、非常事態による混乱によってこの憲法は施行されなかった。 テルミドール派総裁政府によって新たに制定された1795年憲法では、主権は「市民の総体」に存在するとされ(第17条)、恐怖政治への反省から二院制となった。 ナポレオンがブリュメールのクーデターによって総裁政府を倒し全権を掌握すると、ナポレオン政府は1799年憲法(共和暦8年憲法)を発布した。1799年憲法は主発案者のエマニュエル=ジョゼフ・シエイエスが、人民は主権者であるが、それについて十分に啓蒙されていないから主権を直接に行使すべきではない、そのため、人民は主権を委任するという構想のもとに起草した。1799年憲法では三院制がとられ、また、主権についての条項は消えた。 共和暦10年憲法(1802年)では、第1コンスルの権限が強化され、共和暦12年憲法(1804年憲法)では、統治は皇帝に委任された(1条)。 復古王政の元老院憲法(1814年4月6日フランス憲法)では執行権は国王にあり、国王の一身は不可侵でありかつ神聖であるとされた(第4・21条)。 1814年6月4日の憲章では、前文で崇高な神が王に義務を課したという王権神授説が書かれ、執行権は国王にあり、国王の一身は不可侵でありかつ神聖であるとされた(第13条)。 1830年8月14日憲章では王は神聖不可侵であり、執行権は王にだけ属するとされた(第12条)。 第二共和政の1848年憲法では、主権者はフランス市民全体とし(1条)、公権力は人民から出る(第18条)、フランス人民は立法権は単一議会に委任し(第20条)、執行権を大統領に委任した(43条) 。 ナポレオン3世による第二帝政の1852年憲法では、立法権は大統領・元老院・立法院によって行使され(4条)、大統領は執行権をもち(6-12条)、大臣は大統領にのみ従属し忠誠を誓う(13-14条)、さらに憲法を修正した元老院規則によってフランス皇帝が復位された。 第三共和国憲法では、立法権は二院制議会にあり、大統領は法の執行を監督する。 1946年の第四共和政憲法では公権力は主権者たる人民に奉仕せねばならない(第20条)、主権は人民に属し、主権は憲法に従って行使される(第43条)、フランス人民は議会議員によって主権を行使する(第47条)。第四共和政憲法は第五共和制憲法によって廃止された。 このようにフランス革命以降のフランスでは復古王政、帝政、共和制の交代を繰り返してきたが、現在の第五共和制憲法(1958年)では国民主権と人民主権と代表者(大統領、国会)とについて以下のように明記されている。 と明記された。ここでの投票は、国民投票または人民投票(国民投票と住民投票を含む)と解釈されている。 国民主権によって個人と一人一票の民主制が成立するのに対して、人民主権は中間団体を復活させる危うさを持っていたと指摘されている。デヴェルジェはフランス革命期の国民主権の原理について「きわめて明確な現実的目的のために形成されたかなり狡猾な理論に立脚している」として、絶対君主制の危険と、人権宣言の 起草者であったブルジョワが反対していた純粋民主制(直接民主制)という二つの危険を回避するために設定されたとしている。 しかし、人民主権論と国民主権論によって近代民主主義国家の基礎である個人と政治的平等を成立させた意義は大きい。フランス革命によって絶対主義は姿を消したが,主権概念は、君主から国民へ移り、国民国家の基本的属性として継承された。 しかし、主権をどこにおくかをめぐる論争は君主主権、国民主権、人民主権に関する論争だけではない。18世紀の法学者J-J.ビュルラマキは主権について「絶対的権力を,恋意的で専制的で限界のない権力と混同してはならない 」「主権はその本性自体によって,主権者がそれを引き出すところの人々の意向によってまた神の法自体によって制限されている」とした。 ナポレオンの侵攻によって1806年のライン同盟が成立し、神聖ローマ帝国は消滅した。この結果、領邦国家は、法的には他者に従属しない存在となった。そのほかにも神聖ローマ帝国において次のことが起こり、中世的な身分秩序は完全に崩壊した。世俗化(Säklarisation)により聖界諸侯の領邦は廃止され、陪臣化(Mediatisierung)によりすべての聖界諸侯と多くの俗界諸侯が、皇帝ではなく領邦君主からレーン権(Lehnsrecht)を封じられることになった。つまり、帝国直属の等族(reichsunmittelbare Stände)ではなくなった。結果として、残存した領邦は大規模化した。なお、ドイツではsouverainetieに相当する語は18 世紀までなく、19世紀初めにナポレオンの影響を受けて外国語Souveränitätが輸入された。 19世紀ドイツでは理性主権、国家主権などの主張があり、また法主権説では主権の所在の棚上げをした。ドイツでは、君主主権説と人民主権説(Volkssouveränität)が対立し、その帰属主体をあえて問わないという問題回避的な国家主権説が唱えられた。ヘーゲル以来、ドイツでは国家を主権の主体とし、主権を国家権力、国家意思、国家人格の特性と主張してきた。しかし、国家主権説の真意は専制的君主主権へのアンチテーゼであるとされる。ゲオルグ・イェリネックは主権的国家権力は独立・最高の権力であり、国際法においても国家はただ自己の意志にのみ服するとし、また国家は人格を有する法主体であるとする国家法人説を主張し、。 ドイツ帝国時代の国法学・国家学についてカール・シュミットはアルブレヒトらの国家法人説も国家主権説も、憲法制定権力の主体と政治的単一体の代表者に関する問題を回避するものにすぎないと批判した。 またアドルフ・ラッソン(1832-1917)も主権は国家の自己目的の具現化したもので、国家は主権を有する主体として法秩序に服する必要はないとした。ラッソンは異なる民族を同一の法の下に服せしめることは非性的であるとし、国民の自由を原理とする国際関係には法が存在しないとして国際法への懐疑論を主張した。ただし、平和は諸国家の共通の利益であると述べており、また勢力均衡が平和の条件であるとする。 1899年、第一回ヘーグ平和会議でドイツ代表は常設仲裁裁判所裁判官名簿作成についてドイツ国家の主権を傷つけるとして反対し、またドラゴーも公債発効は主権行為であり、国家主権の名において外国の参加を排除するとした。 他方、主権の教理は、国家間の関係において多大な影響を持った。ボダンは法を制定する主権者は、制定した法に拘束されない (majestas est summa in cives ac subditos legibusque soluta potestas)としたが、この思想は、主権は何者にも責任を持たないし、いかなる法にも拘束されないと解釈されるようになった。しかし、ボダンは、神の法、自然法、理性、そして全ての民族に普遍的な法 (jus gentium 万民法)、さらに主権者を決定したり主権の限界を定める国家の原理法などそこから主権が導出される諸々の基本原則を、主権は遵守すべきであると強調していた。このようにボダンにおいて主権は、国家の憲法や、全ての人類に拘束力を持つ高法(the higher law)によって制限される。これら諸々の基本原則は後年、国際法へと組織されていったが、他方で、ボダンの主権論は国際的な政治秩序において絶対主義を正当化するために使用されたのであった。 ボダンの主権論はさらにホッブズのリヴァイアサンにおいて発展された。ホッブズは主権を法よりも力として捕らえ、法とは主権者が指揮するものであり、主権を制限することはできない。主権は絶対的であると主張した。永遠の戦争状態である国際社会において、一主権者は他の主権者に対して主張を力によって強いる傾向にある。しかし、主権国家は、主張された権利を判定する論議を続け、また実際の戦争という手段をとって権利を主張したり、人民の保護や、他の国への影響を無視した経済政策をとるようになった。たとえば、欧州での征服はウィーン会議(1814~1815年)以降に法的に制限されるようになるが,欧州外の非文明地域は無主地とされ,国際法の主体とは認められず,多くの国は植民地とされた。また交戦国はみな自らの正当性を主張したから,戦争は事実上「国家の正当な権利」であるとされた。 しかし、20世紀に入ると国家の行動の自由を制限するようになった。1899年万国平和会議でハーグ陸戦条約が採択され、戦争が制限された。 第一次世界大戦後の1920年に発効された国際連盟規約では「締約国ハ戦争ニ訴ヘサルノ義務ヲ受諾ス」(前文)「連盟各国ノ領土保全及現在ノ政治的独立ヲ尊重シ,且外部ノ侵略ニ対シ之ヲ擁護スルコトヲ約ス」(第10条)と規定され、1928年のケロッグ=ブリアン条約(パリ不戦条約)では戦争放棄と平和的手段による紛争解決が規定された。 そして第二次世界大戦後の国際連合憲章において加盟国は国際紛争を平和的手段によって解決すること(第2条3項、紛争の平和的解決義務)、また「武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。」(第2条4項、武力不行使原則)と規定され、同時に主権国家の主権は相互に平等であるという主権平等の原則も規定された(第2条1項)。主権平等の原則は1970年の友好関係原則宣言でも確認された。 このように征服と戦争は非合法化されるようになり、主権は国際機構や国際条約などによって制約が加えられているものの、国際連合においては国家の主権自体は否定されていない。 こうして現代国際法において主権の概念は、政治的統一体や共同体を保証することで諸国家の領界的膨張を防ぐ基盤的な規範としての側面を持つにいたった。グローバル化が進む中、統治の実権が国境を超えてゆく中で,主権だけが一定の領界を単位とした諸権利の調整を担いうるのであり、主権だけが人権等の普遍的価値を基軸とした政治的達成のための制度的基盤であるとされる。 主権概念への批判もあり、憲法学者レオン・デュギーは、主権概念抹消ないし不要論の立場から、その帰属主体をあえて問わない法主権説を唱え、国家の権威と権力を擁護するアデマール・エスマンと論争した。 ハロルド・ラスキは主権概念は正確でなく、危険な道徳的結果をもたらすこともありえるとし、ジャック・マリタンは主権概念は本質的に誤まっているとし、国際法学者で元国連事務総長ブトロス・ブトロス=ガーリは「絶対的かつ排他的な主権の時代は過ぎ去った」とした。一方で、かつて先進国の植民地であった新興国やソ連国際法などにおいては国家主権擁護論が出されたが、これは西欧における主権政策に対する反論ないし抗議概念として主権が用いられたものである。 日本では1873年(明治6年)、政府翻訳官柴田昌吉と横浜税関の翻訳官子安峻の『附音挿図英和字彙』で英語sovereigntyに「主権」の訳語を付した。「主権」という漢語は『管子』(七臣七主)で「君主の権力」という意味が初出とされる。 1881年(明治14年)国会開設の詔を受けて人権・主権論争が展開し、1883年(明治16年)、文部省編輯局がホッブズ『リヴァイアサン』部分訳を『主権論』と題して刊行した。 1889年(明治22年)に公布された大日本帝国憲法第4条では「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」と定めたが、この統治権は主権の意味に解せられ、「しろしめす」という日本古来のことばに該当するものとして「主権」よりも「統治権」が適切であると考えられた。 明治憲法下の天皇は《統治権の総攬者》であり,統治行為の最終的確定者でありえたが、その統治の現実は絶対的主権者はおろか主権者からもおおむね遠い儀礼を中心とするものであった。穂積八束や上杉慎吉などは天皇主権を主張し、ほか天皇機関説論争なども起こった。また美濃部達吉は国家は目的と意思の主体であり、国家は永遠の一体としてそれ自身生活力を持つという国家有機体説にもとづく国家法人説を主張し、「最高権」「統治権」「最高機関の地位」の三つに加えて、「国家の意思力そのもの」を主権概念に含める。これがドイツ法の「国権」(Staatsgewalt)を表す概念であることは明らかであるが、「統治権」と区別がしにくいと難点が指摘されている。 戦後は、日本国憲法における主権、とくに国民主権の解釈として、杉原泰雄と樋口陽一らの論争(『国民主権の研究』)(『近代立憲主義と現代国家』)、尾高朝雄と宮沢俊義らのノモス主権論論争がある。 主権はしばしば、国際的事件において問題となってきた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "主権(しゅけん、仏: Souveraineté、英: Sovereignty)とは、国家の構成要素のうち、最高・独立・絶対の権力、または近代的な領域国家における意思決定と秩序維持における最高で最終的な政治的権威を指す。国家主権(こっかしゅけん)のこと。国が国家であるために有する権利。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "具体的には以下の3つが基本的意義となる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "元々のフランス語、英語での意味は「至上、最高、他より上位の」であり、多義的な用語・概念で、論者によって様々な意味が盛りこまれるため、また、国家や政府、そして国家の独立や民主主義に関するものであるため、主権概念については多くの論争がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "また国際関係を規律する国際法では各国の主権が平等で尊重されるとともに制限されるなど多くの問題を残している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "元々はヨーロッパの政治において「至高性」を指す用語・概念で、フランス国王の権力が、一方ではローマ皇帝や教皇に対し、他方で封建領主に対して、独立であったり最高の存在であることを示すための用語として登場した。", "title": "意義" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "宗教戦争の最中、反抗的な封建諸侯に対してフランス王の権力を正当化するためにジャン・ボダンは「主権とは国家の絶対的かつ恒久的権力である」と定義した。ボダンはsouverainetie(主権)と共にmajeste(至上権、尊厳、権威)やsumma potestas(最高の権能)も同義語として使っている。ボダンの主権論は封建主義からナショナリズムへの移行を促進することとなった。", "title": "意義" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "トマス・ホッブズは主権概念は近代化され、全ての正式の国家において特定の個人または人々の体は至高かつ絶対の権威を保有すると法で布告すべきであるし、この権威を分けることは国家の統一性を本質上破壊するものであるとした。ロックやルソーらの社会契約論によって国民主権・人民主権(Popular sovereignty)の教義が生まれ、アメリカ合衆国の独立(1776年)やフランス革命にも影響を与えた。", "title": "意義" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "国際法における概念としては、ヨーロッパ全土を巻き込んだ宗教戦争の到達点であるヴェストファーレン条約によって確立された。その後、近代国家が形成され発展する過程で、さまざまな政治的背景を織り込みつつ、様々な意味で用いられるようになった用語である。", "title": "意義" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "語源はラテン語のsuperanus であり、フランス語souverainetéである。", "title": "意義" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "また、日本語で「主権」と翻訳したことで権利の概念と紛らわしいことも指摘されている。", "title": "意義" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "主権の基本的意義とは、「国家(領土・領海・国民・国家体制など)を支配する権限」である。言い換えれば、一定の境界(領界)を持つ基盤的な集団的自己決定権、すなわち国家機関と国民の行動に関してその正当・不当の如何を確定する国家における権利のことを指す。", "title": "意義" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "具体的な内容については、実定法上も用いられるものとして、次の三つの基本的意義が一般的な理解としてある。", "title": "意義" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "第一に、国権(国民を統治し支配する国の権力)ないし統治権、国民および国土(領土)を支配する権利(例:ポツダム宣言8項)。", "title": "意義" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "「国家が内に対して最高至上である」ということが、「主権」の内容として語られる。近代国家においては、国家は、自らの領土において、いかなる反対の意思を表示する個人・団体に対しても、最終的には、物理的実力(physische Gewalt)を用いて、自己の意思を貫徹することができる。この意味で、国家は対内的に至高の存在であり、これを「主権的」と表現するのである。私法上の権利と区別された公法上の権利であるという意味で高権とよばれることもあり、国民に対する支配権を「対人高権」、領土に対する統治権即ち「領土高権」という。", "title": "意義" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "主権は国家における最高の統治権であるが、統治権一般、国家機構が行使する統治の実権とは別ものであり、主権以外の統治権が明確であるのに対して民主主義国家においては主権は不明確であり、その所在である主権者も曖昧模糊としている。", "title": "意義" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "第二に、国権の属性としての最高独立性(例:日本国憲法前文3項)。国家が他国からの干渉を受けずに独自の意思決定を行う権利としての国家主権。内政不干渉の原則および国家主権平等の原則(国際連合憲章第2条第7項、友好関係原則宣言)では、各国は明確な領域に基づく国家管轄権を確立し、その管轄領域内への他の国家の介入を排除される。したがって、主権を排他的管轄権としての公権力と定義することもできる。", "title": "意義" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "グスタフ・ラートブルフは「主権は国際法的主体性に外ならない。即ち国家は主権的であるが故に国際法主体であるのではなく,国際法主体であるが故に主権的であるのである」とし、主権は国際法、国際関係を前提としたものであるとする。 ハインリヒ・トリーペルは国際法の基礎を国家間の合意におき、またH.コルテ(Korete)は主権を他の支配力からの独立として把握し、H.ヤライス(Jahrreiss)は外部の支配者に従属することのない場合に国家が主権的であるとした。したがって対外的には主権と独立は同義であるとされた。1923年アメリカのモンタナ州最高裁判所は主権を「それによって独立国家が統治せられる最高・絶対・無制約の権力」と定義した。このように国家が他の国家権力に拘束されないことを対外主権という。", "title": "意義" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "近代国際法においては、国家間の「主権平等の原則」が認められており、国家は主権的地位において平等であるとされる(国際連合憲章2条、友好関係原則宣言)。主権平等原則に基づき、一国一票制をとっている", "title": "意義" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "第三に、国家統治のあり方を終局的に決定しうる権威ないし力。国家の政治を最終的に決定する権利(例:国民主権や君主主権といわれる場合の主権観念のこと。日本国憲法前文1段および1条。", "title": "意義" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ある国家のうちで、「国政の在り方を最終的に決定する最高の地位にある機関は『誰』なのか?」あるいは「実際に最終的に決定する『力』を持っているのは『誰』なのか?」という帰属主体の問題も「主権」の問題として語られる。その場合の「最終的に決定する『力』」とは何かという問題もあるが、一般には、最高法規である憲法を制定する権力、即ち、憲法制定権力(独:erfassunggebende Gewalt, 仏:pouvoir constituant)であるとされている。ただし、その性質については、本当の「力」であるという実力説、機関としての権限であるという権限説や監督権力説など諸説がある。", "title": "意義" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "主権を権力とする主張(ボダン、アイザイア・バーリン、Jo-Anne Pemberton ペンバートン)に対して、主権を権威とする主張もある(ウィリアム・ブラックストン、アーネスト・バーカー、オークショット、ロバート・ジャクソン)。アーネスト・バーカーは「主権は最終決定権を持つ権威である」と定義する。また、権力と権威を複合的な力としてヒンズリーは「共同体に最終的・絶対的な政治的権威」として主権を定義する。", "title": "意義" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "戦後は、平和主義と国際協調主義の下、主権を制限し、または国際機関に委譲できる旨の規定を有する憲法(ドイツ連邦共和国基本法第24条、イタリア共和国憲法第11条)があるが、これが伝統的な絶対性を特徴とする主権概念の相対化を示すものであるかどうかは議論がなされている。", "title": "意義" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "他方、佐々木毅は主権制限論に対して内在的制限と外在的制限という二つの基準を設定し、内在的制限では主権の絶対性は制限を内包したものと解し、他方の外在的制限では、主権は無制限絶対的であるが他の国家構成要素との関係で外在的に制限を受けるとする。このような制約外在説では、ボダンのいう「正しき統治」は統治論の問題となり、主権を主権たらしめるものは諸制限への服従ではなくその権力の永遠性と絶対性であり、従って主権論の中でその制限論に言及する必要はないとされる。", "title": "意義" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "古典期以前の君主政ギリシアには「主権」の概念はなかったが、少なくともアリストテレスの時代には主権概念の萌芽は存在した。古代ギリシアのポリスは国家とも訳されるが、明確にその意義は区別されていない。しかし、アリストテレスにとって人間はポリス的存在であり、また政治社会ポリスは人間集団または共同体の最高形態であった。ポリスは部族社会から十分に分離されたものではなかったし、国家の形態を生み出したわけではなかった。しかし、アリストテレスは『政治学』で、至高の権力を有する役(国政に携わる役職)を秩序づけたものを国制としており、ここに主権概念の萌芽を見ることができる。アリストテレスのこの定義はボダンの主権理論に影響を与えたが、ボダンのような「主権による統治」といった観念はみられない。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ローマのimperiumは主権概念に近いものであったが、市民権または軍事上の命令権にすぎなかった。ローマの法学者で『ローマ法大全』にその多くの学説が採録されたドミティウス・ウルピアーヌスは「元首は法に拘束されず」(princeps legibus solutus est)、「元首の意思は法律としての効力を有する」(Quod principi placuit、legis habet vigorem)と法解釈をした。このウルピアーヌスの命題についてダントレーヴはsummma potestas(最高の権力)の存在が前提とされているという。また、ウルピアーヌスのlegibus solutusは、法を超越した主権者という思想、法の拘束から解放された主権というボダンにも影響を与えた。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "10世紀になるとフランスでsouvrainという言葉が使用されており、これはラテン語supremusに由来するもので「最上位のもの」であった。当時は国内の権力が多元化しており、国王のみを主権者とはみずに、「すべてのバロンは封土内において主権者である」として封建諸侯も主権者とよばれた。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1100年頃ボローニャに法学校ができ、やがて大学へと発展して、1240年にローマ法大全の標準注釈が編纂されると、全ヨーロッパから留学生が集まるようになり、ローマ法が普及していった。中世のフランスのレジスト(Legisten、レギステン)と呼ばれるローマ法の注釈学者の一派が主権概念に先鞭をつけたとされる。ローマ法普及に伴いカトリック教会は、宗教的権威を背景に教会法を制定し、独自に教皇領を持って世俗的な権力を行使するようになっていった。ダントレーヴによれば、主権概念が最初に整然と仕上げられたのは、教会を弁護する教会法の学説においてであった。教皇は地上における最高の権威・権力の完全性(plenitudo potestatis)を持つとされ、これは近代的な主権概念に近い。中世ヨーロッパはレス・プブリカ・クリスティアナ(キリスト教共同体)とよばれる普遍社会を形成していたが、教皇と皇帝の二つの焦点が秩序を支配する権威とみなされていた。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1302年に、フランス王フィリップ4世と課税問題で対立した教皇ボニファティウス8世はウナム・サンクタム教皇勅書を出し、教皇の権威は他のあらゆる地上の権力に優越するとし、地上に二人の平等な代理者(教皇と皇帝)を置くことは異端とした。これは単一性論議といわれ、唯一の最高の権力の保持者という考えは、教皇と皇帝による世界の二重支配を不条理とするとともに、これこそまさしく主権の論理であったと、ダントレーヴはいう。しかし、アナーニ事件で教皇を襲撃するなど、フランス王はローマへの圧力を強め、教皇座をアヴィニョンに置いてアヴィニョン捕囚となり、さらに1378年から1417年まで教会大分裂となった", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "中世ヨーロッパの秩序においては、神聖ローマ皇帝や諸侯は、ローマ・カトリック教会の宗教的権威に従属し(参照:カノッサの屈辱)、世俗的支配関係は、土地を媒介として重層的に支配服従関係が織り成される封建制により規律されていた。例えば、神聖ローマ帝国においては、領邦君主は帝国等族として皇帝に従属し、領邦においては、領邦等族が領邦君主に従属していた。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ゲオルグ・イェリネックは中世において国家の独立を否定する勢力として教会、神聖ローマ帝国、大封地所有者(レーンストレーガー)および社団(ケルパーシャフテン)があり、この3つの勢力との戦いによって主権の観念が成立したとする。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "封建時代には、封建的主従関係は幾重にも重なったため、古代ローマのインペリウムやポテスタスといった命令権のような公権力、支配権の公的な性質は消滅していた。そして、個々の国家の完全な独立という観念は中世末までに普遍的に承認されていたといわれ、主権概念誕生の条件は整っていたのである。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "近代初期になると、君主が国内の権力が徐々に君主に集中して絶対王政が確立するに従い、中世的秩序は徐々に崩壊し近代国家が成立する。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "フランスでは、神聖ローマ帝国(現在のドイツ)に対抗するという政治的な理由から、フィリップ2世が1219年ローマ法の適用を禁止し、神聖ローマ皇帝に対する独立性を擁護するための理論を模索した。フィリップ4世は、レジストと呼ばれるローマ法学者を重用し、君主の神聖ローマ皇帝、ローマ教皇からの対外的独立性を擁護するための理論の確立を図り、1302年に聖職者、貴族、平民の代表者を集めて全国身分会議(l'États généraux)を開催した。1303年のアナーニ事件をはじめとするバビロン虜囚をきっかけに教皇、ローマ・カトリック教会の権威は失墜した。ガリカニスムではローマ教皇に対しフランス教会の自立を主張した。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "マルティン・ルター等の宗教改革により、カトリック教会の宗教的・政治的権威が揺らぎ、宗派間の対立が激化し、多くの宗教戦争が起った。1555年、宗派間対立の妥協として、アウクスブルクの和議により「ある者に領土の属する場合には、その者に宗教もまた属する(cuius regio, eius religio)」という領邦教会制が生まれた。この結果、領邦君主が領邦の宗教をルター派とすることにより、カトリック教会の支配から独立することが可能となった。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ジャン・ボダンはユグノー戦争の時代に、教会や帝国から独立した国家の本質的特徴そを主権とした最初の思想家である。1576年にボダンは『Les Six livres de la République(国家論)』で「主権(souverainete)とは国家(Republique)の絶対的かつ恒久的権力である」と定義した。また同書ラテン語版(1586年)では「統治大権 (majestas)とは、市民と臣民に対する最高にして且つ法 (の拘束) から解放された権力(legibusquesolutapotestas)である」と定義する。ボダンはsouverainetieと共にmajeste(至上権、尊厳、権威)やsumma potestas(最高の権能)も同義語として使っている。これに対してJ.アルトジュースは1603年『政治方法論解説』でボダンのいう絶対的つまり最高にしてすべての法から解放された権力は専制政治であると批判し、神法・自然法こそ最高法であるとした。ただし、ボダンは国家を「主権的権力をもってするところの正しき統治」と定義するが、その究極の基準として神法・自然法重視の大前提があるともいわれる。他方ボダンは暴君もまた主権者であるとするが、これは当時の戦争における無政府状態に対して「世界で最悪の暴政よりも悪しきもの」としており、戦争のなかの無政府状態における危機を克服するものは、絶対的な国家権力としての主権のみであることを念頭に置くべきである。こうしてボダンによって君主主権が確立し、中世には消滅していた公権力が復活し、近代的民族国家すなわち絶対主義国家が成立していくことになった。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1648年、ヨーロッパの主要国が参加した三十年戦争の講和条約として、ヴェストファーレン条約が締結された結果、ヴェストファーレン体制という勢力均衡の国際的な枠組が生まれ、国際法上国家は平等であるという原則、主権国家体制が形成された。ヴェストファーレン条約によって神聖ローマ皇帝とローマ教皇の権威が否定され、独立した国家(Staat)が帝国(Kaisertum) に代わって成立した。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "17世紀フランスでは、ルイ14世が絶対王制を確立し、自国内の最高統治権を把握した。「朕は国家なり」との言葉のとおり王権神授説に基づき主権を有する君主=国家と考えられていた。主権概念は絶対主義体制を正当化する原理として登場し、その過程で主権概念を原理とする国民国家 nation-stateが誕生した。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ホッブズは、ボダンの主権論と社会契約説を結びつけて、絶対王制を擁護した。ホッブスは分割された諸権力は相互に滅ぼしあうとして主権分割説に反対した。その後、ロックやモンテスキューによって立法権と執行権と裁判権などに統治権力を分割した権力分立論が形成された。フランス革命に影響を与えたルソーは主権を意志(一般意志)とみなし、主権は分割されえない不可分の単一のものであり、主権者は統治者ではなく人民であると述べた。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ブラックストンは『イギリス法釈義』(1765-69)で、主権の自然的基礎には、共同体の利害を識別する知恵、利害を追求する上で必要な徳、そしてこれらの知恵と意図を行動に移する権力または強さの3つがあり、これらの主権の基礎は、十分に組織されたあらゆる政府において必要なものであり、またあらゆる政府には至高の、抵抗できない、絶対の、支配されない権威があり、そこにjura summi imperii(最高権力)は属すると主張した。ブラックストンの解釈はイギリス、そしてアメリカ合衆国にも非常に強い影響を与えた。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1775年、アメリカ独立戦争が起こり、1783年、パリ条約でイギリスがアメリカ合衆国を主権国家として認めた。アキル・アマーはアメリカ合衆国憲法では人民主権が定められたとする。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "19世紀イギリスの法学者オースティンはブラックストンの教説に影響を受けて、あらゆる政体は主権を保持すべきであると主張した。またオースティンは主権は、法を制定する最高機関の国民議会に属するとし、また法は主権者の命令であるとした。オースティンの主著The Province of Jurisprudence Determined(1832年)では、主権者と主権体( a sovereign person or body)の法概念を生み出した。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ベンサムは『統治論断片』においてブラックストンを批判的にとらえ、「政府の権威は代表者会議によってさえも制限されないし、ドイツ帝国やネーデルラント王国やスイス各州や古代アカイア同盟における政府などは存在しないといえる」と述べた。オースティンと違ってベンサムはアメリカのような連邦制国家に主権は認めなかった。ベンサムとオースティンは規範的な意味ではない「服従の習慣」が政治と法の理解に欠かせないとした。ベンサムによれば、国民が統治者へ服従するという習慣があることによって政治的社会は存在する。オースティンと違ってベンサムは服従という習慣がいかに主権を限定できるのかについて、服従傾向は制限しうるのであり、諸国民は自分の国家にも他の統治組織にも服従しない準備があるとしている。ベンサムは自然権論や社会契約説をフィクションであるとしてフランス人権宣言などは法秩序と両立しない危険な過ちであるとして批判した。しかし、ベンサムは1820年代に執筆した憲法案において国家権力は憲法などの法構成権力(Constitutive power)に負っているとし、その法権力は国民の総体に属するとし、国民の幸福のための安定保障は人民の主権ということにまとめることができるとした。ベンサム憲法において国家権力は、立法・行政・司法権力にあり、法構成権力(Constitutive power)という思想が誕生した。こうしてベンサムは主権を「私達人民」へと移譲し、ホッブズ的な主権理解を変革することに成功した。現在では主権を絶対的で無制約なものと理解する人は少ないし、主権はもっと幅広い思想として規定されており、国家の権力と権威は諸集団や制度の多元性ののなかへ分けられている。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "またダイシーも国会主権(Parliamentary Sovereignty)と法の支配を主張した。また、アメリカ合衆国最高裁判所はマーベリー対マディソン事件において違憲かどうかを司法審査する違憲審査制を世界で初めて確立したが、これは司法主権とはいえない。いぇーい", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "このほかハロルド・ラスキやヒューゴ・クラベ(Hugo Krabbe)などの多元主義国家論は、国家の統治は様々な政治的、経済的、社会的、宗教的集団によって担われていると考え、国家のみが特別な権威をもっているのではないとし、国家主権を避け、団体主権、共有主権、分割主権などが主張された。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "フランス革命当時、君主主権を否定する共和主義運動には人民主権論と国民主権論があり3つのグループがあった。第一の国民主権グループはブリソ、トマス・ペイン、コンドルセらで、最終決定権を議会に置く。第二の人民主権グループ、コルドリエクラブや両性愛国者友愛協会らは、主権は人民にあり、議会はそれに従うべきであるとする。第三の人民主権グループ、パリ市民やマルセイユ連盟兵らは8月10日事件の直前に、議会が義務不履行の場合、住民が公権力を代行するとする。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "1789年の人間と市民の権利の宣言では主権が国民に属すると明言された(第3条)。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "1791年憲法が成立すると、第3編「公権力」1条では以下のように国民主権について定められた。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "主権は、一で、分割できず、譲り渡すことができず、かつ時効にかからない。主権は国民に属する。人民のいかなる部分も、いかなる個人も、主権の行使を僭取することができない。(山本浩三訳)", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "1791年憲法では、主権は国民に属し、人民および個人は国民に属する主権を奪うことができないとされた。この「国民」は、国民各人ではなく、超個人的な国民集団のことであるとマルベールはいうが、この国民とは抽象的な概念のことであった。また1791年憲法において国民主権が明記されたのは、君主主権に対するのはもちろんのこと、革命期に主張された人民主権にも対抗するものであった。革命フランス憲法における国民主権では、特定の有権者や集団に主権が属するのではなく、「国民(Nation)」に属する。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "さらに1791年憲法第3編「公権力」2条では、", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "La Nation, de qui seule émanent tous les Pouvoirs, ne peut les exercer que par délégation. - La Constitution française est représentative : les représentants sont le Corps législatif et le roi.", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "と書かれており、主権は立法府(議会)によってのみ行使されるとされた。すなわち、主権は移譲できないが、国民から委任された代表機関として議会は主権を行使するとされ た。このように主権は人民でなく国民に属するため、フランスの政体は、人民が直接に主権を行使する直接民主制ではないことが明記されるとともに、国王(執行府)は議会が定めた法律に従って執行権を行使する(法の支配)。また、1791年憲法では政府は君主制であると明記された(第3編4条)。しかし、8月10日事件によって1791年憲法は破綻した。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "ジロンド派の1793年憲法では主権が人民にあると明記された(第25条)が、非常事態による混乱によってこの憲法は施行されなかった。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "テルミドール派総裁政府によって新たに制定された1795年憲法では、主権は「市民の総体」に存在するとされ(第17条)、恐怖政治への反省から二院制となった。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "ナポレオンがブリュメールのクーデターによって総裁政府を倒し全権を掌握すると、ナポレオン政府は1799年憲法(共和暦8年憲法)を発布した。1799年憲法は主発案者のエマニュエル=ジョゼフ・シエイエスが、人民は主権者であるが、それについて十分に啓蒙されていないから主権を直接に行使すべきではない、そのため、人民は主権を委任するという構想のもとに起草した。1799年憲法では三院制がとられ、また、主権についての条項は消えた。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "共和暦10年憲法(1802年)では、第1コンスルの権限が強化され、共和暦12年憲法(1804年憲法)では、統治は皇帝に委任された(1条)。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "復古王政の元老院憲法(1814年4月6日フランス憲法)では執行権は国王にあり、国王の一身は不可侵でありかつ神聖であるとされた(第4・21条)。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "1814年6月4日の憲章では、前文で崇高な神が王に義務を課したという王権神授説が書かれ、執行権は国王にあり、国王の一身は不可侵でありかつ神聖であるとされた(第13条)。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "1830年8月14日憲章では王は神聖不可侵であり、執行権は王にだけ属するとされた(第12条)。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "第二共和政の1848年憲法では、主権者はフランス市民全体とし(1条)、公権力は人民から出る(第18条)、フランス人民は立法権は単一議会に委任し(第20条)、執行権を大統領に委任した(43条) 。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "ナポレオン3世による第二帝政の1852年憲法では、立法権は大統領・元老院・立法院によって行使され(4条)、大統領は執行権をもち(6-12条)、大臣は大統領にのみ従属し忠誠を誓う(13-14条)、さらに憲法を修正した元老院規則によってフランス皇帝が復位された。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "第三共和国憲法では、立法権は二院制議会にあり、大統領は法の執行を監督する。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "1946年の第四共和政憲法では公権力は主権者たる人民に奉仕せねばならない(第20条)、主権は人民に属し、主権は憲法に従って行使される(第43条)、フランス人民は議会議員によって主権を行使する(第47条)。第四共和政憲法は第五共和制憲法によって廃止された。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "このようにフランス革命以降のフランスでは復古王政、帝政、共和制の交代を繰り返してきたが、現在の第五共和制憲法(1958年)では国民主権と人民主権と代表者(大統領、国会)とについて以下のように明記されている。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "と明記された。ここでの投票は、国民投票または人民投票(国民投票と住民投票を含む)と解釈されている。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "国民主権によって個人と一人一票の民主制が成立するのに対して、人民主権は中間団体を復活させる危うさを持っていたと指摘されている。デヴェルジェはフランス革命期の国民主権の原理について「きわめて明確な現実的目的のために形成されたかなり狡猾な理論に立脚している」として、絶対君主制の危険と、人権宣言の 起草者であったブルジョワが反対していた純粋民主制(直接民主制)という二つの危険を回避するために設定されたとしている。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "しかし、人民主権論と国民主権論によって近代民主主義国家の基礎である個人と政治的平等を成立させた意義は大きい。フランス革命によって絶対主義は姿を消したが,主権概念は、君主から国民へ移り、国民国家の基本的属性として継承された。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "しかし、主権をどこにおくかをめぐる論争は君主主権、国民主権、人民主権に関する論争だけではない。18世紀の法学者J-J.ビュルラマキは主権について「絶対的権力を,恋意的で専制的で限界のない権力と混同してはならない 」「主権はその本性自体によって,主権者がそれを引き出すところの人々の意向によってまた神の法自体によって制限されている」とした。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "ナポレオンの侵攻によって1806年のライン同盟が成立し、神聖ローマ帝国は消滅した。この結果、領邦国家は、法的には他者に従属しない存在となった。そのほかにも神聖ローマ帝国において次のことが起こり、中世的な身分秩序は完全に崩壊した。世俗化(Säklarisation)により聖界諸侯の領邦は廃止され、陪臣化(Mediatisierung)によりすべての聖界諸侯と多くの俗界諸侯が、皇帝ではなく領邦君主からレーン権(Lehnsrecht)を封じられることになった。つまり、帝国直属の等族(reichsunmittelbare Stände)ではなくなった。結果として、残存した領邦は大規模化した。なお、ドイツではsouverainetieに相当する語は18 世紀までなく、19世紀初めにナポレオンの影響を受けて外国語Souveränitätが輸入された。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "19世紀ドイツでは理性主権、国家主権などの主張があり、また法主権説では主権の所在の棚上げをした。ドイツでは、君主主権説と人民主権説(Volkssouveränität)が対立し、その帰属主体をあえて問わないという問題回避的な国家主権説が唱えられた。ヘーゲル以来、ドイツでは国家を主権の主体とし、主権を国家権力、国家意思、国家人格の特性と主張してきた。しかし、国家主権説の真意は専制的君主主権へのアンチテーゼであるとされる。ゲオルグ・イェリネックは主権的国家権力は独立・最高の権力であり、国際法においても国家はただ自己の意志にのみ服するとし、また国家は人格を有する法主体であるとする国家法人説を主張し、。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "ドイツ帝国時代の国法学・国家学についてカール・シュミットはアルブレヒトらの国家法人説も国家主権説も、憲法制定権力の主体と政治的単一体の代表者に関する問題を回避するものにすぎないと批判した。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "またアドルフ・ラッソン(1832-1917)も主権は国家の自己目的の具現化したもので、国家は主権を有する主体として法秩序に服する必要はないとした。ラッソンは異なる民族を同一の法の下に服せしめることは非性的であるとし、国民の自由を原理とする国際関係には法が存在しないとして国際法への懐疑論を主張した。ただし、平和は諸国家の共通の利益であると述べており、また勢力均衡が平和の条件であるとする。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "1899年、第一回ヘーグ平和会議でドイツ代表は常設仲裁裁判所裁判官名簿作成についてドイツ国家の主権を傷つけるとして反対し、またドラゴーも公債発効は主権行為であり、国家主権の名において外国の参加を排除するとした。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "他方、主権の教理は、国家間の関係において多大な影響を持った。ボダンは法を制定する主権者は、制定した法に拘束されない (majestas est summa in cives ac subditos legibusque soluta potestas)としたが、この思想は、主権は何者にも責任を持たないし、いかなる法にも拘束されないと解釈されるようになった。しかし、ボダンは、神の法、自然法、理性、そして全ての民族に普遍的な法 (jus gentium 万民法)、さらに主権者を決定したり主権の限界を定める国家の原理法などそこから主権が導出される諸々の基本原則を、主権は遵守すべきであると強調していた。このようにボダンにおいて主権は、国家の憲法や、全ての人類に拘束力を持つ高法(the higher law)によって制限される。これら諸々の基本原則は後年、国際法へと組織されていったが、他方で、ボダンの主権論は国際的な政治秩序において絶対主義を正当化するために使用されたのであった。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "ボダンの主権論はさらにホッブズのリヴァイアサンにおいて発展された。ホッブズは主権を法よりも力として捕らえ、法とは主権者が指揮するものであり、主権を制限することはできない。主権は絶対的であると主張した。永遠の戦争状態である国際社会において、一主権者は他の主権者に対して主張を力によって強いる傾向にある。しかし、主権国家は、主張された権利を判定する論議を続け、また実際の戦争という手段をとって権利を主張したり、人民の保護や、他の国への影響を無視した経済政策をとるようになった。たとえば、欧州での征服はウィーン会議(1814~1815年)以降に法的に制限されるようになるが,欧州外の非文明地域は無主地とされ,国際法の主体とは認められず,多くの国は植民地とされた。また交戦国はみな自らの正当性を主張したから,戦争は事実上「国家の正当な権利」であるとされた。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "しかし、20世紀に入ると国家の行動の自由を制限するようになった。1899年万国平和会議でハーグ陸戦条約が採択され、戦争が制限された。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦後の1920年に発効された国際連盟規約では「締約国ハ戦争ニ訴ヘサルノ義務ヲ受諾ス」(前文)「連盟各国ノ領土保全及現在ノ政治的独立ヲ尊重シ,且外部ノ侵略ニ対シ之ヲ擁護スルコトヲ約ス」(第10条)と規定され、1928年のケロッグ=ブリアン条約(パリ不戦条約)では戦争放棄と平和的手段による紛争解決が規定された。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "そして第二次世界大戦後の国際連合憲章において加盟国は国際紛争を平和的手段によって解決すること(第2条3項、紛争の平和的解決義務)、また「武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。」(第2条4項、武力不行使原則)と規定され、同時に主権国家の主権は相互に平等であるという主権平等の原則も規定された(第2条1項)。主権平等の原則は1970年の友好関係原則宣言でも確認された。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "このように征服と戦争は非合法化されるようになり、主権は国際機構や国際条約などによって制約が加えられているものの、国際連合においては国家の主権自体は否定されていない。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "こうして現代国際法において主権の概念は、政治的統一体や共同体を保証することで諸国家の領界的膨張を防ぐ基盤的な規範としての側面を持つにいたった。グローバル化が進む中、統治の実権が国境を超えてゆく中で,主権だけが一定の領界を単位とした諸権利の調整を担いうるのであり、主権だけが人権等の普遍的価値を基軸とした政治的達成のための制度的基盤であるとされる。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "主権概念への批判もあり、憲法学者レオン・デュギーは、主権概念抹消ないし不要論の立場から、その帰属主体をあえて問わない法主権説を唱え、国家の権威と権力を擁護するアデマール・エスマンと論争した。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "ハロルド・ラスキは主権概念は正確でなく、危険な道徳的結果をもたらすこともありえるとし、ジャック・マリタンは主権概念は本質的に誤まっているとし、国際法学者で元国連事務総長ブトロス・ブトロス=ガーリは「絶対的かつ排他的な主権の時代は過ぎ去った」とした。一方で、かつて先進国の植民地であった新興国やソ連国際法などにおいては国家主権擁護論が出されたが、これは西欧における主権政策に対する反論ないし抗議概念として主権が用いられたものである。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "日本では1873年(明治6年)、政府翻訳官柴田昌吉と横浜税関の翻訳官子安峻の『附音挿図英和字彙』で英語sovereigntyに「主権」の訳語を付した。「主権」という漢語は『管子』(七臣七主)で「君主の権力」という意味が初出とされる。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "1881年(明治14年)国会開設の詔を受けて人権・主権論争が展開し、1883年(明治16年)、文部省編輯局がホッブズ『リヴァイアサン』部分訳を『主権論』と題して刊行した。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "1889年(明治22年)に公布された大日本帝国憲法第4条では「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」と定めたが、この統治権は主権の意味に解せられ、「しろしめす」という日本古来のことばに該当するものとして「主権」よりも「統治権」が適切であると考えられた。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "明治憲法下の天皇は《統治権の総攬者》であり,統治行為の最終的確定者でありえたが、その統治の現実は絶対的主権者はおろか主権者からもおおむね遠い儀礼を中心とするものであった。穂積八束や上杉慎吉などは天皇主権を主張し、ほか天皇機関説論争なども起こった。また美濃部達吉は国家は目的と意思の主体であり、国家は永遠の一体としてそれ自身生活力を持つという国家有機体説にもとづく国家法人説を主張し、「最高権」「統治権」「最高機関の地位」の三つに加えて、「国家の意思力そのもの」を主権概念に含める。これがドイツ法の「国権」(Staatsgewalt)を表す概念であることは明らかであるが、「統治権」と区別がしにくいと難点が指摘されている。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "戦後は、日本国憲法における主権、とくに国民主権の解釈として、杉原泰雄と樋口陽一らの論争(『国民主権の研究』)(『近代立憲主義と現代国家』)、尾高朝雄と宮沢俊義らのノモス主権論論争がある。", "title": "主権概念の歴史" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "主権はしばしば、国際的事件において問題となってきた。", "title": "主権が問題となった事件" } ]
主権とは、国家の構成要素のうち、最高・独立・絶対の権力、または近代的な領域国家における意思決定と秩序維持における最高で最終的な政治的権威を指す。国家主権(こっかしゅけん)のこと。国が国家であるために有する権利。
{{Otheruses||クルアーンのスーラ|大権 (クルアーン)}} {{政治}} '''主権'''(しゅけん、{{Lang-fr-short|Souveraineté}}、{{Lang-en-short|Sovereignty}})とは、[[国家]]の構成要素のうち、最高・独立・絶対の[[権力]]<ref name="koujien" /><ref name="britanica" />{{sfn|中沢和男|2015}}、または近代的な領域国家における意思決定と秩序維持における最高で最終的な政治的[[権威]]を指す<ref name=CWMorris>Christopher W. Morris, SOVEREIGNTY, University of Pennsylvania Law School,2011.Morris, Christopher W. An Essay on the Modern State (Cambridge, 1998).ch.7.</ref><ref name=EncyB>[https://www.britannica.com/topic/sovereignty Sovereignty], Encyclopædia Britannica.2017年8月3日閲覧。</ref>。'''国家主権'''(こっかしゅけん)のこと。国が国家であるために有する権利{{sfn|中沢和男|2015}}。 ==概要== 具体的には以下の3つが基本的意義となる。 #[[国家]]の[[統治権]]([[国民]]および[[領土]]を統治する国家の権力)<ref name="daijisen"/><ref name="britanica" /><ref name=ikedamasaaki/> #他国の支配に服さない最高独立性<ref name="britanica" /><ref name="koujien">広辞苑 第六版「主権」</ref>。'''対外主権'''(たいがいしゅけん){{sfn|粕谷進|196}}。 #国家の政治のあり方を最終的に決める権利のこと<ref>[[宮沢俊義]]『全訂日本国憲法』日本評論社、1978,p33</ref><ref name="koujien" />。 元々のフランス語、英語での意味は「至上、最高、他より上位の」であり、多義的な用語・概念で、論者によって様々な意味が盛りこまれるため、また、国家や[[政府]]、そして国家の[[独立]]や[[民主主義]]に関するものであるため、主権概念については多くの論争がある<ref name=EncyB/><ref name=takayama/><ref name=okb>岡部悟朗「主権について」鹿児島大学法学論集 45(2),p.5-18.</ref>。 また国際関係を規律する[[国際法]]では各国の主権が平等で尊重されるとともに制限されるなど多くの問題を残している{{sfn|粕谷進|196}}。 == 意義 == ===概略=== 元々はヨーロッパの政治において「至高性」を指す用語・概念で、[[フランス国王]]の権力が、一方では[[ローマ皇帝]]や[[教皇]]に対し、他方で[[封建領主]]に対して、独立であったり最高の存在であることを示すための用語として登場した<ref name="britanica">ブリタニカ百科事典「主権」</ref>。 [[宗教戦争]]の最中、反抗的な封建諸侯に対してフランス王の権力を正当化するために[[ジャン・ボダン]]は「主権とは国家の絶対的かつ恒久的権力である」と定義した<ref>Les Six livres de la République(国家論)</ref><ref name=EncyB/><ref name=okb/>。ボダンはsouverainetie(主権)と共にmajeste(至上権、尊厳、権威)やsumma potestas(最高の権能)も同義語として使っている<ref name=okb/>。ボダンの主権論は[[封建主義]]から[[ナショナリズム]]への移行を促進することとなった<ref name=EncyB/>。 [[トマス・ホッブズ]]は主権概念は近代化され、全ての正式の国家において特定の個人または人々の体は至高かつ絶対の権威を保有すると法で布告すべきであるし、この権威を分けることは国家の統一性を本質上破壊するものであるとした<ref name=EncyB/>。ロックやルソーらの[[社会契約論]]によって[[国民主権]]・[[人民主権]](Popular sovereignty)の教義が生まれ、[[アメリカ合衆国の独立]]([[1776年]])や[[フランス革命]]にも影響を与えた<ref name=EncyB/>。 国際法における概念としては、ヨーロッパ全土を巻き込んだ[[宗教戦争]]の到達点である[[ヴェストファーレン条約]]によって確立された。その後、近代国家が形成され発展する過程で、さまざまな政治的背景を織り込みつつ、様々な意味で用いられるようになった用語である<ref name="britanica" />。 語源はラテン語のsuperanus であり、フランス語souverainetéである<ref name=EncyB/>。 また、日本語で「主権」と翻訳したことで[[権利]]の概念と紛らわしいことも指摘されている<ref name=sekine/>。 === 基本的意義 === 主権の基本的意義とは、「国家(領土・領海・国民・国家体制など)を支配する権限」である。言い換えれば、一定の境界(領界)を持つ基盤的な集団的自己決定権、すなわち国家機関と国民の行動に関してその正当・不当の如何を確定する国家における権利のことを指す{{sfn|中沢和男|2015}}。 具体的な内容については、実定法上も用いられるものとして、次の三つの基本的意義が一般的な理解としてある<ref name="britanica" />{{Refnest|group="注釈"|憲法における概念としては、[[フランス]]における[[絶対王政]]の確立に伴い、自己の意思に反して何者にも制限を受けないという[[君主]]の[[神聖ローマ皇帝]]、[[ローマ教皇]]からの対外的に独立した最高権、君主の[[諸侯]]に対する自国内における最高の統治権ないし最高決定力を理論的に擁護するための政治的な概念で、国家そのものである君主の有する権力を表す概念として統一的に把握されたが、民衆の政治参加の進展に応じた国家の概念の変化に伴い、自国内における政治の在り方を決定する最高の機関の地位の所在が問題となり、三つの基本的意義に分解された概念である。}}。 ==== 統治権(対内主権) ==== 第一に、[[国権]](国民を統治し支配する国の権力)<ref>デジタル大辞泉および大辞林 第三版「国権」</ref>ないし[[統治権]]<ref name="britanica" /><ref name="daijisen">デジタル大辞泉「主権」</ref>、[[国民]]および[[国土]]([[領土]])を支配する権利(例:ポツダム宣言8項<ref>「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク又日本国ノ''主権''ハ本州、北海道、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」([[ポツダム宣言]]8項)</ref>)。 「国家が内に対して最高至上である」ということが、「主権」の内容として語られる。近代国家においては、国家は、自らの領土において、いかなる反対の意思を表示する個人・団体に対しても、最終的には、物理的実力(physische Gewalt)を用いて、自己の意思を貫徹することができる。この意味で、国家は対内的に至高の存在であり、これを「主権的」と表現するのである。私法上の権利と区別された公法上の権利であるという意味で'''高権'''とよばれることもあり、国民に対する支配権を「対人高権」、[[領土]]に対する[[統治権]]即ち「領土高権」という<ref name=ikedamasaaki/>。 主権は国家における最高の統治権であるが、統治権一般、国家機構が行使する統治の実権とは別ものであり、主権以外の統治権が明確であるのに対して民主主義国家においては主権は不明確であり、その所在である主権者も曖昧模糊としている{{sfn|中沢和男|2015}}。 ==== 最高権(対外主権) ==== 第二に、国権の属性としての最高独立性(例:[[日本国憲法前文]]3項<ref group="注釈">[[日本国憲法前文]]3項ではこの対外的な独立性(対外主権)という意味で用いられる。 {{Quote|われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の''主権''を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。|[[日本国憲法前文]]3項}} </ref>)。国家が他国からの干渉を受けずに独自の意思決定を行う権利としての[[国家主権]]<ref name="daijisen"/>。[[内政不干渉の原則]]および国家主権平等の原則(国際連合憲章第2条第7項、[[友好関係原則宣言]])では、各国は明確な領域に基づく国家管轄権を確立し、その管轄領域内への他の国家の介入を排除される<ref name=takayama/>。したがって、主権を排他的管轄権としての公権力と定義することもできる<ref name=takayama/>。 [[グスタフ・ラートブルフ]]は「主権は国際法的主体性に外ならない。即ち国家は主権的であるが故に国際法主体であるのではなく,国際法主体であるが故に主権的であるのである」とし、主権は国際法、国際関係を前提としたものであるとする<ref>ラードブルッフ『法哲学』田中耕太郎訳,小山書店1951,p292。ラートブルフ著作集1,東京大学出版会</ref><ref name=takayama/>。 ハインリヒ・トリーペルは国際法の基礎を国家間の合意におき、またH.コルテ(Korete)は主権を他の支配力からの独立として把握し、H.ヤライス(Jahrreiss)は外部の支配者に従属することのない場合に国家が主権的であるとした{{sfn|粕谷進|196}}。したがって対外的には主権と独立は同義であるとされた{{sfn|粕谷進|196}}。1923年アメリカのモンタナ州最高裁判所は主権を「それによって独立国家が統治せられる最高・絶対・無制約の権力」と定義した{{sfn|粕谷進|196}}。このように国家が他の国家権力に拘束されないことを対外主権という{{sfn|粕谷進|196}}。 ===== 国際法における「主権平等の原則」 ===== 近代[[国際法]]においては、国家間の「主権平等の原則」が認められており、国家は主権的地位において平等であるとされる<ref name=uky>内田久司「主権平等の原則」日本大百科全書(ニッポニカ)</ref>([[s:国際連合憲章#2|国際連合憲章2条]]<ref>「The Organization and its Members, in pursuit of the Purposes stated in Article 1, shall act in accordance with the following Principles. [/] 1. The Organization is based on the principle of the sovereign equality of all its Members.」</ref>、[[友好関係原則宣言]])<ref name=uky/>。主権平等原則に基づき、一国一票制をとっている<ref>最上敏樹 「国際連合」知恵蔵,2007年</ref> ==== 最高機関の地位(最高決定力) ==== 第三に、国家統治のあり方を終局的に決定しうる権威ないし力。国家の政治を最終的に決定する権利<ref name="daijisen"/>(例:[[国民主権]]や[[君主主権]]といわれる場合の主権観念のこと。日本国憲法前文1段および1条<ref group="注釈">同部分には *「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに''主権''が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」(日本国憲法前文1項) *「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、''主権''の存する日本国民の総意に基く。」([[日本国憲法第1条]]) とあることから、日本国憲法は[[国民主権]]原理を採用したと解されている。</ref>。 ある国家のうちで、「国政の在り方を最終的に決定する最高の地位にある機関は『誰』なのか?」あるいは「実際に最終的に決定する『力』を持っているのは『誰』なのか?」という帰属主体の問題も「主権」の問題として語られる。その場合の「最終的に決定する『力』」とは何かという問題もあるが、一般には、最高法規である憲法を制定する権力、即ち、[[憲法制定権力]](独:erfassunggebende Gewalt, 仏:pouvoir constituant)であるとされている<ref group="注釈">国家の意思力そのもの、「国権」ないし国家権力のことであるという反対説もある。規範と事実を峻別し、主権は規範としての法的権力の問題であるが、制憲権は事実の問題とする。</ref>。ただし、その性質については、本当の「力」であるという実力説、機関としての権限であるという権限説や監督権力説など諸説がある。 === 権力と権威 === 主権を[[権力]]とする主張(ボダン、[[アイザイア・バーリン]]、Jo-Anne Pemberton ペンバートン)に対して、主権を[[権威]]とする主張もある([[ウィリアム・ブラックストン]]、アーネスト・バーカー、オークショット、ロバート・ジャクソン)<ref name=okb/>。アーネスト・バーカーは「主権は最終決定権を持つ権威である」と定義する<ref>E.Barker, Principles of Social and Political Theory, Oxford U.P., 1956,p/60</ref><ref name=okb/>。また、権力と権威を複合的な力としてヒンズリーは「共同体に最終的・絶対的な政治的権威」として主権を定義する<ref>F・H・Hinsley, Sovereignty, Cambridge U.P., (first ed., 1966, second ed., 1986) ,p17</ref><ref name=okb/>。 === 主権の制限 === 戦後は、[[平和主義]]と国際協調主義の下、主権を制限し、または[[国際機関]]に委譲できる旨の規定を有する憲法([[ドイツ連邦共和国基本法]]第24条、[[イタリア共和国憲法]]第11条)があるが、これが伝統的な絶対性を特徴とする主権概念の相対化を示すものであるかどうかは議論がなされている。 他方、[[佐々木毅]]は主権制限論に対して内在的制限と外在的制限という二つの基準を設定し、内在的制限では主権の絶対性は制限を内包したものと解し、他方の外在的制限では、主権は無制限絶対的であるが他の国家構成要素との関係で外在的に制限を受けるとする<ref>佐々木毅 『主権・抵抗権・寛容 ジヤン・ボダンの国家哲学』岩波書店 1973.p90, 104- 5.高山巌論文引用より</ref><ref name=takayama/>。このような制約外在説では、ボダンのいう「正しき統治」は統治論の問題となり、主権を主権たらしめるものは諸制限への服従ではなくその権力の永遠性と絶対性であり、従って主権論の中でその制限論に言及する必要はないとされる<ref name=takayama/>。 == 主権概念の歴史 == === 古代中世における主権論の萌芽 === {{see also|中世ヨーロッパにおける教会と国家|教会改革|グレゴリウス改革|叙任権闘争}} 古典期以前の君主政ギリシアには「主権」の概念はなかったが、少なくとも[[アリストテレス]]の時代には主権概念の萌芽は存在した<ref name=fhHins>F. H. Hinsley, Sovereignty , 2版 Cambridge University Press, 1986,p27-28</ref>。古代ギリシアのポリスは国家とも訳されるが、明確にその意義は区別されていない<ref name=fhHins/>。しかし、アリストテレスにとって人間はポリス的存在であり、また政治社会ポリスは人間集団または共同体の最高形態であった<ref name=fhHins/>。ポリスは部族社会から十分に分離されたものではなかったし、国家の形態を生み出したわけではなかった<ref name=fhHins/>。しかし、アリストテレスは『政治学』で、至高の権力を有する役(国政に携わる役職)を秩序づけたものを国制としており、ここに主権概念の萌芽を見ることができる{{sfn|髙山巖|2007}}。アリストテレスのこの定義はボダンの主権理論に影響を与えたが、ボダンのような「主権による統治」といった観念はみられない{{sfn|髙山巖|2007}}。 ローマのimperiumは主権概念に近いものであったが、市民権または軍事上の命令権にすぎなかった<ref name=okb/>。ローマの法学者で『[[ローマ法大全]]』にその多くの学説が採録された[[ドミティウス・ウルピアーヌス]]は「[[プリンケプス|元首]]は法に拘束されず」(princeps legibus solutus est)、「元首の意思は法律としての効力を有する」(Quod principi placuit、legis habet vigorem)と法解釈をした<ref> F. H. Hinsley,Sovereignty,Cambridge University Press,2版(1986年),p42.</ref>。このウルピアーヌスの命題についてダントレーヴはsummma potestas(最高の権力)の存在が前提とされているという<ref>{{Cite journal|和書|author=髙山巖 |title=国家主権概念の起源とその形成 |journal=埼玉大学紀要. 教養学部 |ISSN=1349-824X |publisher=埼玉大学教養学部 |year=2007 |volume=42 |issue=2 |pages=95-118 |naid=120006387615 |doi=10.24561/00015758 |url=https://doi.org/10.24561/00015758 |ref=harv}}</ref>。また、ウルピアーヌスのlegibus solutusは、法を超越した主権者という思想、法の拘束から解放された主権というボダンにも影響を与えた{{sfn|髙山巖|2007}}。 [[10世紀]]になるとフランスでsouvrainという言葉が使用されており、これはラテン語supremusに由来するもので「最上位のもの」であった{{sfn|粕谷進|196}}。当時は国内の権力が多元化しており、国王のみを主権者とはみずに、「すべてのバロンは封土内において主権者である」として封建諸侯も主権者とよばれた{{sfn|粕谷進|196}}。 [[1100年]]頃[[ボローニャ]]に法学校ができ、やがて[[大学]]へと発展して、[[1240年]]に[[ローマ法大全]]の標準注釈が編纂されると、全ヨーロッパから留学生が集まるようになり、[[ローマ法]]が普及していった。[[中世]]のフランスの[[レジスト(法学)|レジスト]](Legisten、レギステン)と呼ばれる[[ローマ法]]の注釈学者の一派が主権概念に先鞭をつけたとされる。ローマ法普及に伴いカトリック教会は、宗教的権威を背景に[[教会法]]を制定し、独自に[[教皇領]]を持って世俗的な権力を行使するようになっていった。ダントレーヴによれば、主権概念が最初に整然と仕上げられたのは、教会を弁護する教会法の学説においてであった{{sfn|髙山巖|2007}}。教皇は地上における最高の権威・権力の完全性(plenitudo potestatis)を持つとされ、これは近代的な主権概念に近い{{sfn|髙山巖|2007}}。[[中世#ヨーロッパ|中世ヨーロッパ]]はレス・プブリカ・クリスティアナ(キリスト教共同体)とよばれる普遍社会を形成していたが、教皇と皇帝の二つの焦点が秩序を支配する権威とみなされていた<ref name=sibata>J.B.モラル、[[柴田平三郎]]訳「中世の政治思想」平凡社ライブラリー、p.40,および訳者解題 p.259-260。</ref>{{sfn|髙山巖|2007}}。 [[1302年]]に、フランス王[[フィリップ4世 (フランス王)|フィリップ4世]]と課税問題で対立した教皇[[ボニファティウス8世 (ローマ教皇)|ボニファティウス8世]]は[[ウナム・サンクタム]][[教皇勅書]]を出し、教皇の権威は他のあらゆる地上の権力に優越するとし、地上に二人の平等な代理者(教皇と皇帝)を置くことは[[異端]]とした{{sfn|髙山巖|2007}}。これは単一性論議といわれ、唯一の最高の権力の保持者という考えは、教皇と皇帝による世界の二重支配を不条理とするとともに、これこそまさしく主権の論理であったと、ダントレーヴはいう{{sfn|髙山巖|2007}}。しかし、[[アナーニ事件]]で教皇を襲撃するなど、フランス王はローマへの圧力を強め、教皇座を[[アヴィニョン]]に置いて[[アヴィニョン捕囚]]となり、さらに[[1378年]]から[[1417年]]まで[[教会大分裂]]となった 中世[[ヨーロッパ]]の[[秩序]]においては、神聖ローマ皇帝や諸侯は、[[カトリック教会|ローマ・カトリック教会]]の宗教的権威に従属し(参照:[[カノッサの屈辱]])、世俗的支配関係は、[[土地]]を媒介として重層的に支配服従関係が織り成される[[封建制]]により規律されていた。例えば、[[神聖ローマ帝国]]においては、[[領邦君主]]は[[帝国等族]]として皇帝に従属し、[[領邦]]においては、[[領邦等族]]が領邦君主に従属していた。 [[ゲオルグ・イェリネック]]は中世において国家の独立を否定する勢力として教会、神聖ローマ帝国、大封地所有者(レーンストレーガー)および社団(ケルパーシャフテン)があり、この3つの勢力との戦いによって主権の観念が成立したとする<ref name=takayama/>。 封建時代には、封建的主従関係は幾重にも重なったため、古代ローマのインペリウムやポテスタスといった命令権のような公権力、支配権の公的な性質は消滅していた{{sfn|横山信二|2010|p=1-37}}。そして、個々の国家の完全な独立という観念は中世末までに普遍的に承認されていたといわれ、主権概念誕生の条件は整っていたのである<ref>ダントレヴ『国家とは何か』p122</ref>{{sfn|髙山巖|2007}}。 === 宗教戦争における主権と国家 === {{see also|ヨーロッパにおける政教分離の歴史}} 近代初期になると、君主が国内の権力が徐々に君主に集中して[[絶対王政]]が確立するに従い、中世的秩序は徐々に崩壊し近代国家が成立する。 [[フランス]]では、[[神聖ローマ帝国]](現在のドイツ)に対抗するという政治的な理由から、[[フィリップ2世 (フランス王)|フィリップ2世]]が[[1219年]]ローマ法の適用を禁止し、神聖ローマ皇帝に対する独立性を擁護するための理論を模索した。[[フィリップ4世 (フランス王)|フィリップ4世]]は、レジストと呼ばれるローマ法学者を重用し、君主の神聖ローマ皇帝、ローマ教皇からの対外的独立性を擁護するための理論の確立を図り、[[1302年]]に聖職者、貴族、平民の代表者を集めて[[三部会|全国身分会議]](l'États généraux)を開催した。[[1303年]]の[[アナーニ事件]]をはじめとする[[バビロン虜囚]]をきっかけに教皇、ローマ・カトリック教会の権威は失墜した。[[ガリカニスム]]ではローマ教皇に対しフランス教会の自立を主張した。 [[マルティン・ルター]]等の[[宗教改革]]により、カトリック教会の宗教的・政治的権威が揺らぎ、宗派間の対立が激化し、多くの宗教戦争が起った。[[1555年]]、宗派間対立の妥協として、[[アウクスブルクの和議]]により「ある者に領土の属する場合には、その者に宗教もまた属する(cuius regio, eius religio)」という[[領邦教会制]]が生まれた。この結果、領邦君主が領邦の宗教をルター派とすることにより、カトリック教会の支配から独立することが可能となった。 [[ジャン・ボダン]]は[[ユグノー戦争]]の時代に、教会や帝国から独立した国家の本質的特徴そを主権とした最初の思想家である{{sfn|粕谷進|196}}。[[1576年]]にボダンは『Les Six livres de la République(国家論)』で「主権(souverainete)とは国家(Republique)の絶対的かつ恒久的権力である」と定義した<ref>Les Six livres de la République,Vol.1-8,(Fayard,1986,p179)高山巌論文引用による。</ref><ref name=okb/><ref name=takayama/>。また同書ラテン語版(1586年)では「統治大権 (majestas)とは、市民と臣民に対する最高にして且つ法 (の拘束) から解放された権力(legibusquesolutapotestas)である」と定義する<ref> De Rublica Libri Sex,Latine ab autore rediti(Lugduni:I.Du-puys,M.D.LXXXVI)vol.1-viii, p78.</ref><ref name=takayama/>。ボダンはsouverainetieと共にmajeste(至上権、尊厳、権威)やsumma potestas(最高の権能)も同義語として使っている<ref name=okb/><ref name=akashi>{{Cite journal|和書|author=明石欽司 |title=ジャン・ボダンの国家及び主権理論と「ユース・ゲンティウム」観念(一) : 国際法学における「主権国家」観念成立史研究序説 |journal=法学研究 |ISSN=0389-0538 |publisher=慶應義塾大学法学研究会 |year=2012 |month=nov |volume=85 |issue=11 |pages=1-30 |naid=120005317531 |url=https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00224504-20121128-0001 |crid=1050845763879875456 |ref=harv}}</ref>。これに対してJ.アルトジュースは1603年『政治方法論解説』でボダンのいう絶対的つまり最高にしてすべての法から解放された権力は専制政治であると批判し、神法・自然法こそ最高法であるとした<ref name=takayama/>。ただし、ボダンは国家を「主権的権力をもってするところの正しき統治」と定義する<ref name=akashi/>が、その究極の基準として神法・自然法重視の大前提があるともいわれる<ref name=takayama/>。他方ボダンは暴君もまた主権者であるとするが、これは当時の戦争における無政府状態に対して「世界で最悪の暴政よりも悪しきもの」としており、戦争のなかの無政府状態における危機を克服するものは、絶対的な国家権力としての主権のみであることを念頭に置くべきである<ref name=takayama/>。こうしてボダンによって[[君主主権]]が確立し、中世には消滅していた公権力が復活し、近代的民族国家すなわち絶対主義国家が成立していくことになった{{sfn|横山信二|2010|p=1-37}}。 [[1648年]]、ヨーロッパの主要国が参加した[[三十年戦争]]の講和条約として、[[ヴェストファーレン条約]]が締結された結果、[[ヴェストファーレン体制]]という[[勢力均衡]]の国際的な枠組が生まれ、国際法上国家は平等であるという原則、[[主権国家体制]]が形成された。ヴェストファーレン条約によって[[神聖ローマ皇帝]]と[[ローマ教皇]]の[[権威]]が否定され、独立した国家(Staat)が帝国(Kaisertum) に代わって成立した{{sfn|横山信二|2010|p=1-37}}。 17世紀フランスでは、[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]が[[絶対王制]]を確立し、自国内の最高統治権を把握した。「朕は国家なり」との言葉のとおり[[王権神授説]]に基づき主権を有する君主=国家と考えられていた。主権概念は絶対主義体制を正当化する原理として登場し、その過程で主権概念を原理とする国民国家 nation-stateが誕生した<ref name=takayama/>。 [[ホッブズ]]は、ボダンの主権論と社会契約説を結びつけて、絶対王制を擁護した。[[ホッブス]]は分割された諸権力は相互に滅ぼしあうとして主権分割説に反対した<ref name=takayama/>。その後、ロックやモンテスキューによって立法権と執行権と裁判権などに統治権力を分割した権力分立論が形成された<ref name=takayama/>。[[フランス革命]]に影響を与えたルソーは主権を意志(一般意志)とみなし、主権は分割されえない不可分の単一のものであり、主権者は統治者ではなく人民であると述べた<ref name=takayama/>。 === 英米法における主権 === [[画像:WilliamBlackstone.jpg|thumb|right|[[ウィリアム・ブラックストン]]]] [[ウィリアム・ブラックストン|ブラックストン]]は『イギリス法釈義』(1765-69)で、主権の自然的基礎には、共同体の利害を識別する知恵、利害を追求する上で必要な徳、そしてこれらの知恵と意図を行動に移する権力または強さの3つがあり、これらの主権の基礎は、十分に組織されたあらゆる政府において必要なものであり、またあらゆる政府には至高の、抵抗できない、絶対の、支配されない[[権威]]があり、そこにjura summi imperii(最高権力)は属すると主張した<ref>William Blackstone,Commentaries on the Laws of England,Book the First,Sect. II. Of the Nature of Laws in general.</ref>。ブラックストンの解釈はイギリス、そしてアメリカ合衆国にも非常に強い影響を与えた<ref name=CWMorris/>。 [[1775年]]、[[アメリカ独立戦争]]が起こり、[[1783年]]、[[パリ条約 (1783年)|パリ条約]]でイギリスが[[アメリカ合衆国]]を主権国家として認めた。アキル・アマーは[[アメリカ合衆国憲法]]では人民主権が定められたとする<ref name=kanazawaT>{{Cite journal|和書|author=金澤孝 |date=2013 |url=https://www.waseda.jp/folaw/icl/assets/uploads/2014/05/A04408055-00-046030159.pdf |format=PDF |title=アメリカ憲法理論の近年の動向 : グランド・セオリーの退場 |journal=比較法学 |ISSN=04408055 |publisher=早稲田大学比較法研究所 |volume=46 |issue=3 |pages=159-188 |naid=110009552167 |id={{国立国会図書館書誌ID|024340151}} |CRID=1520853832607252480}}</ref>。 19世紀イギリスの法学者[[ジョン・オースティン (法哲学者)|オースティン]]はブラックストンの教説に影響を受けて、あらゆる[[政体]]は主権を保持すべきであると主張した<ref name=CWMorris/>。またオースティンは主権は、法を制定する最高機関の国民議会に属するとし、また法は主権者の命令であるとした<ref name=EncyB/>。オースティンの主著The Province of Jurisprudence Determined(1832年)では、主権者と主権体( a sovereign person or body)の法概念を生み出した<ref name=CWMorris/>。 [[ジェレミ・ベンサム|ベンサム]]は『統治論断片』においてブラックストンを批判的にとらえ、「政府の権威は代表者会議によってさえも制限されないし、ドイツ帝国やネーデルラント王国や[[スイスの地方行政区画|スイス各州]]や古代[[アカイア同盟]]における政府などは存在しないといえる」と述べた<ref name=CWMorris/>。オースティンと違ってベンサムはアメリカのような[[連邦|連邦制国家]]に主権は認めなかった<ref name=CWMorris/>。ベンサムとオースティンは規範的な意味ではない「服従の習慣」が政治と法の理解に欠かせないとした<ref name=CWMorris/>。ベンサムによれば、国民が統治者へ服従するという習慣があることによって政治的社会は存在する<ref name=CWMorris/>。オースティンと違ってベンサムは服従という習慣がいかに主権を限定できるのかについて、服従傾向は制限しうるのであり、諸国民は自分の国家にも他の統治組織にも服従しない準備があるとしている<ref name=CWMorris/>。ベンサムは自然権論や社会契約説をフィクションであるとしてフランス人権宣言などは法秩序と両立しない危険な過ちであるとして批判した{{sfn|『概説西洋政治思想史』}}。しかし、ベンサムは1820年代に執筆した憲法案において国家権力は憲法などの法構成権力(Constitutive power)に負っているとし、その法権力は国民の総体に属するとし、国民の幸福のための安定保障は人民の主権ということにまとめることができるとした<ref name=CWMorris/>。ベンサム憲法において国家権力は、立法・行政・司法権力にあり、法構成権力(Constitutive power)という思想が誕生した<ref name=CWMorris/>。こうしてベンサムは主権を「私達人民」へと移譲し、ホッブズ的な主権理解を変革することに成功した<ref name=CWMorris/>。現在では主権を絶対的で無制約なものと理解する人は少ないし、主権はもっと幅広い思想として規定されており、国家の権力と権威は諸集団や制度の多元性ののなかへ分けられている<ref name=CWMorris/>。 また[[アルバート・ヴェン・ダイシー|ダイシー]]も国会主権(Parliamentary Sovereignty)と[[法の支配]]を主張した。また、[[アメリカ合衆国最高裁判所]]は[[マーベリー対マディソン事件]]において[[違憲]]かどうかを[[司法審査]]する[[違憲審査制]]を世界で初めて確立したが、これは司法主権とはいえない<ref name=EncyB/>。 このほか[[ハロルド・ラスキ]]やヒューゴ・クラベ(Hugo Krabbe)などの[[多元的国家論|多元主義国家論]]は、国家の統治は様々な政治的、経済的、社会的、宗教的集団によって担われていると考え、国家のみが特別な権威をもっているのではないとし、国家主権を避け、団体主権、共有主権、分割主権などが主張された<ref name=okb/><ref name=EncyB/>。 === フランス憲法における国民主権・人民主権 === [[フランス革命]]当時、君主主権を否定する共和主義運動には人民主権論と国民主権論があり3つのグループがあった{{sfn|金子泰子|1998}}。第一の国民主権グループはブリソ、[[トマス・ペイン]]、[[コンドルセ]]らで、最終決定権を議会に置く{{sfn|金子泰子|1998}}。第二の人民主権グループ、[[コルドリエクラブ]]や両性愛国者友愛協会らは、主権は人民にあり、議会はそれに従うべきであるとする{{sfn|金子泰子|1998}}。第三の人民主権グループ、パリ市民やマルセイユ連盟兵らは[[8月10日事件]]の直前に、議会が義務不履行の場合、住民が公権力を代行するとする{{sfn|金子泰子|1998}}。 [[1789年]]の[[人間と市民の権利の宣言]]では主権が国民に属すると明言された(第3条)。 [[1791年憲法]]が成立すると、第3編「公権力」1条では以下のように国民主権について定められた。 {{quotation|La Souveraineté est une, indivisible, inaliénable et imprescriptible. Elle appartient à la Nation ; aucune section du peuple, ni aucun individu, ne peut s'en attribuer l'exercice.<br> 主権は、一で、分割できず、譲り渡すことができず、かつ時効にかからない。主権は国民に属する。人民のいかなる部分も、いかなる個人も、主権の行使を僭取することができない。(山本浩三訳{{Sfn|山本|1960a}})<br> 主権は、単一、不可分、不可譲で、時効にかかることがない。 主権は国民に属する。人民のいかなる部分も、また、いかなる個人も、主権の行使を簒奪することができない(横山信二訳{{sfn|横山信二|2010|p=1-37}})|1791年の憲法、第3編1条}} 1791年憲法では、主権は国民に属し、人民および個人は国民に属する主権を奪うことができないとされた{{sfn|横山信二|2010|p=1-37}}。この「国民」は、国民各人ではなく、超個人的な国民集団のことであるとマルベールはいうが、この国民とは抽象的な概念のことであった<ref>{{Cite journal|和書|author=柳春生 |title=1791年フランス憲法における人民主権思想の展開 |journal=法政研究 |ISSN=03872882 |publisher=九州大学法政学会 |year=1973 |month=jun |volume=39 |issue=2-4 |pages=53-72 |naid=110006262191 |doi=10.15017/1648 |url=https://doi.org/10.15017/1648 |ref=harv}}</ref>。また1791年憲法において国民主権が明記されたのは、君主主権に対するのはもちろんのこと、革命期に主張された人民主権にも対抗するものであった{{sfn|横山信二|2010|p=1-37}}。革命フランス憲法における国民主権では、特定の有権者や集団に主権が属するのではなく、「国民(Nation)」に属する{{sfn|横山信二|2010|p=1-37}}。 さらに1791年憲法第3編「公権力」2条では、 {{quotation| La Nation, de qui seule émanent tous les Pouvoirs, ne peut les exercer que par délégation. - La Constitution française est représentative : les représentants sont le Corps législatif et le roi.<br> すべての権力は、ただ国民からだけ発するが、国民は委任によってしか、すべての権力を行使することができない。フランス憲法は代議制である。代表者は立法府と国王である。(山本浩三訳{{Sfn|山本|1960a}})|1791年憲法第3編2条}} と書かれており、主権は立法府(議会)によってのみ行使されるとされた{{sfn|横山信二|2010|p=1-37}}。すなわち、主権は移譲できないが、国民から委任された代表機関として議会は主権を行使するとされ た{{sfn|横山信二|2010|p=1-37}}。このように主権は人民でなく国民に属するため、フランスの政体は、人民が直接に主権を行使する[[直接民主制]]ではないことが明記されるとともに、国王(執行府)は議会が定めた法律に従って執行権を行使する([[法の支配]]){{sfn|横山信二|2010|p=1-37}}。また、1791年憲法では政府は[[君主制]]であると明記された(第3編4条{{Sfn|山本|1960a}})。しかし、[[8月10日事件]]によって[[1791年憲法]]は破綻した。 ジロンド派の[[1793年憲法]]では主権が人民にあると明記された(第25条)が、非常事態による混乱によってこの憲法は施行されなかった{{Sfn|山本|1960b}}<ref name=yamas>山上正太郎「ジャコバン憲法」日本大百科全書(ニッポニカ)</ref>。 テルミドール派[[総裁政府]]によって新たに制定された[[1795年憲法]]では、主権は「市民の総体」に存在するとされ(第17条)、[[恐怖政治]]への反省から[[二院制]]となった{{Sfn|山本|1961}}。 [[ナポレオン]]が[[ブリュメールのクーデター]]によって[[総裁政府]]を倒し全権を掌握すると、ナポレオン政府は[[共和暦8年憲法|1799年憲法(共和暦8年憲法)]]を発布した。1799年憲法は主発案者の[[エマニュエル=ジョゼフ・シエイエス]]が、人民は主権者であるが、それについて十分に啓蒙されていないから主権を直接に行使すべきではない、そのため、人民は主権を委任するという構想のもとに起草した{{sfn|平山栄一|1962}}。1799年憲法では三院制がとられ、また、主権についての条項は消えた。 [[共和暦10年憲法]](1802年)では、[[第1コンスル]]の権限が強化され、[[共和暦12年憲法|共和暦12年憲法(1804年憲法)]]では、統治は[[皇帝]]に委任された(1条)。 [[フランス復古王政|復古王政]]の元老院憲法(1814年4月6日フランス憲法)では執行権は国王にあり、国王の一身は不可侵でありかつ神聖であるとされた(第4・21条){{Sfn|山本|1958b}}。 [[1814年憲章|1814年6月4日の憲章]]では、前文で崇高な神が王に義務を課したという[[王権神授説]]が書かれ、執行権は国王にあり、国王の一身は不可侵でありかつ神聖であるとされた(第13条){{Sfn|山本|1959a}}。 [[1830年憲章|1830年8月14日憲章]]では王は神聖不可侵であり、執行権は王にだけ属するとされた(第12条){{Sfn|山本|1959b}}。 [[フランス第二共和政|第二共和政]]の[[1848年憲法]]では、主権者はフランス市民全体とし(1条)、公権力は人民から出る(第18条)、フランス人民は立法権は単一議会に委任し(第20条)、執行権を大統領に委任した(43条) {{Sfn|山本|1959c}}。 [[ナポレオン3世]]による[[フランス第二帝政|第二帝政]]の[[1852年憲法]]では、立法権は大統領・元老院・立法院によって行使され(4条)、大統領は執行権をもち(6-12条)、大臣は大統領にのみ従属し忠誠を誓う(13-14条)、さらに憲法を修正した元老院規則によってフランス皇帝が復位された{{Sfn|山本|1959d}}{{Sfn|山本|1959e}}。 [[1875年の憲法的法律|第三共和国憲法]]では、立法権は二院制議会にあり、大統領は法の執行を監督する{{Sfn|山本|1958a}}。 1946年の[[1946年10月27日憲法|第四共和政憲法]]では公権力は主権者たる人民に奉仕せねばならない(第20条)、主権は人民に属し、主権は憲法に従って行使される(第43条)、フランス人民は議会議員によって主権を行使する(第47条){{Sfn|山本|1957}}。第四共和政憲法は[[フランス共和国憲法|第五共和制憲法]]によって廃止された。 このようにフランス革命以降のフランスでは復古王政、帝政、共和制の交代を繰り返してきたが、現在の[[フランス共和国憲法|第五共和制憲法]](1958年)では国民主権と人民主権と代表者(大統領、国会)とについて以下のように明記されている。 {{quotation|La souveraineté nationale appartient au peuple qui l'exerce par ses représentants et par la voie du référendum.<br> 国民的主権は人民に属する。人民はその主権を代表者および投票を通じて行使する|フランス第五共和制憲法第1章第3条}}と明記された。ここでの投票は、国民投票または人民投票(国民投票と住民投票を含む)と解釈されている{{sfn|三輪和|2009}}{{sfn|横尾日出雄|2009|p=1-16}}。 国民主権によって[[個人]]と一人一票の民主制が成立するのに対して、人民主権は中間団体を復活させる危うさを持っていたと指摘されている{{sfn|金子泰子|1998}}。デヴェルジェはフランス革命期の国民主権の原理について「きわめて明確な現実的目的のために形成されたかなり狡猾な理論に立脚している」として、絶対君主制の危険と、人権宣言の 起草者であったブルジョワが反対していた純粋民主制(直接民主制)という二つの危険を回避するために設定されたとしている<ref>M.デュヴェルジェ 時本義昭訳『フランス憲法史』 みすず書房 1995 年,p55</ref>。 しかし、人民主権論と国民主権論によって近代民主主義国家の基礎である個人と政治的平等を成立させた意義は大きい{{sfn|金子泰子|1998}}。フランス革命によって絶対主義は姿を消したが,主権概念は、君主から国民へ移り、国民国家の基本的属性として継承された{{sfn|金子泰子|1998}}。 しかし、主権をどこにおくかをめぐる論争は君主主権、国民主権、人民主権に関する論争だけではない。18世紀の法学者J-J.ビュルラマキは主権について「絶対的権力を,恋意的で専制的で限界のない権力と混同してはならない 」「主権はその本性自体によって,主権者がそれを引き出すところの人々の意向によってまた神の法自体によって制限されている」とした<ref name=takayama/>。 === 近代ドイツ === [[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の侵攻によって[[1806年]]の[[ライン同盟]]が成立し、[[神聖ローマ帝国]]は消滅した。この結果、領邦国家は、法的には他者に従属しない存在となった。そのほかにも神聖ローマ帝国において次のことが起こり、中世的な身分秩序は完全に崩壊した。[[世俗化]](Säklarisation)により聖界諸侯の領邦は廃止され、[[陪臣化]](Mediatisierung)によりすべての聖界諸侯と多くの俗界諸侯が、皇帝ではなく領邦君主から[[レーン権]](Lehnsrecht)を封じられることになった。つまり、帝国直属の[[等族]](reichsunmittelbare Stände)ではなくなった。結果として、残存した領邦は大規模化した。なお、ドイツではsouverainetieに相当する語は18 世紀までなく、19世紀初めにナポレオンの影響を受けて外国語Souveränitätが輸入された<ref name=okb/>。 19世紀ドイツでは理性主権、国家主権などの主張があり、また法主権説では主権の所在の棚上げをした<ref name=okb/>。ドイツでは、[[君主主権|君主主権説]]と人民主権説(Volkssouveränität)が対立し、その帰属主体をあえて問わないという問題回避的な[[国家主権|国家主権説]]が唱えられた。[[ヘーゲル]]以来、ドイツでは国家を主権の主体とし、主権を国家権力、国家意思、国家人格の特性と主張してきた<ref name=sekine/>。しかし、国家主権説の真意は専制的君主主権へのアンチテーゼであるとされる<ref name=sekine/>。[[ゲオルグ・イェリネック]]は主権的国家権力は独立・最高の権力であり、国際法においても国家はただ自己の意志にのみ服するとし{{sfn|粕谷進|196}}、また国家は人格を有する法主体であるとする国家法人説を主張し、{{sfn|長野晃|2015}}。 [[ドイツ帝国]]時代の国法学・国家学について[[カール・シュミット]]はアルブレヒトらの国家法人説も国家主権説も、憲法制定権力の主体と政治的単一体の代表者に関する問題を回避するものにすぎないと批判した{{sfn|長野晃|2015}}。 またアドルフ・ラッソン(1832-1917)も主権は国家の自己目的の具現化したもので、国家は主権を有する主体として法秩序に服する必要はないとした{{sfn|粕谷進|196}}。ラッソンは異なる民族を同一の法の下に服せしめることは非性的であるとし、国民の自由を原理とする国際関係には法が存在しないとして国際法への懐疑論を主張した{{sfn|西平等|2015}}。ただし、平和は諸国家の共通の利益であると述べており、また勢力均衡が平和の条件であるとする{{sfn|西平等|2015}}。 1899年、[[万国平和会議|第一回ヘーグ平和会議]]でドイツ代表は[[常設仲裁裁判所]]裁判官名簿作成についてドイツ国家の主権を傷つけるとして反対し、またドラゴーも公債発効は主権行為であり、国家主権の名において外国の参加を排除するとした{{sfn|粕谷進|196}}。 === 現代国際法と主権 === 他方、主権の教理は、国家間の関係において多大な影響を持った<ref name=EncyB/>。ボダンは法を制定する主権者は、制定した法に拘束されない (majestas est summa in cives ac subditos legibusque soluta potestas)としたが、この思想は、主権は何者にも責任を持たないし、いかなる法にも拘束されないと解釈されるようになった<ref name=EncyB/>。しかし、ボダンは、神の法、自然法、理性、そして全ての民族に普遍的な法 (jus gentium [[万民法]])、さらに主権者を決定したり主権の限界を定める国家の原理法などそこから主権が導出される諸々の基本原則を、主権は遵守すべきであると強調していた<ref name=EncyB/>。このようにボダンにおいて主権は、国家の憲法や、全ての人類に拘束力を持つ高法(the higher law)によって制限される<ref name=EncyB/>。これら諸々の基本原則は後年、国際法へと組織されていったが、他方で、ボダンの主権論は国際的な政治秩序において絶対主義を正当化するために使用されたのであった<ref name=EncyB/>。 ボダンの主権論はさらにホッブズの[[リヴァイアサン]]において発展された<ref name=EncyB/>。ホッブズは主権を法よりも力として捕らえ、法とは主権者が指揮するものであり、主権を制限することはできない。主権は絶対的であると主張した<ref name=EncyB/>。永遠の戦争状態である国際社会において、一主権者は他の主権者に対して主張を力によって強いる傾向にある<ref name=EncyB/>。しかし、主権国家は、主張された権利を判定する論議を続け、また実際の戦争という手段をとって権利を主張したり、人民の保護や、他の国への影響を無視した経済政策をとるようになった<ref name=EncyB/>。たとえば、欧州での征服は[[ウィーン会議]](1814~1815年)以降に法的に制限されるようになるが,欧州外の非文明地域は無主地とされ,国際法の主体とは認められず,多くの国は[[植民地]]とされた{{sfn|中沢和男|2015}}。また交戦国はみな自らの正当性を主張したから,戦争は事実上「国家の正当な権利」であるとされた<ref>浅田正彦編著(2013年)『国際法』(第2版)東信堂p12-13</ref>{{sfn|中沢和男|2015}}。 しかし、20世紀に入ると国家の行動の自由を制限するようになった<ref name=EncyB/>。1899年[[万国平和会議]]で[[ハーグ陸戦条約]]が採択され、戦争が制限された。 [[第一次世界大戦]]後の1920年に発効された[[国際連盟規約]]では「締約国ハ戦争ニ訴ヘサルノ義務ヲ受諾ス」(前文)「連盟各国ノ領土保全及現在ノ政治的独立ヲ尊重シ,且外部ノ侵略ニ対シ之ヲ擁護スルコトヲ約ス」(第10条)と規定され、1928年の[[不戦条約|ケロッグ=ブリアン条約(パリ不戦条約)]]では戦争放棄と平和的手段による紛争解決が規定された。 そして[[第二次世界大戦]]後の[[国際連合憲章]]において加盟国は国際紛争を平和的手段によって解決すること(第2条3項、[[紛争の平和的解決]]義務)、また「武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。」(第2条4項、[[武力不行使原則]])と規定され、同時に主権国家の主権は相互に平等であるという主権平等の原則も規定された(第2条1項)<ref>「国連憲章テキスト」国際連合広報センター</ref>。主権平等の原則は1970年の[[友好関係原則宣言]]でも確認された。 このように征服と戦争は非合法化されるようになり{{sfn|中沢和男|2015}}、主権は国際機構や国際条約などによって制約が加えられているものの、国際連合においては国家の主権自体は否定されていない{{sfn|粕谷進|196}}。 こうして現代国際法において主権の概念は、政治的統一体や共同体を保証することで諸国家の領界的膨張を防ぐ基盤的な規範としての側面を持つにいたった{{sfn|中沢和男|2015}}。[[グローバル化]]が進む中、統治の実権が国境を超えてゆく中で,主権だけが一定の領界を単位とした諸権利の調整を担いうるのであり、主権だけが[[人権]]等の普遍的価値を基軸とした政治的達成のための制度的基盤であるとされる{{sfn|中沢和男|2015}}。 === 主権概念への批判 === 主権概念への批判もあり、憲法学者[[レオン・デュギー]]は、主権概念抹消ないし不要論の立場から、その帰属主体をあえて問わない[[法主権説]]を唱え、国家の権威と権力を擁護する[[アデマール・エスマン]]と論争した<ref>{{Cite journal|和書|author=深瀬忠一 |date=1964-11 |url=https://hdl.handle.net/2115/16042 |title=A.エスマンの憲法学 -フランス現代憲法学の形成(1)- |journal=北大法学論集 |ISSN=03855953 |publisher=北海道大学法学部 |volume=15 |issue=2 |pages=95-120 |hdl=2115/16042 |naid=120000961264 |CRID=1050282813957865344}}</ref>。 [[ハロルド・ラスキ]]は主権概念は正確でなく、危険な道徳的結果をもたらすこともありえるとし<ref>ラスキ『[[政治学大綱]]』日高明三・横越英一訳 ,法政大学出版局1952上p79</ref><ref name=takayama>{{Cite journal|和書|author=髙山巖 |date=2014 |url=https://doi.org/10.7218/nenpouseijigaku.65.1_246 |title=古典期主権論争史・序説 |journal=年報政治学 |ISSN=0549-4192 |publisher=日本政治学会 |volume=65 |issue=1 |pages=1_246-1_268 |doi=10.7218/nenpouseijigaku.65.1_246 |naid=130006905581 |CRID=1390282680357538560}}</ref>、[[ジャック・マリタン]]は主権概念は本質的に誤まっているとし<ref>『人間と国家』 久保正幡・稲垣良典訳(創文社、1962年、p40,63)</ref>、国際法学者で元国連事務総長[[ブトロス・ブトロス=ガーリ]]は「絶対的かつ排他的な主権の時代は過ぎ去った」とした<ref name=okb/>。一方で、かつて先進国の植民地であった新興国やソ連国際法などにおいては国家主権擁護論が出されたが、これは西欧における主権政策に対する反論ないし抗議概念として主権が用いられたものである{{sfn|粕谷進|196}}。 === 日本 === 日本では[[1873年]]([[明治]]6年)、政府翻訳官[[柴田昌吉]]と横浜税関の翻訳官子安峻の『附音挿図英和字彙』で英語sovereigntyに「主権」の訳語を付した<ref name=okb/>。「主権」という[[漢語]]は『[[管子]]』(七臣七主)で「君主の権力」という意味が初出とされる{{Refnest|group="注釈"|『[[管子]]』での「君主」がヨーロッパにおいての皇帝、国王、領主などのように区別されているかどうかは不明である<ref name=okb/>}}。 [[1881年]](明治14年)[[国会開設の詔]]を受けて人権・主権論争が展開し、[[1883年]](明治16年)、文部省編輯局がホッブズ『リヴァイアサン』部分訳を『主権論』と題して刊行した<ref name=okb/>。 [[1889年]](明治22年)に公布された[[大日本帝国憲法第4条]]では「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」と定めたが、この統治権は主権の意味に解せられ、「しろしめす」という日本古来のことばに該当するものとして「主権」よりも「統治権」が適切であると考えられた<ref name=ikedamasaaki>[[池田政章]]「統治権」日本大百科全書(ニッポニカ)</ref>。 [[大日本帝国憲法|明治憲法]]下の天皇は《統治権の総攬者》であり,統治行為の最終的確定者でありえたが、その統治の現実は絶対的主権者はおろか主権者からもおおむね遠い儀礼を中心とするものであった{{sfn|中沢和男|2015}}。[[穂積八束]]や[[上杉慎吉]]などは[[天皇主権]]を主張し、ほか[[天皇機関説]]論争なども起こった。また[[美濃部達吉]]は国家は目的と意思の主体であり、国家は永遠の一体としてそれ自身生活力を持つという[[国家有機体説]]にもとづく[[国家法人説]]を主張し、「最高権」「統治権」「最高機関の地位」の三つに加えて、「国家の意思力そのもの」を主権概念に含める<ref>{{cite book|和書|author=穂積八束 |title=憲法提要 |publisher=有斐閣 |year=1912 |edition=4版 |id={{全国書誌番号|49011820}} |pages=14-21}}</ref><ref name=sekine>{{Cite journal|和書|author=関根萬之助 |date=1973-03 |url=https://meiji.repo.nii.ac.jp/records/9016 |title=主権の概念について |journal=明治大学短期大学紀要 |ISSN=0389-5963 |publisher=明治大学短期大学 |volume=17 |pages=35-53 |hdl=10291/10801 |naid=120002909461 |CRID=1050294584547142144}}</ref>。これがドイツ法の「国権」(Staatsgewalt)を表す概念であることは明らかであるが、「統治権」と区別がしにくいと難点が指摘されている{{要出典|date=2014年11月}}。 戦後は、[[日本国憲法]]における主権、とくに国民主権の解釈として、[[杉原泰雄]]と[[樋口陽一]]らの論争{{harv|『国民主権の研究』}}{{harv|『近代立憲主義と現代国家』}}、[[尾高朝雄]]と[[宮沢俊義]]らの[[ノモス主権論|ノモス主権論論争]]がある{{sfn|渡辺良二|1975}}<ref name=sekine/>。 == 主権が問題となった事件 == 主権はしばしば、国際的事件において問題となってきた。 * [[パルマス島事件]]への常設仲裁裁判所判決{{sfn|粕谷進|196}}。 * [[制限主権論]]は、[[プラハの春]]に際してソ連が提唱した。 * [[金大中事件]]。この事件は[[韓国中央情報部]]によるものとされ、その解決については、日本が主権を放棄したとの評価がある<ref>{{Cite book|和書|author=古野喜政 |title=金大中事件の政治決着 : 主権放棄した日本政府 |publisher=東方出版 |year=2007 |NCID=BA80045036 |ISBN=4862490506 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000008396410-00}}</ref>。 * [[在日米軍裁判権放棄密約事件]] * [[日米地位協定]] * [[北方領土問題]] - 日本の領土への主権侵害とされる<ref>袴田 茂樹 週刊ダイヤモンド105(1), 66, 2017-12-31</ref> * [[人道的介入]]([[ユーゴスラビア紛争]]、[[ソマリア内戦]]、[[ルワンダ内戦]]) * [[失敗国家|崩壊国家 (失敗国家)]] - 国内的主権と政府を喪失し、国家の機能が停止し、しかし国際法的主権によってのみ存在するという国家性を喪失した組織のことで、[[ソマリア]]が典型である{{sfn|遠藤貢|2006}}{{sfn|遠藤貢|2010}}{{sfn|遠藤貢|2015}} * [[イギリスの欧州連合離脱是非を問う国民投票]] - [[欧州連合|EU]]離脱によってイギリスの主権が回復するという主張が離脱派によってなされた。 == 文献案内 == *Burns, J.H. “Bentham on Sovereignty: An exploration”, Northern Ireland Legal Quarterly, 24 (1973): 399-416. *Hart, H.L.A. “Sovereignty and Legally Limited Government”, in Essays on Bentham (Oxford, 1982), pp. 220-42. *明石欽司『ウエストファリア条約:その実像と神話』慶應義塾大学出版会2009年 *神寳秀夫『近世ドイツ絶対主義の構造』創文社1994年 *杉原泰雄「国民主権と人民主権」『世界』岩波書店、1972 年319号 *高山巌「ウエストファリア考:「象徴的標識」の視点からの一試論」『国際政治研究の先端7』(国際政治160号)48-63頁 (2010年) *長尾英彦「駐留米軍と主権免除の原則」中京法学38巻3・4号 ( 2004年) *山影進編著『主権国家体系の生成:「国際社会」認識の再検証』ミネルヴァ書房2012年 *ピーター・スタイン著・屋敷二郎監訳『ローマ法とヨーロッパ』(ミネルヴァ書房) *トロイマン,ルドルフ、小林孝輔・佐々木高雄共訳『モナルコマキ:人民主権論の源流』(社会科学古典選書3)学陽書房 1976年 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|30em}} === 出典 === {{Reflist|20em}} == 参考文献 == *[[ジャン・ボダン]]『[[国家六論]](Les Six livres de la République)』(1576年) *[[ウィリアム・ブラックストン]]『[[イギリス法釈義]](Commentaries on the Laws of England)』(1765-69年) *Austin, John. The Province of Jurisprudence Determined, ed. William Rumble (1832) *Bentham, Jeremy. A Comment on the Commentaries and A Fragment on Government. *ジェレミー・ベンサム『憲法典』 *[[ハロルド・ラスキ]]『[[政治学大綱]]』(日高明三・横越英一訳、法政大学出版局、1952年) *ダントレーヴ『国家とは何か』(石上良平訳、みすず書房、1972年、新装版2002年) *E.Barker, Principles of Social and Political Theory, Oxford U.P., 1956 *[[ジャック・マリタン]]『人間と国家』(久保正幡・稲垣良典訳、創文社、1962年) *F. H. Hinsley, Sovereignty , Basic books,1966. 2版 Cambridge University Press, 1986年. *M.デュヴェルジェ 時本義昭訳『フランス憲法史』 みすず書房 1995 年 *J.B.モラル、[[柴田平三郎]]訳「中世の政治思想」平凡社ライブラリー *Encyclopædia Britannica,Sovereignty. *Christopher W. Morris, SOVEREIGNTY, University of Pennsylvania Law School,2011. *Christopher W. Morris, An Essay on the Modern State, Cambridge, 1998 *浅田正彦編著『国際法』(第2版)東信堂、2013年 *[[芦部信喜]]『憲法制定権力』東京大学出版会、1983年。ISBN 4130311123 *芦部信喜『[[憲法 (芦部信喜)|憲法]]〔初版〕』[[岩波書店]]、1993年。 * {{Cite journal|和書|author=今井直重 |title=現行世界各国憲法における主権の構造 ―比較憲法学的考察― |journal=奈良学芸大学紀要 人文・社会科学 |ISSN=04695569 |publisher=奈良学芸大学 |year=1961 |month=mar |volume=10 |issue=1 |pages=57-79 |naid=120002674108 |url=https://hdl.handle.net/10105/4788 |ref=harv}} * {{cite book|和書|author=川端 正久 |title=アフリカ国家を再考する |chapter=遠藤貢「崩壊国家と国際社会」 |publisher=晃洋書房 |year=2006 |ISBN=4771017301 |id={{全国書誌番号|21029498}} |ref={{harvid|遠藤貢|2006}}}} * {{cite book|和書|author=遠藤貢 |title=崩壊国家と国際安全保障 : ソマリアにみる新たな国家像の誕生 |publisher=有斐閣 |year=2015 |ISBN=9784641149137 |id={{全国書誌番号|22672017}} |ref=harv}} * {{cite book|和書|chapter=遠藤貢「ソマリアにおける「紛争」と国家形成をめぐる問題系」|author=佐藤章 |title=『アフリカ・中東における紛争と国家形成』調査研究報告書 |publisher=アジア経済研究所 |year=2010 |ref={{harvid|遠藤貢|2010}}}} * {{Cite journal|和書|author=岡部悟朗 |title=主権について : 最終講義 |journal=法学論集 |ISSN=0389-0813 |publisher=鹿児島大学 |date=2011-03 |volume=45 |issue=2 |pages=5-18 |naid=40019193410 |url=https://hdl.handle.net/10232/11361 |ref=harv}} * {{Cite journal|和書|author=粕谷進 |title=国際法における主権の考察 |journal=紀要 |publisher=帝京短期大学 |year=1966 |month=jul |volume=2 |pages=179-193 |naid=110004689405 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R000000024-I001068543-00 |ref=harv}} * {{Cite journal|和書|author=金子泰子 |title=「国民主権」と「人民主権」 : フランスの共和主義運動に見られる二つの君主主権否定原理(研究) |journal=お茶の水史学 |ISSN=0289-3479 |publisher=お茶の水女子大学文教育学部人文科学科比較歴史学コース読史会 |date=1998-08 |issue=42 |pages=43-79 |naid=110005944245 |url=https://hdl.handle.net/10083/889 |ref=harv}} *[[佐々木毅]] 『主権・抵抗権・寛容 ジヤン・ボダンの国家哲学』岩波書店 1973. *[[佐藤幸治 (憲法学者)|佐藤幸治]]『憲法〔第三版〕』[[青林書院]]、1995年。ISBN 4417009120 * {{cite book|和書|author=杉原泰雄 |title=国民主権の研究 : フランス革命における国民主権の成立と構造 |publisher=岩波書店 |year=1971 |NCID=BN0110179X |ISBN=4000007580 |ref={{harvid『国民主権の研究』}}}} * {{cite book|和書|author=樋口陽一 |title=近代立憲主義と現代国家 |publisher=勁草書房 |year=1973 |NCID=BN00997880 |ISBN=4326400161 |ref={{harvid『近代立憲主義と現代国家』}}}} * {{Cite journal|和書|author=中沢和男 |title=国際政治における主権の機能とその将来 |journal=東海大学紀要. 政治経済学部 |ISSN=0389-200X |publisher=東海大学政治経済学部 |year=2015 |month=09 |volume=47 |pages=33-50 |naid=120006591144 |url=https://opac.time.u-tokai.ac.jp/webopac/TC10002376 |ref=harv}} * {{cite book|和書|author=中谷猛, 足立幸男 |title=概説西洋政治思想史 |publisher=ミネルヴァ書房 |year=1994 |pages=195-206 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/12744433 |ISBN=9784623024001 |id={{全国書誌番号|94045695}} |ref={{harvid|『概説西洋政治思想史』}}}} * {{Cite journal|和書|author=長野晃 |title=機関説批判と国家学の解体 : ゲオルク・イェリネックとカール・シュミット |journal=法学政治学論究 : 法律・政治・社会 |ISSN=0916-278X |publisher=慶應義塾大学大学院法学研究科内『法学政治学論究』刊行会 |year=2015 |issue=107 |pages=67-99 |naid=120005741753 |url=https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN10086101-20151215-0067 |ref=harv}} * {{Cite journal|和書|author=西平等 |title=国際秩序の動態的把握 : アドルフ・ラッソンの国際法批判論 |journal=関西大学法学論集 |ISSN=0437-648X |publisher=關西大學法學會 |year=2015 |month=jul |volume=65 |issue=2 |pages=399-411 |naid=120005688470 |url=https://hdl.handle.net/10112/9386 |ref=harv}} *[[樋口陽一]]『近代立憲主義と現代国家』勁草書房、1973年 *[[樋口陽一]]『比較憲法〔第3版〕』青林書院、1992年。ISBN 4417010757 * {{Cite journal|和書|author=平山栄一 |title=「フランス共和国八年の憲法」について |journal=史学 |ISSN=03869334 |publisher=三田史学会 |year=1962 |month=dec |volume=35 |issue=2・3 |pages=211-226 |naid=110007409903 |url=https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00100104-19621200-0055 |ref=harv}} *古野喜政『金大中事件の政治決着:主権放棄した日本政府』東方出版、2007年。ISBN 4862490506 * {{Cite journal|和書|author=三輪和宏 |title=2008年7月23日のフランス共和国憲法改正 |journal=外国の立法 |ISSN=0433096X |publisher=国立国会図書館調査及び立法考査局 |year=2009 |month=jun |issue=240 |pages=139-142 |naid=40016705545 |id={{NDLJP|1000080}} |doi=10.11501/1000080 |url=https://id.ndl.go.jp/bib/10340274 |ref=harv}} *[[山上正太郎]]「ジャコバン憲法」日本大百科全書(ニッポニカ) * {{Cite journal |author=[[山本浩三]] |url=https://doi.org/10.14988/pa.2017.0000009199 |title=自由フランスから第四共和国までの基本法(七・完)訳 |journal=同志社法學 |volume=9 |issue=2 |pages=98-113 |publisher=同志社法學會 |date=1957-09-20 |naid=110000401314 |doi=10.14988/pa.2017.0000009199 |CRID=1390009224912145280 |ref={{SfnRef|山本|1957}} }} * {{Cite journal |author=山本浩三 |url=https://doi.org/10.14988/pa.2017.0000009272 |title=第三共和国憲法(訳) |journal=同志社法學 |volume=10 |issue=2 |pages=91-96 |publisher=同志社法學會 |date=1958-08-20 |naid=110000400890 |doi=10.14988/pa.2017.000000927 |CRID=1390572174865565568 |ref={{SfnRef|山本|1958a}} }} * {{Cite journal |author=山本浩三 |url=https://doi.org/10.14988/pa.2017.0000009278 |title=王政復古の憲法(一)訳 |journal=同志社法學 |volume=10 |issue=3 |pages=116-121 |publisher=同志社法學會 |date=1958-10-25 |naid=110000400896 |doi=10.14988/pa.2017.0000009278 |CRID=1390009224912152448 |ref={{SfnRef|山本|1958b}} }} * {{Cite journal |author=山本浩三 |url=https://doi.org/10.14988/pa.2017.0000009291 |title=王政復古の憲法(二)完・訳 |journal=同志社法學 |volume=10 |issue=5 |pages=121-127 |publisher=同志社法學會 |date=1959-02-28 |naid=110000400908 |doi=10.14988/pa.2017.0000009291 |CRID=1390009224912158080 |ref={{SfnRef|山本|1959a}} }} * {{Cite journal|和書|author=山本浩三 |date=1959-03-15 |url=https://doi.org/10.14988/pa.2017.0000009294 |title=七月王政の憲法(訳) |journal=同志社法學 |ISSN=0387-7612 |publisher=同志社法學會 |volume=10 |issue=6 |pages=36-42 |naid=110000400911 |doi=10.14988/pa.2017.0000009294 |CRID=1390853649842284800 |ref={{SfnRef|山本|1959b}} }} * {{Cite journal|和書|author=山本浩三 |date=1959-06-30 |url=https://doi.org/10.14988/pa.2017.0000009300 |title=第二共和国憲法(訳) |journal=同志社法學 |ISSN=0387-7612 |publisher=同志社法學會 |volume=11 |issue=1 |pages=46-57 |naid=110000400917 |doi=10.14988/pa.2017.0000009300 |CRID=1390572174865574400 |ref={{SfnRef|山本|1959c}} }} * {{Cite journal|和書|author=山本浩三 |date=1959-09 |url=https://doi.org/10.14988/pa.2017.0000009307 |title=第二帝政の憲法(一)訳 |journal=同志社法學 |ISSN=0387-7612 |publisher=同志社法學會 |volume=11 |issue=2 |pages=88-97 |naid=110000400924 |doi=10.14988/pa.2017.0000009307 |CRID=1390572174865578752 |ref={{SfnRef|山本|1959d}} }} * {{Cite journal|和書 |author=山本浩三 |date=1959-11 |url=https://doi.org/10.14988/pa.2017.0000009314 |title=第二帝政の憲法(二)完・訳 |journal=同志社法學 |ISSN=0387-7612 |publisher=同志社法學會 |volume=11 |issue=3 |pages=77-88 |naid=110000400931 |doi=10.14988/pa.2017.0000009314 |CRID=1390290699888866048 |ref={{SfnRef|山本|1959e}} }} * {{Cite journal|和書|author=山本浩三 |date=1960-01 |url=https://doi.org/10.14988/pa.2017.0000009318 |title=一七九一年の憲法(一)訳 |journal=同志社法學 |ISSN=0387-7612 |publisher=同志社法學會 |volume=11 |issue=4 |pages=124-136 |naid=110000400935 |doi=10.14988/pa.2017.0000009318 |CRID=1390290699888868864 |ref={{SfnRef|山本|1960a}} }} * {{Cite journal|和書|author=山本浩三 |date=1960-03 |url=https://doi.org/10.14988/pa.2017.0000009332 |title=一七九三年の憲法(訳) |journal=同志社法學 |ISSN=0387-7612 |publisher=同志社法學會 |volume=11 |issue=6 |pages=103-112 |naid=110000400948 |doi=10.14988/pa.2017.0000009332 |CRID=1390853649842291968 |ref={{SfnRef|山本|1960b}} }} * {{Cite journal|和書|author=山本浩三 |date=1961-03 |url=https://doi.org/10.14988/pa.2017.0000009380 |title=一七九五年の憲法(訳)(一) |journal=同志社法學 |ISSN=0387-7612 |publisher=同志社法學會 |volume=12 |issue=6 |pages=69-80 |naid=110000400995 |doi=10.14988/pa.2017.0000009380 |CRID=1390009224912179584 |ref={{SfnRef|山本|1961}} }} * {{Cite journal|和書|author=横尾日出雄 |title=フランス第五共和制憲法における国民投票制度と2008年7月23日憲法改正 |journal=中京ロイヤー= CHUKYO LAWYER |year=2009 |month=sep |volume=11 |issue=1 |pages=1-16 |naid=120006307204 |doi=10.18898/1217.00016825 |url=https://doi.org/10.18898/1217.00016825 |ref=harv}} * {{Cite journal|和書|author=横山信二 |title=統治システム原論<論説> |journal=広島法学 |ISSN=03865010 |publisher=広島大学法学会 |year=2010 |month=jun |volume=34 |issue=1 |pages=266-230 |naid=120002314336 |doi=10.15027/30042 |url=https://doi.org/10.15027/30042 |ref=harv}} * {{Cite journal|和書|author=渡辺良二 |date=1975-11 |url=https://hdl.handle.net/10441/2550 |title=「国民主権」論の検討(1) |journal=彦根論叢 |ISSN=0387-5989 |publisher=滋賀大学経済学会 |volume=175・176 |pages=113-131 |hdl=10441/2550 |naid=110004521086 |CRID=1050282677747057408 |ref=harv}} == 関連項目 == {{Wiktionary}} * [[国民主権]](人民主権) * [[君主主権]] * [[議会主権]] * [[天皇主権]] * {{Prefix}} * {{Intitle|主権}} * [[王権神授説]] * [[絶対王政]] * [[個人]] * [[法の支配]] * [[社会契約説]] * [[国家有機体説]] * [[グロティウス]] * [[ペトロ]] * [[ヴェストファーレン条約]] * [[内政不干渉の原則]] * [[暴力の独占]] * [[政教分離]] ** [[中世ヨーロッパにおける教会と国家]] ** [[ヨーロッパにおける政教分離の歴史]] * [[主権免除]] * [[失敗国家]] * [[消費者主権]] * [[食料安全保障|食料主権]] * [[地域主権戦略会議]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{自然法論のテンプレート}} {{authority control}} {{DEFAULTSORT:しゆけん}} [[Category:主権|*]] [[Category:憲法]] [[Category:国家]] [[Category:国際関係]] [[Category:国際法]] [[Category:権利]]
2003-05-03T08:05:19Z
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ASCII
ASCII(アスキー、英: American Standard Code for Information Interchange)は、1963年に制定された、アメリカ合衆国における情報通信用の文字コードである。日本語訳は「情報交換用米国標準コード」となるが、一般には日本国内でもASCIIと表記する。なおInternet Assigned Numbers Authority (IANA) はこれをASCIIではなくUS-ASCIIと表記するのが望ましいとしている。 1963年6月17日に、米国規格協会(American Standards Association: ASA、後のANSI)によって制定された。当時の規格番号は「ASA X3.4」であったが、情報技術規格国際委員会 (INCITS) の発足に伴い規格番号が2002年に改訂され、現在の規格番号は「ANSI INCITS 4」である。 0番から127番までの番号(数値)がどの文字や記号を意味するかという対応関係を定めている。 ASCIIは、あくまで1960年代のアメリカにおいて英語での通信や当時のアメリカのコンピュータに必要な文字や記号などが含まれるように定めた文字コードである。そのため、含まれているのは次のような文字や記号や制御文字だけであり、それ以外は含まれていない。 これらの文字や記号をすべて通し番号で表現できるように、7ビットを使っている。つまり2進数で7桁、具体的には0000000から1111111まで、10進数でいえば0番から127番までの番号を使い、それぞれの数値(番号)に対応する文字や約物や数字や制御文字を決め、その対応の規則(コード)を制定したものである。 ASCIIの構成は次のようになっている: ASCIIはISO標準7ビット文字コードISO/IEC 646の元となった。しかし7ビットでは英語以外の言語に対応するには不十分であり、後に他のヨーロッパ言語で使われるラテン文字への対応を追加した8ビット文字コードであるISO/IEC 8859が策定された。その後、世界中で使用されている様々な文字を表現できるようにするため、ASCIIで使用されていない128番以降の部分に、その他の文字を割り当てたり、複数バイトを使用して1つの文字を表現したりするように独自拡張した文字符号化方式が使われるようになっていった。 ASCII制定当時、最小のデータ処理単位(メモリアドレッシングの最小単位)つまりバイトが6ビットであるコンピュータも多かった(DECのPDPシリーズなど)。そのようなコンピュータでは6ビットの文字符号化方式を採用しており、そのためISO/IEC 646の策定にあたっては、7ビット符号化案の他に6ビット符号化案もあった。のちに1バイトを8ビットとみなす、つまりオクテットを採用するコンピュータが人気となり、主流となっていった。オクテットを採用したコンピュータでASCIIを扱う場合、1ビットの余りがあるので、その8ビット目は通信におけるエラーチェック用のパリティビットとして用いられていた。21世紀初頭においても、互換性を維持する目的で、7ビットコードが正式で、8ビット目は使用できない規格がいくつか存在する。 ASCIIから派生した独自拡張の文字符号化方式は1バイトコードおよび複数バイトコードを含め多数存在するが、各方式の間に互換性はほとんどなく、国際的なデータ交換性に問題があった。また、異なる言語間に限らず、例えば日本語の文字セットであっても複数の符号化方式が存在し、異なるコンピュータ間で互換性および可搬性のない機種依存文字が発生することになった。そのため、世界の文字を単一のコード体系のもとに収録する国際的な文字コード標準として、ISO/IEC 10646およびUnicodeの策定が進められることになった。Unicode方式で符号化された文字データのうち、0番から127番まではASCIIをベースにしており、互換性がある。特に8ビット単位で符号化するUTF-8は、128番以降の文字を使用しないデータの場合はASCIIと同一のバイト列となる。従来の文字符号化方式では1バイトや2バイトで表現可能だった文字が、UTF-8では2バイトや3バイト以上必要となってしまうケースもあるが、そのデメリットを補ってなお余りある交換性の高さから国際的にもUTF-8の普及が進んでいる。これは従来の文字符号化方式が開発された当時と比べると、コンピュータのメモリやストレージの容量が飛躍的に増大しているためでもある。HTML5ではUTF-8の使用が推奨されており、後継のHTML Living Standard(英語版)でもデフォルトでUTF-8が使用されることを想定している。 初めの32文字(10進数で0–31)はASCIIでは制御文字として予約されている。基本的にはこれらの制御文字は表示するための文字ではなく、モニタやプリンタなどの機器を制御するために用いられる。例えば、ASCII 10(10進)は line feed(改行)を表しプリンタの紙送りなどに用いる、ASCII 27 はエスケープを表す。 ASCII 127(全てのビットがオン、つまり、2進数で1111111)は、delete(削除文字)として知られる制御文字である。この記号が現れた場合、その部分のデータが消去されていることを示す。この制御文字だけ先頭部分になく最後にある理由は、パンチテープへの記録は上書きが出来ないため、削除する際には全てに穴を空けることで対応できるというところからきている(1111111は全てに穴の開いた状態を示す)。また、ASCII 0(全てのビットがオフ、つまり2進数で0000000)は Null あるいはヌル文字と呼ばれ、delete と同様に多くのコンピュータシステムでは無視される。これは、仮にパンチテープと反対に1を0に変えることでデータを記録し、かつ上書きが不可能な媒体が存在する場合でも対応できるようにしているのである。 コードの多くは、データ転送プロトコルで用いられる。(例:ヘッディング開始、テキスト開始、テキスト終了など) セパレータは磁気テープへの保存のために設計された。 XON や XOFF は、プリンタのような処理の遅いデバイスにおいて、データを失うことがないように情報の流れを制御するために用いることがある。 ASCII 32は、空白文字である。キーボードのスペースキーから入力でき、語と語の間に空白を表示する。 ASCII 33–126は印刷可能な文字 (printable characters) であり、半角英数の数字、句読点や記号を表す。若い順からエクスクラメーションマーク、ダブルクオーテーション、...と続き、ラテン文字大文字の前に数字と大半の半角約物、大文字と小文字の間、ラテン文字小文字の後にも数種類の半角約物が割り当てられている。 下の図では、16進数・10進数・8進数の順でASCIIコードの値を示す。 凡例: 大文字のASCII値に32を加えると小文字に変換することができる。この変換は、2進法では、6ビット目に1をセットするだけでよい。また、数字から48を減じれば、対応する値が得られる。この変換は、5ビット目及び6ビット目に0をセットするか、あるいは単純に上位4ビットを無視するだけでもよい。なお、印字可能文字のうち「@」から始まる32文字については、ASCII値を64減じて対応する制御文字を求め、この制御文字を「コントロール+」(英: control+)という前置表現を付けた印字可能文字で表記する慣習がある。 例:BELコード(07) →「コントロール+G」(受信した側の機器で注意喚起音が鳴る) この制御文字の表記方法は、キーボード上の印字可能文字キーを制御文字の送出に用いていた機器の名残りであると考えられる(7ビット目を0にセットする専用キー(Ctrlキー)を、印字可能文字キーと同時に押して制御文字を送出)。 また、Unix 端末では Ctrl+数字 によって、人間工学的に押下しづらい制御文字を送出できる。キャレット記法を用いると、具体的には以下であることが多い。 上述されているようにASCIIは米国の規格であり、ラテン文字を用いる言語であっても英語以外を表記するには不十分である。 当初サーカムフレックス、チルダ、グレイヴ・アクセントおよび(本来の目的と兼用で)アポストロフィー、コーテーションマーク、コンマは他の文字に追加するダイアクリティカルマークとして電動タイプライターで重ね打ちすることを想定していたが、間にバックスペースを入力しなければならず、ビデオ表示端末では重ね打ちが事実上不可能であるなどの理由で普及しなかった。 早期に互換性のない変種が各国で出現したため、ISO/IEC 646では置き換え可能な文字を定義することで対応を図ったが、置き換えられた文字を利用するプログラム言語や異なる文字集合の間では文字化けが発生することとなった。(日本語ではJIS X 0201に起因するバックスラッシュの円記号への文字化けがある。) 1970年代以降、8ビットがコンピュータで主流のバイトサイズになると、追加の1ビットの領域を利用したいわゆる拡張ASCIIが言語・機種ごとに乱立した。ISO/IEC 8859ではこれらの追加領域を標準化し、スペイン語、ポルトガル語、フランス語、ドイツ語等で用いられるラテン文字のほとんどがISO/IEC 8859-1に統合された。 ISO/IEC 2022では日本語(ISO-2022-JP)を含む複数の文字集合を符号表の切り替えによって統一したが、表の切り替えを用いた方法は制御が複雑であるなどの欠点もあり、2023年現在では全ての文字を統一された符号で扱えるUnicodeが主流となっている。
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ASCIIは、1963年に制定された、アメリカ合衆国における情報通信用の文字コードである。日本語訳は「情報交換用米国標準コード」となるが、一般には日本国内でもASCIIと表記する。なおInternet Assigned Numbers Authority (IANA) はこれをASCIIではなくUS-ASCIIと表記するのが望ましいとしている。
{{Otheruses|文字コード|その他|アスキー}} {{特殊文字}} {{lang|en|'''ASCII'''}}(アスキー、{{lang-en-short|'''A'''merican '''S'''tandard '''C'''ode for '''I'''nformation '''I'''nterchange}})は、1963年に制定された、[[アメリカ合衆国]]における情報通信用の[[文字コード]]である。日本語訳は「情報交換用米国標準コード<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ibm.com/docs/ja/i/7.3?topic=streams-american-national-standard-code-information-interchange |title=情報交換用米国標準コード |access-date=2022年6月29日 |date=2014-02-20 |website=www.ibm.com |language=ja-jp}}</ref>」となるが、一般には日本国内でもASCIIと表記する。なお[[Internet Assigned Numbers Authority]] (IANA) はこれをASCIIではなく'''US-ASCII'''と表記するのが望ましいとしている<ref>{{Cite web|title=Character Sets|publisher=Internet Assigned Numbers Authority (IANA)|date=2022-07-14|accessdate=2023-02-19|url=https://www.iana.org/assignments/character-sets/character-sets.xhtml}}</ref>。 == 概要 == 1963年6月17日に、米国規格協会(American Standards Association: ASA、後の[[米国国家規格協会|ANSI]])によって制定された。当時の規格番号は「ASA X3.4」であったが、[[情報技術規格国際委員会]] (INCITS) の発足に伴い規格番号が2002年に改訂され、現在の規格番号は「ANSI INCITS 4」である。 0番から127番までの番号(数値)がどの文字や記号を意味するかという対応関係を定めている<ref name="ewords_ascii">[https://e-words.jp/w/ASCII.html ASCII(アスキー / US-ASCII)とは - 意味をわかりやすく - IT用語辞典 e-Words]</ref>。 ASCIIは、あくまで1960年代のアメリカにおいて英語での通信や当時のアメリカのコンピュータに必要な文字や記号などが含まれるように定めた文字コードである。そのため、含まれているのは次のような文字や記号や制御文字だけであり、それ以外は含まれていない。 * 《[[英語]]で使われる[[アルファベット]]》の大文字と小文字 * 英文でよく使われる[[約物]]など * 0から9までの[[数字]](アラビア数字) * [[制御文字]](ASCIIに含まれた制御文字については[[#ASCII制御文字]]の節で説明する) これらの文字や記号をすべて通し番号で表現できるように、7[[ビット]]を使っている。つまり[[2進数]]で7桁、具体的には0000000から1111111まで、10進数でいえば0番から127番までの番号を使い、それぞれの数値(番号)に対応する文字や約物や数字や制御文字を決め、その対応の規則(コード)を制定したものである。 ASCIIの構成は次のようになっている: {|class=wikitable !コード範囲(16進)!!内容 |- |00–1F||制御文字 |- |20||空白 |- |21–7E||[[図形文字]] |- |7F|| 制御文字({{lang|en|DEL}}) |} === 派生規格 === ASCIIは[[国際標準化機構|ISO]]標準7[[ビット]]文字コード[[ISO/IEC 646]]の元となった。しかし7ビットでは英語以外の言語に対応するには不十分であり、後に他のヨーロッパ言語で使われるラテン文字への対応を追加した8ビット文字コードである[[ISO/IEC 8859]]が策定された。その後、世界中で使用されている様々な文字を表現できるようにするため、ASCIIで使用されていない128番以降の部分に、その他の文字を割り当てたり、複数バイトを使用して1つの文字を表現したりするように独自拡張した[[文字符号化方式]]が使われるようになっていった。 ASCII制定当時、最小のデータ処理単位([[メモリアドレス|メモリアドレッシング]]の最小単位)つまり[[バイト (情報)|バイト]]が6ビットであるコンピュータも多かった([[ディジタル・イクイップメント・コーポレーション|DEC]]の[[PDPシリーズ]]など)。そのようなコンピュータでは6ビットの文字符号化方式を採用しており、そのため[[ISO/IEC 646]]の策定にあたっては、7ビット符号化案の他に6ビット符号化案もあった。のちに1バイトを[[8ビット]]とみなす、つまり[[オクテット (コンピュータ)|オクテット]]を採用するコンピュータが人気となり、主流となっていった<ref>[https://xtech.nikkei.com/it/atcl/column/14/228621/082700003/ 「オクテット」と「バイト」は何が違う? | 日経クロステック(xTECH)]</ref>。オクテットを採用したコンピュータでASCIIを扱う場合、1ビットの余りがあるので、その8ビット目は通信におけるエラーチェック用の[[パリティビット|パリティ]]ビットとして用いられていた<ref name="ewords_ascii"/>。21世紀初頭においても、互換性を維持する目的で、7ビットコードが正式で、8ビット目は使用できない規格がいくつか存在する。 ASCIIから派生した独自拡張の文字符号化方式は1バイトコードおよび複数バイトコードを含め多数存在するが、各方式の間に互換性はほとんどなく、国際的なデータ交換性に問題があった。また、異なる言語間に限らず、例えば日本語の文字セットであっても複数の符号化方式が存在し、異なるコンピュータ間で互換性および可搬性のない[[機種依存文字]]が発生することになった。そのため、世界の文字を単一のコード体系のもとに収録する国際的な文字コード標準として、[[ISO/IEC 10646]]および[[Unicode]]の策定が進められることになった<ref>[https://e-words.jp/w/Unicode.html Unicode(ユニコード)とは - 意味をわかりやすく - IT用語辞典 e-Words]</ref>。Unicode方式で符号化された文字データのうち、0番から127番まではASCIIをベースにしており、互換性がある。特に8ビット単位で符号化する[[UTF-8]]は、128番以降の文字を使用しないデータの場合はASCIIと同一のバイト列となる<ref>[https://e-words.jp/w/UTF-8.html UTF-8とは - 意味をわかりやすく - IT用語辞典 e-Words]</ref>。従来の文字符号化方式では1バイトや2バイトで表現可能だった文字が、UTF-8では2バイトや3バイト以上必要となってしまうケースもあるが、そのデメリットを補ってなお余りある交換性の高さから国際的にもUTF-8の普及が進んでいる<ref>[https://news.mynavi.jp/techplus/article/20171013-a216/ Webサイトの文字コーディング、90%がUTF-8利用 - Shift JISは0.9% | TECH+(テックプラス)]</ref>。これは従来の文字符号化方式が開発された当時と比べると、コンピュータのメモリやストレージの容量が飛躍的に増大しているためでもある。[[HTML5]]ではUTF-8の使用が推奨されており<ref>[https://www.w3.org/International/questions/qa-html-encoding-declarations.ja HTMLで文字エンコーディングを指定する]</ref>、後継の{{仮リンク|HTML Living Standard|en|HTML Living Standard}}でもデフォルトでUTF-8が使用されることを想定している<ref>[https://html.spec.whatwg.org/multipage/semantics.html#charset HTML Standard - §4.2.5.4 Specifying the document's character encoding]</ref>。 == ASCII制御文字 == 初めの32文字(10進数で0–31)は{{lang|en|ASCII}}では[[制御文字]]として予約されている。基本的にはこれらの制御文字は表示するための文字ではなく、[[モニタ]]や[[プリンター|プリンタ]]などの機器を制御するために用いられる。例えば、{{lang|en|ASCII}} 10(10進)は {{lang|en|line feed}}(改行)を表しプリンタの紙送りなどに用いる、{{lang|en|ASCII}} 27 はエスケープを表す。 {{lang|en|ASCII}} 127(全てのビットがオン、つまり、2進数で1111111)は、{{lang|en|delete}}([[削除文字]])として知られる制御文字である。この記号が現れた場合、その部分のデータが消去されていることを示す。この制御文字だけ先頭部分になく最後にある理由は、[[紙テープ|パンチテープ]]への記録は上書きが出来ないため、削除する際には全てに穴を空けることで対応できるというところからきている(1111111は全てに穴の開いた状態を示す)。また、{{lang|en|ASCII}} 0(全てのビットがオフ、つまり2進数で0000000)は {{lang|en|Null}} あるいは[[ヌル文字]]と呼ばれ、{{lang|en|delete}} と同様に多くのコンピュータシステムでは無視される。これは、仮にパンチテープと反対に1を0に変えることでデータを記録し、かつ上書きが不可能な媒体が存在する場合でも対応できるようにしているのである。 コードの多くは、データ転送プロトコルで用いられる。(例:ヘッディング開始、テキスト開始、テキスト終了など) セパレータは[[磁気テープ]]への保存のために設計された。 {{lang|en|XON}} や {{lang|en|XOFF}} は、プリンタのような処理の遅いデバイスにおいて、データを失うことがないように情報の流れを制御するために用いることがある。 {|class=wikitable style=text-align:center |- !2進!!8進!!10進!!16進!!略語!!図形表現!![[キャレット記法|CS]]!![[エスケープシーケンス]]!!名前/意味 |- |000 0000||style=background:lightblue|000||style=background:#CFF|0||style=background:lightblue|00 ||NUL||{{big|{{unicode|␀}}}}||^@||\0||align=left|[[ヌル文字]] |- |000 0001||style=background:lightblue|001||style=background:#CFF|1||style=background:lightblue|01 ||SOH||{{big|{{unicode|␁}}}}||^A||||align=left|[[ヘッディング開始]] |- |000 0010||style=background:lightblue|002||style=background:#CFF|2||style=background:lightblue|02 ||STX||{{big|{{unicode|␂}}}}||^B||||align=left|[[テキスト開始]] |- |000 0011||style=background:lightblue|003||style=background:#CFF|3||style=background:lightblue|03 ||ETX||{{big|{{unicode|␃}}}}||^C||||align=left|[[テキスト終結文字|テキスト終了]] |- |000 0100||style=background:lightblue|004||style=background:#CFF|4||style=background:lightblue|04 ||EOT||{{big|{{unicode|␄}}}}||^D||||align=left|[[伝送終了]] |- |000 0101||style=background:lightblue|005||style=background:#CFF|5||style=background:lightblue|05 ||ENQ||{{big|{{unicode|␅}}}}||^E||||align=left|[[問い合わせ文字|問い合わせ]] |- |000 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|- |001 1110||style=background:lightblue|036||style=background:#CFF|30||style=background:lightblue|1E ||RS||{{big|{{unicode|␞}}}}||^^||||align=left|[[レコード分離標識]] |- |001 1111||style=background:lightblue|037||style=background:#CFF|31||style=background:lightblue|1F ||US||{{big|{{unicode|␟}}}}||^_||||align=left|[[ユニット分離標識]] |- |colspan="9"| |- |111 1111||style=background:lightblue|177||style=background:#CFF|127||style=background:lightblue|7F ||DEL||{{big|{{unicode|␡}}}}||^?||||align=left|[[削除文字|抹消]] |} == ASCII印字可能文字 == ASCII 32は、空白文字である。キーボードのスペースキーから入力でき、語と語の間に空白を表示する。 ASCII 33–126は印刷可能な文字 (printable characters) であり、半角英数の数字、句読点や記号を表す。若い順から[[エクスクラメーションマーク]]、[[ダブルクオーテーション]]、…と続き、ラテン文字大文字の前に数字と大半の半角[[約物]]、大文字と小文字の間、ラテン文字小文字の後にも数種類の半角約物が割り当てられている。 下の図では、16進数・10進数・8進数の順でASCIIコードの値を示す。 {{ASCII印字可能文字}} 大文字のASCII値に32を加えると小文字に変換することができる。この変換は、2進法では、6ビット目に1をセットするだけでよい。また、数字から48を減じれば、対応する値が得られる。この変換は、5ビット目及び6ビット目に0をセットするか、あるいは単純に上位4ビットを無視するだけでもよい。なお、印字可能文字のうち「@」から始まる32文字については、ASCII値を64減じて対応する制御文字を求め、この制御文字を「コントロール+」({{lang-en-short|control+}})という前置表現を付けた印字可能文字で表記する慣習がある。 {{Indent|例:BELコード(07) →「コントロール+G」(受信した側の機器で注意喚起音が鳴る)}} この制御文字の表記方法は、キーボード上の印字可能文字キーを制御文字の送出に用いていた機器の名残りであると考えられる(7ビット目を0にセットする専用キー([[Ctrlキー]])を、印字可能文字キーと同時に押して制御文字を送出)。 {{要出典範囲|date=2020-01|また、Unix 端末では {{keypress|Ctrl|数字}} によって、人間工学的に押下しづらい制御文字を送出できる。[[キャレット記法]]を用いると、具体的には以下であることが多い。}} * {{keypress|Ctrl|2}} が <code>^@</code> * {{keypress|Ctrl|3}} が <code>^[</code> * {{keypress|Ctrl|4}} が <code>^\</code> * {{keypress|Ctrl|5}} が <code>^]</code> * {{keypress|Ctrl|6}} が <code>^^</code> * {{keypress|Ctrl|7}} が <code>^_</code> * {{keypress|Ctrl|8}} が <code>^?</code> == 欠点など == 上述されているようにASCIIは米国の規格であり、ラテン文字を用いる言語であっても英語以外を表記するには不十分である。 当初[[サーカムフレックス]]、[[チルダ]]、[[グレイヴ・アクセント]]および(本来の目的と兼用で)[[アポストロフィー]]、[[コーテーションマーク]]、[[コンマ]]は他の文字に追加する[[ダイアクリティカルマーク]]として[[タイプライター|電動タイプライター]]で重ね打ちすることを想定していたが<ref>[https://jkorpela.fi/latin1/ascii-hist.html#60 "Character histories: notes on some ASCII code positions"]</ref>、間に[[バックスペースキー|バックスペース]]を入力しなければならず、[[ビデオ表示端末]]では重ね打ちが事実上不可能であるなどの理由で普及しなかった。 早期に互換性のない変種が各国で出現したため、[[ISO/IEC 646]]では置き換え可能な文字を定義することで対応を図ったが、置き換えられた文字を利用する[[プログラム言語]]や異なる文字集合の間では[[文字化け]]が発生することとなった。(日本語では[[JIS X 0201]]に起因する[[バックスラッシュ]]の[[円記号]]への文字化けがある。) 1970年代以降、8ビットがコンピュータで主流の[[バイト (情報)|バイトサイズ]]になると、追加の1ビットの領域を利用したいわゆる[[拡張ASCII]]が言語・機種ごとに乱立した。[[ISO/IEC 8859]]ではこれらの追加領域を標準化し、[[スペイン語]]、[[ポルトガル語]]、[[フランス語]]、[[ドイツ語]]等で用いられるラテン文字のほとんどが[[ISO/IEC 8859-1]]に統合された。 [[ISO/IEC 2022]]では日本語([[ISO-2022-JP]])を含む複数の文字集合を符号表の切り替えによって統一したが、表の切り替えを用いた方法は制御が複雑であるなどの欠点もあり、2023年現在では全ての文字を統一された符号で扱える[[Unicode]]が主流となっている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!--=== 注釈 === {{Notelist}}--> === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == *「{{lang|en|ANSI INCITS 4-1986 (formerly ANSI X3.4-1986) American National Standard for Information Systems ― Coded Character Sets ― 7-Bit American National Standard Code for Information Interchange (7-Bit ASCII)}}」{{lang|en|American National Standards Institute}}(1963年6月17日制定、1986年3月26日最終改正、2002年1月15日規格番号変更) == 関連項目 == * [[JIS X 0201]] * [[アスキーアート]] {{文字コード}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ASCII}} [[Category:文字コード]] [[Category:プレゼンテーション層プロトコル]]
2003-05-03T08:17:15Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/ASCII
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荒野の誘惑
荒野の誘惑(あらののゆうわく)はキリスト教の聖書正典である新約聖書に書かれているエピソードの1つ。キリスト教教理において重要な役割を果たしており、キリスト教文化圏の芸術作品の中で繰り返し用いられるモチーフでもある。 洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、イエスは霊によって荒れ野に送り出され、そこに40日間留まり、悪魔(サタン)の試みを受けた。マルコによる福音書(1:12,13)、マタイによる福音書(4:1-11)、ルカによる福音書(4:1-13)の福音書に記述がある。以下は、口語訳聖書のルカ伝によるもの。 ラビは、メシアがエルサレム神殿の屋根に立つことを期待した。 トマス・ホッブズ やジョン・ロック など、批評家によると「荒野の誘惑」は 寓話と解釈されている。橋本はQ資料においてイエスのメシア意識についての自己検討や内的な葛藤が物語化され、イエス伝伝承に組み込まれたとする。 ドゥッチョの祭壇画や、ボッティチェリのシスティーナ礼拝堂の壁画が有名である。近代ロシア美術では『曠野のイイスス・ハリストス』がイワン・クラムスコイの代表作の一つとなっている。
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荒野の誘惑(あらののゆうわく)はキリスト教の聖書正典である新約聖書に書かれているエピソードの1つ。キリスト教教理において重要な役割を果たしており、キリスト教文化圏の芸術作品の中で繰り返し用いられるモチーフでもある。 洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、イエスは霊によって荒れ野に送り出され、そこに40日間留まり、悪魔(サタン)の試みを受けた。マルコによる福音書(1:12,13)、マタイによる福音書(4:1-11)、ルカによる福音書(4:1-13)の福音書に記述がある。以下は、口語訳聖書のルカ伝によるもの。
{{出典の明記|date=2011年2月}} {{Wikisource|マタイによる福音書(口語訳)#4:1}} {{Wikisource|マルコによる福音書(口語訳)#1:12}} {{Wikisource|ルカによる福音書(口語訳)#4:1}} {{Jesus}} '''荒野の誘惑'''(あらののゆうわく)は[[キリスト教]]の[[聖書正典]]である[[新約聖書]]に書かれているエピソードの1つ。キリスト教教理において重要な役割を果たしており、キリスト教文化圏の芸術作品の中で繰り返し用いられるモチーフでもある。 [[洗礼者ヨハネ]]から洗礼を受けた後、[[イエス・キリスト|イエス]]は霊によって荒れ野に送り出され、そこに40日間留まり、悪魔([[サタン]])の試みを受けた。[[マルコによる福音書]](1:12,13)、[[マタイによる福音書]](4:1-11)、[[ルカによる福音書]](4:1-13)の福音書に記述がある。以下は、[[聖書 口語訳|口語訳聖書]]のルカ伝によるもの。 == 悪魔の誘惑 == {{Quotation|さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダン川から帰り、荒野を四十日のあいだ御霊にひきまわされて、悪魔の試みにあわれた。そのあいだ何も食べず、その日数がつきると、空腹になられた|[[s:ルカによる福音書(口語訳)#4:1|ルカによる福音書4章1節と2節(口語訳)]]}} *悪魔の試みをイエスが受けた場所は明記されていないが、[[誘惑の山]]と呼ばれるヨルダン川西岸地区のエリコの11 km西郊外にある山(海抜366 m)とする伝承がある<ref>[https://kotobank.jp/word/%E8%AA%98%E6%83%91%E3%81%AE%E5%B1%B1-676261 誘惑の山]</ref><ref>『地球の歩き方 E 05、イスラエル 2013~2014』(ダイヤモンド・ビッグ社)</ref><ref>"Israel & the Palestinian Territories" (Lonely Planet Publications, 2012)</ref>。 *悪魔から試みられるためというのは、新共同訳では誘惑、日本聖書協会協同訳、新改訳第3版、新改訳2017、岩波訳はいずれも試みを受けるためと訳している。試みられるという言葉のギリシャ語は {{lang|el|ἀνήχθη}}(anēkhthē)であり、7節の {{lang|el|ἐκπειράσεις}}(ekpeiraseis)は同じ動詞で試みるということを意味する。また、悪魔は {{lang|el|διαβόλου}}(diabolou)という単語であり、中傷する者という意味がある。サタンはヘブライ語で {{lang|he|שָׂטָן}}({{transl|he|śāṭān}})であり、告発する者という意味がある<ref>{{Cite book|和書|title=新約聖書 訳と註 第一巻 マルコ福音書/マタイ福音書|date=|year=2008|publisher=作品社|author=田川建三|url=http://www.sakuhinsha.com/bible/21356.html|format=|isbn=978-4-86182-135-6|page=535-541}}</ref><ref>{{Cite book|title=Thayer's Greek-English Lexicon of the New Testament: Coded With the Numbering System from Stron's Exhausive Concordance of the Bible|date=|year=|publisher=Hendrickson Pub|first=|author=Joseph Thayer|isbn=978-1565632097}}</ref><ref>{{Cite book|洋書|title=The Brown-Driver-Briggs Hebrew and English Lexicon: With an Appendix Containing the Biblical Aramaic : Coded With the Numbering System from Strong's Exhaustive Concordance of the Bible|date=|year=|publisher=Hendrickson Pub|isbn=978-1565632066}}</ref>。イエスは御霊によって荒野に導かれたのであり、あくまでこれらの試みは神の意志によってなされたことである。カルヴァンはイエスが全人類の代表としてサタンから試みを受けたのであり、ヘブライ人への手紙4章15節にあるようにイエスが罪のない者でありながら試練を受けたということであるとしている<ref>{{Cite book|title=John Calvin Commentary on a Harmony of the Evangelists, Matthew, Mark, and Luke|date=|year=|publisher=|url=https://calvin.edu/centers-institutes/meeter-center/files/john-calvins-works-in-english/Commentary%20031%20-%20Harmony%20of%20the%20Evangelists-Matthew-Mark-Luke%20Vol.%201.pdf|volume=1|page=184-195|author=John Calvin}}</ref>。 *イスラエルの民も40年間の出エジプトにおいてその信仰が試みられたと言える。そこでイスラエルは終始神に忠実に生きるということができず、不信仰な悪い心を抱いて生ける神に反抗した。ヘブライ人への手紙の著者はこのイスラエルの民の反抗を警告として受けとり、旧約聖書の歴史を心に留めて歩むことが必要なのである。 また、イスラエルの民は神の意志を完全に実現することはできなかったが、決して現代の教会もそれをなすことはできていない。ヘブライ人への手紙4章1節にあるようにそれでも神の安息に入る約束は存続し続けるのである。 イエスは試みを受け、そのすべてに打ち勝った。イエスは試みを受けた者として人間たちの弱さに同情されているのであり、人間たちは恵みの御座に近づくことが許されているのである<ref>{{Cite book|和書|title=ヘブライ人への手紙 (現代聖書注解)|date=|year=2002|publisher=日本基督教団出版局|author=T.G.ロング|isbn=978-4818404441|translator=笠原義久|pages=119-131}}</ref>。 {{Quotation|この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われたのである。|[[s:ヘブル人への手紙(口語訳)#4:15|ヘブル人への手紙4:15(口語訳)]]}} === 第一の試み === {{Quotation|そこで悪魔が言った、「もしあなたが神の子であるなら、この石に、パンになれと命じてごらんなさい」。イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」。|[[s:ルカによる福音書(口語訳)#4:3|ルカによる福音書4章3節と4節(口語訳)]]}} *イエスは[[旧約聖書]]から[[引用]]して悪魔に答えた。ここで引用した聖句は[[申命記]]の8章3節と思われる<ref>人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。([[s:申命記(口語訳)#8:3|申命記(口語訳)#8:3]]後半)</ref>。40日間断食したというのは出エジプト記における荒れ野の40年を表していると考えられる。イスラエルの民は出エジプトの時に神を疑い、十分に信頼しなかったが、それでも神は不信の民をマナによって養った。イエスが申命記8章3節を引用しつつ反論するのはそのような神に対する完全な信頼があることを示す。 <ref name=":0" /><ref name=":1">{{Cite book|和書|title=マタイによる福音書 (現代聖書注解)|date=|year=2006|publisher=日本基督教団出版局|author=D.R.A.Hare|translator=塚本恵|isbn=978-4818402539|pages=58-64}}</ref> === 第二の試み === {{Quotation|それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」|[[s:ルカによる福音書(口語訳)#4:5|ルカによる福音書4章5節から8節(口語訳)]]}} *悪魔がすべての国々を任されているというのは、[[ヨハネの第一の手紙]]の5章19節にも類似した記述がある<ref>また、わたしたちは神から出た者であり、全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている。([[s:ヨハネの第一の手紙(口語訳)#5:19|ヨハネの第一の手紙(口語訳)#5:19]])</ref>。 *ひざまずくだけで国々全部あげると悪魔自身が語っている事から、悪魔は国々全部よりも自分が崇拝される事を願っている事が分かる。神ではないものを拝むということは偶像崇拝に等しい。この箇所は福音書の読者にとってはコリントの信徒への手紙一10章19-20節にあるようにローマの偶像崇拝による背教が念頭にあったと考えられる。ヨセフスはユダヤの総督ピラトスがカイサルの胸像をエルサレムに持ち込んだことに対してユダヤ人が抗議したことに関して記述している。ピラトスは胸像の撤去はカイサルへの侮辱と考えたためローマ軍によりユダヤ人達を包囲し、騒ぎを中止して家に引き上げなければ命はないと脅迫したが、ユダヤ人たちは身を投げ首を差し出して、律法の賢明なる教えを犯すくらいなら喜んで死を迎えると宣言した。それを受けてピラトスは像をエルサレムから撤去した。<ref name=":1" /><ref>{{Cite book|和書|title=ユダヤ古代誌6|date=|year=2000|publisher=筑摩書房|author=フラウィウス・ヨセフス|translator=秦剛平|isbn=978-4-480-08536-8|page=31-32}}</ref>{{Quotation|また、わたしたちは神から出た者であり、全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている。|[[s:ヨハネの第一の手紙(口語訳)#5:19|ヨハネの第一の手紙5章19節(口語訳)]]}}{{Quotation|すると、なんと言ったらよいか。偶像にささげる供え物は、何か意味があるのか。また、偶像はなにかほんとうにあるものか。そうではない。人々が供える物は、悪霊ども、すなわち、神ならぬ者に供えるのである。わたしは、あなたがたが悪霊の仲間になることを望まない。|[[s:コリント人への第一の手紙(口語訳)#10:19|コリント人への第一の手紙10章19-20節(口語訳)]]}} <br /> === 第三の試み === {{Quotation|それから悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、ここから下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために、御使たちに命じてあなたを守らせるであろう』とあり、また、『あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』とも書いてあります」。 イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』と言われている」。悪魔はあらゆる試みをしつくして、一時イエスを離れた。それからイエスは御霊の力に満ちあふれてガリラヤへ帰られると、そのうわさがその地方全体にひろまった。|[[s:ルカによる福音書(口語訳)#4:9|ルカによる福音書4章9節から14節(口語訳)]]}} *悪魔は詩篇91篇11-12節を引用しつつ主を試すように誘惑する。それに対してイエスは申命記6章16節を引用しつつその誘惑をはねつける。ここでイエスが飛び降りることをせず主を試みてはならないというのは当然信頼がないからではない。主への完全な信頼があることは第一の誘惑で石をパンに変えることをしなかったことによって証明されている。また、深淵に飛び降りることはマタイ26-27章で十字架にかかることによってなされることなのである。<ref name=":1" />{{Quotation|あなたがたがマッサでしたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。|[[s:申命記(口語訳)#6:16|申命記6章16節(口語訳)]]}}{{Quotation|これは主があなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道であなたを守らせられるからである。彼らはその手で、あなたをささえ、石に足を打ちつけることのないようにする。|[[s:詩篇(口語訳)#91:11|詩篇91篇11節から12節(口語訳)]]}} <br /> == メシアへの期待 == ラビは、メシアが[[エルサレム神殿]]の屋根に立つことを期待した。<ref>"Our Rabbis related that in the hour when the Messiah shall be revealed he shall come and stand on the roof of the temple." Pesikta Rabbati 62 c-d Rivka Ulmer, ''A Synoptic Edition of Pesiqta Rabbati Based upon All Extant Manuscripts and the Editio Princeps''. South Florida Studies in the History of Judaism 155, 1995</ref> == 批評 == [[トマス・ホッブズ]] や[[ジョン・ロック]] など、批評家によると「荒野の誘惑」は 寓話と解釈されている。橋本はQ資料においてイエスのメシア意識についての自己検討や内的な葛藤が物語化され、イエス伝伝承に組み込まれたとする。<ref name=":0">{{Cite book|和書|title=新共同訳新約聖書注解1マタイによる福音書-使徒言行録|date=|year=1991|publisher=日本基督教団出版局|ref=|last=|isbn=978-4818400818|author=松永 希久夫,眞山 光彌,三好 迪,山岡 健|editor=|editor-first=B.シュナイダー,高橋 虔,川島 貞雄,橋本 滋男,堀田 雄康}}</ref> == 美術 == [[ファイル:Kramskoi Christ dans le désert.jpg|thumb|right|220px|『曠野の[[イイスス・ハリストス]]』<br>(画:[[イワン・クラムスコイ]])]] [[ドゥッチョ]]の[[祭壇画]]や、[[サンドロ・ボッティチェッリ|ボッティチェリ]]の[[システィーナ礼拝堂]]の壁画が有名である。近代ロシア美術では『曠野の[[イイスス・ハリストス]]』が[[イワン・クラムスコイ]]の代表作の一つとなっている。 ==脚注== {{Reflist|2}} ==関連項目== * [[断食]] * [[誘惑の山]] * [[マーラ]] ==外部リンク== * [https://www.cbcj.catholic.jp/2013/02/17/8363/ 教皇ベネディクト十六世の2013年2月17日の「お告げの祈り」のことば イエスの誘惑] [[カトリック中央協議会]]、2013年2月17日。 {{キリストの生涯}} {{イエス・キリスト}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あらののゆうわく}} [[Category:イエス・キリスト|あらののゆうわく]] [[Category:イエス・キリストの教理と教え]] [[Category:マタイによる福音書]] [[Category:ルカによる福音書]] [[Category:マルコによる福音書]]
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元素記号
元素記号(げんそきごう、英語: element symbol) とは、元素、あるいは原子を表記するために用いられる記号のことであり、原子記号(げんしきごう)とも呼ばれる。1、2、ないし3文字のアルファベットが用いられるとされているが、現在使われている元素記号はすべて1文字または2文字からなる。 なお、現在正式な元素記号が決定している最大の元素は原子番号118のOg(オガネソン)である。 分子の組成をあらわす化学式や、分子の変化を記述する化学反応式などで利用される。 現在使用されている元素記号は1814年にベルセリウスが考案したものに基づいており、ラテン語などから1文字または2文字をとってつくられている。 全ての元素記号がラテン語名と一致しているが、ギリシア語、英語、ドイツ語(その他スペイン語やスウェーデンの地名からの採用もある)などからの採用も多く、ラテン語名との一致は偶然または語源を通した間接的なものである。元素名が確定されていない超ウラン元素(119番元素〜)については、3文字の系統名が用いられる。 物質の構成要素を記号であらわすことはかつての錬金術においてもおこなわれていた。 化学者ジョン・ドルトンも独自の記号を開発して化学反応を記述していたが、現在はアルファベットでの表記が国際的に使われている。 原子番号16番で質量数35の放射性硫黄原子1つと酸素原子4つからなる2価の陰イオンの硫酸イオンのイオン式。 原子番号や質量数を付記する場合、原子番号は左下に (13Al)、質量数は左上に (Al)、イオン価は右肩に (Al)、原子数は右下に (N2) 付記する。
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元素記号 とは、元素、あるいは原子を表記するために用いられる記号のことであり、原子記号(げんしきごう)とも呼ばれる。1、2、ないし3文字のアルファベットが用いられるとされているが、現在使われている元素記号はすべて1文字または2文字からなる。 なお、現在正式な元素記号が決定している最大の元素は原子番号118のOg(オガネソン)である。 分子の組成をあらわす化学式や、分子の変化を記述する化学反応式などで利用される。 現在使用されている元素記号は1814年にベルセリウスが考案したものに基づいており、ラテン語などから1文字または2文字をとってつくられている。 全ての元素記号がラテン語名と一致しているが、ギリシア語、英語、ドイツ語(その他スペイン語やスウェーデンの地名からの採用もある)などからの採用も多く、ラテン語名との一致は偶然または語源を通した間接的なものである。元素名が確定されていない超ウラン元素(119番元素〜)については、3文字の系統名が用いられる。 物質の構成要素を記号であらわすことはかつての錬金術においてもおこなわれていた。 化学者ジョン・ドルトンも独自の記号を開発して化学反応を記述していたが、現在はアルファベットでの表記が国際的に使われている。
{{Expand English|Chemical symbol|date=2023-11}} [[ファイル:LetterS.svg|thumb|120px|現在の元素記号(硫黄)]] [[ファイル:Japanese Emblem Kutuwa.png|thumb|120px|ドルトンの元素記号(硫黄)]] '''元素記号'''(げんそきごう、{{lang-en|element symbol}}) とは、[[元素]]、あるいは[[原子]]を表記するために用いられる[[記号]]のことであり、'''原子記号'''(げんしきごう)とも呼ばれる<ref>{{Citation | ref = none | title = 化学と物理の基礎の基礎がよくわかる本 | author = 飯出良朗 | publisher = 文芸社 | year = 2002 | isbn = 9784835541426 | page = 115}}</ref>。1、2、ないし3文字のアルファベットが用いられるとされているが<ref>[http://goldbook.iupac.org/A00503.html atomic symbol] - IUPAC Gold Book</ref>、現在使われている元素記号はすべて1文字または2文字からなる。 なお、現在正式な元素記号が決定している最大の元素は原子番号118のOg([[オガネソン]])である。 [[分子]]の組成をあらわす[[化学式]]や、分子の変化を記述する[[化学反応式]]などで利用される。 現在使用されている元素記号は[[1814年]]に[[イェンス・ベルセリウス|ベルセリウス]]が考案したものに基づいており<ref>{{Citation | ref = none | title = 量子のさいころ: 量子力学歴史読本 | first = Leonid Ivanovich | last = Ponomarev | author2 = 澤見英男 訳 | publisher = シュプリンガー・ジャパン | year = 1996 | publication-date = 1996-07 | isbn = 9784431706960 | page = 75}}</ref><ref name="murata2001p36">{{Harvnb|村田|2001|p=36}}</ref>、[[ラテン語]]などから1文字または2文字をとってつくられている。 全ての元素記号がラテン語名と一致しているが、[[ギリシア語]]、[[英語]]、[[ドイツ語]](その他スペイン語やスウェーデンの地名からの採用もある)などからの採用も多く、ラテン語名との一致は偶然または語源を通した間接的なものである。元素名が確定されていない超ウラン元素(119番元素〜)については、3文字の[[元素の系統名|系統名]]が用いられる。 [[物質]]の構成要素を記号であらわすことはかつての[[錬金術]]においてもおこなわれていた<ref>{{Harvnb|村田|2001|pp=33-35}}</ref>。 化学者[[ジョン・ドルトン]]も独自の記号を開発して化学反応を記述していたが<ref name="murata2001p36" />、現在はアルファベットでの表記が国際的に使われている。 {| class="wikitable" ! ドルトンの元素記号 !! colspan=4 | 現在の元素記号 |- | rowspan=11 | [[ファイル:Dalton atomic symbols.jpg|200px|center]] ! 元素記号 || 元素名 || 元素記号 || 元素名 |- | H || 水素 || Sr || ストロンチウム |- | N || 窒素 || Ba || バリウム |- | C || 炭素 || Fe || 鉄 |- | O || 酸素 || Zn || 亜鉛 |- | P || リン || Cu || 銅 |- | S || 硫黄 || Pb || 鉛 |- | Mg || マグネシウム || Ag || 銀 |- | Ca || カルシウム || Au || 金 |- | Na || ナトリウム || Pt || 白金 |- | K || カリウム || Hg || 水銀 |} == 原子番号や質量数を付記する際の書き方 == <div style="float: right; width: 15em; margin: 1ex; padding: 1px; border: 1px solid #ccc; "> {| style="margin: 1px; border:1px solid #ccc; padding: 1ex; " | 35 || rowspan="2" style="font-size: 4em; " | SO || 2- |- | 16 || 4 |} 原子番号16番で<br />質量数35の<br />放射性硫黄原子1つと<br />酸素原子4つからなる2価の陰イオンの硫酸イオンのイオン式。 </div> [[原子番号]]や[[質量数]]を付記する場合、原子番号は左下に (<sub>13</sub>Al)、質量数は左上に (<sup>27</sup>Al)<ref>{{Citation | ref = none | last = Hahn | first = Alexander J | author2 = 市村宗武 訳 | author3 = 狩野覚 訳 | year = 2002 | publication-date = 2002-10 | title = 解析入門 Part 2: 微積分と科学 | publisher = シュプリンガー・ジャパン | isbn = 9784431709541 | page = 130}}</ref>、イオン価は右肩に (Al<sup>3+</sup>)、原子数は右下に (N<sub>2</sub>) 付記する。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Wiktionary|元素記号}} {{ウィキポータルリンク|化学|[[File:Nuvola apps edu science.svg|32px|ウィキポータル 化学]]}} {{ウィキプロジェクトリンク|化学|[[File:Nuvola apps edu science.svg|32px|ウィキプロジェクト 化学]]}} * [[元素の一覧]] * [[周期表]] * [[同位体]] * [[原子論]] {{元素周期表}} {{DEFAULTSORT:けんそきこう}} [[Category:化学]] [[Category:元素|!けんそきこう]]
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マタイによる福音書
『マタイによる福音書』(マタイによるふくいんしょ、ギリシア語: Κατά Ματθαίον Ευαγγέλιον Kata Matthaion Euangelion、ラテン語: Evangelium Secundum Mattheum)は、新約聖書におさめられた四つの福音書の一つである。 伝統的に『マタイによる福音書』が新約聖書の巻頭に収められ、以下『マルコによる福音書』、『ルカによる福音書』、『ヨハネによる福音書』の順になっている。呼び方としては『マタイの福音書』、『マタイ福音』、『マタイ伝』などがあり、ただ単に『マタイ』といわれることもある。日本ハリストス正教会では『マトフェイに因る聖福音』または『マトフェイによる福音書』という。 本書の目的は、イエスこそが「モーセと預言者たちによって」予言され、約束されたイスラエルの救い主(キリスト)であると示すことにあり、イエスにおいて旧約聖書の預言が成就していると示すことであった。『マタイによる福音書』には旧約聖書(ギリシア語訳・七十人訳)の引用が多く見られるが、それらはイエスの到来を予告したものとして扱われている。旧約からの引用箇所は65箇所にも上り、43箇所は地の文でなく語りの中で引用されている。この福音書の狙いは「私は廃止するためでなく、完成するために来た」という言葉にもっともよく表現されている。 『マタイによる福音書』は、イエスはキリスト(救い主)であり、第1章1〜17節の系図によれば、ユダヤ民族の父と呼ばれているアブラハムの末裔であり、またイスラエルの王の資格を持つダビデの末裔として示している。このようなイエス理解から、ユダヤ人キリスト教徒を対象に書かれたと考えられる。 また、反ユダヤ的色彩があり、そのユダヤ人観がキリスト教徒、特に中世のキリスト教徒のユダヤ人に対する視点をゆがめてきたという説もある。イエスの多くの言葉が当時のユダヤ人社会で主導的地位を示していたファリサイ派への批判となっており、偽善的という批判がそのままユダヤ教理解をゆがめることになったというのである。しかし、実際にはユダヤ教の中でも穏健派というよりは急進派・過激派ともいえるグループがファリサイ派へと変容していったとみなすほうが的確である。 本文からは『マタイによる福音書』の正確な成立時期については聖書学者の間でも意見が分かれている。 遅くとも紀元85年ごろまでには成立したと考えられている。 『マタイによる福音書』自身には、著者に関する記述はない。この福音書の著者は、教会の伝承では取税人でありながらイエスの招きに答えて使徒となったマタイであるとされている。その理由として、福音書の特徴より著者が『ユダヤ人クリスチャンであること』、『旧約聖書についての知識、興味があること』、『律法学者の伝承に通じていること』があげられ、内容的に『金銭問題』や、『取税人』について数多く触れられていることなどがあげられる。 一方、近現代の高等批評の立場に立つ聖書学者の多くはこの伝承を疑問視している。 現代、高等批評の立場に立つ学者たちにもっとも有力な仮説とみなされているのは二資料説と三資料説である。二資料説では『マタイによる福音書』は『マルコによる福音書』と「イエスの言葉資料(語録)」(ドイツ語のQuelle(源泉)から「Q資料(仮説上の仮想資料で、存在が証明されていない。)」という名前で呼ばれる)から成立したと考えられている。また三資料説では、二資料(マルコ福音書とQ資料)に加えて、「M資料」というマタイによる福音書独自の資料(例えば、マタイ16章の教会の土台に関する箇所など)も執筆時に参考にしていると主張している。ただし、伝統的な聖書信仰の立場に立つ福音派の多くは、このような高等批評の立場に立つ学者たちの仮説は受け入れていない。 『マタイによる福音書』は構成上、五つの部分に分けることができる。 マタイは、イエスが旧約を廃止しに来たのではなく、その目的に導き、成就させに来たことを示そうと努めている(参照:マタイ5:17 〜 18)。 さらにマタイは、イエスの教えだけでなく、イエスの生涯そのものが旧約の成就であることを強調している。(参照):「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」(マタイ1:22 他、数箇所ある) マタイ福音書は、すべてがギリシャ語で書かれているわけでなく、マタイ福音書5章22節で、"raca" というアラム語をギリシャ語に翻訳しないで、アラム語の発音をそのままギリシャ語に音写している。(ちなみに、他にも「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」というイエスの言葉も音写である。)新約学者のO.クルマンは、ここから、マタイはアラム語が通じる相手に語っているとしている。。 『マタイ福音』については、元々何語で書かれていたのかが最も議論となる問題で、伝承では最初アラム語で書かれ、ギリシャ語へと翻訳されたとされている。しかし、『マタイによる福音書』がアラム語で書かれたなら、シリアなどでは他にもよく読まれた『ヘブライ人の福音書』などがあったにもかかわらず、『マタイによる福音書』だけがすぐに西方で受け入れられており、またギリシャ語の古い版を見ても、翻訳らしいことがわかる部分はほとんど見つけられていない。いまだにアラム語の『マタイによる福音書』は発見されていない。マタイがユダヤ人を対象として福音書を書いたとはいえ、福音書が書かれたころにはヘレニズム世界に住むユダヤ人の多くにとって、もっともなじみ深い言葉はギリシャ語であり、特にエジプトのアレクサンドリアのユダヤ人共同体は世界最大規模であった。例外がエルサレムであり、そこではさまざまな文化的背景を持つユダヤ人たちが暮らし、アラム語が共通語となっていたと考えられる。ユダヤ人対象に書くにしろ、あえてアラム語で書く積極的な理由を見つけることは難しい。そう考えると初めからギリシャ語で書かれたというほうがつじつまがあう。 このような論理展開から出た「オリジナル=ギリシャ語」という結論に対して、別の角度からの反論もある。それは各福音書の成立の過程を「二資料説」から離れて再検討しようという考え方である。それによれば「二資料説」の考え方とは逆に『マタイ福音』が初めにかかれ、マルコがそこから引用したとする。すなわち、『マタイ福音』はもともとアラム語で書かれたが、『マルコ福音書』の成立後にギリシャ語に訳され、その過程で『マルコ福音書』が参考にされたという説である。『マタイ福音書』全1071節のうち、387節のみが独自のもので、130節が『マルコ福音書』と共通であり、184節が『ルカ福音書』と共通している。 『マタイによる福音書』の関連作品として,以下のものがある。
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『マタイによる福音書』は、新約聖書におさめられた四つの福音書の一つである。 伝統的に『マタイによる福音書』が新約聖書の巻頭に収められ、以下『マルコによる福音書』、『ルカによる福音書』、『ヨハネによる福音書』の順になっている。呼び方としては『マタイの福音書』、『マタイ福音』、『マタイ伝』などがあり、ただ単に『マタイ』といわれることもある。日本ハリストス正教会では『マトフェイに因る聖福音』または『マトフェイによる福音書』という。
{{新約聖書}} {{出典の明記|date=2015年4月}} 『'''マタイによる福音書'''』(マタイによるふくいんしょ、{{lang-el|Κατά Ματθαίον Ευαγγέλιον}} Kata Matthaion Euangelion、{{lang-la|Evangelium Secundum Mattheum}})は、[[新約聖書]]におさめられた四つの[[福音書]]の一つである。 伝統的に『マタイによる福音書』が新約聖書の巻頭に収められ、以下『[[マルコによる福音書]]』、『[[ルカによる福音書]]』、『[[ヨハネによる福音書]]』の順になっている。呼び方としては『'''マタイの福音書'''』、『'''マタイ福音'''』、『'''マタイ伝'''』などがあり、ただ単に『'''マタイ'''』といわれることもある。[[日本ハリストス正教会]]では『'''マトフェイに因る聖福音'''』<ref>[[小河陽]]「マタイによる福音書」『岩波キリスト教辞典』[[大貫隆]]、[[名取四郎]]、[[宮本久雄]]、[[百瀬文晃]]編、[[岩波書店]]、2002年、1064頁。ISBN 4-00-080202-X。</ref>または『'''マトフェイによる福音書'''』<ref>ダヴィド水口優明 編著『正教会の手引』[[日本ハリストス正教会教団]] 全国宣教企画委員会、2004年、2013年改訂、197頁。</ref>という。 == 概要 == 本書の目的は、[[イエス・キリスト|イエス]]こそが「[[モーセ]]と預言者たちによって」予言され、約束された[[イスラエル]]の救い主([[キリスト]])であると示すことにあり、イエスにおいて[[旧約聖書]]の預言が成就していると示すことであった。『マタイによる福音書』には旧約聖書(ギリシア語訳・七十人訳)の引用が多く見られるが、それらはイエスの到来を予告したものとして扱われている。旧約からの引用箇所は65箇所にも上り、43箇所は地の文でなく語りの中で引用されている。この福音書の狙いは「私は廃止するためでなく、完成するために来た」という言葉にもっともよく表現されている。 『マタイによる福音書』は、イエスはキリスト(救い主)であり、第1章1〜17節の系図によれば、ユダヤ民族の父と呼ばれている[[アブラハム]]の末裔であり、また[[イスラエル]]の王の資格を持つ[[ダビデ]]の末裔として示している。このようなイエス理解から、[[ユダヤ人]]キリスト教徒を対象に書かれたと考えられる。 また、反ユダヤ的色彩があり、そのユダヤ人観がキリスト教徒、特に中世のキリスト教徒のユダヤ人に対する視点をゆがめてきたという説もある。イエスの多くの言葉が当時のユダヤ人社会で主導的地位を示していた[[ファリサイ派]]への批判となっており、偽善的という批判がそのままユダヤ教理解をゆがめることになったというのである。しかし、実際にはユダヤ教の中でも穏健派というよりは急進派・過激派ともいえるグループがファリサイ派へと変容していったとみなすほうが的確である。 == 成立時期 == 本文からは『マタイによる福音書』の正確な成立時期については聖書学者の間でも意見が分かれている。 遅くとも紀元[[85年]]ごろまでには成立したと考えられている。 == 著者 == 『マタイによる福音書』自身には、著者に関する記述はない。この福音書の著者は、教会の伝承では取税人でありながらイエスの招きに答えて使徒となった[[マタイ]]であるとされている。その理由として、福音書の特徴より著者が『ユダヤ人クリスチャンであること』、『旧約聖書についての知識、興味があること』、『律法学者の伝承に通じていること』があげられ、内容的に『金銭問題』や、『取税人』について数多く触れられていることなどがあげられる。 一方、近現代の高等批評の立場に立つ聖書学者の多くはこの伝承を疑問視している。   === 高等批評の立場 === 現代、高等批評の立場に立つ学者たちにもっとも有力な仮説とみなされているのは二資料説と三資料説である。二資料説では『マタイによる福音書』は『マルコによる福音書』と「イエスの言葉資料(語録)」(ドイツ語のQuelle(源泉)から「[[Q資料]](仮説上の仮想資料で、存在が証明されていない。)」という名前で呼ばれる)から成立したと考えられている。また三資料説では、二資料(マルコ福音書とQ資料)に加えて、「M資料」というマタイによる福音書独自の資料(例えば、マタイ16章の教会の土台に関する箇所など)も執筆時に参考にしていると主張している。ただし、伝統的な聖書信仰の立場に立つ[[福音派]]の多くは、このような高等批評の立場に立つ学者たちの仮説は受け入れていない。   == 構成 == 『マタイによる福音書』は構成上、五つの部分に分けることができる。 * [[イエス・キリスト]]の系図、誕生の次第、ヘロデ大王による[[幼児虐殺]]、幼年時代、公生涯の準備(1-4:16) * [[ガリラヤ]]及びその周辺での公の活動(4-17:16:20) * [[ガリラヤ]]における私的な活動(16:21-18) * [[ユダヤ]]における活動(19-25) * イエスの死と復活(26-28) == 特徴 == === 旧約の成就 === マタイは、イエスが[[旧約聖書|旧約]]を廃止しに来たのではなく、その目的に導き、成就させに来たことを示そうと努めている(参照:マタイ5:17 〜 18)。 さらにマタイは、イエスの教えだけでなく、イエスの生涯そのものが旧約の成就であることを強調している。(参照):「このすべてのことが起こったのは、主が[[預言者]]を通して言われていたことが実現するためであった。」(マタイ1:22 他、数箇所ある) == 執筆言語 == マタイ福音書は、すべてがギリシャ語で書かれているわけでなく、マタイ福音書5章22節で、"raca" というアラム語をギリシャ語に翻訳しないで、アラム語の発音をそのままギリシャ語に音写している。(ちなみに、他にも「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」というイエスの言葉も音写である。)新約学者のO.クルマンは、ここから、マタイはアラム語が通じる相手に語っているとしている。<ref>O.クルマン『新約聖書』白水社クセジュ No.415。p.36</ref>。 『マタイ福音』については、元々何語で書かれていたのかが最も議論となる問題で、伝承では最初[[アラム語]]で書かれ、[[ギリシャ語]]へと翻訳されたとされている。しかし、『マタイによる福音書』がアラム語で書かれたなら、[[シリア]]などでは他にもよく読まれた『[[ヘブライ人の福音書]]』などがあったにもかかわらず、『マタイによる福音書』だけがすぐに西方で受け入れられており、また[[ギリシャ語]]の古い版を見ても、翻訳らしいことがわかる部分はほとんど見つけられていない。いまだに[[アラム語]]の『マタイによる福音書』は発見されていない。マタイがユダヤ人を対象として福音書を書いたとはいえ、福音書が書かれたころにはヘレニズム世界に住む[[ユダヤ人]]の多くにとって、もっともなじみ深い言葉は[[ギリシャ語]]であり、特に[[エジプト]]の[[アレクサンドリア]]のユダヤ人共同体は世界最大規模であった。例外が[[エルサレム]]であり、そこではさまざまな文化的背景を持つユダヤ人たちが暮らし、アラム語が共通語となっていたと考えられる。ユダヤ人対象に書くにしろ、あえてアラム語で書く積極的な理由を見つけることは難しい。そう考えると初めからギリシャ語で書かれたというほうがつじつまがあう。 このような論理展開から出た「オリジナル=ギリシャ語」という結論に対して、別の角度からの反論もある。それは各福音書の成立の過程を「二資料説」から離れて再検討しようという考え方である。それによれば「二資料説」の考え方とは逆に『マタイ福音』が初めにかかれ、マルコがそこから引用したとする。すなわち、『マタイ福音』はもともとアラム語で書かれたが、『マルコ福音書』の成立後にギリシャ語に訳され、その過程で『マルコ福音書』が参考にされたという説である。『マタイ福音書』全1071節のうち、387節のみが独自のもので、130節が『マルコ福音書』と共通であり、184節が『ルカ福音書』と共通している。 == 芸術 == 『マタイによる福音書』の関連作品として,以下のものがある。 * イタリア人監督[[ピエル・パオロ・パゾリーニ]]による映画『[[奇跡の丘]]』(1964年、原題: 『マタイによる福音書』"Il Vangelo Secondo Matteo”) * [[ゲオルク・フィリップ・テレマン|テレマン]]『マタイ受難曲』 TWV 5:31(1746年) * [[ゲオルク・フィリップ・テレマン|テレマン]]『マタイ受難曲』 TWV 5:19(1734年) * [[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|J.S.バッハ]]『[[マタイ受難曲]]』 [[バッハ作品主題目録番号|BWV]]244(1727年)  * [[ハインリヒ・シュッツ|H.シュッツ]]『マタイ受難曲』 SWV479(1666年)  == 関連項目 == {{wikisource|マタイ伝福音書 (文語訳)|マタイ伝福音書 (文語訳)}} {{wikisource|マタイによる福音書|マタイによる福音書}} {{wikisource|マタイによる福音書(口語訳)}} {{wikisource|マタイによる福音書 (電網訳)}} {{wikisource|マトフェイに因る聖福音|マトフェイに因る聖福音 (我主イイススハリストスの新約)}} {{wikisource|マテオ聖福音書叙言 (ラゲ訳)}} {{wikibooks|マタイによる福音書 (ラテン語)}} * [[山上の垂訓]] * [[オリーブ山の説教]] * [[毒麦のたとえ]] * [[マルコによる福音書]] * [[ルカによる福音書]] * [[ヨハネによる福音書]] *[[シドン・シナゴーグ]] イエスがこことその近傍で説教したとマタイによる福音書に記されている。世界最古のシナゴーグのひとつ *[[マタイによる福音書1章]] *[[マタイによる福音書2章]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references/> {{福音書}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:またいによるふくいんしよ}} [[Category:マタイによる福音書|*]]
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商法
商法(しょうほう) 商法(しょうほう、英語: Commercial Code)とは、商人の営業、商行為その他商事について定めた日本の法律。 法令番号は明治32年法律第48号、1899年(明治32年)3月9日に公布された。所管官庁は、法務省(民事局商事課)である。 商事に関して、商法に規定がない場合には慣習法である商慣習に従い、商慣習にも規定がない場合には同じく法務省が所管する民法が適用される。 日本の商法は関連する法令を含め、一般に下記のような分類がなされる。現在独立している法律(会社法、保険法、手形法および小切手法)もかつては本法の一部を構成していた。 本法は、1899年(明治32年)の制定以降、大規模、小規模の改正を重ねて現在に至っている。 制定時は第1編総則、第2編会社、第3編商行為、第4編手形、第5編海商であった。第4編は手形法制定で第1章から第3章までが、小切手法制定で第4章が削除され、長らくの間は第1編総則、第2編会社、第3編商行為、第4編海商となった。その後、会社法制定に伴って会社に関する規定の削除等の整備が行われ、現在の編構成となる。さらに、保険法制定で第2編第10章が削除された。 実質的意義での商法は、私法の一般法である民法の特別法として位置づけられるが、その法領域については、議論がある。 当初は経済上の商、すなわち生産者と消費者との間に介在して有形財貨の転換の媒介をする営利行為(固有の商)を対象とすると把握されてきた。しかし、経済の発達により、このような媒介行為の必要を満たすための補助的な行為(銀行取引、物品運送、損害保険など。補助商)やこれらと類似の経営方法によるもの(出版、旅客運送など。第三種の商)についても、商法の対象になるとされるようになった。 このような事情があることから、上記の行為を統一的に把握するため、どのような点に着目して実質的意義の商法を把握すべきかが問題となる。 民商二法統一論とは、民法典と商法典とを一元化すべきであるという主張である。民法から独立した商法体系を構築することは不可能ないし不要であるとする見解を前提としている。日本では明治の梅謙次郎以来その歴史は長いが、あまり支持されていない。 江戸時代には幕府が儒教的な重農抑商政策を進めたこと、諸藩が自藩の産業保護を優先した事によって、商業の全国的レベルでの発展は抑え込まれた。現代的な会社形態の組織が生まれる事はなく、商業のほとんどは個人または同族経営による商店のみが存在した。そのため、商取引は商慣習に従って行われた。それでも大坂などの大都市を中心に高度な為替システムの成立を見るなど、その水準は決して低くはなかった。 明治に入ると、近代的な会社・企業組織などの考えが日本にも伝わった。政府も欧米の巨大な資本に対抗するには日本でも企業を起こしていく必要性があると考えた。そこで士農工商的な職業の制限を廃して、会社設立を容認する政策を採った。だが、会社の設立のルールが存在しなかった(先行していた国立銀行条例(1872年)が模範例とされたが、あくまでもモデルでしかなかった)ため、その組織形態もバラバラでありすぐに倒産する会社も少なくなかった。また為替などに対する統一した基準と法的根拠を求める声も高まった(1882年に「為替手形約束手形条例」が暫定的に定められた)。 そこで1881年4月、外務省嘱託であったドイツの法学者で経済学者でもあったヘルマン・ロエスレルに商法起草を依頼したのである。彼はドイツの商法を基(破産法などはフランスによる)にした草案を1884年1月に完成させた。この草案を基にして1890年に成立したのが、旧商法と称される「商法」(明治23年法律32号)である。この商法は「商ノ通則」「海商」「破産」の3編から構成されていた。これを審議した元老院では、施行を翌年1月からと定めた。 ところが、この年の秋から帝国議会が開かれるようになると、民法典論争の煽りを受けて新しい商法に対する反対論が噴出した。そこには法学者のみならず、商工会議所(当時、東京では「商工会」、大阪・神戸では「商法会議所」と呼ばれていた)に属する商工業者からの抗議もあった。 主な意見として、一つは民法と商法とは密接な関係にあるにもかかわらず、民法はフランス系で商法はドイツ系で法体系が違っており、双方の間に重複が多すぎるという指摘である。特に「契約作成能力」や「委任契約」に至っては2つの法律の間に矛盾さえ生じていた。もう一つはロエスレルが日本の商慣習を「曖昧で前近代的で全く考慮に値しない」と評して慣習法としての価値を全く認めようとしなかったことがある。穂積陳重らが商法はそもそも商慣習の集成に由来するのに現地の商慣習を無視した商法はありえないと主張した事もあって、実際の商法では商慣習を認めたものの、低い地位に置かれていた。 だが、同じ商工会議所でも海外貿易の盛んな大阪では早期施行を要求する嘆願が、逆に東京では施行延期を求める嘆願が出されるなど、複雑な展開を見せた。結局、商法の施行は2年間(後に期限は更新された)延期されることになった。だが、後に東西の商工会議所の間で日本に具体的な規定がない会社法や破産法については暫定的に商法を施行すべきであるという意見の合意を見た事もあって、1893年7月に会社・手形及び小切手・破産法の部分の先行施行が実施された。そして、1898年7月に施行期限延長手続の中止によって全面施行に至る。もっとも新しい商法草案が既に帝国議会において審議中でその成立が時間の問題だったために敢えて再度の延長手続は取られなかったというのが実情とも言われている(実際、旧商法は1年弱の期間しか施行されなかった)。 1893年3月、梅謙次郎・岡野敬次郎・田部芳によってドイツ商法を基本にした草案が出され、当時の伊藤博文首相を長とする法典調査会において審議され、梅と穂積陳重・富井政章によって商法法案として纏められた。1899年3月に新しい商法が公布され、3か月後に旧商法(破産法は旧商法をそのまま転用)に代わって施行されることになった。主な改正点としては、会社設立を許可制から準則主義にし事実上の自由化を行ったこと、商慣習の地位を引き上げて商法にない規定は商慣習法を援用するようにしたこと、会社の合併の規定を設けたことなどが挙げられる。 その後も頻繁に改正が行われている。その主な点を挙げる。 米国では統一商法典というものが、実質的に米国全土の商法典として機能している。 米国というのは、United States Of Americaという名称でも分かるように、いくつものstate(くに、邦、州)が集まって成立している連邦国家であり、成立の基本は、ひとつひとつのstateのほうであり、米国の法律の基本は州法である。各state(州)の州政府が制定する州法であり、米国の50州がそれぞれ異なる法律を持っている。連邦法というものも確かにありはするが あくまで基本は州法なのである。ところが、商売・ビジネスというのは州をまたいでも行われるものであり、商取引上の問題が複数の州にまたがる場合には何らかの米国全体として法的な統制をとる必要がある。そこで、連邦法の適用対象外となっていて連邦法では一律に規制し得ない分野について、米国法を統一する目的で作成されたのが Uniform Commercial Code(略す場合は「U.C.C.」)(統一商法典)というものである。(米国のものと明示し、他国のものと区別するために「米国統一商法典」と呼ぶこともある。) このU.C.Cによって、連邦法を制定するのではなく、「モデル法案」を作成しており、それを各州に採択させるという方法が採用されているのである。そして、このU.C.C.は現在ほぼ全州でそのまま採択されているので、実質的に米国での「連邦商事法」のような役割を果たしている。 1942年、American Law Institute(短縮形:ALI、米国法律協会)と(Uniform Law Commission 統一州法委員会(ULC)が共同事業として、U.C.C.の作成に着手し、1951年に最終草案を作成し、1952年に最初のU.C.C.を発表した。 現在では、米国すべての州でU.C.C.が採択されている(例外はせいぜいルイジアナ州で、同州は部分採択の形をとった)。よって、このU.C.C.は実質的には、米国の「連邦商事法」のような役割を果たしていると言えるわけである。 内容、構成は以下の通り。 細部が幾度にもわたり改正された経緯がある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "商法(しょうほう)", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "商法(しょうほう、英語: Commercial Code)とは、商人の営業、商行為その他商事について定めた日本の法律。 法令番号は明治32年法律第48号、1899年(明治32年)3月9日に公布された。所管官庁は、法務省(民事局商事課)である。", "title": "日本法" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "商事に関して、商法に規定がない場合には慣習法である商慣習に従い、商慣習にも規定がない場合には同じく法務省が所管する民法が適用される。", "title": "日本法" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "日本の商法は関連する法令を含め、一般に下記のような分類がなされる。現在独立している法律(会社法、保険法、手形法および小切手法)もかつては本法の一部を構成していた。", "title": "日本法" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "本法は、1899年(明治32年)の制定以降、大規模、小規模の改正を重ねて現在に至っている。", "title": "日本法" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "制定時は第1編総則、第2編会社、第3編商行為、第4編手形、第5編海商であった。第4編は手形法制定で第1章から第3章までが、小切手法制定で第4章が削除され、長らくの間は第1編総則、第2編会社、第3編商行為、第4編海商となった。その後、会社法制定に伴って会社に関する規定の削除等の整備が行われ、現在の編構成となる。さらに、保険法制定で第2編第10章が削除された。", "title": "日本法" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "実質的意義での商法は、私法の一般法である民法の特別法として位置づけられるが、その法領域については、議論がある。", "title": "日本法" }, { 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"明治に入ると、近代的な会社・企業組織などの考えが日本にも伝わった。政府も欧米の巨大な資本に対抗するには日本でも企業を起こしていく必要性があると考えた。そこで士農工商的な職業の制限を廃して、会社設立を容認する政策を採った。だが、会社の設立のルールが存在しなかった(先行していた国立銀行条例(1872年)が模範例とされたが、あくまでもモデルでしかなかった)ため、その組織形態もバラバラでありすぐに倒産する会社も少なくなかった。また為替などに対する統一した基準と法的根拠を求める声も高まった(1882年に「為替手形約束手形条例」が暫定的に定められた)。", "title": "日本法" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "そこで1881年4月、外務省嘱託であったドイツの法学者で経済学者でもあったヘルマン・ロエスレルに商法起草を依頼したのである。彼はドイツの商法を基(破産法などはフランスによる)にした草案を1884年1月に完成させた。この草案を基にして1890年に成立したのが、旧商法と称される「商法」(明治23年法律32号)である。この商法は「商ノ通則」「海商」「破産」の3編から構成されていた。これを審議した元老院では、施行を翌年1月からと定めた。", "title": "日本法" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ところが、この年の秋から帝国議会が開かれるようになると、民法典論争の煽りを受けて新しい商法に対する反対論が噴出した。そこには法学者のみならず、商工会議所(当時、東京では「商工会」、大阪・神戸では「商法会議所」と呼ばれていた)に属する商工業者からの抗議もあった。", "title": "日本法" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "主な意見として、一つは民法と商法とは密接な関係にあるにもかかわらず、民法はフランス系で商法はドイツ系で法体系が違っており、双方の間に重複が多すぎるという指摘である。特に「契約作成能力」や「委任契約」に至っては2つの法律の間に矛盾さえ生じていた。もう一つはロエスレルが日本の商慣習を「曖昧で前近代的で全く考慮に値しない」と評して慣習法としての価値を全く認めようとしなかったことがある。穂積陳重らが商法はそもそも商慣習の集成に由来するのに現地の商慣習を無視した商法はありえないと主張した事もあって、実際の商法では商慣習を認めたものの、低い地位に置かれていた。", "title": "日本法" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "だが、同じ商工会議所でも海外貿易の盛んな大阪では早期施行を要求する嘆願が、逆に東京では施行延期を求める嘆願が出されるなど、複雑な展開を見せた。結局、商法の施行は2年間(後に期限は更新された)延期されることになった。だが、後に東西の商工会議所の間で日本に具体的な規定がない会社法や破産法については暫定的に商法を施行すべきであるという意見の合意を見た事もあって、1893年7月に会社・手形及び小切手・破産法の部分の先行施行が実施された。そして、1898年7月に施行期限延長手続の中止によって全面施行に至る。もっとも新しい商法草案が既に帝国議会において審議中でその成立が時間の問題だったために敢えて再度の延長手続は取られなかったというのが実情とも言われている(実際、旧商法は1年弱の期間しか施行されなかった)。", "title": "日本法" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1893年3月、梅謙次郎・岡野敬次郎・田部芳によってドイツ商法を基本にした草案が出され、当時の伊藤博文首相を長とする法典調査会において審議され、梅と穂積陳重・富井政章によって商法法案として纏められた。1899年3月に新しい商法が公布され、3か月後に旧商法(破産法は旧商法をそのまま転用)に代わって施行されることになった。主な改正点としては、会社設立を許可制から準則主義にし事実上の自由化を行ったこと、商慣習の地位を引き上げて商法にない規定は商慣習法を援用するようにしたこと、会社の合併の規定を設けたことなどが挙げられる。", "title": "日本法" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "その後も頻繁に改正が行われている。その主な点を挙げる。", "title": "日本法" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "米国では統一商法典というものが、実質的に米国全土の商法典として機能している。", "title": "アメリカ法" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "米国というのは、United States Of Americaという名称でも分かるように、いくつものstate(くに、邦、州)が集まって成立している連邦国家であり、成立の基本は、ひとつひとつのstateのほうであり、米国の法律の基本は州法である。各state(州)の州政府が制定する州法であり、米国の50州がそれぞれ異なる法律を持っている。連邦法というものも確かにありはするが あくまで基本は州法なのである。ところが、商売・ビジネスというのは州をまたいでも行われるものであり、商取引上の問題が複数の州にまたがる場合には何らかの米国全体として法的な統制をとる必要がある。そこで、連邦法の適用対象外となっていて連邦法では一律に規制し得ない分野について、米国法を統一する目的で作成されたのが Uniform Commercial Code(略す場合は「U.C.C.」)(統一商法典)というものである。(米国のものと明示し、他国のものと区別するために「米国統一商法典」と呼ぶこともある。) このU.C.Cによって、連邦法を制定するのではなく、「モデル法案」を作成しており、それを各州に採択させるという方法が採用されているのである。そして、このU.C.C.は現在ほぼ全州でそのまま採択されているので、実質的に米国での「連邦商事法」のような役割を果たしている。", "title": "アメリカ法" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1942年、American Law Institute(短縮形:ALI、米国法律協会)と(Uniform Law Commission 統一州法委員会(ULC)が共同事業として、U.C.C.の作成に着手し、1951年に最終草案を作成し、1952年に最初のU.C.C.を発表した。", "title": "アメリカ法" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "現在では、米国すべての州でU.C.C.が採択されている(例外はせいぜいルイジアナ州で、同州は部分採択の形をとった)。よって、このU.C.C.は実質的には、米国の「連邦商事法」のような役割を果たしていると言えるわけである。", "title": "アメリカ法" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "内容、構成は以下の通り。", "title": "アメリカ法" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "細部が幾度にもわたり改正された経緯がある。", "title": "アメリカ法" } ]
商法(しょうほう) あきないのしかた。商売のしかた。 〔法律用語〕 実質的に、商事(商売にかかわること)に関する私法的法規を指すための総称。 形式的に、商法典の呼称。 大陸法における法分野であり、民法の特別法として、また商人の営業、商行為、その他商事についての一般法である(実質的意義の商法)。また、そのような内容を定めた法典の名称としても用いられることもあり、その場合には当該法典を指すこともある(形式的意義の商法)。 日本の特定の法律や特定の法律群の名称。狭義には「商法」という題名の法律(商法典)を指し、これは形式的意義の商法といわれる。広義には商法典に会社法、保険法、保険業法、手形法、小切手法などの関連法令を含めた法体系全般を指し、これは実質的意義の商法といわれる。
'''商法'''(しょうほう) *あきないのしかた<ref name="koujien">広辞苑【商法】</ref>。[[商売]]のしかた。 *〔法律用語〕(フランス語:[[:fr:code de commerce|code de commerce]]、英語:[[:en:commercial law|commercial law]]、buisiness law) ** 実質的に、[[商事]](商売にかかわること)に関する[[私法]]的[[法規]]を指すための[[総称]]<ref name="koujien" />。 ** 形式的に、'''商[[法典]]'''の呼称<ref name="koujien" />。 **[[大陸法]]における法分野であり、[[民法]]の[[特別法]]として、また[[商人 (商法)|商人]]の営業、[[商行為]]、その他商事についての[[一般法]]である(実質的意義の商法)。また、そのような内容を定めた法典の名称としても用いられることもあり、その場合には当該法典を指すこともある(形式的意義の商法)。 **日本の特定の[[法律]]や特定の法律群の名称。狭義には「商法」という題名の法律(商法典)を指し、これは形式的意義の商法といわれる。広義には商法典に[[会社法]]、[[保険法]]、[[保険業法]]、[[手形法]]、[[小切手法]]などの関連法令を含めた法体系全般を指し、これは実質的意義の商法といわれる。 ==日本法== {{Law}} {{出典の明記|section=1|date=2012年1月}} {{日本の法令 |題名=商法 |番号={{日本の法令/法令番号|Q19113193}} |効力=現行法 |種類='''商法''' |成立={{日本の法令/成立日/年月日|Q19113193}} |公布={{日本の法令/公布日/年月日|Q19113193}} |施行={{日本の法令/施行日/年月日|Q19113193}} |所管=([[司法省 (日本)|司法省]]→)<br>([[法務庁]]→)<br>(法務府→)<br>[[法務省]]([[民事局]]) |内容=商法総則、商行為法、海商法 |関連=[[会社法]]、[[保険法]]、[[保険業法]]、[[手形法]]、[[小切手法]]など |リンク={{Egov law|132AC0000000048}} |ウィキソース = 商法 }} '''商法'''(しょうほう、[[英語]]: Commercial Code<ref name="lawtranslation2014">{{Cite web|和書|url=http://www.japaneselawtranslation.go.jp/law/detail/?id=2735&vm=04&re=01&new=1 |title=日本法令外国語訳データベースシステム-商法 |trans-title=Commercial Code |accessdate=2017-06-17 |author=日本法令外国語訳データベースシステム |coauthors=日本法令外国語訳推進会議 |date=2009-04-01 |publisher=法務省 |page=1 }}</ref>)とは、[[商人 (商法)|商人]]の営業、[[商行為]]その他商事について定めた[[日本]]の[[法律]]。 [[法令番号]]は明治32年法律第48号、1899年(明治32年)3月9日に[[公布]]された。所管官庁は、[[法務省]]([[民事局]]商事課)である。 商事に関して、商法に規定がない場合には[[慣習法]]である[[商慣習]]に従い、商慣習にも規定がない場合には同じく法務省が所管する[[民法 (日本)|民法]]が適用される。 === 商法の分野 === 日本の商法は関連する法令を含め、一般に下記のような分類がなされる。現在独立している法律(会社法、保険法、手形法および小切手法)もかつては本法の一部を構成していた。 ; [[商法総則]] : 商法の全体の通則となる規定であり、本法第1編総則(1条 - 31条、32条 - 500条は削除)が該当する。[[2005年]](平成17年)の会社法制定に併せて[[口語]]化を含めた全部改正がなされた。 ; [[会社法]] : 一般的な営利社団法人である[[会社]]について規定する法分野であり、現在は[[会社法]](平成17年法律第86号)により規定される(会社法の施行前は本法旧第2編会社、旧[[有限会社法]]、旧[[株式会社の監査等に関する商法の特例に関する法律]]等)。{{main|会社法#歴史|有限会社法#概要}} ; [[商行為|商行為法]] : 企業活動としての[[法律行為]](商取引)に関する規定であり、本法第2編商行為(501条 - 628条、629条 - 683条は削除)が該当する。第1章総則から第4章匿名組合までは2005年(平成17年)の会社法制定に併せて口語化を含めた全部改正がされた。 ; [[保険法]] : [[保険]]に関する法分野であり、現在は陸上保険については[[保険法]](平成20年法律第56号)、[[海上保険]]については本法第3編第6章保険において規定されている(保険法の施行前は第2編第10章保険)。本来は商行為法の一部であるが、厳密には営利保険(商行為として引き受けられる保険)に関する規律のみが商法の一分野といえるが、保険法はそれ以外の保険([[相互保険]]や根拠法のない[[共済]]など)をも対象としており、また、商法の海上保険の規定は相互保険にも準用されている。 ; [[有価証券法]] : [[有価証券]]に関する法分野であり、主に[[手形法]]および[[小切手法]]により規定される(手形法、小切手法の施行前は本法旧旧第4編第1章から第3章まで手形、第4章小切手)。その他の有価証券については別の法分野の一部において扱われるのが実情である(例えば[[株券]]については会社法、[[船荷証券]]については海商法)。ただし、債権法改正に伴い、有価証券法は民法の一分野として位置づけられることになることが想定されている。 ; [[海商法]] : 海上企業に関する法分野であり、本法第3編海商(684条 - 851条)に加えて[[国際海上物品運送法]]、[[船舶の所有者等の責任の制限に関する法律]](船主責任制限法)などが該当する。厳密には商行為を目的とする船舶に関する規律のみが商法の一分野といえるが、商法の海商法の規定は商行為を目的としない船舶(官公有船を除く)にも準用されており、併せて海事私法を形成している。 ; '''商法施行条例'''(明治23年法律第59号) : 商法(明治23年法律32号)施行以前の法令、施行以前から存在する権利・義務、施行前に行われた手続等の取扱いについて定める。商法施行法により廃止された。 ; '''商法施行法'''(明治32年法律第49号) : 商法(明治32年法律第48号)施行以前の法令、施行以前から存在する権利・義務、施行前に行われた手続等の取扱いについて定めるが、[[航行区域|湖川、港湾、及び沿岸]]小[[航海]]の範囲は[[逓信大臣]](現・[[国土交通大臣]])が定める(第121条)、商法第709条に規定する属具目録の様式は逓信大臣が定める(第130条)のような商法施行後に行われた行為に関連する規定も含まれていた。この二つの規定は、 [[2018年]](平成30年)改正で削除された。 ; '''商法中改正法律施行法(昭和13年4月5日法律第73号)''' : [[1938年]](昭和13年)改正の施行以前の法令、施行以前から存在する権利・義務、施行前に行われた手続等の取扱いについて定めるが、改正後の商法に規定する「小商人」の定義(第3条)のような商法改正施行後に行われた行為に関連する規定も含まれていた。会社法の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律(平成17年7月26日法律第87号)で廃止された。 ===構成=== 本法は、[[1899年]](明治32年)の制定以降、大規模、小規模の改正を重ねて現在に至っている。 * 第1編 総則 ** 第1章 通則(第1条 - 第3条) ** 第2章 商人(第4条 - 第7条) ** 第3章 [[商業登記]](第8条 - 第10条) ** 第4章 [[商号]](第11条 - 第18条) ** 第5章 商業帳簿(第19条) ** 第6章 [[商業使用人]](第20条 - 第26条) ** 第7章 [[代理商]](第27条 - 第500条) * 第2編 商行為 ** 第1章 総則(第501条 - 第523条) ** 第2章 [[売買]](第524条 - 第528条) ** 第3章 [[交互計算]](第529条 - 第534条) ** 第4章 [[匿名組合]](第535条 - 第542条) ** 第5章 仲立営業(第543条 - 第550条) ** 第6章 [[問屋]]営業(第551条 - 第558条) ** 第7章 [[運送取扱営業]](第559条 - 第568条) ** 第8章 [[運送営業]] *** 第1節 総則(第569条) *** 第2節 物品運送(第570条 - 第588条) *** 第3節 旅客運送(第589条 - 第594条) ** 第9章 寄託 *** 第1節 総則(第595条 - 第598条) *** 第2節 倉庫営業(第597条 - 第683条) * 第3編 海商 ** 第1章 船舶(第684条 - 第704条) *** 第1節 総則(第684条・第685条) *** 第2節 船舶の所有 **** 第1款 総則(第686条‐第691条) **** 第2款 船舶の共有(第692条‐第700条) *** 第3節 船舶賃貸借(第701条‐第703条) *** 第4節 定期傭船(第704条‐第707条) ** 第2章 船長(第708条 - 第736条) ** 第3章 海上物品運送に関する特則 *** 第1節 個品運送(第737条‐第747条) *** 第2節 航海傭船(第748条 - 第756条) *** 第3節 [[船荷証券]]等(第757条‐第769条) *** 第4節 [[海上運送状]](第770条‐第787条) ** 第4章 船舶の衝突(第788条 - 第791条) ** 第5章 海難救助(第792条 - 第807条) ** 第6章 共同海損(第808条 - 第814条) ** 第7章 海上保険(第815条 - 第841条) ** 第8章 船舶先取特権及び船舶抵当権(第842条‐第850条) 制定時は第1編総則、第2編会社、第3編商行為、第4編手形、第5編海商であった。第4編は手形法制定で第1章から第3章までが、小切手法制定で第4章が削除され、長らくの間は第1編総則、第2編会社、第3編商行為、第4編海商となった。その後、会社法制定に伴って会社に関する規定の削除等の整備が行われ、現在の編構成となる。さらに、保険法制定で第2編第10章が削除された。 === 実質的意義での商法 === 実質的意義での商法は、[[私法]]の[[一般法]]である[[民法]]の特別法として位置づけられるが、その法領域については、議論がある。 当初は'''経済上の商'''、すなわち生産者と消費者との間に介在して有形財貨の転換の媒介をする営利行為('''固有の商''')を対象とすると把握されてきた。しかし、経済の発達により、このような媒介行為の必要を満たすための補助的な行為(銀行取引、物品運送、損害保険など。'''補助商''')やこれらと類似の経営方法によるもの(出版、旅客運送など。'''第三種の商''')についても、商法の対象になるとされるようになった。 このような事情があることから、上記の行為を統一的に把握するため、どのような点に着目して実質的意義の商法を把握すべきかが問題となる。 ; 商的色彩論 : [[田中耕太郎]]の主張した説で、法律事実の商的色彩に着目することにより、民法から独立した商法体系を構築することは可能であると主張する説。 ; 企業法論 : [[西原寛一]]の主張した説で、[[企業]]生活関係を規律の対象とする法規の全体をいうとする説。この見解が出てから、日本では、商法を「企業に関する法」と解するのが通説となっている。 ==== 民商二法統一論 ==== '''民商二法統一論'''とは、'''民法典'''と'''商法典'''とを一元化すべきであるという主張である。民法から独立した商法体系を構築することは不可能ないし不要であるとする見解を前提としている。日本では明治の[[梅謙次郎]]以来その歴史は長いが、あまり支持されていない。 === 歴史 === ==== 旧商法 ==== [[江戸時代]]には[[江戸幕府|幕府]]が[[儒教]]的な[[重農主義|重農]]抑商政策を進めたこと、[[諸藩]]が自藩の産業保護を優先した事によって、商業の全国的レベルでの発展は抑え込まれた。現代的な[[会社]]形態の組織が生まれる事はなく、商業のほとんどは個人または同族経営による商店のみが存在した。そのため、商取引は[[商慣習]]に従って行われた。それでも[[大坂]]などの大都市を中心に高度な[[為替]]システムの成立を見るなど、その水準は決して低くはなかった。 [[明治]]に入ると、近代的な会社・[[企業]]組織などの考えが日本にも伝わった。政府も欧米の巨大な資本に対抗するには日本でも企業を起こしていく必要性があると考えた。そこで[[士農工商]]的な職業の制限を廃して、会社設立を容認する政策を採った。だが、会社の設立のルールが存在しなかった(先行していた[[国立銀行条例]]([[1872年]])が模範例とされたが、あくまでもモデルでしかなかった)ため、その組織形態もバラバラでありすぐに倒産する会社も少なくなかった。また為替などに対する統一した基準と法的根拠を求める声も高まった([[1882年]]に「[[為替手形約束手形条例]]」が暫定的に定められた)。 そこで[[1881年]]4月、[[外務省]]嘱託であった[[ドイツ]]の[[法学者]]で[[経済学者]]でもあった[[ヘルマン・ロエスレル]]に商法起草を依頼したのである。彼はドイツの商法を基(破産法などは[[フランス]]による)にした草案を[[1884年]]1月に完成させた。この草案を基にして[[1890年]]に成立したのが、'''旧商法'''と称される「商法」(明治23年法律32号)である。この商法は「商ノ通則」「海商」「破産」の3編から構成されていた。これを審議した[[元老院 (日本)|元老院]]では、施行を翌年1月からと定めた。 ==== 商法典論争 ==== ところが、この年の秋から[[帝国議会]]が開かれるようになると、[[民法典論争]]の煽りを受けて新しい商法に対する反対論が噴出した。そこには[[法学者]]のみならず、[[商工会議所]](当時、東京では「商工会」、大阪・神戸では「[[商法会議所]]」と呼ばれていた)に属する商工業者からの抗議もあった。 主な意見として、一つは民法と商法とは密接な関係にあるにもかかわらず、民法はフランス系で商法はドイツ系で法体系が違っており、双方の間に重複が多すぎるという指摘である。特に「契約作成能力」や「[[委任]]契約」に至っては2つの法律の間に矛盾さえ生じていた。もう一つはロエスレルが日本の商慣習を「曖昧で前近代的で全く考慮に値しない」と評して[[慣習法]]としての価値を全く認めようとしなかったことがある。[[穂積陳重]]らが商法はそもそも商慣習の集成に由来するのに現地の商慣習を無視した商法はありえないと主張した事もあって、実際の商法では商慣習を認めたものの、低い地位に置かれていた。 だが、同じ商工会議所でも海外貿易の盛んな大阪では早期施行を要求する嘆願が、逆に東京では施行延期を求める嘆願が出されるなど、複雑な展開を見せた。結局、商法の施行は2年間(後に期限は更新された)延期されることになった。だが、後に東西の商工会議所の間で日本に具体的な規定がない[[会社法]]や[[破産法]]については暫定的に商法を施行すべきであるという意見の合意を見た事もあって、[[1893年]]7月に会社・手形及び小切手・破産法の部分の先行施行が実施された。そして、[[1898年]]7月に施行期限延長手続の中止によって全面施行に至る。もっとも新しい商法草案が既に[[帝国議会]]において審議中でその成立が時間の問題だったために敢えて再度の延長手続は取られなかったというのが実情とも言われている(実際、旧商法は1年弱の期間しか施行されなかった)。 [[1893年]]3月、[[梅謙次郎]]・[[岡野敬次郎]]・[[田部芳]]によってドイツ商法を基本にした草案が出され、当時の[[伊藤博文]][[首相]]を長とする[[法典調査会]]において審議され、梅と穂積陳重・[[富井政章]]によって商法法案として纏められた。[[1899年]]3月に新しい商法が公布され、3か月後に旧商法(破産法は旧商法をそのまま転用)に代わって施行されることになった。主な改正点としては、会社設立を許可制から[[準則主義]]にし事実上の自由化を行ったこと、商慣習の地位を引き上げて商法にない規定は商慣習法を援用するようにしたこと、会社の合併の規定を設けたことなどが挙げられる。 ==== 主な改正 ==== その後も頻繁に改正が行われている。その主な点を挙げる。 * [[1911年]](明治44年)改正 - 明治44年法律第73号(5月3日公布)、10月1日施行 ** [[取締役]]・[[監査役]]に対する民事上の責任を強化 * 1922年(大正11年) - [[破産法 (1922年)|破産法]](大正11年法律第71号(4月25日公布)、1913年(大正12年)1月1日施行)(旧破産法)制定 ** 商法(明治23年法律第32号)(旧商法)第3編「破産」の廃止(現行商法施行の際に、旧商法は第3編「破産」を除き廃止されており、これにより旧商法は全面的に廃止となった。) ** 商法第405条の改正 * 1932年(昭和7年) - [[手形法]](昭和7年法律第20号(7月15日公布)、1934年(昭和9年)1月1日施行)制定 ** 商法第4編「手形」規定のうち第1章から第3章までの廃止 * 1933年(昭和8年) - [[小切手法]](昭和8年法律第57号(7月29日公布)、1934年(昭和9年)1月1日施行)制定 ** 商法第4編「手形」規定のうち第4章の廃止 * [[1938年]](昭和13年)改正 - 昭和13年法律第72号(4月5日公布)、1940年(昭和15年)1月1日施行 ** [[有限会社法]]の制定 ** [[種類株式|議決権なき株式]]の新設 ** 商法旧第4編「手形」規定<ref group="注">手形法及び小切手法による改正ですべての規定が「廃止」となっていたが、形式上、第4編の編名が残存していた。</ref>を削除し旧第5編「海商」の第4編への繰上 * [[1950年]](昭和25年)改正 - 昭和25年法律第167号(5月10日公布)、1951年(昭和26年)7月1日施行 *: [[英米法]]的な制度導入。 ** [[授権資本制度]]の導入 *** 会社設立時に全部の株式を発行する必要がなくなる。 *** [[新株発行]]が株主総会の特別決議事項から取締役会の決議事項に。 *** [[額面株式|無額面株式]]制度の導入。 ** [[取締役会]]の法定・権限強化 *** [[株主総会]]の権限を大幅に取締役会に移譲。 *** 監査役の権限を縮小し、[[会計監査]]に限定。 ** 株主の権利強化 *** [[株主代表訴訟]]提起権、[[株主の差止請求|違法行為差止請求権]]、会計帳簿閲覧請求権、[[株式買取請求権]]など。 * [[1955年]](昭和30年)改正 - 昭和30年法律第28号(6月30日公布)、7月1日施行 ** [[定款]]記載事項の削除(新株引受権に関する商法旧会社編166条5号) * [[1962年]](昭和37年)改正 - 昭和37年法律第82号(4月20日公布)、1963年(昭和38年)4月1日施行 ** [[企業会計]]実務に対応させ、[[損益法]]を導入([[原価主義]]の採用、[[繰延資産]]の拡大) ** 株式会社事務・登記手続の簡素化 * [[1966年]](昭和41年)改正 - 昭和41年法律第83号(6月14日公布)、7月1日施行 ** [[株主の議決権|議決権]]の不統一行使 ** [[新株発行]]手続 ** 新株引受権の譲渡 ** [[転換社債]]の転換 ** 定款による[[株式譲渡制限]]の導入 ** 額面・無額面株式の相互転換 ** 株券の[[裏書]]廃止。[[株券不所持制度|不所持制度]]の導入 * [[1974年]](昭和49年)改正 - 昭和49年法律第21号(4月2日公布)、10月1日施行 ** 監査に関する[[商法特例法]]の制定 ** 累積投票制度 ** 抱き合わせ[[増資]] ** [[転換社債]] ** [[休眠会社]]の整理 ** [[中間配当]] * [[1981年]](昭和56年)改正 - 昭和56年法律第74号(6月9日公布)、1982年(昭和57年)10月1日施行 *: 1975年(昭和51年)の[[ロッキード事件]]、1978年(昭和53年)の[[ダグラス・グラマン事件]]等の会社資金不正支出という不祥事が明るみに出された結果、このような事件を会社が自治的に防止できるような措置を講ずるための改正がなされた。 ** 株式制度の合理化(株式単位を5万円に引き上げ、[[単位株]]制度・[[端株]]制度の導入など) ** 監督制度の強化 *** 議案提案権、取締役の説明義務、総会決議無効・取消しの訴え *** [[総会屋]]排除のため、株主への[[利益供与]]の禁止 *** 取締役会・監査役の監督権限強化 ** 株主・会社債権者に対する[[ディスクロージャー]] ** [[新株引受権付社債]]の新設 ** 商法特例法の[[大会社]]の範囲拡大(資本額のほかに、負債総額も基準にする。)、複数監査役制度および常勤監査役制度の法定。 * [[1990年]](平成2年)改正 - 平成2年法律第64号(6月29日公布)、1991年(平成3年)4月1日施行 ** 小規模閉鎖会社への対応(発起人数の規定撤廃(1人でも可能に)など) ** 債権者保護の規制(株式会社1,000万円・有限会社300万円の最低資本金制度の導入など) ** 資金調達制度の整備 * [[1993年]](平成5年)改正 - 平成5年法律第62号(6月14日公布)、10月1日施行 *: 1991年(平成3年)6月に発覚した証券・金融不祥事件([[証券会社]]の一部の投資家に対する損失補填、金融機関の偽造の預金証書を担保とする融資)を契機として、監査制度を充実する改正がなされた。 ** 株主による監督機能の強化(代表訴訟の訴額を95万円とみなす。帳簿閲覧権の要件緩和。) ** 監査機能の強化(監査役の任期を2年から3年に伸長。大会社における監査役の員数の増加、[[社外監査役]]、[[監査役会]]導入) ** [[社債制度]]の改善(社債発行限度規制の撤廃。社債管理会社の設置義務化) * [[1994年]](平成6年)改正 - 平成6年法律第66号(6月29日公布)、10月1日施行 ** [[自己株式]]所得規制の緩和(使用人への譲渡目的の取得、定時総会決議による株式の利益消却、[[譲渡制限会社]]で買受人指定請求されたときの取得) * [[1997年]](平成9年)改正(1) - 平成9年法律第56号(5月21日公布)、6月1日施行、一部10月1日施行 ** [[ストックオプション]]制度の創設(自己株式方式と新株引受権方式) ** 定款の授権により、取締役会決議での[[株式消却]](株式消却商法特例法の新設) * [[1997年]](平成9年)改正(2) - 平成9年法律第71号(6月6日公布)、10月1日施行 ** [[合併 (企業)|合併]]手続の簡素化 * [[1997年]](平成9年)改正(3) - 平成9年法律第107号(12月3日公布)、12月23日施行 ** [[利益供与罪]]の厳罰化(法定刑の引き上げ、[[利益要求罪]]・威迫利益要求罪の新設) * [[1998年]](平成10年)改正 - 平成10年法律第107号(6月15日公布)、7月1日施行、一部、1999年(平成11年)10月1日施行 ** [[資本準備金]]による[[株式消却]](株式消却特例法を改正し、取締役会決議で可能に。2000年(平成12年3月)までの期間限定。) * [[1999年]](平成11年)改正 - 平成11年法律第125号(8月13日公布)、1999年(平成11年)10月1日施行 ** [[株式交換]]・[[株式移転]]制度の創設([[持株会社]]や[[完全子会社]]の創設が容易になる。) * [[2000年]](平成12年)改正 - 平成12年法律第90号(5月31日公布)、2001年(平成13年)4月1日施行 ** [[会社分割]]制度の創設(特定事業部門の子会社化や子会社間での事業整理が容易になる。) * [[2001年]](平成13年)改正(1) - 平成13年法律第79号(6月29日公布)、10月1日施行 ** 有限会社に関する改正 ** [[金庫株]]の解禁(自己株式の取得、保有、処分の自由化) ** 法定準備金に関する改正 *** [[利益準備金]]として積み立てる限度額の改正(商法288条) *** 法定準備金の減少手続の創設(商法289条) ** [[額面株式]]制度の廃止、株式の大きさに関する規制の撤廃等 *** 額面株式の廃止 *** 会社設立時の株式の発行価格に関する規定の廃止 *** 株式の純資産額規制の廃止 *** [[単元株]]制度の創設と単位株制度の廃止 *** [[端株]]制度の整備 * [[2001年]](平成13年)改正(2) - 平成13年法律第128号(11月28日公布)、2002年(平成14年)4月1日施行 ** 株式制度の見直し *** [[譲渡制限会社]]における((1)総数引き受けの場合の特例、(2)譲渡制限会社における新株発行、(3)種類株式制度の見直し、(4)新株予約権の新設) ** 株主総会及び株式会社関係書類の電子化等に関する事項 *** 会社関係書類の電子化 *** 株主総会の招集通知の電子化 *** 株主総会の書面又は電磁的方法による議決権の行使 *** 計算書類の公開 * [[2001年]](平成13年)改正(3) - 平成13年法律第149号(12月12日公布)、2002年(平成14年)5月1日施行 ** 経営責任の軽減と代替措置の確保 *** 監査役の機能強化((1)監査役の取締役会への出席義務付け、(2)監査役の任期延長、(3)監査役の辞任に関する意見陳述権、(4)社外監査役の増員) ** 取締役、監査役の責任の軽減 ** 株主代表訴訟制度の合理化((1)監査役の考慮期間の延長、(2)訴訟の[[和解]]における取締役の責任の免除、(3)会社の被告取締役への[[補助参加]]できることの明文化 * [[2002年]](平成14年)改正 - 平成14年法律第44号(5月29日公布)、2003年(平成15年)4月1日施行 ** [[委員会等設置会社]]の導入 ** [[重要財産委員会]]制度の導入 ** 株主総会手続の簡素化 ** 株主総会特別決議の[[定足数]]の緩和 ** [[種類株主]]による取締役等の選解任制度の導入 ** [[株券失効制度]]の創設 ** [[みなし大会社]]制度の導入 ** [[連結決算]]制度の導入 ** 計算関係規定の省令委任 ** [[現物出資]]等の財産価格の証明制度 ** [[外国会社]]の営業所設置義務の撤廃 * [[2003年]](平成15年)改正 - 平成15年法律第132号(7月30日公布)、2003年(平成15年)9月25日施行 ** 取締役会議決による自己株式の取得 ** 中間配当限度額の見直し * [[2004年]](平成16年)改正 - 平成16年法律第87号(6月9日公布)、2005年(平成17年)2月1日施行 ** 電子公告制度の導入 ** 第2編第5章(電子公告調査機関)を現代語化(商法における現代語化の初め) * [[2005年]](平成17年)改正 - 平成17年法律第87号(6月6日公布)、2006年(平成18年)5月1日施行 ** [[会社法]](平成17年法律第86号)制定 ** 商法旧第2編「会社」規定の廃止と旧第3編「商行為」・旧第4編「海商」の第2編・第3編への繰り上げ ** 有限会社法の廃止 ** 商法特例法の廃止 ** [[商法中署名スヘキ場合ニ関スル法律]]の廃止 ** 第1編「総則」全ておよび第2編(旧第3編)「商行為」の一部(第1章から第4章)の口語体化 * [[2008年]](平成20年)改正 - 平成20年法律57号(7月26日公布)、2010年(平成22年)4月1日施行 ** [[保険法]]制定 ** 第2編「商行為」第10章の削除 * [[2018年]](平成30年)改正 - 平成30年法律29号(5月25日公布)、2019年(平成31年)4月1日施行<ref>商法及び国際海上物品運送法の一部を改正する法律の施行期日を定める政令(平成30年12月19日政令第338号)</ref> ** 航空運送及び複合運送に関する規定の新設 ** 危険物についての荷送人の通知義務に関する規定の新設 ** 船舶の衝突、海難救助、船舶先取特権等に関する規定の整備 ** 商法で文語体で残っていた第2編第5章から第9章および第3編「海商法」を口語体化。これにより商法の本則全部の口語体化が完了されると同時に、六法全部の本則の口語体化が完成する。 ==アメリカ法== 米国では[[統一商法典]]というものが、実質的に米国全土の商法典として機能している<ref name="jetro_ucc">[http://www.jetro.go.jp/world/n_america/us/qa/02/04A-011046 JETRO「UNIFORM COMMERCIAL CODE(米国統一商法典):米国 」] [https://megalodon.jp/2014-0930-1250-00/www.jetro.go.jp/world/n_america/us/qa/02/04A-011046]</ref>。 米国というのは、United States Of Americaという名称でも分かるように、いくつものstate(くに、邦、州)が集まって成立している連邦国家であり、成立の基本は、ひとつひとつのstateのほうであり、米国の法律の基本は州法である。各[[:en:state|state]]([[州]])の[[地方政府|州政府]]が制定する州法であり、米国の50州がそれぞれ異なる法律を持っている<ref name="jetro_ucc" />。連邦法というものも確かにありはするが<ref group="注">憲法・特許・関税・独禁法等の公法の一部、行政法 などが連邦法として定められている。</ref> あくまで基本は州法なのである<ref name="jetro_ucc" />。ところが、商売・ビジネスというのは州をまたいでも行われるものであり、商取引上の問題が複数の州にまたがる場合には何らかの米国全体として法的な統制をとる必要がある<ref name="jetro_ucc" />。そこで、連邦法の適用対象外となっていて連邦法では一律に規制し得ない分野について、米国法を統一する目的で作成されたのが '''[[:en:Uniform Commercial Code|Uniform Commercial Code]]'''(略す場合は「'''U.C.C.'''」)([[統一商法典]])というものである<ref name="jetro_ucc" />。(米国のものと明示し、他国のものと区別するために「[[米国統一商法典]]」と呼ぶこともある。) このU.C.Cによって、連邦法を制定するのではなく、「モデル法案」を作成しており、それを各州に採択させるという方法が採用されているのである<ref name="jetro_ucc" />。そして、このU.C.C.は現在ほぼ全州でそのまま採択されているので、実質的に米国での「連邦商事法」のような役割を果たしている<ref name="jetro_ucc" />。 === 歴史 === [[1942年]]、[[:en:American Law Institute|American Law Institute]](短縮形:ALI、[[米国法律協会]])と([[:en:Uniform Law Commission|Uniform Law Commission]] [[統一州法委員会]](ULC)が共同事業として、U.C.C.の作成に着手し、1951年に最終草案を作成し、1952年に最初のU.C.C.を発表した<ref name="jetro_ucc" />。 現在では、米国すべての州でU.C.C.が採択されている(例外はせいぜい[[ルイジアナ州]]で、同州は部分採択の形をとった)。よって、このU.C.C.は実質的には、米国の「連邦商事法」のような役割を果たしていると言えるわけである<ref name="jetro_ucc" />。 === 内容、構成 === 内容、構成は以下の通り<ref name="jetro_ucc" />。 *第1編: 総則 *第2編: 売買 *第2編A:リース *第3編: 流通証券 *第4編: 銀行預金および銀行取り立て *第4編A:資金移動 *第5編: 信用状 *第6編: 詐害的大量売却 *第7編: 倉庫証券、運送証券およびその他の権原証券 *第8編: 投資証券 *第9編: 担保取引(売掛債権及び動産抵当証券の売買) *第10編:施行期日および廃止規定 *第11編:経過規定 細部が幾度にもわたり改正された経緯がある。 {{Seealso|統一商事法典}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} ==関連項目== *[[寄託 (日本法)]] == 外部リンク == {{Wikibooks|コンメンタール商法|商法のコンメンタール}} * [https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=132AC0000000048 e-Gov法令検索] - 商法 (明治32年法律第48号) * [https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=417AC0000000086 e-Gov法令検索] -会社法(平成17年法律第86号) * [https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=417CO0000000364 e-Gov法令検索] 会社法施行令 * [https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=417CO0000000367 e-Gov法令検索] 会社法の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律の施行に伴う経過措置を定める政令 * [https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=414M60000010022 e-Gov法令検索] - 商法施行規則 * {{Kotobank}} {{法 (法学)}} {{法学のテンプレート}} {{authority control}} {{DEFAULTSORT:しようほう}} [[Category:私法]] [[Category:商業]] [[Category:日本の商法|*]] [[Category:日本の法律]] [[Category:日本の法典]] [[Category:民事法]] [[Category:1899年の法]] [[Category:アメリカ合衆国の法律]]
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法令データ提供システム
法令データ提供システム(ほうれいデータていきょうシステム)は、総務省行政管理局が電子政府政策の一環として、ウェブサイト上で提供していた日本の法令の検索・閲覧システムである。 第一法規から刊行されている「現行法規総覧」を電子データで代替したもの。 現行の憲法・法律・政令・勅令・府令・省令・閣令・規則(2001年4月1日以降に廃止された法令を含む)の内容などが検索・閲覧可能であった。国による情報提供のため無償であり、ユーザー登録等も不要。中央省庁(霞が関)で限定的に配備・活用されていたシステムを2001年(平成13年)4月からインターネット上に公開したものである。 法令全般が完全に網羅されているわけではなく、公布文・署名・副署は省略、別表・別記様式などのうち標準的な文字コードで表示が困難な図式・画像等も省略されており、また、行政府として所管するものながら条約・訓令・告示は対象外とされていた。このほか、立法府の所管する衆議院規則・参議院規則及び司法府の所管する最高裁判所規則も対象外となっていた。 これら閲覧対象外の法規については、国立印刷局の官報ウェブサイト(日本国憲法下で官報掲載されたもの全部。有料)、外務省のウェブサイト(一部の条約)、最高裁判所のウェブサイト(主な最高裁判所規則)などで閲覧可能である。 既に廃止され一定の時間を経ている法令、特定の法令の施行期日を定めている法令、他の法令を改正するための法令などの内容は閲覧対象外であった。日本国憲法施行後に制定されたすべての法律(廃止済み、特定の法律の施行期日を定める法律、法律の改正を行うための法律を含むが、政令及び省令等は含まない。)は、衆議院のウェブサイトで閲覧可能である。 2017年3月1日現在で更新された後「次回更新時から、「e-Gov法令検索」としてリニューアルし、二次利用が容易となるXML形式での提供を予定しています。」と案内され、法令データ提供システムのデータは更新されていない。その後2017年10月2日に稼動を停止し、法令データ提供システムのURLからe-Gov法令検索に自動的に移動するように設定された。この法令データ提供システムのURLからe-Gov法令検索への自動的な移動2018年10月17日に停止された。
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法令データ提供システム(ほうれいデータていきょうシステム)は、総務省行政管理局が電子政府政策の一環として、ウェブサイト上で提供していた日本の法令の検索・閲覧システムである。 第一法規から刊行されている「現行法規総覧」を電子データで代替したもの。
<!-- ●日本国外の同様なものについて追記する --> {{Infobox オンライン情報源 | サイト名=法令データ提供システム | 画像= | URL=[https://web.archive.org/web/20180928235429/http://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0100 http://law.e-gov.go.jp/<br/>(2018年9月28日時点のアーカイブ)]https://elaws.e-gov.go.jp/<br/>(2021年6月27日時点でのアーカイブ) | タイプ=オンラインデータベース | 分野=日本の法令([[憲法]]・[[法律]]・[[政令]]・[[勅令]]・[[府令]]・[[省令]]・[[閣令]]・[[規則]]) | 使用言語=[[日本語]] | 項目数='''憲法''' 1法令<br />'''法律''' 1,967法令<br />'''政令''' 2,157法令<br />'''勅令''' 73法令<br />'''府令・省令''' 3,759法令<br />'''閣令''' 11法令<br />'''規則''' 339法令<br />'''合計''' 8,307法令<br />(2017年3月1日現在)<ref>{{Cite web|和書|date= 2017-03-28|url= http://law.e-gov.go.jp/announce.html|title= お知らせ|publisher= 法令データ提供システム|accessdate=2017-09-08|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170908205839/http://law.e-gov.go.jp/announce.html |archivedate=2017-09-08}}</ref> | 閲覧=無料 | 登録=不要 | 著作権=[[パブリック・ドメイン]]<ref name="faq">{{Cite web|和書|url= http://www.e-gov.go.jp/law/faq_a.html|title= よくあるご質問(法令検索内)|accessdate=2016-02-26|archiveurl= https://web.archive.org/web/20170903201850/http://www.e-gov.go.jp/law/faq_a.html |archivedate=2017-09-03}}</ref> | 運営=[[総務省行政管理局]] | 資金= | 営利性= | 設立=[[2001年]][[4月1日]]<ref name="faq" /> | 終了=[[2017年]][[10月2日]]<ref name="faq" /> | 設立者= | 管理人= | 現代表= | 執筆者= | 作業者= | 編集委員= | 査読= | 現状=稼動終了 }} '''法令データ提供システム'''(ほうれいデータていきょうシステム)は、[[総務省]][[行政管理局]]が[[電子政府]]政策の一環として、[[ウェブサイト]]上で提供していた[[日本]]の[[法令]]の検索・閲覧システムである。 [[第一法規]]から刊行されている「現行法規総覧」を電子データで代替したもの。 == 概要 == 現行の[[憲法]]・[[法律]]・[[政令]]・[[勅令]]・[[府令]]・[[省令]]・[[閣令]]・[[規則]](2001年4月1日以降に廃止された法令を含む<ref>{{Cite web|和書|url= http://law.e-gov.go.jp/haishi.html|title= 廃止法令等一覧|publisher= 法令データ提供システム|accessdate=2016-02-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171001195115/http://law.e-gov.go.jp/haishi.html |archivedate=2017-10-01}}</ref>)の内容などが検索・閲覧可能であった。国による情報提供のため無償であり、ユーザー登録等も不要。[[中央省庁]]([[霞が関]])で限定的に配備・活用されていたシステムを2001年(平成13年)4月からインターネット上に公開したものである。 法令全般が完全に網羅されているわけではなく、[[公布]]文・[[署名]]・[[連署・副署|副署]]は省略、別表・別記様式などのうち標準的な文字コードで表示が困難な図式・画像等も省略されており、また、行政府として所管するものながら[[条約]]・[[訓令]]・[[告示]]は対象外とされていた。このほか、立法府の所管する[[衆議院規則]]・[[参議院規則]]及び司法府の所管する[[最高裁判所規則]]も対象外となっていた。 これら閲覧対象外の法規については、[[国立印刷局]]の[[官報]]ウェブサイト([[日本国憲法]]下で官報掲載されたもの全部。有料)、[[外務省]]のウェブサイト(一部の条約)、[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]のウェブサイト(主な最高裁判所規則)などで閲覧可能である。 既に廃止され一定の時間を経ている法令、特定の法令の施行期日を定めている法令、他の法令を改正するための法令などの内容は閲覧対象外であった。[[日本国憲法]]施行後に制定されたすべての法律(廃止済み、特定の法律の施行期日を定める法律、法律の改正を行うための法律を含むが、政令及び省令等は含まない。)は、[[衆議院]]の[https://www.shugiin.go.jp/Internet/itdb_housei.nsf/html/housei/menu.htm ウェブサイト]で閲覧可能である。 2017年3月1日現在で更新された後「次回更新時から、「[[e-Gov法令検索]]」としてリニューアルし、二次利用が容易となるXML形式での提供を予定しています。」と案内され、法令データ提供システムのデータは更新されていない。その後[[2017年]][[10月2日]]に稼動を停止し、法令データ提供システムのURLからe-Gov法令検索に自動的に移動するように設定された<ref>{{Cite web|和書 |url= http://www.e-gov.go.jp/news/egov/2017/news20170928.html |title= 旧法令データ提供システムの公開停止について(10/2(月)午前) |publisher= 法令データ提供システム |date=2017-9-28 |accessdate=2020-01-29 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20171008131349/http://www.e-gov.go.jp/news/egov/2017/news20170928.html |archivedate=2017-10-08}} </ref>。この法令データ提供システムのURLからe-Gov法令検索への自動的な移動2018年10月17日に停止された<ref>{{Cite web|和書 |url= https://elaws.e-gov.go.jp/ |title= 【重要なお知らせ】 |publisher= 法令データ提供システム |accessdate=2020-01-29 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180928235429/https://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0100/ |archivedate=2018-09-28}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 関連項目 == * [[e-Gov法令検索]] == 外部リンク == * [https://elaws.e-gov.go.jp/ e-Gov法令検索] {{DEFAULTSORT:ほうれいてえたていきようしすてむ}} [[Category:日本の法令集]] [[Category:総務省]] [[Category:オンライン法律データベース]] [[Category:2001年開設のウェブサイト]] [[Category:電子政府]]
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キリストの磔刑
キリストの磔刑(キリストのたっけい)は、キリスト教の聖典である新約聖書の福音書に書かれているエピソードの一つ。 イエスがエルサレム神殿を頂点とするユダヤ教体制を批判したため、死刑の権限のないユダヤ人の指導者たちによって、その権限のある支配者ローマ帝国へ反逆者として渡され、公開処刑である十字架に磔となって処刑されたというものである。 十字架刑はその残忍性のため、ローマ帝国でも反逆者のみが受け、ローマ市民権保持者は免除されていた最も重い刑罰であった。 1世紀前半の30年頃に、当時のユダヤ教のあり方を批判し人々に神の教えを説くなどしていたユダヤ人イエスが処刑されたというのは恐らくは史実であろう。 キリスト教の教義においては、救い主であるイエス・キリストが人類をその罪から救うために、身代わりに磔になったものとされる。 この時代の磔刑では十字架につけられて即死することはなかった。刑を受ける者は両手首と両足首を釘でうちつけられ、体を支えられなくなることで呼吸困難に陥って死に至った。そのため、長引く場合は48時間程度も苦しみ続けて死んだと言われる。ただしイエスと共に十字架につけられた二人の男は、安息日に死体が十字架にかかっていることを嫌ったユダヤ人たちの依頼で、安息日を迎える前に足を骨折させて窒息死させられた。兵士はイエスの足も折ろうとしたが、すでに死亡していたためやめた。イエスの死を確認するため、ある兵士が槍でイエスのわき腹を突き刺したという記述も福音書に見られる。 正教会のイコンにおいては、足台が描かれる。これは聖伝において十字架に足台が設けられていたと伝えられている事による。この事が八端十字架(ロシア十字)の意匠に反映されている。 にがりをまぜた酢をのませられ、ロンギノスという名の兵隊がイエスの脇腹を槍で突きさした。 イエスと共に十字架に磔にされた2人の男の名は、デュスマスとゲスタス(英語版)と呼ばれる罪人である。ニコデモ福音書第10章には下記のように記述されている。 一緒に十字架につけられた悪党の一人が悪態をついてイエスに言った、「もしもお前がキリストならば、自分で自分を救い、また俺達を救ってくれればいいだろう。」デュスマスという名の男の方が相手を叱って言った、「お前は同じ刑を受けていながら、神を恐れることをしないのか。俺達には当然のことさ。俺達は自分のやったことにふさわしい罰を受けているのだからな。しかしこの方は何の悪いこともしておいでではないのだぞ。」そして言った、「主よ、汝の御国にて私を思い出して下さいますように。」イエスは彼に言った、「まことにまことに汝に告ぐ、今日汝は我と共に天国にいるであろう。」 同じ場面の記述が同書第26章にもある。 このように彼らが話していると、そこに、もう一人、肩に十字架を背負った卑しい人が来た。この人に聖なる父祖達は言った、「あなたは強盗のように見えますが、それに肩に十字架をかついでおいでですが、いったいどなたですか。」その人が答えるには、「あなた方がおっしゃるように、私は世の中にいた時は強盗、盗人でした。それでユダヤ人達は私をつかまえ、十字架の死刑に処したのですが、それはちょうど私達の主イエス・キリスト様と同時でした。主が十字架にかけられ給うた時に、いろいろな奇跡がおこり、それを見て私は信じました。私はキリスト様に呼びかけて言いました、主よ、あなたが王として支配なさる時、どうぞ私のことをお忘れにならないで下さい、と。するとすぐに主は返事をして下さり、まことにまことに汝に言う、今日すでに汝は我と共に天国にいるであろう、と言われたのです。それで私は自分の十字架をかついで天国に来たのですが、そこで大天使ミカエル様にお会いしましたので、申しました。十字架につけられた私達の主イエス様が私をここにつかわし給うたのです。ですからエデンの園の門の中に私を入れて下さい、と。すると(入り口にある)燃えている剣が、十字架の徴を見て、開き、私は入ることができました。そうして、大天使様が私におっしゃいました、しばらく待っているがよい、人類の始祖であるアダムが義人達と共に来て、彼らもまた中にはいって来るから、と。というわけで今、あなた方をお見受けしたので、お迎えに参ったところです。」これらのことを聞いて聖者達はみな大声で叫んで言った、「我らの主キリストは偉大なるかな。その御力は偉大なるかな。」 新約聖書学の一部に、十字架の高さは人の背の高さから少し高い程度に過ぎなかったが、後の時代には、イエスを神と理解する信仰から、十字架刑の残忍性が払拭されるようになり、神の栄光を表すという心情から、高く掲げられるように変わってきた、という説がある。 またキリスト教系の新宗教であるエホバの証人はキリストの磔刑が「一本の杭(苦しみの杭)」で行われたと主張している。彼らが発行した『参照資料付き新世界訳聖書』の付録において、「苦しみの杭」の根拠としてカトリック教会の学者ユストゥス・リプシウス(1547-1606年)の著書『デー・クルケ・リブリー・トレース』を引用しており、その本の複写を掲載している(ただし同書には十字架につけられた人の絵も掲載してあり、p46にて『十字架こそキリストを処刑するのに使われた刑具である』とリプシウスは説明している)。 上記のような考えに対し、新約学者Franceは、マルコの福音書15章36節「海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け」「エリヤが彼を降ろしに来るか」という記述から、棒につけなければならない程の高さがあったこと、また「降ろす」という単語の接頭辞 κατα は「(ある程度の高さ)から」という意味があるため、縦木は高く、イエスが負わされたのは横木であった、つまり文字通りの十字架刑であったと主張している(R・T・フランス)。また大野キリスト教会牧師であり、「JWTC(エホバの証人をキリストへ)」主宰者の中澤啓介は著書『十字架か、杭か』において、エホバの証人が論点とする「イエスの時代のギリシャ語『スタウロス』」が「十字架」であったという考古学的証拠が多数発見されており、1~3 世紀のキリスト者の墓地に十字架が刻まれていることが、考古学的発見から明らかになっている、と述べている。 神学者の佐藤研はイエスの十字架については「十字型」ではなく「T字型」であったろうとの見解を記し、本来処刑道具であることを示すためにスタウロス(十字架)の訳語として「杭殺刑」「杭殺柱」にしてはどうか、という提言を行なっている。 一方で、聖書学者の秦剛平は、エステル記でハマンが処刑された際に、「木柱に吊るす」を意味するアナスタウローが用いられており、これが「短い、横棒と長い縦棒を組み合わせた十字形の木柱ではなく、あくまでも一本の棒である」ことを指摘した上で、イエスの処刑については、「何百本の木柱がエルサレムのアントニアの塔(中略)の中に保管されていたと想像するが、十字架状のものではかさばってしょうがない」「彼らを柱に吊るすのであれば、それは保管上からしても一本の木柱であったと想像するのが妥当である」 と結論づけ、イエスは十字架にかけられたのではなく、一本の木柱に吊るされたと理解している。 ヨセフスの『ユダヤ戦記』には、第一次ユダヤ戦争のエルサレム攻囲戦 (70年)の際、ローマ皇帝の皇子ティトゥス率いるローマ軍とアグリッパ2世の軍が同盟して、エルサレム神殿に立て篭もるユダヤ人とアロンの子孫とされるレビ族サドカイ派の祭司たちを兵糧攻めにし、投降してきた人々を磔刑で処刑したことが記されている。 当時のユダヤ属州のローマ総督ピラトは、イエスを救うために以下のような手を尽くしたと福音書記者は記述している(しかし歴史上の彼は、実際は、ユダヤ人に対して残忍であったとも言われている)。 キリストの磔刑は、数多くの美術や文学の主題として選ばれている。 文学では、ノーベル文学賞作家、ペール・ラーゲルクヴィスト著の『バラバ』が有名である。 美術では一連の磔刑の出来事は、いくつかのさらに細かい主題に分類されている。 絵の中に登場する人物は福音書によってその場にいたと記録されているイエスの母マリア、ヨハネ、マグダラのマリアなどである。また福音書の記述に基づき、ラテン語の「IESVS NAZARENVS REX IVDAEORVM」(ユダヤ人の王、ナザレのイエス)の頭字語である「INRI」と書かれた罪状書きが十字架の上に掲げられている。また、ゴルゴタの丘がアダムの墓であるという伝承に基づき、これを表すものとして、イエスが架けられた十字架の根本にはしばしば髑髏が描かれる。 映画では、『ベン・ハー』『最後の誘惑』『キング・オブ・キングス』『偉大な生涯の物語』『聖衣』などが、キリストの磔刑を描いている。2004年2月にアメリカ合衆国で公開(日本では5月に公開)された『パッション』は、極めて凄惨な磔刑の執行場面を描いたことなどで物議を醸した。
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キリストの磔刑(キリストのたっけい)は、キリスト教の聖典である新約聖書の福音書に書かれているエピソードの一つ。 イエスがエルサレム神殿を頂点とするユダヤ教体制を批判したため、死刑の権限のないユダヤ人の指導者たちによって、その権限のある支配者ローマ帝国へ反逆者として渡され、公開処刑である十字架に磔となって処刑されたというものである。
{{Redirect|十字架上のキリスト|ベラスケスの絵画|十字架上のキリスト (ベラスケス)}} {{Otheruses||その他}} {{Jesus}} [[Image:Mantegna, Andrea - crucifixion - Louvre from Predella San Zeno Altarpiece Verona.jpg|thumb|240px|[[磔刑 (マンテーニャ)|磔刑]]([[アンドレア・マンテーニャ]]画、[[1459年]])]] '''キリストの磔刑'''(キリストのたっけい)は、[[キリスト教]]の聖典である[[新約聖書]]の[[福音書]]に書かれているエピソードの一つ。 [[ナザレのイエス|イエス]]が[[エルサレム神殿]]を頂点とする[[ユダヤ教]]体制を批判したため、[[死刑]]の権限のない[[ユダヤ人]]の指導者たちによって、その権限のある支配者[[ローマ帝国]]へ反逆者として渡され、[[公開処刑]]である[[十字架]]に[[磔]]となって[[死刑|処刑]]されたというものである。 ==十字架刑== 十字架刑はその残忍性のため、ローマ帝国でも反逆者のみが受け、ローマ市民権保持者は免除されていた最も重い刑罰であった。 [[1世紀]]前半の30年頃に、当時のユダヤ教のあり方を批判し人々に神の教えを説くなどしていたユダヤ人イエスが処刑されたというのは恐らくは{{要出典|date=2017年1月}}史実であろう。 キリスト教の教義においては、救い主である[[イエス・キリスト]]が人類をその罪から救うために、身代わりに磔になったものとされる。 この時代の磔刑では十字架につけられて即死することはなかった。刑を受ける者は両手首と両足首を釘でうちつけられ、体を支えられなくなることで呼吸困難に陥って死に至った。そのため、長引く場合は48時間程度も苦しみ続けて死んだと言われる。ただしイエスと共に十字架につけられた二人の男<ref group="注釈">この2人は刑の執行がイエスと同じ日になっただけで、イエスとは無関係な泥棒と言われている。</ref>は、安息日に死体が十字架にかかっていることを嫌ったユダヤ人たちの依頼<ref group="注釈">福音書の記述によれば、刑の執行が行われたのは安息日の前日であった(マタイ27 :62、マルコ15 :42、ルカ23: 50、ヨハネ19: 31)。律法においては、処刑され、木に掛けられた死体は神に呪われたものであり、必ずその日のうちに埋めねばならない(申命記21 :22-23)、とされていた。</ref>で、安息日を迎える前に足を骨折させて窒息死させられた。兵士はイエスの足も折ろうとしたが、すでに死亡していたためやめた。イエスの死を確認するため、ある兵士が槍([[聖槍]])でイエスのわき腹を突き刺したという記述も福音書に見られる。 ===イコン=== [[画像:Crucifixion by Theophanes the Cretan.jpg|thumb|220px|[[クレタ島|クレタ]]のセオファニスによって16世紀に描かれた、[[キリスト]]の磔刑とそれを見守る人々が描かれた[[正教会]]の[[イコン]]。[[アトス山]]のスタヴロニキタ[[修道院]]所蔵。]] [[正教会]]の[[イコン]]においては、足台が描かれる。これは聖伝において十字架に足台が設けられていたと伝えられている事による。この事が[[八端十字架]](ロシア十字)の意匠に反映されている。 ===関連する伝説=== <blockquote>[[にがり]]をまぜた[[酢]]をのませられ、ロンギノスという名の兵隊がイエスの脇腹を槍で突きさした<ref>聖書外典偽典6 p206ニコデモ福音書16-7抜粋</ref>。 </blockquote> イエスと共に十字架に磔にされた2人の男の名は、[[デュスマス]]と{{仮リンク|ゲスタス|en|Impenitent thief}}と呼ばれる罪人である<ref>聖書外典偽典6 p190ニコデモ福音書9-5</ref>。ニコデモ福音書第10章には下記のように記述されている。 <blockquote>一緒に十字架につけられた悪党の一人が悪態をついてイエスに言った、「もしもお前がキリストならば、自分で自分を救い、また俺達を救ってくれればいいだろう。」デュスマスという名の男の方が相手を叱って言った、「お前は同じ刑を受けていながら、神を恐れることをしないのか。俺達には当然のことさ。俺達は自分のやったことにふさわしい罰を受けているのだからな。しかしこの方は何の悪いこともしておいでではないのだぞ。」そして言った、「主よ、汝の御国にて私を思い出して下さいますように。」イエスは彼に言った、「まことにまことに汝に告ぐ、今日汝は我と共に天国にいるであろう。」<ref>聖書外典偽典6 p191ニコデモ福音書10-2</ref></blockquote> 同じ場面の記述が同書第26章にもある。 <blockquote>このように彼らが話していると、そこに、もう一人、肩に十字架を背負った卑しい人が来た。この人に聖なる父祖達は言った、「あなたは強盗のように見えますが、それに肩に十字架をかついでおいでですが、いったいどなたですか。」その人が答えるには、「あなた方がおっしゃるように、私は世の中にいた時は強盗、盗人でした。それでユダヤ人達は私をつかまえ、十字架の死刑に処したのですが、それはちょうど私達の主イエス・キリスト様と同時でした。主が十字架にかけられ給うた時に、いろいろな奇跡がおこり、それを見て私は信じました。私はキリスト様に呼びかけて言いました、主よ、あなたが王として支配なさる時、どうぞ私のことをお忘れにならないで下さい、と。するとすぐに主は返事をして下さり、まことにまことに汝に言う、今日すでに汝は我と共に天国にいるであろう、と言われたのです。それで私は自分の十字架をかついで天国に来たのですが、そこで大天使ミカエル様にお会いしましたので、申しました。十字架につけられた私達の主イエス様が私をここにつかわし給うたのです。ですからエデンの園の門の中に私を入れて下さい、と。すると(入り口にある)燃えている剣が、十字架の徴を見て、開き、私は入ることができました。そうして、大天使様が私におっしゃいました、しばらく待っているがよい、人類の始祖であるアダムが義人達と共に来て、彼らもまた中にはいって来るから、と。というわけで今、あなた方をお見受けしたので、お迎えに参ったところです。」これらのことを聞いて聖者達はみな大声で叫んで言った、「我らの主キリストは偉大なるかな。その御力は偉大なるかな。」<ref>聖書外典偽典6 p218-219ニコデモ福音書第26章全文</ref> </blockquote> ===杭殺刑=== {{Main|[[苦しみの杭]]}} [[Image:Justus Lipsius Crux Simplex 1629.jpg|thumb|left|120px|杭殺刑<br/>[[ユストゥス・リプシウス]] ''De cruce'' (1595年)]] 新約聖書学の一部に、十字架の高さは人の背の高さから少し高い程度に過ぎなかったが、後の時代には、イエスを神と理解する信仰から、十字架刑の残忍性が払拭されるようになり、神の栄光を表すという心情から、高く掲げられるように変わってきた、という説がある<ref name="sato"/>。 また[[キリスト教系の新宗教]]である[[エホバの証人]]はキリストの磔刑が「一本の杭([[苦しみの杭]])」で行われたと主張している。彼らが発行した『参照資料付き[[新世界訳聖書]]』の付録において、「苦しみの杭」の根拠として[[カトリック]]教会の学者[[ユストゥス・リプシウス]](1547-1606年)の著書『デー・クルケ・リブリー・トレース』<ref>[[ユストゥス・リプシウス]]『De cruce libritres』アントワープ,1629年,p19</ref>を引用しており、その本の複写を掲載している(ただし同書には十字架につけられた人の絵も掲載してあり、p46にて『十字架こそキリストを処刑するのに使われた刑具である』とリプシウスは説明している)。 上記のような考えに対し、新約学者Franceは、マルコの福音書15章36節「海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け」「エリヤが彼を降ろしに来るか」という記述から、棒につけなければならない程の高さがあったこと、また「降ろす」という単語の接頭辞 {{lang|grc|κατα}} は「(ある程度の高さ)から」という意味があるため、縦木は高く、イエスが負わされたのは横木であった、つまり文字通りの十字架刑であったと主張している(R・T・フランス)<ref> France, R. T. (2002). The Gospel of Mark : A commentary on the Greek text (655). Grand Rapids, Mich.; Carlisle: W.B. Eerdmans; Paternoster Press</ref>。また大野キリスト教会牧師であり、「JWTC(エホバの証人をキリストへ)」<ref name="j">[http://jwtc.info/modules/newsletter/index.php?content_id=39 「エホバの証人からクリスチャンへ」-JWTC エホバの証人をキリストへ ]</ref>主宰者の[[中澤啓介]]は著書『十字架か、杭か』<ref name="kuika"/>において、エホバの証人が論点とする「イエスの時代のギリシャ語『スタウロス』」が「十字架」であったという考古学的証拠が多数発見されており、1~3 世紀のキリスト者の墓地に十字架が刻まれていることが、考古学的発見から明らかになっている<ref name="kuika">[http://jwtc.info/uploads/photos/62.pdf 中澤啓介『十字架か、杭か』新世界訳研究会、1999年]</ref>、と述べている。 [[神学者]]の[[佐藤研]]はイエスの十字架については「十字型」ではなく「T字型」であったろうとの見解を記し、本来処刑道具であることを示すためにスタウロス(十字架)の訳語として「杭殺刑」「杭殺柱」にしてはどうか、という提言を行なっている<ref name="sato">新約聖書翻訳委員会(編)『聖書を読む──新約篇』p.1-22([[佐藤研]]),岩波書店,2005年</ref>。 一方で、聖書学者の[[秦剛平]]は、[[エステル記]]で[[ハマン]]が処刑された際に、「木柱に吊るす」を意味するアナスタウローが用いられており、これが「短い、横棒と長い縦棒を組み合わせた十字形の木柱ではなく、あくまでも一本の棒である」ことを指摘した上で、イエスの処刑については、「何百本の木柱がエルサレムのアントニアの塔(中略)の中に保管されていたと想像するが、十字架状のものではかさばってしょうがない」「彼らを柱に吊るすのであれば、それは保管上からしても一本の木柱であったと想像するのが妥当である」 と結論づけ、イエスは十字架にかけられたのではなく、一本の木柱に吊るされたと理解している<ref name="hata">空白のユダヤ史: エルサレムの再建と民族の危機』p.345-346([[秦剛平]]),京都大学学術出版会,2015年</ref>。 ===ユダヤ戦争時の磔刑=== [[フラウィウス・ヨセフス|ヨセフス]]の『[[ユダヤ戦記]]』には、第一次[[ユダヤ戦争]]の[[エルサレム攻囲戦 (70年)]]の際、[[ローマ皇帝]]の皇子[[ティトゥス]]率いる[[ローマ軍]]と[[アグリッパ2世]]の軍が同盟して、[[エルサレム神殿]]に立て篭もる[[ユダヤ人]]と[[アロン]]の子孫とされる[[レビ族]][[サドカイ派]]の祭司たちを[[兵糧攻め]]にし、投降してきた人々を磔刑で処刑したことが記されている。 ==ローマ総督== 当時の[[ユダヤ属州]]のローマ総督[[ピラト]]は、イエスを救うために以下のような手を尽くしたと福音書記者は記述している(しかし歴史上の彼は、実際は、ユダヤ人に対して残忍であったとも言われている)。 *同時期に死刑を宣告されていた[[バラバ]]とイエスのどちらかを釈放しようとした。しかし、民衆はイエスを釈放することを望まなかったので、バラバが放免された。 *イエスに十字架を自分で運ばせるなどの手段を使い苦痛を与えるとともに、それは政治犯への見せしめであった。なお、裁判から磔の実行までは、日没から無酵母パンの祭りが始まるので、できるだけ早く処理された(当時の一日の始まりは日の出ではなく、日没からである)。 == 芸術・作品 == [[Image:Andrea Mantegna - Lamentation of Christ - Pinacoteca di Brera (Milan).jpg|300px|thumb|『[[死せるキリスト (マンテーニャ)|死せるキリスト]]』<br/>[[アンドレア・マンテーニャ]] 1490年代 [[ブレラ絵画館]]([[ミラノ]])]] キリストの磔刑は、数多くの美術や文学の主題として選ばれている。 文学では、[[ノーベル文学賞]]作家、[[ペール・ラーゲルクヴィスト]]著の『バラバ』が有名である。 美術では一連の磔刑の出来事は、いくつかのさらに細かい主題に分類されている。 * [[キリスト昇架]]: キリストをはりつけた十字架を起こす場面。[[ピーテル・パウル・ルーベンス|ルーベンス]]の同名作が名高く、「[[フランダースの犬]]」にも登場するほど。 * 磔刑図: 数限りなくあるが、例えば[[ヤン・ファン・エイク]]のものがよく知られている。 * [[キリスト降架]]、[[十字架降架]]: キリストが十字架から降ろされている場面。十字架を描かない場合もある。[[ロッソ・フィオレンティーノ]]や[[ポントルモ]]のものが有名。 絵の中に登場する人物は福音書によってその場にいたと記録されている[[聖母マリア|イエスの母マリア]]、[[ヨハネ_(使徒)|ヨハネ]]、[[マグダラのマリア]]などである。また福音書の記述に基づき、[[ラテン語]]の「{{lang|la|IESVS NAZARENVS REX IVDAEORVM}}」(ユダヤ人の王、[[ナザレのイエス]])の[[頭字語]]である「[[INRI]]」と書かれた罪状書きが十字架の上に掲げられている。また、ゴルゴタの丘が[[アダム]]の墓であるという伝承に基づき、これを表すものとして、イエスが架けられた十字架の根本にはしばしば[[髑髏]]が描かれる。 映画では、『[[ベン・ハー (1959年の映画)|ベン・ハー]]』『[[最後の誘惑]]』『[[キング・オブ・キングス (1961年の映画)|キング・オブ・キングス]]』『[[偉大な生涯の物語]]』『[[聖衣]]』などが、キリストの磔刑を描いている。2004年2月にアメリカ合衆国で公開(日本では5月に公開)された『[[パッション (2004年の映画)|パッション]]』は、極めて凄惨な磔刑の執行場面を描いたことなどで物議を醸した。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{commons|Category:Crucifixion|キリストの磔刑}} * [[十字架]] * [[復活 (キリスト教)]] * [[ヴィア・ドロローサ]] * [[贖い]] * [[ゴルゴダの丘]] * [[キリストを描いた映画]] {{キリストの生涯}} {{イエス・キリスト}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:きりすとのたつけい}} [[Category:イエス・キリスト|たつけい]] [[Category:死刑]] [[Category:キリスト教]]
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講談社
株式会社講談社(こうだんしゃ、英: Kodansha Ltd.)は、東京都文京区音羽 に本社を置く日本の大手総合出版社。系列企業グループ「音羽グループ」の中核企業。 「週刊少年マガジン」「モーニング」「週刊現代」「FRIDAY」「ViVi」「群像」など30を超える雑誌のほか、文芸書からコミック、実用書や学術書まで多様な書籍を発行している。 創業者の野間清治により1909年(明治42年)11月に「大日本雄弁会」(旧字体: 大日本雄辯會、だいにっぽんゆうべんかい)として設立される。当初は弁論雑誌である『雄辯』を出版していた。「講談社」の名称はその名の通り「講談」に由来するもので、『講談倶楽部』を創刊した1911年(明治44年)から大日本雄辯會と併せて使用した。評論家の徳富蘇峰は、戦前の少年や青年たちに大きな影響を与えた講談社を「私設文部省」と評した。 1938年(昭和13年)10月に野間恒が2代目社長に就任すると共に株式会社に改組、同年11月に野間左衛が3代目社長に就任した。1945年(昭和20年)に野間省一が4代目社長に就任し、1958年(昭和33年)に「株式会社講談社」と改称。その後1981年(昭和56年)に野間惟道が5代目社長、1987年(昭和62年)に野間佐和子が6代目社長、2011年(平成23年)に野間省伸が7代目社長に就任し、現在に至る。 「おもしろくて、ためになる」を企業理念に、戦前から大衆雑誌『キング』・『少年倶楽部』などの様々な雑誌や書籍を出版した。『吉川英治全集』・『日本語大辞典』などを出版する傍ら、多数の文学賞を主宰する。 小学館・集英社(両社とも一ツ橋グループに所属)と並ぶ日本国内の出版業界最大手であり、一時は年間売上高が2000億円を超えていたこともあった。しかし、近年はいわゆる「出版不況」により売上が減少、2002年(平成14年)には戦後初の赤字決算となった。近年は紙の出版物への依存体質の改善に注力し、2015年(平成27年)以降は電子書籍などのデジタル関係、および国際や権利関係の収入が急増したことにより増収増益が続いている。2021年(令和3年)には売上高が1707億円まで回復し、純利益も155億円と、21世紀に入り最高の業績となった。 2002年(平成14年)と2006年(平成18年)のFIFAワールドカップの際にはそれぞれFIFAオフィシャルブックとして、2002 FIFAワールドカップ『公式ガイドブック』・『公式プログラム』・『公式写真集』(総集編)、2006 FIFAワールドカップ『公式ガイドブック』・『公式総集編』を刊行している。 1982年以来、グラビア・ミスコンテストであるミスマガジンを何度かの中止を挟みながら開催してきたが、2012年からは新たにグラビアに限定しない女性アイドルオーディションであるミスiDを開催している。 1950年代からウォルト・ディズニー・カンパニーが保有しているキャラクターを使用した書籍の出版権を持っており、東京ディズニーリゾートのオフィシャルスポンサーとして東京ディズニーランドにトゥーンタウンを、東京ディズニーシーにレジェンド・オブ・ミシカ(2014年9月7日ショー終演に伴い提供を終了)、タートル・トーク(2014年9月4日から)を提供している。また、2022年11月には講談社が出版している漫画のアニメ作品をディズニー傘下の定額制動画配信サービスであるDisney+にて配信することでウォルト・ディズニー・ジャパンと合意している。 また、2021年(令和3年)からはイギリスのサッカーチーム・リヴァプールFCとオフィシャル・グローバル・パートナーシップ契約を締結している。 社屋本館の正面に東京メトロ護国寺駅の6番出入口がある。 以上は野間三賞と呼ばれる。 昭和初期、どりこの(清涼飲料水、現代でいう所の栄養ドリンク)を筆頭に、イノール(胃腸薬)・トラシン(感冒薬)・パミール(目薬)などの医薬品・栄養食品を代理部を通じて販売していた。 「Category:講談社の人物」を参照 講談社が発行する『週刊現代』や『フライデー』によってNHKや各民放局、その他マスコミ(マスメディア)などをバッシングするケースがよくあるが、同社が発行する雑誌・刊行物に掲載される小説や漫画などの作品自体との関係に関して言えば関係は悪くない。結局のところ、講談社は規模が大きく、部門間(小説や漫画作品のコンテンツ発掘・著作権管理部門や、『週刊現代』『フライデー』の報道部門など)の横のつながりが希薄などが原因で論調が統一されにくいのが理由だと考えられる。 なお、講談社は各放送局と手を組んでの人気作品の映像化にかなり積極的でもある(ライバルの小学館、集英社も同様)。 箱根駅伝中継のガイドブックが発行されている。 講談社は、TBSテレビの親会社であるTBSホールディングスの2.23%の株式を保有する大株主である(2022年9月末現在)。 2000年から、講談社が発行する『週刊少年マガジン』『週刊ヤングマガジン』の両編集部と共同で『ミスマガジン』を2012年度まで開催していた。なお、2013年度以降の講談社主催のオーディションは『ミスiD』となる。 2005年には、講談社系列のレコード会社キングレコードにも出資、業務提携をしている。 2006年4月からは、講談社とTBSは「ドラマ原作大賞」を共同で創設し、新たなドラマと作家の発掘を行っている。 2019年3月、TBS系列準キー局の毎日放送やDMM picturesと提携し、同局の『アニメイズム』にて2年間講談社原作のアニメを放送していくことを発表した。 講談社は朝日新聞社、東映、九州朝日放送などに次いで、テレビ朝日ホールディングスの1.28%の株式を保有する株主である。なお、野間佐和子前社長は1988年6月から2010年6月までテレビ朝日の社外監査役を務めていた。 文学作品賞の江戸川乱歩賞について、両社は共に後援企業として名を連ねている。 ライブドアとフジテレビとのニッポン放送株買収合戦に当たっては、講談社はフジテレビを支持し、株式公開買い付け(TOB)でニッポン放送株をフジテレビに売却した。 講談社が発行する各種雑誌(『週刊少年マガジン』や『モーニング』など)で連載されているコミックが、フジテレビでテレビドラマ化されるケースが多い。 関連会社の光文社と共に出資している。また同社3代目社長の友田信は講談社の出身であった。 講談社の漫画作品がテレビアニメ化される際に、系列会社のキングレコード(スターチャイルド)がサントラなどで制作に関わることが多い。
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株式会社講談社は、東京都文京区音羽 に本社を置く日本の大手総合出版社。系列企業グループ「音羽グループ」の中核企業。 「週刊少年マガジン」「モーニング」「週刊現代」「FRIDAY」「ViVi」「群像」など30を超える雑誌のほか、文芸書からコミック、実用書や学術書まで多様な書籍を発行している。
{{JIS2004|説明=[[ハート (シンボル)|ハートマーク]]}} {{基礎情報 会社 | 社名 = 株式会社講談社 | 英文社名 = Kodansha Ltd. | ロゴ = [[file:Kōdansha logo.svg|200px]]<!--新コーポレートロゴの制作には海外企業が関与しているので、画像作成・アップロードは慎重にしたほうがいいと思います--> | 画像 = [[ファイル:Kodansha (head office).jpg|220px]] | 画像説明 = 本社外観<br />(手前が本館、奥の高層ビルが新館) | 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] | 市場情報 = <!-- 株式非公開会社において「非上場」などと書く必要はありません --> | 略称 = | 国籍 = {{JPN}} | 本社郵便番号 = 112-8001 | 本社所在地 = [[東京都]][[文京区]][[音羽]]二丁目12番21号 | 本社緯度度 = 35|本社緯度分 = 43|本社緯度秒 = 3.9|本社N(北緯)及びS(南緯) = N | 本社経度度 = 139|本社経度分 = 43|本社経度秒 = 40.1|本社E(東経)及びW(西経) = E | 本社地図国コード = JP | 設立 = [[1938年]][[12月1日]] | 業種 = 情報・通信業 | 統一金融機関コード = | SWIFTコード = | 事業内容 = 雑誌・書籍・コミックの出版および販売、ならびにそれらコンテンツのマルチ展開(デジタル事業、ライツ事業、海外事業など) | 代表者 = [[野間省伸]]([[代表取締役]][[社長]]、7代目) | 資本金 = 3億円(2022年11月30日現在)<ref name="fy">第84期決算公告、2023年(令和5年)3月16日付「官報」(号外第52号)84頁。</ref><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 発行済株式総数 = | 売上高 = 1694億円(2022年11月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 営業利益 = 191億円(2022年11月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 経常利益 = 220億円(2022年11月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 純利益 = 149億円(2022年11月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 純資産 = | 総資産 = 2840億円(2022年11月30日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 従業員数 = 945名(2022年4月現在) | 支店舗数 = | 決算期 = [[11月30日]] | 主要株主 = * [[一般財団法人]]野間文化財団 39.2% * 従業員株式管理委員会 25.0% * [[野間佐和子]] 12.5% * 音羽建物株式会社 12.2% * [[野間省伸]] 8.2% | 主要子会社 = [[音羽グループ]]を参照 | 関係する人物 = * [[野間清治]](創業者・初代社長) * [[野間恒]](2代社長) * [[野間左衛]](3代社長) * [[野間省一]](4代社長) * [[野間惟道]](5代社長) * [[野間佐和子]](6代社長) | 外部リンク = {{Official website}} | 特記事項 = [[1909年]]([[明治42年]])11月創業 }} '''株式会社講談社'''(こうだんしゃ、{{Lang-en-short|''Kodansha Ltd.''}})は、[[東京都]][[文京区]][[音羽]] <ref>{{Cite web|和書|title=交通・地図 : 講談社 |url=https://www.kodansha.co.jp/about/access.html |website=www.kodansha.co.jp |accessdate=2022-01-21}}</ref>に本社を置く[[日本]]の大手総合[[出版社]]。系列企業グループ「[[音羽グループ]]」の中核企業。 「[[週刊少年マガジン]]」「[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]」「[[週刊現代]]」「[[FRIDAY (雑誌)|FRIDAY]]」「[[ViVi (雑誌)|ViVi]]」「[[群像]]」など30を超える[[雑誌]]のほか、文芸書からコミック、実用書や学術書まで多様な書籍を発行している。 == 概要 == [[ファイル:Kodansha (head office 2).jpg|thumb|講談社本館]] 創業者の[[野間清治]]により[[1909年]]([[明治]]42年)[[11月]]に「'''大日本雄弁会'''」({{旧字体|大日本雄辯會}}、だいにっぽんゆうべんかい)として設立される。当初は[[弁論]]雑誌である『雄辯』を[[出版]]していた。「講談社」の名称はその名の通り「[[講談]]」に由来するもので、『[[講談倶楽部]]』を創刊した[[1911年]](明治44年)から大日本雄辯會と併せて使用した<ref name=history>{{Cite web|和書|url=https://www.kodansha.co.jp/about/history.html|title=講談社の歴史|publisher=講談社|accessdate=2021-09-04}}</ref>。[[評論家]]の[[徳富蘇峰]]は、[[戦前]]の少年や青年たちに大きな影響を与えた講談社を「私設[[文部省]]」と評した<ref>{{Cite web|和書|url=https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000301134|title=レファレンス協同データベース|accessdate=2021-09-04}}</ref>。 [[1938年]]([[昭和]]13年)10月に[[野間恒]]が2代目社長に就任すると共に[[株式会社]]に改組、同年11月に[[野間左衛]]が3代目社長に就任した。[[1945年]](昭和20年)に[[野間省一]]が4代目社長に就任し、[[1958年]](昭和33年)に「株式会社講談社」と改称。その後[[1981年]](昭和56年)に[[野間惟道]]が5代目社長、[[1987年]](昭和62年)に[[野間佐和子]]が6代目社長、[[2011年]]([[平成]]23年)に[[野間省伸]]が7代目社長に就任し、現在に至る<ref name=history/>。 「'''おもしろくて、ためになる'''」を企業理念に、戦前から[[大衆]][[雑誌]]『[[キング (雑誌)|キング]]』・『[[少年倶楽部]]』などの様々な雑誌や[[書籍]]を出版した。『[[吉川英治]]全集』・『[[日本語大辞典]]』などを出版する傍ら、多数の[[文学賞]]を主宰する。 [[小学館]]・[[集英社]](両社とも[[一ツ橋グループ]]に所属)と並ぶ日本国内の出版業界最大手であり、一時は年間売上高が2000億円を超えていたこともあった。しかし、近年はいわゆる「[[出版不況]]」により売上が減少、[[2002年]](平成14年)には戦後初の赤字決算となった。近年は紙の出版物への依存体質の改善に注力し、[[2015年]](平成27年)以降は電子書籍などのデジタル関係、および国際や権利関係の収入が急増したことにより増収増益が続いている。[[2021年]](令和3年)には売上高が1707億円まで回復し、純利益も155億円と、21世紀に入り最高の業績となった。 2002年(平成14年)と2006年(平成18年)の[[FIFAワールドカップ]]の際にはそれぞれFIFAオフィシャルブックとして、[[2002 FIFAワールドカップ]]『公式ガイドブック』・『公式プログラム』・『公式写真集』(総集編)、[[2006 FIFAワールドカップ]]『公式ガイドブック』・『公式総集編』を刊行している。 [[1982年]]以来、グラビア・ミスコンテストである[[ミスマガジン]]を何度かの中止を挟みながら開催してきたが、[[2012年]]からは新たにグラビアに限定しない女性[[アイドル]][[オーディション]]である[[ミスiD]]を開催している。 [[1950年代]]から[[ウォルト・ディズニー・カンパニー]]が保有しているキャラクターを使用した書籍の出版権を持っており<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=ディズニー、講談社とアニメ作品の配信を含む戦略的協業の拡大を発表 第一弾として『東京リベンジャーズ 聖夜決戦編』をディズニーの動画配信サービスにて見放題世界独占配信 |url=https://www.disney.co.jp/corporate/news/2022/20221130_02.html |website=ディズニー公式 |access-date=2022-12-01 |date=2022-11-30}}</ref>、[[東京ディズニーリゾート]]のオフィシャル[[スポンサー]]として[[東京ディズニーランド]]に[[トゥーンタウン]]を、[[東京ディズニーシー]]に[[レジェンド・オブ・ミシカ]](2014年9月7日ショー終演に伴い提供を終了)、[[タートル・トーク]](2014年9月4日から)を提供している<ref>[http://fantasy.tokyodisneyresort.jp/tdr/company.html オフィシャルスポンサー]、東京ディズニーリゾート</ref><ref>[http://corp.kodansha.co.jp/disney_sponsor/ 講談社は東京ディズニーシー®/東京ディズニーランド®のオフィシャルスポンサーです。]、講談社公式サイト</ref>。また、2022年11月には講談社が出版している漫画のアニメ作品をディズニー傘下の[[定額制動画配信サービス]]である[[Disney+]]にて配信することで[[ウォルト・ディズニー・ジャパン]]と合意している<ref name=":0" />。 また、[[2021年]]([[令和]]3年)からは[[イギリス]]の[[サッカー]]チーム・[[リヴァプールFC]]とオフィシャル・グローバル・[[パートナーシップ]]契約を締結している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kodansha.co.jp/upload/pr.kodansha.co.jp/files/pdf/2021/20210622_Liverpool%20FC.pdf |title=リバプールFCとオフィシャル・グローバル・パートナーシップ契約締結のお知らせ |format=PDF |publisher=講談社 |date=2021-06-22 |accessdate=2021-09-04}}</ref>。 社屋本館の正面に[[東京地下鉄|東京メトロ]][[護国寺駅]]の6番出入口がある。 == 沿革 == [[ファイル:Kodansha Noma Memorial Museum 1.jpg|thumb|[[講談社野間記念館]]。美術品を中心に展示している美術館(文京区関口、[[2000年]]設立)。]] * [[1909年]]([[明治]]42年) - 初代社長[[野間清治]]により本郷区駒込坂下町(現・文京区千駄木)にて大日本雄辯會を創立。 * [[1910年]](明治43年) - [[大日本図書]]発行元として『雄弁』を創刊。 * [[1911年]](明治44年) - 講談社を起こし『[[講談倶楽部]]』を創刊。 * [[1914年]]([[大正]]3年) - 『[[少年倶楽部]]』を創刊。 * [[1920年]](大正9年) - 『現代』『[[婦人倶楽部]]』を創刊。 * [[1924年]](大正13年) - 『[[キング (雑誌)|キング]]』を創刊。 * [[1925年]](大正14年) - 社名を大日本雄辯會講談社と改称。 * [[1931年]]([[昭和]]6年) - レコード部(現・[[キングレコード]]創業)を設置。 * [[1933年]](昭和8年) - 本社を小石川区音羽町(現・文京区音羽)に移転。 * [[1938年]](昭和13年) - [[野間恒]]、2代目社長に就任(11月没)。[[野間左衛]]、3代目社長に就任。組織を[[株式会社]]とする。 * [[1945年]](昭和20年) - 日本報道社を定款変更し、[[光文社]]を設立。[[野間省一]]、4代目社長に就任。 * [[1946年]](昭和21年) - 豊国印刷を設立。 * [[1952年]](昭和27年) - 第一紙業を設立。 * [[1954年]](昭和29年) - 第一通信社を設立。 * [[1958年]](昭和33年) - 商号を株式会社講談社に変更。 * [[1961年]](昭和36年) - 音羽サービスセンター(現・講談社ビジネスパートナーズ)を設立。野間省一社長、出版文化国際交流会会長に就任。 * [[1963年]](昭和38年) - 講談社インターナショナル設立。 * [[1964年]](昭和39年) - 音羽建物を設立。 * [[1970年]](昭和45年) - 講談社サイエンティフィクを設立。 * [[1972年]](昭和47年) - ペック設立(現・講談社エディトリアル)を設立。野間省一社長、国際出版連合副会長に就任。 * [[1975年]](昭和50年) - 日刊現代を設立。 * [[1977年]](昭和52年) - 三推社(現・講談社ビーシー)を設立。 * [[1981年]](昭和56年) - [[野間惟道]]、5代目社長に就任。 * [[1987年]](昭和62年) - 野間惟道死去に伴い、[[野間佐和子]]が6代目社長に就任。 * [[2005年]]([[平成]]17年) - 講談社(北京)文化有限公司を設立。 * [[2008年]](平成20年) - 講談社USA、講談社USAパブリッシングを設立。 * [[2009年]](平成21年) - 創業100周年。なお、100周年記念日の12月17日は、創業者・野間清治の誕生日に由来する<ref>[http://mainichi.jp/enta/book/archive/news/2009/12/20091215dde012070069000c.html 読みたい:最前線 創業百年の「書き下ろし100冊」]、[[毎日新聞]]、2009年12月15日{{リンク切れ|date=2011年2月}}</ref>。 * [[2010年]](平成22年) - 星海社を設立。 * [[2011年]](平成23年) - 野間佐和子の死去に伴い、[[野間省伸]]が第7代社長に就任する。台湾講談社媒体有限公司を設立。 * [[2015年]](平成27年) - 講談社学芸クリエイトを設立。[[ハースト婦人画報社]]と業務提携、同社発行雑誌の発売元になる。 * [[2016年]](平成28年)11月 - [[一迅社]]を完全子会社化。群像創刊70周年。本社、米国進出50周年。 * [[2017年]](平成29年)10月 - [[ポリゴン・ピクチュアズ]]との合弁会社講談社VRラボを設立。 * [[2018年]](平成30年) ** 3月 - [[pixiv]]との協業でマンガアプリ「[[Palcy]]」を立ち上げ。 ** 4月 - マッチング型マンガ投稿サイト「DAYS NEO(デイズネオ)」オープン<ref>{{Cite web|和書|title=オープンわずか3週間でキャッチコピーを反故に。講談社発のマンガ投稿サイト「DAYS NEO(デイズネオ)」、〝講談社7誌100人超の編集者と出逢える場所〟のはずが…? |url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000001677.000001719.html |website=プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES |accessdate=2022-04-09}}</ref>。 * [[2019年]](平成31年)3月 - [[週刊少年マガジン]]、[[週刊現代]]創刊60周年。 * [[2020年]](令和2年) ** 3月 - [[Mixalive TOKYO]](ミクサライブ東京)の運営を開始<ref>{{Cite web|和書|title=「ミクサライブ東京」が1周年を記念して2.5次元俳優や声優などのVRコンテンツ専用チャンネルを開設! |url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000003137.000001719.html |website=PR TIMES |accessdate=2022-04-09}}</ref> ** 9月 - インディーゲームクリエイターを支援するプロジェクト「講談社ゲームクリエイターズラボ」を始動<ref>{{Cite web|和書|title=講談社がインディーゲーム開発者に年間最大1000万円支給&全力サポート! |url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000002800.000001719.html |website=PR TIMES |accessdate=2022-04-09}}</ref> * [[2021年]](令和3年) **4月 - 海外へのコンテンツ発信時に「講談社の作品」である事を周知してもらう事などを主な趣旨として、講談社としては初となるコーポレートロゴを制作・使用開始。ロゴを作成したのは[[Netflix]]や[[ナショナルジオグラフィック]]などのロゴ作成を手掛けた米国企業「グレーテル社」。<!--スペシャル対談「講談社の新たな挑戦」|講談社ブランドストーリー https://brandstory.kodansha.co.jp/interview/ --> **9月 - ネット通販大手・[[Amazon.co.jp|アマゾン]]と[[出版取次|取次会社]]を経ない直接取引を開始<ref>{{Cite news | title = 講談社とアマゾン、「異例」直接取引の背景は 待ったなしの流通改革 | newspaper = [[朝日新聞]] | date = 2019-9-16 | accessdate = 2021-9-17 | url = https://www.asahi.com/articles/ASP9J5CJVP8NUTIL051.html}}</ref>。 *[[2022年]](令和4年) **4月 - 100%出資子会社株式会社KPSホールディングスが豊國印刷株式会社、第一紙業株式会社を吸収合併<ref>{{Cite web|和書|title=講談社 グループ会社を再編 豊国印刷、第一紙業は解散 |url=https://www.bunkanews.jp/article/257906/ |website=文化通信デジタル |date=2022-02-22 |accessdate=2022-02-23 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=KPSホールディングス、豊國印刷と第一紙業を吸収合併 |url=https://www.marr.jp/genre/topics/news/entry/34933 |website=マールオンライン |accessdate=2022-02-23 |language=ja}}</ref>。講談社ビジネスパートナーズの個人情報取扱事業・不動産事業以外の全事業をKPSホールディングスに譲渡<ref>{{Cite web|和書|title=講談社ビジネスパートナーズ、KPSホールディングスに個人情報取扱事業・不動産事業以外の全事業を譲渡 |url=https://www.marr.jp/mainfo/news/entry/34930 |website=マールオンライン |accessdate=2022-02-23 |language=ja}}</ref> **4月 - 株式会社KPSホールディングスの事業分割により株式会社KPSフルフィルメント、株式会社KPSシステムズ、株式会社KPSソリューションズ、株式会社KPSプロダクツを設立<ref>{{Cite news|title=令和4年2月16日(本紙第676号)29ページ、新設分割公告|newspaper=官報|date=2022-02-16}}</ref> **11月 - [[ウォルト・ディズニー・ジャパン]]との間で講談社が出版している漫画のアニメ作品の配信を含む戦略的協業の拡大を行うことで合意<ref name=":0" />。 == 決算 == * [[新文化通信社]] [https://www.shinbunka.co.jp/kakokessan/kessan-kodansha 決算特集:講談社(〜2021年)]による。 {| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:smaller" ! 決算期(期間) ! [[売上高]] ! 営業利益 ! 経常利益 ! 税引前当期利益 ! 当期純利益 |- | 第63期(2000年12月1日 - 2001年11月30日) | 1769億円 | | | 31億円 | 7億円 |- | 第64期(2001年12月1日 - 2002年11月30日) | 1712億8700万円 | | | 7億6400万円 | ▲1600万円 |- | 第65期(2002年12月1日 - 2003年11月30日) | 1672億1200万円 | | | | 14億1600万円 |- | 第66期(2003年12月1日 - 2004年11月30日) | 1598億2700万円 | | | ▲5億1000万円 | ▲7300万円 |- | 第67期(2004年12月1日 - 2005年11月30日) | 1545億7200万円 | | | 77億0500万円 | 52億1500万円 |- | 第68期(2005年12月1日 - 2006年11月30日) | 1455億7000万円 | | | 31億0300万円 | 15億3900万円 |- | 第69期(2006年12月1日 - 2007年11月30日) | 1443億0100万円 | ▲3億3800万円 | 24億0800万円 | 26億円 | 10億5800万円 |- | 第70期(2007年12月1日 - 2008年11月30日) | 1350億5800万円 | ▲約62億円 | ▲約52億円 | ▲48億7400万円 | ▲76億8600万円 |- | 第71期(2008年12月1日 - 2009年11月30日) | 1245億2200万円 | ▲約73億円 | ▲約49億円 | | ▲57億2200万円 |- | 第72期(2009年12月1日 - 2010年11月30日) | 1223億4000万円 | ▲18億円 | 6億円 | | 5億6100万円 |- | 第73期(2010年12月1日 - 2011年11月30日) | 1219億2900万円 | 2億円 | | 7億2500万円 | 1億6400万円 |- | 第74期(2011年12月1日 - 2012年11月30日) | 1178億7100万円 | ▲6億7800万円 | 10億6700万円 | | 15億5000万円 |- | 第75期(2012年12月1日 - 2013年11月30日) | 1202億7200万円 | 24億2200万円 | 48億2500万円 | | 32億1400万円 |- | 第76期(2013年12月1日 - 2014年11月30日) | 1190億6400万円 | | 53億円 | 38億円 | 27億5500万円 |- | 第77期(2014年12月1日 - 2015年11月30日) | 1168億1500万円 | | | 34億6200万円 | 14億5400万円 |- | 第78期(2015年12月1日 - 2016年11月30日) | 1172億8800万円 | | | 27億5500万円 | 27億1400万円 |- | 第79期(2016年12月1日 - 2017年11月30日) | 1179億5700万円 | 約19億円 | 17億4800万円 | | 17億4800万円 |- | 第80期(2017年12月1日 - 2018年11月30日) | 1204億8400万円 | 22億円 | 47億円 | | 28億5900万円 |- | 第81期(2018年12月1日 - 2019年11月30日) | 1358億3500万円 | 89億円 | 112億円 | | 72億3100万円 |- | 第82期(2019年12月1日 - 2020年11月30日) | 1449億6900万円 | 160億円 | 163億円 | | 108億7700万円 |- | 第83期(2020年12月1日 - 2021年11月30日) | 1707億7400万円 | 217億円 | 240億円 | 231億円 | 155億5900万円 |- | 第84期(2021年12月1日 - 2022年11月30日) | 1694億8100万円 | 191億円 | 220億円 | | 149億6900万円 |} == ギャラリー == <gallery widths="150" heights="200" style="font-size:smaller"> Shōnen Club April 1929.jpg|『[[少年倶楽部]]』1929年4月号 Shōjo club vol2 num11.jpg|『[[少女クラブ|少女倶楽部]]』1929年11月号 Gunzo first issue.jpg|『[[群像]]』1946年10月創刊号 NAKAYOSHIi1954年12月創刊号(1955年1月号).jpg|『[[なかよし]]』1955年1月創刊号 Chunichi1961-01-25-1.jpg|『[[講談倶楽部]]』1961年3月号の新聞広告 Chunichi1967-03-01-2.jpg|『[[週刊現代]]』1967年3月9日号の[[新聞広告]] Chunichi1967-04-22-2.jpg|『[[小説現代]]』1967年6月号の新聞広告 </gallery> == 主な発行雑誌 == === 女性誌 === * [[ViVi (雑誌)|ViVi]] * [[VoCE]] * [[with (雑誌)|with]](不定期刊) * [[FRaU]](不定期刊) * [[栗原はるみ]](雑誌)(不定期刊)<ref>{{Cite web|和書|title=20万部で創刊し話題!料理家・栗原はるみが新雑誌で伝えたいこと {{!}} mi-mollet NEWS FLASH Lifestyle {{!}} mi-mollet(ミモレ) {{!}} 明日の私へ、小さな一歩!(1/2) |url=https://mi-mollet.com/articles/-/35195 |website=mi-mollet(ミモレ) |accessdate=2022-04-09 |language=ja}}</ref> === 男性誌・情報誌 === * [[週刊現代]] * [[FRIDAY (雑誌)|フライデー]] * おとなの週末 * [[ベストカー]] * [[Hot-Dog PRESS]](dマガジンの電子雑誌) === 幼児誌 === * [[げんき (雑誌)|げんき]] * [[おともだち]] * [[たのしい幼稚園 (雑誌)|たのしい幼稚園]] * [[テレビマガジン]] * [[おかあさんといっしょ#雑誌|NHKのおかあさんといっしょ]] * [[いないいないばあっ!#雑誌|はじめてのテレビえほん いないいないばあっ!]] === 女性コミック誌 === * [[なかよし]] * [[別冊フレンド]] * [[デザート (雑誌)|デザート]] * [[Kiss (雑誌)|Kiss]] * [[ハツキス]] * [[BE・LOVE]] * ハニーミルク(電子コミック誌)<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/188431|title=講談社より電子BL・ハニーミルク創刊、コンセプトは「癒ししかいらない!」|newspaper=コミックナタリー|date=2016-05-25|accessdate=2016-05-25}}</ref> * 姉フレンド(電子コミック誌) * comic tint(電子コミック誌)<ref>{{cite news|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000001631.000001719.html|title=【恋に染まる、あなたに染まる】甘く刺激的なデジタルコミック誌「comic tint」4月6日(金)創刊|newspaper=PR TIMES|date=2018-03-2 15|accessdate=2018-07-08}}</ref> * [[コミックZERO-SUM]](発行:一迅社) * [[コミック百合姫]](発行:一迅社) * gateau(発行:一迅社) === 男性コミック誌 === * [[週刊少年マガジン]] * [[別冊少年マガジン]] * [[月刊少年マガジン]] * [[月刊少年シリウス]] * [[少年マガジンエッジ]] * [[週刊ヤングマガジン]] ** [[月刊ヤングマガジン]] * [[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]] * [[月刊アフタヌーン]] ** [[good!アフタヌーン]] * [[月刊ComicREX]](発行:一迅社) === 文芸誌 === * [[群像]] * [[小説現代]] === その他雑誌 === * [[ディズニーファン]] * [[月刊陸上競技]](陸上競技社との共同発行) === かつて発行・発売していた雑誌 === * 雄辯 * [[キング (雑誌)|キング]] - 戦後創刊の下項とは別雑誌。 * 日本 NIPPON * [[KING (雑誌)|KING]] * [[現代 (1920年)|現代]] - 戦後創刊の下項とは別雑誌。 * [[月刊現代]] * [[講談倶楽部]] * [[幼年倶楽部]](のちに『幼年クラブ』、さらに『[[たのしい四年生]]』に改題) * [[少年倶楽部]](のちに『少年クラブ』に改題) * [[少女倶楽部]] * [[婦人倶楽部]] * [[たのしい一年生]] * [[たのしい二年生]] * [[たのしい三年生]] * [[たのしい四年生]] * [[たのしい五年生]] * [[たのしい六年生]] * [[若い女性]] * [[ヤングレディ]] * [[MINE]] * [[チェックメイト (雑誌)|チェックメイト]] * [[ホットドッグ・プレス]] * [[CADET]] * [[DAYS JAPAN]] * [[Style (雑誌)|Style]] * [[NEXT]] * [[Quark]] * [https://web.archive.org/web/20000925212323/http://www.iijnet.or.jp/kodansha/views/ VIEWS] * [[ペントハウス (雑誌)|ペントハウス]](後に[[ぶんか社]]が発行) * [[スコラ]](創刊当初。後に株式会社スコラ、スコラ倒産後は株式会社スコラマガジンから発行された) * [[ファウスト (文芸誌)|ファウスト]] * [[DELUXEマガジン]] * [[DELUXEマガジン#DELUXEマガジンORE|DELUXEマガジンORE]] * [[覇王マガジン]] * [[ぼくら]] * [[週刊ぼくらマガジン]] * [[ヒーローマガジン]] * [[コミックボンボン]] * [[デラックスボンボン]] * [[テレまんがヒーローズ]] * [[月刊マガジンZ]] * [[ミスターマガジン]] * [[ヤングマガジンアッパーズ]] * [[少女フレンド]](週刊→月刊) * [[月刊キャロル]] * [[るんるん (講談社)|るんるん]] * [[Amie]] * [[mimi (雑誌)|mimi]] * [[Vanilla (雑誌)|Vanilla]] * [[Me (雑誌)|Me]] * [[Chu♥Girl]] * [[ARIA (雑誌)|ARIA]] * [[ディズニーランド (雑誌)|ディズニーランド]] * [[クロスワードin]] * [[TOKYO★1週間]] * [[KANSAI1週間]](2008年12月より[[サンケイリビング新聞社]]が発行) * [[TOKAI1週間]] * [[GLAMOROUS]] * [[Grazia]] * [[gli]] * [[Kiss PLUS]] * [[イブニング]] * [[月刊少年ライバル]] * [[マガジンSPECIAL]] * [[クーリエ・ジャポン]] * [[メカビ!]](ムック)  * [[G2 (雑誌)|G2]] * [[HUgE (雑誌)|HUgE]] * おとなスタイル * Lula JAPAN(2018年3月より[[マガジンハウス]]が発行<ref>{{Cite web|和書|title=「ルラ ジャパン」の発売元が講談社からマガジンハウスに|url=https://www.wwdjapan.com/articles/546606|website=WWD JAPAN|accessdate=2019-03-31|publisher=}}</ref>) * [[IN★POCKET]] * Rikejo * [[ITAN|ITAN (アンソロジーコミック)]] * [[ネメシス (アンソロジーコミック)]] * 本(PR誌)(2020年12月号で休刊) * [[マガジンイーノ]](増刊) * [[月刊少年マガジン+]](増刊) * [[ヤングマガジンサード]] (増刊) * [[少年マガジンR]](増刊→電子コミック誌) * [[月刊モーニングtwo]](増刊) * [[Febri]](発行:一迅社) * [[まんが4コマぱれっと]](発行:一迅社) == 主な発行書籍・レーベル == === 文芸・ライトノベル === * [[講談社文庫]] * [[講談社文芸文庫]] * [[講談社ノベルス]](1982年 - ) * [[講談社BOX]] * [[講談社タイガ]](2015年 - ) * [[講談社X文庫ホワイトハート]] * [[講談社ラノベ文庫]] * [[星海社文庫]] * [[星海社FICTIONS]] * [[講談社キャラクター文庫]] * [[Kラノベブックス]] * [[Kラノベブックスf]] === ノンフィクション・学芸 === * [[講談社現代新書]] * [[ブルーバックス]]-[[自然科学]]や[[科学技術]]の話題を一般読者向けに解説・啓蒙している[[新書]]シリーズ * [[講談社+α文庫]] * [[講談社+α新書]](2000年 - ) * [[講談社学術文庫]] * 講談社選書メチエ *講談社AKB48新書(「リーダー論」「逆転力 ―ピンチを待て―」の2冊のみ) * 星海社新書 === 児童書 === * 講談社のテレビ絵本 * [[青い鳥文庫|講談社青い鳥文庫]](1980年 - ) * [[YA!ENTERTAINMENT]] * [[講談社の動く図鑑 MOVE]] === 実用書 === * 健康ライブラリー === 全集 === * [[少年少女世界文学全集]]全50巻(1959年 - 1962年) === 辞典 === * 講談社[[国語辞典]] 第三版 * 講談社カラー版 [[日本語大辞典]] 第二版 * 学術文庫 国語辞典 改訂新版 * 日本語の正しい表記と用語の辞典 第二版 === ムック === * 世界の名酒事典 *お料理家計簿 *かんたん年金家計ノート *ラーメン大賞 *[[別冊ベストカー]] === 漫画単行本 === {{Main|講談社の漫画レーベル}} == WEBメディア == * [https://www.vivi.tv/ ViVi] * [https://withonline.jp/ with online] * [https://i-voce.jp/ VOCE] * [https://frau.tokyo/ FRaU] * [https://mi-mollet.com/ mi-mollet] * [https://kuriharaharumi.kodansha.co.jp/ 栗原はるみ](メディアコミュニティ) * [https://gendai.media/ 現代ビジネス] ** マネー現代 * [https://friday.kodansha.co.jp/ FRIDAYデジタル] * [[ゲキサカ]] * [https://forzastyle.com/ FORZA STYLE] * [https://babymofu.tokyo/ ベビモフ](旧「BABY! by[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]+[[FRaU]]」)(Webサイト・YouTubeチャンネル) * [https://courrier.jp/ COURRiER JAPON] * [[ベストカーWeb]](運営:講談社ビーシー) * [https://www.youtube.com/c/besmo BestMOTORing](YouTubeチャンネル) * [https://cocreco.kodansha.co.jp/ コクリコ] * [https://pocket.shonenmagazine.com/ マガジンポケット] * [https://seiga.nicovideo.jp/manga/official/w_sirius/ 水曜日のシリウス] * [https://yanmaga.jp/ ヤンマガweb] * [https://comic-days.com/ コミックDAYS] ** &Sofa(アンドソファ) ** モーニングtwo ** 月マガ基地 * [https://daysneo.com/ DAYS NEO] * [https://illust.daysneo.com/ ILLUST DAYS] * [https://novel.daysneo.com/ NOVEL DAYS] * [[Palcy]] * [https://kickstarternavi.jp/ KickstarterNavi byKODANSHA] * [https://www.youtube.com/user/KODANSHAcojp KODANSHA Books&Comics](YouTubeチャンネル) * [https://www.youtube.com/c/bom2tv ボンボンTV](YouTubeチャンネル) * [https://www.youtube.com/c/bom2ac ボンボンアカデミー](YouTubeチャンネル) * [https://www.youtube.com/c/ichinaru いちなるTV](YouTubeチャンネル) * [https://www.youtube.com/channel/UCmH9SgzzvDlxG6mpcYg2jJw マガジンチャンネル](YouTubeチャンネル) * [https://www.youtube.com/user/yanmagach 講談社ヤンマガch](YouTubeチャンネル) * [https://www.youtube.com/channel/UCOn4hIGPgmEVzT8ccFyvHYQ ミスマガTV](YouTubeチャンネル) * [https://www.youtube.com/c/fatv フル☆アニメTV]<ref>{{Cite web|和書|title=『ぴちぴちピッチ』イメージソングコンテスト結果発表&『どうせ、恋してしまうんだ。』イメージソングコンテスト開始! |url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000003957.000001719.html |website=PR TIMES |accessdate=2022-04-09}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=映画「AKIRA」YouTubeで無料公開、28日まで 講談社「大友克洋全集」発売記念で |url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2112/24/news134.html |website=ITmedia NEWS |accessdate=2022-04-09 |language=ja}}</ref>(YouTubeチャンネル) * [https://www.youtube.com/user/EhonKodansha 講談社えほんチャンネル](YouTubeチャンネル) * [https://www.youtube.com/channel/UC5j1c4E2OK-Fwu85uFV-Eqw なかよしTV](YouTubeチャンネル) * [https://www.rikejo.jp/ Rikejo] * [https://c.kodansha.net/ 講談社C-station] * [https://ad.kodansha.net/ 講談社AD STATION] === 終了したWebサービス === * MouRa * [[MiChao!]] * [[月刊少年ライバル#新雑誌研究所|新雑誌研究所]] * モアイ * ベビモフ(旧「BABY! by[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]+[[FRaU]]」) * [[プロジェクト・アマテラス]] * [[セルバンテス (小説投稿サイト)|セルバンテス]] * じぶん書店 == LIVEエンターテインメント == * Mixalive TOKYO(ミクサライブ東京) == 文学賞 == * [[野間文芸賞]] * [[野間文芸新人賞]] * [[野間児童文芸賞]] 以上は野間三賞と呼ばれる。 * [[吉川英治文学賞]] * [[吉川英治文庫賞]] * [[吉川英治文学新人賞]] * 吉川英治文化賞 * [[講談社漫画賞]] * [[講談社ノンフィクション賞|講談社 本田靖春ノンフィクション賞]] * [[講談社科学出版賞]] * [[講談社出版文化賞]] * [[江戸川乱歩賞]] * [[野間文芸翻訳賞]] === 終了した賞 === * TBS・講談社 ドラマ原作大賞 * [[講談社エッセイ賞]] * [[大江健三郎賞]] == 主なベストセラー == === 戦前 === * [[エリザベート・シェーエン]]『人肉の市』 * 大日本雄弁会編『大正大震災大火災』 * 吉川英治『剣難女難』 * [[後藤新平]]『政治の倫理化』 * [[鶴見祐輔]]『英雄待望論』 * [[沢田謙]]『ムッソリニ伝』 * [[佐藤紅緑]]『あゝ玉杯に花うけて』 * 鶴見祐輔『母』 * [[谷孫六]]『岡辰押切帳 金儲け実際談』 * [[山中峯太郎]]『敵中横断三百里』 * [[賀川豊彦]]『一粒の麦』 * [[田河水泡]]『のらくろ上等兵』 * [[南洋一郎]]『吼える密林』 * 吉川英治『宮本武蔵』 * [[江戸川乱歩]]『怪人二十面相』 * 吉川英治『三国志』 * 棟田博『軍神加藤少将』 * [[山岡荘八]]『御楯』 * 山岡荘八『元帥山本五十六』 === 戦後 === * [[永井隆 (医学博士)|永井隆]]『[[この子を残して]]』 * [[大岡昇平]]『武蔵野夫人』 * [[石川達三]]『不安の倫理』 * [[三島由紀夫]]『美徳のよろめき』 * [[石坂洋次郎]]『陽のあたる坂道』 * [[井上靖]]『敦煌』 * 山岡荘八『徳川家康』 * 石牟礼道子『苦海浄土』 * [[大松博文]]『おれについてこい! 私の勝負根性』(正・続) * [[池田大作]]『家庭革命』 * [[池波正太郎]]『仕掛人・藤枝梅安』シリーズ * [[遠藤周作]]『ぐうたら人間学』シリーズ * [[小峰元]]『アルキメデスは手を汚さない』 * [[司馬遼太郎]]『播磨灘物語』 * ジョン・テイラー『ブラック・ホール 宇宙の終焉』 * [[村上龍]]『限りなく透明に近いブルー』 * [[五木寛之]]『青春の門』シリーズ * [[渡部陽一|渡部昇一]]『知的生活の方法』 * [[磯村尚徳]]『ちょっとキザですが』 * [[有吉佐和子]]『和宮様御留』 * [[中沢けい]]『海を感じる時』 * [[黒柳徹子]]『窓ぎわのトットちゃん』 * [[鈴木健二]]『気くばりのすすめ』(正・続) * 鈴木健二『女らしさ物語 美しく生きる45章』 * [[広岡達朗]]『意識革命のすすめ』 * [[浅尾法灯]]『人生 汗と涙と情』 * [[安部譲二]]『堀の中のプレイ・ボール』 * [[村上春樹]]『ノルウェイの森』 * [[渡辺淳一]]『うたかた』 * 村上春樹『国境の南、太陽の西』 * [[小沢一郎]]『日本改造計画』 * [[浜田幸一]]『日本をだめにした九人の政治家』 * [[ウィンストン・グルーム]]『フォレスト・ガンプ』 * [[野口悠紀雄]]『「超」勉強法』 * [[中島らも]]『今夜、すべてのバーで』 * [[天樹征丸]]『金田一少年の事件簿 (3) 電脳山荘殺人事件』 * [[藤原伊織]]『テロリストのパラソル』 * [[京極夏彦]]『姑獲鳥の夏』ほか百鬼夜行シリーズ * [[妹尾河童]]『少年H』 * [[乙武洋匡]]『五体不満足』 * [[大平光代]]『だからあなたも生きぬいて』 * [[梅宮アンナ]]『「みにくいアヒルの子」だった私』 * フジテレビトリビア普及委員会編「トリビアの泉」~へぇの本』 * [[白石昌則]]+[[東京農工大学]]の学生の皆さん『生協の白石さん』 * [[横山秀夫]]『半落ち』 * [[真山仁]]『ハゲタカ』 * [[佐藤多佳子]]『一瞬の風になれ』 * [[福岡伸一]]『生物と無生物のあいだ』 * [[東野圭吾]]『新参者』 * [[百田尚樹]]『[[永遠の0]]』 * [[池井戸潤]]『[[空飛ぶタイヤ]]』 * [[ウォルター・アイザックソン]]『[[スティーブ・ジョブズ (書籍)|スティーブ・ジョブズ]]』 * [[南雲吉則]]『50歳を超えても30代に見える生き方』 * [[西尾維新]]『恋物語・憑物語』 * [[百田尚樹]]『海賊とよばれた男』(上・下) * [[林真理子]]『野心のすすめ』 * [[伊集院静]]『大人の流儀』シリーズ * [[小保方晴子]]『あの日』 * [[ケント・ギルバート]]『儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇』 * [[河合雅司]]『未来の年表 人口減少社会でこれから起きること』 * [[黒川伊保子]]『妻のトリセツ』 * [[小林武彦]]『生物はなぜ死ぬのか』 * [[内館牧子]]『[[すぐ死ぬんだから]]』 * [[千葉雅也]]『現代思想入門』 * [[凪良ゆう]]『汝、星のごとく』 == 撤退した事業 == === 食品・医薬品 === [[ファイル:Advertisement of Kodansha in 1930s.jpg|thumb|200px|1930年代の講談社の広告。当時刊行の雑誌と並び、食品・医薬品群が列記されている]] 昭和初期、[[どりこの]](清涼飲料水、現代でいう所の[[栄養ドリンク]])を筆頭に、イノール(胃腸薬)・トラシン(感冒薬)・パミール(目薬)などの医薬品・栄養食品を代理部を通じて販売していた。 === ゲームソフト === * ブルーアルマナック (1991年6月22日、[[メガドライブ]])(講談社総研) * 騎士伝説 (1993年7月16日、メガドライブ)(講談社総研) * 魔天の創滅<!--ref group="注" name="natsumega">パーティより弱い敵とエンカウントしない仕様であるため経験値稼ぎに苦労する上、進め方を間違うとクリア不能に陥る。このような破たんしたシステムから難易度が極めて高く、ゲームとしての評価は低い。パッケージ裏には「このゲームは現実よりリアルだ!」という、それを書いたコピーライターが実際にプレイしたかどうかも疑わしいキャッチコピーが書かれている。 : [http://qbq.jp/ 株式会社QBQ]編 『懐かしのメガドライブ 蘇れメガドライバー !!』マイウェイ出版発行、2018年。{{ISBN2|978-4-86511-870-4}} p73</ref-->(1993年12月29日、メガドライブ)(講談社総研) * [[ウルトラマン]]図鑑 (1996年9月13日、[[セガサターン]]) * [[金田一少年の事件簿]] 悲報島 新たなる惨劇 (1996年11月29日、[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]) * [[BOYS BE…]] (1997年3月28日、PlayStation) * [[はじめの一歩]] (1997年7月31日、PlayStation) * [[B線上のアリス]] (1997年9月18日、PlayStation) * ウルトラマン図鑑2 (1997年12月18日、セガサターン) * [[頭文字D]]外伝 (1998年3月6日、[[ゲームボーイ]]) * 金田一少年の事件簿2 地獄遊園殺人事件 (1998年3月26日、PlayStation) * [[修羅の門]] (1998年4月2日、PlayStation) * ウルトラマン図鑑3 (1998年6月18日、セガサターン) * [[頭文字D]] (1998年6月18日、セガサターン) * [[水木しげるの妖怪図鑑]] 総集編 (1998年6月25日、セガサターン) * つんつん組 すうじでぷにぷに (1998年9月23日、PlayStation) * [[だんじょん商店会 〜伝説の剣はじめました〜]] (1998年10月29日、PlayStation) * つんつん組2 もじもじぱっくん (1998年11月19日、PlayStation) * 頭文字D (1999年1月7日、PlayStation) * つんつん組3 カンジベーダー (1999年1月28日、PlayStation) * [[サイコメトラーEIJI]] (1999年2月18日、PlayStation) * ぴくぴく仙太郎パズルでごはん (1999年2月18日、PlayStation) * 胸騒ぎの予感 [[八神ひろき]]のGame-Taste (1999年5月20日、PlayStation) * 金田一少年の事件簿3 〜青龍伝説殺人事件〜 (1999年8月5日、PlayStation) * BOYS BE…2nd Season (1999年9月22日、PlayStation) * 鬼眼城 (1999年12月22日、PlayStation) * [[賭博黙示録カイジ]] (2000年5月25日、PlayStation) * [[沈黙の艦隊]] (2000年9月28日、PlayStation) * [[ナニワ金融道]]〜[[青木雄二]]の世間胸算用〜 (2001年7月19日、PlayStation) * [[魔法先生ネギま!]]FUN DISC麻帆良祭 (2006年3月24日、[[Microsoft Windows]]) == 著名な社員・出身者 == 「[[:Category:講談社の人物|''Category:''講談社の人物]]」を参照 == 放送業界との関係 == 講談社が発行する『[[週刊現代]]』や『[[フライデー (雑誌)|フライデー]]』によって[[日本放送協会|NHK]]や各[[民間放送|民放局]]、その他[[報道機関|マスコミ]]([[マスメディア]])などをバッシングするケースがよくあるが、同社が発行する雑誌・刊行物に掲載される[[小説]]や[[漫画]]などの作品自体との関係に関して言えば関係は悪くない。結局のところ、講談社は規模が大きく、部門間(小説や漫画作品の[[コンテンツ]]発掘・[[著作権]]管理部門や、『週刊現代』『フライデー』の報道部門など)の横のつながりが希薄などが原因で論調が統一されにくいのが理由だと考えられる。 なお、講談社は各放送局と手を組んでの人気作品の映像化にかなり積極的でもある([[ライバル]]の[[小学館]]、[[集英社]]も同様)。 === NHK === ; 主な刊行物 ;; 教育テレビの乳幼児向け番組(雑誌) : * 『[[おかあさんといっしょ]]』(『[[おかあさんといっしょ#雑誌|NHKのおかあさんといっしょ]]』) : * 『[[いないいないばあっ!]]』(『はじめてのテレビえほん いないいないばあっ!』) ;; 総合テレビの情報教養番組 : * 『[[探検ロマン世界遺産]]』の[[DVD]][[制作]]・[[販売]] : * 『ちょっとキザですが』([[磯村尚徳]]) ;; その他(当時のNHKのアナウンサー・キャスターによるエッセイ本など。番組収録中の写真などを含む) : * 『気くばりのすすめ』([[鈴木健二]]) : * 『[[スタジオ102]]のドラマ』(高梨英一) : * 『NHKを10倍楽しむ法』([[宮崎緑]]) === 日本テレビ === [[東京箱根間往復大学駅伝競走|箱根駅伝]]中継のガイドブックが発行されている。 === TBSテレビ === 講談社は、[[TBSテレビ]]の親会社である[[TBSホールディングス]]の2.23%の株式を保有する大株主である(2022年9月末現在)。 [[2000年]]から、講談社が発行する『週刊少年マガジン』『週刊ヤングマガジン』の両編集部と共同で『[[ミスマガジン]]』を2012年度まで開催していた。なお、2013年度以降の講談社主催のオーディションは『[[ミスiD]]』となる。 [[2005年]]には、講談社系列のレコード会社[[キングレコード]]にも出資、業務提携をしている。 [[2006年]]4月からは、講談社と[[東京放送ホールディングス|TBS]]は「[[ドラマ原作大賞]]」を共同で創設し、新たなドラマと作家の発掘を行っている<ref>[http://www.d-gensaku.jp/ TBS・講談社 ドラマ原作大賞]</ref>。 [[2019年]]3月、TBS系列準キー局の[[MBSテレビ|毎日放送]]や[[DMM.com#DMM pictures|DMM pictures]]と提携し、同局の『[[アニメイズム]]』にて2年間講談社原作のアニメを放送していくことを発表した<ref>{{Cite web|和書|url=https://mantan-web.jp/article/20190308dog00m200023000c.html|title=MBS:7月に深夜アニメ枠スーパーアニメイズム新設 アニメイズムは継続|accessdate=2021-08-10|date=2019-03-08|work=|publisher=[[MANTANWEB]]}}</ref>。 === テレビ朝日 === 講談社は[[朝日新聞社]]、[[東映]]、[[九州朝日放送]]などに次いで、[[テレビ朝日ホールディングス]]の1.28%の株式を保有する株主である。なお、野間佐和子前社長は1988年6月から2010年6月までテレビ朝日の社外[[監査役]]を務めていた。 === フジテレビ === 文学作品賞の[[江戸川乱歩賞]]について、両社は共に後援企業として名を連ねている<ref>[http://shop.kodansha.jp/bc/books/bungei/gendai/index.html 講談社 BOOK倶楽部:文芸書 小説現代 江戸川乱歩賞募集要項]</ref>。 [[ライブドア]]と[[フジテレビジョン|フジテレビ]]との[[ニッポン放送#概要|ニッポン放送株買収合戦]]に当たっては、講談社はフジテレビを支持し、[[株式公開買い付け]](TOB)で[[ニッポン放送]]株をフジテレビに売却した。 講談社が発行する各種雑誌(『週刊少年マガジン』や『モーニング』など)で連載されている[[漫画|コミック]]が、フジテレビで[[テレビドラマ]]化されるケースが多い。 === 文化放送 === 関連会社の[[光文社]]と共に出資している。また同社3代目社長の[[友田信]]は講談社の出身であった。 === テレビ東京 === 講談社の漫画作品が[[テレビアニメ]]化される際に、系列会社のキングレコード([[スターチャイルド]])が[[サウンドトラック|サントラ]]などで制作に関わることが多い。 == 疑義が持たれた報道・不祥事など == === 記事掲載によって問題化した事件 === * [[フライデー襲撃事件|写真週刊誌『フライデー』襲撃事件]]([[ビートたけし]]による『[[フライデー (雑誌)|フライデー]]』編集部襲撃) * [[講談社フライデー事件]]([[幸福の科学]]との対立・争議) * [[NHKスペシャル]]『[[奇跡の詩人]]』タイアップ本問題 * [[VoCE|VoCE紙面上による執事喫茶Swallowtail盗撮、KAT-TUNコンサート盗撮事件]]([[2006年]]) * [[奈良医師宅放火殺人事件]]に関する捜査情報源らしき情報を元にした書籍の刊行の事件([[2007年]]) * 『[[週刊少年マガジン]]』の増刊号『[[週刊少年マガジン]]増刊 [[マガジンドラゴン]][[1月11日]]増刊号』に掲載された、豪村中の漫画『[[メガバカ]]』に、『[[DEATH NOTE]]』などからの[[盗作]]が多数見付かり、講談社が謝罪していたことが判明した<ref>[https://web.archive.org/web/20080312073118/http://sankei.jp.msn.com/entertainments/media/071222/med0712222118002-n1.htm 「デスノート」から盗作…少年マガジンが謝罪] - [[産経新聞]]、[[2007年]][[12月22日]]</ref>。 * [[大韓民国|韓国]]出身のカリスマダイエット主婦、チョン・ダヨンの著書・「モムチャンダイエット」について、著者のチョン・ダヨンが、契約無しで日本語訳を無断出版されたとして、発行元の同社を相手取り、[[東京地方裁判所]]に訴訟を起こす<ref>{{Cite web|和書 | url = http://mainichi.jp/select/jiken/news/20100929ddm012040142000c.html | archiveurl = https://web.archive.org/web/20101026042444/http://mainichi.jp/select/jiken/news/20100929ddm012040142000c.html | author = 和田武士 | title = 賠償訴訟:韓国「ダイエット主婦」側、無断で和訳本と提訴 講談社に賠償求める | website = [[毎日jp]] | date = 2010-9-29 | accessdate = 2010-10-2 | archivedate = 2010-10-26 | deadlinkdate = 2011年2月 }}</ref>。 * [[週刊ヤングマガジン]][[2013年]][[1月12日]]発売号に、当時[[AKB48]]のメンバーの[[河西智美]]が[[セミヌード|上半身裸]]の姿で少年に胸を隠させるショットがあり、講談社は当該号について問題のシーンをカットした上で発売を同月21日に延期することになった<ref>{{Cite web|和書 | url = https://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20130111-OYT1T00589.htm | archiveurl = https://web.archive.org/web/20130114001234/http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20130111-OYT1T00589.htm | title = 河西智美さんの胸、少年隠す…ヤンマガ発売延期 | website = [[YOMIURI ONLINE]] | date = 2013-1-11 | accessdate = 2013-1-20 | archivedate = 2013-1-14 | deadlinkdate = 2018年11月26日 }}</ref>。 * このほか、[[週刊現代]]による(疑義が持たれた)報道も数多くある。 {{Main|週刊現代}} === 盗用問題 === *2016年に[[高橋洋一]]が出版した『中国GDPの大嘘』(講談社)について、[[金森俊樹]]が自身の連載記事における記述と著しく類似している部分があると指摘した<ref>{{Cite web|和書|author=[[金森俊樹]] |url=https://gentosha-go.com/articles/-/5870 |title=髙橋洋一著書籍「中国GDPの大嘘」について |website=幻冬舎 GOLD ONLINE |publisher=[[幻冬舎]] |date=2016-10-27 |accessdate=2021-10-31}}</ref>。これに対して講談社は、第一事業局企画部担当部長名で、講談社の不手際で出典の明示を怠ったとして、謝罪した<ref>{{Cite web|和書|author=間渕隆 |url=http://www.kaetsu.ac.jp/wp-content/uploads/2016/11/keika.pdf |title=経過報告書 |website=[[嘉悦大学]] |publisher= |date=2016-10-31 |accessdate=2021-10-31}}</ref>。 === 記事掲載を伴わない事件・不祥事など === {{出典の明記|date=2021年5月|section=1}} * 講談社社員による大学生の身分であると詐称したアンケート調査事件([[2007年]][[11月29日]]) : 講談社社員が、「[[市場]]研究を行っている[[大学生]]([[慶應義塾大学総合政策学部]])」と身分を詐称し、[[インターネット]]の[[ブログ]]運営者らに対し、[[漫画]]についての[[アンケート]]調査を実施していたことが判明した。発覚後、講談社より被害者(アンケートの送付先)と慶應義塾大学に対して謝罪が行われたが、アンケート送付先に送られた[[電子メール|メール]]の中に「(今回のアンケートについて)ご許可がいただければ、弊社の今後の販売・宣伝施策に活かさせていただきますが、」との記述があった。これにより、「ここで『はい』なんて言うか」と、余計に怒りを買うこととなった<ref>[https://internet.watch.impress.co.jp/cda/news/2007/11/29/17679.html 講談社社員が慶應大生を名乗りアンケートを漫画ブログ運営者に送付]、[[Impress Watch|INTERNET Watch]]、[[2007年]][[11月29日]]</ref>。 * [[週刊少年マガジン]]の副編集長ら編集部員数人が[[大麻]]所持で逮捕される事件も起きている。 == 社歌 == * 「'''講談社社歌'''」 ** 作詞:講談社社員 ** 補作:[[西條八十]] ** 作曲:[[江口夜詩]] : 1951年(昭和26年)2月に社内で歌詞を募集し、最終候補作5篇を選定したがいずれも採用に至らなかったため社員5名の合作扱いとし、西條八十が補作した<ref>社史昭和編(1959), p727</ref>。歌詞の完成後、江口夜詩に作曲を依頼し12月17日の本社記念日式典で発表演奏が行われる。キングレコードが[[江口浩司]]の編曲、[[ボニージャックス]]と坂本プリティーズの歌唱により[[シングル#シングル・レコード|シングル盤]]([[規格品番]]:NCS-700)を製造している。[[A面/B面|B面]]は[[器楽曲|インストゥルメンタル]]の「行進曲 我等が講談社」。 : [[大和和紀]]『[[はいからさんが通る]]』では、主人公の紅緒がこの社歌を口ずさむ場面がある。 === 過去の社歌 === * 「'''大日本雄弁会講談社社歌'''」 ** 作詞:茂木茂、宮下丑太郎<ref name="mt591">社史明治・大正編(1959), p591-592</ref> ** 作曲:栗林宇一(原曲) : 1924年(大正13年)の『少女倶楽部』1月号に掲載<ref>{{Cite web|title=(株)講談社『講談社の80年 : 1909〜1989』(1990.07)|url=https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=14470&query=&class=&d=all&page=37|work=渋沢社史データベース|publisher=[[渋沢栄一記念財団]]|accessdate=2023-12-13}}</ref>。作詞は社員の合作で、[[第一高等学校 (旧制)|旧制第一高校]]の[[寮歌]]「[[アムール川の流血や]]」の旋律を転用したものだった{{R|mt591}}。 * 「'''講談社社歌'''」(旧) ** 作詞:西條八十 ** 作曲:[[中山晋平]]<ref>{{Cite web|title=(株)講談社『講談社の80年 : 1909〜1989』(1990.07)|url=https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=14470&query=&class=&d=all&page=58|work=渋沢社史データベース|publisher=渋沢栄一記念財団|accessdate=2023-12-13}}</ref> : 1931年(昭和6年)制定<ref>社史昭和編(1959), p201</ref>。「神統[[紀元二千六百年記念行事|二千六百年]]…」で始まる大時代的な歌詞のため、戦後に現社歌へ代替わりした。 == {{Visible anchor|音羽グループ(系列企業)|音羽グループ}} == * [[光文社|株式会社光文社]] - [[1945年]]創業。講談社子会社の日本報道社を定款変更する形で設立。 ** 光文社サービス株式会社 - 光文社写真スタジオ、光文社演劇スタジオの運営管理。 * 株式会社[[短歌研究社]] - 『短歌研究』の出版。講談社およびその他出版社の人文系の書籍・雑誌などの企画提案・編集受託。 * [[キングレコード|キングレコード株式会社]] - [[1931年]]創業。[[1951年]]に講談社のレコード部門から分離独立。 ** 株式会社セブンシーズミュージック - 音楽関連の出版社。 ** [[ベルウッド・レコード|ベルウッド・レコード株式会社]] ** 株式会社キングインターナショナル - 海外CDの輸入販売。 ** 株式会社キングエンタープライズ - キングレコードへの人材派遣業。 ** 株式会社キング関口台スタジオ - 音楽・映像のレンタルスタジオの運営管理。 **株式会社Dazed - IPの開発・運営、ライセンス窓口業務、ファンクラブの運営 * 株式会社第一通信社 - [[1954年]]創業。講談社100%出資の[[広告代理店|総合広告代理店]]。 * 音羽建物株式会社 - [[建築物|ビル]]・[[不動産]]の管理運営、造園事業。 * 株式会社講談社エディトリアル - 生活実用書および一般書籍の編集、委託出版(自費出版、カスタム出版)。発売元は講談社本体。 * 株式会社講談社サイエンティフィク - 自然科学書の企画・編集。 * [[日刊ゲンダイ|株式会社日刊現代]] - [[1975年]]創業。『[[週刊現代]]』編集長の川鍋孝文と、後に講談社5代目社長となる[[野間惟道]]が設立。 ** 株式会社日刊現代大阪 ** 株式会社ノンコム * 株式会社[[講談社ビーシー]] - 自動車関連の雑誌、書籍などの発行、編集。発売元は講談社本体。2009年6月1日に三推社より社名変更。 * 株式会社講談社パル - 講談社こども教室([[幼児教室]])の運営。 * 株式会社[[一迅社]] - [[1992年]]創業。漫画・ライトノベル中心の出版社。[[2016年]]11月に講談社が完全子会社化<ref>[https://natalie.mu/comic/news/205400 講談社が一迅社を完全子会社化]、コミックナタリー、2016年10月14日</ref>。発売は講談社と共同で、現在の経営陣も講談社の漫画部署OBで構成されている。 * 株式会社講談社ヒューマンネットワーク - [[労働者派遣事業|人材派遣会社]]。 * 株式会社[[星海社]] - [[2010年]]創業。漫画・ライトノベルの他、『[[星海社新書]]』などを発行。『[[講談社BOX]]』初代部長の[[太田克史]]が講談社100%出資で設立。発売元は講談社本体。 * 株式会社講談社ビジコ - 音羽グループ各社の経理業務。 * BROGENT JAPAN ENTERTAINMENT株式会社 - 講談社と台湾のライド型VRアトラクション機器の開発・製造会社「Brogent Technologies Inc.」と、電通との合弁会社。 * 株式会社講談社VRラボ - VRコンテンツ・映像・ゲーム・音声・音楽などのデジタルコンテンツの企画・制作・製造・卸・貸与・販売・版権事業および輸出入。[[ポリゴン・ピクチュアズ]]との合弁会社。 * 株式会社講談社IP - メディアビジネス事業、ライツビジネス事業、メディア運営支援、広告宣伝・プロモーション事業。 * 豊国コミックプロダクション株式会社 - DTP制作事業 * KODANSHAtech合同会社 - ウェブメディア、デジタルコンテンツの開発会社。 * 株式会社KPSホールディングス ** 株式会社KPSフルフィルメント - 出版流通業務、古紙化業務、その他物品の保管・発送業務 ** 株式会社KPSプロダクツ - コンテンツデータ制作(コミックス・書籍・雑誌)、印刷・製本、コンテンツ制作支援(校閲・装丁デザイン・翻訳・動画・オーディオブック)、用紙調達、アプリやwebサイトの運営業務・SNS配信サポート、データアーカイブ業務 ** 株式会社KPSソリューションズ - 出版関連業務受託、業務改善提案・BPR、バックオフィス業務、各チャネル対応の販売業務、高スキル人材での業務支援 ** 株式会社KPSシステムズ - システム開発・保守・運用業務、個人情報管理業務 * 株式会社コンテンツデータマーケティング - コンテンツマーケティング事業、メディアマネタイズ事業、コンテンツデータソリューション事業。 * 講談社(北京)文化有限公司 * 台湾講談社媒体有限公司 * 北京颶風社文化有限公司 * KODANSHA USA, INC. - アメリカ事業の統括会社。 ** KODANSHA USA PUBLISHING, LLC. * KODANSHA EUROPE LTD. === 関連法人 === * 一般財団法人野間文化財団 * 公益財団法人国際文化フォーラム * 公益財団法人野間教育研究所 === 過去 === * 講談社北海道支社 - [[1945年]]5月、戦局の悪化に伴い、製紙産業が盛んな[[苫小牧市|苫小牧]]・[[釧路市|釧路]]に近い、[[札幌市]]の冨貴堂書店に疎開する形で支店を設置。東京では困難となっていた印紙・葉書、切手類の印刷も請け負った。戦後は東京本社が戦犯企業となったことで印刷用紙の割当問題などが生じたため、満洲から帰国した[[阪本牙城]]『[[タンク・タンクロー]]』の続編を刊行するなど、[[1950年]]頃まで独自の出版活動を行った。 *みどり社 - 光文社と同じく、戦後の印刷用紙の割当問題に対処するため、講談社内に設けられた子会社。光文社とは異なり、1950年代頃に消滅。 *マイヘルス社 - 1974年、講談社を退社した[[牧野武朗]]との共同出資で設立。中高年向けの健康雑誌を扱う。後に[[マキノ出版]]、わかさ出版を創立し、独自の企業グループとして独立。 *[[スコラ]] - [[1981年]]に講談社の子会社として設立。1988年7月に講談社から自社の出版者記号を移行。2001年3月に特別清算される形で消滅。 * [[アスク (出版社)|アスク]] - [[1981年]]に講談社とアスクの折半出資で「アスク講談社」として設立。[[1998年]]に資本関係は解消しアスクに商号変更。2017年10月に[[アスク出版]]に吸収合併され解散。 * 講談社インターナショナル - [[1963年]]設立。洋書・語学書・一般書を扱い、日本語作品の英語への翻訳出版も行っていた。 2011年4月末で解散<ref>[http://www.webdoku.jp/shinbunka/2011/03/09/121051.html 講談社インターナショナル、4月末で解散]、新文化オンライン、2011年3月9日</ref>。 * ランダムハウス講談社 - 2003年に[[ランダムハウス]]との提携で設立。2010年の提携解消により[[武田ランダムハウスジャパン]]に改称。[[2012年]]12月に倒産<ref>{{Cite web|和書 | url = http://sankei.jp.msn.com/life/news/121217/bks12121715550000-n1.htm | archiveurl = https://web.archive.org/web/20130206225132/http://sankei.jp.msn.com/life/news/121217/bks12121715550000-n1.htm | title = 出版社の武田ランダムハウスが破産、負債総額9億3千万円 | website = [[MSN産経ニュース]] | date = 2012-12-17 | accessdate = 2013-3-9 | archivedate = 2013-2-6 | deadlinkdate = 2018年11月26日 }}</ref>。 * [[2&4モータリング社]] - 自動車関連の映像メディアの制作事業。 * 株式会社講談社フェーマススクールズ - 美術系の[[通信教育]]を扱っていた。2020年10月清算結了<ref>[https://www.houjin-bangou.nta.go.jp/henkorireki-johoto.html?selHouzinNo=2010001075435 株式会社講談社フェーマススクールズ]国税庁法人番号公表サイト</ref>。 * [[ヴァーティカル]] - 2011年[[大日本印刷]]と共同で買収<ref>{{Cite web|和書|title=講談社とDNP 米国の翻訳マンガ出版ヴァーティカル買。収|url=https://www.animeanime.biz/archives/7496|accessdate=2021-08-13}}</ref>。 *Kodansha Advanced Media LLC. - [[デジタルガレージ]]との合弁会社。 *株式会社講談社エフエス *株式会社講談社コミッククリエイト<ref>{{Cite web|和書|title=講談社コミッククリエイトが解散|url=https://www.bunkanews.jp/article/238545/|website=文化通信デジタル|date=2021-09-14|accessdate=2021-09-19|language=ja}}</ref> - 『復活ボンボンシリーズ』、特撮書籍などを企画・編集。 2021年8月末で解散。 *豊国印刷株式会社 - [[1946年]]創業。書籍・コミック単行本の本文印刷、デジタル製版、デジタルコンテンツ管理。 2022年4月、KPSホールディングスに吸収合併され解散。 *第一紙業株式会社 - 1952年創業。出版・印刷用紙などの紙材関連の専門商社。 2022年4月、KPSホールディングスに吸収合併され解散。 *株式会社講談社ビジネスパートナーズ - 個人情報取扱事業・不動産事業。 [[2011年]]7月に[[自費出版]]を扱う「講談社出版サービスセンター」と本の[[物流]]・[[保険]]代理業を扱う「講談社ロジコム」が合併して設立。2023年2月、KPSホールディングスに吸収合併され解散。 == その他の出資会社 == * 株式会社PubteX([[丸紅]]34.8%、丸紅フォレストリンクス16.3%、講談社16.3% 、集英社16.3%、小学館16.3%による共同出資会社) * [[文化放送]](講談社が9.0%の株を保有する主要株主) * [[日本出版販売|日販グループホールディングス]](講談社が2023年3月末現在で6.34%の株を保有する筆頭株主) * [[トーハン]](講談社が2023年3月末現在で5.27%の株を保有する主要株主) * [[楽天ブックスネットワーク]](講談社が9.50%の株を保有する主要株主) * [[日本出版貿易]](講談社が2022年9月末現在7.94%の株を保有する主要株主) * [[丸善CHIホールディングス]](講談社が2023年1月末現在4.35%の株を保有する主要株主) * [[ブックオフコーポレーション|ブックオフグループホールディングス]](講談社が2022年11月末現在4.21%の株を保有する主要株主) * コミック・コミュニケーション株式会社(講談社、小学館、創業者、[[東宝]]の共同出資会社) * コンテンツワークス株式会社(講談社30%、小学館30%、[[富士フイルムビジネスイノベーション]]30%、[[日本マイクロソフト]]10%の共同出資会社) * アニメタイムズ社([[エイベックス・ピクチャーズ]]55%、講談社、集英社、小学館の4社による共同出資会社) * ジャパン マンガ アライアンス([[アニメイト]]、[[KADOKAWA]]、講談社、集英社、小学館の5社による合弁会社) * 株式会社日本電子図書館サービス(講談社25%、KADOKAWA25%、[[紀伊國屋書店]]25%、[[大日本印刷]]&[[図書館流通センター]]25%による共同出資会社) * 武蔵カントリー倶楽部(講談社が2022年12月末現在で1.22%の株を保有する筆頭株主、講談社社長の野間省伸が2021年3月から同社の代表取締役社長を兼任) === 過去 === * [[報知新聞社]] - 1930年に買収し傘下に収めるも、野間清治の死去後、1938年に売却。読売新聞傘下となるのは1942年。 * アイペック - 講談社、[[パイオニア]]などが出資していたが店頭公開後、粉飾決算が発覚し1992年に倒産。 * [[アスミック・エース]] - アスク(As)・住友商事(smi)・講談社(k)が共同で「アスミック」として設立し、角川書店、住友商事の子会社を経て現在はジュピターテレコムの子会社。 *LINE Book Distribution([[LINE (企業)|LINE]]52%、[[メディアドゥ]]24%、講談社、小学館の4社の合弁事業会社) == 業務提携 == * [[Cygames]] - コミックスレーベル「サイコミ」の販売業務を2017年から講談社が受託<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cygames.co.jp/press/press-16623/|title=株式会社Cygames、株式会社講談社と業務提携 コミックスレーベル「サイコミ」の創刊を発表|accessdate=2017-07-30}}</ref>していたが、2019年から小学館へ移行し、2020年4月以降はすべて絶版となっている。 == 加盟団体 == *[[デジタル出版者連盟]] *読書推進運動協議会 *[[日本雑誌協会]] *[[日本書籍出版協会]] *日本出版インフラセンター *日本エッセイスト・クラブ *出版文化国際交流会 *[[全国出版協会]] *日本出版クラブ *[[国際児童図書評議会]] *[[コミック出版社の会]] *デジタルコミック協議会 *日本オーディオブック協議会 *[[日本アドバタイザーズ協会]] *日本雑誌広告協会 *[[日本ABC協会]] *日本インタラクティブ広告協会 == 参考文献 == * 社史編纂委員会 編『講談社の歩んだ五十年』(1959年) {{NCID|BN06458324}} :* 明治・大正編 / 昭和編 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!--=== 注釈 === {{Notelist2}}--> === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[イエロージャーナリズム]] * [[講談社スーパーキャラクターフェスティバル]](Kフェス) - 講談社主催のイベント * [[野間道場]] * [[Advanced Publishing Laboratory]] === 著名なOB・OG === * [[秋山晶]](コピーライター) * [[伊藤寿男]](『[[月刊テーミス]]』編集主幹) * [[いとうせいこう]](タレント、クリエイター) * [[加藤謙一]](学童社創業者) * [[佐渡島庸平]](コルク創業者) * [[田中壱征]]([[映画監督]]、[[脚本家]] 元[[ベストモータリング ]]編集部) * [[原健三郎]]([[衆議院議員]]) * [[牧野武朗]]([[マキノ出版]]、わかさ出版創業者) * [[宮崎学]](元[[週刊現代]]記者、社員ではない) * [[山田五郎]](評論家) == 外部リンク == {{Commonscat|Kodansha}} * {{Official website}} * [https://www.mixalivetokyo.com/ Mixalive TOKYO公式] * {{Twitter|kdspr3|講談社広報室}}(2014年10月24日 10:34:35 - )'''※ [[協定世界時|UTC]]表記。''' * {{Facebook|kodansha.co.jp|講談社}} * {{YouTube|u=KODANSHAcojp|KODANSHAcojp}}(2009年9月17日 - ) * {{Mediaarts-db}} {{講談社}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:こうたんしや}} [[Category:講談社|*]] [[Category:日本の出版社]] [[Category:漫画出版社]] [[Category:教科書出版社]] [[Category:かつて存在した日本のコンピュータゲームメーカー]] [[Category:文京区の企業]] [[Category:1938年設立の企業]] [[Category:野間家|*]] [[Category:20世紀の日本の設立]]
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アスキー
アスキー (ASCII)
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アスキー (ASCII) ASCII - American Standard Code for Information Interchangeの略。1963年に制定された、アメリカ合衆国における情報通信用の文字コード。 アスキー - かつて存在した出版業を主とした日本の企業、および後継の各社が使用する出版ブランド。 株式会社アスキー(初代) - (消滅企業)メディアリーヴスの2002年までの法人名。 株式会社アスキー(2代目) - 株式会社アスキー(初代)から営業を引き継ぎ、2008年にメディアワークスへ吸収合併された企業。アスキー (企業)を参照。 アスキー・メディアワークス - メディアワークスと株式会社アスキー(2代目)の合併後の社名。2013年にKADOKAWAへ吸収合併された。 月刊アスキー - 1977 - 2010年発行。 週刊アスキー - 1997年より発行のパソコン雑誌(2015年印刷物としては休刊)と、ウェブサイトと、1997年に数回発行のもの(一般雑誌)がある。2018年4月より角川アスキー総合研究所の発行に変更。 アスキー新書 - 2007 - 2015年。 株式会社アスキー - 福岡県田川郡川崎町に本社を置く、柑橘類果汁・加工品等を製造する企業。マルボシ酢の関連会社。前述のとおり、アスキー (企業)などとは無関係。法人番号:4290801016501 アスキー (小惑星) - "ASCII"及び『月刊アスキー』に因む小惑星。 アスキーアートの略。
'''アスキー''' (ASCII) * [[ASCII]] - <u>A</u>merican <u>S</u>tandard <u>C</u>ode for <u>I</u>nformation <u>I</u>nterchangeの略。1963年に制定された、アメリカ合衆国における情報通信用の文字コード。 * アスキー - かつて存在した出版業を主とした日本の企業、および後継の各社が使用する出版ブランド。 ** 株式会社アスキー(初代) - (消滅企業)[[メディアリーヴス]]の2002年までの法人名。 ** 株式会社アスキー(2代目) - 株式会社アスキー(初代)から営業を引き継ぎ、2008年に[[メディアワークス]]へ吸収合併された企業。[[アスキー (企業)]]を参照。 ** [[アスキー・メディアワークス]] - メディアワークスと株式会社アスキー(2代目)の合併後の社名。2013年に[[KADOKAWA]]へ吸収合併された。 ** [[月刊アスキー]] - 1977 - 2010年発行。 ** [[週刊アスキー]] - 1997年より発行のパソコン雑誌(2015年印刷物としては休刊)と、ウェブサイトと、1997年に数回発行のもの(一般雑誌)がある。2018年4月より[[角川アスキー総合研究所]]の発行に変更。 ** [[アスキー新書]] - 2007 - 2015年。 * 株式会社アスキー [https://www.asciicorporation.co.jp/] - [[福岡県]][[田川郡]][[川崎町 (福岡県)|川崎町]]に本社を置く、[[柑橘類]]果汁・加工品等を製造する企業。[[マルボシ酢]]の関連会社。前述のとおり、[[アスキー (企業)]]などとは無関係。{{法人番号|4290801016501}} * [[アスキー (小惑星)]] - "ASCII"及び『月刊アスキー』に因む小惑星。 * [[アスキーアート]]の略。 {{Aimai}} {{DEFAULTSORT:あすきい}}
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メディアリーヴス
株式会社メディアリーヴス(MediaLeaves, Inc.)は、かつて存在した角川グループ(現:KADOKAWAグループ)の中間持株会社である。旧商号は株式会社アスキー。 1977年にアスキー出版(アスキーしゅっぱん)として設立。1982年から株式会社アスキーとなり、2002年から現在の社名に変更した。なおメディアワークスとの合併前(2002年 - 2008年)の2代目・株式会社アスキーは、当時の子会社だったアストロアーツが商号を変更したものである。様々な変遷があった後、角川書店グループの持株会社である株式会社角川グループホールディングス(現:KADOKAWA)の傘下で中間持株会社となるが、2010年6月30日の定時株主総会の決議により同年10月1日付で解散し、子会社のエンターブレインに吸収合併された。存続会社であるエンターブレインは、アスキー・メディアワークスと共に2013年10月にKADOKAWAへ吸収合併された。 アスキー時代についてはアスキー (企業) も参照。 1995年から2001年にかけて「アスキーエンタテインメントソフトウェアコンテスト」が開催されていた(ただし第5回のみ「エンターブレインゲームコンテスト」の名称で開催)。公式ページによると「新しい可能性を秘めた作品とクリエイターを発掘すること」を目的としたコンテストであり、ゲーム作品や音楽作品を募集していた。 主な受賞作としては、『クック・ドゥ・ドゥル・ドゥー』(第1回グランプリ)・『コープスパーティー』・『LOST SHEEP』・『まおうさたんのえにっき』(いずれも第2回最優秀賞)・『ぬいぐるず』・『ALLTYNEX』(いずれも敢闘賞)・『BOOBY SHOW』(第3回準グランプリ)・『落雀』(パーソナルコンピューター作品賞)・『囚人へのペル・エム・フル』(アスキーツクール作品賞)・『パレット』(第4回グランプリ)・『Moon Whistle』(佳作)・『噴式』(第5回最優秀賞)・『盗人講座』(入賞)がある。
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株式会社メディアリーヴスは、かつて存在した角川グループの中間持株会社である。旧商号は株式会社アスキー。
{{Pathnav|[[KADOKAWA]]|[[エンターブレイン]]|frame=1}} {{基礎情報 会社 | 社名 = 株式会社メディアリーヴス | 英文社名 = MediaLeaves, Inc. | ロゴ = | 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] | 市場情報 = [[上場廃止]] | 略称 = | 国籍 = {{JPN}} | 郵便番号 = 102-8431 | 本社所在地 = [[東京都]][[千代田区]][[三番町 (千代田区)|三番町]]6番地1 | 設立 = [[1977年]](昭和52年)[[5月24日]]<br />(株式会社アスキー出版) | 業種 = 情報・通信業 | 事業内容 = [[持株会社]] | 代表者 = [[浜村弘一]](代表取締役社長) | 資本金 = 10億9268万8千円 | 発行済株式総数 = 普通株式:4億4123万7762株<br />第一回優先株式:3億5000万株 | 売上高 = 連結:232億1119万円<br />単独:4611万円<br />(2008年3月期) | 営業利益 = 連結:5億1009万6千円<br />単独:△95万9千円<br />(2008年3月期) | 純利益 = 連結:1748万7千円<br />単独:△3億9457万5千円<br />(2008年3月期) | 純資産 = 連結:59億7106万7千円<br />単独:26億2696万2千円<br />(2008年3月31日現在) | 総資産 = 連結:136億1222万9千円<br />単独:27億5332万8千円<br />(2008年3月31日現在) | 従業員数 = 連結:469人<br />(2008年3月31日現在) | 決算期 = [[3月31日]] | 主要株主 = [[角川グループホールディングス|(株)角川グループホールディングス]] 97.23%<br />[[エス・エス・プランニング|(株)エス・エス・プランニング]] 0.20%<br />MLPFSカストディーアカウントナンバーツー 0.16% | 主要子会社 = [[エンターブレイン|(株)エンターブレイン]] 100% | 関係する人物 = [[西和彦]](創業者)<br />[[郡司明郎]](創業者)<br />[[塚本慶一郎]](創業者)<br />藤井章生(元会長)<br />[[大川功]](元会長)<br />小森哲郎(元会長)<br />[[佐藤辰男]](元会長) | 外部リンク = [https://web.archive.org/web/20100927024853/http://www.medialeaves.co.jp/ http://www.medialeaves.co.jp/] | 特記事項 = エンターブレインとの合併前の概要 }} '''株式会社メディアリーヴス'''(''MediaLeaves, Inc.'')は、かつて存在した角川グループ(現:[[KADOKAWAグループ]])の[[持株会社|中間持株会社]]である。旧[[商号]]は[[アスキー (企業)|株式会社アスキー]]。 == 概要 == [[ファイル:アスキー関連会社の統廃合図.png|thumb|right|関連会社の統廃合図]] [[1977年]]に'''アスキー出版'''(アスキーしゅっぱん)として設立。[[1982年]]から'''株式会社アスキー'''となり、[[2002年]]から現在の社名に変更した。なおメディアワークスとの合併前(2002年 - [[2008年]])の2代目・株式会社アスキーは、当時の子会社だったアストロアーツが商号を変更したものである。様々な変遷があった後、[[角川書店]]グループの持株会社である株式会社[[角川グループホールディングス]](現:[[KADOKAWA]])の傘下で[[中間持株会社]]となるが、[[2010年]][[6月30日]]の定時株主総会の決議により同年[[10月1日]]付で解散し、子会社の[[エンターブレイン]]に吸収合併された<ref name="eb">[http://www.medialeaves.co.jp/MLIR_20100909.pdf 合併に伴う株券提出のお願い]{{リンク切れ|date=2018年3月 |bot=InternetArchiveBot }} メディアリーヴス 2010年9月9日</ref>。存続会社であるエンターブレインは、[[アスキー・メディアワークス]]と共に[[2013年]]10月に[[KADOKAWA]]へ吸収合併された。 == 沿革 == アスキー時代については[[アスキー (企業)]] も参照。 * [[1977年]](昭和52年) ** [[5月24日]] - 東京都[[港区 (東京都)|港区]][[南青山]]に'''株式会社アスキー出版'''(資本金300万円)を設立。初代[[代表取締役]]社長は[[西和彦]]の父親。 ** 6月 - 『[[月刊アスキー]]』を創刊。 * [[1978年]](昭和53年)10月 - 米国[[マイクロソフト]]社と提携。マイクロソフト極東総代理店として株式会社アスキー・マイクロソフトを設立。 * [[1980年]](昭和55年)11月 - ソフトウェア開発販売部門を株式会社アスキーコンシューマープロダクツとして分離設立。 * [[1982年]](昭和57年) ** 5月 - 『月刊アスキー』の別冊として『[[ログイン (雑誌)|ログイン]]』を創刊。 ** 11月 - 本店を東京都港区南青山5丁目11番5号へ移転。 ** 12月 - [[商号]]を'''株式会社アスキー'''(''ASCII CORPORATION'')に変更。 * [[1983年]](昭和58年) ** 4月 - 株式会社アスキーコンシューマープロダクツを吸収合併。 ** 6月 - 8ビット機の統一規格「[[MSX]]」を提唱。 ** 11月 - 『[[MSXマガジン]]』を創刊。 * [[1984年]](昭和59年) ** 4月 - 株式会社アスキー・マイクロソフトを吸収して、アスキー本社がマイクロソフトの極東総代理店になる。 ** 11月 - 日本楽器製造株式会社(現:[[ヤマハ]])との共同開発により、[[MSX-SYSTEM|MSX2用LSI]]を開発。 ** 12月 - [[任天堂]]とライセンス契約締結。 * [[1985年]](昭和60年) ** 5月 - 商用パソコン通信サービス『[[アスキーネット]]』を開始([[1997年]](平成9年)にサービス終了)。 ** 7月 - カード型データベースソフト「The CARD」発売。 ** 12月 - 委託出版を目的に株式会社ビジネス・アスキー(現:[[アスペクト (企業)|アスペクト]])を設立。 * [[1986年]](昭和61年) ** 3月 - マイクロソフトとの独占代理店契約を解消。 ** 6月 - 雑誌『ファミコン通信』(現:[[週刊ファミ通]])創刊。 ** 7月 - ソフトウェア流通会社株式会社ソフトウィングの設立に参加。 ** 9月 - 株式会社アスキー総合研究所(現:アスキー未来研究所)を設立。 ** 10月 - 『UNIX Magazine』を創刊。 ** 12月 - マイクロプロセッサの開発を目的とするブイ・エム・テクノロジー株式会社の設立に参加。 * [[1987年]](昭和62年)4月 - 西副社長が社長に、[[郡司明郎]]社長は会長にそれぞれ就任。 * [[1988年]](昭和63年)1月 - パーソナル通信放送ネットワーク企画株式会社(アスキーネット株式会社)を設立。 * [[1989年]](平成元年) ** 2月 - NEXOFT Corporationを設立。 ** [[9月21日]] - [[日本証券業協会]]に店頭登録。 ** 10月 - 『EYE・COM』(現:[[週刊アスキー]])を創刊。 ** [[12月25日]] - 株式会社アスキーエクスプレス(現:株式会社東京国際ツアーズ)を設立。 * [[1990年]](平成2年) ** 1月 - 『[[MACPOWER|MAC POWER]]』を創刊。 ** 3月 - 半導体の開発・販売を目的とする株式会社アスキーセミコンダクター(現:アスキー・ブイ・エム)を設立。 ** 4月 - [[サンリオ]]と共同出資で株式会社[[キャラクターソフト]]を設立。 ** 7月 - 『スーパーアスキー』を創刊。 ** 9月 - 買収したベストロン映画株式会社(現:エンターブレイン)をアスキーベストロン映画株式会社に商号変更。 ** [[9月22日]] - アスキー、アットワーク、ヘラルド・エース、日本ヘラルド映画の配給で、映画「[[ヘンリー五世 (1989年の映画)|ヘンリー五世]]」を公開。 ** 12月 *** 『ラップトップ』を創刊。 *** ASCII Entertainment Software, Inc.を設立。 * [[1991年]] (平成3年) ** [[6月24日]] - 株式会社アストロアーツ(現:アスキー)を設立<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.astroarts.co.jp/official/25th/index-j.shtml|title=アストロアーツは、今年25周年|accessdate=2017-07-09}}</ref>。 ** 7月 - [[取締役会]]での西への解任動議が不成立になり、[[塚本慶一郎]]副社長と郡司会長が退社。塚本は後に[[インプレス]]を設立。 ** 12月 *** 『Windowsマガジン』を創刊。 *** [[ダービースタリオン]]シリーズ第一弾『ベスト競馬・ダービースタリオン』を発売。 * [[1992年]](平成3年)7月 - 『[[月刊アスキーコミック]]』を創刊。 * [[1993年]](平成5年) ** 6月 *** 本店を東京都[[渋谷区]][[代々木]]4丁目33番10号へ移転。[[日本興業銀行]]の橋本孝久が副社長に就任。 *** 『[[LOGOUT|ログアウト]]』『アプリンク』を創刊。 ** 7月 - 『ネットワークス』『[[ファミ通ブロス|ファミコン通信 攻略スペシャル]]』を創刊。 * [[1994年]](平成6年) ** [[6月17日]] - マイクロソフト社との合弁会社として株式会社アスキー・ネットワーク・テクノロジー(現:Winテクノロジ株式会社)を設立。 ** 11月 - 『[[テックウィンDVD|TECH Win]]』を創刊。 ** 12月 - アスキー三井物産セミコンダクター株式会社(現:アスキー・ブイ・エム)の電子デバイス部門を富士エレクトロニクス株式会社へ譲渡。 * [[1995年]](平成7年) ** 1月 - [[ビジネスソフトウェア]]部門を米国[[Informix|インフォミックス]]の日本法人インフォミックスアスキー株式会社に売却。 ** 4月 - 『アスキー・インターネット接続サービス』を開始。 ** 6月 - 『月刊アスキー DOS/V ISSUE』を創刊。 ** 9月 - 『[[サラブレ]]』『Undo』『[[MacPeople]]』を創刊。 * [[1996年]](平成8年) ** [[4月1日]] - 株式会社サムシンググッドに資本参加して株式会社アスキーサムシンググッドとし、ビジネスソフトウェア部門を営業譲渡。 ** 4月 - 『ファミ通PS』『インターネットアスキー』(現:アスキー ネットJ)を創刊。 ** [[5月29日]] - [[小島文隆]]常務、宮崎秀規常務、浜田義史常務、[[塩崎剛三]]取締役、小笠原直樹取締役ら8役員が退任<ref>{{Cite web|和書|title=アスキー、8人の役員が退任|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/960531/ascii.htm|website=PC Watch|accessdate=2019-04-24|publisher=}}</ref>。小島、宮崎、塩崎、小笠原の4人は[[7月10日]]に[[アクセラ (企業)|アクセラ]]を設立。浜田は後にアイキューブネットを設立。 ** 8月 - 株式会社ダイレクト(現:[[アスコム]])を設立。 ** 10月 - カンパニー制に移行。 * 1997年(平成9年) ** 2月 - 『[[TECH PlayStation]]』を創刊。 ** 3月 - 『Mac Tech Japan』を創刊。 ** 5月 - 一般週刊誌『[[週刊アスキー]]』を創刊。 ** 7月 - ECモール「アスキー・ラピッド・コマース・サービス」(アスキーストア)を開始。 ** 11月 - デジタル情報ニュースサイト『ASCII24』を開始。 * [[1998年]](平成10年) ** 1月 - 当時[[セガ]]の親会社であった株式会社シーエスケイ(現:[[SCSK]])に対する第三者割当増資し、同社の関連会社となる。 ** 4月 - 『ASCII networkPRO』(現:NETWORK magazine)・『アスキーNT』・『[[アスキーPC|アスキー.PC]]』を創刊。 ** 6月 - CSK専務兼経理本部長の鈴木憲一が代表取締役社長に就任<ref>{{Cite web|和書|title=アスキーが役員人事を発表、鈴木憲一CSK専務が新社長に就任へ|url=https://ascii.jp/elem/000/000/311/311740/|website=ASCII.jp|accessdate=2019-04-24|publisher=}}</ref>。 ** 10月 - 第1回〜第7回無担保[[転換社債]](総額200億円)を発行。 * [[1999年]](平成11年) ** 6月 - 福冨昇が代表取締役副社長に就任。 ** 9月 - 株式会社アスキーイーシー(現:アスコム)が、ECポータルサイト『e−sekai』を開始。 ** 10月 - 株式会社シーエスケイ(現:SCSK)に対する第三者割当増資し、同社の子会社となる。アスキー・ブイ・エム株式会社を[[ネットワークバリューコンポネンツ]]へ譲渡。 * [[2000年]](平成12年) ** 4月1日 - エンタテインメント系出版事業を完全子会社である株式会社[[エンターブレイン]](アスキービジュアルエンタテインメントより商号変更)に譲渡。 ** 4月 - 株式会社アスキー内でeラーニング事業を立ち上げ * [[2001年]](平成13年) ** 5月 - 丸三商事株式会社(現:株式会社ライトワークス)の全株式を取得 ** [[7月1日]] - eラーニング事業を分離独立(eラーニング事業を丸三商事株式会社へ事業譲渡)させ、株式会社グロービスと株式会社エヌ・ティ・ティ・エックス(現:[[NTTレゾナント|エヌ・ティ・ティ レゾナント株式会社]])との共同出資により株式会社ライトワークスを設立。 ** 10月 - 『アスキーPC Explorer』を創刊。 ** 10・11月 - [[エー・アイ・アイ]]株式会社と共同でインターネット版と劇場版がストーリーを相互に補完する映画「シンクロニシティーフェアリーテイル」を公開<ref>{{Cite web|和書|url=https://internet.watch.impress.co.jp/www/article/2001/1018/sf.htm|title=アスキーとAII、ネットと劇場で完結する映画を公開|publisher=インプレス|accessdate=2018-10-13}}</ref> ** 12月 - [[エー・アイ・アイ]]株式会社にインターネットラジオ放送局「ラジ@」を譲渡。 * [[2002年]](平成14年) ** 3月 *** アスキー・エヌ・ティ(現:Winテクノロジ株式会社)を全株式を[[CSK]](現:SCSK)へ譲渡。 *** 株式会社ライトワークスを全株式を[[CSK]](現:SCSK)へ譲渡。 *** 無償[[減資]](195億35百万円)を実施。[[株式]]の無償譲受および消却により、CSKグループから離脱。 *** [[第三者割当増資]]により、ユニゾン・メディア・パートナーズ株式会社の子会社となる。 ** 4月 - 株式会社[[アスペクト (企業)|アスペクト]]の株式を株式会社セガへ譲渡。 ** 5月 - 教育、マルチメディア関連及びネットワーク関連ソフトウェア事業を株式会社[[アスキーソリューションズ]]へ譲渡。 ** 6月 *** 小森哲郎が代表取締役社長に就任。 *** 株式会社アスキーイーシー(現:アスコム)の書籍・雑誌の直販事業及びECサイト運営を株式会社[[オン・ザ・エッヂ]]へ譲渡。 ** 7月 *** アスキーイーシーがアスキー・コミュニケーションズに商号変更。 *** ユニゾン・メディア・パートナーズ株式会社に対する第三者割当増資。 ** 9月 *** 株式会社アストロアーツの営業権を株式会社アストロアーツ(新社)へ譲渡。 一般書部門をアスキー・コミュニケーションズ(現:アスコム)に譲渡。 *** ユニゾン・メディア・パートナーズ株式会社より35億円の贈与。 ** [[9月25日]] - [[ジャスダック]]上場(旧店頭登録)廃止。 ** [[10月1日]] - ユニゾン・メディア・パートナーズ株式会社と[[株式交換]]し、同社の完全子会社となる。本店を東京都新宿区信濃町34番地へ移転。 ** [[11月18日]] - 株式会社アストロアーツへ分社型会社分割・営業譲渡を行い、株式会社アストロアーツは株式会社アスキー(二代目法人) に商号変更。株式会社アスキーは、'''株式会社メディアリーヴス'''に商号変更し、株式会社アスキー(二代目法人)と株式会社エンターブレインの持株会社となる。小森と浜村が代表取締役に就任。 ** [[11月21日]] - 自動車ニュースサイト「[[Response.|オートアスキー]]」と燃費計測コンテンツ「e燃費」をインターネット総合研究所の子会社株式会社アイ・アール・アイ コマースアンドテクノロジー(現・[[イード (企業)|株式会社イード]])へ譲渡。 * [[2003年]](平成15年) ** 9月1日 - 親会社のユニゾン・メディア・パートナーズ株式会社を吸収合併。 ** 11月 - 小森が代表取締役会長に、浜村が代表取締役社長に就任。 * [[2004年]](平成16年) ** [[3月18日]] - 株式会社角川ホールディングス(現:[[角川グループホールディングス]]→[[KADOKAWA]])が株式を公開買付けし、同社の子会社となる。 ** 6月 - [[佐藤辰男]]が代表取締役社長に就任。 ** 10月 - 本店を東京都[[千代田区]][[九段北]]一丁目13番5号へ移転。 * [[2006年]](平成18年) - 佐藤が代表取締役会長兼社長に就任。 * [[2008年]](平成20年) ** 4月1日 - 角川グループホールディングス傘下の[[メディアワークス]]が(新)アスキーを吸収合併し、同日付で「[[アスキー・メディアワークス]]」に商号変更。これに伴い、中間持株会社であるメディアリーヴス傘下の直接の子会社企業はエンターブレイン1社のみとなる。浜村が代表取締役社長に就任。 ** 7月 - アスキー・メディアワークスの本社移転に伴い、本社所在地を東京都千代田区九段北(旧アスキー本社)より東京都千代田区三番町6番地1(エンターブレイン本社)へ移転。 * [[2010年]](平成22年) ** [[6月30日]] - 第33回定時[[株主総会]]にて、同年10月をもってメディアリーヴスが子会社であるエンターブレインに吸収合併され、メディアリーヴスが解散することが決議された<ref name="eb" />。 ** [[10月1日]] - 株式会社エンターブレインと合併し解散。 == 子会社 == ; [[エンターブレイン|株式会社エンターブレイン]] : 1987年1月に{{日本語版にない記事リンク|ベストロン・ピクチャーズ|en|Vestron Pictures}}の日本配給会社ベストロン映画として設立され、『[[ダーティ・ダンシング]]』等を映画配給。1990年7月にアスキーが買収し、9月アスキーベストロン映画に商号変更。映画配給のほかに、ビデオグラムの製造・発売元(ポニーキャニオンに委託販売)となる。1991年4月アスキー映画に商号変更し、『[[フライド・グリーン・トマト]]』等の独自で輸入した作品の配給を行う。1997年4月株式会社アスキービジュアルエンタテインメントに商号変更し、『[[エグゼクティブ・ターゲット]]』等の輸入作品のビデオグラムの発売やテレビ放映権の販売を行う。2000年4月にアスキーからエンタテインメント系出版事業を譲り受け株式会社エンターブレインに商号変更。2010年10月に親会社メディアリーヴスと合併。2013年10月に親会社[[KADOKAWA]]と合併し解散。 ; 株式会社ebクリエイティブ : 2006年11月に株式会社エンターブレインの子会社として設立。2015年11月に「[[ファミ通]]」「[[エンタミクス]]」の編集受託業務を終了。2016年に清算。 == 過去のグループ企業 == ; [[アスキー (企業)|アスキー]] : 1991年6月に株式会社アストロアーツとして設立。2002年9月に株式会社[[アストロアーツ]](新社)に営業権(天文関連のソフトウェア開発事業及び天文関連出版)を譲渡し、11月に株式会社アスキー(株式会社メディアリーヴス)から営業権を譲り受け株式会社アスキーに商号変更。2008年4月[[メディアワークス]]と合併し解散。存続会社の[[アスキー・メディアワークス]]は2013年10月に[[KADOKAWA]]と合併し解散。 ; [[アスコム (出版社)|アスコム]] : 1996年8月株式会社ダイレクトとして設立。1998年12月[[アスキーイーシー]]に商号変更。 2002年6月に [[オン・ザ・エッヂ]]に営業権(書籍・雑誌の直販事業及びECサイト運営)を譲渡。7月にアスキー・コミュニケーションズに商号変更し、9月にアスキーから一般書部門を譲り受ける。2003年3月にアスキーとは資本関係がなくなり、6月にアスコムへ商号変更。2008年に[[民事再生法]]の適用を申請。マックス・インターナショナル株式会社の関連会社となり、[[2009年]]5月に民事再生終了。 ; [[アスペクト (企業)|アスペクト・エス・ピー・シー]] : [[1985年]](昭和60年)に書籍出版部門(株式会社ビジネス・アスキー)として設立。1991年に株式会社アスペクトへ商号変更。1999年3月[[スパイク (ゲーム会社)|株式会社スパイク]]の出版事業を継承。[[2002年]]4月に[[セガ]]へ株式を譲渡。2004年頃に独立系出版社となる(オーナーはアスキー創業者の[[西和彦]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://biz-journal.jp/2018/07/post_23927.html|title=アスペクト、作家が印税未払いを告発…一斉に出版契約解除、オーナーはあの有名起業家?|publisher=Business Journal|accessdate=2018-10-13}}</ref>)。2015年11月[[アスペクト (企業)|アスペクト]](新社)に出版事業を譲渡し、アスペクト・エス・ピー・シーに変更。2023年3月に破産手続きを開始<ref>{{Cite web|和書|title=(株)アスペクト・エス・ピー・シーなど2社/破産手続き開始決定<東京> |url=https://n-seikei.jp/2023/03/post-89791.html |website=JC-NET(ジェイシーネット) |access-date=2023-03-24}}</ref> ; Winテクノロジ株式会社 : 1994年6月マイクロソフト社との合弁会社株式会社アスキー・ネットワーク・テクノロジーとして設立。2000年1月株式会社アスキー・エヌ・ティに商号変更。2002年3月に[[CSK (企業)|CSK]](現・SCSK)へ株式を譲渡。2022年10月1日株式会社[[Minoriソリューションズ]](現・SCSK Minoriソリューションズ株式会社)に合併し解散。 ; 株式会社ライトワークス : 2001年5月に丸三商事株式会社(1995年11月設立)の全株式を株式会社アスキーが取得し創業。2001年7月に株式会社アスキーのeラーニング事業を譲り受け株式会社ライトワークスに商号変更。2002年3月に[[CSK (企業)|CSK]](現・SCSK)へ全株式を譲渡。2009年9月に株式会社CSK(現・SCSK)の連結対象子会社から外れる。 ; エー・ブイ・エム株式会社 : 1990年3月に株式会社アスキーセミコンダクターとして設立。三井物産電子販売と統合してアスキー三井物産セミコンダクター株式会社に商号変更。 1994年12月三井物産との提携解消に伴い電子デバイス部門を富士エレクトロニクス株式会社へ譲渡し、株式会社アスキーセミコンダクターに商号変更。1997年4月にアスキー・ブイ・エム株式会社へ商号変更。1999年10月にネットワークバリューコンポネンツに全株式を譲渡し、エー・ブイ・エム株式会社に変更。2001年1月にネットワークバリューコンポネンツが三誠興業株式会社へ売却。 ; 東京国際ツアーズ : 1989年12月アスキーグループの旅行・航空部門アスキーエクスプレスとして設立。1990年に航空部門をアスキーエアーネットワークとして分離。1999年3月にアスキーから独立し、株式会社ラテーザに商号変更。2015年12月に現商号へ変更。 ; [[アイフォー]] : 1996年、アスキーのソフトウェア部門とサムシンググッドが統合し、株式会社アスキーサムシンググッドに商号変更。1998年[[ウェブマネー|Webmoney]]事業を開始。1999年1月にアイフォーに商号変更。2003年に[[新旧分離]]を行い、旧社は'''[[自己破産]]'''した。2008年に新社は[[イーフロンティア]]へ吸収合併。 ; [[猿楽庁]] : 2001年10月にエンターブレインの子会社となる。2010年3月に[[ポールトゥウィン (企業)|ポールトゥウィン]]株式会社に売却。2019年5月にポールトゥウィン株式会社に吸収合併され解散。 == アスキーエンタテインメントソフトウェアコンテスト == [[1995年]]から[[2001年]]にかけて「アスキーエンタテインメントソフトウェアコンテスト」が開催されていた(ただし第5回のみ「エンターブレインゲームコンテスト」の名称で開催)。公式ページによると「新しい可能性を秘めた作品とクリエイターを発掘すること」を目的としたコンテストであり<ref name=j5>{{Cite web|和書|url=https://www.enterbrain.co.jp/gamecon/index.html |title=第5回エンターブレインゲームコンテスト公式ホームページ |accessdate=2017年6月17日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170317025520/http://www.enterbrain.co.jp/gamecon/index.html |archivedate=2017年3月17日 }}</ref>、ゲーム作品や音楽作品を募集していた。 主な受賞作としては、『クック・ドゥ・ドゥル・ドゥー』<ref name=j>[https://info.nicovideo.jp/indies-game-fest/history/ 自作ゲーム大年表] [[niconico]]</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.enterbrain.co.jp/gamecon/a_con1.html |title=第1回 アスキー エンタテインメント ソフトウェア コンテスト |accessdate=2017年6月17日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160308144827/http://www.enterbrain.co.jp/gamecon/a_con1.html |archivedate=2016年3月8日 }}</ref>(第1回グランプリ)・『[[コープスパーティー]]』<ref name=j2>{{Cite web|和書|url=http://www.enterbrain.co.jp/gamecon/a_con2.html |title=第2回 アスキー エンタテインメント ソフトウェア コンテスト |accessdate=2017年6月17日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160308144822/http://www.enterbrain.co.jp/gamecon/a_con2.html |archivedate=2016年3月8日 }}</ref>・『LOST SHEEP』<ref name=j/><ref name=j2/>・『まおうさたんのえにっき』<ref name=j/><ref name=j2/>(いずれも第2回最優秀賞)・『ぬいぐるず』<ref name=j/>・『[[ALLTYNEX]]』(いずれも敢闘賞)・『BOOBY SHOW』<ref name=j/><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.enterbrain.co.jp/gamecon/a_con3.html |title=第3回 アスキー エンタテインメント ソフトウェア コンテスト |accessdate=2017年6月17日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160305173732/http://www.enterbrain.co.jp/gamecon/a_con3.html |archivedate=2016年3月8日 }}</ref>(第3回準グランプリ)・『[[落雀]]』(パーソナルコンピューター作品賞)・『[[囚人へのペル・エム・フル]]』(アスキーツクール作品賞)・『[[パレット (ゲーム)|パレット]]』<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.enterbrain.co.jp/gamecon/a_con4.html |title=第4回 アスキー エンタテインメント ソフトウェア コンテスト |accessdate=2017年6月17日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160306104935/http://www.enterbrain.co.jp/gamecon/a_con4.html |archivedate=2016年3月8日 }}</ref>(第4回グランプリ)・『[[Moon Whistle]]』(佳作)・『[[噴式]]』<ref name=j5/>(第5回最優秀賞)・『[[盗人講座]]』<ref name=j5/>(入賞)がある。 == アスキー出身者が関係する企業 == * [[インプレスホールディングス]] -アスキー 創業者の[[塚本慶一郎]]によって1992年に創業。 * [[アクセラ (企業)|アクセラ]] - アスキー元常務の小島文隆らによって1996年に設立。ゲーム雑誌や競馬雑誌を手がけるが、2000年に倒産。 * アイキューブネット -アスキー元常務浜田義史によって1996年末に設立。格安インターネットFAXサービスを手がけるが、1999年1月に倒産。 * [[アスキーソリューションズ]] - [[2002年]]5月にユニゾン・キャピタル元社員の田北幸治とアスキー元取締役の松田辰夫他が休眠会社のユニゾン・ストラテジック・アドバイザーズの株式を取得。6月にアスキーの1事業部を引継ぎ独立する形で営業を開始。2008年7月にエー・エス・アイ株式会社に商号変更し、民事再生法の適用を申請。8月にアセンディア(現・[[フューチャー (企業)|フューチャーインスペース]] )に事業を譲渡。 * 株式会社[[アストロアーツ]] - 子会社アストロアーツ(アスキーの二代目法人)の社長だった大熊正美がアストロアーツの事業継承し独立。 * [[パリティビット (ゲーム会社)|パリティビット]] - 元アスキー社員の[[薗部博之]]が1996年に創業。 * [[インターネット総合研究所]] - アスキー元取締役の[[藤原洋]]が設立。 * [[イード (企業)|株式会社イード]] - 子会社ダイレクトの取締役だった宮川洋が代表取締役を務めている。 * [[Eストアー]] - 子会社アスキーエクスプレス、アスキーネットの取締役だった石村賢一が1999年に設立。 * 株式会社タイムドメイン - アスキー総合研究所(アスキー未来研究所)のオーディオ・ラボ所長だった由井啓之が設立。 * [[インターネットイニシアティブ]] - 元アスキー社員の[[深瀬弘恭]]が設立に参加し初代社長や会長を歴任。 * 株式会社アットマーク・アイティ - 元アスキー社員の藤村厚夫が2000年に創業。2005年3月に[[アイティメディア]]株式会社に吸収合併。 * [[日本マイクロソフト]] - 元取締役の[[古川享]]がマイクロソフトに引き抜かれる形でマイクロソフト株式会社の社長と会長を歴任。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * {{Wayback|url=http://www.medialeaves.co.jp/|date=20030205090520|title=株式会社メディアリーヴス}} {{DEFAULTSORT:めていありいうす}} [[Category:KADOKAWAの歴史]] [[Category:アスキー]] [[Category:かつて存在した日本の持株会社]] [[Category:中間持株会社]] [[Category:かつて存在した東京都の企業]] [[Category:1977年設立の企業]] [[Category:2010年廃止の企業]]
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脳(のう、英: brain、独: Gehirn、羅: cerebrum、希: εγκέφαλος, enkephalos)は、動物の頭部にある、神経系の中枢。狭義には脊椎動物のものを指すが、より広義には無脊椎動物の頭部神経節をも含む。脊髄とともに中枢神経系をなし、感情・思考・生命維持その他神経活動の中心的、指導的な役割を担う。 主にグリア細胞と神経細胞からなる器官だが、そのどちらでもない構造も内在する。脳脊髄液の通り道となる空隙(脳室)や、ホルモン物質を分泌する内分泌系である。 発生学においては、誕生前の胚の段階から、大きく前脳・中脳・脳(=菱脳)の3つに分けられる。ここから更に分化が進み、人間の場合は前脳が終脳と間脳、後脳は延髄・橋・小脳へと分かれる。 俗に大脳と呼ばれるのは終脳だが、解剖学においては間脳も含めた(前脳から発達した部位全てを)大脳と呼ぶ。 自律神経など、無意識に行われる生命維持において重要な部位を脳幹と括ることもある。これは機能に基づく分類であり、前述の発生過程に基づく分類でいうと前脳・中脳・後脳のすべてに跨がっている。 無脊椎動物のうち扁形動物門以降の世代の生物は、旧口動物・新口動物ともに集中神経系をもつ、すなわち神経節(=神経の集まった部分)を(しばしば頭部に)もつ。頭部神経節が他の神経節に比べて顕著に発達している場合、これらはしばしば脳(脳神経節)と呼ばれる(ただしこの呼称は医学分野などからの視点では一般的でない)。特に節足動物(六脚亜門、甲殻亜門、鋏角亜門など)、軟体動物門頭足綱などにおいては顕著に発達し、機能的にも脊椎動物の脳と遜色ない程度に分化している。その一方、これら無脊椎動物の神経節はもともと脊椎動物の脳との機能的・形態的な類似から「脳」と呼ばれてはいるものの、系統発生的には脊椎動物の脳と直接の関連はないことに注意が必要である。ただし原索動物を除く。 プラナリアを典型例とする扁形動物はかご状神経系をもち、最前部に卓越した神経節としての脳を有する。プラナリア脳の研究により発見されたFGF受容体様蛋白質であるnou-darakeは、頭部以外での脳分化を抑制する機能をもつ。 昆虫の脳は、大きく視葉 (optic lobe) と中央脳 (central brain) の2つに分かれる。視葉は複眼の直下にある構造であり、専ら視覚情報を処理する。中央脳はさらに前大脳 (protocerebrum)、中大脳 (deutocerebrum)、後大脳 (tritocerebrum) の3つの部分に分かれる。これらはそれぞれはしご状神経系の単独の神経節に由来する領域である。前大脳はキノコ体、中心複合体 (central complex) など、感覚情報の高次処理に携わると考えられている領域(ニューロパイル)も含む。キノコ体は多くの昆虫で嗅覚情報処理を担っているが、ミツバチなどでは視覚系の神経経路も入射することが知られている。中大脳は触角の嗅覚受容細胞で受容した嗅覚情報を一次的に処理する触角葉と、触角からの機械感覚を処理する領域を含む。後大脳は食道下神経節を含む領域であり、一部の昆虫では味覚情報が入射することなどが知られている。中大脳と後大脳の間には食道孔が存在し、食道が両者の間を貫いている。昆虫の中枢神経系には、脳のほか胸腹部神経節と両者を繋ぐ神経束が含まれる。 頭足類の脳は食道上塊 (supraesophageal mass) と食道下塊 (subesophageal mass) の2つに分けられ、両者の間には食道が存在する。巨大な視葉はoptic stalkと呼ばれる細い神経束でのみ脳本体に接続しており、脳の一部とみなされないこともあるが、視覚情報処理の多くが視葉でなされているので機能的には脳の一部といえる。 脊索動物のうち、脊椎動物と同様の管状神経系をもつ原索動物(頭索動物・尾索動物の総称)では、神経管から分化する神経索が存在する。神経索は中枢神経系に含まれ、感覚細胞は最前部に集中し、脳室と呼ばれるものが存在(ナメクジウオなど)するが、明確な「脳」構造は原索動物ではあまりみられない(ホヤの幼生(遊泳性)の場合など、場合によって脳と呼ばれることもある)。 脊椎動物の系統樹上の比較では、脳全体において大脳の占める割合が新しい世代の生物ほど大きいという大まかな傾向がある。特にヒトの脳は大脳が大きく、しかも大脳皮質が大小の溝(脳溝)によって非常に広い面積をもっている。脳溝と、それに挟まれた脳回の区別がある大脳(有回脳)は、哺乳類の中でも霊長目などのごく一部しかもっていない。このことは、極めてしばしば新しい世代の生物ほど複雑な活動を見せることと結びつけて、大脳皮質が思考の中枢だからと説明される。 哺乳類のうち、霊長目の進化の過程で脳容積が拡大してきた。 複雑な姿をしているヒトの脳も、脊椎動物の進化の初期段階では、脳は単に神経細胞が集まったこぶのようなものに過ぎなかった。進化の過程でこのこぶが大脳、間脳、中脳、小脳、延髄、脊髄から構成される複雑な構造を成していき、個体の維持にとどまらず高度な精神活動をつかさどるにいたった。脊髄や延髄、中脳、橋では中心管は神経管内に余り発達せずに原型をとどめたままであるが、先端部の終脳では、発生の間に中心管は複雑に拡大して広い脳室を形作り、また皮質も複雑に隆起や回転運動を起こしながら変形して、各脳葉が形成される。 初期の脳の形成は、中心管の前方が膨らんで形成される、前・中・後脳胞の3脳胞から出発する。このうち先端部の前脳胞は更に前方から「終脳胞」と「間脳胞」とに分かれ、このうち終脳胞が以下のような、顕著な変化を遂げる。 ヒトの脳は頭蓋内腔の大部分を占めている。成人で体重の2%ほどにあたる1.2〜1.6キログラムの質量がある。脳の質量は、男性の脳は女性の脳よりもやや大きく(後述)、体重との相関はない。約300億個の神経細胞を含むがそれは脳をなす細胞の1割程度であり、残りの9割はグリア細胞と呼ばれるものである。グリア細胞は神経細胞に栄養を供給したり、髄鞘を作って伝導速度を上げたりと、さまざまな働きをする。「人間は脳の1割ほどしか有効に使っていない」という俗説(脳の10パーセント神話)があるが、これはグリア細胞の機能がよくわかっていなかった時代に、働いている細胞は神経細胞だけという思い込みから広まったものと言われる。つまり、ヒトは大脳の10%しか使用しないという都市伝説をよく耳にするが、もちろんこれは真っ赤な嘘である。ヒトは常に100%脳細胞を使用する。最近では脳の大部分は有効的に活用されており、脳の一部分が破損など何らかの機能的障害となる要因が発生した場合にあまり使われていない部分は代替的または補助的に活用されている可能性があると考えられている。 脳は、大脳・小脳・脳幹に大きく分けることができる。大脳はさらに終脳(Telencephalon)と間脳(Diencephalon)に、脳幹はさらに中脳・橋・延髄に分けられる。この区別は肉眼で見た様子に基づいたものであって、胚発生の上では小脳は脳幹から分かれるものであり、また生命維持機能に強く関わる間脳を脳幹に含める意見もある。 脳は、髄膜と呼ばれる3層の膜、すなわち軟膜・クモ膜・硬膜に覆われている。軟膜は脳の実質に密着しているがクモ膜は少し離れており、軟膜との間にクモ膜下腔という空間を残している。クモ膜下腔は脳脊髄液で満たされている。硬膜は大脳鎌・小脳テントなどの突出と、硬膜静脈洞を作る部分のほかは頭蓋の内面に密着して内張りとなっている。硬膜とクモ膜はほぼ密着している。 大脳(Cerebrum)とは、厳密には終脳と間脳を合わせた呼称だが、神経解剖学以外の分野ではほぼ例外なく、終脳のみを指す言葉として使われている。この項でも特に断らない限り、大脳と言えば終脳を指す。 終脳は左右の大脳半球(終脳半球)からなる。それらを隔てるのは大脳縦隔と呼ばれる深い溝であり、脳梁と透明中隔でつながるほかは完全に左右が分かれている。大脳半球の表面には、大脳溝(だいのうこう、Cerebral sulci)と呼ばれる溝が走り、その間に細長い大脳回(だいのうかい、Cerebral gyrus)を作っている。脳溝は俗に「脳のしわ」と言われるが、脳の成長にしたがって無造作にしわが寄るのではなく、どこにどのような脳溝ができるかは、深さ、曲がり方に多少の個人差があるものの完全に決まっており、すべての脳溝に解剖学上の名前(Nomina anatomica)が与えられている。脳溝と脳回の形は左右の半球でほぼ対称であり、特に目立つ脳溝は終脳の外側で吻側端から尾側のあたりまで走るシルビウス裂と、頭頂部の(吻側寄りでも尾側寄りでもなく)中ほどで背側端からシルビウス裂まで走る中心溝である。シルビウス裂よりも腹側、したがって脳全体から見ればもっとも外側の部分を側頭葉、中心溝よりも吻側を前頭葉、中心溝よりも尾側でシルビウス裂の終わるあたりまでを頭頂葉、その尾側を後頭葉と呼ぶ。後頭葉は終脳のもっとも尾側にあり、頭頂葉との境界は明瞭でない。シルビウス裂をこじ開けると、側頭葉の陰に隠れていた、島と呼ばれる部分が見える。島の表面はほかの部分と違って脳溝ではなく細かいしわがたくさん入っている。 左右の大脳半球はそれぞれ側脳室と呼ばれる腔を含んでいる。側脳室はモンロー孔で第三脳室と連絡して脳室系をなす。脳室系は脳の廃液である脳脊髄液でみたされ、脳脊髄液が排出される経路となっている。 広義の大脳から出る脳神経は、終脳から出る嗅神経と、間脳から出る視神経である。 大脳の断面では白質と灰白質が明瞭に区別される。終脳の灰白質は表面近くに面積で2,000cm〜2,500cm、厚さ2〜3mmの層をなしており、大脳皮質(だいのうひしつ、Cerebral cortex)と呼ばれる。大脳皮質は灰白質の例に漏れず神経細胞の細胞体が集まった部分であり、その大部分は6層構造をなし、複雑な回路を含んで思考などの中枢とされる。脳がしわを形成することにより大脳皮質の表面積を増大させている。大脳皮質に対して白質を大脳髄質と呼ぶこともあるが、白質と呼ばれることのほうがはるかに多い。その理由の一端をなすのが大脳基底核である。大脳基底核は単に大脳核とも呼ばれ、側脳室の腹側あたりで髄質の中にある神経細胞の集まりである。2つ合わせて線条体と呼ばれる、尾状核・被殻などを含むが、あいまいな概念であって、間脳の一部である視床や淡蒼球を含むか含まないかは意見が一致しない。側頭葉の深部には扁桃体がある。扁桃体は恐怖心を構成していることが知られているらしい。 間脳は視床と視床下部からなる。視床は、大脳皮質や下位の脳・脊髄との連絡が多く、感覚の中継、運動制御など多彩な機能に関わる。視床下部は、身体の恒常性(ホメオスタシス)を保つ働き、自律神経系の制御、感情などに関与している。 下垂体は、大脳の底部、ほぼ正中にある器官であり、下垂体柄といわれる細長い部分で大脳の中心部の視床下部とつながっている。下垂体の前葉からは、副腎皮質刺激ホルモン(コルチコトロピン、ACTH)、甲状腺刺激ホルモン(サイロトロピン、TSH)、性腺刺激ホルモン(ゴナドトロピン)、成長ホルモン(GH)、プロラクチンなど、他の内分泌器官の機能を左右し、そこからのホルモンの分泌を調節する多種のホルモンが分泌される。中葉からは、メラニン細胞刺激ホルモン(メラノトロピン、MSH)、神経葉からは、抗利尿ホルモン(バソプレシン)や、オキシトシンが分泌される。コレステロールは体内の肝臓および皮膚で合成され、全身に輸送される。視床下部から指令を受け、下垂体からも指令を受けることで、副腎は、コレステロールを原料に、副腎皮質ホルモンや性ホルモンを合成する。 小脳は脳幹の背側にある。上小脳脚・中小脳脚・下小脳脚という線維の太い束で脳幹につながっている。これら3つは肉眼レベルで絡み合っており、それぞれに含まれる線維をきれいに分けることは非常に難しい。小脳は正中の小脳虫部(しょうのうちゅうぶ、Vermis)、左右の小脳半球(Cerebellar hemispheres)、尾側の小脳扁桃に分けられる。小脳半球の表面は、大脳半球に脳溝と脳回があるように、小脳溝と小脳回をもつが、これらは脳溝・脳回よりもかなり細かく、変異も多い。小脳半球の断面も大脳半球と同様、小脳皮質(Cerebellar cortex)が灰白質で小脳髄質が白質である。小脳皮質は表面側から分子層、プルキンエ細胞層、顆粒層の3層構造を持ち、約1mmぐらいの厚さである。皮質が厚く、髄質が木の枝のように見えることから、小脳半球断面の様子をArbor vitae(生命の木、小脳活樹)と呼ぶ。 脳幹 (=brain stem) は上で大脳と、背側で小脳と、尾側で脊髄とつながっている。吻側から順に中脳 (Midbrain)、橋、延髄に分けられる。小脳と脳幹に挟まれた空間は第四脳室となっている。 脳の質量は体重の2%程度だが、血液の循環量は心拍出量の15%、酸素の消費量は全身の20%、グルコース(ブドウ糖)の消費量は全身の25%と、いずれも質量に対して非常に多い。成人男子では脳のグルコース必要量は120-150g/日である。グルコースは脳関門を通過でき、グルコーストランスポーターであるインスリン非依存性のGLUT1を介して細胞膜を通過して神経細胞にグルコースを取り込む(「グルコーストランスポーター」を参照のこと)。このことは脳で起こる複雑かつ活発な電気信号の行き来に由来する。神経細胞では、静止膜電位の維持と活動電位からの回復のためにグルコースから産生された莫大なATPを消費している。なお、成熟動物脳の脂肪酸の代謝活性は非常に低く、長期間の絶食によっても脳における脂肪酸の低い代謝活性のため脂肪酸の組成は変化しない。脳は通常、脳関門を通過できる(脳細胞内に能動輸送されるのであって自由に通過できるわけではない)グルコースをエネルギー源としている。また、飢餓などの場合によりグルコースが枯渇し低血糖となった場合、脂肪酸のβ酸化によるアセチルCoAから生成されたケトン体も脳関門を通過でき、脳関門通過後にケトン体から再度アセチルCoAに戻されて脳細胞のミトコンドリアのTCAサイクルでエネルギーとして利用される。脳はグルコースを優先的にエネルギー源として利用するが、グルコースが少ない時にはケトン体が主たるエネルギー源となる。飢餓時には脳が必要とするグルコースの約半分をケトン体で代用することができる。 このような栄養素などの需要は内頸動脈と椎骨動脈からの血流でまかなわれる。内頸動脈と椎骨動脈はそれぞれ大小の枝を出して脳の各所を栄養し、ウィリスの動脈輪と呼ばれる環状の吻合を作って互いに連絡している。このため内頸動脈に血流障害が起こっても椎骨動脈からの血流が脳の全体に行き渡るが、ウィリスの動脈輪が細い人ではその代償があまり期待できない。 脳に分布する静脈は、特に太い部分では動脈に伴走しておらず、硬膜静脈洞に集まる。硬膜静脈洞の静脈血は内頸静脈へ流出する。また、リンパ液に相当する廃液は脳脊髄液として脳室系の脈絡叢から産生され、クモ膜下腔を流れて最後にはクモ膜顆粒から、または脊柱管の静脈叢から静脈血に吸収される。 脳は運動・知覚など神経を介する情報伝達の最上位中枢である。また、感情・情緒・理性などヒトの精神活動においても重要な役割を果たしている。幾つかの精神活動に関してはポジトロン断層法などにより、脳の活動との間に密接な関係があることが確かめられている。 脳が以上のような機能に深く関わっていることには疑いがないが、脳がそのすべてを担っているかどうかは明らかでない。このことは脳死にまつわる問題で問われ、ラザロ徴候をどう解釈するかで意見が分かれる。脳死推進派はラザロ徴候を脊髄による反射とみなし、脳の機能が残っている証拠にはならないとする。一方で脳死反対派はラザロ徴候に脳の機能が関わっているとする。脳死反対派の一部は、ラザロ徴候に脳が関わっていようといまいと、そのような高度の活動が(たとえば脊髄によって)なされうるならそれは生命反応とみなすべきだと主張する。ラザロ徴候の機序は解明されておらず、この議論は決着していない。 脳が、あるいは大脳が大きいほうが頭がいいという俗説がある。これはヒトの大脳が類人猿の大脳よりも大きいこと、高齢者の脳が加齢に伴って萎縮すること、アルツハイマー病などの疾患では病変部が著しく萎縮することなどにも助長されていよう。しかし脳の重さは(特に人の間で)知能の指標とはならないとされる。夏目漱石やアルベルト・アインシュタインの脳は彼らの死後も保存されているが、その重さを量ってみても正常の範囲を出ない。またクジラやゾウは、ヒトより重い脳を持つ。以上のように、人間が他の動物より賢いのは、脳の大きさではなく、大脳皮質の複雑さ、神経細胞の数やグリア細胞によるものである。 ヒトを含む脊椎動物の脳はその性別により異なった構造を持つ。これは大脳解剖学における肉眼観察や、ラットに対して脳の形成期に性ホルモンを投与する実験により確かめられている。脳の部分で性差があるとみられている部分は、大脳半球、左右の脳をつなぐ前交連や脳梁、本能をつかさどる視床下部である(脳の性分化)。ただし雄の猿を幼少期から雌として育てれば雌と同じ行動をとるようになるなどの報告もあるため、これらの性差がどれほど行動に影響を及ぼすかは定かでない。 ヒトの場合、男女は精神的・文化的に異なった傾向を示すことがある(ジェンダー参照)が、脳の性差がこれの一因を担っていると考えられている。ただし脳の性差が人格形成にどれほどの割合で貢献をしているかは不明である(見えにくくなった後天的な環境の影響が、生得的な性差であると認識される場合もあるため)。 女性は論理的思考時に「論理的思考を司る左脳」を「想像力を働かせる右脳」と連動して働かすことができ、男性はこれが不得手であるが訓練によって可能であるといわれることがあるが、これらの説の根拠は女性の脳梁(左右の大脳半球を連絡する神経繊維)の多さのみに基づいている。(以下、脳の左右差も参照) また男女の脳の質の違いとして、女性の脳は男性の脳よりも皮質が厚くなる傾向が複数の研究で確認されている。 哺乳類では脳容積と体容積がおおむね対数比例する。まず観察される点として、頭蓋骨の大きさは概ね体格に比例し、男性の脳は女性よりも大きく重い。出生時は性別による有意差は無く、男女ともに370〜400グラムである。成人では、男性は1350〜1500グラム、女性では1200〜1250グラムであり、これは体重の約2%にあたる。なお、性差・人種差を除外した同質な人類集団同士の比較では脳の大きさは知能指数と相関係数0.4程度の相関があることが知られる。(研究により異なる) 認知能力と脳の大きさの関連について13,600人以上の非常に大きなサンプルを用いて行われた研究では、相関係数は0.19であり、同性間では脳の大きさは認知テストの結果の約2%に影響するが、男女の認知テストの平均スコアには有意な差は見られず、男女の脳の大きさの違いは認知能力の差には繋がらなかった。研究者は脳の質の性差による可能性があるとしている。 ポジトロン断層法によって様々な精神活動の際に脳が働く様子を調べると、男性は主に左半球が、女性は比較的均質に働くとの報告がある。ただしこれをして「女性は左右の脳を満遍なく働かせることができ、男性の脳活動は左脳に依存するところが大きい」とはならない。ポジトロン断層法自体は血流や代謝が増加した部分が集中的に活動したとする仮定の下に行われるものだが、これによる脳活動の測定はあくまで相対的な活動の増大を示すものである。これについても脳機能局在論を参照されたい。 月経に代表されるように女性は身体的な周期変動を持っている。またそれに伴って精神的にも周期的に変動すると指摘されることもある。この周期性を支配しているのが下垂体から分泌される卵胞刺激ホルモンと黄体形成ホルモンである。 男性の脳ではこのような周期性はない。胎生期に精巣から分泌されたテストステロン(アンドロゲン・シャワーとよばれる)によるものだと考えられている。 ヒト特有の大脳半球の左右の機能についての学説は、古い時代のてんかん患者の治療のために行った、脳梁の切除や、手術中に脳に電気刺激などをほどこし患者に質問を行った場合の観察記録から推測された仮説が多い。それらの少ない観察例から拡大解釈されたもの、その拡大解釈をさらに拡大解釈し、歪曲された俗説が非常に多いので注意が必要である。 しかしながら、脳専門医の中には、左右の脳半球に機能分布の違いを認める医師もいる。病巣や事故によって損なわれた脳の部位と、外から観察できる機能欠損の関連性に経験則があてはまるからである。また、非常に希なケースを除いて、言語野が大脳左半球に有るのは確かである。一方で、論理的思考について重要な機能が左半球にあるのは確かだが、右大脳の前頭野の欠損によって「順序立った行動」が不可能になった例が、カナダのワイルダー・ペンフィールド医師の姉の報告例などに見られる。 他に確認の取れている事実として、まずヒトの大脳では左半球のほうが右半球より若干大きいことや、身体の右側の制御を左半球、左側の制御を右半球が行っていることなどは判明している。脳の左右の大きさの違いは医療機器で即座に確認でき、左右脳と身体の制御の関連性については、脳の欠損半球と、麻痺がおこる身体部位との関連から明らかだからである。 しかしながら、脳という器官の複雑性をかんがみた場合、ある能力について、どちらかの半球だけが機能しているといえるほど単純なものではなく、またそれを裏付けるデータもない。 大多数の研究者が特定の精神機能の中枢とみなしている領野は今のところ、末梢との神経接続が解剖的に調べられている初期知覚領野・運動野を除けば言語野しかない。さらに左脳と右脳がそれぞれ論理的思考・創造的思考を処理し、もう片方がそれを担当していないという明確な証拠や実験データはない。 2010年、脳の神経細胞を三次元的に培養した結果、神経突起の進む方向を決定する成長円錐にある糸状仮足が右回りで伸縮していることが玉田らの研究により明らかとなり、脳の左右の機能差に関連しているのではないかと注目されている。 脳、神経系にコレステロール全量の1/3もが含まれているが、神経細胞から伸びて神経伝達を司っている軸索を覆っているミエリン鞘にコレステロールが大量に含まれているためである。コレステロールは、ミエリン鞘の絶縁性を保持する役割を果たしている。絶縁されたミエリン鞘の切れ目であるランヴィエの絞輪ごとでの跳躍伝導により高速の神経信号伝達に寄与している。実際、哺乳類である豚や牛などでは脳総重量の2-3%がコレステロールで占められている。ヒトでは脳総重量の2.7%がコレステロールで占められている。 脳の灰白質は、中枢神経系の神経組織のうち、神経細胞の細胞体が存在している部位のことである。これに対し、神経細胞体がなく、神経線維ばかりの部位を白質と呼ぶ。白質は明るく光るような白色をしているのに対し、灰白質は、白質よりも色が濃く、灰色がかって見えることによる。これは、有髄神経線維のミエリン鞘の主成分として大量に存在しているコレステロールやミエリンが白い色をしているためで、白質には、灰白質に比べて、有髄神経線維が多いからと考えられている。 細胞膜は流動性を持ち、脂質や膜タンパクは動いている。この流動性は膜の構成物質で決まる。たとえば、リン脂質を構成する脂肪酸の不飽和度(二重結合の数)に影響され、二重結合を持つ炭化水素が多いほど(二重結合があるとその部分で炭化水素が折れ曲がるので)リン脂質の相互作用が低くなり流動性は増すことになる。例えばドコサヘキサエン酸(DHA)は不飽和度が極めて高く細胞膜の流動性の保持に寄与している。 神経細胞は、軸索や樹状突起などの凹凸の多い入り組んだ構造を有しているため、膜成分が極端に多くなっている。 牛(成牛および子牛)、豚、羊、ウサギなどの家畜の脳は食材としても用いられる。主にヨーロッパおよび中東では肉屋の店先のほかスーパーマーケットでも流通している。世界各地の様々な料理で、脳そのものを煮る、焼く、揚げるなどの料理法で食べる他、また煮込み料理の出汁取りとしても使われる。このわたの様な独特の食感がある。 BSEの影響により一時期ヨーロッパでは食材としての脳や骨髄の流通は減少したが、伝統的食材としての存在は未だに広く一般に受け入れられている。 近年、先進国を中心に、脳の理解を促進するための大型国家科学プロジェクトが組まれている。 米国の「ブレイン・イニシアチブ」、欧州の「ヒューマンブレインプロジェクト」日本の「革新的技術による脳機能ネットワークの全容解明プロジェクト(Brain/MINDS)」中国の「チャイナブレインプロジェクト」等がある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "脳(のう、英: brain、独: Gehirn、羅: cerebrum、希: εγκέφαλος, enkephalos)は、動物の頭部にある、神経系の中枢。狭義には脊椎動物のものを指すが、より広義には無脊椎動物の頭部神経節をも含む。脊髄とともに中枢神経系をなし、感情・思考・生命維持その他神経活動の中心的、指導的な役割を担う。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "主にグリア細胞と神経細胞からなる器官だが、そのどちらでもない構造も内在する。脳脊髄液の通り道となる空隙(脳室)や、ホルモン物質を分泌する内分泌系である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "発生学においては、誕生前の胚の段階から、大きく前脳・中脳・脳(=菱脳)の3つに分けられる。ここから更に分化が進み、人間の場合は前脳が終脳と間脳、後脳は延髄・橋・小脳へと分かれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "俗に大脳と呼ばれるのは終脳だが、解剖学においては間脳も含めた(前脳から発達した部位全てを)大脳と呼ぶ。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "自律神経など、無意識に行われる生命維持において重要な部位を脳幹と括ることもある。これは機能に基づく分類であり、前述の発生過程に基づく分類でいうと前脳・中脳・後脳のすべてに跨がっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "無脊椎動物のうち扁形動物門以降の世代の生物は、旧口動物・新口動物ともに集中神経系をもつ、すなわち神経節(=神経の集まった部分)を(しばしば頭部に)もつ。頭部神経節が他の神経節に比べて顕著に発達している場合、これらはしばしば脳(脳神経節)と呼ばれる(ただしこの呼称は医学分野などからの視点では一般的でない)。特に節足動物(六脚亜門、甲殻亜門、鋏角亜門など)、軟体動物門頭足綱などにおいては顕著に発達し、機能的にも脊椎動物の脳と遜色ない程度に分化している。その一方、これら無脊椎動物の神経節はもともと脊椎動物の脳との機能的・形態的な類似から「脳」と呼ばれてはいるものの、系統発生的には脊椎動物の脳と直接の関連はないことに注意が必要である。ただし原索動物を除く。", "title": "無脊椎動物の脳" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "プラナリアを典型例とする扁形動物はかご状神経系をもち、最前部に卓越した神経節としての脳を有する。プラナリア脳の研究により発見されたFGF受容体様蛋白質であるnou-darakeは、頭部以外での脳分化を抑制する機能をもつ。", "title": "無脊椎動物の脳" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "昆虫の脳は、大きく視葉 (optic lobe) と中央脳 (central brain) の2つに分かれる。視葉は複眼の直下にある構造であり、専ら視覚情報を処理する。中央脳はさらに前大脳 (protocerebrum)、中大脳 (deutocerebrum)、後大脳 (tritocerebrum) の3つの部分に分かれる。これらはそれぞれはしご状神経系の単独の神経節に由来する領域である。前大脳はキノコ体、中心複合体 (central complex) など、感覚情報の高次処理に携わると考えられている領域(ニューロパイル)も含む。キノコ体は多くの昆虫で嗅覚情報処理を担っているが、ミツバチなどでは視覚系の神経経路も入射することが知られている。中大脳は触角の嗅覚受容細胞で受容した嗅覚情報を一次的に処理する触角葉と、触角からの機械感覚を処理する領域を含む。後大脳は食道下神経節を含む領域であり、一部の昆虫では味覚情報が入射することなどが知られている。中大脳と後大脳の間には食道孔が存在し、食道が両者の間を貫いている。昆虫の中枢神経系には、脳のほか胸腹部神経節と両者を繋ぐ神経束が含まれる。", "title": "無脊椎動物の脳" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "", "title": "無脊椎動物の脳" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "頭足類の脳は食道上塊 (supraesophageal mass) と食道下塊 (subesophageal mass) の2つに分けられ、両者の間には食道が存在する。巨大な視葉はoptic stalkと呼ばれる細い神経束でのみ脳本体に接続しており、脳の一部とみなされないこともあるが、視覚情報処理の多くが視葉でなされているので機能的には脳の一部といえる。", "title": "無脊椎動物の脳" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "脊索動物のうち、脊椎動物と同様の管状神経系をもつ原索動物(頭索動物・尾索動物の総称)では、神経管から分化する神経索が存在する。神経索は中枢神経系に含まれ、感覚細胞は最前部に集中し、脳室と呼ばれるものが存在(ナメクジウオなど)するが、明確な「脳」構造は原索動物ではあまりみられない(ホヤの幼生(遊泳性)の場合など、場合によって脳と呼ばれることもある)。", "title": "無脊椎動物の脳" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "脊椎動物の系統樹上の比較では、脳全体において大脳の占める割合が新しい世代の生物ほど大きいという大まかな傾向がある。特にヒトの脳は大脳が大きく、しかも大脳皮質が大小の溝(脳溝)によって非常に広い面積をもっている。脳溝と、それに挟まれた脳回の区別がある大脳(有回脳)は、哺乳類の中でも霊長目などのごく一部しかもっていない。このことは、極めてしばしば新しい世代の生物ほど複雑な活動を見せることと結びつけて、大脳皮質が思考の中枢だからと説明される。", "title": "脊椎動物の脳" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "哺乳類のうち、霊長目の進化の過程で脳容積が拡大してきた。", "title": "脊椎動物の脳" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "複雑な姿をしているヒトの脳も、脊椎動物の進化の初期段階では、脳は単に神経細胞が集まったこぶのようなものに過ぎなかった。進化の過程でこのこぶが大脳、間脳、中脳、小脳、延髄、脊髄から構成される複雑な構造を成していき、個体の維持にとどまらず高度な精神活動をつかさどるにいたった。脊髄や延髄、中脳、橋では中心管は神経管内に余り発達せずに原型をとどめたままであるが、先端部の終脳では、発生の間に中心管は複雑に拡大して広い脳室を形作り、また皮質も複雑に隆起や回転運動を起こしながら変形して、各脳葉が形成される。", "title": "ヒトの脳について" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "初期の脳の形成は、中心管の前方が膨らんで形成される、前・中・後脳胞の3脳胞から出発する。このうち先端部の前脳胞は更に前方から「終脳胞」と「間脳胞」とに分かれ、このうち終脳胞が以下のような、顕著な変化を遂げる。", "title": "ヒトの脳について" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ヒトの脳は頭蓋内腔の大部分を占めている。成人で体重の2%ほどにあたる1.2〜1.6キログラムの質量がある。脳の質量は、男性の脳は女性の脳よりもやや大きく(後述)、体重との相関はない。約300億個の神経細胞を含むがそれは脳をなす細胞の1割程度であり、残りの9割はグリア細胞と呼ばれるものである。グリア細胞は神経細胞に栄養を供給したり、髄鞘を作って伝導速度を上げたりと、さまざまな働きをする。「人間は脳の1割ほどしか有効に使っていない」という俗説(脳の10パーセント神話)があるが、これはグリア細胞の機能がよくわかっていなかった時代に、働いている細胞は神経細胞だけという思い込みから広まったものと言われる。つまり、ヒトは大脳の10%しか使用しないという都市伝説をよく耳にするが、もちろんこれは真っ赤な嘘である。ヒトは常に100%脳細胞を使用する。最近では脳の大部分は有効的に活用されており、脳の一部分が破損など何らかの機能的障害となる要因が発生した場合にあまり使われていない部分は代替的または補助的に活用されている可能性があると考えられている。", "title": "ヒトの脳について" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "脳は、大脳・小脳・脳幹に大きく分けることができる。大脳はさらに終脳(Telencephalon)と間脳(Diencephalon)に、脳幹はさらに中脳・橋・延髄に分けられる。この区別は肉眼で見た様子に基づいたものであって、胚発生の上では小脳は脳幹から分かれるものであり、また生命維持機能に強く関わる間脳を脳幹に含める意見もある。", "title": "ヒトの脳について" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "脳は、髄膜と呼ばれる3層の膜、すなわち軟膜・クモ膜・硬膜に覆われている。軟膜は脳の実質に密着しているがクモ膜は少し離れており、軟膜との間にクモ膜下腔という空間を残している。クモ膜下腔は脳脊髄液で満たされている。硬膜は大脳鎌・小脳テントなどの突出と、硬膜静脈洞を作る部分のほかは頭蓋の内面に密着して内張りとなっている。硬膜とクモ膜はほぼ密着している。", "title": "ヒトの脳について" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "大脳(Cerebrum)とは、厳密には終脳と間脳を合わせた呼称だが、神経解剖学以外の分野ではほぼ例外なく、終脳のみを指す言葉として使われている。この項でも特に断らない限り、大脳と言えば終脳を指す。", "title": "ヒトの脳について" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "終脳は左右の大脳半球(終脳半球)からなる。それらを隔てるのは大脳縦隔と呼ばれる深い溝であり、脳梁と透明中隔でつながるほかは完全に左右が分かれている。大脳半球の表面には、大脳溝(だいのうこう、Cerebral sulci)と呼ばれる溝が走り、その間に細長い大脳回(だいのうかい、Cerebral gyrus)を作っている。脳溝は俗に「脳のしわ」と言われるが、脳の成長にしたがって無造作にしわが寄るのではなく、どこにどのような脳溝ができるかは、深さ、曲がり方に多少の個人差があるものの完全に決まっており、すべての脳溝に解剖学上の名前(Nomina anatomica)が与えられている。脳溝と脳回の形は左右の半球でほぼ対称であり、特に目立つ脳溝は終脳の外側で吻側端から尾側のあたりまで走るシルビウス裂と、頭頂部の(吻側寄りでも尾側寄りでもなく)中ほどで背側端からシルビウス裂まで走る中心溝である。シルビウス裂よりも腹側、したがって脳全体から見ればもっとも外側の部分を側頭葉、中心溝よりも吻側を前頭葉、中心溝よりも尾側でシルビウス裂の終わるあたりまでを頭頂葉、その尾側を後頭葉と呼ぶ。後頭葉は終脳のもっとも尾側にあり、頭頂葉との境界は明瞭でない。シルビウス裂をこじ開けると、側頭葉の陰に隠れていた、島と呼ばれる部分が見える。島の表面はほかの部分と違って脳溝ではなく細かいしわがたくさん入っている。", "title": "ヒトの脳について" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "左右の大脳半球はそれぞれ側脳室と呼ばれる腔を含んでいる。側脳室はモンロー孔で第三脳室と連絡して脳室系をなす。脳室系は脳の廃液である脳脊髄液でみたされ、脳脊髄液が排出される経路となっている。", "title": "ヒトの脳について" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "広義の大脳から出る脳神経は、終脳から出る嗅神経と、間脳から出る視神経である。", "title": "ヒトの脳について" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "大脳の断面では白質と灰白質が明瞭に区別される。終脳の灰白質は表面近くに面積で2,000cm〜2,500cm、厚さ2〜3mmの層をなしており、大脳皮質(だいのうひしつ、Cerebral cortex)と呼ばれる。大脳皮質は灰白質の例に漏れず神経細胞の細胞体が集まった部分であり、その大部分は6層構造をなし、複雑な回路を含んで思考などの中枢とされる。脳がしわを形成することにより大脳皮質の表面積を増大させている。大脳皮質に対して白質を大脳髄質と呼ぶこともあるが、白質と呼ばれることのほうがはるかに多い。その理由の一端をなすのが大脳基底核である。大脳基底核は単に大脳核とも呼ばれ、側脳室の腹側あたりで髄質の中にある神経細胞の集まりである。2つ合わせて線条体と呼ばれる、尾状核・被殻などを含むが、あいまいな概念であって、間脳の一部である視床や淡蒼球を含むか含まないかは意見が一致しない。側頭葉の深部には扁桃体がある。扁桃体は恐怖心を構成していることが知られているらしい。", "title": "ヒトの脳について" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "間脳は視床と視床下部からなる。視床は、大脳皮質や下位の脳・脊髄との連絡が多く、感覚の中継、運動制御など多彩な機能に関わる。視床下部は、身体の恒常性(ホメオスタシス)を保つ働き、自律神経系の制御、感情などに関与している。", "title": "ヒトの脳について" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "下垂体は、大脳の底部、ほぼ正中にある器官であり、下垂体柄といわれる細長い部分で大脳の中心部の視床下部とつながっている。下垂体の前葉からは、副腎皮質刺激ホルモン(コルチコトロピン、ACTH)、甲状腺刺激ホルモン(サイロトロピン、TSH)、性腺刺激ホルモン(ゴナドトロピン)、成長ホルモン(GH)、プロラクチンなど、他の内分泌器官の機能を左右し、そこからのホルモンの分泌を調節する多種のホルモンが分泌される。中葉からは、メラニン細胞刺激ホルモン(メラノトロピン、MSH)、神経葉からは、抗利尿ホルモン(バソプレシン)や、オキシトシンが分泌される。コレステロールは体内の肝臓および皮膚で合成され、全身に輸送される。視床下部から指令を受け、下垂体からも指令を受けることで、副腎は、コレステロールを原料に、副腎皮質ホルモンや性ホルモンを合成する。", "title": "ヒトの脳について" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "小脳は脳幹の背側にある。上小脳脚・中小脳脚・下小脳脚という線維の太い束で脳幹につながっている。これら3つは肉眼レベルで絡み合っており、それぞれに含まれる線維をきれいに分けることは非常に難しい。小脳は正中の小脳虫部(しょうのうちゅうぶ、Vermis)、左右の小脳半球(Cerebellar hemispheres)、尾側の小脳扁桃に分けられる。小脳半球の表面は、大脳半球に脳溝と脳回があるように、小脳溝と小脳回をもつが、これらは脳溝・脳回よりもかなり細かく、変異も多い。小脳半球の断面も大脳半球と同様、小脳皮質(Cerebellar cortex)が灰白質で小脳髄質が白質である。小脳皮質は表面側から分子層、プルキンエ細胞層、顆粒層の3層構造を持ち、約1mmぐらいの厚さである。皮質が厚く、髄質が木の枝のように見えることから、小脳半球断面の様子をArbor vitae(生命の木、小脳活樹)と呼ぶ。", "title": "ヒトの脳について" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "脳幹 (=brain stem) は上で大脳と、背側で小脳と、尾側で脊髄とつながっている。吻側から順に中脳 (Midbrain)、橋、延髄に分けられる。小脳と脳幹に挟まれた空間は第四脳室となっている。", "title": "ヒトの脳について" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "脳の質量は体重の2%程度だが、血液の循環量は心拍出量の15%、酸素の消費量は全身の20%、グルコース(ブドウ糖)の消費量は全身の25%と、いずれも質量に対して非常に多い。成人男子では脳のグルコース必要量は120-150g/日である。グルコースは脳関門を通過でき、グルコーストランスポーターであるインスリン非依存性のGLUT1を介して細胞膜を通過して神経細胞にグルコースを取り込む(「グルコーストランスポーター」を参照のこと)。このことは脳で起こる複雑かつ活発な電気信号の行き来に由来する。神経細胞では、静止膜電位の維持と活動電位からの回復のためにグルコースから産生された莫大なATPを消費している。なお、成熟動物脳の脂肪酸の代謝活性は非常に低く、長期間の絶食によっても脳における脂肪酸の低い代謝活性のため脂肪酸の組成は変化しない。脳は通常、脳関門を通過できる(脳細胞内に能動輸送されるのであって自由に通過できるわけではない)グルコースをエネルギー源としている。また、飢餓などの場合によりグルコースが枯渇し低血糖となった場合、脂肪酸のβ酸化によるアセチルCoAから生成されたケトン体も脳関門を通過でき、脳関門通過後にケトン体から再度アセチルCoAに戻されて脳細胞のミトコンドリアのTCAサイクルでエネルギーとして利用される。脳はグルコースを優先的にエネルギー源として利用するが、グルコースが少ない時にはケトン体が主たるエネルギー源となる。飢餓時には脳が必要とするグルコースの約半分をケトン体で代用することができる。", "title": "ヒトの脳について" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "このような栄養素などの需要は内頸動脈と椎骨動脈からの血流でまかなわれる。内頸動脈と椎骨動脈はそれぞれ大小の枝を出して脳の各所を栄養し、ウィリスの動脈輪と呼ばれる環状の吻合を作って互いに連絡している。このため内頸動脈に血流障害が起こっても椎骨動脈からの血流が脳の全体に行き渡るが、ウィリスの動脈輪が細い人ではその代償があまり期待できない。", "title": "ヒトの脳について" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "脳に分布する静脈は、特に太い部分では動脈に伴走しておらず、硬膜静脈洞に集まる。硬膜静脈洞の静脈血は内頸静脈へ流出する。また、リンパ液に相当する廃液は脳脊髄液として脳室系の脈絡叢から産生され、クモ膜下腔を流れて最後にはクモ膜顆粒から、または脊柱管の静脈叢から静脈血に吸収される。", "title": "ヒトの脳について" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "脳は運動・知覚など神経を介する情報伝達の最上位中枢である。また、感情・情緒・理性などヒトの精神活動においても重要な役割を果たしている。幾つかの精神活動に関してはポジトロン断層法などにより、脳の活動との間に密接な関係があることが確かめられている。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "脳が以上のような機能に深く関わっていることには疑いがないが、脳がそのすべてを担っているかどうかは明らかでない。このことは脳死にまつわる問題で問われ、ラザロ徴候をどう解釈するかで意見が分かれる。脳死推進派はラザロ徴候を脊髄による反射とみなし、脳の機能が残っている証拠にはならないとする。一方で脳死反対派はラザロ徴候に脳の機能が関わっているとする。脳死反対派の一部は、ラザロ徴候に脳が関わっていようといまいと、そのような高度の活動が(たとえば脊髄によって)なされうるならそれは生命反応とみなすべきだと主張する。ラザロ徴候の機序は解明されておらず、この議論は決着していない。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "脳が、あるいは大脳が大きいほうが頭がいいという俗説がある。これはヒトの大脳が類人猿の大脳よりも大きいこと、高齢者の脳が加齢に伴って萎縮すること、アルツハイマー病などの疾患では病変部が著しく萎縮することなどにも助長されていよう。しかし脳の重さは(特に人の間で)知能の指標とはならないとされる。夏目漱石やアルベルト・アインシュタインの脳は彼らの死後も保存されているが、その重さを量ってみても正常の範囲を出ない。またクジラやゾウは、ヒトより重い脳を持つ。以上のように、人間が他の動物より賢いのは、脳の大きさではなく、大脳皮質の複雑さ、神経細胞の数やグリア細胞によるものである。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ヒトを含む脊椎動物の脳はその性別により異なった構造を持つ。これは大脳解剖学における肉眼観察や、ラットに対して脳の形成期に性ホルモンを投与する実験により確かめられている。脳の部分で性差があるとみられている部分は、大脳半球、左右の脳をつなぐ前交連や脳梁、本能をつかさどる視床下部である(脳の性分化)。ただし雄の猿を幼少期から雌として育てれば雌と同じ行動をとるようになるなどの報告もあるため、これらの性差がどれほど行動に影響を及ぼすかは定かでない。", "title": "性差" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ヒトの場合、男女は精神的・文化的に異なった傾向を示すことがある(ジェンダー参照)が、脳の性差がこれの一因を担っていると考えられている。ただし脳の性差が人格形成にどれほどの割合で貢献をしているかは不明である(見えにくくなった後天的な環境の影響が、生得的な性差であると認識される場合もあるため)。 女性は論理的思考時に「論理的思考を司る左脳」を「想像力を働かせる右脳」と連動して働かすことができ、男性はこれが不得手であるが訓練によって可能であるといわれることがあるが、これらの説の根拠は女性の脳梁(左右の大脳半球を連絡する神経繊維)の多さのみに基づいている。(以下、脳の左右差も参照) また男女の脳の質の違いとして、女性の脳は男性の脳よりも皮質が厚くなる傾向が複数の研究で確認されている。", "title": "性差" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "哺乳類では脳容積と体容積がおおむね対数比例する。まず観察される点として、頭蓋骨の大きさは概ね体格に比例し、男性の脳は女性よりも大きく重い。出生時は性別による有意差は無く、男女ともに370〜400グラムである。成人では、男性は1350〜1500グラム、女性では1200〜1250グラムであり、これは体重の約2%にあたる。なお、性差・人種差を除外した同質な人類集団同士の比較では脳の大きさは知能指数と相関係数0.4程度の相関があることが知られる。(研究により異なる) 認知能力と脳の大きさの関連について13,600人以上の非常に大きなサンプルを用いて行われた研究では、相関係数は0.19であり、同性間では脳の大きさは認知テストの結果の約2%に影響するが、男女の認知テストの平均スコアには有意な差は見られず、男女の脳の大きさの違いは認知能力の差には繋がらなかった。研究者は脳の質の性差による可能性があるとしている。", "title": "性差" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ポジトロン断層法によって様々な精神活動の際に脳が働く様子を調べると、男性は主に左半球が、女性は比較的均質に働くとの報告がある。ただしこれをして「女性は左右の脳を満遍なく働かせることができ、男性の脳活動は左脳に依存するところが大きい」とはならない。ポジトロン断層法自体は血流や代謝が増加した部分が集中的に活動したとする仮定の下に行われるものだが、これによる脳活動の測定はあくまで相対的な活動の増大を示すものである。これについても脳機能局在論を参照されたい。", "title": "性差" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "月経に代表されるように女性は身体的な周期変動を持っている。またそれに伴って精神的にも周期的に変動すると指摘されることもある。この周期性を支配しているのが下垂体から分泌される卵胞刺激ホルモンと黄体形成ホルモンである。", "title": "性差" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "男性の脳ではこのような周期性はない。胎生期に精巣から分泌されたテストステロン(アンドロゲン・シャワーとよばれる)によるものだと考えられている。", "title": "性差" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "ヒト特有の大脳半球の左右の機能についての学説は、古い時代のてんかん患者の治療のために行った、脳梁の切除や、手術中に脳に電気刺激などをほどこし患者に質問を行った場合の観察記録から推測された仮説が多い。それらの少ない観察例から拡大解釈されたもの、その拡大解釈をさらに拡大解釈し、歪曲された俗説が非常に多いので注意が必要である。", "title": "大脳半球の左右差" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "しかしながら、脳専門医の中には、左右の脳半球に機能分布の違いを認める医師もいる。病巣や事故によって損なわれた脳の部位と、外から観察できる機能欠損の関連性に経験則があてはまるからである。また、非常に希なケースを除いて、言語野が大脳左半球に有るのは確かである。一方で、論理的思考について重要な機能が左半球にあるのは確かだが、右大脳の前頭野の欠損によって「順序立った行動」が不可能になった例が、カナダのワイルダー・ペンフィールド医師の姉の報告例などに見られる。", "title": "大脳半球の左右差" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "他に確認の取れている事実として、まずヒトの大脳では左半球のほうが右半球より若干大きいことや、身体の右側の制御を左半球、左側の制御を右半球が行っていることなどは判明している。脳の左右の大きさの違いは医療機器で即座に確認でき、左右脳と身体の制御の関連性については、脳の欠損半球と、麻痺がおこる身体部位との関連から明らかだからである。", "title": "大脳半球の左右差" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "しかしながら、脳という器官の複雑性をかんがみた場合、ある能力について、どちらかの半球だけが機能しているといえるほど単純なものではなく、またそれを裏付けるデータもない。", "title": "大脳半球の左右差" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "大多数の研究者が特定の精神機能の中枢とみなしている領野は今のところ、末梢との神経接続が解剖的に調べられている初期知覚領野・運動野を除けば言語野しかない。さらに左脳と右脳がそれぞれ論理的思考・創造的思考を処理し、もう片方がそれを担当していないという明確な証拠や実験データはない。", "title": "大脳半球の左右差" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2010年、脳の神経細胞を三次元的に培養した結果、神経突起の進む方向を決定する成長円錐にある糸状仮足が右回りで伸縮していることが玉田らの研究により明らかとなり、脳の左右の機能差に関連しているのではないかと注目されている。", "title": "大脳半球の左右差" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "脳、神経系にコレステロール全量の1/3もが含まれているが、神経細胞から伸びて神経伝達を司っている軸索を覆っているミエリン鞘にコレステロールが大量に含まれているためである。コレステロールは、ミエリン鞘の絶縁性を保持する役割を果たしている。絶縁されたミエリン鞘の切れ目であるランヴィエの絞輪ごとでの跳躍伝導により高速の神経信号伝達に寄与している。実際、哺乳類である豚や牛などでは脳総重量の2-3%がコレステロールで占められている。ヒトでは脳総重量の2.7%がコレステロールで占められている。", "title": "脳とコレステロール" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "脳の灰白質は、中枢神経系の神経組織のうち、神経細胞の細胞体が存在している部位のことである。これに対し、神経細胞体がなく、神経線維ばかりの部位を白質と呼ぶ。白質は明るく光るような白色をしているのに対し、灰白質は、白質よりも色が濃く、灰色がかって見えることによる。これは、有髄神経線維のミエリン鞘の主成分として大量に存在しているコレステロールやミエリンが白い色をしているためで、白質には、灰白質に比べて、有髄神経線維が多いからと考えられている。", "title": "脳とコレステロール" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "細胞膜は流動性を持ち、脂質や膜タンパクは動いている。この流動性は膜の構成物質で決まる。たとえば、リン脂質を構成する脂肪酸の不飽和度(二重結合の数)に影響され、二重結合を持つ炭化水素が多いほど(二重結合があるとその部分で炭化水素が折れ曲がるので)リン脂質の相互作用が低くなり流動性は増すことになる。例えばドコサヘキサエン酸(DHA)は不飽和度が極めて高く細胞膜の流動性の保持に寄与している。", "title": "脳と脂肪酸" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "神経細胞は、軸索や樹状突起などの凹凸の多い入り組んだ構造を有しているため、膜成分が極端に多くなっている。", "title": "脳と脂肪酸" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "牛(成牛および子牛)、豚、羊、ウサギなどの家畜の脳は食材としても用いられる。主にヨーロッパおよび中東では肉屋の店先のほかスーパーマーケットでも流通している。世界各地の様々な料理で、脳そのものを煮る、焼く、揚げるなどの料理法で食べる他、また煮込み料理の出汁取りとしても使われる。このわたの様な独特の食感がある。", "title": "食材として" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "BSEの影響により一時期ヨーロッパでは食材としての脳や骨髄の流通は減少したが、伝統的食材としての存在は未だに広く一般に受け入れられている。", "title": "食材として" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "近年、先進国を中心に、脳の理解を促進するための大型国家科学プロジェクトが組まれている。", "title": "脳研究に関する国家プロジェクト" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "米国の「ブレイン・イニシアチブ」、欧州の「ヒューマンブレインプロジェクト」日本の「革新的技術による脳機能ネットワークの全容解明プロジェクト(Brain/MINDS)」中国の「チャイナブレインプロジェクト」等がある。", "title": "脳研究に関する国家プロジェクト" } ]
動物の神経中枢。本項で解説。 物事の中枢という意味でも用いられ(首脳など)、転じて結晶性テルペノイド化合物を表す。樟脳・ハッカ脳・竜脳など。 脳は、動物の頭部にある、神経系の中枢。狭義には脊椎動物のものを指すが、より広義には無脊椎動物の頭部神経節をも含む。脊髄とともに中枢神経系をなし、感情・思考・生命維持その他神経活動の中心的、指導的な役割を担う。 主にグリア細胞と神経細胞からなる器官だが、そのどちらでもない構造も内在する。脳脊髄液の通り道となる空隙(脳室)や、ホルモン物質を分泌する内分泌系である。 発生学においては、誕生前の胚の段階から、大きく前脳・中脳・脳(=菱脳)の3つに分けられる。ここから更に分化が進み、人間の場合は前脳が終脳と間脳、後脳は延髄・橋・小脳へと分かれる。 俗に大脳と呼ばれるのは終脳だが、解剖学においては間脳も含めた(前脳から発達した部位全てを)大脳と呼ぶ。 自律神経など、無意識に行われる生命維持において重要な部位を脳幹と括ることもある。これは機能に基づく分類であり、前述の発生過程に基づく分類でいうと前脳・中脳・後脳のすべてに跨がっている。
* [[動物]]の神経中枢。本項で解説。 * 物事の中枢という意味でも用いられ([[首脳]]など)、転じて結晶性[[テルペノイド]]化合物を表す。[[樟脳]]・[[メントール|ハッカ脳]]・[[ボルネオール|竜脳]]など。 ---- [[File:Chimp Brain in a jar.jpg|thumb|200px|[[チンパンジー]]の脳]] '''脳'''(のう、{{lang-en-short|brain}}、{{lang-de-short|Gehirn}}、{{lang-la-short|cerebrum}}、{{lang-el-short|εγκέφαλος, enkephalos}})は、[[動物]]の[[頭部]]にある、[[神経系]]の中枢<ref>{{Cite web|和書|url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E8%84%B3_%28%E3%81%AE%E3%81%86%29/|title=脳(のう)の意味|publisher= goo国語辞書 |accessdate=2019-11-27}}</ref>。狭義には[[脊椎動物]]のものを指すが、より広義には[[無脊椎動物]]の頭部[[神経節]]をも含む。[[脊髄]]とともに[[中枢神経系]]をなし、[[感情]]・[[思考]]・[[生命]]維持その他神経活動の中心的、指導的な役割を担う。 主に[[グリア細胞]]と[[神経細胞]]からなる器官だが、そのどちらでもない構造も内在する。[[脳脊髄液]]の通り道となる空隙([[脳室]])や、ホルモン物質を分泌する[[内分泌系]]である。 [[発生学]]においては、誕生前の[[胚]]の段階から、大きく[[前脳]]・[[中脳]]・脳(=[[菱脳]])の3つに分けられる。ここから更に分化が進み、人間の場合は前脳が[[終脳]]と[[間脳]]、後脳は[[延髄]]・[[橋 (脳)|橋]]・[[小脳]]へと分かれる。 俗に[[大脳]]と呼ばれるのは終脳だが、解剖学においては間脳も含めた(前脳から発達した部位全てを)大脳と呼ぶ。 自律神経など、無意識に行われる生命維持において重要な部位を[[脳幹]]と括ることもある。これは機能に基づく分類であり、前述の発生過程に基づく分類でいうと前脳・中脳・後脳のすべてに跨がっている。 == 無脊椎動物の脳 == [[無脊椎動物]]のうち[[扁形動物]]門以降の世代の生物は、[[旧口動物]]・[[新口動物]]ともに集中神経系をもつ、すなわち[[神経節]](=神経の集まった部分)を(しばしば頭部に)もつ。頭部神経節が他の神経節に比べて顕著に発達している場合、これらはしばしば脳(脳神経節)と呼ばれる(ただしこの呼称は医学分野などからの視点では一般的でない)。特に[[節足動物]]([[昆虫類|六脚亜門]]、[[甲殻類|甲殻亜門]]、[[クモ綱|鋏角亜門]]など)、[[軟体動物]]門[[頭足類|頭足綱]]などにおいては顕著に発達し、機能的にも脊椎動物の脳と遜色ない程度に分化している。その一方、これら無脊椎動物の神経節はもともと脊椎動物の脳との機能的・形態的な類似から「脳」と呼ばれてはいるものの、''系統発生的には脊椎動物の脳と直接の関連はない''ことに注意が必要である。ただし[[原索動物]]を除く。 === 扁形動物 === [[プラナリア]]を典型例とする[[扁形動物]]は[[かご状神経系]]をもち、最前部に卓越した神経節としての脳を有する。プラナリア脳の研究により発見された[[FGF]][[受容体]]様[[蛋白質]]である[[nou-darake]]は、頭部以外での脳分化を抑制する機能をもつ。 === 昆虫 === [[昆虫]]の脳は、大きく[[視葉]] (optic lobe) と中央脳 (central brain) の2つに分かれる。視葉は[[複眼]]の直下にある構造であり、専ら[[視覚]]情報を処理する。中央脳はさらに[[前大脳]] (protocerebrum)、[[中大脳]] (deutocerebrum)、[[後大脳]] (tritocerebrum) の3つの部分に分かれる。これらはそれぞれ[[はしご状神経系]]の単独の神経節に由来する領域である。前大脳は[[キノコ体]]、中心複合体 (central complex) など、感覚情報の高次処理に携わると考えられている領域([[ニューロパイル]])も含む。キノコ体は多くの昆虫で[[嗅覚]]情報処理を担っているが、[[ミツバチ]]などでは視覚系の神経経路も入射することが知られている。中大脳は[[触角]]の嗅覚受容細胞で受容した嗅覚情報を一次的に処理する[[触角葉]]と、触角からの機械感覚を処理する領域を含む。後大脳は食道下神経節を含む領域であり、一部の昆虫では味覚情報が入射することなどが知られている。中大脳と後大脳の間には食道孔が存在し、[[食道]]が両者の間を貫いている。昆虫の中枢神経系には、脳のほか[[胸腹部神経節]]と両者を繋ぐ神経束が含まれる。 === 頭足類 === [[頭足類]]の脳は食道上塊 (supraesophageal mass) と食道下塊 (subesophageal mass) の2つに分けられ、両者の間には食道が存在する。巨大な視葉はoptic stalkと呼ばれる細い神経束でのみ脳本体に接続しており、脳の一部とみなされないこともあるが、視覚情報処理の多くが視葉でなされているので機能的には脳の一部といえる。 === 原索動物 === [[脊索動物]]のうち、脊椎動物と同様の[[管状神経系]]をもつ[[原索動物]]([[頭索動物]]・[[尾索動物]]の総称)では、[[神経管]]から分化する神経索が存在する。神経索は中枢神経系に含まれ、感覚細胞は最前部に集中し、[[脳室]]と呼ばれるものが存在([[ナメクジウオ]]など)するが、明確な「脳」構造は原索動物ではあまりみられない([[ホヤ]]の[[幼生]](遊泳性)の場合など、場合によって脳と呼ばれることもある)。 == 脊椎動物の脳 == {| class="wikitable" style="float:right" |+ ヒト科の動物種(絶滅種も含む)の脳容積 |種類||分類||脳容積(ml) |- |[[オランウータン]]||[[ヒト科]]||411<ref name=ch>三上章允 [http://web2.chubu-gu.ac.jp/web_labo/mikami/brain/08-1/index-08-1.html 化石人類の脳] 脳の世界</ref> |- |[[ゴリラ]]||[[ヒト亜科]]||約500<ref name="ky">[http://ecol.zool.kyoto-u.ac.jp/homepage/sota/BSA2010_4.pdf 人類の進化] 2012年 度基礎生物学A 講義スライド[http://ecol.zool.kyoto-u.ac.jp/homepage/sota/lecture1.html]{{信頼性要検証|date=2012年11月}}</ref> |- |[[チンパンジー]]||[[ヒト族]]||394<ref name=ch/> |- |[[アウストラロピテクス・アフリカヌス]]||[[ヒト亜族]]||441<ref name=ch/> |- |[[ホモ・ハビリス]]||[[ヒト属]]||640<ref name=ch/> |- |[[ホモ・エルガスター]]||ヒト属||700-1100<ref name=ky/> |- |[[ホモ・エレクトス]]||ヒト属||1040<ref name=ch/> |- |[[ホモ・ハイデルベルゲンシス]]||ヒト属||1100-1400<ref name=ky/> |- |[[ホモ・ネアンデルターレンシス]]||ヒト属||1450<ref name=ch/> |- |[[ヒト|ホモ・サピエンス・サピエンス]]||ヒト属||1350<ref name=ch/> |} [[脊椎動物]]の系統樹上の比較では、脳全体において[[大脳]]の占める割合が新しい世代の生物ほど大きいという大まかな傾向がある。特に[[ヒト]]の脳は大脳が大きく、しかも[[大脳皮質]]が大小の溝('''[[脳溝]]''')によって非常に広い[[面積]]をもっている。脳溝と、それに挟まれた'''[[脳回]]'''の区別がある大脳(有回脳)は、[[哺乳類]]の中でも[[霊長目]]などのごく一部しかもっていない。このことは、極めてしばしば新しい世代の生物ほど複雑な活動を見せることと結びつけて、大脳皮質が思考の中枢だからと説明される。 哺乳類のうち、霊長目の進化の過程で脳容積が拡大してきた<ref>[http://www.nig.ac.jp/Research-Highlights/992/1029.html 哺乳類と鳥類との間にみられる脳発生メカニズムの隠された共通性 大脳新皮質は新しくない!] 国立遺伝学研究所 脳機能研究部門 平田研究室 DOI 10.1016/j.devcel.2012.01.004 のプレスリリース頁</ref>。 <gallery> 画像:Mouse_brain.jpg|[[ラット]]の脳 画像:The_cat_-_an_introduction_to_the_study_of_backboned_animals,_especially_mammals_(1881)_(20593337251).jpg|[[ネコ]]の脳 画像:Human_brain_NIH.jpg|[[ヒト]]の脳 </gallery> == ヒトの脳について == {{Main|ヒトの脳}} === 発生 === [[ファイル:Pyramidal hippocampal neuron 40x.jpg|250px|thumb|脳のニューロン細胞]] 複雑な姿をしているヒトの脳も、[[脊椎動物]]の[[進化]]の初期段階では、脳は単に神経細胞が集まった[[こぶ]]のようなものに過ぎなかった。進化の過程でこのこぶが大脳、間脳、中脳、小脳、延髄、[[脊髄]]から構成される複雑な構造を成していき、個体の維持にとどまらず高度な精神活動をつかさどるにいたった<ref name="Newton">Newton別冊「心」はどこにあるのか 脳と心 (2010年11月15日 [[ニュートンプレス]])</ref>。脊髄や延髄、中脳、橋では中心管は神経管内に余り発達せずに原型をとどめたままであるが、先端部の終脳では、発生の間に中心管は複雑に拡大して広い脳室を形作り、また皮質も複雑に隆起や回転運動を起こしながら変形して、各脳葉が形成される。 初期の脳の形成は、中心管の前方が膨らんで形成される、前・中・後脳胞の3脳胞から出発する。このうち先端部の前脳胞は更に前方から「終脳胞」と「間脳胞」とに分かれ、このうち終脳胞が以下のような、顕著な変化を遂げる。 ;1.上方への隆起 :中心部を除く神経管の左右の天井が上方へ隆起することにより、左右の頭頂葉が作られる。 :この隆起運動の結果、本来の中心管天井部は、左右の半球の奥深くに隠れてしまう(後に脳梁が左右に走行)。 :神経管内の空所は先端部から両脇に伸び上がり、左右「[[側脳室]]」(第一・第二脳室)ができる。 :こうして作られた側脳室へ通ずる旧中心管からの通路が「[[室間孔]]」となる。 ;2.前方への回り込み :上方に隆起した終脳胞の左右の壁は前方へも伸び出し、「前頭葉」と「側脳室前角」がつくられる。 :正中部がそのまま残ることは同様なので、神経管最前端部は、突出した前頭葉の間に「終板」として残る。 ;3.後方への伸びと、側方への回転運動 :頭頂方向へ隆起した神経組織は更に後方へ伸びながら、元の神経管の側壁を越えて下側へ回り込む。 :このようにして、「後頭葉」と「側頭葉」が作られると共に、「側脳室後角」と「下角」が作られる。 :めざましい終脳の動きに対して、間脳胞は余り変化せず、神経管の原型を維持しつつ、左右大脳半球の基部に位置して、視床・視床下部を作り、中心管は正中面に薄く上下にのみ伸びて第三脳室となる。 === 解剖 === [[ファイル:Brain diagram ja.svg|thumb|250px|ヒトの脳の構造: [[前頭葉]](水色)、[[頭頂葉]](黄色)、[[側頭葉]](緑色)、[[後頭葉]](赤色)、[[小脳]](紫色)、[[脳幹]](灰色)]] ヒトの脳は[[頭蓋]]内腔の大部分を占めている。[[成年|成人]]で[[体重]]の2%ほどにあたる1.2〜1.6[[キログラム]]の[[質量]]がある。脳の質量は、男性の脳は女性の脳よりもやや大きく(後述)、体重との相関はない。約300億個の[[神経細胞]]を含むがそれは脳をなす細胞の1割程度であり、残りの9割は[[グリア細胞]]と呼ばれるものである。グリア細胞は神経細胞に[[栄養]]を供給したり、[[髄鞘]]を作って[[伝導]]速度を上げたりと、さまざまな働きをする。「人間は脳の1割ほどしか有効に使っていない」という俗説([[脳の10パーセント神話]])があるが、これはグリア細胞の機能がよくわかっていなかった時代に、働いている細胞は神経細胞だけという思い込みから広まったものと言われる。つまり、ヒトは大脳の10%しか使用しないという都市伝説をよく耳にするが、もちろんこれは真っ赤な嘘である。ヒトは常に100%脳細胞を使用する<ref>{{Cite web|title=You don't say? Brain space|url=https://www.health.harvard.edu/mind-and-mood/you-dont-say-brain-space|website=Harvard Health|date=2021-10-01|accessdate=2021-10-26|language=en|first=Matthew|last=Solan}}</ref><ref>{{Cite web|title=The Ten Percent Myth|url=https://www.brainfacts.org:443/thinking-sensing-and-behaving/thinking-and-awareness/2014/the-ten-percent-myth|website=www.brainfacts.org|accessdate=2021-10-26|language=en}}</ref><ref>{{Cite web|title=Debunked: The 10 Percent Brain Myth|url=https://www.brainfacts.org:443/thinking-sensing-and-behaving/thinking-and-awareness/2019/debunked-the-10-percent-brain-myth-061719|website=www.brainfacts.org|accessdate=2021-10-26|language=en}}</ref><ref>{{Cite web|title=Lucy and the 10 Percent Brain Myth|url=https://www.brainfacts.org:443/brain-anatomy-and-function/anatomy/2014/lucy-and-the-10-percent-brain-myth|website=www.brainfacts.org|accessdate=2021-10-26|language=en}}</ref>。最近では脳の大部分は有効的に活用されており、脳の一部分が破損など何らかの機能的障害となる要因が発生した場合にあまり使われていない部分は代替的または補助的に活用されている可能性があると考えられている。 脳は、[[大脳]]・[[小脳]]・[[脳幹]]に大きく分けることができる。大脳はさらに[[終脳]](Telencephalon)と[[間脳]](Diencephalon)に、脳幹はさらに[[中脳]]・[[橋 (脳)|橋]]・[[延髄]]に分けられる。この区別は肉眼で見た様子に基づいたものであって、[[胚発生]]の上では小脳は脳幹から分かれるものであり、また生命維持機能に強く関わる間脳を脳幹に含める意見もある。 脳は、[[髄膜]]と呼ばれる3層の膜、すなわち[[軟膜]]・[[クモ膜]]・[[硬膜]]に覆われている。軟膜は脳の実質に密着しているがクモ膜は少し離れており、軟膜との間に[[クモ膜下腔]]という空間を残している。クモ膜下腔は[[脳脊髄液]]で満たされている。硬膜は大脳鎌・小脳テントなどの突出と、[[硬膜静脈洞]]を作る部分のほかは[[頭蓋]]の内面に密着して内張りとなっている。硬膜とクモ膜はほぼ密着している。 ==== 大脳 ==== [[ファイル:Human Brain.jpg|thumb|ヒトの大脳。[[前頭葉]]の一部が切除された状態。]] [[ファイル:GolgiStainedPyramidalCell.jpg|250px|thumb|大脳新皮質の[[錐体細胞]]]] [[大脳]](Cerebrum)とは、厳密には終脳と間脳を合わせた呼称だが、[[神経解剖学]]以外の分野ではほぼ例外なく、[[終脳]]のみを指す言葉として使われている。この項でも特に断らない限り、大脳と言えば終脳を指す。 終脳は左右の大脳半球(終脳半球)からなる。それらを隔てるのは大脳縦隔と呼ばれる深い溝であり、[[脳梁]]と[[透明中隔]]でつながるほかは完全に左右が分かれている。大脳半球の表面には、'''[[大脳溝]]'''(だいのうこう、Cerebral sulci)と呼ばれる溝が走り、その間に細長い'''[[大脳回]]'''(だいのうかい、Cerebral gyrus)を作っている。脳溝は俗に「脳のしわ」と言われるが、脳の成長にしたがって無造作にしわが寄るのではなく、どこにどのような脳溝ができるかは、深さ、曲がり方に多少の個人差があるものの完全に決まっており、すべての脳溝に解剖学上の名前(Nomina anatomica)が与えられている。脳溝と脳回の形は左右の半球でほぼ対称であり、特に目立つ脳溝は終脳の[[解剖学における方向の表現|外側]]で吻側端から尾側のあたりまで走る'''[[シルビウス裂]]'''と、頭頂部の(吻側寄りでも尾側寄りでもなく)中ほどで背側端からシルビウス裂まで走る'''[[中心溝]]'''である。シルビウス裂よりも腹側、したがって脳全体から見ればもっとも外側の部分を[[側頭葉]]、中心溝よりも吻側を[[前頭葉]]、中心溝よりも尾側でシルビウス裂の終わるあたりまでを[[頭頂葉]]、その尾側を[[後頭葉]]と呼ぶ。後頭葉は終脳のもっとも尾側にあり、頭頂葉との境界は明瞭でない。シルビウス裂をこじ開けると、側頭葉の陰に隠れていた、[[島皮質|島]]と呼ばれる部分が見える。島の表面はほかの部分と違って脳溝ではなく細かいしわがたくさん入っている。 左右の大脳半球はそれぞれ[[側脳室]]と呼ばれる腔を含んでいる。側脳室は'''モンロー孔'''で[[第三脳室]]と連絡して[[脳室系]]をなす。脳室系は脳の廃液である[[脳脊髄液]]でみたされ、脳脊髄液が排出される経路となっている。 広義の大脳から出る[[脳神経]]は、終脳から出る[[嗅神経]]と、間脳から出る[[視神経]]である。 大脳の断面では[[白質]]と[[灰白質]]が明瞭に区別される。終脳の灰白質は表面近くに面積で2,000cm<sup>2</sup>〜2,500cm<sup>2</sup>、厚さ2〜3mm<ref name="脳研究の最前線上">{{Cite|和書|author= [[理化学研究所]] [[脳科学総合研究センター]]編 |title= 脳研究の最前線 |volume= 上 |edition= 第一 |publisher= [[講談社]] |series= [[ブルーバックス]] |date= 2007-10-20 |isbn= 978-4-06-257570-6 }}</ref>の層をなしており、[[大脳皮質]](だいのうひしつ、Cerebral cortex)と呼ばれる。大脳皮質は灰白質の例に漏れず神経細胞の細胞体が集まった部分であり、その大部分は6層構造をなし、複雑な回路を含んで思考などの中枢とされる。脳がしわを形成することにより大脳皮質の表面積を増大させている<ref>田辺誠司(藤田研OB)[http://www2.bpe.osaka-u.ac.jp/ackamaracka/sulcus.php 賢い人の脳にはシワが多い?] - 教育プロジェクト 脳の迷信・うそ - 大阪大学大学院 認知脳科学研究室:藤田研究室 </ref>。大脳皮質に対して白質を大脳髄質と呼ぶこともあるが、白質と呼ばれることのほうがはるかに多い。その理由の一端をなすのが[[大脳基底核]]である。大脳基底核は単に大脳核とも呼ばれ、側脳室の腹側あたりで髄質の中にある神経細胞の集まりである。2つ合わせて線条体と呼ばれる、[[尾状核]]・[[被殻]]などを含むが、あいまいな概念であって、間脳の一部である[[視床]]や[[淡蒼球]]を含むか含まないかは意見が一致しない。側頭葉の深部には[[扁桃体]]がある。扁桃体は恐怖心を構成していることが知られているらしい。 間脳は[[視床]]と[[視床下部]]からなる。視床は、大脳皮質や下位の脳・脊髄との連絡が多く、感覚の中継、運動制御など多彩な機能に関わる。視床下部は、身体の恒常性([[ホメオスタシス]])を保つ働き、自律神経系の制御、感情などに関与している。 [[下垂体]]は、大脳の底部、ほぼ正中にある器官であり、[[下垂体柄]]といわれる細長い部分で大脳の中心部の[[視床下部]]とつながっている。下垂体の前葉からは、[[副腎皮質刺激ホルモン]]([[コルチコトロピン]]、[[ACTH]])、[[甲状腺刺激ホルモン]]([[サイロトロピン]]、[[TSH]])、[[性腺刺激ホルモン]]([[ゴナドトロピン]])、[[成長ホルモン]]([[GH]])、[[プロラクチン]]など、他の[[内分泌器官]]の機能を左右し、そこからのホルモンの分泌を調節する多種のホルモンが分泌される。中葉からは、[[メラニン細胞刺激ホルモン]]([[メラノトロピン]]、[[MSH]])、[[神経葉]]からは、[[抗利尿ホルモン]](バソプレシン)や、[[オキシトシン]]が分泌される。[[コレステロール]]は体内の[[肝臓]]および皮膚で合成され、全身に輸送される。[[視床下部]]から指令を受け、[[下垂体]]からも指令を受けることで、[[副腎]]は、[[コレステロール]]を原料に、[[副腎皮質ホルモン]]や[[性ホルモン]]を合成する。 ==== 小脳 ==== [[小脳]]は脳幹の[[解剖学における方向の表現|背側]]にある。上小脳脚・中小脳脚・下小脳脚という線維の太い束で脳幹につながっている。これら3つは肉眼レベルで絡み合っており、それぞれに含まれる線維をきれいに分けることは非常に難しい。小脳は正中の'''小脳虫部'''(しょうのうちゅうぶ、Vermis)、左右の'''小脳半球'''(Cerebellar hemispheres)、尾側の'''小脳扁桃'''に分けられる。小脳半球の表面は、大脳半球に脳溝と脳回があるように、小脳溝と小脳回をもつが、これらは脳溝・脳回よりもかなり細かく、変異も多い。小脳半球の断面も大脳半球と同様、小脳皮質(Cerebellar cortex)が灰白質で小脳髄質が白質である。小脳皮質は表面側から分子層、[[プルキンエ細胞]]層、顆粒層の3層構造を持ち、約1mmぐらいの厚さである<ref name="脳研究の最前線上" />。皮質が厚く、髄質が[[木]]の枝のように見えることから、小脳半球断面の様子をArbor vitae(生命の木、小脳活樹)と呼ぶ。 ==== 脳幹 ==== [[脳幹]] (=brain stem) は[[解剖学における方向の表現|上]]で大脳と、背側で小脳と、尾側で[[脊髄]]とつながっている。吻側から順に[[中脳]] (Midbrain)、[[橋 (脳)|橋]]、[[延髄]]に分けられる。小脳と脳幹に挟まれた空間は[[第四脳室]]となっている。 *中脳は[[上丘]](視覚処理に関与)、[[下丘]](聴覚処理に関与)、[[セロトニン]]や[[ドーパミン]]、[[ノルアドレナリン]]系などの神経核が散在している。中脳には眼球運動・[[視覚]]に関わる諸[[神経核]]があり、脳神経として[[視神経]]、[[動眼神経]]、[[滑車神経]]を出す。また背側に第三脳室と第四脳室を交通する'''[[中脳水道]]'''が通っている。 *[[橋 (脳)]]はふくらみを帯びた形状で、小脳と接続する。脳神経として[[三叉神経]]、[[外転神経]]、[[顔面神経]]、[[聴神経]]を出す。 *延髄は橋と[[脊髄]]の間にあり[[呼吸]]など生命維持に関わる植物機能を司る中枢がある。脳神経として[[舌咽神経]]、[[迷走神経]]、[[副神経]]、[[舌下神経]]を出している。[[呼吸]]、[[心臓]]の働きに関係する。 ==== 循環・代謝 ==== 脳の質量は体重の2%程度だが、[[血液]]の循環量は心拍出量の15%、[[酸素]]の消費量は全身の20%、[[グルコース]](ブドウ糖)の消費量は全身の25%と、いずれも質量に対して非常に多い。成人男子では脳のグルコース必要量は120-150g/日である<ref>坪内博仁、中川八郎「腎臓の糖新生とその特異性」『臨床化学』Vol. 7 (1978) No. 2. {{doi|10.14921/jscc1971b.7.2_101}}</ref>。グルコースは[[脳関門]]を通過でき、[[グルコーストランスポーター]]である[[インスリン]]非依存性のGLUT1を介して[[細胞膜]]を通過して神経細胞にグルコースを取り込む(「[[グルコーストランスポーター]]」を参照のこと)。このことは脳で起こる複雑かつ活発な電気信号の行き来に由来する。[[神経細胞]]では、静止[[膜電位]]の維持と活動電位からの回復のためにグルコースから産生された莫大な[[アデノシン三リン酸|ATP]]を消費している<ref>[http://www.sc.fukuoka-u.ac.jp/~bc1/Biochem/glyclys2.htm 解糖] 講義資料のページ</ref><ref>井上優介[http://square.umin.ac.jp/TNMT/SHOKO/253.htm 教育講演:大脳生理と核医学] 1994年</ref>{{信頼性要検証|date=2012年10月}}。なお、成熟動物脳の[[脂肪酸]]の代謝活性は非常に低く、長期間の絶食によっても脳における脂肪酸の低い代謝活性のため脂肪酸の組成は変化しない<ref>林 浩平「[https://doi.org/10.5650/jos1956.20.745 脳神経の脂質]」『油化学』1971年 20 巻 10 号 745-754、{{doi|10.5650/jos1956.20.745}}</ref>。脳は通常、脳関門を通過できる(脳細胞内に能動輸送されるのであって自由に通過できるわけではない)グルコースをエネルギー源としている<ref name=abe/>。また、[[飢餓]]などの場合によりグルコースが枯渇し[[低血糖]]となった場合、[[脂肪酸]]の[[β酸化]]による[[アセチルCoA]]から生成された[[ケトン体]]も脳関門を通過でき<ref name=abe>阿部又信「連載講座:イヌ・ネコの基礎 栄養 (6) 養素の代謝と代謝調節」『ペット栄養学会誌』Vol. 4 (2001) No. 1. {{doi|10.11266/jpan1998.4.1_22}}</ref>、脳関門通過後にケトン体から再度アセチルCoAに戻されて脳細胞の[[ミトコンドリア]]の[[TCAサイクル]]でエネルギーとして利用される<ref name=fukuoka>{{Cite web|和書|url=http://www.sc.fukuoka-u.ac.jp/~bc1/Biochem/ketone.htm|title=ケトン体合成|work=講義資料|publisher=福岡大学機能生物化学研究室|accessdate=2011-10-18}}</ref>。脳はグルコースを優先的にエネルギー源として利用するが、グルコースが少ない時にはケトン体が主たるエネルギー源となる<ref>大櫛陽一ほか「超低糖質食評価研究から見えてきた食事指導の問題点]『脂質栄養学』Vol. 19 (2010) No. 1. {{doi|10.4010/jln.19.53}}</ref><ref>Manninen AH. Metabolic effects of the very-low-carbohydrate diets: Misunderstood "Villains" of human metabolism. J Int Soc Sports Nutr, 1(2):7-11, 2004. </ref>。[[飢餓]]時には脳が必要とするグルコースの約半分をケトン体で代用することができる<ref name=abe/>。 このような栄養素などの需要は[[内頸動脈]]と[[椎骨動脈]]からの血流でまかなわれる。内頸動脈と椎骨動脈はそれぞれ大小の枝を出して脳の各所を[[栄養]]し、'''ウィリスの動脈輪'''と呼ばれる環状の吻合を作って互いに連絡している。このため内頸動脈に血流障害が起こっても椎骨動脈からの血流が脳の全体に行き渡るが、ウィリスの動脈輪が細い人ではその代償があまり期待できない。 脳に分布する静脈は、特に太い部分では動脈に伴走しておらず、硬膜静脈洞に集まる。硬膜静脈洞の静脈血は[[内頸静脈]]へ流出する。また、[[リンパ液]]に相当する廃液は[[脳脊髄液]]として脳室系の脈絡叢から産生され、[[クモ膜下腔]]を流れて最後にはクモ膜顆粒から、または[[脊柱管]]の静脈叢から静脈血に吸収される。 == 機能 == 脳は運動・知覚など[[神経]]を介する情報伝達の最上位中枢である。また、感情・情緒・理性などヒトの[[精神]]活動においても重要な役割を果たしている。幾つかの精神活動に関しては[[ポジトロン断層法]]などにより、脳の活動との間に密接な関係があることが確かめられている。 脳が以上のような機能に深く関わっていることには疑いがないが、脳がそのすべてを担っているかどうかは明らかでない。このことは[[脳死]]にまつわる問題で問われ、[[ラザロ徴候]]をどう解釈するかで意見が分かれる。脳死推進派はラザロ徴候を[[脊髄]]による[[反射 (生物学)|反射]]とみなし、脳の機能が残っている証拠にはならないとする。一方で脳死反対派はラザロ徴候に脳の機能が関わっているとする。脳死反対派の一部は、ラザロ徴候に脳が関わっていようといまいと、そのような高度の活動が(たとえば脊髄によって)なされうるならそれは生命反応とみなすべきだと主張する。ラザロ徴候の機序は解明されておらず、この議論は決着していない。 脳が、あるいは大脳が大きいほうが頭がいいという俗説がある。これはヒトの大脳が[[類人猿]]の大脳よりも大きいこと、高齢者の脳が加齢に伴って萎縮すること、[[アルツハイマー病]]などの[[疾患]]では病変部が著しく萎縮することなどにも助長されていよう。しかし脳の重さは(特に人の間で)知能の指標とはならないとされる。[[夏目漱石]]や[[アルベルト・アインシュタイン]]の脳は彼らの死後も保存されているが、その重さを量ってみても正常の範囲を出ない。またクジラやゾウは、ヒトより重い脳を持つ。以上のように、人間が他の動物より賢いのは、脳の大きさではなく、大脳皮質の複雑さ、神経細胞の数やグリア細胞によるものである<ref>{{Cite web |title=Does having a bigger brain make you smarter? |url=https://www.brainfacts.org:443/brain-anatomy-and-function/anatomy/2014/the-bigger-your-brain-the-smarter-you-are |website=www.brainfacts.org |access-date=2023-04-02 |language=en |first=Alexis |last=Wnuk}}</ref>。 == 性差 == ヒトを含む[[脊椎動物]]の脳はその[[性別]]により異なった構造を持つ。これは大脳解剖学における肉眼観察や、[[ラット]]に対して脳の形成期に[[性ホルモン]]を投与する実験により確かめられている。脳の部分で性差があるとみられている部分は、大脳半球、左右の脳をつなぐ前交連や脳梁、本能をつかさどる視床下部である(脳の性分化)。ただし雄の猿を幼少期から雌として育てれば雌と同じ行動をとるようになるなどの報告もあるため、これらの性差がどれほど行動に影響を及ぼすかは定かでない。 ヒトの場合、男女は精神的・文化的に異なった傾向を示すことがある([[ジェンダー]]参照)が、脳の性差がこれの一因を担っていると考えられている。ただし脳の性差が人格形成にどれほどの割合で貢献をしているかは不明である(見えにくくなった後天的な環境の影響が、生得的な性差であると認識される場合もあるため)。 女性は論理的思考時に「論理的思考を司る左脳」を「想像力を働かせる右脳」と連動して働かすことができ、男性はこれが不得手であるが訓練によって可能であるといわれることがあるが、これらの説の根拠は女性の脳梁(左右の大脳半球を連絡する神経繊維)の多さのみに基づいている。(以下、脳の左右差も参照) また男女の脳の質の違いとして、女性の脳は男性の脳よりも皮質が厚くなる傾向が複数の研究で確認されている<ref>{{cite journal|last=Eileen|first=Luders|last2=Katherine|first2=Narr|last3=Paul|first3=Thompson|last4=David|first4=Rex|last5=Roger|first5=Woods|date=August 2005|title=Gender effects on cortical thickness and the influence of scaling.|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/16124013|journal=Human Brain Mapping|volume=27|page=314-324}}</ref><ref>{{Cite book|title = Sex difference in the human brain, their underpinnings and implications|url = https://books.google.com/books?id=JFpq6hYQRhQC|publisher = Elsevier|date = 2010-12-03|isbn = 9780444536310|language = en}}</ref><ref>{{cite journal|last=Stuart|first=Ritchie|last2=Simon|first2=Cox|last3=Xueyi|first3=Shen|last4=Michael|first4=Lombardo|last5=Lianne|first5=Reus||first18=Deary|date=August 2018|title=Sex Differences in the Adult Human Brain: Evidence from 5216 UK Biobank Participants|url=https://doi.org/10.1093/cercor/bhy109|journal=Cerebral Cortex|volume=28|page=2959–2975}}</ref>。 === 質量・容積 === {| width=400px align="right" |- |colspan=2|[[File:頭脳の容積の人種平均.png|right|400px|]] |- |colspan=2|<center>[[ヒト]][[男性]]および[[女性]][[算術平均]][[頭脳]]の[[容積]] (1984年)<ref>Kenneth L. Beals, Courtland L. Smith, and Stephen M. Dodd. Brain Size, Cranial Morphology, Climate, and Time Machines CURRENT ANTHROPOLOGY V01. 25, NO 3, June 1984 01984 by The Wenner-Gren Foundation for Anthropological Research 0011-320418412503-0003S2 25 (pp. 304).</ref></center> |- | valign=top |{{legend|#1223DE|1450 cm<sup>3</sup> 以上}}{{legend|#5CFFEF|1400〜1449 cm<sup>3</sup>}}{{legend|#92FF4A|1350〜1399 cm<sup>3</sup>}}{{legend|#F8FF33|1300〜1349 cm<sup>3</sup>}}||{{legend|#D68B13|1250〜1299 cm<sup>3</sup>}}{{legend|#E31C0E|1200〜1249 cm<sup>3</sup>}}{{legend|#911007|1200 cm<sup>3</sup> 以下}}{{legend|#5E5E5E|人が住んでいない}} |} [[哺乳類]]では脳容積と体容積がおおむね対数比例する。まず観察される点として、頭蓋骨の大きさは概ね体格に比例し、男性の脳は女性よりも大きく重い。出生時は性別による有意差は無く、男女ともに370〜400グラムである。成人では、男性は1350〜1500グラム、女性では1200〜1250グラムであり、これは体重の約2%にあたる。なお、性差・人種差を除外した同質な人類集団同士の比較では脳の大きさは[[知能指数]]と[[相関係数]]0.4程度の相関があることが知られる。(研究により異なる) 認知能力と脳の大きさの関連について13,600人以上の非常に大きなサンプルを用いて行われた研究では、[[相関係数]]は0.19であり、同性間では脳の大きさは認知テストの結果の約2%に影響するが、男女の認知テストの平均スコアには有意な差は見られず、男女の脳の大きさの違いは認知能力の差には繋がらなかった。研究者は脳の質の性差による可能性があるとしている<ref name=":3">{{cite journal|last=Gideon|first=Nave|last2=Wi|first2=Jung|last3=Richard|first3=Linnér|last4=Joseph|first4=Kable|last5=Philipp|first5=Koellinger|date=November 30, 2018|title=Are Bigger Brains Smarter? Evidence From a Large-Scale Preregistered Study.|url=https://doi.org/10.1177/0956797618808470|journal=Psychological Science|volume=30|page=43-54}}</ref>。 === 活動 === [[ポジトロン断層法]]によって様々な精神活動の際に脳が働く様子を調べると、男性は主に左半球が、女性は比較的均質に働くとの報告がある。ただしこれをして「女性は左右の脳を満遍なく働かせることができ、男性の脳活動は左脳に依存するところが大きい」とはならない。ポジトロン断層法自体は血流や代謝が増加した部分が集中的に活動したとする仮定の下に行われるものだが、これによる脳活動の測定はあくまで相対的な活動の増大を示すものである。これについても[[脳機能局在論]]を参照されたい。 === 周期性 === [[月経]]に代表されるように女性は身体的な周期変動を持っている。またそれに伴って精神的にも周期的に変動すると指摘されることもある。この周期性を支配しているのが[[下垂体]]から分泌される[[卵胞刺激ホルモン]]と[[黄体形成ホルモン]]である。 男性の脳ではこのような周期性はない。胎生期に[[精巣]]から分泌された[[テストステロン]](アンドロゲン・シャワーとよばれる)によるものだと考えられている。 == 大脳半球の左右差 == {{Main|脳機能局在論}} ヒト特有の大脳半球の左右の機能についての学説は、古い時代の[[てんかん]]患者の治療のために行った、[[分離脳|脳梁の切除]]や、手術中に脳に電気刺激などをほどこし患者に質問を行った場合の観察記録から推測された仮説が多い。それらの少ない観察例から拡大解釈されたもの、その拡大解釈をさらに拡大解釈し、歪曲された俗説が非常に多いので注意が必要である。 しかしながら、脳専門医の中には、左右の脳半球に機能分布の違いを認める医師もいる。病巣や事故によって損なわれた脳の部位と、外から観察できる機能欠損の関連性に経験則があてはまるからである。また、非常に希なケースを除いて、[[言語野]]が大脳左半球に有るのは確かである。一方で、論理的思考について重要な機能が左半球にあるのは確かだが、右大脳の前頭野の欠損によって「順序立った行動」が不可能になった例が、カナダの[[ワイルダー・ペンフィールド]]医師の姉の報告例などに見られる。 他に確認の取れている事実として、まずヒトの大脳では左半球のほうが右半球より若干大きいことや、身体の右側の制御を左半球、左側の制御を右半球が行っていることなどは判明している。脳の左右の大きさの違いは医療機器で即座に確認でき、左右脳と身体の制御の関連性については、脳の欠損半球と、麻痺がおこる身体部位との関連から明らかだからである。 しかしながら、脳という器官の[[複雑性]]をかんがみた場合、ある能力について、どちらかの半球だけが機能しているといえるほど単純なものではなく、またそれを裏付けるデータもない。 大多数の研究者が特定の精神機能の中枢とみなしている領野は今のところ、末梢との神経接続が解剖的に調べられている初期知覚領野・運動野を除けば言語野しかない。さらに左脳と右脳がそれぞれ論理的思考・創造的思考を処理し、もう片方がそれを担当していないという明確な証拠や実験データはない。 [[2010年]]、脳の神経細胞を三次元的に培養した結果、[[神経突起]]の進む方向を決定する[[成長円錐]]にある[[糸状仮足]]が右回りで伸縮していることが玉田らの研究により明らかとなり<ref>{{Cite journal|author=Tamada, A., Kawase, S., et al.|year=2010|title=Autonomous right-screw rotation of growth cone filopodia drives neurite turning|journal=J. Cell Biol.|volume=188|issue=3|pages=p.p.429-441|issn=0021-9525|doi=10.1083|id=jcb.200906043|url=http://jcb.rupress.org/cgi/content/abstract/188/3/429|accessdate=2010-02-21}}</ref>、脳の左右の機能差に関連しているのではないかと注目されている<ref>{{Cite web|和書|author=奥野敦史|date=2010-02-02|url=http://mainichi.jp/select/science/news/20100202ddm012040080000c.html|title=脳細胞:「ひげ」は右回り 左右の脳に非対称性 理研、大阪大チームが解明|pages=13版、p24|publisher=毎日新聞|accessdate=2010-02-21}}</ref>。 ==脳とコレステロール== [[file:Human cerebral cortex.png|300px|thumb|脳の[[冠状断面]]。{{Legend|gray|[[大脳皮質]]([[灰白質]])|border=1px solid #000}}{{Legend|lightgray|[[白質]]|border=1px solid #000}}]] 脳、神経系に[[コレステロール]]全量の1/3もが含まれているが、[[神経細胞]]から伸びて神経伝達を司っている[[軸索]]を覆っている[[ミエリン鞘]]にコレステロールが大量に含まれているためである。コレステロールは、ミエリン鞘の絶縁性を保持する役割を果たしている。絶縁されたミエリン鞘の切れ目である[[ランヴィエの絞輪]]ごとでの[[跳躍伝導]]により高速の神経信号伝達に寄与している<ref name=jmi>[http://www.jmi.or.jp/qanda/bunrui3/q_042.html コレステロールの体内での働きは? - よくある質問] (財団法人日本食肉消費総合センター)</ref>。実際、哺乳類である豚や牛などでは脳総重量の2-3%がコレステロールで占められている。ヒトでは脳総重量の2.7%がコレステロールで占められている。 脳の[[灰白質]]は、中枢[[神経系]]の神経[[組織 (生物学)|組織]]のうち、[[神経細胞]]の細胞体が存在している部位のことである。これに対し、神経細胞体がなく、神経線維ばかりの部位を[[白質]]と呼ぶ。白質は明るく光るような白色をしているのに対し、灰白質は、白質よりも色が濃く、灰色がかって見えることによる。これは、有髄神経線維の[[髄鞘|ミエリン鞘]]の主成分として大量に存在している[[コレステロール]]<ref name=jmi/>や[[リン脂質|ミエリン]]が白い色をしているためで、白質には、灰白質に比べて、有髄神経線維が多いからと考えられている。 [[Image:Complete neuron cell diagram ja.svg|thumb|400px|'''[[神経細胞]]の構造図''' [[:en:Dendrites]]=[[樹状突起]]、[[:en:Axon]]=[[軸索]]、(以下略)]] ==脳と脂肪酸== [[細胞膜]]は流動性を持ち、脂質や膜タンパクは動いている。この流動性は膜の構成物質で決まる。たとえば、[[リン脂質]]を構成する[[脂肪酸]]の不飽和度(二重結合の数)に影響され、[[二重結合]]を持つ炭化水素が多いほど(二重結合があるとその部分で炭化水素が折れ曲がるので)リン脂質の相互作用が低くなり流動性は増すことになる。例えば[[ドコサヘキサエン酸]](DHA)は不飽和度が極めて高く細胞膜の流動性の保持に寄与している。 神経細胞は、[[軸索]]や[[樹状突起]]などの凹凸の多い入り組んだ構造を有しているため、膜成分が極端に多くなっている<ref>浜崎智仁「[http://www.kinjo-u.ac.jp/orc/document/topic6.pdf 13:00 ~13:40脂質と精神]」金城学院大学/日本脂質栄養学会共催シンポジウムの抄録 6章p10『[http://www.kinjo-u.ac.jp/orc/research/topic.html 脂質栄養学の新方向とトピックス]』</ref>{{信頼性要検証|date=2012年10月}}。 == 食材として == {{Main|脳 (食用)}} 牛(成牛および子牛)、豚、羊、ウサギなどの家畜の脳は食材としても用いられる。主にヨーロッパおよび中東では肉屋の店先のほかスーパーマーケットでも流通している。世界各地の様々な料理で、脳そのものを煮る、焼く、揚げるなどの料理法で食べる他、また煮込み料理の出汁取りとしても使われる。[[このわた]]の様な独特の食感がある。 [[牛海綿状脳症|BSE]]の影響により一時期ヨーロッパでは食材としての脳や骨髄の流通は減少したが、伝統的食材としての存在は未だに広く一般に受け入れられている。 == 脳研究に関する国家プロジェクト == 近年、先進国を中心に、脳の理解を促進するための大型国家科学プロジェクトが組まれている。 米国の「[[ブレイン・イニシアチブ]]」、欧州の「[[Blue Brain|ヒューマンブレインプロジェクト]]」日本の「革新的技術による脳機能ネットワークの全容解明プロジェクト(Brain/MINDS)」中国の「チャイナブレインプロジェクト」等がある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!--=== 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}}--> === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == *Werner Kahle、長島聖司・岩堀修明訳『分冊 解剖学アトラスIII』第5版(文光堂、ISBN 4-8306-0026-8、日本語版2003年) *[[オラフ・スポーンズ|スポーンズ]]、下野昌宣訳『脳のネットワーク』 (みすず書房、ISBN 9784622088844、2020年) {{Spedia|Brain|Brain}} == 関連項目 == {{div col}} * [[シナプス]] * [[神経幹細胞]] * [[神経伝達物質]] * [[神経学]] * [[脳神経外科学]] * [[精神医学]] * [[脳科学]] * [[神経科学]] * [[nou-darake]] - [[プラナリア]]の脳形成に関わる遺伝子。 * [[脳機能局在論]] (左脳、右脳) * [[ブロードマンの脳地図]] * [[脳トレ]] * {{ill2|脳保護|en|Neuroprotection}}、[[脳低温療法]] * [[脳死]] * [[心]] * [[精神]] * [[感情]] * [[意識]] * [[思考]] * [[認識]] * [[心身問題]] * [[心理学]] * [[認知心理学]] * [[認知科学]] * [[ニューラルネットワーク]] * [[フランシス・マジャンディー#ベル・マジャンディーの法則|ベル・マジャンディーの法則]] {{div col end}} == 外部リンク == {{Commons|Category:Brain|脳}} {{Wiktionary|脳}} * [http://www.riken.go.jp/r-world/info/release/press/2007/070109/index.html 脳の右と左の構造の違いを生み出す分子メカニズムを解明] 独立行政法人 [[理化学研究所]] * {{Kotobank}} {{nervous system}} {{終脳}} {{大脳基底核}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:のう}} [[Category:神経学]] [[Category:解剖学]] [[Category:頭]] [[Category:脳|*]]
2003-05-03T14:06:46Z
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火山
火山(かざん、英: volcano)は、地殻の深部にあったマグマが地表または水中に噴出することによってできる、特徴的な地形をいう。文字通りの山だけでなく、カルデラのような凹地形も火山と呼ぶ。火山の地下にはマグマがあり、そこからマグマが上昇して地表に出る現象が噴火である。噴火には、様々な様式(タイプ)があり、火山噴出物の成分や火山噴出物の量によってもその様式は異なっている。 火山の噴火はしばしば人間社会に壊滅的な打撃を与えてきたため、記録や伝承に残されることが多い。 Volcano は、ローマ神話で火と冶金と鍛冶の神ウルカヌス(ギリシア神話ではヘーパイストス)に由来し、16世紀のイタリア語で volcano または vulcano と使われていたものが、ヨーロッパ諸国語に入った。このウルカヌス(英語読みではヴァルカン)は、イタリアのエトナ火山の下に冶金場をもつと信じられていた。シチリア島近くのヴルカーノ島の名も、これに由来する。日本で volcano の訳として「火山」の語が広く用いられるようになったのは、明治以降である。 火山の地下には、必ずマグマ溜りが存在する。マグマ溜りの深さは、地下数kmから数十kmとされる。このマグマ溜りから岩盤を突き抜け、何らかの理由でマグマが地上に放出される、その地点が火山である。マグマが地上に到達するまでに通るルートを火道と呼び、火道が地上に抜ける地点を噴火口と呼ぶ。火道はしばしば主火道から逸れて形成され、その副火道が地上に噴出すると側火山と呼ばれる小火山を形成する。また、副火道が地上に噴出せず地下にとどまったままのものを岩脈、岩脈が地層に沿って平行に地中で広がったものを岩床と呼ぶ。 現在の地形に加えて、形成過程や内部構造も考慮して分類されている。 同じ火口から何度も噴火を繰りかえして、大きな火山体を成長させる火山。 1回だけの噴火で形成されたもの。複成火山の一部である場合も多い。また、単成火山が多数集まっていて、全体が一連のマグマ活動と考えられる場合、単成火山群として複成火山扱いとすることがある(伊豆東部火山群、阿武火山群、小値賀火山島群、ル・ピュイ=アン=ヴレの小火山群 (フランス) など)。 複成火山の主火口から離れたところにできる小火山を、側火山または寄生火山と呼ぶ。その名の通り、大火山の側にできる別の火口である。多くは一度の噴火で形成される単成火山である。 1911年、ドイツのカール・シュナイダーは、火山地形を次のように分類した。 この分類は、日本では、特に地理分野で広く使われたが、海外では、過去においてもほとんど使われていない。この分類は、成因をまったく考慮せずに、現在の地形だけで定義したものであった。火山の研究が進むにつれて、形成過程がまったく違うのに、侵食などによって同じような地形になってしまう例(たとえば、成層火山であるのに侵食で平坦になった偽アスピーテ)が次々発見され、シュナイダーの分類では不都合であることが明らかとなった。このことは、1950年代にはすでに認識され、マールを除き、日本の火山学、地質学においては、1970年ごろからほとんど使用されないようになった。ただし、地理の分野では、現在でも使用例があり、観光地の看板などにこれらの名称が残っている場合があるので、完全に、死語となっているわけではない。多くの火山研究者はシュナイダーの分類用語を使わないことを推奨している。 かつては活発に活動中である活火山、噴火活動の記録はあるがその時点において噴火活動が起きていない休火山、有史以来噴火活動の記録のない死火山に分類されてきた。しかし、休火山や死火山が突如として噴火する事態が多発し、実状に合わないとして段階的に見直しがされた。現在では「活火山」と「それ以外の火山」に分けられている。日本の火山噴火予知連絡会・気象庁による定義によれば、活火山は「概ね過去1万年以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動のある火山」とされている。また、活火山内においても活動の頻度には大きな差があるため、火山噴火予知連絡会は活火山をその噴火頻度によってABCの3つのランクに分けて分類している。 火山は地球上のどこにでもできるわけではない。火山ができる場所は大きく分けて3種類ある。 これら3種類以外に、過去にスーパープルームと呼ばれる、核付近からの大規模なマントル上昇による大噴火もあったと考えられている。また、21世紀初頭には、プチスポットと呼ばれる、上記3タイプに該当しない新たな海底火山が発見されている。 海底火山が噴火を繰り返し頂上部分が水面から上に出た場合、その部分は島となる。火山島である。小規模な火山島は噴火を繰り返す火口部分のみが海面上に出ており居住は不可能であるが、大規模な火山島の場合、火口から離れた海岸部分を中心に人が居住することが多い。火山島は養分に恵まれた肥沃な土質をしており、標高が高いため雨も降りやすく、ポリネシア人の入植した島々においては火山島の方がサンゴ礁島に比べタロイモなどの農耕がおこないやすく豊かな文明を築くことが多かった。ただし、火山島は海底火山の火口部分が海面上に出たものに過ぎず、いったん噴火が起きた際には逃げ場が存在しないため、被害が拡大する傾向がある。 また、海底火山が噴火して新たに島を作ったり面積を大幅に広げることは、珍しいことではない。近年においては、1973年と2013年に小笠原諸島の西之島近傍において海底火山が噴火して新島ができ、西之島とつながった「西之島新島」などが知られる。ただし、こうした島の多くは火山活動が収まると付近の潮流に削られて面積を縮小させ、再び海中に没することも多い。イタリアのシチリア島の沖合に存在する海底火山は1831年に噴火し、フェルディナンデアと呼ばれる島を形成した。この島は地中海の交通の要衝にあったためにイギリス、フランス、スペイン、両シチリア王国の4か国が領有権を主張する事態となったが、島はその年のうちに波に削られ再び海中に没した。 地下のマグマが火道を通って噴出することを噴火と呼ぶ。噴火はマグマの組成によって変化し、粘性の低い玄武岩が主体となっているマグマの場合は火口から溶岩流が流れ出すのに対し、粘性の高い流紋岩が主体となっている場合は大規模な爆発を起こすことが多く、爆発しない場合は溶岩ドームを形成する。粘性が玄武岩と流紋岩の中間程度である安山岩を主体としている場合は噴火タイプも両者の中間であり、溶岩流が流れ出すこともあれば爆発を起こしたり溶岩ドームを形成することもある。 いったん噴火が起きると、火口からはさまざまな火山噴出物が噴出する。マグマがそのまま液体として流れ出したものが溶岩であり、冷え固まって固体となると火山灰、火山弾、軽石、スコリアなどの火山砕屑物となり、また火山ガスなどの気体も噴出する。これらの噴出物は非常に高温であり、いったん噴火すると周囲の土地に多大な被害をもたらす。溶岩流は流速が遅く人が直接飲み込まれることはそれほど多くないが、周囲の土地を飲み込んだ場合そのまま固化して岩石となるため、農地や住宅地が呑み込まれた場合使用不能となる。火山ガスは高温の上二酸化炭素、二酸化硫黄、硫化水素などの有毒な気体が多く含まれ、また酸素が少ないため、有毒成分の吸入や酸欠によって人間が死亡することも珍しくない。火山ガスは密度が高いため特にくぼ地にたまりやすく、風向きや火山活動の活発さによっては特に大噴火となっていなくともガスにまかれて死亡することがまれにある。 火山砕屑物が火山ガスや水蒸気などの気体とともに流れ下る火砕流は高温の上非常に速度が速く、発生した場合多数の人々が死亡することが多い。火砕流による大災害の例としては、79年に起きてポンペイの街を飲み込んだヴェスヴィオ火山の噴火や、1902年に西インド諸島のフランス領マルティニーク島にあるプレー山で発生し、島の首都であるサンピエール市を飲み込んで28000~30000人の死者を出したものなどがある。噴火により積もった灰が雨などと一緒に一気に流れる火山泥流も同様に直接的な被害が大きく、非常に危険である。 こうした直接の噴出物のほか、噴火によって火山の山体そのものが損傷し、衝撃によって崩壊することがある。山体崩壊と呼ばれるこの大規模な山崩れが起こった場合、多数の人命が失われることが多い。さらにこの山体崩壊が海の近くで起こった場合には大量の土砂がそのまま津波を起こし、対岸にも巨大な被害を与える。この山体崩壊による津波としては、1792年の雲仙岳の噴火によって眉山が山体崩壊を起こし、対岸の肥後を大津波が襲った島原大変肥後迷惑などが知られている。また、周囲に大量に降り積もった火山灰は安定しておらず、降雨があった場合土石流を起こして流れ下り、やはり多大な被害をもたらす。 また、大気中に放出された火山灰は飛行機の運行に対して重大な影響をもたらす。噴煙や火山灰は飛行機の視界を遮るほか、火山灰が機体に当たれば損傷を起こすし、なによりエンジンに火山灰が吸いこまれた場合、最悪の場合にはエンジンが停止してしまう場合もある。こうしたことから大規模な火山噴火が起きた場合、火山周辺のみならず周囲の広い範囲にわたって飛行が禁止となり、交通や経済に重大な損害をもたらす。2010年にアイスランドのエイヤフィヤトラヨークトルで起こった噴火においては、アイスランドのみならずヨーロッパ大陸の広い範囲において飛行が禁止され、数十万人の足に影響が出た(2010年のエイヤフィヤトラヨークトルの噴火による交通麻痺)。 海底火山の噴火の際は通常被害がもたらされることはないが、噴火の際に火口の直上を船舶が航行していた場合、噴火によって船舶が吹き飛ばされ遭難することがまれにある。こうした事故の例としては、1952年の明神礁の噴火の際に海上保安庁の測量船「第五海洋丸」が巻き込まれ、職員31名が殉職した事故などがある(第五海洋丸の遭難)。 火山活動が人口集中地域の近くで起き活動が沈静化しない場合、その土地の住民は移住を余儀なくされる。近年では1994年にパプアニューギニアの主要港のひとつだった東ニューブリテン州都のラバウルにおいて近傍のタブルブル山とブルカン火山が同時噴火し、5m以上の降灰によって町が埋め尽くされ、州都が20km離れたココポの街に移転された例や、1997年に西インド諸島にあるイギリス領モントセラトのスーフリエール・ヒルズにおいて大噴火が発生し、首都プリマスを含む同島の南半分が立ち入り禁止区域となって、首都を北部の小村であるブレイズへと移転せざるを得なくなった例などがある。 こうした一般的な噴火被害のほか、破局噴火と呼ばれる非常に大規模な噴火の場合、火山灰が大気圏に広がって太陽光を遮り、火山の冬と呼ばれる低温期を数年にわたってもたらすことがある。約74000年前に起きたインドネシア・トバ火山の大噴火は気温を急降下させ黎明期の人類に大きな影響を与えたとする、いわゆるトバ・カタストロフ理論が存在するほか、1815年のタンボラ山噴火や1991年のフィリピン・ピナトゥボ山噴火においては地球の気温低下が起きたことが確認されている。 火山は被害をもたらすばかりではなく、人類の生活に密接につながり、さまざまな恩恵を与えている。火山はカルデラ湖や火山活動により形成された美しい山容、変化にとんだ地形、噴煙を上げる火山活動そのものなどを目的とした観光客が多く訪れ、その地域の観光の目玉となっていることがある。日本のシンボルともされる富士山も火山であり、噴火を繰り返したことによる成層火山特有の秀麗な山容から大観光地となっており、登山客も多く訪れる。このほか、雲仙岳や阿蘇山なども活発な火山であると同時に大観光地ともなっている。草津白根山のように火山ガスの成分が溶け込んだ美しい火口湖を持ち、観光名所となっているところもある(ただし、2014年以降、噴火警戒レベル上昇によって草津白根山湯釜火口の観光はできなくなっている)。 観光地としての火山は風景そのもののほか、地下のマグマによって熱せられた温泉が周囲に多く湧出するため、より価値の高いものとなっている。草津温泉や別府温泉をはじめ、火山性の温泉は日本にも世界各地にも存在する。中でも日本は火山が多いためそれにつれて温泉も多くなり、世界有数の温泉数を誇る。また、火山は透水性が高いため、山麓は多量の湧水に恵まれ、市民の生活や工業用水などに使用される。 火山はエネルギー源としても利用可能である。火山周辺の高い地熱を生かし、地下の熱水によってタービンを回し発電することを地熱発電と呼び、新エネルギーの重要な一角を占めている。日本においては地熱発電は国定公園などの規制や温泉地の反発、発電自体の非効率性などによって総発電量に占める割合は非常に低く、世界でもそれほど利用率は高くないが、顕著な例外がアイスランドである。アイスランドの総発電量の54.9%(2005年)が地熱発電によってまかなわれており、これは世界でも際立って高い。さらに発電以外にも、アイスランドの地熱利用の半分以上を占める暖房利用のほか、魚の養殖、温水プール用など、アイスランドの地熱利用は多彩なものである。アイスランドの地熱利用がさかんなのは、国土自体が海嶺の陸上部分にあり火山が非常に多いこと、人口が少なく、人口に比して火山のエネルギー量がきわめて豊富であることがあげられる。 火山の火口付近にはしばしば硫黄が露出しており、20世紀半ばに石油精製の際の脱硫によって大量に硫黄が供給されるようになるまでは盛んに採掘が行われていた。また火山のマグマには有用な鉱物も多く含まれており、何らかの理由で集積を起こすことで鉱床となることがある。火山性の鉱床としては、熱水鉱床や海底熱水鉱床、噴気鉱床などがある。 火山を研究する学問を総称して火山学と呼ぶ。火山はその特異な現象と噴火した際の大きな被害などから古くから注目されており、さまざまな記録が残されている。1943年に北海道で昭和新山が生まれた際には、三松正夫がその隆起していく過程を「新山隆起図」という一枚の図にまとめた。これはミマツダイヤグラムと呼ばれ、活火山の山体形成過程の詳細な記録として非常に貴重なものである。 火山学において非常に期待されている分野に、噴火予知がある。これは火山性地震の発生、火山性微動の増加や火口付近の隆起、地下水の温度の上昇や、火山ガスの化学組成の変化などさまざまな証拠を元に、ある程度の噴火の予測を立てることである。地下の圧力が高まっていれば上記のような変動が起き、それが増加していれば地下の活動が活発化していると考えられるためある程度の予測は可能であるが、あくまで予測であり、完全な予知はもとより不可能である。また、火山の噴火タイプはその山ごとによって違い、さらには同じ山ですら前回と全く同じ活動をするとは限らないため、さらに予測は困難となる。上記のような変動が起きていてもその後収束に向かうこともあれば、ほぼ直前までわずかな変動しかなかったものが突然噴火することさえある。噴火予知に成功した例としては、2000年の有珠山噴火が挙げられる。有珠山は20年から30年周期で定期的に噴火を繰り返しており、また前兆が必ず現れることから予測しやすかったことが成功へとつながった。一方、2014年の御嶽山噴火においては火山性地震は増加傾向にあったものの山体膨張や火山性微動が観測されなかったため噴火警戒レベルを上昇させることはなく、結果として多くの犠牲者を出すこととなった。 日本においては各火山の活動状況に応じて必要な防災対応や警戒範囲を示すものとして2007年12月より気象庁が噴火警戒レベルを発表しており、噴火による重大な災害が起こる恐れがある場合には噴火警報が発表される。また、2014年の御嶽山噴火の反省を踏まえ、それまでも出されていた火山の状況に関する解説情報を一般登山者向けにも伝えるホームページを気象庁が開設したほか、臨時情報を「臨時」として強調するなどの改善を行った。また、日本国内の多くの火山においては噴火時を想定したハザードマップが作成され公開されている。 火山の噴火が確認されている天体は、地球、木星の衛星イオ、土星の衛星エンケラドゥス、海王星の衛星トリトンである。 金星、火星、タイタンにも、噴火は確認されていないが、火山が存在する。火星の最も新しい噴火としては、240万年前にオリンポス山が噴火した痕跡が発見されている。地球の基準に照らせば死火山となるが、火星の火山は長い休止時期を挟んで間歇的に活動するとの説もあり、実際のところ死火山か活火山かは不明である。なお、オリンポス山の標高は約27kmにのぼり、太陽系最高峰でもある。これほど標高が高くなったのは、火星にはプレートテクトニクスが存在しないため、ホットスポットから火山が移動せず、噴出した溶岩が同じ場所に堆積し続けたためである。同じ理由で、火星にはアルシア山(標高19km)やアスクレウス山(標高18km)、パボニス山(標高14km)といった巨大火山が点在する。金星の火山の活動状況は不明な点が多いが、数億年前に大規模な地質活動は終わったと見られている。 月には、海と呼ばれる広大な玄武岩平原が存在し、地質時代(最も新しいモスクワの海東領域で25億年前)には、活発な火山活動が見られた。ただし、火山と言えるような地形はない。 太陽系中で現在も地球と同系統の火山活動が活発に起こっている場所はイオである。イオの地表には400個以上の火口が点在し、2007年にはニューホライズンズ探査機が、高さ300kmにものぼる巨大な噴火を確認した。イオの火山活動は衛星全体に点在するため、星全体が火山から噴出した硫黄化合物によっておおわれており、そのため星自体が硫黄化合物の色である赤と黄色に見える。 岩石天体の火山噴出物は、地球と同様のケイ酸塩化合物だが、氷天体の火山噴出物はまったく異なる。タイタンやエンケラドゥスの火山は水、トリトンの火山は窒素を主に噴出する。それぞれの天体の常温では固体であり、地殻の構成物質である。そのような氷天体に見られる火山は、氷のマグマのようなものを噴出していることから氷の火山と呼ばれる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "火山(かざん、英: volcano)は、地殻の深部にあったマグマが地表または水中に噴出することによってできる、特徴的な地形をいう。文字通りの山だけでなく、カルデラのような凹地形も火山と呼ぶ。火山の地下にはマグマがあり、そこからマグマが上昇して地表に出る現象が噴火である。噴火には、様々な様式(タイプ)があり、火山噴出物の成分や火山噴出物の量によってもその様式は異なっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "火山の噴火はしばしば人間社会に壊滅的な打撃を与えてきたため、記録や伝承に残されることが多い。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "Volcano は、ローマ神話で火と冶金と鍛冶の神ウルカヌス(ギリシア神話ではヘーパイストス)に由来し、16世紀のイタリア語で volcano または vulcano と使われていたものが、ヨーロッパ諸国語に入った。このウルカヌス(英語読みではヴァルカン)は、イタリアのエトナ火山の下に冶金場をもつと信じられていた。シチリア島近くのヴルカーノ島の名も、これに由来する。日本で volcano の訳として「火山」の語が広く用いられるようになったのは、明治以降である。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "火山の地下には、必ずマグマ溜りが存在する。マグマ溜りの深さは、地下数kmから数十kmとされる。このマグマ溜りから岩盤を突き抜け、何らかの理由でマグマが地上に放出される、その地点が火山である。マグマが地上に到達するまでに通るルートを火道と呼び、火道が地上に抜ける地点を噴火口と呼ぶ。火道はしばしば主火道から逸れて形成され、その副火道が地上に噴出すると側火山と呼ばれる小火山を形成する。また、副火道が地上に噴出せず地下にとどまったままのものを岩脈、岩脈が地層に沿って平行に地中で広がったものを岩床と呼ぶ。", "title": "火山の構造" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "現在の地形に加えて、形成過程や内部構造も考慮して分類されている。", "title": "火山の分類" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "同じ火口から何度も噴火を繰りかえして、大きな火山体を成長させる火山。", "title": "火山の分類" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1回だけの噴火で形成されたもの。複成火山の一部である場合も多い。また、単成火山が多数集まっていて、全体が一連のマグマ活動と考えられる場合、単成火山群として複成火山扱いとすることがある(伊豆東部火山群、阿武火山群、小値賀火山島群、ル・ピュイ=アン=ヴレの小火山群 (フランス) など)。", "title": "火山の分類" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "複成火山の主火口から離れたところにできる小火山を、側火山または寄生火山と呼ぶ。その名の通り、大火山の側にできる別の火口である。多くは一度の噴火で形成される単成火山である。", "title": "火山の分類" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1911年、ドイツのカール・シュナイダーは、火山地形を次のように分類した。", "title": "火山の分類" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "この分類は、日本では、特に地理分野で広く使われたが、海外では、過去においてもほとんど使われていない。この分類は、成因をまったく考慮せずに、現在の地形だけで定義したものであった。火山の研究が進むにつれて、形成過程がまったく違うのに、侵食などによって同じような地形になってしまう例(たとえば、成層火山であるのに侵食で平坦になった偽アスピーテ)が次々発見され、シュナイダーの分類では不都合であることが明らかとなった。このことは、1950年代にはすでに認識され、マールを除き、日本の火山学、地質学においては、1970年ごろからほとんど使用されないようになった。ただし、地理の分野では、現在でも使用例があり、観光地の看板などにこれらの名称が残っている場合があるので、完全に、死語となっているわけではない。多くの火山研究者はシュナイダーの分類用語を使わないことを推奨している。", "title": "火山の分類" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "かつては活発に活動中である活火山、噴火活動の記録はあるがその時点において噴火活動が起きていない休火山、有史以来噴火活動の記録のない死火山に分類されてきた。しかし、休火山や死火山が突如として噴火する事態が多発し、実状に合わないとして段階的に見直しがされた。現在では「活火山」と「それ以外の火山」に分けられている。日本の火山噴火予知連絡会・気象庁による定義によれば、活火山は「概ね過去1万年以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動のある火山」とされている。また、活火山内においても活動の頻度には大きな差があるため、火山噴火予知連絡会は活火山をその噴火頻度によってABCの3つのランクに分けて分類している。", "title": "火山の分類" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "火山は地球上のどこにでもできるわけではない。火山ができる場所は大きく分けて3種類ある。", "title": "火山のできる場所" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "これら3種類以外に、過去にスーパープルームと呼ばれる、核付近からの大規模なマントル上昇による大噴火もあったと考えられている。また、21世紀初頭には、プチスポットと呼ばれる、上記3タイプに該当しない新たな海底火山が発見されている。", "title": "火山のできる場所" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "海底火山が噴火を繰り返し頂上部分が水面から上に出た場合、その部分は島となる。火山島である。小規模な火山島は噴火を繰り返す火口部分のみが海面上に出ており居住は不可能であるが、大規模な火山島の場合、火口から離れた海岸部分を中心に人が居住することが多い。火山島は養分に恵まれた肥沃な土質をしており、標高が高いため雨も降りやすく、ポリネシア人の入植した島々においては火山島の方がサンゴ礁島に比べタロイモなどの農耕がおこないやすく豊かな文明を築くことが多かった。ただし、火山島は海底火山の火口部分が海面上に出たものに過ぎず、いったん噴火が起きた際には逃げ場が存在しないため、被害が拡大する傾向がある。", "title": "火山島" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "また、海底火山が噴火して新たに島を作ったり面積を大幅に広げることは、珍しいことではない。近年においては、1973年と2013年に小笠原諸島の西之島近傍において海底火山が噴火して新島ができ、西之島とつながった「西之島新島」などが知られる。ただし、こうした島の多くは火山活動が収まると付近の潮流に削られて面積を縮小させ、再び海中に没することも多い。イタリアのシチリア島の沖合に存在する海底火山は1831年に噴火し、フェルディナンデアと呼ばれる島を形成した。この島は地中海の交通の要衝にあったためにイギリス、フランス、スペイン、両シチリア王国の4か国が領有権を主張する事態となったが、島はその年のうちに波に削られ再び海中に没した。", "title": "火山島" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "地下のマグマが火道を通って噴出することを噴火と呼ぶ。噴火はマグマの組成によって変化し、粘性の低い玄武岩が主体となっているマグマの場合は火口から溶岩流が流れ出すのに対し、粘性の高い流紋岩が主体となっている場合は大規模な爆発を起こすことが多く、爆発しない場合は溶岩ドームを形成する。粘性が玄武岩と流紋岩の中間程度である安山岩を主体としている場合は噴火タイプも両者の中間であり、溶岩流が流れ出すこともあれば爆発を起こしたり溶岩ドームを形成することもある。", "title": "噴火と火山災害" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "いったん噴火が起きると、火口からはさまざまな火山噴出物が噴出する。マグマがそのまま液体として流れ出したものが溶岩であり、冷え固まって固体となると火山灰、火山弾、軽石、スコリアなどの火山砕屑物となり、また火山ガスなどの気体も噴出する。これらの噴出物は非常に高温であり、いったん噴火すると周囲の土地に多大な被害をもたらす。溶岩流は流速が遅く人が直接飲み込まれることはそれほど多くないが、周囲の土地を飲み込んだ場合そのまま固化して岩石となるため、農地や住宅地が呑み込まれた場合使用不能となる。火山ガスは高温の上二酸化炭素、二酸化硫黄、硫化水素などの有毒な気体が多く含まれ、また酸素が少ないため、有毒成分の吸入や酸欠によって人間が死亡することも珍しくない。火山ガスは密度が高いため特にくぼ地にたまりやすく、風向きや火山活動の活発さによっては特に大噴火となっていなくともガスにまかれて死亡することがまれにある。", "title": "噴火と火山災害" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "火山砕屑物が火山ガスや水蒸気などの気体とともに流れ下る火砕流は高温の上非常に速度が速く、発生した場合多数の人々が死亡することが多い。火砕流による大災害の例としては、79年に起きてポンペイの街を飲み込んだヴェスヴィオ火山の噴火や、1902年に西インド諸島のフランス領マルティニーク島にあるプレー山で発生し、島の首都であるサンピエール市を飲み込んで28000~30000人の死者を出したものなどがある。噴火により積もった灰が雨などと一緒に一気に流れる火山泥流も同様に直接的な被害が大きく、非常に危険である。", "title": "噴火と火山災害" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "こうした直接の噴出物のほか、噴火によって火山の山体そのものが損傷し、衝撃によって崩壊することがある。山体崩壊と呼ばれるこの大規模な山崩れが起こった場合、多数の人命が失われることが多い。さらにこの山体崩壊が海の近くで起こった場合には大量の土砂がそのまま津波を起こし、対岸にも巨大な被害を与える。この山体崩壊による津波としては、1792年の雲仙岳の噴火によって眉山が山体崩壊を起こし、対岸の肥後を大津波が襲った島原大変肥後迷惑などが知られている。また、周囲に大量に降り積もった火山灰は安定しておらず、降雨があった場合土石流を起こして流れ下り、やはり多大な被害をもたらす。", "title": "噴火と火山災害" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "また、大気中に放出された火山灰は飛行機の運行に対して重大な影響をもたらす。噴煙や火山灰は飛行機の視界を遮るほか、火山灰が機体に当たれば損傷を起こすし、なによりエンジンに火山灰が吸いこまれた場合、最悪の場合にはエンジンが停止してしまう場合もある。こうしたことから大規模な火山噴火が起きた場合、火山周辺のみならず周囲の広い範囲にわたって飛行が禁止となり、交通や経済に重大な損害をもたらす。2010年にアイスランドのエイヤフィヤトラヨークトルで起こった噴火においては、アイスランドのみならずヨーロッパ大陸の広い範囲において飛行が禁止され、数十万人の足に影響が出た(2010年のエイヤフィヤトラヨークトルの噴火による交通麻痺)。", "title": "噴火と火山災害" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "海底火山の噴火の際は通常被害がもたらされることはないが、噴火の際に火口の直上を船舶が航行していた場合、噴火によって船舶が吹き飛ばされ遭難することがまれにある。こうした事故の例としては、1952年の明神礁の噴火の際に海上保安庁の測量船「第五海洋丸」が巻き込まれ、職員31名が殉職した事故などがある(第五海洋丸の遭難)。", "title": "噴火と火山災害" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "火山活動が人口集中地域の近くで起き活動が沈静化しない場合、その土地の住民は移住を余儀なくされる。近年では1994年にパプアニューギニアの主要港のひとつだった東ニューブリテン州都のラバウルにおいて近傍のタブルブル山とブルカン火山が同時噴火し、5m以上の降灰によって町が埋め尽くされ、州都が20km離れたココポの街に移転された例や、1997年に西インド諸島にあるイギリス領モントセラトのスーフリエール・ヒルズにおいて大噴火が発生し、首都プリマスを含む同島の南半分が立ち入り禁止区域となって、首都を北部の小村であるブレイズへと移転せざるを得なくなった例などがある。", "title": "噴火と火山災害" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "こうした一般的な噴火被害のほか、破局噴火と呼ばれる非常に大規模な噴火の場合、火山灰が大気圏に広がって太陽光を遮り、火山の冬と呼ばれる低温期を数年にわたってもたらすことがある。約74000年前に起きたインドネシア・トバ火山の大噴火は気温を急降下させ黎明期の人類に大きな影響を与えたとする、いわゆるトバ・カタストロフ理論が存在するほか、1815年のタンボラ山噴火や1991年のフィリピン・ピナトゥボ山噴火においては地球の気温低下が起きたことが確認されている。", "title": "噴火と火山災害" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "火山は被害をもたらすばかりではなく、人類の生活に密接につながり、さまざまな恩恵を与えている。火山はカルデラ湖や火山活動により形成された美しい山容、変化にとんだ地形、噴煙を上げる火山活動そのものなどを目的とした観光客が多く訪れ、その地域の観光の目玉となっていることがある。日本のシンボルともされる富士山も火山であり、噴火を繰り返したことによる成層火山特有の秀麗な山容から大観光地となっており、登山客も多く訪れる。このほか、雲仙岳や阿蘇山なども活発な火山であると同時に大観光地ともなっている。草津白根山のように火山ガスの成分が溶け込んだ美しい火口湖を持ち、観光名所となっているところもある(ただし、2014年以降、噴火警戒レベル上昇によって草津白根山湯釜火口の観光はできなくなっている)。", "title": "火山の恩恵" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "観光地としての火山は風景そのもののほか、地下のマグマによって熱せられた温泉が周囲に多く湧出するため、より価値の高いものとなっている。草津温泉や別府温泉をはじめ、火山性の温泉は日本にも世界各地にも存在する。中でも日本は火山が多いためそれにつれて温泉も多くなり、世界有数の温泉数を誇る。また、火山は透水性が高いため、山麓は多量の湧水に恵まれ、市民の生活や工業用水などに使用される。", "title": "火山の恩恵" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "火山はエネルギー源としても利用可能である。火山周辺の高い地熱を生かし、地下の熱水によってタービンを回し発電することを地熱発電と呼び、新エネルギーの重要な一角を占めている。日本においては地熱発電は国定公園などの規制や温泉地の反発、発電自体の非効率性などによって総発電量に占める割合は非常に低く、世界でもそれほど利用率は高くないが、顕著な例外がアイスランドである。アイスランドの総発電量の54.9%(2005年)が地熱発電によってまかなわれており、これは世界でも際立って高い。さらに発電以外にも、アイスランドの地熱利用の半分以上を占める暖房利用のほか、魚の養殖、温水プール用など、アイスランドの地熱利用は多彩なものである。アイスランドの地熱利用がさかんなのは、国土自体が海嶺の陸上部分にあり火山が非常に多いこと、人口が少なく、人口に比して火山のエネルギー量がきわめて豊富であることがあげられる。", "title": "火山の恩恵" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "火山の火口付近にはしばしば硫黄が露出しており、20世紀半ばに石油精製の際の脱硫によって大量に硫黄が供給されるようになるまでは盛んに採掘が行われていた。また火山のマグマには有用な鉱物も多く含まれており、何らかの理由で集積を起こすことで鉱床となることがある。火山性の鉱床としては、熱水鉱床や海底熱水鉱床、噴気鉱床などがある。", "title": "火山の恩恵" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "火山を研究する学問を総称して火山学と呼ぶ。火山はその特異な現象と噴火した際の大きな被害などから古くから注目されており、さまざまな記録が残されている。1943年に北海道で昭和新山が生まれた際には、三松正夫がその隆起していく過程を「新山隆起図」という一枚の図にまとめた。これはミマツダイヤグラムと呼ばれ、活火山の山体形成過程の詳細な記録として非常に貴重なものである。", "title": "火山の研究と防災" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "火山学において非常に期待されている分野に、噴火予知がある。これは火山性地震の発生、火山性微動の増加や火口付近の隆起、地下水の温度の上昇や、火山ガスの化学組成の変化などさまざまな証拠を元に、ある程度の噴火の予測を立てることである。地下の圧力が高まっていれば上記のような変動が起き、それが増加していれば地下の活動が活発化していると考えられるためある程度の予測は可能であるが、あくまで予測であり、完全な予知はもとより不可能である。また、火山の噴火タイプはその山ごとによって違い、さらには同じ山ですら前回と全く同じ活動をするとは限らないため、さらに予測は困難となる。上記のような変動が起きていてもその後収束に向かうこともあれば、ほぼ直前までわずかな変動しかなかったものが突然噴火することさえある。噴火予知に成功した例としては、2000年の有珠山噴火が挙げられる。有珠山は20年から30年周期で定期的に噴火を繰り返しており、また前兆が必ず現れることから予測しやすかったことが成功へとつながった。一方、2014年の御嶽山噴火においては火山性地震は増加傾向にあったものの山体膨張や火山性微動が観測されなかったため噴火警戒レベルを上昇させることはなく、結果として多くの犠牲者を出すこととなった。", "title": "火山の研究と防災" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "日本においては各火山の活動状況に応じて必要な防災対応や警戒範囲を示すものとして2007年12月より気象庁が噴火警戒レベルを発表しており、噴火による重大な災害が起こる恐れがある場合には噴火警報が発表される。また、2014年の御嶽山噴火の反省を踏まえ、それまでも出されていた火山の状況に関する解説情報を一般登山者向けにも伝えるホームページを気象庁が開設したほか、臨時情報を「臨時」として強調するなどの改善を行った。また、日本国内の多くの火山においては噴火時を想定したハザードマップが作成され公開されている。", "title": "火山の研究と防災" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "火山の噴火が確認されている天体は、地球、木星の衛星イオ、土星の衛星エンケラドゥス、海王星の衛星トリトンである。", "title": "地球外の火山" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "金星、火星、タイタンにも、噴火は確認されていないが、火山が存在する。火星の最も新しい噴火としては、240万年前にオリンポス山が噴火した痕跡が発見されている。地球の基準に照らせば死火山となるが、火星の火山は長い休止時期を挟んで間歇的に活動するとの説もあり、実際のところ死火山か活火山かは不明である。なお、オリンポス山の標高は約27kmにのぼり、太陽系最高峰でもある。これほど標高が高くなったのは、火星にはプレートテクトニクスが存在しないため、ホットスポットから火山が移動せず、噴出した溶岩が同じ場所に堆積し続けたためである。同じ理由で、火星にはアルシア山(標高19km)やアスクレウス山(標高18km)、パボニス山(標高14km)といった巨大火山が点在する。金星の火山の活動状況は不明な点が多いが、数億年前に大規模な地質活動は終わったと見られている。", "title": "地球外の火山" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "月には、海と呼ばれる広大な玄武岩平原が存在し、地質時代(最も新しいモスクワの海東領域で25億年前)には、活発な火山活動が見られた。ただし、火山と言えるような地形はない。", "title": "地球外の火山" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "太陽系中で現在も地球と同系統の火山活動が活発に起こっている場所はイオである。イオの地表には400個以上の火口が点在し、2007年にはニューホライズンズ探査機が、高さ300kmにものぼる巨大な噴火を確認した。イオの火山活動は衛星全体に点在するため、星全体が火山から噴出した硫黄化合物によっておおわれており、そのため星自体が硫黄化合物の色である赤と黄色に見える。", "title": "地球外の火山" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "岩石天体の火山噴出物は、地球と同様のケイ酸塩化合物だが、氷天体の火山噴出物はまったく異なる。タイタンやエンケラドゥスの火山は水、トリトンの火山は窒素を主に噴出する。それぞれの天体の常温では固体であり、地殻の構成物質である。そのような氷天体に見られる火山は、氷のマグマのようなものを噴出していることから氷の火山と呼ばれる。", "title": "地球外の火山" } ]
火山は、地殻の深部にあったマグマが地表または水中に噴出することによってできる、特徴的な地形をいう。文字通りの山だけでなく、カルデラのような凹地形も火山と呼ぶ。火山の地下にはマグマがあり、そこからマグマが上昇して地表に出る現象が噴火である。噴火には、様々な様式(タイプ)があり、火山噴出物の成分や火山噴出物の量によってもその様式は異なっている。 火山の噴火はしばしば人間社会に壊滅的な打撃を与えてきたため、記録や伝承に残されることが多い。 Volcano は、ローマ神話で火と冶金と鍛冶の神ウルカヌス(ギリシア神話ではヘーパイストス)に由来し、16世紀のイタリア語で volcano または vulcano と使われていたものが、ヨーロッパ諸国語に入った。このウルカヌス(英語読みではヴァルカン)は、イタリアのエトナ火山の下に冶金場をもつと信じられていた。シチリア島近くのヴルカーノ島の名も、これに由来する。日本で volcano の訳として「火山」の語が広く用いられるようになったのは、明治以降である。
{{Otheruses|地形|その他の{{SUBJECTPAGENAME}}|{{SUBJECTPAGENAME}} (曖昧さ回避)}} [[ファイル:MSH80 eruption mount st helens 05-18-80.jpg|thumb|[[セント・ヘレンズ山|セントヘレンズ]]の大噴火]] [[ファイル:Mt.Asama_05.jpg|thumb|18世紀の[[浅間山|噴火]]の[[溶岩]]流跡。]] '''火山'''(かざん、{{lang-en-short|''volcano''}})は、[[地殻]]の深部にあった[[マグマ]]が地表または水中に噴出することによってできる、特徴的な[[地形]]をいう。文字通りの[[山]]だけでなく、[[カルデラ]]のような凹地形も火山と呼ぶ。火山の地下には[[マグマ]]があり、そこからマグマが上昇して地表に出る現象が[[噴火]]である。[[噴火]]には、様々な様式(タイプ)があり、[[火山噴出物]]の成分や[[火山噴出物]]の量によってもその様式は異なっている。 火山の[[噴火]]はしばしば人間社会に壊滅的な打撃を与えてきたため、記録や伝承に残されることが多い。 {{Lang|en|Volcano}} は、[[ローマ神話]]で[[火]]と[[冶金]]と[[鍛冶]]の神[[ウゥルカーヌス|ウルカヌス]]([[ギリシア神話]]では[[ヘーパイストス]])に由来し、[[16世紀]]の[[イタリア語]]で {{Lang|it|volcano}} または {{Lang|it|vulcano}} と使われていたものが、ヨーロッパ諸国語に入った。この[[ウルカヌス]](英語読みではヴァルカン)は、[[イタリア]]の[[エトナ火山]]の下に冶金場をもつと信じられていた。[[シチリア|シチリア島]]近くの[[ヴルカーノ島]]の名も、これに由来する。[[日本]]で {{Lang|en|volcano}} の訳として「火山」の語が広く用いられるようになったのは、[[明治]]以降である。 == 火山の構造 == [[ファイル:Volcano scheme.svg|thumb|250px| {|class="thumbcaption" style="background:transparent;" ! colspan="2" | '''成層火山の構造(断面図)''' |- valign="top" | 1. [[マグマ溜り]]<br/>2. 基盤<br/>3. [[火道]]<br/>4. 地表<br/>5. [[岩床]]<br/>6. [[岩脈]]<br/>7. [[火山灰]]層<br/>8. [[側火山]] | 9. [[溶岩]]層<br/>10. 咽喉<br/>11. [[寄生火山]]<br/>12. [[溶岩流]]<br/>13. [[噴火口]]<br/>14. 主火口<br/>15. 噴煙 |}]] 火山の地下には、必ず[[マグマ溜り]]が存在する。マグマ溜りの深さは、地下数kmから数十kmとされる。このマグマ溜りから岩盤を突き抜け、何らかの理由でマグマが地上に放出される、その地点が火山である。マグマが地上に到達するまでに通るルートを[[火道]]と呼び、火道が地上に抜ける地点を[[噴火口]]と呼ぶ。火道はしばしば主火道から逸れて形成され、その副火道が地上に噴出すると[[側火山]]と呼ばれる小火山を形成する。また、副火道が地上に噴出せず地下にとどまったままのものを[[岩脈]]、岩脈が地層に沿って平行に地中で広がったものを[[岩床]]と呼ぶ。 == 火山の分類 == === 地形による分類 === 現在の地形に加えて、形成過程や内部構造も考慮して分類されている。 ==== 複成火山 ==== 同じ火口から何度も噴火を繰りかえして、大きな火山体を成長させる火山<ref>{{Cite web|和書|url= http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/koyama/public_html/Izu/Izuc1.html |title= 複成火山と単成火山 |publisher= 静岡大学小山研究室 |accessdate= 2020-07-09 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20141006123638/http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/koyama/public_html/Izu/Izuc1.html |archivedate= 2014-10-06 }}</ref>。 [[ファイル:Mt.Mayon tam3rd.jpg|thumb|200px|right|[[成層火山]]([[マヨン山]])]] [[ファイル:Mauna_Kea_from_Mauna_Loa_Observatory,_Hawaii_-_20100913.jpg|thumb|200px|[[楯状火山]]([[マウナ・ケア山]])]] [[ファイル:Crater lake oregon.jpg|thumb|200px|[[カルデラ]]([[:en:Mount Mazama|マザマ火山]])]] ; [[成層火山]] : 主に、同一箇所の[[火口]]から噴火を繰り返して、その周囲に[[溶岩]]と[[火山砕屑岩]]が積み重なった、[[円錐]]形に近い形の火山体。日本の火山の多くは[[成層火山]]である。マグマの粘り気は中くらいである。火山の噴火タイプとしては、[[ストロンボリ式噴火]]や[[ブルカノ式噴火]]をする火山がこうした火山になりやすい。 : 例 - [[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]、[[岩手山]]、[[開聞岳]]、[[伊豆大島]]、[[羊蹄山]]、[[スーフリエール・ヒルズ]]([[モントセラト]]) ; [[楯状火山]] : [[流動性]]の高い[[玄武岩]]質の[[溶岩]]が積み重なった、傾斜のゆるい火山体。そのため、通常は面積が広い。日本でこれまで「アスピーテ」とされてきた火山は、[[成層火山]]が侵食によって平坦になったり、もともと平坦であった場所に小規模な溶岩流が重なったりしたものであり、[[楯状火山]]ではない。また、伊豆大島や三宅島は、[[玄武岩]]を主に噴出する火山だが、[[火砕物]]の量が多く、[[楯状火山]]ではなく[[成層火山]]である。火山の噴火タイプとしては、[[ハワイ式噴火]]や[[ストロンボリ式噴火]]をする火山がこうした火山になりやすい。 : 例 - [[マウナ・ロア山]]、[[キラウエア火山]]、[[スキャルドブレイダー山]]([[アイスランド]]) ; [[溶岩台地]] : 大規模な溶岩流が多数積み重なって、広大な[[台地]]となっているもの。通常は、[[玄武岩]]質の[[溶岩]]からなる。火山の噴火タイプとしては、[[ハワイ式噴火]]をする火山がこうした火山になりやすい。 : 例 - [[デカン高原]]、[[コロンビア台地]] ; [[火砕流台地]] : 大規模な[[火砕流]]によって運ばれた、大量の[[火山灰]]・[[軽石]]・[[礫]]などが厚く[[堆積]]して、上面が平坦な台地となったもの。 : 例 - [[シラス台地]]、[[関東ローム層]] ; [[カルデラ]] : 火山活動によって形成された大規模な凹地。通常、直径が1.6kmから2km以上のものを指す。通常、中央部にカルデラ形成後に形成された小火山である中央火口丘が一つまたは複数存在し、その周辺にはカルデラ床と呼ばれる平坦な地形が広がる。カルデラ床に水が溜まったものはカルデラ湖と呼ばれる。カルデラの外側は、外輪山と呼ばれる山が円形に取り囲んでいる。外輪山の内側はカルデラ壁と呼ばれ、急峻な崖となっていることが多い。大規模爆発によって形成されるカルデラの場合は、[[クラカトア式噴火]]をする火山がこうした火山になりやすい。 : 例 - [[阿蘇山]]、[[箱根山]]、[[十和田湖]]、[[屈斜路湖]]、[[摩周湖]]、[[洞爺湖]]、[[鹿児島湾|鹿児島湾北部]] ==== 単成火山 ==== [[ファイル:KOMETUKA01.jpg|thumb|200px|[[火山砕屑丘]]([[阿蘇山#米塚|阿蘇山]])]] [[ファイル:Maare.jpg|thumb|200px|[[マール]](ドイツ)]] [[ファイル:Jrballe volcano hokkaido japan Showa Shinzan.jpg|thumb|200px|[[溶岩ドーム]]]] 1回だけの噴火で形成されたもの。複成火山の一部である場合も多い。また、単成火山が多数集まっていて、全体が一連のマグマ活動と考えられる場合、単成火山群として複成火山扱いとすることがある([[伊豆東部火山群]]、[[阿武火山群]]、[[小値賀火山島群]]、[[ル・ピュイ=アン=ヴレ]]の小火山群 (フランス) など)。 ; [[爆裂火口]] : 爆発的な噴火によって[[火口]](穴)だけができ、[[火山噴出物|噴出物]]はほとんど積もっていないもの。 ; [[マール (火山)|マール]] : [[水]]が大量にある場所で[[水蒸気爆発|マグマ水蒸気爆発]]が起こり、円形の[[火口]]となったもので、水が溜まっていることが多い。[[火山噴出物|噴出物]]は、[[火口]]の周囲にわずかに積もっている程度で、主に[[ベースサージ]]堆積物である。 : 例 - [[目潟]]、[[波浮港]]、[[米丸]] ; [[火山砕屑丘]](火砕丘) : [[火口]]の周囲に[[火山砕屑物]]が積もって、円錐形に近い形の小さい山(丘)になったもの。主な構成物質によってさらに細分し、[[火山灰丘]]・[[軽石丘]]・[[スコリア丘]]という。 : 例 - [[大室山 (静岡県)|大室山]]、[[米塚]]、[[ダイヤモンドヘッド]] ; [[溶岩ドーム]](溶岩円頂丘) : マグマの[[粘性]]が高く(流動性が小さく)、かつガスが少ないために、爆発的な噴火を起こさず、[[火口]]から塊となって押し出されたもの。形は多様であるが、高さには限界があり、噴出量が多い時は平坦になる傾向がある。[[溶岩ドーム]]をさらに細分して、上面が平坦になったものを[[溶岩平頂丘]]、[[火道]]内で固化したまま押し出されてきたものを[[火山岩尖]]、また、地表を[[隆起]]させたが[[溶岩]]自体は噴出しないで終わった([[溶岩ドーム]]になりそこなった)ものを[[潜在ドーム]](潜在円頂丘)という。 : 例 - [[昭和新山]]、[[アトサヌプリ]]、[[茶臼岳 (栃木県)|茶臼岳]]、[[妙高山]]、[[平成新山]]、[[雲仙岳]]、[[金峰山 (熊本県)]] ==== 側火山 ==== 複成火山の主火口から離れたところにできる小火山を、[[側火山]]または寄生火山と呼ぶ。その名の通り、大火山の側にできる別の火口である。多くは一度の噴火で形成される単成火山である。 : 例 - [[昭和新山]]([[有珠山]]の側火山)、[[宝永山]](富士山の側火山) ==== 旧分類 ==== [[1911年]]、[[ドイツ]]の[[カール・シュナイダー]]は、[[地形#火山地形|火山地形]]を次のように分類した。 * '''トロイデ'''(鐘状火山、しょうじょうかざん) * '''コニーデ'''([[成層火山]]、せいそうかざん) * '''アスピーテ'''([[楯状火山]]、たてじょうかざん) * '''ホマーテ'''(臼状火山、きゅうじょうかざん) * '''ベロニーテ'''(火山岩尖、かざんがんせん) * '''[[マール (火山)|マール]]''' * '''[[カルデラ]]''' * '''ペジオニーテ'''([[溶岩台地]]、ようがんだいち) * '''ラピリ台地'''(火砕岩台地、かさいがんだいち) この分類は、日本では、特に[[地理学|地理]]分野で広く使われたが、海外では、過去においてもほとんど使われていない。この分類は、成因をまったく考慮せずに、現在の地形だけで定義したものであった。火山の研究が進むにつれて、形成過程がまったく違うのに、[[侵食]]などによって同じような地形になってしまう例(たとえば、[[成層火山]]であるのに侵食で平坦になった偽アスピーテ)が次々発見され、シュナイダーの分類では不都合であることが明らかとなった。このことは、[[1950年代]]にはすでに認識され{{sfn|久野久|1954}}、マールを除き、日本の[[火山学]]、[[地質学]]においては、[[1970年]]ごろからほとんど使用されないようになった。ただし、地理の分野では、現在でも使用例があり、[[観光地]]の[[看板]]などにこれらの名称が残っている場合があるので、完全に、''[[廃語|死語]]''となっているわけではない。多くの火山研究者はシュナイダーの分類用語を使わないことを推奨している。 === 活動度による分類 === {{Main|活火山#定義の変遷}} かつては活発に活動中である[[活火山]]、噴火活動の記録はあるがその時点において噴火活動が起きていない[[休火山]]、有史以来噴火活動の記録のない[[死火山]]に分類されてきた。しかし、休火山や死火山が突如として噴火する事態が多発し、実状に合わないとして段階的に見直しがされた。現在では「[[活火山]]」と「それ以外の火山」に分けられている。日本の[[火山噴火予知連絡会]]・[[気象庁]]による定義によれば、活火山は「概ね過去1万年以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動のある火山」とされている。また、活火山内においても活動の頻度には大きな差があるため、火山噴火予知連絡会は活火山をその噴火頻度によってABCの3つのランクに分けて分類している<ref>[https://www.jma.go.jp/jma/kishou/books/kenshin/vol71p059.pdf 最近一万年間の火山活動に基づく火山活動度指数による日本の活火山のランク分けについて] 林豊・宇平幸一 気象庁 験震時報71巻 pp.59-78</ref>。 == 火山のできる場所 == [[ファイル:Spreading ridges volcanoes map-en.svg|thumb|350px|火山の分布]] 火山は地球上のどこにでもできるわけではない。火山ができる場所は大きく分けて3種類ある。 ; プレート[[発散型境界]]([[リフトバレー]]、[[海嶺]]) : [[プレートテクトニクス]]によれば、地球上で最も火山活動が活発なのは、熱い[[マントル]]が上昇してきて、[[地殻]]が新たに生成される場所、すなわち発散型境界である。発散型境界はふつう、長く続く[[谷]]地形となっているので、[[リフトバレー]]とも呼ぶ。リフトバレーの多くは[[海底]]にあり、[[海嶺]]とよばれる。海嶺では、地下から新しい玄武岩質マグマが次々に供給されて、海底で固まり、海洋地殻となって海嶺の両側に移動していく。世界で唯一、[[アイスランド]]が海嶺を地上で観察できる場所で、アイスランド島は中央部の[[地溝]]から東西に拡大しつつあり、活発な火山活動が起きている<ref>「山はどうしてできるのか ダイナミックな地球科学入門」p105 藤岡換太郎 講談社 2012年1月20日第1刷</ref>。また、陸上のリフトバレーの代表的なものが[[グレート・リフト・バレー]](東アフリカ大地溝帯)であり、同様に活発な火山活動を伴って東西に拡大しつつあるが、ここはプレート境界ではなく、[[ホット・プルーム]]によってアフリカプレートが引き裂かれつつある部分と考えられている<ref>「山はどうしてできるのか ダイナミックな地球科学入門」p123-124 藤岡換太郎 講談社 2012年1月20日第1刷</ref>。 ; プレート[[収束型境界]]([[海溝]]) : プレートテクトニクスによれば、発散型境界で生成した[[プレート]]は、収束型境界で他のプレートとぶつかり、マントルまで沈み込んで消滅したり、プレート同士が重なり合ったりする。火山が発生するのは主に前者で、海洋プレートが他のプレートの下に沈み込む[[海溝]]に沿って分布する。海溝で沈み込んでいる海洋プレート表面の岩石には、多量の水が含まれている。水分を含んだ岩石は、融解温度が低下するので、沈み込みにより地下深部に達すると、通常よりも低い温度で融けはじめ、[[マグマ]]が発生すると考えられている<ref>「山はどうしてできるのか ダイナミックな地球科学入門」p156-158 藤岡換太郎 講談社 2012年1月20日第1刷</ref>。マグマの発生条件は、水分のほか主に温度と圧力に依存し、温度と圧力はほぼ深さによって決まる。従って、マグマが発生するのは、海溝から沈み込んだプレートがある一定の深さに到達した場所であり、それより海溝に近い(沈み込んだプレートが浅い)場所ではマグマは発生しない。マグマは発生した場所から[[浮力]]によってほぼ真上に上昇し火山を形成するので、必然的に、火山は海溝から一定の距離だけ離れた位置に、海溝に平行に分布することになる。この火山列を、これより前(海溝側)には火山がないという意味で'''火山フロント'''又は'''火山前線'''という<ref>「山はどうしてできるのか ダイナミックな地球科学入門」p192-194 藤岡換太郎 講談社 2012年1月20日第1刷</ref>。また、これよりも海溝から離れた位置にも火山が点在することが多いが、このような場所では、沈み込んだプレートがさらに深い場所に達し、別の成分が融解するなどして、散発的にマグマが発生すると考えられている。[[沈み込み帯]]では、沈み込んだプレートが融解する時に、すでに海底堆積物が混入していたり、マグマが上昇する途中で地殻の岩石が混入したりするため、火山から噴出するのは、[[安山岩]]質から[[流紋岩]]質のマグマであることが多い。日本や[[カムチャツカ半島]]をはじめとする[[太平洋]]周辺や、[[地中海]]の火山はこのタイプである。 [[ファイル:Tectonic plates hotspots-en.svg|thumb|ホットスポットの分布]] ; [[ホットスポット (地学)|ホットスポット]] : 地表の特定箇所に、継続的に大量のマグマが供給される場所があり、これをホットスポットという。ホットスポットの位置は、プレートの動きとは無関係に一定しており、プレートよりも下のマントルに発生源があると考えられている。[[ハワイ]]火山列島がこのタイプで、固定したホットスポットで噴火が起こり[[火山島]]ができる一方で、[[太平洋プレート]]が北西に動くため、古い火山島が北西にずれていくとともに、南東側に新しい火山島ができ、結果として北西ほど古く南東ほど新しい火山列島となっている<ref>「島の地理学 小さな島々の島嶼性」p40-42 スティーブン・A・ロイル 中俣均訳 法政大学出版局 2018年8月30日初版第1刷発行</ref>。他に、[[イエローストーン国立公園|イエローストーン]]、[[ガラパゴス諸島]]がホットスポットとして知られており、また、アイスランドは[[大西洋中央海嶺]]とホットスポットが重なっているため、火山活動が特に活発であると考えられている。 これら3種類以外に、過去に[[プルームテクトニクス|スーパープルーム]]と呼ばれる、[[核 (天体)#地球|核]]付近からの大規模なマントル上昇による大噴火もあったと考えられている。また、[[21世紀]]初頭には、[[プチスポット]]と呼ばれる、上記3タイプに該当しない新たな海底火山が発見されている<ref>{{Cite web|和書|author = 平野直人|date = 2006-08-17|url = http://kazan-net.jp/hotvolcanology/No1petitspot.html|title = 新種の火山を発見〜プチスポット火山〜|work = 火山学最前線レポート|publisher = 日本火山の会|accessdate = 2012-04-13}}</ref>。 == 火山島 == 海底火山が噴火を繰り返し頂上部分が水面から上に出た場合、その部分は島となる。火山島である。小規模な火山島は噴火を繰り返す火口部分のみが海面上に出ており居住は不可能であるが、大規模な火山島の場合、火口から離れた海岸部分を中心に人が居住することが多い。火山島は養分に恵まれた肥沃な土質をしており、標高が高いため雨も降りやすく<ref>「南太平洋を知るための58章 メラネシア ポリネシア」p25 吉岡正徳・石森大知編著 明石書店 2010年9月25日初版第1刷</ref>、[[ポリネシア人]]の入植した島々においては火山島の方が[[サンゴ礁]]島に比べ[[タロイモ]]などの[[農耕]]がおこないやすく豊かな文明を築くことが多かった。ただし、火山島は海底火山の火口部分が海面上に出たものに過ぎず、いったん噴火が起きた際には逃げ場が存在しないため、被害が拡大する傾向がある。 また、海底火山が噴火して新たに島を作ったり面積を大幅に広げることは、珍しいことではない。近年においては、[[1973年]]と[[2013年]]に[[小笠原諸島]]の[[西之島]]近傍において海底火山が噴火して新島ができ、西之島とつながった「西之島新島」などが知られる。ただし、こうした島の多くは火山活動が収まると付近の潮流に削られて面積を縮小させ、再び海中に没することも多い。[[イタリア]]の[[シチリア島]]の沖合に存在する海底火山は[[1831年]]に噴火し、[[フェルディナンデア]]と呼ばれる島を形成した。この島は[[地中海]]の交通の要衝にあったためにイギリス、フランス、[[スペイン]]、[[両シチリア王国]]の4か国が[[領有権]]を主張する事態となったが、島はその年のうちに波に削られ再び海中に没した{{sfn|図説 火山と人間の歴史|2013|p=107-108}}。 == 噴火と火山災害 == 地下のマグマが火道を通って噴出することを[[噴火]]と呼ぶ。噴火はマグマの組成によって変化し、[[粘性]]の低い[[玄武岩]]が主体となっているマグマの場合は火口から溶岩流が流れ出すのに対し、粘性の高い[[流紋岩]]が主体となっている場合は大規模な爆発を起こすことが多く、爆発しない場合は溶岩ドームを形成する。粘性が玄武岩と流紋岩の中間程度である[[安山岩]]を主体としている場合は噴火タイプも両者の中間であり、溶岩流が流れ出すこともあれば爆発を起こしたり溶岩ドームを形成することもある{{sfn|火山に強くなる本|2003|p=35}}。 いったん噴火が起きると、火口からはさまざまな[[火山噴出物]]が噴出する。マグマがそのまま液体として流れ出したものが[[溶岩]]であり、冷え固まって固体となると[[火山灰]]、[[火山弾]]、[[軽石]]、[[スコリア]]などの[[火山砕屑物]]となり、また[[火山ガス]]などの気体も噴出する。これらの噴出物は非常に高温であり、いったん噴火すると周囲の土地に多大な被害をもたらす。溶岩流は流速が遅く人が直接飲み込まれることはそれほど多くないが、周囲の土地を飲み込んだ場合そのまま固化して岩石となるため、農地や住宅地が呑み込まれた場合使用不能となる{{sfn|基礎地球科学|2010|p=186}}。火山ガスは高温の上[[二酸化炭素]]、[[二酸化硫黄]]、[[硫化水素]]などの有毒な気体が多く含まれ、また[[酸素]]が少ないため、有毒成分の吸入や[[酸欠]]によって人間が死亡することも珍しくない。火山ガスは密度が高いため特にくぼ地にたまりやすく、風向きや火山活動の活発さによっては特に大噴火となっていなくともガスにまかれて死亡することがまれにある<ref>https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/rovdm/Miyakejima_rovdm/miyakejima_gas.html 「火山ガス」気象庁三宅島火山防災連絡事務所 2022年1月19日閲覧</ref>。 火山砕屑物が火山ガスや水蒸気などの気体とともに流れ下る[[火砕流]]は高温の上非常に速度が速く、発生した場合多数の人々が死亡することが多い。火砕流による大災害の例としては、[[79年]]に起きて[[ポンペイ]]の街を飲み込んだ[[ヴェスヴィオ火山]]の[[79年のヴェスヴィオ噴火|噴火]]や、[[1902年]]に[[西インド諸島]]の[[フランス]]領[[マルティニーク島]]にある[[プレー山]]で発生し、島の首都である[[サン・ピエール (マルティニーク)|サンピエール市]]を飲み込んで28000~30000人の死者を出したものなどがある。噴火により積もった灰が雨などと一緒に一気に流れる[[火山泥流]]も同様に直接的な被害が大きく、非常に危険である{{sfn|基礎地球科学|2010|p=185}}。 こうした直接の噴出物のほか、噴火によって火山の山体そのものが損傷し、衝撃によって崩壊することがある。[[山体崩壊]]と呼ばれるこの大規模な山崩れが起こった場合、多数の人命が失われることが多い。さらにこの山体崩壊が海の近くで起こった場合には大量の土砂がそのまま[[津波]]を起こし、対岸にも巨大な被害を与える。この山体崩壊による津波としては、[[1792年]]の[[雲仙岳]]の噴火によって[[眉山 (島原市)|眉山]]が山体崩壊を起こし、対岸の[[肥後]]を大津波が襲った[[島原大変肥後迷惑]]などが知られている{{sfn|基礎地球科学|2010|p=187}}。また、周囲に大量に降り積もった火山灰は安定しておらず、降雨があった場合[[土石流]]を起こして流れ下り、やはり多大な被害をもたらす<ref>http://www.sabopc.or.jp/library/volcanic_disaster/ 「火山災害」土砂災害防止広報センター 2022年1月19日閲覧</ref>。 また、大気中に放出された火山灰は[[飛行機]]の運行に対して重大な影響をもたらす。噴煙や火山灰は飛行機の視界を遮るほか、火山灰が機体に当たれば損傷を起こすし、なにより[[エンジン]]に火山灰が吸いこまれた場合、最悪の場合にはエンジンが停止してしまう場合もある。こうしたことから大規模な火山噴火が起きた場合、火山周辺のみならず周囲の広い範囲にわたって飛行が禁止となり、交通や経済に重大な損害をもたらす。[[2010年]]に[[アイスランド]]の[[エイヤフィヤトラヨークトル]]で起こった[[2010年のエイヤフィヤトラヨークトルの噴火|噴火]]においては、アイスランドのみならず[[ヨーロッパ大陸]]の広い範囲において飛行が禁止され、数十万人の足に影響が出た([[2010年のエイヤフィヤトラヨークトルの噴火による交通麻痺]])<ref>{{Cite news|url= https://www.afpbb.com/articles/-/2718762 |title= アイスランドの噴火で欧州の空に混乱、英国では全飛行を禁止 |newspaper= AFPBB News |date= 2010-04-15 |accessdate= 2016-05-09 }}</ref>。 海底火山の噴火の際は通常被害がもたらされることはないが、噴火の際に火口の直上を船舶が航行していた場合、噴火によって船舶が吹き飛ばされ遭難することがまれにある。こうした事故の例としては、[[1952年]]の[[明神礁]]の噴火の際に[[海上保安庁]]の[[測量船]]「第五海洋丸」が巻き込まれ、職員31名が殉職した事故などがある([[第五海洋丸の遭難]])<ref>https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20130822/362219/ 「海底火山が生んだ幻の新島」ナショナルジオグラフィック日本版 2013.08.28 2022年1月19日閲覧</ref>。 火山活動が人口集中地域の近くで起き活動が沈静化しない場合、その土地の住民は移住を余儀なくされる。近年では[[1994年]]に[[パプアニューギニア]]の主要港のひとつだった[[東ニューブリテン州]]都の[[ラバウル]]において近傍の[[タブルブル山]]とブルカン火山が同時噴火し<ref>{{Cite news|url= https://www.afpbb.com/articles/-/3024489 |title= パプアニューギニアで火山が噴火、航空機は迂回 |newspaper= AFPBB News |date= 2014-08-29 |accessdate= 2016-05-09 }}</ref>、5m以上の降灰によって町が埋め尽くされ、州都が20km離れた[[ココポ]]の街に移転された例や、[[1997年]]に西インド諸島にある[[イギリス]]領[[モントセラト]]の[[スーフリエール・ヒルズ]]において大噴火が発生し、首都[[プリマス (モントセラト)|プリマス]]を含む同島の南半分が立ち入り禁止区域となって、首都を北部の小村である[[ブレイズ (モントセラト)|ブレイズ]]へと移転せざるを得なくなった例などがある。 こうした一般的な噴火被害のほか、[[破局噴火]]と呼ばれる非常に大規模な噴火の場合、火山灰が大気圏に広がって太陽光を遮り、[[火山の冬]]と呼ばれる低温期を数年にわたってもたらすことがある。約74000年前に起きたインドネシア・[[トバ火山]]の大噴火は気温を急降下させ黎明期の人類に大きな影響を与えたとする、いわゆる[[トバ・カタストロフ理論]]が存在するほか<ref>https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/18/031400115/?P=1 「古代の超巨大噴火、人類はこうして生き延びた」ナショナルジオグラフィック 2018.03.14 2020年9月8日閲覧</ref>、[[1815年のタンボラ山噴火]]や1991年のフィリピン・[[ピナトゥボ山]]噴火においては地球の気温低下が起きたことが確認されている<ref>https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/15/041500050/ 「史上最大の噴火は世界をこれだけ変えた 200年前のタンボラ山噴火から現代の被害を想像する」ナショナルジオグラフィック 2015.04.16 2020年9月8日閲覧</ref>。 == 火山の恩恵 == [[File:Map of of the Kuju and Hanamure volcanic field.jpg|thumb|[[鉱山]]地域の地形・地質図。]] 火山は被害をもたらすばかりではなく、人類の生活に密接につながり、さまざまな恩恵を与えている。火山はカルデラ湖や火山活動により形成された美しい山容、変化にとんだ地形、噴煙を上げる火山活動そのものなどを目的とした観光客が多く訪れ、その地域の観光の目玉となっていることがある。日本のシンボルともされる[[富士山]]も火山であり、噴火を繰り返したことによる成層火山特有の秀麗な山容から大観光地となっており、登山客も多く訪れる。このほか、[[雲仙岳]]や[[阿蘇山]]なども活発な火山であると同時に大観光地ともなっている。[[草津白根山]]のように火山ガスの成分が溶け込んだ美しい火口湖を持ち、観光名所となっているところもある(ただし、2014年以降、噴火警戒レベル上昇によって草津白根山湯釜火口の観光はできなくなっている)。 観光地としての火山は風景そのもののほか、地下のマグマによって熱せられた[[温泉]]が周囲に多く湧出するため、より価値の高いものとなっている。[[草津温泉]]や[[別府温泉]]をはじめ、火山性の温泉は日本にも世界各地にも存在する。中でも日本は火山が多いためそれにつれて温泉も多くなり、世界有数の温泉数を誇る<ref>https://www.jtb.or.jp/researchers/column/column-volcano-horiki/ 「観光地と災害について考える」堀木美告 日本交通公社 2015年12月4日 2022年1月19日閲覧</ref>。また、火山は透水性が高いため、山麓は多量の[[湧水]]に恵まれ、市民の生活や工業用水などに使用される<ref>https://izugeopark.org/maps/category-c04/ 「湧き水・温泉」伊豆半島ジオパーク 2022年1月19日閲覧</ref>。 火山は[[エネルギー]]源としても利用可能である。火山周辺の高い地熱を生かし、地下の熱水によって[[タービン]]を回し発電することを[[地熱発電]]と呼び、新エネルギーの重要な一角を占めている。日本においては地熱発電は国定公園などの規制や温泉地の反発、発電自体の非効率性などによって総発電量に占める割合は非常に低く、世界でもそれほど利用率は高くないが、顕著な例外が[[アイスランド]]である。アイスランドの総発電量の54.9%(2005年)が地熱発電によってまかなわれており、これは世界でも際立って高い{{sfn|火山工学入門|2009|p=199}}。さらに発電以外にも、アイスランドの地熱利用の半分以上を占める[[暖房]]利用のほか、魚の[[養殖]]、[[温水プール]]用など、アイスランドの地熱利用は多彩なものである{{sfn|火山工学入門|2009|p=199}}。アイスランドの地熱利用がさかんなのは、国土自体が[[海嶺]]の陸上部分にあり火山が非常に多いこと、人口が少なく、人口に比して火山のエネルギー量がきわめて豊富であることがあげられる。 火山の火口付近にはしばしば[[硫黄]]が露出しており、20世紀半ばに[[石油精製]]の際の[[脱硫]]によって大量に硫黄が供給されるようになるまでは盛んに採掘が行われていた<ref>「エネルギー資源の世界史 利用の起源から技術の進歩と人口・経済の拡大」p374-375 松島潤編著 一色出版 2019年4月20日初版第1刷</ref>。また火山のマグマには有用な鉱物も多く含まれており、何らかの理由で集積を起こすことで鉱床となることがある。火山性の鉱床としては、[[熱水鉱床]]や[[海底熱水鉱床]]、噴気鉱床などがある。 == 火山の研究と防災 == 火山を研究する学問を総称して[[火山学]]と呼ぶ。火山はその特異な現象と噴火した際の大きな被害などから古くから注目されており、さまざまな記録が残されている。[[1943年]]に[[北海道]]で[[昭和新山]]が生まれた際には、[[三松正夫]]がその隆起していく過程を「新山隆起図」という一枚の図にまとめた。これは[[ミマツダイヤグラム]]と呼ばれ、活火山の山体形成過程の詳細な記録として非常に貴重なものである。 火山学において非常に期待されている分野に、[[噴火予知]]がある。これは[[火山性地震]]の発生、[[火山性微動]]の増加や火口付近の隆起、地下水の温度の上昇や、火山ガスの化学組成の変化などさまざまな証拠を元に、ある程度の噴火の予測を立てることである。地下の圧力が高まっていれば上記のような変動が起き、それが増加していれば地下の活動が活発化していると考えられるためある程度の予測は可能であるが、あくまで予測であり、完全な予知はもとより不可能である。また、火山の噴火タイプはその山ごとによって違い、さらには同じ山ですら前回と全く同じ活動をするとは限らないため、さらに予測は困難となる。上記のような変動が起きていてもその後収束に向かうこともあれば、ほぼ直前までわずかな変動しかなかったものが突然噴火することさえある。噴火予知に成功した例としては、2000年の[[有珠山]]噴火が挙げられる。有珠山は20年から30年周期で定期的に噴火を繰り返しており、また前兆が必ず現れることから予測しやすかったことが成功へとつながった<ref>https://www.city.date.hokkaido.jp/hotnews/detail/00001026.html 「有珠山噴火に備えて」伊達市 2022年1月19日閲覧</ref>。一方、[[2014年の御嶽山噴火]]においては火山性地震は増加傾向にあったものの山体膨張や火山性微動が観測されなかったため[[噴火警戒レベル]]を上昇させることはなく、結果として多くの犠牲者を出すこととなった。 日本においては各火山の活動状況に応じて必要な防災対応や警戒範囲を示すものとして2007年12月より気象庁が噴火警戒レベルを発表しており、噴火による重大な災害が起こる恐れがある場合には[[噴火警報]]が発表される<ref>「2020-2021 日経キーワード」p149 日経HR編集部編著 日経HR社 2019年12月4日第1刷</ref>。また、2014年の御嶽山噴火の反省を踏まえ、それまでも出されていた[[火山の状況に関する解説情報]]を一般登山者向けにも伝えるホームページを気象庁が開設したほか、臨時情報を「臨時」として強調するなどの改善を行った<ref>「[https://www.jma.go.jp/jma/press/1505/12b/kazanjouhou150512.html 御嶽山の噴火災害を踏まえた火山情報の見直しについて~「火山の状況に関する解説情報」等の変更~]」気象庁、2015年5月12日付、2016年5月9日閲覧</ref>。また、日本国内の多くの火山においては噴火時を想定した[[ハザードマップ]]が作成され公開されている。 == 地球外の火山 == [[ファイル:Olympus Mons.jpeg|thumb|150px|火星のオリンポス山]] 火山の噴火が確認されている[[天体]]は、地球、[[木星]]の衛星[[イオ (衛星)|イオ]]、[[土星]]の衛星[[エンケラドゥス (衛星)|エンケラドゥス]]、[[海王星]]の衛星[[トリトン (衛星)|トリトン]]である。 [[金星]]、[[火星]]、[[タイタン (衛星)|タイタン]]にも、噴火は確認されていないが、火山が存在する。火星の最も新しい噴火としては、240万年前に[[オリンポス山 (火星)|オリンポス山]]が噴火した痕跡が発見されている。地球の基準に照らせば死火山となるが、火星の火山は長い休止時期を挟んで間歇的に活動するとの説もあり、実際のところ死火山か活火山かは不明である。なお、オリンポス山の標高は約27kmにのぼり、[[太陽系]]最高峰でもある。これほど標高が高くなったのは、火星にはプレートテクトニクスが存在しないため、ホットスポットから火山が移動せず、噴出した溶岩が同じ場所に堆積し続けたためである{{sfn|太陽系探検ガイド|2012|p=5}}。同じ理由で、火星にはアルシア山(標高19km)やアスクレウス山(標高18km)、パボニス山(標高14km)といった巨大火山が点在する{{sfn|太陽系のすべて|2006|p=42}}。金星の火山の活動状況は不明な点が多いが、数億年前に大規模な地質活動は終わったと見られている{{sfn|太陽系のすべて|2006|p=20}}。 [[月]]には、[[月の海|海]]と呼ばれる広大な玄武岩平原が存在し、[[地質時代]](最も新しい[[モスクワの海]]東領域で25億年前)には、活発な火山活動が見られた。ただし、火山と言えるような地形はない。 太陽系中で現在も地球と同系統の火山活動が活発に起こっている場所はイオである。イオの地表には400個以上の火口が点在し、2007年にはニューホライズンズ探査機が、高さ300kmにものぼる巨大な噴火を確認した。イオの火山活動は衛星全体に点在するため、星全体が火山から噴出した硫黄化合物によっておおわれており、そのため星自体が硫黄化合物の色である赤と黄色に見える{{sfn|太陽系探検ガイド|2012|p=177-180}}。 岩石天体の火山噴出物は、地球と同様の[[ケイ酸塩]][[化合物]]だが、氷天体の火山噴出物はまったく異なる。タイタンやエンケラドゥスの火山は[[水]]、トリトンの火山は[[窒素]]を主に噴出する{{sfn|太陽系探検ガイド|2012|p=9}}。それぞれの天体の[[常温]]では[[固体]]であり、地殻の構成物質である。そのような氷天体に見られる火山は、氷のマグマのようなものを噴出していることから[[氷の火山]]と呼ばれる。 == 火山に関連する作品 == ; ノンフィクション * 『クラカトアの大噴火』([[サイモン・ウィンチェスター]])早川書房 - クラカタウ * 『火山に魅せられた男たち』([[ディック・トンプソン]])[[地人書館]] - セント・ヘレンズ、ネバド・デル・ルイス、ピナトゥボ ; 小説 * 『21の気球』([[ウィリアム・ペン・デュボア]])講談社少年少女世界文学全集 - クラカタウ * 『ポンペイの四日間』([[ロバート・ハリス (1957年生)|ロバート・ハリス]])[[2003年]] - [[79年]]の[[ヴェスヴィオ火山]]噴火による[[ポンペイ]]滅亡 * 『[[死都日本]]』([[石黒耀]]。漫画版『[[カグツチ (漫画)|カグツチ]]』) - 九州の加久藤(かくとう)火山 * 『複合大噴火 1783年夏』([[上前淳一郎]])文藝春秋、1989年 - ラキ、浅間 * 『富士山大噴火』([[鯨統一郎]])講談社、2004年 - 富士山 * 『昼は雲の柱』(石黒耀)講談社、2004年 - 富士山 * 『[[日本沈没]]』([[小松左京]])光文社、1973年 - 日本各地の火山 * 『[[グスコーブドリの伝記]]』([[宮沢賢治]]『童話集 風の又三郎』)岩波文庫、岩波書店 - カルボナード火山(架空) ; 映画 * 『[[ポンペイ最後の日 (1935年の映画)|ポンペイ最後の日]]』 * 『[[日本沈没]]』 * 『[[ボルケーノ]]』 * 『[[ダンテズ・ピーク]]』 * 『[[2012 (映画)|2012]]』 == 脚注 == {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite |和書 | author = 久野久 | authorlink = 久野久 (火山学者) | title = 火山及び火山岩 | date = 1954 | publisher = [[岩波書店]] | series = [[岩波全書]] | id = {{全国書誌番号|54007630}} | oclc = 33740555 | ref = harv }} * {{Cite |和書 | author = [[下鶴大輔]]監修 | editor = 火山防災用語研究会 | title = 火山に強くなる本 | date = 2003-07-10 | publisher = [[山と渓谷社]] | ref = {{sfnRef|火山に強くなる本|2003}} }} * {{Cite |和書 | title = 探査機が明らかにした太陽系のすべて | date = 2006-11-15 | publisher = [[ニュートンプレス]] | series = [[ニュートン (雑誌)|Newton]]別冊 | ref = {{sfnRef|太陽系のすべて|2006}} }} * {{Cite |和書 | author = 地盤工学委員会 火山工学研究小委員会編 | title = 火山工学入門 | date = 2009-07-31 | publisher = [[土木学会]] | ref = {{sfnRef|火山工学入門|2009}} }} * {{Cite |和書 | author = 西村祐二郞編著 | title = 基礎地球科学 | edition = 第2 | date = 2010-11-30 | publisher = [[朝倉書店]] | ref = {{sfnRef|基礎地球科学|2010}} }} * {{Cite |和書 | author1 = デイヴィッド・ベイカー | author2 = トッド・ラトクリフ | coauthors = [[渡部潤一]]監訳 | translator = 後藤真理子 | title = 太陽系探検ガイド エクストリームな50の場所 | date = 2012-10-10 | publisher = [[朝倉書店]] | ref = {{sfnRef|太陽系探検ガイド|2012}} }} * {{Cite |和書 | author = ジェイムズ・ハミルトン | coauthors = [[鎌田浩毅]]監修 | translator = 月谷真紀 | title = 図説 火山と人間の歴史 | date = 2013-12-03 | publisher = [[原書房]] | ref = {{sfnRef|図説 火山と人間の歴史|2013}} }} == 関連項目 == {{Commons&cat|Volcano|Volcanoes|火山}} * [[火山学]] * [[火山の一覧]]、[[火山の一覧 (日本)]]、[[火山帯]] * [[海底火山]]、[[火山島]] * [[噴火]]、[[マグマ]]、[[マグマ溜まり]] * [[気象庁が命名した自然現象の一覧#火山噴火]] * [[火成岩]]、[[火山岩]] * [[火山砕屑物]]、[[火山砕屑岩]] * [[火口]](噴火口) * [[火山爆発指数]](VEI) * [[火砕流]] * [[山体崩壊]] * [[ラハール]](火山活動によって発生する泥流・[[土石流]]) * [[地熱]]、[[温泉]] * [[プレートテクトニクス]]、[[プルームテクトニクス]] * [[破局噴火]] * [[洪水玄武岩]] * {{仮リンク|火山高原|en|Volcanic plateau}} * [[火山の冬]] * {{ill2|地球外の火山活動|en|List of extraterrestrial volcanoes}}、{{ill2|月の火山活動|en|Volcanism on the Moon}} == 外部リンク == {{Wiktionary}} {{Wikinewscat}} * [https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/kaisetsu/vol_know.html 気象等の知識「火山」] - 気象庁 ** [https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/souran/menu_jma_hp.html 日本活火山総覧(第4版)Web掲載版] - 気象庁 * [https://gbank.gsj.jp/volcano/Quat_Vol/index.html 日本の第四紀火山] - 産業技術総合研究所 地質調査総合センター * [http://www.hayakawayukio.jp/kazan/field/ フィールド火山学] - 群馬大学教育学部 早川由紀夫研究室 * [http://www.kazan-g.sakura.ne.jp/J/index.html 日本火山学会] ** [http://www.geo.chs.nihon-u.ac.jp/tchiba/volcano/kaz-table.htm 火山データベース] * [http://www.volcano.si.edu/ Global Volcanism Program] - スミソニアン学術協会 * {{Kotobank}} {{地形}} {{噴火}} {{自然災害}} 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同位体効果
同位体効果(どういたいこうか、英語: isotope effect)は、物質や化合物を構成する原子の同位体に起因して、物性、反応性が変化する事や、同位体比が変化する事をいう。 同位体効果は大きくわけて二種類あり、質量に起因するものと核の形状や電荷分布が異なることに起因するものがある。 前者を質量効果といい、物理的・化学的性質が異なり、原子番号が小さい同位体ほど顕著になり、水素の同位体である重水素やトリチウムで最大となる。 後者を体積効果といい、核の体積・形・電荷分布の違いにより外部の電子状態に影響を与え、こちらは逆にウランのような原子番号が大きな同位体ほど顕著である。 同位体効果は物理的性質はもとより化学反応の速度などにも影響を与える。分子分光学における同位体効果は同位体存在比の測定に用いられる。 このような同位体効果を用いることによって重水素やウランを分離するなどといった同位体の分離が可能となる。 BCS理論に基づく超伝導体において、電子-格子相互作用の格子振動を担う原子を、その同位体に置換した場合、その同位体原子と元の原子の質量の違いから、超伝導になる転移温度が変化する現象のこと。 通常、同位体が元の原子より軽ければ、転移温度は上がり、逆に重ければ下がる。 化合物中の原子を同位体に置換した際に反応速度に変化が見られることを速度論的同位体効果という。 化合物中の原子を同位体に置換すると元の原子との質量の違いにより結合エネルギーが変化する。同位体が元の原子と比較して重い場合、結合エネルギーは強くなる。そのため、その結合が切断される反応は遅くなる。これを一次の同位体効果という。 結合エネルギーの変化は同位体ともとの原子の質量比が大きいほど大きくなる。そのため、もっとも顕著に同位体効果が現れるのは軽水素をトリチウムに同位体置換したときである。その次が軽水素を重水素に同位体置換したときである。なお、これには軽水素の質量が小さいためにトンネル効果が起こりやすく結合が切断されやすいことも寄与している。 また、同位体置換された原子の担う結合が反応に関与していない場合でも、小さな同位体効果が見られることがある。これを二次の同位体効果という。 ウラン濃縮では酸化/還元の反応速度差で異なる価のイオン間で濃度比にわずかな差が生じる現象を応用してイオン交換樹脂の吸着の差を利用して同位体を濃縮する。
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同位体効果は、物質や化合物を構成する原子の同位体に起因して、物性、反応性が変化する事や、同位体比が変化する事をいう。
'''同位体効果'''(どういたいこうか、{{lang-en|isotope effect}})は、物質や化合物を構成する原子の[[同位体]]に起因して、物性、反応性が変化する事や、[[同位体#同位体比|同位体比]]が変化する事をいう。 ==概要== 同位体効果は大きくわけて二種類あり、質量に起因するものと核の形状や電荷分布が異なることに起因するものがある。 前者を'''質量効果'''といい、物理的・化学的性質が異なり、原子番号が小さい同位体ほど顕著になり、水素の同位体である[[重水素]]やトリチウムで最大となる。 後者を'''体積効果'''といい、核の体積・形・電荷分布の違いにより外部の電子状態に影響を与え、こちらは逆にウランのような原子番号が大きな同位体ほど顕著である。 同位体効果は物理的性質はもとより化学反応の速度などにも影響を与える。[[分光法|分子分光学]]における同位体効果は同位体存在比の測定に用いられる。 このような同位体効果を用いることによって重水素やウランを分離するなどといった同位体の分離が可能となる<ref>吉村壽次ほか編、『[http://www.morikita.co.jp/books/book/661 化学辞典 第2版]』、森北出版、2009年、項目「同位体効果」より。ISBN 978-4-627-24012-4</ref>。 ==超伝導における同位体効果== [[BCS理論]]に基づく[[超伝導体]]において、[[電子-格子相互作用]]の[[格子振動]]を担う[[原子]]を、その同位体に置換した場合、その同位体原子と元の原子の質量の違いから、超伝導になる[[転移温度]]が変化する現象のこと。 通常、同位体が元の原子より軽ければ、転移温度は上がり、逆に重ければ下がる。 ==化学反応における同位体効果== 化合物中の原子を同位体に置換した際に反応速度に変化が見られることを[[速度論的同位体効果]]という。 化合物中の原子を同位体に置換すると元の原子との質量の違いにより[[結合エネルギー]]が変化する。同位体が元の原子と比較して重い場合、結合エネルギーは強くなる。そのため、その結合が切断される反応は遅くなる。これを'''一次の同位体効果'''という。 結合エネルギーの変化は同位体ともとの原子の質量比が大きいほど大きくなる。そのため、もっとも顕著に同位体効果が現れるのは[[軽水素]]を[[トリチウム]]に同位体置換したときである。その次が[[軽水素]]を[[重水素]]に同位体置換したときである。なお、これには軽水素の質量が小さいために[[トンネル効果]]が起こりやすく結合が切断されやすいことも寄与している。 また、同位体置換された原子の担う結合が反応に関与していない場合でも、小さな同位体効果が見られることがある。これを'''二次の同位体効果'''という。 ===応用例=== [[ウラン濃縮]]では[[酸化]]/[[還元]]の反応速度差で異なる価のイオン間で濃度比にわずかな差が生じる現象を応用して[[イオン交換樹脂]]の吸着の差を利用して同位体を濃縮する<ref>{{Cite journal|和書|author=藤井靖彦 |title=徹底分析 脚光を浴びるか ウラン濃縮化学法 |journal=エネルギーレビュー |issn=02892804 |publisher=エネルギーレビューセンター |year=2009 |month=aug |volume=29 |issue=8 |pages=38-42 |naid=40016699885}}</ref><ref>{{cite journal|title=日本が開発したウラン濃縮技術『化学法』|journal=[[日経サイエンス]] |date=1994年2月号 |page=18-28}}</ref>。 ==関連項目== * [[超伝導]] * [[物理学]] * [[物性物理]] * [[同位体]] * [[重水]] * [[トリチウム]] * [[反応機構]] ==参考文献== {{Reflist}} {{放射線}} {{DEFAULTSORT:とういたいこうか}} [[Category:物理化学の現象]] [[Category:同位体]] [[Category:分子]] [[Category:超伝導]]
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