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FM TOWNS マーティー
FM TOWNS マーティー(FM タウンズ マーティー、FM TOWNS MARTY)は、1993年2月16日に富士通が発表し、同月20日に発売したFM TOWNS系のコンシューマ向けマルチメディア機(CD-ROMプレイヤー)。 キャッチコピーは「マーティーにチャンネルを合わせろ」。イメージキャラクターはワニの「Mr.T」で、郵便局の簡易保険のCMにも登場していた。 富士通が、「LIST方式」(Line Interpolation Scaning Technology)という画像処理技術を利用したビデオ信号チップ(ワンチップのスキャンコンバータ)を開発したことを受けて企画された。この技術により、640×480ドット(VGA相当の画面解像度)の画像を一般のテレビで表示することが可能となったとしている。それ以前には、テレビ接続するタイプのゲーム機やパソコンは320×240ドットの解像度を前提にするのが基本であった。 家庭用テレビへの接続に特化し小型化されたFM TOWNSである。本体色は白。CPUは80386SX(クロック周波数16MHz)相当品で、性能的には初代FM TOWNS程度である。RGBの代わりにS端子を備える。 マウスの代わりに、専用のジョイパッドを使って操作できる。パッドにはZOOMボタンがついており、対応ソフトではハード的に画面の拡大表示が可能である。キーボードは別売である。トップローディングのCD-ROMと3.5インチ2HDのFDDをそれぞれ一基ずつ搭載している。ほかにPCカードスロットがあり、本来はICメモリカード用のJEIDA4.0仕様ではあるが、専用のモデムカードを使用できた。背面には蓋がモールドされた拡張バスがある。 当初富士通ではテレビを意識して、対応ソフトを「番組」「チャンネル」と呼んでいた。 FM TOWNS向けのCD-ROMソフトウェアの多くがそのまま利用できる、という触れ込みだった。ただし、マーティー発表時点で富士通より公表されていた通り、マーティー発売後のFM TOWNSタイトルは、ソフトのパッケージに「マーティー対応」という注意書きがないと使用できなかった。 なおマーティー発売後のFM TOWNSタイトルは、マーティー専用IPLが書き込まれたソフトウェアと、旧来のFM TOWNS用ソフトのIPLが書き込まれたソフトのみ、そのまま起動する。マーティー発売以後に発売された、FM TOWNS専用IPLが書き込まれたソフトは、マーティー本体のプロテクトにより起動しない。 マーティー発売以前に発売されていたTOWNSタイトル約660本のうち、約200本がマーティー対応で、新作ソフトを含めると発売時点で約250本のソフトがマーティー対応とされていた。 富士通としては、家庭用ゲーム機ビジネスを参考にした、ソフトウェアベンダが生産委託料などの名目で、ハードベンダにソフトの生産数に応じたライセンス料を支払うロイヤルティ徴収方式のビジネスモデルを描いていた様である。 ゲーム機に対抗できる簡易なゲーム用パソコンというスタンスであり、当初、発売から3年で販売台数100万台という目標を立てていた。しかし、売り上げは低迷し、1993年12月末時点で、マーティーの累計出荷台数は4.5万台だった。 主な原因として下記が挙げられる。 翌1994年、本体価格を6万6000円に下げて色をグレーにした「マーティー モデル2」の投入も行われた。しかし性能的には何も変わっておらず、不調に終わった。その後マーティーは中古ショップに積まれたが、それでもあまり売れた気配はなかった。 マーティーの突然の発表と失敗は、一時は堅調になってきたかと思われたFM TOWNSの市場に、逆に水をさしてしまった。また、当時流行していた「マーフィーの法則」にひっかけて、「売れる可能性のない物は売れない」=「マーティーの法則」とも揶揄された。ただし価格さえ見合えばアダルトゲームには最高の環境、という話も聞かれた。 1995年、FM TOWNS唯一のラップトップモデルとして教育市場向けに「FM TOWNSII モデルSN」が発売された際、これこそが本来マーティーのあるべき姿であったという記事もみられた。但しSNは本体価格52万8000円とマーティーと比較するとかなり高額な価格設定であった。 1993年10月のモーターショーにて、カーナビゲーション機能を備えたカーマーティー(CAR MARTY)が発表され、1994年に富士通テンから発売された。富士通として初めてカーナビゲーション市場に参入し、当時としては初めて一方通行を考慮したルート検索が可能。ほかにも別売の3.5インチFDDでルート情報や地点登録、走行軌跡などを保存、交換が可能など現在のカーナビの原点というべき機能がいくつか見受けられた。もちろん、通常のマーティー向けのソフトウェアも動作する。カーナビのソフトウエアは専用PCカードに記録され、GPSアンテナは接続できないものの、ルート検索やコース編集等はFM TOWNSシリーズでも使用可能だった。 メニューキーを素早く2回押すと、画面上の自車のキャラクターが、レーシングカーから犬に変わる。
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FM TOWNS マーティーは、1993年2月16日に富士通が発表し、同月20日に発売したFM TOWNS系のコンシューマ向けマルチメディア機(CD-ROMプレイヤー)。 キャッチコピーは「マーティーにチャンネルを合わせろ」。イメージキャラクターはワニの「Mr.T」で、郵便局の簡易保険のCMにも登場していた。
{{Infobox_コンシューマーゲーム機 |名称 = FM TOWNS マーティー |ロゴ = [[File:FM Towns Marty Logo.png|250px]] |画像 = [[File:FM-Towns-Marty-Console-Set.png|320px]] |画像コメント = FM TOWNS マーティー |メーカー = [[富士通]] |種別 = [[ゲーム機|据置型ゲーム機]] |世代 = [[ゲーム機#第5世代|第5世代]] |発売日 = {{flagicon|JPN}} [[1993年]][[2月20日]] |CPU = [[アドバンスト・マイクロ・デバイセズ|AMD]] [[Am386|386SX]] at 16 MHz |GPU = |メディア = [[CD-ROM]] |ストレージ = |コントローラ = ケーブル |外部接続端子 = |オンラインサービス = |売上台数 = {{flagicon|JPN}} 4.5万台(1993年12月末時点)<ref name="shimizu">清水欣一『富士通のマルチメディア・ビジネス』オーエス出版社、1995年5月15日第1刷、1997年3月15日第4刷、ISBN 4-87190-415-6、151頁。</ref> |最高売上ソフト = |互換ハード = [[FM TOWNS]] |前世代ハード = |次世代ハード = }} [[File:FM-Towns-Marty-Controller-L.jpg|thumb|コントローラ]] '''FM TOWNS マーティー'''(FM タウンズ マーティー、''FM TOWNS MARTY'')は、[[1993年]][[2月16日]]<ref>『[[Oh!FM|Oh!FM TOWNS]]』1994年5・6月合併号 p.31</ref><ref name=F930216>{{PDF|[http://gamingsince198x.fr/wp-content/uploads/Marty.pdf テレビにつなぐ情報ブレーン「FM TOWNS MARTY」新発売]、富士通、1993年2月16日。}}</ref>に[[富士通]]が発表し、同月[[2月20日|20日]]に発売<ref name=F930216 />した[[FM TOWNS]]系のコンシューマ向け[[マルチメディア機]]([[CD-ROM]]プレイヤー)。 キャッチコピーは「マーティーにチャンネルを合わせろ」<ref>『[[マイコンBASICマガジン]]』1993年4月号などに掲載された広告より。</ref>。イメージキャラクターは[[ワニ]]の「Mr.T」で、[[郵便局]]の[[簡易保険]]のCMにも登場していた。 == 概要 == 富士通が、「LIST方式」(Line Interpolation Scaning Technology)<ref name=ten_12_14>『富士通テン技報』Vol.12 No.2、14頁。</ref>という画像処理技術を利用したビデオ信号チップ(ワンチップのスキャンコンバータ)を開発した<ref name=ten_12_14 />ことを受けて企画された。この技術により、640×480ドット([[Video Graphics Array|VGA]]相当の[[画面解像度]])の画像を一般の[[テレビ]]で表示することが可能となったとしている<ref name=F930216 />。それ以前には、テレビ接続するタイプのゲーム機やパソコンは320×240ドットの解像度を前提にするのが基本であった。 家庭用テレビへの接続に特化し小型化されたFM TOWNSである。本体色は白。[[CPU]]は[[Intel 80386|80386SX]](クロック周波数16MHz)相当品で、性能的には初代FM TOWNS程度である。[[RGB]]の代わりに[[S端子]]を備える。 [[マウス (コンピュータ)|マウス]]の代わりに、専用の[[ジョイパッド]]を使って操作できる。パッドにはZOOMボタンがついており、対応ソフトではハード的に画面の拡大表示が可能である。[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]は別売である。トップローディングの[[CD-ROM]]と3.5インチ2HDのFDDをそれぞれ一基ずつ搭載している。ほかに[[PCカード]]スロットがあり、本来はICメモリカード用のJEIDA4.0仕様ではあるが、専用の[[モデム]]カードを使用できた。背面には蓋が[[モールド]]{{要曖昧さ回避|date=2023年2月}}された拡張バスがある。 当初富士通ではテレビを意識して、対応ソフトを「番組」「チャンネル」と呼んでいた。 <!-- === 名前の由来 === *[[ロバート・ゼメキス]]監督の映画『[[バック・トゥ・ザ・フューチャー・トリロジー|バック・トゥ・ザ・フューチャー]]』シリーズの主人公のマーティ・マクフライから捩ったものと思われる。[[バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2|2作目]]に於いて「フジツウ・イトウ」というマーティの上司が登場する事を富士通本社が喜んでつけたとの噂が立っている。 --> == ソフトウェア == FM TOWNS向けのCD-ROM[[ソフトウェア]]の多くがそのまま利用できる、という触れ込みだった。ただし、マーティー発表時点で富士通より公表されていた通り、マーティー発売後のFM TOWNSタイトルは、ソフトのパッケージに「マーティー対応」という注意書きがないと使用できなかった。 なおマーティー発売後のFM TOWNSタイトルは、マーティー専用[[ブート|IPL]]が書き込まれたソフトウェアと、旧来のFM TOWNS用ソフトのIPLが書き込まれたソフトのみ、そのまま起動する。マーティー発売以後に発売された、FM TOWNS専用IPLが書き込まれたソフトは、マーティー本体のプロテクトにより起動しない。 マーティー発売以前に発売されていたTOWNSタイトル約660本のうち、約200本がマーティー対応で、新作ソフトを含めると発売時点で約250本のソフトがマーティー対応とされていた。 富士通としては、家庭用ゲーム機ビジネスを参考にした、ソフトウェアベンダが生産委託料などの名目で、ハードベンダにソフトの生産数に応じたライセンス料を支払うロイヤルティ徴収方式のビジネスモデルを描いていた様である。 == 反響 == === 売上台数 === ゲーム機に対抗できる簡易なゲーム用[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]というスタンスであり、当初、発売から3年で販売台数100万台という目標を立てていた<ref>「富士通、新チャネル開拓――CD-ROMプレーヤー『マーティー』」『[[日経産業新聞]]』1993年3月12日付、7面。</ref>。しかし、売り上げは低迷し、1993年12月末時点で、マーティーの累計出荷台数は4.5万台<ref name="shimizu" />だった。 主な原因として下記が挙げられる。 * 搭載[[メモリ]]の容量が2MBと当時でも小さかった。FM TOWNSのRAMは、初代モデル1を除けば標準で2MBであり、これがFM TOWNS規格としてのデファクトスタンダードだったものの、マーティは増設不可で、制限を受けるソフトウェアもあった。 * [[Small Computer System Interface|SCSI]]がなく、背面に拡張バスを一応備えながら蓋が[[モールド]]されていて本体を加工する必要があった。そのため、[[ハードディスク]]などの拡張機器が出なかった。マーティ用の拡張ハードとしては、[[サードパーティー]]の[[アーバンコーポレーション]]から[[プリンター|プリンタ]]ポート「MTPR-80」が発売された<ref>『Oh!FM TOWNS』1994年1月号 pp.120-121、『Oh!FM TOWNS』1995年2月号 pp.118-119</ref>のみである。 * 当時、普通のパソコンの中にも10万円を切る価格で販売されていた機種が存在していたが、それより低性能でありながら本体価格が9万8000円(税込みで10万円)と価格差が極小であり、ゲーム機として見ると高い設定価格であった。 * そもそもFM TOWNSにゲーム機市場に対抗できるような[[キラーソフト]]がそう多くは出ていなかった。 === その後 === 翌[[1994年]]、本体価格を6万6000円に下げて色をグレーにした「マーティー モデル2」の投入も行われた。しかし性能的には何も変わっておらず、不調に終わった。その後マーティーは中古ショップに積まれたが、それでもあまり売れた気配はなかった。 マーティーの突然の発表と失敗は、一時は堅調になってきたかと思われたFM TOWNSの市場に、逆に水をさしてしまった。また、当時流行していた「[[マーフィーの法則]]」にひっかけて、「売れる可能性のない物は売れない」=「マーティーの法則」とも揶揄された。ただし価格さえ見合えば[[アダルトゲーム]]には最高の環境、という話も聞かれた。 [[1995年]]、FM TOWNS唯一のラップトップモデルとして教育市場向けに「FM TOWNSII モデルSN」が発売された際、これこそが本来マーティーのあるべき姿であったという記事もみられた<ref>『Oh!FM TOWNS』1995年4月号、133頁。</ref>。但しSNは本体価格52万8000円とマーティーと比較するとかなり高額な価格設定であった。 ==== カーマーティー ==== 1993年10月のモーターショーにて、[[カーナビゲーション]]機能を備えた'''カーマーティー'''(CAR MARTY)が発表され、1994年に[[富士通テン]]から発売された。富士通として初めてカーナビゲーション市場に参入し、当時としては初めて一方通行を考慮したルート検索が可能。ほかにも別売の3.5インチFDDでルート情報や地点登録、走行軌跡などを保存、交換が可能など現在のカーナビの原点というべき機能がいくつか見受けられた。もちろん、通常のマーティー向けのソフトウェアも動作する。カーナビのソフトウエアは専用PCカードに記録され、GPSアンテナは接続できないものの、ルート検索やコース編集等はFM TOWNSシリーズでも使用可能だった。 メニューキーを素早く2回押すと、画面上の自車のキャラクターが、レーシングカーから犬に変わる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == *{{Cite web|和書|date=1995年2月 |url=http://www.fujitsu-ten.co.jp/gihou/jp_pdf/24/24-1J.pdf |title=『富士通テン技報』Vol.12 No.2・「カーマーティー」 |format=PDF |page= |pages=12-20 |accessdate=2013-12-13}} == 関連項目 == * [[:Category:FM TOWNS用ゲームソフト]] {{デフォルトソート:FM TOWNSまあていい}} [[Category:FM TOWNS マーティー|*]] [[Category:ゲーム機]] [[Category:1993年のコンピュータゲーム|*]] [[Category:1990年代の玩具]]
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8,011
マルチメディア機
マルチメディア機(マルチメディアき、マルチメディアプレイヤー)とは、コンシューマ向けのパソコンとゲーム機の中間的な存在のものを総称してこう呼ぶが、明確に決められた定義はない。 CD-ROMドライブを搭載し、ゲーム用コントローラ程度の簡素な入力機器、入力に応じた動画や音声をテレビに出力する機能を持つ。学習ソフト、映像コンテンツなど主にゲーム以外のソフトウェアを体験することを主目的としたものを指す。 主な特徴は、次の通り。 提供されるソフトウェアは、キーボードを要しない操作系統や、家庭用テレビの解像度にあわせた大きな文字を採用しているなど、ゲーム機用のものに近い特性をもつものが多い。 パソコンと互換性を持たせたものもあり、パソコンとマルチメディア機の両方で使用できるソフトウェアもあった。 ゲーム機との違いは、対象となるソフトウェアがゲームのみかそれ以外も対象としているかである。しかし、昨今ゲーム機においても、ゲーム以外のソフトウェアが提供されることが多くなり、両者の区別はあいまいである。 過去に「マルチメディア機」として売り出された機器の多くが、コンセプトが明確にならずに販売不振に陥ったことや、「マルチメディア」という言葉が新しさを感じさせる言葉ではなくなってきていることなどから、最近ではマルチメディア機の性格を有する機器であっても、ソフトウェアの主軸をゲームに置いた上でゲーム機として売り出す傾向にある。 一方、ゲーム機の高性能化に伴い、従来マルチメディア機でしか実現できなかった、動画や音声を扱うソフトウェアもゲーム機でごく普通に実現することができるため、マルチメディア機をゲーム機とは別に発売する必要はなくなったものとされる。
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マルチメディア機(マルチメディアき、マルチメディアプレイヤー)とは、コンシューマ向けのパソコンとゲーム機の中間的な存在のものを総称してこう呼ぶが、明確に決められた定義はない。 CD-ROMドライブを搭載し、ゲーム用コントローラ程度の簡素な入力機器、入力に応じた動画や音声をテレビに出力する機能を持つ。学習ソフト、映像コンテンツなど主にゲーム以外のソフトウェアを体験することを主目的としたものを指す。 主な特徴は、次の通り。 ゲーム機と同様に家庭用テレビに接続できる。 ゲーム機と同様の、方向キーと数個のボタンを用いたコントローラが付属する。ゲーム機のコントローラーと共用のものもある。 キーボードは付属していない。必要な場合は、別売りのものを購入する。 動画・音声の再生機能に重点を置いたものが多い。 価格帯は同程度の性能を持つパソコンより安いが、ゲーム機よりはやや高いものが多い。 提供されるソフトウェアは、キーボードを要しない操作系統や、家庭用テレビの解像度にあわせた大きな文字を採用しているなど、ゲーム機用のものに近い特性をもつものが多い。 パソコンと互換性を持たせたものもあり、パソコンとマルチメディア機の両方で使用できるソフトウェアもあった。
'''マルチメディア機'''(マルチメディアき、'''マルチメディアプレイヤー''')とは、コンシューマ向けの[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]と[[ゲーム機]]の中間的な存在のものを総称してこう呼ぶが、明確に決められた定義はない。 [[CD-ROM]]ドライブを搭載し、ゲーム用コントローラ程度の簡素な[[入力機器]]、入力に応じた動画や音声をテレビに出力する機能を持つ。[[学習ソフト]]、映像コンテンツなど主にゲーム以外のソフトウェアを体験することを主目的としたものを指す。 主な特徴は、次の通り。 *ゲーム機と同様に家庭用テレビに接続できる。 *ゲーム機と同様の、方向キーと数個のボタンを用いたコントローラが付属する。ゲーム機のコントローラーと共用のものもある。 *キーボードは付属していない。必要な場合は、別売りのものを購入する。 *動画・音声の再生機能に重点を置いたものが多い。 *価格帯は同程度の性能を持つパソコンより安いが、ゲーム機よりはやや高いものが多い。 提供されるソフトウェアは、キーボードを要しない操作系統や、家庭用テレビの解像度にあわせた大きな文字を採用しているなど、ゲーム機用のものに近い特性をもつものが多い。 パソコンと互換性を持たせたものもあり、パソコンとマルチメディア機の両方で使用できるソフトウェアもあった。 == ゲーム機との違い == ゲーム機との違いは、対象となるソフトウェアがゲームのみかそれ以外も対象としているかである。しかし、昨今ゲーム機においても、ゲーム以外のソフトウェアが提供されることが多くなり、両者の区別はあいまいである。 過去に「マルチメディア機」として売り出された機器の多くが、コンセプトが明確にならずに販売不振に陥ったことや、「マルチメディア」という言葉が新しさを感じさせる言葉ではなくなってきていることなどから、最近ではマルチメディア機の性格を有する機器であっても、ソフトウェアの主軸をゲームに置いた上でゲーム機として売り出す傾向にある。 一方、ゲーム機の高性能化に伴い、従来マルチメディア機でしか実現できなかった、動画や音声を扱うソフトウェアもゲーム機でごく普通に実現することができるため、マルチメディア機をゲーム機とは別に発売する必要はなくなったものとされる。 == 主なマルチメディア機 == *マルチメディア機として扱われているもの **[[CD-i]] **[[Commodore CDTV]] **[[3DO]] **[[FM TOWNS マーティー]] **[[テラドライブ]] **[[ピピンアットマーク]] **[[レーザーアクティブ]] **[[プレイディア]] *ゲーム機として扱われているもの **[[CD-ROM2|CD-ROM<sup>2</sup>]] **[[SUPER CD-ROM2|SUPER CD-ROM<sup>2</sup>]] **[[メガCD]] **[[セガサターン]] **[[ドリームキャスト]] **[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]] **[[PlayStation 2]] **[[PlayStation 3]] **[[PlayStation 4]] **[[Wii]] **[[Wii U]] **[[Xbox (ゲーム機)|Xbox]] **[[Xbox 360]] **[[Xbox One]] == 関連項目 == *[[娯楽家電]] {{デフォルトソート:まるちめていあき}} [[category:パソコンの歴史]] [[Category:マルチメディア]]
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8,012
パルテノン神殿
座標: 北緯37度58分17秒 東経23度43分36秒 / 北緯37.97152度 東経23.72659度 / 37.97152; 23.72659 パルテノン神殿(パルテノンしんでん、希: Παρθενών, ローマ字: Parthenon)は、古代ギリシア時代にアテナイのアクロポリスの上に建設された、アテナイの守護神であるギリシア神話の女神アテーナーを祀る神殿(en)である。紀元前447年に建設が始まり、紀元前438年に完工、装飾等は紀元前431年まで行われた。パルテノン神殿はギリシア古代(en)建築を現代に伝える最も重要な、ドーリア式建造物の最高峰と見なされる。装飾彫刻もギリシア美術の傑作である。この神殿は古代ギリシアそして民主政アテナイ(en)の象徴であり、世界的な文化遺産として世界遺産に認定されている。神殿は完全な新築ではなく、古来パルテノン(en)と呼ばれるアテーナーの神殿があったが、紀元前480年のペルシア戦争にて破壊された後に再建され、当時あった多くの神殿と同様にデロス同盟、そして後のアテナイ帝国の国庫として使われた。6世紀にはパルテノン神殿はキリスト教に取り込まれ、生神女マリヤ聖堂となった。オスマン帝国の占領(en)後の1460年代初頭にはモスクへと変えられ、神殿内にはミナレットが設けられた。1687年9月26日、オスマン帝国によって火薬庫として使われていた神殿はヴェネツィア共和国の攻撃によって爆発炎上し、神殿建築や彫刻などはひどい損傷を受けた。1806年、オスマン帝国の了承を得た第7代エルギン伯トマス・ブルースは、神殿から焼け残った彫刻類を取り外して持ち去った。これらは1816年にロンドンの大英博物館に売却され、現在でもエルギン・マーブルまたはパルテノン・マーブルの名で展示されている。ギリシア政府はこれら彫刻の返却を求めているが、実現には至っていない。ギリシア文化・観光庁(en)は、パルテノン神殿の部分的な破壊の修復や保全など、後世に伝えるための再建計画を実行した。パルテノン神殿のある丘の下は、世界ラリー選手権(WRC)の一戦、アクロポリス・ラリーのスタート地点としても有名である。 「パルテノン」の名称はギリシア語の「παρθενών」(処女宮)から来ており、パルテノン神殿内にはその名称がつけられる由来となった特別な部屋が備えられていたという。ただし、その部屋がどこか、また何故そのように呼ばれたのかという点には諸説ある。古典ギリシア語辞典 (LSJ) では、この部屋は西の房にあったと言い、ジェフリー・M・ヒューイットは、パンアテナイア祭(en)でアレフォロス(en)が仕立てたペプロスをアテーナーに献上するため、4人の少女が服を選ぶ部屋だと述べた。クリストファー・ペリングは、アテーナー・パルテノス(処女のアテーナー)(en)への信仰は個別的なアテーナー崇拝から起こり、密接に関連しながらも同一化することなく、やがて守り神としてのアテーナー信仰となったと主張した。この考えによれば、「パルテノン」は「処女神の宮殿」と意味し、アテーナー・パルテノスへの信仰との関連性を持つことになる。「乙女、少女」であると同時に「処女、未婚の女性」を意味し、特に野獣・狩り・植物の女神アルテミスを指して使われる「parthénos」(ギリシア語: παρθένος)が、戦略と戦術・手芸そして実践理性を司るアテーナーに冠せられている理由も不明瞭である。その一方で、宮殿の名称が「処女」を暗示する点については、都市の安全を祈願するために処女が最高の人身御供にされたことに関連すると指摘した意見もある。 この建造物全体を「パルテノン」と形容する最初の例は、紀元前4世紀の演説者デモステネスに見られる。ただし5世紀の例では、ただ単に「ホ・ナーオス」(ὁ ναός 「神殿」)と呼ばれた。神殿を建築したイクティノスとカリクラテスは、今は失われた文書でこの建築物を「ヘカトンペドス」(Ἑκατόμπεδος 「百の足をもつもの」)と呼んでいたと言われる。1世紀にプルタルコスは「ヘカトンペドン・パルテノン」と表記し、4世紀以降にはヘカトンペドス、ヘカトンペドン、パルテノンの呼称がそれぞれ使われた。 現在のパルテノンに当たる聖域にアテーナー・パルテノスを祀った神殿を建てようという最初の尽力は、マラトンの戦い(紀元前490年‐紀元前488年)が終わった直後に始められた。アクロポリスの丘の南側に、強固な石灰岩の基礎が敷き並べられ、アテーナー・ポリアス(都市の守護神アテーナー)の古風な神殿の建設が始まった。しかし、この古パルテノン(en)と言及される建築物は紀元前480年にアケメネス朝が侵攻しアテナイの都市を破壊し尽くした時も未だ建設途上にあった。 紀元前5世紀中頃、デロス同盟が成立した時にはアテナイは当時の文化的な中心を担っており、政権を掌握したペリクレスは野心的な建築計画を立案した。アクロポリスの丘に現存する重要な建築物であるパルテノン神殿やプロピュライア、エレクテイオン、アテナ・ニケ神殿は当時に建立されたものである。パルテノン神殿は彫刻家ペイディアス(フィディアス)指導のもと建設され、彫刻装飾も彼の手で施された。建築家イクティノスとカリクラテスが紀元前447年に施工を開始し、紀元前432年にはほぼ完了したが、装飾の製作は少なくとも紀元前431年までは継続されていた。 パルテノン神殿建設への支出明細が一部残っており、それによるとアテナイから16km離れたペンテリコン山(en)から切り出した石材(大理石)が使われて、アクロポリスまでの運送に多額の経費が掛かった。この資金の一部には、紀元前454年にデロス島からアクロポリスに移されたデロス同盟の宝物が宛がわれた。 ドーリア式を伝える神殿で、現存するものの中ではヘファイストス神殿(en)が最も往時の形を残しているが、建設当時のパルテノン神殿は最高峰の建築だった。ジョン・ジュリアス・クーパー(en)は、「(パルテノン神殿は)今まで建設された全ての中で無二のドーリア式建築物という評に浴している。古代のものでありながら、その建築にそなわる気品は伝説的でもあり、特にスタイロベートの湾曲、テーパがつけられたナオス(本殿)(en)の壁、エンタシスの円柱などが巧みな調和を醸している。」と評した。「エンタシス」とは、上に向かうにつれ大きくなる円柱のわずかな膨らみを指し、パルテノン神殿のそれは先例の葉巻のような形状に比べれば変化は少ない。円柱が立つスタイロベートは、他のギリシア神殿と同様にほんの少し上に凸の放物線状の形をなしており、これは雨を排水する意図が盛り込まれている。この形からすると円柱上部は外向きに開いているのではと思いがちだが、実際には内側へわずかに傾いて立てられている。柱はどれも同じ長さをしており、そのためアーキトレーブや屋根もスタイロベート上部と同様な湾曲があり、ゴーハム・スティーブンスは神殿の西側前面が東側よりもわずかに高くなっている点と併せて「全てが繊細な曲線を構築する規則に従っている」と指摘した。このような設計に含まれた意図について、「光がもたらす気品」を狙ったという説もあるが、一種の「錯覚による逆説的効果」を狙ったと考えられる。2本の平行線を描く柱を見上げた時、梁などの水平部分がたわんでいるか両端が曲がっているかのように見え、神殿の全景を概観すると、まるで天井や床が歪んでいる錯覚を覚えてしまう事をギリシア人は意識していた可能性がある。これを避け、神殿が完全に見えるように設計者はわざと曲線を加え、錯覚を補う意図があったものと考えられる。そして、直線だけで構成された単純かつ凡百の神殿と差別化する躍動感をパルテノン神殿に与えたという説もある。 パルテノン神殿などアクロポリスの建造物には、黄金比に基づいて建設されたものが複数存在するという研究報告がある。パルテノン神殿の正面全貌は各要素ともども黄金長方形で囲われている。この、設計に黄金比が用いられた事象についてはさらに近年研究が進み、神殿に見られると言われていた黄金比は後付の都市伝説であって、実際には正確な比率になっていない。 スタイロベートを測定した結果から、パルテノン神殿の基盤は長さ69.5m(228.0フィート)、幅30.9m(101.4フィート)である。胞室(en)は長さ29.8m(97.8フィート)、幅19.2m(63.0フィート)であり、内部には屋根を支える2列の柱が立てられている。外周にあるドーリス式円柱は直径1.9m(6.2フィート)、高さ10.4m(34.1フィート)であり、四隅の円柱は若干大きい。柱の合計は外周に46本、内部に19本ある。この際、威容を持たせるため正面の柱が通常6本のところ8本にされたとの説もある。スタイロベートは東西の端で60mm(2.36インチ)、南北で110mm(4.33インチ)上向きに湾曲している。屋根は大きな大理石の平瓦と丸瓦(en)で葺かれている。 パルテノン神殿に使われる石材は、円柱のドラム1個当たりが5-10トン、梁材は15トン程度の重量であった。これらは高い加工が施され、例えば円柱ドラムの接合面にある凸凹は1/20mm以下に抑えられ、面接合の密着精度は1/100mm以下であり、エジプトのピラミッドのように調整用モルタルは使われていない。この精度は、検査用の塗料を塗った円盤を用意し、接合面と円盤を摺り合わせて凸面を検出し磨く作業を繰り返して実現した。石材の吊り上げには滑車と巻き上げ装置を備えたクレーンが実用化されており、これに対応するため石材にも吊り上げ時に綱を引っ掛ける突起や溝をつける加工が行われた。 ローマの六柱式(en)そして周柱式(en)を持ち、イオニア式の建築様式も備えるドーリア式神殿であるパルテノン神殿には、ペイディアスが製作し紀元前439年か翌年に献納されたアテーナー・パルテノスのクリスエレファンティン(彫像)(en)があった。当初、装飾の石の彫刻には彩色が施されていた。神殿がアテーナーを奉るようになったのはこの頃からであるが、建設そのものは紀元前432年のペロポネソス戦争勃発の頃まで続いた。紀元前438年までには外側の列柱上にある小壁と胞室上の壁の一部にあるイオニア式小壁にドーリア式の彫刻装飾が施された。これらの彫刻は神殿を豪華に飾り、宝物庫としての役割にふさわしさを与えた。胞室の奥にあるオピストドモス (opisthodomus) と呼ばれる部屋にはアテナイを盟主とするテロス同盟が拠出した宝物が納められた。日本のテレビ番組「日立 世界・ふしぎ発見!」ではパルテノン神殿にプロジェクションマッピングで色彩を施した。 パルテノン神殿には72枚の高浮かし彫りメトープ(長方型の彫刻小壁)(en)がある。この様式は従来、神に捧げる奉納の品を納める建物にのみ用いられていた。建築記録によると、これらは紀元前446年から440年の間に製作されたとあり、彫刻家のカラミス (Kalamis) がデザインしたと考えられる。パルテノン神殿正門玄関の上に当たる東側のメトープは、オリンポスの神々が巨人と戦ったギガントマキアーを主題としている。同様に、西端のメトープはアテナイ人とアマゾーンの戦い(英語版)、南側はラピテース族がテーセウスの助けを受けて半人半獣のケンタウロスと繰り広げた戦い(en)がモチーフとなっている。北面の主題は「トロイアの落城」である。 メトープの13番から21番は失われてしまったが、1674年にフランスのトルコ大使ノワンテル侯爵に随行した画家のジャック・カレイ(en)が描いた絵があり、アテナイ初期の神話などにあるラピテース族の結婚にまつわる伝説が描かれている。保存状態が悪い北面のメトープには、イーリオスの陥落の故事が彫られたと思われている。 メトープは、身体運動を筋肉でなく輪郭で制限している戦士の表情や、ケンタウロスの伝説(en)像において静脈まで忠実に表現した様を分析した結果から、厳格様式(en)を現在に伝えるものと判断された。神殿に残されたメトープは北側のものを除きどれも酷く痛んでしまった。外されたものはアクロポリス博物館や大英博物館、ルーヴル美術館に保管されている。 パルテノン神殿が持つ最も特徴的な装飾は、胞室の外壁を取り囲むイオニア式のフリーズである。これら浅い浮かし彫りのフリーズは、入れられた日付によると紀元前442年から紀元前438年に据えられた。 ある解釈によると、これはケラメイコスにあるデイピュロンの二重門 (Dipylon Gate)を出発しアクロポリスまで行進するパンアテナイア祭 (en)の様式化された姿を写したと言われる。この祭りは毎年開かれたが、特別な大祭が4年に1度催され、その際にはアテナイ人に外国人も加わり女神アテーナーへ生贄と新調されたペプロス(高貴な家柄から選ばれた「アレフォロス」と呼ばれる7-11歳の少女2-4人を中心に、「エレガスティナイ」と呼ばれる年長の少女たちが手助けし9ヶ月かけて織られたドレス)の奉納が行われた。 最近、ジョーン・ブルトン・コネリー(en)が異なる解釈を提案した。これによると、フリーズのテーマにはギリシア神話が基礎にあり、エレクテウスの最も年少の娘パンドーラーがアテーナーへ捧げられる故事を描いたという解釈を試みている。この人身御供の描写は、エレウシスの王エウモルポスがアテナイを攻めるため軍を集結した際、都市を守護するアテーナーの求めがあったと考えている。 2世紀の旅行者パウサニアスは、アクロポリスを訪れた際に見たパルテノス神殿について、女神の金と象牙の像を書きつつ、ペディメント(切り妻型屋根の破風部)の短い記録も残した。 ペディメントの製作は紀元前438年から紀元前432年わたって行われた。これらパルテノン神殿の彫刻はギリシア古典芸術の傑作であり、剥き出しの、または薄いキトンを通してなお明瞭に体躯を感じ取らせつつ、脈々と表現された筋肉によって描き出された活力みなぎる肉体の自然な動きを表現している。神々と人間の区別は、理想主義と自然主義のふたつを概念的に相互作用させる中でぼやかされつつ、彫刻家の手によって石に刻み込まれた。しかし、このペディメントは現在に伝わっていない。 神殿の正面に当たる東ペディメントには女神アテーナーがゼウスの頭部から誕生した物語を描写する。ゴロシア神話によると、激しい頭痛に悩まされたゼウスが苦痛を和らげるために火と鍛冶の神ヘーパイストスに命じて槌で頭を叩かせた。するとゼウスの頭が裂け、中から鎧兜を纏った女神アテーナーが飛び出した。この情景を東ペディメントは描写している。 この東ペディメントは教会に転用された際に改築のため破壊されていたが、1674年にジャック・カレイ(en)が写生を残していた。そして、再建時はこれを元に推測や想像が加えられた。アテーナー誕生の出来事では、ゼウスとアテーナを中心に、ヘーパイストスやヘーラーなど主だったオリンポスの神々が周りを取り囲んでいなければならず、カレイの絵を中心に南北に配列を加えて再建が行われた。 プロピュライア(正門)に面する西ペディメントは、アテーナーとポセイドーンが都市の守護者たる立場を争った姿が表現されている。二柱の神は中央で対峙し、反らせたお互いの体躯を中心に対称を成す。向かって左の女神はオリーブの枝を、右の海神は地球を打ち据える三叉の槍をそれぞれ手に持ち、チャリオットを牽く荒々しい馬と、アテナイ神話の個性を備えた軍団が従いながら、破風の鋭角な面を埋めている。 ペイディアス作と判明しているパルテノン神殿の彫像は、唯一ナオス(本殿)に納められたアテーナー像だけである。これは大きな金と象牙の彫像であったが現在は失われ、その写しや壷の絵、宝石のカット、硬貨の意匠および文章で表現された内容しか残っていない。 アテネのアクロポリス神域の開闢は非常に古く、新石器時代に遡る築壁、ミケーネ時代の城壁跡が発見されている。ここへアテーナー・パルテノスの聖域を設けようという試みは、マラトンの戦い(紀元前490年-紀元前488年)勃発の頃に行われた。これは、いつ作られたか定かでないオリーブの木で彫られたアテーナー・ポリアスの像を祭った古風な神殿の横にあったヘカトンパイオンという建物を取り替えて建てられた。この「古パルテノン」と言える神殿は紀元前480年にアケメネス朝ペルシアがアテナイを占拠し際にアクロポリス全体とともに完全に破壊されるが、その時点で未だ建設中だった。この古パルテノンの建築と破壊はヘロドトスも伝え、円柱の一部はエレクテイオン北側の幕壁に、眼に見える形で流用された。1885年から1890年にかけて、Patagiotis Kavvadiasが行った調査で古パルテノンの遺構が見つかり、存在が確認された。ヴィルヘルム・デルプフェルトが主導し、ドイツ考古学研究所 (German Archaeological Institute) が指揮を執ったこの発掘では、デルプフェルトが「パルテノンI」と呼ぶ元々の古パルテノンの基礎部分が、現在のパルテノン神殿とずれた位置にあることを発見し、従来の定説に訂正を加えた。デルプフェルトの調査によると、古パルテノンは3段の基礎があり、2段は土台と同じポロス島の石灰岩が用いられているのに対し最上段はKarrhaの大理石が使われ、これは後に覆われペリクレス時代のパルテノン神殿の基礎段となった。ただしこれは規模が小さく北方向にずれており、現在のパルテノン神殿が旧来の建物をすっぽりと覆いつつ全く新たに建設された事を示す。発掘に関する最終報告ではより複雑な図が示され、この基礎が執政官キモン時代の壁と同じ時代のものであり、それらは古パルテノン建設後期のものである可能性を示した。 古パルテノンが紀元前480年に破壊されたのならば、再建されるまで33年もの間崩れたまま放置されていたのか疑問が持たれた。これについて、紀元前479年のプラタイアの戦いを前に行われた「ペルシア人の暴虐を忘れないために、破壊された聖域は再建しない」というギリシア同盟による宣誓が影響する合意があった。紀元前450年のカリアスの和約成立でアテナイ人はこの宣誓を無効にすることができたが、それまで再建に取り掛かれなかった理由には、ペルシアの侵攻に抗っていたため財政的余裕が無かったというありふれた背景もあった。しかし、バート・ホッジ・ヒルが行った発掘から、キモン在任の紀元前468年以降の時代には「2つ目のパルテノン(パルテノンII)」が存在したと考えられる。ヒルの主張では、デルプフェルトが発見した「パルテノンI」最上段に当たるKarrha大理石は、「パルテノンII」3段の1番下に当たり、その基壇が敷設された面は23.51×66.888m(77.13フィート×219.45フィート)になると計算した。 1885年の発掘では、掘り起こし手段が慎重さに欠けた上にリファイリングも雑だったため多くの重要な証拠が失われてしまい、考古学の順序だて法(en)では古パルテノンの時代認定は明瞭にできなかった。1925年から1933年にかけて、B.グラーフとE.ラングロッツはアクロポリスから出土した陶器の破片を研究し、2巻の論文を著した。これに影響されたアメリカの考古学者ウィリアム・ベル・ディンスムーア(en)は、神殿基盤の年代特定と、アクロポリスの盛土の下に隠されていた5つの壁に関する研究を発表した。ディンスムーアは「パルテノンI」の建設年を最も早くとも紀元前495年とし、デルプフェルトの考えと矛盾する結論を導いた。さらにディンスムーアは、デルプフェルトが定義したペリクレス時代の「パルテノンII」以前に神殿は2つあったと主張した。1935年の『American Journal of Archaeology』にて、ディンスムーアとデルプフェルトの2人は意見を交換し合っている。 古代において、宗教的建造物は高台に立てられることが多く、それは権威を高める効果をもたらした。パルテノン神殿はその典型と言え、アクロポリスの丘からは紀元前8世紀頃の青銅製トリポット等奉納品が出土し、同じく出土した碑文から紀元前6世紀頃には青銅や大理石の奉納像が据えられていた。紀元前5世紀における再建は、当時ペルシャへ対抗するギリシア諸都市国家の中核を占めるアテナイの威信を知らしめす役割を担ったものだった。この思想は、神殿の中心に信奉する女神アテナを置き、その四方に異民族や化物ら野蛮な周辺部族を制圧するモチーフを配した全体の構図に表され、ギリシア的支配構造とアテナイの優位性を象徴している。 そして、パルテノン神殿は対ペルシア戦勝記念の性格も持ち、バルバロイに対するギリシアの勝利を記念する機能もあった。西側メトープのアマゾネスとの戦いは過去から使われるアクロポリスでは一般的なモチーフだが、パルテノン神殿のそれは攻め込むアマゾネスからアテナイを防衛する情景が描かれている。その他の彫刻類も様々な神話上の敵との戦いを描き、これらは異民族であるペルシアとの戦闘と文明たるギリシアの勝利を象徴している。 その一方で、必ずしも現代的な用語「神殿」で想起される機能だけを担っていた訳ではない。建物内に小さな建屋を備えて古来からのアテーナー・エルガネ (Athena Ergane) を祀る聖域が発見されても、都市の守護者アテーナー・ポリアス (Athena Polias) の崇拝の場では無く、ペプロスを着てオリーブのクソアノン(en)を持つ女神の宗教的イメージはアクロポリス北側の古い祭壇で祀られた。そして、パルテノン神殿は本質的に宝物庫として利用された。 ペイディアスが奉納した巨大なアテーナー像もまた、崇拝の対象ではなく、いかなる宗教的な盛り上がりも記録されていない。いかなる司祭も祭壇も無く、礼賛する名称も無い。トゥキディデスによると、ペリクレスはこの像を「金の蓄え」と呼び、「移動可能な40タレントの純金を含む」と言ったと伝える。アテナイの政治家は、金は当時の鋳造技術でいつでも取り出すことができ、その行為は別に信心に反するものではないとほのめかした。ただし、このアテーナー像は甲冑を脱ぎ、左手はよもや盾を掲げず下げたままに任せながら、右の掌に勝利の女神ニーケーを載せている。これは勝利で終えた戦いを象徴し、戦勝記念の一環である要素が反映している。 このような点は、パルテノン神殿がただの崇拝の対象や戦勝の記念だけでなくペイディアスが奉納したアテーナー像の壮大な収納殿と見なすべき点もある。そして同時に、紀元前454年にデロスからアテナイへ移されたデロス同盟の基金を保管する部屋も備え、国庫という機能も持った。 紀元前4世紀に入ると、アテナイはアレクサンドロ大王のマケドニア王国によるヘレニズム文化の影響下に入る。ギリシア文化を後継したヘレニズム時代の王たちは、パルテノン神殿を尊重しつつも自らの王位を権威づける場として用いた。紀元前1世紀にベルガモン国王は神殿に彫刻群を奉納したが、その中にはガリア人との戦いを描いたものが含まれていた。さらに後のローマ皇帝ネロのパルティア戦争をモチーフとした彫刻がアテナイ人によって加えられた。これらは、ヘレニズムやローマ帝国がギリシアの後継者たることを知らしめる目的を持っていたが、それゆえにパルテノン神殿は保たれる結果に結び付いた。 ペルシア撃退を記念したパルテノン神殿だが、その後のゲルマン人侵入による被害を受ける事もあった。アテナイは267年にヘルリア族、396年には西ゴート族に包囲されたが、このいずれかの戦闘でパルテノン神殿は放火され木製の梁が焼け落ちるなど被害を受けた。その後、ローマ皇帝の命で神殿は修復されるが、それは旧来の姿へ完全に戻すものではなく、屋根は部分的にしか架けられず、柱もヘレニズム的なものへ変わった。 この後の東ローマ帝国時代、パルテノン神殿はその機能を大きく変ずることになる。5世紀に入るとバンアテナイア祭は廃れ、同世紀末頃にはアテーナー・パルテノス像がキリスト教信奉者らと思われる勢力によって持ち出され所在不明となる。そして6世紀から7世紀頃、神殿は童貞女マリヤ聖堂に変えられ、コンスタンティノープル、エフェソス、テッサロニキに次ぐ4番目に重要な巡礼地となった。この改築で内陣の壁は一部が壊されて通路とされ、逆に建物東の門は壁で塞がれた。1018年にはバシレイオス2世が第一次ブルガリア帝国との戦争に勝利した記念に、パルテノン神殿に参拝するためアテナイへ直に巡礼した。中世には生神女聖堂とされた。 ラテン帝国の時代には、聖母マリア(en)のカトリック教会として250年間使用された。神殿は改築を受け、内部の円柱や胞室の壁の一部が取り払われ、建物の東端にはアプスが増築された。之に付随し、彫刻のいくつかが外されて行方知れずとなった。このように、神を祭る様式がクリスチャンのものへ変更される中、パルテノン神殿は破壊され、変容が加えられた。 1456年、アテナイはオスマン帝国の占領下に置かれた。すると今度は、パルテノン神殿はモスクに改築された。オスマン帝国は領地の遺跡には一定の敬意を払い無分別な破壊を行わなかったが、それは保全に努めたという事ではなく、戦時に防壁や要塞を建設するために遺跡の石材などを流用することもあった。さらにパルテノン神殿にはミナレットが増築され、その神殿に相当する高さの階段は今でも残ったまま、円柱の台輪を隠してしまっている。しかし、オスマン帝国は神殿そのものには変更を加えず、17世紀のヨーロッパ人訪問者はアクロポリスの丘に残る他の建築物ともども手付かずのままに置かれていることを証言した。 1687年、神聖同盟に加盟したヴェネツィア共和国とオスマン帝国が戦い(大トルコ戦争)、フランチェスコ・モロジーニ率いるヴェネツィアがアテナイを攻撃した際、パルテノン神殿は最大の破壊を被る。オスマン帝国はアクロポリスを要塞化し、神殿を弾薬の貯蔵庫とした。ヴェネツィアとの戦争の際にはここに女や子供を避難させたが、これはヴェネツィア側が神殿を敬い攻撃を加えないだろうと期待した対応だった。しかし9月26日、ヴェネツィアの臼砲がフィロパポスの丘から砲撃を加え、パルテノン神殿の弾薬庫が爆発、神殿は一部が破壊された。神殿の内部構造は破壊され、屋根部分の遺構も崩れ、柱も特に南側のものが折られた。彫刻の被害は甚大で、多くが壊され地面に落ちた。モロジーニは剥落した彫刻類を戦利品として略奪し、後に組み直された。この結果、彫刻が飾られていた際の配置は、1674年にジャック・カリーが描いた絵から推し量ることしかできなくなった。この後、アクロポリスの多くの建物は打ち捨てられ、小さなモスクだけが建てられた。 18世紀になるとオスマン帝国は停滞状態となり、その結果ヨーロッパ人がアテナイを訪問する機会が増えた。パルテノン神殿のような美観の絵が数多く描かれ、ギリシアに対する愛着(ギリシア愛(en))が沸き起こり、イギリスやフランスでギリシア独立の世論が高まった。ディレッタンティ協会の任を受けて考古学者のジェームズ・スチュアート(en)とニコラス・リヴェット(en)がアテナイに入ったのはそのような動きの初期に当たる。彼らはアテナイの遺跡群を調査し、1781年にはパルテノン神殿を実測した最初の資料を作成して『Antiquities of Athens Measured and Delineated』第2巻に収録した。1801年、イギリスの駐コンスタンティノープル大使エルギン伯トマス・ブルースは、アクロポリス遺跡の型取りと図面の作成、およびその作業に必要ならば近年の建築物を壊す事、そしてそれらを持ち出すことを認めるfirman(勅令)をスルターンから得た。この勅令は原本が残っていないため疑わしい面もあるが、エルギン伯は見つけ出した彫刻類の持ち出しが認められたとこれを拡大解釈した。住民を雇い入れ、建造物から彫刻類を引き剥がし、若干のものを拾い、また住民から買い入れるなどの手段で集めた。このために建物は深刻な損傷を受け、さらにイギリスへ輸送するに当たって軽くするために剥ぎ取ったフリーズのブロックを半分に裂いてしまった。これらイギリスに渡った彫刻類はエルギン・マーブルと呼ばれる。 1832年、ギリシアは独立を果たした。パルテノン神殿のミナレットは目につく部分が取り壊され、続いてアクロポリスに建つ中世とオスマン帝国の建造物はことごとく除かれた。そして、残っていた建築資材を用いて復元が行われた。そのような中、胞室に設けられていた小さなモスクはJoly de Lotbinièreが撮影した写真が残り、1842年に出版されたアクロポリスを被写体にした初の写真集『Excursions Daguerriennes』で伺うことができる。 その後アクロポリスはギリシア政府が直轄して管理する歴史的地区に定められた。現在では毎年何百万人もの観光客が訪れ、再建されたプロピュライアを抜け、パルテノン神殿へ至るパナテナイック通りを歩き、アクロポリスの西側の小道を散策することができる。これら立ち入ることが出来る場所は低い柵で区切られて、遺跡が傷まないよう配慮されている。 一方、エルギン伯が持ち去ったパルテノン神殿のマーブルは大英博物館に現存する。その他にも、神殿の彫刻はパリのルーヴル美術館、コペンハーゲンなどにも保存されているが、現在所有点数が最も多いのは2009年6月20日に開館したアクロポリス博物館である。神殿の建物自体にも若干の彫刻が残っている。 1983年以降、ギリシア政府は大英博物館に対して彫刻を返還するよう求めている。しかし博物館側はこれを明確に拒否しており、その背景には法律上の問題を重視するイギリス政府の意向がある。そのような中2007年5月4日にギリシアとイギリスは前文化相同士がロンドンで、法律顧問を同席し会談の場を持った。それはここ数年における意義深いもので、将来へ何らかの解決が見出されることを期待されている。 1975年、ギリシア政府はパルテノン神殿などアクロポリスの建造物の修復へ本格的に乗り出し、幾許かの遅れがあったが1983年にアクロポリス博物館の維持運営を担う委員会が設立された。後に計画には欧州連合が資金的・技術的支援を提供した。考古学委員会はアクロポリスに残る文化遺跡を徹底的に記録し、建築家がコンピューターを導入して本来の位置を解析した。特に重要で壊れやすい彫刻類はアクロポリス博物館に移された。マーブルブロックを吊り上げるクレーンも、使用しない時には目立たないように屋根の勾配に沿って折り畳めるものが導入された。 修復作業を通じ、過去に行われた補修が適切さに欠けていたところも発見された。これらは取り除かれ、慎重に回復が行われている。ブロックの固定には腐食を防ぐために鉛のコーティングが施された鉄製のH型金具が元々は用いられていたが、19世紀の補修ではこのようなコーティングが為されなかったため錆など腐食によって金具が膨張し、大理石を割ってしまうなど損傷を拡大させていた。そのため、金属製器具は強さと軽さを兼ね備え、腐食にも強いチタンが用いられるようになった。 パルテノン神殿を1687年以前の形に復元することは事実上難しいが、爆破による損傷はできるだけ軽減される。特にアテナイは地震が起こる地区であるため構造の欠陥を補強することや、円柱や楣石の欠けた箇所を大理石セメントで丁寧に埋めることが行われている。このように、大理石はかつてと同様にペンテリコン山から切り出されてほとんど全ての主要部分に用いられながら、必要に応じて近代的な材料が投入されつつ再建は行われている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "座標: 北緯37度58分17秒 東経23度43分36秒 / 北緯37.97152度 東経23.72659度 / 37.97152; 23.72659", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "パルテノン神殿(パルテノンしんでん、希: Παρθενών, ローマ字: Parthenon)は、古代ギリシア時代にアテナイのアクロポリスの上に建設された、アテナイの守護神であるギリシア神話の女神アテーナーを祀る神殿(en)である。紀元前447年に建設が始まり、紀元前438年に完工、装飾等は紀元前431年まで行われた。パルテノン神殿はギリシア古代(en)建築を現代に伝える最も重要な、ドーリア式建造物の最高峰と見なされる。装飾彫刻もギリシア美術の傑作である。この神殿は古代ギリシアそして民主政アテナイ(en)の象徴であり、世界的な文化遺産として世界遺産に認定されている。神殿は完全な新築ではなく、古来パルテノン(en)と呼ばれるアテーナーの神殿があったが、紀元前480年のペルシア戦争にて破壊された後に再建され、当時あった多くの神殿と同様にデロス同盟、そして後のアテナイ帝国の国庫として使われた。6世紀にはパルテノン神殿はキリスト教に取り込まれ、生神女マリヤ聖堂となった。オスマン帝国の占領(en)後の1460年代初頭にはモスクへと変えられ、神殿内にはミナレットが設けられた。1687年9月26日、オスマン帝国によって火薬庫として使われていた神殿はヴェネツィア共和国の攻撃によって爆発炎上し、神殿建築や彫刻などはひどい損傷を受けた。1806年、オスマン帝国の了承を得た第7代エルギン伯トマス・ブルースは、神殿から焼け残った彫刻類を取り外して持ち去った。これらは1816年にロンドンの大英博物館に売却され、現在でもエルギン・マーブルまたはパルテノン・マーブルの名で展示されている。ギリシア政府はこれら彫刻の返却を求めているが、実現には至っていない。ギリシア文化・観光庁(en)は、パルテノン神殿の部分的な破壊の修復や保全など、後世に伝えるための再建計画を実行した。パルテノン神殿のある丘の下は、世界ラリー選手権(WRC)の一戦、アクロポリス・ラリーのスタート地点としても有名である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "「パルテノン」の名称はギリシア語の「παρθενών」(処女宮)から来ており、パルテノン神殿内にはその名称がつけられる由来となった特別な部屋が備えられていたという。ただし、その部屋がどこか、また何故そのように呼ばれたのかという点には諸説ある。古典ギリシア語辞典 (LSJ) では、この部屋は西の房にあったと言い、ジェフリー・M・ヒューイットは、パンアテナイア祭(en)でアレフォロス(en)が仕立てたペプロスをアテーナーに献上するため、4人の少女が服を選ぶ部屋だと述べた。クリストファー・ペリングは、アテーナー・パルテノス(処女のアテーナー)(en)への信仰は個別的なアテーナー崇拝から起こり、密接に関連しながらも同一化することなく、やがて守り神としてのアテーナー信仰となったと主張した。この考えによれば、「パルテノン」は「処女神の宮殿」と意味し、アテーナー・パルテノスへの信仰との関連性を持つことになる。「乙女、少女」であると同時に「処女、未婚の女性」を意味し、特に野獣・狩り・植物の女神アルテミスを指して使われる「parthénos」(ギリシア語: παρθένος)が、戦略と戦術・手芸そして実践理性を司るアテーナーに冠せられている理由も不明瞭である。その一方で、宮殿の名称が「処女」を暗示する点については、都市の安全を祈願するために処女が最高の人身御供にされたことに関連すると指摘した意見もある。", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "この建造物全体を「パルテノン」と形容する最初の例は、紀元前4世紀の演説者デモステネスに見られる。ただし5世紀の例では、ただ単に「ホ・ナーオス」(ὁ ναός 「神殿」)と呼ばれた。神殿を建築したイクティノスとカリクラテスは、今は失われた文書でこの建築物を「ヘカトンペドス」(Ἑκατόμπεδος 「百の足をもつもの」)と呼んでいたと言われる。1世紀にプルタルコスは「ヘカトンペドン・パルテノン」と表記し、4世紀以降にはヘカトンペドス、ヘカトンペドン、パルテノンの呼称がそれぞれ使われた。", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "現在のパルテノンに当たる聖域にアテーナー・パルテノスを祀った神殿を建てようという最初の尽力は、マラトンの戦い(紀元前490年‐紀元前488年)が終わった直後に始められた。アクロポリスの丘の南側に、強固な石灰岩の基礎が敷き並べられ、アテーナー・ポリアス(都市の守護神アテーナー)の古風な神殿の建設が始まった。しかし、この古パルテノン(en)と言及される建築物は紀元前480年にアケメネス朝が侵攻しアテナイの都市を破壊し尽くした時も未だ建設途上にあった。", "title": "建設" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "紀元前5世紀中頃、デロス同盟が成立した時にはアテナイは当時の文化的な中心を担っており、政権を掌握したペリクレスは野心的な建築計画を立案した。アクロポリスの丘に現存する重要な建築物であるパルテノン神殿やプロピュライア、エレクテイオン、アテナ・ニケ神殿は当時に建立されたものである。パルテノン神殿は彫刻家ペイディアス(フィディアス)指導のもと建設され、彫刻装飾も彼の手で施された。建築家イクティノスとカリクラテスが紀元前447年に施工を開始し、紀元前432年にはほぼ完了したが、装飾の製作は少なくとも紀元前431年までは継続されていた。", "title": "建設" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "パルテノン神殿建設への支出明細が一部残っており、それによるとアテナイから16km離れたペンテリコン山(en)から切り出した石材(大理石)が使われて、アクロポリスまでの運送に多額の経費が掛かった。この資金の一部には、紀元前454年にデロス島からアクロポリスに移されたデロス同盟の宝物が宛がわれた。", "title": "建設" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ドーリア式を伝える神殿で、現存するものの中ではヘファイストス神殿(en)が最も往時の形を残しているが、建設当時のパルテノン神殿は最高峰の建築だった。ジョン・ジュリアス・クーパー(en)は、「(パルテノン神殿は)今まで建設された全ての中で無二のドーリア式建築物という評に浴している。古代のものでありながら、その建築にそなわる気品は伝説的でもあり、特にスタイロベートの湾曲、テーパがつけられたナオス(本殿)(en)の壁、エンタシスの円柱などが巧みな調和を醸している。」と評した。「エンタシス」とは、上に向かうにつれ大きくなる円柱のわずかな膨らみを指し、パルテノン神殿のそれは先例の葉巻のような形状に比べれば変化は少ない。円柱が立つスタイロベートは、他のギリシア神殿と同様にほんの少し上に凸の放物線状の形をなしており、これは雨を排水する意図が盛り込まれている。この形からすると円柱上部は外向きに開いているのではと思いがちだが、実際には内側へわずかに傾いて立てられている。柱はどれも同じ長さをしており、そのためアーキトレーブや屋根もスタイロベート上部と同様な湾曲があり、ゴーハム・スティーブンスは神殿の西側前面が東側よりもわずかに高くなっている点と併せて「全てが繊細な曲線を構築する規則に従っている」と指摘した。このような設計に含まれた意図について、「光がもたらす気品」を狙ったという説もあるが、一種の「錯覚による逆説的効果」を狙ったと考えられる。2本の平行線を描く柱を見上げた時、梁などの水平部分がたわんでいるか両端が曲がっているかのように見え、神殿の全景を概観すると、まるで天井や床が歪んでいる錯覚を覚えてしまう事をギリシア人は意識していた可能性がある。これを避け、神殿が完全に見えるように設計者はわざと曲線を加え、錯覚を補う意図があったものと考えられる。そして、直線だけで構成された単純かつ凡百の神殿と差別化する躍動感をパルテノン神殿に与えたという説もある。", "title": "建設" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "パルテノン神殿などアクロポリスの建造物には、黄金比に基づいて建設されたものが複数存在するという研究報告がある。パルテノン神殿の正面全貌は各要素ともども黄金長方形で囲われている。この、設計に黄金比が用いられた事象についてはさらに近年研究が進み、神殿に見られると言われていた黄金比は後付の都市伝説であって、実際には正確な比率になっていない。", "title": "建設" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "スタイロベートを測定した結果から、パルテノン神殿の基盤は長さ69.5m(228.0フィート)、幅30.9m(101.4フィート)である。胞室(en)は長さ29.8m(97.8フィート)、幅19.2m(63.0フィート)であり、内部には屋根を支える2列の柱が立てられている。外周にあるドーリス式円柱は直径1.9m(6.2フィート)、高さ10.4m(34.1フィート)であり、四隅の円柱は若干大きい。柱の合計は外周に46本、内部に19本ある。この際、威容を持たせるため正面の柱が通常6本のところ8本にされたとの説もある。スタイロベートは東西の端で60mm(2.36インチ)、南北で110mm(4.33インチ)上向きに湾曲している。屋根は大きな大理石の平瓦と丸瓦(en)で葺かれている。", "title": "建設" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "パルテノン神殿に使われる石材は、円柱のドラム1個当たりが5-10トン、梁材は15トン程度の重量であった。これらは高い加工が施され、例えば円柱ドラムの接合面にある凸凹は1/20mm以下に抑えられ、面接合の密着精度は1/100mm以下であり、エジプトのピラミッドのように調整用モルタルは使われていない。この精度は、検査用の塗料を塗った円盤を用意し、接合面と円盤を摺り合わせて凸面を検出し磨く作業を繰り返して実現した。石材の吊り上げには滑車と巻き上げ装置を備えたクレーンが実用化されており、これに対応するため石材にも吊り上げ時に綱を引っ掛ける突起や溝をつける加工が行われた。", "title": "建設" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ローマの六柱式(en)そして周柱式(en)を持ち、イオニア式の建築様式も備えるドーリア式神殿であるパルテノン神殿には、ペイディアスが製作し紀元前439年か翌年に献納されたアテーナー・パルテノスのクリスエレファンティン(彫像)(en)があった。当初、装飾の石の彫刻には彩色が施されていた。神殿がアテーナーを奉るようになったのはこの頃からであるが、建設そのものは紀元前432年のペロポネソス戦争勃発の頃まで続いた。紀元前438年までには外側の列柱上にある小壁と胞室上の壁の一部にあるイオニア式小壁にドーリア式の彫刻装飾が施された。これらの彫刻は神殿を豪華に飾り、宝物庫としての役割にふさわしさを与えた。胞室の奥にあるオピストドモス (opisthodomus) と呼ばれる部屋にはアテナイを盟主とするテロス同盟が拠出した宝物が納められた。日本のテレビ番組「日立 世界・ふしぎ発見!」ではパルテノン神殿にプロジェクションマッピングで色彩を施した。", "title": "彫刻" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "パルテノン神殿には72枚の高浮かし彫りメトープ(長方型の彫刻小壁)(en)がある。この様式は従来、神に捧げる奉納の品を納める建物にのみ用いられていた。建築記録によると、これらは紀元前446年から440年の間に製作されたとあり、彫刻家のカラミス (Kalamis) がデザインしたと考えられる。パルテノン神殿正門玄関の上に当たる東側のメトープは、オリンポスの神々が巨人と戦ったギガントマキアーを主題としている。同様に、西端のメトープはアテナイ人とアマゾーンの戦い(英語版)、南側はラピテース族がテーセウスの助けを受けて半人半獣のケンタウロスと繰り広げた戦い(en)がモチーフとなっている。北面の主題は「トロイアの落城」である。", "title": "彫刻" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "メトープの13番から21番は失われてしまったが、1674年にフランスのトルコ大使ノワンテル侯爵に随行した画家のジャック・カレイ(en)が描いた絵があり、アテナイ初期の神話などにあるラピテース族の結婚にまつわる伝説が描かれている。保存状態が悪い北面のメトープには、イーリオスの陥落の故事が彫られたと思われている。", "title": "彫刻" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "メトープは、身体運動を筋肉でなく輪郭で制限している戦士の表情や、ケンタウロスの伝説(en)像において静脈まで忠実に表現した様を分析した結果から、厳格様式(en)を現在に伝えるものと判断された。神殿に残されたメトープは北側のものを除きどれも酷く痛んでしまった。外されたものはアクロポリス博物館や大英博物館、ルーヴル美術館に保管されている。", "title": "彫刻" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "パルテノン神殿が持つ最も特徴的な装飾は、胞室の外壁を取り囲むイオニア式のフリーズである。これら浅い浮かし彫りのフリーズは、入れられた日付によると紀元前442年から紀元前438年に据えられた。", "title": "彫刻" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ある解釈によると、これはケラメイコスにあるデイピュロンの二重門 (Dipylon Gate)を出発しアクロポリスまで行進するパンアテナイア祭 (en)の様式化された姿を写したと言われる。この祭りは毎年開かれたが、特別な大祭が4年に1度催され、その際にはアテナイ人に外国人も加わり女神アテーナーへ生贄と新調されたペプロス(高貴な家柄から選ばれた「アレフォロス」と呼ばれる7-11歳の少女2-4人を中心に、「エレガスティナイ」と呼ばれる年長の少女たちが手助けし9ヶ月かけて織られたドレス)の奉納が行われた。", "title": "彫刻" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "最近、ジョーン・ブルトン・コネリー(en)が異なる解釈を提案した。これによると、フリーズのテーマにはギリシア神話が基礎にあり、エレクテウスの最も年少の娘パンドーラーがアテーナーへ捧げられる故事を描いたという解釈を試みている。この人身御供の描写は、エレウシスの王エウモルポスがアテナイを攻めるため軍を集結した際、都市を守護するアテーナーの求めがあったと考えている。", "title": "彫刻" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2世紀の旅行者パウサニアスは、アクロポリスを訪れた際に見たパルテノス神殿について、女神の金と象牙の像を書きつつ、ペディメント(切り妻型屋根の破風部)の短い記録も残した。", "title": "彫刻" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ペディメントの製作は紀元前438年から紀元前432年わたって行われた。これらパルテノン神殿の彫刻はギリシア古典芸術の傑作であり、剥き出しの、または薄いキトンを通してなお明瞭に体躯を感じ取らせつつ、脈々と表現された筋肉によって描き出された活力みなぎる肉体の自然な動きを表現している。神々と人間の区別は、理想主義と自然主義のふたつを概念的に相互作用させる中でぼやかされつつ、彫刻家の手によって石に刻み込まれた。しかし、このペディメントは現在に伝わっていない。", "title": "彫刻" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "神殿の正面に当たる東ペディメントには女神アテーナーがゼウスの頭部から誕生した物語を描写する。ゴロシア神話によると、激しい頭痛に悩まされたゼウスが苦痛を和らげるために火と鍛冶の神ヘーパイストスに命じて槌で頭を叩かせた。するとゼウスの頭が裂け、中から鎧兜を纏った女神アテーナーが飛び出した。この情景を東ペディメントは描写している。", "title": "彫刻" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "この東ペディメントは教会に転用された際に改築のため破壊されていたが、1674年にジャック・カレイ(en)が写生を残していた。そして、再建時はこれを元に推測や想像が加えられた。アテーナー誕生の出来事では、ゼウスとアテーナを中心に、ヘーパイストスやヘーラーなど主だったオリンポスの神々が周りを取り囲んでいなければならず、カレイの絵を中心に南北に配列を加えて再建が行われた。", "title": "彫刻" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "プロピュライア(正門)に面する西ペディメントは、アテーナーとポセイドーンが都市の守護者たる立場を争った姿が表現されている。二柱の神は中央で対峙し、反らせたお互いの体躯を中心に対称を成す。向かって左の女神はオリーブの枝を、右の海神は地球を打ち据える三叉の槍をそれぞれ手に持ち、チャリオットを牽く荒々しい馬と、アテナイ神話の個性を備えた軍団が従いながら、破風の鋭角な面を埋めている。", "title": "彫刻" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ペイディアス作と判明しているパルテノン神殿の彫像は、唯一ナオス(本殿)に納められたアテーナー像だけである。これは大きな金と象牙の彫像であったが現在は失われ、その写しや壷の絵、宝石のカット、硬貨の意匠および文章で表現された内容しか残っていない。", "title": "彫刻" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "アテネのアクロポリス神域の開闢は非常に古く、新石器時代に遡る築壁、ミケーネ時代の城壁跡が発見されている。ここへアテーナー・パルテノスの聖域を設けようという試みは、マラトンの戦い(紀元前490年-紀元前488年)勃発の頃に行われた。これは、いつ作られたか定かでないオリーブの木で彫られたアテーナー・ポリアスの像を祭った古風な神殿の横にあったヘカトンパイオンという建物を取り替えて建てられた。この「古パルテノン」と言える神殿は紀元前480年にアケメネス朝ペルシアがアテナイを占拠し際にアクロポリス全体とともに完全に破壊されるが、その時点で未だ建設中だった。この古パルテノンの建築と破壊はヘロドトスも伝え、円柱の一部はエレクテイオン北側の幕壁に、眼に見える形で流用された。1885年から1890年にかけて、Patagiotis Kavvadiasが行った調査で古パルテノンの遺構が見つかり、存在が確認された。ヴィルヘルム・デルプフェルトが主導し、ドイツ考古学研究所 (German Archaeological Institute) が指揮を執ったこの発掘では、デルプフェルトが「パルテノンI」と呼ぶ元々の古パルテノンの基礎部分が、現在のパルテノン神殿とずれた位置にあることを発見し、従来の定説に訂正を加えた。デルプフェルトの調査によると、古パルテノンは3段の基礎があり、2段は土台と同じポロス島の石灰岩が用いられているのに対し最上段はKarrhaの大理石が使われ、これは後に覆われペリクレス時代のパルテノン神殿の基礎段となった。ただしこれは規模が小さく北方向にずれており、現在のパルテノン神殿が旧来の建物をすっぽりと覆いつつ全く新たに建設された事を示す。発掘に関する最終報告ではより複雑な図が示され、この基礎が執政官キモン時代の壁と同じ時代のものであり、それらは古パルテノン建設後期のものである可能性を示した。", "title": "古パルテノン" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "古パルテノンが紀元前480年に破壊されたのならば、再建されるまで33年もの間崩れたまま放置されていたのか疑問が持たれた。これについて、紀元前479年のプラタイアの戦いを前に行われた「ペルシア人の暴虐を忘れないために、破壊された聖域は再建しない」というギリシア同盟による宣誓が影響する合意があった。紀元前450年のカリアスの和約成立でアテナイ人はこの宣誓を無効にすることができたが、それまで再建に取り掛かれなかった理由には、ペルシアの侵攻に抗っていたため財政的余裕が無かったというありふれた背景もあった。しかし、バート・ホッジ・ヒルが行った発掘から、キモン在任の紀元前468年以降の時代には「2つ目のパルテノン(パルテノンII)」が存在したと考えられる。ヒルの主張では、デルプフェルトが発見した「パルテノンI」最上段に当たるKarrha大理石は、「パルテノンII」3段の1番下に当たり、その基壇が敷設された面は23.51×66.888m(77.13フィート×219.45フィート)になると計算した。", "title": "古パルテノン" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1885年の発掘では、掘り起こし手段が慎重さに欠けた上にリファイリングも雑だったため多くの重要な証拠が失われてしまい、考古学の順序だて法(en)では古パルテノンの時代認定は明瞭にできなかった。1925年から1933年にかけて、B.グラーフとE.ラングロッツはアクロポリスから出土した陶器の破片を研究し、2巻の論文を著した。これに影響されたアメリカの考古学者ウィリアム・ベル・ディンスムーア(en)は、神殿基盤の年代特定と、アクロポリスの盛土の下に隠されていた5つの壁に関する研究を発表した。ディンスムーアは「パルテノンI」の建設年を最も早くとも紀元前495年とし、デルプフェルトの考えと矛盾する結論を導いた。さらにディンスムーアは、デルプフェルトが定義したペリクレス時代の「パルテノンII」以前に神殿は2つあったと主張した。1935年の『American Journal of Archaeology』にて、ディンスムーアとデルプフェルトの2人は意見を交換し合っている。", "title": "古パルテノン" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "古代において、宗教的建造物は高台に立てられることが多く、それは権威を高める効果をもたらした。パルテノン神殿はその典型と言え、アクロポリスの丘からは紀元前8世紀頃の青銅製トリポット等奉納品が出土し、同じく出土した碑文から紀元前6世紀頃には青銅や大理石の奉納像が据えられていた。紀元前5世紀における再建は、当時ペルシャへ対抗するギリシア諸都市国家の中核を占めるアテナイの威信を知らしめす役割を担ったものだった。この思想は、神殿の中心に信奉する女神アテナを置き、その四方に異民族や化物ら野蛮な周辺部族を制圧するモチーフを配した全体の構図に表され、ギリシア的支配構造とアテナイの優位性を象徴している。", "title": "役割" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "そして、パルテノン神殿は対ペルシア戦勝記念の性格も持ち、バルバロイに対するギリシアの勝利を記念する機能もあった。西側メトープのアマゾネスとの戦いは過去から使われるアクロポリスでは一般的なモチーフだが、パルテノン神殿のそれは攻め込むアマゾネスからアテナイを防衛する情景が描かれている。その他の彫刻類も様々な神話上の敵との戦いを描き、これらは異民族であるペルシアとの戦闘と文明たるギリシアの勝利を象徴している。", "title": "役割" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "その一方で、必ずしも現代的な用語「神殿」で想起される機能だけを担っていた訳ではない。建物内に小さな建屋を備えて古来からのアテーナー・エルガネ (Athena Ergane) を祀る聖域が発見されても、都市の守護者アテーナー・ポリアス (Athena Polias) の崇拝の場では無く、ペプロスを着てオリーブのクソアノン(en)を持つ女神の宗教的イメージはアクロポリス北側の古い祭壇で祀られた。そして、パルテノン神殿は本質的に宝物庫として利用された。", "title": "役割" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ペイディアスが奉納した巨大なアテーナー像もまた、崇拝の対象ではなく、いかなる宗教的な盛り上がりも記録されていない。いかなる司祭も祭壇も無く、礼賛する名称も無い。トゥキディデスによると、ペリクレスはこの像を「金の蓄え」と呼び、「移動可能な40タレントの純金を含む」と言ったと伝える。アテナイの政治家は、金は当時の鋳造技術でいつでも取り出すことができ、その行為は別に信心に反するものではないとほのめかした。ただし、このアテーナー像は甲冑を脱ぎ、左手はよもや盾を掲げず下げたままに任せながら、右の掌に勝利の女神ニーケーを載せている。これは勝利で終えた戦いを象徴し、戦勝記念の一環である要素が反映している。", "title": "役割" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "このような点は、パルテノン神殿がただの崇拝の対象や戦勝の記念だけでなくペイディアスが奉納したアテーナー像の壮大な収納殿と見なすべき点もある。そして同時に、紀元前454年にデロスからアテナイへ移されたデロス同盟の基金を保管する部屋も備え、国庫という機能も持った。", "title": "役割" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "紀元前4世紀に入ると、アテナイはアレクサンドロ大王のマケドニア王国によるヘレニズム文化の影響下に入る。ギリシア文化を後継したヘレニズム時代の王たちは、パルテノン神殿を尊重しつつも自らの王位を権威づける場として用いた。紀元前1世紀にベルガモン国王は神殿に彫刻群を奉納したが、その中にはガリア人との戦いを描いたものが含まれていた。さらに後のローマ皇帝ネロのパルティア戦争をモチーフとした彫刻がアテナイ人によって加えられた。これらは、ヘレニズムやローマ帝国がギリシアの後継者たることを知らしめる目的を持っていたが、それゆえにパルテノン神殿は保たれる結果に結び付いた。", "title": "その後の歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ペルシア撃退を記念したパルテノン神殿だが、その後のゲルマン人侵入による被害を受ける事もあった。アテナイは267年にヘルリア族、396年には西ゴート族に包囲されたが、このいずれかの戦闘でパルテノン神殿は放火され木製の梁が焼け落ちるなど被害を受けた。その後、ローマ皇帝の命で神殿は修復されるが、それは旧来の姿へ完全に戻すものではなく、屋根は部分的にしか架けられず、柱もヘレニズム的なものへ変わった。", "title": "その後の歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "この後の東ローマ帝国時代、パルテノン神殿はその機能を大きく変ずることになる。5世紀に入るとバンアテナイア祭は廃れ、同世紀末頃にはアテーナー・パルテノス像がキリスト教信奉者らと思われる勢力によって持ち出され所在不明となる。そして6世紀から7世紀頃、神殿は童貞女マリヤ聖堂に変えられ、コンスタンティノープル、エフェソス、テッサロニキに次ぐ4番目に重要な巡礼地となった。この改築で内陣の壁は一部が壊されて通路とされ、逆に建物東の門は壁で塞がれた。1018年にはバシレイオス2世が第一次ブルガリア帝国との戦争に勝利した記念に、パルテノン神殿に参拝するためアテナイへ直に巡礼した。中世には生神女聖堂とされた。", "title": "その後の歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ラテン帝国の時代には、聖母マリア(en)のカトリック教会として250年間使用された。神殿は改築を受け、内部の円柱や胞室の壁の一部が取り払われ、建物の東端にはアプスが増築された。之に付随し、彫刻のいくつかが外されて行方知れずとなった。このように、神を祭る様式がクリスチャンのものへ変更される中、パルテノン神殿は破壊され、変容が加えられた。", "title": "その後の歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1456年、アテナイはオスマン帝国の占領下に置かれた。すると今度は、パルテノン神殿はモスクに改築された。オスマン帝国は領地の遺跡には一定の敬意を払い無分別な破壊を行わなかったが、それは保全に努めたという事ではなく、戦時に防壁や要塞を建設するために遺跡の石材などを流用することもあった。さらにパルテノン神殿にはミナレットが増築され、その神殿に相当する高さの階段は今でも残ったまま、円柱の台輪を隠してしまっている。しかし、オスマン帝国は神殿そのものには変更を加えず、17世紀のヨーロッパ人訪問者はアクロポリスの丘に残る他の建築物ともども手付かずのままに置かれていることを証言した。", "title": "その後の歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1687年、神聖同盟に加盟したヴェネツィア共和国とオスマン帝国が戦い(大トルコ戦争)、フランチェスコ・モロジーニ率いるヴェネツィアがアテナイを攻撃した際、パルテノン神殿は最大の破壊を被る。オスマン帝国はアクロポリスを要塞化し、神殿を弾薬の貯蔵庫とした。ヴェネツィアとの戦争の際にはここに女や子供を避難させたが、これはヴェネツィア側が神殿を敬い攻撃を加えないだろうと期待した対応だった。しかし9月26日、ヴェネツィアの臼砲がフィロパポスの丘から砲撃を加え、パルテノン神殿の弾薬庫が爆発、神殿は一部が破壊された。神殿の内部構造は破壊され、屋根部分の遺構も崩れ、柱も特に南側のものが折られた。彫刻の被害は甚大で、多くが壊され地面に落ちた。モロジーニは剥落した彫刻類を戦利品として略奪し、後に組み直された。この結果、彫刻が飾られていた際の配置は、1674年にジャック・カリーが描いた絵から推し量ることしかできなくなった。この後、アクロポリスの多くの建物は打ち捨てられ、小さなモスクだけが建てられた。", "title": "その後の歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "18世紀になるとオスマン帝国は停滞状態となり、その結果ヨーロッパ人がアテナイを訪問する機会が増えた。パルテノン神殿のような美観の絵が数多く描かれ、ギリシアに対する愛着(ギリシア愛(en))が沸き起こり、イギリスやフランスでギリシア独立の世論が高まった。ディレッタンティ協会の任を受けて考古学者のジェームズ・スチュアート(en)とニコラス・リヴェット(en)がアテナイに入ったのはそのような動きの初期に当たる。彼らはアテナイの遺跡群を調査し、1781年にはパルテノン神殿を実測した最初の資料を作成して『Antiquities of Athens Measured and Delineated』第2巻に収録した。1801年、イギリスの駐コンスタンティノープル大使エルギン伯トマス・ブルースは、アクロポリス遺跡の型取りと図面の作成、およびその作業に必要ならば近年の建築物を壊す事、そしてそれらを持ち出すことを認めるfirman(勅令)をスルターンから得た。この勅令は原本が残っていないため疑わしい面もあるが、エルギン伯は見つけ出した彫刻類の持ち出しが認められたとこれを拡大解釈した。住民を雇い入れ、建造物から彫刻類を引き剥がし、若干のものを拾い、また住民から買い入れるなどの手段で集めた。このために建物は深刻な損傷を受け、さらにイギリスへ輸送するに当たって軽くするために剥ぎ取ったフリーズのブロックを半分に裂いてしまった。これらイギリスに渡った彫刻類はエルギン・マーブルと呼ばれる。", "title": "その後の歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1832年、ギリシアは独立を果たした。パルテノン神殿のミナレットは目につく部分が取り壊され、続いてアクロポリスに建つ中世とオスマン帝国の建造物はことごとく除かれた。そして、残っていた建築資材を用いて復元が行われた。そのような中、胞室に設けられていた小さなモスクはJoly de Lotbinièreが撮影した写真が残り、1842年に出版されたアクロポリスを被写体にした初の写真集『Excursions Daguerriennes』で伺うことができる。", "title": "その後の歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "その後アクロポリスはギリシア政府が直轄して管理する歴史的地区に定められた。現在では毎年何百万人もの観光客が訪れ、再建されたプロピュライアを抜け、パルテノン神殿へ至るパナテナイック通りを歩き、アクロポリスの西側の小道を散策することができる。これら立ち入ることが出来る場所は低い柵で区切られて、遺跡が傷まないよう配慮されている。", "title": "その後の歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "一方、エルギン伯が持ち去ったパルテノン神殿のマーブルは大英博物館に現存する。その他にも、神殿の彫刻はパリのルーヴル美術館、コペンハーゲンなどにも保存されているが、現在所有点数が最も多いのは2009年6月20日に開館したアクロポリス博物館である。神殿の建物自体にも若干の彫刻が残っている。", "title": "その後の歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1983年以降、ギリシア政府は大英博物館に対して彫刻を返還するよう求めている。しかし博物館側はこれを明確に拒否しており、その背景には法律上の問題を重視するイギリス政府の意向がある。そのような中2007年5月4日にギリシアとイギリスは前文化相同士がロンドンで、法律顧問を同席し会談の場を持った。それはここ数年における意義深いもので、将来へ何らかの解決が見出されることを期待されている。", "title": "その後の歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1975年、ギリシア政府はパルテノン神殿などアクロポリスの建造物の修復へ本格的に乗り出し、幾許かの遅れがあったが1983年にアクロポリス博物館の維持運営を担う委員会が設立された。後に計画には欧州連合が資金的・技術的支援を提供した。考古学委員会はアクロポリスに残る文化遺跡を徹底的に記録し、建築家がコンピューターを導入して本来の位置を解析した。特に重要で壊れやすい彫刻類はアクロポリス博物館に移された。マーブルブロックを吊り上げるクレーンも、使用しない時には目立たないように屋根の勾配に沿って折り畳めるものが導入された。", "title": "再建" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "修復作業を通じ、過去に行われた補修が適切さに欠けていたところも発見された。これらは取り除かれ、慎重に回復が行われている。ブロックの固定には腐食を防ぐために鉛のコーティングが施された鉄製のH型金具が元々は用いられていたが、19世紀の補修ではこのようなコーティングが為されなかったため錆など腐食によって金具が膨張し、大理石を割ってしまうなど損傷を拡大させていた。そのため、金属製器具は強さと軽さを兼ね備え、腐食にも強いチタンが用いられるようになった。", "title": "再建" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "パルテノン神殿を1687年以前の形に復元することは事実上難しいが、爆破による損傷はできるだけ軽減される。特にアテナイは地震が起こる地区であるため構造の欠陥を補強することや、円柱や楣石の欠けた箇所を大理石セメントで丁寧に埋めることが行われている。このように、大理石はかつてと同様にペンテリコン山から切り出されてほとんど全ての主要部分に用いられながら、必要に応じて近代的な材料が投入されつつ再建は行われている。", "title": "再建" } ]
パルテノン神殿は、古代ギリシア時代にアテナイのアクロポリスの上に建設された、アテナイの守護神であるギリシア神話の女神アテーナーを祀る神殿(en)である。紀元前447年に建設が始まり、紀元前438年に完工、装飾等は紀元前431年まで行われた。パルテノン神殿はギリシア古代(en)建築を現代に伝える最も重要な、ドーリア式建造物の最高峰と見なされる。装飾彫刻もギリシア美術の傑作である。この神殿は古代ギリシアそして民主政アテナイ(en)の象徴であり、世界的な文化遺産として世界遺産に認定されている。神殿は完全な新築ではなく、古来パルテノン(en)と呼ばれるアテーナーの神殿があったが、紀元前480年のペルシア戦争にて破壊された後に再建され、当時あった多くの神殿と同様にデロス同盟、そして後のアテナイ帝国の国庫として使われた。6世紀にはパルテノン神殿はキリスト教に取り込まれ、生神女マリヤ聖堂となった。オスマン帝国の占領(en)後の1460年代初頭にはモスクへと変えられ、神殿内にはミナレットが設けられた。1687年9月26日、オスマン帝国によって火薬庫として使われていた神殿はヴェネツィア共和国の攻撃によって爆発炎上し、神殿建築や彫刻などはひどい損傷を受けた。1806年、オスマン帝国の了承を得た第7代エルギン伯トマス・ブルースは、神殿から焼け残った彫刻類を取り外して持ち去った。これらは1816年にロンドンの大英博物館に売却され、現在でもエルギン・マーブルまたはパルテノン・マーブルの名で展示されている。ギリシア政府はこれら彫刻の返却を求めているが、実現には至っていない。ギリシア文化・観光庁(en)は、パルテノン神殿の部分的な破壊の修復や保全など、後世に伝えるための再建計画を実行した。パルテノン神殿のある丘の下は、世界ラリー選手権(WRC)の一戦、アクロポリス・ラリーのスタート地点としても有名である。
{{Coord|37.97152|23.72659|format=dms|display=title}} {{世界遺産概要表| site_img =File:The Parthenon in Athens.jpg| site_img_capt = パルテノン神殿| site_img_width = 275px| ja_name = アテネのアクロポリス| en_name = Acropolis, Athens| fr_name = Acropole d'Athènes | country = ギリシャ| criterion_c = (1), (2), (3), (4), (6)| rg_year = 1987年| ex_rg_year = | remarks = | url_no = 404| map_img = 画像:LocMap of WH Acropolis-Athens.png| map_img_width = 275px |locmapin = Athens central#Athens#Greece |relief = 1 |lat_degrees = 37 |lat_minutes = 58 |lat_seconds = 17.47 |lat_direction = N |long_degrees = 23 |long_minutes = 43 |long_seconds = 35.72 |long_direction = E }} {{Greek mythology}} '''パルテノン神殿'''(パルテノンしんでん、{{lang-el-short|Παρθενών}}, ローマ字: Parthenon)は、[[古代ギリシア]]時代に[[アテナイのアクロポリス]]の上に建設された、アテナイの[[守護神]]である[[ギリシア神話]]の[[女神]][[アテーナー]]を祀る神殿[[:en:Greek temple|(en)]]である。紀元前447年に建設が始まり、紀元前438年に完工、装飾等は紀元前431年まで行われた。パルテノン神殿はギリシア古代[[:en:Classical Greece|(en)]]建築を現代に伝える最も重要な、[[ドーリア式]]建造物の最高峰と見なされる。装飾彫刻も[[ギリシア美術]]の傑作である。この神殿は[[古代ギリシア]]そして民主政アテナイ[[:en:Athenian democracy|(en)]]の象徴であり、世界的な文化遺産として[[世界遺産]]に認定されている。神殿は完全な新築ではなく、古来パルテノン[[:en:Older Parthenon|(en)]]と呼ばれるアテーナーの神殿があったが、紀元前480年の[[ペルシア戦争]]にて破壊された後に再建され、当時あった多くの神殿と同様に[[デロス同盟]]、そして後のアテナイ帝国の[[国庫]]として使われた。6世紀にはパルテノン神殿は[[キリスト教]]に取り込まれ、[[生神女]]マリヤ[[聖堂]]となった。[[オスマン帝国]]の占領[[:en:Ottoman Greece|(en)]]後の1460年代初頭には[[モスク]]へと変えられ、神殿内には[[ミナレット]]が設けられた。1687年9月26日、オスマン帝国によって[[火薬]]庫として使われていた神殿は[[ヴェネツィア共和国]]の攻撃によって爆発炎上し、神殿建築や彫刻などはひどい損傷を受けた。1806年、オスマン帝国の了承を得た第7代[[エルギン伯]][[トマス・ブルース (第7代エルギン伯爵)|トマス・ブルース]]は、神殿から焼け残った彫刻類を取り外して持ち去った。これらは1816年に[[ロンドン]]の[[大英博物館]]に売却され、現在でも[[エルギン・マーブル]]またはパルテノン・マーブルの名で展示されている。ギリシア政府はこれら彫刻の返却を求めているが、実現には至っていない<ref name="venieri-acropolis">{{cite web|url=http://odysseus.culture.gr/h/3/eh351.jsp?obj_id=2384 |title=Acropolis of Athens |author=Ioanna Venieri |publisher=Hellenic Ministry of Culture |language=英語|accessdate=2010-08-12}}</ref>。ギリシア文化・観光庁[[:en:Minister for Culture (Greece)|(en)]]は、パルテノン神殿の部分的な破壊の修復や保全など、後世に伝えるための再建計画を実行した。パルテノン神殿のある丘の下は、[[世界ラリー選手権]](WRC)の一戦、アクロポリス・ラリーのスタート地点としても有名である。 == 呼称 == 「パルテノン」の名称は[[ギリシア語]]の「{{lang|el|παρθενών}}」([[処女宮]])から来ており、パルテノン神殿内にはその名称がつけられる由来となった特別な部屋が備えられていたという<ref>{{cite web|url= http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3Atext%3A1999.04.0057%3Aentry%3Dparqenw%2Fn|title=''A Greek-English Lexicon'' παρθενών|author=Henry George Liddell. Robert Scott|publisher= Perseus Digital Library |language=英語/ギリシア語|accessdate=2010-08-12}}</ref>。ただし、その部屋がどこか、また何故そのように呼ばれたのかという点には諸説ある。古典ギリシア語辞典 ([[:en:A Greek-English Lexicon|LSJ]]) では、この部屋は西の房にあったと言い、ジェフリー・M・ヒューイットは、[[パンアテナイア祭]][[:en:Panathenaic Festival|(en)]]でアレフォロス[[:en:arrephoros|(en)]]<ref name="Shinozuka">{{Cite web|和書|url=http://wwwsoc.nii.ac.jp/mediterr/geppo/318.html |title=地中海学会月報318 古代ギリシアの聖なる乙女の図像系譜|author=篠塚千恵子|publisher=地中海学会|accessdate=2010-08-01}}</ref>が仕立てた[[ペプロス]]をアテーナーに献上するため、4人の少女が服を選ぶ部屋だと述べた<ref>[[#Hurwit| Hurwit、p161–163]]</ref>。クリストファー・ペリングは、アテーナー・パルテノス(処女のアテーナー)[[:en:Athena Parthenos|(en)]]への信仰は個別的なアテーナー崇拝から起こり、密接に関連しながらも同一化することなく、やがて守り神としてのアテーナー信仰となったと主張した<ref>Research has revealed a shrine with altar pre-dating the Older Parthenon, respected by, incorporated and rebuilt in the north プテロン[[:en:pteron|(英語版)]] of the Parthenon (Pelling, ''Greek Tragedy and the Historian'', 169).</ref>。この考えによれば、「パルテノン」は「処女神の宮殿」と意味し、アテーナー・パルテノスへの信仰との関連性を持つことになる<ref name="Br">[[#Britannica|Encyclopaedia Britannica、【Parthenon】]]</ref>。「乙女、少女」であると同時に「処女、未婚の女性」を意味し<ref>{{cite web|url=http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3Atext%3A1999.04.0057%3Aentry%3Dparqe%2Fnos|title=''A Greek-English Lexicon'' παρθένος |author=Henry George Liddell. Robert Scott|publisher= Perseus Digital Library |language=英語/ギリシア語|accessdate=2010-08-12}}</ref>、特に野獣・狩り・植物の女神[[アルテミス]]を指して使われる「parthénos」({{lang-el|παρθένος}})<ref>[http://www.etymonline.com/index.php?term=Parthenon Parthenon], Online Etymology Dictionary</ref>が、戦略と戦術・手芸そして実践理性を司るアテーナーに冠せられている理由も不明瞭である<ref>[[#Frazer|Frazer、18]]</ref>。その一方で、宮殿の名称が「処女」を暗示する点については、都市の安全を祈願するために処女が最高の[[人身御供]]にされたことに関連すると指摘した意見もある<ref>[[#Whitley|Whitley、352]]</ref>。 この建造物全体を「パルテノン」と形容する最初の例は、紀元前4世紀の演説者[[デモステネス]]に見られる。ただし5世紀の例では、ただ単に「ホ・ナーオス」({{lang|grc|ὁ ναός}} 「神殿」)と呼ばれた。神殿を建築した[[イクティノス]]と[[カリクラテス]]は、今は失われた文書でこの建築物を「ヘカトンペドス」({{lang|grc|Ἑκατόμπεδος}} 「百の足をもつもの」)と呼んでいたと言われる<ref name="Harpocration">[http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=urn:cts:greekLit:tlg1389.tlg001.perseus-grc1:e.hekatompedon Harpocration, Lexicon in decem oratores]</ref>。1世紀に[[プルタルコス]]は「ヘカトンペドン・パルテノン」と表記し<ref>[[プルタルコス]], 『ペリクレス』 13.4.</ref>、4世紀以降にはヘカトンペドス、ヘカトンペドン、パルテノンの呼称がそれぞれ使われた。 == 建設 == [[File:Parthenon-top-view.svg|180px|thumb|パルテノン神殿の[[間取り図]]]] 現在のパルテノンに当たる聖域にアテーナー・パルテノスを祀った神殿を建てようという最初の尽力は、[[マラトンの戦い]](紀元前490年‐紀元前488年)が終わった直後に始められた。アクロポリスの丘の南側に、強固な[[石灰岩]]の基礎が敷き並べられ、アテーナー・ポリアス(都市の守護神アテーナー)の古風な神殿の建設が始まった。しかし、この古パルテノン[[:en:Older Parthenon|(en)]]と言及される建築物は紀元前480年に[[アケメネス朝]]が侵攻しアテナイの都市を破壊し尽くした時も未だ建設途上にあった<ref>[[#Hurwit|Hurwit、p135]]</ref><ref>{{cite web|url= http://odysseus.culture.gr/h/3/eh351.jsp?obj_id=2384|title=Acropolis of Athens、History|author= Ioanna Venieri|publisher=Hellenic Culture Organization |language=英語|accessdate=2010-08-12}}</ref>。 紀元前5世紀中頃、[[デロス同盟]]が成立した時にはアテナイは当時の文化的な中心を担っており、政権を掌握した[[ペリクレス]]は野心的な建築計画を立案した<ref name="louvre" />。アクロポリスの丘に現存する重要な建築物であるパルテノン神殿やプロピュライア、エレクテイオン、アテナ・ニケ神殿は当時に建立されたものである。パルテノン神殿は[[彫刻家]][[ペイディアス]](フィディアス)指導のもと建設され、彫刻装飾も彼の手で施された。[[建築家]][[イクティノス]]と[[カリクラテス]]が<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.arch.ce.nihon-u.ac.jp/~kano/kano/greek/athens.html |language=日本語|title=ギリシア建築紀行|publisher=[[日本大学]]工学部建築学科|author=狩野勝重|accessdate=2010-08-01}}</ref>紀元前447年に施工を開始し、紀元前432年にはほぼ完了したが、装飾の製作は少なくとも紀元前431年までは継続されていた。 パルテノン神殿建設への支出明細が一部残っており、それによるとアテナイから16km離れたペンテリコン山[[:en:Mount Pentelicus|(en)]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www7.mapse.eng.osaka-u.ac.jp/member/Toyoda/essay/MisMatch/MisMatch.html|language=日本語|title=ミスマッチ‐不思議でないことの不思議さ‐|publisher=[[大阪大学]]工学部|author=豊田政男|accessdate=2010-08-01}}</ref>から切り出した石材([[大理石]])が使われて、アクロポリスまでの運送に多額の経費が掛かった。この資金の一部には、紀元前454年に[[デロス島]]からアクロポリスに移された[[デロス同盟]]の宝物が宛がわれた。 [[ドーリア式]]を伝える神殿で、現存するものの中ではヘファイストス神殿[[:en:Temple of Hephaestus|(en)]]が最も往時の形を残しているが、建設当時のパルテノン神殿は最高峰の建築だった。ジョン・ジュリアス・クーパー[[:en:John Julius Cooper|(en)]]は、「(パルテノン神殿は)今まで建設された全ての中で無二のドーリア式建築物という評に浴している。古代のものでありながら、その建築にそなわる気品は伝説的でもあり、特に[[スタイロベート]]の湾曲、テーパがつけられたナオス(本殿)[[:en:naos (architecture)|(en)]]の壁、[[エンタシス]]の円柱などが巧みな調和を醸している。」と評した<ref>John Julius Norwich, ''Great Architecture of the World'', 2001, p.63</ref>。「エンタシス」とは、上に向かうにつれ大きくなる円柱のわずかな膨らみを指し、パルテノン神殿のそれは先例の葉巻のような形状に比べれば変化は少ない。円柱が立つ[[スタイロベート]]は、他のギリシア神殿と同様に<ref>And in the surviving foundations of the preceding Older Parthenon (Penrose, ''Principles of Athenian Architecture'' 2nd ed. ch. II.3, plate 9).</ref>ほんの少し上に凸の放物線状の形をなしており、これは雨を排水する意図が盛り込まれている。この形からすると円柱上部は外向きに開いているのではと思いがちだが、実際には内側へわずかに傾いて立てられている<ref name="Kodai54" />。柱はどれも同じ長さをしており、そのため[[アーキトレーブ]]や屋根もスタイロベート上部と同様な湾曲があり、ゴーハム・スティーブンスは神殿の西側前面が東側よりもわずかに高くなっている点と併せて「全てが繊細な曲線を構築する規則に従っている」と指摘した<ref>Penrose ''op. cit.'' pp 32-34, found the difference motivated by economies of labour; Gorham P. Stevens, "Concerning the Impressiveness of the Parthenon" ''American Journal of Archaeology'' '''66'''.3 (July 1962:337-338).</ref>。このような設計に含まれた意図について、「光がもたらす気品」を狙ったという説もあるが、一種の「錯覚による逆説的効果」を狙ったと考えられる<ref>Archeologists discuss similarly curved architecture and offer the theory. Nova, "Secrets of the Parthenon," PBS. http://video.yahoo.com/watch/1849622/6070405{{リンク切れ|date=2017年9月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref>。2本の平行線を描く柱を見上げた時、梁などの水平部分がたわんでいるか両端が曲がっているかのように見え、神殿の全景を概観すると、まるで天井や床が歪んでいる[[錯覚]]を覚えてしまう事をギリシア人は意識していた可能性がある。これを避け、神殿が完全に見えるように設計者はわざと曲線を加え、錯覚を補う意図があったものと考えられる。そして、直線だけで構成された単純かつ凡百の神殿と差別化する躍動感をパルテノン神殿に与えたという説もある。 パルテノン神殿などアクロポリスの建造物には、[[黄金比]]に基づいて建設されたものが複数存在するという研究報告がある<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kwansei.ac.jp/hs/z90010/sugakua/suuretu/fibonacc/fibonacc.htm|language=日本語|title=2.数列|publisher=[[関西学院]]高等部|author=丹羽時彦|accessdate=2010-06-20}}</ref>。パルテノン神殿の正面全貌は各要素ともども[[黄金長方形]]で囲われている<ref>Van Mersbergen, Audrey M., "Rhetorical Prototypes in Architecture: Measuring the Acropolis", ''Philosophical Polemic Communication Quarterly'', Vol. 46, 1998.</ref>。この、設計に黄金比が用いられた事象についてはさらに近年研究が進み<ref>See e.g. {{cite journal|author=George Markowsky|url=http://www.math.nus.edu.sg/aslaksen/teaching/maa/markowsky.pdf|format=PDF|title=Misconceptions about the Golden Ratio|journal=The College Mathematics Journal|volume=Volume 23|issue=No 1|month=January | year=1992}}</ref>、神殿に見られると言われていた黄金比は後付の都市伝説であって、実際には正確な比率になっていない<ref>「数学で生命の謎を解く」イアン・スチュワート(著)ソフトバンククリエイティブ 2012年</ref>。 スタイロベートを測定した結果から、パルテノン神殿の基盤は長さ69.5m(228.0フィート)、幅30.9m(101.4フィート)である<ref name="jwu">{{Cite web|和書|url=http://mcm-www.jwu.ac.jp/~jyu-ishi/isikawa/sekai/greece/greece1.htm|language=日本語|title=GREECE Temple(神殿)|publisher=[[日本女子大学]]家政学部住居学科|author=石川孝重|accessdate=2010-06-20}}</ref><ref name="nihon-uKano">{{Cite web|和書|url=http://www.arch.ce.nihon-u.ac.jp/~kano/kano/greek/athens.html|language=日本語|title=ギリシア建築紀行|publisher=[[日本大学]]工学部建築学科|author=狩野勝重|accessdate=2010-06-20}}</ref>。胞室[[:en:cella|(en)]]は長さ29.8m(97.8フィート)、幅19.2m(63.0フィート)であり、内部には屋根を支える2列の柱が立てられている。外周にあるドーリス式円柱は直径1.9m(6.2フィート)、高さ10.4m(34.1フィート)であり、四隅の円柱は若干大きい。柱の合計は外周に46本、内部に19本ある。この際、威容を持たせるため正面の柱が通常6本のところ8本にされたとの説もある<ref name="osakafu-uYama">{{Cite web|和書|url=http://www.las.osakafu-u.ac.jp/~yosyam/jpeg/athenai.html|language=日本語|title=アテナイの繁栄|publisher=[[大阪府立大学]]|author=山口義久|accessdate=2010-06-20}}</ref>。スタイロベートは東西の端で60mm(2.36インチ)、南北で110mm(4.33インチ)上向きに湾曲している。屋根は大きな[[大理石]]の平瓦と丸瓦[[:en:imbrex and tegula|(en)]]で葺かれている。 パルテノン神殿に使われる石材は、円柱のドラム1個当たりが5-10トン、梁材は15トン程度の重量であった。これらは高い加工が施され、例えば円柱ドラムの接合面にある凸凹は1/20mm以下に抑えられ、面接合の密着精度は1/100mm以下であり、エジプトの[[ピラミッド]]のように調整用[[モルタル]]は使われていない。この精度は、検査用の塗料を塗った円盤を用意し、接合面と円盤を摺り合わせて凸面を検出し磨く作業を繰り返して実現した<ref name="Sato42">[[#佐藤|佐藤、p42-43、ギリシア建築の施工法]]</ref>。石材の吊り上げには滑車と巻き上げ装置を備えた[[クレーン]]が実用化されており、これに対応するため石材にも吊り上げ時に綱を引っ掛ける突起や溝をつける加工が行われた<ref name="Sato42" />。 == 彫刻 == [[File:Akropolis by Leo von Klenze.jpg|thumb|アクロポリスの再建とアテナのアレイオス・パゴス、[[レオ・フォン・クレンツェ]]画、1846年]] [[File:Parthenon from south.jpg|thumb|南側から見たパルテノン神殿。手前には大理石の平瓦と丸瓦があり、再建用に木枠の上に仮組みされた様子が見られる]] ローマの六柱式[[:en:octostyle|(en)]]そして周柱式[[:en:peripteral|(en)]]を持ち、[[イオニア式]]の建築様式も備える[[ドーリア式|ドーリア式神殿]]であるパルテノン神殿には、[[ペイディアス]]が製作し紀元前439年か翌年に献納されたアテーナー・パルテノスのクリスエレファンティン(彫像)[[:en:chryselephantine|(en)]]があった。当初、装飾の石の彫刻には彩色が施されていた<ref>{{cite web|url=http://www.ellopos.net/elpenor/greek-texts/ancient-greece/history-of-ancient-greek-art-12.asp |title=Tarbell, F.B. '&#39;A History of Ancient Greek Art'&#39;. (online book) |publisher=Ellopos.net |date= |language=英語|accessdate=2009-04-18}}</ref>。神殿がアテーナーを奉るようになったのはこの頃からであるが、建設そのものは紀元前432年の[[ペロポネソス戦争]]勃発の頃まで続いた。紀元前438年までには外側の列柱上にある小壁と胞室上の壁の一部にあるイオニア式小壁にドーリア式の彫刻装飾が施された。これらの彫刻は神殿を豪華に飾り、宝物庫としての役割にふさわしさを与えた。胞室の奥にあるオピストドモス (opisthodomus) と呼ばれる部屋にはアテナイを盟主とするテロス同盟が拠出した宝物が納められた。日本のテレビ番組「[[日立 世界・ふしぎ発見!]]」ではパルテノン神殿に[[プロジェクションマッピング]]で色彩を施した<ref>[https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/01/23/kiji/K20160123011906240.html 「ふしぎ発見!」が世界初の試み パルテノン神殿を色鮮やかに再現]</ref>。 === メトープ === [[File:Parthenon XL.jpg|thumb|left|西側のメトープ。作成されてから2500年を経て、戦争、汚染、不充分な保全、略奪そして破壊を受け現在に至る。]] パルテノン神殿には72枚の高浮かし彫り[[エンタブラチュア#ドーリア式|メトープ]](長方型の彫刻小壁<ref name="AFP">{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2378159?pid=2832460 |language=日本語|title=パルテノン神殿に残る彫刻、大気汚染で危機的状態に|publisher=国際ニュース2008年04月15日11:12 発信地:アテネ/ギリシア|author=(c)AFP/Didier Kunz |accessdate=2010-08-01}}</ref>)[[:en:Metopes of the Parthenon|(en)]]がある。この様式は従来、神に捧げる奉納の品を納める建物にのみ用いられていた。建築記録によると、これらは紀元前446年から440年の間に製作されたとあり、彫刻家のカラミス (Kalamis) がデザインしたと考えられる。パルテノン神殿正門玄関の上に当たる東側のメトープは、オリンポスの神々が[[ギガース|巨人]]と戦った[[ギガントマキアー]]を主題としている。同様に、西端のメトープはアテナイ人と[[アマゾーン]]の戦い[[:en:Amazonomachy|(英語版)]]、南側は[[ラピテース族]]が[[テーセウス]]の助けを受けて半人半獣の[[ケンタウロス]]と繰り広げた戦い[[:en:Centauromachy|(en)]]がモチーフとなっている。北面の主題は「[[イリオス|トロイア]]の落城」である<ref name="aichi-u">{{Cite web|和書|url=http://leo.aichi-u.ac.jp/~goken/bulletin/pdfs/No10/07matsumoto.pdf|format=PDF|language=日本語|title=帝国の隠喩的世界‐近代初期ヨーロッパにおける野蛮の表像‐|author=松本一喜|publisher=[[愛知大学]]教養学部|accessdate=2010-06-20}}</ref>。 メトープの13番から21番は失われてしまったが、1674年にフランスのトルコ大使ノワンテル侯爵に随行した画家のジャック・カレイ[[:en:Jacques Carrey|(en)]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.mesogeia.net/historyathens/ottoman.html|language=日本語|title=アテネの歴史 9.オスマントルコ時代|author=田畑賀世子|accessdate=2010-08-01}}</ref>が描いた絵があり、アテナイ初期の神話などにある[[ラピテース族]]の[[結婚]]にまつわる[[ラピテース族#ケンタウロスとの戦い|伝説]]が描かれている<ref name="louvre">{{Cite web|和書|url=http://www.louvre.fr/llv/oeuvres/detail_notice.jsp?CONTENT%3C%3Ecnt_id=10134198673225850&CURRENT_LLV_NOTICE%3C%3Ecnt_id=10134198673225850&FOLDER%3C%3Efolder_id=9852723696500785&baseIndex=0&bmLocale=ja_JP |language=日本語|title=クラシック時代のギリシア美術|author=|publisher=[[ルーブル美術館]]|accessdate=2010-08-12}}</ref><ref name=Barringer2008 >{{Cite book |last=Barringer |first=Judith M |date=2008年 |title=Art, myth, and ritual in classical Greece |publisher=Cambridge |isbn=0521646472 |url=http://www.worldcat.org/title/art-myth-and-ritual-in-classical-greece/oclc/174134120 |page=78 |postscript=<!--None--> }}</ref>。保存状態が悪い北面のメトープには、[[イーリオスの陥落]]の故事が彫られたと思われている。 メトープは、身体運動を筋肉でなく輪郭で制限している戦士の表情や、ケンタウロスの伝説[[:en:Centauromachy|(en)]]像において静脈まで忠実に表現した様を分析した結果から、厳格様式[[:en:Severe Style|(en)]]を現在に伝えるものと判断された<ref name="louvre" />。神殿に残されたメトープは北側のものを除きどれも酷く痛んでしまった。外されたものは[[アクロポリス博物館]]や[[大英博物館]]、[[ルーヴル美術館]]<ref name="louvre" />に保管されている。 [[File:1868 Lawrence Alma-Tadema - Phidias Showing the Frieze of the Parthenon to his Friends.jpg|thumb|[[ローレンス・アルマ=タデマ]]画『[[ペイディアス|フェイディアス]]とパルテノン神殿のフリーズ』1868年<ref>{{Cite web|和書|url=http://pinkchiffon.web.infoseek.co.jp/Alma-Tadema02.htm|language=日本語|title=ローレンス・アルマ=タデマの世界 Page Two|publisher=子どものための美しい庭|author=サンドラ|accessdate=2010-08-01}}</ref>]] === フリーズ === パルテノン神殿が持つ最も特徴的な装飾は、胞室の外壁を取り囲むイオニア式の[[フリーズ (建築)|フリーズ]]である。これら浅い浮かし彫りのフリーズは、入れられた日付によると紀元前442年から紀元前438年に据えられた。 ある解釈によると、これは[[ケラメイコス]]にあるデイピュロンの二重門 (Dipylon Gate)を出発し[[アテナイのアクロポリス|アクロポリス]]まで行進する[[パンアテナイア祭]] [[:en:Panathenaic Festival|(en)]]の様式化された姿を写したと言われる。この祭りは毎年開かれたが、特別な大祭が4年に1度催され、その際にはアテナイ人に外国人も加わり女神アテーナーへ生贄と新調された[[ペプロス]](高貴な家柄から選ばれた「アレフォロス」と呼ばれる7-11歳の少女2-4人を中心に、「エレガスティナイ」と呼ばれる年長の少女たちが手助けし9ヶ月かけて織られたドレス)の奉納が行われた<ref name="Shinozuka" />。 最近、ジョーン・ブルトン・コネリー[[:en:Joan Breton Connelly|(en)]]が異なる解釈を提案した。これによると、フリーズのテーマには[[ギリシア神話]]が基礎にあり、[[エレクテウス]]の最も年少の娘[[パンドーラー]]がアテーナーへ捧げられる故事を描いたという解釈を試みている。この人身御供の描写は、[[エレウシス]]の王[[エウモルポス]]がアテナイを攻めるため軍を集結した際、都市を守護するアテーナーの求めがあったと考えている<ref>[[#Connelly|Connelly、p53–80]]</ref>。 === ペディメント === 2世紀の旅行者[[パウサニアス (地理学者)|パウサニアス]]は、アクロポリスを訪れた際に見たパルテノス神殿について、女神の金と象牙の像を書きつつ、[[ペディメント]](切り妻型屋根の破風部)の短い記録も残した。 ペディメントの製作は紀元前438年から紀元前432年わたって行われた。これらパルテノン神殿の彫刻はギリシア古典芸術の傑作であり、剥き出しの、または薄い[[キトン (衣類)|キトン]]を通してなお明瞭に体躯を感じ取らせつつ、脈々と表現された筋肉によって描き出された活力みなぎる肉体の自然な動きを表現している。神々と人間の区別は、理想主義と自然主義のふたつを概念的に相互作用させる中でぼやかされつつ、彫刻家の手によって石に刻み込まれた<ref>{{cite web|url=http://www.ancient-greece.org/art/parthenon-ped-west.html |title=Thomas Sakoulas, Ancient Greece.org |publisher=Ancient-greece.org |date=2007-04-21 |accessdate=2009-04-18}}</ref>。しかし、このペディメントは現在に伝わっていない。 [[File:Partenon04.JPG|thumb|現在も見られる東ペディメントの一部]] ==== 東ペディメント ==== 神殿の正面に当たる<ref name="Kodai54" />東ペディメントには女神アテーナーが[[ゼウス]]の頭部から誕生した物語を描写する。ゴロシア神話によると、激しい頭痛に悩まされたゼウスが苦痛を和らげるために火と鍛冶の神[[ヘーパイストス]]に命じて槌で頭を叩かせた。するとゼウスの頭が裂け、中から鎧兜を纏った女神アテーナーが飛び出した。この情景を東ペディメントは描写している。 この東ペディメントは教会に転用された際に改築のため破壊されていたが<ref name="Kodai54" />、1674年にジャック・カレイ[[:en:Jacques Carrey|(en)]]が写生を残していた。そして、再建時はこれを元に推測や想像が加えられた。アテーナー誕生の出来事では、ゼウスとアテーナを中心に、[[ヘーパイストス]]や[[ヘーラー]]など主だったオリンポスの神々が周りを取り囲んでいなければならず、カレイの絵を中心に南北に配列を加えて再建が行われた<ref>{{cite web|url=http://www.ancient-greece.org/art/parthenon-ped-east.html |title=Thomas Sakoulas, Ancient Greece.org |publisher=Ancient-greece.org |date=2007-04-21 |accessdate=2009-04-18}}</ref>。 ==== 西ペディメント ==== プロピュライア(正門)に面する西ペディメントは、アテーナーと[[ポセイドーン]]が都市の守護者たる立場を争った姿が表現されている。二柱の神は中央で対峙し、反らせたお互いの体躯を中心に対称を成す。向かって左の女神は[[オリーブの枝]]を、右の海神は地球を打ち据える三叉の槍をそれぞれ手に持ち、チャリオットを牽く荒々しい馬と、アテナイ神話の個性を備えた軍団が従いながら、破風の鋭角な面を埋めている<ref name="OzawaK">{{Cite web|和書|url=http://www.ozawa-katsuhiko.com/1sekai-isan/athens/athens.html|language=日本語|title=1.世界遺産にみる地中海域の古代・中世社会 8.古代ギリシア、アテナイの「アクロポリスとパルテノン」|author=小澤克彦/岐阜大学名誉教授|accessdate=2010-08-01}}</ref>。 === アテーナー・パルテノス像 === ペイディアス作と判明しているパルテノン神殿の彫像は、唯一ナオス(本殿)に納められたアテーナー像だけである<ref>Kenneth D. S. Lapatin, Chryselephantine Statuary in the Ancient Mediterranean World, 2002, p.63.</ref>。これは大きな金と象牙の彫像であったが現在は失われ<ref>{{Cite book|和書 |author = 新建築社 |year = 2008 |title = NHK 夢の美術館 世界の名建築100選 |publisher = [[新建築社]] |page = 62 |isbn = 978-4-7869-0219-2}}</ref>、その写しや壷の絵、宝石のカット、硬貨の意匠および文章で表現された内容しか残っていない。 == 古パルテノン == [[アテナイのアクロポリス|アテネのアクロポリス神域]]の開闢は非常に古く、[[新石器時代]]に遡る築壁、[[ミケーネ]]時代の城壁跡が発見されている<ref name="Kodai54">[[#周藤|周藤・澤田、p54-62、アクロポリスの遺跡]]</ref><ref name="venieri-acropolis" />。ここへアテーナー・パルテノスの聖域を設けようという試みは、[[マラトンの戦い]](紀元前490年-紀元前488年)勃発の頃に行われた。これは、いつ作られたか定かでないオリーブの木で彫られたアテーナー・ポリアスの像<ref name="Kurihara1">[[#栗原|栗原、p92-97、1.パルテノン神殿とアテナイ社会]]</ref>を祭った古風な神殿の横にあったヘカトンパイオンという建物を取り替えて建てられた。この「古パルテノン」と言える神殿は紀元前480年に[[アケメネス朝|アケメネス朝ペルシア]]がアテナイを占拠し際にアクロポリス全体とともに完全に破壊されるが、その時点で未だ建設中だった<ref name="Kodai54" />。この古パルテノンの建築と破壊は[[ヘロドトス]]も伝え<ref>ヘロドトス『歴史』8.53</ref>、円柱の一部は[[エレクテイオン]]北側の幕壁に、眼に見える形で流用された。1885年から1890年にかけて、Patagiotis Kavvadiasが行った調査で古パルテノンの遺構が見つかり、存在が確認された。[[ヴィルヘルム・デルプフェルト]]が主導し、ドイツ考古学研究所 (German Archaeological Institute) が指揮を執ったこの発掘では、デルプフェルトが「パルテノンI」と呼ぶ元々の古パルテノンの基礎部分が、現在のパルテノン神殿とずれた位置にあることを発見し、従来の定説に訂正を加えた<ref>W. Dörpfeld, "Der aeltere Parthenon", ''Ath. Mitteilungen'', XVII, 1892, p. 158-89 and W. Dörpfeld, "Die Zeit des alteren Parthenon", ''AM'' '''27''', 1902, 379-416</ref>。デルプフェルトの調査によると、古パルテノンは3段の基礎があり、2段は土台と同じポロス島の石灰岩が用いられているのに対し最上段はKarrhaの大理石が使われ、これは後に覆われ[[ペリクレス]]時代のパルテノン神殿の基礎段となった。ただしこれは規模が小さく北方向にずれており、現在のパルテノン神殿が旧来の建物をすっぽりと覆いつつ全く新たに建設された事を示す。発掘に関する最終報告ではより複雑な図が示され、この基礎が執政官[[キモン]]時代の壁と同じ時代のものであり、それらは古パルテノン建設後期のものである可能性を示した<ref>N. Leipen, Athena Parthenos: a huge reconstruction, 1972.</ref>。 古パルテノンが紀元前480年に破壊されたのならば、再建されるまで33年もの間崩れたまま放置されていたのか疑問が持たれた。これについて、紀元前479年の[[プラタイアの戦い]]を前に行われた「ペルシア人の暴虐を忘れないために、破壊された聖域は再建しない」というギリシア同盟による宣誓が影響する合意があった<ref name="Kodai54" /><ref>NM Tod, ''A Selection of Greek Historical Inscriptions II'', 1948, no. 204, lines 46-51, The authenticity of this is disputed, however; see also P. Siewert, Der Eid von Plataia (Munich 1972) 98-102</ref>。紀元前450年の[[カリアスの和約]]成立でアテナイ人はこの宣誓を無効にすることができた<ref name="Kodai54" /><ref>See [http://people.reed.edu/~mkerr/papers/Parth95.html Minott Kerr, "The Sole Witness": The Periclean Parthenon] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070608024611/http://people.reed.edu/~mkerr/papers/Parth95.html |date=2007年6月8日 }}</ref>が、それまで再建に取り掛かれなかった理由には、ペルシアの侵攻に抗っていたため財政的余裕が無かったというありふれた背景もあった。しかし、バート・ホッジ・ヒルが行った発掘から、キモン在任の紀元前468年以降の時代には「2つ目のパルテノン(パルテノンⅡ)」が存在したと考えられる<ref>B. H. Hill, "The Older Parthenon", ''AJA', XVI, 1912, 535-58</ref>。ヒルの主張では、デルプフェルトが発見した「パルテノンI」最上段に当たるKarrha大理石は、「パルテノンⅡ」3段の1番下に当たり、その基壇が敷設された面は23.51×66.888m(77.13フィート×219.45フィート)になると計算した。 1885年の発掘では、掘り起こし手段が慎重さに欠けた上にリファイリングも雑だったため多くの重要な証拠が失われてしまい、考古学の順序だて法[[:en:seriation (archaeology)|(en)]]では古パルテノンの時代認定は明瞭にできなかった。1925年から1933年にかけて、B.グラーフとE.ラングロッツはアクロポリスから出土した陶器の破片を研究し、2巻の論文を著した<ref>B. Graef, E. Langlotz, ''Die Antiken Vasen von der Akropolis zu Athen'', Berlin 1925-33</ref>。これに影響されたアメリカの考古学者ウィリアム・ベル・ディンスムーア[[:en:William Bell Dinsmoor|(en)]]は、神殿基盤の年代特定と、アクロポリスの盛土の下に隠されていた5つの壁に関する研究を発表した。ディンスムーアは「パルテノンI」の建設年を最も早くとも紀元前495年とし、デルプフェルトの考えと矛盾する結論を導いた<ref>W. Dinsmoor, "The Date of the Older Parthenon", ''AJA'', XXXVIII, 1934, 408-48</ref>。さらにディンスムーアは、デルプフェルトが定義したペリクレス時代の「パルテノンⅡ」以前に神殿は2つあったと主張した。1935年の『American Journal of Archaeology』にて、ディンスムーアとデルプフェルトの2人は意見を交換し合っている<ref>W. Dörpfeld, "Parthenon I, II, III", ''AJA'', XXXIX, 1935, 497-507, and W. Dinsmoor, ''AJA'', XXXIX, 1935, 508-9</ref>。 == 役割 == 古代において、宗教的建造物は高台に立てられることが多く、それは権威を高める効果をもたらした。パルテノン神殿はその典型と言え<ref>{{Cite journal|和書|author=井上博司 |title=イギリスの風土と景観構成―人間らしい環境創造への軌跡 |journal=岡山大学環境理工学部研究報告 |ISSN=1341-9099 |publisher=岡山大学環境理工学部 |year=1997 |month=jan |volume=2 |issue=1 |pages=59-78 |naid=120002313742 |doi=10.18926/fest/11603 |url=https://doi.org/10.18926/fest/11603 |accessdate=2021-10-01}}</ref>、アクロポリスの丘からは紀元前8世紀頃の青銅製トリポット等奉納品が出土し、同じく出土した碑文から紀元前6世紀頃には青銅や大理石の奉納像が据えられていた<ref name="Kodai54" />。紀元前5世紀における再建は、当時ペルシャへ対抗するギリシア諸都市国家の中核を占めるアテナイの威信を知らしめす役割を担ったものだった<ref name="aichi-u" />。この思想は、神殿の中心に信奉する女神アテナを置き、その四方に異民族や化物ら野蛮な周辺部族を制圧するモチーフを配した全体の構図に表され、ギリシア的支配構造とアテナイの優位性を象徴している<ref name="aichi-u" />。 そして、パルテノン神殿は対ペルシア戦勝記念の性格も持ち、[[バルバロイ]]に対するギリシアの勝利を記念する機能もあった<ref name="louvre" />。西側メトープのアマゾネスとの戦いは過去から使われるアクロポリスでは一般的なモチーフだが、パルテノン神殿のそれは攻め込むアマゾネスからアテナイを防衛する情景が描かれている。その他の彫刻類も様々な神話上の敵との戦いを描き、これらは異民族であるペルシアとの戦闘と[[文明]]たるギリシアの勝利を象徴している<ref name="Kurihara1" />。 その一方で、必ずしも現代的な用語「神殿」で想起される機能だけを担っていた訳ではない<ref name="Deacy-11">S. Deacy, ''Athena'', Routledge, 2008, p.111, {{doi|10.4324/9780203932148}}, {{ISBN2|9780203932148}}.</ref>。建物内に小さな建屋を備えて古来からのアテーナー・エルガネ (Athena Ergane) を祀る聖域<ref name="Deacy-11" />が発見されても、都市の守護者アテーナー・ポリアス (Athena Polias) の崇拝の場では無く、[[ペプロス]]を着てオリーブのクソアノン[[:en:xoanon|(en)]]を持つ女神の宗教的イメージはアクロポリス北側の古い祭壇で祀られた<ref name="Burkert-143">[[#CITEREFBurkert1985|Burkert、Blackwell、p.143]]</ref>。そして、パルテノン神殿は本質的に宝物庫として利用された。 [[Image:NAMA Athéna Varvakeion.jpg|thumb|ヴァルヴァキオン・スクール[[:en:Ioannis Varvakis|(en)]]近郊で発見された、アテーナーの奉納像。2世紀頃のローマ時代のアテーナー・パルテノス像を再現していると思われる。 [[アテネ国立考古学博物館]]蔵]] [[ペイディアス]]が奉納した巨大なアテーナー像もまた、崇拝の対象ではなく<ref>MC. Hellmann, ''L'Architecture grecque. Architecture religieuse et funéraire'', Picard, 2006, p.118.</ref>、いかなる宗教的な盛り上がりも記録されていない<ref name="Burkert-143" />。いかなる司祭も祭壇も無く、礼賛する名称も無い<ref name="Nagy-55">Eddy, S. (1977). The Gold in the Athena Parthenos. American Journal of Archaeology, 81(1), 107–111. {{doi|10.2307/503656}}, pp.55.</ref>。[[トゥキディデス]]によると、ペリクレスはこの像を「金の蓄え」と呼び、「移動可能な40[[タレント (単位)|タレント]]の純金を含む」と言ったと伝える<ref>Thucydides 2.13.5. Retrieved September 11, 2008.</ref>。アテナイの政治家は、金は当時の鋳造技術でいつでも取り出すことができ<ref>S. Eddy, "The Gold in the Athena Parthenos", ''AJA'', Vol.81, No.1 (Winter, 1977), pp.107-111.</ref>、その行為は別に信心に反するものではない<ref name="Nagy-55" />とほのめかした。ただし、このアテーナー像は甲冑を脱ぎ、左手はよもや盾を掲げず下げたままに任せながら、右の掌に勝利の女神[[ニーケー]]を載せている。これは勝利で終えた戦いを象徴し、戦勝記念の一環である要素が反映している<ref name="Kurihara1" />。 このような点は、パルテノン神殿がただの崇拝の対象や戦勝の記念だけでなくペイディアスが奉納したアテーナー像の壮大な収納殿と見なすべき点もある<ref name="Kurihara1" /><ref>B. Holtzmann and A. Pasquier, ''Histoire de l'art antique : l'art grec'', École du Louvre, Réunion des musées nationaux and Documentation française, 1998, p.177.</ref>。そして同時に、紀元前454年にデロスからアテナイへ移されたデロス同盟の基金を保管する部屋も備え、国庫という機能も持った。 == その後の歴史 == === ヘレニズム影響下のパルテノン === 紀元前4世紀に入ると、アテナイは[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロ大王]]の[[マケドニア王国]]による[[ヘレニズム]]文化の影響下に入る。ギリシア文化を後継したヘレニズム時代の王たちは、パルテノン神殿を尊重しつつも自らの王位を権威づける場として用いた。紀元前1世紀に[[アッタロス朝|ベルガモン]]国王は神殿に彫刻群を奉納したが、その中には[[ガリア人]]との戦いを描いたものが含まれていた。さらに後の[[ローマ皇帝]][[ネロ]]の[[パルティア戦争]]をモチーフとした彫刻がアテナイ人によって加えられた。これらは、ヘレニズムやローマ帝国がギリシアの後継者たることを知らしめる目的を持っていたが、それゆえにパルテノン神殿は保たれる結果に結び付いた<ref name="Kurihara2">[[#栗原|栗原、p97-102、2.その後のパルテノン]]</ref>。 ペルシア撃退を記念したパルテノン神殿だが、その後の[[ゲルマン人]]侵入による被害を受ける事もあった。アテナイは267年にヘルリア族、396年には[[西ゴート族]]に包囲されたが、このいずれかの戦闘でパルテノン神殿は放火され木製の梁が焼け落ちるなど被害を受けた。その後、ローマ皇帝の命で神殿は修復されるが、それは旧来の姿へ完全に戻すものではなく、屋根は部分的にしか架けられず、柱もヘレニズム的なものへ変わった<ref name="Kurihara2" />。 === キリスト教会堂 === [[File:ParthenonNight.jpg|thumb|left|パルテノン神殿の夜景]] この後の[[東ローマ帝国]]時代、パルテノン神殿はその機能を大きく変ずることになる。5世紀に入るとバンアテナイア祭は廃れ、同世紀末頃にはアテーナー・パルテノス像が[[キリスト教]]信奉者らと思われる勢力によって持ち出され所在不明となる<ref>[[#栗原|栗原、p99]]</ref>。そして6世紀から7世紀頃<ref name="Kurihara2" />、神殿は[[聖母マリア|童貞女マリヤ]][[聖堂]]に変えられ、コンスタンティノープル、[[エフェソス]]、[[テッサロニキ]]に次ぐ4番目に重要な巡礼地となった<ref name=Kaldelis>Anthony Kaldellis Associate Professor (Department of Greek and Latin, The Ohio State University), [http://www.lsa.umich.edu/UMICH/modgreek/Home/_TOPNAV_WTGC/Lectures%20at%20U-M/ParthenonKaldellis.pdf ''A Heretical (Orthodox) History of the Parthenon''] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090824170528/http://www.lsa.umich.edu/UMICH/modgreek/Home/_TOPNAV_WTGC/Lectures%20at%20U-M/ParthenonKaldellis.pdf |date=2009年8月24日 }}, p.3</ref>。この改築で内陣の壁は一部が壊されて通路とされ、逆に建物東の門は壁で塞がれた<ref name="Kurihara2" />。1018年には[[バシレイオス2世]]が[[第一次ブルガリア帝国]]との戦争に勝利した記念に、パルテノン神殿に参拝するためアテナイへ直に巡礼した<ref name=Kaldelis/>。中世には[[生神女]][[聖堂]]とされた<ref name=Kaldelis/>。 [[ラテン帝国]]の時代には、[[聖母マリア]][[:en:Blessed Virgin Mary (Roman Catholic)|(en)]]の[[カトリック教会]]として250年間使用された。神殿は改築を受け、内部の円柱や胞室の壁の一部が取り払われ、建物の東端には[[アプス]]が増築された<ref name="Kurihara2" />。之に付随し、彫刻のいくつかが外されて行方知れずとなった。このように、神を祭る様式がクリスチャンのものへ変更される中、パルテノン神殿は破壊され、変容が加えられた。 === オスマン朝のモスク === 1456年、アテナイは[[オスマン帝国]]の占領下に置かれた。すると今度は、パルテノン神殿は[[モスク]]に改築された<ref name="Kurihara2" />。オスマン帝国は領地の遺跡には一定の敬意を払い無分別な破壊を行わなかったが、それは保全に努めたという事ではなく、戦時に防壁や要塞を建設するために遺跡の石材などを流用することもあった。さらにパルテノン神殿には[[ミナレット]]が増築され<ref name="Kurihara2" />、その神殿に相当する高さの階段は今でも残ったまま、円柱の台輪を隠してしまっている。しかし、オスマン帝国は神殿そのものには変更を加えず、17世紀のヨーロッパ人訪問者はアクロポリスの丘に残る他の建築物ともども手付かずのままに置かれていることを証言した。 [[File:Parthenon.Southern.Side.damaged.jpg|thumb|パルテノン神殿南側の情景。1687年の爆破で損傷を受けたと推測される箇所。]] [[File:Dodwell Parthenon 1.jpg|thumb|エドワード・ドッドウェル[[:en:Edward Dodwell|(en)]]画『View of the Parthenon from the Propylea』。1821年にロンドンで出版された『Views in Greece』の一葉で、遺跡の間に住居が立ち並ぶ<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20090905192336/http://www.geocities.jp/womb_archi/hkk/Greece/pic_greece/G07pic.htm|language=日本語|title=第7章図画解説|publisher=比較建築研究会|accessdate=2010-08-01}}</ref>当時のアクロポリスを描いた。]] === 爆破 === [[File:MotarFragmentFromParthenon-BritishMuseum-August21-08.jpg|thumb|125px|left|パルテノン神殿の壁の破片。ヴェネツィアの攻撃で受けた被害によるものと思われる。]] [[1687年]]、[[神聖同盟 (1684年)|神聖同盟]]に加盟した[[ヴェネツィア共和国]]とオスマン帝国が戦い([[大トルコ戦争]])、[[フランチェスコ・モロジーニ]]率いるヴェネツィアがアテナイを攻撃した際、パルテノン神殿は最大の破壊を被る<ref name="senshu-uWata">{{Cite web|和書|url=http://www.isc.senshu-u.ac.jp/~thn0507/W-history/w-history.html|language=日本語|title=History of the World(世界の歴史)|publisher=[[専修大学]]|author=[[綿貫理明]]|accessdate=2010-06-20}}</ref><ref name="venieri-acropolis" />。オスマン帝国はアクロポリスを要塞化し、神殿を弾薬の貯蔵庫とした<ref name="Kurihara2" />。ヴェネツィアとの戦争の際にはここに女や子供を避難させたが、これはヴェネツィア側が神殿を敬い攻撃を加えないだろうと期待した対応だった<ref name="Kurihara2" />。しかし9月26日、ヴェネツィアの臼砲がフィロパポスの丘から砲撃を加え、パルテノン神殿の弾薬庫が爆発、神殿は一部が破壊された<ref name="Kurihara2" /><ref>Mommsen, Theodor E. “The Venetians in Athens and the Destruction of the Parthenon in 1687.” American Journal of Archaeology, vol.45, no.4, Archaeological Institute of America, 1941, pp.544–56, {{doi|10.2307/499533}}.</ref>。神殿の内部構造は破壊され、屋根部分の遺構も崩れ、柱も特に南側のものが折られた。彫刻の被害は甚大で、多くが壊され地面に落ちた。モロジーニは剥落した彫刻類を戦利品として略奪し、後に組み直された。この結果、彫刻が飾られていた際の配置は、1674年にジャック・カリーが描いた絵から推し量ることしかできなくなった<ref>Thimme, Diether. "The Carrey drawings of the Parthenon sculptures". Indiana University Press, 1971.</ref>。この後、アクロポリスの多くの建物は打ち捨てられ、小さなモスクだけが建てられた。 18世紀になるとオスマン帝国は停滞状態となり、その結果ヨーロッパ人がアテナイを訪問する機会が増えた。パルテノン神殿のような美観の絵が数多く描かれ、ギリシアに対する愛着(ギリシア愛[[:en:philhellenism|(en)]])が沸き起こり、イギリスやフランスでギリシア独立の世論が高まった<ref name="Kurihara2" />。[[ディレッタンティ協会]]の任を受けて考古学者のジェームズ・スチュアート[[:en:James Stuart (1713–1788)|(en)]]とニコラス・リヴェット[[:en:Nicholas Revett|(en)]]がアテナイに入ったのはそのような動きの初期に当たる。彼らはアテナイの遺跡群を調査し、1781年にはパルテノン神殿を実測した最初の資料を作成して『Antiquities of Athens Measured and Delineated』第2巻に収録した。1801年、イギリスの駐コンスタンティノープル大使[[エルギン伯]][[トマス・ブルース (第7代エルギン伯爵)|トマス・ブルース]]は<ref name="louvre" />、アクロポリス遺跡の型取りと図面の作成、およびその作業に必要ならば近年の建築物を壊す事、そしてそれらを持ち出すことを認めるfirman(勅令)を[[スルターン]]から得た。この勅令は原本が残っていないため疑わしい面もあるが、エルギン伯は見つけ出した彫刻類の持ち出しが認められたとこれを拡大解釈した。住民を雇い入れ、建造物から彫刻類を引き剥がし、若干のものを拾い、また住民から買い入れるなどの手段で集めた。このために建物は深刻な損傷を受け、さらにイギリスへ輸送するに当たって軽くするために剥ぎ取ったフリーズのブロックを半分に裂いてしまった。これらイギリスに渡った彫刻類は[[エルギン・マーブル]]と呼ばれる<ref name="kumamoto-u">{{Cite web|和書|url=http://mukb.medic.kumamoto-u.ac.jp/fukusei/oobangia/2005/050308.html|language=日本語|title=大番外2005.03.08 剥ぎ取られた壁画|publisher=[[熊本大学]]発生医学研究所|author=小椋光|accessdate=2010-06-20}}</ref>。 === ギリシアの独立 === 1832年、ギリシアは独立を果たした。パルテノン神殿のミナレットは目につく部分が取り壊され、続いてアクロポリスに建つ中世とオスマン帝国の建造物はことごとく除かれた。そして、残っていた建築資材を用いて復元が行われた<ref name="senshu-uWata" />。そのような中、胞室に設けられていた小さなモスクはJoly de Lotbinièreが撮影した写真が残り、1842年に出版されたアクロポリスを[[被写体]]にした初の写真集『Excursions Daguerriennes』で伺うことができる<ref>Neils, ''The Parthenon: From Antiquity to the Present'', 336– the picture was taken in October 1839</ref>。 その後[[アテナイのアクロポリス|アクロポリス]]はギリシア政府が直轄して管理する歴史的地区に定められた。現在では毎年何百万人もの観光客が訪れ、再建された[[プロピュライア]]を抜け、パルテノン神殿へ至るパナテナイック通りを歩き、アクロポリスの西側の小道を散策することができる。これら立ち入ることが出来る場所は低い柵で区切られて、遺跡が傷まないよう配慮されている。 [[File:Pediments of the Parthenon-British Museum.jpg|thumb|大英博物館に蔵されているパルテノン神殿の等身大ペディメント彫刻]] === マーブル返還問題 === {{Main|エルギン・マーブル}} 一方、エルギン伯が持ち去ったパルテノン神殿のマーブルは[[大英博物館]]に現存する。その他にも、神殿の彫刻は[[パリ]]の[[ルーヴル美術館]]、[[コペンハーゲン]]などにも保存されているが、現在所有点数が最も多いのは2009年6月20日に開館した[[アクロポリス博物館]]である<ref name="BrIT">[http://www.iht.com/articles/ap/2006/10/09/europe/EU_GEN_Greece_Acropolis_Museum.php Greek Premier Says New Acropolis Museum to Boost Bid for Parthenon Sculptures], International Herald Tribune</ref><ref>{{cite encyclopedia|title=Parthenon|encyclopedia=Encyclopaedia Britannica}}</ref>。神殿の建物自体にも若干の彫刻が残っている。 1983年以降、ギリシア政府は大英博物館に対して彫刻を返還するよう求めている<ref name="BrIT"/>。しかし博物館側はこれを明確に拒否しており<ref>{{cite web|url=http://www.britishmuseum.org/the_museum/news_and_press_releases/statements/the_parthenon_sculptures/facts_and_figures.aspx |title=The Parthenon Sculptures: The Position of the British Museum Truistees and Common Misconceptions |publisher=The British Museum |date=|language=英語|accessdate=2009-04-18}}</ref>、その背景には法律上の問題を重視するイギリス政府の意向がある。そのような中2007年5月4日にギリシアとイギリスは前文化相同士がロンドンで、法律顧問を同席し会談の場を持った。それはここ数年における意義深いもので、将来へ何らかの解決が見出されることを期待されている<ref>[http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/6578661.stm Talks Due on Elgin Marbles Return], BBC News</ref>。 == 再建 == 1975年、ギリシア政府はパルテノン神殿など[[アテナイのアクロポリス|アクロポリス]]の建造物の修復へ本格的に乗り出し、幾許かの遅れがあったが1983年にアクロポリス博物館の維持運営を担う委員会が設立された<ref>[http://www.arcchip.cz/w09/w09_lambrinou.pdf Lina Lambrinou, "State of the Art: ‘Parthenon of Athens: A Challenge Throughout History"] (pdf file) with bibliography of interim conservation reports;</ref>。後に計画には[[欧州連合]]が資金的・技術的支援を提供した。考古学委員会はアクロポリスに残る文化遺跡を徹底的に記録し、建築家がコンピューターを導入して本来の位置を解析した。特に重要で壊れやすい彫刻類はアクロポリス博物館に移された。マーブルブロックを吊り上げるクレーンも、使用しない時には目立たないように屋根の勾配に沿って折り畳めるものが導入された。 修復作業を通じ、過去に行われた補修が適切さに欠けていたところも発見された。これらは取り除かれ、慎重に回復が行われている<ref>[http://cipa.icomos.org/fileadmin/papers/Athens2007/FP111.pdf "The Surface Conservation Project"]{{リンク切れ|date=2017年9月 |bot=InternetArchiveBot }} (pdf file). Once they had been conserved the West Frieze blocks were moved to the museum, and copies cast in artificial stone were reinstalled in their places.</ref>。ブロックの固定には腐食を防ぐために[[鉛]]のコーティングが施された[[鉄]]製のH型金具が元々は用いられていたが、19世紀の補修ではこのようなコーティングが為されなかったため[[錆]]など腐食によって金具が膨張し、大理石を割ってしまうなど損傷を拡大させていた<ref>{{cite web |title =Unlocking the Mysteries of the Parthenon |author=Hadingham, Evan |publisher= Smithsonian Magazine |date=2008年 |url=http://www.smithsonianmag.com/history-archaeology/parthenon.html |language=英語|accessdate=2008-02-22}}</ref>。そのため、金属製器具は強さと軽さを兼ね備え、腐食にも強い[[チタン]]が用いられるようになった<ref>{{Cite web|和書|url=http://material3.osawa.p.dendai.ac.jp/kougi/quize/QA_Ans1.html|language=日本語|title=材料常識?問題(初級編)回答|publisher=[[東京電機大学]]工学部機械工学科材料工学研究室|author=豊田政男|accessdate=2010-06-20}}</ref>。 パルテノン神殿を1687年以前の形に復元することは事実上難しいが、爆破による損傷はできるだけ軽減される。特にアテナイは地震が起こる地区であるため構造の欠陥を補強することや<ref>{{Cite journal|和書|author=青木真兵, 田中宏幸, 大城道則, 大城道則 |title=歴史的考察から得られるギリシア・パルテノン神殿の耐震性能低下の可能性とミュオグラフィによるその評価について |journal=駒沢史学 |ISSN=0450-6928 |publisher=駒沢史学会 |year=2014 |month=mar |issue=82 |pages=115-131 |naid=120006618042 |url=http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/33992/}}</ref>、円柱や楣石の欠けた箇所を大理石セメントで丁寧に埋めることが行われている。このように、大理石はかつてと同様にペンテリコン山から切り出されてほとんど全ての主要部分に用いられながら、必要に応じて近代的な材料が投入されつつ再建は行われている。 <gallery> File:Parthenon-uncorrected.jpg|補修作業、2008年 File:ParthenonRecon06185.jpg|構造安定性を高めるための作業(工事中)、2007年 File:ParthenonRepairDetail06163.JPG|補修中の箇所 |北側の補修図 </gallery> == 出典 == === 文献 === * {{cite book|author=栗原麻子 |series=奈良大学文学部世界遺産コース編|title=世界遺産と都市|chapter=2.ヨーロッパの都市 アテネ|date=2001年|publisher=風媒社|isbn=4-8331-4029-2|ref=栗原}} * {{cite book|author=佐藤達生|title=図説 西洋建築の歴史 美と空間の系譜|date=2005年|publisher=河出書房新社|isbn=4-309-76069-4|ref=佐藤}} * {{cite book|author=周藤芳幸、沢田典子|title=古代ギリシア遺跡事典|date=2004年|publisher=東京堂出版|isbn=4-490-10653-X|ref=周藤}} * {{cite book|last=Burkert|first=Walter|title=Greek Religion|date=1985年|publisher=ハーバード大学出版局|location= |isbn=0-674-36281-0}} * {{cite journal |last=Connelly |first=Joan B.|coauthors= |title=Parthenon and Parthenoi: A Mythological Interpretation of the Parthenon Frieze |journal=American Journal of Archaeology |volume=100 |issue=1 |page= 53|id= |url=http://links.jstor.org/sici?sici=0002-9114(199601)100%3A1%3C53%3APAPAMI%3E2.0.CO;2-C |accessdate=2007-04-23 |quote= |doi=10.2307/506297 |date=1996-01-01|ref=Connelly}} * {{cite book |last=Frazer |first= Sir James George|title=The Golden Bough: A Study in Magic and Religion|date=1998年|publisher=[[オックスフォード大学出版局]]|chapter=The King of the Woods|isbn=0-192-83541-6|ref=Frazer}} * {{cite book |last=Hurwit |first=Jeffrey M. |title=The Athenian Acropolis: History, Mythology, and Archeology from the Neolithic Era to the Present |date=2000年|publisher=ケンブリッジ大学出版局|location= |isbn=0-521-42834-3|ref=Hurwit}} * {{cite book |last=Hurwit |first=Jeffrey M. |title=Periklean Athens and Its Legacy: Problems and Perspectives|date=2005年|publisher=テキサス大学出版局|isbn=0-292-70622-7|editor=Judith M. Barringer, Jeffrey M. Hurwit, Jerome Jordan Pollitt|chapter=The Parthenon and the Tample of Zeus at Olympia}} * {{cite book |last=Neils|first=Jenifer|title=The Parthenon: From Antiquity to the Present|date=2005年|publisher=ケンブリッジ大学出版局|location= |isbn=0-521-82093-6}} * {{cite encyclopedia|title=Parthenon|encyclopedia=Encyclopaedia Britannica|date=2002年|ref=Britannica}} * {{cite book |last=Pelling|first=Christopher|title=Greek Tragedy and the Historian|date=1997年|publisher=オックスフォード大学出版局|chapter=Tragedy and Religion: Constructs and Readings |isbn=0-198-14987-5}} * {{cite book |last=Tarbell|first=F.B|title=A History of Ancient Greek Art|location=online|url=https://www.ellopos.net/elpenor/greek-texts/ancient-greece/history-of-ancient-greek-art-12.asp}} * {{cite book |last=Whitley|first=James|title=The Archaeology of Ancient Greece|date=2001年|publisher=ケンブリッジ大学出版局|chapter=The Archaeology of Democracy: Classical Athens|isbn=0-521-62733-8|ref=Whitley}} === オンライン資料 === * {{cite news |first= |last= |authorlink= |coauthors= |title= Greek Premier Says New Acropolis Museum to Boost Bid for Parthenon Sculptures |url=http://www.iht.com/articles/ap/2006/10/09/europe/EU_GEN_Greece_Acropolis_Museum.php|work= |publisher=International Herald Tribune|date=2006-10-09 |accessdate=2007-04-23}} * {{cite web |url=http://www.etymonline.com/index.php?term=Parthenon | title=Parthenon |accessdate=2007-05-05 |work= Online Etymology Dictionary|language=英語}} * {{cite news |first= |last= |authorlink= |coauthors= |title=Talks Due on Elgin Marbles Return |url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/6578661.stm |work= |publisher=BBC News |date=2007-04-21 |accessdate=2007-04-23}} * {{cite web|url=http://odysseus.culture.gr/h/3/eh351.jsp?obj_id=2384|title=Acropolis of Athens - History|accessdate=2007-05-04|author=Ioanna Venieri|work=Acropolis of Athens|publisher= {{lang|el|Οδυσσεύς}}|language=英語}} == 脚注 == {{Reflist|30em}} == 読書案内 == *Beard, Mary. ''The Parthenon''. Harvard University: 2003年. ISBN 0-674-01085-X. *Cosmopoulos, Michael (editor). ''The Parthenon and its Sculptures''. Cambridge University: 2004年. ISBN 0-521-83673-5. *{{cite book |last=Holtzman |first=Bernard|title=L'Acropole d'Athènes : Monuments, Cultes et Histoire du sanctuaire d'Athèna Polias|date=2003年|publisher=Picard|location= Paris|language=French|isbn=2-7084-0687-6}} *Papachatzis, Nikolaos D. ''Pausaniou Ellados Periegesis- Attika'' Athens, 1974年. *Titi, Catharine. ''The Parthenon Marbles and International Law''. Springer: 2023年 ISBN 978-3-031-26356-9 *Tournikio, Panayotis. ''Parthenon''. Abrams: 1996年. ISBN 0-8109-6314-0. *Traulos, Ioannis N. '' I Poleodomike ekselikses ton Athinon'' Athens, 1960年 ISBN 960-7254-01-5 *Woodford, Susan. ''The Parthenon''. Cambridge University: 1981年. ISBN 0-521-22629-5. *King, Dorothy "The Elgin Marbles" Hutchinson / Random House, January 2006年. ISBN 0-09-180013-7 *Queyrel, François [https://web.archive.org/web/20080929162206/http://www.editions-bartillat.fr/fiche-livre.asp?Clef=281 ''Le Parthénon, Un monument dans l'Histoire'']. Bartillat, 2008年. ISBN 978284100-435-5. == 関連項目 == [[File:Parthenon.at.Nashville.Tenenssee.01.jpg|thumb|right|150px|[[テネシー州]][[ナッシュビル]]の[[パルテノン神殿 (ナッシュビル)|パルテノン神殿]]]] * [[ギリシア建築]] * [[パルテノン多摩]] - [[東京都]][[多摩市]]にある多摩市立の文化施設の愛称。 * [[パルテノン神殿 (ナッシュビル)]] - [[テネシー州]][[ナッシュビル]]にパルテノンの復元がある。 * [[法隆寺]] – パルテノン神殿のエンタシス法にある柱の中央部分が太い構造は、[[日本]]の[[法隆寺]]回廊にある柱の設計にまで伝わっている<ref name="doshisya-u">{{Cite web|和書|url=http://www1.doshisha.ac.jp/~syamada/boston_hp/cul_history/theme/nishitani/museum%20of%20fine%20arts.html|language=日本語|title=ボストン美術館|author=|publisher=[[同志社大学]]文学部文化史学科 山田史郎研究室|accessdate=2010-06-20}}</ref>。 * [[VJA]] – 同グループの発行する[[クレジットカード]]のカードフェイスにパルテノン神殿が描かれている。 == 外部リンク == {{commons|Parthenon}} {{Wiktionary}} * [http://odysseus.culture.gr/h/2/eh251.jsp?obj_id=912 The Acropolis of Athens: The Parthenon] (official site with a schedule of its opening hours, tickets and contact information) * [http://www.yppo.gr/4/e40.jsp?obj_id=123 (Hellenic Ministry of Culture) The Acropolis Restoration Project] * [https://web.archive.org/web/20160622161447/http://www.metrum.org/key/athens/index.htm The Athenian Acropolis by Livio C. Stecchini] (Takes the heterodox view of the date of the proto-Parthenon, but a useful summary of the scholarship.) (Internet Archive) * [https://whc.unesco.org/en/list/404 UNESCO World Heritage Centre - Acropolis, Athens] * [http://www.nashville.gov/parthenon/index.htm Metropolitan Government of Nashville and Davidson County — The Parthenon] * [https://3dwarehouse.sketchup.com/model/8174b921338882e8816a3771436c8474/Parthenon Google Sketchup 3D Model of Parthenon (simplistic)] * [http://www.vgreece.com/index.php?entry=entry050714-163859 Parthenon virtual tour] Interactive 360° panoramas in high resolution. * [http://www.acropolisfriends.gr/index.php?lang=en The Friends of the Acropolis] * [http://people.hsc.edu/drjclassics/lectures/ParthenonMarbles/marbles.shtm Illustrated Parthenon Marbles] - Dr. Janice Siegel, Department of Classics, Hampden-Sydney College, Virginia * [http://travels.co.ua/engl/greece/athens/acropolis/parthenon/index.html Parthenon:description, photo album] * [[:File:Athens Acropolis Parthenon day.ogg|A Wikimedia video of the main sights of the Athenian Acropolis]] * {{Kotobank}} {{ギリシャの世界遺産}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はるてのんしんてん}} [[Category:アテーナー]] [[Category:古代ギリシアの神殿]] [[Category:ギリシャの世界遺産]] [[Category:宗教建築物の世界遺産]] [[Category:ヨーロッパの歴史的建築物|はるてのん]] [[Category:正教会の教会]] [[Category:廃墟]] [[Category:神の母マリアを記念する教会]] [[Category:ギリシャの考古遺跡|はるてのん]] [[Category:アテネの建築物|はるてのん]] [[Category:アテネの歴史|はるてのん]] [[Category:アテネの観光地|はるてのん]] [[Category:紀元前1千年紀の建築物]] [[Category:ペリクレス]]
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アクロポリス
アクロポリス(ギリシア語: ἀκρόπολις)とは、古代ギリシアのポリスのシンボルとなった小高い丘のこと。アクロポリスは「高いところ、城市」を意味し、防壁で固められた自然の丘に神殿や砦が築かれているのが普通である。 歴史王以下の諸王の居城であったと伝えられている。ポリス成立後は、神殿や有事の際の避難場としての機能を有する宗教的、軍事的中核として位置づけられるようになった。ポリス成立以前の王城は、都市国家のシンボルとしてのアクロポリスへとその姿を変えたのである。 また、ホメロスによる叙事詩『オデュッセイア』には、「魂のアクロポリス」「肉体のアクロポリス」といった比喩的表現をみることもできる。 なかでも有名なのがアテナイのアクロポリスである。ペルシア戦争時に木造建築のために全てが灰に帰したと伝えられているが、その後の石造建築による再建の結果、ペリクレスの時代に最も輝かしい時代を迎え、今日の私たちの知るアクロポリスが誕生した。 現在この丘には、古代ギリシア美術を代表する4つの傑作、パルテノン神殿、プロピュライア(神域の入り口の門)、エレクテイオン、アテナ・ニケ神殿がある。二千年の歴史を刻んだパルテノン神殿は、白色とも桃色ともつかない光の加減で変化する大理石の柱46本が青空を背景に荘厳な雰囲気を漂わせている。 これに対してスパルタのアクロポリスは低く目立たない丘で上に神殿が築かれ、ヘレニズム時代には南部の斜面に大劇場がつくられた。メガラのアクロポリスは双生児のように並ぶ二つの丘陵で、アルゴスでも大小二つの丘がアクロポリスとして固められた。コリントスのアクロポリスは、市の背後にそびえる「アクロコリントス」と呼ばれた巨大な丘で、頂上にはアフロディテ神殿などが建てられた。
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アクロポリスとは、古代ギリシアのポリスのシンボルとなった小高い丘のこと。アクロポリスは「高いところ、城市」を意味し、防壁で固められた自然の丘に神殿や砦が築かれているのが普通である。 歴史王以下の諸王の居城であったと伝えられている。ポリス成立後は、神殿や有事の際の避難場としての機能を有する宗教的、軍事的中核として位置づけられるようになった。ポリス成立以前の王城は、都市国家のシンボルとしてのアクロポリスへとその姿を変えたのである。 また、ホメロスによる叙事詩『オデュッセイア』には、「魂のアクロポリス」「肉体のアクロポリス」といった比喩的表現をみることもできる。
{{otheruses||選挙区|アクロポリス (選挙区)}} {{出典の明記|date=2019年10月}} [[ファイル:Attica 06-13 Athens 50 View from Philopappos - Acropolis Hill.jpg|thumb|[[アテナイのアクロポリス]]]] '''アクロポリス'''({{lang-el|ἀκρόπολις}})とは、[[古代ギリシア]]の[[ポリス]]のシンボルとなった小高い丘のこと。アクロポリスは「高いところ、城市」を意味し、防壁で固められた自然の丘に[[神殿]]や砦が築かれているのが普通である。 歴史王以下の諸王の居城であったと伝えられている。ポリス成立後は、神殿や有事の際の避難場としての機能を有する宗教的、軍事的中核として位置づけられるようになった。ポリス成立以前の王城は、都市国家のシンボルとしてのアクロポリスへとその姿を変えたのである。 また、ホメロスによる叙事詩『[[オデュッセイア]]』には、「魂のアクロポリス」「肉体のアクロポリス」といった比喩的表現をみることもできる。 == アテナイのアクロポリス == {{main|アテナイのアクロポリス}} [[ファイル:Attica 06-13 Athens 15 View from Acropolis Hill.jpg|thumb|アテナイのアクロポリス]] なかでも有名なのが'''[[アテナイのアクロポリス]]'''である。[[ペルシア戦争]]時に木造建築のために全てが灰に帰したと伝えられているが、その後の石造建築による再建の結果、[[ペリクレス]]の時代に最も輝かしい時代を迎え、今日の私たちの知るアクロポリスが誕生した。 現在この丘には、古代ギリシア[[美術]]を代表する4つの傑作、[[パルテノン神殿]]、[[プロピュライア]](神域の入り口の門)、[[エレクテイオン]]、[[アテナ・ニケ神殿]]がある。二千年の歴史を刻んだパルテノン神殿は、白色とも桃色ともつかない光の加減で変化する大理石の柱46本が青空を背景に荘厳な雰囲気を漂わせている。 == 各地のアクロポリス == [[ファイル:Akrokorinth Looking North.jpg|thumb|アクロコリントス]] これに対して[[スパルタ]]のアクロポリスは低く目立たない丘で上に神殿が築かれ、[[ヘレニズム]]時代には南部の斜面に大劇場がつくられた。[[メガラ]]のアクロポリスは双生児のように並ぶ二つの丘陵で、[[アルゴス (ギリシャ)|アルゴス]]でも大小二つの丘がアクロポリスとして固められた。[[コリントス]]のアクロポリスは、市の背後にそびえる「[[アクロコリントス]]」と呼ばれた巨大な丘で、頂上にはアフロディテ神殿などが建てられた。 == 関連項目 == * [[ギリシャ]] * [[アテナイ]] * [[アテーナー]] * [[アクロポリス・ラリー]] - 場所的にはスタートが[[パルテノン神殿]]付近となる。 == 外部リンク == {{Commons&cat|Ακρόπολη|Acropolis}} * [http://odysseus.culture.gr/h/3/eh351.jsp?obj_id=2384 The Acropolis of Athens] - ギリシャ政府サイト{{en icon}} * [https://web.archive.org/web/20050723233026/http://ysma.culture.gr/english/index.html The Acropolis Restoration Project] - ギリシャ政府サイト{{en icon}} {{ギリシャの建築}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あくろほりす}} [[Category:古代ギリシア都市]] [[Category:ギリシャの宗教施設]] [[Category:ギリシャの観光地]] [[Category:ギリシャの考古遺跡]]
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キャラクタ (コンピュータ)
キャラクタ (英: character) は、文字のことであるが、情報処理においては「文字コード」で表される「文字集合」という集合の要素(「元」)のことである。 コンピュータの情報交換においてテキストデータをやりとりする場合は、双方がそれに使用する文字集合を決めて通信を行う。キャラクタはその場合の最小単位である。 キャラクタは大きく分けて図形文字(グラフィックキャラクタ)と制御文字(コントロールキャラクタ)がある。図形文字が実際に画面に表示される文字であり、制御文字はその表示の仕方を制御する改行記号などや、それにとどまらずビープ音を発生させるものなどを含む。 図形文字には、言語学的な意味での文字記号(字母)以外に、約物類を含む。さらに、1つのキャラクタが1つの字母を表すとは限らない。文字コードにもよるが、「メートル」のような組文字のキャラクタは複数の字母からなり、逆に、「Å」のようなダイアクリティカルマーク付きアルファベットなどは複数のキャラクタで表されることもある。 キャラクタの符号化(文字符号化方式)に、バイト(この段落ではオクテットと同義)を当てるという標準を確立し広く普及したのはIBMが1964年4月に発表したメインフレームのSystem/360による(それ以前については#歴史の節を参照)。当初のアナウンスでは制定されたばかりのASCIIが採用されるはずだった。しかし、結果的には過去のしがらみを振り切ることができず、メインフレーム用としてはEBCDICが普及した。なお、一応System/360はモードを切り替えることはできる。 C言語およびC++での文字型の名前はcharだが、このcharはバイトやオクテットと等価ではない。C/C++のchar型の幅は<limits.h>/<climits>をインクルードすることで定義されるCHAR_BITSというマクロで示され、実際の数値は8ではなく9や16の可能性もある。なお、最低限必要とされている値の範囲の関係で8未満にはならない。sizeof(char)は常に1である。バイトは8ビットすなわちオクテットではない可能性もある。 幅を規定した整数型としてはC99およびC++11で追加されたint8_t/uint8_tおよびstd::int8_t/std::uint8_tがある。C++20ではUTF-8でエンコードされた文字を格納することを想定した符号なし文字型として、char8_tが規定されたが、8ビット幅であるとは限らない。 JavaやC#のcharは16ビットであり、内部表現はUTF-16と規定されている。 コンピュータの普及が米国に次いで早かった日本では、日常の生活や業務に漢字が必須であるため、256より多くのキャラクタを扱いたいという要求が強かった。そこで現れたのが、1つのキャラクタを複数のバイトで表すマルチバイト文字(MBC)である。特に初期には2バイトを使うものがほとんどであり、ダブルバイト文字(DBC)と言った。 また、米国以外の国や地域で、それぞれに必要な文字を追加した文字集合や文字コードを作ったため、多数の文字集合や文字コードが乱立する結果となった。Unicodeはその問題を解消し、文字集合を統一するために生まれた。 現在ではキャラクタとデータの関係は抽象化されている。キャラクタは整数値(通常非負整数)で表現され、その整数値から文字符号化方式によりバイト列が生成される。たとえばUnicodeではUnicodeスカラ値という値が、各キャラクタに付けられている。 初期(1940年代〜1960年代前半)のコンピュータにおける「キャラクタ」について述べる。 初期のコンピュータでは、入出力媒体として、コンピュータ以前から存在していた情報処理機械であるタビュレーティングマシン用のパンチカードや、テレタイプ電信網(テレックス)用の紙テープが使用されていた。そのため、それらにおける1カラム、または1列の5ビット〜7ビットのコードが1文字(1字)だった。 また、System/360より前のコンピュータは、使用する分野ごとに設計が違うのが通常で、主に科学技術計算用と事務処理用に分かれていた。それぞれの典型的な設計を示すと、科学技術計算用は40ビット前後のワード長で、ワードアドレッシングで、ワード単位の演算を得意とするワードマシンだった。これに対し、事務処理用は字(前述の紙テープなどの1文字)単位のアドレッシングか、4字あるいは6字を1ワードとしたワードアドレッシングで、字単位の処理を得意とするキャラクタマシンだった。 System/360により、バイトマシンが標準となった。 通常のラスタースキャン方式のディスプレイでは、表示する際に、ピクセル毎にその輝度を決定する必要がある。RAMが高価だった時代、コンピュータで使用したのは主にコマンドラインインターフェースであり、文字情報しか表示しないものにディスプレイ全面のピクセルに対応するRAM(VRAM)を用意するのはコストが合わなかった。そのため、ある一定の大きさ(8×8など)のドットマトリクスごとに1バイトの記憶領域を割り当てて、VRAMの容量を節約するキャラクタディスプレイが一般的だった。また、それに合わせたディスプレイコントローラーが使用された。現在のPC/AT互換機のチップセットにもこのような表示用の機能が残っており、BIOS画面等で使用しているものもある。 日本製パーソナルコンピュータの黎明期にも多くの機種は同様の構造を持っており、テキストVRAMの値を基準としてキャラクタディスプレイが行われていた。多くの場合、8×8ピクセルで構成されたパターンがあらかじめ定義されたキャラクタジェネレータROMを本体に持っており、大文字、小文字のアルファベット、数字、カタカナに加え、記号が定義された。記号の中には、4×4ピクセルのパターンを定義することで、それを配置することによって擬似的に図形等を表示し「セミグラフィックス」と呼称していた。記号部分については、機種によって様々であり、曜日の定義や、ゲームに使うようなキャラクター、トランプのスートなど様々なものがあり、ひらがなのパターンを持つ機種も存在する。 キャラクタディスプレイのみという制限を補完するため、テキストVRAMには、別途アトリビュート領域が設けられることが多く、表示色、背景色、ブリンク等の指定を、複数キャラクタ毎またはキャラクタ毎に指定することが可能になっていた。 各キャラクタ群のみの組み合わせて絵を書くことをアスキーアートと呼ぶことがある他、アトリビュートなどを併用したこれらのテキスト画面によって描かれた絵をキャラクターグラフィックと呼んだ。 MZ-700にはグラフィック用のVRAMはないものの、テキスト、背景の色をキャラクタ単位で指定できるため、これらを応用し、チェッカを用いたディザリングをはじめとする方法によって描画する試みもあった。 これらの手法は、解像度は低い反面、非力なCPUでもダイナミックな描画を実現できるというメリットもあった。 グラフィックスプレーンを持つことが可能になった時期には、文字の描画をサブプロセッサと、その周辺回路に持たせ、グラフィックスプレーンに直接描画するという実装もあった。その場合でもこのテキストVRAMに相当するエリアは存在しており、「文字コードのみ」でテキストを扱う手段は存在している。 これらの実装は、英語圏や、英数字のみを扱う場合には有用だったが、日本語を取り扱うには大きな制限となった。多くの機種では、グラフィックスプレーンに対し、漢字ROMを併用することでソフトウェアでROM内のパターンを描画していたが、ハードウェア的に拡張されたテキストプレーンを追加し、キャラクタディスプレイの形で漢字表示を実現している機種も存在する。 8ビット機では、X1turbo、MZ-2500。16ビット機ではPC-9801シリーズがこれらの仕組みを持っており、キャラクタとして漢字を取り扱うことでグラフィックスプレーンに描画するよりも高速に処理することが可能になっており、PC-9801シリーズが日本で普及した一因ともいわれている。 ただし、この実装では、画面に展開するフォントを本体に持っている必要があり、ROM、RAM等のメモリが高価な時代では、オプションであったり、JIS第1水準のみが実装されているケースもあり、その場合、本体に含まれないフォントについては正常に表示されないことになる。 キャラクタのパターンをROMではなくRAMに保存して書き換え可能にした機能をプログラマブル・キャラクタ・ジェネレータ (Programmable Character Generator: PCG) と称したメーカーもあった。初期のアーケード基板やファミリーコンピュータ等のゲーム機におけるタイリング背景も機能や実装としては近似するが、これらの場合はソフトウェアカートリッジなどとセットでROMに書き込まれたものを使用する形であることも多かった。 PCGはキャラクタ単位で管理されるため、定義されたデータを変更した場合、テキストVRAMに定義された表示されるキャラクタに反映されるため、点在する物を同時に書き換えることも可能である。これらを利用し、表示パターン側を再定義することによって、擬似的なスムーススクロールや多重スクロールや、波や、星、水、川の流れ、を表現したり、画面のワイプ処理などに利用することが可能である。 また、初代MSX規格やMZ-1500等ではテキスト画面を拡張する形でグラフィックス表示にも用いられており、前者は画面を三分割にし、画面上の上中下に相当する部分ごとに256種類のパターンと1ラインにつき2色、後者は1024個の定義パターンを任意に配置することでピクセルごとに8色の中から任意の色でのビットマップ表示を実現している。 X1ではピクセルごとに8色中任意の色で定義できるパターンを256種持つことができ、上記の機種とは異なりグラフィックスプレーンと重ねて表示することが可能であった。 尚、これらの実装ではパターン書き換えのタイミングには他の回路との調停もあり短時間にダイナミックな変更は難しい物となっていた。 フォントROMを使用した、ハードウェアによる文字表示を行っている表示系で、外字機能のために、一部の領域(たとえばPC-9801のある世代以降ではJISの86区と87区に相当する部分)が書き換え可能なRAMになっているものがあった。これも一種のPCGと言える。PC-9801では、文字を、グラフィックの上にスーパーインポーズのようにして表示できたため、ゲームなどでこれを使用しているものがあった。 文字(当記事における意味)に由来するのか、それともゲーム等のキャラクターに由来するのかは定かではないが、主に2Dのコンピュータゲームにおいて、キャラクター表示に用いられるスプライトや、タイル状に敷き詰められ背景表示に用いられるPCG・BGレイヤーなど、繰り返し表示機能向けに定義されたビットマップ画像をキャラクタもしくはパターンと呼ぶ。「スプライトパターン」や「BGパターン」、あるいはまとめて「キャラクタパターン」「グラフィックパターン」など。 また、パラパラマンガのようにアニメーションするよう描かれた一連の画像や表示シークエンスは「アニメーションパターン」と呼ばれる。典型的なアニメーションパターンは、俗に「爆発パターン」「やられパターン」などと呼ばれることがある。
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キャラクタ は、文字のことであるが、情報処理においては「文字コード」で表される「文字集合」という集合の要素(「元」)のことである。
{{複数の問題 |出典の明記=2020-09 |独自研究=2021-10 }} '''キャラクタ''' ({{lang-en-short|character}}) は、[[文字]]のことであるが、[[情報処理]]においては「[[文字コード]]」で表される「[[文字集合]]」という[[集合]]の要素(「[[元 (数学)|元]]」)のことである。 == 概要 == [[コンピュータ]]の[[通信|情報交換]]において[[プレーンテキスト|テキストデータ]]をやりとりする場合は、双方がそれに使用する[[文字集合]]を決めて通信を行う。キャラクタはその場合の最小単位である。 キャラクタは大きく分けて[[図形文字]](グラフィックキャラクタ)と[[制御文字]](コントロールキャラクタ)がある。図形文字が実際に画面に表示される文字であり、制御文字はその表示の仕方を制御する[[改行コード|改行記号]]などや、それにとどまらず[[ビープ音]]を発生させるものなどを含む。 図形文字には、[[言語学]]的な意味での文字記号(字母)以外に、[[約物]]類を含む。さらに、1つのキャラクタが1つの字母を表すとは限らない。[[文字コード]]にもよるが、「㍍」のような[[組文字]]のキャラクタは複数の字母からなり、逆に、「&Aring;」のような[[ダイアクリティカルマーク]]付き[[アルファベット]]などは複数のキャラクタで表されることもある。 == キャラクタとバイト == キャラクタの[[符号化方式|符号化]]([[文字符号化方式]])に、[[バイト (情報)|バイト]](この段落では[[オクテット (コンピュータ)|オクテット]]と同義)を当てるという標準を確立し広く普及したのはIBMが1964年4月に発表した[[メインフレーム]]の[[System/360]]による(それ以前については[[#歴史]]の節を参照)。当初のアナウンスでは制定されたばかりの[[ASCII]]が採用されるはずだった。しかし、結果的には過去のしがらみを振り切ることができず、メインフレーム用としては[[EBCDIC]]が普及した。なお、一応System/360はモードを切り替えることはできる。 [[C言語]]および[[C++]]での[[文字型]]の名前は<code>char</code>だが、この<code>char</code>はバイトやオクテットと等価ではない。C/C++の<code>char</code>型の幅は&lt;limits.h&gt;/&lt;climits&gt;をインクルードすることで定義される<code>CHAR_BITS</code>というマクロで示され、実際の数値は8ではなく9や16の可能性もある。なお、最低限必要とされている値の範囲の関係で8未満にはならない。<code>sizeof(char)</code>は常に1である。バイトは[[8ビット]]すなわちオクテットではない可能性もある。 幅を規定した[[整数型]]としては[[C99]]および[[C++11]]で追加された<code>int8_t</code>/<code>uint8_t</code>および<code>std::int8_t</code>/<code>std::uint8_t</code>がある。[[C++20]]では[[UTF-8]]でエンコードされた文字を格納することを想定した符号なし文字型として、<code>char8_t</code>が規定されたが、8ビット幅であるとは限らない<ref>[https://cpprefjp.github.io/lang/cpp20/char8_t.html UTF-8エンコーディングされた文字の型として`char8_t`を追加 - cpprefjp C++日本語リファレンス]</ref>。 [[Java]]や[[C Sharp|C#]]の<code>char</code>は[[16ビット]]であり、内部表現は[[UTF-16]]と規定されている<ref>[https://docs.oracle.com/javase/jp/8/docs/api/java/lang/Character.html Character (Java Platform SE 8 )]</ref><ref>[https://docs.microsoft.com/ja-jp/dotnet/standard/base-types/character-encoding-introduction .NET でのchar文字エンコードの概要 | Microsoft Docs]</ref>。 {{要出典範囲|date=2021-10|コンピュータの普及が米国に次いで早かった}}[[日本]]では、日常の生活や業務に[[漢字]]が必須であるため、256より多くのキャラクタを扱いたいという要求が強かった。そこで現れたのが、1つのキャラクタを複数のバイトで表す[[マルチバイト文字]](MBC)である。特に初期には2バイトを使うものがほとんどであり、ダブルバイト文字(DBC)と言った。 また、米国以外の国や地域で、それぞれに必要な文字を追加した文字集合や文字コードを作ったため、多数の文字集合や文字コードが乱立する結果となった。[[Unicode]]はその問題を解消し、文字集合を統一するために生まれた。 現在ではキャラクタとデータの関係は抽象化されている。キャラクタは[[整数]]値(通常非負整数)で表現され、その整数値から[[文字符号化方式]]によりバイト列が生成される。たとえばUnicodeではUnicodeスカラ値という値が、各キャラクタに付けられている。 == 歴史 == === 初期のコンピュータ === 初期(1940年代〜1960年代前半)のコンピュータにおける「キャラクタ」について述べる。 初期のコンピュータでは、入出力媒体として、コンピュータ以前から存在していた情報処理機械である[[タビュレーティングマシン]]用の[[パンチカード]]や、[[テレタイプ端末|テレタイプ]][[電信]]網([[テレックス]])用の[[紙テープ]]が使用されていた。そのため、それらにおける1カラム、または1列の5ビット〜7ビットのコードが1文字(1字)だった。 また、System/360より前のコンピュータは、使用する分野ごとに設計が違うのが通常で、主に科学技術計算用と事務処理用に分かれていた。それぞれの典型的な設計を示すと、科学技術計算用は40ビット前後のワード長で、ワードアドレッシングで、ワード単位の演算を得意とする[[ワードマシン]]だった。これに対し、事務処理用は字(前述の紙テープなどの1文字)単位のアドレッシングか、4字あるいは6字を1ワードとしたワードアドレッシングで、字単位の処理を得意とする'''[[キャラクタマシン]]'''だった。 System/360により、[[バイトマシン]]が標準となった。 === キャラクタディスプレイ === 通常の[[ラスタースキャン]]方式の[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]では、表示する際に、[[ピクセル]]毎にその輝度を決定する必要がある。[[Random Access Memory|RAM]]が高価だった時代、コンピュータで使用したのは主にコマンドラインインターフェースであり、文字情報しか表示しないものにディスプレイ全面のピクセルに対応するRAM([[VRAM]])を用意するのはコストが合わなかった。そのため、ある一定の大きさ(8×8など)のドットマトリクスごとに1バイトの記憶領域を割り当てて、VRAMの容量を節約する'''キャラクタディスプレイ'''が一般的だった。また、それに合わせたディスプレイコントローラーが使用された。現在の[[PC/AT互換機]]のチップセットにもこのような表示用の機能が残っており、[[Basic Input/Output System|BIOS]]画面等で使用しているものもある。 日本製パーソナルコンピュータの黎明期にも多くの機種は同様の構造を持っており、テキストVRAMの値を基準としてキャラクタディスプレイが行われていた。多くの場合、8×8ピクセルで構成されたパターンがあらかじめ定義されたキャラクタジェネレータROMを本体に持っており、大文字、小文字のアルファベット、数字、カタカナに加え、記号が定義された。記号の中には、4×4ピクセルのパターンを定義することで、それを配置することによって擬似的に図形等を表示し「セミグラフィックス」と呼称していた。記号部分については、機種によって様々であり、曜日の定義や、ゲームに使うようなキャラクター、トランプのスートなど様々なものがあり、ひらがなのパターンを持つ機種も存在する。 キャラクタディスプレイのみという制限を補完するため、テキストVRAMには、別途アトリビュート領域が設けられることが多く、表示色、背景色、ブリンク等の指定を、複数キャラクタ毎またはキャラクタ毎に指定することが可能になっていた。 各キャラクタ群のみの組み合わせて絵を書くことを[[アスキーアート]]と呼ぶことがある他、アトリビュートなどを併用したこれらのテキスト画面によって描かれた絵を[[キャラクターグラフィック]]と呼んだ。 [[MZ-700]]にはグラフィック用のVRAMはないものの、テキスト、背景の色をキャラクタ単位で指定できるため、これらを応用し、チェッカを用いたディザリングをはじめとする方法によって描画する試みもあった。 これらの手法は、解像度は低い反面、非力なCPUでもダイナミックな描画を実現できるというメリットもあった。 グラフィックスプレーンを持つことが可能になった時期には、文字の描画をサブプロセッサと、その周辺回路に持たせ、グラフィックスプレーンに直接描画するという実装もあった。その場合でもこのテキストVRAMに相当するエリアは存在しており、「文字コードのみ」でテキストを扱う手段は存在している。 これらの実装は、英語圏や、英数字のみを扱う場合には有用だったが、日本語を取り扱うには大きな制限となった。多くの機種では、グラフィックスプレーンに対し、[[漢字ROM]]を併用することでソフトウェアでROM内のパターンを描画していたが、ハードウェア的に拡張されたテキストプレーンを追加し、キャラクタディスプレイの形で漢字表示を実現している機種も存在する。 8ビット機では、[[X1turbo]]、[[MZ-2500]]。16ビット機では[[PC-9801]]シリーズがこれらの仕組みを持っており、キャラクタとして漢字を取り扱うことでグラフィックスプレーンに描画するよりも高速に処理することが可能になっており、[[PC-9801]]シリーズが日本で普及した一因ともいわれている。 ただし、この実装では、画面に展開するフォントを本体に持っている必要があり、ROM、RAM等のメモリが高価な時代では、オプションであったり、JIS第1水準のみが実装されているケースもあり、その場合、本体に含まれないフォントについては正常に表示されないことになる。 == PCG == キャラクタのパターンを[[Read Only Memory|ROM]]ではなく[[Random Access Memory|RAM]]に保存して書き換え可能にした機能を[[プログラマブル・キャラクタ・ジェネレータ]] (Programmable Character Generator: PCG) と称したメーカーもあった。初期のアーケード基板や[[ファミリーコンピュータ]]等のゲーム機におけるタイリング背景も機能や実装としては近似するが、これらの場合はソフトウェアカートリッジなどとセットでROMに書き込まれたものを使用する形であることも多かった。 PCGはキャラクタ単位で管理されるため、定義されたデータを変更した場合、テキストVRAMに定義された表示されるキャラクタに反映されるため、点在する物を同時に書き換えることも可能である。これらを利用し、表示パターン側を再定義することによって、擬似的なスムーススクロールや多重スクロールや、波や、星、水、川の流れ、を表現したり、画面のワイプ処理などに利用することが可能である。 また、[[MSX (初代規格)|初代MSX規格]]や[[MZ-1500]]等ではテキスト画面を拡張する形でグラフィックス表示にも用いられており、前者は画面を三分割にし、画面上の上中下に相当する部分ごとに256種類のパターンと1ラインにつき2色、後者は1024個の定義パターンを任意に配置することでピクセルごとに8色の中から任意の色での[[ビットマップ画像|ビットマップ]]表示を実現している。 [[X1 (コンピュータ)|X1]]ではピクセルごとに8色中任意の色で定義できるパターンを256種持つことができ、上記の機種とは異なりグラフィックスプレーンと重ねて表示することが可能であった。 尚、これらの実装ではパターン書き換えのタイミングには他の回路との調停もあり短時間にダイナミックな変更は難しい物となっていた。 フォントROMを使用した、ハードウェアによる文字表示を行っている表示系で、[[外字]]機能のために、一部の領域(たとえばPC-9801のある世代以降ではJISの86区と87区に相当する部分)が書き換え可能なRAMになっているものがあった。これも一種のPCGと言える。PC-9801では、文字を、グラフィックの上にスーパーインポーズのようにして表示できたため、ゲームなどでこれを使用しているものがあった。 == スプライト == 文字(当記事における意味)に由来するのか、それともゲーム等の[[キャラクター]]に由来するのかは定かではないが、主に[[2次元コンピュータグラフィックス|2D]]のコンピュータゲームにおいて、[[キャラクター]]表示に用いられる[[スプライト (映像技術)|スプライト]]や、タイル状に敷き詰められ背景表示に用いられる[[プログラマブル・キャラクタ・ジェネレータ|PCG]]・BGレイヤーなど、繰り返し表示機能向けに定義された[[ビットマップ画像]]をキャラクタもしくは[[パターン]]と呼ぶ。「スプライトパターン」や「BGパターン」、あるいはまとめて「キャラクタパターン」「グラフィックパターン」など。 また、[[パラパラマンガ]]のように[[アニメーション]]するよう描かれた一連の画像や表示[[シークエンス]]は「アニメーションパターン」と呼ばれる。典型的なアニメーションパターンは、俗に「爆発パターン」「やられパターン」などと呼ばれることがある。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[文字集合]] * [[文字コード]] ** [[ASCII]] ** [[Shift_JIS]] ** [[Unicode]] * [[文字列]] * [[ワイド文字]] {{Computer-stub}} {{grammatology-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:きやらくた}} [[Category:ハードウェア]] [[Category:データ型]] [[Category:コンピュータのユーザインタフェース]]
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ジブリール
ジブリール(アラビア語: جبريل Jibrīl、英語: Jibril、フランス語: Djibril)は、天使ガブリエルのアラビア語名。非アラビア語圏を含むイスラーム圏において、男性名としても用いられる。長母音を省略してジブリルとも。
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ジブリールは、天使ガブリエルのアラビア語名。非アラビア語圏を含むイスラーム圏において、男性名としても用いられる。長母音を省略してジブリルとも。
'''ジブリール'''({{lang-ar|جبريل}} {{lang|la|Jibrīl}}、{{lang-en|Jibril}}、{{lang-fr|Djibril}})は、[[天使]][[ガブリエル]]の[[アラビア語]]名。非アラビア語圏を含む[[イスラム世界|イスラーム圏]]において、男性名としても用いられる。長母音を省略して'''ジブリル'''とも。 == 実在の人物 == * [[マフムード・ジブリール]] - [[リビア]]の政治家。 * [[ジブリル・ジオップ・マンベティ]] - [[セネガル]]の映画監督。 * [[ジブリル・ウィルソン]] - [[シエラレオネ]]出身のアメリカンフットボール選手。 * [[ジブリル・シセ]] - [[フランス]]のサッカー選手。 == 架空の人物 == * アダルトゲーム『[[魔界天使ジブリール]]』の登場人物。 * テレビアニメ『[[機動戦士ガンダムSEED DESTINY]]』の登場人物。{{main|[[機動戦士ガンダムSEED DESTINYの登場人物#ロード・ジブリール]]}} * 小説・アニメ『[[ノーゲーム・ノーライフ]]』の登場人物(天翼種)。 * 小説『[[機巧少女は傷つかない]]』に登場する自動人形。 * 漫画『[[天使禁猟区]]』の登場人物(四大元素の一人である水の天使)。 * 小説『[[マージナル・オペレーション]]』の登場人物 == 関連項目 == * [[ガブリエル (曖昧さ回避)]] *{{prefix}} *{{intitle}} {{人名の曖昧さ回避}} {{DEFAULTSORT:しふりいる}} [[Category:アラビア語の男性名]] [[Category:アラビア語の姓]]
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スプライト (映像技術)
スプライト(英: sprite)は、主にビデオゲームで用いる、画面上の小さなキャラクタを高速に合成表示するための技術的な仕組みである。spriteは「妖精」の意味を持つ英語が由来となっている。 この機能は、通常の画面表示における映像の情報を記憶しているビデオRAMとは別に、多数の小さな画像を画面上の1ピクセル単位で任意の位置にハードウェアで合成して表示するものである。 背景となる画像やテキスト、複数のスプライトで任意の優先順位で重ね合わせて合成表示ができるようになっており、低価格帯の機種などでは単色であったりと、描画表現よりも動くパーツを表現するのに適した機能である。 これはアニメーションにおけるセル画の概念に近く、セル画に例えるなら背景の上にキャラクタの大きさに切ったセルを置いて、1コマ毎にキャラクタのセルを背景上で移動させながら動かしたり、別のセルに置き換えたりしていくというものである。 個々のスプライト画像は例えば32×32の正方形や32×64の長方形のような矩形だが、透過はピクセル単位で行なわれる。これにより、円形や三角形や星形など、任意の形状の図形を背景と合成できる。各スプライトは特定の透過色(抜き色、カラーキー、クロマキー)を持ち、透過色の指定されたピクセルは背景との合成時に描画されず、重ね合わせたときに背景が透けて見える。スプライトを別のスプライトに重ね合わせて透過表示することもできる。 メモリを節約するために、カラースプライトの画像には通例インデックスカラー形式が使われる。スプライト画像ごとにカラーパレットを持つことで、個々のスプライト画像のデータを削減しつつ、最終的に合成されて画面に表示される画像全体としての色数を増やすことができる(最大同時発色数はハードウェアにもよる)。 ビットマスクと論理演算を利用すれば、スプライトの画像と透過情報の画像(マスク画像)を分離することもできるが、メモリ消費量や合成描画時のメモリアクセス回数が増えるため一般的には使われない。 例えばゲーム上において主人公=プレーヤーがソリに乗るシーンを表現する場合、スプライトを使った映像表現では、座っている主人公が描かれたスプライトの下にソリのスプライトを重ね、ソリが動き出した際にソリや主人公を細かく上下・または左右に小さく動かすことで、主人公の乗ったソリが勢い良く疾走してガタガタと地面の凹凸によって振動する様子が表現できる。 主人公がソリからボートに乗り換える場合には、座っている主人公のスプライトの下にボートのスプライトを置くだけで済む。このように実際に表示されるデータそのものを書き換えるよりも遥かに軽い処理であり、表示そのものよりも動きという点において優れた表現力を発揮する。反面、特にラインバッファ方式の実装ではメモリの速度に横方向の同時表示の数は依存するため、そのキャラクタの大きさや数は、ハードウェアの設計に制限を受ける。スプライト機能が単色のハードウェアで複数色のキャラクターを表現する場合は、色別のキャラクタを複数重ね合わせることで対処する。 プログラム上においては、キャラクタを移動させるときは各スプライトの表示位置情報だけを変更すればよい。よってソフトウェアで画像の重ね合わせ処理などを行う必要がなく、CPUにかかる負荷、VRAMのバスに対する負荷、ソフトウェア開発(主にプログラマー)への負担が少なく、プログラムの品質も安定する。優先順位の指定により、奥行きも簡単に表現できる。これは前述の応用表現のように、特に幾つかの部品を別々または一緒に動かす事で動きとしての表現能力を向上させると共に、パーツ単位での合成が容易となり、総データ量の削減に寄与し、制作負荷の低減や少ない記憶容量の媒体でより表現力の豊かなゲームを提供できることにも繋がった。 初期にはアーケードゲームにて専用の電子回路を組んで実現されていた。次第に汎用化され、ファミコンなどのゲーム機、パーソナルコンピュータ(パソコン、PC)の一部(MSX、X68000、FM TOWNS)などで利用できるようになった。 その特性から、画面上で多数のキャラクタが同時に動く、シューティングゲームやレーシングゲームで重宝された。スプライト機能を搭載したハードウェアの場合、少ないCPUリソースでキャラクターを画面上で多数スムーズに動かせるため、CPU処理能力の低い時代におけるコンピュータでは滑らかな動きと速度を要求するゲームでその力を発揮した。スプライト機能を持たないハードウェアではCPU処理速度、VRAMの構造などから実現が難しいことであった。 ファミリーコンピュータ・MSX・X68000などで使われていた方式である。 モニターに出力する映像信号を生成する直前に、VRAMから読み出した、ビットマップあるいはキャラクタベースのグラフィック面のデータと、スプライトICより送られて来るスプライトのデータを、走査線1ライン分の容量のラインバッファ上で、合成処理する。 この方式のメリットは、グラフィックバスをほとんど消費せず、またキャラクタの合成処理に必要なワークRAMが少なくて済む、という点である。 しかし画面の走査と並行してスプライトを合成するために、そのスプライト用のバッファには高速なメモリを必要とし、横方向へ多数表示した場合、合成処理が追いつかず、間に合わなかったものは表示されないという状況になる。この際、通常は内部のインデックスが遅い(優先順位が低い)スプライトから表示が欠けていき、スプライトの数が増えれば増えるほど、1ライン内での合成処理のタイミングがシビアになる。この仕様を逆手に取り、合成処理の一部として使用しているソフトウェアも存在する。 これらの制限に対しては、特に最大表示個数に制約が多い家庭用ゲーム機など、多くのソフトウェア上では、表示するスプライトを選別してちらつかせながら表示することで、スプライト欠けを緩和していた。また、水平帰線期間内に制御可能なハードウェアでは、走査線判定、割り込みなどを使用して、実表示が終わったエリアのスプライトの位置情報をまだ走査されていない領域で利用することにより、仕様上の最大表示数を越えた画面表示を行なう「スプライトダブラー」などの処理も開発された(ラスタースクロールも参照)。 FM TOWNSや業務用ゲーム機などで使われていた方式である。広義では、3Dグラフィックス機能(ポリゴンとテクスチャマッピング)により疑似的に実現する方法も該当する。 日本の家庭用コンピュータでは、FM TOWNSで初めて採用された。発売当時の家庭用コンピュータで一般的だったスプライト機能の実装方式と異なるため、俗に「擬似スプライト」と呼ばれることがあった。3DOやセガサターンなどの第5世代以降、ゲーム機でも主流となっている。 原理は単純で、スプライトのみ描画するフレームバッファを2画面分確保する。そして1フレーム分のスプライトをオフスクリーンのフレームバッファに全て描画する。描画完了後に現在オフスクリーンのフレームバッファと、オンスクリーンのフレームバッファを切り替える。スプライトの描画が完了したフレームバッファは単なるビットマップグラフィックプレーンとして他のグラフィックプレーンと合成して出力される。これを繰り返す。 メリットはラインバッファ方式と異なり、横方向にスプライトを並べられる数に制限がない。スプライトICによるVRAMへの描画速度とVRAMの速度が向上すれば、リニアにスプライトの表示上限を向上させることができる。このためフレームバッファ式のスプライトは、ラインバッファ式を遥かに上回る最大表示個数を実現していることが多い。また基本的には、CPUが行うかスプライトICが行うかの違いを除けば、VRAMへビットマップデータを描き込むという点では同じであるため、スプライトに対する拡大縮小などの特殊効果の実装に無理がない。 デメリットはVRAMが大量に必要であり、またVRAMへのスプライトデータ(つまりビットマップデータ)の高速な描画能力も必要である。また1フレーム中に表示可能な枚数を越えて表示させようとすると表示バッファを切り換えるタイミングが2フレーム以降になり、この遅れによる表示のもたつきが発生する。なおフレームバッファ方式でも初期の実装(セガのシステム基板など)の場合は、垂直帰線期間に全てスプライトの転送が終わることを前提として1フレーム分しかバッファを設けず、スプライトレイヤの描画タイミングがなんらかの理由で遅延した場合は、優先順位が低いスプライトが丸ごと大量に消えたりする。 プログラミング技法そのものが、広告のキャッチコピーとして多用された時代は、上記ハードウェアスプライトに対して、ソフトウェアによる重ね合わせ、キャラクタ表示の高速処理をソフトウェアスプライトあるいは擬似スプライトと表現していた。必ずしもハードウェアスプライトの持つ特徴、優位性を包含するものではない。その後、Microsoft Windows(PC/AT互換機)等のハードウェアスプライトを持たない環境でもDirectDraw等のAPIを介して、同様の処理はフレームバッファに描画される形で擬似的に実現されている。 PCにおいてはハードウェアスプライトこそ淘汰されたものの、ソフトウェアによるものは依然としてポピュラーな技法である。背景とキャラクターの分離によるデータの削減が可能なため、ノベルゲームのような動きの少ないケースでも重要である。インターネットでもAjaxの普及とカスケーディングスタイルシートの強化などにより、従来はアニメーションGIFやAdobe Flashで実現されていたウェブサイトの動的なアクセントなどに活用されている。 上記のような描画の仕組みを持たないPlayStation等でも、グラフィックスハードウェア上に実装された3Dジオメトリエンジンの持つテクスチャマッピングおよびラスタライザの機能を応用し、正面を向いた四角形のポリゴン(ビルボード)を使った処理によって同様のスプライト機能を実現している。ソフトウェア開発キット(SDK)やミドルウェアなどに用意されたライブラリによって提供されていることもある。汎用PCおよびモバイルデバイス上で動作するアプリケーションソフトウェアであっても同様に、Direct3DやOpenGL/OpenGL ESなどの3DグラフィックスAPIを経由して、GPUの機能による合成やエフェクトなどを使用して近似実装されたスプライトが利用されている。 GPUのようなグラフィックスプロセッサでは、ポリゴン頂点またはテクスチャの持つ透過情報を利用して、アルファブレンドをハードウェアで実行することができる。頂点カラーやテクスチャには24ビットのRGB色情報と8ビットの透過情報(アルファチャンネル)を持つRGBA32形式が使われることが多く、頂点ごとあるいはピクセルごとに256段階(0-255)の透過レベルを持たせることができるため、スプライトの透明度を徐々に変化させるフェード表現や、画像の縁がアンチエイリアスされたなめらかな合成などが可能である。 Direct3D (DirectX) 8/9やOpenGL 2.xでは、ポイントスプライトの機能が用意されている。これは、「点」図形の描画に使用されるポイントプリミティブに対してサイズとテクスチャとブレンディングステートを指定することで、テクスチャマッピングされた2つの三角形面による四辺形を自動的に描画するものであり、この機能を使用するとスプライトを簡単に描画できる。Direct3D 10ではこの機能が廃止され、代わりにジオメトリシェーダーを使用することが推奨されている。 スプライトを大量に描画する場合、個別に描画していてはドローコールやレンダリングステート変更のオーバーヘッドが大きい。Direct3D 9/10の拡張ライブラリ(D3DX)では、複数のスプライト描画コマンドをいったんキューイングしておき、まとめてバッチ処理する機能が提供されていた。
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"モニターに出力する映像信号を生成する直前に、VRAMから読み出した、ビットマップあるいはキャラクタベースのグラフィック面のデータと、スプライトICより送られて来るスプライトのデータを、走査線1ライン分の容量のラインバッファ上で、合成処理する。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "この方式のメリットは、グラフィックバスをほとんど消費せず、またキャラクタの合成処理に必要なワークRAMが少なくて済む、という点である。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "しかし画面の走査と並行してスプライトを合成するために、そのスプライト用のバッファには高速なメモリを必要とし、横方向へ多数表示した場合、合成処理が追いつかず、間に合わなかったものは表示されないという状況になる。この際、通常は内部のインデックスが遅い(優先順位が低い)スプライトから表示が欠けていき、スプライトの数が増えれば増えるほど、1ライン内での合成処理のタイミングがシビアになる。この仕様を逆手に取り、合成処理の一部として使用しているソフトウェアも存在する。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "これらの制限に対しては、特に最大表示個数に制約が多い家庭用ゲーム機など、多くのソフトウェア上では、表示するスプライトを選別してちらつかせながら表示することで、スプライト欠けを緩和していた。また、水平帰線期間内に制御可能なハードウェアでは、走査線判定、割り込みなどを使用して、実表示が終わったエリアのスプライトの位置情報をまだ走査されていない領域で利用することにより、仕様上の最大表示数を越えた画面表示を行なう「スプライトダブラー」などの処理も開発された(ラスタースクロールも参照)。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "FM TOWNSや業務用ゲーム機などで使われていた方式である。広義では、3Dグラフィックス機能(ポリゴンとテクスチャマッピング)により疑似的に実現する方法も該当する。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "日本の家庭用コンピュータでは、FM TOWNSで初めて採用された。発売当時の家庭用コンピュータで一般的だったスプライト機能の実装方式と異なるため、俗に「擬似スプライト」と呼ばれることがあった。3DOやセガサターンなどの第5世代以降、ゲーム機でも主流となっている。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "原理は単純で、スプライトのみ描画するフレームバッファを2画面分確保する。そして1フレーム分のスプライトをオフスクリーンのフレームバッファに全て描画する。描画完了後に現在オフスクリーンのフレームバッファと、オンスクリーンのフレームバッファを切り替える。スプライトの描画が完了したフレームバッファは単なるビットマップグラフィックプレーンとして他のグラフィックプレーンと合成して出力される。これを繰り返す。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "メリットはラインバッファ方式と異なり、横方向にスプライトを並べられる数に制限がない。スプライトICによるVRAMへの描画速度とVRAMの速度が向上すれば、リニアにスプライトの表示上限を向上させることができる。このためフレームバッファ式のスプライトは、ラインバッファ式を遥かに上回る最大表示個数を実現していることが多い。また基本的には、CPUが行うかスプライトICが行うかの違いを除けば、VRAMへビットマップデータを描き込むという点では同じであるため、スプライトに対する拡大縮小などの特殊効果の実装に無理がない。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "デメリットはVRAMが大量に必要であり、またVRAMへのスプライトデータ(つまりビットマップデータ)の高速な描画能力も必要である。また1フレーム中に表示可能な枚数を越えて表示させようとすると表示バッファを切り換えるタイミングが2フレーム以降になり、この遅れによる表示のもたつきが発生する。なおフレームバッファ方式でも初期の実装(セガのシステム基板など)の場合は、垂直帰線期間に全てスプライトの転送が終わることを前提として1フレーム分しかバッファを設けず、スプライトレイヤの描画タイミングがなんらかの理由で遅延した場合は、優先順位が低いスプライトが丸ごと大量に消えたりする。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "プログラミング技法そのものが、広告のキャッチコピーとして多用された時代は、上記ハードウェアスプライトに対して、ソフトウェアによる重ね合わせ、キャラクタ表示の高速処理をソフトウェアスプライトあるいは擬似スプライトと表現していた。必ずしもハードウェアスプライトの持つ特徴、優位性を包含するものではない。その後、Microsoft Windows(PC/AT互換機)等のハードウェアスプライトを持たない環境でもDirectDraw等のAPIを介して、同様の処理はフレームバッファに描画される形で擬似的に実現されている。", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "PCにおいてはハードウェアスプライトこそ淘汰されたものの、ソフトウェアによるものは依然としてポピュラーな技法である。背景とキャラクターの分離によるデータの削減が可能なため、ノベルゲームのような動きの少ないケースでも重要である。インターネットでもAjaxの普及とカスケーディングスタイルシートの強化などにより、従来はアニメーションGIFやAdobe Flashで実現されていたウェブサイトの動的なアクセントなどに活用されている。", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "上記のような描画の仕組みを持たないPlayStation等でも、グラフィックスハードウェア上に実装された3Dジオメトリエンジンの持つテクスチャマッピングおよびラスタライザの機能を応用し、正面を向いた四角形のポリゴン(ビルボード)を使った処理によって同様のスプライト機能を実現している。ソフトウェア開発キット(SDK)やミドルウェアなどに用意されたライブラリによって提供されていることもある。汎用PCおよびモバイルデバイス上で動作するアプリケーションソフトウェアであっても同様に、Direct3DやOpenGL/OpenGL ESなどの3DグラフィックスAPIを経由して、GPUの機能による合成やエフェクトなどを使用して近似実装されたスプライトが利用されている。", "title": "3Dグラフィックス機能を使用した実装" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "GPUのようなグラフィックスプロセッサでは、ポリゴン頂点またはテクスチャの持つ透過情報を利用して、アルファブレンドをハードウェアで実行することができる。頂点カラーやテクスチャには24ビットのRGB色情報と8ビットの透過情報(アルファチャンネル)を持つRGBA32形式が使われることが多く、頂点ごとあるいはピクセルごとに256段階(0-255)の透過レベルを持たせることができるため、スプライトの透明度を徐々に変化させるフェード表現や、画像の縁がアンチエイリアスされたなめらかな合成などが可能である。", "title": "3Dグラフィックス機能を使用した実装" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "Direct3D (DirectX) 8/9やOpenGL 2.xでは、ポイントスプライトの機能が用意されている。これは、「点」図形の描画に使用されるポイントプリミティブに対してサイズとテクスチャとブレンディングステートを指定することで、テクスチャマッピングされた2つの三角形面による四辺形を自動的に描画するものであり、この機能を使用するとスプライトを簡単に描画できる。Direct3D 10ではこの機能が廃止され、代わりにジオメトリシェーダーを使用することが推奨されている。", "title": 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スプライトは、主にビデオゲームで用いる、画面上の小さなキャラクタを高速に合成表示するための技術的な仕組みである。spriteは「妖精」の意味を持つ英語が由来となっている。
{{複数の問題 |出典の明記=2015-05 |独自研究=2023-07 }} '''スプライト'''({{Lang-en-short|sprite}})は、主に[[コンピュータゲーム|ビデオゲーム]]で用いる、画面上の小さなキャラクタを高速に合成表示するための技術的な仕組みである。{{lang|en|sprite}}は「妖精」の意味を持つ英語が由来となっている。 ==概要== この機能は、通常の画面表示における映像の情報を記憶している[[ビデオRAM]]とは別に、多数の小さな画像を画面上の1[[ピクセル]]単位で任意の位置に[[ハードウェア]]で合成して表示するものである。 背景となる画像やテキスト、複数のスプライトで任意の優先順位で重ね合わせて合成表示ができるようになっており、低価格帯の機種などでは単色であったりと、描画表現よりも動くパーツを表現するのに適した機能である。 これは[[アニメーション]]における[[セル画]]の概念に近く、セル画に例えるなら背景の上にキャラクタの大きさに切ったセルを置いて、1コマ毎にキャラクタのセルを背景上で移動させながら動かしたり、別のセルに置き換えたりしていくというものである。 個々のスプライト画像は例えば32×32の正方形や32×64の長方形のような矩形だが、透過はピクセル単位で行なわれる。これにより、円形や三角形や星形など、任意の形状の図形を背景と合成できる。各スプライトは特定の透過色(抜き色、カラーキー、[[クロマキー]])を持ち、透過色の指定されたピクセルは背景との合成時に描画されず、重ね合わせたときに背景が透けて見える。スプライトを別のスプライトに重ね合わせて透過表示することもできる。 メモリを節約するために、カラースプライトの画像には通例[[インデックスカラー]]形式が使われる。スプライト画像ごとにカラーパレットを持つことで、個々のスプライト画像のデータを削減しつつ、最終的に合成されて画面に表示される画像全体としての色数を増やすことができる(最大同時発色数はハードウェアにもよる)。 [[マスク (情報工学)|ビットマスク]]と論理演算を利用すれば、スプライトの画像と透過情報の画像(マスク画像)を分離することもできる{{efn|例えば[[Microsoft Windows]]の[[Graphics Device Interface|GDI]]における<code>BitBlt()</code>([[Bit Block Transfer]])関数では、画像データの転送に使用するラスターオペレーションコードを駆使することで、フルカラーのスプライトをソフトウェア実装することもできる<ref>[https://learn.microsoft.com/en-us/windows/win32/api/wingdi/nf-wingdi-bitblt BitBlt function (wingdi.h) - Win32 apps | Microsoft Learn]</ref>。}}が、メモリ消費量や合成描画時のメモリアクセス回数が増えるため一般的には使われない。 ===応用表現=== 例えばゲーム上において主人公=プレーヤーがソリに乗るシーンを表現する場合、スプライトを使った映像表現では、座っている主人公が描かれたスプライトの下にソリのスプライトを重ね、ソリが動き出した際にソリや主人公を細かく上下・または左右に小さく動かすことで、主人公の乗ったソリが勢い良く疾走してガタガタと地面の凹凸によって振動する様子が表現できる。 主人公がソリからボートに乗り換える場合には、座っている主人公のスプライトの下にボートのスプライトを置くだけで済む。このように実際に表示されるデータそのものを書き換えるよりも遥かに軽い処理であり、表示そのものよりも動きという点において優れた表現力を発揮する。反面、特にラインバッファ方式の実装ではメモリの速度に横方向の同時表示の数は依存するため、そのキャラクタの大きさや数は、ハードウェアの設計に制限を受ける。スプライト機能が単色のハードウェアで複数色のキャラクターを表現する場合は、色別のキャラクタを複数重ね合わせることで対処する。 ==プログラミング上における利点== プログラム上においては、キャラクタを移動させるときは各スプライトの表示位置情報だけを変更すればよい。よってソフトウェアで画像の重ね合わせ処理などを行う必要がなく、CPUにかかる負荷、VRAMのバスに対する負荷、ソフトウェア開発(主にプログラマー)への負担が少なく、プログラムの品質も安定する。優先順位の指定により、奥行きも簡単に表現できる。これは前述の応用表現のように、特に幾つかの部品を別々または一緒に動かす事で動きとしての表現能力を向上させると共に、パーツ単位での合成が容易となり、総データ量の削減に寄与し、制作負荷の低減や少ない記憶容量の媒体でより表現力の豊かなゲームを提供できることにも繋がった。 ==ハードウェア== 初期には[[アーケードゲーム]]にて専用の電子回路を組んで実現されていた。次第に汎用化され、[[ファミリーコンピュータ|ファミコン]]などの[[ゲーム機]]、[[パーソナルコンピュータ]](パソコン、PC)の一部([[MSX]]、[[X68000]]、[[FM TOWNS]])などで利用できるようになった。 その特性から、画面上で多数のキャラクタが同時に動く、[[シューティングゲーム]]や[[レースゲーム|レーシングゲーム]]で重宝された。スプライト機能を搭載したハードウェアの場合、少ない[[CPU]]リソースでキャラクターを画面上で多数スムーズに動かせるため、CPU処理能力の低い時代におけるコンピュータでは滑らかな動きと速度を要求するゲームでその力を発揮した。スプライト機能を持たないハードウェアではCPU処理速度、VRAMの構造などから実現が難しいことであった。 ===ラインバッファ方式=== [[ファミリーコンピュータ]]・[[MSX]]・[[X68000]]などで使われていた方式である。 モニターに出力する映像信号を生成する直前に、VRAMから読み出した、ビットマップあるいはキャラクタベースのグラフィック面のデータと、スプライトICより送られて来るスプライトのデータを、走査線1ライン分の容量の[[VRAM#ラインバッファ|ラインバッファ]]上で、合成処理する<ref>[https://www.4gamer.net/games/999/G999902/20221228047/ Oh!X関係者が語る,あのころのX68000。「X68000 Z」のローンチを記念して,かつての関係者にあれこれ話してもらおう]</ref>。 この方式のメリットは、グラフィックバスをほとんど消費せず、またキャラクタの合成処理に必要なワークRAMが少なくて済む、という点である。 しかし画面の走査と並行してスプライトを合成するために、そのスプライト用のバッファには高速なメモリを必要とし、横方向へ多数表示した場合、合成処理が追いつかず、間に合わなかったものは表示されないという状況になる。この際、通常は内部のインデックスが遅い(優先順位が低い)スプライトから表示が欠けていき、スプライトの数が増えれば増えるほど、1ライン内での合成処理のタイミングがシビアになる。この仕様を逆手に取り、合成処理の一部として使用しているソフトウェア{{efn|ファミコン版『[[ドラゴンクエストIV 導かれし者たち]]』における出航シーン等。}}も存在する。 これらの制限に対しては、特に最大表示個数に制約が多い家庭用ゲーム機など、多くのソフトウェア上では、表示するスプライトを選別してちらつかせながら表示することで、スプライト欠けを緩和していた。また、水平帰線期間内に制御可能なハードウェアでは、走査線判定、割り込みなどを使用して、実表示が終わったエリアのスプライトの位置情報をまだ走査されていない領域で利用することにより、仕様上の最大表示数を越えた画面表示を行なう「スプライトダブラー」などの処理も開発された([[ラスタースクロール]]も参照)。 ===フレームバッファ方式=== [[FM TOWNS]]や業務用ゲーム機などで使われていた方式である。広義では、3Dグラフィックス機能([[ポリゴン]]と[[テクスチャマッピング]])により疑似的に実現する方法も該当する。 日本の家庭用コンピュータでは、FM TOWNSで初めて採用された。発売当時の家庭用コンピュータで一般的だったスプライト機能の実装方式と異なるため、俗に「擬似スプライト」と呼ばれることがあった<ref>『[[Oh!FM|Oh!FM TOWNS]]』1993年9月号 p.64</ref>。[[3DO]]や[[セガサターン]]などの第5世代以降、ゲーム機でも主流となっている。 原理は単純で、スプライトのみ描画するフレームバッファを2画面分確保する。そして1フレーム分のスプライトをオフスクリーンの[[VRAM#フレームバッファ|フレームバッファ]]に全て描画する。描画完了後に現在オフスクリーンのフレームバッファと、オンスクリーンのフレームバッファを切り替える。スプライトの描画が完了したフレームバッファは単なるビットマップグラフィックプレーンとして他のグラフィックプレーンと合成して出力される。これを繰り返す。 メリットはラインバッファ方式と異なり、横方向にスプライトを並べられる数に制限がない。スプライトICによるVRAMへの描画速度とVRAMの速度が向上すれば、リニアにスプライトの表示上限を向上させることができる。このためフレームバッファ式のスプライトは、ラインバッファ式を遥かに上回る最大表示個数を実現していることが多い。また基本的には、CPUが行うかスプライトICが行うかの違いを除けば、VRAMへビットマップデータを描き込むという点では同じであるため、スプライトに対する拡大縮小などの特殊効果の実装に無理がない。 デメリットはVRAMが大量に必要であり、またVRAMへのスプライトデータ(つまりビットマップデータ)の高速な描画能力も必要である。また1フレーム中に表示可能な枚数を越えて表示させようとすると表示バッファを切り換えるタイミングが2フレーム以降になり、この遅れによる表示のもたつきが発生する。なおフレームバッファ方式でも初期の実装(セガのシステム基板など)の場合は、垂直帰線期間に全てスプライトの転送が終わることを前提として1フレーム分しかバッファを設けず、スプライトレイヤの描画タイミングがなんらかの理由で遅延した場合は、優先順位が低いスプライトが丸ごと大量に消えたりする。 ==ソフトウェア== プログラミング技法そのものが、広告のキャッチコピーとして多用された時代は、上記ハードウェアスプライトに対して、ソフトウェアによる重ね合わせ、キャラクタ表示の高速処理をソフトウェアスプライトあるいは擬似スプライトと表現していた。必ずしもハードウェアスプライトの持つ特徴、優位性を包含するものではない。その後、[[Microsoft Windows]]([[PC/AT互換機]])等のハードウェアスプライトを持たない環境でも[[DirectDraw]]等のAPIを介して、同様の処理はフレームバッファに描画される形で擬似的に実現されている。 PCにおいてはハードウェアスプライトこそ淘汰されたものの、ソフトウェアによるものは依然としてポピュラーな技法である。背景とキャラクターの分離によるデータの削減が可能なため、[[ビジュアルノベル|ノベルゲーム]]のような動きの少ないケースでも重要である。[[インターネット]]でも[[Ajax]]の普及と[[カスケーディングスタイルシート]]の強化などにより、従来は[[アニメーションGIF]]や[[Adobe Flash]]で実現されていた[[ウェブサイト]]の動的なアクセントなどに活用されている。 ==3Dグラフィックス機能を使用した実装== 上記のような描画の仕組みを持たない[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]等でも、グラフィックスハードウェア上に実装された3Dジオメトリエンジンの持つ[[テクスチャマッピング]]およびラスタライザの機能を応用し、正面を向いた[[四角形]]の[[ポリゴン]](ビルボード)を使った処理によって同様のスプライト機能を実現している。[[ソフトウェア開発キット]](SDK)や[[ミドルウェア]]などに用意されたライブラリによって提供されていることもある。汎用PCおよびモバイルデバイス上で動作する[[アプリケーションソフトウェア]]であっても同様に、[[Direct3D]]や[[OpenGL]]/[[OpenGL ES]]などの3DグラフィックスAPIを経由して、[[Graphics Processing Unit|GPU]]の機能による合成やエフェクトなどを使用して近似実装されたスプライトが利用されている。 GPUのようなグラフィックスプロセッサでは、ポリゴン頂点またはテクスチャの持つ透過情報を利用して、[[アルファブレンド]]をハードウェアで実行することができる。頂点カラーやテクスチャには24ビットのRGB色情報と8ビットの透過情報([[アルファチャンネル]])を持つRGBA32形式が使われることが多く、頂点ごとあるいはピクセルごとに256段階(0-255)の透過レベルを持たせることができるため、スプライトの透明度を徐々に変化させるフェード表現や、画像の縁が[[アンチエイリアス]]されたなめらかな合成などが可能である。 Direct3D ([[DirectX]]) 8/9やOpenGL 2.xでは、ポイントスプライトの機能が用意されている。これは、「点」図形の描画に使用されるポイントプリミティブに対してサイズとテクスチャとブレンディングステートを指定することで、テクスチャマッピングされた2つの三角形面による四辺形を自動的に描画するものであり、この機能を使用するとスプライトを簡単に描画できる<ref>[https://learn.microsoft.com/en-us/windows-hardware/drivers/display/point-sprites Point Sprites - Windows drivers | Microsoft Learn]</ref>。Direct3D 10ではこの機能が廃止され、代わりにジオメトリシェーダーを使用することが推奨されている<ref>[https://learn.microsoft.com/en-us/windows/win32/direct3d10/d3d10-graphics-programming-guide-api-features-deprecated Deprecated Features (Direct3D 10) - Win32 apps | Microsoft Learn]</ref>。 スプライトを大量に描画する場合、個別に描画していてはドローコールやレンダリングステート変更のオーバーヘッドが大きい。Direct3D 9/10の拡張ライブラリ(D3DX)では、複数のスプライト描画コマンドをいったんキューイングしておき、まとめてバッチ処理する機能が提供されていた<ref>[https://learn.microsoft.com/en-us/windows/win32/direct3d9/id3dxsprite ID3DXSprite interface (D3dx9core.h) - Win32 apps | Microsoft Learn]</ref><ref>[https://learn.microsoft.com/en-us/windows/win32/direct3d10/id3dx10sprite ID3DX10Sprite interface (D3DX10.h) - Win32 apps | Microsoft Learn]</ref>。 == 脚注 == === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{reflist}} ==関連項目== *[[マスク (情報工学)]] {{DEFAULTSORT:すふらいと}} [[Category:コンピュータゲームの技術]] [[Category:ハードウェア]] [[Category:画像処理]]
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ファームウェア
ファームウェア(英: firmware)とは、電子機器に組み込まれたコンピュータシステム(ハードウェア)を制御するためのソフトウェアで、ソフトウェアをROM等の集積回路にあらかじめ書き込まれた状態で、機器に組み込んだもの。また、ソフトウェアではなく、プログラマブルロジックデバイスで利用する回路情報も広義のファームウェアと呼ぶことがある。 ファームウェアとは、家電製品や、パソコン、周辺機器、携帯電話などのように、コンピュータシステムを組み込んだ電子機器本体(組み込みシステム)に所望の動作をさせるためのソフトウェアであり、ハードウェアに密接に結びついていて、むやみに書き換えることのない媒体に書き込まれた物を言う。一般的なソフトウェアよりハードウェア寄りのソフトウェアということで、ファーム(堅い、固定した)という呼び方をしている。 なおファームウェアには、機器に使用しているCPU自体の動作を決定するためのマイクロコードを含んでいる場合もある。 ファームウェアを作成するにあたっては、限られたハードウェア資源で必要とするパフォーマンスを得るため、当初はアセンブリ言語などの低級言語で開発することが多かった。しかし、組み込み用CPUの高速化と、記録媒体である半導体メモリ価格の大幅な下落と大容量化により、C言語などのより高級な言語が使用できるようになった。 さらに従来のように動作に関わるものすべてを一からコーディングするという手法だけでなく、複雑な処理を行うシステムではオペレーティングシステムも含む全てのソフトウェアを機器に組み込んで、開発の効率化と高機能化を図る例も増えている。 ファームウェアは、一般にROMタイプのメモリ素子に書き込む形で機器に組み込みを行う。低コストの機器では、マイクロコントローラに内蔵されたROMを使用し、より高機能のものでは独立したメモリ素子を用意してそれに書き込みを行う。 特に低コストで大量に製造される製品の場合は、マスクROMを内蔵したマイクロコントローラを使用するので、出荷後に書き換えることは不可能である。交換可能なUV-EPROMなどを装備した機器であっても、出荷後にアップデートするにはROM交換などの処置に莫大なコストがかかるため、通常のソフトウェア開発より非常に高い水準の完全性が求められる。 しかし、フラッシュメモリの登場により、筐体のふたを開けなくてもユーザの手元で電子的な操作のみで書き替えが行えるISP(イン・システム・プログラミング)ができるようになり、出荷後のアップデートが以前よりも比較的容易に行えるようになった。
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ファームウェアとは、電子機器に組み込まれたコンピュータシステム(ハードウェア)を制御するためのソフトウェアで、ソフトウェアをROM等の集積回路にあらかじめ書き込まれた状態で、機器に組み込んだもの。また、ソフトウェアではなく、プログラマブルロジックデバイスで利用する回路情報も広義のファームウェアと呼ぶことがある。
'''ファームウェア'''({{lang-en-short|firmware}})とは、[[電子機器]]に組み込まれた[[コンピュータシステム]]([[ハードウェア]])を制御するための[[ソフトウェア]]で、ソフトウェアを[[Read Only Memory|ROM]]等の[[集積回路]]にあらかじめ書き込まれた状態で、機器に組み込んだもの。また、ソフトウェアではなく、[[プログラマブルロジックデバイス]]で利用する回路情報も広義のファームウェアと呼ぶことがある。 ==概要== ファームウェアとは、[[家電機器|家電製品]]や、[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]、[[周辺機器]]、[[携帯電話]]などのように、コンピュータシステムを組み込んだ電子機器本体([[組み込みシステム]])に所望の動作をさせるための[[ソフトウェア]]であり、ハードウェアに密接に結びついていて、むやみに書き換えることのない媒体に書き込まれた物を言う。一般的なソフトウェアよりハードウェア寄りのソフトウェアということで、ファーム(堅い、固定した)という呼び方をしている。 なおファームウェアには、機器に使用している[[CPU]]自体の動作を決定するための[[マイクロコード]]を含んでいる場合もある。 ファームウェアを作成するにあたっては、限られたハードウェア資源で必要とするパフォーマンスを得るため、当初は[[アセンブリ言語]]などの[[低級言語]]で開発することが多かった。しかし、組み込み用CPUの高速化と、記録媒体である[[半導体メモリ]]価格の大幅な下落と大容量化により、[[C言語]]などのより高級な言語が使用できるようになった。 さらに従来のように動作に関わるものすべてを一から[[プログラミング (コンピュータ)|コーディング]]するという手法だけでなく、複雑な処理を行うシステムでは[[オペレーティングシステム]]も含む全てのソフトウェアを機器に組み込んで、開発の効率化と高機能化を図る例も増えている。 ファームウェアは、一般に[[Read Only Memory|ROM]]タイプのメモリ素子に書き込む形で機器に組み込みを行う。低コストの機器では、[[マイクロコントローラ]]に内蔵されたROMを使用し、より高機能のものでは独立したメモリ素子を用意してそれに書き込みを行う。 特に低コストで大量に製造される製品の場合は、[[マスクROM]]を内蔵したマイクロコントローラを使用するので、出荷後に書き換えることは不可能である。交換可能な[[UV-EPROM]]などを装備した機器であっても、出荷後にアップデートするにはROM交換などの処置に莫大なコストがかかるため、通常のソフトウェア開発より非常に高い水準の完全性が求められる。 しかし、[[フラッシュメモリ]]の登場により、筐体のふたを開けなくてもユーザの手元で電子的な操作のみで書き替えが行える[[In-System Programming|ISP]](イン・システム・プログラミング)ができるようになり、出荷後のアップデートが以前よりも比較的容易に行えるようになった。 ==関連項目== *{{lang|en|[[Basic Input/Output System]]}}({{lang|en|BIOS}}) *[[ブートローダ]] *[[組み込みシステム]] *[[マイクロコード]] *{{lang|en|[[Open Firmware]]}} *{{lang|en|[[Unified Extensible Firmware Interface]]}}(UEFI) *[[システムソフトウェア]] *[[カスタムファームウェア]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ふあうむうえあ}} [[Category:ファームウェア|*]] [[Category:ハードウェア]] [[Category:ソフトウェア]] {{Computer-stub}}
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イプシロン-デルタ論法
ε-δ論法(イプシロンデルタろんぽう、英語: (ε, δ)-definition of limit)は、解析学において、実数値のみを用いることで(無限を直接に扱うことを回避しながら)関数の極限を厳密に定義する方法である。列の極限を定義する類似の方法にε-N論法(イプシロンエヌろんぽう)があり、本記事ではこれも扱う。 ニュートンとライプニッツが創設した微分積分学は、無限小(どんな正の実数よりも小さな正の数)や無限大(どんな実数よりも大きな数)といった実数の範囲では定義できない概念を用いている。このような状況はオイラーによって微分積分学が大幅な発展を遂げる18世紀まで継続された。当時の数学者達は級数の発散や収束に関する定義に無頓着なまま理論を発展させていったため、しばしば誤った結論が導かれてしまうことがあった。 19世紀に入るとコーシーやベルナルト・ボルツァーノらによって、厳密な定義に基づいて微分積分学を再構築しようとする試みがなされるようになる。この時期から収束や連続に関する定義は厳密化されていく。ε-δ論法は1860年代のカール・ワイエルシュトラスの講義によって完成されたもので、これによって無限小や無限大という概念を一切使用せずに収束・連続が定義されるようになった。数学史において、微積分学を完成させたとする評価もあるコーシーは『解析教程』(Cours d'analyse de l'Ecole royale polytechnique) で、ε-δ論法を用いて関数の連続性の定義を行った。しかし、この時点でも、連続と一様連続の区別はなかったためにコーシーは自著の中でそのことに起因する誤りをおかしている。 なお、ε-δ論法の登場により一度は数学から追放された無限小や無限大を用いる解析も現代では超実数を用いることで正当化され、超準解析(Non-standard analysis または古典的に無限小解析 Infinitesimal analysis とも呼ばれる)という分野で研究されている。 限りなく近付くという極限の概念は、以下に示す、有限の値をとる変数の論理式だけで定義することができる。 実関数 f: R → R に対して、極限の式 とは、 ことであった。これを ε-δ論法で定義すると となる。これは という意味の条件である。ε-δ論法による極限値の定義の妥当性は次のようになる。 f(x) が b にいくらでも近づくとは、有限値で表現すると、任意の ε > 0 に対して、f(x) が b の ε近傍に属するようになっていくということになる。そこで、ε の値に応じて δ > 0 が存在し、x が a の δ 近傍に属していれば、それを満たすということになる。 ε, δ は無限小でなく有限の値であるが、それぞれいくらでも小さい値を取れるということが極限の概念を明確に定義している。ε > 0 の一つを ε1 とするとき、ε1 に対応する δ1 を選べば 0 < |x − a| < δ1 ⇒ |f(x) − b| < ε1 を成り立たせることができるが、ε1 よりもさらに小さい ε2(例えば ε1/10)を考えると、成立しなくなりうる。しかしその分より小さい δ2 を適当に取ることで、0 < |x − a| < δ2 ⇒ |f(x) − b| < ε2 が成り立つようにできる。 否定である、極限が存在しないとは、ある ε で δ が存在しないとなる。 条件を満たすとき、正の数 δ は ε に依存する変数である。ε に対する δ は一般に1つとは限らず無数にあるが、1つでも見つければ存在を示したことになる。例えば を ε-δ論法で考えると次のようになる。任意の ε に対して δ = √ε + 9 − 3 と取れば ならば なので が成り立ち、x → 3 のとき x → 9 となることが ε-δ論法により示されたことになる。 実数列 a1, a2, ..., an, ... の極限値が であるとは、n を大きくすれば an は b に限りなく近づくという意味であった。 これを有限値による論理式で定義すると となる。これは が成り立つ、という意味である。この論理式は δ ではなく N を使うため ε-δ論法ではなく ε-N論法と呼ばれる。ε-N論法による数列の極限の定義の妥当性は次のようになる。 an が b にいくらでも近づくとは、有限値で表すと、任意の正の数 ε に対して an が b の ε近傍に属していくということになる。そこで、十分大きな N を取ると、N より大きい全ての番号 n に対し、an は b の ε近傍に入るということになる。ここで N は ε に依存する数である。 例えば an = n + 1/n のとき N > 1/ε となるように N を取れば n > N という条件のもとで となるので が成り立ち、数列 an は 1 に収束することが ε-N論法による定義に基づき示される。 実関数 f: R → R が を満たすとき、f(x) は x = a で連続であるという。この条件は関数の極限を ε-δ論法で表すことで定義される。開区間 I = (p, q) 上の任意の点 a ∈ I で f(x) が連続であるとき、f は I 上連続であるという。これを ε-δ論法で定義すると となる。 このように連続性を ε-δ論法で定義した場合 δ は ε と a の両方に依存する可能性がある。 連続性の定義の条件の順序を変えて とした場合、δ は ε のみに依存し、a に依存しない。この時 f(x) は I 上一様連続であるという。 例えば、I = (0,1] とし、その上で定義された関数 f(x) = 1/x は、連続であるが一様連続ではない。なぜなら、どんな δ を選んでも、 a = min ( δ , 1 ) {\displaystyle a=\min(\delta ,1)} , x = a/1 + a のとき かつ であるから、ε ≤ 1 となる ε に対して条件を満たすような δ は存在しない。 区間 I 上で定義された実関数の列 f0(x), f1(x), f2(x), ..., fn(x), ... に対してI 上で定義される実関数 f(x) が存在し、各 x ∈ I に対して極限の式 が成り立つとき、関数列 {fn(x)} は f(x) に各点収束(かくてんしゅうそく)するという。 上記を ε-N 論法で定義すれば となる。N は ε, x に依存する。x = c などの特定の値で関数列を見たときに f0(c), f1(c), f2(c), ..., fn(c), ... が数列として f(c) に収束するという意味である。 条件の順序を変えた が成立するとき、 関数列 {fn(x)} は f(x) に一様収束(いちようしゅうそく)するという。 この条件は各点収束と違い、N は x と無関係に ε のみに依る、言い換えると区間 I 内の全ての x に共通の N が取れる、という意味である。 例えば I = (0,1) 上で定義される fn(x) = x は f(x) = 0 という定数関数に各点収束するが、一様収束はしない。ε を 1 より小に取れば、どのように N を大きく取っても、例えば n = N + 1 と ε < x < 1 に対して |fn(x) − f(x)| = x = x > ε となってしまうためである。 微積分学の定理の内、特に関数の極限に関する定理は、この ε-δ論法による定義に基づき証明される。言葉を代えれば、ε-δ論法を用いない微分積分学は厳密な定義に基づかないため、数学界では高校数学の段階で ε-δ論法による定義を教えるべきである、という意見もある。一方で、数学以外の自然科学を含む多くの分野ではε-δ論法により定義されるほどの厳密さを用いなくても、(過程はともかく)結果的には正しい結論に至ることが多く、それらの分野においては大学教育であっても不要と見なす意見もあり、ε-δ論法による定義を教えることの必要性は、数学教育における古くて新しい論争である。
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"なお、ε-δ論法の登場により一度は数学から追放された無限小や無限大を用いる解析も現代では超実数を用いることで正当化され、超準解析(Non-standard analysis または古典的に無限小解析 Infinitesimal analysis とも呼ばれる)という分野で研究されている。", "title": "歴史的背景" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "限りなく近付くという極限の概念は、以下に示す、有限の値をとる変数の論理式だけで定義することができる。", "title": "関数値の収束" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "実関数 f: R → R に対して、極限の式", "title": "関数値の収束" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "とは、", "title": "関数値の収束" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ことであった。これを ε-δ論法で定義すると", "title": "関数値の収束" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "となる。これは", "title": "関数値の収束" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "という意味の条件である。ε-δ論法による極限値の定義の妥当性は次のようになる。", "title": "関数値の収束" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "f(x) が b にいくらでも近づくとは、有限値で表現すると、任意の ε > 0 に対して、f(x) が b の ε近傍に属するようになっていくということになる。そこで、ε の値に応じて δ > 0 が存在し、x が a の δ 近傍に属していれば、それを満たすということになる。", "title": "関数値の収束" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ε, δ 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ε-δ論法は、解析学において、実数値のみを用いることで(無限を直接に扱うことを回避しながら)関数の極限を厳密に定義する方法である。列の極限を定義する類似の方法にε-N論法(イプシロンエヌろんぽう)があり、本記事ではこれも扱う。
{{脚注の不足|date=2023年6月}} '''ε-δ論法'''(イプシロンデルタろんぽう、{{Lang-en|(ε, δ)-definition of limit}})は、[[解析学]]において、[[実数]]値のみを用いることで([[無限]]を直接に扱うことを回避しながら)[[関数の極限]]を厳密に定義する方法である。[[列の極限]]を定義する類似の方法に'''ε-N論法'''(イプシロンエヌろんぽう)があり、本記事ではこれも扱う。 == 歴史的背景 == [[アイザック・ニュートン|ニュートン]]と[[ゴットフリート・ライプニッツ|ライプニッツ]]が創設した[[微分積分学]]は、[[無限小]](どんな正の実数よりも小さな正の数)や[[無限|無限大]](どんな実数よりも大きな数)といった[[実数]]の範囲では定義できない概念を用いている。このような状況は[[レオンハルト・オイラー|オイラー]]によって微分積分学が大幅な発展を遂げる18世紀まで継続された。当時の数学者達は[[級数]]の[[発散級数|発散]]や[[収束級数|収束]]に関する定義に無頓着なまま理論を発展させていったため、しばしば誤った結論が導かれてしまうことがあった。 19世紀に入ると[[オーギュスタン=ルイ・コーシー|コーシー]]や[[ベルナルト・ボルツァーノ]]らによって、厳密な定義に基づいて微分積分学を再構築しようとする試みがなされるようになる。この時期から収束や[[連続]]に関する定義は厳密化されていく。ε-δ論法は1860年代の[[カール・ワイエルシュトラス]]の講義によって完成されたもので、これによって無限小や無限大という概念を一切使用せずに収束・連続が定義されるようになった<ref group="注釈">ε は"error"、δ は"distance"の頭文字であると理解するのが妥当である。実際、コーシーは彼の著作の中で ε を"error"の省略として用いている。</ref><ref>{{Cite web |url=https://web.archive.org/web/20200125151433/https://mathoverflow.net/questions/82302/why-do-we-use-epsilon-and-delta/82310 |title=My question is not about who was first with this notation, but rather: |website=mathoverflow.net |publisher=math over flow |date= |accessdate=2020-01-26}}</ref>。数学史において、微積分学を完成させたとする評価もあるコーシーは『解析教程』(''Cours d'analyse de l'Ecole royale polytechnique'') で、ε-δ論法を用いて関数の連続性の定義を行った。しかし、この時点でも、連続と[[一様連続]]の区別はなかったためにコーシーは自著の中でそのことに起因する誤りをおかしている。 なお、ε-δ論法の登場により一度は数学から追放された無限小や無限大を用いる解析も現代では'''超実数'''を用いることで正当化され、[[超準解析]](Non-standard analysis または古典的に'''無限小解析''' Infinitesimal analysis とも呼ばれる)という分野で研究されている。 == 関数値の収束 == 限りなく近付くという極限の概念は、以下に示す、有限の値をとる変数の論理式だけで定義することができる。 [[実数値関数|実関数]] {{math2|''f'': '''R''' → '''R'''}} に対して、[[極限]]の式 :<math>\lim_{x \to a}f(x) = b</math> とは、 :(もし){{mvar|x}} を {{mvar|a}} に限りなく近づけさえすれば、{{math|''f''(''x'')}} は(必ず){{mvar|b}} に近づく ことであった。これを ε-δ論法で定義すると :<math>{}^{\forall} \varepsilon >0,\; {}^{\exist} \delta >0 \;;\; {}^{\forall} x \in \mathbb{R} \; [0 < |x-a| < \delta \rArr |f(x)-b| < \varepsilon]</math> となる。これは :[[全称記号|任意]]の[[正の数と負の数|正]]の数 {{mvar|ε}} に対し、ある適当な正の数 {{mvar|δ}} が[[存在記号|存在]]して、{{math2|0 < {{abs|''x'' &minus; ''a''}} < ''δ''}} を満たす全ての[[実数]] {{mvar|x}} に対し、{{math2|{{abs|''f''(''x'') &minus; ''b''}} < ''ε''}} が成り立つ。 という意味の[[論理包含|条件]]である。ε-δ論法による極限値の定義の妥当性は次のようになる。 {{math|''f''(''x'')}} が {{mvar|b}} にいくらでも近づくとは、有限値で表現すると、<u>任意の</u> {{math2|''ε'' > 0}} に対して、{{math|''f''(''x'')}} が {{mvar|b}} の {{mvar|ε}}近傍に属するようになっていくということになる。そこで、{{mvar|ε}} の値に応じて {{math2|''δ'' > 0}} が存在し、{{mvar|x}} が {{mvar|a}} の {{mvar|δ}} 近傍に属していれば、それを満たすということになる。 {{math2|''ε'', ''δ''}} は[[無限小]]でなく有限の値であるが、それぞれいくらでも小さい値を取れるということが極限の概念を明確に定義している。{{math2|''ε'' > 0}} の一つを {{math|''ε''{{sub|1}}}} とするとき、{{math|''ε''{{sub|1}}}} に対応する {{math|''δ''{{sub|1}}}} を選べば {{math2|0 < {{abs|''x'' &minus; ''a''}} < ''δ''{{sub|1}} ⇒ {{abs|''f''(''x'') &minus; ''b''}} < ''ε''{{sub|1}}}} を成り立たせることができるが、{{math|''ε''{{sub|1}}}} よりもさらに小さい {{math2|''ε''{{sub|2}}}}(例えば {{math|''ε''{{sub|1}}/10}})を考えると、成立しなくなりうる。しかしその分より小さい {{math|''δ''{{sub|2}}}} を適当に取ることで、{{math2|0 < {{abs|''x'' &minus; ''a''}} < ''δ''{{sub|2}} ⇒ {{abs|''f''(''x'') &minus; ''b''}} < ''ε''{{sub|2}}}} が成り立つようにできる。 [[否定]]である、極限が存在しないとは、ある {{mvar|ε}} で {{mvar|δ}} が存在しないとなる。 条件を満たすとき、正の数 {{mvar|δ}} は {{mvar|ε}} に依存する変数である。{{mvar|ε}} に対する {{mvar|δ}} は一般に1つとは限らず無数にあるが、1つでも見つければ存在を示したことになる。例えば :<math>\lim_{x \to 3} x^2 = 9</math> を ε-δ論法で考えると次のようになる。任意の {{mvar|ε}} に対して {{math2|''δ'' {{=}} {{sqrt|''ε'' + 9}} &minus; 3}} と取れば :<math>0<|x-3|< \delta = \sqrt{\varepsilon+9}-3</math> ならば :<math>|x^2-9|=|x+3||x-3| < (\delta+6)\delta = (\sqrt{\varepsilon+9}+3)(\sqrt{\varepsilon+9}-3) = \varepsilon</math> なので :<math>{}^{\forall} \varepsilon >0,\; {}^{\exist} \delta >0 \;;\; x \in \mathbb{R} \; [0 < |x-3| < \delta \rArr |x^2-9| < \varepsilon]</math> が成り立ち、{{math2|''x'' → 3}} のとき {{math2|''x''{{sup|2}} → 9}} となることが ε-δ論法により示されたことになる。 == 数列の収束 == 実[[数列]] {{math2|''a''{{sub|1}}, ''a''{{sub|2}}, …, ''a{{sub|n}}'', …}} の極限値が :<math>\lim_{n \to \infty}a_n = b</math> であるとは、{{mvar|n}} を大きくすれば {{mvar|a{{sub|n}}}} は {{mvar|b}} に限りなく近づくという意味であった。 これを有限値による論理式で定義すると :<math>{}^{\forall} \varepsilon >0,\; {}^{\exist} N \in \mathbb{N} \;\mathrm{s.t.}\; {}^{\forall} n \in \mathbb{N} \; [n>N \rArr |a_n-b| < \varepsilon]</math> となる。これは :任意の正の数 {{mvar|ε}} に対し、ある適当な自然数 {{mvar|N}} が存在し、{{mvar|N}} より大きい全ての自然数 {{mvar|n}} に対して {{math2|{{abs|''a{{sub|n}}'' &minus; ''b''}} < ''ε''}} が成り立つ、という意味である。この論理式は {{mvar|δ}} ではなく {{mvar|N}} を使うため ε-δ論法ではなく '''ε-''N''論法'''と呼ばれる。ε-''N''論法による数列の極限の定義の妥当性は次のようになる。 {{mvar|a{{sub|n}}}} が {{mvar|b}} にいくらでも近づくとは、有限値で表すと、<u>任意の</u>正の数 {{mvar|ε}} に対して {{mvar|a{{sub|n}}}} が {{mvar|b}} の {{mvar|ε}}近傍に属していくということになる。そこで、十分大きな {{mvar|N}} を取ると、{{mvar|N}} より大きい全ての番号 {{mvar|n}} に対し、{{mvar|a{{sub|n}}}} は {{mvar|b}} の {{mvar|ε}}近傍に入るということになる。ここで {{mvar|N}} は {{mvar|ε}} に依存する数である。 :ε-δ論法では {{mvar|ε}} が小さくするにつれて {{mvar|δ}} を小さくとらなければならないが、ε-''N''論法では {{mvar|ε}} を小さくするにつれて {{mvar|N}} を大きくしなければならない。 例えば {{math2|''a{{sub|n}}'' {{=}} {{sfrac|''n'' + 1|''n''}}}} のとき {{math2|''N'' > {{sfrac|1''|ε''}}}} となるように {{mvar|N}} を取れば {{math2|''n'' > ''N''}} という条件のもとで :<math>\left| \frac{n+1}{n} -1 \right| = \frac{1}{n} < \frac{1}{N} < \varepsilon</math> となるので :<math>{}^{\forall} \varepsilon >0,\; {}^{\exist} N \in \mathbb{N} \;\mathrm{s.t.}\; {}^{\forall} n \in \mathbb{N} \; [n > N \rArr |a_n-1| < \varepsilon]</math> が成り立ち、数列 {{mvar|a{{sub|n}}}} は {{math|1}} に収束することが ε-''N''論法による定義に基づき示される。 == 関数の連続性 == [[関数 (数学)|実関数]] {{math2|''f'': '''R''' → '''R'''}} が :<math>\lim_{x \to a}f(x) = f(a)</math> を満たすとき、{{math|''f''(''x'')}} は {{math2|''x'' {{=}} ''a''}} で'''[[連続 (数学)|連続]]'''であるという。この[[論理包含|条件]]は関数の極限を ε-δ論法で表すことで定義される。[[区間 (数学)|開区間]] {{math2|''I'' {{=}} (''p'', ''q'')}} 上の任意の点 {{math2|''a'' ∈ ''I''}} で {{math|''f''(''x'')}} が連続であるとき、{{mvar|f}} は {{mvar|I}} 上連続であるという。これを ε-δ論法で定義すると :<math>{}^{\forall} \varepsilon >0,\; {}^{\forall} a \in I,\; {}^{\exist} \delta >0 \; \mathrm{s.t.}\; {}^{\forall} x \in I\; [|x-a| < \delta \rArr |f(x)-f(a)| < \varepsilon]</math> となる。 :s.t.句の最初に現れる {{math2|{{sup|∀}}''x'' ∈ ''I''}} という条件によって {{mvar|I}} が[[区間 (数学)|閉区間]] {{math2|[''p'', ''q'']}} の時もその端点での {{math|''f''(''x'')}} の片側連続性 ::<math>\lim_{x \to p+}f(x) = f(p)</math> ::<math>\lim_{x \to q-}f(x) = f(q)</math> :が定義される。半開区間 {{math2|[''p'', ''q'')}} や {{math2|(''p'', ''q'']}} などのときも同様である。 このように連続性を ε-δ論法で定義した場合 {{mvar|δ}} は {{mvar|ε}} と {{mvar|a}} の両方に依存する可能性がある。 連続性の定義の条件の順序を変えて :<math>{}^{\forall} \varepsilon > 0,\; {}^{\exist} \delta > 0 \;\mathrm{s.t.}\; {}^{\forall} a \in I, {}^{\forall} x \in I\; [|x-a| < \delta \rArr |f(x)-f(a)| < \varepsilon]</math> とした場合、{{mvar|δ}} は {{mvar|ε}} のみに依存し、{{mvar|a}} に依存しない。この時 {{math|''f''(''x'')}} は {{mvar|I}} 上'''[[一様連続]]'''であるという。 例えば、{{math2|''I'' {{=}} (0,1]}} とし、その上で定義された関数 {{math2|''f''(''x'') {{=}} {{sfrac|1|''x''}}}} は、連続であるが一様連続ではない。なぜなら、どんな {{mvar|δ}} を選んでも、<math>a = \min(\delta,1)</math>, {{math2|''x'' {{=}} {{sfrac|''a''|1 + ''a''}}}} のとき :<math>\left| x-a \right| =\left| \frac{a} {1+a} - a \right| = \frac{a^2}{1+a} < a = \min(\delta,1)\le \delta</math> かつ :<math>\left| \frac{1}{x} - \frac{1}{a} \right| = \left| \frac{1+a}{a} - \frac{1}{a} \right| = 1</math> であるから、{{math2|''ε'' ≤ 1}} となる {{mvar|ε}} に対して条件を満たすような {{mvar|δ}} は存在しない。 :この {{math|1}} というのは本質的ではなく、この場合は、どんな {{mvar|ε}} に対しても条件を満たすような {{mvar|δ}} が存在しないことが分かる。 :このように有界な区間上で定義された連続な関数で無限大に発散しているようなものなどが、連続だが一様連続ではない例としてよく用いられる。 == 関数列の収束 == 区間 {{mvar|I}} 上で定義された実関数の[[列 (数学)|列]] {{math2|''f''{{sub|0}}(''x''), ''f''{{sub|1}}(''x''), ''f''{{sub|2}}(''x''), …, ''f{{sub|n}}''(''x''), …}} に対して''I'' 上で定義される実関数 {{math|''f''(''x'')}} が存在し、各 {{math2|''x'' ∈ ''I''}} に対して極限の式 :<math>\lim_{n \to \infty} f_n(x) = f(x)</math> が成り立つとき、関数列 {{math|{{mset|''f{{sub|n}}''(''x'')}}}} は {{math|''f''(''x'')}} に'''各点収束'''(かくてんしゅうそく)するという。 上記を ''ε''-''N'' 論法で定義すれば :<math>{}^{\forall} \varepsilon >0,\; {}^{\forall} x \in I,\; {}^{\exist} N \in \mathrm{N} \;\mathrm{s.t.}\; {}^{\forall} n \in \mathbb{N}\; [n > N \rArr |f_n(x)-f(x)| < \varepsilon]</math> となる。{{mvar|N}} は {{math2|''ε'', ''x''}} に依存する。{{math|''x'' {{=}} ''c''}} などの特定の値で関数列を見たときに {{math2|''f''{{sub|0}}(''c''), ''f''{{sub|1}}(''c''), ''f''{{sub|2}}(''c''), …, ''f{{sub|n}}''(''c''), …}} が数列として {{math|''f''(''c'')}} に収束するという意味である。 条件の順序を変えた :<math>{}^{\forall} \varepsilon >0,\; {}^{\exist} N \in \mathbb{N} \; \mathrm{s.t.}\; {}^{\forall} x \in I,\; {}^{\forall} n \in \mathbb{N};\ [n > N \rArr |f_n(x)-f(x)| < \varepsilon]</math> が成立するとき、 関数列 {{math|{{mset|''f{{sub|n}}''(''x'')}}}} は {{math|''f''(''x'')}} に'''一様収束'''(いちようしゅうそく)するという。 この条件は各点収束と違い、{{mvar|N}} は {{mvar|x}} と無関係に {{mvar|ε}} のみに依る、言い換えると区間 {{mvar|I}} 内の全ての {{mvar|x}} に共通の {{mvar|N}} が取れる、という意味である。 例えば {{math2|''I'' {{=}} (0,1)}} 上で定義される {{math2|''f{{sub|n}}''(''x'') {{=}} ''x{{sup|n}}''}} は {{math2|''f''(''x'') {{=}} 0}} という定数関数に各点収束するが、一様収束はしない。{{mvar|ε}} を {{math|1}} より小に取れば、どのように {{mvar|N}} を大きく取っても、例えば {{math2|''n'' {{=}} ''N'' + 1}} と {{math2|''ε''{{sup|1/(''N''+1)}} < ''x'' < 1}} に対して {{math2|1={{abs|''f{{sub|n}}''(''x'') &minus; ''f''(''x'')}} = ''x{{sup|n}}'' = ''x''{{sup|''N''+1}} > ''ε''}} となってしまうためである。 :''I'' の両端点まで含めた区間 {{math2|[0,1]}}({{mvar|I}} の[[閉包 (位相空間論)|閉包]])上で考えると、{{math2|''f{{sub|n}}''(''x'') {{=}} ''x{{sup|n}}''}} は {{math2|0 ≤ ''x'' < 1}} では {{math2|''f''(''x'') {{=}} 0}} に各点収束し、{{math2|''x'' {{=}} 1}} では常に {{math2|''f{{sub|n}}''(1) {{=}} 1}} で、{{math2|''f''(''x'') {{=}} 0 (0 ≤ ''x'' < 1)}} とは連続ではない。こういった事情が、各点収束なのに一様収束ではないという性質と繋がっている。 == 数学教育における取り扱い == 微積分学の定理の内、特に関数の極限に関する定理は、この ε-δ論法による定義に基づき証明される。言葉を代えれば、ε-δ論法を用いない微分積分学は厳密な定義に基づかないため、数学界では[[高校数学]]の段階で ε-δ論法による定義を教えるべきである、という意見もある。一方で、数学以外の自然科学を含む多くの分野ではε-δ論法により定義されるほどの厳密さを用いなくても、(過程はともかく)結果的には正しい結論に至ることが多く、それらの分野においては大学教育であっても不要と見なす意見もあり、ε-δ論法による定義を教えることの必要性は、数学教育における古くて新しい論争である。 == より深く知りたい人のための参考書の例 == * {{Cite book|和書 |author=中根美知代 |title=ε-δ論法とその形成 |publisher=[[共立出版]] |isbn=978-4320019331 |year=2010}} * {{Cite book|和書 |author1=原惟行 |author2=松永秀章 |title=イプシロン・デルタ論法 完全攻略 |publisher=共立出版 |isbn=978-4320110120 |year=2011}} * {{Cite book|和書 |author=田中降幸 |title=ε-δ論法と論理学 |publisher=[[東京図書出版]] |isbn=978-4866411217 |year=2018}} * {{Cite book|和書 |author=宮島静雄 |title=微分積分学Ⅰ |publisher=共立出版 |year=2003}} == 脚注 == === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書 |author=John R. Taylor |translator=林茂雄、馬場凉 |title=計測における誤差解析入門 |publisher=[[東京化学同人]] |isbn=480790521X |year=2000 |ref=テイラー}} * {{Cite book|和書 |author=吉永悦男 |title=初等解析学―実数+イプシロン・デルタ+積分 |year=1994 |isbn=4563002305}} == 関連項目 == * [[連続 (数学)]] * [[極限]] * [[はさみうちの原理]] * [[0.999...]] {{DEFAULTSORT:いふしろんてるたろんほう}} {{Normdaten}} [[Category:解析学]] [[Category:極限 (数学)]] [[Category:量化]] [[Category:数学に関する記事]]
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セグメント
セグメント (英: segment)、セグメンテーション (英: segmentation) 英語で、断片、部分、切れ目、分割(されたもの)などの意味。
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セグメント、セグメンテーション 英語で、断片、部分、切れ目、分割(されたもの)などの意味。
{{wiktionarypar|segment|セグメント|セグメンテーション}} '''セグメント''' ({{lang-en-short|segment}})、'''セグメンテーション''' ({{lang-en-short|segmentation}}) 英語で、断片、部分、切れ目、分割(されたもの)などの意味。 ==コンピュータと通信== *[[セグメント方式]] - [[メモリ管理]]の方式の一つ。 *{{仮リンク|ネットワークセグメント|en|Network segment}} - ネットワークをサブネットワークへ分割したもの。[[イーサネット]]等の[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]のコリジョンセグメントまたは[[ブロードキャスト]]セグメントなど。 *{{仮リンク|パケットセグメンテーション|en|Packet segmentation}} - データパケットをより小さい単位に分割するプロセス **{{仮リンク|segmentation and reassembly|en|Segmentation and reassembly}}(SAR) - パケットの分割と結合 *セグメント - [[Transmission Control Protocol|TCP]]・[[User Datagram Protocol|UDP]]に使われる[[protocol data unit|プロトコル・データ・ユニット]]。[[パケット#セグメント]]を参照。 *{{仮リンク|セグメントアーキテクチャ|en|Segment architecture}} - 企業内の分野の詳細で形式的な記述 ==電気と放送== * [[7セグメントディスプレイ]]。電卓などの数字表示に用いられる、[[表示装置]]の様式の一種。 * [[デジタル放送]]([[地上デジタルテレビ放送|地上デジタル放送]]・[[デジタルラジオ]]など)における、分割された周波数帯域のこと。 ** [[ワンセグ]](1セグメント放送) - 日本の移動体向け地上波[[デジタルテレビ放送|デジタルテレビ]]の放送規格。 ==幾何学== *[[幾何学]]において、直線、円、球面などの一部を切り出したもの **[[線分]] (line segment) - 直線の一部を切り出したもの **[[弓形]] (circular segment) - 円の一部を切り出したもの **[[球台]] (spherical segment) - 球面の一部を切り出したもの ==その他== *[[マーケットセグメンテーション]] - 顧客の属性により市場を細分化し、それぞれの特性に合ったマーケティングを行うこと *[[セグメント (自動車)]] - ヨーロッパでの[[自動車]]の[[分類]] * [[プレキャストコンクリート]]において、分割されたコンクリート製品。 ** 特にトンネル建設時に用いられるシールド工法において、トンネル本体を分割したコンクリート製の円弧状ブロックのこと。[[シールドトンネル]]を参照。 * ニュース番組などで紹介される個々のニュースや、報道特番などを構成する一つひとつの独立した[[話題]]。 * 企業の決算書における事業区分。事業の種類別、親会社・子会社の所在地別等で財務情報を分類するために用いられる。 ==関連項目== * {{lookfrom}} * {{intitle}} * [[パート]] * [[ディビジョン]] * [[セクション]] {{aimai}} {{デフォルトソート:せくめんと}} [[Category:英語の語句]]
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ポリゴン
ポリゴン(英: polygon)とは、 前者については「多角形」という詳細な別記事が立ててあるので説明はそちらに譲るとして、当記事では後者のサーフェスモデリングで使われる多角形、およびそうした多角形を多数使って立体物の形状を近似したりモデリングする手法について説明する。 形状モデリング等では、多角形の面が塞がっているのか、穴が開いているのかは大きな違いであり、識別の必要がある。そのため、きちんと多角形として「閉じて」いて、囲まれた中身を含む場合はクローズドポリゴン(英: closed polygon)と呼ぶ。一方、ただの「連結な」(注)線分など閉じていない場合をポリラインあるいはオープンポリゴン(open polygon)と呼び分ける(ことがある)。 このようなポリゴンで構成された立体モデルは基本的に直線と平面のみで構成されるが、線・面分割を細かく、ポリゴンの数を増やして、スムーズシェーディングなどの処理を併用する事で擬似的に曲線・曲面も表現できる。(なおピクサー社は単純なポリゴン形状で有機的曲面形状を制御するサブディビジョンサーフェス技術を開発している。) ポリゴンをつかう形状モデリングは、ポリゴンの数が増えるほどなめらかな曲面の表現が可能になる。ポリゴンの数があまりに少ないと、現実世界(元の形)はなめらかな曲面で構成される物体でもモデルのほうは角張った(かどばった)ものになってしまう。 たとえば2000年に発売されたソニーのPlayStation 2は搭載するEmotion Engineによって、当時としては画期的なことに、毎秒300万~600万ポリゴンも描くことができ、その能力のおかげでそれまでのゲーム機と比べて相当になめらかな曲面を描けた。 一方そうした高性能のエンジンを搭載していない場合は、ソフト制作者側はハードウェアがモデルを処理しきれない事態を避けるために、極力少ない数のポリゴン(ローポリゴン)でキャラクターのモデリングを行う事を要求されるため、細部の表現には各種のテクスチャマッピングと組み合わせることが多い。 凸型の多角形を塗り潰す定番のアルゴリズムとして、スキャンラインと辺の交点の間を塗る「スキャンライン法」がある。 リアルタイムコンピューターグラフィックスの世界では、大抵の場合は基本的に、三角形ポリゴンが使用される。 以下はGPU等における処理に関する議論である。現在では、ほとんどの場合、三角形のポリゴンが使われる。これは、四角形以上のポリゴンの場合は、個々の頂点座標の位置関係によっては、ポリゴンに捩れが発生してしまい、このときポリゴンの面を正しく(あるいは高速、またはグーロー補間に)塗り潰すアルゴリズムの実装が複雑なためである。三角形ポリゴンであれば、三つの頂点座標がどのような位置関係でも条件を考慮せずに同じアルゴリズムで塗りつぶせ、正しくグーロー補間できる。三角形ポリゴンを塗り潰すアルゴリズムを多少変更すれば、フラット補間なら四角形以上のポリゴンも塗りつぶせないことはないが、凹多角形の場合はアルゴリズムが複雑になり、フィルレートも低下する。これらの理由から、リアルタイムコンピューターグラフィックスの世界では、三角形ポリゴンが使用されるのが普通である。また、三角形ポリゴンを複数組み合わせて、四角形以上のポリゴンの処理を代替することは可能なので、いわゆるGPUなどは基本的に三角形ポリゴンの処理に特化した設計である(比較的に知名度があるハードウェアだと、セガModel3に使用されている、LockheedMartin Real3D/PRO-1000などは、四角形のポリゴンベースで処理をするが、もともとが軍事シミュレータ用であり例外的な存在である)。
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ポリゴンとは、 多角形。 コンピュータグラフィックス特に3次元コンピュータグラフィックスなどのサーフェスモデリングで使われる多角形。およびそうした多角形を多数使って立体物の形状を近似する手法のこと。(「ポリゴン」自体が3次元というわけではなく、ポリゴンを用いるサーフェスモデリングは3次元を扱っている、ということ。)。 前者については「多角形」という詳細な別記事が立ててあるので説明はそちらに譲るとして、当記事では後者のサーフェスモデリングで使われる多角形、およびそうした多角形を多数使って立体物の形状を近似したりモデリングする手法について説明する。
{{otheruses|コンピュータグラフィックスにおける多角形|一般的な多角形|多角形|[[ポケットモンスター]]の[[キャラクター]]|ポリゴン (ポケモン)|ゲームメディア|Polygon|アニメ会社|ポリゴン・ピクチュアズ}}{{複数の問題 | 出典の明記 = 2022年6月23日 (木) 11:24 (UTC) | 脚注の不足 = 2022年6月23日 (木) 11:24 (UTC) | 独自研究 = 2022年6月23日 (木) 11:24 (UTC) | Wikify = 2022年6月23日 (木) 11:24 (UTC) }}[[ファイル:ParabolaRotation.png|thumb|250px|ポリゴンで造られた回転[[放物線]]]] '''ポリゴン'''({{lang-en-short|[[wikt:polygon|polygon]]}})とは、 *[[多角形]]。 *[[コンピュータグラフィックス]]特に[[3次元コンピュータグラフィックス]]などの[[サーフェスモデリング]]で使われる多角形。およびそうした多角形を多数使って立体物の形状を近似する手法のこと。(「ポリゴン」自体が3次元というわけではなく、ポリゴンを用いるサーフェスモデリングは3次元を扱っている、ということ。)。 前者については「'''[[多角形]]'''」という詳細な別記事が立ててあるので説明はそちらに譲るとして、当記事では後者の[[サーフェスモデリング]]で使われる多角形、およびそうした多角形を多数使って立体物の形状を近似したりモデリングする手法について説明する。 == 概要 == 形状モデリング等では、多角形の面が塞がっているのか、穴が開いているのかは大きな違いであり、識別の必要がある。そのため、きちんと多角形として「閉じて」いて、囲まれた中身を含む場合は'''クローズドポリゴン'''({{Lang-en-short|closed polygon}})と呼ぶ。一方、ただの「連結な」(注)[[線分]]など閉じていない場合を'''ポリライン'''あるいは'''オープンポリゴン'''(open polygon)と呼び分ける(ことがある)。 ::注 -  この「連結な」は、変な日本語ではなく、[[グラフ理論]]などで使われる[[ジャーゴン]]である。 ::※ 普通の人々は日常的には「三角形」や「四角形」といった語はもっと曖昧に使っており、多角形の[[辺]]だけを指しているのか、辺に加えて囲まれた中身も含む「[[面分]]」を指しているのか、明確でないことは結構多い(たとえば普通の人々が日常的に「円」という場合、「円周」だけ指しているのか、あるいは「円盤」を指しているのか、はっきりせず曖昧に使っていることは多い)。だが形状モデリングはそんな曖昧なやり方ではできない。 <!--::なお、3次元に限らず[[2次元コンピュータグラフィックス]]においてもクローズドポリゴンとオープンポリゴン(ポリライン)の区別は大切である。{{要出典範囲|例えば[[地理情報システム]](GIS) などの地図データ及び描画では、領域の[[輪郭]]はポリゴンに相当し、道路や鉄道などは[[ポリライン]]である。|date=2022年8月}} --> このようなポリゴンで構成された立体モデルは基本的に[[直線]]と[[平面]]のみで構成されるが、線・面分割を細かく、ポリゴンの数を増やして、スムーズ[[シェーディング]]などの処理を併用する事で擬似的に[[曲線]]・[[曲面]]も表現できる。(なお[[ピクサー]]社は単純なポリゴン形状で有機的曲面形状を制御する[[サブディビジョンサーフェス]]技術を開発している。) [[ファイル:Dolphin triangle mesh.png|thumb|right|250px|ポリゴンの数や細かさのモデルの形状への影響。ポリゴンでイルカをモデリングした例。本当のイルカの表面はもっとなめらかな曲面であるが、この程度の限られた数のポリゴンだと、イルカがやや角ばって表現される。]] [[File:Girl Petting Secret Garden Dolphin.jpg|thumb|right|250px|現実のイルカのなめらかな曲面。]] ポリゴンをつかう形状モデリングは、ポリゴンの数が増えるほどなめらかな曲面の表現が可能になる。ポリゴンの数があまりに少ないと、現実世界(元の形)はなめらかな曲面で構成される物体でもモデルのほうは角張った(かどばった)ものになってしまう。 たとえば2000年に発売された[[ソニー]]の[[PlayStation 2]]は搭載する[[Emotion Engine]]によって、当時としては画期的なことに、毎秒<u>300万~600万ポリゴン</u>も描くことができ、その能力のおかげでそれまでのゲーム機と比べて相当になめらかな曲面を描けた。 :ハードウェアの能力を引き出せるかどうかはソフトウェア制作者側の技量によるが、ポリフォニー社はPS2のポリゴン・グラフィックス性能を十分に活かすことに成功し、同社が制作した『[[グランツーリスモ3 A-spec]]』は自動車車体表面の曲面のなめらかさを描くことに成功。それまでにないリアル感が(特に自動車のエンスージアスト(自動車好き)人口が多い欧米で)大きな反響を生み、PS2の[[キラーソフト]]となり世界的に同コンソールの売上を牽引した。 一方そうした高性能のエンジンを搭載していない場合は、ソフト制作者側はハードウェアがモデルを処理しきれない事態を避けるために、極力少ない数のポリゴン(ローポリゴン)でキャラクターのモデリングを行う事を要求されるため、細部の表現には各種の[[テクスチャマッピング]]と組み合わせることが多い。<ref>余談だが、何らかの入力操作に応じてリアルタイムに表示計算を行うコンピュータやゲーム機では「1秒間に処理できるポリゴンの数」を[[ハードウェア]]の性能の比較や宣伝に使うこともある。</tr> しかし、実際のところその数え方は個々の事例によって恣意的であり、以下の数字は基本的にマーケティング目的のカタログスペックとしての数字である。例えば、初期の[[家庭用ゲーム機]]では、[[1994年]]には[[セガ]]の[[メガドライブ]]の周辺機器[[スーパー32X]]でポリゴンのソフト(厳密にはこの場合のポリゴンは、三角形の意味でない)が発売されたが、スーパー32Xが32ビットでもメガドライブ自体は16ビットというハードの性能の限界があった。2007年の時点では、携帯電話向けのものでさえ、[[東芝]]のTC35711XBGのように、毎秒1億ポリゴンにも達するものさえある。しかしCPUの[[MIPS]]値と同様、1秒間に処理できるポリゴンの数だけがハードウェアの性能の優劣を決定づける要素ではなく、そもそも繰り返しになるが前述したようにこのような数字の算出方法は個々の事例ごとに恣意的な数え方によるものであり(命令セットの違いによる1命令あたりの計算量の違いを考慮せずに、MIPS値だけで一喜一憂していた多くの人々と同様であって)基本的に宣伝目的(マーケティング目的)のカタログスペックとしての数字でしかない。</ref> 凸型の多角形を塗り潰す定番の[[アルゴリズム]]として、[[スキャンライン]]と辺の[[交点]]の間を塗る「スキャンライン法」がある。 ;ポリゴンの形 リアルタイムコンピューターグラフィックスの世界では、大抵の場合は基本的に、三角形ポリゴンが使用される。 以下はGPU等における処理に関する議論である。現在{{いつ|date=2020年4月}}では、ほとんどの場合、三角形のポリゴンが使われる。これは、四角形以上のポリゴンの場合は、個々の頂点座標の位置関係によっては、ポリゴンに[[ねじれの位置|捩れ]]が発生してしまい、このときポリゴンの面を正しく(あるいは高速、または[[グーローシェーディング|グーロー補間]]に)塗り潰すアルゴリズムの実装が複雑なためである。三角形ポリゴンであれば、三つの頂点座標がどのような位置関係でも条件を考慮せずに同じアルゴリズムで塗りつぶせ、正しくグーロー補間できる。三角形ポリゴンを塗り潰すアルゴリズムを多少変更すれば、[[シェーディング#フラットシェーディングと滑らかなシェーディング|フラット補間]]なら四角形以上のポリゴンも塗りつぶせないことはないが、凹多角形の場合はアルゴリズムが複雑になり、[[フィルレート]]も低下する。これらの理由から、リアルタイムコンピューターグラフィックスの世界では、三角形ポリゴンが使用されるのが普通である。また、三角形ポリゴンを複数組み合わせて、四角形以上のポリゴンの処理を代替することは可能なので、いわゆる[[Graphics Processing Unit|GPU]]などは基本的に三角形ポリゴンの処理に特化した設計である(比較的に知名度があるハードウェアだと、セガModel3に使用されている、LockheedMartin Real3D/PRO-1000などは、四角形のポリゴンベースで処理をするが、もともとが軍事シミュレータ用であり例外的な存在である)。 == 脚注 == {{reflist}} == 関連項目 == * [[ポリゴンメッシュ]] * [[ワイヤーフレーム]] * [[テクスチャマッピング]] * [[トゥーンレンダリング]] * [[シェーディング]] * [[サーフェスモデリング]] * [[塗り絵]] == 外部リンク == *{{kotobank}} {{Computer-stub}} {{デフォルトソート:ほりこん}} [[Category:3DCG]] [[Category:コンピュータゲームの技術]] [[Category:GIS]]
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バス (コンピュータ)
バス (英: bus) とは、コンピュータの内外、各回路がデータを交換するための共通の経路を指すコンピュータ用語である。 コンピュータにおいて、1つの信号線・通信線に複数のデバイスがぶら下がる構造を「バス型トポロジー」と言う。(詳細はネットワーク構成を参照。)本項目の「バス」の由来はこれである(もしくはそのもの)。 そのため、1対1で接続する専用経路(「ポイントツーポイント」)の場合はバスと言わない。バスに似た用語としてチャネルがある。チャネルは「入出力チャネル」のように、メモリと入出力との間の通信路を指す事が多い。 多くのコンピュータは、CPUなど、コンピュータの中心機能と、周辺機器や各種制御部を繋ぐためにバスを使っている。アーキテクチャが単純だった黎明期のコンピュータでは、各要素が単一のバスに接続されていた。たとえば、サン・マイクロシステムズの初期のワークステーションでは、VMEバスやマルチバスを使っていた。しかし、コンピュータの性能が向上するにつれて、CPUと各機器とを繋ぐバスの伝送容量も向上させる必要があり、次々と新しいバスに切り替わっていった。 マイクロプロセッサのメモリバスもこれまではバス型トポロジが主流だったが、メモリの高速化に対応してチャネルへと移行しつつある。また、マルチプロセッサ構成を採るワークステーションが性能を最大化するために複数のプロセッサとメモリーとの間での多対多の同時通信を行えるようにしたクロスバースイッチを採用してきたように、マルチコアやメニーコアを備えた新世代の高性能マイクロプロセッサの内部でも、多くのコアとキャッシュメモリーや外部との高速大容量の伝送を可能にするために、チャネルに代わってクロスバースイッチやリングバスが採用されるようになっている。 機器内部の構成要素が接続されるものを内部バス、外部機器と接続するものを外部バスという。この分類はどこに視点を置くかで、たとえばマイクロプロセッサ、コンピュータの内部基板(マザーボード等)、コンピュータ装置の筐体、等で分類の仕方も変わる。位置を明示した「CPU内部バス」等といった表現や、メーカーの「標準機器」と「拡張機器」といった商策上の分類などから拡張バスといったように呼ばれるものもある。 1ビットずつ順番にデータを転送するバスをシリアルバスと呼ぶ。通常はクロック信号線は存在せず、受信側での復調に必要なクロックのタイミングはデータ信号に重積して送っている。通信線路の本数が少なければシールドを充実させたり、平衡接続も比較的容易になるため高周波信号が扱いやすくなる。複数の通信線路では互いの信号間でのタイミングがずれるタイミング・スキュー問題が起きるがシリアル化によって回避できる。クロストーク(干渉)の問題も減少する。求められる通信容量の増大に対応してシリアルバスを複数組、束ねるものが現われているが、それぞれの伝送路に流れているのは個別のシリアル信号であって互いの信号間にクロックの同期はない。シリアルバスの多くが通信線路の両端に送信端と受信端を持つチャネルであり、物理的には本来のバス型トポロジーではない。チャネルであれば原理的には線端反射やスタブの影響を受けずにノイズの少ない高周波動作に適した通信路が得られる。初期のシリアルバスは、パラレルバスよりも遙かに低速だった。 など シリアルバスが1ビットずつデータを転送するのに対して、元データそのものや元データから切り出した複数ビットをひとかたまりにして、同時に複数本の通信路で情報を伝送するバスである。パラレルバスが必ずバス型トポロジーを採るとは限らないが、バス型トポロジーを採用するものが多い。クロック信号の専用線がデータ線と平行して設けられており、受信側でのデータ復調の同期に使われる。 信号線の本数が多いので、一般的には不平衡接続が採用されており、シールドの不足や線路間のクロストーク、路線長・LRC特性の違いなどによるスキューによって高速伝送にはあまり向かない。 ビット数すなわち平行する線路数は、8・16・32が多い。 コンピュータで使用されるデータバスやアドレスバスに採用例が多く、外部デバイスをつなぐバスとしても用いられ、GPIB、IDE/(パラレル)ATA、SCSI、PCIなどがある。高速化に限界があるため、PCIの改良版PCI ExpressやパラレルATAの改良版シリアルATAでは、データラインはシリアルバスとなっている。 バス型トポロジーを採るバスでは、複数の送信回路が存在するために同時に送信を行わないよう、伝送路へ信号を送り出す権利を調停する回路が設けられるのが一般的である。このような回路はバス・アービターと呼ばれ、バス・アービトレーションを行う。調停回路を設けずにバスの使用権を各送信回路へ順番に与える方式もあるが、バスの伝送効率は悪くなる。 チャネルと異なり、複数の送受信回路が存在するバス型トポロジーを採るバスでは、仮に両端の終端処理を正しく行っても、途中の送受信回路の接続線やコネクタ類は「スタブ」と呼ばれる引き込み部分を構成してこの部分で信号波形は劣化する。仮に途中のコネクタが空のまま放置されればコネクタの引き込み線部分から反射が生じる。路線長の違いや伝送特性の違いなどを補正するために、伝送路を使用する前にトレーニングを行って平行するデータ線の信号特性を最適化するような工夫も行われたが、長い配線を引き回しながら十分なシールドを行うことは難しく、コモンモードノイズは不平衡伝送では除けず、外来ノイズやクロストークを抑えながら高速信号の波形を乱さないように扱うには限界がある。 CPUのマイクロチップ内部の信号線。CPUアーキテクチャ図により示されることが多い。 CPU外部のバスあるいは単にCPUバスと言う。ここでは、CPUとメモリ・入出力装置が直接バスで接続される簡単な構成を考えてみる(今日のパソコンはもう少し複雑である。比較的古い時代のコンピュータでは、各要素が1つのバスに接続されていた。SUNのVMEバスやMULTIBUSなど。) 基本的な例としてのバスの構造は下記のようになる。 アドレスを転送するために使われる線。使われる線の本数をアドレスバス幅と言う。メモリのアドレスや入出力装置 (I/O) のアドレスが出力される。例えば、Z80ではピン(信号)A00 - A15がアドレスバスである。アドレスバス幅は16bitで、64KBのメモリを扱える。 メモリアドレスバスとI/Oアドレスバスは、ピンを共用する場合も、独立している場合もある。 CPUと、メモリやI/Oとの間でデータを転送するために使われる線。基本的には双方向通信が基本だが、S100バスのように、コンピュータ→周辺機器、周辺機器→コンピュータのデータの転送を分けたバスもある。使われる線の本数をデータバス幅という。 データバスもメモリ用とI/O用とで、ピンを共用する場合も、独立している場合もある。 コントロールバスとも呼ぶ。 アドレスバスやデータバスで実際に入出力を行うタイミングや、その他CPUと外部との間での必要な制御情報を遣り取りする信号線。入力・出力は用途に応じて別。 例として、各バスに有効なデータが乗っている事を示す。制御信号のエッジ(変化点)で実際の転送動作が行われる。例えば、Z80ではMREQピンがアクティブになる事によりメモリとの転送である事を示し、RDピンはCPUへの入力(読み込み)、WRピンはCPUからの出力(書き込み)時にアクティブになる。 単純な構成では上記のようになるが、今日のより詳細な技術についてはCPUバスを参照のこと。 コンピュータ内部、すなわちCPUの外側から装置の内部までの間では、色々なバスが使われている。上記のCPU外部バスを含めて単に「外部バス」と言うこともある。 単純なマイコンでは上記のCPU外部バスの延長線の構成を取ることが多いが、今日ではパソコンでもチップセットによりシステムバス、メモリバスや入出力バスが統合されたチャネル構成を取る。 コンピュータ内の各コンポーネントが接続されるバスである。上記のCPU外部バス、すなわちCPUから直接出た信号線を指すこともある。 フロントサイドバスとも呼ばれるがこの用語には諸説ある。今日のパソコンではCPUから出たシステムバスは「ノースブリッジ」と呼ばれるチップセットに集約して接続されるのが一般的である。 メインメモリを接続するバスである。 I/Oバス。入出力装置が接続されるバスである。DMAによりチャネルバス構成を取る場合もある。今日のパソコンでは周辺機器との入出力のうち、PCI / IDE / USBなどの比較的低速なI/Oバスについては、「サウスブリッジ」と呼ばれるチップセットが制御する。AGP、PCI Expressなどの比較的高速なI/Oバスはノースブリッジに直接接続される。 総論として、現在のPCの構成では、バス構成よりもチャネル構成に近いので、外部機器(カード)を接続するバス(外部バス、拡張バス)が主に使われる。I/Oバスやメモリバスは、1990年代以前のPCや、現在もマイコンなどによく使われている。 拡張バスとは、PCIなどの拡張カードを直接接続するバスを指す。拡張バスの項目を参照のこと。 コンピュータの各モジュールを対称に結合するバックプレーンにバスを置く構成もある。そのようなバスをバックプレーンバスと言う。
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バス とは、コンピュータの内外、各回路がデータを交換するための共通の経路を指すコンピュータ用語である。
{{出典の明記|date=2020年2月}} {{otheruseslist|コンピュータ用語の「バス」|その他の用法|バス|}} '''バス''' ({{Lang-en-short|bus}}) とは、[[コンピュータ]]の内外、各[[電子回路|回路]]が[[データ]]を交換するための共通の経路を指す[[コンピュータ]]用語である。 == バス型トポロジー == [[ファイル:バスの図.png|thumb|矩形がデバイス、太線部がバス。複数のデバイスで1つの通信路を共有して信号の送受信を行なう。]] コンピュータにおいて、1つの信号線・通信線に複数の[[ハードウェア|デバイス]]がぶら下がる構造を「バス型[[トポロジー]]」と言う。(詳細は[[ネットワーク構成]]を参照。)本項目の「バス」の由来はこれである(もしくはそのもの)。 そのため、1対1で接続する専用経路(「[[ポイント・ツー・ポイント|ポイントツーポイント]]」)の場合はバスと言わない。バスに似た用語として[[チャネル・コントローラ|チャネル]]がある。チャネルは「[[入出力]]チャネル」のように、[[主記憶装置|メモリ]]と入出力との間の通信路を指す事が多い。 == 概説 == 多くのコンピュータは、[[CPU]]など、コンピュータの中心機能と、周辺機器や各種制御部を繋ぐためにバスを使っている。アーキテクチャが単純だった黎明期のコンピュータでは、各要素が単一のバスに接続されていた。たとえば、[[サン・マイクロシステムズ]]の初期の[[ワークステーション]]では、[[VMEバス]]や[[マルチバス]]を使っていた。しかし、コンピュータの性能が向上するにつれて、CPUと各機器とを繋ぐバスの伝送容量も向上させる必要があり、次々と新しいバスに切り替わっていった。 [[マイクロプロセッサ]]のメモリバスもこれまではバス型トポロジが主流だったが、メモリの高速化に対応してチャネルへと移行しつつある。また、[[マルチプロセッサ]]構成を採る[[ワークステーション]]が性能を最大化するために複数のプロセッサとメモリーとの間での多対多の同時通信を行えるようにした[[クロスバースイッチ]]を採用してきたように、[[マルチコア]]や[[メニーコア]]を備えた新世代の高性能マイクロプロセッサの内部でも、多くのコアとキャッシュメモリーや外部との高速大容量の伝送を可能にするために、チャネルに代わってクロスバースイッチやリングバスが採用されるようになっている。 == 内部バスと外部バス == 機器内部の構成要素が接続されるものを'''内部バス'''、外部機器と接続するものを'''外部バス'''という。この分類はどこに視点を置くかで、たとえばマイクロプロセッサ、コンピュータの内部基板(マザーボード等)、コンピュータ装置の筐体、等で分類の仕方も変わる。位置を明示した「CPU内部バス」等といった表現や、メーカーの「標準機器」と「拡張機器」といった商策上の分類などから[[拡張バス]]といったように呼ばれるものもある。 == シリアルバスとパラレルバス == === シリアルバス === {{Main|シリアル通信}} 1ビットずつ順番にデータを転送するバスをシリアルバスと呼ぶ。通常はクロック信号線は存在せず、受信側での復調に必要な[[クロック]]のタイミングはデータ信号に重積して送っている。通信線路の本数が少なければシールドを充実させたり、[[平衡接続]]も比較的容易になるため高周波信号が扱いやすくなる。複数の通信線路では互いの信号間でのタイミングがずれるタイミング・スキュー問題が起きるがシリアル化によって回避できる。クロストーク([[干渉]])の問題も減少する。求められる通信容量の増大に対応してシリアルバスを複数組、束ねるものが現われているが、それぞれの伝送路に流れているのは個別のシリアル信号であって互いの信号間にクロックの同期はない。シリアルバスの多くが通信線路の両端に送信端と受信端を持つチャネルであり、物理的には本来のバス型トポロジーではない。チャネルであれば原理的には線端反射やスタブの影響を受けずにノイズの少ない高周波動作に適した通信路が得られる。初期のシリアルバスは、パラレルバスよりも遙かに低速だった。 * [[RS-232]]C * [[EIA-485]] * [[IEEE 1394]] * [[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]] * [[PCI Express]] * [[シリアルATA]] * [[1-Wire]] など === パラレルバス === シリアルバスが1ビットずつデータを転送するのに対して、元データそのものや元データから切り出した複数ビットをひとかたまりにして、同時に複数本の通信路で情報を伝送するバスである。パラレルバスが必ずバス型トポロジーを採るとは限らないが、バス型トポロジーを採用するものが多い。クロック信号の専用線がデータ線と平行して設けられており、受信側でのデータ復調の同期に使われる。 信号線の本数が多いので、一般的には不平衡接続が採用されており、シールドの不足や線路間のクロストーク、路線長・LRC特性の違いなどによるスキューによって高速伝送にはあまり向かない。 ビット数すなわち平行する線路数は、8・16・32が多い。 コンピュータで使用されるデータバスやアドレスバスに採用例が多く、外部デバイスをつなぐバスとしても用いられ、[[GPIB]]、IDE/(パラレル)[[Advanced Technology Attachment|ATA]]、[[Small Computer System Interface|SCSI]]、[[Peripheral Component Interconnect|PCI]]などがある。高速化に限界があるため、PCIの改良版[[PCI Express]]やパラレルATAの改良版シリアルATAでは、データラインはシリアルバスとなっている。 == 制御 == バス型トポロジーを採るバスでは、複数の送信回路が存在するために同時に送信を行わないよう、伝送路へ信号を送り出す権利を調停する回路が設けられるのが一般的である。このような回路はバス・アービターと呼ばれ、バス・アービトレーションを行う。調停回路を設けずにバスの使用権を各送信回路へ順番に与える方式もあるが、バスの伝送効率は悪くなる。 == 信号の劣化 == チャネルと異なり、複数の送受信回路が存在するバス型トポロジーを採るバスでは、仮に両端の終端処理を正しく行っても、途中の送受信回路の接続線やコネクタ類は「スタブ」と呼ばれる引き込み部分を構成してこの部分で信号波形は劣化する。仮に途中のコネクタが空のまま放置されればコネクタの引き込み線部分から反射が生じる。路線長の違いや伝送特性の違いなどを補正するために、伝送路を使用する前にトレーニングを行って平行するデータ線の信号特性を最適化するような工夫も行われたが、長い配線を引き回しながら十分なシールドを行うことは難しく、コモンモードノイズは不平衡伝送では除けず、外来ノイズやクロストークを抑えながら高速信号の波形を乱さないように扱うには限界がある。 == 主なコンピュータ用バス == {{seealso|拡張カード#拡張バス}} * [[S-100バス]] - [[Altair 8800]]で採用、後の[[IEEE]]-696 * [[VMEバス|VME]] - [[68000]]用汎用バス、[[ワークステーション]]で多く採用例 後のIEEE 1014-1987 * [[Small Computer System Interface]] - それまでの[[SASI]]を元に開発、略称「SCSI」 * [[Industry Standard Architecture|ISA]] - [[PC/AT]]で採用 * [[Cバス]] - [[日本電気]][[PC-9800シリーズ]]の拡張バス * [[NuBus]] - 初期の[[Apple]]や[[NeXT]]で採用 * [[VESAローカルバス|VLバス]] - ISA後継のグラフィクスバス用バス * [[Micro Channel Architecture|MCA]] - [[IBM]]が開発したISAバスの後継 * [[Extended Industry Standard Architecture|EISA]] - MCAに対抗して制定 * [[SBus]] - [[Sparc]]用拡張バス、VMEバスから置換、IEEE 1496 * [[Peripheral Component Interconnect|PCI]] - インテルの提案で広範に普及した汎用拡張バス * [[FSB]] - インテルのCPUバス、高速化に伴い呼称も変化している * [[Direct Rambus]] - [[ラムバス]]社が設計した[[RDRAM]]専用のメモリ[[インタフェース (情報技術)|インタフェース]]バス * [[パラレルATA]] - ストレージ用のバス、後継の[[シリアルATA]]はスター型トポロジー * [[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]] - 当初はレガシー代替が目的 * [[IEEE 1394]] - Appleの[[Firewire]]を規格化、i.LINKとも * [[Low Pin Count]] - ISAの代替規格 * [[イーサネット]] - 現在主流となっている規格の論理上の[[ネットワーク・トポロジー]]はバス型 * [[AGP]] - PCI上位互換のグラフィックス用高速バス * [[PCI Express]] - PCI、AGPの後継 * [[HDMI]] - [[Digital Visual Interface|DVI]]から発展した[[AV機器]]向けインタフェースで、デイジーチェーンによるバス接続が可能 * [[Thunderbolt]] - インテルとAppleが共同開発した汎用バス、PCI Expressと[[DisplayPort]]を基盤としている * VMBus - [[Hyper-V]]の[[仮想機械]]で物理デバイスへアクセスするための仮想バス == CPU内部バスの構造 == CPUのマイクロチップ内部の信号線。CPU[[コンピュータ・アーキテクチャ|アーキテクチャ]]図により示されることが多い。 {{節スタブ}} == CPU外部バスの構造 == [[Image:Computer system bus.svg |thumb|right|upright=1.6 |バスの例]] CPU外部のバスあるいは単に[[CPUバス]]と言う。ここでは、CPUとメモリ・入出力装置が直接バスで接続される簡単な構成を考えてみる(今日のパソコンはもう少し複雑である。比較的古い時代のコンピュータでは、各要素が1つのバスに接続されていた。[[サン・マイクロシステムズ|SUN]]のVMEバスやMULTIBUSなど。) 基本的な例としてのバスの構造は下記のようになる。 === アドレスバス === {{main|アドレスバス}} アドレスを転送するために使われる線。使われる線の本数をアドレスバス幅と言う。メモリのアドレスや入出力装置 (I/O) のアドレスが出力される。例えば、[[Z80]]ではピン(信号)A00 - A15がアドレスバスである。アドレスバス幅は16bitで、64[[キロバイト|KB]]のメモリを扱える。 メモリアドレスバスとI/Oアドレスバスは、ピンを共用する場合も、独立している場合もある。 === データバス === CPUと、メモリやI/Oとの間でデータを転送するために使われる線。基本的には双方向通信が基本だが、S100バスのように、コンピュータ→周辺機器、周辺機器→コンピュータのデータの転送を分けたバスもある。使われる線の本数をデータバス幅という。 データバスもメモリ用とI/O用とで、ピンを共用する場合も、独立している場合もある。 === 制御線 === '''コントロールバス'''とも呼ぶ。 アドレスバスやデータバスで実際に入出力を行うタイミングや、その他CPUと外部との間での必要な制御情報を遣り取りする信号線。入力・出力は用途に応じて別。 例として、各バスに有効な[[データ]]が乗っている事を示す。制御信号のエッジ(変化点)で実際の転送動作が行われる。例えば、[[Z80]]ではMREQピンがアクティブになる事によりメモリとの転送である事を示し、RDピンはCPUへの入力(読み込み)、WRピンはCPUからの出力(書き込み)時にアクティブになる。 単純な構成では上記のようになるが、''今日のより詳細な技術については[[CPUバス]]を参照のこと。'' {{節スタブ}} == コンピュータ内部のバス(外部バス) == コンピュータ内部、すなわちCPUの外側から装置の内部までの間では、色々なバスが使われている。上記のCPU外部バスを含めて単に「外部バス」と言うこともある。 単純なマイコンでは上記のCPU外部バスの延長線の構成を取ることが多いが、今日ではパソコンでもチップセットによりシステムバス、メモリバスや入出力バスが統合されたチャネル構成を取る。 {{節スタブ}} === システムバス === {{main|en:System bus}} コンピュータ内の各コンポーネントが接続されるバスである。上記のCPU外部バス、すなわちCPUから直接出た信号線を指すこともある。 [[フロントサイドバス]]とも呼ばれるがこの用語には諸説ある。今日のパソコンではCPUから出たシステムバスは「[[チップセット#構成|ノースブリッジ]]」と呼ばれるチップセットに集約して接続されるのが一般的である。 === メモリバス === [[メインメモリ]]を接続するバスである。<!--PCでは[[フロントサイドバス]]([[FSB]])とも言う。--> === 入出力バス === I/Oバス。入出力装置が接続されるバスである。[[Direct Memory Access|DMA]]によりチャネルバス構成を取る場合もある。今日のパソコンでは周辺機器との入出力のうち、[[Peripheral Component Interconnect|PCI]] / [[Advanced Technology Attachment#IDE|IDE]] / [[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]などの比較的低速なI/Oバスについては、「[[チップセット#構成|サウスブリッジ]]」と呼ばれるチップセットが制御する。[[Accelerated Graphics Port|AGP]]、[[PCI Express]]などの比較的高速なI/Oバスはノースブリッジに直接接続される。 総論として、現在のPCの構成では、バス構成よりも[[チャネル]]構成に近いので、外部機器(カード)を接続するバス(外部バス、[[拡張バス]])が主に使われる。I/Oバスやメモリバスは、1990年代以前のPCや、現在も[[マイコン]]などによく使われている。 == 拡張バス == [[拡張バス]]とは、PCIなどの拡張カードを直接接続するバスを指す。''[[拡張バス]]の項目を参照のこと。'' == バックプレーンバス == コンピュータの各モジュールを対称に結合する[[バックプレーン]]にバスを置く構成もある。そのようなバスをバックプレーンバスと言う。 == 関連項目 == * [[拡張バス]] * [[Input/Outputポート]] * [[Direct Memory Access|DMA]] * [[トークンバス]] * [[バスマスタリング]] {{コンピュータバス}} {{Normdaten}} {{Computer-stub}} {{DEFAULTSORT:はす}} [[Category:コンピュータバス|**]] [[Category:マザーボード]]
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新大久保駅
新大久保駅(しんおおくぼえき)は、東京都新宿区百人町一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)山手線の駅である。駅番号はJY 16。 当駅には環状線としての山手線電車のみが停車し、山手貨物線を走行する埼京線・湘南新宿ラインやその他の列車は停車しない。また、特定都区市内制度における「東京都区内」および「東京山手線内」に属している。 西武新宿駅 - 高田馬場駅間で並走する西武鉄道新宿線も、山手貨物線の東側を通過している。 山手線の単独駅は当駅と目白駅のみである。 JR東日本ステーションサービスが駅業務を受託している新宿駅管理の業務委託駅。島式ホーム1面2線の高架駅である。改札口は2か所あり、そのうち1か所は出口専用(ICカード専用)となっている。 2021年3月28日には当駅舎の3・4階に「食」に関わる交流拠点「Kimchi,Durian,Cardamom,,,」が開業している。 当駅周辺に日本語学校が多くあり、通学する留学生の利用が多いことなどから、24カ国語で構内放送を流している。 (出典:JR東日本:駅構内図) 2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は43,552人である。JR東日本管内全体では関内駅に次いで第95位。 1990年代半ばから横ばいが続いていたが、2010年代から増加に転じている。大久保駅よりも当駅の方が利用者が多い。 近年の1日平均乗車人員の推移は下記の通り。山手線単独駅では最も利用者が多い。 駅前には大久保通り(東京都道433号神楽坂高円寺線)が通り、大久保駅まで約300メートル。 駅西側の百人町は昔から楽器店が多い事で著名。また、アジアの色々な地域の民族料理店も多く立地する。 駅東側は朝鮮料理店や韓流グッズ店が連なる東京のコリア・タウンとして有名である。 当駅西側大久保通り沿いに設置されている「新大久保駅前」停留所にて、都営バスの以下の路線が発着する。
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新大久保駅(しんおおくぼえき)は、東京都新宿区百人町一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)山手線の駅である。駅番号はJY 16。
{{redirect|新大久保|この駅の周辺地区|大久保 (新宿区)}} {{出典の明記|date=2011年10月|ソートキー=駅}} {{駅情報 |社色 = green |文字色 = |駅名 = 新大久保駅 |画像 = Shin-Okubo-Station-newstation-building.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 駅舎(2020年6月) |地図= {{Infobox mapframe|zoom=15|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|35|42|4.7|N|139|42|0.2|E}}}} |よみがな = しんおおくぼ |ローマ字 = Shin-&#332;kubo |電報略号 = シオ←シヲ |前の駅 = JY 17 [[新宿駅|新宿]] |駅間A = 1.3 |駅間B = 1.4 |次の駅 = [[高田馬場駅|高田馬場]] JY 15 |所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |所属路線 = {{color|#9acd32|■}}[[山手線]] |駅番号 = {{駅番号r|JY|16|#9acd32|1}} |キロ程 = 11.9 |起点駅 = [[品川駅|品川]] |所在地 = [[東京都]][[新宿区]][[百人町]]一丁目10-15 |座標 = {{coord|35|42|4.7|N|139|42|0.2|E|region:JP-14_type:railwaystation|display=inline,title}} |駅構造 = [[高架駅]] |ホーム = 1面2線 |乗車人員 = 43,552 |統計年度 = 2022年 |開業年月日 = [[1914年]]([[大正]]3年)[[11月15日]] |備考 = {{Plainlist| * [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]<ref name="outsourcing"/> * [[File:JR area YAMA.svg|15px|山]][[File:JR area KU.svg|15px|区]] [[東京山手線内]]・[[特定都区市内|東京都区内]]駅}} }} '''新大久保駅'''(しんおおくぼえき)は、[[東京都]][[新宿区]][[百人町]]一丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[山手線]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''JY 16'''。 == 概要 == 当駅には[[環状線]]としての山手線電車のみが停車し、[[山手線#山手貨物線|山手貨物線]]を走行する[[埼京線]]・[[湘南新宿ライン]]やその他の列車は停車しない。また、[[特定都区市内]]制度における「[[特定都区市内#設定区域一覧|東京都区内]]」および「[[東京山手線内]]」に属している。 [[西武新宿駅]] - 高田馬場駅間で並走する[[西武鉄道]][[西武新宿線|新宿線]]も、山手貨物線の東側を通過している。 山手線の単独駅は当駅と[[目白駅]]のみである。 == 歴史 == [[File:Shin-Ōkubo Station.19630626.jpg|thumb|right|新大久保駅周辺の白黒空中写真(1963年6月26日撮影)<br />{{国土航空写真}}]] * [[1914年]]([[大正]]3年)[[11月15日]]:[[鉄道院]]の駅(山手線所属)として開業<ref name="kanpo1922">[{{NDLDC|2952789/1}} 「鉄道院告示第105号」『官報』1914年11月9日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。旅客営業のみ。 * [[1987年]]([[昭和]]62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅(山手線所属)となる。 * [[1992年]]([[平成]]4年)[[10月28日]]:[[自動改札機]]を導入<ref group="新聞" name="kotsu19921031">{{Cite news |title=東京近郊ほぼ全駅に自動改札機設置 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1992-10-31 |page=1 }}</ref>。 * [[2001年]](平成13年) ** [[1月26日]]:当駅の構内で[[新大久保駅乗客転落事故]]が発生<ref group="新聞">{{Cite news|title=JR新大久保駅 3人はねられ死亡 線路転落、救助の2人も|newspaper=[[読売新聞]]|publisher=[[読売新聞社]]|date=2001-01-27|page=1(朝刊)}}</ref>。後に利用客転落時における事故防止のための転落検知マットやホームに上がるためのステップがホーム下に新設される<ref group="新聞" name="交通2001-06">{{Cite news |title=新大久保駅に退避スペース |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2001-06-22 |page=3 }}</ref>。 ** [[6月21日]]:転落時にホーム下へ逃げ込む退避所の設置工事を開始する<ref group="新聞" name="交通2001-06"/>。 ** [[11月18日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-23|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。 ** [[12月22日]]:ホーム下の退避所が完成し、報道公開される<ref group="新聞">{{Cite news |title=3人死亡事故のJR山手線・新大久保駅 「退避スペース」完成 |newspaper=[[読売新聞]] |publisher=[[読売新聞東京本社]] |date=2001-12-22 |page=18(夕刊) }}</ref>。 * [[2005年]](平成17年)[[3月]]:階段に[[階段昇降機|昇降機]]が設置される<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jcp-shinjuku.com/parliament_act/2014年第2回定例会%E3%80%80一般質問/|title=JR新大久保駅の段差解消についてについて|accessdate=2019年2月14日|publisher=日本共産党 新宿区議団}}</ref>。 * [[2009年]](平成21年)[[1月23日]]:[[みどりの窓口]]の営業を終了。 * [[2013年]](平成25年)[[9月28日]]:[[ホームドア]]の使用を開始<ref>[http://blog.livedoor.jp/ouensitemasu/archives/52071791.html JR新大久保駅ホームドア使用開始と点字案内表示]</ref>。 * [[2020年]]([[令和]]2年) ** [[2月9日]]:[[エレベーター]]の使用を開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://cityup.jp/info/2020/06/2653/|title=新大久保駅が新しく生まれ変わります ~山手線を起点に、個性的で心豊かな都市生活空間を創造します~|language=日本語|publisher=東日本旅客鉄道|website=[https://cityup.jp/ 生活サービス事業成長ビジョン(NEXT10)PRサイト]|date=2020-06-19|accessdate=2020-06-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200620060657/https://cityup.jp/info/2020/06/2653/|archivedate=2020-06-20}}</ref>。 ** [[12月1日]]:業務委託化<ref name="outsourcing">{{Cite web|和書|url=http://jrtu-tokyo.sakura.ne.jp/job/negonews/negonews_no19.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200801130924/http://jrtu-tokyo.sakura.ne.jp/job/negonews/negonews_no19.pdf|title=2020年度営業関係施策(その2)提案うける!|archivedate=2020-08-01|date=2020-07-29|accessdate=2020-08-01|publisher=東日本ユニオン東京地本|format=PDF|language=日本語}}</ref>。 * [[2021年]](令和3年)[[3月28日]]:フードラボ「Kimchi,Durian,Cardamom,,,」が開業<ref group="報道" name="pr20210216">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/tokyo/20210216_t03.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210216071535/https://www.jreast.co.jp/press/2020/tokyo/20210216_t03.pdf|format=PDF|language=日本語|title=新大久保駅直上にJR東日本初のフードラボ誕生! 〜”食”に関わる様々な人が集い、楽しむ。「新しい食文化」と「食を通じた新たなライフスタイル」提案の実験場〜|publisher=東日本旅客鉄道東京支社|date=2021-02-16|accessdate=2021-02-16|archivedate=2021-02-16}}</ref><ref group="報道" name="press20210323">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/tokyo/20210323_t01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210323050220/https://www.jreast.co.jp/press/2020/tokyo/20210323_t01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=新大久保駅直上のフードラボ「Kimchi,Durian,Cardamom,,,」いよいよオープン! 〜オープニング企画として3階シェアダイニングにてポップアップショップを展開します〜|publisher=東日本旅客鉄道東京支社|date=2021-03-23|accessdate=2021-03-23|archivedate=2021-03-23}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://japan.cnet.com/article/35168497/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210330022616/https://japan.cnet.com/article/35168497/|title=JR東日本、なぜ新大久保駅上にフードラボなのか--「Kimchi, Durian, Cardamom,,,」開業|date=2021-03-29|publisher=朝日インタラクティブ|website=[https://japan.cnet.com/ CNET Japan]|accessdate=2021-03-30|archivedate=2021-03-30}}</ref>。 == 駅構造 == [[JR東日本ステーションサービス]]が駅業務を受託している[[新宿駅]]管理の[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]<ref name="outsourcing"/>。[[島式ホーム]]1面2線の[[高架駅]]である。改札口は2か所あり、そのうち1か所は出口専用(ICカード専用)となっている<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/tokyo/20190521_to01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190530233600/https://www.jreast.co.jp/press/2019/tokyo/20190521_to01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=新大久保駅の更なる利便性向上に向けた改札口の追加整備について|publisher=東日本旅客鉄道東京支社|date=2019-05-21|accessdate=2020-06-22|archivedate=2019-05-30}}</ref>。 [[2021年]][[3月28日]]には当駅舎の3・4階<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/tokyomovinground/contents/interaction/043.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201108084527/https://www.jreast.co.jp/tokyomovinground/contents/interaction/043.html|title=新大久保フードラボ(仮称)|archivedate=2020-11-08|accessdate=2020-11-08|publisher=東日本旅客鉄道|website=[https://www.jreast.co.jp/tokyomovinground/ TOKYO MOVING ROUND 東京感動線オフィシャルサイト]|language=日本語}}</ref>に「食」に関わる交流拠点「Kimchi,Durian,Cardamom,,,」が開業している<ref group="報道" name="pr20210216" /><ref group="報道" name="press20210323" />{{Refnest|group="注釈"|当初は2020年夏の開業が予定されていたが<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2018/20181008.pdf|title=山手線を起点に、個性的で心豊かな都市生活空間を創造します ~世界に誇れる沿線づくりの実現に向けたプロジェクト始動~|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2018-10-15|accessdate=2020-06-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200630052054/https://www.jreast.co.jp/press/2018/20181008.pdf|archivedate=2020-06-30}}</ref>、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)]]の拡大を理由に開業時期が延期された<ref group="報道" name="press/20200630_1_to">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/tokyo/20200630_1_to.pdf|title=新大久保駅の「食」に関わる交流拠点の開業延期のお知らせ|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道東京支社|date=2020-06-30|accessdate=2020-06-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200630052103/https://www.jreast.co.jp/press/2020/tokyo/20200630_1_to.pdf|archivedate=2020-06-30}}</ref>。}}。 当駅周辺に[[日本語学校]]が多くあり、通学する留学生の利用が多いことなどから、24カ国語で構内放送を流している<ref group="新聞">{{Cite news|url=http://www.asahi.com/area/tokyo/articles/MTW20151210131190001.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200605125928/http://www.asahi.com/area/tokyo/articles/MTW20151210131190001.html|title=大久保…多文化の街(2)|newspaper=朝日新聞|date=2015-12-10|accessdate=2020-06-05|archivedate=2020-06-05}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|[[日本語]]、[[英語]]、[[朝鮮語|韓国語]]、[[中国語]]、[[広東語]]、[[ベトナム語]]、[[ヒンディー語]]、[[タイ語]]、[[インドネシア語]]、[[フィリピン語]]、[[イタリア語]]、[[フランス語]]、[[ポルトガル語]]、[[スペイン語]]、[[カタルーニャ語]]、[[バスク語]]、[[ドイツ語]]、[[スイスドイツ語]]、[[オランダ語]]、[[スウェーデン語]]、[[ノルウェー語]]、[[ポーランド語]]、[[ロシア語]]、[[チェコ語]]}}。 === のりば === <!--方面表記は、JR東日本の「駅構内図」の記載に準拠--> {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先 |- !1 |rowspan="2"|[[File:JR JY line symbol.svg|15px]] 山手線 |style="text-align:center"|外回り |[[池袋駅|池袋]]・[[田端駅|田端]]・[[上野駅|上野]]方面 |- !2 |style="text-align:center"|内回り |[[新宿駅|新宿]]・[[渋谷駅|渋谷]]・[[品川駅|品川]]方面 |} (出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/857.html JR東日本:駅構内図]) <gallery> Shinookubo_sta1.jpg|旧駅舎(2007年8月) JRE Shin-Okubo-STA Gate.jpg|改札口(2022年12月) JRE Shin-Okubo-STA Exit-Only-Gate.jpg|出口専用改札口(2022年12月) JRE Shin-Okubo-STA Platform1-2.jpg|ホーム(2022年12月) </gallery> == 利用状況 == [[2022年]](令和4年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''43,552人'''である<ref group="利用客数">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員] - JR東日本</ref>。JR東日本管内全体では[[関内駅]]に次いで第95位。 [[1990年代]]半ばから横ばいが続いていたが、2010年代から増加に転じている。大久保駅よりも当駅の方が利用者が多い。 近年の1日平均'''乗車'''人員の推移は下記の通り。山手線単独駅では最も利用者が多い。 <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref><ref group="統計">[https://www.city.shinjuku.lg.jp/kusei/kikaku01_001004.html 新宿区の概況] - 新宿区</ref> !年度 !1日平均<br />乗車人員 !出典 |- |1990年(平成{{0}}2年) |36,367 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成2年)]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) |37,191 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成3年)]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) |38,167 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) |37,679 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 東京都統計年鑑(平成5年)]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) |36,405 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 東京都統計年鑑(平成6年)]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |35,893 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |35,668 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) |35,423 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref> |- |1998年(平成10年) |35,230 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref> |- |1999年(平成11年) |34,708 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref> |- |2000年(平成12年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000_01.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>34,155 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref> |- |2001年(平成13年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001_01.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>33,427 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002_01.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>33,454 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003_01.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>33,369 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref> |- |2004年(平成16年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004_01.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>33,630 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref> |- |2005年(平成17年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005_01.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>34,104 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref> |- |2006年(平成18年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006_01.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>34,791 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref> |- |2007年(平成19年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007_01.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>36,133 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref> |- |2008年(平成20年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008_01.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>35,165 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref> |- |2009年(平成21年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009_01.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>34,783 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref> |- |2010年(平成22年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010_01.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>37,344 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref> |- |2011年(平成23年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011_01.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>42,433 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成23年)]</ref> |- |2012年(平成24年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012_01.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>41,545 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成24年)]</ref> |- |2013年(平成25年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013_01.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>39,629 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成25年)]</ref> |- |2014年(平成26年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014_01.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>39,814 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成26年)]</ref> |- |2015年(平成27年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015_01.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>41,746 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成27年)]</ref> |- |2016年(平成28年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016_01.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>43,929 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成28年)]</ref> |- |2017年(平成29年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>48,220 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成29年)]</ref> |- |2018年(平成30年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>51,438 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成30年)]</ref> |- |2019年(令和元年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>49,438 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020_01.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>31,259 | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>35,722 | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>43,552 | |} == 駅周辺 == {{See also|大久保 (新宿区)|百人町}} 駅前には大久保通り([[東京都道433号神楽坂高円寺線]])が通り、[[大久保駅 (東京都)|大久保駅]]まで約300メートル。 駅西側の百人町は昔から楽器店が多い事で著名。また、アジアの色々な地域の民族料理店も多く立地する。 駅東側は朝鮮料理店や[[韓流]]グッズ店が連なる東京の[[コリア・タウン]]として有名である。 == バス路線 == <!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> 当駅西側大久保通り沿いに設置されている「新大久保駅前」停留所にて、[[都営バス]]の以下の路線が発着する。 * [[都営バス小滝橋営業所#飯62系統|飯62]]:[[飯田橋駅|都営飯田橋駅前]]行(東行)/[[都営バス小滝橋営業所|小滝橋車庫前]]行(西行) * [[都営バス小滝橋営業所#橋63系統|橋63]]:[[新橋駅|新橋駅前]]行・[[国立国際医療研究センター|国立国際医療センター前]]行(東行)/小滝橋車庫前行(西行) * 橋63急行:[[統計局]](東行・平日朝のみ運行) == 隣の駅 == ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) : [[File:JR JY line symbol.svg|15px]] 山手線 :: [[新宿駅]] (JY 17) - '''新大久保駅 (JY 16)''' - [[高田馬場駅]] (JY 15) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === ==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注釈"}} ==== 出典 ==== {{Reflist|2}} ===== 報道発表資料 ===== {{Reflist|group="報道"|2}} ===== 新聞記事 ===== {{Reflist|group="新聞"}} === 利用状況 === ; JRの1日平均利用客数 {{Reflist|group="利用客数"}} ; JR東日本の2000年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|22em}} ; JRの統計データ {{Reflist|group="統計"}} ; 東京都統計年鑑 {{Reflist|group="*"|22em}} == 関連項目 == {{commonscat|Shin-Ōkubo Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[三遊亭圓歌 (3代目)|三遊亭圓歌]](3代目) - [[落語家]]。「授業中(山のあな)」、「中沢家の人々」などのネタで有名。落語界に転身する前に当駅に勤務していた。 * [[あなたを忘れない]] - 当駅での事故で死亡した韓国人留学生を題材として[[2007年]]に公開された日韓合作映画。 * [[新大久保清]]([[たけし軍団]])-お笑い芸人で、師匠の[[ビートたけし]]が当駅の名前を付けた。 == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=857|name=新大久保}} {{山手線}} {{DEFAULTSORT:しんおおくほ}} [[Category:新宿区の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 し|んおおくほ]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:山手線]] [[Category:1914年開業の鉄道駅]] [[Category:大久保 (新宿区)]]
2003-05-11T07:40:57Z
2023-12-11T17:08:44Z
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8,034
高田馬場駅
高田馬場駅(たかだのばばえき)は、東京都新宿区高田馬場一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・西武鉄道・東京地下鉄(東京メトロ)の駅である。 JR東日本の山手線、西武鉄道の新宿線、東京メトロの東西線が乗り入れ、接続駅となっている。なお、山手貨物線を走行する埼京線・湘南新宿ラインやその他の列車は停車しない。 駅名は、赤穂浪士四十七士の一人、堀部武庸の伝説となっている高田馬場の決闘(1694年)があったことで知られ、現在では講談などの題材となっている「高田馬場(たかたのばば)」から取られた。地元では、当時の地名からとって「上戸塚駅」「諏訪之森駅」を希望する声もあったが、すでに神奈川県の戸塚駅があったので、戸塚で一番有名な高田馬場の名前を駅名にしたという。読み方を「たかたのばば」ではなく「たかだのばば」としたのは、駅が本来の馬場と離れているので、わざと濁らせたという話が伝わっている。 現在、当駅周辺の町名は「高田馬場」と称されているが、これは1975年(昭和50年)の住居表示実施時に、高田馬場駅が所在することに倣って、当駅周辺の町名を「高田馬場」に合わせたものである。実際には、史実の「高田馬場」は、西早稲田三丁目にあったと伝えられ、当駅からは若干の距離がある。 JR東日本ステーションサービスが駅業務を受託している新宿駅管理の業務委託駅である。みどりの窓口・多機能券売機・指定席券売機が設置されている。 島式ホーム1面2線を有する高架駅である。改札口は北寄りの早稲田口と南端の戸山口の2か所が設けられている。このうち、戸山口にはお客さまサポートコールシステムが導入されており、早朝・深夜は遠隔対応のため改札係員は不在となる。その他、ホームの中央にある跨線橋と早稲田口には西武線との乗り換え専用口がある。跨線橋にはJR線、西武線どちらにも切符売り場があり西武鉄道が管理している。早稲田口は自動改札機の設置のみである。エスカレーターとエレベーターは早稲田口とホームを連絡している。 高架下には手塚治虫の漫画作品キャラクターを並べた壁画がある。これは高架下が暗いため、地元の商店街が中心となって完成にこぎ着けたものだが、リニューアルに伴い2005年に撤去された。その後、2008年にリニューアルが完成し、同年4月5日に壁画が復活した。JR高架下の壁画のタイトルは『ガラスの地球を救え』である。 トイレは1階早稲田口改札口内に設置されている。2006年に全面的に改修され、多機能トイレが追加された。 山手線の線路の隣には埼京線や湘南新宿ラインなどが走行する山手貨物線の線路が通っているものの、こちらにはホームは設置されていない。地元からは埼京線などの停車要求が日本国有鉄道(国鉄)時代からあるものの、ホームの用地確保ができないことやJR側へのメリットの少なさを理由に実現していない。 ホーム幅員が狭く、特に平日朝ラッシュ時の内回りは混雑する。また2012年以降は、駅改良工事と同時にホームドアの設置工事も行われている。 2020年8月26日に、泊まれる本屋「BOOK AND BED TOKYO」を展開するアトリエブックアンドベッドの新業態であるカフェ「STAND by bookandbedtokyo」が早稲田口改札前にオープンしている。 (出典:JR東日本:駅構内図) 2003年3月1日より、アニメ『鉄腕アトム』の第一シリーズのテーマ曲を発車メロディとして使用している。これは手塚治虫が社長を務めた手塚プロダクションが高田馬場にあることと、キャラクターの一人であるお茶の水博士が長官を務める「科学省」が高田馬場にあったという設定から、高田馬場西商店街振興組合がJR東日本に要望し、実現したものである。メロディの制作はスイッチが担当し、編曲は櫻井隆仁が手掛けた。当初は期間限定使用の予定であったが、その後も引き続き使用されている。 2面2線の高架駅で、このうち1面は上りのみ単式ホームで、もう1面は上下線共用の島式ホームになっている。PASMO・Suicaなどで印字される履歴表示は「西武馬場」である。かつてのパスネットの出場印字には「SB馬」もあった。 開業当初は新宿線の起点で、駅の南側(現在の西武新宿側)に引き上げ線があった。当初は島式ホーム1面2線の形態だったが、1963年から東側に上りホームを新設したため、変則相対式ホームの2面2線となっている。 改札口は早稲田口・ビッグボックス口・戸山口・臨時口(東西線連絡、出口のみ)がある。戸山口は7:00から22:00まで、臨時口は7:00から13:30まで開設している。なお、戸山口は5番ホームに直結しており、3番ホームへは跨線橋を経由することになる。また、JRとの間には早稲田口改札横と跨線橋に連絡改札口がある。1998年より夏季にホーム冷房を行っている。トイレは早稲田口と跨線橋上(3階)にある。多機能トイレは跨線橋側に設置されている。 エスカレーターは早稲田口 - ホーム間とJR線連絡跨線橋 - ホーム間を、エレベーターはビッグボックス口 - ホーム(5番ホームはさらにJR線連絡跨線橋)間をそれぞれ連絡している。 西武新宿線における東京都心部のターミナル駅となっていて、当駅には特急「小江戸」を含む新宿線の全旅客営業列車が停車する。本来、西武新宿線のターミナルは隣の西武新宿駅だが、同駅の位置が新宿駅とは離れた位置にあり、西武新宿線からJR山手線への乗り換えは、西武新宿駅より当駅を利用する方がはるかに便利である。また、地下鉄東西線も接続していることから、当駅の利用者にはJR、地下鉄への乗り換え客が多く含まれ、西武高田馬場駅の乗降人員は304,904人(2017年度)となっている。これは西武新宿駅(2017年度は180,884人)のおよそ1.7倍であり、当駅の停車時分を長めに確保することで多数の乗降客に対応している。また、平日朝ラッシュ時は混雑が著しいため、後に述べるような特別な対応が行われている。 2008年4月5日、JRの高架下とともに手塚治虫の漫画作品キャラクター壁画が設置された。西武高架下の壁画のタイトルは『歴史と文化〜過去から現在そして未来へ〜』である。 駅名標は、日本語・ローマ字とハングルが表記されている。なお、西武鉄道の駅でのハングルの使用は当駅が初めてである。 2012年10月1日より、発車メロディがマルコメのCMソングへ変更されている。これは、当駅の近くに同社の事務所があることによるものである。ただし本社は長野県長野市に所在する。 管区長配置駅であり、「新宿駅管区」として西武新宿駅 - 沼袋駅間の各駅を管理している。 当駅は2面2線の中間駅でありながら、2面3線で始発・終着駅である西武新宿駅と同本数の列車が発着し(西武鉄道の2線構造の駅の中では最多)、1.7倍の利用客がいる。特に朝ラッシュ時は上り(西武新宿行き)列車の降車客で駅構内が非常に混雑する。 前述のように当駅は変則相対式の2面2線という形態で、上り線は2つのホームに挟まれる形態となっていることから、平日の朝ラッシュ時(7:00 - 9:30)に限り、上り列車は5番ホーム側のドアに加えて4番ホーム側のドア扱いを行う。これにより駅構内の混雑緩和のみならず、乗降時分の短縮により後続列車の遅延防止を図っている。2006年に4番ホームは転落防止のため4扉車専用の可動式ホーム柵が設置されたため、柵の可動部とドアの間隔に差異がある3扉車および特急列車は、平日の朝ラッシュ時であっても4番ホーム側のドア扱いを行わない。 (出典:西武鉄道:駅構内図) 中柱のある相対式ホーム2面2線を有する地下駅である。西船橋側に両渡り線がある。落合駅に夜間留置される車両の転線で早朝・深夜に使用されているほか、一部運転見合わせとなった際に当駅で折り返す際に使用される。かつて当駅折り返しの列車が設定されていた頃にも使用されていた。 改札口は3か所あり、中野側の2か所はJR・西武の早稲田口近くと駅前ロータリー東側の2か所の出入口につながり、西船橋側の1か所は早稲田通りの出入口につながる。エレベーターは、専用出入口が駅前ロータリー上にあり、中野寄りの改札口と連絡している。 1987年から1994年にかけて、最も落合寄りの改札口の統合や新設と落合寄りホーム幅員の拡幅および出入口の新設などの駅改良工事を行った。これにより、従来4 m程度であったホーム幅は中野方面ホームが最大7 m、西船橋方面ホームが最大9 mにまで拡幅された。トイレは西改札口外と東改札口内にあり、多機能トイレを併設している。オストメイト対応設備は双方のトイレに設置されている。駅ナカ施設として、高田馬場メトロピアを併設している。 2018年3月にホームドアが設置され、6月8日から稼働を開始した。東西線でのホームドアの設置は九段下駅に続き2駅目である。 当駅は、「飯田橋駅務管区高田馬場地域」として近隣の駅を管理している。 (出典:東京メトロ:構内立体図) 2015年5月24日から向谷実作曲の発車メロディ(発車サイン音)を使用している。 曲は1番線が「A Day in the METRO」、2番線が「Beyond the Metropolis」である(詳細は東京メトロ東西線#発車メロディを参照)。 2017年度における各社合計の1日平均乗降人員は約93万人で、年間に直すと約3億4000万人となる。 各年度の1日平均乗降人員は下表の通り。 各年度の1日平均乗車人員は下表の通り。 駅前は早稲田大学に通じる早稲田通りで、学生街でもある。早稲田通り沿いは、学生向けの飲食店や古本屋などが多く立地する。また、周辺には専門学校も多い。早稲田口の東側にはロータリーがあり、タクシーや早大正門行などの都営バスが発着する。ロータリー南側にはBIG BOX、東側には芳林堂書店などが入ったFIビル、北側には飲食店が入った稲門ビルがある。早稲田口西側、JR山手線の外側には、飲み屋街である栄通りがある。 なお、当駅より南東へ徒歩10分ほどの所には、東京メトロ副都心線の西早稲田駅があるが、連絡運輸は行っていない。 百01系統(関東バス)を除き、全て都営バスの運行。停留所名は都営バスが高田馬場駅前、関東バスが高田馬場駅。
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高田馬場駅(たかだのばばえき)は、東京都新宿区高田馬場一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・西武鉄道・東京地下鉄(東京メトロ)の駅である。
{{混同|高見馬場停留場|x1=鹿児島県鹿児島市にある鹿児島市交通局の停留場である}} {{駅情報 |社色 = |文字色 = |駅名 = 高田馬場駅 |画像 = Takadanobaba-Sta-Waseda.JPG |pxl = 300 |画像説明 = 早稲田口(2008年8月) |地図 = {{maplink2|frame=yes|zoom=15|frame-width=300|plain=yes|frame-align=center |type=point|type2=point|type3=point |marker=rail|marker2=rail|marker3=rail-metro |coord={{coord|35|42|44|N|139|42|13.5|E}}|marker-color=008000|title=JR 高田馬場駅 |coord2={{coord|35|42|47|N|139|42|14.6|E}}|marker-color2=36C|title2=西武 高田馬場駅 |coord3={{coord|35|42|49.3|N|139|42|14.8|E}}|marker-color3=009bbf|title3=東京メトロ 高田馬場駅 |frame-latitude=35.713056|frame-longitude=139.704056 }} |よみがな = たかだのばば |ローマ字 = Takadanobaba |電報略号 = |所属事業者= {{Plainlist| * [[東日本旅客鉄道]](JR東日本・[[#JR東日本|駅詳細]]) * [[西武鉄道]]([[#西武鉄道|駅詳細]]) * [[東京地下鉄]](東京メトロ・[[#東京メトロ|駅詳細]])}} |所在地 = [[東京都]][[新宿区]][[高田馬場]]一丁目 }}{{座標一覧}} '''高田馬場駅'''(たかだのばばえき)は、[[東京都]][[新宿区]][[高田馬場]]一丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[西武鉄道]]・[[東京地下鉄]](東京メトロ)の[[鉄道駅|駅]]である。 == 乗り入れ路線 == JR東日本の[[山手線]]、西武鉄道の[[西武新宿線|新宿線]]、東京メトロの[[東京メトロ東西線|東西線]]が乗り入れ、接続駅となっている。なお、[[山手線#山手貨物線|山手貨物線]]を走行する[[埼京線]]・[[湘南新宿ライン]]やその他の列車は停車しない。 * JR東日本:[[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] [[山手線]] - [[電車線・列車線|電車線]]で運行される[[環状線]]としての山手線電車のみが停車し、それ以外の列車は通過する。また、[[特定都区市内]]制度における「[[特定都区市内#設定区域一覧|東京都区内]]」および「[[東京山手線内]]」に属している。 - 駅番号「'''JY 15'''」 * 西武鉄道:[[File:SeibuShinjuku.svg|18px|SS]] [[西武新宿線|新宿線]] - 新宿線の起点である[[西武新宿駅]]がJRや地下鉄が乗り入れている[[新宿駅]]と500&nbsp;[[メートル|m]]ほど離れていて乗り換えが不便なため、他路線との乗り換えが容易な当駅が実質的な[[ターミナル駅]]となっている。[[小平駅]]から[[西武拝島線|拝島線]]への直通運転も行っている。 - 駅番号「'''SS02'''」 * 東京メトロ:[[File:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|15px|T]] [[東京メトロ東西線|東西線]] - [[中野駅 (東京都)|中野駅]]方面の列車は[[中央・総武緩行線|中央線(各駅停車)]]と直通運転しており、[[西船橋駅]]方面の列車は[[東葉高速鉄道東葉高速線|東葉高速線]]への直通運転を行っている他、平日の朝夕ラッシュ時のみ[[津田沼駅]]まで総武線(各駅停車)への直通も行っている。 - 駅番号「'''T 03'''」 == 歴史 == [[File:Takadanobaba Station.19630626.jpg|thumb|高田馬場駅周辺の白黒空中写真(1963年6月26日撮影)<br />{{国土航空写真}}]] * [[1910年]]([[明治]]43年)[[9月15日]]:[[鉄道院]]山手線の駅として開業。 * [[1927年]]([[昭和]]2年)[[4月16日]]:西武鉄道の駅が、山手線と立体交差する手前に仮駅として開業。 * [[1928年]](昭和3年)[[4月15日]]:西武鉄道の駅を山手線東側の現在の位置に移設。 * [[1945年]](昭和20年)[[4月13日]]:[[太平洋戦争]]中に[[アメリカ軍]]の[[東京大空襲#その後の空襲|空襲]]を受け、駅舎を全焼。 * [[1963年]](昭和38年):西武鉄道の駅で上りホームを新設。従来のホームは下りホームとなり、上りホームは臨時降車ホームとなる。 * [[1964年]](昭和39年)[[12月23日]]:[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)東西線の駅が開業<ref name="eidan_583">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.583。</ref>。 * [[1987年]](昭和62年) ** 3月:ホーム・コンコース等の拡幅等の東西線駅改良工事に着手<ref name="eidan_236">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.236。</ref>。 ** [[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、国鉄の駅は東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる。 * [[1988年]](昭和63年)[[10月24日]]:[[山本克忠]][[新宿区]]長を会長とする新都心通勤交通網整備促進同盟(1980年)が全国8位の1日あたり66万人の乗降客がある本駅への[[埼京線]]の停車を[[小渕恵三]][[内閣官房長官]]に陳情<ref group="新聞">{{Cite news|title=埼京線 高田馬場にも停車を 新都心交通網整備促進同盟が小渕官房長官へ陳情|newspaper=読売新聞|publisher=読売新聞|date=1988-10-25|page=26 東京朝刊}}</ref>。 * [[1991年]]([[平成]]5年)[[2月23日]]:JR東日本の戸山口に[[自動改札機]]を設置<ref name=JRR1991>{{Cite book|和書 |date=1991-08-01 |title=JR気動車客車編成表 '91年版 |chapter=JR年表 |page=192 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-112-0}}</ref>。 * [[1994年]](平成6年) ** [[2月10日]]:JR東日本の早稲田口に自動改札機を設置<ref>{{Cite book|和書 |date=1994-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '94年版 |chapter=JR年表 |page=187 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-115-5}}</ref>。 ** 6月:東西線駅改良工事が終了<ref name="eidan_236" />。総工費約53億8000万円<ref name="eidan_236" />。 * [[1998年]](平成10年):西武鉄道の駅舎を改修。跨線橋の乗り換え改札を大改修し、ホームにあった[[自動精算機]]は2階の乗り換え改札口へ移設、ホームの冷房使用開始。 * [[2001年]](平成13年) ** [[3月10日]]:西武鉄道の改修工事が完了し、戸山口を新設<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.seibu-group.co.jp/railways/kouhou/news/babakoji.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20010417030042/http://www.seibu-group.co.jp/railways/kouhou/news/babakoji.html|language=日本語|title=7年の歳月をかけてバリアフリー化 高田馬場駅の駅舎改良工事が完成 ◎3月10日(土)、新改札口(戸山口)を開設 ◎3月1日(木)、JR連絡口改札にお客様案内用オープンカウンターを設置|publisher=西武鉄道|date=2001-02-21|accessdate=2022-04-03|archivedate=2001-04-17}}</ref><ref group="新聞" name="交通2001">{{Cite news |title=高田馬場駅南に新改札 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2001-02-26 |page=6 }}</ref>。 ** [[11月18日]]:JR東日本で[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-23|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。 * [[2003年]](平成15年)[[3月1日]]:山手線の[[発車メロディ]]が『鉄腕アトム』(旧シリーズ)のテーマ曲となる<ref>{{Cite journal|和書 |title=鉄道記録帳2003年3月 |journal = RAIL FAN |date = 2003-06-01 |issue = 6 |volume = 50 |publisher = 鉄道友の会 |pages = 18 }}</ref>。 * [[2004年]](平成16年)4月1日:帝都高速度交通営団(営団地下鉄)民営化に伴い、東西線の駅は東京地下鉄(東京メトロ)に継承される<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060708164650/https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|language=日本語|title=「営団地下鉄」から「東京メトロ」へ|publisher=営団地下鉄|date=2004-01-27|accessdate=2020-03-25|archivedate=2006-07-08}}</ref>。 * [[2005年]](平成17年)[[10月26日]]:高田馬場メトロピア(4店舗)が開業。 * [[2006年]](平成18年):山手線のホームにエレベーターを設置。 * [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:西武鉄道・東京メトロで[[ICカード]]「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-05|archivedate=2020-05-01}}</ref>。 * [[2008年]](平成20年)[[4月5日]]:早稲田口のJR・西武線高架下に手塚治虫のキャラクター壁画が完成。 * [[2012年]](平成24年)[[10月1日]]:西武新宿線の発車メロディが[[マルコメ]]のCMソングとなる<ref group="報道" name="marukome">{{Cite press release|和書|url=http://www.marukome.co.jp/company/press/2012/autumn/120927.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130512010214/http://www.marukome.co.jp/company/press/2012/autumn/120927.html|language=日本語|title=地元を象徴するメロディとして西武新宿線・高田馬場駅のホーム発車メロディがマルコメCMソングに! 10月1日(月)より|publisher=マルコメ|date=2012-09-28|accessdate=2020-07-09|archivedate=2013-05-12}}</ref>。 * [[2015年]](平成27年)[[5月24日]]:東京メトロ東西線に発車メロディを導入<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20150325_T29.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180630161536/http://www.tokyometro.jp/news/2015/article_pdf/metroNews20150325_T29.pdf|format=PDF|language=日本語|title=九段下駅「大きな玉ねぎの下で〜はるかなる想い〜」日本橋駅「お江戸日本橋」採用 東西線に発車メロディを導入します!|publisher=東京地下鉄|date=2015-03-25|accessdate=2020-03-11|archivedate=2018-06-30}}</ref>。 * [[2019年]]([[令和]]元年)[[11月1日]]:JR東日本の駅が業務委託化<ref name="2019-11-01">{{Cite web|和書|url=http://jrtu-tokyo.sakura.ne.jp/job/jobfiles/2019eigyou_no2.html |title=2019年度営業関係施策(その2)|accessdate=2019-11-01|publisher=東日本ユニオン東京地本|archivedate=2019-11-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191101011144/http://jrtu-tokyo.sakura.ne.jp/job/jobfiles/2019eigyou_no2.html}}</ref>。 * [[2020年]](令和2年)[[9月16日]]:西武鉄道の3番線で[[ホームドア]]の使用を開始<ref group="報道" name="pr20200909">{{Cite press release|和書|url=https://www.seiburailway.jp/news/news-release/20200909_takadanobaba_homedoor.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200909061249/https://www.seiburailway.jp/news/news-release/20200909_takadanobaba_homedoor.pdf|format=PDF|language=日本語|title=駅ホームにおける安全性向上 高田馬場駅3番ホームにおいてホームドアの使用を開始します 4番・5番ホームについても2020年度中に順次設置します|publisher=西武鉄道|date=2020-09-09|accessdate=2020-09-14|archivedate=2020-09-09}}</ref>。 * [[2024年]](令和6年) ** [[2月9日]]:[[みどりの窓口]]の営業を終了(予定)<ref name="StationCd=938_231214">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=938|title=駅の情報(高田馬場駅):JR東日本|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-12-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231214081952/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=938|archivedate=2023-12-14}}</ref>。 ** 2月10日:[[指定席券売機#アシストマルス|話せる指定席券売機]]を導入(予定)<ref name="StationCd=938_231214" />。 === 駅名の由来 === 駅名は、[[赤穂浪士]]四十七士の一人、[[堀部武庸]]の伝説となっている[[高田馬場の決闘]]([[1694年]])があったことで知られ、現在では[[講談]]などの題材となっている「高田馬場(たか'''た'''のばば)」から取られた。地元では、当時の地名からとって「上戸塚駅」「諏訪之森駅」を希望する声もあったが<ref>戸塚町誌刊行会 『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176223/117 戸塚町誌]』 1931年、193頁</ref>、すでに[[神奈川県]]の[[戸塚駅]]があったので、戸塚で一番有名な高田馬場の名前を駅名にしたという。読み方を「たかたのばば」ではなく「たかだのばば」としたのは、駅が本来の馬場と離れているので、わざと濁らせたという話が伝わっている<ref>下戸塚研究会 『下戸塚:我が町の詩』 1976年、25頁</ref>。 現在、当駅周辺の町名は「高田馬場」と称されているが、これは[[1975年]](昭和50年)の[[住居表示]]実施時に、高田馬場駅が所在することに倣って、当駅周辺の町名を「高田馬場」に合わせたものである。実際には、史実の「高田馬場」は、西早稲田三丁目にあったと伝えられ、当駅からは若干の距離がある。 == 駅構造 == === JR東日本 === {{駅情報 |社色 = green |文字色 = |駅名 = JR 高田馬場駅 |画像 = JRE Takadanobaba-STA Platform1-2.jpg |pxl = 300 |画像説明 = ホーム(2022年12月) |よみがな = たかだのばば |ローマ字 = Takadanobaba |所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |所属路線 = {{color|#9acd32|■}}[[山手線]] |所在地 = [[東京都]][[新宿区]][[高田馬場]]一丁目35-1 |座標 = {{coord|35|42|44|N|139|42|13.5|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title|name=JR 高田馬場駅}} |前の駅 = JY 16 [[新大久保駅|新大久保]] |駅間A = 1.4 |駅間B = 0.9 |次の駅 = [[目白駅|目白]] JY 14 |電報略号 = ハハ |駅番号 = {{駅番号r|JY|15|#9acd32|1}} |キロ程 = 13.3 |起点駅 = [[品川駅|品川]] |駅構造 = [[高架駅]] |ホーム = 1面2線 |開業年月日 = [[1910年]]([[明治]]43年)[[9月15日]] |廃止年月日 = |乗車人員 = 167,265 |統計年度 = 2022年<!--リンク不要--> |乗換 = |備考 = {{Plainlist| * [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]<ref name="2019-11-01"/> * [[みどりの窓口]] 有<!-- ←除去する場合は、営業終了日時(2024年2月9日19:00)経過後 --> * [[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]導入駅{{Refnest|group="*"|戸山口に導入<ref name="StationCd=938_231214" />。}}<ref name="StationCd=938_231214" /> <!-- * [[指定席券売機#アシストマルス|話せる指定席券売機]]設置駅<ref name="StationCd=938_231214" /> --><!-- ←反映する場合は、導入開始日時(2024年2月10日始発〔内回り4:38発〕)経過後 --> * [[File:JR area YAMA.svg|15px|山]][[File:JR area KU.svg|15px|区]] [[東京山手線内]]・[[特定都区市内|東京都区内]]駅}} |備考全幅 = {{Reflist|group="*"}} }} [[JR東日本ステーションサービス]]が駅業務を受託している[[新宿駅]]管理の[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]である<ref name="2019-11-01"/>。[[みどりの窓口]]<!-- ←除去する場合は、営業終了日時(2024年2月9日19:00)経過後 -->・多機能券売機・[[指定席券売機]]<!--・[[指定席券売機#アシストマルス|話せる指定席券売機]] --><!-- ←反映する場合は、導入開始日時(2024年2月10日始発〔内回り4:38発〕)経過後 -->が設置されている<ref name="StationCd=938_231214" />。 [[島式ホーム]]1面2線を有する[[高架駅]]である。[[改札|改札口]]は北寄りの早稲田口と南端の戸山口の2か所が設けられている。このうち、戸山口には[[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]が導入されており、早朝・深夜は遠隔対応のため改札係員は不在となる<ref name="StationCd=938_231214" />。その他、ホームの中央にある[[跨線橋]]と早稲田口には西武線との乗り換え専用口がある。跨線橋にはJR線、西武線どちらにも切符売り場があり西武鉄道が管理している。早稲田口は自動改札機の設置のみである。[[エスカレーター]]と[[エレベーター]]は早稲田口とホームを連絡している。 高架下には[[手塚治虫]]の漫画作品キャラクターを並べた[[壁画]]がある。これは高架下が暗いため、地元の[[商店街]]が中心となって完成にこぎ着けたものだが、リニューアルに伴い[[2005年]]に撤去された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.babanishi.com/hekiga/index.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110821033422/http://www.babanishi.com/hekiga/index.html|title=壁画のひみつ|archivedate=2011-08-21|accessdate=2021-07-31|publisher=高田馬場西商店街|language=日本語|deadlinkdate=2021年7月}}</ref>。その後、[[2008年]]にリニューアルが完成し、同年[[4月5日]]に壁画が復活した<ref name="tezuka0804">{{Cite web|和書|url=http://tezukaosamu.net/jp/news/n_19.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170320233412/http://tezukaosamu.net/jp/news/n_19.html|title=高田馬場駅早稲田口に手塚キャラの壁画が完成!|date=2008-04-01|archivedate=2017-03-20|accessdate=2021-07-31|website=[https://tezukaosamu.net/jp/ 手塚治虫 TEZUKA OSAMU OFFICIAL]|language=日本語|deadlinkdate=2021年7月}}</ref>。JR高架下の壁画のタイトルは『[[ガラスの地球を救え]]』である。 [[便所|トイレ]]は1階早稲田口改札口内に設置されている。[[2006年]]に全面的に改修され、多機能トイレが追加された。 山手線の線路の隣には[[埼京線]]や[[湘南新宿ライン]]などが走行する[[山手線#山手貨物線|山手貨物線]]の線路が通っているものの、こちらにはホームは設置されていない。地元からは埼京線などの停車要求が[[日本国有鉄道]](国鉄)時代からあるものの、ホームの用地確保ができないことやJR側へのメリットの少なさを理由に実現していない。 ホーム幅員が狭く、特に平日朝[[ラッシュ時]]の内回りは混雑する。また2012年以降は、駅改良工事と同時にホームドアの設置工事も行われている。 [[2020年]][[8月26日]]に、泊まれる本屋「BOOK AND BED TOKYO」を展開するアトリエブックアンドベッドの新業態であるカフェ「STAND by bookandbedtokyo」が早稲田口改札前にオープンしている<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/tokyo/20200709_to01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200709054719/https://www.jreast.co.jp/press/2020/tokyo/20200709_to01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=山手線 高田馬場駅でまちの個性を活かした駅づくりを行います 〜街の多様性を体現する場として「STAND by bookandbedtokyo」を開業します〜|publisher=東日本旅客鉄道東京支社|date=2020-07-09|accessdate=2020-08-01|archivedate=2020-07-09}}</ref><ref group="報道" name="retail20200709">{{Cite press release|和書|url=https://corp.j-retail.jp/lib/pdf/press_release/9-61-966/200709_ecutenews26.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200709110147/https://corp.j-retail.jp/lib/pdf/press_release/9-61-966/200709_ecutenews26.pdf|format=PDF|language=日本語|title=首都圏エリアの新規開業エキナカ商業空間 開業日・出店ショップ決定のお知らせ|publisher=JR東日本リテールネット|date=2020-07-09|accessdate=2020-08-01|page=7|archivedate=2020-07-09}}</ref>。 ==== のりば ==== <!--方面表記は、JR東日本の「駅構内図」の記載に準拠--> {| class="wikitable" !番線<!-- 事業者での呼称 -->!!路線!!方向!!行先 |- !1 |rowspan="2"|[[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] 山手線 |style="text-align:center;"|外回り |[[池袋駅|池袋]]・[[田端駅|田端]]・[[上野駅|上野]]方面 |- !2 |style="text-align:center;"|内回り |[[新宿駅|新宿]]・[[渋谷駅|渋谷]]・[[品川駅|品川]]方面 |} (出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/938.html JR東日本:駅構内図]) <gallery> Takadanobaba-Sta-JR-Toyama-Ent.JPG|戸山口(2018年9月) JRE Takadanobaba-STA Waseda-Gate.jpg|早稲田口改札(2022年12月) JRE Takadanobaba-STA Toyama-Gate.jpg|戸山口改札(2022年12月) JRE Takadanobaba-STA 1F-Seibu-line-transfer-Gate.jpg|1階西武線乗換改札(2022年12月) JRE Takadanobaba-STA 2F-Seibu-line-transfer-Gate.jpg|2階西武線乗換改札(2022年12月) JRE Takadanobaba-STA Ticket-office.jpg|みどりの窓口(2022年12月) </gallery> ==== 発車メロディ ==== [[2003年]]3月1日より、アニメ『[[鉄腕アトム]]』の第一シリーズのテーマ曲を発車メロディとして使用している。これは手塚治虫が社長を務めた[[手塚プロダクション]]が高田馬場にあることと、キャラクターの一人である[[手塚漫画のキャラクター一覧#お茶の水博士|お茶の水博士]]が長官を務める「科学省」が高田馬場にあったという設定から、高田馬場西商店街振興組合がJR東日本に要望し、実現したものである<ref>{{Cite web|和書|url=http://tezukaosamu.net/jp/news/n_132.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100707075210/http://tezukaosamu.net/jp/news/n_132.html|title=虫さんぽ 第1回:高田馬場・その1|archivedate=2010-07-07|accessdate=2021-07-31|website=[https://tezukaosamu.net/jp/ 手塚治虫 TEZUKA OSAMU OFFICIAL]|language=日本語|deadlinkdate=2021年7月}}</ref>。メロディの制作は[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]が担当し、編曲は[[櫻井隆仁]]が手掛けた<ref>{{Cite web|和書|title=(資)櫻井音楽工房 駅発車メロディー TOP PAGE|url=http://www.s-music.jpn.org/allaboard/index.htm|website=www.s-music.jpn.org|accessdate=2019-08-16|language=ja}}</ref>。当初は期間限定使用の予定であったが<ref group="新聞">[[日本経済新聞]] 2003年2月19日付 朝刊39面</ref>、その後も引き続き使用されている。 {|border="1" cellspacing="0" cellpadding="3" frame="hsides" rules="rows" !1 |[[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] |鉄腕アトムA |- !2 |[[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] |鉄腕アトムB |} === 西武鉄道 === {{駅情報 |社色 = #36C |文字色 = |駅名 = 西武 高田馬場駅 |画像 = Seibu-Takadanobaba-Sta-Platform.JPG |pxl = 300 |画像説明 = ホーム(2010年5月) |よみがな = たかだのばば |ローマ字 = Takadanobaba |所属事業者 = [[西武鉄道]] |所属路線 = {{color|#0099cc|■}}[[西武新宿線|新宿線]] |所在地 = [[東京都]][[新宿区]][[高田馬場]]一丁目35-2 |座標 = {{coord|35|42|47|N|139|42|14.6|E|region:JP_type:railwaystation|name=西武 高田馬場駅}} |前の駅 = SS01 [[西武新宿駅|西武新宿]] |駅間A = 2.0 |駅間B = 1.2 |次の駅 = [[下落合駅|下落合]] SS03 |電報略号 = |駅番号 = {{駅番号r|SS|02|#0099cc|2}} |キロ程 = 2.0 |起点駅 = [[西武新宿駅|西武新宿]]{{Refnest|group="**"|0&nbsp;kmポスト設置は当駅。}} |駅構造 = [[高架駅]] |ホーム = 2面2線 |開業年月日 = [[1927年]]([[昭和]]2年)[[4月16日]] |廃止年月日 = |乗降人員 = <ref group="西武" name="seibu2022" />250,377 |統計年度 = 2022年<!--リンク不要--> |乗換 = |備考 = [[日本の鉄道駅#管理駅|駅務管区所在駅]]<ref name="RP884" /> |備考全幅 = {{Reflist|group="**"}} }} 2面2線の[[高架駅]]で、このうち1面は上りのみ[[単式ホーム]]で、もう1面は上下線共用の島式ホームになっている。[[PASMO]]・[[Suica]]などで印字される履歴表示は「西武馬場」である。かつての[[パスネット]]の出場印字には「SB馬」もあった。 開業当初は新宿線の起点で、駅の南側(現在の西武新宿側)に[[引き上げ線]]があった。当初は島式ホーム1面2線の形態だったが、1963年から東側に上りホームを新設したため、変則[[相対式ホーム]]の2面2線となっている。 改札口は早稲田口・ビッグボックス口・戸山口・臨時口(東西線連絡、出口のみ)がある。戸山口は7:00から22:00まで<ref group="新聞" name="交通2001"/>、臨時口は7:00から13:30まで開設している。なお、戸山口は5番ホームに直結しており、3番ホームへは[[跨線橋]]を経由することになる。また、JRとの間には早稲田口改札横と跨線橋に連絡改札口がある。1998年より夏季にホーム[[エア・コンディショナー|冷房]]を行っている。トイレは早稲田口と跨線橋上(3階)にある。多機能トイレは跨線橋側に設置されている。 エスカレーターは早稲田口 - ホーム間とJR線連絡跨線橋 - ホーム間を、エレベーターはビッグボックス口 - ホーム(5番ホームはさらにJR線連絡跨線橋)間をそれぞれ連絡している。 西武新宿線における東京都心部の[[ターミナル駅]]となっていて、当駅には[[レッドアロー|特急]]「[[小江戸 (列車)|小江戸]]」を含む新宿線の全旅客営業列車が停車する。本来、西武新宿線のターミナルは隣の[[西武新宿駅]]だが、同駅の位置が[[新宿駅]]とは離れた位置にあり、西武新宿線からJR山手線への乗り換えは、西武新宿駅より当駅を利用する方がはるかに便利である。また、地下鉄東西線も接続していることから、当駅の利用者にはJR、地下鉄への乗り換え客が多く含まれ、西武高田馬場駅の[[乗降人員]]は304,904人(2017年度)となっている。これは西武新宿駅(2017年度は180,884人)のおよそ1.7倍であり、当駅の停車時分を長めに確保することで多数の乗降客に対応している。また、平日朝ラッシュ時は混雑が著しいため、後に述べるような特別な対応が行われている。 [[2008年]][[4月5日]]、JRの高架下とともに手塚治虫の漫画作品キャラクター壁画が設置された<ref name="tezuka0804"/>。西武高架下の壁画のタイトルは『歴史と文化〜過去から現在そして未来へ〜』である。 [[駅名標]]は、[[日本語]]・[[ローマ字]]と[[ハングル]]が表記されている。なお、西武鉄道の駅でのハングルの使用は当駅が初めてである。 [[2012年]][[10月1日]]より、発車メロディが[[マルコメ]]のCMソングへ変更されている<ref group="報道" name="marukome" />。これは、当駅の近くに同社の事務所があることによるものである<ref group="報道" name="marukome" />。ただし本社は[[長野県]][[長野市]]に所在する。 [[区長|管区長]]配置駅であり、「新宿駅管区」として[[西武新宿駅]] - [[沼袋駅]]間の各駅を管理している<ref name="RP884">{{Cite journal|和書|author=田中孝憲(西武鉄道鉄道本部運輸部管理課)|title=駅・乗務所のあらまし|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2013-12-10|volume=63|issue=第12号(通巻884号)|page=50|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。 ==== 平日朝ラッシュ時の対応 ==== 当駅は2面2線の中間駅でありながら、2面3線で始発・終着駅である西武新宿駅と同本数の列車が発着し(西武鉄道の2線構造の駅の中では最多)、1.7倍の利用客がいる。特に朝ラッシュ時は上り(西武新宿行き)列車の降車客で駅構内が非常に混雑する。 前述のように当駅は変則相対式の2面2線という形態で、上り線は2つのホームに挟まれる形態となっていることから、平日の朝ラッシュ時(7:00 - 9:30)に限り、上り列車は5番ホーム側のドアに加えて4番ホーム側のドア扱いを行う。これにより駅構内の混雑緩和のみならず、乗降時分の短縮により後続列車の遅延防止を図っている。2006年に4番ホームは転落防止のため4扉車専用の[[ホームドア#可動式ホーム柵|可動式ホーム柵]]が設置されたため、柵の可動部とドアの間隔に差異がある3扉車および特急列車は、平日の朝ラッシュ時であっても4番ホーム側のドア扱いを行わない<ref group="注釈">同種のホーム柵は、他に[[京浜急行電鉄]]の[[横浜駅]]にも設置されている。</ref>。 ==== のりば ==== <!--方面表記は、西武鉄道の「駅構内図」の記載に準拠--> {| class="wikitable" !ホーム<!-- 事業者での呼称 -->!!路線!!方向!!行先 |- !3 |rowspan="3"|[[File:SeibuShinjuku.svg|18px|SS]] 新宿線 |style="text-align:center;"|下り |[[所沢駅|所沢]]・[[本川越駅|本川越]]・[[拝島駅|拝島]]方面 |- !4 |rowspan="2" style="text-align:center;"|上り |臨時降車ホーム(平日朝のみ) |- !5 |[[西武新宿駅|西武新宿]]ゆき |} (出典:[https://www.seiburailway.jp/railway/station/takadanobaba/ 西武鉄道:駅構内図]) * のりばの番号はJRからの通しで、3番ホームからとなる。 * 3番ホームはホームの下落合寄りの端に[[停止位置目標]]が設置されているが、特急「小江戸」用の停止位置目標はホーム中央部である。 * [[発車標]]は長らく3番ホームのみ設置されていたが、2017年2月初旬に5番ホームにも設置された。 <gallery> Takadanobabasta-seibukaisatsu.jpg|早稲田口改札口(2008年11月) Takadanobaba-Sta-Seibu-Toyama-Ent.JPG|戸山口(西武)(2018年9月) </gallery> {{-}} === 東京メトロ === {{駅情報 |社色 = #109ed4 |文字色 = |駅名 = 東京メトロ 高田馬場駅 |画像 = Takadanobaba-Sta-Tozailine-Platform.JPG |pxl = 300 |画像説明 = ホーム(2016年6月) |よみがな = たかだのばば |ローマ字 = Takadanobaba |副駅名 = |所属事業者 = [[東京地下鉄]](東京メトロ) |所属路線 = {{color|#009bbf|●}}<ref name="tokyosubway">[https://www.tokyometro.jp/ 東京地下鉄] 公式サイトから抽出(2019年5月26日閲覧)</ref>[[東京メトロ東西線|東西線]] |所在地 = [[東京都]][[新宿区]][[高田馬場]]一丁目35-2 |座標 = {{coord|35|42|49.3|N|139|42|14.8|E|region:JP-13_type:railwaystation|name=東京メトロ 高田馬場駅}} |前の駅 = T 02 [[落合駅 (東京都)|落合]] |駅間A = 1.9 |駅間B = 1.7 |次の駅 = [[早稲田駅|早稲田]] T 04 |駅番号 = {{駅番号r|T|03|#009bbf|4}}<ref name="tokyosubway"/> |キロ程 = 3.9 |電報略号 = タカ |起点駅 = [[中野駅 (東京都)|中野]] |駅構造 = [[地下駅]] |ホーム = 2面2線 |開業年月日 = [[1964年]]([[昭和]]39年)[[12月23日]]<ref name="eidan_583" /> |廃止年月日 = |乗降人員 = <ref group="メトロ" name="me2022" />154,328 |統計年度 = 2022年<!--リンク不要--> |乗換 = |備考 = }} 中柱のある相対式ホーム2面2線を有する[[地下駅]]である。西船橋側に[[分岐器#形状による分類|両渡り線]]がある<ref name="RJ926_end">{{Cite journal|和書|author=|title=線路略図|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2016-12-10|volume=66|issue=第12号(通巻926号)|page=巻末|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。落合駅に夜間留置される車両の転線で早朝・深夜に使用されているほか、一部運転見合わせとなった際に当駅で折り返す際に使用される。かつて当駅折り返しの列車が設定されていた頃にも使用されていた。 改札口は3か所あり、中野側の2か所はJR・西武の早稲田口近くと駅前ロータリー東側の2か所の出入口につながり、西船橋側の1か所は[[早稲田通り]]の出入口につながる。エレベーターは、専用出入口が駅前ロータリー上にあり、中野寄りの改札口と連絡している。 [[1987年]]から[[1994年]]にかけて、最も[[落合駅 (東京都)|落合]]寄りの改札口の統合や新設と落合寄りホーム幅員の拡幅および出入口の新設などの駅改良工事を行った<ref name="eidan_236" />。これにより、従来4&nbsp;m程度であったホーム幅は中野方面ホームが最大7&nbsp;m、西船橋方面ホームが最大9&nbsp;mにまで拡幅された<ref name="eidan_236" />。トイレは西改札口外と東改札口内にあり、多機能トイレを併設している。[[オストメイト]]対応設備は双方のトイレに設置されている。[[駅ナカ]]施設として、高田馬場メトロピアを併設している。 2018年3月にホームドアが設置され、6月8日から稼働を開始した。東西線でのホームドアの設置は[[九段下駅]]に続き2駅目である。 当駅は、「[[飯田橋駅|飯田橋]]駅務管区高田馬場地域」として近隣の駅を管理している<ref>{{Cite journal|和書|author=関田崇(東京地下鉄経営企画本部経営管理部)|title=総説:東京メトロ|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2016-12-10|volume=66|issue=第12号(通巻926号)|page=17|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。 ==== のりば ==== {| class="wikitable" !番線<!-- 事業者での呼称 -->!!路線!!行先 |- !1 |rowspan="2"|[[File:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|15px|T]] 東西線 |[[西船橋駅|西船橋]]・[[津田沼駅|津田沼]]・[[東葉勝田台駅|東葉勝田台]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/takadanobaba/timetable/tozai/a/index.html |title=高田馬場駅時刻表 西船橋・津田沼・東葉勝田台方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-03}}</ref> |- !2 |[[中野駅 (東京都)|中野]]・[[三鷹駅|三鷹]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/takadanobaba/timetable/tozai/b/index.html |title=高田馬場駅時刻表 中野・三鷹方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-03}}</ref> |} (出典:[https://www.tokyometro.jp/station/takadanobaba/index.html 東京メトロ:構内立体図]) <gallery> ファイル:Takadanobaba-Sta-3.JPG|3番出入口(2016年6月) ファイル:Takadanobabasta-6.jpg|6番出口(東側)(2008年11月) ファイル:Takadanobaba-Station-2005-10-24 1.jpg|高田馬場メトロピア(2005年10月) ファイル:Takadanobabasta-metrokaisatsuwest.jpg|JR線・西武新宿線方面改札口(2008年11月) ファイル:Takadanobabasta-kaisatsueast.jpg|明治通り方面改札口(2008年11月) ファイル:TakadanoBabaStation.jpg|7番出入口(2022年10月23日) </gallery> ==== 発車メロディ ==== 2015年5月24日から[[向谷実]]作曲の発車メロディ(発車サイン音)を使用している。 曲は1番線が「A Day in the METRO」、2番線が「Beyond the Metropolis」である(詳細は[[東京メトロ東西線#発車メロディ]]を参照)。 == 利用状況 == [[2017年]]度における各社合計の1日平均乗降人員は約93万人で、年間に直すと約3億4000万人となる。 * '''JR東日本''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''167,265人'''である<ref group="利用客数">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員] - JR東日本</ref>。 *: 同社の駅の中では[[川崎駅]]に次いで第12位。 * '''西武鉄道''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''250,377人'''である<ref group="西武" name="seibu2022" />。 *: 同社の全92駅の中では第2位(第1位は[[池袋駅]])で、新宿線ではターミナルの[[西武新宿駅]](121,462人)よりも多く、新宿線における実質的な[[ターミナル駅]]となっている。2016年度は8年ぶりに西武鉄道の乗降人員が30万人を上回った。 * '''東京メトロ''' - 2022年度の1日平均'''乗降'''人員は'''154,328人'''である<ref group="メトロ" name="me2022" />。 *: 同社の全130駅の中では[[渋谷駅]]に次ぐ第11位である<!--他鉄道との直結連絡駅および共用している駅の乗降人員は順位から除いております-->。2016年度は東京メトロの乗降人員が20万人を上回った。 === 年度別1日平均乗降人員 === 各年度の1日平均'''乗降'''人員は下表の通り。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗降人員<ref group="乗降データ">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref><ref group="乗降データ" name="shinjuku">[http://www.city.shinjuku.lg.jp/kusei/kikaku01_001004.html 新宿区の概況] - 新宿区</ref><ref group="乗降データ" name="nerima-toukei">[http://www.city.nerima.tokyo.jp/kusei/tokei/tokeisho/ 練馬区統計書] - 練馬区</ref> !rowspan=2|年度 !colspan=2|西武鉄道 !colspan=2|営団 / 東京メトロ |- !1日平均<br />乗降人員 !増加率 !1日平均<br />乗降人員 !増加率 |- |1997年(平成{{0}}9年) |<ref name="seibu20010211">{{Cite web|和書|date= |url=http://www.seibu-group.co.jp/railways/kouhou/youran/tet/tet01_3.html |title=駅別乗降人員 新宿線 |publisher=西武鉄道 |accessdate=2016-01-23 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20010211224013/http://www.seibu-group.co.jp/railways/kouhou/youran/tet/tet01_3.html |archivedate=2001-02-11}}</ref>300,170|| | || |- |1998年(平成10年) | <ref name="seibu20010211"/>294,875 ||-1.8% | || |- |1999年(平成11年) | <ref name="seibu20020218">{{Cite web|和書|date |url=http://www.seibu-group.co.jp/railways/kouhou/youran/tet/tet01_3.html |title=駅別乗降人員 新宿線 |publisher=西武鉄道 |accessdate=2016-01-23 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20020218214926/http://www.seibu-group.co.jp/railways/kouhou/youran/tet/tet01_3.html |archivedate=2002-02-18}}</ref>291,226||-1.2% |183,763|| |- |2000年(平成12年) |<ref name="seibu20020218"/>288,904||-0.8% |181,590||-1.2% |- |2001年(平成13年) |<ref name="seibu20040612">{{Cite web|和書|date |url=http://www.seibu-group.co.jp/railways/kouhou/youran/2003PDF/2003_13.pdf |page=2 |format=PDF |title=旅客輸送 駅別乗降人員(1日平均) |publisher=西武鉄道 |accessdate=2016-01-23 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20040612223416/http://www.seibu-group.co.jp/railways/kouhou/youran/2003PDF/2003_13.pdf |archivedate=2004-06-12}}</ref>284,110||-1.7% |176,349||-2.9% |- |2002年(平成14年) |<ref name="seibu20040612"/>278,359||-2.0% |174,056||-1.3% |- |2003年(平成15年) |277,881||-0.2% |174,011||-1.3% |- |2004年(平成16年) |274,842||-1.1% |173,830||-0.1% |- |2005年(平成17年) |274,488||-0.1% |174,300||0.3% |- |2006年(平成18年) |276,723||0.8% |178,738||2.6% |- |2007年(平成19年) |294,094||6.3% |187,458||4,9% |- |2008年(平成20年) |301,888||2.7% |187,845||0.2% |- |2009年(平成21年) |299,736||-0.7% |185,153||-1.4% |- |2010年(平成22年) |295,689||-1.4% |184,754||-0.2% |- |2011年(平成23年) |287,513||-2.8% |181,871||-1.6% |- |2012年(平成24年) |292,612||1.8% |186,629||2.6% |- |2013年(平成25年) |292,694||0.0% |189,308||1.4% |- |2014年(平成26年) |289,810||-1.0% |189,558||0.1% |- |2015年(平成27年) |295,872||2.1% |196,613||3.7% |- |2016年(平成28年) |301,197||1.8% |200,964||2.2% |- |2017年(平成29年) |304,904||1.2% |203,957||1.5% |- |2018年(平成30年) |305,741||0.3% |204,848||0.4% |- |2019年(令和元年) |301,862||-1.3% |200,250||-2.2% |- |2020年(令和{{0}}2年) |207,124||-31.4% |<ref group="メトロ" name="me2020">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2020.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2020年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>125,620||-37.3% |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="西武" name="seibu2021">{{Cite web|和書|url=https://www.seiburailway.jp/file.jsp?file/2021joukou.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220708052848/https://www.seiburailway.jp/file.jsp?file/2021joukou.pdf|title=駅別乗降人員(2022年度1日平均) |archivedate=2022-07-08 |page=|accessdate=2023-06-27|publisher=西武鉄道|format=PDF|language=日本語}}</ref>223,847||8.1% |<ref group="メトロ" name="me2021">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2021.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2021年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>136,847||8.9% |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="西武" name="seibu2022">{{Cite web|和書|url=https://www.seiburailway.jp/company/passengerdata/file/2022joukou.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230627122545/https://www.seiburailway.jp/file.jsp?company/passengerdata/file/2022joukou.pdf|title=駅別乗降人員(2022年度1日平均) |archivedate=2023-06-27 |page=|accessdate=2023-06-27|publisher=西武鉄道|format=PDF|language=日本語}}</ref>250,377 || |<ref group="メトロ" name="me2022">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/index.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>154,328||12.8% |} === 年度別1日平均乗車人員(1910年 - 1935年) === 各年度の1日平均'''乗車'''人員は下表の通り。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員 !年度!!国鉄!!西武鉄道!!出典 |- |1910年(明治43年) |<ref group="備考">1910年9月15日開業。</ref> |rowspan="14" style="text-align:center"|未開業 | |- |1911年(明治44年) |533 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972667/131?viewMode= 明治44年]</ref> |- |1912年(大正元年) |818 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972670/133?viewMode= 大正元年]</ref> |- |1913年(大正{{0}}2年) |954 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972675/126?viewMode= 大正2年]</ref> |- |1914年(大正{{0}}3年) |1,010 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972677/386?viewMode= 大正3年]</ref> |- |1915年(大正{{0}}4年) |1,112 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972678/347?viewMode= 大正4年]</ref> |- |1916年(大正{{0}}5年) |1,484 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972679/382?viewMode= 大正5年]</ref> |- |1919年(大正{{0}}8年) |2,896 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972680/265?viewMode= 大正8年]</ref> |- |1920年(大正{{0}}9年) |4,061 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972681/301?viewMode= 大正10年]</ref> |- |1922年(大正11年) |6,821 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972682/303?viewMode= 大正11年]</ref> |- |1923年(大正12年) |9,295 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972683/294?viewMode= 大正12年]</ref> |- |1924年(大正13年) |10,961 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972684/292?viewMode= 大正13年]</ref> |- |1925年(大正14年) |11,339 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448121/326?viewMode= 大正14年]</ref> |- |1926年(昭和元年) |12,547 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448138/316?viewMode= 昭和元年]</ref> |- |1927年(昭和{{0}}2年) |15,413 |<ref group="備考">1927年4月16日開業。</ref>3,035 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448164/314?viewMode= 昭和2年]</ref> |- |1928年(昭和{{0}}3年) |18,413 |4,123 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448188/346?viewMode= 昭和3年]</ref> |- |1929年(昭和{{0}}4年) |21,763 |8,031 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448218/334?viewMode= 昭和4年]</ref> |- |1930年(昭和{{0}}5年) |21,928 |8,844 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448245/339?viewMode= 昭和5年]</ref> |- |1931年(昭和{{0}}6年) |21,666 |8,996 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448278/342?viewMode= 昭和6年]</ref> |- |1932年(昭和{{0}}7年) |22,713 |6,470 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448259/315?viewMode= 昭和7年]</ref> |- |1933年(昭和{{0}}8年) |20,721 |10,467 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446322/333?viewMode= 昭和8年]</ref> |- |1934年(昭和{{0}}9年) |21,711 |10,687 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446161/341?viewMode= 昭和9年]</ref> |- |1935年(昭和10年) |22,572 |11,585 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446276/339?viewMode= 昭和10年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(1953年 - 2000年) === <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員 !年度 !国鉄 /<br />JR東日本 !西武鉄道 !営団 !出典 |- |1953年(昭和28年) |47,045 | |rowspan="11" style="text-align:center"|未開業 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1953/tn53qa0009.pdf 昭和28年]}} - 13ページ</ref> |- |1954年(昭和29年) |51,463 | |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1954/tn54qa0009.pdf 昭和29年]}} - 10ページ</ref> |- |1955年(昭和30年) |53,211 | |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1955/tn55qa0009.pdf 昭和30年]}} - 10ページ</ref> |- |1956年(昭和31年) |55,358 |54,136 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1956/tn56qa0009.pdf 昭和31年]}}</ref> |- |1957年(昭和32年) |57,422 |59,026 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1957/tn57qa0009.pdf 昭和32年]}}</ref> |- |1958年(昭和33年) |60,933 |64,473 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1958/tn58qa0009.pdf 昭和33年]}}</ref> |- |1959年(昭和34年) |63,868 |64,288 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1959/tn59qyti0510u.htm 昭和34年]</ref> |- |1960年(昭和35年) |67,155 |67,768 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1960/tn60qyti0510u.htm 昭和35年]</ref> |- |1961年(昭和36年) |69,495 |74,058 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1961/tn61qyti0510u.htm 昭和36年]</ref> |- |1962年(昭和37年) |75,419 |80,177 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1962/tn62qyti0510u.htm 昭和37年]</ref> |- |1963年(昭和38年) |79,478 |86,636 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1963/tn63qyti0510u.htm 昭和38年]</ref> |- |1964年(昭和39年) |78,139 |93,792 |<ref group="備考">1964年12月23日開業。開業日から1965年3月31日までの計99日間を集計したデータ。</ref>11,393 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1964/tn64qyti0510u.htm 昭和39年]</ref> |- |1965年(昭和40年) |80,695 |101,004 |13,596 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1965/tn65qyti0510u.htm 昭和40年]</ref> |- |1966年(昭和41年) |91,546 |103,394 |23,235 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1966/tn66qyti0510u.htm 昭和41年]</ref> |- |1967年(昭和42年) |91,906 |110,793 |39,893 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1967/tn67qyti0510u.htm 昭和42年]</ref> |- |1968年(昭和43年) |92,507 |117,367 |56,026 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1968/tn68qyti0510u.htm 昭和43年]</ref> |- |1969年(昭和44年) |111,487 |124,123 |69,355 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1969/tn69qyti0510u.htm 昭和44年]</ref> |- |1970年(昭和45年) |112,849 |128,033 |77,986 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1970/tn70qyti0510u.htm 昭和45年]</ref> |- |1971年(昭和46年) |173,085 |130,433 |84,320 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1971/tn71qyti0510u.htm 昭和46年]</ref> |- |1972年(昭和47年) |174,592 |133,778 |84,855 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1972/tn72qyti0510u.htm 昭和47年]</ref> |- |1973年(昭和48年) |178,833 |137,600 |83,962 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1973/tn73qyti0510u.htm 昭和48年]</ref> |- |1974年(昭和49年) |188,362 |140,493 |87,510 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1974/tn74qyti0510u.htm 昭和49年]</ref> |- |1975年(昭和50年) |190,672 |140,093 |85,197 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1975/tn75qyti0510u.htm 昭和50年]</ref> |- |1976年(昭和51年) |194,921 |138,468 |86,359 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1976/tn76qyti0510u.htm 昭和51年]</ref> |- |1977年(昭和52年) |193,649 |138,422 |88,778 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1977/tn77qyti0510u.htm 昭和52年]</ref> |- |1978年(昭和53年) |194,140 |138,751 |85,403 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1978/tn78qyti0510u.htm 昭和53年]</ref> |- |1979年(昭和54年) |189,874 |135,473 |85,921 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1979/tn79qyti0510u.htm 昭和54年]</ref> |- |1980年(昭和55年) |183,326 |133,362 |85,888 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1980/tn80qyti0510u.htm 昭和55年]</ref> |- |1981年(昭和56年) |179,455 |130,852 |88,767 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1981/tn81qyti0510u.htm 昭和56年]</ref> |- |1982年(昭和57年) |175,408 |131,860 |89,734 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1982/tn82qyti0510u.htm 昭和57年]</ref> |- |1983年(昭和58年) |173,068 |131,615 |91,779 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1983/tn83qyti0510u.htm 昭和58年]</ref> |- |1984年(昭和59年) |176,411 |133,490 |92,277 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1984/tn84qyti0510u.htm 昭和59年]</ref> |- |1985年(昭和60年) |178,247 |135,962 |92,419 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1985/tn85qyti0510u.htm 昭和60年]</ref> |- |1986年(昭和61年) |186,219 |140,422 |95,334 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1986/tn86qyti0510u.htm 昭和61年]</ref> |- |1987年(昭和62年) |193,473 |143,743 |97,339 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1987/tn87qyti0510u.htm 昭和62年]</ref> |- |1988年(昭和63年) |209,455 |147,912 |100,795 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1988/tn88qyti0510u.htm 昭和63年]</ref> |- |1989年(平成元年) |212,170 |149,016 |101,126 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm 平成元年]</ref> |- |1990年(平成{{0}}2年) |216,904 |151,425 |101,614 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 平成2年]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) |223,989 |153,667 |101,967 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 平成3年]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) |222,501 |153,060 |102,737 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 平成4年]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) |222,096 |150,682 |101,718 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 平成5年]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) |219,970 |148,142 |100,904 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 平成6年]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |219,150 |146,470 |99,672 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 平成7年]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |220,405 |146,797 |99,107 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 平成8年]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) |216,865 |145,099 |97,868 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 平成9年]</ref> |- |1998年(平成10年) |213,107 |142,860 |96,852 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 平成10年]}}</ref> |- |1999年(平成11年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/1999.html 各駅の乗車人員(1999年度)] - JR東日本</ref>212,438 |141,093 |94,232 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 平成11年]}}</ref> |- |2000年(平成12年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>211,761 |140,247 |93,312 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 平成12年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) === {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="乗降データ" name="shinjuku" /><ref group="乗降データ" name="nerima-toukei" /> !年度 !JR東日本 !西武鉄道 !営団 /<br />東京メトロ !出典 |- |2001年(平成13年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>206,999 |138,230 |90,471 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 平成13年]</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>206,623 |135,603 |89,449 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 平成14年]</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>206,915 |135,570 |89,451 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 平成15年]</ref> |- |2004年(平成16年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>203,672 |134,189 |89,205 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 平成16年]</ref> |- |2005年(平成17年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>201,936 |134,037 |89,638 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 平成17年]</ref> |- |2006年(平成18年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>203,781 |135,090 |91,822 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 平成18年]</ref> |- |2007年(平成19年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>212,286 |142,257 |95,336 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 平成19年]</ref> |- |2008年(平成20年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>206,890 |145,693 |95,784 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 平成20年]</ref> |- |2009年(平成21年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>204,527 |144,745 |94,548 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 平成21年]</ref> |- |2010年(平成22年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>202,396 |141,910 |94,164 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 平成22年]</ref> |- |2011年(平成23年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>199,741 |138,205 |92,727 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 平成23年]</ref> |- |2012年(平成24年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>201,765 |140,659 |95,057 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 平成24年]</ref> |- |2013年(平成25年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>201,513 |140,812 |96,350 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 平成25年]</ref> |- |2014年(平成26年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>200,195 |139,534 |96,317 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 平成26年]</ref> |- |2015年(平成27年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>202,554 |142,557 |100,005 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 平成27年]</ref> |- |2016年(平成28年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>206,683 |145,156 |102,214 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 平成28年]</ref> |- |2017年(平成29年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>211,161 |147,079 |103,589 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 平成29年]</ref> |- |2018年(平成30年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>211,687 |147,416 |104,063 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 平成30年]</ref> |- |2019年(令和元年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>208,024 |145,710 |101,667 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 平成31年・令和元年]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>139,544 | | | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>150,734 | | | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>167,265 | | | |} ;備考 {{Reflist|group="備考"}} == 駅周辺 == [[ファイル:Takadanobaba-Sta-Waseda-Rotary.JPG|thumb|早稲田口ロータリー(2008年8月)]] {{See also|高田馬場|高田 (豊島区)|下落合 (新宿区)|大久保 (新宿区)|百人町}} 駅前は[[早稲田大学]]に通じる[[早稲田通り]]で、[[街#学生街|学生街]]でもある。早稲田通り沿いは、学生向けの[[飲食店]]や[[古書店|古本屋]]などが多く立地する。また、周辺には[[専門学校]]も多い。早稲田口の東側にはロータリーがあり、[[タクシー]]や早大正門行などの都営バスが発着する。ロータリー南側にはBIG BOX、東側には芳林堂書店などが入ったFIビル、北側には飲食店が入った稲門ビルがある。早稲田口西側、JR山手線の外側には、[[酒場|飲み屋]]街である栄通りがある。 なお、当駅より南東へ徒歩10分ほどの所には、[[東京メトロ副都心線]]の[[西早稲田駅]]があるが、[[連絡運輸]]は行っていない。 === 早稲田口 === {{columns-list|2| * [[戸塚地域センター|新宿区戸塚地域センター]] ** [[新宿区役所]]戸塚特別出張所 * [[戸塚警察署 (東京都)|警視庁戸塚警察署]] * [[新宿区立西早稲田中学校]] * [[新宿区立戸塚第一小学校]] * [[新宿区立戸塚第二小学校]] * 新宿区立戸塚第三小学校 * [[東京富士大学]] * [[ESPミュージカルアカデミー]]本部 * [[早稲田文理専門学校]] * [[新宿日本語学校]]1号館 * 高田馬場郵便局 * 高田馬場二郵便局 * [[東京三協信用金庫]]本店 * [[東京信用金庫]]高田馬場支店 * [[三菱UFJ銀行]]高田馬場支店 * [[みずほ銀行]]高田馬場支店 * [[三井住友銀行]]高田馬場支店 * [[新宿ガーデン]] *[[日本福祉教育専門学校]] * [[BIG BOX]]高田馬場 * [[ビックカメラ]]本部 * [[白十字]]本社 * [[大正製薬]]本社 * [[コアマガジン|コアブックス]] * [[日本文化センター]] * [[白夜書房]] * [[交通システム電機]] * [[正道会館]]東京道場 * [[早稲田通り]] * [[明治通り (東京都)|明治通り]] * [[新目白通り]] * [[諏訪通り (東京都)|諏訪通り]] * [[神田川 (東京都)|神田川]] ** 小滝橋 |}} === 戸山口 === [[File:Takadanobaba Station JR East Toyama entrance 2017-12-14.jpg|thumb|戸山口(JR改札口)]] {{columns-list|2| * [[日本点字図書館]] * [[早稲田大学西早稲田キャンパス]](先進理工学部・創造理工学部・基幹理工学部) * [[学習院女子大学]] * [[桜美林大学]]新宿キャンパス * [[東京都立戸山高等学校]] * [[海城中学校・高等学校]] * [[保善高等学校]] * [[新宿区立西戸山中学校]] * [[日本美容専門学校]] * 総合学園[[ヒューマンアカデミー]]東京校 * [[ユーキャン]] * [[新宿日本語学校]]2号館 * つまみかんざし博物館 * 新宿諏訪町郵便局 * 西戸山公園 ** [[西戸山公園野球場|野球場]] * [[戸山公園]](大久保地区) ** 新宿スポーツセンター * [[マルコメ]]東京本部 * [[辰已法律研究所]] |}} == バス路線 == <!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。--> 百01系統([[関東バス]])を除き、全て[[都営バス]]の運行。停留所名は都営バスが'''高田馬場駅前'''、関東バスが'''高田馬場駅'''。 {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !のりば<ref>[https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/bus/noriba/takadanobaba.html バスのりば 高田馬場駅]</ref>!!運行事業者!!系統・行先 |- !colspan="3"|ロータリー |- !rowspan="2"|1 |style="text-align:center;"|都営バス |[[都営バス杉並支所#高71系統|'''高71''']]:[[九段下駅|九段下]] |- |style="text-align:center;"|関東バス |[[関東バス丸山営業所#百人町線|'''百01''']]:[[東中野駅]] |- !2 |style="text-align:center;"|都営バス |[[都営バス小滝橋営業所#学02系統|'''学02''']]:[[早稲田大学早稲田キャンパス|早大正門]] |- !colspan="3"|早稲田通り上 |- !3 |rowspan="3" style="text-align:center;"|都営バス |[[都営バス小滝橋営業所#飯64系統|'''飯64''']]・[[都営バス小滝橋営業所#上69系統|'''上69''']]:[[都営バス小滝橋営業所|小滝橋車庫前]] |- !4 |'''飯64''':九段下(循環) |- !5 |'''上69''':[[上野恩賜公園|上野公園]](循環) |} == 隣の駅 == ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) : [[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] 山手線 ::: [[新大久保駅]] (JY 16) - '''高田馬場駅 (JY 15)''' - [[目白駅]] (JY 14) ; 西武鉄道 : [[File:SeibuShinjuku.svg|18px|SS]] 新宿線 :* {{Color|#f33|■}}特急「小江戸」 停車駅<!--有料特急の隣駅は記載しない(拝島ライナーは無料区間があるため記載)--> :: {{Color|#9c0|■}}[[拝島ライナー]](下りは乗車専用・上りは降車専用) ::: [[西武新宿駅]] (SS01) - '''高田馬場駅 (SS02)''' - [[小平駅]] (SS19) ::{{Color|#c69|■}}快速急行(土休日下りのみ運転) ::: 西武新宿駅 (SS01) → '''高田馬場駅 (SS02)''' → [[田無駅]] (SS17) :: {{Color|#fc0|■}}通勤急行(上りのみ運転)・{{Color|#f60|■}}急行・{{Color|#0c9|■}}準急 ::: 西武新宿駅 (SS01) - '''高田馬場駅 (SS02)''' - [[鷺ノ宮駅]] (SS09) :: {{Color|#999|■}}各駅停車 ::: 西武新宿駅 (SS01) - '''高田馬場駅 (SS02)''' - [[下落合駅]] (SS03) ; 東京地下鉄(東京メトロ) : [[File:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|15px|T]] 東西線([[東陽町駅|東陽町]]以西は全列車が各駅に停車) ::: [[落合駅 (東京都)|落合駅]] (T 02) - '''高田馬場駅 (T 03)''' - [[早稲田駅]] (T 04) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === ==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注釈"}} ==== 出典 ==== {{Reflist|2}} ===== 報道発表資料 ===== {{Reflist|group="報道"|2}} ===== 新聞記事 ===== {{Reflist|group="新聞"}} === 利用状況 === ; JR・私鉄・地下鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="利用客数"}} ; JR東日本の1999年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|22em}} ; 東京地下鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="メトロ"|22em}} ; 西武鉄道の1日平均利用客数 {{Reflist|group="西武"|22em}} ; JR・私鉄・地下鉄の統計データ {{Reflist|group="乗降データ"}} ; 東京府統計書 {{Reflist|group="東京府統計"|17em}} ; 東京都統計年鑑 {{Reflist|group="東京都統計"|17em}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|title=[[帝都高速度交通営団]]史|publisher=[[東京地下鉄]]|date=2004-12|ref=eidan}} == 関連項目 == {{commonscat|Takadanobaba Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=938|name=高田馬場}} * {{外部リンク/西武鉄道駅|filename=takadanobaba}} * [https://www.tokyometro.jp/station/takadanobaba/index.html 高田馬場駅/T03 | 路線・駅の情報 | 東京メトロ] {{山手線}} {{西武新宿線}} {{東京メトロ東西線}} {{DEFAULTSORT:たかたのはは}} [[Category:新宿区の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 た|かたのはは]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:山手線]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:西武鉄道の鉄道駅]] [[Category:西武鉄道 (初代)の鉄道駅]] [[Category:東京地下鉄の鉄道駅]] [[Category:1910年開業の鉄道駅]] [[Category:高田馬場]]
2003-05-11T07:46:14Z
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目白駅
目白駅(めじろえき)は、東京都豊島区目白三丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)山手線の駅である。 当駅には山手線電車のみが停車し、山手貨物線を走行する埼京線・湘南新宿ラインやその他の列車は通過する。また、特定都区市内制度における「東京都区内」および「東京山手線内」に属している。当駅は「東京山手線内」のJR駅で、中心駅(運賃計算上の基準駅)である東京駅から最も遠い(最短経路である上野・池袋経由で13.5 km、中央本線以南では恵比寿駅が品川・大崎経由で12.4 kmと最遠)。駅番号はJY 14。 山手線の単独駅は当駅と新大久保駅のみである。 日本鉄道の第一区線第一部 の敷設にあたり設置された。地元および清戸道(現・目白通り)沿道の各村からたびたび設置請願があり、その通り清戸道に接して設置されている。駅舎の竣工が遅れたため路線の開業から半月遅れで開業したが、駅開業4日前になっても敷地の買収が完了していないことを示す史料があり、買収手続きが遅れていたことが理由と思われる。その後、当駅と田端駅を短絡する豊島線 が計画されるが、当駅は地形から将来的な拡張に支障が予想されたため池袋駅を設けて接続するように変更された。この際には、目白駅近辺の住民から豊島線敷設への反対もあったとされている。 JR東日本ステーションサービスが駅業務を受託している池袋駅管理の業務委託駅。お客さまサポートコールシステムが導入されており、早朝はインターホンによる案内となる。島式ホーム1面2線の地上駅。日本で初めて橋上駅舎を採用した駅としても知られる。出口は目白通りに1か所ある。池袋寄りにエレベーターとエスカレーターが設置された。2009年に、市ケ谷駅とともにJR東日本の駅で初めてLEDライト型の案内サインが設置された。 駅構内にはNewDaysMINIやカフェ デンマルク、クイーンズウェイなどがあり、カートによる販売なども行われている。駅正面および隣接する公衆トイレの壁面には、ステンドグラスが使用されている。 (出典:JR東日本:駅構内図) 2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は30,840人である。山手線内の駅では高輪ゲートウェイ駅・鶯谷駅に次いで3番目に利用客が少ないが、当駅周辺は後述に述べる学校があることから、朝ラッシュ時と下校時間帯には学生の利用客も多い。 近年の1日平均乗車人員の推移は下記の通り。 駅改札口は1箇所のみであり、東西方向に走る 目白通り(東京都道8号千代田練馬田無線)に直結している。駅のすぐ東側が学習院大学、学習院中・高等科である。 駅周辺には、その他にも日本女子大学、川村中学校・高等学校、目白デザイン専門学校、日本外国語専門学校、東京教育専門学校、赤堀栄養専門学校などが立地し、学生・生徒の乗降客が多い。また和敬塾という学生寮の最寄駅でもある。近隣には尾張徳川家の子孫が収集した史料がある徳川林政史研究所がある。 現在の「JR東日本ホテルメッツ目白」の辺りにはかつて山手貨物線(埼京線・湘南新宿ライン)の貨物集配所があったが、貨物輸送の減少とともに廃止・撤去された。 1970年代以前は、この集配所下には学習院方面からの湧水が湧き出、側溝が学習院下に向かっていた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "目白駅(めじろえき)は、東京都豊島区目白三丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)山手線の駅である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "当駅には山手線電車のみが停車し、山手貨物線を走行する埼京線・湘南新宿ラインやその他の列車は通過する。また、特定都区市内制度における「東京都区内」および「東京山手線内」に属している。当駅は「東京山手線内」のJR駅で、中心駅(運賃計算上の基準駅)である東京駅から最も遠い(最短経路である上野・池袋経由で13.5 km、中央本線以南では恵比寿駅が品川・大崎経由で12.4 kmと最遠)。駅番号はJY 14。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "山手線の単独駅は当駅と新大久保駅のみである。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "日本鉄道の第一区線第一部 の敷設にあたり設置された。地元および清戸道(現・目白通り)沿道の各村からたびたび設置請願があり、その通り清戸道に接して設置されている。駅舎の竣工が遅れたため路線の開業から半月遅れで開業したが、駅開業4日前になっても敷地の買収が完了していないことを示す史料があり、買収手続きが遅れていたことが理由と思われる。その後、当駅と田端駅を短絡する豊島線 が計画されるが、当駅は地形から将来的な拡張に支障が予想されたため池袋駅を設けて接続するように変更された。この際には、目白駅近辺の住民から豊島線敷設への反対もあったとされている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "JR東日本ステーションサービスが駅業務を受託している池袋駅管理の業務委託駅。お客さまサポートコールシステムが導入されており、早朝はインターホンによる案内となる。島式ホーム1面2線の地上駅。日本で初めて橋上駅舎を採用した駅としても知られる。出口は目白通りに1か所ある。池袋寄りにエレベーターとエスカレーターが設置された。2009年に、市ケ谷駅とともにJR東日本の駅で初めてLEDライト型の案内サインが設置された。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "駅構内にはNewDaysMINIやカフェ デンマルク、クイーンズウェイなどがあり、カートによる販売なども行われている。駅正面および隣接する公衆トイレの壁面には、ステンドグラスが使用されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "(出典:JR東日本:駅構内図)", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は30,840人である。山手線内の駅では高輪ゲートウェイ駅・鶯谷駅に次いで3番目に利用客が少ないが、当駅周辺は後述に述べる学校があることから、朝ラッシュ時と下校時間帯には学生の利用客も多い。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "近年の1日平均乗車人員の推移は下記の通り。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "駅改札口は1箇所のみであり、東西方向に走る 目白通り(東京都道8号千代田練馬田無線)に直結している。駅のすぐ東側が学習院大学、学習院中・高等科である。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "駅周辺には、その他にも日本女子大学、川村中学校・高等学校、目白デザイン専門学校、日本外国語専門学校、東京教育専門学校、赤堀栄養専門学校などが立地し、学生・生徒の乗降客が多い。また和敬塾という学生寮の最寄駅でもある。近隣には尾張徳川家の子孫が収集した史料がある徳川林政史研究所がある。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "現在の「JR東日本ホテルメッツ目白」の辺りにはかつて山手貨物線(埼京線・湘南新宿ライン)の貨物集配所があったが、貨物輸送の減少とともに廃止・撤去された。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1970年代以前は、この集配所下には学習院方面からの湧水が湧き出、側溝が学習院下に向かっていた。", "title": "駅周辺" } ]
目白駅(めじろえき)は、東京都豊島区目白三丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)山手線の駅である。 当駅には山手線電車のみが停車し、山手貨物線を走行する埼京線・湘南新宿ラインやその他の列車は通過する。また、特定都区市内制度における「東京都区内」および「東京山手線内」に属している。当駅は「東京山手線内」のJR駅で、中心駅(運賃計算上の基準駅)である東京駅から最も遠い。駅番号はJY 14。 山手線の単独駅は当駅と新大久保駅のみである。
{{出典の明記|date=2011年10月|ソートキー=駅}} {{駅情報 |社色 = green |文字色 = |駅名 = 目白駅 |画像 = Mejiro-Station-Building.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 駅舎(2019年8月) |地図= {{Infobox mapframe|zoom=15|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|35|43|16.3|N|139|42|23.7|E}}}} |よみがな = めじろ |ローマ字 = Mejiro |副駅名 = |前の駅 = JY 15 [[高田馬場駅|高田馬場]] |駅間A = 0.9 |駅間B = 1.2 |次の駅 = [[池袋駅|池袋]] JY 13 |電報略号 = メシ |所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |所属路線 = {{color|#9acd32|■}}[[山手線]] |駅番号 = {{駅番号r|JY|14|#9acd32|1}} |キロ程 = 14.2 |起点駅 = [[品川駅|品川]] |所在地 = [[東京都]][[豊島区]][[目白]]三丁目3-1 |座標 = {{coord|35|43|16.3|N|139|42|23.7|E|region:JP-13_type:railwaystation|display=inline,title}} |駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]]) |ホーム = 1面2線 |開業年月日 = [[1885年]]([[明治]]18年)[[3月16日]] |廃止年月日 = |乗車人員 = 30,840 |統計年度 = 2022年 |乗換 = |備考 = {{Plainlist| * [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]<ref name="2019-11-15"/> * [[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]導入駅<ref name="StationCd=1553_230911" /> * [[File:JR area YAMA.svg|15px|山]][[File:JR area KU.svg|15px|区]] [[東京山手線内]]・[[特定都区市内|東京都区内]]駅}} }} '''目白駅'''(めじろえき)は、[[東京都]][[豊島区]][[目白]]三丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[山手線]]の[[鉄道駅|駅]]である。 当駅には山手線電車のみが停車し、[[山手線#山手貨物線|山手貨物線]]を走行する[[埼京線]]・[[湘南新宿ライン]]やその他の列車は通過する。また、[[特定都区市内]]制度における「[[特定都区市内#設定区域一覧|東京都区内]]」および「[[東京山手線内]]」に属している。当駅は「東京山手線内」のJR駅で、中心駅(運賃計算上の基準駅)である[[東京駅]]から最も遠い(最短経路である上野・池袋経由で13.5&nbsp;km、[[中央本線]]以南では[[恵比寿駅]]が品川・大崎経由で12.4 kmと最遠)。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''JY 14'''。 山手線の単独駅は当駅と[[新大久保駅]]のみである。 == 歴史 == [[日本鉄道]]の第一区線第一部<ref group="注">[[品川駅|品川]] - [[川口駅|川口]]、のちに品川線、山手線と改称。</ref> の敷設にあたり設置された。地元および[[清戸道]](現・[[目白通り]])沿道の各村からたびたび設置請願があり、その通り清戸道に接して設置されている<ref name="豊島区史">{{cite book|和書|title=豊島区史|volume=通史篇2|publisher=東京都豊島区|year=1983|pages=231-236|id={{全国書誌番号|84034221}}}}</ref>。駅舎の竣工が遅れたため路線の開業から半月遅れで開業したが<ref name="平岡" /><ref>{{cite news|和書|title=日本鉄道会社広告|newspaper=読売新聞|date=1885-03-01|page=朝刊4面|quote=右之内目黒目白の両駅ハ停車場落成候迄ハ旅客乗降取扱不申候事}}</ref>、駅開業4日前になっても敷地の買収が完了していないことを示す史料があり、買収手続きが遅れていたことが理由と思われる<ref>{{cite book|和書|author=伊藤暢直|chapter=解説|title=鉄道関係史料I(日本鉄道編)|editor=豊島区立郷土資料館 編|publisher=豊島区|year=2006|pages=199-209|id={{全国書誌番号|21250689}}}}</ref>。その後、当駅と[[田端駅]]を短絡する豊島線<ref group="注">田端 - [[巣鴨駅|巣鴨]] - 雑司ヶ谷(未成)- 目白、開業時には山手線に編入。</ref> が計画されるが<ref>{{cite book|和書|title=東京市区改正委員会議事録|volume=第10巻|publisher=東京市区改正委員会|year=1900|id={{NDLJP|784710/212}}}}</ref><ref>{{cite journal|和書|author=伊藤暢直|year=2004|title=日本鉄道池袋停車場設置経緯に関する考察(一)|journal=生活と文化:豊島区立郷土資料館研究紀要|volume=14|pages=27-36}}</ref>、当駅は地形から将来的な拡張に支障が予想されたため[[池袋駅]]を設けて接続するように変更された<ref>{{国立公文書館デジタルアーカイブ|M0000000000000237624|日本鉄道田端目白間終点変更ノ件}}</ref><ref>{{cite journal|和書|author=伊藤暢直|year=2005|title=日本鉄道池袋停車場設置経緯に関する考察(二)|journal=生活と文化:豊島区立郷土資料館研究紀要|volume=15|pages=20-31}}</ref>。この際には、目白駅近辺の住民から豊島線敷設への反対もあったとされている<ref name="豊島区史" />。 === 年表 === [[File:Mejiro Station.19630626.jpg|thumb|目白駅周辺の白黒空中写真(1963年6月26日撮影)<br />{{国土航空写真}}]] * [[1885年]]([[明治]]18年)[[3月16日]]:[[日本鉄道]]の駅として開業<ref>{{cite news|和書|title=日本鉄道会社広告|newspaper=読売新聞|date=1885-03-15|page=朝刊4面|quote=来る十六日より汽車発着時刻左之通り改正且つ目黒目白の両駅も同日より開始す}}</ref>。 * [[1903年]](明治36年):貨物の取扱を開始。 * [[1906年]](明治39年)[[11月1日]]:[[鉄道国有法]]により国有化。 * [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|線路名称]]制定により山手線の所属となる。 * [[1922年]]([[大正]]11年):駅舎改築<ref name="平岡">{{cite journal|和書|author=平岡厚子|year=2015|title=目白駅駅舎の変遷に関する考察-一九二〇年代の橋上駅の問題を中心として-|journal=生活と文化:豊島区立郷土資料館研究紀要|volume=24|pages=}}</ref>。全国初の橋上駅舎となる。 * [[1928年]](昭和3年)[[8月12日]]:駅舎改築<ref name="平岡" />。 * [[1962年]]([[昭和]]37年)[[8月16日]]:駅舎改良工事竣工<ref name="平岡" />。 * [[1973年]](昭和48年) ** [[7月11日]]:[[みどりの窓口]]が営業を開始<ref>{{Cite news|title=目白駅に「みどりの窓口」を新設 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1973-07-11 |page=2 }}</ref>。 ** [[9月20日]]:貨物の取扱を廃止。 * [[1987年]](昭和62年) ** [[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる。 ** [[7月1日]]:[[原宿駅]]とともにホームの全面禁煙を試行(1994年9月まで{{Refnest|group="注"|他の駅で喫煙コーナー設置による分煙が採用されたため、統一する形でいったん取りやめとなった<ref>{{Cite news|title=全面禁煙駅 8年目の&#8220;挫折&#8221; JR山手線の原宿・目白|newspaper=[[朝日新聞]]|publisher=[[朝日新聞社]]|date=1994-08-04|page=15(夕刊)}}</ref>。2009年4月より再度全面禁煙化。}})<ref>{{Cite news|title=終日ダメ原宿・目白駅 来月から煙害追放の第一弾|newspaper=[[朝日新聞]]|publisher=[[朝日新聞社]]|date=1987-06-25|page=27(朝刊)}}</ref>。 * [[1991年]]([[平成]]3年)[[2月2日]]:[[自動改札機]]を設置し、供用開始<ref>{{Cite book|和書 |date=1991-08-01 |title=JR気動車客車編成表 '91年版 |chapter=JR年表 |page=192 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-112-0}}</ref>。 * [[2000年]](平成12年)[[7月29日]]:現在の駅舎へ改築。 * [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-23|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。 * [[2010年]](平成22年)[[6月23日]]:東京都内としては国鉄・[[JR]]を通して史上初の[[女性]][[駅長]]が[[四ツ谷駅]]と共に着任<ref>{{Cite news|url=http://www.asahi.com/national/update/0623/TKY201006230230.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100626121901/http://www.asahi.com/national/update/0623/TKY201006230230.html|title=東京初の女性JR駅長デビュー 四ツ谷駅と目白駅|newspaper=朝日新聞|publisher=朝日新聞社|date=2010-06-23|accessdate=2020-05-02|archivedate=2010-06-26}}</ref>。 * [[2014年]](平成26年)[[11月14日]]:みどりの窓口の営業を終了。 * [[2017年]](平成29年)[[5月15日]]:業務委託化<ref name="2019-11-15">{{Cite web|和書|url=http://jrtu-tokyo.sakura.ne.jp/job/jobfiles/h28eigyou_no4.html|title=「平成28年度営業関係施策(その4)について」提案を受ける|accessdate=2019-11-15|publisher=東日本ユニオン東京地本|archivedate=2019-11-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191114163228/http://jrtu-tokyo.sakura.ne.jp/job/jobfiles/h28eigyou_no4.html}}</ref>。 == 駅構造 == [[JR東日本ステーションサービス]]が駅業務を受託している[[池袋駅]]管理の[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]<ref name="2019-11-15"/>。[[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]が導入されており、早朝はインターホンによる案内となる<ref name="StationCd=1553_230911">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1553|title=駅の情報(目白駅):JR東日本|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-09-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230911142253/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1553|archivedate=2023-09-11}}</ref>。[[島式ホーム]]1面2線の[[地上駅]]。日本で初めて[[橋上駅|橋上駅舎]]を採用した駅としても知られる。出口は[[東京都道8号千代田練馬田無線|目白通り]]に1か所ある。[[池袋駅|池袋]]寄りに[[エレベーター]]と[[エスカレーター]]が設置された。2009年に、[[市ケ谷駅]]とともにJR東日本の駅で初めてLEDライト型の案内サインが設置された。 駅構内には[[NewDays]]MINIや[[アンデルセンベーカリーパートナーズ|カフェ デンマルク]]、クイーンズウェイなどがあり、カートによる販売なども行われている。駅正面および隣接する[[公衆便所|公衆トイレ]]の壁面には、[[ステンドグラス]]が使用されている。 === のりば === {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先 |- !1 |rowspan=2|[[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] 山手線 |style="text-align:center"|内回り |[[新宿駅|新宿]]・[[渋谷駅|渋谷]]・[[品川駅|品川]]方面 |- !2 |style="text-align:center"|外回り |[[池袋駅|池袋]]・[[上野駅|上野]]・[[東京駅|東京]]方面 |} (出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/1553.html JR東日本:駅構内図]) <gallery perrow="4" widths="190" style="font-size:90%;"> JRE Mejiro-STA Gate.jpg|改札口(2022年12月) JRE Mejiro-STA Platform1-2.jpg|ホーム(2022年12月) </gallery> == 利用状況 == [[2022年]](令和4年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''30,840人'''である<ref group="利用客数">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員] - JR東日本</ref>。山手線内の駅では[[高輪ゲートウェイ駅]]・[[鶯谷駅]]に次いで3番目に利用客が少ないが、当駅周辺は後述に述べる学校があることから、朝ラッシュ時と下校時間帯には学生の利用客も多い。 近年の1日平均'''乗車'''人員の推移は下記の通り。 <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref><ref group="統計">[https://www.city.shinjuku.lg.jp/kusei/kikaku01_001004.html 新宿区の概況] - 新宿区</ref><ref group="統計">[http://www.city.toshima.lg.jp/kuse/gaiyo/jinko/toke-02/index.html としまの統計] - 豊島区</ref> |- !年度 !1日平均<br />乗車人員 !出典 |- |1990年(平成{{0}}2年) |42,767 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成2年)]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) |42,975 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成3年)]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) |43,890 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) |43,981 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 東京都統計年鑑(平成5年)]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) |43,518 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 東京都統計年鑑(平成6年)]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |43,235 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |43,510 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) |43,345 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref> |- |1998年(平成10年) |42,616 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref> |- |1999年(平成11年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/1999.html 各駅の乗車人員(1999年度)] - JR東日本</ref>41,640 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref> |- |2000年(平成12年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000_01.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>39,505 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref> |- |2001年(平成13年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001_01.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>39,354 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002_01.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>39,151 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003_01.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>39,143 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref> |- |2004年(平成16年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004_01.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>39,168 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref> |- |2005年(平成17年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005_01.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>39,065 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref> |- |2006年(平成18年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006_01.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>39,441 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref> |- |2007年(平成19年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007_01.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>40,472 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref> |- |2008年(平成20年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008_01.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>39,282 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref> |- |2009年(平成21年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009_01.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>38,218 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref> |- |2010年(平成22年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010_01.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>37,568 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref> |- |2011年(平成23年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011_01.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>37,355 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成23年)]</ref> |- |2012年(平成24年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012_01.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>37,684 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成24年)]</ref> |- |2013年(平成25年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013_01.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>37,932 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成25年)]</ref> |- |2014年(平成26年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014_01.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>37,190 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成26年)]</ref> |- |2015年(平成27年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015_01.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>38,008 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成27年)]</ref> |- |2016年(平成28年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016_01.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>37,939 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成28年)]</ref> |- |2017年(平成29年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017_01.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>38,179 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成29年)]</ref> |- |2018年(平成30年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018_01.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>38,190 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成30年)]</ref> |- |2019年(令和元年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019_01.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>37,536 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020_01.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>21,536 | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021_01.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>26,325 | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_01.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>30,840 | |} == 駅周辺 == {{See also|目白|下落合 (新宿区)}} [[画像:Zenshoren Hall.JPG|thumb|全国商工団体連合会]] [[画像:Kittenohakubutukan.JPG|thumb|切手の博物館]] 駅改札口は1箇所のみであり、東西方向に走る [[目白通り]]([[東京都道8号千代田練馬田無線]])に直結している。駅のすぐ東側が[[学習院大学]]、[[学習院中・高等科]]である。 駅周辺には、その他にも[[日本女子大学]]、[[川村中学校・高等学校]]、目白デザイン専門学校、[[日本外国語専門学校]]、東京教育専門学校、赤堀栄養専門学校などが立地し、[[在籍者 (学習者)|学生・生徒]]の乗降客が多い。また[[和敬塾]]という[[学生寮]]の最寄駅でもある。近隣には[[尾張徳川家]]の子孫が収集した史料がある[[徳川林政史研究所]]がある。 現在の「JR東日本ホテルメッツ目白」の辺りにはかつて[[山手線#山手貨物線|山手貨物線]](埼京線・湘南新宿ライン)の[[鉄道貨物|貨物]]集配所があったが、貨物輸送の減少とともに廃止・撤去された。 [[1970年代]]以前は、この集配所下には学習院方面からの[[湧水]]が湧き出、側溝が学習院下に向かっていた。 {{columns-list|2| * [[全国商工団体連合会]] * [[デサント]]東京オフィス -直営店「Sports D310」も併設。 * [[目白警察署|警視庁目白警察署]] * 新宿下落合三郵便局 * [[豊島区立目白小学校]] * [[切手の博物館]] * [[目白聖公会]] * [[新目白通り]](東京都道8号千代田練馬田無線支線) * 目白不動([[五色不動]]の一つ) * [[リッチモンドホテルズ|リッチモンドホテル]]東京目白 * [[JR東日本ホテルメッツ]]目白 - 事前予約をすることで、駅ナカシェアオフィス「STATION WORK」が利用可能<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200903_ho04.pdf|title=シェアオフィス事業の拡大で働き方改革を加速します ~「STATION WORK」の1,000カ所展開を目指すとともに、ワーケーションの推進を行います~|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-09-03|accessdate=2020-09-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200905155129/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200903_ho04.pdf|archivedate=2020-09-05}}</ref>。 * トラッド目白 - 目白コマースビル(かつて存在した5階建て商業ビル。2013年解体)の跡地に2014年開業した4階建て商業ビル<ref>{{Cite web|和書|date=2013-01-15 |url=http://www.nttud.co.jp/news/detail/644.pdf |title=「(仮称)目白2丁目プロジェクト」建築計画の概要 及び、入居テナントの一部決定について |format=PDF |publisher=[[NTT都市開発]] |accessdate=2014-07-11}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2014-08-27 |url=http://www.nttud.co.jp/news/detail/789.pdf |title=目白の街に誕生する駅前商業施設「(仮称)目白2丁目プロジェクト」の名称・出店テナント決定について |format=PDF |publisher=[[NTT都市開発]] |accessdate=2014-09-18}}</ref>。 * [[鬼子母神前停留場]]([[都電荒川線]])<ref group="注" name="transfer">当駅から目白通り経由で南東に700&nbsp;mほど(徒歩約10分)の場所に位置するが、公式な乗換ルートではない。</ref> * [[雑司が谷駅]]([[東京メトロ副都心線]])<ref group="注" name="transfer" /> |}} == バス路線 == 駅前に位置する'''目白駅前'''・'''目白駅'''停留所のほか、約100メートル東側に'''目白駅前(川村学園)'''停留所が設けられている。 <!--バス路線の記述は、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !運行事業者!!系統・行先!!備考 |- !colspan="3"|目白駅前 |- |style="text-align:center;"|[[都営バス]] |{{Unbulleted list|'''[[都営バス練馬支所#白61系統|白61]]''':[[新宿駅のバス乗り場|新宿駅西口]]・[[ホテル椿山荘東京]]<!--構内-->・山吹町<!--5番--> / [[都営バス練馬支所|練馬車庫前]]・[[練馬駅]]<!--2番-->|'''[[都営バス練馬支所#池65系統|池65]]''':[[池袋駅|池袋駅東口]]<!--4番--> / 練馬車庫前・江古田二丁目<!--1番-->|'''[[都営バス練馬支所#練68系統|練68]]''':練馬駅<!--2番-->}} |「練68」は平日のみ運行 |- !colspan="3"|目白駅 |- |style="text-align:center;"|[[西武バス]] |{{Unbulleted list|'''[[西武バス練馬営業所#中井線|宿20]]''':[[西武の店舗一覧#池袋本店|池袋西武百貨店]](池袋駅東口) / 新宿駅西口|'''宿20-1''':池袋西武百貨店(池袋駅東口) / 目白五丁目}} |&nbsp; |- !colspan="3"|目白駅前(川村学園) |- |style="text-align:center;"|都営バス |{{Unbulleted list|'''白61''':新宿駅西口・ホテル椿山荘東京<!--構内-->・山吹町<!--8番-->|'''[[都営バス練馬支所#学05系統|学05]]''':[[日本女子大学|日本女子大前]](循環)<!--7番-->}} |{{Unbulleted list|「白61」のホテル椿山荘東京行き始発便はここから発着|「学05」は平日・土曜のみ運行}} |} == 隣の駅 == ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) : [[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] 山手線 :: [[高田馬場駅]] (JY 15) - '''目白駅 (JY 14)''' - [[池袋駅]] (JY 13) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === ==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注"}} ==== 出典 ==== {{Reflist|2}} ===== 広報資料・プレスリリースなど一次資料 ===== {{Reflist|group="広報"}} === 利用状況 === ; JRの1日平均利用客数 {{Reflist|group="利用客数"}} ; JR東日本の1999年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|22em}} ; JRの統計データ {{Reflist|group="統計"}} ; 東京都統計年鑑 {{Reflist|group="*"|22em}} == 関連項目 == {{commonscat|Mejiro Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=1553|name=目白}} {{山手線}} {{DEFAULTSORT:めしろ}} [[Category:豊島区の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 め|しろ]] [[Category:日本鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:山手線]] [[Category:1885年開業の鉄道駅]] 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グラム・シュミットの正規直交化法
グラム・シュミットの正規直交化法(グラム・シュミットのせいきちょっこうかほう、英: Gram–Schmidt orthonormalization)とは、計量ベクトル空間に属する線型独立な有限個のベクトルが与えられたとき、それらと同じ部分空間を張る正規直交系を作り出すアルゴリズムの一種。シュミットの直交化(ちょっこうか、orthogonalization)ともいう。ヨルゲン・ペダーセン・グラムおよびエルハルト・シュミットに因んで名付けられた。変換行列は上三角行列に取ることができる。正規化する工程を省略すると、必ずしも正規でない直交系を得ることができる。 V を計量ベクトル空間とし、V のベクトル v, u の内積を (v, u) と表すことにする。与えられたベクトルの線型独立系を {v1, v2, ..., vn} とする。 によって順に新しいベクトルを作っていくと、{u1, u2, ..., un} は新しい線型独立系になる。構成から、互いに直交していることは容易に分かる。 とおけば {e1, e2, ..., en} が求める性質を満たす正規直交系であることが分かる。
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グラム・シュミットの正規直交化法とは、計量ベクトル空間に属する線型独立な有限個のベクトルが与えられたとき、それらと同じ部分空間を張る正規直交系を作り出すアルゴリズムの一種。シュミットの直交化(ちょっこうか、orthogonalization)ともいう。ヨルゲン・ペダーセン・グラムおよびエルハルト・シュミットに因んで名付けられた。変換行列は上三角行列に取ることができる。正規化する工程を省略すると、必ずしも正規でない直交系を得ることができる。
'''グラム・シュミットの正規直交化法'''(グラム・シュミットのせいきちょっこうかほう、{{lang-en-short|Gram–Schmidt orthonormalization}})とは、[[計量ベクトル空間]]に属する[[線型独立]]な有限個の[[空間ベクトル|ベクトル]]が与えられたとき、それらと同じ[[部分空間]]を[[線型包|張る]][[正規直交系]]を作り出す[[アルゴリズム]]の一種{{sfn|Horn|Johnson|2013|loc={{google books quote|id=5I5AYeeh0JUC|page=15|0.6.4 Gram-Schmidt orthogonormalization}}}}。'''シュミットの直交化'''(ちょっこうか、{{lang|en|orthogonalization}})ともいう。[[ヨルゲン・ペダーセン・グラム]]および[[エルハルト・シュミット]]に因んで名付けられた。変換行列は上[[三角行列]]に取ることができる。[[正規化]]する工程を省略すると、必ずしも正規でない直交系を得ることができる。 == アルゴリズム == [[画像:Gram-Schmidt orthonormalization process.gif|400px|right]] ''V'' を[[計量ベクトル空間]]とし、{{mvar|V}} のベクトル '''''v''''', '''''u''''' の[[内積]]を ('''''v''''', '''''u''''') と表すことにする。与えられたベクトルの[[線型独立]]系を {{math2|{{mset|'''''v'''''{{sub|1}}, '''''v'''''{{sub|2}}, …, '''''v'''{{sub|n}}''}}}} とする。 ;直交化 :<math>\begin{align} \boldsymbol u_1 &:= \boldsymbol v_1 \\ \boldsymbol u_2 &:= \boldsymbol v_2 - \frac{(\boldsymbol u_1, \boldsymbol v_2)}{(\boldsymbol u_1, \boldsymbol u_1)} \boldsymbol u_1 \\ \boldsymbol u_3 &:= \boldsymbol v_3 - \frac{(\boldsymbol u_1, \boldsymbol v_3)}{(\boldsymbol u_1, \boldsymbol u_1)}\boldsymbol u_1 - \frac{(\boldsymbol u_2, \boldsymbol v_3)}{(\boldsymbol u_2, \boldsymbol u_2)} \boldsymbol u_2 \\ &\vdots \\ \boldsymbol u_n &:= \boldsymbol v_n - \frac{(\boldsymbol u_1, \boldsymbol v_n)}{(\boldsymbol u_1, \boldsymbol u_1)} \boldsymbol u_1 - \frac{(\boldsymbol u_2, \boldsymbol v_n)}{(\boldsymbol u_2, \boldsymbol u_2)} \boldsymbol u_2 - \dotsb - \frac{(\boldsymbol u_{n-1}, \boldsymbol v_n)}{(\boldsymbol u_{n-1}, \boldsymbol u_{n-1})} \boldsymbol u_{n-1}\\ &:= \boldsymbol v_n - \textstyle\sum\limits_{i=1}^{n-1} \dfrac{(\boldsymbol u_i, \boldsymbol v_n)}{(\boldsymbol u_{i}, \boldsymbol u_{i})} \boldsymbol u_{i} \end{align}</math> によって順に新しいベクトルを作っていくと、{{math2|{{mset|'''''u'''''{{sub|1}}, '''''u'''''{{sub|2}}, …, '''''u'''{{sub|n}}''}}}} は新しい線型独立系になる。構成から、互いに直交していることは容易に分かる。 ;正規化 :<math>\boldsymbol e_i := \frac{\boldsymbol u_i}{(\boldsymbol u_i, \boldsymbol u_i)^{1/2}}</math> とおけば {{math2|{{mset|'''''e'''''{{sub|1}}, '''''e'''''{{sub|2}}, …, '''''e'''{{sub|n}}''}}}} が求める性質を満たす正規直交系であることが分かる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book |last1=Horn |first1=Roger A. |last2=Johnson |first2=Charles R. |year=2013 |title=Matrix analysis |edition=Second |url={{google books|5I5AYeeh0JUC|plainurl=yes|page=15}} |publisher=[[Cambridge University Press]] |isbn=978-0-521-54823-6 |mr=2978290 |ref=harv}} == 関連項目 == * [[直交]] - [[直交化]] * [[正規直交系]] * [[QR分解]] == 外部リンク == * {{高校数学の美しい物語|1149|グラムシュミットの直交化法の意味と具体例}} {{線形代数}} {{DEFAULTSORT:くらむしゆみつとのせいきちよつこうかほう}} [[Category:線型代数学]] [[Category:関数解析学]] [[Category:数値線形代数]] [[Category:エルハルト・シュミット]] [[Category:数学のエポニム]] [[Category:数学に関する記事]]
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体(體、躰、躯、身体、からだ)、身体(しんたい)は、生物学的かつ文化的に規定された、有機体としての人間や動物の構造を指す。人間は身体を通じて世界を経験し、世界を構成する。 「体」という言葉は文脈に応じて、「身体(しんたい)」が同義語であったり、「胴」が同義語であったり「肉体(にくたい)」が同義語であったりする。頭・胴・手足などをまとめて「体」と呼ぶこともあり(この場合、五体とも身体とも言う)、五体から頭や手足を除いた部分(この場合、胴ともいえる)を「体」と呼ぶこともある。 「体と心」あるいは「体と魂」というような対比のもとに用いられていることもある。その場合、「からだ」は人間や動物の、心的あるいは精神的な面ではなく物質的な面を指す。また人間や動物の生理的な側面や、性的な側面を指すこともある(肉体ともいえる)。人間の生理的側面や医学・解剖学的側面を指して「からだ」と言っている場合は、「人体」が同義語である。 日常語で「体の具合はどうですか」と聞く時には、健康状態を尋ねている。その場合、単に生理的な面について聞いているだけではなく、気分がすぐれないとか、精神的にまいっているといった面も含め、心身の総体について聞いている。 自分のからだをどのように扱いそれにどのような意味を見出しているのか、他者の身体をどのように扱いそれにどのような意味を与えるのか、またそうした意味づけによって、人間存在と身体との関係をどのようにとらえるのか、ということは文化的なことである。人類がそうしたことについてどのようなルールを発達させてきたのかについてはあらためて多方面から問いただす必要があると考えられるようになっている、と波平恵美子は述べている。 自らの体を使って知ることは「体験」と呼ばれ、言葉だけによる知識とは区別され重視されている。 からだについての教育は日本では「保健」や「保健体育」という科目で行われている。 人間のからだは性別によって異なった傾向がある。それが喜びの源となっている場合もあれば、葛藤の源となっている場合もある(「性」・「ジェンダー」の項も参照)。 人間は衣類をまとい身体を隠し装う傾向がある。化粧によってからだを装う人も多い。からだに改変を加えようとする人もいる(身体改造)。からだを芸術の媒体(マチエール)として使う人もいる(ボディアート)。衣類をまとわない体は「裸」・「裸体」と呼ばれているが、それは現代人にとっては何らかの意味を持つようになっている(「ヌーディズム」の項も参照)。 死亡したことをはっきりさせたり強調する場合は「死体」と呼び区別される。「ご遺体」や「なきがら」・「骸(むくろ)」とも。逆に生きていることを明示する場合は「生体(せいたい)」と呼ばれることもある。日本には、欧米諸国などと比較すると、家族などの遺体にこだわりをもっており、それを取り戻そうとする文化を持っている。欧米では一般的には、日本人ほどには家族の遺体にこだわりを持たない。 体の位置や姿勢のことを「体位(たいい)」と呼ぶが、医療・看護・介護領域では特に頻繁に使われている。 生物の種によって多種多様な体の特徴があり、どの種にも共通する体の構造というものは皆無に等しい。例えば人体は頭、手、足、目、鼻、口、耳や諸々の内臓といったさまざまな器官を持つが、これらは全ての生物に共通するわけではない。ただし生殖細胞は普通は体と言わない。その意味では、体という語は栄養体に関する用語である。 同じ種でも住む環境によって、体に差異がみられる。
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体(體、躰、躯、身体、からだ)、身体(しんたい)は、生物学的かつ文化的に規定された、有機体としての人間や動物の構造を指す。人間は身体を通じて世界を経験し、世界を構成する。
{{Otheruseslist|'''からだ'''|代数学における体(たい)|体 (数学)|言語学・文法学における体(たい)|相 (言語学)}} {{Redirectlist|身|[[仏教]]における身(しん)|五根}} '''体'''('''體'''、'''躰'''、'''躯'''、'''身体'''、からだ)、'''身体'''(しんたい)は、[[生物学]]的かつ[[文化|文化的]]に規定された、[[有機体論|有機体]]としての[[人間]]や[[動物]]の構造を指す。人間は身体を通じて世界を経験し、[[世界]]を構成する。 == 概説 == 「体」という言葉は文脈に応じて、「身体(しんたい)」が同義語であったり、「胴」が同義語であったり「肉体(にくたい)」が同義語であったりする。頭・胴・手足などをまとめて「体」と呼ぶこともあり(この場合、[[五体]]とも[[身体]]とも言う)、五体から頭や手足を除いた部分(この場合、[[胴]]ともいえる)を「体」と呼ぶこともある。 「体と[[心]]」あるいは「体と[[魂]]」というような対比のもとに用いられていることもある。その場合、「からだ」は[[人間]]や[[動物]]の、心的あるいは精神的な面ではなく物質的な面を指す。また人間や動物の[[生理学|生理]]的な側面や、[[性別|性]]的な側面を指すこともある([[肉体]]ともいえる)。人間の生理的側面や医学・解剖学的側面を指して「からだ」と言っている場合は、「[[人体]]」が同義語である。 日常語で「体の具合はどうですか」と聞く時には、[[健康]]状態を尋ねている。その場合、単に生理的な面について聞いているだけではなく、気分がすぐれないとか、精神的にまいっているといった面も含め、心身の総体について聞いている。 自分のからだをどのように扱いそれにどのような[[意味]]を見出しているのか、他者の身体をどのように扱いそれにどのような意味を与えるのか、またそうした意味づけによって、人間存在と身体との関係をどのようにとらえるのか、ということは文化的なことである<ref name="bunkajinruigaku">[[波平恵美子]]『からだの文化人類学: 変貌する日本人の身体観』[[大修館書店]]、2005年(平成17年)</ref>。人類がそうしたことについてどのような[[規則|ルール]]を発達させてきたのかについてはあらためて多方面から問いただす必要があると考えられるようになっている、と波平恵美子は述べている<ref name="bunkajinruigaku" />。 == 人のからだ == 自らの体を使って知ることは「体験」と呼ばれ、[[自然言語|言葉]]だけによる[[知識]]とは区別され重視されている。 からだについての[[教育]]は[[日本]]では「[[保健]]」や「保健[[体育]]」という[[科目]]で行われている。 [[人間]]のからだは[[性別]]によって異なった傾向がある。それが喜びの源となっている場合もあれば、葛藤の源となっている場合もある('''「[[性別|性]]」・「[[ジェンダー]]」の項も参照''')。 人間は[[衣類]]をまとい身体を隠し装う傾向がある。[[化粧]]によってからだを装う人も多い。からだに[[改変]]を加えようとする人もいる([[身体改造]])。からだを[[芸術]]の媒体([[Wikt:マチエール|マチエール]])として使う人もいる([[ボディアート]])。衣類をまとわない体は「[[裸]]」・「裸体」と呼ばれているが、それは[[現代人]]にとっては何らかの意味を持つようになっている('''「[[ヌーディズム]]」の項も参照''')。 [[死亡]]したことをはっきりさせたり強調する場合は「[[死体]]」と呼び区別される。「ご[[死体|遺体]]」や「なきがら」・「骸(むくろ)」とも。逆に生きていることを明示する場合は「生体(せいたい)」と呼ばれることもある。日本には、[[欧米]]諸国などと比較すると、[[家族]]などの遺体にこだわりをもっており、それを取り戻そうとする[[文化]]を持っている<ref name="bunkajinruigaku" />。欧米では一般的には、[[日本人]]ほどには家族の遺体にこだわりを持たない。 体の位置や姿勢のことを「[[体位]](たいい)」と呼ぶが、[[医療]]・[[看護]]・[[介護]]領域では特に頻繁に使われている。 == からだに関することば == * '''上半身'''(じょうはんしん) - [[人間]]の[[腰]]より上の部位を指す。[[下半身]]の対立概念。半身像とは上半身を[[絵画]]・{{読み仮名_ruby不使用|[[塑像]]化|そぞうか}}したものである。 * '''下半身'''(かはんしん) - [[人間]]の[[腰]]より下の部位を指す。[[上半身]]の対立概念。もっぱら人間の身体に対してのみ使う。下半身につける[[衣類]]を[[ボトムス]]と言う。人間は[[日常生活]]において、下半身に比べ上半身の方をよく動かすため、下半身の[[贅肉]]は取れにくいと考えられている。[[生殖器官]]の婉曲表現としても用いられる。 ; 主な部位 *; 頭部 ** [[脳]] / [[頭]] / [[目]] / [[耳]] / [[鼻]] / [[口]] / [[顎]] / [[歯]] / [[咽喉]] *; 頚部 ** [[首]] / [[食道]] *; 胸部 ** [[胸]] / [[乳房]] / [[乳首]] / [[心臓]] / [[肺]] / [[横隔膜]] *; 手 ** [[手]] / [[指]] / [[手首]] / [[腕]] == 生物一般において == {{出典の明記|section=1|date= 2012年3月26日 (月) 15:54 (UTC)}} [[生物]]の種によって多種多様な体の特徴があり、どの種にも共通する体の構造というものは皆無に等しい。例えば[[人体]]は[[頭]]、[[手]]、[[足]]、[[目]]、[[鼻]]、[[口]]、[[耳]]や諸々の[[内臓]]といったさまざまな[[器官]]を持つが、これらは全ての[[生物]]に共通するわけではない。ただし[[生殖細胞]]は普通は体と言わない。その意味では、体という語は[[栄養体]]に関する[[用語]]である。 == 環境における差異 == 同じ種でも住む環境によって、体に差異がみられる。 ; 人間の環境での体の違い : 高緯度の人間は、赤道近くの人間より大きな目と大きな脳([[灰白質]])を持つ。これは知性に貢献するものでは無く、暗い灰色の空の下で高解像度で物を見るための進化とみられる<ref>[http://rsbl.royalsocietypublishing.org/content/early/2011/07/12/rsbl.2011.0570 Latitudinal variation in light levels drives human visual system size](著:Eiluned Pearce, Robin Dunbar 英国[[王立協会]]の会報「Biology Letter」Published:27 July 2011. 参照日:21 June 2018. {{doi|10.1098/rsbl.2011.0570}})</ref>。 ; 恒温動物の環境での体の違い == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * [[波平恵美子]]『からだの文化人類学: 変貌する日本人の身体観』([[大修館書店]]、2005年(平成17年)) == 関連書 == * [[多田道太郎]]『からだの日本文化』(2002年(平成14年)) * [[鈴木隆雄]]『日本人のからだ: 健康・身体データ集』([[朝倉書店]]、1996年(平成8年)) == 関連項目 == {{Wiktionary}} {{Commonscat|Body}} * [[ボディ]] * [[ボディペインティング]] * [[生命]] * [[心身問題]] {{生物分布の法則}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:からた}} [[Category:人体]] [[Category:文化人類学]] [[Category:保健学]] [[Category:動物]] [[Category:有機体論]] [[en:Corps (disambiguation)]] [[fr:Corps]] [[ia:Corpore]]
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ルビー
ルビー(英: Ruby、[ˈruː.bi]、紅玉)は、コランダム(鋼玉、Al2O3)の変種である。 ダイヤモンドに次ぐ硬度を持ち、赤色が特徴的な宝石である。語源はラテン語で「赤」を意味する「ルベウス」 (rubeus) に由来する。7月の誕生石。石言葉は 「情熱・熱情・純愛・勇気・自由」である。 天然ルビーは産地がアジアに偏っており欧米では採れない上に、宝石にできる美しい石が採れる産地は極めて限定されている。また3カラットを超える大きな石は産出量も少ないため、かつてはすべての宝石中で最も貴重とされ、ダイヤモンドの研磨法が発見されてからも、火炎溶融法による人工合成が確立するまでは、ダイヤモンドに次ぐ宝石として扱われた。 ミャンマー、スリランカ、タイ王国、ベトナム、カンボジア、タンザニア、マダガスカル、モザンビークなどが原産地である。 中でもミャンマーでは「ピジョン・ブラッド」(ハトの血)と呼ばれる最高級のルビーが得られるが、政情不安もあり産出量は少なく貴重である。主にタイ産の、透明度が低く鉄分を含んで黒ずんでいるものは「ビーフ・ブラッド」(ウシの血)と呼ばれ、価格はミャンマー産の半分ほどであり、発色を良くするために加熱などの人工処理がされることも多い。また、スリランカやベトナムなどで産出される、ピンクに近い赤のものを「チェリーピンク」と呼ぶが、宝石としての価値は低く「ピンクサファイア」と混同されることもある。 他にも、成分中にルチルの針状結晶が混ざることにより、反射光が星状に見えるものは「スタールビー」と呼ばれ珍重されている。これを「スター効果」と呼び、スターサファイアもある。色彩的には赤から外れるが、インド産の透明感のない小豆色のサファイアにスター効果が現れるものがあり「インドスタールビー」と呼ばれる。 ほとんどのルビーは玄武岩や変成岩、大理石などの岩石中に存在する。長い年月の間にルビーを含んだ岩石が崩れ、川に流されたものが砂利や泥と一緒に堆積していることが多い。 現在、日本の鑑別書ではミャンマー産と確定した上で、一定の色やフラッグな不純物の観られない 最高品質のルビーではないと「ピジョンブラッド」と記載できない。もともと「ピジョンブラッド」自体が、イギリスの王室がミャンマー産ルビーに与えた色名であるため、日本の鑑別業界はそれを守っている。 しかし海外での鑑別書では産地を不問とされ、一定以上の濃い赤であれば「ピジョンブラッド」と記載されるため、海外の鑑別書で「ピジョンブラッド」と記載されている場合でも、産地はミャンマー以外のルビーであることが多々あるので、必ず鑑別書に書かれている産地を確認することが必要である。 コランダムの中で赤色を示すものをルビーと呼び、透明なものから不透明なものまで存在する。当然、透明感が高く、インクルージョンの少ない物が高価である。 コランダムは不純物(金属イオン)の違いで色が変わる。不純物としてクロムが1%ほど混入すると、濃い赤色のルビーになる。鉄・チタンが混入すると青色のサファイアとなり、クロムが0.1%しか混ざっていない薄い赤色のものを「ピンクサファイア」と呼ぶ(ルビーの発色機構は色素を参照)。このクロムの含有割合1%以内という微妙なバランスが、自然界において非常に稀な状況下でしか起こらないため、天然ルビーが貴重とされるのである。なお、クロムが増えるにつれ色合いは濃い赤から黒っぽくなり、価値も下がってゆく。さらに5%を超えると、エメリーという灰色の工業用研磨剤になり、価値は激減する。 下の写真のように、ルビーは赤色成分を一切含まない緑色光源下においても赤く光ることができる(レーザーは完全な単色光である)。これは、ルビー中に0.1%含まれるCrが紫および黄緑色光を吸収し、そのエネルギーを赤色発光として再度放出する性質による。 高い硬度と抗切削性(磨耗しにくい性質)を有し、さらに静摩擦も小さいことから、レコード針や、トラックボールのボール受け、腕時計といった小型精密機械の軸受などに利用される。高コストのため主に高級機で採用される。 また、かつては合成ルビーが固体レーザー素子「ルビーレーザー」として用いられた。 ルビーの歴史は、古代には青銅器時代にまで遡る。古代ギリシアでは「アンスラックス」(古代ギリシア語: ἄνθραξ、「石炭」の意)、ローマでは「カルブンクルス」(ラテン語: carbunculus)と呼ばれていた。 インドでも古くからルビーがあったようで、ヒンドゥー教の聖典『リグ・ヴェーダ』に名前が出ている。 ルビーの名が使われ始めたのは中世からであるが、11世紀のキリスト教の司教・マルボドゥスが著した中世の代表的な鉱物誌である『石について』では、ダイヤモンドやサファイア、エメラルドなどに比べて記述が少ない。 また、アラビアやペルシアでは、ルビーに病気を治す力があると信じられていた。インドでもルビー粉が秘薬として用いられたことがある。 ヨーロッパ史上最大のルビーとされるものは、1777年にサンクトペテルブルクを訪れたスウェーデン王グスタフ3世が、ロシアのエカチェリーナ女帝に贈ったルビーで、小型の鶏卵程度の大きさで完全に透明であった。この石はロシア革命以前は皇帝の冠に飾られていたが、革命以降の行方はわかっていない。 ルビーとサファイアが同じ成分であることが分かったのは1783年で、ロメ・ド・リール(英語版)というフランス人による。 1902年、フランスの化学者であるオーギュスト・ヴィクトル・ルイ・ベルヌーイ(英語版)により、商業用の宝石としては初めて人工合成法が開発・発表された。この合成法は「ベルヌーイ法」と呼ばれる。
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ルビー(英: Ruby、、紅玉)は、コランダム(鋼玉、Al2O3)の変種である。 ダイヤモンドに次ぐ硬度を持ち、赤色が特徴的な宝石である。語源はラテン語で「赤」を意味する「ルベウス」 (rubeus) に由来する。7月の誕生石。石言葉は 「情熱・熱情・純愛・勇気・自由」である。 天然ルビーは産地がアジアに偏っており欧米では採れない上に、宝石にできる美しい石が採れる産地は極めて限定されている。また3カラットを超える大きな石は産出量も少ないため、かつてはすべての宝石中で最も貴重とされ、ダイヤモンドの研磨法が発見されてからも、火炎溶融法による人工合成が確立するまでは、ダイヤモンドに次ぐ宝石として扱われた。
{{Otheruses|宝石|「ルビー」「ルビ」のその他の用法|ルビー (曖昧さ回避)}} {{複数の問題 |出典の明記=2022-02 |参照方法=2022-02 |正確性=2022-02 }} {{色}} {{Infobox 鉱物 |name = ルビー |boxwidth = |boxbgcolor = |image = Ruby oval 0.99cts.jpg |imagesize = |alt = |caption = ルビー |category = [[酸化鉱物]] |strunz = <!-- シュツルンツ分類 --> |dana = <!-- Dana Classification --> |formula = Al<sub>2</sub>O<sub>3</sub> |system = 三方晶系 |symmetry = <!-- 対称 --> |unit cell = <!-- 単位格子 --> |molweight = <!-- モル質量 --> |habit = <!-- 晶癖 --> |twinning = <!-- 双晶 --> |cleavage = <!-- へき開 --> |fracture = <!-- 断口 --> |tenacity = <!-- 粘靱性 --> |mohs = 9.0 |luster = <!-- 光沢 --> |color = 赤{{colorbox|#FF0000}} |streak = <!-- 条痕 --> |diaphaneity = <!-- 透明度 --> |gravity = 3.97 – 4.05 |density = <!-- 密度 --> |polish = <!-- Polish luster --> |opticalprop = <!-- 光学性 --> |refractive = <!-- 屈折率 --> |birefringence = <!-- 複屈折 --> |pleochroism = <!-- 多色性 --> |2V = <!-- 光軸角 2V --> |dispersion = 0.018 |extinction = <!-- 消光角 --> |length fast/slow = <!-- 伸長 --> |fluorescence = <!-- 蛍光 --> |absorption = <!-- 吸収スペクトル --> |melt = <!-- 融点 --> |fusibility = <!-- 可融性 --> |diagnostic = <!-- Diagnostic features --> |solubility = <!-- 溶解度 --> |impurities = <!-- 不純物? 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|access-date=2023-10-04 |publisher=morisruby.com}}</ref>。もともと「ピジョンブラッド」自体が、イギリスの王室がミャンマー産ルビーに与えた色名であるため、日本の鑑別業界はそれを守っている。 しかし海外での鑑別書では産地を不問とされ、一定以上の濃い赤であれば「ピジョンブラッド」と記載されるため、海外の鑑別書で「ピジョンブラッド」と記載されている場合でも、産地はミャンマー以外のルビーであることが多々あるので、必ず鑑別書に書かれている産地を確認することが必要である。 == 性質・特徴 == {{Main2|鉱物学的性質|コランダム}} コランダムの中で赤色を示すものをルビーと呼び、[[透明]]なものから不透明なものまで存在する。当然、透明感が高く、[[インクルージョン (鉱物)|インクルージョン]]の少ない物が高価である。 コランダムは不純物([[金属イオン]])の違いで色が変わる。不純物として[[クロム]]が1%ほど混入すると、濃い赤色のルビーになる。[[鉄]]・[[チタン]]が混入すると青色の[[サファイア]]となり、クロムが0.1%しか混ざっていない薄い赤色のものを「ピンクサファイア」と呼ぶ(ルビーの発色機構は[[色素#配位子吸収帯|色素]]を参照)。このクロムの含有割合1%以内という微妙なバランスが、自然界において非常に稀な状況下でしか起こらないため、天然ルビーが貴重とされるのである。なお、クロムが増えるにつれ色合いは濃い赤から黒っぽくなり、価値も下がってゆく。さらに5%を超えると、{{仮リンク|コランダイト|en|Emery (rock)|label=エメリー}}という灰色の工業用[[研磨剤]]になり、価値は激減する。 下の写真のように、ルビーは'''赤色成分を一切含まない緑色光源下においても赤く光る'''ことができる([[レーザー]]は完全な[[単色光]]である)。これは、ルビー中に0.1%含まれるCr<sup>3+</sup>が紫および黄緑色光を吸収し、そのエネルギーを赤色発光として再度放出する性質による<ref>[http://www.webexhibits.org/causesofcolor/6AA.html Red Ruby - Causes of Color]</ref>。 <!--ルビーは、どんな光の中でも赤い光を発することができる。これは、ルビーの中の1%の[[クロム]]が[[光エネルギー]]に反応し、自ら赤く発光するためである。※おそらく誤り。「どんな光の中でも」というのはさすがに吸収波長の範囲が広すぎる。http://www.webexhibits.org/causesofcolor/6AA.html 「ルビー中のCr3+は紫と黄緑を吸収し赤色光を発する」と混同したのではないか。また「1%」の数字も誤り。参考文献(書籍)の提示を求む。日本語でのWeb上の記述はWikipediaを元にしたものが大半で、この件でのソースとしては信用できない。--> <div align="center"><gallery widths="300px" heights="200px"> ファイル:Artificial ruby hemisphere under a normal light.jpg|通常光下でのルビー。 ファイル:Artificial ruby hemisphere under a monochromatic light.jpg|緑単色光(レーザー; λ=532nm)下でのルビー。ルビーは緑色光を吸収し赤く光ることができる。 </gallery></div> == 用途・加工法 == [[ファイル:Watch stone.jpg|thumb|腕時計の中の石(ルビー)]] 高い[[硬度]]と抗切削性(磨耗しにくい性質)を有し、さらに[[摩擦|静摩擦]]も小さいことから、[[レコード針]]や、[[トラックボール]]のボール受け、[[腕時計]]といった小型精密機械の[[軸受]]などに利用される。高コストのため主に高級機で採用される。 また、かつては合成ルビーが固体[[レーザー]]素子「[[ルビーレーザー]]」として用いられた。 == 歴史 == === 古代 === ルビーの歴史は、[[古代]]には[[青銅器時代]]にまで遡る。[[古代ギリシア]]では「アンスラックス」({{lang-grc|ἄνθραξ}}、「[[石炭]]」の意)、[[共和政ローマ|ローマ]]では「[[:la:Carbunculus|カルブンクルス]]」({{lang-la|carbunculus}})と呼ばれていた。 インドでも古くからルビーがあったようで、[[ヒンドゥー教]]の聖典『[[リグ・ヴェーダ]]』に名前が出ている。 === 中世 === ルビーの名が使われ始めたのは[[中世]]からであるが、[[11世紀]]の[[キリスト教]]の[[司教]]・[[マルボドゥス]]が著した中世の代表的な鉱物誌である『石について』では、ダイヤモンドやサファイア、[[エメラルド]]などに比べて記述が少ない。 また、[[アラビア]]や[[ペルシア]]では、ルビーに病気を治す力があると信じられていた。インドでもルビー粉が秘薬として用いられたことがある。 === 近代 === ヨーロッパ史上最大のルビーとされるものは、[[1777年]]に[[サンクトペテルブルク]]を訪れた[[スウェーデン]]王[[グスタフ3世 (スウェーデン王)|グスタフ3世]]が、[[ロシア]]の[[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ女帝]]に贈ったルビーで、小型の[[鶏卵]]程度の大きさで完全に透明であった。この石は[[ロシア革命]]以前は皇帝の冠に飾られていたが、革命以降の行方はわかっていない。 ルビーとサファイアが同じ成分であることが分かったのは[[1783年]]で、{{仮リンク|ロメ・ド・リール|en|Jean-Baptiste L. Romé de l'Isle}}というフランス人による。 [[1902年]]、フランスの[[化学者]]である{{仮リンク|オーギュスト・ヴィクトル・ルイ・ベルヌーイ|en|Auguste Victor Louis Verneuil}}により、商業用の宝石としては初めて人工合成法が開発・発表された。この合成法は「[[ベルヌーイ法]]」と呼ばれる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == {{脚注の不足|date=2022-02|section=1}} * {{Cite book|和書 |author= 春山行夫|authorlink=春山行夫 |title = 春山行夫の博物誌IV 宝石1 |year = 1989 |publisher = [[平凡社]] |isbn = 4-582-51217-8 |pages = 107-158 }} == 関連項目 == {{Commonscat|Ruby}} {{ウィキポータルリンク|鉱物・宝石|[[画像:HVBriljant.PNG|34px|Portal:鉱物・宝石]]}} * [[酸化アルミニウム]](アルミナ) ** [[コランダム]](鋼玉) ** [[サファイア]] * [[ルビーレッド]] - ルビーの赤色を指す色名。 * [[鉱物]] - [[酸化鉱物]]、[[鉱物の一覧]] * [[宝石]]、[[宝石の一覧]] ; 派生語 * [[ルビー (曖昧さ回避)]] ** [[活字]] - 欧米圏で使われた[[活字]]のサイズの1つに「Ruby」がある。アメリカン[[ポイント (活字の単位)|ポイント]]では5.5ptに相当する。 ** [[ルビ]] - 上記の活字を用いた[[振り仮名]]や[[ピン音]]表記のこと。このサイズに命名された「Ruby」が語源となっている。 ** [[Ruby]] - ルビーから名前を取った[[プログラミング言語]]。 ** [[ルビーチョコレート]] - [[2017年]]に発売された、文字通りのルビー色をした[[チョコレート]]。 == 外部リンク == * {{Mindat |name = Ruby |id = 3473 |accessdate = 2011-07-28 }} {{En icon}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:るひい}} [[Category:宝石]] [[Category:アルミニウム鉱物]] [[Category:酸化鉱物]] [[Category:発光鉱物]]
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天智天皇
天智天皇(てんじてんのう 626年〈推古天皇34年〉- 672年1月7日〈天智天皇10年12月3日〉)は、日本の第38代天皇(在位:668年2月20日〈天智天皇7年1月3日〉- 672年1月7日〈天智天皇10年12月3日〉)。 諱は葛城(かづらき/かつらぎ)。一般に、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ / なかのおおえのみこ)として知られる。「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた大王位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「2番目の大兄」を意味する語。 また、661年の斉明天皇崩御後に即日中大兄皇子が称制したため暦が分かりにくくなっているが、『日本書紀』では越年称元(越年改元とも言う)年代での記述を採用しているため、斉明天皇崩御の翌年(662年)が天智天皇元年に相当する。中臣鎌足と共に大化の改新を行った事などで知られる。 舒明天皇の第二皇子。母は皇極天皇(重祚して斉明天皇)。皇后は異母兄の古人大兄皇子の娘の倭姫王。ただし皇后との間に皇子女はない。 645年7月10日(皇極天皇4年6月12日)、中大兄皇子は中臣鎌足らと謀り、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こす(乙巳の変)。入鹿の父の蘇我蝦夷は翌日自害した。更にその翌日、皇極天皇の同母弟を即位させ(孝徳天皇)、自分は皇太子となり中心人物として様々な改革(大化の改新)を行った。また、有間皇子など有力な勢力に対しては種々の手段を用いて、一掃した。 百済が660年に滅ぼされたため、朝廷に滞在していた百済王子の扶余豊璋を送り返し、百済救援を指揮するために斉明天皇と共に筑紫の朝倉宮に滞在したが、661年8月24日(斉明天皇7年7月24日)斉明天皇が崩御し、百済復興を図って663年に白村江の戦いを起こすも敗戦した。 その後、長い間皇位に即かず皇太子のまま称制した(天智天皇元年)。663年8月28日(天智天皇2年7月20日)に白村江の戦いで大敗を喫した後、唐に遣唐使を派遣する一方で、667年4月17日(天智天皇6年3月19日)に近江大津宮(現在の大津市)へ遷都し、668年2月20日(天智天皇7年1月3日)、ようやく即位した。668年4月10日(天智天皇7年2月23日)には、同母弟の大海人皇子(のちの天武天皇)を皇太弟とした。しかし、671年1月2日(天智天皇9年11月16日)に第一皇子の大友皇子(のちの弘文天皇)を史上初の太政大臣としたのち、671年11月23日(天智天皇10年10月17日)に大海人皇子が皇太弟を辞退したので代わりに大友皇子を皇太子とした。 白村江の戦い以後は、国土防衛の政策の一環として水城や烽火・防人を設置した。また、冠位もそれまでの十九階から二十六階へ拡大するなど、行政機構の整備も行っている。即位後(670年)には、日本最古の全国的な戸籍「庚午年籍」を作成し、公地公民制が導入されるための土台を築いていった。 中大兄皇子時代の660年(斉明天皇6年)に漏刻(ろうこく、水時計のこと)を作り、671年(天智天皇10年)には大津宮の新台に置いて鐘鼓を打って時報を開始したとされる。671年での日付(4月25日)に対応するグレゴリオ暦 (ユリウス暦ではないことに注意)の6月10日は時の記念日として知られている。 669年11月13日(天智天皇8年10月15日)、中臣鎌足が亡くなる前日に内大臣に任じ、藤原の姓を与えた。 671年10月(天智天皇10年9月)、病に倒れる。なかなか快方に向かわず、10月には重態となったため、弟の大海人皇子に後事を託そうとしたが、大海人皇子は拝辞して受けず剃髪して僧侶となり、吉野へ去った。672年1月7日(天智天皇10年12月3日)、天智天皇は近江大津宮で崩御されたとの云われがある。(『扶桑略記』では天智天皇は山中で行方不明になったと記されており、これらには四国の山中での崩御説や天武天皇側による暗殺説などがある)。宝算46。 天智天皇は大友皇子の側近として蘇我赤兄・中臣金・蘇我果安・巨勢比等・紀大人を選んでいるが、これは息子かつ次期天皇候補の側近の数としてはかなり少ない。これは、乙巳の変以来、中臣鎌足と少数のブレインのみを集めた「専制的権力核」を駆使して2人による専制支配を続けた結果、大友皇子の勢力基盤として頼みにすることができる藩屏が激減してしまったからである。 天武元年(672年)6月26日には、大友皇子が群臣に方針を諮ったとあるが、近江朝廷の構成から考えて、その相手は左右の大臣と3人の御史大夫のみであり、その時には既に大化前代以来のマヘツキミ合議体はその機能を完全に喪失していたと見られる。 天智天皇は、大友皇子に皇位を継がせたかったとされる(『日本書紀』)。しかし、天智天皇の崩御後に起きた壬申の乱において大海人皇子が大友皇子に勝って即位して天武天皇に成る。以降、天武系統の天皇が称徳天皇まで続く。 称徳天皇崩御後に、天智天皇の孫の白壁王(志貴皇子の子)が即位して光仁天皇が誕生した。以降は天智系統が続く。 弟の大海人皇子から額田王を奪ったので自分の皇女4人を大海人皇子に嫁がせたと言われている。 ※年は西暦、月日は和暦による。 他にも藤原不比等は天智天皇の落胤という説が『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』などに見られる。 中大兄皇子が長く即位しなかったことは、7世紀中葉の政治史における謎の一つである。これに関する説がいくつか存在する。 政治史という性質・史料の制約などもあり、証明は困難ではあるが、考古学的成果との連携などとも含め、今後の研究の進展が待たれる。 天智は、皇極4年(645年)の乙巳の変で蘇我蝦夷と蘇我入鹿を、大化元年(645年)9月に蘇我田口川堀を、大化5年(649年)3月に蘇我倉山田石川麻呂を政治的に、あるいは物理的に抹殺した説も存在しているが、蘇我入鹿抹殺の際には蘇我倉山田石川麻呂を、蘇我倉山田石川麻呂抹殺の際には蘇我日向を、有間皇子抹殺の際には蘇我赤兄を頼り、大化2年(646年)に東国に派遣する国司として蘇我氏同族を6人も任命し、晩年には大友皇子の補佐役として蘇我赤兄(左大臣)と蘇我果安(御史大夫)を選び、自身や親族の后妃に蘇我氏の女性を選んでいるように、自身の勢力の地盤として、大化以前からの伝統的な雄族であった蘇我氏の権力に頼らざるを得なかった。それにもかかわらず、蘇我安麻呂によって大海人皇子を逃してしまっていることから、蘇我氏全体を権力に組み込むことはできなかったことがわかる。 和風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと / あまつみことさきわけのみこと)。漢風諡号である天智天皇は、代々の天皇の漢風諡号と同様に、奈良時代に淡海三船が撰進した。森鴎外は『帝諡考』において、その典拠に『逸周書』世俘解、『淮南子』主術訓、『韓非子』解老篇を候補に挙げている。 陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市山科区御陵上御廟野町にある山科陵(やましなのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は上円下方(八角)。遺跡名は「御廟野古墳」。 また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。崩御の天智天皇10年12月3日はグレゴリオ暦672年1月10日に相当するので、1月10日に御陵で正辰祭が行われる(1月7日はユリウス暦)。 万葉集に4首の歌が伝わる万葉歌人でもある。百人一首でも平安王朝の太祖として敬意が払われ、冒頭に以下の歌が載せられている。 万葉集からも以下の一首。大和三山を詠んだ歌といわれているが、原文は香具山でなく高山であり、大和の天香久山ではない、畝火や耳梨は山ではないなど多くの異論がある。
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天智天皇は、日本の第38代天皇。 諱は葛城(かづらき/かつらぎ)。一般に、中大兄皇子として知られる。「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた大王位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「2番目の大兄」を意味する語。 また、661年の斉明天皇崩御後に即日中大兄皇子が称制したため暦が分かりにくくなっているが、『日本書紀』では越年称元(越年改元とも言う)年代での記述を採用しているため、斉明天皇崩御の翌年(662年)が天智天皇元年に相当する。中臣鎌足と共に大化の改新を行った事などで知られる。
{{基礎情報 天皇 | 名 = 中大兄皇子 | 代数= 第38 | 画像= Emperor_Tenji.jpg | 画像幅= 250px | 説明= 『古今偉傑全身肖像』(1899年ごろ) | 在位= [[668年]][[2月20日]] - [[672年]][[1月7日]] | 和暦在位期間= 天智天皇7年1月3日- 天智天皇10年12月3日 | 時代= [[飛鳥時代]] | 年号= | 漢風諡号= 天智天皇 | 和風諡号= 天命開別天皇 | 首都= [[近江]] | 皇居= [[近江大津宮]] | 諱 = 葛城 | 幼称= | 別名= 中大兄皇子 | 印 = | 生年= [[626年]] | 生地= | 没年= [[672年]][[1月7日]] | 没地= [[近江大津宮]] | 陵墓= [[御廟野古墳|山科陵]] | 先代= [[斉明天皇]] | 次代= [[弘文天皇]] | 子 = [[大田皇女]]<br/>[[持統天皇]]<br/>[[建皇子]]<br/>[[御名部皇女]]<br/>[[元明天皇]]<br/>[[山辺皇女]]<br/>[[明日香皇女]]<br/>[[新田部皇女]]<br/>[[志貴皇子]](春日宮天皇)<br/>[[弘文天皇]]<br/>[[阿閇皇子]]<br/>[[阿雅皇女]]<br/>[[川島皇子]]<br/>[[大江皇女]]<br/>[[泉皇女]]<br/>[[水主皇女]] | 皇后= [[倭姫王]] | 夫人= [[越道君伊羅都売]] | 采女= [[宅子娘]]<br/>[[忍海色夫古娘]]<br/>[[栗隈首黒媛娘]] | 父親= [[舒明天皇]] | 母親= [[斉明天皇|皇極天皇]] | 注釈= }} '''天智天皇'''(てんじてんのう [[626年]]〈[[推古天皇]]34年〉- [[672年]][[1月7日]]〈天智天皇10年[[12月3日 (旧暦)|12月3日]]〉)は、[[日本]]の第38代[[天皇]](在位:[[668年]][[2月20日]]〈天智天皇7年[[1月3日 (旧暦)|1月3日]]〉- 672年1月7日〈天智天皇10年12月3日〉)。 [[諱]]は'''葛城'''(かづらき/かつらぎ)。一般に、'''中大兄皇子'''(なかのおおえのおうじ / なかのおおえのみこ)として知られる。「[[大兄]]」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた大王位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「2番目の大兄」を意味する語。 また、[[661年]]の[[斉明天皇]]崩御後に即日中大兄皇子が[[称制]]したため暦が分かりにくくなっているが、『[[日本書紀]]』では[[越年称元]](越年[[改元]]とも言う)年代での記述を採用しているため、斉明天皇崩御の翌年([[662年]])が天智天皇元年に相当する。[[藤原鎌足|中臣鎌足]]と共に[[大化の改新]]を行った事などで知られる。 == 生涯 == === 大化の改新と即位 === [[舒明天皇]]の第二皇子。母は[[斉明天皇|皇極天皇]]([[重祚]]して斉明天皇)。[[皇后]]は異母兄の[[古人大兄皇子]]の娘の[[倭姫王]]。ただし皇后との間に皇子女はない。 645年7月10日(皇極天皇4年6月12日)、中大兄皇子は[[藤原鎌足|中臣鎌足]]らと謀り、皇極天皇の御前で[[蘇我入鹿]]を暗殺する[[クーデター]]を起こす([[乙巳の変]])。入鹿の父の[[蘇我蝦夷]]は翌日自害した。更にその翌日、皇極天皇の同母弟を即位させ([[孝徳天皇]])、自分は[[皇太子]]となり中心人物として様々な改革([[大化の改新]])を行った。また、[[有間皇子]]など有力な勢力に対しては種々の手段を用いて、一掃した。 [[百済]]が[[660年]]に滅ぼされたため、朝廷に滞在していた百済王子の[[扶余豊璋]]を送り返し、百済救援を指揮するために斉明天皇と共に[[筑紫]]の[[朝倉宮]]に滞在したが、661年8月24日(斉明天皇7年7月24日)斉明天皇が崩御し、百済復興を図って663年に[[白村江の戦い]]を起こすも敗戦した。 その後、長い間皇位に即かず皇太子のまま[[称制]]した(天智天皇元年)。[[663年]]8月28日(天智天皇2年7月20日)に白村江の戦いで大敗を喫した後、唐に[[遣唐使]]を派遣する一方で、[[667年]]4月17日(天智天皇6年3月19日)に[[近江大津宮]](現在の[[大津市]])へ[[遷都]]し、[[668年]][[2月20日]](天智天皇7年[[1月3日 (旧暦)|1月3日]])、ようやく即位した。668年4月10日(天智天皇7年2月23日)には、同母弟の大海人皇子(のちの[[天武天皇]])を[[皇太弟]]とした。しかし、671年1月2日(天智天皇9年11月16日)に第一皇子の大友皇子(のちの[[弘文天皇]])を史上初の[[太政大臣]]としたのち、671年11月23日(天智天皇10年10月17日)に大海人皇子が皇太弟を辞退したので代わりに大友皇子を皇太子とした。 白村江の戦い以後は、国土防衛の政策の一環として[[水城]]や[[烽火]]・[[防人]]を設置した。また、冠位もそれまでの十九階から二十六階へ拡大するなど、行政機構の整備も行っている。即位後(670年)には、日本最古の全国的な戸籍「[[古代日本の戸籍制度#庚午年籍|庚午年籍]]」を作成し、公地公民制が導入されるための土台を築いていった。 中大兄皇子時代の[[660年]](斉明天皇6年)に漏刻(ろうこく、[[水時計]]のこと)を作り、[[671年]](天智天皇10年)には大津宮の新台に置いて鐘鼓を打って時報を開始したとされる。671年での日付([[4月25日 (旧暦)|4月25日]])に対応する[[グレゴリオ暦]] ([[ユリウス暦]]ではないことに注意)の[[6月10日]]は[[時の記念日]]として知られている<ref name=oumi>{{Cite web|和書|url=http://oumijingu.org/publics/index/167/ |title=漏刻について |publisher=[[近江神宮]]時計館宝物館 |accessdate=2018-08-19}}</ref>。 === 崩御とその後 === 669年11月13日(天智天皇8年10月15日)、中臣鎌足が亡くなる前日に[[内大臣]]に任じ、[[藤原氏|藤原]]の姓を与えた。 671年10月(天智天皇10年9月)、病に倒れる。なかなか快方に向かわず、10月には重態となったため、弟の大海人皇子に後事を託そうとしたが、大海人皇子は拝辞して受けず剃髪して僧侶となり、吉野へ去った。[[672年]][[1月7日]](天智天皇10年12月3日)、天智天皇は近江大津宮で崩御されたとの云われがある。(『[[扶桑略記]]』では天智天皇は山中で行方不明になったと記されており、これらには四国の山中での崩御説や天武天皇側による暗殺説などがある)<ref name="高島62">{{Cite book|和書|author=高島正人|authorlink=高島正人|title=藤原不比等|publisher=[[吉川弘文館]]|series=人物叢書|year=1997|page=62}}</ref>{{Efn|『[[扶桑略記]]』では病死説の後一説として「一云 天皇駕馬 幸山階鄕 更無還御 永交山林 不知崩所 只以履沓落處爲其山陵 以往諸皇不知因果 恒事殺害」とあり山中で行方不明になったとされている。これには四国の山中で崩御した説があり、愛媛県の大生院郷土誌では「天智天皇が京都をお立ちになった後、ひそかに当国へ行幸なされたが、この地に崩御あそばされ、おそれおおくも御陵地とせられた所で、後世の人が神社としたものである。」と記されている。この他にも天武天皇側による暗殺説もあり、「日本書紀は天武天皇側が編纂したものなので自分たちに都合の悪いことは書かない」と扶桑略記の信憑性は高いとの見解もある。}}。宝算46。 天智天皇は大友皇子の側近として[[蘇我赤兄]]・[[中臣金]]・[[蘇我果安]]・[[巨勢比等]]・[[紀大人]]を選んでいるが、これは息子かつ次期天皇候補の側近の数としてはかなり少ない<ref name="名前なし-1">倉本一宏『蘇我氏 古代豪族の興亡』(中央公論新社 2015年)</ref>。これは、[[乙巳の変]]以来、[[中臣鎌足]]と少数のブレインのみを集めた「専制的権力核」を駆使して2人による専制支配を続けた結果、大友皇子の勢力基盤として頼みにすることができる藩屏が激減してしまったからである<ref name="名前なし-1"/>。 天武元年([[672年]])6月26日には、大友皇子が群臣に方針を諮ったとあるが、近江朝廷の構成から考えて、その相手は左右の大臣と3人の御史大夫のみであり、その時には既に大化前代以来のマヘツキミ合議体はその機能を完全に喪失していたと見られる<ref name="名前なし-1"/>。 天智天皇は、大友皇子に皇位を継がせたかったとされる(『[[日本書紀]]』)。しかし、天智天皇の崩御後に起きた[[壬申の乱]]において大海人皇子が大友皇子に勝って即位して天武天皇に成る。以降、天武系統の天皇が[[孝謙天皇|称徳天皇]]まで続く。 称徳天皇崩御後に、天智天皇の孫の白壁王([[志貴皇子]]の子)が即位して[[光仁天皇]]が誕生した。以降は天智系統が続く。 弟の大海人皇子から[[額田王]]を奪ったので自分の皇女4人を大海人皇子に嫁がせたと言われている{{要出典|date=2022年2月}}。 == 年譜 == <small>※年は西暦、月日は和暦による。</small> * 626年 - 田村皇子(のちの舒明天皇)の第二王子として誕生 * 645年 - 6月、乙巳の変。蘇我宗家を滅ぼす。叔父の孝徳天皇の皇太子となる。9月、異母兄の[[古人大兄皇子]]を謀反の疑いにて処刑。12月、[[難波長柄豊碕宮]]へ遷都 * 646年 - 「[[改新の詔]]」 * 649年 - 3月、[[蘇我日向]]の密告を受け、[[蘇我倉山田石川麻呂]]を謀反の疑いにて自害に追い込む * 653年 - 孝徳天皇の意に反し、群臣らを率いて[[板蓋宮]]へ遷る * 654年 - 10月、孝徳天皇崩御 * 655年 - 1月、母の宝皇女が即位して斉明天皇になる(皇極天皇の[[重祚]])。引き続き皇太子を務める * 656年 - [[岡本宮]]へ遷る * 658年 - 11月、[[蘇我赤兄]]の密告を受け、孝徳天皇の遺児の[[有間皇子]]を謀反の罪にて処刑 * 659年 - [[阿倍比羅夫]]に[[蝦夷国]](東北地方・北海道)遠征を命じる * 660年 - 百済が唐と新羅に攻め滅ぼされる。百済皇子の扶余豊璋を帰国させる * 661年 - 百済再興を救援するために西下するが、7月、斉明天皇が[[朝倉橘広庭宮]]にて崩御。皇太子のまま称制 * 663年 - 7月、[[白村江の戦い]]にて[[唐]]・[[新羅]]連合軍に大敗 * 664年 - 2月、[[甲子の宣]] * 667年 - 3月、[[近江大津宮]]へ遷る * 668年 - 1月、即位。2月、[[天武天皇|大海人皇子]]を[[皇太弟]]とする。10月、[[高句麗]]が唐と新羅に攻め滅ぼされる。この年、「[[近江令]]」制定? * 669年 - 10月、中臣鎌足が亡くなる前日に[[内大臣]]に任じ、[[藤原氏|藤原]]の姓を与える * 670年 - 2月、「庚午年籍」を造る。11月、子の大友皇子を史上初の[[太政大臣]]に任ずる * 671年 - 10月、大海人皇子が[[吉野宮|吉野]]へ去る。12月3日崩御 == 系譜 == [[画像:Emperor family tree38-50.png|thumb|right|150px|天皇系図 38~50代]] * [[皇后]]:[[倭姫王]](やまとひめのおおきみ) - [[古人大兄皇子]]娘 * 夫人:蘇我[[遠智娘]](おちのいらつめ) - [[蘇我倉山田石川麻呂]]女 ** 第一皇女:[[大田皇女]](おおたのひめみこ) - [[天武天皇]]妃 、[[大津皇子]]・[[大来皇女]]母 ** 第二皇女:鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ、[[持統天皇]]) - 天武天皇后、[[草壁皇子]]母 ** 第二皇子:[[建皇子]](たけるのみこ) - 夭逝 * 夫人:蘇我[[姪娘]](めいのいらつめ、桜井娘) - 蘇我倉山田石川麻呂娘 ** 第三皇女:[[御名部皇女]](みなべのひめみこ) - [[高市皇子]]妃、[[長屋王]]母 ** 第四皇女:阿閇皇女(あへのひめみこ、[[元明天皇]]) - [[草壁皇子]]妃、[[文武天皇]]・[[元正天皇]]・[[吉備内親王]]母 * 夫人:蘇我造媛(みやっこひめ)-蘇我倉山田石川麻呂娘 * 嬪:蘇我[[常陸娘]](ひたちのいらつめ) - [[蘇我赤兄]]女 ** 皇女:[[山辺皇女]](やまべのひめみこ) - [[大津皇子]]妃 * 嬪:阿倍[[橘娘]](たちばなのいらつめ) - [[阿倍内麻呂|阿倍倉梯麻呂(内麻呂)]]の女 ** 皇女:[[明日香皇女]](あすかのひめみこ) ** 皇女:[[新田部皇女]](にいたべのひめみこ) - 天武天皇妃、[[舎人親王]]母 * 夫人:越道君伊羅都売(いらつめ) - [[道氏|道君氏]]女 ** 第七皇子:[[志貴皇子]](しきのみこ、施基皇子・春日宮天皇。後に親王) - [[光仁天皇]]父 * 采女:伊賀[[宅子娘]](やかこのいらつめ) - [[伊賀国造]]某女? ** 第一皇子:大友皇子(おおとものみこ、[[弘文天皇]]) ** 皇子:([[阿閇皇子]] - 日本書紀に見えず、疑問) ** 皇女:([[阿雅皇女]] - 同上) * 宮人:忍海造色夫古娘(しこぶこのいらつめ) - [[忍海小竜|忍海造小竜]]女 ** 第三皇子:[[川島皇子]](かわしまのみこ) - [[淡海氏|淡海朝臣]]・[[春原氏|春原朝臣]]祖 ** 皇女:[[大江皇女]](おおえのひめみこ) - 天武天皇妃、[[長皇子]]・[[弓削皇子]]母 ** 皇女:[[泉皇女]](いずみのひめみこ、後に内親王) - 伊勢[[斎宮]] * 宮人:栗隈首黒媛娘(くろひめのいらつめ) - [[栗隈徳万|栗隈首徳万]]女 ** 皇女:[[水主皇女]](みぬしのひめみこ、後に内親王)            他にも[[藤原不比等]]は天智天皇の[[落胤]]という説が『興福寺縁起』『[[大鏡]]』『[[公卿補任]]』『[[尊卑分脈]]』などに見られる。 == 即位に関する諸説 == {{独自研究|date=2020年5月19日 (火) 07:48 (UTC)}} 中大兄皇子が長く即位しなかったことは、7世紀中葉の政治史における謎の一つである。これに関する説がいくつか存在する。 #天武天皇を推す勢力への配慮。すなわち、従来定説とされてきた、天武天皇は天智天皇の弟であるというのは誤りで、皇極天皇が舒明天皇と結婚する前に生んだ漢皇子であり、彼は天智天皇の異父兄であるとする説に基づくものである。確かに、『日本書紀』の天智天皇と一部の歴史書に掲載される天武天皇の[[享年|宝算]]をもとに生年を逆算すれば、天武が年長となってしまう。しかし、同一史料間には矛盾は見られず、8~9歳程度の年齢差を設けている史料が多い。これに対しては「『父親が違うとはいえ、兄を差し置いて弟が』ということでは体裁が悪いので、意図的に天智の年齢を引き上げたのだ」との主張があるが、「『日本書紀』に見える、天智の年齢16歳は父の[[舒明天皇]]が即位した時の年齢だったのを間違えて崩御した時の年齢にしてしまった。だから、本当の生年は『[[本朝皇胤紹運録]]』などが採用している614年だ」との反論、「古代においては珍しくなかった空位(実際、天武の前後に在位していた天智・持統も[[称制]]をしき、ただちに即位しなかった)のために誤差が生じたのだ」との反論、また『日本書紀』と指摘されているその他歴史書は編纂された時代も性質も異なるため、同一には扱えないとの意見もある(「[[天武天皇#出生]]」の項も参照)。 #乙巳の変は軽皇子([[孝徳天皇]])のクーデターであり、中大兄皇子は母親である[[斉明天皇|皇極天皇]]と共に地位を追われたという説。近年、中大兄皇子と[[蘇我入鹿]]の関係が比較的良好であり、基本政策も似ていることが指摘されている。そうなると、中大兄皇子の変事の年齢は弱冠20と若く、皇極天皇以外に強力な後ろ盾がないことを考慮すると、親子ほど歳の差のある軽皇子と違い、皇位狙いであわてて入鹿を殺害する動機がなくなる。また、『日本書紀』の大化の改新の記述には改竄が認められることから、この説が唱えられるようになった。この説では皇極天皇の退位の理由や、入鹿以外の蘇我氏がクーデター後も追放されていない理由など、その他の疑問点も説明できるため注目を浴びている。 #天智の女性関係に対しての反発から即位が遅れたとする説。これは、『日本書紀』に記載された孝徳天皇が妻の[[間人皇女]](天智の同母妹)にあてた歌に、彼女と天智との不倫関係を示唆するものがあるとするものである。異母兄弟姉妹間での恋愛・婚姻は許されるが、同母兄弟姉妹間でのそれは許されなかったのが当時の人々の恋愛事情だったとされる。 #斉明天皇の崩御後に、間人皇女が先々代の天皇の妃として皇位を継いでいたのであるが、何らかの事情で記録が抹消されたという説。これは『万葉集』において「中皇命」なる人物を間人皇女とする説から来るもので、「中皇命」とは天智即位までの中継ぎの天皇であるという解釈出来るという主張である。もし間人皇女=「中皇命」とすれば、なぜ彼女だけが特別にこうした呼称で呼ばれる必要性があったのかを考えられるが、斉明天皇だとする説もあり、必ずしも確証はない。 #天智は元々有力な皇位継承者ではなかったために、皇太子を長く務めることでその正当性を内外に認知させようとした説。舒明の后には[[敏達天皇|敏達]]・[[推古天皇|推古]]両天皇の皇女である[[田眼皇女]]がいるにもかかわらず、敏達の曾孫に過ぎない皇極が皇后とされている点を問題とするもので、『日本書紀』の皇極を皇后とする記事を後世の顕彰記事と考え、天智は皇族を母とするとしても皇極の出自では有力な継承者になりえず、皇極の在位も短期間でその優位性を確立出来なかったために、乙巳の変後にもただちに即位せず皇族の長老である孝徳を押し立てて、自らは皇太子として内外に皇位継承の正当性を認知させる期間を要したとする説。 #乙巳の変の意義を、蘇我大臣家のみならず同家に支えられた実母・皇極天皇率いる体制打倒にあったとする観点から、孝徳天皇との対立→崩御の後に自らの皇位継承の正統性を確保するため、皇極天皇の重祚という、乙巳の変の否認とも取られかねない行為を行ったことで群臣たちの信用を失った中大兄が、信頼を回復するまでに相当の期間を必要としたとする説。 政治史という性質・史料の制約などもあり、証明は困難ではあるが、考古学的成果との連携などとも含め、今後の研究の進展が待たれる。 == 天智と蘇我氏 == 天智は、皇極4年([[645年]])の[[乙巳の変]]で[[蘇我蝦夷]]と[[蘇我入鹿]]を、[[大化]]元年([[645年]])9月に[[蘇我田口川堀]]を、[[大化]]5年([[649年]])3月に[[蘇我倉山田石川麻呂]]を政治的に、あるいは物理的に抹殺した説も存在しているが、[[蘇我入鹿]]抹殺の際には[[蘇我倉山田石川麻呂]]を、[[蘇我倉山田石川麻呂]]抹殺の際には[[蘇我日向]]を、[[有間皇子]]抹殺の際には[[蘇我赤兄]]を頼り、大化2年([[646年]])に東国に派遣する国司として蘇我氏同族を6人も任命し、晩年には[[大友皇子]]の補佐役として[[蘇我赤兄]](左大臣)と[[蘇我果安]]([[御史大夫]])を選び、自身や親族の后妃に蘇我氏の女性を選んでいるように、自身の勢力の地盤として、大化以前からの伝統的な雄族であった蘇我氏の権力に頼らざるを得なかった<ref name="名前なし-1"/>。それにもかかわらず、[[蘇我安麻呂]]によって[[天武天皇|大海人皇子]]を逃してしまっていることから、蘇我氏全体を権力に組み込むことはできなかったことがわかる<ref name="名前なし-1"/>。 == 在位中の重臣一覧 == {| class="wikitable" ! 年月日(旧暦) !! 太政大臣 !! 左大臣 !! 右大臣 !! 内臣 !! 内大臣 !! colspan="3" | 御史大夫 |- | 661年8月24日(斉明天皇7年7月24日) | | | | [[藤原鎌足|中臣鎌足]] | | | | |- | 662年(天智天皇元年)1月 | | | [[蘇我連子]] | 中臣鎌足 | | | | |- | 664年(天智天皇3年)3月 | | | | 中臣鎌足 | | | | |- | 669年11月13日(天智天皇8年10月15日) | | | | | 藤原鎌足 | | | |- | 669年11月14日(天智天皇8年10月16日) | | | | | | | | |- | 671年2月19日(天智天皇10年正月5日) | [[弘文天皇|大友皇子]] | [[蘇我赤兄]] | [[中臣金]] | | | [[蘇我果安]] | [[巨勢人]] | [[紀大人]] |} == 系図 == {{ahnentafel top|天智天皇の系譜|width=100%}} {{ahnentafel-compact5 |style=font-size: 100%; line-height: 110%; |border=1 |boxstyle=padding-top: 0; padding-bottom: 0; |boxstyle_1=background-color: #fcc; |boxstyle_2=background-color: #fb9; |boxstyle_3=background-color: #ffc; |boxstyle_4=background-color: #bfc; |boxstyle_5=background-color: #9fe; |1= 1. 第38代 天智天皇 |2= 2. [[舒明天皇|第34代 舒明天皇]] |3= 3. [[斉明天皇|第35代 皇極天皇・<br />第37代 斉明天皇]] |4= 4. [[押坂彦人大兄皇子]](=12) |5= 5. [[糠手姫皇女]] |6= 6. [[茅渟王]] |7=7. [[吉備姫王]] |8= 8. [[敏達天皇|第30代 敏達天皇]](=10,24) |9= 9. [[広姫]](=25) |10= 10. [[敏達天皇|第30代 敏達天皇]](=8,24) |11= 11. 伊勢大鹿首小熊女 |12= 12. [[押坂彦人大兄皇子]](=4) |13= 13. 大俣王 |14= 14. [[桜井皇子]] |16= 16. [[欽明天皇|第29代 欽明天皇]](=20,28) |17= 17. [[石姫皇女]](=21) |18= 18. [[息長真手王]] |20= 20. [[欽明天皇|第29代 欽明天皇]](=16,28) |21= 21. [[石姫皇女]](=17) |24= 24. [[敏達天皇|第30代 敏達天皇]](=8,10) |25= 25. [[広姫]](=9) |28= 28. [[欽明天皇|第29代 欽明天皇]](=16,20) |29= 29. [[蘇我堅塩媛]] }}</center> {{ahnentafel bottom}} {{皇室飛鳥時代}} {{皇室白鳳奈良}} == 諡号 == 和風諡号は'''天命開別尊'''(あめみことひらかすわけのみこと / あまつみことさきわけのみこと)。漢風諡号である'''天智天皇'''は、代々の天皇の[[漢風諡号]]と同様に、[[奈良時代]]に[[淡海三船]]が撰進した。[[森鴎外]]は『帝諡考』において、その典拠に『[[逸周書]]』世俘解、『[[淮南子]]』主術訓、『[[韓非子]]』解老篇を候補に挙げている。 == 陵・霊廟 == [[ファイル:Tenji-tenno-yamachina-ryo1.jpg|250px|thumb|天智天皇陵(京都市山科区)]] [[天皇陵|陵]](みささぎ)は、[[宮内庁]]により[[京都府]][[京都市]][[山科区]]御陵上御廟野町にある'''山科陵'''(やましなのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は[[上円下方墳|上円下方]]([[八角墳|八角]])。遺跡名は「[[御廟野古墳]]」。 また[[皇居]]では、[[皇霊殿]]([[宮中三殿]]の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。崩御の天智天皇10年12月3日はグレゴリオ暦672年1月10日に相当するので、1月10日に御陵で正辰祭が行われる(1月7日はユリウス暦)。 == 歌 == [[画像:Hyakuninisshu 001.jpg|thumb|百人一首(天智天皇の読み札)]] [[万葉集]]に4首の歌が伝わる万葉歌人でもある。[[百人一首]]でも平安王朝の太祖として敬意が払われ、冒頭に以下の歌が載せられている。 * 秋の田の かりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ{{Efn|よく似た「秋田刈る仮庵を作りわが居れば衣手寒く露そ置きにける」というのが万葉集に詠み人知らずと収められている。内容から農民が詠んだ歌で、その辛さを思いやる慈悲深い天皇の心を示す歌として語り継がれるようになった<ref>{{Cite book|和書|author=田辺聖子|authorlink=田辺聖子|title=田辺聖子の古典まんだら|volume=上|series=新潮文庫|publisher=新潮社|year=2013|page=65}}</ref>。}} *:「屋根を葺いている苫が粗いので、私の袖は夜露にしっとり濡れてしまった」農民のことを思って読んだ歌百人一首の最初の歌。 万葉集からも以下の一首。[[大和三山]]を詠んだ歌といわれているが、原文は香具山でなく高山であり、[[大和国|大和]]の[[天香久山]]ではない、畝火や耳梨は山ではないなど多くの異論がある。 * 香具山は畝火雄々(を愛)しと耳梨と相争ひき神代よりかくなるらし古へもしかなれこそうつせみも嬬(妻)を争ふらしき *:原文「高山波雲根火雄男志等耳梨與相諍競伎神代従如此尓有良之古昔母然尓有許曽虚蝉毛嬬乎相挌良思吉」 == 遣新羅使 == * 668年(天智天皇7年) [[新羅]]の[[文武王]]の代に使節を送った * 670年(天智天皇9年) 新羅の文武王の代に使節を送った == 在位年と西暦との対照表 == <div class="NavFrame" style="clear: both; border: 1px solid #999; margin: 0.5em auto;"> <div class="NavHead" style="background-color: #CCCCFF; font-size: 90%; border-left: 3em soli; text-align: center; font-weight: bold;">在位年と西暦との対照表 </div> <div class="NavContent" style="padding: 1em 0 0 0; font-size: 90%; text-align: center;"> ; 太字は『日本書紀』の[[太歳]]干支の年。 {| class="wikitable" style="text-align:center;" |- !天智天皇!!元年!!2年!!3年!!4年!!5年!!6年!!7年!!8年!!9年!!10年 |- |西暦||'''[[662年]]'''||[[663年]]||[[664年]]||[[665年]]||[[666年]]||[[667年]]||[[668年]]||[[669年]]||[[670年]]||[[671年]] |- ||[[干支]]||'''[[壬戌]]'''||[[癸亥]]||[[甲子]]||[[乙丑]]||[[丙寅]]||[[丁卯]]||[[戊辰]]||[[己巳]]||[[庚午]]||[[辛未]] |} </div></div> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連作品 == * [[井上靖]]『[[額田女王]]』[[新潮社]]<[[新潮文庫]]>、1972年10月。ISBN 4101063192。1980年に[[テレビ朝日]]でドラマ化。 * [[中村真理子]]『[[天智と天武-新説・日本書紀-]]』 * [[手塚治虫]]『[[火の鳥 (漫画)|火の鳥 太陽編]]』 * [[里中満智子]]『[[天上の虹]]』 * [[そにしけんじ]]『[[ねこねこ日本史]]』(テレビアニメ版の配役は、[[小林ゆう]]) == 関連項目 == {{Commonscat|Emperor Tenji}} {{Wikiquote|天智天皇}} * [[大化の改新]] * [[乙巳の変]] * [[不改常典]] * [[近江神宮]] * [[水時計]] * [[古代山城]] * [[御廟野古墳]] - 天智天皇陵に比定 * [[桑実寺縁起絵巻]]- 絵巻に登場する == 外部リンク == * [https://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/038/index.html 山科陵] - 宮内庁 {{歴代天皇一覧}} {{日本の摂政}} {{百人一首}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:てんちてんのう}} [[Category:天智天皇|*]] [[Category:飛鳥時代の天皇]] [[Category:7世紀日本の天皇]] [[Category:万葉歌人]] [[Category:小倉百人一首の歌人]] [[Category:7世紀の歌人]] [[Category:舒明天皇と斉明天皇の子女]] [[Category:日本の暗殺者]] [[Category:クーデター政権指導者]] [[Category:近江神宮|*]] [[Category:626年生]] [[Category:672年没]]
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紙テープ
紙テープ (かみテープ、英: paper tape, punched tape)は、細い一定幅の長い紙のこと。一般に芯に巻きつけた形で提供され紙巻テープともいう。価格が安価であり、表面への装飾が可能である。巻きつけた形のためコンパクトであり、ドラムなどに取付けて機械的に駆動すれば時間と同期した出力を得ることができる。このことから初期の記録媒体(電信機、磁気テープのベースとしてのテープレコーダー)としても使用された。 「鑽孔テープ」(さんこうテープ)や「穿孔テープ」(せんこうテープ)とも呼ばれるコンピュータの情報を記録するために使われた紙媒体。テレックス用の鑽孔テープはコンピュータ以前より使われ最初の情報用紙といわれており、パンチカード(統計機カード)などとともに初期の情報用紙の一種とされる。さらに古くはピアノロールなど自動演奏楽器で楽譜を記録するために用いられるものに起源を求めることが出来る。 自動パンチ機で穴をあけて、穴の有無で0,1の信号を記録する。元々は電報用で、アルファベットのみからなるコード体系の5孔のものから始まったが、徐々に拡張され6孔や7孔、1960年代以降のバイト=オクテットの時代には8孔となった。後述するように幅の広いテープの例もある。 ピアノロールなどは幅が広いが、幅の狭い鑽孔テープは古くは1846年、アレクサンダー・ベインが電信の自動送信機で使った例がある。また1950年代のコンピュータでも幅の広いテープがある。1990年代前半あたりまではパチンコ店でジェットカウンター(玉数計数機)の出力としても使用されていた。 モスクワの宇宙征服者のオベリスク (1964) にはコンピュータまたは通信技術者と思われる人が描かれたレリーフがあり、その人物は3行の四角い穴の空いた紙テープを持っている。 1970年代のSFアニメ等に於いてはコンピュータが作動している場面のガジェットとしてオープンリールデータレコーダと共によく描かれていた。鑽孔テープのビット列をそのまま読み取って理解するのは、紙テープが記録媒体に使われていた時代のコンピュータ技師にとっては当たり前の技能であった。テープの穴の空き具合は二進法の順序立てられたものであり、0 - 9の数字や若干の制御文字は容易に憶えられ、手元にASCII、JISやISOの該当する文字コードの一覧表が有れば逐一読み取る事はできる。 かつては駄菓子屋で、使用済みの鑽孔テープが商品として売られており、「スパイごっこ遊び」などで活用されていた。 紙テープは今ではほとんど記録媒体として使われておらず新規システムが入出力に紙テープを採用することはない。CNC機械は既存のデータを活用するために紙テープ装置が比較的長く使われてきたが、それも急速に他の手段に取って代わられつつある。 データは所定の位置に穴があるかないかで表される。最初は1列に5穴でデータを表していたが、後に6穴、7穴、8穴のものが登場した。初期の電気機械式計算機である Harvard Mark I では、1列24穴の紙テープを使っていた。データを表す穴のほかに、各列で必ず開けられている小さめの穴があり、スプロケットの歯で紙テープを送るのに使われていた。後に光学読取装置がタイミングパルスを生成するのにスプロケット用の穴を使うようになった。 文章(テキスト)の符号化にはいくつかの方法がある。最初期の文字コードはBaudotで、その起源は19世紀に遡る。Baudotは5穴に対応している。その後、6穴の文字コードとして Teletypesetter (TTS)、Fieldata、Friden Flexowriter の文字コード規格が登場し、広まった。1960年代に入ると、米国国家規格協会がデータ処理用汎用コードを策定するプロジェクトを開始し、ASCIIが生まれた。これを採用した7穴の紙テープを使ったテレタイプ端末をテレタイプ社などが生産した。テレックスなどではBaudotを使い続けた。 鑽孔テープの厚さは0.1mm(0.00394 インチ)である。Baudot用テープの幅は17.46mm(11/16インチ)、ASCIIおよび6穴以上用テープの幅は25.4mm(1インチ)である。穴と穴の間隔はどちらの方向でも2.54mm(0.1インチ)である。データ用の穴の直径は1.83mm(0.072インチ)、フィード用の穴の直径は1.17mm(0.046インチ)である。この2種類の幅の紙テープは2012年現在も販売されている。 鑽孔装置はほとんどがテープに完全に穴を開ける。その過程で必然的にチャド (chad) と呼ばれるパンチ屑が出てしまう。チャドは非常に小さい紙片であり、テレタイプ端末の機械部分に入り込んだりする問題を抱えていた。 その問題への対処として Chadless Printing Reperforator という紙テープ鑽孔装置が登場した。これはテレタイプ信号を受信してそれを紙テープに鑽孔しつつ、同じ紙テープ上にメッセージを印字するものである。このとき完全に穴を開けるのではなく、U字形に切れ目を入れるだけに留めるので、チャドが発生しない。これを半鑽孔テープまたはチャドレステープと呼ぶ。復号結果が印字されているので、穴を見て解読する必要がない。また、パンチ屑入れが不要となる。ただし、半鑽孔後のテープは巻こうとすると切れ目同士がひっかかることがあり、きつく巻くことができないという欠点がある。また、後に高速な光学読取装置が主流になってくると、半鑽孔テープは読み取ることができないという問題点も出てきた。それ以前の機械式の読取装置では、ばねつきの針で穴の有無を判定しており、切れ目が入っているだけでも問題なく読み取ることができていた。 紙テープはテレタイプ端末用のメッセージ格納手段として使われてきた。オペレータがタイプしたメッセージは紙テープに格納され、その紙テープを使って回線の最高速度でメッセージを送信する。そのためオペレータは「オフライン」で普通のタイピング速度でメッセージを準備でき、送信前に間違いを訂正することもできる。熟練したオペレータは短時間なら135WPM(ワード毎分)でタイピングできた。 通信速度は75WPMだったが、常にその速度を維持できた。紙テープを媒介させてタイピングと通信を分離することで、一定速度の通信を可能としていた。一般に1つの75WPMの回線に対して、3人かそれ以上のオペレータがオフラインで作業していた。また、受信局で受信したメッセージも紙テープに鑽孔されるので、それを使って別の局に中継することもできた。これにより、大規模なストアアンドフォワード型ネットワークが形成されていた。 コンピュータは最高で毎秒1000文字の速度で紙テープを読み取ることができた。 初期のミニコンピュータの多くは、既存の大量生産されたASCIIテレタイプ端末を低価格の入出力装置として流用した。例えば、毎秒10文字のASCII文字を処理できるASR-33などである。ASR-33には紙テープ鑽孔装置と紙テープ読取装置が備わっていた。そのため、ミニコンピュータでは低価格の記録媒体として紙テープがよく使われるようになった。商用ソフトウェアも紙テープを媒体として販売されることがよく見られた。高速な光学読取装置もよく使われた。 バイナリデータを紙テープで転送する際には、紙テープの鑽孔装置や読取装置の誤り率が比較的高いことから、二重符号化技法を採用することが多かった。例えば Intel HEX などの符号化方式で "01011010" というバイナリ値を "5A" という2文字に変換し、各文字をASCIIで符号化して記録する。フレーム、アドレス、チェックサムなどの情報も16進の値をASCIIで符号化する形で組み込み、誤り検出に使用する。このような符号化を施すと、効率は元のバイナリの35から40%となる。 1970年代から1980年代初めにかけて、紙テープはマスクROMや書き換え可能なEPROMにバイナリデータを転送するのによく使われた。その際の符号化方式は様々なものが考案された。先述のASCIIで16進を符号化する方式やROMライタごとに異なる様々な独自フォーマットが使われた。 BNPF (Begin-Negative-Positive-Finish) という符号化方式は、1バイト(8ビット)を10文字(10バイト)で表すという非常に冗長なフォーマットを採用している。まず1バイトの先頭を表す文字"B"、1バイト内の各ビットが1なら"P"、0なら"N"、最後に"F"をそれぞれASCIIコードで表記している。この10文字の列を空白文字を1つ以上挟んで並べていく。従って効率は9%以下となる。ASCIIの"N"と"P"は4つのビット位置のON/OFFが違っているため、鑽孔装置の誤りを訂正しやすい。ビットを"H"と"L"で表す方式や"0"と"1"で表す方式もあったが、それらの場合はASCIIコードのビットのON/OFFが1カ所しか違わないため、誤り訂正が難しい。 NCRは1970年ごろ、紙テープに記録するキャッシュレジスターを開発した。その紙テープをコンピュータに読み込ませて売り上げなどを計算した。 新聞業界では1970年代中ごろ以降まで鑽孔テープを使っていた。そのころの新聞はライノタイプを使って紙面を作っていた。このとき、ライノタイプのオペレータが記事を打ち込むのではなく、鑽孔テープに記録された記事を読み込ませていた。記事を紙テープに格納するには Friden Flexowriter などを使用している。ライノタイプから初期のオフセット印刷になっても、記事から版下を作るのに紙テープが使われていた時期がある。 1970年代、CAM(コンピュータ支援製造)装置は紙テープを使用したものが多かった。例えば、ワイヤラッピングマシンでは紙テープが重要な記録媒体だった。紙テープ読取装置はパンチカードや磁気テープの読取装置より小型で安価だった。そういった装置で長期間何度も使える鑽孔テープとしてマイラーフィルムを使ったテープが発明された。 1917年に発明されたバーナム暗号では、紙テープをよく使用した。1960年代以降、アメリカ国家安全保障局 (NSA) は暗号の鍵を鑽孔テープの形で配布していた。8穴の紙テープを厳密な管理下で配布し、携帯型のKOI-18などのデバイスを新たな鍵を必要としているセキュリティ装置に一時的に接続し、紙テープを読み取らせて鍵を入力する。今ではNSAはより安全な電子鍵管理システムを採用したが、紙テープも未だに使われている。 紙テープには次の3つの大きな問題があった。 一方、紙テープには次のような利点がある。 包装や飾り付け、またくす玉(割り玉)の中身に貼り付けたりする。これらの用途では様々な色や模様のものが用いられる。小型のものはクラッカーの中にも含まれる。 巻かれた状態の紙テープの端を持って勢いよく投げると、長く伸びたテープが宙を舞い、色鮮やかに見せることができる。(市販される紙テープは硬質の芯が入っているため、重りとなり遠くまで飛ばすことができる。)昭和期には、これを「紙テープ投げ」と称し、応援などの演出に盛んに用いられた。 昭和期の船の出港の見送りの際、デッキの乗客が岸壁の見送り客に向かって紙テープ投げを行い、惜別を表現することがあった。駅のホームでの見送りの際にも行われることがあったが、車両の床下機器や電化区間の駅にあっては架線にも絡みつくおそれがあるため、鉄道事業者の側から禁止されるようになった。 昭和期の歌手のコンサートやプロレスの試合の際にも紙テープ投げは盛んに行われ、観客はステージやリングに向かって紙テープ投げを行うことにより、応援の意を表現した。紙テープで埋め尽くされたステージはスター芸能人のアイコンでもあったが、芸能人は大量に飛来するテープの芯を巧みに回避しなければならなかった。 1973年には、イベントに出席していた由紀さおりの額にテープの芯らしきものが当たり、5針縫うケガをした事例もあった。こうした事故を防ぐため、主催者からテープを投げる際には、あらかじめ芯を外すよう指示が出る場合もある。 プロレスにおいては各選手のイメージに合わせた紙テープを投げるのが一般的である。例として松本浩代の場合は出身地の神奈川県平塚市を走るJR東海道線の色にちなんだ湘南電車カラーが使われる。但し新日本プロレスなど一部団体の主催興行、板橋グリーンホールやレッスル武闘館など一部の会場及びバトルロイヤルやデスマッチなど一部特殊な試合形式では、紙テープの投げ入れを全面的に禁止しているケースもある。また2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)発生に伴う燃料供給事情悪化を考慮し、プロレスリングWAVEでも紙テープの投げ入れを一時的に規制した。2020年以降は新型コロナウイルス感染拡大防止のためほとんどのプロレス団体で紙テープ投げ入れ禁止にしている。 ステージを埋め尽くし絡みついた紙テープは移動の妨げになる上、テープの撤去作業の手間に加えて大量のごみを生み出すため、平成期は紙テープ投げが忌避される傾向にある。 英語ではこの用途の紙テープを "paper tape" ではなく "paper streamer" と呼ぶ。 電子部品などの基板用部品を取付ける実装機に部品を供給するために使用される。 段ボールなどの梱包用として片面に糊、あるいは粘着材を塗ったものは一般にガムテープと呼ばれる。 その他、力学実験に用いられる記録タイマーで記録をとる際にも使用される。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "紙テープ (かみテープ、英: paper tape, punched tape)は、細い一定幅の長い紙のこと。一般に芯に巻きつけた形で提供され紙巻テープともいう。価格が安価であり、表面への装飾が可能である。巻きつけた形のためコンパクトであり、ドラムなどに取付けて機械的に駆動すれば時間と同期した出力を得ることができる。このことから初期の記録媒体(電信機、磁気テープのベースとしてのテープレコーダー)としても使用された。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "「鑽孔テープ」(さんこうテープ)や「穿孔テープ」(せんこうテープ)とも呼ばれるコンピュータの情報を記録するために使われた紙媒体。テレックス用の鑽孔テープはコンピュータ以前より使われ最初の情報用紙といわれており、パンチカード(統計機カード)などとともに初期の情報用紙の一種とされる。さらに古くはピアノロールなど自動演奏楽器で楽譜を記録するために用いられるものに起源を求めることが出来る。", "title": "記録媒体としての紙テープ" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "自動パンチ機で穴をあけて、穴の有無で0,1の信号を記録する。元々は電報用で、アルファベットのみからなるコード体系の5孔のものから始まったが、徐々に拡張され6孔や7孔、1960年代以降のバイト=オクテットの時代には8孔となった。後述するように幅の広いテープの例もある。", "title": "記録媒体としての紙テープ" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ピアノロールなどは幅が広いが、幅の狭い鑽孔テープは古くは1846年、アレクサンダー・ベインが電信の自動送信機で使った例がある。また1950年代のコンピュータでも幅の広いテープがある。1990年代前半あたりまではパチンコ店でジェットカウンター(玉数計数機)の出力としても使用されていた。", "title": "記録媒体としての紙テープ" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "モスクワの宇宙征服者のオベリスク (1964) にはコンピュータまたは通信技術者と思われる人が描かれたレリーフがあり、その人物は3行の四角い穴の空いた紙テープを持っている。", "title": "記録媒体としての紙テープ" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1970年代のSFアニメ等に於いてはコンピュータが作動している場面のガジェットとしてオープンリールデータレコーダと共によく描かれていた。鑽孔テープのビット列をそのまま読み取って理解するのは、紙テープが記録媒体に使われていた時代のコンピュータ技師にとっては当たり前の技能であった。テープの穴の空き具合は二進法の順序立てられたものであり、0 - 9の数字や若干の制御文字は容易に憶えられ、手元にASCII、JISやISOの該当する文字コードの一覧表が有れば逐一読み取る事はできる。", "title": "記録媒体としての紙テープ" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "かつては駄菓子屋で、使用済みの鑽孔テープが商品として売られており、「スパイごっこ遊び」などで活用されていた。", "title": "記録媒体としての紙テープ" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "紙テープは今ではほとんど記録媒体として使われておらず新規システムが入出力に紙テープを採用することはない。CNC機械は既存のデータを活用するために紙テープ装置が比較的長く使われてきたが、それも急速に他の手段に取って代わられつつある。", "title": "記録媒体としての紙テープ" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "データは所定の位置に穴があるかないかで表される。最初は1列に5穴でデータを表していたが、後に6穴、7穴、8穴のものが登場した。初期の電気機械式計算機である Harvard Mark I では、1列24穴の紙テープを使っていた。データを表す穴のほかに、各列で必ず開けられている小さめの穴があり、スプロケットの歯で紙テープを送るのに使われていた。後に光学読取装置がタイミングパルスを生成するのにスプロケット用の穴を使うようになった。", "title": "記録媒体としての紙テープ" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "文章(テキスト)の符号化にはいくつかの方法がある。最初期の文字コードはBaudotで、その起源は19世紀に遡る。Baudotは5穴に対応している。その後、6穴の文字コードとして Teletypesetter (TTS)、Fieldata、Friden Flexowriter の文字コード規格が登場し、広まった。1960年代に入ると、米国国家規格協会がデータ処理用汎用コードを策定するプロジェクトを開始し、ASCIIが生まれた。これを採用した7穴の紙テープを使ったテレタイプ端末をテレタイプ社などが生産した。テレックスなどではBaudotを使い続けた。", "title": "記録媒体としての紙テープ" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "鑽孔テープの厚さは0.1mm(0.00394 インチ)である。Baudot用テープの幅は17.46mm(11/16インチ)、ASCIIおよび6穴以上用テープの幅は25.4mm(1インチ)である。穴と穴の間隔はどちらの方向でも2.54mm(0.1インチ)である。データ用の穴の直径は1.83mm(0.072インチ)、フィード用の穴の直径は1.17mm(0.046インチ)である。この2種類の幅の紙テープは2012年現在も販売されている。", "title": "記録媒体としての紙テープ" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "鑽孔装置はほとんどがテープに完全に穴を開ける。その過程で必然的にチャド (chad) と呼ばれるパンチ屑が出てしまう。チャドは非常に小さい紙片であり、テレタイプ端末の機械部分に入り込んだりする問題を抱えていた。", "title": "記録媒体としての紙テープ" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "その問題への対処として Chadless Printing Reperforator という紙テープ鑽孔装置が登場した。これはテレタイプ信号を受信してそれを紙テープに鑽孔しつつ、同じ紙テープ上にメッセージを印字するものである。このとき完全に穴を開けるのではなく、U字形に切れ目を入れるだけに留めるので、チャドが発生しない。これを半鑽孔テープまたはチャドレステープと呼ぶ。復号結果が印字されているので、穴を見て解読する必要がない。また、パンチ屑入れが不要となる。ただし、半鑽孔後のテープは巻こうとすると切れ目同士がひっかかることがあり、きつく巻くことができないという欠点がある。また、後に高速な光学読取装置が主流になってくると、半鑽孔テープは読み取ることができないという問題点も出てきた。それ以前の機械式の読取装置では、ばねつきの針で穴の有無を判定しており、切れ目が入っているだけでも問題なく読み取ることができていた。", "title": "記録媒体としての紙テープ" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "紙テープはテレタイプ端末用のメッセージ格納手段として使われてきた。オペレータがタイプしたメッセージは紙テープに格納され、その紙テープを使って回線の最高速度でメッセージを送信する。そのためオペレータは「オフライン」で普通のタイピング速度でメッセージを準備でき、送信前に間違いを訂正することもできる。熟練したオペレータは短時間なら135WPM(ワード毎分)でタイピングできた。", "title": "記録媒体としての紙テープ" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "通信速度は75WPMだったが、常にその速度を維持できた。紙テープを媒介させてタイピングと通信を分離することで、一定速度の通信を可能としていた。一般に1つの75WPMの回線に対して、3人かそれ以上のオペレータがオフラインで作業していた。また、受信局で受信したメッセージも紙テープに鑽孔されるので、それを使って別の局に中継することもできた。これにより、大規模なストアアンドフォワード型ネットワークが形成されていた。", "title": "記録媒体としての紙テープ" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "コンピュータは最高で毎秒1000文字の速度で紙テープを読み取ることができた。", "title": "記録媒体としての紙テープ" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "初期のミニコンピュータの多くは、既存の大量生産されたASCIIテレタイプ端末を低価格の入出力装置として流用した。例えば、毎秒10文字のASCII文字を処理できるASR-33などである。ASR-33には紙テープ鑽孔装置と紙テープ読取装置が備わっていた。そのため、ミニコンピュータでは低価格の記録媒体として紙テープがよく使われるようになった。商用ソフトウェアも紙テープを媒体として販売されることがよく見られた。高速な光学読取装置もよく使われた。", "title": "記録媒体としての紙テープ" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "バイナリデータを紙テープで転送する際には、紙テープの鑽孔装置や読取装置の誤り率が比較的高いことから、二重符号化技法を採用することが多かった。例えば Intel HEX などの符号化方式で \"01011010\" というバイナリ値を \"5A\" という2文字に変換し、各文字をASCIIで符号化して記録する。フレーム、アドレス、チェックサムなどの情報も16進の値をASCIIで符号化する形で組み込み、誤り検出に使用する。このような符号化を施すと、効率は元のバイナリの35から40%となる。", "title": "記録媒体としての紙テープ" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1970年代から1980年代初めにかけて、紙テープはマスクROMや書き換え可能なEPROMにバイナリデータを転送するのによく使われた。その際の符号化方式は様々なものが考案された。先述のASCIIで16進を符号化する方式やROMライタごとに異なる様々な独自フォーマットが使われた。", "title": "記録媒体としての紙テープ" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "BNPF (Begin-Negative-Positive-Finish) 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"記録媒体としての紙テープ" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1917年に発明されたバーナム暗号では、紙テープをよく使用した。1960年代以降、アメリカ国家安全保障局 (NSA) は暗号の鍵を鑽孔テープの形で配布していた。8穴の紙テープを厳密な管理下で配布し、携帯型のKOI-18などのデバイスを新たな鍵を必要としているセキュリティ装置に一時的に接続し、紙テープを読み取らせて鍵を入力する。今ではNSAはより安全な電子鍵管理システムを採用したが、紙テープも未だに使われている。", "title": "記録媒体としての紙テープ" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "紙テープには次の3つの大きな問題があった。", "title": "記録媒体としての紙テープ" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "一方、紙テープには次のような利点がある。", "title": "記録媒体としての紙テープ" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "包装や飾り付け、またくす玉(割り玉)の中身に貼り付けたりする。これらの用途では様々な色や模様のものが用いられる。小型のものはクラッカーの中にも含まれる。", "title": "記録媒体以外の紙テープ" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "巻かれた状態の紙テープの端を持って勢いよく投げると、長く伸びたテープが宙を舞い、色鮮やかに見せることができる。(市販される紙テープは硬質の芯が入っているため、重りとなり遠くまで飛ばすことができる。)昭和期には、これを「紙テープ投げ」と称し、応援などの演出に盛んに用いられた。", "title": "記録媒体以外の紙テープ" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "昭和期の船の出港の見送りの際、デッキの乗客が岸壁の見送り客に向かって紙テープ投げを行い、惜別を表現することがあった。駅のホームでの見送りの際にも行われることがあったが、車両の床下機器や電化区間の駅にあっては架線にも絡みつくおそれがあるため、鉄道事業者の側から禁止されるようになった。", "title": "記録媒体以外の紙テープ" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "昭和期の歌手のコンサートやプロレスの試合の際にも紙テープ投げは盛んに行われ、観客はステージやリングに向かって紙テープ投げを行うことにより、応援の意を表現した。紙テープで埋め尽くされたステージはスター芸能人のアイコンでもあったが、芸能人は大量に飛来するテープの芯を巧みに回避しなければならなかった。 1973年には、イベントに出席していた由紀さおりの額にテープの芯らしきものが当たり、5針縫うケガをした事例もあった。こうした事故を防ぐため、主催者からテープを投げる際には、あらかじめ芯を外すよう指示が出る場合もある。", "title": "記録媒体以外の紙テープ" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "プロレスにおいては各選手のイメージに合わせた紙テープを投げるのが一般的である。例として松本浩代の場合は出身地の神奈川県平塚市を走るJR東海道線の色にちなんだ湘南電車カラーが使われる。但し新日本プロレスなど一部団体の主催興行、板橋グリーンホールやレッスル武闘館など一部の会場及びバトルロイヤルやデスマッチなど一部特殊な試合形式では、紙テープの投げ入れを全面的に禁止しているケースもある。また2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)発生に伴う燃料供給事情悪化を考慮し、プロレスリングWAVEでも紙テープの投げ入れを一時的に規制した。2020年以降は新型コロナウイルス感染拡大防止のためほとんどのプロレス団体で紙テープ投げ入れ禁止にしている。", "title": "記録媒体以外の紙テープ" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ステージを埋め尽くし絡みついた紙テープは移動の妨げになる上、テープの撤去作業の手間に加えて大量のごみを生み出すため、平成期は紙テープ投げが忌避される傾向にある。", "title": "記録媒体以外の紙テープ" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "英語ではこの用途の紙テープを \"paper tape\" ではなく \"paper streamer\" と呼ぶ。", "title": "記録媒体以外の紙テープ" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "電子部品などの基板用部品を取付ける実装機に部品を供給するために使用される。", "title": "記録媒体以外の紙テープ" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "段ボールなどの梱包用として片面に糊、あるいは粘着材を塗ったものは一般にガムテープと呼ばれる。", "title": "記録媒体以外の紙テープ" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "その他、力学実験に用いられる記録タイマーで記録をとる際にも使用される。", "title": "記録媒体以外の紙テープ" } ]
紙テープ は、細い一定幅の長い紙のこと。一般に芯に巻きつけた形で提供され紙巻テープともいう。価格が安価であり、表面への装飾が可能である。巻きつけた形のためコンパクトであり、ドラムなどに取付けて機械的に駆動すれば時間と同期した出力を得ることができる。このことから初期の記録媒体(電信機、磁気テープのベースとしてのテープレコーダー)としても使用された。
'''紙テープ''' (かみテープ、{{lang-en-short|paper tape, punched tape}})は、細い一定幅の長い[[紙]]のこと。一般に芯に巻きつけた形で提供され紙巻テープともいう。価格が安価であり、表面への装飾が可能である。巻きつけた形のためコンパクトであり、ドラムなどに取付けて機械的に駆動すれば時間と同期した出力を得ることができる。このことから初期の[[メディア (媒体)|記録媒体]]([[電信機]]、磁気テープのベースとしての[[テープレコーダー]])としても使用された。 == 記録媒体としての紙テープ == [[ファイル:PaperTapes-5and8Hole.jpg|right|300px|thumb|5孔テープと8孔テープ]] [[ファイル:Harwell-dekatron-witch-10.jpg|right|thumb|紙テープ読取装置。物理的にループされた5孔テープがループ処理を実行している。]] 「'''鑽孔テープ'''」(さんこうテープ)や「'''穿孔テープ'''」(せんこうテープ)とも呼ばれる[[コンピュータ]]の情報を記録するために使われた紙媒体。テレックス用の鑽孔テープはコンピュータ以前より使われ最初の情報用紙といわれており、[[パンチカード]](統計機カード)などとともに初期の情報用紙の一種とされる<ref>{{Cite web|和書|author=飯田清昭 |url=http://sts.kahaku.go.jp/diversity/document/system/pdf/071.pdf |title=情報用紙製造技術の系統化 |publisher=国立科学博物館産業技術史資料情報センター |accessdate=2019-12-12}}</ref>。さらに古くは[[ピアノロール]]など自動演奏[[楽器]]で楽譜を記録するために用いられるものに起源を求めることが出来る。 自動パンチ機で穴をあけて、穴の有無で0,1の信号を記録する。元々は電報用で、アルファベットのみからなるコード体系の5孔のものから始まったが、徐々に拡張され6孔や7孔、1960年代以降のバイト=オクテットの時代には8孔となった。後述するように幅の広いテープの例もある。<!-- 織機で利用されていた、とする記述を削除しました。詳細はノートに --> ピアノロールなどは幅が広いが、幅の狭い鑽孔テープは古くは1846年、[[アレクサンダー・ベイン]]が[[電信]]の自動送信機で使った例がある。また1950年代のコンピュータでも幅の広いテープがある<ref>[http://museum.ipsj.or.jp/computer/device/paper/0002.html FACOM 100用60単位テープ読取機および穿孔機]([[情報処理学会]]コンピュータ博物館) </ref>。1990年代前半あたりまでは[[パチンコ]]店で[[ジェットカウンター]](玉数計数機)の出力としても使用されていた。 モスクワの[[宇宙征服者のオベリスク]] (1964) にはコンピュータまたは通信技術者と思われる人が描かれたレリーフがあり、その人物は3行の四角い穴の空いた紙テープを持っている。 [[1970年代]]のSF[[アニメーション|アニメ]]等に於いてはコンピュータが作動している場面のガジェットとして[[オープンリール]][[データレコーダ]]と共によく描かれていた。鑽孔テープのビット列をそのまま読み取って理解するのは、紙テープが記録媒体に使われていた時代のコンピュータ技師にとっては当たり前の技能であった。テープの穴の空き具合は[[二進法]]の順序立てられたものであり、[[0]] - [[9]]の[[数字]]や若干の[[制御文字]]は容易に憶えられ、手元に[[ASCII]]、[[JIS]]や[[ISO]]の該当する[[文字コード]]の一覧表が有れば逐一読み取る事はできる。 かつては[[駄菓子屋]]で、使用済みの鑽孔テープが商品として売られており、「スパイごっこ遊び」などで活用されていた。 紙テープは今ではほとんど記録媒体として使われておらず新規システムが入出力に紙テープを採用することはない。[[コンピュータ数値制御|CNC]]機械は既存のデータを活用するために紙テープ装置が比較的長く使われてきたが、それも急速に他の手段に取って代わられつつある。 === フォーマット === データは所定の位置に穴があるかないかで表される。最初は1列に5穴でデータを表していたが、後に6穴、7穴、8穴のものが登場した。初期の電気機械式計算機である [[Harvard Mark I]] では、1列24穴の紙テープを使っていた<ref>{{Citation| last = Dalakov | first = Georgi | title = History of computers: The MARK computers of Howard Aiken | url = http://history-computer.com/ModernComputer/Relays/Aiken.html | accessdate = 2011-01-12 }}</ref>。データを表す穴のほかに、各列で必ず開けられている小さめの穴があり、[[スプロケット]]の歯で紙テープを送るのに使われていた。後に光学読取装置がタイミングパルスを生成するのにスプロケット用の穴を使うようになった。 文章(テキスト)の符号化にはいくつかの方法がある。最初期の[[文字コード]]は[[Baudot Code|Baudot]]で、その起源は19世紀に遡る。Baudotは5穴に対応している。その後、6穴の文字コードとして Teletypesetter (TTS)、[[:en:Fieldata|Fieldata]]、[[:en:Friden Flexowriter|Friden Flexowriter]] の文字コード規格が登場し、広まった。1960年代に入ると、[[米国国家規格協会]]がデータ処理用汎用コードを策定するプロジェクトを開始し、[[ASCII]]が生まれた。これを採用した7穴の紙テープを使った[[テレタイプ端末]]を[[テレタイプ (企業)|テレタイプ]]社などが生産した。[[テレックス]]などではBaudotを使い続けた。 ==== 寸法 ==== 鑽孔テープの厚さは0.1mm(0.00394 インチ)である。Baudot用テープの幅は17.46mm(11/16インチ)、ASCIIおよび6穴以上用テープの幅は25.4mm(1インチ)である。穴と穴の間隔はどちらの方向でも2.54mm(0.1インチ)である。データ用の穴の直径は1.83mm(0.072インチ)、フィード用の穴の直径は1.17mm(0.046インチ)である<ref>[http://www.polyomino.org.uk/computer/ECMA-10/ ECMA 10, Standard for Data Interchange on Punched Tape], November 1965</ref>。この2種類の幅の紙テープは2012年現在も販売されている<ref>http://www.wncsupply.com/paper-tape-rolls.html</ref>。 ==== 半鑽孔テープ ==== 鑽孔装置はほとんどがテープに完全に穴を開ける。その過程で必然的にチャド (chad) と呼ばれるパンチ屑が出てしまう。チャドは非常に小さい紙片であり、テレタイプ端末の機械部分に入り込んだりする問題を抱えていた。 [[ファイル:1980-Paper Tape fromTeletype (chadless, 5-level Baudot)-02.jpg|thumb|right|Baudotの5穴対応の半鑽孔テープ。テレタイプ社が1975年から1980年ごろに採用していたもの]] その問題への対処として ''Chadless Printing Reperforator'' という紙テープ鑽孔装置が登場した。これはテレタイプ信号を受信してそれを紙テープに鑽孔しつつ、同じ紙テープ上にメッセージを印字するものである。このとき完全に穴を開けるのではなく、U字形に切れ目を入れるだけに留めるので、チャドが発生しない。これを半鑽孔テープまたはチャドレステープと呼ぶ。復号結果が印字されているので、穴を見て解読する必要がない。また、パンチ屑入れが不要となる。ただし、半鑽孔後のテープは巻こうとすると切れ目同士がひっかかることがあり、きつく巻くことができないという欠点がある。また、後に高速な光学読取装置が主流になってくると、半鑽孔テープは読み取ることができないという問題点も出てきた。それ以前の機械式の読取装置では、ばねつきの針で穴の有無を判定しており、切れ目が入っているだけでも問題なく読み取ることができていた。 === 用途 === ==== 通信 ==== [[ファイル:Honolulu IFSS Teletype1964.faa.jpg|thumb|アメリカ[[連邦航空局]]のホノルル・フライト・サービスでの紙テープ中継作業の様子(1964年)]] 紙テープはテレタイプ端末用のメッセージ格納手段として使われてきた。オペレータがタイプしたメッセージは紙テープに格納され、その紙テープを使って回線の最高速度でメッセージを送信する。そのためオペレータは「オフライン」で普通のタイピング速度でメッセージを準備でき、送信前に間違いを訂正することもできる。熟練したオペレータは短時間なら135WPM(ワード毎分)でタイピングできた。 通信速度は75WPMだったが、常にその速度を維持できた。紙テープを媒介させてタイピングと通信を分離することで、一定速度の通信を可能としていた。一般に1つの75WPMの回線に対して、3人かそれ以上のオペレータがオフラインで作業していた。また、受信局で受信したメッセージも紙テープに鑽孔されるので、それを使って別の局に中継することもできた。これにより、大規模な[[ストアアンドフォワード]]型ネットワークが形成されていた。 コンピュータは最高で毎秒1000文字の速度で紙テープを読み取ることができた<ref>{{Citation| last = Hult | first = Ture | title = Presentation of a new high speed paper tape reader | journal = BIT Numerical Mathematics | volume = 3 | issue = 2 | pages = 93–96 | year = 1963 | doi = 10.1007/BF01935575 }} </ref>。 ==== ミニコンピュータ ==== [[ファイル:Dg-papertapes.jpg|thumb|right|[[:en:Data General Nova|Data General Nova]] ミニコンピュータ用のソフトウェアは折りたたまれた連続紙型の紙テープに格納されていた。]] [[ファイル:Papertape2.jpg|thumb|折りたたまれた連続紙タイプの紙テープ]] 初期の[[ミニコンピュータ]]の多くは、既存の大量生産されたASCIIテレタイプ端末を低価格の入出力装置として流用した。例えば、毎秒10文字のASCII文字を処理できる[[ASR-33]]などである。ASR-33には紙テープ鑽孔装置と紙テープ読取装置が備わっていた。そのため、ミニコンピュータでは低価格の記録媒体として紙テープがよく使われるようになった。商用ソフトウェアも紙テープを媒体として販売されることがよく見られた。高速な光学読取装置もよく使われた。 バイナリデータを紙テープで転送する際には、紙テープの鑽孔装置や読取装置の誤り率が比較的高いことから、二重符号化技法を採用することが多かった。例えば [[Intel HEX]] などの符号化方式で "01011010" というバイナリ値を "5A" という2文字に変換し、各文字をASCIIで符号化して記録する。フレーム、アドレス、チェックサムなどの情報も16進の値をASCIIで符号化する形で組み込み、誤り検出に使用する。このような符号化を施すと、効率は元のバイナリの35から40%となる<ref>例えば、16バイトのデータを1フレームとし、44文字のASCII文字で表すと36%の効率になる</ref>。 ==== ROM/EPROMへのプログラムデータ転送 ==== 1970年代から1980年代初めにかけて、紙テープは[[マスクROM]]や書き換え可能な[[EPROM]]にバイナリデータを転送するのによく使われた。その際の符号化方式は様々なものが考案された<ref>{{Cite web |url= ftp://ftp.dataio.com/main/Manuals/UniFam/Translation%20Formats.pdf |title=Translation File Formats |publisher=Data I/O Corporation |date= |accessdate=2010-08-30}}</ref>。先述のASCIIで16進を符号化する方式やROMライタごとに異なる様々な独自フォーマットが使われた。 BNPF (Begin-Negative-Positive-Finish) という符号化方式は、1バイト(8ビット)を10文字(10バイト)で表すという非常に冗長なフォーマットを採用している。まず1バイトの先頭を表す文字"B"、1バイト内の各ビットが1なら"P"、0なら"N"、最後に"F"をそれぞれASCIIコードで表記している。この10文字の列を空白文字を1つ以上挟んで並べていく。従って効率は9%以下となる。ASCIIの"N"と"P"は4つのビット位置のON/OFFが違っているため、鑽孔装置の誤りを訂正しやすい。ビットを"H"と"L"で表す方式や"0"と"1"で表す方式もあったが、それらの場合はASCIIコードのビットのON/OFFが1カ所しか違わないため、誤り訂正が難しい。 ==== キャッシュレジスタ ==== [[NCR (企業)|NCR]]は1970年ごろ、紙テープに記録する[[キャッシュレジスター]]を開発した。その紙テープをコンピュータに読み込ませて売り上げなどを計算した。 ==== 新聞業界 ==== 新聞業界では1970年代中ごろ以降まで鑽孔テープを使っていた。そのころの新聞は[[ライノタイプ]]を使って紙面を作っていた。このとき、ライノタイプのオペレータが記事を打ち込むのではなく、鑽孔テープに記録された記事を読み込ませていた。記事を紙テープに格納するには [[:en:Friden Flexowriter|Friden Flexowriter]] などを使用している。ライノタイプから初期の[[オフセット印刷]]になっても、記事から[[版下]]を作るのに紙テープが使われていた時期がある。 ==== 自動機械 ==== [[ファイル:Paper tape reader on a CNC control 001.jpg|thumb|紙テープ読取装置を装備したCNCマシン]] 1970年代、[[CAM]](コンピュータ支援製造)装置は紙テープを使用したものが多かった。例えば、[[ワイヤラッピング]]マシンでは紙テープが重要な記録媒体だった。紙テープ読取装置はパンチカードや磁気テープの読取装置より小型で安価だった。そういった装置で長期間何度も使える鑽孔テープとしてマイラーフィルムを使ったテープが発明された。 ==== 暗号 ==== [[File:KOI-18.nsa.jpg|thumb|right|紙テープ読取装置KOI-18]] 1917年に発明された[[バーナム暗号]]では、紙テープをよく使用した。1960年代以降、[[アメリカ国家安全保障局]] (NSA) は暗号の[[鍵 (暗号)|鍵]]を鑽孔テープの形で配布していた。8穴の紙テープを厳密な管理下で配布し、携帯型の[[:en:KOI-18|KOI-18]]などのデバイスを新たな鍵を必要としているセキュリティ装置に一時的に接続し、紙テープを読み取らせて鍵を入力する。今ではNSAはより安全な電子鍵管理システムを採用したが、紙テープも未だに使われている。 === 制約 === 紙テープには次の3つの大きな問題があった。 * 信頼性が低い。鑽孔テープを機械で複写した場合、人手で正しく複写されたか確認することは日常茶飯事だった。 * テープの巻き戻しが難しく、問題を発生しやすい。テープを引き裂かないよう注意が必要だった。巻いた形ではなく折り目のある連続紙の紙テープを採用したシステムもあり、その場合は巻き戻しの必要がない。 * 情報密度が低い。数十キロバイト以上のデータを紙テープに記録しようとするとあまりにも長いテープが必要となり、現実的でない。 * 何度も繰り返し使用したり、乱暴に取り扱うと、ちぎれたり擦り切れたりして、全て、あるいは一部が読み取れなくなる可能性がある。 === 利点 === 一方、紙テープには次のような利点がある。 * 寿命が長い。同時期の磁気テープは多くが経年劣化で強度が落ちて破損しており、その中のデータは取り出せなくなっている。しかし紙テープは、[[中性紙]]やマイラー(ポリエステルフィルム)を素材としていれば、数十年経っても問題なく読み取れる。ただし、材質によっては紙テープもすぐに劣化する。 * 目視で読み取り可能である。そのため、切れたテープも全ての位置に穴を開けたテープ断片を使えば、修復可能である。はさみと糊と穴あけ用器具を使えば、手作業で紙テープを編集することも可能である。 * 強い[[磁場]]に置かれても影響を受けない。[[機械加工]]の現場では強力な[[電動機]]をいくつも使用するので、CNCシステムでは磁気テープではなく紙テープでデータを供給していた<ref>{{Cite book|title=Microprocessor-based Control Systems|first=Naresh Kumar|last=Sinha|page=264|qutoe="Paper tape is well suited to a machine shop environment whereas magnetic tape may be accidentally erased or contaminated by foreign substances. ...&nbsp;Other disadvantages of paper tape are as follows&nbsp;..."}}</ref>。 * 廃棄が容易である。暗号の鍵として使用する場合、使用済みの紙テープはすぐに燃やしてしまうことができる。 == 記録媒体以外の紙テープ == === 装飾・演出用 === [[ファイル:Shirase AGB5003 leaving harumi.jpg|thumb|270px|出港する船(砕氷艦「[[しらせ (砕氷艦・2代)|しらせ]]」)から渡される紙テープ]] 包装や飾り付け、また[[くす玉]](割り玉)の中身に貼り付けたりする。これらの用途では様々な色や模様のものが用いられる。小型のものは[[クラッカー (パーティーグッズ)|クラッカー]]の中にも含まれる。 巻かれた状態の紙テープの端を持って勢いよく投げると、長く伸びたテープが宙を舞い、色鮮やかに見せることができる。(市販される紙テープは硬質の芯が入っているため、重りとなり遠くまで飛ばすことができる。)昭和期には、これを「紙テープ投げ」と称し、応援などの演出に盛んに用いられた。 昭和期の船の出港の見送りの際、デッキの乗客が岸壁の見送り客に向かって紙テープ投げを行い、惜別を表現することがあった。駅のホームでの見送りの際にも行われることがあったが、車両の床下機器や電化区間の駅にあっては架線にも絡みつくおそれがあるため、鉄道事業者の側から禁止されるようになった<ref>[[鉄道ピクトリアル]]NO.679(1999年12月臨時増刊号 [[小田急電鉄]]特集)126ページ、「[[ふじさん|新宿-御殿場間直通列車]] [[小田急キハ5000形気動車|キハ5000形]]に乗務した頃」川島常雄</ref>。 [[ファイル:Takashi Sugiura.jpg|200px|サムネイル|プロレスラー([[杉浦貴]])に投げ込まれる紙テープ]] [[ファイル:Chicago Welcomes the Apollo 11 Astronauts (9457411063).jpg|200px|サムネイル|アポロ11号の宇宙飛行士の帰還記念パレードを迎えるためにシカゴの高層ビル街に舞う紙テープや紙吹雪。もとは[[ティッカー・テープ]]という株価の通信の記録用紙テープを金融会社などの社員が投げ落としたため、[[ティッカー・テープ・パレード]]と呼ばれる]] 昭和期の歌手のコンサートや[[プロレス]]の試合の際にも紙テープ投げは盛んに行われ、観客はステージやリングに向かって紙テープ投げを行うことにより、応援の意を表現した。紙テープで埋め尽くされたステージはスター芸能人のアイコンでもあったが、芸能人は大量に飛来するテープの芯を巧みに回避しなければならなかった。 1973年には、イベントに出席していた[[由紀さおり]]の額にテープの芯らしきものが当たり、5針縫うケガをした事例もあった<ref>「由紀さおりがケガ」『朝日新聞』昭和48年2月13日朝刊、13面、23面</ref>。こうした事故を防ぐため、主催者からテープを投げる際には、あらかじめ芯を外すよう指示が出る場合もある。 プロレスにおいては各選手のイメージに合わせた紙テープを投げるのが一般的である。例として[[松本浩代]]の場合は出身地の[[神奈川県]][[平塚市]]を走る[[東海道線 (JR東日本)|JR東海道線]]の色にちなんだ[[湘南電車]]カラーが使われる。但し[[新日本プロレス]]など一部団体の主催興行、[[板橋グリーンホール]]や[[レッスル武闘館]]など一部の会場及び[[バトルロイヤル]]や[[デスマッチ]]など一部特殊な試合形式では、紙テープの投げ入れを全面的に禁止しているケースもある。また[[2011年]][[3月11日]]の[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])発生に伴う燃料供給事情悪化を考慮し、[[プロレスリングWAVE]]でも紙テープの投げ入れを一時的に規制した。2020年以降は[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染]]拡大防止のためほとんどのプロレス団体で紙テープ投げ入れ禁止にしている。 ステージを埋め尽くし絡みついた紙テープは移動の妨げになる上、テープの撤去作業の手間に加えて大量のごみを生み出すため、平成期は紙テープ投げが忌避される傾向にある。 英語ではこの用途の紙テープを "paper tape" ではなく "paper streamer" と呼ぶ。 === その他 === 電子部品などの[[基板]]用部品を取付ける実装機に部品を供給するために使用される。 [[段ボール]]などの梱包用として片面に糊、あるいは粘着材を塗ったものは一般に[[ガムテープ]]と呼ばれる。 その他、力学実験に用いられる記録タイマーで記録をとる際にも使用される。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[ビットバケツ]] * [[キーパンチ]] * [[キーパンチャー]] * [[写真フィルム]] * [[ストックティッカー]] == 外部リンク == {{Commonscat|Punched tapes}} * [http://museum.ipsj.or.jp/computer/device/paper/index.html コンピュータ博物館 - 紙テープ・カード入出力装置] * [http://www.computermuseum.org.uk/fixed_pages/Elliott_903.html The Elliott paper tape punch and reader] * [http://www.srcf.ucam.org/~jsm28/ECMA-10/ ECMA-10: ECMA standard for Data Interchange on Punched Tape] * [http://blinkenlights.com/classiccmp/friden/ Friden Flexowriter] - 紙テープ穿孔装置・読み取り装置を備えたタイプライター。IBMが1940年代に設計したもので、Fridenが1950年代に買い取った。 * [http://www.deadmedia.org/notes/39/394.html Dead medium: Telegraphic Paper Tape; Digital Paper Tape; Baudot Code; Dead Encoding Formats; ILLIAC; TTY] - [[Baudot Code]] と [[ILLIAC I|ILLIAC]] で使われた紙テープの符号体系について {{紙記録媒体}} {{補助記憶装置}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:かみてえふ}} [[Category:紙製品]] [[Category:文房具]] [[category:電子媒体]] [[Category:テープ]] [[Category:コンピュータストレージメディア]]
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東葉高速鉄道
東葉高速鉄道株式会社(とうようこうそくてつどう)は、千葉県内で第三セクター鉄道である東葉高速線を運営している鉄道事業者。本社と車両基地(八千代緑が丘車両基地)は千葉県八千代市に所在する。 京成本線の混雑解消路線として、帝都高速度交通営団(営団地下鉄、現・東京地下鉄〈東京メトロ〉)が自社線である東西線の延伸区間として計画した「営団勝田台線」(仮称)を建設し運行するために、千葉県・船橋市・八千代市の沿線自治体と、営団地下鉄・京成電鉄・東武鉄道・新京成電鉄の鉄道事業者、および金融機関が出資して設立された第三セクター鉄道である。 東葉高速鉄道の社紋(シンボルマーク)は、東葉高速鉄道の頭文字「T」を「未来」「明日」「希望」に向かって羽ばたく鳥の翼をイメージしたものである。 1972年(昭和47年)3月の答申第15号において、都市計画第5号線(東西線)が、西船橋 - 新船橋付近 - 飯山満 - 北習志野 - 八千代市中央部 - 勝田台を終点とする路線に改められた。営団地下鉄は1974年(昭和49年)3月22日、第5号線「営団勝田台線」西船橋 - 勝田台間(16.2 km)の延伸を正式に決定、同年3月30日に路線免許を申請した。営団地下鉄の計画では1976年(昭和51年)9月20日に建設工事に着手し、1979年(昭和54年)10月の開業を予定、建設費用は955億円を見込んだ。東西線(西船橋以西)とは直通運転を行い、途中の北習志野駅のみ停車する快速列車の運転も予定していた。 営団地下鉄としては、第7号線(南北線)や第13号線(副都心線)の建設の必要性があったが、当時の東京周辺で最も人口の増加が激しかった船橋市、八千代市などが千葉県とともに1973年(昭和48年)5月に「営団地下鉄東西線建設促進協議会」を結成し、「営団勝田台線」の建設陳情を営団地下鉄へ繰り返したことから、建設を決定したものである。しかし、建設に向けた手続きを進めるにあたり、特に沿線で競合関係となる京成電鉄から死活問題であるとして反対があり、また営団地下鉄の担当区域(帝都高速度交通営団法第1条「営団地下鉄ハ東京都ノ区ノ存スル区域及其ノ附近ニ於ケル交通機関」)を大きく外れるとの意見があり、路線免許取得は難航した。 京成電鉄はオイルショックの影響による不動産投資・地域開発分野で大幅な損失を計上したことや、新東京国際空港(現・成田国際空港)の開港の遅れにより業績を悪化させたことに考慮して、当時の運輸省が一時的に計画を凍結した。 1980年(昭和55年)7月19日、運輸省は次のような最終調整案をまとめ、地元に提示し了承を求めた。 最終的に、この案を基本として1981年(昭和56年)9月1日に東葉高速鉄道が設立され、同社が勝田台線の建設・経営を行うことが決定した。 そして、東葉高速鉄道が地方鉄道敷設免許を申請したため、営団地下鉄は1982年(昭和57年)2月15日に勝田台線の路線免許申請を取り下げ、同年3月19日に東葉高速鉄道に地方鉄道敷設免許が交付された。路線は本線部分について日本鉄道建設公団(当時)が民鉄線方式(P線方式)で建設を行い、完成後に公団から東葉高速鉄道へ施設を譲り受け、営業を行うこととされた。計画時点では、東海神、飯山満、北習志野、西八千代(→八千代緑が丘)、八千代(→八千代中央)、勝田台(→東葉勝田台)の6駅を設置する方針とした。 1984年(昭和59年)より建設工事に着手し、第1期区間となる西船橋 - 八千代(→八千代中央)間は1991年(平成3年)4月に開業、第2期区間となる八千代(→八千代中央) - 勝田台(→東葉勝田台)間は1993年(平成5年)4月の開業を予定し、車両費を含めた建設費用は2,091億円(1 km あたり約129億円)を予定していた。 当時、地元は営団経営による延長を主張していたが、結局は第三セクター方式で建設されることとなった。この原案は1965年頃に本八幡駅 - 船橋市行田団地 - 習志野駅 - 八千代市萱田間を予定経路として行われた地下鉄10号線(現・都営地下鉄新宿線)の千葉県内延長調査が元となっている。なお、計画凍結中の運行案として、京成電鉄の短絡路線とする計画もあったが、同社がこれを拒否したため実現しなかった。 建設にあたって関係地権者約700名、支障建物約180戸であったが、当初より地権者の抵抗もあって用地買収は難航した。当時、成田空港問題の影響から千葉県の収用委員会が機能しておらず、土地収用が行えなかったことが拍車をかけた(2001年の衆議院国土交通委員会で、山田正彦が「一人が反対しただけで三年間延びた」としている)。一例として1人の地権者に300回もの用地交渉を行ったこともあり、最終的に用地交渉が完了したのは1994年(平成6年)6月末であった。 さらに、手抜き工事によるトンネル陥没事故による工期の遅れと修繕工事費用や、バブル期の土地高騰、資材高騰のあおりを受けて建設費が当初予定をはるかに上回る結果となった 。近年の営業収支は黒字で推移しているが、その営業利益や得られた現金預金では建設時の元金は元より債務の利払いにも足りず、経常収支は赤字であり、負債額は年々増加していた時期もあった。その後周辺自治体などの支援の結果もあり経常収支、純利益は黒字化し、2020年代に入り数年内に債務超過の解消の見込みが経つほど経営状態は最悪の状態から改善しつつある。しかし建設に関わる長期債務について元金と利払いを当該年度の収入・利益で賄うことは出来ておらず、過去の周辺自治体等の経営支援で得た追加出資により得た現金預金を切り崩しており、COVID-19流行の影響もあって2020年代に運転資金が枯渇する危険が見込まれ(当初は2030年代と予測されていた)、経営危機状態は脱していない。そのため、東日本旅客鉄道(JR東日本)の電車特定区間運賃の約2.5倍となる高額な運賃体系となっている(「運賃」の節も参照)。この東葉高速鉄道の経験が、後の様々な助成制度の整備やつくばエクスプレスの成功につながったと言われている。 東葉高速鉄道線の建設費用は、当初計画の2,091億円(前述)から公団P線工事建設区間で2,948億円(最終的な総額)に膨らんだ。これは開業時に譲渡を受けた本線部分が2,813億円、開業1年後に京成との連絡通路部分が136億円である。公団P線方式制度のもとで金利は最大5%に限定されるが、25年間の利子額を含めた返済総額は4,960億円にもなる。ただし、東葉高速鉄道への経営支援策によって現在の返済期間は60年まで延長している。 2006年3月末現在のデータで全国の第三セクター鉄道の中でもっとも債務超過額が多くなっている。2008年3月期決算では、売上高は約152億5000万円、営業損益は約47億4000万円の黒字であるが、約5億円の経常損益の赤字があり、累積赤字は約846億8000万円になっている。その後もしばらく「売上高が150億円強で営業損益は黒字であるが経常損益・純損益が赤字」という状況が続いたが、2011年3月期(2010年度)決算にて、支払利息の低減などにより開業以来初めて経常損益・純損益が黒字に転じた 。その一方で、累積赤字額については一時増加に転じていたこともあり、2013年3月期決算では約833億5723万円と改善は僅かにとどまっていたが、近年は沿線の住宅開発の進展に伴う乗客増加の影響で、2021年3月期決算では675億1555万8000円まで減少している。 2007年(平成19年)初頭まで、京成本線との乗り換えで成田国際空港まで早く着くことをセールスポイントとして「味な近道」というキャッチコピーでPRしていた。開発により沿線地域のベッドタウン化が進んだこともあり、収益は改善が進む傾向にある。 現在では旅客以外の収入にも力を入れており、駅施設(ホームや改札口など)を利用して、ドラマをはじめとするテレビ番組やCMのロケーション撮影もたびたび行われている。ドラマ撮影は『Mの悲劇』、『クロサギ』、『パパとムスメの7日間』、『猟奇的な彼女』、『最高の人生の終り方〜エンディングプランナー〜』などTBS系列が多いが、日本テレビ系列の『悪夢ちゃん』、フジテレビ系列の『ありふれた奇跡』、『リーガル・ハイ』、『GTO』(関西テレビ制作、2012年)、テレビ朝日系列の『相棒』でも使用されたことがある。CMではこれまでに、ヤクルトの健康飲料「プレティオ」、消費者金融のアコム、三井住友海上グループ、乳酸菌飲料カルピスなどの撮影に使われている。 当初は新造車両を導入することを計画していたが、開業に伴う建設費用を削減するため、予定していた車両基地の整備工場と車輪転削盤施設の建設見送り、車両は営団地下鉄東西線(当時)の05系新造に伴って、余剰となった5000系を改造して導入した。営団地下鉄5000系は制御装置の更新(抵抗制御→界磁添加励磁制御)、冷房装置の取り付け、車内の更新工事などを行い、東葉高速鉄道1000形となった(現在は新造車の2000系に置き換えられている)。 保守費用の低減を図るため、車両の重要部検査・全般検査および車輪削正などは営団地下鉄(→東京地下鉄)に業務を委託している。 大人普通旅客運賃(小児半額・ICカードの場合は1円未満切り捨て、切符購入の場合は10円未満切り上げ)。2019年10月1日改定。 定期券の割引率は通勤30.8%・通学55.6%(2014年4月現在)で、普通運賃より割安になるのは通勤定期で月21往復、通学定期で月14往復以上の場合である。6か月定期では割引率は通勤定期37%で、月19往復以上で割安になる。2014年4月より通学定期は通勤の半額に値下げされている。 回数券は区間式で、「普通回数券」は11枚綴り、「昼間・土休日割引回数券」は13枚綴りで発売している。 いずれも西船橋駅と施設最寄駅では発売していない。 2007年10月2日から11月4日まで、千葉県船橋市のふなばしアンデルセン公園で「第24回全国都市緑化ふなばしフェア おとぎの国の花フェスタinふなばし」が開催された。これに併せて、以下の取り組みを行った。
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東葉高速鉄道株式会社(とうようこうそくてつどう)は、千葉県内で第三セクター鉄道である東葉高速線を運営している鉄道事業者。本社と車両基地(八千代緑が丘車両基地)は千葉県八千代市に所在する。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{Otheruses|企業|この企業が運営する鉄道路線|東葉高速鉄道東葉高速線}} {{基礎情報 会社 | 社名 = 東葉高速鉄道株式会社 | 英文社名 = TOYO Rapid Railway Co.,Ltd. | ロゴ = [[ファイル:Toyo Rapid Railway logo (wide).svg|300px]] | 画像 = [[ファイル:Toyokosokuhonsha.jpg|280px]] | 画像説明 = 本社 | 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] | 市場情報 = 非上場 | 略称 = | 国籍 = {{JPN}} | 郵便番号 = 276-0049 | 本社所在地 = [[千葉県]][[八千代市]][[緑が丘 (八千代市)|緑が丘]]1丁目1120番地3 | 本社緯度度 = 35 | 本社緯度分 = 43 | 本社緯度秒 = 44.8 | 本社N(北緯)及びS(南緯) = N | 本社経度度 = 140 | 本社経度分 = 4 | 本社経度秒 = 35.7 | 本社E(東経)及びW(西経) = E | 本社地図国コード = JP-12 | 設立 = 1981年(昭和56年)9月1日 | 業種 = 陸運業 | 事業内容 = 旅客鉄道事業 他 | 代表者 = 代表取締役社長 田中剛 | 資本金 = 626億円 |売上高 = 147億円<br>(2023年3月期)<ref name="fy">[https://catr.jp/settlements/7a27e/308830 東葉高速鉄道株式会社 第42期決算公告]</ref> |営業利益 = 46億6200万円<br>(2023年3月期)<ref name="fy" /> |経常利益 = 38億4100万円<br>(2023年3月期)<ref name="fy" /> |純利益 = 26億6800万円<br>(2023年3月期)<ref name="fy" /> |純資産 = |総資産 = 2353億9800万円<br>(2023年3月期)<ref name="fy" /> | 従業員数 = 304人(2021年4月1日現在)<ref name="company-profile">{{Cite web|和書|url=https://www.toyokosoku.co.jp/company/profile|title=会社案内 |publisher=東葉高速鉄道 |accessdate=2022-05-21}}</ref> | 決算期 = [[3月31日]] | 主要株主 = [[千葉県]] 33.5%<br />[[船橋市]] 24.9%<br />[[八千代市]] 22.1%<br />[[東京地下鉄|東京地下鉄株式会社]] 12.6%<br />[[京成電鉄|京成電鉄株式会社]] 2.0%<br />[[東武鉄道|東武鉄道株式会社]] 0.7%<br/>[[新京成電鉄|新京成電鉄株式会社]] 0.7%<br/>[[みずほ銀行|株式会社みずほ銀行]] 0.4%<br/> (2016年4月1日現在) | 主要子会社 = | 関係する人物 = | 外部リンク = https://www.toyokosoku.co.jp/ | 特記事項 = }} '''東葉高速鉄道株式会社'''(とうようこうそくてつどう)は、[[千葉県]]内で[[第三セクター鉄道]]である[[東葉高速鉄道東葉高速線|東葉高速線]]を運営している[[鉄道事業者]]。本社と[[車両基地]]([[八千代緑が丘車両基地]])は千葉県[[八千代市]]に所在する。 == 概要 == [[京成本線]]の混雑解消路線として、[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄、現・[[東京地下鉄]]〈東京メトロ〉)が自社線である[[東京メトロ東西線|東西線]]の延伸区間として計画した「営団勝田台線」(仮称)を建設し運行するために、[[千葉県庁|千葉県]]・[[船橋市役所|船橋市]]・[[八千代市]]の沿線自治体と、営団地下鉄・[[京成電鉄]]・[[東武鉄道]]・[[新京成電鉄]]の鉄道事業者、および金融機関が出資して<ref name="Kotsu1985-11">交通協力会『交通技術』1985年10月号「東葉高速線建設計画の概要」pp.410 - 413。</ref>設立された[[第三セクター鉄道]]である。 === シンボルマーク === 東葉高速鉄道の社紋(シンボルマーク)は、東葉高速鉄道の頭文字「T」を「未来」「明日」「希望」に向かって羽ばたく鳥の翼をイメージしたものである<ref name="JRMA1996-7">日本鉄道車両機械技術協会『ROLLINGSTOCK&MACHINERY』1996年7月号国内情報「東葉高速線開業の概要」pp.46 - 50。</ref>。 === 設立の経緯と路線建設 === [[1972年]](昭和47年)3月の[[都市交通審議会答申第15号|答申第15号]]において、都市計画第5号線(東西線)が、'''西船橋 - [[新船橋駅|新船橋]]付近 - [[飯山満町|飯山満]] - [[北習志野駅|北習志野]] - [[八千代市]]中央部 - [[勝田台]]'''を終点とする路線に改められた<ref name="Tozai-Const208">[[#Tozai-Const|東京地下鉄道東西線建設史]]、pp.208 - 219。</ref>。営団地下鉄は[[1974年]](昭和49年)[[3月22日]]、第5号線「営団勝田台線」西船橋 - 勝田台間(16.2&nbsp;km)の延伸を正式に決定、同年[[3月30日]]に路線免許を申請した<ref name="Tozai-Const208"/>。営団地下鉄の計画では[[1976年]](昭和51年)[[9月20日]]に建設工事に着手し<ref name="RP456_107">{{Cite journal|和書|author=編集部|title=9月のメモ帳|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=1985-12-01|volume=35|issue=第12号(通巻456号)|page=107|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>、[[1979年]](昭和54年)10月の開業を予定、建設費用は955億円を見込んだ<ref name="Tozai-Const208"/>。東西線(西船橋以西)とは直通運転を行い、途中の北習志野駅のみ停車する快速列車の運転も予定していた<ref name="Tozai-Const208"/>。 営団地下鉄としては、第7号線([[東京メトロ南北線|南北線]])や第13号線([[東京メトロ副都心線|副都心線]])の建設の必要性があったが、当時の東京周辺で最も人口の増加が激しかった[[船橋市]]、[[八千代市]]などが[[千葉県]]とともに[[1973年]](昭和48年)5月に「営団地下鉄東西線建設促進協議会」を結成し、「営団勝田台線」の建設[[請願|陳情]]を営団地下鉄へ繰り返したことから、建設を決定したものである<ref name="TRTA-50th-306">[[#TRTA-50th|営団地下鉄五十年史]]、pp.306 - 307。</ref>。しかし、建設に向けた手続きを進めるにあたり、特に沿線で競合関係となる[[京成電鉄]]から死活問題であるとして反対があり、また営団地下鉄の担当区域([[帝都高速度交通営団法]]第1条「営団地下鉄ハ東京都ノ区ノ存スル区域及其ノ附近ニ於ケル交通機関」)を大きく外れるとの意見があり、路線免許取得は難航した<ref name="TRTA-50th-306"/>。 京成電鉄は[[オイルショック]]の影響による不動産投資・地域開発分野で大幅な損失を計上したことや、新東京国際空港(現・[[成田国際空港]])の開港の遅れにより業績を悪化させたことに考慮して、当時の[[運輸省]]が一時的に計画を凍結した。 [[1980年]](昭和55年)[[7月19日]]、運輸省は次のような最終調整案をまとめ、地元に提示し了承を求めた<ref name="TRTA-50th-433">[[#TRTA-50th|営団地下鉄五十年史]]、pp.433 - 435。</ref>。 # 建設主体は[[第三セクター]]とし、地元自治体、金融機関、関係鉄道事業者がこれに出資する # 運営は京成電鉄に委託する # 東西線と接続し、相互直通運転を行う # 工事の施工は、[[日本鉄道建設公団]](現・[[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]])が行う # 工事は、2段階に分けて施工する 最終的に、この案を基本として[[1981年]](昭和56年)[[9月1日]]に東葉高速鉄道が設立され、同社が勝田台線の建設・経営を行うことが決定した<ref name="TRTA-50th-433"/>。 そして、東葉高速鉄道が地方鉄道敷設免許を申請したため、営団地下鉄は[[1982年]](昭和57年)2月15日に勝田台線の路線免許申請を取り下げ、同年[[3月19日]]に東葉高速鉄道に地方鉄道敷設免許が交付された<ref name="TRTA-50th-433"/>。路線は本線部分について[[日本鉄道建設公団]](当時)が民鉄線方式(P線方式)で建設を行い、完成後に公団から東葉高速鉄道へ施設を譲り受け、営業を行うこととされた<ref name="Kotsu1985-11"/>。計画時点では、東海神、飯山満、北習志野、西八千代(→八千代緑が丘)、八千代(→八千代中央)、勝田台(→東葉勝田台)の6駅を設置する方針とした<ref name="Kotsu1985-11"/>。 [[1984年]](昭和59年)より建設工事に着手し、第1期区間となる西船橋 - 八千代(→八千代中央)間は[[1991年]](平成3年)4月に開業、第2期区間となる八千代(→八千代中央) - 勝田台(→東葉勝田台)間は[[1993年]](平成5年)4月の開業を予定し、車両費を含めた建設費用は2,091億円(1&nbsp;km あたり約129億円)を予定していた<ref name="Kotsu1985-11"/>。 当時、地元は営団経営による延長を主張していたが、結局は[[第三セクター]]方式で建設されることとなった。この原案は1965年頃に[[本八幡駅]] - [[船橋市]][[行田団地]] - [[習志野駅]] - 八千代市[[萱田]]間を予定経路として行われた[[都営地下鉄新宿線|地下鉄10号線]](現・都営地下鉄新宿線)の千葉県内延長調査が元となっている。なお、計画凍結中の運行案として、京成電鉄の短絡路線とする計画もあったが、同社がこれを拒否したため実現しなかった。 建設にあたって関係地権者約700名、支障建物約180戸であったが、当初より地権者の抵抗もあって用地買収は難航した<ref name="JRCEA34">[[日本鉄道施設協会]]『日本鉄道施設協会誌』1996年9月号特集「首都圏における新線開業」内「V.東葉高速鉄道 - 東葉高速線 - 」p.34 - 35。</ref>。当時、[[成田空港問題]]の影響から[[千葉県収用委員会会長襲撃事件|千葉県の収用委員会が機能しておらず]]、[[土地収用]]が行えなかったことが拍車をかけた<ref name="JRCEA34"/>([[2001年]]の[[衆議院]][[国土交通委員会]]で、[[山田正彦 (政治家)|山田正彦]]が「一人が反対しただけで三年間延びた」としている<ref>{{Cite web|和書|title=第151回国会 国土交通委員会 第22号(平成13年6月13日(水曜日))|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigirokua.nsf/html/kaigirokua/009915120010613022.htm|website=www.shugiin.go.jp|accessdate=2019-02-06|publisher=衆議院}}</ref>)。一例として1人の地権者に300回もの用地交渉を行ったこともあり、最終的に用地交渉が完了したのは[[1994年]](平成6年)6月末であった<ref name="JRCEA34"/>。 さらに、手抜き工事によるトンネル陥没事故による工期の遅れと修繕工事費用や、[[バブル景気|バブル期]]の土地高騰、資材高騰のあおりを受けて建設費が当初予定をはるかに上回る結果となった <ref name="JRCEA34"/><ref name="RJ2004-2"/>。近年の営業収支は黒字で推移しているが、その営業利益や得られた現金預金では建設時の元金は元より債務の利払いにも足りず、経常収支は赤字であり、負債額は年々増加していた時期もあった。その後周辺自治体などの支援の結果もあり経常収支、純利益は黒字化し、2020年代に入り数年内に債務超過の解消の見込みが経つほど経営状態は最悪の状態から改善しつつある。しかし建設に関わる長期債務について元金と利払いを当該年度の収入・利益で賄うことは出来ておらず、過去の周辺自治体等の経営支援で得た追加出資により得た現金預金を切り崩しており、[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|COVID-19流行]]の影響もあって2020年代に運転資金が枯渇する危険が見込まれ(当初は2030年代と予測されていた)、経営危機状態は脱していない。そのため、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[電車特定区間]]運賃の約2.5倍となる高額な運賃体系となっている(「[[#運賃|運賃]]」の節も参照)<ref>[http://www.city.yachiyo.chiba.jp/23000/page200040.html 八千代市 寄せられた投書への回答]、[http://www.toyokosoku.co.jp/question 東葉高速鉄道 よくある質問] を参照</ref>。この東葉高速鉄道の経験が、後の様々な助成制度の整備や[[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]]の成功につながったと言われている。 === 経営状況 === 東葉高速鉄道線の建設費用は、当初計画の2,091億円(前述)から公団P線工事建設区間で'''2,948億円'''(最終的な総額)に膨らんだ<ref name="RJ2004-2">鉄道ジャーナル社『鉄道ジャーナル』2004年2月号鉄道・軌道プロジェクトの事例研究27「東葉高速鉄道の建設と開業後」pp.132 - 134。</ref>。これは開業時に譲渡を受けた本線部分が2,813億円、開業1年後に京成との連絡通路部分が136億円である<ref name="RJ2004-2"/>。公団P線方式制度のもとで金利は最大5%に限定されるが、25年間の利子額を含めた返済総額は4,960億円にもなる<ref name="RJ2004-2"/>。ただし、東葉高速鉄道への経営支援策によって現在の返済期間は60年まで延長している<ref name="RJ2004-2"/>。 2006年3月末現在のデータで全国の第三セクター鉄道の中でもっとも債務超過額が多くなっている<ref>『[[週刊ダイヤモンド]]』2007年12月15日号</ref>。2008年3月期決算では、[[売上高]]は約152億5000万円、営業損益は約47億4000万円の黒字であるが、約5億円の経常損益の赤字があり、累積赤字は約846億8000万円になっている。その後もしばらく「売上高が150億円強で営業損益は黒字であるが経常損益・純損益が赤字」という状況が続いたが、2011年3月期(2010年度)決算にて、支払利息の低減などにより開業以来初めて経常損益・純損益が黒字に転じた <ref name="h22nendo-hokoku">{{PDFlink|[http://www.toyokosoku.co.jp/wp/images/h22report.pdf 平成22年度決算報告(事業実績報告・貸借対照表・損益計算書)]}} 東葉高速鉄道公表の資料。</ref>。その一方で、累積赤字額については一時増加に転じていたこともあり、2013年3月期決算では約833億5723万円と改善は僅かにとどまっていたが<ref name="h24nendo-hokoku">{{PDFlink|[http://www.toyokosoku.co.jp/wp/images/H24report.pdf 平成24年度決算報告(事業実績報告・貸借対照表・損益計算書)]}} 東葉高速鉄道公表の資料。</ref><ref name="toyo-h25disclose">{{PDFlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/gyoukaku/gyoukaku/about/koumokubetsu/documents/h26-3.pdf 公社等外郭団体に関する情報公開(2014年4月1日現在) 東葉高速鉄道(株)]}} - 千葉県</ref>、近年は沿線の住宅開発の進展に伴う乗客増加の影響で、2023年3月期決算では約634億886万円まで減少している<ref name="2022nendo-hokoku">{{PDFlink|[https://www.toyokosoku.co.jp/wp/images/2022report.pdf 2022年度決算報告(事業実績報告・貸借対照表・損益計算書)]}} 東葉高速鉄道公表の資料。</ref>。 {| class="wikitable" style="font-size:small; text-align:right;" |+経営状況 ! !!営業収益!!営業利益!!経常利益!!純利益!!繰越利益剰余金<br/>(累積赤字)!!長期債務残高!!純資産 |- !2007年度 |||||△4億8493万円||△3億4792万円||△846億7857万1000円||||△498億7857万0000円 |- !2008年度 |||||△3億4701万円||△3億2212万円||△850億0068万8000円||||△477億8068万8000円 |- !2009年度 |||||△3893万円||△4314万円||△850億4382万5000円||||△454億0382万5000円 |- !2010年度 <ref name="h22nendo-hokoku" /> |150億6400万円||46億4300万円||1億6800万円||3億9800万円||△846億4486万3000円||3043億8500万円||△417億5486万3000円 |- !2011年度 |149億600万円||44億7100万円||3億1100万円||3億700万円||△843億3783万5000円||2975億9400万円||△381億9783万5000円 |- !2012年度 <ref name="h24nendo-hokoku" /> |151億7200万円||50億5000万円||10億8100万円||9億8000万円||△833億5723万7000円||2916億円||△339億1723万7000円 |- !2013年度 |154億8600万円||55億900万円||16億6400万円||15億3100万円||△818億2539万6000円||2853億9600万円||△290億9539万6000円 |- !2014年度 <ref name="h26nendo-hokoku">{{PDFlink|[http://www.toyokosoku.co.jp/wp/images/H26report.pdf 平成26年度決算報告(事業実績報告・貸借対照表・損益計算書)]}} 東葉高速鉄道公表の資料。</ref> |152億6000万円||53億1100万円||17億7100万円||12億6200万円||△805億6252万7000円||2789億6100万円||△245億4252万7000円 |- !2015年度 <ref name="h27nendo-hokoku">{{PDFlink|[http://www.toyokosoku.co.jp/wp/images/H27report.pdf 平成27年度決算報告(事業実績報告・貸借対照表・損益計算書)]}} 東葉高速鉄道公表の資料。</ref> |156億5800万円||59億2700万円||27億8700万円||18億2200万円||△787億4029万3000円||2722億2200万円||△194億3029万3000円 |- !2016年度 <ref name="h28nendo-hokoku">{{PDFlink|[http://www.toyokosoku.co.jp/wp/images/H28report.pdf 平成28年度決算報告(事業実績報告・貸借対照表・損益計算書)]}} 東葉高速鉄道公表の資料。</ref> |159億1300万円||56億6500万円||29億8800万円||21億9400万円||△765億4551万4000円||2652億2900万円||△139億4551万4000円 |- !2017年度 <ref name="h29nendo-hokoku">{{PDFlink|[http://www.toyokosoku.co.jp/wp/images/H29report.pdf 平成29年度決算報告(事業実績報告・貸借対照表・損益計算書)]}} 東葉高速鉄道公表の資料。</ref> |163億2000万円||58億1600万円||31億2800万円||25億5800万円||△739億8670万7000円||2601億1100万円||△113億8670万7000円 |- !2018年度 <ref name="h30nendo-hokoku">{{PDFlink|[http://www.toyokosoku.co.jp/wp/images/H30report.pdf 平成30年度決算報告(事業実績報告・貸借対照表・損益計算書)]}} 東葉高速鉄道公表の資料。</ref> |165億3100万円||61億7000万円||36億3100万円||25億2500万円||△714億6155万7000円||2547億3100万円||△88億6155万円 |- !2019年度 <ref name="2019nendo-hokoku">{{PDFlink|[http://www.toyokosoku.co.jp/wp/images/2019report.pdf 2019年度決算報告(事業実績報告・貸借対照表・損益計算書)]}} 東葉高速鉄道公表の資料。</ref> |165億1900万円||63億6800万円||46億5100万円||32億3100万円||△682億3010万1000円||2471億4500万円||△56億3010万1000円 |- !2020年度 <ref name="2020nendo-hokoku">{{PDFlink|[https://www.toyokosoku.co.jp/wp/images/2020report_20210621.pdf 2020年度決算報告(事業実績報告・貸借対照表・損益計算書)]}} 東葉高速鉄道公表の資料。</ref> |122億1000万円||25億6900万円||10億6000万円||7億1400万円||△675億1555万8000円||2415億400万円||△49億1555万8000円 |- !2021年度 <ref name="2021nendo-hokoku">{{PDFlink|[https://www.toyokosoku.co.jp/wp/images/2021report_20220615.pdf 2021年度決算報告(事業実績報告・貸借対照表・損益計算書)]}} 東葉高速鉄道公表の資料。</ref> |131億6000万円||33億9800万円||22億5100万円||15億4700万円||△660億7708万8000円||2356億9100万円||△34億7708万8000円 |- !2022年度 <ref name="2022nendo-hokoku">{{PDFlink|[https://www.toyokosoku.co.jp/wp/images/2022report.pdf 2022年度決算報告(事業実績報告・貸借対照表・損益計算書)]}} 東葉高速鉄道公表の資料。</ref> |147億円||46億6200万円||38億4100万円||26億6800万円||△634億886万4000円||2297億5300万円||△8億886万4000円 |} 2007年(平成19年)初頭まで、京成本線との乗り換えで成田国際空港まで早く着くことをセールスポイントとして「味な近道」という[[キャッチコピー]]でPRしていた。開発により沿線地域の[[ベッドタウン]]化が進んだこともあり、収益は改善が進む傾向にある。 現在では旅客以外の収入にも力を入れており、駅施設(ホームや改札口など)を利用して、[[テレビドラマ|ドラマ]]をはじめとする[[テレビ番組]]や[[コマーシャルメッセージ|CM]]の[[ロケーション撮影]]もたびたび行われている。ドラマ撮影は『[[Mの悲劇 (2005年のテレビドラマ)|Mの悲劇]]』<ref group="注">「東速鉄道」の名で登場している。</ref>、『[[クロサギ (2006年のテレビドラマ)|クロサギ]]』、『[[パパとムスメの7日間]]』、『[[猟奇的な彼女 (テレビドラマ)|猟奇的な彼女]]』、『[[最高の人生の終り方〜エンディングプランナー〜]]』など[[TBSテレビ|TBS]]系列が多いが、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系列の『[[悪夢ちゃん]]』、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列の『[[ありふれた奇跡]]』、『[[リーガル・ハイ]]』、『[[GTO (2012年のテレビドラマ)|GTO]]』([[関西テレビ放送|関西テレビ]]制作、2012年)、[[テレビ朝日]]系列の『[[相棒]]』でも使用されたことがある<ref group="注">『最高の人生の終り方』などの作品中では、実在の駅名や会社名がそのまま使用されている。</ref>。CMではこれまでに、[[ヤクルト本社|ヤクルト]]の健康飲料「プレティオ」、[[消費者金融]]の[[アコム]]、[[三井住友海上火災保険|三井住友海上グループ]]、乳酸菌飲料[[カルピス]]などの撮影に使われている。 {{Main2|路線に関する概要|東葉高速鉄道東葉高速線}} == 歴史 == * [[1972年]]([[昭和]]47年)[[3月1日]] - [[都市交通審議会答申第15号]]で第5号線([[東京メトロ東西線|営団地下鉄東西線]])が'''西船橋 - [[新船橋駅|新船橋]]付近 - [[飯山満町|飯山満]] - [[北習志野駅|北習志野]] - [[八千代市]]中央部 - [[勝田台]]'''を終点とする路線として答申される<ref name="Tozai-Const208"/>。 * [[1974年]](昭和49年) ** [[3月22日]] - [[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄・当時)が第5号線西船橋 - 勝田台間の延伸を正式に決定<ref name="Tozai-Const208"/>。 ** [[3月30日]] - 営団地下鉄が第5号線(営団勝田台線)西船橋 - 勝田台駅間(16.2&nbsp;km)の地方鉄道敷設免許を申請<ref name="Tozai-Const208"/>。 * [[1980年]](昭和55年)[[7月19日]] - 運輸省(当時)が勝田台線の最終調整案を、地元自治体や関係鉄道各社に提示する<ref name="TRTA-50th-433"/>。 * [[1981年]](昭和56年) ** [[9月1日]] - 会社設立<ref name="Kotsu1985-11"/>。 ** [[9月3日]] - 東葉高速鉄道が西船橋 - 勝田台駅間の地方鉄道敷設免許を申請<ref name="Kotsu1985-11"/>。 * [[1982年]](昭和57年) ** [[2月15日]] - 営団地下鉄が第5号線(営団勝田台線)西船橋 - 勝田台駅間の地方鉄道敷設免許申請を取り下げ。 ** [[3月19日]] - 東葉高速鉄道が西船橋 - 勝田台駅間の地方鉄道敷設免許を取得<ref name="Kotsu1985-11"/>。 ** [[8月6日]] - 工事施工認可申請<ref name="Kotsu1985-11"/>。 * [[1983年]](昭和58年) ** [[3月24日]] - [[都市計画]]決定告示縦覧、[[環境アセスメント|環境影響評価書]]告示縦覧<ref name="Kotsu1985-11"/>。 * [[1984年]](昭和59年) ** [[6月27日]] - 工事施工認可<ref name="Drive1996-5">日本鉄道運転協会『運転協会誌』1996年5月号ニュース「東葉高速鉄道 西船橋 - 東葉勝田台間開業」pp.38 - 40。</ref>。 ** [[7月27日]] - 建設工事に着手<ref name="Kotsu1985-11"/>。 * [[1985年]](昭和60年)[[9月20日]] - 起工式<ref>1985年 9月20日 読売新聞 夕刊</ref>。 * [[1988年]](昭和63年)11月 - 千葉県収用委員会が機能停止に追い込まれ、東葉高速鉄道線の用地交渉は任意交渉となり、難航する<ref name="JRCEA34"/>。 * [[1991年]]([[平成]]3年)[[3月28日]] - 第1期開業区間となる西船橋 - 八千代(→八千代中央)間の開業を1991年4月から1993年(平成5年)4月に延期<ref name="Drive1996-5"/>。 * [[1993年]](平成5年)[[3月18日]] - 第2期区間となる八千代(→八千代中央) - 勝田台(→東葉勝田台)間を含めて、全線の開業を1993年(平成5年)4月から1995年4月に延期<ref name="Drive1996-5"/>。 * [[1994年]](平成6年)6月末 - 最後の地権者から起工承諾、全区間の建設工事に着手ができる<ref name="JRCEA34"/>。 * [[1995年]](平成7年) ** [[2月22日]] - 全線の開業を1995年(平成7年)4月から1996年4月に延期<ref name="Drive1996-5"/>。 ** [[12月7日]] - 東葉高速線に初めて1000形車両が入線する<ref name="JRMA1996-7"/>。 * [[1996年]](平成8年) ** [[1月17日]] - [[習熟運転]]を開始<ref name="Drive1996-5"/>。 ** [[3月16日]] - 営団地下鉄東西線との相互直通運転を前提とした、営業運転に近い習熟運転を開始<ref name="Drive1996-5"/>。[[営団5000系電車]]を譲り受けて改造した[[東葉高速鉄道1000形電車|1000形電車]]が東西線で営業運転開始。 ** [[4月27日]] - 東葉高速線開業、営団地下鉄東西線と相互直通運転開始<ref name="JRMA1996-7"/><ref>{{cite news |和書|title=東葉高速鉄道が開業 西船橋-東葉勝田台 大手町へ50分で直結 |newspaper=交通新聞 |date=1996-05-01 |publisher=交通新聞社 |page=1 }}</ref>。 * [[1999年]](平成11年)[[12月6日]] - 平日ダイヤにおいて西船橋・北習志野・八千代緑が丘・東葉勝田台の4駅のみに停車する東葉快速を運転開始。 * [[2000年]](平成12年)[[10月14日]] - [[パスネット]]を導入。 * [[2004年]](平成16年)[[12月7日]] - [[東葉高速鉄道2000系電車|2000系電車]]が営業運転開始<ref name="ToyoKousoku2004">[https://web.archive.org/web/20041208075559fw_/http://www.toyokosoku.co.jp/toyo/rapid/new/2004/041130/041130.html 東葉高速鉄道新型車両「2000系」まもなくデビュー](東葉高速鉄道更新情報・インターネットアーカイブ・2004年時点の版)。</ref>。 * [[2006年]](平成18年) ** [[11月20日]] - 朝ラッシュ時に[[東京メトロ東西線]]へ直通する全電車で[[女性専用車両]]を導入<ref name="ToyoKousoku200610">[https://web.archive.org/web/20080218211713fw_/http://www.toyokosoku.co.jp/toyo/rapid/new/2006/061027/061027.html ~女性専用車両を導入します~](東葉高速鉄道更新情報・インターネットアーカイブ・2008年時点の版)。</ref>。 ** [[12月3日]] - 1000形車両の営業運転を終了。 * [[2007年]](平成19年)[[3月18日]] - [[PASMO]]を導入。[[Suica]]と相互利用可。 * [[2008年]](平成20年)[[3月14日]] - パスネットの自動改札機での使用を終了。 * [[2009年]](平成21年)[[10月1日]] - 開業当時からの青色の制服から、チャコールグレーに社色である緑の線が入った制服にリニューアル。 * [[2013年]](平成25年)[[3月23日]] - [[交通系ICカード全国相互利用サービス]]開始。 * [[2014年]](平成26年)[[3月15日]] - 東葉快速を廃止<ref>{{Cite web|title=Wayback Machine|url=https://web.archive.org/web/20191003200755/http://www.toyokosoku.co.jp/wp/images/H260207.pdf|website=web.archive.org|date=2019-10-03|accessdate=2019-10-03}}</ref>。 == 路線 == * [[ファイル:Number prefix Toyo-Rapid.svg|20px|TR]] [[東葉高速鉄道東葉高速線|東葉高速線]] [[西船橋駅]] (TR01) - [[東葉勝田台駅]] (TR09) 16.2&nbsp;km [[ファイル:Tōyō Rapid Railway Linemap.svg|thumb|none|400px|路線図(クリックで拡大)]] == 車両 == {{Main2|他社も含めた東葉高速線で運用される車両|東葉高速鉄道東葉高速線#使用車両}} 当初は新造車両を導入することを計画していたが、開業に伴う建設費用を削減するため、予定していた[[車両基地]]の整備工場と車輪転削盤施設の建設見送り、車両は営団地下鉄東西線(当時)の[[営団05系電車|05系]]新造に伴って、余剰となった[[営団5000系電車|5000系]]を改造して導入した<ref name="JRMA1996-7"/>。営団地下鉄5000系は制御装置の更新(抵抗制御→[[界磁添加励磁制御]])、[[エア・コンディショナー|冷房装置]]の取り付け、車内の更新工事などを行い、東葉高速鉄道[[東葉高速鉄道1000形電車|1000形]]となった(現在は新造車の[[東葉高速鉄道2000系電車|2000系]]に置き換えられている)。 保守費用の低減を図るため、車両の[[日本の鉄道車両検査|重要部検査・全般検査]]および車輪削正などは営団地下鉄(→東京地下鉄)に業務を委託している<ref name="JRMA1996-7"/>。 === 現有車両 === * [[東葉高速鉄道2000系電車|2000系]] <gallery> File:Toyo 2107F.jpg|2000系 </gallery> === 過去の車両 === * [[東葉高速鉄道1000形電車|1000形]](1996年3月16日 - 2006年12月4日) ** 前述のとおり、1000形車両は、営団地下鉄5000系を改造して譲り受けたものである。東葉高速線開業前の[[3月16日]]から、営団地下鉄東西線内のみでの運用に就いていた。 <gallery> ファイル:Tōyō Rapid 1008F.JPG|1000形 </gallery> == 運賃 == 大人普通旅客運賃(小児半額・ICカードの場合は1円未満切り捨て、切符購入の場合は10円未満切り上げ)。2019年10月1日改定<ref>{{Cite web|和書|title=鉄道運賃の改定について|url=http://www.toyokosoku.co.jp/wp/images/20190906-1.pdf|format=PDF|date=2019-09-06|publisher=東葉高速鉄道 |accessdate=2019-10-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191004193921/http://www.toyokosoku.co.jp/wp/images/20190906-1.pdf|archivedate=2019-10-04}}</ref>。 {| class="wikitable" rules="all" style="text-align:center;" |- !rowspan="2"|キロ程!!colspan="2"|運賃(円) |- !ICカード!!切符購入 |- |初乗り1 - 3&nbsp;km||210||210 |- |4 - 5||293||300 |- |6 - 7||367||370 |- |8 - 9||440||440 |- |10 - 11||513||520 |- |12 - 14||576||580 |- |15 - 17||639||640 |} === 定期券 === [[定期乗車券|定期券]]の割引率は通勤30.8%・通学55.6%(2014年4月現在)で、普通運賃より割安になるのは通勤定期で月21往復、通学定期で月14往復以上の場合である。6か月定期では割引率は通勤定期37%で、月19往復以上で割安になる。2014年4月より通学定期は通勤の半額に値下げされている<ref>{{Cite web|和書|title=鉄道運賃の改定及び通学定期旅客運賃の値下げについて|url=http://www.toyokosoku.co.jp/wp/images/H260305-1.pdf |format=PDF|date=2014-03-05|publisher=東葉高速鉄道|accessdate=2019-10-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20191003195906/http://www.toyokosoku.co.jp/wp/images/H260305-1.pdf |archivedate=2019-10-03}}</ref>。 === 回数券 === 回数券は区間式で、「普通回数券」は11枚綴り、「昼間・土休日割引回数券」は13枚綴りで発売している<ref>{{Cite web|和書|title=回数券|publisher=東葉高速鉄道|url=http://www.toyokosoku.co.jp/ticket/coupon|accessdate=2019-10-03}}</ref>。 === 企画乗車券 === いずれも西船橋駅と施設最寄駅では発売していない。 * 東葉シネマチケット<ref>[http://www.toyokosoku.co.jp/ticket/cinematicket 東葉シネマチケット] - 東葉高速鉄道</ref> - [[八千代緑が丘駅]]との往復乗車券と[[TOHOシネマズ]]の映画鑑賞引換券がセットになっている。2006年9月2日から2007年3月31日まで発売された後、2007年5月1日から通年発売となった。発売額は一律1900円<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=2019年10月1日以降のおトクなきっぷの発売価格について|url=http://www.toyokosoku.co.jp/wp/images/20190927.pdf|format=PDF|date=2019-09-27|publisher=東葉高速鉄道|accessdate=2019-10-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191003200238/http://www.toyokosoku.co.jp/wp/images/20190927.pdf|archivedate=2019-10-03}}</ref>。 * [[東京メトロ24時間券#東京メトロパス|東葉東京メトロパス]]<ref>[http://www.toyokosoku.co.jp/ticket/ttpass 東葉東京メトロパス] - 東葉高速鉄道</ref> - 東葉高速線往復・東京メトロ線が一日乗り放題の乗車券。発売当日限り有効で発売額が駅によって異なる。 * 東葉羽田バスきっぷ<ref>[http://www.toyokosoku.co.jp/ticket/busticket 東葉羽田バスきっぷ] - 東葉高速鉄道</ref> - 東葉高速線乗車券と西船橋-[[東京国際空港|羽田空港]]高速バス乗車券<ref group="注">但し、羽田空港高速バスで、[[船橋駅]]発着便における船橋駅での乗降と空港発「深夜割増運賃適用便」の乗車はできない。</ref>がセットになった乗車券。購入日から1か月間有効(有効期間内1回限り有効)。片道券と往復券を発売している。ただし、往復券は往復割引は無く、片道券の倍額となる。東葉高速線内各駅でのみの発売で、羽田空港では発売しない。 *東葉ローズきっぷ - [[京成バラ園]]の入園券がついた八千代緑が丘駅までの往復割引切符。春の[[バラ]]のシーズン(4月下旬-6月中旬)のみの発売。高校生以上の発売で、中学生以下は遠足などの学校行事を除き単独ではバラ園に入園できず、高校生以上の大人との同伴で入園無料となるので未発売。[[年間パスポート]]、[[株主優待]]、友の会、八千代市民割、障害者割引等との併用不可。 ;企画乗車券の発売額(単位:円)<ref name=":0" /> :{| class="wikitable" rules="all" style="text-align:center;" |- !rowspan="2"|発着駅 !colspan="2"|東葉メトロ !colspan="2"|東葉羽田 !東葉ローズ |- !大人!!小児 !大人!!小児 !大人高校以上 |- |東海神駅 |910||460 |1150||580 |1800 |- |飯山満駅 |1230||620 |1250||630 |1600 |- |北習志野駅 |1370||690 |1360||680 |1500 |- |船橋日大前駅 |rowspan="2"|1530||rowspan="2"|770 |rowspan="2"|1410||rowspan="2"|710 |1500 |- |八千代緑が丘駅 |発売なし |- |八千代中央駅 |1650||830 |1460||730 |1500 |- |村上駅 |rowspan="2"|1750||rowspan="2"|890 |rowspan="2"|1510||rowspan="2"|760 |1600 |- |東葉勝田台駅 |1700 |- |rowspan="2"|(参考)<br>単独購入の場合 |colspan="2"|[[東京メトロ24時間券]] |colspan="2"|西船橋-羽田空港間<br>高速バス |京成バラ園入園料<br>(変動制) |- |600||300 |1130||570 |1500(春)<br>1200(秋)<br>500(夏冬) |} == 第24回全国都市緑化ふなばしフェアにおける動き == [[2007年]][[10月2日]]から[[11月4日]]まで、千葉県船橋市の[[ふなばしアンデルセン公園]]で「第24回[[全国都市緑化フェア|全国都市緑化]]ふなばしフェア おとぎの国の花フェスタinふなばし」が開催された。これに併せて、以下の取り組みを行った。 * [[西船橋駅]]以外の各駅で特別前売り券を発売した。 * 2007年[[9月9日]]から[[10月31日]]まで、2000系2102Fの先頭車前面に船橋市市制70周年も兼ねた特製ヘッドマーク、2109Fの先頭車前面に[[八千代市]]市制40周年記念特製ヘッドマークを装着した。2101F・2102F・2107F・2108F・2110Fの5編成の側面にはイベント告知ステッカーを貼付した。 * 2007年[[9月20日]]から11月4日まで、中野・西船橋・綾瀬を除く[[東京地下鉄]]の定期券売場で、「東京メトロ&東葉高速[[一日乗車券]]セット」を発売した。 == その他 == <!-- 内容によっては他の節や[[東葉高速鉄道東葉高速線]]などに移動することがあります --> * 自社の研修施設を持たないため、動力車乗務員(運転士)の養成を他社に委託している。 * 駅構内の[[売店]]は、[[デイリーヤマザキ]]である。以前は新京成線と同じ[[スタシオン・セルビス]]運営のSKショップもあったが2013年6月までに全店撤退し、その後、京成線と同じ[[京成ストア]]運営のMini shopとなっていた。 * 現在の本社は2代目であり、初代は千葉県船橋市のフロントンビルに入居していた。[[1997年]]頃に現在地に移転している。 * 開業時には開業記念として、1000形が缶にデザインされた[[ビール]]が販売されていた。 * 2017年から八千代市長を務めている[[服部友則]]は、東京地下鉄との経営統合などで運賃値下げに繋げていきたいと語っている。 * 2022年、[[プロ野球]]・[[東京ヤクルトスワローズ]]の[[村上宗隆]]が日本人最多タイの55本塁打を記録した際、同名の駅がある事から、「『村上』」駅がある当社も勝手ながらお祝いさせていただきます!残り15試合、最後まで豪快なホームランに期待しております!」と公式Twitter上でツイート<ref>{{Twitter status|toyorapid_info|1569868539892228100}}</ref>し話題となった。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_touzai.html/|date=1978-07-31|title=東京地下鉄道東西線建設史|publisher=帝都高速度交通営団|ref=Tozai-Const}} * 交通協力会『交通技術』1985年11月号「東葉高速線建設計画の概要」(塚田 章 東葉高速鉄道(株)取締役建設本部長)pp.&nbsp;410 – 413 * {{Cite book |和書 |title=営団地下鉄五十年史 |publisher=帝都高速度交通営団 |date=1991-7 |ref=TRTA-50th}} * [[日本鉄道運転協会]]『運転協会誌』1996年5月号ニュース「東葉高速鉄道 西船橋 - 東葉勝田台間開業」pp.&nbsp;38 – 40(深谷 一男 東葉高速鉄道(株)運輸部運転課長) * 日本鉄道車両機械技術協会『ROLLINGSTOCK&MACHINERY』1996年7月号国内情報「東葉高速線開業の概要」pp.&nbsp;46 – 50(東葉高速鉄道株式会社技術部車両課 黒川勝之・新井正男) * [[日本鉄道施設協会]]『日本鉄道施設協会誌』1996年9月号特集「首都圏における新線開業」内「V.東葉高速鉄道 - 東葉高速線 - 」(境 松太郎 鉄道公団関東支社 用地部用地第三課長)p.34 - 35。 * 鉄道ジャーナル社『[[鉄道ジャーナル]]』2004年2月号鉄道・軌道プロジェクトの事例研究27「東葉高速鉄道の建設と開業後」(佐藤 信之 亜細亜大学)pp.132 - 134 == 外部リンク == * {{Official website}} * [https://www.pref.chiba.lg.jp/gyoukaku/gyoukaku/about/koumokubetsu/gaikaku-r02ketsu.html 公社等外郭団体の令和2年度決算に基づく経営状況等の公表について] - 千葉県 * {{PDFlink|[https://www.pref.chiba.lg.jp/gyoukaku/gyoukaku/about/koumokubetsu/documents/r03-03.pdf 東葉高速鉄道株式会社 公社等外郭団体の経営状況(令和3年度)]}} - 千葉県 {{PASMO}} {{パスネット}} {{デフォルトソート:とうようこうそくてつとう}} [[Category:日本の鉄道事業者]] [[Category:東葉高速鉄道|*]] [[Category:八千代市の企業]] [[Category:千葉県の交通|社とうようこうそくてつとう]] [[Category:第三セクター鉄道]] [[Category:1981年設立の企業]]
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上り
上り(のぼり) 対義語は下り(くだり)。
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上り(のぼり) 対義語は下り(くだり)。 首都を中心と考える概念により、辺地から首都へ赴くこと。 日本では、明治維新以前は京都、明治期以降は東京へ向かうことを指す。 「あづまに下りし親、からうじてのぽりて、西山なるところにおちつきたれば……」(更級日記) 列車の運行方向を表す言葉で、線路名称上の起点駅へ向かって出発する列車。「上り列車」 → ダイヤグラム参照。 国道の進行方向を表す言葉で、終点から起点の方向に向かうこと。国土交通省道路局が定義している。 ただし沖縄県においては、県庁所在地である那覇方面へ向かう路線を「上り」と通称している。 電気通信網において、末端から中心に向かう方向。 コンピュータネットワークにおいては、末端(エッジ)から中心(コア)に向かう方向。 データ通信回線においては、ユーザ宅から、電話局等のセンターへの方向。「上り速度」など。 インターネット等でのアップロードを「上り」ということもある。 衛星通信・衛星放送など人工衛星を用いた通信においては、地上から衛星に向けた通信回線のこと。アップリンクともいう。
'''上り'''(のぼり) [[対義語]]は[[下り]](くだり)。 ; 交通 * [[首都]]を中心と考える概念により、辺地から首都へ赴くこと。 ** [[日本]]では、[[明治維新]]以前は[[京都]]、明治期以降は[[東京]]へ向かうことを指す。 *: 「[[東国|あづま]]に下りし親、からうじて'''のぽり'''て、西山なるところにおちつきたれば……」([[更級日記]]) * [[列車]]の運行方向を表す言葉で、[[国鉄・JR線路名称一覧|線路名称]]上の[[起点]]駅へ向かって出発する列車。「上り列車」 → [[ダイヤグラム]]参照。 * [[国道]]の進行方向を表す言葉で、[[終点]]から起点の方向に向かうこと。[[国土交通省]]道路局が定義している。 *: ただし[[沖縄県]]においては、[[都道府県庁所在地|県庁所在地]]である[[那覇市|那覇]]方面へ向かう路線を「上り」と通称している。 ; 通信 * [[電気通信]]網において、末端から中心に向かう方向。 ** [[コンピュータネットワーク]]においては、末端(エッジ)から中心(コア)に向かう方向。 ** [[データ通信]]回線においては、ユーザ宅から、[[電話局]]等のセンターへの方向。「上り速度」など。 *** [[インターネット]]等での[[アップロード]]を「上り」ということもある。 ** [[衛星通信]]・[[衛星放送]]など[[人工衛星]]を用いた[[電気通信|通信]]においては、地上から衛星に向けた通信回線のこと。[[アップリンク・ダウンリンク|アップリンク]]ともいう。 == 関連項目 == * [[上がり]](あがり) * [[上京]](じょうきょう)- [[都]]([[首都]])へ上ること。 {{aimai}} {{デフォルトソート:のほり}}
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直交
初等幾何学における直交(ちょっこう、英: orthogonal)は、「垂直に交わる」こと、すなわちユークリッド空間内の交わる二つの直線や平面のなす角が直角であることを意味する。 このことは、直線と曲線または曲線同士、あるいは平面と曲面または曲面同士、もしくは曲線と曲面などの場合にも、交点において曲線の接線(または法線)あるいは曲面の接平面(または法線)などを考えることにより拡張できる。すなわち接線同士(または法線同士)の直交を以って二つの曲線の直交を定義するのである。注意すべきこととして、これら対象の直交性をベクトルによって定めるならば、(ベクトルは平行移動不変であるから)直交するそれらの対象は必ずしも「交わらない」。また非標準的な内積に関する直交性を考えるならば、直交するふたつのベクトルは必ずしも直角を成さない。 解析学や線型代数学に属する各分野を含め、直交性の概念は数学において広範に一般化して用いられる。 術語 orthogonal は「直立」を意味する古代ギリシア語: ὀρθός と「角度」を意味する古代ギリシア語: γωνία に由来する。古代ギリシア語の ὀρθογώνιον および古典ラテン語の orthogonium はもともとは矩形を意味する語であり、のちに直角三角形を意味する語ともなったが、12世紀にポスト古典ラテン語の orthogonalis は直角および直角に関連する概念を指すものとなっていた。 曲線や曲面の法ベクトルなど、特定の場合において「直交するもの」の意味で法 (normal) が用いられることがある。例えば、y-軸は曲線 y = x の原点における法線である。しかし、除法における除数(あるいは合同関係による剰余代数系を与える同値関係)の意味で「法 (modulo)」が用いられたり、長さが 1 の意味で normal(正規)が用いられたりする(例えばorthonormal (orthogonal + normal))のと混同してはならない。特に後者は(法線や法ベクトルが使われるのと)同じ文脈においてしばしば用いられるので注意すべきである。 内積空間 V における2つのベクトル x, y が直交するとは、それらの内積 ⟨x, y⟩ が零となるときに言い、x ⊥ y と書く。内積空間 V の二つの部分線型空間 A, B が互いに直交するとは、A の各ベクトルが B の任意のベクトルに直交するときに言う。V において A に直交する最大の部分線型空間 B を、V における A の直交補空間 A という。 ベクトルの集合がどの二つも互いに直交する (pairwise orthogonal) とは、それらベクトルの任意の対が互いに直交するときに言い、どの二つも互いに直交するようなベクトルの集合はしばしば直交系 (orthogonal set, orthogonal system) と呼ばれる。内積空間における直交系は線型独立系である。 ユークリッド平面あるいは高次のユークリッド空間において、二つのベクトルが直交する必要十分条件は、それらの点乗積が零となることであり、これはそれらの成す角が直角となることに他ならない。したがって、ベクトルの直交性はベクトルが垂直であることを高次元空間へ拡張した概念である。 部分空間をユークリッド部分空間(英語版)の意味にとるならば、任意の部分空間は「直交補空間」を持ち、その部分空間の任意の元は補空間の任意の元に直交する。 たとえば、区間 (-π, π) で二乗可積分な実数値関数(f(x), g(x) を区間[0,2π]で積分した結果が有限値を持つ)について全体のなすベクトル空間 L(-π, π) は f, g に対し、内積 をもち、L(-π, π) の二つの関数 sin x, cos x はこの内積に関して直交する。もっと一般に、集合 {1, sin nx, cos mx | n, m ∈ N} は L(-π, π) の直交基底になる。 内積空間を考える代わりに、双線型形式を備えたベクトル空間を用いても直交性を一般化して考えることができる。すなわち、与えられた双線型形式に代入したとき、値が零となるようなベクトルの対は、(その双線型形式に関して)互いに直交するという。擬ユークリッド空間(英語版)の場合には双曲直交性(英語版)などの語も用いられる。右図において、二つの軸 x', t' は任意に与えられた φ に対して双曲直交する。 別の一般化として、加群 M およびその双対加群 M が与えられたとき、m' ∈ M および m ∈ M が直交するとは、それらの双対性内積が零、すなわち ⟨m', m⟩ ≔ m'(m) = 0 となるときに言う。また、二つの部分集合 S′ ⊆ M および S ⊆ M が直交するとは、S' の各元が S の各元に直交するときに言う。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "初等幾何学における直交(ちょっこう、英: orthogonal)は、「垂直に交わる」こと、すなわちユークリッド空間内の交わる二つの直線や平面のなす角が直角であることを意味する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "このことは、直線と曲線または曲線同士、あるいは平面と曲面または曲面同士、もしくは曲線と曲面などの場合にも、交点において曲線の接線(または法線)あるいは曲面の接平面(または法線)などを考えることにより拡張できる。すなわち接線同士(または法線同士)の直交を以って二つの曲線の直交を定義するのである。注意すべきこととして、これら対象の直交性をベクトルによって定めるならば、(ベクトルは平行移動不変であるから)直交するそれらの対象は必ずしも「交わらない」。また非標準的な内積に関する直交性を考えるならば、直交するふたつのベクトルは必ずしも直角を成さない。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "解析学や線型代数学に属する各分野を含め、直交性の概念は数学において広範に一般化して用いられる。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "術語 orthogonal は「直立」を意味する古代ギリシア語: ὀρθός と「角度」を意味する古代ギリシア語: γωνία に由来する。古代ギリシア語の ὀρθογώνιον および古典ラテン語の orthogonium はもともとは矩形を意味する語であり、のちに直角三角形を意味する語ともなったが、12世紀にポスト古典ラテン語の orthogonalis は直角および直角に関連する概念を指すものとなっていた。", "title": "用語に関する注意" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "曲線や曲面の法ベクトルなど、特定の場合において「直交するもの」の意味で法 (normal) が用いられることがある。例えば、y-軸は曲線 y = x の原点における法線である。しかし、除法における除数(あるいは合同関係による剰余代数系を与える同値関係)の意味で「法 (modulo)」が用いられたり、長さが 1 の意味で normal(正規)が用いられたりする(例えばorthonormal (orthogonal + normal))のと混同してはならない。特に後者は(法線や法ベクトルが使われるのと)同じ文脈においてしばしば用いられるので注意すべきである。", "title": "用語に関する注意" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "内積空間 V における2つのベクトル x, y が直交するとは、それらの内積 ⟨x, y⟩ が零となるときに言い、x ⊥ y と書く。内積空間 V の二つの部分線型空間 A, B が互いに直交するとは、A の各ベクトルが B の任意のベクトルに直交するときに言う。V において A に直交する最大の部分線型空間 B を、V における A の直交補空間 A という。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ベクトルの集合がどの二つも互いに直交する (pairwise orthogonal) とは、それらベクトルの任意の対が互いに直交するときに言い、どの二つも互いに直交するようなベクトルの集合はしばしば直交系 (orthogonal set, orthogonal system) と呼ばれる。内積空間における直交系は線型独立系である。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ユークリッド平面あるいは高次のユークリッド空間において、二つのベクトルが直交する必要十分条件は、それらの点乗積が零となることであり、これはそれらの成す角が直角となることに他ならない。したがって、ベクトルの直交性はベクトルが垂直であることを高次元空間へ拡張した概念である。", "title": "例" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "部分空間をユークリッド部分空間(英語版)の意味にとるならば、任意の部分空間は「直交補空間」を持ち、その部分空間の任意の元は補空間の任意の元に直交する。", "title": "例" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "たとえば、区間 (-π, π) で二乗可積分な実数値関数(f(x), g(x) を区間[0,2π]で積分した結果が有限値を持つ)について全体のなすベクトル空間 L(-π, π) は f, g に対し、内積", "title": "例" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "をもち、L(-π, π) の二つの関数 sin x, cos x はこの内積に関して直交する。もっと一般に、集合 {1, sin nx, cos mx | n, m ∈ N} は L(-π, π) の直交基底になる。", "title": "例" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "内積空間を考える代わりに、双線型形式を備えたベクトル空間を用いても直交性を一般化して考えることができる。すなわち、与えられた双線型形式に代入したとき、値が零となるようなベクトルの対は、(その双線型形式に関して)互いに直交するという。擬ユークリッド空間(英語版)の場合には双曲直交性(英語版)などの語も用いられる。右図において、二つの軸 x', t' は任意に与えられた φ に対して双曲直交する。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "別の一般化として、加群 M およびその双対加群 M が与えられたとき、m' ∈ M および m ∈ M が直交するとは、それらの双対性内積が零、すなわち ⟨m', m⟩ ≔ m'(m) = 0 となるときに言う。また、二つの部分集合 S′ ⊆ M および S ⊆ M が直交するとは、S' の各元が S の各元に直交するときに言う。", "title": "一般化" } ]
初等幾何学における直交は、「垂直に交わる」こと、すなわちユークリッド空間内の交わる二つの直線や平面のなす角が直角であることを意味する。 このことは、直線と曲線または曲線同士、あるいは平面と曲面または曲面同士、もしくは曲線と曲面などの場合にも、交点において曲線の接線(または法線)あるいは曲面の接平面(または法線)などを考えることにより拡張できる。すなわち接線同士(または法線同士)の直交を以って二つの曲線の直交を定義するのである。注意すべきこととして、これら対象の直交性をベクトルによって定めるならば、(ベクトルは平行移動不変であるから)直交するそれらの対象は必ずしも「交わらない」。また非標準的な内積に関する直交性を考えるならば、直交するふたつのベクトルは必ずしも直角を成さない。 解析学や線型代数学に属する各分野を含め、直交性の概念は数学において広範に一般化して用いられる。
{{出典の明記|date=2016年6月}} [[File:Perpendicular-coloured.svg|thumb|right|220px|直交の例]] [[初等幾何学]]における'''直交'''(ちょっこう、{{lang-en-short|''orthogonal''}})は、「[[垂直]]に交わる」こと、すなわち[[ユークリッド空間]]内の交わる二つの[[直線]]や[[平面]]のなす角が[[角度|直角]]であることを意味する。 このことは、直線と[[曲線]]または曲線同士、あるいは平面と曲面または曲面同士、もしくは曲線と曲面などの場合にも、交点において曲線の[[接線]](または[[法線]])あるいは曲面の[[接平面]](または法線)などを考えることにより拡張できる。すなわち接線同士(または法線同士)の直交を以って二つの曲線の直交を定義するのである。注意すべきこととして、これら対象の直交性を[[ベクトル空間|ベクトル]]によって定めるならば、(ベクトルは平行移動不変であるから)直交するそれらの対象は必ずしも「交わらない」。また非標準的な内積に関する直交性を考えるならば、直交するふたつのベクトルは必ずしも直角を成さない。 [[解析学]]や[[線型代数学]]に属する各分野を含め、直交性の概念は数学において広範に一般化して用いられる。 == 用語に関する注意 == 術語 {{en|''orthogonal''}} は「直立」を意味する{{lang-grc|''ὀρθός''}}<ref>Liddell and Scott, ''[[A Greek–English Lexicon]]'' [http://www.perseus.tufts.edu/hopper/morph?l=o%29rqos&la=greek#lexicon ''s.v.'' ὀρθός]</ref> と「角度」を意味する{{lang-grc|''γωνία''}}<ref>Liddell and Scott, ''[[A Greek–English Lexicon]]'' [http://www.perseus.tufts.edu/hopper/morph?l=gwni%2Fa&la=greek#lexicon ''s.v.'' γονία]</ref> に由来する。古代ギリシア語の ὀρθογώνιον および古典ラテン語の ''orthogonium'' はもともとは[[矩形]]を意味する語<ref>Liddell and Scott, ''[[A Greek–English Lexicon]]'' [http://www.perseus.tufts.edu/hopper/morph?l=o%29rqog%2Fwnion&la=greek#lexicon ''s.v.'' ὀρθογώνιον]</ref>であり、のちに[[直角三角形]]を意味する語ともなったが、12世紀にポスト古典ラテン語の ''orthogonalis'' は直角および直角に関連する概念を指すものとなっていた<ref>[[Oxford English Dictionary]], Third Edition, September 2004, ''s.v.'' orthogonal</ref>。 曲線や曲面の[[法ベクトル]]など、特定の場合において「直交するもの」の意味で'''法''' (''normal'') が用いられることがある。例えば、{{mvar|y}}-軸は曲線 {{math|1=''y'' = ''x''{{exp|2}}}} の原点における[[法線]]である。しかし、[[ユークリッド除法|除法]]における除数(あるいは[[合同関係]]による剰余代数系を与える同値関係)の意味で「法 (modulo)」が用いられたり、[[単位ベクトル|長さが 1]] の意味で ''normal''([[正規]])が用いられたりする(例えば[[正規直交系|orthonormal (orthogonal + normal)]])のと混同してはならない。特に後者は(法線や法ベクトルが使われるのと)同じ文脈においてしばしば用いられるので注意すべきである。 == 定義 == {{see also|正規直交系|正規直交基底}} [[内積空間]] {{mvar|V}} における2つのベクトル {{mvar|x, y}} が'''直交する'''とは、それらの[[内積]] {{math|{{angbr|''x'', ''y''}}}} が零となるときに言い<ref>{{MathWorld | urlname= Orthogonal | title= Orthogonal}}</ref>、{{math|''x'' &perp; ''y''}} と書く。内積空間 {{mvar|V}} の二つの[[部分線型空間]] {{mvar|A, B}} が互いに直交するとは、{{mvar|A}} の各ベクトルが {{mvar|B}} の任意のベクトルに直交するときに言う。{{mvar|V}} において {{mvar|A}} に直交する最大の部分線型空間 {{mvar|B}} を、{{mvar|V}} における {{mvar|A}} の[[直交補空間]] {{math|''A''{{msup|&perp;}}}} という。 ベクトルの集合が'''どの二つも互いに直交する''' ({{en|''pairwise orthogonal''}}) とは、それらベクトルの任意の対が互いに直交するときに言い、どの二つも互いに直交するようなベクトルの集合はしばしば'''直交系''' ({{en|''orthogonal set'', ''orthogonal system''}}) と呼ばれる。内積空間における直交系は[[線型独立]]系である。 == 例 == === ユークリッド空間における直交性 === [[ユークリッド平面]]あるいは高次の[[ユークリッド空間]]において、二つのベクトルが直交する必要十分条件は、それらの[[点乗積]]が零となることであり、これはそれらの成す角が[[直角]]となることに他ならない<ref>{{cite book2|author1=Trefethen, Lloyd N. |author2=Bau, David |name-list-style=amp |title=Numerical linear algebra|publisher=SIAM|year=1997|isbn=978-0-89871-361-9|page=13|url={{google books|plainurl=yes|id=bj-Lu6zjWbEC|page=13}}}}</ref>。したがって、ベクトルの直交性はベクトルが[[垂直]]であることを高次元空間へ拡張した概念である。 部分空間を{{仮リンク|ユークリッド部分空間|en|Euclidean subspace}}の意味にとるならば、任意の部分空間は「直交補空間」を持ち、その部分空間の任意の元は補空間の任意の元に直交する。 * 三次元ユークリッド空間において、任意の[[直線]]の直交補空間はその直線に垂直な[[平面]]であり、任意の平面の直交補空間はその平面に垂直な直線である<ref name="R. Penrose 2007 417–419">{{cite book |author=R. Penrose| title=[[The Road to Reality]]| publisher= Vintage books|pages=417–419| year=2007 | isbn=0-679-77631-1}}</ref>。しかし、互いに垂直な平面同士の場合はこれに当てはまらないことに注意すべきである。 * 四次元ユークリッド空間の場合には、直線の直交補空間は[[超平面]]であり、超平面の直交補空間は直線である。また平面の直交補空間は平面である<ref name="R. Penrose 2007 417–419"/>。 === 直交函数系 === {{main|直交函数系}} たとえば、区間 (-π, π) で二乗可積分な実数値関数(f(x)<sup>2</sup>, g(x)<sup>2</sup> を区間[0,2π]で積分した結果が有限値を持つ)について全体のなすベクトル空間 ''L''<sup>2</sup>(-π, π) は ''f'', ''g'' に対し、内積 :<math>\langle f, g \rangle = \int_{-\pi}^{\pi} f(x)g(x)\,dx</math> をもち、''L''<sup>2</sup>(-π, π) の二つの関数 sin ''x'', cos ''x'' はこの内積に関して直交する。もっと一般に、集合 {1, sin ''nx'', cos ''mx'' | ''n'', ''m'' ∈ '''N'''} は ''L''<sup>2</sup>(-π, π) の直交[[基底]]になる。 == 一般化 == [[File:Orthogonality and rotation.svg|thumb|right|直交性と座標系の回転に関する比較 * 左図: [[ユークリッド空間]]における[[角度|円角]] (circular angle) {{mvar|ϕ}} の回転; * 右図: [[ミンコフスキー時空]]における{{仮リンク|双曲角|en|hyperbolic angle}} {{mvar|ϕ}} の回転 ({{mvar|c}} が表す赤線は光信号の[[世界線]]であり、ベクトルが自己直交となるのはそれがこの直線上にあるときである)<ref>{{cite book|title=Gravitation|author1=J.A. Wheeler |author2=C. Misner |author3=K.S. Thorne |publisher=W.H. Freeman & Co|page=58|year=1973|isbn=0-7167-0344-0}}</ref>]] [[内積空間]]を考える代わりに、[[双線型形式]]を備えたベクトル空間を用いても'''直交性'''を一般化して考えることができる。すなわち、与えられた双線型形式に代入したとき、値が零となるようなベクトルの対は、(その双線型形式に関して)互いに'''直交する'''という。{{仮リンク|擬ユークリッド空間|en|pseudo-Euclidean space}}の場合には{{仮リンク|双曲直交性|en|hyperbolic orthogonality}}などの語も用いられる。右図において、二つの軸 {{mvar|x{{'}}, t{{'}}}} は任意に与えられた {{mvar|ϕ}} に対して双曲直交する。 {{-}} 別の一般化として、[[環上の加群|加群]] {{mvar|M}} およびその双対加群 {{math|''M''{{msup|∗}}}} が与えられたとき、{{math|''m{{'}}'' &isin; ''M''{{msup|∗}}}} および {{math|''m'' &isin; ''M''}} が'''直交する'''とは、それらの[[双対対|双対性内積]]が零、すなわち {{math|1={{angbr|''m{{'}}'', ''m''}} {{coloneqq}} ''m{{'}}''(''m'') = 0}} となるときに言う。また、二つの部分集合 {{math|''S''′ ⊆ ''M''{{msup|∗}}}} および {{math|''S'' ⊆ ''M''}} が'''直交する'''とは、{{mvar|S{{'}}}} の各元が {{mvar|S}} の各元に直交するときに言う。<ref>{{citation |author=Bourbaki |title=Algebra I |section=ch. II §2.4 |page=234}}</ref> == 注 == {{reflist}} == 関連項目 == * [[平行]] * [[フーリエ級数]] * [[直交化]] ** [[グラム・シュミットの正規直交化法]] * [[直交群]] * [[直交関数列]] {{Linear algebra}} {{DEFAULTSORT:ちよつこう}} [[Category:線型代数学]] [[Category:数学に関する記事]]
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アユ
アユ(鮎、香魚、年魚、銀口魚、Plecoglossus altivelis)は、キュウリウオ目に分類される、川や海などを回遊する魚である。「清流の女王」とも呼ばれている。なお、漢字の「鮎」は、中国ではナマズを指し、アユという意味は日本での国訓である。 アユ科 Plecoglossidae とされたこともあったが、Nelson (2006) は、キュウリウオ科の下に単型のアユ亜科 Plecoglossinae を置く分類を提唱した。ミトコンドリア遺伝子に対する分子系統解析では、キュウリウオ科で最も早く分岐した種であることが示されている(下図)。 漢字表記としては、香魚(独特の香気をもつことに由来)、年魚(一年で一生を終えることに由来)、銀口魚(泳いでいると口が銀色に光ることに由来)、渓鰮(渓流のイワシの意味)、細鱗魚(鱗が小さい)、国栖魚(奈良県の土着の人々・国栖が吉野川のアユを朝廷に献上したことに由来)、鰷魚(江戸時代の書物の「ハエ」の誤記)など様々な漢字表記がある。また、アイ、アア、シロイオ、チョウセンバヤ(久留米市)、アイナゴ(幼魚・南紀)、ハイカラ(幼魚)、氷魚(幼魚)など地方名、成長段階による呼び分け等によって様々な別名や地方名がある。 アユの語源は、秋の産卵期に川を下ることから「アユル」(落ちるの意)に由来するとの説や神前に供える食物であるというところから「饗(あえ)」に由来するとの説など諸説ある。 現在の「鮎」の字が当てられている由来は諸説あり、神功皇后が肥前国松浦郡の玉島川でアユを釣って戦いの勝敗を占ったとする説 、アユが一定の縄張りを独占する(占める)ところからつけられた字であるというものなど諸説ある。アユという意味での漢字の鮎は奈良時代ごろから使われていたが、当時の鮎はナマズを指しており、記紀を含めほとんどがアユを年魚と表記している。 中国で漢字の「鮎」は古代日本と同様ナマズを指しており、中国語でアユは、「香魚(シャンユー、xiāngyú)」が標準名とされている。地方名では、山東省で「秋生魚」、「海胎魚」、福建省南部では「溪鰛」、台湾では「𫙮魚」、「國姓魚」とも呼ばれる。 俳句の季語として「鮎」「鵜飼」はともに夏をあらわすが、春には「若鮎」、秋は「落ち鮎」、冬の季語は「氷魚(ひお、ひうお)」と、四季折々の季語に使用されている。 成魚の全長は30センチメートルに達するが、地域差や個体差があり、10センチメートルほどで性成熟するものもいる。若魚は全身が灰緑色で背鰭が黒、胸びれの後方に大きな黄色の楕円形斑が一つある。秋に性成熟すると橙色と黒の婚姻色が発現する。体型や脂鰭を持つなどの特徴がサケ科に類似する。口は大きく目の下まで裂けるが、唇は柔らかい。歯は丸く、櫛(くし)のような構造(櫛状歯)である。 北海道・朝鮮半島からベトナム北部まで東アジア一帯に分布する。石についた藻類を食べるという習性から、そのような環境のある河川に生息し、長大な下流域をもつ大陸の大河川よりも、日本の川に適応した魚である。天塩川が日本の分布北限。遺伝的に日本産海産アユは南北2つの群に分けられる。中国では、河川環境の悪化でその数は減少しているが、2004年に長江下流域でも稚魚が発見された報告があるなど、現在も鴨緑江はじめ、遼東半島以南の一帯に生息している。また、中国では浙江省などで放流や養殖実験が行われている。台湾でも中部(西岸では濁水渓以北、東岸では三桟渓以北)で生息していたが、現在は絶滅が危惧されている。 Plecoglossus altivelis altivelis (Temminck et Schlegel, 1846)。 「アユ」を亜種 P. a. altivelis とすることもある。 琵琶湖のコアユに対し、両側回遊する通常の個体群をオオアユと呼ぶ。 30センチメートルほどに成長する両側回遊型の海産系アユに対して、陸封型である琵琶湖産アユは10センチメートルほどにしか成長せずコアユとも呼ばれる。明治時代後期までオオアユとコアユは別種と捉えられていたが、動物学者の石川千代松による1908年以降の池中飼育試験および1913年以降の多摩川・宗谷川への放流実験によって、琵琶湖産アユが河川では大きく育ち、同種であることが実証された。アイソザイム分析の結果、海産アユからの個体群としての別離は10万年前と推定されている。 コアユは生態的にも特殊で、仔稚魚期に海には下らず、琵琶湖を海の代わりとして利用している。琵琶湖の流入河川へ遡上し、他地域のアユのように大きく成長するもの(オオアユ)と、湖内にとどまり大きく成長しないもの(コアユ)が存在する。河川に遡上しないコアユは、餌としてミジンコ類を主に捕食する。同じ琵琶湖に生息するビワマスでは海水耐性が発達せず降海後に死滅することが報告されているが、コアユにおいても海水耐性が失われている可能性が示唆されている。また、海産アユとの交雑個体も降海後に死滅していることが示唆されている。 産卵数は 海産アユより多く、他地域のアユと比べ縄張り意識が強いとされている。そのため友釣りには好都合で、全国各地の河川に放流されてきたが、琵琶湖産種苗の仔アユあるいは交配稚魚は海に下っても翌年遡上しないことが強く示唆されており、天然海産アユとの交配により子の海水耐性が失われ死滅することによる資源減少が懸念されている。 アユは河川漁業・遊漁にとって重要な魚種として日本各地で種苗放流が行われていて、琵琶湖では各地に出荷する種苗としてアユが採捕されている。海産アユが海の環境によって資源量が大きく変動するのに対し、琵琶湖のアユは豊富であるだけでなく、低水温でも活性を保つ、成長が早い、なわばり意識が強く友釣りに反応しやすいなどの特徴があり種苗は重用され、とくに1990年代ごろは重量ベースで90パーセントを占めるなど、日本のアユ種苗を寡占していた。 遺伝学が発達し、同種であっても異なる系統のグループ間での交雑の問題点が認識されるようになったが、1970年代以降の複数の研究によって、川に放流された湖産系アユは海に流下したあと遡上する能力を持たないことと、そのために河川での繁殖に寄与してこなかったことが示唆された。産卵期にも違いがあることから河川での交雑の可能性は小さいが、完全には否定されない。飼育下では、水温や日照時間によって産卵期を調整できるため人為的な交配が可能で、とくに陸封集団では天然にも起きうる。野村ダム湖と八田原ダム湖の陸封集団に浸透交雑(英語版)集団が報告されていて、天然集団に遺伝的撹乱をもたらすことが危惧されている。 P. altivelis ryukyuensis Nishida, 1988。アイソザイム分析の結果、日本本土産の海産アユからの別離は100万年前と推定されている。 絶滅危惧IA類 (CR)(環境省レッドリスト) 絶滅危惧種。 中国産亜種(Plecoglossus altivelis chinensis)はXiujuan, et al. (2005) により、新亜種として記載された。朝鮮半島から中華人民共和国 – ベトナム国境地帯にかけての海岸に断続的に生息する。 朝鮮半島産は予備的な研究により日本産と遺伝的に有意の差があるとの報告がされている。 アユの成魚は川で生活し、川で産卵するが、生活史の3分の1程度を占める仔稚魚期には海で生活する。このような回遊は「両側回遊」と呼ばれる。ただし、河口域の環境によっては、河口域にも仔稚魚の成育場が形成される場合もある。 親のアユは遡上した河川を流下し河川の下流域に降り産卵を行う。最高水温が摂氏20度を下回る頃に始まり、最高水温が摂氏16度を下回る頃に終了する。粒径 1ミリメートル程度の沈性粘着卵を夜間に産卵する。産卵に適した河床は、粒の小さな砂利質で泥の堆積のない水通しの良く砂利が動く場所が必要である。つまり、砂利質であってもヒゲナガカワトビケラの幼虫(俗称:クロカワムシ)などにより河床が固められた場所では産卵できない。産卵様式は、1対1ではなく必ず2個体以上のオスとの産卵放精が行われる。また、資源保護を目的として「付着藻類を取り除く」「河床を掘り起こし水通しを良くする」などの河床を産卵に適する環境に整備する活動が各地で行われている。 水温摂氏15度から摂氏20度で2週間ほどすると孵化する。孵化した仔魚はシロウオのように透明で、心臓やうきぶくろなどが透けて見える。孵化後の仔魚は全長約6ミリメートルで卵黄嚢を持つ。 仔魚は数日のうちに海あるいは河口域に流下し春の遡上に備える。海水耐性を備えているが、海水の塩分濃度の低い場所を選ぶため、河口から4kmを越えない範囲を回遊する。餌はカイアシ類などのプランクトンを捕食して成長する。稚魚期に必要な海底の形質は砂利や砂で、海底が泥の場所では生育しない。全長約10 ミリメートル程度から砂浜海岸や河口域の浅所に集まるが、この頃から既にスイカやキュウリに似た香りがある。この独特の香りは、アユの体内の不飽和脂肪酸が酵素によって分解されたときの匂いであり、アユ体内の脂肪酸は餌飼料の影響を受けることから、育ち方によって香りが異なることになる。香り成分は主に2,6-ノナジエナールであり、2-ノネナール・3,6-ノナジエン-1-オールも関与している。稚魚期には、プランクトンや小型水生昆虫、落下昆虫を捕食する。 体長59-63ミリメートルになると鱗が全身に形成され稚魚は翌年4月-5月頃に5-10センチメートル程度になり、川を遡上するが、この頃から体に色がつき、さらに歯の形が岩の上の藻類を食べるのに適した櫛(くし)のような形に変化する。川の上流から中流域にたどり着いた幼魚は水生昆虫なども食べるが、石に付着する藍藻類および珪藻類(バイオフィルム)を主食とするようになる。アユが岩石表面の藻類をこそげ取ると岩の上に紡錘形の独特の食べ痕が残り、これを特に「はみあと(食み跡)」という。アユを川辺から観察すると、藻類を食べるためにしばしば岩石に頭をこすりつけるような動作を行うので他の魚と区別できる。 多くの若魚は群れをつくるが、特に体が大きくなった何割かの若魚はえさの藻類が多い場所を独占して縄張りを作るようになる。一般には、縄張りを持つようになったアユは黄色みを帯びることで知られている。特にヒレの縁や胸にできる黄色斑は縄張りをもつアユのシンボルとされている。アユの視覚は黄色を強く認識し、それによって各個体の争いを回避していると考えられている。縄張りは1尾のアユにつき約1m四方ほどで、この縄張り内に入った他の個体には体当たりなどの激しい攻撃を加える。この性質を利用してアユを掛けるのが「友釣り」で、釣り人たちが10m近い釣竿を静かに構えてアユを釣る姿は日本の夏の風物詩になっている。 夏頃、若魚では灰緑色だった体色が、秋に性成熟すると「さびあゆ」と呼ばれる橙と黒の独特の婚姻色へ変化する。成魚は産卵のため下流域への降河を開始するが、この行動を示すものを指して「落ちあゆ」という呼称もある。産卵を終えたアユは1年間の短い一生を終えるが、広島県太田川、静岡県柿田川などの一部の河川やダムの上流部では生き延びて越冬する個体もいる。太田川での調査結果からは、越年アユは全て雌である。また、再成熟しての産卵は行われないと考えられている。 アユの観賞魚用としての飼育自体は稀であるが、コアユ(陸封型)であれば可能である。また、遡上型のアユも稚アユの時期より育てれば可能である。高水温に弱いため夏場の温度管理が重要である。食性は主に植物性であるが、コアユの場合は動物性がより強いので、稀に動物プランクトンも食べる。また、観賞魚として水槽内で飼育した場合は成熟までに至らないケースが多いため、1年から3年は生きる。 日本では代表的な川釣りの対象魚であり、重要な食用魚でもある。地方公共団体を象徴する魚として指定する自治体も多い。稚魚期を降海し過ごすアユ (Plecoglossus altivelis altivelis) は、琵琶湖産コアユと区別するため、海産アユとも呼ばれる。 群馬県・岐阜県・奈良県では県魚に指定されている。 江戸時代から評判の高い多摩川の鮎は幕府に「御用鮎」として上納されていた。 特に天然アユを中心に、出まわる時期が限られていることから、初夏の代表的な味覚とされている。 日本各地のアユの胃の内容物に関する調査の結果、濁りが多い川のアユは胃に泥を多く持ち、食味にも泥臭さが出る。この場合、はらわたを除去することで泥臭さを避けることもできる。一方、泥が少ない川では胃にも泥が含まれず、食味も大幅に改善する。同じ川でも、遡上量が多く川底がアユによって「掃除」されたような年には風味も良くなる。 日本では一般に、魚は刺身で食するのが最良とされている(割主烹従)が、アユについては例外的に塩焼きが最良とされている。一般に初夏のものはアユの独特の香気を味わい、晩夏のものは腹子を味わうとされている。 アユは、初夏から夏の季節を代表する食材として知られ、清涼感をもたらす食材である。特に初夏の若アユが美味とされ、若アユの塩焼きや天ぷらは珍重される。鮎は蓼酢で食べるのが一般的だが、ほかにも蓼味噌を添える場合もある。塩焼きにした後に残った骨はさらに炙り、熱燗の日本酒を注ぐ骨酒とすることができる。 刺身や洗いなどの生食が行われることがある。アユは横川吸虫という寄生虫の中間宿主であり、食品安全委員会はこの観点から生食は薦められないとしている。 刺身にするには、旬のアユを冷水で身を締め、洗いや背越しにする。特に背越しは骨の柔らかいアユの特徴的な調理方法で、ウロコや内臓を除去したのち、骨や皮ごと薄く輪切りにしたもので、清涼感のある見栄えや独特の歯ごたえを楽しむ。酢や蓼酢などで食することでもアユの香気を味わうことができる。 酢や塩に浸け酢飯と合わせて発酵させるなれずしの「鮎寿司」や、「姿寿司」、「押し寿司」、「柿の葉寿司」、「笹寿司」などを作る地方がある。JR京都駅の名物駅弁ともなっている。 アユの腸を塩辛にした「うるか」は、珍味として喜ばれる。うるかを作るには、腹に砂が入っていない(空腹になっている)夜間・朝獲れの鮎が好しとされる。 琵琶湖周辺などでは稚魚の氷魚の佃煮や、成魚の甘露煮(小鮎の甘露煮)も名物として製造販売されている。 シラス漁においては、海で過ごしているアユ仔魚・稚魚が混獲されることがある。しかし、この場合は独特の香りが製品につくのでむしろ嫌われる。また、アユの仔稚魚は茹でると黄色になる。 乾燥させた鮎節は和食の出汁としても珍重される。また、鮎の干物からとった「水出汁」は、極めて上品。 アユの若魚は刺し網、投網、産卵期に川を下る成魚は簗(やな)などで漁獲される。岐阜県の長良川などでは、ウミウを利用した鵜飼いも知られる。 アユにターゲットを絞った漁法として、アユが縄張りを持つ性質を利用した友釣りがある。 仔魚期から稚魚期の主要な餌は水生昆虫や水面落下昆虫であるため、毛鉤やサビキ仕掛けで釣れることもある。ただし、水産資源保護の観点から11月-5月は禁漁である。また、解禁された後も漁業権が設定された河川では、入漁料を支払う必要がある。 アユは高級食材とされており、内水面で養殖される魚種としてはウナギに次ぐ生産高を誇る。養殖は、食用とするための成魚の養殖と、遊漁目的の放流用種苗稚魚の養殖とが日本各地で行われ、稚魚養殖し天然河川に放流した個体を『半天然』と呼ぶこともある。一部では完全養殖も行われる。この際には、主として、天然の稚魚を3月から4月に捕獲し淡水で育成する方法が採用される。実際、「河口付近の川で採捕した河川産稚アユ」「河口付近の海洋回遊中に採捕した海産稚アユ」「湖や湖に注ぐ河口で採捕した湖産稚アユ(コアユ)」が種苗として供給されている。完全養殖の場合、一時海水中で飼育することもあり、餌はシオミズツボワムシなどのワムシ類、アルテミア幼生、ミジンコなどが使用される。 アユの養殖の始まりは諸説ある。養殖の実験は、石川千代松らにより1904年より琵琶湖で行われたのが最初とされている。1923年には琵琶湖産の稚魚が京都市の清滝川に放流された。1960年代になると遊漁種苗の育成が盛んに行われるようになる。当初は琵琶湖産アユが養殖種苗として利用されていたが、海産の稚魚の利用も1929年に中野宗治の研究により開始された。なお、養殖アユの生産量は、最盛期の1988年には1万3600トンあまりあったが、2001年に8100トン、2005年には5800トン程度まで減少した。 21世紀初頭には流水池での養殖池を行い脂肪分を減少させる事や、配合飼料に藍藻、緑茶抽出物を添加することで動物質飼料由来の香りを抑制するなど、養殖方法にも工夫が加えられ養殖ものの食味を天然物に近づける努力もなされている。さらに、電照飼育により性的成熟を遅らせ、「越年アユ」として販売される場合もある。 アユについての漁業権のある河川では、毎年4-5月頃漁協により、10-15センチメートル程度のサイズの稚魚の放流が行われる。 アユの養殖時の飼育適温は摂氏15-25度であり、養殖用の生け簀(池)は長方形、円形など様々な形状のものが利用される。餌は、かつてはカイコの蛹粉末や魚の練り餌が使用されたが、現在では魚粉や魚すり身を主成分とした固形配合飼料が与えられる。アユは短期間に成長させる必要がある。このため、常に飽食量に近い量が給餌される結果、残った餌により養殖池の水質が悪化し、感染症が発生し易くなるという問題が生じやすい。また密度管理も重要である。これは、感染症対策をとる必要があるばかりでなく、生育密度が高いと共食いが発生しやすいためでもある。 天然物と養殖物の違いとしては主に以下のようなものがある。 フルーツ魚のアユのブランド名として柑味鮎がある。主な生産地は、滋賀県、徳島県、和歌山県、愛知県、静岡県。 養殖において感染症が問題となる。例えば、グルゲア症が発生した場合、治療法がなく発病群の全個体を処分し池および関連器材を消毒しなければならない。 前述の様に、当初は琵琶湖産アユが養殖種苗として利用されていたが、海産の稚魚の利用もされているが、外部からの新規個体が導入されない環境で継代飼育されることが多く養殖場の環境に適応した個体のみが残ることとなり、飼育しやすい反面、単一の形質をもつ遺伝的な多様性に欠ける集団となる。その結果、環境ストレスに対する耐性(例:主たる捕食者のカワウからの回避能力)を低下させると共に、継代人工種苗が親魚となった自然界での再生産のサイクルが良好に機能しない原因となっている可能性が指摘されている。しかし、遺伝的多様性を維持するために、養殖メスと野生オスを交配させ次世代の種苗とすることで遺伝的多様性の維持をはかることが可能である。 流域下水道の整備による水質浄化、かつて生息していた河川の清掃、直線化した河川構造の改造、産卵床の整備などを通した天然アユ復活の試みは日本国内各地(島根県、多摩川)。例えば神戸市灘区都賀川は、かつてゴミとヘドロで埋め尽くされた「どぶ川」だった。「都賀川を守ろう会」が、1976年より、戦前のように魚とりなどができるようにと活動を続け、ゴミを引き上げたり、車に拡声器を積み川を汚さないようにと訴えてきた。陳情を受けた兵庫県も魚道の整備、産卵用の砂を敷き、川を蛇行させて流れを緩やかにした。その結果、毎年2000匹ほどが遡上し、産卵も行われるようになった。 鮎は三夏の季語。鮎の子・若鮎は晩春の季語。 和菓子の一種に、鮎を形取って小麦粉を焼いて作った皮で求肥をはさんだものがあり、「鮎」または「若鮎」と呼ばれる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "アユ(鮎、香魚、年魚、銀口魚、Plecoglossus altivelis)は、キュウリウオ目に分類される、川や海などを回遊する魚である。「清流の女王」とも呼ばれている。なお、漢字の「鮎」は、中国ではナマズを指し、アユという意味は日本での国訓である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "アユ科 Plecoglossidae とされたこともあったが、Nelson (2006) は、キュウリウオ科の下に単型のアユ亜科 Plecoglossinae を置く分類を提唱した。ミトコンドリア遺伝子に対する分子系統解析では、キュウリウオ科で最も早く分岐した種であることが示されている(下図)。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "漢字表記としては、香魚(独特の香気をもつことに由来)、年魚(一年で一生を終えることに由来)、銀口魚(泳いでいると口が銀色に光ることに由来)、渓鰮(渓流のイワシの意味)、細鱗魚(鱗が小さい)、国栖魚(奈良県の土着の人々・国栖が吉野川のアユを朝廷に献上したことに由来)、鰷魚(江戸時代の書物の「ハエ」の誤記)など様々な漢字表記がある。また、アイ、アア、シロイオ、チョウセンバヤ(久留米市)、アイナゴ(幼魚・南紀)、ハイカラ(幼魚)、氷魚(幼魚)など地方名、成長段階による呼び分け等によって様々な別名や地方名がある。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "アユの語源は、秋の産卵期に川を下ることから「アユル」(落ちるの意)に由来するとの説や神前に供える食物であるというところから「饗(あえ)」に由来するとの説など諸説ある。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "現在の「鮎」の字が当てられている由来は諸説あり、神功皇后が肥前国松浦郡の玉島川でアユを釣って戦いの勝敗を占ったとする説 、アユが一定の縄張りを独占する(占める)ところからつけられた字であるというものなど諸説ある。アユという意味での漢字の鮎は奈良時代ごろから使われていたが、当時の鮎はナマズを指しており、記紀を含めほとんどがアユを年魚と表記している。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "中国で漢字の「鮎」は古代日本と同様ナマズを指しており、中国語でアユは、「香魚(シャンユー、xiāngyú)」が標準名とされている。地方名では、山東省で「秋生魚」、「海胎魚」、福建省南部では「溪鰛」、台湾では「𫙮魚」、「國姓魚」とも呼ばれる。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "俳句の季語として「鮎」「鵜飼」はともに夏をあらわすが、春には「若鮎」、秋は「落ち鮎」、冬の季語は「氷魚(ひお、ひうお)」と、四季折々の季語に使用されている。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "成魚の全長は30センチメートルに達するが、地域差や個体差があり、10センチメートルほどで性成熟するものもいる。若魚は全身が灰緑色で背鰭が黒、胸びれの後方に大きな黄色の楕円形斑が一つある。秋に性成熟すると橙色と黒の婚姻色が発現する。体型や脂鰭を持つなどの特徴がサケ科に類似する。口は大きく目の下まで裂けるが、唇は柔らかい。歯は丸く、櫛(くし)のような構造(櫛状歯)である。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "北海道・朝鮮半島からベトナム北部まで東アジア一帯に分布する。石についた藻類を食べるという習性から、そのような環境のある河川に生息し、長大な下流域をもつ大陸の大河川よりも、日本の川に適応した魚である。天塩川が日本の分布北限。遺伝的に日本産海産アユは南北2つの群に分けられる。中国では、河川環境の悪化でその数は減少しているが、2004年に長江下流域でも稚魚が発見された報告があるなど、現在も鴨緑江はじめ、遼東半島以南の一帯に生息している。また、中国では浙江省などで放流や養殖実験が行われている。台湾でも中部(西岸では濁水渓以北、東岸では三桟渓以北)で生息していたが、現在は絶滅が危惧されている。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "Plecoglossus altivelis altivelis (Temminck et Schlegel, 1846)。", "title": "亜種" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "「アユ」を亜種 P. a. altivelis とすることもある。", "title": "亜種" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "琵琶湖のコアユに対し、両側回遊する通常の個体群をオオアユと呼ぶ。", "title": "亜種" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "30センチメートルほどに成長する両側回遊型の海産系アユに対して、陸封型である琵琶湖産アユは10センチメートルほどにしか成長せずコアユとも呼ばれる。明治時代後期までオオアユとコアユは別種と捉えられていたが、動物学者の石川千代松による1908年以降の池中飼育試験および1913年以降の多摩川・宗谷川への放流実験によって、琵琶湖産アユが河川では大きく育ち、同種であることが実証された。アイソザイム分析の結果、海産アユからの個体群としての別離は10万年前と推定されている。", "title": "亜種" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "コアユは生態的にも特殊で、仔稚魚期に海には下らず、琵琶湖を海の代わりとして利用している。琵琶湖の流入河川へ遡上し、他地域のアユのように大きく成長するもの(オオアユ)と、湖内にとどまり大きく成長しないもの(コアユ)が存在する。河川に遡上しないコアユは、餌としてミジンコ類を主に捕食する。同じ琵琶湖に生息するビワマスでは海水耐性が発達せず降海後に死滅することが報告されているが、コアユにおいても海水耐性が失われている可能性が示唆されている。また、海産アユとの交雑個体も降海後に死滅していることが示唆されている。", "title": "亜種" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "産卵数は 海産アユより多く、他地域のアユと比べ縄張り意識が強いとされている。そのため友釣りには好都合で、全国各地の河川に放流されてきたが、琵琶湖産種苗の仔アユあるいは交配稚魚は海に下っても翌年遡上しないことが強く示唆されており、天然海産アユとの交配により子の海水耐性が失われ死滅することによる資源減少が懸念されている。", "title": "亜種" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "アユは河川漁業・遊漁にとって重要な魚種として日本各地で種苗放流が行われていて、琵琶湖では各地に出荷する種苗としてアユが採捕されている。海産アユが海の環境によって資源量が大きく変動するのに対し、琵琶湖のアユは豊富であるだけでなく、低水温でも活性を保つ、成長が早い、なわばり意識が強く友釣りに反応しやすいなどの特徴があり種苗は重用され、とくに1990年代ごろは重量ベースで90パーセントを占めるなど、日本のアユ種苗を寡占していた。", "title": "亜種" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "遺伝学が発達し、同種であっても異なる系統のグループ間での交雑の問題点が認識されるようになったが、1970年代以降の複数の研究によって、川に放流された湖産系アユは海に流下したあと遡上する能力を持たないことと、そのために河川での繁殖に寄与してこなかったことが示唆された。産卵期にも違いがあることから河川での交雑の可能性は小さいが、完全には否定されない。飼育下では、水温や日照時間によって産卵期を調整できるため人為的な交配が可能で、とくに陸封集団では天然にも起きうる。野村ダム湖と八田原ダム湖の陸封集団に浸透交雑(英語版)集団が報告されていて、天然集団に遺伝的撹乱をもたらすことが危惧されている。", "title": "亜種" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "P. altivelis ryukyuensis Nishida, 1988。アイソザイム分析の結果、日本本土産の海産アユからの別離は100万年前と推定されている。", "title": "亜種" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "絶滅危惧IA類 (CR)(環境省レッドリスト)", "title": "亜種" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "絶滅危惧種。", "title": "亜種" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "中国産亜種(Plecoglossus altivelis chinensis)はXiujuan, et al. (2005) により、新亜種として記載された。朝鮮半島から中華人民共和国 – ベトナム国境地帯にかけての海岸に断続的に生息する。", "title": "亜種" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "朝鮮半島産は予備的な研究により日本産と遺伝的に有意の差があるとの報告がされている。", "title": "亜種" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "アユの成魚は川で生活し、川で産卵するが、生活史の3分の1程度を占める仔稚魚期には海で生活する。このような回遊は「両側回遊」と呼ばれる。ただし、河口域の環境によっては、河口域にも仔稚魚の成育場が形成される場合もある。", "title": "生活史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "親のアユは遡上した河川を流下し河川の下流域に降り産卵を行う。最高水温が摂氏20度を下回る頃に始まり、最高水温が摂氏16度を下回る頃に終了する。粒径 1ミリメートル程度の沈性粘着卵を夜間に産卵する。産卵に適した河床は、粒の小さな砂利質で泥の堆積のない水通しの良く砂利が動く場所が必要である。つまり、砂利質であってもヒゲナガカワトビケラの幼虫(俗称:クロカワムシ)などにより河床が固められた場所では産卵できない。産卵様式は、1対1ではなく必ず2個体以上のオスとの産卵放精が行われる。また、資源保護を目的として「付着藻類を取り除く」「河床を掘り起こし水通しを良くする」などの河床を産卵に適する環境に整備する活動が各地で行われている。", "title": "生活史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "水温摂氏15度から摂氏20度で2週間ほどすると孵化する。孵化した仔魚はシロウオのように透明で、心臓やうきぶくろなどが透けて見える。孵化後の仔魚は全長約6ミリメートルで卵黄嚢を持つ。", "title": "生活史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": 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"多くの若魚は群れをつくるが、特に体が大きくなった何割かの若魚はえさの藻類が多い場所を独占して縄張りを作るようになる。一般には、縄張りを持つようになったアユは黄色みを帯びることで知られている。特にヒレの縁や胸にできる黄色斑は縄張りをもつアユのシンボルとされている。アユの視覚は黄色を強く認識し、それによって各個体の争いを回避していると考えられている。縄張りは1尾のアユにつき約1m四方ほどで、この縄張り内に入った他の個体には体当たりなどの激しい攻撃を加える。この性質を利用してアユを掛けるのが「友釣り」で、釣り人たちが10m近い釣竿を静かに構えてアユを釣る姿は日本の夏の風物詩になっている。", "title": "生活史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "夏頃、若魚では灰緑色だった体色が、秋に性成熟すると「さびあゆ」と呼ばれる橙と黒の独特の婚姻色へ変化する。成魚は産卵のため下流域への降河を開始するが、この行動を示すものを指して「落ちあゆ」という呼称もある。産卵を終えたアユは1年間の短い一生を終えるが、広島県太田川、静岡県柿田川などの一部の河川やダムの上流部では生き延びて越冬する個体もいる。太田川での調査結果からは、越年アユは全て雌である。また、再成熟しての産卵は行われないと考えられている。", "title": "生活史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "アユの観賞魚用としての飼育自体は稀であるが、コアユ(陸封型)であれば可能である。また、遡上型のアユも稚アユの時期より育てれば可能である。高水温に弱いため夏場の温度管理が重要である。食性は主に植物性であるが、コアユの場合は動物性がより強いので、稀に動物プランクトンも食べる。また、観賞魚として水槽内で飼育した場合は成熟までに至らないケースが多いため、1年から3年は生きる。", "title": "飼育" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "日本では代表的な川釣りの対象魚であり、重要な食用魚でもある。地方公共団体を象徴する魚として指定する自治体も多い。稚魚期を降海し過ごすアユ (Plecoglossus altivelis altivelis) は、琵琶湖産コアユと区別するため、海産アユとも呼ばれる。", "title": "日本におけるアユ" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "群馬県・岐阜県・奈良県では県魚に指定されている。", "title": "日本におけるアユ" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "江戸時代から評判の高い多摩川の鮎は幕府に「御用鮎」として上納されていた。", "title": "日本におけるアユ" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "特に天然アユを中心に、出まわる時期が限られていることから、初夏の代表的な味覚とされている。", "title": "日本におけるアユ" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "日本各地のアユの胃の内容物に関する調査の結果、濁りが多い川のアユは胃に泥を多く持ち、食味にも泥臭さが出る。この場合、はらわたを除去することで泥臭さを避けることもできる。一方、泥が少ない川では胃にも泥が含まれず、食味も大幅に改善する。同じ川でも、遡上量が多く川底がアユによって「掃除」されたような年には風味も良くなる。", "title": "日本におけるアユ" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "日本では一般に、魚は刺身で食するのが最良とされている(割主烹従)が、アユについては例外的に塩焼きが最良とされている。一般に初夏のものはアユの独特の香気を味わい、晩夏のものは腹子を味わうとされている。", "title": "日本におけるアユ" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "アユは、初夏から夏の季節を代表する食材として知られ、清涼感をもたらす食材である。特に初夏の若アユが美味とされ、若アユの塩焼きや天ぷらは珍重される。鮎は蓼酢で食べるのが一般的だが、ほかにも蓼味噌を添える場合もある。塩焼きにした後に残った骨はさらに炙り、熱燗の日本酒を注ぐ骨酒とすることができる。", "title": "日本におけるアユ" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "刺身や洗いなどの生食が行われることがある。アユは横川吸虫という寄生虫の中間宿主であり、食品安全委員会はこの観点から生食は薦められないとしている。", "title": "日本におけるアユ" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "刺身にするには、旬のアユを冷水で身を締め、洗いや背越しにする。特に背越しは骨の柔らかいアユの特徴的な調理方法で、ウロコや内臓を除去したのち、骨や皮ごと薄く輪切りにしたもので、清涼感のある見栄えや独特の歯ごたえを楽しむ。酢や蓼酢などで食することでもアユの香気を味わうことができる。", "title": "日本におけるアユ" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "酢や塩に浸け酢飯と合わせて発酵させるなれずしの「鮎寿司」や、「姿寿司」、「押し寿司」、「柿の葉寿司」、「笹寿司」などを作る地方がある。JR京都駅の名物駅弁ともなっている。", "title": "日本におけるアユ" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "アユの腸を塩辛にした「うるか」は、珍味として喜ばれる。うるかを作るには、腹に砂が入っていない(空腹になっている)夜間・朝獲れの鮎が好しとされる。", "title": "日本におけるアユ" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "琵琶湖周辺などでは稚魚の氷魚の佃煮や、成魚の甘露煮(小鮎の甘露煮)も名物として製造販売されている。", "title": "日本におけるアユ" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "シラス漁においては、海で過ごしているアユ仔魚・稚魚が混獲されることがある。しかし、この場合は独特の香りが製品につくのでむしろ嫌われる。また、アユの仔稚魚は茹でると黄色になる。", "title": "日本におけるアユ" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "乾燥させた鮎節は和食の出汁としても珍重される。また、鮎の干物からとった「水出汁」は、極めて上品。", "title": "日本におけるアユ" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "アユの若魚は刺し網、投網、産卵期に川を下る成魚は簗(やな)などで漁獲される。岐阜県の長良川などでは、ウミウを利用した鵜飼いも知られる。", "title": "日本におけるアユ" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "アユにターゲットを絞った漁法として、アユが縄張りを持つ性質を利用した友釣りがある。", "title": "日本におけるアユ" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "仔魚期から稚魚期の主要な餌は水生昆虫や水面落下昆虫であるため、毛鉤やサビキ仕掛けで釣れることもある。ただし、水産資源保護の観点から11月-5月は禁漁である。また、解禁された後も漁業権が設定された河川では、入漁料を支払う必要がある。", "title": "日本におけるアユ" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "アユは高級食材とされており、内水面で養殖される魚種としてはウナギに次ぐ生産高を誇る。養殖は、食用とするための成魚の養殖と、遊漁目的の放流用種苗稚魚の養殖とが日本各地で行われ、稚魚養殖し天然河川に放流した個体を『半天然』と呼ぶこともある。一部では完全養殖も行われる。この際には、主として、天然の稚魚を3月から4月に捕獲し淡水で育成する方法が採用される。実際、「河口付近の川で採捕した河川産稚アユ」「河口付近の海洋回遊中に採捕した海産稚アユ」「湖や湖に注ぐ河口で採捕した湖産稚アユ(コアユ)」が種苗として供給されている。完全養殖の場合、一時海水中で飼育することもあり、餌はシオミズツボワムシなどのワムシ類、アルテミア幼生、ミジンコなどが使用される。", "title": "日本におけるアユ" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "アユの養殖の始まりは諸説ある。養殖の実験は、石川千代松らにより1904年より琵琶湖で行われたのが最初とされている。1923年には琵琶湖産の稚魚が京都市の清滝川に放流された。1960年代になると遊漁種苗の育成が盛んに行われるようになる。当初は琵琶湖産アユが養殖種苗として利用されていたが、海産の稚魚の利用も1929年に中野宗治の研究により開始された。なお、養殖アユの生産量は、最盛期の1988年には1万3600トンあまりあったが、2001年に8100トン、2005年には5800トン程度まで減少した。", "title": "日本におけるアユ" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "21世紀初頭には流水池での養殖池を行い脂肪分を減少させる事や、配合飼料に藍藻、緑茶抽出物を添加することで動物質飼料由来の香りを抑制するなど、養殖方法にも工夫が加えられ養殖ものの食味を天然物に近づける努力もなされている。さらに、電照飼育により性的成熟を遅らせ、「越年アユ」として販売される場合もある。", "title": "日本におけるアユ" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "アユについての漁業権のある河川では、毎年4-5月頃漁協により、10-15センチメートル程度のサイズの稚魚の放流が行われる。", "title": "日本におけるアユ" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "アユの養殖時の飼育適温は摂氏15-25度であり、養殖用の生け簀(池)は長方形、円形など様々な形状のものが利用される。餌は、かつてはカイコの蛹粉末や魚の練り餌が使用されたが、現在では魚粉や魚すり身を主成分とした固形配合飼料が与えられる。アユは短期間に成長させる必要がある。このため、常に飽食量に近い量が給餌される結果、残った餌により養殖池の水質が悪化し、感染症が発生し易くなるという問題が生じやすい。また密度管理も重要である。これは、感染症対策をとる必要があるばかりでなく、生育密度が高いと共食いが発生しやすいためでもある。", "title": "日本におけるアユ" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "天然物と養殖物の違いとしては主に以下のようなものがある。", "title": "日本におけるアユ" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "フルーツ魚のアユのブランド名として柑味鮎がある。主な生産地は、滋賀県、徳島県、和歌山県、愛知県、静岡県。", "title": "日本におけるアユ" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "養殖において感染症が問題となる。例えば、グルゲア症が発生した場合、治療法がなく発病群の全個体を処分し池および関連器材を消毒しなければならない。", "title": "日本におけるアユ" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "前述の様に、当初は琵琶湖産アユが養殖種苗として利用されていたが、海産の稚魚の利用もされているが、外部からの新規個体が導入されない環境で継代飼育されることが多く養殖場の環境に適応した個体のみが残ることとなり、飼育しやすい反面、単一の形質をもつ遺伝的な多様性に欠ける集団となる。その結果、環境ストレスに対する耐性(例:主たる捕食者のカワウからの回避能力)を低下させると共に、継代人工種苗が親魚となった自然界での再生産のサイクルが良好に機能しない原因となっている可能性が指摘されている。しかし、遺伝的多様性を維持するために、養殖メスと野生オスを交配させ次世代の種苗とすることで遺伝的多様性の維持をはかることが可能である。", "title": "日本におけるアユ" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "流域下水道の整備による水質浄化、かつて生息していた河川の清掃、直線化した河川構造の改造、産卵床の整備などを通した天然アユ復活の試みは日本国内各地(島根県、多摩川)。例えば神戸市灘区都賀川は、かつてゴミとヘドロで埋め尽くされた「どぶ川」だった。「都賀川を守ろう会」が、1976年より、戦前のように魚とりなどができるようにと活動を続け、ゴミを引き上げたり、車に拡声器を積み川を汚さないようにと訴えてきた。陳情を受けた兵庫県も魚道の整備、産卵用の砂を敷き、川を蛇行させて流れを緩やかにした。その結果、毎年2000匹ほどが遡上し、産卵も行われるようになった。", "title": "日本におけるアユ" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "鮎は三夏の季語。鮎の子・若鮎は晩春の季語。", "title": "日本におけるアユ" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "和菓子の一種に、鮎を形取って小麦粉を焼いて作った皮で求肥をはさんだものがあり、「鮎」または「若鮎」と呼ばれる。", "title": "日本におけるアユ" } ]
アユは、キュウリウオ目に分類される、川や海などを回遊する魚である。「清流の女王」とも呼ばれている。なお、漢字の「鮎」は、中国ではナマズを指し、アユという意味は日本での国訓である。
{{Otheruses|魚のアユ|その他の用法|あゆ}} {{導入部が短い|date=2018年5月}} {{生物分類表 |名称 = アユ |画像 = [[画像:Sweetfish, Plecoglossus altivelis.jpg|270px]] |画像キャプション = 産卵期のメス |省略 = 条鰭綱 |目 = [[キュウリウオ目]] {{sname||Osmeriformes}} |亜目 = キュウリウオ亜目 {{sname||Osmeroidei}} |上科 = キュウリウオ上科 {{sname||Osmeroidea}} |科 = キュウリウオ科 {{sname||Osmeridae}} |亜科 = '''アユ亜科''' {{sname||Plecoglossinae}} |属 = '''アユ属''' {{snamei||Plecoglossus}} |種 = '''アユ''' {{snamei||Plecoglossus altivelis|P. altivelis}} |学名 = {{snamei||Plecoglossus altivelis}}<br>({{AUY|[[コンラート・ヤコブ・テミンク|Temminck]] et [[ヘルマン・シュレーゲル|Schlegel]]|1846}}) |下位分類名 = 亜種 |下位分類 = * {{snamei|P. a. altivelis}} * {{snamei|P. a. ryukyuensis}} リュウキュウアユ * {{snamei|P. a. chinensis}} |英名 = Ayu<br>Ayu Fish }} '''アユ'''('''鮎'''、'''香魚'''、年魚、銀口魚、{{snamei||Plecoglossus altivelis}})は、[[キュウリウオ目]]に分類される、[[川]]や[[海]]などを[[回遊]]する魚である。「清流の女王」とも呼ばれている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20210129-J26WVHD6KBMCJFZRPVO6W3HOHQ/|title=記紀神話も彩った幻の味、吉野・桜鮎 復活にかける期待|publisher=産経ニュース|date=2021-01-29|accessdate=2021-02-03}}</ref>。なお、漢字の「鮎」は、中国では[[ナマズ]]を指し、アユという意味は日本での[[訓読み#国訓|国訓]]である<ref>沖森卓也ほか『図解 日本の文字』三省堂、2011年、52頁</ref>。 == 分類 == アユ科 {{sname||Plecoglossidae}} とされたこともあったが、[[w:Joseph S. Nelson|Nelson]] (2006) は、キュウリウオ科の下に[[単型 (分類学)|単型]]のアユ亜科 {{sname||Plecoglossinae}} を置く分類を提唱した<ref>{{Google books|exTV-GLnCB4C|page=195|Fishes of the world (4th edn)}}</ref>。[[ミトコンドリアDNA|ミトコンドリア遺伝子]]に対する[[分子系統]]解析では、キュウリウオ科で最も早く分岐した[[種 (分類学)|種]]であることが示されている(下図)<ref>{{citation|title=Contrasting Evolutionary Pathways of Anadromy in Euteleostean Fishes|author=JJ Dodson, J Laroche, F lecomte|year=2009|url=http://www.bio.ulaval.ca/labdodson/Papers%20Julian/159.Dodsonetal.2009_AFS.pdf}}</ref>。 {{Clade | style=line-height:1em; font-size:small; |label1=[[キュウリウオ目]] |{{Clade |ガラクシアス科 |{{Clade |ミナミキュウリウオ科 |label2=キュウリウオ科 |{{Clade |label1=アユ亜科|'''アユ''' |{{Clade |[[キュウリウオ]] など |[[ワカサギ]]・[[シシャモ]] など |[[カラフトシシャモ]] など |[[シラウオ]]・[[アリアケシラウオ]]・ヒメシラウオ など }} }} }} }} }} == 名称 == [[ファイル:Empress Jingu and Takenouchi no Sukune Fishing at Chikuzen LACMA M.84.31.260.jpg|サムネイル|[[神功皇后]]が[[新羅]]征討の前に釣り占いを行い、アユが釣れ、勝利を確信したという故事を描いたもの。[[月岡芳年]]筆。日本書紀では「細鱗魚」と記された<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906610/24 鮎の文献抄]『芸術資料. 第四期 第二册』金井紫雲編、芸艸堂、1936.3-1941.3</ref>]] 漢字表記としては、香魚(独特の香気をもつことに由来)、年魚(一年で一生を終えることに由来)、銀口魚(泳いでいると口が銀色に光ることに由来)、渓鰮(渓流のイワシの意味)、細鱗魚(鱗が小さい)、国栖魚(奈良県の土着の人々・国栖が[[吉野川 (代表的なトピック)|吉野川]]のアユを朝廷に献上したことに由来)、鰷魚(江戸時代の書物の「[[ハヤ|ハエ]]」の誤記)など様々な漢字表記がある{{sfn|フリーランス雑学ライターズ|1988|pp=46f}}。また、アイ、アア、シロイオ、チョウセンバヤ([[久留米市]])、アイナゴ(幼魚・南紀)、ハイカラ(幼魚)、氷魚(幼魚)など地方名、成長段階による呼び分け等によって様々な別名や地方名がある。 アユの語源は、秋の産卵期に川を下ることから「アユル」(落ちるの意)に由来するとの説や神前に供える食物であるというところから「饗(あえ)」に由来するとの説など諸説ある{{sfn|フリーランス雑学ライターズ|1988|p=46}}。 現在の「鮎」の字が当てられている由来は諸説あり、[[神功皇后]]が[[肥前国]][[松浦郡]]の[[玉島川]]でアユを釣って戦いの勝敗を占ったとする説{{sfn|フリーランス雑学ライターズ|1988|p=46}} <ref>“[http://www.yoyokaku.com/sub7-109.htm 唐津地方の神功皇后伝説]” .''洋々閣''</ref>、アユが一定の縄張りを独占する(占める)ところからつけられた字であるというものなど諸説ある。アユという意味での漢字の鮎は[[奈良時代]]ごろから使われていたが、当時の鮎は[[ナマズ]]を指しており、[[記紀]]を含めほとんどがアユを年魚と表記している。 中国で漢字の「{{Lang|zh-hant|鮎}}」は古代日本と同様ナマズを指しており{{sfn|フリーランス雑学ライターズ|1988|p=46}}、[[中国語]]でアユは、「{{Lang|zh-hant|香魚}}(シャンユー、{{Pinyin|xiāngyú}})」が標準名とされている。[[地方名]]では、[[山東省]]で「{{Lang|zh-hant|秋生魚}}」、「{{Lang|zh-hant|海胎魚}}」、[[福建省]]南部では「{{Lang|zh-hant|溪鰛}}」、[[台湾]]では「{{lang|zh-hant|𫙮{{lang|ja|{{efn2|魚偏に桀。}}}}魚}}」、「{{lang|zh-hant|國姓魚}}」とも呼ばれる。 [[俳句]]の[[季語]]として「鮎」「鵜飼」はともに夏をあらわすが、春には「若鮎」、秋は「落ち鮎」、冬の季語は「氷魚(ひお、ひうお)」と、四季折々の季語に使用されている。 == 特徴 == === 形態 === [[成魚]]の全長は30センチメートルに達するが、地域差や個体差があり、10センチメートルほどで性成熟するものもいる。若魚は全身が灰緑色で背鰭が黒、胸びれの後方に大きな黄色の楕円形斑が一つある。秋に性成熟すると橙色と黒の[[婚姻色]]が発現する。体型や脂鰭を持つなどの特徴がサケ科に類似する。口は大きく目の下まで裂けるが、唇は柔らかい。[[歯]]は丸く、[[櫛]](くし)のような構造(櫛状歯)である。 === 分布 === [[北海道]]・[[朝鮮半島]]から[[ベトナム]]北部まで[[東アジア]]一帯に[[分布 (生物)|分布]]する<!--{{sfn|高橋|東|2006|pp=x-xiv|loc=アユの基礎知識}}-->。石についた[[藻類]]を食べるという習性から、そのような環境のある[[川|河川]]に[[生息地|生息]]し、長大な下流域をもつ大陸の大河川よりも、日本の川に適応した魚である{{sfn|高橋|東|2006|pp=x-xiv|loc=アユの基礎知識}}。[[天塩川]]が日本の分布北限。[[遺伝]]的に日本産海産アユは南北2つの群に分けられる{{sfn|井口|武島|2006|p=192}}。[[中華人民共和国|中国]]では、河川環境の悪化でその数は減少しているが、2004年に[[長江]]下流域でも[[稚魚]]が発見された報告があるなど、現在も[[鴨緑江]]はじめ、[[遼東半島]]以南の一帯に生息している。また、中国では[[浙江省]]などで[[放流]]や[[養殖業|養殖]]実験が行われている。[[台湾]]でも中部(西岸では[[濁水渓]]以北、東岸では[[三桟渓]]以北)で生息していたが、現在は[[絶滅]]が危惧されている。 == 亜種 == === 模式亜種 === {{snamei|Plecoglossus altivelis altivelis}} ({{AUY|Temminck et Schlegel|1846}})。 「アユ」を[[亜種]] {{snamei|P. a. altivelis}} とすることもある。 ==== オオアユ ==== [[琵琶湖]]のコアユに対し、[[両側回遊]]する通常の個体群を'''オオアユ'''と呼ぶ。 ==== コアユ ==== [[image:Plecoglossus altivelis altivelis ayu.jpg|200px|thumb|right|琵琶湖産コアユ]]30センチメートルほどに成長する両側回遊型の海産系アユに対して、[[陸封]]型である琵琶湖産アユは10センチメートルほどにしか成長せず'''コアユ'''とも呼ばれる<!--{{sfn|井村|2013|pp=25-45}}-->。明治時代後期までオオアユとコアユは別[[種 (分類学)|種]]と捉えられていたが、動物学者の[[石川千代松]]による1908年以降の池中飼育試験および1913年以降の[[多摩川]]・[[宗谷川]]への放流実験によって、琵琶湖産アユが河川では大きく育ち、同種であることが実証された{{sfn|井村|2013|pp=25-45}}。[[アイソザイム]]分析の結果、海産アユからの[[個体群]]としての別離は10万年前と推定されている{{sfn|井口|武島|2006|p=190}}。 コアユは生態的にも特殊で、[[仔魚|仔稚魚]]期に海には下らず、琵琶湖を海の代わりとして利用している。琵琶湖の流入河川へ遡上し、他地域のアユのように大きく成長するもの(オオアユ)と、湖内にとどまり大きく成長しないもの(コアユ)が存在する。河川に遡上しないコアユは、餌として[[ミジンコ]]類を主に捕食する。同じ琵琶湖に生息する[[ビワマス]]では海水耐性が発達せず降海後に死滅することが報告されている<ref>{{PDFlink|[http://salmon.fra.affrc.go.jp/kankobutu/tech_repo/fe02/fishandegg159_p25-38.pdf 藤岡康弘、ビワマス]}} 水産総合研究センター さけますセンター『魚と卵』第159号 1990(H2)年3月</ref>が、コアユにおいても海水耐性が失われている可能性が示唆されている<ref name="JASI73-0608">{{citation|title=海域におけるアユ仔稚魚の生態特性の解明|author=大竹二雄|issn=13469894|url=http://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2010730608}}</ref>。また、海産アユとの[[交雑]]個体も降海後に死滅していることが示唆されている<ref name="JASI73-0608" />。 産卵数は 海産アユより多く、他地域のアユと比べ縄張り意識が強いとされている。そのため[[友釣り]]には好都合で、全国各地の河川に放流されてきたが、琵琶湖産[[種苗]]の仔アユあるいは交配稚魚は海に下っても翌年遡上しないこと<ref name="JASI73-0608" />が強く示唆されており、天然海産アユとの交配により子の海水耐性が失われ死滅することによる資源減少が懸念されている<ref>{{Cite web|和書|title=人工長期継代アユの遺伝子特性調査|url=http://www.agri-kanagawa.jp/naisui/kenkyu/h10/H10_109c3501.pdf|accessdate=2012-06-30}}</ref>。 ===== 国内外来魚として ===== {{See also|琵琶湖#琵琶湖に由来する外来魚}} アユは河川漁業・[[遊漁]]にとって重要な魚種として日本各地で[[栽培漁業|種苗放流]]が行われていて、琵琶湖では各地に出荷する種苗としてアユが採捕されている{{sfn|井村|2013|pp=25-45}}。海産アユが海の環境によって資源量が大きく変動するのに対し、琵琶湖のアユは豊富であるだけでなく、低水温でも活性を保つ、成長が早い、なわばり意識が強く[[友釣り]]に反応しやすいなどの特徴があり種苗は重用され{{sfn|谷口|池田|2009|pp=30-55}}、とくに1990年代ごろは重量ベースで90パーセントを占めるなど、日本のアユ種苗を[[寡占]]していた{{sfn|井村|2013|pp=25-45}}。 [[遺伝学]]が発達し、同種であっても異なる系統のグループ間での交雑の問題点が認識されるようになったが、1970年代以降の複数の研究によって、川に放流された湖産系アユは海に流下したあと遡上する能力を持たないことと、そのために河川での繁殖に寄与してこなかったことが示唆された{{sfn|谷口|池田|2009|pp=30-55}}。産卵期にも違いがあることから河川での交雑の可能性は小さいが、完全には否定されない。飼育下では、水温や日照時間によって産卵期を調整できるため人為的な交配が可能で、とくに陸封集団では天然にも起きうる{{sfn|谷口|池田|2009|pp=30-55}}。[[野村ダム]]湖と[[八田原ダム]]湖の陸封集団に{{仮リンク|浸透性交雑|en|Introgression|label=浸透交雑}}集団が報告されていて、天然集団に[[遺伝子汚染|遺伝的撹乱]]をもたらすことが危惧されている{{sfn|谷口|池田|2009|pp=74-92}}。 === リュウキュウアユ === {{snamei|P. altivelis ryukyuensis}} {{AUY|Nishida|1988}}<ref>[[西田睦]]、[[doi:10.11369/jji1950.35.236|琉球列島より得られたアユの新亜種]] 魚類学雑誌 1988年 35巻 3号 p.236-242, {{DOI|10.11369/jji1950.35.236}}</ref>。[[アイソザイム]]分析の結果、日本本土産の海産アユからの別離は100万年前と推定されている{{sfn|井口|武島|2006|p=190}}。 {{絶滅危惧IA類|category=off}} 絶滅危惧種<ref name=okinawa>{{Cite web|和書|title=改訂版 レッドデータおきなわ-動物編- 魚類|url=http://www3.pref.okinawa.jp/site/contents/attach/9962/gyorui.pdf|accessdate=2012-06-30}}</ref>。 {{main|リュウキュウアユ}} === 中国産亜種 === 中国産亜種({{snamei|Plecoglossus altivelis chinensis}})は{{Harvtxt|Xiujuan, et al.|2005}} により、新亜種として記載された<!--{{sfn|井口|武島|2006|p=189}}-->。[[朝鮮半島]]から[[中華人民共和国]] – [[ベトナム]]国境地帯にかけての海岸に断続的に生息する{{sfn|井口|武島|2006|p=189}}。 === 朝鮮半島産個体群 === 朝鮮半島産は予備的な研究により日本産と遺伝的に有意の差があるとの報告がされている{{sfn|井口|武島|2006|p=191}}。 == 生活史 == [[画像:Ayu TamagawaChofu 0403241c.jpg|thumb|200px|川を上るアユ。[[多摩川]]調布堰にて]] アユの[[成魚]]は川で生活し、川で産卵するが、生活史の3分の1程度を占める[[仔魚|仔稚魚]]期には海で生活する。このような回遊は「[[回遊#両側回遊|両側回遊]]」と呼ばれる。ただし、河口域の環境によっては、河口域にも仔稚魚の成育場が形成される場合もある。 === 産卵 === 親のアユは遡上した河川を流下し河川の下流域に降り産卵を行う。最高水温が[[セルシウス度|摂氏]]20度を下回る頃に始まり、最高水温が摂氏16度を下回る頃に終了する。粒径 1ミリメートル程度の沈性粘着卵を夜間に産卵する<ref>[http://www.agri-kanagawa.jp/naisui/ayu/ayu_sanrann.html アユの産卵場調査] 神奈川県水産技術センター</ref>。産卵に適した河床は、粒の小さな砂利質で泥の堆積のない水通しの良く砂利が動く場所が必要である。つまり、砂利質であっても[[ヒゲナガカワトビケラ]]の幼虫(俗称:クロカワムシ)などにより河床が固められた場所では産卵できない。産卵様式は、1対1ではなく必ず2個体以上のオスとの産卵放精が行われる<ref name="77_3_356"/>。また、資源保護を目的として「[[付着藻類]]を取り除く」「河床を掘り起こし水通しを良くする」などの河床を産卵に適する環境に整備する活動が各地で行われている<ref>{{PDFlink|[http://www.pref.ibaraki.jp/bukyoku/nourin/naisuisi/ayu%20sojou%20h25/zousei.pdf アユの産卵場造成マニュアル] 茨城県水産試験場}}</ref>。 * 流速 40 - 100センチメートル毎秒 * 水深 10 - 60センチメートル * 卵は河床表面から 5 - 10センチメートル に埋没 === 孵化 === 水温摂氏15度から摂氏20度で2週間ほどすると[[孵化]]する。孵化した[[仔魚]]は[[シロウオ]]のように透明で、心臓やうきぶくろなどが透けて見える。孵化後の仔魚は全長約6ミリメートルで卵黄嚢を持つ。 === 仔稚魚期 === 仔魚は数日のうちに海あるいは[[河口]]域に流下し春の遡上に備える。海水耐性を備えているが、海水の塩分濃度の低い場所を選ぶため、河口から4kmを越えない範囲を回遊する<ref>[https://doi.org/10.2331/suisan.74.841 山本敏哉、三戸勇吾 ほか、矢作川河口周辺海域(三河湾西部)におけるアユ仔稚魚の分布と底質との関係] 日本水産学会誌 2008年 74巻 5号 p.841-848, {{doi|10.2331/suisan.74.841}}</ref>。餌は[[カイアシ類]]などの[[プランクトン]]を捕食して成長する。稚魚期に必要な海底の形質は砂利や砂で、海底が泥の場所では生育しない。全長約10 ミリメートル程度から砂浜海岸や河口域の浅所に集まるが、この頃から既に[[スイカ]]や[[キュウリ]]に似た香りがある。この独特の香りは、アユの体内の[[不飽和脂肪酸]]が酵素によって分解されたときの匂いであり、アユ体内の脂肪酸は餌飼料の影響を受けることから、育ち方によって香りが異なることになる。香り成分は主に2,6-ノナジエナールであり、[[2-ノネナール]]・3,6-ノナジエン-1-オールも関与している<ref>{{JGLOBAL ID|200902055531571712|魚類の匂いに関する研究‐I アユおよびその餌飼料の揮発性成分の同定}}, {{naid|130001545571}}</ref>。稚魚期には、プランクトンや小型水生昆虫、落下昆虫を捕食する。 === 遡上・成魚 === [[image:Plecoglossus_altivelis_altivelis_hami-ato1.jpg|thumb|200px|鮎の食み跡]] 体長59-63ミリメートルになると鱗が全身に形成され稚魚は翌年4月-5月頃に5-10センチメートル程度になり、川を遡上するが、この頃から体に色がつき、さらに歯の形が岩の上の[[藻類]]を食べるのに適した[[櫛]](くし)のような形に変化する。川の上流から中流域にたどり着いた幼魚は[[水生昆虫]]なども食べるが、石に付着する[[藍藻]]類および[[珪藻]]類([[バイオフィルム]])を主食とするようになる。アユが岩石表面の藻類をこそげ取ると岩の上に紡錘形の独特の食べ痕が残り、これを特に「はみあと(食み跡)」という。アユを川辺から観察すると、藻類を食べるためにしばしば岩石に頭をこすりつけるような動作を行うので他の魚と区別できる。 多くの若魚は群れをつくるが、特に体が大きくなった何割かの若魚はえさの藻類が多い場所を独占して[[縄張り]]を作るようになる。一般には、縄張りを持つようになったアユは黄色みを帯びることで知られている<!--{{sfn|高橋|東|2006|pp=4-17}}-->。特にヒレの縁や胸にできる黄色斑は縄張りをもつアユのシンボルとされている<!--{{sfn|高橋|東|2006|pp=4-17}}-->。アユの[[視覚]]は[[黄色]]を強く認識し、それによって各個体の争いを回避していると考えられている{{sfn|高橋|東|2006|pp=4-17}}{{efn2|ただし、これらは一般に流布している学説であって、{{harvtxt|高橋|東|2006}} では、縄張りをもたず群れで生活している天然アユにも黄色くなるものがいる例を上げて、最終的にはよくわかっていないとしている。}}。縄張りは1尾のアユにつき約1m四方ほどで、この縄張り内に入った他の個体には体当たりなどの激しい攻撃を加える。この性質を利用してアユを掛けるのが「[[友釣り]]」で、釣り人たちが10m近い釣竿を静かに構えてアユを釣る姿は日本の夏の[[風物詩]]になっている<ref>[http://www.city.gojo.lg.jp/www/contents/1146041721418/index.html 吉野川] 五條市</ref>。 [[夏]]頃、若魚では灰緑色だった体色が、秋に性成熟すると「さびあゆ」と呼ばれる橙と黒の独特の[[婚姻色]]へ変化する。成魚は[[産卵]]のため下流域への降河を開始するが、この行動を示すものを指して「落ちあゆ」という呼称もある。産卵を終えたアユは1年間の短い一生を終えるが、広島県[[太田川]]、静岡県[[柿田川]]などの一部の河川やダムの上流部では生き延びて[[越冬]]する個体もいる<ref>[http://www.cbr.mlit.go.jp/numazu/kanogawa/digital/data/contents/kano_37.html 柿田川] 国交省沼津河川国道事務所</ref>。太田川での調査結果からは、越年アユは全て雌である。また、再成熟しての産卵は行われないと考えられている<ref>[https://doi.org/10.2331/suisan.62.46 栄研二、海野徹也ほか、広島県太田川における越年アユの生物学的,生化学的性状] 日本水産学会誌 1996年 62巻 1号 p.46-50, {{doi|10.2331/suisan.62.46}}</ref>。 == 飼育 == {{要出典範囲|アユの観賞魚用としての飼育自体は稀である|date=2011年5月}}が、コアユ(陸封型)であれば可能である。また、遡上型のアユも稚アユの時期より育てれば可能である。高水温に弱いため夏場の温度管理が重要である。食性は主に植物性であるが、コアユの場合は動物性がより強いので、稀に[[動物プランクトン]]も食べる。また、観賞魚として水槽内で飼育した場合は成熟までに至らないケースが多いため、1年から3年は生きる。 == 日本におけるアユ == {{multiple image | align = right | direction = vertical | header = さまざまな鮎料理 | header_align = center | header_background = | footer = | footer_align = center | footer_background = | width = 300px | image1 = Charcoal broiled Ayu.JPG | width1 = | alt1 = | caption1 = [[塩焼き]] | image2 = Ayuikedukuri.jpg | width2 = | alt2 = | caption2 = [[活き造り]] | image3 = 鮎の背越し.jpg | width3 = | alt3 = | caption3 = 背越し([[#生食]]を参照) | image4 = Ayudeepfried.jpg | width4 = | alt4 = | caption4 = [[フライ (料理)|フライ]] | image5 = Ayu candied chestnuts.jpg | width5 = | alt5 = | caption5 = [[甘露煮]] }} 日本では代表的な[[川釣り]]の対象魚であり、重要な食用魚でもある。地方公共団体を象徴する魚として指定する自治体も多い。稚魚期を降海し過ごすアユ ({{snamei|Plecoglossus altivelis altivelis}}) は、琵琶湖産コアユと区別するため、海産アユとも呼ばれる。 [[群馬県]]・[[岐阜県]]・[[奈良県]]では県魚に指定されている。 江戸時代から評判の高い多摩川の鮎は幕府に「御用鮎」として上納されていた{{sfn |Setagaya100 |2020 |p=40}}。 === 食材 === 特に天然アユを中心に、出まわる時期が限られていることから、初夏の代表的な味覚とされている{{sfn|講談社|2004|p=70}}{{sfn|柴田書店|2007|pp=50-53}}。 日本各地のアユの胃の内容物に関する調査の結果、濁りが多い川のアユは胃に泥を多く持ち、食味にも泥臭さが出る。この場合、はらわたを除去することで泥臭さを避けることもできる。一方、泥が少ない川では胃にも泥が含まれず、食味も大幅に改善する。同じ川でも、遡上量が多く川底がアユによって「掃除」されたような年には風味も良くなる{{sfn|高橋|東|2006|pp=150f}}。 日本では一般に、魚は[[刺身]]で食するのが最良とされている([[日本料理#割主烹従|割主烹従]])が、アユについては例外的に[[焼き魚|塩焼き]]が最良とされている<!--{{sfn|講談社|2004|p=70}}-->。一般に初夏のものはアユの独特の香気を味わい、晩夏のものは腹子を味わうとされている{{sfn|講談社|2004|p=70}}。 ==== 焼き物・揚げ物 ==== アユは、初夏から夏の季節を代表する食材として知られ、清涼感をもたらす食材である。特に初夏の若アユが美味とされ、若アユの塩焼きや[[天ぷら]]は珍重される{{sfn|戸倉|2020}}。鮎は[[タデ|蓼酢]]で食べるのが一般的{{sfn|講談社|2004|p=70}}だが、ほかにも蓼味噌を添える場合もある{{sfn|柴田書店|2007|pp=50-53}}。塩焼きにした後に残った骨はさらに炙り、[[熱燗]]の[[日本酒]]を注ぐ[[骨酒]]とすることができる。 ==== 生食 ==== 刺身や[[洗い]]などの生食が行われることがある。アユは[[横川吸虫]]という[[寄生虫]]の中間宿主であり、[[食品安全委員会]]はこの観点から'''生食は薦められない'''としている<ref>{{PDFlink|[https://www.fsc.go.jp/sonota/hazard/H22_30.pdf 平成22年度食品安全確保総合調査「食品により媒介される感染症等に関する文献調査報告] 食品安全委員会}}</ref>。 刺身にするには、旬のアユを冷水で身を締め、洗いや背越しにする。特に背越しは骨の柔らかいアユの特徴的な調理方法で、ウロコや内臓を除去したのち、骨や皮ごと薄く輪切りにしたもので、清涼感のある見栄えや独特の歯ごたえを楽しむ。酢や蓼酢などで食することでもアユの香気を味わうことができる{{sfn|柴田書店|2007|pp=50-53}}{{sfn|講談社|2004|p=70}}。 [[酢]]や[[塩]]に浸け[[酢飯]]と合わせて[[発酵]]させる[[なれずし]]の「[[鮎鮨|鮎寿司]]」や、「姿寿司」、「押し寿司」、「[[柿の葉寿司]]」、「[[笹寿司]]」などを作る地方がある。[[JR]][[京都駅]]の名物[[駅弁]]ともなっている。 アユの腸を[[塩辛]]にした「[[うるか]]」は、珍味として喜ばれる<ref> 「飲食事典」本山荻舟 平凡社 p17 昭和33年12月25日発行</ref>。うるかを作るには、{{要出典範囲|腹に砂が入っていない(空腹になっている)夜間・朝獲れの鮎が好しとされる。|date=2011年5月}} ==== 煮物 ==== [[琵琶湖]]周辺などでは稚魚の氷魚の佃煮や、[[成魚]]の[[甘露煮]]([[小鮎の甘露煮]])も名物として製造販売されている。 ==== シラス ==== [[シラス (魚)|シラス]]漁においては、海で過ごしているアユ仔魚・稚魚が混獲されることがある。しかし、{{要出典範囲|この場合は独特の香りが製品につくのでむしろ嫌われる。|date=2011年5月}}また、アユの仔稚魚は茹でると黄色になる。 ==== アユ節 ==== 乾燥させた鮎節は[[和食]]の[[出汁]]としても珍重される。また、鮎の干物からとった「[[出汁|水出汁]]」は、極めて上品。 === 漁法 === [[ファイル:Yana.jpg|thumb|200px|right|簗が設置された河川]] アユの若魚は[[刺し網]]、[[投網]]、産卵期に川を下る成魚は[[梁 (漁具)|簗(やな)]]などで漁獲される。[[岐阜県]]の[[長良川]]などでは、[[ウミウ]]を利用した[[鵜飼い]]も知られる。 ==== 友釣り ==== アユにターゲットを絞った漁法として、アユが[[縄張り]]を持つ性質を利用した[[友釣り]]がある。 ==== 毛鉤釣り ==== 仔魚期から稚魚期の主要な餌は水生昆虫や水面落下昆虫であるため、[[毛針|毛鉤]]や[[サビキ]]仕掛けで釣れることもある。ただし、水産資源保護の観点から11月-5月は禁漁である。また、解禁された後も[[漁業権]]が設定された河川では、入漁料を支払う必要がある。 === 養殖 === アユは高級食材とされており、内水面で[[養殖業|養殖]]される魚種としては[[ウナギ]]に次ぐ生産高を誇る。養殖は、食用とするための成魚の養殖と、[[遊漁]]目的の放流用種苗稚魚の養殖とが日本各地で行われ、[[稚魚]]養殖し天然河川に放流した個体を『半天然』と呼ぶこともある<ref name=aquaculturesci1953.38.206 />。一部では[[完全養殖]]も行われる。この際には、主として、天然の稚魚を3月から4月に捕獲し淡水で育成する方法が採用される。実際、「河口付近の川で採捕した河川産稚アユ」「河口付近の海洋回遊中に採捕した海産稚アユ」「湖や湖に注ぐ河口で採捕した湖産稚アユ(コアユ)」が種苗として供給されている。完全養殖の場合、一時海水中で飼育することもあり、餌は[[シオミズツボワムシ]]などの[[ワムシ]]類、[[アルテミア]]幼生、[[ミジンコ]]などが使用される。 {| style="background:white; border:1px solid dimgray; color:darkgray" border="0" height="230" align="center" valign="bottom" cellpadding=10px cellspacing=0px |+ style="background:white; color:darkgray" | '''稚魚期の餌''' |- align="center" | [[File:Scenedesmus quadricanda EPA.jpg|200x100px|none]] | [[File:Habrotrocha rosa 1.jpg|200x100px|none]] | [[File:Nauplius larva of a cyclops copepod.jpg|200x100px|none]] | [[File:Cyclops.jpg|200x100px|none]] | [[File:Daphnia magna.png|200x100px|none]] |- align="center" valign="top" | '''[[植物プランクトン]]''' | '''[[ワムシ|ワムシ類]]''' | '''[[:en:crustacean larvae|甲殻類の幼生]]''' | '''[[カイアシ類]]''' | '''[[ミジンコ科|ミジンコ類]]''' |} ==== アユ養殖の歴史 ==== アユの養殖の始まりは諸説ある。養殖の実験は、[[石川千代松]]<ref>石川千代松、「鮎の話」 農学研究 14, 61-76, 1930-02-01, {{naid|120005232615}}</ref>らにより[[1904年]]より琵琶湖で行われたのが最初とされている<ref>[http://www.tk2.nmt.ne.jp/~czar/ama/yousyoku/rekisi.html アユ養殖の歴史]</ref>。1923年には琵琶湖産の稚魚が[[京都市]]の[[清滝川 (京都府)|清滝川]]に放流された<ref>下川耿史 『環境史年表 明治・大正編(1868-1926)』p361 河出書房新社 2003年11月30日刊 {{全国書誌番号|20522067}}</ref>。1960年代になると遊漁種苗の育成が盛んに行われるようになる。当初は琵琶湖産アユが養殖種苗として利用されていたが、海産の稚魚の利用も[[1929年]]に中野宗治の研究により開始された。なお、養殖アユの生産量は、最盛期の1988年には1万3600トンあまりあったが、2001年に8100トン、2005年には5800トン程度まで減少した<ref>{{PDFlink|[http://home.hiroshima-u.ac.jp/~yamao/taikai/kobetu/1-5.pdf アユ養殖業の現状と課題] [[広島大学]]生物生産学部 食料生産管理学研究室}}</ref>。 21世紀初頭には流水池での養殖池を行い脂肪分を減少させる事や、配合飼料に[[藍藻]]、[[緑茶]]抽出物<ref>河野迪子、古川清、提坂裕子 ほか、「ブリおよびアユ養殖飼料への緑茶抽出物および茶殻の添加効果」 日本食品科学工学会誌 Vol.47 (2000) No.12 P.932-937, {{doi|10.3136/nskkk.47.932}}</ref>を添加することで動物質飼料由来の香りを抑制するなど、養殖方法にも工夫が加えられ養殖ものの食味を天然物に近づける努力もなされている。さらに、電照飼育により性的成熟を遅らせ、「越年アユ」として販売される場合もある。 ==== 飼育方法・放流・生け簀 ==== アユについての[[漁業権]]のある河川では、毎年4-5月頃漁協により、10-15センチメートル程度のサイズの稚魚の放流が行われる。 アユの養殖時の飼育適温は摂氏15-25度であり、養殖用の[[生け簀]](池)は長方形、円形など様々な形状のものが利用される。餌は、かつては[[カイコ]]の[[蛹]]粉末や魚の[[練り餌]]が使用されたが、現在では[[魚粉]]や魚[[すり身]]を主成分とした固形配合飼料が与えられる。アユは短期間に成長させる必要がある。このため、常に飽食量に近い量が給餌される結果、残った餌により養殖池の水質が悪化し、感染症が発生し易くなるという問題が生じやすい。また密度管理も重要である。これは、感染症対策をとる必要があるばかりでなく、生育密度が高いと共食いが発生しやすいためでもある。 ==== 天然物と養殖物の違い ==== 天然物と養殖物の違いとしては主に以下のようなものがある<ref name=aquaculturesci1953.38.206>石田力三、「天然アユと養殖アユの体形と味」 水産増殖 Vol.38 (1990) No.2 P.206-207,{{doi|10.11233/aquaculturesci1953.38.206}}</ref>。 * 特有の香り ** 養殖魚にはない。 * 脂肪 ** 天然アユと養殖アユの比較では、養殖アユのほうが[[脂肪]]を約3倍多くもつ<!--{{sfn|講談社|2004|p=70}}-->。とはいえ、魚体自体は大きなものではないし、一般にはそう頻繁に食する魚ではないので、[[カロリー]]の観点では脂肪分の差は無視できるレベルである<!--{{sfn|講談社|2004|p=70}}-->。一方、脂肪が多いということは[[ビタミンD]]、[[ビタミンE]]といった脂溶性の栄養素をより多く含んでいることになる<!--{{sfn|講談社|2004|p=70}}-->。栄養摂取の観点からも内臓ごと食するとより多くの栄養を摂取することができる{{sfn|講談社|2004|p=70}}。 ==== ブランド ==== [[フルーツ魚]]のアユのブランド名として柑味鮎がある。主な生産地は、[[滋賀県]]、[[徳島県]]、[[和歌山県]]、[[愛知県]]、[[静岡県]]。 === アユの感染症 === 養殖において感染症が問題となる。例えば、グルゲア症が発生した場合、治療法がなく発病群の全個体を処分し池および関連器材を消毒しなければならない。 {|| class="wikitable" |+アユの主な病気と症状の一覧<ref>{{PDFlink|[http://www.fish-jfrca.jp/02/pdf/ayu_byouki.pdf アユの病気] 日本水産資源保護協会}}</ref><ref>[http://fish-exp.pref.shizuoka.jp/hamanako/3_f_ill/ayu.html 静岡県水産技術研究所 浜名湖分場] 魚病情報 アユの疾病</ref> ! rowspan="2" style="width:10%" |病名 ! rowspan="2" style="width:15%" |病原体 ! colspan="3" |特徴的な症状 |- !style="width:20%" |体表、鰭 !style="width:10%" |えら(鰓) !style="width:10%" | 内臓、筋肉 |- |[[冷水病]]||{{inline block|フラボバクテリウム・サイクロフィラム}}{{inline block|({{Snamei|en|Flavobacterium psychrophilum}})}}||体表や[[尾柄|尾柄部]]の[[びらん]]、[[潰瘍]]、下顎の出血||[[貧血]]||内臓の貧血 |- |ビブリオ病||{{snamei|en|Vibrio anguillarum}}||体表や[[鰭 (魚類)|鰭]]の基部、肛門周辺の出血、体幹部の褪色やスレ|| ||内臓・筋肉の出血 |- |[[細菌性鰓病]]||{{inline block|[[フラボバクテリウム属|フラボバクテリウム]]の一種}}{{inline block|({{snamei|Flavobacterium branchiophila}}) }}||鰓蓋が開いたまま||||[[えら|鰓]]の[[鬱血|うっ血]]、多量の粘液分泌、鰓弁の棍棒化 |- |シュードモナス病(細菌性出血性腹水症)||{{snamei|en|Pseudomonas plecoglossicida}}||下顎の発赤・出血、肛門の拡張||軽度の貧血|| |- |[[真菌性肉芽腫症]]||{{inline block|[[ミズカビ]]類の一種}}{{inline block|({{snamei|species|Aphanomyces piscicida}})}}||皮膚の剥離、潰瘍や[[肉芽腫]]の形成|| ||[[真菌]]の伸長による発赤 |- |ボケ病||不明||鰓蓋が開いたままになる||鰓弁の腫脹と棍棒化、鰓の褪色|| |- |[[ミズカビ病]]||ミズカビ類の[[サプロレグニア属]]のカビなど||カビの集落を形成後、表皮組織が崩壊|||| |- |グルゲア症||{{inline block|[[微胞子虫]]の一種}}{{inline block|({{snamei|Glugea plecoglossi}})}}||乳白色で球形のグルゲアシストが体の各部位に形成|||| |} === 放流用種苗に係わる問題 === 前述の様に、当初は琵琶湖産アユが養殖種苗として利用されていたが、海産の稚魚の利用もされているが、外部からの新規個体が導入されない環境で継代飼育されることが多く養殖場の環境に適応した個体のみが残ることとなり、飼育しやすい反面、単一の形質をもつ遺伝的な多様性に欠ける集団となる。その結果、環境ストレスに対する耐性(例:主たる捕食者の[[カワウ]]からの回避能力)を低下させると共に、継代人工種苗が親魚となった自然界での再生産のサイクルが良好に機能しない原因となっている可能性が指摘されている。しかし、遺伝的多様性を維持するために、養殖メスと野生オスを交配させ次世代の種苗とすることで遺伝的多様性の維持をはかることが可能である<ref name="77_3_356">[https://doi.org/10.2331/suisan.77.356 井口恵一朗、アユを絶やさないための生態研究] 日本水産学会誌 Vol.77 (2011) No.3 p.356-359, {{DOI|10.2331/suisan.77.356}}</ref>。 === 天然アユ復活への取り組み === 流域下水道の整備による水質浄化、かつて生息していた河川の清掃、直線化した河川構造の改造、産卵床の整備などを通した天然アユ復活の試みは日本国内各地(島根県<ref>{{PDFlink|[http://www.pref.shimane.lg.jp/suisan/ayuzukuri.data/ayusengen.pdf 鮎の川を復活させるために 「しまねの鮎づくり」宣言]}} 島根県内水面漁業協同組合連合会</ref>、[[多摩川]]<ref>[http://suigenren.jp/news/2015/05/30/7305/ 香味よみがえる「江戸前アユ」 多摩川での復活劇] 水源開発問題全国連絡会 2015年5月30日</ref><ref>[http://www.ifarc.metro.tokyo.jp/27,929,55,225.html アユ] 東京都島しょ農林水産総合センター</ref>)で行われている。例えば[[神戸市]][[灘区]][[都賀川]]は、かつてゴミとヘドロで埋め尽くされた「どぶ川」だった。「都賀川を守ろう会」が、1976年より、戦前のように魚とりなどができるようにと活動を続け、ゴミを引き上げたり、車に拡声器を積み川を汚さないようにと訴えてきた。陳情を受けた[[兵庫県]]も[[魚道]]の整備、産卵用の砂を敷き、川を蛇行させて流れを緩やかにした。その結果、毎年2000匹ほどが遡上し、産卵も行われるようになった<ref>{{PDFlink|[https://web.pref.hyogo.lg.jp/ko05/documents/000018549.pdf 都賀川と「都賀川を守ろう会」] 兵庫県}}</ref><ref>[http://www.city.kobe.lg.jp/information/press/2013/05/20130501210901.html 都賀川 鮎の稚魚の放流] 神戸市</ref>。 === 文学 === 鮎は三夏の[[季語]]。鮎の子・[[若鮎]]は晩春の季語<ref>{{Cite book |和書 |year=2006 |title=角川俳句大歳時記 春 |publisher=[[角川学芸出版]] |page=443 |isbn=4-04-621031-1 }}</ref>。 === 命名 === [[和菓子]]の一種に、鮎を形取って[[小麦粉]]を焼いて作った[[皮]]で[[求肥]]をはさんだものがあり、「鮎」または「[[若鮎]]」と呼ばれる。 == 参考画像 == <gallery> Ayu.JPG|アユを模した和菓子の「鮎」 Plecoglossus altivelis altivelis 稚鮎.jpg|飼育される稚魚 Plecoglossus altivelis altivelis 釣れた稚鮎.jpg|釣れた稚鮎 Plecoglossus altivelis-01.jpg|販売される養殖アユ </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2|45em}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 参考文献 == {{small|アスタリスク(*)を付した文献は孫引きである。}} * {{cite book|和書|date=1988-09|author=フリーランス雑学ライターズ<!--編著-->|title=あて字のおもしろ雑学 — 意外な驚き・知的な楽しさ|publisher=[[永岡書店]]|isbn=4-522-01160-1|ref=harv}} * {{cite book|和書|date=2004-05|title=夏の魚|editor=<!--講談社-->|publisher=[[講談社]]|series=旬の食材|isbn=4-06-270132-4|ref={{sfnref|講談社|2004}}}} * {{cite journal|date=2005-06|first1=Xiujuan|last1=Shan|first2=Yunfei|last2=Wu|first3=Bin|last3=Kang|title=Morphological comparison between Chinese Ayu and Japanese Ayu and establishment of ''Plecoglossus altivelis chinensis'' Wu & Shan subsp. nov|journal=Journal of Ocean University of China|volume=4|issue=1|pages=61-66|doi=10.1007/s11802-005-0025-3|ref={{sfnref|Xiujuan, et al.|2005}}}}* * {{cite book|和書|date=2006-02|last1=高橋|first1=勇夫|last2=東|first2=健作|title=ここまでわかった アユの本 — 変化する川と鮎、天然アユはどこにいる?|publisher=[[築地書館]]|isbn=4-8067-1323-6|ref=harv}} * {{cite journal|和書|date=2006-03|last1=井口|first1=恵一朗|last2=武島|first2=弘彦|title=アユ個体群の構造解析における進展とその今日的意義|journal=水産総合研究センター研究報告|publisher=[[水産総合研究センター]]|volume=別冊|issue=5|pages=187-195|naid=220000102382|ref=harv}} * {{cite book|和書|date=2007-08|title=刺身百科|editor=<!--柴田書店-->|publisher=[[柴田書店]]|isbn=978-4-388-06020-7|ref={{sfnref|柴田書店|2007}}}} * {{cite book|和書|date=2009-10-20|last=谷口|first=順彦|last2=池田|first2=実|title=アユ学|publisher=築地書館|isbn=978-4-8067-1385-2|ref=harv}} * {{cite journal|和書|last=井村|first=博宣|title=滋賀県におけるアユの種苗全国供給と養殖業の地域的展開|journal=地域漁業研究|publisher=地域漁業学会|date=2013-08-01|doi=10.34510/jrfs.53.3_25|pages=25-45|ref=harv}} *{{cite web|date=2020-05-18|last=戸倉|first=恒信|title={{lang|zh-tw|鹽烤香魚與琵琶湖}}|website={{lang|zh-tw|[[自由時報]]}}|publisher=<!--自由時報-->|url=https://ec.ltn.com.tw/article/breakingnews/3168800|accessdate=2020-12-03|ref=harv|year=2020}} {{参照方法|date=2013年3月}} * {{cite book|和書|title=日本の海水魚|editor=岡村収、[[尼岡邦夫]]<!--編・監修-->|publisher=[[山と溪谷社]]|series=山渓カラー名鑑|isbn=4-635-09027-2}}<!--版不明--> * {{cite book|和書|date=2001-08|title=日本の淡水魚|editor=[[川那部浩哉]]、水野信彦、細谷和海<!--編・監修-->|publisher=[[山と溪谷社]]|series=山渓カラー名鑑|edition=改訂版|isbn=4-635-09021-3|ref={{sfnref|川那ら|2001}}}} * {{Cite book|和書 | author= | title= 写真が語る 世田谷区の100年 | year=2020 | date=2020-1-31 | publisher=いき出版 |isbn = 978-4-86672-044-9 |ref={{sfnref |Setagaya100 |2020 }} }} == 関連項目 == {{Wikispecies|Plecoglossus altivelis}} {{Commonscat|Plecoglossus altivelis}} * [[鵜飼い]]・[[友釣り]]・[[梁 (漁具)|簗]] * [[宇川のアユ]] - 戦後に京都大学によって生態調査が行われた京都府京丹後市の[[宇川]]における鮎。 * [[石川千代松]] - 戦前の動物学者。コアユとアユが同じ種類であることを突き止めた。 * [[ドラガン・ストイコビッチ]] - 元サッカー選手。アユが好物で、それに関するエピソードが豊富にある。 * [[魚の一覧]] * [[冷水病]] * [[放流]] - [[遺伝子汚染]] * あゆコロちゃん - [[神奈川県]][[厚木市]]のゆるキャラ。 == 外部リンク == * [https://www.bimikyushin.com/chapter_8/ref_08/ayu.html 鮎] 美味求真 * [http://www.agri-kanagawa.jp/naisui/n_ayu.asp あゆ] 神奈川県水産総合研究所内水面試験場 * [http://www.pref.nagano.lg.jp/xnousei/suishi/sakana/ayu.htm アユ]長野県水産試験場 * [http://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kankyo/ayu/index.html アユの遡上前線] [[国土交通省]]河川局 * 川之辺素一、沢本良宏、山本聡、[https://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2010712314 千曲川におけるアユの放流効果と冷水病の関係] 長野県水産試験場研究報告 2005年3月 7号, p.10-15 ------ * [[環境省]] ** {{PDFlink|[https://www.env.go.jp/council/09water/y0910-10/ref01.pdf アユ・ワカサギに関する生態について] 環境省}} * [http://www.biodic.go.jp/rdb_fts/2000/71-103.html 絶滅危惧種情報(動物) リュウキュウアユ] [[環境省]] 生物多様性センター * [https://doi.org/10.11369/jji1950.9.135 本間義治、田村栄光:ビワ湖産コアユの生殖腺における週年変化] 魚類学雑誌 1962年 9巻 1-6号 p.135-152, {{doi|10.11369/jji1950.9.135}} {{食肉}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あゆ}} [[Category:キュウリウオ目]] [[Category:淡水魚]] [[Category:白身魚]] [[Category:食用川魚]] [[Category:釣りの対象魚]] [[Category:群馬県の象徴]] [[Category:岐阜県の象徴]] [[Category:奈良県の象徴]] [[Category:プライドフィッシュ]] [[Category:Data deficient]] [[Category:日本の淡水魚]] [[Category:朝鮮の魚]] [[Category:1846年に記載された魚類]]
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内積
線型代数学における内積(ないせき、英: inner product)は、(実または複素)ベクトル空間上で定義される非退化かつ正定値のエルミート半双線型形式(実係数の場合には対称双線型形式)のことである。二つのベクトルに対してある数(スカラー)を定める二項演算であるためスカラー積(スカラーせき、英: scalar product)ともいう。内積を備えるベクトル空間は内積空間と呼ばれ、内積の定める計量を持つ幾何学的な空間とみなされる。エルミート半双線型形式の意味での内積はしばしば、エルミート内積またはユニタリ内積と呼ばれる。 複素数体 C 上のベクトル空間 V 上で定義された二変数の写像 ⟨,⟩: V × V → C が内積あるいはエルミート内積であるとは、x, y, z ∈ V および λ ∈ C を任意として を満たすことを言う(ここで上付きのバー • は複素共役を表す)。すなわち、複素ベクトル空間上の内積は非退化正定値のエルミート形式である。 実ベクトル空間の場合も同様で、実ベクトル空間 V 上の二変数の写像 ⟨,⟩: V × V → R が内積であるとは、それが非退化正定値の対称双線型形式であるときに言う。 場合によっては、非負の「半定値」半双線型形式を考える必要があることがある。つまり、⟨x, x⟩ は非負であることのみが要求され、非退化でないものも考えるということである(後述)。 エルミート対称性に注意すれば、任意の x に対して ゆえ、これは実数値である。さらに半双線型性により が成り立つ。 線型性により、「x = 0 ならば ⟨x, x⟩ = 0」が成り立ち、また非退化性はその逆「⟨x, x⟩ = 0 ならば x = 0」を言うものであるから、これらを合わせて、⟨x, x⟩ = 0 ⇔ x = 0 を得る。 内積の半双線型性を用いれば、平方展開 が成り立ち、特に係数体が R の場合には内積は対称だから、 を得る。また線型性においてスカラーについて特に考えないとき が成り立つが、これは分配性あるいは加法性(双加法性)とも呼ばれる。 様々な空間に複数通りの内積が定義できる。一覧表で概要を、各節で詳細を説明する。 一つのベクトル空間に定義される内積は 一つとは限らない。また、ある内積 ⟨⋅, ⋅⟩ に対して と定めると、1 つのノルム ‖ ⋅ ‖ が定義できる。これを内積が誘導するノルムまたは内積が定めるノルムと呼ぶ。ノルムは与えられた内積ではかった "ベクトルの大きさ" であり、 とおくことで、二つのベクトルのなす角が定められる。この意味で内積はベクトル空間に計量 (metric) を定めるという。 このように定義されたノルムは必ず中線定理 を満たすという意味で、この等式は幾何学的な性質を示すものと捉えられる。逆に与えられたノルムが内積から誘導されるものであるならば、(実数体 R 上の内積空間のとき) または(複素数体 C 上の内積空間のとき) で定められる函数 ⟨⋅, ⋅⟩ は内積の性質を満たし、所期の通り与えられたノルムはこの内積から誘導される。この関係式を分極恒等式または偏極恒等式という。 このように、内積はベクトル空間の代数的な性質と幾何的な性質の橋渡しをするものである。詳細については計量ベクトル空間の項を参照されたい。 内積の公理を適当に弱めることにより、内積を一般化する概念を考えることができる。 内積と最も関連性の高い一般化は、双線型性や共軛対称性はそのままに、正定値性に関する要請を弱めるものである。ベクトル空間 V とその上の半正定値半双線型形式 ⟨,⟩ に対して、写像 は意味を持ち、‖ x ‖ = 0 が x = 0 を導かないこと以外はノルムの性質をすべて満足する(このような汎函数は半ノルムと呼ばれる)。商線型空間 W = V/{x : ‖ x ‖ = 0} を考えると、半双線型形式 ⟨,⟩ は W 上の内積を誘導する。 このような内積空間の構成法は様々な場面で用いられ、特に重要な例はゲルファント=ナイマルク=シーガル構成法である。ほかにも任意の集合上の半正定値核函数(英語版)の表現などが例に挙げられる。 別な方向での一般化は、(正定値性を落として)対付ける写像が単に非退化双線型形式であるようにするものである。これは各非零元 x は適当な y を取って ⟨x, y⟩ ≠ 0 とすることが(y = x でなくてもいいから)できるということであり、即ち双対空間に引き起こされる写像 V → V* が単射ということである。この一般化は微分幾何学で重要である。リーマン多様体は各接空間が内積を持つ多様体であるが、これを弱めて非退化共軛対称形式を持つ場合を考えたものは擬リーマン多様体である。シルベスターの慣性法則によれば、任意の内積がベクトルの集合上の正値荷重を持つ点乗積に相似であるのと同様に、任意の非退化共軛対称形式はベクトルの集合上の非零荷重を持つ点乗積に相似になり、またこのとき正および負の荷重の個数はそれぞれ正および負の指数と呼ばれる。ミンコフスキー空間におけるベクトルの積は「不定値内積」の例だが、技術的な言い方をすれば、これは上で述べた標準的な定義に従う「内積」ではない。ミンコフスキー空間は実四次元で、各符号 (±) の指数は 3 および 1 (符号数 (3,1)})である。 (正定値性に触れない)純代数的な主張はふつう非退化性(単射準同型 V → V*) のみに依存して決まり、ゆえにより一般の状況においても成立する。 「内積」(inner) という語は「外積」(outer) の反対という意味での名称だが、外積は(きっちり反対というよりは)もう少し広い状況で考えることができる。簡単のため座標をとって、内積を 1×n 「余」ベクトルと n×1 ベクトルとの積と見るとき、これは 1×1 行列(つまりスカラー)を与えるが、外積は m×1 ベクトルと 1×n 余ベクトルを掛けて m×n 行列が得られる。ここで注意すべきは、内積は同じ次元のベクトルと余ベクトルとの積でないといけないが、外積は相異なる次元の余ベクトルとベクトルを掛けることができる点である。次元が同じである場合、内積は外積のトレースに一致する(トレースがとれるのは正方行列だけなので、次元が異なる場合は考察できない)。 内積あるいはより一般に不定値内積を持つ(従って同型 V → V* を持つ)ベクトル空間上では、ベクトルを余ベクトルにすることができる(座標をとって考えるならば、転置をとることに相当する)から、内積および外積は単純にベクトルと余ベクトルとの積ではなくて、ベクトル同士の積として捉えることができる。より抽象的に述べれば、外積はベクトルと余ベクトルとの対を階数 1 の線型写像へ写す双線型写像 W × V* → Hom(V,W)(すなわち (1,1)-型単純テンソル(英語版))であり、内積は余ベクトルのベクトルにおける値を評価する双線型な評価写像 V* × V → F である。ここで、各写像の定義域において直積をとる順番は、余ベクトルとベクトルとの区別を反映していることに注意。 上記の内積と外積に対して、混同するべきではないがよく似た積として内部積(英語版) (interior) と外(部)積 (exterior) というのが、ベクトル場や微分形式に対する、あるいはより一般に外積代数における演算として定義される。さらにややこしいことに、幾何代数(英語版)において、内積 (inner) と(グラスマン)外積 (exterior) は幾何積(クリフォード線型環におけるクリフォード積)に統合される(内積は二つのベクトル (1-階ベクトル) をスカラー (0-階ベクトル) へ写し、外積は二つのベクトルを二重ベクトル (2-階ベクトル) へ写す)。そしてこの文脈においてグラスマン積はふつうは「外積」(outer)(あるいはウェッジ積)と呼ばれ、またこの文脈での内積は(考える二次形式が必ずしも正定値であることを要求されないという意味では「内積」でないので)スカラー積と呼ぶのが形式上はより適切である。
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"title": "一般化" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "(正定値性に触れない)純代数的な主張はふつう非退化性(単射準同型 V → V*) のみに依存して決まり、ゆえにより一般の状況においても成立する。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "「内積」(inner) という語は「外積」(outer) の反対という意味での名称だが、外積は(きっちり反対というよりは)もう少し広い状況で考えることができる。簡単のため座標をとって、内積を 1×n 「余」ベクトルと n×1 ベクトルとの積と見るとき、これは 1×1 行列(つまりスカラー)を与えるが、外積は m×1 ベクトルと 1×n 余ベクトルを掛けて m×n 行列が得られる。ここで注意すべきは、内積は同じ次元のベクトルと余ベクトルとの積でないといけないが、外積は相異なる次元の余ベクトルとベクトルを掛けることができる点である。次元が同じである場合、内積は外積のトレースに一致する(トレースがとれるのは正方行列だけなので、次元が異なる場合は考察できない)。", "title": "関連のある積について" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "内積あるいはより一般に不定値内積を持つ(従って同型 V → V* を持つ)ベクトル空間上では、ベクトルを余ベクトルにすることができる(座標をとって考えるならば、転置をとることに相当する)から、内積および外積は単純にベクトルと余ベクトルとの積ではなくて、ベクトル同士の積として捉えることができる。より抽象的に述べれば、外積はベクトルと余ベクトルとの対を階数 1 の線型写像へ写す双線型写像 W × V* → Hom(V,W)(すなわち (1,1)-型単純テンソル(英語版))であり、内積は余ベクトルのベクトルにおける値を評価する双線型な評価写像 V* × V → F である。ここで、各写像の定義域において直積をとる順番は、余ベクトルとベクトルとの区別を反映していることに注意。", "title": "関連のある積について" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "上記の内積と外積に対して、混同するべきではないがよく似た積として内部積(英語版) (interior) と外(部)積 (exterior) というのが、ベクトル場や微分形式に対する、あるいはより一般に外積代数における演算として定義される。さらにややこしいことに、幾何代数(英語版)において、内積 (inner) と(グラスマン)外積 (exterior) は幾何積(クリフォード線型環におけるクリフォード積)に統合される(内積は二つのベクトル (1-階ベクトル) をスカラー (0-階ベクトル) へ写し、外積は二つのベクトルを二重ベクトル (2-階ベクトル) へ写す)。そしてこの文脈においてグラスマン積はふつうは「外積」(outer)(あるいはウェッジ積)と呼ばれ、またこの文脈での内積は(考える二次形式が必ずしも正定値であることを要求されないという意味では「内積」でないので)スカラー積と呼ぶのが形式上はより適切である。", "title": "関連のある積について" } ]
線型代数学における内積は、(実または複素)ベクトル空間上で定義される非退化かつ正定値のエルミート半双線型形式(実係数の場合には対称双線型形式)のことである。二つのベクトルに対してある数(スカラー)を定める二項演算であるためスカラー積ともいう。内積を備えるベクトル空間は内積空間と呼ばれ、内積の定める計量を持つ幾何学的な空間とみなされる。エルミート半双線型形式の意味での内積はしばしば、エルミート内積またはユニタリ内積と呼ばれる。
{{出典の明記|date=2014年2月}} [[線型代数学]]における'''内積'''(ないせき、{{lang-en-short|inner product}})は、([[実数|実]]または[[複素数|複素]])[[ベクトル空間]]上で[[定義]]される[[非退化]]かつ[[正定値二次形式|正定値]]の[[エルミート半双線型形式]](実係数の場合には[[対称双線型形式]])のことである。二つの[[ベクトル空間|ベクトル]]に対してある数([[スカラー (数学)|スカラー]])を定める[[二項演算]]であるため'''スカラー積'''(スカラーせき、{{lang-en-short|scalar product}})ともいう。内積を備えるベクトル空間は[[内積空間]]と呼ばれ、内積の定める[[距離函数|計量]]を持つ[[幾何学]]的な空間とみなされる。エルミート半双線型形式の意味での内積はしばしば、'''エルミート内積'''または'''ユニタリ内積'''と呼ばれる。 == 定義 == {{See also|半双線型形式}} [[複素数]]体 {{mathbf|ℂ}} 上の[[ベクトル空間]] {{mvar|V}} 上で定義された二変数の写像 {{math|{{angbr|,}}: ''V'' &times; ''V'' &rarr; '''ℂ'''}} が内積あるいは'''エルミート内積'''であるとは、{{math|''x'', ''y'', ''z'' &isin; ''V''}} および {{math|''λ'' &isin; '''ℂ'''}} を任意として * 第一変数に関する[[線型写像|線型性]]: {{math|1={{angbr|''λx'' + ''y'', ''z''}} = ''λ''{{angbr|''x, z''}} + {{angbr|''y, z''}}}}; * 第二変数に関する{{ill2|反線型写像|label=共軛線型性|en|antilinear map}}: {{math|1={{angbr|''x'', ''λy'' + ''z''}} = {{overline|''λ''}}{{angbr|''x, y''}} + {{angbr|''x, z''}}}}; * エルミート対称性: {{math|1={{angbr|''x, y''}} = {{overline|{{angbr|''y, x''}}}}}}; * [[退化双線型形式|非退化性]]: {{mvar|V}} の元 {{mvar|x}} に対して {{math|1={{angbr|''x, x''}} = 0}} ならば {{math|1=''x'' = 0}}; * [[定符号二次形式|半正定値性]]: {{mvar|V}} の任意の元 {{mvar|x}} に対して {{math|{{angbr|''x, x''}} &ge; 0}} を満たすことを言う(ここで上付きのバー {{math|{{overline|&bull;}}}} は複素共役を表す)。すなわち、複素ベクトル空間上の内積は非退化正定値の[[エルミート形式]]である{{efn|エルミート対称性のもと、第一変数に関する線型性は第二変数に関する共軛線型性から出る。同様に、第二変数に関する共軛線型性は第一変数の線型性から出る。}}。 実ベクトル空間の場合も同様で、実ベクトル空間 {{mvar|V}} 上の二変数の写像 {{math|{{angbr|,}}: ''V'' × ''V'' → '''ℝ'''}} が'''内積'''であるとは、それが非退化正定値の[[対称双線型形式]]であるときに言う{{efn|'''注意''' 文献によっては、エルミート内積および[[半双線型形式]]は第二引数に関して線型、従って第一引数に関して共軛線型とするもの(特に[[物理学]]や[[行列環]]に関するもの)と、それとは逆に第一引数に関して線型、第二引数に関して共軛線型とするものがある。前者の分野においては、上記の内積 {{math|{{angbr|''x, y''}}}} を([[量子力学]]における[[ブラケット記法]]で){{math|{{bra-ket|''y'' | ''x''}}}} と書いたり、([[点乗積]]を[[行ベクトル]] {{mvar|A}} と[[列ベクトル]] {{mvar|B}} との[[行列の積]] {{mvar|AB}} と見て){{math|''y''{{sup|&dagger;}}''x''}} などと書くことも多い。ここでは、ケットベクトルと列ベクトルはベクトル空間 {{math|''V''}} に属するベクトルと同一視され、ブラベクトルと行ベクトルは[[双対空間]] {{mvar|V*}} に属する[[双対ベクトル]](つまり[[線型汎函数]])と同一視され、複素共軛は双対性と関連付けられる。また現在ではより抽象的な文脈においてもこの {{math|{{angbr|''x, y''}}}} が({{mvar|y}} に関してではなく){{mvar|x}} に関して共軛線型とする定義を採用するものが時折みられる<ref>{{cite book|last=Emch|first=Gerard G.|title=Algebraic methods in statistical mechanics and quantum field theory|year=1972|publisher=[[Wiley-Interscience]]|location=New York|isbn=978-0-471-23900-0}}</ref>。また、いくつかの文献で妥協点として {{math|{{angbr| , }}}} と {{math|{{bra-ket| | }}}} を両方使い、それぞれどちらの引数に関して共軛線型なのかを区別するものとして扱うものがある。}}。 場合によっては、非負の「半定値」半双線型形式を考える必要があることがある。つまり、{{math|{{angbr|''x, x''}}}} は非負であることのみが要求され、非退化でないものも考えるということである([[#一般化|後述]])。 == 基本性質 == エルミート対称性に注意すれば、任意の {{mvar|x}} に対して <math display="block">\langle x,x \rangle = \overline{\langle x,x \rangle}</math> ゆえ、これは実数値である。さらに半双線型性により <math display="block">\langle -x,x \rangle= -1\langle x,x\rangle = \overline{-1}\langle x,x\rangle = \langle x,-x\rangle</math> が成り立つ。 線型性により、「{{math|''x'' {{=}} 0}} ならば {{math|{{angbr|''x, x''}} {{=}} 0}}」が成り立ち、また非退化性はその逆「{{math|{{angbr|''x, x''}} {{=}} 0}} ならば {{math|''x'' {{=}} 0}}」を言うものであるから、これらを合わせて、{{math|{{angbr|''x, x''}} {{=}} 0 ⇔ ''x'' {{=}} 0}} を得る。 内積の半双線型性を用いれば、平方展開 <math display="block">\langle x + y,x + y\rangle = \langle x,x\rangle + \langle x,y\rangle + \langle y,x\rangle + \langle y,y\rangle = \langle x,x\rangle + 2\Re\langle x,y\rangle + \langle y,y\rangle</math> が成り立ち、特に係数体が {{mathbf|ℝ}} の場合には内積は対称だから、<math display="block">\langle x \pm y,x \pm y\rangle =\langle x,x\rangle \pm 2\langle x,y\rangle + \langle y,y\rangle</math> を得る。また線型性においてスカラーについて特に考えないとき <math display="block">\begin{align} \langle x+y,z\rangle &= \langle x,z\rangle+ \langle y,z\rangle,\\ \langle x,y+z\rangle &= \langle x,y\rangle + \langle x,z\rangle \end{align}</math> が成り立つが、これは[[分配法則|分配性]]あるいは[[加法的写像|加法性]](双加法性)とも呼ばれる。 == 例 == 様々な空間に複数通りの内積が定義できる。一覧表で概要を、各節で詳細を説明する。 {| class="wikitable floatright" |+具体的な内積 !ベクトル空間 !内積関数 !notes |- | rowspan="2" |{{math|'''ℝ'''{{sup|''n''}}}} |<math>\boldsymbol{x}^{\top}\boldsymbol{y} = \sum_{i=1}^{n} x_iy_i</math> |別名: 標準内積 |- |<math>\boldsymbol{x}^{\top}A \boldsymbol{y}</math> |{{Mvar|A}} は正定値対称行列 <math>\langle x,y \rangle_A</math> とも表記 |- | rowspan="2" |{{math|'''ℂ'''{{sup|''n''}}}} |<math>\bar{x}^{\top} y = \sum_{i=1}^{n} \bar{x}_i y_i</math> | |- |<math>\bar{x}^{\top}Hy</math> |{{Mvar|H}} は正定値エルミート <math>\langle x,y \rangle_H</math> とも表記 |- |{{math|'''S'''{{sup|''n''&times;''n''}}}} |<math>\operatorname{Tr}(XY)</math> | |- |{{math|''L''{{sup|2}}(&Omega;)}} |<math>\int_{\Omega}f\bar{g}\,d\mu</math> | |} ; 実{{Mvar|n}}次元ベクトル空間 {{math|'''ℝ'''{{sup|''n''}}}} : 実 {{mvar|n}}-次元[[数ベクトル空間]] {{math|'''ℝ'''{{sup|''n''}}}} において、任意の二元 {{math|1=''x'' = (''x''{{sub|1}}, ''x''{{sub|2}}, …, ''x{{sub|n}}''), ''y'' = (''y''{{sub|1}}, ''y''{{sub|2}}, …, ''y{{sub|n}}'')}} に対し、<math display="block">\langle x,y \rangle := \sum_{i=1}^{n} x_iy_i</math> とすると、この {{math|{{angbr|,}}}} は([[定符号二次形式|正定値]]な)内積の性質を満たす。これを、{{math|'''ℝ'''{{sup|''n''}}}} の'''標準内積'''と呼ぶ。標準内積は {{math|'''ℝ'''{{sup|''n''}}}} を {{mvar|n}}行1列の[[行列 (数学)|行列]]と同一視することで、[[転置行列|転置]]{{math|⊤}}と行列積を用いて <math display="block">\langle x,y \rangle = x^{\top}y</math>と表わせる。また、{{mvar|n}} 次の([[定符号行列|正定値]])対称行列 {{mvar|A}} を用いて <math display="block">\langle x,y \rangle_A := x^{\top}Ay</math> とおくと、これも(正定値)内積の性質を満たす。 ; 複素{{Mvar|n}}次元ベクトル空間 {{math|'''ℂ'''{{sup|''n''}}}} : 複素 {{mvar|n}}-次元数ベクトル空間 {{math|'''ℂ'''{{sup|''n''}}}} において、任意の二元 {{math|1=''x'' = (''x''{{sub|1}}, ''x''{{sub|2}}, …, ''x{{sub|n}}''), ''y'' = (''y''{{sub|1}}, ''y''{{sub|2}}, …, ''y{{sub|n}}'')}} に対し、 <math display="block">\langle x,y \rangle := x^{\top}\bar{y} = \sum_{i=1}^{n} x_i \bar{y}_i</math> とすると、この {{math|{{angbr|,}}}} はエルミート内積の性質を満たす。また、{{mvar|n}} 次の(正定値)[[エルミート行列]] {{mvar|H}} を用いて <math display="block">\langle x,y \rangle_A := x^{\top}H\bar{y}</math> とおくと、これも(正定値)エルミート内積の性質を満たす。 ; 対称行列の空間 {{math|'''S'''{{sup|''n''&times;''n''}}}} : {{mvar|n}} 次[[対称行列]]の空間 {{math|'''S'''{{sup|''n''&times;''n''}}}} について、{{math|''X'', ''Y'' &isin; '''S'''{{sup|''n''&times;''n''}}}} に対して <math display="block">\langle X,Y \rangle := \operatorname{Tr}(XY)</math> と取ると、これは内積を与える。 ; L<sup>2</sup>空間 {{math|''L''{{sup|2}}(&Omega;)}} : {{math|&Omega;}} をユークリッド空間の開集合とする。{{math|&Omega;}} 上の二乗可積分な関数全体の成す集合を関数が[[ほとんど (数学)|ほとんど至る所]]等しい([[測度論|測度]]零の集合上でとる値を除いて等しい)という[[同値関係]]で割って得られる[[ルベーグ空間]] {{math|''L''{{sup|2}}(&Omega;)}} には、二乗可積分関数 {{mvar|f, g}} について <math display="block">\langle f,g \rangle := \int_{\Omega}f(x)\overline{g(x)}\,dx</math> と置いて、エルミート内積が定まる。より一般に、{{math|(&Omega;, ''F'', ''&mu;'')}} を[[測度空間]]とすると、{{math|''L''{{sup|2}}(&Omega;, &mu;)}} の二元 {{mvar|f, g}} について <math display="block">\langle f,g \rangle := \int_{\Omega}f\bar{g}\,d\mu</math> と置いたものはエルミート内積の性質を満たす。 == 内積の幾何学性 == 一つのベクトル空間に定義される内積は 一つとは限らない。また、ある内積 {{math|{{angbr|&sdot;, &sdot;}}}} に対して <math display="block">\lVert x\rVert := \sqrt{\langle x, x\rangle}</math> と定めると、1 つの[[ノルム]] {{math|{{norm|&sdot;}}}} が定義できる。これを'''内積が誘導するノルム'''または'''内積が定めるノルム'''と呼ぶ。ノルムは与えられた内積ではかった "ベクトルの大きさ" であり、<math display="block">\cos\theta = \frac{\langle a, b\rangle}{\lVert a\rVert\lVert b\rVert}</math> とおくことで、二つの[[ベクトルのなす角]]が定められる。この意味で内積はベクトル空間に[[距離函数|計量]] (metric) を定めるという。 このように定義されたノルムは必ず'''[[中線定理]]''' <math display="block">\lVert x+y\rVert^2 +\lVert x-y\rVert^2= 2(\lVert x\rVert^2 +\lVert y\rVert^2)</math> を満たすという意味で、この等式は幾何学的な性質を示すものと捉えられる。逆に与えられたノルムが内積から誘導されるものであるならば、(実数体 {{mathbf|ℝ}} 上の内積空間のとき)<math display="block">\langle x, y\rangle :=\frac{1}{4}(\lVert x+y\rVert^2 -\lVert x-y\rVert^2)\qquad (\forall x, y)</math> または(複素数体 {{mathbf|ℂ}} 上の内積空間のとき)<math display="block">\langle x, y\rangle :=\frac{1}{4}((\lVert x+y\rVert^2 -\lVert x-y\rVert^2) + i(\lVert x+iy\rVert^2 - \lVert x-iy\rVert^2))\qquad (i=\sqrt{-1},\, \forall x,y)</math> で定められる函数 {{math|{{angbr|&sdot;, &sdot;}}}} は内積の性質を満たし、所期の通り与えられたノルムはこの内積から誘導される。この関係式を'''[[極化恒等式|分極恒等式]]'''または'''偏極恒等式'''という。 このように、内積はベクトル空間の[[代数学|代数的な性質]]と[[幾何学|幾何的な性質]]の橋渡しをするものである。詳細については'''[[計量ベクトル空間]]'''の項を参照されたい。 == 一般化 == 内積の公理を適当に弱めることにより、内積を一般化する概念を考えることができる。 === 退化内積(半内積) === 内積と最も関連性の高い一般化は、双線型性や共軛対称性はそのままに、正定値性に関する要請を弱めるものである。ベクトル空間 {{mvar|V}} とその上の半正定値[[半双線型形式]] {{math|{{angbr|,}}}} に対して、写像 <math display="block">\lVert x\rVert = \sqrt{\langle x, x\rangle}</math> は意味を持ち、{{math|{{norm|''x''}} {{=}} 0}} が {{math|''x'' {{=}} 0}} を導かないこと以外はノルムの性質をすべて満足する(このような汎函数は[[半ノルム]]と呼ばれる)。[[商線型空間]] {{math|''W'' {{=}} ''V''/{{mset|''x'' : {{norm|''x''}} {{=}} 0}}}} を考えると、半双線型形式 {{math|{{angbr|,}}}} は {{mvar|W}} 上の内積を誘導する。 このような内積空間の構成法は様々な場面で用いられ、特に重要な例は[[ゲルファント=ナイマルク=シーガル構成法]]である。ほかにも任意の集合上の{{仮リンク|マーサーの定理|en|Mercer's theorem|label=半正定値核函数}}の表現などが例に挙げられる。 === 非退化共軛対称形式(不定値内積) === {{Main|{{仮リンク|擬ユークリッド空間|en|Pseudo-Euclidean space}}}} 別な方向での一般化は、(正定値性を落として)対付ける写像が単に[[非退化双線型形式]]であるようにするものである。これは各非零元 {{mvar|x}} は適当な {{mvar|y}} を取って {{math|{{angbr|''x, y''}} &ne; 0}} とすることが({{mvar|y {{=}} x}} でなくてもいいから)できるということであり、即ち[[双対空間]]に引き起こされる写像 {{mvar|V → V*}} が単射ということである。この一般化は[[微分幾何学]]で重要である。[[リーマン多様体]]は各接空間が内積を持つ多様体であるが、これを弱めて非退化共軛対称形式を持つ場合を考えたものは[[擬リーマン多様体]]である。[[シルベスターの慣性法則]]によれば、任意の内積がベクトルの集合上の正値荷重を持つ点乗積に相似であるのと同様に、任意の非退化共軛対称形式はベクトルの集合上の非零荷重を持つ点乗積に相似になり、またこのとき正および負の荷重の個数はそれぞれ正および負の指数と呼ばれる。[[ミンコフスキー空間]]におけるベクトルの積は「不定値内積」の例だが、技術的な言い方をすれば、これは上で述べた標準的な定義に従う「内積」ではない。ミンコフスキー空間は実[[四次元]]で、各符号 ({{math|&plusmn;}}) の指数は 3 および 1 ([[符号数]] {{math|(3,1)}}})である。 (正定値性に触れない)純代数的な主張はふつう非退化性(単射準同型 {{mvar|V → V*}}) のみに依存して決まり、ゆえにより一般の状況においても成立する。 == 関連のある積について == 「内積」(inner) という語は「[[直積 (ベクトル)|外積]]」(outer) の反対という意味での名称だが、外積は(きっちり反対というよりは)もう少し広い状況で考えることができる。簡単のため座標をとって、内積を {{math|1×''n''}} 「余」ベクトルと {{math|''n''×1}} ベクトルとの[[行列の積|積]]と見るとき、これは {{math|1×1}} 行列(つまりスカラー)を与えるが、外積は {{math|''m''×1}} ベクトルと {{math|1×''n''}} 余ベクトルを掛けて {{math|''m''×''n''}} 行列が得られる。ここで注意すべきは、内積は同じ次元のベクトルと余ベクトルとの積でないといけないが、外積は相異なる次元の余ベクトルとベクトルを掛けることができる点である。次元が同じである場合、内積は外積の[[蹟 (線型代数学)|トレース]]に一致する(トレースがとれるのは正方行列だけなので、次元が異なる場合は考察できない)。 内積あるいはより一般に[[非退化双線型形式|不定値内積]]を持つ(従って同型 {{mvar|V → V*}} を持つ)ベクトル空間上では、ベクトルを余ベクトルにすることができる(座標をとって考えるならば、転置をとることに相当する)から、内積および外積は単純にベクトルと余ベクトルとの積ではなくて、ベクトル同士の積として捉えることができる。より抽象的に述べれば、外積はベクトルと余ベクトルとの対を階数 {{math|1}} の線型写像へ写す双線型写像 {{math|''W'' &times; ''V*'' &rarr; Hom(''V'',''W'')}}(すなわち {{math|(1,1)}}-型{{仮リンク|単純テンソル|en|simple tensor}})であり、内積は余ベクトルのベクトルにおける値を評価する双線型な評価写像 {{math|''V*'' &times; ''V'' &rarr; ''F''}} である。ここで、各写像の定義域において直積をとる順番は、余ベクトルとベクトルとの区別を反映していることに注意。 上記の内積と外積に対して、混同するべきではないがよく似た積として{{仮リンク|内部積|en|interior product}} (interior) と[[外積代数|外(部)積]] (exterior) というのが、[[ベクトル場]]や[[微分形式]]に対する、あるいはより一般に[[外積代数]]における演算として定義される。さらにややこしいことに、{{仮リンク|幾何代数|en|geometric algebra}}において、内積 (inner) と[[グラスマン積|(グラスマン)外積]] (exterior) は幾何積([[クリフォード線型環]]におけるクリフォード積)に統合される(内積は二つのベクトル (1-階ベクトル) をスカラー (0-階ベクトル) へ写し、外積は二つのベクトルを二重ベクトル (2-階ベクトル) へ写す)。そしてこの文脈においてグラスマン積はふつうは「外積」(outer)(あるいは[[ウェッジ積]])と呼ばれ、またこの文脈での内積は(考える二次形式が必ずしも正定値であることを要求されないという意味では「内積」でないので)スカラー積と呼ぶのが形式上はより適切である。 == 関連項目 == * [[計量ベクトル空間]] * [[ベクトル空間の双対系]](双対性を表す内積) * [[直交関数列]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{reflist}} == 参考文献 == == 外部リンク == * {{Kotobank|内積}} * {{高校数学の美しい物語|2509|ベクトルの内積の性質と公式}} * {{高校数学の美しい物語|678|ベクトルの内積と外積の意味と嬉しさ}} * {{MathWorld|urlname=InnerProduct|title=Inner Product|author=Renze, John; Stover, Christopher; Weisstein, Eric W.}} * {{MathWorld|urlname=HermitianInnerProduct|title=Hermitian Inner Product|author=Rowland, Todd}} * {{PlanetMath|urlname=InnerProduct|title=inner product}} * {{ProofWiki|urlname=Definition:Inner_Product|title=Definition:Inner Product}} {{DEFAULTSORT:ないせき}} [[Category:位相線型空間]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:線型代数学]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E7%A9%8D
8,054
ベクトルのなす角
平面や空間上では、ふたつのベクトルのなす角は図形的に求めることができる。 そしてベクトルはさらに、図形とは無関係なベクトルに一般化されるが、この一般的なベクトルでも二つのベクトルのなす角を定義することができ、それにはベクトルの長さと内積を用いる。 任意の零でないベクトル x , y {\displaystyle {\boldsymbol {x}},{\boldsymbol {y}}} について、次の値がベクトルのなす角となる。 ⟨x, y⟩ は x, y の内積、||x|| は x のノルム(長さ)である。主値は 0 ≦ θ ≦ π とするのが普通である。 ベクトルのなす角が 0 の場合、二つのベクトルは一次従属すなわち方向が同じであり、π/2 の場合は直交する。 ベクトルのなす角 θ の余弦である次の値をベクトルの類似度として、以下を定義する。 この値は0から1の間の値を取るが、2つのベクトルx, yの向きが等しい(一次従属)ほど1に近づき、類似していることが分かる。 n個の要素をもつデータをn次のベクトル空間に落とし込み、それらがどれだけ類似しているかを比べるのにこの性質が利用されることがあり、特にコサイン類似度(英: Cosine similarity)と呼ばれる。 この類似度を高速に算出するアルゴリズムにMinHash(英語版)などがあり、文章間の類似度判定などに用いられる。
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平面や空間上では、ふたつのベクトルのなす角は図形的に求めることができる。 そしてベクトルはさらに、図形とは無関係なベクトルに一般化されるが、この一般的なベクトルでも二つのベクトルのなす角を定義することができ、それにはベクトルの長さと内積を用いる。
[[平面]]や[[空間]]上では、ふたつの[[幾何ベクトル|ベクトル]]のなす[[角度|角]]は[[図形]]的に求めることができる。 そしてベクトルはさらに、図形とは無関係なベクトルに一般化されるが、この一般的なベクトルでも二つの'''ベクトルのなす角'''を定義することができ、それにはベクトルの長さと内積を用いる。 ==定義と性質== 任意の[[零ベクトル|零]]でないベクトル <math>\boldsymbol{x},\boldsymbol{y}</math> について、次の値がベクトルのなす角となる。 :<math> \theta = \operatorname{Arccos} \frac{\langle \boldsymbol{x}, \boldsymbol{y} \rangle}{\lVert \boldsymbol{x} \rVert \lVert \boldsymbol{y} \rVert} </math> ⟨'''''x''''', '''''y'''''⟩ は '''''x''''', '''''y''''' の[[内積]]、||'''''x'''''|| は '''''x''''' の[[ノルム]](長さ)である。[[主値]]は 0 ≦ ''θ'' ≦ &pi; とするのが普通である。 ベクトルのなす角が 0 の場合、二つのベクトルは[[一次従属]]すなわち方向が同じであり、π/2 の場合は[[直交]]する。 ==類似度== ベクトルのなす角 ''θ'' の余弦である次の値をベクトルの'''類似度'''として、以下を定義する。 :<math> \cos \theta = \frac{\langle \boldsymbol{x}, \boldsymbol{y} \rangle}{\lVert \boldsymbol{x} \rVert \lVert \boldsymbol{y} \rVert} </math> この値は0から1の間の値を取るが、2つのベクトル'''''x''''', '''''y'''''の向きが等しい([[一次従属]])ほど1に近づき、類似していることが分かる。 n個の要素をもつデータをn次のベクトル空間に落とし込み、それらがどれだけ類似しているかを比べるのにこの性質が利用されることがあり、特に'''コサイン類似度'''({{lang-en-short|Cosine similarity}})と呼ばれる。 この類似度を高速に算出するアルゴリズムに{{仮リンク|MinHash|en|MinHash}}などがあり、文章間の類似度判定などに用いられる。 == 関連項目 == * [[ハミング距離]] * [[相関]] * [[情報検索]] {{DEFAULTSORT:へくとるのなすかく}} [[Category:線型代数学]] [[Category:幾何学]] [[Category:初等数学]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:角度]] [[Category:人工知能]]
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初台駅
初台駅(はつだいえき)は、東京都渋谷区初台一丁目にある、京王電鉄京王線(京王新線)の駅である。京王東管区所属。駅番号はKO02。 初代の駅名である「改正橋」は、線路付近の玉川上水に架かっていた橋にちなんでいる。現在、付近の玉川上水は暗渠化されているため、残されている改正橋の親柱・欄干はモニュメントである。 現在の駅名である「初台」は、改称当時の駅南側の地域の地名「渋谷区代々木初台町」からきている。 地名の由来は、代々木村に太田道灌が作った8か所の砦の内、一の砦(狼煙台)のあった場所から、初台と呼ばれるようになったといわれる。この地に江戸幕府二代将軍徳川秀忠の乳母であった土井昌勝の妻が、徳川家康関東転封直後の1591年(天正19年)にこの地に200石を拝領したことから、「初台局(はつだいのつぼね)」と名乗るようになった。初台局の娘で、三代将軍徳川家光の乳母の梅園局が母の菩提寺として「正春寺」を現在の渋谷区代々木三丁目、当時の代々木村山谷(代々木村初台ではない)に創建した。 首都高速4号新宿線と国道20号(甲州街道)の地下に位置し、ホームは上り線と下り線で二層構造となっており、地下2階が上り線、地下3階が下り線である。階段は新宿寄りと幡ヶ谷寄りの2か所にあり、エスカレーターも設置している。加えて新宿寄りにはエレベーターも設置している。 京王新線の建設(京王線初台 - 笹塚間連続立体交差事業含む)と首都高速4号線の工事が重なったことから、建設工事は首都高速道路公団(当時)に委託した。当駅は首都高の高架橋(橋脚)が国道20号の中央にあることから、これを避けるために上下二層構造のトンネルとなったものである。 幡ヶ谷寄りの階段を上がると地下1階の中央口で、改札内にトイレがある。この中央口を西向きに出ると地下自由通路があり、右に行けば甲州街道の北側に出る北口、左に行けば南側に出る南口である。北口は新国立劇場に直結し、地下式の駐輪場ともつながっている。 新宿寄りの改札口は東口で、東京オペラシティに直結している。東口はオペラシティの営業時間に合わせて7時30分から23時30分まで利用できる。東口自体とオペラシティ外に通じる出口は初電から24時まで利用できる。中央口は地下駅化と同時に設置、東口は東京オペラシティからの要望によって設置したものである。東口設置前は、現在の中央口が開業時からの改札口となっていた。 1978年10月31日、新宿 ー 笹塚間複々線化により甲州街道直下の線増部(京王新線)側にホームを移設した。この際に相模原線の快速・通快を新線新宿発着に振り替え、当駅も停車駅としたほか、新宿駅1 - 3番線(京王線新宿駅)発着となる京王線側は幡ヶ谷駅と同様に各駅停車を含む全列車が通過となった。 その後、京王線側の旧ホームは保線資材置き場、資材搬入口及びトンネルの緊急避難路や駅メンテナンス用の通路としており、今でも通過する車中から見ることができる。新ホームにおける出口位置の偏りは、京王線側の旧ホームへ繋がる駅舎・コンコースを維持して京王新線側へ接続した名残である。なお、旧ホームへの通路はコンクリートで塞がれており、現在立ち入る事は出来ない。 地上時代は相対式ホームであった。1964年6月7日より地下化、18メートル6両編成対応の島式ホームで各駅停車だけが止まる駅であった。 駅ホーム脇に通風口がある。これは京王新線側にホームを移設した当初、列車接近時の風圧が問題となったため、風を逃がすために後から設置したものである。 2022年度の1日平均乗降人員は49,640人である。 近年の1日平均乗降人員と乗車人員の推移は下表の通りである。 駅所在地の渋谷区と新宿区の区境に近接している。下記にある企業や施設によっては新宿区側に存在するものもある。 駅の東側に「東京オペラシティ南」と「新国立劇場前」停留所がある。なお、後者については都営バスを除き「初台駅入口」も併せて表記している。 また、ハチ公バス春の小川ルート(本町・笹塚循環)のみが停車する「オペラ通り」と「新国立劇場(循環の都合上2か所)」がある。ハチ公バスの停留所名は「前」が付かない「新国立劇場」である。 この他、中央口の南側に「初台駅」停留所がある。 1953年より1980年代後半まで、現在東京オペラシティがある敷地の一部に「京王帝都バス新宿営業所」があった。詳細は「京王電鉄バス#かつて存在した営業所」を参照。
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初台駅(はつだいえき)は、東京都渋谷区初台一丁目にある、京王電鉄京王線(京王新線)の駅である。京王東管区所属。駅番号はKO02。
{{駅情報 |社色 = #dd0077 |文字色 = |駅名 = 初台駅 |画像 = Keio-HatsudaiSTATION.JPG |pxl = 300px |画像説明 = 北口([[2007年]][[6月17日]]) |地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}} |よみがな = はつだい |ローマ字 = Hatsudai |副駅名 = [[マニュライフ生命]] 本社 最寄駅 |前の駅 = KO01 [[新宿駅|新宿]] |駅間A = 1.7 |駅間B = 1.0 |次の駅 = [[幡ヶ谷駅|幡ヶ谷]] KO03 |電報略号 = |駅番号 = {{駅番号r|KO|02|#dd0077|5}} |所属事業者 = [[京王電鉄]] |所属路線 = {{color|#dd0077|■}}[[京王新線]]<br />(線路名称上は[[京王線]]) |キロ程 = 1.7 |起点駅 = [[新宿駅|新宿]] |所在地 = [[東京都]][[渋谷区]][[初台]]一丁目53番7号 |緯度度 = 35 |緯度分 = 40 |緯度秒 = 52.5 |経度度 = 139 |経度分 = 41 |経度秒 = 11 |地図国コード = JP |座標右上表示 = Yes |駅構造 = [[地下駅]] |ホーム = 2面2線 |開業年月日 = [[1914年]]([[大正]]3年)[[6月11日]] |廃止年月日 = |乗降人員 = <ref group="京王" name="keio2022" />49,640 |統計年度 = 2022年<!--リンク不要--> |乗換 = |備考 = 開業当初の駅名、改正橋駅より改称<br />1978年10月、新宿 ー 笹塚間複々線化。線増部となる京王新線側へホームを移設 }} '''初台駅'''(はつだいえき)は、[[東京都]][[渋谷区]][[初台]]一丁目にある、[[京王電鉄]][[京王線]]([[京王新線]])の[[鉄道駅|駅]]である。京王東管区所属{{refnest|group="注"|[[新宿駅#京王電鉄(京王線)|京王線新宿駅]]・[[新宿駅#京王電鉄(京王新線)・東京都交通局(都営地下鉄新宿線)|新線新宿駅]]は新宿管区、[[京王線]]初台駅 - 仙川駅は京王東管区、つつじヶ丘駅 - 中河原駅・府中競馬正門前駅は京王中央管区、聖蹟桜ヶ丘駅 - 京王八王子駅・多摩動物公園駅・北野駅 - 高尾山口駅は京王西管区。[[京王相模原線]]は相模原管区。[[井の頭線]]渋谷駅 - 東松原駅は井の頭南管区、明大前駅 - 吉祥寺駅は井の頭北管区<ref>[https://www.keio.co.jp/company/corporate/summary/corporate_manual/pdf/2013/2013_p007_p008.pdf 京王電鉄 IR・企業情報 > 会社情報 > 会社概要 > 業務組織] 京王グループ、2013年6月27日、2020年12月6日閲覧。</ref>。}}。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''KO02'''。 == 年表 == * [[1914年]]([[大正]]3年)[[6月11日]]:[[京王電鉄#歴史|京王電気軌道]]の'''改正橋駅'''として開業。 * [[1919年]](大正8年)9月:'''初台駅'''と改称。 * [[1944年]]([[昭和]]19年)[[5月31日]]:[[陸上交通事業調整法]]に基づき、[[東京急行電鉄]]により吸収合併、同社京王線の駅となる。 * [[1948年]](昭和23年)[[6月1日]]:[[大東急]]解体に伴う再編により、京王帝都電鉄として分離独立。 * [[1964年]](昭和39年)[[6月7日]]:前年に地下化した新宿駅 - [[文化服装学院]]付近に引き続き、[[環状六号線|環状6号]]を含む当駅付近の連続立体交差事業により地下化、新駅舎を[[京王線]]上に設置。 * [[1978年]](昭和53年)[[10月31日]]:新宿 - 笹塚間[[複々線]]化に伴い、線増部([[京王新線]])側にホームを移設。[[京王相模原線|相模原線]]の[[快速列車|快速]]・通快を新線新宿発着に振り替え、当駅も停車駅となる。京王線新宿発着は各駅停車を含む全列車が通過となる。 *[[1980年]](昭和55年)[[3月16日]]:[[都営地下鉄新宿線|都営新宿線]] 岩本町 - 新宿間開通、[[直通運転|相互乗り入れ]]開始。 *[[1983年]](昭和58年)[[7月17日]]:当駅 - 幡ヶ谷付近の京王線側を地下化<ref>{{Cite news |title=新宿-笹塚間17日 新線に切替え 京王帝都 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1983-07-14 |page=2 }}</ref>、[[連続立体交差事業]]竣工。 *[[1992年]]([[平成]]4年)[[5月28日]]:ダイヤ改正。[[東京競馬場|東京競馬]]開催時における、ハネ時の臨時[[特別急行列車|特急]]新宿行きを[[急行列車|急行]]に振り替え、その一部を新線新宿行きとして運転したことにより、急行停車駅となる。 * [[2001年]](平成13年)[[3月27日]]:京王新線に定期急行列車を新設、停車駅となる<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.keio.co.jp/news_release/newsr/index_010223.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20040605204054/http://www.keio.co.jp/news_release/newsr/index_010223.htm|language=日本語|title=3月27日(火) 京王線・井の頭線 ダイヤ改正|publisher=京王電鉄|date=2001-02-22|accessdate=2021-05-04|archivedate=2004-06-05}}</ref>。 * [[2013年]](平成25年)[[2月22日]]:'''KO02'''の[[駅ナンバリング]]を導入<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.keio.co.jp/news/backnumber/news_release2012/nr130118_numbering.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180223051733/https://www.keio.co.jp/news/backnumber/news_release2012/nr130118_numbering.pdf|format=PDF|language=日本語|title=京王線・井の頭線全駅で「駅ナンバリング」を導入します。|publisher=京王電鉄|date=2013-01-18|accessdate=2021-05-15|archivedate=2018-02-23}}</ref>。 * [[2015年]](平成27年) ** [[4月1日]]:副駅名「[[マニュライフ生命保険|マニュライフ生命]]本社最寄駅」を設定し[[駅名標]]を設置<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.keio.co.jp/news/backnumber/news_release2014/nr150319_fukuekimei.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191214182148/https://www.keio.co.jp/news/backnumber/news_release2014/nr150319_fukuekimei.pdf|format=PDF|language=日本語|title=4月1日(水)から副駅名標板を新たに6駅で設置します! 〜新生活に向けた京王線の利便性向上と、地元にゆかりある施設と京王線に親しみを〜|publisher=京王電鉄|date=2015-03-19|accessdate=2020-04-12|archivedate=2019-12-14}}</ref>。 ** [[12月15日]] - [[12月27日]]:[[発車メロディ#接近メロディ|接近メロディ]]として[[バレエ]]・[[オペラ]]の名曲「バレエ「[[くるみ割り人形]]」から「行進曲」を導入<ref name="hatsudai-melody">{{Cite press release|和書|url=https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2015/nr151202_hatsudai-melody.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180805203428/https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2015/nr151202_hatsudai-melody.pdf|format=PDF|language=日本語|title=12月15日(火)始発からバレエ・オペラの名曲が京王線初台駅の列車接近メロディーになります!|publisher=京王電鉄|date=2015-12-02|accessdate=2020-04-18|archivedate=2018-08-05}}</ref>。 ** [[12月28日]]:1番線の接近メロディが「[[眠れる森の美女 (チャイコフスキー)|眠れる森の美女]]」より「ガーランド・ワルツ」、2番線が「[[アイーダ]]」より「[[アイーダ#凱旋行進曲|凱旋行進曲]]」に変更<ref name="hatsudai-melody"/>。 === 駅名の由来 === 初代の駅名である「'''改正橋'''」は、線路付近の[[玉川上水]]に架かっていた橋にちなんでいる。現在、付近の玉川上水は[[暗渠]]化されているため、残されている改正橋の親柱・欄干はモニュメントである。 現在の駅名である「'''初台'''」は、改称当時の駅南側の地域の地名「'''渋谷区[[初台|代々木初台町]]'''」からきている。 地名の由来は、代々木村に[[太田道灌]]が作った8か所の[[要塞|砦]]の内、一の砦([[狼煙]]台)のあった場所から、''初台''と呼ばれるようになったといわれる。この地に[[江戸幕府]]二代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川秀忠]]の乳母であった土井昌勝の妻が、[[徳川家康]]関東転封直後の[[1591年]]([[天正]]19年)にこの地に200石を拝領したことから、「'''初台局'''(はつだいのつぼね)」と名乗るようになった。初台局の娘で、三代将軍[[徳川家光]]の乳母の梅園局が母の[[菩提寺]]として「正春寺」を現在の渋谷区[[代々木]]三丁目、当時の[[代々木村]]山谷(''代々木村初台ではない'')に創建した。 == 駅構造 == [[首都高速4号新宿線]]と[[国道20号]]([[甲州街道]])の地下に位置し、[[プラットホーム|ホーム]]は上り線と下り線で二層構造となっており、地下2階が上り線、地下3階が下り線である。[[階段]]は新宿寄りと幡ヶ谷寄りの2か所にあり、[[エスカレーター]]も設置している。加えて新宿寄りには[[エレベーター]]も設置している。 京王新線の建設(京王線初台 - 笹塚間[[連続立体交差事業]]含む)と首都高速4号線の工事が重なったことから、建設工事は[[首都高速道路公団]](当時)に委託した<ref name="Dobokusekou1979-11">山海堂『土木施工』1979年11月号施工研究「京王線新宿 - 笹塚間複々線化工事」pp.69 - 77。</ref>。当駅は首都高の高架橋(橋脚)が国道20号の中央にあることから、これを避けるために上下二層構造のトンネルとなったものである<ref name="Dobokusekou1979-11"/>。 幡ヶ谷寄りの階段を上がると地下1階の中央口で、改札内に[[便所|トイレ]]がある。この中央口を西向きに出ると地下自由通路があり、右に行けば甲州街道の北側に出る北口、左に行けば南側に出る南口である。北口は[[新国立劇場]]に直結し、地下式の[[駐輪場]]ともつながっている。 新宿寄りの改札口は東口で、[[東京オペラシティ]]に直結している。東口はオペラシティの営業時間に合わせて7時30分から23時30分まで利用できる。東口自体とオペラシティ外に通じる出口は[[始発列車|初電]]から24時まで利用できる。中央口は地下駅化と同時に設置、東口は東京オペラシティからの要望によって設置したものである。東口設置前は、現在の中央口が開業時からの改札口となっていた。 1978年10月31日、新宿 - 笹塚間複々線化により甲州街道直下の線増部(京王新線)側にホームを移設した。この際に相模原線の快速・通快を新線新宿発着に振り替え、当駅も停車駅としたほか、新宿駅1 - 3番線(京王線新宿駅)発着となる京王線側は[[幡ヶ谷駅]]と同様に各駅停車を含む全列車が通過となった。 その後、京王線側の旧ホームは[[保線]]資材置き場、資材搬入口及びトンネルの緊急[[避難路]]や駅メンテナンス用の[[通路]]としており、今でも通過する車中から見ることができる<ref>[[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]『[[ブラタモリ]]』「新宿誕生編」(2012年3月1日放送)より</ref>。新ホームにおける出口位置の偏りは、京王線側の旧ホームへ繋がる駅舎・コンコースを維持して京王新線側へ接続した名残である。なお、旧ホームへの通路はコンクリートで塞がれており、現在立ち入る事は出来ない。 地上時代は相対式ホームであった。1964年6月7日より地下化、18メートル6両編成対応の島式ホームで各駅停車だけが止まる駅であった。 駅ホーム脇に通風口がある。これは京王新線側にホームを移設した当初、列車接近時の風圧が問題となったため、風を逃がすために後から設置したものである。 === のりば === {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先!!備考 |- ! 1 |rowspan=2|[[File:Number prefix Keio-line.svg|15px|KO]] 京王新線 |style="text-align:center"|下り |[[幡ヶ谷駅|幡ヶ谷]]・[[笹塚駅|笹塚]]・[[明大前駅|明大前]]・[[調布駅|調布]]・[[橋本駅_(神奈川県)|橋本]]方面 | |- ! 2 |style="text-align:center"|上り |[[新宿駅|新線新宿]]・[[File:Toei Shinjuku line symbol.svg|15px|S]] [[都営地下鉄新宿線|都営新宿線]]方面 |新線新宿駅から [[File:Toei Shinjuku line symbol.svg|15px|S]] 都営新宿線へ直通 |} {{Gallery |align=center |width=160 |height=120 |ファイル:Hatsudai Station-1.jpg|駅入り口(2018年1月撮影) |ファイル:Hatsudai Station-2.jpg|駅改札口(2018年1月撮影) |ファイル:Hatsudai Station-3.jpg|1番線ホーム(2018年1月撮影) |ファイル:Hatsudai Station-4.jpg|2番線ホーム(2018年1月撮影) |ファイル:Former Hatsudai Station.JPG|京王線側にあった頃の初台駅は18メートル級6両編成対応、京王新線側にホームを移設する前日まで各駅停車だけが止まる駅だった。今でも通過する車中から見ることができる。<br/>(1978年10月撮影、移設前日) }} == 利用状況 == [[2022年]]度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''49,640人'''である<ref group="京王" name="keio2022" />。 近年の1日平均'''乗降'''人員と'''乗車'''人員の推移は下表の通りである。 <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗降・乗車人員<ref>[https://www.city.shibuya.tokyo.jp/city/pub/gaiyo.html 渋谷区勢概要] - 渋谷区</ref> !年度 !1日平均<br />乗降人員<ref>[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref> !1日平均<br />乗車人員<ref>[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref> !出典 |- |1955年(昭和30年) |21,224 | | |- |1960年(昭和35年) |24,467 | | |- |<ref group="注">駅地下化年度</ref>1964年(昭和39年) |26,427 | | |- |1965年(昭和40年) |26,936 | | |- |1969年(昭和44年) |41,939 | | |- |1970年(昭和45年) |26,853 | | |- |1975年(昭和50年) |22,702 | | |- |<ref group="注">京王新線開通年度</ref>1978年(昭和53年) |21,382 | | |- |<ref group="注">都営新宿線相互乗入開始年度</ref>1979年(昭和54年) |20,299 | | |- |1980年(昭和55年) |21,169 | | |- |1985年(昭和60年) |23,866 | | |- |1990年(平成{{0}}2年) |29,290 |14,074 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成2年)]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) | |14,388 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成3年)]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) | |14,164 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) | |14,307 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 東京都統計年鑑(平成5年)]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) | |14,825 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 東京都統計年鑑(平成6年)]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |31,983 |15,505 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref> |- |<ref group="注">東京オペラシティ竣工年度</ref>1996年(平成{{0}}8年) | |17,488 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref> |- |<ref group="注">新国立劇場開場年度</ref>1997年(平成{{0}}9年) | |20,268 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref> |- |1998年(平成10年) | |21,970 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref> |- |1999年(平成11年) | |22,077 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref> |- |2000年(平成12年) |43,767 |23,153 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref> |- |2001年(平成13年) | |23,973 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref> |- |2002年(平成14年) | |23,701 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref> |- |2003年(平成15年) |46,015 |23,923 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref> |- |2004年(平成16年) |46,937 |24,334 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref> |- |2005年(平成17年) |50,101 |25,047 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref> |- |2006年(平成18年) |52,292 |25,411 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref> |- |2007年(平成19年) |54,908 |27,066 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref> |- |2008年(平成20年) |56,033 |27,699 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref> |- |2009年(平成21年) |54,310 |26,890 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref> |- |2010年(平成22年) |53,811 |26,655 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref> |- |2011年(平成23年) |52,958 |26,257 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成23年)]</ref> |- |2012年(平成24年) |54,153 |26,945 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成24年)]</ref> |- |2013年(平成25年) |55,618 |27,537 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成25年)]</ref> |- |2014年(平成26年) |57,610 |28,619 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成26年)]</ref> |- |2015年(平成27年) |60,281 |29,978 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成27年)]</ref> |- |2016年(平成28年) |62,154 |30,948 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成28年)]</ref> |- |2017年(平成29年) |64,347 |32,107 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成29年)]</ref> |- |2018年(平成30年) |66,016 |32,970 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成30年)]</ref> |- |2019年(令和元年) |65,172 |32,497 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |42,073 |20,970 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2020/tn20q3i004.htm 東京都統計年鑑(令和2年)]</ref> |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="京王" name="keio2021">{{Cite web |author=京王電鉄株式会社 |authorlink=京王電鉄 |coauthors= |date= |title=1日の駅別乗降人員|url=https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-10-01 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220626083727/https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |archivedate=2022-06-26 |deadlink=2023-08-02 |}}</ref>44,463 | | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="京王" name="keio2022">{{Cite web |author=京王電鉄株式会社 |authorlink=京王電鉄 |coauthors= |date= |title=1日の駅別乗降人員|url=https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-10-01 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230610030616/https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |archivedate=2023-06-10 |deadlink= |}}</ref>49,640 | | |} == 駅周辺 == 駅所在地の渋谷区と新宿区の区境に近接している。下記にある企業や施設によっては新宿区側に存在するものもある。 * 企業・団体 ** [[京王百貨店]]本社 - 南口上部にある[[駅ビル]]「京王初台駅ビル」に入居する。 ** [[ロッテ]]本社 ** [[富士急行]]東京本社 ** [[カシオ計算機]]本社 ** [[東日本電信電話]]本社 ** [[京王観光]]本社 - 旧初台店とは別。 * その他 ** [[新国立劇場]] ** [[東京オペラシティ]] *** [[NTTインターコミュニケーション・センター]] *** 東京オペラシティ郵便局 ** [[都営バス新宿支所]] ** 初台商店街 ** [[代々木警察署|警視庁代々木警察署]] ** [[東京消防庁]]渋谷消防署代々木出張所 ** [[渋谷区役所]]初台出張所 ** 渋谷区立本町図書館 ** 渋谷本町二郵便局 ** [[東日本銀行]]初台支店 ** [[関東国際高等学校]] ** [[首都高速道路]][[西新宿ジャンクション]] === バス路線 === 駅の東側に「東京オペラシティ南」と「新国立劇場前」停留所がある。なお、後者については都営バスを除き「初台駅入口」も併せて表記している。 また、[[ハチ公バス]]春の小川ルート(本町・笹塚循環)のみが停車する「オペラ通り」と「新国立劇場(循環の都合上2か所)」がある。ハチ公バスの停留所名は「前」が付かない「新国立劇場」である。 この他、中央口の南側に「初台駅」停留所がある。 [[1953年]]より[[1980年代]]後半まで、現在東京オペラシティがある敷地の一部に「京王帝都バス新宿営業所」があった。詳細は「[[京王電鉄バス#かつて存在した営業所]]」を参照。 ==== 東京オペラシティ南 ==== ; [[都営バス]] * [[都営バス杉並支所#渋66系統|渋66]]:[[渋谷駅]]行、[[阿佐ケ谷駅]]行 * ; [[京王電鉄バス#京王バス東|京王バス]] * [[京王バス東・中野営業所#幡代線、代田橋循環線|渋63]]:渋谷駅行、[[中野駅 (東京都)|中野駅]]行 * 渋64:渋谷駅行、中野駅行 * [[京王バス東・中野営業所#阿佐ヶ谷線|渋66]]:渋谷駅行、阿佐ケ谷駅行 ; [[小田急バス]] * [[小田急バス吉祥寺営業所#新宿線|宿44]]:新宿駅西口行、[[武蔵境駅]]南口行 * [[よみうりランド]]行(季節運行) ==== 新国立劇場 ==== ; 都営バス * 渋66:渋谷駅行、阿佐ケ谷駅行 ; 京王バス * 渋61:渋谷駅行 ※土曜日の朝1本のみ運行(祝日の場合は運休) * 渋63:渋谷駅行、中野駅行 * 渋66:渋谷駅行、阿佐ケ谷駅行 ; 小田急バス * 宿44:新宿駅西口行、武蔵境駅南口行 * よみうりランド行(季節運行) ; ハチ公バス * 春の小川ルート:本町小学校・六号大通り方面/渋谷区役所行 ==== 初台駅 ==== ; 京王バス * 渋61:渋谷駅行 ※土曜日の朝1本のみ運行(祝日の場合は運休) == 隣の駅 == ; 京王電鉄 : [[File:Number prefix Keio-line.svg|15px|KO]] 京王新線 :: {{Color|#20b2aa|■}}急行・{{color|olive|■}}区間急行・{{Color|blue|■}}快速・{{color|gray|■}}各駅停車 ::: [[新宿駅#京王電鉄(京王新線)・東京都交通局(都営地下鉄新宿線)|新宿駅]](新線新宿駅)(KO01) - '''初台駅 (KO02)''' - [[幡ヶ谷駅]] (KO03) :::なお、[[1945年]][[7月24日]]以前の新宿駅 - 初台駅間には多くの駅が存在したが、両駅を残していずれも廃止している。詳しくは、[[京王線の新宿駅付近の廃駅]]を参照。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} ; 東京都統計年鑑 {{Reflist|group="*"|23em}} ;京王電鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="京王"|3}} == 関連項目 == *[[代々幡町]] - 京王電気軌道(現:[[京王電鉄]])発祥の地 *[[京王線の新宿駅付近の廃駅]] *[[東京オペラシティ]] *[[日本の鉄道駅一覧]] == 外部リンク == {{Commons|Category:Hatsudai Station}} * [https://www.keio.co.jp/train/station/ko02_hatsudai/ 京王電鉄 初台駅] {{京王線}} {{DEFAULTSORT:はつたい}} [[Category:渋谷区の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 は|つたい]] [[Category:京王電鉄の鉄道駅]] [[Category:1914年開業の鉄道駅]]
2003-05-11T15:40:16Z
2023-10-10T05:35:20Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%9D%E5%8F%B0%E9%A7%85
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高速道路
高速道路(こうそくどうろ、日本における英語表記はexpressway)とは迅速な交通移動を達成することを主目的にした道路であり主に自動車が高速かつ安全に走行できるような構造になっている。国や地域の道路網の中で基幹的な役割を担うことが多い。 高速道路とは交差点をなくすなどの出入り口・合流箇所制限の実施や、上下分離することで高速走行を可能とした道路のことである。国や地域によって名称や規格などは異なっている。高速道路の役割としては国や地域の道路網の中核を担う役割を担っている。また、平行して走る一般道路の渋滞緩和の効果もある。具体的な安全実現の例として一般道路とは出入口によって隔てることで歩行者や高速での移動が不可能な小型車両の進入を防ぐなどの工夫が挙げられる。 世界で最初に高速道路が建設された国は1924年のイタリアで、次いでアメリカと続き、その後世界各国で高速道路が建設された。 高速道路の名称は、世界各国で異なっている。ドイツ・オーストリアは「アウトバーン」、アメリカ・オーストラリアは「フリーウェイ」、カナダは「トランスカナダハイウェイ」、フランスは「オートルート」、イギリスは「モーターウェイ」、イタリアは「アウトストラーダ」と呼んでおり、日本では俗に「ハイウェイ」と呼ばれることもある。 日本では高速自動車国道と広義の自動車専用道路(都市高速道路なども含む)とを指して「高速道路」と位置付けている。 建設・運営に関しては国土交通大臣が内閣決議を経て予告・告知を行う義務を有する。 高速自動車国道と自動車専用道路では、構造規格、通行車両制限、速度制限などが異なる。 大都市圏内の移動を目的とする高速道路は都市高速道路と呼ばれる。都市高速道路では用地取得などに制約が多く、都市間を結ぶ道路と比較すると線形が悪く速度規制も厳しい場合が多い。都市高速道路の役割としては都市間を結ぶ道路とは異なり、通勤・通学や買い物などの日常的な利用が多いとされている。 路面に関しては特殊な溝や凹凸加工を施して音を出す、意図的に粗い路面にすることで居眠り運転や通行が許可された範囲を逸脱する通行への警告を示す等の対策が施されていることもある。(ランブルストリップス、高輝度レーンマーク(商標:バイブラライン)など) アメリカにおいては1956年(昭和31年)に承認した連邦補助高速道路法により州間高速道路網が整備された。各州間高速道路にはそれぞれ個別の路線番号が付加されており、州間高速道路XX号線 (IH-XX; Interstate Highway XX) もしくは単に州間道XX号線 (I-XX; Interstate XX) と表記される。 ドイツには自転車専用の高速道路がある。道路には信号機や凹凸がない。現在開通しているのはデュイスブルク、ボーフム、ハム等ドイツ西部の10都市と4大学を結ぶ計画の道路(100 km以上)のうち5 kmで、同道路の大部分は線路(現在不使用)に沿って建設される予定。この他にも2つの自転車用高速道路が計画されている他、2つの自転車用高速道路が「実現可能性の調査」が行われている。 1908年にアメリカにおいて世界初の自動車専用道路とされるロング・アイランド・モーター・パークウェイ(Long Island Motor Parkway)がニューヨークで開通している。1920年代に入ると、ニューヨークのパークウェイはニューヨークのマスタービルダーと呼ばれるロバート・モーゼスによって広い範囲へと拡大が進められた。モーゼスはパークウェイを、アメリカ合衆国を自動車指向社会へと発展させるための道具であり、混雑の激しい都市地域からロング・アイランドの開発途上地域へと人口を分散させるための手段であると位置づけ、積極的な拡大方策を採った。 初期の高速道路は軍事目的の側面が強かった(アウトバーンは滑走路としても使うことが検討された)が、次第に経済発展の目的が強くなっていった。 ドイツでは、1932年にアウトバーンのボン - ケルン線が初開通し、1933年にアドルフ・ヒトラーが政権につくと、第一次世界大戦で自動車が活躍したことを背景に、アウトバーンの建設計画が推し進められ、第二次世界大戦前までに3859キロメートル (km) の高速道路網を完成させていった。アメリカでは、1940年にペンシルベニア州のペンシルベニア・ターンパイク開通を皮切りに高速道路時代に入り、目覚ましい発展をみせていくこととなった。また、世界では道路先進国でありながら、高速道路では一歩後れを取っていたイギリスでは、本格的な高速道路建設が始められたのは1957年以降のことであった。 一方で、日本の道路事情は欧米諸国に大きく遅れをとっていたが、戦後の高度経済成長期にあたる1963年(昭和38年)7月16日に、日本初となる高速自動車国道として、名神高速道路の栗東IC - 尼崎ICが開通した。 アメリカの州間高速道路網は長らく世界最長の高速道路であったが、急速にインフラ整備を推し進める中国の高速道路の総延長が2011年に世界最長になった。 高速道路は高速走行を容易にするため、設計上カーブの曲率や勾配(アップダウン)を緩和した線形としている。また、対向車線の自動車との衝突をさけるために中央分離帯が設けられることもある。故障した場合に停車できるために路肩のスペースも広く設けられている場合が多い。 高速道路は原則として信号機や交差点を極力設けないなど他の道路とは独立しており、他の道路や鉄道とは立体交差されている。高速道路への流入は交差点を用いず、インターチェンジ(IC)を用いる。また信号機も使用しない。特に高速道路同士での交差は、ジャンクション(JCT)と呼ばれる。 そのため高架や盛土などの構造物を建設して、その上に作られる場合もある。山間部のような地形では、トンネルも多用される。 高速道路では駐停車ができないので、パーキングエリア(PA)やサービスエリア(SA)といった休憩スペースやガソリンスタンドなどが設けられている。サービスエリアなどでは駐車し、休憩や食事などが行えるほか、地域のおみやげものなどが購入できる。 高速道路の管理はその高速道路によって様々であり、事業主体も異なる。ただ全体的に見た傾向では、政府の管理下にあるものが多い。 開発途上国においては建設費の財源として世界銀行や政府開発援助による融資を受けて、公共事業として行われることが多々ある(日本においても名神高速道路などが世界銀行の融資によって整備された)。 高速道路は出入り口制限されているために料金を徴収する場合がある。料金については日本のように有料だったものを低価格化している場合もあれば、ドイツのように長年無料だったものが料金徴収を始めたケースもあるなど様々である。有料の場合ではITSの導入の一環としてや料金徴収所での渋滞を緩和するために無線通信による自動料金収受システム(ETCなど)の導入が進んでいる。 有料の場合と無料の場合がある。ドイツなどでのアウトバーン、イギリスなどでのモーターウェイでは基本的に無料である。またアメリカやオーストラリアのフリーウェイも基本的に無料である。 1kmあたりの高速料金を世界各国と比較すると、日本は世界で最も高速料金が高い国である。以下に主要国の料金を掲示する。(2019年7月時点のレートで算出) フランスのオートルートも「道路は無料」という原則に基づくものであるが、高速道路法によって許可会社(SEMなど)が有料で道路を建設できるとされたため、事実上有料制が採られている。ただし、公共性の観点から無料であるべき道路や機能上重要な路線、いわゆる都市内高速道路や港湾道路、国境近郊の道路は無料である。 ポーランドのアウトストラーダも原則無料である。それに対し、イタリアのアウトストラーダは有料である。 日本では地方の路線などで一部無料の場合があるが、一般に有料である。民主党は高速道路無料化をマニフェストで提唱し、2010年度には高速道路無料化社会実験を一部路線で実施した。しかし、東日本大震災の復旧費用をまかなうために、2011年6月19日をもって終了し、一時凍結となった。 高速道路は一般道路と比較すると線形などの条件が良好で、交差点なども少ないため交錯する危険性も少ないことから一般道より走りやすく事故の発生率そのものは低い。しかし、戦前には弾丸道路と例えられるほどの高速走行下での事故となるために死亡事故などの重大事故となりやすいといった問題がある。 事故原因の一例として高速道路では直線区間が長く続く状況下に由来する催眠現象がある。現象の影響により運転者には眠気を催す、或いは現実感の喪失等といった症状が認められ、結果として交通事故につながる要因となり得る。 事故防止策として日本では直線道路が建設が可能な地形であっても意図的にカーブ部分を造る等の対策をとる場合がある。これは道路の直線を減らして連続する緩やかなカーブを作ることによって風景に変化を持たせ、ドライバーの集中力を持続させる効果を狙うものである。また過剰な速度での通行を抑制する目的がある。 日本の高速道路の多くの区間は、こうした緩やかなカーブを連続させてあることが多く、純粋な直線区間は少ない。こうした設計手法は、高速道路の先進地であるドイツのアウトバーンの技術が導入されている。 大陸規模の高速道路 新しい道路を建造すると次のような直接・間接のことが起き、二酸化炭素排出量(カーボンフットプリント)が増えるという。 道路の建造に伴う二酸化炭素の排出量の増加を抑制するには次のようなことが必要になるという。 経済効果を期待して借金で高速道路を建設するとその借金が重荷になってしまい、国の経済が抜き差しならない状況に陥ることがある。インドは高速道路の建設のために2014年-2015年に膨大な借金を行ってしまい、2020年1月には「借金の罠」に陥りそうになっている、と分析された。 1929年以降で米国の経済成長率が最も高かったのは1950年代と1960年代だった。この時期には大規模な高速道路網の構築に多額の政府支出がなされた。 2015年時点であるが、経済学者のロバート・シラーが2015年時点の米国の30年インフレ連動債の利率が0.86%との状況を見て述べたところによると、その時点ではアメリカ政府はお金を借りて新しい高速道路を建造する良い機会で、アメリカで高速道路を建設すれば健全な投資になると説明した。(その後状況は一変し、2020年春には世界的なコロナ禍が起き、世界経済は予想外の状況になった。数年間、多くの国で外出禁止令が発令され、高速道路の利用率はその間のみ一挙に低くなった。人々はできるだけ物理的な移動や直接会うことはできるだけ控え、テレビ電話アプリやZoomなどのWeb会議アプリなどIT技術を使い、リモートでコミュニケーションをするようになり、買い物はネット通販で済ませることが増えた。2022年2月には、ロシアがウクライナに侵攻し、西側諸国はロシアに対して大規模な経済制裁を行い、世界経済は前例のない展開を見せた)ウクライナ侵攻後アメリカでは物価の異常な高騰が起き、その物価高騰を抑えるためにアメリカ政府はそれまで維持していた低金利政策を改め金利を上げた。2022年7月時点には、アメリカ金融当局は、年末には政策金利を3.75% - 4.00%にするというような方針を打ち出すまでになった。つまり2015年の状況とは全然異なった状況になった)。
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4.00%にするというような方針を打ち出すまでになった。つまり2015年の状況とは全然異なった状況になった)。", "title": "高速道路建設がもたらす諸影響" } ]
高速道路(こうそくどうろ、日本における英語表記はexpressway)とは迅速な交通移動を達成することを主目的にした道路であり主に自動車が高速かつ安全に走行できるような構造になっている。国や地域の道路網の中で基幹的な役割を担うことが多い。
{{出典の明記|date=2014年1月}} {{独自研究|date=2014年1月}} [[File:US 131, M-6, 68th St interchange.jpg|thumb|250px|[[ミシガン州]][[ワイオミング (ミシガン州)|ワイオミング]]の[[w:U.S. Route 131|国道131号線]]、[[w:M-6 (Michigan highway)|M-6]]および68th Streetのインターチェンジ。[[中央線 (道路)|中央線]]を境に通行方向が区分され、上下分離による交差点除去や出入り口制限の実施といった高速道路の特徴を示している。]] '''高速道路'''(こうそくどうろ、[[日本]]における[[英語]]表記は''expressway'')とは迅速な交通移動を達成することを主目的にした[[道路]]であり主に自動車が高速かつ安全に走行できるような構造になっている。[[国家|国]]や[[地域]]の道路網の中で基幹的な役割を担うことが多い。 == 概要 == 高速道路とは[[交差点]]をなくすなどの出入り口・合流箇所制限の実施や、上下分離することで高速走行を可能とした道路のことである。国や地域によって名称や規格などは異なっている。高速道路の役割としては国や地域の道路網の中核を担う役割を担っている。また、平行して走る[[一般道路]]の[[渋滞]]緩和の効果もある。具体的な安全実現の例として[[一般道路]]とは出入口によって隔てることで歩行者や高速での移動が不可能な小型車両の進入を防ぐなどの工夫が挙げられる。 世界で最初に高速道路が建設された国は1924年のイタリアで、次いでアメリカと続き、その後世界各国で高速道路が建設された{{sfn|浅井建爾|2015|p=88}}。 高速道路の名称は、世界各国で異なっている。ドイツ・オーストリアは「[[アウトバーン]]」、アメリカ・オーストラリアは「[[フリーウェイ]]」、カナダは「[[トランスカナダハイウェイ]]」、フランスは「[[オートルート]]」、イギリスは「[[イギリスの高速道路|モーターウェイ]]」、イタリアは「[[アウトストラーダ]]」と呼んでおり、日本では俗に「[[ハイウェイ]]」と呼ばれることもある{{sfn|浅井建爾|2015|p=88}}。 === 日本 === {{main|日本の高速道路}} [[日本]]では[[高速自動車国道]]と広義の[[自動車専用道路]]([[都市高速道路]]なども含む)とを指して「高速道路」と位置付けている<ref>{{Cite web|和書|title=交通の方法に関する教則|url=https://www.npa.go.jp/koutsuu/kikaku/kyousoku/index.htm|website=www.npa.go.jp|accessdate=2020-06-05}}</ref>''。'' 建設・運営に関しては[[国土交通大臣]]が内閣決議を経て予告・告知を行う義務を有する。 [[高速自動車国道]]と[[自動車専用道路]]では、構造規格、通行車両制限、速度制限などが異なる。 [[大都市圏]]内の移動を目的とする高速道路は[[都市高速道路]]と呼ばれる。都市高速道路では[[土地|用地]]取得などに制約が多く、都市間を結ぶ道路と比較すると線形が悪く[[最高速度|速度規制]]も厳しい場合が多い。都市高速道路の役割としては都市間を結ぶ道路とは異なり、[[通勤]]・[[通学]]や[[買い物]]などの[[日常生活|日常]]的な利用が多いとされている。 路面に関しては特殊な溝や凹凸加工を施して音を出す、意図的に粗い路面にすることで居眠り運転や通行が許可された範囲を逸脱する通行への警告を示す等の対策が施されていることもある。([[ランブルストリップス]]、高輝度レーンマーク(商標:バイブラライン)など) === アメリカ合衆国 === [[アメリカ合衆国|アメリカ]]においては1956年(昭和31年)に承認した[[連邦補助高速道路法]]により[[州間高速道路|州間高速道路網]]が整備された。各州間高速道路にはそれぞれ個別の路線番号が付加されており、州間高速道路XX号線 (IH-XX; Interstate Highway XX) もしくは単に州間道XX号線 (I-XX; Interstate XX) と表記される。 === ドイツ連邦共和国 === [[ドイツ]]には[[自転車]]専用の高速道路がある。道路には[[交通信号機|信号機]]や凹凸がない。現在開通しているのは[[デュイスブルク]]、[[ボーフム]]、[[ハム (ヴェストファーレン)|ハム]]等ドイツ西部の10都市と4大学を結ぶ計画の道路(100 km以上)のうち5 kmで、同道路の大部分は線路(現在不使用)に沿って建設される予定。この他にも2つの自転車用高速道路が計画されている他、2つの自転車用高速道路が「実現可能性の調査」が行われている<ref>{{Cite news|title=ドイツ初、自転車用の高速道路が開通|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3071873?pid=17147121|publisher=[[フランス通信社]]|date=2016-01-04|accessdate=2018-02-04}}</ref>。 {{節スタブ}} == 歴史 == [[File:Mappa storica A8.svg|thumb|1924年に建設された世界初の高速道路である、現在の[[イタリア]]の[[w:Autostrada A8 (Italy)|A8]]及び[[w:Autostrada A9 (Italy)|A9]]に当たる区間の路線図。]] [[1908年]]に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]において世界初の自動車専用道路とされるロング・アイランド・モーター・パークウェイ([[:en:Long Island Motor Parkway|Long Island Motor Parkway]])がニューヨークで開通している。[[1920年代]]に入ると、ニューヨークの[[公園道路|パークウェイ]]はニューヨークのマスタービルダーと呼ばれる[[ロバート・モーゼス]]によって広い範囲へと拡大が進められた。モーゼスはパークウェイを、アメリカ合衆国を自動車指向社会へと発展させるための道具であり、混雑の激しい都市地域から[[ロング・アイランド]]の開発途上地域へと人口を分散させるための手段であると位置づけ、積極的な拡大方策を採った。 初期の高速道路は[[軍事]]目的の側面が強かった([[アウトバーン]]は[[滑走路]]としても使うことが検討された)が、次第に[[経済]]発展の目的が強くなっていった。 ドイツでは、[[1932年]]にアウトバーンのボン - ケルン線が初開通し、[[1933年]]に[[アドルフ・ヒトラー]]が政権につくと、第一次世界大戦で自動車が活躍したことを背景に、アウトバーンの建設計画が推し進められ、[[第二次世界大戦]]前までに3859キロメートル (km) の高速道路網を完成させていった{{sfn|浅井建爾|2001|pp=56–57}}。アメリカでは、[[1940年]]に[[ペンシルベニア州]]のペンシルベニア・ターンパイク開通を皮切りに高速道路時代に入り、目覚ましい発展をみせていくこととなった{{sfn|浅井建爾|2001|pp=56–57}}。また、世界では道路先進国でありながら、高速道路では一歩後れを取っていたイギリスでは、本格的な高速道路建設が始められたのは[[1957年]]以降のことであった{{sfn|浅井建爾|2001|pp=56–57}}。 一方で、日本の道路事情は欧米諸国に大きく遅れをとっていたが、戦後の[[高度経済成長期]]にあたる[[1963年]]([[昭和]]38年)[[7月16日]]に、日本初となる[[高速自動車国道]]として、[[名神高速道路]]の[[栗東インターチェンジ|栗東IC]] - [[尼崎インターチェンジ|尼崎IC]]が開通した{{sfn|浅井建爾|2001|pp=56–57}}。 アメリカの[[州間高速道路|州間高速道路網]]は長らく世界最長の高速道路であったが、急速にインフラ整備を推し進める[[中華人民共和国|中国]]の高速道路の総延長が[[2011年]]に世界最長になった<ref>{{cite news|url=https://reason.org/commentary/what-the-us-can-learn-from-chinas-h/|title=What the U.S. Can Learn from China|publisher=Reason Foundation|date = 2012-03-23|accessdate = 2021-05-1Ⅲ}}</ref>。 == 幾何構造 == [[File:Highway 401.png|thumb|upright=1.0|[[カナダ]]・[[オンタリオ州]]の[[w:Highway 401 (Ontario)|Highway 401]]. [[トロント]]に通じる4重高速道路が特徴の[[w:local-express lanes|コレクター・エクスプレス]]・フリーウェイ構造の例。]] 高速道路は高速走行を容易にするため、設計上カーブの[[曲率]]や勾配(アップダウン)を緩和した[[線形 (路線)|線形]]としている。また、対向車線の自動車との衝突をさけるために[[中央分離帯]]が設けられることもある。故障した場合に停車できるために[[路肩]]のスペースも広く設けられている場合が多い。 高速道路は原則として[[交通信号機|信号機]]や[[交差点]]を極力設けないなど他の道路とは独立しており、他の道路や[[鉄道]]とは[[立体交差]]されている。高速道路への流入は[[交差点]]を用いず、[[インターチェンジ]](IC)を用いる。また信号機も使用しない。特に高速道路同士での交差は、[[ジャンクション (道路)|ジャンクション]](JCT)と呼ばれる。 そのため[[高架橋|高架]]や[[盛土]]などの構造物を建設して、その上に作られる場合もある。山間部のような[[地形]]では、[[トンネル]]も多用される。 高速道路では駐停車ができないので、[[パーキングエリア]](PA)や[[サービスエリア]](SA)といった休憩スペースや[[ガソリンスタンド]]などが設けられている<ref name="ドラプラ">{{Cite web|和書|url= https://www.driveplaza.com/safetydrive/mamechishiki/026.html|title= サービスエリアとパーキングエリアの違いって何?(ドライブまめ知識)|publisher=ネクスコ東日本|accessdate=2021-2-11}}</ref>。[[サービスエリア]]などでは駐車し、休憩や[[食事]]などが行えるほか、地域のおみやげものなどが購入できる{{r|ドラプラ}}。 {{clear}} {{Center|<gallery caption="多様なインターチェンジの見取り図" widths="100px" heights="100px"> File:Stackinterchange.png|4層構造型<br /><hr>主要ジャンクションとして使用され、フリーウェイによく見られる形状 File:Knooppunt rotonde3.png|ラウンドアバウト型<br /><hr>英国において、ジャンクションや出入り口としてよく見られる形状 File:Knooppunt klaverblad.svg|クローバー型<br /><hr>主にジャンクションとして使用される形状 File:Parclo_A4.svg|部分的クローバー型<br /><hr>補助道路への接続によく用いられる形状 File:Knooppunt trompet.png|トランペット型<br /><hr>T型とも呼ばれる形状 </gallery>}} == 交通運用 == 高速道路の管理はその高速道路によって様々であり、事業主体も異なる。ただ全体的に見た傾向では、[[政府]]の管理下にあるものが多い。 [[開発途上国]]においては建設費の財源として[[世界銀行]]や[[政府開発援助]]による[[融資]]を受けて、[[公共事業]]として行われることが多々ある(日本においても[[名神高速道路]]などが[[世界銀行]]の[[融資]]によって整備された<ref>[http://showa.mainichi.jp/news/1963/07/post-b802.html 昭和毎日:名神高速道路が部分開通 - 毎日jp(毎日新聞)]</ref>)。 高速道路は出入り口制限されているために料金を徴収する場合がある。料金については日本のように有料だったものを低価格化している場合もあれば、[[ドイツ]]のように長年無料だったものが料金徴収を始めたケースもあるなど様々である。有料の場合では[[高度道路交通システム|ITS]]の導入の一環としてや料金徴収所での渋滞を緩和するために[[無線通信]]による自動料金収受システム([[ETC]]など)の導入が進んでいる。 ==料金== 有料の場合と無料の場合がある。ドイツなどでの[[アウトバーン]]、[[イギリス]]などでの[[イギリスの高速道路|モーターウェイ]]では基本的に無料である。またアメリカや[[オーストラリア]]の[[フリーウェイ]]も基本的に無料である。 ===世界の高速料金比較=== 1kmあたりの高速料金を世界各国と比較すると、日本は世界で最も高速料金が高い国である。以下に主要国の料金を掲示する。(2019年7月時点のレートで算出) {| class="wikitable sortable" |+ style="background:#f99;"|世界の高速料金比較(普通車) !1km当たり料金 !! 国籍 |- | 24.5円/km || {{JPN}} |- | 15.6円/km || {{FRA}} |- | 7円/km || {{GRE}} |- | 0円/km || {{GER}} |- | 0円/km || {{UK}} |} [[フランス]]のオートルートも「道路は無料」という原則に基づくものであるが、高速道路法によって許可会社(SEMなど)が有料で道路を[[建設]]できるとされたため、事実上有料制が採られている。ただし、公共性の観点から無料であるべき道路や機能上重要な路線、いわゆる都市内高速道路や港湾道路、[[国境]]近郊の道路は無料である。 [[ポーランド]]の[[アウトストラーダ (ポーランド)|アウトストラーダ]]も原則無料である。それに対し、[[イタリア]]の[[アウトストラーダ]]は有料である。 日本では地方の路線などで一部無料の場合があるが、一般に有料である。民主党は[[高速道路無料化]]を[[マニフェスト]]で提唱し、2010年度には高速道路無料化社会実験を一部路線で実施した。しかし、[[東日本大震災]]の復旧費用をまかなうために、[[2011年]][[6月19日]]をもって終了し、一時凍結となった。 {{Main|高速道路無料化}} == 高速道路の事故 == {{See also|高速道路催眠現象}} 高速道路は[[一般道路]]と比較すると線形などの条件が良好で、[[交差点]]なども少ないため交錯する危険性も少ないことから一般道より走りやすく事故の発生率そのものは低い<ref>[http://response.jp/issue/2008/0707/article111292_1.html 【伊東大厚のトラフィック計量学】高速道路と交通事故]</ref>。しかし、戦前には[[弾丸道路]]と例えられるほどの高速走行下での事故となるために死亡事故などの重大事故となりやすいといった問題がある。 事故原因の一例として高速道路では直線区間が長く続く状況下に由来する催眠現象がある。現象の影響により運転者には眠気を催す、或いは現実感の喪失等といった症状が認められ、結果として[[交通事故]]につながる要因となり得る。 事故防止策として日本では直線道路が建設が可能な地形であっても意図的にカーブ部分を造る等の対策をとる場合がある{{sfn|浅井建爾|2001|p=72}}。これは道路の直線を減らして連続する緩やかなカーブを作ることによって風景に変化を持たせ、ドライバーの集中力を持続させる効果を狙うものである{{sfn|浅井建爾|2001|p=72}}。また過剰な速度での通行を抑制する目的がある。 日本の高速道路の多くの区間は、こうした緩やかなカーブを連続させてあることが多く、純粋な直線区間は少ない。こうした設計手法は、高速道路の先進地である[[ドイツ]]の[[アウトバーン]]の技術が導入されている{{sfn|浅井建爾|2001|p=72}}。 == 世界の高速道路 == ===北米・南米=== * [[アメリカ合衆国]] - [[フリーウェイ]]、[[州間高速道路]] * [[カナダ]] - [[トランスカナダハイウェイ]](一部のみ高速道路)、[[400番台オンタリオ・ハイウェイ]]、[[ケベック州高速道路]] * [[ブラジル]] - {{仮リンク|トランスアマゾニアンハイウェイ|en|Trans-Amazonian Highway}} ===アジア・オセアニア=== * [[日本]] - [[日本の高速道路]] ([[日本の高速道路一覧]]) * [[台湾]] - [[台湾の高速道路|台湾の高速道路(快速道路)]]、[[台湾の国道|台湾の国道(高速公路)]] * [[大韓民国|韓国]] - [[高速国道]] * [[中華人民共和国]] - [[中華人民共和国の高速道路|中華人民共和国の高速道路(高速公路)]] * [[シンガポール]] - [[シンガポールの高速道路|高速道路]] * [[ベトナム]] - [[ベトナムの高速道路]] * [[オーストラリア]] - [[メトロード]]、モーターウェイ ([[オーストラリアの幹線道路]]) * [[ニュージーランド]] - [[ニュージーランドの高速道路|モーターウェイ]] ===ヨーロッパ=== * [[ドイツ]]・[[オーストリア]]・[[スイス]] - [[アウトバーン]] * [[フランス]] - [[オートルート]] * [[イタリア]] - [[アウトストラーダ]] * [[ポーランド]] - [[アウトストラーダ]] * [[イギリス]] - [[イギリスの高速道路|モーターウェイ]] ===アフリカ=== * [[アルジェリア]] - [[アルジェリア東西高速道路]] * [[南アフリカ共和国]] - [[ナショナルロード (南アフリカ)|ナショナルロード]] === 国家間をまたぐ高速道路 === 大陸規模の高速道路 * [[ヨーロッパ大陸]] - [[欧州自動車道路]] * [[アジア大陸]] - [[アジアハイウェイ]] * [[北アメリカ大陸|北米大陸]]・[[南米大陸]] - [[パンアメリカンハイウェイ]] * [[アフリカ大陸]] - {{仮リンク|トランスアフリカンハイウェイ|en|Trans-African Highway network}} ==高速道路建設がもたらす諸影響== ;高速道路建設と二酸化炭素排出量 新しい道路を建造すると次のような直接・間接のことが起き、[[二酸化炭素]]排出量([[カーボンフットプリント]])が増えるという<ref name="ICE_roadbuilding_CO2">[https://www.ice.org.uk/news-insight/news-and-blogs/ice-blogs/the-infrastructure-blog/how-roadbuilding-projects-create-co2-emissions-and-what-can-be-done-to-reduce-them/ ICE, How roadbuilding projects create CO2 emissions and what can be done to reduce them.]</ref>。 *建設作業(整地作業で排出される二酸化炭素。道路を建造するのに必要なコンクリート、アスファルト、鋼材などの素材を作るために排出される二酸化炭素。[[建設機械|建機]]から出される二酸化炭素)による増加。<ref name="ICE_roadbuilding_CO2" /> *樹木を切り倒すことで、樹木を切らなければ樹木に吸収されるはずだった二酸化炭素の量が減ることによる二酸化炭素の増加。<ref name="ICE_roadbuilding_CO2" /> *建設後の道路の[[メンテナンス]]作業やサービス業務による二酸化炭素排出の増加。<ref name="ICE_roadbuilding_CO2" /> *新しい道路ができることで自動車の走行が増え、人々の移動が増え、走行速度が上がることによる二酸化炭素排出の増加。<ref name="ICE_roadbuilding_CO2" /> 道路の建造に伴う二酸化炭素の排出量の増加を抑制するには次のようなことが必要になるという<ref name="ICE_roadbuilding_CO2" />。 *メンテナンス作業に[[電気自動車]]など二酸化炭素の排出量がゼロあるいは極めて小さい自動車を使う<ref name="ICE_roadbuilding_CO2" />。 *道路の更新や補修の工事の際には二酸化炭素の排出量が多い機材を使わない<ref name="ICE_roadbuilding_CO2" />。 *供給業者(下請け業者)との[[契約]]の中に、二酸化炭素排出量の基準も入れる<ref name="ICE_roadbuilding_CO2" />。 *道路標識やトンネルの照明については、エネルギー効率の高い照明を使う<ref name="ICE_roadbuilding_CO2" />。 *道路建設のために切り倒す樹木に相当する量の樹木を、計画した道路の近くに[[植樹]]する<ref name="ICE_roadbuilding_CO2" />。 ;高速道路建設と「借金の罠」 経済効果を期待して借金で高速道路を建設するとその借金が重荷になってしまい、国の経済が抜き差しならない状況に陥ることがある。[[インド]]は高速道路の建設のために2014年-2015年に膨大な[[借金]]を行ってしまい、2020年1月には「借金の罠」に陥りそうになっている、と分析された<ref>[https://theprint.in/india/nhai-faces-debt-trap-as-borrowings-grow-1800-since-2014-15-but-construction-fails-target/354906/ NHAI faces ‘debt trap’ as borrowings grow 1800% since 2014-15, but construction fails target]</ref>。 ;アメリカの金利とアメリカでの高速建設 1929年以降で米国の経済成長率が最も高かったのは1950年代と1960年代だった。この時期には大規模な高速道路網の構築に多額の政府支出がなされた<ref name=guardian19may2015RJS />。 2015年時点であるが、経済学者の[[ロバート・シラー]]が2015年時点の米国の30年[[インフレ連動債]]の利率が0.86%との状況を見て述べたところによると、その時点では[[アメリカ政府]]はお金を借りて新しい高速道路を建造する良い機会で、アメリカで高速道路を建設すれば健全な投資になると説明した<ref name=guardian19may2015RJS>[http://www.theguardian.com/business/2015/may/19/is-the-fear-factor-holding-back-us-government-spending Is the fear factor holding back US government spending]R.J. Shiller, The Guardian, Business, 19 May 2015</ref>。(その後状況は一変し、2020年春には世界的な[[コロナ禍]]が起き、世界経済は予想外の状況になった。数年間、多くの国で外出禁止令が発令され、高速道路の利用率はその間のみ一挙に低くなった。人々はできるだけ物理的な移動や直接会うことはできるだけ控え、[[テレビ電話]]アプリや[[Zoom (アプリケーション)|Zoom]]などの[[Web会議]]アプリなどIT技術を使い、リモートでコミュニケーションをするようになり、買い物は[[ネット通販]]で済ませることが増えた。2022年2月には、ロシアがウクライナに侵攻し、西側諸国はロシアに対して大規模な経済制裁を行い、世界経済は前例のない展開を見せた)ウクライナ侵攻後アメリカでは物価の異常な高騰が起き、その物価高騰を抑えるためにアメリカ政府はそれまで維持していた低金利政策を改め金利を上げた。2022年7月時点には、アメリカ金融当局は、年末には政策金利を3.75% - 4.00%にするというような方針を打ち出すまでになった<ref>[https://www.reuters.com/markets/us/feds-bullard-says-policy-rate-should-be-least-375-by-end-2022-2022-07-15/]</ref>。つまり2015年の状況とは全然異なった状況になった)。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book |和書 |author=浅井建爾|authorlink=浅井建爾|edition= 初版|date=2001-11-10 |title=道と路がわかる辞典 |publisher=[[日本実業出版社]] |isbn=4-534-03315-X |ref=harv}} * {{Cite book |和書 |author=浅井建爾|edition= 初版|date=2015-10-10 |title=日本の道路がわかる辞典 |publisher=日本実業出版社 |isbn=978-4-534-05318-3 |ref=harv}} == 関連項目 == {{Commons|Category:Controlled-access highways}} *[[日本の高速道路]] *[[高速道路ナンバリング]] *{{仮リンク|高速道路システムの一覧|en|List of controlled-access highway systems}} *{{仮リンク|各国の道路延長一覧|en|List of countries by road network size}} {{公害}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こうそくとうろ}} [[Category:高速道路|*]] [[Category:道路の種類]]
2003-05-11T18:05:45Z
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アルフレッド・ヒッチコック
サー・アルフレッド・ジョゼフ・ヒッチコック(英: Sir Alfred Joseph Hitchcock, KBE、1899年8月13日 - 1980年4月29日)は、イギリスの映画製作者である。映画史上最も影響力のある映画監督のひとりと見なされており、イギリスとアメリカ合衆国での60年にわたるキャリアの中で50本以上の長編映画を監督した。ほとんどの作品がサスペンス映画やスリラー映画であり、革新的な映画技法や独自の作風を使用し、「サスペンスの巨匠」や「スリラーの神様」と呼ばれた。ほとんどの監督作品に小さな役でカメオ出演したことや、テレビ番組『ヒッチコック劇場』(1955年 - 1965年)のホスト役を務めたことでも広く知られている。 ヒッチコックは当初、電信ケーブル会社で技術者や広告デザイナーとして働き、1919年にサイレント映画の字幕デザイナーとして映画業界入りし、美術監督や助監督などを経て、1925年に『快楽の園(英語版)』で監督デビューした。最初の成功した映画『下宿人』(1927年)で初めてサスペンス映画を手がけ、『恐喝』(1929年)からトーキーに移行した。1930年代は『暗殺者の家』(1934年)、『三十九夜』(1935年)、『バルカン超特急』(1938年)などで高い成功を収め、1939年には映画プロデューサーのデヴィッド・O・セルズニックと契約を結んで渡米し、その1本目となる『レベッカ』(1940年)はアカデミー賞作品賞に選ばれた。1940年代はセルズニックや他社で『疑惑の影』(1943年)や『汚名』(1946年)などを撮り、さらには独立プロダクションを設立して『ロープ』(1948年)などを発表した。1950年代以後はワーナー・ブラザース、パラマウント・ピクチャーズ、ユニバーサル・ピクチャーズなどの大手映画スタジオと契約を結び、プロデューサーを兼任して『見知らぬ乗客』(1951年)、『裏窓』(1954年)、『めまい』(1958年)、『北北西に進路を取れ』(1959年)、『サイコ』(1960年)、『鳥』(1963年)などを発表し、高い評価と興行的成功を収めた。その間の1955年にはアメリカ市民権を取得した。 ヒッチコックは映像で観客の感情を操作し、サスペンスの不安や恐怖を盛り上げる演出や手法を追求した。「ヒッチコック・タッチ」と呼ばれる独自のスタイルやテーマは、登場人物の視線で描くことで観客をのぞき行為をする役割にしたことや、犯人に間違えられた男性と洗練された金髪美女が主人公のプロット、サスペンスとユーモアの組合せ、マクガフィンの設定、二重性のテーマなどを特徴とする。独自のスタイルを持つ映画作家としてのヒッチコックの評価は、1950年代にフランスの映画誌『カイエ・デュ・シネマ』の若手批評家により確立されたが、それまでは単なる娯楽映画を作る職人監督と見なされていた。ヒッチコックは生前にさまざまな栄誉を受けており、1968年に映画芸術科学アカデミーからアービング・G・タルバーグ賞を受賞し、亡くなる4か月前の1979年12月には大英帝国勲章を授与された。今日までヒッチコックの作品は、さまざまな学術的研究や批評の対象となっている。 1899年8月13日、アルフレッド・ジョゼフ・ヒッチコック(以下、ヒッチコックと表記)はイースト・ロンドン(当時はエセックスの一部)の郊外、レイトンストーン(英語版)のハイ・ロード517番地に、鶏肉店と青果物の卸売商を営む父のウィリアム・エドガー・ヒッチコックと、母のエマ・ジェーン・ヒッチコック(旧姓はホイーラン)の3人の子供の末っ子として生まれた。兄姉は9歳上のウィリアム・ダニエル・ヒッチコックと、7歳上のエレン・キャスリーン・ヒッチコック(愛称はネリー)である。一家は英国国教会の信者が多数を占めるイングランドでは少数派である、アイルランド系のローマ・カトリック教徒だった。 幼少期のヒッチコックは内向的でおとなしく、遊び友達もおらず、いつも自分で面白いことを考え出してはひとりで遊んでいた。その遊びというのは地図や時刻表を研究したり、旅行案内書を読んだり、ロンドン市内を散歩したりするというものだった。8歳になるまでにはロンドンを走る馬車鉄道の全線を制覇し、さらにイギリスのほとんどの鉄道路線の時刻表を暗唱してみせて家族を驚かせた。他にもロンドンの乗り合いバスの路線図、オリエント急行の駅名、定期船の航路とそれらの時刻表、ニューヨークの地図を暗記していた。家の壁には巨大な海図を貼り、そこに航行中のイギリス商船の日ごとの位置をつけていた。 ヒッチコックは父に「けがれなき小羊くん」と呼ばれるほど行儀が良かったが、生活全体に規律と秩序を求める人物だった父から厳しいしつけを受けた。後年にヒッチコックがマスコミや知人に好んで繰り返し話したエピソードに、5歳か6歳ぐらいの時に父のしつけで警察署の留置場に入れられたという話がある。ヒッチコックは父から手紙を持たされ、近くの警察署まで行くように命じられたが、手紙を読んだ警察官に「わるい子にはこうするんだよ」と言われ、数分間だけ留置場に閉じ込められた。ヒッチコックはこの経験がきっかけで、生涯にわたって警察や監獄に恐怖心を抱くようになり、それは自身の作品のモチーフとなって現れた。 ヒッチコックが6歳の時、一家はロンドン東部のライムハウス(英語版)に引っ越した。父はサーモンレーンの130番地と175番地の2店舗を買い取り、それぞれフィッシュアンドチップス店と魚屋として経営を始め、一家はフィッシュアンドチップス店の上階で暮らした。7歳の時には、イースト・エンドのポプラー(英語版)にあるハウラ・ハウス修道院に通い、そこで約2年間の学業を修めた。伝記作家のパトリック・マクギリガン(英語版)によると、その後ヒッチコックはローマ・カトリックの機関であるイエスの忠実な仲間(英語版)が運営する修道院学校に何回か通った可能性があるという。9歳の時には、ロンドン南部のバタシーにあるサレジオ会が運営する寄宿学校に短期間だけ入学した。 1910年、一家は再び転居してステップニーに移った。11歳になったヒッチコックは同年10月5日、スタンフォード・ヒル(英語版)にあるイエズス会のグラマースクールの聖イグナチウス・カレッジ(英語版)の昼間部に入学した。この学校は厳格な規律で知られ、1日の終わりに教師たちが硬いゴム製の鞭を使って生徒に体罰を与えていた。そのため生徒は教師に罰を宣告されると、1日が終わるまでそれを受けるという恐怖を覚えながら過ごさなければならなかった。後年にヒッチコックは、こうした経験によって自分の中に「恐怖という感情が育まれた」と述べている。その一方で規則や教師や級友に反抗し、司祭館の庭にあった鶏小屋から卵を盗んで宿舎の窓にぶつけ、怒った神父たちには知らないふりをした。そのためヒッチコックは周りから「コッキー(生意気の意)」というあだ名で呼ばれた。勉強面では優秀な生徒であり、入学1年目の終わりにはラテン語、英語、フランス語および宗教教育の成績優秀者として賞を受けた。ヒッチコック自身は「だいたいクラスで4番か5番の成績だった」と述べている。 1913年7月25日、ヒッチコックは13歳で聖イグナチウス・カレッジを修了し、正規の教育にピリオドを打った。ヒッチコックは両親にエンジニアになりたいと言い、ポプラーにある海洋技術専門学校のLondon County Council School of Engineering and Navigationの夜間コースに入学し、力学や電子工学、音響学、航海術などを学んだ。翌1914年11月(1915年初めの説もある)にはロンドンのW・T・ヘンリー電信ケーブル社に、敷設予定の電気ケーブルの太さやボルト数を測定する営業部門のテクニカルアドバイザーとして就職し、週15シリングの給料を得た。その1か月後の12月12日、父親のウィリアム・エドガーが持病の肺気腫と腎臓病のため52歳で亡くなり、兄のウィリアム・ダニエルが父の経営した店を引き継いだ。 そのうちヒッチコックは、エンジニアの仕事が面白くないと感じるようになり、1915年には仕事をしながらロンドン大学のゴールドスミス・カレッジの美術学科の夜間コースに通い、イラストの勉強をした。次第にヒッチコックの関心は芸術の方に移り、とくに映画や演劇を盛んに見るようになり、映画技術専門紙や映画業界紙を愛読した。当時のヒッチコックはイギリス映画よりもアメリカ映画の方が好きで、D・W・グリフィス監督の『國民の創生』(1915年)と『イントレランス』(1916年)に強い感銘を受けたほか、チャールズ・チャップリンやバスター・キートン、ダグラス・フェアバンクス、メアリー・ピックフォードなどの作品を好んで見ていた。 ヒッチコックがエンジニアとして働いていた間に第一次世界大戦が起きていたが、開戦した当初にヒッチコックは若過ぎるという理由で軍隊に入ることができず、1917年に適正年齢に達した時には「兵役に適さない」としてC3分類(「深刻な器質的疾患がなく、居住地の駐屯地での使用条件に耐えられるが、座っての仕事にのみ適している」)を受けた。そのためヒッチコックは王立工兵連隊(英語版)の士官候補生となり、会社で働きながら週末に訓練や演習に参加した。伝記作家のジョン・ラッセル・テイラー(英語版)によると、ハイド・パークでの実践的な演習の1つとして、巻脚絆を着用する訓練があったが、ヒッチコックは脚絆を足に巻き付けることができず、何回やっても足首にずり落ちたという。一部の伝記作家は、戦争の残虐行為が神経質なヒッチコックにトラウマ的な経験を与えたと述べている。 その後、ヒッチコックはイラストを学んでいたおかげで、ヘンリー電信ケーブル社の広告部門に転属し、会社の広告パンフレットのイラストを描く仕事をした。後年にヒッチコックは、この仕事が「映画に近づくためのステップになった」と述べている。1919年6月には、会社の従業員に6ペンスで販売された社内誌『ヘンリー・テレグラフ』の創刊編集者となり、いくつかの短編小説を寄稿した。創刊号に寄稿した最初の短編小説『Gas』は、若い女性がパリで男性の暴漢に襲われるが、それは彼女が歯医者での治療中に見た幻想だったという物語で、伝記作家のドナルド・スポトー(英語版)はこの作品から「若きヒッチコックが、読者をあやつる技法と恐怖をかもしだす術を本能的に心得ていた」と述べている。しかし、時間が経つにつれ、ヒッチコックは広告デザインの仕事に飽き始め、週15シリングの給料にも満足しなくなった。 ヒッチコックがまだヘンリー電信ケーブル社にいた頃、アメリカの映画会社フェイマス・プレイヤーズ=ラスキー(英語版)(パラマウント・ピクチャーズの前身)はロンドン北部のイズリントンにスタジオを開設し、その第1作にマリー・コレリの小説が原作の『悪魔の嘆き(英語版)』を製作予定であると発表した。ヒッチコックはこのニュースを映画業界紙で知ると興味をそそられ、会社が募集していたサイレント映画の字幕デザイナーの仕事に応募し、原作小説に目を通したあと、会社の広告部門にいた同僚の助けを借りながらその字幕デザインのサンプルを何枚か描いた。しかし、プロデューサーにサンプルを提出した頃には『悪魔の嘆き』の製作は取りやめとなり、代わりに別の作品『最後の審判(英語版)』(1920年)と『青春の呼び声(英語版)』(1921年)の製作が決定していた。ヒッチコックは雇ってもらえるかもしれないという熱意から、この2本の字幕デザインを2日以内に作成し、それがプロデューサーに気に入られて採用された。 ヒッチコックは当初、パートタイムでフェイマス・プレイヤーズ=ラスキーに雇われ、ヘンリー電信ケーブル社で働きながら字幕デザインを作成し、仕事の出来高に応じて報酬を受け取った。1921年4月にはフルタイムの従業員となり、それに伴いヘンリー電信ケーブル社を辞職した。それから約2年間、ヒッチコックは同社の11本の作品で字幕デザインを作成し、時には字幕をうまく使って内容が良くない映画のスクリプトを手直しして、映画そのものの内容を完全に変えたりもした。また、スタジオが人手不足だったことから、構図やセットの絵コンテを描くなど、担当以外の仕事をすることもあった。ヒッチコックはアメリカ人の従業員が多数を占めるこのスタジオで、自分の仕事をこなしながらアメリカ流の映画作りを学んだ。 しかし、1922年夏にフェイマス・プレイヤーズ=ラスキーはイズリントンのスタジオでの映画製作を停止し、空いたスタジオは貸しスタジオとなった。ヒッチコックは低賃金で長時間労働をしていたため解雇を逃れ、他の数人のスタッフとスタジオに留まった。この頃、ヒッチコックはこのスタジオで自主製作による初監督作品『第十三番(英語版)』(1922年)の撮影を始めた。この作品はロンドンの低層階級を描いたコメディで、主演のクレア・グリート(英語版)が資金を工面したにもかかわらず製作費は底をつき、未完成のまま終わった。1923年初頭には俳優のシーモア・ヒックス(英語版)がイズリントンのスタジオを借りて『いつも奥さんに話しなさい(英語版)』(1923年)を製作兼主演したが、当初の監督のヒュー・クロイスがヒックスとの意見の対立で降板し、ヒックスが自ら監督を務めることになったため、ヒッチコックがその演出を手伝うことになり、2人で残りのシーンを撮影した。 1923年夏、映画プロデューサーのマイケル・バルコン(英語版)の独立プロダクションがイズリントンのスタジオで映画製作を始めると、ヒッチコックはそこに雇われ、グレアム・カッツ(英語版)監督の『女対女(英語版)』『白い影(英語版)』(1923年)で助監督を務めたが、それ以外にも脚本やセットデザインも担当し、バルコンから有能なスタッフと評価された。1924年初めにバルコンがイズリントンのスタジオを買収してゲインズボロ・ピクチャーズ(英語版)を設立すると、ヒッチコックは同社で引き続きカッツの『街の恋人形(英語版)』(1924年)、『与太者(英語版)』『淑女の転落(英語版)』(1925年)で助監督、脚本、セットデザインを担当した。『与太者』はドイツの大手映画会社ウーファと共同製作し、ポツダムのバーベルスベルク・スタジオ(ドイツ語版)で撮影されたが、ヒッチコックはドイツ滞在中にF・W・ムルナウ監督の『最後の人(ドイツ語版)』(1924年)の撮影を見学し、その遠近法を強調したセットの作り方に感銘を受け、早速撮影中の『与太者』のセットデザインに採り入れた。 1925年、ゲインズボロ・ピクチャーズはミュンヘンに拠点があるエメルカ社(ドイツ語版)と共同製作で映画を作ることになり、バルコンはヒッチコックをその監督に抜擢した。助監督として充分な経験を積んでいたヒッチコックは、自分から映画監督になりたいと意思表明をしてもおかしくなかったが、当時は脚本やセットデザインの仕事に満足し、監督になることは全く考えていなかったという。同年夏、ヒッチコックはミュンヘンに派遣され、初監督作品『快楽の園(英語版)』を撮影した。この作品は2組の男女の交錯した関係を描くメロドラマで、アメリカの人気女優のヴァージニア・ヴァリ(英語版)が主演した。ロケはイタリアで行われたが、通関手続きではフィルムストックが申告漏れのため税関に没収され、ジェノヴァでは現金が盗まれ、ほかにも予定外の出費が重なるなどトラブルが続き、そのせいで製作費が不足し、俳優やスタッフにお金を借りることになった。同年夏の終わりに撮影は終了し、試写を見たバルコンはその出来に満足した。 ヒッチコックはバルコンから、もう1本ドイツで英独合作を撮影する話を持ちかけられ、1925年秋にミュンヘンのスタジオとチロル地方のロケで監督第2作『山鷲(英語版)』を撮影した。この作品は男に追い回されて山に逃げ込んだ女教師が主人公のメロドラマで、アメリカの人気女優ニタ・ナルディが主演したが、ヒッチコックはこの作品を「最低の映画」と呼んでいる。翌1926年1月にヒッチコックはイギリスに戻り、その2か月後には『快楽の園』の公開試写が行われた。『デイリー・エクスプレス』紙はこの作品を「傑出した映画」と呼び、ヒッチコックのことを「巨匠の頭脳を持った新人」と評した。しかし、配給元のW&F映画配給会社(英語版)は売り物にならないとして『快楽の園』と『山鷲』の公開を拒否し、監督3作目の『下宿人』の業界向け試写会が成功したあとの1927年にようやくイギリスで正式配給された。その後、『山鷲』のフィルムはすべて紛失し、作品について残されているものはわずか6枚の写真しかない。 1926年に撮影した『下宿人』は、ヒッチコックにとって初のサスペンス映画である。この作品は切り裂きジャックを下敷きにしたベロック・ローンズ(英語版)の同名小説が原作で、無実の若い下宿人(アイヴァー・ノヴェロ)が連続殺人犯の疑いをかけられるという物語である。ヒッチコックはこの作品でさまざまな純粋な視覚的工夫を凝らしており、例えば、女将の上の部屋にいる下宿人の足音の効果を出すために、ガラス板の天井の上を歩く下宿人を真下から撮影した。この作品には金髪女性や手錠、間違えられた男など、後の作品で繰り返し用いられるテーマやモチーフが登場し、「ヒッチコック・タッチ」と呼ばれる独自の作風を最初に示した作品となった。後年にヒッチコックは、この作品を「正真正銘のヒッチコック映画と言える最初の代物」と呼んでいる。しかし、配給会社は公開を拒否したため、ヒッチコックは若い知識人のアイヴァー・モンタギュー(英語版)の助けを借りて作品に修正を加え、1926年9月に業界向け試写会を行うと、『バイオスコープ』誌に「イギリス映画史上の最大傑作」と呼ばれるなど好評を集めた。翌1927年1月に公開されると商業的にも成功を収めた。 1926年12月2日、ヒッチコックはそれまでの3本の監督作品で助監督や記録係を担当したアルマ・レヴィルと、ロンドンのナイツブリッジにあるローマ・カトリックのブロンプトン・オラトリー(英語版)で結婚し、ロンドンのクロムウェル・ロード(英語版)153番地にある賃貸アパートの最上階で生活を始めた。夫婦はパリ、コモ湖、サンモリッツで新婚旅行をしたが、それ以来2人は事情の許すかぎり結婚記念日をサンモリッツで過ごすようにした。イギリスに戻ったあと、ヒッチコックはバルコンとの間に残る2本の契約を消化するため、まず1927年初めにアイヴァー・ノヴェロがコンスタンス・コリアと共同執筆した戯曲が原作の『ダウンヒル(英語版)』を監督した。この作品は濡れ衣を着せられた学生(ノヴェロ)が主人公のメロドラマで、同年5月の『山鷲』の公開と同じ週に上映され、『キネマトグラフ・ウィークリー(英語版)』紙に「(映像表現に優れた)監督の個人的な成功」と評された。その次にノエル・カワードの戯曲が原作のメロドラマ『ふしだらな女』(1927年8月初上映、1928年3月公開)を監督したが、不評で興行的にも失敗した。 1927年6月、ヒッチコックは前月に撮影を終えた『ふしだらの女』を最後にゲインズボロ・ピクチャーズを辞め、新しく設立されたブリティッシュ・インターナショナル・ピクチャーズ(英語版)(BIP)と契約し、その拠点のエルストリー・スタジオ(英語版)に移った。BIPではゲインズボロと比べてより良い条件と高い独立性が保証された。年俸はゲインズボロ時代の約3倍となる1万3000ポンドとなり、当時のイギリス映画界で最も高給取りの監督となった。スタジオから創造的な自由を与えられたヒッチコックは、同社第1作を自身初のオリジナル脚本で作ることにした。その作品『リング』は同じ女性に恋をした2人のボクサーを描く三角関係ものの恋愛ドラマで、同年夏に撮影し、10月に公開されると肯定的な批評を集めた。 1927年秋にはイーデン・フィルポッツの戯曲の映画化で、妻を亡くした農場主の花嫁探しを描くコメディ映画『農夫の妻』(1928年3月公開)を監督した。撮影はイギリス南部のデヴォンやサリーの田舎で行われたが、その地の風景やロンドンの喧騒から離れた静けさに魅力を感じたヒッチコックは、1928年にサリーのギルフォードから4マイルに位置する村シャムリー・グリーン(英語版)の近くにあるチューダー様式の別荘「ウィンターズ・グレース」を2500ポンドで購入し、そこで家族と週末を過ごすようになった。この頃にヒッチコックはアメリカ風のコメディ映画『シャンパーニュ(英語版)』を撮影していたが、同年夏に公開されると批評家に「一晩中、雨にさらされたシャンペン」と言われるなどして酷評され、後年にヒッチコック自身も「わたしの作品のなかで最低のもの」と述べている。 1928年7月7日、ヒッチコック夫妻の一人娘であるパトリシア・アルマ・ヒッチコック(英語版)が生まれた。それから数週間後にはホール・ケイン(英語版)の小説を映画化したメロドラマ『マンクスマン(英語版)』(1929年1月公開)を撮影したが、これはヒッチコックの最後のサイレント映画となり、翌1929年初めに撮影した『恐喝』からトーキーの時代が始まった。この作品はチャールズ・ベネット(英語版)の戯曲の映画化で、自分を犯そうとした男性をナイフで殺害し、それが原因で見知らぬ男に恐喝される女性(アニー・オンドラ(英語版))と、彼女を守る婚約者の刑事が主人公のサスペンスである。最初はサイレント版で撮影していたが、その途中で会社からトーキー化の話が生じたため、ヒッチコックはいくつかの部分を撮り直してトーキーにした。ヒッチコックは音という新しい表現手段の可能性を追求し、例えば、主人公の女性が殺人を犯した翌日の朝食のシーンでは、日常会話に「ナイフ」という言葉を繰り返し強調して、女性の罪悪感や恐怖心を際立たせた。1929年7月に作品が公開されると、批評家から熱狂的な評価を受け、商業的にも『リング』以来の成功を収めた。 1930年初め、ヒッチコックはイギリス初のミュージカル・コメディ映画『エルストリー・コーリング(英語版)』の数シーンだけを監督し、その次にショーン・オケーシーの有名な戯曲が原作の『ジュノーと孔雀(英語版)』を撮影した。ヒッチコックはこれを会話が多い非映画的な作品と見なし、それ故に気乗りのしないまま仕事に取り組んだが、同年に公開されると批評家に好意的な評価を受けた。この頃、多くのメディアからインタビューを受けたヒッチコックは、自分の名前を広く宣伝する重要性を理解し、ヒッチコックの広報活動を担う小さな会社「ヒッチコック・ベイカー・プロダクションズ」を設立した。5月にはヒッチコック作品では珍しい犯人さがしを描く謎解き映画『殺人!』(1930年公開)を監督したが、この作品はまだアフレコ技術が確立していない中でヨーロッパに売り込むため、同時に英語版とドイツ語版で撮影された。1930年末から1931年初頭にはジョン・ゴールズワージーの戯曲が原作で、成金と貴族の地主の土地をめぐる対立を描く『スキン・ゲーム(英語版)』を撮影し、2月に公開されると好評を博した。 1931年、ヒッチコック一家はカリブ海やアフリカなどを回る世界一周旅行をした。ヒッチコックの次の作品『リッチ・アンド・ストレンジ(英語版)』は、その時の経験やアルマとの新婚旅行に触発された作品であり、スポトーは「公然たる自伝ともいえる作品」と述べている。それは大金を得て世界一周旅行に出かけた夫婦を描くコメディドラマで、それまでに作ったトーキー作品への反動としてセリフのあるシーンを全体の5分の1しか設けなかった。同年8月に撮影を終え、12月に公開されたが興行的に失敗し、この作品を気に入っていたヒッチコックは失望した。この頃のヒッチコックとBIPの関係は悪化したが、BIPの経営状態も悪化し、ヒッチコックの次の作品でスリラーの舞台劇をコメディ風に映画化した『第十七番(英語版)』(1932年7月公開)は低予算で作られた。この作品も失敗作となり、ヒッチコックは「批評家たちの注意すらひかなかった」と述べている。その次もまた低予算で『キャンバー卿の夫人たち(英語版)』(1932年)の監督を命じられたが、作品に興味を示さなかったヒッチコックはプロデューサーだけを担当し、監督はベン・W・レヴィ(英語版)に任せた。そしてこの仕事を最後にBIPとの契約を終えた。 『リッチ・アンド・ストレンジ』『第十七番』の立て続けの失敗で不調となっていたヒッチコックは、BIPを去ったあとの1933年にロンドン・フィルム(英語版)のアレクサンダー・コルダと短期契約を結び、『ジャングルの上を飛ぶ翼』の監督を予定したが、資金を調達することができず、契約ごと解消となった。その次に独立系プロデューサーのトム・アーノルド(英語版)と契約を結び、ヨハン・シュトラウス2世が主人公の音楽映画『ウィンナー・ワルツ(英語版)』を撮影したが、この企画ははじめから絶望的で、ヒッチコックは撮影中に創作意欲がわかなくなった。後年にヒッチコックは「とてもわたしの作品だなんておおっぴらに言えた代物じゃない」と述べ、この時期を「最低の時代」と呼んだ。作品は1934年2月に公開されると、完全な失敗作と見なされた。 この作品の撮影中、マイケル・バルコンがヒッチコックのもとを訪れ、ヒッチコックがBIP時代にチャールズ・ベネットと共同執筆した脚本を映画化する提案をした。ヒッチコックはこれを再起のチャンスと考え、1934年にバルコンが製作担当重役を務めていたゴーモン・ブリティッシュと5本の映画を作る契約を結び、ロンドン西部のシェパーズ・ブッシュにあるライム・グローブ・スタジオに移った。映画化を決めた脚本は、同社第1作として『暗殺者の家』の題名で監督することになり、同年4月から5月にかけてベネットらとシナリオを作成し、5月から8月の間に撮影した。この作品でヒッチコックは自身が得意とするサスペンスのジャンルへ復帰し、サスペンスとユーモアの組み合わせという以後のヒッチコック作品の基本となるスタイルで、ある夫婦が大使を暗殺する計画に巻き込まれる物語を描いた。12月に公開されると大ヒットし、批評家からも賞賛され、『デイリー・エクスプレス』誌は「ヒッチコックは再びイギリスの監督の中でナンバーワンの座に躍り出た」と書いている。 この作品で名声を取り戻したヒッチコックは、作品の成功のおかげで自由に主題を選ぶことができるようになり、そこで自身が好きな作家だったジョン・バカンのスパイ小説『三十九階段』に基づく『三十九夜』を企画した。ヒッチコックはベネットらと原作に自由に改変して脚本を作り、1935年初めに撮影した。この作品も殺人に巻き込まれた男(ロバート・ドーナット)が、スパイや警察に追われながら自分の無実を証明するという物語を、前作と同様にユーモアとサスペンスを組み合わせながら速いテンポで描いた。同年6月にイギリスで公開されると前作同様に高い成功を収め、アメリカでもヒッチコック作品で過去最高のヒット作となった。 その次にヒッチコックは、サマセット・モームの短編小説集『アシェンデン』とそのいくつかのエピソードをもとにした戯曲が下敷きのスパイ映画『間諜最後の日』(1936年5月公開)を監督した。この作品は第一次世界大戦中にドイツのスパイを殺害する任務を受けたイギリスのスパイスパイ(ジョン・ギールグッド)を主人公にした物語であるが、前2作のような成功を収めることはできなかった。同作完成後の1936年1月、ヒッチコックはベネットらとスイスでジョゼフ・コンラッドの小説『密偵(英語版)』が原作の『サボタージュ』の脚本を執筆し、同年春に製作を開始した。これは妻(シルヴィア・シドニー)に内緒で破壊活動をするアナーキスト(オスカー・ホモルカ)を描いた作品で、同年に公開されると『バラエティ』誌に「監督の巧みで熟練した技が、職人的な手法で作られた巧妙なこの作品のあちこちで光っている」と評された。 『サボタージュ』の完成後、ゴーモン・ブリティッシュは財政的問題で製作部門を閉鎖し、今後は単なる配給会社になることを発表した。それによりヒッチコックは、同社の子会社になっていた古巣のゲインズボロ・ピクチャーズと2本の映画を撮る契約を結んだ。その1本目はジョセフィン・テイの小説『ロウソクのために一シリングを』が原作の『第3逃亡者』(1937年11月公開)で、1937年3月までにベネットらと脚本に取り組み、5月に撮影を終えた。この作品は殺人犯と疑われて警察に追われる無実の男の運命を描く犯罪スリラーで、『ニューヨーク・タイムズ』紙には「静かな魅力を備えた映画」と評された。 同年8月には家族と休暇のためアメリカへ旅行に出たが、関係者はこの旅行でアメリカの会社と契約を結ぶべきかどうか下見をするつもりだろうと推測した。実際にヒッチコックはイギリスの映画産業の技術的制約や、自身が過小評価されていることを強く感じていた。そしてアメリカ旅行中、ハリウッドの独立系映画会社セルズニック・インターナショナル・ピクチャーズ(英語版)を率いる映画プロデューサーのデヴィッド・O・セルズニックはヒッチコックに興味を示し、助手にヒッチコックと会うように指示した。9月に帰国する時には、ヒッチコックはセルズニックのほか、RKOやMGMなどの大手映画会社と契約交渉を進めていた。 10月、ヒッチコックはゲインズボロ・ピクチャーズでの監督2本目として、会社内で企画倒れになっていたエセル・リナ・ホワイトの小説『車輪は回る(英語版)』が原作の脚本『バルカン超特急』を取り上げた。この作品は列車内で忽然と姿を消した老婦人(メイ・ウィッティ)を捜索するイギリス人女性(マーガレット・ロックウッド)が主人公のサスペンスである。撮影は12月まで行われ、翌1938年10月に公開されると高い成功を収めた。イギリスやアメリカの批評家にも賞賛され、『ヘラルド・トリビューン』紙には「『バルカン超特急』は、セザンヌのキャンバスやストラヴィンスキーの楽譜と同様に、監督一流の想像力と技量の産物だ」と評され、『ニューヨーク・タイムズ』にはその年のベスト・ワンの作品と呼ばれた。また、ヒッチコックはこの作品で第4回ニューヨーク映画批評家協会賞の監督賞を受賞した。 この作品に取り組んでいる間も、ヒッチコックはセルズニックとの交渉は続けられた。1938年6月にヒッチコックは契約をまとめるため再びアメリカを訪れ、7月14日にセルズニックとの契約書に署名した。契約では年に1本ずつ、計4本の映画を撮り、1本あたり5万ドルのギャラを受け取ることになっていた。契約が履行されるのは1939年4月からで、ヒッチコックはアメリカへ出発するまでの間、チャールズ・ロートンとエーリッヒ・ポマー(ドイツ語版)が設立した映画製作会社メイフラワー・プロダクションズ(英語版)のために、ダフニ・デュ・モーリエの海賊冒険小説が原作のコスチューム・プレイ『巌窟の野獣』を監督した。撮影は1938年秋に行われたが、ヒッチコックは途中で作品への興味を失い、主演のロートンが自分の演技のために撮影を何度も中断するのに苛立った。1939年に公開されると興行的に成功はしたものの、批評家には酷評され、『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』誌には「この映画は妙に退屈で面白くない...型にはまった、気の抜けたメロドラマである」と批判された。 1939年2月、ヒッチコックはシャムリー・グリーンの別荘を処分し、自宅アパートの賃貸契約を終了させた。ヒッチコックはイギリスを去る前の数日間を母と過ごし、3月1日にアルマとパトリシア、秘書のジョーン・ハリソン、専属のコックとメイド、そして2匹の愛犬とともにアメリカに向けてサウサンプトンからクイーン・メリー号で出航した。その数日後に一行はニューヨークに到着し、しばらくマンハッタンに滞在したあとにロサンゼルスへ移り、ウィルシャー大通り(英語版)10331番地にあるアパートに住んだが、その数か月後にはベルエア(英語版)のセント・クラウド・ロード609番地にあるキャロル・ロンバードが所有する家に引っ越した。アメリカに移住したばかりのヒッチコックは、毎週日曜日に家族と教会のミサに出席し、定期的にビバリーヒルズのレストランで食事をとるという生活を送った。 4月10日、ヒッチコックは正式にセルズニック・インターナショナル・ピクチャーズに雇われた。その監督第1作には、当初タイタニック号沈没事故を題材にした作品が予定されていたが、セルズニックの意向で流れ、代わりにセルズニックが映画化権を購入したダフニ・デュ・モーリエの小説が原作の『レベッカ』を監督することになった。この作品は19世紀のイギリスの荘園が舞台で、先妻の思い出に付きまとわれた大富豪(ローレンス・オリヴィエ)に嫁いだアメリカ娘(ジョーン・フォンテイン)が主人公のゴシック・ロマンス風の心理スリラーである。ハリウッドではプロデューサーが映画製作の主導権を握っていたが、この作品にもセルズニックの意向や価値基準が大きく反映され、そんなセルズニックと芸術性を追求するヒッチコックとの間でたびたび軋轢が生じた。その最初の出来事は、6月上旬に提出した脚本が、原作の忠実な映画化を求めるセルズニックに「小説として見事に成功した作品を、ひねくれた俗悪な映画にする気はない」と拒否されたことだった。 同年夏に脚本の修正が終わり、9月上旬に撮影を始めたが、その最初の週に第二次世界大戦が勃発し、ヒッチコックはイギリスにいる家族の身を案じ、戦争に対する不安は映画製作にも影響を及ぼした。撮影中もヒッチコックはセルズニックの干渉に苛立ちを見せ、作品が芸術的に報われなくなると不満を露にした。スポトーはこの作品を「ヒッチコックの映画というよりセルズニックの映画である」と述べているが、他のヒッチコック作品に通じる独自の視覚的なタッチは維持された。また、ヒッチコックは「カメラの中で編集する(最終的に編集された画面に使われるシーンのみを撮影する手法)」という手法をとることで、セルズニックが編集で手を加えられないようにした。1940年3月に公開されたこの作品は、第13回アカデミー賞で作品賞を受賞し、セルズニックにオスカー像がもたらされた。ヒッチコックも自身初の監督賞にノミネートされ、作品はほかにも9部門でノミネートされた。 『レベッカ』の完成後、セルズニックはしばらくプロデューサーとしての活動を停止し、契約した俳優や監督を他社に貸し出すという方針をとったため、ヒッチコックも1944年まで他社に貸し出されて映画を撮ることになり、セルズニックの下にいる時よりも映画作りの自由度が高まった。ヒッチコックの次の作品『海外特派員』は独立系映画プロデューサーのウォルター・ウェンジャーに貸し出されて作った作品で、1940年3月に脚本を作成し、同年夏まで撮影が行われたが、製作費はそれまでのヒッチコック作品で最高額の150万ドルとなった。この作品は第二次世界大戦直前のロンドンに派遣されたアメリカ人記者(ジョエル・マクリー)が、ナチスのスパイの政治的陰謀を突き止めるという物語である。大戦への不安を抱いていたヒッチコックは、この作品であからさまにイギリスの参戦を支持し、結末にはアメリカの孤立主義の撤回を求める戦争プロパガンダの要素を取り入れた。同年8月にユナイテッド・アーティスツの配給で公開されると成功を収めたが、この頃にヒッチコックはイギリスのメディアから、祖国の戦争努力を助けるために帰国しようとせず、アメリカで無事安全に仕事をする逃亡者であると非難され、心を傷つけられた。 1940年8月、ヒッチコックはカリフォルニア州スコッツバレー近くにある200エーカーの土地を持つ別荘「コーンウォール牧場」を購入した。その翌月からはRKOに貸し出されて2本の作品を監督したが、その1本目の『スミス夫妻』は友人のキャロル・ロンバードに頼まれて監督を引き受けた作品である。これは幸せだが喧嘩の絶えない夫婦(ロンバードとロバート・モンゴメリー)を描くスクリューボール・コメディで、アメリカ時代の唯一のコメディ映画となったが、翌1941年1月に公開されると興行的成功を収めた。2本目の『断崖』はフランシス・アイルズの小説が原作で、夫(ケーリー・グラント)を殺人者と疑い彼に殺されると思い込むヒロイン(フォンテイン)が主人公の心理スリラーである。ヒッチコックははじめ、夫が妻を殺害するという結末を考えていたが、グラントのスターのイメージを損なうとしてハッピーエンドに変更させられた。同年11月に公開されると批評家や観客から好意的な評価を受け、その年のRKOの最も収益性の高い作品となった。第14回アカデミー賞では作品賞など3部門でノミネートされ、フォンテインが主演女優賞を受賞した。 『断崖』の撮影中、ヒッチコックは数人の脚本家と自身の着想による『逃走迷路』の脚本を執筆した。この作品は破壊工作員の疑いをかけられた青年(ロバート・カミングス)が主人公の物語である。セルズニックはこの脚本をユニバーサル・ピクチャーズと契約していたプロデューサーに売り、ヒッチコックは同社に貸し出されて監督することになったが、その立場上キャスティングに口出しできず、自分が望まない俳優を会社から押し付けられた。撮影は1941年12月から行われ、翌1942年春に完成して公開されると商業的成功を収めた。この時期にヒッチコックは、それまでの家の持ち主だったロンバードが飛行機の墜落事故で死亡したために新居を探すことになり、ベルエアのベラジオ・ロード10957番地にある広大な敷地を持つ家に引っ越し、ここを亡くなるまでの住みかとした。 その次にヒッチコックは、セルズニックの女性文芸部長の夫が思いついたストーリーを基にした『疑惑の影』(1943年1月公開)を、ユニバーサルでの2作目として監督した。この作品は最愛の叔父(ジョゼフ・コットン)を連続殺人犯と疑う若い娘(テレサ・ライト)が主人公のスリラーで、ほとんどのシーンはスタジオ撮影ではなく、物語の舞台であるカリフォルニア州サンタローザでロケ撮影をした。その撮影中の1942年9月26日、ヒッチコックの母親のエマが79歳で病死した。ヒッチコックは母親について公に話すことはなかったが、関係者は彼が母親を賞賛していたと述べている。その4か月後には兄のウィリアムがパラアルデヒドの過剰摂取のため52歳で亡くなったが、兄弟ははあまり親密な関係ではなかった。ヒッチコックは母と兄の死に立ち会うことはできなかったが、それを機に肥満体型だった自らの健康を危惧し、医師の助けを借りて食事療法に取り組んだ。 1942年11月、ヒッチコックはセルズニックの手配で20世紀フォックスに貸し出され、同社で2本の作品を撮影することになった。ヒッチコックはUボートに撃沈された輸送船の乗客とナチスの将校をめぐって救命艇の中だけで物語が展開する作品を構想し、アーネスト・ヘミングウェイに脚本を依頼したが断られ、次にジョン・スタインベックに依頼したが2人の共同作業はうまくいかず、最終的にジョー・スワーリング(英語版)と組んで執筆した。こうして脚本が作られた『救命艇』は、1943年8月から11月の間に撮影が行われた。セットはスタジオの巨大タンクに浮かぶ救命艇の1つだけで、カメラを常にその中に据えて撮影するという実験的手法を試みた。1944年に公開されるとさまざまな評価を受け、一部の批評家はナチスを賞賛していると批判した。第17回アカデミー賞では監督賞など3部門でノミネートされた。 1943年12月、ヒッチコックは映画製作で祖国の戦争努力に貢献する必要性を感じてイギリスに帰国し、友人で情報省(英語版)映画部長のシドニー・バーンスタイン(英語版)の依頼で、1944年1月と2月にフランスのレジスタンス運動を描く短編プロパガンダ映画『闇の逃避行(英語版)』と『マダガスカルの冒険(英語版)』の2本を撮影した。いずれも亡命したフランス人俳優の劇団モリエール・プレイヤーズが出演したフランス語作品であるが、プロパガンダに役立たないとしてフランス国内で正式に公開されることはなかった。同年6月と7月には、バースタインが製作したナチス・ドイツの強制収容所に関するドキュメンタリー『German Concentration Camps Factual Survey』にトリートメント・アドバイザーとして参加した。この作品は1945年の製作中に棚上げされ、1985年まで未発表となっていた。また、1944年10月にはセルズニックのスタジオで、アメリカの戦時国債(英語版)の販売を促進するための2分足らずのプロパガンダ映画『The Fighting Generation』を撮影した。 ヒッチコックはイギリス滞在中、精神病院が舞台の小説『ドクター・エドワーズの家(英語版)』の映画化権を取得し、1944年3月にアメリカに戻るとそれを基にした『白い恐怖』の脚本をベン・ヘクトと作成し、セルズニックの下で作る2本目の作品として監督した。この作品は精神分析を題材に扱い、自分を人殺しだと思い込む記憶喪失の精神病院の院長(グレゴリー・ペック)と、彼と恋に落ちた精神分析医(イングリッド・バーグマン)を主人公にして物語が展開され、サルバドール・ダリが夢のシーンをデザインした。撮影は同年7月から10月まで行われたが、その間にセルズニックとの契約が更新され、週給はそれまでの倍以上となる7500ドルになった。作品は1945年に公開され、800万ドルの収益を上げた。第18回アカデミー賞では作品賞や監督賞など6部門でノミネートされ、音楽を担当したミクロス・ローザが作曲賞を受賞した。 この作品の完成後、ヒッチコックは何度かイギリスへ行き、バーンスタインと独立系映画製作会社を設立するための打ち合わせをした。その間には再びヘクトと『汚名』の脚本を作成したが、セルズニックはこの作品を自分では作らず、「監督ヒッチコック=脚本ヘクト=主演バーグマン」のパッケージにしてRKOに50万ドルで売り、ヒッチコックがプロデューサーを兼任した。物語はナチスのスパイの娘(バーグマン)と彼女に協力を求めるFBIの諜報員(グラント)を主人公にして展開されるが、この作品で先見の明のあるところは、ナチスがウラン鉱石を兵器実験に使うという設定を採用したことである。その設定は広島市への原子爆弾投下よりも前の1945年3月、ヒッチコックとヘクトがカリフォルニア工科大学のロバート・ミリカンを訪ねたあとに脚本に書き加えたが、そのためにヒッチコックは一時的に連邦捜査局(FBI)の監視下に置かれた。撮影は同年10月から1946年2月まで行われ、8月に公開されると興行的成功を収め、批評家から高い評価を受けた。 その次にヒッチコックはセルズニックの下で、ロバート・ヒチェンス(英語版)の小説が原作の法廷サスペンス『パラダイン夫人の恋』を監督したが、これはセルズニックに無理に押し付けられた仕事であり、作品的にもやる気をそそられなかった。脚本はセルズニックが執筆したが、その日その日で書き進めて撮影現場に届けさせたため撮影はうまく進まず、おまけに作品に対するセルズニックの干渉も増えた。ヒッチコックはそんなセルズニックのやり方が気に食わず、絶え間ない対立で心気症に悩まされた。さらにキャスティングにも悩まされ、とくに主人公のイギリスの弁護士役のグレゴリー・ペックと下男役のルイ・ジュールダンが役柄のイメージに合わず、ミスキャストになってしまったことに弱り果てた。撮影は1946年12月から1947年5月の間に行われ、製作費は400万ドルを超えたが、これはヒッチコックのキャリアの中で2番目に高額な映画となった。同年大晦日に公開されたが批評家の反応は悪く、『ニューヨーク・タイムズ』誌には「陳腐で冗長」と評された。ヒッチコックはこの作品を最後にセルズニックとの契約を終わらせた。 ヒッチコックは、バーンスタインと新しく設立した独立系映画製作会社トランスアトランティック・ピクチャーズ(英語版)で監督兼プロデューサーとして映画作りを始め、自分の作りたいものが自由に作れるようになった。その第1作はヒッチコックの最初のカラー映画となる『ロープ』である。この作品は実際に起きたレオポルドとローブによる殺人事件を基にしたパトリック・ハミルトン(英語版)の戯曲の映画化で、知的なスリルから友人を殺害した2人の青年(ジョン・ドールとファーリー・グレンジャー)を主人公にしている。原作戯曲は舞台の幕が上がってから降りるまでの実際の上演時間に即してドラマを進行させたが、ヒッチコックこれを映画で見せるため、「テン・ミニッツ・テイク」という実験的な撮影手法を試みた。この手法はカメラのマガジンに入るフィルム1巻分(1000フィート=約10分)ごとにワンショットで撮影し、ショットの切れ目を俳優や小道具のクローズアップでカモフラージュすることで、1本の映画をまるごとワンショットのように見せた。しかし、ヒッチコックはこの手法が「映画はカット割りとモンタージュが重要」だという自身の方法論を否定していたため、「無意味な狂ったアイデアだった」と述べている。作品は1948年に公開されるとさまざまな批評を集めたが、興行的には成功しなかった。 1948年、ヒッチコックはイギリスでトランスアトランティック・ピクチャーズの監督2作目として、バーグマンが主演のコスチューム・プレイ『山羊座のもとに』(1949年9月公開)を撮影したが、この作品は興行的にも批評的にも失敗し、その後トランスアトランティック・ピクチャーズは活動を停止した。この頃にヒッチコックはタレント・エージェント業を行うMCAの顧客のひとりとなった。1949年1月にはトランスアトランティック・ピクチャーズの2本を配給したワーナー・ブラザースと、自らがプロデューサーとして題材や配役などを自由に選べるという条件で、6年半の間に4本の映画を約100万ドルの報酬で作るという契約を結んだ。その第1作である『舞台恐怖症』はジェーン・ワイマンとマレーネ・ディートリッヒが主演し、同年半ばにイギリスのスタジオで撮影した。翌1950年2月に作品が公開されたが、批評家の評価は芳しくなかった。 1949年後半から1950年初めにかけて、ヒッチコックは自由に題材を選べたにもかかわらず、創造力を思うように発揮できずにいた。それでもヒッチコックは大きな富と国際的名声を築き、株や石油の油井の所有、さらにはサンタクルーズに所有する土地でワイン用のブドウを栽培して利益を得た。1950年春にはパトリシア・ハイスミスの小説『見知らぬ乗客(英語版)』を読んで感銘を受け、自分のエージェントに映画化権の交渉を指示した。ヒッチコックは脚本を書くためにダシール・ハメットに近付いたが実現はせず、次にレイモンド・チャンドラーを雇ったが意見が合わず、9月にチャンドラーを仕事から降ろし、ベン・ヘクトの助手のチェンチ・オーモンド(英語版)と新しく脚本を書き直した。『見知らぬ乗客』は列車の中で見知らぬ男(ロバート・ウォーカー)から交換殺人を持ちかけられたテニス選手(グレンジャー)が主人公のスリラー映画である。撮影は同年のクリスマスまでに終わり、1951年6月末に公開されると成功を収め、マスコミはヒッチコックのことを「サスペンス・スリラーの巨匠」と呼んだ。 この作品の完成後、ヒッチコックは再び興味をそそられる企画を見つけることができず、新しい作品が作れないのではないかと不安に駆られたが、1952年2月に妻の提案でポール・アンセルム(英語版)の戯曲『わが二つの良心(フランス語版)』が原作の『私は告白する』の脚本に取り組んだ。この作品はローマ・カトリックの司祭(モンゴメリー・クリフト)がゆるしの秘跡の守秘義務により、殺人を告白した男のことを口外することができず、自身が殺人者と疑われるという物語である。撮影は8月から10月の間に行われたが、ヒッチコックは主演のクリフトの過度な飲酒とメソッド演技が気に入らず、2人の協力関係はあまり上手くいかなかった。この作品はユーモアの要素を欠いたヒッチコックの数少ないサスペンス映画の1本だったが、後年にヒッチコックはそれを間違いと見なした。1953年2月に公開されると、『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』紙の批評家に「本来なら切れ味の鋭いナイフのようなヒッチコックの演出が重苦しく、釈然としない状況で鈍ってしまっている」と評された。 ヒッチコックはワーナー・ブラザースとの契約の最後の作品として、デイヴィッド・ダンカン(英語版)の小説『ブランブル・ブッシュ』の映画化を企画したが、まもなくそれを諦め、1952年にロンドンとニューヨークで上演されて大ヒットしたフレデリック・ノット(英語版)原作の舞台劇『ダイヤルMを廻せ!』の映画化に取りかかった。物語は若い妻(グレース・ケリー)の殺人を企て、別の人に殺させようとする元テニス選手(レイ・ミランド)が主人公で、妻が自己防衛から襲撃者を殺してしまうことで事態は複雑になる。撮影は1953年7月から9月の間に行われ、ヒッチコックは「35日間で撮り上げた」と述べている。ワーナー・ブラザースはこの作品を当時流行した3D映画として作らせたが、1954年に公開された時には3D映画の流行はすたれ、ほとんどの劇場では通常の形で上映された。 1953年夏、ヒッチコックは自身のエージェントであるMCAのルー・ワッサーマンを介して、パラマウント・ピクチャーズと5本の映画を製作または監督し、その利益に対する歩合と作品の最終的な所有権をヒッチコック側が持つという契約を結んだ。その最初の作品はコーネル・ウールリッチの短編小説が原作の『裏窓』で、放送作家のジョン・マイケル・ヘイズ(英語版)に脚本を依頼した。この作品は足を骨折して車椅子生活を送る写真家(ジェームズ・ステュアート)が、双眼鏡で向かいのアパートの住人たちを観察するうち、そのうちの1部屋で殺人が行われたことに気付くという物語で、前作に続いてグレース・ケリーがヒロインを演じた。撮影は順調に進み、スタッフや俳優との関係も良好だった。ヒッチコックも機嫌が良く、以前のようなエネルギーと創作への熱意を取り戻し、後年には「この頃は自分のバッテリーがほんとうにフルに充電されていると思った」と述べている。1954年8月に公開されると好評を博し、公開から2年間で興行収入は1000万ドルを超えた。第27回アカデミー賞ではヒッチコックが監督賞にノミネートされた。 1954年初め、ヒッチコックはパラマウントの重役の勧めでデイヴィッド・ドッジの小説が原作の『泥棒成金』の製作を始めた。この作品は宝石泥棒の疑いをかけられた元泥棒(グラント)と、彼と恋したアメリカ人女性(ケリー)が主人公のロマンチックなサスペンスで、ビスタビジョンを使用したワイドスクリーン映画として作られた。ヒッチコックは前作で組んだヘイズと脚本を書き、初夏に物語の舞台となるフランスのリヴィエラでロケ撮影をした。翌1955年8月に公開されると北米だけで450万ドルの利益を出したが、批評家の意見は分かれた。 『泥棒成金』の撮影中、ヒッチコックはヘイズにジャック・トレヴァー・ストーリー(英語版)の短編小説が原作の『ハリーの災難』の脚本を依頼した。この作品はバーモント州の田舎を舞台に、ハリーの死で罪の意識を感じた町の人たちを描くブラック・コメディである。撮影は1954年後半に行われ、1955年10月に公開された。ヒッチコックは日本を含む世界各地を旅して宣伝に努めたが、フランス以外の国では客入りは悪く、批評も芳しくなかった。 1955年4月20日、ヒッチコックはロサンゼルス郡裁判所でアメリカ合衆国の市民権を取得した。それまでにはジェームズ・ステュアートとドリス・デイが主演の次回作『知りすぎていた男』の脚本をヘイズと作成した。この作品は『暗殺者の家』のリメイクだが、プロットにはさまざまな変更を付け加えており、後年にヒッチコックは「最初のイギリス版(『暗殺者の家』)はなにがしかの才能のあるアマチュアがつくった映画だったが、リメークのアメリカ版(『知りすぎていた男』)はプロがつくった映画だった」と述べている。撮影は同年7月までに行われ、1956年5月に公開されると興行的成功を収め、公開から1週間のうちにその年のアメリカで最高の興行収入を出した。 1955年、ヒッチコックはワッサーマンから自身のテレビシリーズを手がけることを勧められ、『知りすぎていた男』の撮影完了後にCBSとの間で30分のテレビシリーズ『ヒッチコック劇場』を作り、1エピソードにつき12万9000ドルのギャラを受け取るという契約を結んだ。ヒッチコックはジョーン・ハリソンとシリーズを作るための製作会社シャムリー・プロダクションを設立し、2人ですべてのエピソードの原作と主題を選定した。製作総指揮は元秘書でいくつかの作品の脚本に参加したハリソンが担当し、ヒッチコックは製作と監修を担当しながら、毎回番組の前後で口上を述べるホスト役として出演した。『ヒッチコック劇場』は1955年10月2日に放送開始し、7年間にわたり放送されたあと、1962年から1965年までは1時間枠の『ヒッチコック・サスペンス』として放送された。ヒッチコックはこれらのシリーズで合わせて18話のエピソードを演出した。 『ヒッチコック劇場』は非常に収益性が高く、放送当初から最も人気のある番組のひとつとなった。ヒッチコックもホスト役での出演で認知度を高め、その名を最もポピュラーなものにした。番組のタイトルシークエンスは、シャルル・グノー作曲の「操り人形の葬送行進曲」をテーマ曲に、ヒッチコック自身の手描きによる線画の自画像に横顔のシルエットがフレームインしてきておさまるという趣向で、そのあとに始まるヒッチコックの口上はユーモアにあふれ、ポーカーフェイスで飄々とした語り口で喋るのが特徴的だった。 ヒッチコックはテレビでの成功を受けて、自身の名前を使用した短編小説集をいくつか刊行した。その中には『テレビで演出することができなかった物語』『母親が私に語らなかった物語』というタイトルのものが含まれていた。これらの本はヒッチコック責任編集の名目で刊行されたが、自身の署名による序文は別人が代作しており、ヒッチコックは名前の使用だけで印税を受け取った。また、ヒッチコックは1956年にHSD出版社から刊行された犯罪と探偵小説専門の月刊雑誌『アルフレッド・ヒッチコックス・ミステリー・マガジン(英語版)(AHMM)』にも自身の名前を使うことを許可した。ヒッチコックの本の外国語版は年間最大10万ドルの収入をもたらしたが、さらに映画の興行的成功やテレビ契約などでも大きな利益を獲得し、1956年のヒッチコックの収入は400万ドルを超えた。 ヒッチコックの次の監督映画は『間違えられた男』(1956年12月公開)である。この作品は過去にワーナー・ブラザースと交わしていた、同社との契約終了後にギャラを貰わずに1本映画を監督するという約束を果たすために作った作品である。それはマクスウェル・アンダーソンが1953年に『ライフ』誌に掲載した実話を基にしており、ナイトクラブのミュージシャン(ヘンリー・フォンダ)が警察の軽率な判断によって強盗犯にでっちあげられて逮捕され、裁判にかけられる姿を描いている。撮影は1956年3月から6月の間に行われたが、ヒッチコックは実話通りに物語を展開するため、マンハッタンなど実際に事件が起きた場所でロケ撮影を行い、ドキュメンタリー・タッチのモノクロ作品にすることでリアリティを高めた。しかし、その作風はヒッチコック作品としては異色なものであり、従来の作品に見られたユーモアや独特のスタイルに欠けていたためにあまり評価されなかった。その完成後の1956年夏には、アフリカを舞台にしたローレンス・ヴァン・デル・ポストの小説『フラミンゴの羽根』の映画化を企画し、南アフリカで撮影場所の視察をしたが、製作費や原住民のエキストラの調達などで問題が生じたため企画を放棄した。 1957年1月、ヒッチコックは長年抱えていたヘルニアの悪化で手術を受けた。3月には今度は胆石の痛みに苦しみ、その除去手術を受けた。体調が回復すると、1956年後半から次回作に企画していたボワロー=ナルスジャックのミステリー小説『死者の中から(フランス語版)』が原作の『めまい』をパラマウント・ピクチャーズで製作し、9月から12月の間にスタジオと北カリフォルニアのロケで撮影を行った。物語は高所恐怖症で警察を辞めた元刑事(ステュアート)が主人公で、自殺を企てた友人の妻(キム・ノヴァク)を救ったのがきっかけで彼女に夢中となるが、その執着は悲劇につながる。この作品は現代では古典的作品に位置付けられているが、1958年の公開当時は興行的に成功せず、また賛辞の批評も少なく、『バラエティ』誌の批評家には「テンポが遅すぎて長すぎる」と評された。 2012年に発表されたイギリスの映画誌『サイト・アンド・サウンド(英語版)』による批評家の投票では、史上最高の映画に選出された。 ヒッチコックは『めまい』の次に作る映画として、ハモンド・イネス(英語版)の小説『メリー・ディア号の遭難(英語版)』の映画化を企画し、そのためにMGMと契約を結んだ。ヒッチコックはアーネスト・レーマンと仕事に取り組んだが、主題が扱いにくくて脚本作りがうまくいかず、レーマンにその代わりに「ヒッチコック映画の決定版をつくりたい」「ラシュモア山の大統領たちの顔の上で大追跡場面を撮りたい」と言ったことからオリジナル脚本の『北北西に進路を取れ』を作ることになり、レーマンは『めまい』のプリプロダクション中の1958年8月から脚本に取り組み始めた。この作品はスパイの陰謀に巻き込まれ、全米を転々としながら犯してもいない殺人の容疑を晴らすために奮闘する広告マン(グラント)が主人公のスパイ・スリラーで、構想通りにアメリカ時代のヒッチコック作品を総括するような作品となった。撮影は同年8月に開始し、翌1959年初めには編集作業に入った。MGMの重役は136分に及ぶ完成版の上映時間が長すぎるとしてカットを要求したが、ヒッチコックは契約で作品の最終決定権を保証されていたため、それを拒否することができた。1959年8月のラジオシティ・ミュージックホールでの初公開は成功し、公開から2週間で40万ドルを超える興行収入を記録した。 1959年4月、ヒッチコックは『北北西に進路を取れ』の次回作にヘンリー・セシル・レオン(英語版)の小説『判事に保釈なし(英語版)』の映画化を企画し、主演にオードリー・ヘプバーンを予定したが、実現には至らなかった。同年盛夏までには、実話に基づくロバート・ブロックの小説が原作の『サイコ』を代わりの次回作に決め、ジョセフ・ステファノに脚本を依頼した。後年にヒッチコックは、原作の「シャワーを浴びていた女が突然惨殺されるというその唐突さ」だけで映画化に踏み切ったと述べている。しかし、パラマウントの重役は「母親の服を着て、騒ぎを起こす狂人のばかばかしい話」だとして映画化を渋ったため、ヒッチコック自身が製作費を負担し、同社が配給のみを行うという条件で製作が決定した。ヒッチコックはできるだけ短期間かつ低予算で作品を完成させるため、『ヒッチコック劇場』で経験したテレビの早撮りの手法とテレビのスタッフを活用した。撮影は1959年11月から1960年1月の間にレヴュー・スタジオ(英語版)で行われたが、ヒッチコックは作品の内容が漏れないようにするため撮影を極秘のうちに進めた。 ヒッチコックはこの作品のために、自らが出演する予告編を作成したり、内容を口外しないように求める広告を出したりして大がかりな宣伝キャンペーンを展開し、初めて映画館で途中入場を禁止する興行方針を定めた。1960年4月からはこの作品の宣伝とプレミアの出席のため、アルマと世界一周旅行を兼ねて日本や香港、イタリア、フランスなどを訪れた。6月に一般公開されると批評家や観客の間でさまざまな反響を呼び、その年で最も観客を動員し、物議を醸した映画となった。製作費が約80万ドルに対して、興行収入は1500万ドルを記録し、ヒッチコックのキャリアの中で最も収益性が高い映画となった。公開当時の批評家の多くは好意的な批評を与えなかったが、後にその意見は翻った。第33回アカデミー賞では5度目の監督賞ノミネートを受けた。後年に『サイコ』は最も有名なヒッチコック作品と言われ、とくにシャワールームでの殺人シーンは映画史上の名場面に数えられ、さまざまな研究や分析がなされた。 ヒッチコックは『サイコ』の次作として、ロベール・トマの戯曲『罠(フランス語版)』の映画化や、原爆投下の使命を帯びた飛行士が主人公の『星の村』、ディズニーランドを舞台にしたサスペンス『盲目の男』を企画したが、いずれも実現はしなかった。1961年8月、ヒッチコックはすでに映画化権を購入していたダフニ・デュ・モーリエの小説『鳥(英語版)』の映画化を決め、原作からは「ある日突然、鳥が人間を襲う」というアイデアだけをいただき、エヴァン・ハンターと脚本を作成した。1962年2月にはMCAの子会社となったユニバーサル・ピクチャーズと5本の映画を作る契約を結び、スタジオ内の広々とした専用のオフィスに移転した。それと同時にヒッチコックはMCAとの契約で、自身が所有する『サイコ』と『ヒッチコック劇場』のすべての権利と引き換えに、MCAの約15万株を手に入れ、同社で3番目の大株主になった。 『鳥』はユニバーサルとの契約の1本目であり、1962年3月から7月の間に撮影が行われた。主演にはヒッチコックがテレビCMで見かけた元モデルの新人ティッピ・ヘドレンを起用したが、後年にヘドレンは撮影中にヒッチコックからセクハラを受けていたことを明らかにした。ヘドレンの自伝またはスポトーの伝記によると、ヒッチコックはヘドレンが男性俳優と交流したり触れたりすることを禁じたり、彼女だけに聞こえるように卑猥なことを言ったり、スタッフに彼女の行動を見張らせたりしたという。『鳥』は1963年3月に公開され、興行収入は最初の数か月で1100万ドルをあげたが、批評家と観客の意見は賛否両論となった。 『鳥』の次の作品となった『マーニー』は、ウィンストン・グレアム(英語版)の同名の小説(英語版)が原作で、1960年に出版された時に映画化権を手に入れていた。『鳥』撮影中の1962年3月には、すでに引退してモナコ王妃となっていたグレース・ケリー主演でこの作品を映画化することを考えていたが、ケリーとの交渉は上手くいかず、代わりにヘドレンを再び起用した。この作品は窃盗癖のある女性(ヘドレン)と、その異常性に魅かれて彼女を愛する男性(ショーン・コネリー)が主人公の心理的なメロドラマである。ヒッチコックは脚本をハンターに依頼したが、のちにジェイ・プレッソン・アレン(英語版)にまったく別のアプローチで改稿させた。ヒッチコックはこの作品のために、愛犬の名前にちなんで名付けた新しい製作会社ジェフリー・スタンリー・プロダクションを設立し、1963年9月に撮影を始めた その撮影中、ヒッチコックのヘドレンに対するセクハラはエスカレートした。ヘドレンによると、ヒッチコックはメイク部に自分のためにヘドレンの顔をかたどったマスクを作らせるよう要求したり、ヒッチコックの部屋と隣のヘドレンの控え室の間に扉を作って直接行き来できるようにしたりしたという。スポトーによると、1964年2月末のある日には、ヒッチコックは控え室でヘドレンに性的関係を求め、やがてヘドレンのキャリアを台無しにすると脅迫めいたことを言ったという。それ以来ヒッチコックはヘドレンに話しかけるのを拒み、第三者を通じてコミュニケーションをとった。そのうえ作品に対する興味も失くし、技術上のディティールやスクリーン・プロセスやセットの使い方などにも注意を払わなくなった。 1964年7月に作品は公開されたが、批評家の反応は概ね批判的で、その意見の多くは技術的な稚拙さと異常心理を極端に単純化した点の古臭さを指摘した。『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』誌は「気の毒なほど時代遅れで、情けないほど愚直―まったくの期待はずれである」と評した。作品は興行的にも失敗し、スポトーはこの作品でヒッチコックが「大衆の支持を失った」と述べている。ある新聞にはヒッチコックが「現代の観客の心をつかみそこなったばかりか、いっそう嘆かわしいことに、あのテクニックとユーモアまで失ってしまった」と書き立てられた。ユニバーサル・ピクチャーズからも失敗を繰り返さぬよう横槍が入り、この次の作品に企画したジェームス・マシュー・バリーの戯曲『メアリー・ローズ(英語版)』の映画化も、会社の反対で実現しなかった。さらにジョン・バカンのスパイ小説『三人の人質(英語版)』の映画化や、イタリアの脚本家コンビのアージェ=スカルペッリのオリジナル・シナリオで『R・R・R・R』を撮ることも企画したが、これらも実現には至らずに終わった。 3本の企画が流れたあと、ヒッチコックはイギリスの外交官ドナルド・マクリーンとガイ・バージェス(英語版)がソ連に亡命した事件をもとにしたスパイ・スリラー『引き裂かれたカーテン』を作ることに決めた。1965年5月にヒッチコックはブライアン・ムーア(英語版)と脚本に取り組んだが、スクリプトにはいくつかの問題があり、執筆作業は7月に撮影を始めてからも続けられた。主演にはユニバーサルの要求でポール・ニューマンとジュリー・アンドリュースを起用したが、彼らに支払われた莫大なギャラのせいで予算は切り詰められ、創作面にお金を使いたかったヒッチコックは2人のギャラと配役に不満を表明し、作品へのやる気も失った。1966年夏に作品は公開されたが不評を集め、それまでのヒッチコック作品に見られた上質なサスペンスやウィットがなく、精彩を欠いた作品と見なされた。『タイム』誌には「なんと、ヒッチコックがどんなに優れたタッチを披露しても、もはや優れたヒッチコック映画はできないのだ」と評された。 1966年末、ヒッチコックはイギリスの殺人犯ネヴィル・ヒース(英語版)を題材にした『狂乱と万華鏡』を企画し、旧友のベン・W・レヴィにスクリプトの作成を手伝わせた。この作品は偏執狂で同性愛者の殺人犯が主人公にしていたが、ユニバーサルはその物議を醸す内容と描写のために映画化を拒否し、ヒッチコックは企画を棚に上げることになった。1967年いっぱい、ヒッチコックは1本も映画を作ることはなく、ほとんど自宅に引きこもるような生活を送った。翌1968年夏にはユニバーサルの提案で、レオン・ユリスの小説に基づく冷戦時代のスパイ・スリラー『トパーズ』を監督することにしたが、ユリスが書いた脚本は満足のいくものではなく、サミュエル・テイラーに書き直しを依頼した。撮影はプリプロダクションが完全に終わらないうちに始まり、各シーンの撮影の2、3日前にそのシナリオを書くという具合で進められた。1969年12月に作品は公開されたが、観客や批評家からは失望ともいえる評価を受け、ヒッチコック自身も「みじめ作品だった」と述べている。 作品が3本続けて失敗したヒッチコックは、1970年に自身をたてなおすための新しい主題を探し求め、やっとロンドンで女性を襲う偏執狂の連続殺人犯を描くアーサー・ラ・バーン(英語版)の小説『Goodbye Piccadilly, Farewell Leicester Square』が原作の『フレンジー』の監督を決定し、『狂乱と万華鏡』を思い起こすような物語を撮ることを表明した。脚本はアンソニー・シェーファーが執筆し、1971年にロンドンと近郊のパインウッド・スタジオで撮影されたが、ヒッチコックにとっては約20年ぶりのイギリスでの作品となった。1972年の第25回カンヌ国際映画祭での初公開は成功し、ヒッチコックはスタンディングオベーションを受けた。この作品は高い成功を収め、北米で650万ドルの利益を出した。批評家にも晩年のキャリアの傑作と見なされ、ロジャー・イーバートは「サスペンスの巨匠、昔の調子を取り戻す」と述べ、『タイム』誌は「ヒッチコックはまだまだ好調」と評した。 1973年、全米各地ではヒッチコック作品の回顧上映が行われ、ヒッチコック自身もさまざまな栄誉や称賛を受けるようになった。この年にヒッチコックはヴィクター・カニング(英語版)の小説『階段(英語版)』の映画化権を購入し、アーネスト・レーマンと脚本執筆を始めたが、その最中に心臓発作を起こし、ペースメーカーを付けることになった。脚本執筆は1年を要し、最終的にタイトルは『ファミリー・プロット』に決定した。会社は主演にジャック・ニコルソンとライザ・ミネリを提案したが、ヒッチコックはスターに高いギャラを払うことを拒否したため、代わりにバーバラ・ハリス(英語版)とブルース・ダーンを起用した。撮影は1975年に行われたが、その間にヒッチコックは疲労困憊し、関節炎の痛みにも苦しみ、ポストプロダクションは別の人物に任せた。1976年4月に公開されると、多くの批評家から好意的な評価を受け、『ニューヨーク・タイムズ』誌には「機知に富んだ、肩のこらない愉快な作品...ひさびさに楽しいヒッチコック作品」と評された。 晩年のヒッチコックは体力が衰え、関節炎で杖を必要とするほど歩行が困難になり、コルチゾン注射を受けた。それでもヒッチコックは毎日オフィスに車で行き、次回作に取りかかろうとした。その作品はイギリス人の二重スパイのジョージ・ブレイクの実話に基づくロナルド・カークブライド(英語版)の小説『みじかい夜(英語版)』の映画化で、1977年にジェイムズ・コスティガン(英語版)に脚本を依頼したが、2人の協力関係はすぐに終わった。次にレーマンに脚本を依頼し、その出来上がりに一度は満足したが、1978年秋には3人目の脚本家デヴィッド・フリーマン(英語版)を雇って書き直しをさせた。しかし、ヒッチコックは身体の衰弱で精神的に混乱し、アルコールを乱用するようになった。友人のヒューム・クローニンによると、当時のヒッチコックは「これまで以上に悲しんでいて、ひとりぼっちになっていた」という。 1979年3月7日、ヒッチコックはアメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI)から生涯功労賞を受賞した。受賞祝賀会の模様はテレビ中継されたが、ヒッチコックのスピーチは事前に収録したもので、そのために1週間前からアルコールを断って体調を整えていた。同年5月、ヒッチコックは『みじかい夜』を作ることを断念し、ユニバーサル・ピクチャーズのスタジオ内にある自分のオフィスを閉鎖した。12月にはイギリス女王エリザベス2世により1980年の新年叙勲者(英語版)が発表され、ヒッチコックは大英帝国勲章のナイト・コマンダー(KBE)の勲位を授与された。ヒッチコックは健康状態の悪化のためロンドンでの式典に出席することができなかったため、1980年1月3日にユニバーサル・ピクチャーズのスタジオで駐米英国総領事から認証書を受け取った。そのあとに記者から「なぜ女王陛下に認めてもらうのにこんなに時間がかかったのか」と質問されると、ヒッチコックは「うっかり見落とされていたんでしょう」と答えた。 ヒッチコックは人生の最後の数か月を、ベルエアの自宅のベッドに寝たきりで過ごした。ヒッチコックが最後に公に姿を見せたのは1980年3月16日のAFI生涯功労者の授賞式で、その年の受賞者を紹介するための映像に出演した。同年4月29日午前9時17分、ヒッチコックは腎不全のため80歳で亡くなった。翌日にビバリーヒルズのグッドシェパード・カトリック教会で葬儀が行われ、ルー・ワッサーマンがスピーチを行い、フランソワ・トリュフォー、ジャネット・リー、カール・マルデン、ルイ・ジュールダン、メル・ブルックス、ティッピ・ヘドレンなど600人が参列した。ヒッチコックの遺体は火葬に付され、5月10日に灰が太平洋にまかれた。2000万ドルと見積もられたヒッチコックの財産は、妻のアルマと娘のパトリシア、そして3人の孫娘に遺贈された。 ヒッチコックはキャリアを通して、主にサスペンスまたはスリラーのジャンルに位置付けられる作品を監督した。キャリア初期にあたる1920年代のサイレント映画時代から1930年代前半のトーキー時代にかけては、サスペンスやスリラー以外にもメロドラマやコメディ、文芸映画などのジャンルも手がけているが、『暗殺者の家』以後は『スミス夫妻』を除く全作品がサスペンスまたはスリラーである。ヒッチコックの作品には「ヒッチコック的なもの」「ヒッチコックらしさ」が読み取れるほどの独自のスタイルやテーマ、サスペンスの演出技巧、モチーフが見られ、それらは「ヒッチコック・タッチ」と呼ばれている。この作風は『下宿人』で確立し、サイレントからトーキーにかけてさまざまな映画的実験や技法の実験を試みながら独自のスタイルを追求し、ハリウッドに移るまでにひとつの芸術的様式として完成された。ヒッチコック自身は「イギリス時代のわたしの仕事はわたしの映画的本能を刺激し、よびさまし、育成した...イギリス時代は映画的感覚を解放し、アメリカ時代は映画的思考を充実させたと言ってもいいかもしれない」と述べている。 ヒッチコックは初期の映画製作者であるジョルジュ・メリエス、D・W・グリフィス、アリス・ギイの影響を受けたと述べている。1920年代にはセルゲイ・エイゼンシュテイン監督の『戦艦ポチョムキン』(1925年)やフセヴォロド・プドフキン監督の『母』(1926年)などのソビエト・モンタージュ派(ロシア語版)の作品を見て、モンタージュの技術を学んだ。さらにルイス・ブニュエル監督のシュルレアリスム映画『アンダルシアの犬』(1928年)をはじめ、ルネ・クレール監督の『幕間(フランス語版)』、ジャン・コクトー監督の『詩人の血(フランス語版)』(1930年)など、1920年代後半から1930年頃のフランスのアヴァンギャルド映画の影響も受けている。ヒッチコックがサスペンス映画を撮るようになったのは、自身が愛読したエドガー・アラン・ポーの小説の影響が大きく、「わたしはどうしても自分が映画の中でやろうとしたことと、ポーが小説の中でしたことを、くらべたくなってしまう」と述べている。 1920年代のドイツ表現主義映画も、ヒッチコックの作品に大きな影響を与えた。ドイツ表現主義映画は、独特のキアロスクーロや編集技法、奇抜な構図やアングルなどの視覚的効果の強いスタイルで、第一次世界大戦後の混乱した社会や不安を表現したことで知られ、ヒッチコックはそれらの作品から1シーンの中で緊張感を作り出す方法、画面内に強い印象を与える表現を生み出す要素、光と影や人物とセットの関係の扱い方など、多くのことを学び取った。ヒッチコックは1920年代の助監督時代にドイツで仕事をした時に表現主義映画を学んだが、とくにF・W・ムルナウの作品から強い影響を受けており、彼の作品から移動撮影やキアロスクーロを学び、後年には「言葉なしで物語を語ることを学んだのはムルナウからでした」と述べている。実際にヒッチコックのモノクロ作品では、必要以上に影を強調して、不安や恐怖感を盛り上げる表現主義的な照明効果を採り入れており、その技法は「ヒッチコック・シャドゥ」と呼ばれた。また、『汚名』『見知らぬ乗客』『サイコ』などの後期モノクロ作品では、表現主義的な不安定でゆがんだイメージを与える映像を採り入れている。 「サスペンスの巨匠」と呼ばれたヒッチコックは、映像の特性を活用してサスペンスを高める手法を追究した。ヒッチコックはサスペンスの基本的要素を不安や恐怖などのエモーションと見なし、それを強く感じさせるドラマチックなシチュエーションを作り、それを作品中で持続させることで、観客に緊張感を与え続けることを映画作りの鉄則とした。このようなシチュエーションを作るために、ヒッチコックはリアリティにこだわったり、物語の辻褄を合わせるために必要なシーンを付けたりすることはせず、例え不自然でデタラメだと思われても、あり得ないようなことや偶然の連続からプロットを組み立てた。また、緊張が持続するサスペンスの中に適度なユーモアを入れることで恐怖を和らげ、緊張とリラックスを並置させた。 ヒッチコックのサスペンスは、観客にだけ知らされる状況とそれを知らない登場人物の行動との間のギャップによって生まれる。ヒッチコックは「観客がすべての事実を知ったうえで、はじめてサスペンスの形式が可能になる」と主張し、あらかじめ犯人や犯行を示したり、観客にだけこれから登場人物の身に起きる恐怖の状況を告知したりして物語を展開した。『ライフ』誌のインタビューでは、「10分後に爆発する時限爆弾が仕掛けられた部屋で3人の男が無駄話をする」というシチュエーションを例に出してこのサスペンス演出を説明した。それによると、観客も登場人物も爆弾のことを知らない場合、くだらない会話が10分間続いたあとに爆発が起き、それで観客を驚かせるだけで終わってしまうが、観客にだけ10分後に爆発することを知らせた場合は、ヒッチコック曰く「爆発寸前になって一人の男が『ここを出よう』というと、観客の誰もがそうしてくれと願う。ところが別の男が『いや、ちょっと待て。まだコーヒーが残ってる』と引き留める。観客は心の中で嘆息をつき、頼むから出ていってくれとハラハラする」という緊迫感のあるシチュエーションが生まれるという。 こうしたサスペンス演出を実践した主な作品に『知りすぎていた男』と『サボタージュ』が挙げられる。『知りすぎていた男』では演奏会で重要人物を暗殺する計画を立てた一味が殺し屋に、シンバルが打ち鳴らされる瞬間に撃てと教え、そのレコードを繰り返し聞かせるシーンがあるが、映画評論家の双葉十三郎はそれが「観客が先に覚えてしまうぐらい丁寧である」といい、演奏会のシーンになると「観客はどこで撃つかがわかっているので、演奏の進行につれてぐんぐんとサスペンスがたかまってゆく」と述べている。『サボタージュ』では少年が包みの中に時限爆弾が仕込まれていることを知らずにそれを持ち運ぶシーンがあるが、ヒッチコックは街頭の時計を何度も写して爆発の時刻が迫っていることを観客に知らせ、そこに少年が道草を食ったり、少年の乗るバスが信号で進まなかったりするシーンを入れることで、観客の緊迫感を盛り上げている。 ヒッチコックはサスペンスの緊迫感を持たせるために、さまざまな事柄を登場人物の視線から描き、観客を登場人物に同化(観客が登場人物の身に置かれ、その人物の気持ちになって見てしまうように仕向けること)させた。そのような効果を与えるために、ヒッチコックはカメラで人物を真正面からクローズアップでとらえ、切り返して人物の視線から対象をとらえるという演出を行った。『裏窓』『サイコ』『マーニー』などでは、観客と人物の視線を一致させることで、観客をのぞき行為をする登場人物の共犯者となる役割に置いた。とくに『裏窓』では望遠鏡でのぞき見をする主人公のクローズアップとその視線から対象をとらえた映像を交互につなぎ、観客の見ているものと主人公の見ているものを同じにすることで、観客をのぞき行為をする主人公の立場に置き、彼に感情移入できるような趣向にしている。 ヒッチコックは多くの作品に「マクガフィン」と呼ばれるプロット・デバイスを採り入れている。マクガフィンはサスペンスを生み出すプロットを展開するためのきっかけとして便宜上設けられたアイテムであり、登場人物にとっては重要らしいものであっても、作り手のヒッチコックや観客にとっては何の意味のないものである。マクガフィンの主な例は、『三十九夜』の国家機密の戦闘機の技術、『バルカン超特急』の暗号文を潜ませたメロディ、『海外特派員』の講和条約の秘密条項、『汚名』のワイン瓶の中のウラニウム、『北北西に進路を取れ』のマイクロフィルムやカプランという名の架空のスパイである。ヒッチコック作品のマクガフィンは、物語の中で主人公や敵が追い求めるものであるが、それ以上の重要性や意味はなく、それ自体が何であるかは作品の途中や終盤でそれとなく明かされるだけである。 ヒッチコックが繰り返し用いたテーマに、「間違えられた男(無実の罪を着せられる男)」が挙げられる。それは無実の男性主人公が突然身に覚えのない事件に巻き込まれ、その犯人と間違われ、警察やスパイに追われながら、無実を証明するために真犯人や謎を探し求めるという物語で展開される場合が多く、その例は『三十九夜』『第3逃亡者』『逃走迷路』『泥棒成金』『北北西に進路を取れ』などに見られる。ヒッチコックはこのテーマを多用した理由について、「観客により強い強烈な危機感をひき起こすから」と述べている。映画評論家の筈見有弘は、このテーマの見方を変えると「アイデンティティを失った人物がそれをとりもどそうとする旅が主題といえる」と述べている。間違えられた男の物語では、主人公がさまざまな場所を移動しながら犯人を追うというシチュエーションをとるが、その場所は有名な観光地や施設であることが多く、それを単に背景としてだけでなく、サスペンスを高めるためにその地の特色を生かして使用した。 もうひとつの頻出するテーマとして、秩序と混沌との間で分裂した人格のせめぎ合いがあり、それは「二重性(ダブル)」という概念で知られている。二重性は主人公と犯人のふたりが、同じ人物の表と裏であることや、二重人格もしくは分身同士であることを示しており、その例は『疑惑の影』の叔父と姪、『ロープ』の2人の犯人の若者と教師、『見知らぬ乗客』のガイとブルーノなどに見られる。トリュフォーも「殺人犯と濡れ衣を着せられた無実の人間は表裏一体の関係にある」と述べ、そこからヒッチコック作品に「人間の聖なる面と罪ある面との葛藤」という主題を見出している。また、トリュフォーは間違えられた男の主人公も「潜在的に犯意を持った人間」であると主張し、そこからヒッチコック作品に一貫して原罪や罪悪感のモチーフが見られると指摘している。 ヒッチコックはホモセクシュアリティの主題を扱ったことで知られ、少なくとも10本の作品にその微妙な言及が見られる。とくにホモセクシュアルを描いた作品として頻繁に指摘されるのが『殺人!』『ロープ』『見知らぬ乗客』の3本であり、エリック・ロメールとクロード・シャブロルによると、『殺人!』では道徳的観点から、『ロープ』では現実主義的観点から、『見知らぬ乗客』では精神分析的観点から、それぞれホモセクシュアリティの問題を描いているという。映画批評家のロビン・ウッド(英語版)によると、ヒッチコックはキャリアの中でゲイの俳優と仕事を共にしていたにもかかわらず、ホモセクシュアリティに対して複雑な感情を持っていたという。クィア映画研究者の菅野優香も、ヒッチコックを「ホモセクシュアルに対して複雑かつ矛盾する反応を示し続けた作家」であると主張し、ホモセクシュアリティに関するヒッチコックの反応は「ホモフォビア(同性愛嫌悪)とホモエロティシズムが奇妙に混じりあう両義的なもの」であると述べている。 スパイの諜報や、精神病質の傾向があるキャラクターによる殺人も、ヒッチコック作品でよく取り扱われるテーマである。悪役や殺人者は、知的で人間的魅力のある友好的な人物として描かれることが多く、ヒッチコックはそれが「映画のドラマの緊張をささえる重要な条件」と述べている。いくつかの作品では、観客が悪役や殺人者の立場に身を置いてしまうように描いている。ヒッチコックが子供時代から抱いた警察に対する怖れは、しばしば作品に現れるモチーフでもある。ヒッチコックは多くの作品で警察を好意的に扱わず、大抵は無実の主人公を追っかけたり、真相を話しても信用しなかったり、事件のカギを何も掴めなかったりするなど、頼れない存在として描いている。その警察が使う手錠は、警察への恐怖や奪われた自由の象徴として、多くの作品で用いた小道具である。これ以外に頻出する小道具には、カオスや人間の破滅の象徴として登場する鳥(その例は『第3逃亡者』『サボタージュ』『鳥』などに見られる)や、皮肉な効果を出すために殺人や不気味さと結び付けるようにして登場する料理(その例は『ロープ』『フレンジー』に見られる)がある。 ヒッチコックはカメラが全景をとらえてから対象に接近していくトラックアップという移動撮影法を多用した。その有名な使用例は、『第3逃亡者』のダンスホールの全景から犯人のドラマーの顔へと接近するまでをワンショットでとらえたクレーンショット、『汚名』の俯瞰で写した大広間の全景からイングリッド・バーグマンの手に握られた鍵のクローズアップへと接近するワンショット、『サイコ』の町の全景から情事が行われているホテルの窓へと接近する導入部のショットである。トリュフォーはこの撮影法による「最も遠くから最も近くへ、最大から最小へ」という表現の仕方が、ヒッチコック映画の法則のひとつであると述べている。こうした移動効果の応用として、『めまい』ではカメラをトラックバックさせながらズームアップすることで、めまいを覚えるような歪んだ映像を表現するドリーズーム(英語版)(めまいショット)という技法を創出した。 ヒッチコックはキャリアを通じて、さまざまな映像合成技術を使用した。イギリス時代の作品では、鏡とミニチュアを使って人物が大きなセットの中を動き回っているような映像効果を出すシュフタン・プロセスを採り入れ、『恐喝』の大英博物館での追跡シーンや、『暗殺者の家』のロイヤル・アルバート・ホールでのシーンなどに使用した。リア・プロジェクション(英語版)(スクリーン・プロセス)をよく使用したことでも知られたが、この技法は主に群衆シーン、列車や自動車などのシーン、『海外特派員』の飛行機の墜落や『見知らぬ乗客』のメリーゴーランドの暴走などのスペクタクルなシーンで使用されている。また、『逃走迷路』『裏窓』『めまい』の人物が高所から転落するシーンなどでは、トラベリング・マット(英語版)による背景と映像を合成する技術を使用した。この技術では合成画面の輪郭に青みがかったしみが出てしまうという欠点があったが、『鳥』ではそれを解決するためにウォルト・ディズニー・スタジオが開発した新しい合成技術ナトリウム・プロセス(英語版)を採り入れ、鳥が人間を襲うシーンの合成画面で使用した。 編集技法では、異なる場所で撮られたシーンを交互につなぐカットバックを、サスペンスを盛り上げる技法として多用した。似たような形のもの同士や、同じような動きをしたもの同士でショットをつなぐマッチカットも多用しており、その例は『北北西に進路を取れ』で主人公がヒロインを崖から引き上げると、寝台列車内のショットに切り替わるというラストシーンや、『サイコ』でジャネット・リーの瞳と排水孔をディゾルブ(英語版)でつないだシーンに見られる。また、トラッキングショットを使わずに連続的なジャンプカットで焦点距離を変化させることで、対象に近づいたり離れたりするアキシャルカット(英語版)も多用しており、その有名な使用例として『鳥』で眼をくりぬかれた農夫の死体を大中小のショットで近づいて見せるシーンが挙げられる。 ヒッチコックの女性の描写は、さまざまな学術的議論の対象となってきた。フェミニスト映画理論家のローラ・マルヴィ(英語版)は1975年に発表した論文「視覚的快楽と物語映画」で「男性のまなざし」という概念を紹介し、ヒッチコック作品における観客の視線は、異性愛者の男性主人公の視線と同じであるとし、そこから男性観客が女性の登場人物をのぞき見るという視覚的快楽が提供されていると述べている。菅野はヒッチコックの女性の描き方について、「単に美的対象とするだけでなく、その不安、苦痛、恐怖を女性観客が後味の悪さをもって感知するように仕向けた」と述べている。 ヒッチコック作品のヒロインには、多くの作品で何度も繰り返して描かれる特徴的なタイプが存在する。それは「クール・ブロンド」と呼ばれる、洗練された金髪のクールな美女である。クール・ブロンドの女性たちは知的な雰囲気を持ち、表面は冷たそうで慎ましやかに装っているが、内面には燃えたぎるような情熱や欲情を秘めている。映画評論家の山田宏一は、彼女たちがセックスを好み、結婚相手をつかまえることにかけては本能的に天才的であると指摘しているが、ヒッチコック自身はこうしたヒロインたちの行動原理を「マンハント(亭主狩り)」と定義し、多くの作品にヒロインが結婚に向けて男性を誘惑するプロットを採り入れている。 ヒッチコックはヒロイン役に、クール・ブロンドのイメージに合致する金髪の女優を好んで起用した。例えば、『三十九夜』『間諜最後の日』のマデリーン・キャロル、『レベッカ』『断崖』のジョーン・フォンテイン、『白い恐怖』『汚名』『山羊座のもとに』のイングリッド・バーグマン、『ダイヤルMを廻せ!』『裏窓』『泥棒成金』のグレース・ケリー、『知りすぎていた男』のドリス・デイ、『めまい』のキム・ノヴァク、『北北西に進路を取れ』のエヴァ・マリー・セイント、『サイコ』のジャネット・リー、『鳥』『マーニー』のティッピ・ヘドレンである。とくにグレース・ケリーは、ヒッチコックが求める理想的な女性のイメージに最も合致する女優であり、ヒッチコックは彼女のイメージを「雪をかぶった活火山(外側は冷たいが、内面は燃えたぎっている女という意味)」と表現した。 ヒッチコック作品に登場する女性たちは、しばしば危険な状況や恐怖のどん底に陥ったり、事件に巻き込まれたり、時には死に追いやられるなどして酷い目に遭うことが多い。その描写のために一部識者からは女性の価値を見下していると批判されたが、これに対してスポトーは、むしろヒッチコックは女性を『汚名』や『裏窓』のヒロインのように、愛のために進んで多くの危険を冒す勇敢な人物として描いていると主張している。山田も、女性たちは事件に巻き込まれると逃げるのではなく、事件の核心に迫り、犯人を刺激して犯罪を誘発させ、その結果事件を解決へと導いていると指摘している。 このような女性の描き方には、ヒッチコックの女性の好みが反映されている。ヒッチコックは「私自身に関して言えば、自分の性的魅力をいっぺんに晒け出してしまわない女性が好きだ。つまり、人を惹きつける特徴があまり表に出ないような人が好き」と述べている。トリュフォーのインタビューでは、「わたしたちの求めている女のイメージというのは、上流階級の洗練された女、真の淑女でありながら、寝室に入ったとたんに娼婦に変貌してしまうような、そんな女だ」と述べているが、トリュフォーはその好みが「かなり特殊」で「個性的な発想」であると述べている。ヒッチコック作品の女性に金髪が多いのも、ヒッチコックが金髪女性を好んだからであるが、スポトーによると、『快楽の園』のヴァージニア・ヴァリや『下宿人』のジューン・トリップ(英語版)などのブルネットの女優は、ヒッチコックの意向で金髪に変えられたという。その一方で、ヒッチコックはマリリン・モンローやブリジット・バルドーのようなセックスをむき出しにしたグラマー女優を「繊細さを欠いていて、まるでニュアンスがない」と言って好まなかった。 ヒッチコックは自分の作品にワンショットだけ小さな役でカメオ出演したことで知られている。ヒッチコックのカメオ出演は、『下宿人』で不足していたエキストラを補充するために自身が出演する必要に迫られたことがきっかけで、新聞社の編集室で背を向けて座る人として出演したことから始まった。それ以来、ヒッチコック曰く「まったくのお遊びのつもり」で、30本以上の作品に通行人や乗客などの役どころで顔を出した。例えば、『見知らぬ乗客』では大きなコントラバスを抱えて列車に乗り込む人、『ダイヤルMを廻せ!』では同窓会の記念写真に写る人、『裏窓』では作曲家の部屋で時計のねじを巻く人、『北北西に進路を取れ』ではバスに乗り遅れる人、『鳥』ではペットショップから2匹の子犬を連れて出てくる人、『ファミリー・プロット』ではガラスに映るシルエットとして出演した。カメオ出演はヒッチコックのユーモア精神のあらわれであり、その名前と顔を有名なものにした。作品の中でヒッチコックの姿を探すことは観客の楽しみになったが、そのせいで物語に集中できなくなるのを防ぐため、後年の作品には最初の数分で出演するように心がけた。 ヒッチコックの作品は娯楽文学や大衆小説を原作としたものが多いが、それを映画化する時は小説の文学性にとらわれず、自分が気に入った基本的なアイデアだけを採用し、あとは自分の感性に合うように内容を作り変えた。脚本を自分だけで書くことは少なく、大抵は他の脚本家と一緒に執筆したが、脚本家として自分の名前をクレジットタイトルに出すことはしなかった。ヒッチコックと何度もコンビを組んだ主な脚本家には、サイレント映画時代のエリオット・スタナード(英語版)、イギリス時代のチャールズ・ベネット(英語版)、ヒッチコックの元秘書のジョーン・ハリソン、アメリカ時代のベン・ヘクトやジョン・マイケル・ヘイズ(英語版)がいる。ヒッチコックは脚本について「よきにつけ、あしきにつけ、全体をわたしなりにつくりあげなければならない」と述べているが、筈見によると、ヒッチコックが個性のはっきりした一流脚本家と仕事を共にしたにもかかわらず、完成した作品はまったくヒッチコックのものになっているという。 脚本が完成すると、すぐに撮影に取りかかるのではなく、1ショットごとにキャラクターの設定やアクション、カメラの位置などをスケッチした詳細な絵コンテを作成し、撮影前までに頭の中で作品の全体像ができあがっているようにした。ヒッチコックはこうした紙の上ですべてのシーンを視覚化する作業を、実際に撮影を行うことよりも重要な作業と見なした。そのため紙の上で映画が完成すると、ヒッチコックの仕事は終わったも同然となり、撮影は単にすべてを具現化するだけの作業となった。映画全体を頭の中に入れていたため、撮影中に脚本を見たり、カメラを覗き込んだりすることはしなかった。製作スタッフには自分の気に入った人物や、自分が望むことを理解している人物を起用した。その主なスタッフに、イギリス時代のカメラマンのジャック・E・コックス(英語版)、アメリカ時代にチームを組んだカメラマンのロバート・バークス(英語版)、編集技師のジョージ・トマシーニ(英語版)、衣裳デザイナーのイーディス・ヘッド、作曲家のバーナード・ハーマン、タイトル・デザイナーのソウル・バスがいる。 ヒッチコックは「俳優なんてのは家畜と同じだ」と発言したことで知られている。ヒッチコックは俳優を映画の素材の一部と見なし、俳優の個性や演技力は求めず、カメラの前で演技らしいことをしないよう求めた。ヒッチコックはトリュフォーに「(俳優は)いつでも監督とカメラの意のままに映画のなかに完全に入りこめるようでなければならない。俳優はカメラにすべてをゆだねて、カメラが最高のタッチを見いだし、最高のクライマックスをつくりだせるようにしてやらなければならない」と述べている。実際にマーガレット・ロックウッドやアン・バクスターは、撮影中にヒッチコックが最小限の指示しか与えず、俳優の演技にあまり注意を払わなかったと証言している。また、ジェームズ・メイソンは、ヒッチコックが俳優を「アニメ化された小道具」と見なしていたと述べている。ヒッチコックはお気に入りの俳優と何度も仕事を共にしており、その主な俳優に4本の作品に主演したジェームズ・ステュアートとケーリー・グラント、3本の作品でヒロインを演じたイングリッド・バーグマンとグレース・ケリー、出演回数が最多の6本のレオ・G・キャロルがいる。 ヒッチコックはフェイマス・プレイヤーズ=ラスキー時代の1921年に、将来の妻となるアルマ・レヴィルと初めて出会った。アルマはヒッチコックと1日違いで生まれ、16歳頃から編集技師やスクリプターとして働いていた。ヒッチコックは1923年からアルマと仕事を共にし、翌1924年にベルリンで『与太者』を撮影したあと、イギリスへ戻る船上でアルマに婚約し、それから2年後に結婚した。2人は1980年4月にヒッチコックが亡くなるまで連れ添ったが、その2年後の1982年7月6日にアルマも後を追うように亡くなっている。 ヒッチコックはアルマのことを、「人柄は快活で、表情が曇ることは決してない。しかも有効な助言を惜し気もなく与えるとき以外には無駄口を一切きかない」と述べている。アルマはヒッチコックの映画作りの最も身近な協力者であり、いくつかの夫の作品で脚本や編集、スクリプトを担当した。ヒッチコックは映画製作のあらゆる点でアルマの意見を重視し、彼女に脚本や最終編集の助言を求めたり、配給前の完成作品の最終チェックをさせたりした。ヒッチコックとアルマは相性の良い夫婦だったが、夫婦と親しい人物が述べているように、2人は夫と妻というよりも仕事上のパートナーの間柄だった。また、カール・マルデンは、ヒッチコックがアルマを精神安定剤のような存在と見なし、すべてのことを彼女でバランスをとっていたと述べている。ヒッチコックはAFI生涯功労賞の受賞スピーチで、アルマを「わたしに最も大きな愛情と理解と勇気をあたえてくれ、終始変わらぬ協力を惜しまなかった4人...一人は映画の編集者、一人はシナリオライター、一人はわたしの娘のパット(パトリシア)の母親、一人は家庭料理に最も見事な奇跡をおこなった類いまれなる料理人です。この4人の名前はアルマ・レヴィルといいます」と称えた。 1928年に生まれたパトリシア・アルマ・ヒッチコック(英語版)は、ヒッチコックとアルマの一人娘である。パトリシアは女優になり、ヒッチコック作品にも『舞台恐怖症』で端役、『見知らぬ乗客』で主人公の恋人の妹役、『サイコ』でジャネット・リーの会社の同僚役で出演したほか、『ヒッチコック劇場』にもいくつかのエピソードに出演した。また、『ヒッチコック・ミステリー・マガジン』の副編集長も務めた。パトリシアは1952年にアメリカの実業家のジョゼフ・E・オコンネルと結婚し、2人の間にはヒッチコックの孫娘にあたるメアリ・オコンネル(1953年4月17日生)、テレサ(1954年7月2日生)、キャスリーン(1959年2月27日生)が生まれた。 ヒッチコックは生来、内気であまり人と付き合いたがらない人物だった。アメリカ時代もパーティーに出席したりするなどの社交的なことには興味がなく、パーティーではしばしばテーブルで眠り込んでしまうことがあったという。ヒッチコックは若い頃から、さまざまな恐るべきことが突如として自分の身にふりかかることを恐れ、常に最悪の事態を予期してそれに備えていた。その一方でヒッチコックはいたずらをするのが大好きで、それは単純なからかい程度のものから、相手に大きな迷惑をかける酷いものまで様々だった。例えば、ロンドンでディナー・パーティーをした時には、青い食べ物を見たことがないという理由で、提供された食べ物のすべてを青色に染めたという。またある時には、友人のジェラルド・デュ・モーリエに派手な仮装をさせて自宅のパーティーに招いたが、モーリエ以外の客は全員黒の蝶ネクタイを付けて盛装しており、一人だけ仮装をしてきたモーリエに恥をかかせるといういたずらを仕掛けた。 ヒッチコックはあまり贅沢を好まず、比較的質素な生活を送った。服装も地味で、ダークブルーのスーツと白いワイシャツ、ネクタイを着用した。秩序と習慣を重んじたヒッチコックは、毎日この同じ服を着用しており、衣類ダンスにはまったく同じスーツが6着、同じ靴が6足、同じネクタイが10本、同じワイシャツが15枚、同じ靴下が15足入っていたという。ヒッチコックの唯一で最大の贅沢は食事であり、定期的に食通好みの珍味を調達したり、毎月イギリスからベーコンやドーバー産の舌平目を空輸で取り寄せ、それをロサンゼルスの燻製保蔵処理会社に借りたスペースに山のように貯蔵したりするなど、料理や食材にこだわる美食家として知られた。日本に二度訪れた際にはいずれももっぱら松坂牛のビーフステーキを食べていた。ワイン好きとしても知られ、自宅のワイン貯蔵室にはたくさんの年代物のワインを置いていた。1960年にはフランスのディジョンで行われたブルゴーニュワイン・フェスティバルで利き酒の名手であることを示す綬章を贈られた。また、パウル・クレーやジョルジュ・ルオー、ラウル・デュフィ、モーリス・ユトリロ、モーリス・ド・ヴラマンクなどの画家の作品を収集した。 サスペンス映画を多数手がけたヒッチコックは、子供の時から犯罪や異常で悪質な行動に対して高い関心を示し、休みの日にはロンドンの中央刑事裁判所(オールド・ベイリー(英語版))で殺人事件の公判を見学してノートに記録したり、スコットランドヤードの犯罪博物館(英語版)を何度も訪れたりした。1937年に家族とアメリカへ観光旅行した時も、ロウアー・マンハッタンの警察に立ち寄り、面通しを見学したり、収監手続きや尋問などの専門的な問題に夢中になるなど、観光には相応しからぬことをして妻を当惑させたという。スポトーは「恐怖をあつかう芸術家のなかにも、ヒッチコックほど犯罪について該博な知識をもっている人はほとんどいない」と述べている。また、10代のころから広く小説を読むようになったが、愛読したのはエドガー・アラン・ポー、G・K・チェスタトン、ジョン・バカンなどの推理小説やサスペンス小説だった。 ヒッチコックは子供の時から肥満体型であり、1939年末には体重が約165キロに達し、太り過ぎで背中の痛みに苦しんだ。ヒッチコックの普段の食事はローストチキンにボイルドハム、ポテト、野菜料理、パン、ワイン1瓶、サラダ、デザート、そしてブランデーだったが、1943年には食事療法を試み、朝と昼はブラックコーヒーだけ、夕食は小さなステーキとサラダだけを食べた。その結果、約50キロの減量に成功し、それを記念に残すため『救命艇』のカメオ出演として、減量前と後の写真を劇中に登場する新聞のやせ薬の広告で使用した。このころのヒッチコックは現実に136キロから91キロに減量した矢先であり、ヒッチコックによると、この映画を見た肥満体型の人たちから、このやせ薬の入手方法を教えて欲しいという内容の手紙が殺到したという。しかし、減量を続けるのは難しく、1950年までに体重は元に戻り、それどころか前よりもさらに体重が増えてしまった。それでもヒッチコックの肥満体型は、自作へのカメオ出演や『ヒッチコック劇場』のホスト役を通じて自身のトレードマークとなり、山田宏一は「チャップリンの放浪紳士のスタイルと同じくらい有名になった」とさえ述べている。 ヒッチコックは、映画史の中で最も偉大な映画監督のひとりと見なされている。アメリカの社会学者カミール・パーリアは、「私はヒッチコックをピカソ、ストラヴィンスキー、ジョイス、プルーストと同等の位置におく」と述べている。伝記作家のジョン・ラッセル・テイラーは、ヒッチコックを「世界で最も広く認識されている人物」と呼び、映画批評家のロジャー・イーバートは「映画の世紀の前半でおそらく最も重要な人物である」と述べている。ヒッチコックは名前で観客を動員できる数少ない監督であり、作品の多くは商業的に高い成功を収め、アメリカ時代の作品だけでも1億5000万ドル以上の興行収入(インフレ調整後)を記録した。 ヒッチコック作品のうち、『裏窓』『めまい』『北北西に進路を取れ』『サイコ』の4本は、アメリカン・フィルム・インスティチュートが選出した「アメリカ映画ベスト100」(1998年)と「アメリカ映画ベスト100(10周年エディション)」(2007年)の両方にランクインされた。1992年に『サイト・アンド・サウンド(英語版)』が批評家の投票で選出した「トップ10映画監督」のリストでは4位にランクされた。2002年に同誌が発表した史上最高の監督のリストでは、批評家のトップ10の投票で2位、監督のトップ10の投票で5位にランクされた。同年には『MovieMaker』により「史上最も影響力のある映画監督」に選出され、2007年には『デイリー・テレグラフ』による批評家の投票で「イギリスで最も偉大な映画監督」に選ばれた。そのほか、1996年に『エンターテインメント・ウィークリー』が選出した「50人の最高の監督」で1位、2000年に『キネマ旬報』が著名人の投票で選出した「20世紀の映画監督 外国編」で1位、2005年に『エンパイア』が発表した「史上最高の監督トップ40」で2位、2007年に『Total Film』が発表した「100人の偉大な映画監督」で1位にランクされた。 映画デビューしてから長い間、ヒッチコックはイギリスやアメリカの英語圏である程度の商業的成功を収めていたにもかかわらず、大方の映画批評家からは器用なエンターテインメント作品を作る職人的な監督と見なされ、ストーリーテリングやテクニックは評価されても、それ以上の芸術性を持つ映画作家としては正当に評価されてこなかった。とくに1930年代にかけてのイギリスでは、知識人たちが映画を芸術ではなく下層階級向けの娯楽と見なして軽蔑し、映画批評家たちもドイツやソ連の芸術映画を賞賛する一方で、ハリウッドなどの娯楽映画を軽視する傾向があったため、その状況下で娯楽映画を作り続けたヒッチコックはジョン・グリアソン(英語版)などの見識ある映画人や批評家から「独創性を欠いている」「うぬぼれている」などと批判された。例えば、1936年にアーサー・ヴェッセロは、ヒッチコックのことを「すぐれた職人」と呼び、視覚的なテクニックを評価しながらも、「ヒッチコックの映画を全体として見た場合、知的な内容が乏しいためにまとまりがないと感じざるをえず、それゆえ失望がつきまとう」と述べた。アメリカ時代に移ってからの約10年間も真剣な批評や研究の対象になることは少なく、英語圏の映画批評はアメリカ時代よりもイギリス時代の作品を好む風潮が支配的となり、1944年にジェームズ・エイジーはヒッチコックの「凋落」が批評家の間で囁かれているとさえ述べた。 そんなヒッチコックの評価が大きく変化したのは、1951年に創刊されたフランスの映画誌『カイエ・デュ・シネマ』(以下、カイエ誌と表記)の若手映画批評家であるエリック・ロメール、クロード・シャブロル、フランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダールなどが、ヒッチコックを擁護または顕揚する批評を書き始めてからのことである。彼らは作家主義と呼ばれる批評方針を打ち出し、ヒッチコックを独自の演出スタイルや一貫した主題を持つ「映画作家(auteur)」として、同じく娯楽映画の職人監督と見なされていたハワード・ホークスとともに高く評価し、「ヒッチコック=ホークス主義」を自称して盛んにヒッチコック論を掲載した。これをきっかけにフランスでは、カイエ誌の批評家を中心とするヒッチコック支持者とその批判者との間で、芸術家としてのヒッチコックの評価をめぐる大きな論争が起きた。 1954年にカイエ誌はヒッチコック特集号を組み、トリュフォーやシャブロル、アンドレ・バザンによるヒッチコックへの取材記事などを掲載した。1957年にはロメールとシャブロルが共著で世界初のヒッチコック研究書『ヒッチコック』を刊行し、これまでカイエ誌の批評家によって盛んに論じられていた、秘密と告白や堕罪と救済などのカトリック的なヒッチコック作品の主題を真っ向から分析した。ロメールとシャブロルはこの本の掉尾で、ヒッチコックを「全映画史の中で最も偉大な、形式の発明者の一人である。おそらくムルナウとエイゼンシュテインだけが、この点に関して彼との比較に耐える。(中略)ここでは、形式は内容を飾るのではない。形式が内容を創造するのだ。ヒッチコックのすべてがこの定式に集約される」と評した。この本はヒッチコックが批評や研究の対象として本格的に取り上げられる大きなきっかけとなった。 カイエ誌の批評家がヒッチコックを称揚して以来、映画批評家の間ではヒッチコックの仕事を評価しようとする動きが広まった。1960年代から英語圏でも、作家主義の影響を受けた映画批評家を中心に、映画作家としてのヒッチコックをめぐる批評が進展した。イギリスでは、1965年にロビン・ウッド(英語版)が同国で初のヒッチコック研究書『Hitchcock’s Films』を刊行した。ウッドはヒッチコックをめぐる批評的議論が英語圏で普及するのに重要な貢献を果たしたが、ゲイ・レズビアン映画批評の先駆者でもあるウッドは、その観点からのヒッチコック作品の分析でも先鞭をつけた。アメリカでは、1962年にニューヨーク近代美術館(MoMA)で行われたヒッチコックの回顧上映に合わせて刊行されたモノグラフの著者であるピーター・ボグダノヴィッチや、長年にわたりヒッチコックを支持したアンドリュー・サリスなどが、いち早くヒッチコックの作家性を高く評価した批評家として知られる。 こうしたヒッチコックの批評や研究の世界的な進展を後押ししたのが、1966年に英仏2か国語で同時刊行されたトリュフォーによるヒッチコックへのインタビュー集成『Le Cinéma selon Alfred Hitchcock』(英語版は『Hitchcock/Truffaut』、邦訳は『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』のタイトルで1981年初版刊行)である。この本はヒッチコックの63歳の誕生日にあたる1962年8月13日から8日間にわたり、ユニバーサル・ピクチャーズのスタジオで計50時間かけて行われたインタビューを書籍化したもので、当時までに作られたヒッチコックの作品の演出や技法などを1本ずつ詳細に検証している。この本はヒッチコック研究におけるバイブルとなり、映画作家としてのヒッチコックの評価の確立に最大の貢献を果たしただけでなく、今日まで「映画の教科書」と見なされる名著として知られている。 以後、ヒッチコックをめぐる学問的議論や研究は活発になり、社会・政治批評、構造主義、精神分析学、フェミニズム、映画史研究など、さまざまな立場から多様かつ緻密な研究が行われるようになった。フェミニスト映画理論の立場では、1975年にローラ・マルヴィがその先駆的論文『視覚的快楽と物語映画』でヒッチコック作品を議論の中心に取り上げ、それ以来ヒッチコック作品は理論の定式とその映画批評の実践において常に中心的な対象であり続けた。精神分析学の立場では、1988年に哲学者のスラヴォイ・ジジェクがジャック・ラカンの精神分析学を基盤にヒッチコック作品を分析した研究書を刊行した。ヒッチコックの死後数十年が経過してからも、その作品は現代の学者や批評家の間で大きな関心を呼び、伝記作家のジーン・アデアは「今日でもヒッチコックは、おそらく映画史の中で最も研究された監督である」と述べている。ヒッチコック作品をさまざまな視点から分析するエッセイや本は市場にたくさん出回っており、マクギリガンも「ヒッチコックは他のどの映画監督よりも多くの本が書かれている」と述べている。 ヒッチコックは「サスペンスの巨匠」、日本では「スリラーの神様」などと呼ばれ、それまで低級なジャンルと見なされていたサスペンス映画やスリラー映画のイメージを変え、芸術的な1つのジャンルとして認めさせた。映画評論家の山田宏一は、「ヒッチコックはサスペンスとかスリラーとか呼ばれるジャンルの基本となる映画的プロットや映画的手法をほとんど案出し、完成させた」と述べている。とくに『サイコ』はスラッシャー映画のジャンルを創出し、『鳥』はディザスター映画のジャンルにおける1つのパターンを作った。アデアは「アルフレッド・ヒッチコックは、20世紀のほとんどの間で世界映画の巨人だった。彼の遺産は21世紀にも重要な痕跡を残し続けている」と述べている。 ヒッチコックの作品は世界の多くの映画人に影響を与え、映画評論家の須賀隆は「作り手が意識しなくてもヒッチコックの影響の痕跡が認められる」と述べている。ヒッチコックのサスペンス映画の演出スタイルやプロットを模倣した作品も多く作られ、このジャンルで注目作が出ると「ヒッチコック的」「ヒッチコック風」という表現で紹介されることもある。こうしたヒッチコックかぶれともいえるような作品や監督は「ヒッチコッキアン」と呼ばれる。ヒッチコック作品を真似した主な作品には『シャレード』(1963年、スタンリー・ドーネン監督)、『暗くなるまで待って』(1967年、テレンス・ヤング監督)、『ハンキー・パンキー(英語版)』(1982年、シドニー・ポワチエ監督)などが挙げられる。また、1977年にメル・ブルックスは、ヒッチコックの題材や設定などを片っ端からパロディ化したコメディ映画『メル・ブルックス/新サイコ』を製作した。 カイエ誌の批評家からヌーヴェルヴァーグの監督となったトリュフォーやシャブロルの作品にも、ヒッチコックの影響が見られる。トリュフォーは『黒衣の花嫁』(1968年)や『暗くなるまでこの恋を』(1969年)などでヒッチコックを意識したサスペンス映画を手がけ、シャブロルは『二重の鍵』(1959年)、『女鹿』(1968年)、『肉屋(フランス語版)』(1969年)などのサスペンス映画でヒッチコック的な主題と演出を繰り返した。1970年代以後のハリウッドの映画監督たちも、ヒッチコックを主なインスピレーションの源の1つとして引用または言及している。ブライアン・デ・パルマはキャリア初期の作品『悪魔のシスター』(1972年)、『愛のメモリー』(1976年)、『殺しのドレス』(1980年)などでヒッチコックの影響を受けており、ヒッチコックを「映画文法のパイオニア」と呼んだ。スティーヴン・スピルバーグは『ジョーズ』(1975年)などでヒッチコック作品の手法を引用した。ほかにもマーティン・スコセッシ、ジョン・カーペンター、ポール・バーホーベン、デヴィッド・フィンチャー などがヒッチコックの影響を受けている。 1985年、ヒッチコックはイギリス初の映画人の郵便切手の肖像に選ばれた。1998年8月3日にはアメリカ合衆国郵便公社が限定版の郵便切手シリーズ「Legends of Hollywood」の1つとして、ヒッチコックの肖像を印刷した32セント切手を発行した。1999年にはヒッチコックの生誕100周年を記念して、ニューヨーク近代美術館で展覧会と現存するすべての映画の上映が行われた。 2012年、ヒッチコックはアーティストのピーター・ブレイク(英語版)がデザインした『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の新しいバージョンのジャケットに、他のイギリスの文化的アイコンとともに登場した。ロンドンにはヒッチコックを記念する3つのブルー・プラークが設置されており、マダム・タッソー館の3つの分館にはヒッチコックの蝋人形が展示されている。 ヒッチコックのすべての作品は世界中で著作権保護されており(アメリカ時代の一部作品はパブリックドメインである)、アメリカ時代の作品を中心に正規版のホームビデオは広く販売されている。しかし、イギリス時代の作品は著作権保護されているにもかかわらず、パブリックドメインであるという誤解が広まり、日本を含む多くの国で海賊版のホームビデオが出回っている。ヒッチコックの作品は今日までテレビでも頻繁に放送されており、アメリカのAMCやターナー・クラシック・ムービーズなどのチャンネルのプログラムの基礎となっている。2012年には英国映画協会が現存する9本のヒッチコックのサイレント映画をデジタル修復し、翌2013年に「The Hitchcock 9」と題してブルックリン音楽アカデミー(英語版)で初上映され、2017年には日本でも上映された。 ヒッチコックが監督した長編映画は53本存在し、そのうちイギリス時代の作品は23本で、残る30本はアメリカ時代の作品である。それ以外にもヒッチコックは、未完の作品や共同監督作品、数本の短編映画を監督した。監督以外にも、キャリア初期を中心に字幕デザイナー、美術監督、助監督、プロデューサーなどを務めた作品がある。また、『ヒッチコック劇場』などのテレビシリーズでは約20本のエピソードを演出した。アメリカ国立フィルム登録簿には、『レベッカ』(1940年)、『疑惑の影』(1943年)、『汚名』(1946年)、『見知らぬ乗客』(1951年)、『裏窓』(1954年)、『めまい』(1958年)、『北北西に進路を取れ』(1959年)、『サイコ』(1960年)、『鳥』(1963年)の9本の監督作品が登録されている。 監督した長編映画 ヒッチコックはアカデミー賞の監督賞に5回ノミネートされた(『レベッカ』『救命艇』『白い恐怖』『裏窓』『サイコ』)が、1度も受賞することはなかった。ヒッチコックはそのことについて「わたしはいつも花嫁の付添い役で、けっして花嫁にはなれない」と述べている。『レベッカ』では作品賞を受賞したが、受賞者は監督のヒッチコックではなくプロデューサーのデヴィッド・O・セルズニックだったため、ヒッチコックがオスカー像を手にしたわけではなかった。1968年には映画芸術科学アカデミーから「プロデューサー個人が長期にわたり上質の作品を製作してきたこと」を称える特別賞のアービング・G・タルバーグ賞を授与された。 1960年2月8日、ヒッチコックは映画産業とテレビ放送産業への貢献により、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームで2つの星を獲得した。1964年3月7日にはアメリカの映画製作者協会(英語版)から「アメリカ映画史への貢献」に対してマイルストーン賞を授与され、1966年8月8日にはイギリスの映画テレビ技術者協会(英語版)の名誉会員に推挙された。1968年には全米監督協会から生涯功労賞にあたるD・W・グリフィス賞(英語版)を受賞した。1971年には英国映画テレビ芸術アカデミーからフェローシップ賞を贈られ、翌1972年にはハリウッド外国人映画記者協会からゴールデングローブ賞の生涯功労賞にあたるセシル・B・デミル賞を授与された。また、1974年にリンカーン・センター映画協会のチャップリン賞を受賞し、1979年にはアメリカン・フィルム・インスティチュートの生涯功労賞を受賞した。 ヒッチコックは映画賞以外にもさまざまな栄誉と称号を受けた。1963年にはサンタクララ大学から名誉博士号を受けた。1968年6月9日にはカリフォルニア大学サンタクルーズ校からも「映画界におけるすばらしい業績」に対して名誉博士号を贈られた。1969年9月5日にはフランスの芸術文化勲章を贈られ、その2年後の1971年1月14日にはレジオンドヌール勲章の5等級にあたるシュヴァリエをパリの式典で受章した。1972年6月6日にはコロンビア大学から人文科学の名誉博士号を授与された。1979年12月には大英帝国勲章の2等級にあたるナイト・コマンダー(英語版)(KBE)の称号を授けられた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "サー・アルフレッド・ジョゼフ・ヒッチコック(英: Sir Alfred Joseph Hitchcock, KBE、1899年8月13日 - 1980年4月29日)は、イギリスの映画製作者である。映画史上最も影響力のある映画監督のひとりと見なされており、イギリスとアメリカ合衆国での60年にわたるキャリアの中で50本以上の長編映画を監督した。ほとんどの作品がサスペンス映画やスリラー映画であり、革新的な映画技法や独自の作風を使用し、「サスペンスの巨匠」や「スリラーの神様」と呼ばれた。ほとんどの監督作品に小さな役でカメオ出演したことや、テレビ番組『ヒッチコック劇場』(1955年 - 1965年)のホスト役を務めたことでも広く知られている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ヒッチコックは当初、電信ケーブル会社で技術者や広告デザイナーとして働き、1919年にサイレント映画の字幕デザイナーとして映画業界入りし、美術監督や助監督などを経て、1925年に『快楽の園(英語版)』で監督デビューした。最初の成功した映画『下宿人』(1927年)で初めてサスペンス映画を手がけ、『恐喝』(1929年)からトーキーに移行した。1930年代は『暗殺者の家』(1934年)、『三十九夜』(1935年)、『バルカン超特急』(1938年)などで高い成功を収め、1939年には映画プロデューサーのデヴィッド・O・セルズニックと契約を結んで渡米し、その1本目となる『レベッカ』(1940年)はアカデミー賞作品賞に選ばれた。1940年代はセルズニックや他社で『疑惑の影』(1943年)や『汚名』(1946年)などを撮り、さらには独立プロダクションを設立して『ロープ』(1948年)などを発表した。1950年代以後はワーナー・ブラザース、パラマウント・ピクチャーズ、ユニバーサル・ピクチャーズなどの大手映画スタジオと契約を結び、プロデューサーを兼任して『見知らぬ乗客』(1951年)、『裏窓』(1954年)、『めまい』(1958年)、『北北西に進路を取れ』(1959年)、『サイコ』(1960年)、『鳥』(1963年)などを発表し、高い評価と興行的成功を収めた。その間の1955年にはアメリカ市民権を取得した。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ヒッチコックは映像で観客の感情を操作し、サスペンスの不安や恐怖を盛り上げる演出や手法を追求した。「ヒッチコック・タッチ」と呼ばれる独自のスタイルやテーマは、登場人物の視線で描くことで観客をのぞき行為をする役割にしたことや、犯人に間違えられた男性と洗練された金髪美女が主人公のプロット、サスペンスとユーモアの組合せ、マクガフィンの設定、二重性のテーマなどを特徴とする。独自のスタイルを持つ映画作家としてのヒッチコックの評価は、1950年代にフランスの映画誌『カイエ・デュ・シネマ』の若手批評家により確立されたが、それまでは単なる娯楽映画を作る職人監督と見なされていた。ヒッチコックは生前にさまざまな栄誉を受けており、1968年に映画芸術科学アカデミーからアービング・G・タルバーグ賞を受賞し、亡くなる4か月前の1979年12月には大英帝国勲章を授与された。今日までヒッチコックの作品は、さまざまな学術的研究や批評の対象となっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1899年8月13日、アルフレッド・ジョゼフ・ヒッチコック(以下、ヒッチコックと表記)はイースト・ロンドン(当時はエセックスの一部)の郊外、レイトンストーン(英語版)のハイ・ロード517番地に、鶏肉店と青果物の卸売商を営む父のウィリアム・エドガー・ヒッチコックと、母のエマ・ジェーン・ヒッチコック(旧姓はホイーラン)の3人の子供の末っ子として生まれた。兄姉は9歳上のウィリアム・ダニエル・ヒッチコックと、7歳上のエレン・キャスリーン・ヒッチコック(愛称はネリー)である。一家は英国国教会の信者が多数を占めるイングランドでは少数派である、アイルランド系のローマ・カトリック教徒だった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "幼少期のヒッチコックは内向的でおとなしく、遊び友達もおらず、いつも自分で面白いことを考え出してはひとりで遊んでいた。その遊びというのは地図や時刻表を研究したり、旅行案内書を読んだり、ロンドン市内を散歩したりするというものだった。8歳になるまでにはロンドンを走る馬車鉄道の全線を制覇し、さらにイギリスのほとんどの鉄道路線の時刻表を暗唱してみせて家族を驚かせた。他にもロンドンの乗り合いバスの路線図、オリエント急行の駅名、定期船の航路とそれらの時刻表、ニューヨークの地図を暗記していた。家の壁には巨大な海図を貼り、そこに航行中のイギリス商船の日ごとの位置をつけていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ヒッチコックは父に「けがれなき小羊くん」と呼ばれるほど行儀が良かったが、生活全体に規律と秩序を求める人物だった父から厳しいしつけを受けた。後年にヒッチコックがマスコミや知人に好んで繰り返し話したエピソードに、5歳か6歳ぐらいの時に父のしつけで警察署の留置場に入れられたという話がある。ヒッチコックは父から手紙を持たされ、近くの警察署まで行くように命じられたが、手紙を読んだ警察官に「わるい子にはこうするんだよ」と言われ、数分間だけ留置場に閉じ込められた。ヒッチコックはこの経験がきっかけで、生涯にわたって警察や監獄に恐怖心を抱くようになり、それは自身の作品のモチーフとなって現れた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ヒッチコックが6歳の時、一家はロンドン東部のライムハウス(英語版)に引っ越した。父はサーモンレーンの130番地と175番地の2店舗を買い取り、それぞれフィッシュアンドチップス店と魚屋として経営を始め、一家はフィッシュアンドチップス店の上階で暮らした。7歳の時には、イースト・エンドのポプラー(英語版)にあるハウラ・ハウス修道院に通い、そこで約2年間の学業を修めた。伝記作家のパトリック・マクギリガン(英語版)によると、その後ヒッチコックはローマ・カトリックの機関であるイエスの忠実な仲間(英語版)が運営する修道院学校に何回か通った可能性があるという。9歳の時には、ロンドン南部のバタシーにあるサレジオ会が運営する寄宿学校に短期間だけ入学した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1910年、一家は再び転居してステップニーに移った。11歳になったヒッチコックは同年10月5日、スタンフォード・ヒル(英語版)にあるイエズス会のグラマースクールの聖イグナチウス・カレッジ(英語版)の昼間部に入学した。この学校は厳格な規律で知られ、1日の終わりに教師たちが硬いゴム製の鞭を使って生徒に体罰を与えていた。そのため生徒は教師に罰を宣告されると、1日が終わるまでそれを受けるという恐怖を覚えながら過ごさなければならなかった。後年にヒッチコックは、こうした経験によって自分の中に「恐怖という感情が育まれた」と述べている。その一方で規則や教師や級友に反抗し、司祭館の庭にあった鶏小屋から卵を盗んで宿舎の窓にぶつけ、怒った神父たちには知らないふりをした。そのためヒッチコックは周りから「コッキー(生意気の意)」というあだ名で呼ばれた。勉強面では優秀な生徒であり、入学1年目の終わりにはラテン語、英語、フランス語および宗教教育の成績優秀者として賞を受けた。ヒッチコック自身は「だいたいクラスで4番か5番の成績だった」と述べている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1913年7月25日、ヒッチコックは13歳で聖イグナチウス・カレッジを修了し、正規の教育にピリオドを打った。ヒッチコックは両親にエンジニアになりたいと言い、ポプラーにある海洋技術専門学校のLondon County Council School of Engineering and Navigationの夜間コースに入学し、力学や電子工学、音響学、航海術などを学んだ。翌1914年11月(1915年初めの説もある)にはロンドンのW・T・ヘンリー電信ケーブル社に、敷設予定の電気ケーブルの太さやボルト数を測定する営業部門のテクニカルアドバイザーとして就職し、週15シリングの給料を得た。その1か月後の12月12日、父親のウィリアム・エドガーが持病の肺気腫と腎臓病のため52歳で亡くなり、兄のウィリアム・ダニエルが父の経営した店を引き継いだ。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "そのうちヒッチコックは、エンジニアの仕事が面白くないと感じるようになり、1915年には仕事をしながらロンドン大学のゴールドスミス・カレッジの美術学科の夜間コースに通い、イラストの勉強をした。次第にヒッチコックの関心は芸術の方に移り、とくに映画や演劇を盛んに見るようになり、映画技術専門紙や映画業界紙を愛読した。当時のヒッチコックはイギリス映画よりもアメリカ映画の方が好きで、D・W・グリフィス監督の『國民の創生』(1915年)と『イントレランス』(1916年)に強い感銘を受けたほか、チャールズ・チャップリンやバスター・キートン、ダグラス・フェアバンクス、メアリー・ピックフォードなどの作品を好んで見ていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ヒッチコックがエンジニアとして働いていた間に第一次世界大戦が起きていたが、開戦した当初にヒッチコックは若過ぎるという理由で軍隊に入ることができず、1917年に適正年齢に達した時には「兵役に適さない」としてC3分類(「深刻な器質的疾患がなく、居住地の駐屯地での使用条件に耐えられるが、座っての仕事にのみ適している」)を受けた。そのためヒッチコックは王立工兵連隊(英語版)の士官候補生となり、会社で働きながら週末に訓練や演習に参加した。伝記作家のジョン・ラッセル・テイラー(英語版)によると、ハイド・パークでの実践的な演習の1つとして、巻脚絆を着用する訓練があったが、ヒッチコックは脚絆を足に巻き付けることができず、何回やっても足首にずり落ちたという。一部の伝記作家は、戦争の残虐行為が神経質なヒッチコックにトラウマ的な経験を与えたと述べている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "その後、ヒッチコックはイラストを学んでいたおかげで、ヘンリー電信ケーブル社の広告部門に転属し、会社の広告パンフレットのイラストを描く仕事をした。後年にヒッチコックは、この仕事が「映画に近づくためのステップになった」と述べている。1919年6月には、会社の従業員に6ペンスで販売された社内誌『ヘンリー・テレグラフ』の創刊編集者となり、いくつかの短編小説を寄稿した。創刊号に寄稿した最初の短編小説『Gas』は、若い女性がパリで男性の暴漢に襲われるが、それは彼女が歯医者での治療中に見た幻想だったという物語で、伝記作家のドナルド・スポトー(英語版)はこの作品から「若きヒッチコックが、読者をあやつる技法と恐怖をかもしだす術を本能的に心得ていた」と述べている。しかし、時間が経つにつれ、ヒッチコックは広告デザインの仕事に飽き始め、週15シリングの給料にも満足しなくなった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ヒッチコックがまだヘンリー電信ケーブル社にいた頃、アメリカの映画会社フェイマス・プレイヤーズ=ラスキー(英語版)(パラマウント・ピクチャーズの前身)はロンドン北部のイズリントンにスタジオを開設し、その第1作にマリー・コレリの小説が原作の『悪魔の嘆き(英語版)』を製作予定であると発表した。ヒッチコックはこのニュースを映画業界紙で知ると興味をそそられ、会社が募集していたサイレント映画の字幕デザイナーの仕事に応募し、原作小説に目を通したあと、会社の広告部門にいた同僚の助けを借りながらその字幕デザインのサンプルを何枚か描いた。しかし、プロデューサーにサンプルを提出した頃には『悪魔の嘆き』の製作は取りやめとなり、代わりに別の作品『最後の審判(英語版)』(1920年)と『青春の呼び声(英語版)』(1921年)の製作が決定していた。ヒッチコックは雇ってもらえるかもしれないという熱意から、この2本の字幕デザインを2日以内に作成し、それがプロデューサーに気に入られて採用された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ヒッチコックは当初、パートタイムでフェイマス・プレイヤーズ=ラスキーに雇われ、ヘンリー電信ケーブル社で働きながら字幕デザインを作成し、仕事の出来高に応じて報酬を受け取った。1921年4月にはフルタイムの従業員となり、それに伴いヘンリー電信ケーブル社を辞職した。それから約2年間、ヒッチコックは同社の11本の作品で字幕デザインを作成し、時には字幕をうまく使って内容が良くない映画のスクリプトを手直しして、映画そのものの内容を完全に変えたりもした。また、スタジオが人手不足だったことから、構図やセットの絵コンテを描くなど、担当以外の仕事をすることもあった。ヒッチコックはアメリカ人の従業員が多数を占めるこのスタジオで、自分の仕事をこなしながらアメリカ流の映画作りを学んだ。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "しかし、1922年夏にフェイマス・プレイヤーズ=ラスキーはイズリントンのスタジオでの映画製作を停止し、空いたスタジオは貸しスタジオとなった。ヒッチコックは低賃金で長時間労働をしていたため解雇を逃れ、他の数人のスタッフとスタジオに留まった。この頃、ヒッチコックはこのスタジオで自主製作による初監督作品『第十三番(英語版)』(1922年)の撮影を始めた。この作品はロンドンの低層階級を描いたコメディで、主演のクレア・グリート(英語版)が資金を工面したにもかかわらず製作費は底をつき、未完成のまま終わった。1923年初頭には俳優のシーモア・ヒックス(英語版)がイズリントンのスタジオを借りて『いつも奥さんに話しなさい(英語版)』(1923年)を製作兼主演したが、当初の監督のヒュー・クロイスがヒックスとの意見の対立で降板し、ヒックスが自ら監督を務めることになったため、ヒッチコックがその演出を手伝うことになり、2人で残りのシーンを撮影した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1923年夏、映画プロデューサーのマイケル・バルコン(英語版)の独立プロダクションがイズリントンのスタジオで映画製作を始めると、ヒッチコックはそこに雇われ、グレアム・カッツ(英語版)監督の『女対女(英語版)』『白い影(英語版)』(1923年)で助監督を務めたが、それ以外にも脚本やセットデザインも担当し、バルコンから有能なスタッフと評価された。1924年初めにバルコンがイズリントンのスタジオを買収してゲインズボロ・ピクチャーズ(英語版)を設立すると、ヒッチコックは同社で引き続きカッツの『街の恋人形(英語版)』(1924年)、『与太者(英語版)』『淑女の転落(英語版)』(1925年)で助監督、脚本、セットデザインを担当した。『与太者』はドイツの大手映画会社ウーファと共同製作し、ポツダムのバーベルスベルク・スタジオ(ドイツ語版)で撮影されたが、ヒッチコックはドイツ滞在中にF・W・ムルナウ監督の『最後の人(ドイツ語版)』(1924年)の撮影を見学し、その遠近法を強調したセットの作り方に感銘を受け、早速撮影中の『与太者』のセットデザインに採り入れた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1925年、ゲインズボロ・ピクチャーズはミュンヘンに拠点があるエメルカ社(ドイツ語版)と共同製作で映画を作ることになり、バルコンはヒッチコックをその監督に抜擢した。助監督として充分な経験を積んでいたヒッチコックは、自分から映画監督になりたいと意思表明をしてもおかしくなかったが、当時は脚本やセットデザインの仕事に満足し、監督になることは全く考えていなかったという。同年夏、ヒッチコックはミュンヘンに派遣され、初監督作品『快楽の園(英語版)』を撮影した。この作品は2組の男女の交錯した関係を描くメロドラマで、アメリカの人気女優のヴァージニア・ヴァリ(英語版)が主演した。ロケはイタリアで行われたが、通関手続きではフィルムストックが申告漏れのため税関に没収され、ジェノヴァでは現金が盗まれ、ほかにも予定外の出費が重なるなどトラブルが続き、そのせいで製作費が不足し、俳優やスタッフにお金を借りることになった。同年夏の終わりに撮影は終了し、試写を見たバルコンはその出来に満足した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ヒッチコックはバルコンから、もう1本ドイツで英独合作を撮影する話を持ちかけられ、1925年秋にミュンヘンのスタジオとチロル地方のロケで監督第2作『山鷲(英語版)』を撮影した。この作品は男に追い回されて山に逃げ込んだ女教師が主人公のメロドラマで、アメリカの人気女優ニタ・ナルディが主演したが、ヒッチコックはこの作品を「最低の映画」と呼んでいる。翌1926年1月にヒッチコックはイギリスに戻り、その2か月後には『快楽の園』の公開試写が行われた。『デイリー・エクスプレス』紙はこの作品を「傑出した映画」と呼び、ヒッチコックのことを「巨匠の頭脳を持った新人」と評した。しかし、配給元のW&F映画配給会社(英語版)は売り物にならないとして『快楽の園』と『山鷲』の公開を拒否し、監督3作目の『下宿人』の業界向け試写会が成功したあとの1927年にようやくイギリスで正式配給された。その後、『山鷲』のフィルムはすべて紛失し、作品について残されているものはわずか6枚の写真しかない。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1926年に撮影した『下宿人』は、ヒッチコックにとって初のサスペンス映画である。この作品は切り裂きジャックを下敷きにしたベロック・ローンズ(英語版)の同名小説が原作で、無実の若い下宿人(アイヴァー・ノヴェロ)が連続殺人犯の疑いをかけられるという物語である。ヒッチコックはこの作品でさまざまな純粋な視覚的工夫を凝らしており、例えば、女将の上の部屋にいる下宿人の足音の効果を出すために、ガラス板の天井の上を歩く下宿人を真下から撮影した。この作品には金髪女性や手錠、間違えられた男など、後の作品で繰り返し用いられるテーマやモチーフが登場し、「ヒッチコック・タッチ」と呼ばれる独自の作風を最初に示した作品となった。後年にヒッチコックは、この作品を「正真正銘のヒッチコック映画と言える最初の代物」と呼んでいる。しかし、配給会社は公開を拒否したため、ヒッチコックは若い知識人のアイヴァー・モンタギュー(英語版)の助けを借りて作品に修正を加え、1926年9月に業界向け試写会を行うと、『バイオスコープ』誌に「イギリス映画史上の最大傑作」と呼ばれるなど好評を集めた。翌1927年1月に公開されると商業的にも成功を収めた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1926年12月2日、ヒッチコックはそれまでの3本の監督作品で助監督や記録係を担当したアルマ・レヴィルと、ロンドンのナイツブリッジにあるローマ・カトリックのブロンプトン・オラトリー(英語版)で結婚し、ロンドンのクロムウェル・ロード(英語版)153番地にある賃貸アパートの最上階で生活を始めた。夫婦はパリ、コモ湖、サンモリッツで新婚旅行をしたが、それ以来2人は事情の許すかぎり結婚記念日をサンモリッツで過ごすようにした。イギリスに戻ったあと、ヒッチコックはバルコンとの間に残る2本の契約を消化するため、まず1927年初めにアイヴァー・ノヴェロがコンスタンス・コリアと共同執筆した戯曲が原作の『ダウンヒル(英語版)』を監督した。この作品は濡れ衣を着せられた学生(ノヴェロ)が主人公のメロドラマで、同年5月の『山鷲』の公開と同じ週に上映され、『キネマトグラフ・ウィークリー(英語版)』紙に「(映像表現に優れた)監督の個人的な成功」と評された。その次にノエル・カワードの戯曲が原作のメロドラマ『ふしだらな女』(1927年8月初上映、1928年3月公開)を監督したが、不評で興行的にも失敗した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1927年6月、ヒッチコックは前月に撮影を終えた『ふしだらの女』を最後にゲインズボロ・ピクチャーズを辞め、新しく設立されたブリティッシュ・インターナショナル・ピクチャーズ(英語版)(BIP)と契約し、その拠点のエルストリー・スタジオ(英語版)に移った。BIPではゲインズボロと比べてより良い条件と高い独立性が保証された。年俸はゲインズボロ時代の約3倍となる1万3000ポンドとなり、当時のイギリス映画界で最も高給取りの監督となった。スタジオから創造的な自由を与えられたヒッチコックは、同社第1作を自身初のオリジナル脚本で作ることにした。その作品『リング』は同じ女性に恋をした2人のボクサーを描く三角関係ものの恋愛ドラマで、同年夏に撮影し、10月に公開されると肯定的な批評を集めた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1927年秋にはイーデン・フィルポッツの戯曲の映画化で、妻を亡くした農場主の花嫁探しを描くコメディ映画『農夫の妻』(1928年3月公開)を監督した。撮影はイギリス南部のデヴォンやサリーの田舎で行われたが、その地の風景やロンドンの喧騒から離れた静けさに魅力を感じたヒッチコックは、1928年にサリーのギルフォードから4マイルに位置する村シャムリー・グリーン(英語版)の近くにあるチューダー様式の別荘「ウィンターズ・グレース」を2500ポンドで購入し、そこで家族と週末を過ごすようになった。この頃にヒッチコックはアメリカ風のコメディ映画『シャンパーニュ(英語版)』を撮影していたが、同年夏に公開されると批評家に「一晩中、雨にさらされたシャンペン」と言われるなどして酷評され、後年にヒッチコック自身も「わたしの作品のなかで最低のもの」と述べている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1928年7月7日、ヒッチコック夫妻の一人娘であるパトリシア・アルマ・ヒッチコック(英語版)が生まれた。それから数週間後にはホール・ケイン(英語版)の小説を映画化したメロドラマ『マンクスマン(英語版)』(1929年1月公開)を撮影したが、これはヒッチコックの最後のサイレント映画となり、翌1929年初めに撮影した『恐喝』からトーキーの時代が始まった。この作品はチャールズ・ベネット(英語版)の戯曲の映画化で、自分を犯そうとした男性をナイフで殺害し、それが原因で見知らぬ男に恐喝される女性(アニー・オンドラ(英語版))と、彼女を守る婚約者の刑事が主人公のサスペンスである。最初はサイレント版で撮影していたが、その途中で会社からトーキー化の話が生じたため、ヒッチコックはいくつかの部分を撮り直してトーキーにした。ヒッチコックは音という新しい表現手段の可能性を追求し、例えば、主人公の女性が殺人を犯した翌日の朝食のシーンでは、日常会話に「ナイフ」という言葉を繰り返し強調して、女性の罪悪感や恐怖心を際立たせた。1929年7月に作品が公開されると、批評家から熱狂的な評価を受け、商業的にも『リング』以来の成功を収めた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1930年初め、ヒッチコックはイギリス初のミュージカル・コメディ映画『エルストリー・コーリング(英語版)』の数シーンだけを監督し、その次にショーン・オケーシーの有名な戯曲が原作の『ジュノーと孔雀(英語版)』を撮影した。ヒッチコックはこれを会話が多い非映画的な作品と見なし、それ故に気乗りのしないまま仕事に取り組んだが、同年に公開されると批評家に好意的な評価を受けた。この頃、多くのメディアからインタビューを受けたヒッチコックは、自分の名前を広く宣伝する重要性を理解し、ヒッチコックの広報活動を担う小さな会社「ヒッチコック・ベイカー・プロダクションズ」を設立した。5月にはヒッチコック作品では珍しい犯人さがしを描く謎解き映画『殺人!』(1930年公開)を監督したが、この作品はまだアフレコ技術が確立していない中でヨーロッパに売り込むため、同時に英語版とドイツ語版で撮影された。1930年末から1931年初頭にはジョン・ゴールズワージーの戯曲が原作で、成金と貴族の地主の土地をめぐる対立を描く『スキン・ゲーム(英語版)』を撮影し、2月に公開されると好評を博した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1931年、ヒッチコック一家はカリブ海やアフリカなどを回る世界一周旅行をした。ヒッチコックの次の作品『リッチ・アンド・ストレンジ(英語版)』は、その時の経験やアルマとの新婚旅行に触発された作品であり、スポトーは「公然たる自伝ともいえる作品」と述べている。それは大金を得て世界一周旅行に出かけた夫婦を描くコメディドラマで、それまでに作ったトーキー作品への反動としてセリフのあるシーンを全体の5分の1しか設けなかった。同年8月に撮影を終え、12月に公開されたが興行的に失敗し、この作品を気に入っていたヒッチコックは失望した。この頃のヒッチコックとBIPの関係は悪化したが、BIPの経営状態も悪化し、ヒッチコックの次の作品でスリラーの舞台劇をコメディ風に映画化した『第十七番(英語版)』(1932年7月公開)は低予算で作られた。この作品も失敗作となり、ヒッチコックは「批評家たちの注意すらひかなかった」と述べている。その次もまた低予算で『キャンバー卿の夫人たち(英語版)』(1932年)の監督を命じられたが、作品に興味を示さなかったヒッチコックはプロデューサーだけを担当し、監督はベン・W・レヴィ(英語版)に任せた。そしてこの仕事を最後にBIPとの契約を終えた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "『リッチ・アンド・ストレンジ』『第十七番』の立て続けの失敗で不調となっていたヒッチコックは、BIPを去ったあとの1933年にロンドン・フィルム(英語版)のアレクサンダー・コルダと短期契約を結び、『ジャングルの上を飛ぶ翼』の監督を予定したが、資金を調達することができず、契約ごと解消となった。その次に独立系プロデューサーのトム・アーノルド(英語版)と契約を結び、ヨハン・シュトラウス2世が主人公の音楽映画『ウィンナー・ワルツ(英語版)』を撮影したが、この企画ははじめから絶望的で、ヒッチコックは撮影中に創作意欲がわかなくなった。後年にヒッチコックは「とてもわたしの作品だなんておおっぴらに言えた代物じゃない」と述べ、この時期を「最低の時代」と呼んだ。作品は1934年2月に公開されると、完全な失敗作と見なされた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "この作品の撮影中、マイケル・バルコンがヒッチコックのもとを訪れ、ヒッチコックがBIP時代にチャールズ・ベネットと共同執筆した脚本を映画化する提案をした。ヒッチコックはこれを再起のチャンスと考え、1934年にバルコンが製作担当重役を務めていたゴーモン・ブリティッシュと5本の映画を作る契約を結び、ロンドン西部のシェパーズ・ブッシュにあるライム・グローブ・スタジオに移った。映画化を決めた脚本は、同社第1作として『暗殺者の家』の題名で監督することになり、同年4月から5月にかけてベネットらとシナリオを作成し、5月から8月の間に撮影した。この作品でヒッチコックは自身が得意とするサスペンスのジャンルへ復帰し、サスペンスとユーモアの組み合わせという以後のヒッチコック作品の基本となるスタイルで、ある夫婦が大使を暗殺する計画に巻き込まれる物語を描いた。12月に公開されると大ヒットし、批評家からも賞賛され、『デイリー・エクスプレス』誌は「ヒッチコックは再びイギリスの監督の中でナンバーワンの座に躍り出た」と書いている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "この作品で名声を取り戻したヒッチコックは、作品の成功のおかげで自由に主題を選ぶことができるようになり、そこで自身が好きな作家だったジョン・バカンのスパイ小説『三十九階段』に基づく『三十九夜』を企画した。ヒッチコックはベネットらと原作に自由に改変して脚本を作り、1935年初めに撮影した。この作品も殺人に巻き込まれた男(ロバート・ドーナット)が、スパイや警察に追われながら自分の無実を証明するという物語を、前作と同様にユーモアとサスペンスを組み合わせながら速いテンポで描いた。同年6月にイギリスで公開されると前作同様に高い成功を収め、アメリカでもヒッチコック作品で過去最高のヒット作となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "その次にヒッチコックは、サマセット・モームの短編小説集『アシェンデン』とそのいくつかのエピソードをもとにした戯曲が下敷きのスパイ映画『間諜最後の日』(1936年5月公開)を監督した。この作品は第一次世界大戦中にドイツのスパイを殺害する任務を受けたイギリスのスパイスパイ(ジョン・ギールグッド)を主人公にした物語であるが、前2作のような成功を収めることはできなかった。同作完成後の1936年1月、ヒッチコックはベネットらとスイスでジョゼフ・コンラッドの小説『密偵(英語版)』が原作の『サボタージュ』の脚本を執筆し、同年春に製作を開始した。これは妻(シルヴィア・シドニー)に内緒で破壊活動をするアナーキスト(オスカー・ホモルカ)を描いた作品で、同年に公開されると『バラエティ』誌に「監督の巧みで熟練した技が、職人的な手法で作られた巧妙なこの作品のあちこちで光っている」と評された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "『サボタージュ』の完成後、ゴーモン・ブリティッシュは財政的問題で製作部門を閉鎖し、今後は単なる配給会社になることを発表した。それによりヒッチコックは、同社の子会社になっていた古巣のゲインズボロ・ピクチャーズと2本の映画を撮る契約を結んだ。その1本目はジョセフィン・テイの小説『ロウソクのために一シリングを』が原作の『第3逃亡者』(1937年11月公開)で、1937年3月までにベネットらと脚本に取り組み、5月に撮影を終えた。この作品は殺人犯と疑われて警察に追われる無実の男の運命を描く犯罪スリラーで、『ニューヨーク・タイムズ』紙には「静かな魅力を備えた映画」と評された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "同年8月には家族と休暇のためアメリカへ旅行に出たが、関係者はこの旅行でアメリカの会社と契約を結ぶべきかどうか下見をするつもりだろうと推測した。実際にヒッチコックはイギリスの映画産業の技術的制約や、自身が過小評価されていることを強く感じていた。そしてアメリカ旅行中、ハリウッドの独立系映画会社セルズニック・インターナショナル・ピクチャーズ(英語版)を率いる映画プロデューサーのデヴィッド・O・セルズニックはヒッチコックに興味を示し、助手にヒッチコックと会うように指示した。9月に帰国する時には、ヒッチコックはセルズニックのほか、RKOやMGMなどの大手映画会社と契約交渉を進めていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "10月、ヒッチコックはゲインズボロ・ピクチャーズでの監督2本目として、会社内で企画倒れになっていたエセル・リナ・ホワイトの小説『車輪は回る(英語版)』が原作の脚本『バルカン超特急』を取り上げた。この作品は列車内で忽然と姿を消した老婦人(メイ・ウィッティ)を捜索するイギリス人女性(マーガレット・ロックウッド)が主人公のサスペンスである。撮影は12月まで行われ、翌1938年10月に公開されると高い成功を収めた。イギリスやアメリカの批評家にも賞賛され、『ヘラルド・トリビューン』紙には「『バルカン超特急』は、セザンヌのキャンバスやストラヴィンスキーの楽譜と同様に、監督一流の想像力と技量の産物だ」と評され、『ニューヨーク・タイムズ』にはその年のベスト・ワンの作品と呼ばれた。また、ヒッチコックはこの作品で第4回ニューヨーク映画批評家協会賞の監督賞を受賞した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "この作品に取り組んでいる間も、ヒッチコックはセルズニックとの交渉は続けられた。1938年6月にヒッチコックは契約をまとめるため再びアメリカを訪れ、7月14日にセルズニックとの契約書に署名した。契約では年に1本ずつ、計4本の映画を撮り、1本あたり5万ドルのギャラを受け取ることになっていた。契約が履行されるのは1939年4月からで、ヒッチコックはアメリカへ出発するまでの間、チャールズ・ロートンとエーリッヒ・ポマー(ドイツ語版)が設立した映画製作会社メイフラワー・プロダクションズ(英語版)のために、ダフニ・デュ・モーリエの海賊冒険小説が原作のコスチューム・プレイ『巌窟の野獣』を監督した。撮影は1938年秋に行われたが、ヒッチコックは途中で作品への興味を失い、主演のロートンが自分の演技のために撮影を何度も中断するのに苛立った。1939年に公開されると興行的に成功はしたものの、批評家には酷評され、『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』誌には「この映画は妙に退屈で面白くない...型にはまった、気の抜けたメロドラマである」と批判された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1939年2月、ヒッチコックはシャムリー・グリーンの別荘を処分し、自宅アパートの賃貸契約を終了させた。ヒッチコックはイギリスを去る前の数日間を母と過ごし、3月1日にアルマとパトリシア、秘書のジョーン・ハリソン、専属のコックとメイド、そして2匹の愛犬とともにアメリカに向けてサウサンプトンからクイーン・メリー号で出航した。その数日後に一行はニューヨークに到着し、しばらくマンハッタンに滞在したあとにロサンゼルスへ移り、ウィルシャー大通り(英語版)10331番地にあるアパートに住んだが、その数か月後にはベルエア(英語版)のセント・クラウド・ロード609番地にあるキャロル・ロンバードが所有する家に引っ越した。アメリカに移住したばかりのヒッチコックは、毎週日曜日に家族と教会のミサに出席し、定期的にビバリーヒルズのレストランで食事をとるという生活を送った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "4月10日、ヒッチコックは正式にセルズニック・インターナショナル・ピクチャーズに雇われた。その監督第1作には、当初タイタニック号沈没事故を題材にした作品が予定されていたが、セルズニックの意向で流れ、代わりにセルズニックが映画化権を購入したダフニ・デュ・モーリエの小説が原作の『レベッカ』を監督することになった。この作品は19世紀のイギリスの荘園が舞台で、先妻の思い出に付きまとわれた大富豪(ローレンス・オリヴィエ)に嫁いだアメリカ娘(ジョーン・フォンテイン)が主人公のゴシック・ロマンス風の心理スリラーである。ハリウッドではプロデューサーが映画製作の主導権を握っていたが、この作品にもセルズニックの意向や価値基準が大きく反映され、そんなセルズニックと芸術性を追求するヒッチコックとの間でたびたび軋轢が生じた。その最初の出来事は、6月上旬に提出した脚本が、原作の忠実な映画化を求めるセルズニックに「小説として見事に成功した作品を、ひねくれた俗悪な映画にする気はない」と拒否されたことだった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "同年夏に脚本の修正が終わり、9月上旬に撮影を始めたが、その最初の週に第二次世界大戦が勃発し、ヒッチコックはイギリスにいる家族の身を案じ、戦争に対する不安は映画製作にも影響を及ぼした。撮影中もヒッチコックはセルズニックの干渉に苛立ちを見せ、作品が芸術的に報われなくなると不満を露にした。スポトーはこの作品を「ヒッチコックの映画というよりセルズニックの映画である」と述べているが、他のヒッチコック作品に通じる独自の視覚的なタッチは維持された。また、ヒッチコックは「カメラの中で編集する(最終的に編集された画面に使われるシーンのみを撮影する手法)」という手法をとることで、セルズニックが編集で手を加えられないようにした。1940年3月に公開されたこの作品は、第13回アカデミー賞で作品賞を受賞し、セルズニックにオスカー像がもたらされた。ヒッチコックも自身初の監督賞にノミネートされ、作品はほかにも9部門でノミネートされた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "『レベッカ』の完成後、セルズニックはしばらくプロデューサーとしての活動を停止し、契約した俳優や監督を他社に貸し出すという方針をとったため、ヒッチコックも1944年まで他社に貸し出されて映画を撮ることになり、セルズニックの下にいる時よりも映画作りの自由度が高まった。ヒッチコックの次の作品『海外特派員』は独立系映画プロデューサーのウォルター・ウェンジャーに貸し出されて作った作品で、1940年3月に脚本を作成し、同年夏まで撮影が行われたが、製作費はそれまでのヒッチコック作品で最高額の150万ドルとなった。この作品は第二次世界大戦直前のロンドンに派遣されたアメリカ人記者(ジョエル・マクリー)が、ナチスのスパイの政治的陰謀を突き止めるという物語である。大戦への不安を抱いていたヒッチコックは、この作品であからさまにイギリスの参戦を支持し、結末にはアメリカの孤立主義の撤回を求める戦争プロパガンダの要素を取り入れた。同年8月にユナイテッド・アーティスツの配給で公開されると成功を収めたが、この頃にヒッチコックはイギリスのメディアから、祖国の戦争努力を助けるために帰国しようとせず、アメリカで無事安全に仕事をする逃亡者であると非難され、心を傷つけられた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1940年8月、ヒッチコックはカリフォルニア州スコッツバレー近くにある200エーカーの土地を持つ別荘「コーンウォール牧場」を購入した。その翌月からはRKOに貸し出されて2本の作品を監督したが、その1本目の『スミス夫妻』は友人のキャロル・ロンバードに頼まれて監督を引き受けた作品である。これは幸せだが喧嘩の絶えない夫婦(ロンバードとロバート・モンゴメリー)を描くスクリューボール・コメディで、アメリカ時代の唯一のコメディ映画となったが、翌1941年1月に公開されると興行的成功を収めた。2本目の『断崖』はフランシス・アイルズの小説が原作で、夫(ケーリー・グラント)を殺人者と疑い彼に殺されると思い込むヒロイン(フォンテイン)が主人公の心理スリラーである。ヒッチコックははじめ、夫が妻を殺害するという結末を考えていたが、グラントのスターのイメージを損なうとしてハッピーエンドに変更させられた。同年11月に公開されると批評家や観客から好意的な評価を受け、その年のRKOの最も収益性の高い作品となった。第14回アカデミー賞では作品賞など3部門でノミネートされ、フォンテインが主演女優賞を受賞した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "『断崖』の撮影中、ヒッチコックは数人の脚本家と自身の着想による『逃走迷路』の脚本を執筆した。この作品は破壊工作員の疑いをかけられた青年(ロバート・カミングス)が主人公の物語である。セルズニックはこの脚本をユニバーサル・ピクチャーズと契約していたプロデューサーに売り、ヒッチコックは同社に貸し出されて監督することになったが、その立場上キャスティングに口出しできず、自分が望まない俳優を会社から押し付けられた。撮影は1941年12月から行われ、翌1942年春に完成して公開されると商業的成功を収めた。この時期にヒッチコックは、それまでの家の持ち主だったロンバードが飛行機の墜落事故で死亡したために新居を探すことになり、ベルエアのベラジオ・ロード10957番地にある広大な敷地を持つ家に引っ越し、ここを亡くなるまでの住みかとした。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "その次にヒッチコックは、セルズニックの女性文芸部長の夫が思いついたストーリーを基にした『疑惑の影』(1943年1月公開)を、ユニバーサルでの2作目として監督した。この作品は最愛の叔父(ジョゼフ・コットン)を連続殺人犯と疑う若い娘(テレサ・ライト)が主人公のスリラーで、ほとんどのシーンはスタジオ撮影ではなく、物語の舞台であるカリフォルニア州サンタローザでロケ撮影をした。その撮影中の1942年9月26日、ヒッチコックの母親のエマが79歳で病死した。ヒッチコックは母親について公に話すことはなかったが、関係者は彼が母親を賞賛していたと述べている。その4か月後には兄のウィリアムがパラアルデヒドの過剰摂取のため52歳で亡くなったが、兄弟ははあまり親密な関係ではなかった。ヒッチコックは母と兄の死に立ち会うことはできなかったが、それを機に肥満体型だった自らの健康を危惧し、医師の助けを借りて食事療法に取り組んだ。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1942年11月、ヒッチコックはセルズニックの手配で20世紀フォックスに貸し出され、同社で2本の作品を撮影することになった。ヒッチコックはUボートに撃沈された輸送船の乗客とナチスの将校をめぐって救命艇の中だけで物語が展開する作品を構想し、アーネスト・ヘミングウェイに脚本を依頼したが断られ、次にジョン・スタインベックに依頼したが2人の共同作業はうまくいかず、最終的にジョー・スワーリング(英語版)と組んで執筆した。こうして脚本が作られた『救命艇』は、1943年8月から11月の間に撮影が行われた。セットはスタジオの巨大タンクに浮かぶ救命艇の1つだけで、カメラを常にその中に据えて撮影するという実験的手法を試みた。1944年に公開されるとさまざまな評価を受け、一部の批評家はナチスを賞賛していると批判した。第17回アカデミー賞では監督賞など3部門でノミネートされた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1943年12月、ヒッチコックは映画製作で祖国の戦争努力に貢献する必要性を感じてイギリスに帰国し、友人で情報省(英語版)映画部長のシドニー・バーンスタイン(英語版)の依頼で、1944年1月と2月にフランスのレジスタンス運動を描く短編プロパガンダ映画『闇の逃避行(英語版)』と『マダガスカルの冒険(英語版)』の2本を撮影した。いずれも亡命したフランス人俳優の劇団モリエール・プレイヤーズが出演したフランス語作品であるが、プロパガンダに役立たないとしてフランス国内で正式に公開されることはなかった。同年6月と7月には、バースタインが製作したナチス・ドイツの強制収容所に関するドキュメンタリー『German Concentration Camps Factual Survey』にトリートメント・アドバイザーとして参加した。この作品は1945年の製作中に棚上げされ、1985年まで未発表となっていた。また、1944年10月にはセルズニックのスタジオで、アメリカの戦時国債(英語版)の販売を促進するための2分足らずのプロパガンダ映画『The Fighting Generation』を撮影した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ヒッチコックはイギリス滞在中、精神病院が舞台の小説『ドクター・エドワーズの家(英語版)』の映画化権を取得し、1944年3月にアメリカに戻るとそれを基にした『白い恐怖』の脚本をベン・ヘクトと作成し、セルズニックの下で作る2本目の作品として監督した。この作品は精神分析を題材に扱い、自分を人殺しだと思い込む記憶喪失の精神病院の院長(グレゴリー・ペック)と、彼と恋に落ちた精神分析医(イングリッド・バーグマン)を主人公にして物語が展開され、サルバドール・ダリが夢のシーンをデザインした。撮影は同年7月から10月まで行われたが、その間にセルズニックとの契約が更新され、週給はそれまでの倍以上となる7500ドルになった。作品は1945年に公開され、800万ドルの収益を上げた。第18回アカデミー賞では作品賞や監督賞など6部門でノミネートされ、音楽を担当したミクロス・ローザが作曲賞を受賞した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "この作品の完成後、ヒッチコックは何度かイギリスへ行き、バーンスタインと独立系映画製作会社を設立するための打ち合わせをした。その間には再びヘクトと『汚名』の脚本を作成したが、セルズニックはこの作品を自分では作らず、「監督ヒッチコック=脚本ヘクト=主演バーグマン」のパッケージにしてRKOに50万ドルで売り、ヒッチコックがプロデューサーを兼任した。物語はナチスのスパイの娘(バーグマン)と彼女に協力を求めるFBIの諜報員(グラント)を主人公にして展開されるが、この作品で先見の明のあるところは、ナチスがウラン鉱石を兵器実験に使うという設定を採用したことである。その設定は広島市への原子爆弾投下よりも前の1945年3月、ヒッチコックとヘクトがカリフォルニア工科大学のロバート・ミリカンを訪ねたあとに脚本に書き加えたが、そのためにヒッチコックは一時的に連邦捜査局(FBI)の監視下に置かれた。撮影は同年10月から1946年2月まで行われ、8月に公開されると興行的成功を収め、批評家から高い評価を受けた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "その次にヒッチコックはセルズニックの下で、ロバート・ヒチェンス(英語版)の小説が原作の法廷サスペンス『パラダイン夫人の恋』を監督したが、これはセルズニックに無理に押し付けられた仕事であり、作品的にもやる気をそそられなかった。脚本はセルズニックが執筆したが、その日その日で書き進めて撮影現場に届けさせたため撮影はうまく進まず、おまけに作品に対するセルズニックの干渉も増えた。ヒッチコックはそんなセルズニックのやり方が気に食わず、絶え間ない対立で心気症に悩まされた。さらにキャスティングにも悩まされ、とくに主人公のイギリスの弁護士役のグレゴリー・ペックと下男役のルイ・ジュールダンが役柄のイメージに合わず、ミスキャストになってしまったことに弱り果てた。撮影は1946年12月から1947年5月の間に行われ、製作費は400万ドルを超えたが、これはヒッチコックのキャリアの中で2番目に高額な映画となった。同年大晦日に公開されたが批評家の反応は悪く、『ニューヨーク・タイムズ』誌には「陳腐で冗長」と評された。ヒッチコックはこの作品を最後にセルズニックとの契約を終わらせた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ヒッチコックは、バーンスタインと新しく設立した独立系映画製作会社トランスアトランティック・ピクチャーズ(英語版)で監督兼プロデューサーとして映画作りを始め、自分の作りたいものが自由に作れるようになった。その第1作はヒッチコックの最初のカラー映画となる『ロープ』である。この作品は実際に起きたレオポルドとローブによる殺人事件を基にしたパトリック・ハミルトン(英語版)の戯曲の映画化で、知的なスリルから友人を殺害した2人の青年(ジョン・ドールとファーリー・グレンジャー)を主人公にしている。原作戯曲は舞台の幕が上がってから降りるまでの実際の上演時間に即してドラマを進行させたが、ヒッチコックこれを映画で見せるため、「テン・ミニッツ・テイク」という実験的な撮影手法を試みた。この手法はカメラのマガジンに入るフィルム1巻分(1000フィート=約10分)ごとにワンショットで撮影し、ショットの切れ目を俳優や小道具のクローズアップでカモフラージュすることで、1本の映画をまるごとワンショットのように見せた。しかし、ヒッチコックはこの手法が「映画はカット割りとモンタージュが重要」だという自身の方法論を否定していたため、「無意味な狂ったアイデアだった」と述べている。作品は1948年に公開されるとさまざまな批評を集めたが、興行的には成功しなかった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "1948年、ヒッチコックはイギリスでトランスアトランティック・ピクチャーズの監督2作目として、バーグマンが主演のコスチューム・プレイ『山羊座のもとに』(1949年9月公開)を撮影したが、この作品は興行的にも批評的にも失敗し、その後トランスアトランティック・ピクチャーズは活動を停止した。この頃にヒッチコックはタレント・エージェント業を行うMCAの顧客のひとりとなった。1949年1月にはトランスアトランティック・ピクチャーズの2本を配給したワーナー・ブラザースと、自らがプロデューサーとして題材や配役などを自由に選べるという条件で、6年半の間に4本の映画を約100万ドルの報酬で作るという契約を結んだ。その第1作である『舞台恐怖症』はジェーン・ワイマンとマレーネ・ディートリッヒが主演し、同年半ばにイギリスのスタジオで撮影した。翌1950年2月に作品が公開されたが、批評家の評価は芳しくなかった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1949年後半から1950年初めにかけて、ヒッチコックは自由に題材を選べたにもかかわらず、創造力を思うように発揮できずにいた。それでもヒッチコックは大きな富と国際的名声を築き、株や石油の油井の所有、さらにはサンタクルーズに所有する土地でワイン用のブドウを栽培して利益を得た。1950年春にはパトリシア・ハイスミスの小説『見知らぬ乗客(英語版)』を読んで感銘を受け、自分のエージェントに映画化権の交渉を指示した。ヒッチコックは脚本を書くためにダシール・ハメットに近付いたが実現はせず、次にレイモンド・チャンドラーを雇ったが意見が合わず、9月にチャンドラーを仕事から降ろし、ベン・ヘクトの助手のチェンチ・オーモンド(英語版)と新しく脚本を書き直した。『見知らぬ乗客』は列車の中で見知らぬ男(ロバート・ウォーカー)から交換殺人を持ちかけられたテニス選手(グレンジャー)が主人公のスリラー映画である。撮影は同年のクリスマスまでに終わり、1951年6月末に公開されると成功を収め、マスコミはヒッチコックのことを「サスペンス・スリラーの巨匠」と呼んだ。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "この作品の完成後、ヒッチコックは再び興味をそそられる企画を見つけることができず、新しい作品が作れないのではないかと不安に駆られたが、1952年2月に妻の提案でポール・アンセルム(英語版)の戯曲『わが二つの良心(フランス語版)』が原作の『私は告白する』の脚本に取り組んだ。この作品はローマ・カトリックの司祭(モンゴメリー・クリフト)がゆるしの秘跡の守秘義務により、殺人を告白した男のことを口外することができず、自身が殺人者と疑われるという物語である。撮影は8月から10月の間に行われたが、ヒッチコックは主演のクリフトの過度な飲酒とメソッド演技が気に入らず、2人の協力関係はあまり上手くいかなかった。この作品はユーモアの要素を欠いたヒッチコックの数少ないサスペンス映画の1本だったが、後年にヒッチコックはそれを間違いと見なした。1953年2月に公開されると、『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』紙の批評家に「本来なら切れ味の鋭いナイフのようなヒッチコックの演出が重苦しく、釈然としない状況で鈍ってしまっている」と評された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ヒッチコックはワーナー・ブラザースとの契約の最後の作品として、デイヴィッド・ダンカン(英語版)の小説『ブランブル・ブッシュ』の映画化を企画したが、まもなくそれを諦め、1952年にロンドンとニューヨークで上演されて大ヒットしたフレデリック・ノット(英語版)原作の舞台劇『ダイヤルMを廻せ!』の映画化に取りかかった。物語は若い妻(グレース・ケリー)の殺人を企て、別の人に殺させようとする元テニス選手(レイ・ミランド)が主人公で、妻が自己防衛から襲撃者を殺してしまうことで事態は複雑になる。撮影は1953年7月から9月の間に行われ、ヒッチコックは「35日間で撮り上げた」と述べている。ワーナー・ブラザースはこの作品を当時流行した3D映画として作らせたが、1954年に公開された時には3D映画の流行はすたれ、ほとんどの劇場では通常の形で上映された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "1953年夏、ヒッチコックは自身のエージェントであるMCAのルー・ワッサーマンを介して、パラマウント・ピクチャーズと5本の映画を製作または監督し、その利益に対する歩合と作品の最終的な所有権をヒッチコック側が持つという契約を結んだ。その最初の作品はコーネル・ウールリッチの短編小説が原作の『裏窓』で、放送作家のジョン・マイケル・ヘイズ(英語版)に脚本を依頼した。この作品は足を骨折して車椅子生活を送る写真家(ジェームズ・ステュアート)が、双眼鏡で向かいのアパートの住人たちを観察するうち、そのうちの1部屋で殺人が行われたことに気付くという物語で、前作に続いてグレース・ケリーがヒロインを演じた。撮影は順調に進み、スタッフや俳優との関係も良好だった。ヒッチコックも機嫌が良く、以前のようなエネルギーと創作への熱意を取り戻し、後年には「この頃は自分のバッテリーがほんとうにフルに充電されていると思った」と述べている。1954年8月に公開されると好評を博し、公開から2年間で興行収入は1000万ドルを超えた。第27回アカデミー賞ではヒッチコックが監督賞にノミネートされた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "1954年初め、ヒッチコックはパラマウントの重役の勧めでデイヴィッド・ドッジの小説が原作の『泥棒成金』の製作を始めた。この作品は宝石泥棒の疑いをかけられた元泥棒(グラント)と、彼と恋したアメリカ人女性(ケリー)が主人公のロマンチックなサスペンスで、ビスタビジョンを使用したワイドスクリーン映画として作られた。ヒッチコックは前作で組んだヘイズと脚本を書き、初夏に物語の舞台となるフランスのリヴィエラでロケ撮影をした。翌1955年8月に公開されると北米だけで450万ドルの利益を出したが、批評家の意見は分かれた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "『泥棒成金』の撮影中、ヒッチコックはヘイズにジャック・トレヴァー・ストーリー(英語版)の短編小説が原作の『ハリーの災難』の脚本を依頼した。この作品はバーモント州の田舎を舞台に、ハリーの死で罪の意識を感じた町の人たちを描くブラック・コメディである。撮影は1954年後半に行われ、1955年10月に公開された。ヒッチコックは日本を含む世界各地を旅して宣伝に努めたが、フランス以外の国では客入りは悪く、批評も芳しくなかった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "1955年4月20日、ヒッチコックはロサンゼルス郡裁判所でアメリカ合衆国の市民権を取得した。それまでにはジェームズ・ステュアートとドリス・デイが主演の次回作『知りすぎていた男』の脚本をヘイズと作成した。この作品は『暗殺者の家』のリメイクだが、プロットにはさまざまな変更を付け加えており、後年にヒッチコックは「最初のイギリス版(『暗殺者の家』)はなにがしかの才能のあるアマチュアがつくった映画だったが、リメークのアメリカ版(『知りすぎていた男』)はプロがつくった映画だった」と述べている。撮影は同年7月までに行われ、1956年5月に公開されると興行的成功を収め、公開から1週間のうちにその年のアメリカで最高の興行収入を出した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "1955年、ヒッチコックはワッサーマンから自身のテレビシリーズを手がけることを勧められ、『知りすぎていた男』の撮影完了後にCBSとの間で30分のテレビシリーズ『ヒッチコック劇場』を作り、1エピソードにつき12万9000ドルのギャラを受け取るという契約を結んだ。ヒッチコックはジョーン・ハリソンとシリーズを作るための製作会社シャムリー・プロダクションを設立し、2人ですべてのエピソードの原作と主題を選定した。製作総指揮は元秘書でいくつかの作品の脚本に参加したハリソンが担当し、ヒッチコックは製作と監修を担当しながら、毎回番組の前後で口上を述べるホスト役として出演した。『ヒッチコック劇場』は1955年10月2日に放送開始し、7年間にわたり放送されたあと、1962年から1965年までは1時間枠の『ヒッチコック・サスペンス』として放送された。ヒッチコックはこれらのシリーズで合わせて18話のエピソードを演出した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "『ヒッチコック劇場』は非常に収益性が高く、放送当初から最も人気のある番組のひとつとなった。ヒッチコックもホスト役での出演で認知度を高め、その名を最もポピュラーなものにした。番組のタイトルシークエンスは、シャルル・グノー作曲の「操り人形の葬送行進曲」をテーマ曲に、ヒッチコック自身の手描きによる線画の自画像に横顔のシルエットがフレームインしてきておさまるという趣向で、そのあとに始まるヒッチコックの口上はユーモアにあふれ、ポーカーフェイスで飄々とした語り口で喋るのが特徴的だった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "ヒッチコックはテレビでの成功を受けて、自身の名前を使用した短編小説集をいくつか刊行した。その中には『テレビで演出することができなかった物語』『母親が私に語らなかった物語』というタイトルのものが含まれていた。これらの本はヒッチコック責任編集の名目で刊行されたが、自身の署名による序文は別人が代作しており、ヒッチコックは名前の使用だけで印税を受け取った。また、ヒッチコックは1956年にHSD出版社から刊行された犯罪と探偵小説専門の月刊雑誌『アルフレッド・ヒッチコックス・ミステリー・マガジン(英語版)(AHMM)』にも自身の名前を使うことを許可した。ヒッチコックの本の外国語版は年間最大10万ドルの収入をもたらしたが、さらに映画の興行的成功やテレビ契約などでも大きな利益を獲得し、1956年のヒッチコックの収入は400万ドルを超えた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "ヒッチコックの次の監督映画は『間違えられた男』(1956年12月公開)である。この作品は過去にワーナー・ブラザースと交わしていた、同社との契約終了後にギャラを貰わずに1本映画を監督するという約束を果たすために作った作品である。それはマクスウェル・アンダーソンが1953年に『ライフ』誌に掲載した実話を基にしており、ナイトクラブのミュージシャン(ヘンリー・フォンダ)が警察の軽率な判断によって強盗犯にでっちあげられて逮捕され、裁判にかけられる姿を描いている。撮影は1956年3月から6月の間に行われたが、ヒッチコックは実話通りに物語を展開するため、マンハッタンなど実際に事件が起きた場所でロケ撮影を行い、ドキュメンタリー・タッチのモノクロ作品にすることでリアリティを高めた。しかし、その作風はヒッチコック作品としては異色なものであり、従来の作品に見られたユーモアや独特のスタイルに欠けていたためにあまり評価されなかった。その完成後の1956年夏には、アフリカを舞台にしたローレンス・ヴァン・デル・ポストの小説『フラミンゴの羽根』の映画化を企画し、南アフリカで撮影場所の視察をしたが、製作費や原住民のエキストラの調達などで問題が生じたため企画を放棄した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "1957年1月、ヒッチコックは長年抱えていたヘルニアの悪化で手術を受けた。3月には今度は胆石の痛みに苦しみ、その除去手術を受けた。体調が回復すると、1956年後半から次回作に企画していたボワロー=ナルスジャックのミステリー小説『死者の中から(フランス語版)』が原作の『めまい』をパラマウント・ピクチャーズで製作し、9月から12月の間にスタジオと北カリフォルニアのロケで撮影を行った。物語は高所恐怖症で警察を辞めた元刑事(ステュアート)が主人公で、自殺を企てた友人の妻(キム・ノヴァク)を救ったのがきっかけで彼女に夢中となるが、その執着は悲劇につながる。この作品は現代では古典的作品に位置付けられているが、1958年の公開当時は興行的に成功せず、また賛辞の批評も少なく、『バラエティ』誌の批評家には「テンポが遅すぎて長すぎる」と評された。 2012年に発表されたイギリスの映画誌『サイト・アンド・サウンド(英語版)』による批評家の投票では、史上最高の映画に選出された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "ヒッチコックは『めまい』の次に作る映画として、ハモンド・イネス(英語版)の小説『メリー・ディア号の遭難(英語版)』の映画化を企画し、そのためにMGMと契約を結んだ。ヒッチコックはアーネスト・レーマンと仕事に取り組んだが、主題が扱いにくくて脚本作りがうまくいかず、レーマンにその代わりに「ヒッチコック映画の決定版をつくりたい」「ラシュモア山の大統領たちの顔の上で大追跡場面を撮りたい」と言ったことからオリジナル脚本の『北北西に進路を取れ』を作ることになり、レーマンは『めまい』のプリプロダクション中の1958年8月から脚本に取り組み始めた。この作品はスパイの陰謀に巻き込まれ、全米を転々としながら犯してもいない殺人の容疑を晴らすために奮闘する広告マン(グラント)が主人公のスパイ・スリラーで、構想通りにアメリカ時代のヒッチコック作品を総括するような作品となった。撮影は同年8月に開始し、翌1959年初めには編集作業に入った。MGMの重役は136分に及ぶ完成版の上映時間が長すぎるとしてカットを要求したが、ヒッチコックは契約で作品の最終決定権を保証されていたため、それを拒否することができた。1959年8月のラジオシティ・ミュージックホールでの初公開は成功し、公開から2週間で40万ドルを超える興行収入を記録した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "1959年4月、ヒッチコックは『北北西に進路を取れ』の次回作にヘンリー・セシル・レオン(英語版)の小説『判事に保釈なし(英語版)』の映画化を企画し、主演にオードリー・ヘプバーンを予定したが、実現には至らなかった。同年盛夏までには、実話に基づくロバート・ブロックの小説が原作の『サイコ』を代わりの次回作に決め、ジョセフ・ステファノに脚本を依頼した。後年にヒッチコックは、原作の「シャワーを浴びていた女が突然惨殺されるというその唐突さ」だけで映画化に踏み切ったと述べている。しかし、パラマウントの重役は「母親の服を着て、騒ぎを起こす狂人のばかばかしい話」だとして映画化を渋ったため、ヒッチコック自身が製作費を負担し、同社が配給のみを行うという条件で製作が決定した。ヒッチコックはできるだけ短期間かつ低予算で作品を完成させるため、『ヒッチコック劇場』で経験したテレビの早撮りの手法とテレビのスタッフを活用した。撮影は1959年11月から1960年1月の間にレヴュー・スタジオ(英語版)で行われたが、ヒッチコックは作品の内容が漏れないようにするため撮影を極秘のうちに進めた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "ヒッチコックはこの作品のために、自らが出演する予告編を作成したり、内容を口外しないように求める広告を出したりして大がかりな宣伝キャンペーンを展開し、初めて映画館で途中入場を禁止する興行方針を定めた。1960年4月からはこの作品の宣伝とプレミアの出席のため、アルマと世界一周旅行を兼ねて日本や香港、イタリア、フランスなどを訪れた。6月に一般公開されると批評家や観客の間でさまざまな反響を呼び、その年で最も観客を動員し、物議を醸した映画となった。製作費が約80万ドルに対して、興行収入は1500万ドルを記録し、ヒッチコックのキャリアの中で最も収益性が高い映画となった。公開当時の批評家の多くは好意的な批評を与えなかったが、後にその意見は翻った。第33回アカデミー賞では5度目の監督賞ノミネートを受けた。後年に『サイコ』は最も有名なヒッチコック作品と言われ、とくにシャワールームでの殺人シーンは映画史上の名場面に数えられ、さまざまな研究や分析がなされた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "ヒッチコックは『サイコ』の次作として、ロベール・トマの戯曲『罠(フランス語版)』の映画化や、原爆投下の使命を帯びた飛行士が主人公の『星の村』、ディズニーランドを舞台にしたサスペンス『盲目の男』を企画したが、いずれも実現はしなかった。1961年8月、ヒッチコックはすでに映画化権を購入していたダフニ・デュ・モーリエの小説『鳥(英語版)』の映画化を決め、原作からは「ある日突然、鳥が人間を襲う」というアイデアだけをいただき、エヴァン・ハンターと脚本を作成した。1962年2月にはMCAの子会社となったユニバーサル・ピクチャーズと5本の映画を作る契約を結び、スタジオ内の広々とした専用のオフィスに移転した。それと同時にヒッチコックはMCAとの契約で、自身が所有する『サイコ』と『ヒッチコック劇場』のすべての権利と引き換えに、MCAの約15万株を手に入れ、同社で3番目の大株主になった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "『鳥』はユニバーサルとの契約の1本目であり、1962年3月から7月の間に撮影が行われた。主演にはヒッチコックがテレビCMで見かけた元モデルの新人ティッピ・ヘドレンを起用したが、後年にヘドレンは撮影中にヒッチコックからセクハラを受けていたことを明らかにした。ヘドレンの自伝またはスポトーの伝記によると、ヒッチコックはヘドレンが男性俳優と交流したり触れたりすることを禁じたり、彼女だけに聞こえるように卑猥なことを言ったり、スタッフに彼女の行動を見張らせたりしたという。『鳥』は1963年3月に公開され、興行収入は最初の数か月で1100万ドルをあげたが、批評家と観客の意見は賛否両論となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "『鳥』の次の作品となった『マーニー』は、ウィンストン・グレアム(英語版)の同名の小説(英語版)が原作で、1960年に出版された時に映画化権を手に入れていた。『鳥』撮影中の1962年3月には、すでに引退してモナコ王妃となっていたグレース・ケリー主演でこの作品を映画化することを考えていたが、ケリーとの交渉は上手くいかず、代わりにヘドレンを再び起用した。この作品は窃盗癖のある女性(ヘドレン)と、その異常性に魅かれて彼女を愛する男性(ショーン・コネリー)が主人公の心理的なメロドラマである。ヒッチコックは脚本をハンターに依頼したが、のちにジェイ・プレッソン・アレン(英語版)にまったく別のアプローチで改稿させた。ヒッチコックはこの作品のために、愛犬の名前にちなんで名付けた新しい製作会社ジェフリー・スタンリー・プロダクションを設立し、1963年9月に撮影を始めた", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "その撮影中、ヒッチコックのヘドレンに対するセクハラはエスカレートした。ヘドレンによると、ヒッチコックはメイク部に自分のためにヘドレンの顔をかたどったマスクを作らせるよう要求したり、ヒッチコックの部屋と隣のヘドレンの控え室の間に扉を作って直接行き来できるようにしたりしたという。スポトーによると、1964年2月末のある日には、ヒッチコックは控え室でヘドレンに性的関係を求め、やがてヘドレンのキャリアを台無しにすると脅迫めいたことを言ったという。それ以来ヒッチコックはヘドレンに話しかけるのを拒み、第三者を通じてコミュニケーションをとった。そのうえ作品に対する興味も失くし、技術上のディティールやスクリーン・プロセスやセットの使い方などにも注意を払わなくなった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "1964年7月に作品は公開されたが、批評家の反応は概ね批判的で、その意見の多くは技術的な稚拙さと異常心理を極端に単純化した点の古臭さを指摘した。『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』誌は「気の毒なほど時代遅れで、情けないほど愚直―まったくの期待はずれである」と評した。作品は興行的にも失敗し、スポトーはこの作品でヒッチコックが「大衆の支持を失った」と述べている。ある新聞にはヒッチコックが「現代の観客の心をつかみそこなったばかりか、いっそう嘆かわしいことに、あのテクニックとユーモアまで失ってしまった」と書き立てられた。ユニバーサル・ピクチャーズからも失敗を繰り返さぬよう横槍が入り、この次の作品に企画したジェームス・マシュー・バリーの戯曲『メアリー・ローズ(英語版)』の映画化も、会社の反対で実現しなかった。さらにジョン・バカンのスパイ小説『三人の人質(英語版)』の映画化や、イタリアの脚本家コンビのアージェ=スカルペッリのオリジナル・シナリオで『R・R・R・R』を撮ることも企画したが、これらも実現には至らずに終わった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "3本の企画が流れたあと、ヒッチコックはイギリスの外交官ドナルド・マクリーンとガイ・バージェス(英語版)がソ連に亡命した事件をもとにしたスパイ・スリラー『引き裂かれたカーテン』を作ることに決めた。1965年5月にヒッチコックはブライアン・ムーア(英語版)と脚本に取り組んだが、スクリプトにはいくつかの問題があり、執筆作業は7月に撮影を始めてからも続けられた。主演にはユニバーサルの要求でポール・ニューマンとジュリー・アンドリュースを起用したが、彼らに支払われた莫大なギャラのせいで予算は切り詰められ、創作面にお金を使いたかったヒッチコックは2人のギャラと配役に不満を表明し、作品へのやる気も失った。1966年夏に作品は公開されたが不評を集め、それまでのヒッチコック作品に見られた上質なサスペンスやウィットがなく、精彩を欠いた作品と見なされた。『タイム』誌には「なんと、ヒッチコックがどんなに優れたタッチを披露しても、もはや優れたヒッチコック映画はできないのだ」と評された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "1966年末、ヒッチコックはイギリスの殺人犯ネヴィル・ヒース(英語版)を題材にした『狂乱と万華鏡』を企画し、旧友のベン・W・レヴィにスクリプトの作成を手伝わせた。この作品は偏執狂で同性愛者の殺人犯が主人公にしていたが、ユニバーサルはその物議を醸す内容と描写のために映画化を拒否し、ヒッチコックは企画を棚に上げることになった。1967年いっぱい、ヒッチコックは1本も映画を作ることはなく、ほとんど自宅に引きこもるような生活を送った。翌1968年夏にはユニバーサルの提案で、レオン・ユリスの小説に基づく冷戦時代のスパイ・スリラー『トパーズ』を監督することにしたが、ユリスが書いた脚本は満足のいくものではなく、サミュエル・テイラーに書き直しを依頼した。撮影はプリプロダクションが完全に終わらないうちに始まり、各シーンの撮影の2、3日前にそのシナリオを書くという具合で進められた。1969年12月に作品は公開されたが、観客や批評家からは失望ともいえる評価を受け、ヒッチコック自身も「みじめ作品だった」と述べている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "作品が3本続けて失敗したヒッチコックは、1970年に自身をたてなおすための新しい主題を探し求め、やっとロンドンで女性を襲う偏執狂の連続殺人犯を描くアーサー・ラ・バーン(英語版)の小説『Goodbye Piccadilly, Farewell Leicester Square』が原作の『フレンジー』の監督を決定し、『狂乱と万華鏡』を思い起こすような物語を撮ることを表明した。脚本はアンソニー・シェーファーが執筆し、1971年にロンドンと近郊のパインウッド・スタジオで撮影されたが、ヒッチコックにとっては約20年ぶりのイギリスでの作品となった。1972年の第25回カンヌ国際映画祭での初公開は成功し、ヒッチコックはスタンディングオベーションを受けた。この作品は高い成功を収め、北米で650万ドルの利益を出した。批評家にも晩年のキャリアの傑作と見なされ、ロジャー・イーバートは「サスペンスの巨匠、昔の調子を取り戻す」と述べ、『タイム』誌は「ヒッチコックはまだまだ好調」と評した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "1973年、全米各地ではヒッチコック作品の回顧上映が行われ、ヒッチコック自身もさまざまな栄誉や称賛を受けるようになった。この年にヒッチコックはヴィクター・カニング(英語版)の小説『階段(英語版)』の映画化権を購入し、アーネスト・レーマンと脚本執筆を始めたが、その最中に心臓発作を起こし、ペースメーカーを付けることになった。脚本執筆は1年を要し、最終的にタイトルは『ファミリー・プロット』に決定した。会社は主演にジャック・ニコルソンとライザ・ミネリを提案したが、ヒッチコックはスターに高いギャラを払うことを拒否したため、代わりにバーバラ・ハリス(英語版)とブルース・ダーンを起用した。撮影は1975年に行われたが、その間にヒッチコックは疲労困憊し、関節炎の痛みにも苦しみ、ポストプロダクションは別の人物に任せた。1976年4月に公開されると、多くの批評家から好意的な評価を受け、『ニューヨーク・タイムズ』誌には「機知に富んだ、肩のこらない愉快な作品...ひさびさに楽しいヒッチコック作品」と評された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "晩年のヒッチコックは体力が衰え、関節炎で杖を必要とするほど歩行が困難になり、コルチゾン注射を受けた。それでもヒッチコックは毎日オフィスに車で行き、次回作に取りかかろうとした。その作品はイギリス人の二重スパイのジョージ・ブレイクの実話に基づくロナルド・カークブライド(英語版)の小説『みじかい夜(英語版)』の映画化で、1977年にジェイムズ・コスティガン(英語版)に脚本を依頼したが、2人の協力関係はすぐに終わった。次にレーマンに脚本を依頼し、その出来上がりに一度は満足したが、1978年秋には3人目の脚本家デヴィッド・フリーマン(英語版)を雇って書き直しをさせた。しかし、ヒッチコックは身体の衰弱で精神的に混乱し、アルコールを乱用するようになった。友人のヒューム・クローニンによると、当時のヒッチコックは「これまで以上に悲しんでいて、ひとりぼっちになっていた」という。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "1979年3月7日、ヒッチコックはアメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI)から生涯功労賞を受賞した。受賞祝賀会の模様はテレビ中継されたが、ヒッチコックのスピーチは事前に収録したもので、そのために1週間前からアルコールを断って体調を整えていた。同年5月、ヒッチコックは『みじかい夜』を作ることを断念し、ユニバーサル・ピクチャーズのスタジオ内にある自分のオフィスを閉鎖した。12月にはイギリス女王エリザベス2世により1980年の新年叙勲者(英語版)が発表され、ヒッチコックは大英帝国勲章のナイト・コマンダー(KBE)の勲位を授与された。ヒッチコックは健康状態の悪化のためロンドンでの式典に出席することができなかったため、1980年1月3日にユニバーサル・ピクチャーズのスタジオで駐米英国総領事から認証書を受け取った。そのあとに記者から「なぜ女王陛下に認めてもらうのにこんなに時間がかかったのか」と質問されると、ヒッチコックは「うっかり見落とされていたんでしょう」と答えた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "ヒッチコックは人生の最後の数か月を、ベルエアの自宅のベッドに寝たきりで過ごした。ヒッチコックが最後に公に姿を見せたのは1980年3月16日のAFI生涯功労者の授賞式で、その年の受賞者を紹介するための映像に出演した。同年4月29日午前9時17分、ヒッチコックは腎不全のため80歳で亡くなった。翌日にビバリーヒルズのグッドシェパード・カトリック教会で葬儀が行われ、ルー・ワッサーマンがスピーチを行い、フランソワ・トリュフォー、ジャネット・リー、カール・マルデン、ルイ・ジュールダン、メル・ブルックス、ティッピ・ヘドレンなど600人が参列した。ヒッチコックの遺体は火葬に付され、5月10日に灰が太平洋にまかれた。2000万ドルと見積もられたヒッチコックの財産は、妻のアルマと娘のパトリシア、そして3人の孫娘に遺贈された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "ヒッチコックはキャリアを通して、主にサスペンスまたはスリラーのジャンルに位置付けられる作品を監督した。キャリア初期にあたる1920年代のサイレント映画時代から1930年代前半のトーキー時代にかけては、サスペンスやスリラー以外にもメロドラマやコメディ、文芸映画などのジャンルも手がけているが、『暗殺者の家』以後は『スミス夫妻』を除く全作品がサスペンスまたはスリラーである。ヒッチコックの作品には「ヒッチコック的なもの」「ヒッチコックらしさ」が読み取れるほどの独自のスタイルやテーマ、サスペンスの演出技巧、モチーフが見られ、それらは「ヒッチコック・タッチ」と呼ばれている。この作風は『下宿人』で確立し、サイレントからトーキーにかけてさまざまな映画的実験や技法の実験を試みながら独自のスタイルを追求し、ハリウッドに移るまでにひとつの芸術的様式として完成された。ヒッチコック自身は「イギリス時代のわたしの仕事はわたしの映画的本能を刺激し、よびさまし、育成した...イギリス時代は映画的感覚を解放し、アメリカ時代は映画的思考を充実させたと言ってもいいかもしれない」と述べている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "ヒッチコックは初期の映画製作者であるジョルジュ・メリエス、D・W・グリフィス、アリス・ギイの影響を受けたと述べている。1920年代にはセルゲイ・エイゼンシュテイン監督の『戦艦ポチョムキン』(1925年)やフセヴォロド・プドフキン監督の『母』(1926年)などのソビエト・モンタージュ派(ロシア語版)の作品を見て、モンタージュの技術を学んだ。さらにルイス・ブニュエル監督のシュルレアリスム映画『アンダルシアの犬』(1928年)をはじめ、ルネ・クレール監督の『幕間(フランス語版)』、ジャン・コクトー監督の『詩人の血(フランス語版)』(1930年)など、1920年代後半から1930年頃のフランスのアヴァンギャルド映画の影響も受けている。ヒッチコックがサスペンス映画を撮るようになったのは、自身が愛読したエドガー・アラン・ポーの小説の影響が大きく、「わたしはどうしても自分が映画の中でやろうとしたことと、ポーが小説の中でしたことを、くらべたくなってしまう」と述べている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "1920年代のドイツ表現主義映画も、ヒッチコックの作品に大きな影響を与えた。ドイツ表現主義映画は、独特のキアロスクーロや編集技法、奇抜な構図やアングルなどの視覚的効果の強いスタイルで、第一次世界大戦後の混乱した社会や不安を表現したことで知られ、ヒッチコックはそれらの作品から1シーンの中で緊張感を作り出す方法、画面内に強い印象を与える表現を生み出す要素、光と影や人物とセットの関係の扱い方など、多くのことを学び取った。ヒッチコックは1920年代の助監督時代にドイツで仕事をした時に表現主義映画を学んだが、とくにF・W・ムルナウの作品から強い影響を受けており、彼の作品から移動撮影やキアロスクーロを学び、後年には「言葉なしで物語を語ることを学んだのはムルナウからでした」と述べている。実際にヒッチコックのモノクロ作品では、必要以上に影を強調して、不安や恐怖感を盛り上げる表現主義的な照明効果を採り入れており、その技法は「ヒッチコック・シャドゥ」と呼ばれた。また、『汚名』『見知らぬ乗客』『サイコ』などの後期モノクロ作品では、表現主義的な不安定でゆがんだイメージを与える映像を採り入れている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "「サスペンスの巨匠」と呼ばれたヒッチコックは、映像の特性を活用してサスペンスを高める手法を追究した。ヒッチコックはサスペンスの基本的要素を不安や恐怖などのエモーションと見なし、それを強く感じさせるドラマチックなシチュエーションを作り、それを作品中で持続させることで、観客に緊張感を与え続けることを映画作りの鉄則とした。このようなシチュエーションを作るために、ヒッチコックはリアリティにこだわったり、物語の辻褄を合わせるために必要なシーンを付けたりすることはせず、例え不自然でデタラメだと思われても、あり得ないようなことや偶然の連続からプロットを組み立てた。また、緊張が持続するサスペンスの中に適度なユーモアを入れることで恐怖を和らげ、緊張とリラックスを並置させた。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "ヒッチコックのサスペンスは、観客にだけ知らされる状況とそれを知らない登場人物の行動との間のギャップによって生まれる。ヒッチコックは「観客がすべての事実を知ったうえで、はじめてサスペンスの形式が可能になる」と主張し、あらかじめ犯人や犯行を示したり、観客にだけこれから登場人物の身に起きる恐怖の状況を告知したりして物語を展開した。『ライフ』誌のインタビューでは、「10分後に爆発する時限爆弾が仕掛けられた部屋で3人の男が無駄話をする」というシチュエーションを例に出してこのサスペンス演出を説明した。それによると、観客も登場人物も爆弾のことを知らない場合、くだらない会話が10分間続いたあとに爆発が起き、それで観客を驚かせるだけで終わってしまうが、観客にだけ10分後に爆発することを知らせた場合は、ヒッチコック曰く「爆発寸前になって一人の男が『ここを出よう』というと、観客の誰もがそうしてくれと願う。ところが別の男が『いや、ちょっと待て。まだコーヒーが残ってる』と引き留める。観客は心の中で嘆息をつき、頼むから出ていってくれとハラハラする」という緊迫感のあるシチュエーションが生まれるという。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "こうしたサスペンス演出を実践した主な作品に『知りすぎていた男』と『サボタージュ』が挙げられる。『知りすぎていた男』では演奏会で重要人物を暗殺する計画を立てた一味が殺し屋に、シンバルが打ち鳴らされる瞬間に撃てと教え、そのレコードを繰り返し聞かせるシーンがあるが、映画評論家の双葉十三郎はそれが「観客が先に覚えてしまうぐらい丁寧である」といい、演奏会のシーンになると「観客はどこで撃つかがわかっているので、演奏の進行につれてぐんぐんとサスペンスがたかまってゆく」と述べている。『サボタージュ』では少年が包みの中に時限爆弾が仕込まれていることを知らずにそれを持ち運ぶシーンがあるが、ヒッチコックは街頭の時計を何度も写して爆発の時刻が迫っていることを観客に知らせ、そこに少年が道草を食ったり、少年の乗るバスが信号で進まなかったりするシーンを入れることで、観客の緊迫感を盛り上げている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "ヒッチコックはサスペンスの緊迫感を持たせるために、さまざまな事柄を登場人物の視線から描き、観客を登場人物に同化(観客が登場人物の身に置かれ、その人物の気持ちになって見てしまうように仕向けること)させた。そのような効果を与えるために、ヒッチコックはカメラで人物を真正面からクローズアップでとらえ、切り返して人物の視線から対象をとらえるという演出を行った。『裏窓』『サイコ』『マーニー』などでは、観客と人物の視線を一致させることで、観客をのぞき行為をする登場人物の共犯者となる役割に置いた。とくに『裏窓』では望遠鏡でのぞき見をする主人公のクローズアップとその視線から対象をとらえた映像を交互につなぎ、観客の見ているものと主人公の見ているものを同じにすることで、観客をのぞき行為をする主人公の立場に置き、彼に感情移入できるような趣向にしている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "ヒッチコックは多くの作品に「マクガフィン」と呼ばれるプロット・デバイスを採り入れている。マクガフィンはサスペンスを生み出すプロットを展開するためのきっかけとして便宜上設けられたアイテムであり、登場人物にとっては重要らしいものであっても、作り手のヒッチコックや観客にとっては何の意味のないものである。マクガフィンの主な例は、『三十九夜』の国家機密の戦闘機の技術、『バルカン超特急』の暗号文を潜ませたメロディ、『海外特派員』の講和条約の秘密条項、『汚名』のワイン瓶の中のウラニウム、『北北西に進路を取れ』のマイクロフィルムやカプランという名の架空のスパイである。ヒッチコック作品のマクガフィンは、物語の中で主人公や敵が追い求めるものであるが、それ以上の重要性や意味はなく、それ自体が何であるかは作品の途中や終盤でそれとなく明かされるだけである。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "ヒッチコックが繰り返し用いたテーマに、「間違えられた男(無実の罪を着せられる男)」が挙げられる。それは無実の男性主人公が突然身に覚えのない事件に巻き込まれ、その犯人と間違われ、警察やスパイに追われながら、無実を証明するために真犯人や謎を探し求めるという物語で展開される場合が多く、その例は『三十九夜』『第3逃亡者』『逃走迷路』『泥棒成金』『北北西に進路を取れ』などに見られる。ヒッチコックはこのテーマを多用した理由について、「観客により強い強烈な危機感をひき起こすから」と述べている。映画評論家の筈見有弘は、このテーマの見方を変えると「アイデンティティを失った人物がそれをとりもどそうとする旅が主題といえる」と述べている。間違えられた男の物語では、主人公がさまざまな場所を移動しながら犯人を追うというシチュエーションをとるが、その場所は有名な観光地や施設であることが多く、それを単に背景としてだけでなく、サスペンスを高めるためにその地の特色を生かして使用した。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "もうひとつの頻出するテーマとして、秩序と混沌との間で分裂した人格のせめぎ合いがあり、それは「二重性(ダブル)」という概念で知られている。二重性は主人公と犯人のふたりが、同じ人物の表と裏であることや、二重人格もしくは分身同士であることを示しており、その例は『疑惑の影』の叔父と姪、『ロープ』の2人の犯人の若者と教師、『見知らぬ乗客』のガイとブルーノなどに見られる。トリュフォーも「殺人犯と濡れ衣を着せられた無実の人間は表裏一体の関係にある」と述べ、そこからヒッチコック作品に「人間の聖なる面と罪ある面との葛藤」という主題を見出している。また、トリュフォーは間違えられた男の主人公も「潜在的に犯意を持った人間」であると主張し、そこからヒッチコック作品に一貫して原罪や罪悪感のモチーフが見られると指摘している。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "ヒッチコックはホモセクシュアリティの主題を扱ったことで知られ、少なくとも10本の作品にその微妙な言及が見られる。とくにホモセクシュアルを描いた作品として頻繁に指摘されるのが『殺人!』『ロープ』『見知らぬ乗客』の3本であり、エリック・ロメールとクロード・シャブロルによると、『殺人!』では道徳的観点から、『ロープ』では現実主義的観点から、『見知らぬ乗客』では精神分析的観点から、それぞれホモセクシュアリティの問題を描いているという。映画批評家のロビン・ウッド(英語版)によると、ヒッチコックはキャリアの中でゲイの俳優と仕事を共にしていたにもかかわらず、ホモセクシュアリティに対して複雑な感情を持っていたという。クィア映画研究者の菅野優香も、ヒッチコックを「ホモセクシュアルに対して複雑かつ矛盾する反応を示し続けた作家」であると主張し、ホモセクシュアリティに関するヒッチコックの反応は「ホモフォビア(同性愛嫌悪)とホモエロティシズムが奇妙に混じりあう両義的なもの」であると述べている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "スパイの諜報や、精神病質の傾向があるキャラクターによる殺人も、ヒッチコック作品でよく取り扱われるテーマである。悪役や殺人者は、知的で人間的魅力のある友好的な人物として描かれることが多く、ヒッチコックはそれが「映画のドラマの緊張をささえる重要な条件」と述べている。いくつかの作品では、観客が悪役や殺人者の立場に身を置いてしまうように描いている。ヒッチコックが子供時代から抱いた警察に対する怖れは、しばしば作品に現れるモチーフでもある。ヒッチコックは多くの作品で警察を好意的に扱わず、大抵は無実の主人公を追っかけたり、真相を話しても信用しなかったり、事件のカギを何も掴めなかったりするなど、頼れない存在として描いている。その警察が使う手錠は、警察への恐怖や奪われた自由の象徴として、多くの作品で用いた小道具である。これ以外に頻出する小道具には、カオスや人間の破滅の象徴として登場する鳥(その例は『第3逃亡者』『サボタージュ』『鳥』などに見られる)や、皮肉な効果を出すために殺人や不気味さと結び付けるようにして登場する料理(その例は『ロープ』『フレンジー』に見られる)がある。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "ヒッチコックはカメラが全景をとらえてから対象に接近していくトラックアップという移動撮影法を多用した。その有名な使用例は、『第3逃亡者』のダンスホールの全景から犯人のドラマーの顔へと接近するまでをワンショットでとらえたクレーンショット、『汚名』の俯瞰で写した大広間の全景からイングリッド・バーグマンの手に握られた鍵のクローズアップへと接近するワンショット、『サイコ』の町の全景から情事が行われているホテルの窓へと接近する導入部のショットである。トリュフォーはこの撮影法による「最も遠くから最も近くへ、最大から最小へ」という表現の仕方が、ヒッチコック映画の法則のひとつであると述べている。こうした移動効果の応用として、『めまい』ではカメラをトラックバックさせながらズームアップすることで、めまいを覚えるような歪んだ映像を表現するドリーズーム(英語版)(めまいショット)という技法を創出した。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "ヒッチコックはキャリアを通じて、さまざまな映像合成技術を使用した。イギリス時代の作品では、鏡とミニチュアを使って人物が大きなセットの中を動き回っているような映像効果を出すシュフタン・プロセスを採り入れ、『恐喝』の大英博物館での追跡シーンや、『暗殺者の家』のロイヤル・アルバート・ホールでのシーンなどに使用した。リア・プロジェクション(英語版)(スクリーン・プロセス)をよく使用したことでも知られたが、この技法は主に群衆シーン、列車や自動車などのシーン、『海外特派員』の飛行機の墜落や『見知らぬ乗客』のメリーゴーランドの暴走などのスペクタクルなシーンで使用されている。また、『逃走迷路』『裏窓』『めまい』の人物が高所から転落するシーンなどでは、トラベリング・マット(英語版)による背景と映像を合成する技術を使用した。この技術では合成画面の輪郭に青みがかったしみが出てしまうという欠点があったが、『鳥』ではそれを解決するためにウォルト・ディズニー・スタジオが開発した新しい合成技術ナトリウム・プロセス(英語版)を採り入れ、鳥が人間を襲うシーンの合成画面で使用した。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "編集技法では、異なる場所で撮られたシーンを交互につなぐカットバックを、サスペンスを盛り上げる技法として多用した。似たような形のもの同士や、同じような動きをしたもの同士でショットをつなぐマッチカットも多用しており、その例は『北北西に進路を取れ』で主人公がヒロインを崖から引き上げると、寝台列車内のショットに切り替わるというラストシーンや、『サイコ』でジャネット・リーの瞳と排水孔をディゾルブ(英語版)でつないだシーンに見られる。また、トラッキングショットを使わずに連続的なジャンプカットで焦点距離を変化させることで、対象に近づいたり離れたりするアキシャルカット(英語版)も多用しており、その有名な使用例として『鳥』で眼をくりぬかれた農夫の死体を大中小のショットで近づいて見せるシーンが挙げられる。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "ヒッチコックの女性の描写は、さまざまな学術的議論の対象となってきた。フェミニスト映画理論家のローラ・マルヴィ(英語版)は1975年に発表した論文「視覚的快楽と物語映画」で「男性のまなざし」という概念を紹介し、ヒッチコック作品における観客の視線は、異性愛者の男性主人公の視線と同じであるとし、そこから男性観客が女性の登場人物をのぞき見るという視覚的快楽が提供されていると述べている。菅野はヒッチコックの女性の描き方について、「単に美的対象とするだけでなく、その不安、苦痛、恐怖を女性観客が後味の悪さをもって感知するように仕向けた」と述べている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "ヒッチコック作品のヒロインには、多くの作品で何度も繰り返して描かれる特徴的なタイプが存在する。それは「クール・ブロンド」と呼ばれる、洗練された金髪のクールな美女である。クール・ブロンドの女性たちは知的な雰囲気を持ち、表面は冷たそうで慎ましやかに装っているが、内面には燃えたぎるような情熱や欲情を秘めている。映画評論家の山田宏一は、彼女たちがセックスを好み、結婚相手をつかまえることにかけては本能的に天才的であると指摘しているが、ヒッチコック自身はこうしたヒロインたちの行動原理を「マンハント(亭主狩り)」と定義し、多くの作品にヒロインが結婚に向けて男性を誘惑するプロットを採り入れている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "ヒッチコックはヒロイン役に、クール・ブロンドのイメージに合致する金髪の女優を好んで起用した。例えば、『三十九夜』『間諜最後の日』のマデリーン・キャロル、『レベッカ』『断崖』のジョーン・フォンテイン、『白い恐怖』『汚名』『山羊座のもとに』のイングリッド・バーグマン、『ダイヤルMを廻せ!』『裏窓』『泥棒成金』のグレース・ケリー、『知りすぎていた男』のドリス・デイ、『めまい』のキム・ノヴァク、『北北西に進路を取れ』のエヴァ・マリー・セイント、『サイコ』のジャネット・リー、『鳥』『マーニー』のティッピ・ヘドレンである。とくにグレース・ケリーは、ヒッチコックが求める理想的な女性のイメージに最も合致する女優であり、ヒッチコックは彼女のイメージを「雪をかぶった活火山(外側は冷たいが、内面は燃えたぎっている女という意味)」と表現した。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "ヒッチコック作品に登場する女性たちは、しばしば危険な状況や恐怖のどん底に陥ったり、事件に巻き込まれたり、時には死に追いやられるなどして酷い目に遭うことが多い。その描写のために一部識者からは女性の価値を見下していると批判されたが、これに対してスポトーは、むしろヒッチコックは女性を『汚名』や『裏窓』のヒロインのように、愛のために進んで多くの危険を冒す勇敢な人物として描いていると主張している。山田も、女性たちは事件に巻き込まれると逃げるのではなく、事件の核心に迫り、犯人を刺激して犯罪を誘発させ、その結果事件を解決へと導いていると指摘している。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "このような女性の描き方には、ヒッチコックの女性の好みが反映されている。ヒッチコックは「私自身に関して言えば、自分の性的魅力をいっぺんに晒け出してしまわない女性が好きだ。つまり、人を惹きつける特徴があまり表に出ないような人が好き」と述べている。トリュフォーのインタビューでは、「わたしたちの求めている女のイメージというのは、上流階級の洗練された女、真の淑女でありながら、寝室に入ったとたんに娼婦に変貌してしまうような、そんな女だ」と述べているが、トリュフォーはその好みが「かなり特殊」で「個性的な発想」であると述べている。ヒッチコック作品の女性に金髪が多いのも、ヒッチコックが金髪女性を好んだからであるが、スポトーによると、『快楽の園』のヴァージニア・ヴァリや『下宿人』のジューン・トリップ(英語版)などのブルネットの女優は、ヒッチコックの意向で金髪に変えられたという。その一方で、ヒッチコックはマリリン・モンローやブリジット・バルドーのようなセックスをむき出しにしたグラマー女優を「繊細さを欠いていて、まるでニュアンスがない」と言って好まなかった。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "ヒッチコックは自分の作品にワンショットだけ小さな役でカメオ出演したことで知られている。ヒッチコックのカメオ出演は、『下宿人』で不足していたエキストラを補充するために自身が出演する必要に迫られたことがきっかけで、新聞社の編集室で背を向けて座る人として出演したことから始まった。それ以来、ヒッチコック曰く「まったくのお遊びのつもり」で、30本以上の作品に通行人や乗客などの役どころで顔を出した。例えば、『見知らぬ乗客』では大きなコントラバスを抱えて列車に乗り込む人、『ダイヤルMを廻せ!』では同窓会の記念写真に写る人、『裏窓』では作曲家の部屋で時計のねじを巻く人、『北北西に進路を取れ』ではバスに乗り遅れる人、『鳥』ではペットショップから2匹の子犬を連れて出てくる人、『ファミリー・プロット』ではガラスに映るシルエットとして出演した。カメオ出演はヒッチコックのユーモア精神のあらわれであり、その名前と顔を有名なものにした。作品の中でヒッチコックの姿を探すことは観客の楽しみになったが、そのせいで物語に集中できなくなるのを防ぐため、後年の作品には最初の数分で出演するように心がけた。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "ヒッチコックの作品は娯楽文学や大衆小説を原作としたものが多いが、それを映画化する時は小説の文学性にとらわれず、自分が気に入った基本的なアイデアだけを採用し、あとは自分の感性に合うように内容を作り変えた。脚本を自分だけで書くことは少なく、大抵は他の脚本家と一緒に執筆したが、脚本家として自分の名前をクレジットタイトルに出すことはしなかった。ヒッチコックと何度もコンビを組んだ主な脚本家には、サイレント映画時代のエリオット・スタナード(英語版)、イギリス時代のチャールズ・ベネット(英語版)、ヒッチコックの元秘書のジョーン・ハリソン、アメリカ時代のベン・ヘクトやジョン・マイケル・ヘイズ(英語版)がいる。ヒッチコックは脚本について「よきにつけ、あしきにつけ、全体をわたしなりにつくりあげなければならない」と述べているが、筈見によると、ヒッチコックが個性のはっきりした一流脚本家と仕事を共にしたにもかかわらず、完成した作品はまったくヒッチコックのものになっているという。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "脚本が完成すると、すぐに撮影に取りかかるのではなく、1ショットごとにキャラクターの設定やアクション、カメラの位置などをスケッチした詳細な絵コンテを作成し、撮影前までに頭の中で作品の全体像ができあがっているようにした。ヒッチコックはこうした紙の上ですべてのシーンを視覚化する作業を、実際に撮影を行うことよりも重要な作業と見なした。そのため紙の上で映画が完成すると、ヒッチコックの仕事は終わったも同然となり、撮影は単にすべてを具現化するだけの作業となった。映画全体を頭の中に入れていたため、撮影中に脚本を見たり、カメラを覗き込んだりすることはしなかった。製作スタッフには自分の気に入った人物や、自分が望むことを理解している人物を起用した。その主なスタッフに、イギリス時代のカメラマンのジャック・E・コックス(英語版)、アメリカ時代にチームを組んだカメラマンのロバート・バークス(英語版)、編集技師のジョージ・トマシーニ(英語版)、衣裳デザイナーのイーディス・ヘッド、作曲家のバーナード・ハーマン、タイトル・デザイナーのソウル・バスがいる。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "ヒッチコックは「俳優なんてのは家畜と同じだ」と発言したことで知られている。ヒッチコックは俳優を映画の素材の一部と見なし、俳優の個性や演技力は求めず、カメラの前で演技らしいことをしないよう求めた。ヒッチコックはトリュフォーに「(俳優は)いつでも監督とカメラの意のままに映画のなかに完全に入りこめるようでなければならない。俳優はカメラにすべてをゆだねて、カメラが最高のタッチを見いだし、最高のクライマックスをつくりだせるようにしてやらなければならない」と述べている。実際にマーガレット・ロックウッドやアン・バクスターは、撮影中にヒッチコックが最小限の指示しか与えず、俳優の演技にあまり注意を払わなかったと証言している。また、ジェームズ・メイソンは、ヒッチコックが俳優を「アニメ化された小道具」と見なしていたと述べている。ヒッチコックはお気に入りの俳優と何度も仕事を共にしており、その主な俳優に4本の作品に主演したジェームズ・ステュアートとケーリー・グラント、3本の作品でヒロインを演じたイングリッド・バーグマンとグレース・ケリー、出演回数が最多の6本のレオ・G・キャロルがいる。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "ヒッチコックはフェイマス・プレイヤーズ=ラスキー時代の1921年に、将来の妻となるアルマ・レヴィルと初めて出会った。アルマはヒッチコックと1日違いで生まれ、16歳頃から編集技師やスクリプターとして働いていた。ヒッチコックは1923年からアルマと仕事を共にし、翌1924年にベルリンで『与太者』を撮影したあと、イギリスへ戻る船上でアルマに婚約し、それから2年後に結婚した。2人は1980年4月にヒッチコックが亡くなるまで連れ添ったが、その2年後の1982年7月6日にアルマも後を追うように亡くなっている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "ヒッチコックはアルマのことを、「人柄は快活で、表情が曇ることは決してない。しかも有効な助言を惜し気もなく与えるとき以外には無駄口を一切きかない」と述べている。アルマはヒッチコックの映画作りの最も身近な協力者であり、いくつかの夫の作品で脚本や編集、スクリプトを担当した。ヒッチコックは映画製作のあらゆる点でアルマの意見を重視し、彼女に脚本や最終編集の助言を求めたり、配給前の完成作品の最終チェックをさせたりした。ヒッチコックとアルマは相性の良い夫婦だったが、夫婦と親しい人物が述べているように、2人は夫と妻というよりも仕事上のパートナーの間柄だった。また、カール・マルデンは、ヒッチコックがアルマを精神安定剤のような存在と見なし、すべてのことを彼女でバランスをとっていたと述べている。ヒッチコックはAFI生涯功労賞の受賞スピーチで、アルマを「わたしに最も大きな愛情と理解と勇気をあたえてくれ、終始変わらぬ協力を惜しまなかった4人...一人は映画の編集者、一人はシナリオライター、一人はわたしの娘のパット(パトリシア)の母親、一人は家庭料理に最も見事な奇跡をおこなった類いまれなる料理人です。この4人の名前はアルマ・レヴィルといいます」と称えた。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "1928年に生まれたパトリシア・アルマ・ヒッチコック(英語版)は、ヒッチコックとアルマの一人娘である。パトリシアは女優になり、ヒッチコック作品にも『舞台恐怖症』で端役、『見知らぬ乗客』で主人公の恋人の妹役、『サイコ』でジャネット・リーの会社の同僚役で出演したほか、『ヒッチコック劇場』にもいくつかのエピソードに出演した。また、『ヒッチコック・ミステリー・マガジン』の副編集長も務めた。パトリシアは1952年にアメリカの実業家のジョゼフ・E・オコンネルと結婚し、2人の間にはヒッチコックの孫娘にあたるメアリ・オコンネル(1953年4月17日生)、テレサ(1954年7月2日生)、キャスリーン(1959年2月27日生)が生まれた。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "ヒッチコックは生来、内気であまり人と付き合いたがらない人物だった。アメリカ時代もパーティーに出席したりするなどの社交的なことには興味がなく、パーティーではしばしばテーブルで眠り込んでしまうことがあったという。ヒッチコックは若い頃から、さまざまな恐るべきことが突如として自分の身にふりかかることを恐れ、常に最悪の事態を予期してそれに備えていた。その一方でヒッチコックはいたずらをするのが大好きで、それは単純なからかい程度のものから、相手に大きな迷惑をかける酷いものまで様々だった。例えば、ロンドンでディナー・パーティーをした時には、青い食べ物を見たことがないという理由で、提供された食べ物のすべてを青色に染めたという。またある時には、友人のジェラルド・デュ・モーリエに派手な仮装をさせて自宅のパーティーに招いたが、モーリエ以外の客は全員黒の蝶ネクタイを付けて盛装しており、一人だけ仮装をしてきたモーリエに恥をかかせるといういたずらを仕掛けた。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "ヒッチコックはあまり贅沢を好まず、比較的質素な生活を送った。服装も地味で、ダークブルーのスーツと白いワイシャツ、ネクタイを着用した。秩序と習慣を重んじたヒッチコックは、毎日この同じ服を着用しており、衣類ダンスにはまったく同じスーツが6着、同じ靴が6足、同じネクタイが10本、同じワイシャツが15枚、同じ靴下が15足入っていたという。ヒッチコックの唯一で最大の贅沢は食事であり、定期的に食通好みの珍味を調達したり、毎月イギリスからベーコンやドーバー産の舌平目を空輸で取り寄せ、それをロサンゼルスの燻製保蔵処理会社に借りたスペースに山のように貯蔵したりするなど、料理や食材にこだわる美食家として知られた。日本に二度訪れた際にはいずれももっぱら松坂牛のビーフステーキを食べていた。ワイン好きとしても知られ、自宅のワイン貯蔵室にはたくさんの年代物のワインを置いていた。1960年にはフランスのディジョンで行われたブルゴーニュワイン・フェスティバルで利き酒の名手であることを示す綬章を贈られた。また、パウル・クレーやジョルジュ・ルオー、ラウル・デュフィ、モーリス・ユトリロ、モーリス・ド・ヴラマンクなどの画家の作品を収集した。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "サスペンス映画を多数手がけたヒッチコックは、子供の時から犯罪や異常で悪質な行動に対して高い関心を示し、休みの日にはロンドンの中央刑事裁判所(オールド・ベイリー(英語版))で殺人事件の公判を見学してノートに記録したり、スコットランドヤードの犯罪博物館(英語版)を何度も訪れたりした。1937年に家族とアメリカへ観光旅行した時も、ロウアー・マンハッタンの警察に立ち寄り、面通しを見学したり、収監手続きや尋問などの専門的な問題に夢中になるなど、観光には相応しからぬことをして妻を当惑させたという。スポトーは「恐怖をあつかう芸術家のなかにも、ヒッチコックほど犯罪について該博な知識をもっている人はほとんどいない」と述べている。また、10代のころから広く小説を読むようになったが、愛読したのはエドガー・アラン・ポー、G・K・チェスタトン、ジョン・バカンなどの推理小説やサスペンス小説だった。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "ヒッチコックは子供の時から肥満体型であり、1939年末には体重が約165キロに達し、太り過ぎで背中の痛みに苦しんだ。ヒッチコックの普段の食事はローストチキンにボイルドハム、ポテト、野菜料理、パン、ワイン1瓶、サラダ、デザート、そしてブランデーだったが、1943年には食事療法を試み、朝と昼はブラックコーヒーだけ、夕食は小さなステーキとサラダだけを食べた。その結果、約50キロの減量に成功し、それを記念に残すため『救命艇』のカメオ出演として、減量前と後の写真を劇中に登場する新聞のやせ薬の広告で使用した。このころのヒッチコックは現実に136キロから91キロに減量した矢先であり、ヒッチコックによると、この映画を見た肥満体型の人たちから、このやせ薬の入手方法を教えて欲しいという内容の手紙が殺到したという。しかし、減量を続けるのは難しく、1950年までに体重は元に戻り、それどころか前よりもさらに体重が増えてしまった。それでもヒッチコックの肥満体型は、自作へのカメオ出演や『ヒッチコック劇場』のホスト役を通じて自身のトレードマークとなり、山田宏一は「チャップリンの放浪紳士のスタイルと同じくらい有名になった」とさえ述べている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "ヒッチコックは、映画史の中で最も偉大な映画監督のひとりと見なされている。アメリカの社会学者カミール・パーリアは、「私はヒッチコックをピカソ、ストラヴィンスキー、ジョイス、プルーストと同等の位置におく」と述べている。伝記作家のジョン・ラッセル・テイラーは、ヒッチコックを「世界で最も広く認識されている人物」と呼び、映画批評家のロジャー・イーバートは「映画の世紀の前半でおそらく最も重要な人物である」と述べている。ヒッチコックは名前で観客を動員できる数少ない監督であり、作品の多くは商業的に高い成功を収め、アメリカ時代の作品だけでも1億5000万ドル以上の興行収入(インフレ調整後)を記録した。", "title": "評価と影響" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "ヒッチコック作品のうち、『裏窓』『めまい』『北北西に進路を取れ』『サイコ』の4本は、アメリカン・フィルム・インスティチュートが選出した「アメリカ映画ベスト100」(1998年)と「アメリカ映画ベスト100(10周年エディション)」(2007年)の両方にランクインされた。1992年に『サイト・アンド・サウンド(英語版)』が批評家の投票で選出した「トップ10映画監督」のリストでは4位にランクされた。2002年に同誌が発表した史上最高の監督のリストでは、批評家のトップ10の投票で2位、監督のトップ10の投票で5位にランクされた。同年には『MovieMaker』により「史上最も影響力のある映画監督」に選出され、2007年には『デイリー・テレグラフ』による批評家の投票で「イギリスで最も偉大な映画監督」に選ばれた。そのほか、1996年に『エンターテインメント・ウィークリー』が選出した「50人の最高の監督」で1位、2000年に『キネマ旬報』が著名人の投票で選出した「20世紀の映画監督 外国編」で1位、2005年に『エンパイア』が発表した「史上最高の監督トップ40」で2位、2007年に『Total Film』が発表した「100人の偉大な映画監督」で1位にランクされた。", "title": "評価と影響" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "映画デビューしてから長い間、ヒッチコックはイギリスやアメリカの英語圏である程度の商業的成功を収めていたにもかかわらず、大方の映画批評家からは器用なエンターテインメント作品を作る職人的な監督と見なされ、ストーリーテリングやテクニックは評価されても、それ以上の芸術性を持つ映画作家としては正当に評価されてこなかった。とくに1930年代にかけてのイギリスでは、知識人たちが映画を芸術ではなく下層階級向けの娯楽と見なして軽蔑し、映画批評家たちもドイツやソ連の芸術映画を賞賛する一方で、ハリウッドなどの娯楽映画を軽視する傾向があったため、その状況下で娯楽映画を作り続けたヒッチコックはジョン・グリアソン(英語版)などの見識ある映画人や批評家から「独創性を欠いている」「うぬぼれている」などと批判された。例えば、1936年にアーサー・ヴェッセロは、ヒッチコックのことを「すぐれた職人」と呼び、視覚的なテクニックを評価しながらも、「ヒッチコックの映画を全体として見た場合、知的な内容が乏しいためにまとまりがないと感じざるをえず、それゆえ失望がつきまとう」と述べた。アメリカ時代に移ってからの約10年間も真剣な批評や研究の対象になることは少なく、英語圏の映画批評はアメリカ時代よりもイギリス時代の作品を好む風潮が支配的となり、1944年にジェームズ・エイジーはヒッチコックの「凋落」が批評家の間で囁かれているとさえ述べた。", "title": "評価と影響" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "そんなヒッチコックの評価が大きく変化したのは、1951年に創刊されたフランスの映画誌『カイエ・デュ・シネマ』(以下、カイエ誌と表記)の若手映画批評家であるエリック・ロメール、クロード・シャブロル、フランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダールなどが、ヒッチコックを擁護または顕揚する批評を書き始めてからのことである。彼らは作家主義と呼ばれる批評方針を打ち出し、ヒッチコックを独自の演出スタイルや一貫した主題を持つ「映画作家(auteur)」として、同じく娯楽映画の職人監督と見なされていたハワード・ホークスとともに高く評価し、「ヒッチコック=ホークス主義」を自称して盛んにヒッチコック論を掲載した。これをきっかけにフランスでは、カイエ誌の批評家を中心とするヒッチコック支持者とその批判者との間で、芸術家としてのヒッチコックの評価をめぐる大きな論争が起きた。", "title": "評価と影響" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "1954年にカイエ誌はヒッチコック特集号を組み、トリュフォーやシャブロル、アンドレ・バザンによるヒッチコックへの取材記事などを掲載した。1957年にはロメールとシャブロルが共著で世界初のヒッチコック研究書『ヒッチコック』を刊行し、これまでカイエ誌の批評家によって盛んに論じられていた、秘密と告白や堕罪と救済などのカトリック的なヒッチコック作品の主題を真っ向から分析した。ロメールとシャブロルはこの本の掉尾で、ヒッチコックを「全映画史の中で最も偉大な、形式の発明者の一人である。おそらくムルナウとエイゼンシュテインだけが、この点に関して彼との比較に耐える。(中略)ここでは、形式は内容を飾るのではない。形式が内容を創造するのだ。ヒッチコックのすべてがこの定式に集約される」と評した。この本はヒッチコックが批評や研究の対象として本格的に取り上げられる大きなきっかけとなった。", "title": "評価と影響" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "カイエ誌の批評家がヒッチコックを称揚して以来、映画批評家の間ではヒッチコックの仕事を評価しようとする動きが広まった。1960年代から英語圏でも、作家主義の影響を受けた映画批評家を中心に、映画作家としてのヒッチコックをめぐる批評が進展した。イギリスでは、1965年にロビン・ウッド(英語版)が同国で初のヒッチコック研究書『Hitchcock’s Films』を刊行した。ウッドはヒッチコックをめぐる批評的議論が英語圏で普及するのに重要な貢献を果たしたが、ゲイ・レズビアン映画批評の先駆者でもあるウッドは、その観点からのヒッチコック作品の分析でも先鞭をつけた。アメリカでは、1962年にニューヨーク近代美術館(MoMA)で行われたヒッチコックの回顧上映に合わせて刊行されたモノグラフの著者であるピーター・ボグダノヴィッチや、長年にわたりヒッチコックを支持したアンドリュー・サリスなどが、いち早くヒッチコックの作家性を高く評価した批評家として知られる。", "title": "評価と影響" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "こうしたヒッチコックの批評や研究の世界的な進展を後押ししたのが、1966年に英仏2か国語で同時刊行されたトリュフォーによるヒッチコックへのインタビュー集成『Le Cinéma selon Alfred Hitchcock』(英語版は『Hitchcock/Truffaut』、邦訳は『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』のタイトルで1981年初版刊行)である。この本はヒッチコックの63歳の誕生日にあたる1962年8月13日から8日間にわたり、ユニバーサル・ピクチャーズのスタジオで計50時間かけて行われたインタビューを書籍化したもので、当時までに作られたヒッチコックの作品の演出や技法などを1本ずつ詳細に検証している。この本はヒッチコック研究におけるバイブルとなり、映画作家としてのヒッチコックの評価の確立に最大の貢献を果たしただけでなく、今日まで「映画の教科書」と見なされる名著として知られている。", "title": "評価と影響" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "以後、ヒッチコックをめぐる学問的議論や研究は活発になり、社会・政治批評、構造主義、精神分析学、フェミニズム、映画史研究など、さまざまな立場から多様かつ緻密な研究が行われるようになった。フェミニスト映画理論の立場では、1975年にローラ・マルヴィがその先駆的論文『視覚的快楽と物語映画』でヒッチコック作品を議論の中心に取り上げ、それ以来ヒッチコック作品は理論の定式とその映画批評の実践において常に中心的な対象であり続けた。精神分析学の立場では、1988年に哲学者のスラヴォイ・ジジェクがジャック・ラカンの精神分析学を基盤にヒッチコック作品を分析した研究書を刊行した。ヒッチコックの死後数十年が経過してからも、その作品は現代の学者や批評家の間で大きな関心を呼び、伝記作家のジーン・アデアは「今日でもヒッチコックは、おそらく映画史の中で最も研究された監督である」と述べている。ヒッチコック作品をさまざまな視点から分析するエッセイや本は市場にたくさん出回っており、マクギリガンも「ヒッチコックは他のどの映画監督よりも多くの本が書かれている」と述べている。", "title": "評価と影響" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "ヒッチコックは「サスペンスの巨匠」、日本では「スリラーの神様」などと呼ばれ、それまで低級なジャンルと見なされていたサスペンス映画やスリラー映画のイメージを変え、芸術的な1つのジャンルとして認めさせた。映画評論家の山田宏一は、「ヒッチコックはサスペンスとかスリラーとか呼ばれるジャンルの基本となる映画的プロットや映画的手法をほとんど案出し、完成させた」と述べている。とくに『サイコ』はスラッシャー映画のジャンルを創出し、『鳥』はディザスター映画のジャンルにおける1つのパターンを作った。アデアは「アルフレッド・ヒッチコックは、20世紀のほとんどの間で世界映画の巨人だった。彼の遺産は21世紀にも重要な痕跡を残し続けている」と述べている。", "title": "評価と影響" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "ヒッチコックの作品は世界の多くの映画人に影響を与え、映画評論家の須賀隆は「作り手が意識しなくてもヒッチコックの影響の痕跡が認められる」と述べている。ヒッチコックのサスペンス映画の演出スタイルやプロットを模倣した作品も多く作られ、このジャンルで注目作が出ると「ヒッチコック的」「ヒッチコック風」という表現で紹介されることもある。こうしたヒッチコックかぶれともいえるような作品や監督は「ヒッチコッキアン」と呼ばれる。ヒッチコック作品を真似した主な作品には『シャレード』(1963年、スタンリー・ドーネン監督)、『暗くなるまで待って』(1967年、テレンス・ヤング監督)、『ハンキー・パンキー(英語版)』(1982年、シドニー・ポワチエ監督)などが挙げられる。また、1977年にメル・ブルックスは、ヒッチコックの題材や設定などを片っ端からパロディ化したコメディ映画『メル・ブルックス/新サイコ』を製作した。", "title": "評価と影響" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "カイエ誌の批評家からヌーヴェルヴァーグの監督となったトリュフォーやシャブロルの作品にも、ヒッチコックの影響が見られる。トリュフォーは『黒衣の花嫁』(1968年)や『暗くなるまでこの恋を』(1969年)などでヒッチコックを意識したサスペンス映画を手がけ、シャブロルは『二重の鍵』(1959年)、『女鹿』(1968年)、『肉屋(フランス語版)』(1969年)などのサスペンス映画でヒッチコック的な主題と演出を繰り返した。1970年代以後のハリウッドの映画監督たちも、ヒッチコックを主なインスピレーションの源の1つとして引用または言及している。ブライアン・デ・パルマはキャリア初期の作品『悪魔のシスター』(1972年)、『愛のメモリー』(1976年)、『殺しのドレス』(1980年)などでヒッチコックの影響を受けており、ヒッチコックを「映画文法のパイオニア」と呼んだ。スティーヴン・スピルバーグは『ジョーズ』(1975年)などでヒッチコック作品の手法を引用した。ほかにもマーティン・スコセッシ、ジョン・カーペンター、ポール・バーホーベン、デヴィッド・フィンチャー などがヒッチコックの影響を受けている。", "title": "評価と影響" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "1985年、ヒッチコックはイギリス初の映画人の郵便切手の肖像に選ばれた。1998年8月3日にはアメリカ合衆国郵便公社が限定版の郵便切手シリーズ「Legends of Hollywood」の1つとして、ヒッチコックの肖像を印刷した32セント切手を発行した。1999年にはヒッチコックの生誕100周年を記念して、ニューヨーク近代美術館で展覧会と現存するすべての映画の上映が行われた。 2012年、ヒッチコックはアーティストのピーター・ブレイク(英語版)がデザインした『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の新しいバージョンのジャケットに、他のイギリスの文化的アイコンとともに登場した。ロンドンにはヒッチコックを記念する3つのブルー・プラークが設置されており、マダム・タッソー館の3つの分館にはヒッチコックの蝋人形が展示されている。", "title": "評価と影響" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "ヒッチコックのすべての作品は世界中で著作権保護されており(アメリカ時代の一部作品はパブリックドメインである)、アメリカ時代の作品を中心に正規版のホームビデオは広く販売されている。しかし、イギリス時代の作品は著作権保護されているにもかかわらず、パブリックドメインであるという誤解が広まり、日本を含む多くの国で海賊版のホームビデオが出回っている。ヒッチコックの作品は今日までテレビでも頻繁に放送されており、アメリカのAMCやターナー・クラシック・ムービーズなどのチャンネルのプログラムの基礎となっている。2012年には英国映画協会が現存する9本のヒッチコックのサイレント映画をデジタル修復し、翌2013年に「The Hitchcock 9」と題してブルックリン音楽アカデミー(英語版)で初上映され、2017年には日本でも上映された。", "title": "評価と影響" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "ヒッチコックが監督した長編映画は53本存在し、そのうちイギリス時代の作品は23本で、残る30本はアメリカ時代の作品である。それ以外にもヒッチコックは、未完の作品や共同監督作品、数本の短編映画を監督した。監督以外にも、キャリア初期を中心に字幕デザイナー、美術監督、助監督、プロデューサーなどを務めた作品がある。また、『ヒッチコック劇場』などのテレビシリーズでは約20本のエピソードを演出した。アメリカ国立フィルム登録簿には、『レベッカ』(1940年)、『疑惑の影』(1943年)、『汚名』(1946年)、『見知らぬ乗客』(1951年)、『裏窓』(1954年)、『めまい』(1958年)、『北北西に進路を取れ』(1959年)、『サイコ』(1960年)、『鳥』(1963年)の9本の監督作品が登録されている。", "title": "フィルモグラフィー" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "監督した長編映画", "title": "フィルモグラフィー" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "ヒッチコックはアカデミー賞の監督賞に5回ノミネートされた(『レベッカ』『救命艇』『白い恐怖』『裏窓』『サイコ』)が、1度も受賞することはなかった。ヒッチコックはそのことについて「わたしはいつも花嫁の付添い役で、けっして花嫁にはなれない」と述べている。『レベッカ』では作品賞を受賞したが、受賞者は監督のヒッチコックではなくプロデューサーのデヴィッド・O・セルズニックだったため、ヒッチコックがオスカー像を手にしたわけではなかった。1968年には映画芸術科学アカデミーから「プロデューサー個人が長期にわたり上質の作品を製作してきたこと」を称える特別賞のアービング・G・タルバーグ賞を授与された。", "title": "受賞" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "1960年2月8日、ヒッチコックは映画産業とテレビ放送産業への貢献により、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームで2つの星を獲得した。1964年3月7日にはアメリカの映画製作者協会(英語版)から「アメリカ映画史への貢献」に対してマイルストーン賞を授与され、1966年8月8日にはイギリスの映画テレビ技術者協会(英語版)の名誉会員に推挙された。1968年には全米監督協会から生涯功労賞にあたるD・W・グリフィス賞(英語版)を受賞した。1971年には英国映画テレビ芸術アカデミーからフェローシップ賞を贈られ、翌1972年にはハリウッド外国人映画記者協会からゴールデングローブ賞の生涯功労賞にあたるセシル・B・デミル賞を授与された。また、1974年にリンカーン・センター映画協会のチャップリン賞を受賞し、1979年にはアメリカン・フィルム・インスティチュートの生涯功労賞を受賞した。", "title": "受賞" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "ヒッチコックは映画賞以外にもさまざまな栄誉と称号を受けた。1963年にはサンタクララ大学から名誉博士号を受けた。1968年6月9日にはカリフォルニア大学サンタクルーズ校からも「映画界におけるすばらしい業績」に対して名誉博士号を贈られた。1969年9月5日にはフランスの芸術文化勲章を贈られ、その2年後の1971年1月14日にはレジオンドヌール勲章の5等級にあたるシュヴァリエをパリの式典で受章した。1972年6月6日にはコロンビア大学から人文科学の名誉博士号を授与された。1979年12月には大英帝国勲章の2等級にあたるナイト・コマンダー(英語版)(KBE)の称号を授けられた。", "title": "受賞" } ]
サー・アルフレッド・ジョゼフ・ヒッチコックは、イギリスの映画製作者である。映画史上最も影響力のある映画監督のひとりと見なされており、イギリスとアメリカ合衆国での60年にわたるキャリアの中で50本以上の長編映画を監督した。ほとんどの作品がサスペンス映画やスリラー映画であり、革新的な映画技法や独自の作風を使用し、「サスペンスの巨匠」や「スリラーの神様」と呼ばれた。ほとんどの監督作品に小さな役でカメオ出演したことや、テレビ番組『ヒッチコック劇場』のホスト役を務めたことでも広く知られている。 ヒッチコックは当初、電信ケーブル会社で技術者や広告デザイナーとして働き、1919年にサイレント映画の字幕デザイナーとして映画業界入りし、美術監督や助監督などを経て、1925年に『快楽の園』で監督デビューした。最初の成功した映画『下宿人』(1927年)で初めてサスペンス映画を手がけ、『恐喝』(1929年)からトーキーに移行した。1930年代は『暗殺者の家』(1934年)、『三十九夜』(1935年)、『バルカン超特急』(1938年)などで高い成功を収め、1939年には映画プロデューサーのデヴィッド・O・セルズニックと契約を結んで渡米し、その1本目となる『レベッカ』(1940年)はアカデミー賞作品賞に選ばれた。1940年代はセルズニックや他社で『疑惑の影』(1943年)や『汚名』(1946年)などを撮り、さらには独立プロダクションを設立して『ロープ』(1948年)などを発表した。1950年代以後はワーナー・ブラザース、パラマウント・ピクチャーズ、ユニバーサル・ピクチャーズなどの大手映画スタジオと契約を結び、プロデューサーを兼任して『見知らぬ乗客』(1951年)、『裏窓』(1954年)、『めまい』(1958年)、『北北西に進路を取れ』(1959年)、『サイコ』(1960年)、『鳥』(1963年)などを発表し、高い評価と興行的成功を収めた。その間の1955年にはアメリカ市民権を取得した。 ヒッチコックは映像で観客の感情を操作し、サスペンスの不安や恐怖を盛り上げる演出や手法を追求した。「ヒッチコック・タッチ」と呼ばれる独自のスタイルやテーマは、登場人物の視線で描くことで観客をのぞき行為をする役割にしたことや、犯人に間違えられた男性と洗練された金髪美女が主人公のプロット、サスペンスとユーモアの組合せ、マクガフィンの設定、二重性のテーマなどを特徴とする。独自のスタイルを持つ映画作家としてのヒッチコックの評価は、1950年代にフランスの映画誌『カイエ・デュ・シネマ』の若手批評家により確立されたが、それまでは単なる娯楽映画を作る職人監督と見なされていた。ヒッチコックは生前にさまざまな栄誉を受けており、1968年に映画芸術科学アカデミーからアービング・G・タルバーグ賞を受賞し、亡くなる4か月前の1979年12月には大英帝国勲章を授与された。今日までヒッチコックの作品は、さまざまな学術的研究や批評の対象となっている。
{{ActorActress | 芸名 = {{lang|en|Alfred Hitchcock}} | ふりがな = アルフレッド・ヒッチコック | 画像ファイル = Hitchcock, Alfred 02.jpg | 画像サイズ = 230px | 画像コメント = アルフレッド・ヒッチコック([[1955年]]) | 本名 = アルフレッド・ジョゼフ・ヒッチコック<br />({{lang-en-short|Alfred Joseph Hitchcock}}) | 別名義 = <!-- 別芸名がある場合に記載。愛称の欄ではありません --> | 出生地 = {{ENG}} [[エセックス]](現在の[[ウォルサム・フォレスト区|ウォルサム・フォレスト・ロンドン自治区]])、{{仮リンク|レイトンストーン|en|Leytonstone}} | 死没地 = {{USA}} [[カリフォルニア州]][[ロサンゼルス]]、{{仮リンク|ベルエア|en|Bel Air, Los Angeles}} | 国籍 = {{GBR}}<br />{{USA}}(1955年 - ) | 民族 = <!-- 民族名には信頼できる情報源が出典として必要です --> | 身長 = | 血液型 = | 生年 = 1899 | 生月 = 8 | 生日 = 13 | 没年 = 1980 | 没月 = 4 | 没日 = 29 | 職業 = [[映画監督]]、[[映画プロデューサー]]、[[脚本家]] | ジャンル = [[映画]]、[[テレビドラマ]] | 活動期間 = [[1919年]] - [[1979年]] | 活動内容 = | 配偶者 = [[アルマ・レヴィル]](1926年結婚) | 著名な家族 = 長女:{{仮リンク|パトリシア・ヒッチコック|en|Patricia Hitchcock}}(女優) | 事務所 = | 公式サイト = {{url|https://hitchcock.tv/|alfredhitchcock.com}} | 主な作品 = 『[[暗殺者の家]]』(1934年)<br />『[[三十九夜]]』(1935年)<br />『[[バルカン超特急]]』(1938年)<br />『[[レベッカ (1940年の映画)|レベッカ]]』(1940年)<br />『[[海外特派員 (映画)|海外特派員]]』(1940年)<br />『[[疑惑の影 (映画)|疑惑の影]]』(1943年)<br />『[[白い恐怖]]』(1945年)<br />『[[汚名]]』(1946年)<br />『[[ロープ (映画)|ロープ]]』(1948年)<br />『[[見知らぬ乗客]]』(1951年)<br />『[[ダイヤルMを廻せ!]]』(1954年)<br />『[[裏窓]]』(1954年)<br />『[[ハリーの災難]]』(1955年)<br />『[[知りすぎていた男]]』(1956年)<br />『[[めまい (映画)|めまい]]』(1958年)<br />『[[北北西に進路を取れ]]』(1959年)<br />『[[サイコ (1960年の映画)|サイコ]]』(1960年)<br />『[[鳥 (1963年の映画)|鳥]]』(1963年)<!-- 誰もが認める代表作品を記述 --> | アカデミー賞 = '''[[アービング・G・タルバーグ賞]]'''<br />[[1967年]] | AFI賞 = '''[[AFI生涯功労賞|生涯功労賞]]'''<br />[[1979年]]<br/>'''[[スリルを感じる映画ベスト100]]'''(第1位)<br />[[2006年]]『[[サイコ (1960年の映画)|サイコ]]』<br />'''[[10ジャンルのトップ10|ミステリー映画トップ10]]'''(第1位)<br/>[[2008年]]『[[めまい (映画)|めまい]]』 | 英国アカデミー賞 = '''[[英国アカデミー賞 フェローシップ賞|フェローシップ賞]]'''<br />[[1970年]] | ニューヨーク映画批評家協会賞 = '''[[ニューヨーク映画批評家協会賞 監督賞|監督賞]]'''<br />[[1938年]]『[[バルカン超特急]]』 | セザール賞 = | エミー賞 = | ジェミニ賞 = | ゴールデングローブ賞 = '''[[ゴールデングローブ賞 セシル・B・デミル賞|セシル・B・デミル賞]]'''<br />[[1971年]] 生涯功労賞<br />'''テレビ功労賞'''<br />[[1957年]]『[[ヒッチコック劇場]]』 | ゴールデンラズベリー賞 = | ゴヤ賞 = | グラミー賞 = | ブルーリボン賞 = | ローレンス・オリヴィエ賞 = | 全米映画俳優組合賞 = | トニー賞 = | 日本アカデミー賞 = | その他の賞 = '''[[全米監督協会賞]]'''<br />'''D・W・グリフィス賞'''<br />[[1968年]] | 備考 = }} [[File:Alfred Hitchcock Signature.svg|thumb|230px|ヒッチコックのサイン。]] '''サー・アルフレッド・ジョゼフ・ヒッチコック'''({{Lang-en-short|Sir Alfred Joseph Hitchcock}}, [[大英帝国勲章|{{lang|en|KBE}}]]、[[1899年]][[8月13日]] - [[1980年]][[4月29日]])は、[[イギリス]]の映画製作者である。[[映画史]]上最も影響力のある映画監督のひとりと見なされており<ref name="influential">出典は以下の通り: *{{cite web |url=https://www.brentonfilm.com/articles/alfred-hitchcock-collectors-guide-the-british-years-in-print |title=Alfred Hitchcock Collectors' Guide: The British Years in Print |publisher=Brenton Film |accessdate=2022-1-5 |date=13 August 2019 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20190821133528/https://www.brentonfilm.com/articles/alfred-hitchcock-collectors-guide-the-british-years-in-print |archivedate=21 August 2019 |url-status=live }} *{{cite web|last1=Ursell|first1=Joe|title=The Phenomenal Influence and Legacy of Alfred Hitchcock|url=https://www.intofilm.org/news-and-views/articles/hitchcock-feature|website=Into Film|date=10 August 2016|accessdate=2022-1-5|archivedate=14 July 2021|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210714164650/https://www.intofilm.org/news-and-views/articles/hitchcock-feature|url-status=live}} *{{cite web|last1=Deb|first1=Sandipan|title=The audience as a piano: the strange case of Alfred Hitchcock|url=https://www.livemint.com/opinion/columns/opinion-the-audience-as-a-piano-the-strange-case-of-alfred-hitchcock-1566141463913.html|website=Mint|date=18 August 2019|accessdate=2022-1-5|archivedate=14 July 2021|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210714165311/https://www.livemint.com/opinion/columns/opinion-the-audience-as-a-piano-the-strange-case-of-alfred-hitchcock-1566141463913.html|url-status=live}} *{{cite web|title='Like Bach in music': Alfred Hitchcock's towering influence|url=https://www.dw.com/en/like-bach-in-music-alfred-hitchcocks-towering-influence/a-49997613|website=DW|date=13 August 2019|accessdate=2022-1-5|archivedate=14 July 2021|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210714173419/https://www.dw.com/en/like-bach-in-music-alfred-hitchcocks-towering-influence/a-49997613|url-status=live}} *{{cite web|title=How Alfred Hitchcock changed cinema forever|url=https://faroutmagazine.co.uk/how-alfred-hitchcock-changed-cinema-forever/|website=Far Out|date=29 April 2019|accessdate=2022-1-5|archivedate=15 July 2021|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210715100438/https://faroutmagazine.co.uk/how-alfred-hitchcock-changed-cinema-forever/|url-status=live}} *{{cite web|last1=Ebert|first1=Roger|title=Hitchcock is still on top of film world|url=https://www.rogerebert.com/roger-ebert/hitchcock-is-still-on-top-of-film-world|website=[[Roger Ebert]]|date=13 August 1999|accessdate=2022-1-5|archivedate=15 July 2021|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210715103143/https://www.rogerebert.com/roger-ebert/hitchcock-is-still-on-top-of-film-world|url-status=live}}</ref>、イギリスと[[アメリカ合衆国]]での60年にわたるキャリアの中で50本以上の長編映画を監督した。ほとんどの作品が[[サスペンス映画]]や[[スリラー映画]]であり、革新的な映画技法や独自の作風を使用し、「'''サスペンスの巨匠'''」<ref>{{lang-en-short|links=no|Master of Suspense}}</ref>や「'''スリラーの神様'''」と呼ばれた{{Sfn|山田|2016|pp=8-10, 34-35, 250-253}}<ref name="Flint">{{cite news|last=Flint |first=Peter B. |date=1980-4-30 |url=https://www.nytimes.com/learning/general/onthisday/bday/0813.html |title=Alfred Hitchcock Dies; A Master of Suspense |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160324152219/http://www.nytimes.com/learning/general/onthisday/bday/0813.html |archivedate=24 March 2016 |work=The New York Times |accessdate=2021-12-29}}</ref>。ほとんどの監督作品に小さな役で[[カメオ出演]]したことや、テレビ番組『[[ヒッチコック劇場]]』(1955年 - 1965年)のホスト役を務めたことでも広く知られている。 <!-- 以下は記事全体のリード文ですので、単純に「概要」節などで区切らないでください --> ヒッチコックは当初、電信ケーブル会社で技術者や広告デザイナーとして働き、[[1919年]]に[[サイレント映画]]の字幕デザイナーとして映画業界入りし、美術監督や助監督などを経て、[[1925年]]に『{{仮リンク|快楽の園 (映画)|label=快楽の園|en|The Pleasure Garden (1925 film)}}』で監督デビューした。最初の成功した映画『[[下宿人]]』(1927年)で初めてサスペンス映画を手がけ、『[[恐喝 (1929年の映画)|恐喝]]』(1929年)から[[トーキー]]に移行した。1930年代は『[[暗殺者の家]]』(1934年)、『[[三十九夜]]』(1935年)、『[[バルカン超特急]]』(1938年)などで高い成功を収め、[[1939年]]には映画プロデューサーの[[デヴィッド・O・セルズニック]]と契約を結んで渡米し、その1本目となる『[[レベッカ (1940年の映画)|レベッカ]]』(1940年)は[[アカデミー賞]][[アカデミー作品賞|作品賞]]に選ばれた。1940年代はセルズニックや他社で『[[疑惑の影 (映画)|疑惑の影]]』(1943年)や『[[汚名]]』(1946年)などを撮り、さらには独立プロダクションを設立して『[[ロープ (映画)|ロープ]]』(1948年)などを発表した。1950年代以後は[[ワーナー・ブラザース]]、[[パラマウント・ピクチャーズ]]、[[ユニバーサル・ピクチャーズ]]などの[[メジャー映画スタジオ|大手映画スタジオ]]と契約を結び、プロデューサーを兼任して『[[見知らぬ乗客]]』(1951年)、『[[裏窓]]』(1954年)、『[[めまい (映画)|めまい]]』(1958年)、『[[北北西に進路を取れ]]』(1959年)、『[[サイコ (1960年の映画)|サイコ]]』(1960年)、『[[鳥 (1963年の映画)|鳥]]』(1963年)などを発表し、高い評価と興行的成功を収めた。その間の[[1955年]]には[[アメリカ合衆国の市民権|アメリカ市民権]]を取得した。 ヒッチコックは映像で観客の感情を操作し、サスペンスの不安や恐怖を盛り上げる演出や手法を追求した。「ヒッチコック・タッチ」と呼ばれる独自のスタイルやテーマは、登場人物の視線で描くことで観客を[[出歯亀|のぞき行為]]をする役割にしたことや、犯人に間違えられた男性と洗練された金髪美女が主人公のプロット、サスペンスとユーモアの組合せ、[[マクガフィン]]の設定、二重性のテーマなどを特徴とする。独自のスタイルを持つ映画作家としてのヒッチコックの評価は、1950年代に[[フランス]]の映画誌『[[カイエ・デュ・シネマ]]』の若手批評家により確立されたが、それまでは単なる娯楽映画を作る職人監督と見なされていた。ヒッチコックは生前にさまざまな栄誉を受けており、[[1968年]]に[[映画芸術科学アカデミー]]から[[アービング・G・タルバーグ賞]]を受賞し、亡くなる4か月前の[[1979年]]12月には[[大英帝国勲章]]を授与された。今日までヒッチコックの作品は、さまざまな学術的研究や批評の対象となっている。 == 生涯 == === 初期の人生:1899年 - 1919年 === ==== 幼少期と教育 ==== [[File:Site of 517 High Road Leytonstone London E11 3EE (Birthplace of Alfred Hitchcock).jpg|thumb|ヒッチコックの生まれた場所であるレイトンストーンのハイ・ロード517番地(ガソリンスタンドが建っている所)。右側の建物にはそれを記念した『[[鳥 (1963年の映画)|鳥]]』(1963年)の壁画が描かれている<ref>{{cite news |last1=Glanvill |first1=Natalie |title=Mateusz Odrobny speaks of pride after working on Hitchcock mural |url=http://www.guardian-series.co.uk/news/11240741.Hitchcock_mural_a__real_honour__says_painter/ |work=East London and West Essex Guardian |date=28 May 2014|accessdate=2021-10-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180106063930/http://www.guardian-series.co.uk/news/11240741.Hitchcock_mural_a__real_honour__says_painter/|archivedate=6 January 2018|url-status=live}}</ref>。]] [[1899年]]8月13日、アルフレッド・ジョゼフ・ヒッチコック(以下、ヒッチコックと表記)は[[イーストエンド・オブ・ロンドン|イースト・ロンドン]](当時は[[エセックス]]の一部)の郊外、{{仮リンク|レイトンストーン|en|Leytonstone}}のハイ・ロード517番地に、鶏肉店と青果物の卸売商を営む父のウィリアム・エドガー・ヒッチコックと、母のエマ・ジェーン・ヒッチコック(旧姓はホイーラン)の3人の子供の末っ子として生まれた{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=47-51}}{{Sfn|山田|2016|p=306}}。兄姉は9歳上のウィリアム・ダニエル・ヒッチコックと、7歳上のエレン・キャスリーン・ヒッチコック(愛称はネリー)である{{Sfn|山田|2016|p=306}}。一家は[[英国国教会]]の信者が多数を占める[[イングランド]]では少数派である、[[アイルランド]]系の[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]教徒だった{{Sfn|山田|2016|p=306}}<ref name="吉田広明">[[吉田広明]]「ヒッチコックがヒッチコックになるまで」({{Harvnb|河出書房新社|2018|pp=18-25}})</ref>。 幼少期のヒッチコックは内向的でおとなしく、遊び友達もおらず、いつも自分で面白いことを考え出してはひとりで遊んでいた{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=23-24}}{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=58-59}}{{Sfn|筈見|1986|p=31}}。その遊びというのは地図や時刻表を研究したり、旅行案内書を読んだり、ロンドン市内を散歩したりするというものだった<ref name="吉田広明"/>{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=58-59}}。8歳になるまでにはロンドンを走る[[馬車鉄道]]の全線を制覇し、さらにイギリスのほとんどの鉄道路線の時刻表を暗唱してみせて家族を驚かせた{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=58-59}}。他にもロンドンの乗り合いバスの路線図、[[オリエント急行]]の駅名、定期船の航路とそれらの時刻表、[[ニューヨーク]]の地図を暗記していた{{Sfn|筈見|1986|p=31}}。家の壁には巨大な海図を貼り、そこに航行中のイギリス商船の日ごとの位置をつけていた{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=58-59}}。 ヒッチコックは父に「けがれなき小羊くん」と呼ばれるほど行儀が良かったが、生活全体に規律と秩序を求める人物だった父から厳しい[[しつけ]]を受けた{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=23-24}}{{Sfn|スポトー(上)|1988|p=52}}。後年にヒッチコックがマスコミや知人に好んで繰り返し話したエピソードに、5歳か6歳ぐらいの時に父のしつけで警察署の留置場に入れられたという話がある。ヒッチコックは父から手紙を持たされ、近くの警察署まで行くように命じられたが、手紙を読んだ警察官に「わるい子にはこうするんだよ」と言われ、数分間だけ留置場に閉じ込められた{{Sfnm|1a1=スポトー(上)|1y=1988|1pp=43, 52|2a1=ヒッチコック|2a2=トリュフォー|2y=1990|2p=349}}{{Sfn|Taylor|1996|p=25}}。ヒッチコックはこの経験がきっかけで、生涯にわたって警察や監獄に恐怖心を抱くようになり、それは自身の作品のモチーフとなって現れた{{Sfnm|1a1=スポトー(上)|1y=1988|1pp=43, 52|2a1=ヒッチコック|2a2=トリュフォー|2y=1990|2p=349}}{{Sfn|筈見|1986|pp=28-29, 61}}{{Refnest|group="注"|[[1973年]]にヒッチコックはテレビ司会者の{{仮リンク|トム・スナイダー|en|Tom Snyder}}に「法律に関係することは何でも怖い」と言い、警察に駐車違反切符を切られるのを怖れて車を運転することさえもしなかったと述べている<ref> Snyder, Tom (1973). "Alfred Hitchcock interview", ''Tomorrow'', NBC, [https://www.youtube.com/watch?v=oHhe2zTkeRQ&t=1m55s 00:01:55] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20200103162126/https://www.youtube.com/watch?v=oHhe2zTkeRQ&t=1m55s |date=3 January 2020}}</ref>。}}。 ヒッチコックが6歳の時、一家はロンドン東部の{{仮リンク|ライムハウス|en|Limehouse}}に引っ越した。父はサーモンレーンの130番地と175番地の2店舗を買い取り、それぞれ[[フィッシュアンドチップス]]店と魚屋として経営を始め、一家はフィッシュアンドチップス店の上階で暮らした{{Sfn|McGilligan|2003|p=13}}。7歳の時には、イースト・エンドの{{仮リンク|ポプラー|en|Poplar, London}}にあるハウラ・ハウス修道院に通い、そこで約2年間の学業を修めた{{Sfn|スポトー(上)|1988|p=62}}{{Sfn|McGilligan|2003|p=18}}。伝記作家の{{仮リンク|パトリック・マクギリガン|en|Patrick McGilligan (biographer)}}によると、その後ヒッチコックはローマ・カトリックの機関である{{仮リンク|イエスの忠実な仲間|en|Faithful Companions of Jesus}}が運営する修道院学校に何回か通った可能性があるという{{Sfn|McGilligan|2003|p=18}}。9歳の時には、ロンドン南部の[[バタシー]]にある[[サレジオ会]]が運営する寄宿学校に短期間だけ入学した{{Sfn|McGilligan|2003|p=18}}{{Sfn|Taylor|1996|p=29}}。 [[1910年]]、一家は再び転居して[[ステップニー]]に移った。11歳になったヒッチコックは同年10月5日、{{仮リンク|スタンフォード・ヒル|en|Stamford Hill}}にある[[イエズス会]]の[[グラマースクール]]の{{仮リンク|聖イグナチウス・カレッジ|en|St Ignatius' College}}の昼間部に入学した{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=23-24}}{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=63-64, 80}}{{Refnest|group="注"|学校の登録簿には、ヒッチコックの生年が1899年ではなく1900年と記載されているが、伝記作家の{{仮リンク|ドナルド・スポトー|en|Donald Spoto}}によると、ヒッチコックの学校教育が1年遅れていたことから、両親がわざと10歳と偽って入学させたという{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=63-64, 80}}。}}。この学校は厳格な規律で知られ、1日の終わりに教師たちが硬いゴム製の鞭を使って生徒に体罰を与えていた。そのため生徒は教師に罰を宣告されると、1日が終わるまでそれを受けるという恐怖を覚えながら過ごさなければならなかった{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=23-24}}{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=68-69}}。後年にヒッチコックは、こうした経験によって自分の中に「恐怖という感情が育まれた」と述べている{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=23-24}}。その一方で規則や教師や級友に反抗し、司祭館の庭にあった鶏小屋から卵を盗んで宿舎の窓にぶつけ、怒った神父たちには知らないふりをした。そのためヒッチコックは周りから「コッキー(生意気の意)」というあだ名で呼ばれた{{Sfn|スポトー(上)|1988|p=75}}。勉強面では優秀な生徒であり、入学1年目の終わりにはラテン語、英語、フランス語および[[宗教教育]]の成績優秀者として賞を受けた{{Sfnm|1a1=スポトー(上)|1y=1988|1p=71|2a1=Adair|2y=2002|2p=15}}。ヒッチコック自身は「だいたいクラスで4番か5番の成績だった」と述べている{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=23-24}}。 ==== 電信ケーブル社勤務 ==== [[1913年]]7月25日、ヒッチコックは13歳で聖イグナチウス・カレッジを修了し、正規の教育にピリオドを打った{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=63-64, 80}}。ヒッチコックは両親にエンジニアになりたいと言い、ポプラーにある海洋技術専門学校のLondon County Council School of Engineering and Navigationの夜間コースに入学し、[[力学]]や[[電子工学]]、[[音響学]]、[[航海術]]などを学んだ{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=23-24}}{{Sfn|McGilligan|2003|p=25}}。翌[[1914年]]11月([[1915年]]初めの説もある)にはロンドンのW・T・ヘンリー電信ケーブル社に、敷設予定の電気ケーブルの太さやボルト数を測定する営業部門のテクニカルアドバイザーとして就職し、週15[[シリング]]の給料を得た{{Sfn|McGilligan|2003|p=25}}{{Sfnm|1a1=スポトー(上)|1y=1988|1p=83|2a1=Ackroyd|2y=2017|2p=20}}。その1か月後の12月12日、父親のウィリアム・エドガーが持病の[[肺気腫]]と腎臓病のため52歳で亡くなり、兄のウィリアム・ダニエルが父の経営した店を引き継いだ{{Sfn|McGilligan|2003|p=25}}{{Sfn|Ackroyd|2017|p=21}}。 そのうちヒッチコックは、エンジニアの仕事が面白くないと感じるようになり、1915年には仕事をしながら[[ロンドン大学]]の[[ゴールドスミス・カレッジ]]の美術学科の夜間コースに通い、イラストの勉強をした<ref name="吉田広明"/>{{Sfnm|1a1=ヒッチコック|1a2=トリュフォー|1y=1990|1p=23|2a1=McGilligan|2y=2003|2p=27|3a1=Ackroyd|3y=2017|3p=24}}。次第にヒッチコックの関心は芸術の方に移り、とくに映画や演劇を盛んに見るようになり、映画技術専門紙や映画業界紙を愛読した{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=23-24}}<ref name="吉田広明"/>。当時のヒッチコックは[[イギリスの映画|イギリス映画]]よりも[[アメリカ合衆国の映画|アメリカ映画]]の方が好きで、[[D・W・グリフィス]]監督の『[[國民の創生]]』(1915年)と『[[イントレランス]]』(1916年)に強い感銘を受けたほか、[[チャールズ・チャップリン]]や[[バスター・キートン]]、[[ダグラス・フェアバンクス]]、[[メアリー・ピックフォード]]などの作品を好んで見ていた{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=23-24}}。 ヒッチコックがエンジニアとして働いていた間に[[第一次世界大戦]]が起きていたが、開戦した当初にヒッチコックは若過ぎるという理由で軍隊に入ることができず、[[1917年]]に適正年齢に達した時には「兵役に適さない」としてC3分類(「深刻な器質的疾患がなく、居住地の駐屯地での使用条件に耐えられるが、座っての仕事にのみ適している」)を受けた{{Sfn|Taylor|1996|pp=27-28}}<ref>{{Cite web |url=https://hansard.parliament.uk/Commons/1918-06-20/debates/3ec12ba9-4d13-4c03-880a-226006f28d83/MilitaryService(MedicalGrading) |title=Military Service (Medical Grading) |website=Hansard |accessdate=2021-10-16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20190224062439/https://hansard.parliament.uk/Commons/1918-06-20/debates/3ec12ba9-4d13-4c03-880a-226006f28d83/MilitaryService(MedicalGrading) |archivedate=24 February 2019}}</ref>。そのためヒッチコックは{{仮リンク|王立工兵連隊|en|Royal Engineers}}の士官候補生となり、会社で働きながら週末に訓練や演習に参加した{{Sfn|Taylor|1996|pp=27-28}}{{Sfn|Ackroyd|2017|p=23}}。伝記作家の{{仮リンク|ジョン・ラッセル・テイラー|en|John Russell Taylor}}によると、[[ハイド・パーク (ロンドン)|ハイド・パーク]]での実践的な演習の1つとして、[[脚絆|巻脚絆]]を着用する訓練があったが、ヒッチコックは脚絆を足に巻き付けることができず、何回やっても足首にずり落ちたという{{Sfn|Taylor|1996|pp=27-28}}。一部の伝記作家は、戦争の残虐行為が神経質なヒッチコックにトラウマ的な経験を与えたと述べている{{Sfn|Ackroyd|2017|p=21}}。 その後、ヒッチコックはイラストを学んでいたおかげで、ヘンリー電信ケーブル社の広告部門に転属し、会社の広告パンフレットのイラストを描く仕事をした{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=23-24}}{{Sfn|筈見|1986|p=32}}{{Sfn|Ackroyd|2017|p=24}}{{Refnest|group="注"|ヒッチコックが広告部門に転属した時期について、マクギリガンは1917年の終わりから1918年の初めにかけて{{Sfn|McGilligan|2003|pp=30-45}}、{{仮リンク|ピーター・アクロイド|en|Peter Ackroyd}}は1919年と主張している{{Sfn|Ackroyd|2017|p=24}}。}}。後年にヒッチコックは、この仕事が「映画に近づくためのステップになった」と述べている{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=23-24}}。[[1919年]]6月には、会社の従業員に6ペンスで販売された社内誌『ヘンリー・テレグラフ』の創刊編集者となり、いくつかの短編小説を寄稿した{{Sfn|McGilligan|2003|pp=30-45}}。創刊号に寄稿した最初の短編小説『''Gas''』は、若い女性が[[パリ]]で男性の暴漢に襲われるが、それは彼女が歯医者での治療中に見た幻想だったという物語で、伝記作家の{{仮リンク|ドナルド・スポトー|en|Donald Spoto}}はこの作品から「若きヒッチコックが、読者をあやつる技法と恐怖をかもしだす術を本能的に心得ていた」と述べている{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=92-94}}{{Refnest|group="注"|この作品以外にヒッチコックが寄稿した短編小説は、『''The Woman'sPart''』(1919年9月)、『''Sordid''』(1920年2月)、『''And There Was No Rainbow''』(1920年9月)、『''What's Who?''』(1920年12月)、『''The History of Pea Eating''』(1920年12月)、『''Fedora''』(1921年3月)の6本である{{Sfn|McGilligan|2003|pp=30-45}}。}}。しかし、時間が経つにつれ、ヒッチコックは広告デザインの仕事に飽き始め、週15シリングの給料にも満足しなくなった{{Sfnm|1a1=Taylor|1y=1996|1p=21|2a1=Ackroyd|2y=2017|2p=25}}。 === 戦間期のキャリア:1919年 - 1939年 === ==== フェイマス・プレイヤーズ=ラスキー ==== [[File:Number 13.jpg|thumb|left|未完の監督作品『第十三番』(1922年)を撮影中のヒッチコック(右のカメラ横にいる人物)。]] ヒッチコックがまだヘンリー電信ケーブル社にいた頃、アメリカの映画会社{{仮リンク|フェイマス・プレイヤーズ=ラスキー|en|Famous Players-Lasky}}([[パラマウント・ピクチャーズ]]の前身)はロンドン北部の[[イズリントン]]にスタジオを開設し、その第1作に[[マリー・コレリ]]の小説が原作の『{{仮リンク|悪魔の嘆き|en|The Sorrows of Satan}}』を製作予定であると発表した<ref name="吉田広明"/>{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=94, 108-110}}。ヒッチコックはこのニュースを映画業界紙で知ると興味をそそられ、会社が募集していた[[サイレント映画]]の[[インタータイトル|字幕]]デザイナー{{Refnest|group="注"|サイレント映画には、物語の台詞や説明などを書いた[[インタータイトル]](中間字幕)が挿入されていたが、字幕カードの1枚1枚には必ず小さなイラストが描き込まれていた。こうしたデザインを手がけたのが字幕デザイナーである{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=23-24}}{{Sfn|ロメール|シャブロル|2015|pp=188-189}}。}}の仕事に応募し、原作小説に目を通したあと、会社の広告部門にいた同僚の助けを借りながらその字幕デザインのサンプルを何枚か描いた<ref name="吉田広明"/>{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=94, 108-110}}{{Sfn|Ackroyd|2017|p=26}}。しかし、プロデューサーにサンプルを提出した頃には『悪魔の嘆き』の製作は取りやめとなり、代わりに別の作品『{{仮リンク|最後の審判 (1920年の映画)|label=最後の審判|en|The Great Day}}』(1920年)と『{{仮リンク|青春の呼び声|en|The Call of Youth}}』(1921年)の製作が決定していた。ヒッチコックは雇ってもらえるかもしれないという熱意から、この2本の字幕デザインを2日以内に作成し、それがプロデューサーに気に入られて採用された{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=94, 108-110}}{{Sfn|Ackroyd|2017|p=26}}。 ヒッチコックは当初、[[非常勤|パートタイム]]でフェイマス・プレイヤーズ=ラスキーに雇われ、ヘンリー電信ケーブル社で働きながら字幕デザインを作成し、仕事の出来高に応じて報酬を受け取った{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=94, 108-110}}。[[1921年]]4月にはフルタイムの従業員となり、それに伴いヘンリー電信ケーブル社を辞職した{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=94, 108-110}}{{Sfn|Ackroyd|2017|p=26}}。それから約2年間、ヒッチコックは同社の11本の作品で字幕デザインを作成し、時には字幕をうまく使って内容が良くない映画のスクリプトを手直しして、映画そのものの内容を完全に変えたりもした{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=23-24}}{{Sfn|Sloan|1995|pp=537-539}}。また、スタジオが人手不足だったことから、構図やセットの絵コンテを描くなど、担当以外の仕事をすることもあった{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=94, 108-110}}。ヒッチコックはアメリカ人の従業員が多数を占めるこのスタジオで、自分の仕事をこなしながらアメリカ流の映画作りを学んだ<ref name="吉田広明"/>。 しかし、[[1922年]]夏にフェイマス・プレイヤーズ=ラスキーはイズリントンのスタジオでの映画製作を停止し、空いたスタジオは貸しスタジオとなった。ヒッチコックは低賃金で長時間労働をしていたため解雇を逃れ、他の数人のスタッフとスタジオに留まった{{Sfn|McGilligan|2003|pp=53-54}}。この頃、ヒッチコックはこのスタジオで自主製作による初監督作品『{{仮リンク|第十三番|en|Number 13 (1922 film)}}』(1922年)の撮影を始めた。この作品はロンドンの低層階級を描いたコメディで、主演の{{仮リンク|クレア・グリート|en|Clare Greet}}が資金を工面したにもかかわらず製作費は底をつき、未完成のまま終わった{{Sfnm|1a1=ハリス|1a2=ラスキー|1y=1995|1p=6|2a1=Ackroyd|2y=2017|2pp=31-32}}。[[1923年]]初頭には俳優の{{仮リンク|シーモア・ヒックス|en|Seymour Hicks}}がイズリントンのスタジオを借りて『{{仮リンク|いつも奥さんに話しなさい|en|Always Tell Your Wife}}』(1923年)を製作兼主演したが、当初の監督のヒュー・クロイスがヒックスとの意見の対立で降板し、ヒックスが自ら監督を務めることになったため、ヒッチコックがその演出を手伝うことになり、2人で残りのシーンを撮影した{{Sfn|McGilligan|2003|pp=53-54}}{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=25-26}}{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=114-115}}。 ==== ゲインズボロ・ピクチャーズ ==== [[File:Hitchcock sculpture, London, 2007.jpg|thumb|ロンドンの[[イズリントン]]のゲインズボロ・ピクチャーズ跡地にあるヒッチコックの彫像<ref>{{Cite web |last=Rose |first=Steve |date=2001-1-15 |url=https://www.theguardian.com/film/2001/jan/15/artsfeatures |title=Where the lady vanished |website=the guardian |accessdate=2021年10月28日}}</ref>。]] 1923年夏、映画プロデューサーの{{仮リンク|マイケル・バルコン|en|Michael Balcon}}の独立プロダクションがイズリントンのスタジオで映画製作を始めると、ヒッチコックはそこに雇われ、{{仮リンク|グレアム・カッツ|en|Graham Cutts}}監督の『{{仮リンク|女対女|en|Woman to Woman (1923 film)}}』『{{仮リンク|白い影 (映画)|label=白い影|en|The White Shadow (film)}}』(1923年)で助監督を務めたが、それ以外にも脚本やセットデザインも担当し、バルコンから有能なスタッフと評価された{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=25-26}}{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=117-118}}。[[1924年]]初めにバルコンがイズリントンのスタジオを買収して{{仮リンク|ゲインズボロ・ピクチャーズ|en|Gainsborough Pictures}}を設立すると、ヒッチコックは同社で引き続きカッツの『{{仮リンク|街の恋人形|en|The Passionate Adventure}}』(1924年)、『{{仮リンク|与太者 (映画)|label=与太者|en|The Blackguard}}』『{{仮リンク|淑女の転落|en|The Prude's Fall}}』(1925年)で助監督、脚本、セットデザインを担当した{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=25-26}}{{Sfn|ロメール|シャブロル|2015|pp=188-189}}。『与太者』は[[ドイツ]]の大手映画会社[[ウーファ]]と共同製作し、[[ポツダム]]の{{仮リンク|バーベルスベルク・スタジオ|de|Studio Babelsberg}}で撮影されたが、ヒッチコックはドイツ滞在中に[[F・W・ムルナウ]]監督の『{{仮リンク|最後の人|de|Der letzte Mann (1924)}}』(1924年)の撮影を見学し、その遠近法を強調したセットの作り方に感銘を受け、早速撮影中の『与太者』のセットデザインに採り入れた<ref name="吉田広明"/>{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=129-136}}。 [[1925年]]、ゲインズボロ・ピクチャーズは[[ミュンヘン]]に拠点がある{{仮リンク|バイエルン・フィルム|label=エメルカ社|de|Bavaria Film}}と共同製作で映画を作ることになり、バルコンはヒッチコックをその監督に抜擢した<ref name="吉田広明"/>{{Refnest|group="注"|スポトーによると、配給業者は前歴のない新人を登用することに抵抗があったため、ヒッチコックを監督に抜擢するのは容易ではなかったが、そこでバルコンはヒッチコックをミュンヘンに派遣して1、2本映画を撮らせてみて、その結果が良ければゲインズボロ・ピクチャーズの有望新人として監督に加えようとしたという{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=140-142}}。}}。助監督として充分な経験を積んでいたヒッチコックは、自分から映画監督になりたいと意思表明をしてもおかしくなかったが、当時は脚本やセットデザインの仕事に満足し、監督になることは全く考えていなかったという{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=140-142}}{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=27-32}}。同年夏、ヒッチコックはミュンヘンに派遣され、初監督作品『{{仮リンク|快楽の園 (映画)|label=快楽の園|en|The Pleasure Garden (1925 film)}}』を撮影した。この作品は2組の男女の交錯した関係を描くメロドラマで、アメリカの人気女優の{{仮リンク|ヴァージニア・ヴァリ|en|Virginia Valli}}が主演した。ロケは[[イタリア]]で行われたが、通関手続きではフィルムストックが申告漏れのため税関に没収され、[[ジェノヴァ]]では現金が盗まれ、ほかにも予定外の出費が重なるなどトラブルが続き、そのせいで製作費が不足し、俳優やスタッフにお金を借りることになった。同年夏の終わりに撮影は終了し、試写を見たバルコンはその出来に満足した{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=27-32}}{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=145-154}}。 [[File:Alfred Hitchcock The Mountain Eagle Publicity Still.jpg|thumb|left|『山鷲』の宣伝写真におけるヒッチコック(カメラの右手前で指を差す人物)。その右隣りは将来の妻となるスクリプターの[[アルマ・レヴィル]]である。]] ヒッチコックはバルコンから、もう1本ドイツで英独合作を撮影する話を持ちかけられ、1925年秋にミュンヘンのスタジオと[[チロル]]地方のロケで監督第2作『{{仮リンク|山鷲 (映画)|label=山鷲|en|The Mountain Eagle}}』を撮影した{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=145-154}}{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|p=34}}。この作品は男に追い回されて山に逃げ込んだ女教師が主人公のメロドラマで、アメリカの人気女優[[ニタ・ナルディ]]が主演したが、ヒッチコックはこの作品を「最低の映画」と呼んでいる{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|p=34}}。翌[[1926年]]1月にヒッチコックはイギリスに戻り、その2か月後には『快楽の園』の公開試写が行われた{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=145-154}}。『[[デイリー・エクスプレス]]』紙はこの作品を「傑出した映画」と呼び、ヒッチコックのことを「巨匠の頭脳を持った新人」と評した{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|p=34}}{{Sfn|McGilligan|2003|p=81}}。しかし、配給元の{{仮リンク|W&F映画配給会社|en|Woolf & Freedman Film Service}}は売り物にならないとして『快楽の園』と『山鷲』の公開を拒否し、監督3作目の『[[下宿人]]』の業界向け試写会が成功したあとの[[1927年]]にようやくイギリスで正式配給された{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=155, 161-168}}。その後、『山鷲』のフィルムはすべて紛失し、作品について残されているものはわずか6枚の写真しかない{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|p=23}}。 1926年に撮影した『下宿人』は、ヒッチコックにとって初の[[サスペンス映画]]である{{Sfnm|1a1=ロメール|1a2=シャブロル|1y=2015|1pp=14-15|2a1=Ackroyd|2y=2017|2pp=43-45}}。この作品は[[切り裂きジャック]]を下敷きにした{{仮リンク|マリー・ベロック=ローンズ|label=ベロック・ローンズ|en|Marie Belloc Lowndes}}の同名小説が原作で、無実の若い下宿人([[アイヴァー・ノヴェロ]])が連続殺人犯の疑いをかけられるという物語である{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|p=23}}{{Sfnm|1a1=ロメール|1a2=シャブロル|1y=2015|1pp=14-15|2a1=Ackroyd|2y=2017|2pp=43-45}}。ヒッチコックはこの作品でさまざまな純粋な視覚的工夫を凝らしており、例えば、女将の上の部屋にいる下宿人の足音の効果を出すために、ガラス板の天井の上を歩く下宿人を真下から撮影した{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=37-40}}。この作品には金髪女性や手錠、間違えられた男など、後の作品で繰り返し用いられるテーマやモチーフが登場し、「ヒッチコック・タッチ」と呼ばれる独自の作風を最初に示した作品となった{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|p=23}}{{Sfnm|1a1=ロメール|1a2=シャブロル|1y=2015|1pp=14-15|2a1=Ackroyd|2y=2017|2pp=43-45}}。後年にヒッチコックは、この作品を「正真正銘のヒッチコック映画と言える最初の代物」と呼んでいる{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=37-40}}。しかし、配給会社は公開を拒否したため、ヒッチコックは若い知識人の{{仮リンク|アイヴァー・モンタギュー|en|Ivor Montagu}}の助けを借りて作品に修正を加え、1926年9月に業界向け試写会を行うと、『バイオスコープ』誌に「イギリス映画史上の最大傑作」と呼ばれるなど好評を集めた{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=155, 161-168}}。翌1927年1月に公開されると商業的にも成功を収めた{{Sfnm|1a1= McGilligan|1y=2003|1p=85|2a1=Kapsis|2y=1992|2p=19}}。 1926年12月2日、ヒッチコックはそれまでの3本の監督作品で助監督や記録係を担当した[[アルマ・レヴィル]]と、ロンドンの[[ナイツブリッジ]]にあるローマ・カトリックの{{仮リンク|ブロンプトン・オラトリー|en|Brompton Oratory}}で結婚し、ロンドンの{{仮リンク|クロムウェル・ロード|en|Cromwell Road}}153番地にある賃貸アパートの最上階で生活を始めた{{Sfnm|1a1=スポトー(上)|1y=1988|1pp=168-170|2a1=McGilligan|2y=2003|2pp=89-90|3a1=Ackroyd|3y=2017|3pp=48-49}}。夫婦は[[パリ]]、[[コモ湖]]、[[サンモリッツ]]で新婚旅行をしたが、それ以来2人は事情の許すかぎり[[結婚記念日]]をサンモリッツで過ごすようにした{{Sfnm|1a1=スポトー(上)|1y=1988|1pp=168-170|2a1=McGilligan|2y=2003|2pp=89-90|3a1=Ackroyd|3y=2017|3pp=48-49}}。イギリスに戻ったあと、ヒッチコックはバルコンとの間に残る2本の契約を消化するため、まず1927年初めにアイヴァー・ノヴェロがコンスタンス・コリアと共同執筆した戯曲が原作の『{{仮リンク|ダウンヒル (映画)|label=ダウンヒル|en|Downhill (1927 film)}}』を監督した{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=172-178}}{{Refnest|group="注"|ヒッチコックは『ダウンヒル』を作る前に、1926年のイギリスでの[[ゼネラル・ストライキ]]を題材にした作品を構想したが、当時の社会的危機を描くことを望まなかった[[全英映像等級審査機構|全英映画検閲機構]]によって却下された{{Sfnm|1a1=ヒッチコック|1y=1999|1p=233|2a1=Ackroyd|2y=2017|2p=47}}。}}。この作品は濡れ衣を着せられた学生(ノヴェロ)が主人公のメロドラマで、同年5月の『山鷲』の公開と同じ週に上映され、『{{仮リンク|キネマトグラフ・ウィークリー|en|Kinematograph Weekly}}』紙に「(映像表現に優れた)監督の個人的な成功」と評された{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=172-178}}。その次に[[ノエル・カワード]]の戯曲が原作のメロドラマ『[[ふしだらな女]]』(1927年8月初上映、1928年3月公開)を監督したが、不評で興行的にも失敗した{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=172-178}}{{Sfn|Sloan|1995|p=61}}。 ==== ブリティッシュ・インターナショナル・ピクチャーズ ==== [[File:Jack E. Cox and Alfred Hitchcock Ring 1927.jpg|thumb|『[[リング (1927年の映画)|リング]]』(1927年)撮影時のヒッチコック(最右)。同作のカメラマンの{{仮リンク|ジャック・E・コックス|en|Jack E. Cox}}(左)とはBIP時代にコンビを組んだ{{Sfn|ロメール|シャブロル|2015|pp=23-24}}。]] [[1927年]]6月、ヒッチコックは前月に撮影を終えた『ふしだらの女』を最後にゲインズボロ・ピクチャーズを辞め、新しく設立された{{仮リンク|ブリティッシュ・インターナショナル・ピクチャーズ|en|Associated British Picture Corporation}}(BIP)と契約し、その拠点の{{仮リンク|エルストリー・スタジオ|en|Elstree Studios (Shenley Road)}}に移った{{Sfnm|1a1=ハリス|1a2=ラスキー|1y=1995|1p=9|2a1=McGilligan|2y=2003|2p=93}}。BIPではゲインズボロと比べてより良い条件と高い独立性が保証された。年俸はゲインズボロ時代の約3倍となる1万3000ポンドとなり、当時のイギリス映画界で最も高給取りの監督となった{{Sfn|Adair|2002|p=34}}。スタジオから創造的な自由を与えられたヒッチコックは、同社第1作を自身初のオリジナル脚本で作ることにした。その作品『[[リング (1927年の映画)|リング]]』は同じ女性に恋をした2人のボクサーを描く三角関係ものの恋愛ドラマで、同年夏に撮影し、10月に公開されると肯定的な批評を集めた{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=181-183, 198-202}}。 1927年秋には[[イーデン・フィルポッツ]]の戯曲の映画化で、妻を亡くした農場主の花嫁探しを描くコメディ映画『[[農夫の妻]]』(1928年3月公開)を監督した{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=181-183, 198-202}}{{Sfn|ロメール|シャブロル|2015|pp=24-25}}。撮影はイギリス南部の[[デヴォン]]や[[サリー (イングランド)|サリー]]の田舎で行われたが、その地の風景やロンドンの喧騒から離れた静けさに魅力を感じたヒッチコックは、[[1928年]]にサリーの[[ギルフォード (イングランド)|ギルフォード]]から4マイルに位置する村{{仮リンク|シャムリー・グリーン|en|Wonersh#Shamley Green}}の近くにある[[チューダー様式]]の別荘「ウィンターズ・グレース」を2500ポンドで購入し、そこで家族と週末を過ごすようになった{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=181-183, 198-202}}。この頃にヒッチコックはアメリカ風のコメディ映画『{{仮リンク|シャンパーニュ (映画)|label=シャンパーニュ|en|Champagne (1928 film)}}』を撮影していたが、同年夏に公開されると批評家に「一晩中、雨にさらされたシャンペン」と言われるなどして酷評され、後年にヒッチコック自身も「わたしの作品のなかで最低のもの」と述べている{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=181-183, 198-202}}{{Sfnm|1a1=ヒッチコック|1a2=トリュフォー|1y=1990|1p=47|2a1=ロメール|2a2=シャブロル|2y=2015|2pp=26-27}}。 [[File:Alfred Hitchcock & Anny Ondra 1929.jpg|thumb|left|初の[[トーキー]]作品である『[[恐喝 (1929年の映画)|恐喝]]』(1929年)でサウンドテストをするヒッチコックと主演の{{仮リンク|アニー・オンドラ|en|Anny Ondra}}。]] 1928年7月7日、ヒッチコック夫妻の一人娘である{{仮リンク|パトリシア・ヒッチコック|label=パトリシア・アルマ・ヒッチコック|en|Pat Hitchcock}}が生まれた{{Sfn|スポトー(上)|1988|p=203}}。それから数週間後には{{仮リンク|ホール・ケイン|en|Hall Caine}}の小説を映画化したメロドラマ『{{仮リンク|マンクスマン (映画)|label=マンクスマン|en|The Manxman}}』(1929年1月公開)を撮影したが、これはヒッチコックの最後のサイレント映画となり、翌[[1929年]]初めに撮影した『[[恐喝 (1929年の映画)|恐喝]]』から[[トーキー]]の時代が始まった{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=204-205}}。この作品は{{仮リンク|チャールズ・ベネット (脚本家)|label=チャールズ・ベネット|en|Charles Bennett (screenwriter)}}の戯曲の映画化で、自分を犯そうとした男性をナイフで殺害し、それが原因で見知らぬ男に恐喝される女性({{仮リンク|アニー・オンドラ|en|Anny Ondra}})と、彼女を守る婚約者の刑事が主人公のサスペンスである{{Sfnm|1a1=フィルムアート社|1y=1980|1pp=30-33|2a1=スポトー|2y=1994|2pp=56-59}}。最初はサイレント版で撮影していたが、その途中で会社からトーキー化の話が生じたため、ヒッチコックはいくつかの部分を撮り直してトーキーにした{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=204-205}}{{Sfnm|1a1=フィルムアート社|1y=1980|1pp=30-33|2a1=スポトー|2y=1994|2pp=56-59}}。ヒッチコックは音という新しい表現手段の可能性を追求し、例えば、主人公の女性が殺人を犯した翌日の朝食のシーンでは、日常会話に「ナイフ」という言葉を繰り返し強調して、女性の罪悪感や恐怖心を際立たせた{{Sfnm|1a1=フィルムアート社|1y=1980|1pp=30-33|2a1=スポトー|2y=1994|2pp=56-59}}。1929年7月に作品が公開されると、批評家から熱狂的な評価を受け、商業的にも『リング』以来の成功を収めた{{Sfnm|1a1=スポトー(上)|1y=1988|1pp=210-211|2a1=Adair|2y=2002|2p=39}}。 1930年初め、ヒッチコックはイギリス初のミュージカル・コメディ映画『{{仮リンク|エルストリー・コーリング|en|Elstree Calling}}』の数シーンだけを監督し{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=213-214}}、その次に[[ショーン・オケーシー]]の有名な戯曲が原作の『{{仮リンク|ジュノーと孔雀|en|Juno and the Paycock (film)}}』を撮影した。ヒッチコックはこれを会話が多い非映画的な作品と見なし、それ故に気乗りのしないまま仕事に取り組んだが、同年に公開されると批評家に好意的な評価を受けた{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=213-214}}{{Sfnm|1a1=ヒッチコック|1a2=トリュフォー|1y=1990|1p=57|2a1=ロメール|2a2=シャブロル|2y=2015|2p=35}}。この頃、多くのメディアからインタビューを受けたヒッチコックは、自分の名前を広く宣伝する重要性を理解し、ヒッチコックの広報活動を担う小さな会社「ヒッチコック・ベイカー・プロダクションズ」を設立した{{Sfn|スポトー(上)|1988|p=215}}。5月にはヒッチコック作品では珍しい犯人さがしを描く謎解き映画『[[殺人!]]』(1930年公開)を監督したが、この作品はまだ[[アフレコ]]技術が確立していない中でヨーロッパに売り込むため、同時に英語版と[[ドイツ語]]版で撮影された{{Sfnm|1a1=フィルムアート社|1y=1980|1p=36|2a1=スポトー(上)|2y=1988|2p=220}}{{Sfn|McGilligan|2003|p=137}}{{Refnest|group="注"|『殺人!』のドイツ語版は、ドイツ人俳優を起用して撮影され、[[1931年]]に『{{仮リンク|メアリー (映画)|label=メアリー|en|Mary (1931 film)}}』の題名で公開された{{Sfnm|1a1=フィルムアート社|1y=1980|1p=36|2a1=スポトー(上)|2y=1988|2p=220}}{{Sfn|ロメール|シャブロル|2015|pp=212–222}}。}}。1930年末から[[1931年]]初頭には[[ジョン・ゴールズワージー]]の戯曲が原作で、成金と貴族の地主の土地をめぐる対立を描く『{{仮リンク|スキン・ゲーム|en|The Skin Game (1931 film)}}』を撮影し、2月に公開されると好評を博した{{Sfnm|1a1=McGilligan|1y=2003|1pp=140-141|2a1=Ackroyd|2y=2017|2pp=69-70}}。 1931年、ヒッチコック一家は[[カリブ海]]や[[アフリカ]]などを回る世界一周旅行をした。ヒッチコックの次の作品『{{仮リンク|リッチ・アンド・ストレンジ|en|Rich and Strange}}』は、その時の経験やアルマとの新婚旅行に触発された作品であり、スポトーは「公然たる自伝ともいえる作品」と述べている{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=222-233, 226, 228-229}}。それは大金を得て世界一周旅行に出かけた夫婦を描くコメディドラマで、それまでに作ったトーキー作品への反動としてセリフのあるシーンを全体の5分の1しか設けなかった{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=9, 33}}。同年8月に撮影を終え、12月に公開されたが興行的に失敗し、この作品を気に入っていたヒッチコックは失望した{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=222-233, 226, 228-229}}{{Sfn|McGilligan|2003|p=145}}{{Sfn|Adair|2002|pp=44-45}}。この頃のヒッチコックとBIPの関係は悪化したが{{Sfn|Adair|2002|pp=44-45}}、BIPの経営状態も悪化し、ヒッチコックの次の作品でスリラーの舞台劇をコメディ風に映画化した『{{仮リンク|第十七番|en|Number Seventeen}}』(1932年7月公開)は低予算で作られた。この作品も失敗作となり、ヒッチコックは「批評家たちの注意すらひかなかった」と述べている{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=9, 33}}{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=68-71}}。その次もまた低予算で『{{仮リンク|キャンバー卿の夫人たち|en|Lord Camber's Ladies}}』(1932年)の監督を命じられたが、作品に興味を示さなかったヒッチコックはプロデューサーだけを担当し、監督は{{仮リンク|ベン・W・レヴィ|en|Benn Levy}}に任せた。そしてこの仕事を最後にBIPとの契約を終えた{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=68-71}}{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=230-234}}。 ==== ゴーモン・ブリティッシュ ==== 『リッチ・アンド・ストレンジ』『第十七番』の立て続けの失敗で不調となっていたヒッチコックは{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=68-71}}、BIPを去ったあとの[[1933年]]に{{仮リンク|ロンドン・フィルム|en|London Films}}の[[アレクサンダー・コルダ]]と短期契約を結び、『ジャングルの上を飛ぶ翼』の監督を予定したが、資金を調達することができず、契約ごと解消となった{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=230-234}}{{Sfn|Adair|2002|pp=44-45}}。その次に独立系プロデューサーの{{仮リンク|トム・アーノルド (プロデューサー)|label=トム・アーノルド|en|Tom Arnold (theatre impresario)}}と契約を結び、[[ヨハン・シュトラウス2世]]が主人公の音楽映画『{{仮リンク|ウィンナー・ワルツ (映画)|label=ウィンナー・ワルツ|en|Waltzes from Vienna}}』を撮影したが、この企画ははじめから絶望的で、ヒッチコックは撮影中に創作意欲がわかなくなった{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=230-234}}{{Sfn|ロメール|シャブロル|2015|pp=49-50, 193}}。後年にヒッチコックは「とてもわたしの作品だなんておおっぴらに言えた代物じゃない」と述べ、この時期を「最低の時代」と呼んだ{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=68-71}}。作品は[[1934年]]2月に公開されると、完全な失敗作と見なされた{{Sfn|ロメール|シャブロル|2015|pp=49-50, 193}}{{Sfn|McGilligan|2003|p=152}}。 [[File:The Man Who Knew Too Much (1934 film).jpg|thumb|200px|『[[暗殺者の家]]』(1934年)のポスター。]] この作品の撮影中、マイケル・バルコンがヒッチコックのもとを訪れ、ヒッチコックがBIP時代にチャールズ・ベネットと共同執筆した脚本を映画化する提案をした。ヒッチコックはこれを再起のチャンスと考え、1934年にバルコンが製作担当重役を務めていた[[ゴーモン・ブリティッシュ]]と5本の映画を作る契約を結び、ロンドン西部の[[シェパーズ・ブッシュ]]にある[[ライム・グローブ・スタジオ]]に移った{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=68-71}}{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=234-235, 239-240}}。映画化を決めた脚本は、同社第1作として『[[暗殺者の家]]』の題名で監督することになり、同年4月から5月にかけてベネットらとシナリオを作成し、5月から8月の間に撮影した{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=234-235, 239-240}}。この作品でヒッチコックは自身が得意とするサスペンスのジャンルへ復帰し、サスペンスとユーモアの組み合わせという以後のヒッチコック作品の基本となるスタイルで、ある夫婦が大使を暗殺する計画に巻き込まれる物語を描いた{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=234-235, 239-240}}{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=46-48}}。12月に公開されると大ヒットし<ref>{{Cite web |last=McDougal |first=Stuart Y. |editor=Andrew Horton and Stuart Y. McDougal |url=https://publishing.cdlib.org/ucpressebooks/view?docId=ft1j49n6d3&chunk.id=d0e1930&toc.depth=1&toc.id=d0e1930&brand=ucpress |title=Play It Again, Sam: Retakes on Remakes |work=University of California Press |page=54 |chapter=Three— The Director Who Knew Too Much: Hitchcock Remakes Himself |accessdate=2021年12月22日}}</ref>、批評家からも賞賛され、『デイリー・エクスプレス』誌は「ヒッチコックは再びイギリスの監督の中でナンバーワンの座に躍り出た」と書いている{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=46-48}}{{Sfn|Ackroyd|2017|pp=79-81}}。 この作品で名声を取り戻したヒッチコックは、作品の成功のおかげで自由に主題を選ぶことができるようになり、そこで自身が好きな作家だった[[ジョン・バカン]]の[[スパイ小説]]『[[三十九階段]]』に基づく『[[三十九夜]]』を企画した{{Sfn|Ackroyd|2017|pp=79-81}}{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|p=81}}{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=51-53}}。ヒッチコックはベネットらと原作に自由に改変して脚本を作り、[[1935年]]初めに撮影した{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|p=81}}<ref>{{Cite book|last=Glancy |first=Mark |date=2002-12 |title=The 39 Steps: A British Film Guide |publisher=Tauris Academic Studies |pages=36, 39}}</ref>。この作品も殺人に巻き込まれた男([[ロバート・ドーナット]])が、スパイや警察に追われながら自分の無実を証明するという物語を、前作と同様にユーモアとサスペンスを組み合わせながら速いテンポで描いた{{Sfn|Ackroyd|2017|pp=79-81}}{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=51-53}}。同年6月にイギリスで公開されると前作同様に高い成功を収め、アメリカでもヒッチコック作品で過去最高のヒット作となった{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=51-53}}{{Sfnm|1a1=スポトー(上)|1y=1988|1p=254|2a1=McGilligan|2y=2005|2pp=223-224}}。 その次にヒッチコックは、[[サマセット・モーム]]の短編小説集『[[アシェンデン]]』とそのいくつかのエピソードをもとにした戯曲が下敷きの[[スパイ映画]]『[[間諜最後の日]]』(1936年5月公開)を監督した。この作品は第一次世界大戦中にドイツのスパイを殺害する任務を受けたイギリスのスパイスパイ([[ジョン・ギールグッド]])を主人公にした物語であるが、前2作のような成功を収めることはできなかった{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=43, 56-58}}。同作完成後の[[1936年]]1月、ヒッチコックはベネットらとスイスで[[ジョゼフ・コンラッド]]の小説『{{仮リンク|密偵 (小説)|label=密偵|en|The Secret Agent}}』が原作の『[[サボタージュ (1936年の映画)|サボタージュ]]』の脚本を執筆し、同年春に製作を開始した{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=260-262}}。これは妻([[シルヴィア・シドニー]])に内緒で破壊活動をするアナーキスト([[オスカー・ホモルカ]])を描いた作品で、同年に公開されると『[[バラエティ (アメリカ合衆国の雑誌)|バラエティ]]』誌に「監督の巧みで熟練した技が、職人的な手法で作られた巧妙なこの作品のあちこちで光っている」と評された{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=60-61}}。 ==== ゲインズボロ・ピクチャーズへ復帰 ==== [[File:Hitchcocks-Joan-Harrison-1937.jpg|thumb|left|1937年にアメリカ料理店で食事をするヒッチコックたち(左からアルマ、秘書の[[ジョーン・ハリソン]]、ヒッチコック、娘のパトリシア)。]] 『サボタージュ』の完成後、ゴーモン・ブリティッシュは財政的問題で製作部門を閉鎖し、今後は単なる配給会社になることを発表した。それによりヒッチコックは、同社の子会社になっていた古巣のゲインズボロ・ピクチャーズと2本の映画を撮る契約を結んだ{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=265, 271-273}}。その1本目は[[ジョセフィン・テイ]]の小説『[[ロウソクのために一シリングを]]』が原作の『[[第3逃亡者]]』(1937年11月公開)で、[[1937年]]3月までにベネットらと脚本に取り組み、5月に撮影を終えた{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=265, 271-273}}{{Sfn|Ackroyd|2017|p=91}}。この作品は殺人犯と疑われて警察に追われる無実の男の運命を描く犯罪スリラーで、『[[ニューヨーク・タイムズ]]』紙には「静かな魅力を備えた映画」と評された{{Sfn|Ackroyd|2017|p=91}}{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=64-65}}。 同年8月には家族と休暇のためアメリカへ旅行に出たが、関係者はこの旅行でアメリカの会社と契約を結ぶべきかどうか下見をするつもりだろうと推測した{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=278-285}}。実際にヒッチコックはイギリスの映画産業の技術的制約や、自身が過小評価されていることを強く感じていた{{Sfn|Ackroyd|2017|p=92}}。そしてアメリカ旅行中、[[ハリウッド]]の独立系映画会社{{仮リンク|セルズニック・インターナショナル・ピクチャーズ|en|Selznick International Pictures}}を率いる映画プロデューサーの[[デヴィッド・O・セルズニック]]はヒッチコックに興味を示し、助手にヒッチコックと会うように指示した。9月に帰国する時には、ヒッチコックはセルズニックのほか、[[RKO]]や[[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー|MGM]]などの[[メジャー映画スタジオ|大手映画会社]]と契約交渉を進めていた{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=278-285}}{{Sfn|Ackroyd|2017|p=93}}。 10月、ヒッチコックはゲインズボロ・ピクチャーズでの監督2本目として、会社内で企画倒れになっていた[[エセル・リナ・ホワイト]]の小説『{{仮リンク|車輪は回る|en|The Wheel Spins}}』が原作の脚本『[[バルカン超特急]]』を取り上げた{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=285-287}}。この作品は列車内で忽然と姿を消した老婦人([[メイ・ウィッティ]])を捜索するイギリス人女性([[マーガレット・ロックウッド]])が主人公のサスペンスである{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=69-70}}。撮影は12月まで行われ{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=291-302}}、翌[[1938年]]10月に公開されると高い成功を収めた{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=304-306}}。イギリスやアメリカの批評家にも賞賛され、『[[インターナショナル・ニューヨーク・タイムズ|ヘラルド・トリビューン]]』紙には「『バルカン超特急』は、[[ポール・セザンヌ|セザンヌ]]のキャンバスや[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]の楽譜と同様に、監督一流の想像力と技量の産物だ」と評され、『ニューヨーク・タイムズ』にはその年のベスト・ワンの作品と呼ばれた。また、ヒッチコックはこの作品で[[第4回ニューヨーク映画批評家協会賞]]の[[ニューヨーク映画批評家協会賞 監督賞|監督賞]]を受賞した{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=69-70}}{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=304-306}}。 この作品に取り組んでいる間も、ヒッチコックはセルズニックとの交渉は続けられた。1938年6月にヒッチコックは契約をまとめるため再びアメリカを訪れ、7月14日にセルズニックとの契約書に署名した{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=291-302}}。契約では年に1本ずつ、計4本の映画を撮り、1本あたり5万ドルのギャラを受け取ることになっていた{{Sfn|Ackroyd|2017|p=100}}。契約が履行されるのは[[1939年]]4月からで、ヒッチコックはアメリカへ出発するまでの間、[[チャールズ・ロートン]]と{{仮リンク|エーリッヒ・ポマー|de|Erich Pommer}}が設立した映画製作会社{{仮リンク|メイフラワー・プロダクションズ|en|Mayflower Productions}}のために、[[ダフニ・デュ・モーリエ]]の海賊冒険小説が原作の[[コスチューム・プレイ]]『[[巌窟の野獣]]』を監督した{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=44, 75-77}}。撮影は1938年秋に行われたが、ヒッチコックは途中で作品への興味を失い、主演のロートンが自分の演技のために撮影を何度も中断するのに苛立った。1939年に公開されると興行的に成功はしたものの、批評家には酷評され、『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』誌には「この映画は妙に退屈で面白くない…型にはまった、気の抜けたメロドラマである」と批判された{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=304-306}}{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=44, 75-77}}。 === ハリウッド初期:1939年 - 1953年 === ==== セルズニック・インターナショナル・ピクチャーズ ==== [[File:George Sanders & Alfred Hitchcock Rebecca Still.jpg|thumb|『[[レベッカ (1940年の映画)|レベッカ]]』(1940年)のヒッチコック(中央)と[[ジョージ・サンダース]](右)。]] 1939年2月、ヒッチコックはシャムリー・グリーンの別荘を処分し、自宅アパートの賃貸契約を終了させた。ヒッチコックはイギリスを去る前の数日間を母と過ごし、3月1日にアルマとパトリシア、秘書の[[ジョーン・ハリソン (脚本家)|ジョーン・ハリソン]]、専属のコックとメイド、そして2匹の愛犬とともにアメリカに向けて[[サウサンプトン]]から[[クイーン・メリー (客船)|クイーン・メリー号]]で出航した{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=311-312}}。その数日後に一行は[[ニューヨーク]]に到着し、しばらく[[マンハッタン]]に滞在したあとに[[ロサンゼルス]]へ移り、{{仮リンク|ウィルシャー大通り|en|Wilshire Boulevard}}10331番地にあるアパートに住んだが、その数か月後には{{仮リンク|ベルエア|en|Bel Air, Los Angeles}}のセント・クラウド・ロード609番地にある[[キャロル・ロンバード]]が所有する家に引っ越した{{Sfnm|1a1=スポトー(上)|1y=1988|1pp=315-317, 335-336|2a1=Adair|2y=2002|2p=64|3a1=Ackroyd|3y=2017|3p=106}}。アメリカに移住したばかりのヒッチコックは、毎週日曜日に家族と教会の[[ミサ]]に出席し、定期的に[[ビバリーヒルズ]]のレストランで食事をとるという生活を送った{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=319-322}}。 4月10日、ヒッチコックは正式にセルズニック・インターナショナル・ピクチャーズに雇われた{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=319-322}}。その監督第1作には、当初[[タイタニック号沈没事故]]を題材にした作品が予定されていたが、セルズニックの意向で流れ、代わりにセルズニックが映画化権を購入したダフニ・デュ・モーリエの小説が原作の『[[レベッカ (1940年の映画)|レベッカ]]』を監督することになった{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|p=117}}。この作品は19世紀のイギリスの[[荘園]]が舞台で、先妻の思い出に付きまとわれた大富豪([[ローレンス・オリヴィエ]])に嫁いだアメリカ娘([[ジョーン・フォンテイン]])が主人公の[[ゴシック小説|ゴシック・ロマンス]]風の心理スリラーである{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|p=117}}{{Sfn|スポトー|1994|p=124}}。ハリウッドではプロデューサーが映画製作の主導権を握っていたが、この作品にもセルズニックの意向や価値基準が大きく反映され、そんなセルズニックと芸術性を追求するヒッチコックとの間でたびたび軋轢が生じた{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=327-328, 331-335}}{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|p=81}}。その最初の出来事は、6月上旬に提出した脚本が、原作の忠実な映画化を求めるセルズニックに「小説として見事に成功した作品を、ひねくれた俗悪な映画にする気はない」と拒否されたことだった{{Sfnm|1a1=スポトー(上)|1y=1988|1pp=323-325|2a1=McGilligan|2y=2005|2pp=304-305|3a1=Ackroyd|3y=2017|3pp=103-104}}。 同年夏に脚本の修正が終わり、9月上旬に撮影を始めたが、その最初の週に[[第二次世界大戦]]が勃発し、ヒッチコックはイギリスにいる家族の身を案じ、戦争に対する不安は映画製作にも影響を及ぼした{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=327-328, 331-335}}{{Sfn|Ackroyd|2017|pp=105-106}}。撮影中もヒッチコックはセルズニックの干渉に苛立ちを見せ、作品が芸術的に報われなくなると不満を露にした{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=327-328, 331-335}}。スポトーはこの作品を「ヒッチコックの映画というよりセルズニックの映画である」と述べているが、他のヒッチコック作品に通じる独自の視覚的なタッチは維持された{{Sfn|スポトー|1994|p=124}}。また、ヒッチコックは「カメラの中で編集する(最終的に編集された画面に使われるシーンのみを撮影する手法)」という手法をとることで、セルズニックが編集で手を加えられないようにした{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=327-328, 331-335}}。1940年3月に公開されたこの作品は、[[第13回アカデミー賞]]で[[アカデミー作品賞|作品賞]]を受賞し、セルズニックに[[オスカー像]]がもたらされた。ヒッチコックも自身初の[[アカデミー監督賞|監督賞]]にノミネートされ、作品はほかにも9部門でノミネートされた<ref name="Rebecca">{{cite web |url=http://www.oscars.org/oscars/ceremonies/1941 |title=The 13th Academy Awards, 1941 |accessdate=2021-11-10 |publisher=Academy of Motion Picture Arts and Sciences|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120303110034/http://www.oscars.org/awards/academyawards/legacy/ceremony/13th-winners.html|archivedate=3 March 2012|url-status=live}}</ref>{{Sfn|Duncan|2003|p=84}}。 ==== 他社での活動 ==== 『レベッカ』の完成後、セルズニックはしばらくプロデューサーとしての活動を停止し、契約した俳優や監督を他社に貸し出すという方針をとったため、ヒッチコックも[[1944年]]まで他社に貸し出されて映画を撮ることになり、セルズニックの下にいる時よりも映画作りの自由度が高まった{{Sfnm|1a1=スポトー(上)|1y=1988|1pp=354-355|2a1=ロメール|2a2=シャブロル|2y=2015|2p=75}}。ヒッチコックの次の作品『[[海外特派員 (映画)|海外特派員]]』は独立系映画プロデューサーの[[ウォルター・ウェンジャー]]に貸し出されて作った作品で、1940年3月に脚本を作成し、同年夏まで撮影が行われたが、製作費はそれまでのヒッチコック作品で最高額の150万ドルとなった{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=337-341, 350, 359}}{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=84, 95-98}}。この作品は第二次世界大戦直前のロンドンに派遣されたアメリカ人記者([[ジョエル・マクリー]])が、[[ナチス・ドイツ|ナチス]]のスパイの政治的陰謀を突き止めるという物語である{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=84, 95-98}}。大戦への不安を抱いていたヒッチコックは、この作品であからさまにイギリスの参戦を支持し{{Sfn|Duncan|2003|p=90}}、結末にはアメリカの[[孤立主義]]の撤回を求める戦争[[プロパガンダ]]の要素を取り入れた{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=84, 95-98}}。同年8月に[[ユナイテッド・アーティスツ]]の配給で公開されると成功を収めたが、この頃にヒッチコックはイギリスのメディアから、祖国の戦争努力を助けるために帰国しようとせず、アメリカで無事安全に仕事をする逃亡者であると非難され、心を傷つけられた{{Sfnm|1a1=スポトー(上)|1y=1988|1pp=359-362|2a1=McGilligan|2y=2003|2p=272}}。 1940年8月、ヒッチコックは[[カリフォルニア州]][[スコッツバレー]]近くにある200エーカーの土地を持つ別荘「コーンウォール牧場」を購入した<ref>{{cite web |url=http://history.scottsvalleychamber.com/history/history/hitchcock.htm |title=Alfred Hitchcock Found Contentment in SV |first=Marion |last=Pokriots |publisher=Scotts Valley Historical Society |accessdate=2021-11-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190101100444/http://history.scottsvalleychamber.com/history/history/hitchcock.htm|archivedate=1 January 2019|url-status=dead}}</ref>。その翌月からは[[RKO]]に貸し出されて2本の作品を監督したが{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=354-355}}、その1本目の『[[スミス夫妻]]』は友人のキャロル・ロンバードに頼まれて監督を引き受けた作品である{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=362-363, 367}}{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=127-128}}。これは幸せだが喧嘩の絶えない夫婦(ロンバードと[[ロバート・モンゴメリー]])を描く[[スクリューボール・コメディ]]で、アメリカ時代の唯一の[[コメディ映画]]となったが、翌[[1941年]]1月に公開されると興行的成功を収めた{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=362-363, 367}}{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=100-101}}。2本目の『[[断崖 (映画)|断崖]]』は[[フランシス・アイルズ]]の小説が原作で、夫([[ケーリー・グラント]])を殺人者と疑い彼に殺されると思い込むヒロイン(フォンテイン)が主人公の心理スリラーである{{Sfn|Ackroyd|2017|p=116}}。ヒッチコックははじめ、夫が妻を殺害するという結末を考えていたが、グラントのスターのイメージを損なうとして[[ハッピーエンド]]に変更させられた{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=37-40}}。同年11月に公開されると批評家や観客から好意的な評価を受け、その年のRKOの最も収益性の高い作品となった{{Sfn|Ackroyd|2017|pp=118-119}}。[[第14回アカデミー賞]]では作品賞など3部門でノミネートされ、フォンテインが[[アカデミー主演女優賞|主演女優賞]]を受賞した<ref name="Suspicion">{{cite web |url=http://www.oscars.org/awards/academyawards/legacy/ceremony/14th-winners.html |title=The 14th Academy Awards, 1942 |accessdate=2021-11-10 |publisher=Academy of Motion Picture Arts and Sciences|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120305222436/http://www.oscars.org/awards/academyawards/legacy/ceremony/14th-winners.html |archivedate=5 March 2012|url-status=live}}</ref>。 [[File:Alfred Hitchcock Cine Mundial, 1943.jpg|thumb|left|200px|1943年のヒッチコック。]] 『断崖』の撮影中、ヒッチコックは数人の脚本家と自身の着想による『[[逃走迷路]]』の脚本を執筆した{{Sfnm|1a1=スポトー(上)|1y=1988|1p=381|2a1=Ackroyd|2y=2017|2p=119}}。この作品は破壊工作員の疑いをかけられた青年([[ロバート・カミングス]])が主人公の物語である。セルズニックはこの脚本を[[ユニバーサル・ピクチャーズ]]と契約していたプロデューサーに売り、ヒッチコックは同社に貸し出されて監督することになったが、その立場上キャスティングに口出しできず、自分が望まない俳優を会社から押し付けられた{{Sfnm|1a1=スポトー(上)|1y=1988|1p=383|2a1=ヒッチコック|2a2=トリュフォー|2y=1990|2p=135}}。撮影は1941年12月から行われ、翌[[1942年]]春に完成して公開されると商業的成功を収めた{{Sfnm|1a1=スポトー(上)|1y=1988|1pp=387, 391, 393|2a1=McGilligan|2y=2003|2p=304|3a1=Ackroyd|3y=2017|3p=126}}。この時期にヒッチコックは、それまでの家の持ち主だったロンバードが飛行機の墜落事故で死亡したために新居を探すことになり、ベルエアのベラジオ・ロード10957番地にある広大な敷地を持つ家に引っ越し、ここを亡くなるまでの住みかとした{{Sfnm|1a1=スポトー(上)|1y=1988|1pp=388-390|2a1=Ackroyd|2y=2017|2p=123}}。 その次にヒッチコックは、セルズニックの女性文芸部長の夫が思いついたストーリーを基にした『[[疑惑の影]]』(1943年1月公開)を、ユニバーサルでの2作目として監督した。この作品は最愛の叔父([[ジョゼフ・コットン]])を連続殺人犯と疑う若い娘([[テレサ・ライト]])が主人公のスリラーで、ほとんどのシーンはスタジオ撮影ではなく、物語の舞台である[[カリフォルニア州]][[サンタローザ (カリフォルニア州)|サンタローザ]]でロケ撮影をした{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=115-117}}。その撮影中の1942年9月26日、ヒッチコックの母親のエマが79歳で病死した。ヒッチコックは母親について公に話すことはなかったが、関係者は彼が母親を賞賛していたと述べている{{Sfn|McGilligan|2003|p=321}}。その4か月後には兄のウィリアムが[[パラアルデヒド]]の過剰摂取のため52歳で亡くなったが、兄弟ははあまり親密な関係ではなかった{{Sfnm|1a1=Taylor|1y=1996|1p=193|2a1=McGilligan|2y=2003|2p=325}}。ヒッチコックは母と兄の死に立ち会うことはできなかったが、それを機に[[肥満]]体型だった自らの健康を危惧し、医師の助けを借りて食事療法に取り組んだ{{Sfn|McGilligan|2003|p=326}}{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=408-409}}。 1942年11月、ヒッチコックはセルズニックの手配で[[20世紀フォックス]]に貸し出され、同社で2本の作品を撮影することになった{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=407, 410}}{{Refnest|group="注"|結果的に、ヒッチコックは20世紀フォックスで1本しか作品を撮っていない。2本目に予定されていた[[A・J・クローニン]]原作の『{{仮リンク|王国の鍵 (小説)|label=王国の鍵|en|The Keys of the Kingdom}}』はスケジュールの都合で実現しなかった{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=407, 410}}。}}。ヒッチコックは[[Uボート]]に撃沈された輸送船の乗客とナチスの将校をめぐって[[救命ボート|救命艇]]の中だけで物語が展開する作品を構想し、[[アーネスト・ヘミングウェイ]]に脚本を依頼したが断られ、次に[[ジョン・スタインベック]]に依頼したが2人の共同作業はうまくいかず、最終的に{{仮リンク|ジョー・スワーリング|en|Jo Swerling}}と組んで執筆した{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=407, 410}}。こうして脚本が作られた『[[救命艇 (映画)|救命艇]]』は、[[1943年]]8月から11月の間に撮影が行われた{{Sfn|McGilligan|2003|pp=338, 343}}。セットはスタジオの巨大タンクに浮かぶ救命艇の1つだけで、カメラを常にその中に据えて撮影するという実験的手法を試みた{{Sfnm|1a1=フィルムアート社|1y=1980|1p=35|2a1=ハリス|2a2=ラスキー|2y=1995|2pp=119-120}}。[[1944年]]に公開されるとさまざまな評価を受け、一部の批評家はナチスを賞賛していると批判した{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=412-413}}。[[第17回アカデミー賞]]では監督賞など3部門でノミネートされた<ref name="Lifeboat">{{cite web |url=http://www.oscars.org/awards/academyawards/legacy/ceremony/17th-winners.html |title=The 17th Academy Awards, 1945 |accessdate=2021-11-10 |publisher=Academy of Motion Picture Arts and Sciences|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111107084202/http://www.oscars.org/awards/academyawards/legacy/ceremony/17th-winners.html |archivedate=7 November 2011|url-status=live}}</ref>。 {{Quote box|width=30%|align=right|quote=戦争のためにみんな苦労しているのに、わたしだけが何もしないわけにはいかない…兵役につくには年をとりすぎていたし、ふとりすぎていた。戦争にもいかず、戦争のためになんにもしないでいたら、きっとわたしはそのことでやましい気持ちを抱きつづけることになるだろうと思った。|source=アルフレッド・ヒッチコック、イギリスで戦争プロパガンダ映画を作った理由について{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=148-149}}}} 1943年12月、ヒッチコックは映画製作で祖国の戦争努力に貢献する必要性を感じてイギリスに帰国し、友人で{{仮リンク|情報省 (イギリス)|label=情報省|en|Ministry of Information (United Kingdom)}}映画部長の{{仮リンク|シドニー・バーンスタイン|en|Sidney Bernstein, Baron Bernstein}}の依頼で、1944年1月と2月にフランスの[[レジスタンス運動]]を描く短編[[プロパガンダ映画]]『{{仮リンク|闇の逃避行|en|Bon Voyage (1944 film)}}』と『{{仮リンク|マダガスカルの冒険|en|Aventure Malgache}}』の2本を撮影した{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=148-149}}。いずれも亡命したフランス人俳優の劇団モリエール・プレイヤーズが出演した[[フランス語]]作品であるが、プロパガンダに役立たないとしてフランス国内で正式に公開されることはなかった{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=414-419}}<ref name="french">{{cite web |archiveurl=https://web.archive.org/web/20161229220236/http://www.screenonline.org.uk/film/id/444871/ |archivedate=29 December 2016 |url=http://www.screenonline.org.uk/film/id/444871/ |title=Hitchcock at War |publisher=[[British Film Institute]] |last=Brooke |first=Michael |accessdate=2021-11-10}}</ref>。同年6月と7月には、バースタインが製作した[[強制収容所 (ナチス)|ナチス・ドイツの強制収容所]]に関する[[ドキュメンタリー]]『''[[:en:German Concentration Camps Factual Survey|German Concentration Camps Factual Survey]]''』にトリートメント・アドバイザーとして参加した。この作品は[[1945年]]の製作中に棚上げされ、[[1985年]]まで未発表となっていた<ref name="french"/>。また、1944年10月にはセルズニックのスタジオで、アメリカの{{仮リンク|戦時国債|en|War bond}}の販売を促進するための2分足らずのプロパガンダ映画『''[[:en:The Fighting Generation|The Fighting Generation]]''』を撮影した<ref name="SoC">{{cite web |last1=Kerzoncuf |first1=Alain |date= 2009-2 |title=Alfred Hitchcock and The Fighting Generation |journal=Senses of Cinema |issue=49 |url=http://sensesofcinema.com/2009/feature-articles/hitchcock-fighting-generation/ |accessdate=2021-11-10}}</ref>。 ==== 第二次世界大戦後のセルズニック ==== [[File:Alfred Hitchcock & David O. Selznick Spellbound 1945.jpg|thumb|left|『[[白い恐怖]]』(1945年)について話し合うヒッチコックと[[デヴィッド・O・セルズニック]]。2人の契約関係は1939年から1947年まで続いた。]] ヒッチコックはイギリス滞在中、精神病院が舞台の小説『{{仮リンク|ドクター・エドワーズの家|en|The House of Dr. Edwardes}}』の映画化権を取得し、1944年3月にアメリカに戻るとそれを基にした『[[白い恐怖]]』の脚本を[[ベン・ヘクト]]と作成し、セルズニックの下で作る2本目の作品として監督した{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=414-419}}{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=122-123}}。この作品は[[精神分析]]を題材に扱い、自分を人殺しだと思い込む記憶喪失の精神病院の院長([[グレゴリー・ペック]])と、彼と恋に落ちた精神分析医([[イングリッド・バーグマン]])を主人公にして物語が展開され、[[サルバドール・ダリ]]が夢のシーンをデザインした{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=122-123}}。撮影は同年7月から10月まで行われたが、その間にセルズニックとの契約が更新され、週給はそれまでの倍以上となる7500ドルになった{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=424, 427-428, 435}}。作品は[[1945年]]に公開され、800万ドルの収益を上げた{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=122-123}}。[[第18回アカデミー賞]]では作品賞や監督賞など6部門でノミネートされ、音楽を担当した[[ロージャ・ミクローシュ|ミクロス・ローザ]]が[[アカデミー作曲賞|作曲賞]]を受賞した<ref name="Spellbound">{{cite web |url=http://www.oscars.org/awards/academyawards/legacy/ceremony/18th-winners.html |title=The 17th Academy Awards, 1945 |accessdate=2021-11-11 |publisher=Academy of Motion Picture Arts and Sciences|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110925055603/http://www.oscars.org/awards/academyawards/legacy/ceremony/18th-winners.html |archivedate=25 September 2011|url-status=live}}</ref>。 この作品の完成後、ヒッチコックは何度かイギリスへ行き、バーンスタインと独立系映画製作会社を設立するための打ち合わせをした{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=424, 427-428, 435}}。その間には再びヘクトと『[[汚名]]』の脚本を作成したが、セルズニックはこの作品を自分では作らず、「監督ヒッチコック=脚本ヘクト=主演バーグマン」のパッケージにしてRKOに50万ドルで売り、ヒッチコックがプロデューサーを兼任した{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=432-437, 456}}{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=126-129}}。物語はナチスのスパイの娘(バーグマン)と彼女に協力を求めるFBIの諜報員(グラント)を主人公にして展開されるが、この作品で先見の明のあるところは、ナチスが[[ウラン]]鉱石を兵器実験に使うという設定を採用したことである。その設定は[[広島市への原子爆弾投下]]よりも前の1945年3月、ヒッチコックとヘクトが[[カリフォルニア工科大学]]の[[ロバート・ミリカン]]を訪ねたあとに脚本に書き加えたが、そのためにヒッチコックは一時的に[[連邦捜査局]](FBI)の監視下に置かれた{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=432-437, 456}}{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=126-129}}{{Sfnm|1a1=ヒッチコック|1a2=トリュフォー|1y=1990|1p=160|2a1=McGilligan|2y=2003|2pp=370-371}}。撮影は同年10月から[[1946年]]2月まで行われ、8月に公開されると興行的成功を収め、批評家から高い評価を受けた{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=432-437, 456}}{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=126-129}}。 その次にヒッチコックはセルズニックの下で、{{仮リンク|ロバート・ヒチェンス|en|Robert Hichens (writer)}}の小説が原作の法廷サスペンス『[[パラダイン夫人の恋]]』を監督したが、これはセルズニックに無理に押し付けられた仕事であり、作品的にもやる気をそそられなかった{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=447-449, 452-454, 457-459}}{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=131-133}}。脚本はセルズニックが執筆したが、その日その日で書き進めて撮影現場に届けさせたため撮影はうまく進まず、おまけに作品に対するセルズニックの干渉も増えた{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=167-168}}{{Sfn|Ackroyd|2017|p=150}}。ヒッチコックはそんなセルズニックのやり方が気に食わず、絶え間ない対立で[[病気不安症|心気症]]に悩まされた{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=447-449, 452-454, 457-459}}{{Sfn|Ackroyd|2017|pp=151-152}}。さらにキャスティングにも悩まされ、とくに主人公のイギリスの弁護士役のグレゴリー・ペックと下男役の[[ルイ・ジュールダン]]が役柄のイメージに合わず、ミスキャストになってしまったことに弱り果てた{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=131-133}}{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=167-168}}。撮影は1946年12月から[[1947年]]5月の間に行われ{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=447-449, 452-454, 457-459}}、製作費は400万ドルを超えたが、これはヒッチコックのキャリアの中で2番目に高額な映画となった{{Sfn|Ackroyd|2017|p=153}}。同年大晦日に公開されたが批評家の反応は悪く、『ニューヨーク・タイムズ』誌には「陳腐で冗長」と評された{{Sfn|スポトー(上)|1988|p=460}}。ヒッチコックはこの作品を最後にセルズニックとの契約を終わらせた{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=131-133}}。 ==== 独立とワーナー・ブラザース ==== ヒッチコックは、バーンスタインと新しく設立した独立系映画製作会社{{仮リンク|トランスアトランティック・ピクチャーズ|en|Transatlantic Pictures}}で監督兼プロデューサーとして映画作りを始め、自分の作りたいものが自由に作れるようになった{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|p=137}}{{Sfn|スポトー|1994|pp=222-225}}{{Refnest|group="注"|この会社は、『パラダイン夫人の恋』撮影前の1946年4月10日に設立が発表されていた{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=448-449}}。社名のトランスアトランティック(大西洋を横断するという意味)は、アメリカとイギリスで交互に映画を作るという意図から名付けられた{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|p=137}}{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=448-449}}。}}。その第1作はヒッチコックの最初の[[カラー映画]]となる『[[ロープ (映画)|ロープ]]』である{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|p=137}}。この作品は実際に起きた[[レオポルドとローブ]]による殺人事件を基にした{{仮リンク|パトリック・ハミルトン (作家)|label=パトリック・ハミルトン|en|Patrick Hamilton (writer)}}の戯曲の映画化で、知的なスリルから友人を殺害した2人の青年([[ジョン・ドール]]と[[ファーリー・グレンジャー]])を主人公にしている{{Sfn|スポトー|1994|pp=222-225}}{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=143-144}}。原作戯曲は舞台の幕が上がってから降りるまでの実際の上演時間に即してドラマを進行させたが、ヒッチコックこれを映画で見せるため、「テン・ミニッツ・テイク」という実験的な撮影手法を試みた。この手法はカメラのマガジンに入るフィルム1巻分(1000フィート=約10分)ごとにワンショットで撮影し、ショットの切れ目を俳優や小道具の[[クローズアップ]]でカモフラージュすることで、1本の映画をまるごとワンショットのように見せた{{Sfn|スポトー|1994|pp=222-225}}{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=143-144}}{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=175, 190}}。しかし、ヒッチコックはこの手法が「映画はカット割りと[[モンタージュ]]が重要」だという自身の方法論を否定していたため、「無意味な狂ったアイデアだった」と述べている{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=175, 190}}。作品は[[1948年]]に公開されるとさまざまな批評を集めたが、興行的には成功しなかった{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=470-473, 476}}{{Sfnm|1a1=McGilligan|1y=2005|1pp=526, 537|2a1=Ackroyd|2y=2017|2pp=158-159}}。 [[1948年]]、ヒッチコックはイギリスでトランスアトランティック・ピクチャーズの監督2作目として、バーグマンが主演のコスチューム・プレイ『[[山羊座のもとに]]』(1949年9月公開)を撮影したが、この作品は興行的にも批評的にも失敗し、その後トランスアトランティック・ピクチャーズは活動を停止した{{Sfn|スポトー|1994|pp=222-225}}{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=470-473, 476}}。この頃にヒッチコックは[[タレント・エージェント]]業を行う[[ミュージック・コーポレーション・オブ・アメリカ|MCA]]の顧客のひとりとなった{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=478-479}}。[[1949年]]1月にはトランスアトランティック・ピクチャーズの2本を配給した[[ワーナー・ブラザース]]と、自らがプロデューサーとして題材や配役などを自由に選べるという条件で、6年半の間に4本の映画を約100万ドルの報酬で作るという契約を結んだ{{Sfnm|1a1=スポトー(下)|1y=1988|1pp=23, 46|2a1=Ackroyd|2y=2017|2p=164}}。その第1作である『[[舞台恐怖症]]』は[[ジェーン・ワイマン]]と[[マレーネ・ディートリッヒ]]が主演し、同年半ばにイギリスのスタジオで撮影した{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=480-482}}。翌[[1950年]]2月に作品が公開されたが、批評家の評価は芳しくなかった{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=23-24}}。 [[File:Hitchcock I Confess Still.jpg|thumb|200px|『[[私は告白する]]』(1953年)撮影時のヒッチコック。]] 1949年後半から[[1950年]]初めにかけて、ヒッチコックは自由に題材を選べたにもかかわらず、創造力を思うように発揮できずにいた。それでもヒッチコックは大きな富と国際的名声を築き、株や石油の[[油井]]の所有、さらにはサンタクルーズに所有する土地で[[ワイン]]用の[[ブドウ]]を栽培して利益を得た{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=23-24}}。1950年春には[[パトリシア・ハイスミス]]の小説『{{仮リンク|見知らぬ乗客 (小説)|label=見知らぬ乗客|en|Strangers on a Train (novel)}}』を読んで感銘を受け、自分のエージェントに映画化権の交渉を指示した。ヒッチコックは脚本を書くために[[ダシール・ハメット]]に近付いたが実現はせず、次に[[レイモンド・チャンドラー]]を雇ったが意見が合わず、9月にチャンドラーを仕事から降ろし、ベン・ヘクトの助手の{{仮リンク|チェンチ・オーモンド|en|Czenzi Ormonde}}と新しく脚本を書き直した{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=27-31}}{{Sfn|Ackroyd|2017|pp=169-171}}。『[[見知らぬ乗客]]』は列車の中で見知らぬ男([[ロバート・ウォーカー (1918年生の俳優)|ロバート・ウォーカー]])から交換殺人を持ちかけられたテニス選手(グレンジャー)が主人公のスリラー映画である{{Sfn|スポトー|1994|pp=246-249}}。撮影は同年のクリスマスまでに終わり、[[1951年]]6月末に公開されると成功を収め、マスコミはヒッチコックのことを「サスペンス・スリラーの巨匠」と呼んだ{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=43-48}}{{Sfnm|1a1=McGilligan|1y=2005|1p=582|2a1=Ackroyd|2y=2017|2p=176}}。 この作品の完成後、ヒッチコックは再び興味をそそられる企画を見つけることができず、新しい作品が作れないのではないかと不安に駆られたが、[[1952年]]2月に妻の提案で{{仮リンク|ポール・アンセルム|en|Paul Anthelme Bourde}}の戯曲『{{仮リンク|わが二つの良心|fr|Nos Deux Consciences}}』が原作の『[[私は告白する]]』の脚本に取り組んだ{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=43-48}}。この作品はローマ・カトリックの司祭([[モンゴメリー・クリフト]])が[[ゆるしの秘跡]]の守秘義務により、殺人を告白した男のことを口外することができず、自身が殺人者と疑われるという物語である{{Sfn|Ackroyd|2017|p=177}}。撮影は8月から10月の間に行われたが、ヒッチコックは主演のクリフトの過度な飲酒と[[メソッド演技法|メソッド演技]]が気に入らず、2人の協力関係はあまり上手くいかなかった{{Sfnm|1a1=スポトー(下)|1y=1988|1pp=53-57|2a1=Ackroyd|2y=2017|2p=178}}。この作品はユーモアの要素を欠いたヒッチコックの数少ないサスペンス映画の1本だったが、後年にヒッチコックはそれを間違いと見なした{{Sfnm|1a1=ヒッチコック|1a2=トリュフォー|1y=1990|1p=202|2a1=Ackroyd|2y=2017|2pp=180-181}}。[[1953年]]2月に公開されると、『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』紙の批評家に「本来なら切れ味の鋭いナイフのようなヒッチコックの演出が重苦しく、釈然としない状況で鈍ってしまっている」と評された{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=58-60}}。 ヒッチコックはワーナー・ブラザースとの契約の最後の作品として、{{仮リンク|デイヴィッド・ダンカン|en|David Duncan (writer)}}の小説『ブランブル・ブッシュ』の映画化を企画したが、まもなくそれを諦め、1952年にロンドンとニューヨークで上演されて大ヒットした{{仮リンク|フレデリック・ノット|en|Frederick Knott}}原作の舞台劇『[[ダイヤルMを廻せ!]]』の映画化に取りかかった{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=58-60}}{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|p=215}}。物語は若い妻([[グレース・ケリー]])の殺人を企て、別の人に殺させようとする元テニス選手([[レイ・ミランド]])が主人公で、妻が自己防衛から襲撃者を殺してしまうことで事態は複雑になる{{Sfn|Ackroyd|2017|pp=180-181}}{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=163-164}}。撮影は[[1953年]]7月から9月の間に行われ、ヒッチコックは「35日間で撮り上げた」と述べている{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=58-60}}{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|p=215}}。ワーナー・ブラザースはこの作品を当時流行した[[立体映画|3D映画]]として作らせたが、[[1954年]]に公開された時には3D映画の流行はすたれ、ほとんどの劇場では通常の形で上映された{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=163-164}}。 === キャリアのピーク:1953年 - 1963年 === ==== パラマウント・ピクチャーズ ==== [[File:Stewart, Kelly & Hitchcock Rear Window.jpg|thumb|left|『[[裏窓]]』(1954年)撮影時。左から[[ジェームズ・ステュアート (俳優)|ジェームズ・ステュアート]]、[[グレース・ケリー]]、ヒッチコック。]] 1953年夏、ヒッチコックは自身のエージェントであるMCAの[[ルー・ワッサーマン]]を介して、[[パラマウント・ピクチャーズ]]と5本の映画を製作または監督し、その利益に対する歩合と作品の最終的な所有権をヒッチコック側が持つという契約を結んだ{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=63-65}}<ref>{{Cite journal |和書|author1=前田耕作 |author2=細井浩一 |title=1970年代における米国映画産業復活の諸要因に関する一考察:パラマウント同意判決とTV放送による影響の検証を中心として |url=https://www.ritsumei.ac.jp/~hosoik/works/paper2012a.pdf |format=PDF |journal=立命館映像学 |issue=5 |publisher=[[立命館大学]] |date=2012 |pages=72-73}}</ref>{{Refnest|group="注"|『泥棒成金』を除く4本のパラマウント時代の作品の所有権は、各作品の公開から8年後にヒッチコックに譲渡された。しかし、ヒッチコックはそれらの作品を再公開して利益を得ることはせず、それどころか公開自体を許さなかった。そのため[[1983年]]にユニバーサル・ピクチャーズが権利を買い取るまで、この4本の作品が一般に上映されることはほとんどなかった<ref>{{Cite web |last=Rossen |first=Jake |date=2016-2-5 |url=https://www.mentalfloss.com/article/74977/when-hitchcock-banned-audiences-seeing-his-movies |title=When Hitchcock Banned Audiences From Seeing His Movies |website=Mental Floss |accessdate=2021年11月17日}}</ref>。}}。その最初の作品は[[ウィリアム・アイリッシュ|コーネル・ウールリッチ]]の短編小説が原作の『[[裏窓]]』で、放送作家の{{仮リンク|ジョン・マイケル・ヘイズ|en|John Michael Hayes}}に脚本を依頼した{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=63-65}}。この作品は足を骨折して車椅子生活を送る写真家([[ジェームズ・ステュアート (俳優)|ジェームズ・ステュアート]])が、双眼鏡で向かいのアパートの住人たちを観察するうち、そのうちの1部屋で殺人が行われたことに気付くという物語で、前作に続いてグレース・ケリーがヒロインを演じた{{Sfn|Ackroyd|2017|p=189}}。撮影は順調に進み、スタッフや俳優との関係も良好だった。ヒッチコックも機嫌が良く、以前のようなエネルギーと創作への熱意を取り戻し、後年には「この頃は自分のバッテリーがほんとうにフルに充電されていると思った」と述べている{{Sfn|スポトー(下)|1988|p=68}}。[[1954年]]8月に公開されると好評を博し、公開から2年間で興行収入は1000万ドルを超えた{{Sfn|Ackroyd|2017|p=193}}{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=77-80, 119}}。[[第27回アカデミー賞]]ではヒッチコックが監督賞にノミネートされた<ref name="Rear Window">{{cite web |url=http://www.oscars.org/awards/academyawards/legacy/ceremony/27th-winners.html |title=The 27th Academy Awards, 1955 |accessdate=2021-11-11 |publisher=Academy of Motion Picture Arts and Sciences|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110706093921/http://www.oscars.org/awards/academyawards/legacy/ceremony/27th-winners.html |archivedate=6 July 2011|url-status=live}}</ref>。 [[1954年]]初め、ヒッチコックはパラマウントの重役の勧めで[[デイヴィッド・ドッジ]]の小説が原作の『[[泥棒成金]]』の製作を始めた{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=70-76}}。この作品は宝石泥棒の疑いをかけられた元泥棒(グラント)と、彼と恋したアメリカ人女性(ケリー)が主人公のロマンチックなサスペンスで、[[ビスタビジョン]]を使用した[[ワイドスクリーン]]映画として作られた{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=171-173}}{{Sfn|Ackroyd|2017|p=197}}。ヒッチコックは前作で組んだヘイズと脚本を書き、初夏に物語の舞台となるフランスの[[コート・ダジュール|リヴィエラ]]でロケ撮影をした{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=70-76}}。翌[[1955年]]8月に公開されると北米だけで450万ドルの利益を出したが、批評家の意見は分かれた{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=171-173}}{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=99-100}}。 [[File:Japanese-edition-of-Alfred-Hitchcocks-Mystery-Magazine-1959-August-3.jpg|thumb|250px|1955年、『[[ハリーの災難]]』の宣伝のためヒッチコックは初来日した。[[江戸川乱歩]]、[[淀川長治]]、[[植草甚一]]、[[双葉十三郎]]らとともに。]] 『泥棒成金』の撮影中、ヒッチコックはヘイズに{{仮リンク|ジャック・トレヴァー・ストーリー|en|Jack Trevor Story}}の短編小説が原作の『[[ハリーの災難]]』の脚本を依頼した{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=77-80, 119}}。この作品は[[バーモント州]]の田舎を舞台に、ハリーの死で罪の意識を感じた町の人たちを描くブラック・コメディである{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|p=175}}。撮影は1954年後半に行われ{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=77-80, 119}}、1955年10月に公開された。ヒッチコックは[[日本]]を含む世界各地を旅して宣伝に努めたが、フランス以外の国では客入りは悪く、批評も芳しくなかった{{Sfnm|1a1=フィルムアート社|1y=1980|1pp=188-189|2a1=スポトー(下)|2y=1988|2p=113}}。 [[1955年]]4月20日、ヒッチコックはロサンゼルス郡裁判所で[[アメリカ合衆国の市民権]]を取得した。それまでにはジェームズ・ステュアートと[[ドリス・デイ]]が主演の次回作『[[知りすぎていた男]]』の脚本をヘイズと作成した{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=86-90, 102-103}}。この作品は『暗殺者の家』のリメイクだが、プロットにはさまざまな変更を付け加えており、後年にヒッチコックは「最初のイギリス版(『暗殺者の家』)はなにがしかの才能のあるアマチュアがつくった映画だったが、リメークのアメリカ版(『知りすぎていた男』)はプロがつくった映画だった」と述べている{{Sfnm|1a1=ヒッチコック|1a2=トリュフォー|1y=1990|1p=81|2a1=ハリス|2a2=ラスキー|2y=1995|2pp=179-180}}。撮影は同年7月までに行われ{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=99-100}}、[[1956年]]5月に公開されると興行的成功を収め、公開から1週間のうちにその年のアメリカで最高の興行収入を出した{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=77-80, 119}}{{Sfn|Ackroyd|2017|p=208}}。 ==== テレビへの進出 ==== [[File:Alfred Hitchcock 1955.jpg|thumb|200px|『[[ヒッチコック劇場]]』撮影時のヒッチコック(1955年)。]] 1955年、ヒッチコックはワッサーマンから自身の[[テレビドラマ|テレビシリーズ]]を手がけることを勧められ、『知りすぎていた男』の撮影完了後に[[CBS]]との間で30分のテレビシリーズ『[[ヒッチコック劇場]]』を作り、1エピソードにつき12万9000ドルのギャラを受け取るという契約を結んだ{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=86-90, 102-103}}。ヒッチコックはジョーン・ハリソンとシリーズを作るための製作会社シャムリー・プロダクションを設立し、2人ですべてのエピソードの原作と主題を選定した{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=vii-xxii}}{{Sfn|山田|2016|pp=255-256}}。製作総指揮は元秘書でいくつかの作品の脚本に参加したハリソンが担当し、ヒッチコックは製作と監修を担当しながら、毎回番組の前後で口上を述べるホスト役として出演した{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=vii-xxii}}{{Sfn|山田|2016|pp=8-10, 34-35, 250-253}}。『ヒッチコック劇場』は1955年10月2日に放送開始し、7年間にわたり放送されたあと、1962年から1965年までは1時間枠の『ヒッチコック・サスペンス』として放送された。ヒッチコックはこれらのシリーズで合わせて18話のエピソードを演出した{{Sfn|山田|2016|pp=8-10, 34-35, 250-253}}。 『ヒッチコック劇場』は非常に収益性が高く、放送当初から最も人気のある番組のひとつとなった{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=104-105}}{{Sfn|Taylor|1996|p=203}}。ヒッチコックもホスト役での出演で認知度を高め、その名を最もポピュラーなものにした{{Sfn|山田|2016|pp=8-10, 250-253}}{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=18-19}}。番組のタイトルシークエンスは、[[シャルル・グノー]]作曲の「[[操り人形の葬送行進曲]]」をテーマ曲に、ヒッチコック自身の手描きによる線画の自画像に横顔のシルエットがフレームインしてきておさまるという趣向で、そのあとに始まるヒッチコックの口上はユーモアにあふれ、ポーカーフェイスで飄々とした語り口で喋るのが特徴的だった{{Sfn|山田|2016|pp=8-10, 250-253}}{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=104-105}}。 ヒッチコックはテレビでの成功を受けて、自身の名前を使用した短編小説集をいくつか刊行した。その中には『テレビで演出することができなかった物語』『母親が私に語らなかった物語』というタイトルのものが含まれていた{{Sfn|Taylor|1996|p=202}}。これらの本はヒッチコック責任編集の名目で刊行されたが、自身の署名による序文は別人が代作しており、ヒッチコックは名前の使用だけで印税を受け取った{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=86-90, 102-103}}。また、ヒッチコックは[[1956年]]にHSD出版社から刊行された犯罪と探偵小説専門の月刊雑誌『{{仮リンク|アルフレッド・ヒッチコックス・ミステリー・マガジン|en|Alfred Hitchcock's Mystery Magazine}}(AHMM)』{{Refnest|group="注"|AHMMの日本語版は、1958年から宝石社が発行する雑誌『[[宝石 (雑誌)|宝石]]』に「ヒッチコックミステリの頁」のタイトルで連載され、1959年8月号から1963年7月号まで同社から『[[ヒッチコック・マガジン]]』という名前で全50号が発行された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.weblio.jp/content/%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%81%E3%82%B3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%AC%E3%82%B8%E3%83%B3 |title=ヒッチコック・マガジン |work=探偵作家・雑誌・団体・賞名事典 |publisher=Weblio辞書 |accessdate=2021年12月26日}}</ref>。}}にも自身の名前を使うことを許可した{{Sfn|Taylor|1996|p=202}}。ヒッチコックの本の外国語版は年間最大10万ドルの収入をもたらしたが{{Sfn|Taylor|1996|p=203}}、さらに映画の興行的成功やテレビ契約などでも大きな利益を獲得し、[[1956年]]のヒッチコックの収入は400万ドルを超えた{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=77-80, 119}}。 ヒッチコックの次の監督映画は『[[間違えられた男]]』(1956年12月公開)である。この作品は過去にワーナー・ブラザースと交わしていた、同社との契約終了後にギャラを貰わずに1本映画を監督するという約束を果たすために作った作品である{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=43-48}}。それは[[マクスウェル・アンダーソン]]が1953年に『[[ライフ (雑誌)|ライフ]]』誌に掲載した実話を基にしており、ナイトクラブのミュージシャン([[ヘンリー・フォンダ]])が警察の軽率な判断によって強盗犯にでっちあげられて逮捕され、裁判にかけられる姿を描いている{{Sfnm|1a1=フィルムアート社|1y=1980|1p=200|2a1=スポトー|2y=1994|2pp=320-321}}。撮影は1956年3月から6月の間に行われたが{{Sfn|スポトー(下)|1988|p=118}}、ヒッチコックは実話通りに物語を展開するため、[[マンハッタン]]など実際に事件が起きた場所でロケ撮影を行い、ドキュメンタリー・タッチのモノクロ作品にすることでリアリティを高めた。しかし、その作風はヒッチコック作品としては異色なものであり、従来の作品に見られたユーモアや独特のスタイルに欠けていたためにあまり評価されなかった{{Sfnm|1a1=フィルムアート社|1y=1980|1p=200|2a1=スポトー|2y=1994|2pp=320-321}}。その完成後の1956年夏には、アフリカを舞台にした[[ローレンス・ヴァン・デル・ポスト]]の小説『フラミンゴの羽根』の映画化を企画し、[[南アフリカ]]で撮影場所の視察をしたが、製作費や原住民のエキストラの調達などで問題が生じたため企画を放棄した{{Sfnm|1a1=スポトー(下)|1y=1988|1pp=120-121|2a1=Ackroyd|2y=2017|2p=218}}。 [[File:Hitchcock Novak Vertigo Publicity.jpg|thumb|left|『[[めまい (映画)|めまい]]』(1958年)撮影時のヒッチコックと[[キム・ノヴァク]]。]] [[1957年]]1月、ヒッチコックは長年抱えていた[[ヘルニア]]の悪化で手術を受けた。3月には今度は[[胆石]]の痛みに苦しみ、その除去手術を受けた{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=125-129}}。体調が回復すると、1956年後半から次回作に企画していた[[ボワロー=ナルスジャック]]のミステリー小説『{{仮リンク|死者の中から|fr|D'entre les morts}}』が原作の『[[めまい (映画)|めまい]]』をパラマウント・ピクチャーズで製作し、9月から12月の間にスタジオと[[北カリフォルニア]]のロケで撮影を行った{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=124, 141}}{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=186-189}}。物語は[[高所恐怖症]]で警察を辞めた元刑事(ステュアート)が主人公で、自殺を企てた友人の妻([[キム・ノヴァク]])を救ったのがきっかけで彼女に夢中となるが、その執着は悲劇につながる{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=186-189}}。この作品は現代では[[古典]]的作品に位置付けられているが、[[1958年]]の公開当時は興行的に成功せず、また賛辞の批評も少なく{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=186-189}}<ref>{{cite journal|last1=Ravetto-Biagioli|first1=Kriss|last2=Beugnet|first2=Martine|date=27 September 2019|title=Vertiginous Hauntings: The Ghosts of Vertigo|journal=Film-Philosophy|volume=23|issue=3|pages=227-246|doi=10.3366/film.2019.0114|doi-access=free}}</ref>、『バラエティ』誌の批評家には「テンポが遅すぎて長すぎる」と評された<ref>{{cite web|date=14 May 1958|title=Vertigo|url=https://variety.com/1958/film/reviews/vertigo-2-1200419207/|accessdate=2021-12-15|website=Variety|archivedate=28 February 2017|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170228012042/http://variety.com/1958/film/reviews/vertigo-2-1200419207/|url-status=live}}</ref>。 [[2012年]]に発表されたイギリスの映画誌『{{仮リンク|サイト・アンド・サウンド|en|Sight & Sound}}』による批評家の投票では、史上最高の映画に選出された<ref>{{cite news |last=Christie |first=Ian |title=The 50 Greatest Films of All Time |url=http://www.bfi.org.uk/news/50-greatest-films-all-time |work=Sight & Sound |date=September 2012 |accessdate=2021-12-15|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170301135739/http://www.bfi.org.uk/news/50-greatest-films-all-time|archivedate=1 March 2017|url-status=live}}</ref>。 ヒッチコックは『めまい』の次に作る映画として、{{仮リンク|ハモンド・イネス|en|Hammond Innes}}の小説『{{仮リンク|メリー・ディア号の遭難|en|The Wreck of the Mary Deare}}』の映画化を企画し、そのために[[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー|MGM]]と契約を結んだ{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=125-129}}{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=255-256}}。ヒッチコックは[[アーネスト・レーマン]]と仕事に取り組んだが、主題が扱いにくくて脚本作りがうまくいかず、レーマンにその代わりに「ヒッチコック映画の決定版をつくりたい」「[[ラシュモア山]]の大統領たちの顔の上で大追跡場面を撮りたい」と言ったことからオリジナル脚本の『[[北北西に進路を取れ]]』を作ることになり、レーマンは『めまい』の[[プリプロダクション]]中の1958年8月から脚本に取り組み始めた{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=255-256}}{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=138-139, 156}}。この作品はスパイの陰謀に巻き込まれ、全米を転々としながら犯してもいない殺人の容疑を晴らすために奮闘する広告マン(グラント)が主人公のスパイ・スリラーで、構想通りにアメリカ時代のヒッチコック作品を総括するような作品となった{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=255-256}}{{Sfnm|1a1=フィルムアート社|1y=1980|1pp=222-223|2a1=ハリス|2a2=ラスキー|2y=1995|2p=191}}。撮影は同年8月に開始し、翌[[1959年]]初めには編集作業に入った{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=162, 166}}。MGMの重役は136分に及ぶ完成版の上映時間が長すぎるとしてカットを要求したが、ヒッチコックは契約で作品の最終決定権を保証されていたため、それを拒否することができた{{Sfn|Ackroyd|2017|p=234}}。1959年8月の[[ラジオシティ・ミュージックホール]]での初公開は成功し、公開から2週間で40万ドルを超える興行収入を記録した{{Sfn|Ackroyd|2017|p=234}}<ref>{{cite news |url=http://www.time.com/time/printout/0,8816,864921,00.html |archiveurl=https://archive.today/20120530114819/http://www.time.com/time/printout/0,8816,864921,00.html |url-status=dead |archivedate=30 May 2012 |title=Box Office: For the Books |date=31 August 1959 |work=[[タイム (雑誌)|タイム]]|accessdate=2022-1-5}}</ref>。 ==== 『サイコ』と『鳥』 ==== [[File:Anthony Perkins, Alfred Hitchcock & Janet Leigh on Psycho Set.jpg|thumb|『[[サイコ (1960年の映画)|サイコ]]』(1960年)撮影時。左から[[アンソニー・パーキンス]]、ヒッチコック、[[ジャネット・リー]]。]] 1959年4月、ヒッチコックは『北北西に進路を取れ』の次回作に{{仮リンク|ヘンリー・セシル・レオン|en|Henry Cecil Leon}}の小説『{{仮リンク|判事に保釈なし|en|No Bail for the Judge}}』の映画化を企画し、主演に[[オードリー・ヘプバーン]]を予定したが、実現には至らなかった{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=167-172}}。同年盛夏までには、実話に基づく[[ロバート・ブロック]]の小説が原作の『[[サイコ (1960年の映画)|サイコ]]』を代わりの次回作に決め、[[ジョセフ・ステファノ]]に脚本を依頼した{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=173-174, 177-178}}{{Sfn|山田|2016|p=50}}。後年にヒッチコックは、原作の「シャワーを浴びていた女が突然惨殺されるというその唐突さ」だけで映画化に踏み切ったと述べている{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|p=279}}。しかし、パラマウントの重役は「母親の服を着て、騒ぎを起こす狂人のばかばかしい話」だとして映画化を渋ったため、ヒッチコック自身が製作費を負担し、同社が配給のみを行うという条件で製作が決定した{{Sfnm|1a1=レベロ|1y=1990|1pp=76-77, 91|2a1=Ackroyd|2y=2017|2p=238}}。ヒッチコックはできるだけ短期間かつ低予算で作品を完成させるため、『ヒッチコック劇場』で経験したテレビの早撮りの手法とテレビのスタッフを活用した{{Sfn|山田|2016|p=50}}{{Sfn|レベロ|1990|pp=88-90}}。撮影は1959年11月から[[1960年]]1月の間に{{仮リンク|レヴュー・スタジオ|en|Universal Television}}で行われたが、ヒッチコックは作品の内容が漏れないようにするため撮影を極秘のうちに進めた{{Sfnm|1a1=スポトー(下)|1y=1988|1p=182|2a1=レベロ|2y=1990|2pp=175-176, 241}}。 ヒッチコックはこの作品のために、自らが出演する[[予告編]]を作成したり、内容を口外しないように求める広告を出したりして大がかりな宣伝キャンペーンを展開し、初めて映画館で途中入場を禁止する興行方針を定めた{{Sfn|レベロ|1990|pp=269-274, 283}}{{Sfn|山田|2016|pp=51-53}}。1960年4月からはこの作品の宣伝とプレミアの出席のため、アルマと世界一周旅行を兼ねて日本や[[香港]]、イタリア、フランスなどを訪れた{{Sfnm|1a1=フィルムアート社|1y=1980|1p=233|2a1=スポトー(下)|2y=1988|2pp=200-201}}。6月に一般公開されると批評家や観客の間でさまざまな反響を呼び、その年で最も観客を動員し、物議を醸した映画となった{{Sfn|レベロ|1990|pp=291-298, 306}}。製作費が約80万ドルに対して、興行収入は1500万ドルを記録し、ヒッチコックのキャリアの中で最も収益性が高い映画となった{{Sfnm|1a1=レベロ|1y=1990|1p=287|2a1=Ackroyd|2y=2017|2p=249}}。公開当時の批評家の多くは好意的な批評を与えなかったが、後にその意見は翻った{{Sfn|レベロ|1990|pp=291-298, 306}}。[[第33回アカデミー賞]]では5度目の監督賞ノミネートを受けた<ref name="Psycho">{{cite web |url=http://www.oscars.org/awards/academyawards/legacy/ceremony/33rd-winners.html |title=The 33th Academy Awards, 1961 |accessdate=2021-11-11 |publisher=Academy of Motion Picture Arts and Sciences|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110706094236/http://www.oscars.org/awards/academyawards/legacy/ceremony/33rd-winners.html |archivedate=6 July 2011|url-status=live}}</ref>。後年に『サイコ』は最も有名なヒッチコック作品と言われ、とくにシャワールームでの殺人シーンは映画史上の名場面に数えられ、さまざまな研究や分析がなされた{{Sfn|山田|2016|pp=51-53}}{{Sfnm|1a1=スポトー(下)|1y=1988|1p=183|2a1=Leitch|2y=2002|2p=260}}。 [[File:Hitchcock Birds promotional still.jpg|thumb|left|『[[鳥 (1963年の映画)|鳥]]』(1963年)の宣伝写真のヒッチコック。]] ヒッチコックは『サイコ』の次作として、[[ロベール・トマ]]の戯曲『{{仮リンク|罠 (ロベール・トマの戯曲)|label=罠|fr|Piège pour un homme seul}}』の映画化や、原爆投下の使命を帯びた飛行士が主人公の『星の村』、[[ディズニーランド]]を舞台にしたサスペンス『盲目の男』を企画したが、いずれも実現はしなかった{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=202-205}}。[[1961年]]8月、ヒッチコックはすでに映画化権を購入していたダフニ・デュ・モーリエの小説『{{仮リンク|鳥 (小説)|label=鳥|en|The Birds (story)}}』の映画化を決め、原作からは「ある日突然、鳥が人間を襲う」というアイデアだけをいただき、[[エド・マクベイン|エヴァン・ハンター]]と脚本を作成した{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=206-209}}{{Sfn|山田|2016|pp=262-264}}。[[1962年]]2月にはMCAの子会社となった[[ユニバーサル・ピクチャーズ]]と5本の映画を作る契約を結び、スタジオ内の広々とした専用のオフィスに移転した。それと同時にヒッチコックはMCAとの契約で、自身が所有する『サイコ』と『ヒッチコック劇場』のすべての権利と引き換えに、MCAの約15万株を手に入れ、同社で3番目の大株主になった{{Sfnm|1a1=スポトー(下)|1y=1988|1pp=181, 216|2a1=レベロ|2y=1990|2pp=323-324}}。 『[[鳥 (1963年の映画)|鳥]]』はユニバーサルとの契約の1本目であり、1962年3月から7月の間に撮影が行われた{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=214, 227|2a1=ハリス|2a2=ラスキー|2y=1995|2p=15}}。主演にはヒッチコックがテレビCMで見かけた元モデルの新人[[ティッピ・ヘドレン]]を起用したが{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=214, 227|2a1=ハリス|2a2=ラスキー|2y=1995|2p=15}}、後年にヘドレンは撮影中にヒッチコックから[[セクハラ]]を受けていたことを明らかにした<ref name="Evans">{{Cite web |last=Evans |first=Alan |date=2016-10-31 |url=https://www.theguardian.com/film/2016/oct/31/tippi-hedren-alfred-hitchcock-sexually-assaulted-me |title=Tippi Hedren: Alfred Hitchcock sexually assaulted me |website=the Guardian |accessdate=2021年11月28日}}</ref><ref name="ヘドレン">{{Cite web|和書|url=https://www.vogue.co.jp/celebrity/news/2016-11/03/tippi-hedren |title=ティッピ・ヘドレン、アルフレッド・ヒッチコックにセクハラを受けていた。|date=2016-11-3 |website=VOGUE JAPAN |accessdate=2021年11月27日}}</ref>。ヘドレンの自伝またはスポトーの伝記によると、ヒッチコックはヘドレンが男性俳優と交流したり触れたりすることを禁じたり、彼女だけに聞こえるように卑猥なことを言ったり、スタッフに彼女の行動を見張らせたりしたという<ref name="ヘドレン"/>{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=220-222}}。『鳥』は[[1963年]]3月に公開され{{Sfn|McGilligan|2005|pp=796-797}}、興行収入は最初の数か月で1100万ドルをあげたが、批評家と観客の意見は賛否両論となった{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=253-256}}。 === キャリア後期:1965年 - 1980年 === ==== 『マーニー』 ==== [[File:Hitchcock Hedren Marnie Publicity Photo.jpg|thumb|『[[マーニー (映画)|マーニー]]』(1964年)撮影時のヒッチコックと[[ティッピ・ヘドレン]]。]] 『鳥』の次の作品となった『[[マーニー (映画)|マーニー]]』は、{{仮リンク|ウィンストン・グレアム|en|Winston Graham}}の{{仮リンク|マーニー (小説)|label=同名の小説|en|Marnie}}が原作で、1960年に出版された時に映画化権を手に入れていた。『鳥』撮影中の1962年3月には、すでに引退して[[モナコ]]王妃となっていたグレース・ケリー主演でこの作品を映画化することを考えていたが、ケリーとの交渉は上手くいかず、代わりにヘドレンを再び起用した{{Sfnm|1a1=スポトー(下)|1y=1988|1pp=200, 219-220|2a1=フィルムアート社|2y=1980|2p=251}}。この作品は窃盗癖のある女性(ヘドレン)と、その異常性に魅かれて彼女を愛する男性([[ショーン・コネリー]])が主人公の心理的なメロドラマである{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=16, 227}}。ヒッチコックは脚本をハンターに依頼したが、のちに{{仮リンク|ジェイ・プレッソン・アレン|en|Jay Presson Allen}}にまったく別のアプローチで改稿させた。ヒッチコックはこの作品のために、愛犬の名前にちなんで名付けた新しい製作会社ジェフリー・スタンリー・プロダクションを設立し、1963年9月に撮影を始めた{{Sfnm|1a1=スポトー(下)|1y=1988|1pp=176, 243-245|2a1=レベロ|2y=1990|2p=328}} その撮影中、ヒッチコックのヘドレンに対するセクハラはエスカレートした<ref name="ヘドレン"/>{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=248-252}}。ヘドレンによると、ヒッチコックはメイク部に自分のためにヘドレンの顔をかたどったマスクを作らせるよう要求したり、ヒッチコックの部屋と隣のヘドレンの控え室の間に扉を作って直接行き来できるようにしたりしたという<ref name="ヘドレン"/><ref name="Evans"/>。スポトーによると、[[1964年]]2月末のある日には、ヒッチコックは控え室でヘドレンに性的関係を求め、やがてヘドレンのキャリアを台無しにすると脅迫めいたことを言ったという。それ以来ヒッチコックはヘドレンに話しかけるのを拒み、第三者を通じてコミュニケーションをとった。そのうえ作品に対する興味も失くし、技術上のディティールや[[スクリーン・プロセス]]やセットの使い方などにも注意を払わなくなった{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=248-252}}。 1964年7月に作品は公開されたが、批評家の反応は概ね批判的で、その意見の多くは技術的な稚拙さと異常心理を極端に単純化した点の古臭さを指摘した。『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』誌は「気の毒なほど時代遅れで、情けないほど愚直―まったくの期待はずれである」と評した{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=253-256}}。作品は興行的にも失敗し、スポトーはこの作品でヒッチコックが「大衆の支持を失った」と述べている{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=253-256}}{{Sfn|レベロ|1990|p=329}}。ある新聞にはヒッチコックが「現代の観客の心をつかみそこなったばかりか、いっそう嘆かわしいことに、あのテクニックとユーモアまで失ってしまった」と書き立てられた{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=261-262}}。ユニバーサル・ピクチャーズからも失敗を繰り返さぬよう横槍が入り、この次の作品に企画した[[ジェームス・マシュー・バリー]]の戯曲『{{仮リンク|メアリー・ローズ (戯曲)|label=メアリー・ローズ|en|Mary Rose (play)}}』の映画化も、会社の反対で実現しなかった{{Sfn|レベロ|1990|p=329}}。さらにジョン・バカンのスパイ小説『{{仮リンク|三人の人質|en|The Three Hostages}}』の映画化や、イタリアの脚本家コンビの[[アージェ=スカルペッリ]]のオリジナル・シナリオで『R・R・R・R』を撮ることも企画したが、これらも実現には至らずに終わった{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=317-318}}。 ==== キャリアの衰退と復活 ==== [[File:Alfred Hitchcock by Jack Mitchell.jpg|thumb|left|晩年のヒッチコック(1972年に{{仮リンク|ジャック・ミッチェル (写真家)|label=ジャック・ミッチェル|en|Jack Mitchell (photographer)}}が撮影)]] 3本の企画が流れたあと、ヒッチコックはイギリスの外交官[[ドナルド・マクリーン]]と{{仮リンク|ガイ・バージェス|en|Guy Burgess}}が[[ソ連]]に亡命した事件をもとにしたスパイ・スリラー『[[引き裂かれたカーテン]]』を作ることに決めた{{Sfn|レベロ|1990|p=329}}{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=317-318}}。1965年5月にヒッチコックは{{仮リンク|ブライアン・ムーア|en|Brian Moore (novelist)}}と脚本に取り組んだが、スクリプトにはいくつかの問題があり、執筆作業は7月に撮影を始めてからも続けられた{{Sfnm|1a1=スポトー(下)|1y=1988|1pp=266-273|2a1=Ackroyd|2y=2017|2pp=284-285}}。主演にはユニバーサルの要求で[[ポール・ニューマン]]と[[ジュリー・アンドリュース]]を起用したが、彼らに支払われた莫大なギャラのせいで予算は切り詰められ、創作面にお金を使いたかったヒッチコックは2人のギャラと配役に不満を表明し、作品へのやる気も失った{{Sfn|レベロ|1990|p=329}}{{Sfnm|1a1=スポトー(下)|1y=1988|1pp=266-273|2a1=Ackroyd|2y=2017|2pp=284-285}}{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=16, 231-232}}。[[1966年]]夏に作品は公開されたが不評を集め、それまでのヒッチコック作品に見られた上質なサスペンスやウィットがなく、精彩を欠いた作品と見なされた。『[[タイム (雑誌)|タイム]]』誌には「なんと、ヒッチコックがどんなに優れたタッチを披露しても、もはや優れたヒッチコック映画はできないのだ」と評された{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=16, 231-232}}。 1966年末、ヒッチコックはイギリスの殺人犯{{仮リンク|ネヴィル・ヒース|en|Neville Heath}}を題材にした『狂乱と万華鏡』を企画し、旧友のベン・W・レヴィにスクリプトの作成を手伝わせた。この作品は偏執狂で同性愛者の殺人犯が主人公にしていたが、ユニバーサルはその物議を醸す内容と描写のために映画化を拒否し、ヒッチコックは企画を棚に上げることになった{{Sfnm|1a1=McGilligan|1y=2005|1pp=845, 850|2a1=Ackroyd|2y=2017|2p=288}}。[[1967年]]いっぱい、ヒッチコックは1本も映画を作ることはなく、ほとんど自宅に引きこもるような生活を送った{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=284-288}}。翌[[1968年]]夏にはユニバーサルの提案で、[[レオン・ユリス]]の小説に基づく[[冷戦]]時代のスパイ・スリラー『[[トパーズ (1969年の映画)|トパーズ]]』を監督することにしたが、ユリスが書いた脚本は満足のいくものではなく、サミュエル・テイラーに書き直しを依頼した{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=284-288}}。撮影はプリプロダクションが完全に終わらないうちに始まり、各シーンの撮影の2、3日前にそのシナリオを書くという具合で進められた{{Sfn|スポトー|1994|pp=441-442}}。[[1969年]]12月に作品は公開されたが、観客や批評家からは失望ともいえる評価を受け、ヒッチコック自身も「みじめ作品だった」と述べている{{Sfn|スポトー|1994|pp=441-442}}{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=292-293}}。 [[File:Alfred Hitchcock, San Francisco, Summer 1975.jpg|thumb|200px|1975年夏に[[サンフランシスコ]]で『[[ファミリー・プロット]]』(1976年)を撮影するヒッチコック。]] 作品が3本続けて失敗したヒッチコックは、[[1970年]]に自身をたてなおすための新しい主題を探し求め、やっとロンドンで女性を襲う偏執狂の連続殺人犯を描く{{仮リンク|アーサー・ラ・バーン|en|Arthur La Bern}}の小説『''[[:en:Goodbye Piccadilly, Farewell Leicester Square|Goodbye Piccadilly, Farewell Leicester Square]]''』が原作の『[[フレンジー]]』の監督を決定し、『狂乱と万華鏡』を思い起こすような物語を撮ることを表明した{{Sfnm|1a1=スポトー(下)|1y=1988|1pp=296, 298-299|2a1=McGilligan|2y=2005|2pp=868-869|3a1=Ackroyd|3y=2017|3pp=292-293}}<ref name="1978年版序文">フランソワ・トリュフォー「ヒッチコックはひとつの映画の制度、映画の法則になった 『引き裂かれたカーテン』から『みじかい夜』まで」({{Harvnb|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=333-342}})</ref>。脚本は[[アンソニー・シェーファー]]が執筆し、[[1971年]]にロンドンと近郊の[[パインウッド・スタジオ]]で撮影されたが、ヒッチコックにとっては約20年ぶりのイギリスでの作品となった<ref name="1978年版序文"/>{{Sfnm|1a1=スポトー(下)|1y=1988|1p=304|2a1=Ackroyd|2y=2017|2pp=294-295}}。[[1972年]]の[[第25回カンヌ国際映画祭]]での初公開は成功し、ヒッチコックはスタンディングオベーションを受けた<ref name="1978年版序文"/>。この作品は高い成功を収め、北米で650万ドルの利益を出した。批評家にも晩年のキャリアの傑作と見なされ、[[ロジャー・イーバート]]は「サスペンスの巨匠、昔の調子を取り戻す」と述べ、『タイム』誌は「ヒッチコックはまだまだ好調」と評した{{Sfnm|1a1=ハリス|1a2=ラスキー|1y=1995|1pp=239-242|2a1=McGilligan|2y=2005|2p=887|3a1=Ackroyd|3y=2017|3p=302}}。 [[1973年]]、全米各地ではヒッチコック作品の回顧上映が行われ、ヒッチコック自身もさまざまな栄誉や称賛を受けるようになった{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=323-325}}。この年にヒッチコックは{{仮リンク|ヴィクター・カニング|en|Victor Canning}}の小説『{{仮リンク|階段 (小説)|label=階段|en|The Rainbird Pattern}}』の映画化権を購入し、アーネスト・レーマンと脚本執筆を始めたが、その最中に[[心臓発作]]を起こし、[[心臓ペースメーカー|ペースメーカー]]を付けることになった<ref name="1978年版序文"/>。脚本執筆は1年を要し、最終的にタイトルは『[[ファミリー・プロット]]』に決定した{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|p=244}}。会社は主演に[[ジャック・ニコルソン]]と[[ライザ・ミネリ]]を提案したが、ヒッチコックはスターに高いギャラを払うことを拒否したため、代わりに{{仮リンク|バーバラ・ハリス|en|Barbara Harris (actress)}}と[[ブルース・ダーン]]を起用した{{Sfn|Ackroyd|2017|p=305}}。撮影は[[1975年]]に行われたが、その間にヒッチコックは疲労困憊し、[[関節炎]]の痛みにも苦しみ、ポストプロダクションは別の人物に任せた{{Sfnm|1a1=スポトー(下)|1y=1988|1pp=336-338, 340-342|2a1=Ackroyd|2y=2017|2p=307}}。[[1976年]]4月に公開されると、多くの批評家から好意的な評価を受け、『ニューヨーク・タイムズ』誌には「機知に富んだ、肩のこらない愉快な作品…ひさびさに楽しいヒッチコック作品」と評された{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=343-344}}。 ==== 晩年と死去 ==== [[File:Alfred Hitchcock Publicity Photo 1976.jpg|thumb|left|200px|1976年頃のヒッチコック。]] 晩年のヒッチコックは体力が衰え、関節炎で杖を必要とするほど歩行が困難になり、[[コルチゾン]]注射を受けた{{Sfn|Ackroyd|2017|pp=308-309, 312-313}}{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=346-351}}。それでもヒッチコックは毎日オフィスに車で行き{{Sfn|Ackroyd|2017|pp=308-309, 312-313}}、次回作に取りかかろうとした。その作品はイギリス人の二重スパイの[[ジョージ・ブレイク]]の実話に基づく{{仮リンク|ロナルド・カークブライド|en|Ronald Kirkbride}}の小説『{{仮リンク|みじかい夜|en|The Short Night}}』の映画化で、[[1977年]]に{{仮リンク|ジェイムズ・コスティガン|en|James Costigan}}に脚本を依頼したが、2人の協力関係はすぐに終わった<ref name="1978年版序文"/>{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=346-351}}。次にレーマンに脚本を依頼し、その出来上がりに一度は満足したが、[[1978年]]秋には3人目の脚本家{{仮リンク|デヴィッド・フリーマン|en|David Freeman (screenwriter)}}を雇って書き直しをさせた{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=346-351}}。しかし、ヒッチコックは身体の衰弱で精神的に混乱し、アルコールを乱用するようになった{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=346-351}}<ref name="あとがき">フランソワ・トリュフォー「ヒッチコックとともに」({{Harvnb|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=345-356}})</ref>。友人の[[ヒューム・クローニン]]によると、当時のヒッチコックは「これまで以上に悲しんでいて、ひとりぼっちになっていた」という{{Sfn|Ackroyd|2017|pp=308-309, 312-313}}。 [[1979年]]3月7日、ヒッチコックは[[アメリカン・フィルム・インスティチュート]](AFI)から[[AFI生涯功労賞|生涯功労賞]]を受賞した。受賞祝賀会の模様はテレビ中継されたが、ヒッチコックのスピーチは事前に収録したもので、そのために1週間前からアルコールを断って体調を整えていた<ref name="あとがき"/>。同年5月、ヒッチコックは『みじかい夜』を作ることを断念し、ユニバーサル・ピクチャーズのスタジオ内にある自分のオフィスを閉鎖した<ref name="あとがき"/>{{Sfn|McGilligan|2003|pp=742-743}}。12月にはイギリス女王[[エリザベス2世]]により{{仮リンク|1980年の新年叙勲者|en|1980 New Year Honours}}が発表され、ヒッチコックは[[大英帝国勲章]]のナイト・コマンダー(KBE)の勲位を授与された<ref name="London Gazette">{{Cite web |url=https://www.thegazette.co.uk/London/issue/48041/supplement/6 |title=No. 48041 |publisher=The London Gazette |date=1979-12-28 |accessdate=2021年11月29日}}</ref>{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=369-370}}。ヒッチコックは健康状態の悪化のためロンドンでの式典に出席することができなかったため、[[1980年]]1月3日にユニバーサル・ピクチャーズのスタジオで駐米英国総領事から認証書を受け取った{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=369-370}}{{Sfn|Ackroyd|2017|p=315}}。そのあとに記者から「なぜ女王陛下に認めてもらうのにこんなに時間がかかったのか」と質問されると、ヒッチコックは「うっかり見落とされていたんでしょう」と答えた{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=369-370}}{{Refnest|group="注"|ヒッチコックは1962年に大英帝国勲章に選ばれていたが、イギリス文化への貢献を正当化することができないという理由で受勲を辞退していた{{Sfn|Ackroyd|2017|p=266}}。ヒッチコックにこの栄誉を授けるよう働きかけたのは作家で批評家の{{仮リンク|アレクサンダー・ウォーカー (批評家)|label=アレクサンダー・ウォーカー|en|Alexander Walker (critic)}}で、1979年にその旨を書いた手紙を首相の[[マーガレット・サッチャー]]に送った{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=369-370}}。}}。 ヒッチコックは人生の最後の数か月を、ベルエアの自宅のベッドに寝たきりで過ごした{{Sfn|McGilligan|2003|p=745}}。ヒッチコックが最後に公に姿を見せたのは1980年3月16日のAFI生涯功労者の授賞式で、その年の受賞者を紹介するための映像に出演した{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=369-370}}。同年4月29日午前9時17分、ヒッチコックは[[腎不全]]のため80歳で亡くなった{{Sfn|McGilligan|2003|p=745}}{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=371-372}}。翌日に[[ビバリーヒルズ]]のグッドシェパード・カトリック教会で葬儀が行われ、ルー・ワッサーマンがスピーチを行い、[[フランソワ・トリュフォー]]、[[ジャネット・リー]]、[[カール・マルデン]]、ルイ・ジュールダン、[[メル・ブルックス]]、ティッピ・ヘドレンなど600人が参列した{{Sfn|McGilligan|2005|p=928}}。ヒッチコックの遺体は火葬に付され、5月10日に灰が太平洋にまかれた{{Sfn|Ackroyd|2017|p=315}}。2000万ドルと見積もられたヒッチコックの財産は、妻のアルマと娘のパトリシア、そして3人の孫娘に遺贈された{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=371-372}}。 == 作風 == ヒッチコックはキャリアを通して、主に[[サスペンス]]または[[スリラー]]のジャンルに位置付けられる作品を監督した{{Sfn|筈見|1986|pp=28-29, 61}}{{Sfn|フィルムアート社|1980|pp=337-339}}。キャリア初期にあたる1920年代の[[サイレント映画]]時代から1930年代前半の[[トーキー]]時代にかけては、サスペンスやスリラー以外にも[[メロドラマ]]や[[コメディ映画|コメディ]]、文芸映画などのジャンルも手がけているが{{Sfn|山田|2016|p=132}}、『暗殺者の家』以後は『スミス夫妻』を除く全作品がサスペンスまたはスリラーである{{Sfn|筈見|1986|pp=28-29, 61}}{{Sfn|フィルムアート社|1980|pp=337-339}}。ヒッチコックの作品には「ヒッチコック的なもの」「ヒッチコックらしさ」が読み取れるほどの独自のスタイルやテーマ、サスペンスの演出技巧、モチーフが見られ、それらは「ヒッチコック・タッチ」と呼ばれている<ref name="1978年版序文"/>{{Sfn|筈見|1986|pp=111, 197}}{{Sfn|山田|2016|pp=140-142}}。この作風は『下宿人』で確立し、サイレントからトーキーにかけてさまざまな映画的実験や技法の実験を試みながら独自のスタイルを追求し、ハリウッドに移るまでにひとつの芸術的様式として完成された{{Sfn|山田|2016|pp=140-142}}{{Sfnm|1a1=筈見|1y=1986|1pp=37-38|2a1=スポトー|2y=1994|2p=78}}。ヒッチコック自身は「イギリス時代のわたしの仕事はわたしの映画的本能を刺激し、よびさまし、育成した…イギリス時代は映画的感覚を解放し、アメリカ時代は映画的思考を充実させたと言ってもいいかもしれない」と述べている{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|p=111}}。 === 影響 === [[File:The Lodger A Story of the London Fog Still.jpg|thumb|『[[下宿人]]』(1927年)はドイツ表現主義映画の影響を強く受けた作品であり、それは影を強調した照明などに見られる{{Sfn|筈見|1986|pp=154-157}}。]] ヒッチコックは初期の映画製作者である[[ジョルジュ・メリエス]]、[[D・W・グリフィス]]、[[アリス・ギイ]]の影響を受けたと述べている<ref>{{Cite book|last=Chandler|first=Charlotte|title=It's Only a Movie Alfred Hitchcock: A Personal Biography|publisher=Pocket Books|year=2006|isbn=0743492293|location=New York, London, Toronto, Sydney|page=39}}</ref>。1920年代には[[セルゲイ・エイゼンシュテイン]]監督の『[[戦艦ポチョムキン]]』(1925年)や[[フセヴォロド・プドフキン]]監督の『[[母 (1926年の映画)|母]]』(1926年)などの{{仮リンク|ソビエト・モンタージュ派|ru|Советская школа монтажа}}の作品を見て、[[モンタージュ]]の技術を学んだ{{Sfnm|1a1=McGilligan|1y=2003|1p=75|2a1=Ackroyd|2y=2017|2pp=37, 55}}。さらに[[ルイス・ブニュエル]]監督の[[シュルレアリスム]]映画『[[アンダルシアの犬]]』(1928年)をはじめ、[[ルネ・クレール]]監督の『{{仮リンク|幕間 (映画)|label=幕間|fr|Entr'acte (film)}}』、[[ジャン・コクトー]]監督の『{{仮リンク|詩人の血 (映画)|label=詩人の血|fr|Le Sang d'un poète}}』(1930年)など、1920年代後半から1930年頃のフランスの[[実験映画|アヴァンギャルド映画]]の影響も受けている{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=86-88}}。ヒッチコックがサスペンス映画を撮るようになったのは、自身が愛読した[[エドガー・アラン・ポー]]の小説の影響が大きく、「わたしはどうしても自分が映画の中でやろうとしたことと、ポーが小説の中でしたことを、くらべたくなってしまう」と述べている{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=86-88}}。 1920年代の[[ドイツ表現主義]]映画も、ヒッチコックの作品に大きな影響を与えた{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=129-136}}{{Sfn|筈見|1986|pp=154-157}}。ドイツ表現主義映画は、独特の[[キアロスクーロ]]や編集技法、奇抜な構図やアングルなどの視覚的効果の強いスタイルで、第一次世界大戦後の混乱した社会や不安を表現したことで知られ、ヒッチコックはそれらの作品から1シーンの中で緊張感を作り出す方法、画面内に強い印象を与える表現を生み出す要素、光と影や人物とセットの関係の扱い方など、多くのことを学び取った{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=129-136}}。ヒッチコックは1920年代の助監督時代にドイツで仕事をした時に表現主義映画を学んだが{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=129-136}}、とくに[[F・W・ムルナウ]]の作品から強い影響を受けており、彼の作品から移動撮影やキアロスクーロを学び、後年には「言葉なしで物語を語ることを学んだのはムルナウからでした」と述べている{{Sfn|Ackroyd|2017|p=34}}。実際にヒッチコックの[[モノクローム|モノクロ]]作品では、必要以上に影を強調して、不安や恐怖感を盛り上げる表現主義的な照明効果を採り入れており、その技法は「ヒッチコック・シャドゥ」と呼ばれた{{Sfn|筈見|1986|pp=154-157}}。また、『汚名』『見知らぬ乗客』『サイコ』などの後期モノクロ作品では、表現主義的な不安定でゆがんだイメージを与える映像を採り入れている{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=129-136}}。 === サスペンスの演出 === [[File:Cary Grant & Eva Marie Saint North by Northwest Still.jpg|thumb|left|『[[北北西に進路を取れ]]』(1959年)では、トウモロコシ畑で主人公が農薬散布用飛行機に追われるシーンや、[[ラシュモア山]]でのクライマックスなど、サスペンスを高める状況が次々に展開されるが、その物語の随所には[[ユーモア]]が織り込まれている{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=191-193}}{{Sfn|フィルムアート社|1980|pp=222-223, 350-352}}。]] 「サスペンスの巨匠」と呼ばれたヒッチコックは、映像の特性を活用してサスペンスを高める手法を追究した{{Sfn|Sloan|1995|p=17}}{{Sfn|筈見|1986|pp=68-76}}。ヒッチコックはサスペンスの基本的要素を不安や恐怖などの[[エモーション]]と見なし、それを強く感じさせるドラマチックなシチュエーションを作り、それを作品中で持続させることで、観客に緊張感を与え続けることを映画作りの鉄則とした{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=60-62, 102}}<ref name="序">フランソワ・トリュフォー「序 ヒッチコック式サスペンス入門」({{Harvnb|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=11-20}})</ref>。このようなシチュエーションを作るために、ヒッチコックはリアリティにこだわったり、物語の辻褄を合わせるために必要なシーンを付けたりすることはせず、例え不自然でデタラメだと思われても、あり得ないようなことや偶然の連続からプロットを組み立てた<ref name="序"/>{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=86, 200}}。また、緊張が持続するサスペンスの中に適度な[[ユーモア]]を入れることで恐怖を和らげ、緊張とリラックスを並置させた<ref name="Flint"/>{{Sfn|フィルムアート社|1980|pp=222-223, 350-352}}<ref name="双葉十三郎">[[双葉十三郎]]「ヒチコックの映画技法」(『映画の学校』晶文社、1973年)。{{Harvnb|河出書房新社|2018|pp=46-55}}に所収</ref>。 ヒッチコックのサスペンスは、観客にだけ知らされる状況とそれを知らない登場人物の行動との間のギャップによって生まれる。ヒッチコックは「観客がすべての事実を知ったうえで、はじめてサスペンスの形式が可能になる」と主張し、あらかじめ犯人や犯行を示したり、観客にだけこれから登場人物の身に起きる恐怖の状況を告知したりして物語を展開した{{Sfn|筈見|1986|pp=68-76}}{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=60-62, 102}}<ref name="双葉十三郎"/>。『[[ライフ (雑誌)|ライフ]]』誌のインタビューでは、「10分後に爆発する[[時限爆弾]]が仕掛けられた部屋で3人の男が無駄話をする」というシチュエーションを例に出してこのサスペンス演出を説明した。それによると、観客も登場人物も爆弾のことを知らない場合、くだらない会話が10分間続いたあとに爆発が起き、それで観客を驚かせるだけで終わってしまうが、観客にだけ10分後に爆発することを知らせた場合は、ヒッチコック曰く「爆発寸前になって一人の男が『ここを出よう』というと、観客の誰もがそうしてくれと願う。ところが別の男が『いや、ちょっと待て。まだコーヒーが残ってる』と引き留める。観客は心の中で嘆息をつき、頼むから出ていってくれとハラハラする」という緊迫感のあるシチュエーションが生まれるという{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=18-19}}{{Refnest|group="注"|ヒッチコックはこうしたサスペンスを高める演出を良しとしたため、犯人探しや謎解きをして結末に事実が分かるという筋立ての[[ミステリ#推理小説など|ミステリー]]を、映画的ではないという理由で好まず、『殺人!』『舞台恐怖症』を除いてそのような作品を撮らないようにした{{Sfn|筈見|1986|pp=68-76}}{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=60-62, 102}}。ヒッチコックはミステリーを「ジグソーパズルとかクロスワードパズルみたいなもん」だとし、「殺人事件が起こって、あとは、犯人がだれかという答が出るまでじっと静かに待つだけだからね。エモーションがまったくない」と述べている{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=60-62, 102}}。}}。 こうしたサスペンス演出を実践した主な作品に『知りすぎていた男』と『サボタージュ』が挙げられる。『知りすぎていた男』では演奏会で重要人物を暗殺する計画を立てた一味が殺し屋に、[[シンバル]]が打ち鳴らされる瞬間に撃てと教え、そのレコードを繰り返し聞かせるシーンがあるが、映画評論家の[[双葉十三郎]]はそれが「観客が先に覚えてしまうぐらい丁寧である」といい、演奏会のシーンになると「観客はどこで撃つかがわかっているので、演奏の進行につれてぐんぐんとサスペンスがたかまってゆく」と述べている<ref name="双葉十三郎"/>。『サボタージュ』では少年が包みの中に時限爆弾が仕込まれていることを知らずにそれを持ち運ぶシーンがあるが、ヒッチコックは街頭の時計を何度も写して爆発の時刻が迫っていることを観客に知らせ、そこに少年が道草を食ったり、少年の乗るバスが信号で進まなかったりするシーンを入れることで、観客の緊迫感を盛り上げている{{Sfnm|1a1=筈見|1y=1986|1pp=92-94|2a1=ヒッチコック|2a2=トリュフォー|2y=1990|2p=96}}{{Refnest|group="注"|このあとに少年は爆発に巻き込まれて死亡するが、ヒッチコックによると、それまでのサスペンスが展開される間に、観客は少年に強い共感や同情を覚えてしまっていたため、少年を殺してしまうのは冷酷だとして観客の怒りを買ってしまい、サスペンスを高める方法として失敗してしまったという{{Sfnm|1a1=筈見|1y=1986|1pp=92-94|2a1=ヒッチコック|2a2=トリュフォー|2y=1990|2p=96}}。}}。 ヒッチコックはサスペンスの緊迫感を持たせるために、さまざまな事柄を登場人物の視線から描き、観客を登場人物に同化(観客が登場人物の身に置かれ、その人物の気持ちになって見てしまうように仕向けること)させた。そのような効果を与えるために、ヒッチコックはカメラで人物を真正面から[[クローズアップ]]でとらえ、切り返して人物の視線から対象をとらえるという演出を行った<ref name="あとがき"/>{{Sfn|山田|2016|pp=77-79}}。『裏窓』『サイコ』『マーニー』などでは、観客と人物の視線を一致させることで、観客を[[出歯亀|のぞき行為]]をする登場人物の共犯者となる役割に置いた。とくに『裏窓』では望遠鏡でのぞき見をする主人公のクローズアップとその視線から対象をとらえた映像を交互につなぎ、観客の見ているものと主人公の見ているものを同じにすることで、観客をのぞき行為をする主人公の立場に置き、彼に感情移入できるような趣向にしている{{Sfnm|1a1=フィルムアート社|1y=1980|1pp=345-346|2a1=ヒッチコック|2a2=トリュフォー|2y=1990|2pp=217-219, 278, 314|3a1=スポトー|3y=1994|3pp=278-279|4a1=ハリス|4a2=ラスキー|4y=1995|4p=167}}。 ヒッチコックは多くの作品に「[[マクガフィン]]」と呼ばれる[[プロット・デバイス]]を採り入れている。マクガフィンはサスペンスを生み出すプロットを展開するためのきっかけとして便宜上設けられたアイテムであり、登場人物にとっては重要らしいものであっても、作り手のヒッチコックや観客にとっては何の意味のないものである。マクガフィンの主な例は、『三十九夜』の国家機密の戦闘機の技術、『バルカン超特急』の暗号文を潜ませたメロディ、『海外特派員』の講和条約の秘密条項、『汚名』のワイン瓶の中の[[ウラニウム]]、『北北西に進路を取れ』の[[マイクロフィルム]]やカプランという名の架空のスパイである。ヒッチコック作品のマクガフィンは、物語の中で主人公や敵が追い求めるものであるが、それ以上の重要性や意味はなく、それ自体が何であるかは作品の途中や終盤でそれとなく明かされるだけである{{Sfnm|1a1=ヒッチコック|1a2=トリュフォー|1y=1990|1pp=125-127|2a1=スポトー|2y=1994|2pp=29, 78-79, 114, 133-134|3a1=山田|3y=2016|3pp=39-43}}。 === テーマ === [[File:James Stewart in Rope trailer 2.png|thumb|『[[ロープ (映画)|ロープ]]』(1948年)では二重性のテーマが扱われており、完全犯罪を試みた2人の若者とそれを告発する教師が、分身同士のような存在として描かれている{{Sfn|山田|2016|pp=229-232}}。]] ヒッチコックが繰り返し用いたテーマに、「間違えられた男(無実の罪を着せられる男)」が挙げられる{{Sfn|フィルムアート社|1980|pp=28, 200}}{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|p=42}}。それは無実の男性主人公が突然身に覚えのない事件に巻き込まれ、その犯人と間違われ、警察やスパイに追われながら、無実を証明するために真犯人や謎を探し求めるという物語で展開される場合が多く、その例は『三十九夜』『第3逃亡者』『逃走迷路』『泥棒成金』『北北西に進路を取れ』などに見られる{{Sfnm|1a1=筈見|1y=1986|1pp=52-64, 76|2a1=山田|2y=2016|2pp=156-157}}。ヒッチコックはこのテーマを多用した理由について、「観客により強い強烈な危機感をひき起こすから」と述べている{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|p=42}}。映画評論家の[[筈見有弘]]は、このテーマの見方を変えると「[[アイデンティティ]]を失った人物がそれをとりもどそうとする旅が主題といえる」と述べている{{Sfn|筈見|1986|p=198}}。間違えられた男の物語では、主人公がさまざまな場所を移動しながら犯人を追うというシチュエーションをとるが、その場所は有名な観光地や施設であることが多く{{Refnest|group="注"|例えば、『間諜最後の日』では[[スイス]]のチョコレート工場、『逃走迷路』では[[自由の女神]]、『泥棒成金』では南仏の[[コート・ダジュール]]、『北北西に進路を取れ』では[[国際連合本部ビル]]や[[ラシュモア山]]を舞台にしている{{Sfnm|1a1=フィルムアート社|1y=1980|1pp=53, 108|2a1=筈見|2y=1986|2pp=134-136|3a1=ヒッチコック|3a2=トリュフォー|3y=1990|3p=93}}。}}、それを単に背景としてだけでなく、サスペンスを高めるためにその地の特色を生かして使用した<ref name="双葉十三郎"/>{{Sfnm|1a1=フィルムアート社|1y=1980|1pp=53, 108|2a1=筈見|2y=1986|2pp=134-136|3a1=ヒッチコック|3a2=トリュフォー|3y=1990|3p=93}}。 もうひとつの頻出するテーマとして、秩序と混沌との間で分裂した人格のせめぎ合いがあり、それは「二重性(ダブル)」という概念で知られている。二重性は主人公と犯人のふたりが、同じ人物の表と裏であることや、二重人格もしくは分身同士であることを示しており、その例は『疑惑の影』の叔父と姪、『ロープ』の2人の犯人の若者と教師、『見知らぬ乗客』のガイとブルーノなどに見られる{{Sfn|山田|2016|pp=229-232}}{{Sfnm|1a1=筈見|1y=1986|1pp=200-203|2a1=スポトー(上)|2y=1988|2p=53|3a1=ヒッチコック|3a2=トリュフォー|3y=1990|3pp=200-201|4a1=Wood|4y=2002|4p=98}}。トリュフォーも「殺人犯と濡れ衣を着せられた無実の人間は表裏一体の関係にある」と述べ、そこからヒッチコック作品に「人間の聖なる面と罪ある面との葛藤」という主題を見出している<ref name="あとがき"/>。また、トリュフォーは間違えられた男の主人公も「潜在的に犯意を持った人間」であると主張し、そこからヒッチコック作品に一貫して[[原罪]]や[[罪悪感]]のモチーフが見られると指摘している{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|p=327}}{{Refnest|group="注"|映画評論家の[[吉田広明]]も、原罪のモチーフから「間違えられた男」の主人公を考えた時、彼に着せられた無実の罪について「本当にそれはいわれなき罪なのか。自覚していないだけで、彼はあるいはその罪を犯しているのかもしれない。少なくとも、その欲望に憑かれたことはあるはずだ。欲望=罪は誰の心にも存在する。たまたま犯罪者に置いて発現しただけであり、彼の下に発現してもおかしくはなかったのだ」と述べている<ref name="吉田広明"/>。}}。 ヒッチコックは[[同性愛|ホモセクシュアリティ]]の主題を扱ったことで知られ、少なくとも10本の作品にその微妙な言及が見られる<ref name="石原郁子">石原郁子「ヒッチコック 抑制する翳の美学」(『ヒッチコックヒロイン』芳賀書店、1991年)。{{Harvnb|河出書房新社|2018|pp=113-121}}に所収</ref><ref>{{cite web|last1=Hosier|first1=Connie Russell|last2=Badman|first2=Scott|date=7 February 2017|title=Gay Coding in Hitchcock Films|url=https://www.us.mensa.org/read/bulletin/features/gay-coding-in-hitchcock-films/|accessdate=2021-12-3|website=American Mensa|archivedate=7 November 2020|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201107230929/https://www.us.mensa.org/read/bulletin/features/gay-coding-in-hitchcock-films/|url-status=live}}</ref>。とくにホモセクシュアルを描いた作品として頻繁に指摘されるのが『殺人!』『ロープ』『見知らぬ乗客』の3本であり<ref name="石原郁子"/><ref name="菅野優香">菅野優香「ヒッチコック問題 『レベッカ』と『マーニー』をめぐるフェミニスト/クィア批評」({{Harvnb|河出書房新社|2018|pp=122-129}})</ref>{{Sfnm|1a1=ヒッチコック|1a2=トリュフォー|1y=1990|1p=62|2a1=スポトー|2y=1994|2pp=66, 250|3a1=山田|3y=2016|3p=229}}、[[エリック・ロメール]]と[[クロード・シャブロル]]によると、『殺人!』では道徳的観点から、『ロープ』では現実主義的観点から、『見知らぬ乗客』では[[精神分析学|精神分析]]的観点から、それぞれホモセクシュアリティの問題を描いているという{{Sfn|ロメール|シャブロル|2015|p=39}}。映画批評家の{{仮リンク|ロビン・ウッド|en|Robin Wood (critic)}}によると、ヒッチコックはキャリアの中で[[ゲイ]]の俳優と仕事を共にしていたにもかかわらず、ホモセクシュアリティに対して複雑な感情を持っていたという{{Sfn|Wood|2002|p=342}}。クィア映画研究者の菅野優香も、ヒッチコックを「ホモセクシュアルに対して複雑かつ矛盾する反応を示し続けた作家」であると主張し、ホモセクシュアリティに関するヒッチコックの反応は「[[ホモフォビア]](同性愛嫌悪)とホモエロティシズムが奇妙に混じりあう両義的なもの」であると述べている<ref name="菅野優香"/>。 [[スパイ]]の[[諜報]]や、[[精神病質]]の傾向があるキャラクターによる殺人も、ヒッチコック作品でよく取り扱われるテーマである{{Sfn|McGilligan|2003|p=128}}。悪役や殺人者は、知的で人間的魅力のある友好的な人物として描かれることが多く{{Refnest|group="注"|その例は、『間諜最後の日』のロバート・マーヴィン({{仮リンク|ロバート・ヤング (俳優)|label=ロバート・ヤング|en|Robert Young (actor)}})、『汚名』のアレクサンダー・セバスチャン([[クロード・レインズ]])、『見知らぬ乗客』のブルーノ([[ロバート・ウォーカー (1918年生の俳優)|ロバート・ウォーカー]])、『北北西に進路を取れ』のフィリップ・ヴァンダム([[ジェームズ・メイソン]])などに見られる{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=93-94, 164}}。}}、ヒッチコックはそれが「映画のドラマの緊張をささえる重要な条件」と述べている{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=93-94, 164}}。いくつかの作品では、観客が悪役や殺人者の立場に身を置いてしまうように描いている{{Sfnm|1a1=フィルムアート社|1y=1980|1pp=355-356|2a1=Taylor|2y=1996|2p=293}}。ヒッチコックが子供時代から抱いた警察に対する怖れは、しばしば作品に現れるモチーフでもある{{Sfn|筈見|1986|pp=28-29, 61}}。ヒッチコックは多くの作品で警察を好意的に扱わず、大抵は無実の主人公を追っかけたり、真相を話しても信用しなかったり、事件のカギを何も掴めなかったりするなど、頼れない存在として描いている{{Sfnm|1a1=フィルムアート社|1y=1980|1pp=355-356|2a1=ヒッチコック|2a2=トリュフォー|2y=1990|2p=97}}。その警察が使う[[手錠]]は、警察への恐怖や奪われた自由の象徴として、多くの作品で用いた小道具である{{Sfnm|1a1=ヒッチコック|1a2=トリュフォー|1y=1990|1p=41|2a1=ロメール|2a2=シャブロル|2y=2015|2p=15}}<ref name="小道具">米田由美「ヒッチコック映画を盛り上げる小道具たち」({{Harvnb|ネコ・パブリッシング|2000|pp=60-63}})</ref>。これ以外に頻出する小道具には、カオスや人間の破滅の象徴として登場する[[鳥]](その例は『第3逃亡者』『サボタージュ』『鳥』などに見られる)や{{Sfnm|1a1=フィルムアート社|1y=1980|1p=243|2a1=スポトー|2y=1994|2pp=98, 406}}、皮肉な効果を出すために殺人や不気味さと結び付けるようにして登場する[[料理]](その例は『ロープ』『フレンジー』に見られる)がある<ref name="小道具"/>{{Sfn|筈見|1986|p=108}}。 === 撮影・編集技法 === [[File:Alfred Hitchcock's Vertigo trailer - Vertigo's Effect.png|thumb|left|『[[めまい (映画)|めまい]]』(1958年)ではドリーズームを使用して、高所恐怖症の主人公が下を見た時に[[めまい]]を覚える瞬間を表現した{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|p=253}}。]] ヒッチコックはカメラが全景をとらえてから対象に接近していくトラックアップという移動撮影法を多用した{{Sfn|筈見|1986|pp=151-153}}<ref name="西村1">[[西村雄一郎]]「ヒッチコックのサスペンス技法」({{Harvnb|ネコ・パブリッシング|2000|pp=72-75}})</ref>。その有名な使用例は、『第3逃亡者』のダンスホールの全景から犯人のドラマーの顔へと接近するまでをワンショットでとらえた[[クレーンショット]]、『汚名』の俯瞰で写した大広間の全景からイングリッド・バーグマンの手に握られた鍵の[[クローズアップ]]へと接近するワンショット、『サイコ』の町の全景から情事が行われているホテルの窓へと接近する導入部のショットである{{Sfn|筈見|1986|pp=151-153}}{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=103-104}}。トリュフォーはこの撮影法による「最も遠くから最も近くへ、最大から最小へ」という表現の仕方が、ヒッチコック映画の法則のひとつであると述べている{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=103-104}}。こうした移動効果の応用として、『めまい』ではカメラをトラックバックさせながらズームアップすることで、めまいを覚えるような歪んだ映像を表現する{{仮リンク|ドリーズーム|en|Dolly zoom}}(めまいショット)という技法を創出した{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|p=253}}<ref name="西村1"/>。 ヒッチコックはキャリアを通じて、さまざまな映像合成技術を使用した。イギリス時代の作品では、鏡とミニチュアを使って人物が大きなセットの中を動き回っているような映像効果を出す[[シュフタン・プロセス]]を採り入れ、『恐喝』の[[大英博物館]]での追跡シーンや、『暗殺者の家』の[[ロイヤル・アルバート・ホール]]でのシーンなどに使用した{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=56, 71}}<ref>{{Cite web |url=https://the.hitchcock.zone/wiki/Sch%C3%BCfftan_process |title=Schüfftan process |website=The Hitchcock Zone |accessdate=2021年12月7日}}</ref>。{{仮リンク|リア・プロジェクション|en|Rear projection}}([[スクリーン・プロセス]])をよく使用したことでも知られたが、この技法は主に群衆シーン、列車や自動車などのシーン、『海外特派員』の飛行機の墜落や『見知らぬ乗客』のメリーゴーランドの暴走などのスペクタクルなシーンで使用されている{{Sfnm|1a1=フィルムアート社|1y=1980|1p=99|2a1=ヒッチコック|2a2=トリュフォー|2y=1990|2pp=104, 124-125, 163, 197|3a1=ハリス|3a2=ラスキー|3y=1995|3p=197}}。また、『逃走迷路』『裏窓』『めまい』の人物が高所から転落するシーンなどでは、{{仮リンク|トラベリング・マット|en|Matte (filmmaking)}}による背景と映像を合成する技術を使用した{{Sfn|スポトー|1994|pp=164, 367}}。この技術では合成画面の輪郭に青みがかったしみが出てしまうという欠点があったが、『鳥』ではそれを解決するために[[ウォルト・ディズニー・スタジオ]]が開発した新しい合成技術{{仮リンク|ナトリウム・プロセス|en|Sodium vapor process}}を採り入れ、鳥が人間を襲うシーンの合成画面で使用した{{Sfn|山田|2016|pp=262-264}}。 編集技法では、異なる場所で撮られたシーンを交互につなぐ[[カットバック#編集技術|カットバック]]を、サスペンスを盛り上げる技法として多用した<ref name="双葉十三郎"/><ref name="西村1"/>。似たような形のもの同士や、同じような動きをしたもの同士でショットをつなぐ[[マッチカット]]も多用しており、その例は『北北西に進路を取れ』で主人公がヒロインを崖から引き上げると、寝台列車内のショットに切り替わるというラストシーンや、『サイコ』で[[ジャネット・リー]]の瞳と排水孔を{{仮リンク|オーバーラップ (映像技法)|label=ディゾルブ|en|Dissolve (filmmaking)}}でつないだシーンに見られる<ref name="西村1"/>。また、[[トラッキングショット]]を使わずに連続的な[[ジャンプカット]]で焦点距離を変化させることで、対象に近づいたり離れたりする{{仮リンク|アキシャルカット|en|Axial cut}}も多用しており<ref>{{Cite web |url=https://www.colesmithey.com/articles/2017/09/hitchcock-kurosawa.html |date=2017-9-17 |title=HITCHCOCK / KUROSAWA: THE AXIAL CUT |website=Cole Smithey |accessdate=2021-12-7}}</ref><ref>{{cite web |title=Common editing terms explained|publisher=inspiredfilmandvideo.co.uk|url=http://www.inspiredfilmandvideo.co.uk/index.php?page_id=4 |accessdate=2021-12-7 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100421001705/http://www.inspiredfilmandvideo.co.uk/index.php?page_id=4 |archivedate=2010-4-21}}</ref>、その有名な使用例として『鳥』で眼をくりぬかれた農夫の死体を大中小のショットで近づいて見せるシーンが挙げられる<ref>{{cite web|title=Observations on cinema |publisher=David Bordwell |url=http://www.davidbordwell.net/blog/?p=6136 |date=2009-11-27 |accessdate=2021年12月7日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100618080806/http://www.davidbordwell.net/blog/?p=6136 |archivedate=2010-6-18}}</ref>{{Sfn|ネコ・パブリッシング|2000|p=21}}。 === 女性の描写 === [[File:Vertigo 1958 trailer embrace.jpg|thumb|『めまい』(1958年)で[[キム・ノヴァク]]が演じたヒロインは、ヒッチコックが好む金髪のクールな女性の典型例である<ref name="イーバート">{{cite web |first=Roger |last=Ebert |url=http://www.rogerebert.com/reviews/great-movie-vertigo-1958 |title=Vertigo |date=13 October 1996 |work=Chicago Sun-Times|accessdate=26 December 2017|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171223043656/https://www.rogerebert.com/reviews/great-movie-vertigo-1958|archivedate=23 December 2017|url-status=live}}</ref>。]] ヒッチコックの女性の描写は、さまざまな学術的議論の対象となってきた。[[フェミニスト映画理論]]家の{{仮リンク|ローラ・マルヴィ|en|Laura Mulvey}}は1975年に発表した論文「視覚的快楽と物語映画」で「[[男性のまなざし]]」という概念を紹介し、ヒッチコック作品における観客の視線は、異性愛者の男性主人公の視線と同じであるとし、そこから男性観客が女性の登場人物をのぞき見るという視覚的快楽が提供されていると述べている<ref>{{Cite journal|和書|author=ローラ・マルヴィ |translator=斎藤綾子 |date=1998 |title=視覚的快楽と物語映画 |journal=新映画理論集成1 歴史・人種・ジェンダー |pages=126-141 |publisher=フィルムアート社}}</ref>。菅野はヒッチコックの女性の描き方について、「単に美的対象とするだけでなく、その不安、苦痛、恐怖を女性観客が後味の悪さをもって感知するように仕向けた」と述べている<ref name="菅野優香"/>。 ヒッチコック作品の[[ヒロイン]]には、多くの作品で何度も繰り返して描かれる特徴的なタイプが存在する。それは「クール・ブロンド」と呼ばれる、洗練された[[金髪]]のクールな美女である<ref name="イーバート"/>{{Sfn|筈見|1986|pp=170-179}}{{Sfn|山田|2016|pp=24, 47, 106-108}}。クール・ブロンドの女性たちは知的な雰囲気を持ち、表面は冷たそうで慎ましやかに装っているが、内面には燃えたぎるような情熱や欲情を秘めている{{Sfn|筈見|1986|pp=170-179}}{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=135, 229-230}}。映画評論家の[[山田宏一]]は、彼女たちがセックスを好み、結婚相手をつかまえることにかけては本能的に天才的であると指摘しているが、ヒッチコック自身はこうしたヒロインたちの行動原理を「マンハント(亭主狩り)」と定義し、多くの作品にヒロインが結婚に向けて男性を誘惑するプロットを採り入れている{{Sfn|山田|2016|pp=97-102}}。 [[File:To Catch a Thief1.jpg|thumb|left|『[[泥棒成金]]』(1955年)でクール・ブロンドのヒロインを演じた[[グレース・ケリー]]は、ヒッチコックの理想の女性像に最も合致する女優だった。]] ヒッチコックはヒロイン役に、クール・ブロンドのイメージに合致する金髪の女優を好んで起用した。例えば、『三十九夜』『間諜最後の日』の[[マデリーン・キャロル]]、『レベッカ』『断崖』の[[ジョーン・フォンテイン]]、『白い恐怖』『汚名』『山羊座のもとに』の[[イングリッド・バーグマン]]、『ダイヤルMを廻せ!』『裏窓』『泥棒成金』の[[グレース・ケリー]]、『知りすぎていた男』の[[ドリス・デイ]]、『めまい』の[[キム・ノヴァク]]、『北北西に進路を取れ』の[[エヴァ・マリー・セイント]]、『サイコ』の[[ジャネット・リー]]、『鳥』『マーニー』の[[ティッピ・ヘドレン]]である{{Sfn|筈見|1986|pp=170-179}}{{Sfn|山田|2016|pp=24, 47, 106-108}}。とくにグレース・ケリーは、ヒッチコックが求める理想的な女性のイメージに最も合致する女優であり、ヒッチコックは彼女のイメージを「雪をかぶった活火山(外側は冷たいが、内面は燃えたぎっている女という意味)」と表現した{{Sfn|筈見|1986|pp=170-179}}。 ヒッチコック作品に登場する女性たちは、しばしば危険な状況や恐怖のどん底に陥ったり、事件に巻き込まれたり、時には死に追いやられるなどして酷い目に遭うことが多い<ref name="石原郁子"/>{{Sfn|山田|2016|pp=24, 47, 106-108}}{{Sfn|スポトー|1994|p=280}}。その描写のために一部識者からは女性の価値を見下していると批判されたが、これに対してスポトーは、むしろヒッチコックは女性を『汚名』や『裏窓』のヒロインのように、愛のために進んで多くの危険を冒す勇敢な人物として描いていると主張している{{Sfn|スポトー|1994|p=280}}。山田も、女性たちは事件に巻き込まれると逃げるのではなく、事件の核心に迫り、犯人を刺激して犯罪を誘発させ、その結果事件を解決へと導いていると指摘している{{Sfn|山田|2016|pp=24, 47, 106-108}}。 このような女性の描き方には、ヒッチコックの女性の好みが反映されている{{Sfn|筈見|1986|pp=170-179}}{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=135, 229-230}}{{Sfn|ヒッチコック|1999|pp=115-116}}。ヒッチコックは「私自身に関して言えば、自分の性的魅力をいっぺんに晒け出してしまわない女性が好きだ。つまり、人を惹きつける特徴があまり表に出ないような人が好き」と述べている{{Sfn|ヒッチコック|1999|pp=115-116}}。トリュフォーのインタビューでは、「わたしたちの求めている女のイメージというのは、上流階級の洗練された女、真の淑女でありながら、寝室に入ったとたんに娼婦に変貌してしまうような、そんな女だ」と述べているが、トリュフォーはその好みが「かなり特殊」で「個性的な発想」であると述べている{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=135, 229-230}}。ヒッチコック作品の女性に金髪が多いのも、ヒッチコックが金髪女性を好んだからであるが、スポトーによると、『快楽の園』のヴァージニア・ヴァリや『下宿人』の{{仮リンク|ジューン・トリップ|en|June Tripp}}などの[[ブルネット]]の女優は、ヒッチコックの意向で金髪に変えられたという{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=159-160}}。その一方で、ヒッチコックは[[マリリン・モンロー]]や[[ブリジット・バルドー]]のようなセックスをむき出しにしたグラマー女優を「繊細さを欠いていて、まるでニュアンスがない」と言って好まなかった{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=135, 229-230}}。 === カメオ出演 === {{Main|アルフレッド・ヒッチコックのカメオ出演一覧}} [[File:Caméo - Une femme disparaît.jpg|thumb|『[[バルカン超特急]]』(1938年)で駅のホームを歩く乗客の1人としてカメオ出演したヒッチコック。]] ヒッチコックは自分の作品にワンショットだけ小さな役で[[カメオ出演]]したことで知られている{{Sfnm|1a1=筈見|1y=1986|1p=165|2a1=山田|2y=2016|2pp=34-35}}{{Sfnm|1a1=ヒッチコック|1a2=トリュフォー|1y=1990|1pp=42, 151-152|2a1=ハリス|2a2=ラスキー|2y=1995|2pp=16, 247-248}}。ヒッチコックのカメオ出演は、『下宿人』で不足していたエキストラを補充するために自身が出演する必要に迫られたことがきっかけで、新聞社の編集室で背を向けて座る人として出演したことから始まった。それ以来、ヒッチコック曰く「まったくのお遊びのつもり」で、30本以上の作品に通行人や乗客などの役どころで顔を出した。例えば、『見知らぬ乗客』では大きな[[コントラバス]]を抱えて列車に乗り込む人、『ダイヤルMを廻せ!』では同窓会の記念写真に写る人、『裏窓』では作曲家の部屋で時計のねじを巻く人、『北北西に進路を取れ』ではバスに乗り遅れる人、『鳥』ではペットショップから2匹の子犬を連れて出てくる人、『ファミリー・プロット』ではガラスに映るシルエットとして出演した{{Sfnm|1a1=ヒッチコック|1a2=トリュフォー|1y=1990|1pp=42, 151-152|2a1=ハリス|2a2=ラスキー|2y=1995|2pp=16, 247-248}}。カメオ出演はヒッチコックのユーモア精神のあらわれであり、その名前と顔を有名なものにした{{Sfnm|1a1=筈見|1y=1986|1p=165|2a1=山田|2y=2016|2pp=34-35}}。作品の中でヒッチコックの姿を探すことは観客の楽しみになったが、そのせいで物語に集中できなくなるのを防ぐため、後年の作品には最初の数分で出演するように心がけた{{Sfnm|1a1=ヒッチコック|1a2=トリュフォー|1y=1990|1pp=42, 151-152|2a1=ハリス|2a2=ラスキー|2y=1995|2pp=16, 247-248}}。 === 製作方法 === [[File:Alfred Hitchcock on the set of North By Northwest.jpg|thumb|left|200px|『北北西に進路を取れ』の[[ラシュモア山]]での撮影におけるヒッチコック(1959年)。]] ヒッチコックの作品は娯楽文学や[[大衆小説]]を原作としたものが多いが、それを映画化する時は小説の文学性にとらわれず、自分が気に入った基本的なアイデアだけを採用し、あとは自分の感性に合うように内容を作り変えた{{Sfnm|1a1=ヒッチコック|1a2=トリュフォー|1y=1990|1p=57|2a1=スポトー|2y=1994|2p=416}}。脚本を自分だけで書くことは少なく、大抵は他の脚本家と一緒に執筆したが、脚本家として自分の名前を[[クレジットタイトル]]に出すことはしなかった{{Sfn|スポトー(下)|1988|p=270}}{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|p=328}}。ヒッチコックと何度もコンビを組んだ主な脚本家には、サイレント映画時代の{{仮リンク|エリオット・スタナード|en|Eliot Stannard}}、イギリス時代の{{仮リンク|チャールズ・ベネット (脚本家)|label=チャールズ・ベネット|en|Charles Bennett (screenwriter)}}、ヒッチコックの元秘書の[[ジョーン・ハリソン (脚本家)|ジョーン・ハリソン]]、アメリカ時代の[[ベン・ヘクト]]や{{仮リンク|ジョン・マイケル・ヘイズ|en|John Michael Hayes}}がいる{{Sfnm|1a1=フィルムアート社|1y=1980|1pp=53, 93, 181|2a1=山田|2y=2016|2pp=59-60|3a1=Ackroyd|3y=2017|3p=42}}。ヒッチコックは脚本について「よきにつけ、あしきにつけ、全体をわたしなりにつくりあげなければならない」と述べているが、筈見によると、ヒッチコックが個性のはっきりした一流脚本家と仕事を共にしたにもかかわらず、完成した作品はまったくヒッチコックのものになっているという{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|p=328}}{{Sfn|筈見|1986|pp=196-197}}。 脚本が完成すると、すぐに撮影に取りかかるのではなく、1ショットごとにキャラクターの設定やアクション、カメラの位置などをスケッチした詳細な[[絵コンテ]]を作成し、撮影前までに頭の中で作品の全体像ができあがっているようにした{{Sfn|山田|2016|pp=77-79}}{{Sfn|筈見|1986|pp=196-197}}{{Sfn|Ackroyd|2017|p=43}}。ヒッチコックはこうした紙の上ですべてのシーンを視覚化する作業を、実際に撮影を行うことよりも重要な作業と見なした。そのため紙の上で映画が完成すると、ヒッチコックの仕事は終わったも同然となり、撮影は単にすべてを具現化するだけの作業となった{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=5, 16}}<ref name="Chicago Sun-Times">{{cite news |first=Roger |last=Ebert |url=https://www.rogerebert.com/interviews/hitchcock-never-mess-about-with-a-dead-body-you-may-be-one |title=Hitchcock: "Never mess about with a dead body—you may be one&nbsp;.... |work=Chicago Sun-Times |date=14 December 1969|accessdate=2021-12-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171212084523/https://www.rogerebert.com/interviews/hitchcock-never-mess-about-with-a-dead-body-you-may-be-one|archivedate=12 December 2017|url-status=live}}</ref>。映画全体を頭の中に入れていたため、撮影中に脚本を見たり、カメラを覗き込んだりすることはしなかった{{Sfn|筈見|1986|pp=196-197}}<ref name="Chicago Sun-Times"/>。製作スタッフには自分の気に入った人物や、自分が望むことを理解している人物を起用した。その主なスタッフに、イギリス時代のカメラマンの{{仮リンク|ジャック・E・コックス|en|Jack E. Cox}}、アメリカ時代にチームを組んだカメラマンの{{仮リンク|ロバート・バークス|en|Robert Burks}}、編集技師の{{仮リンク|ジョージ・トマシーニ|en|George Tomasini}}、衣裳デザイナーの[[イーディス・ヘッド]]、作曲家の[[バーナード・ハーマン]]、タイトル・デザイナーの[[ソウル・バス]]がいる{{Sfn|ロメール|シャブロル|2015|pp=23-24}}{{Sfnm|1a1=フィルムアート社|1y=1980|1pp=181, 194, 211, 223, 242|2a1=筈見|2y=1986|2p=42|3a1=スポトー(下)|3y=1988|3p=67}}。 ヒッチコックは「俳優なんてのは家畜と同じだ」と発言したことで知られている{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=127-128}}{{Refnest|group="注"|『スミス夫妻』の撮影初日、この発言の噂を耳にしたキャロル・ロンバードは、スタジオに家畜小屋を作らせ、そこに主演の3人の俳優(ロンバード、[[ロバート・モンゴメリー]]、{{仮リンク|ジーン・レイモンド|en|Gene Raymond}})の名前が記された名札をぶらさげた3頭の牛を連れて来て、ヒッチコックを驚かせたというエピソードがある{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=127-128}}。}}。ヒッチコックは俳優を映画の素材の一部と見なし、俳優の個性や演技力は求めず、カメラの前で演技らしいことをしないよう求めた。ヒッチコックはトリュフォーに「(俳優は)いつでも監督とカメラの意のままに映画のなかに完全に入りこめるようでなければならない。俳優はカメラにすべてをゆだねて、カメラが最高のタッチを見いだし、最高のクライマックスをつくりだせるようにしてやらなければならない」と述べている{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=100-101}}。実際に[[マーガレット・ロックウッド]]や[[アン・バクスター]]は、撮影中にヒッチコックが最小限の指示しか与えず、俳優の演技にあまり注意を払わなかったと証言している{{Sfnm|1a1=スポトー(上)|1y=1988|1pp=289-291|2a1=スポトー(下)|2y=1988|2p=52}}。また、[[ジェームズ・メイソン]]は、ヒッチコックが俳優を「アニメ化された小道具」と見なしていたと述べている{{Sfn|Whitty|2016|p=263}}。ヒッチコックはお気に入りの俳優と何度も仕事を共にしており、その主な俳優に4本の作品に主演した[[ジェームズ・ステュアート (俳優)|ジェームズ・ステュアート]]と[[ケーリー・グラント]]、3本の作品でヒロインを演じた[[イングリッド・バーグマン]]と[[グレース・ケリー]]、出演回数が最多の6本の[[レオ・G・キャロル]]がいる{{Sfnm|1a1=フィルムアート社|1y=1980|1pp=128-129, 135, 164, 176|2a1=ヒッチコック|2a2=トリュフォー|2y=1990|2pp=135, 233, 239}}。 == 人物 == === 妻と娘 === [[File:Alfred Hitchcock and family circa 1955.JPG|thumb|200px|ヒッチコックと家族(1955年)。左上から反時計回りに、娘のパトリシア、孫のテリー、ヒッチコック、孫のメアリ・オコンネル、妻のアルマ、義理の息子(パトリシアの夫)のジョゼフ・E・オコンネル。]] ヒッチコックはフェイマス・プレイヤーズ=ラスキー時代の1921年に、将来の妻となる[[アルマ・レヴィル]]と初めて出会った。アルマはヒッチコックと1日違いで生まれ、16歳頃から編集技師や[[スクリプター]]として働いていた{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=124-128}}。ヒッチコックは1923年からアルマと仕事を共にし、翌1924年にベルリンで『与太者』を撮影したあと、イギリスへ戻る船上でアルマに婚約し、それから2年後に結婚した{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|p=vi}}{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=124-128}}。2人は1980年4月にヒッチコックが亡くなるまで連れ添ったが、その2年後の1982年7月6日にアルマも後を追うように亡くなっている{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|p=vi}}。 ヒッチコックはアルマのことを、「人柄は快活で、表情が曇ることは決してない。しかも有効な助言を惜し気もなく与えるとき以外には無駄口を一切きかない」と述べている{{Sfn|ヒッチコック|ゴットリーブ|1999|p=65}}。アルマはヒッチコックの映画作りの最も身近な協力者であり、いくつかの夫の作品で脚本や編集、スクリプトを担当した。ヒッチコックは映画製作のあらゆる点でアルマの意見を重視し、彼女に脚本や最終編集の助言を求めたり、配給前の完成作品の最終チェックをさせたりした{{Sfnm|1a1=スポトー(上)|1y=1988|1pp=168-170|2a1=Ackroyd|2y=2017|2pp=48-49}}。ヒッチコックとアルマは相性の良い夫婦だったが、夫婦と親しい人物が述べているように、2人は夫と妻というよりも仕事上のパートナーの間柄だった{{Sfnm|1a1=スポトー(上)|1y=1988|1pp=168-170|2a1=Ackroyd|2y=2017|2pp=48-49}}。また、[[カール・マルデン]]は、ヒッチコックがアルマを精神安定剤のような存在と見なし、すべてのことを彼女でバランスをとっていたと述べている{{Sfn|スポトー(下)|1988|p=56}}。ヒッチコックはAFI生涯功労賞の受賞スピーチで、アルマを「わたしに最も大きな愛情と理解と勇気をあたえてくれ、終始変わらぬ協力を惜しまなかった4人…一人は映画の編集者、一人はシナリオライター、一人はわたしの娘のパット(パトリシア)の母親、一人は家庭料理に最も見事な奇跡をおこなった類いまれなる料理人です。この4人の名前はアルマ・レヴィルといいます」と称えた<ref name="あとがき"/>。 1928年に生まれた{{仮リンク|パトリシア・ヒッチコック|label=パトリシア・アルマ・ヒッチコック|en|Pat Hitchcock}}は、ヒッチコックとアルマの一人娘である。パトリシアは女優になり、ヒッチコック作品にも『舞台恐怖症』で端役、『見知らぬ乗客』で主人公の恋人の妹役、『サイコ』でジャネット・リーの会社の同僚役で出演したほか、『ヒッチコック劇場』にもいくつかのエピソードに出演した。また、『ヒッチコック・ミステリー・マガジン』の副編集長も務めた{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|p=vi}}。パトリシアは1952年にアメリカの実業家のジョゼフ・E・オコンネルと結婚し、2人の間にはヒッチコックの孫娘にあたるメアリ・オコンネル(1953年4月17日生)、テレサ(1954年7月2日生)、キャスリーン(1959年2月27日生)が生まれた{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=43-48}}。 === 性格・趣味嗜好・体型など === [[File:Alfred Hitchcock playing tennis 1920s.jpg|thumb|left|テニスを楽しむ若き日のヒッチコック(1920年代)。]] ヒッチコックは生来、内気であまり人と付き合いたがらない人物だった{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=172-178}}{{Sfn|筈見|1986|p=170}}。アメリカ時代もパーティーに出席したりするなどの社交的なことには興味がなく、パーティーではしばしばテーブルで眠り込んでしまうことがあったという{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=319-322}}{{Sfn|Taylor|1996|p=153}}。ヒッチコックは若い頃から、さまざまな恐るべきことが突如として自分の身にふりかかることを恐れ、常に最悪の事態を予期してそれに備えていた{{Sfnm|1a1=スポトー(上)|1y=1988|1p=197|2a1=Ackroyd|2y=2017|2p=108}}。その一方でヒッチコックは[[悪戯|いたずら]]をするのが大好きで、それは単純なからかい程度のものから、相手に大きな迷惑をかける酷いものまで様々だった。例えば、ロンドンでディナー・パーティーをした時には、青い食べ物を見たことがないという理由で、提供された食べ物のすべてを青色に染めたという。またある時には、友人の[[ジェラルド・デュ・モーリエ]]に派手な仮装をさせて自宅のパーティーに招いたが、モーリエ以外の客は全員黒の蝶ネクタイを付けて盛装しており、一人だけ仮装をしてきたモーリエに恥をかかせるといういたずらを仕掛けた{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=193-196}}。 ヒッチコックはあまり贅沢を好まず、比較的質素な生活を送った{{Sfn|筈見|1986|p=108}}{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=5, 16}}。服装も地味で、ダークブルーのスーツと白いワイシャツ、ネクタイを着用した{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=5, 16}}。秩序と習慣を重んじたヒッチコックは、毎日この同じ服を着用しており、衣類ダンスにはまったく同じスーツが6着、同じ靴が6足、同じネクタイが10本、同じワイシャツが15枚、同じ靴下が15足入っていたという{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=253-256}}。ヒッチコックの唯一で最大の贅沢は食事であり、定期的に食通好みの珍味を調達したり、毎月イギリスから[[ベーコン]]や[[ドーバー (イギリス)|ドーバー]]産の舌平目を空輸で取り寄せ、それをロサンゼルスの燻製保蔵処理会社に借りたスペースに山のように貯蔵したりするなど、料理や食材にこだわる美食家として知られた{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=319-322}}{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=253-256}}{{Sfn|筈見|1986|p=108}}。[[日本]]に二度訪れた際にはいずれももっぱら[[松坂牛]]の[[ビーフステーキ]]を食べていた{{Sfn|筈見|1986|p=108}}。[[ワイン]]好きとしても知られ、自宅のワイン貯蔵室にはたくさんの年代物のワインを置いていた。1960年にはフランスの[[ディジョン]]で行われた[[ブルゴーニュワイン]]・フェスティバルで利き酒の名手であることを示す綬章を贈られた{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=201, 245, 254}}。また、[[パウル・クレー]]や[[ジョルジュ・ルオー]]、[[ラウル・デュフィ]]、[[モーリス・ユトリロ]]、[[モーリス・ド・ヴラマンク]]などの画家の作品を収集した{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=371-372}}{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=5, 16}}。 サスペンス映画を多数手がけたヒッチコックは、子供の時から犯罪や異常で悪質な行動に対して高い関心を示し、休みの日にはロンドンの中央刑事裁判所({{仮リンク|オールド・ベイリー (裁判所)|label=オールド・ベイリー|en|Old Bailey}})で殺人事件の公判を見学してノートに記録したり、[[スコットランドヤード]]の{{仮リンク|犯罪博物館|en|Crime Museum}}を何度も訪れたりした{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=76-78}}。1937年に家族とアメリカへ観光旅行した時も、[[ロウアー・マンハッタン]]の警察に立ち寄り、面通しを見学したり、収監手続きや尋問などの専門的な問題に夢中になるなど、観光には相応しからぬことをして妻を当惑させたという{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=278-285}}。スポトーは「恐怖をあつかう芸術家のなかにも、ヒッチコックほど犯罪について該博な知識をもっている人はほとんどいない」と述べている{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=76-78}}。また、10代のころから広く小説を読むようになったが、愛読したのは[[エドガー・アラン・ポー]]、[[G・K・チェスタトン]]、[[ジョン・バカン]]などの推理小説やサスペンス小説だった{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=86-88}}。 ヒッチコックは子供の時から[[肥満]]体型であり{{Sfn|スポトー(上)|1988|p=75}}、1939年末には体重が約165キロに達し{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=337-341, 350, 359}}、太り過ぎで背中の痛みに苦しんだ{{Sfn|McGilligan|2003|p=326}}。ヒッチコックの普段の食事はローストチキンにボイルドハム、ポテト、野菜料理、パン、ワイン1瓶、サラダ、デザート、そしてブランデーだったが、1943年には食事療法を試み、朝と昼はブラックコーヒーだけ、夕食は小さなステーキとサラダだけを食べた{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=408-409}}{{Sfn|McGilligan|2003|p=326}}。その結果、約50キロの減量に成功し、それを記念に残すため『救命艇』のカメオ出演として、減量前と後の写真を劇中に登場する新聞のやせ薬の広告で使用した{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=408-409}}{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=148-149}}。このころのヒッチコックは現実に136キロから91キロに減量した矢先であり{{Sfn|筈見|1986|pp=167-168}}、ヒッチコックによると、この映画を見た肥満体型の人たちから、このやせ薬の入手方法を教えて欲しいという内容の手紙が殺到したという{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=148-149}}。しかし、減量を続けるのは難しく{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=408-409}}、1950年までに体重は元に戻り、それどころか前よりもさらに体重が増えてしまった{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=23-24}}。それでもヒッチコックの肥満体型は、自作へのカメオ出演や『ヒッチコック劇場』のホスト役を通じて自身のトレードマークとなり、山田宏一は「[[チャールズ・チャップリン|チャップリン]]の放浪紳士のスタイルと同じくらい有名になった」とさえ述べている{{Sfn|山田|2016|pp=8-10, 34-35, 250-253}}。 == 評価と影響 == [[File:Hitchcock walk of fame.jpg|thumb|[[ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]にあるヒッチコックの星。]] ヒッチコックは、映画史の中で最も偉大な映画監督のひとりと見なされている{{Sfn|McGilligan|2005|p=933}}。アメリカの社会学者[[カミール・パーリア]]は、「私はヒッチコックを[[パブロ・ピカソ|ピカソ]]、[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]、[[ジェイムズ・ジョイス|ジョイス]]、[[マルセル・プルースト|プルースト]]と同等の位置におく」と述べている{{Sfn|McGilligan|2005|p=933}}。伝記作家のジョン・ラッセル・テイラーは、ヒッチコックを「世界で最も広く認識されている人物」と呼び<ref>{{cite web |first=Roger |last=Ebert|author-link=Roger Ebert |url=http://www.rogerebert.com/interviews/hitchcock-he-always-did-give-us-knightmares |title=Hitchcock: he always did give us knightmares |work=Chicago Sun-Times |date=2 January 1980|accessdate=2021-12-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151222085259/http://www.rogerebert.com/interviews/hitchcock-he-always-did-give-us-knightmares|archivedate=22 December 2015|url-status=live}}</ref>、映画批評家の[[ロジャー・イーバート]]は「映画の世紀の前半でおそらく最も重要な人物である」と述べている{{Sfn|McGilligan|2005|p=933}}。ヒッチコックは名前で観客を動員できる数少ない監督であり、作品の多くは商業的に高い成功を収め、アメリカ時代の作品だけでも1億5000万ドル以上の興行収入(インフレ調整後)を記録した{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=5, 16}}<ref>{{cite web |url=http://www.ultimatemovierankings.com/alfred-hitchcock-movies/ |title=Alfred Hitchcock Movies |website=Ultimate Movie Rankings |accessdate=2021-12-17|archiveurl=https://archive.md/u0P0B |archivedate=2018-4-7}}</ref>。 ヒッチコック作品のうち、『裏窓』『めまい』『北北西に進路を取れ』『サイコ』の4本は、[[アメリカン・フィルム・インスティチュート]]が選出した「[[アメリカ映画ベスト100]]」(1998年)と「[[アメリカ映画ベスト100(10周年エディション)]]」(2007年)の両方にランクインされた{{Sfn|McGilligan|2005|p=932}}<ref>{{cite web |url=https://www.afi.com/afis-100-years-100-movies-10th-anniversary-edition/ |title=AFI’s 100 Years…100 Movies (2007) |work=アメリカン・フィルム・インスティチュート |accessdate=2021-12-14 |archiveurl=https://archive.md/QyiV |archivedate=2012-6-4}}</ref>。[[1992年]]に『{{仮リンク|サイト・アンド・サウンド|en|Sight & Sound}}』が批評家の投票で選出した「トップ10映画監督」のリストでは4位にランクされた<ref>{{cite web|title=Sight and Sound Poll 1992: Critics |publisher=[[カリフォルニア工科大学]] |url=http://alumnus.caltech.edu/~ejohnson/sight/1992_1.html |accessdate=2021-12-14 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150618053015/http://alumnus.caltech.edu/~ejohnson/sight/1992_1.html |archivedate=18 June 2015}}</ref>。[[2002年]]に同誌が発表した史上最高の監督のリストでは、批評家のトップ10の投票で2位<ref>{{Cite web|url=http://old.bfi.org.uk/sightandsound/topten/poll/critics-directors.html|title=BFI &#124; Sight & Sound &#124; Top Ten Poll 2002 – The Critics' Top Ten Directors|date=3 March 2016|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160303181654/http://old.bfi.org.uk/sightandsound/topten/poll/critics-directors.html|archivedate=3 March 2016|accessdate=2021-12-14}}</ref>、監督のトップ10の投票で5位にランクされた<ref>{{Cite web|url=http://old.bfi.org.uk/sightandsound/topten/poll/directors-directors.html|title=BFI &#124; Sight & Sound &#124; Top Ten Poll 2002 – The Directors' Top Ten Directors|date=13 October 2018|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181013231353/http://old.bfi.org.uk/sightandsound/topten/poll/directors-directors.html|archivedate=13 October 2018|accessdate=2021-12-14}}</ref>。同年には『[[:en:MovieMaker|MovieMaker]]』により「史上最も影響力のある映画監督」に選出され<ref>{{cite web |last=Wood |first=Jennifer M. |title=The 25 Most Influential Directors of All Time |url=https://www.moviemaker.com/archives/moviemaking/directing/articles-directing/the-25-most-influential-directors-of-all-time-3358/ |work=MovieMaker |date=6 July 2002 |accessdate=2021-12-14 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170429131645/http://www.moviemaker.com/archives/moviemaking/directing/articles-directing/the-25-most-influential-directors-of-all-time-3358 |archivedate=29 April 2017 |url-status=dead |ref=none}}</ref>、[[2007年]]には『[[デイリー・テレグラフ]]』による批評家の投票で「イギリスで最も偉大な映画監督」に選ばれた<ref>{{cite web|last1=Wicks|first1=Kevin|title=Telegraph's Top 21 British Directors of All-Time|url=https://www.bbcamerica.com/anglophenia/2007/04/telegraphs-top-21-british-directors-of-all-time|website=BBC America|accessdate=2021-12-14|archivedate=9 July 2021|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210709184716/https://www.bbcamerica.com/anglophenia/2007/04/telegraphs-top-21-british-directors-of-all-time|url-status=live}}</ref>。そのほか、[[1996年]]に『[[エンターテインメント・ウィークリー]]』が選出した「50人の最高の監督」で1位<ref name="auto">{{cite web|title=Greatest Film Directors and Their Best Films |publisher=Filmsite.org |url=http://www.filmsite.org/directors5.html |accessdate=2021-12-14 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150419021840/http://www.filmsite.org/directors2.html|archivedate=19 April 2015 }}</ref>、[[2000年]]に『[[キネマ旬報]]』が著名人の投票で選出した「20世紀の映画監督 外国編」で1位<ref>{{Cite book |和書 |date=2012-05|title=キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011|series=キネマ旬報ムック|publisher=キネマ旬報社|page=693}}</ref>、[[2005年]]に『[[エンパイア (雑誌)|エンパイア]]』が発表した「史上最高の監督トップ40」で2位<ref name="auto"/>、[[2007年]]に『[[:en:Total Film|Total Film]]』が発表した「100人の偉大な映画監督」で1位にランクされた<ref>{{cite web|title=The Greatest Directors Ever by ''Total Film'' Magazine |publisher=Filmsite.org |url=http://www.filmsite.org/greatdirectors-totalfilm2.html |accessdate=2021-12-14 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140702113557/http://www.filmsite.org/greatdirectors-totalfilm.html|archivedate=26 April 2014 }}</ref>。 === 批評・研究史 === 映画デビューしてから長い間、ヒッチコックはイギリスやアメリカの英語圏である程度の商業的成功を収めていたにもかかわらず、大方の映画批評家からは器用な[[エンターテインメント]]作品を作る職人的な監督と見なされ、[[ストーリーテリング]]やテクニックは評価されても、それ以上の芸術性を持つ映画作家としては正当に評価されてこなかった<ref name="序"/>{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=307-310}}<ref name="遠山純生">[[遠山純生]]「ヒッチコックはどう評価されてきたか」({{Harvnb|河出書房新社|2018|pp=64-71}})</ref>。とくに1930年代にかけてのイギリスでは、知識人たちが映画を芸術ではなく下層階級向けの娯楽と見なして軽蔑し、映画批評家たちもドイツやソ連の芸術映画を賞賛する一方で、ハリウッドなどの娯楽映画を軽視する傾向があったため、その状況下で娯楽映画を作り続けたヒッチコックは{{仮リンク|ジョン・グリアソン|en|John Grierson}}などの見識ある映画人や批評家から「独創性を欠いている」「うぬぼれている」などと批判された{{Sfn|Sloan|1995|p=17}}{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=307-310}}<ref name="遠山純生"/>。例えば、1936年にアーサー・ヴェッセロは、ヒッチコックのことを「すぐれた職人」と呼び、視覚的なテクニックを評価しながらも、「ヒッチコックの映画を全体として見た場合、知的な内容が乏しいためにまとまりがないと感じざるをえず、それゆえ失望がつきまとう」と述べた{{Sfn|スポトー(上)|1988|pp=307-310}}。アメリカ時代に移ってからの約10年間も真剣な批評や研究の対象になることは少なく、英語圏の映画批評はアメリカ時代よりもイギリス時代の作品を好む風潮が支配的となり、1944年に[[ジェームズ・エイジー]]はヒッチコックの「凋落」が批評家の間で囁かれているとさえ述べた<ref name="遠山純生"/>。 [[File:François Truffaut (1965).jpg|thumb|180px|left|[[作家主義]]批評を展開した[[フランソワ・トリュフォー]]は、ヒッチコックを映画作家として称賛した。]] そんなヒッチコックの評価が大きく変化したのは、1951年に創刊されたフランスの映画誌『[[カイエ・デュ・シネマ]]』(以下、カイエ誌と表記)の若手映画批評家である[[エリック・ロメール]]、[[クロード・シャブロル]]、[[フランソワ・トリュフォー]]、[[ジャン=リュック・ゴダール]]などが、ヒッチコックを擁護または顕揚する批評を書き始めてからのことである<ref name="遠山純生"/><ref name="小河原あや">小河原あや「ヒッチコック、新たな波 ロメール&シャブロル『ヒッチコック』の成立状況とその影響」({{Harvnb|ロメール|シャブロル|2015|pp=223-248}})</ref>。彼らは[[作家主義]]と呼ばれる批評方針を打ち出し、ヒッチコックを独自の演出スタイルや一貫した主題を持つ「映画作家(auteur)」として、同じく娯楽映画の職人監督と見なされていた[[ハワード・ホークス]]とともに高く評価し、「ヒッチコック=ホークス主義」を自称して盛んにヒッチコック論を掲載した<ref name="小河原あや"/><ref name="映画用語事典">{{Cite book|和書 |author= |date=2012-5 |title=現代映画用語事典 |publisher=キネマ旬報社 |pages=55, 121頁}}</ref>。これをきっかけにフランスでは、カイエ誌の批評家を中心とするヒッチコック支持者とその批判者との間で、芸術家としてのヒッチコックの評価をめぐる大きな論争が起きた{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=70-76}}<ref name="小河原あや"/>。 1954年にカイエ誌はヒッチコック特集号を組み、トリュフォーやシャブロル、[[アンドレ・バザン]]によるヒッチコックへの取材記事などを掲載した<ref name="遠山純生"/><ref name="小河原あや"/>。1957年にはロメールとシャブロルが共著で世界初のヒッチコック研究書『ヒッチコック』を刊行し<ref name="遠山純生"/>、これまでカイエ誌の批評家によって盛んに論じられていた、秘密と告白や堕罪と救済などのカトリック的なヒッチコック作品の主題を真っ向から分析した<ref name="小河原あや"/>。ロメールとシャブロルはこの本の掉尾で、ヒッチコックを「全映画史の中で最も偉大な、形式の発明者の一人である。おそらく[[F・W・ムルナウ|ムルナウ]]と[[セルゲイ・エイゼンシュテイン|エイゼンシュテイン]]だけが、この点に関して彼との比較に耐える。(中略)ここでは、形式は内容を飾るのではない。形式が内容を創造するのだ。ヒッチコックのすべてがこの定式に集約される」と評した{{Sfn|ロメール|シャブロル|2015|p=187}}。この本はヒッチコックが批評や研究の対象として本格的に取り上げられる大きなきっかけとなった<ref name="小河原あや"/>。 カイエ誌の批評家がヒッチコックを称揚して以来、映画批評家の間ではヒッチコックの仕事を評価しようとする動きが広まった{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=70-76}}。1960年代から英語圏でも、作家主義の影響を受けた映画批評家を中心に、映画作家としてのヒッチコックをめぐる批評が進展した。イギリスでは、1965年に{{仮リンク|ロビン・ウッド|en|Robin Wood (critic)}}が同国で初のヒッチコック研究書『''Hitchcock’s Films''』を刊行した<ref name="遠山純生"/><ref name="小河原あや"/>。ウッドはヒッチコックをめぐる批評的議論が英語圏で普及するのに重要な貢献を果たしたが<ref name="遠山純生"/><ref name="小河原あや"/>、ゲイ・レズビアン映画批評の先駆者でもあるウッドは、その観点からのヒッチコック作品の分析でも先鞭をつけた<ref name="菅野優香"/>。アメリカでは、1962年に[[ニューヨーク近代美術館]](MoMA)で行われたヒッチコックの回顧上映に合わせて刊行されたモノグラフの著者である[[ピーター・ボグダノヴィッチ]]や、長年にわたりヒッチコックを支持した[[アンドリュー・サリス]]などが、いち早くヒッチコックの作家性を高く評価した批評家として知られる<ref name="遠山純生"/>{{Sfn|スポトー(下)|1988|p=316}}。 こうしたヒッチコックの批評や研究の世界的な進展を後押ししたのが、1966年に英仏2か国語で同時刊行されたトリュフォーによるヒッチコックへのインタビュー集成『''Le Cinéma selon Alfred Hitchcock''』(英語版は『''Hitchcock/Truffaut''』、邦訳は『[[映画術 ヒッチコック/トリュフォー]]』のタイトルで1981年初版刊行)である{{Sfn|山田|2016|pp=8-10, 34-35, 250-253}}<ref name="小河原あや"/>。この本はヒッチコックの63歳の誕生日にあたる1962年8月13日から8日間にわたり、ユニバーサル・ピクチャーズのスタジオで計50時間かけて行われたインタビューを書籍化したもので、当時までに作られたヒッチコックの作品の演出や技法などを1本ずつ詳細に検証している<ref name="序"/>。この本はヒッチコック研究におけるバイブルとなり、映画作家としてのヒッチコックの評価の確立に最大の貢献を果たしただけでなく、今日まで「映画の教科書」と見なされる名著として知られている{{Sfn|山田|2016|pp=8-10, 34-35, 250-253}}<ref name="遠山純生"/>。 以後、ヒッチコックをめぐる学問的議論や研究は活発になり、社会・政治批評、[[構造主義]]、[[精神分析学]]、[[フェミニズム]]、[[映画史]]研究など、さまざまな立場から多様かつ緻密な研究が行われるようになった<ref name="遠山純生"/>。[[フェミニスト映画理論]]の立場では、1975年にローラ・マルヴィがその先駆的論文『視覚的快楽と物語映画』でヒッチコック作品を議論の中心に取り上げ、それ以来ヒッチコック作品は理論の定式とその映画批評の実践において常に中心的な対象であり続けた{{Sfn|モドゥレスキ|1992|p=12}}。精神分析学の立場では、[[1988年]]に哲学者の[[スラヴォイ・ジジェク]]が[[ジャック・ラカン]]の精神分析学を基盤にヒッチコック作品を分析した研究書を刊行した<ref name="小河原あや"/>{{Sfn|山田|2016|p=38}}。ヒッチコックの死後数十年が経過してからも、その作品は現代の学者や批評家の間で大きな関心を呼び、伝記作家のジーン・アデアは「今日でもヒッチコックは、おそらく映画史の中で最も研究された監督である」と述べている{{Sfn|Adair|2002|p=145}}。ヒッチコック作品をさまざまな視点から分析するエッセイや本は市場にたくさん出回っており{{Sfn|Adair|2002|p=145}}、マクギリガンも「ヒッチコックは他のどの映画監督よりも多くの本が書かれている」と述べている{{Sfn|McGilligan|2005|p=932}}。 === レガシー === [[File:Sir Alfred Hitchcock (4313226125).jpg|thumb|ヒッチコックが住んでいたロンドンのクロムウェル・ロード153番地に設置された[[ブルー・プラーク]]。]] ヒッチコックは「サスペンスの巨匠」、日本では「スリラーの神様」などと呼ばれ{{Sfn|山田|2016|pp=8-10, 34-35, 250-253}}、それまで低級なジャンルと見なされていたサスペンス映画やスリラー映画のイメージを変え、芸術的な1つのジャンルとして認めさせた{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=5, 16}}。映画評論家の山田宏一は、「ヒッチコックはサスペンスとかスリラーとか呼ばれるジャンルの基本となる映画的プロットや映画的手法をほとんど案出し、完成させた」と述べている{{Sfn|山田|2016|pp=8-10, 34-35, 250-253}}。とくに『サイコ』は[[スラッシャー映画]]のジャンルを創出し<ref>{{cite web|last1=Mikulec|first1=Sven|title='Psycho': The Proto-Slasher that Brought On a Revolution in Cinema|url=https://cinephiliabeyond.org/psycho-proto-slasher-brought-revolution-cinema/|website=Cinephilia & Beyond|accessdate=2021-12-17}}</ref>、『鳥』は[[パニック映画|ディザスター映画]]のジャンルにおける1つのパターンを作った{{Sfn|Ackroyd|2017|p=265}}。アデアは「アルフレッド・ヒッチコックは、20世紀のほとんどの間で世界映画の巨人だった。彼の遺産は21世紀にも重要な痕跡を残し続けている」と述べている{{Sfn|Adair|2002|p=147}}。 ヒッチコックの作品は世界の多くの映画人に影響を与え、映画評論家の[[須賀隆]]は「作り手が意識しなくてもヒッチコックの影響の痕跡が認められる」と述べている<ref name="序"/><ref name="須賀">[[須賀隆]]「ヒッチコックとその継承者たち」({{Harvnb|ネコ・パブリッシング|2000|pp=94-97}})</ref>。ヒッチコックのサスペンス映画の演出スタイルやプロットを模倣した作品も多く作られ、このジャンルで注目作が出ると「ヒッチコック的」「ヒッチコック風」という表現で紹介されることもある{{Sfn|山田|2016|pp=8-10, 34-35, 250-253}}<ref name="序"/>{{Sfn|筈見|1986|pp=48-50}}。こうしたヒッチコックかぶれともいえるような作品や監督は「ヒッチコッキアン」と呼ばれる{{Sfn|筈見|1986|pp=48-50}}。ヒッチコック作品を真似した主な作品には『[[シャレード (1963年の映画)|シャレード]]』(1963年、[[スタンリー・ドーネン]]監督)、『[[暗くなるまで待って (映画)|暗くなるまで待って]]』(1967年、[[テレンス・ヤング]]監督)、『{{仮リンク|ハンキー・パンキー (1982年の映画)|label=ハンキー・パンキー|en|Hanky Panky (1982 film)}}』(1982年、[[シドニー・ポワチエ]]監督)などが挙げられる<ref name="須賀"/>{{Sfn|筈見|1986|pp=48-50}}。また、[[1977年]]に[[メル・ブルックス]]は、ヒッチコックの題材や設定などを片っ端から[[パロディ]]化したコメディ映画『[[メル・ブルックス/新サイコ]]』を製作した{{Sfn|筈見|1986|pp=191-194}}。 カイエ誌の批評家から[[ヌーヴェルヴァーグ]]の監督となったトリュフォーやシャブロルの作品にも、ヒッチコックの影響が見られる。トリュフォーは『[[黒衣の花嫁]]』(1968年)や『[[暗くなるまでこの恋を]]』(1969年)などでヒッチコックを意識したサスペンス映画を手がけ<ref name="須賀"/>、シャブロルは『[[二重の鍵]]』(1959年)、『[[女鹿]]』(1968年)、『{{仮リンク|肉屋 (映画)|label=肉屋|fr|Le Boucher}}』(1969年)などのサスペンス映画でヒッチコック的な主題と演出を繰り返した<ref name="小河原あや"/>。1970年代以後のハリウッドの映画監督たちも、ヒッチコックを主なインスピレーションの源の1つとして引用または言及している。[[ブライアン・デ・パルマ]]はキャリア初期の作品『[[悪魔のシスター]]』(1972年)、『[[愛のメモリー]]』(1976年)、『[[殺しのドレス]]』(1980年)などでヒッチコックの影響を受けており、ヒッチコックを「映画文法のパイオニア」と呼んだ{{Sfn|Adair|2002|p=146}}。[[スティーヴン・スピルバーグ]]は『[[ジョーズ]]』(1975年)などでヒッチコック作品の手法を引用した<ref name="須賀"/>。ほかにも[[マーティン・スコセッシ]]{{Sfn|Adair|2002|p=146}}、[[ジョン・カーペンター]]<ref>{{Cite web |last=Russell |first=Calum |date=2021-10-25 |url=https://faroutmagazine.co.uk/how-alfred-hitchcock-inspired-john-carpenters-halloween/ |title=How Alfred Hitchcock inspired John Carpenter's 'Halloween' |website=Far Out Magazine |accessdate=2021年12月17日}}</ref>、[[ポール・バーホーベン]]<ref name="須賀"/>、[[デヴィッド・フィンチャー]] <ref>{{Cite web |last=Ben |first=Sherlock |date=2020-4-26 |url=https://screenrant.com/david-fincher-movies-influenced-fight-club-director-blade-runner/ |title=10 Movies That Influenced David Fincher |website=Screen Rant |accessdate=2021年12月17日}}</ref>などがヒッチコックの影響を受けている。 [[1985年]]、ヒッチコックはイギリス初の映画人の[[郵便切手]]の肖像に選ばれた{{Sfn|筈見|1986|p=39}}。1998年8月3日には[[アメリカ合衆国郵便公社]]が限定版の郵便切手シリーズ「Legends of Hollywood」の1つとして、ヒッチコックの肖像を印刷した32セント切手を発行した<ref>{{Cite web |url=https://arago.si.edu/category_2042678.html |title=Legends of Hollywood: Hitchcock Issue |website=Arago: People, Postage & the Post |accessdate=2021-12-17 |archiveurl=https://archive.md/WHVUI |archivedate=2018-4-17}}</ref>。[[1999年]]にはヒッチコックの生誕100周年を記念して、ニューヨーク近代美術館で展覧会と現存するすべての映画の上映が行われた{{Sfn|McGilligan|2005|p=933}}{{Sfn|Adair|2002|p=147}}。 [[2012年]]、ヒッチコックはアーティストの{{仮リンク|ピーター・ブレイク (芸術家)|label=ピーター・ブレイク|en|Peter Blake (artist)}}がデザインした『[[サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド]]』の新しいバージョンのジャケットに、他のイギリスの[[文化的アイコン]]とともに登場した<ref>{{Cite web |date=2012-6-3 |url=https://parade.com/116351/parade/beatles-sgt-peppers-lonely-hearts-club-band/ |title=‘Sgt. Pepper’ Album Cover Updated with New Famous Faces |website=parade |accessdate=2021-12-17 |archiveurl=https://archive.md/u9wKH |archivedate=2018-4-17}}</ref>。ロンドンにはヒッチコックを記念する3つの[[ブルー・プラーク]]が設置されており<ref>{{Cite web|title=Alfred Hitchcock |url=http://www.blueplaqueplaces.co.uk/subject/sir-alfred-hitchcock-35 |website=Blue Plaque Places|accessdate=2021-12-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171210121039/http://www.blueplaqueplaces.co.uk/subject/sir-alfred-hitchcock-35 |archivedate=2017-12-10|url-status=dead}}</ref>、[[マダム・タッソー館]]の3つの分館にはヒッチコックの[[蝋人形]]が展示されている<ref> *{{Cite web |url=https://www.madametussauds.com/hollywood/en/whats-inside/spirit-of-hollywood/alfred-hitchcock/ |title=Alfred Hitchcock Wax Figure |website=Madame Tussauds Hollywood |accessdate=2021-12-17 |archiveurl=https://archive.md/7PFRk |archivedate=2018-4-17}} *{{Cite web |url= https://www.madametussauds.com/san-francisco/en/whats-inside/film-zone/alfred-hitchcock/ |title=Alfred Hitchcock Wax Figure |website=Madame Tussauds San Francisco |accessdate=2021-12-17 |archiveurl=https://archive.md/FOime |archivedate=2018-4-17}} *{{Cite web |url= https://www.madametussauds.com/vienna/en/whats-inside/film/alfred-hitchcock/ |title=Alfred Hitchcock Wax Figure |website=Madame Tussauds Vienna |accessdate=2021-12-17 |archiveurl=https://archive.md/EsUhb |archivedate=2018-4-17}}。</ref>。 ヒッチコックのすべての作品は世界中で[[著作権]]保護されており(アメリカ時代の一部作品は[[パブリックドメイン]]である)、アメリカ時代の作品を中心に正規版のホームビデオは広く販売されている。しかし、イギリス時代の作品は著作権保護されているにもかかわらず、パブリックドメインであるという誤解が広まり、日本を含む多くの国で[[海賊版]]のホームビデオが出回っている<ref>{{Cite web|url=http://www.brentonfilm.com/articles/alfred-hitchcock-collectors-guide|title=Alfred Hitchcock Collectors' Guide|publisher=Brenton Film |accessdate=2021-12-17}}</ref>。ヒッチコックの作品は今日までテレビでも頻繁に放送されており、アメリカの[[AMC (テレビ局)|AMC]]や[[ターナー・クラシック・ムービーズ]]などのチャンネルのプログラムの基礎となっている{{Sfn|Adair|2002|p=147}}。[[2012年]]には[[英国映画協会]]が現存する9本のヒッチコックのサイレント映画をデジタル修復し、翌[[2013年]]に「The Hitchcock 9」と題して{{仮リンク|ブルックリン音楽アカデミー|en|Brooklyn Academy of Music}}で初上映され、[[2017年]]には日本でも上映された<ref>{{cite news |last=Kehr |first=Dave |title=Hitchcock, Finding His Voice in Silents |url=https://www.nytimes.com/2013/06/23/movies/silent-hitchcock-films-come-to-the-harvey-theater-in-brooklyn.html |newspaper=The New York Times |date=23 June 2013 |accessdate=2021-12-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20171109035810/http://www.nytimes.com/2013/06/23/movies/silent-hitchcock-films-come-to-the-harvey-theater-in-brooklyn.html|archivedate=9 November 2017|url-status=live}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=シネマズニュース編集部 |date=2017-2-12 |url=https://cinema.ne.jp/article/detail/38736 |title=ヒッチコックの初期傑作を完全修復「ヒッチコック9」日本初上映!一挙上映は世界初 |website=cinemas PLUS |accessdate=2021年12月17日}}</ref>。 == フィルモグラフィー == {{Main|アルフレッド・ヒッチコックのフィルモグラフィー}} ヒッチコックが監督した[[長編映画]]は53本存在し、そのうちイギリス時代の作品は23本で、残る30本はアメリカ時代の作品である{{Sfn|山田|2016|pp=8-10, 34–35, 250-253}}{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=vii-xxii}}。それ以外にもヒッチコックは、未完の作品や共同監督作品、数本の[[短編映画]]を監督した。監督以外にも、キャリア初期を中心に字幕デザイナー、美術監督、助監督、プロデューサーなどを務めた作品がある{{Sfn|ロメール|シャブロル|2015|pp=212–222}}{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=vii-xxii}}。また、『[[ヒッチコック劇場]]』などのテレビシリーズでは約20本のエピソードを演出した{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|pp=vii-xxii}}。[[アメリカ国立フィルム登録簿]]には、『[[レベッカ (1940年の映画)|レベッカ]]』(1940年)、『[[疑惑の影 (映画)|疑惑の影]]』(1943年)、『[[汚名]]』(1946年)、『[[見知らぬ乗客]]』(1951年)、『[[裏窓]]』(1954年)、『[[めまい (映画)|めまい]]』(1958年)、『[[北北西に進路を取れ]]』(1959年)、『[[サイコ (1960年の映画)|サイコ]]』(1960年)、『[[鳥 (1963年の映画)|鳥]]』(1963年)の9本の監督作品が登録されている<ref>{{Cite web |url=https://www.loc.gov/programs/national-film-preservation-board/film-registry/complete-national-film-registry-listing/ |title=Complete National Film Registry Listing |website=Library of Congress |accessdate=2022-1-5}}</ref>。 '''監督した長編映画''' {{div col|colwidth=20em|content= * [[快楽の園 (映画)|快楽の園]](1925年) * [[山鷲 (映画)|山鷲]](1926年) * [[下宿人]](1927年) * [[ダウンヒル (映画)|ダウンヒル]](1927年) * [[ふしだらな女]](1927年) * [[リング (1927年の映画)|リング]](1927年) * [[農夫の妻]](1928年) * [[シャンパーニュ (映画)|シャンパーニュ]](1928年) * [[マンクスマン (映画)|マンクスマン]](1929年) * [[恐喝 (1929年の映画)|恐喝]](1929年) * [[ジュノーと孔雀 (映画)|ジュノーと孔雀]](1930年) * [[殺人!]](1930年) * [[スキン・ゲーム]](1931年) * [[リッチ・アンド・ストレンジ]](1931年) * [[第十七番]](1932年) * [[ウィンナー・ワルツ]](1934年) * [[暗殺者の家]](1934年) * [[三十九夜]](1935年) * [[間諜最後の日]](1936年) * [[サボタージュ (1936年の映画)|サボタージュ]](1936年) * [[第3逃亡者]](1937年) * [[バルカン超特急]](1938年) * [[巌窟の野獣]](1939年) * [[レベッカ (1940年の映画)|レベッカ]](1940年) * [[海外特派員 (映画)|海外特派員]](1940年) * [[スミス夫妻]](1941年) * [[断崖 (映画)|断崖]](1941年) * [[逃走迷路]](1942年) * [[疑惑の影 (映画)|疑惑の影]](1943年) * [[救命艇 (映画)|救命艇]](1944年) * [[白い恐怖]](1945年) * [[汚名]](1946年) * [[パラダイン夫人の恋]](1947年) * [[ロープ (映画)|ロープ]](1948年) * [[山羊座のもとに]](1949年) * [[舞台恐怖症]](1950年) * [[見知らぬ乗客]](1951年) * [[私は告白する]](1953年) * [[ダイヤルMを廻せ!]](1954年) * [[裏窓]](1954年) * [[泥棒成金]](1955年) * [[ハリーの災難]](1955年) * [[知りすぎていた男]](1956年) * [[間違えられた男]](1956年) * [[めまい (映画)|めまい]](1958年) * [[北北西に進路を取れ]](1959年) * [[サイコ (1960年の映画)|サイコ]](1960年) * [[鳥 (1963年の映画)|鳥]](1963年) * [[マーニー (映画)|マーニー]](1964年) * [[引き裂かれたカーテン]](1966年) * [[トパーズ (1969年の映画)|トパーズ]](1969年) * [[フレンジー]](1972年) * [[ファミリー・プロット]](1976年) }} == 受賞 == [[File:Alfred Hitchcock Irving G. Thalberg Memorial Award.jpg|thumb|[[アービング・G・タルバーグ賞]]を受賞した時のヒッチコック(1968年)。右はプレゼンターの[[ロバート・ワイズ]]。]] ヒッチコックは[[アカデミー賞]]の[[アカデミー監督賞|監督賞]]に5回ノミネートされた(『レベッカ』『救命艇』『白い恐怖』『裏窓』『サイコ』)が、1度も受賞することはなかった{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=284-288}}。ヒッチコックはそのことについて「わたしはいつも花嫁の付添い役で、けっして花嫁にはなれない」と述べている{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=206-209}}。『レベッカ』では[[アカデミー作品賞|作品賞]]を受賞したが、受賞者は監督のヒッチコックではなくプロデューサーのデヴィッド・O・セルズニックだったため、ヒッチコックが[[オスカー像]]を手にしたわけではなかった{{Sfn|ヒッチコック|トリュフォー|1990|p=vi}}。[[1968年]]には[[映画芸術科学アカデミー]]から「プロデューサー個人が長期にわたり上質の作品を製作してきたこと」を称える特別賞の[[アービング・G・タルバーグ賞]]を授与された{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=284-288}}。 1960年2月8日、ヒッチコックは[[映画産業]]とテレビ放送産業への貢献により、[[ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]で2つの星を獲得した<ref>{{cite web |title=Alfred Hitchcock |url=http://www.walkoffame.com/alfred-hitchcock |publisher=Hollywood Walk of Fame |accessdate=2021-10-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161028192011/http://www.walkoffame.com/alfred-hitchcock|archivedate=28 October 2016|url-status=live}}</ref>。1964年3月7日にはアメリカの{{仮リンク|映画製作者協会|en|Alliance of Motion Picture and Television Producers}}から「アメリカ映画史への貢献」に対してマイルストーン賞を授与され、1966年8月8日にはイギリスの{{仮リンク|映画テレビ技術者協会 (イギリス)|label=映画テレビ技術者協会|en|Association of Cinematograph, Television and Allied Technicians}}の名誉会員に推挙された{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=264, 278-279}}。1968年には[[全米監督協会]]から生涯功労賞にあたる{{仮リンク|全米監督協会賞 生涯功労賞|label=D・W・グリフィス賞|en|Directors Guild of America Lifetime Achievement Award – Feature Film}}を受賞した<ref>{{Cite web |url=https://www.dga.org/Awards/History/1960s/1967.aspx?value=1967 |title=20 DGA AWARDS |website=dga.org |language=英語 |accessdate=2021-10-12}}</ref>。[[1971年]]には[[英国映画テレビ芸術アカデミー]]から[[英国アカデミー賞 フェローシップ賞|フェローシップ賞]]を贈られ<ref>{{Cite web |url=http://awards.bafta.org/award/1971/film/fellowship |title=Fellowship in 1971 |website=BAFTA Awards |language=英語 |accessdate=2021-10-12}}</ref>、翌[[1972年]]には[[ハリウッド外国人映画記者協会]]から[[ゴールデングローブ賞]]の生涯功労賞にあたる[[ゴールデングローブ賞 セシル・B・デミル賞|セシル・B・デミル賞]]を授与された<ref>{{cite web|url=http://www.goldenglobes.org/cecil70/|title=Alfred Hitchcock → Cecil B. DeMille Award|accessdate=2021-12-15|website=goldenglobes.org|work=Hollywood Foreign Press Association|publisher=HFPA|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110628080304/http://www.goldenglobes.org/cecil70/|archivedate=28 June 2011|df=dmy-all}}</ref>。また、1974年に[[リンカーン・センター映画協会]]のチャップリン賞を受賞し<ref>{{cite web|url=https://www.filmlinc.org/about-us/chaplin-award-gala/ |title=Chaplin Award Gala |work=Film Society of Lincoln Center |publisher=FSLC|accessdate=2021-11-26}}</ref>、1979年にはアメリカン・フィルム・インスティチュートの生涯功労賞を受賞した<ref name="あとがき"/>。 ヒッチコックは映画賞以外にもさまざまな栄誉と称号を受けた。[[1963年]]には[[サンタクララ大学]]から[[名誉博士]]号を受けた{{Sfn|McGilligan|2005|pp=830-831}}。[[1968年]]6月9日には[[カリフォルニア大学サンタクルーズ校]]からも「映画界におけるすばらしい業績」に対して名誉博士号を贈られた{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=284-288}}。[[1969年]]9月5日にはフランスの[[芸術文化勲章]]を贈られ{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=292-293}}、その2年後の1971年1月14日には[[レジオンドヌール勲章]]の5等級にあたるシュヴァリエをパリの式典で受章した{{Sfn|McGilligan|2005|p=870}}。1972年6月6日には[[コロンビア大学]]から人文科学の名誉博士号を授与された{{Sfn|McGilligan|2005|p=887}}。1979年12月には[[大英帝国勲章]]の2等級にあたる{{仮リンク|ナイト・コマンダー|en|Commander (order)#United Kingdom}}(KBE)の称号を授けられた{{Sfn|スポトー(下)|1988|pp=369-370}}。 {| class="sortable wikitable" style="font-size:small" |+アルフレッド・ヒッチコックの主な映画賞の受賞とノミネートの一覧 |- !賞!!対象年!!部門!!作品!!結果!!出典 |- !style="text-align:left"|[[ニューヨーク映画批評家協会賞]] |[[第4回ニューヨーク映画批評家協会賞|1938年]]||[[ニューヨーク映画批評家協会賞 監督賞|監督賞]]||『[[バルカン超特急]]』||{{won}}||{{Sfn|ハリス|ラスキー|1995|pp=69-70}} |- !rowspan="9" style="text-align:left"|[[アカデミー賞]] |rowspan="3"|[[第13回アカデミー賞|1940年]]||rowspan="2"|[[アカデミー作品賞|作品賞]]||『[[レベッカ (1940年の映画)|レベッカ]]』||{{won}}||rowspan="3"|<ref name="Rebecca"/> |- |『[[海外特派員 (映画)|海外特派員]]』||{{nom}} |- |[[アカデミー監督賞|監督賞]]||『レベッカ』||{{nom}} |- |[[第14回アカデミー賞|1941年]]||作品賞||『[[断崖 (映画)|断崖]]』||{{nom}}||<ref name="Suspicion"/> |- |[[第17回アカデミー賞|1944年]]||監督賞||『[[救命艇 (映画)|救命艇]]』||{{nom}}||<ref name="Lifeboat"/> |- |rowspan="2"|[[第18回アカデミー賞|1945年]]||作品賞||rowspan="2"|『[[白い恐怖]]』||{{nom}}||rowspan="2"|<ref name="Spellbound"/> |- |監督賞||{{nom}} |- |[[第27回アカデミー賞|1954年]]||監督賞||『[[裏窓]]』||{{nom}}||<ref name="Rear Window"/> |- |[[第33回アカデミー賞|1960年]]||監督賞||『[[サイコ (1960年の映画)|サイコ]]』||{{nom}}||<ref name="Psycho"/> |- !rowspan="6" style="text-align:left"|[[全米監督協会賞]] |1951年||[[全米監督協会賞 長編映画監督賞|長編映画監督賞]]||『[[見知らぬ乗客]]』||{{nom}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.dga.org/Awards/History/1950s/1951.aspx?value=1951 |title=4th DGA AWARDS |website=dga.org |accessdate=2021年10月12日}}</ref> |- |1954年||長編映画監督賞||『裏窓』||{{nom}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.dga.org/Awards/History/1950s/1954.aspx?value=1954 |title=7th DGA AWARDS |website=dga.org |accessdate=2021年10月12日}}</ref> |- |1956年||長編映画監督賞||『[[ハリーの災難]]』||{{nom}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.dga.org/Awards/History/1950s/1956.aspx?value=1956 |title=9th DGA AWARDS |website=dga.org |accessdate=2021年10月12日}}</ref> |- |1958年||長編映画監督賞||『[[めまい (映画)|めまい]]』||{{nom}}||<ref>{{Cite web |url= https://www.dga.org/Awards/History/1950s/1958.aspx?value=1958 |title=11th DGA AWARDS |website=dga.org |accessdate=2021年10月12日}}</ref> |- |1959年||長編映画監督賞||『[[北北西に進路を取れ]]』||{{nom}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.dga.org/Awards/History/1950s/1959.aspx?value=1959 |title=12th DGA AWARDS |website=dga.org |accessdate=2021年10月12日}}</ref> |- |1960年||長編映画監督賞||『サイコ』||{{nom}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.dga.org/Awards/History/1960s/1960.aspx?value=1960 |title=13th DGA AWARDS |website=dga.org |accessdate=2021年10月12日}}</ref> |- !rowspan="2" style="text-align:left"|[[英国アカデミー賞]] |1955年||[[英国アカデミー賞 作品賞|総合作品賞]]||『裏窓』||{{nom}}||<ref>{{Cite web |url=http://awards.bafta.org/award/1955/film? |title=Film in 1955 |website=BAFTA Awards |accessdate=2021年10月12日}}</ref> |- |1956年||総合作品賞||『ハリーの災難』||{{nom}}||<ref>{{Cite web |url=http://awards.bafta.org/award/1957/film? |title=Film in 1956 |website=BAFTA Awards |accessdate=2021年10月12日}}</ref> |- !rowspan="4" style="text-align:left"|[[プライムタイム・エミー賞]] |rowspan="2"|1956年||{{仮リンク|プライムタイム・エミー賞 監督賞 (ドラマ・シリーズ部門)|label=監督賞(ドラマ・シリーズ部門)|en|Primetime Emmy Award for Outstanding Directing for a Drama Series}}||「ペラム氏の事件」(『ヒッチコック劇場』)||{{nom}}||rowspan="4"|<ref name="エミー賞">{{Cite web |url=https://www.emmys.com/bios/alfred-hitchcock |title=Alfred Hitchcock |website=Academy of Television Arts & Sciences |accessdate=2021年10月12日}}</ref> |- |司会者・ホスト賞||style="text-align:center"|-||{{nom}} |- |1957年||男性司会者賞||style="text-align:center"|-||{{nom}} |- |1959年||監督賞(ドラマ・シリーズ部門)||「凶器」(『ヒッチコック劇場』)||{{nom}} |- !rowspan="3" style="text-align:left"|[[ゴールデングローブ賞]] |1957年||テレビ功労賞||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.goldenglobes.com/person/alfred-hitchcock |title=Alfred Hitchcock |website=Golden Globes |accessdate=2021年10月12日}}</ref> |- |rowspan="2"|1972年||[[ゴールデングローブ賞 映画部門 作品賞 (ドラマ部門)|作品賞(ドラマ部門)]]||rowspan="2"|『[[フレンジー]]』||{{nom}}||rowspan="2"|<ref>{{Cite web |url=https://www.goldenglobes.com/film/frenzy |title=Frenzy |website=Golden Globes |accessdate=2021年10月12日}}</ref> |- |[[ゴールデングローブ賞 監督賞|監督賞]]||{{nom}} |- !rowspan="2" style="text-align:left"|[[サン・セバスティアン国際映画祭]] |1958年||{{仮リンク|シルバー・シェル賞|es|Anexo:Premio Concha de Plata a la mejor dirección}}||『めまい』||{{won}}||<ref>{{cite web|url=http://www.sansebastianfestival.com/in/premios.php?ano=1958&id=51|title=San Sebastián IFF Awards – 6th edition (1958)|work=San Sebastián International Film Festival|at=sansebastianfestival.com|publisher=SS IFF|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161220214031/http://www.sansebastianfestival.com/in/premios.php?ano=1958&id=51|archivedate=20 December 2016|accessdate=2021-10-12}}</ref> |- |1959年||シルバー・シェル賞||『北北西に進路を取れ』||{{won}}||<ref>{{cite web|url=http://www.sansebastianfestival.com/in/premios.php?ano=1959&id=52|title=San Sebastián IFF Awards – 7th edition (1959)|work=San Sebastián International Film Festival|at=sansebastianfestival.com|publisher=SS IFF|accessdate=2021-10-12}}</ref> |- !style="text-align:left"|{{仮リンク|ベンガル映画ジャーナリスト協会賞|en|Bengal Film Journalists' Association Awards}} |1964年||外国監督賞||『[[鳥 (1963年の映画)|鳥]]』||{{won}}||<ref>{{cite web|title=69th & 70th Annual Hero Honda Bengal Film Journalists' Association (B.F.J.A.) Awards 2007-Past Winners List 1964|url=http://www.bfjaawards.com/legacy/pastwin/196427.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080221224034/http://www.bfjaawards.com/legacy/pastwin/196427.htm|archivedate=2008-2-21|accessdate=2021-11-26}}</ref> |- !style="text-align:left"|[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞]] |1969年||[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 監督賞|監督賞]]||『[[トパーズ (1969年の映画)|トパーズ]]』||{{won}}||<ref>{{Cite web |url=https://nationalboardofreview.org/award-years/1969/ |title=1969 Award Winners |website=National Board of Review |accessdate=2021-10-12}}</ref> |} == ヒッチコックを描いた映画作品 == * [[ヒッチコック (映画)|ヒッチコック]] ''Hitchcock''(2012年、演:[[アンソニー・ホプキンス]]) - 『サイコ』の製作舞台裏と妻アルマとの関係を描く伝記映画<ref>{{Cite web|和書|url=https://eiga.com/movie/53421/ |title=ヒッチコック |website=映画.com |accessdate=2021年1月5日}}</ref>。 * [[ザ・ガール ヒッチコックに囚われた女]] ''The Girl''(2012年、演:[[トビー・ジョーンズ]]) - ヒッチコックによるヘドレンに対するセクハラを描いた伝記映画<ref>{{cite web |lase=Stanley |first=Alessandra |date=2012-10-18 |url=https://www.nytimes.com/2012/10/19/arts/television/the-girl-on-hbo-with-sienna-miller-and-toby-jones.html |title=Off-Camera Terrors on Hitchcock’s Sets |publisher=The New York Times |archiveurl=https://archive.is/3fgBD |archivedate=2018-4-17 |accessdate=2022-1-5}}</ref>。 * [[グレース・オブ・モナコ 公妃の切り札]] ''Grace of Monaco''(2014年、演:{{仮リンク|ロジャー・アシュトン=グリフィス|en|Roger Ashton-Griffiths}}) - グレース・ケリーの伝記映画で、ヒッチコックが『マーニー』の主演をケリーにオファーすることが描かれている<ref>{{cite web |lase=Barber |first=Nicholas |date=2014-10-21 |title=Grace of Monaco: Cannes 2014 Review |url=http://www.bbc.com/culture/story/20140514-review-princess-grace-of-monaco |publisher=BBC |archiveurl=https://archive.is/rOaxc |archivedate=2018-4-17 |accessdate=2022-1-5}}</ref>。 == ドキュメンタリー作品 == * [[アルフレッド・ヒッチコック、自作を語る]] ''The Men Who Made the Movies: Alfred Hitchcock''(1973年) - ヒッチコックのインタビューを収録<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.star-ch.jp/channel/detail.php?movie_id=18861 |title=アルフレッド・ヒッチコック、自作を語る |website=[[スター・チャンネル]] |accessdate=2022年1月5日}}</ref>。 * [[ドキュメント アルフレッド・ヒッチコック〜天才監督の横顔]] ''Hitchcock: Shadow of a Genius''(1999年)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.allcinema.net/cinema/85280 |title=ドキュメント アルフレッド・ヒッチコック~天才監督の横顔 |website=allcinema |accessdate=2022年1月5日}}</ref> * [[ヒッチコック/トリュフォー]] ''Hitchcock/Truffaut''(2015年) - 『[[映画術 ヒッチコック/トリュフォー]]』を題材にした作品{{Sfn|山田|2016|pp=8-10, 34–35, 250-253}}。 * [[I AM アルフレッド・ヒッチコック]] ''I Am Alfred Hitchcock''(2021年)<ref>{{Cite web|和書|url=https://eiga.com/movie/95241/ |title=I AM ヒッチコック |website=映画.com |accessdate=2021年1月5日}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2|2}} === 出典 === {{Reflist|20em}} == 参考文献 == * {{Citation|和書 |editor=河出書房新社編集部 |date=2018-11 |title=ヒッチコック 完全なる殺人”芸術”家 |series=[[KAWADE夢ムック]] |publisher=[[河出書房新社]] |isbn=978-4309979601 |ref={{Harvid|河出書房新社|2018}}}} * {{Cite book|和書 |author=ドナルド・スポトー |others=勝矢桂子 他訳|date=1988-6 |title=ヒッチコック 映画と生涯 |publisher=[[早川書房]] |volume=上 |isbn=978-4152033536 |ref={{Harvid|スポトー(上)|1988}}}} * {{Cite book|和書 |author=ドナルド・スポトー |others=勝矢桂子 他訳|date=1988-6 |title=ヒッチコック 映画と生涯 |publisher=早川書房 |volume=下 |isbn=978-4152033543 |ref={{Harvid|スポトー(下)|1988}}}} * {{Cite book|和書 |author=ドナルド・スポトー |others=関美冬 訳|date=1994-3 |title=アート・オブ・ヒッチコック 53本の映画術 |publisher=[[キネマ旬報社]] |isbn=978-4873760766 |ref={{Harvid|スポトー|1994}}}} * {{Cite book|和書 |author=タニア・モドゥレスキ |others=[[加藤幹郎]] 他訳|date=1992-11 |title=知りすぎた女たち ヒッチコック映画とフェミニズム |publisher=[[青土社]] |isbn=978-4791752232 |ref={{Harvid|モドゥレスキ|1992}}}} * {{Citation|和書 |editor=[[筈見有弘]] |date=1980-7 |title=ヒッチコックを読む やっぱりサスペンスの神様! |series=ブック・シネマテーク |publisher=フィルムアート社 |isbn=978-4845980321 |ref={{Harvid|フィルムアート社|1980}}}} * {{Cite book|和書 |author=筈見有弘 |date=1986-6 |title=ヒッチコック |series=[[講談社現代新書]] |publisher=[[講談社]] |isbn=978-4061488199 |ref={{Harvid|筈見|1986}}}} * {{Cite book|和書 |author1=ロバート・A・ハリス |author2=マイケル・S・ラスキー |others=日笠千晶 訳|date=1995-11 |title=アルフレッド・ヒッチコック |series=シネマ・スター・ライブラリー |publisher=[[シンコーミュージック・エンタテイメント]] |isbn=978-4401615285 |ref={{Harvid|ハリス|ラスキー|1995}}}} * {{Cite book|和書 |author1=アルフレッド・ヒッチコック |author2=[[フランソワ・トリュフォー]] |others=[[山田宏一]]、[[蓮實重彦]] 訳|date=1990-12 |title=[[映画術 ヒッチコック/トリュフォー|定本 映画術 ヒッチコック/トリュフォー]] |publisher=[[晶文社]] |isbn=978-4794958181 |ref={{Harvid|ヒッチコック|トリュフォー|1990}}}} * {{Cite book|和書 |author=アルフレッド・ヒッチコック |editor=シドニー・ゴットリーブ |others=[[鈴木圭介 (翻訳家)|鈴木圭介]] 訳|date=1999-10 |title=ヒッチコック映画自身 |series=リュミエール叢書 |publisher=[[筑摩書房]] |isbn=978-4480873132 |ref={{Harvid|ヒッチコック|1999}}}} * {{Cite book|和書 |author=山田宏一 |date=2016-12 |title=ヒッチコック映画読本 |publisher=[[平凡社]] |isbn=978-4582282634 |ref={{Harvid|山田|2016}}}} * {{Cite book|和書 |author=スティーブン・レベロ |date=1990-10 |title=アルフレッド・ヒッチコック&ザ・メイキング・オブ・サイコ |publisher=[[白夜書房]] |isbn=978-4893671899 |ref={{Harvid|レベロ|1990}}}} * {{Cite book|和書 |author1=[[エリック・ロメール]] |author2=[[クロード・シャブロル]] |others=木村建哉、小河原あや 訳|date=2015-1 |title=ヒッチコック |publisher=インスクリプト |isbn=978-4900997516 |ref={{Harvid|ロメール|シャブロル|2015}}}} * {{Cite book|和書 |author= |date=2000-3 |title=Hitch;The Art of Suspense アルフレッド・ヒッチコックの世界 |series=NEKO CINEMA BOOK ACADEMIC SERIES |publisher=[[ネコ・パブリッシング]] |isbn=978-4873661957 |ref={{Harvid|ネコ・パブリッシング|2000}}}} * {{Cite book |last=Ackroyd |first=Peter |title=Alfred Hitchcock |url=https://books.google.pl/books/about/Alfred_Hitchcock.html?id=427FBwAAQBAJ&redir_esc=y |language=pol |publisher=Zysk i S-ka |year=2017 |origyear=2015 |isbn=978-8365521798 |ref={{Harvid|Ackroyd|2017}}}} * {{Cite book |last=Adair |first=Gene |title=Alfred Hitchcock: Filming Our Fears |url=https://books.google.pl/books?redir_esc=y&hl=ja&id=9xeWbQA6GDUC&redir_esc=y |publisher=Oxford University Press |location=New York |year=2002 |isbn=978-0195119671 |ref={{Harvid|Adair|2002}}}} * {{Cite book |last=Duncan |first=Paul |title=Alfred Hitchcock: Architect of Anxiety, 1899–1980 |year=2003 |publisher=Taschen |isbn=978-3822815915 |ref={{Harvid|Duncan|2003}}}} * {{cite book |last=Kapsis |first=Robert E. |title=Hitchcock: The Making of a Reputation |edition=illustrated 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{{Cite book |last1=Sloan |first1=Jane |title=Alfred Hitchcock: A Filmography and Bibliography |date=1995 |publisher=University of California Press |location=Oakland |isbn=978-0520089044 |ref={{Harvid|Sloan|1995}}}} * {{Cite book |last=Taylor |first=John Russell |title=Hitch: The Life and Times of Alfred Hitchcock |url=https://books.google.co.jp/books?redir_esc=y&hl=ja&id=nv2qYcGJqt8C&redir_esc=y |date=1996 |publisher=Da Capo Press |location=New York |isbn=978-0306806773 |ref={{Harvid|Taylor|1996}}}} * {{Cite book |first=Stephen |last=Whitty |title=The Alfred Hitchcock Encyclopedia |publisher=Rowman & Littlefield |location=Lanham and London |year=2016 |isbn=978-1442251595 |ref={{Harvid|Whitty|2016}}}} * {{Cite book |last=Wood |first=Robin |title=Hitchcock's Films Revisited |publisher=Columbia University Press |location=New York |year=2002 |edition=2nd |isbn=978-0231126953 |ref={{Harvid|Wood|2002}}}} === 関連文献 === * [[植草甚一]]『ヒッチコック万歳!』晶文社〈[[植草甚一スクラップブック]]〉、新装版2004年10月。ISBN 978-4794925626。※初版は1976年9月。 * 梶原和男『ヒッチコックヒロイン』[[芳賀書店]]〈シネアルバム〉、1991年5月。ISBN 978-4826101295。 * [[スラヴォイ・ジジェク]]『ヒッチコックによるラカン 映画的欲望の経済』露崎俊和他訳、トレヴィル〈エコノミー〉、1994年7月。ISBN 978-4845709045。 * [[野沢一馬]]『ヒッチコック完全読破』[[シネマハウス]]、2001年4月。ISBN 978-4434009273。 * 橋本勝『ヒッチコック・ゲーム ようこそヒッチコック映画館へ』キネマ旬報社、1998年12月。ISBN 978-4873762241。 * 山田宏一、[[和田誠]]『ヒッチコックに進路を取れ』[[草思社]]、2009年7月。ISBN 978-4794217226。 * 『世界の映画作家12 アルフレッド・ヒッチコック』キネマ旬報社、1971年9月。 * 『アルフレッド・ヒッチコックを楽しむ スリラーの神様』[[近代映画社]]〈スクリーン・デラックス〉、2006年11月。ISBN 978-4764821132。 == 外部リンク == {{Wikiquote|en:Alfred Hitchcock|アルフレッド・ヒッチコック{{en icon}}}} {{Commons&cat|Alfred Hitchcock}} * {{url|https://hitchcock.tv/|alfredhitchcock.com}}{{en icon}} * {{IMDb name|0000033|Alfred Hitchcock}} * {{AllRovi person|94487|Alfred Hitchcock}} * {{Screenonline name|446568|Alfred Hitchcock}} * {{TCMDb name|87065%7C10493|Alfred Hitchcock}} * {{allcinema name|4361|アルフレッド・ヒッチコック}} * {{Kinejun name|10023|アルフレッド・ヒッチコック}} * {{Kotobank|ヒッチコック}} {{アルフレッド・ヒッチコック監督作品}} {{アービング・G・タルバーグ賞}} {{AFI生涯功労賞}} {{ニューヨーク映画批評家協会賞 監督賞}} {{Normdaten}} {{Good article}} {{DEFAULTSORT:ひつちこつく あるふれつと}} [[Category:アルフレッド・ヒッチコック|*]] [[Category:イングランドの映画監督]] [[Category:イングランドの脚本家]] [[Category:イングランドの映画プロデューサー]] [[Category:イギリスの美術監督]] [[Category:アメリカ合衆国の映画監督]] [[Category:アメリカ合衆国の脚本家]] [[Category:アメリカ合衆国の映画プロデューサー]] [[Category:サイレント映画の監督]] [[Category:ホラー映画の監督]] [[Category:アカデミー賞受賞者]] [[Category:ゴールデングローブ賞受賞者]] [[Category:英国アカデミー賞受賞者]] [[Category:ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]] [[Category:大英帝国勲章受章者]] [[Category:レジオンドヌール勲章受章者]] [[Category:芸術文化勲章受章者]] [[Category:アイルランド系イギリス人]] [[Category:アイルランド系アメリカ人]] [[Category:イギリスのカトリック教会の信者]] [[Category:ウォルサム・フォレスト区出身の人物]] [[Category:20世紀イングランドの人物]] [[Category:1899年生]] [[Category:1980年没]]
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めまい (映画)
『めまい』(Vertigo)は、1958年のアメリカ合衆国のサスペンス映画。監督はアルフレッド・ヒッチコック、出演はジェームズ・ステュアートとキム・ノヴァクなど。パラマウント映画製作。テクニカラー、ビスタビジョン作品。後に、他の多数のヒッチコック作品と共にユニヴァーサルに売却された。日本公開は同年。 原作はフランスのミステリー作家、ボワロー=ナルスジャック(ピエール・ボワロー、トマ・ナルスジャック(フランス語版))の『死者の中から(フランス語版)』。タイトルデザインはソール・バスによる。舞台はサンフランシスコを中心に繰り広げられる。 「スコティ」ことジョン・ファーガソン刑事は、容疑者を追う途中に同僚を死なせてしまったショックで、高所恐怖症によるめまいに襲われるようになり、警察を辞めてしまう。そこへ学生時代の友人エルスターが現れて、何かに憑かれたかのように不審な行動をする妻マデリンを監視して欲しいと言う。スコティはマデリンを尾行するうちに、彼女の曾祖母であり過去に非業の死を遂げた人物、カルロッタの存在を知る。カルロッタは髪型から首飾りまでマデリンそっくりであり、スコティはエルスターから「マデリンはカルロッタの亡霊に取り憑かれている」とする見解を聞かされる。 尾行を続けていると、彼女は公園から突然海に飛び込み、投身自殺を図る。彼女を救い出したスコティは初めて彼女と知り合うことになり、やがて2人は恋へと落ちていく。スコティは彼女を救おうと思い、マデリンが夢で見たと言うスペイン風の村へ向かう。到着後、マデリンはカルロッタの自殺した教会へと走っていく。スコティは追いかけるが、高所恐怖症によるめまいのために追いつくことが出来ず、マデリンは鐘楼の頂上から飛び降りてしまう。マデリンの転落は事故と処理され、エルスターは彼を慰めながら、自分はヨーロッパへ行くと告げる。 自責の念から精神衰弱へと陥り、マデリンの影を追いかけ続けるスコティはある日、街角でマデリンに瓜二つの女性を発見する。追いかけると、彼女はかつてマデリンの通っていたカルロッタの旧居のアパートに住む、ジュディという女だという。スコットはジュディとデートの約束を取り付ける。 スコティは、せっかく出会えたジュディをも失うのではないかという第2のトラウマを抱えて、精神衰弱から次第に正気を失っていく。一方、ジュデイは次第に彼を愛してしまっていた。ジュディはスコティの狂気じみた要望に応え、洋服、髪型、何もかもをマデリンと同じにし、死んだはずの「マデリン」へと次第に変貌していく(ヒッチコックはこれを「屍姦」と称している)。 ジュディとスコティは歪な愛を育もうとするが、ある時2人でデートに行く際、その愛は破綻を迎える。ジュディが首にかけたネックレスは、マデリンがカルロッタのものとして身に着けていたネックレスそのものだった。スコティに「マデリン」として会っていたのは、他ならぬ彼女自身だった。高所恐怖症のスコティを利用して、エルスターの妻殺しという完全犯罪に加担していたのである。真相がはっきりと見えてしまったスコティはジュディを、マデリンが投げ落とされた教会へと連れて行き、彼女を問い詰める。高所恐怖症をも克服し、鐘楼の頂上でジュディに迫るスコティ。しかし、そのとき暗がりから突然現れた影におびえたジュディは、バランスを崩してマデリンと同じように転落する。絹を裂くような悲鳴。突然現れた影は、実はものものしい雰囲気を不審に感じて鐘楼に上がってきていた修道女だった。十字を切り、転落した女の冥福を祈って鐘を鳴らす修道女。スコティは、呆然としてその鐘の音を聞いているばかりだった。 ヒッチコックは、造船所の前を通り過ぎる通行人としてカメオ出演した。 発表当時はヒッチコックの他の作品と同様、その女性蔑視のイデオロギーが批判されていた。徐々に評価を高め、近年ではヒッチコック作品の中でもトップクラスの傑作との評価を得ている。2012年には英国映画協会が発表した『世界の批評家が選ぶ偉大な映画50選』の第1位に選ばれた。しかしヒッチコックはこの作品を「失敗作」と語っている。当初ヒロイン役にと構想していたヴェラ・マイルズが妊娠のため降板し、キム・ノヴァクを起用したが、監督はノヴァクのキャラクターや態度(演出面に関する口出し)に非常に不満を感じていたことが、ネガティブな評価につながっている。 ヒッチコックはヒロインの女性像を、ノヴァクのような魅惑的なものではなく、清楚で健全な女性に求めていたようである。泳げない彼女をサンフランシスコ湾に飛び込ませたり、彼女が大嫌いであったグレー色を主要な衣装に使用したりとその仕打ちは苛烈なものだった。 レストランでマデリンとスコティが初めて出会うシーンや、曲がりくねったサンフランシスコの道のりを写すカメラワークは評価が高い。 床が落ちるような「めまいショット」(一般にはドリーズーム(英語版)と呼ばれる)は有名で、この作品以後、数え切れないほどの映画やCM、テレビドラマで引用されるようになった。ズームレンズを用い、ズームアウトしながらカメラを被写体へ近づけることで、被写体のサイズが変わらずに背景だけが望遠から広角に変化してゆく。鐘楼のシーンでは、ミニチュアを作成して横倒しに置き、レールに置いたズームレンズ付きカメラを移動させて撮影している。スティーヴン・スピルバーグ監督は『E.T.』の街を見下ろす崖のシーンで完璧なシンクロを実現させている。 被写体にレンズを向けたままカメラが被写体の周りを回る、陶酔感あふれる撮影法も印象的である。この撮影法は、後にブライアン・デ・パルマ監督が『キャリー』『フューリー』『愛のメモリー』『ボディ・ダブル』で使用している。 タイトル映像の刻々と変化する光のパターンを製作したのは「CGの父」と呼ばれる実験映像作家のジョン・ホイットニー・シニアである。『2001年宇宙の旅』の10年も前の作品であるが、映画で見られる螺旋状の映像を連続して露光させるため、撮影手順をアナログ・コンピュータでプログラムした初期のモーション・コントロール・カメラが使われている。 この映画のフィルムは保存状態の悪さのため、非常に傷み色あせていた。これを危惧したジェームズ・C・カッツ、ロバート・A・ハリスらの手によってネガは2年かけて修復され、1996年に公開された。 Rotten Tomatoesによれば、批評家の一致した見解は「予測不能な恐ろしいスリラーであるとともに、愛と喪失、そして人の癒しについての悲痛な黙想でもある。」であり、83件の評論のうち高評価は94%にあたる78件で、平均点は10点満点中8.9点となっている。 Metacriticによれば、32件の評論のうち、高評価は31件、賛否混在は1件、低評価はなく、平均点は100点満点となっている。
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『めまい』(Vertigo)は、1958年のアメリカ合衆国のサスペンス映画。監督はアルフレッド・ヒッチコック、出演はジェームズ・ステュアートとキム・ノヴァクなど。パラマウント映画製作。テクニカラー、ビスタビジョン作品。後に、他の多数のヒッチコック作品と共にユニヴァーサルに売却された。日本公開は同年。 原作はフランスのミステリー作家、ボワロー=ナルスジャック(ピエール・ボワロー、トマ・ナルスジャック)の『死者の中から』。タイトルデザインはソール・バスによる。舞台はサンフランシスコを中心に繰り広げられる。
{{Infobox Film| | 作品名 = めまい | 原題 = Vertigo | 画像 = Vertigomovie restoration.png | 画像サイズ = 200px | 画像解説 = | 監督 = [[アルフレッド・ヒッチコック]] | 脚本 = {{仮リンク|アレック・コペル|en|Alec Coppel}}<br />{{仮リンク|サミュエル・A・テイラー|label=サミュエル・テイラー|en|Samuel A. Taylor}} | 原作 = [[ボワロー=ナルスジャック]]<br />『{{仮リンク|死者の中から|fr|D'entre les morts}}』 | 製作 = アルフレッド・ヒッチコック | 製作総指揮 = | 出演者 = [[ジェームズ・ステュアート (俳優)|ジェームズ・ステュアート]]<br />[[キム・ノヴァク]] | 音楽 = [[バーナード・ハーマン]] | 撮影 = {{仮リンク|ロバート・バークス|en|Robert Burks}} | 編集 = {{仮リンク|ジョージ・トマシーニ|en|George Tomasini}} | 製作会社 = アルフレッド・J・ヒッチコック・プロダクションズ | 配給 = [[パラマウント映画]] | 公開 = {{flagicon|USA}} 1958年5月9日<br />{{flagicon|JPN}} 1958年10月26日 | 上映時間 = 128分 | 製作国 = {{USA}} | 言語 = [[英語]] | 製作費 = $2,479,000 | 興行収入 = {{flagicon|World}} $7,797,300<ref>{{Cite web|url=https://www.boxofficemojo.com/title/tt0052357/|title=Vertigo|publisher=[[Box Office Mojo]]|language=en|accessdate=2021-05-18}}</ref> | 前作 = | 次作 = }} [[File:Vertigo trailer kiss.png |thumb|right|230px|ジェームズ・ステュアート(右)とキム・ノヴァク]] 『'''めまい'''』(''Vertigo'')は、[[1958年の映画|1958年]]の[[アメリカ合衆国の映画|アメリカ合衆国]]の[[サスペンス映画]]。監督は[[アルフレッド・ヒッチコック]]、出演は[[ジェームズ・ステュアート (俳優)|ジェームズ・ステュアート]]と[[キム・ノヴァク]]など。[[パラマウント映画]]製作。[[テクニカラー]]、[[ビスタビジョン]]作品。後に、他の多数のヒッチコック作品と共に[[ユニバーサル・ピクチャーズ|ユニヴァーサル]]に売却された。日本公開は同年。 原作は[[フランス]]のミステリー作家、[[ボワロー=ナルスジャック]]([[ピエール・ボワロー]]、{{仮リンク|トマ・ナルスジャック|fr|Thomas Narcejac}})の『{{仮リンク|死者の中から|fr|D'entre les morts}}』。タイトルデザインは[[ソール・バス]]による。舞台は[[サンフランシスコ]]を中心に繰り広げられる。 == ストーリー == 「スコティ」ことジョン・ファーガソン刑事は、容疑者を追う途中に同僚を死なせてしまったショックで、[[高所恐怖症]]による[[めまい]]に襲われるようになり、警察を辞めてしまう。そこへ学生時代の友人エルスターが現れて、何かに憑かれたかのように不審な行動をする妻マデリンを監視して欲しいと言う。スコティはマデリンを尾行するうちに、彼女の曾祖母であり過去に非業の死を遂げた人物、カルロッタの存在を知る。カルロッタは髪型から首飾りまでマデリンそっくりであり、スコティはエルスターから「マデリンはカルロッタの亡霊に取り憑かれている」とする見解を聞かされる。 尾行を続けていると、彼女は公園から突然海に飛び込み、投身自殺を図る。彼女を救い出したスコティは初めて彼女と知り合うことになり、やがて2人は恋へと落ちていく。スコティは彼女を救おうと思い、マデリンが夢で見たと言うスペイン風の村へ向かう。到着後、マデリンはカルロッタの自殺した教会へと走っていく。スコティは追いかけるが、高所恐怖症によるめまいのために追いつくことが出来ず、マデリンは鐘楼の頂上から飛び降りてしまう。マデリンの転落は事故と処理され、エルスターは彼を慰めながら、自分はヨーロッパへ行くと告げる。 自責の念から精神衰弱へと陥り、マデリンの影を追いかけ続けるスコティはある日、街角でマデリンに瓜二つの女性を発見する。追いかけると、彼女はかつてマデリンの通っていたカルロッタの旧居のアパートに住む、ジュディという女だという。スコットはジュディとデートの約束を取り付ける。 スコティは、せっかく出会えたジュディをも失うのではないかという第2のトラウマを抱えて、精神衰弱から次第に正気を失っていく。一方、ジュデイは次第に彼を愛してしまっていた。ジュディはスコティの狂気じみた要望に応え、洋服、髪型、何もかもをマデリンと同じにし、死んだはずの「マデリン」へと次第に変貌していく(ヒッチコックはこれを「屍姦」と称している)。 ジュディとスコティは歪な愛を育もうとするが、ある時2人でデートに行く際、その愛は破綻を迎える。ジュディが首にかけたネックレスは、マデリンがカルロッタのものとして身に着けていたネックレスそのものだった。スコティに「マデリン」として会っていたのは、他ならぬ彼女自身だった。高所恐怖症のスコティを利用した、妻殺しというエルスターの完全犯罪にジュデイは加担していたのである。真相がはっきりと見えてしまったスコティはジュディを、マデリンが投げ落とされた教会へと連れて行き、彼女を問い詰める。高所恐怖症をも克服し、鐘楼の頂上でジュディに迫るスコティ。しかし、そのとき暗がりから突然現れた影におびえたジュディは、バランスを崩してマデリンと同じように転落する。絹を裂くような悲鳴。突然現れた影は、実はものものしい雰囲気を不審に感じて鐘楼に上がってきていた修道女だった。十字を切り、転落した女の冥福を祈って鐘を鳴らす修道女。スコティは、呆然としてその鐘の音を聞いているばかりだった。 === ヒッチコック登場シーン === ヒッチコックは、造船所の前を通り過ぎる通行人としてカメオ出演した。 {{seealso|アルフレッド・ヒッチコックのカメオ出演一覧}} == キャスト == {| class="wikitable" style="text-align: center;" |- ! rowspan="2" | 役名 ! rowspan="2" | 俳優 ! colspan="3" | 日本語吹替 |- ! [[テレビ朝日]]版 ! ソフト版 |- | ジョン・“スコティ”・ファーガソン || [[ジェームズ・ステュアート (俳優)|ジェームズ・ステュアート]] || [[小川真司]] || [[安原義人]] |- | マデリン・エルスター/ジュディ・バートン || [[キム・ノヴァク]] || [[田島令子]] || [[藤本喜久子]] |- | ギャヴィン・エルスター || {{仮リンク|トム・ヘルモア|en|Tom Helmore}} || [[小林清志]] || [[村松康雄]] |- | マージョリー・“ミッジ”・ウッド || [[バーバラ・ベル・ゲデス]] || [[藤田淑子]] || [[坪井木の実]] |- | 検死官 || [[ヘンリー・ジョーンズ (俳優)|ヘンリー・ジョーンズ]] || [[阪脩]] || [[土師孝也]] |- | 不明<br />その他 || || [[京田尚子]] <br />[[大久保正信]]<br />[[池田勝]]<br />[[斉藤昌]]<br />[[横尾まり]]<br />[[北村弘一]]<br />柳沢紀男||[[佐々木敏]]<br />[[巴菁子]]<br />[[佐々木梅治]]<br />[[稲垣隆史]]<br />[[島美弥子]]<br />[[西前忠久]]<br />[[村竹あおい]] |- | |- | colspan="2"|演出 || [[小林守夫]]||中野洋志 |- | colspan="2"|翻訳 || [[宇津木道子]]||石原千麻 |- | colspan="2"|効果 || 遠藤堯雄/桜井俊哉|| |- | colspan="2"|調整 || 丹波晴道|| |- | colspan="2"|制作 || [[東北新社]]||ACクリエイト |- | colspan="2"|解説 ||[[淀川長治]]|| |- | colspan="2"|初回放送 || [[1986年]][[11月2日]]<br />『[[日曜洋画劇場]]』<br /> 21:02-23:24|| |} == 評価 == {{独自研究|section=1|date=2012年5月11日 (金) 13:24 (UTC)}} 発表当時はヒッチコックの他の作品と同様、その女性蔑視のイデオロギーが批判されていた。徐々に評価を高め、近年ではヒッチコック作品の中でもトップクラスの傑作との評価を得ている。[[2012年]]には[[英国映画協会]]が発表した『世界の批評家が選ぶ偉大な映画50選』の第1位に選ばれた。しかしヒッチコックはこの作品を「失敗作」と語っている。当初ヒロイン役にと構想していた[[ヴェラ・マイルズ]]が妊娠のため降板し、キム・ノヴァクを起用したが、監督はノヴァクのキャラクターや態度(演出面に関する口出し)に非常に不満を感じていたことが、ネガティブな評価につながっている。 ヒッチコックはヒロインの女性像を、ノヴァクのような魅惑的なものではなく、清楚で健全な女性に求めていたようである。泳げない彼女を[[サンフランシスコ湾]]に飛び込ませたり、彼女が大嫌いであったグレー色を主要な衣装に使用したりとその仕打ちは苛烈なものだった。 レストランでマデリンとスコティが初めて出会うシーンや、曲がりくねったサンフランシスコの道のりを写すカメラワークは評価が高い。 床が落ちるような「めまいショット」(一般には{{仮リンク|ドリーズーム|en|Dolly zoom}}と呼ばれる)は有名で、この作品以後、数え切れないほどの映画やCM、テレビドラマで引用されるようになった。ズームレンズを用い、ズームアウトしながらカメラを被写体へ近づけることで、被写体のサイズが変わらずに背景だけが望遠から広角に変化してゆく。鐘楼のシーンでは、ミニチュアを作成して横倒しに置き、レールに置いたズームレンズ付きカメラを移動させて撮影している。[[スティーヴン・スピルバーグ]]監督は『[[E.T.]]』の街を見下ろす崖のシーンで完璧なシンクロを実現させている。 被写体にレンズを向けたままカメラが被写体の周りを回る、陶酔感あふれる撮影法も印象的である。この撮影法は、後に[[ブライアン・デ・パルマ]]監督が『[[キャリー (1976年の映画)|キャリー]]』『[[フューリー (1978年の映画)|フューリー]]』『[[愛のメモリー (映画)|愛のメモリー]]』『[[ボディ・ダブル]]』で使用している。 タイトル映像の刻々と変化する光のパターンを製作したのは「[[コンピュータグラフィックス|CG]]の父」と呼ばれる実験映像作家の[[ジョン・ホイットニー・シニア]]である。『[[2001年宇宙の旅]]』の10年も前の作品であるが、映画で見られる螺旋状の映像を連続して露光させるため、撮影手順をアナログ・コンピュータでプログラムした初期のモーション・コントロール・カメラが使われている。 この映画のフィルムは保存状態の悪さのため、非常に傷み色あせていた。これを危惧したジェームズ・C・カッツ、ロバート・A・ハリスらの手によってネガは2年かけて修復され、[[1996年]]に公開された。 === 映画批評家によるレビュー === [[Rotten Tomatoes]]によれば、批評家の一致した見解は「予測不能な恐ろしいスリラーであるとともに、愛と喪失、そして人の癒しについての悲痛な黙想でもある。」であり、83件の評論のうち高評価は94%にあたる78件で、平均点は10点満点中8.9点となっている<ref>{{Cite web|url=https://www.rottentomatoes.com/m/vertigo|title= Vertigo (1958)|publisher=[[Rotten Tomatoes]]|language=en|accessdate=2021-05-18}}</ref>。 [[Metacritic]]によれば、32件の評論のうち、高評価は31件、賛否混在は1件、低評価はなく、平均点は100点満点となっている<ref>{{Cite web|url=https://www.metacritic.com/movie/vertigo-1958|title=Vertigo Reviews|publisher=[[Metacritic]]|language=en|accessdate=2021-05-18}}</ref>。 === 受賞歴 === ; [[第31回アカデミー賞]]ノミネート * [[アカデミー美術賞|美術賞]] - {{仮リンク|ハル・ペライラ|en|Hal Pereira}}、{{仮リンク|ヘンリー・バムステッド|en|Henry Bumstead}}、{{仮リンク|サミュエル・M・コマー|label=サム・コマー|en|Samuel M. Comer}}、{{仮リンク|フランク・R・マッケルヴィ|label=フランク・マッケルヴィ|en|Frank R. McKelvy}} * [[アカデミー録音賞|録音賞]] - {{仮リンク|ジョージ・ダットン|en|George Dutton}} == ギャラリー == {{Portal 映画}} <gallery> File:Vertigo_1958_trailer_bedroom.jpg| File:Vertigo_1958_trailer_Stewart_looking.jpg| File:Vertigo_1958_trailer_embrace_2.jpg| File:Vertigo_1958_trailer_Fort_Point_Stewart.jpg| File:Vertigo_1958_trailer_Novak.jpg| File:Vertigo 1958 trailer Stewart hanging on.jpg| </gallery> == 出典 == {{Reflist}} == 外部リンク == {{Wikiquotelang|en|Vertigo}} * {{Commonscat-inline}} * {{Allcinema title|23363|めまい}} * {{Kinejun title|8966|めまい}} * {{Amg movie|52324|Vertigo}} * {{IMDb title|0052357|Vertigo}} *{{Metacritic film||Vertigo}} *{{AFI film|52788|Vertigo}} {{アルフレッド・ヒッチコック監督作品}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:めまい}} [[Category:1958年の映画]] [[Category:アメリカ合衆国のミステリ映画]] [[Category:アメリカ合衆国のサイコスリラー映画]] [[Category:フィルム・ノワール]] [[Category:アルフレッド・ヒッチコックの監督映画]] [[Category:フランスの小説を原作とした映画作品]] [[Category:ボワロー=ナルスジャック]] [[Category:死を題材とした映画作品]] [[Category:サンフランシスコを舞台とした映画作品]] [[Category:サンフランシスコで製作された映画作品]] [[Category:アメリカ国立フィルム登録簿に登録された作品]] [[Category:バーナード・ハーマンの作曲映画]]
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映像信号
映像信号(えいぞうしんごう)は、映像を電気信号化したものである。 映画により、静止画を高速に次々と提示すれば、仮現運動により映像(動画)が認知されることは既知であった。従ってテレビの実現に必要なのは、静止画を撮影し、信号に換え、伝送し、信号から静止画を再生する、というプロセスの高速な繰り返しである。 以下では説明を簡単にするため、カラー化、デジタル化、最近の液晶ディスプレイなどには極力触れない。 まず、ビデオカメラにおいて、レンズを用いて撮像管あるいは固体撮像素子の受光面に被写体の像を結像する。 次に、ラスタースキャンにより、受光面を左から右へ、次いで上から下へ順次走査しながら各点の照度を取り出し、明暗を信号電圧の高低に変換する。この信号を輝度信号という。走査によって2次元の静止画を1次元の信号に変換したわけである。走査する点が走る線を走査線と言う。 このとき同時に、ラスタースキャンによって読み取っている位置を示す信号も生成する。これを同期信号という。水平方向についての同期信号を水平同期信号、垂直方向についての同期信号を垂直同期信号という。 以上はアナログの場合である。デジタルの場合は、輝度信号をA/D変換する。デジタル化すると、区切りさえわかれば順番に並べていけば元の位置が復元されるため、同期信号はアナログと違ったものになる。 以上のように、映像信号は複数個の信号を同期して扱う必要がある。これ(カラーの場合は色信号なども)を重畳してまとめたものをコンポジット映像信号と言う。これに対しバラバラの信号をコンポーネント映像信号と言う。 アナログテレビ放送では、コンポジット映像信号をVSB方式で電波に乗せて放送する。 テレビ受像機では、以上のようにして作られた電波を受信、復調し、コンポジット映像信号をそれぞれの信号に分離する。水平垂直のそれぞれの同期信号に従って同期を取って(水平方向の同期を水平同期、垂直方向の同期を垂直同期という)、輝度信号に従いブラウン管の電子銃の出力を調節し輝点の輝度を変えながら、ブラウン管の蛍光面をラスタースキャンする。受像側でも走査による線を走査線と言う。 以上で映像の撮影から再生(受像)までが完了する。 日本や北米などで行われていた白黒テレビ放送における映像信号の構成は上記の原理をもとに実用化したものであるが、伝送容量の制限からインターレース方式を採用している。 テレビ放送を実用化するにあたり、伝送可能な帯域を考慮して走査線数と毎秒フレーム数を決める必要がある。白黒テレビ放送の開始時に実現可能だった約4MHz程度の帯域では、必要な解像度(ブラウン管の画面サイズと視聴距離からきまる)から走査線本数をきめると、伝送可能な毎秒あたりのフレーム数が不足した。このため、人間の目の残像特性を利用した飛び越し走査(2:1インターレース)方式を採用した。これは、1フレームを奇数フィールドと偶数フィールドに分け、それぞれ1本おきに走査して毎秒60フィールドを伝送するものである。なお欧州ではこれとは若干異なる数値を用いたが、基本的な考え方は変わらない。 これに対し、飛び越し走査を行わない方式を順次走査(プログレッシブ走査)方式と呼ぶ。 インターレース方式の場合、合計した走査線数が同じプログレッシブ方式にくらべ垂直解像度は低下して見える。この低下の比率をケルファクタ(Kell factor)と呼び、NTSC方式の場合、有効走査線本数485本程度に対し見かけ上の垂直解像度は約330本程度といわれる。 輝度信号と水平・垂直の同期信号を、別々に扱うのは不便なため、合成した信号をコンポジット映像信号という。これに対しバラバラのものをコンポーネント映像信号という。コンポジット映像信号は1本の伝送線路で送ることができる。 アナログテレビ放送ではコンポジット映像信号を電波に乗せていた。このため、テレビ受像機などでは電波を受信し復調してコンポジット映像信号複合映像信号を得た後、さらに水平・垂直の同期信号を取り出す同期分離機能が必要になる。 画面を走査するさいに、電子線を画面の右から左(水平)、または下から上(垂直)に移動して走査を繰り返す必要がある。電子線の移動には一定の時間を要するので、水平・垂直とも表示できない期間が生ずる。これをそれぞれ水平帰線区間、垂直帰線区間という。 この期間を除いた表示可能な領域をアクティブビデオといい、垂直方向については表示される走査線本数を有効走査線本数と呼ぶ。 垂直帰線区間においては、垂直同期信号と水平同期信号が重畳されるため、切り込みパルス(セレーションパルス)を、またインターレースを行うため奇遇フィールドで垂直同期パルスの積分波形のタイミングを補償するための等化パルスの挿入などの工夫がされている。 NTSCにより統一標準化された白黒テレビ放送の主な仕様は以下の通りであった。 カラー化においては、この白黒テレビの仕様から、後方互換(カラーテレビでも白黒放送が見られる)と前方互換(白黒テレビでもカラー放送が(白黒になるが)見られる)の両方をほぼ完全に実現して、カラー化がおこなわれた。 映像信号であるカラーテレビジョン信号方式の一つNTSC方式は北米と日本、台湾、韓国などで用いられている。アスペクト比は、4対3である。NTSC方式の走査線は、525本(有効走査線は、480本)なので、ドットに換算すれば、640×480ドット(VGA相当)になる。 同期周波数は白黒より僅かに低く設定されている。 画面アスペクト比は基本的には「4対3」だが、画像をスクイーズさせ、ID-1信号と一緒に伝送する事で、「16対9」のワイド映像にも対応している。 D端子では、NTSC信号と同等の品質の映像信号のための規格をD1としている。 ※DVDレコーダー(NTSC方式)では、映像信号を、720×480ドットで記録・再生する。
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映像信号(えいぞうしんごう)は、映像を電気信号化したものである。
'''映像信号'''(えいぞうしんごう)は、映像を電気信号化したものである。 ==映像信号の生成と再生== {{See also|ラスタースキャン}}<!-- もともとここにあった「テレビの信号伝送の仕組と映像信号」という節の内容は、そのほとんどが「走査」の項目の一部のコピー(ないしその逆)なんじゃないかという感じだったのですが、その内容は [[ラスタースキャン#テレビにおけるラスタースキャン]] にまとめましたので、ばっさり書き換えました -->[[映画]]により、[[静止画]]を高速に次々と提示すれば、仮現運動により映像([[動画]])が認知されることは既知であった。従って[[テレビ]]の実現に必要なのは、静止画を撮影し、信号に換え、伝送し、信号から静止画を再生する、というプロセスの高速な繰り返しである。 以下では説明を簡単にするため、カラー化、デジタル化、最近の[[液晶ディスプレイ]]などには極力触れない。 まず、[[ビデオカメラ]]において、[[レンズ]]を用いて[[撮像管]]あるいは[[固体撮像素子]]の受光面に被写体の像を結像する。 次に、[[ラスタースキャン]]により、受光面を左から右へ、次いで上から下へ順次[[走査]]しながら各点の[[照度]]を取り出し、明暗を信号電圧の高低に変換する。この信号を輝度信号という。走査によって2次元の静止画を1次元の信号に変換したわけである。走査する点が走る線を走査線と言う。 このとき同時に、ラスタースキャンによって読み取っている位置を示す信号も生成する。これを[[同期信号]]という。水平方向についての同期信号を水平同期信号、垂直方向についての同期信号を垂直同期信号という。 以上はアナログの場合である。デジタルの場合は、輝度信号を[[アナログ-デジタル変換回路|A/D変換]]する。デジタル化すると、区切りさえわかれば順番に並べていけば元の位置が復元されるため、同期信号はアナログと違ったものになる。 以上のように、映像信号は複数個の信号を[[同期]]して扱う必要がある。これ(カラーの場合は色信号なども)を重畳してまとめたものを[[コンポジット映像信号]]と言う。これに対しバラバラの信号を[[コンポーネント映像信号]]と言う。 アナログテレビ[[放送]]では、コンポジット映像信号を[[振幅変調#残留側波帯|VSB]]方式で[[電波]]に乗せて放送する。 [[テレビ受像機]]では、以上のようにして作られた電波を[[受信]]、[[復調]]し、コンポジット映像信号をそれぞれの信号に分離する。水平垂直のそれぞれの同期信号に従って同期を取って(水平方向の同期を水平同期、垂直方向の同期を垂直同期という)、輝度信号に従い[[ブラウン管]]の[[電子銃]]の出力を調節し輝点の輝度を変えながら、ブラウン管の蛍光面をラスタースキャンする。受像側でも走査による線を走査線と言う。 以上で映像の撮影から再生(受像)までが完了する。 <!--この一本一本の「紐」を[[走査線]]と呼ぶ。走査線が多いほど縦方向の解像度は向上する。横方向の解像度はアナログ映像信号の場合、伝送帯域幅で制限される(走査線数・フレーム数が一定の場合)。また、毎秒あたりフレーム数が多いほど動く被写体の動きの描写が滑らかになる。言い換えれば時間方向の解像度が向上する。--><!--元の文章にあった内容で、書き換えたものには含まれない内容なので残しておくのですが、ここにうまくまとめて書ける気がしないので放置します。フレームという言葉を出すにはインターレースの説明までしないといけない--> ==白黒映像信号== 日本や北米などで行われていた[[白黒テレビ]]放送における映像信号の構成は上記の原理をもとに実用化したものであるが、伝送容量の制限からインターレース方式を採用している。 ===インターレース方式=== {{Main|インターレース}} テレビ放送を実用化するにあたり、伝送可能な帯域を考慮して走査線数と毎秒フレーム数を決める必要がある。白黒テレビ放送の開始時に実現可能だった約4MHz程度の帯域では、必要な解像度([[ブラウン管]]の画面サイズと視聴距離からきまる)から走査線本数をきめると、伝送可能な毎秒あたりのフレーム数が不足した。このため、人間の目の残像特性を利用した飛び越し走査(2:1インターレース)方式を採用した。これは、1フレームを奇数フィールドと偶数フィールドに分け、それぞれ1本おきに走査して毎秒60フィールドを伝送するものである。なお欧州ではこれとは若干異なる数値を用いたが、基本的な考え方は変わらない。 これに対し、飛び越し走査を行わない方式を順次走査(プログレッシブ走査)方式と呼ぶ。 インターレース方式の場合、合計した走査線数が同じプログレッシブ方式にくらべ垂直解像度は低下して見える。この低下の比率をケルファクタ(Kell factor)と呼び、NTSC方式の場合、有効走査線本数485本程度に対し見かけ上の垂直解像度は約330本程度といわれる。 ===複合同期信号=== 輝度信号と水平・垂直の同期信号を、別々に扱うのは不便なため、合成した信号を[[コンポジット映像信号]]という。これに対しバラバラのものを[[コンポーネント映像信号]]という。コンポジット映像信号は1本の伝送線路で送ることができる。 アナログテレビ放送では[[コンポジット映像信号]]を[[電波]]に乗せていた。このため、[[テレビ受像機]]などでは電波を[[受信]]し[[復調]]してコンポジット映像信号複合映像信号を得た後、さらに水平・垂直の同期信号を取り出す同期分離機能が必要になる。 ===有効表示区間と帰線区間=== 画面を走査するさいに、電子線を画面の右から左(水平)、または下から上(垂直)に移動して走査を繰り返す必要がある。電子線の移動には一定の時間を要するので、水平・垂直とも表示できない期間が生ずる。これをそれぞれ[[水平帰線区間]]、[[垂直帰線区間]]という。 この期間を除いた表示可能な領域をアクティブビデオといい、垂直方向については表示される走査線本数を有効走査線本数と呼ぶ。 垂直帰線区間においては、垂直同期信号と水平同期信号が重畳されるため、切り込みパルス(セレーションパルス)を、またインターレースを行うため奇遇フィールドで垂直同期パルスの積分波形のタイミングを補償するための等化パルスの挿入などの工夫がされている。 :(詳細は図面で説明の必要あり) ===NTSC白黒テレビの仕様=== [[NTSC]]により統一標準化された[[白黒テレビ]]放送の主な仕様は以下の通りであった。 *伝送フレーム数:30フレーム/秒 *2:1インターレース *走査線総数:525本 **有効走査線本数:約485本 *解像度:垂直は約330本、水平解像度は約350[[TV本]] *映像信号極性: **ベースバンドでは正極性(信号の振幅が増加すると輝度が増加する。白が最高レベルで黒が最低レベル) **放送波では振幅雑音の影響を軽減するため、負極性に反転して[[振幅変調]]する。 *水平同期信号:15.75kHz (=525*30)個/秒のパルスで、1本の走査線毎の同期を示す *垂直同期信号:60Hz毎秒でフィールド毎の同期を示す *音声信号:ベースバンドでは映像信号とは独立。放送波では映像[[搬送波]]から4.5MHz高い周波数にオフセットした音声搬送波を[[周波数変調]]している。 カラー化においては、この白黒テレビの仕様から、[[後方互換]]([[カラーテレビ]]でも白黒放送が見られる)と[[前方互換]](白黒テレビでもカラー放送が(白黒になるが)見られる)の両方をほぼ完全に実現して、カラー化がおこなわれた。 ==カラー映像信号== ===NTSC=== {{Main|NTSC}} 映像信号であるカラーテレビジョン信号方式の一つ[[NTSC]]方式は北米と日本、台湾、韓国などで用いられている。[[アスペクト比]]は、4対3である。NTSC方式の走査線は、525本(有効走査線は、480本)なので、[[ピクセル|ドット]]に換算すれば、640×480ドット([[Video Graphics Array|VGA]]相当)になる。 *伝送フレーム数:29.97フレーム/秒 *2:1インターレース *水平同期信号:15.734264kHz *垂直同期信号:59.94Hz *輝度信号帯域:約6MHz *色搬送波信号帯域:約3MHz *水平解像度:約500[[TV本]](最大) 同期周波数は白黒より僅かに低く設定されている。 [[画面アスペクト比]]は基本的には「4対3」だが、画像を[[スクイーズ]]させ、ID-1信号と一緒に伝送する事で、「16対9」のワイド映像にも対応している。 [[D端子]]では、NTSC信号と同等の品質の映像信号のための規格をD1としている。 ※[[DVDレコーダー]](NTSC方式)では、映像信号を、720×480ドットで記録・再生する。 ===その他のカラー方式=== *[[PAL]] - 中国や欧州、豪州など。 *[[SECAM]] - フランスやロシア、アフリカ諸国の一部など。 {{DEFAULTSORT:えいそうしんこう}} [[Category:テレビ技術]]
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水沢めぐみ
水沢 めぐみ(みずさわ めぐみ、1963年7月3日 - )は、日本の漫画家。大阪府出身。血液型はA型。長らく集英社発行の少女漫画誌で活動していたが、2013年より小学館で活動。 お茶の水女子大学附属中学校、お茶の水女子大学附属高等学校、早稲田大学教育学部卒業。中学時代から漫画を描き始め、1979年、高校1年生の時に「心にそっとささやいて」で『りぼん』(集英社)でデビュー(9月大増刊号)。10代後半からプロの漫画家として活動を開始し、合計7作品を高校時代に発表。また高校時代は卓球部に所属。1年の浪人生活を経て、早稲田大学教育学部に入学。在学中は「なべの会」に所属。在学中の1985年夏から1987年春まで『ポニーテール白書』を連載。1987年春に同大学を卒業。2011年現在は中央線の沿線に住んでいる。 代表作に、『ポニーテール白書』、『空色のメロディ』、『チャイム』、『姫ちゃんのリボン』、『トウ・シューズ』などがある。全盛期の『りぼん』を代表する作家の1人であるが、2000年前後に『りぼん』から新設の『Cookie』(集英社)に移籍、それ以降は同誌に主な活動の場を移す。同誌での最初の連載は、2000年11月号から2002年4月号まで続いた「神様のオルゴール」。その後2003年5月号から2010年7月号まで不定期に「キラキラ100%」を連載した。「寺ガール」の終了後は小学館の女性漫画雑誌に作品を連載。現在は学研プラス発行のキラピチに「さくらんぼダイアリー」連載中。 『Cookie』や小学館の女性漫画雑誌に主な活動の場を移した後もたびたび『りぼん』やその派生誌に作品を発表している。たとえば『りぼん』2007年8月号から10月号まで「おさんぽの時間」が連載され、2009年冬休み大増刊号りぼんスペシャルに読み切り「1月のメリーゴーラウンド」、2010年冬の大増刊号りぼんスペシャルに「3月の第2ボタン」がそれぞれ掲載された。 寺ガールまでのコミックスは「りぼんマスコットコミックス」(集英社)レーベルから(『神様のオルゴール』と『キラキラ100%』は下位レーベル「りぼんマスコットコミックスクッキー」より)、文庫版は全て「集英社文庫(コミック版)」からの発行。 2011年3月現在、『神様のオルゴール』『キラキラ100%』『オレンジ革命』『大好き!』『おさんぽの時間』『3月の第2ボタン』以外のコミックスはすべて絶版となっている。文庫版の内容は基本的には『りぼんマスコットコミックス』と同じだが、描き下ろしのエッセイや解説などが収録されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "水沢 めぐみ(みずさわ めぐみ、1963年7月3日 - )は、日本の漫画家。大阪府出身。血液型はA型。長らく集英社発行の少女漫画誌で活動していたが、2013年より小学館で活動。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "お茶の水女子大学附属中学校、お茶の水女子大学附属高等学校、早稲田大学教育学部卒業。中学時代から漫画を描き始め、1979年、高校1年生の時に「心にそっとささやいて」で『りぼん』(集英社)でデビュー(9月大増刊号)。10代後半からプロの漫画家として活動を開始し、合計7作品を高校時代に発表。また高校時代は卓球部に所属。1年の浪人生活を経て、早稲田大学教育学部に入学。在学中は「なべの会」に所属。在学中の1985年夏から1987年春まで『ポニーテール白書』を連載。1987年春に同大学を卒業。2011年現在は中央線の沿線に住んでいる。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "代表作に、『ポニーテール白書』、『空色のメロディ』、『チャイム』、『姫ちゃんのリボン』、『トウ・シューズ』などがある。全盛期の『りぼん』を代表する作家の1人であるが、2000年前後に『りぼん』から新設の『Cookie』(集英社)に移籍、それ以降は同誌に主な活動の場を移す。同誌での最初の連載は、2000年11月号から2002年4月号まで続いた「神様のオルゴール」。その後2003年5月号から2010年7月号まで不定期に「キラキラ100%」を連載した。「寺ガール」の終了後は小学館の女性漫画雑誌に作品を連載。現在は学研プラス発行のキラピチに「さくらんぼダイアリー」連載中。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "『Cookie』や小学館の女性漫画雑誌に主な活動の場を移した後もたびたび『りぼん』やその派生誌に作品を発表している。たとえば『りぼん』2007年8月号から10月号まで「おさんぽの時間」が連載され、2009年冬休み大増刊号りぼんスペシャルに読み切り「1月のメリーゴーラウンド」、2010年冬の大増刊号りぼんスペシャルに「3月の第2ボタン」がそれぞれ掲載された。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "寺ガールまでのコミックスは「りぼんマスコットコミックス」(集英社)レーベルから(『神様のオルゴール』と『キラキラ100%』は下位レーベル「りぼんマスコットコミックスクッキー」より)、文庫版は全て「集英社文庫(コミック版)」からの発行。", "title": "作品リスト" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "2011年3月現在、『神様のオルゴール』『キラキラ100%』『オレンジ革命』『大好き!』『おさんぽの時間』『3月の第2ボタン』以外のコミックスはすべて絶版となっている。文庫版の内容は基本的には『りぼんマスコットコミックス』と同じだが、描き下ろしのエッセイや解説などが収録されている。", "title": "作品リスト" } ]
水沢 めぐみは、日本の漫画家。大阪府出身。血液型はA型。長らく集英社発行の少女漫画誌で活動していたが、2013年より小学館で活動。
{{存命人物の出典明記|date=2018年10月19日 (金) 14:50 (UTC)}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = 水沢 めぐみ | ふりがな = みずさわ めぐみ | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = | 生地 = [[日本]]・[[大阪府]] | 国籍 = <!-- [[日本]] 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 生年 = {{生年月日と年齢|1963|7|3}} | 没年 = | 没地 = | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[1979年]] - | ジャンル = [[少女漫画]]<br />[[恋愛漫画]] | 代表作 = 『[[ポニーテール白書]]』<br />『[[空色のメロディ]]』<br />『[[姫ちゃんのリボン]]』など | 受賞 = 第117回りぼん漫画スクール準りぼん賞([[1979年]])「心にそっとささやいて」 | 公式サイト = }} '''水沢 めぐみ'''(みずさわ めぐみ、[[1963年]][[7月3日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[大阪府]]出身。[[ABO式血液型|血液型]]はA型。長らく[[集英社]]発行の[[少女漫画|少女漫画誌]]で活動していたが、2013年より[[小学館]]で活動<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/98826 |title=水沢めぐみ、プチコミックに初登場!大人の女性の恋愛描く|publisher=コミックナタリー|date=2013-09-06|accessdate=2022-06-21}}</ref>。 == 人物 == * [[1979年]]のデビュー以来、30年以上にわたり現役の漫画家として活動を続ける。 * 元夫は[[映画監督]]・[[脚本家]]の[[成瀬活雄]]。 * 2女の母。趣味は、[[ギター]]、[[バレエ|クラシックバレエ]]など多数。バレエについては『[[トウ・シューズ (漫画)|トウ・シューズ]]』の「水沢とバレエ」の項目を参照のこと。 * 『りぼん』における愛称は、'''めぐタン'''。デビューして間もない頃は「水沢めぐみタン」「めぐみタン」「めぐみ」などとさまざまに呼ばれているが、『[[ポニーテール白書]]』の連載が始まった[[1985年]]あたりから「めぐタン」が定着している。『Cookie』に移籍後は通常「水沢めぐみ先生」と呼ばれているが、[[2011年]]現在でも『りぼん』に作品を発表する場合には「めぐタン」が用いられている。なお『りぼん』の漫画家に「〜タン」という愛称が用いられた例としては、他に[[太刀掛秀子]]の「でこタン」、[[陸奥A子]]の「A子タン」、[[本田恵子]]の「恵子タン」、[[おーなり由子]]の「由子タン」などがある。 * 本人いわく「体に何かつけるのがダメ」で、ストッキングやコンタクトレンズが苦手(りぼん本誌{{Full citation needed|title=掲載号、ページ番号不記載|date=2019年5月9日 (木) 13:36 (UTC)}}で発言)。 == 来歴 == [[お茶の水女子大学附属中学校]]、[[お茶の水女子大学附属高等学校]]、[[早稲田大学]][[教育学部]]卒業。中学時代から漫画を描き始め、1979年、[[高等学校|高校]]1年生の時に「心にそっとささやいて」で『[[りぼん]]』([[集英社]])でデビュー(9月大増刊号)。10代後半からプロの漫画家として活動を開始し、合計7作品を高校時代に発表。また高校時代は[[卓球]]部に所属。1年の浪人生活を経て、早稲田大学教育学部に入学。在学中は「なべの会」に所属。在学中の1985年夏から[[1987年]]春まで『ポニーテール白書』を連載。1987年春に同大学を卒業。2011年現在は[[中央本線|中央線]]の沿線に住んでいる。 代表作に、『[[ポニーテール白書]]』、『[[空色のメロディ]]』、『[[チャイム (水沢めぐみの漫画)|チャイム]]』、『[[姫ちゃんのリボン]]』、『[[トウ・シューズ (漫画)|トウ・シューズ]]』などがある。全盛期の『りぼん』を代表する作家の1人であるが、[[2000年]]前後に『りぼん』から新設の『[[Cookie (雑誌)|Cookie]]』(集英社)に移籍、それ以降は同誌に主な活動の場を移す。同誌での最初の連載は、2000年11月号から[[2002年]]4月号まで続いた「[[神様のオルゴール]]」。その後[[2003年]]5月号から[[2010年]]7月号まで不定期に「[[キラキラ100%]]」を連載した。「寺ガール」の終了後は[[小学館]]の女性漫画雑誌に作品を連載。現在は[[学研プラス]]発行の[[キラピチ]]に「さくらんぼダイアリー」連載中。 『Cookie』や小学館の女性漫画雑誌に主な活動の場を移した後もたびたび『りぼん』やその派生誌に作品を発表している。たとえば『りぼん』[[2007年]]8月号から10月号まで「[[おさんぽの時間]]」が連載され、[[2009年]]冬休み大増刊号りぼんスペシャルに読み切り「1月のメリーゴーラウンド」、2010年冬の大増刊号りぼんスペシャルに「3月の第2ボタン」がそれぞれ掲載された。 == 概要・備考 == * 初期作品のイメージ音楽集[[レコード|LPレコード]]が[[1987年]]に『空色のメロディ 水沢めぐみ作品集』というタイトルで発売された。[[プロデューサー]]は[[谷山浩子]]、[[ボーカル]]は[[笠原弘子]]。水沢自身も作詞・ボーカル(1曲)で参加している。曲のタイトルは「メッセージ」。『[[ポニーテール白書]]』連載中に描かれた同題の読み切り作品のストーリーを歌で表現したもの。同作品は[[1986年]]の『[[RIBONオリジナル|りぼんオリジナル]]』春の号に掲載され、コミックス『[[おしゃべりな時間割]]』前編に収録された。 * 『[[姫ちゃんのリボン]]』は[[1992年]]に[[テレビアニメ]]化され、小説・ミュージカル化もされた。モデルは[[国立市]]。テレビアニメではオープニングとエンディングのテーマ曲を[[SMAP]]が歌い、またメンバーの[[草彅剛]]が初の[[声優]]にチャレンジした。この作品は、『りぼん』創刊50周年を記念し、[[2005年]][[6月29日]]に[[DVD-BOX]]が発売された。テレビアニメの1話 - 23話までが収録されており、同年[[9月28日]]には24話 - 46話が収録された第2弾が、[[12月21日]]には47話 - 61話(最終話)が収録された第3弾が発売された。また新たに『[[姫ちゃんのリボン#姫ちゃんのリボン カラフル|姫ちゃんのリボン カラフル]]』としてリメイクされ、[[込由野しほ]]が作画を担当し、2009年10月号から2010年12月号まで『りぼん』本誌で連載された。さらに[[2015年]]には『りぼん』創刊60周年を記念し、新規書き下ろしの番外短編「トリオ☆トラブル」が『りぼん』本誌に掲載され、これを機に番外短編のシリーズがスタート。[[2016年]]12月の大増刊号まで不定期に発表され、このシリーズをまとめたRMC単行本『姫ちゃんのリボン 短編集』が、23年ぶりの『姫ちゃんのリボン』の最新巻として[[2017年]]の1月に発刊された。 * 『[[ないしょのプリンセス]]』は[[1996年]]に小説化されている。 * 同じ『りぼん』出身の漫画家である[[さくらももこ]]や[[柊あおい]]、[[吉住渉]]、[[矢沢あい]]、[[小花美穂]]、[[おーなり由子]]、[[槙ようこ]]らと親しい。『姫ちゃんのリボン』1巻に出て来る[[廃墟|廃屋]](空き家)は吉住が描いている。 * 『[[オレンジ革命 (漫画)|オレンジ革命]]』で[[一条ゆかり]]を抜いて『りぼん』本誌掲載の長さで見た場合の最長『りぼん』作家記録を打ち立てた。 * 2007年10月に発行された早稲田大学の広報にインタビュー記事が掲載された。 == 作品リスト == 寺ガールまでのコミックスは「[[りぼんマスコットコミックス]]」([[集英社]])レーベルから(『[[神様のオルゴール]]』と『[[キラキラ100%]]』は下位レーベル「りぼんマスコットコミックスクッキー」より)、文庫版は全て「[[集英社文庫|集英社文庫(コミック版)]]」からの発行。 2011年3月現在、『神様のオルゴール』『キラキラ100%』『オレンジ革命』『大好き!』『おさんぽの時間』『3月の第2ボタン』以外のコミックスはすべて絶版となっている。文庫版の内容は基本的には『りぼんマスコットコミックス』と同じだが、描き下ろしのエッセイや解説などが収録されている。 * [[5月のお茶会]] - 1981年12月 ISBN 978-4-08-853220-2 * [[きまぐれな予感]] - 1984年10月 ISBN 978-4-08-853312-4 * [[ねむり姫のイブ]] - 1985年10月 ISBN 978-4-08-853348-3 * [[ポニーテール白書]](全5巻、文庫版全3巻) * [[空色のメロディ]](全5巻、文庫版全3巻) * [[チャイム (水沢めぐみの漫画)|チャイム]](全3巻、文庫版全2巻) * [[姫ちゃんのリボン]](全10巻+短編集、文庫版全6巻) * [[おしゃべりな時間割]](全2巻、文庫版全1巻) * [[ないしょのプリンセス]](全4巻) * [[トウ・シューズ (漫画)|トウ・シューズ]](全5巻) * [[きゃらめるダイアリー]] - 2000年1月 ISBN 978-4-08-856186-8 * [[ガラスのむこうに花束を]] - 2000年7月 ISBN 978-4-08-856218-6 * [[神様のオルゴール]](全3巻) * [[いちごの宝石]] - 2002年2月 ISBN 978-4-08-856351-0 * [[お花もようのワンピース]] - 2002年11月 ISBN 978-4-08-856418-0 * [[ぴよぴよ天使]] - 2003年9月 ISBN 978-4-08-856491-3 * [[キラキラ100%]](全9巻) * [[オレンジ革命 (漫画)|オレンジ革命]] - 2004年12月 ISBN 978-4-08-856578-1 * [[大好き!]] - 2007年2月 ISBN 978-4-08-856727-3 * [[おさんぽの時間]] - 2007年11月 ISBN 978-4-08-856786-0 * [[3月の第2ボタン]] - 2010年3月 ISBN 978-4-08-867045-4 * 寺ガール(全3巻)<!-- りぼんマスコットコミックス クッキー --> *# 2012年1月 ISBN 978-4-08-867167-3 *# 2012年8月 ISBN 978-4-08-867220-5 *# 2013年2月 ISBN 978-4-08-867255-7 * 塔子さんには秘密がある(小学館 プチコミックフラワーコミックスα) - 2014年8月8日 ISBN 978-4-09-136256-8<ref>{{Cite web|和書|url=https://shogakukan-comic.jp/book?isbn=9784091362568|title=塔子さんには秘密がある|publisher=小学館|accessdate=2022-06-21}}</ref> * 日南子さんの理由アリな日々(小学館 プチコミックフラワーコミックスα、全7巻)<!-- 姉系プチコミック --> *# 2015年4月10日 ISBN 978-4-09-137087-7<ref>{{Cite web|和書|url=https://shogakukan-comic.jp/book?isbn=9784091370877|title=日南子さんの理由アリな日々 1|publisher=小学館|accessdate=2022-06-21}}</ref> *# 2015年12月10日 ISBN 978-4-09-137757-9<ref>{{Cite web|和書|url=https://shogakukan-comic.jp/book?isbn=9784091377579|title=日南子さんの理由アリな日々 2|publisher=小学館|accessdate=2022-06-21}}</ref> *# 2016年8月10日 ISBN 978-4-09-138542-0<ref>{{Cite web|和書|url=https://shogakukan-comic.jp/book?isbn=9784091385420|title=日南子さんの理由アリな日々 3|publisher=小学館|accessdate=2022-06-21}}</ref> *# 2017年4月10日 ISBN 978-4-09-139273-2<ref>{{Cite web|和書|url=https://shogakukan-comic.jp/book?isbn=9784091392732|title=日南子さんの理由アリな日々 4|publisher=小学館|accessdate=2022-06-21}}</ref> *# 2018年6月8日 ISBN 978-4-09-139677-8<ref>{{Cite web|和書|url=https://shogakukan-comic.jp/book?isbn=9784091396778|title=日南子さんの理由アリな日々 5|publisher=小学館|accessdate=2022-06-21}}</ref> *# 2019年2月8日 ISBN 978-4-09-870363-0<ref>{{Cite web|和書|url=https://shogakukan-comic.jp/book?isbn=9784098703630|title=日南子さんの理由アリな日々 6|publisher=小学館|accessdate=2022-06-21}}</ref> *# 2019年8月9日 ISBN 978-4-09-870564-1<ref>{{Cite web|和書|url=https://shogakukan-comic.jp/book?isbn=9784098705641|title=日南子さんの理由アリな日々 7|publisher=小学館|accessdate=2022-06-21}}</ref> * マジカル★ドリーム キラピチ5([[学研プラス]] ピチコミックス、全4巻)<!-- キラピチ --> *# 2015年9月 ISBN 978-4-05-607127-6<ref>{{Cite web|和書|url=https://hon.gakken.jp/book/1960712700 |title=マジカル★ドリーム キラピチ5 1巻|publisher=学研プラス|accessdate=2022-06-21}}</ref> *# 2017年7月 ISBN 978-4-05-607132-0<ref>{{Cite web|和書|url=https://hon.gakken.jp/book/1960713200 |title=マジカル★ドリーム キラピチ5 2巻|publisher=学研プラス|accessdate=2022-06-21}}</ref> *# 2020年9月 ISBN 978-4-05-607137-5<ref>{{Cite web|和書|url=https://hon.gakken.jp/book/1960713700 |title=マジカル★ドリーム キラピチ5 3巻|publisher=学研プラス|accessdate=2022-06-21}}</ref> *# 2020年9月 ISBN 978-4-05-607138-2<ref>{{Cite web|和書|url=https://hon.gakken.jp/book/1960713800 |title=マジカル★ドリーム キラピチ5 4巻|publisher=学研プラス|accessdate=2022-06-21}}</ref> * 君の手が紡ぐ(小学館 プチコミックフラワーコミックスα、既刊4巻)<!-- 姉系プチコミック --> *# 2020年4月10日 ISBN 978-4-09-871014-0<ref>{{Cite web|和書|url=https://shogakukan-comic.jp/book?isbn=9784098710140|title=君の手が紡ぐ 1|publisher=小学館|accessdate=2022-06-21}}</ref> *# 2020年12月10日 ISBN 978-4-09-871195-6<ref>{{Cite web|和書|url=https://shogakukan-comic.jp/book?isbn=9784098711956|title=君の手が紡ぐ 2|publisher=小学館|accessdate=2022-06-21}}</ref> *# 2021年8月10日 ISBN 978-4-09-871429-2<ref>{{Cite web|和書|url=https://shogakukan-comic.jp/book?isbn=9784098714292|title=君の手が紡ぐ 3|publisher=小学館|accessdate=2022-06-21}}</ref> *# 2022年4月8日 ISBN 978-4-09-871647-0<ref>{{Cite web|和書|url=https://shogakukan-comic.jp/book?isbn=9784098716470|title=君の手が紡ぐ 4|publisher=小学館|accessdate=2022-06-21}}</ref> * 空の音色(小学館『[[姉系プチコミック]]』2023年5月号<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/519675|title=水沢めぐみの新連載は偽りから始まる家族の愛の物語、姉系プチコミックで開幕|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-04-05|accessdate=2023-04-05}}</ref> - ) == 脚注 == <references /> == 外部リンク == * {{Wayback |url=http://www.waseda.jp/student/weekly/contents/2007b/137f.html |title=OB・OGインタビュー(2007年10月18日掲載) |date=20130527024327}} - 早稲田大学のインタビュー {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:みすさわ めくみ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:早稲田大学出身の人物]] [[Category:お茶の水女子大学附属高等学校出身の人物]] [[Category:大阪府出身の人物]] [[Category:1963年生]] [[Category:存命人物]]
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川村美香
川村 美香(かわむら みか、1973年8月5日 - )は、日本の漫画家。愛知県出身。 1991年、第12回なかよし新人まんが賞入選「夏祭りの眠り姫」で、『なかよしデラックス』(講談社)にてデビュー。代表作に『だぁ!だぁ!だぁ!』など。 単行本はすべて講談社。
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川村 美香は、日本の漫画家。愛知県出身。 1991年、第12回なかよし新人まんが賞入選「夏祭りの眠り姫」で、『なかよしデラックス』(講談社)にてデビュー。代表作に『だぁ!だぁ!だぁ!』など。
'''川村 美香'''(かわむら みか、[[1973年]][[8月5日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[愛知県]]出身。 [[1991年]]、第12回[[なかよし新人まんが賞]]入選「夏祭りの眠り姫」で、『[[なかよしデラックス]]』([[講談社]])にてデビュー。代表作に『[[だぁ!だぁ!だぁ!]]』など。 == 作品リスト == 単行本はすべて講談社<ref>[http://kc.kodansha.co.jp/search?kw=川村美香&content_type%5B%5D=2&order=1 講談社コミックプラス "川村美香"検索結果|講談社コミックプラス]</ref>。 * 桃にキッス!([[るんるん (講談社)|るんるん]]、講談社)1994年12月 ISBN 4-06-322811-8 * [[タイホしてみーな!]]([[なかよし]]、講談社) *# 1996年3月 ISBN 4-06-178828-0 *# 1996年7月 ISBN 4-06-178836-1 *# 1997年1月 ISBN 4-06-178851-5 * [[あわせて1本!]](なかよし) *# 1997年4月 ISBN 4-06-178861-2 *# 1997年11月 ISBN 4-06-178875-2 *# 1998年2月 ISBN 4-06-178882-5 * [[だぁ!だぁ!だぁ!]](なかよし) *# 1998年9月 ISBN 4-06-178898-1 *# 1999年1月 ISBN 4-06-178907-4 *# 1999年6月 ISBN 4-06-178916-3 *# 1999年12月 ISBN 4-06-178927-9 *# 2000年6月 ISBN 4-06-178939-2 *# 2000年12月 ISBN 4-06-178951-1 *# 2001年5月 ISBN 4-06-178962-7 *# 2001年11月 ISBN 4-06-178975-9 *# 2002年6月 ISBN 4-06-178991-0 ** なかよし60周年記念版<ref>[https://natalie.mu/comic/news/152708 なかよしの名作復刻スタート!第1弾はきん注、ミラクルガールズなど4作品|コミックナタリー]</ref> **# 2015年7月 ISBN 978-4-06-377235-7 **# 2015年7月 ISBN 978-4-06-377236-4 **# 2015年7月 ISBN 978-4-06-377237-1 **# 2015年8月 ISBN 978-4-06-377248-7 **# 2015年8月 ISBN 978-4-06-377249-4 **# 2015年8月 ISBN 978-4-06-377250-0 **# 2015年9月 ISBN 978-4-06-377261-6 **# 2015年9月 ISBN 978-4-06-377262-3 **# 2015年9月 ISBN 978-4-06-377263-0 * [[新☆だぁ!だぁ!だぁ!]](なかよし) *# 2002年11月 ISBN 4-06-364003-5 *# 2003年5月 ISBN 4-06-364018-3 * こんちあーす!(なかよし増刊 2003年はるやすみランド、講談社) * ハッピーアイスクリーム!(なかよし) *# 2004年4月 ISBN 4-06-364047-7 *# 2004年8月 ISBN 4-06-364056-6 *# 2004年12月 ISBN 4-06-364066-3 * [[ぱにっくXぱにっく]](なかよし) *# 2005年8月 ISBN 4-06-364086-8 *# 2005年12月 ISBN 4-06-364099-X * ♂のコのヒミツ(なかよし増刊 2005年[[なかよしラブリー]]夏の号、講談社) * [[杏仁小娘]](あんにんむすめ)(なかよしラブリー、なかよし)2006年11月 ISBN 4-06-364128-7 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かわむら みか}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:愛知県出身の人物]] [[Category:1973年生]] [[Category:存命人物]] {{Manga-artist-stub}}
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水都あくあ
水都 あくあ(みずと あくあ、1973年9月28日 - )は、日本の漫画家。愛知県名古屋市出身、神奈川県在住。血液型はO型。 1997年、『少女コミック』増刊5月15日号(小学館)に掲載された「桜の花咲く願いごと」でデビュー。 1999年、同誌にて「ミルククラウン」の連載を開始。同作品はシリーズ化された。 2003年、「ミルククラウン」シリーズの連載終了後、いくつかの連載作品を手がけたのち、『ChuChu』(小学館)に移籍。2005年、『ChuChu』創刊号から「ALMIGHTY×10」の連載を開始。同誌2007年10月号まで連載を継続した。 『ChuChu』で計3作の連載を発表したが、2009年年末の『ChuChu』休刊に伴い『ちゃお』(小学館)への移籍を自身のブログ上にて発表、約3年間「ちゃお」の作家陣の一員として活動したが、2012年いっぱいで小学館との契約を終了、フリーの漫画家となった。 2013年、『月刊プリンセス』(秋田書店)にて「D'プリンセス」を2015年まで連載。 キャリアを重ねていくたびに対象年齢が下がっている、珍しいタイプの漫画家だったが、先述の通り『月刊プリンセス』に作品を発表したことで、初めて対象年齢が上がった。同傾向の漫画家としては、ほかに原田妙子がいた。ただし、水都の作品の主人公は、デビュー当時から一貫して高校生または中学生の少女であり、レディースコミックから年少向けの少女漫画へ転向した原田ほどの極端な作風の変化はない(「Qティング♥」は例外的に小学生が主人公である)。 作中の台詞などで、通常「じ」と表記する仮名を「ぢ」とすることが多い(「じゅう」を「ぢゅう」、「じゃない」を「ぢゃない」など)。
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水都 あくあは、日本の漫画家。愛知県名古屋市出身、神奈川県在住。血液型はO型。
{{Infobox 漫画家 |名前 = 水都 あくあ |画像 = |画像サイズ = |脚注 = |本名 = |生年 = {{生年月日と年齢|1973|9|28}} |生地 = [[愛知県]][[名古屋市]] |没年 = |没地 = |国籍 = {{JPN}}<!---{{KOR}}要出典---> |職業 = [[漫画家]] |活動期間 = [[1997年]] - |ジャンル = [[少女漫画]] |代表作 = 『[[ミルククラウン (漫画)|ミルククラウン]]』<br />『[[ALMIGHTY×10]]』<br />『[[M☆G☆ダーリン]]』 |受賞 = |サイン = |公式サイト = }} {{JIS2004}} '''水都 あくあ'''(みずと あくあ、[[1973年]][[9月28日]] - )は、日本の<!---[[在日三世]]要出典---><!---[[韓国]][[ハーフ]]要出典--->[[漫画家]]。[[愛知県]][[名古屋市]]出身、[[神奈川県]]在住。[[ABO式血液型|血液型]]はO型。 == 来歴 == [[1997年]]、『[[少女コミック]]』増刊5月15日号([[小学館]])に掲載された「桜の花咲く願いごと」でデビュー。 [[1999年]]、同誌にて「[[ミルククラウン (漫画)|ミルククラウン]]」の連載を開始。同作品はシリーズ化された。 [[2003年]]、「ミルククラウン」シリーズの連載終了後、いくつかの連載作品を手がけたのち、『[[ChuChu]]』(小学館)に移籍。[[2005年]]、『ChuChu』創刊号から「[[ALMIGHTY×10]]」の連載を開始。同誌[[2007年]]10月号まで連載を継続した。 『ChuChu』で計3作の連載を発表したが、[[2009年]]年末の『ChuChu』休刊に伴い『[[ちゃお]]』(小学館)への移籍を自身のブログ上にて発表<ref>水都あくあ公式ページ・AQUAIZAN 2009年12月29日付記事(2010年2月12日閲覧)</ref>、約3年間「ちゃお」の作家陣の一員として活動したが、2012年いっぱいで小学館との契約を終了、フリーの漫画家となった<ref>[http://blog.aquaizan.com/?eid=1002131 水都あくあ公式ブログ・AQUA'S BLOG 2013年5月2日付記事「新」] 2013年6月13日閲覧。ただし同じ記事では『[[ちゃおデラックス#ちゃおデラックスホラー|ちゃおデラックスホラー]]』にて発表している「Qティング♥」も当面の間発表するともコメントしている。</ref>。 [[2013年]]、『[[月刊プリンセス]]』([[秋田書店]])にて「[[D'プリンセス]]」を[[2015年]]まで連載。 == 特徴 == キャリアを重ねていくたびに対象年齢が下がっている、珍しいタイプの漫画家だったが、先述の通り『月刊プリンセス』に作品を発表したことで、初めて対象年齢が上がった。同傾向の漫画家としては、ほかに[[原田妙子]]がいた。ただし、水都の作品の主人公は、デビュー当時から一貫して高校生または中学生の少女であり、[[レディースコミック]]から年少向けの少女漫画へ転向した原田ほどの極端な作風の変化はない(「Qティング♥」は例外的に小学生が主人公である)。 作中の台詞などで、通常「じ」と表記する仮名を「ぢ」とすることが多い(「じゅう」を「ぢゅう」、「じゃない」を「ぢゃない」など)。 == 作品リスト == * [[WANTE→D]] * [[恋心幻想曲]] * [[MY BOY×MY LOVE]] * [[GO!ばあじなる花遊記]] * [[ミルククラウン (漫画)|ミルククラウン]]シリーズ ** ミルククラウン ** ミルククラウンH! ** ミルククラウン♥ * [[ナイティング+ナイト]] * [[天神爛漫紀ORIGAMI]] * [[だから、やっぱりPPP!]] * [[ゆめゆめ煌々堂]] * [[ALMIGHTY×10]] * [[M☆G☆ダーリン]] * [[白い奇跡が舞う夜の]](『ちゃお』2007年12月号に発表した読み切り作品) * [[ultramixこれくしょん]] * [[あやかし怪盗]] * [[不思議テイルズガーデン]] * Qティング♥ * [[D'プリンセス]] == 脚注 == <references /> == 外部リンク == * {{Twitter|mizuto_v}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:みすと あくあ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:名古屋市出身の人物]] [[Category:1973年生]] [[Category:存命人物]]
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新宿区
新宿区(しんじゅくく)は、東京都の区部西部に位置する特別区で、東京都の都庁所在地。 渋谷区・豊島区とともに「副都心3区」とされる。また、不動産業界では、千代田区・中央区・港区の「都心3区」に新宿区と渋谷区を加えて「都心5区」と言われることがある。江戸時代には甲州街道の宿場町として栄えた新宿副都心は、現在では渋谷副都心や池袋副都心とともに東京の3大副都心の一角に数えられ、日本最大級の繁華街が広がっている。新宿駅は世界最大の利用者数を誇るターミナル駅であるため、駅周辺の昼夜の人口増減が特に著しい。また新宿駅西口に面する西新宿は東京でも有数のオフィス街であり、超高層ビルが林立している。歓楽街として有名な歌舞伎町も新宿駅東口に位置している。北部には都心のベッドタウンとして人口が急激に増えた住宅地の落合や、早稲田大学をはじめ多くの教育機関が集積し学生街として栄える高田馬場といった地区があり、新宿周辺とともに旧・淀橋区域の主要な一角を占める。 東京都庁は1991年より千代田区丸の内から移転してきて以降、同区西新宿に位置しており、自治体として見た場合は「東京都の都庁所在地」に該当する。ただし、新宿区を含む23特別区は地方自治法において他の46道府県庁所在地とは異なる「特別地方公共団体」とされており、通常の市町村(普通地方公共団体)と同格に扱われていないため、国土地理院発行地図を始め都庁所在地の地名は慣例的に「旧東京市の後裔たる東京都区部の総称」として「東京」と表記されている。 かつての35区が22区(後の23区)に移行した1947年に発足した区である。また、旧・牛込区、旧・四谷区、旧・淀橋区の3区が「寄り合い所帯」となって誕生した経緯から、個性に富んだ地域が区内に点在する。甲州街道から江戸への玄関口・四谷大木戸が設けられ、江戸時代以降に繁栄を見せたのが四谷地域(旧四谷区)である。四谷見附から新宿駅東口の手前及び信濃町駅周辺までが四谷地域に該当するため、警察署や消防署、公立学校の学区域も四谷地域の施設を利用することになる。国立競技場があるほか、新宿御苑や明治神宮外苑はこの地域に所在し、自然豊かな側面を持つ地域でもある。 江戸時代にかけて田園の住宅地として都市開発され、明治時代には既に成熟した住宅地として機能してきたのが牛込地域(旧牛込区)である。牛込地域は住居表示未実施がほとんどであり、戦災被害が比較的軽かったため古くからの町並みが再開発の手から逃れているなど、様々な面で都内を代表する保守的地域であると言える。神楽坂、市谷、早稲田と呼ばれる地名は全て牛込地域内である。 このほか、早稲田大学や東京理科大学など大学・学校も多い。慶應義塾大学病院や東京医科大学病院、東京女子医科大学病院などの大学病院、国立国際医療研究センター病院などの大病院も集積している。また、新宿区は都内で最も外国人が多い区である。外国人のなかでもとりわけ、中国人と韓国人が多数居住している。 特に大久保、大久保駅、新大久保駅周辺から職安通りにはコリアタウンをはじめとする、アジア系の外国人コミュニティが形成されている。新宿区の人口の1割が外国人とされる。新宿区の発展に伴い、東京都庁や防衛庁(現・防衛省)などの官公庁も移転してきた。 このように、商業地と住宅地、歴史ある地名と再開発地域、多国籍といった、まさに大都市の光景を縮図にした性格を新宿区はもっている。 1970年辺りまでは、「若者の街」「若者文化の流行の発信地」といえば新宿だった。しかし、1973年に渋谷パルコが開業したことにより、その座を渋谷に奪われた。 年齢5歳階級別人口 男女別 [単位 人] (2006年4月1日現在の住民基本台帳) 年齢5歳階級別人口 総計 [単位 人] (2006年4月1日現在の住民基本台帳) データ出典:町丁別住民基本台帳人口(新宿区役所地域調整課統計係) 2005年の夜間人口は303,809人であるが、区外からの通勤者と通学生および居住者のうちの区内残留人口の合計である昼間人口は770,094人で昼は夜の2.536倍の人口になる。 新宿区は東京都区部の中央やや西側に位置する。 新宿区の地勢を巨視的に観察すると、武蔵野台地(下末吉面・武蔵野面)と江戸低地との境界部分に位置していることが分かる。 下末吉面(淀橋台)と武蔵野面(本郷台の一部と豊島台)とが折り重なるようにして高台(山手)を作っており、この折り重なりにより生まれた起伏が区内標高最高地点の箱根山(44.6メートル、戸山一丁目)として今日みとめられる。標高30メートル程度の淀橋台(新宿・西新宿地区など)と20メートル程度の豊島台(落合・大久保地区など)はおおむね連続した平坦な高台を形成しており、鉄道(現在のJR線)が敷設された近代以降急速に人口増加が進んだ。 これら高台に、標高10メートル未満の江戸低地が入り組んでいる。神田川・妙正寺川はこの低地部分に沿って流れており、かつては諏訪・戸塚地区をはじめとする広範な湿地帯を形成していた。近世には人為的に作られた水流(江戸城外濠・玉川上水)が付近に加わり、今日の新宿区の西と北東 - 南東の境界はこれら水流を基準に定められている。このほか、区内の靖国通りも低地に沿って建設されている。 こうした高台と低地とを往来するための坂道が区内にも多く見られ、古来より風情と文化を育んだ。 区内の年間平均気温は約15°Cであり、東京都の気象観測所のある大手町付近と比べ約1°Cほど低い。冬は大手町よりも寒くなり、反対に夏は暑いこともある。 新宿区は、東京市四谷区・牛込区、豊多摩郡内藤新宿町・淀橋町・大久保町・戸塚町・落合町(5町はいずれも東京市に編入され、内藤新宿町は四谷区域、他の4町は淀橋区となる)を前身とする自治体で、1947年(昭和22年)3月15日に発足した。 新宿とは、もともとは豊多摩郡内藤新宿町のことである。1920年(大正9年)、東京市四谷区に合併編入された際に新宿一 - 三丁目(現在の新宿一 - 三丁目全体の区画とほぼ同じ)となり、新宿駅の発展とともに世界有数の繁華街・商業地区へと変貌を遂げた。その名前の由来は、1698年に甲州街道の新たな宿場町として、信州高遠藩内藤若狭守の下屋敷に「内藤新宿(四谷内藤新宿とも)」が開かれたことによる。四谷区・牛込区・淀橋区が合併する際、 との理由で新区名に採用された。 この新区名決定は困難をきわめた。そもそもこの合併自体が区側の発議によるものではなかったため反対の声が根強く(淀橋区は中野区や渋谷区と、牛込区は小石川区や麹町区と、四谷区は麹町区との合併を模索するような動きさえあった)、これらの声に最大限配慮し対等な合併であることを強調するためそれぞれの区名を新区名に採用しないことが合併の条件として付け加えられた(『四谷怪談』など四谷という地名は比較的知名度があるとして当初は「四谷区」が新区名に採用される見込みだったが、これにより不採用となった)。歴史的経緯がまったく異なる地区同士の合併であったため地域の総称やシンボルが存在せず、また3区の合併であるため大田区のような合成区名をつけることも難しかった(この時期に合併して誕生した区は、港区以外はどこも2区合併。また、港区の場合、前身の3区はすべて東京府発足当初から区部だったのに対し、新宿区の場合は四谷区や牛込区といった区部と内藤新宿町や淀橋区といった元郡部にまたがっているため事情を複雑にしていた)。 最終的に新区名は新宿区とすることが決まったが、牛込区はこの名前に当初難色を示した。新宿御苑も新宿駅周辺も牛込区には何ら関係がなく、新宿という「郊外の地区」の名前では牛込地区を連想することができなくなるとの理由からである(新宿区発足時には他にも新しく9の区名が東京都内に誕生したが、区内の1地区の名称を新区名に採用したのは新宿区だけだった。多くはシンボルなどに基づく瑞祥区名を採用している)。これが後に、牛込地区を中心に旧町名を残す運動が盛り上がる要因のひとつとなった。 新区名の候補として、他に などが挙がっていた。 新宿区では、全域の約7割の地域で住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されている。 周辺自治体と同様、新宿区も1965年(昭和40年)に住居表示の実施に着手。区内の西側から徐々に町域統合と住居表示を進めた。この結果、1970年代には戦後の若者文化の発信地とも言われていた新宿駅周辺の町名(柏木・角筈・淀橋など)が軒並み「新宿」「西新宿」「北新宿」で統一され、古い町名を頼りに昔の記憶を辿ることもままならなくなった。これを昔の情緒・伝統・文化の破壊と受け止めた文化人や旧牛込区・四谷区域の住民が中心となり、古い町名を残す運動が盛り上がりをみせた。 新宿区は当初、町域を統合した上で東新宿・東早稲田といった方角町名を採用して区内の住居表示完全実施を目指していたが、1980年代には町名保存の声に配慮し、未実施地区に関しては古い町名町域を出来る限り維持した上で住居表示を実施していく方針に転換することを区長が表明した。 これにより町名は存続することで決着をみたが、住居表示自体はその後もあまり進んでおらず、旧牛込区・四谷区域は、千代田区(神田を冠する町・番町・麹町)と同様、住居表示未実施地区を多く残して現在に至っている。住居表示実施率は2018年(平成30年)現在76.01パーセントであり、新宿区政の今後の課題のひとつとなっている。なお、2002年(平成14年)に市谷台町を、2003年(平成15年)には霞ヶ丘町の住居表示を実施したことにより、実施率が千代田区を上回った。 新宿区の特徴のひとつに、町名の数が多いことが挙げられる。新宿区に隣接する付近の自治体が(千代田区を除いて)おおむね20 - 30程度にまで町名を減らしたのに対し、新宿区には現在94(霞岳町と霞ヶ丘町を別個の町名とするならば95)の町名が存在する(この数字は東京都の特別区のうち最多)。江戸時代の武家屋敷や門前町屋に由来する町名が旧牛込区・四谷区域を中心に多くみられる(2009年(平成21年)7月末時点における住居表示未実施の町名は太字で示した。なお、白銀町と市谷台町には未実施の箇所がごくわずかながら存在する)。 新宿区の発足以降に消滅した町名は21ある。大部分が住居表示実施に伴う町名変更による。 上記のほか、区画整備や町域統合を目的としない町名変更が戦災復興時に行われた。いずれも商業的な理由による。 新宿区内を地域分け(区域分け)する方法はいくつか存在するが、合併により誕生した経緯から過去の行政区域を基準としたものが比較的多くみられる。市街地化によりこの基準が細分化されたり、交通網の発達とともに駅周辺が1つの地域として新たに認知されるようになるなど、この基準は月日の経過とともに変動が見られるため、普遍的な地域分けが確立しているわけではない。 代表的なものとして、新宿区の前身である東京市行政区時代の区域を基準にした3地区分類(各地区を四谷地区・牛込地区・淀橋地区などと表現する)がある。ただし、旧淀橋区域は範囲が広いことや、淀橋区が存在したのはわずか15年間であり1地域としての実態に乏しいこと、新宿(旧内藤新宿町域)を四谷に分類するのは今日の実態とかけ離れていることなどから、四谷・淀橋地区を前身1区5町域に細分化した7地区分類を基準に地域分けすることが多い。この基準に住居表示による町名町域変更の影響が加わり、各地区の名称や範囲は変化。戸塚地区は高田馬場・早稲田、旧淀橋町域(角筈・淀橋・柏木)は西新宿・北新宿という名称が定着した。また、相対的に範囲の広い旧牛込区域(牛込地区)において、南部(市谷を冠する町名が集まる地区)は市谷地区、北西部(早稲田大学周辺)は早稲田と呼ばれているが(いずれも牛込区の前身の市谷村域・早稲田村域に由来)、このほか地下鉄東西線沿線地区を早稲田・神楽坂と表現する機会も多くなっている。 新宿区内の地域名として使われる機会があるもののうち、主なものを以下に挙げる。 新宿区の発足以降、何度か境界変更がなされている。 新宿区は、練馬ナンバー(東京運輸支局)を割り当てられている。 新宿区は以下の6特別区に隣接している。隣接距離が最も長いのは中野区。 新宿区に隣接する特別区とその町域を以下に挙げる。 (最北端から時計回り順に記載。) 区は、1950年(昭和25年)以来10か所の特別出張所と区役所本庁地区の計11か所に対応する行政区域を設けている。名称は以下の通り。 調印年月日の順。 新宿区は、2010年(平成22年)に犯罪発生件数10537件を記録し、東京都内で最も犯罪発生件数が多い自治体となってしまった。そのため、繁華街だけでなく住宅地においても、条例の拡充や防犯パトロールなどの取り組みが行われている。 2017年の区割変更に伴い、落合第二特別出張所管内と落合第一特別出張所管内の上落合1・2丁目、中落合1丁目、中落合3・4丁目、中井2丁目は1区から10区に移行した。 東日本旅客鉄道(JR東日本) 東京地下鉄(東京メトロ) 東京都交通局(都営地下鉄) 京王電鉄 小田急電鉄 西武鉄道 このほか、駅の名称が新宿区に関係している(していた)駅がいくつか存在する。 現在の東京都心部における市街地電車の機能は、かつて路面電車(いわゆる都電)が担っていた。利用者数がピークを迎える1950年代当時の規模は路線数(系統数)41、路線総延長は213キロメートル。山手線の駅同士を結ぶような系統も多く、系統間の乗り換えも手軽で、都心部の拠点と拠点を網の目状に結んでいた。新宿区内においては、新宿駅前・四谷三丁目・早稲田・飯田橋をターミナルとする10路線が敷設され、山手線各駅・丸の内・銀座などへの往来に頻繁に利用されていた。しかし高度経済成長とともに一般車両をはじめとする交通量は年々増加し、路面電車の平均運行速度は低下。これにより利用者数は減少をたどり、東京都交通局の収益は悪化した。このため代替の地下鉄建設計画が具体化し、路面電車は1960年代後半から徐々に撤去されることになった。都電27系統の一部と32系統のみ恒久存続が決定し、今日荒川線という名称で運行しているが、そのほかの路線は1972年(昭和47年)11月までにすべて廃止された。 新宿区内を運行していた10路線のうち、32系統以外は1963年(昭和38年)から1970年(昭和45年)にかけて廃止。今日、当時の路線の沿線地区にはおおむね代替の地下鉄路線が建設されている。 新宿区内の主な道路には次のものがある。カッコ内の名称は、一般的な地図や道路上の標識に記載してある名称(一般名称)。 新宿区の都市計画道路に基づき、主に以下の路線が建設・計画中である。 新宿区の区道(一部例外あり)のうち愛称がついている路線がある。これらはいずれも1988年(昭和63年)12月に新宿区が愛称を募集して命名。地域の利便性を考慮して選考したため、周辺他区に関係の深い名称のものもある。(哲学堂は中野区内の建造物、江戸川橋は文京区内の橋。) 1965年(昭和40年)に淀橋浄水場(角筈三丁目、現在の西新宿二丁目)の機能が東村山市に移転したため、跡地および周辺(角筈二丁目・三丁目・十二社・淀橋)の整備計画が進められた。この一環として1969年(昭和44年)、新宿中央公園と新宿駅に挟まれた地区一帯に格子状の道路(いずれも東京都道)が完成。これらの一般名称を決めるために東京都と周辺住民が新宿副都心地区街路ネーミング委員会を立ち上げ、名称を選考。「平凡でも親しみの持てる名称を」との方針のもと、東京都庁舎(現庁舎)の移転開庁を目前にひかえた1990年(平成2年)9月に以下の8路線の名称を決定。 (東西に延びる道路を北側から、南北に伸びる道路を東側から順に記載。) 新宿駅周辺は国内最大の商業地となっている。 2008年(平成20年)7月現在の新宿区内の郵便局は56局、ATM出張所は17箇所。簡易郵便局は存在しない(以前は小田急百貨店内に簡易郵便局が存在した)。 集配郵便局は3局。区内一部地域は中野区にある落合郵便局が集配を担当している。 ゆうちょ銀行直営店舗は2店舗。 かんぽ生命保険直営店舗は1店舗。 郵便局 新宿区には病院(病床数20以上の入院可能な医療施設)が13あり、病床数の合計は5,543。東京都内では板橋区・八王子市に次いで3番目に病床数を多く抱える自治体である。また、1病院あたりの病床数は436(東京都内では文京区・狛江市に次いで3番目に大きい)であり、大病院が集積していることを窺わせる(数字はいずれも2021年(令和3年)11月現在)。 新宿区内の以下の7病院は東京都の災害拠点病院に指定されており、広域災害時の救急医療拠点としての機能を備えている。 その他の主な病院を以下に掲げる。 新宿区内の図書館および類似施設のうち、一般利用が可能な公立の施設は17ある。 防衛省図書館と総務省統計図書館は組織上国立国会図書館の支部となっているが、実態として維持管理は防衛省・総務省統計局によってなされており、来庁者のための情報公開施設として機能している。 新宿区立の図書館には、教育委員会の組織下のものと、それ以外のものに分類される。最も古い図書館は1951年(昭和26年)3月開館の新宿図書館(現四谷図書館、四谷区民センター内に併設)、最も新しい図書館は2006年(平成18年)4月設置のこども図書館(中央図書館内に併設)である。新宿区立の図書館はすべて、新宿区発足以降に新宿区によって新設された図書館であるため、周辺他区の図書館と比較してその歴史はあまり古くない。 教育委員会組織下の図書館の蔵書総数はおよそ82万点(雑誌の数は含まず)、視聴覚資料はおよそ4万5,000点。 上記17施設のほか、利用に条件のある図書館もいくつかある。 旧四谷区、旧牛込区、旧淀橋区の著名な出身者については四谷区、牛込区、淀橋区を参照
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "新宿区(しんじゅくく)は、東京都の区部西部に位置する特別区で、東京都の都庁所在地。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "渋谷区・豊島区とともに「副都心3区」とされる。また、不動産業界では、千代田区・中央区・港区の「都心3区」に新宿区と渋谷区を加えて「都心5区」と言われることがある。江戸時代には甲州街道の宿場町として栄えた新宿副都心は、現在では渋谷副都心や池袋副都心とともに東京の3大副都心の一角に数えられ、日本最大級の繁華街が広がっている。新宿駅は世界最大の利用者数を誇るターミナル駅であるため、駅周辺の昼夜の人口増減が特に著しい。また新宿駅西口に面する西新宿は東京でも有数のオフィス街であり、超高層ビルが林立している。歓楽街として有名な歌舞伎町も新宿駅東口に位置している。北部には都心のベッドタウンとして人口が急激に増えた住宅地の落合や、早稲田大学をはじめ多くの教育機関が集積し学生街として栄える高田馬場といった地区があり、新宿周辺とともに旧・淀橋区域の主要な一角を占める。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "東京都庁は1991年より千代田区丸の内から移転してきて以降、同区西新宿に位置しており、自治体として見た場合は「東京都の都庁所在地」に該当する。ただし、新宿区を含む23特別区は地方自治法において他の46道府県庁所在地とは異なる「特別地方公共団体」とされており、通常の市町村(普通地方公共団体)と同格に扱われていないため、国土地理院発行地図を始め都庁所在地の地名は慣例的に「旧東京市の後裔たる東京都区部の総称」として「東京」と表記されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "かつての35区が22区(後の23区)に移行した1947年に発足した区である。また、旧・牛込区、旧・四谷区、旧・淀橋区の3区が「寄り合い所帯」となって誕生した経緯から、個性に富んだ地域が区内に点在する。甲州街道から江戸への玄関口・四谷大木戸が設けられ、江戸時代以降に繁栄を見せたのが四谷地域(旧四谷区)である。四谷見附から新宿駅東口の手前及び信濃町駅周辺までが四谷地域に該当するため、警察署や消防署、公立学校の学区域も四谷地域の施設を利用することになる。国立競技場があるほか、新宿御苑や明治神宮外苑はこの地域に所在し、自然豊かな側面を持つ地域でもある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "江戸時代にかけて田園の住宅地として都市開発され、明治時代には既に成熟した住宅地として機能してきたのが牛込地域(旧牛込区)である。牛込地域は住居表示未実施がほとんどであり、戦災被害が比較的軽かったため古くからの町並みが再開発の手から逃れているなど、様々な面で都内を代表する保守的地域であると言える。神楽坂、市谷、早稲田と呼ばれる地名は全て牛込地域内である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "このほか、早稲田大学や東京理科大学など大学・学校も多い。慶應義塾大学病院や東京医科大学病院、東京女子医科大学病院などの大学病院、国立国際医療研究センター病院などの大病院も集積している。また、新宿区は都内で最も外国人が多い区である。外国人のなかでもとりわけ、中国人と韓国人が多数居住している。 特に大久保、大久保駅、新大久保駅周辺から職安通りにはコリアタウンをはじめとする、アジア系の外国人コミュニティが形成されている。新宿区の人口の1割が外国人とされる。新宿区の発展に伴い、東京都庁や防衛庁(現・防衛省)などの官公庁も移転してきた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "このように、商業地と住宅地、歴史ある地名と再開発地域、多国籍といった、まさに大都市の光景を縮図にした性格を新宿区はもっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1970年辺りまでは、「若者の街」「若者文化の流行の発信地」といえば新宿だった。しかし、1973年に渋谷パルコが開業したことにより、その座を渋谷に奪われた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "年齢5歳階級別人口 男女別 [単位 人] (2006年4月1日現在の住民基本台帳)", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "年齢5歳階級別人口 総計 [単位 人] (2006年4月1日現在の住民基本台帳)", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "データ出典:町丁別住民基本台帳人口(新宿区役所地域調整課統計係)", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2005年の夜間人口は303,809人であるが、区外からの通勤者と通学生および居住者のうちの区内残留人口の合計である昼間人口は770,094人で昼は夜の2.536倍の人口になる。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "新宿区は東京都区部の中央やや西側に位置する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "新宿区の地勢を巨視的に観察すると、武蔵野台地(下末吉面・武蔵野面)と江戸低地との境界部分に位置していることが分かる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "下末吉面(淀橋台)と武蔵野面(本郷台の一部と豊島台)とが折り重なるようにして高台(山手)を作っており、この折り重なりにより生まれた起伏が区内標高最高地点の箱根山(44.6メートル、戸山一丁目)として今日みとめられる。標高30メートル程度の淀橋台(新宿・西新宿地区など)と20メートル程度の豊島台(落合・大久保地区など)はおおむね連続した平坦な高台を形成しており、鉄道(現在のJR線)が敷設された近代以降急速に人口増加が進んだ。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "これら高台に、標高10メートル未満の江戸低地が入り組んでいる。神田川・妙正寺川はこの低地部分に沿って流れており、かつては諏訪・戸塚地区をはじめとする広範な湿地帯を形成していた。近世には人為的に作られた水流(江戸城外濠・玉川上水)が付近に加わり、今日の新宿区の西と北東 - 南東の境界はこれら水流を基準に定められている。このほか、区内の靖国通りも低地に沿って建設されている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "こうした高台と低地とを往来するための坂道が区内にも多く見られ、古来より風情と文化を育んだ。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "区内の年間平均気温は約15°Cであり、東京都の気象観測所のある大手町付近と比べ約1°Cほど低い。冬は大手町よりも寒くなり、反対に夏は暑いこともある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "新宿区は、東京市四谷区・牛込区、豊多摩郡内藤新宿町・淀橋町・大久保町・戸塚町・落合町(5町はいずれも東京市に編入され、内藤新宿町は四谷区域、他の4町は淀橋区となる)を前身とする自治体で、1947年(昭和22年)3月15日に発足した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "新宿とは、もともとは豊多摩郡内藤新宿町のことである。1920年(大正9年)、東京市四谷区に合併編入された際に新宿一 - 三丁目(現在の新宿一 - 三丁目全体の区画とほぼ同じ)となり、新宿駅の発展とともに世界有数の繁華街・商業地区へと変貌を遂げた。その名前の由来は、1698年に甲州街道の新たな宿場町として、信州高遠藩内藤若狭守の下屋敷に「内藤新宿(四谷内藤新宿とも)」が開かれたことによる。四谷区・牛込区・淀橋区が合併する際、", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "との理由で新区名に採用された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "この新区名決定は困難をきわめた。そもそもこの合併自体が区側の発議によるものではなかったため反対の声が根強く(淀橋区は中野区や渋谷区と、牛込区は小石川区や麹町区と、四谷区は麹町区との合併を模索するような動きさえあった)、これらの声に最大限配慮し対等な合併であることを強調するためそれぞれの区名を新区名に採用しないことが合併の条件として付け加えられた(『四谷怪談』など四谷という地名は比較的知名度があるとして当初は「四谷区」が新区名に採用される見込みだったが、これにより不採用となった)。歴史的経緯がまったく異なる地区同士の合併であったため地域の総称やシンボルが存在せず、また3区の合併であるため大田区のような合成区名をつけることも難しかった(この時期に合併して誕生した区は、港区以外はどこも2区合併。また、港区の場合、前身の3区はすべて東京府発足当初から区部だったのに対し、新宿区の場合は四谷区や牛込区といった区部と内藤新宿町や淀橋区といった元郡部にまたがっているため事情を複雑にしていた)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "最終的に新区名は新宿区とすることが決まったが、牛込区はこの名前に当初難色を示した。新宿御苑も新宿駅周辺も牛込区には何ら関係がなく、新宿という「郊外の地区」の名前では牛込地区を連想することができなくなるとの理由からである(新宿区発足時には他にも新しく9の区名が東京都内に誕生したが、区内の1地区の名称を新区名に採用したのは新宿区だけだった。多くはシンボルなどに基づく瑞祥区名を採用している)。これが後に、牛込地区を中心に旧町名を残す運動が盛り上がる要因のひとつとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "新区名の候補として、他に", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "などが挙がっていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "新宿区では、全域の約7割の地域で住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されている。", "title": "町名" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "周辺自治体と同様、新宿区も1965年(昭和40年)に住居表示の実施に着手。区内の西側から徐々に町域統合と住居表示を進めた。この結果、1970年代には戦後の若者文化の発信地とも言われていた新宿駅周辺の町名(柏木・角筈・淀橋など)が軒並み「新宿」「西新宿」「北新宿」で統一され、古い町名を頼りに昔の記憶を辿ることもままならなくなった。これを昔の情緒・伝統・文化の破壊と受け止めた文化人や旧牛込区・四谷区域の住民が中心となり、古い町名を残す運動が盛り上がりをみせた。", "title": "町名" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "新宿区は当初、町域を統合した上で東新宿・東早稲田といった方角町名を採用して区内の住居表示完全実施を目指していたが、1980年代には町名保存の声に配慮し、未実施地区に関しては古い町名町域を出来る限り維持した上で住居表示を実施していく方針に転換することを区長が表明した。", "title": "町名" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "これにより町名は存続することで決着をみたが、住居表示自体はその後もあまり進んでおらず、旧牛込区・四谷区域は、千代田区(神田を冠する町・番町・麹町)と同様、住居表示未実施地区を多く残して現在に至っている。住居表示実施率は2018年(平成30年)現在76.01パーセントであり、新宿区政の今後の課題のひとつとなっている。なお、2002年(平成14年)に市谷台町を、2003年(平成15年)には霞ヶ丘町の住居表示を実施したことにより、実施率が千代田区を上回った。", "title": "町名" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "新宿区の特徴のひとつに、町名の数が多いことが挙げられる。新宿区に隣接する付近の自治体が(千代田区を除いて)おおむね20 - 30程度にまで町名を減らしたのに対し、新宿区には現在94(霞岳町と霞ヶ丘町を別個の町名とするならば95)の町名が存在する(この数字は東京都の特別区のうち最多)。江戸時代の武家屋敷や門前町屋に由来する町名が旧牛込区・四谷区域を中心に多くみられる(2009年(平成21年)7月末時点における住居表示未実施の町名は太字で示した。なお、白銀町と市谷台町には未実施の箇所がごくわずかながら存在する)。", "title": "町名" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "新宿区の発足以降に消滅した町名は21ある。大部分が住居表示実施に伴う町名変更による。", "title": "町名" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "上記のほか、区画整備や町域統合を目的としない町名変更が戦災復興時に行われた。いずれも商業的な理由による。", "title": "町名" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "新宿区内を地域分け(区域分け)する方法はいくつか存在するが、合併により誕生した経緯から過去の行政区域を基準としたものが比較的多くみられる。市街地化によりこの基準が細分化されたり、交通網の発達とともに駅周辺が1つの地域として新たに認知されるようになるなど、この基準は月日の経過とともに変動が見られるため、普遍的な地域分けが確立しているわけではない。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "代表的なものとして、新宿区の前身である東京市行政区時代の区域を基準にした3地区分類(各地区を四谷地区・牛込地区・淀橋地区などと表現する)がある。ただし、旧淀橋区域は範囲が広いことや、淀橋区が存在したのはわずか15年間であり1地域としての実態に乏しいこと、新宿(旧内藤新宿町域)を四谷に分類するのは今日の実態とかけ離れていることなどから、四谷・淀橋地区を前身1区5町域に細分化した7地区分類を基準に地域分けすることが多い。この基準に住居表示による町名町域変更の影響が加わり、各地区の名称や範囲は変化。戸塚地区は高田馬場・早稲田、旧淀橋町域(角筈・淀橋・柏木)は西新宿・北新宿という名称が定着した。また、相対的に範囲の広い旧牛込区域(牛込地区)において、南部(市谷を冠する町名が集まる地区)は市谷地区、北西部(早稲田大学周辺)は早稲田と呼ばれているが(いずれも牛込区の前身の市谷村域・早稲田村域に由来)、このほか地下鉄東西線沿線地区を早稲田・神楽坂と表現する機会も多くなっている。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "新宿区内の地域名として使われる機会があるもののうち、主なものを以下に挙げる。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "新宿区の発足以降、何度か境界変更がなされている。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "新宿区は、練馬ナンバー(東京運輸支局)を割り当てられている。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "新宿区は以下の6特別区に隣接している。隣接距離が最も長いのは中野区。 新宿区に隣接する特別区とその町域を以下に挙げる。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "(最北端から時計回り順に記載。)", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "区は、1950年(昭和25年)以来10か所の特別出張所と区役所本庁地区の計11か所に対応する行政区域を設けている。名称は以下の通り。", "title": "区政" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "調印年月日の順。", "title": "区政" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "新宿区は、2010年(平成22年)に犯罪発生件数10537件を記録し、東京都内で最も犯罪発生件数が多い自治体となってしまった。そのため、繁華街だけでなく住宅地においても、条例の拡充や防犯パトロールなどの取り組みが行われている。", "title": "区政" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2017年の区割変更に伴い、落合第二特別出張所管内と落合第一特別出張所管内の上落合1・2丁目、中落合1丁目、中落合3・4丁目、中井2丁目は1区から10区に移行した。", "title": "議会" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "東日本旅客鉄道(JR東日本)", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "東京地下鉄(東京メトロ)", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "東京都交通局(都営地下鉄)", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "京王電鉄", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "小田急電鉄", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "西武鉄道", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "このほか、駅の名称が新宿区に関係している(していた)駅がいくつか存在する。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "現在の東京都心部における市街地電車の機能は、かつて路面電車(いわゆる都電)が担っていた。利用者数がピークを迎える1950年代当時の規模は路線数(系統数)41、路線総延長は213キロメートル。山手線の駅同士を結ぶような系統も多く、系統間の乗り換えも手軽で、都心部の拠点と拠点を網の目状に結んでいた。新宿区内においては、新宿駅前・四谷三丁目・早稲田・飯田橋をターミナルとする10路線が敷設され、山手線各駅・丸の内・銀座などへの往来に頻繁に利用されていた。しかし高度経済成長とともに一般車両をはじめとする交通量は年々増加し、路面電車の平均運行速度は低下。これにより利用者数は減少をたどり、東京都交通局の収益は悪化した。このため代替の地下鉄建設計画が具体化し、路面電車は1960年代後半から徐々に撤去されることになった。都電27系統の一部と32系統のみ恒久存続が決定し、今日荒川線という名称で運行しているが、そのほかの路線は1972年(昭和47年)11月までにすべて廃止された。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "新宿区内を運行していた10路線のうち、32系統以外は1963年(昭和38年)から1970年(昭和45年)にかけて廃止。今日、当時の路線の沿線地区にはおおむね代替の地下鉄路線が建設されている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "新宿区内の主な道路には次のものがある。カッコ内の名称は、一般的な地図や道路上の標識に記載してある名称(一般名称)。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "新宿区の都市計画道路に基づき、主に以下の路線が建設・計画中である。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "新宿区の区道(一部例外あり)のうち愛称がついている路線がある。これらはいずれも1988年(昭和63年)12月に新宿区が愛称を募集して命名。地域の利便性を考慮して選考したため、周辺他区に関係の深い名称のものもある。(哲学堂は中野区内の建造物、江戸川橋は文京区内の橋。)", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "1965年(昭和40年)に淀橋浄水場(角筈三丁目、現在の西新宿二丁目)の機能が東村山市に移転したため、跡地および周辺(角筈二丁目・三丁目・十二社・淀橋)の整備計画が進められた。この一環として1969年(昭和44年)、新宿中央公園と新宿駅に挟まれた地区一帯に格子状の道路(いずれも東京都道)が完成。これらの一般名称を決めるために東京都と周辺住民が新宿副都心地区街路ネーミング委員会を立ち上げ、名称を選考。「平凡でも親しみの持てる名称を」との方針のもと、東京都庁舎(現庁舎)の移転開庁を目前にひかえた1990年(平成2年)9月に以下の8路線の名称を決定。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "(東西に延びる道路を北側から、南北に伸びる道路を東側から順に記載。)", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "新宿駅周辺は国内最大の商業地となっている。", "title": "商業" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "2008年(平成20年)7月現在の新宿区内の郵便局は56局、ATM出張所は17箇所。簡易郵便局は存在しない(以前は小田急百貨店内に簡易郵便局が存在した)。", "title": "機関・施設" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "集配郵便局は3局。区内一部地域は中野区にある落合郵便局が集配を担当している。", "title": "機関・施設" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "ゆうちょ銀行直営店舗は2店舗。", "title": "機関・施設" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "かんぽ生命保険直営店舗は1店舗。", "title": "機関・施設" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "郵便局", "title": "機関・施設" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "新宿区には病院(病床数20以上の入院可能な医療施設)が13あり、病床数の合計は5,543。東京都内では板橋区・八王子市に次いで3番目に病床数を多く抱える自治体である。また、1病院あたりの病床数は436(東京都内では文京区・狛江市に次いで3番目に大きい)であり、大病院が集積していることを窺わせる(数字はいずれも2021年(令和3年)11月現在)。", "title": "機関・施設" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "新宿区内の以下の7病院は東京都の災害拠点病院に指定されており、広域災害時の救急医療拠点としての機能を備えている。", "title": "機関・施設" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "その他の主な病院を以下に掲げる。", "title": "機関・施設" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "新宿区内の図書館および類似施設のうち、一般利用が可能な公立の施設は17ある。", "title": "機関・施設" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "防衛省図書館と総務省統計図書館は組織上国立国会図書館の支部となっているが、実態として維持管理は防衛省・総務省統計局によってなされており、来庁者のための情報公開施設として機能している。", "title": "機関・施設" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "新宿区立の図書館には、教育委員会の組織下のものと、それ以外のものに分類される。最も古い図書館は1951年(昭和26年)3月開館の新宿図書館(現四谷図書館、四谷区民センター内に併設)、最も新しい図書館は2006年(平成18年)4月設置のこども図書館(中央図書館内に併設)である。新宿区立の図書館はすべて、新宿区発足以降に新宿区によって新設された図書館であるため、周辺他区の図書館と比較してその歴史はあまり古くない。", "title": "機関・施設" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "教育委員会組織下の図書館の蔵書総数はおよそ82万点(雑誌の数は含まず)、視聴覚資料はおよそ4万5,000点。", "title": "機関・施設" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "上記17施設のほか、利用に条件のある図書館もいくつかある。", "title": "機関・施設" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "", "title": "機関・施設" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "旧四谷区、旧牛込区、旧淀橋区の著名な出身者については四谷区、牛込区、淀橋区を参照", "title": "人物" } ]
新宿区(しんじゅくく)は、東京都の区部西部に位置する特別区で、東京都の都庁所在地。
{{出典の明記|date=2021年2月}} {{東京都の特別区 |自治体名 = 新宿区 | 画像 = {{multiple image | border = infobox | total_width = 280 | image_style = border:1; | perrow = 1/1 | image1 = Skyscrapers of Shinjuku 2009 January.jpg | image2 = Shinjuku_Gyoen_National_Garden_-_sakura_3.JPG }} | 画像の説明 = <table style="width:280px; margin:2px auto; border-collapse:collapse"> <tr><td style="width:100%" colspan="2">[[西新宿]]の超高層ビル群と[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]</tr> <tr><td style="width:100%" colspan="2">[[新宿御苑]]</tr> </table> |区旗 = [[ファイル:Flag of Shinjuku, Tokyo.svg|100px|border|新宿区旗]] |区旗の説明 = 新宿[[市町村旗|区旗]] |区章 = [[ファイル:Emblem of Shinjuku, Tokyo.svg|70px|新宿区章]] |区章の説明 = 新宿[[市町村章|区章]]<br />[[1967年]][[3月15日]]制定 |コード=13104-1 |隣接自治体 = [[千代田区]]、[[港区 (東京都)|港区]]、[[文京区]]、[[渋谷区]]、[[中野区]]、[[豊島区]] |木 = [[ケヤキ|けやき]] |花 = [[ツツジ|つつじ]] |シンボル名 = 区の未来特使 |鳥など = [[鉄腕アトム]] |郵便番号 = 160-8484 |所在地 = 新宿区[[歌舞伎町]]一丁目4番1号<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-13|display=inline,title}}<br />[[ファイル:Shinjuku City Office 2007-01.jpg|250px|新宿区役所]] |外部リンク = {{Official website}} |位置画像 = {{基礎自治体位置図|13|104|image=Shinjuku-ku in Tokyo Prefecture Ja.svg|村の色分け=no}}<br />{{Maplink2|zoom=11|frame=yes|plain=yes|frame-align=center|frame-width=280|frame-height=200|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2}} |特記事項 = }} {{Location map|Japan Mapplot|coordinates={{Coord|35.69384|139.703549}}|caption=新宿区|width=256}} [[ファイル:GSI USA-M324-392 19560310.jpg|thumb|新宿御苑周辺の航空写真。新宿駅西側に[[淀橋浄水場]]がある(1956年3月10日)]] '''新宿区'''(しんじゅくく)は、[[東京都]]の[[区部]]西部に位置する[[特別区]]で<ref>大辞林 第三版</ref>、東京都の[[都道府県庁所在地|都庁所在地]]<ref group="注釈">条例上の都庁舎所在地。特別区のため、[[教科書]]などでは[[東京23区]]や[[東京]]と表記する場合もある。</ref>。 == 概要 == [[渋谷区]]・[[豊島区]]とともに「'''副都心3区'''」とされる<ref>国土交通省 第6章 都市構造と鉄道利用に関する分析</ref>。また、不動産業界では、[[千代田区]]・[[中央区 (東京都)|中央区]]・[[港区 (東京都)|港区]]の「都心3区」に新宿区と渋谷区を加えて'''「都心5区」'''と言われることがある<ref>{{Cite web|和書|title=都心三区 {{!}} 用語集|タウンハウジング|url=https://www.townhousing.co.jp/corp/|website=タウンハウジング|賃貸マンション・アパートのお部屋探しはお任せください。|accessdate=2021-04-04|language=ja}}</ref>。[[江戸時代]]には[[甲州街道]]の[[宿場町]]として栄えた[[新宿|新宿副都心]]は、現在では[[渋谷副都心]]や[[池袋副都心]]とともに東京の'''3大[[副都心]]'''の一角に数えられ、[[日本]]最大級の[[繁華街]]が広がっている。[[新宿駅]]は世界最大の利用者数を誇る[[ターミナル駅]]であるため、駅周辺の[[昼]][[夜]]の[[人口]]増減が特に著しい。また新宿駅西口に面する[[西新宿]]は東京でも有数の[[オフィス街]]であり、超高層ビルが林立している。[[歓楽街]]として有名な[[歌舞伎町]]も新宿駅東口に位置している。北部には[[都心]]の[[ベッドタウン]]として人口が急激に増えた[[住宅地]]の[[落合町 (東京府)|落合]]や、[[早稲田大学]]をはじめ多くの教育機関が集積し[[学生街]]として栄える[[高田馬場]]といった地区があり、新宿周辺とともに旧・[[淀橋区]]域の主要な一角を占める。 [[東京都庁舎|東京都庁]]は[[1991年]]より[[千代田区]][[丸の内]]から移転してきて以降、同区[[西新宿]]に位置しており<ref name="ordinance">[https://web.archive.org/web/20051028164308/http://www.reiki.metro.tokyo.jp/reiki_honbun/ag10100011.html 東京都庁の位置を定める条例](東京都)</ref><ref name="query">[https://web.archive.org/web/20141224154829/http://www.seisakukikaku.metro.tokyo.jp/soumu/sonota/syozaiti.htm 東京都の県庁(都庁)所在地について]([[東京都政策企画局]])</ref>、自治体として見た場合は「東京都の[[都道府県庁所在地|都庁所在地]]」に該当する。ただし、新宿区を含む23特別区は[[地方自治法]]において他の46道府県庁所在地とは異なる「[[特別地方公共団体]]」とされており、通常の[[市町村]]([[地方公共団体|普通地方公共団体]])と同格に扱われていないため、[[国土地理院]]発行地図を始め都庁所在地の地名は慣例的に「旧[[東京市]]の後裔たる[[東京都区部]]の総称」として「[[東京]]」と表記されている<ref name="query"/><ref>[https://web.archive.org/web/20141006075652/https://www.tokyo-shoseki.co.jp/e-mail/qanda/q-js-shakai/q01-03.htm 東京都の都庁所在地は,なぜ「東京」となっているのでしょうか。(東京書籍)]</ref>。 かつての35区が22区(後の23区)に移行した[[1947年]]に発足した区である。また、旧・[[牛込区]]、旧・[[四谷区]]、旧・[[淀橋区]]の3区が「寄り合い所帯」となって誕生した経緯から、個性に富んだ地域が区内に点在する。甲州街道から[[江戸]]への玄関口・[[四谷大木戸]]が設けられ、[[江戸時代]]以降に繁栄を見せたのが[[四谷]]地域(旧[[四谷区]])である。四谷見附から新宿駅東口の手前及び信濃町駅周辺までが四谷地域に該当するため、[[警察署]]や[[消防署]]、[[公立学校]]の学区域も四谷地域の施設を利用することになる。[[国立競技場]]があるほか、[[新宿御苑]]や[[明治神宮外苑]]はこの地域に所在し<ref group="注釈">新宿御苑は一部[[渋谷区]]、明治神宮外苑は一部[[港区 (東京都)|港区]]にまたがる。</ref>、自然豊かな側面を持つ地域でもある。 江戸時代にかけて田園の住宅地として都市開発され、[[明治|明治時代]]には既に成熟した[[住宅地]]として機能してきたのが[[牛込]]地域(旧[[牛込区]])である。牛込地域は[[住居表示]]未実施がほとんどであり、戦災被害が比較的軽かったため古くからの町並みが再開発の手から逃れているなど、様々な面で都内を代表する保守的地域であると言える。[[神楽坂]]、[[市谷]]、[[早稲田]]と呼ばれる地名は全て牛込地域内である。 このほか、[[早稲田大学]]や[[東京理科大学]]など[[大学]]・[[学校]]も多い。[[慶應義塾大学病院]]や[[東京医科大学病院]]、[[東京女子医科大学病院]]などの[[大学病院]]、[[国立国際医療研究センター|国立国際医療研究センター病院]]などの大病院も集積している。また、新宿区は都内で最も[[日本の外国人|外国人]]が多い区である。[[外国人]]のなかでもとりわけ、[[中国人]]と[[大韓民国#国民|韓国人]]が多数[[居住]]している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.shinjuku.lg.jp/content/000344806.pdf |title=新宿区 住民基本台帳の外国人住民国籍別男女別人口 |access-date=2022年8月11日 |publisher=新宿区}}</ref>。 特に[[大久保 (新宿区)|大久保]]、[[大久保駅 (東京都)|大久保駅]]、[[新大久保駅]]周辺から職安通りには[[コリアタウン]]をはじめとする、アジア系の外国人コミュニティが形成されている。新宿区の人口の1割が外国人とされる<ref>{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20160306215122/http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201603/CK2016030502000252.html |title=親が外国人、29人に1人 14年新生児 過去最高水準 |publisher=[[東京新聞]] |date =2016-03-05 | accessdate=2016-04-09}}</ref>。新宿区の発展に伴い、[[東京都庁]]や[[防衛省|防衛庁]](現・防衛省)などの官公庁も移転してきた。 このように、[[商業地]]と住宅地、歴史ある地名と再開発地域、多国籍といった、まさに[[大都市]]の光景を縮図にした性格を新宿区はもっている。 [[1970年]]辺りまでは、「[[青年|若者]]の街」「[[若者文化]]の流行の発信地」といえば新宿だった。しかし、[[1973年]]に[[渋谷パルコ]]が開業したことにより、その座を[[渋谷]]に奪われた<ref>{{Cite web|和書|title=渋谷はなぜ「若者の街」となったのか? パルコとロフト、東急ハンズが作った文化の香りとその感覚 {{!}} アーバン ライフ メトロ - URBAN LIFE METRO - ULM|url=https://urbanlife.tokyo/post/19176/|website=アーバン ライフ メトロ|accessdate=2021-10-19|language=ja}}</ref>。 == 人口 == {{人口統計|code=13104|name=新宿区|image=Population distribution of Shinjuku, Tokyo, Japan.svg}} {{新宿区/5歳階級別人口}} === 昼夜間人口差 === 2005年の夜間人口は303,809人であるが、区外からの[[通勤]]者と[[通学]]生および居住者のうちの区内残留人口の合計である[[昼間人口]]は770,094人で[[昼]]は[[夜]]の2.536倍の[[人口]]になる。 == 地理 == 新宿区は[[東京都区部]]の中央やや西側に位置する。 === 地勢 === [[ファイル:Shinjukucity-areamap1.png|thumb|新宿区の<br />地勢・境界・隣接自治体]] 新宿区の地勢を巨視的に観察すると、[[武蔵野台地]](下末吉面・武蔵野面)と江戸低地との境界部分に位置していることが分かる。 下末吉面(淀橋台)と武蔵野面(本郷台の一部と豊島台)とが折り重なるようにして高台(山手)を作っており、この折り重なりにより生まれた起伏が区内[[標高]]最高地点の[[箱根山 (新宿区)|箱根山]](44.6メートル、戸山一丁目)として今日みとめられる。標高30メートル程度の淀橋台([[新宿]]・[[西新宿]]地区など)と20メートル程度の豊島台(落合・[[大久保 (新宿区)|大久保]]地区など)はおおむね連続した平坦な高台を形成しており、[[鉄道]](現在のJR線)が敷設された近代以降急速に人口増加が進んだ。 これら高台に、標高10メートル未満の江戸低地が入り組んでいる。[[神田川 (東京都)|神田川]]・[[妙正寺川]]はこの低地部分に沿って流れており、かつては諏訪・戸塚地区をはじめとする広範な湿地帯を形成していた。近世には人為的に作られた水流([[江戸城]]外濠・[[玉川上水]])が付近に加わり、今日の新宿区の西と北東 - 南東の境界はこれら水流を基準に定められている。このほか、区内の[[東京都道302号新宿両国線|靖国通り]]も低地に沿って建設されている。 こうした高台と低地とを往来するための坂道が区内にも多く見られ、古来より風情と文化を育んだ。 区内の年間平均[[気温]]は約15℃であり、東京都の[[気象観測]]所のある[[大手町 (千代田区)|大手町]]付近と比べ約1℃ほど低い。[[冬]]は大手町よりも寒くなり、反対に[[夏]]は暑いこともある。 == 歴史 == 新宿区は、[[東京市]][[四谷区]]・[[牛込区]]、[[豊多摩郡]][[内藤新宿町]]・[[淀橋町]]・[[大久保町 (東京府)|大久保町]]・[[戸塚町 (東京府)|戸塚町]]・[[落合町 (東京府)|落合町]](5町はいずれも東京市に編入され、内藤新宿町は四谷区域、他の4町は[[淀橋区]]となる)を前身とする自治体で、[[1947年]]([[昭和]]22年)3月15日に発足した。 === 沿革 === * [[1878年]]([[明治]]11年)[[11月2日]]:[[郡区町村編制法]]が施行され、東京府は次の15区6郡に区画分けされる。 ** 麹町区・神田区・日本橋区・京橋区・芝区・麻布区・赤坂区・'''四谷区'''・'''牛込区'''・小石川区・本郷区・下谷区・浅草区・本所区・深川区・荏原郡・'''南豊島郡'''・北豊島郡・東多摩郡・南足立郡・南葛飾郡 * [[1889年]](明治22年)[[5月1日]]:[[東京府]]内に[[市制]]・[[町村制]]が施行される。 ** '''[[東京市]]'''発足。以降、四谷区・牛込区など15区はこの東京市に属する。 ** 南豊島郡内に町村('''内藤新宿町'''・'''淀橋町'''・大久保村・戸塚村・落合村・他)が発足。 ** 南豊島郡千駄ヶ谷村の一部を四谷区に編入。 ** 南豊島郡牛込早稲田村を牛込区に編入。 ** 南豊島郡下落合村の一部を[[北豊島郡]]長崎村に編入。 * [[1891年]](明治24年)[[3月18日]]:南豊島郡内藤新宿町の一部(大字内藤新宿一丁目・大字内藤新宿添地町の各一部)が東京市に編入され、以降四谷区域の一部となる。 * [[1896年]](明治29年)[[4月1日]]:南豊島郡と東多摩郡が合併し'''豊多摩郡'''となる。 * [[1898年]](明治31年)[[12月1日]]:[[淀橋浄水場|淀橋浄水工場(淀橋浄水場)]]通水。[[神田 (千代田区)|神田]]・[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]地区に給水開始。 * [[1912年]]([[大正]]元年)12月1日:豊多摩郡大久保村が町制施行。'''大久保町'''発足。 * [[1914年]](大正{{0}}3年)[[1月1日]]:豊多摩郡戸塚村が町制施行。'''戸塚町'''発足。 [[ファイル:Shinjuku in 1933.JPG|180px|thumb|新宿通り(1933年)]] * [[1920年]](大正{{0}}9年)4月1日:豊多摩郡内藤新宿町の全域が東京市に編入され、以降四谷区域の一部となる。 * [[1924年]](大正13年)[[2月1日]]:豊多摩郡落合村が町制施行。'''落合町'''発足。 * [[1932年]]([[昭和]]7年)[[10月1日]]:豊多摩郡淀橋町・大久保町・戸塚町・落合町が東京市に編入。4町の町域をもって東京市'''淀橋区'''発足(この日、東京市には周辺82町村が編入され、淀橋区など20区が新たに発足。東京市域が大幅に拡大したため、以降「大東京市」などと表現されることもある)。 * [[1943年]](昭和18年)[[7月1日]]:[[東京都制]]施行により、東京府と東京市は廃止され東京都が発足。以降、四谷区・牛込区・淀橋区は東京都の行政区となる。 * [[1946年]](昭和21年):東京都区域整理委員会(東京都の諮問機関)設置。四谷区・牛込区・淀橋区をはじめとする東京都35区の数を減らすことを目的とした区域再編問題が議論される。最終的には、以下のうち22区移行案を答申。 ** 12区移行案 - 四谷区・牛込区・小石川区(現在の[[文京区]]の西側)・淀橋区・[[豊島区]]の5区をひとつにする案 ** 22区移行案(25区移行案の修正) - 四谷区・牛込区・淀橋区の3区をひとつにする案(現行の23区とほぼ同じ。[[練馬区]]はのちに[[板橋区]]から分離するため、この段階での区数は22) ** 25区移行案 - 四谷区・牛込区・淀橋区の3区をひとつにする案(のちの新宿区域に関しては22区移行案と同じ。違いは、赤坂区と[[渋谷区]]の合併、練馬区や玉川区の新設、[[足立区]]や[[江戸川区]]の区域変更などが盛り込まれていた) * [[1947年]](昭和22年) ** [[3月15日]]:東京都制第141条により四谷区・牛込区・淀橋区を合併し、3区の区域をもって東京都'''新宿区'''発足(東京都の[[政令指定都市#政令指定都市一覧|行政区]]として発足)。区長は東京都長官が任命(3月15日 - 4月12日元成純夫、4月13日 - 5月2日岡田昇三。元成はその後[[1955年]](昭和30年)まで新宿区初代助役として岡田を支える)。[[新宿区役所]]は旧牛込区役所(箪笥町、現牛込箪笥区民センター)に置かれる。 ** [[5月3日]]:[[地方自治法]]施行により、新宿区は[[特別区]]となる。公選により岡田昇三が[[区長]]に就任(岡田の区長在任期間は5期20年。[[1952年]](昭和27年)の地方自治法改正により、3期目以降は公選ではなく、区議会が[[東京都知事]]の同意を得て選任。なお、岡田は[[1945年]](昭和20年)淀橋区長に任命された経験がある)。 * [[1949年]](昭和24年)[[3月15日]]:[[区歌]]「[[大新宿区の歌]]」制定。 * [[1950年]](昭和25年)[[1月1日]]:区役所を[[歌舞伎町]]に移転(1度目の移転)。 * [[1965年]](昭和40年)[[3月31日]]:[[淀橋浄水場]](角筈三丁目、現座の西新宿二丁目)廃止。浄水場機能は[[東村山浄水場]]([[東村山市]])に移転。以後、跡地は新宿副都心地区として整備計画が本格化する。 * [[1966年]](昭和41年)[[11月21日]]:区役所新庁舎(現本庁舎、歌舞伎町一丁目)完成し、旧庁舎から移転。業務開始(2度目の移転、現在に至る)。 * [[1967年]](昭和42年) ** [[3月15日]]:区の紋章を制定。 ** [[10月6日]]:任期満了により岡田昇三が区長を引退。 ** 後任の区長には助役の伊藤俊行が内定しており、都知事の同意も得ていた。ところが、伊藤が二重に[[住民票|住民登録]]をしていることが区議会で問題視されたため区長就任には至らなかった。その後も新たな候補者の選任が難航し、ほぼ1年間にわたり区長が不在となる。 ** [[12月17日]]:[[副市町村長|助役]](伊藤俊行)と収入役が任期満了を迎える。区長が不在のため新たな助役・収入役の任命を行うことができず、翌年の山本区長就任まで空席となる。この助役空席期間における区長職務は、新宿区役所総務部長の内田義雄が代理執行。 * [[1968年]](昭和43年)[[10月4日]]:新宿区教育委員長の山本克忠が区長に就任(山本の区長在任期間は6期23年。[[1975年]](昭和50年)の地方自治法改正により、3期目以降は公選による。[[1991年]](平成3年)の区長選挙に立候補するも僅差で落選、引退)。 * [[1972年]](昭和47年)[[9月19日]]:区の花を「[[ツツジ|つつじ]]」に、区の木を「[[ケヤキ|けやき]]」に制定。 * [[1975年]](昭和50年)[[4月1日]]:[[新宿中央公園]]が東京都から新宿区に移管される。 [[ファイル:Shinjuku City Office 2007-03.jpg|thumb|right|200px|新宿区役所・本庁舎前]] * [[1977年]](昭和52年):区役所分庁舎が歌舞伎町(現歌舞伎町一丁目・現第一分庁舎建設地)に完成、業務開始。 * [[1986年]](昭和61年):平和都市宣言。 * [[1989年]]([[平成]]元年)[[9月18日]]:区役所第二分庁舎(歌舞伎町一丁目・現本庁舎から30メートル北に位置する建物を賃借)完成、業務開始(すでに第一分庁舎の建設計画が決まっていたため、第二分庁舎と名付けられた)。これに伴い、分庁舎は改築工事のため閉鎖。 * [[1991年]](平成3年) ** [[4月1日]]:[[東京都庁舎|東京都庁]]第一本庁舎・第二本庁舎・都議会議事堂(西新宿二丁目)が完成し、旧都庁舎([[千代田区]][[丸の内]]三丁目・現[[東京国際フォーラム]]建設地)から移転完了、業務開始。 ** [[4月27日]]:[[東京都議会]]議員の経歴をもつ小野田隆が区長に就任(小野田の区長在任期間は3期11年。[[2002年]](平成14年)に自身の[[住民税]]滞納問題が発覚し任期途中に辞職)。 ** 旧分庁舎跡地に区役所第一分庁舎(歌舞伎町一丁目・現第一分庁舎)完成、業務開始。 * [[1994年]](平成6年):環境都市宣言。 * [[1995年]](平成7年)10月:財政非常事態を宣言。 * [[1997年]](平成9年)[[4月28日]]:区役所四谷庁舎(内藤町・四谷区民センター内)完成、業務開始。これに伴い、第二分庁舎は廃止。 * [[2000年]](平成12年):[[防衛省|防衛庁]]本庁庁舎が港区[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]九丁目(防衛庁[[檜町駐屯地|檜町地区]]。いわゆる六本木庁舎。現在は[[東京ミッドタウン]])から新宿区市谷本村町([[防衛省市ヶ谷地区|防衛庁市ヶ谷地区]])に移転完了。 * [[2002年]](平成14年) ** [[10月9日]]:小野田区長が辞職(後任区長の就任までの期間、新宿区助役の高橋和雄が区長職務を代理)。 ** [[11月24日]]:東京都幹部職員の経歴をもつ[[中山弘子]]が区長に就任(女性区長の誕生は東京23区初)。 * [[2003年]](平成15年) ** [[4月7日]]:区の「未来特使」に「[[鉄腕アトム]]」を任命。 ** [[4月25日]]:2001 - 2002年度の実質単年度収支が黒字となったため財政非常事態宣言を「とりやめる」と発表。 * [[2004年]](平成16年)[[2月9日]]:区役所第二分庁舎(新宿五丁目・現第二分庁舎)完成、業務開始。これに伴い四谷庁舎は廃止。 * [[2005年]](平成17年)8月:ポイ捨て・路上喫煙禁止を定める「新宿区空き缶等の散乱及び路上喫煙による被害の防止に関する条例」を施行。 * [[2012年]](平成24年)9月:区役所本庁舎の耐震指標(IS値)が公共施設の目標値0.7を大幅に下回る0.15と判明。震度6で倒壊する可能性が指摘され、区長が2014年度に耐震補強工事を行うことを表明<ref>[https://web.archive.org/web/20121023034657/http://mainichi.jp/area/tokyo/news/20120913ddlk13010262000c.html 新宿区:区役所本庁舎が耐震指標未満 14年秋にも補強 /東京(毎日新聞 2012年09月13日 地方版)]</ref>。 === 区名由来 === [[新宿]]とは、もともとは[[豊多摩郡]][[内藤新宿町]]のことである。[[1920年]](大正9年)、東京市四谷区に合併編入された際に新宿一 - 三丁目(現在の新宿一 - 三丁目全体の区画とほぼ同じ)となり、[[新宿駅]]の発展とともに世界有数の繁華街・商業地区へと変貌を遂げた。その名前の由来は、[[1698年]]に[[甲州街道]]の新たな宿場町として、信州[[高遠藩]]内藤若狭守の下屋敷に「内藤新宿(四谷内藤新宿とも)」が開かれたことによる。四谷区・牛込区・淀橋区が合併する際、 * 「内藤新宿」は古い文献にも出てくるため歴史を感じさせる。 * [[新宿御苑]](四谷区)や新宿駅(淀橋区)などの言葉が全国的に有名である。 * 区内のほかの地名より「普遍的である」。 との理由で新区名に採用された。 この新区名決定は困難をきわめた。そもそもこの合併自体が区側の発議によるものではなかったため反対の声が根強く(淀橋区は[[中野区]]や[[渋谷区]]と、牛込区は[[小石川区]]や[[麹町区]]と、四谷区は麹町区との合併を模索するような動きさえあった)、これらの声に最大限配慮し対等な合併であることを強調するためそれぞれの区名を新区名に採用しないことが合併の条件として付け加えられた(『四谷怪談』など四谷という地名は比較的知名度があるとして当初は「四谷区」が新区名に採用される見込みだったが、これにより不採用となった)。歴史的経緯がまったく異なる地区同士の合併であったため地域の総称やシンボルが存在せず、また3区の合併であるため[[大田区]]のような[[合成地名|合成区名]]をつけることも難しかった(この時期に合併して誕生した区は、[[港区 (東京都)|港区]]以外はどこも2区合併。また、港区の場合、前身の3区はすべて[[東京府]]発足当初から区部だったのに対し、新宿区の場合は四谷区や牛込区といった区部と内藤新宿町や淀橋区といった元郡部にまたがっているため事情を複雑にしていた)。 最終的に新区名は新宿区とすることが決まったが、牛込区はこの名前に当初難色を示した。新宿御苑も新宿駅周辺も牛込区には何ら関係がなく、新宿という「郊外の地区」の名前では牛込地区を連想することができなくなるとの理由からである(新宿区発足時には他にも新しく9の区名が東京都内に誕生したが、区内の1地区の名称を新区名に採用したのは新宿区だけだった。多くはシンボルなどに基づく[[瑞祥地名|瑞祥区名]]を採用している)。これが後に、牛込地区を中心に旧町名を残す運動が盛り上がる要因のひとつとなった。 新区名の候補として、他に * 「'''戸山区'''」- 戸山は牛込区内の地名。[[戸山公園]]がある。地理的に3区のほぼ中央に位置することから候補になった。当時[[東京新聞]]が実施した調査(新区名の人気投票)では、得票数一位だった候補名。全国的な知名度から新宿区のほうが「普遍的である」と判断され、採用ならず。 * 「'''武蔵野区'''」- 武蔵野は武蔵野国・武蔵野台地に由来する[[広域地名]]。周辺他区の新区名候補でもあったため、選考から外されたものと思われる。 * 「'''山手区'''」 - 山手は武蔵野台地に由来する広域地名。周辺他区の新区名候補でもあったため、選考から外されたものと思われる。 * 「'''早稲田区'''」 - 早稲田は牛込区内の地名。牛込は明治期の文学者所縁の地が多く、早稲田もそのひとつ。[[早稲田大学]]がある。新宿区のほうが「普遍的である」と判断され、採用ならず。 * 「'''市谷区'''」 - 市谷は牛込区内の地名。JRの駅名([[市ケ谷駅]])にもなっている。この地区の広大な敷地が陸軍士官学校(2016年現在は防衛省市ヶ谷庁舎が所在)となっているため、そのイメージに固定されてしまうと懸念され選考からはずされた。 * 「'''富士見区'''」 - [[瑞祥地名]]。 * 「'''花園区'''」 - 花園は四谷区内の地名。花園神社や花園小学校などにその名前が残っている。[[京都市]]や[[東大阪市]]などに全国的に有名な花園という地名が存在するため選考から外されたものと思われる。 * 「'''柏木区'''」 - 柏木は淀橋区内の地名。 などが挙がっていた。 === 過去の出来事 === ; [[浄瑠璃坂の仇討]] : [[1672年]]([[寛文]]12年)[[2月3日]]、現新宿区[[市谷砂土原町]]の浄瑠璃坂にあった戸田七之助の屋敷に、奥平源八の一党が父の[[仇討]]のために討ち入る。仇の奥平隼人の探索に失敗して引き上げる途中、追ってきた隼人を近くの牛込御門前にて殺害。約20人死亡。 ; [[高田馬場の決闘]] : [[1694年]][[3月6日]]([[元禄]]7年2月11日)、[[高田馬場]](現・新宿区[[西早稲田]])にて[[伊予国]][[西条藩]][[松平頼純]]の家臣が[[決闘]]。約5人死亡。後に[[赤穂事件]]に参加した[[堀部武庸]]が助太刀して名を挙げた。 ; [[寿産院事件]] : [[1944年]](昭和19年)4月から[[1948年]](昭和23年)1月にかけて東京都新宿区[[市谷柳町]]の寿産院院長とその夫が85人から169人(正確な数は不明)の[[赤ちゃん|嬰児]]を[[凍死]]、[[餓死]]、[[窒息死]]などさまざまな死因で殺害した。同院では嬰児に対する[[虐待]]が常態となっており、[[新聞広告]]などによって200人以上の乳幼児を集め、養育費を受けとりながら食事をろくに与えずに100人以上を死亡させた。 ; [[嶋中事件]]([[風流夢譚事件]]) : 雑誌『[[中央公論]]』[[1960年]]12月号に掲載された[[深沢七郎]]の小説『[[風流夢譚]]』が民衆が[[皇太子]]・[[皇太子妃]]を斬首する内容や[[皇居]]を襲撃する内容を描いていることに抗議して、[[1961年]](昭和36年)[[2月1日]]に[[右翼]]の[[大日本愛国党]]の少年が、新宿区[[市ヶ谷]]にある[[中央公論社]]社長の[[嶋中鵬二]]宅に押しかけ、[[家政婦]]を殺害し夫人に重傷を負わせた ;[[米軍燃料輸送列車事故]] : [[1967年]](昭和42年)[[8月8日]][[新宿駅]]構内で、渡り線を通過中の[[中央本線|中央線]][[立川駅|立川]]行き[[貨物列車]]([[アメリカ軍|米軍基地]]への燃料輸送列車)の側面に、中央線上りの[[浜川崎駅|浜川崎]]行き貨物列車が停止信号を盲進し衝突。脱線・転覆したタンク車から漏れた航空燃料に引火し、機関車とタンク車3両が炎上した。死傷者は出なかったものの、激しい火災の消火と復旧作業に手間取ったことから復旧が遅れ、中央線は丸1日ストップした。 ; [[新宿騒乱|新宿騒乱事件]] : [[1968年]](昭和43年)[[10月21日]]の[[国際反戦デー]]の深夜、新宿駅を中心に集結した大規模な[[全日本学生自治会総連合|全学連]]の[[学生運動]]に対し[[騒乱罪]]が適用され、翌朝に催涙弾で制圧された。 ; 新宿西口広場反戦フォークゲリラ事件 : [[1969年]](昭和44年)より開催されていた反戦フォーク集会(最大で4万人が集結したともいわれている)が通行の邪魔になるとして、[[機動隊]]と衝突。騒乱となった。以降、“広場”ではなく[[道路交通法]]上の「[[道路]]」と指定換えがされ、集会は禁止となった。 ; [[三島事件]]([[楯の会]]事件) : [[1970年]](昭和45年)[[8月19日]]、[[作家]]の[[三島由紀夫]]が新宿区[[市谷本村町]]の[[市ヶ谷駐屯地]]にあった[[陸上自衛隊]][[東部方面隊 (陸上自衛隊)|東部方面総監部]]の総監室を「楯の会」メンバー4人と共に占拠し、[[憲法改正論議|憲法改正]]のため[[自衛隊]]の決起([[クーデター]])を呼びかけた後に「楯の会」メンバー1人と共に[[割腹自殺]]をした。 ; [[新宿クリスマスツリー爆弾事件]] : [[1971年]](昭和46年)[[12月24日]]、新宿区[[新宿]]3丁目の[[四谷警察署]]追分派出所付近で、[[黒ヘルグループ]]の鎌田俊彦を中心とするグループが仕掛けた、[[クリスマスツリー]]に偽装した[[時限爆弾]]が爆発。[[日本の警察官|警察官]]2人と通行人7人が重軽傷を負った。 ; [[新宿西口バス放火事件]] : [[1980年]](昭和55年)[[8月19日]]、新宿駅西口[[バスターミナル]]の[[路線バス]]に男が放火、6人が死亡、14人が重軽傷を負う惨事となった。 ; [[新宿歌舞伎町ラブホテル連続殺人事件]] : [[1981年]](昭和56年)3月 - 6月に新宿区歌舞伎町の[[ラブホテル]]で3人の女性が相次いで何者かに殺害された事件。結局事件はいずれも未解決のまま[[公訴時効]]が成立した(うち[[被害者]]1人の身元は現在も不明のまま)が、[[プライバシー]]重視を売りにしたラブホテルの防犯対策が真剣に考えられるようになった契機にもなった。 ; [[新宿歌舞伎町ディスコナンパ殺傷事件]] : [[1982年]](昭和57年)6月、[[家出]]中の女子中学生2人が新宿区歌舞伎町の[[ディスコ]]で若い男に誘われ、[[千葉市]][[花見川区]]内で殺傷された事件。被害者の[[証言]]を基に作成された[[被疑者|容疑者]]の[[似顔絵]]が公表されたが、結局事件は未解決のまま公訴時効が成立した。 ; [[歌舞伎町]]付近の「中国人[[マフィア]]」関連の抗争事件 : [[1987年]]2月、歌舞伎町近くにあったマンションで台湾マフィア同士の銃撃戦が展開され、3名が死亡。 : [[1987年]]12月、大久保の[[マンション]]で台湾マフィア幹部2名が射殺される。 : [[1992年]]9月、[[中華民国|台湾]]マフィアの一因が[[職務質問]]した警察官2名を射殺。 : [[1994年]]6月、[[中華人民共和国|中国]]クラブで福建人アウトローが上海人と揉め、その男を刺殺して逃亡。 : [[1994年]]8月10日、「歌舞伎町・快活林事件」(いわゆる青竜刀事件) 中国料理屋「快活林」にて、刃物をもった男が店員と客を切りつけ、2名死亡、1名が重傷。 : [[1999年]] [[大韓民国|韓国]]カジノとクラブの経営者が射殺される。 : [[2000年]] 貸し金庫の管理をしていた女性が[[中国人]]に殺害される。 : [[2001年]]8月 福建マフィアによる中国クラブ「V」強盗殺人事件。[[日本人]]店長が殺害される。 : [[2002年]]9月 歌舞伎町喫茶店「パリジエンヌ」で中国東北グループに属する中国人マフィアのメンバーが歌舞伎町を縄張りとする[[住吉会]]幸平一家の組員二人を射殺。 : [[2002年]]10月、上記の報復で住吉会幸平一家は、中国側運転手を刺殺。死体を新宿区上落合に遺棄。 : [[2003年]]3月 大久保のマンションで中国人殺害される。 ; 戸山人骨問題 : [[1989年]](平成元年)7月、[[国立感染症研究所]](戸山一丁目、当時[[品川区]]から新宿区に移転中)の移転予定地の工事現場から、人為的損傷痕のある不自然な人骨が35体発見された。この地はかつて[[陸軍軍医学校]]の敷地だったため、[[戦前]]の[[大日本帝国陸軍|陸軍]]による[[人体標本]]説や[[人体実験]]説などの憶測も呼んだ。人骨は鑑定後新宿区により焼却埋葬される予定だったが、鑑定結果は陸軍の関与を示しているとして真相究明を求める運動が起こり、人骨の焼却差止め訴訟に発展した。 ; [[歌舞伎町ビル火災]] : [[2001年]](平成13年)[[9月1日]]、歌舞伎町の[[風俗店]]などが入居するビルから出火、死者44人を出す大惨事となった。[[日本の消防|消防]]査察の強化をはじめ、歌舞伎町浄化政策を促すこととなった。 ; 新宿歴史博物館盗難事件 : [[2002年]](平成14年)、新宿区立[[新宿歴史博物館]]([[四谷三栄町]])の所蔵品の一部([[林芙美子]]の書簡7点)が[[競争入札|競売入札]]にかけられていることが発覚(新宿区の公式プレスリリースでは、競争入札にかけられていることを新宿区の職員が把握したのは[[6月20日]]であるとしている)。新宿区はこれを27万円で買い戻すとともに、盗難届を出して内部調査を開始した。[[8月23日]]、新宿区役所環境保全課の職員(犯行時には新宿歴史博物館学芸課に勤務)がこれら所蔵品の[[横領罪|横領]]と転売の容疑で[[逮捕]]され、自宅と新宿区役所が[[捜索|家宅捜索]]されるに至った。この時期には「[[夏目漱石]]の『道草』草稿など20点の所在も不明である」「新宿歴史博物館は所蔵資料を定期的にチェックしておらず、前回の点検は7年前であった」との[[報道]]もなされ、博物館の管理体制の甘さを露呈した。 ; 現職区長の住民税滞納問題 : [[2002年]](平成14年)10月、新宿区長の小野田隆が[[住民税]]などの納税を滞納していることが発覚。当時新宿区は財政非常事態宣言を出し[[福祉]][[行政]]の見直しを進めていただけに、区民から大きな批判を浴びた。数日後、滞納額は[[所得税]]と[[相続税]]11億7,600万円、都民税と区民税3,700万円の総額12億1,300万円と[[報道]]され、小野田は区長を引責辞任。また、新宿区の職員が直接小野田に督促していなかったことや、小野田の滞納が今回はじめてではなかった事実も明らかになり、住民税滞納者への臨戸徴収(自宅訪問徴収)を一時見合わせるなど、区政も混乱した。 ==町名== 新宿区では、全域の約7割の地域で[[住居表示に関する法律]]に基づく[[住居表示]]が実施されている。 ===新宿区役所区民課管内=== {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" |+新宿区役所区民課管内(9町丁) !style="width:15%"|町名 !style="width:10%"|住居表示実施年月日 !style="width:40%"|住居表示実施直前町名 !style="width:25%"|備考 |- |{{ruby|'''[[市谷鷹匠町]]'''|いちがやたかじょうまち}} |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[神楽河岸]]'''|かぐらがし}} |1988年2月15日 |神楽河岸(大部分)、揚場町、下宮比町、神楽坂1(以上道路のみ) |1983年8月18日付で当町と千代田区飯田橋四丁目との間の区境が変更(等面積交換)されている。<ref>『新宿区広報』昭和58年9月5日号</ref> |- |{{ruby|'''[[神楽坂]]'''|かぐらざか}}'''一丁目''' |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[霞ヶ丘町]]'''|かすみがおかまち}} |2003年9月29日 |霞岳町(大部分)、南元町(一部) |信濃町駅前の交番の旧所在地、及び大京町・南元町の南に接する道路敷は町名変更及び住居表示未実施 |- |{{ruby|'''[[片町 (新宿区)|片町]]'''|かたまち}} |2009年2月16日 |片町(大部分)、市谷本村町(道路のみ)、住吉町(道路のみ) |町域北東端の市谷本村町寄りの区域は住居表示未実施 |- |{{ruby|'''[[歌舞伎町]]'''|かぶきちょう}}'''一丁目''' |1978年2月1日 |歌舞伎町(全)、角筈1、西大久保1、三光町、百人町1、角筈2(道路のみ) | |- |{{ruby|'''[[下宮比町]]'''|しもみやびちょう}} |1988年2月15日 |下宮比町(大部分)、新小川町2、揚場町、津久戸町、神楽河岸(以上道路のみ) | |- |{{ruby|'''[[西早稲田]]'''|にしわせだ}}'''一丁目''' |1975年6月1日 |高田町(全)、戸塚町1・2、諏訪町、戸山町 | |- |{{ruby|'''[[早稲田鶴巻町]]'''|わせだつるまきちょう}} |未実施 | | |- |} ===新宿区役所榎町特別出張所管内=== {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" |+新宿区役所榎町特別出張所管内(20町丁) !style="width:14%"|町名 !style="width:12%"|住居表示実施年月日 !style="width:32%"|住居表示実施前の町名など !style="width:18%"|備考 |- |{{ruby|'''[[市谷薬王寺町]]'''|いちがややくおうじまち}} |2023年11月6日 |市谷薬王寺町(大部分)、市谷本村町、市谷仲之町(以上道路のみ) |道路部分の一部は未実施 |- |{{ruby|'''[[市谷柳町]]'''|いちがややなぎちょう}} |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[原町 (新宿区)|原町]]'''|はらまち}}'''一丁目''' |未実施 | | |- |'''原町二丁目''' |未実施 | | |- |'''原町三丁目''' |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[弁天町 (新宿区)|弁天町]]'''|べんてんちょう}} |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[喜久井町]]'''|きくいちょう}} |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[早稲田町]]'''|わせだまち}} |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[早稲田南町]]'''|わせだみなみちょう}} |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[馬場下町]]'''|ばばしたちょう}} |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[榎町 (新宿区)|榎町]]'''|えのきちょう}} |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[東榎町]]'''|ひがしえのきちょう}} |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[中里町 (新宿区)|中里町]]'''|なかざとちょう}} |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[天神町 (新宿区)|天神町]]'''|てんじんちょう}} |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[山吹町 (新宿区)|山吹町]]'''|やまぶきちょう}} |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[赤城下町]]'''|あかぎしたまち}} |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[築地町 (新宿区)|築地町]]'''|つきじちょう}} |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[水道町 (新宿区)|水道町]]'''|すいどうちょう}} |1989年11月6日 |水道町(大部分)、築地町、改代町(以上道路のみ) | |- |{{ruby|'''[[改代町]]'''|かいたいちょう<ref group="注釈">『角川日本地名大辞典 東京都』には「かいたいまち」とあるが、新宿区公式サイト、日本郵便の郵便場号一覧ほか諸資料には「かいたいちょう」とある。</ref>}} |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[市谷仲之町]]'''|いちがやなかのちょう}} |1986年2月24日 |市谷仲之町(大部分)、住吉町、市谷河田町、片町(以上道路のみ) | |- |} ===新宿区役所大久保特別出張所管内=== {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" |+新宿区役所大久保特別出張所管内(11町丁) !style="width:14%"|町名 !style="width:12%"|住居表示実施年月日 !style="width:32%"|住居表示実施前の町名など !style="width:18%"|備考 |- |{{ruby|'''[[新宿]]'''|しんじゅく}}'''六丁目''' |1978年7月1日 |新宿1〜4、花園町、番衆町、東大久保1(以上全)、角筈1・2、三光町、東大久保2、西大久保1・2 | |- |'''新宿七丁目''' |1978年7月1日 |新宿1〜4、花園町、番衆町、東大久保1(以上全)、角筈1・2、三光町、東大久保2、西大久保1・2 | |- |{{ruby|'''[[歌舞伎町]]'''|かぶきちょう}}'''二丁目''' |1978年2月1日 |歌舞伎町(全)、角筈1、西大久保1、三光町、百人町1、角筈2(道路のみ) | |- |{{ruby|'''[[大久保 (新宿区)|大久保]]'''|おおくぼ}}'''一丁目''' |1978年7月1日 |西大久保2〜4、百人町4、戸塚町3(線路のみ) | |- |'''大久保二丁目''' |1978年7月1日 |西大久保2〜4、百人町4、戸塚町3(線路のみ) | |- |'''大久保三丁目''' |1978年7月1日 |西大久保2〜4、百人町4、戸塚町3(線路のみ) | |- |{{ruby|'''[[百人町]]'''|ひゃくにんちょう}}'''一丁目''' |1971年6月1日 |百人町2・3(全)、百人町4、戸塚町3・4 | |- |'''百人町二丁目''' |1971年6月1日 |百人町2・3(全)、百人町4、戸塚町3・4 | |- |'''百人町三丁目''' |1971年6月1日 |百人町2・3(全)、百人町4、戸塚町3・4 | |- |'''百人町四丁目''' |1975年6月1日 |百人町2・3(全)、百人町4、戸塚町3・4 | |- |{{ruby|'''[[戸山_(新宿区)|戸山]]'''|とやま}}'''三丁目''' |1981年6月1日 |戸山町(大部分)、諏訪町(一部)、西大久保4(一部)、東大久保2、若松町、喜久井町(以上道路のみ) | |- |} {{Reflist|group="a"}} ===新宿区役所落合第一特別出張所管内=== {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" |+新宿区役所落合第一特別出張所管内(8町丁) !style="width:14%"|町名 !style="width:12%"|住居表示実施年月日 !style="width:32%"|住居表示実施前の町名など !style="width:18%"|備考 |- |{{ruby|'''[[下落合 (新宿区)|下落合]]'''|しもおちあい}}'''一丁目''' |1972年1月1日 |下落合1(全)、下落合2・3、戸塚町3・4 | |- |'''下落合二丁目''' |1972年1月1日 |下落合1(全)、下落合2・3、戸塚町3・4 | |- |'''下落合三丁目''' |1972年1月1日 |下落合1(全)、下落合2・3、戸塚町3・4 | |- |'''下落合四丁目''' |1972年1月1日 |下落合1(全)、下落合2・3、戸塚町3・4 | |- |{{ruby|'''[[上落合 (新宿区)|上落合]]'''|かみおちあい}}'''一丁目''' |1966年11月10日 |上落合1・2、下落合2・3 | |- |'''上落合二丁目''' |1966年11月10日 |上落合1・2、下落合2・3 | |- |{{ruby|'''[[中落合 (新宿区)|中落合]]'''|なかおちあい}}'''一丁目''' |1965年8月1日 |下落合2〜4、西落合1、上落合2 | |- |'''中落合二丁目''' |1965年8月1日 |下落合2〜4、西落合1、上落合2 | |- |} ===新宿区役所落合第二特別出張所管内=== {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" |+新宿区役所落合第二特別出張所管内(9町丁) !style="width:14%"|町名 !style="width:12%"|住居表示実施年月日 !style="width:32%"|住居表示実施前の町名など !style="width:18%"|備考 |- |{{ruby|'''[[西落合 (新宿区)|西落合]]'''|にしおちあい}}'''一丁目''' |1965年8月1日 |西落合1・3(全)、西落合2、下落合4 | |- |'''西落合二丁目''' |1965年8月1日 |西落合1・3(全)、西落合2、下落合4 | |- |'''西落合三丁目''' |1965年8月1日 |西落合1・3(全)、西落合2、下落合4 | |- |'''西落合四丁目''' |1965年8月1日 |西落合1・3(全)、西落合2、下落合4 | |- |{{ruby|'''[[中落合_(新宿区)|中落合]]'''|なかおちあい}}'''三丁目''' |1965年8月1日 |下落合2〜4、西落合1、上落合2 | |- |'''中落合四丁目''' |1965年8月1日 |下落合2〜4、西落合1、上落合2 | |- |{{ruby|'''[[中井 (新宿区)|中井]]'''|なかい}}'''一丁目''' |1965年8月1日 |下落合5(全)、下落合3・4、上落合2 | |- |'''中井二丁目''' |1965年8月1日 |下落合5(全)、下落合3・4、上落合2 | |- |{{ruby|'''[[上落合_(新宿区)|上落合]]'''|かみおちあい}}'''三丁目''' |1966年11月10日 |上落合1・2、下落合2・3 | |- |} {{Reflist|group="b"}} ===新宿区役所柏木特別出張所管内=== {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" |+新宿区役所柏木特別出張所管内(7町丁) !style="width:14%"|町名 !style="width:12%"|住居表示実施年月日 !style="width:32%"|住居表示実施前の町名など !style="width:18%"|備考 |- |{{ruby|'''[[西新宿]]'''|にししんじゅく}}'''六丁目''' |1970年4月1日 |柏木1、十二社、淀橋、角筈3(以上全)、角筈1・2、百人町1 | |- |'''西新宿七丁目''' |1971年1月1日 |柏木1、十二社、淀橋、角筈3(以上全)、角筈1・2、百人町1 | |- |'''西新宿八丁目''' |1971年1月1日 |柏木1、十二社、淀橋、角筈3(以上全)、角筈1・2、百人町1 | |- |{{ruby|'''[[北新宿]]'''|きたしんじゅく}}'''一丁目''' |1971年1月1日 |柏木2〜5(全) | |- |'''北新宿二丁目''' |1971年1月1日 |柏木2〜5(全) | |- |'''北新宿三丁目''' |1971年1月1日 |柏木2〜5(全) | |- |'''北新宿四丁目''' |1971年1月1日 |柏木2〜5(全) | |- |} {{Reflist|group="b"}} ===新宿区役所箪笥町特別出張所管内=== {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" |+新宿区役所箪笥町特別出張所管内(45町丁) !style="width:14%"|町名 !style="width:12%"|住居表示実施年月日 !style="width:32%"|住居表示実施前の町名など !style="width:18%"|備考 |- |{{ruby|'''[[箪笥町]]'''|たんすまち}} |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[市谷本村町]]'''|いちがやほんむらちょう}} |1984年11月5日 |市谷本村町(大部分)、市谷薬王寺町、市谷仲之町、坂町、本塩町、片町(以上道路のみ) |町域の一部は住居表示未実施(42番地) |- |{{ruby|'''[[市谷八幡町]]'''|いちがやはちまんちょう}} |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[市谷長延寺町]]'''|いちがやちょうえんじまち}} |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[市谷左内町]]'''|いちがやさないちょう}} |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[市谷砂土原町]]'''|いちがやさどはらちょう}}'''一丁目''' |未実施 | | |- |'''市谷砂土原町二丁目''' |未実施 | | |- |'''市谷砂土原町三丁目''' |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[市谷田町]]'''|いちがやたまち}}'''一丁目''' |未実施 | | |- |'''市谷田町二丁目''' |未実施 | | |- |'''市谷田町三丁目''' |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[市谷船河原町]]'''|いちがやふながわらまち}} |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[払方町]]'''|はらいかたまち}} |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[納戸町]]'''|なんどまち}} |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[細工町 (新宿区)|細工町]]'''|さいくまち}} |1990年11月5日 |細工町(大部分)、南山伏町、納戸町(以上道路のみ) | |- |{{ruby|'''[[中町 (新宿区)|中町]]'''|なかちょう}} |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[北町 (新宿区)|北町]]'''|きたまち}} |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[南町 (新宿区)|南町]]'''|みなみちょう}} |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[袋町 (新宿区)|袋町]]'''|ふくろまち}} |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[神楽坂]]'''|かぐらざか}}'''二丁目''' |未実施 | | |- |'''神楽坂三丁目''' |未実施 | | |- |'''神楽坂四丁目''' |未実施 | | |- |'''神楽坂五丁目''' |未実施 | | |- |'''神楽坂六丁目''' |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[揚場町]]'''|あげばちょう}} |1988年2月15日 |揚場町(大部分)、下宮比町(一部)、津久戸町(道路のみ)、神楽坂1〜3(道路のみ) | |- |{{ruby|'''[[若宮町 (新宿区)|若宮町]]'''|わかみやちょう}} |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[岩戸町 (新宿区)|岩戸町]]'''|いわとちょう}} |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[横寺町]]'''|よこてらまち<ref group="注釈">『角川日本地名大辞典 東京都』には「よこでらまち」とあるが、新宿区公式サイト、日本郵便の郵便場号一覧ほか諸資料には「よこてらまち」とある。</ref>}} |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[矢来町]]'''|やらいちょう}} |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[赤城元町]]'''|あかぎもとまち}} |1989年11月6日 |赤城元町(大部分)、神楽坂6(一部)、赤城下町(道路のみ)、矢来町(道路のみ) | |- |{{ruby|'''[[白銀町 (新宿区)|白銀町]]'''|しろがねちょう}} |1988年2月15日 |白銀町(大部分)、神楽坂5(一部)、神楽坂6、東五軒町、赤城元町(以上道路のみ) |町域の一部は住居表示未実施(12〜18番地、25・26番地) |- |{{ruby|'''[[津久戸町]]'''|つくどちょう<ref group="注釈">『角川日本地名大辞典 東京都』には「つくどまち」とあるが、新宿区公式サイト、日本郵便の郵便場号一覧ほか諸資料には「つくどちょう」とある。</ref>}} |1988年2月15日 |津久戸町(大部分)、筑土八幡町(一部)、白銀町(道路のみ)、神楽坂3・4(道路のみ) | |- |{{ruby|'''[[筑土八幡町]]'''|つくどはちまんちょう}} |1988年2月15日 |筑土八幡町(大部分)、津久戸町(道路のみ)、白銀町(道路のみ) | |- |{{ruby|'''[[新小川町]]'''|しんおがわまち}} |1982年7月5日 |新小川町1・3(全)、新小川町2(大部分)、津久戸町、筑土八幡町、東五軒町、下宮比町(以上道路のみ) | |- |{{ruby|'''[[東五軒町]]'''|ひがしごけんちょう}} |1982年7月5日 |東五軒町(大部分)、西五軒町、赤城下町、白銀町、筑土八幡町(以上道路のみ) | |- |{{ruby|'''[[西五軒町]]'''|にしごけんちょう}} |1989年11月6日 |西五軒町(大部分)、赤城元町、築地町、水道町(以上道路のみ) | |- |{{ruby|'''[[市谷加賀町]]'''|いちがやかがちょう}}'''一丁目''' |1984年11月5日 |市谷加賀町1・2(大部分)、市谷本村町、市谷薬王寺町、市谷柳町(以上道路のみ) | |- |'''市谷加賀町二丁目''' |1984年11月5日 |市谷加賀町1・2(大部分)、市谷本村町、市谷薬王寺町、市谷柳町(以上道路のみ) | |- |{{ruby|'''[[二十騎町]]'''|にじっきまち<ref group="注釈">『角川日本地名大辞典 東京都』には「にじっきちょう」とあるが、新宿区公式サイトには「にじっきまち」、日本郵便の郵便場号一覧には「にじゅっきまち」とある。</ref>}} |1990年11月5日 |二十騎町(大部分)、市谷甲良町、市谷加賀町1・2、納戸町(以上道路のみ) | |- |{{ruby|'''[[南山伏町]]'''|みなみやまぶしちょう}} |1990年11月5日 |南山伏町(大部分)、二十騎町、納戸町、市谷甲良町(以上道路のみ) | |- |{{ruby|'''[[市谷甲良町]]'''|いちがやこうらちょう}} |1990年11月5日 |市谷甲良町(大部分)、市谷加賀町2(道路のみ)、市谷柳町(以上道路のみ) | |- |{{ruby|'''[[市谷山伏町]]'''|いちがややまぶしちょう}} |1990年11月5日 |市谷山伏町(大部分)、市谷柳町(道路のみ)、市谷甲良町(道路のみ) | |- |{{ruby|'''[[南榎町]]'''|みなみえのきちょう}} |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[北山伏町]]'''|きたやまぶしちょう}} |1990年11月5日 |北山伏町(全) | |- |} {{Reflist|group="b"}} ===新宿区役所角筈特別出張所管内=== {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" |+新宿区役所角筈特別出張所管内(5町丁) !style="width:14%"|町名 !style="width:12%"|住居表示実施年月日 !style="width:32%"|住居表示実施前の町名など !style="width:18%"|備考 |- |{{ruby|'''[[西新宿]]'''|にししんじゅく}}'''一丁目''' |1970年4月1日 |柏木1、十二社、淀橋、角筈3(以上全)、角筈1・2、百人町1 | |- |'''西新宿二丁目''' |1970年4月1日 |柏木1、十二社、淀橋、角筈3(以上全)、角筈1・2、百人町1 | |- |'''西新宿三丁目''' |1970年4月1日 |柏木1、十二社、淀橋、角筈3(以上全)、角筈1・2、百人町1 | |- |'''西新宿四丁目''' |1970年4月1日 |柏木1、十二社、淀橋、角筈3(以上全)、角筈1・2、百人町1 | |- |'''西新宿五丁目''' |1970年4月1日 |柏木1、十二社、淀橋、角筈3(以上全)、角筈1・2、百人町1 | |- |} {{Reflist|group="b"}} ===新宿区役所戸塚特別出張所管内=== {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" |+新宿区役所戸塚特別出張所管内(7町丁) !style="width:14%"|町名 !style="width:12%"|住居表示実施年月日 !style="width:32%"|住居表示実施前の町名など !style="width:18%"|備考 |- |{{ruby|'''[[戸塚 (新宿区)|戸塚町]]'''|とつかまち}} |未実施 | |もとは一〜四丁目があった。1975年の住居表示実施以降、一丁目東端の一部のみが存続している。 |- |{{ruby|'''[[高田馬場]]'''|たかだのばば}}'''一丁目''' |1975年6月1日 |戸塚町2〜4、諏訪町、下落合2、柏木5(道路のみ) | |- |'''高田馬場二丁目''' |1975年6月1日 |戸塚町2〜4、諏訪町、下落合2、柏木5(道路のみ) | |- |'''高田馬場三丁目''' |1975年6月1日 |戸塚町2〜4、諏訪町、下落合2、柏木5(道路のみ) | |- |'''高田馬場四丁目''' |1975年6月1日 |戸塚町2〜4、諏訪町、下落合2、柏木5(道路のみ) | |- |{{ruby|'''[[西早稲田]]'''|にしわせだ}}'''二丁目''' |1975年6月1日 |高田町(全)、戸塚町1・2、諏訪町、戸山町 | |- |'''西早稲田三丁目''' |1975年6月1日 |高田町(全)、戸塚町1・2、諏訪町、戸山町 | |- |} {{Reflist|group="b"}} ===新宿区役所四谷特別出張所管内=== {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" |+新宿区役所四谷特別出張所管内(24町丁) !style="width:14%"|町名 !style="width:12%"|住居表示実施年月日 !style="width:32%"|住居表示実施前の町名など !style="width:18%"|備考 |- |{{ruby|'''[[四谷]]'''|よつや}}'''一丁目''' |2019.10.1(一部) | |- |'''四谷二丁目''' |未実施 | | |- |'''四谷三丁目''' |未実施 | | |- |'''四谷四丁目''' |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[四谷坂町]]'''|よつやさかまち}} |2015年7月21日 |坂町 | |- |{{ruby|'''[[四谷三栄町]]'''|よつやさんえいちょう}} |2018年8月13日 |三栄町 | |- |{{ruby|'''[[四谷本塩町]]'''|よつやほんしおちょう}} |2017年9月19日 |本塩町 | |- |{{ruby|'''[[若葉 (新宿区)|若葉]]'''|わかば}}'''一丁目''' |未実施 | | |- |'''若葉二丁目''' |未実施 | | |- |'''若葉三丁目''' |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[須賀町 (新宿区)|須賀町]]'''|すがちょう}} |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[舟町 (新宿区)|舟町]]'''|ふなまち}} |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[南元町 (新宿区)|南元町]]'''|みなみもとまち}} |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[愛住町]]'''|あいずみちょう}} |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[荒木町 (新宿区)|荒木町]]'''|あらきちょう}} |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[新宿]]'''|しんじゅく}}'''一丁目''' |1973年1月1日 |新宿1〜4、花園町、番衆町、東大久保1(以上全)、角筈1・2、三光町、東大久保2、西大久保1・2 | |- |'''新宿二丁目''' |1973年1月1日 |新宿1〜4、花園町、番衆町、東大久保1(以上全)、角筈1・2、三光町、東大久保2、西大久保1・2 | |- |'''新宿三丁目''' |1973年1月1日 |新宿1〜4、花園町、番衆町、東大久保1(以上全)、角筈1・2、三光町、東大久保2、西大久保1・2 | |- |'''新宿四丁目''' |1973年1月1日 |新宿1〜4、花園町、番衆町、東大久保1(以上全)、角筈1・2、三光町、東大久保2、西大久保1・2 | |- |'''新宿五丁目''' |1978年7月1日 |新宿1〜4、花園町、番衆町、東大久保1(以上全)、角筈1・2、三光町、東大久保2、西大久保1・2 | |- |{{ruby|'''[[左門町]]'''|さもんちょう}} |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[信濃町 (新宿区)|信濃町]]'''|しなのまち}} |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[内藤町]]'''|ないとうまち}} |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[大京町]]'''|だいきょうちょう}} |未実施 | | |- |} {{Reflist|group="b"}} ===新宿区役所若松町特別出張所管内=== {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" |+新宿区役所若松町特別出張所管内(8町丁) !style="width:14%"|町名 !style="width:12%"|住居表示実施年月日 !style="width:32%"|住居表示実施前の町名など !style="width:18%"|備考 |- |{{ruby|'''[[若松町 (新宿区)|若松町]]'''|わかまつちょう}} |1982年7月5日 |若松町(大部分)、原町3(一部)、戸山町、余丁町、市谷河田町(以上道路のみ) | |- |{{ruby|'''[[余丁町]]'''|よちょうまち}} |1986年11月4日 |余丁町(大部分)、東大久保2、市谷冨久町、市谷台町(以上一部) |- |{{ruby|'''[[富久町]]'''|とみひさちょう}} |1983年8月1日 |市谷冨久町(大部分)、市谷台町(一部)、余丁町(一部)、花園町、四谷4、愛住町(以上道路のみ) | |- |{{ruby|'''[[市谷台町]]'''|いちがやだいまち}} |2002年4月1日 |市谷台町(大部分)、市谷冨久町(道路のみ) | |- |{{ruby|'''[[住吉町 (新宿区)|住吉町]]'''|すみよしちょう}} |1986年11月4日 |住吉町(大部分)、市谷河田町、余丁町、市谷冨久町、市谷台町、愛住町、舟町、片町(以上道路のみ) | |- |{{ruby|'''[[河田町]]'''|かわだちょう}} |1986年2月24日 |市谷河田町(大部分)、原町3(一部)、住吉町(一部)、若松町、市谷仲之町、余丁町(以上道路のみ) | |- |{{ruby|'''[[戸山 (新宿区)|戸山]]'''|とやま}}'''一丁目''' |1981年6月1日 |戸山町(大部分)、諏訪町(一部)、西大久保4(一部)、東大久保2、若松町、喜久井町(以上道路のみ) | |- |'''戸山二丁目''' |1981年6月1日 |戸山町(大部分)、諏訪町(一部)、西大久保4(一部)、東大久保2、若松町、喜久井町(以上道路のみ) | |- |} {{Reflist|group="b"}} === 住居表示と町名保存 === [[ファイル:Shinjukucity-townmap1.png|thumb|新宿区内における<br />住居表示実施前後の<br />町名町域対照地図]] 周辺自治体と同様、新宿区も[[1965年]](昭和40年)に[[住居表示]]の実施に着手。区内の西側から徐々に町域統合と住居表示を進めた。この結果、[[1970年代]]には[[戦後]]の[[若者文化]]の発信地とも言われていた[[新宿駅]]周辺の町名(柏木・角筈・淀橋など)が軒並み「新宿」「西新宿」「北新宿」で統一され、古い町名を頼りに昔の記憶を辿ることもままならなくなった。これを昔の情緒・伝統・文化の破壊と受け止めた文化人や旧牛込区・四谷区域の住民が中心となり、古い町名を残す運動が盛り上がりをみせた<ref group="注釈">今日新宿駅周辺で唯一新宿の名前がつかない[[歌舞伎町]]は[[1948年]](昭和23年)に誕生した比較的新しい地名。当時新宿区は戦災[[復興]]のため大衆文化の発信拠点を区内に作ろうと計画していた。その目玉として[[中央区 (東京都)|中央区]][[銀座]]にある[[歌舞伎座]]の誘致を目指し、その「受け皿地区としてふさわしい名称」を理由に当時の[[東京都知事]][[安井誠一郎]]が[[歌舞伎町]]と命名した。その後新宿地区は確かに[[映画]]・[[講談]]・[[落語]]・[[演劇]]・ジャズ喫茶といった大衆文化を育む一大拠点へと成長したが、歌舞伎座の誘致そのものは失敗に終わった。歌舞伎町という名称が[[歌舞伎]]と直接つながりがあるわけではないため、行政主導の安易な町名変更だったとの声も聞かれた。</ref>。 新宿区は当初、町域を統合した上で東新宿・東早稲田といった[[方角地名|方角町名]]を採用して区内の住居表示完全実施を目指していたが、[[1980年代]]には町名保存の声に配慮し、未実施地区に関しては古い町名町域を出来る限り維持した上で住居表示を実施していく方針に転換することを区長が表明した。 これにより町名は存続することで決着をみたが、住居表示自体はその後もあまり進んでおらず、旧牛込区・四谷区域は、[[千代田区]]([[神田 (千代田区)|神田]]を冠する町・[[番町]]・[[麹町]])と同様、住居表示未実施地区を多く残して現在に至っている。住居表示実施率は[[2018年]](平成30年)現在76.01パーセントであり、新宿区政の今後の課題のひとつとなっている。なお、[[2002年]](平成14年)に市谷台町を、[[2003年]](平成15年)には霞ヶ丘町の住居表示を実施したことにより、実施率が千代田区を上回った。 === 区内の町名 === 新宿区の特徴のひとつに、町名の数が多いことが挙げられる。新宿区に隣接する付近の自治体が(千代田区を除いて)おおむね20 - 30程度にまで町名を減らしたのに対し、新宿区には現在94(霞岳町と霞ヶ丘町を別個の町名とするならば95)の町名が存在する(この数字は東京都の特別区のうち最多)。[[江戸時代]]の[[武家屋敷]]や門前町屋に由来する町名が旧牛込区・四谷区域を中心に多くみられる([[2009年]](平成21年)7月末時点における住居表示未実施の町名は'''太字'''で示した。なお、白銀町と市谷台町には未実施の箇所がごくわずかながら存在する)。 {{columns-list|colwidth=12em| * '''[[愛住町]]''' * '''[[赤城下町]]''' * [[赤城元町]] * [[揚場町]] * '''[[荒木町 (新宿区)|荒木町]]''' * [[市谷加賀町]]一丁目 - 二丁目 * [[市谷甲良町]] * '''[[市谷砂土原町]]一丁目''' - '''三丁目''' * '''[[市谷左内町]]''' * [[市谷台町]] * '''[[市谷鷹匠町]]''' * '''[[市谷田町]]一丁目''' - '''三丁目''' * '''[[市谷長延寺町]]''' * [[市谷仲之町]] * '''[[市谷八幡町]]''' * '''[[市谷船河原町]]''' * [[市谷本村町]] * [[市谷薬王寺町]] * '''[[市谷柳町]]''' * [[市谷山伏町]] * '''[[岩戸町 (新宿区)|岩戸町]]''' * '''[[榎町 (新宿区)|榎町]]''' * [[大久保 (新宿区)|大久保]]一丁目 - 三丁目 * '''[[改代町]]''' * [[神楽河岸]] * '''[[神楽坂]]一丁目''' - '''六丁目''' * '''霞岳町'''(霞ヶ丘町成立後の残余) * [[霞ヶ丘町]] * [[片町 (新宿区)|片町]] * [[歌舞伎町]]一丁目 - 二丁目 * [[上落合 (新宿区)|上落合]]一丁目 - 三丁目 * [[河田町]] * '''[[喜久井町]]''' * [[北新宿]]一丁目 - 四丁目 * '''[[北町 (新宿区)|北町]]''' * [[北山伏町]] * [[細工町 (新宿区)|細工町]] * '''[[左門町]]''' * '''[[信濃町 (新宿区)|信濃町]]''' * [[下落合 (新宿区)|下落合]]一丁目 - 四丁目 * [[下宮比町]] * [[白銀町 (新宿区)|白銀町]] * [[新小川町]] * [[新宿]]一丁目 - 七丁目 ** ([[新宿二丁目]]も参照) * [[水道町 (新宿区)|水道町]] * '''[[須賀町 (新宿区)|須賀町]]''' * [[住吉町 (新宿区)|住吉町]] * '''[[大京町]]''' * [[高田馬場]]一丁目 - 四丁目 * '''[[箪笥町]]''' * '''[[築地町 (新宿区)|築地町]]''' * [[津久戸町]] * [[筑土八幡町]] * '''[[天神町 (新宿区)|天神町]]''' * '''[[戸塚 (新宿区)|戸塚町]]一丁目''' * [[富久町]] * [[戸山 (新宿区)|戸山]]一丁目 - 三丁目 * '''[[内藤町]]''' * [[中井 (新宿区)|中井]]一丁目 - 二丁目 * [[中落合 (新宿区)|中落合]]一丁目 - 四丁目 * '''[[中里町 (新宿区)|中里町]]''' * '''[[中町 (新宿区)|中町]]''' * '''[[納戸町]]''' * [[西落合 (新宿区)|西落合]]一丁目 - 四丁目 * [[西五軒町]] * [[西新宿]]一丁目 - 八丁目 * [[二十騎町]] * [[西早稲田]]一丁目 - 三丁目 * '''[[馬場下町]]''' * '''[[払方町]]''' * '''[[原町 (新宿区)|原町]]一丁目''' - '''三丁目''' * '''[[東榎町]]''' * [[東五軒町]] * [[百人町]]一丁目 - 四丁目 * '''[[袋町 (新宿区)|袋町]]''' * '''[[舟町 (新宿区)|舟町]]''' * '''[[弁天町 (新宿区)|弁天町]]''' * '''[[南榎町]]''' * '''[[南町 (新宿区)|南町]]''' * '''[[南元町 (新宿区)|南元町]]''' * [[南山伏町]] * '''[[山吹町 (新宿区)|山吹町]]''' * '''[[矢来町]]''' * '''[[横寺町]]''' * [[余丁町]] * '''[[四谷]]一丁目''' - '''四丁目''' * [[四谷坂町]] * [[四谷三栄町]] * [[四谷本塩町]] * [[若葉 (新宿区)|若葉]]一丁目''' - '''三丁目''' * [[若松町 (新宿区)|若松町]] * '''[[若宮町 (新宿区)|若宮町]]''' * '''[[早稲田鶴巻町]]''' * '''[[早稲田町]]''' * '''[[早稲田南町]]'''}} === 消滅した町名 === 新宿区の発足以降に消滅した町名は21ある。大部分が住居表示実施に伴う町名変更による。 ; 市谷河田町 : 現在の河田町のほぼ全域(ただし、河田町コンフォガーデンの南側の2棟(C棟・D棟)とその周辺、原町三丁目に隣接する[[東京女子医科大学]]看護学部の校舎は除く)。当時、若松町(北)・市谷仲之町(東)・市谷台町(南・のち一部が若松町)・余丁町(西)に隣接。[[1986年]](昭和61年)2月24日、住居表示実施に伴う町名変更により消滅。かつて市谷河田町は、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]([[1997年]](平成9年)、港区[[台場 (東京都港区)|台場]]二丁目に移転)や新宿簡易裁判所([[1993年]](平成5年)廃止、[[東京簡易裁判所]]に機能統合)の所在地として知られていた。 ; 市谷冨久町 : 現在の富久町のほぼ全域(ただし、東京都立小石川工業高等学校敷地の南東に接するごくわずかな一画と、富久町保育園の北東に接するごくわずかな一画は除く)と、余丁町のごく一部(余丁町児童遊園の西に隣接する一画)。当時、東大久保一丁目 - 番衆町(西)・花園町 - 四谷四丁目 - 愛住町(南)・市谷台町(東・のちに一部が住吉町)・余丁町(北)に隣接。[[1983年]](昭和58年)8月1日の住居表示実施により富久町が誕生し、これにより市谷冨久町のほぼ全域が消滅。残りのごくわずかな区画のうち、善慶寺や東洋美術学校の南側付近の一画は住吉町に、余丁町児童遊園の西に隣接する一画は余丁町として、それぞれ[[1986年]](昭和61年)11月4日に住居表示が実施され市谷冨久町は消滅。ただし、小石川工業高等学校敷地の東に接する道路部分(現市谷台町)はその後も[[2002年]](平成14年)4月1日まで市谷冨久町として存続(なお、市谷冨久町の「冨」は「[[冖部|ワかんむり]]」、富久町の「富」は「[[宀部|ウかんむり]]」)。 ; 柏木 : 現在の北新宿一 - 四丁目の全域と、西新宿六 - 八丁目のほぼ全域(ただし、西新宿六丁目のうち、公園通りより西側すべて・北通り沿線・新宿警察署付近一帯を除く。また、西新宿七丁目のうち、小滝橋通りより東側をすべて除き、[[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]][[新宿西口駅]]のD5出口付近は含む)。このエリアのうち、西新宿六 - 八丁目のほぼ全域が柏木一丁目、北新宿二丁目のほぼ全域が柏木二丁目、北新宿一丁目のほぼ全域が柏木三丁目、北新宿三丁目のほぼ全域が柏木四丁目、北新宿四丁目のほぼ全域が柏木五丁目だった。当時、淀橋(南西)・角筈二丁目(南)・角筈一丁目(南東)・百人町一 - 三丁目(東)・戸塚町四丁目(東 - 北東)・[[中野区]](西)に隣接。住居表示実施により、[[1970年]](昭和45年)4月に西新宿六丁目が、[[1971年]](昭和46年)1月に西新宿七 - 八丁目と北新宿一 - 四丁目が誕生し、柏木は消滅。今日、新宿区役所柏木特別出張所などにその名を留めている。このほか、児童数減少により新宿区立淀橋第一小学校と第七小学校が統廃合されて[[1997年]](平成9年)に誕生した新小学校の名前は柏木小学校と命名された。なお、一部の資料には、柏木五丁目の一部が現在の[[高田馬場]]三丁目の一部であるとの記載がある。これは柏木五丁目の最北端である小滝橋交差点の道路部分(現高田馬場三丁目)がかつて柏木五丁目に含まれていたことによる。したがって、柏木という町名が消滅したのは、厳密には高田馬場三丁目が誕生した[[1975年]](昭和50年)6月である。 ; 霞岳町 : 現在の霞ヶ丘町のほぼ全域(神宮外苑休憩所の一画は除く)。霞岳町も霞ヶ丘町も読み方は「かすみがおかまち」。[[2003年]](平成15年)9月の住居表示実施に伴う町名変更により、霞岳町のほぼ全域が霞ヶ丘町となった。ただし、JR[[信濃町駅]]前の交番一帯のごくわずかな部分だけは住居表示実施の対象外となり(暫定的に)霞岳町のまま残っているため、厳密には地名として消滅していない。 ; 三光町 : 現在の[[歌舞伎町]]一丁目と新宿五丁目のそれぞれ一部。おおむね、歌舞伎町一丁目の町域のうち[[新宿遊歩道公園]]より東側と、新宿五丁目の町域のうち[[モスバーガー]]新宿五丁目店([[東京都道302号新宿両国線|靖国通り]]沿い)よりも西側エリアが当時の三光町の町域。([[伊勢丹]]別館や[[丸井|OIMEN新宿]]を含む。ただし、新宿六丁目交差点付近の一画は除く。)当時、番衆町(東)・角筈一丁目の飛地と東大久保一丁目(北)・歌舞伎町一丁目(西)・新宿二丁目と三丁目(南)に接していた。[[1978年]](昭和53年)7月、住居表示実施に伴い消滅。三光町は古くは四谷三光町という交差点の名称や、[[東京都電車|都電]]やバスの停留所名ともなっていたことから、小説の舞台として登場するなど長らく親しまれていた。由来は[[花園神社]]の別名「三光院稲荷」から。 ; 十二社(じゅうにそう) : 現在の西新宿二丁目・四丁目の一部。おおむね、[[方南通り]]・公園通り・南通り・[[渋谷区]]本町三丁目に囲まれたエリア(ただし、[[新宿中央公園]]の東半分、方南通り沿線、新宿区立西新宿小学校 - 角筈区民センター周辺の一画を、それぞれ除く)。当時、角筈三丁目(東 - 南)・淀橋(北)・渋谷区(西)に隣接。[[1970年]](昭和45年)4月、住居表示実施に伴う町名変更により消滅。今日、十二社通り(公園通りの西、山手通りの東に並行して敷設)や[[新宿十二社温泉]]などにその名を留めている。由来は[[熊野神社 (新宿区)|熊野神社]]の別名から。 ; 諏訪町 : 現在の高田馬場一丁目のほぼ全域(ただし、新宿区立戸塚第二小学校や新宿区役所戸塚特別出張所など[[早稲田通り]]沿線部分すべてと、西武線・JR線の鉄道敷設部分を除く)と、西早稲田二丁目の西側(三井住友建設早稲田寮敷地西端よりも西、印度大使官邸敷地南端よりも南)、戸山三丁目の一部([[2005年]](平成17年)3月廃校の新宿区立戸塚第一中学校敷地と[[学習院女子大学]]敷地と諏訪通りの3者に囲まれたごくわずかな領域)がかつての諏訪町域。当時、西大久保四丁目(南)・戸山町(南)・戸塚町二丁目(東 - 北)・戸塚町三丁目(北 - 西)に隣接。今日、新宿区の公園の名称(諏訪公園・諏訪の森児童公園)・南に接する道路の一般名称(諏訪通り)・諏訪通りと明治通りの交差点の名称(諏訪町)などにその名を留めている。住居表示実施により、[[1975年]](昭和50年)6月に町域の大部分が高田馬場一丁目と西早稲田二丁目に変更、残余のごく狭小な区域は[[1981年]](昭和56年)6月に戸山三丁目21番街区となり、諏訪町は消滅。 ; 高田町 : 現在の西早稲田二丁目([[早稲田通り]]・[[諏訪通り (東京都)|諏訪通り]]・[[明治通り (東京都)|明治通り]]で囲まれたエリア)の町域の最東端、穴八幡神社とその周辺一画([[サイゼリヤ]]や馬場下町交番などを含み、小林建設・[[日本キリスト教会]]・[[新日本石油|エネオス]]は含まない)がかつての高田町域。当時、戸塚町一丁目(東 - 北)・戸山町(西 - 南)・馬場下町(南西)に隣接。[[1975年]](昭和50年)6月、住居表示実施に伴い消滅。 ; 角筈(つのはず) : 新宿区発足当初の角筈の町域は、現在の歌舞伎町一丁目のほぼ全域、新宿三丁目の東半分([[新宿駅]]東口周辺)、[[西新宿]]一丁目と三丁目の全域、西新宿二丁目のほぼ全域、西新宿四丁目の一部(歌舞伎町一丁目のうち、[[新宿遊歩道公園]]より西はすべて除く。ただし、遊歩道公園の北側入り口付近に接するごくわずかなエリアを含む。新宿三丁目のうち、[[紀伊國屋書店]]新宿本店・新宿[[三越]]ALCOTT店・[[大塚家具]]新宿ショールームなどの東側境界より東はすべて除く。西新宿二丁目のうち、新宿中央公園の西側半分は除く。西新宿四丁目のうち、新宿区立西新宿小学校敷地の北側に接する道路より北はすべて除く)。このエリアのうち、おおむね歌舞伎町一丁目と新宿三丁目が角筈一丁目、西新宿一丁目のうち[[新宿野村ビルディング|新宿野村ビル]]・[[損保ジャパン本社ビル]]・[[新宿センタービル]]を除いたエリアが角筈二丁目、西新宿一丁目の残りと西新宿二 - 四丁目が角筈三丁目である。新宿区発足当初の角筈は、渋谷区(南 - 西)・十二社(西)・淀橋(北西)・柏木一丁目(北)・西大久保一 - 二丁目(北西)・三光町(東)・新宿三丁目(東)・旭町(南)に隣接。[[1948年]](昭和23年)4月1日、[[戦災復興事業]]の一環として角筈一丁目のうち靖国通りより北側が三光町の一部などとともに区画整備され歌舞伎町(当時)として分離。ただし、現在の新宿遊歩道公園北側の一画は歌舞伎町とはならず角筈一丁目として存続したため、以降飛地となった。そののち段階的に住居表示が実施され、[[1970年]](昭和45年)4月に西新宿一 - 四丁目が誕生し、角筈三丁目が消滅。[[1973年]](昭和48年)1月に現在の新宿三丁目が誕生し角筈二丁目が消滅。[[1978年]](昭和53年)7月に歌舞伎町一丁目が誕生し、飛地の角筈一丁目も消滅した。かねてから新宿地区の重心は西へと移動しつつあったが、この角筈の消滅により、新宿駅の所在地は新宿三丁目に、副都心の高層ビル群の所在地は西新宿二丁目となり、新宿地区のこれらの要所の住所と実態とが一致することになった。 ; 戸山町 : [[1981年]](昭和56年)6月の住居表示実施により、戸山町ではなく戸山一 - 三丁目となった。かつての戸山町域は、現在の戸山一 - 三丁目の全域にほぼ一致する。ただし、[[2005年]](平成17年)3月廃校の新宿区立戸塚第一中学校敷地と学習院女子大学敷地と諏訪通りの3者に囲まれたごくわずかな領域は旧諏訪町、戸山三丁目西側の明治通り沿線付近一帯(学習院旧正門・[[ユニクロ]]明治通り新宿ステパ店など)は旧西大久保四丁目。 ; 西大久保 : 現在の歌舞伎町二丁目と大久保一 - 二丁目の全域・大久保三丁目のほぼ全域(JR線・西武線の敷設部分を除き、この鉄道沿線部分のうち海城学園敷地の一号館より西にあるすべても除く)・新宿七丁目の一部(おおむね、新宿第一保育園より西側の明治通り沿線エリア)・新宿六丁目のごく一部(明治通りの沿線一帯)・戸山三丁目のごく一部(明治通りの沿線一帯)がかつての西大久保の町域である。このエリアのうちおおむね、歌舞伎町二丁目と新宿六丁目が西大久保一丁目、大久保一丁目と新宿七丁目が西大久保二丁目、大久保二丁目が西大久保三丁目、大久保三丁目と戸山三丁目が西大久保四丁目だった。当時、諏訪町(北)・戸塚町一 - 四丁目(西)・角筈一丁目(南・のち一部が歌舞伎町)・東大久保一 - 二丁目(東)・戸山町(東)に隣接。[[1978年]](昭和53年)7月1日、住居表示実施に伴う町名変更により、西大久保一 - 三丁目が消滅。明治通り沿線に一部残った西大久保四丁目も[[1981年]](昭和56年)6月1日に戸山三丁目となり、西大久保は消滅した。今日、新宿区立西大久保公園などにその名を留めている。また、[[2000年]](平成12年)12月に開業した[[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]][[東新宿駅]]の建設当時の仮称駅名は、[[大久保駅 (東京都)|大久保駅]]の東側にあるにもかかわらず「西大久保駅」であった。 ; 花園町 : 現在の新宿一丁目の町域のうち、新宿区立花園公園の南側に接する道路よりも北側すべてが花園町域。当時、四谷四丁目(東)・市谷冨久町(北)・番衆町(北)・新宿二丁目(西)・新宿一丁目(南)に隣接していた。[[1973年]](昭和48年)1月、住居表示実施に伴う町名変更により消滅。なお、厳密には靖国通り上の「四谷電話局前」信号機付近の道路部分の一部が花園町のまま存続した。[[1983年]](昭和58年)8月1日にこの道路部分は富久町の一部となった。新宿区立の公園(花園公園・花園西公園・花園東公園)などにその名を留めている。[[1995年]](平成7年)、児童数減少により新宿区立四谷第五小学校と第七小学校が統廃合されて誕生した新小学校の名前は花園小学校と命名された。花園の名は付近の[[花園神社]](新宿五丁目)に由来。 ; 番衆町 : 現在の新宿五丁目の町域のうち、[[モスバーガー]]新宿五丁目店(靖国通り沿い)よりも東側が当時の番衆町の町域。当時、三光町(西)・東大久保一丁目(北)・新宿二丁目と花園町(南)・市谷冨久町(東)に接していた。[[1978年]](昭和53年)7月、住居表示実施に伴い消滅。 ; 東大久保 : 現在の新宿六丁目のほぼ全域(明治通りの沿線一帯を除く)・新宿五丁目のごく一部(新宿六丁目交差点の付近一帯のみ)・新宿七丁目の一部(おおむね、新宿第一保育園より東側すべて)・余丁町のごく一部(抜弁天交差点付近の[[厳嶋神社 (新宿区)|厳嶋神社]]の一角のみ)がかつての東大久保の町域である。このエリアのうちおおむね、新宿七丁目と余丁町と新宿六丁目の一部(おおむね、文化センター通りと旧新宿区立大久保中学校・新宿区立新宿中学校移転予定地に囲まれたエリア)が東大久保二丁目、残りの部分が東大久保一丁目だった。当時、戸山町(北)・西大久保二 - 一丁目(西)・角筈一丁目(南西・のちに歌舞伎町発足時に隣接していた角筈一丁目地区の一部が東大久保一丁目に統合)・三光町(南西)・番衆町(南)・市谷冨久町 - 余丁町 - 若松町(東)に隣接。[[1978年]](昭和53年)7月1日、住居表示実施に伴う町名変更により東大久保一丁目全域と二丁目のほぼ全域が消滅。東大久保二丁目としてわずかに残っていた厳島神社一画は、[[1986年]](昭和61年)11月4日に余丁町の一部となる。今日、新宿区立東大久保公園などにその名を留めている。 ; 坂町 : 現在の四谷坂町の全域。当時、市谷本村町(北)・四谷本塩町(東)・四谷三栄町(南)・片町、荒木町(西)に隣接。[[2015年]](平成27年)7月21日、住居表示実施に伴い消滅。 ; 本塩町 : 現在の四谷本塩町の全域。市谷本村町(北)・千代田区五番町・六番町(東)・四谷一丁目(南)・四谷坂町・四谷三栄町(南)に隣接。[[2017年]](平成29年)9月19日、住居表示実施に伴い消滅。 ; 淀橋 : 現在の西新宿二丁目・四 - 六丁目の一部。おおむね、[[青梅街道]]・公園通り・北通り - 方南通り・[[神田川 (東京都)|神田川]]・渋谷区本町三丁目に囲まれたエリア(ただし、[[新宿中央公園]]の北側 - 西新宿四郵便局 - 大江戸線[[西新宿五丁目駅]]のA2出口一帯を含み、[[新宿グリーンタワー]]周辺の一画を除く)。当時、柏木二丁目(北)・柏木一丁目(東)・角筈三丁目(南東)・十二社(南)・渋谷区(南西)・中野区(西)に隣接。[[1970年]](昭和45年)4月、住居表示実施に伴う町名変更により消滅。今日、神田川に架かる付近の橋(青梅街道と神田川の交差部分)の名称としてのほか、[[ヨドバシカメラ]]・新宿区立淀橋第四小学校などにその名を留めている。 上記のほか、区画整備や町域統合を目的としない町名変更が戦災[[復興]]時に行われた。いずれも商業的な理由による。 ; 市谷谷町 : 谷の文字が重なるため、かつては「市谷町」と誤記されることが多く、周辺には市谷を冠する町名が多いことから地元の取引にも支障を来たしていた。このため[[1952年]](昭和27年)12月に町名が変更され、以後住吉町の一部となった(住吉町は、新宿区発足以前に市谷谷町などの周辺町域が名称変更されて誕生した。したがって、市谷谷町として存続していた町域が[[1952年]](昭和27年)にすべて住吉町に統合された)。一説には、谷が重なる住みにくい町であるとの印象を与えるため、住みやすい町(すみよし町)であることを示す意図があったという。実際付近には谷間や起伏が見られ、これに由来する市谷台町という町名は現在も残っている。 ; 旭町 : [[1952年]](昭和27年)12月の町名変更により消滅。以後、全域がそのまま新宿四丁目となる。[[1973年]](昭和48年)1月にその町域全体がそのまま新宿四丁目として住居表示実施。 ; 神楽町 : 現在の神楽坂一丁目 - 三丁目のほぼ全域。[[1951年]](昭和26年)に神楽坂一 - 三丁目に改称。 ; 上宮比町(かみみやびちょう) : 現在の神楽坂四丁目のほぼ全域。[[1951年]](昭和26年)改称。上宮比町の名前の由来は、宮比神社を祭る祠の台地の上にあることから。台地の下にあることに因む下宮比町(しもみやびちょう)という町名は付近に残っている。 ; 肴町 : 現在の神楽坂五丁目のほぼ全域。[[1951年]](昭和26年)改称。 ; 通寺町 : 現在の神楽坂六丁目のほぼ全域。[[1951年]](昭和26年)改称。 == 地域 == {{See also|新宿区の町名}} === 区内の地域 === [[ファイル:Shinjukucity-administrative-division.png|thumb|東京府の区部郡部時代の行政区域]] 新宿区内を地域分け(区域分け)する方法はいくつか存在するが、合併により誕生した経緯から過去の行政区域を基準としたものが比較的多くみられる。市街地化によりこの基準が細分化されたり、交通網の発達とともに駅周辺が1つの地域として新たに認知されるようになるなど、この基準は月日の経過とともに変動が見られるため、普遍的な地域分けが確立しているわけではない。 代表的なものとして、新宿区の前身である東京市行政区時代の区域を基準にした3地区分類(各地区を四谷地区・牛込地区・淀橋地区などと表現する)がある。ただし、旧淀橋区域は範囲が広いことや、淀橋区が存在したのはわずか15年間であり1地域としての実態に乏しいこと、新宿(旧内藤新宿町域)を四谷に分類するのは今日の実態とかけ離れていることなどから、四谷・淀橋地区を前身1区5町域に細分化した7地区分類を基準に地域分けすることが多い。この基準に住居表示による町名町域変更の影響が加わり、各地区の名称や範囲は変化。戸塚地区は高田馬場・早稲田、旧淀橋町域(角筈・淀橋・柏木)は西新宿・北新宿という名称が定着した。また、相対的に範囲の広い旧牛込区域(牛込地区)において、南部(市谷を冠する町名が集まる地区)は市谷地区、北西部([[早稲田大学]]周辺)は早稲田と呼ばれているが(いずれも牛込区の前身の市谷村域・早稲田村域に由来)、このほか地下鉄東西線沿線地区を早稲田・神楽坂と表現する機会も多くなっている。 新宿区内の地域名として使われる機会があるもののうち、主なものを以下に挙げる。 {{Columns-list|colwidth=7em| * [[市谷]] * [[牛込]] * [[大久保 (新宿区)|大久保]] * 落合 * [[神楽坂]] * [[柏木]] * [[北新宿]] * [[新宿]] * 諏訪 * [[高田馬場]] * [[角筈]] * 戸塚 * [[戸山 (新宿区)|戸山]] * [[中井 (新宿区)|中井]] * [[西新宿]] * [[四谷]] * [[淀橋]] * [[早稲田]]}} === 在日外国公館 === * {{Flagicon|アメリカ合衆国}}{{Flagicon|Illinois}}[[イリノイ州]]政府駐日事務所(市谷砂土原町二丁目) * {{Flagicon|アメリカ合衆国}}{{Flagicon|Colorado}}[[コロラド州]]政府在日代表事務所(西早稲田二丁目) <!--* {{Flagicon|マーシャル諸島}}[[マーシャル諸島共和国]]大使館(南元町) ※港区西新橋へ移転--> === 区域の変更 === 新宿区の発足以降、何度か境界変更がなされている。 ; [[國學院高等学校]]敷地 : 渋谷区と新宿区の境界に関して、かつては[[明治神宮野球場|神宮球場]]の正門ゲート(球場のバックネット側・本塁側7・8番入口付近)前の信号機から、都営霞ヶ丘アパートの6号棟(勢揃坂の北、新宿区霞ヶ丘町)までほぼ直線に境界線が引かれていた。このため[[國學院高等学校]](渋谷区神宮前二丁目)の敷地は渋谷区域と新宿区域で二分されており、國學院高等学校第一記念館と文科館は新宿区域内に位置していた。現在この境界は変更され、國學院高等学校敷地の北側境界が渋谷区と新宿区の境界になっている。 ; [[落合公園]] : 中野区と新宿区の境界は河川(妙正寺川・神田上水)の河道を基準としている。かつてはこれらの河川がたびたび氾濫し周辺地区に水害被害をもたらしていたため、断続的に改修工事が施され、河道ラインの凹凸を廃する変更がなされてきた。旧[[神田上水]](中野区と新宿区の境界、西新宿 - 小滝橋までの神田川)の場合、改修のたびに中野区との境界を河道に合わせて変更していたが、妙正寺川・神田川本流の場合には、河道が変更されても境界はそのまま残った(今日豊島区との境界に神田川で区切られた[[飛地|飛び地]]が散見されるのはこれに由来する)。妙正寺川に隣接する落合公園(新宿区中井一丁目)は新宿区発足後の河川改修によって作られた公園のひとつで、公園付近の中野区との境界はこの時の河道ラインの変更に合わせて境界変更された(付近の中野区上高田四丁目・五丁目に妙正寺川で区切られた飛び地が存在するのは、新宿区発足以前の河川改修の名残である)。 ; 飯田濠再開発 : [[1970年代]]、飯田濠(JR飯田橋駅に隣接する外濠部分、新宿区神楽河岸 - 千代田区飯田橋四丁目)は水質汚濁による悪臭発生地帯として問題視されており、早期解決が望まれていた。[[1980年代]]に大部分は埋め立てられ、一部は暗渠化。その後都市再開発事業の一環としてこの地に飯田橋セントラルプラザなどが建設された。かつては飯田濠に沿ってその中央が千代田区と新宿区の境界になっていたが、この埋め立てにより[[1983年]](昭和58年)8月6日付けで区境を変更、飯田濠の南全体は新宿区域、北全体は千代田区域となった(今日JR飯田橋駅西口の西側境界に隣接する建物の住所は千代田区飯田橋四丁目ではなく新宿区神楽河岸)。 === ナンバープレート === 新宿区は、練馬ナンバー([[東京運輸支局]])を割り当てられている。 ; 練馬ナンバー割り当て地域 * 新宿区・文京区・中野区・豊島区・北区・練馬区<ref>[https://wwwtb.mlit.go.jp/kanto/s_tokyo/map_riku.html 東京運輸支局管轄区域] [[国土交通省]][[関東運輸局]]</ref>。 === 地域放送 === * [[ジェイコム港新宿]](区内全域) === 特産品 === * 江戸小紋 * 江戸更紗 * [[内藤とうがらし]] === 隣接する自治体町域 === 新宿区は以下の6特別区に隣接している。隣接距離が最も長いのは中野区。 新宿区に隣接する特別区とその町域を以下に挙げる。 (最北端から時計回り順に記載。) {{columns-list|9em| * [[豊島区]] ** 南長崎六・五・四・三・二・一丁目 ** [[目白]]五・四・三・一丁目 ** 高田三・二・一丁目 * [[文京区]] ** [[目白台]]一丁目 ** [[関口]]一丁目 ** [[水道 (文京区)|水道]]二・一丁目 ** [[後楽]]二丁目 * [[千代田区]] ** 飯田橋三・四丁目 ** 富士見二丁目 ** 九段北四丁目 ** 五番町 ** 六番町 ** [[麹町]]六丁目 ** 紀尾井町 * [[港区 (東京都)|港区]] ** [[元赤坂]]二丁目 ** [[北青山]]一・二丁目 * [[渋谷区]] ** 神宮前二丁目 ** [[千駄ヶ谷]]二・一・六・五丁目 ** [[代々木]]二・三・四丁目 ** [[初台]]一丁目 ** [[本町 (渋谷区)|本町]]一・二・三丁目 * [[中野区]] ** [[弥生町 (中野区)|弥生町]]一丁目 ** [[本町 (中野区)|本町]]一丁目 ** [[中央 (中野区)|中央]]一丁目 ** [[東中野 (中野区)|東中野]]一・五・四・三丁目 ** [[上高田]]一・四・五丁目 ** [[松が丘 (中野区)|松が丘]]一丁目 ** [[江古田]]一丁目 ** [[江原町 (中野区)|江原町]]一・三丁目 }} == 区政 == === 区長 === * 区長:[[吉住健一]] (2期目) * 任期:[[2014年]](平成26年)[[11月24日]] - [[2022年]](令和4年)[[11月23日]]<ref name="任期満了日">[http://www.senkyo.metro.tokyo.jp/schedule/schedule04.html 東京都選挙管理委員会 | 都内選挙スケジュール | 任期満了日(定数)一覧] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20151119222128/http://www.senkyo.metro.tokyo.jp/schedule/schedule04.html |date=2015年11月19日 }}</ref> === 行政区域 === 区は、[[1950年]](昭和25年)以来10か所の特別出張所と区役所本庁地区の計11か所に対応する行政区域を設けている。名称は以下の通り。 {{Columns-list|colwidth=8em| * 四谷地区 * 箪笥町地区 * 榎町地区 * 若松地区 * 大久保地区 * [[戸塚地区]] * 落合第一地区 * 落合第二地区 * 柏木地区 * 西新宿地区 * 区役所地区 }} === シンボル === * 区の木 - [[ケヤキ|けやき]] * 区の花 - [[ツツジ|つつじ]] * [[区歌]] - 『大新宿区の歌』(1949年制定、作詞:[[服部嘉香]] 作曲:[[平岡均之]]) === 友好都市・提携都市 === 調印年月日の順。 * {{Flagicon|JPN}}{{Flagicon|長野県}} [[伊那市]](長野県) ** [[1986年]](昭和61年)[[7月12日]]、[[高遠町]]と友好提携 ** [[2006年]](平成18年)[[7月2日]]、伊那市と友好提携 : 1986年、旧高遠町と友好提携。「内藤新宿」の名の起こりとなった内藤家が[[高遠藩]]主であった縁による。高遠町が合併により[[2006年]](平成18年)4月より伊那市に含まれることになったため、同年7月に伊那市と再提携<ref name="shinjuku-yukotoshi">{{Cite web|和書| url=http://www.city.shinjuku.lg.jp/kanko/file02_00008.html | title=新宿区の友好都市 | publisher=新宿区 | accessdate=2012-02-04 }}</ref><ref>{{Cite web|和書| url=http://www.inacity.jp/shinoshokai/ina_shokai/yukodantai.html | title=伊那市の友好団体 | publisher=伊那市 | accessdate=2012-02-04 }}</ref>。 * {{Flagicon|GRE}} [[レフカダ|レフカダ町]]([[ギリシア]]) ** 1989年10月12日、友好都市協定調印 : レフカダで生まれ新宿で亡くなった[[小泉八雲]](ラフカディオ・ハーン)の縁による。1984年、レフカダに八雲の記念碑が建立され、翌85年に新宿区長がレフカダを訪問したことを契機として交流が活発化し、協定調印に至る<ref name="shinjuku-yukotoshi" /><ref name="clair">{{Cite web|和書| url=http://www.clair.or.jp/cgi-bin/simai/j/00.cgi | title=姉妹(友好)提携情報 | publisher=[[自治体国際化協会]] | accessdate=2012-02-04 | archiveurl=https://web.archive.org/web/20121027200400/http://www.clair.or.jp/cgi-bin/simai/j/00.cgi | archivedate=2012年10月27日 | deadlinkdate=2017年10月 }}</ref>。 * {{Flagicon|GER}}{{Flagicon|Berlin}} [[ミッテ区 (ベルリン)|ミッテ区]]([[ドイツ|ドイツ連邦共和国]][[ベルリン市]]) ** 1994年7月6日、[[ティアガルテン区]]と友好協定締結 : 1990年7月、ティアガルテン区から提携を提案。合唱団の相互訪問や青年交流が深められ、友好協定が締結された。統一ベルリンの中央に位置するティアガルテン区は、[[国会議事堂 (ドイツ)|国会議事堂]]など首都の重要な施設を擁する。行政区画再編により2001年1月1日にミッテ区となる<ref name="shinjuku-yukotoshi" /><ref name="clair" />。 * {{Flagicon|CHN}} [[東城区 (北京市)|東城区]]([[中華人民共和国]][[北京市]]) ** 1995年10月15日、友好交流・協力関係締結に関する合意書に調印 ** 1996年8月11日、「友好区関係確立に関する補充合意書」締結 : 1988年、東城区から提携を提案。区民間の交流が深められ、協定に至った。東城区は[[紫禁城|故宮]]・[[天安門]]・[[北京駅]]や繁華街[[王府井]]などを含み、首都北京の中心地区<ref name="shinjuku-yukotoshi" /><ref name="clair" />。 === 主要区政 === ; 犯罪対策 新宿区は、[[2010年]](平成22年)に[[犯罪]]発生件数10537件を記録し、東京都内で最も犯罪発生件数が多い自治体となってしまった<ref>[https://web.archive.org/web/20141129112919/http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/seian/an_machi/image/josei.pdf 警視庁 区市町村別の刑法犯認知件数]</ref>。そのため、[[繁華街]]だけでなく[[住宅地]]においても、条例の拡充や防犯パトロールなどの取り組みが行われている<ref>[https://web.archive.org/web/20160305010322/http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/seian/an_machi/image/torikumi_pdf/shinjuku.pdf 警視庁 新宿区の取り組み状況]</ref>。 == 議会 == === 新宿区議会 === {{main|新宿区議会}} === 東京都議会 === {{Main|2021年東京都議会議員選挙}} * 選挙区:新宿区選挙区 * 定数:4人 * 任期:2021年7月23日 - 2025年7月22日 * 投票日:2021年7月4日 * 当日有権者数:269,909人 * 投票率:41.89% {| class="wikitable" ! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 |- | 大山とも子 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 65 || [[日本共産党]] || style="text-align:center" | 現 || 20,397票 |- | 古城将夫 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 41 || [[公明党]] || style="text-align:center" | 現 || 18,764票 |- | 森口つかさ || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 39 || [[都民ファーストの会]] || style="text-align:center" | 現 || 17,410票 |- | 吉住栄郎 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 48 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="text-align:center" | 新 || 15,386票 |- | 三雲崇正 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 44 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || style="text-align:center" | 新 || 14,469票 |- | 秋田一郎 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 55 || 自由民主党 || style="text-align:center" | 現 || 12,951票 |- | 早乙女智子 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 59 || 無所属 || style="text-align:center" | 新 || style="text-align:right" | 4,714票 |- | 上塚哲司 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 25 || 日本維新の会 || style="text-align:center" | 新 || style="text-align:right" | 4,577票 |- | 梅田夏希 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 35 || 減税とうきょう || style="text-align:center" | 新 || style="text-align:right" | 1,620票 |- | 木下陽介 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 35 || 全都黎明 || style="text-align:center" | 新 || style="text-align:right" | 523票 |- | 山井徹 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 44 || 日本公益党 || style="text-align:center" | 新 || style="text-align:right" | 356票 |} === 衆議院 === ;東京都第1区 * 選挙区:[[東京都第1区|東京1区]]([[千代田区]]、[[港区 (東京都)|港区]]の一部、新宿区の一部) * 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日 * 当日有権者数:462,609人 * 投票率:56.27% {| class="wikitable" ! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複 |- | style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="background-color:#ffc0cb;" | [[山田美樹]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 47 || style="background-color:#ffc0cb;" | [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 前 || style="background-color:#ffc0cb;" | 99,133票 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | ○ |- | style="background-color:#ffdddd;" | 比当 || style="background-color:#ffdddd;" | [[海江田万里]] || style="background-color:#ffdddd; text-align:center;" | 72 || style="background-color:#ffdddd;" | [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || style="background-color:#ffdddd; text-align:center;" | 前 || style="background-color:#ffdddd;" | 90,043票 || style="background-color:#ffdddd; text-align:center;" | ○ |- | style="background-color:#ffdddd;" | 比当 || style="background-color:#ffdddd;" | [[小野泰輔]] || style="background-color:#ffdddd; text-align:center;" | 47 || style="background-color:#ffdddd;" | [[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]] || style="background-color:#ffdddd; text-align:center;" | 新 || style="background-color:#ffdddd;" | 60,230票 || style="background-color:#ffdddd; text-align:center;" | ○ |- | || 内藤久遠 || style="text-align:center;" | 64 || [[無所属]] || style="text-align:center;" | 新 || style="text-align:right;" | 4,715票 || |} ;東京都第10区 * 選挙区:[[東京都第10区|東京10区]](新宿区の一部、[[中野区]]の一部、[[豊島区]]の一部、[[練馬区]]の一部) * 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日 * 当日有権者数:479,088人 * 投票率:56.50% {| class="wikitable" ! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複 |- style="background-color:#ffc0cb" | align="center" | 当 || [[鈴木隼人 (政治家)|鈴木隼人]] || align="center" | 44 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 前 || 115,122.<small>887</small>票 || align="center" | ○ |- style="background-color:#ffdddd" | 比当 || [[鈴木庸介]] || align="center" | 45 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || align="center" | 新 || 107,920.<small>109</small>票 || align="center" | ○ |- | || 藤川隆史 || align="center" | 65 || [[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]] || align="center" | 新 || align="right" | 30,574票 || align="center" | ○ |- | || 小山徹 || align="center" | 46 || [[無所属]] || align="center" | 新 || align="right" | 4,684票 || |- | || 沢口祐司 || align="center" | 67 || 新党日本のこころ || align="center" | 新 || align="right" | 4,552票 || |} 2017年の区割変更に伴い、[[落合町 (東京府)|落合第二]]特別出張所管内と[[落合町 (東京府)|落合第一]]特別出張所管内の[[上落合 (新宿区)|上落合1・2丁目]]、[[中落合 (新宿区)|中落合1丁目、中落合3・4丁目]]、[[中井 (新宿区)|中井2丁目]]は1区から10区に移行した。 == 交通 == === 鉄道 === {{Vertical_images_list |幅 = 320px |画像1 = Shinjukucity-railmap1.png |説明1 = 新宿区内の鉄道路線図<br />(2006年3月現在)<br />(東京メトロ副都心線も掲載)}} '''[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)''' :* [[ファイル:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] [[山手線]] :** [[新宿駅]] - [[新大久保駅]] - [[高田馬場駅]] :* [[ファイル:JR JC line symbol.svg|15px|JC]] [[ファイル:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] [[中央本線]]([[中央線快速]]・[[中央・総武緩行線]]) :** [[四ツ谷駅]] - [[信濃町駅]] &#124;<small>([[渋谷区]]区間)</small>&#124; 新宿駅 - [[大久保駅 (東京都)|大久保駅]] :* [[ファイル:JR JA line symbol.svg|15px|JA]] [[ファイル:JR JS line symbol.svg|15px|JS]] [[埼京線]]・[[湘南新宿ライン]] :** 新宿駅 '''[[東京地下鉄]](東京メトロ)''' :* [[ファイル:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|15px|M]] [[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]] :** [[西新宿駅]] - 新宿駅 - [[新宿三丁目駅]] - [[新宿御苑前駅]] - [[四谷三丁目駅]] - 四ツ谷駅 :* [[ファイル:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|15px|Y]] [[東京メトロ有楽町線|有楽町線]] :** [[飯田橋駅]] :* [[ファイル:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|15px|T]] [[東京メトロ東西線|東西線]] :** [[落合駅 (東京都)|落合駅]] - 高田馬場駅 - [[早稲田駅]] - [[神楽坂駅]] :* [[ファイル:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|15px|N]] [[東京メトロ南北線|南北線]] :** 四ツ谷駅 - [[市ケ谷駅]] - 飯田橋駅 :* [[ファイル:Logo of Tokyo Metro Fukutoshin Line.svg|15px|F]] [[東京メトロ副都心線|副都心線]] :** [[西早稲田駅]] - [[東新宿駅]] - 新宿三丁目駅 '''[[東京都交通局]](都営地下鉄)''' :* [[ファイル:Toei Shinjuku line symbol.svg|15px|S]] [[都営地下鉄新宿線|新宿線]] :** 新宿駅 - 新宿三丁目駅 - [[曙橋駅]] :* [[ファイル:Toei Oedo line symbol.svg|15px|E]] [[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]] :** [[都庁前駅]] - [[新宿西口駅]] - 東新宿駅 - [[若松河田駅]] - [[牛込柳町駅]] - [[牛込神楽坂駅]] &#124;<small>(他区区間)</small>&#124; [[国立競技場駅]] &#124;<small>([[渋谷区]]区間)</small>&#124; 都庁前駅 - [[西新宿五丁目駅]] &#124;<small>([[中野区]]区間)</small>&#124; [[中井駅]] - [[落合南長崎駅]] :* [[ファイル:Tokyo Sakura Tram symbol.svg|15px|SA]] [[都電荒川線|都電荒川線(東京さくらトラム)]] :** [[早稲田停留場]] - [[面影橋停留場]] '''[[京王電鉄]]''' :* [[ファイル:Number prefix Keio-line.svg|15px|KO]] [[京王線]]・[[京王新線]] :** 新宿駅 '''[[小田急電鉄]]''' :* [[ファイル:Odakyu odawara logo.svg|15px|OH]] [[小田急小田原線|小田原線]] :** 新宿駅 ''' [[西武鉄道]]''' :* [[ファイル:SeibuShinjuku.svg|15px|SS]] [[西武新宿線|新宿線]] :** [[西武新宿駅]] - 高田馬場駅 - [[下落合駅]] - 中井駅 * 新宿区内で最も古い路線は日本鉄道品川線(現在のJR山手線の一部、[[1885年]](明治18年)3月1日開業)、最も新しい路線は[[東京メトロ副都心線]]([[2008年]](平成20年)6月14日開業)である。 * [[新宿駅]]の乗降客数は約'''345万人'''([[2007年]](平成19年))と[[世界一の一覧|世界最大]]であり、[[ギネス世界記録]]に認定されている。地下道で直結した[[西武新宿駅]]まで含めれば約'''364万人'''を超え、[[新宿三丁目駅]]など新宿エリアの駅まで含めれば、約'''403万人'''以上に達する。 * 都営大江戸線新宿駅は渋谷区、都営大江戸線飯田橋駅は文京区、東西線飯田橋駅・JR線飯田橋駅・JR線市ケ谷駅・都営新宿線市ケ谷駅は千代田区を所在地としている。 このほか、駅の名称が新宿区に関係している(していた)駅がいくつか存在する。 ; 柏木駅 : JR[[東中野駅]]の開業時の名称。柏木は北新宿周辺の地域名称で、かつては新宿区内の町名でもあった。[[1917年]](大正6年)に名称変更し、東中野駅となる。 ; 牛込駅 : JR[[飯田橋駅]]の前身。[[甲武鉄道]]が市街地に延伸された[[1894年]](明治27年)に四ツ谷駅・信濃町駅とともに開業。場所は牛込橋(現在のJR飯田橋駅西口の橋)から外濠に沿っておよそ100メートル南の地点。[[1928年]](昭和3年)飯田橋駅開業とともに廃駅。 ==== 廃止された鉄道 ==== [[ファイル:Shinjukucity-railmap2.png|thumb|1950年代当時の<br />新宿区内の路面電車<br />(トロリーバスも掲載)]] 現在の東京都心部における市街地電車の機能は、かつて[[路面電車]](いわゆる[[東京都電車|都電]])が担っていた。利用者数がピークを迎える[[1950年代]]当時の規模は路線数(系統数)41、路線総延長は213キロメートル。山手線の駅同士を結ぶような系統も多く、系統間の乗り換えも手軽で、都心部の拠点と拠点を網の目状に結んでいた。新宿区内においては、新宿駅前・四谷三丁目・早稲田・飯田橋をターミナルとする10路線が敷設され、山手線各駅・[[丸の内]]・[[銀座]]などへの往来に頻繁に利用されていた。しかし高度経済成長とともに一般車両をはじめとする交通量は年々増加し、路面電車の平均運行速度は低下。これにより利用者数は減少をたどり、[[東京都交通局]]の収益は悪化した。このため代替の地下鉄建設計画が具体化し、路面電車は1960年代後半から徐々に撤去されることになった。都電27系統の一部と32系統のみ恒久存続が決定し、今日[[都電荒川線|荒川線]]という名称で運行しているが、そのほかの路線は[[1972年]](昭和47年)11月までにすべて廃止された。 新宿区内を運行していた10路線のうち、32系統以外は[[1963年]](昭和38年)から[[1970年]](昭和45年)にかけて廃止。今日、当時の路線の沿線地区にはおおむね代替の地下鉄路線が建設されている。 ; 3系統(飯田橋 - 品川駅前) : 現在のJR[[飯田橋駅]]東口を起点とし、[[東京都道405号外濠環状線|外堀通り]]を南に沿って四谷見附・赤坂見附を経由し、[[虎ノ門]][[交差点]]から[[桜田通り]]を南下し、赤羽橋・[[三田 (東京都港区)|三田]]二丁目交差点を経由して[[泉岳寺]]・[[品川駅]]に至る路線。新宿区内には、外堀通り上に牛込見附停留所・新見附停留所・市ヶ谷見附停留所・本塩町停留所・四谷見附停留所・若葉一丁目停留所があった。[[1967年]](昭和42年)12月に廃止。<!-- 喰違見附(くいちがいみつけ)には都電で唯一のトンネルもあった --> ; 7系統(四谷三丁目 - 品川駅前) : 現在の四谷三丁目交差点([[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]][[四谷三丁目駅]]の地上)を起点とし、[[外苑東通り]]を南に沿ってJR[[信濃町駅]]・[[青山 (東京都港区)|青山]]一丁目交差点・青山公園を経由し、[[東京都道418号北品川四谷線|外苑西通り]]を南に沿って[[西麻布]](霞町)交差点を経由し、天現寺橋から[[明治通り (東京都)|明治通り]]を東に沿って古川橋まで進み、古川橋から[[魚籃坂]]・[[伊皿子坂]]を経て泉岳寺前にて[[国道15号|第一京浜]]に接続し、南下して品川駅に至る路線。新宿区内には、外苑東通り上に四谷三丁目停留所・左門町停留所・信濃町停留所が設置されていた。[[1969年]](昭和44年)10月に廃止。品97系統の前身。 ; 11系統(新宿駅前 - 月島通八丁目) : 現在のJR[[新宿駅]]東口広場を起点とし[[新宿通り]]を東に進み、四谷三丁目交差点・JR[[四ツ谷駅]]を経由して[[半蔵門]]交差点から[[内堀通り]]に沿って南東へ進み、[[桜田門]]・祝田橋を経由して日比谷交差点([[東京メトロ日比谷線|日比谷線]][[日比谷駅]]西端の地上)を東へ、[[晴海通り]]を南東に進み、[[銀座]]四丁目交差点・[[勝鬨橋]]を経由して[[月島]]通八丁目停留所([[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]][[勝どき駅]]の地上)に至る路線。[[1948年]](昭和23年)12月に起点はJR新宿駅の大ガード付近に移設。大ガードから[[東京都道302号新宿両国線|靖国通り]]を東へ、新宿五丁目交差点(当時の四谷三光町交差点)付近で南下し新宿通りに接続し、以降、移設前の経路を辿る。新宿区内には、新宿通り上に新宿駅前停留所・[[角筈]]停留所・三光町停留所、新宿三丁目停留所・新宿二丁目停留所・新宿一丁目停留所・四谷四丁目停留所・四谷三丁目停留所・四谷二丁目停留所・四谷見附停留所が設置されていた。[[1968年]](昭和43年)2月に廃止。都03系統の前身。 ; 12系統(新宿駅前 - 両国駅前) : JR新宿駅からJR四ツ谷駅までの経路は11系統と重複路線。JR四ツ谷駅から外堀通りを北上し、JR[[市ケ谷駅]]前で靖国通りを東へ、九段下交差点・[[神田神保町|神保町]]交差点・岩本町交差点・[[両国橋]]を経由して[[両国 (墨田区)|両国]]二丁目交差点を北上しJR[[両国駅]]西口広場に至る路線。[[1948年]](昭和23年)12月に11系統と同様起点が移設された。新宿区内の経路・停留所は3系統と11系統に重複。[[1970年]](昭和45年)1月に廃止。 ; 13系統(新宿駅前 - 水天宮前) : 現在の[[紀伊國屋書店]]新宿本店([[新宿]]三丁目)付近を起点とし、新宿区役所第一分庁舎([[歌舞伎町]]一丁目)前まで北上し、[[新宿遊歩道公園]]に沿って北東に進み、新宿六丁目交差点から文化センター通り・抜弁天交差点を経由して若松町交差点を経由して大久保通りを東へ進み、[[神楽坂]]上交差点を経由して飯田橋交差点から外堀通りを[[神田川 (東京都)|神田川]]に沿って東へ、[[秋葉原]]交差点(日比谷線[[秋葉原駅]]の地上)南の和泉橋から水天宮通り(人形町通り)を南下し、小伝馬町交差点・[[日本橋人形町|人形町]]交差点を経由して水天宮前交差点([[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]][[水天宮前駅]]北端の地上)に至る経路。[[1948年]](昭和23年)12月に起点は11系統・12系統と同じく大ガード付近に移設。大ガードから靖国通りを東へ、新宿五丁目交差点(当時の四谷三光町交差点)付近で北上して新宿六丁目交差点に接続し、以降、移設前の経路を辿る。新宿区内には新宿駅前停留所・角筈停留所・三光町停留所・新田裏停留所・[[大久保 (新宿区)|大久保]]車庫停留所・東大久保停留所・[[河田町]]停留所・若松町停留所・牛込柳町停留所・山伏町停留所・牛込北町停留所・神楽坂停留所・筑土八幡停留所が設置されていた。[[1970年]](昭和45年)1月に廃止。 ; 14系統(新宿駅前 - 荻窪駅前) : 現在のJR新宿駅西口を起点とし、[[青梅街道]]に沿ってJR[[荻窪駅]]北口広場に至る路線。新宿区内には、青梅街道上に新宿駅停留所・[[柏木]]一丁目停留所・成子坂下停留所が設置されていた。都電唯一の狭軌線。[[1963年]](昭和38年)12月に廃止。→[[都電杉並線]]参照。 ; 15系統(高田馬場駅 - 茅場町) : 現在のJR[[高田馬場駅]]の駅前広場を起点とし[[早稲田通り]]を東へ、馬場口(戸塚二丁目)交差点から明治通りを北上し、高戸橋交差点から[[新目白通り]](通称、十三間通り)を東へ、江戸川橋交差点([[東京メトロ有楽町線|有楽町線]][[江戸川橋駅]]西端の地上)から[[目白通り]]を東へ、飯田橋を経由して九段下交差点([[東京メトロ東西線|東西線]][[九段下駅]]の地上)まで進み、九段下交差点から靖国通りを東に進み、小川町交差点([[都営地下鉄新宿線|新宿線]][[小川町駅 (東京都)|小川町駅]]西端の地上)から[[本郷通り]]を南へ進み、[[大手町 (千代田区)|大手町]]交差点([[都営地下鉄三田線|三田線]][[大手町駅 (東京都)|大手町駅]]北端の地上)から[[永代通り]]を東へ進み、茅場町交差点(東西線[[茅場町駅]]東端の地上)に至る路線。新宿区内には、早稲田通り上に高田馬場駅停留所・戸塚二丁目停留所、新目白通り上に[[面影橋停留場]](都電荒川線の駅として現存)・[[早稲田停留場]](都電荒川線の駅として現存)・早稲田車庫停留所・鶴巻町停留所、目白通り上に石切橋停留所・東五軒町停留所・大曲停留所が設置されていた。[[1968年]](昭和43年)9月に廃止。 ; 33系統(四谷三丁目 - 浜松町一丁目) : 現在の四谷三丁目交差点(丸ノ内線四谷三丁目駅の地上)を起点とし、外苑東通りを南に沿ってJR信濃町駅・青山一丁目交差点・[[六本木]]交差点を経由して飯倉交差点まで進み、神谷町交差点(日比谷線[[神谷町駅]]の地上)まで北上後、御成門交差点(三田線[[御成門駅]]の地上)を経由して[[国道15号|第一京浜]]上の[[浜松町]]一丁目交差点に至る路線。新宿区内の経路・停留所は7系統と重複。[[1969年]](昭和44年)10月に廃止。 ; 39系統(早稲田 - 厩橋) : 現在の都電荒川線早稲田駅を起点とし新目白通りを東へ、江戸川橋交差点(有楽町線江戸川橋駅西端の地上)から目白通りを東へ、大曲交差点から安藤坂を北へ進み、[[伝通院]]前信号機([[富坂警察署]]付近)から[[本郷通り (東京都)|本郷通り]]を東に進み、本郷三丁目交差点・[[御徒町駅]]を経由して[[厩橋]]停留所(大江戸線[[蔵前駅]]東端の地上)に至る路線。新宿区内の経路・停留所は15系統と重複。[[1968年]](昭和43年)9月に廃止。 === バス === ==== 路線バス ==== * [[東京都交通局]]([[都営バス]]) * [[関東バス]] * [[京王バス]] * [[西武バス]] * [[小田急バス]] ==== コミュニティバス ==== * [[京王バス東・中野営業所#新宿WEバス|新宿WEバス]] - [[京王バス中野営業所]]が運行受託 === 道路 === ==== 高速道路・国道・東京都道 ==== [[ファイル:Shinjukucity-roadmap1.png|thumb|新宿区内の<br />主な道路と地点名<br />(2006年3月現在)]] 新宿区内の主な道路には次のものがある。カッコ内の名称は、一般的な地図や[[道路]]上の標識に記載してある名称(一般名称)。 * [[首都高速道路]] ** 4 [[首都高速4号新宿線|高速4号新宿線]] ** 5 [[首都高速5号池袋線|高速5号池袋線]] ** C2 [[首都高速中央環状線|高速中央環状線]] * [[国道20号]]([[新宿通り]] - [[甲州街道]]) * [[東京都道8号千代田練馬田無線]] ** 本線(目白通り) ** 支線(新目白通り) * [[東京都道302号新宿両国線]] ** 本線(靖国通り - [[青梅街道]]) ** 支線(職安通り - 余丁町通り) * [[東京都道305号芝新宿王子線]]([[明治通り (東京都)|明治通り]]) * [[東京都道317号環状六号線]](山手通り) * [[東京都道319号環状三号線]]([[外苑東通り]]) * [[東京都道405号外濠環状線]](外堀通り) * [[東京都道414号四谷角筈線]] * [[東京都道418号北品川四谷線]](外苑西通り) * [[東京都道430号新宿停車場前線]](新宿通り) * [[東京都道433号神楽坂高円寺線]](大久保通り) * [[東京都道440号落合井草線]](新青梅街道) ==== 建設中・計画中の道路 ==== 新宿区の都市計画道路に基づき、主に以下の路線が建設・計画中である。 ; 外苑東通りの整備(環状3号線の一部) : 新目白通り鶴巻町交差点より南下しJR信濃町駅付近までの整備が計画されている。 ; 外苑西通りの北への延伸(環状4号線の一部) : 富久町西交差点(外苑西通りの北端)を起点に、おおまかに、東京都立小石川工業高等学校を経て若松町交差点付近に接続する道路が計画されている。この区間の一部は第三次事業化計画優先整備路線(都-27)。 ; 御苑通りの未通区間の建設(環状5号線の一部、環5ノ1) : 新宿二丁目交差点から南に延伸し、新宿御苑の西端に沿って[[紀伊國屋書店]]新宿南店(渋谷区千駄ヶ谷五丁目)付近で明治通りと接続する道路が計画されている<ref>[https://web.archive.org/web/20120229101630/http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2006/08/20g8f300.htm 環状第5の1号線(新宿御苑付近)の事業に着手します|東京都]</ref>。[[東京都立新宿高等学校]]の旧校舎に付属する部室棟や[[プール]]がこの計画ルート上に建てられていたため、[[2005年]](平成17年)に計画ルートを避ける位置に新校舎を完成させた。この区間の一部は第三次事業化計画優先整備路線(都-37)。[[2006年]](平成18年)8月15日に事業認可取得。[[2022年]](令和4年)12月3日開通予定<ref>[https://abhp.net/road/Road_Tokyo-C05_500000.html 東京 環状 5号線 明治通り 新宿御苑バイパス 2020年度 開通予定]</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.metro.tokyo.lg.jp/tosei/hodohappyo/press/2022/10/13/11.html |title=環状第5の1号線(千駄ヶ谷)交通開放 令和4年12月3日(土曜日)14時00分 |publisher=東京都建設局 |date=2022-10-13 |accessdate=2022-10-13 }}</ref>。この区間は[[新宿御苑]]の一部を削ることになるため、[[ラクウショウ]]や[[地下水]]などの自然環境への配慮が行われた。そのため、新宿御苑に面する区間は、北行([[池袋]]方面)の2車線が地下、南行([[渋谷]]方面)の2車線が地上の二重構造となり、当初計画幅員の半分以下に抑えられている<ref>[http://www.gikai.metro.tokyo.jp/netreport/2003/no_18/18_h_yabe.html 都議会ネットリポート = 平成15年第3回定例会 一般質問 矢部 一(自民党) =]</ref>。なお、現行の明治通り([[伊勢丹]]と[[タカシマヤタイムズスクエア]]を通る路線)は、都市計画上「環5ノ1支1」と表示されている。 ; 山手通りの整備(環状6号線の一部) : [[首都高速中央環状線|中央環状新宿線]](C2)の開通にあわせて、地上部の山手通りが拡幅整備中である。 ; 職安通り(東京都道302号支線)の青梅街道接続([[東京都市計画道路幹線街路放射第6号線]]) : 北新宿一丁目交番から淀橋(中野坂下信号機付近)を結ぶ4車線の直線道路が平成21年度完成を目標に計画されている。[[2006年]](平成18年)6月25日に2車線が暫定交通解放された。 ; 大久保通りの文京区への接続(放射25号線) : 筑土八幡町交差点(大久保通り上、東京厚生年金病院付近の交差点)から牛天神下交差点(文京区[[後楽]]二丁目)を結ぶ直線道路が計画されている。(途中、目白通りを横断する。)文京区側経路(目白通り(新隆慶橋) - 牛天神下交差点)は開通済み。新宿区側経路は第三次事業化計画優先整備路線(都-15)。[[2006年]](平成18年)6月30日に事業認可取得。[[2010年]](平成22年)度完成を目標に計画されている。 ; 小滝橋から西池袋間(補助73号線) : 小滝橋交差点を起点に、おおまかに、新宿区立戸塚第三小学校 - 新宿区立中央図書館 - 七曲坂 - 新宿区立落合中学校 - 下落合ことぶき館 - 目白病院 - 上り屋敷公園(豊島区西池袋二丁目)を経て[[東京芸術劇場|劇場]]通り・[[池袋警察署]]前に接続する道路が計画されている。 ==== 新宿区内の愛称道路 ==== 新宿区の[[市町村道|区道]](一部例外あり)のうち愛称がついている路線がある。これらはいずれも[[1988年]](昭和63年)12月に新宿区が愛称を募集して命名。地域の利便性を考慮して選考したため、周辺他区に関係の深い名称のものもある。([[哲学堂]]は中野区内の建造物、江戸川橋は文京区内の橋。) {{Columns-list|colwidth=11em| * [[牛込中央通り]] * [[江戸川橋通り]] * [[神楽坂通り]] * [[上落合中通り]] * [[歌舞伎町#道路|区役所通り]] * [[グランド坂通り]] * [[小滝橋通り]] * [[三栄通り]] * [[女子医大通り]] * [[早大通り]] * [[津の守坂通り]] * [[哲学堂通り]] * [[夏目坂通り]] * [[箱根山通り]] * [[八幡通り]] * [[花園通り]] * [[文化センター通り]] }} ==== 東京都庁周辺の道路 ==== [[1965年]](昭和40年)に[[淀橋浄水場]](角筈三丁目、現在の西新宿二丁目)の機能が[[東村山市]]に移転したため、跡地および周辺(角筈二丁目・三丁目・十二社・淀橋)の整備計画が進められた。この一環として[[1969年]](昭和44年)、[[新宿中央公園]]と新宿駅に挟まれた地区一帯に格子状の道路(いずれも東京都道)が完成。これらの一般名称を決めるために東京都と周辺住民が新宿副都心地区街路ネーミング委員会を立ち上げ、名称を選考。「平凡でも親しみの持てる名称を」との方針のもと、[[東京都庁舎]](現庁舎)の移転開庁を目前にひかえた[[1990年]](平成2年)9月に以下の8路線の名称を決定。 (東西に延びる道路を北側から、南北に伸びる道路を東側から順に記載。) {{Columns-list|colwidth=25em| * 北通り([[方南通り]]に接続) * 中央通り * ふれあい通り * 南通り(水道道路 - [[井ノ頭通り]]に接続) * 東通り * 議事堂通り * 都庁通り * 公園通り(首都高速4号新宿線の新宿出入口に接続) }} === 交通網整備の沿革 === * [[1885年]](明治18年) ** 3月1日:[[日本鉄道]]品川線(のち国有化、現在のJR山手線の一部)が開業し、[[赤羽駅|赤羽]] - [[品川駅|品川]]間が開通。同日、新宿駅開業。 ** 3月16日:品川線目白駅開業。 * [[1889年]](明治22年)4月11日:新宿駅をターミナルとする[[甲武鉄道]](のち国有化、現在のJR中央本線)が開業し、[[立川駅|立川]] - 新宿間が開通。 * [[1894年]](明治27年)10月9日:甲武鉄道([[八王子駅|八王子]] - 新宿間)が延伸され、新宿 - 牛込間が開通。信濃町駅・四ツ谷駅・牛込駅開業。 * [[1895年]](明治28年) ** 3月6日:甲武鉄道市ケ谷駅開業。 ** 5月5日:甲武鉄道大久保駅開業。 * [[1904年]](明治37年)8月21日:甲武鉄道千駄ケ谷駅開業。 * [[1909年]](明治42年)10月12日:品川線は山手線に、旧甲武鉄道線は中央東線に、それぞれ名称変更。 * [[1910年]](明治43年)9月15日:山手線高田馬場駅開業。 * [[1911年]](明治44年)5月1日:中央東線は中央本線に名称変更。 * [[1914年]](大正3年)11月15日:山手線新大久保駅開業。 * [[1915年]](大正4年)5月1日:京王電気軌道(現京王線)が停車場駅(新宿駅)まで延伸。以後、新宿駅をターミナルとする。 [[ファイル:Shinjuku Station 1925.jpg|250px|thumb|新宿駅(1925年)]] * [[1927年]](昭和2年) ** 4月1日:新宿駅をターミナルとする小田原急行鉄道(現小田急電鉄小田原線)が開業し、新宿 - [[小田原駅|小田原]]間が開通。 ** 4月16日:高田馬場駅をターミナルとする西武鉄道村山線が開業し、高田馬場 - [[東村山駅|東村山]]間が開通。中井駅・下落合駅・高田馬場駅開業。 * [[1928年]](昭和3年)11月15日:飯田橋駅開業に伴い、牛込駅廃止。 * [[1952年]](昭和27年)3月25日:西武新宿駅開業。西武村山線が高田馬場駅から西武新宿駅まで延伸。これにより西武村山線は西武新宿線と改称。 * [[1957年]](昭和32年)6月4日:[[曙橋]](外苑東通り上に架かる靖国通りとの立体交差橋)完成。 * [[1959年]](昭和34年)3月15日:丸ノ内線([[池袋駅|池袋]] - [[霞ケ関駅 (東京都)|霞ケ関]]間)が延伸され、霞ケ関 - 新宿間が開通。新宿駅・新宿御苑前駅・四谷三丁目駅・四ツ谷駅開業。 * [[1961年]](昭和36年) ** 2月8日:荻窪線(今日の丸ノ内線の新宿以西部分)が第一次開通(開通区間は新宿 - [[新中野駅|新中野]]間)。 ** 2月8日:荻窪線開通に合わせて、丸ノ内線新宿三丁目駅開業。 * [[1964年]](昭和39年) ** 8月:首都高速4号新宿線が第一次開通(開通区間は[[三宅坂ジャンクション|三宅坂]] - 初台間)。[[外苑出入口]]と新宿出入口が設置される。 ** 12月23日:東西線が第一次開通(開通区間は[[九段下駅|九段下]] - 高田馬場間)。高田馬場駅・早稲田駅・神楽坂駅開業。 * [[1966年]](昭和41年)3月16日:東西線(九段下 - 高田馬場間)が延伸され、[[竹橋駅|竹橋]] - 九段下間と高田馬場 - [[中野駅 (東京都)|中野]]間が開通。落合駅開業。 * [[1969年]](昭和44年)6月:首都高速5号池袋線([[竹橋ジャンクション|竹橋]] - [[西神田出入口|西神田]]間)が延伸され、西神田 - [[護国寺出入口|護国寺]]間が開通。[[飯田橋出入口]]が設置される。 * [[1974年]](昭和49年)10月30日:有楽町線が第一次開通(開通区間は池袋 - [[銀座一丁目駅|銀座一丁目]]間)。江戸川橋駅・飯田橋駅・市ケ谷駅開業。 * [[1980年]](昭和55年)3月16日:都営新宿線([[東大島駅|東大島]] - [[岩本町駅|岩本町]]間)が延伸され、岩本町 - 新宿間が開通。曙橋駅・新宿三丁目駅・新宿駅開業。同線と京王新線との相互直通運転が開始される。 * [[1986年]](昭和61年)3月3日:埼京線が新宿駅まで延伸。 * [[1987年]](昭和62年)1月23日:首都高速5号池袋線に新たに[[早稲田出口]]が設置される。 * [[1991年]](平成3年)12月21日:新宿御苑トンネル(国道20号線上、四谷四丁目交差点で新宿通りと分岐し、新宿四丁目交差点で甲州街道に接続する地下トンネル)開通。 * [[1996年]](平成8年) ** 3月26日:南北線([[赤羽岩淵駅|赤羽岩淵]] - [[駒込駅|駒込]]間)が延伸され、駒込 - 四ツ谷間が開通。飯田橋駅・市ケ谷駅・四ツ谷駅開業。 ** 5月28日:丸ノ内線西新宿駅開業。 * [[1997年]](平成9年) ** 9月30日:南北線(赤羽岩淵 - 四ツ谷間)が延伸され、四ツ谷 - [[溜池山王駅|溜池山王]]間が開通。永田町駅開業。 ** 12月19日:都営地下鉄12号線([[光が丘駅|光が丘]] - [[練馬駅|練馬]]間)が延伸され、練馬 - 新宿間が開通。落合南長崎駅・中井駅・西新宿五丁目駅・都庁前駅開業。 * [[2000年]](平成12年) ** 4月20日:都営地下鉄12号線(光が丘 - 新宿間)が延伸され、新宿 - 国立競技場間が開通。国立競技場駅が開業。同日、都営地下鉄12号線は大江戸線と改称される。 ** 12月12日:都営大江戸線(光が丘 -都庁前 - 国立競技場間)が延伸され、国立競技場 - [[六本木駅|六本木]] - [[大門駅 (東京都)|大門]] - [[両国駅|両国]] - 飯田橋 - 都庁前間が開通。牛込神楽坂駅・牛込柳町駅・若松河田駅・東新宿駅・新宿西口駅開業。 * [[2008年]](平成20年) ** 6月14日:有楽町新線が延伸されて副都心線と改称し、池袋 - 渋谷間が開通。西早稲田駅・東新宿駅・新宿三丁目駅開業。 == 商業 == 新宿駅周辺は国内最大の商業地となっている。 ; [[百貨店]] : 私鉄の駅ビルには[[京王百貨店]]が、新宿三丁目付近に[[伊勢丹]]がある。[[1996年]](平成8年)に南口(所在地は[[渋谷区]][[千駄ヶ谷]])に[[タカシマヤタイムズスクエア]]が進出した。[[丸井]]は新宿三丁目周辺の6箇所に点在している。 ; [[家電量販店]] : [[淀橋]]は[[ヨドバシカメラ]]発祥の地で[[ヨドバシカメラ新宿西口本店|新宿西口本店]]の所在地。現在ではヨドバシといえば、地名ではなく同店を示す語になっている。昭和50年代([[1975年]](昭和50年) - [[1984年]](昭和59年)、1960年代の後の1970年代後半から1990年代の前の1980年代初期)には同業の「[[さくらや]]」、「ドイ」と競争を繰り広げ「新宿カメラ戦争」と呼ばれた。近年、[[ビックカメラ]]が新宿三丁目の新宿マルイカレンと紀伊國屋書店に挟まれた一角と[[小田急百貨店]]HALC内に進出し、ヨドバシと対峙している。新宿駅西口周辺にはヨドバシを中心とした家電量販店や[[ソフマップ]]などのパソコン・ゲーム関連の店舗が集まっており、雑誌などでは「新宿電気街」と呼ばれることもある。ヨドバシは西口にホビー館、カメラ館、PC館などに分かれている。これらの量販店は近年、[[大阪府]](特に[[大阪市]])への進出が続いているが、[[2010年]](平成22年)に業界最大手の[[ヤマダデンキ]]が進出し激しい顧客獲得競争を繰り広げている。 ; [[書店]] : [[紀伊國屋書店]]本店がある。長らく国内最大級と呼ばれた。さらに1990年代後半に南口に新店がオープン。ルミネ内には[[青山ブックセンター]]が出店していたが[[2004年]](平成16年)に倒産し、[[ブックファースト]]が引き継いだ。西口にはデパート内に[[三省堂書店]]、[[啓文堂書店]]がある。[[2008年]](平成20年)11月にブックファーストが[[モード学園コクーンタワー]]の3フロアーを使い、東京圏の旗艦店として開業した。 ; [[駅ビル]] : JR系の[[ルミネ]]、[[ルミネエスト新宿|ルミネエスト]](旧マイシティ)は若者向けの店舗をテナントに入れている。 ; [[金券ショップ|チケットショップ]] : 西口大ガード(思い出横丁)付近に店舗が集中している。 ; その他 : 靖国通りと職安通りに挟まれた街区には日本最大級の[[歓楽街]]の[[歌舞伎町]]がある。[[新宿二丁目]]はゲイのメッカである。 <gallery> Isetan Shinjuku 2018.jpg|伊勢丹本店 Takashimaya Times Square.jpg|高島屋タイムズスクウエア </gallery> == 機関・施設 == === 新宿区の機関 === {{columns-list|colwidth=12em| * [[新宿区役所]] ** 本庁舎(歌舞伎町一丁目) ** 第一分庁舎(歌舞伎町一丁目) ** 第二分庁舎(新宿五丁目) * 各種窓口 ** 榎町特別出張所(早稲田町) ** 大久保特別出張所(大久保二丁目) ** 落合第一特別出張所(下落合四丁目) ** 落合第二特別出張所(中落合四丁目) ** 柏木特別出張所(北新宿二丁目) ** 箪笥町特別出張所(箪笥町) ** 角筈特別出張所(西新宿四丁目) ** [[戸塚地域センター|戸塚特別出張所]](高田馬場二丁目) ** 四谷特別出張所(内藤町) ** 若松町特別出張所(若松町) * 保健事務 ** 新宿区[[保健所]](新宿五丁目) ** 牛込保健センター(弁天町) ** 落合保健センター(下落合四丁目) ** 西新宿保健センター(西新宿七丁目) ** 四谷保健センター(四谷四丁目) * 清掃事務・道路管理 ** 新宿清掃事務所(下落合二丁目) ** 歌舞伎町清掃センター(歌舞伎町二丁目) ** 新宿東清掃センター(四谷三栄町) ** 新宿中央公園事務所(西新宿二丁目) ** 西部道路公園事務所(下落合一丁目) ** 東部道路公園事務所(市谷仲之町) }} === 警察・消防 === {{columns-list|colwidth=20em| * [[警視庁]] ** [[牛込警察署]](南山伏町) ** [[新宿警察署]](西新宿六丁目) ** [[戸塚警察署 (東京都)|戸塚警察署]](西早稲田三丁目) ** [[四谷警察署]](左門町) ** 新宿運転免許更新センター(西新宿二丁目) ** 新宿少年センター(西新宿五丁目) * [[東京消防庁]] ** [[東京消防庁第四消防方面本部|第四消防方面本部]](大久保三丁目3-14-26)※新宿消防署戸塚出張所庁舎内3階 *** [[四谷消防署]](四谷3-10-4)指揮隊、[[ポンプ隊]]2([[特別消火中隊]])、はしご隊、[[救急隊]]1 **** 新宿御苑出張所(新宿1-8-3)ポンプ隊2、救急隊2 *** [[牛込消防署]](筑土八幡町5-16)指揮隊、ポンプ隊2、はしご隊、救急隊1(資材搬送車1:第1小隊乗換運用) **** 早稲田出張所(早稲田鶴巻町504-6)ポンプ隊2(特別消火中隊) *** [[新宿消防署]](百人町3-29-4)指揮隊、ポンプ隊2、はしご隊、[[特別救助隊]]、救急隊2(屈折放水塔車1:はしご隊乗換運用) **** 落合出張所(中落合3-7-1)ポンプ隊1、救急隊1 **** 戸塚出張所(大久保3-14-26)ポンプ隊2、救急隊1 **** 大久保出張所(新宿6-27-43)ポンプ隊1、救急隊1 **** 西新宿出張所(西新宿3-7-38)ポンプ隊2(特別消火中隊)、はしご隊、救急隊2 }} === 東京都の機関 === * [[東京都庁舎|東京都庁]](西新宿二丁目) * 東京都新宿都税事務所(西新宿七丁目) * 東京都労働委員会(西新宿二丁目) <gallery> TokyoMetropolitanGovernmentOffice.jpg|東京都庁第一本庁舎・第二本庁舎] </gallery> === 官公庁 === * [[防衛省市ヶ谷地区|防衛省市ヶ谷庁舎]](市谷本村町) - 「市ヶ谷1号館([[東部方面隊 (陸上自衛隊)|東部方面総監部]])」跡地に本庁舎を新設 ** 防衛省本庁 ** [[統合幕僚監部]] ** [[陸上幕僚監部]] ** [[海上幕僚監部]] ** [[航空幕僚監部]] ** [[防衛装備庁]] * [[総務省]]第二庁舎(若松町) - [[統計局]] * [[厚生労働省]]戸山研究庁舎(戸山一丁目) - [[国立感染症研究所]]、[[国立健康・栄養研究所]] <gallery> Ministry of Defense2.JPG|防衛省市ヶ谷庁舎 </gallery> ==== 出先機関 ==== * [[国税庁]] ** 新宿[[税務署]](北新宿一丁目) ** 四谷税務署(四谷三栄町) * [[法務省]] ** [[東京法務局]]新宿出張所(北新宿一丁目) * [[出入国在留管理庁]] ** [[東京出入国在留管理局]]新宿出張所 * [[厚生労働省]] ** 新宿[[労働基準監督署]](西新宿七丁目) ** 新宿[[公共職業安定所]](歌舞伎町二丁目) <!--* [[日本年金機構]] ** 南関東ブロック本部(大久保二丁目) ** 新宿年金事務所(大久保二丁目)--> === 電気・ガス・水道 === * [[東京電力]]新宿支社(新宿五丁目) * [[東京瓦斯|東京ガス]]ホームサービス本部(西新宿三丁目) * [[東京都水道局]]新宿営業所(内藤町) === 郵便局 === [[2008年]](平成20年)7月現在の新宿区内の[[郵便局]]は56局、[[現金自動預け払い機|ATM]]出張所は17箇所。[[簡易郵便局]]は存在しない(以前は小田急百貨店内に簡易郵便局が存在した)。 [[集配郵便局]]は3局。区内一部地域は[[中野区]]にある[[落合郵便局 (東京都)|落合郵便局]]が集配を担当している。 * [[牛込郵便局]]:〒162-8799 北山伏町1-5 * [[新宿郵便局]]:〒163-8799 西新宿1-8-8 * [[新宿北郵便局]]:〒169-8799 大久保3-14-8 [[ゆうちょ銀行]]直営店舗は2店舗。 * 牛込店(牛込郵便局に併設) * 新宿店(新宿郵便局に併設) [[かんぽ生命保険]]直営店舗は1店舗。 * 新宿支店([[新宿ファーストウエスト]]に入居) '''郵便局''' {{columns-list|colwidth=12em| * [[飯田橋駅]]東口郵便局 * 市谷柳町郵便局 * 牛込郵便局 * 牛込抜弁天郵便局 * 牛込若松町郵便局 * 北新宿三郵便局 * [[KDDIビル]]内郵便局 * [[新大久保駅]]前郵便局 * 新宿郵便局 * [[新宿アイタウン]]郵便局 * [[新宿アイランド]]郵便局 * 新宿一郵便局 * 新宿大久保郵便局 * 新宿小滝橋郵便局 * 新宿改代町郵便局 * 新宿神楽坂郵便局 * 新宿歌舞伎町郵便局 * 新宿上落合郵便局 * 新宿北郵便局 * 新宿区役所内郵便局 * 新宿三郵便局 * 新宿下落合三郵便局 * 新宿下落合四郵便局 * 新宿住吉郵便局 * 新宿諏訪町郵便局 * [[新宿センタービル]]内郵便局 * [[新宿第一生命ビル]]内郵便局 * 新宿天神郵便局 * 新宿戸山郵便局 * 新宿中落合郵便局 * 新宿二郵便局 * 新宿西落合郵便局 * [[新宿野村ビルディング|新宿野村ビル]]内郵便局 * 新宿花園郵便局 * 新宿馬場下郵便局 * [[新宿パークタワー]]内郵便局 * 新宿百人町郵便局 * 新宿保健会館内郵便局 * [[新宿三井ビル]]内郵便局 * 新宿明治通郵便局 * 新目白通郵便局 * 高田馬場郵便局 * 高田馬場二郵便局 * [[東京オペラシティ]]郵便局 * [[東京都庁]]内郵便局 * 西新宿七郵便局 * 西新宿八郵便局 * 西新宿四郵便局 * 西早稲田一郵便局 * 四谷郵便局 * 四谷駅前郵便局 * 四谷大木戸郵便局 * 四谷通二郵便局 * [[早稲田大学]]前郵便局 * [[早稲田通り|早稲田通]]郵便局}} === 金融機関 === {{columns-list|colwidth=12em| * [[みずほ銀行]] 13支店 * [[三菱UFJ銀行]] 16支店 * [[三井住友銀行]] 5支店 * [[りそな銀行]] 4支店 * [[PayPay銀行]] 1支店 * [[東邦銀行]] 1支店 * [[常陽銀行]] 1支店 * [[千葉銀行]] 1支店 * [[きらぼし銀行]] 5支店 * [[横浜銀行]] 1支店 * [[山梨中央銀行]] 1支店 * [[八十二銀行]] 1支店 * [[北陸銀行]] 1支店 * [[静岡銀行]] 1支店 * [[スルガ銀行]] 1支店 * [[百十四銀行]] 1支店 * [[伊予銀行]] 1支店 * [[三菱UFJ信託銀行]] 1支店 * [[みずほ信託銀行]] 1支店 * [[三井住友信託銀行]] 2支店 * [[SMBC信託銀行]] 2支店 * [[SBI新生銀行]] 1支店 * [[あおぞら銀行]] 1支店 * [[SBJ銀行]] 1支店 * [[きらやか銀行]] 2支店 * [[東日本銀行]] 2支店 * [[東京スター銀行]] 1支店 * [[関西みらい銀行]] 1支店 * [[興産信用金庫]] 1支店 * [[さわやか信用金庫]] 2支店 * [[東京シティ信用金庫]] 4支店 * [[東京東信用金庫]] 1支店 * [[東京三協信用金庫]] 4支店 * [[西京信用金庫]] 2支店 * [[西武信用金庫]] 3支店 * [[昭和信用金庫]] 1支店 * [[東京信用金庫]] 4支店 * [[城北信用金庫]] 2支店 * [[巣鴨信用金庫]] 1支店 * [[商工組合中央金庫]] 1支店 * [[あすか信用組合]] 1支店 * [[東京厚生信用組合]] 1支店 * [[中ノ郷信用組合]] 1支店 * [[大東京信用組合]] 1支店 * [[第一勧業信用組合]] 3支店 * [[東京都職員信用組合]] 1支店 * [[警視庁職員信用組合]] 1支店}} === 病院 === 新宿区には[[病院]](病床数20以上の入院可能な医療施設)が13あり、病床数の合計は5,543。東京都内では[[板橋区]]・[[八王子市]]に次いで3番目に病床数を多く抱える自治体である。また、1病院あたりの病床数は436(東京都内では[[文京区]]・[[狛江市]]に次いで3番目に大きい)であり、大病院が集積していることを窺わせる(数字はいずれも[[2021年]](令和3年)11月現在<ref>{{Cite web|和書|title=東京都 新宿区|地域医療情報システム(日本医師会) |url=https://jmap.jp/cities/detail/city/13104 |website=jmap.jp |access-date=2022-05-20}}</ref>)。 新宿区内の以下の7病院は東京都の[[東京都災害拠点病院|災害拠点病院]]に指定されており、広域災害時の救急医療拠点としての機能を備えている。 * [[慶應義塾大学病院]]([[信濃町 (新宿区)|信濃町]]、[[救命救急センター]]、[[特定機能病院]]) * [[国立国際医療研究センター|国立国際医療研究センター病院]]([[戸山 (新宿区)|戸山]]一丁目、救命救急センター、特定機能病院) *[[JCHO東京山手メディカルセンター]]([[百人町]]三丁目、[[地域医療支援病院]]) *[[地域医療機能推進機構東京新宿メディカルセンター|JCHO東京新宿メディカルセンター]](津久戸町、地域医療支援病院) * [[東京医科大学病院]]([[西新宿]]六丁目、救命救急センター、特定機能病院) * [[東京女子医科大学病院]]([[河田町]]、救命救急センター) * [[東京都保健医療公社大久保病院|東京都立大久保病院]]([[歌舞伎町]]二丁目、地域医療支援病院) <gallery> Keio University Hospital-1.jpg|慶應義塾大学病院(2018年4月22日撮影) </gallery> その他の主な病院を以下に掲げる。 * [[聖母病院]](中落合) * [[晴和病院]](弁天町) * 林外科病院(大京町) * 春山記念医院(百人町) * 目白病院(下落合) * 柳町病院(市谷柳町) === 文化施設 === ==== 博物館 ==== * [[国立科学博物館]]新宿分館(百人町三丁目) * 新宿区立新宿歴史博物館(四谷三栄町) * 東京消防庁[[消防博物館]](四谷三丁目) ==== 図書館 ==== 新宿区内の[[図書館]]および類似施設のうち、一般利用が可能な公立の施設は17ある。 防衛省図書館と総務省統計図書館は組織上[[国立国会図書館]]の支部となっているが、実態として維持管理は[[防衛省]]・[[総務省]]統計局によってなされており、来庁者のための情報公開施設として機能している。 新宿区立の図書館には、[[教育委員会]]の組織下のものと、それ以外のものに分類される。最も古い図書館は[[1951年]](昭和26年)3月開館の新宿図書館(現四谷図書館、四谷区民センター内に併設)、最も新しい図書館は[[2006年]](平成18年)4月設置のこども図書館(中央図書館内に併設)である。新宿区立の図書館はすべて、新宿区発足以降に新宿区によって新設された図書館であるため、周辺他区の図書館と比較してその歴史はあまり古くない<ref group="注釈">かつては[[東京市]]時代、四谷区・牛込区・淀橋区内にもそれぞれ1館ずつ東京市立図書館が設置されていたが、いずれも戦時休館となり[[1946年]](昭和21年)復興予算がつかなかったことにより事業は再開されなかった。これに対し、江東区立深川図書館・千代田区立千代田図書館・中央区立京橋図書館・文京区立本郷図書館・港区立麻布図書館・荒川区立荒川図書館・北区立中央図書館はこの時期に事業が再開された東京市設置の図書館であり、その後に区に移管され名称変更を経て現在に至っているため、これらは都内でも比較的歴史が古い。</ref>。 教育委員会組織下の図書館の蔵書総数はおよそ82万点(雑誌の数は含まず)、視聴覚資料はおよそ4万5,000点。 <gallery> ファイル:Shinjuku central library shimoochiai.JPG|下落合にあった旧新宿区立中央図書館 </gallery> {{columns-list|colwidth=20em| * 新宿区教育委員会 ** [[新宿区立中央図書館]](大久保三丁目) ** [[新宿区立大久保図書館]](大久保二丁目) ** [[新宿区立北新宿図書館]](北新宿三丁目) ** [[新宿区立こども図書館]](下落合一丁目) ** [[新宿区立角筈図書館]](西新宿四丁目) ** [[新宿区立鶴巻図書館]](早稲田鶴巻町) ** [[新宿区立戸山図書館]](戸山二丁目) ** [[新宿区立西落合図書館]](西落合四丁目) ** [[新宿区立中町図書館]](中町) ** [[新宿区立四谷図書館]](内藤町) * 新宿区役所総務部 ** 区政情報センター(歌舞伎町一丁目・新宿区役所本庁舎内) ** 男女共同参画推進センター図書資料室(荒木町) * 国立国会図書館支部 ** [[防衛省図書館]](市谷本村町・防衛庁本庁舎内) ** [[総務省統計図書館]](若松町・総務省第二庁舎内) * 東京都 ** 東京都議会図書館(西新宿二丁目・東京都庁議会棟内) ** 統計部統計資料室(西新宿二丁目・東京都庁第一本庁舎内) ** 都民情報ルーム(西新宿二丁目・東京都庁第一本庁舎内) }} 上記17施設のほか、利用に条件のある図書館もいくつかある。 * 新宿区議会図書館(歌舞伎町一丁目・新宿区役所本庁舎内) - 新宿区議会議員の紹介により利用できる * [[東京富士大学]]付属図書館(下落合一丁目) - 新宿区立図書館で手続きをした20歳以上の新宿区民が利用できる * [[目白大学]]新宿図書館(中落合四丁目) - 新宿区立図書館で手続きをした20歳以上の新宿区民が利用できる ==== 多目的ホール ==== * [[東京オペラシティ]] * [[新宿文化センター]] * [[四谷区民ホール]] * [[角筈区民ホール]] * [[牛込箪笥区民ホール]] * [[日本青年館|日本青年館ホール]] * [[紀伊國屋ホール]] * [[新宿永谷ホール]] * [[新宿ゴールデン街劇場]] * [[パークタワーホール]] * [[新宿アイランドホール]] * [[安与ホール]] <gallery> Tokyo Opera City-2.jpg|東京オペラシティ </gallery> ==== スポーツ施設 ==== * [[国立競技場]] * [[明治神宮野球場]] * 大久保スポーツプラザ(大久保三丁目) * 新宿コズミックスポーツセンター(大久保三丁目) * 新宿スポーツセンター(大久保三丁目) * 西落合公園少年野球場(西落合二丁目) * [[西戸山公園野球場]](百人町四丁目) <gallery> Kokuritsu Kasumigaoka Rikujo Kyogijo 191024h.jpg|新国立競技場 </gallery> ==== 公園 ==== * 国立 ** [[新宿御苑]](内藤町) ** [[明治神宮外苑]](霞ヶ丘町) * 東京都立 ** [[戸山公園]](戸山二丁目・三丁目) ** 明治公園(霞ヶ丘町) * 新宿区立 **[[落合中央公園]](上落合二丁目) ** [[おとめ山公園]](下落合二丁目) ** [[甘泉園公園]](西早稲田三丁目) ** 北新宿公園(北新宿三丁目) ** 小泉八雲記念公園(大久保一丁目) ** [[新宿中央公園]](西新宿二丁目) ** 鶴巻南公園(早稲田町) ** 戸塚公園(高田馬場三丁目) ** [[新宿遊歩道公園]](歌舞伎町) ** [[新宿公園]](新宿二丁目) ** 抜弁天北公園(新宿七丁目) ** 四谷見附公園(四谷一丁目) ** 若葉東公園(四谷一丁目) ** 若宮公園(若宮町) <gallery> Shinjyuku Shinjyuku-Gyoen Japanese Garden 1.JPG|新宿御苑 </gallery> === 住宅施設 === {{Anchors|住宅団地}} {{columns-list|colwidth=25em| * UR 原町団地(原町、分譲44 [[1958年]](昭和33年)) * UR 戸塚三丁目団地(高田馬場 市街地住宅 賃貸75 [[1962年]](昭和37年) 現存 譲渡返還) * UR 四谷三丁目団地(四谷 市街地住宅 賃貸20 [[1962年]](昭和37年) 現存 譲渡返還) * UR 市谷田町団地(市谷田町 市街地住宅 賃貸70 [[1963年]](昭和38年) 現存 譲渡返還) * UR 新宿二丁目第一団地(新宿 市街地住宅 賃貸14 [[1958年]](昭和33年)) * UR 新宿二丁目第二団地(新宿 市街地住宅 賃貸18 [[1958年]](昭和33年) 建替) * 都営花園町アパート(新宿 1-15、[[1964年]](昭和39年) - [[1965年]](昭和40年)) * [[霞ヶ丘町|霞ヶ丘]]団地・都営霞ヶ丘アパート(霞ヶ丘町 5-2、[[1960年]](昭和35年) - [[1966年]](昭和41年)) * 都営市ヶ谷富久町アパート(富久町 22-24、[[1970年]](昭和45年) - [[1974年]](昭和49年)) * UR 市ヶ谷富久町団地(富久町 市街地住宅 賃貸16 [[1958年]](昭和33年) 建替) * 都営若松町アパート(若松町 1-1、[[1966年]](昭和41年) - [[1967年]](昭和42年)) * 都営早稲田アパート(西早稲田 1-9、[[1969年]](昭和44年)) * 都営長延寺アパート(市谷長延寺町 8、[[1964年]](昭和39年) - [[1966年]](昭和41年)) * UR 西大久保団地(歌舞伎町 市街地住宅 賃貸77 [[1960年]](昭和35年)) * 都営西大久保アパート(大久保 3-13、[[1965年]](昭和40年) - [[1976年]](昭和51年)) * 都営西大久保四丁目アパート([[戸山 (新宿区)]] 3-18、[[1971年]](昭和46年)) * 都営東大久保一丁目アパート(新宿 6-13、[[1971年]](昭和46年)) * 百人町都営住宅 * 新宿西戸山開発百人町三丁目団地 - [[1988年]](昭和63年) : 東京都市計画事業(一団地の住宅施設) * 都営百人町三丁目アパート(百人町 3-28、[[1990年]](平成2年) - [[1998年]](平成10年)) * 都営百人町三丁目第2アパート(百人町 3-29、[[1999年]](平成11年)) * 都営百人町四丁目アパート(百人町 4-8、[[2000年]](平成12年)) * 都営百人町四丁目第2アパート(百人町 4-7、[[2002年]](平成14年)) * 都営百人町四丁目第3アパート(百人町 4-6、[[2003年]](平成15年)) * 都営百人町四丁目第4アパート(百人町 4-5、[[2004年]](平成16年)) * 都営百人町四丁目第5アパート(百人町 4-4、[[2005年]](平成17年)) * 都営戸山アパート(東京都建築局、東京都、本格的中層耐火構造住宅、[[1949年]](昭和24年)) * 戸山ハイツ(東京都建築局+市浦都市開発建築コンサルタンツ、東京都、戸山 2-7、[[1968年]](昭和43年) - [[1976年]](昭和51年)) * 都営戸山ハイツ団地 - [[1980年]](昭和55年) : 東京都市計画事業(一団地の住宅施設) * 都営弁天町アパート(弁天町 121、[[2001年]](平成13年)) * 都営弁天町第2アパート(弁天町 163、[[1971年]](昭和46年)) }} == 教育 == === 大学 === * [[桜美林大学]]新宿キャンパス(百人町三丁目) - ビジネスマネジメント学群 * [[学習院女子大学]](戸山三丁目) * [[慶應義塾大学]]信濃町キャンパス(信濃町) - 医学部・看護医療学部 * [[工学院大学]]新宿キャンパス(西新宿一丁目) * [[上智大学]]目白聖母キャンパス(下落合四丁目) - 総合人間科学部看護学科 * [[宝塚大学]]東京新宿キャンパス(西新宿七丁目) - 東京メディア芸術学部 * [[中央大学]]市ヶ谷キャンパス(市谷本村町) - [[中央大学法科大学院|法科大学院]] * [[東京医科大学]](新宿六丁目) * [[東京国際大学]]高田馬場サテライト(高田馬場四丁目) - 大学院商学研究科 * [[東京女子医科大学]](河田町) * [[東京富士大学]](下落合一丁目) * [[東京理科大学]]神楽坂キャンパス(神楽坂一丁目) * [[法政大学]]市ヶ谷キャンパスの一部(市谷田町二丁目) - デザイン工学部・大学院棟 * [[目白大学]]新宿キャンパス(中落合四丁目) * [[早稲田大学]] ** [[早稲田大学早稲田キャンパス|早稲田キャンパス]](西早稲田一丁目) - 政治経済学部・法学部・商学部・国際教養学部・社会科学部・教育学部 ** [[早稲田大学戸山キャンパス|戸山キャンパス]](戸山一丁目) - 文学部・文化構想学部 ** [[早稲田大学西早稲田キャンパス|西早稲田キャンパス]](大久保三丁目) - 基幹理工学部・創造理工学部・先進理工学部 ** 喜久井町キャンパス(喜久井町) - 理工学術院総合研究所・多目的グラウンドなど * [[マギル大学|マギル大学ジャパン]](西新宿三丁目) * [[上海大学]]東京校(百人町一丁目) * [[社会情報大学院大学]](高田馬場一丁目) * [[東京通信大学]](西新宿一丁目) * [[社会起業大学]](西新宿三丁目) * [[深圳大学]]東京校(四谷一丁目) === 専門職大学 === * [[国際ファッション専門職大学]]東京キャンパス(西新宿一丁目) * [[東京国際工科専門職大学]](西新宿一丁目) === 専修学校 === * [[グレッグ外語専門学校]]新宿校(百人町二丁目) * [[西武学園医学技術専門学校]]東京新宿校(百人町二丁目) * [[日本コンピュータデザイン専門学校]](大京町) * [[真野美容専門学校]](歌舞伎町二丁目) * [[日本電子専門学校]](百人町一丁目) * [[東京YMCA国際ホテル専門学校]](西早稲田二丁目) * [[日本福祉教育専門学校]](高田馬場二丁目) * [[早稲田美容専門学校]](西早稲田二丁目) * [[東京医療専門学校]](四谷三栄町) === 高等学校 === {{Col-begin}} {{Col-break}} * 東京都立 ** [[東京都立新宿高等学校|新宿高等学校]](内藤町) ** [[東京都立新宿山吹高等学校|新宿山吹高等学校]](山吹町) ** [[東京都立戸山高等学校|戸山高等学校]](戸山三丁目) ** [[東京都立総合芸術高等学校|都立総合芸術高校]](美術科・舞台表現科・富久町) ** [[東京都立市ヶ谷商業高等学校|市ヶ谷商業高等学校]](=[[2009年]](平成21年)統合閉校・矢来町) ** [[東京都立小石川工業高等学校|小石川工業高等学校]](=[[2008年]](平成20年)統合閉校・富久町) {{Col-break}} * 私立 ** [[海城中学校・高等学校|海城高等学校]](大久保三丁目) ** [[学習院女子中・高等科|学習院女子高等科]](戸山三丁目) ** [[成城中学校・高等学校|成城高等学校]](原町三丁目) ** [[成女学園中学校・成女高等学校|成女高等学校]](富久町) ** [[保善高等学校]](大久保三丁目) ** [[目白研心中学校・高等学校|目白研心高等学校]](中落合四丁目) ** [[早稲田中学校・高等学校|早稲田高等学校]](馬場下町) ** [[鹿島学園高等学校]]新宿ウイングキャンパス・新宿キャンパス・西新宿声優キャンパス ** [[クラーク記念国際高等学校]]東京キャンパス(高田馬場一丁目) ** [[八洲学園高等学校]]新宿キャンパス(新宿二丁目) ** [[大智学園高等学校]]東京校(北新宿一丁目) ** [[屋久島おおぞら高等学校]]新宿キャンパス(西新宿八丁目) {{Col-end}} === 中学校 === {{See|新宿区立の学校一覧}} * [[海城中学校・高等学校|海城中学校]](大久保三丁目) * [[学習院女子中・高等科|学習院女子中等科]](戸山三丁目) * [[成城中学校・高等学校|成城中学校]](原町三丁目) * [[成女学園中学校・成女高等学校|成女学園中学校]](富久町) * [[目白研心中学校・高等学校|目白研心中学校]](中落合四丁目) * [[早稲田中学校・高等学校|早稲田中学校]](馬場下町) === 小学校 === {{See|新宿区立の学校一覧}} * [[学習院初等科]](若葉一丁目) == 名所・史跡・文化財 == * 近衛公の欅(下落合二丁目) * [[新宿御苑]] * 高層ビルは[[新宿区の超高層建築物・構築物の一覧]]を参照。 * [[新宿末廣亭]] - [[寄席]] * [[箱根山 (新宿区)|箱根山]] * [[明治神宮外苑]] <gallery> HakoneYama2005-6ToyamaKoen.jpg|箱根山 </gallery> == 人物 == === 著名な出身者 === ''旧四谷区、旧牛込区、旧淀橋区の著名な出身者については[[四谷区]]、[[牛込区]]、[[淀橋区]]を参照'' ==== 文化 ==== <!-- 生年順 --> * [[サトウハチロー]]:詩人・作詞家・作家。 * [[田辺茂一]]:[[紀伊國屋書店]]創業者。作家。 * [[潮寒二]]:小説家。西新宿出身。 * [[金井紀年]]:アメリカの寿司ブーム仕掛人。下落合出身。 * [[蒲谷鶴彦]]:野鳥研究家。 * [[大西信行]]:劇作家、脚本家。神楽坂出身。 * [[外山雄三]]:作曲家、指揮者。 * [[八木正生]]:作曲家。 * [[宗方俊彦]]:教育者。 * [[飯塚定雄]]:光学合成技師。 * [[中村政則]]:歴史学者。 * [[里吉しげみ]]:劇作家。 * [[石坂まさを]]:作詞家、作曲家。 * [[エムナマエ]]:[[画家]]、[[児童文学作家]]。 * [[戸井十月]]:作家。 * [[市川ジュン]]:漫画家。 * [[橘川幸夫]]:メディア・プロデューサー。 * [[渋谷陽一]]:音楽評論家。 * [[山本達彦]]:歌手。 * [[井辻朱美]]:翻訳家、ファンタジー小説家、歌人。 * [[志水一夫 (作家)|志水一夫]]:作家。 * [[泉麻人]]:コラムニスト。落合出身。 * [[高田裕史]]:作家。 * [[杉田英明]]:比較文化学者。 * [[くじらいいく子]]:漫画家。 * [[原田宗典]]:作家。※中学までを新大久保で過ごし、岡山県に転居。 * [[山田あかね]]:脚本家、映像作家、小説家、エッセイスト。 * [[井上雅彦]]:小説家。 * [[大泉実成]]:ノンフィクションライター。 * [[清水草一]]:モータージャーナリスト。 * [[清水節]]:編集者・映画評論家。 * [[辻陽]]:作曲家・編曲家。 * [[石川陽生]]:将棋棋士。 * [[平山優 (歴史学者)|平山優]]:歴史学者。 * [[古市コータロー]]:ギタリスト。 * [[丸田祥三]]:写真家。 * [[樋口真嗣]]:特技監督・映画監督。 * [[高橋玄]]:映画監督。 * [[ベニー松山]]:ゲームライター・小説家。 * [[岩崎夏海]]:放送作家。 * [[高橋ヨシキ]]:アート・ディレクター。 * [[貝島桃代]]:建築家。 * [[manzo]]:シンガーソングライター、作詞家、作曲家。 * [[水野健 (教育者)|水野健]]:教育者。 * [[本田創]]:文筆家。 * [[玉置勉強]]:漫画家。 * [[北本かつら]]:放送作家・脚本家。 * [[乙武洋匡]]:スポーツライター。 * [[西川真音]]:シナリオライター。 * [[藤倉勇樹]]:将棋棋士。 * [[杉山文野]]:[[トランスジェンダー]]活動家、作家。歌舞伎町出身。 * [[原島"ど真ん中"宙芳]]:[[ディスクジョッキー|DJ]]、[[トラックメイカー]]、[[ラッパー]]。水道町出身。 *[[渡辺和史]]:将棋棋士。 *[[梶浦宏孝]]:将棋棋士。神楽坂出身。 *[[兵頭佐和子]]:ミュージシャン。 *[[あずみ椋]]:漫画家。 *[[上野通明]]:チェリスト。 ==== 自然科学 ==== <!-- 生年順 --> * [[杉田玄白]]:江戸時代の蘭学医。牛込矢来町生まれ。 * [[森脇基恭]]:レースエンジニア。 * [[春日雅人]]:医学者。<!-- 1948年 --> * [[吉家重夫]]:心理カウンセラー。 * [[早乙女智子]]:医師。 * 菱山玲子:大学教授。 * [[水島昇]]:医学者、生物学者。 ==== 芸能 ==== * [[千葉信男]]:俳優、コメディアン * [[荒井注]]:俳優、コメディアン、[[ザ・ドリフターズ]]元メンバー * [[久我美子]]:女優 * [[中原早苗]]:女優 * [[嶋俊介]]:声優 * [[緒形拳]]:俳優 * [[東野英心]]:俳優、声優 * [[杉本真人]]:シンガーソングライター * [[小倉一郎]]:俳優 * [[グッチ裕三]]:タレント、歌手 * [[珠めぐみ]]:女優・歌手 * [[大橋穣]]:歌手・作曲家 * [[青木英美]]:女優・モデル * [[ルー大柴]]:タレント * [[鈴木淑子]]:タレント * [[本間優二]]:俳優 * [[檜山久恵]] : [[1980年]][[ミス・ユニバース・ジャパン|ミス・ユニバース日本代表]] * [[沼澤尚]]:ミュージシャン * [[鴨宮諒]]:ミュージシャン * [[KONTA]]:俳優、声優、歌手 * [[戸川純]]:女優、歌手 * [[宇梶剛士]]:俳優 * [[杉田かおる]]:女優 * [[豊原功補]]:俳優 * [[草刈民代]]:バレリーナ * [[宮川一朗太]]:俳優 * [[岡本麻弥]]:声優、女優 * [[岡本健一]]:俳優、歌手 * [[柳家獅堂]]:落語家 * [[玉袋筋太郎]]:芸人([[浅草キッド (お笑いコンビ)|浅草キッド]]) * [[田代まさし]]:元タレント<ref>出生地は[[佐賀県]][[唐津市]]。</ref> * [[佐藤浩市]]:俳優 * [[佐藤佑介 (1959年生)|佐藤佑介]]:俳優 * [[神崎ゆう子]]:女優、歌手、おかあさんといっしょ第16代目[[うたのおねえさん]] * [[渡部篤郎]]:俳優 * [[佐藤弘道]]:タレント、体操インストラクター * [[若林志穂]]:女優(引退済み) * [[佐倉しおり]]:女優(引退済み) * [[せがわきり]]:タレント、児童文学作家 * [[大石恵]]:元ニュースキャスター * [[山本耕史]]:俳優 * [[小沢真珠]]:女優 * [[伊賀大介]]:スタイリスト * [[小日向しえ]]:女優 * [[仁科幸子]]:女優、キャスター * [[吉岡毅志]]:俳優 * [[カノン (お笑い)|樋山潤]]:芸人 * [[一条正都]]:AV男優 * [[金子賢]]:俳優 * [[風花舞]]:元[[宝塚歌劇団]][[月組]]トップ娘役 * [[初姫さあや]]:元宝塚歌劇団[[花組]]娘役 * [[羽生未来]]:タレント、歌手 * [[八木橋修]]:演出家、俳優 * [[入江陽]]:ミュージシャン * [[津久井教生]]:俳優、声優 * [[大須賀ひでき]]:シンガーソングライター * [[鈴木雄大]]:シンガーソングライター、作曲家 * [[ROCK-Tee]]:[[ディスクジョッキー|DJ]]、[[ヒップホップ]]ユニット[[EAST END]]のメンバー * [[渋谷龍太]]:歌手 * [[ぺぺ桜井]]:ギター[[漫談家]] * [[つのだ☆ひろ]]:歌手、生後間もなくして[[十二社]]で育った。 * [[赤塚りえ子]]:元女優、現代美術家 * [[新井梨絵]]:元ファッションモデル、元グラビアアイドル * 角舘健悟:歌手。[[Yogee New Waves]]のメンバー ==== 放送 ==== <!-- 生年順 --> * [[杉山一雄]]:元[[関西テレビ放送|関西テレビ]]アナウンサー(現在はフリーアナウンサー)。 * [[荻島正己]]:元[[静岡放送]]・TBSアナウンサー(現在はフリーアナウンサー)。 * [[和田圭]]:[[フジテレビジョン|フジテレビ]]解説委員。 * [[田畑祐一 (アナウンサー)|田畑祐一]]:[[テレビ朝日]]アナウンサー。 * [[福澤朗]]:元[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]アナウンサー(現在はフリーアナウンサー)。 * [[保坂和拓]]:[[朝日放送テレビ|朝日放送]]アナウンサー。 * [[原元美紀]]:元[[CBCテレビ|中部日本放送]]アナウンサー(現在はフリーアナウンサー)、[[声優]]。 * [[藤井彩子]]:[[日本放送協会|NHK]]アナウンサー。 * [[小川知子 (アナウンサー)|小川知子]]:[[TBSテレビ|TBS]]アナウンサー。 * [[島田弘久]]:[[テレビ東京]]アナウンサー。 * [[下平さやか]]:テレビ朝日アナウンサー。 * [[宇田麻衣子]]:元フジテレビアナウンサー。証券アナリスト、アシスタントファンドマネージャー。 * [[西川文野]]:[[文化放送]]アナウンサー。[[笹塚]]生まれ。 ==== スポーツ ==== <!-- 生年順 --> * [[小常陸由太郎]]:元[[力士]]。 * [[有明五郎]]:元力士。 * [[東錦栄三郎]]:元力士。 * [[大橋穣]]:元プロ野球選手。 * [[尾崎峰穂]]:陸上競技選手。 * [[MEN'Sテイオー]]:プロレスラー。 * [[金沢イボンヌ]]:陸上競技選手。 * [[佐藤琢磨]]:F1ドライバー。 * [[永井雄一郎]]:[[サッカー]]選手・([[ザスパクサツ群馬]]所属) * [[野澤武史]]:元ラグビー選手。 * [[笹川隆]]:元[[プロ野球選手]]。(現在は[[福岡ソフトバンクホークス]]の三軍コーチ) * [[吉原道臣]]:元プロ野球選手([[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]) * [[キローラン裕人]] : 元[[Jリーガー]]([[東京ヴェルディ1969]]) * [[遠藤一星]]:プロ野球選手([[中日ドラゴンズ]]) * [[坂本一将]]:元プロ野球選手([[オリックス・バファローズ]]) * [[上形洋介]]:サッカー選手([[ギラヴァンツ北九州]]所属) * [[三井梨紗子]]:[[アーティスティックスイミング]]元選手 * [[卜部蘭]]:[[陸上競技]]選手 * [[淺間大基]] : プロ野球選手([[北海道日本ハムファイターズ]]) * [[山口瑠伊]]:サッカー選手([[水戸ホーリーホック]]所属) * [[清宮幸太郎]]:プロ野球選手(北海道日本ハムファイターズ) * [[樋口新葉]]:[[フィギュアスケート]]選手 ==== 政治 ==== <!-- 生年順 --> <!--* [[平沼赳夫]]:衆議院議員(岡山3区選出)・元経済産業大臣。→渋谷区--> <!--* [[中川秀直]]:衆議院議員(広島4区選出)・元内閣官房長官。→中川秀直の義父中川俊思が東五軒町居住ですが、中川秀直自身が新宿区出身ないし居住か不明。--> * [[鳩山一郎]]:元衆議院議員、元首相 * [[安倍晋三]]:衆議院議員、元首相 * [[白眞勲]]:参議院議員(比例区) * [[山崎泰]]:都議会議員(新宿選挙区) * [[浮島とも子]]:参議院議員(比例区) * [[城内実]]:衆議院議員 * [[宮崎謙介]]:元衆議院議員 * [[多ケ谷亮]]:衆議院議員 * [[吉住健一]]:新宿区長 * [[渡辺照子]]:[[練馬区議会]]議員 * [[齋藤健]]:衆議院議員 * [[木原誠二]]:衆議院議員 * [[土屋品子]]:衆議院議員 * [[藤本正人]]:所沢市長 * [[赤羽一嘉]]:衆議院議員 ==== その他 ==== * [[中川重徳]]:弁護士 * [[広瀬健一]]:[[オウム真理教]]元幹部 === ゆかりの人物 === ==== 新宿区名誉区民 ==== * [[金子鷗亭]] * [[田中傳左衛門]] * [[米川敏子]] * [[富永直樹]] * [[小平邦彦]] * [[やなせたかし]] * [[三川泉]] * [[西川扇蔵]] * [[山勢松韻]] * [[宮田哲男]] * [[鳥羽屋里長]] * [[鶴賀若狭掾]] * [[三遊亭金馬 (4代目)|三遊亭金馬]] * [[草間彌生]] * [[大山忠作]] * [[亀井忠雄]] * [[室瀬和美]] * [[高階秀爾]] * [[柳家小三治]] * 杵屋勝国 ==== 主な居住者・在住者 ==== * [[服部嘉香]]:詩人。新宿区歌『大新宿区の歌』の作詞者。 * [[本田宗一郎]]:技術者。[[本田技研工業]]創業者 * [[林芙美子]]:小説家。[[林芙美子記念館|新宿区立林芙美子記念館]]([[東京都選定歴史的建造物]]) * [[山根キク]]:ジャーナリスト・政治家・考古学者 * [[内田百閒]]:小説家・随筆家。40歳の時、旧[[牛込区]]に移り住んだことがあった。 * [[星野直樹]]:官僚・政治家。[[中落合 (新宿区)|中落合]]に居住していた。 * [[中川俊思]]:政治家・代議士。[[東五軒町]]に居住していた。[[中川秀直]](政治家)の義父。 * [[佐伯祐三]]:画家。中落合に居住していた。現在、区立佐伯公園内[[アトリエ]]付き住宅が記念館になっている。 * [[大岡昇平]]:文学者 * [[草間彌生]]:画家・彫刻家・小説家 * [[長澤榮治]]:[[エジプト]]社会経済史 * [[マーティ・フリードマン]]:ギタリスト * [[赤塚不二夫]]:漫画家。中落合に[[フジオ・プロダクション]]を構えていた。 * [[いかりや長介]]:ベーシスト、バンドマスター、俳優。若手バンドマン時代と[[ザ・ドリフターズ]]時代に新宿区に在住。 * [[高木ブー]]:ミュージシャン、コメディアン。ザ・ドリフターズのメンバー。[[西早稲田]]在住。 * [[マックボンボン]]([[井山淳]]&[[志村けん|志村健(志村けん)]]):お笑いコンビ。共にいかりや長介の付き人として修業中の時に新宿区[[若松町 (新宿区)|若松町]]に在住<ref>{{Cite news|title=志村けん、元相方と46年ぶり“再会”過酷な下積み経験「アイツは同志」という言葉に…|newspaper=Sponichi ANNEX|date=2019-07-31|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2019/07/31/kiji/20190731s00041000368000c.html|agency=スポーツニッポン新聞社|accessdate=2019-08-01}}</ref>。 * [[芦名星]]:女優 * [[峰竜太]]:タレント・俳優 * [[赤松健]]:漫画家 * [[沢井亮]]:AV男優 * [[石田靖]]:お笑いタレント(ルミネTheよしもと新喜劇座長) * [[設楽洋]]:[[ビームス]]社長 * [[森永卓郎]]:[[経済評論家|経済アナリスト]] * [[尾津喜之助]] :露天商、[[関東尾津組]]組長、[[闇市]]「[[新宿マーケット]]」設立者 ===名誉区民=== *金子鷗亭 平成9年3月15日 *小平邦彦 平成9年3月15日 *田中傳佐衛門 平成9年3月15日 *富永直樹 平成9年3月15日 *米川敏子 平成9年3月15日 *宮田哲男 平成12年1月5日 *西川扇藏 平成12年1月5日 *鶴賀若狭掾 平成14年3月15日 *山勢松韻 平成14年3月15日 *鳥羽屋里長 平成16年1月5日 *三川泉 平成16年1月5日 *やなせたかし 平成16年1月5日 *大山忠作 平成19年3月15日 *亀井忠雄 平成19年3月15日 *三遊亭金翁 平成19年3月15日 *草間彌生 平成24年3月15日 *室瀬和美 平成24年3月15日 *高階秀爾 平成25年3月23日 *柳家小三治 平成27年3月23日 *杵屋勝国 令和2年1月5日 == 新宿区を舞台とした作品 == === 古典 === * 『四谷怪談』 * 『甲駅新話』:[[大田南畝]]による洒落本。[[新宿|内藤新宿]]が舞台。 === テレビドラマ === * 『[[太陽にほえろ!]]』シリーズ:刑事たちが所属する「[[七曲署]]」(架空)は新宿区の[[新宿]]らしき地域を管轄している設定。「七曲」は下落合二丁目と四丁目の境界に実在する七曲坂に由来しているとの説がある。 * 『新宿警察』:根来刑事役の北大路欣也が主演 藤原審爾 原作の『新宿警察シリーズ』1975年9月6日〜1976年2月28日、全26話 * 『[[刑事貴族]]』:新宿区にある架空の警察署「警視庁代官警察署(通称=代官署)」刑事課の刑事たちの活躍を描くアクション刑事ドラマ。 * 『[[神楽坂署生活安全課]]』:[[舘ひろし]]主演の刑事ドラマ。(「神楽坂警察署」という名称の[[警察署]]は牛込警察署の前身としてかつて実在。) * 『[[STATION (漫画)|STATION]]』:[[新宿駅]]が舞台。 * 『[[伝説の教師]]』:[[西新宿]]付近の「私立十二社学園」(架空)が舞台の学園ドラマ。[[松本人志]]主演。 * 『[[恋セヨ乙女]]』:主人公は西新宿の米屋の娘。[[東風万智子|真中瞳]]主演。 * 『[[銭湯の娘!?]]』:西新宿の銭湯「楽の湯」が舞台。[[矢口真里]]主演。 * 『[[拝啓、父上様]]』:[[神楽坂]]が舞台。[[二宮和也]]主演。 === テレビアニメ === * 『[[デジモンテイマーズ]]』:主人公らが通う小学校は西新宿にある「淀橋小学校」(架空)。その他にも、東京都庁や都営大江戸線などの施設が登場する。 * 『[[BanG Dream!]]』:早稲田周辺が主な舞台となっている。なお、主役バンドのPoppin' Party、メンバ5人の苗字は(戸山、花園、牛込、山吹、市ヶ谷)全部新宿区の町名(旧町名)から取られる。 * 『[[selector infected WIXOSS]]』:主人公は西新宿近郊のマンションに住んでおり、丸ノ内線や新目白通り近辺のロケーションが登場する。 *『[[真夜中のオカルト公務員]]』:新宿[[区役所]]が主な舞台となっている。[[歌舞伎町]]や[[新宿御苑]]なども登場する。 === 漫画 === * 『[[鉄腕アトム]]』:主人公の「アトム」は、「2003年4月7日」に[[高田馬場]]で誕生という設定。 * 『[[シティーハンター]]』:[[北条司]]の漫画。主人公が[[歌舞伎町]]近辺に居住。また[[新宿駅]]東口の伝言板が主人公への仕事依頼に使われる。 **『[[エンジェルハート]]』:上記のパラレル作品。 * 『なぜか笑介』:[[聖日出夫]]の漫画。主人公の勤める「五井物産」は三井ビルの三井物産がモデル。 * 『[[天才バカボン]]』:主人公一家の居住地は[[下落合 (新宿区)|下落合]]。「バカ田大学」は[[早稲田大学]]の至近にあるという設定。 * 『[[HEAT-灼熱-]]』:歌舞伎町での利権抗争をテーマにした漫画。 * 『[[20世紀少年]]』:[[浦沢直樹]]の漫画。新宿・歌舞伎町界隈のほか、[[曙橋駅]]周辺や「都立[[新大久保]]高等学校」(架空)が舞台に登場する。 * 『[[名探偵コナン]]』:主人公の活動エリアでは、「新宿[[日本のナンバープレート|ナンバー]]」(架空)<!-- [[ご当地ナンバー]]としても存在しない。 -->をつけた自動車が多数走行している。 * 『[[ホムンクルス]]』:山本英夫の漫画。主人公は「新宿西青空公園」([[新宿中央公園]]がモデルの架空の公園)のホームレスと生活をともにする。 * 『[[代紋TAKE2]]』:原作[[木内一雅]]・作画[[渡辺潤]]による新宿を舞台にした[[サイエンス・フィクション|SF]][[ヤクザ]]漫画。 * 『[[夜王]]』:原作[[倉科遼]]・作画[[井上紀良]]。歌舞伎町の[[ホストクラブ]]が舞台。 *『[[真夜中のオカルト公務員]]』:新宿[[区役所]]や、[[新宿御苑]]、[[歌舞伎町]]などが舞台。 *『[[深夜食堂]]』:[[安倍夜郎]]の漫画。 === 小説 === * 『婦系図』:[[泉鏡花]]作。[[神楽坂]]での自身の経験が土台。 * 『[[坊っちゃん]]』:[[夏目漱石]]作。主人公が東京物理学校(現・[[東京理科大学]])に通う。 * 『恐怖王』:[[江戸川乱歩]]の推理小説。「牛込のS町」([[矢来町]]付近の寂しい屋敷町)が舞台。 * 『山吹町の殺人』:[[平林初之輔]]の短編推理小説。山吹町。 * 『[[新宿鮫シリーズ]]』:[[大沢在昌]]の警察小説。歌舞伎町が舞台。 * 『高田馬場ラブソング』:[[三田誠広]]作。早稲田大学が舞台。 * 『[[青春の門]]』:[[五木寛之]]作。 * 『ナイン』:[[井上ひさし]]作。[[四谷]]が舞台。 * 『愛がいない部屋』:[[石田衣良]]作。神楽坂のマンションが舞台。 * 『角筈にて』:[[浅田次郎]]作。角筈は新宿駅周辺の旧町名。新宿界隈や[[花園神社]]が舞台に登場。 * 『生家へ』:[[色川武大]]作。矢来町。 * 『牛込御門余時』:[[竹田真砂子]]の時代小説。[[牛込]]界隈が舞台。 * 『四十一人の仇討ち』:[[浄瑠璃坂の仇討]]を題材にした[[山本音也]]の小説。 * 『ストリート・チルドレン』:[[盛田隆二]]作。1698年から1998年まで新宿を舞台に300年にわたる一族の軌跡を描く異色長篇。 * 『ラスト・ワルツ』:盛田隆二作。1973年の新宿界隈や花園神社が舞台に登場。 * 『金曜日にきみは行かない』:盛田隆二作。[[歌舞伎町]]が舞台に登場。 * 『ニッポンの狩猟期』:盛田隆二作。歌舞伎町と[[新宿中央公園]]を主要な舞台にした近未来小説。 * 『新宿の果実』:盛田隆二作。歌舞伎町が舞台の短編小説。 * 『[[6ステイン]]』:[[福井晴敏]]作。市谷の「防衛庁情報局」(架空)の「工作員」たちが主人公の短編小説集。 * 『蜜猟人 朧十三郎』:[[睦月影郎]]作。主人公は内藤新宿の薬種問屋に居候する。 * 『天使に見捨てられた夜』:[[桐野夏生]]作。主人公は[[新宿二丁目]]に探偵事務所を構える。後年[[かたせ梨乃]]主演で映画化。 * 『裸のカフェ』:[[横田創]]作。神楽坂のサロンが舞台。 * 『大江戸番太郎事件帳』:[[喜安幸夫]]の時代小説。四谷大木戸の番人が主人公。 * 『下落合の向こう』:[[笙野頼子]]の短編小説。高田馬場行きの[[西武新宿線]]の車中が舞台。 * 『[[テロリストのパラソル]]』:[[藤原伊織]]作。新宿中央公園の爆発事故が発端となって物語が進行する。 * 『[[都庁爆破!]]』:[[高嶋哲夫]]作。東京都庁がテロリストに占拠される。 * 『[[魔界都市ブルース]]』:[[菊地秀行]]作の小説シリーズ。[[直下型地震]]でいったん壊滅したのち復興した新宿が舞台。 * 『[[百日紅の下にて]]』:[[横溝正史]]作。[[市谷亀岡八幡宮]]の近くの坂の上、空襲で焼け落ちた屋敷の前が舞台。 * 『千の扉』:[[柴崎友香]]作。新宿区の都営団地([[戸山ハイツ]]がモデル)が舞台<ref>[https://bunshun.jp/articles/-/4834 新宿の巨大都営団地を舞台に人々の記憶が交錯していく『千の扉』] 文春オンライン 2023年11月6日閲覧。</ref>。 === 評伝・エッセイ === * 『東京住所不定』:三代目魚武浜田成夫による引越しエッセイ。[[曙橋]]周辺や新宿なども登場。 * 『熱情―田中角栄をとりこにした芸者』:辻和子著。神楽坂での自身の経験を綴ったエッセイ。 * 『牛込下宮比町十三番地―糖尿病研究の黎明期に活躍した坂口康蔵を育てた家と人たち』:牛込の下宮比町に暮らした糖尿病研究者[[坂口康蔵]]の伝記。康蔵の四男・坂口孝著。 * 『「北島亭」のフランス料理』:四谷のレストラン、北島亭のルポ。大本幸子著。 * 『かかわりのなかで育ちあう―信濃町保育園保育者研修の三年間』:新宿区立信濃町保育園におけるスタッフ研修の記録。諏訪きぬ著。 * 『生きてみたい、もう一度―新宿バス放火事件』:杉原美津子著。[[新宿西口バス放火事件]]に遭遇し生死を彷徨った著者自身の経験を記録。 === 絵本・児童書 === * 『おおきなおおきなおいも』:赤羽末吉作。新宿区立鶴巻幼稚園における市村久子の教育実践を絵本化。 === 映画 === * 『復讐浄瑠璃坂』:[[浄瑠璃坂の仇討]]を描いた映画。[[1955年]]公開。浄瑠璃坂は市谷砂土原町一丁目に現存する。 *『[[血煙高田の馬場]]』:[[高田馬場の決闘]]を描いた映画。[[1938年]]公開。監督[[マキノ正博]]・[[稲垣浩]] 主演[[阪東妻三郎]]。 * 『[[不良番長]]シリーズ』:[[1968年]]-[[1972年]]公開。計16本制作。[[梅宮辰夫]]主演。新宿を根城にする不良[[オートバイ|バイク]]グループの抗争を描く。 * 『[[新宿アウトロー ぶっ飛ばせ]]』:[[1970年]]公開。[[渡哲也]]主演。アウトロー2人が新宿で悪の一味に戦いを仕掛ける。 * 『[[女番長 野良猫ロック]]』:[[1970年]]公開。[[和田アキ子]]主演。新宿西口一帯の不良集団の抗争を描く。 * 『[[君よ憤怒の河を渉れ]]』:[[1976年]]公開。[[高倉健]]主演。新宿西口で大量の競走馬が暴走する。 * 『[[太陽を盗んだ男]]』:[[1979年]]公開。[[沢田研二]]主演。 * 『[[容疑者室井慎次]]』:警視庁「新宿北警察署」(架空)が舞台。 * 『[[ゴジラ (1984年の映画)|ゴジラ]]』(1984年):[[ゴジラ (平成VSシリーズ)|ゴジラ]]が新宿副都心(西新宿地区)を襲撃する。 * 『[[ゴジラvsキングギドラ]]』:ゴジラと[[キングギドラ (平成VSシリーズ)#メカキングギドラ|メカキングギドラ]]が新宿副都心を舞台に対決する。この際、[[東京都庁舎|東京都庁]]が崩壊する。 * 『[[モスラ3 キングギドラ来襲]]』:[[キングギドラ (平成モスラシリーズ)|キングギドラ]]が副都心に飛来し、建物を破壊する。 * 『[[ゴジラ2000 ミレニアム]]』:[[ゴジラ (ミレニアムシリーズ)|ゴジラ]]と[[ゴジラ2000 ミレニアム#宇宙怪獣 オルガ|オルガ]]が、[[東京オペラシティ]]周辺で対決する。 * 『新宿暴力街 華火』『新宿暴力街 烈華』:[[2007年]] [[松方弘樹]]主演。新宿歌舞伎町を舞台にヤクザの抗争を描いたアクションドラマ。 * 『[[新宿インシデント]]』:[[2009年]]公開。[[香港]]・日本合作映画。[[ジャッキー・チェン]]主演。新宿・[[歌舞伎町]]が舞台。恋人を探し[[密入国]]した男が[[裏社会]]でのし上がる。 * 『[[君の名は。]]』:[[2016年]]公開の[[アニメ映画]]。キービジュアルに新宿区[[須賀町 (新宿区)|須賀町]]の[[須賀神社 (新宿区)|須賀神社]]の石段が用いられるなど、区内のあらゆる場所が舞台となった。 === 演劇 === * 『[[決闘! 高田馬場]]』:[[三谷幸喜]]作・演出による歌舞伎作品。2006年3月 === ゲーム === * 『[[探偵 神宮寺三郎シリーズ]]』:主人公の探偵事務所が新宿にある。 * 『[[ザ・警察官|ザ・警察官 新宿24時]]』:新宿を舞台に警察と暴力団が銃撃戦を繰り広げる。続編にも新宿が登場する。 === 歌謡曲 === * 「新宿そだち」:[[津山洋子]]と[[大木英夫 (歌手)|大木英夫]]のデュエット曲。 * 「[[新宿の女]]」:[[藤圭子]]。西向天神社に歌碑がある。 * 「[[圭子の夢は夜ひらく]]」:藤圭子。花園神社に歌碑がある。 * 「新宿ブルース」:[[扇ひろ子]] * 「新宿野郎」:間宮ひろし * 「新宿波止場」:[[美空ひばり]] * 「[[なみだ恋]]」:[[八代亜紀]] * 「[[新宿・みなと町]]」:[[森進一]] * 「新宿情話」:[[細川たかし]] * 「西新宿の親父の唄」:[[長渕剛]] * 「[[あずさ2号]]」:[[狩人]]。始発駅は新宿駅。 * 「恋の神楽坂」:[[井上陽水]] * 「東京新宿恋の街」:[[舟木一夫]] * 「[[神田川 (曲)|神田川]]」:[[かぐや姫 (フォークグループ)|かぐや姫]]。作詞者喜多条忠に依れば、モデルは区内西早稲田「面影橋」近傍とのこと。 * 「[[歌舞伎町の女王]]」:[[椎名林檎]] * 「西新宿で逢ったひと」:ドラマ『[[もっと恋セヨ乙女]]』劇中使用曲を[[前田有紀 (歌手)|前田有紀]]がカバー。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== {{Reflist|2}} == 関連項目 == <!-- 本文記事を理解する上での補足として役立つ、関連性のある項目へのウィキ間リンク、ウィキリンク。可能なら本文内に埋め込んで下さい。 --> * [[:Category:新宿区]] * [[:Category:新宿を舞台とした漫画作品]] * [[:Category:新宿を舞台とした映画作品]] == 外部リンク == {{Multimedia|新宿区の画像}} {{Sisterlinks|wikt=|b=|q=no|s=|commons=新宿区|commonscat=Shinjuku |n=|v=no|voy=Shinjuku|species=Shinjuku}} {{Osm box|r|1758858}} ; 行政 * {{Official website}} ; 観光 * [https://www.kanko-shinjuku.jp/ 一般社団法人 新宿観光振興協会] * {{Googlemap|新宿区}} ; その他 * {{Kotobank|新宿(区)}} {{新宿区の町名}} {{東京都の自治体}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:しんしゆくく}} [[Category:新宿区|*]] [[Category:東京都の特別区]]
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日本ビクター
日本ビクター株式会社(にほんビクター、英: Victor Company of Japan, Limited)は、かつて存在した映像機器・音響機器・記録メディアを主な製品とする日本の電機メーカーである。 2008年(平成20年)10月1日に同業のケンウッドと経営統合し、JVC・ケンウッド・ホールディングス(現・JVCケンウッド)を設立、その後2011年(平成23年)10月1日にケンウッド、J&KカーエレクトロニクスとともにJVCケンウッドへ吸収合併された。 現在の平面式レコードを開発したアメリカ合衆国資本のThe Victor Talking Machine Company(ビクタートーキングマシンカンパニー)の日本法人として設立。蓄音機の販売から始まり、テレビ、ビデオ、DVDレコーダー/プレーヤー、音響機器、ビデオカメラ、磁気テープ、光ディスク等の研究・開発・製造・販売を行っていた。 日本では、蓄音機から聞こえる亡き飼い主の声に耳を傾ける犬(ニッパー)を描いて “His Master's Voice” と名づけられた絵を登録商標としていた。グローバルブランドの「JVC」(ジェイブイシー)というブランド名は、日本ビクター株式会社を英語に直訳した「Japan Victor Company」から来ている。「JVC」は主にビクターが商標権の都合で使用できない海外市場で用いられ、2009年からは日本市場にも導入された。ブランドステートメントを「The Perfect Experience」としていた。 1980年代まで海外市場向けには、「Nippon Victor Company」からの「NIVICO」(ニビコ)というブランドが使われていたが、旧ロゴ時代は円形に「JVC」(中央のVが大きい)のマークと併記されていた。1968年(昭和43年)のロゴ変更後は「JVC」を大きくして「NIVICO」を小さくしたが、1977年(昭和52年)より「JVC」に一本化された。 家庭用ビデオフォーマットのVHSの開発メーカーであり、ソニー(初代法人、現・ソニーグループ)の開発した家庭用VTRのベータマックスとフォーマット争いを繰り広げていた。さらに、傘下にソフト会社であるビクター エンタテインメント(←ビクター音楽産業、現:JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)やテイチクエンタテインメントを始めとするソフト製作部門を持ち、ソニーに次ぐハード・ソフト事業を有する企業でもあった。その他のグループ会社に、JVCエンタテインメントやビクターインテリアなど約100社の関連会社を持っていた。 2007年(平成19年)8月10日のケンウッドとの資本提携により松下電器産業(現・パナソニックホールディングス。以下パナソニック)の子会社ではなくなったが、その後も筆頭株主としてグループ企業に名を連ねていた。共に家庭用AV機器を主力とし競合関係にある。長年、パナソニック創業者である松下幸之助の方針により、相互補完・相互競争による発展という概念からグループ内でも独自性を持っていた。 なお社名の読みについて、定款に定めをおいておらず登記もされていないが、近年のテレビ・ラジオ放送の提供クレジットやニュース番組などの報道では「にほんビクター」とアナウンスされていた。 1927年(昭和2年)に日本ビクター(設立時は日本ビクター蓄音器株式会社)は米国The Victor Talking Machine Companyの日本法人として設立された。米国ビクターは明治時代から商品を日本に輸出していたが、関東大震災以後の大幅な輸入品関税のアップによる収益性の悪化から、生産から販売まで行う現地法人として発足した。 1929年に米ビクターがRCA社に吸収合併されたことで、RCAビクターに親会社が移行する。RCA社は、海外進出については合弁の方針であり、東芝・三井からの出資を受けていた。1931年には、現在の横浜本社工場に当時東洋一と呼ばれた蓄音機・レコードの製造工場となる第一工場を建設。経営基盤が強化された日本ビクター蓄音器は、RCA社から積極的な技術導入を進め、拡声器やラジオなど音のメディアへの積極的な進出をする。 日中戦争が始まり、外資系企業への圧力が強まる中で1938年にRCA社は資本撤退。株式を日産コンツェルンに譲渡する。この時、RCA社から、犬のマークとビクターの社名の日本での使用権を譲り受ける。 日産コンツェルンの株式は東京電気(現・東芝)に売却され、東芝傘下に入る。ビクターは1943年にRCA社と資本関係が解消した 後も、研究・技術開発で交流を続け、国産初のテレビ開発や、オーディオ技術へと結びつく。大東亜戦争(太平洋戦争/第二次世界大戦)が激化する中で、敵性語排除の動きを受け、社名を日本音響(株)と改称。生産工場も軍の管理となる。しかしレコードのレーベル名は最後まで「VICTOR(ビクター)」を存続させる。 第二次世界大戦終戦直後の1945年10月に日本ビクターへ社名を変更している。 主力の本社・横浜工場・東京文芸座スタジオ、レコード製造施設を空襲で焼失し事業は壊滅状態で、労働争議の混乱による社長交代で親会社が東芝から日本興業銀行へ移行する。興銀は役員を派遣し再建計画を策定するもGHQが銀行の保有株式を制限したため、ビクター譲渡を東芝へ打診するも東芝も戦災の被害が大きく、ビクターの債務返済問題がこじれて話はまとまらず、次に戦前の親会社であるRCA社に打診する。 1954年(昭和29年)に松下電器産業(現:パナソニック)と提携し、松下幸之助の同郷人で元海軍大将野村吉三郎が社長に、松下の紹介で住友銀行出身の百瀬結が副社長に就くも、松下本体からは北野善郎を専務に派遣するにとどまった。野村は就任直後にRCA社を訪問して技術支援契約を結び従来の関係に戻す。 1946年(昭和21年)に高柳健次郎を技術部長に迎えてテレビ開発を再開させた他、現行VTRの原型である世界初2ヘッドVTR、ステレオレコード業界標準の45/45方式、マルチサラウンド技術の原型で世界初4chレコードCD-4、プロジェクターなど多数の技術を開発する。高柳は1950年に取締役技術部長へ就任後、副社長と技術最高顧問を歴任する。 1960年には東京証券取引所・大阪証券取引所に上場する。1969年には東京オリンピック公園の一角に最新の録音スタジオを建設、英米以外の地区で最も優れた機材が揃っていると言われた。しかし、テレビのダンピング疑惑が業界全体に広まり、主婦連を中心にテレビの不買運動に発展。特に高価格商品にウェイトを置くビクターにとって痛手となった。輸出に逃げ道を求めたが、ニクソンショックによりそれもできなかった。その後、オイルショックによる景気の失速による業界不振が加わり、ビクターは低迷する。このため、社長に松下電器出身の松野幸吉が就任。当時のドル箱のレコード部門を1972年4月25日に分社化(ビクター音楽産業。現:JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)して、本体はハード事業に集中することとなった。 1970年代に入り、オーディオブームが到来。AVメーカーはこぞってコンポーネントシステムを発売。ビクターもグラフィックイコライザー(SEAシリーズ)や世界初の1台でステレオ音響を実現する球形スピーカー、SXスピーカーシリーズを発売する。 1976年にはVHSビデオを開発。VHSは家庭用ビデオとしての要件を満たし、ソニーのベータマックスとの規格競争にも勝利し、日本初の世界標準規格となった。その後もVHSの基本規格を維持しながら、新たな規格を開発していった。ビデオカメラ用のVHS-C、高解像度を誇るS-VHS、高音質のHi-Fi規格、デジタル音声規格S-VHS-DA、アナログハイビジョン対応のW-VHS、デジタル放送対応のD-VHS等である。これらの規格には下位互換性が保障され、ユーザーがデッキを買い換えても以前のテープを使い続けることができた。VHSの影響でテープ、電子デバイス、映像ソフトなど新事業を拡大させるきっかけとなり、オーディオ・テレビなど既存の事業にも影響を与えた。 VHSビデオの発売当初は1000億円台だった年間売上は、年平均40%の成長を果たし、わずか6年で売上高6000億円台に到達、利益は4年間で10倍まで拡大した。ビクターはVHSの海外進出に合わせて海外展開を積極的に拡大し、生産・販売現地法人を各国に設立した。また、各国のAV企業へ技術供与を行い、JVCのブランドを確立した。 1982年からは欧州でのプロモーション強化を狙いFIFAワールドカップのオフィシャルスポンサーの権利を獲得。これにより欧州でのJVCブランドは絶対的な信頼を獲得することとなる。 VHSの成功後、既存のレコード設備を利用でき、絵の出るレコードとしてVHDを商品化した。参入を表明したメーカーは多数あったが、ディスクの耐久性に劣り発売延期が相次いだ。また、技術的な面ではパイオニア(ホームAV機器事業部。後のパイオニアホームエレクトロニクス→オンキヨー&パイオニア→オンキヨーホームエンターテイメント〈2022年5月経営破綻〉→オンキヨーテクノロジー/ティアック)が発売したビデオディスク規格のレーザーディスク(LD)が優勢だった。その後、オーディオ市場がレコードから光学読み取りのCDに移行した事から、VHDはディスク生産がレコード生産設備を活用できるという唯一のメリットを失う。日本ビクターは3-D立体再生機能、LDと同等の解像度を持つQX VHD、高音質再生を実現したVHD DigitalAudio、などの規格を開発し、市場に投入した。しかしこれらの規格に対応したソフトはわずかしか発売されなかった。同時期、デジタルオーディオ方式としてDAD懇談会に次世代のオーディオディスク規格としてVHD規格を利用したAHD規格をCDと同時期に提案したものの、松下などの有力メーカーからの支持を得られず、一般化することはなかった。 松下電器産業と共同でアナログハイビジョンのMUSE方式Hi-Vision VHDを開発を進めるものの、MUSE方式によるアナログハイビジョン放送が定着しなかったことも重なり、市場には投入されずに終わる。その後VHDは業務用カラオケ市場に参入するが、レーザーディスクカラオケとの競合に加えて通信カラオケの普及によって完全に駆逐され市場から姿を消す。VHDの失敗はソフトの償却だけで200億円の負担となり、ビクターの斜陽に拍車をかける原因となる。 1986年円高不況以降、VTR市場の成熟化と円高によって営業利益は低迷していたものの、100億円を超える(ピーク時は1988年の166億円)VHS関連特許使用料収入の下支えが、効果的なリストラ策を遅らせる要因となる。 1991年には、主力のビデオ市場は海外市場の読み違いによって在庫が増え、翌年の売上が2割近く減る。また在庫処分の費用も増加し巨額の赤字が発生、加えてオーディオ市場の不振も加わり1993年には上場以来初の無配となる。この頃からVHSの関連特許が満期を迎える。 1994年には、20年ぶりに松下から守随武雄取締役を社長として迎え入れる。1991年から1995年まで、グループ会社を含め4000人の人員削減を実行。本社も日本橋から横浜工場に移転する。こうした中でも1991年業界初のワイドテレビを発売、ワイドテレビの先鞭をつける。また、独自の動画圧縮技術によってビデオCD規格をフィリップス社と共同開発。その後のDVD規格の策定では、ビデオCDで得たMPEG技術を提供、ビクターの技術的優位性を確立する。 1995年には、ソニー・松下電器・フィリップス・日立・三菱と共同で、家庭用デジタルビデオカメラ規格のDV規格を開発。他社がセミプロ用のハイエンド機種を発売するなか、小型化を追求したデジタルムービーを発表。ビクターの技術力の高さを示す一方で、現在のデジタルビデオカメラ市場を切り開く原動力となり、大ヒットを記録する。リストラとヒット商品によって、1996年には復配するが、市場の悪化とヒット商品の不在によって、赤字とリストラによる黒字のサイクルを繰り返す。 1998年には、1990年より続いていた米パソコンゲーム会社大手エレクトロニック・アーツとの合弁事業エレクトロニックアーツ・ビクターを解消。 2001年に松下電器産業社長に就任した中村邦夫の方針によって、2003年度から松下グループの事業セグメントの再編によって、ビクターは一つのセグメントとして確立し、グループの事業計画にも参加し、研究開発や部材の共同購入など松下との連携を進める一方で、経営の自主性と責任をより一層持つこととなった。当時の松下グループの中でビクターの売上は全体の7%程。 2001年には、松下出身の寺田雅彦が社長就任。2001年から2006年までに単独で3500人削減し、国内外37あった製造拠点を23拠点に集約、映画・ゲームといったノンコア事業の売却撤退を進める。一方でビクター独自の技術を活かしたオンリーワン戦略を進め、個性派企業への転身を図る。主な商品として、ハードディスク搭載MPEGムービー「Everio(エブリオ)」、コンポ・単品スピーカー・カースピーカーに搭載する世界初の木製振動板「WOOD CONE(ウッドコーン)」、世界初の家庭用ハイビジョンカメラを発売。独自開発した映像素子(D-ILA)を搭載したリアプロジェクションテレビ・ハイエンドプロジェクターの発売を行う。また、DOS/Vパソコンの市場に参入したが、伸び悩んだ。こうしたリストラと独自商品によって2002年に約445億円の損失から、2004年には156億円の純利益を計上し業績回復を果たす。 しかし急速なデジタル家電の価格低下、市場環境の急速な変化、海外市場を中心にノンブランドの台頭、デジタル製品特有の商品サイクルの短命化と、開発工程の膨張によるDVDレコーダーの重大な欠陥による損失と、ブランドイメージの悪化によって2004年には赤字転落。2005年度には306億円の当期純損失を計上する。このため再度のリストラを行わざるを得なかった。また、この業績悪化のため、1982年より続けてきたFIFAワールドカップへの協賛を2006年のドイツ大会で終了。2010年には、1978年からスポンサードして来た「東京ビデオフェスティバル」の後援を降りざるを得なくなった。 2007年7月24日、日本ビクターおよびケンウッドは、両社の取締役会で、同年10月期にカーエレクトロニクスとポータブルオーディオ事業分野の協業を開始し、将来的には共同持ち株会社による経営統合を目指すことを決定し松下電器とともにその方針を発表した。同年8月10日にケンウッドとその筆頭株主であるスパークス運用ファンドに対する第三者割当増資を行ない、ケンウッドの持ち株比率が17.1%、松下電器の持ち株比率が36.9%となり、ケンウッドは日本ビクターの第2位の株主になると同時に日本ビクターが松下電器の連結子会社から外れ持分法適用関連会社となった。同年10月1日、ケンウッドとビクターの折半出資で技術開発合弁会社、J&K テクノロジーズ株式会社を新設。カーおよびホームエレクトロニクス技術開発のコラボレーションがスタートした。 2008年5月12日、6月の株主総会の承認後を経て10月に暫定共同持株会社、JVC・ケンウッド・ホールディングス株式会社を設立し(本店は横浜市のビクター本店内)経営統合することが発表された。これに伴いビクター及びケンウッドは上場廃止の上で傘下の事業会社となり、予定通り10月1日に共同持株会社が上場された。パナソニック(現・パナソニックホールディングス)はJVC・ケンウッド・ホールディングスの株主となった。 2011年3月時点でパナソニックはJVC・ケンウッド・ホールディングスの持株比率が20%以下となり、持分法適用対象外となっていた。ただ、筆頭株主ではあった。 2011年10月1日にケンウッド、J&KカーエレクトロニクスとともにJVC・ケンウッド・ホールディングス株式会社から商号変更した株式会社JVCケンウッドへ吸収合併された。 テープ時代から手がける記録メディア事業は、ビクターのハードをメディアで支える事業だった。現在ではVHS・ビデオカメラ用MiniDVテープ、CD・DVD・MD等のブランクディスクなどを主に手がけている。特に記録型光ディスクのブランクメディアはDVD-RWで他社へのOEM供給を含めてトップシェアであり、ハード事業では手がけていない8cmDVD(家庭用ビデオカメラ用)も扱っている。 しかし、全体の業績悪化により、メディア事業も整理対象となり、2008年7月1日にビクターアドバンストメディアとして分社し、同年10月1日に同社株式の65%が太陽誘電に売却されたが、この事業も2015年12月を以って清算されることとなった。 映像・音楽ソフトの製作・製造・流通・販売など多岐にわたる事業を関連会社によって行っている。制作(上流)から流通(下流)まで一手に引き受けられるのは日本ではソニーグループとビクター(このほか、2009年までは日本コロムビアも)しか存在せず、ソフト流通ではシェア60%だった時期もあった。 HDD用モーター、光ピックアップ、D-ILA素子、高密度ビルドアップ基板VILを手がける。HDD用モーターについては国内第2位のシェアを保ち、ブラウン管用の偏向ヨークやFDDモーターなど、旧来の主力製品に変わる商品として育ちつつあった。2008年にモーター事業はJVC モーター分社化した後、日本産業パートナーズ(JIPファンド)に、また、サーキット事業をメイコーにそれぞれ譲渡した。 1984年参入。現在は(株)JVCケンウッド・パートナズ。 1995年から1999年頃にかけて、DDIポケット(現:ワイモバイルのガラケー部門)向けにPHS端末を供給していた。 三菱電機からブラウン管の供給を受けて「MEGA」シリーズを、液晶ディスプレイとプラズマディスプレイの薄型テレビ「EXE」シリーズを、それぞれ生産して販売した。売り上げ不振で赤字が増大し、2008年限りでテレビ受像機とディスプレイの生産を取り止めた。 コードレスホンなどを発売していた。ステレオコンポにコードレスホンを搭載したこともあった。留守番電話の録音にはコンパクトカセットを利用できた(主に「光ルス」シリーズ)。 かつてはRCAレコード(現:米国ソニー・ミュージックエンタテインメント)およびBMGとの合弁によるBMGビクター、MCAレコードとの合弁によるユニバーサル・ビクター、テイチクエンタテインメントが存在した。BMGビクターはアリオラジャパン(現:ソニー・ミュージックレーベルズ)の前身である。ユニバーサル・ビクターはユニバーサル ミュージック ジャパン(旧・ポリグラム)が吸収され、テイチクエンタテインメントはエクシングに売却した。 1960年代後半からビクトロンを対象とした「ビクター音楽教室」を全国展開していた。1990年からは松下電器産業のテクニトーンによる音楽教室と事業統合し、両社合弁の「ビクターテクニクス音楽教室」を展開していたが、2001年にローランドに事業譲渡し撤退。特約楽器店運営の一部教室はローランドミュージックスクールとして存続している。 なお、専門家の育成を目的とした音楽教室「ビクター音楽カレッジ」は2014年に閉校している。 1958年に電子オルガンを発表し楽器事業に参入した。1991年までに楽器事業から撤退している。 三菱重工より事業所向け大型エアコン等をOEM供給を受けて、Victorブランドで販売していた。 セガのハードウェアであるメガドライブのメガCD一体型の互換機、およびセガ発売の物と同型のセガサターンのOEM機を販売した。また、セガサターンでビデオCDとフォトCDが閲覧可能になる周辺機器である「ツインオペレーター」も販売した。北米市場にもJVCブランドでメガドライブとメガCDの一体型機を販売している。 MSX規格より参入し、MSX2規格にも対応した機種を発売していた。MSX規格品として、1983年末時点でHC-5が発表されていた。HC-5はAV機器との接続が中心で、VHDやVHS機器制御が想定されていた。2000年ごろにはモバイルPC市場に参入し、Windows CE対応のInterLinkCEシリーズとWindows XP対応のInterLinkXP/XVシリーズを販売していた。 InterLinkXP/XVシリーズはすべてコンパクト性を特徴として、全モデルのポインティングデバイスがスティックタイプで統一されている。 また、映像編集を意識してか、MP-XP3210以外の全モデルでi.LINK(IEEE1394)端子が装備されている。本体はASUSからのOEMである。 一時期は、マウスなどの周辺機器や、業務用ディスプレイやHDDも生産、販売していた。 1995年から2006年まで、子会社のビクターレジャーシステムから業務用通信カラオケ「孫悟空」を発売していた。2006年4月、ビクターレジャーシステムの全株式をエクシングへ譲渡し撤退。 70年代から80年代中期にかけて、家具・インテリア事業に参入し、「ソフィット(Sofitt)」というブランドで発売していた。オーディオ/ビジュアル機器と組み合わせるような提案を行うことは一切なかった。 1994年のメタルファイター・MIKUよりベターマンまでアニメーション制作をしていた。現在は孫会社のフライングドッグが担当。
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"paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1970年代に入り、オーディオブームが到来。AVメーカーはこぞってコンポーネントシステムを発売。ビクターもグラフィックイコライザー(SEAシリーズ)や世界初の1台でステレオ音響を実現する球形スピーカー、SXスピーカーシリーズを発売する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1976年にはVHSビデオを開発。VHSは家庭用ビデオとしての要件を満たし、ソニーのベータマックスとの規格競争にも勝利し、日本初の世界標準規格となった。その後もVHSの基本規格を維持しながら、新たな規格を開発していった。ビデオカメラ用のVHS-C、高解像度を誇るS-VHS、高音質のHi-Fi規格、デジタル音声規格S-VHS-DA、アナログハイビジョン対応のW-VHS、デジタル放送対応のD-VHS等である。これらの規格には下位互換性が保障され、ユーザーがデッキを買い換えても以前のテープを使い続けることができた。VHSの影響でテープ、電子デバイス、映像ソフトなど新事業を拡大させるきっかけとなり、オーディオ・テレビなど既存の事業にも影響を与えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "VHSビデオの発売当初は1000億円台だった年間売上は、年平均40%の成長を果たし、わずか6年で売上高6000億円台に到達、利益は4年間で10倍まで拡大した。ビクターはVHSの海外進出に合わせて海外展開を積極的に拡大し、生産・販売現地法人を各国に設立した。また、各国のAV企業へ技術供与を行い、JVCのブランドを確立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1982年からは欧州でのプロモーション強化を狙いFIFAワールドカップのオフィシャルスポンサーの権利を獲得。これにより欧州でのJVCブランドは絶対的な信頼を獲得することとなる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "VHSの成功後、既存のレコード設備を利用でき、絵の出るレコードとしてVHDを商品化した。参入を表明したメーカーは多数あったが、ディスクの耐久性に劣り発売延期が相次いだ。また、技術的な面ではパイオニア(ホームAV機器事業部。後のパイオニアホームエレクトロニクス→オンキヨー&パイオニア→オンキヨーホームエンターテイメント〈2022年5月経営破綻〉→オンキヨーテクノロジー/ティアック)が発売したビデオディスク規格のレーザーディスク(LD)が優勢だった。その後、オーディオ市場がレコードから光学読み取りのCDに移行した事から、VHDはディスク生産がレコード生産設備を活用できるという唯一のメリットを失う。日本ビクターは3-D立体再生機能、LDと同等の解像度を持つQX VHD、高音質再生を実現したVHD DigitalAudio、などの規格を開発し、市場に投入した。しかしこれらの規格に対応したソフトはわずかしか発売されなかった。同時期、デジタルオーディオ方式としてDAD懇談会に次世代のオーディオディスク規格としてVHD規格を利用したAHD規格をCDと同時期に提案したものの、松下などの有力メーカーからの支持を得られず、一般化することはなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "松下電器産業と共同でアナログハイビジョンのMUSE方式Hi-Vision VHDを開発を進めるものの、MUSE方式によるアナログハイビジョン放送が定着しなかったことも重なり、市場には投入されずに終わる。その後VHDは業務用カラオケ市場に参入するが、レーザーディスクカラオケとの競合に加えて通信カラオケの普及によって完全に駆逐され市場から姿を消す。VHDの失敗はソフトの償却だけで200億円の負担となり、ビクターの斜陽に拍車をかける原因となる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1986年円高不況以降、VTR市場の成熟化と円高によって営業利益は低迷していたものの、100億円を超える(ピーク時は1988年の166億円)VHS関連特許使用料収入の下支えが、効果的なリストラ策を遅らせる要因となる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1991年には、主力のビデオ市場は海外市場の読み違いによって在庫が増え、翌年の売上が2割近く減る。また在庫処分の費用も増加し巨額の赤字が発生、加えてオーディオ市場の不振も加わり1993年には上場以来初の無配となる。この頃からVHSの関連特許が満期を迎える。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1994年には、20年ぶりに松下から守随武雄取締役を社長として迎え入れる。1991年から1995年まで、グループ会社を含め4000人の人員削減を実行。本社も日本橋から横浜工場に移転する。こうした中でも1991年業界初のワイドテレビを発売、ワイドテレビの先鞭をつける。また、独自の動画圧縮技術によってビデオCD規格をフィリップス社と共同開発。その後のDVD規格の策定では、ビデオCDで得たMPEG技術を提供、ビクターの技術的優位性を確立する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1995年には、ソニー・松下電器・フィリップス・日立・三菱と共同で、家庭用デジタルビデオカメラ規格のDV規格を開発。他社がセミプロ用のハイエンド機種を発売するなか、小型化を追求したデジタルムービーを発表。ビクターの技術力の高さを示す一方で、現在のデジタルビデオカメラ市場を切り開く原動力となり、大ヒットを記録する。リストラとヒット商品によって、1996年には復配するが、市場の悪化とヒット商品の不在によって、赤字とリストラによる黒字のサイクルを繰り返す。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1998年には、1990年より続いていた米パソコンゲーム会社大手エレクトロニック・アーツとの合弁事業エレクトロニックアーツ・ビクターを解消。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2001年に松下電器産業社長に就任した中村邦夫の方針によって、2003年度から松下グループの事業セグメントの再編によって、ビクターは一つのセグメントとして確立し、グループの事業計画にも参加し、研究開発や部材の共同購入など松下との連携を進める一方で、経営の自主性と責任をより一層持つこととなった。当時の松下グループの中でビクターの売上は全体の7%程。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2001年には、松下出身の寺田雅彦が社長就任。2001年から2006年までに単独で3500人削減し、国内外37あった製造拠点を23拠点に集約、映画・ゲームといったノンコア事業の売却撤退を進める。一方でビクター独自の技術を活かしたオンリーワン戦略を進め、個性派企業への転身を図る。主な商品として、ハードディスク搭載MPEGムービー「Everio(エブリオ)」、コンポ・単品スピーカー・カースピーカーに搭載する世界初の木製振動板「WOOD CONE(ウッドコーン)」、世界初の家庭用ハイビジョンカメラを発売。独自開発した映像素子(D-ILA)を搭載したリアプロジェクションテレビ・ハイエンドプロジェクターの発売を行う。また、DOS/Vパソコンの市場に参入したが、伸び悩んだ。こうしたリストラと独自商品によって2002年に約445億円の損失から、2004年には156億円の純利益を計上し業績回復を果たす。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "しかし急速なデジタル家電の価格低下、市場環境の急速な変化、海外市場を中心にノンブランドの台頭、デジタル製品特有の商品サイクルの短命化と、開発工程の膨張によるDVDレコーダーの重大な欠陥による損失と、ブランドイメージの悪化によって2004年には赤字転落。2005年度には306億円の当期純損失を計上する。このため再度のリストラを行わざるを得なかった。また、この業績悪化のため、1982年より続けてきたFIFAワールドカップへの協賛を2006年のドイツ大会で終了。2010年には、1978年からスポンサードして来た「東京ビデオフェスティバル」の後援を降りざるを得なくなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2007年7月24日、日本ビクターおよびケンウッドは、両社の取締役会で、同年10月期にカーエレクトロニクスとポータブルオーディオ事業分野の協業を開始し、将来的には共同持ち株会社による経営統合を目指すことを決定し松下電器とともにその方針を発表した。同年8月10日にケンウッドとその筆頭株主であるスパークス運用ファンドに対する第三者割当増資を行ない、ケンウッドの持ち株比率が17.1%、松下電器の持ち株比率が36.9%となり、ケンウッドは日本ビクターの第2位の株主になると同時に日本ビクターが松下電器の連結子会社から外れ持分法適用関連会社となった。同年10月1日、ケンウッドとビクターの折半出資で技術開発合弁会社、J&K テクノロジーズ株式会社を新設。カーおよびホームエレクトロニクス技術開発のコラボレーションがスタートした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2008年5月12日、6月の株主総会の承認後を経て10月に暫定共同持株会社、JVC・ケンウッド・ホールディングス株式会社を設立し(本店は横浜市のビクター本店内)経営統合することが発表された。これに伴いビクター及びケンウッドは上場廃止の上で傘下の事業会社となり、予定通り10月1日に共同持株会社が上場された。パナソニック(現・パナソニックホールディングス)はJVC・ケンウッド・ホールディングスの株主となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2011年3月時点でパナソニックはJVC・ケンウッド・ホールディングスの持株比率が20%以下となり、持分法適用対象外となっていた。ただ、筆頭株主ではあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2011年10月1日にケンウッド、J&KカーエレクトロニクスとともにJVC・ケンウッド・ホールディングス株式会社から商号変更した株式会社JVCケンウッドへ吸収合併された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "テープ時代から手がける記録メディア事業は、ビクターのハードをメディアで支える事業だった。現在ではVHS・ビデオカメラ用MiniDVテープ、CD・DVD・MD等のブランクディスクなどを主に手がけている。特に記録型光ディスクのブランクメディアはDVD-RWで他社へのOEM供給を含めてトップシェアであり、ハード事業では手がけていない8cmDVD(家庭用ビデオカメラ用)も扱っている。", "title": "ビクターの主な事業" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "しかし、全体の業績悪化により、メディア事業も整理対象となり、2008年7月1日にビクターアドバンストメディアとして分社し、同年10月1日に同社株式の65%が太陽誘電に売却されたが、この事業も2015年12月を以って清算されることとなった。", "title": "ビクターの主な事業" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "映像・音楽ソフトの製作・製造・流通・販売など多岐にわたる事業を関連会社によって行っている。制作(上流)から流通(下流)まで一手に引き受けられるのは日本ではソニーグループとビクター(このほか、2009年までは日本コロムビアも)しか存在せず、ソフト流通ではシェア60%だった時期もあった。", "title": "ビクターの主な事業" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "HDD用モーター、光ピックアップ、D-ILA素子、高密度ビルドアップ基板VILを手がける。HDD用モーターについては国内第2位のシェアを保ち、ブラウン管用の偏向ヨークやFDDモーターなど、旧来の主力製品に変わる商品として育ちつつあった。2008年にモーター事業はJVC モーター分社化した後、日本産業パートナーズ(JIPファンド)に、また、サーキット事業をメイコーにそれぞれ譲渡した。", "title": "ビクターの主な事業" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1984年参入。現在は(株)JVCケンウッド・パートナズ。", "title": "ビクターの主な事業" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1995年から1999年頃にかけて、DDIポケット(現:ワイモバイルのガラケー部門)向けにPHS端末を供給していた。", "title": "かつて参入していた事業" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "三菱電機からブラウン管の供給を受けて「MEGA」シリーズを、液晶ディスプレイとプラズマディスプレイの薄型テレビ「EXE」シリーズを、それぞれ生産して販売した。売り上げ不振で赤字が増大し、2008年限りでテレビ受像機とディスプレイの生産を取り止めた。", "title": "かつて参入していた事業" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "コードレスホンなどを発売していた。ステレオコンポにコードレスホンを搭載したこともあった。留守番電話の録音にはコンパクトカセットを利用できた(主に「光ルス」シリーズ)。", "title": "かつて参入していた事業" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "かつてはRCAレコード(現:米国ソニー・ミュージックエンタテインメント)およびBMGとの合弁によるBMGビクター、MCAレコードとの合弁によるユニバーサル・ビクター、テイチクエンタテインメントが存在した。BMGビクターはアリオラジャパン(現:ソニー・ミュージックレーベルズ)の前身である。ユニバーサル・ビクターはユニバーサル ミュージック ジャパン(旧・ポリグラム)が吸収され、テイチクエンタテインメントはエクシングに売却した。", "title": "かつて参入していた事業" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1960年代後半からビクトロンを対象とした「ビクター音楽教室」を全国展開していた。1990年からは松下電器産業のテクニトーンによる音楽教室と事業統合し、両社合弁の「ビクターテクニクス音楽教室」を展開していたが、2001年にローランドに事業譲渡し撤退。特約楽器店運営の一部教室はローランドミュージックスクールとして存続している。", "title": "かつて参入していた事業" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "なお、専門家の育成を目的とした音楽教室「ビクター音楽カレッジ」は2014年に閉校している。", "title": "かつて参入していた事業" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "1958年に電子オルガンを発表し楽器事業に参入した。1991年までに楽器事業から撤退している。", "title": "かつて参入していた事業" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "三菱重工より事業所向け大型エアコン等をOEM供給を受けて、Victorブランドで販売していた。", "title": "かつて参入していた事業" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "セガのハードウェアであるメガドライブのメガCD一体型の互換機、およびセガ発売の物と同型のセガサターンのOEM機を販売した。また、セガサターンでビデオCDとフォトCDが閲覧可能になる周辺機器である「ツインオペレーター」も販売した。北米市場にもJVCブランドでメガドライブとメガCDの一体型機を販売している。", "title": "かつて参入していた事業" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "MSX規格より参入し、MSX2規格にも対応した機種を発売していた。MSX規格品として、1983年末時点でHC-5が発表されていた。HC-5はAV機器との接続が中心で、VHDやVHS機器制御が想定されていた。2000年ごろにはモバイルPC市場に参入し、Windows CE対応のInterLinkCEシリーズとWindows XP対応のInterLinkXP/XVシリーズを販売していた。", "title": "かつて参入していた事業" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "InterLinkXP/XVシリーズはすべてコンパクト性を特徴として、全モデルのポインティングデバイスがスティックタイプで統一されている。", "title": "かつて参入していた事業" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "また、映像編集を意識してか、MP-XP3210以外の全モデルでi.LINK(IEEE1394)端子が装備されている。本体はASUSからのOEMである。", "title": "かつて参入していた事業" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "一時期は、マウスなどの周辺機器や、業務用ディスプレイやHDDも生産、販売していた。", "title": "かつて参入していた事業" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "1995年から2006年まで、子会社のビクターレジャーシステムから業務用通信カラオケ「孫悟空」を発売していた。2006年4月、ビクターレジャーシステムの全株式をエクシングへ譲渡し撤退。", "title": "かつて参入していた事業" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "70年代から80年代中期にかけて、家具・インテリア事業に参入し、「ソフィット(Sofitt)」というブランドで発売していた。オーディオ/ビジュアル機器と組み合わせるような提案を行うことは一切なかった。", "title": "かつて参入していた事業" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "1994年のメタルファイター・MIKUよりベターマンまでアニメーション制作をしていた。現在は孫会社のフライングドッグが担当。", "title": "かつて参入していた事業" } ]
日本ビクター株式会社は、かつて存在した映像機器・音響機器・記録メディアを主な製品とする日本の電機メーカーである。 2008年(平成20年)10月1日に同業のケンウッドと経営統合し、JVC・ケンウッド・ホールディングス(現・JVCケンウッド)を設立、その後2011年(平成23年)10月1日にケンウッド、J&KカーエレクトロニクスとともにJVCケンウッドへ吸収合併された。
{{Redirect|ビクター|その他|ヴィクター}} {{Pathnav|JVCケンウッド|frame=1}} {{複数の問題|ソートキー=企業|出典の明記=2015年1月|独自研究=2015年1月}} {{基礎情報 会社 | 社名 = 日本ビクター株式会社 | 英文社名 = Victor Company of Japan, Limited | ロゴ = [[File:Victor-logo.svg|150px]]<br/>Victorブランドロゴ(2代目)<ref group="注">その後、[[2022年]]([[令和]]4年)[[4月1日]]にJVCケンウッドが旧日本ビクター蓄音器(後の日本ビクター)時代から通算して95周年に合わせる形でビクターブランドロゴを小変更し、3代目ビクターブランドロゴへ移行。なお、「Victor」の綴りはそのままだが、変更前のビクターブランドロゴに対し、書体が若干細身のものに改められたほか、シンボルマークの「[[ニッパー (犬)|HIS MASTER'S VOICE]]」の意匠も若干の変更が実施された。</ref><br/>(1977年 - 2022年) ---- [[File:JVC Logo.svg|110px]]<br />JVCブランドロゴ(2代目)<br/>(1968年 - 現在) | 画像 = [[File:Jvckenwood, 2008.jpg|300px]] | 画像説明 = 日本ビクター本社工場(当時) | 種類 = [[株式会社]] | 市場情報 = 非上場(以下は過去のデータ){{上場情報 | 東証1部 | 6792 | 1960年11月15日 | 2008年9月25日}}{{上場情報| 大証1部 | 6792 | 1960年11月15日 | 2008年9月25日}} | 略称 = ビクター、JVC | 国籍 = {{JPN}} | 郵便番号 = 221-8528 | 本社所在地 = [[横浜市]][[神奈川区]][[守屋町]]3丁目12番地 | 設立 = [[1927年]]([[昭和]]2年)[[9月13日]]<ref name="yokohama-modern-history-list-1994">松信太助編、石井光太郎・東海林静男監修 『横浜近代史総合年表』 [[有隣堂]]、1989年。</ref><br />(日本ビクター蓄音器株式会社) | 業種 = 3650 | 統一金融機関コード = | SWIFTコード = | 事業内容 = [[映像機器]]・[[音響機器]]<br />[[情報]]・[[通信]]機器<br />[[電子媒体|記録メディア]] | 代表者 = 不破 久温(代表取締役社長) | 資本金 = 516億1500万円<br />(2008年(平成20年)3月31日現在) | 売上高 = 連結:4620億86百万円<br />単独:2302億05百万円<br />(2009年3月期) | 総資産 = 連結:2579億77百万円<br />単独:1950億19百万円<br />(2009年3月期) | 従業員数 = 連結:11,611名 単独:3,460名<br />([[2009年]][[3月31日|3月末日]]現在) | 決算期 = [[3月31日]] | 主要株主 = [[JVCケンウッド]] 100% | 主要子会社 = [[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント|ビクターエンタテインメント]] 100%<br />[[JVCエンタテインメント]] 100%<br />[[テイチクエンタテインメント]] 96.1% | 関係する人物 = [[高柳健次郎]]([[テレビ受像機]]開発者)<br />[[髙野鎮雄]]([[VHS]]開発者)<br />[[松下幸之助]]([[パナソニック]]創業者) | 外部リンク = https://www.jvc.com/jp/ | 特記事項 = 2011年10月1日にJVCケンウッドに吸収合併され解散。 }} '''日本ビクター株式会社'''(にほんビクター、{{Lang-en-short|Victor Company of Japan, Limited}})は、かつて存在した[[映像機器]]・[[音響機器]]・[[電子媒体|記録メディア]]を主な製品とする日本の[[電機メーカー]]である。 [[2008年]](平成20年)[[10月1日]]に同業の[[ケンウッド]]と経営統合し、JVC・ケンウッド・ホールディングス(現・[[JVCケンウッド]])を設立、その後[[2011年]](平成23年)[[10月1日]]にケンウッド、[[J&Kカーエレクトロニクス]]とともにJVCケンウッドへ[[合併 (企業)|吸収合併]]された。 == 概説 == 現在の平面式レコードを開発した[[アメリカ合衆国]]資本のThe Victor Talking Machine Company([[ビクタートーキングマシン]]カンパニー)の[[日本法人]]として設立。[[蓄音機]]の販売から始まり、[[テレビ]]、[[ビデオ信号記録装置|ビデオ]]、[[DVDレコーダー]]/[[プレーヤー]]、[[音響機器]]、[[ビデオカメラ]]、磁気テープ、光ディスク等の研究・開発・製造・販売を行っていた。 [[日本]]では、[[蓄音機]]から聞こえる亡き飼い主の声に耳を傾ける犬([[ニッパー (犬)|ニッパー]])を描いて “His Master's Voice” と名づけられた絵を登録商標としていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.victor.jp/nipper/ |title= ビクターマークの由来 ~ニッパーについて~|publisher=JVCケンウッド|accessdate=2023-08-09}}</ref>。グローバルブランドの「'''JVC'''」(ジェイブイシー)というブランド名は、日本ビクター株式会社を英語に直訳した「'''J'''apan '''V'''ictor '''C'''ompany」から来ている。「JVC」は主にビクターが商標権の都合で使用できない海外市場で用いられ、2009年からは日本市場にも導入<ref group="注">ただし、[[カーオーディオ]]製品に限り1999年から一足先に導入されていたが、2008年に販売不振や[[若者の車離れ]]などを理由にカーオーディオ事業から完全撤退した。</ref>された。ブランドステートメントを「The Perfect Experience」としていた<ref name="JVC2003">{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20030401212423/http://www.jvc-victor.co.jp/company/profile/statement.html |title=ブランド・ステートメント |publisher=日本ビクター|accessdate=2023-08-10}}</ref>。 1980年代まで海外市場向けには、「'''Ni'''ppon '''Vi'''ctor '''Co'''mpany」からの「'''NIVICO'''」(ニビコ)というブランドが使われていたが、旧ロゴ時代は円形に「'''{{smaller|J}}{{larger|V}}{{smaller|C}}'''」(中央のVが大きい)のマークと併記されていた。[[1968年]]([[昭和]]43年)のロゴ変更後は「JVC」を大きくして「NIVICO」を小さくしたが、[[1977年]](昭和52年)より「JVC」に一本化された。 家庭用ビデオフォーマットの[[VHS]]の開発メーカーであり、[[ソニー]](初代法人、現・[[ソニーグループ]])の開発した家庭用[[ビデオテープレコーダ|VTR]]の[[ベータマックス]]と[[ビデオ戦争|フォーマット争い]]を繰り広げていた。さらに、傘下にソフト会社であるビクター エンタテインメント(←ビクター音楽産業、現:[[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント]])や[[テイチクエンタテインメント]]を始めとするソフト製作部門を持ち、ソニーに次ぐ[[ハードウェア|ハード]]・[[ソフトウェア|ソフト]]事業を有する企業でもあった。その他のグループ会社に、[[JVCエンタテインメント]]や[[バルバーニ|ビクターインテリア]]など約100社の関連会社を持っていた。 [[2007年]]([[平成]]19年)[[8月10日]]のケンウッドとの資本提携により松下電器産業(現・[[パナソニックホールディングス]]。以下[[パナソニック]])の子会社ではなくなったが、その後も筆頭株主としてグループ企業に名を連ねていた。共に家庭用AV機器を主力とし競合関係にある。長年、パナソニック創業者である[[松下幸之助]]の方針により、相互補完・相互競争による発展という概念からグループ内でも独自性を持っていた。 なお社名の読みについて、定款に定めをおいておらず登記もされていないが、近年の[[テレビジョン|テレビ]]・[[ラジオ]][[放送]]の[[提供クレジット]]や[[ニュース番組]]などの[[報道]]では「にほんビクター」とアナウンスされていた。 == 歴史 == === 設立から戦後まで === [[ファイル:nihonvictorhonsha.jpg|thumb|right|220px|日本ビクター第一工場ファサード<br/>(2023年現在、既に解体済み)]] 1927年(昭和2年)に日本ビクター(設立時は日本ビクター蓄音器株式会社)は米国[[ビクタートーキングマシン|The Victor Talking Machine Company]]の日本法人として設立された。米国ビクターは明治時代から商品を日本に輸出していたが、[[関東大震災]]以後の大幅な輸入品関税のアップによる収益性の悪化から、生産から販売まで行う現地法人として発足した。 1929年に米ビクターがRCA社に吸収合併されたことで、[[RCAレコード|RCAビクター]]に親会社が移行する。RCA社は、海外進出については合弁の方針であり、東芝・三井からの出資を受けていた。1931年には、現在の横浜本社工場に当時東洋一と呼ばれた蓄音機・レコードの製造工場となる第一工場を建設。経営基盤が強化された日本ビクター蓄音器は、RCA社から積極的な技術導入を進め、拡声器やラジオなど音のメディアへの積極的な進出をする。 [[日中戦争]]が始まり、外資系企業への圧力が強まる中で[[1938年]]にRCA社は資本撤退。株式を[[日産コンツェルン]]に譲渡する。この時、RCA社から、[[ニッパー (犬)|犬のマーク]]とビクターの社名の日本での使用権を譲り受ける。 日産コンツェルンの株式は東京電気(現・[[東芝]])に売却され、東芝傘下に入る。ビクターは1943年にRCA社と資本関係が解消した<ref name="bb">[https://books.google.co.jp/books?id=mSkEAAAAMBAJ&lpg=PA44&vq=machijiri&pg=PA44#v=snippet&q=machijiri&f=false A Guide to Japanese Record Manufacturers] Billboard.12.19</ref> 後も、研究・技術開発で交流を続け、国産初のテレビ開発や、オーディオ技術へと結びつく。[[大東亜戦争]]([[太平洋戦争]]/[[第二次世界大戦]])が激化する中で、[[敵性語]]排除の動きを受け、社名を'''日本音響'''(株)と改称。生産工場も軍の管理となる。しかしレコードのレーベル名は最後まで「V<small>ICTOR</small>(ビクター)」を存続させる。 === 松下の傘下へ === 第二次世界大戦終戦直後の1945年10月に日本ビクターへ社名を変更している<ref name="bb"/>。 主力の本社・横浜工場・東京文芸座スタジオ、レコード製造施設を空襲で焼失し事業は壊滅状態で、労働争議の混乱による社長交代で親会社が東芝から[[日本興業銀行]]へ移行する。興銀は役員を派遣し再建計画を策定するもGHQが銀行の保有株式を制限したため、ビクター譲渡を東芝へ打診するも東芝も戦災の被害が大きく、ビクターの債務返済問題がこじれて話はまとまらず、次に戦前の親会社であるRCA社に打診する。 1954年(昭和29年)に松下電器産業(現:パナソニック)と提携し、[[松下幸之助]]の同郷人で元海軍大将[[野村吉三郎]]が社長に、松下の紹介で[[住友銀行]]出身の[[百瀬結]]が副社長に就くも、松下本体からは北野善郎を専務に派遣するにとどまった。野村は就任直後にRCA社を訪問して技術支援契約を結び従来の関係に戻す。 1946年(昭和21年)に[[高柳健次郎]]を技術部長に迎えてテレビ開発を再開させた他、現行VTRの原型である世界初2ヘッドVTR、ステレオレコード業界標準の45/45方式、マルチサラウンド技術の原型で世界初4chレコードCD-4、プロジェクターなど多数の技術を開発する。高柳は1950年に取締役技術部長へ就任後、副社長と技術最高顧問を歴任する。 === オイルショック === 1960年には[[東京証券取引所]]・[[大阪証券取引所]]に上場する。1969年には東京オリンピック公園の一角に最新の録音スタジオを建設、英米以外の地区で最も優れた機材が揃っていると言われた<ref name="bb"/>。しかし、テレビのダンピング疑惑が業界全体に広まり、主婦連を中心にテレビの不買運動に発展。特に高価格商品にウェイトを置くビクターにとって痛手となった。輸出に逃げ道を求めたが、[[ニクソンショック]]によりそれもできなかった。その後、[[オイルショック]]による景気の失速による業界不振が加わり、ビクターは低迷する。このため、社長に松下電器出身の松野幸吉が就任。当時の[[ドル箱]]のレコード部門を[[1972年]][[4月25日]]に分社化(ビクター音楽産業。現:JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)して、本体はハード事業に集中することとなった。 1970年代に入り、オーディオブームが到来。AVメーカーはこぞってコンポーネントシステムを発売。ビクターも[[グラフィックイコライザー]](SEAシリーズ)や世界初の1台でステレオ音響を実現する球形スピーカー、SXスピーカーシリーズを発売する。 === VHSの開発 === [[ファイル:JVC-HR-3300U.jpg|thumb|220px|JVC HR-3300U VIDSTAR – HR-3300の米国版。日本版とほぼ同一だが、ロゴに"Victor"の名称を使用し、"VIDSTAR"は使われなかった。]] [[File:VHS-Video-Tape-Top-Flat.jpg|thumb|220px|[[VHS]]ビデオ]] 1976年には[[VHS]]ビデオを開発。VHSは家庭用ビデオとしての要件を満たし、ソニーの[[ベータマックス]]との規格競争にも勝利し、日本初の世界標準規格となった。その後もVHSの基本規格を維持しながら、新たな規格を開発していった。ビデオカメラ用のVHS-C、高解像度を誇るS-VHS、高音質のHi-Fi規格、デジタル音声規格S-VHS-DA、アナログハイビジョン対応のW-VHS、デジタル放送対応のD-VHS等である。これらの規格には下位互換性が保障され、ユーザーがデッキを買い換えても以前のテープを使い続けることができた。VHSの影響でテープ、電子デバイス、映像ソフトなど新事業を拡大させるきっかけとなり、オーディオ・テレビなど既存の事業にも影響を与えた。 VHSビデオの発売当初は1000億円台だった年間売上は、年平均40%の成長を果たし、わずか6年で売上高6000億円台に到達、利益は4年間で10倍まで拡大した。ビクターはVHSの海外進出に合わせて海外展開を積極的に拡大し、生産・販売現地法人を各国に設立した。また、各国のAV企業へ技術供与を行い、JVCのブランドを確立した。 1982年からは欧州でのプロモーション強化を狙い[[FIFAワールドカップ]]のオフィシャルスポンサーの権利を獲得。これにより欧州でのJVCブランドは絶対的な信頼を獲得することとなる。 VHSの成功後、既存のレコード設備を利用でき、絵の出るレコードとして[[VHD]]を商品化した。参入を表明したメーカーは多数あったが、ディスクの耐久性に劣り発売延期が相次いだ。また、技術的な面では[[パイオニア]](ホームAV機器事業部。後のパイオニアホームエレクトロニクス→[[オンキヨー&パイオニア]]→[[オンキヨーホームエンターテイメント]]〈2022年5月[[経営破綻]]〉→[[オンキヨーテクノロジー]]/[[ティアック]])が発売したビデオディスク規格の[[レーザーディスク]](LD)が優勢だった。その後、オーディオ市場がレコードから光学読み取りのCDに移行した事から、[[VHD]]はディスク生産がレコード生産設備を活用できるという唯一のメリットを失う。日本ビクターは3-D立体再生機能、LDと同等の解像度を持つQX VHD、高音質再生を実現したVHD DigitalAudio、などの規格を開発し、市場に投入した。しかしこれらの規格に対応したソフトはわずかしか発売されなかった。同時期、デジタルオーディオ方式としてDAD懇談会に次世代のオーディオディスク規格としてVHD規格を利用したAHD規格をCDと同時期に提案したものの、松下などの有力メーカーからの支持を得られず、一般化することはなかった。 松下電器産業と共同でアナログハイビジョンのMUSE方式Hi-Vision VHDを開発を進めるものの、MUSE方式によるアナログハイビジョン放送が定着しなかったことも重なり、市場には投入されずに終わる。その後[[VHD]]は業務用カラオケ市場に参入するが、レーザーディスクカラオケとの競合に加えて通信カラオケの普及によって完全に駆逐され市場から姿を消す。[[VHD]]の失敗はソフトの償却だけで200億円の負担となり、ビクターの斜陽に拍車をかける原因となる。 1986年円高不況以降、VTR市場の成熟化と円高によって営業利益は低迷していたものの、100億円を超える(ピーク時は1988年の166億円)VHS関連特許使用料収入の下支えが、効果的なリストラ策を遅らせる要因となる。 === バブル崩壊後 === [[File:JVC GY-HD100 in Edmonton 20060720.jpg|thumb|right|220px|JVC GY-HD100]] 1991年には、主力のビデオ市場は海外市場の読み違いによって在庫が増え、翌年の売上が2割近く減る。また在庫処分の費用も増加し巨額の赤字が発生、加えてオーディオ市場の不振も加わり1993年には上場以来初の無配となる。この頃からVHSの関連特許が満期を迎える。 1994年には、20年ぶりに松下から守随武雄取締役を社長として迎え入れる。1991年から1995年まで、グループ会社を含め4000人の人員削減を実行。本社も日本橋から横浜工場に移転する。こうした中でも1991年業界初のワイドテレビを発売、ワイドテレビの先鞭をつける。また、独自の動画圧縮技術によってビデオCD規格をフィリップス社と共同開発。その後のDVD規格の策定では、ビデオCDで得たMPEG技術を提供、ビクターの技術的優位性を確立する。 1995年には、ソニー・松下電器・フィリップス・日立・三菱と共同で、家庭用デジタルビデオカメラ規格の[[DV (ビデオ規格)|DV]]規格を開発。他社がセミプロ用のハイエンド機種を発売するなか、小型化を追求したデジタルムービーを発表。ビクターの技術力の高さを示す一方で、現在のデジタルビデオカメラ市場を切り開く原動力となり、大ヒットを記録する。リストラとヒット商品によって、1996年には復配するが、市場の悪化とヒット商品の不在によって、赤字とリストラによる黒字のサイクルを繰り返す。 1998年には、1990年より続いていた米パソコンゲーム会社大手[[エレクトロニック・アーツ]]との合弁事業エレクトロニックアーツ・ビクターを解消。 === 更なる事業再構築 === [[File:Victor Flat Vision AV-28AD1.jpg|thumb|220px|ビクターフラットワイドテレビ AV-28AD1 (2000年)<br />岩井工場(ホームAVネットワークビジネスユニット)]] [[2001年]]に松下電器産業社長に就任した[[中村邦夫]]の方針によって、[[2003年]]度から松下グループの事業セグメントの再編によって、ビクターは一つのセグメントとして確立し、グループの事業計画にも参加し、研究開発や部材の共同購入など松下との連携を進める一方で、経営の自主性と責任をより一層持つこととなった。当時の松下グループの中でビクターの売上は全体の7%程。 2001年には、松下出身の寺田雅彦が社長就任。2001年から2006年までに単独で3500人削減し、国内外37あった製造拠点を23拠点に集約、映画・ゲームといったノンコア事業の売却撤退を進める。一方でビクター独自の技術を活かしたオンリーワン戦略を進め、個性派企業への転身を図る。主な商品として、ハードディスク搭載MPEGムービー「[[Everio]](エブリオ)」、コンポ・単品スピーカー・カースピーカーに搭載する世界初の木製振動板「[[WOOD CONE]](ウッドコーン)」、世界初の家庭用ハイビジョンカメラを発売。独自開発した映像素子(D-ILA)を搭載したリアプロジェクションテレビ・ハイエンドプロジェクターの発売を行う。また、DOS/Vパソコンの市場に参入したが、伸び悩んだ。こうしたリストラと独自商品によって2002年に約445億円の損失から、2004年には156億円の純利益を計上し業績回復を果たす。 しかし急速なデジタル家電の価格低下、市場環境の急速な変化、海外市場を中心にノンブランドの台頭、デジタル製品特有の商品サイクルの短命化と、開発工程の膨張によるDVDレコーダーの重大な欠陥による損失と、ブランドイメージの悪化によって2004年には赤字転落。2005年度には306億円の当期純損失を計上する。このため再度のリストラを行わざるを得なかった。また、この業績悪化のため、1982年より続けてきたFIFAワールドカップへの協賛を2006年のドイツ大会で終了。2010年には、1978年からスポンサードして来た「[[東京ビデオフェスティバル]]」の後援を降りざるを得なくなった。 === ケンウッドとの経営統合 === 2007年7月24日、日本ビクターおよびケンウッドは、両社の取締役会で、同年10月期にカーエレクトロニクスとポータブルオーディオ事業分野の協業を開始し、将来的には共同持ち株会社による経営統合を目指すことを決定し松下電器とともにその方針を発表した。同年8月10日にケンウッドとその筆頭株主であるスパークス運用ファンドに対する[[第三者割当増資]]を行ない、ケンウッドの持ち株比率が17.1%、松下電器の持ち株比率が36.9%となり、ケンウッドは日本ビクターの第2位の株主になると同時に日本ビクターが松下電器の連結子会社から外れ持分法適用関連会社となった<ref>[https://www3.jvckenwood.com/company/ir/pdf/info-070724.pdf 日本ビクターのニュースリリース]</ref>。同年10月1日、ケンウッドとビクターの折半出資で技術開発合弁会社、J&K テクノロジーズ株式会社を新設。カーおよびホームエレクトロニクス技術開発のコラボレーションがスタートした。 2008年5月12日、6月の株主総会の承認後を経て10月に暫定共同持株会社、JVC・ケンウッド・ホールディングス株式会社を設立し(本店は横浜市のビクター本店内)経営統合することが発表された。これに伴いビクター及びケンウッドは上場廃止の上で傘下の事業会社となり、予定通り10月1日に共同持株会社が上場された。パナソニック(現・[[パナソニックホールディングス]])はJVC・ケンウッド・ホールディングスの株主となった。 2011年3月時点でパナソニックはJVC・ケンウッド・ホールディングスの持株比率が20%以下となり、持分法適用対象外となっていた。ただ、筆頭株主ではあった。 2011年10月1日にケンウッド、J&KカーエレクトロニクスとともにJVC・ケンウッド・ホールディングス株式会社から商号変更した株式会社JVCケンウッドへ吸収合併された。 == 年表 == * [[1927年]]([[昭和]]2年)[[9月13日]] - 資本金200万円で日本ビクター蓄音器株式会社設立<ref name="yokohama-modern-history-list-1994" />。 * [[1943年]](昭和17年) - 商号を日本音響株式会社に変更。 * [[1945年]](昭和20年) - 商号を'''日本ビクター株式会社'''に変更。 * [[1951年]](昭和26年) - 音楽部門、レコード会社では日本初のテープ・レコーダー(米マグネコーダ製)を導入、運用開始。 * [[1953年]](昭和28年) - [[野村吉三郎]]が社長に就任。 **[[10月]] - 音楽部門、LPレコードの発売を開始。第1号は[[アルフレッド・コルトー]]のピアノによる[[フレデリック・ショパン|ショパン]]ピアノ作品集(LS-2001)で、彼の[[1952年]]の来日の際にテープ・レコーダーを使って、同年12月1日と3日、当時東京築地にあった日本ビクター・スタジオにて録音された音源を使用している。その後、[[BMG JAPAN]](現:[[ソニー・ミュージックレーベルズ]])からCDにて発売されている。 * [[1954年]](昭和29年) - 松下電器産業(現:[[パナソニックホールディングス]])と提携。 * [[1957年]](昭和32年)[[4月]] - 音楽部門、日本初のステレオ・テープ・ソフトであるベルリオーズ「幻想交響曲」(ミュンシュ指揮ボストン交響楽団を発売。 * [[1958年]](昭和33年)[[4月1日]] - RIAA等で正式決定した45/45方式のステレオレコードが再生できる日本初のステレオセットSTL-1を発売。 ** [[8月1日]] - 音楽部門、日本初のステレオ・レコードを発売。この日の初回ステレオ発売はLP3枚、EP2枚。内容は、クラシック音楽では全て12インチLPで、[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]作曲「[[ピアノ協奏曲第1番 (チャイコフスキー)|ピアノ協奏曲第1番]]」[[エミール・ギレリス]](ピアノ)[[フリッツ・ライナー]]指揮[[シカゴ交響楽団]](SLS-2001)、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]作曲、「[[ヴァイオリン協奏曲 (ベートーヴェン)|ヴァイオリン協奏曲ニ長調]]」[[ヤッシャ・ハイフェッツ]](ヴァイオリン)[[シャルル・ミュンシュ]]指揮[[ボストン交響楽団]](SLS-2002)の以上2枚で、いずれも価格は2800円。ポピュラー音楽では、12インチLPが「ステレオ・ボール・ルーム」([[ラルフ・フラナガン]]楽団、[[フランキー・カール]]楽団)(SLS-5001)の1枚(価格:2500円)、7インチの45回転EP盤が、「王様 プラード・イン・ウルトラ・Hi-Fi」([[ペレス・プラード]]楽団)(SEP-1001)、「魅惑の東洋の旅 第1集(Around the Far East)」([[アルマンド・フェデリコ]]楽団)(SEP-1002)で、いずれも価格は900円だった。これらのレコードは全て[[RCAレコード|米RCAビクター]]原盤によるもので、[[国立国会図書館]]に所蔵されている。 ** [[10月1日]] - 音楽部門、録音からプレスまで純国産のステレオLPを2枚発売(歌舞伎「[[勧進帳]]」(SLJ-2001)ほか)。 * [[1959年]](昭和34年) - 世界初の2ヘッドVTRを開発。 * [[1960年]](昭和35年) - カラーテレビ発売。 * [[1970年]](昭和45年) - 完全独立4チャンネルステレオ CD-4 を発売。機械学会賞をうける。 * [[1972年]](昭和47年) - 音楽部門を分社し、ビクター音楽産業(現:[[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント]])設立。 * [[1976年]](昭和51年)[[10月31日]] - 家庭用(民生用)[[VHS]]ビデオデッキ第1号機「'''HR-3300'''」、発売。定価は25万6千円。留守番録画用タイマーは別売りで1万円。この機種は[[シャープ]]、[[三菱電機]]等、多数のメーカにOEM供給された。 * [[1977年]](昭和52年)[[1月1日]] - 日本ビクター創立50周年に合わせる形でCI導入、創業時から使用されてきた「'''V<small>ICTOR</small>'''」から「'''Victor'''」表記に順次、変更される(新CI採用第1号は[[1977年|同年]][[1月25日]]発売の[[ラジオカセット|〈モノラル〉 ラジオカセッター]]「RC-202」)。 * [[1978年]](昭和53年)[[11月16日]] - 業界初の[[メタルポジション|メタルポジション(Type IV)]]対応[[ステレオ]][[コンパクトカセット]][[テープレコーダー|デッキ]]「'''[https://compactcassettes.jp/cassettedeck/kd_a6/victor_kd_a6.html KD-A6]'''」発売。定価は8万4千8百円。 * [[1983年]](昭和58年) - 「VHS HiFi」と呼ばれる音声専用回転ヘッドによるFM深層記録を取り入れた事で、[[VHS]]の音質を飛躍的に向上させた。また、同技術を採用した機種「HR-D725」を発売。 * [[1984年]](昭和59年) - [[VHS-C]]一体型[[カムコーダ|ビデオカメラ]]「GR-C1」発売。 ** [[1月20日]] - 日本ビクターでのビデオソフト販売は[[パラマウント映画|パラマウント]]、[[ユニバーサル・スタジオ|ユニバーサル]]との合弁会社としてCIC・ビクター ビデオ株式会社を設立(2002年6月に、パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン株式会社(PHEJ)に社名変更され、CIC・ビクター ビデオ株式会社の設立は終了となった)。 * [[1986年]](昭和61年) - 3D立体映像の再生機能に対応したモデル、HD-9300を発売<ref group="注">液晶シャッター式スコープを本体に接続し、立体映像を楽しむことが可能であった。 : 『昭和55年 写真生活』(2017年、ダイアプレス)p103</ref>。 * [[1987年]](昭和62年) - 輝度信号の大幅なハイバンド化により水平解像度400本以上を実現し、VHSの画質を飛躍的に向上させた新規格、「'''[[S-VHS]]方式'''」を発表。家庭用ビデオとして、世界で初めて放送クオリティーに迫る高画質を実現させた。また同年、VHSの規格をさらに進化させた、S-VHS規格対応の第1号機として「HR-S7000」を発売<ref>『昭和55年 写真生活』(2017年、ダイアプレス)p102</ref>。 * [[1989年]]([[平成]]元年)[[6月]] - [[K2インターフェイス]]を導入したCDプレーヤーの第1号機発売。 * [[1995年]](平成7年) - 20ビット以上のDIGITAL K2技術を使い、マスタリング、盤質、製造品質を大幅改良した高品質CDソフト 「[[XRCD]]」を発表。 * [[1997年]](平成9年) - 日本国内にもJVCブランドを導入開始。当初はカーオーディオに限り導入されていたが、同社のカーオーディオ事業撤退後は順次、AV機器やゼネラルオーディオにも導入された。 * [[1999年]](平成11年) - [[D-VHS]]レコーダ発売。 * [[2002年]](平成14年)[[8月]] - ゲーム会社[[ハドソン]]と共同でCD-ROMコピー防止技術「[[コピーガード|ROOT]]」を開発。 * [[2003年]](平成15年) - 家庭用としては世界初となる、デジタル[[ハイビジョン]][[カムコーダー|ビデオカメラ]]発売。ウッドコーンスピーカー発売。 * [[2004年]](平成16年) - D-ILAリアプロジェクションテレビ発売(北米)。[[ハードディスクドライブ|HDD]]ビデオカメラ発売。 * [[2005年]](平成17年) - net K2技術の開発。業界初の[[倍速液晶|高速液晶ドライバー]]技術を開発。 * [[2007年]](平成19年) - ケンウッドと業務提携。[[パナソニック|松下電器産業]]の子会社から<!--外れ、-->関連会社となる。 * [[2008年]](平成20年) - サーキット事業を[[メイコー]]に譲渡<ref>[https://www3.jvckenwood.com/press/2008/info-080130a.html サーキット事業の譲渡に関するお知らせ 2008年1月30日]</ref>。 ** モーター事業をJVCモータとして分社化し、日本産業パートナーズ(JIPファンド)に譲渡<ref>[https://www3.jvckenwood.com/press/2008/info-080227.html 会社分割によるモータ事業部門の分社化及び事業譲渡に関するお知らせ 2008年02月27日]</ref>。 ** [[10月]] - ケンウッドと経営統合し、[[株式移転]]により共同[[持株会社]]JVC・ケンウッド・ホールディングスを設立し、同社の子会社となる。 * [[2009年]](平成21年)[[11月]] - 国内事業見直しにより[[山陰ビクター販売]]と[[沖縄ビクター販売]]を解散。 * [[2011年]](平成23年)[[10月1日]] - ケンウッド、J&Kカーエレクトロニクスと共にJVCケンウッドに吸収合併され消滅。法人としての日本ビクターは84年の歴史に幕を下ろした。 == ビクターの主な事業 == === ホームディスプレイ事業 === ; D-ILAプロジェクター : [[1992年]]にアメリカの航空宇宙産業大手[[ヒューズ・エアクラフト]]とプロジェクション映像システム事業を共同で立ち上げILA方式スーパープロジェクターを開発する。このプロジェクターはCRT([[ブラウン管]])を用いて映像を映し出す。 : [[1995年]]にビクターはヒューズとの合弁会社の経営権を獲得し本格的に開発を始め、ブラウン管部分を反射型液晶ディバイスであるD-ILAを独自開発。 : D-ILA([[LCOS]]方式)は理論的に高画質化に向き、構造はシンプルであり、従来の透過型液晶パネルが開口率50%程度なのに対し、D-ILA は90%以上の開口率を持ち、輝度が高く消費電力を低く抑えることができ、無機配向膜を用いており半永久的な素子寿命を持つという特徴を持っている。しかし製造方法が難しい。ビクター以外ではソニーが開発量産化に成功している。ソニーではSXRDと呼ばれている。 : D-ILAを使用した[[プロジェクター]]では、業務用を中心に商品を展開、D-ILAは液晶等の他の素子を使ったモデルと比べて色の表現力や明るさに優れている。100万円を超えるフルハイビジョン対応の高級機に集中しており低価格帯の製品が少なかったが、[[2007年]]にはD-ILAの高画質にさらに磨きをかけ、かつ低価格を実現した機種であるDLA-HD1、DLA-HD100を続けて市場に投入、数々の賞を獲得した。 : またこのD-ILA素子を利用したハイビジョンを超える[[スーパーハイビジョン]]タイプのプロジェクターの開発を[[日本放送協会|NHK]]と共同で進め、ハイビジョンの4倍の解像度を誇る4K2Kプロジェクターやその4倍の8K4Kプロジェクター([[愛・地球博]]内グローバル・ハウスにあるNHKの[[スーパーハイビジョン]]シアター用プロジェクターとして)などの開発。またコダックと共同でデジタルシネマ開発を進め、D-ILAプロジェクターを採用した投射システムを開発。 : D-ILAデバイスはテレビにも導入された。ビクターは古くからブラウン管を用いた3管[[リアプロジェクションテレビ]]を販売していた。[[2004年]]にD-ILAデバイスを導入。[[2005年]]にはD-ILAの生産量をこれまでの3倍に増強し発売した。等の技術展示会では高輝度[[LED]]を使うことによってランプ寿命の問題を無くすことのできるモデル、110インチの超大型のプロジェクションテレビを発表している。また、[[2007年]]には奥行き25cm程度で壁掛けも可能な薄型のプロジェクションテレビを他社に先行して北米と欧州で発売した。 ; 液晶テレビ : [[2004年]]に[[CPU]]内蔵システムLSIであるGENESSAを開発した。GENESSAの主な働きは、それぞれの[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]に合わせた最適な映像になるように白飛びや黒つぶれを押さえつつコントラスト補正(ガンマ補正)をし、さらに色彩感を出すために200万通りに[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]されている候補の中から最適な色づけをするという動作を秒間60回、映像の1コマ毎に行うものである。2004年に発売したGENESSA搭載モデルから画質の評価が格段にあがり、シェアも伸びた。[[2005年]]にはGENESSAの機能が向上して、ノイズリダクション機能などが追加された。[[2007年]]には[[x.v.Color]]対応、信号処理の12ビット化、動き補償型の3次元ノイズリダクション機能などを搭載した新型のGENESSA PREMIUMを開発した。 : 動作を解消する技術として、液晶テレビの周波数を120Hzとして液晶のホールド時間を短くした、残像低減技術「[[倍速液晶|高速液晶ドライバー]]」も他社に先駆けて市場に投入。2007年には周波数を180Hzまで高めることでさらに残像感を小さくする技術や、バックライトにLEDを搭載して画面のエリア毎に輝度をコントロールすることでコントラストを飛躍的に向上させる技術、LCDのバックライトを自社開発することでテレビの電気回路を搭載しつつ厚み3.7センチの薄型化を達成した試作品を技術展示した。ビクターのテレビの商品名は[[EXE (テレビ)|EXE]]。 ; 液晶ディスプレイ : 2009年7月、テレビチューナーを搭載しない高級液晶ディスプレイ[[XIVIEW]]の1号機を発売。 === オーディオ事業 === ; ピュアオーディオ : [[スピーカー]]部門では1本で360度の音の広がりを実現した世界初の球形スピーカーを開発し、[[1967年]](昭和42年)に「GB-1」として商品化。また、世界初のディスクリート4チャンネルのCD-4([[1970年]]〈昭和45年〉)を完成させた。コーンの振動位置を中央からずらしたオブリコーンスピーカー([[1997年]]〈平成9年〉)や幅3センチの細いDDスピーカー([[2000年]]〈平成12年〉)、果ては振動版の全てに[[カバノキ属|樺材]]由来の木製コーンを使用したウッドコーンスピーカー([[2003年]]〈平成15年〉)を開発。民生用録音機部門としては国産初の[[ノイズリダクション]]システム「[[ANRS]]」を開発し、[[1972年]](昭和47年)に同社のカセットデッキ「[https://audio-heritage.jp/VICTOR/player/ccr-667.html CCR-667]」に初採用され、商品化された。業界初となる[[メタルポジション]](IEC TYPE IV)用[[コンパクトカセット|コンパクトカセットテープ]]による録音・再生に対応した[[カセットデッキ]]「[https://compactcassettes.jp/cassettedeck/kd_a6/victor_kd_a6.html KD-A6]」を[[1978年]](昭和53年)[[11月]]に発売。アンプ技術では増幅した信号を入力時のアナログ・デジタル波形を比較し補正することで高音質を実現したデジタルアンプのDEUS、音声技術ではデジタル音声の劣化や[[ジッター]]や[[リップル]]といった電気的な歪みを防ぎ、圧縮によって欠けた信号を予測し、復元する「'''K2インターフェース'''」を[[1987年]](昭和62年)に開発。特にK2インターフェース(後に'''K2HD'''に発展)はスタジオやマスタリングといったビクターの関連企業(ビクター音楽産業→ビクターエンタテインメント→[[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント]])でソフト製作に携わるエンジニアが参加し開発を進め、多くの業務用機器を始めビクターの民生用機器(主に高価格帯の据置型[[DAT]]やCDプレーヤー、D/Aコンバーター内蔵プリメインアンプなど)、果ては同社のデジタルオーディオプレーヤーや[[Au (携帯電話)|au]]ブランドを展開する[[KDDI]]・[[沖縄セルラー電話]]向けの一部を除く2008年春モデル以降の[[KCP+]]対応の[[携帯電話]]にも、「'''net K2'''(ネット・ケイツー)」として搭載されている。なお、「K2」の名前の由来は当時、当システムを開発し、ビクタースタジオ技術部に所属していた金井実と桑岡俊治の頭文字から取られたものである。 ; ゼネラルオーディオ : 2000年にカラフルなイルミネーション重視の「[[Lip×Lap]]」(リップ×ラップ)「[[Clavia]]」(クラビア)シリーズ製品の発売。これにより、今までの同社のゼネラルオーディオに対する「クールなイメージ」を「ファッショナブルなイメージ」へと大きく変えるものとなった。 2007年より「[[Memory COMPO]]」シリーズの展開もスタートした。 ; カーオーディオ : カーオーディオ部門では海外向け、国内向けも「JVC」ブランドで展開。販売不振のため2007年6月に国内向け生産を打ち切った。 ; ポータブルオーディオ : [[2001年]]からデジタルオーディオプレーヤー事業へ参入していたが、他社製のデジタルオーディオプレーヤーの台頭によって、[[2005年]]から本格的にデジタルオーディオプレーヤーを発売。記録媒体にメモリーやHDDを使用している機種、独自のK2テクノロジーを採用したモデルを販売しておりラインナップを拡充させていた。しかし、[[生活様式|ライフスタイル]]の急速な変化により市場が縮小するMDをこれらのデジタルオーディオプレーヤーではカバーしきれず不振が続き、[[2009年]]夏に全機種の生産を終了し、[[2010年]][[5月]]下旬に事実上撤退した。商品名は[[alneo]]。 === ビデオカメラ事業 === ; DVビデオカメラ ; HDDビデオカメラ {{main|Everio}} === ホームストレージ事業 === ; [[VHS]] ; [[DVD]]レコーダー ; [[Blu-ray]] Disc === メディア事業 === [[テープ]]時代から手がける記録メディア事業は、ビクターの[[ハードウェア|ハード]]を[[電子媒体|メディア]]で支える事業だった。現在ではVHS・ビデオカメラ用Mini[[DV (ビデオ規格)|DV]]テープ、[[コンパクトディスク|CD]]・[[DVD]]・[[ミニディスク|MD]]等のブランクディスクなどを主に手がけている。特に記録型光ディスクのブランクメディアは[[DVD-RW]]で他社への[[OEM]]供給を含めてトップシェアであり、ハード事業では手がけていない8cmDVD(家庭用ビデオカメラ用)も扱っている。 しかし、全体の業績悪化により、メディア事業も整理対象となり、[[2008年]][[7月1日]]に[[ビクターアドバンストメディア]]として分社し、同年[[10月1日]]に同社株式の65%が[[太陽誘電]]に売却されたが、この事業も2015年12月を以って清算されることとなった。 === ソフト事業 === {{see|JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント}} * [[ビクタークリエイティブメディア]](現:[[JVCケンウッドクリエイティブメディア]]。プレス部門子会社) * かつて関係会社だったレコード会社については→[[#レコード事業]] 映像・音楽ソフトの製作・製造・流通・販売など多岐にわたる事業を関連会社によって行っている。制作(上流)から流通(下流)まで一手に引き受けられるのは日本では[[ソニーグループ]]と[[ビクター]](このほか、[[2009年]]までは[[日本コロムビア]]も)しか存在せず、ソフト流通ではシェア60%だった時期もあった。 === 産業用機器部門 === === 電子デバイス部門 === [[ハードディスクドライブ|HDD]]用モーター、光ピックアップ、D-ILA素子、高密度ビルドアップ基板[[VIL]]を手がける。HDD用モーターについては国内第2位のシェアを保ち、ブラウン管用の偏向ヨークやFDDモーターなど、旧来の主力製品に変わる商品として育ちつつあった。2008年にモーター事業はJVC モーター分社化した後、日本産業パートナーズ(JIPファンド)に、また、サーキット事業を[[メイコー]]にそれぞれ譲渡した。 === 旅行業 === 1984年参入。現在は(株)JVCケンウッド・パートナズ。 == かつて参入していた事業 == === PHS端末事業 === [[1995年]]から[[1999年]]頃にかけて、DDIポケット(現:[[ワイモバイル]]のガラケー部門)向けに[[PHS]]端末を供給していた。 ==== 端末 ==== * TN-PZ1 ** 1995年7月1日発売、幅50mm×高さ120mm×奥行き26mm、145g * TN-PZ3/TN-PZ110/TN-PZ210 ** 1996年5月7日発売、幅45mm×高さ120mm×奥行き25mm、128g * TN-PZ5 ** 1997年3月発売、幅43mm×高さ115mm×奥行き21mm、94g * TN-PZ7 ** 1997年発売、幅41mm×高さ115mm×奥行き21mm、89g * TN-PZ77 ** 1998年10月15日発売、幅37mm×高さ122mm×奥行き19mm、66g * AP-V102 ** 1998年11月発売、幅43mm×高さ115mm×奥行き21mm、94g === テレビ受像機およびディスプレイ事業 === [[三菱電機]]から[[ブラウン管]]の供給を受けて「MEGA」シリーズを、[[液晶ディスプレイ]]と[[プラズマディスプレイ]]の[[薄型テレビ]]「[[EXE (テレビ)|EXE]]」シリーズを、それぞれ生産して販売した。売り上げ不振で赤字が増大し、[[2008年]]限りでテレビ受像機とディスプレイの生産を取り止めた。 === 家庭用電話機事業 === {{節スタブ}} コードレスホンなどを発売していた。ステレオコンポにコードレスホンを搭載したこともあった。[[留守番電話]]の録音にはコンパクトカセットを利用できた(主に「光ルス」シリーズ)。 === レコード事業 === かつては[[RCAレコード]](現:[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (米国)|米国ソニー・ミュージックエンタテインメント]])および[[BMG]]との合弁による[[BMG JAPAN|BMGビクター]]、[[MCAレコード]]との合弁によるユニバーサル・ビクター、[[テイチクエンタテインメント]]が存在した。BMGビクターは[[アリオラジャパン]](現:[[ソニー・ミュージックレーベルズ]])の前身である。ユニバーサル・ビクターは[[ユニバーサルミュージック (日本)|ユニバーサル ミュージック ジャパン(旧・ポリグラム)]]が吸収され、テイチクエンタテインメントは[[エクシング]]に売却した。 === 音楽教室事業 === 1960年代後半から[[ビクトロン]]を対象とした「ビクター音楽教室」を全国展開していた。[[1990年]]からは松下電器産業の[[テクニトーン]]による音楽教室と事業統合し、両社合弁の「ビクターテクニクス音楽教室」を展開していたが、[[2001年]]に[[ローランド]]に事業譲渡し撤退。特約楽器店運営の一部教室は[[ローランドミュージックスクール]]として存続している。 なお、専門家の育成を目的とした音楽教室「ビクター音楽カレッジ」は2014年に閉校している。 === 楽器事業 === [[1958年]]に[[電子オルガン]]を発表し楽器事業に参入した。[[1991年]]までに楽器事業から撤退している。 * [[ピアノ|アコースティックピアノ]] * [[ビクトロン|電子オルガン(ビクトロン)]] * [[エレクトリック・ギター]] * キーボード === エアコン事業 === 三菱重工より事業所向け大型エアコン等をOEM供給を受けて、Victorブランドで販売していた。 === ゲーム機事業 === [[セガ]]のハードウェアである[[メガドライブ]]の[[メガCD]]一体型の互換機、およびセガ発売の物と同型の[[セガサターン]]の[[OEM]]機を販売した。また、セガサターンで[[ビデオCD]]と[[フォトCD]]が閲覧可能になる周辺機器である「ツインオペレーター」も販売した。北米市場にもJVCブランドでメガドライブとメガCDの一体型機を販売している。 * [[ワンダーメガ]] [[1992年]][[4月1日]]メガドライブとメガCDの一体型機。定価82,800円。[[CD-G]]再生機能とマイク端子を搭載し、周辺機器であるメガCDカラオケなしでカラオケが楽しめる。MIDI出力端子も搭載。同仕様の機器がセガからも発売されている。 * ワンダーメガ2 ワンダーメガからMIDI出力端子を省き、代わりに6ボタン仕様のワイヤレスコントローラーが同梱されている機種。定価59,800円。こちらはセガの販売はなくビクターのみの発売。 * JVC X'EYE ワンダーメガ2の北米版で北米のみで販売。こちらはワイヤレスコントローラーは付属せずJVCロゴ入りの初代メガドライブのコントロールパッドが付属された。その他にもワンダーメガ2との細かな違いがある。定価$499.95。ワンダーメガ2と同じくセガは販売を行わずJVCのみの発売となった。 * Vサターン(ブイサターン) [[1994年]][[11月22日]]発売(セガサターンと同時)。セガサターンのOEMであり、オープン価格だが同等の価格で販売されていた。仕様は色や各種ロゴ、BIOSを除きセガサターンと全く同じである。[[1996年]][[6月7日]]にはセガサターンのモデルチェンジに合わせ本体デザインを後期型のセガサターンと同様にしてセガサターンからカラーリングや各種ロゴやBIOSなどを変更し、実売価格をあわせた(オープン価格)後期型も発売された。 === パソコン事業 === [[MSX]]規格より参入し、[[MSX2]]規格にも対応した機種を発売していた。MSX規格品として、1983年末時点でHC-5が発表されていた<ref>{{cite web |url=https://www.msx.org/wiki/Victor_HC-5 |accessdate=2023-5-21 |title=MSX Resource Center Victor HC-5}}</ref>。HC-5はAV機器との接続が中心で、VHDやVHS機器制御が想定されていた{{Sfn |ASCII 1983年12月号|p=150}}。2000年ごろにはモバイルPC市場に参入し、Windows CE対応のInterLinkCEシリーズとWindows XP対応のInterLinkXP/XVシリーズを販売していた。 InterLinkXP/XVシリーズはすべてコンパクト性を特徴として、全モデルのポインティングデバイスがスティックタイプで統一されている。 また、映像編集を意識してか、MP-XP3210以外の全モデルでi.LINK(IEEE1394)端子が装備されている。本体は[[ASUS]]からのOEMである。 一時期は、マウスなどの周辺機器や、業務用ディスプレイやHDDも生産、販売していた。 === 業務用カラオケ事業 === 1995年から2006年まで、子会社のビクターレジャーシステムから業務用通信カラオケ「[[孫悟空 (カラオケ)|孫悟空]]」を発売していた。2006年4月、ビクターレジャーシステムの全株式をエクシングへ譲渡し撤退。 === インテリア事業 === 70年代から80年代中期にかけて、家具・インテリア事業に参入し、「ソフィット(Sofitt)」というブランドで発売していた。オーディオ/ビジュアル機器と組み合わせるような提案を行うことは一切なかった。 === アニメーション制作事業 === 1994年の[[メタルファイター・MIKU]]より[[ベターマン]]までアニメーション制作をしていた。現在は孫会社の[[フライングドッグ]]が担当。 == 主な事業所 == * 本社・横浜事業所([[横浜市]][[神奈川区]]守屋町3-12) ** テレビ、プロジェクタ、ビデオカメラ、Blu-ray Disc製品の開発 * 横須賀事業所([[神奈川県]][[横須賀市]]神明町58-4) ** 業務用製品の生産、要素技術の研究開発 == かつての事業所 == * 岩井工場 ([[茨城県]][[坂東市]](旧・[[岩井市]])大字辺田1106 ** 1966年に開設、横浜から移転しブラウン管テレビを製造した。タイ工場へ移管したため2000年に閉鎖された。2003年に[[大和リース]]によって[[ヨークベニマル]]坂東店を核店舗とするヨークタウン坂東が開業。駐車場の植込みに閉鎖当時の[[銘板|館銘板]]が保存されている。2016年に坂東市まちなか資料館「ゆめぷらざ坂東」に工場のメモリアルコーナーが開設されるも2018年より施設全体が休館中。 * 小山工場 ([[栃木県]][[小山市]]中久喜1475-1) ** ブラウン管テレビの電子部品を製造。中国へ移管したため2004年に閉鎖された。施設はそのまま[[銀座 (企業)]]の小山事業所など複数企業の生産工場として存続。 * 鶴ヶ峰工場 (神奈川県横浜市旭区今宿東町1532) ** [[カムコーダー]]の基幹部品等を製造していた。大和工場に移管したため閉鎖された。跡地には[[双日新都市開発]]の分譲マンション「インプレスト横浜鶴ヶ峰EAST」が建設された。 * 大和工場(神奈川県大和市) ** 2008年に[[エイヴイ]]へ不動産を売却し、再開発により2011年に「[[りんかんモール]]」となっている。 * 林間工場([[神奈川県]][[大和市]]下鶴間1612-1) ** レコード盤、CD、DVD、BDソフトの生産。ビクタークリエイティブメディアとして分社化後、2015年に92億円で不動産売却を発表。跡地は[[東急]]の分譲マンション「[[ドレッセ中央林間]]」が建設された。生産機能は横須賀事業所へ移転。 * 水戸工場(茨城県[[水戸市]]元吉田町1030) ** 記録メディア(オーディオカセット、VHSテープ、DVD・BD)の開発・生産。2008年に[[太陽誘電]]との合弁でビクターアドバンスドメディアとして分社化したが、1年足らずの2009年に国内生産撤退に伴い閉鎖され、2015年に法人清算となる。2020年3月に[[ヨークベニマル]]水戸吉田店を核店舗とする「ヨークタウン水戸」が開業した。 * 大倉山工場([[神奈川県]][[横浜市]]港北区[[太尾町]]804) ** 旧コンポーネント&デバイス事業本部 精機事業部。プリント配線板の工場だった。事業は横浜工場に統合され閉鎖。 * 八王子工場([[東京都]][[八王子市]]石川町2969-2、[[北八王子工業団地]]) ** 業務用製品の開発・生産を行っていた。[[2009年]][[8月28日]]、工場の売却を発表。用地売却に伴い、事業は横須賀事業所に統合された。 * 藤枝工場([[静岡県]][[藤枝市]]花倉430-1) ** HDD用モーターの開発・生産を行っていた。日本産業パートナーズに譲渡。 * 前橋工場([[群馬県]][[前橋市]]大渡町1-10-1) ** オーディオ製品の開発・生産を行っていた。2017年に閉鎖され、跡地には[[大和ハウス工業]]が物流施設「DPL前橋」を開設した。 * 伊勢崎工場(群馬県[[伊勢崎市]]連取町1313) ** VHSビデオデッキ等の生産を行っていた。2002年に閉鎖され、跡地には[[カワチ薬品]]が開店した。なお、同市日乃出町には連結子会社の「ビクター伊勢崎電子株式会社」が所在し、液晶テレビ・カムコーダー用基板の生産を2008年まで行っていた<ref>[https://www3.jvckenwood.com/company/ir/pdf/info-080520a.pdf 子会社の解散に関するお知らせ 2008年5月20日]</ref>。 == ブランドスローガン == *「音のビクター」(1950年代 - 1960年代) *「○○はビクター<ref group="注">例:「ステレオはビクター」「テレビ(またはカラーテレビ)はビクター」「ビデオはビクター」「[[メタルポジション|メタル(テープ対応)]][[テープレコーダー|(カセット)デッキ]]はビクター」「S-VHSはビクター」など</ref>」(1960年代 - 1980年代) *「AUDIO VISUAL INOVATOR」(1972年 - 1975年) *「先進の個性」(1980年 - 1989年) *「PRODUCE YOUR IMAGINATION.」(2000年 - 2008年) * The Perfect Experience<ref name="JVC2003">{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20030401212423/http://www.jvc-victor.co.jp/company/profile/statement.html |title=ブランド・ステートメント |publisher=日本ビクター|accessdate=2023-08-10}}</ref>(2003年 -) == 提供番組 == {{節stub}} * [[スター誕生!|スター誕生! → 新・スター誕生!]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]) * [[月曜ロードショー|月曜ロードショー → ザ・ロードショー → 火曜ロードショー → 火曜ビッグシアター]]([[TBSテレビ]]) * [[ギミア・ぶれいく]](TBSテレビ) * [[勇者指令ダグオン]]([[名古屋テレビ放送]]) * [[勇者王ガオガイガー]](名古屋テレビ放送) * [[Do!スポーツ]]([[テレビ東京]]、一社提供) * [[映画みたいな恋したい]](テレビ東京、一社提供) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == *{{Cite journal|和書 |author= |title=ASCII 1983年12月号 |volume=7 |issue=12 |publisher=株式会社アスキー出版 |date=1983-12-1 |isbn= |ref={{Sfnref |ASCII 1983年12月号}} }} == 関連項目 == * 英[[EMI]] - 英グラモフォンの後身。[[ニッパー (犬)|ニッパー]](HMV)の商標権をもつ企業。 * [[「ビクター・甲子園ポスター」キャンペーン]] * [[UEFA欧州選手権]] * [[系列電器店]] * [[AMステレオ対応受信機の歴史]] * [[パナソニックのVTRの歴史]] * [[山田昇 (実業家)|山田昇]] - [[ヤマダ電機]]創業前は日本ビクターの社員だった。 * [[横浜スタジアム]] * [[アーセナルFC]] - クラブ史上初の胸スポンサー(1982/83シーズンから1998/99シーズンまで)。胸には「JVC」と書かれていた。 == 外部リンク == {{Commonscat|Victor (JVC)}} * [https://www.jvc.com/jp/ JVC Web サイト] ** [https://www.jvc.com/jp/brand/ JVCはビクターのグローバルブランドです。] {{パナソニック}} {{ビクターエンタテインメント}} {{芙蓉グループ}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:にほんひくたあ}} [[Category:日本ビクター|*]] [[Category:JVCケンウッドの歴史|*]] [[Category:パナソニックグループの歴史]] [[Category:東芝の歴史]] [[Category:かつて存在した日本の電気機器メーカー]] [[Category:かつての音響機器メーカー]] [[Category:かつての映像機器メーカー]] [[Category:かつての携帯電話メーカー]] [[Category:日本の音楽教室]] [[Category:BSテレビ東京]] [[Category:日本の多国籍企業]] [[Category:外資系発祥の日本企業]] [[Category:1927年設立の企業]] [[Category:2011年廃止の企業]] [[Category:2011年の合併と買収]] [[Category:かつて存在した神奈川県の企業]] [[Category:野村吉三郎]]
2003-05-12T02:11:51Z
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分数
分数(ぶんすう、英: fraction)とは、2つの数の間の割り算の商を表す数の記法である。例えば a を b で割った商 a ÷ b は分数を用いて a/b と表せる。 日常的には 9/16 のように正の整数の分数がよく使われるが、分数で表される数に制限はなく、例えば 1/√2 や π/2 のように無理数(より一般に実数)を含んだり、h/2πi のように虚数(より一般に複素数)を含んでもよい。また定数に限らず 1/r や x/√x + y のように変数を含んでもよい。 通常の算術において、2つの数の間の割り算は分数で表される。 分数は2つの数とその間に引かれた括線(かっせん、英: vinculum, fraction bar)で表される。分数表記において、被除数にあたる数を分子(ぶんし、英: numerator)、除数にあたる数を分母(ぶんぼ、英: denominator)と呼ぶ。分数の表記法はいくつかあるが、一般的には下記のように括線を横に引き、分子 n を括線の上、分母 d を括線の下に書く: あるいは文中などにおいて、以下のように括線を斜めに書くこともある: これは逆向きに とも書かれる。 分数 n/d は日本語で「d 分()の n」と読む(例:1/5 は五分の一()、5/12 は十二分の五())。 英語では一般に n over d と読むが、分子と分母が整数の場合には n-d-th(s) のように読む(例:1/5 は one-fifth, 5/12 は five-twelfths)。分母は序数詞と同じ様に読み、また分子が 1 以外の場合は複数形として扱う。例外として、分母が 2 の場合には half を用い(例:1/2 は one half または a half, 3/2 は three halves)、分母が 4 の場合には quater と fourth のいずれも用い得る(例:1/4 は one quater または one-fourth)。 帯分数 k+n/d は日本語で「k と d 分の n」または「k 荷() d 分の n」と読む。 明治初期の教科書では「か」であったが、その後西洋風に(英語ではこの部分を and と読むように)「と」と読ませる教科書も現れた。1905年以降の教科書では、1910年から1937年までと1950年代のもので「と」と「か」が併用されていたほかは、「と」と読ませている。 分子と分母が 1 以外に共通の因数を持たない分数を既約分数(きやくぶんすう、英: irreducible fraction)という(例:2/3、5/6)。言い換えると「分数 n/d が既約(irreducible)である」とは分子 n と d が互いに素(最大公約数が 1)であることを意味する。 反対に、ある分数が既約でないことを可約(かやく、英: reducible)または約分可能という(例:2/4、4/6 は可約)。可約な分数を既約分数に書き換える操作を約分(やくぶん、英: reduction)あるいは簡約(かんやく)という。 分数 N/D が可約なら、その分子 N と分母 D は 1 でない最大公約数 g を持ち、 と因数分解できる。従って、以下のように分数 N/D を既約分数 n/d に書き換えられる。 整数の分数に限らず、分子分母が因数分解できるなら約分できる。例えば分子分母が不定元 x の多項式の分数(有理式)について、 のように約分できる。 分子が 1 で分母が正の整数の分数を単位分数(たんいぶんすう、英: unit fraction)という。例えば 1/3 は単位分数だが、5/6 は単位分数ではない。 異なる有限個の単位分数の和をエジプト式分数と呼び、数を単位分数の和に置き換えることを単位分数展開と呼ぶ。例えば 5/6 = 1/2 + 1/3 の右辺はエジプト式分数の一つである。 以下の形式の数の表示を連分数(れんぶんすう、英: continued fraction)という。 連分数は分母が数と分数の和として再帰的に表された分数である。通常、分子 bi および要素 ai の範囲は正の整数に限られる。特に分子 bi がすべて 1 の連分数を正則連分数または単純連分数と呼ぶ。 連分数に含まれる要素 ai の個数が n + 1 個の連分数を特に n 階の連分数と呼ぶ。連分数の階数は有限の場合も無限の場合もあり得る。 絶対値が 1 より小さい分数を真分数(しんぶんすう、英: proper fraction)という。すなわち、分子の絶対値が分母の絶対値より小さな分数を真分数と呼ぶ(例:1/−2, 2/3, −3/−5)。 他方、真分数でない分数を仮分数(かぶんすう、英: improper fraction)という(例:−2/1, 2/2, −5/−3)。仮分数は 0 でない整数部を持ち、整数と真分数の和に分解できる。具体的には n/d を仮分数とし、分子 n を分母 d の倍数と d で割った余り r の和 n = kd + r として表せば(|r| < |d|)、 となる(例:2/2 = 1 + 0/2, 5/3 = 1 + 2/3)。 整数と真分数の和 から足し算の記号 + を省略した表記 を帯分数(たいぶんすう、英: mixed number)という。 代数学における一般的な規約として、掛け算の記号を省略するため、帯分数は掛け算と混同される恐れがある。k+n/d と書いた際、掛け算 k × n/d と足し算 k + n/d のいずれとも解釈でき、掛け算と帯分数を区別できない。そのため、具体的な数量を扱う場面を除いては帯分数は用いられない。 分子または分母が分数で表される分数を繁分数(はんぶんすう、英: compound fraction, complex fraction)という。例えば、 や はいずれも繁分数である。 繁分数は通常の分数に書き直すことができる。0でない数 x について x/x = 1 であるため、例えば のように書き換えられる。 2つの分数 a/b, c/d が以下の2つの不等式を満たす場合、 以下の不等式が成り立つ: また、いずれか一つが 0 でない非負の数 p, q ≥ 0 について、以下が成り立つ: 不等式の等号が成立するのは2つの分数が等しい(a/b = c/d)場合に限る。その場合、2つの等しい分数について、それらの分子の和と分母の和からなる分数もまた等しいことが言える: この性質は加比の理()と呼ばれる。 分数 a/b は幾何学的に平面上の直交座標系の原点を通る直線の傾きと見なせ、分子と分母はその直線上の点 (x, y) = (b, a) に対応する。分数 a + c/b + d は原点から生えた2つのベクトル A→ = (b, a), B→ = (d, c) の和 (b + d, a + c) の傾き、すなわち線分 A→, B→ のなす平行四辺形の原点を共有する対角線の傾きに対応する。 1つ目の不等式 c/d − a/b ≥ 0 は分数に対応した直線の傾きの大小関係を表し、2つ目の不等式 bc − ad ≥ 0 はベクトル積 A→ × B→ の向きが正であること、すなわち A→, B→ のなす平行四辺形が A→ から見て左側(反時計回りの向き)に作図されることを表す。 2つの不等式から bd > 0 が得られる。分母 b, d, b + d の符号はいずれも一致するから、 および より、以下の不等式が得られる: 一般の有理数は整数 n と 0 でない整数 d の分数 n/d で表せる。言い換えると、整数の分子と分母を持つ分数で表される数全体が有理数である。 正の整数 m, n について、分数 n/m を考えることができる。分数 n/m は割り算 n ÷ m の商、あるいは単位分数 1/m の n 倍の数と捉えることができる。また、n : m の比を持つ2つの数量のうち、m に相当する数量の大きさを 1 とした場合、他方の n に相当する数量の大きさは n/m となる。この事実から、分数 n/m で表わされる数のことを指し、2つの数 n, m の比と表現することがある。 分数は自然数だけではなく、整数全体や実数、複素数などを用いても定義される。 抽象代数学において分数は、環に十分な逆元を追加することで新しい環を作り出す環の局所化あるいは全商環などの概念として一般に捉えることができる(分数環あるいは商の環というような言い方もある)。 可換環 R の部分集合 S は、R の単位元 1 を含み、S の任意の2つの元 s, t について、それらの積 st が再び S の元となる(つまり乗法について閉じている)場合、S は R の積閉集合という。可換環 R とその積閉集合 S に対し、R × S における二項関係 ∼ を で定めると、これは R × S における同値関係を与える。R × S をこの同値関係で割ったものを SR で表し、(r, s) の属する同値類を r/s などで表す。このとき、SR には、もとの環 R における演算と両立する和や積といった環としての演算が、すでに上で述べた規則に従って与えられる。 可換環 R に対して、R の零因子でない元の全体は積閉集合である。積閉集合 S をそのようなものとする場合、環 SR は R の全商環と呼ばれる。また、積閉集合 S が R の素イデアル P の補集合として与えられている場合には、SR の代わりにしばしば RP と書いて R の P における局所化と呼ぶ。なお、R が整域ならば、このような同値関係は簡約できて によって与えられ、これによって得られる全商環は可換体の構造を持つ。これを分数体あるいは商体と呼ぶ。 全商環や商体といった構造はある種の普遍性を与えており、たとえば整域の商体はもとの整域を含む最小の体を与えることなどが確かめられる。 積演算が非可換である場合、除法が左右で区別されるように分数も割る方向の左右で区別される。 いくつかの辞典では、分数を有理数の同義語として扱っている。例えば『精選版 日本国語大辞典』において分数は「整数aを零でない整数bで割った商を、横線を用いてa/bと表わしたもの。aを分子、bを分母と呼ぶ。有理数。」、また『小学館デジタル大辞泉』においては「二つの整数a・bの比として表される数。」と説明されている。
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S をそのようなものとする場合、環 SR は R の全商環と呼ばれる。また、積閉集合 S が R の素イデアル P の補集合として与えられている場合には、SR の代わりにしばしば RP と書いて R の P における局所化と呼ぶ。なお、R が整域ならば、このような同値関係は簡約できて", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "によって与えられ、これによって得られる全商環は可換体の構造を持つ。これを分数体あるいは商体と呼ぶ。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "全商環や商体といった構造はある種の普遍性を与えており、たとえば整域の商体はもとの整域を含む最小の体を与えることなどが確かめられる。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "積演算が非可換である場合、除法が左右で区別されるように分数も割る方向の左右で区別される。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "いくつかの辞典では、分数を有理数の同義語として扱っている。例えば『精選版 日本国語大辞典』において分数は「整数aを零でない整数bで割った商を、横線を用いてa/bと表わしたもの。aを分子、bを分母と呼ぶ。有理数。」、また『小学館デジタル大辞泉』においては「二つの整数a・bの比として表される数。」と説明されている。", "title": "辞書的な定義" } ]
分数とは、2つの数の間の割り算の商を表す数の記法である。例えば a を b で割った商 a ÷ b は分数を用いて a/b と表せる。 日常的には 9/16 のように正の整数の分数がよく使われるが、分数で表される数に制限はなく、例えば 1/√2 や π/2 のように無理数(より一般に実数)を含んだり、h/2πi のように虚数(より一般に複素数)を含んでもよい。また定数に限らず 1/r2 や x/√x2 + y2 のように変数を含んでもよい。
[[Image:Cake quarters.svg|thumb|right|270px|1 個のケーキから 4 分の 1 ({{math|{{sfrac|4}}}})を除いたら 4 分の 3 ({{math|1={{sfrac|3|4}} = {{sfrac|4}} + {{sfrac|4}} + {{sfrac|4}}}})が残る。]] '''分数'''(ぶんすう、{{lang-en-short|fraction}}{{efn2|{{en|fraction}} は[[小数]]を指すことがある。例えば {{en|decimal fraction}} は整数の分子と {{math|10}} の[[冪乗|冪]]の分母を持つ分数と[[十進法]]の小数のいずれも指し、{{en|fractional part}} は実数の小数部を表す。従って、厳密には分数と {{en|fraction}} は同義ではない。}})とは、2つの[[数]]の間の[[除法|割り算]]の商を表す数の記法である。例えば {{mvar|a}} を {{mvar|b}} で割った商 {{math|1=''a'' &div; ''b''}} は分数を用いて {{math|{{sfrac|''a''|''b''}}}} と表せる。 日常的には {{math|{{sfrac|9|16}}}} のように[[正の数と負の数|正]]の[[整数]]の分数がよく使われるが、分数で表される数に制限はなく、例えば {{math|{{sfrac|{{sqrt|2}}}}}} や {{math|{{sfrac|''&pi;''|2}}}} のように[[無理数]](より一般に[[実数]])を含んだり、{{math|{{sfrac|''h''|2''&pi;i''}}}} のように[[虚数]](より一般に[[複素数]])を含んでもよい。また[[定数]]に限らず {{math|{{sfrac|''r''<sup>2</sup>}}}} や {{math|{{sfrac|''x''|{{sqrt|''x''<sup>2</sup> + ''y''<sup>2</sup>}}}}}} のように[[変数 (数学)|変数]]を含んでもよい。 == 記法 == 通常の[[算術]]において、2つの数の間の[[除法|割り算]]は分数で表される。 分数は2つの数とその間に引かれた'''括線'''(かっせん、{{lang-en-short|vinculum, fraction bar}})で表される。分数表記において、被除数にあたる数を'''分子'''(ぶんし、{{lang-en-short|numerator}})、除数にあたる数を'''分母'''(ぶんぼ、{{lang-en-short|denominator}})と呼ぶ。分数の表記法はいくつかあるが、一般的には下記のように括線を横に引き、分子 {{mvar|n}} を括線の上、分母 {{mvar|d}} を括線の下に書く: :<math display="block"> \frac{n}{d}</math> あるいは文中などにおいて、以下のように括線を斜めに書くこともある: :<math display="block">n/d</math> これは逆向きに :<math display="block">d \backslash n</math> とも書かれる。 == 読み == 分数 {{math|{{sfrac|''n''|''d''}}}} は日本語で「{{mvar|d}} {{読み仮名|分|ぶん}}の {{mvar|n}}」と読む(例:{{math|{{sfrac|1|5}}}} は{{読み仮名|五分の一|ごぶんのいち}}、{{math|{{sfrac|5|12}}}} は{{読み仮名|十二分の五|じゅうにぶんのご}})。 英語では一般に {{en|{{mvar|n}} over {{mvar|d}}}} と読むが、分子と分母が[[整数]]の場合には {{en|{{mvar|n}}-{{mvar|d}}-th(s)}} のように読む(例:{{math|{{sfrac|1|5}}}} は {{en|one-fifth}}, {{math|{{sfrac|5|12}}}} は {{en|five-twelfths}})。分母は[[序数詞]]と同じ様に読み、また分子が {{math|1}} 以外の場合は[[複数形]]として扱う。例外として、分母が {{math|2}} の場合には {{en|half}} を用い(例:{{math|{{sfrac|1|2}}}} は {{en|one half}} または {{en|a half}}, {{math|{{sfrac|3|2}}}} は {{en|three halves}})、分母が {{math|4}} の場合には {{en|quarter}} と {{en|fourth}} のいずれも用い得る(例:{{math|{{sfrac|1|4}}}} は {{en|one quarter}} または {{en|one-fourth}})。 [[#帯分数|帯分数]] {{math|{{sfrac|''k''|''n''|''d''}}}} は日本語で「{{mvar|k}} ''と'' {{mvar|d}} 分の {{mvar|n}}」または「{{mvar|k}} {{読み仮名|荷|か}} {{mvar|d}} 分の {{mvar|n}}」と読む<ref>[https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000131685 帯分数の読み方、1 1/3(いっかさんぶんのいち)の「いっか」の部分の漢字は何か | レファレンス協同データベース]</ref>。 明治初期の教科書では「か」であったが、その後西洋風に(英語ではこの部分を {{en|and}} と読むように)「と」と読ませる教科書も現れた。1905年以降の教科書では、1910年から1937年までと1950年代のもので「と」と「か」が併用されていたほかは、「と」と読ませている<ref>{{cite journal ja-jp|author=上垣渉|title=少年少女のための数学文化史(17) 帯分数の読み方における「と」と「か」について|journal=数学教室|publisher=国土社|volume=61|issue=8|pages=52-55|year=2015}}</ref>。 == 分類 == === 既約分数 === 分子と分母が {{math|1}} 以外に共通の因数を持たない分数を'''既約分数'''(きやくぶんすう、{{lang-en-short|irreducible fraction}})という(例:{{math|{{sfrac|2|3}}}}、{{math|{{sfrac|5|6}}}})。言い換えると「分数 {{math|{{sfrac|''n''|''d''}}}} が既約({{en|irreducible}})である」とは分子 {{mvar|n}} と {{mvar|d}} が[[互いに素 (整数論)|互いに素]]([[最大公約数]]が {{math|1}})であることを意味する。 反対に、ある分数が既約でないことを'''可約'''(かやく、{{lang-en-short|reducible}})または'''約分可能'''という(例:{{math|{{sfrac|2|4}}}}、{{math|{{sfrac|4|6}}}} は可約)。可約な分数を既約分数に書き換える操作を'''約分'''(やくぶん、{{lang-en-short|reduction}})あるいは'''簡約'''(かんやく)という。 分数 {{math|{{sfrac|''N''|''D''}}}} が可約なら、その分子 {{mvar|N}} と分母 {{mvar|D}} は {{math|1}} でない最大公約数 {{mvar|g}} を持ち、 :<math display="block"> \begin{align} N &= g \cdot n \\ D &= g \cdot d \end{align} </math> と[[因数分解]]できる。従って、以下のように分数 {{math|{{sfrac|''N''|''D''}}}} を既約分数 {{math|{{sfrac|''n''|''d''}}}} に書き換えられる。 :<math display="block"> \frac{N}{D} = \frac{\cancel{g} \cdot n}{\cancel{g} \cdot d} = \frac{n}{d} </math> 整数の分数に限らず、分子分母が因数分解できるなら約分できる。例えば分子分母が[[不定元]] {{mvar|x}} の[[多項式]]の分数([[有理関数|有理式]])について、 :<math> \frac {x^3 - 5x^2 + 8x -\; 4} {x^3 \, - \,\; x^2 - 8x + 12} = \frac {(x - 1) \cancel{(x - 2)^2}} {(x + 3) \cancel{(x - 2)^2}} = \frac{x-1}{x+3} </math> のように約分できる{{efn2|{{mvar|f}} と {{mvar|g}} を[[多項式函数|多項式関数]]とし、分数 {{math|{{sfrac|''f''|''g''}}}} を [[有理関数]]と見た場合、{{math|1=''g''(''x'') = 0}} となる点では {{math|{{sfrac|''f''|''g''}}}} が定義されていないことに注意。例えば {{math|1=''f''(''x'') = (''x'' &minus; 1)(''x'' &minus; 2)<sup>2</sup>}}, {{math|1=''g''(''x'') = (''x'' + 3)(''x'' &minus; 2)<sup>2</sup>}} の場合、{{math|1={{sfrac|''f''|''g''}}(''x'') = {{sfrac|''x'' &minus; 1|''x'' + 3}}}} と書くと一見、{{math|1=''x'' = 2}} の場合も定義されているように見えるが、{{math|1=''g''(2) = 0}} のため {{math|{{sfrac|''f''|''g''}}}} は未定義である。}}。 === 単位分数 === {{main|単位分数|エジプト式分数}} 分子が {{math|1}} で分母が[[正の数と負の数|正]]の[[整数]]の分数を'''単位分数'''(たんいぶんすう、{{lang-en-short|unit fraction}})という。例えば {{math|{{sfrac|3}}}} は単位分数だが、{{math|{{sfrac|5|6}}}} は単位分数ではない。 異なる有限個の単位分数の和を'''[[エジプト式分数]]'''と呼び、数を単位分数の和に置き換えることを単位分数展開と呼ぶ。例えば {{math|1={{sfrac|5|6}} = {{sfrac|2}} + {{sfrac|3}}}} の右辺はエジプト式分数の一つである。 === 連分数 === {{main|連分数}} 以下の形式の数の表示を'''[[連分数]]'''(れんぶんすう、{{lang-en-short|continued fraction}})という。 :<math display="block">a_0 + \cfrac{b_1}{a_1 + \cfrac{b_2}{a_2 + \cfrac{b_3}{a_3 + \cdots }}} </math> 連分数は分母が数と分数の和として[[再帰]]的に表された分数である。通常、分子 {{mvar|b<sub>i</sub>}} および要素 {{mvar|a<sub>i</sub>}} の範囲は[[正の数と負の数|正]]の[[整数]]に限られる。特に分子 {{mvar|b<sub>i</sub>}} がすべて {{math|1}} の連分数を'''正則連分数'''または'''単純連分数'''と呼ぶ。 連分数に含まれる要素 {{mvar|a<sub>i</sub>}} の個数が {{math|''n'' + 1}} 個の連分数を特に {{mvar|n}} 階の連分数と呼ぶ。連分数の階数は有限の場合も無限の場合もあり得る。 === {{vanc|真分数と仮分数|真分数|仮分数}} === [[絶対値]]が {{math|1}} より小さい分数を'''真分数'''(しんぶんすう、{{lang-en-short|proper fraction}})という。すなわち、分子の絶対値が分母の絶対値より小さな分数を真分数と呼ぶ(例:{{math2|{{sfrac|&minus;2}}, {{sfrac|2|3}}, {{sfrac|&minus;3|&minus;5}}}})。 他方、真分数でない分数を'''仮分数'''(かぶんすう、{{lang-en-short|improper fraction}})という(例:{{math2|{{sfrac|&minus;2|1}}, {{sfrac|2|2}}, {{sfrac|&minus;5|&minus;3}}}})。仮分数は 0 でない整数部を持ち、整数と真分数の和に分解できる。具体的には {{math|{{sfrac|''n''|''d''}}}} を仮分数とし、分子 {{mvar|n}} を分母 {{mvar|d}} の[[倍数]]と {{mvar|d}} で割った[[剰余|余り]] {{mvar|r}} の和 {{math|1=''n'' = ''kd'' + ''r''}} として表せば({{math|1={{abs|''r''}} &lt; {{abs|''d''}}}})、 :<math display="block"> \frac{n}{d} = \frac{kd + r}{d} = \frac{k\cancel{d}}{\cancel{d}} + \frac{r}{d} = k + \frac{r}{d} </math> となる(例:{{math|1={{sfrac|2|2}} = 1 + {{sfrac|0|2}}}}, {{math|1={{sfrac|5|3}} = 1 + {{sfrac|2|3}}}})。 === 帯分数 === 整数と[[#真分数|真分数]]の和 :<math display="block"> k + \frac{n}{d} </math> から[[加算|足し算]]の記号 + を省略した表記 :<math display="block"> k\frac{n}{d}</math> を'''帯分数'''(たいぶんすう、{{lang-en-short|mixed number}})という。 [[代数学]]における一般的な規約として、[[乗法|掛け算]]の記号を省略するため、帯分数は掛け算と混同される恐れがある。{{math|{{sfrac|''k''|''n''|''d''}}}} と書いた際、掛け算 {{math|''k'' &times; {{sfrac|''n''|''d''}}}} と足し算 {{math|''k'' + {{sfrac|''n''|''d''}}}} のいずれとも解釈でき、掛け算と帯分数を区別できない。そのため、具体的な数量を扱う場面を除いては帯分数は用いられない。 === 繁分数 === 分子または分母が分数で表される分数を'''繁分数'''(はんぶんすう、{{lang-en-short|compound fraction, complex fraction}})という。例えば、 :<math display="block"> \frac{\;a\;}{\;\tfrac{b}{c}\;} , \quad \frac{\;\tfrac{b}{c}\;}{\;a\;} , \quad \frac{\;\tfrac{a}{b}\;}{\;\tfrac{c}{d}\;} </math> や :<math display="block"> \frac{\;a\;}{b + \;\tfrac{c}{d}\;} , \quad \frac{\;b + \tfrac{c}{d}\;}{\;a\;} , \quad \frac{\;a + \tfrac{b}{c}\;}{\;d + \tfrac{e}{f}\;} </math> はいずれも繁分数である。 繁分数は通常の分数に書き直すことができる。0でない数 {{mvar|x}} について {{math|1={{sfrac|''x''|''x''}} = 1}} であるため、例えば :<math display="block"> \frac{\;a\;}{\;\tfrac{b}{c}\;} = \frac{\;a\;}{\;\tfrac{b}{c}\;} \times \frac{c}{c} = \frac{a \times c}{\tfrac{b}{\cancel{c}} \times \cancel{c}} =\frac{ac}{b} </math> のように書き換えられる。 == 演算規則 == === 基本的な演算 === [[Image:PieChartFraction_threeFourths_oneFourth-colored_differently.svg|thumb|<math>\tfrac{3}{4} + \tfrac{1}{4} = 1 \, (= \tfrac{4}{4})</math> あるいはその逆 <math>\tfrac{4}{4} - \tfrac{1}{4} = \tfrac{3}{4}</math> を示す図。]] ; 同値 : 2つの分数 {{math|{{sfrac|''a''|''b''}}}} と {{math|{{sfrac|''c''|''d''}}}} が等しいことは、以下の等式を満たすことから確かめられる: : <math display="block"> ad - bc = 0 \iff \frac{a}{b} = \frac{c}{d} \,. </math> : 特に、2つの分数 {{math|{{sfrac|(&minus;''a'')|''b''}}}} と {{math|{{sfrac|''a''|(&minus;''b'')}}}} は等しく、{{math|&minus;{{sfrac|''a''|''b''}}}} と書き直せる: : <math display="block"> (-a)(-b) - ba = 0 \iff \frac{(-a)}{b} = \frac{a}{(-b)} = - \frac{a}{b}\,. </math> ; 乗法 : 2つの分数 {{math|{{sfrac|''a''|''b''}}}} と {{math|{{sfrac|''c''|''d''}}}} の[[乗法|掛け算]]は以下のようになる: : <math display="block"> \frac{a}{b} \cdot \frac{c}{d} = \frac{a\cdot c}{b \cdot d} = \frac{ac}{bd} \,. </math> : 同様に分数 {{math|{{sfrac|''a''|''b''}}}} と数 {{mvar|c}} の掛け算は以下のようになる: : <math display="block"> \frac{a}{b} \cdot c = \frac{a\cdot c}{b} = \frac{ac}{b} \,. </math> ; 逆数 : {{math|0}} でない分数 {{math|{{sfrac|''a''|''b''}}}} の[[逆数]]{{efn2|{{math|0}} の[[逆数]]は存在しない([[ゼロ除算]]を参照)。}}は {{math|{{sfrac|''b''|''a''}}}} である: : <math display="block"> \frac{a}{b} \cdot \frac{b}{a} = 1 \,. </math> : 特に {{math|0}} でない数 {{mvar|a}} の逆数は {{math|{{sfrac|''a''}}}} である: : <math display="block"> a \cdot \frac{1}{a} = 1 \,. </math> ; 除法 : 2つの分数 {{math|{{sfrac|''a''|''b''}}}} と {{math|{{sfrac|''c''|''d''}}}} の[[除法|割り算]]は被除数 {{math|{{sfrac|''a''|''b''}}}} と除数の逆数 {{math|{{sfrac|''d''|''c''}}}} の掛け算に等しい: : <math display="block"> \frac{a}{b} \div \frac{c}{d} = \frac{a}{b} \cdot \frac{d}{c} = \frac{ad}{bc} \,. </math> : 同様に分数 {{math|{{sfrac|''a''|''b''}}}} と数 {{mvar|c}} の割り算は以下のようになる: : <math display="block"> \begin{align} \frac{a}{b} \div c = \frac{a}{b} \cdot \frac{1}{c} &= \frac{a}{bc} \\ c \div \frac{a}{b} = \frac{c}{1} \cdot \frac{b}{a} &= \frac{bc}{a} \,. \end{align} </math> ; 加法・減法 : 2つの分数 {{math|{{sfrac|''a''|''b''}}}} と {{math|{{sfrac|''c''|''d''}}}} の[[加法|足し算]]と[[減法|引き算]]はそれぞれ以下のようになる: : <math display="block"> \begin{align} \frac{a}{b} + \frac{c}{d} = \frac{ad}{bd} + \frac{bc}{bd} &= \frac{ad + bc}{bd} \,, \\ \frac{a}{b} - \frac{c}{b} = \frac{ad}{bd} - \frac{bc}{bd} &= \frac{ad - bc}{bd} \,. \end{align} </math> : 特に分母の等しい2つの分数 {{math|{{sfrac|''a''|''b''}}}} と {{math|{{sfrac|''c''|''b''}}}} の足し算と引き算はそれぞれ単に分子同士の足し算と引き算で表せる: : <math display="block"> \begin{align} \frac{a}{b} + \frac{c}{b} &= \frac{a + c}{b} \,, \\ \frac{a}{b} - \frac{c}{b} &= \frac{a - c}{b} \,. \end{align} </math> : 分母 {{mvar|b}} と {{mvar|d}} が共通因数 {{mvar|r}} を持ち、{{math|1=''b'' = ''rp''}}, {{math|1=''d'' = ''rq''}} と書ける場合、足し算と引き算は以下のようになる: :<math display="block"> \begin{align} \frac{a}{rp} + \frac{c}{rq} &= \frac{aq + pc}{rpq} \,, \\ \frac{a}{rp} - \frac{c}{rq} &= \frac{aq - pc}{rpq} \,. \end{align} </math> : 同様に分数 {{math|{{sfrac|''a''|''b''}}}} と数 {{mvar|c}} の足し算と引き算は以下のようになる: : <math display="block"> \begin{align} \frac{a}{b} + c \ &= \frac{a + bc}{b} \,, \\ \frac{a}{b} - c \ &= \frac{a - bc}{b} \,, \\ c - \frac{a}{b} &= \frac{bc - a}{b} \,. \end{align} </math> === 部分分数分解 === {{main|部分分数分解}} === 分母の有理化 === {{main|有理化}} == 性質 == === 加比の理 === 2つの分数 {{math|{{sfrac|''a''|''b''}}}}, {{math|{{sfrac|''c''|''d''}}}} が以下の2つの[[不等式]]を満たす場合、 : <math display="block"> \begin{alignat}{3} \frac{c}{d} &{}- \frac{a}{b} & {} \ge 0 &\,, \\[0.5em] bc &{}- ad & {} \ge 0 &\,, \end{alignat} </math> 以下の不等式が成り立つ: : <math display="block"> \frac{c}{d} \ge \frac{a + c}{b + d} \ge \frac{a}{b} \,. </math> また、いずれか一つが {{math|0}} でない非負の数 {{math|''p'', ''q'' &ge; 0}} について、以下が成り立つ: : <math display="block"> \frac{c}{d} \ge \frac{pa + qc}{pb + qd} \ge \frac{a}{b} \,. </math> 不等式の等号が成立するのは2つの分数が等しい({{math|1={{sfrac|''a''|''b''}} = {{sfrac|''c''|''d''}}}})場合に限る。その場合、2つの等しい分数について、それらの分子の和と分母の和からなる分数もまた等しいことが言える: : <math display="block"> \frac{a}{b} = \frac{c}{d} \implies \frac{a}{b} = \frac{a + c}{b + d} =\frac{c}{d} \,. </math> この性質は{{読み仮名|'''加比の理'''|かひのり}}と呼ばれる。 分数 {{math|{{sfrac|''a''|''b''}}}} は[[初等幾何学|幾何学]]的に[[平面]]上の[[直交座標系]]の原点を通る[[直線]]の[[傾き (数学)|傾き]]と見なせ、分子と分母はその直線上の点 {{math|1=(''x'', ''y'') = (''b'', ''a'')}} に対応する。分数 {{math|{{sfrac|''a'' + ''c''|''b'' + ''d''}}}} は原点から生えた2つの[[幾何ベクトル|ベクトル]] {{math|1={{vec|''A''}} = (''b'', ''a'')}}, {{math|1={{vec|''B''}} = (''d'', ''c'')}} の和 {{math|(''b'' + ''d'', ''a'' + ''c'')}} の傾き、すなわち[[線分]] {{math|{{vec|''A''}}}}, {{math|{{vec|''B''}}}} のなす[[平行四辺形]]の原点を共有する[[対角線]]の傾きに対応する。 1つ目の不等式 {{math|1={{sfrac|''c''|''d''}} &minus; {{sfrac|''a''|''b''}} &ge; 0}} は分数に対応した直線の傾きの大小関係を表し、2つ目の不等式 {{math|1=''bc'' &minus; ''ad'' &ge; 0}} は[[クロス積|ベクトル積]] {{math|1={{vec|''A''}} &times; {{vec|''B''}}}} の向きが正であること、すなわち {{math|{{vec|''A''}}}}, {{math|{{vec|''B''}}}} のなす平行四辺形が {{math|{{vec|''A''}}}} から見て左側([[時計回り・反時計回り|反時計回り]]の向き)に作図されることを表す。 2つの不等式から {{math|''bd'' &gt; 0}} が得られる。分母 {{mvar|b}}, {{mvar|d}}, {{math|''b'' + ''d''}} の符号はいずれも一致するから、 : <math display="block"> \begin{align} bc - ad &= bc + (cd - cd) - ad \\ &= (b + d)c - (a + c)d \ge 0 \end{align} </math> および : <math display="block"> \begin{align} bc - ad &= bc + (ab - ab) - ad \\ &= (a + c)b - (b + d)a \ge 0 \end{align} </math> より、以下の不等式が得られる: : <math display="block"> \frac{c}{d} \ge \frac{a + c}{b + d} \ge \frac{a}{b} \,. </math> == 有理数の表現 == 一般の[[有理数]]は[[整数]] {{mvar|n}} と 0 でない整数 {{mvar|d}} の分数 {{math|{{sfrac|''n''|''d''}}}} で表せる。言い換えると、整数の分子と分母を持つ分数で表される数全体が有理数である。 正の整数 {{math|''m'', ''n''}} について、分数 {{math|{{sfrac|''n''|''m''}}}} を考えることができる。分数 {{math|{{Sfrac|''n''|''m''}}}} は割り算 {{math|''n'' ÷ ''m''}} の[[除法|商]]、あるいは単位分数 {{math|{{Sfrac|1|''m''}}}} の {{mvar|n}} 倍の数と捉えることができる。また、{{math|''n'' : ''m''}} の[[比]]を持つ2つの数量のうち、{{mvar|m}} に相当する数量の大きさを 1 とした場合、他方の {{mvar|n}} に相当する数量の大きさは {{math|{{Sfrac|''n''|''m''}}}} となる。この事実から、分数 {{math|{{Sfrac|''n''|''m''}}}} で表わされる数のことを指し、2つの数 {{math|''n'', ''m''}} の比と表現することがある。 == 一般化 == {{main|分数体|環の局所化}} 分数は[[自然数]]だけではなく、整数全体や[[実数]]、[[複素数]]などを用いても定義される。 抽象代数学において分数は、[[環 (数学)|環]]に十分な逆元を追加することで新しい環を作り出す[[環の局所化]]あるいは[[全商環]]などの概念として一般に捉えることができる(分数環あるいは商の環というような言い方もある)。 [[可換環]] {{mvar|R}} の[[部分集合]] {{mvar|S}} は、{{mvar|R}} の単位元 1 を含み、{{mvar|S}} の任意の2つの[[元 (数学)|元]] {{math|''s'', ''t''}} について、それらの積 {{mvar|st}} が再び {{mvar|S}} の元となる(つまり乗法について閉じている)場合、{{mvar|S}} は {{mvar|R}} の[[積閉集合]]という。可換環 {{mvar|R}} とその積閉集合 {{mvar|S}} に対し、{{math|''R'' &times; ''S''}} における[[二項関係]] {{math|&sim;}} を : <math>(r_1,s_1) \sim (r_2,s_2) \iff \exists t \in S,\, t(r_1 s_2 - r_2 s_1) = 0</math> で定めると、これは {{math|''R'' &times; ''S''}} における[[同値関係]]を与える。{{math|''R'' &times; ''S''}} をこの同値関係で[[商集合|割った]]ものを {{math|''S''{{exp|&minus;1}}''R''}} で表し、{{math|(''r'', ''s'')}} の属する[[同値類]]を {{math|''r''/''s''}} などで表す。このとき、{{math|''S''{{exp|&minus;1}}''R''}} には、もとの環 {{mvar|R}} における演算と両立する和や積といった環としての演算が、すでに上で述べた規則に従って与えられる。 可換環 {{mvar|R}} に対して、{{mvar|R}} の[[零因子]]でない元の全体は積閉集合である。積閉集合 {{mvar|S}} をそのようなものとする場合、環 {{math|''S''{{exp|&minus;1}}''R''}} は {{mvar|R}} の'''全商環'''と呼ばれる。また、積閉集合 {{mvar|S}} が {{mvar|R}} の[[素イデアル]] {{mvar|P}} の[[補集合]]として与えられている場合には、{{math|''S''{{exp|&minus;1}}''R''}} の代わりにしばしば {{mvar|R{{msub|P}}}} と書いて {{mvar|R}} の {{mvar|P}} における'''局所化'''と呼ぶ。なお、{{mvar|R}} が[[整域]]ならば、このような同値関係は簡約できて : <math>r_1 s_2 - r_2 s_1 = 0</math> によって与えられ、これによって得られる全商環は[[可換体]]の構造を持つ。これを'''分数体'''あるいは[[商体]]と呼ぶ。 全商環や商体といった構造はある種の[[普遍性]]を与えており、たとえば整域の商体はもとの整域を含む最小の体を与えることなどが確かめられる。 * [[有理整数環]] {{math|'''Z'''}} の商体は[[有理数体]] {{math|'''Q'''}} である。 * [[体 (数学)|体]] {{mvar|k}} 上の[[多項式環]] {{math|''k''{{bracket|''x''}}}} の商体は[[有理関数体]] {{math|''k''(''x'')}} である。 * 体 {{mvar|k}} 上の[[形式冪級数環]] {{math|''k''{{bracket|{{bracket|''x''}}}}}} の商体は[[形式ローラン級数]]体 {{math|''k''((''x''))}} である。 積演算が非可換である場合、除法が左右で区別されるように分数も割る方向の左右で区別される。 == 辞書的な定義 == いくつかの辞典では、分数を[[有理数]]の[[同義語]]として扱っている。例えば『精選版 日本国語大辞典』において分数は「整数aを零でない整数bで割った商を、横線を用いてa/bと表わしたもの。aを分子、bを分母と呼ぶ。有理数。」<ref>精選版 日本国語大辞典「分数」[https://kotobank.jp/word/%E5%88%86%E6%95%B0-128546]</ref>、また『小学館デジタル大辞泉』においては「二つの整数a・bの比として表される数。」<ref>小学館デジタル大辞泉「分数」[https://kotobank.jp/word/%E5%88%86%E6%95%B0-128546]</ref>と説明されている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|first=アンリ|last=ポアンカレ|authorlink=アンリ・ポアンカレ|translator=[[吉田洋一]]|year=1927|title=科学と方法|edition=再版|series=岩波文庫 85-87|publisher=岩波書店|id={{近代デジタルライブラリー|1195367}}||ref=harv}} * 高木貞治、1904、「第五章 分數」、『新式算術講義』 * {{Cite book |和書 |author=青本和彦ほか |title=岩波 数学入門辞典 |year=2005 |publisher=[[岩波書店]] |page=534 |isbn=978-4-00-080209-3 }} == 関連項目 == * [[比]] * [[⅟]] * [[有理数]] * [[連分数]] * [[小数]] * [[ファレイ数列]] * [[ライプニッツの調和三角形]] == 外部リンク == * {{Wiktionary-inline|分数}} * {{Wikisource-inline|新式算術講義/第五章}} * {{MathWorld|urlname=Fraction|title=Fraction}} * {{nlab|urlname=fraction|title=fraction}} * {{PlanetMath|urlname=Fraction|title=fraction}} * {{ProofWiki|urlname=Definition:Rational_Number/Fraction|title=Definition:Rational Number/Fraction}} * {{SpringerEOM|urlname=Fraction|title=Fraction|author=Stepanov, S.A.}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ふんすう}} [[Category:分数|*]] [[Category:算術]] [[Category:数学の表記法]] [[Category:初等数学]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:エジプトの発明]]
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福島駅 (福島県)
福島駅(ふくしまえき)は、福島県福島市栄町にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・阿武隈急行・福島交通の駅である。 JR東日本の新幹線・在来線各線(後述)と、阿武隈急行の阿武隈急行線、福島交通の飯坂線が乗り入れている。かつて、1971年(昭和46年)4月12日まで、福島交通飯坂東線が、現在の福島駅東口前に乗り入れていた。 JR東日本の駅に乗り入れている路線は、線路名称上は東北新幹線と、在来線における当駅の所属線である東北本線、当駅を起点とする奥羽本線の3路線である。また当駅は東北新幹線から奥羽本線に直通するミニ新幹線である山形新幹線の分岐駅となっている。当駅で、東北新幹線の「やまびこ」と山形新幹線の「つばさ」が増解結を行う。奥羽本線は新幹線と同じ軌間である1,435 mmの標準軌に改軌されており、軌間1,067 mmの東北本線との直通が不可能となっている。この奥羽本線の標準軌区間には在来線としての愛称として「山形線」が設定されている。 在来線は地上駅(橋上駅)、新幹線は高架駅である。改札口は4か所にある。在来線側の駅正面(改札1階)にあたる東口と、新幹線側(改札2階)にあたる西口、及びS-PAL福島店の2階から東西連絡通路へ出入りできる「エスパル改札口」、在来線1番線ホーム北側から福島交通・阿武隈急行改札口へ行ける「連絡改札口」がある。なお、新幹線コンコースには、2014年3月1日より、再生可能エネルギー情報館が設置されている。 2014年9月26日に、JR東日本が同年10月より当駅の駅舎改築と「エコステ」の導入工事に着手することを発表した。駅舎は2015年3月20日、「エコステ」は同年4月5日にオープンしている。 事務管コードは▲231017を使用している。 福島統括センター所在駅。直営駅(駅長・輸送副長・営業副長配置)である。管理駅として東北本線の杉田駅 - 貝田駅間の各駅および奥羽本線の笹木野駅 - 庭坂駅間の各駅を管理している。 (出典:JR東日本:駅構内図) ※福島駅(標準軌)鉄道配線略図(表示巾800px、画像幅600px)を表示するには、右の [表示] をクリックして下さい。 JR1番線の北側に頭端式ホーム1面2線を持ち、東側を福島交通飯坂線、西側を阿武隈急行線が使用している。改札口は2社で共同で使用されている(入鋏は福交の駅員、集札・精算はそれぞれの駅員が行う)。JRとの連絡改札口があり、簡易Suica改札機が設置されている。 福島交通飯坂線は直流電化、阿武隈急行線は交流電化で、1つのホームで異なる電化方式が見られるのは、当ホームが全国で唯一である。 阿武隈急行線は当駅から矢野目信号場まで東北本線の複線区間を走るため、JRとの直通運転が可能な構造となっている。かつて存在した郡山方面への直通列車は、JR1番線発着であった。 改札外には、福島交通窓口、阿武隈急行窓口、自動券売機(福交2台・阿武隈急行2台)、NORUCA STATION(ノルカステーション)、トイレがあり、改札内には、簡易Suica改札機(連絡改札口)、自動販売機(飲料・軽食)、ガシャポンなどがある。なお、阿武急は無人駅と槻木駅からの乗客向けに、企画乗車券(フリーきっぷなど)は到着時に改札口に申し出ると窓口で購入できるようになっている。 かつては、主な駅弁として下記を販売していた。 2022年度(令和4年度)の1日平均乗車人員は13,182人である。また、新幹線の1日平均乗車人員は5,892人である。駅利用者数は、福島県内で郡山駅に次ぐ2位である。 1935年度および2000年度以降の推移は以下の通りである。 2002年度(平成14年度)以降の推移は以下の通りである。 東口は官庁、金融機関、商業施設や宿泊施設などが建ち並ぶ昔からの繁華街である。しかし、駅周辺の商業ビルや商店街では空き店舗が目立ち、中心市街地の空洞化が顕著である。ここ数年は地価の下落などによって高層マンションの建設が盛んである。 西口は東北新幹線が開通してから開設され開発が行われた地区である。昭和50年代後半ぐらいまで、昭栄製糸(現在のイトーヨーカドー福島店)や協三工業などの工場が現在の西口駅前に立地していた。2000年代以降高層マンションやビジネスホテルなどがいくつか建設された。 東口から西口(西口から東口)へ直接移動したい場合は、駅構内の地下を通る「東西自由通路」を利用する。東西連絡通路(構内跨線橋)は改札内であるため入場券が必要となる。 その他、個人経営やチェーンストアの飲食店が駅前に多数立地している。 路線バスは福島交通が記載されているすべての路線と、JRバス東北が福浪線(福島駅 - 川俣高校前)を運行している。 あづま総合運動公園内でイベントが行われる場合に臨時バス乗り場が西口に設けられる。 2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)によって、福島駅は大きな被害を受けた。各路線も地震発生直後から運転を中止した。 生誕100年を記念し、「古関裕而生誕100年記念モニュメント」が、2009年8月11日(8月11日は古関の誕生日である)、東口駅前広場に設置された。このモニュメントは、古関が愛用していたハモンドオルガンを演奏する姿を再現したもので、午前8時から午後8時までの1時間おきにメロディーが流れる。同日、1982年に設置された西口にある駅前モニュメントからも古関メロディーが流れるようになった。 奥羽本線の当駅 - 米沢間には、最大勾配38‰の板谷峠が存在するため、太平洋戦争後の1949年には直流電化されていた。しかしその後、黒磯以北は交流電化を採用することになり、1959年12月の白河 - 当駅間交流電化に際して、当駅構内での奥羽本線との交直接続が問題となった。黒磯駅に比して広大な構内と複雑な配線を持つ当駅では、車上切替え方式がまだ実用化されていなかったこともあり、駅構内への地上切替え設備の設置は断念された。構内は全て交流電化とし、奥羽本線上の800m庭坂寄りの福島第二機関区付近に地上式の交直切換設備・中川切換所を設け、ここで機関車交換を行うこととした。なお中川切換所の設置にあたっては、従前に直流機用機関庫の南側に沿って敷設されていた本線を北側に移設のうえ、その北側に交流機用機関庫を新設した。 1968年(昭和43年)10月に実施されたダイヤ改正(ヨンサントオ)によって当駅 - 米沢間が交流電化に転換されたのにともない、この交直接続設備は役目を終えた。
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福島駅(ふくしまえき)は、福島県福島市栄町にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・阿武隈急行・福島交通の駅である。
{{駅情報 |駅名 = 福島駅 |画像 = Fukushima-station west.jpg |pxl = 300 |画像説明 = JR西口(2016年4月) |地図= {{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|type2=point|zoom=15|frame-align=center|frame-width=300|marker=rail|marker2=rail|coord={{coord|37|45|14.74|N|140|27|37.06|E}}|title=JR東日本 福島駅|coord2={{coord|37|45|20.44|N|140|27|36.11|E}}|title2=阿武隈急行・福島交通 福島駅|marker-color=008000|marker-color2=0000ff}} |よみがな = ふくしま |ローマ字 = Fukushima |所在地 = [[福島県]][[福島市]][[栄町 (福島市)|栄町]]1番1号 |所属事業者 = {{Plainlist| * [[東日本旅客鉄道]](JR東日本・[[#JR東日本|駅詳細]]) * [[阿武隈急行]]([[#阿武隈急行・福島交通|駅詳細]]) * [[福島交通]]([[#阿武隈急行・福島交通|駅詳細]])}} }}{{座標一覧}} '''福島駅'''(ふくしまえき)は、[[福島県]][[福島市]][[栄町 (福島市)|栄町]]にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[阿武隈急行]]・[[福島交通]]の[[鉄道駅|駅]]である。 == 乗り入れ路線 == JR東日本の新幹線・在来線各線(後述)と、阿武隈急行の[[阿武隈急行線]]、福島交通の[[福島交通飯坂線|飯坂線]]が乗り入れている。かつて、[[1971年]]([[昭和]]46年)[[4月12日]]まで、福島交通[[福島交通飯坂東線|飯坂東線]]が、現在の福島駅東口前に乗り入れていた。 JR東日本の駅に乗り入れている路線は、線路名称上は[[東北新幹線]]と、在来線における当駅の[[日本の鉄道駅#所属線|所属線]]である[[東北本線]]<ref name="停車場402">[[#停車場|停車場変遷大事典]]、402頁</ref>、当駅を起点とする[[奥羽本線]]の3路線である。また当駅は東北新幹線から奥羽本線に直通する[[ミニ新幹線]]である[[山形新幹線]]の分岐駅となっている。当駅で、東北新幹線の「[[やまびこ (列車)|やまびこ]]」と山形新幹線の「[[つばさ (列車)|つばさ]]」が増解結を行う。奥羽本線は新幹線と同じ軌間である1,435&nbsp;mmの[[標準軌]]に改軌されており、軌間1,067&nbsp;mmの東北本線との直通が不可能となっている。この奥羽本線の標準軌区間には在来線としての愛称として「[[山形線]]」が設定されている。 == 歴史 == [[ファイル:Fukushima Station.1975.jpg|thumb|right|福島駅周辺の空中写真(1975年9月撮影)<br />{{国土航空写真}}]] * [[1887年]]([[明治]]20年)[[12月15日]]:[[日本鉄道]]線 [[郡山駅 (福島県)|郡山]]から[[仙台駅|仙台]]間の開通時に開業{{R|停車場402}}。[[日本の鉄道駅#一般駅|一般駅]]{{R|停車場402}}<ref>[http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1352 JR東日本:各駅情報(福島駅)]</ref>。 * [[1899年]](明治32年)[[5月15日]]:[[奥羽本線|官設鉄道]]が[[米沢駅]]まで開業<ref>[[#停車場|停車場変遷大事典]]、527頁</ref><ref name="ibe-2012-1">伊部正之 『《調査報告》庭坂事件を考える―翌年の松川事件に繋がる謀略事件―』 福島大学研究年報 第7号 ( [[福島大学]]) (2012年1月)[http://www.lib.fukushima-u.ac.jp/nenpo/issue/no7/05_chousa02.pdf]</ref>。 * [[1906年]](明治39年)[[11月1日]]:日本鉄道が[[鉄道国有法|国有化]]{{R|停車場402}}<ref name="ibe-2012-1" />。 * [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:[[鉄道路線の名称|線路名称]]制定、東北本線所属駅となる。 * [[1918年]]([[大正]]7年)[[4月14日]]:信達軌道線(後の[[福島交通飯坂東線]])が駅前に乗り入れ。 * [[1924年]](大正13年)[[4月13日]]:福島飯坂電気軌道線(現在の福島交通飯坂線)が駅前から飯坂駅(現在の[[花水坂駅]])まで開業(飯坂線の軌道としての開業日<ref name="tohoku-rail-revival-2012-9-2-8">『第2編 各鉄道の被害と復旧 8章 福島交通(飯坂線)』 よみがえれ! みちのくの鉄道 〜東日本大震災からの復興の軌跡〜 (東北の鉄道震災復興誌編集委員会 (事務局:[[国土交通省]]東北運輸局 鉄道部)) (2012年9月)[https://wwwtb.mlit.go.jp/tohoku/td/pdf/2_8.pdf]</ref>)。 * [[1942年]]([[昭和]]17年)[[12月3日]]:福島交通が当駅に乗り入れ<ref name="tohoku-rail-revival-2012-9-2-8" />。 * [[1962年]](昭和37年)未詳:現在のJR福島駅東口駅舎が完成。 * [[1971年]](昭和46年)[[4月12日]]:福島交通飯坂東線廃止<ref>[http://www.fukushima-koutu.co.jp/train/04_21.html 福島交通 - 飯坂電車の歴史]</ref>。 * [[1972年]](昭和47年)[[4月10日]]:旅行センターの営業を開始<ref group="新聞">{{Cite news|和書|title=福島駅旅行センター店開き 仙鉄|newspaper=[[交通新聞]]|publisher=交通協力会|date=1972-04-11|page=2}}</ref>。 * [[1976年]](昭和51年)[[2月5日]]:駅構内で[[亜ジチオン酸ナトリウム]]を積んだ[[貨車]]から発煙。消火時に大量の[[亜硫酸ガス]]が発生して駅構外へ流出、[[中合]]の店員らがのどの痛みを訴えるなどの被害<ref>貨車から突然有毒ガス 危険物指定外の漂白剤が発熱 繁華街、涙やセキ『朝日新聞』昭和51年2月6日朝刊、13版、23面</ref>。 * [[1978年]](昭和53年)[[6月24日]]:[[日本のコンテナ輸送#鉄道コンテナ|コンテナ]]・[[車扱貨物]]の取扱を[[東福島駅]]に移管し廃止{{R|停車場402}}。 * [[1981年]](昭和56年)[[5月6日]]:地下に東西自由通路を設置し、供用開始<ref group="新聞" name="交通81">{{Cite news|和書|title=東西自由通路が開通 |newspaper=[[交通新聞]]|publisher=交通協力会 |date=1981-05-09 |page=1 }}</ref>。 * [[1982年]](昭和57年)[[6月23日]]:東北新幹線開業<ref>[[#停車場|停車場変遷大事典]]、424頁</ref><ref name="jr">[https://www.jreast.co.jp/youran/pdf/2014-2015/jre_youran_group.pdf グループ事業展開(JR東日本)]</ref>。 * [[1984年]](昭和59年)[[1月15日]]:[[専用鉄道|専用線]]発着の車扱貨物の取扱を廃止し、貨物の取扱を全廃([[鉄道駅#旅客駅|旅客駅]]となる){{R|停車場402}}。 * [[1986年]](昭和61年)[[11月1日]]:[[チッキ|荷物]]の取扱を廃止{{R|停車場402}}。 * [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、国鉄の駅は東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる{{R|停車場402}}<ref>[http://www.jreast.co.jp/company/outline/ 会社概要(JR東日本)]</ref>。 * [[1988年]](昭和63年) ** [[6月10日]]:福島駅東口駅ビル、[[ルミネ|福島ルミネ]]が営業を開始<ref group="新聞">{{Cite news|title=「福島ルミネ」あす開業|newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1988-06-09 |page=1 }}</ref>。 ** [[7月1日]]:阿武隈急行が福島駅まで延伸開業<ref>[[#停車場|停車場変遷大事典]]、472頁</ref><ref name="tohoku-rail-revival-2012-9-2-6">『第2編 各鉄道の被害と復旧 6章 阿武隈急行』 よみがえれ! みちのくの鉄道 〜東日本大震災からの復興の軌跡〜 (東北の鉄道震災復興誌編集委員会 (事務局:[[国土交通省]]東北運輸局 鉄道部)) (2012年9月)</ref>。 * [[1992年]]([[平成]]4年)7月1日:新在直通新幹線として山形新幹線福島 - 山形間が開業<ref name="jr" />。 * [[1997年]](平成9年)[[4月18日]]:JR福島駅西口の新幹線高架下にショッピングセンター「パワーシティピボット」が開業<ref group="新聞">{{Cite news|和書|title=福島駅西口SC 来月18日開業|newspaper=交通新聞|publisher=交通新聞社|date=1997-03-27|page=3}}</ref>。 * [[2001年]](平成13年)[[4月8日]]:[[日本の鉄道事故 (2000年以降)#福島駅駅ビル衝突事故|福島駅駅ビル衝突事故]]が発生。 * [[2002年]](平成14年):「賑やかな駅前通り、[[役所|官公庁]]が立ち並ぶ県庁通りに続く[[都道府県庁所在地|県都]]の玄関口の駅」として、[[東北の駅百選]]に選定。 ** [[12月1日]]:同日に実施されたダイヤ改正により「やまびこ」「Maxやまびこ」「つばさ」のみの停車となる。 * [[2003年]](平成15年)[[12月18日]]:JR福島駅東口が、改札の南側にあったみどりの窓口と北側にあったびゅうプラザを改札の南側に一体化するなど大幅にリニューアルする。 * [[2004年]](平成16年) ** [[3月20日]]:福島駅東口駅ビル、福島ルミネに代わってS-PAL福島店が営業を開始。 ** 4月1日:JR福島駅に福島県内初の在来線[[自動改札機]]を導入(この時点では[[Suica]]利用不可)。 * [[2005年]](平成17年)[[3月15日]]:JR福島駅西口と新幹線・在来線ホームにエレベーター設置。 * [[2006年]](平成18年)[[2月20日]]:福島駅東口にホテルメッツ福島がオープン。JR福島駅の新幹線ホーム・在来線ホームの発車ベルを変更。この頃JR在来線ホーム南側にあった荷物運搬橋を撤去。 * [[2007年]](平成19年)[[12月]]:JR福島駅の在来線ホームの自動放送を変更。新幹線自動改札機を新型に交換。 * [[2008年]](平成20年) ** 3月15日:[[モバイルSuica]]特急券のサービスを開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2007_2/20071215.pdf|title=2008年3月15日(土)、モバイルSuica特急券のサービス開始!|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2007-12-21|accessdate=2020-05-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161002133542/https://www.jreast.co.jp/press/2007_2/20071215.pdf|archivedate=2020-05-25}}</ref>。 ** [[9月]]頃:JR福島駅のすべての自動券売機を新型に交換。 * [[2009年]](平成21年) ** [[3月14日]]:東北本線での[[ICカード]]「Suica」(奥羽本線〈山形線〉はエリア外)及び東北新幹線郡山から仙台間のSuica [[FREX]]定期券・Suica FREXパル定期券と、新幹線停車駅が2駅以上含まれるSuica定期券のサービスを開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2008/20081218.pdf|title=Suicaをご利用いただけるエリアが広がります。|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2008-12-22|accessdate=2020-05-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200518144106/https://www.jreast.co.jp/press/2008/20081218.pdf|archivedate=2020-05-18}}</ref>。 ** [[4月11日]]:JR福島駅の在来線・新幹線ホームの発車ベルが発車メロディに変更される<ref group="新聞" name="news20090412">{{Cite news|和書|url=http://www.minyu-net.com/news/news/0412/news2.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090416141827/http://www.minyu-net.com/news/news/0412/news2.html|title=福島駅に古関メロディー 出発合図音変更でセレモニー|newspaper=[[福島民友]]|publisher=福島民友新聞|date=2009-04-12|accessdate=2020-12-14|archivedate=2009-04-16}}</ref>。 * [[2011年]](平成23年)[[3月]]:[[東日本大震災]]により被災([[#東日本大震災による当駅の影響|詳細は後述]])。またこの頃、エスパル改札口に自動改札機が設置される。 * [[2014年]](平成26年) ** [[3月1日]]:JR福島駅の新幹線コンコース内に再生可能エネルギー情報館を開設。同日中にオープニングセレモニーを実施<ref group="報道" name="press/2014/02/fukushimaeki">{{Cite press release|和書|url=https://jr-sendai.com/upload-images/2014/02/fukushimaeki.pdf|title=福島駅再生可能エネルギー情報館の開設について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道仙台支社|date=2014-02-21|accessdate=2020-05-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200518144122/http://jr-sendai.com/upload-images/2014/02/fukushimaeki.pdf|archivedate=2020-05-18}}</ref>。 ** 10月:JR福島駅の駅舎改築および「エコステ」の導入工事に着手<ref group="報道" name="press/2014/09/ecosute">{{Cite press release|和書|url=https://jr-sendai.com/upload-images/2014/09/ecosute.pdf|title=福島駅「エコステ」モデル駅及び駅リニューアル工事の着手について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道仙台支社|date=2014-09-25|accessdate=2020-05-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200518144337/http://jr-sendai.com/upload-images/2014/09/ecosute.pdf|archivedate=2020-05-18}}</ref>。 * [[2015年]](平成27年) ** [[3月20日]]:JR福島駅舎(東口など)のリニューアル工事が完成。同年[[3月29日]]にオープニングセレモニーを実施<ref group="報道" name="press/2015/03/opening_ceremony">{{Cite press release|和書|url=https://www.jr-sendai.com/wp-content/uploads/2015/03/opening_ceremony.pdf|title=東北本線「松川駅」・「福島駅」オープニングセレモニーの開催について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道仙台支社|date=2015-03-17|accessdate=2020-05-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200518144405/http://jr-sendai.com/upload-images/2015/03/opening_ceremony.pdf|archivedate=2020-05-18}}</ref>。 ** 4月1日:JR東口の業務が[[JR東日本東北総合サービス]]に委託される。 ** [[4月5日]]:JR東日本が進める「エコステ」のモデル駅として太陽光パネルによる発電、地中熱を利用した空調設備、蓄電池の整備などが導入。同日中にオープニングセレモニーを実施<ref group="報道" name="press/2015/03/ecosute">{{Cite press release|和書|url=https://jr-sendai.com/upload-images/2015/03/ecosute.pdf|title=福島駅が「エコステ」モデル駅としてオープンします|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道仙台支社|date=2015-03-26|accessdate=2020-05-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200518144421/http://jr-sendai.com/upload-images/2015/03/ecosute.pdf|archivedate=2020-05-18}}</ref>。 ** 10月1日:二本松駅委託化に伴い、[[杉田駅 (福島県)|杉田駅]] - [[安達駅]]間が当駅管理となる。 * [[2019年]]([[令和]]元年)[[6月]]:無人駅管理業務及び地区駅業務を郡山駅に移管。自駅単独管理となり、福島地区から郡山地区所属駅となる。 * [[2020年]](令和2年)3月14日:[[えきねっと#新幹線eチケットサービス|新幹線eチケットサービス]]開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20200204_ho01.pdf|title=「新幹線eチケットサービス」が始まります!|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道/北海道旅客鉄道/西日本旅客鉄道|date=2020-02-04|accessdate=2020-05-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200226110513/https://www.jreast.co.jp/press/2019/20200204_ho01.pdf|archivedate=2020-02-26}}</ref>。 * [[2021年]](令和3年) ** [[2月13日]]:[[福島県沖地震 (2021年)|福島県沖地震]]により、[[天井]]から[[水]]が漏れて水浸しになるなどの被害が発生<ref>{{YouTube|CaPOk09EqEw|113人けが 福島駅では天井から水が漏れ【福島・宮城南部で震度6強】}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=福島と宮城で震度6強 M7.3と推定 津波の心配なし 気象庁 |url=https://mainichi.jp/graphs/20210214/mpj/00m/040/005000f/20210214mpj00m040001000p |website= |access-date=2023-03-15 |language=ja |publisher=[[毎日新聞]]}}</ref>。 ** [[3月13日]]:[[タッチでGo!新幹線]]のサービスを開始<ref group="報道" name="press/20201112_ho01">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20201112_ho01.pdf|title=タッチでGo!新幹線 サービスエリア拡大について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-11-12|accessdate=2020-11-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201113025314/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20201112_ho01.pdf|archivedate=2020-11-13}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|ただし、東北・山形各新幹線を乗り継いで利用する場合は対象外となる<ref group="報道" name="press/20201112_ho01" />。}}。 ** [[11月30日]]:[[びゅうプラザ]]の営業を終了。 * [[2022年]](令和4年) ** [[1月18日]]:「JR東日本駅たびコンシェルジュ」開業。 ** [[3月16日]]:[[福島県沖地震 (2022年)|福島県沖地震]]により被災。駅前の床のタイルが破損したほか<ref>{{YouTube|0HXovnmuTFk|地震の被害を受けた福島駅前}}</ref>、駅の東口にある[[ビジネスホテル]]で壁の一部が崩れるなどの被害が出た<ref>{{Cite news|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220317/k10013536391000.html|title=【動画】福島 JR福島駅東口にあるホテル壁の一部が崩れる |accessdate=2023-03-15 |publisher=[[日本放送協会|NHK]]}}</ref>。駅の近所にある[[繁華街]]のビルでも壁が大きく崩れて道路を塞いだ<ref>{{Cite news|和書|url=https://www.iza.ne.jp/article/20220317-WXCMSSLLAZMS5JITAOQWRPCHD4/|title=列車は運休、壁が崩れたビルも 震度6弱の福島市|date=2022-03-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230315223131/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220317/k10013536391000.html|archivedate=2023-03-15}}</ref>。 ** 10月1日:JR福島駅・福島総合運輸区を統合し、福島統括センター発足。郡山駅より無人駅管理業務を移管。 * [[2026年]](令和8年)度末:新幹線上りホームと奥羽本線を結ぶアプローチ線が供用開始(予定)<ref group="報道" name="press/20200303_ho01">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20200303_ho01.pdf|title=山形新幹線をより便利に快適にします|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-03-03|accessdate=2020-03-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200304022630/https://www.jreast.co.jp/press/2019/20200303_ho01.pdf|archivedate=2020-03-04}}</ref>。 == 駅構造 == === JR東日本 === {{駅情報 |社色 = #008000 |文字色 = |駅名 = JR 福島駅 |画像 = FukushimaSt_higashi.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 東口(2005年5月) |よみがな = ふくしま |ローマ字 = Fukushima |電報略号 = フク |所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |所在地 = [[福島県]][[福島市]][[栄町 (福島市)|栄町]]1番1号 |開業年月日 = [[1887年]]([[明治]]20年)[[12月15日]]{{R|停車場402}} |廃止年月日 = |駅構造 = {{Plainlist| * [[高架駅]](新幹線) * [[橋上駅]](在来線)}} |ホーム = {{Plainlist| * 2面4線(新幹線)<ref name="zeneki13">{{Cite book|和書 |title =週刊 JR全駅・全車両基地 |publisher = [[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume =13号 仙台駅・船岡駅・松島海岸駅ほか70駅 |date =2012-11-04 |page =22 }}</ref> * 3面6線(在来線){{R|zeneki13}}}} |座標 = {{Coord|37|45|14.74|N|140|27|37.06|E|region:JP-07_type:railwaystation|display=inline,title|name=JR 福島駅}} |乗車人員 = {{Smaller|(新幹線)-2022年-}}<br />5,892人/日(降車客含まず)<hr>{{Smaller|(合計)-2022年-}}<br />13,182 |統計年度 = |乗入路線数 = 4 |所属路線1 = {{color|green|■}}[[東北新幹線]] |前の駅1 = [[郡山駅 (福島県)|郡山]] |駅間A1 = 46.1 |駅間B1 = 34.0 |次の駅1 = [[白石蔵王駅|白石蔵王]] |キロ程1 = 272.8 |起点駅1 = [[東京駅|東京]] |所属路線2 = {{Color|#ee7b28|■}}[[山形新幹線]] |隣の駅2 = |前の駅2 = {{Refnest|group="*"|全列車が東北新幹線に直通。}}(郡山) |駅間A2 = - |駅間B2 = 40.1 |次の駅2 = [[米沢駅|米沢]] |キロ程2 = 0.0 |起点駅2 = 福島 |所属路線3 = {{Color|mediumseagreen|■}}[[東北本線]] |前の駅3 = [[南福島駅|南福島]] |駅間A3 = 3.4 |駅間B3 = 6.0 |次の駅3 = [[東福島駅|東福島]] |キロ程3 = 272.8 |起点駅3 = [[東京駅|東京]] |所属路線4 = {{Color|#ee7b28|■}}[[奥羽本線]]([[山形線]]) |前の駅4 = |駅間A4 = |駅間B4 = 3.8 |次の駅4 = [[笹木野駅|笹木野]] |キロ程4 = 0.0 |起点駅4 = 福島 |備考 = {{Plainlist| * [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]]) * [[みどりの窓口]] 有}} |備考全幅 = {{Reflist|group="*"}} }} 在来線は[[地上駅]]([[橋上駅]])、新幹線は[[高架駅]]である。[[改札|改札口]]は4か所にある。在来線側の駅正面(改札1階)にあたる東口と、新幹線側(改札2階)にあたる西口、及び[[エスパル|S-PAL]]福島店の2階から東西連絡通路へ出入りできる「エスパル改札口」、在来線1番線ホーム北側から福島交通・阿武隈急行改札口へ行ける「連絡改札口」がある。なお、新幹線コンコースには、2014年3月1日より、再生可能エネルギー情報館が設置されている<ref group="報道" name="press/2014/02/fukushimaeki" />。 2014年9月26日に、JR東日本が同年10月より当駅の駅舎改築と「エコステ」の導入工事に着手することを発表した<ref group="報道" name="press/2014/09/ecosute" />。駅舎は2015年3月20日<ref group="報道" name="press/2015/03/opening_ceremony" />、「エコステ」は同年4月5日にオープンしている<ref group="報道" name="press/2015/03/ecosute" />。 事務管コードは▲231017を使用している。 福島統括センター所在駅。[[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[駅長]]・輸送[[助役 (鉄道)|副長]]・営業副長配置)である。[[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]]として東北本線の[[杉田駅 (福島県)|杉田駅]] - [[貝田駅]]間の各駅および奥羽本線の[[笹木野駅]] - [[庭坂駅]]間の各駅を管理している。 ==== 在来線ホーム ==== : [[単式ホーム]]1面1線(1番線)・[[島式ホーム]]1面2線(2・3番線)・[[切欠きホーム]]1面3線(4・5・6番線)の計3面6線で構成される。 1 - 4番線を狭軌の東北本線が、5・6番線を標準軌の山形線がそれぞれ使用する。1番線と2番線の間に中線があり、ダイヤ乱れ時に貨物列車の待避などに使用されることがある。狭軌の1 - 4番線は上下両方面の列車の発着が可能な配線になっている。 : 6番線は5番線の山形方を切り欠いたホームで[[有効長]]が2両分しかないため、「[[つばさ (列車)|つばさ]]」の地平ホーム入線は5番線に限られる。また、例年11月初旬から約1か月間、落ち葉による車輪空転による運行障害解消のために一部列車が4両編成による運転が行われるが、同じく5番線にしか入線できないため、その期間は一部列車の発着番線が変更となる。 : 山形線の線路は、後述の配線図のとおり、笹木野方から見て第一場内信号 - 第二場内信号の間は実質単線となる。 ===== のりば ===== <!--方面表記は、JR東日本の駅の情報の「時刻表」の記載に基づく--> {|class="wikitable" !番線!!路線!!方向!!行先 |- !rowspan="2"|1 - 4 |rowspan="2"|{{Color|mediumseagreen|■}}東北本線 | style="text-align:center" | 下り |[[白石駅 (宮城県)|白石]]・[[仙台駅|仙台]]方面<ref name="timetable/list1352">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast-timetable.jp/timetable/list1352.html|title=時刻表 福島駅|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-08-06}}</ref> |- | style="text-align:center" | 上り |[[郡山駅 (福島県)|郡山]]・[[黒磯駅|黒磯]]方面<ref name="timetable/list1352" /> |- !6・5 |{{Color|#ee7b28|■}}山形線 | style="text-align:center" | 下り |[[山形駅|山形]]・[[新庄駅|新庄]]方面<ref name="timetable/list1352" /> |} * 在来線ホームにはかつて[[KIOSK]]や立ち食いそば屋があったが、2023年現在は、飲料や軽食の自動販売機のみが設置されている。 <gallery widths="200" style="font-size:90%;"> JR East Fukushima Station JR Line Platform 1.jpg|在来線1番線ホーム(2022年5月) JR East Fukushima Station JR Line Platform 2・3.jpg|在来線2・3番線ホーム(2022年5月) JR East Fukushima Station JR Line Platform 4・5.jpg|在来線4・5番線ホーム(2022年5月) JR East Fukushima Station JR Line Platform 6.jpg|在来線6番線ホーム(2022年5月) </gallery> ==== 新幹線ホーム ==== : 島式ホーム2面4線を有する。ホーム間に上下通過線2線を挟んでおり、320 km/h通過が可能である。 : 奥羽本線とのアプローチ線が下り[[停車場#線名|副本線]](待避線)から単線で分岐するという構造の関係上、山形新幹線「[[つばさ (列車)|つばさ]]」の発着は上下線とも原則として14番線に限られる(山形新幹線区間のみの臨時列車には在来線ホームの5番線発着となるものがある)。このため、「つばさ」との連結を行う上りの「[[やまびこ (列車)|やまびこ]]」は、14番線への進入時と東京方への出発時の2回、下り通過線と[[平面交差]]しなければならない。そのため、当駅は東北新幹線の[[ダイヤグラム|ダイヤ]]上、大きな[[ボトルネック|ネック]]となっており、特に降雪で遅れが生じる冬期間は当駅での[[鉄道事故等報告規則|輸送障害]]が全線に波及するという問題が生じていた<ref group="新聞">{{Cite news |和書 |url= https://newswitch.jp/p/16379 |title=東北新幹線のスピード向上へ、「福島駅」の改良が欠かせない理由 |website=ニュースイッチ |publisher=[[日刊工業新聞]] |date=2019-02-05 }}</ref>。これを受けてJR東日本では福島駅上り線(11番線・12番線)に接続するアプローチ線の建設可能性を検討。2020年3月3日にアプローチ線の新設計画が正式発表された<ref group="報道" name="press/20200303_ho01" />。具体的には、奥羽本線から分岐して東北新幹線の高架をくぐる760&nbsp;mの地平区間を新設、そこから540&nbsp;mの高架を新設して、東北新幹線上り線にとりつく構造とした。これが完成すると、「やまびこ」の平面交差が解消され、「つばさ」が上下同時に発着できるようになるという。2021年4月に着工し<ref group="新聞">{{Cite news |和書 |url= https://www.minpo.jp/news/moredetail/2021030284093 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20210302000033/https://www.minpo.jp/news/moredetail/2021030284093 |title=福島駅の「アプローチ線」 4月新設工事着手 |newspaper=福島民報 |date=2021-03-02 |accessdate=2021-03-02 |archivedate=2021-03-02 }}</ref>、2026年度末の完成を予定している<ref group="報道" name="press/20200303_ho01" />。 : 東京方面行きの列車は12番線と14番線の両方から発車するため、改札内[[コンコース]]の[[発車標|電光掲示板]]には左右を示す矢印が付いている。 : 12 - 14番線には[[発光ダイオード|LED]]式乗車口案内表示機が設置されている。 ===== のりば ===== <!--方面表記は、JR東日本の駅の情報の「駅構内図」の記載に基づく--> {|class="wikitable" !番線!!路線!!方向!!行先 !備考 |- ! 11 | colspan="3" | (予備ホーム) | |- ! 12 | rowspan="4" |[[File:Shinkansen jre.svg|15px|■]] 東北新幹線 | style="text-align:center" | 上り |[[宇都宮駅|宇都宮]]・[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]・[[東京駅|東京]]方面 | |- ! 13 | rowspan="2" style="text-align:center" | 下り | rowspan="2" |[[仙台駅|仙台]]・[[盛岡駅|盛岡]]方面 |「つばさ」を連結しない「やまびこ」 |- !rowspan="3"| 14 |「つばさ」と切り離しを行う「やまびこ」 |- |上り |[[宇都宮駅|宇都宮]]・[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]・[[東京駅|東京]]方面 |「つばさ」と連結を行う「やまびこ」 |- |[[File:Shinkansen jre.svg|15px|■]] 山形新幹線 | style="text-align:center" | 下り |[[山形駅|山形]]・[[新庄駅|新庄]]方面 | |} (出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/1352.html JR東日本:駅構内図]) * 2022年4月現在で11番線を発着する定期列車はなく、回送列車などの発着に使われている。また、何らかの事情で当駅以遠が不通となった場合に列車の折り返しに使用される。 * 当駅の[[発車メロディ]]は、在来線ホームは「[[高原列車は行く]]」([[岡本敦郎]])、新幹線ホームは「[[栄冠は君に輝く]]」([[伊藤久男]]・コロムビア男声合唱団)が使用されている。これらは、福島市出身である[[古関裕而]]の生誕100年を記念して福島青年会議所が企画し、[[2009年]][[4月11日]]から使用されているものである<ref group="新聞" name="news20090412"/><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.fukushimakita-rc.gr.jp/kaiho/091013/091013.htm|title=福島北ロータリークラブ会報|chapter=No.2273 第14回例会|publisher=福島北ロータリークラブ|date=2009-10-13|accessdate=2023-04-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140709105608/http://www.fukushimakita-rc.gr.jp/kaiho/091013/091013.htm|archivedate=2014-07-09}}</ref>。 * 14番ホーム上で[[増解結|連結・解結]]を行う「つばさ」と「やまびこ」の中には、その作業と共に、当駅を通過する「はやぶさ・こまち」の[[待避駅|待避]]を兼ねている列車がある。 * 新幹線ホームにはかつてKIOSKがあったが、2023年現在は、飲料の自動販売機のみが設置されている。 * 新幹線上りホームと奥羽本線を結ぶアプローチ線増設工事のため2023年に11番線ホームに車止めを設置した。 <gallery widths="200" style="font-size:90%;"> JR East Fukushima Station Shinkansen Platform 11・12.jpg|新幹線11・12番線ホーム(2022年5月) JR East Fukushima Station Shinkansen Platform 13・14.jpg|新幹線13・14番線ホーム(2022年5月) 福島駅新幹線11番ホーム202302.jpg|新幹線11番線ホーム(2023年2月) </gallery> ==== 標準軌配線図 ==== <div class="NavFrame" style="background-color:#fff; border:solid 1px #080; text-align:left; float:left; width:800px;"> <div class="NavHead" style="background-color:#fff; text-align:left;"> <small> ※福島駅(標準軌)鉄道配線略図(表示巾800px、画像幅600px)を表示するには、右の [表示] をクリックして下さい。</small> </div> <div class="NavContent"> {{駅配線図|image=Rail_Tracks_map_JR-E_Fukushima_Station_standard.svg |title=JR東日本 福島駅(標準軌)鉄道配線略図 |width=600px |up=[[米沢駅|米沢]]・[[山形駅|山形]]・<br />[[新庄駅|新庄]] 方面|up-align=right|left=[[宇都宮駅|宇都宮]]・[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]<br />・[[上野駅|上野]]・[[東京駅|東京]]<br />方面|left-valign=middle |right=[[仙台駅|仙台]]・[[盛岡駅|盛岡]]・<br />[[八戸駅|八戸]]・[[新青森駅|新青森]]<br />方面|right-valign=middle |down=|down-align=|source=祖田圭介、「特集:新在直通・ミニ新幹線 ~山形・秋田新幹線の配線を探る~」、『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』 第47巻 第9号 (通巻第557号)2007年9月号、<br />[[交友社]]、2007年、37頁、「図2 福島駅の配線略図」。 |note=<small>※ 隣接する東北本線等の狭軌線(軌間1,067mm)の配線は、本図では省略した。</small>}} </div> </div> {{-}} ==== 改札口 ==== ===== 東口 ===== * 東口には新幹線専用改札がなく、在来線と共用の乗車券専用の自動改札機を通過し、東西連絡通路を経由して新幹線乗換口を通過する。つまり、福島駅東口で新幹線に乗降する場合には2度改札を通ることになる。出札・改札業務ともにJR東日本東北総合サービスに委託されている。 * [[ホテルメッツチェーン|ホテルメッツ]]福島、[[エスパル|S-PAL]]福島店([[駅ビル]])などがある。 ===== 西口 ===== * 福島市観光案内所、JR東日本福島支店、福島駅西口パワーシティ[[食品館ピボット|ピボット]]などがある。 ===== エスパル改札口 ===== * エスパル改札口には、長らく自動改札機は設置されておらず、簡易Suica改札機が設置されていたが、2011年3月頃から自動改札機が設置された。JR東日本東北総合サービスに委託されている。 * S-PAL福島店2階([[駅ビル]])に直結している。 <gallery widths="200" style="font-size:90%;"> JR East Fukushima Station East Gates.jpg|東口改札口(2022年5月) JR East Fukushima Station Shinkansen West Gates.jpg|新幹線西口改札口(2022年5月) JR East Fukushima Station JR Line West Gates.jpg|在来線西口改札口(2022年5月) JR East Fukushima Station S-PAL Gates.jpg|エスパル改札口(2022年5月) JR East Fukushima Station Shinkansen・JR Line Transfer Gates.jpg|新幹線・在来線乗換改札口(2022年5月) </gallery> === 阿武隈急行・福島交通 === {{駅情報 |駅名 = 阿武隈急行・福島交通 福島駅 |よみがな = ふくしま |ローマ字 = Fukushima |社色 = |文字色 = |画像 = 福島駅 - panoramio (2).jpg |pxl = 300 |画像説明 = 出入口(2011年2月) |所属事業者 = {{Plainlist| * [[阿武隈急行]] * [[福島交通]]}} |所在地 = [[福島県]][[福島市]][[栄町 (福島市)|栄町]]1 |開業年月日= [[1942年]]([[昭和]]17年)[[12月3日]] |駅構造 = [[地上駅]] |ホーム = 1面2線 |座標 = {{Coord|37|45|20.44|N|140|27|36.11|E|region:JP-07_type:railwaystation|name=阿武隈急行・福島交通 福島駅}} |廃止年月日 = |乗降人員 = {{Smaller|(福島交通飯坂線)-2018年-}}<br />4,512人/日<hr />{{Smaller|(阿武隈急行)-2021年-}}<br />2,620 |統計年度 = |乗入路線数 = 2 |所属路線1 = {{Color|deepskyblue|■}}[[阿武隈急行線]] |前の駅1 = |駅間A1 = |駅間B1 = 5.6 |次の駅1 = [[卸町駅 (福島県)|卸町]] |キロ程1 = 0.0 |起点駅1 = 福島 |所属路線2 = {{Color|blue|■}}[[福島交通飯坂線]] |前の駅2 = |駅間A2 = |駅間B2 = 0.6 |次の駅2 = [[曽根田駅|曽根田]] |キロ程2 = 0.0 |起点駅2 = 福島 |備考 = [[共同使用駅]] }} JR1番線の北側に[[頭端式ホーム]]1面2線を持ち、東側を福島交通飯坂線、西側を阿武隈急行線が使用している。改札口は2社で共同で使用されている(入鋏は福交の駅員、集札・精算はそれぞれの駅員が行う)。JRとの[[乗換駅|連絡改札口]]があり、簡易Suica改札機が設置されている。 福島交通飯坂線は[[直流電化]]、阿武隈急行線は[[交流電化]]で、1つのホームで異なる電化方式が見られるのは、当ホームが全国で唯一である。 阿武隈急行線は当駅から[[矢野目信号場]]まで東北本線の複線区間を走るため、JRとの[[直通運転]]が可能な構造となっている。かつて存在した[[郡山駅 (福島県)|郡山]]方面への直通列車は、JR1番線発着であった。 改札外には、福島交通窓口、阿武隈急行窓口、自動券売機(福交2台・阿武隈急行2台)、[[NORUCA]] STATION(ノルカステーション)、トイレがあり、改札内には、簡易Suica改札機(連絡改札口)、自動販売機(飲料・軽食)、[[ガシャポン]]などがある。なお、阿武急は[[無人駅]]と[[槻木駅]]からの乗客向けに、[[企画乗車券]](フリーきっぷなど)は到着時に改札口に申し出ると窓口で購入できるようになっている。 <gallery widths="200" style="font-size:90%;"> FukushimaSt AbukyuIizaka.JPG|ホーム(2006年7月) 福島駅(2006年12月23日) (11).JPG|福島交通・阿武隈急行改札口(2006年12月) FukushimaKotsu moha5114 FukushimaSta 19821211sat.jpg|昭和期の福島交通プラットホーム(1982年12月) </gallery> {{-}} == 駅弁 == かつては、主な駅弁として下記を販売していた<ref>{{Cite book|和書|title=JR時刻表|publisher=[[交通新聞社]]|issue=2017年3月号|year=2017|page=621}}</ref>。 {{Div col||20em}} * 山菜釜めし * 安積のとりめし * 牛肉の味噌焼弁当 * ソースヒレカツ弁当 * 海苔のりべん * おとなの幕の内 * 福島味づくし * 四季の彩 * あつあつ牛めし * ふくのしま豚の醍醐味 {{Div col end}} == 利用状況 == === JR東日本 === [[2022年]]度(令和4年度)の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''13,182人'''である<ref group="JR-P" name="passenger/2022_02" />。また、新幹線の1日平均'''乗車'''人員は'''5,892人'''である<ref group="JRS-P" name="passenger/2022_shinkansen" />。駅利用者数は、福島県内で[[郡山駅 (福島県)|郡山駅]]に次ぐ2位である<ref>{{Cite web|和書|title=トップ10に意外な駅も!?1日平均乗客数 福島県 {{!}} 福島のニュース│TUF (1ページ) |url=https://newsdig.tbs.co.jp/articles/tuf/589913 |website=TUF NEWS |date=2023-07-08 |access-date=2023-09-23 |language=ja}}</ref>。 [[1935年]]度および[[2000年]]度以降の推移は以下の通りである。 {| class="wikitable" style="margin: 1em 0.2em; text-align: center; font-size: 85%;" |- style="background: #ddd;" !colspan="3"|1日平均乗車人員推移 |- !年度 !計 !新幹線 |- |1935年(昭和10年) |1,676<ref>鉄道省・編『改版日本案内記・東北篇』、博文館、1937年、68頁</ref> |&nbsp; |- |2000年(平成12年) |16,396<ref group="JR-P">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2000_01.html|title=各駅の乗車人員(2000年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref> |&nbsp; |- |2001年(平成13年) |16,132<ref group="JR-P">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2001_01.html|title=各駅の乗車人員(2001年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref> |&nbsp; |- |2002年(平成14年) |15,868<ref group="JR-P">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2002_01.html|title=各駅の乗車人員(2002年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref> |&nbsp; |- |2003年(平成15年) |15,504<ref group="JR-P>{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2003_01.html|title=各駅の乗車人員(2003年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref> |&nbsp; |- |2004年(平成16年) |15,262<ref group="JR-P">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2004_01.html|title=各駅の乗車人員(2004年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref> |&nbsp; |- |2005年(平成17年) |15,274<ref group="JR-P">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2005_01.html|title=各駅の乗車人員(2005年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref> |&nbsp; |- |2006年(平成18年) |15,033<ref group="JR-P">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2006_01.html|title=各駅の乗車人員(2006年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref> |&nbsp; |- |2007年(平成19年) |14,983<ref group="JR-P">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2007_01.html|title=各駅の乗車人員(2007年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref> |&nbsp; |- |2008年(平成20年) |14,932<ref group="JR-P">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2008_01.html|title=各駅の乗車人員(2008年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref> |&nbsp; |- |2009年(平成21年) |14,781<ref group="JR-P">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2009_01.html|title=各駅の乗車人員(2009年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref> |&nbsp; |- |2010年(平成22年) |14,161<ref group="JR-P">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2010_01.html|title=各駅の乗車人員(2010年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref> |&nbsp; |- |2011年(平成23年) |14,380<ref group="JR-P">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2011_01.html|title=各駅の乗車人員(2011年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref> |&nbsp; |- |2012年(平成24年) |15,869<ref group="JR-P">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2012_02.html|title=各駅の乗車人員(2012年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref> |7,301<ref group="JRS-P">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2012_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2012年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref> |- |2013年(平成25年) |16,726<ref group="JR-P">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2013_02.html|title=各駅の乗車人員(2013年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref> |7,742<ref group="JRS-P">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2013_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2013年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref> |- |2014年(平成26年) |16,378<ref group="JR-P">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2014_02.html|title=各駅の乗車人員(2014年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref> |7,598<ref group="JRS-P">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2014_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2014年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref> |- |2015年(平成27年) |16,608<ref group="JR-P">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2015_02.html|title=各駅の乗車人員(2015年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref> |7,726<ref group="JRS-P">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2015_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2015年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref> |- |2016年(平成28年) |16,536<ref group="JR-P">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2016_02.html|title=各駅の乗車人員(2016年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref> |7,740<ref group="JRS-P">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2016_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2016年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref> |- |2017年(平成29年) |16,482<ref group="JR-P">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2017_02.html|title=各駅の乗車人員(2017年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2018-07-06}}</ref> |7,739<ref group="JRS-P">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2017_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2017年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref> |- |2018年(平成30年) |16,461<ref group="JR-P">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2018_02.html|title=各駅の乗車人員(2018年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-07-09}}</ref> |7,712<ref group="JRS-P">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2018_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2018年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-07-09}}</ref> |- |2019年(令和元年) |16,219<ref group="JR-P">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2019_02.html|title=各駅の乗車人員(2019年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2020-07-10}}</ref> |7,586<ref group="JRS-P" name="passenger/2019_shinkansen">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2019_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2019年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2020-07-10}}</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |11,017<ref group="JR-P" name="passenger/2020_02">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2020_02.html|title=各駅の乗車人員(2020年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-11}}</ref> |4,557<ref group="JRS-P" name="passenger/2020_shinkansen">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2020_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2020年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-11}}</ref> |- |2021年(令和{{0}}3年) |11,703<ref group="JR-P" name="passenger/2021_02">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2021_02.html|title=各駅の乗車人員(2021年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2022-08-02}}</ref> |4,867<ref group="JRS-P" name="passenger/2021_shinkansen">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2021_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2021年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2022-08-02}}</ref> |- |2022年(令和{{0}}4年) |13,182<ref group="JR-P" name="passenger/2022_02">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2022_02.html|title=各駅の乗車人員(2022年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-07-12}}</ref> |5,892<ref group="JRS-P" name="passenger/2022_shinkansen">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2022_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2022年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-07-12}}</ref> |} === 阿武隈急行・福島交通 === * 阿武隈急行 - 2016年度(平成28年度)の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''4,190人'''である<ref group="阿武隈" name="tokei-2017">{{Cite web|和書|url=http://www.city.fukushima.fukushima.jp/jouhouka-toukei/shise/tokejoho/documents/p10unyutuusinn.pdf|title=10 運輸・通信|format=PDF|page=263|work=[http://www.city.fukushima.fukushima.jp/jouhouka-toukei/shise/tokejoho/tokesho.html 福島市統計書]|publisher=福島市|year=2017|accessdate=2019-02-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190211154632/http://www.city.fukushima.fukushima.jp/jouhouka-toukei/shise/tokejoho/documents/p10unyutuusinn.pdf|archivedate=2019-02-12}}</ref>。 * 福島交通飯坂線 - 2010年度(平成22年度)の1日平均'''乗車'''人員は'''2,200人'''である<ref group="福島交通">{{Cite web|和書|url=https://www.city.fukushima.fukushima.jp/uploaded/attachment/9025.pdf |title=福島市公共交通活性化基本計画 |access-date=2023-09-25 |publisher=福島市 |archive-date=2012-08-20 |archive-url=https://web.archive.org/web/20120820041219/https://www.city.fukushima.fukushima.jp/uploaded/attachment/9025.pdf |url-status=unfit |deadlinkdate=2023-09-25 |year=2012 |month=3 |format=PDF |page=22}}</ref>。 2002年度(平成14年度)以降の推移は以下の通りである。 {| class="wikitable" style="margin: 1em 0.2em; text-align: center; font-size: 85%;" |- style="background: #ddd;" !colspan="3"|1日平均乗降人員推移 |- !年度 !阿武隈急行 !福島交通<ref name="statistics">[https://umap.openstreetmap.fr/ja/map/map_205730#13/37.7976/140.4523 国土数値情報(駅別乗降客数データ)2011-2015年 ] - 国土交通省、[https://opendata-web.site/station 国土数値情報(駅別乗降客数データ)2018年 ] - 国土交通省 、2019年9月3日閲覧</ref> |- |2002年(平成14年) |4,445<ref group="阿武隈" name="tokei-2007">{{Cite web|和書|url=http://www.city.fukushima.fukushima.jp/jouhouka-toukei/shise/tokejoho/documents/19364.pdf|title=10 運輸・通信|format=PDF|page=267|work=[http://www.city.fukushima.fukushima.jp/jouhouka-toukei/shise/tokejoho/tokesho.html 福島市統計書]|publisher=福島市|year=2007|accessdate=2019-02-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190211155734/http://www.city.fukushima.fukushima.jp/jouhouka-toukei/shise/tokejoho/documents/19364.pdf|archivedate=2019-02-12}}</ref> |&nbsp; |- |2003年(平成15年) |4,250<ref group="阿武隈" name="tokei-2007" /> |&nbsp; |- |2004年(平成16年) |4,181<ref group="阿武隈" name="tokei-2007" /> |&nbsp; |- |2005年(平成17年) |4,207<ref group="阿武隈" name="tokei-2007" /> |&nbsp; |- |2006年(平成18年) |4,165<ref group="阿武隈" name="tokei-2007" /> |&nbsp; |- |2007年(平成19年) |4,223<ref group="阿武隈" name="tokei-2012">{{Cite web|和書|url=http://www.city.fukushima.fukushima.jp/jouhouka-toukei/shise/tokejoho/documents/20102.pdf|title=10 運輸・通信|format=PDF|page=267|work=[http://www.city.fukushima.fukushima.jp/jouhouka-toukei/shise/tokejoho/tokesho.html 福島市統計書]|publisher=福島市|year=2012|accessdate=2019-02-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190211155209/http://www.city.fukushima.fukushima.jp/jouhouka-toukei/shise/tokejoho/documents/20102.pdf|archivedate=2019-02-12}}</ref> |&nbsp; |- |2008年(平成20年) |4,260<ref group="阿武隈" name="tokei-2012" /> |&nbsp; |- |2009年(平成21年) |4,152<ref group="阿武隈" name="tokei-2012" /> |&nbsp; |- |2010年(平成22年) |4,248<ref group="阿武隈" name="tokei-2012" /> |&nbsp; |- |2011年(平成23年) |3,585<ref group="阿武隈" name="tokei-2012" /> |3,832 |- |2012年(平成24年) |4,173<ref group="阿武隈" name="tokei-2017" /> |4,100 |- |2013年(平成25年) |4,310<ref group="阿武隈" name="tokei-2017" /> |4,148 |- |2014年(平成26年) |4,335<ref group="阿武隈" name="tokei-2017" /> |&nbsp; |- |2015年(平成27年) |4,316<ref group="阿武隈" name="tokei-2017" /> |4,506 |- |2016年(平成28年) |4,190<ref group="阿武隈" name="tokei-2017">{{Cite web|和書|url=http://www.city.fukushima.fukushima.jp/jouhouka-toukei/shise/tokejoho/documents/p10unyutuusinn.pdf|title=10 運輸・通信|format=PDF|page=263|work=[http://www.city.fukushima.fukushima.jp/jouhouka-toukei/shise/tokejoho/tokesho.html 福島市統計書]|publisher=福島市|year=2017|accessdate=2019-02-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190211154632/http://www.city.fukushima.fukushima.jp/jouhouka-toukei/shise/tokejoho/documents/p10unyutuusinn.pdf|archivedate=2019-02-12}}</ref> |4,781<ref name="名前なし-1">[https://nlftp.mlit.go.jp/ksj/gml/datalist/KsjTmplt-S12-v2_6.html 国土数値情報(駅別乗降客数データ) ] - 国土交通省、2020年9月12日閲覧</ref> |- |2017年(平成29年) |4,068<ref group="阿武隈" name="tokei-2022" /> |4,559<ref name="名前なし-1"/> |- |2018年(平成30年) |4,044<ref group="阿武隈" name="tokei-2022" /> |4,512<ref name="名前なし-1"/> |- |2019年(令和元年) |3,764<ref group="阿武隈" name="tokei-2022" /> |&nbsp; |- |2020年(令和{{0}}2年) |2,602<ref group="阿武隈" name="tokei-2022" /> |&nbsp; |- |2021年(令和{{0}}3年) |2,620<ref group="阿武隈" name="tokei-2022">{{Cite web|和書|url=https://www.city.fukushima.fukushima.jp/seichou-toukei/shise/tokejoho/documents/10unyutuushin.pdf|title=10 運輸・通信|format=PDF|page=261|work=[https://www.city.fukushima.fukushima.jp/seichou-toukei/shise/tokejoho/tokesho.html 福島市統計書]|publisher=福島市|date=2023-03|accessdate=2023-05-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230530132255/https://www.city.fukushima.fukushima.jp/seichou-toukei/shise/tokejoho/documents/10unyutuushin.pdf|archivedate=2023-05-30}}</ref> |&nbsp; |} == 駅周辺 == 東口は官庁、金融機関、商業施設や宿泊施設などが建ち並ぶ昔からの繁華街である。しかし、駅周辺の商業ビルや商店街では空き店舗が目立ち、中心市街地の[[空洞化]]が顕著である。ここ数年は地価の下落などによって高層マンションの建設が盛んである。 西口は[[東北新幹線]]が開通してから開設され開発が行われた地区である。昭和50年代後半ぐらいまで、[[昭栄|昭栄製糸]](現在のイトーヨーカドー福島店)や[[協三工業]]などの工場が現在の西口駅前に立地していた。2000年代以降高層マンションやビジネスホテルなどがいくつか建設された。 東口から西口(西口から東口)へ直接移動したい場合は、駅構内の地下を通る「東西自由通路」を利用する{{R|交通81|group="新聞"}}。東西連絡通路(構内跨線橋)は改札内であるため[[入場券]]が必要となる。 === 東口 === ; 商業施設 * [[いちい]]街なか店(旧[[中合]]福島店) - 2022年2月28日閉店<ref group="新聞">{{Cite news|和書|url=https://www.minyu-net.com/news/news/FM20220301-688360.php|title=『いちい街なか店』閉店 福島・交流館、最終日には多くの市民|newspaper=福島民友|publisher=福島民友新聞|date=2022-03-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220321213935/https://www.minyu-net.com/news/news/FM20220301-688360.php|archivedate=2022-03-21}}</ref> * 福島東口駅前 アックス([[AXC]]) * [[曽根田ショッピングセンター]](愛称・MAXふくしま) ** [[ダイユーエイト]]MAX福島店・[[イオンエンターテイメント|イオンシネマ福島]]など、複数のテナントが入居するショッピングセンター。旧[[さくら野百貨店]]福島店。 ; 宿泊施設 {{columns-list|2| * グリーンホテル福島館 * ザ・ホテル大亀 * 福島リッチホテル * [[JR東日本ホテルメッツ|ホテルメッツ]]福島 - 2021年2月17日より、駅ナカシェアオフィス「STATION WORK」が利用可能(事前予約制)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.stationwork.jp/user/notices-before|title=お知らせ一覧 > 2/17(水)ホテルの利用可能施設が拡大します!|publisher=STATION WORK|date=2021-02-16|accessdate=2021-02-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210219065849/https://www.stationwork.jp/user/notices-before|archivedate=2021-02-19}}</ref><ref group="報道" name="press/20210208_ho04">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20210208_ho04.pdf|title=STATION WORKは2020年度100カ所ネットワークへ ~東日本エリア全域へ一挙拡大。ホテルワーク・ジムワークなどの新たなワークスタイルを提案します~|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2021-02-08|accessdate=2021-02-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210208053136/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20210208_ho04.pdf|archivedate=2021-02-08}}</ref>。 * [[ホテルクラウンヒルズ福島]] * [[東横イン]]福島駅東口I * 東横イン福島駅東口II |}} その他、個人経営や[[チェーンストア]]の[[飲食店]]が駅前に多数立地している。 ; その他 {{columns-list|2| * [[福島警察署 (福島県)|福島警察署]]駅前交番 * [[東北電力]]福島支店 * [[エフエム福島|ふくしまFM]]福島スタジオ・福島営業部 * [[NHK福島放送局]]・[[こむこむ]](同じ敷地内に隣接している) * [[福島コミュニティ放送]](FMPoco) * [[福島県立医科大学]]保健科学部 * [[福島学院大学]] 福島駅前キャンパス * [[尚志高等学校]] 単位制・通信制課程 福島キャンパス * [[チェンバおおまち]] * [[東邦銀行]] ** 福島駅前支店 ** 本店営業部 * [[福島銀行]]本店 * [[福島信用金庫]]駅前支店 * [[みずほ銀行]]福島支店 * [[七十七銀行]]福島支店 * [[きらやか銀行]]福島支店 * [[北日本銀行]]福島支店 * [[秋田銀行]]福島支店 * [[常陽銀行]]福島支店 * [[大東銀行]]福島支店 * [[日本銀行]]福島支店 * [[東北労働金庫]]福島支店 * [[こくみん共済 coop]] 福島推進本部ふくしま店 * 福島警察署 * 福島市立福島第一小学校 * [[福島県庁]] * [[福島テルサ]] * [[福島市役所]] * [[福島中央郵便局]]([[ゆうちょ銀行]]福島店併設) |}} ; 道路・橋 {{columns-list|2| * [[吾妻通り]] * [[パセオ470]] * [[レンガ通り]] * [[福島県道3号福島飯坂線]](通称飯坂街道) * [[福島県道70号福島吾妻裏磐梯線]](通称高湯街道、スカイライン通り) * [[福島県道310号庭坂福島線]](通称八島田街道、庭坂街道) * [[福島県道373号福島停車場線]](通称駅前通り) * [[国道13号]] * [[あづま陸橋]] * [[西町陸橋]] |}} === 西口 === ; 商業施設 * [[昭栄福島ショッピングセンター|イトーヨーカドー福島店]] * [[ヨークベニマル|ヨークタウン]]野田 ; 宿泊施設 * [[福島ビューホテル]] * [[東横イン]]福島駅西口 * ホテル福島グリーンパレス * [[リッチモンドホテルズ|リッチモンドホテル]]福島駅前 * [[アパホテル]]福島駅前 ; その他 {{columns-list|2| * [[コラッセふくしま]] * [[福島民報社]]本社 <!--・[[ラジオ福島]]本社(同じ福島民報ビル内にある) 2007年まで--> * 福島市立三河台小学校 * 福島市立岳陽中学校 * 東邦銀行 ** 西福島支店 ** ローンプラザ福島支店 * 福島銀行福島西支店 * [[荘内銀行]]福島支店 * [[ジェイアールバス東北福島支店]] |}} ; 道路・橋 * 福島県道70号福島吾妻裏磐梯線(通称高湯街道、スカイライン通り) * [[福島県道126号福島微温湯線]](通称微温湯街道) * あづま陸橋 * 西町陸橋 * [[八木田橋]] == バス路線 == 路線バスは[[福島交通]]が記載されているすべての路線<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fukushima-koutu.co.jp/bus/bus_pool/fukushima/|title=福島交通 - 福島駅前 バス乗り場|accessdate=2018-11-09|website=www.fukushima-koutu.co.jp}}</ref>と、[[ジェイアールバス東北|JRバス東北]]が[[ジェイアールバス東北福島支店#福浪線|福浪線]](福島駅 - 川俣高校前)を運行している。 === 東口 === <!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> <!--福島交通の路線が発着する系統・行先については、出典の福島交通の記載に準拠しています。ただし、経由地については[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載していません。--> {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !ポール<!--福島交通の表記に準拠-->!!運行事業者!!系統・行先!!備考 |- !1 |style="text-align:center;"|JRバス東北 |福浪線:[[福島県立川俣高等学校|川俣高校]]前 |&nbsp; |- !2 |rowspan="8" style="text-align:center;"|福島交通 |{{Unbulleted list|[[掛田駅]]前|保原|[[北福島医療センター]]|湯野|[[信夫山]]循環|宮代団地|田町(伊達)|桑折|藤田|養護スクール}} |養護スクールは平日の朝7時のみ運行 |- !3 |{{Unbulleted list|掛田駅|月の輪台団地|保原|梁川|川俣}} |&nbsp; |- !5 |{{Unbulleted list|松川|[[福島県立医科大学|医大]]|[[飯野町 (福島市)|飯野町]]|[[二本松市|二本松]]|[[蓬萊団地]]}} |&nbsp; |- !6 |{{Unbulleted list|蓬莱団地|南向台循環|飯野|南向台|医大|臨時:[[花見山公園|花見山]](直行)}} |花見山行臨時便は毎年4月に運行<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fukushima-koutu.co.jp/upd/detail.php?update_id=1425&t=3&f=|title=福島交通 - 新着情報 福島駅東口から花見山までの直行臨時バス『花見山号』を運行いたします!(4月1日(日)〜4月22日(日)まで毎日運行)|accessdate=2018-11-09|website=www.fukushima-koutu.co.jp}}</ref> |- !7 |{{Unbulleted list|佐原|[[四季の里]]|[[土湯温泉]]|平田|荒井|鳥川|東浜町|メロディーバス}} |四季の里行は土曜・日曜・祝日のみ運行 |- !8 |{{Unbulleted list|渡利大回り|信夫山循環|庭坂|[[イオン福島店|イオン福島]]|五月乙女団地}} |&nbsp; |- !9 |[[福島交通福島支社#福島市内循環線|市内循環]]ももりん1コース・ももりん2コース |&nbsp; |- !rowspan="8"|10 |南相馬 - 川俣・福島:[[原ノ町駅]] |一般路線バス |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|福島交通|[[宮城交通]]|JRバス東北}} |[[仙台 - 福島線|福島 - 仙台]]:[[仙台駅のバス乗り場|仙台駅前]]方面 |rowspan="4"|昼行高速バス |- |style="text-align:center;"|[[会津乗合自動車]] |[[仙台空港 - 福島 - 会津若松線|仙台空港・福島 - 会津若松]]:[[仙台空港]]方面 / [[会津若松駅]]方面 |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|福島交通|[[新常磐交通]]}} |[[福島 - いわき線|福島 - いわき]]:[[いわき駅]]方面 |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|福島交通|JRバス東北}} |[[あぶくま号|福島・郡山 - 新宿(あぶくま号)]]:[[バスタ新宿]]([[新宿駅]]新南口)方面 |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|福島交通|[[近鉄バス]]}} |[[ギャラクシー号|福島 - 京都・大阪(ギャラクシー号)]]:[[京都駅]]八条口・[[天王寺駅・大阪阿部野橋駅バスのりば#あべの橋バスステーション|大阪あべの橋]]方面 |rowspan="3"|夜行高速バス |- |style="text-align:center;"|JRバス東北 |[[ドリームふくしま・東京号]]:[[東京駅のバス乗り場|東京駅]]・[[東京ディズニーランド]]方面 |- |style="text-align:center;"|[[東北急行バス]] |[[レインボー号 (東北急行バス)|レインボー号]]:[[浅草駅]]・[[上野駅]]・東京駅方面 |- !11 |rowspan="2" style="text-align:center;"|福島交通 |{{Unbulleted list|観光路線バス(喜多方方面)|吾妻スカイライン観光路線バス(浄土平循環)}} |春 - 秋に運行 |- !12 |{{Unbulleted list|中野|北沢又|荒古屋|大笹生|志田|庭坂|森合団地}} |中野行は平日のみ運行 |} === 西口 === <!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> <!--福島交通の路線が発着する系統・行先については、出典の福島交通の記載に準拠しています。ただし、経由地については[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載していません。--> {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !ポール<!--福島交通の表記に準拠-->!!運行事業者!!系統・行先!!備考 |- !21 |rowspan="2" style="text-align:center;"|福島交通 |{{Unbulleted list|上姥堂|土船|高湯温泉}} |&nbsp; |- !22 |{{Unbulleted list|[[大原綜合病院]]|庭坂|福島市役所前}} |福島市役所前行は平日のみ運行 |- !rowspan="2"|23 |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|福島交通|[[千葉交通]]}} |福島・郡山 - 成田空港:[[成田国際空港|成田空港]] / 郡山駅前 |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|福島交通 |{{Unbulleted list|箕輪スキー場・箕輪ホテル前<ref>[http://www.fukushima-koutu.co.jp/upd/attache/files/bus/20131115%20minowaski.pdf 郡山〜裏磐梯線(スキーシーズン)を運行いたします。(12月1日より)]</ref>|観光路線バス(喜多方方面)|吾妻スカイライン観光路線バス(浄土平循環)}} |{{Unbulleted list|箕輪スキー場・箕輪ホテル前行は毎年、冬季に運行|観光路線バスは春 - 秋に運行}} |- !rowspan="2"|24 |style="text-align:center;"|[[桜交通]] |[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]西口・バスタ新宿・[[東京駅のバス乗り場|東京駅鍛冶橋駐車場]]・[[二俣新町駅|二俣新町]]方面 |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|[[東北アクセス]]<ref>{{Cite web|和書|date= |url= http://touhoku-access.com/regular/fukushimaline.html|title= <nowiki>[福島線]</nowiki>南相馬⇔福島駅西口|publisher= 東北アクセス|format= |accessdate= 2013-06-06}}</ref> |[[南相馬市]] |&nbsp; |- !rowspan="2"|東邦銀行ローンプラザ福島支店裏 |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|[[WILLER EXPRESS|WILLER EXPRESS関東]]|WILLER EXPRESS東北}} |バスタ新宿・[[大崎駅]]西口・東京駅鍛冶橋駐車場 |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|WILLER EXPRESS東北 |[[サンシャインシティ|池袋サンシャインバスターミナル]]・[[東京ディズニーランド|TDL]] |&nbsp; |} [[福島県あづま総合運動公園|あづま総合運動公園]]内でイベントが行われる場合に臨時バス乗り場が西口に設けられる。 == 東日本大震災による当駅の影響 == 2011年(平成23年)3月11日に発生した[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])によって、福島駅は大きな被害を受けた。各路線も地震発生直後から運転を中止した。 * 東北新幹線は4月12日に那須塩原駅 - 当駅まで運転再開<ref name="tohoku-rail-revival-2012-9-2-1">『第2編 各鉄道の被害と復旧 1章 JR東日本(新幹線)』 よみがえれ! みちのくの鉄道 ~東日本大震災からの復興の軌跡~ (東北の鉄道震災復興誌編集委員会 (事務局:[[国土交通省]]東北運輸局 鉄道部)) (2012年9月)</ref>。4月25日に仙台駅までの運転が再開された<ref name="tohoku-rail-revival-2012-9-2-1" />。4月12日から24日まで、当駅 - 仙台駅を東北本線で結ぶ快速[[新幹線リレー号]]が運転された<ref name="tohoku-rail-revival-2012-9-2-1" />。 * 山形新幹線は3月31日に当駅 - 新庄駅まで運転再開。在来線ホームから発着していた。4月7日に発生した[[宮城県沖地震 (2011年)|東北地方太平洋沖地震の余震]]により再び全線運休したが、4月11日に全線運転再開した。翌4月12日には東北新幹線との乗り入れを再開した<ref name="tohoku-rail-revival-2012-9-2-1" />(E3系単独編成での運転)。4月25日に東北新幹線内の併結運転が再開された。 * 東北本線は、4月4日に本宮駅 - 当駅間、4月16日に当駅 - 岩沼駅まで運転再開した<ref name="tohoku-rail-revival-2012-9-2-2">『第2編 各鉄道の被害と復旧 2章 JR東日本(在来線)』 よみがえれ! みちのくの鉄道 ~東日本大震災からの復興の軌跡~ (東北の鉄道震災復興誌編集委員会 (事務局:[[国土交通省]]東北運輸局 鉄道部)) (2012年9月)</ref>。しかし、4月7日に発生した東北地方太平洋沖地震の余震により黒磯駅 - 盛岡駅間が運休。4月10日に本宮駅 - 当駅間、4月12日に当駅 - 仙台駅間が運転再開し、4月21日に全線運転再開した<ref name="tohoku-rail-revival-2012-9-2-2" />。 * 奥羽本線(山形線)は、3月31日に全線運転再開した<ref name="tohoku-rail-revival-2012-9-2-2" />。4月7日に発生した余震により再び運休したが、4月11日に全線運転再開した<ref name="tohoku-rail-revival-2012-9-2-2" />。 * 阿武隈急行線は、4月28日に当駅 - 瀬上駅間で運転再開し、5月16日に全線運転再開した<ref name="tohoku-rail-revival-2012-9-2-6" />。 * 福島交通飯坂線は、3月13日に全線運転再開した<ref name="tohoku-rail-revival-2012-9-2-8" />。 == その他 == [[ファイル:Fukushima Station West Entrance Monument.jpg|thumb|西口駅前モニュメント(2010年)]] 生誕100年を記念し、「古関裕而生誕100年記念モニュメント」が、2009年8月11日(8月11日は古関の誕生日である)、東口駅前広場に設置された<ref name="毎日2009-0812" group="新聞">{{Cite news|和書|author=今村茜|title=古関裕而:生誕100年記念し地元にモニュメント JR福島駅で除幕|newspaper=[[毎日新聞]]|publisher=[[毎日新聞社]]|date=2009-08-12 |edition=地方版/福島|page=22}}</ref>。このモニュメントは、古関が愛用していた[[ハモンドオルガン]]を演奏する姿を再現したもので、午前8時から午後8時までの1時間おきにメロディーが流れる{{R|group="新聞"|毎日2009-0812}}。同日、1982年に設置された西口にある駅前モニュメントからも古関メロディーが流れるようになった<ref group="新聞">{{Cite news|和書|title=モニュメント除幕 ♪ー生誕100年の日ー♪ JR福島駅 県都玄関口に古関メロディー|newspaper=[[福島民報]]|date=2009-08-12|publisher=福島民報社|page=3}}</ref>。 === 交直接続 === 奥羽本線の当駅 - 米沢間には、最大勾配38‰の[[板谷峠]]が存在するため、太平洋戦争後の[[1949年]]には[[直流電化]]されていた。しかしその後、黒磯以北は[[交流電化]]を採用することになり、[[1959年]]12月の白河 - 当駅間交流電化に際して、当駅構内での奥羽本線との交直接続が問題となった。[[黒磯駅]]に比して広大な構内と複雑な配線を持つ当駅では、車上切替え方式がまだ実用化されていなかったこともあり、駅構内への地上切替え設備の設置は断念された。構内は全て交流電化とし、奥羽本線上の800m庭坂寄りの福島第二機関区付近に地上式の交直切換設備・中川切換所を設け、ここで機関車交換を行うこととした<ref>杉田 肇「奥羽線四半世紀-電気機関車の変遷」、『鉄道ピクトリアル』、電気車研究会、1976年1月。</ref>。なお中川切換所の設置にあたっては、従前に直流機用機関庫の南側に沿って敷設されていた本線を北側に移設のうえ、その北側に交流機用機関庫を新設した。 [[1968年]]([[昭和]]43年)10月に実施されたダイヤ改正([[ヨンサントオ]])によって当駅 - 米沢間が交流電化に転換されたのにともない、この交直接続設備は役目を終えた。 == 隣の駅 == :※山形新幹線の隣の駅の停車駅は列車記事もしくは[[山形新幹線]]を参照のこと。<!--東北新幹線のうち大宮駅 - 仙台駅間で全列車が通過する駅が存在、ならびに山形新幹線内はアプローチ線を除きすべて奥羽本線(山形線)と線路を共用していることから、両隣の停車駅および通過はするものの記載はなしでお願いします。列車の記事ならびに路線の記事へのリンクのみにしてください--> ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) : [[File:Shinkansen jre.svg|15px|■]] 東北新幹線 :: [[郡山駅 (福島県)|郡山駅]] - '''福島駅''' - [[白石蔵王駅]] : {{Color|mediumseagreen|■}}東北本線 :: [[南福島駅]] - '''福島駅''' - ([[矢野目信号場]]) - [[東福島駅]] : {{Color|#ee7b28|■}}山形線(奥羽本線) :: '''福島駅''' - [[笹木野駅]] ; 阿武隈急行 : {{Color|deepskyblue|■}}阿武隈急行線 :: '''福島駅''' - (矢野目信号場) - [[卸町駅 (福島県)|卸町駅]] ; 福島交通 : {{Color|blue|■}}飯坂線 :: '''福島駅''' - [[曽根田駅]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === ==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注釈"}} ==== 出典 ==== {{Reflist|2}} ==== 報道発表資料 ==== {{Reflist|group="報道"|2}} ==== 新聞記事 ==== {{Reflist|group="新聞"|2}} === 利用状況 === ==== JR東日本 ==== {{Reflist|group="JR-P"|3}} ; 新幹線 {{Reflist|group="JRS-P"|3}} ==== 阿武隈急行 ==== {{Reflist|group="阿武隈"}} ==== 福島交通 ==== {{Reflist|group="福島交通"}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|editor=石野哲|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|date=1998-10-01|edition=初版|ref=停車場|isbn=978-4-533-02980-6}} == 関連項目 == {{commonscat}} * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[福島総合運輸区]] == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=1352|name=福島}} * [https://ii-den.jp/ 福島交通 飯坂電車] * [https://www.s-pal.jp/fukushima/ S-PAL 福島店] {{鉄道路線ヘッダー}} {{東北新幹線}} {{山形新幹線}} {{東北本線}} {{山形線}} {{阿武隈急行線}} {{福島交通飯坂線}} {{鉄道路線フッター}} {{東北の駅百選}} {{DEFAULTSORT:ふくしまえき}} 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宇宙科学研究所
宇宙科学研究所(うちゅうかがくけんきゅうしょ、英文名称:Institute of Space and Astronautical Science, 略称:ISAS(アイサス))は、日本の宇宙科学の研究をおもに行う機関で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)の一部である。科学研究にとどまらず、宇宙開発(日本の宇宙開発も参照)にも広く関与している。 前身の東京大学宇宙航空研究所(1964年設立)が1981年に改組し、旧文部省の国立機関として発足。2003年10月、宇宙開発事業団(NASDA)・航空宇宙技術研究所(航技研、NAL)と統合されJAXAの一機関となった当初は「宇宙科学研究本部」とされたが、2010年4月1日に元来の名称である「宇宙科学研究所」に改名・改組した。統合後の「研究本部」時代には、研究機関を指して、「相模原キャンパス」の名で呼ばれることがあった。 NASDA系ロケットの「種子島」に対して、「内之浦」こと鹿児島県肝付町の内之浦宇宙空間観測所からのロケット打ち上げでも知られる。 ここでは、1955年の航空技術研究所(のちの航空宇宙技術研究所)の設置のころまでを前史とする。 列強に遅れながらも、ロケットを含むジェット推進の研究は日本でも行われ、数種の「噴進砲」が実用化され、試験飛行ではあったが「秋水」という例もあった。しかし、宇宙空間を目指したロケット開発は「日本宇宙開発の父」糸川英夫から始まる。 糸川は中島飛行機で軽、あるいは重戦闘機の設計に関与したが、その後、制約を避けて1941年に東京帝国大学第二工学部(現・東京大学生産技術研究所)に移籍した。そして戦後はしばらく各種の研究(振動現象や、中には脳波などといったものもある)を行っていた。宇宙・航空に目をつけたのは、1950年代前半の渡米のころとされる。1954年に東京大学生産技術研究所内にAVSA(Avionics and Supersonic Aerodynamics:アビオニクスおよび超音速空気力学)研究班を組織した。翌1955年にいわゆるスペースプレーンのような構想を示し、「ロケット旅客機」「20分で太平洋横断」といった見出しの新聞記事となったが、その写真の「試作ロケット」の実現可能性などはよく分からず、真の意図は掴みかねる点が多い。同年には、AVSA研究班をSR研究班に改名したほか、富士精密工業(のちのプリンス自動車工業、日産自動車宇宙航空事業部)らの尽力により、生産技術研究所が借り受けた国分寺の実験場(近年、正確な位置を確かめるための調査が進んでいる)において、ペンシルロケットの水平発射試験を行い各種のデータを採取したが、これがいわゆる「宇宙研ロケット」の祖である。 そのころ、日本の航空開発も、1952年(昭和27年)の独立を経て、1957年の完全解禁を見越して後のYS-11の構想が立ち上がり始めており、科学技術庁は、製造を行う「日本航空機製造」と並列して、技術研究を行う「航空技術研究所(NAL)」を1955年に発足させた。 NALの発足により、航空関係の技術研究(のうち、特に旅客機などの実開発に関与する部分)がそちらで行われることになることから、文部省・東大生産技術研究所で行う研究は、すでに実績のあった固体燃料ロケット(観測ロケット向きでもあった)や、いわゆる「科学衛星」を指向するという方向付けがなされた。 東大生産技術研究所は、その後多数の発展型ロケットを開発、1960年には本格的な衛星打ち上げの能力を持つミューロケットの構想を持つまでになった。 1964年に東大生産技術研究所の一部と東大航空研究所が合併し、駒場に移転して東京大学宇宙航空研究所が発足した。また同年には科学技術庁内に、現JAXAの前身の3組織目、のちの宇宙開発事業団(NASDA)の前身となる宇宙開発推進本部が設立された。これにより日本の宇宙開発は、固体燃料を使用して科学衛星を打ち上げる東大・ISAS(文部省)の系列と、液体燃料を使用して実用衛星の打ち上げを目指すNASDA(科学技術庁)の系列の2つが並行して進んでいくことになる。 1969年に宇宙開発事業団(NASDA)が発足した際に、東京大学および日産自動車における固体燃料ロケットの開発は中止に追い込まれそうになった。原因は、固体燃料ロケットには兵器への転用のおそれがあるにもかかわらず、輸出先を確認していなかったことによる(カッパロケット参照)。しかし、実用衛星ではない科学研究のためだけの衛星のみを打ち上げることを条件に研究の続行が許可された。 また、1969年は学生運動が高まりを見せた年でもあり、研究所に出入りする学生や職員らも少なからず関与することとなった。 同年10月21日に行われた国際反戦デーのデモでは街頭で多数の火炎瓶が使用されたが、後に、これら武器の一部が研究所の薬品や部品を用いて、所内で製造されていたことが明らかになり、同年11月8日には警視庁が研究所の家宅捜索を実施。職員5人が逮捕、起訴されている。 1970年、東京大学宇宙航空研究所は鹿児島県内之浦の射場から人工衛星「おおすみ」の地球周回軌道への投入に初めて成功した。これにより日本は世界で4番目の自国ロケットによる人工衛星打ち上げ国になった。またこれは、世界初の大学による人工衛星の打ち上げ成功であった。 東京大学宇宙航空研究所は1981年、組織を東京大学から離し文部省宇宙科学研究所(ISAS)に改組した。その際に一部は東京大学に移管され、工学部附属境界領域研究施設(現・東京大学先端科学技術研究センター)となった。1989年4月には、キャンパスを駒場から相模原に移転した。この間も東大時代に引き続き、X線天文衛星・ハレー彗星探査機・太陽風・地球磁気圏観測衛星など、宇宙科学の分野で多くの成果を上げた。2001年の中央省庁再編により文部科学省が発足し、文部科学省宇宙科学研究所になった。 2003年に当研究所と、宇宙開発事業団(NASDA)、航空宇宙技術研究所(NAL)が統合され宇宙航空研究開発機構(JAXA)が発足し、それに伴う改組とともに宇宙科学研究本部という名称となった。しかし2010年には、同機構の一部という位置などに変更はないが、宇宙科学研究所という名称に復帰した。なお1981年以来の「ISAS」という略称は一貫して使われてきている。 大学の共同利用機関でもあり、東京大学大学院理学系研究科・工学系研究科や総合研究大学院大学(物理科学研究科宇宙科学専攻)他の大学院教育としての研究教育活動を展開している。 今後予定しているミッションとして、金星探査ミッション、水星探査ミッション、次期月探査ミッション、次期小惑星探査ミッションなどがある。共同ミッションとしては、国立天文台などと共同で実施しているスペースVLBI計画がある。その他、共同研究ミッションとしては宇宙望遠鏡計画の実現に向けた技術開発や深惑星探査ミッションなども国際共同研究ミッションとして提案を実施した。 これらを、小型の衛星に搭載するための研究、設計や開発業務を行う。 宇宙教育センターが設置され、宇宙科学研究所をはじめとして、宇宙基幹システム本部、宇宙利用推進本部との連携によって、小学校・中学校・高等学校の生徒を対象に宇宙教育事業を展開。その成果については、宇宙のポータルサイトなどにて公開されている。 宇宙科学研究所には月・惑星探査プログラムグループが設置されており、惑星探査計画実施の実行本部が置かれる。 神奈川県相模原市中央区由野台3-1-1 相模原キャンパスでは年に1回特別公開が行われ、職員一同でさまざまなイベントや研究活動紹介を実施している。 東大と宇宙科学研究所が製作したロケットの詳細。K、L、M はそれぞれカッパ、ラムダ、ミューとギリシア語読みする(ギリシア文字ではそれぞれ Κ、Λ、Μ)。 既成の炸薬を使用した最初のロケット。ロケットの基礎的な知識を得るために作った。 ペンシルロケットの炸薬を束にして使った2段式ロケット。全長1.8メートル、直径8センチ。 国際地球観測年参加のために製作した観測用ロケット。目的達成後も改良を続け、次々と高度記録を更新した。科学実験の参考資料としてインドネシアとユーゴスラビアに輸出したが、小型固体燃料ロケットはミサイルに転用可能なため、米国に咎められた。のちに職員が状況調査のために輸出国へ行くと、購入時は背広だった人間が軍服を着ていたという。宇宙開発事業団がH-II誕生まで米国によるロケット技術管理を受ける理由の一因となった。 1961年に始まった計画。カッパロケットをより大型化したもの。第2段目に直径420ミリのカッパロケット第1段目をそのまま流用できるように、第1段の直径735ミリは決定された。前期型、L-2、L-3、L-3Hは、内側バン・アレン帯に到達する観測ロケットとして開発された。後期型、L-4S、L-4T、L-4SCはミューロケットの工学実験機として開発され、L-4S型5号機で初の人工衛星打ち上げに成功した。 1963年から計画が始まった、宇宙開発を本格的に推し進めるためのロケット。合わせて衛星追跡センターと大型ロケット用発射場の整備、ランチャーの建設を行った。 M-4Sの予備試験機。機体構成は一部がダミーであることを除いてM-4Sとほぼ同じである。 本格的な衛星打ち上げロケット。L-4Sを大型化した。打ち上げランチャーとの関係上、第2段目に尾翼を装着できなかった。このためL-4Sより飛行安定性は低下しているが、軌道設計の最適化により、衛星軌道投入確率は確保できている。 3段式となり、2段目に姿勢制御装置が付いた。 C型の1段目のモータケースを延長し、打ち上げ能力を大幅に強化した。 M型の1段目に姿勢制御装置を取り付けた。 S型の1段目を利用するが、そのほかは全くの新造。打ち上げ能力は一挙に2倍以上となった。 NASDAと共同開発。1段目にH-IIのSRB、2段目にM-3SIIのM-23を使用している。試験1号機のみで計画凍結。 直径の1.41メートル枠が外れ太くなった。打ち上げ能力も2倍以上に。M-V-5以降は2段目がCFRP化され、さらに打ち上げ能力が50キロアップ。研究所最後のロケット。固体燃料ロケットとしては世界最大級。 ペンシルからミューに至る本流以外にも、多くの小型の技術試験ロケットや観測ロケットが存在する。 宇宙科学研究所とその前身組織で開発・打ち上げを行った科学衛星ミッションは以下の通りである。 戦前から行われていた気球による科学観測や、ロックーンに用いる気球の開発を引き継いで、1966年に宇宙航空研究所内に気球部門が発足した。以後飛行機による観測と人工衛星による観測の間を埋める唯一の飛翔体として長期科学観測や工学実験に用いられ、合計500機以上が飛翔している。 初期は一般的によく用いられる気球下部を畳むことで地面に置き放球を行う「スタティック放球方式」や、気球本体をローラー車によりランチャー上に立て上げて放球を行う「立て上げ放球方式」が主流であった。その後、大型放球装置を用いて「立て上げ放球方式」の長所を伸ばし短所を克服した独自の放球方式である「セミダイナミック放球方式」が用いられた。2008年には放球場が大樹航空宇宙実験場に移転したことで、「セミダイナミック放球方式」をさらに発展させて気候による影響を抑えた「スライダー放球方式」が用いられるようになっている。 型式の添字は xx × 10 m の容積をもつことを意味する。
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"糸川は中島飛行機で軽、あるいは重戦闘機の設計に関与したが、その後、制約を避けて1941年に東京帝国大学第二工学部(現・東京大学生産技術研究所)に移籍した。そして戦後はしばらく各種の研究(振動現象や、中には脳波などといったものもある)を行っていた。宇宙・航空に目をつけたのは、1950年代前半の渡米のころとされる。1954年に東京大学生産技術研究所内にAVSA(Avionics and Supersonic Aerodynamics:アビオニクスおよび超音速空気力学)研究班を組織した。翌1955年にいわゆるスペースプレーンのような構想を示し、「ロケット旅客機」「20分で太平洋横断」といった見出しの新聞記事となったが、その写真の「試作ロケット」の実現可能性などはよく分からず、真の意図は掴みかねる点が多い。同年には、AVSA研究班をSR研究班に改名したほか、富士精密工業(のちのプリンス自動車工業、日産自動車宇宙航空事業部)らの尽力により、生産技術研究所が借り受けた国分寺の実験場(近年、正確な位置を確かめるための調査が進んでいる)において、ペンシルロケットの水平発射試験を行い各種のデータを採取したが、これがいわゆる「宇宙研ロケット」の祖である。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "そのころ、日本の航空開発も、1952年(昭和27年)の独立を経て、1957年の完全解禁を見越して後のYS-11の構想が立ち上がり始めており、科学技術庁は、製造を行う「日本航空機製造」と並列して、技術研究を行う「航空技術研究所(NAL)」を1955年に発足させた。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "NALの発足により、航空関係の技術研究(のうち、特に旅客機などの実開発に関与する部分)がそちらで行われることになることから、文部省・東大生産技術研究所で行う研究は、すでに実績のあった固体燃料ロケット(観測ロケット向きでもあった)や、いわゆる「科学衛星」を指向するという方向付けがなされた。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": 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"1970年、東京大学宇宙航空研究所は鹿児島県内之浦の射場から人工衛星「おおすみ」の地球周回軌道への投入に初めて成功した。これにより日本は世界で4番目の自国ロケットによる人工衛星打ち上げ国になった。またこれは、世界初の大学による人工衛星の打ち上げ成功であった。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "東京大学宇宙航空研究所は1981年、組織を東京大学から離し文部省宇宙科学研究所(ISAS)に改組した。その際に一部は東京大学に移管され、工学部附属境界領域研究施設(現・東京大学先端科学技術研究センター)となった。1989年4月には、キャンパスを駒場から相模原に移転した。この間も東大時代に引き続き、X線天文衛星・ハレー彗星探査機・太陽風・地球磁気圏観測衛星など、宇宙科学の分野で多くの成果を上げた。2001年の中央省庁再編により文部科学省が発足し、文部科学省宇宙科学研究所になった。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2003年に当研究所と、宇宙開発事業団(NASDA)、航空宇宙技術研究所(NAL)が統合され宇宙航空研究開発機構(JAXA)が発足し、それに伴う改組とともに宇宙科学研究本部という名称となった。しかし2010年には、同機構の一部という位置などに変更はないが、宇宙科学研究所という名称に復帰した。なお1981年以来の「ISAS」という略称は一貫して使われてきている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "大学の共同利用機関でもあり、東京大学大学院理学系研究科・工学系研究科や総合研究大学院大学(物理科学研究科宇宙科学専攻)他の大学院教育としての研究教育活動を展開している。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "今後予定しているミッションとして、金星探査ミッション、水星探査ミッション、次期月探査ミッション、次期小惑星探査ミッションなどがある。共同ミッションとしては、国立天文台などと共同で実施しているスペースVLBI計画がある。その他、共同研究ミッションとしては宇宙望遠鏡計画の実現に向けた技術開発や深惑星探査ミッションなども国際共同研究ミッションとして提案を実施した。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "これらを、小型の衛星に搭載するための研究、設計や開発業務を行う。", "title": "研究内容" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "宇宙教育センターが設置され、宇宙科学研究所をはじめとして、宇宙基幹システム本部、宇宙利用推進本部との連携によって、小学校・中学校・高等学校の生徒を対象に宇宙教育事業を展開。その成果については、宇宙のポータルサイトなどにて公開されている。", "title": "研究内容" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "宇宙科学研究所には月・惑星探査プログラムグループが設置されており、惑星探査計画実施の実行本部が置かれる。", "title": "研究内容" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "神奈川県相模原市中央区由野台3-1-1", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "相模原キャンパスでは年に1回特別公開が行われ、職員一同でさまざまなイベントや研究活動紹介を実施している。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "東大と宇宙科学研究所が製作したロケットの詳細。K、L、M はそれぞれカッパ、ラムダ、ミューとギリシア語読みする(ギリシア文字ではそれぞれ Κ、Λ、Μ)。", "title": "ロケット" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "既成の炸薬を使用した最初のロケット。ロケットの基礎的な知識を得るために作った。", "title": "ロケット" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ペンシルロケットの炸薬を束にして使った2段式ロケット。全長1.8メートル、直径8センチ。", "title": "ロケット" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "国際地球観測年参加のために製作した観測用ロケット。目的達成後も改良を続け、次々と高度記録を更新した。科学実験の参考資料としてインドネシアとユーゴスラビアに輸出したが、小型固体燃料ロケットはミサイルに転用可能なため、米国に咎められた。のちに職員が状況調査のために輸出国へ行くと、購入時は背広だった人間が軍服を着ていたという。宇宙開発事業団がH-II誕生まで米国によるロケット技術管理を受ける理由の一因となった。", "title": "ロケット" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1961年に始まった計画。カッパロケットをより大型化したもの。第2段目に直径420ミリのカッパロケット第1段目をそのまま流用できるように、第1段の直径735ミリは決定された。前期型、L-2、L-3、L-3Hは、内側バン・アレン帯に到達する観測ロケットとして開発された。後期型、L-4S、L-4T、L-4SCはミューロケットの工学実験機として開発され、L-4S型5号機で初の人工衛星打ち上げに成功した。", "title": "ロケット" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1963年から計画が始まった、宇宙開発を本格的に推し進めるためのロケット。合わせて衛星追跡センターと大型ロケット用発射場の整備、ランチャーの建設を行った。", "title": "ロケット" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "M-4Sの予備試験機。機体構成は一部がダミーであることを除いてM-4Sとほぼ同じである。", "title": "ロケット" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "本格的な衛星打ち上げロケット。L-4Sを大型化した。打ち上げランチャーとの関係上、第2段目に尾翼を装着できなかった。このためL-4Sより飛行安定性は低下しているが、軌道設計の最適化により、衛星軌道投入確率は確保できている。", "title": "ロケット" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "3段式となり、2段目に姿勢制御装置が付いた。", "title": "ロケット" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "C型の1段目のモータケースを延長し、打ち上げ能力を大幅に強化した。", "title": "ロケット" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "M型の1段目に姿勢制御装置を取り付けた。", "title": "ロケット" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "S型の1段目を利用するが、そのほかは全くの新造。打ち上げ能力は一挙に2倍以上となった。", "title": "ロケット" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "NASDAと共同開発。1段目にH-IIのSRB、2段目にM-3SIIのM-23を使用している。試験1号機のみで計画凍結。", "title": "ロケット" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "直径の1.41メートル枠が外れ太くなった。打ち上げ能力も2倍以上に。M-V-5以降は2段目がCFRP化され、さらに打ち上げ能力が50キロアップ。研究所最後のロケット。固体燃料ロケットとしては世界最大級。", "title": "ロケット" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ペンシルからミューに至る本流以外にも、多くの小型の技術試験ロケットや観測ロケットが存在する。", "title": "ロケット" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "宇宙科学研究所とその前身組織で開発・打ち上げを行った科学衛星ミッションは以下の通りである。", "title": "科学衛星ミッション一覧" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "戦前から行われていた気球による科学観測や、ロックーンに用いる気球の開発を引き継いで、1966年に宇宙航空研究所内に気球部門が発足した。以後飛行機による観測と人工衛星による観測の間を埋める唯一の飛翔体として長期科学観測や工学実験に用いられ、合計500機以上が飛翔している。", "title": "大気球" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "初期は一般的によく用いられる気球下部を畳むことで地面に置き放球を行う「スタティック放球方式」や、気球本体をローラー車によりランチャー上に立て上げて放球を行う「立て上げ放球方式」が主流であった。その後、大型放球装置を用いて「立て上げ放球方式」の長所を伸ばし短所を克服した独自の放球方式である「セミダイナミック放球方式」が用いられた。2008年には放球場が大樹航空宇宙実験場に移転したことで、「セミダイナミック放球方式」をさらに発展させて気候による影響を抑えた「スライダー放球方式」が用いられるようになっている。", "title": "大気球" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "型式の添字は xx × 10 m の容積をもつことを意味する。", "title": "大気球" } ]
宇宙科学研究所は、日本の宇宙科学の研究をおもに行う機関で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)の一部である。科学研究にとどまらず、宇宙開発(日本の宇宙開発も参照)にも広く関与している。 前身の東京大学宇宙航空研究所(1964年設立)が1981年に改組し、旧文部省の国立機関として発足。2003年10月、宇宙開発事業団(NASDA)・航空宇宙技術研究所(航技研、NAL)と統合されJAXAの一機関となった当初は「宇宙科学研究本部」とされたが、2010年4月1日に元来の名称である「宇宙科学研究所」に改名・改組した。統合後の「研究本部」時代には、研究機関を指して、「相模原キャンパス」の名で呼ばれることがあった。 NASDA系ロケットの「種子島」に対して、「内之浦」こと鹿児島県肝付町の内之浦宇宙空間観測所からのロケット打ち上げでも知られる。
<!--{{出典の明記|date=2010年9月}}--> {{Infobox 研究所 |名称 = 宇宙科学研究所 |Width = 250 |画像 =Mark isas.svg |脚注 = |画像2 =Front Entrance to ISAS.jpeg |脚注2 = |正式名称 = <!--正式名称が外国語である場合に、現地の言葉で名称を記入。それ以外の場合は無記入でOK--> |英語名称 = |略称 = ISAS(アイサス) |組織形態 = [[大学共同利用機関]] |本部名称 = <!--拠点が多数あってすぐ下の住所がどこのものか不明瞭な様な場合に記入。本部、事務局、などと記入。それ以外の場合は無記入でOK--> |所在国 = {{JPN}} |所在地郵便番号 = 252-5210 |所在地 = [[神奈川県]][[相模原市]]中央区由野台3-1-1 |位置 = |予算 = |人数 = |代表 = |所長 = |理事長 = |代表職名 = <!--組織トップの肩書が上の3つ以外の場合、ここにその肩書を記入--> |代表氏名 = <!--組織トップの肩書が上の3つ以外の場合、すぐ上で肩書を記入し、ここに人物の名前を記入--> |活動領域 = 宇宙探査 |設立年月日 = [[1981年]] |前身 = [[東京大学航空研究所|東京大学宇宙航空研究所]] |設立者 = |廃止年月日 = |後身 = |上位組織 = [[宇宙航空研究開発機構]] |所管 = |下位組織 = |拠点 = |保有施設 = [[内之浦宇宙空間観測所]]<br />[[JAXA相模原キャンパス|相模原キャンパス]]<br />[[臼田宇宙空間観測所]] |保有装置 = [[惑星物質試料受け入れ設備]] |保有物分類1 = <!--施設でも装置でもない何かを保有している場合に、ここにその種別を記入。--> |保有物名称1 = <!--すぐ上の種別に属する保有物の名称をここに記入。--> |保有物分類2 = |保有物名称2 = |保有物分類3 = |保有物名称3 = |提供サービス = |プロジェクト =[[あかつき (探査機)|あかつき]]<br />[[はやぶさ2]]<br />[[ひとみ (人工衛星)|ひとみ]] |参加プロジェクト = |発行雑誌 = ISASニュース<br />宇宙科学研究所報告 |出版物 = |特記事項 = |公式サイト = https://www.isas.jaxa.jp/ }} '''宇宙科学研究所'''(うちゅうかがくけんきゅうしょ、英文名称:Institute of Space and Astronautical Science, 略称:'''ISAS'''(アイサス))は、日本の[[宇宙科学]]の研究をおもに行う機関で、[[宇宙航空研究開発機構]](JAXA)の一部である。科学研究にとどまらず、宇宙開発([[日本の宇宙開発]]も参照)にも広く関与している。 前身の[[東京大学]]宇宙航空研究所(1964年設立)が1981年に改組し、旧[[文部省]]の国立機関として発足。2003年10月、[[宇宙開発事業団]](NASDA)・[[航空宇宙技術研究所]](航技研、NAL)と統合されJAXAの一機関となった当初は「'''宇宙科学研究本部'''」とされたが、2010年4月1日に元来の名称である「宇宙科学研究所」に改名・改組した<ref name="sora">{{Cite web|和書|title=「宇宙科学研究本部」の名称を「宇宙科学研究所」に変更 |url=http://www.sorae.jp/031009/3752.html |work=sorae.jp |date=2010-03-29 |accessdate=2010-03-31 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100401104541/http://www.sorae.jp/031009/3752.html |archivedate=2010-04-01 |deadlinkdate=2017-10}}</ref>。統合後の「研究本部」時代には、研究機関を指して、「[[JAXA相模原キャンパス|相模原キャンパス]]」の名で呼ばれることがあった。 NASDA系ロケットの「種子島」に対して、「内之浦」こと[[鹿児島県]][[肝付町]]の[[内之浦宇宙空間観測所]]からのロケット打ち上げでも知られる。 == 概説 == {{See also|日本の宇宙開発}} === 前史〜生産研 === [[画像:Lambda Rocket Launcher.jpg|200px|thumb|日本初の人工衛星を打ち上げたラムダロケットとランチャ([[国立科学博物館]]裏に展示)]] ここでは、1955年の航空技術研究所(のちの[[航空宇宙技術研究所]])の設置のころまでを前史とする。 列強に遅れながらも、ロケットを含むジェット推進の研究は日本でも行われ、数種の「噴進砲」が実用化され、試験飛行ではあったが「[[秋水]]」という例もあった。しかし、宇宙空間を目指したロケット開発は「日本宇宙開発の父」[[糸川英夫]]から始まる。 糸川は[[中島飛行機]]で軽、あるいは重[[戦闘機]]<ref>後に、最高の傑作だと思っているのは(重戦の)[[二式単座戦闘機|鍾馗]]、と書いている</ref>の設計に関与したが、その後、制約を避けて1941年に[[東京帝国大学第二工学部]](現・[[東京大学生産技術研究所]])に移籍した。そして戦後はしばらく各種の研究(振動現象や、中には脳波などといったものもある<ref>振動現象は航空機やロケットの研究としても重要である。脳波はたまたま通っていた医者との会話というきっかけもあるが、波の一種とも言える。以前からの趣味であり教養であった音楽(特に弦楽器)も、音響という振動現象の一種として研究の対象とした。</ref>)を行っていた。宇宙・航空に目をつけたのは、1950年代前半の渡米のころとされる。1954年に'''[[東京大学生産技術研究所]]'''内にAVSA(Avionics and Supersonic Aerodynamics:[[アビオニクス]]および[[超音速]][[空気力学]])研究班を組織した。翌1955年にいわゆるスペースプレーンのような構想を示し、「ロケット旅客機」「20分で太平洋横断」といった見出しの新聞記事となったが、その写真の「試作ロケット」の実現可能性などはよく分からず、真の意図は掴みかねる点が多い。同年には、AVSA研究班をSR研究班に改名したほか、[[富士精密工業]](のちの[[プリンス自動車工業]]、[[日産自動車]]宇宙航空事業部)らの尽力により、生産技術研究所が借り受けた[[国分寺]]の実験場(近年、正確な位置を確かめるための調査が進んでいる<ref>[http://universe-s.sblo.jp/article/176221409.html {{Nowiki|国分寺インディ・ジョーンズ計画<br/> ペンシルロケット実験場所の正確な位置がレーダー調査で明らかに UNIVERSE ニュース}}]</ref>)において、[[ペンシルロケット]]の水平発射試験を行い各種のデータを採取したが、これがいわゆる「宇宙研ロケット」の祖である。 そのころ、日本の航空開発も、1952年(昭和27年)の独立を経て、1957年の完全解禁を見越して後の[[YS-11]]の構想が立ち上がり始めており、[[科学技術庁]]は、製造を行う「[[日本航空機製造]]」と並列して、技術研究を行う「[[航空宇宙技術研究所|航空技術研究所]](NAL)」を1955年に発足させた。 NALの発足により、航空関係の技術研究(のうち、特に旅客機などの実開発に関与する部分)がそちらで行われることになることから、文部省・東大生産技術研究所で行う研究は、すでに実績のあった[[固体燃料ロケット]](観測ロケット向きでもあった)や、いわゆる「[[科学衛星]]」を指向するという方向付けがなされた。 === 東京大学宇宙航空研究所の発足 === 東大生産技術研究所は、その後多数の発展型ロケットを開発、1960年には本格的な衛星打ち上げの能力を持つ[[ミューロケット]]の構想を持つまでになった。 1964年に東大生産技術研究所の一部と[[東京大学航空研究所|東大航空研究所]]<ref>航空研究所は戦前は、航空機開発において、[[中島飛行機]](現:[[富士重工業]])や[[川崎重工業]]、[[三菱重工業]]とともに、日本の航空機開発の研究拠点であった。</ref>が合併し、[[駒場 (目黒区)|駒場]]に移転して'''東京大学宇宙航空研究所'''が発足した。また同年には科学技術庁内に、現JAXAの前身の3組織目、のちの[[宇宙開発事業団]](NASDA)の前身となる宇宙開発推進本部が設立された。これにより日本の宇宙開発は、固体燃料を使用して科学衛星を打ち上げる東大・ISAS(文部省)の系列と、液体燃料を使用して実用衛星の打ち上げを目指すNASDA(科学技術庁)の系列の2つが並行して進んでいくことになる。 [[1969年]]に宇宙開発事業団(NASDA)が発足した際に、東京大学および日産自動車における固体燃料ロケットの開発は中止に追い込まれそうになった。原因は、固体燃料ロケットには兵器への転用のおそれがあるにもかかわらず、輸出先を確認していなかったことによる([[カッパロケット]]参照)。しかし、実用衛星ではない科学研究のためだけの衛星のみを打ち上げることを条件に研究の続行が許可された。 また、1969年は[[学生運動]]が高まりを見せた年でもあり、研究所に出入りする学生や職員らも少なからず関与することとなった。 同年[[10月21日]]に行われた[[国際反戦デー]]のデモでは街頭で多数の[[火炎瓶]]が使用されたが、後に、これら武器の一部が研究所の薬品や部品を用いて、所内で製造されていたことが明らかになり、同年[[11月8日]]には[[警視庁]]が研究所の家宅捜索を実施<ref>生々しい実験の跡 あばかれた黒い作業『朝日新聞』1969年(昭和44年)11月8日夕刊 3版 11面</ref>。職員5人が逮捕、起訴されている<ref>関係職員処分を 東大宇宙研の火炎ビン製造 文部省が申入れ『朝日新聞』1969年(昭和44年)11月14日朝刊 12版 15面</ref>。 [[1970年]]、東京大学宇宙航空研究所は[[鹿児島県]][[肝付町|内之浦]]の[[射場]]から人工衛星「おおすみ」の[[地球周回軌道]]への投入に初めて成功した。これにより日本は世界で4番目の自国ロケットによる人工衛星打ち上げ国になった。またこれは、世界初の大学による人工衛星の打ち上げ成功であ<!--り、世界初の無誘導ロケットによる人工衛星の打ち上げ成功でもあ--><!--三菱プレシジョンの会社説明に『三菱プレシジョンの宇宙開発の歩みは、我が国初の人工衛星「おおすみ」を軌道にのせたロケット姿勢制御装置からスタートしました』とあるように、単に「スラスターを吹かす、いわゆる誘導らしい誘導」をしてない、というだけで、制御らしい制御はちゃんとしているものを「無誘導」と強調するのには問題がある-->った。 === 文部省宇宙科学研究所の発足 === 東京大学宇宙航空研究所は[[1981年]]、組織を東京大学から離し'''文部省宇宙科学研究所(ISAS)'''に改組した。その際に一部は東京大学に移管され、工学部附属境界領域研究施設(現・[[東京大学先端科学技術研究センター]])となった。[[1989年]]4月には、キャンパスを駒場から[[相模原市|相模原]]に移転した。この間も東大時代に引き続き、[[X線天文衛星]]・[[ハレー彗星]][[宇宙探査機|探査機]]・[[太陽風]]・[[地球磁気圏]]観測衛星など、宇宙科学の分野で多くの成果を上げた。[[2001年]]の[[中央省庁再編]]により[[文部科学省]]が発足し、'''文部科学省宇宙科学研究所'''になった。 === 3機関の統合によりJAXAの一部門に === [[2003年]]に当研究所と、宇宙開発事業団(NASDA)、航空宇宙技術研究所(NAL)が統合され宇宙航空研究開発機構(JAXA)が発足し、それに伴う改組とともに'''宇宙科学研究本部'''という名称となった。しかし2010年には、同機構の一部という位置などに変更はないが、'''宇宙科学研究所'''という名称に復帰した。なお1981年以来の「ISAS」という略称は一貫して使われてきている。 大学の共同利用機関でもあり、[[東京大学大学院理学系研究科・理学部|東京大学大学院理学系研究科]]・[[東京大学大学院工学系研究科・工学部|工学系研究科]]や[[総合研究大学院大学]](物理科学研究科宇宙科学専攻)他の大学院教育としての研究教育活動を展開している。 今後予定しているミッションとして、金星探査ミッション、水星探査ミッション、次期月探査ミッション、次期小惑星探査ミッションなどがある。共同ミッションとしては、国立天文台などと共同で実施しているスペースVLBI計画がある。その他、共同研究ミッションとしては宇宙望遠鏡計画の実現に向けた技術開発や深惑星探査ミッションなども国際共同研究ミッションとして提案を実施した。 == 歴代所長・本部長 == {|class="wikitable" style="text-align:center" !期間!!氏名 |- |1964年 - 1968年 |[[高木昇]] |- |1968年 - 1972年 |[[曽田範宗]] |- |1972年 - 1973年 |[[玉木章夫]] |- |1973年 - 1976年 |[[浅沼強]] |- |1976年 - 1977年 |[[五十嵐寿一]] |- |1977年 - 1979年 | |- |1979年 - 1981年 |[[野村民也]] |- |1981年 - 1984年 |[[森大吉郎]] |- |1984年 - 1988年 |[[小田稔]] |- |1988年 - 1992年 |[[西村純]] |- |1992年 - 1996年 |[[秋葉鐐二郎]] |- |1996年 - 2000年 |[[西田篤弘]] |- |2000年 - 2003年 |[[松尾弘毅]] |- |2003年 - 2005年 |[[鶴田浩一郎]] |- |2005年 - 2009年 |[[井上一]] |- |2009年 - 2013年 |[[小野田淳次郎]] |- |2013年 - 2018年 |[[常田佐久]] |- |2018年 - |[[國中均]] |} == 研究内容 == === 以前から研究を続けていた分野 === * [[イオンエンジン]]の研究開発 * 衛星搭載に必要な機器全体のシステム工学的な研究開発 * 精度の高い人工衛星打ち上げ技術の研究開発 * 宇宙往復機の研究開発(共同研究) * 宇宙空間からのマイクロ波[[リモートセンシング]]および[[合成開口レーダー]]画像に関する研究 === 最近の研究分野 === * 惑星探査に必要な機器の研究開発・データ分析 * 光学式宇宙望遠鏡搭載に必要な機器の研究開発 * 軌道設計に必要なコンピュータプログラムの研究開発 * [[イプシロンロケット]]の研究開発 これらを、小型の衛星に搭載するための研究、設計や開発業務を行う。 === その他 === 宇宙教育センターが設置され、宇宙科学研究所をはじめとして、宇宙基幹システム本部、宇宙利用推進本部との連携によって、小学校・中学校・高等学校の生徒を対象に宇宙教育事業を展開。その成果については、宇宙のポータルサイトなどにて公開されている。 宇宙科学研究所には月・惑星探査プログラムグループが設置されており、惑星探査計画実施の実行本部が置かれる。 == 施設概要 == === 相模原キャンパス === {{main|JAXA相模原キャンパス}} * 本部棟 ** 研究所として *** 広報担当などの事務関連の部署が所属 *** 宇宙科学研究における研究室および講座が所属 ** 宇宙管制センターとして *** 深宇宙探査機管制室 - 鹿児島の[[内之浦宇宙空間観測所]]や、[[種子島宇宙センター]]および海外の宇宙基地で打ち上げられた、科学衛星や月・惑星探査機から送られてくるデータを元にして、宇宙機の管制制御を行う。管制制御データは、[[内之浦宇宙空間観測所]]のテレメータセンターや[[臼田宇宙空間観測所]]のパラボラアンテナを通じて、各探査機との間で送受信される。 ** 大型計算機室 - SX-6(NEC製)やSUN Ultra SPARC station(EWS)など。 * 衛星組み立て棟 - 工学実験衛星(科学探査衛星)などの開発が行われる施設。 * 磁場試験棟 - 宇宙磁場や高度真空を想定した試験を行う施設。 * [[惑星物質試料受け入れ設備]] - [[サンプルリターン]]によって入手された地球外物質を取り扱う施設。 *宇宙科学探査交流棟 - 宇宙科学に関する展示が見学できる施設。 ; 所在地 [[神奈川県]][[相模原市]][[中央区 (相模原市)|中央区]]由野台3-1-1 * 交通([[神奈川中央交通東・相模原営業所|神奈川中央交通東]]バス利用) ** [[東日本旅客鉄道|JR]][[横浜線]][[相模原駅]]南口より[相02]相模大野駅北口行に乗車、「宇宙科学研究本部」下車、徒歩5分。 ** [[小田急小田原線]]・[[小田急江ノ島線]][[相模大野駅]]北口・横浜線[[古淵駅]]入口より[相02]相模原駅南口行に乗車、「宇宙科学研究本部」下車、徒歩5分。 ** JR横浜線[[淵野辺駅]]南口より[淵36]青葉循環・淵野辺駅南口行(共和先回り)に乗車、「宇宙科学研究本部」下車、徒歩5分。 ** JR横浜線淵野辺駅南口より[淵37]青葉循環・淵野辺駅南口行(博物館先回り)に乗車、「市立博物館前」下車、徒歩2分。 相模原キャンパスでは年に1回特別公開が行われ、職員一同でさまざまなイベントや研究活動紹介を実施している。 === 運用担当施設 === * [[秋田ロケット実験場]] - K-8-10の事故によって使用中止。施設は撤去されて現在は記念碑のみ。 * [[内之浦宇宙空間観測所]] * [[能代ロケット実験場]] - 宇宙3機関統合に伴い宇宙輸送ミッション本部の管轄となり、名称が能代多目的実験場へ変更されたが、2011年4月1日より宇宙科学研究所へ移管され、名称も戻された。 * [[臼田宇宙空間観測所]](直径64メートル東洋一の巨大パラボラアンテナ) * [[パース (西オーストラリア州)|パース]]、[[サンティアゴ (チリ)|サンティアゴ]]、[[グラン・カナリア島|マスパロマス]]、[[キルナ]]のJAXA追跡局 - 科学衛星打ち上げ時の追跡に使用。 * [[三陸大気球観測所]] - 2007年の大気球実験をもって使用停止。 * [[大樹町多目的航空公園|大樹航空宇宙実験場]] - 2008年から大気球実験を実施。 == 沿革 == {|class="wikitable" ![[1945年]](昭和20年) | |[[日本]]敗戦し、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]より航空分野の研究開発を禁止される。 |- ![[1952年]](昭和27年) | |日本主権回復し、航空分野の研究開発が一斉に再開する。 |- ![[1953年]](昭和28年) | |糸川英夫がアメリカから帰国する。 |- ![[1954年]](昭和28年) |[[2月5日]] |[[東京大学生産技術研究所]]の[[糸川英夫]]を中心に'''AVSA'''('''航空電子工学と超音速航空工学連合''')'''研究班'''発足。 |- ![[1954年]](昭和29年) | |[[国際地球観測年]](IGY、1957 - 58)での観測に参加を決定。 |- !rowspan="4"|[[1955年]](昭和30年) |[[3月11日]] |[[東京都]][[国分寺市|国分寺]]の工場跡地で'''[[ペンシルロケット]]'''(23センチ)の水平試射に成功。 |- |8月 |[[文部省]]が[[秋田県]]道川海岸をロケット垂直発射場に選定し、「[[秋田ロケット実験場]]」とする。 |- |[[8月6日]] |秋田ロケット実験場でペンシルの弾道飛行試験を開始。最初の高度記録はペンシル300(30センチ)の600メートル。 |- |[[8月23日]] |全長1.3メートル、直径8センチの2段式'''[[ベビーロケット]]'''の飛行試験開始。ベビーSが4キロを達成。 |- ![[1956年]](昭和31年) |[[9月24日]] |高高度観測用の大型「'''[[カッパロケット|カッパ(K)ロケット]]'''」飛行試験開始。 |- ![[1958年]](昭和33年) |[[9月12日]] |2段式のカッパ6(K-6)型が高度約60キロに到達。上層[[大気]]の風速風圧、[[宇宙線]]の観測に成功。 |- !rowspan="2"|[[1960年]](昭和35年) |[[7月11日]] |K-8型1号機が高度190キロに到達し、[[イオン]]密度の観測に世界で初めて成功。 |- |[[10月24日]] |鹿児島県内之浦に射場の建設決定。 |- !rowspan="3"|[[1961年]](昭和36年) |[[10月24日]] |K-8型8号機が高度200キロ到達。 |- |[[12月26日]] |3段式のK-9L型で350キロ到達。 |- | |[[人工衛星]]打ち上げを目指す大型の「'''[[ラムダロケット|ラムダ(L)ロケット]]計画'''」開始。 |- !rowspan="4"|[[1962年]](昭和37年) |[[5月24日]] |K-8型10号機が燃料の配合不具合が原因で打ち上げ直後に爆発、破片が周囲の民家に落下して炎上(負傷者なし)。 |- | |秋田ロケット実験場使用中止(延べ打ち上げ回数88回)。 |- |10月 |[[能代ロケット実験場]]開設。 |- |[[11月25日]] |K-9M型観測ロケットの打ち上げ開始。[[1988年]]まで計81回。 |- !rowspan="4"|[[1963年]](昭和38年) |4月 |本格的宇宙開発を目指す「'''[[ミューロケット|ミュー (M) ロケット]]計画'''」開始。 |- |4月 |[[科学技術庁]]内に宇宙航空部門新設。のちに[[航空宇宙技術研究所]]に改称。 |- |[[5月20日]] |K-9M型が機器75キロ搭載して350キロ到達。 |- |[[12月9日]] |内之浦実験場開所式(のちの鹿児島宇宙空間観測所、現・[[内之浦宇宙空間観測所]])。 |- !rowspan="4"|[[1964年]](昭和39年) |4月 |[[東京大学]]、[[東京大学生産技術研究所]]の一部と[[東京大学航空研究所]]が合併し、駒場キャンパスに'''東京大学宇宙航空研究所'''を創設。 |- |4月 |科学技術庁内に宇宙開発推進本部を設立。のちに[[宇宙開発事業団]]へ発展。 |- |[[7月11日]] |ラムダ-3(L-3)型1号機を打ち上げ。高度1,000キロ到達。 |- |[[7月24日]] |太陽活動小期観測年(IQSY)に参加し、初の気象観測機([[MT-135ロケット|MT-135-1]])を打ち上げ。 |- !rowspan="2"|[[1965年]](昭和40年) |[[3月5日]] |L-3H型1号機打ち上げ。 |- |[[11月8日]] |K-10型観測ロケット1号機を打ち上げ。 |- !rowspan="3"|[[1966年]](昭和41年) |[[9月6日]] |4段式のL-4S型を試験打ち上げ。 |- |[[9月26日]] |'''[[L-4Sロケット]]'''1号機で初の人工衛星打ち上げを目指すが、3段目が軌道から外れ失敗。 |- |[[12月20日]] |L-4S型2号機で人工衛星を打ち上げるが、4段目が点火せず失敗。 |- !rowspan="3"|[[1967年]](昭和42年) |[[2月6日]] |L-3H型3号機が高度2,150キロに到達。 |- |[[4月13日]] |L-4S型3号機で人工衛星を打ち上げるが、3段目が点火せず4段目を放棄し失敗。 |- |4月 |[[種子島]]で宇宙センター建設をめぐる漁協との衝突。東大内之浦も漁協と交渉のため一時打ち上げ自粛([[1968年]]も同)。 |- ![[1968年]](昭和43年) |[[9月14日]] |[[S-160ロケット]]1号機打ち上げ。 |- !rowspan="4"|[[1969年]](昭和44年) |[[8月7日]] |[[S-210ロケット|S-210観測ロケット]]1号機を打ち上げ。[[1970年]]2月より[[南極]][[昭和基地]]で使用される。 |- |[[9月3日]] |L-4T型1号機を打ち上げ。 |- |[[9月22日]] |L-4S型4号機で人工衛星を打ち上げるが、3段目に推力が残っていたため4段目に衝突し失敗。 |- |[[10月1日]] |科学技術庁宇宙開発事業団が発足。 |- !rowspan="2"|[[1970年]](昭和45年) |[[2月11日]] |L-4S型5号機により日本初の人工衛星打ち上げに成功。「'''[[おおすみ]]'''」と命名。 |- |11月 |[[三陸大気球観測所]]開設。 |- !rowspan="2"|[[1971年]](昭和46年) |[[2月16日]] |'''[[M-4Sロケット]]'''が「[[たんせい]]」を初打ち上げ。最初のミューロケットによる成功例。 |- |[[9月28日]] |M-4Sロケットで「[[しんせい (人工衛星)|しんせい]]」打ち上げ。 |- ![[1972年]](昭和47年) |[[8月19日]] |M-4Sロケットで「[[でんぱ]]」打ち上げ。 |- ![[1974年]](昭和49年) |[[2月16日]] |'''[[M-3Cロケット]]'''が「[[たんせい2号]]」を初打ち上げ。 |- !rowspan="2"|[[1975年]](昭和50年) |[[1月20日]] |[[S-310ロケット]]1号機打ち上げ。 |- |[[2月24日]] |M-3Cロケットで「[[たいよう]]」打ち上げ。 |- !rowspan="2"|[[1977年]](昭和52年) |[[2月19日]] |'''[[M-3Hロケット]]'''が「[[たんせい3号]]」を初打ち上げ。 |- |7月 |能代ロケット実験場において[[液体水素|液水]]/[[液体酸素|液酸]]ロケットの地上燃焼実験を開始。 |- !rowspan="2"|[[1978年]](昭和53年) |[[2月4日]] |M-3Hロケットで「[[きょっこう]]」打ち上げ。 |- |[[9月16日]] |M-3Hロケットで「[[じきけん]]」打ち上げ。 |- ![[1979年]](昭和54年) |[[2月21日]] |M-3CロケットでX線天文衛星「[[はくちょう (人工衛星)|はくちょう]]」打ち上げ。 |- !rowspan="2"|[[1980年]](昭和55年) |[[1月18日]] |[[S-520ロケット]]1号機打ち上げ。 |- |[[2月17日]] |'''[[M-3Sロケット]]'''が「[[たんせい4号]]」を初打ち上げ。 |- !rowspan="3"|[[1981年]](昭和56年) |[[2月21日]] |M-3Sロケットで「[[ひのとり (人工衛星)|ひのとり]]」打ち上げ。 |- |4月 |他大学と研究を共有するため、'''文部省宇宙科学研究所'''に改組。 |- | |[[1986年]]の[[ハレー彗星]]接近により国際観測計画が起こり、探査機とM-3SIIロケット計画始まる。 |- !rowspan="2"|[[1983年]](昭和58年) |[[2月20日]] |M-3Sロケットで「[[てんま]]」打ち上げ。 |- |[[5月26日]] |[[日本海中部地震]]が発生し、津波で能代ロケット実験場が壊滅。 |- !rowspan="2"|[[1984年]](昭和59年) |[[2月14日]] |M-3Sロケットで「[[おおぞら (人工衛星)|おおぞら]]」打ち上げ。 |- |[[10月31日]] |[[臼田宇宙空間観測所]]開設(長野県南佐久郡臼田町、現・[[佐久市]])。 |- !rowspan="2"|[[1985年]](昭和60年) |[[1月8日]] |'''[[M-3SIIロケット]]'''が[[ハレー彗星]]探査機「[[さきがけ (探査機)|さきがけ]]」を初打ち上げ。 |- |[[8月19日]] |M-3SIIロケットで「[[すいせい]]」打ち上げ。 |- ![[1987年]](昭和62年) |[[2月5日]] |M-3SIIロケットで「[[ぎんが (人工衛星)|ぎんが]]」打ち上げ。直後に[[SN 1987A|超新星1987A]]の観測に成功。 |- !rowspan="2"|[[1989年]](平成元年) |[[2月22日]] |M-3SIIロケットで「[[あけぼの (人工衛星)|あけぼの]]」打ち上げ。 |- |4月 |[[東京大学駒場地区キャンパス#駒場IIキャンパス|駒場キャンパス]]から現在の相模原キャンパス([[キャンプ淵野辺]]の跡地の一部)へ移転。 |- ![[1990年]](平成2年) |[[1月24日]] |M-3SIIロケットで工学実験・月探査衛星「[[ひてん]]」打ち上げ。 |- ![[1991年]](平成3年) |[[8月30日]] |M-3SIIロケットで太陽観測衛星「[[ようこう]]」打ち上げ。 |- ![[1993年]](平成5年) |[[2月20日]] |M-3SIIロケットでX線天文衛星「[[あすか (人工衛星)|あすか]]」打ち上げ。 |- ![[1997年]](平成9年) |[[2月12日]] |'''[[M-Vロケット]]'''が電波天文衛星「[[はるか (人工衛星)|はるか]]」を初打ち上げ。 |- !rowspan="2"|[[1998年]](平成10年) |[[2月5日]] |[[SS-520|SS-520ロケット]]1号機打ち上げ。 |- |[[7月4日]] |M-Vロケットで火星探査機「[[のぞみ (探査機)|のぞみ]]」打ち上げ(4年遅れで火星へ向かうが、2003年12月火星周回軌道度投入を断念)。 |- ![[2000年]](平成12年) |[[2月10日]] |M-VロケットX線天文衛星「ASTRO-E」打ち上げ(軌道投入できず)。 |- !rowspan="2"|[[2003年]](平成15年) |[[5月9日]] |M-Vロケット小惑星探査機「[[はやぶさ (探査機)|はやぶさ]]」打ち上げ。 |- |[[10月1日]] |航空宇宙3機関が統合し、[[独立行政法人]][[宇宙航空研究開発機構]]が発足。'''宇宙科学研究本部'''となる。 |- ![[2010年]](平成22年) |[[4月1日]] |運営効率化のため名称が統合前の「'''宇宙科学研究所'''」に戻される<ref name =sora/>。 |} == ロケット == 東大と宇宙科学研究所が製作した[[ロケット]]の詳細。[[K]]、[[L]]、[[M]] はそれぞれカッパ、ラムダ、ミューと[[ギリシア語]]読みする([[ギリシア文字]]ではそれぞれ [[Κ]]、[[Λ]]、[[Μ]])。 ;ペンシルロケット([[1955年]]) {{main|ペンシルロケット}} 既成の炸薬を使用した最初のロケット。ロケットの基礎的な知識を得るために作った。 *初代は全長23センチ、直径1.8センチ、重量200グラム(水平発射)。 *2代目はペンシル300(全長30センチ)、初めて垂直発射し記録は600メートル。 *3代目は2段式となった。 ;ベビーロケット(1955年) {{main|ベビーロケット}} ペンシルロケットの炸薬を束にして使った2段式ロケット。全長1.8メートル、直径8センチ。 *ベビーS - 発炎筒を組み込んで航跡を追尾できるようにした。高度4キロに到達。 *ベビーT - テレメーターを搭載して機械的に追尾できるようにした。 *ベビーR - 回収用にパラシュートを搭載した。 ;K(カッパ)ロケット([[1956年]] - [[1988年]]) {{main|カッパロケット}} [[国際地球観測年]]参加のために製作した観測用ロケット。目的達成後も改良を続け、次々と高度記録を更新した。科学実験の参考資料として[[インドネシア]]と[[ユーゴスラビア]]に輸出したが、小型固体燃料ロケットは[[ミサイル]]に転用可能なため、[[アメリカ合衆国|米国]]に咎められた。のちに職員が状況調査のために輸出国へ行くと、購入時は背広だった人間が軍服を着ていたという。[[宇宙開発事業団]]が[[H-IIロケット|H-II]]誕生まで米国によるロケット技術管理を受ける理由の一因となった。 *K-6型 - 2段式、搭載量15グラム、高度約60キロ到達(1958年) *K-8型 - 2段式、搭載量50グラム、8号機が200キロ到達(1961年)10号機で爆発。 *K-9L型 - 3段式、350キロ到達(1961年) *K-9M型 - 搭載量75グラム、350キロ到達(1962年)ISAS観測ロケットの標準型となり、[[1988年]]まで81機打ち上げ。 *K-10型 - (1965年)技術試験機として計画され、のちに制式観測機としても用いられた。[[1980年]]まで14機打ち上げ。 ;L(ラムダ)ロケット([[1963年]] - [[1979年]]) {{main|ラムダロケット}} [[1961年]]に始まった計画。カッパロケットをより大型化したもの。第2段目に直径420ミリのカッパロケット第1段目をそのまま流用できるように、第1段の直径735ミリは決定された。前期型、L-2、L-3、L-3Hは、内側バン・アレン帯に到達する観測ロケットとして開発された。後期型、L-4S、L-4T、L-4SCはミューロケットの工学実験機として開発され、L-4S型5号機で初の人工衛星打ち上げに成功した。 *L-2型(1963年)2段式、第一段は、ノズルを4基を備え、固体ロケットの形態としては珍しいもの。 *L-3型(1964年)3段式、高度1,000キロ到達。 *L-3H型(1965年)高度2,000キロ到達(3号機で2,150キロ) *[[L-4Sロケット|L-4S型]](1966年)4段式、4度の失敗ののちに初の人工衛星打ち上げに成功した。 :全長16.5メートル、直径0.735メートル、重量9.4トン、低軌道打ち上げ能力26キロ :打ち上げ衛星:[[おおすみ]] *L-4T型(1969年):ラムダ4Sの第4段目の能力を減じたもの。 *L-4SC型(1971年):ラムダ4Sに誘導装置を追加したもの。主としてミューロケットの開発実験に使用。1979年まで5機打ち上げ。一応の軌道投入能力は持つが、当時はミューロケットを使用した衛星計画しか存在しなかった為、衛星打ち上げに使用されることはなかった。 === M(ミュー)ロケット === [[画像:M-V launching ASTRO-E2.jpeg|300px|thumb|M-VによるX線天文衛星「すざく」(ASTRO-E2)の打ち上げ(2005年7月10日)]] {{main|ミューロケット}} [[1963年]]から計画が始まった、宇宙開発を本格的に推し進めるためのロケット。合わせて衛星追跡センターと大型ロケット用発射場の整備、ランチャーの建設を行った。 ;[[M-4Sロケット#予備試験機|M-1]]([[1966年]]) ;[[M-4Sロケット#予備試験機|M-3D]]([[1969年]]) M-4Sの予備試験機。機体構成は一部がダミーであることを除いてM-4Sとほぼ同じである。 ;[[M-4Sロケット|M-4S]]([[1971年]] - [[1972年]]) 本格的な衛星打ち上げロケット。L-4Sを大型化した。打ち上げランチャーとの関係上、第2段目に尾翼を装着できなかった。このためL-4Sより飛行安定性は低下しているが、軌道設計の最適化により、衛星軌道投入確率は確保できている。 *全長23.6メートル、直径1.41メートル、重量43.8トン、低軌道打ち上げ能力180キロ *打ち上げ衛星:[[たんせい]]、[[しんせい (人工衛星)|しんせい]]、[[でんぱ]] ;[[M-3Cロケット|M-3C]]([[1974年]] - [[1979年]]) 3段式となり、2段目に姿勢制御装置が付いた。 *全長20.2メートル、直径1.41メートル、重量41.8トン、低軌道打ち上げ能力195キロ *打ち上げ衛星:[[たんせい2号]]、[[たいよう]]、[[はくちょう (人工衛星)|はくちょう]] ;[[M-3Hロケット|M-3H]]([[1977年]] - [[1978年]]) C型の1段目のモータケースを延長し、打ち上げ能力を大幅に強化した。 *全長23.8メートル、直径1.41メートル、重量48.7トン、低軌道打ち上げ能力300キロ *打ち上げ衛星:[[たんせい3号]]、[[きょっこう]]、[[じきけん]] ;[[M-3Sロケット|M-3S]]([[1980年]] - [[1984年]]) M型の1段目に姿勢制御装置を取り付けた。 *全長23.8メートル、直径1.41メートル、重量48.7トン、低軌道打ち上げ能力300キロ *打ち上げ衛星:[[たんせい4号]]、[[ひのとり (人工衛星)|ひのとり]]、[[てんま]]、[[おおぞら (人工衛星)|おおぞら]] ;[[M-3SIIロケット|M-3SII]]([[1985年]] - [[1993年]]) S型の1段目を利用するが、そのほかは全くの新造。打ち上げ能力は一挙に2倍以上となった。 *全長27.8メートル、直径1.41メートル、重量61トン、低軌道打ち上げ能力770キロ *打ち上げ衛星:[[さきがけ (探査機)|さきがけ]]、[[すいせい]]、[[ぎんが (人工衛星)|ぎんが]]、[[あけぼの (人工衛星)|あけぼの]]、[[ひてん]]、[[ようこう]]、[[あすか (人工衛星)|あすか]] ;[[J-Iロケット|J-I]]([[1996年]]) [[宇宙開発事業団|NASDA]]と共同開発。1段目に[[H-IIロケット|H-II]]の[[固体ロケットブースター|SRB]]、2段目にM-3SIIのM-23を使用している。試験1号機のみで計画凍結。 *全長33.1メートル、直径1.8メートル、重量88.5トン *打ち上げ積荷:[[HYFLEX|高速再突入実験機]](HYFLEX) ;[[M-Vロケット|M-V]]([[1997年]] - [[2006年]]) 直径の1.41メートル枠が外れ太くなった。打ち上げ能力も2倍以上に。M-V-5以降は2段目が[[繊維強化プラスチック|CFRP]]化され、さらに打ち上げ能力が50キロアップ。研究所最後のロケット。固体燃料ロケットとしては世界最大級。 *全長30.7メートル、直径2.5メートル、重量139トン、低軌道打ち上げ能力1,850キロ :(M-V-4以前は低軌道打ち上げ能力1,800キロ) *打ち上げ衛星:[[はるか (人工衛星)|はるか]]、[[のぞみ (探査機)|のぞみ]]、[[はやぶさ (探査機)|はやぶさ]]、[[すざく]]、[[あかり (人工衛星)|あかり]]、[[ひので (人工衛星)|ひので]] :「すざく」「あかり」「ひので」はJAXA統合後に打ち上げ。 === Ε(イプシロン)ロケット === {{main|イプシロンロケット}} === その他 === ペンシルからミューに至る本流以外にも、多くの小型の技術試験ロケットや[[観測ロケット]]が存在する。 * [[アルファロケット]](1956年) - カッパに向けた地上燃焼試験機。[[ロックーン]]として飛翔。 * [[シグマロケット]](1957年〜1961年) - ロックーン。Σ-4が高度105キロを達成。 * [[パイロケット]](1957年) - 全面的に構造にプラスチックを採用。πTが高度2.5キロに到達。 * [[OT-75ロケット|OT-75]](1962年) - [[鹿児島宇宙空間観測所]]で初めて打ち上げられたロケット。 * [[HT-110ロケット|HT-110]](1965年〜1966年) - 小型高性能観測ロケットの基礎技術研究の為の試験機。 * [[MT-135ロケット|MT-135]](1964年〜2001年) - 気象観測を目的とした観測ロケット。1,000機以上が飛翔。 * [[S-160ロケット|S-160]](1964年〜1972年) - MT-135を基に開発された単段式小型汎用観測ロケット。 * [[S-210ロケット|S-210]](1969年〜1982年) - 廉価な観測ロケットを目的としたIX計画において開発された、単段式観測ロケット。 * [[S-310ロケット|S-310]](1975年〜'''現用''') - 南極用観測ロケットとして開発されたS-300の後継機。40機近くが飛翔。 * [[S-520ロケット|S-520]](1980年〜'''現用''') - 単段式観測ロケット。K-9Mの2倍のペイロード能力をもつ。20機以上が飛翔。 * [[MT-110ロケット|MT-110]] (1984年) - 南極用観測ロケット。小型高性能を目指したが、要求性能を満たせず2機の飛翔試験のみで計画終了。 * [[SS-520]] (1998年〜'''現用''') - S-520にCFRP製の第2段を加えた2段式観測ロケット。小型人工衛星打ち上げの技術実験機。 == 科学衛星ミッション一覧 == {{See also|日本の宇宙機の一覧}} 宇宙科学研究所とその前身組織で開発・打ち上げを行った[[科学衛星]]ミッションは以下の通りである。 {|class="wikitable" !名称!!命名前!!打ち上げロケット!!打ち上げ年月日!!目的!!備考 |- |colspan="6" class="center"|'''東京大学 宇宙航空研究所''' |- |[[おおすみ]]||-||L-4S-5||[[1970年]][[2月11日]]||打ち上げ試験衛星||日本初の人工衛星 |- |[[たんせい]]||MS-T1||M-4S-2||[[1971年]][[2月16日]]||工学試験衛星|| |- |style="background:#cfc"|[[しんせい (人工衛星)|しんせい]]||MS-F2||M-4S-3||1971年[[9月28日]]||電離層観測衛星|| |- |style="background:#cfc"|[[でんぱ]]||REXS||M-4S-4||[[1972年]][[8月19日]]||電離層・磁気圏観測衛星|| |- |[[たんせい2号]]||MS-T2||M-3C-1||[[1974年]][[2月16日]]||工学試験衛星|| |- |style="background:#cfc"|[[たいよう]]||SRATS||M-3C-2||[[1975年]][[2月24日]]||熱圏観測衛星|| |- |[[たんせい3号]]||MS-T3||M-3H-1||[[1977年]][[2月19日]]||工学試験衛星|| |- |style="background:#cfc"|[[きょっこう]]||EXOS-A||M-3H-2||[[1978年]][[2月4日]]||オーロラ観測衛星|| |- |style="background:#cfc"|[[じきけん]]||EXOS-B||M-3H-3||1978年[[9月16日]]||磁気圏観測衛星|| |- |style="background:#f0f0ff"|[[はくちょう (人工衛星)|はくちょう]]||CORSA-b||M-3C-4||[[1979年]][[2月21日]]||X線天文衛星|| |- |[[たんせい4号]]||MS-T4||M-3S-1||[[1980年]][[2月17日]]||工学試験衛星|| |- |style="background:#fcc"|[[ひのとり (人工衛星)|ひのとり]]||ASTRO-A||M-3S-2||[[1981年]][[2月21日]]||太陽観測衛星|| |- |colspan="6" class="center"|'''文部省 宇宙科学研究所''' |- |style="background:#f0f0ff"|[[てんま]]||ASTRO-B||M-3S-3||[[1983年]][[2月20日]]||X線天文衛星|| |- |style="background:#cfc"|[[おおぞら (人工衛星)|おおぞら]]||EXOS-C||M-3S-4||[[1984年]][[2月14日]]||中層大気観測衛星|| |- |style="background:#ffc"|[[さきがけ (探査機)|さきがけ]]||MS-T5||[[M-3SIIロケット|M-3SII-1]]||[[1985年]][[1月8日]]||[[ハレー彗星]]探査機||初めて惑星間軌道を飛行 |- |style="background:#ffc"|[[すいせい]]||PLANET-A||M-3SII-2||1985年[[8月19日]]||ハレー彗星探査機|| |- |style="background:#f0f0ff"|[[ぎんが (人工衛星)|ぎんが]]||ASTRO-C||M-3SII-3||[[1987年]][[2月5日]]||X線天文衛星|| |- |style="background:#cfc"|[[あけぼの (人工衛星)|あけぼの]]||EXOS-D||M-3SII-4||[[1989年]][[2月22日]]||磁気圏観測衛星|| |- |style="background:#ffc"|[[ひてん]]||MUSES-A||M-3SII-5||[[1990年]][[1月24日]]||工学実験探査機||初めて月面に到達 |- |style="background:#fcc"|[[ようこう]]||SOLAR-A||M-3SII-6||[[1991年]][[8月30日]]||太陽観測衛星|| |- |style="background:#cfc"|[[GEOTAIL]]||GEOTAIL||[[デルタロケット|デルタII]]||[[1992年]][[7月24日]]||磁気圏観測衛星|| |- |style="background:#f0f0ff"|[[あすか (人工衛星)|あすか]]||ASTRO-D||M-3SII-7||[[1993年]][[2月20日]]||X線天文衛星|| |- |style="background:#ccf"|[[SFU (人工衛星)|SFU]]||SFU||[[H-IIロケット|H-II 3号機]]||[[1995年]][[3月18日]]||宇宙実験衛星||フリーフライヤー<br />[[1996年]][[1月13日]]に[[スペースシャトル|STS-72]][[若田光一]]が回収 |- |style="background:#cff"|[[はるか (人工衛星)|はるか]]||MUSES-B||[[M-Vロケット|M-V-1]]||[[1997年]][[2月12日]]||工学実験衛星||スペースVLBI観測 |- |style="background:#ffc"|[[のぞみ (探査機)|のぞみ]]||PLANET-B||M-V-3||[[1998年]][[7月4日]]||火星探査機||[[2003年]]12月に火星周回軌道投入断念 |- |colspan="6" class="center"|'''文部科学省 宇宙科学研究所''' |- |style="background:#ffc"|[[はやぶさ (探査機)|はやぶさ]]||MUSES-C||M-V-5||[[2003年]][[5月9日]]||工学実験衛星||実質は[[小惑星]]探査機、サンプルリターン<br />[[2005年]]に[[イトカワ (小惑星)|イトカワ]]に到達<br />[[2010年]]に地球帰還 |- |colspan="6" class="center"|'''宇宙航空研究開発機構 宇宙科学研究本部''' |- |style="background:#f0f0ff"|[[すざく]]||ASTRO-EII||M-V-6||[[2005年]][[7月10日]]||X線天文衛星|| |- |style="background:#f0f0ff"|[[あかり (人工衛星)|あかり]]||ASTRO-F||M-V-8||[[2006年]][[2月22日]]||赤外線天文衛星|| |- |style="background:#fcc"|[[ひので (人工衛星)|ひので]]||SOLAR-B||M-V-7||[[2006年]][[9月23日]]||太陽観測衛星|| |- |colspan="6" class="center"|'''宇宙航空研究開発機構 宇宙科学研究所''' |- |style="background:#ffc"|[[あかつき (探査機)|あかつき]]||PLANET-C||[[H-IIAロケット|H-IIA 17号機]]||[[2010年]][[5月21日]]||金星探査機||[[2010年]][[12月7日]]金星周回軌道への投入に失敗<br>[[2015年]]12月7日軌道への投入再挑戦、成功 |} == 大気球 == 戦前から行われていた気球による科学観測や、ロックーンに用いる気球の開発を引き継いで、[[1966年]]に宇宙航空研究所内に気球部門が発足した。以後飛行機による観測と人工衛星による観測の間を埋める唯一の飛翔体として長期科学観測や工学実験に用いられ、合計500機以上が飛翔している。 === 放球方式 === 初期は一般的によく用いられる気球下部を畳むことで地面に置き放球を行う「スタティック放球方式」や、気球本体をローラー車によりランチャー上に立て上げて放球を行う「立て上げ放球方式」が主流であった。その後、大型放球装置を用いて「立て上げ放球方式」の長所を伸ばし短所を克服した独自の放球方式である「セミダイナミック放球方式」が用いられた。2008年には放球場が[[大樹町多目的航空公園|大樹航空宇宙実験場]]に移転したことで、「セミダイナミック放球方式」をさらに発展させて気候による影響を抑えた「スライダー放球方式」が用いられるようになっている。 === 型式一覧 === 型式の添字は xx × 10{{sup|3}} m{{sup|3}} の容積をもつことを意味する。 * B{{sub|xx}} - 標準型の大気球。B{{sub|01}}, B{{sub|5}}, B{{sub|10}}, B{{sub|15}}, B{{sub|100}}, B{{sub|500}}など。 * T{{sub|5}} - テトラ型気球。 * B{{sub|xx}}H - B{{sub|x}}型の中で特に薄いフィルムを用いたものにつけられた呼称で初期のみ使用された。B{{sub|01}}H, B{{sub|1}}H, B{{sub|5}}H。 * BC{{sub|xx}} - シリンダ型気球。BC{{sub|01}} 、BC{{sub|1}}。 * EV{{sub|xx}} - [[エチレンビニルアルコール|エバール]]・[[ポリエチレン]]製[[ラミネート]][[フィルム]]気球。EV{{sub|01}}、EV{{sub|1}}。 * BT{{sub|xx}} - 厚さ5.6μmの薄膜を用いた気球。BT{{sub|5}}、BT{{sub|15}}、BT{{sub|30}}、BT{{sub|120}}。 * BU{{sub|xx}} - 厚さ3.4μmの薄膜を用いた気球。BU{{sub|60}}は2002年に[[高高度気球|無人気球到達高度の世界記録]]を更新し、53.0キロに到達した。BU{{sub|1}}、BU{{sub|5}}、BU{{sub|30}}、BU{{sub|60}}。 * BVT{{sub|60}} - 厚さ2.8μmの薄膜を用いた気球。 * BS13 - 厚さ2.8μmの薄膜を用いた気球(満膨張体積8万平方キロメートル(直径60メートル))で、2013年9月20日に無人気球到達高度の世界記録を更新し、53.7キロに到達した<ref>{{Cite news |title=無人気球到達高度の世界記録更新について |url=https://www.jaxa.jp/press/2013/09/20130920_ballon_j.html |publisher=JAXA |date=2013-09-20 |accessdate=2013-09-21}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[東京大学航空研究所]] - かつて存在した東京大学(東京帝国大学)の附属研究施設。宇宙科学研究所の前身の一つ。 === 関連組織 === * [[宇宙航空研究開発機構]] ** [[航空宇宙技術研究所]] ** [[宇宙開発事業団]] * [[国立天文台]] * [[銀河連邦]] - 現JAXAの施設(研究所、射場、アンテナ等)のある自治体が協力して広報活動を行っている。 * [[東京大学]] ** [[東京大学生産技術研究所]] * [[総合研究大学院大学]] == 外部リンク == {{commonscat|ISAS}} * {{Official website}} {{日本の宇宙探査機・人工衛星}} {{大学共同利用機関法人}} {{文部科学省}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:うちゆうかかくけんきゆうしよ}} [[Category:JAXA]] [[Category:相模原市中央区の建築物]] [[Category:神奈川県の研究所]] [[Category:宇宙科学研究所|*]] [[Category:1981年設立の政府機関]] [[Category:大学共同利用機関法人]] [[Category:総合研究大学院大学]]
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はやぶさ (探査機)
はやぶさ(第20号科学衛星MUSES-C)は、2003年5月9日13時29分25秒(日本標準時、以下同様)に宇宙科学研究所(ISAS)が打ち上げた小惑星探査機で、ひてん、はるかに続くMUSESシリーズ3番目の工学実験機である。開発・製造はNEC東芝スペースシステムが担当した。 イオンエンジンの実証試験を行いながら2005年夏にアポロ群の小惑星 (25143) イトカワに到達し、その表面を詳しく観測してサンプル採集を試みた後、2010年6月13日22時51分、60億kmの旅を終え地球に帰還し、大気圏に再突入した。地球重力圏外にある天体の固体表面に着陸してのサンプルリターンに、世界で初めて成功した。 はやぶさは2003年5月に内之浦宇宙空間観測所よりM-Vロケット5号機で打ち上げられ、太陽周回軌道(他の惑星と同様に太陽を公転する軌道)に投入された。その後、搭載する電気推進(イオンエンジン)で加速し、2004年5月にイオンエンジンを併用した地球スイングバイを行って、2005年9月には小惑星「イトカワ」とランデブーした。約5か月の小惑星付近滞在中、カメラやレーダーなどによる科学観測を行った。次に探査機本体が自律制御により降下・接地して、小惑星表面の試験片を採集することになっていた。その後、地球への帰還軌道に乗り、2007年夏に試料カプセルの大気圏再突入操作を行ってパラシュートで降下させる計画であったが、降下・接地時の問題に起因する不具合から2005年12月に重大なトラブルが生じたことにより、帰還は2010年に延期された。 2010年6月13日、サンプル容器が収められていたカプセルは、はやぶさから切り離されて、パラシュートによって南オーストラリアのウーメラ砂漠に着陸し、翌14日16時8分に回収された。はやぶさの本体は大気中で燃えて失われた。 カプセルは18日に日本に到着し、内容物の調査が進められ、11月16日にカプセル内から回収された岩石質微粒子の大半がイトカワのものと判断したと発表された。 小惑星からのサンプルリターン計画は国際的にも例が無かった。この計画は主に工学試験のためのミッションであり、各段階ごとに次のような実験の成果が認められるものである。 はやぶさの地球帰還とカプセルの大気圏再突入、カプセルの一般公開、その後の採取物の解析などは日本を中心に社会的な関心を集めた。はやぶさがミッションを終えてからもブームはしばらく続いた。 イトカワ探査の終了後、JAXAでは「はやぶさ2」をミッションとして立案していたが、2011年5月12日、JAXAは「はやぶさ2」を2014年に打ち上げる予定であると発表した。 2013年1月30日に、JAXAがこれまでに蓄積した膨大なデータを広く一般に公開するための実験の1つとして、はやぶさのAPIが構築された。このAPIは多摩美術大学と東京工科大学に公開され、同大学の学生がはやぶさのAPIを使用したアプリケーション開発を行う。 ISASでは探査機の名前は、関係者同士の協議によって命名されてきた。MUSES-Cの場合、「はやぶさ」の他にも「ATOM」(Asteroid Take-Out Mission、アトム)という有力候補が存在した。 この名は的川泰宣を中心に組織票が投じられていた案であった。一方「はやぶさ」は上杉邦憲と川口淳一郎によって提案され、小惑星のサンプル採取が1秒ほどの着地と離陸の間に行われる様子をハヤブサが獲物を狩る様子に見立てた案であった。他にも「はやぶさ」の名には、かつて東京から西鹿児島を走った『特急はやぶさ』や、鹿児島県の地名でもある『隼人』の面もあった。協議の際に的川は「最近の科学衛星は『はるか』とかおとなしい感じの名前や、3文字の名前が多いので、濁点も入った勇壮な『はやぶさ』もいいね」と語り、また「ATOM」は語意の原子から原子爆弾が連想されるとして却下され、結局「はやぶさ」が採用された。 小惑星の名前が「イトカワ」であることから「戦闘機と宇宙機の両方分野で著名な糸川英夫氏に縁の深い、戦闘機『隼』にちなんで命名された」と言われることもあったが、本探査機の打上げ日に初めて「はやぶさ」という正式名称が発表され、それから3か月後にその目標である小惑星1998 SF36が「イトカワ」と命名されたので、誤解であると川口は説明している。 後続のはやぶさ2と対比して「初代はやぶさ」「(はやぶさ)初号機」といったレトロニムで呼ばれることもある。 後に「はやぶさ」に至る小惑星サンプルリターン計画の検討は、日本で初めて惑星間空間に到達することになった「さきがけ」の打ち上げが成功裏に行われ、「すいせい」の打ち上げを控えた1985年6月、ISAS教授(当時)鶴田浩一郎が主催する「小惑星サンプルリターン小研究会」として始まった。その成果として翌1986年には1990年代を想定し、化学推進を用いてアモール群に分類される小惑星である「アンテロス」を対象とするサンプルリターン構想が纏まる。しかし、要求を満たす能力を持つロケットが存在しないなど、時期尚早であるとしてプロジェクトの提案はなされなかった。 M-Vロケット開発を受けて検討は再開され、1989年秋から1990年春にかけて行われた宇宙理学委員会において、M-V 2号機のプロジェクトとして提案された。だが、LUNAR-A計画に敗れ採用されなかった。その後はランデブーとホバリングによる超接近観測を目的とした工学衛星計画に方向性を改めて再検討が進められることになった。1991年1月時点において、MUSES-C計画は光学観測による自律航行、三軸姿勢制御、ターゲットマーカーを用いた自律運用、X線分析装置と質量分析器の搭載などが検討されており、1997年5月に二段式キックモーターを装備したM-Vで打ち上げられ、1998年6月にアンテロスに到達するという計画であった。その後も検討は進められ、1995年に小惑星サンプルリターン技術実験探査機として宇宙工学委員会で選定、1995年8月に宇宙開発委員会が承認し、正式にプロジェクトが開始された。 小惑星サンプルリターン計画と並行して、彗星サンプルリターン計画の検討も行われていた。1987年のハワイにおけるISY会議の席上で、低価格な彗星サンプルリターン計画「SOCCER」の検討をジェット推進研究所 (JPL) とISASとの合同で開始することが決定された。M-Vによる打ち上げや、マリナーMarkII計画の「CRAF」との連携を視野に入れたデルタロケットの使用も検討され、1992年のディスカバリー計画ワークショップにおいて提案されるが、採用されなかった。その後、1994年にISASはMUSES-C計画に注力することを決定、SOCCER計画から外れる。その後、JPLによって検討を続けられたこの計画は、「スターダスト」としてディスカバリー計画に採用された。 1994年に本格化した計画当初、目的地の小惑星は (4660) ネレウスであった。しかしM-Vロケットで打ち上げ可能な探査機の能力から見て、ネレウスへ向かうことが難しいと判断され、第2候補である (10302) 1989 ML という小惑星に変更された。しかし2000年2月10日のM-Vロケット4号機の打ち上げが失敗、2002年初頭に予定されていた打ち上げ計画が延期となって、1989 ML へ向かうことが出来なくなった。その結果、(25143) 1998 SF36が3つ目の候補として浮上、目的地として決定することになった。 はやぶさ命名3か月後の2003年8月、目的地の小惑星1998 SF36は、(探査対象となったことから)日本の宇宙開発の父、糸川英夫にちなんで、「イトカワ」と命名された。糸川は中島飛行機出身であり、設計に参加した飛行機としては「戦闘機隼()」が著名であるが、先述のとおりこれが小惑星の名前の由来となったわけではない。 本エンジンは燃料としてキセノンを用いており「イオン生成」「静電加速」「中和」という3段階を経て、キセノン・イオンが約30km毎秒ほどの加速を受けて真空の空間のほぼ一定方向へ放射する仕組みになっている。この陽イオンの放出による反動が、1基あたり8ミリ・ニュートンの定格推力を生む。 宇宙機でのミッション系に相当する探査機器類は、受動的なセンサ系と能動的なサンプル採取関係のものに大きく分けられる。センサ系は小惑星への接近時に用いられる純然たるミッションの誘導用と、ミッション内容によらず宇宙空間内での位置や方向などを知るための航法用のものがあり、両方を兼ねるものもある。 MINERVA(ミネルバ)は、当初、はやぶさへの搭載が予定されていたアメリカ航空宇宙局 (NASA) のローバーがキャンセルされたため、それまでゆっくりと開発されていたものが、急遽準備された日本の小型ローバーである。プロジェクトマネージャーの川口淳一郎が日本独自の子探査機を搭載することを提案し開発された。名称は "MIcro/Nano Experimental Robot Vehicle for Asteroid" の略である。カウンターバランスの代わりに搭載することが前提となっており、分離機構を含めた質量を1kg以内に収めることが条件となっていた。NASAのJPLによってMUSES-CNの開発が進められていたことから正式なプロジェクトとしては扱われておらず、開発費は技術研究費用から捻出された。民生品や宇宙仕様品の廃棄部位の使用、宇宙仕様品のメーカーによる無償提供などで開発コストが大幅に削減されている。当初は正4面体の頂点にハエタタキのような構造を取り付け、それをモーターで駆動するという方式が考えられたが、駆動部位の露出や消費電力の面で問題があり、最終的には完全密閉の正16角柱形の外形に、内部のモーターを駆動してその反力でホップするという方式に決定した。 打ち上げ後2年を経て2005年11月12日に探査機から分離されたが、分離時に探査機が上昇中であったため、イトカワに着陸することはできず、史上最小(当時)の人工惑星となった(後にIKAROSのDCAM2により更新)。分離後の状態は良好であり、探査機の太陽電池パネルを撮影した他、通信可能限界距離を越え通信が途絶するまで18時間に渡ってデータを送信し続けた。 "MUSES-CN"は質量1kgを目標として開発される予定の小型ローバーだった。この着陸探査機は、NASAジェット推進研究所のディープスペースネットワークを利用する対価として「はやぶさ」に搭載される予定だったが、重量過多と開発費の高騰によって2000年11月3日に開発計画は中止された。カメラや近赤外分光器の搭載を予定していた。 はやぶさでは、光学複合航法と地形航法が採用されていた。光学複合航法は主に宇宙空間での軌道を決定するためのものであり、地形航法はイトカワへ正確に着地するためのものであった。 (時刻はすべてJST) (時刻はすべてJST) (時刻はすべてJST) はやぶさはカプセルを分離した後、最後に地球を撮影するミッションを行った。イトカワの観測終了後、カメラとその保温ヒーター電源は長時間切られたままで健全性が不明だった。また、カプセル分離まではそれに適した姿勢に保つ必要があり、分離機構が不調の場合にはカメラを地球に向けての写真撮影はできないと思われていた。しかし、カプセルの切り離しに順調に成功したため、カプセル取り付け面に対して側面にある広角カメラ (ONC-W2)を地球方向に向くよう姿勢を変更した。カプセル分離の反動でふらつく機体の姿勢を、イオンエンジンの推進剤の直接噴出と1基だけ残ったリアクションホイール (RW-Z) によって立て直し、2時間かけて機体を回転させた。そして13日22時2分頃までに地球を5 - 6枚撮影し、データを地上に送信した。そのほとんどは真っ暗なものでしかなかったが、送信の最中に通信が途絶して写真の下部が欠けていた最後の1枚の写真が、ぎりぎりで地球の姿を捉えていた。 2003年5月9日の打ち上げから7年。姿勢制御用のリアクションホイールは3基中2基、化学燃料スラスタはすべて故障。バッテリは放電しきっているため、太陽電池パネルが太陽方向から逸れると即座に電源断となる状態。故障したスラスタ同士を繋いで復活させたイオンエンジンもいつ止まるかわからず、搭載されたコンピュータすらビット反転を起こし始めているという、まさに満身創痍の帰還であった。実際に使用されることはなかったが、最後のリアクションホイールが故障した場合の対策も用意されていた。 6月13日22時51分頃惑星間軌道から直接12km/sの相対軌道速度で、はやぶさ本体およびカプセルは大気圏再突入した。流星のように輝きながら無数の破片に分解し、燃え尽きていくはやぶさ本体と、一筋の光の尾を曳いて飛び続ける再突入カプセルは、南オーストラリア州においては数十秒間にわたり地上から肉眼でも観測され、満月の倍の明るさに相当するマイナス13等級の輝きを発し、人の影が地面に映るほどの明るさとなった。 事前の予想では、大気圏再突入時の光跡は最大でマイナス5等級程度と報道されていたが、後の記者会見では、この予想ははやぶさ本体を含まない、再突入カプセル単体の明るさを指した予想であったと訂正された。 22時56分、カプセルからの電波信号(ビーコン)が受信され、パラシュートが開いたことが確認された。カプセルは23時8分頃に着陸したと推定される。着陸予想地点の周囲に展開した方向探測班がビーコンの方向から落下位置を推定し、発熱による赤外線を頼りにヘリコプターによる捜索が行われ、13日23時56分、再突入直前の予想地点から1 kmほどのウーメラの北西約200 kmで目視により発見された。 現地の砂漠一帯は先住民アボリジニーの聖地でもあるため、14日午前にアボリジニーの代表がヘリで現場を視察し、了解を得た後、宇宙機構のチームがカプセル回収に向かった。カプセルに付いている火薬などの危険物が安全な状態かどうかを調べた後、カプセル回収作業を開始し、約4時間後に回収を完了し、専用のコンテナで現地の拠点施設まで移送された。また、探索されていたヒートシールドも14日14時頃に発見され、翌日に回収された。 なおこれ以前にも日本の宇宙機が自力で大気圏再突入に耐えた例はいくつかあるが、回収まで予定通りに成功したのは2003年に回収されたUSERS回収カプセル以来7年ぶり2度目。旧ISASが打ち上げた衛星・探査機としては初の回収成功となった(失敗後に偶然回収されたEXPRESSを除く)。大気圏再突入時の最大減速率は50G程度で、再突入から約150秒後には秒速数十メートルまでの減速が行われた。 NASAはJAXAなどと共同で、観測用航空機「DC-8」から19台のカメラで「はやぶさ」の大気圏再突入を撮影した。はやぶさは惑星間航行をしていたので、歴史上2番目の速度で大気圏再突入が行われ、カプセルは1万 - 2万度の高温にさらされた。NASAの支援としてはこのほかに、ディープスペースネットワークによるはやぶさの追跡支援、エイムズ研究センターの大型加熱風洞を用いた再突入カプセルの耐熱シールド試験があった。 発見されたカプセルは、ウーメラ施設内のクリーンルームで爆発の危険性がある装置と電子回路を取り除いた後、窒素を満たしたポリエチレンの袋に入れた上で内箱に収納。さらに衝撃吸収用のボールを並べた免震箱に入れて熱シールドと共にチャーター機で日本に輸送され、17日深夜に羽田空港に到着した。18日2時にトラックでJAXA相模原キャンパスのキュレーションセンターに搬送された。カプセルはX線断層撮影 (CT) 検査を行うため一旦JAXA調布キャンパス飛行場分室に移送され、検査の結果容器に亀裂などがないことが確認された。昼夜連続でカプセルの清掃が行われ、20日にはサンプルコンテナがクリーンチェンバーに導入された。22日にサンプルコンテナが開封され、内部から微量のガスが採取されたが、大部分が地球大気由来の気体であった。24日には、サンプルキャッチャーA室の開封作業に着手した。 7月5日、JAXAはカプセル内のサンプルコンテナから肉眼で確認できる直径1ミリメートルほどの微粒子十数個と、サンプルキャッチャーA室の内壁から直径10マイクロメートルほどの微粒子2個を顕微鏡で確認したと発表した。その後、調査範囲を広げるにつれて発見される粒子の数も増えていった。カプセル内の微粒子はマニピュレーターで1粒ずつガラス容器に移して詳細に検査する予定だったが、事前に行ったリハーサルより粒子が小さく効率が悪かったことから、電子顕微鏡で観察できるサイズのテフロン製ヘラと純窒素チャンバーを開発し、地球大気による汚染を遮断した環境下で容器の壁面をこすって微粒子を採取するようにしたところ、10マイクロメートル以下の微粒子を約3,000個捕獲することができた。 11月16日までにA室内から回収した微粒子のうち約1,500個が岩石質であった。回収された微粒子が地球上で混入したものなのか、イトカワ由来なのかはキュレーションセンター内での簡易分析だけでは判断できないと考えられていたが、X線分光分析の結果、組成が地球上の岩石では見られないLL4-6コンドライト隕石の組成と一致した。イトカワの観測結果から、イトカワはLLコンドライトと近い物質であると推定されていたことから大部分がイトカワ起源と判断され、11月16日に公表された。12月7日にサンプルキャッチャーB室を開封した。 テフロン製ヘラによる採取では、微粒子がヘラに付着して取れなくなってしまうことから、サンプルキャッチャーをひっくり返して振動を与え、合成石英ガラス製の円盤に粒子を落下させる方法(自由落下法)が考案され、大きなもので300マイクロメートルを超える粒子を回収することができた。また、ガラス円盤に付着した試料は静電制御によるマイクロマニピュレーターによりひとつずつ拾い集められた。2013年3月15日までに400個ほどの粒子が回収され、元素組成によってカテゴリー別に分類され1つずつ保管されている。回収した粒子は初期分析のため各研究機関に配付された他、NASAや公募によって決まった各国の研究機関でより詳細な分析を行い、さらに一部のサンプルは分析技術の進歩に期待して保存する予定である。 粒子の初期分析は当初予定の8月以降から9月以降、さらに12月以降へと延期され、ようやく2011年1月21日にSPring-8で最初の初期分析が始められた。3月にはアメリカで開かれた第42回月惑星科学会議で初期分析の中間報告が発表された。 役割を果たした再突入カプセルのヒートシールドやパラシュートなど、および地上試験用のエンジニアリングモデルは、2010年7月末から8月にかけて以下の場所で公開された。一般公開の初日には1万3千人の来場者が詰めかけ、最大で3時間待ちにもなる長蛇の列をつくった。 その後も引き続き各地で公開されていたが、ヒートシールドは研究解析に供されるため展示されないこともあった。なお、ヒートシールドの形状は重要機密事項であったらしく、少なくとも筑波宇宙センターで見学者に配布された資料ではヒートシールドの輪郭が塗りつぶされていた。 2010年7月の相模原キャンパス特別公開を皮切りに同年11月からは本格的に各地を巡回し、最後の会場の愛知県刈谷市で2012年4月3日をもって全行程を終了した。全69会場で延べ89万人の来場者数を記録した。 これとは別に、再突入カプセルを製作したIHIエアロスペースの工場が群馬県富岡市にある縁で、同社は2010年10月に実物大レプリカを群馬県に寄贈しており、県内で巡回展示された後にぐんま天文台で2011年1月15日から常設展示されている。 6月13日を銀河連邦が「はやぶさの日」(英: HAYABUSA DAY) に制定し、2012年5月28日に日本記念日協会から認定を受け登録された。 以下の表は、開発・運用・回収サンプル解析に関わった企業を中心にまとめられた、主な「はやぶさ」関連企業の一覧である。 はやぶさ (MUSES-C) の打ち上げ以前からMUSES-C後継機の構想はあり、小天体探査フォーラム (MEF) では後継機の任務について、同じ小惑星族(コロニス族またはニサ族)に属する複数の小惑星を探査する案や、スペクトルが既知の地球近傍天体 (NEO) 複数を探査する案など、多数の案が検討された。 2011年5月12日、はやぶさの改良機「はやぶさ2」が2014年に打ち上げ、地球近傍小惑星リュウグウを探査する計画が発表された。2014年12月3日に打ち上げられ、2018年にリュウグウに到着、2020年に帰還する計画が立案され、計画通りに実行された。 「はやぶさ2」以降については、より大型・高性能な「はやぶさMk.II(マーク2)」、「はやぶさMk.II」をヨーロッパ宇宙機関と共同開発するという「マルコ・ポーロ(英語版)」などの構想がある。 複数の技術的なトラブルに見舞われ帰還を絶望視されつつも、それを乗り越えて地球への帰還を目指すはやぶさの旅程は、多くの日本人に美談として受け止められ共感を呼んだ。 天皇誕生日に先立つ2010年12月20日の記者会見で、上皇明仁は「はやぶさ」について次のように述べた。 また上皇后は、はやぶさが大気圏に突入した時のことを和歌に詠んだ。 その帰路に己れを焼きし「はやぶさ」の光輝(かがや)かに明かるかりしと 「はやぶさ」に対する関心ははじめから大きかったわけではない。はやぶさの着陸失敗が非常に大きく取り上げられた後、実は着陸していたことが取り上げられた。電波を捉えられなくなり、帰還が危ぶまれるようになるとほとんど報道されないようになった。マスメディアが関心を失っていく一方、インターネット上でははやぶさに関する話題の盛り上がりがあり、次第に注目を集めていった(詳細は「#インターネットによる広報と反響」を参照)。 2010年6月13日の地球帰還が近付くにつれてニュースやワイドショーで取り上げられる機会も増え、6月10日にはNHKの『クローズアップ現代』で「傷だらけの帰還 探査機はやぶさの大航海」が放送された(JAXAの的川泰宣がゲスト出演)。NHKはウーメラに近いグレンダンボに取材班を送り、大気圏再突入の模様をハイビジョンで撮影して翌14日未明から定時ニュースの冒頭で繰り返し放送したが、NHK・民放各局とも生中継を行わず、NHK広報局はツイッター上で「大気圏突入のタイミングには、ちょうどワールドカップの試合を放送しているので、生中継は難しそうです」などと冷静に理解を求めていたのだが、第1報もやや遅れたため、一部では放送局の反応に対する失望の声も上がった。 翌日14日の朝刊各誌は1面トップに写真付ではやぶさ突入の記事を掲載し、民放各局もはやぶさの帰還を報道している。またカプセルが着地したオーストラリアでは、大きな話題として扱ったテレビ放送局もあり、台湾やイギリスなどでも報道された。 はやぶさの帰還後は、日本国民の熱狂ぶりや国民的な関心の高さがメディア上でも紹介された。 はやぶさのカプセル帰還成功を受け、6月8日に成立したばかりの菅内閣の閣僚たちからは絶賛する発言が相次いだ。 これらの発言に対して、読売新聞は鳩山政権下ではやぶさ後継機の予算が削減されていたことを指摘し、「現金すぎ」と民主党政権を批判的に報じた。 はやぶさは、「星の王子さまに会いに行きませんか」キャンペーンを実施し、国内外から88万人の署名入りターゲットマーカーを積んでいたことで、投下成功のニュースには多くの励ましのメールがJAXAに届けられた。 イトカワ着陸の際は、管制室のインターネット中継や、ブログによる実況が行われた。2度目の着陸の際、栄養ドリンク「リポビタンD」の空き瓶が管制室の机にどんどん増えていく様子がブログを通して紹介され話題になった。後にブログの更新担当者のもとには大正製薬関係者からリポビタンDが2カートン贈られたという。 JAXAのwebサイトでは、ミッションの経過を絵本仕立てで紹介した『はやぶさ君の冒険日誌』やペーパークラフトなども公開された。 2006年、soyuz project名義で活動する音楽家、福間創は、はやぶさの地球への無事帰還を願い、「swingby」という楽曲を自身のwebサイトで無料配信した。配信後、この曲は相模原のJAXA宇宙科学研究本部の一般公開イベントにおいて、はやぶさコーナーのBGMとして正式に採用された。 地球帰還に向けて最後の軌道修正に入った2010年4月には特設ページが作られ、プロジェクトマネージャーの川口淳一郎を始めとする関係者たちのメッセージが掲載されたほか、ブログやTwitterで状況が報告された。Twitterでは「はやぶさ君」“本人”がつぶやいたり、「あかつきくん」や「イカロス君」と会話することもあった。 リアルタイムで多くの情報が公開されたことによりネットでの注目を集め、はやぶさを擬人化したキャラクターや、はやぶさをテーマにしたフラッシュ・MADムービー・楽曲などが作られた。ファンによるコスプレや実物大模型なども公開されてブームを盛り上げた。後日、ASCII主催による、川口淳一郎教授と今回のプロジェクトチームを招いて、今回のミッションについての対談が行われた際、Twitterの果たした役割にふれ、またニコニコ動画上のさだまさしの『案山子』や『宇宙戦艦ヤマト』などをモチーフにしたFLASHムービー作品について、とてもよく出来ていて気に入っているという感想を述べて、「はやぶさ」とネットとの親和性は高いと評価した。 2010年6月13日の大気圏再突入の際には、前述のように生中継を行った放送局が皆無であったのに対し、動画配信サイトでは現地からのインターネット中継が行われ、ニコニコ生放送に延べ21万人、JAXAの配信に36万アクセス、和歌山大学の配信に63万アクセスが殺到し、それぞれ視聴者数が制限されたり回線が繋がりにくくなったりする状況が発生した。Twitterでも注目を集め、NECビッグローブによる統計によれば、再突入を捉えた動画や画像が公開された頃を中心に、10分間辺り最大で27,000件を上回る発言がはやぶさの話題に費やされた。これは翌日の同時間帯に放送された2010 FIFAワールドカップ日本対カメルーン戦でゴールを決めた本田圭佑に対する、10分間辺り最大16,000件の発言を圧倒的に上回っている。 また「はやぶさ」が地球に帰還した翌日には、オンライン署名サイトで「はやぶさ2予算増額の嘆願署名」が作成されるなど、関係者以外からも注目が集まっている。 はやぶさに対する反響の一環として、プラモデルや書籍、果ては日本酒といったグッズも、無人探査機を扱った商品としては例外的な売れ行きを示した。例えば青島文化教材社から発売されたプラモデルは、同社における通常のヒット商品と比べて約4 - 5倍もの受注があり、初回製造分が数日で売り切れるほどの反響があったという。 2009年4月1日には、はやぶさの困難な旅程を叙情的に描いたプラネタリウム番組『HAYABUSA -BACK TO THE EARTH-』が公開され、プラネタリウム番組としては異例の人気があったという。 『HAYABUSA -BACK TO THE EARTH-』はDVDおよびBDでも発売され、好評を博したものの、終盤の映像はあくまで予想に基づく制作だったため、はやぶさの地球帰還の後に完全版を求める声が相次ぎ、終盤の映像を事実に基づいたCG映像と差し替えた『HAYABUSA -BACK TO THE EARTH- 帰還バージョン』が制作され、各地で上映中であったプラネタリウムでも随時帰還バージョンへと差し替えられた。 はやぶさ帰還後にはJAXAに8社から映画化のオファーがあり、2011年秋期から2012年春期にかけてはやぶさを主題とした映画3作が相次いで公開された。日本国内で同じ題材の映画が3作品重なって競作されることは非常に稀なことである。このうち20世紀フォックスの映画『はやぶさ/HAYABUSA』は、史上初の宇宙試写会という触れ込みで、国際宇宙ステーションに滞在中の宇宙飛行士を対象にした試写会が企画され、2011年7月27日に実施された。映画のほかには、映画の原作となった著作や、探査機を萌え擬人化した漫画作品などが出版されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "はやぶさ(第20号科学衛星MUSES-C)は、2003年5月9日13時29分25秒(日本標準時、以下同様)に宇宙科学研究所(ISAS)が打ち上げた小惑星探査機で、ひてん、はるかに続くMUSESシリーズ3番目の工学実験機である。開発・製造はNEC東芝スペースシステムが担当した。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "イオンエンジンの実証試験を行いながら2005年夏にアポロ群の小惑星 (25143) イトカワに到達し、その表面を詳しく観測してサンプル採集を試みた後、2010年6月13日22時51分、60億kmの旅を終え地球に帰還し、大気圏に再突入した。地球重力圏外にある天体の固体表面に着陸してのサンプルリターンに、世界で初めて成功した。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "はやぶさは2003年5月に内之浦宇宙空間観測所よりM-Vロケット5号機で打ち上げられ、太陽周回軌道(他の惑星と同様に太陽を公転する軌道)に投入された。その後、搭載する電気推進(イオンエンジン)で加速し、2004年5月にイオンエンジンを併用した地球スイングバイを行って、2005年9月には小惑星「イトカワ」とランデブーした。約5か月の小惑星付近滞在中、カメラやレーダーなどによる科学観測を行った。次に探査機本体が自律制御により降下・接地して、小惑星表面の試験片を採集することになっていた。その後、地球への帰還軌道に乗り、2007年夏に試料カプセルの大気圏再突入操作を行ってパラシュートで降下させる計画であったが、降下・接地時の問題に起因する不具合から2005年12月に重大なトラブルが生じたことにより、帰還は2010年に延期された。 2010年6月13日、サンプル容器が収められていたカプセルは、はやぶさから切り離されて、パラシュートによって南オーストラリアのウーメラ砂漠に着陸し、翌14日16時8分に回収された。はやぶさの本体は大気中で燃えて失われた。 カプセルは18日に日本に到着し、内容物の調査が進められ、11月16日にカプセル内から回収された岩石質微粒子の大半がイトカワのものと判断したと発表された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "小惑星からのサンプルリターン計画は国際的にも例が無かった。この計画は主に工学試験のためのミッションであり、各段階ごとに次のような実験の成果が認められるものである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "はやぶさの地球帰還とカプセルの大気圏再突入、カプセルの一般公開、その後の採取物の解析などは日本を中心に社会的な関心を集めた。はやぶさがミッションを終えてからもブームはしばらく続いた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "イトカワ探査の終了後、JAXAでは「はやぶさ2」をミッションとして立案していたが、2011年5月12日、JAXAは「はやぶさ2」を2014年に打ち上げる予定であると発表した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2013年1月30日に、JAXAがこれまでに蓄積した膨大なデータを広く一般に公開するための実験の1つとして、はやぶさのAPIが構築された。このAPIは多摩美術大学と東京工科大学に公開され、同大学の学生がはやぶさのAPIを使用したアプリケーション開発を行う。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ISASでは探査機の名前は、関係者同士の協議によって命名されてきた。MUSES-Cの場合、「はやぶさ」の他にも「ATOM」(Asteroid Take-Out Mission、アトム)という有力候補が存在した。 この名は的川泰宣を中心に組織票が投じられていた案であった。一方「はやぶさ」は上杉邦憲と川口淳一郎によって提案され、小惑星のサンプル採取が1秒ほどの着地と離陸の間に行われる様子をハヤブサが獲物を狩る様子に見立てた案であった。他にも「はやぶさ」の名には、かつて東京から西鹿児島を走った『特急はやぶさ』や、鹿児島県の地名でもある『隼人』の面もあった。協議の際に的川は「最近の科学衛星は『はるか』とかおとなしい感じの名前や、3文字の名前が多いので、濁点も入った勇壮な『はやぶさ』もいいね」と語り、また「ATOM」は語意の原子から原子爆弾が連想されるとして却下され、結局「はやぶさ」が採用された。 小惑星の名前が「イトカワ」であることから「戦闘機と宇宙機の両方分野で著名な糸川英夫氏に縁の深い、戦闘機『隼』にちなんで命名された」と言われることもあったが、本探査機の打上げ日に初めて「はやぶさ」という正式名称が発表され、それから3か月後にその目標である小惑星1998 SF36が「イトカワ」と命名されたので、誤解であると川口は説明している。", "title": "名前の由来" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "後続のはやぶさ2と対比して「初代はやぶさ」「(はやぶさ)初号機」といったレトロニムで呼ばれることもある。", "title": "名前の由来" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "後に「はやぶさ」に至る小惑星サンプルリターン計画の検討は、日本で初めて惑星間空間に到達することになった「さきがけ」の打ち上げが成功裏に行われ、「すいせい」の打ち上げを控えた1985年6月、ISAS教授(当時)鶴田浩一郎が主催する「小惑星サンプルリターン小研究会」として始まった。その成果として翌1986年には1990年代を想定し、化学推進を用いてアモール群に分類される小惑星である「アンテロス」を対象とするサンプルリターン構想が纏まる。しかし、要求を満たす能力を持つロケットが存在しないなど、時期尚早であるとしてプロジェクトの提案はなされなかった。", "title": "ミッション背景" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "M-Vロケット開発を受けて検討は再開され、1989年秋から1990年春にかけて行われた宇宙理学委員会において、M-V 2号機のプロジェクトとして提案された。だが、LUNAR-A計画に敗れ採用されなかった。その後はランデブーとホバリングによる超接近観測を目的とした工学衛星計画に方向性を改めて再検討が進められることになった。1991年1月時点において、MUSES-C計画は光学観測による自律航行、三軸姿勢制御、ターゲットマーカーを用いた自律運用、X線分析装置と質量分析器の搭載などが検討されており、1997年5月に二段式キックモーターを装備したM-Vで打ち上げられ、1998年6月にアンテロスに到達するという計画であった。その後も検討は進められ、1995年に小惑星サンプルリターン技術実験探査機として宇宙工学委員会で選定、1995年8月に宇宙開発委員会が承認し、正式にプロジェクトが開始された。", "title": "ミッション背景" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "小惑星サンプルリターン計画と並行して、彗星サンプルリターン計画の検討も行われていた。1987年のハワイにおけるISY会議の席上で、低価格な彗星サンプルリターン計画「SOCCER」の検討をジェット推進研究所 (JPL) とISASとの合同で開始することが決定された。M-Vによる打ち上げや、マリナーMarkII計画の「CRAF」との連携を視野に入れたデルタロケットの使用も検討され、1992年のディスカバリー計画ワークショップにおいて提案されるが、採用されなかった。その後、1994年にISASはMUSES-C計画に注力することを決定、SOCCER計画から外れる。その後、JPLによって検討を続けられたこの計画は、「スターダスト」としてディスカバリー計画に採用された。", "title": "ミッション背景" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1994年に本格化した計画当初、目的地の小惑星は (4660) ネレウスであった。しかしM-Vロケットで打ち上げ可能な探査機の能力から見て、ネレウスへ向かうことが難しいと判断され、第2候補である (10302) 1989 ML という小惑星に変更された。しかし2000年2月10日のM-Vロケット4号機の打ち上げが失敗、2002年初頭に予定されていた打ち上げ計画が延期となって、1989 ML へ向かうことが出来なくなった。その結果、(25143) 1998 SF36が3つ目の候補として浮上、目的地として決定することになった。", "title": "ミッション背景" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "はやぶさ命名3か月後の2003年8月、目的地の小惑星1998 SF36は、(探査対象となったことから)日本の宇宙開発の父、糸川英夫にちなんで、「イトカワ」と命名された。糸川は中島飛行機出身であり、設計に参加した飛行機としては「戦闘機隼()」が著名であるが、先述のとおりこれが小惑星の名前の由来となったわけではない。", "title": "ミッション背景" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "本エンジンは燃料としてキセノンを用いており「イオン生成」「静電加速」「中和」という3段階を経て、キセノン・イオンが約30km毎秒ほどの加速を受けて真空の空間のほぼ一定方向へ放射する仕組みになっている。この陽イオンの放出による反動が、1基あたり8ミリ・ニュートンの定格推力を生む。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "宇宙機でのミッション系に相当する探査機器類は、受動的なセンサ系と能動的なサンプル採取関係のものに大きく分けられる。センサ系は小惑星への接近時に用いられる純然たるミッションの誘導用と、ミッション内容によらず宇宙空間内での位置や方向などを知るための航法用のものがあり、両方を兼ねるものもある。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "MINERVA(ミネルバ)は、当初、はやぶさへの搭載が予定されていたアメリカ航空宇宙局 (NASA) のローバーがキャンセルされたため、それまでゆっくりと開発されていたものが、急遽準備された日本の小型ローバーである。プロジェクトマネージャーの川口淳一郎が日本独自の子探査機を搭載することを提案し開発された。名称は \"MIcro/Nano Experimental Robot Vehicle for Asteroid\" の略である。カウンターバランスの代わりに搭載することが前提となっており、分離機構を含めた質量を1kg以内に収めることが条件となっていた。NASAのJPLによってMUSES-CNの開発が進められていたことから正式なプロジェクトとしては扱われておらず、開発費は技術研究費用から捻出された。民生品や宇宙仕様品の廃棄部位の使用、宇宙仕様品のメーカーによる無償提供などで開発コストが大幅に削減されている。当初は正4面体の頂点にハエタタキのような構造を取り付け、それをモーターで駆動するという方式が考えられたが、駆動部位の露出や消費電力の面で問題があり、最終的には完全密閉の正16角柱形の外形に、内部のモーターを駆動してその反力でホップするという方式に決定した。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "打ち上げ後2年を経て2005年11月12日に探査機から分離されたが、分離時に探査機が上昇中であったため、イトカワに着陸することはできず、史上最小(当時)の人工惑星となった(後にIKAROSのDCAM2により更新)。分離後の状態は良好であり、探査機の太陽電池パネルを撮影した他、通信可能限界距離を越え通信が途絶するまで18時間に渡ってデータを送信し続けた。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "\"MUSES-CN\"は質量1kgを目標として開発される予定の小型ローバーだった。この着陸探査機は、NASAジェット推進研究所のディープスペースネットワークを利用する対価として「はやぶさ」に搭載される予定だったが、重量過多と開発費の高騰によって2000年11月3日に開発計画は中止された。カメラや近赤外分光器の搭載を予定していた。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "はやぶさでは、光学複合航法と地形航法が採用されていた。光学複合航法は主に宇宙空間での軌道を決定するためのものであり、地形航法はイトカワへ正確に着地するためのものであった。", "title": "航法" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "(時刻はすべてJST)", "title": "はやぶさの軌跡" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "(時刻はすべてJST)", "title": "はやぶさの軌跡" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "(時刻はすべてJST)", "title": "はやぶさの軌跡" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "はやぶさはカプセルを分離した後、最後に地球を撮影するミッションを行った。イトカワの観測終了後、カメラとその保温ヒーター電源は長時間切られたままで健全性が不明だった。また、カプセル分離まではそれに適した姿勢に保つ必要があり、分離機構が不調の場合にはカメラを地球に向けての写真撮影はできないと思われていた。しかし、カプセルの切り離しに順調に成功したため、カプセル取り付け面に対して側面にある広角カメラ (ONC-W2)を地球方向に向くよう姿勢を変更した。カプセル分離の反動でふらつく機体の姿勢を、イオンエンジンの推進剤の直接噴出と1基だけ残ったリアクションホイール (RW-Z) によって立て直し、2時間かけて機体を回転させた。そして13日22時2分頃までに地球を5 - 6枚撮影し、データを地上に送信した。そのほとんどは真っ暗なものでしかなかったが、送信の最中に通信が途絶して写真の下部が欠けていた最後の1枚の写真が、ぎりぎりで地球の姿を捉えていた。", "title": "はやぶさの軌跡" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2003年5月9日の打ち上げから7年。姿勢制御用のリアクションホイールは3基中2基、化学燃料スラスタはすべて故障。バッテリは放電しきっているため、太陽電池パネルが太陽方向から逸れると即座に電源断となる状態。故障したスラスタ同士を繋いで復活させたイオンエンジンもいつ止まるかわからず、搭載されたコンピュータすらビット反転を起こし始めているという、まさに満身創痍の帰還であった。実際に使用されることはなかったが、最後のリアクションホイールが故障した場合の対策も用意されていた。", "title": "はやぶさの軌跡" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "6月13日22時51分頃惑星間軌道から直接12km/sの相対軌道速度で、はやぶさ本体およびカプセルは大気圏再突入した。流星のように輝きながら無数の破片に分解し、燃え尽きていくはやぶさ本体と、一筋の光の尾を曳いて飛び続ける再突入カプセルは、南オーストラリア州においては数十秒間にわたり地上から肉眼でも観測され、満月の倍の明るさに相当するマイナス13等級の輝きを発し、人の影が地面に映るほどの明るさとなった。 事前の予想では、大気圏再突入時の光跡は最大でマイナス5等級程度と報道されていたが、後の記者会見では、この予想ははやぶさ本体を含まない、再突入カプセル単体の明るさを指した予想であったと訂正された。", "title": "はやぶさの軌跡" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "22時56分、カプセルからの電波信号(ビーコン)が受信され、パラシュートが開いたことが確認された。カプセルは23時8分頃に着陸したと推定される。着陸予想地点の周囲に展開した方向探測班がビーコンの方向から落下位置を推定し、発熱による赤外線を頼りにヘリコプターによる捜索が行われ、13日23時56分、再突入直前の予想地点から1 kmほどのウーメラの北西約200 kmで目視により発見された。", "title": "はやぶさの軌跡" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "現地の砂漠一帯は先住民アボリジニーの聖地でもあるため、14日午前にアボリジニーの代表がヘリで現場を視察し、了解を得た後、宇宙機構のチームがカプセル回収に向かった。カプセルに付いている火薬などの危険物が安全な状態かどうかを調べた後、カプセル回収作業を開始し、約4時間後に回収を完了し、専用のコンテナで現地の拠点施設まで移送された。また、探索されていたヒートシールドも14日14時頃に発見され、翌日に回収された。", "title": "はやぶさの軌跡" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "なおこれ以前にも日本の宇宙機が自力で大気圏再突入に耐えた例はいくつかあるが、回収まで予定通りに成功したのは2003年に回収されたUSERS回収カプセル以来7年ぶり2度目。旧ISASが打ち上げた衛星・探査機としては初の回収成功となった(失敗後に偶然回収されたEXPRESSを除く)。大気圏再突入時の最大減速率は50G程度で、再突入から約150秒後には秒速数十メートルまでの減速が行われた。", "title": "はやぶさの軌跡" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "NASAはJAXAなどと共同で、観測用航空機「DC-8」から19台のカメラで「はやぶさ」の大気圏再突入を撮影した。はやぶさは惑星間航行をしていたので、歴史上2番目の速度で大気圏再突入が行われ、カプセルは1万 - 2万度の高温にさらされた。NASAの支援としてはこのほかに、ディープスペースネットワークによるはやぶさの追跡支援、エイムズ研究センターの大型加熱風洞を用いた再突入カプセルの耐熱シールド試験があった。", "title": "はやぶさの軌跡" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "発見されたカプセルは、ウーメラ施設内のクリーンルームで爆発の危険性がある装置と電子回路を取り除いた後、窒素を満たしたポリエチレンの袋に入れた上で内箱に収納。さらに衝撃吸収用のボールを並べた免震箱に入れて熱シールドと共にチャーター機で日本に輸送され、17日深夜に羽田空港に到着した。18日2時にトラックでJAXA相模原キャンパスのキュレーションセンターに搬送された。カプセルはX線断層撮影 (CT) 検査を行うため一旦JAXA調布キャンパス飛行場分室に移送され、検査の結果容器に亀裂などがないことが確認された。昼夜連続でカプセルの清掃が行われ、20日にはサンプルコンテナがクリーンチェンバーに導入された。22日にサンプルコンテナが開封され、内部から微量のガスが採取されたが、大部分が地球大気由来の気体であった。24日には、サンプルキャッチャーA室の開封作業に着手した。", "title": "はやぶさの軌跡" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "7月5日、JAXAはカプセル内のサンプルコンテナから肉眼で確認できる直径1ミリメートルほどの微粒子十数個と、サンプルキャッチャーA室の内壁から直径10マイクロメートルほどの微粒子2個を顕微鏡で確認したと発表した。その後、調査範囲を広げるにつれて発見される粒子の数も増えていった。カプセル内の微粒子はマニピュレーターで1粒ずつガラス容器に移して詳細に検査する予定だったが、事前に行ったリハーサルより粒子が小さく効率が悪かったことから、電子顕微鏡で観察できるサイズのテフロン製ヘラと純窒素チャンバーを開発し、地球大気による汚染を遮断した環境下で容器の壁面をこすって微粒子を採取するようにしたところ、10マイクロメートル以下の微粒子を約3,000個捕獲することができた。", "title": "はやぶさの軌跡" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "11月16日までにA室内から回収した微粒子のうち約1,500個が岩石質であった。回収された微粒子が地球上で混入したものなのか、イトカワ由来なのかはキュレーションセンター内での簡易分析だけでは判断できないと考えられていたが、X線分光分析の結果、組成が地球上の岩石では見られないLL4-6コンドライト隕石の組成と一致した。イトカワの観測結果から、イトカワはLLコンドライトと近い物質であると推定されていたことから大部分がイトカワ起源と判断され、11月16日に公表された。12月7日にサンプルキャッチャーB室を開封した。", "title": "はやぶさの軌跡" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "テフロン製ヘラによる採取では、微粒子がヘラに付着して取れなくなってしまうことから、サンプルキャッチャーをひっくり返して振動を与え、合成石英ガラス製の円盤に粒子を落下させる方法(自由落下法)が考案され、大きなもので300マイクロメートルを超える粒子を回収することができた。また、ガラス円盤に付着した試料は静電制御によるマイクロマニピュレーターによりひとつずつ拾い集められた。2013年3月15日までに400個ほどの粒子が回収され、元素組成によってカテゴリー別に分類され1つずつ保管されている。回収した粒子は初期分析のため各研究機関に配付された他、NASAや公募によって決まった各国の研究機関でより詳細な分析を行い、さらに一部のサンプルは分析技術の進歩に期待して保存する予定である。", "title": "はやぶさの軌跡" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "粒子の初期分析は当初予定の8月以降から9月以降、さらに12月以降へと延期され、ようやく2011年1月21日にSPring-8で最初の初期分析が始められた。3月にはアメリカで開かれた第42回月惑星科学会議で初期分析の中間報告が発表された。", "title": "はやぶさの軌跡" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "役割を果たした再突入カプセルのヒートシールドやパラシュートなど、および地上試験用のエンジニアリングモデルは、2010年7月末から8月にかけて以下の場所で公開された。一般公開の初日には1万3千人の来場者が詰めかけ、最大で3時間待ちにもなる長蛇の列をつくった。", "title": "はやぶさの軌跡" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "その後も引き続き各地で公開されていたが、ヒートシールドは研究解析に供されるため展示されないこともあった。なお、ヒートシールドの形状は重要機密事項であったらしく、少なくとも筑波宇宙センターで見学者に配布された資料ではヒートシールドの輪郭が塗りつぶされていた。", "title": "はやぶさの軌跡" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2010年7月の相模原キャンパス特別公開を皮切りに同年11月からは本格的に各地を巡回し、最後の会場の愛知県刈谷市で2012年4月3日をもって全行程を終了した。全69会場で延べ89万人の来場者数を記録した。", "title": "はやぶさの軌跡" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "これとは別に、再突入カプセルを製作したIHIエアロスペースの工場が群馬県富岡市にある縁で、同社は2010年10月に実物大レプリカを群馬県に寄贈しており、県内で巡回展示された後にぐんま天文台で2011年1月15日から常設展示されている。", "title": "はやぶさの軌跡" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "6月13日を銀河連邦が「はやぶさの日」(英: HAYABUSA DAY) に制定し、2012年5月28日に日本記念日協会から認定を受け登録された。", "title": "受賞歴・記録" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "以下の表は、開発・運用・回収サンプル解析に関わった企業を中心にまとめられた、主な「はやぶさ」関連企業の一覧である。", "title": "プロジェクト参加企業" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "はやぶさ (MUSES-C) の打ち上げ以前からMUSES-C後継機の構想はあり、小天体探査フォーラム (MEF) では後継機の任務について、同じ小惑星族(コロニス族またはニサ族)に属する複数の小惑星を探査する案や、スペクトルが既知の地球近傍天体 (NEO) 複数を探査する案など、多数の案が検討された。", "title": "はやぶさ後継機" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2011年5月12日、はやぶさの改良機「はやぶさ2」が2014年に打ち上げ、地球近傍小惑星リュウグウを探査する計画が発表された。2014年12月3日に打ち上げられ、2018年にリュウグウに到着、2020年に帰還する計画が立案され、計画通りに実行された。", "title": "はやぶさ後継機" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "「はやぶさ2」以降については、より大型・高性能な「はやぶさMk.II(マーク2)」、「はやぶさMk.II」をヨーロッパ宇宙機関と共同開発するという「マルコ・ポーロ(英語版)」などの構想がある。", "title": "はやぶさ後継機" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "複数の技術的なトラブルに見舞われ帰還を絶望視されつつも、それを乗り越えて地球への帰還を目指すはやぶさの旅程は、多くの日本人に美談として受け止められ共感を呼んだ。", "title": "反応" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "天皇誕生日に先立つ2010年12月20日の記者会見で、上皇明仁は「はやぶさ」について次のように述べた。", "title": "反応" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "また上皇后は、はやぶさが大気圏に突入した時のことを和歌に詠んだ。", "title": "反応" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "その帰路に己れを焼きし「はやぶさ」の光輝(かがや)かに明かるかりしと", "title": "反応" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "「はやぶさ」に対する関心ははじめから大きかったわけではない。はやぶさの着陸失敗が非常に大きく取り上げられた後、実は着陸していたことが取り上げられた。電波を捉えられなくなり、帰還が危ぶまれるようになるとほとんど報道されないようになった。マスメディアが関心を失っていく一方、インターネット上でははやぶさに関する話題の盛り上がりがあり、次第に注目を集めていった(詳細は「#インターネットによる広報と反響」を参照)。", "title": "反応" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "2010年6月13日の地球帰還が近付くにつれてニュースやワイドショーで取り上げられる機会も増え、6月10日にはNHKの『クローズアップ現代』で「傷だらけの帰還 探査機はやぶさの大航海」が放送された(JAXAの的川泰宣がゲスト出演)。NHKはウーメラに近いグレンダンボに取材班を送り、大気圏再突入の模様をハイビジョンで撮影して翌14日未明から定時ニュースの冒頭で繰り返し放送したが、NHK・民放各局とも生中継を行わず、NHK広報局はツイッター上で「大気圏突入のタイミングには、ちょうどワールドカップの試合を放送しているので、生中継は難しそうです」などと冷静に理解を求めていたのだが、第1報もやや遅れたため、一部では放送局の反応に対する失望の声も上がった。 翌日14日の朝刊各誌は1面トップに写真付ではやぶさ突入の記事を掲載し、民放各局もはやぶさの帰還を報道している。またカプセルが着地したオーストラリアでは、大きな話題として扱ったテレビ放送局もあり、台湾やイギリスなどでも報道された。", "title": "反応" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "はやぶさの帰還後は、日本国民の熱狂ぶりや国民的な関心の高さがメディア上でも紹介された。", "title": "反応" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "はやぶさのカプセル帰還成功を受け、6月8日に成立したばかりの菅内閣の閣僚たちからは絶賛する発言が相次いだ。", "title": "反応" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "これらの発言に対して、読売新聞は鳩山政権下ではやぶさ後継機の予算が削減されていたことを指摘し、「現金すぎ」と民主党政権を批判的に報じた。", "title": "反応" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "はやぶさは、「星の王子さまに会いに行きませんか」キャンペーンを実施し、国内外から88万人の署名入りターゲットマーカーを積んでいたことで、投下成功のニュースには多くの励ましのメールがJAXAに届けられた。", "title": "反応" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "イトカワ着陸の際は、管制室のインターネット中継や、ブログによる実況が行われた。2度目の着陸の際、栄養ドリンク「リポビタンD」の空き瓶が管制室の机にどんどん増えていく様子がブログを通して紹介され話題になった。後にブログの更新担当者のもとには大正製薬関係者からリポビタンDが2カートン贈られたという。", "title": "反応" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "JAXAのwebサイトでは、ミッションの経過を絵本仕立てで紹介した『はやぶさ君の冒険日誌』やペーパークラフトなども公開された。", "title": "反応" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "2006年、soyuz project名義で活動する音楽家、福間創は、はやぶさの地球への無事帰還を願い、「swingby」という楽曲を自身のwebサイトで無料配信した。配信後、この曲は相模原のJAXA宇宙科学研究本部の一般公開イベントにおいて、はやぶさコーナーのBGMとして正式に採用された。", "title": "反応" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "地球帰還に向けて最後の軌道修正に入った2010年4月には特設ページが作られ、プロジェクトマネージャーの川口淳一郎を始めとする関係者たちのメッセージが掲載されたほか、ブログやTwitterで状況が報告された。Twitterでは「はやぶさ君」“本人”がつぶやいたり、「あかつきくん」や「イカロス君」と会話することもあった。", "title": "反応" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "リアルタイムで多くの情報が公開されたことによりネットでの注目を集め、はやぶさを擬人化したキャラクターや、はやぶさをテーマにしたフラッシュ・MADムービー・楽曲などが作られた。ファンによるコスプレや実物大模型なども公開されてブームを盛り上げた。後日、ASCII主催による、川口淳一郎教授と今回のプロジェクトチームを招いて、今回のミッションについての対談が行われた際、Twitterの果たした役割にふれ、またニコニコ動画上のさだまさしの『案山子』や『宇宙戦艦ヤマト』などをモチーフにしたFLASHムービー作品について、とてもよく出来ていて気に入っているという感想を述べて、「はやぶさ」とネットとの親和性は高いと評価した。", "title": "反応" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "2010年6月13日の大気圏再突入の際には、前述のように生中継を行った放送局が皆無であったのに対し、動画配信サイトでは現地からのインターネット中継が行われ、ニコニコ生放送に延べ21万人、JAXAの配信に36万アクセス、和歌山大学の配信に63万アクセスが殺到し、それぞれ視聴者数が制限されたり回線が繋がりにくくなったりする状況が発生した。Twitterでも注目を集め、NECビッグローブによる統計によれば、再突入を捉えた動画や画像が公開された頃を中心に、10分間辺り最大で27,000件を上回る発言がはやぶさの話題に費やされた。これは翌日の同時間帯に放送された2010 FIFAワールドカップ日本対カメルーン戦でゴールを決めた本田圭佑に対する、10分間辺り最大16,000件の発言を圧倒的に上回っている。", "title": "反応" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "また「はやぶさ」が地球に帰還した翌日には、オンライン署名サイトで「はやぶさ2予算増額の嘆願署名」が作成されるなど、関係者以外からも注目が集まっている。", "title": "反応" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "はやぶさに対する反響の一環として、プラモデルや書籍、果ては日本酒といったグッズも、無人探査機を扱った商品としては例外的な売れ行きを示した。例えば青島文化教材社から発売されたプラモデルは、同社における通常のヒット商品と比べて約4 - 5倍もの受注があり、初回製造分が数日で売り切れるほどの反響があったという。 2009年4月1日には、はやぶさの困難な旅程を叙情的に描いたプラネタリウム番組『HAYABUSA -BACK TO THE EARTH-』が公開され、プラネタリウム番組としては異例の人気があったという。 『HAYABUSA -BACK TO THE EARTH-』はDVDおよびBDでも発売され、好評を博したものの、終盤の映像はあくまで予想に基づく制作だったため、はやぶさの地球帰還の後に完全版を求める声が相次ぎ、終盤の映像を事実に基づいたCG映像と差し替えた『HAYABUSA -BACK TO THE EARTH- 帰還バージョン』が制作され、各地で上映中であったプラネタリウムでも随時帰還バージョンへと差し替えられた。", "title": "反応" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "はやぶさ帰還後にはJAXAに8社から映画化のオファーがあり、2011年秋期から2012年春期にかけてはやぶさを主題とした映画3作が相次いで公開された。日本国内で同じ題材の映画が3作品重なって競作されることは非常に稀なことである。このうち20世紀フォックスの映画『はやぶさ/HAYABUSA』は、史上初の宇宙試写会という触れ込みで、国際宇宙ステーションに滞在中の宇宙飛行士を対象にした試写会が企画され、2011年7月27日に実施された。映画のほかには、映画の原作となった著作や、探査機を萌え擬人化した漫画作品などが出版されている。", "title": "はやぶさを題材にした作品" } ]
はやぶさ(第20号科学衛星MUSES-C)は、2003年5月9日13時29分25秒(日本標準時、以下同様)に宇宙科学研究所(ISAS)が打ち上げた小惑星探査機で、ひてん、はるかに続くMUSESシリーズ3番目の工学実験機である。開発・製造はNEC東芝スペースシステムが担当した。 イオンエンジンの実証試験を行いながら2005年夏にアポロ群の小惑星 (25143) イトカワに到達し、その表面を詳しく観測してサンプル採集を試みた後、2010年6月13日22時51分、60億kmの旅を終え地球に帰還し、大気圏に再突入した。地球重力圏外にある天体の固体表面に着陸してのサンプルリターンに、世界で初めて成功した。
{{宇宙機 | 名称 = 小惑星探査機はやぶさ<br />(MUSES-C) | 画像 = [[ファイル:Hayabusa hover.jpg|250px]] | 画像の注釈 = はやぶさの着陸想像図 | 所属 = [[宇宙科学研究所]] (ISAS)<br />現 [[宇宙航空研究開発機構]] (JAXA) | 主製造業者 = [[NECスペーステクノロジー|NEC東芝スペースシステム]] | 公式ページ = [http://www.isas.jaxa.jp/j/enterp/missions/hayabusa/index.shtml 小惑星探査機「はやぶさ」MUSES-C] | 国際標識番号 = 2003-019A | NORAD_NO = 27809 | 状態 = 運用終了 | 目的 = [[イオンエンジン]]の実証試験・<br />小惑星の探査・<br />[[サンプルリターン]] | 観測対象 = 小惑星[[イトカワ (小惑星)|イトカワ]]<br />(25143 Itokawa) | 計画の期間 = 約4年間(当初)<br />7年間に延長 | 設計寿命 = | 打上げ場所 = [[内之浦宇宙空間観測所]] | 打上げ機 = [[M-Vロケット]] 5号機 | 打上げ日時 = [[2003年]][[5月9日]]<br />13時29分25秒 | 軌道投入日 = | 最接近日 = | ランデブー日 = [[2005年]][[9月12日]] | 軟着陸日 = 2005年[[11月20日]]・[[11月26日|26日]] | 機能停止日 = | 通信途絶日 = | 運用終了日 = [[2010年]][[6月13日]] | 停波日 = | 消滅日時 = | 物理的特長 = 物理的特長 | 本体寸法 = 6 m × 4.2 m × 3 m<br />(太陽電池パドル、サンプラーホーン展開時)<br />1 m × 1.6 m × 1.1 m<br />(衛星本体) | 質量 = 510 kg(打ち上げ時、燃料重量含む) | 発生電力 = 2.6 kW<br />(太陽から1.0[[天文単位|AU]]において) | 主な推進器 = イオンエンジン[[Μ10 (イオンエンジン)|μ10]]<br />(8 mN / 3,400秒) × 4 | 姿勢制御方式 = 3軸姿勢制御 | 軌道要素 = | 周回対象 = | 軌道 = | 静止経度 = | 高度 = | 近点高度 = | 遠点高度 = | 軌道半長径 = | 離心率 = | 軌道傾斜角 = | 軌道周期 = | 回帰日数 = | サブサイクル = | 回帰精度 = | 降交点通過地方時 = | 搭載機器 = 主な搭載装置 | 搭載機器名称1 = AMICA | 搭載機器説明1 = 可視分光撮像カメラ | 搭載機器名称2 = ONC-T | 搭載機器説明2 = 望遠光学航法カメラ | 搭載機器名称3 = ONC-W | 搭載機器説明3 = 広角光学航法カメラ | 搭載機器名称4 = LIDAR | 搭載機器説明4 = レーザ高度計 | 搭載機器名称5 = NIRS | 搭載機器説明5 = 近赤外線分光器 | 搭載機器名称6 = XRS | 搭載機器説明6 = 蛍光X線スペクトロメータ | 搭載機器名称7 = ターゲット<br />マーカ × 3 | 搭載機器説明7 = 小惑星タッチダウン用の人工目標物<br />うち1個は88万人分の名前入り | 搭載機器名称8 = サンプラー<br />ホーン | 搭載機器説明8 = サンプルリターンサンプラー | 搭載機器名称9 = 再突入<br />カプセル | 搭載機器説明9 = サンプル格納用耐熱容器 }} '''はやぶさ'''(第20号[[科学衛星]]'''MUSES-C''')は、[[2003年]][[5月9日]]13時29分25秒([[日本標準時]]、以下同様)に[[宇宙科学研究所]](ISAS)が打ち上げた[[宇宙探査機|小惑星探査機]]で、[[ひてん]]、[[はるか (人工衛星)|はるか]]に続く[[ひてん#名称|MUSESシリーズ]]3番目の工学実験機である。開発・製造は[[NEC東芝スペースシステム]]が担当した。 [[イオンエンジン]]の実証試験を行いながら[[2005年]]夏に[[アポロ群]]の[[小惑星]] (25143) [[イトカワ (小惑星)|イトカワ]]に到達し、その表面を詳しく観測して{{Refnest|group="注釈"|はやぶさの探査情報を基にした、小惑星イトカワの解析結果とその論文が[[アメリカ合衆国|アメリカ]]科学[[論文誌]]『[[サイエンス]]』2006年6月2日号に特集として掲載([[日本]]の[[宇宙]]研究・開発では初)された。アメリカの {{En|International Space Development Conference}} (ISDC 2006) において {{En|Space Pioneer Award}} として米国宇宙協会から表彰を受けている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hayabusa.isas.jaxa.jp/j/index_46.html |accessdate=2014-01-13 |title=「はやぶさ」プロジェクトが、Space Pioneer Award を受賞 |author=川口淳一郎 |date=2006-05-31 |publisher=ISAS/JAXA}}</ref><ref>{{Cite news |url=http://www.sorae.jp/031099/1351.html |accessdate=2014-01-13 |title=Space Pioneer Award を受賞 |date=2006-06-02 |newspaper=sorae.jp |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140202201403/http://www.sorae.jp/031099/1351.html |archivedate=2014年2月2日 |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref>。}}サンプル採集を試みた後、[[2010年]][[6月13日]]22時51分、60億[[キロメートル|km]]の旅を終え地球に帰還し、[[大気圏再突入|大気圏に再突入]]した<ref>{{Cite web|和書|date=2010-06-14 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2735646 |title=はやぶさ帰還、カプセル回収へ |work=AFPBB News |publisher=AFP |accessdate=2020-09-17}}</ref><ref name="jaxa0614">{{Cite web|和書|url=https://www.isas.jaxa.jp/j/topics/topics/2010/0614.shtml |title=「はやぶさ」大気圏突入/カプセルも発見 |publisher=ISAS/JAXA |accessdate=2010-06-15 |date=2010-06-14}}</ref>。[[ヒル球|地球重力圏]]外にある[[天体]]の固体表面に着陸しての[[サンプルリターン]]に、世界で初めて成功した。 == 概要 == はやぶさは[[2003年]]5月に[[内之浦宇宙空間観測所]]より[[M-Vロケット]]5号機で打ち上げられ、[[太陽周回軌道]](他の惑星と同様に太陽を[[公転]]する軌道)に投入された。その後、搭載する[[電気推進]]([[イオンエンジン]])で加速し、[[2004年]]5月にイオンエンジンを併用した地球[[スイングバイ]]を行って、[[2005年]]9月には小惑星「イトカワ」と[[ランデブー (宇宙開発)|ランデブー]]した。約5か月の小惑星付近滞在中、カメラやレーダーなどによる科学観測を行った<ref group="注釈">[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]の小型探査[[ロボット]]を運んで行って小惑星表面を移動しながら探査を行う計画も存在していた(''[[#MUSES-CN|MUSES-CN]]の項を参照'')。</ref>。次に探査機本体が自律制御により降下・接地して、小惑星表面の試験片を採集することになっていた。その後、地球への帰還軌道に乗り、2007年夏に試料カプセルの[[大気圏再突入]]操作を行って[[パラシュート]]で降下させる計画であったが、降下・接地時の問題に起因する不具合から2005年12月に重大なトラブル<ref group="注釈">トラブルとは、姿勢制御装置の故障や化学エンジンの燃料漏れによる全損、姿勢の乱れ、電池切れ、通信途絶、イオンエンジンの停止など数々のアクシデントを指す。</ref>が生じたことにより、帰還は2010年に延期された。 [[2010年]][[6月13日]]、サンプル容器が収められていたカプセルは、はやぶさから切り離されて、[[パラシュート]]によって南[[オーストラリア]]のウーメラ砂漠に着陸し、翌14日16時8分に回収された<ref name="jaxa0614_3">{{Cite web|和書|url=http://www.isas.jaxa.jp/j/topics/topics/2010/0614_3.shtml |title=「はやぶさ」カプセル回収作業完了! 熱シールドも発見! |publisher=ISAS/JAXA |date=2010-06-14 |accessdate=2010-06-14}}</ref>。はやぶさの本体は大気中で燃えて失われた。 カプセルは18日に日本に到着し、内容物の調査が進められ、11月16日にカプセル内から回収された岩石質微粒子の大半がイトカワのものと判断したと発表された<ref name="JAXA20101116">{{Cite press release |和書 |url=https://www.jaxa.jp/press/2010/11/20101116_hayabusa_j.html |title=はやぶさカプセル内の微粒子の起源の判明について |publisher=宇宙航空研究開発機構 |date=2010-11-16 |accessdate=2010-11-16}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|当初の計画通りなら、再突入の約10時間前に月軌道程度の距離で試料カプセルを分離した後{{Sfn|山田哲哉|安部隆士|2006|p=368}}、はやぶさ本体は突入軌道から離脱して別の目標へ向かうことも可能だった。しかし化学スラスタが使えなくなって急激な軌道変更が不可能になり、また精密な姿勢制御に困難を伴うようになったことで、カプセルが市街地に落下する心配も生じた。このため、地球になるべく近付いてからカプセルを切り離す計画に変更され、結果として当初のような延長ミッションは断念された。その代わり、2009年には本体の大気圏再突入の際のデータを、地球に衝突する小惑星の軌道予測のためのシステム開発に役立てるという新たなミッションが加えられた。}}<ref group="注釈">探査機との通信は[[臼田宇宙空間観測所]]の64m[[パラボラアンテナ]]を用いて行われたが、2009年11月より64mアンテナが改修工事に入ったため、工事終了<!--2010年1月?-->までは内之浦の34mアンテナが使われた。</ref>。 小惑星からの[[サンプルリターン]]計画は国際的にも例が無かった。この計画は主に工学試験のためのミッションであり、各段階ごとに次のような実験の成果が認められるものである。 # [[イオンエンジン]]による推進実験 # イオンエンジンの長期連続稼動実験 # イオンエンジンを併用しての地球スイングバイによる加速操作 # 光学情報を利用した自律的な接近飛行制御と誘導 # 小惑星の科学観測 # 微小[[重力]]下の小惑星への着陸、および離脱 # 小惑星サンプルの採取 # サンプル収納カプセルの惑星間軌道から直接[[大気圏再突入]]・回収 # 地表で小惑星のサンプル入手 はやぶさの地球帰還とカプセルの大気圏再突入、カプセルの一般公開、その後の採取物の解析などは日本を中心に社会的な関心を集めた。はやぶさがミッションを終えてからもブームはしばらく続いた<ref name="yomiuri20100710" />。 イトカワ探査の終了後、JAXAでは「[[はやぶさ2]]」をミッションとして立案していたが<ref name="hayabusa2/ISAS">{{Cite web|和書|url=http://www.hayabusa.isas.jaxa.jp/j/index_48.html |title=「はやぶさ」の近況と「はやぶさ-2」にむけて |accessdate=2010-06-16 |publisher=ISAS/JAXA}}</ref>、2011年5月12日、JAXAは「はやぶさ2」を2014年に打ち上げる予定であると発表した<ref name="asahi20110512">{{Cite news |accessdate=2011-05-12 |url=http://www.asahi.com/science/update/0512/TKY201105120419.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110902141150/http://www.asahi.com/science/update/0512/TKY201105120419.html |archivedate=2011年9月2日 |title=はやぶさ、次は安心の旅に 14年に後継機打ち上げ |date=2011-05-12 |newspaper=[[朝日新聞]] }}</ref>。 2013年1月30日に、JAXAがこれまでに蓄積した膨大なデータを広く一般に公開するための実験の1つとして、はやぶさの[[アプリケーションプログラミングインタフェース|API]]が構築された<ref name="jaxa_opn_api_pj_1">{{Cite web |url=https://plus.google.com/+JAXA-PR/posts/jkr9fkaizeN |title=JAXA OPEN API PROJECT |accessdate=2013-02-02 |author=JAXA PR |date=2013-01-30 |publisher=[[Google+]]}}</ref><ref name="itmedia_news_1">{{Cite news |url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1301/31/news122.html |title=「はやぶさ」がAPIに アプリ開発、大学生が挑戦へ |accessdate=2013-02-02 |date=2013-01-31 |newspaper=[[ITmedia|ITmedia ニュース]]}}</ref>。このAPIは[[多摩美術大学]]と[[東京工科大学]]に公開され、同大学の学生がはやぶさのAPIを使用した[[アプリケーション]]開発を行う<ref name="jaxa_opn_api_pj_1" /><ref name="itmedia_news_1" />。 == 名前の由来 == ISASでは探査機の名前は、関係者同士の協議によって命名されてきた。MUSES-Cの場合、「はやぶさ」の他にも「ATOM」({{En|Asteroid Take-Out Mission}}、アトム)という有力候補が存在した{{Sfn|川口淳一郎|2010a}}。 この名は[[的川泰宣]]を中心に組織票が投じられていた案であった{{Sfn|川口淳一郎|2010a}}。一方「はやぶさ」は[[上杉邦憲]]と[[川口淳一郎]]によって提案され、小惑星のサンプル採取が1秒ほどの着地と離陸の間に行われる様子を[[ハヤブサ]]が獲物を狩る様子に見立てた案であった{{Sfn|川口淳一郎|2010a}}。他にも「はやぶさ」の名には、かつて[[東京駅|東京]]から[[鹿児島中央駅|西鹿児島]]を走った『[[はやぶさ (列車)#東京対鹿児島本線優等列車沿革|特急はやぶさ]]』や、鹿児島県の地名でもある『[[隼人]]』の面もあった{{Sfn|川口淳一郎|2010a}}。協議の際に的川は「最近の科学衛星は『はるか』とかおとなしい感じの名前や、3文字の名前が多いので、濁点も入った勇壮な『はやぶさ』もいいね」と語り、また「ATOM」は語意の[[原子]]から[[原子爆弾]]が連想されるとして却下され<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.isas.jaxa.jp/j/japan_s_history/chapter10/01/08.shtml |title=はやぶさ |work=日本の宇宙開発の歴史 [宇宙研物語] |publisher=ISAS/JAXA |accessdate=2011-01-08}}</ref>、結局「はやぶさ」が採用された{{Sfn|川口淳一郎|2010a}}。 小惑星の名前が「[[イトカワ (小惑星)|イトカワ]]」であることから「戦闘機と宇宙機の両方分野で著名な[[糸川英夫]]氏に縁の深い、戦闘機『[[一式戦闘機|隼]]』にちなんで命名された」と言われることもあったが、本探査機の打上げ日に初めて「はやぶさ」という正式名称が発表され、それから3か月後にその目標である小惑星{{mp|1998 SF|36}}が「イトカワ」と命名されたので、誤解であると川口は説明している{{Sfn|川口淳一郎|2010a}}。 後続の[[はやぶさ2]]と[[レトロニム|対比]]して「初代はやぶさ」<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hayabusa.isas.jaxa.jp/j/index.html|title=小惑星探査機はやぶさ|accessdate=2020-12-06}}</ref>「(はやぶさ)初号機」<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASM2Q26DNM2QULBJ005.html|title=はやぶさ2「初号機とは違うのだよ」リベンジの着陸成功|publisher=朝日新聞|accessdate=2020-12-05}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/special/hayabusa2/articles/article_04.html|title=初号機のプロジェクトマネージャが語る「はやぶさ2」の次|publisher=NHK|accessdate=2020-12-05}}</ref>といった[[レトロニム]]で呼ばれることもある。 == ミッション背景 == === 計画承認までの経緯 === [[File:Hayabusa(Muses-C) sampling.jpg|はやぶさのコンセプトアート(NASA)。サンプラーホーンの形が完成形と大きく異なる。また左下にはキャンセルされたNASAのローバーが描かれている。|thumb]] 後に「はやぶさ」に至る小惑星サンプルリターン計画の検討は、日本で初めて惑星間空間に到達することになった「[[さきがけ (探査機)|さきがけ]]」の打ち上げが成功裏に行われ、「[[すいせい]]」の打ち上げを控えた1985年6月、ISAS教授(当時)[[鶴田浩一郎]]が主催する「小惑星サンプルリターン小研究会」として始まった<ref>{{Cite journal |和書 |url=http://www.isas.ac.jp/j/isasnews/backnumber/1985/ISASnews051.pdf |title=お知らせ |format=PDF |accessdate=2009-12-16 |year=1985 |month=06 |journal=ISASニュース |publisher=宇宙科学研究所 |issn=0285-2861 |issue=51 |page=4}}</ref>。その成果として翌1986年には1990年代を想定し、[[ロケットエンジンの推進剤|化学推進]]を用いて[[アモール群]]に分類される小惑星である「[[アンテロス (小惑星)|アンテロス]]」を対象とするサンプルリターン構想が纏まる<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20090225202948/http://spaceinfo.jaxa.jp/hayabusa/calendar/calendar_i.html |title=ミッションカレンダー |accessdate=2009-12-16 |work=JAXA小惑星探査機「はやぶさ」物語 |publisher=JAXA}}</ref>。しかし、要求を満たす能力を持つロケットが存在しないなど、時期尚早であるとしてプロジェクトの提案はなされなかった<ref>{{Cite web|和書|accessdate=2003-10-09 |url=http://www.isas.jaxa.jp/j/special/2003/kawaguchi/ |title=小惑星探査機「はやぶさ」の研究計画について |work=はやぶさ特集 |publisher=ISAS/JAXA |author=川口淳一郎}}</ref>。 M-Vロケット開発を受けて検討は再開され、1989年秋から1990年春にかけて行われた宇宙理学委員会において、M-V 2号機のプロジェクトとして提案された。だが、[[LUNAR-A]]計画に敗れ採用されなかった{{Sfn|松浦晋也|2005|p=61}}。その後はランデブーとホバリングによる超接近観測を目的とした工学衛星計画に方向性を改めて再検討が進められることになった。1991年1月時点において、MUSES-C計画は光学観測による自律航行、三軸姿勢制御、ターゲットマーカーを用いた自律運用、X線分析装置と質量分析器の搭載などが検討されており、1997年5月に二段式キックモーターを装備したM-Vで打ち上げられ、1998年6月にアンテロスに到達するという計画であった<ref>{{Cite journal |和書 |url=http://www.isas.jaxa.jp/j/isasnews/backnumber/1991/ISASnews118.pdf |title=星の王子様とデート - 小惑星ランデブ探査計画 |year=1991 |month=1 |journal=ISASニュース |publisher=宇宙科学研究所 |author=川口淳一郎 |issn=0285-2861 |issue=118 |pages=20-22 |format=PDF}}</ref>。その後も検討は進められ、1995年に小惑星サンプルリターン技術実験探査機として宇宙工学委員会で選定、1995年8月に宇宙開発委員会が承認し<ref>的川2010, 29ページ</ref>、正式にプロジェクトが開始された。 小惑星サンプルリターン計画と並行して、彗星サンプルリターン計画の検討も行われていた。1987年の[[ハワイ]]におけるISY会議の席上で、低価格な彗星サンプルリターン計画「SOCCER」の検討を[[ジェット推進研究所]] (JPL) とISASとの合同で開始することが決定された。M-Vによる打ち上げや、[[マリナーMarkII計画]]の「[[CRAF]]」との連携を視野に入れた[[デルタロケット]]の使用も検討され<ref>{{Cite journal |和書 |url=http://www.isas.jaxa.jp/j/isasnews/backnumber/1991/ISASnews118.pdf |title=彗星サンプルリターン - SOCCER計画 |year=1991 |month=1 |journal=ISASニュース |publisher=宇宙科学研究所 |author=上杉邦憲 |issn=0285-2861 |issue=118 |pages=18-20 |format=PDF}}</ref>、1992年の[[ディスカバリー計画]]ワークショップにおいて提案されるが、採用されなかった。その後、1994年にISASはMUSES-C計画に注力することを決定、SOCCER計画から外れる。その後、JPLによって検討を続けられたこの計画は、「[[スターダスト (探査機)|スターダスト]]」としてディスカバリー計画に採用された<ref>{{Cite web|和書|url=http://stardust.jpl.nasa.gov/science/details.html#histinvest |title=1.4 History of the Investigation, Comet Coma Sample Return Plus Interstellar Dust, Science and Technical Approach |publisher=JPL/NASA |accessdate=2010-08-04 |date=1994-10-21 |work=STARDUST: SCIENCE IN-DEPTH}}</ref>。 === 目的地の変更 === [[ファイル:Itokawa-orbit.svg|thumb|小惑星イトカワの軌道(I:イトカワ、E:地球、M:火星、S:太陽)]] 1994年に本格化した計画当初、目的地の小惑星は (4660) [[ネレウス (小惑星4660番)|ネレウス]]であった。しかしM-Vロケットで打ち上げ可能な探査機の能力から見て、ネレウスへ向かうことが難しいと判断され、第2候補である [[(10302) 1989 ML]] という小惑星に変更された。しかし2000年2月10日のM-Vロケット4号機の打ち上げが失敗、2002年初頭に予定されていた打ち上げ計画が延期となって、1989 ML へ向かうことが出来なくなった。その結果、(25143) {{mp|1998 SF|36}}が3つ目の候補として浮上、目的地として決定することになった。 はやぶさ命名3か月後の2003年8月、目的地の小惑星{{mp|1998 SF|36}}は、(探査対象となったことから)日本の宇宙開発の父、[[糸川英夫]]にちなんで、「[[イトカワ (小惑星)|イトカワ]]」と命名された<ref>{{Cite press release |和書 |accessdate=2011-01-08 |url=https://www.jaxa.jp/press/2009/03/20090303_itokawa_j.html |title=小惑星「イトカワ」表面の地形名称に関する国際天文学連合(IAU)正式承認について |date=2009-03-03 |publisher=宇宙航空研究開発機構}}</ref>。糸川は[[中島飛行機]]出身であり、設計に参加した飛行機としては「戦闘機{{読み仮名|[[一式戦闘機|隼]]|はやぶさ}}」が著名である<ref>{{Cite web|和書|accessdate=2011-01-08|url=http://www.civic.ninohe.iwate.jp/100W/08/077/index.htm|title=糸川英夫|work=日本の科学者・技術者100人|publisher=岩手県二戸市田中舘愛橘記念科学館|author=村上陽一郎|coauthors=西澤潤一; 杉山滋郎}}{{リンク切れ|date=2018年3月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref><ref>{{Cite video |和書|title=私と戦闘機「隼」 太平洋戦争の陸軍戦闘機を検証する |year=1991 |publisher=文藝春秋 |people=糸川英夫(出演)、文藝春秋(制作著作) |id={{全国書誌番号|21425690}}}}</ref>が、先述のとおりこれが小惑星の名前の由来となったわけではない。 == 構造 == [[ファイル:Hayabusa IAC 2010.jpg|200px|thumb|第61回国際宇宙会議で展示されたはやぶさの模型]] ;仕様 :* 全高:1.5 m :* 全幅:1.5 m :* 全備質量:510 kg :* 電源:[[太陽電池#種類|トリプルジャンクション太陽電池]]、[[リチウムイオン二次電池]]、[[リチウム電池|リチウム一次電池]](再突入カプセル関連機器のみ) === バス系 ===<!--適切な節名が思い浮かばなかったので「バス系」としましたが、公式には「バス系」とは呼んでいないので、何か別の良い名前があれば変えてください。--> ;構体 :構体は、内部に電子機器や推進剤タンクなどを収容し、宇宙空間での温度差からそれらを保護すると同時に、内外の機器類の固定用強度部材となる<ref group="注釈">「はやぶさ」は温度管理を内蔵ヒーターで行っていた。内蔵・外装の機器類は太陽光線などを遮蔽することで基本的には低温環境にしておき、電源系からの電力を使ったヒーターで適温まで暖める方式が採用されていた。</ref>{{Sfn|川口淳一郎|2011}}。 ;コンピュータ<!--ここに SH-3 と書かれていたため、SH-3 搭載という情報が広まってしまっているが、正しくないので注意。https://twitter.com/epolard/status/15974580077 を参照。--> :主要なコンピュータとして、データ処理計算機(DHU)と姿勢軌道制御計算機(AOCP)がある。これらの[[リアルタイムオペレーティングシステム]](RTOS)は、DHUには[[μITRON]]、AOCPには[[VxWorks]]を使用している<ref>{{Cite news |url=http://fanfun.jaxa.jp/c/media/mail/archiv_j/0042.txt|title=JAXAメールマガジン 第42号 |date=2006-08-01 |newspaper=JAXAメールマガジン}}</ref>。他に、イオンスラスタ制御装置(ITCU) などがある<ref group="注釈">他の大型宇宙機などでは冗長性を持たせるために複数台の制御装置を搭載することが珍しくないが、はやぶさでは軽量化が優先されてITCUは1台だけ搭載された。ただ、内部的には3つのCPUの出力を[[ASIC]]による多数決回路で不良判定することで、ある程度の信頼性を確保している。</ref><ref group="注釈">制御装置は汎用自律化機能を備え、最大32ある条件テーブルに従って外部からの指令を待たずに自律的に動作を行うことが可能になっている。また常時IESを監視していて、アキュムレータ圧力、プラズマ点火状態、直流電源の電圧/電流値、グリッドの短絡などを見張っていて、動作不良と判断すると安全なモードへ移行するようになっていた。</ref>{{Sfn|川口淳一郎|2011}}。 ;通信系 :地球との通信を行うアンテナは3種各1基が備わっていた。これらのアンテナはデジタル送受信機と接続され、制御装置と地球の地上局との間を電波通信によって接続するのに用いられた。探査機の姿勢や電力状況によって3種のアンテナは切り替えられ、いずれか1つが常に地球との通信を維持するようになっていた{{Sfn|川口淳一郎|2011}}。 :;高利得アンテナ ::最大のアンテナは1.6メートルのパラボラ型高利得アンテナ (HGA) であり、イトカワ近辺まで近づいた超遠距離でも、画像伝送を含めた2 - 4&nbsp;k[[ビット毎秒|bps]]でのデジタル信号の通信を行えた<ref group="注釈">HGAは、火星探査機「[[のぞみ (探査機)|のぞみ]]」のものと同等品であるが、地球公転軌道より内側にあたるイトカワ公転軌道近日点での熱環境を考慮して白色に塗装されている点が異なる。</ref>。HGAはz+軸方向に向けて機体に固定されており、0.7度ほどの細いビーム波であるため、正確に地球と通信するためには高精度の姿勢制御が要求された<ref group="注釈">イトカワとのランデブーでは、はやぶさから見て地球と太陽がほぼ20度程度の視野範囲内に位置していたため、地球方向へ高い精度でHGAを向けた姿勢でz軸での回転運動を行っても、太陽電池パネルはおおむね正しく太陽へ向けることが可能であった。</ref>{{Sfn|川口淳一郎|2011}}。 :;中利得アンテナ ::中利得アンテナ (MGA) は、巡航中で通信量も少なく、むしろ太陽電池で発電した電力をイオンエンジンへ優先して配分する必要がある期間に用いられた。ある程度の正確さで地球方向へ向けられれば、最大256&nbsp;bpsで通信が行えた<ref group="注釈">通信途絶からの回復後には32&nbsp;bpsで通信を行った。</ref>{{Sfn|川口淳一郎|2011}}。 :;低利得アンテナ ::低利得アンテナ (LGA) は、HGAの頂部に付けられており、機体本体や太陽電池の方向、若干の電波干渉方向などを除けば、地球の位置に関わりなく全周方向への通信が行えたが、これは緊急用の通信手段であり、8&nbsp;bpsときわめて低速度の通信であった。LGAを用いなければならないほど、逼迫した状況下での緊急通信用の通信手段として「1ビット通信」という通信機能が用意されていた<ref group="注釈">MGAを用いた通信が不可能で、LGAを用いざるをえない状況というのは、機体が安定せずにランダム方向にスピンしているか、良くても太陽方向に太陽電池パネル面を向けてZ軸周りにスピンしている「セーフホールドモード」にあるという場合が想定された。LGAは8&nbsp;bpsというきわめて低速度通信しか行えず、遠距離によって信号波にタイムラグがあり、さらに自転しているために一定周期で通信が遮蔽されるという状況でも、最低限の質問を短いコマンドで問い合わせて、その回答を"YES"/"NO"で得るという「1ビット通信」機能を用意していた。燃料タンクからの漏洩によって姿勢制御を失い漂流したが、この機能によって通信を回復させた。</ref>{{Sfn|川口淳一郎|2011}}。 ;電源系 :;太陽電池パネル ::太陽電池パネルは本体を挟んで両側に3枚ずつ、計6枚が全体としては「H形」になるよう配置され、z+軸方向に向けて固定されている<ref group="注釈">一般的な人工衛星などでは太陽電池パネルは「I形」になるような一直線に配置されることが多いが、「はやぶさ」ではz軸方向での回転モーメントが最大になるように「H形」に配置されている。仮にトラブルによって姿勢制御を失った場合、宇宙機は予測不可能な向きに回転してしまうことが考えられる。そのような時、燃料タンク等の液体などが動揺することで3軸の回転成分同士でエネルギーを交換し合い、長い時間が経てば、3軸の中でも最大モーメントの軸にだけ回転運動が収斂されることが知られている。太陽電池パネルを「H形」になるよう配置することで、z軸方向にだけ回転するようになり、太陽を公転する「はやぶさ」はやがて太陽方向にセルを向け続けることで発電量も確保し、再起動が可能になると考えられていた。そして、実際に長期間の通信途絶後に再び制御を取り戻すことができた。また「H形」であれば小惑星「イトカワ」へのタッチダウン時に接触する可能性を少なくできると考えられた。</ref>。太陽電池パネルの裏面は放熱板である{{Sfn|川口淳一郎|2011}}。 :;電池 ::11セルのリチウムイオン充電池を搭載していた<ref group="注釈">燃料漏洩によって漂流した後、4セルは過放電で使用不能になっていたが、生き残っていた7セルはある程度充電さえ行われていた。本来は過充電防止のためのバイパス回路が、生き残った7セルに対して微弱ながら発電していた太陽電池からの電力を供給し充電していたので、偶然にも7セルだけは過放電による機能喪失を免れた。</ref>{{Sfn|川口淳一郎|2011}}。 [[ファイル:Schematic of ion engine mu10 for Hayabusa.PNG|thumb|200px|right|「はやぶさ」の推進システム'''"IES" の構成概略'''<br />1.キセノン・タンク 2.流量制御部 3.マイクロ波電源 4.中和器 5.イオンエンジン「μ10」 6.スクリーン 7.アクセル 8.ディセル]] [[ファイル:Schematic of ion engine mu10 for Hayabusa 3.png|thumb|200px|right|'''IES''']] [[ファイル:Schematic of ion engine mu10 for Hayabusa 1.PNG|thumb|200px|right|'''中和器内での反応概略'''<br />[[キセノン]]原子はマイクロ波加熱によってプラズマ化され、正電荷を持つキセノン・イオンと電子に電離する。キセノン・イオンのほとんどは壁面から電子を受け取り、再びキセノン原子となって同じサイクルを繰り返す。生み出された電子は開口部より外部に流れ出る。<br /><small>図ではマイクロ波による加熱の仕組みは省かれている。</small>]] [[ファイル:Schematic of ion engine mu10 for Hayabusa 2.PNG|thumb|200px|right|'''イオン生成チャンバー内での反応概略'''<br />[[キセノン]]原子はマイクロ波加熱によってプラズマ化され、正電荷を持つキセノン・イオンと電子に電離する。生み出されたキセノン・イオンはグリッドの穴を通って外部に流れ出るが、巧妙に配置された3層のグリッドを通過する間に電位勾配によって30km/秒程まで加速される。電子は正電荷の壁面に引き寄せられ、やがて壁を通って直流電源部に戻って来た電子の流れは中和器へと送られる。<br /><small>図ではマイクロ波による加熱の仕組みは省かれている。</small>]] [[ファイル:Schematic of ion engine mu10 for Hayabusa 4.PNG|thumb|200px|right|'''3枚のグリッド'''<br />スクリーン、アクセル、ディセル]] ;軌道制御系 :「はやぶさ」には軌道制御を行うための主推進機としてマイクロ波放電式イオンエンジン[[Μ10 (イオンエンジン)|μ10]]を中心とするイオン・エンジン・システム (IES) が搭載されていた。μ10はスラスタAからスラスタDとして、計4台が搭載され、他にも多数の装置と組み合わされて宇宙探査機の推進システムとして用いられた。また、姿勢制御にも用いられるRCSが軌道制御にも使用された。 :IESのエンジン4台は同一のテーブル上に配置されていた<ref group="注釈">[[リアクションホイール]]の2基が故障した後は、約+1000 - +5000&nbsp;rpmだった回転数を+300 - +2000&nbsp;rpmに制限したため、各運動量の保存量が減少しアンローディングの回数が増えてRCSの推進剤を予定より早く使い切ったが、帰路ではμ10イオンエンジンのジンバルを傾けることで推力を機体重心からずらし、この噴射によってz軸まわりのトルクを発生させてリアクションホイールのアンローディングを行った。</ref>{{Sfn|川口淳一郎|2011}}。 :以下に「はやぶさ」に搭載されたIESの仕様を示す。 :{| class="wikitable" |+ IESの仕様{{Sfn|國中均 |author2=西山和孝 |author3=清水幸夫 |author4=都木恭一郎|2004}}{{Sfn|川口淳一郎|2011}} |- ! スラスタ有効直径 | 105mm × 4 |- ! 定格推力 | 8mN × 4 |- ! 消費電力 | 1050W (350W x 3) |- ! 比推力 | 3200秒 |- ! 推力方向制御 | 2軸ジンバル±5° |- ! マイクロ波電源 | 進行波管 (4.25GHz x 4) |- ! 加速用高圧電源 | 3台 |- ! 搭載推進剤 | [[キセノン]] 66kg (但し、最大積載量は73kg) |- ! 推進剤タンク | チタン合金製 容量51リットル |} ;構成 :IESの構成を示す。「はやぶさ」のIESは「μ10」イオンエンジンと呼ばれるスラスタを4台持ち、それを駆動する直流電源を3台備えるので3基のエンジンまで同時に運転できる。 :「μ10」それ自体はイオンの生成・加速部に過ぎず、燃料供給系や中和器、電源系などとともに用いられることで本来の性能が発揮できる。以下に全体の構成を重量とともに示す。 :{| class="wikitable" |+ 構成と重量{{Sfn|川口淳一郎|2011}} |- ! 装置 ! 重量 |- | スラスタ x 4 | style="text-align:right" | 9.2kg |- | マイクロ波電源 x 4 | style="text-align:right" | 9.2kg |- | 直流電源(3台) | style="text-align:right" | 6.3kg |- | 推進剤タンク | style="text-align:right" | 10.8kg |- | 流量制御部 | style="text-align:right" | 6.5kg |- | ジンバル機構 | style="text-align:right" | 3.0kg |- | 機械計装 | style="text-align:right" | 5.0kg |- | エンジン制御装置 | style="text-align:right" | 3.5kg |- | 電気計装 | style="text-align:right" | 5.7kg |- ! 総計 | style="text-align:right" | 59.2kg |} {{main|イオンエンジン}} 本エンジンは燃料として[[キセノン]]を用いており「イオン生成」「静電加速」「中和」という3段階を経て、キセノン・イオンが約30km毎秒ほどの加速を受けて真空の空間のほぼ一定方向へ放射する仕組みになっている。この陽イオンの放出による反動が、1基あたり8ミリ・[[ニュートン (単位)|ニュートン]]の定格推力を生む{{Sfn|川口淳一郎|2011}}。 ;イオン生成 :イオン生成には電子サイクロトロン共鳴 (ECR) という現象を利用している。燃料タンクから流量制御部を経由してイオン生成チャンバー内に導入された希薄なキセノンガスは、マイクロ波による加熱で[[プラズマ]]され、電子とキセノン・イオンに電離する。チャンバー壁面が正電圧に印加されているため、負の電荷を持つ電子は生成と同時に壁面へ引き寄せられて比較的短時間に消滅する。反対に正の電荷を帯びたキセノン・イオン (Xe<sup>+</sup>) は、チャンバー壁面から軽く反発を受けゆるやかに蓄積してゆく。4.25GHzのマイクロ波と1500[[ガウス (単位)|ガウス]]の永久磁石によって脈動する電子流が作られ、この高速電子がキセノン原子に次々に衝突することでイオン化を起こす{{Sfn|川口淳一郎|2011}}。 ;静電加速 :イオン生成チャンバーに溜まった希薄なキセノン・イオンのガスは、真空中に向けて唯一開口しているグリッドの穴から出て行こうとする。[[炭素繊維強化炭素複合材料]]製のグリッドは「スクリーン」「アクセル」「ディセル」という3層から成るが、スクリーン・グリッドには+1500V程度が印加され、アクセル・グリッドには-300V程度が加わり、ディセル・グリッドは0Vの電圧レベルになっている。スクリーン、アクセル、ディセルという3枚のグリッドは0.5mm間隔で並び、それぞれ3mm、1mm、2mmほどの異なる大きさの900個近い穴があけられており、互いの開口位置が正確に合わされている<ref group="注釈">[[炭素繊維強化炭素複合材料]]とは、[[炭素繊維強化プラスチック]]を熱処理し、母材のプラスチックを炭化させた[[複合材料]]のこと。これはモリブデンのような金属板と異なり運転時の高温で膨張することがなく、穴の位置が変化する心配がないが、運転によって内部の繊維が「ウィスカー」と呼ばれるひげとなって表面に出てくると、短絡による放電が起きる。直流電源は短絡によっても数秒間は耐えられる設計になっていた。スクリーン - アクセル間の短絡時には、直流電源のコンデンサバンクからの大電流によってウィスカーが焼き切られることが期待される。アクセル - ディセル間の短絡は300Vと電圧が低いため、コンデンサバンクによっても焼き切れるかそれほど期待できないが、ディセルの電圧がアクセルと同電位になっても加速性能そのものには影響しない。また、リレーボックスの開閉操作は、通常時は直流電源を停止してから行うが、ウィスカーを焼き切るために電源を入れたまま接続系統を切り替えることも行えるようになっていた。</ref>。正の電荷を帯びたキセノン・イオンは、1枚目の+1500V程度が印加されているスクリーン・グリッドを通過する過程で穴の縁から反発を受けて流出コースが細く絞られる。1枚目のスクリーン・グリッドを通過した直後に、2枚目の-300V程度が印加されているアクセル・グリッドに向けて、(1500 + 300 =) 1800 Vの電位勾配の強い加速を受ける。この加速がIESの推進力となる。3枚目の0Vの電位がかかっているディセル・グリッドは、低速なイオンがアクセル・グリッドに戻る事を阻止する働きをする。ディセル・グリッドはイオン・エンジンに必須というものではないが、μ10では長寿命化を求めて備えられている。チャンバー内には電離しなかったものや電離後に電子を吸収するなどしたキセノン原子が存在しており、中性電荷のこの原子はグリッドなどの制約を受けずに自由に飛び出すが、全体の量は比較的少なく、搭載燃料の無駄ではあるが許容されている{{Sfn|川口淳一郎|2011}}。 ;中和 :イオン生成を行いキセノン・イオンだけを宇宙空間へ放出すると正の電荷だけが失われ、そのままでは負の電荷が宇宙機に蓄積されて正の電荷を帯びたキセノン・イオンの投射効率が落ち、やがては正イオンの放出そのものが行えなくなる。この蓄積される負の電荷を電子の放出という形で正負をバランスさせる働きをするのが中和器である。中和器には-30Vほどの電圧がかけられる<ref group="注釈">中和器にかけられた電圧は、当初は-30Vほどの電圧であったが、劣化によって機能が落ちたため劣化が加速することを承知で制限値である-50Vへと変更された。劣化が進んだ最終段階では制限を外したさらに高電圧でも運転された。劣化の原因については不明である。</ref>。中和器内には、燃料タンクから流量制御部を経由して希薄なキセノンガスが導入される。イオン生成チャンバーと同様に、マイクロ波加熱によってキセノンガスはプラズマとなり、キセノン・イオンと電子に電離される。イオン生成過程と異なるのは、中和器の壁面が負電位であるため、電子は壁から反発を受けるがキセノン・イオンは引かれる。キセノン・イオンは壁に接すると電子を受け取ってキセノン原子に戻る。キセノン原子はマイクロ波加熱によって電離し、再びプラズマの一部となるので、キセノンは中和器内にある限り同じサイクルを繰り返す。電子は壁から供給され続ける限りキセノンを仲立ちにいくらでも生成されるため、中和器内に充満した電子は唯一の開口部から真空空間へ向けて流れ出す。中和器から出た電子は3層のグリッドを通過してきたキセノン・イオンと結びついてキセノン原子となる。イオン生成チャンバーと同様に、中和器内のキセノンガスやキセノン・イオンも真空中に漏れ出すが、その量は比較的少ないために、搭載燃料の無駄ではあるが許容されている。また、中和器で消費されるキセノンガスは、イオン生成チャンバーに比べると少量で済む{{Sfn|川口淳一郎|2011}}。 [[ファイル:Schematic of ion engine mu10 for Hayabusa 6.PNG|thumb|250px|right|'''推進剤の配管系統''']] [[ファイル:Schematic of ion engine mu10 for Hayabusa 5.PNG|thumb|200px|right|'''リレーボックス'''<br />3台の直流電源から4台のスラスタへ配電する。]] ;流量制御部 :流量制御部は、1基だけの推進剤タンクから圧力を減じながら4基のスラスタへ必要に応じて適正な圧力でキセノンを供給するために設けられている。推進剤タンクの圧力は、当初は70気圧ほどもあり、運用によって消費されたが地球帰還時でも30気圧ほどあった圧力をスラスタが必要とする0.6気圧程度に下げる働きを果たす。このようにキセノンガスの流量と圧力を調整するために、高圧系と低圧系のそれぞれにラッチング・バルブと非通電時は常に閉じているバルブの2種類を2組と4組に並列にした冗長構成のバルブ群にされており、高圧/低圧の中間に[[アキュムレータ (機械)|アキュムレータ]] (ACM) と呼ぶ貯圧タンクを設けることで圧力調節を行っている。低圧側のバルブを閉じた状態で高圧側のバルブを開くと、推進剤タンクからアキュムレータにキセノンガスが流入する。高圧側のバルブを開けておく時間でアキュムレータ内に蓄えられるガス圧を調節する。適正な圧力になれば高圧側のバルブを閉じてから、4系統あるスラスタ側配管の適切な低圧側のバルブを開く。スラスタ側配管では各組ごとのイオン生成チャンバーと中和器が連接されており、片側だけを閉じたり開いたりはできない<ref group="注釈">イオン生成チャンバーと中和器のキセノンガス供給系が各組ごとで共通だったので、イオン・エンジンのイオン源Bと中和器Aを「クロス運転」した場合には、本来は無用なイオン源Aと中和器Bにもガスが供給された。</ref><ref group="注釈">宇宙機での推進剤タンクの流量制御には[[マスフローコントローラ|マスフロー・コントローラ]]を使用するのが一般的であったが、「はやぶさ」ではアキュムレータを用いた。マスフロー・コントローラは故障が多く信頼性に欠けるが、冗長性のために2台搭載するのは重量過大と判断された。アキュムレータを用いたことで流量や圧力の安定性や精度は低下するが、確実な動作の方を選んだ。</ref><ref group="注釈">仮にマスフロー・コントローラを採用していれば、制御域が10倍程度と狭いマスフロー・コントローラでは、姿勢制御装置が機能を失った時に、高圧ガスをそのまま供給してイオン・エンジンから噴射することはできなかった可能性が高い。</ref><ref group="注釈">バルブ類は、高圧系は70気圧にも耐えられる高価なものを、低圧系はより低い耐圧設計の低コストなものが採用されるのが一般的であったが、「はやぶさ」では低圧系も70気圧に耐え得るものを採用していた。これは高圧側バルブの故障や操作ミスなどでも低圧側が耐えられるように配慮したものだったが、このことが、リアクション・ホイールや噴射式の姿勢制御装置が機能を失った時に、キセノンの高圧ガスをそのままイオン・エンジンから噴射することで姿勢を保つという緊急手段を可能にした。</ref>{{Sfn|川口淳一郎|2011}}。 ;直流電源 :直流電源 (IPPU 1 - IPPU 3) は、太陽電池パネルやバッテリーからの電流供給を受けて、キセノン・イオンの加速や中和器の電子放出の原動力となる。このような直流電源は、これまでの宇宙機でも長年培われた通信機用高圧電源技術であるため信頼性が高く、予備などを含めて4基になったスラスタに対しても電源は3台で十分だと判断され、実際にもトラブルは生じていない<ref group="注釈">中和器から電子を放出する適正な電流値は、イオン生成後にグリッドから放出されるキセノン・イオンの正電荷量を打ち消すだけの電流値が倍率「1.0」として標準になっていたが、2台の中和器で3台のイオン源を中和する倍率「1.5」や、1台の中和器で2台のイオン源を中和する倍率「2.0」といった運転モードが用意されていた。実際には、中和器の劣化が早く、このような倍率を用いることはなかった。</ref>{{Sfn|川口淳一郎|2011}}。 ;リレーボックス :3台の直流電源からのイオンエンジン駆動用の出力は、4基のエンジンに向けてリレーボックス (RLBX) によって給電が切り替えられるようになっていた<ref group="注釈">リレーボックスが行える3台の直流電源からの出力切り替えは「IPPU 1:スラスタA/スラスタB, IPPU 2:スラスタB/スラスタC, IPPU 3:スラスタC/スラスタD」であった。</ref>{{Sfn|川口淳一郎|2011}}。 ;姿勢制御系 [[ファイル:Schematic of Hayabusa x,y,z.PNG|thumb|200px|right|'''RCS'''<br />12基の姿勢制御スラスタの配置。<br />太陽電池パドルへの影響を避けて、±y面には付けられていなかった。]] :;姿勢制御スラスタ ::20[[ニュートン (単位)|ニュートン]]の推力を持つ2液式の軌道制御用も兼ねた姿勢制御スラスタ (RCS) が±z面の上下4つのそれぞれの角に計8基と±x面の左右に2基ずつの計4基で合計12基あり、軌道制御や姿勢制御に用いられた。RCSにはA系とB系の2系統の配管がある。<ref group="注釈">元々±y面方向にはあまり軌道制御が必要ない事や重量削減のためもあるが、±y面の方向には太陽電池パネルがあり、RCSの噴射によって裏面の放熱板が汚れる恐れや推力方向がズレることもあって、±y面にはRCSを付けなかった。どうしても±y軸方向に動かす必要がある場合には、まずz軸まわりに90度回転させてからx軸方向のスラスタで対応した。</ref>加圧に不活性なガスを用いている推進剤のタンクは、無重力環境では単にタンクにパイプを繋いだだけでは、その時々の液体の位置によって配管内に流れるものが液体であったりガスであったりして問題がある。燃料であるヒドラジンのタンクと酸化剤の四酸化二窒素のタンクのうち、燃料タンクはゴムなどの袋に充填され周囲から加圧ガスで押すようになっている。酸化剤は腐食性が強いので高分子化合物は用いられず、はやぶさでは金属製のベローズをタンクに収めることで腐食されずに加圧ガスで押すようになっていた。ノズル基部の噴射器から当初は最短で30ミリ秒の、運用中に改良して最短10ミリ秒のパルス状の噴射、もしくはそれ以上の必要な長さの噴射を行なえた。噴射された2つの推進剤は直ちに化学反応を起こして燃焼し、そのガスがノズルを広がりながら一方へ飛び出す反動が推力となるものであり、スケールの違いや加圧ポンプなどがない他は、大型の2液による液体燃料式ロケットと同じしくみだった<ref group="注釈">酸化剤の四酸化二窒素は-30℃以下にならないと凍らないが、燃料であるヒドラジンは2℃以下で凍るため、この特性によって構体内に凍結した燃料がいつまでも残ってしまい、時折、機体に予期せぬ運動などを起こして悪影響を与えたと考えられている。</ref>{{Sfn|川口淳一郎|2011}}。 :;リアクションホイール ::ゼロモーメンタム方式による3軸姿勢制御を行う本機では、姿勢制御装置として3軸3基の[[リアクションホイール]] (RW) を搭載していた。電力を使用することで角運動量を調節できるリアクションホイールは、RCSのように推進剤を消費しないので長期間の宇宙活動には適するが、機体のモーメントをホイール内に蓄積し続けると月単位では回転数が上限値を迎え「飽和」してしまうため、RCSのような何らかの方法で時折、機体外に無用な回転運動量を放つ「アンローディング」作業が必要になる<ref group="注釈">リアクションホイールは、2005年7月30日にz軸が、同年10月2日にはy軸が故障した。</ref><ref group="注釈">「ニア・シューメーカー」や「ディープインパクト」といった宇宙機でも採用実績がある、米イサコ (Ithaco) 社(現グッドリッチ社)製"Type-A"リアクションホイールが使用されたが、精密な回転部品を含むこの製品は液体燃料ロケットによる加速度には耐える設計であったが、「はやぶさ」を打ち上げる固体燃料ロケット「M-Vロケット」の発射時の振動や衝撃に耐え得るように元々出来ていなかった。イサコ社では固体ロケットによる大きな振動にも耐えられるように可能な限りの改良を行ったが、この改造に起因する障害が(少なくとも地上での追試験でも、磁石がステータに当たり欠けて飛散するのを防ぐためのメタルテープが冷却・過熱を繰り返すと剥がれて回転の障害になるという同様の問題が再現されたので)発生して、続々と機能を失ったのだと考えられている。</ref>{{Sfn|川口淳一郎|2011}}。なお、ホイール部分に固体ロケットの衝撃から守るため、アルミがまかれており、これと本体を接着する接着剤が熱により剥がれ回転部に巻き込んだことによって、機能を停止した。 === 探査機器 === 宇宙機でのミッション系に相当する探査機器類は、受動的なセンサ系と能動的なサンプル採取関係のものに大きく分けられる。センサ系は小惑星への接近時に用いられる純然たるミッションの誘導用と、ミッション内容によらず宇宙空間内での位置や方向などを知るための航法用のものがあり、両方を兼ねるものもある<ref group="注釈">NASAの探査ローバー "MUSES-CN" も搭載する計画が進められていたが中止となり、打ち上げ予定時期直前まで同ローバーの搭載予定空間と本体左太陽電池パドル下に開口部があった。</ref><ref group="注釈">カメラを含むデジタル機器類の仕様を見れば、2011年現在の民生用途の普及品レベルよりも劣るものが多いが、2003年当時は相応に高性能であり、また宇宙機の部品全般に言えるのは宇宙での使用実績のない最先端技術よりも実証済みの[[枯れた技術]]が採用される傾向がある。</ref>{{Sfn|川口淳一郎|2011}}。 ;センサ系 :外部の状況を知るためのセンサには、スタートラッカ (STT) やジャイロ、それに光学航法カメラ (ONC) 系統などの航法用センサ類と、探査ミッションに関わる対象物の科学的データを得るためのセンサ類が搭載された。また、機体内部の温度や電圧、電流といったセンサもそれぞれの搭載機器に多数が配置され制御系へ測定データを提供していた{{Sfn|川口淳一郎|2011}}。 :;航法用センサ ::;太陽センサ :::太陽の位置を検出することで自機の方向を知る、航法用センサとしては最も基本的なものである{{Sfn|川口淳一郎|2011}}。 ::;スタートラッカ :::スタートラッカ (STT) は、比較的明るい星の位置を検出することで自機の方向を知る航法用センサである。地球を周回するような近距離では、センサだけ搭載しておいて星図データとの照合は地上にデータ送信することで対応する方法が主体であるが、はやぶさでは星図データを搭載して自ら照合する自立<!--自立?自律?-->星同定機能を備えていた。本機の実体は30度×40度程度の視野角を持つカメラだった{{Sfn|川口淳一郎|2011}}。 ::;光ファイバ・ジャイロ :::慣性基準装置 (IRU) とも呼ばれる光ファイバ・ジャイロは3軸ごとに機体の回転運動を測定する。IRUは実績がある米国製の700グラムほどの製品が採用され2台(各3軸計測)が搭載された<ref group="注釈">小型軽量高精度であるが、デジタル処理回路に宇宙線が当たることで演算エラーとなり、平均的には数か月に1度程度エラーとなってリセットしなければならない。小惑星への再突入前日に、前々日からバイアス調整済みだった1台がエラーとなり、リセット(再起動)したが、ぎりぎりで再調整することになった。</ref>{{Sfn|川口淳一郎|2011}}。 ::; 加速度センサ (ACM) :::加速度センサは機体の直線加速度を測定する。3軸方向が必要になる。理論上は直線加速度を積算することで宇宙空間内での移動距離が判るはずであるが、微小な加速度の測定は誤差が大きく、ACMだけでは正確な航法・誘導は行えない{{Sfn|川口淳一郎|2011}}。 ::;光学航法カメラ (ONC) :::3台ある光学航法カメラ ({{En|Optical Navigation Camera}}) は航法用センサであると同時に、科学観測に用いられる探査ミッション用センサでもある。3台のCCDは同種のものが採用され、画像処理回路も1つだけが共通に備え、撮影対象に応じて、底面方向 (-z軸) のONC-T(望遠)/ONC-W1(広角)と側面方向 (y軸) のONC-W2(ワイド)<ref group="注釈">ONC-W2ははやぶさの側方を広角撮影するために設けられた。はやぶさはイトカワに近づくと、その重力に引かれることや太陽と地球にパドルとアンテナを向けながらイトカワを観察する必要から、イトカワと太陽/地球を結ぶ線上の「ゲートポジション」(20km) や「ホームポジション」(7km) と呼ばれる位置に留まることが多くなる。ただしそのような位置からではイトカワの表面は太陽に照らされた明るい画像しか得られず、科学探査としては陰影のある側方からの「ターミネーター観測」と呼ばれる撮影が望まれた。太陽方向へパドルを向けることはほぼ必須であったので、この要求に応えて側面方向にもカメラを備えることになった。結局、主にRWの故障によってターミネーター観測はキャンセルされ、最後に地球の映像を撮影して役目を終えた。</ref>という3つのカメラが切り替えて用いられた。 :::{| class="wikitable" |+ ONC仕様{{Sfn|川口淳一郎|2011}} |- ! 機器 || レンズ || 視野角 || フィルター || 撮像素子 || 露光時間 || 重量 |- ! 望遠光学航法カメラ (ONC-T)<ref group="注釈">"AMICA" とも呼ばれる。</ref> | D=15mm, f=120mm F8 | 5.7°x 5.7° | 8バンド分光フィルター | rowspan="3" | 背面照射型CCD<br />1,024x1,024画素<br />(有効画素1,000x1,024) | rowspan="3" | 5.46ms - 179s | 1.61kg |- ! 広角光学航法カメラ (ONC-W1) | rowspan="2" | D=1.1mm, f=10.4mm F9.6 | rowspan="2" | 60°x 60° | rowspan="2" | なし | 0.47kg |- ! 広角光学航法カメラ (ONC-W2) | 0.91kg |- ! アナログ処理回路 (ONC-AE) | colspan="5" | カメラヘッド駆動・12ビットAD変換 | 1.01kg |- ! デジタル画像処理回路 (ONC-E) | colspan="5" | 32ビットRISC CPU+画像処理用[[ASIC]] | 5.66kg |} :;探査ミッション用センサ ::;レーザー高度計 (LIDAR) :::レーザー測距機とも呼ばれるレーザー高度計 ({{En|LIght Detection And Ranging}}; LIDAR) は、[[YAGレーザー]]光を用いた測距装置である。地表の反射率を測定する科学機器としての運用も想定されていた為、計測距離は50m - 50kmと広範囲<ref name="jjsass.54.514">[https://doi.org/10.2322/jjsass.54.514 小惑星探査機はやぶさ搭載用レーザ高度計:機器開発とその実運用結果報告] 日本航空宇宙学会論文集 Vol.54 (2006) No.634 P514-521</ref>。また、着陸降下時の距離測定値を利用しイトカワの重量と密度の推定が行われた<ref name="jjsass.54.514"/>。 ::;レーザーレンジファインダー (LRF) :::レーザーレンジファインダー (Laser Range Finder) は、レーザー光を用いた測距装置であり、LRF-S1とLRF-S2の2台がある{{Sfn|川口淳一郎|2011}}。 ::* LRF-S1:LIDARが比較的長距離を担当するのに対してLRF-S1は近距離を担当し、30度ほどの角度を持たせた4本のレーザー光を用いて対象面の傾きを測定する。70メートル以下でLIDARと併用し、互いの誤差を確認しながらLRF-S1の測定へ切り替える。LIDARがレーザー単パルス波を用いて反射されて来るまでの伝播時間を計測するのに対して、LRFではFM変調した連続レーザー波を送信して反射波との位相差を計測する{{Sfn|川口淳一郎|2011}}。 ::* LRF-S2:サンプラーホーンの長さを測る。着地時などにホーンが押されて縮むが、機体側からホーン先端部との距離を計測することで小惑星との接触を検知するようにした。S1/S1共通のデータ処理回路部 (0.91kg) が別にあり、切り替えて使用するためにS1とS2は同時に使えない{{Sfn|川口淳一郎|2011}}。 :::{| class="wikitable" |+ LIDAR、LRF仕様{{Sfn|川口淳一郎|2011}} |- ! 機器 || 測定目標 || 計測レンジ || 誤差 || 計測周期 || 重量 |- ! LIDAR | rowspan="2" | 機体の高度 | 40m - 60km | ±1m(50m時)<br />±10m(50km時) | 1回/秒 | 3.67kg |- ! LRF-S1 | 7 - 100m | ±10cm(10m時)<br />±3m(100m時) | 5回/秒 | 1.45kg |- ! LRF-S2 | サンプラーホーンの長さ | 0.5m - 1.5m | ±1cm | 20回/秒 | 0.41kg |} ::;ファンビームセンサ (FBS) :::ファンビームセンサ ({{En|Fan Beam Sensor}}) は、レーザー光を利用した障害物検出器であり、送信機/受信機のセットが探査機両側面に各2か所、合計4セットが配置されていた。イトカワへの着地(タッチダウン)では、探査機本体が未知の地形へ降下するため、起伏が予想以上に大きい場合に備えて、太陽電池パネルの下方空間をレーザービームで扇状にスキャンすることで10cm大程度の岩石の突出部がパネルに接触する前に再上昇して接触回避できるように考えられていた<ref group="注釈">何らかのノイズを拾って受光センサが異常検出しないように、FBSでは複数回異常を検出した場合に限り、障害物があると警告を報告するようになっていた。</ref><ref group="注釈">1回目の降下では、接地寸前にFBSが異物を検出したので規定の自律判断に従い、降下を中止すると同時に底部RCS4基の噴射によって機体は上昇をはじめたはずだった。その後の状況は明確ではないが、安全圏に浮かびながらその後の指令が来るのを待っているはずであったが、上昇用スラスタの推力に不均一があったのか、一旦は上昇した後、十分離れる前に上昇を終えると、やがてはイトカワに落下して数回バウンドしてから30分間程度、小惑星表面に不時着していたと分析された。4基のRCSが均等に推力を発生しないと機体は弧を描いて進み、最悪では小惑星へ向かって突進してしまうため、自律制御プログラムは不均一な推力状況ではRCSの噴射を停止するように定められていた。RCSは極寒の真空環境で動作する多くのバルブ類や温度や圧力に本来は敏感な化学的反応に頼っているため、精密な動作制御にはあまり向いていない。FBSは2回目の接地からは正常に動作した。</ref>{{Sfn|川口淳一郎|2011}}。 ::;近赤外分光器 (NIRS) :::0.8 - 2.1μmの[[近赤外線]]領域を測定する分光器である。InGaAs素子による64画素が1列に並んだ光学的な検出器である。視野角0.1度×0.1度で取り込んだ検出光を、透過型回折格子によって波長ごとに分散させ、0.8 - 2.1μmの領域を64バンドで光量を検出する。イトカワを構成する岩石などの組成を知るために、太陽からの反射光を小惑星の表面で測定し、主にケイ酸塩鉱物による吸収スペクトル線を知ることで、組成に関する情報を得るものである。AMICAの可視光領域の情報と合わせれば、より詳細な鉱物組成が推定できる<ref group="注釈">実際のNIRSを使った観測では、7km離れたホームポジションから12m四方の領域を測定し、イトカワ表面の6 - 7割をカバーした。</ref>。NIRSとXRSはコントローラと電源を共有している{{Sfn|川口淳一郎|2011}}。 ::;蛍光X線スペクトロメータ (XRS) :::X線蛍光分光器とも呼ばれるXRS ({{En|X-Ray Spectrometer}}) は、3.5度×3.5度の視野角を持ち、1.0 - 10keVのエネルギー帯域のX線を160eVの分解能で検知することができる。本来の小惑星の組成を検知する底面に取付けられたセンサー部にはX線CCD素子が4枚用いられており、太陽活動によってX線の放射量が変化するのを補正するための側面に飛び出した位置にある標準試料を捉えている別に1枚が使用され、合計5枚のX線CCD素子が搭載されている。センサー部だけで1.7kgの重量であり、センサー部とは別にXRS用の電子回路が共通電子回路部内に収納されている{{Sfn|川口淳一郎|2011}}。オンボードコンピュータ(OBC)としてSTRAIGHTプログラムで開発されたSH-OBCを採用し、当時惑星探査用としては高速だった[[SuperH|SH-3]](SH7708)の三重冗長系によって観測画像の機上解析を実現した<ref>{{Cite web|和書|author=山本幸生 |coauthors=岡田達明; 白井慶; 加藤学 |date=2002-05-31 |url=http://www2.jpgu.org/meeting/2002/pdf/j012/j012-003.pdf |title=MUSES-C搭載用蛍光X線分光計におけるX線CCDの機上解析 |format=PDF |work=地球惑星科学関連学会2002年合同大会予稿集 |publisher=日本地球惑星科学連合 |accessdate=2012-12-19}}</ref><ref>{{Cite journal |和書 |url=http://www.isas.ac.jp/ISASnews/No.281/ISASnews281.pdf |title=小型高機能科学衛星INDEXの開発 |format=PDF |publisher=ISAS/JAXA |page=2 |quote=表2 INDEXに搭載される先進衛星機器(中略)機器:SH-3プロセッサ 特徴/性能:60MHz三重多数決プロセッサ 適用ミッション:INDEX,'''はやぶさ''',SELENE |accessdate=2012-12-19 |year=2004 |month=8 |journal=ISASニュース |author=斉藤宏文 |author2=福田盛介 |issn=0285-2861 |issue=281}}</ref>。 ::;可視分光撮像カメラ (AMICA) :::AMICA ({{En|Astroid Multiband Imaging Camera}}) は、航法用カメラ"ONC-T"の別名であり、航法では元々不要な機能である分光用の8域の分光フィルターホイールが探査用として備わっている。1つのバンドは航法に用いる場合の350 - 950nmまでの全域を通過させるものであり、残る7つのフィルターが、360nm, 430nm, 545nm, 705nm, 860nm, 955nm, 1025nmを通すようになっている<ref group="注釈">AMICAのフィルターは、地上から小惑星を観察する際に用いられる分光域"ECAS"に準拠しているため、多くの小惑星データと比較することが可能である。</ref>。偏光フィルターもCCDの四隅に備えられていて、小惑星に接近した時に表面の粒子サイズを検出することになっていた<ref group="注釈">リアクションホイールが使えず偏光フィルターを用いた測定は行えなかった。</ref>{{Sfn|川口淳一郎|2011}}。 ;ターゲットマーカー :はやぶさはイトカワ上に短時間だけ接地して岩石等の試料を採集するが、その着陸を安全に行うために、広角カメラ"ONC-W1"の撮影によって横軸方向の移動速度を安全値である毎秒8cm以内に収めるよう降下軌道を制御するが、その際の良好な画像を得るのにターゲットマーカーが用いられる。イトカワに30m程まで接近したはやぶさは、底面にぶら下げた状態のターゲットマーカーの固定ワイヤーを火工品、つまり火薬で焼き切る。はやぶさはRCSで自らは減速することで、ターゲットマーカーを先に着陸地点となるイトカワ上に落としておき、ゆっくり接近しながら、"ONC-W1"はフラッシュで照らした画像と照らさない暗い画像を簡単な内部演算することで、ターゲットマーカーの位置を知る。複数回この処理を行うと、横方向の移動速度を知ることができる。 :ターゲットマーカーは重力の小さなイトカワ上で弾まずに確実に定着するように、薄いアルミ製の袋にポリイミド粒を収めた[[お手玉]]のような構造に作られており、転がり防止用の4つのとげが付けられていた<ref group="注釈">ターゲットマーカーは東京の町工場によって作られた。</ref><ref>『[[クローズアップ現代]]』2006年11月30日放送分</ref>。フラッシュに対して明るい反射を得るため、表面は[[反射材|再帰性反射シート(民生品)]]で覆われていた{{Sfn|川口淳一郎|2011}}。 ;サンプラー系 :イトカワ表面からサンプルを採取するサンプラーは、5つのサブシステムから構成されている。 :* プロジェクタ :* サンプラーホーン :* サンプルキャッチャー/カプセル蓋 :* 搬送機構 :* サンプルコンテナ{{Sfn|川口淳一郎|2011}} :;プロジェクタ ::プロジェクタは弾丸(プロジェクタイル)を下方へ向けて打ち出し、イトカワ表面の岩石などを飛散させてサンプルとしてホーン内に飛び上がらせる役割を持つ。3本の棒状の発射装置がサンプラーホーンの基部外面に備わり、電気発火によって推進薬に点火されることで、5gの[[タンタル]]製の弾丸が各1発ずつ順番に発射されると秒速300mで飛び出してイトカワ表面を打つ。ホーンの基部にはアルミ箔の膜が付いた穴が3か所開いており、それぞれのプロジェクタがこれらに合わせて取り付けられている。点火後、弾丸は推進薬の圧力によってアルミニウム製のサボと共に前進し、弾丸はプロジェクタから飛び出すが、サボはプロジェクタ内に留まり変形して銃口を塞ぐので、発射ガスがホーン内に吹き込まれてサンプルや地面を汚染することはほとんどない。弾丸は穴からホーン内に入射されると、下部ホーン下端の中央付近に飛ぶように照準されている。弾丸はタンタル製であるため、小惑星の岩石組成とは区別が付きやすいとされる。プロジェクタの発射命令は、ホーンの長さを測るLRF-S2が1cmの短縮を検出することで出されることになっていた{{Sfn|川口淳一郎|2011}}。 :;サンプラーホーン ::サンプラーホーンは、先端部の内径が20cmで全長1mほどのほぼ円筒形をした中空の管である。上部ホーンと下部ホーンは[[アルミニウム]]製の円錐形であり、ホーン全体の外形を保ちながら、舞い上がったサンプルを最上部へと誘導する働きをする。中部ホーンは耐弾性がある布を円環で支えた蛇腹構造になっていて、打ち上げ時には畳まれ、宇宙空間で伸ばされるようになっている。舞い上がったサンプルがホーンを破って機体に損傷を与えないように強靭な布が選ばれており、機体自身が地面に接触しないように距離を稼ぐと同時に接地時の衝撃吸収も担っている。下部ホーンの周囲にはダストガートというスカートがあり、ホーンに入らなかったサンプルが機体側に飛び上がって障害を起こさないように考慮されている{{Sfn|川口淳一郎|2011}}。 :;サンプルキャッチャー/カプセル蓋 ::サンプルキャッチャーは直径48mm、高さ57mmの円筒形の容器であり、内部はA室とB室に隔てられている。上部ホーンから導かれたサンプルは45度に傾いた反射板に当たることで進路が横向きに修正されて、1回目のサンプル収集ではB室に格納され、次にA室に格納される。2室の切り替えは120度(1/3回転)ごとに2方向の開口部を持つ回転ドア式の回転筒キャップによって行われ、最後の1/3回転によってこれがそのまま蓋となる。サンプルキャッチャーの一方にはカプセル蓋が固定されている{{Sfn|川口淳一郎|2011}}。 :;搬送機構 ::サンプルキャッチャーをサンプルコンテナ内に移動させるのが搬送機構の役割である。サンプルの収集を終えて、サンプルキャッチャーをサンプルコンテナ内に移動するには、まず、サンプルキャッチャーに挿入されているホーン上端部を下げる。次に、形状記憶合金製のバネに通電してサンプルキャッチャーとカプセル蓋を押し、これらをサンプルコンテナ内に挿入する。ラッチ・シール機構に対して信号を送り、ラッチによってカプセルにカプセル蓋を固定する動作と、Oリングによる真空シールを保つ動作を同時に行う。カプセル側と結んでいた信号ケーブルを[[火工品]]によるワイヤーカッターで切断した{{Sfn|川口淳一郎|2011}}。 :;サンプルコンテナ<!--「サンプルコンテナ」は位置や構造的にも帰還カプセルの一部であるが、正式にはサンプラー系に区分される。--> ::サンプルコンテナは帰還カプセル内の中央に位置しており、サンプルキャッチャーを格納する容器である。宇宙空間でサンプルキャッチャーを収容したサンプルコンテナは、サンプルキャッチャー側の2重のOリングと共にサンプルキャッチャーとサンプルコンテナとの狭い間隙を真空に保つことで地球帰還時の再突入の高温から熱伝導を断ち、同時にサンプルコンテナ内まで真空に保つことで地球大気からのサンプルの汚染も防ぐようになっている{{Sfn|川口淳一郎|2011}}。 ;帰還カプセル<!--「帰還カプセル」と「再突入カプセル」の関係は判りにくいが、正式には帰還カプセル+サンプルコンテナ(含:サンプルキャッチャー)+カプセル蓋=再突入カプセルとなる。--> :帰還カプセルは、直径40cm、質量16.3kgの蓋付[[中華鍋]]のような形状をした耐熱容器で、サンプルコンテナなどを除けば、ヒートシールド、パラシュート、インスツルメント・モジュールといった要素から構成される。帰還カプセルはサンプルコンテナを収容後、分離地点に到達したところで止められていたラッチを火工品により解除し、18本のヘリカルスプリングが再突入カプセルを回転をつけながら押し出すしくみである。地球帰還時には最大、約43,000km/時(約12km/秒)の速度で大気に進入するため、主に[[断熱圧縮]]による[[空力加熱]]を受けて前面の空気の温度は最大では2万℃ほどになる。15MW/m<sup>2</sup>ほどの加熱率と見込まれる{{Sfn|川口淳一郎|2011}}{{Sfn|山田哲哉|安部隆士|2006|p=368}}。地球帰還後は月軌道付近{{Sfn|山田哲哉|安部隆士|2006|p=368}}で本体から分離し(実際には 70,000km<ref name="jaxa20100616" />または 74,000km<ref>{{Cite news |url=http://osaka.yomiuri.co.jp/science/news/20100614-OYO8T00272.htm |title=はやぶさ帰還…小惑星の砂、期待 |date=2010-06-14 |accessdate=2010-06-26 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100617185421/http://osaka.yomiuri.co.jp/science/news/20100614-OYO8T00272.htm |archivedate=2010年6月17日 |newspaper=読売新聞 |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref>で分離した)、突入角12.0度<ref name="reentry">{{Cite web |accessdate=2010-06-17 |url=http://reentry.arc.nasa.gov/conditionshayabusa.html |title=Hyperseed MAC: Hayabusa SRC Entry Observing Campaign |publisher=NASA Ames Research Center}}</ref>、秒速12.2km<ref name="reentry" />の[[宇宙速度#第一宇宙速度|超軌道速度]]{{Sfn|山田哲哉|安部隆士|2006|p=368}}で再突入する。 :;ヒートシールド ::ヒートシールドは、主に[[炭素繊維強化プラスチック]] (CFRP) によって作られた耐熱性のカバーであり、前面ヒートシールドと背面ヒートシールドの2つの円盤状の部品から構成される。最大2万℃になる熱に耐えながら、内部への熱の侵入を断つことが求められた。前面ヒートシールドは、落下中の減速効果と姿勢の安定性を両立させるために曲率半径20cmの部分球面状の外形が選ばれた。高熱に耐えるための外面を形成するCFRPの層は「[[アブレータ]]」と呼ばれる<ref group="注釈">アブレータは従来から用いられている技術であるが独自の工夫も加えられており、例えば、CFRPの一部が高温状態で流動化しやがて気化する過程で、ガスが炭化層を持ち上げ剥がすような作用を防ぐために、スリット入り積層の「ラティス・アブレータ」や斜め積層などの工夫が行われた。</ref>。前面側では25 - 36mmほどのアブレータ層の内側には10mmほどの断熱層が形成され、背面側では11mmのCFRP層になっている。表面にはアルミ蒸着カプトンの薄膜が貼られている{{efn|地球周回軌道から再突入する[[スペースシャトル]]の約30倍([[淀み点]]総加熱率)もの空力加熱によってカプセル周囲の気流は1万℃に達するが、アブレータから揮発したガスが熱を遮り、ヒートシールド表面は3,000度、カプセル内は50度程度までに抑えられる{{Sfn|山田哲哉|安部隆士|2006}}。}}{{Sfn|山田哲哉|安部隆士|2006}}。背面ヒートシールドにはパラシュートの一端がつながり、ヒートシールドを分離・破棄する過程でパラシュートが引き出されることになる<ref group="注釈">実際は大気圏突入後5分経過した22時56分に高度5km付近でヒートシールドが分離された。パラシュートが開いて4秒後にビーコンの発信が始まった。</ref>{{Sfn|川口淳一郎|2011}}。 :;パラシュート ::再突入カプセルは、大気を落下中の高度5 - 10km付近でヒートシールドを捨て、ポリエステル製のパラシュートを開いて、落下速度を7m/秒程度にまで減速させる{{Sfn|川口淳一郎|2011}}。 :;インスツルメント・モジュール ::インスツルメント・モジュールはサンプルコンテナを取り囲むように配置されている電子機器であり、リチウム一次電池によってパラシュートの開傘命令と電波ビーコンの送信が行われる。加速度センサやタイマーによってパラシュートの開傘タイミングを決め、開傘後に地上に落下してからはUHF帯でビーコンを送信する{{Sfn|山田哲哉|安部隆士|2006|p=368}}。高熱や開傘時の50Gほどの衝撃にも耐える必要から、基板間は樹脂で満たされ固められている{{Sfn|川口淳一郎|2011}}。 {{Gallery |align=center |width=160 |height=120 |ファイル:Hayabusa-1.jpg|探査機「はやぶさ」(相模原市立博物館 2010年7月撮影) |ファイル:Hayabusa-2.jpg|同左(相模原市立博物館 2010年7月撮影) |ファイル:Hayabusa-3.jpg|同左(相模原市立博物館 2010年7月撮影) }} === 搭載探査機 === ==== MINERVA ==== {{main|ミネルバ (ローバー)}} MINERVA(ミネルバ)は、当初、はやぶさへの搭載が予定されていた[[アメリカ航空宇宙局]] (NASA) のローバーがキャンセルされたため、それまでゆっくりと開発されていたものが、急遽準備された日本の小型ローバーである。プロジェクトマネージャーの[[川口淳一郎]]が日本独自の子探査機を搭載することを提案し開発された。名称は "MIcro/Nano Experimental Robot Vehicle for Asteroid" の略である。カウンターバランスの代わりに搭載することが前提となっており、分離機構を含めた質量を1kg以内に収めることが条件となっていた。NASAのJPLによってMUSES-CNの開発が進められていたことから正式なプロジェクトとしては扱われておらず、開発費は技術研究費用から捻出された。民生品や宇宙仕様品の廃棄部位の使用、宇宙仕様品のメーカーによる無償提供などで開発コストが大幅に削減されている。当初は正4面体の頂点にハエタタキのような構造を取り付け、それをモーターで駆動するという方式が考えられたが、駆動部位の露出や消費電力の面で問題があり、最終的には完全密閉の正16角柱形の外形に、内部のモーターを駆動してその反力でホップするという方式に決定した。 {|class="wikitable" |+'''MINERVA仕様'''<ref>{{Cite journal |和書 |accessdate=2008-10-30 |url=http://www.isas.jaxa.jp/ISASnews/No.267/ken-kyu.html |title=研究紹介 新しきチャレンジ 世界初の小惑星探査ローバ“MINERVA” |year=2003 |month=6 |publisher=宇宙科学研究所 |author=吉光徹雄 |journal=ISASニュース |author2=久保田孝 |issn=0285-2861 |issue=267}}</ref> !寸法 |直径 120mm × 高さ 100mm(正16角柱) |- !質量 |591g |- !CPU |[[SuperH|SH-3]] (SH7708)(約10[[MIPS]]) |- !rowspan="3"|メモリ |ROM:512KB |- |RAM:2MB |- |[[フラッシュメモリ]]:2MB |- !OS |[[μITRON]] |- !アクチュエータ |Maxon Motor AG製 DCブラシ・モーター × 2(ホップ用、旋回用) |- !ホップ能力 |最大9cm/s(速度可変) |- !rowspan="2"|電力供給 |太陽電池:EMCORE製 最大2.2W(距離:1AU) |- |[[電気二重層コンデンサ]]:[[エルナー]](株)製、容量:25F、電圧:4.6V |- !通信 |9.6 kbps(通信可能距離:20km) |- !rowspan="3"|搭載センサ |CCDカメラ [[SONY]] PCGA-VC1 × 3(ステレオ + 単眼) |- |フォトダイオード × 6 |- |温度センサ × 6 |} 打ち上げ後2年を経て[[2005年]]11月12日に探査機から分離されたが、分離時に探査機が上昇中であったため、イトカワに着陸することはできず、史上最小(当時)の[[人工惑星]]となった(後に[[IKAROS]]のDCAM2により更新<ref>{{Cite news |url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1006/16/news081.html |title=ねとらぼ:「ゆっくり寝てね……」 イカロス君、分離カメラ「DCAM2君」とお別れ |date=2010-06-16 |accessdate=2010-06-18 |newspaper=ITmedia ニュース}}</ref>)。分離後の状態は良好であり、探査機の太陽電池パネルを撮影した他、通信可能限界距離を越え通信が途絶するまで18時間に渡ってデータを送信し続けた。 ==== MUSES-CN ==== "MUSES-CN"は質量1kgを目標として開発される予定の小型ローバーだった。この着陸探査機は、NASA[[ジェット推進研究所]]の[[ディープスペースネットワーク]]を利用する対価として「はやぶさ」に搭載される予定だったが、重量過多と開発費の高騰によって2000年11月3日に開発計画は中止された<ref>{{Cite web|和書|accessdate=2008-10-30 |url=http://sse.jpl.nasa.gov/news/display.cfm?News_ID=503 |title=NASA Cancels Miniature Rover for Joint Japan-U.S. Asteroid Mission |date=2000-11-03 |publisher=NASA |author=Jet Propulsion Laboratory |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120210144756/http://sse.jpl.nasa.gov/news/display.cfm?News_ID=503 |archivedate=2012年2月10日 |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref>。カメラや近赤外分光器の搭載を予定していた<ref>{{Cite web |accessdate=2008-10-30 |url=https://hdl.handle.net/2014/17975 |title=NASA's Science Rover for MUSES-C |date=1999-02-22 |publisher=JPL/NASA |last=Peters |first=Stephen}}</ref>。 {|class="wikitable" |+'''MUSES-CN仕様'''<ref>{{Cite journal |accessdate=2009-03-23 |url=http://www.isas.jaxa.jp/ISASnews/No.219/ken-kyu.html |title=研究紹介 The NASA Rover for MUSES-C |year=1999 |month=6 |last=Peters |first=Stephen |journal=ISASニュース |publisher=宇宙科学研究所 |issue=219}}</ref> !寸法 |縦 140mm × 横 140mm × 高さ 60mm |- !質量 |1.3kg |- !電力供給 |太陽電池:2.9W |- !通信機器 |Orbiter-Mounted Rover Equipment (OMRE) |- !搭載センサ |0.9 - 7.0mm帯域赤外線分光計 |} {{-}} == 航法 == {{main|EDVEGA}} はやぶさでは、光学複合航法と地形航法が採用されていた。光学複合航法は主に宇宙空間での軌道を決定するためのものであり、地形航法はイトカワへ正確に着地するためのものであった。 ;光学複合航法 :光学複合航法は電波航法と光学航法を併用する方式である。 :;電波航法 ::距離を最も正確に計測できるのは電波航法であった。地球からはやぶさへ向けて発射された電波パルスをはやぶさが受け取ると、それをすぐに地球へ向けて送り返す。宇宙空間の電波の伝播速度などが判っているので、地球とはやぶさ間の距離が数メートル単位の誤差で計測できる。また、電波の[[ドップラー効果]]を計ることによって、地球方向に関する加速/減速も正確に計測できる。はやぶさは太陽の引力によって常に引かれているため、自ら推力を出さずに慣性運動をしばらく続ければ、地球方向での距離や速度の変化から、かなり正確な航跡が算出できる。この計測のためには最低でも3日間は、精度を高めるためにはさらに数日間は、軌道制御に関わるイオンエンジンなどは使用できない。長距離になると誤差が大きくなり、3億キロメートル先では数百キロメートルの誤差となる。 :;光学航法 ::光学航法は光学航法カメラから得た画像により主にイトカワの方向や位置を知るのに用いられ、また、自機の方位や位置の算出にも利用できる。 :光学複合航法では、上記の各種データを収集して地球で幾何学的分析をすることで、はやぶさの位置や方向、イトカワの位置や方向、そしてそれぞれの運動ベクトルと速度が求められる。 ;地形航法 :イトカワの形状をあらかじめ特徴点として記憶させておき、地球側からはX, Y, Zの3軸の座標を指定することで、はやぶさ自身がイトカワの位置を画像認識することが可能になった<ref group="注釈">イトカワへの降下誘導はLIDARやLRFの機能を使って行う予定でいたが、RWの機能喪失によってレーザー測距機が使用できなくなった。また、降下誘導の代替案であった「光学航法」も、高度な画像処理を行い自律的に航法判断させるには搭載コンピュータなどの処理能力が不足していて不可能だった。そこで急遽、考案されたのが「地形航法」である。</ref>。 == はやぶさの軌跡 == === 打上げからイトカワへ === (時刻はすべて[[日本標準時|JST]]) * [[2003年]][[5月9日]]13時29分25秒:内之浦宇宙空間観測所よりM-Vロケット5号機で打ち上げ。「はやぶさ」と命名<ref name="isas20030509">{{Cite press release |和書 |url=https://www.jaxa.jp/press/isas/20030509_mv5_j.html |title=M-V-5号機の打ち上げについて |accessdate=2010-08-04 |date=2003-05-09 |publisher=宇宙科学研究所}}</ref>。M-Vの5号機は先端のフェアリングが除去され、「はやぶさ」専用に設計・製造されたキックモーターKM-V2によって軌道に投入された<ref group="注釈">M-Vロケットは運搬する宇宙機の重量や軌道に応じて、細部をその都度、設計段階から最適に作り直すため、標準的なロケットを用いるのに比べると、物理的な効率は良いが経済的には非常に高コストになる。</ref>。予定の宇宙空間に到達してM-Vロケットのはやぶさが放出されると、最初は自動で太陽電池パドルが展開され、次にサンプラーホーンが伸ばされた。はやぶさから電波によってビーコンが届き、軌道が確認されると同時に、地球からの指令を受けて順番に搭載機器の動作確認の手順が開始された。 * 5月27日:イオンエンジン「μ10」(IES) の動作試験が開始された。高い電圧を使う動作試験は、放電事故を避けるために高真空が確保された打ち上げ後の約3週間過ぎてから行われた<ref group="注釈">地上から宇宙へ運ばれた直後は、空気や水分のような周辺環境からの微細な異物が機体の内外表面に吸着しているため、それらが徐々に結合が外れて真空中に充分に拡散し切るまでは、日数単位で数えられるある程度の期間、極めて希薄なガスが機体を取り巻いている。このため、打ち上げ直後の動作確認は低電圧を扱う機器から行われた。</ref><ref group="注釈">最初に試験されたスラスタAは、予想通り規定の出力を得られず、6 - 7割の出力だった。スラスタAは地上試験でマイクロ波を送るケーブルを焼損していたが、発射スケジュールに合わせるためにケーブル特性の調整を行わずに搭載されたものだった。スラスタAは予備として通常の航行には用いないことが早くから決まった。</ref>。 * 6月 - 7月:IESの動作試験が継続された<ref group="注釈">IESの動作試験は、はやぶさの主な目的の1つであり、出力をいかに安定させるかという知見を得ることが当初から求められていたのであって、この段階では、航行のために出力が自由に操作できないことは当初から予定されていた。3基の同時運転まで可能に作られていたが、1基でも100%の推力が得られればミッションを行うのに充分なだけの余裕があった。この動作試験の間は、毎日6 - 8時間ほどの通信可能な間に、はやぶさにIESの試験を行うよう指令を与えておいて、翌日に結果を得る繰り返しだった。運転条件を変えながら最適な値を求めて行ったが、日によっては異常を検知して自律的に推進を停止していることもあり、いつまでも推進力を加えない日が続くのは予定の加速を得られない恐れが高まってきた。</ref>。週に1回程度は推進を止めて、地球との間で距離や速度の測定を行い、軌道決定した。7月末頃には各スラスタの運転条件がほぼ明らかとなり、A以外の残り3基を順番に用いた加速計画にめどが立った。 * 9月:この頃、推進時間が1,000時間を越えた。この時点で地球から52,000km後方を飛行中であった。 * 11月4日:観測史上最大規模X28の[[太陽フレア]]に遭遇した<ref group="注釈">[[太陽フレア]]そのものは10月から発生していたが、その最大の波が11月4日に、はやぶさの位置に到達した。</ref>。フレアの放射を浴びた太陽光パネルは回復不可能な劣化を生じ、今後、発電出力が低下する事態となった。搭載メモリの「シングルイベントアップセット」と呼ばれる外部放射線に起因する一過性のエラーが起きたが、失われた[[コンピュータプログラム]]を地球から再送信することで対応できたので、演算処理に関しては影響はほとんどなかった。太陽電池パネルによる発電量がIESの推進力であるため、ソーラーセルの劣化はそのまま加速能力の低下を意味していた。この後、時間を掛けて軌道計画を再検討した結果、イトカワ到着予定は2005年6月から2005年9月へと3か月伸び、イトカワからの出発も2005年10月から2005年12月へと変更された。 * 2004年3月14日:2か月ほど先のEDVEGAの実施に備えて、IESを停止し、1週間以上かけた軌道決定作業に入った。その後、4月20日と5月12日にRCSを使って軌道の微調整を行った。 * [[5月19日]]:イオンエンジンを併用した地球[[スイングバイ]] (EDVEGA) に世界で初めて成功した<ref group="注釈">世界初という点では、北緯30度から見える地球の映像も世界で初めてだった。EDVEGA途中の29万5,000メートル上空から撮影したものだったが、これまでこの位置を通る地球を撮影可能な衛星は存在しなかった。</ref>。地球への最接近時の高度誤差は1km以下という高い精度だった。一時的に地球の影に入った機体は搭載したリチウムイオン蓄電池によって電源がまかなわれた。 * 10月:太陽光パネルの発電出力低下に伴い、地球との通信時間帯には稼働しているイオンエンジンの1基を停止させ電力を通信機に融通し、通信終了後には電力をイオンエンジンへ供給する運用を行った{{Sfn|國中均|2006}}。 * 12月9日:イオンエンジンの積算稼働時間が2万時間を突破した。 * [[2005年]][[2月18日]]:[[遠日点]](1.7[[天文単位]])を通過。イオンエンジンを搭載した宇宙機としては世界で最も太陽から遠方に到達した。 * 7月29日 - 30日・8月8日 - 9日・8月12日:搭載されたスタートラッカー(星姿勢計)により小惑星「イトカワ」を捉え、合計24枚の写真撮影を行った。これらの画像と地上からの電波観測により精密な軌道決定を行った。 * 7月31日:[[リアクションホイール]] (RW)3基のうちx軸周りを担当していた1基が故障して回転しなくなった<ref group="注釈">x軸とy軸のリアクションホイールの故障原因は、おそらくアルミ箔であるメタルライナーが内部で剥がれて回転を阻害したと考えられた。</ref>。残る2基による姿勢維持機能に切り替えて飛行した<ref group="注釈">リアクションホイールが2基となっても、当初より2基での運用も想定されていたため支障は起きなかった。</ref>。 * 8月:8月前半はRWの故障対応でしばらくIESによる加速を中断していたのを補うために、8月後半はIESの3基による全力加速を継続的に行った。 * 8月28日:イオンエンジンを切りイトカワへの接近に備えた。 === イトカワの観測・着陸 === (時刻はすべて[[日本標準時|JST]]) * 2005年9月4日、点状ながら初めてイトカワの形状を撮影。イトカワの自転周期が予想通り約12時間であることを確認。さらに、レーザー高度計の送信試験に成功。9月10日の撮影では、イトカワの細長い形状をはっきり捉えた。 * 9月12日:イトカワと地球を結ぶ直線上で、イトカワから20kmの位置(ゲートポジション)に到達した。これにより公式にイトカワとの[[ランデブー (宇宙開発)|ランデブー]]成功となった。イトカワの観測結果によって着陸候補となる場所が見当たらないほど岩ばかりのゴツゴツした表面であることが判明した。 * 9月30日:イトカワから約7kmの位置(ホームポジション)まで接近し、近距離からの観測モードに移行した。 * 10月2日23時8分:y軸のリアクションホイールが停止した。残ったRWはz軸の1基だけであり、RCSを併用して姿勢制御を行う必要に迫られた。RCSの液体推進剤は往路を終えたこの時点で約2/3がまだ残っていたので、直ちに推進剤不足となる不安はあまり無かったが、精密な姿勢制御が行えなくなったことで、HGAによる地球との高速データ通信が不可能になり、MGAによる通信に切り替えられた。この時点で、地球から3億km遠方に居るはやぶさとの通信は、34分の往復時間がかかった。 * 10月28日:帰還用推進剤の確保のために消費削減が求められていたが、RCSの噴射を精度良く制御する目処が立った。これにより予定通りサンプル採取実施が決まった。 * 11月4日:1度目のリハーサル降下を行った。着陸前の準備としてイトカワへ接近しながら航法や探査といった各種機能を試験する着陸リハーサルであったが、自律航法機能を使って700メートルまで接近したところで予定の軌道を外れはじめたため、リハーサルは中止された<ref group="注釈">この時すでに、本来の降下誘導で威力を発揮する予定だったレーザー測距機 LIDAR の活用はあまり期待されていなかった。リアクションホイールの実質的な喪失によってLIDARのビーム方向を精度良く維持できないと判断されていた。LIDAR誘導の代替案として、光学カメラによる画像データによって自律誘導させることが試され、この日は失敗した。</ref>。 * 11月9日:2度目のリハーサル降下によって高度75メートルまで接近した。時間をかけてゆっくりと降下するため、日本の臼田局だけでなくマドリードの通信所との連携作業も試され、うまく通信の切り替えが行えた。ミッション関係者の名前が入ったターゲットマーカーが正常に分離され、予定通り虚空に消えた。フラッシュランプもテストされ、良好な結果を得た。また、画像も撮影したため、地球側で受信後、ウーメラ砂漠ではなくミューゼスの海に2回の着陸を試みることが決まった。 * 11月12日:3度目のリハーサル降下を行い、高度55メートルまで接近した。探査機「ミネルバ」を投下した。搭載機器は順調に機能していたが、重力補償のためのスラスタ噴射の途中で分離してしまったため探査機は上昇速度を持ち、イトカワへの着陸は失敗した。このリハーサルでは、降下誘導にLIDARが使えず、自律的な画像認識による誘導も機能しないため、新たに「地形航法」という手法を考案して試してみた。また近距離レーザー光度計 LRF の動作確認も行った。何より大きな違いは、太陽発電パドルに太陽光の圧力を受けることで降下速度を時速100メートルほどとごく低速にしたことだった。ミネルバの投下失敗は、元々太陽光による圧力やイトカワの引力ではやぶさが降下している間に分離が行われる予定でいたが、指令コマンドの順番をミネルバの分離命令の直前に、降下速度を抑えるためのRCS噴射命令を入れて送信してしまうという人為的ミスによって、はやぶさが上昇をはじめた直後にミネルバを分離してしまったことで起きた。 * 11月20日:高度約40メートルで88万人の名前を載せたターゲットマーカーを分離した。マーカーはイトカワに着地した。予定通り1回目のタッチダウンに挑戦した。はやぶさは降下途中に何らかの障害物を検出し自律的にタッチダウン中止を決定して上昇を開始したが、再び秒速10cmで降下を始めた。はやぶさは2回のバウンド(接地)<ref group="注釈">3回ほどバウンドしたという情報もある。</ref>を経て、約30分間イトカワ表面に着陸した。このときは受信局の切り替えでビーコンが受信できない時間帯であったため、地上局側は着陸の事実を把握できておらず、通信途絶が長すぎることを不審に思った管制室の緊急指令で上昇、離陸した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jaxa.jp/article/special/hayabusa/yano_j.html |title=サンプル採取の成功を信じて |publisher=JAXA |accessdate=2010-08-04 |work=はやぶさ、地球への旅に出発 〜最後のチャレンジを達成するために〜 |author=矢野創}}</ref>。地球と月以外の天体において着陸したものが再び離陸を成し遂げたのは世界初であった。タッチダウン中止モードが解除されないまま降下したため弾丸は発射されなかったが{{Refnest|地球帰還後の2010年11月29日に弾丸発射失敗の原因がプログラムのミスだったことが正式に公表された。個々のプログラムにバグは無かったが、プログラムから別のプログラムに[[フラグ (コンピュータ)|データ]]を受け渡す際の真偽の解釈が逆という、パラメータ設定の人為的なミスがあり、システム全体としては問題があった<ref>{{Cite news |url=https://web.archive.org/web/20101130130625/http://www.47news.jp/CN/201011/CN2010112901000090.html |title=「はやぶさ」にプログラムミス 後継開発に教訓反映へ |date=2010-11-29 |accessdate=2011-04-24 |newspaper=[[共同通信]]}}</ref><ref>{{Cite journal |和書 |title=動かないコンピュータ 宇宙航空研究開発機構(JAXA) 「はやぶさ」成功の舞台裏 弾丸不発の原因は人為ミス |year=2011 |date=2011-01-20 |journal=日経コンピュータ |issue=774 |publisher=日経BP社 |issn=02854619 |naid=40017434094 |pages=90-92}}</ref>。|group="注釈"}}、着陸の衝撃でイトカワの埃が舞い上がり、回収された可能性があるとされた<ref>{{Cite web|和書|accessdate=2005-12-17 |url=https://www.isas.jaxa.jp/j/snews/2005/1123_hayabusa.shtml |title=「はやぶさ」の第1回着陸飛行の結果と今後の計画について |date=2005-11-23 |publisher=ISAS/JAXA}}</ref><ref group="注釈">結局このときの接地でわずかな試料が得られた。</ref>。 * 11月26日:2回目のタッチダウンに挑戦。新たにマーカーを投下すると2つの目印を見て混乱する可能性があるため新たなマーカーの投下を止め、また前回のマーカーも確実に検出できる保証はないので、マーカーによる制御はせず記録モニターのみの設定とした。降下中に前回投下した署名入りターゲットマーカーをイトカワ表面上に確認<ref>{{Cite web|和書|accessdate=2010-08-08 |url=http://www.isas.jaxa.jp/j/snews/2005/1129.shtml |title=「はやぶさ」の第2回着陸飛行の結果と今後の計画について |date=2005-11-29 |publisher=ISAS/JAXA}}</ref>。日本時間午前7時7分、イトカワに予定通り1秒間着陸し、即座にイトカワから離脱した。なお、地球に帰還したカプセルの中身のうち、2010年11月16日までにイトカワ由来と断定されたおよそ1500個の微粒子はこのとき回収されたものである<ref group="注釈">地球の管制室には、弾丸発射を含めた着陸シーケンスが全て正常に動作したことを示す「WCT」の表示があった。</ref>。2回目離脱後の9時過ぎ、スラスタ噴射によりイトカワから5kmの位置で静止した。この時、B系2番スラスタから燃料の[[ヒドラジン]]が探査機内部に漏洩していることが判明した。弁を閉鎖し漏洩は止まった。 * 11月27日:化学推進スラスタの噴射を試みたが、小さな推力が観測されただけであった。この時、燃料が漏洩したため気化による温度低下でバッテリーの機能が低下し電源が失われたために、結果として搭載システムが広範囲に再起動されたと推定されている。姿勢制御スラスターは2系統 (A/B) とも推力が低下し、はやぶさの姿勢は大きく乱れた。 === 交信途絶・帰還 === (時刻はすべて[[日本標準時|JST]]) * 2005年11月28日:通信が途絶した。 * 11月29日:LGAによる低速度通信が回復した<ref>{{Cite web|和書|accessdate=2005-12-17 |url=http://www.isas.jaxa.jp/j/snews/2005/1201.shtml |title=「はやぶさ」の着陸成功とサンプル採取の実施について |date=2005-12-01 |publisher=ISAS/JAXA}}</ref>。 * 12月2日:再びRCSの使用を試みたが、小さな推力が観測されただけであった。 * 12月3日:スピン軸が太陽方向に対して30度ずれていることが確認された<ref group="注釈">z軸周りのスピン軸が太陽方向に対して傾くと太陽電池パネルの発電能力が低下する。</ref>。緊急時の対処として、イオンエンジンの推進剤であるキセノンガスを中和器から直接噴射する事で姿勢制御を行う事にした。運用ソフトウェアの作成を開始した。 * 12月4日:運用ソフトウェアが完成し、キセノンガスの直接噴射による姿勢制御を試みた。姿勢制御に成功した<ref group="注釈">イオンエンジンのキセノンイオンによる推力が地上での1円玉1個の重さに相当するミリ・ニュートン単位であるのに対して、中和器から直接ガスを噴射するだけでは、マイクロ・ニュートン単位での1000分の1程の推力しか発生しないが、それでも必要なトルクが得られた。</ref>。 * 12月4日:姿勢が修正されたため、MGAによる256&nbsp;bpsの通信が回復した。2回目のタッチダウンに関わるデータが送信され始めた。 * 12月7日:受信データ解析の結果、11月26日の着陸シーケンス中に弾丸発射中止のコマンドが見つかり、サンプリング用弾丸は発射されていなかった可能性が高くなった<ref group="注釈">弾丸の発射は、姿勢軌道制御コンピュータ (AOCP) が弾丸発射に関する指示を担当し、データ処理コンピュータ (DHC) は安全確保のために発射機構をロックするよう分担してプログラムされていた。本来ならAOCPが発射指示を出し、DHCは弾丸発射後に再びロックを掛けるはずだったが、地球側でプログラムを確認するとAOCPが発射指示後にDHCが発射前にロックを掛けてしまうことが判った。弾丸は発射されなかったことがほぼ確実だった。</ref><ref group="注釈">ただし、はやぶさの電源系統がリセットされていることや、着陸時にサンプラーホーンの温度が上昇していることなどから、弾丸が発射された可能性も残されているとした。</ref><ref>{{Cite web|和書|accessdate=2005-12-17 |url=http://www.isas.jaxa.jp/j/snews/2005/1207.shtml |title=「はやぶさ」探査機の状況について |date=2005-12-07 |publisher=ISAS/JAXA}}</ref>。成功と発表されていた着陸が、失敗に終わっていた可能性が高いと修正し発表された。 * 12月8日:機体は[[みそすり運動]]を始め、キセノンガスを使っても姿勢を回復できなかった。以前に漏れていた燃料が気化して噴出した可能性が考えられたが、原因は特定されていない。通信が途絶した<ref group="注釈">この時点では、z軸を地球にほぼ向けてz軸を中心に毎秒1度で自転していた。</ref>。 * 12月14日:地球への帰還予定は2010年6月に延期することが発表された<ref group="注釈">はやぶさは受動的に安定するように設計されているので、2006年12月までに電力と通信が復旧できる可能性は60%、2007年春ならば70%と計算された。2007年春までイオンエンジンが使用可能であれば、地球帰還の可能性は高いとされた</ref><ref>{{Cite web|和書|accessdate=2005-12-17 |url=http://www.isas.jaxa.jp/j/snews/2005/1214.shtml |title=「はやぶさ」探査機の状態について |date=2005-12-14 |publisher=ISAS/JAXA}}</ref>。 * [[2006年]][[1月23日]]:はやぶさからのLGAによる低速度通信の電波がかろうじて受信された。 * 1月26日:「1ビット通信」によって状況が次第に明らかになった<ref group="注釈">この時、セーフホールドモードによるz軸周りに自転した機体は、z軸方向にして70度ほど傾き、毎秒7度で以前とは逆方向に回転していた。</ref>。12月8日の姿勢制御喪失後、太陽電池パネルからの発電量が低下し、一旦は電源供給が失われた。リチウムイオン充電池は11セルすべてが放電し切った状態であり、その内の4セルは過放電によって充電能力を失っていた。また、RCSの推進剤は、11月のトラブルで燃料をほとんどを失っていたが、さらに酸化剤も12月以降のトラブルで失われていた。イオンエンジン用のキセノンガスは、トラブル前の圧力を保っていて、残量は42 - 44kgと推定された。回転を止めるためにまだ稼動するz軸のリアクション・ホイールが使用され、さらに中和器からのキセノンガス噴射が行われた。 * 2月25日:自転数が緩和されたことで、LGAによる8&nbsp;bpsでのテレメトリーデータの受信が可能となった。 * 3月4日:おおよその姿勢制御に成功し、MGAによる32&nbsp;bpsでのテレメトリーデータの受信が可能になった。 * 3月6日:3か月ぶりに位置や速度が特定され、地球からは3億3,000万km、イトカワからはその公転方向に1万3,000kmの所を秒速3メートルで離れつつあることが明らかになった。 * 3 - 4月:構体内部へ漏洩し滞留している可能性がある燃料などを追い出すために、ベーキング作業を行った。 * 5月31日:イオンエンジンBとDの起動試験に成功した。 * 7月:姿勢制御に使用していたキセノンガスの消費量を抑えるため、太陽光圧を利用([[太陽帆|ソーラーセイル]]と同じ原理)したスピン安定状態での運用に切り替えた<ref group="注釈">太陽電池パネルを常に太陽方向へ向けなければならないが、はやぶさも太陽を1年強ほどで公転しているためにz軸もそれに同期して向きを変えなければならない。RCSの推進剤が失われたため、1基のリアクション・ホイールと中和器からのキセノンガス噴射しか姿勢制御の手段を持たないが、ホイールはz軸方向でありキセノンガスは本来の推進力としても必要であった。概算によって軌道制御と姿勢制御を両方行うにはガスが不足する可能性があった。キセノンの消費量を減らすために太陽光の[[放射圧]]を用いる方法は、NECのエンジニア、白川健一が考案した。はやぶさを太陽に対して少し傾けることで、常にいびつな力を受け続け、そのわずかな力が公転に合わせてz軸の向きを変えてゆく。</ref>。 * 7 - 9月:採取試料容器を地球帰還カプセルに格納する作業には、リチウムイオン充電池の電力が必要であるため、使用可能なセルに充電をはじめた。9月に充電を完了し、以降は充電状態を維持した。 * 2007年1月17日:採取試料容器を地球帰還カプセルに格納する作業をはじめた。翌18日未明に格納作業の完了を確認した<ref group="注釈">これらの電池は損傷が激しく、カプセル格納作業以降は使用が期待されなかったので、無重力下での放電挙動を調べるために意図的に過放電状態にする実験が行なわれ、最終的に全数が使用不能となった。</ref><ref>{{Cite web|和書|accessdate=2007-08-31 |url=http://www.isas.jaxa.jp/j/topics/topics/2007/0130.shtml |title=「はやぶさ」試料容器のカプセル収納・蓋閉め運用が完了 |date=2007-01-30 |publisher=ISAS/JAXA}}</ref>。 * 4月20日:スラスタBとDによる2基の同時運転からスラスタDによる単独運転に変更された<ref group="注釈">スラスタBとDによる2基の同時運転を想定してイオンエンジンをテストしていたところ、スラスタBの中和器が電圧上昇を起こして停止したため、スラスタDの単独運転に変更された。</ref>。 * 4月25日:地球帰還にそなえて巡航運転を開始した<ref>{{Cite web|和書|accessdate=2007-08-31 |url=http://www.isas.jaxa.jp/j/topics/topics/2007/0425.shtml |title=「はやぶさ」地球帰還に向けた本格巡航運転開始! |date=2007-04-25 |publisher=ISAS/JAXA}}</ref>。巡航運転に先立ち、姿勢制御プログラムの書き換えを行った<ref group="注釈">巡航運転時のはやぶさは、ヨー軸・ピッチ軸については、唯一生き残ったZ軸のリアクションホイールと、本来、イオンエンジンの推力軸調整用である[[ジンバル]]機構を併用して姿勢制御を行い、ロール軸については太陽光圧を利用して姿勢制御を行っていた。</ref>。 * 7月28日:スラスタCのイオンエンジンが推力を生んだ。スラスタDを温存のため停止してCの単独運転に切り換えた<ref>{{Cite web|和書|accessdate=2009-11-21 |url=https://www.isas.jaxa.jp/j/topics/topics/2007/0816_hayabusa.shtml |title=小惑星探査機「はやぶさ」イオンエンジン-Cへの切り替えに成功 |date=2007-08-16 |publisher=ISAS/JAXA}}</ref>。 * 10月18日:復路の第1期軌道変換が完了した。イオンエンジンおよびリアクション・ホイール (RW) を停止し、太陽指向スピン安定モードに入った。ここまでのイオンエンジン稼働時間は、往路・復路あわせて延べ31,000時間、軌道変換量は1,700 [[メートル毎秒|m/s]] に達する。復路の軌道変換量は残り400 m/s である<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.isas.jaxa.jp/j/topics/topics/2007/1029.shtml |title=「はやぶさ」復路第1期軌道変換を完了! |date=2007-10-29 |publisher=ISAS/JAXA |accessdate=2007-11-19}}</ref>。 * 2008年2月28日:3回目の遠日点を通過した(1.63天文単位)<ref>{{Cite web|和書|accessdate=2008-06-23 |url=http://www.isas.jaxa.jp/j/topics/topics/2008/0306.shtml |title=「はやぶさ」、3回目の遠日点を無事通過 |date=2008-03-06 |publisher=ISAS/JAXA}}</ref>。 * 2009年2月4日:リアクション・ホイールを駆動し、イオンエンジン(スラスタD)を用いて動力飛行(復路第2期軌道変換)を開始した<ref>{{Cite press release |和書 |url=https://www.jaxa.jp/press/2009/02/20090204_hayabusa_j.html |title=小惑星探査機「はやぶさ」の現在の状況について-イオンエンジン再点火、地球帰還へ向け第2期軌道変換を開始へ- |date=2009-02-04 |accessdate=2010-08-04 |publisher=宇宙航空研究開発機構}}</ref>。 * 8月13日8時30分:イオンエンジンを停止し、セーフホールドモードへ移行しているのが発見された。原因は宇宙放射線による姿勢監視装置のシングル・イベント・アップセット (SEU) と推定された。軌道は少し変更されるが地球帰還に問題はなかった。遠日点付近であるため、電力事情が改善されるまでは太陽指向スピン安定制御による慣性飛行で運用された<ref>{{Cite web|和書|accessdate=2014-01-21 |url=http://www.isas.jaxa.jp/j/enterp/missions/hayabusa/weekly_2009_2.shtml#200908 |title=2009年8月27日 |date=2009-08-27 |work=今週のはやぶさ君 |publisher=ISAS/JAXA |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140201202201/http://www.isas.jaxa.jp/j/enterp/missions/hayabusa/weekly_2009_2.shtml#200908 |archivedate=2014年2月1日 |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref>。 * 9月10日:遠日点を通過した。 * 9月26日:イオンエンジンを使用して動力飛行を再開した。 * 11月4日:1基のイオンエンジン(スラスタD)が中和器の劣化によって自動停止した<ref>{{Cite press release |和書 |accessdate=2009-11-21 |url=https://www.jaxa.jp/press/2009/11/20091109_hayabusa_j.html |title=小惑星探査機「はやぶさ」のイオンエンジン異常について |date=2009-11-09 |publisher=宇宙航空研究開発機構}}</ref>。 * 11月11日:打ち上げ後から予備機として使用していなかったスラスタAの中和器と、2007年4月から使用停止していたスラスタBのイオン源をバイパスダイオードによって接続し使用する複合モード運用をはじめた<ref>{{Cite press release |和書 |accessdate=2009-11-19 |url=https://www.jaxa.jp/press/2009/11/20091119_hayabusa_j.html |title=小惑星探査機「はやぶさ」の帰還運用の再開について |date=2009-11-19 |publisher=宇宙航空研究開発機構}}</ref><ref group="注釈">スラスタCはバックアップ用とされ、以降は基本的にA-Bが使われるようになる。夏以降の軌道計画見直しにより必要なデルタVは合計2,200m/sと若干増加していたが、この時点で残り200m/sあまり。</ref>。 * 12月27日:イオンエンジンを停止し、[[超長基線電波干渉法|VLBI観測]]によって精密な軌道を同定した(2010年1月1日まで)。 * 2010年1月13日:地球の[[ヒル球|引力圏]]内を通過することが確実になった。 * 2月26日:[[月]]よりも内側(約31万km)を通過する軌道に入った<ref>{{Cite news |url=http://www.yomiuri.co.jp/space/news/20100227-OYT1T00021.htm |title=復活「はやぶさ」噴射続けば地球帰還可能に |date=2010-02-27 |accessdate=2010-02-28 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100302200324/http://www.yomiuri.co.jp/space/news/20100227-OYT1T00021.htm |archivedate=2010年3月2日 |newspaper=読売新聞 |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref>。 * 3月5日:対地高度約16万kmを通過する軌道に入った。イオンエンジンを一旦停止し、軌道の精密測定を実施した。 * 3月20日:対地高度約4.6万kmを通過する軌道に入った<ref group="注釈">この時点では、まだ地球公転軌道の内側を通過する軌道にいた。地球突入速度を抑えるため、地球の自転方向と同じ向きに進入するように、地球公転軌道の外側を通るような軌道まで変換作業を継続。軌道変換中に一時的にも地球に衝突する軌道とならないように、通過軌道が地球の南極上空となるような経路が選択された。</ref>。 * 3月27日:復路第2期軌道変換を終了した。地心距離約2万km(高度約1万4,000km)を通過する軌道に入った。 * 4月4日:地球外縁部への精密誘導を実施した(TCM-0、4月6日まで)。 * 5月1日:精密誘導に伴う補正のために減速して到着時間を調整した(TCM-1、5月4日まで)。 * 5月12日:スタートラッカーが地球と月を捉えた。 * 5月23日:地球外縁部(高度約630 km)への精密誘導のため、接線加速と太陽方向への加速を実施した(TCM-2、5月27日まで)。 * 6月2日:[[オーストラリア]]政府が同国内[[ウーメラ立入制限区域]] (Woomera Prohibited Area, WPA) へのカプセル落下を許可した。 * 6月3日:地球外縁部からウーメラ立入制限区域への誘導目標変更のため、軌道補正を実施した(TCM-3、6月5日まで)。 * 6月9日:落下予測範囲を狭めるため、さらに詳細な誘導を実施した(TCM-4、12時30分 - 15時)。この軌道修正で、6月13日23時頃に[[南オーストラリア州]]にあるウーメラ立入制限区域の東西100kmほどの地域内に落下することが確実となった。同区域を通過する[[スチュアート・ハイウェイ]]は13日22時から0時まで通行止めとされた。この時点で地球までの距離は約190万kmだった。 * [[6月13日]] ** 15時6分:[[ハワイ島]]の[[国立天文台ハワイ観測所すばる望遠鏡|すばる望遠鏡]]がはやぶさの撮影に成功。地球までの距離は約17万km<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.naoj.org/Pressrelease/2010/06/13/j_index.html |title=すばる望遠鏡で「はやぶさ」の撮影成功! |publisher=国立天文台 |date=2010-06-13 |accessdate=2010-08-01 |work=観測成果}}</ref><ref name="jaxas033">{{Cite journal |1=和書 |url=http://www.jaxa.jp/pr/jaxas/pdf/jaxas033.pdf |title=川口淳一郎プロジェクトマネージャーが語る 「はやぶさ」誕生秘話 |format=PDF |accessdate=2010-07-30 |date=2010-08-01 |journal=JAXA's 宇宙航空研究開発機構機関誌 |publisher=宇宙航空研究開発機構 |pages=4-5 |id={{全国書誌番号|01013637}} |issue=33 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130429212627/http://www.jaxa.jp/pr/jaxas/pdf/jaxas033.pdf |archivedate=2013年4月29日 |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref>。 ** 19時51分:カプセルの切り離しを行った<ref group="注釈">19時51分、はやぶさは再突入カプセルを切り離した。飛行時間が3年伸びたことにより、[[火工品]]などの劣化が心配されていたが、分離機構は正常に作動した。</ref><ref name="jaxa20100616">{{Cite press release |和書 |url=https://www.jaxa.jp/press/2010/06/20100616_sac_hayabusa_j.html |title=「はやぶさ」試料回収カプセルの再突入結果について(速報) |publisher=宇宙航空研究開発機構 |date=2010-06-16 |accessdate=2010-06-16}}</ref>。地球までの距離は約7万km。 ** 22時02分頃:地球を撮影。 ** 22時27分頃:内之浦局に地球の写真を送信中に水平線の向こう側に入り通信途絶<ref name="jaxas033" />。 {{external media |align=right |width=310px |image1=[http://www.isas.jaxa.jp/j/topics/topics/2010/image/0614/img01.jpg はやぶさが最後に撮影した写真]<br />ISAS/JAXA 2010年6月18日公開<ref name="JAXA_topics_20100618" />}} はやぶさはカプセルを分離した後、最後に地球を撮影するミッションを行った{{Sfn|川口淳一郎|2011}}。イトカワの観測終了後、カメラとその保温ヒーター電源は長時間切られたままで健全性が不明だった。また、カプセル分離まではそれに適した姿勢に保つ必要があり、分離機構が不調の場合にはカメラを地球に向けての写真撮影はできないと思われていた<ref name="sorae.jp/031004/3946">{{Cite news |url=http://www.sorae.jp/031004/3946.html |title=小惑星探査機「はやぶさ」、最後に地球を撮影 |accessdate=2010-06-15 |date=2010-06-14 |newspaper=sorae.jp |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100616150603/http://www.sorae.jp/031004/3946.html |archivedate=2010年6月16日 |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref>。しかし、カプセルの切り離しに順調に成功したため、カプセル取り付け面に対して側面にある広角カメラ (ONC-W2)<ref name="JAXA_topics_20100618">{{Cite web|和書|url=http://www.isas.jaxa.jp/j/topics/topics/2010/0618_3.shtml |title=ラスト・チャンスの地球撮像 |publisher=ISAS/JAXA |accessdate=2010-06-18 |date=2010-06-18 |author=橋本樹明}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.isas.jaxa.jp/j/topics/topics/2010/0618_2.shtml |title=「「はやぶさ」最後の地球画像」画像処理でくっきり |publisher=ISAS/JAXA |accessdate=2010-06-18 |date=2010-06-18}}</ref>を地球方向に向くよう姿勢を<!--180度-->変更した。カプセル分離の反動でふらつく機体の姿勢を、イオンエンジンの推進剤の直接噴出と1基だけ残ったリアクションホイール (RW-Z) によって立て直し、2時間かけて<ref name="47news201006">{{Cite news |url=https://web.archive.org/web/20100616130402/http://www.47news.jp/CN/201006/CN2010061301000705.html |title=突入直前、地球を撮影 はやぶさ最後の1枚 |date=2010-06-13 |accessdate=2010-06-16 |newspaper=共同通信}}</ref>機体を回転させた<ref>{{Cite news |url=http://osaka.yomiuri.co.jp/science/news/20100614-OYO8T00279.htm?from=sub |title=はやぶさ、最後にとらえた地球 |date=2010-06-14 |accessdate=2010-06-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100617191537/http://osaka.yomiuri.co.jp/science/news/20100614-OYO8T00279.htm?from=sub |archivedate=2010年6月17日 |newspaper=読売新聞 |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref>。そして13日22時2分頃までに地球を5 - 6枚撮影し、データを地上に送信した。そのほとんどは真っ暗なものでしかなかったが、送信の最中に通信が途絶して写真の下部が欠けていた最後の1枚の写真が、ぎりぎりで地球の姿を捉えていた<ref name="sorae.jp/031004/3946" /><ref name="47news201006" /><ref>{{Cite news |url=http://mainichi.jp/select/science/news/20100614ddm041040070000c.html |title=小惑星探査機:「はやぶさ」任務完了 地球の撮影が最後の仕事に |accessdate=2010-06-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100616074338/http://mainichi.jp/select/science/news/20100614ddm041040070000c.html |archivedate=2010年6月16日 |date=2010-06-14 |newspaper=毎日新聞 |author=西川拓 |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref><ref>{{Cite news |url=http://mainichi.jp/select/science/news/20100618mog00m040011000c.html?link_id=RAH04 |title=はやぶさ:最後に撮影の地球 画像処理でくっきり |newspaper=[[毎日新聞]] |date=2010-06-18 |accessdate=2010-06-20 |archiveurl=https://megalodon.jp/2010-0619-1742-20/mainichi.jp/select/science/news/20100618mog00m040011000c.html?link_id=RAH04 |archivedate=2010-06-19}}</ref>。 2003年5月9日の打ち上げから7年。姿勢制御用のリアクションホイールは3基中2基、化学燃料スラスタはすべて故障。バッテリは放電しきっているため、太陽電池パネルが太陽方向から逸れると即座に電源断となる状態。故障したスラスタ同士を繋いで復活させたイオンエンジンもいつ止まるかわからず、搭載されたコンピュータすらビット反転を起こし始めているという、まさに満身創痍の帰還であった。実際に使用されることはなかったが、最後のリアクションホイールが故障した場合の対策も用意されていた<ref>{{Cite web|和書|accessdate=2010-09-12 |url=http://hayabusa.jaxa.jp/message/message_066.html |title=「はやぶさ」の運用が残したもの |date=2010-09-03 |work=はやぶさ、地球へ! 帰還カウントダウン |publisher=JAXA |author=森治}}</ref>。 === 大気圏再突入 === [[ファイル:Hayabusa atmospheric reentry (close-up).ogv|300px|thumb|[[2010年]][[6月13日]]の[[大気圏再突入]]。これにより、「はやぶさ」は打ち上げから7年、総移動距離60億kmにおよぶ長い旅を終えた。右下に小さく見えるのがサンプルの入った再突入カプセル([[エイムズ研究センター]]が航空機DC-8上より撮影)。]] [[ファイル:Hayabusa reentry from Ames Research 2010-06-13 25seconds.png|right|300px|thumb|右下に離れて見える光点がカプセル。その後方に見える光点の集まりが「はやぶさ」の本体。]] 6月13日22時51分頃<ref name="jaxa0614" /><ref name="jaxas033" />惑星間軌道から直接12km/sの相対軌道速度<ref name="jspf2006_06-368"/><ref group="注釈">地球周回軌道を飛翔する物体の場合は約7.8km/sの速度</ref>で、はやぶさ本体およびカプセルは大気圏再突入した。流星のように輝きながら無数の破片に分解し、燃え尽きていくはやぶさ本体と、一筋の光の尾を曳いて飛び続ける再突入カプセルは、[[南オーストラリア州]]においては数十秒間にわたり地上から肉眼でも観測され、満月の倍の明るさに相当するマイナス13[[等級 (天文)|等級]]の輝きを発し<ref>{{Cite news |date=2010-09-22 |title=はやぶさ最後の輝き、満月の倍の明るさ 国立天文台観測 |url=http://www.asahi.com/special/space/TKY201009210367.html |author=東山正宜 |newspaper=朝日新聞 |accessdate=2010-09-22 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100927072307/http://www.asahi.com/special/space/TKY201009210367.html |archivedate=2010年9月27日 }}</ref>、人の影が地面に映るほどの明るさとなった<ref name="nec_landing">{{Cite web|和書|date=2011-06-02 |title=「はやぶさ」、最後の24時間 |url=http://jpn.nec.com/ad/cosmos/hayabusa/details/landing.html |work=はやぶさ、7年間の旅 |publisher=[[日本電気]] |accessdate=2014-01-21}}</ref>。 事前の予想では、大気圏再突入時の光跡は最大でマイナス5[[等級 (天文)|等級]]程度と報道されていたが<ref>{{Cite news |date=2010-06-09 |title=「はやぶさ」、最終の軌道修正となるTCM-4によりWPAへの精密誘導を完了 |url=https://news.mynavi.jp/techplus/article/20100609-a070/ |work=[[マイコミジャーナル]] |accessdate=2010-07-18 |newspaper=[[マイナビ|マイナビニュース]]}}</ref>、後の記者会見では、この予想ははやぶさ本体を含まない、再突入カプセル単体の明るさを指した予想であったと訂正された<ref>{{Cite web|和書|author=柴田孔明 |date=2010-06-15 |title=No.1447 :カプセル回収結果報告 |url=http://www.sacj.org/openbbs/bbs86.html |work=宇宙作家クラブ ニュース掲示板 |publisher=[[宇宙作家クラブ]] |accessdate=2010-07-30}}</ref>。 22時56分<ref name="jaxas033" />、カプセルからの電波信号(ビーコン)が受信され、パラシュートが開いたことが確認された。カプセルは23時8分頃に着陸したと推定される<ref name="jaxas033" />。着陸予想地点の周囲に展開した方向探測班がビーコンの方向から落下位置を推定し、発熱による[[赤外線]]を頼りに<ref name="asahi1" />[[ヘリコプター]]による捜索が行われ、13日23時56分、再突入直前の予想地点から1 kmほどの[[ウーメラ (南オーストラリア州)|ウーメラ]]の北西約200 kmで目視により発見された<ref name="jaxa0614" /><ref name="asahi1">{{Cite news |url=http://www.asahi.com/science/update/0614/TKY201006140162.html |title=はやぶさカプセル、先住民の聖地で発見 了解得て回収へ |accessdate=2010-06-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100617184550/http://www.asahi.com/science/update/0614/TKY201006140162.html |archivedate=2010年6月17日 |date=2010-06-14 |newspaper=朝日新聞 |author=東山正宜 }}</ref><ref>{{Cite news |url=http://www.asahi.com/science/update/0615/TKY201006150390.html |title=はやぶさの旅「世界最長」 2592日、ギネスに申請 |accessdate=2010-06-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100617054824/http://www.asahi.com/science/update/0615/TKY201006150390.html |archivedate=2010年6月17日 |date=2010-06-15 |newspaper=朝日新聞 }}</ref><ref name="AFPBBNews20100614-1022jst">{{Cite news |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2735646?pid=5877025 |title=はやぶさ帰還、カプセル回収へ |date=2010-06-14 |accessdate=2010-06-14 |newspaper=[[AFPBB News]]}}</ref>。 現地の砂漠一帯は先住民[[アボリジニー]]の聖地でもあるため、14日午前にアボリジニーの代表がヘリで現場を視察し、了解を得た後、宇宙機構のチームがカプセル回収に向かった<ref name="asahi1" />。カプセルに付いている火薬などの危険物が安全な状態かどうかを調べた後、カプセル回収作業を開始し、約4時間後に回収を完了し<ref name="20100614-OYT1T00840">{{Cite news |url=http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20100614-OYT1T00840.htm |title=「はやぶさ」カプセル破損なし…18日にも日本へ |newspaper=読売新聞 |date=2010-06-14 |accessdate=2010-06-14 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100617193710/http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20100614-OYT1T00840.htm |archivedate=2010年6月17日 |author=本間雅江 |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref>、専用のコンテナで現地の拠点施設まで移送された<ref>{{Cite news |url=http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2010061502000071.html |title=『はやぶさ』カプセル回収 日本に空輸、分析へ |accessdate=2010-06-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100617061039/http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2010061502000071.html |archivedate=2010年6月17日 |date=2010-06-15 |newspaper=[[東京新聞]] |agency=共同通信 |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref>。また、探索されていたヒートシールドも14日14時頃に発見され<ref name="jaxa0614_3" />、翌日に回収された。 なおこれ以前にも日本の宇宙機が自力で大気圏再突入に耐えた例はいくつかあるが、回収まで予定通りに成功したのは2003年に回収された[[USERS]]回収カプセル以来7年ぶり2度目。旧ISASが打ち上げた衛星・探査機としては初の回収成功となった(失敗後に偶然回収された[[EXPRESS (人工衛星)|EXPRESS]]を除く)<ref group="注釈">惑星軌道からの高速な大気圏再突入は世界でもあまり前例がなく、[[スターダスト (探査機)|スターダスト]]の回収カプセル以来4年半ぶり2度目の成功となる。さらに、惑星軌道からの母船の再突入は世界初となった。</ref>。大気圏再突入時の最大減速率は50G程度で、再突入から約150秒後には秒速数十メートルまでの減速が行われた<ref name="jspf2006_06-368">{{PDFlink|[http://jasosx.ils.uec.ac.jp/jspf/JSPF_TEXT/jspf2006/jspf2006_06/jspf2006_06-368.pdf 山田哲哉、安部隆士:カプセルの地球大気再突入時におけるプラズマ現象とその周辺] プラズマ核融合学会誌6月【82-6】/講座3}}</ref>。 [[アメリカ航空宇宙局|NASA]]はJAXAなどと共同で、観測用航空機「[[ダグラス DC-8|DC-8]]」から19台のカメラで「はやぶさ」の大気圏再突入を撮影した<ref>{{Cite web |url=http://www.youtube.com/watch?v=gfYA4f-AIL0 |title=NASA Team Captures Hayabusa Spacecraft Reentry |publisher=YouTube |date=2010-06-13 |accessdate=2010-06-14 |author=NASA Ames Research Center}}</ref><ref>{{Cite news |url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1006/14/news076.html |title=ねとらぼ:「はやぶさ」が光輝き、散っていく NASAが空撮映像を公開 |accessdate=2010-06-15 |date=2010-06-14 |newspaper=ITmedia ニュース}}</ref>。はやぶさは惑星間航行をしていたので、歴史上2番目の速度で大気圏再突入が行われ、カプセルは1万 - 2万度の高温にさらされた<ref name="hayabusa20100609">{{Cite web |url=http://www.nasa.gov/topics/solarsystem/features/hayabusa20100609-revised.html |title=Hayabusa Asteroid Mission Comes Home |publisher=NASA |accessdate=2010-06-15 |date=2010-06-14}}</ref><ref name="jaxas033" />{{Refnest|group="注釈"|今回の突入を航空機から観測することによって、宇宙機の超高速再突入時における熱保護システムの振る舞いを評価し、将来的に火星からのサンプルリターンのカプセルの研究に役立てるという。<ref name="hayabusa20100609" />}}{{Refnest|group="注釈"|回収後のカプセルのキュレーション作業もNASAと共同で実施している<ref name="2010-0625">{{Cite web|和書|url=https://www.isas.jaxa.jp/j/topics/topics/2010/0625.shtml |title=「はやぶさ」サンプルコンテナ開封作業を開始 |publisher=ISAS/JAXA |accessdate=2010-07-05 |date=2010-06-25}}</ref>。}}。NASAの支援としてはこのほかに、[[ディープスペースネットワーク]]によるはやぶさの追跡支援、[[エイムズ研究センター]]の大型加熱[[風洞]]を用いた再突入カプセルの耐熱シールド試験があった{{Sfn|ニュートンプレス|2010|p=29}}<ref group="注釈">はやぶさに[[ジェット推進研究所]]の開発した小型ローバーを搭載する計画やアメリカ国内にカプセルを着陸させる案もあったが、この2つは実現しなかった。</ref>{{Sfn|ニュートンプレス|2010|p=29}}。 === カプセルの輸送と分析 === [[ファイル:Replica_of_Hayabusa_capsule_at_JAXA_i.jpg|カプセルのレプリカ([[JAXAi]])|thumb]] {{see|惑星物質試料受け入れ設備}} 発見されたカプセルは、ウーメラ施設内の[[クリーンルーム]]で爆発の危険性がある装置と電子回路を取り除いた後<ref name="20100614-OYT1T00840" />{{Sfn|藤村彰夫|安部正真|2010|p=211}}、窒素を満たした[[ポリエチレン]]の袋に入れた上で内箱に収納。さらに衝撃吸収用のボールを並べた免震箱に入れて熱シールドと共にチャーター機で日本に輸送され<ref name="CN2010061701000557">{{Cite news |url=https://web.archive.org/web/20100619082212/http://www.47news.jp/CN/201006/CN2010061701000557.html |title=はやぶさカプセルが日本到着 宇宙機構で分析へ |accessdate=2010-06-18 |date=2010-06-18 |newspaper=共同通信}}</ref>{{Sfn|藤村彰夫|安部正真|2010|p=211}}、17日深夜に[[東京国際空港|羽田空港]]に到着した<ref name="CN2010061701000557" />{{Sfn|藤村彰夫|安部正真|2010|p=211}}。18日2時にトラックでJAXA相模原キャンパスの[[惑星物質試料受け入れ設備|キュレーションセンター]]に搬送された<ref name="2010-0625" />{{Sfn|藤村彰夫|安部正真|2010|p=211}}{{Refnest|group="注釈"|打ち上げられた探査機が宇宙空間で物質を追加搭載して税関を経由せず外国に到着することは前例が無く、既存の法律では密輸行為になりかねない(前述の行為を迂闊に認めると、一旦宇宙に物質をプールしておいて、宇宙空間で物質を搭載して外国に着陸すると税関を経由しないでも輸入が可能になる)。このため、ISAS側では法的手続きにおいて、新規解釈を次々とひねり出す必要に迫られた<ref>{{Cite web|和書|date=2010-06-16 |url=http://ascii.jp/elem/000/000/529/529850/ |title=「はやぶさ」は浦島太郎!? 宇宙経由の輸出入大作戦 |work=“JAXAの真田ぁ〜ず”に総力インタビュー! |publisher=[[アスキー・メディアワークス]] |accessdate=2011-05-26 |author=秋山文野 |coauthors=小林伸; shigezoh; et al.}}</ref>。}}{{Refnest|施設内では輸送用免震箱からカプセルを取り出し、傷が付いていないことが確認された。カプセル表面に、打ち上げ前の2003年3月18日という日付と、カプセル開発などに携わった20人の名前が書かれた名刺大の紙が張られているのが見つかった<ref name="0100618-OYT1T00347">{{Cite news |url=http://www.yomiuri.co.jp/space/news2/20100618-OYT1T00347.htm |title=「はやぶさ」のカプセル、生まれた施設到着 |accessdate=2010-06-18 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100621130459/http://www.yomiuri.co.jp/space/news2/20100618-OYT1T00347.htm |archivedate=2010年6月21日 |date=2010-06-18 |newspaper=読売新聞 |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref>。名前ははっきり読める状態で、大気圏突入時、紙が劣化するほどの熱が加わらずに落下したと推定された<ref name="0100618-OYT1T00347" />。|group="注釈"}}。カプセルは[[X線]]断層撮影 ([[コンピュータ断層撮影|CT]]) 検査を行うため一旦JAXA調布キャンパス飛行場分室に移送され、検査の結果容器に亀裂などがないことが確認された{{efn|この段階では、直径1[[ミリメートル|mm]]以上の目立った粒子の存在は確認されなかった{{Sfn|矢田達|安部正真|岡田達明|中村智樹|2013|p=73}}。}}{{Sfn|矢田達|安部正真|岡田達明|中村智樹|2013|p=73}}。昼夜連続でカプセルの清掃が行われ、20日にはサンプルコンテナがクリーンチェンバーに導入された{{Sfn|矢田達|安部正真|岡田達明|中村智樹|2013|p=73}}。22日にサンプルコンテナが開封され、内部から微量のガスが採取されたが、大部分が地球大気由来の気体であった{{Sfn|矢田達|安部正真|岡田達明|中村智樹|2013|p=73}}{{Refnest|group="注釈"|当初は「イトカワで採取した物質の表面から発生した可能性」「地球帰還後、大気が混入した可能性」「はやぶさ内部の樹脂や金属などから発生した可能性」などが考えられた<ref>{{Cite news |url=http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C93819695E0E6E2E69B8DE0E6E2E4E0E2E3E29180EAE2E2E2 |title=「はやぶさ」カプセルからガス成分回収 JAXA |accessdate=2010-07-05 |date=2010-06-24 |newspaper=[[日本経済新聞]]}}</ref><ref>{{Cite news |url=http://mainichi.jp/select/science/news/20100625ddm041040169000c.html |title=小惑星探査機:「はやぶさ」カプセル開封 内部から気体、分析へ |accessdate=2010-07-05 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100628005827/http://mainichi.jp/select/science/news/20100625ddm041040169000c.html |archivedate=2010年6月28日 |date=2010-06-25 |newspaper=毎日新聞 |author=永山悦子 |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref>。}}。24日には、サンプルキャッチャーA室の開封作業に着手した<ref name="2010-0625" />。 7月5日、JAXAはカプセル内のサンプルコンテナから[[肉眼]]で確認できる直径1ミリメートルほどの微粒子十数個と、サンプルキャッチャーA室の内壁から直径10[[マイクロメートル]]ほどの微粒子2個を顕微鏡で確認したと発表した<ref name="nikkei2010/7/5">{{Cite news |url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASGG0501L_V00C10A7000000/?at=ALL |title=「はやぶさ」カプセルに粒子十数個 直径1ミリ 「イトカワ」由来かは不明 |date=2010-07-05 |accessdate=2010-07-05 |newspaper=日本経済新聞}}</ref>。その後、調査範囲を広げるにつれて発見される粒子の数も増えていった<ref>{{Cite news |url=https://web.archive.org/web/20100710231933/http://www.47news.jp/CN/201007/CN2010070701000655.html |title=微粒子新たに数十個発見 はやぶさ、分析は9月以降 |accessdate=2010-07-12 |date=2010-07-07 |newspaper=共同通信}}</ref><ref name="nikkei2010/7/7">{{Cite news |url=http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C93819695E2E5E2E1828DE2E5E2E5E0E2E3E29180EAE2E2E2 |title=「はやぶさ」カプセルの微粒子、100個超確認 直径10マイクロメートル級 |date=2010-07-07 |accessdate=2010-07-12 |newspaper=日本経済新聞}}</ref>。カプセル内の微粒子は[[マニピュレーター]]で1粒ずつガラス容器に移して詳細に検査する予定だった<ref name="nikkei2010/7/5" />{{Sfn|矢田達|安部正真|岡田達明|中村智樹|2013|p=73}}が、事前に行ったリハーサルより粒子が小さく効率が悪かったことから{{Sfn|矢田達|安部正真|岡田達明|中村智樹|2013|p=74}}<ref name="L/D20100712">{{Cite web|和書|author=松浦晋也 |title=ヘラに付着した微粒子の回収方法を検討中 |url=http://smatsu.air-nifty.com/lbyd/2010/07/post-2302.html |accessdate=2010-07-18 |date=2010-07-12 |work=松浦晋也のL/D}}</ref>、電子顕微鏡で観察できるサイズのテフロン製ヘラと純窒素チャンバーを開発し、地球大気による汚染を遮断した環境下で<ref name=chikyukagaku.48.211 />容器の壁面をこすって微粒子を採取するようにしたところ、10マイクロメートル以下の微粒子を約3,000個捕獲することができた{{Sfn|矢田達|安部正真|岡田達明|中村智樹|2013|p=74}}<ref name="L/D20101006">{{Cite web|和書|author=松浦晋也 |title=はやぶさサンプル回収;10月6日午後5時半からの記者会見 |url=http://smatsu.air-nifty.com/lbyd/2010/10/106-abd3.html |accessdate=2010-10-06 |date=2010-10-06 |work=松浦晋也のL/D}}</ref>。 11月16日までにA室内から回収した微粒子のうち約1,500個が岩石質であった。回収された微粒子が地球上で混入したものなのか、イトカワ由来なのかはキュレーションセンター内での簡易分析だけでは判断できないと考えられていた<ref name="nikkei2010/7/5" />が、X線分光分析の結果、組成が地球上の岩石では見られないLL4-6[[コンドライト]]隕石の組成と一致した{{Sfn|矢田達|安部正真|岡田達明|中村智樹|2013|pp=74-75}}。イトカワの観測結果から、イトカワはLLコンドライトと近い物質であると推定されていたことから大部分がイトカワ起源と判断され{{Sfn|矢田達|安部正真|岡田達明|中村智樹|2013|p=75}}、11月16日に公表された<ref name="JAXA20101116" />。12月7日にサンプルキャッチャーB室を開封した<ref>{{Cite news |url=https://news.mynavi.jp/techplus/article/20101214-a003/ |title=JAXA、はやぶさカプセルのB室を開封 - 肉眼で確認できるサイズの粒子は無し |date=2010-12-14 |accessdate=2011-03-16 |newspaper=マイナビニュース |author=小林行雄}}</ref>。 テフロン製ヘラによる採取では、微粒子がヘラに付着して取れなくなってしまうことから、サンプルキャッチャーをひっくり返して振動を与え、合成石英ガラス製の円盤に粒子を落下させる方法(自由落下法<ref name="JAXA20110117">{{Cite press release |和書 |accessdate=2014-01-21 |url=https://www.jaxa.jp/press/2011/01/20110117_hayabusa_j.html |title=はやぶさカプセル内の微粒子の初期分析の開始について |date=2011-01-17 |publisher=宇宙航空研究開発機構}}</ref>)が考案され、大きなもので300マイクロメートルを超える粒子を回収することができた{{Sfn|矢田達|安部正真|岡田達明|中村智樹|2013|p=75}}。また、ガラス円盤に付着した試料は静電制御によるマイクロマニピュレーターによりひとつずつ拾い集められた<ref name=chikyukagaku.48.211>唐牛譲、石橋之宏、上椙真之 ほか、[https://doi.org/10.14934/chikyukagaku.48.211 JAXA惑星物質試料受入設備における「はやぶさ」帰還試料の取り扱いと汚染管理] 地球化学 Vol.48 (2014) No.4 p.211-220, {{DOI|10.14934/chikyukagaku.48.211}}</ref>。2013年3月15日までに400個ほどの粒子が回収され、元素組成によってカテゴリー別に分類され1つずつ保管されている{{Sfn|矢田達|安部正真|岡田達明|中村智樹|2013|p=75}}。回収した粒子は初期分析のため各研究機関に配付された他、NASAや公募によって決まった各国の研究機関でより詳細な分析を行い<ref name="AFPBBNews20100614-1022jst" />、さらに一部のサンプルは分析技術の進歩に期待して保存する予定である{{Sfn|藤村彰夫|安部正真|2010|p=211}}。 粒子の初期分析は当初予定の8月以降から9月以降、さらに12月以降<ref>{{Cite web|和書|author=大塚実 |title=はやぶさウィークリーブリーフィング第5回 |url=http://blog.goo.ne.jp/pepani/e/3eaf534f3908cdbf15983fe32052914a |accessdate=2010-09-11 |work=大塚実の取材日記 |date=2010-08-23}}</ref>へと延期され、ようやく2011年1月21日に[[SPring-8]]で最初の初期分析が始められた<ref name="JAXA20110117" /><ref>{{Cite news |url=http://www.sorae.jp/031004/4262.html |title=「はやぶさ」カプセル内の微粒子、初期分析開始 |date=2011-01-18 |accessdate=2014-01-21 |newspaper=sorae.jp |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140202201357/http://www.sorae.jp/031004/4262.html |archivedate=2014年2月2日 |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref><ref>{{Cite journal |和書 |url=http://www.spring8.or.jp/ja/news_publications/publications/news/no_55/#flash |title=「はやぶさ」微粒子の初期分析が行われる |publisher=RIKEN/JASRI |accessdate=2014-01-22 |year=2011 |month=3 |journal=SPring-8 NEWS |issue=55 |page=5}}</ref>。3月にはアメリカで開かれた第42回月惑星科学会議で初期分析の中間報告が発表された<ref>{{Cite news |title=JAXA、「はやぶさ」カプセル内の微粒子の初期分析の中間結果を発表 |url=https://news.mynavi.jp/techplus/article/20110311-a065/ |date=2011-03-11 |accessdate=2011-03-16 |newspaper=マイナビニュース}}</ref>。 * 回収したサンプルの初期分析結果は、[[イトカワ (小惑星)|イトカワ]]およびJAXAホームページの特集「小惑星イトカワの真の姿を明らかに」(2011年12月27日公開)を参照のこと<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jaxa.jp/article/special/itokawa/index_j.html |title=小惑星イトカワの真の姿を明らかに |publisher=JAXA |date=2012-01-30 |accessdate=2011-02-05}}</ref>。 === カプセルの一般公開 === 役割を果たした再突入カプセルのヒートシールドやパラシュートなど、および地上試験用のエンジニアリングモデルは、2010年7月末から8月にかけて以下の場所で公開された<ref>{{Cite press release |和書 |url=https://www.jaxa.jp/press/2010/07/20100708_hayabusa_j.html |title=小惑星探査機「はやぶさ」(MUSES-C)回収したカプセル等の展示について |publisher=宇宙航空研究開発機構 |accessdate=2010-09-11 |date=2010-07-08}}</ref>。一般公開の初日には1万3千人の来場者が詰めかけ、最大で3時間待ちにもなる長蛇の列をつくった<ref>{{Cite news |date=2010-07-30 |title=「はやぶさ」カプセル公開に1.3万人 最長3時間待ち |url=http://www.asahi.com/science/update/0730/TKY201007300155.html |work=[[朝日新聞|asahi.com]] |accessdate=2010-07-30 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100803005241/http://www.asahi.com/science/update/0730/TKY201007300155.html |archivedate=2010年8月3日 |newspaper=朝日新聞 |author=東山正宜 }}</ref>。 * 7月30、31日 *: [[相模原市立博物館]](神奈川県[[相模原市]][[中央区 (相模原市)|中央区]]) *:: 隣接するISAS相模原キャンパスの一般公開に合わせて公開された。 * 8月2 - 6日(ヒートシールドは2、3日のみ) *: [[筑波宇宙センター]](茨城県[[つくば市]]) *:: 8月1日には[[上皇明仁|天皇]]・[[上皇后美智子|皇后]]がつくばに行幸し、カプセルを視察した。 * 8月15 - 19日(ヒートシールドは15、16日のみ) *: [[丸の内オアゾ]]1階○○(おお)広場(東京都[[千代田区]]) *:: 同ビル2階に[[JAXAi]]があった。 その後も引き続き各地で公開されていたが<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.isas.jaxa.jp/j/topics/event/2010/0730_capsule.shtml |title=「はやぶさ」カプセル展示 |publisher=ISAS/JAXA |accessdate=2010-10-28}}</ref>、ヒートシールドは研究解析に供されるため<ref>{{Cite press release |和書 |url=https://www.jaxa.jp/press/2010/09/20100901_hayabusa_j.html |title=小惑星探査機「はやぶさ」カプセル等の展示協力機関の公募について |publisher=宇宙航空研究開発機構 |accessdate=2010-09-11 |date=2010-09-01}}</ref>展示されないこともあった。なお、ヒートシールドの形状は重要機密事項であったらしく、少なくとも筑波宇宙センターで見学者に配布された資料ではヒートシールドの輪郭が塗りつぶされていた。 <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">主な公開会場</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> * 2010年8月26 - 30日 *: [[日本科学未来館]]1階シンボルゾーン(東京都[[江東区]]) * 2010年9月2日(ヒートシールドの展示あり) *: 豊洲IHIビル1階(東京都[[江東区]]) *:: IHIテクノフォーラムに合わせて公開。一般公開は午後のみ。 * 2010年9月11、12日 *: [[角田宇宙センター]](宮城県[[角田市]]) * 2010年9月17 - 21日 *: [[近鉄百貨店]]阿倍野店9階近鉄アート館(大阪府[[大阪市]][[阿倍野区]]) *:: [[大阪市立科学館]]ほか主催。 * 2010年10月2、3日 *: [[調布航空宇宙センター]](東京都[[調布市]]) * 2010年10月14 - 18日 *: [[名古屋市科学館]]生命館(愛知県[[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]]) * 2010年10月26日 - 11月7日 *: [[国立科学博物館]](東京都[[台東区]]) *:: [https://www.kahaku.go.jp/exhibitions/ueno/special/2010/sora-uchu/event.html 特別展「空と宇宙展」イベント] * 2010年11月13日には、横浜市で開催された[[2010年日本APEC|APEC首脳会議]]に参加した各国首脳の晩餐会会場で展示された。 * 2010年11月20 - 23日 *: [[呉市海事歴史科学館|大和ミュージアム]](広島県[[呉市]]) * 2010年11月27 - 30日 *: [[佐賀県立宇宙科学館]](佐賀県[[武雄市]]、背面ヒートシールドの展示あり) * 2010年12月4 - 5日 *: [[内之浦宇宙空間観測所]](鹿児島県[[肝属郡]][[肝付町]]、ヒートシールドの展示あり) * 2010年12月8 - 12日 *: [[鹿児島市立科学館]](鹿児島県[[鹿児島市]]、背面ヒートシールドの展示あり) * 2010年12月17 - 19日 *: [[アクトシティ浜松]](静岡県[[浜松市]]、背面ヒートシールドの展示あり) * 2010年12月22 - 26日 *: [[四日市市立博物館]](三重県[[四日市市]]) * 2011年1月8 - 12日 *: [[福井県国際交流会館]](福井県[[福井市]]、背面ヒートシールドの展示あり) * 2011年1月15 - 18日 *: [[フォルテワジマ]]4階イベントスペース(和歌山県[[和歌山市]]) * 2011年1月21 - 24日 *: [[あすたむらんど徳島]](徳島県[[板野郡]]) * 2011年1月27 - 31日 *: [[神戸市立青少年科学館]](兵庫県[[神戸市]]) * 2011年2月2日 - 6日 *: [[京都大学総合博物館]](京都府[[京都市]]、背面ヒートシールドの展示あり) * 2011年9月15 - 19日 *: [[尼信博物館]](兵庫県[[尼崎市]]) * 2011年11月23 - 27日 *: [[熊本市立熊本博物館]](熊本県[[熊本市]]) * 2012年3月2 - 6日 *: 菊池市総合体育館(熊本県[[菊池市]]) </div></div> 2010年7月の相模原キャンパス特別公開を皮切りに同年11月からは本格的に各地を巡回し、最後の会場の愛知県刈谷市で2012年4月3日をもって全行程を終了した。全69会場で延べ89万人の来場者数を記録した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.isas.jaxa.jp/j/topics/topics/2012/0409.shtml |title=もう一つの旅が終了〜「はやぶさ」帰還カプセル巡回展示〜 |publisher=ISAS/JAXA |accessdate=2012-06-02 |date=2012-04-09}}</ref>。 これとは別に、再突入カプセルを製作した[[IHIエアロスペース]]の工場が群馬県[[富岡市]]にある縁で、同社は2010年10月に実物大レプリカを群馬県に寄贈しており、県内で巡回展示された後に[[ぐんま天文台]]で2011年1月15日から常設展示されている<ref>{{Cite news |accessdate=2010-10-28 |url=http://www.tokyo-np.co.jp/article/gunma/20101028/CK2010102802000086.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20101030042258/http://www.tokyo-np.co.jp/article/gunma/20101028/CK2010102802000086.html |archivedate=2010年10月30日 |title=小惑星探査機『はやぶさ』を追って 実物大“カプセル”展示 |date=2010-10-28 |newspaper=東京新聞 |author=中根政人 |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|accessdate=2011-09-23 |url=http://www.astron.pref.gunma.jp/news/110115hayabusa.html |title=「はやぶさ」回収カプセルのレプリカを展示 (2011年1月15日〜) |date=2011-01-14 |work=天文ニュース |publisher=県立ぐんま天文台}}</ref>。 == 受賞歴・記録 == ; 受賞 * [[2006年]]5月 - 「はやぶさ」プロジェクトが、米国宇宙協会の Space Pioneer Award を受賞。 * 2006年7月 - 第45回[[日本SF大会]]にて、「MUSES-C「はやぶさ」サンプルリターンミッションにおけるイトカワ着陸」が[[星雲賞]]自由部門を受賞。 * 2007年4月 - 文部科学省より、「はやぶさ」プロジェクトチームに対し、平成19年度科学技術分野の文部科学大臣表彰 科学技術賞(研究部門)。受賞業績名「はやぶさのイトカワへの降下と着陸及び科学観測に関する研究」 * 2007年7月 - 米国航空宇宙学会より、論文「Powered Flight of HAYABUSA in Deep Space」(はやぶさ小惑星探査機の深宇宙動力航行)(AIAA Paper 2006-4318) に対し、米国航空宇宙学会最優秀論文賞。 * 2007年9月 - 電気ロケット推進学会より、論文「Asteroid Rendezvous of HAYABUSA Explorer Using Microwave Discharge Ion Engines」(マイクロ波放電式イオンエンジンによるはやぶさ探査機の小惑星ランデブー)(IEPC-2005-10)に対し、国際電気推進学会最優秀論文賞。 * 2010年5月 - 国際宇宙航行アカデミーの創立50周年記念ロゴに組み込まれた、宇宙開発史を代表する7種の宇宙ミッションを示す写真(計8枚)の1つに「イトカワに映るはやぶさの影」が採用される<ref group="注釈">他のミッション(写真)は[[ロバート・ゴダード]]のロケット打ち上げ実験(同)、[[ボストーク]]([[ユーリイ・ガガーリン]])、[[アポロ計画|アポロ]](月の足跡・月面に立つ宇宙飛行士)、[[ボイジャー計画|ヴォイジャー]](土星の輪)、[[国際宇宙ステーション]](同)、[[マーズ・エクスプロレーション・ローバー]](同)</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://hayabusa.jaxa.jp/message/message_004.html |title=「はやぶさ」宇宙開発史上のトップ7に選ばれる! |publisher=JAXA |date=2010-05-07 |accessdate=2010-07-20 |work=はやぶさ、地球へ! 帰還カウントダウン |author=上杉邦憲}}</ref>。 * 2010年10月 - [[日本文学振興会]]より、「日本の科学技術力を世界に知らしめ、国民に希望と夢を与えてくれた」として、「はやぶさ」プロジェクトチームに対し、第58回[[菊池寛賞]]を受賞。 * 2011年 – [[米国宇宙協会]]の[[フォン・ブラウン賞]]を受賞。 * 2011年5月23日、史上初めて小惑星から物質を持ち帰った探査機として[[ギネス・ワールド・レコーズ|ギネス]]に認定された<ref>{{Cite news |url=http://sankei.jp.msn.com/science/news/110613/scn11061317550001-n1.htm |title=探査機はやぶさギネス認定 小惑星から物質回収 |date=2011-06-13 |accessdate=2011-06-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110616131809/http://sankei.jp.msn.com/science/news/110613/scn11061317550001-n1.htm |archivedate=2011年6月16日 |newspaper=[[産経新聞]] |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref>(認定証<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jspec.jaxa.jp/activity/images/hayabusa/110613/guinnesscertificate.pdf |title=GUINESS・WORLD RECORDS<sup>TM</sup> CERTIFICATE |format=PDF |language=英語 |accessdate=2011-06-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110627202847/http://www.jspec.jaxa.jp/activity/images/hayabusa/110613/guinnesscertificate.pdf |archivedate=2011年6月27日 |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref>は6月2日到着)。 * 2011年7月 - 第50回[[日本SF大会]]にて、「探査機「はやぶさ」(第20号科学衛星MUSES-C)の地球帰還」が第42回[[星雲賞]]自由部門を受賞。 * 2011年12月 - 米科学誌『サイエンス』 ([[アメリカ科学振興協会]]発行)12月23日号において発表された「2011年の10大発見」の内の1つに選ばれる。 ; 世界初記録 * マイクロ波放電型イオンエンジンの運用 * 宇宙用リチウムイオン二次電池の運用 * イオンエンジンを併用した地球スイングバイ * 月以外の天体からの地球帰還(固体表面への着陸を伴う天体間往復航行) * 月以外の天体の固体表面からのサンプルリターン * 地球と月以外の天体からの離陸(着陸と離陸としては最小の天体) ; 世界最遠記録 * 遠日点(1.7天文単位)を通過。イオンエンジンを搭載した宇宙機としては、太陽から史上最も遠方に到達(なお、2010年4月15日現在では[[ドーン (探査機)|ドーン]]が太陽から約2億9260万km=約1.96天文単位に到達している<ref>[http://neo.jpl.nasa.gov/orbits/fullview1.jpg View of Sun from Dawn]</ref>) * 光学的手法により、自力で史上最も遠い天体への接近・到達・着陸・離陸 ; 世界最長記録 * 最も長い期間を航行し、地球に帰還した宇宙機(2,592日間) * 最も長い距離を航行し、地球に帰還した宇宙機(60億km)、ただし確認中<ref name="mainichi20100616">{{Cite news |url=http://mainichi.jp/select/science/news/20100616ddm012040112000c.html |title=2010年宇宙の旅:はやぶさの耐熱カバーを回収 帰還地で全作業終了--JAXA |date=2010-06-16 |accessdate=2010-06-18 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100619073830/http://mainichi.jp/select/science/news/20100616ddm012040112000c.html |archivedate=2010年6月19日 |newspaper=毎日新聞 |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref> * 最も長い時間、動力飛行をした宇宙機、ただし確認中<ref name="mainichi20100616" /> === 関連する世界初 === * 初の地球外天体からのサンプルリターンは1969年の[[アポロ11号]]による[[月の石]]で、これは有人月探査だった。無人探査機によるものでは翌1970年の旧ソ連の月探査機[[ルナ16号]]が初である。月より遠くからのサンプルリターンとしては、[[ラグランジュ点]]L<sub>1</sub>から2004年に帰還した[[ジェネシス (探査機)|ジェネシス]]が初である。さらに地球重力圏外にある遠くの天体からサンプルリターンを行った探査機としては、2006年にカプセルを帰還させた彗星探査機[[スターダスト (探査機)|スターダスト]]が初である。ただし後2者はアポロやルナのように天体の固体表面に着陸したものではなかったため、はやぶさは地球重力圏外の天体の固体表面に着陸してサンプルリターンを行った初の探査機ということになった。無論、小惑星からのサンプルリターンは初である。 * はやぶさは小惑星探査機として数々の新技術を実証しているが、初の小惑星探査機は近接探査という意味では1991年に[[ガスプラ (小惑星)|ガスプラ]]を探査した[[ガリレオ (探査機)|ガリレオ]]である。また小惑星を専門とする初の探査機は1996年打ち上げの[[NEARシューメーカー]]であり<ref group="注釈">当初から小惑星探査を最終目標として設計された探査機という意味では、1994年に月探査を兼ねた小惑星探査機[[クレメンタイン (探査機)|クレメンタイン]]が先に打ち上げられている。ただしこちらは小惑星へ向かう途中で故障しており、月探査のみに終わっている。</ref>、これは初の小惑星周回(ランデブー)と軟着陸を行っている。そのためはやぶさは初の小惑星から離陸・帰還した探査機ということになった。また、イオンエンジンをメインエンジンとする初の小惑星探査機は、1998年打ち上げの[[ディープ・スペース1号]]であり、はやぶさはあくまで新方式のイオンエンジンを実証した探査機である。 === 記念日 === 6月13日を[[銀河連邦]]が「はやぶさの日」({{lang-en-short|HAYABUSA DAY}}) に制定し、2012年5月28日に[[日本記念日協会]]から認定を受け登録された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.ofunato.iwate.jp/www/contents/1338284086783/index.html |title=「はやぶさの日」の制定について |publisher=大船渡市 |date=2012-06-06 |accessdate=2012-06-16}}</ref>。 == プロジェクト参加企業 == <!-- 検証性確保のため、「特別付録 ドキュメントはやぶさ」に掲載されていない企業を記入する際は、企業名の横にrefをつけて下さい --> 以下の表は、開発・運用・回収サンプル解析に関わった企業を中心にまとめられた、主な「はやぶさ」関連企業の一覧である。 <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">主なはやぶさ関連企業(五十音順)</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> {| class="wikitable" ! 会社名 !! 業務 |- |[[IHIエアロスペース]] || 探査ロボット「ミネルバ」・回収カプセルの開発 |- |[[IHIエアロスペース・エンジニアリング]] || 回収カプセル筐体加工・設計支援など |- |[[アイティティキャノン]] || マイクロD-Subコネクタハーモネスの販売 |- |[[アイネット (システムインテグレーター)|アイネット]] || 探査機の電気試験装置ソフト開発・計装・総合試験・初期運用 |- |[[イーグル工業]] || 化学推進スラスタ・イオンエンジン推進剤供給系用各種バルブの販売 |- |[[猪口鉄工所]] || 化学推進スラスタ・イオンエンジン推進剤燃料タンクの機械加工・精密部品製作 |- |宇部興産(現・[[UBE (企業)|UBE]]) || サーマルブランケット・熱制御材(放射率可変素子)の材料製造 |- |[[エスペック]] || 電子部品の信頼性検査支援 |- |[[日本電気|NEC]] || 探査機システム・地上システムの開発取りまとめ・運用 |- |[[NECエンジニアリング]] || 探査機のシステム設計及び搭載機器の開発設計 |- |[[NEC航空宇宙システム]] || 探査機のシステム設計及び軌道計算・衛星管制システムの開発・運用 |- |[[NECスペーステクノロジー|NEC東芝スペースシステム]] || 探査機の開発・設計・製作・検査 |- |[[NECトーキン]] || イオンエンジン用磁気回路の製造 |- |[[NECネッツエスアイ]] || 運用管制業務および地上関連設備の運用業務 |- |[[NECワイヤレスネットワークス]] || 姿勢制御系搭載機器の電源・ハイブリッドICの製造 |- |[[NTN]] || 太陽電池パドルのヒンジ部軸受の製造 |- |[[エフ・アイ・シー]] || 探査機からの受信データの取得・蓄積・伝送 |- |[[エムエイチアイオーシャニクス]] || 化学推進スラスタ・イオンエンジン用推薬充填 |- |[[オーケープリント]] || プリント基板の設計・製造 |- |[[沖エンジニアリング]] || 探査機電子部品の信頼性検査・評価・解析・スクリーニグなど |- |[[薫製作所]] || 探査機部材の精密機械加工 |- |[[川邑研究所]] || 探査機部材の表面処理(固体被膜潤滑) |- |[[キットセイコー]] || 搭載機器用特殊ネジの製造 |- |[[京セラ]] || リチウムイオン電池用電池蓋の製造 |- |[[共和電業]] || ゲージ類製造 |- |[[コーデック(企業)|コーデック]] || データレコーダなどの探査機搭載電子機器の試験装置開発・製造 |- |[[コクサイエアロマリン]] || 回収カプセルなど日本-オーストラリア間輸送 |- |[[コスにじゅういち]]<ref name="sampling">{{Cite news |accessdate=2011-01-23 |url=http://kos21.co.jp/kos21_kouhou01.html |title=採取システム愛媛産 小惑星探査機「はやぶさ」 矢島さん(新居浜・住友重機)ら開発 県内企業加工 |date=2010-11-21 |newspaper=[[愛媛新聞]] |author=白石直子 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121203034040/http://kos21.co.jp/kos21_kouhou01.html |archivedate=2012年12月3日 |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref> || サンプル回収機構(装置)部品を加工 |- |[[サカセ・アドテック]] || 探査機の中・低利得アンテナや導波管コンポーネントの開発・製造、主鏡用3軸織製造 |- |[[櫻護謨]] || イオンエンジン推進剤供給用配管・配管フランジの製造 |- |[[三栄産業]] || 探査機部材の精密部品切削加工 |- |[[シーイーシー]] || 追跡管制ネットワークの構築・運用 |- |[[ジェピコ]] || 電子部品の輸入販売 |- |[[塩野製作所]] || イオンエンジンの金属部品切削加工 |- |[[清水機械]] || サンプル採取装置の試作 |- |[[下平製作所]] || 回収カプセル分離スプリング部品加工 |- |[[ジャパンマシナリー]] || 搭載計器などの温度管理用ヒーターの製造 |- |[[ジュピターコーポレーション]] || 探査機部品の輸入販売 |- |[[潤工社]] || 機体電線・ケーブルの製造 |- |[[昌新]] || 電子部品・マイクロ波部品の輸入販売 |- |[[昭和オプトロニクス]] || イトカワ観測用の色補正望遠鏡光学系などの開発 |- |[[昭和飛行機工業]] || 機体構体パネルの製造 |- |[[信州航空電子]] || 加速度計センサの部材などの製作 |- |[[新日本産業]] || 精密測定機器などの販売 |- |[[スーパーレジン工業]] || [[炭素繊維強化プラスチック]]製タンク支持ロッド |- |[[鈴幸商事]] || 熱制御部材の販売 |- |[[須田製作所]] || 探査機組立用治具などの製作 |- |[[住金日鉄ステンレス鋼管]] || 化学推進スラスタ構造部材・配管素材(ステンレス)の製造・販売 |- |[[住友重機械工業]] || サンプル採取装置の開発 |- |[[住友スリーエム]] || ターゲットマーカー用再帰性反射材の開発 |- |[[ソレキア]] || 地上データ伝送系システムのハードウエア保守 |- |[[大興電子通信]] || 軌道系システムの開発・運用 |- |[[タイコエレクトロニクスジャパン]] || 探査機部品の輸入販売 |- |[[太陽金網]] || 電磁干渉シールドテープ製造/スラスタ部分の放熱対策 |- |[[大陽日酸]] || イオンエンジン耐久試験設備の製作 |- |[[高橋工業]] || サンプル採取装置の部品加工 |- |[[多摩電気工業]] || 探査機の抵抗器の製造 |- |[[長菱エンジニアリング]] || 化学推進スラスタ・イオンエンジン推進剤供給系の機械環境試験・耐圧試験など |- |[[長菱設計]] || 化学推進スラスタ開発・設計支援 |- |[[東京通信機材]] || ワイヤーカッター用金属部品加工 |- |[[東侊製作所]]<ref name="sampling" /> || サンプル採取装置の部品加工 |- |[[東洋炭素]] || イオンエンジン用加速グリッドの製造 |- |[[ニチコン]] || フラッシュ用コンデンサの宇宙使用化 |- |[[日油技研工業]] || 弾丸発射装置(プロジェクタ)・ワイヤーカッターの開発 |- |[[日経エンジニアリング]] || 精密部品の組み立て支援 |- |[[日本アビオニクス]] || 部品実装用プリント基板の販売 |- |[[日本カーボン]] || 回収カプセル断熱材プリプレグの供給 |- |[[日本航空電子工業]] || 加速度計センサの開発 |- |[[日本飛行機]] || サンプラーホーン進展部・回収カプセル分離スプリングの開発 |- |[[日本マルコ]] || コネクタ・ハーネス製造 |- |[[HIREC]] || 探査機用部品の供給 |- |[[パナソニック]] || 回収カプセルのビーコン発信用電池(リチウム一次電池)の開発・製造など |- |[[浜松ホトニクス]] || 近赤外分光分析用高感度イメージセンサの開発 |- |[[林電工]] || タンク用温度センサ(地上支援装置)の製造 |- |[[原田製作所]] || 弾丸発射装置(プロジェクタ)用金属加工部品の製造 |- |[[日立製作所]] || データレコーダ、サンプル分析用クリーンチャンバなどの製造・全体システム制御など |- |[[日立ハイテクノロジーズ]] || サンプル分析用電子顕微鏡システムなどの製作 |- |[[日立プラントテクノロジー]] || サンプル分析用クリーンルームの販売 |- |[[福岡酸素]] || 燃料タンクの耐圧・気圧試験 |- |[[藤倉航装]] || 回収カプセル用パラシュートの開発 |- |[[富士精工]] || バッテリ単電池ケース部品の作成 |- |[[富士通]] || 軌道決定、衛星情報ベースや衛星異常監視・診断システムの開発 |- |[[富士通アドバントエンジニアリング]] || NASAと追跡管制相互運用を行う伝送系開発・運用 |- |[[富士通エフ・アイ・ビー・システムズ]] || テレメトリ監視及び伝送系システム開発・管理 |- |[[富士通特機システム]] || 探査機データの伝送系システム機器の保守 |- |[[古河電池]] || リチウムイオンバッテリの開発 |- |[[平和産業]] || アルミ製の分離機構部位の機械加工 |- |[[ホシノ工業]] || パラシュートの吊索・ひも・補強テープの材料の製造 |- |[[松田技術研究所]] || 回収カプセルの移送用簡易コンテナの機密性確保と制振 |- |[[ミカローム工業]] || 化学推進スラスタアルミ部材の表面加工 |- |[[ミツイワ]] || 地上データ伝送システムの運用とハードウエア保守 |- |[[三菱重工業]] || 化学推進スラスタ・イオンエンジン推進剤供給系の開発 |- |[[三菱電機]] || 運用管制用大型パラボラアンテナの運用 |- |[[三菱電線工業]] || 化学推進スラスタ・イオンエンジン推進剤供給系シール部品の設計・製造 |- |[[ミヤタエレバム]] || ターゲットマーカー識別用キセノンフラッシュランプの製造 |- |[[三河製作所]] || 回収サンプルの評価・作業用クリーンチャンバの製作 |- |[[武蔵富装]] || パラシュートの収納袋布材料の製造 |- |[[ムラコー]]{{要出典 |date=2011年1月}} || サンプル採取装置の部品加工 |- |[[明星電気]] || 蛍光X線分光装置などの開発 |- |[[八欧産業]] || ターゲットマーカー反射シートの製作 |- |[[山里産業]] || 化学推進スラスタ・イオンエンジン燃料供給系の試験用熱電対の製造 |- |[[ユタカ (金属精密加工メーカー)|ユタカ]]<ref name="sampling" /> || サンプル採取装置の部品加工 |- |[[菱計装]] || 化学推進スラスタの開発支援及び地上支援装置の製造 |- !colspan="2" |特別な脚注のない会社はすべて<ref>{{Cite journal |和書 |year=2010 |month=11 |title=特別付録 ドキュメントはやぶさ |journal=日本の宇宙産業 |issue=vol.2 (宇宙をつかうくらしが変わる) |publisher=日経BPコンサルティング |author=宇宙航空研究開発機構産業連携センター |isbn=978-4-901823-53-1}}</ref>からの引用である。 |}</div></div> == はやぶさ後継機 == {{See also|はやぶさ2|PLANET計画#その他関連探査プロジェクト}} はやぶさ (MUSES-C) の打ち上げ以前からMUSES-C後継機の構想はあり、小天体探査フォーラム (MEF) では後継機の任務について、同じ[[小惑星族]]([[コロニス族]]または[[ニサ族]])に属する複数の小惑星を探査する案や、スペクトルが既知の[[地球近傍天体]] (NEO) 複数を探査する案など、多数の案が検討された<ref>{{Cite journal |和書 |accessdate=2014-09-12 |url=http://www.minorbody.org/future_sse/sym01/muses01.html |title=ポストMUSES-C時代の小天体探査計画の検討 |date=2001-01-11 |publisher=宇宙科学研究所 |author=矢野創 |author2=川口淳一郎 |author3=安部正真 |author4=藤原顕 |author5=森本睦子 |pages=153-160 |author6=秋山演亮 |author7=三浦弥生 |author8=出村裕英 |author9=吉田和哉 |author10=小天体探査フォーラム |journal=宇宙科学シンポジウム |naid=40005398033 |volume=1}}</ref><ref>{{Cite journal |和書 |accessdate=2014-09-11 |url=http://www.minorbody.org/future_sse/sym02/ps_muses02.html |title=次期太陽系始原天体探査ミッション検討例 |date=2001-11-19 |journal=宇宙科学シンポジウム |publisher=宇宙航空研究開発機構宇宙科学研究本部 |author=矢野創 |author2=川口淳一郎 |author3=秋山演亮 |author4=MEF-小天体探査フォーラム |naid=40005599042 |volume=2 |pages=335-342}}</ref>。 2011年5月12日、はやぶさの改良機「[[はやぶさ2]]」が2014年に打ち上げ、[[地球近傍小惑星]][[リュウグウ (小惑星)|リュウグウ]]を探査する計画が発表された。2014年12月3日に打ち上げられ、2018年にリュウグウに到着、2020年に帰還する計画が立案され<ref name="hayabusa2/ISAS" /><ref name="asahi20110512" />、計画通りに実行された。 「はやぶさ2」以降については、より大型・高性能な「はやぶさMk.II(マーク2)」、「はやぶさMk.II」を[[ヨーロッパ宇宙機関]]と共同開発するという「{{仮リンク|マルコ・ポーロ (探査機)|en|Marco Polo Mission|label=マルコ・ポーロ}}」<!--、[[太陽帆|ソーラー電力セイル]]と組み合わせた[[木星]]・[[トロヤ群]]探査機-->などの構想がある。 == 反応 == 複数の技術的なトラブルに見舞われ帰還を絶望視されつつも<ref>{{Cite news |author=本間雅江 |author2=江村泰山 |date=2010-06-14 |title=奇跡生んだ粘りと技術…「はやぶさ」帰還 |url=http://www.yomiuri.co.jp/space/news2/20100614-OYT1T00190.htm |accessdate=2010-06-14 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100617185552/http://www.yomiuri.co.jp/space/news2/20100614-OYT1T00190.htm |archivedate=2010年6月17日 |newspaper=読売新聞 |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref>、それを乗り越えて地球への帰還を目指すはやぶさの旅程は、多くの日本人に美談として受け止められ共感を呼んだ<ref name="asahi201006130305" /><ref name="mainichi20100605dde001040038000c" /><ref>{{Cite news |date=2010-06-12 |title=迷子-満身創痍-最後は燃え尽き… けなげ「はやぶさ君」に共感広がる |url=http://sankei.jp.msn.com/science/science/100612/scn1006122244000-n1.htm |accessdate=2010-06-14 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100615170906/http://sankei.jp.msn.com/science/science/100612/scn1006122244000-n1.htm |archivedate=2010年6月15日 |newspaper=産経新聞 |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref><ref>{{Cite news |date=2010-06-14 |title=はやぶさ帰還に感動「息子のよう」「日本の誇り」 |url=http://www.yomiuri.co.jp/space/news2/20100614-OYT1T00972.htm |accessdate=2010-06-14 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100617071551/http://www.yomiuri.co.jp/space/news2/20100614-OYT1T00972.htm |archivedate=2010年6月17日 |newspaper=読売新聞 |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref><ref>{{Cite news |author=[[鮮于鉦]] |date=2010-06-14 |title=小惑星探査機「はやぶさ」の帰還に日本中が熱狂 |url=http://www.chosunonline.com/news/20100614000031 |accessdate=2010-06-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100617150509/http://www.chosunonline.com/news/20100614000031 |archivedate=2010年6月17日 |newspaper=[[朝鮮日報]]日本語版 |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref>。 === 天皇・皇后 === [[天皇誕生日]]に先立つ2010年12月20日の記者会見で、[[上皇明仁]]は「はやぶさ」について次のように述べた。 {{Quotation|小惑星探査機「はやぶさ」が小惑星「イトカワ」に着陸し、微粒子を持ち帰ったことは誠に喜ばしい今年の快挙でした。一時は行方不明になるなど数々の故障を克服し、ついに地球に帰還しました。行方不明になっても決して諦めず、様々な工夫を重ね、ついに帰還を果たしたことに深い感動を覚えました。|今上天皇|<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h22e.html |title=天皇陛下お誕生日に際し(平成22年) |publisher=[[宮内庁]] |accessdate=2010-12-27}}</ref>}} また[[上皇后美智子|上皇后]]は、はやぶさが大気圏に突入した時のことを[[和歌]]に詠んだ。 {{Quotation|<poem>その帰路に己れを焼きし「はやぶさ」の光輝(かがや)かに明かるかりしと</poem>|皇后|<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/gyosei/pdf/gyosei-h22.pdf |title=皇后陛下御歌 三首 平成二十二年 |format=PDF |publisher=宮内庁 |accessdate=2013-10-20 |work=天皇皇后両陛下のお歌}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/110101/imp1101011023002-n1.htm|title=両陛下のお歌8首|publisher=[[産経新聞]]|date=2011-01-01|accessdate=2011-01-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110112111846/http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/110101/imp1101011023002-n1.htm|archivedate=2011年1月12日|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>}} === メディア === 「はやぶさ」に対する関心ははじめから大きかったわけではない。はやぶさの着陸失敗が非常に大きく取り上げられた後、実は着陸していたことが取り上げられた<ref>{{Cite news |accessdate=2010-06-25 |url=http://www.asahi.com/science/news/TKY200511230244.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20081013131615/http://www.asahi.com/science/news/TKY200511230244.html |archivedate=2008年10月13日 |title=「はやぶさ」、30分着陸していた 試料は採取できず |newspaper=朝日新聞 }}. 朝日新聞. 2010年6月25日閲覧。</ref>。電波を捉えられなくなり、帰還が危ぶまれるようになるとほとんど報道されないようになった。マスメディアが関心を失っていく一方、インターネット上でははやぶさに関する話題の盛り上がりがあり、次第に注目を集めていった(詳細は「[[#インターネットによる広報と反響]]」を参照)。 2010年6月13日の地球帰還が近付くにつれてニュースやワイドショーで取り上げられる機会も増え、6月10日には[[NHK総合テレビジョン|NHK]]の『[[クローズアップ現代]]』で「傷だらけの帰還 探査機はやぶさの大航海」が放送された(JAXAの[[的川泰宣]]がゲスト出演)。NHKはウーメラに近い[[グレンダンボ]]に取材班を送り、大気圏再突入の模様を[[ハイビジョン]]で撮影して翌14日未明から定時ニュースの冒頭で繰り返し放送したが、NHK・民放各局とも生中継を行わず<ref name="jcast20100614" /><ref name="biglobe20100615">{{Cite web|和書|date=2010-06-15 |title=BIGLOBEがサッカー2010W杯日本・カメルーン戦のツイート情報を分析 〜ツイッター上で高評価だったのは本田・長友選手〜 |url=http://www.biglobe.co.jp/press/2010/06/100615-1.html |publisher=[[BIGLOBE|NECビッグローブ]] |accessdate=2010-06-16}}</ref>、NHK広報局は[[ツイッター]]上で「大気圏突入のタイミングには、ちょうど[[ワールドカップ]]の試合を放送しているので、生中継は難しそうです」などと冷静に理解を求めていたのだが、第1報もやや遅れたため<ref name="jcast20100614" />、一部では放送局の反応に対する失望の声も上がった<ref name="jcast20100614" /><ref>{{Cite news |date=2010-06-13 |title=NHK『はやぶさ』中継せず国民激怒! NHK「さすがに限界かも知れません」 |url=http://rocketnews24.com/?p=36477 |accessdate=2010-06-16 |newspaper=ロケットニュース24 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100616075802/http://rocketnews24.com/?p=36477 |archivedate=2010年6月16日 |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref>。 翌日14日の朝刊各誌は1面トップに写真付ではやぶさ突入の記事を掲載し<ref name="jcast20100614" />、民放各局もはやぶさの帰還を報道している<ref name="jcast20100614" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.j-cast.com/tv/2010/06/14068669.html |title=満身創痍「はやぶさ」帰還 本体は燃え尽きたけどカプセル無事の健気さ |work=JCASTテレビウォッチ |accessdate=2010-06-14 |author=ヤンヤン}}</ref>。またカプセルが着地したオーストラリアでは、大きな話題として扱ったテレビ放送局もあり<ref>{{Cite news |date=2010-06-14 |title=「太陽系の起源解明に期待」 はやぶさ快挙と豪メディア |url=http://sankei.jp.msn.com/science/science/100614/scn1006141326010-n1.htm |accessdate=2010-06-21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100617185924/http://sankei.jp.msn.com/science/science/100614/scn1006141326010-n1.htm |archivedate=2010年6月17日 |newspaper=産経新聞 |agency=共同通信 |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref>、台湾やイギリスなどでも報道された。 はやぶさの帰還後は、日本国民の熱狂ぶりや国民的な関心の高さがメディア上でも紹介された<ref>{{Cite news |author=新井重徳 |date=2010-06-21 |url=http://www.nikkei.com/tech/trend/article/g=96958A9C93819595E3E5E2E2908DE3EAE2E4E0E2E3E2E2E2E2E2E2E2 |title=「はやぶさ」帰還 喝采の陰で忍び寄る「成果の風化」 |accessdate=2011-05-26 |newspaper=日本経済新聞}}</ref><ref>{{Cite news |date=2010-11-17 |url=http://mytown.asahi.com/areanews/shizuoka/TKY201011160368.html |title=快挙「はやぶさ」のドラマたっぷり 23日三島で講演会 |publisher=朝日新聞 |accessdate=2011-05-26 |archiveurl=https://archive.is/PBqa |archivedate=2012-02-22}}</ref><ref>{{Cite news |author=Tomomichi Amano |date=2010-07-09 |url=http://jp.wsj.com/japanrealtime/2010/07/09/{{urlencode:宇宙計画の教育的効果、コストをはるかに上回る}}/ |title=宇宙計画の教育的効果、コストをはるかに上回る=「はやぶさ」の川口教授 |accessdate=2011-05-26 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100712072302/http://jp.wsj.com/japanrealtime/2010/07/09/%7B%7Burlencode%3A%E5%AE%87%E5%AE%99%E8%A8%88%E7%94%BB%E3%81%AE%E6%95%99%E8%82%B2%E7%9A%84%E5%8A%B9%E6%9E%9C%E3%80%81%E3%82%B3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%92%E3%81%AF%E3%82%8B%E3%81%8B%E3%81%AB%E4%B8%8A%E5%9B%9E%E3%82%8B%7D%7D |archivedate=2010年7月12日 |newspaper=[[ウォールストリート・ジャーナル|ウォール・ストリート・ジャーナル]] 日本版 |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref><ref>{{Cite news |date=2011-01-02 |url=http://www.ibaraki-np.co.jp/news/news.php?f_jun=12938013562789 |title=はやぶさ偉業、花開け イトカワ微粒子、茨城大で分析 |accessdate=2011-05-26 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110104054524/http://www.ibaraki-np.co.jp/news/news.php?f_jun=12938013562789 |archivedate=2011年1月4日 |newspaper=[[茨城新聞]] }}</ref>。 === 政治家 === はやぶさのカプセル帰還成功を受け、6月8日に成立したばかりの[[菅直人内閣|菅内閣]]の閣僚たちからは絶賛する発言が相次いだ。 * [[菅直人]]総理大臣(当時)は6月14日、「はやぶさ」プロジェクトマネージャー川口淳一郎にお祝いの電話をかけ、カプセル再突入成功について、約60億キロメートルもの飛行の後、地球へ帰還できたことは奇跡的であり、日本の技術水準の高さを世界に強くアピールした、関係者の方々に心からのお祝いと労いを申し上げたい旨を述べた<ref>{{Cite web|和書|title=菅内閣総理大臣から小惑星探査機「はやぶさ」プロジェクトマネージャー川口淳一郎教授へのお祝いについて |url=http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/uchuu/reports/1294839.htm |publisher=文部科学省 |accessdate=2010-06-15 |date=2010-06-14}}</ref>。さらに15日の参議院本会議で、後継機「[[はやぶさ2]]」の開発を推進する考えを示した<ref>{{Cite news |url=http://mainichi.jp/select/today/news/20100616k0000m010043000c.html |title=はやぶさ:後継機「2」開発推進へ 参院本会議で菅首相 |accessdate=2010-06-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100618023433/http://mainichi.jp/select/today/news/20100616k0000m010043000c.html |archivedate=2010年6月18日 |newspaper=毎日新聞 |author=山田大輔 |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref>。 * [[蓮舫]][[内閣府特命担当大臣(行政刷新担当)|行政刷新担当相]](当時)は15日、「偉業は国民全員が誇るべきものだ。世界に向かって大きな発信をした」と高く評価し、2009年の[[事業仕分け (行政刷新会議)|事業仕分け]]で、後継機開発など宇宙開発関連予算を削減としたことについて「宇宙開発は私は直接担当しておらず、今一度流れを確認している」と釈明し、また「国民の様々な声は次期予算編成に当然反映されるべきだ」と語った<ref>{{Cite news |url=http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100615/plc1006151230011-n1.htm |title=蓮舫行刷相 はやぶさ帰還を絶賛 「仕分け結果、何が何でもではない」 |accessdate=2010-06-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100617065034/http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100615/plc1006151230011-n1.htm |archivedate=2010年6月17日 |date=2010-06-15 |newspaper=産経新聞 |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref>。 * [[川端達夫]][[文部科学大臣]](当時)は15日、「非常に大きな成果を上げた」と評価し、後継機予算の概算要求について「しっかりとこれを踏まえて考えたい」と前向きな姿勢を示した<ref>{{Cite news |url=http://news.goo.ne.jp/article/jiji/nation/jiji-100615X899.html |title=「はやぶさ」航海をギネス申請=後継機予算計上に前向き-川端文科相会見 |date=2010-06-15 |accessdate=2010-06-15 |newspaper=gooニュース |agency=[[時事通信]] |publisher=goo |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100620051406/http://news.goo.ne.jp/article/jiji/nation/jiji-100615X899.html |archivedate=2010年6月20日 |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref>。 * [[福山哲郎]][[内閣官房副長官|官房副長官]](当時)は14日、はやぶさの後継機開発について「宇宙技術発展への貢献を精査し、来年度予算での扱いを検討したい」と述べた<ref>{{Cite news |url=https://web.archive.org/web/20100903085909/http://www.47news.jp/CN/201006/CN2010061401000631.html |title=はやぶさ帰還で首相が祝意 「日本の技術アピール」 |accessdate=2010-06-15 |date=2010-06-14 |newspaper=共同通信}}</ref>。 * 宇宙開発担当の[[前原誠司]][[国土交通大臣]](当時)も「宇宙開発史に画期的な一ページを加えた」との談話を発表した<ref name="20100614-OYT1T00947" />。 これらの発言に対して、[[読売新聞]]は[[鳩山由紀夫内閣|鳩山政権]]下ではやぶさ後継機の予算が削減されていたことを指摘し、「現金すぎ」と[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]政権を批判的に報じた<ref name="20100614-OYT1T00947">{{Cite news |url=http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100614-OYT1T00947.htm |title=科学予算削減の民主、はやぶさ絶賛は「現金過ぎ」 |date=2010-06-14 |newspaper=読売新聞 |publisher=[[読売新聞社]] |accessdate=2010-06-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100617190549/http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100614-OYT1T00947.htm |archivedate=2010年6月17日 |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref>。 {{main|はやぶさ2}} === インターネットによる広報と反響 === はやぶさは、「[[星の王子さま]]に会いに行きませんか」キャンペーンを実施し、国内外から88万人の署名入りターゲットマーカーを積んでいたことで、投下成功のニュースには多くの励ましのメールが[[宇宙航空研究開発機構|JAXA]]に届けられた<ref>{{Cite web|和書|accessdate=2005-12-17 |url=http://www.isas.jaxa.jp/j/snews/2005/1129_koe.shtml |title=「はやぶさ」を支えた声 |date=2005-11-29}}</ref>。 イトカワ着陸の際は、管制室のインターネット中継や、[[ブログ]]による実況が行われた。2度目の着陸の際、栄養ドリンク「[[リポビタンD]]」の空き瓶が管制室の机にどんどん増えていく様子<ref>[https://www.isas.jaxa.jp/home/hayabusa-live/?itemid=119&catid=11 2005/11/25 22:28 JST]<br />[http://www.isas.jaxa.jp/home/hayabusa-live/?itemid=136&catid=11 2005/11/26 01:05 JST]<br />[http://www.isas.jaxa.jp/home/hayabusa-live/?itemid=148&catid=11 2005/11/26 03:35 JST]<br />[http://www.isas.jaxa.jp/home/hayabusa-live/?itemid=211&catid=11 2005/11/26 15:52 JST]</ref>がブログを通して紹介され話題になった<ref name="ascii20100617-6" /><ref>{{Cite web|和書|accessdate=2022-06-13 |url=https://moonstation.jp/challenge/pex/hayabusa/lipod | title=はやぶさとリポビタンD |publisher=月探査情報ステーション}}</ref>。後にブログの更新担当者のもとには[[大正製薬]]関係者からリポビタンDが2カートン贈られたという<ref>{{Cite web|和書|accessdate=2005-12-17 |url=http://smatsu.air-nifty.com/lbyd/2005/12/post_b1eb.html |title=「はやぶさリンク」:未完のミッション |date=2005-12-14 |work=松浦晋也のL/D}}</ref>。 JAXAのwebサイトでは、ミッションの経過を絵本仕立てで紹介した『[https://web.archive.org/web/20110809074736/http://www.isas.jaxa.jp/j/enterp/missions/hayabusa/fun/adv/index.shtml はやぶさ君の冒険日誌]』や[[ペーパークラフト]]<ref>{{Cite web|和書|accessdate=2010-07-18 |url=http://www.isas.jaxa.jp/j/enterp/missions/hayabusa/fun/papercraft.shtml |title=「はやぶさ」ペーパークラフト |publisher=ISAS/JAXA |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120308101527/http://www.isas.jaxa.jp/j/enterp/missions/hayabusa/fun/papercraft.shtml |archivedate=2012年3月8日 |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref>なども公開された。 2006年、soyuz project名義で活動する音楽家、[[福間創]]は、はやぶさの地球への無事帰還を願い、「swingby」という楽曲を自身のwebサイトで無料配信した<ref>{{Cite web|和書|accessdate=2011-02-09 |url=http://blog.livedoor.jp/soyuz/archives/50600623.html |title=swingby 無料配信のお知らせ |date=2006-06-16 |work=:::フクマニッキ::: |author=soyuz}}</ref><ref>{{Cite web|和書|accessdate=2011-02-09 |url=http://blog.livedoor.jp/soyuz/archives/50591944.html |title=8823 |date=2006-06-11 |work=:::フクマニッキ::: |author=soyuz}}</ref>。配信後、この曲は相模原のJAXA宇宙科学研究本部の一般公開イベントにおいて、はやぶさコーナーのBGMとして正式に採用された<ref>{{Cite web|和書|accessdate=2011-02-09 |url=http://blog.livedoor.jp/soyuz/archives/50655242.html |title=宇宙士官候補生☆ |date=2006-07-27 |work=:::フクマニッキ::: |author=soyuz}}</ref><ref>{{Cite web|和書|accessdate=2011-02-09 |url=http://blog.livedoor.jp/soyuz/archives/50657937.html |title=コスモス |date=2006-07-29 |work=:::フクマニッキ::: |author=soyuz}}</ref>。 地球帰還に向けて最後の軌道修正に入った2010年4月には特設ページが作られ、プロジェクトマネージャーの川口淳一郎を始めとする関係者たちのメッセージが掲載されたほか、ブログや[[Twitter]]で状況が報告された。Twitterでは「はやぶさ君」“本人”がつぶやいたり、「[[あかつき (探査機)|あかつきくん]]」や「[[IKAROS|イカロス君]]」と会話することもあった<ref>{{Cite news |accessdate=2011-02-05 |url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1006/11/news068.html |title=ねとらぼ:イカロス君「はやぶさ兄さんに僕の広がった姿を見せられてよかった!」 |date=2010-06-11 |newspaper=ITmedia ニュース}}</ref>。 リアルタイムで多くの情報が公開されたことによりネットでの注目を集め、はやぶさを[[擬人化]]したキャラクターや、はやぶさをテーマにした[[Adobe Flash|フラッシュ]]・[[MADムービー]]・楽曲などが作られた。ファンによるコスプレや実物大模型なども公開されてブームを盛り上げた<ref name="mainichi20100605dde001040038000c" /><ref>{{Cite news |title=ひと――探査機「はやぶさ」のコスプレーヤー 秋の『』さん(22) |newspaper=朝日新聞 |date=2011-02-05 |edition=朝刊第13版 |page=第2面 |quote=秋の『』(あきの。鉤括弧は読まない)は、はやぶさを萌え擬人化した[[コスプレイヤー]]として多数のメディアに出演している。『はやぶさLOVE講座』では表紙や口絵にコスプレ姿で登場し、本文中のガイド役をしている。}}</ref><ref>{{Cite web|和書|accessdate=2010-06-16 |url=http://moonstation.jp/ja/hayabusa/fun/index.html |title=はやぶさファン! |publisher=月探査情報ステーション}}</ref>。後日、[[アスキー (企業)|ASCII]]主催による、川口淳一郎教授と今回のプロジェクトチームを招いて、今回のミッションについての対談が行われた際、Twitterの果たした役割にふれ、また[[ニコニコ動画]]上の[[さだまさし]]の『[[案山子 (さだまさしの曲)|案山子]]』や『[[宇宙戦艦ヤマト]]』などをモチーフにしたFLASHムービー作品について、とてもよく出来ていて気に入っているという感想を述べて、「はやぶさ」とネットとの親和性は高いと評価した<ref name="ascii20100617-6"> {{Cite web|和書|accessdate=2011-01-26 |url=http://ascii.jp/elem/000/000/530/530479/index-3.html |title=「はやぶさ」の夢は続く、開発者が考えるその先にあるもの |date=2010-06-17 |work=“JAXAの真田ぁ〜ず”に総力インタビュー! |publisher=アスキー・メディアワークス |author=秋山文野 |coauthors=小林伸; shigezoh; et al.}}</ref>。 2010年6月13日の大気圏再突入の際には、前述のように生中継を行った放送局が皆無であったのに対し<ref name="jcast20100614" /><ref name="biglobe20100615" />、動画配信サイトでは現地からの[[インターネット放送|インターネット中継]]が行われ<ref>{{Cite news |date=2010-06-13 |title=はやぶさ動画中継、NASAも和歌山大も「ニコ動」も |url=http://www.asahi.com/science/update/0612/TKY201006120229.html |author=東山正宜 |newspaper=朝日新聞 |accessdate=2010-06-14 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100616074513/http://www.asahi.com/science/update/0612/TKY201006120229.html |archivedate=2010年6月16日 |author2=福島慎吾 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.wakayama-u.ac.jp/ifes/news/20100613.html |title=小惑星探査機「はやぶさ」カプセル帰還ライブ中継 |publisher=和歌山大学宇宙教育研究所 |accessdate=2014-01-22}}</ref>、[[ニコニコ生放送]]に延べ21万人<ref name="jcast20100614">{{Cite news |date=2010-06-14 |title=「はやぶさ」奇跡の帰還に生中継なし テレビ局に失望と批判の声 |url=https://www.j-cast.com/2010/06/14068754.html?p=all |accessdate=2010-06-14 |newspaper=J-CASTニュース}}</ref><ref name="impress20100614_374399">{{Cite news |author=三柳英樹 |date=2010-06-14 |title=「はやぶさ」地球帰還、関連サイトや生中継に多数のアクセス |url=https://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/374399.html |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2010-06-19 |newspaper=[[Impress Watch|INTERNET Watch]]}}</ref><ref name="asahi201006130305">{{Cite news |date=2010-06-14 |author=小宮山亮磨 |title=はやぶさ、ありがとう 砂漠から管制室からファン見守る |url=http://www.asahi.com/science/update/0613/TKY201006130305.html |accessdate=2010-06-14 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100615233551/http://www.asahi.com/science/update/0613/TKY201006130305.html |archivedate=2010年6月15日 |newspaper=朝日新聞 |author2=福島慎吾 }}</ref>、JAXAの配信に36万アクセス、和歌山大学の配信に63万アクセス<ref name="impress20100614_374399" />が殺到し、それぞれ視聴者数が制限されたり回線が繋がりにくくなったりする状況が発生した<ref name="asahi201006130305" /><ref name="jcast20100614" /><ref name="impress20100614_374399" />。Twitterでも注目を集め<ref name="mainichi20100605dde001040038000c">{{Cite news |date=2010-06-05 |title=知りたい!:小惑星探査機13日帰還 はやぶさ君、人気急加速 数々の危機克服に共感 |url=http://mainichi.jp/select/science/news/20100605dde001040038000c.html |newspaper=毎日新聞 |accessdate=2010-06-16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100609121712/http://mainichi.jp/select/science/news/20100605dde001040038000c.html |archivedate=2010年6月9日 |author=西川拓 |author2=永山悦子 |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref><ref name="asahi20100614_p30">{{Cite news |date=2010-06-14 |author=小宮山亮磨 |coauthor=福島慎吾 |title=あきらめない姿 人生重ね はやぶさ帰還 ファン集う ツイッターでも人気者 |newspaper=朝日新聞朝刊13版 |page=30面}}</ref>、[[BIGLOBE|NECビッグローブ]]による統計によれば、再突入を捉えた動画や画像が公開された頃を中心に、10分間辺り最大で27,000件を上回る発言がはやぶさの話題に費やされた<ref name="biglobe20100615" /><ref name="impress20100615_374552">{{Cite news |author=永沢茂 |date=2010-06-15 |title=「はやぶさ」発光確認後、10分間で2万7000件以上のツイート |url=https://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/374552.html |publisher=インプレス |accessdate=2010-06-16 |newspaper=INTERNET Watch}}</ref>。これは翌日の同時間帯に放送された2010 FIFAワールドカップ[[サッカー日本代表|日本]]対[[サッカーカメルーン代表|カメルーン]]戦でゴールを決めた[[本田圭佑]]に対する、10分間辺り最大16,000件の発言<ref name="biglobe20100615" /><ref name="impress20100615_374552" />を圧倒的に上回っている。 また「はやぶさ」が地球に帰還した翌日には、オンライン署名サイトで「はやぶさ2予算増額の嘆願署名」が作成されるなど、関係者以外からも注目が集まっている<ref>{{Cite web|和書|url=http://smatsu.air-nifty.com/lbyd/2010/06/2-35e2.html |title=はやぶさ2に向けて |date=2010-06-16 |accessdate=2010-06-18 |work=松浦晋也のL/D |author=松浦晋也}}</ref>。 === はやぶさを扱ったグッズや作品に対する反響 === はやぶさに対する反響の一環として、[[プラモデル]]や書籍、果ては日本酒といったグッズも、無人探査機を扱った商品としては例外的な売れ行きを示した<ref>{{Cite news |date=2010-06-12 |title=「史上最も愛された探査機」 はやぶさグッズ、完売御礼 |url=http://www.asahi.com/national/update/0612/TKY201006120145.html |publisher=朝日新聞 |accessdate=2010-06-14 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100615154354/http://www.asahi.com/national/update/0612/TKY201006120145.html |archivedate=2010年6月15日 |author=東山正宜 |author2=勝田敏彦 }}</ref>。例えば[[青島文化教材社]]から発売されたプラモデルは、同社における通常のヒット商品と比べて約4 - 5倍もの受注があり、初回製造分が数日で売り切れるほどの反響があったという<ref>{{Cite news |title=「はやぶさ」プラモデルが人気 地球帰還で受注急増 |url=http://www.shizushin.com/news/pol_eco/shizuoka/20100622000000000016.htm |date=2010-06-22 |accessdate=2010-07-21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100624103714/http://www.shizushin.com/news/pol_eco/shizuoka/20100622000000000016.htm |archivedate=2010年6月24日 |newspaper=[[静岡新聞]] }}</ref><ref>{{Cite news |date=2010-08-01 |title=「はやぶさプラモ」大人気 葵区の制作会社、賭け実る |url=http://mytown.asahi.com/areanews/shizuoka/TKY201007310311.html |accessdate=2010-08-02 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100803000635/http://mytown.asahi.com/areanews/shizuoka/TKY201007310311.html |archivedate=2010年8月3日 |newspaper=朝日新聞 |author=阿部朋美 |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref>。 2009年4月1日には、はやぶさの困難な旅程を[[叙情|叙情的]]<ref name="sankei1006142322009">{{Cite news |date=2010-06-14 |title=「はやぶさ」帰還 プラネタリウム上映で人気 |url=http://sankei.jp.msn.com/region/kanto/kanagawa/100614/kng1006142322009-n1.htm |accessdate=2010-06-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100619103221/http://sankei.jp.msn.com/region/kanto/kanagawa/100614/kng1006142322009-n1.htm |archivedate=2010年6月19日 |newspaper=産経新聞 |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref>に描いた[[プラネタリウム]]番組『HAYABUSA -BACK TO THE EARTH-』が公開され、プラネタリウム番組としては異例の人気があったという<ref name="yomiuri20100710">{{Cite news |title=「はやぶさ」止まらぬ人気、「故郷」ツアー大盛況 |url=http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20100710-OYT1T00524.htm |accessdate=2010-07-21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100712213735/http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20100710-OYT1T00524.htm |archivedate=2010年7月12日 |date=2010-07-10 |newspaper=[[読売新聞]] |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref>。 『HAYABUSA -BACK TO THE EARTH-』はDVDおよびBDでも発売され、好評を博したものの、終盤の映像はあくまで予想に基づく制作だったため、はやぶさの地球帰還の後に完全版を求める声が相次ぎ、終盤の映像を事実に基づいたCG映像と差し替えた『HAYABUSA -BACK TO THE EARTH- 帰還バージョン』が制作され、各地で上映中であったプラネタリウムでも随時帰還バージョンへと差し替えられた。 == はやぶさを題材にした作品 == === 関連する作品 === はやぶさ帰還後にはJAXAに8社から映画化のオファーがあり<ref>{{Cite web|和書|accessdate=2012-03-13 |url=http://movies.foxjapan.com/hayabusa/sp/pronote.html |title=プロダクション・ノート |work=映画『はやぶさ/HAYABUSA』公式サイト |publisher=[[20世紀フォックス]]}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|『[[日刊サイゾー]]』によれば、東映・東宝・松竹・角川の日本国界4大映画配給会社と、独立系、洋画配給会社など<ref>{{Cite news |accessdate=2012-03-13 |url=https://www.cyzo.com/2011/11/post_9019_entry.html |title=「架空の役がまずかった?」スタートでいきなりつまづいた映画『はやぶさ』シリーズ |date=2011-11-08 |newspaper=日刊サイゾー}}</ref>。}}、2011年秋期から2012年春期にかけてはやぶさを主題とした映画3作が相次いで公開された。日本国内で同じ題材の映画が3作品重なって競作されることは非常に稀なことである<ref>{{Cite news |author=西田健作 |date=2011-07-12 |title=映画「はやぶさ」3社競う |newspaper=朝日新聞朝刊13版 |page=27面}}</ref>。このうち[[20世紀フォックス]]の映画『はやぶさ/HAYABUSA』は、史上初の宇宙試写会という触れ込みで、[[国際宇宙ステーション]]に滞在中の宇宙飛行士を対象にした試写会が企画され<ref>{{Cite news |author=入倉功一 |date=2011-07-02 |url=https://www.cinematoday.jp/news/N0033504 |title=映画「はやぶさ」が国際宇宙ステーションきぼう内で上映決定! 地球最速宇宙試写会に! |publisher=ウエルバ |accessdate=2011-07-12 |newspaper=シネマトゥデイ}}</ref>、2011年7月27日に実施された<ref>{{Cite news |date=2011-07-28 |url=http://mainichi.jp/enta/geinou/news/20110728mog00m200011000c.html |title=はやぶさ:世界初の宇宙試写会 古川聡宇宙飛行士も感激 被災地へエールも |accessdate=2011-08-17 |archiveurl=https://megalodon.jp/2011-0827-0938-44/mainichi.jp/enta/geinou/news/20110728mog00m200011000c.html |archivedate=2011-08-27 |newspaper=毎日新聞デジタル}}</ref>。映画のほかには、映画の原作となった著作や、探査機を[[萌え擬人化]]した漫画作品などが出版されている。 ==== 映画 ==== [[File:Hayabusa restoration model.jpg|thumb|240px|right|映画『はやぶさ 遥かなる帰還』の撮影用に製作されたはやぶさの実物大模型。[[国立科学博物館]]に寄贈され展示されている<ref>{{Cite press release |和書 |accessdate=2013-05-22 |url=https://www.kahaku.go.jp/procedure/press/pdf/131057.pdf |title=<地球館2階 日本の宇宙開発コーナー(常設展示)>-日本の宇宙開発に関する新規資料を公開- |date=2013-03-22 |format=PDF |publisher=国立科学博物館}}</ref>。]] * 『[[はやぶさ HAYABUSA BACK TO THE EARTH]]』 - 監督は[[上坂浩光]]。2009年4月1日に公開された。元々は日本全国のプラネタリウムでのみ上映された作品だったが、角川フィルムインク配給で2011年5月14日より日本全国の映画館で公開。全編[[コンピュータグラフィックス|CG]]製作。 ** 『劇場版HAYABUSA2{{~}}REBORN』 - シリーズ続編。初代はやぶさの視点(ナレーション)で、後継のはやぶさ2の帰還までのを描く<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.crank-in.net/news/81960/1|title=『劇場版HAYABUSA2』小惑星探査の真実に迫る予告編 ナレーターは篠田三郎|publisher=クランクイン|date=2020-10-15|accessdate=2020-11-05}}</ref>。 * 『[[はやぶさ/HAYABUSA]]』 - [[20世紀フォックス]]製作・配給で2011年10月1日に日本公開された。2012年3月に[[アメリカ合衆国]]主要10都市で公開予定<ref>{{Cite news |date=2011-10-01 |url=https://www.rbbtoday.com/article/2011/10/01/81597.html |title=映画「はやぶさ/HAYABUSA」が全米公開決定! |publisher=[[イード (企業)|イード]] |accessdate=2011-10-01 |newspaper=RBB TODAY}}</ref>。監督は[[堤幸彦]]、主演は[[竹内結子]]。 * 『[[はやぶさ 遥かなる帰還]]』 - [[東映]]製作で2012年2月11日に日本公開。監督は[[瀧本智行]]、主演は[[渡辺謙]]。 * 『[[おかえり、はやぶさ]]』 - [[松竹]]配給・製作で2012年3月10日に日本公開された[[立体映画|3D実写映画]]。監督は[[本木克英]]、脚本は[[金子ありさ]]。主演は[[藤原竜也]]。音楽は冨田勲。 ==== アニメ ==== * 『はやぶさの奇跡』-『[[フジテレビ]]夢スペシャル「[[タモリ]]×[[SMAP]]僕らは未来を信じよう!〜宇宙への挑戦と奇跡の物語〜」』内作品。アニメと実際の映像が混在している。2011年4月3日放送。監修・キャラクターデザインは[[松本零士]]。ナレーションは[[草彅剛]]。制作は[[東映アニメーション]]。 ==== 小説 ==== * 『小惑星探査機 はやぶさの大冒険』-『はやぶさ 遥かなる帰還』の原作となった[[山根一眞]]による著作。2010年7月29日、[[マガジンハウス]]出版(ISBN 978-4838721030)。 * 『「はやぶさ」がとどけたタイムカプセル~7年、60億キロの旅~』は、JAXA名誉教授の[[的川泰宣]]氏の監修による子ども向けノンフィクション作品。著者は山下美樹。2011年10月、[[文溪堂]]より刊行。(ISNB978-4-89423-726-1)。 ==== 漫画 ==== * 『探査機はやぶささん』- オレンジゼリー著、細田聡史(JAXA)監修の探査機を[[萌え擬人化]]した漫画作品。2012年2月10日、[[エンターブレイン]]出版(ISBN 978-4047277656)。 * 『小惑星に挑む』 - [[あさりよしとお]]著、探査機のメカニズムと地球と小惑星間での往復道程を解説した漫画作品。2013年9月4日、[[白泉社]]出版(ISBN 978-4-592-71058-5) ==== 演劇 ==== *『はやぶさものがたり〜宙(そら)翔けた軌跡〜』 - 作・演出は梅本雅之(2015年9月現在、[[大阪府立桃谷高等学校]]演劇部顧問)。上坂浩光監督『[[はやぶさ HAYABUSA BACK TO THE EARTH]]』を原作に、探査機やエンジンなどを擬人化した時代劇仕立ての演劇作品。2012年8月、当時梅本が顧問をしていた[[大阪府立鳳高等学校]]演劇部により初演。以後、大阪府下演劇部合同劇団はやぶさ座により上演が続けられている。大阪のほか、2014年には東京都調布市で、2015年には東京都調布市と神奈川県相模原市で上演された<ref>{{Cite web|和書|accessdate=2015-09-08 |url=http://hayabusamonogatari.wix.com/index |title=舞台 はやぶさものがたり〜宙(そら)翔けた軌跡〜 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150812062711/http://hayabusamonogatari.wix.com/index |archivedate=2015年8月12日 |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref>。 ==== 音楽 ==== * 『Lullaby of Muses』- 甲斐恵美子作曲、演奏、2002年11月1日、Lyra Records(レーベルのプロデューサーは[[尾久土正己]])よりリリース<ref>{{Cite web|和書|title=甲斐恵美子オフィシャルサイト|url=http://www.kaiemiko.com/cd_lullaby.html|website=www.kaiemiko.com|accessdate=2020-10-31}}</ref>。2001年、MUSES-C理学チームの矢野創から尾久土にMUSES-Cのテーマ曲の依頼があり制作が始まった。打ち上げ前から地球帰還までを11曲の組曲で表現した。2005年1月には、このアルバムを使ったプラネタリウム番組『ボクノチイサナオホシサマ』が[[あすたむらんど徳島]]で公開された<ref>{{Cite web|和書|title=過去の番組一覧|あすたむらんど|url=https://www.asutamuland.jp/instit/detail4_2_old.php?s=43&b=7058&ip=5|website=www.asutamuland.jp|accessdate=2020-10-31}}</ref>。2007年4月には、この音源を元にした音楽ビデオ「祈り」をJAXAが発表<ref>{{Cite web|和書|title=JAXA小惑星探査機「はやぶさ」物語|映像|「祈り」-小惑星探査「はやぶさ」ミッションの全貌-|url=https://web.archive.org/web/20071206001252/http://spaceinfo.jaxa.jp/inori/index.html|website=spaceinfo.jaxa.jp|accessdate=2020-10-31}}</ref>。2008年5月14日、ドイツ・ハンブルグで開催されたWorld Media Festivalで銀賞を受賞した<ref>{{Cite web|和書|title=ISAS {{!}} 「はやぶさ」ビデオ「祈り」が WorldMediaFestival 部門別銀賞受賞! / トピックス|url=http://www.isas.jaxa.jp/j/topics/topics/2008/0526.shtml|website=www.isas.jaxa.jp|accessdate=2020-10-31}}</ref>。2010年6月13日の和歌山大学チームによる中継映像にはメンバーのスマホから流れていた本アルバムの地球帰還の曲『Back to my arms』がBGM的に入ってしまっている<ref>{{Cite web|和書|title=はやぶさ帰還ライブ中継 - 和歌山大学 宇宙教育研究所|url=http://web.wakayama-u.ac.jp/ifes/news/20100613.html|website=web.wakayama-u.ac.jp|accessdate=2020-10-31}}</ref>。 * 『はやぶさ ~The Great Journey: 奇跡の帰還~』- [[T-SQUARE]]が2011年(帰還翌年)に発売したアルバム「[[Nine Stories]]」の2曲めに収録されている。探査機はやぶさをイメージした曲。 === フィクションへの影響 === * 2007年に発行された[[野尻抱介]]のライトノベル『[[ロケットガール]]』4巻に小惑星探査機「はちどり」が登場した。再突入カプセルの蓋を閉められないまま帰還してくる探査機を回収するミッションに主人公たちが挑む。当初は「はやぶさ」の名をそのまま用いる予定だったが、はやぶさがバッテリの再充電とカプセルの蓋閉め運用に成功したため、「小説が現実に追いつかない」とモデルにするに留めた。なお前述のように、著者である野尻ははやぶさの大気圏再突入の際、ニコニコ生放送の現地中継に参加している<ref name="sankei20100610">{{Cite news |date=2010-06-10 |title=「はやぶさ」おかえり番組 |url=http://sankei.jp.msn.com/science/science/100610/scn1006100739001-n1.htm |accessdate=2010-06-23 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20101007075629/http://sankei.jp.msn.com/science/science/100610/scn1006100739001-n1.htm |archivedate=2010年10月7日 |newspaper=産経新聞 |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref>。 * 2009年に公開されたアニメ映画『[[サマーウォーズ]]』に小惑星探査機「あらわし」が登場。はやぶさをモデルにしている([[角川文庫]]版の解説より)とされるが、自力で地球周回軌道に乗ってから再突入するというはやぶさでは不可能な描写がある他、試料カプセルが[[ミサイル]]の様な形状になっている。「はちどり」「あらわし」とも、探査対象の小惑星は「マトガワ」である。 * はやぶさ帰還の1週間前に発売された[[週刊少年ジャンプ]]の『[[こちら葛飾区亀有公園前派出所]]』にははやぶさをモデルとした「青羽」という無人探査機の物語が掲載された(単行本第175巻収録)。ちなみに、この話で探査機は地球に帰還するが、最終的にカプセルは大気圏で溶けてしまっている。 * はやぶさプロジェクトが大きな話題となっていた[[2010年]]秋に放送された[[TBSテレビ|TBS]]の[[テレビドラマ]]『[[SPEC〜警視庁公安部公安第五課 未詳事件特別対策係事件簿〜]]』の最終回に登場した。劇中で主人公の1人である当麻紗綾の亡き父が、生前「はやぶさ」の開発に携わっていたというエピソードが語られた。演出の堤幸彦は上述の映画『はやぶさ/HAYABUSA』の監督でもある。 * 2011 - 2012年放送の特撮テレビドラマ『[[仮面ライダーフォーゼ]]』では、主人公の幼馴染で宇宙オタク少女の城島ユウキが、「はやぶさ」(実名のまま)のかぶり物を着て自作の「がんばれ、はやぶさくん」という歌を歌って踊ったり、「はやぶさ」をモデルとしたパペット人形を持ち歩いたりなど、「はやぶさ」関連のものが度々登場する(ただし、これ以外にも宇宙関連のものが数多く登場し、「はやぶさ」はそのうちの1つである)。 * [[コナミデジタルエンタテインメント]]の音楽ゲーム『[[pop'n music]]』に[[pop'n musicの登場キャラクター|登場するキャラクター]]であるパラボー(PARABO)は、「はやぶさ」がモチーフ。また、誕生日である6月13日も帰還日に由来する。 == 「はやぶさ」に由来する命名 == * [[国際天文学連合]]は、2017年9月に[[冥王星]]のスプートニク平原の近くの地名をNASAの提案を受けて「Hayabusa Terra ([[ハヤブサ大陸]])」と命名した<ref>[http://www.sankei.com/life/news/170908/lif1709080034-n1.html 冥王星に「はやぶさ大地」 日本の小惑星探査機にちなみ国際天文学連合が命名「功績に敬意」] 産経ニュース 2017年9月8日</ref>。 * [[鹿児島県立楠隼中学校・高等学校]] - 内之浦宇宙空間観測所が所在する鹿児島県肝付町にある学校。なお、「楠」は鹿児島県の県木、かつ肝付町の町木であるクスノキに由来する。 * [[はやぶさ (小惑星)]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist |group="注釈"|3}} === 出典 === {{Reflist|3}} == 参考文献 == === 図書・雑誌 === * {{Cite book |和書 |title=恐るべき旅路 火星探査機「のぞみ」のたどった12年 |year=2005 |month=5 |publisher=[[朝日ソノラマ]] |author=[[松浦晋也]] |isbn=978-4-02-213809-5 |ref=harv}} * {{Cite book |和書 |title=恐るべき旅路 火星探査機「のぞみ」のたどった12年 |year=2007 |month=10 |publisher=朝日新聞社 |author=松浦晋也 |isbn=978-4-02-213809-5 |edition=新版 |ref=harv}} * {{Cite book |和書 |title=はやぶさ 不死身の探査機と宇宙研の物語 |year=2006 |month=11 |series=幻冬舎新書 |publisher=幻冬舎 |author=吉田武 |isbn=4-344-98015-8 |ref=harv}} * {{Cite book |和書 |title=現代萌衛星図鑑 |year=2009 |month=7 |publisher=[[三才ブックス]] |author=しきしまふげん |isbn=978-4-86199-206-3 |others=へかとん(漫画)・松浦晋也(監修) |ref=harv}} * {{Cite book |和書 |title=Newton別冊 探査機はやぶさ7年の全軌跡 ―世界初の快挙を成し遂げた研究者たちのドラマー |year=2010 |month=8 |series=ニュートンムック |publisher=[[ニュートンプレス]] |isbn=978-4-315-51885-6 |ref={{SfnRef|ニュートンプレス|2010}}}} * {{Cite book |和書 |title=小惑星探査機「はやぶさ」の奇跡 ─挑戦と復活の2592日― |year=2010 |month=10 |publisher=[[PHP研究所]] |author=的川泰宣 |isbn=978-4-569-79234-7 |ref=harv}} * {{Cite book |和書 |title=はやぶさ、そうまでして君は ―生みの親がはじめて明かすプロジェクト秘話―|year=2010b |date=2010-12 |publisher=宝島社 |author=[[川口淳一郎]] |isbn=978-4-7966-7891-9 |ref=harv}} * {{Cite book |和書 |title=小惑星探査機はやぶさの大冒険 |year=2010 |month=7 |publisher=[[マガジンハウス]] |author=山根一眞 |isbn=978-4-8387-2103-0 |ref=harv}} * 川口淳一郎『小惑星探査機はやぶさ ―「玉手箱」は開かれた―』中公新書、2010年12月 ISBN 978-4121020895 * {{Cite book |和書 |title=はやぶさLOVE講座 |year=2011 |month=1 |series=Roman album |publisher=[[徳間書店]] |isbn=978-4-19-720321-5 |editor=COMICリュウ編集部 |ref=harv}} * {{Cite book |和書 |title=小惑星探査機「はやぶさ」の超技術 |year=2011 |month=3 |series=ブルーバックス |publisher=講談社 |isbn=978-4-06-257722-9 |editor=「はやぶさ」プロジェクトチーム |author=川口淳一郎 |ref=harv}} * 三才ブックス『[[ラジオライフ]]』2010年8月号16-18頁・同2010年9月号16-21頁(野尻抱介によるニコニコ生放送とカプセルのビーコン受信ルポ) === 論文・記事 === * {{Cite journal |和書 |url=https://doi.org/10.2322/jjsass.52.129 |title=小惑星探査機「はやぶさ」搭載マイクロ波放電式イオンエンジンの初期運用 |year=2004 |date=2004-03-05 |journal=日本航空宇宙学会論文集 |publisher=日本航空宇宙学会 |author=國中均 |author2=西山和孝 |author3=清水幸夫 |author4=都木恭一郎 |author5=川口淳一郎 |author6=上杉邦憲 |issn=1344-6460 |naid=10012680638 |doi=10.2322/jjsass.52.129 |volume=52 |issue=602 |pages=129-134 |ref=harv}} * {{Cite journal |和書 |url=https://ci.nii.ac.jp/naid/110006282066/ |title=「はやぶさ」小惑星探査機に搭載されたマイクロ波放電式イオンエンジン |year=2006 |date=2006-05-25 |journal=プラズマ・核融合学会誌 |publisher=プラズマ・核融合学会 |author=國中均 |issn=0918-7928 |naid=110006282066 |volume=82 |issue=5 |pages=300-305 |ref=harv}} * {{Cite journal |和書 |author=山田哲哉 |author2=安部隆士 |title=「はやぶさ」カプセルの地球大気再突入時におけるプラズマ現象とその周辺 |year=2006 |date=2006-06-25 |volume=82 |issue=6 |pages=368-374 |journal=プラズマ・核融合学会誌 |publisher=プラズマ・核融合学会 |naid=110006282076 |url=http://www.jspf.or.jp/Journal/PDF_JSPF/jspf2006_06/jspf2006_06-368.pdf |format=PDF |ref=harv}} * {{Cite journal |和書 |url=https://www.wakusei.jp/book/pp/2010/3/211.pdf |format=PDF |title=はやぶさサンプルコンテナのキュレーション |year=2010 |date=2010-09-25 |journal=日本惑星科学会誌 |publisher=日本惑星科学会 |author=藤村彰夫 |author2=安部正真 |issn=0918-273X |naid=110007730784 |volume=19 |issue=3 |pages=211-213 |ref=harv}} * {{Cite journal |和書 |author=川口淳一郎 |year=2010a |date=2010-09 |title=宇宙工学 「はやぶさ」60億キロの旅 |journal=日経サイエンス |issue=9 |publisher=日経サイエンス |issn=0917-009X |naid=40017235631 |volume=40 |page=35 |ref=harv}} * {{Cite journal |和書 |url=https://www.wakusei.jp/book/pp/2013/2013-2/2013-2-068.pdf |format=PDF |title=探査機「はやぶさ」が持ち帰った小惑星イトカワ粒子の初期記載について |year=2013 |date=2013-06-25 |journal=日本惑星科学会誌 |publisher=日本惑星科学会 |issn=0918-273X |naid=110009612580 |volume=22 |issue=2 |pages=68-77 |author=矢田達 |author2=安部正真 |author3=岡田達明 |author4=中村智樹 |author5=野口高明 |author6=岡崎隆司 |author7=石橋之宏 |author8=白井慶 |author9=上椙真之 |author10=唐牛譲 |author11=八亀彰吾 |author12=上野宗孝 |author13=向井利典 |author14=吉川真 |author15=川口淳一郎 |author16=藤村彰夫 |ref=harv}} == 関連項目 == {{Commonscat|Hayabusa|はやぶさ}} {{Wikinewscat|探査機はやぶさと小惑星糸川|はやぶさ}} * [[はやぶさ2]] - 本機の後継機 {{-}} == 外部リンク == * [https://www.jaxa.jp/ 宇宙航空研究開発機構 (JAXA)] ** [http://hayabusa.jaxa.jp/ はやぶさ、地球へ! 帰還カウントダウン] ** [https://www.jaxa.jp/projects/sat/muses_c/ 小惑星探査機「はやぶさ」(JAXA)] ** [https://web.archive.org/web/20120308104738/http://www.isas.jaxa.jp/j/enterp/missions/hayabusa/ 小惑星探査機「はやぶさ」(ISAS/JAXA)] ** [http://www.muses-c.isas.ac.jp/ はやぶさプロジェクトサイト] ** [https://web.archive.org/web/20100316200104/http://www.jspec.jaxa.jp/activity/hayabusa.html はやぶさ(JAXA月・惑星探査プログラムグループ)] ** [http://darts.isas.jaxa.jp/planet/project/hayabusa/ Hayabusa Project Science Data Archive](英語) ** [http://www.isas.jaxa.jp/j/special/2003/kawaguchi/ はやぶさ特集:小惑星探査機「はやぶさ」の研究計画について] ** {{Wayback|url=http://spaceinfo.jaxa.jp/ja/hayabusa.html |title=はやぶさ(JAXA宇宙情報センター) |date=20070524023105}} * [http://hayabusa-movie.jp/ 小惑星探査機「はやぶさ」のドキュメント全天周映画(はやぶさ制作委員会)] * [https://moonstation.jp/challenge/pex/hayabusa はやぶさ(月探査情報ステーション)] ** [https://moonstation.jp/challenge/pex/hayabusa/fun はやぶさファン!] * {{PDFlink|{{Wayback|url=https://www.kantei.go.jp/jp/singi/utyuu/senmon/dai4/siryou4.pdf |title=我が国の宇宙開発利用における 産業の育成方策について |date=20090311072338}}}}[[2009年]](平成21年)2月5日・宇宙開発戦略本部事務局([[首相官邸]]) * [https://jpn.nec.com/ 日本電気 (NEC)] ** [https://jpn.nec.com/ad/cosmos/hayabusa/ はやぶさ、7年間の旅] ** [https://web.archive.org/web/20100615044845/http://www.nec.co.jp/solution/space/hayabusa/index.html 小惑星探査機「はやぶさ」MUSES-C (NEC)] * [http://articles.adsabs.harvard.edu//full/2002ESASP.502..439T/0000440.000.html MUSES-C Solar Array Electrical and Mechanical Design] - harvard.edu (2011年6月23日閲覧) * {{PDFlink|[http://www.jspf.or.jp/Journal/PDF_JSPF/jspf2010_05/jspf2010_05-282.pdf イオンエンジンによる小惑星探査機「はやぶさ」の帰還運用 2010年2月1日 プラズマ・核融合学会誌]}} * {{NHK放送史|D0009030362_00000|「はやぶさ」 奇跡の帰還(2010年)}} {{小惑星探査機}} {{日本の宇宙探査機・人工衛星}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:はやふさ}} [[Category:小惑星探査機]] [[Category:日本の宇宙探査機]] [[Category:2003年の宇宙飛行]] [[Category:日本のギネス世界記録]] [[Category:菊池寛賞受賞者]] [[Category:天文学に関する記事]]
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奥羽本線
奥羽本線(おううほんせん)は、福島県福島市の福島駅から、東北地方の山間部を縦貫し、山形県・秋田県を経由して青森県青森市の青森駅に至る鉄道路線(幹線)である。 一部区間ではミニ新幹線として東北新幹線との直通運転が行われており、福島駅 - 新庄駅間には山形新幹線「つばさ」が、大曲駅 - 秋田駅間には秋田新幹線「こまち」が運転されている。このうち福島駅 - 新庄駅間には、山形線(やまがたせん)の愛称がつけられている。 2022年10月1日現在、JR東日本の各支社の管轄区間は以下のようになっている。 2014年4月1日より福島駅 - 新庄駅間が大都市近郊区間として新設された「仙台近郊区間」となり、同時に山形駅でICカード乗車券「Suica」が利用可能となった。さらに2023年5月27日には、和田駅 - 追分駅、弘前駅 - 青森駅で利用可能になったほか、2024年3月16日にはかみのやま温泉駅 - 村山駅(導入済みの山形駅以外の区間内の各駅)でもSuicaが利用可能になる。 日本鉄道会社の青森駅から官営鉄道として奥羽北線、福島駅から奥羽南線として建設が開始され、1905年に全線が開業した。 路線名称としては福島駅 - 青森駅間で1つの路線であり、かつては寝台特急「あけぼの」、急行「津軽」など、全線通しで運転する列車も存在した。山形新幹線・秋田新幹線が開業し、それに伴い一部区間が標準軌へ改軌されたことにより、従来の1,067mm軌間専用車両で運転される優等列車は、1999年12月4日の山形新幹線新庄駅延伸に伴うダイヤ改正で特急「こまくさ」が快速列車に格下げ(2002年12月1日ダイヤ改正で廃止)になって以降は秋田駅以北のみの運転となった。普通列車も運行系統としては大きく以下の4つの区間に分かれている。 山形新幹線「つばさ」が走行する区間である。板谷峠という難所が途中に存在する。新幹線からの直通列車を走らせるために標準軌へ改軌されている都合上、この区間を走行する車両を新庄駅以北で運転することは不可能になっている。また、この区間の在来線普通列車は「山形線」の愛称が付けられ、奥羽本線の他区間と区別されている。運行形態は基本的に福島駅 - 庭坂駅・米沢駅間、米沢駅 - 山形駅間、山形駅 - 新庄駅と3つの区間に分けて運転されている。 山形・秋田県境の山間部および盆地を走る区間で、普通列車や快速列車のみが設定されているが、かつては他区間と同様に昼夜問わず優等列車が運転されていた。新庄駅 - 秋田駅間を直通する普通列車に加え、新庄駅 - 真室川駅間と院内駅・湯沢駅・横手駅 - 秋田駅間の区間列車が設定されており、新庄駅 - 湯沢駅 - 横手駅間は1 - 2時間に1本程度、横手駅 - 大曲駅間は1時間に1本程度運行されている。一部列車はワンマン運転を行っている。山形新幹線の終点である新庄駅と秋田新幹線の途中駅である大曲駅に挟まれた区間であり、両新幹線への乗り継ぎが便利なようにダイヤが組まれている。 全国花火競技大会時には、臨時普通列車「スターマイン号」が設定される。 秋田新幹線「こまち」が田沢湖線との直通で運行される区間。もともとは複線だったが、秋田新幹線開業時に1線が標準軌に改軌された結果、標準軌線と狭軌線のそれぞれ単線が並べて敷設されている単線並列になっている。一部区間は三線軌条化されているが、2線の一方が「標準軌のみ」で他方が「標準軌+狭軌」である。 2023年3月現在の定期ダイヤでは、標準軌線は「こまち」以外には田沢湖線用の701系5000番台が出入庫のために通行し、狭軌線は後述の普通・快速列車が通行する。一部列車はワンマン運転を行っている。新幹線が運行される区間(新在直通区間)であるが、新幹線車両と在来線車両で利用ホームや線路が分けられていることもあり、「山形線」のような路線愛称はついていない。 普通列車は1時間に1本程度が運行されており、朝に湯沢発秋田行きの快速列車が1本のみ運行されている。この快速は2002年11月30日まで秋田駅 - 湯沢駅 - 新庄駅間で設定されていた快速「かまくら」のうち最速達列車(「かまくら」1号)のダイヤを引き継いだものである。 なお、新庄駅以北大曲駅以南 - 秋田駅間の普通・快速列車は前述のように一括りの系統となっている。ほとんどの列車は秋田駅を境界とし以北とは系統分離がされているが、早朝の下り1本のみ横手駅→追分駅と秋田駅を越える列車がある(列車番号は423M→2627Mと変わるが旅客案内上は同一列車案内)。そのほかにも秋田駅到着後に行先を変更して実質的に直通する列車がある。 全国花火競技大会には、秋田駅→大曲駅間の快速列車「花火」が設定される。この列車は標準軌の秋田新幹線のルートでの走行となるため、大曲駅、神宮寺駅(下りホームのみ)、刈和野駅(下りホームのみ)、秋田駅以外の駅ではホームが無いのですべて通過するか、停車したとしても、神宮寺駅と刈和野駅を含めて旅客乗降を扱わない運転停車扱いとなる。花火大会の臨時輸送の際は、盛岡駅の田沢湖線ホームに新幹線車両が停車する光景が見られることもある。 当区間は湖西線・北陸本線・IRいしかわ鉄道線・あいの風とやま鉄道線・えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン・信越本線・白新線・羽越本線とともに「日本海縦貫線」を形成していることから、通称として当区間を「奥羽北線」、福島駅 - 秋田駅を「奥羽南線」と称することがある。これらは全線開通前に「奥羽北線」「奥羽南線」と呼ばれた区間とは異なる。 優等列車以外は、大きく分けて秋田駅 - 大館駅間、大館駅 - 弘前駅間、弘前駅 - 青森駅間の3系統に分割された運行体系となっており、さらに秋田駅 - 八郎潟駅・東能代駅間、鷹ノ巣駅 - 大館駅・弘前駅間および碇ヶ関駅 - 弘前駅間の区間列車や、秋田駅 - 追分駅間では男鹿線、弘前駅 - 川部駅間では五能線への直通列車がそれぞれ設定されている。おおむね1 - 2時間に1本程度の運行であるが、秋田駅 - 追分駅・八郎潟駅間、弘前駅 - 青森駅間では1時間に1 - 3本程度運行されている。また、秋田駅 - 青森駅間の直通列車が2019年3月改正の時点で毎日1.5往復設定されている。一部列車はワンマン運転を行っている。2010年代半ば以降、大館駅での系統分割が減少し、弘前駅での系統分割が増加する傾向にある。上りのみ羽越本線への直通列車も運行されており、東能代発酒田行きが2本、休日運休の八郎潟発新屋行きが1本運行されている。 2016年3月26日の改正で、津軽新城駅 - 青森駅間の列車が新設され、そのうち夕方の1本は、津軽線蟹田発津軽新城行きで運行される。そのため津軽新城駅 - 青森駅では毎時2 - 3本運転されている。 2010年12月4日の改正において、青森駅 - 弘前駅間で朝5時台の列車と弘前駅終着時刻が日付を跨ぐ最終列車、弘前駅 - 大館駅間で5時台と22時台に列車が増発された。 2019年4月現在、下りには夕方から夜にかけて秋田から弘前・青森行きの快速列車が各1本、上りには朝に大館と弘前から秋田行きの快速列車が各1本(計2往復)設定されている(ただし2018年のダイヤ改正以降、これらの快速列車は秋田駅から八郎潟駅まで各駅停車となった)。このうち朝6時台の大館発秋田行き快速列車は、2002年11月30日までこの区間で設定されていた快速「しらゆき」のうち最速達列車であった「しらゆき2号」のダイヤを引き継いだものである。残り3本は2016年3月26日のダイヤ改正で減便された特急「つがる」の代替で設定されたものであり、このため弘前発着の列車も青森方面との接続が考慮されていて、3本とも秋田駅 - 青森駅間を特急と大差ない3時間前後で到達可能なダイヤである。2016年3月25日まではこのほかにも、かつて秋田駅 - 鹿角花輪駅(花輪線)間で設定されていた急行「よねしろ」(2002年12月1日より快速に格下げ)のダイヤを引き継いだ秋田駅 - 大館駅間の快速列車1往復(下り秋田発18時台、上り大館発8時台)が運転されていたが、その後、前述の快速列車と時刻が近接するためそれらに統合され廃止となっている。これらは2008年3月14日までは唯一の奥羽本線 - 花輪線直通列車として国鉄キハ58・28形気動車で運行されていた。 また、秋田駅 - 東能代駅間と弘前駅 - 青森駅間で五能線直通の観光列車「リゾートしらかみ」が1日3往復(冬期は最大2往復。通常は土曜・日曜日のみの1往復)運転されている。 1999年頃の大館駅 - 弘前駅間の下りは、8時前後頃から14時前後頃までの間に普通列車が無く、5 - 6時間も運転間隔が開いていた。後にこの時間帯に弘前駅 - 大館駅間に1往復毎日運転の臨時列車が設定され、2008年3月15日のダイヤ改正で定期列車化の上、大館駅で接続していた秋田方面との列車と統合され、下りが酒田駅→弘前駅間の列車に、上りが弘前駅→秋田駅間の列車となった。この列車は後に下りも秋田始発となり、2010年12月4日のダイヤ改正で秋田駅 - 大館駅間と大館駅 - 青森駅間の列車に分割された。そしてこの改正で、新たに大館駅 - 弘前駅間が毎日運転の臨時列車(下り大館発12時台、上り弘前発10時台)となる大館駅 - 青森駅間の列車が1往復新設された。2014年3月15日のダイヤ改正で弘前駅で系統分割され、大館駅 - 弘前駅間の毎日運転の臨時列車は下り大館発11時台、上り弘前発9時台に設定時刻が繰り上げられた。 なお、この区間は新幹線以外の在来線優等列車が走る数少ない区間となっている。2016年3月26日改正時点では以下の列車が設定されている。すべて昼行列車。 かつて、1992年7月の山形新幹線開業に伴い、山形駅 - 新庄駅・秋田駅間を運行する特急「こまくさ」が設定されていた。山形新幹線との連絡特急としての存在が大きかったが、平日の日中を中心に乗降客が少なく(とりわけ新庄駅以北は閑散としていた)、また特急でありながら停車駅が比較的多く、特急料金をわざわざ支払って乗車する意義についての沿線住民からの意見もあり、1997年3月の秋田新幹線開業を機に大部分の運転区間が山形駅 - 新庄駅・横手駅間に短縮され、1999年3月の山形新幹線新庄延伸工事を機に新庄駅 - 秋田駅間の快速列車へと代わった。「こまくさ」は全区間B特急料金が適用されていたため、秋田駅 - 大曲駅間で並走する秋田新幹線「こまち」(A特急料金適用)とは特急料金が異なっていた。 2016年3月26日の北海道新幹線開業前には、同年3月21日まで新青森駅 - 青森駅間で、新青森駅 - 函館駅間の特急「白鳥」・「スーパー白鳥」が運転されていた。 なお、新青森駅 - 青森駅間は特例として、この区間のみ寝台特急を除く特急列車に乗車する場合は乗車券のみで普通車自由席に乗車可能である。2010年12月の特例実施当初、「青春18きっぷ」などの一部の特別企画乗車券にはこの特例は適用されなかったが、2012年夏季より特例が適用されるようになった。 2014年3月改正時点での定期貨物列車は、秋田駅 - 新青森駅 - 青森信号場間、土崎駅 - 秋田港駅間で運行されている。横手駅 - 秋田駅間も事業免許は有しているが、横手オフレールステーション発着のトラック便があるのみで、定期貨物列車の運行はない。 秋田駅 - 新青森駅 - 青森信号場間は、前述のように日本海縦貫線の一部を成しており、貨物輸送が盛んである。当該区間の大半の貨物列車は、EF81形電気機関車やEF510形電気機関車が牽引するコンテナ車で編成された高速貨物列車である。当該区間のコンテナ取り扱い駅は、秋田貨物駅、大館駅、弘前駅である。 土崎駅 - 秋田港駅間は、1日3往復(うち2本は休日運休)の貨物列車が、秋田貨物駅発着で運行される。 普通列車には秋田総合車両センター南秋田センターに所属する701系0・100番台が全区間で使用されるほか、新庄駅 - 真室川駅間の一部の区間列車に陸羽東線・陸羽西線の間合い運用としてキハ110系気動車(小牛田運輸区所属)、秋田駅 - 追分駅間で男鹿線直通列車にEV-E801系蓄電池電車、秋田駅 - 東能代駅間・弘前駅 - 青森駅間で五能線直通列車や五能線・津軽線への送り込み運用としてGV-E400系気動車、秋田駅 - 東能代駅間・弘前駅 - 青森駅間で五能線直通の臨時快速列車「リゾートしらかみ」にHB-E300系気動車が使用される。 起点である福島駅から米沢駅までの区間はいわゆる峠越えでも名高い板谷峠を越える。後節でも触れているが、ここは蒸気機関車時代からの難所であり、電化・高速化および標準軌化によるミニ新幹線が直通運転されるようになった後も、冬季は雪害による遅延や運休が生じやすい。米沢駅から秋田駅まではほぼ奥羽山脈の西側に沿う様な形で進路をとる。途中、山形駅までは蔵王連峰の山々、山形駅から先はしばらく月山の山を望みながら北上する。秋田駅から男鹿線と分岐する追分あたりまでは海こそ見えないが日本海沿いを通り、東能代駅まで八郎潟の東岸を通る。東能代駅から進路を東にとり大館駅を過ぎると再び奥羽山脈に沿う形で北上し矢立峠を越える。越えた後は弘前駅・浪岡駅などの津軽平野の中を西側に岩木山を望みながら走り青森駅へと至る。 ここでは駅名および主要な駅のキロ程のみ記載する。廃止駅・廃止信号場は後節参照。接続路線などの詳細は「山形線#駅一覧」を参照。また山形新幹線「つばさ」の停車駅は「山形新幹線」および「つばさ (列車)」を参照。 ( ) 内は起点からの営業キロ。 福島駅 (0.0km) - 笹木野駅 - 庭坂駅 - 板谷駅 - 峠駅 - 大沢駅 - 関根駅 - 米沢駅 (40.1km) - 置賜駅 - 高畠駅 - 赤湯駅 (56.1km) - (北赤湯信号場) - 中川駅 - 羽前中山駅 - かみのやま温泉駅 - 茂吉記念館前駅 - 蔵王駅 - 山形駅 (87.1km) - 北山形駅 - 羽前千歳駅 (91.9km) - 南出羽駅 - 漆山駅 - 高擶駅 - 天童南駅 - 天童駅 - 乱川駅 - 神町駅 - さくらんぼ東根駅 - 東根駅 - 村山駅 (113.5km) - 袖崎駅 - 大石田駅 - 北大石田駅 - 芦沢駅 - 舟形駅 - 新庄駅 (148.6km) 2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計の除外対象となる駅(完全な無人駅。年度途中に無人となった駅を含む))は、泉田駅・羽前豊里駅・釜淵駅・大滝駅・及位駅・院内駅・横堀駅・三関駅・上湯沢駅・下湯沢駅・醍醐駅・柳田駅・後三年駅・大張野駅・四ツ小屋駅である。 2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計の除外対象となる駅(完全な無人駅)は、泉外旭川駅・上飯島駅・鯉川駅・北金岡駅・鶴形駅・富根駅・前山駅・糠沢駅・下川沿駅・白沢駅・陣場駅・津軽湯の沢駅・長峰駅・石川駅・撫牛子駅・川部駅・大釈迦駅・鶴ケ坂駅・津軽新城駅である。 過去の接続路線 過去の接続路線 駅に変更された信号場は除く。 各年度の平均通過人員(人/日)は以下の通り。(福島 - 新庄間は山形新幹線、大曲 - 秋田間は秋田新幹線を含む。) 各年度の経営状況は以下の通り。100万円以下の端数は切り捨て。 下記の区間は利用者が多い区間で経営状況は開示されていない。 それ以外の下記の区間が赤字である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "奥羽本線(おううほんせん)は、福島県福島市の福島駅から、東北地方の山間部を縦貫し、山形県・秋田県を経由して青森県青森市の青森駅に至る鉄道路線(幹線)である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "一部区間ではミニ新幹線として東北新幹線との直通運転が行われており、福島駅 - 新庄駅間には山形新幹線「つばさ」が、大曲駅 - 秋田駅間には秋田新幹線「こまち」が運転されている。このうち福島駅 - 新庄駅間には、山形線(やまがたせん)の愛称がつけられている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "2022年10月1日現在、JR東日本の各支社の管轄区間は以下のようになっている。", "title": "路線データ" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2014年4月1日より福島駅 - 新庄駅間が大都市近郊区間として新設された「仙台近郊区間」となり、同時に山形駅でICカード乗車券「Suica」が利用可能となった。さらに2023年5月27日には、和田駅 - 追分駅、弘前駅 - 青森駅で利用可能になったほか、2024年3月16日にはかみのやま温泉駅 - 村山駅(導入済みの山形駅以外の区間内の各駅)でもSuicaが利用可能になる。", "title": "路線データ" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "日本鉄道会社の青森駅から官営鉄道として奥羽北線、福島駅から奥羽南線として建設が開始され、1905年に全線が開業した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "路線名称としては福島駅 - 青森駅間で1つの路線であり、かつては寝台特急「あけぼの」、急行「津軽」など、全線通しで運転する列車も存在した。山形新幹線・秋田新幹線が開業し、それに伴い一部区間が標準軌へ改軌されたことにより、従来の1,067mm軌間専用車両で運転される優等列車は、1999年12月4日の山形新幹線新庄駅延伸に伴うダイヤ改正で特急「こまくさ」が快速列車に格下げ(2002年12月1日ダイヤ改正で廃止)になって以降は秋田駅以北のみの運転となった。普通列車も運行系統としては大きく以下の4つの区間に分かれている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "山形新幹線「つばさ」が走行する区間である。板谷峠という難所が途中に存在する。新幹線からの直通列車を走らせるために標準軌へ改軌されている都合上、この区間を走行する車両を新庄駅以北で運転することは不可能になっている。また、この区間の在来線普通列車は「山形線」の愛称が付けられ、奥羽本線の他区間と区別されている。運行形態は基本的に福島駅 - 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湯沢駅 - 新庄駅間で設定されていた快速「かまくら」のうち最速達列車(「かまくら」1号)のダイヤを引き継いだものである。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "なお、新庄駅以北大曲駅以南 - 秋田駅間の普通・快速列車は前述のように一括りの系統となっている。ほとんどの列車は秋田駅を境界とし以北とは系統分離がされているが、早朝の下り1本のみ横手駅→追分駅と秋田駅を越える列車がある(列車番号は423M→2627Mと変わるが旅客案内上は同一列車案内)。そのほかにも秋田駅到着後に行先を変更して実質的に直通する列車がある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "全国花火競技大会には、秋田駅→大曲駅間の快速列車「花火」が設定される。この列車は標準軌の秋田新幹線のルートでの走行となるため、大曲駅、神宮寺駅(下りホームのみ)、刈和野駅(下りホームのみ)、秋田駅以外の駅ではホームが無いのですべて通過するか、停車したとしても、神宮寺駅と刈和野駅を含めて旅客乗降を扱わない運転停車扱いとなる。花火大会の臨時輸送の際は、盛岡駅の田沢湖線ホームに新幹線車両が停車する光景が見られることもある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "当区間は湖西線・北陸本線・IRいしかわ鉄道線・あいの風とやま鉄道線・えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン・信越本線・白新線・羽越本線とともに「日本海縦貫線」を形成していることから、通称として当区間を「奥羽北線」、福島駅 - 秋田駅を「奥羽南線」と称することがある。これらは全線開通前に「奥羽北線」「奥羽南線」と呼ばれた区間とは異なる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "優等列車以外は、大きく分けて秋田駅 - 大館駅間、大館駅 - 弘前駅間、弘前駅 - 青森駅間の3系統に分割された運行体系となっており、さらに秋田駅 - 八郎潟駅・東能代駅間、鷹ノ巣駅 - 大館駅・弘前駅間および碇ヶ関駅 - 弘前駅間の区間列車や、秋田駅 - 追分駅間では男鹿線、弘前駅 - 川部駅間では五能線への直通列車がそれぞれ設定されている。おおむね1 - 2時間に1本程度の運行であるが、秋田駅 - 追分駅・八郎潟駅間、弘前駅 - 青森駅間では1時間に1 - 3本程度運行されている。また、秋田駅 - 青森駅間の直通列車が2019年3月改正の時点で毎日1.5往復設定されている。一部列車はワンマン運転を行っている。2010年代半ば以降、大館駅での系統分割が減少し、弘前駅での系統分割が増加する傾向にある。上りのみ羽越本線への直通列車も運行されており、東能代発酒田行きが2本、休日運休の八郎潟発新屋行きが1本運行されている。 2016年3月26日の改正で、津軽新城駅 - 青森駅間の列車が新設され、そのうち夕方の1本は、津軽線蟹田発津軽新城行きで運行される。そのため津軽新城駅 - 青森駅では毎時2 - 3本運転されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "2010年12月4日の改正において、青森駅 - 弘前駅間で朝5時台の列車と弘前駅終着時刻が日付を跨ぐ最終列車、弘前駅 - 大館駅間で5時台と22時台に列車が増発された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2019年4月現在、下りには夕方から夜にかけて秋田から弘前・青森行きの快速列車が各1本、上りには朝に大館と弘前から秋田行きの快速列車が各1本(計2往復)設定されている(ただし2018年のダイヤ改正以降、これらの快速列車は秋田駅から八郎潟駅まで各駅停車となった)。このうち朝6時台の大館発秋田行き快速列車は、2002年11月30日までこの区間で設定されていた快速「しらゆき」のうち最速達列車であった「しらゆき2号」のダイヤを引き継いだものである。残り3本は2016年3月26日のダイヤ改正で減便された特急「つがる」の代替で設定されたものであり、このため弘前発着の列車も青森方面との接続が考慮されていて、3本とも秋田駅 - 青森駅間を特急と大差ない3時間前後で到達可能なダイヤである。2016年3月25日まではこのほかにも、かつて秋田駅 - 鹿角花輪駅(花輪線)間で設定されていた急行「よねしろ」(2002年12月1日より快速に格下げ)のダイヤを引き継いだ秋田駅 - 大館駅間の快速列車1往復(下り秋田発18時台、上り大館発8時台)が運転されていたが、その後、前述の快速列車と時刻が近接するためそれらに統合され廃止となっている。これらは2008年3月14日までは唯一の奥羽本線 - 花輪線直通列車として国鉄キハ58・28形気動車で運行されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "また、秋田駅 - 東能代駅間と弘前駅 - 青森駅間で五能線直通の観光列車「リゾートしらかみ」が1日3往復(冬期は最大2往復。通常は土曜・日曜日のみの1往復)運転されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1999年頃の大館駅 - 弘前駅間の下りは、8時前後頃から14時前後頃までの間に普通列車が無く、5 - 6時間も運転間隔が開いていた。後にこの時間帯に弘前駅 - 大館駅間に1往復毎日運転の臨時列車が設定され、2008年3月15日のダイヤ改正で定期列車化の上、大館駅で接続していた秋田方面との列車と統合され、下りが酒田駅→弘前駅間の列車に、上りが弘前駅→秋田駅間の列車となった。この列車は後に下りも秋田始発となり、2010年12月4日のダイヤ改正で秋田駅 - 大館駅間と大館駅 - 青森駅間の列車に分割された。そしてこの改正で、新たに大館駅 - 弘前駅間が毎日運転の臨時列車(下り大館発12時台、上り弘前発10時台)となる大館駅 - 青森駅間の列車が1往復新設された。2014年3月15日のダイヤ改正で弘前駅で系統分割され、大館駅 - 弘前駅間の毎日運転の臨時列車は下り大館発11時台、上り弘前発9時台に設定時刻が繰り上げられた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "なお、この区間は新幹線以外の在来線優等列車が走る数少ない区間となっている。2016年3月26日改正時点では以下の列車が設定されている。すべて昼行列車。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "かつて、1992年7月の山形新幹線開業に伴い、山形駅 - 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秋田港駅間は、1日3往復(うち2本は休日運休)の貨物列車が、秋田貨物駅発着で運行される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "普通列車には秋田総合車両センター南秋田センターに所属する701系0・100番台が全区間で使用されるほか、新庄駅 - 真室川駅間の一部の区間列車に陸羽東線・陸羽西線の間合い運用としてキハ110系気動車(小牛田運輸区所属)、秋田駅 - 追分駅間で男鹿線直通列車にEV-E801系蓄電池電車、秋田駅 - 東能代駅間・弘前駅 - 青森駅間で五能線直通列車や五能線・津軽線への送り込み運用としてGV-E400系気動車、秋田駅 - 東能代駅間・弘前駅 - 青森駅間で五能線直通の臨時快速列車「リゾートしらかみ」にHB-E300系気動車が使用される。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "起点である福島駅から米沢駅までの区間はいわゆる峠越えでも名高い板谷峠を越える。後節でも触れているが、ここは蒸気機関車時代からの難所であり、電化・高速化および標準軌化によるミニ新幹線が直通運転されるようになった後も、冬季は雪害による遅延や運休が生じやすい。米沢駅から秋田駅まではほぼ奥羽山脈の西側に沿う様な形で進路をとる。途中、山形駅までは蔵王連峰の山々、山形駅から先はしばらく月山の山を望みながら北上する。秋田駅から男鹿線と分岐する追分あたりまでは海こそ見えないが日本海沿いを通り、東能代駅まで八郎潟の東岸を通る。東能代駅から進路を東にとり大館駅を過ぎると再び奥羽山脈に沿う形で北上し矢立峠を越える。越えた後は弘前駅・浪岡駅などの津軽平野の中を西側に岩木山を望みながら走り青森駅へと至る。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ここでは駅名および主要な駅のキロ程のみ記載する。廃止駅・廃止信号場は後節参照。接続路線などの詳細は「山形線#駅一覧」を参照。また山形新幹線「つばさ」の停車駅は「山形新幹線」および「つばさ (列車)」を参照。", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "( ) 内は起点からの営業キロ。", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "福島駅 (0.0km) - 笹木野駅 - 庭坂駅 - 板谷駅 - 峠駅 - 大沢駅 - 関根駅 - 米沢駅 (40.1km) - 置賜駅 - 高畠駅 - 赤湯駅 (56.1km) - (北赤湯信号場) - 中川駅 - 羽前中山駅 - かみのやま温泉駅 - 茂吉記念館前駅 - 蔵王駅 - 山形駅 (87.1km) - 北山形駅 - 羽前千歳駅 (91.9km) - 南出羽駅 - 漆山駅 - 高擶駅 - 天童南駅 - 天童駅 - 乱川駅 - 神町駅 - さくらんぼ東根駅 - 東根駅 - 村山駅 (113.5km) - 袖崎駅 - 大石田駅 - 北大石田駅 - 芦沢駅 - 舟形駅 - 新庄駅 (148.6km)", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計の除外対象となる駅(完全な無人駅。年度途中に無人となった駅を含む))は、泉田駅・羽前豊里駅・釜淵駅・大滝駅・及位駅・院内駅・横堀駅・三関駅・上湯沢駅・下湯沢駅・醍醐駅・柳田駅・後三年駅・大張野駅・四ツ小屋駅である。", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計の除外対象となる駅(完全な無人駅)は、泉外旭川駅・上飯島駅・鯉川駅・北金岡駅・鶴形駅・富根駅・前山駅・糠沢駅・下川沿駅・白沢駅・陣場駅・津軽湯の沢駅・長峰駅・石川駅・撫牛子駅・川部駅・大釈迦駅・鶴ケ坂駅・津軽新城駅である。", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "過去の接続路線", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "過去の接続路線", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "駅に変更された信号場は除く。", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "各年度の平均通過人員(人/日)は以下の通り。(福島 - 新庄間は山形新幹線、大曲 - 秋田間は秋田新幹線を含む。)", "title": "平均通過人員" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "各年度の経営状況は以下の通り。100万円以下の端数は切り捨て。", "title": "経営状況" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "下記の区間は利用者が多い区間で経営状況は開示されていない。", "title": "経営状況" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "それ以外の下記の区間が赤字である。", "title": "経営状況" } ]
奥羽本線(おううほんせん)は、福島県福島市の福島駅から、東北地方の山間部を縦貫し、山形県・秋田県を経由して青森県青森市の青森駅に至る鉄道路線(幹線)である。 一部区間ではミニ新幹線として東北新幹線との直通運転が行われており、福島駅 - 新庄駅間には山形新幹線「つばさ」が、大曲駅 - 秋田駅間には秋田新幹線「こまち」が運転されている。このうち福島駅 - 新庄駅間には、山形線(やまがたせん)の愛称がつけられている。
{{Infobox 鉄道路線 |路線名=[[File:JR logo (east).svg|35px|link=東日本旅客鉄道]] 奥羽本線 |路線色=#ee7b28 |画像=Ou-Line-Series701-N12.jpg |画像サイズ=300px |画像説明=第一[[平川 (青森県)|平川]]橋梁を渡る[[JR東日本701系電車|701系]]による普通列車<br>(2016年12月11日 [[撫牛子駅]] - [[川部駅]]間) |通称=[[山形新幹線]]、[[山形線]](福島 - 新庄間)<br />[[秋田新幹線]](大曲 - 秋田間)<br />[[男鹿なまはげライン]](秋田 - 追分間) |国={{JPN}} |所在地=[[福島県]]、[[山形県]]、[[秋田県]]、[[青森県]] |種類=[[日本の鉄道|普通鉄道]]([[在来線]]・[[ミニ新幹線]]・[[幹線]]) |起点=[[福島駅 (福島県)|福島駅]] |終点=[[青森駅]] |駅数=103駅(貨物駅含む) |電報略号 = オウホセ<ref name="tetsudoudenpouryakugou-p23">{{Cite book |和書 |author=日本国有鉄道電気局 |date=1959-09-17 |title=鉄道電報略号 |url= |format= |publisher= |volume= |page=23}}</ref> |開業=1894年12月1日 |全通=[[1905年]][[9月14日]] |休止= |廃止= |所有者=[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)<br />(福島 - 青森間・新青森 - 東青森間<ref group="注釈" name="company-youran-fuhyo" />)<br />[[日本貨物鉄道]](JR貨物)<br />(土崎 - 秋田港間) |運営者=上記各第1種鉄道事業者および<br />日本貨物鉄道<br />(横手 - 青森間・新青森 - 青森信号場間)<br />東日本旅客鉄道(土崎 - 秋田港間)<ref name="mlit20220415" /> |車両基地= |使用車両=[[#使用車両|使用車両]]を参照 |路線距離=484.5 [[キロメートル|km]](福島 - 青森間)<br />1.8 km(土崎 - 秋田港間)<br />4.8 km(新青森 - 青森信号場間) |軌間=1,435 [[ミリメートル|mm]](福島 - 新庄間・大曲 - 秋田間)<br />1,067 mm(山形 - 羽前千歳間・新庄 - 青森間・土崎 - 秋田港間・新青森 - 青森信号場間) |線路数=[[複線]]、[[単線]](詳細は[[#路線データ|路線データ]]参照) |電化方式=[[交流電化|交流]]20,000V・50[[ヘルツ (単位)|Hz]] [[架空電車線方式]]<br />(土崎 - 秋田港間は非電化) |最大勾配= |最小曲線半径= |閉塞方式=自動閉塞式、連動閉塞式(秋田港支線) |保安装置=[[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]](福島駅 - 新庄駅間、大曲駅 - 秋田駅間の標準軌線)<br />[[自動列車停止装置#ATS-Ps形(変周地上子組合せパターン型)|ATS-Ps]](狭軌線のうち、一部の駅構内)<br />[[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-S<small>N</small>]](山形駅 - 羽前千歳駅間、新庄駅 - 青森駅間の狭軌線)<ref name="ats">[https://www.jreast.co.jp/eco/pdf/pdf_2019/all.pdf サステナビリティレポート2019] 38頁 - JR東日本、2019年9月</ref> |最高速度=110 [[キロメートル毎時|km/h]](狭軌線)<br>130 [[キロメートル毎時|km/h]](標準軌線) |路線図=[[File:JR Ou Main Line linemap.svg|300px]]<br><small>赤線は[[新在直通運転]]が行われている区間</small> }} '''奥羽本線'''(おううほんせん)は、[[福島県]][[福島市]]の[[福島駅 (福島県)|福島駅]]から、[[東北地方]]の山間部を縦貫し、[[山形県]]・[[秋田県]]を経由して[[青森県]][[青森市]]の[[青森駅]]に至る[[鉄道路線]]([[幹線]])である。<!--詳細な経由地は後の沿線概況節に記述。--> 一部区間では[[ミニ新幹線]]として[[東北新幹線]]との[[直通運転]]が行われており、福島駅 - [[新庄駅]]間には[[山形新幹線]]「[[つばさ (列車)|つばさ]]」が、[[大曲駅 (秋田県)|大曲駅]] - [[秋田駅]]間には[[秋田新幹線]]「[[こまち (列車)|こまち]]」が運転されている。このうち福島駅 - 新庄駅間には、'''[[山形線]]'''(やまがたせん)の愛称がつけられている。 == 路線データ == * 管轄・区間・路線距離([[営業キロ]]) ** [[東日本旅客鉄道]] *** 福島駅 - 青森駅間 484.5km([[鉄道事業者#第一種鉄道事業者|第一種鉄道事業者]]) *** [[新青森駅]] - [[東青森駅]]間(営業キロ設定なし。第一種鉄道事業者)<ref group="注釈" name="company-youran-fuhyo" /> *** [[土崎駅]] - [[秋田港駅]]間(特定(観光)目的とした[[鉄道事業者#第二種鉄道事業者|第二種鉄道事業者]])<ref name="mlit20220415">{{Cite press release|和書|title=令和4年度 秋田港クルーズ列車運行のための特定(観光)目的とした鉄道事業許可について|url=https://wwwtb.mlit.go.jp/tohoku/content/000264011.pdf|publisher=国土交通省東北運輸局|format=PDF|date=2022-04-15|accessdate=2022-04-15}}</ref> ** [[日本貨物鉄道]] *** 土崎駅 - 秋田港駅間 1.8km(第一種鉄道事業者) *** [[横手駅]] - 青森駅間 (256.2km)(第二種鉄道事業者) *** 新青森駅 - [[青森信号場]]間 (4.8km)(第二種鉄道事業者) * [[軌間]]: ** 福島駅 - 新庄駅間 1435mm(山形駅 - 羽前千歳駅間は1067mmとの[[単線並列]]) ** 新庄駅 - 大曲駅間 1067mm ** 大曲駅 - 秋田駅間 1067mmと1435mmの単線並列([[神宮寺駅]] - [[峰吉川駅]]間は1線が1435mm、もう1線は1067mmと1435mmの[[三線軌条]]<ref group="新聞" name="交通950523">{{Cite news |和書|title=進み秋田新幹線工事 奥羽線神宮寺-峰吉川間 3線軌化完成 単線運転スタート |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1995-05-23 |page= }}</ref>) ** 秋田駅 - 青森駅間 1067mm ** 土崎駅 - 秋田港駅間 1067mm ** 新青森駅 - 青森信号場間 1067mm * 駅数: ** 旅客駅:101駅(起終点駅含む) *** 奥羽本線所属の旅客駅に限定した場合、[[東北本線]]所属の福島駅<ref name="teisya">『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』[[JTB]] 1998年 {{ISBN2|978-4533029806}}</ref>を除外した100駅となる<ref>{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/youran/pdf/2016-2017/jre_youran_shogen_p81.pdf 会社要覧2016-2017 - 付表]}} - 東日本旅客鉄道</ref>。なお、終点の青森駅はかつて東北本線所属<ref name="teisya"/>であったが、同線が[[青い森鉄道]]へ移管されたことにより、JRの駅としては奥羽本線所属に変更された。 ** 貨物駅:2駅(旅客併設駅を除く) * [[複線]]区間:詳細は[[#駅一覧|駅一覧]]も参照。 ** 福島駅 - [[関根駅]]間 ** [[赤湯駅]] - [[北赤湯信号場]]間 ** [[羽前中山駅]] - [[山形駅]]間 ** [[芦沢駅]] - [[舟形駅]]間 ** [[及位駅]] - [[院内駅]]間 ** 神宮寺駅 - 峰吉川駅間(1067mm軌間線としては単線) ** 秋田駅 - [[追分駅 (秋田県)|追分駅]]間 ** [[羽後飯塚駅]] - [[八郎潟駅]]間 ** [[鹿渡駅]] - [[森岳駅]]間 ** [[鶴形駅]] - [[前山駅]]間 ** [[鷹ノ巣駅]] - [[早口駅]]間 ** [[大館駅]] - [[長峰駅]]間 ** [[石川駅 (JR東日本)|石川駅]] - [[川部駅]]間 * [[鉄道の電化|電化]]区間:土崎駅 - 秋田港駅間を除く全線([[交流電化|交流]]20,000V 50Hz) * [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]: ** 自動閉塞式 ** 連動閉塞式(秋田港支線) * 保安装置<ref name="ats" />: ** [[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]]:福島駅 - 新庄駅間、大曲駅 - 秋田駅間の標準軌線 ** [[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-S<small>N</small>]]:山形駅 - 羽前千歳駅間、新庄駅 - 青森駅間の狭軌線 ** [[自動列車停止装置#ATS-Ps形(変周地上子組合せパターン型)|ATS-Ps]](狭軌線のうち、一部の駅構内) * [[運転指令所]]: ** 福島駅 - 及位駅間:仙台総合指令室 ([[列車集中制御装置|CTC]]) ** 及位駅 - 青森駅間:秋田総合指令室 (CTC) *** 運転取扱駅(駅が信号を制御、運行を管理):山形駅・[[秋田貨物駅]]・弘前駅・青森駅 *** 準運転取扱駅(異常時、入換時は駅が信号を制御):新庄駅・横手駅・秋田駅・土崎駅・[[東能代駅]]・大館駅 * [[車両基地]]所在駅:山形駅・秋田駅 * 最高速度: ** 福島駅 - 新庄駅間(1435mm軌間) 優等列車130km/h、普通列車110km/h ** 山形駅 - 羽前千歳駅間(1067mm軌間) 95km/h ** 新庄駅 - 大曲駅間 95km/h ** 大曲駅 - 秋田駅間(1435mm軌間) 優等列車130km/h、普通列車110km/h ** 大曲駅 - 秋田駅間 110km/h ** 秋田駅 - 青森駅間 95km/h ** 青森駅(滝内信号所) - 青森信号場間(貨物線) 95km/h * 最急勾配:38.0[[パーミル|‰]]([[峠駅]] - [[大沢駅 (山形県)|大沢駅]]間など) 2022年10月1日現在、JR東日本の各支社の管轄区間は以下のようになっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20221019064227/https://www.jreast.co.jp/company/outline/ |title=JR東日本 会社概要 |access-date=2022-10-28}}</ref>。 * 福島駅 - 及位駅間:[[東日本旅客鉄道東北本部|東北本部]] * 院内駅 - [[津軽新城駅]]間:[[東日本旅客鉄道秋田支社|秋田支社]] * 新青森駅 - 青森駅間、新青森駅 - 青森信号場間:[[東日本旅客鉄道盛岡支社|盛岡支社]] 2014年4月1日より福島駅 - 新庄駅間が[[大都市近郊区間 (JR)|大都市近郊区間]]として新設された「仙台近郊区間」となり、同時に山形駅で[[乗車カード|ICカード乗車券]]「[[Suica]]」が利用可能となった<ref group="報道" name="jreast20131129">{{Cite press release|和書|title=Suicaの一部サービスをご利用いただける駅が増えます |publisher=東日本旅客鉄道 |date=2013年11月29日 |url=http://www.jreast.co.jp/press/2013/20131114.pdf |format=PDF |language=日本語 |accessdate=2016年10月3日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131203005229/http://www.jreast.co.jp/press/2013/20131114.pdf |archivedate=2013年12月3日}}</ref>。さらに2023年5月27日には、和田駅 - 追分駅、弘前駅 - 青森駅で<ref group="報道" name="press20221212" />利用可能になったほか、2024年3月16日にはかみのやま温泉駅 - 村山駅(導入済みの山形駅以外の区間内の各駅)<ref group="報道" name="press20231215" />でもSuicaが利用可能になる。 == 歴史 == [[日本鉄道]]会社の青森駅から官営鉄道として奥羽北線、福島駅から奥羽南線として建設が開始され、[[1905年]]に全線が開業した。 === 年表 === ==== 奥羽北線 ==== * [[1894年]]([[明治]]27年)[[12月1日]]:[[青森駅]] - [[弘前駅]]間が開業<ref group="注釈">この開業当時、弘前駅 - 青森駅間は朝・昼・夕各1往復の計3往復6本の運行だった。参考資料『弘前市史 明治・大正・昭和編』(弘前市・1964年3月30日発行) 「第二章 市制施行と師団創設・第一節 市制施行・四 交通運輸」の225頁「鉄道」に記載の<!---開業当時の--->時刻表より。</ref>。 * [[1895年]](明治28年)[[10月21日]]:弘前駅 - [[碇ケ関駅]]間が開業。 * [[1899年]](明治32年) ** [[6月21日]]:碇ケ関駅 - [[白沢駅 (秋田県)|白沢駅]]間が開業。 ** [[11月15日]]:白沢駅 - 大館駅間が開業。 * [[1900年]](明治33年)[[10月7日]]:大館駅 - 鷹ノ巣駅間が開業。 * [[1901年]](明治34年)[[11月1日]]:鷹ノ巣駅 - 能代駅(現在の[[東能代駅]]<ref group="注釈">五能線の能代駅は1908年に能代町駅として開業。</ref>)間が開業。 * [[1902年]](明治35年) ** [[8月1日]]:能代駅 - 五城目駅間が開業。 ** 10月21日 五城目駅 - [[秋田駅]]間が開業。 * [[1903年]](明治36年)[[10月1日]]:秋田駅 - [[和田駅]]間が開業。 * [[1904年]](明治37年) ** [[8月21日]]:和田駅 - [[神宮寺駅]]間が開業。 ** [[12月21日]]:神宮寺駅 - [[大曲駅 (秋田県)|大曲駅]]間が開業。 * [[1905年]](明治38年)[[6月15日]]:大曲駅 - [[横手駅]]間が開業。 ==== 奥羽南線 ==== * 1899年(明治32年)[[5月15日]]:[[福島駅 (福島県)|福島駅]] - [[米沢駅]]間が開業。 * 1900年(明治33年)[[4月21日]]:米沢駅 - [[赤湯駅]]間が開業。 * 1901年(明治34年) ** [[2月15日]]:赤湯駅 - 上ノ山駅間が開業。 ** [[4月11日]]:上ノ山駅 - [[山形駅]]間が開業。 ** [[8月23日]]:山形駅 - 楯岡駅間が開業。 ** [[10月21日]]:楯岡駅 - [[大石田駅]]間が開業。 * 1902年(明治35年) ** [[7月21日]]:大石田駅 - [[舟形駅]]間が開業。 ** 11月1日 [[漆山駅 (山形県)|漆山駅]]が開業。 * 1903年(明治36年) ** [[6月11日]]:舟形駅 - [[新庄駅]]間が開業。 ** [[11月3日]]:[[中川駅 (山形県)|中川駅]]が開業。 * 1904年(明治37年)10月21日 新庄駅 - [[院内駅]]間が開業。 * 1905年(明治38年) ** [[7月5日]]:院内駅 - [[湯沢駅]]間が開業。 ** [[9月14日]]:湯沢駅 - 横手駅間が開業。福島駅 - 青森駅間が全通。 ==== 全通後 ==== * [[1906年]](明治39年)[[12月25日]]:大沢信号所が駅に変更され[[大沢駅 (山形県)|大沢駅]]が開業。 * [[1907年]](明治40年) ** [[1月25日]]:[[富根駅]]が開業。 ** [[4月10日]]:貨物支線 土崎駅 - 雄物川駅間が開業。 * [[1909年]](明治42年) ** [[6月12日]]:赤岩信号場(後の[[赤岩駅 (福島県)|赤岩駅]])構内で煙害による列車脱線転覆事故が発生。 ** [[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|国有鉄道線路名称]]制定により、福島駅 - 青森駅間を'''奥羽本線'''とする。 ** 11月1日:能代駅が機織駅に改称。 * [[1910年]](明治43年) ** [[8月11日]]:[[庭坂駅]] - 赤岩駅間で[[明治43年の大水害|風水害]]によりトンネルなど崩落。 ** [[8月19日]]:8月11日に発生したトンネルなど崩落の影響により、崩落したトンネルなどの周囲を徒歩連絡とすることで庭坂駅 - 赤岩駅間が仮復旧。 ** [[10月13日]]:赤岩信号所が駅に変更され赤岩駅が開業。 * [[1911年]](明治44年) ** [[9月5日]]:庭坂駅 - 赤岩駅間で前年崩落したトンネルを含む区間は放棄され、別線による復旧で運転再開。 ** [[12月5日]]:金井駅・[[東根駅]]が開業。 * [[1912年]]([[大正]]元年)11月1日:[[釜淵駅]] - 及位駅間に大滝信号所が開設。 * [[1913年]](大正2年)[[7月15日]]:[[泉田駅]]が開業。 * [[1915年]](大正4年)9月11日:新城駅が[[津軽新城駅]]に改称。 * [[1916年]](大正5年) ** [[7月7日]]:石川駅が開業。 ** [[9月20日]]:新町駅が[[真室川駅]]に改称。 ** 12月1日:[[芦沢駅]]が開業。 * [[1917年]](大正6年) ** [[8月16日]]:[[四ツ小屋駅]]が開業。 ** [[12月20日]]:[[置賜駅]]が開業。 * [[1918年]](大正7年)[[11月10日]]:[[袖崎駅]]が開業。 * [[1919年]](大正8年) ** [[7月1日]]:境駅が[[羽後境駅]]に改称。 ** [[8月15日]]:[[笹木野駅]]が開業。 * [[1921年]](大正10年) ** [[7月20日]]:[[北山形駅]]が開業。ただし当時は左沢軽便線(現在の[[左沢線]])の列車のみ停車。 ** 11月10日:羽後境駅 - 和田駅間に船岡信号所が開設。 ** [[12月10日]]:[[十文字駅]] - 横手駅間に柳田信号所が開設。 ** [[12月12日]]:[[後三年駅]]が開業。 ** [[12月15日]]:[[羽前豊里駅]]が開業。 * [[1922年]](大正11年)[[4月1日]]:信号所が信号場に改称。 * [[1923年]](大正12年)[[11月5日]]:[[横堀駅]] - 湯沢駅間に三関信号場が開設。 * [[1924年]](大正13年) ** 12月20日:[[刈和野駅]] - 羽後境駅間に峰吉信号場が開設。[[北常盤駅]]が開業。 * [[1926年]](大正15年) ** [[10月25日]]:貨物支線 滝内信号場 - 青森操車場間が開業。 ** 11月1日:五城目駅が一日市駅に改称。 ** [[11月7日]]:柳田信号場が駅に変更され[[柳田駅]]が開業。 * [[1927年]]([[昭和]]2年) ** 9月11日:北山形駅に奥羽本線ホームが開業。 ** [[11月17日]]:羽後飯塚駅が開業。 * [[1929年]](昭和4年) ** [[2月25日]]:船岡信号場が大張野信号場に改称。 ** [[8月27日]]:[[二ツ井駅]] - 鷹ノ巣駅間に前山信号場が開設。 ** [[11月15日]]:[[大釈迦駅]] - 津軽新城駅間に鶴ヶ坂信号場が開設。 * [[1930年]](昭和5年) ** 4月1日:貨物支線 滝内信号場 - 青森操車場間の起点・終点が変更され、津軽新城駅 - [[浦町駅]]間となる。 ** [[6月21日]]:峰吉信号場が駅に変更され、[[峰吉川駅]]が開業。 ** 7月1日:三関信号場が駅に変更され、[[三関駅]]が開業。 * [[1933年]](昭和8年) ** [[1月20日]]:鶴ヶ坂信号場が駅に変更され、[[鶴ケ坂駅]]が開業。 ** [[10月17日]]:[[羽前千歳駅]]が開業。 * [[1935年]](昭和10年)[[4月15日]]:大鰐駅 - [[川部駅]]間で[[気動車|ガソリンカー]]運転開始<ref>[{{NDLDC|1114644/103}} 『鉄道省年報. 昭和10年度』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。陸奥森山駅・門外駅・大清水駅・和徳駅・[[撫牛子駅]]・豊蒔駅が開業<ref>[{{NDLDC|1077179/241}} 『東奥年鑑.昭和10年』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1940年]](昭和15年)[[11月1日]]:陸奥森山駅・門外駅・大清水駅・和徳駅・豊蒔駅廃止。 * [[1941年]](昭和16年)9月20日:大滝信号場が駅に変更され、[[大滝駅]]が開業。 * [[1942年]](昭和17年)[[10月11日]]:[[陣場駅]] - 碇ヶ関駅間に矢立信号場が開設。 * [[1943年]](昭和18年)[[6月15日]]:機織駅が[[東能代駅]]に改称。 * [[1944年]](昭和19年) ** [[3月31日]]:秋田駅 - 土崎駅間に八幡田信号場が開設。 ** 4月1日:雄物川駅が[[秋田港駅]]に改称。 ** [[6月1日]]:森岳駅 - 東能代駅間に金岡信号場が開設。 ** [[9月28日]]:土崎駅 - 追分駅間に上飯島信号場が開設。 ** 12月1日:舟形駅 - 新庄駅間に鳥越信号場が開設。[[陸羽東線]]鳥越信号場 - 新庄間の線路が撤去され奥羽本線と共用化。 * [[1947年]](昭和22年)[[8月1日]]:集中豪雨により峰吉川駅 - 羽後境駅間で堤防にゆがみが発生。試運転中の機関車が転倒して重軽傷者4人<ref>「奥羽本線も不通 秋田の出水被害増す」昭和22年8月5日,4面{{Full citation needed|date=2021年10月}}</ref>。 * [[1948年]](昭和23年)[[4月27日]]:赤岩駅 - 庭坂駅間で402列車(青森発上野行)が走行中、機関車などが脱線し、高さ10mの土手から転落(乗務員3名死亡)。原因不明。『[[庭坂事件]]』と呼ばれている。 * [[1949年]](昭和24年) ** [[4月29日]]:福島駅 - 米沢駅間が直流電化<ref>記念スタンプ[{{NDLDC|2963224/2}} 「逓信省告示第205号」『官報』1949年4月23日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 ** 6月1日:矢立信号場が駅に変更され、[[津軽湯の沢駅]]が開業。 * [[7月11日]]:土崎駅 - 追分駅間の上飯島信号場が廃止。 * [[1950年]](昭和25年) ** [[2月1日]]:大張野信号場・鯉川信号場がそれぞれ駅に変更され、[[大張野駅]]・[[鯉川駅]]が開業。 ** 11月1日:醍醐仮乗降場が開業。 * [[1951年]](昭和26年) ** [[3月1日]]:金井駅が[[蔵王駅]]に改称。前山信号場が駅に変更され、[[前山駅]]が開業。 ** 7月20日:[[昭和26年の低気圧と梅雨前線による豪雨|梅雨前線による豪雨]]により前山駅 - 鷹ノ巣駅間の鉄橋が損壊。付近の堤防が決壊<ref group="新聞">「大館市水浸し」『日本経済新聞』昭和26年7月21日 3面</ref>。宮根駅 - 陣場駅間で行われた折り返し運転は同月23日以降も続いた<ref group="新聞">{{Cite news |和書 |title=水田の被害甚大 |newspaper=日本経済新聞 ||date=1951-07-23 |edition= |publisher= |page=3 }}</ref>。 ** 11月15日:醍醐仮乗降場が駅に変更され、[[醍醐駅 (秋田県)|醍醐駅]]が開業。 * [[1952年]](昭和27年) ** 1月25日:[[鶴形駅]]が開業。 ** 2月25日:金岡信号場が駅に変更され、[[北金岡駅]]が開業。 ** [[3月5日]]:北上ノ山駅・[[南出羽駅]]・[[高擶駅]]が開業。 ** 11月15日:[[羽前中山駅]]が開業。 ** 12月1日:[[長峰駅]]が開業。 * [[1954年]](昭和29年) ** 4月10日:土崎駅 - 追分駅間に上飯島信号場が開設。 ** [[5月1日]]:[[下川沿駅]]が開業。 ** 12月1日:[[乱川駅]]・[[蟹沢駅]]が開業。 * [[1956年]](昭和31年) ** [[11月28日]]:[[上湯沢駅]]・[[下湯沢駅]]が開業。 ** [[12月3日]]:[[糠沢駅]]が開業。 * [[1960年]](昭和35年) ** 8月1日:秋田駅 - 秋田操車場間複線化。八幡田信号場が操車場に変更され、秋田操車場が開業。 ** [[8月3日]]:碇ヶ関駅付近で退避中の青森駅発大阪駅行の列車(9両編成)が土砂崩れに巻き込まれて7・8両目が脱線転覆。乗員乗客2人が死亡、64人が重軽傷。現場付近は前日から集中豪雨に見舞われていた<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部編 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010 |page=143|isbn=9784816922749}}</ref>。 ** 11月1日:山形駅 - 羽前千歳駅間が直流電化。 ** 12月20日:[[北大石田駅]]が開業。鳥越信号場 - 新庄駅間が陸羽東線との単線並列に戻され、鳥越信号場が廃止(鳥越信号場付近の陸羽東線上に[[南新庄駅]]が開業)。 * [[1963年]](昭和38年) ** [[8月22日]]:糠沢駅 - 早口駅間・二ツ井駅 - 前山駅間で豪雨による土砂崩壊があり、不通になる。当時[[大阪駅]] - 青森駅間で運転されていた特急「[[白鳥 (列車)|白鳥]]」は[[五能線]]経由で運転。 ** [[9月27日]]:赤湯駅 - 中川駅間に北赤湯信号場が開設。 ** [[10月1日]]:秋田操車場 - 追分駅間が複線化。土崎駅 - 追分駅間の上飯島信号場が廃止。 ** [[11月2日]]:新第3及位トンネル使用開始(大滝駅 - 及位駅間第3及位トンネルの海側に新しく掘削したもので89m、将来の電化に備えて交流電化用となっている)。 * [[1964年]](昭和39年) ** [[2月10日]]:[[上飯島駅]]が開業。 ** 9月28日:追分駅 - [[大久保駅 (秋田県)|大久保駅]]間に大清水信号場が開設。 ** 10月1日:秋田操車場が貨物駅に変更され、秋田操駅が開業。 * [[1965年]](昭和40年) ** 2月1日:福島駅 - 秋田駅間に[[自動列車停止装置#B形(軌道電流形)・S形(地上子形)|ATS-S]]を導入<ref>{{Cite news |和書|title=国鉄主要幹線のATS化進む |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1965-02-02 |page=2 }}</ref>。 ** 6月1日:一日市駅が[[八郎潟駅]]に改称。 ** 10月1日:北金岡駅 - 東能代駅間に南能代信号場、二ツ井駅 - 前山駅間に七座信号場が開設。滝内信号場が青森駅に統合されて滝内信号所になり、廃止される。 * [[1966年]](昭和41年)[[4月8日]]:二ツ井駅 - 七座信号場間の第3小繋トンネル内で貨物870列車が脱線、64時間不通。なお特急「白鳥」は五能線経由で運転。 * [[1967年]](昭和42年) ** [[1月11日]]:楯岡駅 - 袖崎駅間に金谷信号場が開設。 ** [[9月18日]]:鹿渡駅 - 森岳駅間が複線化。 ** 9月27日:弘前駅 - 撫牛子駅間が複線化<ref group="新聞">{{Cite news |和書 |title=通報 ●奥羽本線弘前・撫牛子間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=[[鉄道公報]] |publisher=[[日本国有鉄道]]総裁室文書課 |date=1967-09-26 |page=8 }}</ref><ref group="新聞">{{Cite news |和書|title=奥羽線 弘前-撫牛子 複線化開通 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通協力会 |date=1967-09-27 |page=1 }}</ref>。 * [[1968年]](昭和43年) ** [[7月21日]]:貨物支線 津軽新城駅 - 青森操車場 - 浦町駅間が廃止。津軽新城駅 - 青森操車場 - 東青森駅間が開業(東北本線経路変更のため。実質的には終点の変更)。 ** [[7月25日]]:赤湯駅 - 北赤湯信号場間が複線化<ref group="新聞">{{Cite news |和書|title=奥羽線 赤湯-北赤湯(信)間が複線開業 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1968-07-26 |page=1 }}</ref>。 ** [[8月30日]]:石川駅 - 弘前駅間が複線化<ref group="新聞">{{Cite news |和書|title=奥羽線 石川-弘前間の複線化完成 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通協力会 |date=1968-08-31 |page=1 }}</ref>。 ** [[9月8日]]:山形駅 - 北山形駅間が複線化<ref name="TE28-11">{{cite journal|和書|author=(記載なし)|title=運輸日誌|journal=運輸と経済|publisher=運輸調査局|volume=28|issue=11|page=|date=1968-11-01}}</ref>。山形駅 - 羽前千歳駅間が交流電化に変更。 ** [[9月22日]]:庭坂駅 - 赤岩駅間、大沢駅 - 関根駅間が複線化<ref name="交通新聞1968-0922" group="新聞">{{Cite news |和書|title=10月ダイヤ改正まであと9日 工事も最後のヤマ場 前日まで続く切替作業 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通協力会 |date=1968-09-22 |page=3 }}</ref>。福島駅 - 米沢駅間が交流電化に変更。 ** [[9月23日]]:上ノ山駅 - 蔵王駅間が複線化{{R|TE28-11}}<ref group="新聞">{{Cite news |和書|title=奥羽線 上ノ山-蔵王 複線化が完成 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通協力会 |date=1968-09-22 |page=1 }}</ref>。米沢駅 - 山形駅間が交流電化。 ** [[9月25日]]:舟形駅 - 新庄駅間に鳥越信号場が開設。 ** 9月27日:大館駅 - 白沢駅間が複線化{{R|group="新聞"|交通新聞1968-0922}}。 ** [[9月29日]]:及位駅 - 院内駅間が複線化{{R|group="新聞"|交通新聞1968-0922}}<ref group="新聞">「複線運転スタート 院内駅で開通式 奥羽線 院内-及位間」. [[秋田魁新報]] (秋田魁新報社): p.11 (1968年9月30日 朝刊)</ref>。 * [[1969年]](昭和44年) ** [[8月29日]]:羽後飯塚駅 - 八郎潟駅間が複線化。 ** [[9月2日]]:富根駅 - 二ツ井駅間が複線化。 ** 9月25日:鷹ノ巣駅 - 早口駅間が複線化<ref group="新聞">{{Cite news |和書|title=奥羽本線 鷹ノ巣-早口間が複線開業 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通協力会 |date=1969-09-26 |page=1 }}</ref>。 * [[1970年]](昭和45年) ** [[6月30日]]:赤岩駅 - [[板谷駅]]間が複線化<ref group="新聞">{{Cite news |和書 |title=通報 ●奥羽本線赤岩・板谷間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1970-06-29 |page=16 }}</ref>。 ** 9月25日:撫牛子駅 - 川部駅間が複線化<ref group="新聞">{{Cite news |和書 |title=通報 ●奥羽本線撫牛子・川部間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1970-09-25 |page=2 }}</ref>。 ** 11月5日:陣場駅 - 津軽湯の沢駅間が複線化<ref group="新聞">{{Cite news |和書 |title=通報 ●奥羽本線陣馬・津軽湯の沢間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1970-11-04 |page=2 }}</ref>。 * [[1971年]](昭和46年) ** [[8月5日]]:二ツ井駅 - 前山駅間が複線化<ref group="新聞">{{Cite news |和書 |title=通報 ●奥羽本線二ツ井・前山間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1971-08-04 |page=4 }}</ref>。七座信号場が廃止。 ** [[8月25日]]:秋田駅 - 青森駅間<ref group="新聞">{{Cite news |和書 |title=通報 ●奥羽本線秋田・青森間の電気運転について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1971-08-23 |page=2 }}</ref>、滝内信号所 - 青森操車場間が交流電化。 ** [[8月31日]]:津軽湯の沢駅 - 長峰駅間が複線化<ref group="新聞">{{Cite news |和書 |title=通報 ●奥羽本線津軽湯の沢・長峰間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1971-08-30 |page=2 }}</ref>。 ** [[9月17日]]:羽前中山駅 - 上ノ山駅間<ref group="新聞">{{Cite news |和書 |title=通報 ●奥羽本線羽前中山・上ノ山間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1971-09-16 |page=2 }}</ref>、鶴形駅 - 富根駅間が複線化。 ** 9月20日:板谷駅 - 大沢駅間が複線化<ref group="新聞">{{Cite news |和書 |title=通報 ●奥羽本線板谷・大沢間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1971-09-18 |page=8 }}</ref>。 ** 9月25日:白沢駅 - 陣場駅間が複線化<ref group="新聞">{{Cite news |和書 |title=通報 ●奥羽本線白沢・陣馬間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1971-09-23 |page=2 }}</ref>。 ** 10月1日:秋田駅 - 青森駅間に列車集中制御装置 (CTC) が導入。 ** 12月10日:蔵王駅 - 山形駅間が複線化<ref group="新聞">{{Cite news |和書 |title=通報 ●奥羽本線蔵王・山形間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1971-12-09 |page=8 }}</ref>。 * [[1972年]](昭和47年)[[7月31日]]:特急「[[つばさ (列車)#在来線特急「つばさ」|つばさ]]」が赤岩駅 - 板谷駅間の環金トンネル内でエンジンの[[オーバーヒート]]により立往生。[[排気ガス]]が車内に入り込み数人が病院へ搬送された<ref group="新聞">{{Cite news |和書 |title=特急乗客ガス攻め |newspaper=朝日新聞 ||date=1972-08-01 |edition= |publisher= |page=19 }}</ref>。 * [[1973年]](昭和48年)[[4月11日]]:芦沢駅 - 舟形駅間(猿羽根トンネル付近)で大規模な土砂崩壊発生。運転再開まで20日間を要した。 * [[1974年]](昭和49年)10月11日:米沢駅 - 新庄駅間に CTC が導入<ref group="新聞">{{Cite news |和書|title=米沢-新庄間CTC工事完成 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通協力会 |date=1974-10-15 |page=1 }}</ref>。 * [[1975年]](昭和50年) ** [[7月10日]]:袖崎駅 - 大石田駅間の一部を新線に切替<ref group="新聞">『今宿トンネル開通式 奥羽線袖崎-大石田間 10日から一般列車』昭和50年7月4日読売新聞山形読売</ref>。 ** [[8月6日]]:[[集中豪雨]]のため、大滝駅で待避していた急行「[[津軽 (列車)|津軽]]2号」(青森行・12両編成)が迂回運転のため新庄駅へ向けて発車しようとしたときに[[土砂崩れ]]に襲われ、1両が横転し、5両が土砂を被る(旅客1名死亡・16名負傷)。土砂崩れなどにより、真室川駅 - 横堀駅間など不通箇所が続出。 ** [[8月13日]]:8月6日の土砂崩れの影響で不通となっていた真室川駅 - 横堀駅間などの区間の運転が再開。 ** [[8月20日]]:[[昭和50年台風第5号|台風5号]]崩れの低気圧の集中豪雨のため、大館駅 - 弘前駅間・鷹ノ巣駅 - 森岳駅間が不通になる。 ** [[8月21日]]:四ツ小屋駅 - 秋田駅間が複線化<ref group="新聞" name="akita1975-8">「お待たせしました 奥羽南線複線化工事 まず秋田-四ツ小屋間 21日から使用開始 時間短縮は期待できず」. 秋田魁新報 (秋田魁新報社): p.5 (1975年8月16日 夕刊)</ref><ref group="新聞">{{Cite news |和書 |title=通報 ●奥羽本線四ツ小屋・秋田間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1975-08-19 |page=2 }}</ref>。 ** [[8月26日]]:8月20日の集中豪雨による不通区間(大館駅 - 弘前駅間・鷹ノ巣駅 - 森岳駅間)が復旧し運転再開。 ** [[8月28日]]:大張野駅 - 和田駅間が複線化{{R|akita1975-8|group="新聞"}}<ref group="新聞">{{Cite news |和書 |title=通報 ●奥羽本線大張野・和田間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1975-08-27 |page=2 }}</ref>、芦沢駅 - 舟形駅間が新線に切替<ref group="新聞">『きょう切り替え工事 奥羽線芦沢-舟形間』昭和50年8月28日読売新聞山形読売</ref>。 ** 9月5日:和田駅 - 四ツ小屋駅間が複線化{{R|akita1975-8|group="新聞"}}。 ** 9月17日:羽後境駅 - 大張野駅間<ref name="sougou-nenpyou" /><ref name="ukeoigyoshi" /><ref group="新聞">{{Cite news |和書 |title=通報 ●奥羽本線羽後境・大張野間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1975-09-19 |page=3 }}</ref>{{Refnest|group="注釈"|当初、9月9日から複線化する予定であったが{{R|akita1975-8|group="新聞"}}<ref group="新聞">{{Cite news |和書 |title=通報 ●奥羽本線羽後境・大張野間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1975-09-03 |page=4 }}</ref>、延期された<ref group="新聞">{{Cite news |和書 |title=通報 ●奥羽本線羽後境・大張野間増設線路使用開始の延期について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1975-09-12 |page=1 }}</ref>。}}、芦沢駅 - 舟形駅間が複線化<ref name="sougou-nenpyou">{{Cite book |和書 |author=池田光雅 |year=1993 |title=鉄道総合年表1972-93 |publisher=中央書院 |pages=35 |isbn=4-924420-82-4 }}</ref><ref name="ukeoigyoshi">{{Cite web|和書|url=https://www.nikkenren.com/tetsudo/history/area/touhoku/09/index.html |title=日本鉄道請負業史 |publisher=日本建設業連合会 |accessdate=2020-07-24}}</ref><ref group="新聞">{{Cite news |和書 |title=通報 ●奥羽本線芦沢・舟形間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1975-09-16 |page=8 }}</ref>。 ** [[9月26日]]:峰吉川駅 - 羽後境駅間が複線化{{R|akita1975-8|group="新聞"}}<ref group="新聞">{{Cite news |和書 |title=通報 ●奥羽本線峰吉川・羽後境間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1975-09-26 |page=4 }}</ref>。 ** 10月13日:羽前千歳駅 - 秋田駅間が交流電化<ref group="新聞">{{Cite news |和書 |title=通報 ●奥羽本線羽前千歳・秋田間の電気運転について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1975-10-14 |page=1 }}</ref>。これにより全線電化が完成。 ** [[11月25日]]:新庄駅 - 秋田駅間に CTC が導入。 * [[1979年]](昭和54年) ** [[2月27日]]:大沢駅 - 関根駅間で土砂崩れが発生し、同区間で不通になる。 ** 3月1日:2月27日に発生した土砂崩れの復旧作業が終了し、運転再開。 * [[1981年]](昭和56年) ** 9月11日:大曲駅 - 神宮寺駅間が複線化<ref group="新聞">{{Cite news |和書 |title=通報 ●奥羽本線大曲・神宮寺間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1981-09-10 |page=3 }}</ref>。 ** [[11月8日]]:前日の7日から青森県に雪が降り続き、9日浪岡駅付近で線路わきの松の木が雪の重みで架線に倒れ、上下線とも一時不通。寝台特急「[[日本海 (列車)|日本海]]1号」などが立往生した。青森市街地は40cmの積雪で、11月上旬の雪としては明治27年(1894年)青森地方気象台の観測開始以来の記録であった。 * [[1982年]](昭和57年)[[3月29日]]:福島駅 - 笹木野駅間が複線化<ref group="新聞">{{Cite news |和書 |title=通報 ●奥羽本線福島・笹木野間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1982-03-26 |page=4 }}</ref>。 * [[1983年]](昭和58年) ** [[5月26日]]:[[日本海中部地震]]が発生し、森岳駅 - 東能代駅間が不通となる。 ** [[6月7日]]:日本海中部地震で不通となっていた森岳駅 - 東能代駅間が復旧し、運転再開。 * [[1984年]](昭和59年) ** [[8月1日]]:福島駅 - 米沢駅間で CTCテスト運用開始<ref group="新聞">『CTCのテスト運用開始へ あすから奥羽線など』昭和59年7月31日読売新聞朝刊18面山形読売</ref>。 ** [[11月8日]]:神宮寺駅 - 刈和野駅間が複線化<ref group="新聞">{{Cite news |和書 |title=通報 ●奥羽本線神宮寺・刈和野間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1984-11-07 |page=2 }}</ref>。 ** [[12月1日]]:福島駅 - 米沢駅間で CTC が導入。 * [[1986年]](昭和61年) ** [[7月2日]]:北山形駅 - 羽前千歳駅間が複線化<ref>{{Cite journal|和書 |date = 1986-09 |journal = [[鉄道ジャーナル]] |volume = 20 |issue = 10 |page = 115 |publisher = 鉄道ジャーナル社 }}</ref>。 ** 11月1日:新青森駅が開業。 ==== 国鉄分割民営化以降 ==== * [[1987年]](昭和62年)4月1日:[[国鉄分割民営化]]により東日本旅客鉄道に承継。同時に日本貨物鉄道が全線の第二種鉄道事業者となる。津軽新城駅 - 青森信号場 - 東青森駅間の営業キロ設定が廃止。日本貨物鉄道が新青森駅 - 青森信号場間に第二種鉄道事業の営業キロを設定。 * [[1990年]]([[平成]]2年) ** [[3月10日]]:秋田操駅が[[秋田貨物駅]]に改称。山形新幹線直通化による改軌工事のため、赤岩駅の[[スイッチバック]]が廃止。 ** [[9月1日]]:[[山形新幹線]]直通化による[[改軌]]工事のため、板谷駅・峠駅・大沢駅のスイッチバックが廃止。 * [[1991年]](平成3年) ** [[3月16日]]:糠ノ目駅が[[高畠駅]]に、大鰐駅が大鰐温泉駅に改称。 ** 8月27日:米沢駅 - 上ノ山駅間が山形新幹線直通化による改軌工事のため運休およびバス代行<ref group="新聞">{{Cite news |和書|title=JR東北地域本社 8月にダイヤ改正 奥羽線中心 一部特急を経由変更 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通新聞社 |date=1991-06-12 |page=1 }}</ref>。 ** [[9月3日]]:福島駅 - 蔵王駅間の日本貨物鉄道の第二種鉄道事業が廃止。 ** [[10月8日]]:関根駅 - 上ノ山駅間が山形新幹線直通化による改軌工事のため運休およびバス代行。 ** [[11月3日]]・[[11月4日|4日]]:切替工事のため福島駅 - 山形駅間の全列車が運休、バス代行。 ** 11月5日:福島駅 - 山形駅間が標準軌に改軌。ただし普通列車は全て米沢駅で系統分割されたほか、快速「ざおう」が福島駅 - 米沢駅・赤湯駅間と米沢駅 - 山形駅間で運転を開始した<ref group="新聞">{{Cite news |和書|title=JR東北地域本社 5日からダイヤ改正 奥羽線福島-山形間標準軌化 新快速 愛称名「ざおう」に |newspaper=交通新聞 |publisher=交通新聞社 |date=1991-11-01 |page=5 }}</ref>。笹木野駅 - 庭坂駅間が複線化。 * [[1992年]](平成4年) ** 7月1日:山形新幹線が開業<ref name="JRR1993 182">[[#JRR1993|『JR気動車客車編成表 '93年版』 182頁]]</ref>。福島駅 - 山形駅間に「山形線」の愛称が名付けられる{{R|JRR1993 182}}。上ノ山駅が[[かみのやま温泉駅]]、北上ノ山駅が[[茂吉記念館前駅]]に改称{{R|JRR1993 182}}。 ** 9月1日:福島駅 - 山形駅で[[自動進路制御装置|PRC]]を導入<ref name="JRR1993 183">[[#JRR1993|『JR気動車客車情報 '93年版』 183頁]]</ref> * [[1993年]](平成5年) ** 7月1日:秋田駅 - 青森駅間でPRCを導入<ref group="新聞" name="交通1994-6">{{Cite news |和書|title=PRCの使用開始 JR秋田支社 奥羽線院内-大曲間 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通新聞社 |date=1993-06-23 |page=3 }}</ref>。 ** 12月1日:山形駅 - 青森駅間の客車列車([[国鉄50系客車|50系]]・弘前駅 - 青森駅間は[[国鉄12系客車|12系2000番台]]も使用)の運用が終了し、[[JR東日本701系電車|701系電車]]が投入される。 * [[1994年]](平成6年) ** [[6月16日]]:院内駅 - 大曲駅間でPRCを導入{{R|交通1994-6|group="新聞"}}。 ** [[7月6日]]:刈和野駅 - 峰吉川駅間が複線化。 * [[1995年]](平成7年) ** 5月15日:神宮寺駅 - 峰吉川駅間の三線軌化が完成し、単線運転となる{{R|group="新聞"|交通950523}}。 ** 6月12日:[[秋田新幹線]]工事に伴い、大曲駅 - 秋田駅間が単線化される<ref group="新聞">{{Cite news |和書|title=大曲-秋田間新在直通化 単線切替工事が終了 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通新聞社 |date=1995-06-16 |page=1 }}</ref>。 ** 12月1日:[[井川さくら駅]]が開業。 * [[1997年]](平成9年)[[3月22日]]:秋田新幹線が開業(大曲駅 - 秋田駅間上り線が改軌。神宮寺駅 - 峰吉川駅間下り線が三線軌化)。 * [[1998年]](平成10年)[[10月27日]]:山形駅 - 羽前千歳駅間が山形新幹線延伸による改軌工事のため単線化<ref group="新聞">{{Cite news |和書|title=山形-羽前千歳間 改軌へ JR東日本 10月27日から着手 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通新聞社 |date=1998-08-14 |page=3 }}</ref>。 * [[1999年]](平成11年) ** [[3月12日]]:天童駅 - 新庄駅間が山形新幹線延伸による改軌工事のため運休およびバス代行<ref>{{Cite journal|和書 |journal = [[鉄道ジャーナル]] |date = 1999-4 |volume = 33 |issue = 5 |page = 90 |publisher = [[鉄道ジャーナル社]] }}</ref>。金谷信号場・鳥越信号場が廃止。 ** 3月31日:羽前千歳駅 - 漆山駅間の日本貨物鉄道の第二種鉄道事業が廃止。 ** 7月1日:羽前千歳駅 - 新庄駅間が山形新幹線延伸による改軌工事のため運休。山形駅 - 新庄駅間バス代行輸送(ただし、左沢線および仙山線乗り入れ部分は通常通り運転)。蔵王駅 - 山形駅間の日本貨物鉄道の第二種鉄道事業が廃止。 ** [[12月4日]]:山形新幹線新庄延伸(山形駅 - 新庄駅間改軌、愛称「山形線」を福島駅 - 新庄駅間に拡大)。蟹沢駅が山形寄りに0.6km移転して[[さくらんぼ東根駅]]に改称。楯岡駅が[[村山駅 (山形県)|村山駅]]に改称。 * [[2002年]](平成14年)4月1日:山形駅 - 羽前千歳駅間の日本貨物鉄道の第二種鉄道事業が廃止。 * [[2010年]](平成22年)12月4日:[[青い森鉄道線]][[八戸駅]] - 青森駅間の開業に伴い、同線との直通運転が新青森駅 - 青森駅間で開始。 * [[2012年]](平成24年)[[12月1日]]:赤岩駅が冬季通過駅となる<ref group="報道">「{{PDFlink|[http://www.jr-sendai.com/wp-content/uploads/2012/11/press_20121115-akaiwaeki.pdf 奥羽本線 赤岩駅冬期間の普通列車通過についてのお知らせ]}}」</ref>。 * [[2013年]](平成25年)9月27日:追分駅 - 大久保駅間の大清水信号場が廃止{{要出典|date=2014年7月}}。 * [[2014年]](平成26年)4月1日:福島駅 - 新庄駅間が新設の仙台近郊区間となり、山形駅でICカード乗車券「[[Suica]]」サービス開始<ref group="報道" name="jreast20131129" />。 * [[2015年]](平成27年)3月14日:[[天童南駅]]が開業。 * [[2017年]](平成29年) ** [[3月4日]]:赤岩駅が通年通過駅となる<ref group="報道" name=":0">{{Cite web|和書|url=http://jr-sendai.com/upload-images/2016/12/20161216.pdf|title=2017年3月ダイヤ改正および新駅開業等について|accessdate=2016-12-16|date=2016-12-16|publisher=東日本旅客鉄道仙台支社}}</ref>。実質的な最終営業日は[[2016年]](平成28年)[[11月30日]]。 ** [[8月3日]]:秋田港に寄港するクルーズ客船の乗客の輸送のため、秋田港駅 - 秋田駅間に臨時旅客列車を6日まで運行<ref>[https://news.mynavi.jp/article/railwaynews-80/ 鉄道ニュース週報 (80) 秋田県の貨物線に旅客列車運行許可…ただし「乗船客」専用] - マイナビニュース、2017年7月26日</ref>(7月21日に、JR東日本に対し期間を限定した土崎駅 - 秋田港駅間の第二種鉄道事業が許可<ref name="mlit-20170719">{{PDFlink|[https://wwwtb.mlit.go.jp/tohoku/puresu/puresu/td170721.pdf JR東日本による秋田港クルーズ列車運行のための第二種鉄道事業の許可書を交付します]}} - 東北運輸局プレスリリース</ref>)。以後、2018年・2019年の4 - 11月にも運行<ref name="mlit20220415" />。2022年の5 - 11月にも運行予定<ref name="mlit20220415" />。 * [[2018年]](平成30年)[[12月27日]]:板谷駅 - 峠駅間のトンネル内 (約4.1 km)で、[[携帯電話]]不通区間が解消{{Refnest|group="注釈"|福島駅 - 庭坂駅間および新庄駅付近は、2018年12月17日、米沢駅 - 大石田駅間および大曲駅 - 秋田間は、2020年1月14日のJR東日本によるそれぞれの公表時点で、携帯電話の利用が可能とされている<ref group="報道" name="press/20181215" /><ref group="報道" name="press/20200114_ho01" />。}}<ref group="報道" name="press/20181215">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2018/20181215.pdf|title=東北新幹線及び山形新幹線(奥羽本線)における携帯電話サービスの一部開始について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2018-12-17|accessdate=2020-04-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200404053437/https://www.jreast.co.jp/press/2018/20181215.pdf|archivedate=2020-04-04}}</ref>。 * [[2020年]]([[令和]]2年) ** [[1月24日]]:赤岩駅 - 板谷駅間のトンネル内 (約5.9 km)で、携帯電話不通区間が解消<ref group="報道" name="press/20200114_ho01">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20200114_ho01.pdf|title=山形新幹線(奥羽本線)におけるトンネル内携帯電話サービスの一部開始について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-01-14|accessdate=2020-04-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200404014230/https://www.jreast.co.jp/press/2019/20200114_ho01.pdf|archivedate=2020-04-04}}</ref>。 ** [[7月8日]]:この日までに、庭坂駅 - 赤岩駅間のトンネル内 (約4.8 km) で、携帯電話不通区間が解消<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200625_ho02.pdf|title=山形・秋田新幹線及び中央本線におけるトンネル内携帯電話サービスの一部開始について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-06-25|accessdate=2020-06-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200625063425/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200625_ho02.pdf|archivedate=2020-06-25}}</ref>。 ** [[12月15日]]:峠駅 - 大沢駅間および芦沢駅 - 舟形駅間のトンネル内(約2.0 km)で、携帯電話不通区間が解消<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20201125_ho01.pdf|title=山形新幹線のトンネル内における携帯電話サービス使用開始について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-11-25|accessdate=2020-11-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201125152903/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20201125_ho01.pdf|archivedate=2020-11-26}}</ref>。 * [[2021年]](令和3年) ** 3月12日:赤岩駅が廃止<ref group="報道" name="press20210120">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/sendai/20210120_s01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210120091147/https://www.jreast.co.jp/press/2021/sendai/20210120_s01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=奥羽本線 赤岩駅廃止について|publisher=東日本旅客鉄道仙台支社|date=2021-01-20|accessdate=2021-01-20|archivedate=2021-01-20}}</ref><ref group="新聞" name="news20210121">{{Cite news|url=https://www.minyu-net.com/news/news/FM20210121-578197.php|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210121022753/https://www.minyu-net.com/news/news/FM20210121-578197.php|title=JR奥羽線「赤岩駅」3月12日廃止 秘境駅...鉄道ファンに人気|newspaper=[[福島民友]]|publisher=福島民友新聞社|date=2021-01-21|accessdate=2021-01-21|archivedate=2021-01-21}}</ref>。 ** [[3月13日]]:[[泉外旭川駅]]が開業<ref group="報道" name="jreast-akita20201218">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/akita/20201218_a01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191209211202/https://www.jreast.co.jp/press/2020/akita/20201218_a01.pdf|title=2021年3月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道秋田支社|date=2020-12-18|accessdate=2020-12-19|archivedate=2020-12-19}}</ref>。 * [[2022年]](令和4年) ** [[8月3日]]:大雨による災害([[令和4年8月豪雨]])の影響で東能代駅 - 大館駅間が不通になる<ref>{{Cite web|和書|url=https://trafficnews.jp/post/121108 |title=JR奥羽本線 大雨で路盤流出 東能代~大館で復旧めど立たず バス代行開始 |website=乗りものニュース |publisher=メディア・ヴァーグ |date=2022-08-04 |access-date=2022-08-10}}</ref>。 ** [[8月9日]]:集中豪雨に見舞われ大釈迦駅 - 鶴ケ坂駅間で路盤が崩落。浪岡駅 - 新青森駅間で運休<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.mutusinpou.co.jp/news/2022/08/71826.html |title=深浦の孤立集落 長慶平は解消 |publisher=陸奥新報 |date=2022-08-11 |accessdate=2022-08-11}}</ref>。 ** [[8月11日]]:弘前駅 - 浪岡駅間が朝7時頃から運転再開。普通列車のみ1日10往復の臨時ダイヤで運行<ref group="報道">{{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/ass/2022/akita/20220811_a03.pdf 本日(8月11日)と明日(8月12日)のJR秋田支社管内における列車運行計画について]}} - 東日本旅客鉄道秋田支社(2022年8月11日17時20分発表)</ref>。 ** [[8月14日]]:大館駅 - 弘前駅間が始発から、東能代駅 - 鷹ノ巣駅間が夕方に運転再開<ref group="報道">{{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/ass/2022/akita/20220814_a01.pdf 本日(8月14日)のJR秋田支社管内における列車運行計画について]}} - 東日本旅客鉄道秋田支社(2022年8月14日16時50分発表)</ref>。なお、大館 - 弘前間は8月16日まで、東能代 - 鷹ノ巣間は当面間引き運行となる<ref group="報道">{{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/ass/2022/akita/20220816_a03.pdf 8月17日(水)以降当面の間の奥羽本線 東能代・鷹ノ巣駅~大館駅間の代行バス時刻表]}} - 東日本旅客鉄道秋田支社(2022年8月16日16時30分発表)</ref>。 ** [[8月17日]]:浪岡駅 - 新青森駅間が復旧。なお、浪岡駅 - 新青森駅間を含む大館駅 - 青森駅間については、普通列車に関しては<!---「普通列車に関しては」としたのは、臨時快速「リゾートしらかみ」が全列車運休(後に1・2号が一部区間で運転再開)となってる事と特急「つがる」の運行が完全復旧してない為。--->正常ダイヤに戻った<ref group="報道">{{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/ass/2022/akita/20220817_a01.pdf 8月18日(木)以降当面の間のJR秋田支社管内における列車運行計画]}} - 東日本旅客鉄道秋田支社(2022年8月17日18時00分発表)</ref>。 ** [[10月7日]]:鷹ノ巣駅 - 大館駅間が復旧<ref group="報道">{{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/press/2022/akita/20221005_a02.pdf 10月7日(金)以降のJR秋田支社管内における列車運行計画について]}} - JR東日本秋田支社・2022年10月5日リリース</ref>。同日から、特急「つがる」も全区間で運転再開。 * [[2023年]](令和5年) ** [[1月10日]]:板谷駅と大沢駅が冬季通過駅となる(2023年は3月26日まで実施)<ref>{{Cite press release|和書|title=冬期間における奥羽本線の駅通過について|publisher=東日本旅客鉄道東北本部|date=2022-12-09|url=https://www.jreast.co.jp/press/2022/sendai/20221209_s01.pdf|format=PDF|access-date=2022-12-14}}</ref>。 ** [[5月27日]]:追分駅 - 和田駅間及び弘前駅 - 青森駅間においてICカード「Suica」の利用が可能となる<ref group="報道" name="press20221212">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2022/morioka/20221212_mr01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20221212054051/https://www.jreast.co.jp/press/2022/morioka/20221212_mr01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2023年5月27日(土)北東北3エリアでSuicaがデビューします!|publisher=東日本旅客鉄道盛岡支社・秋田支社|date=2022-12-12|accessdate=2022-12-12|archivedate=2022-12-12}}</ref><ref group="報道" name="press20210406">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/20210406_ho02.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210406050454/https://www.jreast.co.jp/press/2021/20210406_ho02.pdf|format=PDF|language=日本語|title=北東北3県におけるSuicaご利用エリアの拡大について 〜2023年春以降、青森・岩手・秋田の各エリアでSuicaをご利用いただけるようになります〜|publisher=東日本旅客鉄道|date=2021-04-06|accessdate=2021-04-06|archivedate=2021-04-06}}</ref>。 * [[2024年]](令和6年)3月16日:かみのやま温泉駅 - 村山駅間の全ての駅で「Suica」が利用可能になる(予定)<ref group="報道" name="press20231215">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2023/sendai/20231215_s03.pdf |format=PDF|language=ja|title=山形県の Suica 利用がますます便利になります!|publisher=東日本旅客鉄道東北本部|date=2023-12-15|accessdate=2023-12-16}}</ref>。 == 運行形態 == {| {{Railway line header|collapse=yes}} {{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#ee7b28}} {{BS-table}} *{{rint|ja|shinkansen|yamagata}}:山形新幹線・秋田新幹線の停車駅 ---- {{BS4|eKRWgl|exSTR+r|STR||||[[東北本線]]・[[東北新幹線]]|}} {{BS4|BHF|KBHFxa|BHF||0.0|{{rint|ja|shinkansen|yamagata}} [[福島駅 (福島県)|福島駅]]||}} {{BS4|KRZu|KRZu|ABZgr||||東北新幹線|}} {{BS4|STRr|STR|STR||||東北本線|}} {{BS4||KRWg+l|KRWr|||||}} {{BS2|LSTR||||[[山形新幹線]]|}} {{BS2|LSTR||||・[[山形線]]参照|}} {{BS4|xABZq+r|eABZg+r|||||[[陸羽東線]]|}} {{BS4|STR|eDST|||144.8|''鳥越信号場''|-1999|}} {{BS4|HST|STR|||||[[南新庄駅]]|}} {{BS4|BHF|KBHFxe|||148.6|{{rint|ja|shinkansen|yamagata}} [[新庄駅]]||}} {{BS4|KRWl|exSTR|O2=KRW+r||||||}} {{BS2|ABZgl|STRq|||[[陸羽西線]]|}} {{BS2|BHF||154.2|[[泉田駅]]||}} {{BS2|BHF||161.3|[[羽前豊里駅]]||}} {{BS2|BHF||164.0|[[真室川駅]]||}} {{BS2|TUNNEL1||||}} {{BS2|BHF||173.2|[[釜淵駅]]||}} {{BS2|BHF||180.3|[[大滝駅]]||}} {{BS2|TUNNEL1||||}} {{BS2|BHF||185.8|[[及位駅]]||}} {{BS2|tSTRa|||院内トンネル||1356m}} {{BS2|tSTR+GRZq||||[[山形県]] / [[秋田県]]|}} {{BS2|tSTRe|||||}} {{BS2|BHF||194.4|[[院内駅]]||}} {{BS2|BHF||198.4|[[横堀駅]]||}} {{BS2|BHF||204.4|[[三関駅]]||}} {{BS2|BHF||207.1|[[上湯沢駅]]||}} {{BS2|BHF|exKBHFa|210.4|[[湯沢駅]]||}} {{BS2|STR|exSTRl|||''[[羽後交通]]:[[羽後交通雄勝線|雄勝線]]''|}} {{BS2|BHF||214.5|[[下湯沢駅]]||}} {{BS2|BHF||217.8|[[十文字駅]]||}} {{BS2|BHF||221.2|[[醍醐駅 (秋田県)|醍醐駅]]||}} {{BS2|BHF||224.4|[[柳田駅]]||}} {{BS2|STR|exSTR+l|||''羽後交通:[[羽後交通横荘線|横荘線]]''|}} {{BS2|ABZg+r|exSTR|||[[北上線]]|}} {{BS2|BHF|exKBHFe|228.3|[[横手駅]]||}} {{BS2|BHF||234.7|[[後三年駅]]||}} {{BS2|BHF||239.8|[[飯詰駅]]||}} {{BS4|KBHFa|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBeq|||247.0|{{rint|ja|shinkansen|akita}} [[大曲駅 (秋田県)|大曲駅]]||}} {{BS4|ABZgr|STR|||||[[秋田新幹線]]・[[田沢湖線]]|}} {{BS4|KRWgl|KRWg+r|||||[[三線軌条]]区間|}} {{BS4|STR|BHF|||253.0|[[神宮寺駅]]||}} {{BS4|STR|BHF|||260.6|[[刈和野駅]]||}} {{BS4|KRWg+l|KRWgr|||||三線軌条区間終わり|}} {{BS4|STR|BHF|||265.4|[[峰吉川駅]]||}} {{BS4|TUNNEL1|TUNNEL1|||||}} {{BS4|DST|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBeq|||271.9|[[羽後境駅]]||}} {{BS4|TUNNEL1|TUNNEL1|||||}} {{BS4|STR|BHF|||280.0|[[大張野駅]]||}} {{BS4|DST|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBeq|||285.4|[[和田駅]]||}} {{BS4|STR|BHF|||292.3|[[四ツ小屋駅]]||}} {{BS4|STR|ABZg+l|||||[[羽越本線]]|}} {{BS4|KBHFe|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBeq|uexKBHFa||298.7|{{rint|ja|shinkansen|akita}} [[秋田駅]]||}} {{BS2|STR|uexSTRl|||''[[秋田市電]]''|}} {{BS2|BHF||301.8|[[泉外旭川駅]]||}} {{BS2|eDST||302.2|''八幡田信号場''|-1960|}} {{BS2|DST||302.3|[[秋田貨物駅]]|1960-|}} {{BS2|BHF||{{BSkm|305.8|0.0*}}|[[土崎駅]]||}} {{BS2|ABZgl|STR+r||||}} {{BS2|STR|KDSTxe|2.7*|[[秋田港駅]]||}} {{BS2|STR|exABZgl|||[[秋田臨海鉄道線]](南線)→|}} {{BS2|STR|exSTRl|||↓秋田臨海鉄道線(北線)|}} {{BS2|BHF||308.3|[[上飯島駅]]|1964-|}} {{BS2|eDST||308.6|''上飯島信号場''|-1963|}} {{BS2|BHF||311.7|[[追分駅 (秋田県)|追分駅]]||}} {{BS2|ABZgl|STRq|||[[男鹿線]]|}} {{BS2|eDST||314.9|''[[大清水信号場]]''|-2013|}} {{BS2|BHF||318.9|[[大久保駅 (秋田県)|大久保駅]]||}} {{BS2|BHF||322.2|[[羽後飯塚駅]]||}} {{BS2|BHF||323.6|[[井川さくら駅]]||}} {{BS4|exSTR+r|STR|||||''[[秋田中央交通線]]''|}} {{BS4|exKBHFe|BHF|||327.5|[[八郎潟駅]]||}} {{BS2|BHF||333.0|[[鯉川駅]]||}} {{BS2|BHF||338.4|[[鹿渡駅]]||}} {{BS2|BHF||345.1|[[森岳駅]]||}} {{BS2|BHF||349.4|[[北金岡駅]]||}} {{BS2|DST||352.5|[[南能代信号場]]||}} {{BS4||ABZg+l|STRq|STR+r|||[[五能線]]|}} {{BS4||BHF||LSTR|355.4|[[東能代駅]]||}} {{BS2|BHF||360.3|[[鶴形駅]]||}} {{BS2|TUNNEL1||||}} {{BS2|BHF||365.5|[[富根駅]]||}} {{BS2|hKRZWae||||[[米代川]]|}} {{BS2|TUNNEL1|||}} {{BS4|uexKBHFa|BHF|||372.2|[[二ツ井駅]]||}} {{BS4|uexSTRr|STR|||||''[[中西徳五郎経営軌道]]''|}} {{BS4|exSTR+l|eABZgr||||||}} {{BS4|exSTR|tSTRa||||太平山トンネル||1535m}} {{BS4|exDST|tSTRe||||''七座信号場''|-1971|}} {{BS4|exSTRl|eABZg+r||||||}} {{BS2|BHF||379.5|[[前山駅]]||}} {{BS2|ABZg+r||||[[秋田内陸縦貫鉄道秋田内陸線|秋田内陸線]]|}} {{BS2|BHF||384.9|[[鷹ノ巣駅]]||}} {{BS2|BHF||388.1|[[糠沢駅]]||}} {{BS2|BHF||393.5|[[早口駅]]||}} {{BS2|BHF||397.7|[[下川沿駅]]||}} {{BS2|KRZu|STR+r|||[[花輪線]]|}} {{BS2|ABZg+l|STRr||||}} {{BS4|exSTR+l|eABZgr||||||}} {{BS4|exBHF|BHF|||402.9|[[大館駅]]||}} {{BS4|exABZgl|eKRZu|||||''[[DOWAホールディングス|同和鉱業]]:[[同和鉱業花岡線|花岡線]]''|}} {{BS4|exSTRr|STR|||||''[[小坂製錬]]:[[小坂製錬小坂線|小坂線]]''|}} {{BS2|TUNNEL1|||}} {{BS2|BHF||409.4|[[白沢駅 (秋田県)|白沢駅]]||}} {{BS2|TUNNEL1|||松原トンネル||2404m}} {{BS2|BHF||416.5|[[陣場駅]]||}} {{BS2|eABZgl|exSTR+r||||}} {{BS2|tSTRa|exSTR||矢立トンネル||3180m}} {{BS4|exSTR+l|etKRZ|exSTRr|||||}} {{BS4|exSTR+GRZq|tSTR+GRZq|||||秋田県 / [[青森県]]|}} {{BS4|exBHF|tSTRe||||''津軽湯の沢駅''|-1970|}} {{BS4|exSTRl|eABZg+r||||||}} {{BS2|BHF||422.3|[[津軽湯の沢駅]]|1970-|}} {{BS2|TUNNEL1|||}} {{BS2|BHF||427.2|[[碇ケ関駅]]||}} {{BS2|TUNNEL1|||}} {{BS2|BHF||432.0|[[長峰駅]]||}} {{BS4|KBHFa|BHF|||435.3|[[大鰐温泉駅]]||}} {{BS4|LSTR|STR|||||[[弘南鉄道]]:[[弘南鉄道大鰐線|大鰐線]]|}} {{BS4|LSTR|eBHF|||438.0|''陸奥森山駅''|-1940|}} {{BS4|STRl|KRZu|STR+r|||||}} {{BS2|BHF|LSTR|440.7|[[石川駅 (JR東日本)|石川駅]]||}} {{BS2|eBHF||444.0|''門外駅''|-1940|}} {{BS2|eBHF||445.3|''大清水駅''|-1940|}} {{BS4|STR+r|STR|LSTR||||弘南鉄道:[[弘南鉄道弘南線|弘南線]]|}} {{BS4|STR|STR|KHSTe||||[[中央弘前駅]]|}} {{BS4|KBHFe|BHF|||447.1|[[弘前駅]]||}} {{BS2|eBHF||448.3|''和徳駅''|-1940|}} {{BS2|BHF||449.8|[[撫牛子駅]]||}} {{BS4||eBHF||LSTR|451.6|''豊蒔駅''|-1940|}} {{BS4||ABZg+l|STRq|STRr|||五能線|}} {{BS2|BHF||453.4|[[川部駅]]||}} {{BS4|exSTRq|eABZgr|||||弘南鉄道:''[[弘南鉄道黒石線|黒石線]]''|}} {{BS2|BHF||456.6|[[北常盤駅]]||}} {{BS2|BHF||462.1|[[浪岡駅]]||}} {{BS2|BHF||467.2|[[大釈迦駅]]||}} {{BS2|eABZgl|exSTR+r||||}} {{BS2|TUNNEL1|exSTR||新大釈迦トンネル||2240m}} {{BS2|eABZg+l|exSTRr||||}} {{BS2|BHF||473.4|[[鶴ケ坂駅]]||}} {{BS2|BHF||478.8|[[津軽新城駅]]||}} {{BS2|STR||||←東北新幹線|}} {{BS2|TBHFu|O1=KBHFeq|STRq|{{BSkm|480.6|0.0#}}|[[新青森駅]]||}} {{BS2|STR2|STRc3|||[[北海道新幹線]]→|}} {{BS4||STRc1|STR+4|KDSTa|||[[青森車両センター]]||}} {{BS4|||ABZg+l|ABZqr|||[[津軽線]]|}} {{BS2||DST|2.8#|[[青森駅#滝内信号所|滝内信号所]]||}} {{BS4||STRc2|ABZg3||||}} {{BS4||STR+1|STRc4|O3=STR||||←[[青い森鉄道線]]|}} {{BS4|DSTq|ABZqr|ABZg+r||4.8#|[[青森信号場]]||}} {{BS2||KBHFxe|484.5|[[青森駅]]||}} {{BS2||exTRAJEKT|||''[[青函航路]]''|}} |} |} === 旅客輸送 === 路線名称としては福島駅 - 青森駅間で1つの路線であり、かつては[[寝台列車|寝台]][[特別急行列車|特急]]「[[あけぼの (列車)|あけぼの]]」、[[急行列車|急行]]「[[あけぼの (列車)#急行「津軽」|津軽]]」など、全線通しで運転する列車も存在した。[[山形新幹線]]・[[秋田新幹線]]が開業し、それに伴い一部区間が[[標準軌]]へ[[改軌]]されたことにより、従来の1,067mm[[軌間]]専用車両で運転される[[優等列車]]は、[[1999年]][[12月4日]]の山形新幹線[[新庄駅]]延伸に伴うダイヤ改正で特急「[[つばさ (列車)#山形新幹線開業後の在来線優等列車|こまくさ]]」が[[快速列車]]に格下げ([[2002年]]12月1日ダイヤ改正で廃止)になって以降は[[秋田駅]]以北のみの運転となった。普通列車も運行系統としては大きく以下の4つの区間に分かれている。 ==== 福島駅 - 新庄駅間 ==== {{Main|山形新幹線#運行形態|山形線#運行形態}} [[山形新幹線]]「[[つばさ (列車)|つばさ]]」が走行する区間である。[[板谷峠]]という難所が途中に存在する。新幹線からの直通列車を走らせるために標準軌へ改軌されている都合上、この区間を走行する車両を新庄駅以北で運転することは不可能になっている。また、この区間の在来線[[普通列車]]は「[[山形線]]」の愛称が付けられ、奥羽本線の他区間と区別されている。運行形態は基本的に[[福島駅 (福島県)|福島駅]] - [[庭坂駅]]・[[米沢駅]]間、米沢駅 - [[山形駅]]間、山形駅 - 新庄駅と3つの区間に分けて運転されている。 ==== 新庄駅 - 大曲駅間 ==== 山形・秋田県境の山間部および盆地を走る区間で、普通列車や[[快速列車]]のみが設定されているが、かつては他区間と同様に昼夜問わず優等列車が運転されていた。新庄駅 - 秋田駅間を直通する普通列車に加え、新庄駅 - [[真室川駅]]間と[[院内駅]]・[[湯沢駅]]・[[横手駅]] - 秋田駅間の区間列車が設定されており、新庄駅 - 湯沢駅 - 横手駅間は1 - 2時間に1本程度、横手駅 - 大曲駅間は1時間に1本程度運行されている。[[ワンマン運転]]を行う列車が多い。山形新幹線の終点である新庄駅と秋田新幹線の途中駅である大曲駅に挟まれた区間であり、両新幹線への乗り継ぎが便利なようにダイヤが組まれている。 [[全国花火競技大会]]時には、臨時普通列車「'''スターマイン号'''」が設定される。 ==== 大曲駅 - 秋田駅間 ==== 秋田新幹線「[[こまち (列車)|こまち]]」が[[田沢湖線]]との直通で運行される区間。もともとは複線{{Efn|刈和野駅 - 峰吉川駅間は、三線軌条になる前は単線}}だったが、秋田新幹線開業時に1線が標準軌に改軌された結果、標準軌線と狭軌線のそれぞれ単線が並べて敷設されている[[単線並列]]になっている。一部区間は[[三線軌条]]化されているが、2線の一方が「標準軌のみ」で他方が「標準軌+狭軌」である。 2023年3月現在の定期ダイヤでは、標準軌線は「こまち」以外には田沢湖線用の[[JR東日本701系電車#5000番台|701系5000番台]]が出入庫のために通行し、狭軌線は後述の普通・快速列車が通行する。ワンマン運転を行う列車が多い。新幹線が運行される区間(新在直通区間)であるが、新幹線車両と在来線車両で利用ホームや線路が分けられていることもあり、「山形線」のような路線愛称はついていない。 {{Double image|left|OuhonsenOmagariAkitaE3.jpg|200|OuhonsenSLandE6.jpg|200|大曲駅 - 秋田駅間 標準軌を走行するE3系こまち|SL秋田こまち号とスーパーこまちの並走(2013年10月13日)}} {{Clear|left}} 普通列車は1時間に1本程度が運行されており、朝に湯沢発秋田行きの快速列車が1本のみ運行されている。この快速は2002年11月30日まで秋田駅 - 湯沢駅 - 新庄駅間で設定されていた快速「かまくら」のうち最速達列車(「かまくら」1号)のダイヤを引き継いだものである。 なお、[[新庄駅]]以北[[大曲駅 (秋田県)|大曲駅]]以南 - 秋田駅間の普通・快速列車は前述のように一括りの系統となっている。ほとんどの列車は秋田駅を境界とし以北とは系統分離がされているが、早朝の下り1本のみ[[横手駅]]→[[追分駅 (秋田県)|追分駅]]と秋田駅を越える列車がある(列車番号は423M→2627Mと変わるが旅客案内上は同一列車案内)。そのほかにも秋田駅到着後に行先を変更して実質的に直通する列車がある。 [[全国花火競技大会]]{{Efn|新作花火コレクション時も含む}}には、秋田駅→大曲駅間の[[快速列車]]「'''花火'''」が設定される。この列車は標準軌の秋田新幹線のルートでの走行となるため、大曲駅、[[神宮寺駅]](下りホームのみ)、[[刈和野駅]](下りホームのみ)、秋田駅以外の駅ではホームが無いのですべて通過するか、停車したとしても、神宮寺駅と刈和野駅を含めて旅客乗降を扱わない[[運転停車]]扱いとなる。花火大会の臨時輸送の際は、盛岡駅の田沢湖線ホームに新幹線車両が停車する光景が見られることもある。 ==== 秋田駅 - 青森駅間 ==== 当区間は[[湖西線]]・[[北陸本線]]・[[IRいしかわ鉄道線]]・[[あいの風とやま鉄道線]]・[[えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン]]・[[信越本線]]・[[白新線]]・[[羽越本線]]とともに「[[日本海縦貫線]]」を形成していることから、通称として当区間を「奥羽北線」、福島駅 - 秋田駅を「奥羽南線」と称することがある。これらは全線開通前に「奥羽北線」「奥羽南線」と呼ばれた区間とは異なる。 優等列車以外は、大きく分けて秋田駅 - 大館駅間、大館駅 - 弘前駅間、弘前駅 - 青森駅間の3系統に分割された運行体系となっており、さらに秋田駅 - 八郎潟駅・東能代駅間、鷹ノ巣駅 - 大館駅・弘前駅間および碇ヶ関駅 - 弘前駅間の区間列車や、秋田駅 - 追分駅間では[[男鹿線]]、弘前駅 - 川部駅間では五能線への直通列車がそれぞれ設定されている。おおむね1 - 2時間に1本程度の運行であるが、秋田駅 - 追分駅・八郎潟駅間、弘前駅 - 青森駅間では1時間に1 - 3本程度運行されている。また、秋田駅 - 青森駅間の直通列車が2019年3月改正の時点で毎日1.5往復設定されている。一部列車はワンマン運転を行っている。2010年代半ば以降、大館駅での系統分割が減少し、弘前駅での系統分割が増加する傾向にある。上りのみ羽越本線への直通列車も運行されており、東能代発[[酒田駅|酒田]]行きが2本、休日運休の八郎潟発[[新屋駅 (秋田県)|新屋]]行きが1本運行されている。 2016年3月26日の改正で、津軽新城駅 - 青森駅間の列車が新設され、そのうち夕方の1本は、[[津軽線]][[蟹田駅|蟹田]]発津軽新城行きで運行される。そのため津軽新城駅 - 青森駅では毎時2 - 3本運転されている。 2010年12月4日の改正において、青森駅 - 弘前駅間で朝5時台の列車と弘前駅終着時刻が日付を跨ぐ最終列車、弘前駅 - 大館駅間で5時台と22時台に列車が増発された。 2019年4月現在、下りには夕方から夜にかけて秋田から弘前・青森行きの快速列車が各1本、上りには朝に大館と弘前から秋田行きの快速列車が各1本(計2往復)設定されている(ただし2018年のダイヤ改正以降、これらの快速列車は秋田駅から八郎潟駅まで各駅停車となった)。このうち朝6時台の大館発秋田行き快速列車は、2002年11月30日までこの区間で設定されていた快速「[[つがる_(列車)#奥羽本線秋田駅_-_青森駅間昼行優等列車沿革|しらゆき]]」のうち最速達列車であった「しらゆき2号」のダイヤを引き継いだものである。残り3本は2016年3月26日のダイヤ改正で減便された特急「[[つがる (列車)|つがる]]」の代替で設定されたものであり<ref group="報道">{{PDFlink|1=[http://www.jreast.co.jp/akita/press/pdf/20151218-1.pdf#page=4 2016年3月ダイヤ改正について]}} - 東日本旅客鉄道秋田支社、2015年12月18日</ref>、このため弘前発着の列車も青森方面との接続が考慮されていて、3本とも秋田駅 - 青森駅間を特急と大差ない3時間前後で到達可能なダイヤである<!--青森まで行かない列車が「秋田駅 - 青森駅間を(中略)運行している」というのは日本語としておかしい-->。2016年3月25日まではこのほかにも、かつて秋田駅 - [[鹿角花輪駅]]([[花輪線]])間で設定されていた急行「[[八幡平 (列車)|よねしろ]]」(2002年12月1日より快速に格下げ)のダイヤを引き継いだ秋田駅 - 大館駅間の快速列車1往復(下り秋田発18時台、上り大館発8時台)が運転されていたが、その後、前述の快速列車と時刻が近接するためそれらに統合され廃止となっている。これらは2008年3月14日までは唯一の奥羽本線 - 花輪線直通列車として[[国鉄キハ58系気動車|国鉄キハ58・28形気動車]]で運行されていた。 また、秋田駅 - 東能代駅間と弘前駅 - 青森駅間で[[五能線]]直通の観光列車「[[リゾートしらかみ]]」が1日3往復(冬期は最大2往復。通常は[[土曜日|土曜]]・[[日曜日]]のみの1往復)運転されている。 1999年頃の大館駅 - 弘前駅間の下りは、8時前後頃から14時前後頃までの間に普通列車が無く、5 - 6時間も運転間隔が開いていた<ref>『JTB時刻表』1999年6月号によると下り大館7時48分発弘前行きの次の列車は13時54分発青森行きとなっている。</ref>。後にこの時間帯に弘前駅 - 大館駅間に1往復毎日運転の[[臨時列車]]が設定され、[[2000年代のJRダイヤ改正#2008年(平成20年)|2008年3月15日のダイヤ改正]]で定期列車化の上、大館駅で接続していた秋田方面との列車と統合され、下りが酒田駅→弘前駅間の列車に、上りが弘前駅→秋田駅間の列車となった<!-- 改正前8641M/8654M 改正後1639M/1654M-->。この列車は後に下りも秋田始発となり、[[2010年代のJRダイヤ改正#2010年(平成22年)|2010年12月4日のダイヤ改正]]で秋田駅 - 大館駅間と大館駅 - 青森駅間の列車に分割された<!--下り1643M・647M/上り654M・1662M-->。そしてこの改正で、新たに大館駅 - 弘前駅間が毎日運転の臨時列車(下り大館発12時台、上り弘前発10時台)となる大館駅 - 青森駅間の列車が1往復新設された<!--『JTB時刻表』2010年3月号、『全国版コンパス時刻表』2010年12月号-->。[[2010年代のJRダイヤ改正#2014年(平成26年)|2014年3月15日のダイヤ改正]]で弘前駅で系統分割され、大館駅 - 弘前駅間の毎日運転の臨時列車は下り大館発11時台、上り弘前発9時台に設定時刻が繰り上げられた<!-- 『JTB時刻表』2012年3月号、同2013年3月号 -->。 <!-- 担当車掌区は以下の通り。 * [[秋田運輸区]]:秋田駅 - 大館駅間、1往復のみ大館駅 - 弘前駅間 * [[東能代運輸区]]:秋田駅 - 大館駅間 * [[つがる運輸区]]:秋田駅 - 青森駅間(普通・快速列車のみ)--> なお、この区間は新幹線以外の在来線優等列車が走る数少ない区間となっている。2016年3月26日改正時点では以下の列車が設定されている。すべて昼行列車。 * 特急列車 ** 特急「[[つがる (列車)|つがる]]」(秋田駅 - 青森駅間) かつて、1992年7月の山形新幹線開業に伴い、山形駅 - 新庄駅・秋田駅間を運行する特急「[[つばさ (列車)#山形新幹線開業後の在来線優等列車|こまくさ]]」が設定されていた。山形新幹線との連絡特急としての存在が大きかったが、平日の日中を中心に乗降客が少なく(とりわけ新庄駅以北は閑散としていた)、また特急でありながら停車駅が比較的多く、特急料金をわざわざ支払って乗車する意義についての沿線住民からの意見もあり、1997年3月の秋田新幹線開業を機に大部分の運転区間が山形駅 - 新庄駅・横手駅間に短縮され、1999年3月の山形新幹線新庄延伸工事を機に新庄駅 - 秋田駅間の快速列車へと代わった<ref group="注釈">その後、各駅停車化されたため、設定由来の異なる湯沢発秋田行きの快速1本を除き、新庄駅 - 大曲駅間の速達列車は全廃となった。</ref>。「こまくさ」は全区間[[特別急行券#在来線特急の料金体系|B特急料金]]が適用されていたため、秋田駅 - 大曲駅間で並走する秋田新幹線「こまち」([[特別急行券#在来線特急の料金体系|A特急料金]]適用)とは特急料金が異なっていた。 2016年3月26日の[[北海道新幹線]]開業前には、同年3月21日まで新青森駅 - 青森駅間で、新青森駅 - 函館駅間の特急[[スーパー白鳥|「白鳥」・「スーパー白鳥」]]が運転されていた。 なお、新青森駅 - 青森駅間は特例として、この区間のみ寝台特急を除く特急列車に乗車する場合は乗車券のみで普通車自由席に乗車可能である。2010年12月の特例実施当初、「[[青春18きっぷ]]」などの一部の[[特別企画乗車券]]にはこの特例は適用されなかったが、2012年夏季より特例が適用されるようになった。 === 貨物輸送 === 2014年3月改正時点での定期貨物列車は、秋田駅 - 新青森駅 - 青森信号場間、土崎駅 - 秋田港駅間で運行されている。横手駅 - 秋田駅間も事業免許は有しているが、横手オフレールステーション発着のトラック便があるのみで、定期貨物列車の運行はない。 秋田駅 - 新青森駅 - 青森信号場間は、前述のように[[日本海縦貫線]]の一部を成しており、貨物輸送が盛んである。当該区間の大半の[[貨物列車]]は、[[国鉄EF81形電気機関車|EF81形]]電気機関車や[[JR貨物EF510形電気機関車|EF510形]]電気機関車が牽引する[[コンテナ車]]で編成された[[高速貨物列車]]である。当該区間のコンテナ取り扱い駅は、秋田貨物駅、大館駅、弘前駅である<ref>{{Cite_journal|和書|author=|year=2014|title=|journal=貨物時刻表 平成26年3月ダイヤ改正|issue=|pages=59|publisher=鉄道貨物協会}}</ref>。 土崎駅 - 秋田港駅間は、1日3往復(うち2本は休日運休)の貨物列車が、秋田貨物駅発着で運行される<ref>{{Cite_journal|和書|author=|year=2014|title=|journal=貨物時刻表 平成26年3月ダイヤ改正|issue=|pages=118|publisher=鉄道貨物協会}}</ref>。 == 使用車両 == === 福島駅 - 新庄駅間 === {{Main2|山形新幹線の列車|山形新幹線|山形線区間の標準軌線上を走行する普通列車|山形線#使用車両|仙山線からの乗り入れ列車|仙山線#運行車両|左沢線からの乗り入れ列車|左沢線#使用車両}} === 新庄駅 - 青森駅間 === {{Main2|大曲 - 秋田間の標準軌線を走行する列車については「[[秋田新幹線]]」を、秋田 - 青森間の特急列車については運行形態の「[[#秋田駅 - 青森駅間]]」の節で挙げた該当列車の項目を}} 普通列車には[[秋田総合車両センター南秋田センター]]に所属する[[JR東日本701系電車|701系]]0・100番台が全区間で使用されるほか、新庄駅 - 真室川駅間の一部の区間列車に[[陸羽東線]]・[[陸羽西線]]の[[間合い運用]]として[[JR東日本キハ100系気動車|キハ110系]]気動車([[小牛田運輸区]]所属)、秋田駅 - 追分駅間で[[男鹿線]]直通列車に[[JR東日本EV-E801系電車|EV-E801系]]蓄電池電車、秋田駅 - 東能代駅間・弘前駅 - 青森駅間で[[五能線]]直通列車や五能線・[[津軽線]]への送り込み運用として[[JR東日本GV-E400系気動車|GV-E400系]]気動車、秋田駅 - 東能代駅間・弘前駅 - 青森駅間で五能線直通の臨時快速列車「リゾートしらかみ」に[[JR東日本HB-E300系気動車|HB-E300系]]気動車が使用される。 == 沿線概況 == 起点である福島駅から米沢駅までの区間はいわゆる峠越えでも名高い[[板谷峠]]を越える。後節でも触れているが、ここは[[蒸気機関車]]時代からの難所であり、電化・高速化および標準軌化による[[ミニ新幹線]]が直通運転されるようになった後も、冬季は雪害による遅延や運休が生じやすい。米沢駅から秋田駅まではほぼ[[奥羽山脈]]の西側に沿う様な形で進路をとる。途中、山形駅までは[[蔵王連峰]]の山々、山形駅から先はしばらく[[月山]]の山を望みながら北上する。秋田駅から男鹿線と分岐する追分あたりまでは海こそ見えないが[[日本海]]沿いを通り、東能代駅まで[[八郎潟]]の東岸を通る。東能代駅から進路を東にとり大館駅を過ぎると再び奥羽山脈に沿う形で北上し[[矢立峠]]を越える。越えた後は弘前駅・浪岡駅などの[[津軽平野]]の中を西側に[[岩木山]]を望みながら走り青森駅へと至る。 == 駅一覧 == === 東日本旅客鉄道 === ==== 福島駅 - 新庄駅間 ==== ここでは駅名および主要な駅のキロ程のみ記載する。廃止駅・廃止信号場は[[#廃駅・廃止信号場|後節]]参照。接続路線などの詳細は「[[山形線#駅一覧]]」を参照。また山形新幹線「つばさ」の停車駅は「[[山形新幹線]]」および「[[つばさ (列車)]]」を参照。 ( ) 内は起点からの営業キロ。 [[福島駅 (福島県)|福島駅]] (0.0km) - [[笹木野駅]] - [[庭坂駅]] - [[板谷駅]] - [[峠駅]] - [[大沢駅 (山形県)|大沢駅]] - [[関根駅]] - [[米沢駅]] (40.1km) - [[置賜駅]] - [[高畠駅]] - [[赤湯駅]] (56.1km) - ([[北赤湯信号場]]) - [[中川駅 (山形県)|中川駅]] - [[羽前中山駅]] - [[かみのやま温泉駅]] - [[茂吉記念館前駅]] - [[蔵王駅]] - [[山形駅]] (87.1km) - [[北山形駅]] - [[羽前千歳駅]] (91.9km) - [[南出羽駅]] - [[漆山駅 (山形県)|漆山駅]] - [[高擶駅]] - [[天童南駅]] - [[天童駅]] - [[乱川駅]] - [[神町駅]] - [[さくらんぼ東根駅]] - [[東根駅]] - [[村山駅 (山形県)|村山駅]] (113.5km) - [[袖崎駅]] - [[大石田駅]] - [[北大石田駅]] - [[芦沢駅]] - [[舟形駅]] - [[新庄駅]] (148.6km) ==== 新庄駅 - 秋田駅間 ==== * 累計営業キロは福島駅起算 * 標準軌線路については秋田新幹線区間のものを記載(山形新幹線・山形線用は同路線記事を参照) * 凡例 ** {{rint|ja|shinkansen|akita}}:秋田新幹線「[[こまち (列車)|こまち]]」停車駅(詳細は列車記事もしくは[[秋田新幹線]]を参照) ** 駅名 … ■:貨物取扱駅([[オフレールステーション]]) ** 停車駅 *** 普通…すべての旅客駅に停車 *** 快速…●印の駅は全列車停車、↓印の駅は全列車通過(矢印の方向のみ運転) ** 線路 *** <nowiki>||</nowiki>:複線区間、◇:単線区間([[列車交換]]可能)、◆:スイッチバック駅(列車交換可能)、|:単線区間(列車交換不可)、∧:これより下は複線(秋田駅標準軌については線路終点、列車交換可能)、∨:これより下は単線、(空欄):線路なし *** {{Colors||#dd0|'''強調表示'''}}(神宮寺駅 - 峰吉川駅間<ref group="*">実際には神宮寺駅構内南側のポイント - 峰吉川駅構内南側のポイント間に該当する。</ref>):1線が軌間1,067mm(狭軌)と軌間1,435mm(標準軌)の[[三線軌条]]、もう1線が標準軌との[[単線並列]]区間。 <!--駅間営業キロはあくまで「駅」間なので信号場は無視してあります--> {| class="wikitable" rules="all" |- !rowspan="2" style="width:6em; border-bottom:3px solid #ee7b28;"|駅名 !colspan="2"|営業キロ !rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:3px solid #ee7b28;"|{{縦書き|快速}} !rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #ee7b28;"|接続路線 !colspan="2" |線路 !rowspan="2" colspan="3" style="border-bottom:3px solid #ee7b28;"|所在地 |- !style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #ee7b28;"|駅間 !style="width:3em; border-bottom:3px solid #ee7b28;"|累計 !style="width:1em; border-bottom:solid 3px #ee7b28;"|{{縦書き|標準軌}} !style="width:1em; border-bottom:solid 3px #ee7b28;"|{{縦書き|狭軌}} |- |[[新庄駅]] |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|148.6 |&nbsp; |[[東日本旅客鉄道]]:{{Color|#ee7b28|■}}[[山形新幹線]]・奥羽本線({{Color|#ee7b28|■}}[[山形線]] [[山形駅|山形]]方面)・{{Color|#888888|■}}[[陸羽東線]]・{{Color|#6fbf7f|■}}[[陸羽西線]] |style="text-align:center;"| |style="text-align:center;"|∨ |style="text-align:center;" rowspan="7"|{{縦書き|[[山形県]]|height=4em}} |rowspan="2" colspan="2"|[[新庄市]] |- |[[泉田駅]] |style="text-align:right;"|5.6 |style="text-align:right;"|154.2 |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |- |[[羽前豊里駅]] |style="text-align:right;"|7.1 |style="text-align:right;"|161.3 |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |rowspan="5" style="text-align:center;"|{{縦書き|[[最上郡]]|height=3.1em}} |[[鮭川村]] |- |[[真室川駅]] |style="text-align:right;"|2.7 |style="text-align:right;"|164.0 |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |rowspan="4" style="white-space:nowrap;"|[[真室川町]] |- |[[釜淵駅]] |style="text-align:right;"|9.2 |style="text-align:right;"|173.2 |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |- |[[大滝駅]] |style="text-align:right;"|7.1 |style="text-align:right;"|180.3 |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |- |[[及位駅]] |style="text-align:right;"|5.5 |style="text-align:right;"|185.8 |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center;"|∧ |- |[[院内駅]] |style="text-align:right;"|8.6 |style="text-align:right;"|194.4 |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center;"|∨ |style="text-align:center;" rowspan="21"|{{縦書き|[[秋田県]]|height=4em}} |rowspan="6" colspan="2"|[[湯沢市]] |- |[[横堀駅]] |style="text-align:right;"|4.0 |style="text-align:right;"|198.4 |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |- |[[三関駅]] |style="text-align:right;"|6.0 |style="text-align:right;"|204.4 |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |- |[[上湯沢駅]] |style="text-align:right;"|2.7 |style="text-align:right;"|207.1 |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |- |[[湯沢駅]] |style="text-align:right;"|3.3 |style="text-align:right;"|210.4 |style="text-align:center;"|● |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |- |[[下湯沢駅]] |style="text-align:right;"|4.1 |style="text-align:right;"|214.5 |style="text-align:center;"|↓ |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |- |[[十文字駅]] |style="text-align:right;"|3.3 |style="text-align:right;"|217.8 |style="text-align:center;"|● |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |rowspan="4" colspan="2"|[[横手市]] |- |[[醍醐駅 (秋田県)|醍醐駅]] |style="text-align:right;"|3.4 |style="text-align:right;"|221.2 |style="text-align:center;"|↓ |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |- |[[柳田駅]] |style="text-align:right;"|3.2 |style="text-align:right;"|224.4 |style="text-align:center;"|↓ |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |- |[[横手駅]]■ |style="text-align:right;"|3.9 |style="text-align:right;"|228.3 |style="text-align:center;"|● |東日本旅客鉄道:{{Color|#851a72|■}}[[北上線]] |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |- |[[後三年駅]] |style="text-align:right;"|6.4 |style="text-align:right;"|234.7 |style="text-align:center;"|↓ |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |rowspan="2" colspan="2"|[[仙北郡]]<br/>[[美郷町 (秋田県)|美郷町]] |- |[[飯詰駅]] |style="text-align:right;"|5.1 |style="text-align:right;"|239.8 |style="text-align:center;"|● |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |- |[[大曲駅 (秋田県)|大曲駅]] {{rint|ja|shinkansen|akita}} |style="text-align:right;"|7.2 |style="text-align:right;"|247.0 |style="text-align:center;"|● |東日本旅客鉄道:{{Color|#ed4399|■}}[[秋田新幹線]]・{{Color|#9d72b0|■}}[[田沢湖線]] |style="text-align:center;"|◆ |style="text-align:center;"|◇ |rowspan="5" colspan="2"|[[大仙市]] |- |[[神宮寺駅]] |style="text-align:right;"|6.0 |style="text-align:right;"|253.0 |style="text-align:center;"|↓ |&nbsp; |style="text-align:center; background:#dd0;"|'''∧''' |style="text-align:center; background:#dd0;"|'''◇''' |- |[[刈和野駅]] |style="text-align:right;"|7.6 |style="text-align:right;"|260.6 |style="text-align:center;"|● |&nbsp; |style="text-align:center; background:#dd0;"|'''<nowiki>||</nowiki>''' |style="text-align:center; background:#dd0;"|'''◇''' |- |[[峰吉川駅]] |style="text-align:right;"|4.8 |style="text-align:right;"|265.4 |style="text-align:center;"|↓ |&nbsp; |style="text-align:center; background:#dd0;"|'''∨''' |style="text-align:center; background:#dd0;"|'''|''' |- |[[羽後境駅]] |style="text-align:right;"|6.5 |style="text-align:right;"|271.9 |style="text-align:center;"|↓ |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |style="text-align:center;"|◇ |- |[[大張野駅]] |style="text-align:right;"|8.1 |style="text-align:right;"|280.0 |style="text-align:center;"|↓ |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |style="text-align:center;"|| |rowspan="4" colspan="2"|[[秋田市]] |- |[[和田駅]] |style="text-align:right;"|5.4 |style="text-align:right;"|285.4 |style="text-align:center;"|● |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |style="text-align:center;"|◇ |- |[[四ツ小屋駅]] |style="text-align:right;"|6.9 |style="text-align:right;"|292.3 |style="text-align:center;"|● |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |style="text-align:center;"|◇ |- |[[秋田駅]] {{rint|ja|shinkansen|akita}} |style="text-align:right;"|6.4 |style="text-align:right;"|298.7 |style="text-align:center;"|● |東日本旅客鉄道:{{Color|#ed4399|■}}秋田新幹線・{{Color|#16c0e9|■}}[[羽越本線]] |style="text-align:center;"|∧ |style="text-align:center;"|∧ |} {{Reflist|group="*"}} 2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計<ref>{{Cite_web|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/|title=各駅の乗車人員|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-7-21}}</ref>の除外対象となる駅(完全な[[無人駅]]。年度途中に無人となった駅を含む))は、泉田駅・羽前豊里駅・釜淵駅・大滝駅・及位駅・院内駅・横堀駅・三関駅・上湯沢駅・下湯沢駅・醍醐駅・柳田駅・後三年駅・大張野駅・四ツ小屋駅である。 ==== 秋田駅 - 青森駅間 ==== * この区間は狭軌 * 累計営業キロは福島駅起算 * 凡例 ** 駅名 … (貨):貨物専用駅、◆・◇・■:貨物取扱駅(貨物専用駅を除く。◇は定期貨物列車の発着なし、■はオフレールステーション) ** 停車駅 *** 普通…基本的にすべての旅客駅に停車<!-- 区間中に貨物駅があるため断り書き-->。ただし一部列車は▽印の駅を通過する。また、津軽湯の沢駅は冬季間(12月1日 ‐ 翌年3月31日)すべての列車が通過する。 *** 快速…●印の駅は停車、|印の駅は通過 **** 弘前始発五能線経由東能代行き快速列車については「[[五能線#駅一覧]]」を参照(撫牛子駅停車) *** 特急「[[つがる (列車)|つがる]]」・臨時快速「[[リゾートしらかみ]]」の停車駅は列車記事を参照 ** 線路…<nowiki>||</nowiki>:複線区間、◇:単線区間([[列車交換]]可能)、∧:これより下は複線、∨:これより下は単線 <!--駅間営業キロはあくまで「駅」間なので信号場は無視してあります--> {| class="wikitable" rules="all" |- !rowspan="2" style="width:9em; border-bottom:3px solid #ee7b28;"|駅名 !colspan="2"|営業キロ !rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:3px solid #ee7b28;"|{{縦書き|快速}} !rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #ee7b28;"|接続路線・備考 !rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:3px solid #ee7b28;"|{{縦書き|線路}} !rowspan="2" colspan="3" style="border-bottom:3px solid #ee7b28;"|所在地 |- !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #ee7b28;"|駅間 !style="width:3em; border-bottom:solid 3px #ee7b28;"|累計 |- |[[秋田駅]] |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|298.7 |style="text-align:center;"|● |東日本旅客鉄道:{{Color|#ed4399|■}}[[秋田新幹線]]・{{Color|#16c0e9|■}}[[羽越本線]] |style="text-align:center;"|∧ |rowspan="27" style="text-align:center;"|{{縦書き|[[秋田県]]|height=4em}} |rowspan="6" colspan="2"|[[秋田市]] |- |[[泉外旭川駅]] |style="text-align:right;"|3.1 |style="text-align:right;"|301.8 |style="text-align:center;"|● |&nbsp; |style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki> |- |(貨)[[秋田貨物駅]] |style="text-align:right;"|0.5 |style="text-align:right;"|302.3 |style="text-align:center;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki> |- |[[土崎駅]] |style="text-align:right;"|3.5 |style="text-align:right;"|305.8 |style="text-align:center;"|● |[[日本貨物鉄道]]:奥羽本線([[#貨物支線|貨物支線]]) |style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki> |- |[[上飯島駅]] |style="text-align:right;"|2.5 |style="text-align:right;"|308.3 |style="text-align:center;"|● |&nbsp; |style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki> |- |[[追分駅 (秋田県)|追分駅]] |style="text-align:right;"|3.4 |style="text-align:right;"|311.7 |style="text-align:center;"|● |東日本旅客鉄道:{{Color|#36823e|■}}[[男鹿線]]<ref group="*">追分駅は男鹿線の起点駅であるが、列車はすべて秋田駅まで乗り入れる。</ref> |style="text-align:center;"|∨ |- |[[大久保駅 (秋田県)|大久保駅]] |style="text-align:right;"|7.2 |style="text-align:right;"|318.9 |style="text-align:center;"|● |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |rowspan="2" colspan="2"|[[潟上市]] |- |[[羽後飯塚駅]] |style="text-align:right;"|3.3 |style="text-align:right;"|322.2 |style="text-align:center;"|● |&nbsp; |style="text-align:center;"|∧ |- |[[井川さくら駅]] |style="text-align:right;"|1.4 |style="text-align:right;"|323.6 |style="text-align:center;"|● |&nbsp; |style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki> |rowspan="2" style="text-align:center;"|{{縦書き|[[南秋田郡]]|height=4.1em}} |[[井川町]] |- |[[八郎潟駅]] |style="text-align:right;"|3.9 |style="text-align:right;"|327.5 |style="text-align:center;"|● |&nbsp; |style="text-align:center;"|∨ |style="white-space:nowrap;"|[[八郎潟町]] |- |[[鯉川駅]] |style="text-align:right;"|5.5 |style="text-align:right;"|333.0 |style="text-align:center;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |rowspan="4" colspan="2"|[[山本郡]]<br>[[三種町]] |- |[[鹿渡駅]] |style="text-align:right;"|5.4 |style="text-align:right;"|338.4 |style="text-align:center;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|∧ |- |[[森岳駅]] |style="text-align:right;"|6.7 |style="text-align:right;"|345.1 |style="text-align:center;"|● |&nbsp; |style="text-align:center;"|∨ |- |[[北金岡駅]] |style="text-align:right;"|4.3 |style="text-align:right;"|349.4 |style="text-align:center;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |- |[[南能代信号場]] |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|352.5 |style="text-align:center;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |rowspan="5" colspan="2"|[[能代市]] |- |[[東能代駅]]◇ |style="text-align:right;"|6.0 |style="text-align:right;"|355.4 |style="text-align:center;"|● |東日本旅客鉄道:{{Color|#0c7aad|■}}[[五能線]] |style="text-align:center;"|◇ |- |[[鶴形駅]] |style="text-align:right;"|4.9 |style="text-align:right;"|360.3 |style="text-align:center;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|∧ |- |[[富根駅]] |style="text-align:right;"|5.2 |style="text-align:right;"|365.5 |style="text-align:center;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki> |- |[[二ツ井駅]] |style="text-align:right;"|6.7 |style="text-align:right;"|372.2 |style="text-align:center;"|● |&nbsp; |style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki> |- |[[前山駅]] |style="text-align:right;"|7.3 |style="text-align:right;"|379.5 |style="text-align:center;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|∨ |rowspan="3" colspan="2"|[[北秋田市]] |- |[[鷹ノ巣駅]] |style="text-align:right;"|5.4 |style="text-align:right;"|384.9 |style="text-align:center;"|● |[[秋田内陸縦貫鉄道]]:{{Color|red|■}}[[秋田内陸縦貫鉄道秋田内陸線|秋田内陸線]] …[[鷹ノ巣駅|鷹巣駅]] |style="text-align:center;"|∧ |- |[[糠沢駅]]▽ |style="text-align:right;"|3.2 |style="text-align:right;"|388.1 |style="text-align:center;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki> |- |[[早口駅]] |style="text-align:right;"|5.4 |style="text-align:right;"|393.5 |style="text-align:center;"|● |&nbsp; |style="text-align:center;"|∨ |rowspan="5" colspan="2"|[[大館市]] |- |[[下川沿駅]] |style="text-align:right;"|4.2 |style="text-align:right;"|397.7 |style="text-align:center;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |- |[[大館駅]]◆ |style="text-align:right;"|5.2 |style="text-align:right;"|402.9 |style="text-align:center;"|● |東日本旅客鉄道:{{Color|#aa1e30|■}}[[花輪線]] |style="text-align:center;"|∧ |- |[[白沢駅 (秋田県)|白沢駅]] |style="text-align:right;"|6.5 |style="text-align:right;"|409.4 |style="text-align:center;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki> |- |[[陣場駅]] |style="text-align:right;"|7.1 |style="text-align:right;"|416.5 |style="text-align:center;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki> |- |[[津軽湯の沢駅]]▽ |style="text-align:right;"|5.8 |style="text-align:right;"|422.3 |style="text-align:center;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki> |rowspan="16" style="text-align:center;"|{{縦書き|[[青森県]]|height=4em}} |rowspan="2" colspan="2"|[[平川市]] |- |[[碇ケ関駅]] |style="text-align:right;"|4.9 |style="text-align:right;"|427.2 |style="text-align:center;"|● |&nbsp; |style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki> |- |[[長峰駅]] |style="text-align:right;"|4.8 |style="text-align:right;"|432.0 |style="text-align:center;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|∨ |rowspan="2" colspan="2"|[[南津軽郡]]<br>[[大鰐町]] |- |[[大鰐温泉駅]] |style="text-align:right;"|3.3 |style="text-align:right;"|435.3 |style="text-align:center;"|● |[[弘南鉄道]]:[[File:Konan_Owani_Line_symbol.svg|15px|KW]] [[弘南鉄道大鰐線|大鰐線]] …[[大鰐温泉駅|大鰐駅]](KW 14) |style="text-align:center;"|◇ |- |[[石川駅 (JR東日本)|石川駅]] |style="text-align:right;"|5.4 |style="text-align:right;"|440.7 |style="text-align:center;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|∧ |rowspan="3" colspan="2"|[[弘前市]] |- |[[弘前駅]]■ |style="text-align:right;"|6.4 |style="text-align:right;"|447.1 |style="text-align:center;"|● |弘南鉄道:[[File:Konan_Konan_Line_symbol.svg|15px|KK]] [[弘南鉄道弘南線|弘南線]](KK 01) |style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki> |- |[[撫牛子駅]] |style="text-align:right;"|2.7 |style="text-align:right;"|449.8 |style="text-align:center;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki> |- |[[川部駅]] |style="text-align:right;"|3.6 |style="text-align:right;"|453.4 |style="text-align:center;"|● |東日本旅客鉄道:{{Color|#0c7aad|■}}五能線<ref group="*">川部駅は五能線の終点駅であるが、列車はすべて弘前駅まで乗り入れる。</ref> |style="text-align:center;"|∨ |rowspan="2" style="text-align:center;"|{{縦書き|南津軽郡|height=4.5em}} |[[田舎館村]] |- |[[北常盤駅]] |style="text-align:right;"|3.2 |style="text-align:right;"|456.6 |style="text-align:center;"|● |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |[[藤崎町]] |- |[[浪岡駅]] |style="text-align:right;"|5.5 |style="text-align:right;"|462.1 |style="text-align:center;"|● |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |rowspan="6" colspan="2"|[[青森市]] |- |[[大釈迦駅]] |style="text-align:right;"|5.1 |style="text-align:right;"|467.2 |style="text-align:center;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |- |[[鶴ケ坂駅]] |style="text-align:right;"|6.2 |style="text-align:right;"|473.4 |style="text-align:center;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |- |[[津軽新城駅]] |style="text-align:right;"|5.4 |style="text-align:right;"|478.8 |style="text-align:center;"|● |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |- |[[新青森駅]] |style="text-align:right;"|1.8 |style="text-align:right;"|480.6 |style="text-align:center;"|● |東日本旅客鉄道:[[File:Shinkansen jre.svg|15px|■]] [[東北新幹線]]・奥羽本線([[#支線|貨物支線]])<br>北海道旅客鉄道:[[File:Shinkansen jrh.svg|15px|■]] [[北海道新幹線]] |style="text-align:center;"|◇ |- |[[青森駅]] |style="text-align:right;"|3.9 |style="text-align:right;"|484.5 |style="text-align:center;"|● |東日本旅客鉄道:{{Color|#15a2c4|■}}[[津軽線]]<br>[[青い森鉄道]]:{{Color|#33cbf4|■}}[[青い森鉄道線]] |style="text-align:center;"|◇ |} {{Reflist|group="*"}} 2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計<ref>{{Cite_web |url=https://www.jreast.co.jp/passenger/ |title=各駅の乗車人員 |publisher=東日本旅客鉄道 |accessdate=2023-10-09}}</ref>の除外対象となる駅(完全な無人駅)は、泉外旭川駅・上飯島駅・鯉川駅・北金岡駅・鶴形駅・富根駅・前山駅・糠沢駅・下川沿駅・白沢駅・陣場駅・津軽湯の沢駅・長峰駅・石川駅・撫牛子駅・川部駅・大釈迦駅・鶴ケ坂駅・津軽新城駅である。 '''過去の接続路線''' <!-- 廃止日は最終営業日の翌日 --> * 湯沢駅:[[羽後交通雄勝線]] - 1973年4月1日廃止 * 横手駅:[[羽後交通横荘線]] - 1971年7月20日廃止 * 秋田駅(駅前連絡):[[秋田市電]] - 1966年3月31日廃止 * 八郎潟駅:[[秋田中央交通線]] - 1969年7月11日廃止 * 二ツ井駅(駅前連絡):[[中西徳五郎経営軌道]] - 1940年3月1日廃止 * 大館駅(駅舎は別に隣接):[[同和鉱業花岡線]] - 1985年4月1日廃止 * 大館駅(駅舎は別に隣接):[[小坂製錬小坂線]] - 1994年10月1日旅客営業廃止、<!--2008年3月6日貨物列車運行中止。-->2008年4月1日休止、2009年4月1日廃止 * 川部駅:[[弘南鉄道黒石線]] - 1998年4月1日廃止 ==== 支線 ==== * 全線単線、青森県青森市に所在 {| class="wikitable" rules="all" |- !style="width:9em;"|駅名 !style="width:2.5em;"|営業キロ !接続路線 |- |新青森駅 |style="text-align:right;"|0.0 |東日本旅客鉄道:東北新幹線 |- |(滝内信号所) |style="text-align:right;"|2.8 |東日本旅客鉄道:奥羽本線(青森駅方面) |- |[[青森信号場]] |style="text-align:right;"|4.8 |青い森鉄道:青い森鉄道線 |} * 実際の分岐点である滝内信号所は青森駅構内扱い。詳しくは、「[[青森駅#滝内信号所]]」の項を参照。 * 第一種鉄道事業者である東日本旅客鉄道の路線としての終点は青森信号場より2駅南の[[東青森駅]]である<ref group="注釈" name="company-youran-fuhyo">{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/youran/pdf/2016-2017/jre_youran_shogen_p81.pdf 会社要覧 2016-2017 - 付表]}}に「新青森〜東青森を含む。」と注記あり。ただし営業キロは支線分を含まない値となっている。</ref>。 * 東日本旅客鉄道としての営業キロの設定はないが<ref>国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』平成28年度版、電気車研究会・鉄道図書刊行会、p.31にこの支線の記述なし</ref><ref group="注釈" name="company-youran-fuhyo" />、日本貨物鉄道が新青森駅 - 青森信号場間に対して第二種鉄道事業の営業キロを設定しており<ref>国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』平成28年度版、電気車研究会・鉄道図書刊行会、p.58</ref>、貨物列車が毎日通過している。2012年3月まで、夜行列車「[[北斗星 (列車)|北斗星]]」「[[トワイライトエクスプレス]]」は青森駅で[[スイッチバック]]をせず、この区間を通過しており{{要出典|date=2017年4月}}<ref>{{Cite web|和書|author=鈴木周作 |date=2012-01-28 |url=http://blog.hokkaido-np.co.jp/syutation/oldentries/archives/2012/01/243.html |title=【北斗星の日々】「北斗星」にもささやかな変化〜平成24年3月ダイヤ改正〜 |work=北の駅の待合室 |publisher=北海道新聞 |accessdate=2017-04-14 }}<!--北斗星のみ言及--></ref>、市販の時刻表でも青森駅の時刻欄に「通過」マークでなく「他線経由」マークが記載されていた。 === 日本貨物鉄道 === ==== 貨物支線 ==== * (貨):貨物専用駅 * 全線単線、秋田県秋田市に所在 {| class="wikitable" rules="all" |- !style="width:9em;"|駅名 !style="width:2.5em;"|営業キロ !接続路線 |- |土崎駅 |style="text-align:right;"|0.0 |東日本旅客鉄道:奥羽本線(本線) |- |(貨)[[秋田港駅]] |style="text-align:right;"|2.7 |&nbsp; |} '''過去の接続路線''' *秋田港駅:[[秋田臨海鉄道]][[秋田臨海鉄道線|北線・南線]] - 2021年4月1日廃止 === 廃駅・廃止信号場 === 駅に変更された信号場は除く。 * [[赤岩駅 (福島県)|赤岩駅]]:2021年3月12日廃止、庭坂駅 - 板谷駅間<ref group="報道" name="press20210120" /><ref group="新聞" name="news20210121" /> * 金谷信号場:1967年1月11日開設、1999年3月12日廃止、楯岡駅(現在の村山駅) - 袖崎駅間 * [[鳥越信号場 (奥羽本線)|鳥越信号場]]:1944年12月1日開設、1960年12月20日廃止、1968年9月25日旧信号場位置から0.5km新庄寄りに再開設、1999年3月12日廃止<ref>今尾恵介監修『日本鉄道旅行地図帳』2号 東北、新潮社、2008年、p.42</ref>、舟形駅 - 新庄駅間 * [[大清水信号場]]:2013年9月27日廃止{{要出典|date=2014年7月}}、追分駅 - 大久保駅間 * 七座信号場:1971年8月5日廃止、二ツ井駅 - 前山駅間(ルート変更のため) * 陸奥森山駅:1940年11月1日廃止、大鰐駅(現在の大鰐温泉駅) - 石川駅間 * 門外駅:1940年11月1日廃止、石川駅 - 大清水駅間 * 大清水駅:1940年11月1日廃止、門外駅 - 弘前駅間 * 和徳駅:1940年11月1日廃止、弘前駅 - 撫牛子駅間 * 豊蒔駅:1940年11月1日廃止、撫牛子駅 - 川部駅間 === 新駅計画 === * 山形駅 - 蔵王駅間に山形市内渋滞の減少、環境負荷低減、赤字路線の収支改善を目的とした新駅を設置する計画がある<ref group="新聞">{{Cite news|url=https://smart.yamagata-np.jp/news/entrance_amp.php?par1=kj_2021022800608|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210301002528/https://smart.yamagata-np.jp/news/entrance_amp.php?par1=kj_2021022800608|title=山形-蔵王間に新駅設置を検討 山形市、鉄道利用しやすく|newspaper=山形新聞|date=2021-02-28|accessdate=2021-03-01|archivedate=2021-03-01}}</ref>。 * あきた蕗仁井田駅(仮称)を四ツ小屋駅 - 秋田駅間に設置する構想がある<ref group="新聞">{{Cite news |和書|title=奥羽線に2新駅計画 JRが20、21年春に|newspaper=秋田魁新報|publisher=秋田魁新報社|date=2006-10-03}}</ref>。 == 平均通過人員 == 各年度の[[輸送密度|平均通過人員]](人/日)は以下の通り<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2009-2013.pdf |format=PDF |title=路線別ご利用状況(2009〜2013年度) |accessdate=2019-11-06 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20191004015258/https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2009-2013.pdf |archivedate=2019-10-04 |publisher=東日本旅客鉄道}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2012-2016.pdf |format=PDF |title=路線別ご利用状況(2012〜2016年度) |accessdate=2023-02-25 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230222003948_/https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2012-2016.pdf |archivedate=2023-02-22 |publisher=東日本旅客鉄道}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2017-2021.pdf |format=PDF |title=路線別ご利用状況(2017〜2021年度) |accessdate=2023-02-15 |publisher=東日本旅客鉄道 |archive-url=https://web.archive.org/web/20220801113624/https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2017-2021.pdf |archive-date=2022-08-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/rosen02.pdf |title=路線別ご利用状況(2018~2022年度) |access-date=2023-08-01 |publisher=東日本旅客鉄道 |archive-url=https://web.archive.org/web/20230707141822/https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/rosen02.pdf |archive-date=2023-07-07}}</ref>。(福島 - 新庄間は[[山形新幹線]]、大曲 - 秋田間は[[秋田新幹線]]を含む。) {| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center;" |- !年度 !全線 !福島 - 米沢 !米沢 -山形 !山形 - 新庄 !新庄 - 湯沢 !湯沢 - 大曲 !大曲 - 秋田 !秋田 - 追分 !追分 - 東能代 !東能代 - 大館 !大館 - 弘前 !弘前 - 青森 |- |1987 || '''9,625'''|| 9,860 |11,346|| 9,024 |4,047 |5,404|| 9,780 |19,457 |7,740 |5,196 |4,175 |9,633 |- |2009 |'''5,176''' | colspan="2" |9,622 |5,577 | colspan="2" |1,168 |8,112 |12,553 | colspan="2" |3,173 |1,720 |7,055 |- |2010 || '''5,069'''|| colspan="2" | 9,126 || 5,503 | colspan="2" |1,121|| 8,120 |12,389 | colspan="2" |3,091 |1,670 |7,377 |- |2011 || '''5,080'''|| colspan="2" | 9,032 || 5,485 | colspan="2" |1,096|| 7,858 |12,269 | colspan="2" |3,093 |1,724 |8,166 |- |2012 || '''5,204'''|| 8,986 |10,527|| 5,607 |569 |1,988|| 7,989 |12,139 |3,741 |2,174 |1,649 |8,102 |- |2013 || '''5,349'''|| 9,366 |10,941|| 5,794 |568 |2,074|| 8,221 |12,215 |3,718 |2,220 |1,718 |8,209 |- |2014 || '''5,121'''|| 9,258 |10,674|| 5,410 |529 |1,988 |7,946 |11,386 |3,384 |1,970 |1,526 |8,085 |- |2015 || '''5,139'''|| 9,418 |10,811|| 5,497 |544 |1,971|| 8,052 |11,388 |3,309 |1,848 |1,368 |8,098 |- |2016 || '''5,009'''|| 9,404 || 10,829 || 5,367 || 462 || 1,856 || 7,911 |11,092 |3,157 |1,635 |1,228 |7,778 |- |2017 || '''5,012'''|| 9,447 || 10,881 || 5,524 || 438 || 1,841 || 7,974 |10,878 |3,100 |1,595 |1,171 |7,680 |- |2018 || '''4,983'''|| 9,517 || 10,886 || 5,483 || 424 || 1,831 || 7,951 |10,690 |2,982 |1,550 |1,139 |7,659 |- |2019 || '''4,794'''|| 8,985 || 10,358 || 5,366 || 416 || 1,704 || 7,578 |10,340 |2,916 |1,485 |1,165 |7,540 |- |2020 || '''2,664'''|| 2,701 || 4,740 || 3,603 || 212 || 1,171 || 3,938 |8,435 |2,152 |1,012 |701 |5,231 |- |2021 || '''2,962'''|| 3,731 || 5,647 || 3,978 || 229 || 1,256 || 4,390 |8,481 |2,168 |1,037 |742 |5,383 |- |2022 |'''3,645''' |6,056 |7,541 |4,407 |262 |1,448 |5,843 |8,910 |2,285 |1,056 |790 |6,033 |} == 経営状況 == 各年度の経営状況は以下の通り<ref name="20220728_ho01" group="報道">[https://www.jreast.co.jp/press/2022/20220728_ho01.pdf ご利用の少ない線区の経営情報を開示します] - JR東日本、2022年7月28日</ref>。100万円以下の端数は切り捨て。 下記の区間は利用者が多い区間で経営状況は開示されていない。 *福島駅 - 山形駅 *山形駅 - 新庄駅 *大曲駅 - 秋田駅 *秋田駅 - 東能代駅 *弘前駅 - 青森駅 それ以外の下記の区間が赤字である。 {| class="wikitable" style="text-align:right;" |+ 新庄駅 - 湯沢駅 |- style="text-align:center;" ! 年度 ! 運輸収入 ! 営業費用 ! 収支 ! [[営業係数]] ! 収支率 |- ! 2019年度 | 9400万円 | 18億5400万円 | -17億5900万円 | 1962円 | 5.1% |- ! 2020年度 | 4100万円 | 17億4100万円 | -16億9900万円 | 4192円 | 2.4% |} {| class="wikitable" style="text-align:right;" |+ 湯沢駅 - 大曲駅 |- style="text-align:center;" ! 年度 ! 運輸収入 ! 営業費用 ! 収支 ! 営業係数 ! 収支率 |- ! 2019年度 | 2億2700万円 | 20億2200万円 | -17億9400万円 | 887円 | 11.3% |- ! 2020年度 | 1億3400万円 | 20億2600万円 | -18億9100万円 | 1510円 | 6.6% |} {| class="wikitable" style="text-align:right;" |+ 東能代駅 - 大館駅 |- style="text-align:center;" ! 年度 ! 運輸収入 ! 営業費用 ! 収支 ! 営業係数 ! 収支率 |- ! 2019年度 | 2億7400万円 | 35億1700万円 | -32億4200万円 | 1282円 | 7.8% |- ! 2020年度 | 1億5300万円 | 34億4400万円 | -32億9000万円 | 2250円 | 4.4% |} {| class="wikitable" style="text-align:right;" |+ 大館駅 - 弘前駅 |- style="text-align:center;" ! 年度 ! 運輸収入 ! 営業費用 ! 収支 ! 営業係数 ! 収支率 |- ! 2019年度 | 2億0700万円 | 26億4400万円 | -24億3700万円 | 1277円 | 7.8% |- ! 2020年度 | 1億0200万円 | 25億5100万円 | -24億4800万円 | 2479円 | 4.0% |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} ==== 報道発表資料 ==== {{Reflist|group="報道"}} ==== 新聞記事 ==== {{Reflist|group="新聞"}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書 |date=1993-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '93年版 |chapter=JR年表 |publisher=ジェー・アール・アール |isbn=4-88283-114-7 |ref=JRR1993 }} == 関連項目 == {{Commons|Category:Ōu Main Line}} * [[日本の鉄道路線一覧]] * [[奥羽新幹線]] * [[秋田新幹線]] * [[山形新幹線]] * [[東北中央自動車道]] * [[秋田自動車道]] * [[国道7号]] * [[国道13号]] * [[奥羽本戦]] == 外部リンク == * [https://www.jreast-timetable.jp/cgi-bin/st_search.cgi?rosen=12&token=&50on= 時刻表 検索結果:JR東日本] {{日本の新幹線}} {{東日本旅客鉄道の鉄道路線}} {{仙台近郊区間}} {{東日本旅客鉄道仙台支社}} {{東日本旅客鉄道秋田支社}} {{東日本旅客鉄道盛岡支社}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:おううほんせん}} [[Category:奥羽本線|*]] [[Category:秋田新幹線|*]] [[Category:東北地方の鉄道路線|おううほん]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道路線|おううほん]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道路線|おううほん]] [[Category:福島県の交通]] [[Category:山形県の交通]] [[Category:秋田県の交通]] [[Category:青森県の交通]]
2003-05-12T03:49:34Z
2023-12-27T16:29:10Z
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ジャレコ
株式会社ジャレコ(JALECO LTD.)は、かつて存在した日本のゲーム開発会社。 1974年10月3日、株式会社ジャパンレジャーとして東京都渋谷区で創業。創業者は金沢義秋(1945年11月12日 - )。1983年3月に株式会社ジャレコに改称し、世田谷区に本社を移転。 ハドソン、ナムコ、タイトー、コナミ、カプコンとともにファミリーコンピュータの初期サードパーティー6社の一角で、任天堂はこれら6社を優遇していた。 1988年3月にコーポレートアイデンティティを導入した。国際科学技術博覧会でシンボルマークをデザインした田中一光によるもので、三本の波線が入ったロゴとなっている。この波線は「エンタテインメント」「テクノロジー」「クリエイティビティ」を表している。なお、2004年に社名を「PCCW Japan」からジャレコに戻してからはロゴが度々変更されたが、シティコネクションが権利を取得してからのジャレコ関連製品は波線ロゴを使用している。 かつてはアーケードゲームの開発販売やアミューズメント施設「ギャレッソ」「you&you」の運営、一般家庭向けのビアサーバー、JAQNOブランドでのアクアリウム用品も製造販売しており、最盛期には世田谷区新町(国道246号線沿い)に直営店「MIZUKUSA倶楽部」を構えていた。これらはいずれも現在は撤退、業務移管済みである。 2000年に、香港のパシフィック・センチュリー・サイバーワークス(PCCW, 電訊盈科)の買収を受け、社名を「パシフィック・センチュリー・サイバーワークス・ジャパン株式会社」(PCCW Japan)に変更した。 2004年1月25日に、再び「株式会社ジャレコ」に社名を戻した。2005年には、主要株主が香港のPCCWからSandringham Fund SPC Limitedに変更。 2006年7月3日付けで、従来の株式会社ジャレコ(初代、旧ジャレコ)がゲーム事業について会社分割(簡易分割)を行い、「2代目」株式会社ジャレコを新設。旧ジャレコは株式会社ジャレコ・ホールディングに社名変更して、持株会社制へ移行。なお、ジャレコ・ホールディングは、引き続きJASDAQに上場(銘柄コード:7954)した。また、ジャレコ・ホールディングの経営陣は、社長である羽田寛を筆頭に旧ライブドア関係者が多数集結しており、不動産業、金融業(証券、FX取引)といった投資関係の業務がメインで、ゲーム部門の売上げは10%ほどだった。 2009年1月15日、早期経営改善が見込めないことからジャレコの全株式が1円でジャレコ・ホールディングから提携先のゲームヤロウ株式会社に売却され、ゲームヤロウの完全子会社となった。この際、ジャレコ・ホールディングは、ジャレコに対する貸付金16億9000万円のうち9億9000万円を放棄している。つまり、ゲームヤロウはジャレコの7億円の負債を引き継ぐ代わりに名目上1円で全株式を購入したという事である。なお、ジャレコ・ホールディングはその後の2009年4月、EMCOMホールディングスに社名変更している。 2013年には事実上の事業停止状態となる。公式ウェブサイトも閉鎖。 2014年5月21日、親会社であるゲームヤロウが、東京地方裁判所において破産手続き開始。負債総額は約22億4000万円と報道されている。これに伴いジャレコは名実共に消滅した。 2013年夏ごろ、株式会社シティコネクションがジャレコ製タイトルの知的財産権(ライセンス)を継承。その後、シティコネクション社が他社にライセンスを貸与する形で、ジャレコIPタイトルの家庭用ゲーム機・スマートフォンのアプリケーションなどへの移植が行われている。
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株式会社ジャレコは、かつて存在した日本のゲーム開発会社。
{{基礎情報 会社 | 社名 = (旧)株式会社ジャレコ | 英文社名 = JALECO LTD. | ロゴ = [[File:Jaleco logo (2007 - present).svg|250px]]<br />2代目ジャレコ設立当初のロゴ | 種類 = [[株式会社]] | 市場情報 = 非上場 | 略称 = | 国籍 = {{JPN}} | 郵便番号 = 141-0031 | 本社所在地 = [[東京都]][[品川区]][[西五反田]]1丁目21番8号<br>KSS五反田ビル 6階 | 設立 = [[2006年]][[7月3日]]※ | 業種 = その他製品 | 事業内容 = 家庭用テレビゲームソフト、携帯アプリ用ゲーム、オンラインゲームの企画、開発、販売他 | 代表者 = | 資本金 = 5000万円 | 売上高 = | 総資産 = | 従業員数 = | 決算期 = | 主要株主 = 株式会社ゲームヤロウ | 主要子会社 = | 関係する人物 = [[金沢義秋]](創業者、元・代表取締役社長)<br>[[羽田寛]](ジャレコHD元社長) | 外部リンク = | 特記事項 = ※旧株式会社ジャレコ(現:[[EMCOMホールディングス]])の持株会社化に伴う新旧分割という形での設立日。創業は旧ジャレコ設立の1974年10月3日。 }} '''株式会社ジャレコ'''(JALECO LTD.)は、かつて存在した[[日本]]のゲーム開発会社。 == 概要 == === 旧:ジャレコ === [[1974年]][[10月3日]]、'''株式会社ジャパンレジャー'''として[[東京都]][[渋谷区]]で創業。創業者は[[金沢義秋]]([[1945年]][[11月12日]] - )。[[1983年]]3月に'''株式会社ジャレコ'''に改称し、[[世田谷区]]に本社を移転。 [[ハドソン]]、[[ナムコ]]、[[タイトー]]、[[コナミ]]、[[カプコン]]とともに[[ファミリーコンピュータ]]の初期[[サードパーティー]]6社の一角で、任天堂はこれら6社を優遇していた。 [[1988年]]3月に[[コーポレートアイデンティティ]]を導入した。[[国際科学技術博覧会]]でシンボルマークをデザインした[[田中一光]]によるもので、三本の波線が入ったロゴとなっている。この波線は「エンタテインメント」「テクノロジー」「クリエイティビティ」を表している<ref>{{Cite news|和書|title=ジャレコ、新本社ビル竣工で 新たにCI導入 3月15日から新ビルで営業開始 |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19880301p.pdf|newspaper=ゲームマシン|issue=327|agency=[[アミューズメント通信社]]|date=1988-03-01|page=3}}</ref>。なお、2004年に社名を「PCCW Japan」からジャレコに戻してからはロゴが度々変更されたが、[[シティコネクション (企業)|シティコネクション]]が権利を取得してからのジャレコ関連製品は波線ロゴを使用している。 かつては[[アーケードゲーム]]の開発販売や[[ゲームセンター|アミューズメント施設]]「[[ギャレッソ]]」「[[you&you]]」の運営、一般家庭向けの[[ビアサーバー]]、[[JAQNO]]ブランドでの[[アクアリウム]]用品も製造販売しており、最盛期には世田谷区新町([[国道246号|国道246号線]]沿い)に直営店「MIZUKUSA倶楽部」を構えていた。これらはいずれも現在は撤退、業務移管済みである。 [[2000年]]に、[[香港]]のパシフィック・センチュリー・サイバーワークス([[PCCW]], 電訊盈科)の買収を受け、社名を「'''パシフィック・センチュリー・サイバーワークス・ジャパン株式会社'''」(PCCW Japan)に変更した。 [[2004年]][[1月25日]]に、再び「'''株式会社ジャレコ'''」に社名を戻した。[[2005年]]には、主要株主が香港のPCCWからSandringham Fund SPC Limited(サンドリンガム)に変更。 === ジャレコ(2代目) === [[2006年]][[7月3日]]付けで、従来の株式会社ジャレコ(初代、旧ジャレコ)がゲーム事業について[[会社分割]]([[簡易分割]])を行い、「2代目」'''株式会社ジャレコ'''(代表取締役社長 本杉進也)を新設。旧ジャレコは[[EMCOMホールディングス|株式会社ジャレコ・ホールディング]]に社名変更して、[[持株会社]]制へ移行。なお、ジャレコ・ホールディングは、引き続き[[ジャスダック|JASDAQ]]に上場(銘柄コード:7954)した。また、ジャレコ・ホールディングの経営陣は、旧武富士、旧[[ライブドア]]関係者が多数集結しており<ref>不振ジャレコに集結、ライブドア人脈の謎(東洋経済オンライン2008年4月17日)</ref>、不動産業、金融業(証券、FX取引)といった投資関係の業務がメインだった。 [[2009年]]1月15日、早期経営改善が見込めないことからジャレコの全株式が1円でジャレコ・ホールディングから提携先の[[ゲームヤロウ]]株式会社に売却され、ゲームヤロウの完全子会社となった<ref>連結子会社の移動(譲渡)および特別損失の発生に関するお知らせ 株式会社ジャレコ・ホールディング・平成21年1月15日プレスリリース</ref>。この際、ジャレコ・ホールディングは、ジャレコに対する貸付金16億9000万円のうち9億9000万円を放棄している。つまり、ゲームヤロウはジャレコの7億円の負債を引き継ぐ代わりに名目上1円で全株式を購入したという事である。なお、ジャレコ・ホールディングはその後の2009年4月、[[EMCOMホールディングス]]に社名変更している。 [[2013年]]には事実上の事業停止状態となる。公式ウェブサイトも閉鎖。 [[2014年]]5月21日、親会社であるゲームヤロウが、[[東京地方裁判所]]において[[破産]]手続き開始。[[負債]]総額は約22億4000万円と報道されている<ref>{{cite news|url =https://www.4gamer.net/games/999/G999905/20140528115/|title =ゲームヤロウが東京地裁より破産手続きの開始決定を受ける|publisher=4Gamer.net| date = 2014-05-28|accessdate = 2014-05-28}}</ref><ref>{{cite news|url =https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/650753.html|title =ゲームヤロウ、破産手続きを開始|publisher=Impress GAME Watch| date = 2014-05-28|accessdate = 2014-05-28}}</ref>。これに伴いジャレコは名実共に消滅した。 === 現在の動向 === 2013年夏ごろ、株式会社[[シティコネクション (企業)|シティコネクション]]がジャレコ製タイトルの[[知的財産権]](ライセンス)を継承<ref>{{cite news|url =https://www.inside-games.jp/article/2015/08/25/90561.html|title =【インタビュー】まさに衝撃!PS4版『燃えプロ』最大の疑問「なぜ作ることになったのか」を開発陣に訊いた|publisher= 総合ゲーム情報メディア:インサイド(株式会社イード)| date = 2015-08-25|accessdate = 2014-08-27}}</ref>。その後、シティコネクション社が他社にライセンスを貸与する形で、ジャレコIPタイトルの家庭用ゲーム機・スマートフォンのアプリケーションなどへの移植が行われている。 == 沿革 == === 旧:ジャレコ === * [[1974年]]10月 - 「'''株式会社ジャパンレジャー'''」として創業(現法人とは別会社。現:[[EMCOMホールディングス]])。資本金300万円。アミューズメント機器の取扱い商社として営業を開始。 * [[1977年]] - アミューズメント機器のメーカーとして商品開発、生産を開始。 * [[1983年]]3月 - '''株式会社ジャレコ'''に社名変更。 * [[1985年]] - [[任天堂]][[ファミリーコンピュータ]]用ゲームソフトを開発し、販売を開始。その後、1990年(平成2年)に[[ゲームボーイ]]用、1991年(平成3年)には[[スーパーファミコン]]用ソフトを開発・販売を開始。 * [[1988年]]9月 - 株式を[[社団法人]][[日本証券業協会]]へ店頭銘柄として登録。 * [[2000年]]10月 - 香港[[パシフィック・センチュリー・サイバーワークス]](PCCW)が株式の過半数を取得し、社名を'''パシフィック・センチュリー・サイバーワークス・ジャパン株式会社'''(PCCW Japan)に変更。PCCW Japan名義のブランド名でゲームソフトを販売。 * [[2003年]] - 本社を[[六本木ファーストビル]]に移転。 * 2004年 - 社名を'''株式会社ジャレコ'''に戻す。 * [[2005年]] - 主要株主がPCCWから[[イギリス|英]] {{lang|en|Sandringham Fund SPC Limited}} に変更。赤字の事業を閉鎖し、ゲーム部門の大リストラを行う。その後、[[日本中央地所]]の買収による完全子会社化、買収先の投資会社の意向で[[投資ファンド]]的な業務形態に事業転換。 * [[2006年]] - オンラインゲーム事業への進出を発表。6月、株式会社[[トレイダーズ証券|パンタ・レイ証券]]を完全子会社化、証券業への参入。 === ジャレコ(2代目)=== * [[2006年]][[7月3日]] - [[持株会社]]体制へ移行。(旧)株式会社ジャレコは'''株式会社ジャレコ・ホールディング'''に社名変更し、ゲーム事業は会社分割で新設した'''株式会社ジャレコ(現法人)'''に移管。 * [[2006年]]8月 - 親会社は赤坂DSビルに、株式会社ジャレコは市谷中央ビルに移転。 * [[2007年]]12月 - モバイルゲーム事業の社内開発チーム解散。 * [[2008年]] - 株式会社ジャレコが赤坂DSビルに移転、オンラインゲーム事業からは撤退。 * [[2009年]]1月 - 株式会社ジャレコが[[ゲームヤロウ]]株式会社の完全子会社となる。 * [[2012年]]1月 - [[バーチャルコンソール]]、[[ゲームアーカイブス]]向けのライセンスを[[ハムスター (ゲーム会社)|ハムスター]]に提供。 * [[2013年]]春 - 事実上の事業停止。 * [[2013年]]夏 - [[シティコネクション (企業)|株式会社シティコネクション]]へ全ゲームタイトルの版権を譲渡。 * [[2014年]]5月 - 親会社であるゲームヤロウ破産に伴い、名実ともに消滅。 == 業務用(アーケード)ゲーム作品 == * [[インベーダーゲーム#スペースインベーダー亜流のもの|スペースコンバット]] 『スペースインベーダー』の[[コピーゲーム]]。この時代にテレビゲームに参入した会社は、『[[ブロックくずし]]』からの参入が圧倒的に多いが、同社はインベーダーからである。 * [[アーガス]] * [[アイドル雀士スーチーパイ]]シリーズ * [[ARM CHAMPS]] * [[E.D.F.]] * [[伊賀忍術伝 五神の書]] * [[VS雀士ブランニュースターズ]] * [[エクセリオン]] * [[エクセライザー]] * [[F-1グランプリスター]] * [[F-1グランプリスター2]] * [[F-1スーパーバトル]] * [[オーバーレブ (アーケードゲーム)|オーバーレブ]] * [[キャプテンフラッグ]] * [[銀河任侠伝]] * [[ゲーム天国]] * [[サイキック5]] * [[サイバトラー]] * [[ザ・ロードオブキング]] * [[シスコヒート]] * [[シティコネクション (ゲーム)|シティコネクション]] * [[スカッドハンマー]] * [[ステッピングステージ]] * [[ソルダム (ゲーム)|ソルダム]] * [[武田信玄 (アーケードゲーム)|武田信玄]] * [[D-デイ (ジャレコ)|D-デイ]] * [[テトリス|テトリスプラス]] * [[天聖龍]] * [[ドリームオーディション]] * [[ノーティボーイ (ゲーム)|ノーティボーイ]] * [[早押しクイズ王座決定戦]] * [[バルトリック]] * [[ビッグラン]] * [[P-47 (ゲーム)|P-47]] * [[P-47 ACES]] * [[ファンタズム (ジャレコ)|ファンタズム]] * [[フィールドコンバット]] * [[フォーメーションZ]] * [[VJ (アーケードゲーム)|VJ]] * [[ぶたさん]] * [[プラスアルファ (シューティングゲーム)|プラスアルファ]] * [[ブループリント]] * [[ベストバウトボクシング]] * [[ポップフレーマー]] * [[魔魁伝説]] * [[モモコ120%]] * [[妖精物語ロッドランド]] * [[流星雀士キララ☆スター]] * [[ルー大柴&細川ふみえ 早押しクイズグランドチャンピオン大会]] * [[レイブマスター]] * [[64番街]] * [[ロックントレッド]] * [[ロックンメガセッション]] == 家庭用(コンシューマ)ゲーム作品 == * [[アーガス]] * [[アイドル雀士スーチーパイ]]シリーズ ** アイドル雀士R 雀ぐる★プロジェクト(2002年)PlayStation 2 ** 美少女雀士スーチーパイ(1993年)スーパーファミコン ** アイドル雀士スーチーパイ II Limited(1996年)PlayStation ** アイドル雀士スーチーパイ III Remix(2007年)PlayStation Portable ** アイドル雀士 スーチーパイ IV(2007年)PlayStation 2 ** アイドル雀士スーチーパイ Limited(1995年)PlayStation ** アイドル雀士をつくっちゃおう(1999年)ドリームキャスト * [[怒りの要塞]] * [[怒りの要塞2]] * [[宇宙船コスモキャリア]] * [[モモコ120%|うる星やつら ラムのウェディングベル]] * [[エクセリオン]] * [[エスパ冒険隊 魔王の砦]] * [[黄金の絆]](2009年)Wii * [[落っことしパズル とんじゃん!?]] * おとなのギャル雀2 〜恋して倍満!〜(2005年)PlayStation 2 * おとなのギャル雀 〜きみにハネ満!〜(2003年)PlayStation 2 * OPTIONチューニングカーバトル2(1999年)PlayStation * かわいいペットショップ物語3(2002年)ゲームボーイアドバンス * [[きんぎょ注意報!|きんぎょ注意報!とびだせ!ゲーム学園]] * [[GUNばれ!ゲーム天国]](1998年)PlayStation * CARRIER(2000年)ドリームキャスト * キングダムアンダーファイア 〜ザ・クルセイダーズ〜(2005年) Xbox * [[Get'虫倶楽部 みんなの昆虫大図鑑]](1999年) ゲームボーイカラー * [[ゲーム天国]] * [[高速機動隊World Super Police〜|高速機動隊〜World Super Police〜]](2005年) PlayStation 2 * [[西遊記ワールド]] * [[西遊記ワールドII 天上界の魔神]] * [[ザ・ロードオブキング]] * [[シティコネクション (ゲーム)|シティコネクション]] * [[爆走デコトラ伝説|真・爆走デコトラ伝説 〜天下統一頂上決戦〜]] * シーバス1-2-3 DESTINY!運命を変える者!(2000年) PlayStation * じゃじゃ丸Jr.伝承記 〜ジャレコレもあり候〜(2004年)ゲームボーイアドバンス * [[スイートレガシー]] * [[ステッピングステージ|ステッピングセレクション]] * SLAM DRAGON(1996年)PlayStation * [[全国デコトラ祭り]] * TurfWind '96(1996年)PlayStation * DOUBLE HEADER 燃えろ!! プロ野球 '95(1995年)PlayStation * [[ダライアス|ダライアスR]] * [[ちゅ〜かな雀士 てんほー牌娘 Remix]] * チージィー(1997年)PlayStation * [[中国占星術]] * [[チョップリフター]] * [[Tから始まる物語]] * [[つるピカハゲ丸]]めざせ!つるセコの証 * [[DEAD DANCE]] * [[テトリス|テトリスプラス]] * [[寺尾のどすこい大相撲]] * [[伝説の騎士エルロンド]] * [[闘魂倶楽部]] * [[ドラゴンシーズ 最終進化形態]] * [[ドリームオーディション]] * [[忍者じゃじゃ丸くん]]シリーズ ** 忍者じゃじゃ丸くん 鬼斬忍法帖(1997年)PlayStation ** 元祖じゃじゃ丸くん(1999年)ワンダースワン * [[ネプリーグ|ネプリーグDS]] *[[ネプリーグ|超!!ネプリーグDS]] * [[眠れない夜とパズルの日には…。]] * [[バイオ戦士DAN]] * [[爆走兄弟レッツ&ゴー!! エターナルウィングス]] * [[バトル昆虫伝]] * [[バトルユニットZEOTH]] * [[バニシングレーサー]] * [[早押しクイズ王座決定戦]] * [[ヒーロー集合!! ピンボールパーティ]] * [[ピザポップ|PIZZA POP!]] * [[ビッグラン]] * [[ピンボールクエスト]] * [[ファイヤー・ファイティング]] * [[ファンタステップ]] * [[ファンタズム (ジャレコ)|ファンタズム]] * [[フーリガン (ゲーム)|フーリガン〜君のなかの勇気〜]] * [[フィールドコンバット]] * [[フォーメーションZ]] * [[ぷちぷちウイルス]] * [[プラズマ・ボール (ゲーム)|プラズマ・ボール]] * [[マジックジョン]] * [[マニアックマンション]] * [[ミシシッピー殺人事件]] * [[爆走兄弟レッツ&ゴー!!#ゲーム|ミニ四駆爆走兄弟レッツ&ゴー!! 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アイレムソフトウェアエンジニアリング
アイレムソフトウェアエンジニアリング株式会社(英: IREM SOFTWARE ENGINEERING INC.)は、アイレム(irem)のブランド名で商品展開を行っている日本のゲーム会社、ならびに映像制作メーカー。EIZO株式会社の完全子会社。コンピュータエンターテインメント協会正会員。 かつてナナオ(現・EIZO)は傘下にアイレム株式会社を持ち、ゲーム開発に携わっていたが、『レジェンド・オブ・ヒーロー・トンマ』や『ゲオポリティク島における国家興亡論』など、発売中止に終わったファミリーコンピュータ作品が多く、1994年にゲーム開発から一旦撤退した。ゲーム開発を再開するにあたり、100%子会社としてアイレムソフトウェアエンジニアリング株式会社を設立、アイレム株式会社よりゲーム事業、及び版権を譲り受けた。 旧アイレム時代からの作品『大工の源さん』は他にウェブアニメ及びコンシューマーゲームとしても制作されている。 2006年5月、東京都港区赤坂に東京開発室を開設した。同年7月、通信販売サイト「アイレム横丁」の運営を開始。 2011年3月、東日本大震災など諸々の事情で開発中のゲームタイトルが開発中止と同時に、5月に「アイレム横丁」の終了宣言、サイト内のコンテンツの縮小、8月11日にPlayStation Homeのラウンジ(ソニー・コンピュータエンタテインメントに次ぐ数のラウンジを設置していた)の大幅な縮小が行われた。 また、R-TYPEシリーズ等、バーチャルコンソール・PlayStation Storeにて配信されていたソフトの大半が配信終了となり、以前から提携していた三洋物産のパチンコ・パチスロ関連のソフトを中心とした事業展開に大きく舵を切っている(その過程で、パチパラシリーズの開発は継続)。2013年にはアプリ開発も行っており、2017年ではパチンコ・パチスロ以外のソフトに開発協力として参加。 『みんなでスペランカー』を始めとするスペランカーの権利関係については、元アイレム社員が設立したTozai Gamesへ配信元が移管された。 2011年4月、九条一馬ら一部のスタッフが退社。独立して新たにゲーム会社グランゼーラを設立した。代表取締役は「アイレム横丁」の責任者を務めた名倉剛。これに関して、かつての関係者であり九条と交友関係のある稲葉敦志が、5月25日にTwitterでつぶやいたことで広まった。 以前のアイレム(現:アピエス)の作品も参照。 パチンコ・スロット関係(パチパラシリーズ(三洋パチンコパラダイスシリーズ)) 公式サイトでは1998年から毎年4月1日にエイプリルフール企画が披露されていた。年を経るごとに、次第に壮大かつ派手なものになっていた。2011年は諸般の事情により中止となった。東日本大震災に伴う自粛と思われる。 九条一馬在籍当時は、この企画のために、前年11月頃から社内で準備を開始し、しかもかなり手の込んだものを作った年もあった。また、登場したもののうち、いくつかはアイレムのゲーム内で登場している(『どきどきすいこでん』は、アイレムHP内の4コマ漫画の題材になっている)。上述のアイレム横丁についても、同様にジョーク商品を紹介した。また、アイレムはPlaystation Homeに多くのラウンジを設置していたため、それらの場所でもオブジェクトを書き変えたイベントが行われていた。 企業系サイトがエイプリルフール企画を仕掛ける先駆けでもあると言われており、エイプリルフール企画を仕掛ける日本の企業系サイトがリストアップされる際、円谷プロ等と並んでたびたび大きく名が載るほどであった。 中でも2001年のエイプリルフール企画であった架空の恋愛ゲーム『どきどきすいこでん』は、アイレムのサイトコンテンツにもたびたび登場し、2011年に現実のゲームソフトとして発売されることになった。 2011年、エイプリルフール企画を主導した九条一馬らが退社。アイレムのサイトから過去(2010年以前)のエイプリルフール企画のコンテンツが削除された。2012年にはエイプリルフール企画を再開したが規模は縮小され、2013年は全く行われなかった。 アイレム横丁でも、「目盛りのない分度器」といった商品が売られていたり、東京ゲームショウに出展したときには、前述した実物大のトロットビークルを運搬してきたり、『るるぶ』をもじった本『アイレムぶるるん』を配布したり、さらには親会社であるナナオの得意分野であるディスプレイ「アシュラ」の公開など、ギャグが多い。 2010年の東京ゲームショウでは、通常のゲームメーカーとしての出展と物販ブースへの「アイレム横丁」出展に加えて、飲食ブースで新作タイトル『絶体絶命都市4』と金沢カレーをコラボレーションさせた「絶体絶命カレー」を販売。ケータリング専門業者への委託ではなく自社運営で、領収書には「アイレムソフトウェアエンジニアリング株式会社」の判が押されていた。またこのカレーの販売については『アイレムぶるるん』でも紹介されている。 なお、PS Storeにて『アイレムぶるるん デジタル版』が2011年1月27日に創刊された。デジタル版には付録が付いている内容となっている。 上記のエイプリルフール企画をはじめ、アイレムのサイトの歴史はかなり長く、このふる里4コマ小唄は、1998年より毎週追加更新され、2009年1月18日現在、500回を超える長期連載となっている。 ほとんどの内容が社員の手書きによるものであり、その内容もアイレム横丁の物販特典や開発環境に関する内輪受けのものから、2010年まで本社があった石川県や兼六園に関するもの、『ぐっすんおよよ』や『スペランカー先生』と言った自社のキャラクターを題材にしたものなど様々であり、地味ながらも脈々と続くコンテンツである。557回目でエンターブレインより連載をまとめた1冊の本として発売の予定を告知する漫画が連載され、2009年7月1日に「スペランカー先生 アイレム発特撰ふる里4コマ小唄」として刊行された。 2011年3月に『絶体絶命都市4』の発売中止告知がなされた際、同名のページは開発者が綴る日記のコーナーとともに削除された。 2015年4月には「IREMひみつ情報局」という形で日記が再開している。
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アイレムソフトウェアエンジニアリング株式会社は、アイレム(irem)のブランド名で商品展開を行っている日本のゲーム会社、ならびに映像制作メーカー。EIZO株式会社の完全子会社。コンピュータエンターテインメント協会正会員。
{{Otheruses|1997年に設立された会社|それ以前のアイレム|アピエス}} {{Pathnav|EIZO|frame=1}} {{基礎情報 会社 |社名 = アイレムソフトウェアエンジニアリング株式会社 |英文社名 = IREM SOFTWARE ENGINEERING INC. |ロゴ = [[File:Irem Logo.png|200px]] |種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] |市場情報 = |略称 = アイレム、IREM、アイレムソフト |国籍 = {{JPN}} |本社郵便番号 = 101-0042 |本社所在地 = [[東京都]][[千代田区]]神田東松下町39番地<br />神田トーセイビル4階 |本社緯度度 = 35|本社緯度分 = 41|本社緯度秒 = 38.4|本社N(北緯)及びS(南緯) = N |本社経度度 = 139|本社経度分 = 46|本社経度秒 = 21.9|本社E(東経)及びW(西経) = E |本社地図国コード = JP-13 |本店郵便番号= 924-0051 |本店所在地= [[石川県]][[白山市]]福留町655番地 |本店緯度度 = 36|本店緯度分 = 29|本店緯度秒 = 8.2|本店N(北緯)及びS(南緯) = N |本店経度度 = 136|本店経度分 = 31|本店経度秒 = 36.1|本店E(東経)及びW(西経) = E |本店地図国コード = JP-17 |設立 = [[1997年]][[4月15日]] |業種 = 5250 |事業内容 = パチンコ・パチスロ向け映像ソフトの開発<br />家庭用ビデオゲームソフトの開発・製造とその販売 |代表者 = 代表取締役社長 小野正貴 |資本金 = 3000万円 |売上高 = 782億円(2017年3月/グループ連結) |総資産 = |従業員数 = 216名(2017年3月1日現在) |決算期 = |主要株主 = [[EIZO]]株式会社 100% |主要子会社 = |関係する人物 = 松本誠二(取締役)<br />[[九条一馬]](元社員) |外部リンク = {{Official URL}} |特記事項 = }} '''アイレムソフトウェアエンジニアリング株式会社'''({{Lang-en-short|IREM SOFTWARE ENGINEERING INC.}})は、'''アイレム'''('''irem''')のブランド名で商品展開を行っている[[日本]]の[[ゲーム会社]]、ならびに映像制作メーカー。[[EIZO]]株式会社の完全子会社。[[コンピュータエンターテインメント協会]]正会員。 == 概要 == かつてナナオ(現・[[EIZO]])は傘下に[[アピエス|アイレム株式会社]]を持ち、ゲーム開発に携わっていたが、『レジェンド・オブ・ヒーロー・トンマ』や『ゲオポリティク島における国家興亡論』<ref>M.B.MOOK『懐かしファミコンパーフェクトガイド』63ページ</ref>など、発売中止に終わった<ref>前者はもともと[[アーケードゲーム]]作品であったが、のちに[[PCエンジン]]作品として発売されている</ref>[[ファミリーコンピュータ]]作品が多く、1994年にゲーム開発から一旦撤退した。ゲーム開発を再開するにあたり、100%子会社としてアイレムソフトウェアエンジニアリング株式会社を設立、アイレム株式会社よりゲーム事業、及び版権を譲り受けた。 旧アイレム時代からの作品『大工の源さん』は他にウェブアニメ及びコンシューマーゲームとしても制作されている。 2006年5月、[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]に東京開発室を開設した。同年7月、通信販売サイト「アイレム横丁」の運営を開始。 2011年3月、[[東日本大震災]]など諸々の事情で開発中のゲームタイトルが開発中止と同時に、5月に「アイレム横丁」の終了宣言、サイト内のコンテンツの縮小、8月11日に[[PlayStation Home]]のラウンジ([[ソニー・インタラクティブエンタテインメント|ソニー・コンピュータエンタテインメント]]に次ぐ数のラウンジを設置していた)の大幅な縮小が行われた。 また、[[R-TYPE]]シリーズ等、[[バーチャルコンソール]]・[[PlayStation 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(大阪市)|西中島]]にて大阪開発室開設。 * 2006年(平成18年)5月 - [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]にて東京開発室開設。 * 2007年(平成19年)4月 - PS3用ゲームソフト開発開始。 * 2008年(平成20年)4月 - 東京開発室を[[台東区]][[駒形]]に移転。 * 2010年(平成22年)11月 - 東京開発室を解消し、開発本部及び東京開発部を設置。石川県白山市から東京に本社機能を移転。 * 2011年(平成23年) 2月 - 東京本社を[[千代田区]][[神田東松下町]]に移転。 * 2013年(平成25年) 10月 - [[愛知県]][[名古屋市]]千種内山に名古屋事業所を開設。 * 2018年(平成30年) 10月 - 名古屋事業所を同市[[中区 (名古屋市)|中区]][[栄 (名古屋市)|栄]]に移転。 == 事業所 == * 石川事業所(登記上の本店) - [[石川県]][[白山市]]福留町 * 名古屋事業所 - [[愛知県]][[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]][[栄 (名古屋市)|栄]] == ゲーム作品 == 以前のアイレム(現:[[アピエス]])の作品も参照。 {{dl2 | 1998年 | * [[R-TYPE|R-TYPES]](PS) * [[R-TYPE Δ]](PS) | 2000年 | * [[カートンくん]](PS) | 2001年 | * [[激写ボーイ2 〜特ダネ大国ニッポン〜]]([[PlayStation 2|PS2]]) | 2002年 | * [[絶体絶命都市]](PS2) * [[-U- underwater unit]](PS2) | 2003年 | * [[R-TYPE FINAL]](PS2) | 2004年 | * [[桜坂消防隊]](PS2) | 2005年 | * [[ポンコツ浪漫大活劇バンピートロット]](PS2) * [[ブロックス倶楽部|ブロックス倶楽部 with バンピートロット]](PS2) | 2006年 | * [[絶体絶命都市2 -凍てついた記憶たち-]](PS2) * [[ブロックス倶楽部|ブロックス倶楽部ポータブル with バンピートロット]]([[PlayStation Portable|PSP]]) | 2007年 | * [[ブロックス倶楽部]]([[Microsoft Windows 2000|Windows 2000]]、[[Microsoft Windows XP|XP]]) * [[マワスケス based on "Carton-kun"]](PSP) * [[R-TYPE TACTICS]](PSP) | 2008年 | * [[いくぜっ!源さん 〜夕焼け大工物語〜]](PSP) * [[ポンコツ浪漫大活劇バンピートロット|ポンコツ浪漫大活劇バンピートロット ビークルバトルトーナメント]](PSP) * [[戦国絵札遊戯 不如帰 -HOTOTOGISU- 乱]](PSP) | 2009年 | * [[みんなでスペランカー]]([[PlayStation 3|PS3]]) * [[絶体絶命都市3 -壊れゆく街と彼女の歌-]](PSP) * [[スペランカー]](Windows XP SP2、[[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]]) * [[なりそこない英雄譚〜太陽と月の物語〜]](PSP) * [[R-TYPE TACTICS II -Operation BITTER CHOCOLATE-]](PSP) | 2010年 | * [[戦国絵札遊戯 不如帰 -HOTOTOGISU- 乱|戦国絵札遊戯 不如帰 大乱]](PSP) | 2011年 | * [[どきどきすいこでん]](PSP) | 発売中止 | * [[ポンコツ浪漫大活劇バンピートロット2]](PS3) * [[絶体絶命都市4Plus -Summer Memories-|絶体絶命都市4 -Summer Memories-]](PS3)※後にグランゼーラが開発を再開 }} '''パチンコ・スロット関係'''([[パチパラシリーズ]](三洋パチンコパラダイスシリーズ)) * [[海物語シリーズ]] * [[わんわんパラダイス]] * [[CR大工の源さん|大工の源さん]]シリーズ == 笑いの提供 == {{ファンサイト的|date=2018年12月|section=1}} === エイプリルフール企画 === 公式サイトでは1998年から毎年4月1日に[[エイプリルフール]]企画が披露されていた。年を経るごとに、次第に壮大かつ派手なものになっていた。2011年は諸般の事情により中止となった<ref>{{Cite web|和書|date=2011-03-18|url=http://www.irem.co.jp/oshirase/110318.html|title=エイプリルフールイベントに関するお知らせとお詫び|publisher=アイレムソフトウェアエンジニアリング|accessdate=2011-03-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110321083146/http://www.irem.co.jp/oshirase/110318.html|archivedate=2011年3月21日|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>。[[東日本大震災]]に伴う自粛と思われる。 九条一馬在籍当時は、この企画のために、前年11月頃から社内で準備を開始し、しかもかなり手の込んだものを作った年もあった。また、登場したもののうち、いくつかはアイレムのゲーム内で登場している(『どきどきすいこでん』は、アイレムHP内の4コマ漫画の題材になっている)。上述のアイレム横丁についても、同様にジョーク商品を紹介した。また、アイレムはPlaystation Homeに多くのラウンジを設置していたため、それらの場所でもオブジェクトを書き変えたイベントが行われていた。 企業系サイトがエイプリルフール企画を仕掛ける先駆けでもあると言われており、エイプリルフール企画を仕掛ける日本の企業系サイトがリストアップされる際、[[円谷プロダクション|円谷プロ]]等と並んでたびたび大きく名が載るほどであった。 中でも2001年のエイプリルフール企画であった架空の恋愛ゲーム『[[どきどきすいこでん]]』は、アイレムのサイトコンテンツにもたびたび登場し、2011年に現実のゲームソフトとして発売されることになった。 2011年、エイプリルフール企画を主導した九条一馬らが退社。アイレムのサイトから過去(2010年以前)のエイプリルフール企画のコンテンツが削除された。2012年にはエイプリルフール企画を再開したが規模は縮小され、2013年は全く行われなかった。 ; 参考文献 * 九条一馬「存在感と存在価値を取り戻すために -エイプリルフールコンテンツに込めた思い-」(『テレビゲームのちょっといいおはなし・5』、[[コンピュータエンターテインメント協会]]、2008年、31-37頁) : [https://www.cesa.or.jp/efforts/howto/iihanashi.html CESA:ゲームのちょっといいおはなし]より、[[Portable Document Format|PDF]]ファイルとしてダウンロード可能(2022年10月6日現在)。 === ゲームショウなど === アイレム横丁でも、「目盛りのない分度器」といった商品が売られていたり、[[東京ゲームショウ]]に出展したときには、前述した実物大のトロットビークルを運搬してきたり、『[[るるぶ]]』をもじった本『アイレムぶるるん』を配布したり、さらには親会社であるナナオの得意分野であるディスプレイ「アシュラ」の公開など、ギャグが多い。 2010年の東京ゲームショウでは、通常のゲームメーカーとしての出展と物販ブースへの「アイレム横丁」出展に加えて、飲食ブースで新作タイトル『絶体絶命都市4』と[[金沢カレー]]をコラボレーションさせた「絶体絶命カレー」を販売。[[ケータリング]]専門業者への委託ではなく自社運営で、領収書には「アイレムソフトウェアエンジニアリング株式会社」の判が押されていた。またこのカレーの販売については『アイレムぶるるん』でも紹介されている。 なお、PS Storeにて『アイレムぶるるん デジタル版』が2011年1月27日に創刊された。デジタル版には付録が付いている内容となっている。 === ふる里4コマ小唄 === 上記のエイプリルフール企画をはじめ、アイレムのサイトの歴史はかなり長く、このふる里4コマ小唄は、1998年より毎週追加更新され、2009年1月18日現在、500回を超える長期連載となっている。 ほとんどの内容が社員の手書きによるものであり、その内容もアイレム横丁の物販特典や開発環境に関する内輪受けのものから、2010年まで本社があった[[石川県]]や[[兼六園]]に関するもの、『[[ぐっすんおよよ]]』や『[[スペランカー|'''スペランカー先生''']]』と言った自社のキャラクターを題材にしたものなど様々であり、地味ながらも脈々と続くコンテンツである。557回目でエンターブレインより連載をまとめた1冊の本として発売の予定を告知する漫画が連載され、2009年7月1日に「スペランカー先生 アイレム発特撰ふる里4コマ小唄」として刊行された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.enterbrain.co.jp/pickup/2009/spelunker/index.html|title=スペランカー先生~アイレム発 特撰ふる里4コマ小唄~|accessdate=2018-04-07|website=Enterbrain|publisher=}}</ref>。 2011年3月に『絶体絶命都市4』の発売中止告知がなされた際、同名のページは開発者が綴る日記のコーナーとともに削除された。 2015年4月には「IREMひみつ情報局」という形で日記が再開している。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[エクシング]] == 外部リンク == * {{Official website|name=アイレムソフトウェアエンジニアリング株式会社}} * [http://www.jam-st.ne.jp/ JAM STATION] * [https://web.archive.org/web/20070830084124/http://www.irem.co.jp/contents/4koma/index.html ふる里4コマ小唄](第477回までのアーカイブ) * {{Mediaarts-db}} {{コンピュータエンターテインメント協会}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あいれむそふとうえあえんしにありんく}} [[Category:アイレム|*]] [[Category:日本のコンピュータゲームメーカー・ブランド]] [[Category:千代田区の企業]] [[Category:石川県発祥の企業]] [[Category:1997年設立の企業]]
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航空
航空(こうくう)とは、何らかの装置を用いて飛行することである。 航空という言葉はフランス語を語源とする "aviation" に対応した日本語であり、aviation は鳥を意味する "avis" と接尾辞の "-ation" を組み合わせた言葉である。 飛行に用いる装置を航空機と言い、空気より軽い「軽航空機」と空気より重い「重航空機」に分類され、航空という言葉は一般に重航空機の飛行に関して用いられる。軽航空機には気球や飛行船が含まれ、重航空機には固定翼や回転翼を備えた飛行機、グライダー、ヘリコプターなどが含まれる。 航空はその目的により、「民間航空」と「軍事航空」に分けることができる。民間航空は軍事航空以外の全ての航空活動を指し、航空輸送や航空機を用いた調査・測量、航空スポーツなどが含まれる。警察や消防、海上保安庁などの公的な航空活動は民間航空に含むが、政府が直轄する救難・監視目的の活動は含まれない場合がある。 航空に関する産業「航空産業」には、航空機の設計・生産・販売・メンテナンスに携わる「航空機産業」、人や貨物等を輸送する「航空運送」、そして航空機を用いて運送以外の薬剤散布、写真撮影、広告宣伝などを行う「産業航空」が含まれる。航空をシステムとして見ると、航空機の製造者、航空機の運用者(航空会社など)だけでなく、政府や国際機関、大学・研究機関、金融機関などが密接かつ複雑に関係している。 航空に関する学問分野には、航空のための技術および科学のあらゆる研究分野を含めた広い学問として「航空学」があり、飛行する航空機の各部に働く空気力やその運動を扱う「航空力学」や、航空機の設計、試験、製造および運用を扱う「航空工学」などがある。 航空の歴史を航空史と言い、航空が関連する事故を航空事故と言う。 航空の歴史を「航空史」と言う。 概略を言うと、おおむね中世の滑空機の実験の歴史から始まり、熱気球や飛行船の開発・運航などの歴史を経て、その後の飛行機他の多種多様な航空機にまつわる膨大な量の諸活動がそこに含まれる。航空機産業や航空会社の歴史や航空行政の歴史もここには含まれる。広くは、日本語で「航空宇宙産業」などと呼ばれる領域の歴史も含み、その場合スペースシャトルなどの設計・開発・運用等の歴史もここには含まれる。 民間航空(英: civil aviation)とは、軍事航空以外の全ての航空の総称であり、一般航空と航空運送事業に分けられる。日本の航空法は英訳でCivil Aeronautics Actとなっている通り、民間航空に対する法律である。 国際的には、国際民間航空機関 (ICAO)が、技能証明、航空規則、気象、航空図、計測単位、運航安全、登録、耐空性、空港での出入国、通信装置、交通管制の運用、遭難救助、事故調査、飛行場設計、航空情報収集・伝達の方法、環境保護、航空保安、危険物輸送、安全管理に関して国際基準、勧告、ガイドラインを作成している。 民間企業によって営まれている航空の中でも、特に旅客機や貨物機を使用する旅客・貨物輸送事業を指している。航空運送の担い手が航空会社(エアライン)である。 日本の航空法で航空運送事業は、「他人の需要に応じ、航空機を使用して有償で旅客又は貨物を運送する事業」と定義され、国際航空運送事業と国内定期航空運送事業等の区別がある。かつて日本の航空法は航空運送事業を定期航空運送事業と不定期航空運送事業・利用航空運送事業に分けていたが、現在その区別はなくなっている。 日本の航空法では、「他人の需要に応じ、航空機を使用して有償で旅客又は貨物の運送以外の行為の請負を行う事業」と定義されている。 具体的な事業内容は、写真撮影、報道取材、農薬散布、操縦訓練、送電線巡視などであり、回転翼機(ヘリコプター)で行われることが多い。 ジェネラルアビエーション(英: general aviation, 一般航空)とは、民間航空のうち航空運送事業を除いた、あらゆる航空活動を指す概念・用語である。日本では「ジェネアビ」と略されることもある。 ジェネラルアビエーションは以下の4つに大きく分けられる。 日本では自家用機の数が少ないなどの事情があるため、「ジェネアビ」と言いながら専ら「産業航空」を指していることがある。 軍事航空とは、軍事に用いる航空機(軍用機)の設計・開発・製造・運用・利用を指している。 結果として、航空機を利用した、直接的な戦闘行動(空中戦・爆撃など)や、地上・海上の軍事行動の支援(偵察・輸送・連絡など)といった軍の活動を指す。空軍のそれが大きな割合を占めるが、海軍や陸軍その他の軍も航空機を利用しておりそれらの活動も指す。 航空が関連する事故、特に航空機の運航中の事故を航空事故と言う。主なものでは、墜落、不時着、オーバーラン、衝突、火災などがある。 航空においては、ヤード・ポンド法由来の単位であるフィート、マイル(航空においては海里を指す)、ノット、水銀柱インチが標準的に使用されている。フィート、マイル、ノットは飛行機の降下において極めて重要かつ簡便な計算式を与える。水銀柱インチは高度計規正値の単位に用いると高度計の表示変化がわかりやすくなる。この為、国際単位系や各国の計量制度・法令において目的を限定した上で使用が認められている。
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航空(こうくう)とは、何らかの装置を用いて飛行することである。 航空という言葉はフランス語を語源とする "aviation" に対応した日本語であり、aviation は鳥を意味する "avis" と接尾辞の "-ation" を組み合わせた言葉である。
[[File:Ba b747-400 g-bnle arp.jpg|thumb|[[ボーイング747-400]]]] '''航空'''(こうくう)とは、何らかの装置を用いて[[飛行]]することである<ref name=aviation-jk/>。 航空という言葉は[[フランス語]]を語源とする "'''aviation'''" に対応した[[日本語]]であり、aviation は鳥を意味する "avis" と接尾辞の "-ation" を組み合わせた言葉である<ref name=aviation-jk/><ref name=aviation-jp-eb/><ref name=progressive/>。 ==概要== ===航空機=== 飛行に用いる装置を'''[[航空機]]'''と言い、空気より軽い「'''軽航空機'''」と空気より重い「'''重航空機'''」に分類され<ref name=aircraft-jk/>、航空という言葉は一般に重航空機の飛行に関して用いられる<ref name=aviation-jp-eb/>。軽航空機には[[気球]]や[[飛行船]]が含まれ、重航空機には固定翼や回転翼を備えた[[飛行機]]、[[グライダー]]、[[ヘリコプター]]などが含まれる<ref name=aircraft-jp-eb/>。 ===民間・軍事=== 航空はその目的により、「'''民間航空'''」と「'''[[軍事航空]]'''」に分けることができる<ref name=aviation-jk/>。民間航空は軍事航空以外の全ての航空活動を指し、航空輸送や航空機を用いた調査・測量、[[スカイスポーツ (競技)|航空スポーツ]]などが含まれる<ref name=civil-jp-eb/>。[[警察]]や[[消防]]、[[海上保安庁]]などの公的な航空活動は民間航空に含むが、[[政府]]が直轄する[[救難]]・[[監視]]目的の活動は含まれない場合がある<ref name=aviation-jk/><ref name=civil-jp-eb/>。{{main|[[#目的による分類]]}} ===航空産業=== 航空に関する産業「'''航空産業'''」には、航空機の設計・生産・販売・メンテナンスに携わる「'''[[航空機産業]]'''」、人や貨物等を輸送する「'''航空運送'''」、そして航空機を用いて運送以外の薬剤散布、写真撮影、広告宣伝などを行う「'''産業航空'''」が含まれる<ref name=gendai-i/><ref name=aircraft-industry-jk/><ref name=air-transport-jk/>。航空をシステムとして見ると、航空機の製造者、航空機の運用者([[航空会社]]など)だけでなく、政府や[[国際機関]]、[[大学]]・[[研究機関]]、[[金融機関]]などが密接かつ複雑に関係している<ref name=gendai-ii/>。 ===学問=== 航空に関する学問分野には、航空のための技術および科学のあらゆる研究分野を含めた広い学問として「'''航空学'''」があり、飛行する航空機の各部に働く空気力やその運動を扱う「'''[[航空力学]]'''」や、航空機の設計、試験、製造および運用を扱う「'''[[航空工学]]'''」などがある<ref name=aerodynamics-jk/><ref name=aeronautics-jp-eb/><ref name=engineering-jp-eb/><ref name=aerodynamics-jp-eb/>。 ===その他=== 航空の歴史を'''航空史'''と言い、航空が関連する事故を'''航空事故'''と言う。{{main|[[#航空事故]]|[[#歴史]]}} == 歴史 == 航空の歴史を「[[航空史]]」と言う。 概略を言うと、おおむね中世の[[グライダー|滑空機]]の実験の歴史から始まり、[[熱気球]]や[[飛行船]]の開発・運航などの歴史を経て、その後の[[飛行機]]他の多種多様な航空機にまつわる膨大な量の諸活動がそこに含まれる。[[航空機産業]]や[[航空会社]]の歴史や[[航空行政]]の歴史もここには含まれる。広くは、日本語で「航空宇宙産業」などと呼ばれる領域の歴史も含み、その場合[[スペースシャトル]]などの設計・開発・運用等の歴史もここには含まれる<ref>例えば、{{harvnb|Millbrooke|1999}} などが含んでいる</ref>。 {{Seealso|航空に関する年表|Category:航空の歴史}} == 目的による分類 == ===民間航空=== 民間航空(英: civil aviation)とは、軍事航空以外の全ての航空の総称であり、一般航空と航空運送事業に分けられる。[[日本]]の[[航空法]]は英訳で'''Civil Aeronautics Act'''<ref>[http://www.japaneselawtranslation.go.jp/law/detail/?id=37&vm=&re= 法務省・日本法令外国語訳データベース]</ref>となっている通り、民間航空に対する法律である。 国際的には、[[国際民間航空機関|国際民間航空機関 (ICAO)]]が、技能証明、航空規則、気象、航空図、計測単位、運航安全、登録、耐空性、空港での出入国、通信装置、交通管制の運用、遭難救助、事故調査、飛行場設計、航空情報収集・伝達の方法、環境保護、航空保安、危険物輸送、安全管理に関して国際基準、勧告、ガイドラインを作成している<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/page22_000755.html 国際民間航空機関(ICAO)] - 外務省</ref>。 ==== 航空運送事業 ==== 民間企業によって営まれている航空の中でも、特に[[旅客機]]や[[貨物機]]を使用する[[旅客]]・[[貨物]][[運輸業|輸送事業]]を指している。航空運送の担い手が[[航空会社]](エアライン)である。 日本の[[航空法]]で航空運送事業は、「他人の需要に応じ、航空機を使用して有償で旅客又は貨物を運送する事業」と定義され、国際航空運送事業と国内定期航空運送事業等の区別がある。かつて日本の航空法は航空運送事業を定期航空運送事業と不定期航空運送事業・利用航空運送事業に分けていたが、現在その区別はなくなっている。 ==== 航空機使用事業 ==== 日本の航空法では、「他人の需要に応じ、航空機を使用して有償で旅客又は貨物の運送以外の行為の請負を行う事業」と定義されている。 具体的な事業内容は、写真撮影、報道取材、農薬散布、操縦訓練、送電線巡視などであり、回転翼機([[ヘリコプター]])で行われることが多い。 ==== 一般航空 ==== {{main|ゼネラル・アビエーション}} ジェネラルアビエーション(英: general aviation, 一般航空)とは、民間航空のうち航空運送事業を除いた、あらゆる航空活動を指す概念・用語である。日本では「ジェネアビ」と略されることもある。 ジェネラルアビエーションは以下の4つに大きく分けられる。 *[[レジャー飛行]] **[[自家用機]]による飛行 **[[スカイスポーツ (競技)|スカイスポーツ]] *公共機関による運航 日本では自家用機の数が少ないなどの事情があるため、「ジェネアビ」と言いながら専ら「産業航空」を指していることがある。 <!-- === レジャー飛行 === {{節stub}} ==== 自家用機による飛行 ==== 日本に登録されている[[自家用航空機]]を[[操縦]]するためには、[[国土交通省]]が発行する[[自家用操縦士]]の「技能証明」を取得する必要がある。(別途、航空身体検査証明及び[[総務省]]が発行する[[航空無線]]に従事するための[[無線従事者]]も必要。さらに国を越えて航行する場合には航空英語能力証明も必要。) また、航空機は[[飛行機]]や[[回転翼機]]([[ヘリコプター]]が含まれる)等の種類があり、[[操縦士]]の技能証明も各種類で異なる。よって、飛行機だけの資格ではヘリコプターの操縦は認められておらず、逆もそうである。当然だが、飛行機とヘリコプターの両方を操縦したい者はそれぞれの[[操縦訓練]]を行い、飛行機と回転翼機の両方の学科試験・[[実地試験]]に合格する必要がある。種類以外にも等級や型式の限定があり、それぞれに応じた資格を取得しなければならない。 ==== スカイスポーツ ==== [[グライダー]]・[[ハンググライダー]]・[[パラグライダー]]・ウルトラライトプレーンなどを使った飛行。詳しくは[[スカイスポーツ (競技)|スカイスポーツ]]を参照。 日本では、[[大阪府]][[八尾市]]にある[[八尾空港]]が拠点として有名である。 === 産業航空 === 産業航空とは、種々の航空産業の総称である。 一例として、日本の航空法による分類を示す: *航空機使用事業にあたるもの - 小型飛行機やヘリコプターが使われることが多い **[[空中写真]]撮影・[[測量]]・[[地図]]作製 **[[宣伝|宣伝飛行]] **[[農薬]]散布 **飛行訓練 === 公共機関による運航 === 以下のような業務を指す(主に日本を例とする)。 *[[航空局]]による飛行検査 *[[日本の警察|警察]]による[[犯罪]][[捜査]] *[[日本の消防|消防]]による[[捜索]]救難・消火 *[[海上保安庁]]による捜索救難 *[[密輸]]の取り締まり(アメリカなど) 飛行検査以外では、任務の性質上ヘリコプターが多く使われている。 --> ===軍事航空=== {{main|軍事航空}} [[軍事航空]]とは、[[軍事]]に用いる航空機([[軍用機]])の設計・開発・製造・運用・利用を指している。 結果として、航空機を利用した、直接的な戦闘行動(空中戦・爆撃など)や、地上・海上の軍事行動の支援(偵察・輸送・連絡など)といった軍の活動を指す。[[空軍]]のそれが大きな割合を占めるが、[[海軍]]や[[陸軍]]その他の軍も航空機を利用しておりそれらの活動も指す。 == 航空事故 == {{main|航空事故}} 航空が関連する事故、特に航空機の運航中の事故を航空事故と言う。主なものでは、墜落、不時着、オーバーラン、衝突、火災などがある。 == 単位系・計量制度への影響 == 航空においては、[[ヤード・ポンド法]]由来の単位である[[フィート]]、[[海里|マイル]](航空においては海里を指す)、[[ノット]]、[[水銀柱インチ]]が標準的に使用されている。フィート、マイル、ノットは[[飛行機]]の降下において極めて重要かつ簡便な計算式を与える<ref group="注釈">飛行機は通常3度の降下角で降下するように設計されている。これを満足するには「1000フィートの降下に3マイルの飛行が必要」「ノット単位の対地速度に6を乗じて単位をフィート毎分に変えると適切な降下率になる」を用いて計算するとよいことが知られている。</ref>。水銀柱インチは[[高度計規正値]]の単位に用いると[[高度計]]の表示変化がわかりやすくなる<ref group="注釈">フィート単位の高度計において高度計規正値を0.1インチ変えると、高度計の表示は100フィート変化する。</ref>。この為、[[国際単位系]]や各国の[[計量]]制度・法令において目的を限定した上で使用が認められている。 == 脚注 == === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"|refs= }} === 出典 === {{Reflist|2|refs= <ref name=gendai-i>{{harvnb|東京大学航空イノベーション研究会|鈴木真二|岡野まさ子|2012}}, 「まえがき」</ref> <ref name=gendai-ii>{{harvnb|東京大学航空イノベーション研究会|鈴木真二|岡野まさ子|2012}}, 「目的と対象範囲」</ref> <ref name=progressive> {{Cite web|和書| |contribution=aviation |title=プログレッシブ英和中辞典 |url=http://dictionary.goo.ne.jp/ej/5628/meaning/m0u/aviation/ |accessdate=2015-11-04}}</ref> <ref name=aviation-jk> {{Citation |和書 |last=落合 |first=一夫 |contribution=航空 |title=日本大百科全書(ニッポニカ) / JapanKnowledge Lib |publisher=小学館 |url=http://japanknowledge.com/lib/display/?lid=1001000082543 |accessdate=2015-11-04 }}</ref> <ref name=aircraft-jk> {{Citation |和書 |last=落合 |first=一夫 |contribution=航空機 |title=日本大百科全書(ニッポニカ) / JapanKnowledge Lib |publisher=小学館 |url=http://japanknowledge.com/lib/display/?lid=1001000082556 |accessdate=2015-11-04 }}</ref> <ref name=aerodynamics-jk> {{Citation |和書 |last=落合 |first=一夫 |contribution=航空力学 |title=日本大百科全書(ニッポニカ) / JapanKnowledge Lib |publisher=小学館 |url=http://japanknowledge.com/lib/display/?lid=1001000082556 |accessdate=2015-11-04 }}</ref> <ref name=air-transport-jk> {{Citation |和書 |last=秋葉 |first=明 |contribution=航空輸送 |title=日本大百科全書(ニッポニカ) / JapanKnowledge Lib |publisher=小学館 |url=http://japanknowledge.com/lib/display/?lid=1001000290958 |accessdate=2015-11-04 }}</ref> <ref name=aircraft-industry-jk> {{Citation |和書 |last=山田 |first=奬 |contribution=航空機産業[現代産業] |title=情報・知識 imidas 2015 / JapanKnowledge Lib |publisher=集英社 |url=http://japanknowledge.com/lib/display/?lid=1001000290958 |accessdate=2015-11-04 }}</ref> <ref name=aeronautics-jp-eb> {{Citation |和書 |contribution=航空学 |title=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 |publisher=ブリタニカ・ジャパン |url=http://japan.eb.com/rg/article-03859100 |accessdate=2015-11-04 }}</ref> <ref name=aircraft-jp-eb> {{Citation |和書 |contribution=航空機 |title=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 |publisher=ブリタニカ・ジャパン |url=http://japan.eb.com/rg/article-03859500 |accessdate=2015-11-04 }}</ref> <ref name=aviation-jp-eb> {{Citation |和書 |contribution=航空史 |title=ブリタニカ国際大百科事典 大項目事典 |publisher=ブリタニカ・ジャパン |url=http://japan.eb.com/mb/article-112235 |accessdate=2015-11-04 }}</ref> <ref name=civil-jp-eb> {{Citation |和書 |contribution=民間航空 |title=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 |publisher=ブリタニカ・ジャパン |url=http://japan.eb.com/rg/article-11729400 |accessdate=2015-11-04 }}</ref> <ref name=engineering-jp-eb> {{Citation |和書 |contribution=航空工学 |title=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 |publisher=ブリタニカ・ジャパン |url=http://japan.eb.com/rg/article-03861700 |accessdate=2015-11-04 }}</ref> <ref name=aerodynamics-jp-eb> {{Citation |和書 |contribution=航空力学 |title=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 |publisher=ブリタニカ・ジャパン |url=http://japan.eb.com/rg/article-03864900 |accessdate=2015-11-04 }}</ref> }} == 参考文献 == *{{Citation|和書 |editor1=東京大学航空イノベーション研究会 |editor2=鈴木真二 |editor3=岡野まさ子 |title=現代航空論 : 技術から産業・政策まで |publisher=[[東京大学出版会]] |year=2012 |isbn=978-4-13-072150-9 |url=https://ci.nii.ac.jp/ncid/BB10227502 |ref=harv }} *{{Citation |last=Millbrooke |first=Anne Marie |title=Aviation history |publisher=Jeppesen Sanderson |year=1999 |address=Englewood, CO |isbn=0884872351 |ref=harv }} <!-- * [[国土交通省]]航空局監修 『AIM-J(Aeronautical Information Manual Japan)』 日本航空機操縦士協会 --> == 関連項目 == {{ウィキプロジェクトリンク|航空}} {{ウィキポータルリンク|航空}} *[[交通]](上位項目) === 公共機関関係 === *[[航空局]] - [[航空法]] - [[耐空証明]] - [[型式証明]] - [[型式承認]] - [[仕様承認]] - [[予備品証明]] - [[修理改造検査]] *[[国際連合]] - [[国際民間航空機関]](ICAO) - 国際民間航空条約([[シカゴ条約]]) *[[国際航空運送協会]](IATA) - [[航空運賃]] *[[呼出符号]](コールサイン) *[[航空交通管制]] - 航空保安設備(施設) - [[レーダーサイト]] - [[航空管制官]] *[[飛行場]]・[[空港]] - [[空港コード]] - [[着陸料]] *[[航空事故]] *トランスファー - [[トランジット]] === 業務関係 === *[[運輸業]] - [[航空会社]](エアライン) - [[航空会社コード]] *空中業務: [[パイロット (航空)|パイロット]] - [[客室乗務員]] *航空会社の業務 **ディスパッチ: [[ディスパッチャー]] **整備: [[航空整備士]] **[[グランドスタッフ]](空港カウンタ業務など) - [[マイレージサービス]] *[[グランドハンドリング]] **[[マーシャリング]]: [[マーシャラー]] **ローディング: [[ロードマスター]] **[[トーイング]]・[[プッシュバック]]: [[トーイングマン]] **給油関係 **貨物関係 *[[ケータリング]]([[機内食]]) *機内清掃 === 航空機関連 === *[[航空機メーカーの一覧]] *[[航空用エンジンの一覧]] *[[航空用エンジンメーカーの一覧]] == 外部リンク == *[http://www.arknext.com/link/index.html EFI航空情報センター内リンク集] {{航空の一覧}} {{Normdaten}} {{aviation-stub}} {{DEFAULTSORT:こうくう}} [[Category:航空|*]]
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エンツォ・フェラーリ
エンツォ・アンゼルモ・フェラーリ(イタリア語: Enzo Anselmo Ferrari , 1898年2月18日 - 1988年8月14日)は、イタリアの自動車メーカーフェラーリの創設者。F1の名門スクーデリア・フェラーリのオーナーでもあった。 愛称はコメンダトーレ(イタリア共和国功労勲章の勲三等位の名称)。モータースポーツ界の偉人としてオールドマンとも称される。 1898年にモデナで板金工の次男に生まれ、9歳のときに観た地元レースでモータースポーツの魅力を知る。自身は「私はなりたかったものが3つある。1つはオペラ歌手、もう1つはスポーツ記者、そしてレーサーだ」と後年語っており、青年時代に全国スポーツ紙ガゼッタ・デロ・スポルトにサッカー戦評を送ったこともあった。 1916年病気で父を、戦争で兄を亡くし、自身も徴兵され第一次世界大戦に参戦するが、肋膜炎で死線をさまよう。この経験がモータースポーツに人生を賭ける契機になったといわれる。 除隊後に、トリノのフィアットでレーシングドライバーの職を求めるがあしらわれ、コストルツイォ―二・メカニケ・ナツィオーリに入社した。同社のマシンをドライブし「タルガ・フローリオ」で9位になるなど活躍し、1920年にアルファロメオのテストドライバーとなった。 即座にレースドライバーに昇格し、「タルガ・フローリオ」で2位に入るほか、国内でいくつかの勝利を挙げてワークス入りしたが、才能的にはアントニオ・アスカーリ(アルベルト・アスカリの父)らエース級には及ばなかった上に、体調不良に悩まされた。 1924年にはカヴァリエーレ章を、1928年にはコメンダトーレ章を受勲された。また、1924年には地元のモデナでアルファロメオの販売代理店「カロッツエリア・エミリア・エンツォ・フェラーリ」を始める。 1929年12月1日に、レーシングドライバー仲間と共同出資で「ソシエタ・アノニマ・スクーデリア・フェラーリ」を設立し、アルファロメオのセミワークスチームとして活動を始めた。なお自らもレーシングドライバーとして参戦したが、体調が回復せず1931年にヒルクライムレースに参戦したのを最後に、1932年に息子アルフレード(愛称ディーノ)が生まれたのを機に、レーシングドライバーとしてのキャリアに見切りをつけた。 レーシングドライバー引退後はアルファロメオのワークス・チームのマネージャーも務め、ドイツ政府の全面的支援を受けて頭角を現したメルセデス・ベンツやアウトウニオンなどのドイツ勢を向こうに回し好成績を上げ続けた。また、類まれな交渉力、統率力で経営者として頭角を現し、地元モデナでアルファロメオの販売代理店を営み、巧みな手腕で販売網を広げた。 しかし、経営陣との衝突で1939年にアルファロメオを去る。この際に、4年間は「フェラーリ」の名でモータースポーツに参戦しないという誓約を結んだ。 1940年には、アルファロメオとの誓約項目を避けるために「アウト・アヴィオ・コルトルツィオーニ」という名の自動車製造会社をモデナに設立し、最初の自らの手によるモデル「815」を生産し、4月28日から行われたミッレ・ミリアに参戦した。 しかしその直後の6月10日に、イタリアが日独伊防共協定を組んでいた同盟国のドイツ国を支援するために、イギリスとフランスに宣戦布告し第二次世界大戦に参戦した。このためにイタリアにおいてモータースポーツ活動が全面的に禁止され、「アウト・アヴィオ・コルトルツィオーニ」も「815」の製造を中止し、兵器製造のための粉砕機などの工作機械製造を行うようになった。 その後1943年8月にイタリアが連合国に降伏しサロ政権が設立されたものの、イタリア北部は事実上ドイツ軍の占領下になったこともあり、モデナの工場が連合国軍機の空襲を受けた上に、自動車製造やモータースポーツ活動は引き続き禁止された。しかしエンツォは、連合国軍機による空襲を避けるべく、また戦後のモータースポーツ解禁に備えて自前の自動車工場をモデナ近郊のマラネッロに移設した。 社史についてはフェラーリ#沿革を参照 第二次世界大戦後の1947年に自社製レーシング・マシンを開発し、自動車製造会社としての「フェラーリ」を設立した。その後友人のルイジ・キネッティの勧めもあり、モータースポーツ参戦資金を稼ぐことを目的にレーシング・マシンをベースにした高級スポーツカーの販売も始めた。 スクーデリア・フェラーリは、1950年から始まったF1に参戦し、早くも1951年にはホセ・フロイラン・ゴンザレスが初優勝した。その後も古巣アルファロメオを破り活躍するなど、イタリアのナショナル・チーム的存在となった。以後スクーデリア・フェラーリのマシンは、F1やル・マン24時間レース、ミッレ・ミリア、タルガ・フローリオ、カレラ・パナメリカーナ・メヒコなどの第一線で輝かしい成績を残した。 「カヴァリーノ・ランパンテ(跳ね馬)」のエンブレムと真紅のナショナルカラーをまとった市販車も、その高い性能と美しいデザインで1950年代以降ヨーロッパ各国やアメリカ合衆国、日本や中東をはじめとする世界各国へその販路を広げ、王族や映画スター、大富豪などの愛用のブランドとして成長した。 このようにフェラーリは高い名声を勝ち取ったものの、過剰なモータースポーツへの投資や労使紛争、さらに1961年11月にはカルロ・キティら主要メンバーによるクーデターが勃発しカルロ・キティやジオット・ビッザリーニら役員8名がフェラーリを去るなどの事件が起きたことも影響し、1960年代初頭には経営が苦境に陥った。その後1963年にアメリカ合衆国のフォードとの間で買収交渉を進めたが、調印寸前で交渉は決裂した。 その後1969年に、フェラーリはイタリア最大手の自動車会社であるフィアットの傘下に入ることで経営の安定を図ることになる。その後エンツォは会長に就任し、元来興味の薄い市販車部門からは一切の手を引いて、モータースポーツ部門(スクーデリア・フェラーリ)の指揮に専念した。 エンツォ自身は、1956年の息子ディーノの死後めったに公の場に現われなくなり、本拠地モデナを離れることもなかった。1973年にはフィアット一族出身のルカ・ディ・モンテゼーモロをスクーデリア・フェラーリのマネージャーとして招き入れるなど、チーム運営の第一線から離れた。 その後はドライバー選択などに大きな影響を与え続けたものの、自社の敷地内にあるフィオラノ・サーキット内にある別邸でテスト走行を見守る他は、地元イタリアGPの練習走行には顔を見せるが、それ以外はチームマネージャーから電話報告を受け、決勝レースはテレビ中継を見ていたという。 政治宗教とは無縁だったが、イタリア国内では「北の教皇」(南の教皇とはヨハネ・パウロ2世)と呼ばれるほどモータースポーツや自動車業界への影響力は大きかった。 1977年にはフェラーリの会長職を退くものの、その後も市販車からスクーデリア・フェラーリの運営まで大きな影響力を保ち続けた。さらに1981年にはスクーデリア・フェラーリの代表としてF1のコンコルド協定締結の立会人となるなど、F1界で多大な発言力を有していた。 1988年8月14日、腎不全のため死去。F1におけるイタリアの「ナショナルチーム」の創設者の死去に際してイタリア全体が喪に服した。エンツォの生前最後に開発されたモデルは、1987年発表のF40であった。 2015年現在も、リナ・ラルディとの間に生まれた次男のピエロ・ラルディ・フェラーリがフェラーリの株を10パーセント所有し、副会長を務めている。 フェラーリ家は長男に「アルフレード」と命名する伝統があり、エンツォの父、兄、そして息子もその名を継いでいた(アルフレードの愛称がディーノ)。エンツォは生まれつき病弱な息子ディーノを可愛がったが、24歳で先立たれ、一時は生きる望みさえ失ったという。 エンツォはV12でないV8・V6搭載車に「ディーノ」と名付け愛息を偲んだ。 妻ラウラはトリノの資産家の娘で、夫のビジネスに資金援助し、時にチーム運営に干渉することもあった。 これ以外に、愛人リナ・ラルディとの間に私生児ピエロ・ラルディを儲けている。ピエロは素性を隠してフェラーリ社で働き、正妻ラウラの死後認知され、エンツォの後継者として会社の株式を与えられた。 2012年3月10日、イタリア・モデナで実父が板金工を営んでいた工場兼住居を改装し、エンツォ・フェラーリ生家博物館(Museo Casa Enzo Ferrari )が開館した。 本来はエンツォの誕生日に開館する予定だったが、大雪にみまわれ3月10日となった。生家はエンツォによって売却されていたため取得が難航し、現在の所有者から賃貸というかたちで開設された。 生家は付属のワークショップ兼展示スペースとして所存され、隣接してミュージアム棟が建設された。設計は建築家ヤン・カブリッキーが担当し、彼の死後はアンドレア・モルガンテが引き継いだ。館内にはフェラーリやアルファロメオの初期の市販車・レースカーの他に、エンツォのトレードマークであるサングラスなどの愛用品も展示されている。屋根はモデナのシンボルカラーである黄色に塗られている。
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エンツォ・アンゼルモ・フェラーリは、イタリアの自動車メーカーフェラーリの創設者。F1の名門スクーデリア・フェラーリのオーナーでもあった。 愛称はコメンダトーレ(イタリア共和国功労勲章の勲三等位の名称)。モータースポーツ界の偉人としてオールドマンとも称される。
{{Otheruses|フェラーリの創始者|フェラーリの車種|フェラーリ・エンツォフェラーリ}} {{Infobox Engineer | 氏名 = エンツォ・フェラーリ<br>{{lang|it|Enzo Ferrari}} | 画像 = Enzo-Ferrari.jpg | 画像のサイズ = | 画像の説明 = | 別名 = コメンダトーレ | 国籍 = {{ITA}} | 生年月日 = {{生年月日と年齢|1898|02|18|no}} | 生誕地 = {{ITA1861}}、[[モデナ]] | 死没日 = {{死亡年月日と没年齢|1898|02|18|1988|08|14}} | 死没地 = {{ITA}}、[[モデナ]] | 最終学歴 = | 職業 = [[フェラーリ]]創業者 | 配偶者 = ラウラ・ドミニカ・ガレッロ・フェラーリ | 両親 = 父アルフレード・フェラーリ<br>母アダルジーサ・フェラーリ | 子供 = [[アルフレード・フェラーリ]]<br>[[ピエロ・ラルディ・フェラーリ]] | 専門分野 = | 所属機関 = | 勤務先 = コストルツイォ―二・メカニケ・ナツィオーリ<br>アルファロメオ<br>カロッツエリア・エミリア・エンツォ・フェラーリ(1924年-1939年)<br>スクーデリア・フェラーリ(1929年-1939年)<br>アウト・アヴィオ・コストルツィオーニ(1940年-1947年)<br>フェラーリ(1947年-) | 雇用者 = | プロジェクト = | 設計 = | 成果 = | 受賞歴 = | 署名 = Enzoferrari-signature.svg | 公式サイト = | 補足 = [[イタリア共和国功労勲章]]勲三等位(「コメンダ」) }} '''エンツォ・アンゼルモ・ジュゼッペ・マリア・フェラーリ・カヴァリ'''({{lang-it|'''Enzo Anselmo Giuseppe Maria Ferrari Cavaliere''' }}, [[1898年]][[2月18日]] - [[1988年]][[8月14日]])は、[[イタリア]]の[[自動車メーカー]][[フェラーリ]]の創設者。[[フォーミュラ1|F1]]の名門[[スクーデリア・フェラーリ]]のオーナーでもあった。 愛称は'''コメンダトーレ'''([[イタリア共和国功労勲章]]の[[勲等|勲三等位]]の名称)。[[モータースポーツ]]界の偉人として'''オールドマン'''とも称される。 == 生涯 == === 生い立ち === [[1898年]]に[[モデナ]]で板金工の次男に生まれ、9歳のときに観た地元レースでモータースポーツの魅力を知る。自身は「私はなりたかったものが3つある。1つは[[オペラ]]歌手、もう1つはスポーツ記者、そしてレーサーだ」と後年語っており、青年時代に全国スポーツ紙[[ガゼッタ・デロ・スポルト]]に[[サッカー]]戦評を送ったこともあった。 === レーシングドライバーとして === [[ファイル:Piloti Alfa Romeo 3.JPG|thumb|right|220px|アルファロメオチームのメンバー(右から2人目がエンツォ)]] [[1916年]]病気で父を、戦争で兄を亡くし、自身も徴兵され[[第一次世界大戦]]に参戦するが、[[胸膜炎|肋膜炎]]で死線をさまよう。この経験がモータースポーツに人生を賭ける契機になったといわれる。 除隊後に、[[トリノ]]の[[フィアット]]でレーシングドライバーの職を求めるがあしらわれ、コストルツイォ―二・メカニケ・ナツィオーリに入社した。同社のマシンをドライブし「[[タルガ・フローリオ]]」で9位になるなど活躍し、[[1920年]]に[[アルファロメオ]]のテストドライバーとなった<ref name="名前なし-1">「オクタン日本版」2017 Summer P.67</ref>。 即座にレースドライバーに昇格し、「タルガ・フローリオ」で2位に入るほか、国内でいくつかの勝利を挙げて[[ワークス・チーム|ワークス]]入りしたが、才能的にはアントニオ・アスカーリ([[アルベルト・アスカリ]]の父)らエース級には及ばなかった上に、体調不良に悩まされた。 [[1924年]]にはカヴァリエーレ章を、[[1928年]]にはコメンダトーレ章を受勲された。また、1924年には地元のモデナでアルファロメオの販売代理店「カロッツエリア・エミリア・エンツォ・フェラーリ」を始める。  === スクーデリア・フェラーリ設立 === [[ファイル:Mussolini al volante di un'Alfa Romeo da competizione.JPG|thumb|right|220px|アルファロメオP3 2600に乗る[[ベニート・ムッソリーニ]]と談笑するエンツォ(左から2人目)]] [[1929年]][[12月1日]]に、レーシングドライバー仲間と共同出資で「[[スクーデリア・フェラーリ|ソシエタ・アノニマ・スクーデリア・フェラーリ]]」を設立し、アルファロメオの[[セミワークス]]チームとして活動を始めた。なお自らもレーシングドライバーとして参戦したが、体調が回復せず[[1931年]]にヒルクライムレースに参戦したのを最後に、[[1932年]]に息子[[アルフレード・フェラーリ|アルフレード]](愛称ディーノ)が生まれたのを機に、レーシングドライバーとしてのキャリアに見切りをつけた<ref name="名前なし-1"/>。 レーシングドライバー引退後はアルファロメオのワークス・チームのマネージャーも務め、[[ドイツ]]政府の全面的支援を受けて頭角を現した[[メルセデス・ベンツ]]や[[アウトウニオン]]などのドイツ勢を向こうに回し好成績を上げ続けた。また、類まれな交渉力、統率力で経営者として頭角を現し、地元モデナでアルファロメオの販売代理店を営み、巧みな手腕で販売網を広げた。 ===アウト・アヴィオ・コルトルツィオーニ設立=== [[File:Auto Avio 815 1940 vvl 3.JPG|thumb|220px|right|アウト・アヴィオ・コルトルツィオーニ 815]] しかし、経営陣との衝突で[[1939年]]にアルファロメオを去る。この際に、4年間は「フェラーリ」の名でモータースポーツに参戦しないという誓約を結んだ。 [[1940年]]には、アルファロメオとの誓約項目を避けるために「アウト・アヴィオ・コルトルツィオーニ」という名の自動車製造会社をモデナに設立し、最初の自らの手によるモデル「815」を生産し、[[4月28日]]から行われた[[ミッレ・ミリア]]に参戦した<ref name="名前なし-2">「フェラーリの70年」CCCカーライフラボ P201</ref>。 しかしその直後の[[6月10日]]に、イタリアが[[防共協定|日独伊防共協定]]を組んでいた同盟国の[[ドイツ国]]を支援するために、[[イギリス]]と[[フランス]]に[[宣戦布告]]し[[第二次世界大戦]]に参戦した。このためにイタリアにおいてモータースポーツ活動が全面的に禁止され、「アウト・アヴィオ・コルトルツィオーニ」も「815」の製造を中止し、[[兵器]]製造のための[[粉砕機]]などの工作機械製造を行うようになった<ref name="名前なし-2"/>。 その後[[1943年]]8月にイタリアが[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]に降伏し[[サロ政権]]が設立されたものの、イタリア北部は事実上[[ドイツ軍]]の占領下になったこともあり、モデナの工場が連合国軍機の空襲を受けた上に、自動車製造やモータースポーツ活動は引き続き禁止された。しかしエンツォは、連合国軍機による空襲を避けるべく、また戦後のモータースポーツ解禁に備えて自前の自動車工場をモデナ近郊のマラネッロに移設した。 === フェラーリ設立 === ''社史については[[フェラーリ#沿革]]を参照'' [[File:Scuderia Ferrari - Monza, 1953 - Enzo Ferrari & Mike Hawthorn.jpg|thumb|right|220px|[[マイク・ホーソーン]]とともに([[1953年]]/[[モンツァ・サーキット]])]] 第二次世界大戦後の[[1947年]]に自社製レーシング・マシンを開発し、自動車製造会社としての「フェラーリ」を設立した。その後友人のルイジ・キネッティの勧めもあり、モータースポーツ参戦資金を稼ぐことを目的にレーシング・マシンをベースにした高級[[スポーツカー]]の販売も始めた。 スクーデリア・フェラーリは、[[1950年]]から始まった[[フォーミュラ1|F1]]に参戦し、早くも[[1951年]]には[[ホセ・フロイラン・ゴンザレス]]が初優勝した。その後も古巣アルファロメオを破り活躍するなど、イタリアのナショナル・チーム的存在となった。以後スクーデリア・フェラーリのマシンは、F1や[[ル・マン24時間レース]]、[[ミッレ・ミリア]]、[[タルガ・フローリオ]]、[[カレラ・パナメリカーナ・メヒコ]]などの第一線で輝かしい成績を残した。 「カヴァリーノ・ランパンテ(跳ね馬)」のエンブレムと真紅の[[ナショナルカラー]]をまとった市販車も、その高い性能と美しいデザインで1950年代以降[[ヨーロッパ]]各国や[[アメリカ合衆国]]、[[日本]]や[[中東]]をはじめとする世界各国へその販路を広げ、王族や映画スター、大富豪などの愛用のブランドとして成長した。 このようにフェラーリは高い名声を勝ち取ったものの、過剰なモータースポーツへの投資や[[労使紛争]]、さらに[[1961年]]11月には[[カルロ・キティ]]ら主要メンバーによる[[クーデター]]が勃発しカルロ・キティやジオット・ビッザリーニら役員8名がフェラーリを去るなどの事件が起きたことも影響し、[[1960年代]]初頭には経営が苦境に陥った。その後1963年にアメリカ合衆国の[[フォード・モーター|フォード]]との間で買収交渉を進めたが、調印寸前で交渉は決裂した<ref>交渉決裂の理由は明らかにされていないが、金額の不一致という説、レース部門への干渉をエンツォが嫌ったという説がある。</ref>。 === フィアット傘下 === [[File:Enzo Ferrari & Gian Paolo Dallara (Varano de' Melegari, 1960s-70s).jpg|thumb|right|220px|[[ジャン・パオロ・ダラーラ]]と談笑するエンツォ(ヴァラーノ・デ・メレガリ)]] その後[[1969年]]に、フェラーリはイタリア最大手の自動車会社である[[フィアット]]の傘下に入ることで経営の安定を図ることになる。その後エンツォは会長に就任し、元来興味の薄い市販車部門からは一切の手を引いて、モータースポーツ部門([[スクーデリア・フェラーリ]])の指揮に専念した。 エンツォ自身は、[[1956年]]の息子ディーノの死後めったに公の場に現われなくなり、本拠地モデナを離れることもなかった。[[1973年]]にはフィアット一族出身の[[ルカ・ディ・モンテゼーモロ]]をスクーデリア・フェラーリのマネージャーとして招き入れるなど、チーム運営の第一線から離れた。 その後はドライバー選択などに大きな影響を与え続けたものの、自社の敷地内にあるフィオラノ・サーキット内にある別邸でテスト走行を見守る他は、地元[[イタリアグランプリ|イタリアGP]]の練習走行には顔を見せるが、それ以外はチームマネージャーから電話報告を受け、決勝レースはテレビ中継を見ていたという。  === 晩年 === [[ファイル:Ferrari-enzo-cavallo-rampante.jpeg|thumb|right|220px|晩年のエンツォ]] 政治宗教とは無縁だったが、イタリア国内では「'''北の[[教皇]]'''」(南の教皇とは[[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]])と呼ばれるほどモータースポーツや自動車業界への影響力は大きかった。 [[1977年]]にはフェラーリの会長職を退くものの、その後も市販車からスクーデリア・フェラーリの運営まで大きな影響力を保ち続けた。さらに[[1981年]]にはスクーデリア・フェラーリの代表としてF1の[[コンコルド協定]]締結の立会人となるなど、F1界で多大な発言力を有していた。 === 死去 === 1988年8月14日、[[腎不全]]のため死去。F1におけるイタリアの「ナショナルチーム」の創設者の死去に際してイタリア全体が喪に服した。エンツォの生前最後に開発されたモデルは、[[1987年]]発表の[[フェラーリ・F40|F40]]であった。 [[2015年]]現在も、リナ・ラルディとの間に生まれた次男の[[ピエロ・ラルディ・フェラーリ]]がフェラーリの株を10パーセント所有し、副会長を務めている。 == 年表 == *[[1898年]][[2月18日]] - 父アルフレード、母アダルジーサの間に次男として誕生。大雪のため[[出生届]]提出が2日遅れたので、公的な出生日は「2月20日」となる<ref name="SFp63">『スクーデリア・フェラーリ 1947-1997 50年全記録』、p.63。</ref>。 *[[1906年]] - 初めてコッパ・フローリオを観戦。 *[[1916年]] - 父アルフレードが病死し家業は閉鎖。兄ディーノ戦死。自身も徴兵される。 *[[1918年]] - 除隊し、レースドライバーとして[[フィアット]]に職を求めたが断られる。 *[[1919年]] - 自動車メーカーCMNに就職し、[[パルマ]]-[[ポッジオ]]・ディ・ベルチェート([[ヒルクライム]])に初出場。 *[[1920年]] - アルファロメオとテストドライバー契約。のちにワークスチームの正規レーシングドライバーに昇格。[[タルガ・フローリオ]]で2位を獲得した。 *[[1923年]] - チルキット・デル・サヴィオで初優勝。[[フランチェスコ・バラッカ]]の母パオリナ・バラッカ伯爵夫人より、跳ね馬([[フェラーリ#カヴァッリーノ・ランパンテ|カバリーノ・ランパンテ]])の紋章を贈られた、とするが、現在ではこの話はエンツォの創作とされている。 *[[1924年]] - イタリアのカヴァリエーレ章叙勲。生地であるモデナに自らの名字を冠した「カロッツエリア・エミリア・エンツォ・フェラーリ」を設立。 *[[1925年]] - ラウラ・ドメニカ・ガレッロと結婚。 *[[1928年]] - イタリアのコメンダトーレ章受勲。 *[[1929年]][[11月16日]]<ref name="SFp63"/> - カニアート兄弟、マリオ・タディーニと共同出資して「ソシエタ・アノニマ・スクーデリア・フェラーリ」設立。 *[[1930年]] - [[トリエステ]]-[[オピチーナ]](ヒルクライム)でスクーデリアが初勝利。 *[[1932年]] - 長男[[アルフレード・フェラーリ]](ディーノ)生誕。レーサーとしての現役活動を引退。 *[[1933年]] - レース活動を休止したアルファロメオより、ワークスマシンとドライバーを委託される。 *[[1938年]] - アルファロメオのレース部門(アルファ・コルセ)に吸収合併され、マネージャーに就任。 *[[1939年]]11月 - 社長のウーゴ・ゴッバート、技術者のウィルフレード・リカルドと対立して退社。 *[[1940年]] - モデナで「アウト・アヴィオ・コストルツィオーニ」設立。 *[[1943年]] - 空襲の疎開のため[[マラネッロ]]へ移転。 *[[1944年]] - 社名を「スクーデリア・フェラーリ・アウト・アビオ・コストルツィオーニ」とする。 *[[1945年]] - リナ・ラルディとの間に次男[[ピエロ・ラルディ・フェラーリ]]生誕。 *[[1947年]] - フェラーリ創業。5月25日のローマGPで[[フェラーリ・125S|125S]]が初優勝。 *[[1952年]] - [[バッティスタ・ファリーナ]]と会談し、[[ピニンファリーナ]]にボディ製造とデザインを委託。 *[[1956年]] - 長男アルフレード死去。 *[[1957年]] - [[ミッレ・ミリア]]における観客死傷事故の責任を問われ起訴される(無罪)。 *[[1960年]] - ボローニャ工科大学より[[工学士]](インジェニエーレ)の名誉学位を授与される。 *[[1961年]] - フェラーリを[[株式会社]]化('''S'''ocietà per azioni '''E'''sercizio '''F'''abbriche '''A'''utomobilie e '''C'''orse,'''S.E.F.A.C''')。 *[[1963年]] - [[フォード・モーター|フォード]]による会社買収交渉を最終段階で拒絶。 *[[1969年]][[6月21日]]<ref name="SFp63"/> - フィアットグループへ株式50%を売却。自身は39%を保有し、会長職となる。 *[[1977年]] - 会長職を退く。 *[[1981年]] - F1の[[コンコルド協定]]締結の立会人となる。 *[[1987年]] - FIAゴールドメダル受賞。 *[[1988年]][[8月14日]] - [[腎不全]]により死去。没90歳。夏の休暇シーズンのため公表は8月17日<ref name="SFp63"/>。保有していた株式は、生前の取り決めによりフィアットへ売却。 *[[1994年]] - レース界への貢献を認められ[[国際モータースポーツ殿堂]]入りした。 *[[2000年]] - [[自動車殿堂]]に選入された。 *[[2002年]] - エンツォの名を冠したスポーツカー、「[[フェラーリ・エンツォフェラーリ|エンツォ・フェラーリ]]」が発売された。 [[ファイル:RedEnzo.jpg|thumb|right|240px|[[フェラーリ・エンツォフェラーリ|エンツォ・フェラーリ]]]] *[[2012年]] - 生家の地に博物館が開館。 == 語録 == {{独自研究|section=1|date=2012年9月}} === 伝記 === ; Le Mie Gioie Terribili :[[1963年]]に出版された自叙伝。英題"My Terrible Joys"、邦題『サーキットの英雄:レースカーに捧げたフェラーリ自伝』<ref>エンツォ・フェラーリ著/大石敏男訳、弘文堂、1966年。</ref>。 :後述の名言など多くを語っているが、内容には個人的な脚色も含まれており、史実として正確かは評価が分かれる。スポーツカーを購入する王族などの上客には、この本に紫色のインクでサインしてプレゼントしたという。 === 名言 === ;わたしは雪の降るトリノの公園のベンチで泣いた。 : 第一次世界大戦の復員後、工兵の経験を生かして、イタリアを代表する自動車メーカーでレースコンストラクターでもあったフィアットに採用を希望したものの断られた。アルファロメオ加入後は、フィアットから技術者[[ヴィットリオ・ヤーノ]]を引き抜いてその復讐を果たした。 :1969年にはフィアット会長の[[ジャンニ・アニェッリ]]と会談し、ロードカー製造部門をフィアットグループへ移管することを決めた。 ;あいつはずうずうしいほど大胆な男だ。愛しているといってもいい。 :アルファロメオ時代にドライバーとして活躍した[[タツィオ・ヌヴォラーリ]]への賛辞<ref name="SFpp102"/>。彼をレーサーの理想像とし、後年その再来を思わせる[[ジル・ヴィルヌーヴ]]を愛した。 ;幸先の良い失敗だ。 :フェラーリの名を冠した初代モデル[[フェラーリ・125S|125S]]が、デビューレースでトップを走行中にリタイアした時の発言(1947年5月)<ref>『スクーデリア・フェラーリ 1947-1997 50年全記録』、p.18。</ref>。 ; わたしは母親を殺してしまった。 : [[1951年イギリスグランプリ]]で、古巣アルファロメオを破りF1初優勝した際の心境<ref name="SFpp102">『スクーデリア・フェラーリ 1947-1997 50年全記録』、pp.102-103。</ref>。翌年アルファロメオはF1から撤退し、フェラーリがイタリアを代表するチームの座を引き継いだ。 ; レーシングマシンとは、強力なエンジンを造り、4つの車輪をつけたもの。 : フェラーリの理念として、車体の洗練よりも強力なエンジンを求めた。[[V型12気筒|V12]]エンジンへの拘りは、アメリカ製[[パッカード]]・12のエンジンに触発されたといわれる<ref>"[http://gazoo.com/meishakan/meisha/shousai.asp?R_ID=7113 1939年 パッカード トゥエルブ ルーズベルト大統領専用車]". Gazoo名車館. 2013年2月7日閲覧。</ref>。 ; 荷車は牛が押すのではなく、牛が引くものだ。 : F1における[[ミッドシップ]]車の台頭期に、フロントエンジンへのこだわりを表した。イギリス系コンストラクターのことを「ガレジスタ(修理工)」と呼び、彼らが生み出す技術革新に対しては保守的であった。 ; フェラーリはタバコを吸わない。 : 1970年代以降、F1界にタバコスポンサーが広まる中で、スポンサーカラーにマシンを塗り替えないという方針を貫いた。<!-- 「禁煙」という意味ではない --><!--これに伴い工場は禁煙となったが、役員が工場内に来たときは、慌てて捨てられたタバコがあちこちで煙を上げていたという逸話があり、実際はかなり寛容だったようである。-->エンツォの死後、フェラーリは[[マールボロ (たばこ)|マールボロ]]と密接な関係を築き、チーム名も「スクーデリア・フェラーリ・マールボロ」となった。 ;男が女に愛していると告げる時、それは彼女に対する欲望を意味する。 ;この世に存在する唯一完全な愛は、父親の息子に対する愛情だけだ。 ;わたしには、そうとしか思えない。 == 家族 == フェラーリ家は長男に「アルフレード」と命名する伝統があり、エンツォの父、兄、そして息子もその名を継いでいた(アルフレードの愛称が'''ディーノ''')。エンツォは生まれつき病弱な息子ディーノを可愛がったが、24歳で先立たれ、一時は生きる望みさえ失ったという。 エンツォはV12でないV8・V6搭載車に「ディーノ」と名付け愛息を偲んだ。 妻ラウラは[[トリノ]]の資産家の娘で、夫のビジネスに資金援助し、時にチーム運営に干渉することもあった。 これ以外に、愛人リナ・ラルディとの間に私生児[[ピエロ・ラルディ・フェラーリ|ピエロ・ラルディ]]を儲けている。ピエロは素性を隠してフェラーリ社で働き、正妻ラウラの死後認知され、エンツォの後継者として会社の株式を与えられた。 == エンツォ・フェラーリ生家博物館 == [[ファイル:Musée Enzo Ferrari 0017.JPG|thumb|right|220px|ミュージアム内観]] [[2012年]][[3月10日]]、イタリア・モデナで実父が板金工を営んでいた工場兼住居を改装し、エンツォ・フェラーリ生家博物館(''Museo Casa Enzo Ferrari'' )が開館した。 本来はエンツォの誕生日に開館する予定だったが、大雪にみまわれ3月10日となった。生家はエンツォによって売却されていたため取得が難航し、現在の所有者から賃貸というかたちで開設された。 生家は付属のワークショップ兼展示スペースとして所存され、隣接してミュージアム棟が建設された。設計は建築家[[ヤン・カブリッキー]]が担当し、彼の死後は[[アンドレア・モルガンテ]]が引き継いだ<ref>淵上正幸 "[http://www.kenchiku.co.jp/world/1206/top.html 世界の建築は今 No.80 エンツォ・フェラーリ・ミュージアム]". KENCHIKU.(2012年5月30日)2013年2月7日閲覧。</ref>。館内にはフェラーリやアルファロメオの初期の市販車・レースカーの他に、エンツォのトレードマークであるサングラスなどの愛用品も展示されている。屋根はモデナのシンボルカラーである黄色に塗られている。 == エンツォ・フェラーリを演じた俳優 == * 『[[:en:Ferrari (2003 film)|Enzo Ferrari]]』(2003年のテレビ映画) ** [[セルジオ・カステリット]](壮年期のエンツォ)<br />[[エリオ・ジェルマーノ]](18歳のエンツォ)<br />[[スキャンダー・ケインズ]](8歳のエンツォ) * 『[[ラッシュ/プライドと友情]]』(2013年の映画) ** Augusto Dallara * 『[[フォードvsフェラーリ]]』(2019年の映画) ** {{仮リンク|レモ・ジローネ|en|Remo Girone}} * 『[[:en:Lamborghini: The Man Behind the Legend|Lamborghini: The Man Behind the Legend]]』(2022年の映画) ** [[ガブリエル・バーン]] * 『[[フェラーリ (映画)|フェラーリ]]』(2023年の映画) ** [[アダム・ドライバー]] == 脚注 == {{reflist}} == 参考文献 == * 『スクーデリア・フェラーリ 1947-1997 50年全記録』 ソニー・マガジンズ、1997年、ISBN 4789791165 == 関連項目 == {{commonscat|Enzo Ferrari}} * [[フェラーリ・エンツォフェラーリ]] * [[ジャンニ・アニェッリ]] * [[イモラ・サーキット]] - 正式名称は「アウトドローモ・インテルナツィオナーレ・エンツォ・エ・ディーノ・フェラーリ」 * [[国際モータースポーツ殿堂]] == 外部リンク == * [http://www.ferrari.com/japanese/ フェラーリ公式ウェブサイト]{{ja icon}} * [http://www.museocasaenzoferrari.it/ Museo Casa Enzo Ferrari]{{it icon}}{{en icon}} {{スクーデリア・フェラーリ}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ふえらあり えんつお}} [[Category:エンツォ・フェラーリ|*]] [[Category:イタリアの自動車実業家]] [[Category:イタリアの自動車技術者]] [[Category:自動車メーカーの創業者]] [[Category:F1チームオーナー]] [[Category:レーシングチームのオーナー]] [[Category:チームマネージャー (モータースポーツ)]]<!--戦前(戦後のF1などではチームマネージャー/チーム代表を別に置いている)--> [[Category:イタリアのドライバー]] [[Category:グランプリドライバー (1949年以前)]] [[Category:フェラーリの役員]] [[Category:アルファロメオのモータースポーツ関係者]] [[Category:イタリア共和国功労勲章受章者]] [[Category:米国自動車殿堂殿堂者]] [[Category:モデナ出身の人物]] [[Category:1898年生]] [[Category:1988年没]]
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B言語
B言語(ビーげんご)は、AT&Tベル研究所のケン・トンプソン (Ken Thompson) によって開発されたプログラミング言語である。ケン・トンプソンがデニス・リッチー(Dennis Ritchie)監修の元で設計し、1969年頃に登場した。 B言語は再帰に対応し、非数値型に対応し、特定の機種に依存しない言語であり、OSや他の言語などを開発するための言語として設計された 。データ型を持たない言語で、ハードのCPUレジスタに対応したワード型1種類に依存し、どのようなビット長のCPUにも対応できた。文脈によりワードは整数またはアドレスとして扱われた。ASCIIコードが一般的になり、当時ベル研究所にもDEC PDP-11が導入され、文字データ型のサポートが重要になった。B言語のような型がない言語の仕様は欠点とみなされるようになり、トンプソンとリッチーは言語を拡張して内部型とユーザー定義型をサポートし、その言語はC言語となった。 B言語で記述されたプログラムは、コンパイラによって中間コードに変換され、実行にはインタプリタを必要とした。実行時にインタプリタによって逐次処理されるため、実行速度は極めて遅かった。ただしPDP-7版は機械語を出力できるように改良された。 トンプソンは、DEC社製コンピュータPDP-7上でUNIXの開発を行っていたが、当時、UNIX上ではプログラムをアセンブリ言語で記述することしかできなかった。そこでトンプソンはUNIX上で動作する高級言語の開発を始めた。トンプソンはUNIXの開発以前、Multicsの開発に携わっており、B言語は、Multics上で動作していたBCPLを元に開発された。 B言語は本質的には、トンプソンがその時代のミニコンのメモリ容量に収めるために、不要と感じたコンポーネントを除去したBCPLシステムである。またトンプソンの好みに沿うような変更も行われた(たいていは、一般的なプログラムで空白以外の文字数を削減できるという方向であった)。BCPLにあったALGOL由来の記法は大幅に改められた。代入演算子は、ALGOL 58(英語版)で採用された:=から、ALGOL開発メンバーの1人であるハインツ・ルティスハウザーがかつてSuperplanで採用していた=に戻され、また比較演算子は=から==へ置き換えられた。 トンプソンは加減算代入演算子を発明し、x =+ yの形で実装した(C言語では順序が逆転して+=となった)。またB言語ではインクリメント、デクリメント演算子(++ and --)が導入された。演算子を前につけるか後ろにつけるかで、変更前と変更後のどちらの値が式の結果に適用されるのかを選択できた。これらの新機能は最初のバージョンのB言語には見られなかった。デニス・リッチーによれば、多くの人はDEC PDP-11で導入された自動インクリメント・自動デクリメント・アドレッシングモードのために開発されたと思う人が多いが、Bが開発されたときにはPDP-11は存在しておらず歴史的に見てありえないとしている。 BCPLやForthと同じくB言語はマシンのワード長である1つのデータ型のみを持っていた。多くの演算子(例えば+、-、*、/)ではこれを整数として扱い、それ以外はポインタとして扱った。それ以外の部分についてはC言語の初期バージョンとよく似ていた。C言語の標準入出力ライブラリを彷彿とさせるライブラリがわずかながら存在していた。 初期の頃は、初期のUNIXを使用したDEC社のPDP-7用とPDP-11用の実装があり、またGCOSというOSが動作するハネウェルの36ビットメインフレームの実装もあった。最初にPDP-7用のスレッデッドコードを出力する実装が開発され、次にリッチーがマシン語を出力するコンパイラをTMG(英語版)で実装した。1970年にPDP-11が開発現場に導入され、スレッデッドコード版がPDP-11に移植された。アセンブラのdcとB言語自身はB言語で記述された。最初のyaccがこのPDP-11用に開発された。リッチーはこの時期にメンテナンスを引き受けていた。 B言語の型のない設計はハネウェルやPDP-7などの多くの古いコンピュータでは意味のあることであったが、PDP-11以降のほぼ全てのコンピュータがサポートしている8ビットのキャラクタデータ型にエレガントにアクセスすることが難しいことが問題になった。リッチーは1971年に言語の変更を開始し、コンパイラがマシン語を出力するように変換すると同時に、最も顕著な拡張としてデータ型を変数に追加した。1971年から1972年にかけてB言語はNew B言語へ進化し、そしてアラン・スナイダー(Alan Snyder)の強い要求によってプリプロセッサが加えられ、1972年から1973年の初期にC言語となった。 1973年の夏の間にPDP-11用のUNIXがC言語で書き直され、一連の努力が成し遂げられた。1972~73年の間にハネウェル635とIBM 360/370に移植する必要があり、マイク・レスク(Mike Lesk)は後にC言語の標準入出力ライブラリとなる「汎用的なI/Oパッケージ」を書いた。 B言語はC言語にほぼ置き換わった。B言語はハネウェルのメインフレームGCOSで1990年代頃まで利用され続けていた。また、小型システムの限定されたハードウェアを利用するためであったり、大規模なライブラリやツールやライセンスの問題、また単純に業務に必要十分であるからなどのような様々な理由により、一部の組み込みシステムでも利用されていた 。非常に大きな影響力のあったAberMUDはB言語で記述されていた。 ケン・トンプソンによるUsers' Reference to Bより
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B言語(ビーげんご)は、AT&Tベル研究所のケン・トンプソン によって開発されたプログラミング言語である。ケン・トンプソンがデニス・リッチー監修の元で設計し、1969年頃に登場した。
{{Infobox プログラミング言語 |名前 = B言語 |パラダイム = [[手続き型プログラミング|手続き型]] |設計者 = [[ケン・トンプソン]] |開発者 = [[ベル研究所]] |型付け = なし |処理系 = |影響を受けた言語 = [[BCPL]] |影響を与えた言語 = [[C言語]] }} '''B言語'''('''ビーげんご''')は、[[ベル研究所|AT&Tベル研究所]]の[[ケン・トンプソン]] (Ken Thompson) によって開発された[[プログラミング言語]]である。ケン・トンプソンが[[デニス・リッチー]](Dennis Ritchie)監修の元で設計し、1969年頃に登場した<ref>{{Cite web|url=http://www.britannica.com/EBchecked/topic/1663863/B|title=B - computer programming language|publisher=|accessdate=2019-11-29}}</ref>。 == 特徴 == '''B言語'''は再帰に対応し、非数値型に対応し、特定の機種に依存しない言語であり、OSや他の言語などを開発するための言語として設計された<ref name=bur>{{Cite web | first = Ken | last = Thompson | authorlink = Ken Thompson (computer programmer) | title = Users' Reference to B | date= 7 January 1972 | accessdate = 21 March 2014 | publisher = Bell Laboratories | url = https://www.bell-labs.com/usr/dmr/www/kbman.pdf | archiveurl = https://web.archive.org/web/20150317033259/https://www.bell-labs.com/usr/dmr/www/kbman.pdf |archivedate = 11 June 2015 }}</ref> 。データ型を持たない言語で、ハードのCPUレジスタに対応した[[ワード]]型1種類に依存し、どのようなビット長のCPUにも対応できた。文脈によりワードは[[整数]]または[[メモリアドレス|アドレス]]として扱われた。[[ASCII]]コードが一般的になり、当時ベル研究所にも[[PDP-11|DEC PDP-11]]が導入され、文字データ型のサポートが重要になった。B言語のような型がない言語の仕様は欠点とみなされるようになり、トンプソンとリッチーは言語を拡張して内部型とユーザー定義型をサポートし、その言語は[[C言語]]となった。 B言語で記述された[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]は、[[コンパイラ]]によって[[中間コード]]に変換され、実行には[[インタプリタ]]を必要とした。実行時に[[インタプリタ]]によって逐次処理されるため、実行速度は極めて遅かった。ただし[[PDP-7]]版は[[機械語]]を出力できるように改良された。 == 歴史 == トンプソンは、[[DEC社]]製コンピュータ[[PDP-7]]上で[[UNIX]]の開発を行っていたが、当時、[[UNIX]]上では[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]を[[アセンブリ言語]]で記述することしかできなかった。そこでトンプソンは[[UNIX]]上で動作する[[高級言語]]の開発を始めた。トンプソンは[[UNIX]]の開発以前、[[Multics]]の開発に携わっており、B言語は、[[Multics]]上で動作していた[[BCPL]]を元に開発された{{Refnest|group=note|名称はBCPLの短縮形であるとされているが、トンプソンがMulticsを使用していた時代に開発した別の言語Bonが由来であるとする説もある[Thompson 69]。Bonはトンプソンの妻であるBonnieから来ている(マニュアルの記載より)、 秘密の呪文を囁く宗教の[[ボン教]]から来ているなどの説もある。<ref name="chist">{{Cite journal| first = Dennis M.| last = Ritchie| authorlink = Dennis Ritchie| title = The Development of the C Language| date=March 1993 | journal = ACM SIGPLAN Notices| volume = 28 | issue = 3| pages = 201–208| url = http://www.bell-labs.com/usr/dmr/www/chist.html| doi = 10.1145/155360.155580 | ref = harv}}</ref>}}。 B言語は本質的には、トンプソンがその時代の[[ミニコンピュータ|ミニコン]]の[[主記憶装置|メモリ容量]]に収めるために、不要と感じたコンポーネントを除去したBCPLシステムである。またトンプソンの好みに沿うような変更も行われた(たいていは、一般的なプログラムで空白以外の文字数を削減できるという方向であった<ref name=chist />)。BCPLにあった[[ALGOL]]由来の記法は大幅に改められた。代入演算子は、{{仮リンク|ALGOL 58|en|ALGOL 58|label=ALGOL 58}}で採用された<code>:=</code>から、ALGOL開発メンバーの1人である[[ハインツ・ルティスハウザー]]がかつてSuperplanで採用していた<code>=</code>に戻され、また比較演算子は<code>=</code>から<code>==</code>へ置き換えられた。 トンプソンは加減算代入演算子を発明し、<code>x =+ y</code>の形で実装した(C言語では順序が逆転して<code>+=</code>となった)。またB言語ではインクリメント、デクリメント演算子(<code>++</code> and <code>--</code>)が導入された。演算子を前につけるか後ろにつけるかで、変更前と変更後のどちらの値が式の結果に適用されるのかを選択できた。これらの新機能は最初のバージョンのB言語には見られなかった。デニス・リッチーによれば、多くの人はDEC PDP-11で導入された自動インクリメント・自動デクリメント・アドレッシングモードのために開発されたと思う人が多いが、Bが開発されたときにはPDP-11は存在しておらず歴史的に見てありえないとしている<ref name=chist />。 [[BCPL]]や[[Forth]]と同じくB言語はマシンのワード長である1つのデータ型のみを持っていた。多くの[[演算子]](例えば<code>+</code>、<code>-</code>、<code>*</code>、<code>/</code>)ではこれを整数として扱い、それ以外は[[ポインタ (プログラミング)|ポインタ]]として扱った。それ以外の部分についてはC言語の初期バージョンとよく似ていた。C言語の[[標準Cライブラリ#入出力 <stdio.h>|標準入出力ライブラリ]]を彷彿とさせる[[ライブラリ]]がわずかながら存在していた<ref name=bur />。 初期の頃は、初期の[[UNIX]]を使用した[[DEC社]]の[[PDP-7]]用と[[PDP-11]]用の実装があり、また[[GCOS]]というOSが動作する[[ハネウェル]]の36[[ビット]][[メインフレーム]]の実装もあった。最初にPDP-7用の[[スレッデッドコード]]を出力する実装が開発され、次にリッチーがマシン語を出力するコンパイラを{{仮リンク|TMG (language)|en|TMG (language)|label=TMG}}で実装した<ref>{{Cite web |url=http://www.multicians.org/tmg.html |title=TMG |publisher=multicians.org|accessdate=2019-11-29}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.bell-labs.com/usr/dmr/www/chist.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150611114355/https://www.bell-labs.com/usr/dmr/www/chist.html |archivedate=11 June 2015 |title=The Development of the C Language |first=Dennis M. |last=Ritchie |authorlink=Dennis Ritchie |publisher=Bell Labs/Lucent Technologies|accessdate=2019-11-29}}</ref><ref name="reader">{{Cite techreport |first1=M. D. |last1=McIlroy |authorlink1=Doug McIlroy |year=1987 |url=http://www.cs.dartmouth.edu/~doug/reader.pdf |title=A Research Unix reader: annotated excerpts from the Programmer's Manual, 1971–1986 |series=CSTR |number=139 |institution=Bell Labs}}</ref>。1970年にPDP-11が開発現場に導入され、スレッデッドコード版がPDP-11に移植された。アセンブラのdcとB言語自身はB言語で記述された。最初の[[yacc]]がこのPDP-11用に開発された。リッチーはこの時期にメンテナンスを引き受けていた<ref name=chist />{{R|reader}}。 B言語の型のない設計はハネウェルやPDP-7などの多くの古いコンピュータでは意味のあることであったが、PDP-11以降のほぼ全てのコンピュータがサポートしている8ビットの[[キャラクタ (コンピュータ)|キャラクタ]]データ型にエレガントにアクセスすることが難しいことが問題になった。リッチーは1971年に言語の変更を開始し、コンパイラがマシン語を出力するように変換すると同時に、最も顕著な拡張としてデータ型を変数に追加した。1971年から1972年にかけてB言語はNew B言語へ進化し、そしてアラン・スナイダー(Alan Snyder)の強い要求によって[[プリプロセッサ]]が加えられ、1972年から1973年の初期にC言語となった<ref name=chist />。 1973年の夏の間にPDP-11用のUNIXがC言語で書き直され、一連の努力が成し遂げられた。1972~73年の間にハネウェル635とIBM [[System/360|360]]/370に移植する必要があり、マイク・レスク(Mike Lesk)は後にC言語の標準入出力ライブラリとなる「汎用的なI/Oパッケージ」を書いた。 B言語は[[C言語]]にほぼ置き換わった<ref name=plb />。B言語はハネウェルのメインフレームGCOSで1990年代頃まで利用され続けていた<ref name="uwtools">{{Cite web | title = Thinkage UW Tools Package | accessdate = 26 March 2014 | publisher = Thinkage, Ltd. | url = http://www.thinkage.ca/english/gcos/product-uwtools.shtml }}</ref>。また、小型システムの限定されたハードウェアを利用するためであったり、大規模なライブラリやツールやライセンスの問題、また単純に業務に必要十分であるからなどのような様々な理由により、一部の[[組み込みシステム]]でも利用されていた<ref name=plb>{{Cite web | last = Johnson and Kernighan | authorlink = Stephen C. Johnson | title = THE PROGRAMMING LANGUAGE B | accessdate = 21 March 2014 | publisher = Bell Laboratories | url = https://www.bell-labs.com/usr/dmr/www/bintro.html | archiveurl = https://web.archive.org/web/20150611114355/https://www.bell-labs.com/usr/dmr/www/bintro.html | archivedate = 11 June 2015 }}</ref> 。非常に大きな影響力のあった[[MUD|AberMUD]]はB言語で記述されていた。 == コードの例 == ケン・トンプソンによる''Users' Reference to B''より<ref name=bur /> <syntaxhighlight lang="c"> /* 以下の関数は負でない整数nをb進数の形で出力する(ただし2<=b<=10)。 このルーチンはASCIIキャラクタのコードの値が 0から9まで連続しているということを利用している。*/ printn(n, b) { extrn putchar; auto a; /* Wikipedia による注釈: この auto キーワードは自動変数(関数スコープの変数) を宣言している。C++11 の型推論の auto とは別もの。 */ if (a = n / b) /* 代入文であり、比較演算子ではない*/ printn(a, b); /* 再帰 */ putchar(n % b + '0'); } </syntaxhighlight> <syntaxhighlight lang="c"> /* 次のプログラムはネイピア数の小数点以下の部分を4000桁まで計算し、 1行5文字のグループに分けて50文字を出力する。 この手法は以下を単純に拡張した物であり、 1/2! + 1/3! + ... = .111.... それぞれ2桁、3桁、4桁…に対応する。 */ main() { extrn putchar, n, v; auto i, c, col, a; i = col = 0; while(i<n) v[i++] = 1; while(col<2*n) { a = n+1 ; c = i = 0; while (i<n) { c =+ v[i] *10; v[i++] = c%a; c =/ a--; } putchar(c+'0'); if(!(++col%5)) putchar(col%50?' ': '*n'); } putchar('*n*n'); } v[2000]; n 2000; </syntaxhighlight> ==脚注== {{Reflist|group=note}} ==参考文献== {{Reflist}} == 外部リンク == * ''[http://www.bell-labs.com/usr/dmr/www/chist.html The Development of the C Language]'', [[デニス・リッチー|Dennis M. Ritchie]]. [[BCPL]]と[[C言語|C]]との関係の中でBを語っている。 * ''[http://www.bell-labs.com/usr/dmr/www/kbman.html Users' Reference to B]'', Ken Thompson. Describes the [[PDP-11]] version. * ''[http://www.bell-labs.com/usr/dmr/www/bintro.html The Programming Language B]'', S. C. Johnson & B. W. Kernighan, Technical Report CS TR 8, [[ベル研究所|Bell Labs]] (January 1973). [[ハネウェル]]の製品用の[[GCOS]]バージョン。 * ''[http://nanyanen.jp/comp/corigin.html C言語の起源をめぐって]'' 戸田孝 2006年11月 {{プログラミング言語一覧}} {{ケン・トンプソン}} [[Category:プログラミング言語]] [[Category:ケン・トンプソン]] [[Category:デニス・リッチー]]
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データイースト
データイースト株式会社 (Data East Corporation)は、かつて日本に存在したゲームソフトウェア開発会社。 福田哲夫が東海大学工学部を卒業後に就職した測定器メーカーが、光線銃式のエレメカを開発した。そのことでアーケードゲームに興味を持ち、独立して創業。当初はアーケード部品の下請け製造を行っていた。 Data West社のような会社になることを目標とし、Data Westは"西"に対し東にある会社ということで社名が名付けられた。日本企業のデータウエスト社とは無関係である。 デコ(DECO、Data East COrporationの略)の愛称を持ち、「デコゲー」と呼される独特な世界観を持つ個性的な作品を数多く輩出した。また、DECOのロゴも存在しており、こちらは1992年まで使われた(以後は海外で使われているDEを模したロゴに統一)。1980年には業界初の、カセット交換によるゲーム入れ替えを可能とした業務用システム基板「デコカセットシステム」を発表した。同じシステムがさまざまな会社で現在も使われている。 ゲーム以外の領域でも、多角経営の観点から、世界初の専用回線不要のポータブルファクシミリ「データファックス2000」(1984年)を最初に、NTTドコモの衛星電話(ワイドスター)用データ通信アダプター、救急車用心電図伝送装置といった情報機器の開発、日本初の頭巾型防煙マスク「マイボーグ」(日本サイボーグ(株)との共同開発)(1984年)、椎茸の販売、『販促戦隊デコレンジャー』など、独自路線を走っていた。 自社広告にあった「ヘンなゲームならまかせとけ!」を筆頭にゲーム中の「さあ牛だ」(『空手道』)、「アツクテシヌゼ」(『ならず者戦闘部隊 ブラッディウルフ』)、「我前に敵は無し」(『チェルノブ』他多数に使われ、データイーストのキャッチフレーズの代名詞とも言われる)、「いきなりクライマックス」(『エドワードランディ』)、「艶姿三強男之勝負拳(「トリオザパンチ」と読む)」(『トリオ・ザ・パンチ』)、「竜退治はもう飽きた」(『メタルマックス』)等、独特で威勢の良い台詞やキャッチコピーが多い。 「デコゲー」の一般的イメージは「ヘンで大味」「完成度はともかく発想は他に類を見ない」等。独自性に限っていえば同時期のセガやナムコにも引けを取らない強烈さを持っている。他に媚びることのない極端に渋いテイストを持つゲームも多く製作し、その作風は多彩である。 「ヘンなゲームなら」のキャッチコピーを考えたのは桝田省治。開発担当者たちは他の企業と同じく大真面目にゲームを作っていたため、このコピーに「我々のゲームの何処が変なのか」と憤慨していたらしい。 ゲームのイベント会場で行われた戦隊ショー風の興行である。その内容は「何の前触れもなく登場、販促が目的のはずなのにゲームの宣伝を一切せずに帰っていく」というものだった。これに関して百万円単位の予算があっさり通過し、デビュー直前の会場で「社長、またやってしまいました」と事後承諾で行われたとされる。また、社長自ら「わしも出たい」と言いだしたとも伝えられる。 1986年にアメリカ・イリノイ州シカゴにデータイースト・ピンボール社を設立し、業務用のピンボール機製造も行った。日本のデータイーストは日本国内での輸入・販売を担当した。同社のピンボールは通称「デコピン」と呼ばれる。 発足にあたって、旧スターン社の創設者の息子、ゲイリー・スターンがジェネラルマネージャーとなった。マシンやゲーム内容は、旧スターン社の伝統を受け継いだというよりもウィリアムス社の影響を強く受けていたと言える。そして、ウィリアムス社に対抗すべく独自の技術やシステムを積極的に取り入れていった。 スターンらは、特にピンボール台の耐久性やメンテナンス性を上げるための研究に重点を置き、プレイフィールド面の耐久性の向上なども行っていた。1989年にはフリッパー用コイルの過剰な消耗の原因となる過電流やチャタリングを抑えるためにフリッパーボタンのオンオフをデジタル化したソリッドステイト方式フリッパーを開発し、『Robocop(ロボコップ)』で採用した。また1年間のコイル交換不要保証を開始、「もしコイルが焼けてしまった場合は、無料で交換する」としていた。これによりフリッパー用コイルの寿命は飛躍的に伸びることになった。 1994年にデータイースト・ピンボール社はセガのアメリカ法人に売却され、セガ・ピンボール社が誕生した。その後、社長だったスターンが株式を買い取り(MBO)、現在のスターン・ピンボール社(Stern)となった。1999年に「スター・ウォーズ エピソードI」を最後にWMSインダストリーズ社がピンボール事業を撤退してから、2013年にJersey Jack Pinball(英語版)社が「The Wizard of Oz(英語版)」を発売するまで、スターン・ピンボール社が完全新作の台を製造する世界で唯一のピンボール・メーカーだった。 1998年にアーケードゲームから撤退、コンシューマ事業に絞り込むも、負債33億円で1999年11月に和議申請、債務の75%カットなどを条件として2000年7月に和議認可となった。同社はゲームとは無関係な副事業に手を出しており、以前に椎茸栽培(パッケージには同社ロゴ有り)に手を出して失敗したこともあった。さらにマイナスイオン発生装置などの新事業で再建をはかったが、2003年4月下旬東京地裁に自己破産を申請し、同月末を以てすべての業務を停止。同年6月25日に東京地方裁判所から破産宣告、7月7日付けの官報に掲載された。折しも当時はゲーム業界の変化で複数の著名な中小ゲームメーカーが淘汰されていった時期であり、1998年にはコンパイルが和議申請により事実上の倒産(その後2002年に会社解散、2003年に破産)、データイーストの経営破綻と同時期の1999年11月にはヒューマンが和議申請、2001年にはネオジオに自社作品を供給するなどの提携関係にあったSNKが破産に追い込まれている。 2004年2月、データイーストのゲームに関するライセンスを携帯電話コンテンツ開発会社のジー・モードが取得した。 2007年9月、データイーストが保有していたゲームコンテンツのうち『ロボコップ』関連タイトルの知的財産権をD4エンタープライズが取得した。 それ以外の保有していた特許については、福田家の資産管理会社「タクトロン株式会社」に譲渡。タクトロンは、その保有特許を侵害されたとして任天堂を数回提訴したが、いずれも棄却されている。 2023年現在、商標権並びにロゴの著作権、一部タイトルを除くライセンスはジー・モードが、『ヘラクレスの栄光』や『カルノフ』などの一部タイトルのライセンスはパオン・ディーピーがそれぞれ保有している。なお『メタルマックス』のライセンスはKADOKAWAが保有している。 なお創業者の福田哲夫は、その後2015年に自らが設立した株式会社メトロネットの代表取締役であったが、2022年に自己破産している。
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データイースト株式会社 は、かつて日本に存在したゲームソフトウェア開発会社。
{{出典の明記|date=2016年9月}} {{基礎情報 会社 |社名=データイースト株式会社 |英文社名= Data East Corporation |ロゴ= [[File:Data East Logo clean.svg|200px]] |種類= [[株式会社 (日本)|株式会社(解散)]] |市場情報= |略称= DECO(デコ) |国籍= {{JPN}} |本社郵便番号= |本社所在地= [[東京都]][[杉並区]][[荻窪 (杉並区)|南荻窪]]4丁目41-10<br/>データイーストビル |設立= [[1976年]][[4月20日]] |業種= |統一金融機関コード= |SWIFTコード= |事業内容= 家庭用テレビゲームソフトの開発<br/>電子機器の開発・製造・販売 |代表者= 福田哲夫(創業者・代表取締役社長) |資本金= 2億8250万円 |発行済株式総数= |売上高= |営業利益= |純利益= |純資産= |総資産= |従業員数= |決算期= |主要株主= |主要子会社= Data East USA, inc.<br />Data East Pinball inc. |関係する人物= |外部リンク=[https://web.archive.org/web/20030421153050/http://www.dataeast-corp.co.jp/ 公式サイト](閉鎖) |特記事項=2003年4月、[[東京地方裁判所]]に[[破産]]を申請し[[倒産]]した。[[#自己破産|自己破産]]の節を参照。 }} '''データイースト株式会社''' (Data East Corporation)は、かつて[[日本]]に存在した[[ゲームソフトウェア]]開発会社。 == 概要 == [[福田哲夫_ゲームクリエイター|福田哲夫]]が[[東海大学]]工学部を卒業後に就職した測定器メーカーが、光線銃式の[[エレメカ]]を開発した。そのことでアーケードゲームに興味を持ち、独立して創業。当初はアーケード部品の下請け製造を行っていた。 Data West社のような会社になることを目標とし、Data '''West'''は"西"に対し東にある会社ということで社名が名付けられた。日本企業の[[データウエスト]]社とは無関係である。 デコ(DECO、'''D'''ata '''E'''ast '''CO'''rporationの略)の愛称を持ち、「デコゲー」と呼される独特な世界観を持つ個性的な作品を数多く輩出した。また、DECOのロゴも存在しており、こちらは1992年まで使われた(以後は海外で使われているDEを模したロゴに統一)。[[1980年]]には業界初の、カセット交換によるゲーム入れ替えを可能とした業務用システム基板「[[デコカセットシステム]]」を発表した。同じシステムがさまざまな会社で現在も使われている。 ゲーム以外の領域でも、多角経営の観点から、世界初の専用回線不要のポータブルファクシミリ「データファックス2000」(1984年)を最初に、[[NTTドコモ]]の[[衛星電話]]([[ワイドスター]])用[[データ通信]]アダプター、[[救急車]]用[[心電図]]伝送装置といった情報機器の開発、日本初の頭巾型防煙マスク「マイボーグ」(日本サイボーグ㈱との共同開発)(1984年)、[[椎茸]]の販売、『販促戦隊デコレンジャー』など、独自路線を走っていた。 == 特色 == 自社広告にあった「ヘンなゲームならまかせとけ!」を筆頭にゲーム中の「さあ牛だ」(『[[空手道 (ゲーム)|空手道]]』)、「アツクテシヌゼ」(『[[ならず者戦闘部隊 ブラッディウルフ]]』)、「我前に敵は無し」(『[[チェルノブ]]』他多数に使われ、データイーストのキャッチフレーズの代名詞とも言われる)、「いきなりクライマックス」(『[[エドワードランディ]]』)、「艶姿三強男之勝負拳(「トリオザパンチ」と読む)」(『[[トリオ・ザ・パンチ]]』)、「竜退治はもう飽きた」(『[[メタルマックス]]』)等、独特で威勢の良い台詞やキャッチコピーが多い。 「デコゲー」の一般的イメージは「ヘンで大味」「完成度はともかく発想は他に類を見ない」等。独自性に限っていえば同時期の[[セガ]]や[[ナムコ]]にも引けを取らない強烈さを持っている。他に媚びることのない極端に渋いテイストを持つゲームも多く製作し、その作風は多彩である。 「ヘンなゲームなら」のキャッチコピーを考えたのは[[桝田省治]]。開発担当者たちは他の企業と同じく大真面目にゲームを作っていたため、このコピーに「我々のゲームの何処が変なのか」と憤慨していたらしい。 === 販促戦隊デコレンジャー === ゲームのイベント会場で行われた戦隊ショー風の興行である。その内容は「何の前触れもなく登場、販促が目的のはずなのにゲームの宣伝を一切せずに帰っていく」というものだった。これに関して百万円単位の予算があっさり通過し、デビュー直前の会場で「社長、またやってしまいました」と事後承諾で行われたとされる。また、社長自ら「わしも出たい」と言いだしたとも伝えられる。 == ピンボール == [[1986年]]にアメリカ・イリノイ州シカゴにデータイースト・ピンボール社を設立し、業務用の[[ピンボール]]機製造も行った。日本のデータイーストは日本国内での輸入・販売を担当した。同社のピンボールは通称「デコピン」と呼ばれる。 発足にあたって、旧スターン社の創設者の息子、ゲイリー・スターンがジェネラルマネージャーとなった。マシンやゲーム内容は、旧スターン社の伝統を受け継いだというよりもウィリアムス社の影響を強く受けていたと言える。そして、ウィリアムス社に対抗すべく独自の技術やシステムを積極的に取り入れていった。 スターンらは、特にピンボール台の耐久性やメンテナンス性を上げるための研究に重点を置き、プレイフィールド面の耐久性の向上なども行っていた。[[1989年]]にはフリッパー用コイルの過剰な消耗の原因となる過電流やチャタリングを抑えるためにフリッパーボタンのオンオフをデジタル化したソリッドステイト方式フリッパーを開発し、『Robocop(ロボコップ)』で採用した<ref>Solid State Electronic Flipper : Patent No.4,895,369、パテントを取得したのは『Phantom of the Opera(オペラ座の怪人)』生産時</ref>。また1年間のコイル交換不要保証を開始、「もしコイルが焼けてしまった場合は、無料で交換する」としていた。これによりフリッパー用コイルの寿命は飛躍的に伸びることになった。 [[1994年]]にデータイースト・ピンボール社はセガのアメリカ法人に売却され、セガ・ピンボール社が誕生した。その後、社長だったスターンが株式を買い取り([[マネジメント・バイ・アウト|MBO]])、現在のスターン・ピンボール社([[:en:Stern (gaming company)|Stern]])となった。1999年に「[[スター・ウォーズ]] エピソードI」を最後に[[ウィリアムス (ゲーム)|WMSインダストリーズ]]社がピンボール事業を撤退してから、2013年に{{仮リンク|Jersey Jack Pinball|en|Jersey Jack Pinball|}}社が「{{仮リンク|The Wizard of Oz|en|The_Wizard_of_Oz_(pinball)|}}」を発売するまで、スターン・ピンボール社が完全新作の台を製造する世界で唯一のピンボール・メーカーだった。 == 自己破産 == [[1998年]]に[[アーケードゲーム]]から撤退、コンシューマ事業に絞り込むも、[[負債]]33億円で[[1999年]]11月に[[強制和議|和議]]申請、債務の75%カットなどを条件として[[2000年]]7月に和議認可となった。同社はゲームとは無関係な副事業に手を出しており、以前に[[シイタケ|椎茸]]栽培(パッケージには同社[[ロゴタイプ|ロゴ]]有り)に手を出して失敗したこともあった。さらに[[マイナスイオン]]発生装置などの新事業で再建をはかったが、[[2003年]]4月下旬東京地裁に[[自己破産]]を申請し、同月末を以てすべての業務を停止。同年[[6月25日]]に東京地方裁判所から破産宣告、[[7月7日]]付けの[[官報]]に掲載された。折しも当時はゲーム業界の変化で複数の著名な中小ゲームメーカーが淘汰されていった時期であり、1998年には[[コンパイル (企業)|コンパイル]]が和議申請により事実上の倒産(その後2002年に会社解散、2003年に破産)、データイーストの経営破綻と同時期の1999年11月には[[ヒューマン (ゲーム会社)|ヒューマン]]が和議申請、[[2001年]]には[[ネオジオ]]に自社作品を供給するなどの提携関係にあった[[SNK (1978年設立の企業)|SNK]]が破産に追い込まれている。 [[2004年]]2月、データイーストのゲームに関する[[ライセンス]]を[[携帯電話]]コンテンツ開発会社の[[ジー・モード]]が取得した。 [[2007年]]9月、データイーストが保有していたゲームコンテンツのうち『[[ロボコップ]]』関連タイトルの知的財産権を[[D4エンタープライズ]]が取得した。 それ以外の保有していた特許については、福田家の資産管理会社「タクトロン株式会社」に譲渡<ref name="n23079">[https://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/AE2F4AAABF73E300492570E50023A942.pdf 東京地方裁判所 平成15年(ワ)第23079号 損害賠償請求事件]</ref>。タクトロンは、その保有特許を侵害されたとして[[任天堂]]を数回提訴したが、いずれも棄却されている<ref name="n23079" /><ref>[https://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20060929110516.pdf 知的財産高等裁判所 平成18年(ネ)第10007号 損害賠償請求控訴事件]<br />[https://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20080829163640.pdf 東京地方裁判所民事 平成19年(ワ)第32196号 不当利得返還請求事件]</ref>。 [[2023年]]現在、商標権並びにロゴの著作権、一部タイトルを除くライセンスはジー・モードが、『ヘラクレスの栄光』や『[[カルノフ]]』などの一部タイトルのライセンスは[[パオン・ディーピー]]がそれぞれ保有している。なお『メタルマックス』のライセンスはKADOKAWAが保有している。 なお創業者の福田哲夫は、その後2015年に自らが設立した[https://metronet.jp/companypolicy/ 株式会社メトロネット]の代表取締役であったが、2022年に自己破産している。<ref>[http://シニアジャンプ.com/item/detail/item_id/6094/ メトロネット株式会社 代表取締役社長 福田 哲夫 氏 | シニアジャンプ.com ~ アクティブシニアの総合情報サイト] 2018年9月14日閲覧。</ref> == 代表作 == === アーケード === * 1977年  *  ジャックロット(スロット筐体)・・デビューマシン * 1978年 ** バルーン、バルーンミニ、テーブルバルーン(筐体) - 全て風船割り『[[サーカス (ゲーム)|サーカス]]』のコピーゲーム。 ** スペースファイター(筐体) - 『[[スペースインベーダー]]』のコピーゲーム。 ** スーパーブレイク(筐体)、2in1(各種筐体)、ミラクルスーパー(筐体) * 1979年   * [[アストロファイター]](筐体) - 初のオリジナルゲーム。基板は『スペースファイター』を流用、その他ファントム、サタ-ン、ナイスオン、モウルハンター(全て筐体)  * 1980年       *  トマホーク777(筐体) ** マッドライダー(筐体) ** 戦国忍者隊(デコカセ) ** ハイウエィチェイス(デコカセ) ** オーシャントゥオーシャン(スロット筐体) ** 1981年    **  マンハッタン、テラニアン、ザ・タワー、ネブラー、アストロファンタジア、ロックンチェイス、スーパーアストロファイター、フラッシュボーイ、オーシャントゥオーシャン(全てデコカセ) *** 4人用[[テレジャン]] - コンピュータと麻雀を行なうのではなく、通常の手打ち麻雀をコンピュータとテレビで代行するもの。テレビ画面が板で各四家と河や山牌に5分割されており、ツモや捨牌も全てボタンと画面で行なう。風俗営業取締法([[風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律|風適法]]の前身)下において麻雀用の許可を受けた。<!--従って「アーケードゲーム」には該当しない(現7号営業機。パチスロの0号機を「初のアーケードメダルゲーム」と呼ばないのと同じ)-->[[王位戦 (麻雀)|王位戦]]を主催していた麻雀用具販売の株式会社である[[かきぬま]]が販売を担当した(雀荘向け専用筐体)。 *** [[DSテレジャン]](デコカセ) - [[ジャンピューター]]型の2人打ち麻雀。雀荘むけに開発された『テレジャン』と同様、プレイヤー同士での対戦も可能となっていたが、1人でコンピュータと対戦することも可能だった。なお、このゲームに限り、操作パネルも麻雀専用パネルに交換する必要があった。同年後半に他社からジャンピューターが発売されて、麻雀ゲームが大人気になったが、このテレジャンのブレイクが始まりである。 *** [[プロゴルフ (ゲーム)|プロゴルフ(デコカセ及び基板)]] - 初版は9ホールだったが、後に18ホールものがリリースされた。大ヒットしたゲーム。 * 1982年 ** [[プロテニス (ゲーム)|プロテニス(デコカセ)]] ** プロサッカー(基板) ** フィッシング(デコカセ) ** ハンバーガー([[バーガータイム|デコカセ]])海外名バーガータイム <ref>同社でプログラマーを務めた{{Cite web|和書|title=佐久間晶のツイート |url=https://twitter.com/reddrag64988892/status/1637341730352791552 |website=Twitter |access-date=2023-06-17 |language=ja}}より</ref> ** [[バーニンラバー]]、ミッションX、詰碁快勝、エクスプローラー、ラッキーポーカー(全てデコカセ) ** [[ディスコ・ナンバーワン]](基板及びデコカセ) ** ジュピター及びジュピター改良版、コンピュートロン(占い) ** ラッパッパ(基板及びデコカセ) ** グレイプロック(基板及びデコカセ) ** プロサッカー(基板及びデコカセ) ** トレジャーアイランド(基板及びデコカセ) * 1983年 ** [[幻魔大戦 (映画)|幻魔大戦]] 同社初の[[レーザーディスク]](LD)ゲーム ** 幻魔タロット(LD、占い) ** [[プロサッカー (ゲーム)|プロサッカー]](デコカセ) ** [[ザ・ビッグプロレスリング]](基板) - 開発連携は、[[テクノスジャパン]]。 ** ユーミン(占い) ** スケーター、プロボウリング、ナイトスター、ゼロイゼ(全てデコカセ) * 1984年 ** [[空手道 (ゲーム)|空手道]]及び対戦空手道(基板) - 開発連携は、テクノスジャパン。 ** [[ザビガ]](基板) ** [[B-WINGS]] (基板)- 1986年に[[ファミリーコンピュータ]]に移植。 ** [[サンダーストーム]](LD) ** [[ファイティングアイスホッケー]](デコカセ) ** [[リバレーション]](基板) ** [[ハローゲートボール]](デコカセ) ** [[イエローキャブ (ゲーム)|イエローキャブ]](基板) ** 東京見栄診療所(占い) ** 大相撲(デコカセ) * 1985年 ** [[ロードブラスター]](LD) ** [[サイドポケット (ゲーム)|サイドポケット]](基板) ** [[メタルクラッシュ]](基板) ** [[チャンバラ (ゲーム)|チャンバラ]](基板) ** シュートアウト(基板) ** [[プロ野球入団テスト トライアウト]](基盤) ** [[バルダーダッシュ|バルダーダッシュ(デコカセ)]] - [[洋ゲー|海外作品]]のアーケード移植。 ** 撃墜王(基板) ** バッテンオハラのスチャラカ空中戦(基板) ** 芸能人資格試験(占い) * 1986年 ** [[強行突破]](基板) ** [[ブレイウッド]](基板) ** [[ダーウィン4078]](基板) ** [[のぼらんか|のぼらんか(基板)]] - 開発は[[コアランド|コアランドテクノロジー]]。 ** [[ラストミッション]](基板) * 1987年 ** [[SRD SUPER REAL DARWIN]](基板) - 『ダーウィン4078』の続編。 ** [[キャプテンシルバー]](基板) ** [[カルノフ]](基板) ** [[サイコニクス・オスカー]](基板) ** [[ヘビー・バレル]](マザーボード) ** [[臥竜列伝]] - 『[[三国志演義|三国志]]』をモチーフとしたアクションシューティングゲーム。 ** [[魔境戦士]](基板) ** [[ワンダープラネット]](基板) ** [[ポケットギャル|ポケットギャル(基板)]] ** [[迷宮ハンターG]] (基板)- Gは[[ゴーストバスターズ]]の頭文字から<ref>{{Cite web|和書|title=https://twitter.com/reddrag64988892/status/1638104014868090881 |url=https://twitter.com/reddrag64988892/status/1638104014868090881 |website=Twitter |access-date=2023-03-21 |language=ja}}</ref>。 * 1988年 ** [[チェルノブ]](基板) ** [[コブラコマンド]](基板) ** [[ドラゴンニンジャ]](マザーボード) ** [[スタジアムヒーロー]](基板) * 1989年 ** [[ならず者戦闘部隊 ブラッディウルフ]](基板) ** [[シークレット・エージェント (ゲーム)|シークレット・エージェント]](基板) ** [[ミッドナイトレジスタンス]](基板) ** [[アクトフェンサー]](基板) ** [[ファイティングファンタジー (アーケードゲーム)|ファイティングファンタジー]](マザーボード) ** ロボコップ(マザーボード) * 1990年 ** [[ダークシール]](基板) ** 空牙(基板) ** トリオザパンチ(基板) * 1991年 ** [[サンダーゾーン]](基板) ** [[デスブレイド]](基板) ** [[戦え原始人#JOE&MAC 戦え原始人|JOE&MAC 戦え原始人]](基板) ** [[タンブル・ポップ]](基板) ** エドワードランディ(基板) ** チャイナタウン(基板) ** キャプテンアメリカ(基板) * 1992年 ** [[ダークシール|ダークシールII]](基板) ** [[超次元竜ドラゴンガン]](40型及びミニアップ型筐体) ** [[ダイエットGo Go]](基板) ** ウルフファング(基板) ** トワイライトスプレッド(占い) * 1993年 ** [[ファイターズヒストリー]]シリーズ(基板) ** [[ナイトスラッシャーズ|ナイトスラッシャーズ(基板)]] ** [[ヘビースマッシュ]](基板) ** ザ・グレイトラグタイムショー(基板) * 1994年 ** [[ダンクドリーム]]([[ネオジオ]]) ** [[フライングパワーディスク]](ネオジオ) ** {{仮リンク|ミラクルアドベンチャー|en|Spinmaster}}(ネオジオ) ** [[ガンハード]](筐体) ** ドリームサッカー94(基板) * 1995年 ** [[マジカルドロップ]]シリーズ(基板) ** ダンクドリーム95(基板) * 1996年 ** [[スカルファング 空牙外伝]](基板) ** [[スタンプ倶楽部]] - [[セガ]]との共同開発アーケード機。 === コンシューマ === * 1986年 ** [[バーニン'ラバー|バギー・ポッパー]]([[ファミリーコンピュータ]]) * 1987年 ** [[ヘラクレスの栄光]](ファミリーコンピュータ) - 『ヘラクレスの栄光』は、新宿エクスプレスの関連企業を介して、[[パオン・ディーピー|パオン・ディーピー(旧パオン)]]が商標登録。 ** [[探偵 神宮寺三郎 新宿中央公園殺人事件]]([[ファミリーコンピュータ ディスクシステム]]) - 『神宮寺三郎』は[[ワークジャム]]→[[アークシステムワークス]]が商標登録。 * 1988年 ** [[ドナルドランド]](ファミリーコンピュータ) ** [[ランペイジ]] - アメリカ公開と開発 (NES, ファミリーコンピュータ) ** [[探偵 神宮寺三郎 横浜港連続殺人事件]](ファミリーコンピュータ) ** [[探偵 神宮寺三郎 危険な二人|探偵 神宮寺三郎 危険な二人 前編]](ファミリーコンピュータ ディスクシステム) ** [[ビー・バップ・ハイスクール]] 高校生極楽伝説(ファミリーコンピュータ) * 1989年 ** [[ヘラクレスの栄光|ヘラクレスの栄光II タイタンの滅亡]](ファミリーコンピュータ) ** [[探偵 神宮寺三郎 危険な二人|探偵 神宮寺三郎 危険な二人 後編]](ファミリーコンピュータ ディスクシステム) * 1990年 ** [[大怪獣デブラス]](ファミリーコンピュータ) ** [[リトルマジック (データイースト)|リトルマジック]](ファミリーコンピュータ) * 1991年 ** [[サイレントデバッガーズ]]([[PCエンジン]]) ** [[ダークロード (ゲーム)|ダークロード]](ファミリーコンピュータ) ** [[メタルマックス]](ファミリーコンピュータ) - 『メタルマックス』は[[エンターブレイン|、新宿エクスプレス→エンターブレイン]]を経て、[[KADOKAWA]]が商標登録。 ** [[探偵 神宮寺三郎 時の過ぎゆくままに…]](ファミリーコンピュータ) ** [[戦え原始人#JOE&MAC 戦え原始人|JOE&MAC 戦え原始人]]([[スーパーファミコン]]) * 1992年 ** [[スーパーバーディー・ラッシュ]](スーパーファミコン) ** [[ヘラクレスの栄光|ヘラクレスの栄光III 神々の沈黙]](スーパーファミコン) ** [[戦え原始人#戦え原始人2 ルーキーの冒険|戦え原始人2 ルーキーの冒険]](スーパーファミコン) * 1993年 ** [[キャプテンラング]]([[メガドライブ]]) ** [[メタルマックス2]](スーパーファミコン) ** [[戦国伝承]](スーパーファミコン) ** [[マンデーナイトフットボール#ゲーム|ABCマンデーナイトフットボール]](スーパーファミコン) * 1994年 ** [[SWITCH (セガのゲーム)|Panic!]]([[メガCD]])- 海外での販売のみ担当。日本での販売及び開発元は[[セガ|セガ・エンタープライゼス]]。 ** [[戦え原始人#戦え原始人3 主役はやっぱりJOE&MAC|戦え原始人3 主役はやっぱりJOE&MAC]](スーパーファミコン) ** [[サイド・ポケット]](スーパーファミコン) ** [[シャドウラン]](スーパーファミコン) ** [[ファイターズヒストリー]](スーパーファミコン) ** [[ヘラクレスの栄光|ヘラクレスの栄光IV 神々からの贈り物]](スーパーファミコン) * 1995年 ** [[ファイターズヒストリー|ファイターズヒストリー 〜溝口危機一髪〜]](スーパーファミコン) ** [[メタルマックス|メタルマックス RETURNS]](スーパーファミコン) ** [[マジカルドロップ]](スーパーファミコン) ** [[もってけOh!ドロボー]](スーパーファミコン) ** [[水滸演武]]([[セガサターン]]) * 1996年 ** [[マジカルドロップ|マジカルドロップ2]](スーパーファミコン) ** [[マジカルドロップ]]([[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]) ** 水滸演武(PlayStation) ** 水滸演武 風雲再起(セガサターン) ** [[CREATURE SHOCK]](PlayStation) ** [[探偵 神宮寺三郎 未完のルポ]](PlayStation) * 1997年 ** [[ボイスアイドルコレクション 〜プールバー ストーリー〜]](PlayStation) ** [[マジカルドロップ|マジカルドロップIII よくばり特大号]](PlayStation) ** [[蒼穹紅蓮隊]](PlayStation) * 1998年 ** [[慟哭 そして…]](セガサターン) ** [[探偵 神宮寺三郎 夢の終わりに]](PlayStation・セガサターン) ** [[サイド・ポケット|サイドポケット3]](PlayStation) * 1999年 ** [[Revive 〜蘇生〜|REVIVE…〜蘇生〜]]([[ドリームキャスト]]) ** [[マジカルドロップ|マジカルドロップIII+ワンダホー!]](PlayStation) ** [[探偵 神宮寺三郎 アーリーコレクション|探偵 神宮寺三郎 Early Collection]](PlayStation) ** [[マジカルドロップ|マジカルドロップF 大冒険もラクじゃない!]](PlayStation) ** [[探偵 神宮寺三郎 灯火が消えぬ間に]](PlayStation) == 開発中止作品 == * チャンツェストーン - AC版のみ発売中止(1985年) * 空牙2 - 開発中止(1992年) * 闘牙 - 開発中止(1994年) == 元社員が関わっている企業 == * [[Urimina]] - 創業者で代表取締役社長だった福田哲夫が会長を務めているソフトウェア会社。 * [[ワークジャム]] - 『神宮寺三郎』シリーズの権利を同社より引き継いで保有、同シリーズの製作を行っている。また、同社の元社員が在籍している。倒産後、エクスプライズが同シリーズの権利を[[アークシステムワークス]]に譲渡。 * [[ユービーアイソフト]] - 同社の元社員だったスティーブ・ミラーは現在、日本支部の社長を就任している。スティーブは同社のゲームの英語音声の多くを担当し、『[[フライングパワーディスク」|フライングパワーディスク]]』のイギリス代表のネーミングの元ネタになっている。 * [[トンキンハウス]] - [[東京書籍]]が1997年にゲーム開発会社『東京書籍メディアファクトリー』を設立した後、同社の元社員が数名移籍<ref>[https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1241741181 【ゲームクリエイターインタビュー】『怒首領蜂 大往生 ブラックレーベルEXTRA』『キモかわE!』制作者・5pb.盛政樹さん編 後編] 2009年3月10日。</ref>。トンキンハウス消滅後は[[MAGES.]]に再移籍した。 === 当社から独立して設立した会社 === * [[テクノスジャパン]] - 同社の専務だった滝邦夫が独立して設立。 * [[ミッチェル (ゲーム会社)|ミッチェル]] - 同社の元社員である尾崎ロイが社長を務める。 * ベアーズ - 同社の元社員が設立。当初は[[PC-8800シリーズ]]のゲームソフトを開発していたが後にファミコンソフトに参入した[[ショウエイシステム]]のゲームソフトを開発していた。 * [[アイディアファクトリー]] - 同社の元社員が設立。 * [[コンパイルハート]] - 同社の元社員が設立。アイディアファクトリーの関連子会社。[[TAD (ゲーム会社)]] - 同社の元社員が設立。『[[カベール]]』『[[JuJu伝説]]』などの作品で知られる。 * [[キャトルコール]] - 同社の元社員が設立。『メタルマックス3』の開発も担当。 * [[空想科学 (ゲーム会社)|株式会社空想科学]] - 同社の元社員が設立。『メタルマックスリターンズ』の開発も担当。 * 新宿エクスプレス - 同社の草創期のメンバーだった角田末吉が独立して設立。同社の業務用ゲームの筆頭代理店であった。 * TAD - 同社の海外事業部(貿易部)の横山忠が独立して設立。その後のミッチェルの前身となる。 == 関連項目 == * [[ゲーマデリック]] - データイーストのサウンドチーム。 * [[サイトロン・レーベル]] - 同社のゲームサントラCDを発売していたレーベル。 * [[ジー・モード]] - 携帯コンテンツ運営会社。『バーガータイム』や『マジカルドロップ』など、同社のゲーム版権の過半数を取得している。 * [[パオン・ディーピー]] - 旧パオン時代に『ヘラクレスの栄光』シリーズや『カルノフ』『チェルノブ』『空牙』『ウルフファング』『スカルファング 空牙外伝』『フライングパワーディスク』の権利を、新宿エクスプレスの関連企業より引き継いで保有、各シリーズのライセンス・続編の製作を行っている。また[[仙台市]]にあった開発室もパオン・ディーピーに移管された。パチスロメーカー・[[大都技研]]のパートナー企業(社長が大都技研と同じ)。 * [[ウッドプレイス]] - [[日本物産]]の元スタッフが設立した会社で、基板製造や販売流通はデータイーストが受け持っていた。 * [[カプコン対データイースト裁判]] - 『ファイターズヒストリー』がカプコンの『ストリートファイターII』に対する著作権を侵害したとしてアメリカで提訴された裁判。 * KADOKAWA - DE社の業務用ゲームの全世界における独占的ライセンサーであった新宿エクスプレスより、『メタルマックス』の権利を2009年にエンターブレインが正式取得したが、その後2013年に現在のKADOKAWAに吸収合併されて解散した。同時に保有する同ゲームの権利を委譲したもの。 == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://web.archive.org/web/20030421153050/http://www.dataeast-corp.co.jp/ データイースト株式会社] - 閉鎖(2003年4月21日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) * [https://gmodecorp.com/dataeast/ DATA EAST Revival Project(G-mode)] * [https://web.archive.org/web/20110907150007/http://dataeastgames.com/jp/ DATA EAST GAMES(G-mode)] - 閉鎖(2011年9月7日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) * [http://tpo-pinball.com/tpo/history2.htm T.P.O.ヒストリー] - デコピン秘話。 * [https://atomic4649.wixsite.com/gamadelic GAMEDELIC] - ゲーマデリック。データイーストのサウンドチームによるバンド。2013年、再結成。 * {{Mediaarts-db}} {{ナムコット}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:てえたいいすと}} [[Category:データイースト|*]] [[Category:杉並区の歴史]] [[Category:1976年設立のコンピュータゲーム関連企業]] [[Category:2003年廃止のコンピュータゲーム関連企業]] [[Category:かつて存在した日本のコンピュータゲームメーカー]] [[Category:かつて存在した東京都の企業]] [[Category:経営破綻した企業(東京都)]]
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デゼニランド
デゼニランドは、1983年にハドソンが発売したパソコン向けアドベンチャーゲーム。続編にデゼニワールドがある。 千葉県の巨大遊園地に対抗して埼玉県に建設された「デゼニランド」に隠されている、伝説の秘宝「三月磨臼」(みつきまうす)を見つけ出し、脱出することがゲームの目的である。タイトルはディズニーランドのパロディであると同時に、出費を意味する「出銭」にもかけている。また、「三月磨臼」は単なる当て字ではなく、名称自体が謎解きに関わるようになっている。 当時としては珍しい、機械語による高速な彩色描画を売りにしていた。なお、のちに移植されたMSX版のみ線画表示だった。 1983年4月に開園した東京ディズニーランドに、ハドソン社員みんなで遊びに行ったことが開発のきっかけとなった。 当時ハドソンは、大量のゲームを次から次へと開発しては発売しており、本作以前はヒットしたものでも売り上げは一万本程度だった。しかし本作は五万本も売れたことから、ハドソンは開発方針を転換し、数を絞って質を高め、狙いを定めた特別なものを開発するようになった。 ゲームの進行は、英単語によるコマンド入力式である。動詞のみ、または動詞+名詞(目的語)を入力するが、移動などで省略形や特殊なコマンドを入力するものもある。おおむね英語の知識があれば、英単語総当りで何とかなる程度の単語数である。 ただし、「ATTACH」という単語を用いる場面がある。これは英単語としては「取り付ける」の意味で日常的に使われるものだが、当時の日本のコンピュータやゲーム分野では滅多に使われないものであり、SETやPUTのような類語がこの場面では通用しなかったため、難解な場面になった。あまりにもこの場面が難しかったことから、雑誌などの質問コーナーでこの場面の質問は定番であり、「デゼニランドといえばATTACH」として記憶されることになった。後発のPC-6001mkII版では、画面に登場しているものをLOOKすることにより、ATTACHという単語を含んだヒントが表示される。
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デゼニランドは、1983年にハドソンが発売したパソコン向けアドベンチャーゲーム。続編にデゼニワールドがある。
{{コンピュータゲーム |Title = デゼニランド |Genre = [[アドベンチャーゲーム]] |Plat = [[PC-8800シリーズ|PC-8801]]<br />[[PC-8000シリーズ|PC-8001mkII]]<br />[[PC-6000シリーズ|PC-6001mkII]]<br />[[FM-7]]<br />[[X1 (コンピュータ)|X1]]<br />[[MZ-1500]]<br />[[PC-9800シリーズ|PC-9801]]<br />[[MSX]]<br />[[ベーシックマスター#S1|MB-S1]] |Dev = [[ハドソン|ハドソンソフト]] |Pub = ハドソンソフト |Play = 1人 |Media = |Date = [[1983年]][[9月]] |Sale = 5万本くらい<ref name="makoto-a-1"> [https://www.itmedia.co.jp/makoto/articles/0903/12/news087.html “高橋名人”という社会現象――高橋利幸氏、ファミコンブームを振り返る(前編) (1/5) - Business Media 誠]</ref> }} '''デゼニランド'''は、[[1983年]]に[[ハドソン]]が発売した[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]向け[[アドベンチャーゲーム]]。続編に[[デゼニワールド]]がある。 == 概要 == 千葉県の巨大遊園地に対抗して[[埼玉県]]に建設された「デゼニランド」に隠されている、伝説の秘宝「三月磨臼」(みつきまうす)を見つけ出し、脱出することがゲームの目的である。タイトルは[[ディズニーランド]]のパロディであると同時に、出費を意味する「出銭」にもかけている。また、「三月磨臼」は単なる当て字ではなく、名称自体が謎解きに関わるようになっている。 当時としては珍しい、[[機械語]]による高速な彩色描画を売りにしていた。なお、のちに移植された[[MSX]]版のみ線画表示だった。 1983年4月に開園した[[東京ディズニーランド]]に、ハドソン社員みんなで遊びに行ったことが開発のきっかけとなった<ref name="makoto-a-1" />。 当時ハドソンは、大量のゲームを次から次へと開発しては発売しており、本作以前はヒットしたものでも売り上げは一万本程度だった。しかし本作は五万本も売れたことから、ハドソンは開発方針を転換し、数を絞って質を高め、狙いを定めた特別なものを開発するようになった<ref name="makoto-a-1" />。 == ゲームシステム == ゲームの進行は、英単語によるコマンド入力式である。動詞のみ、または動詞+名詞(目的語)<ref>場面によってはさらに名詞(手段)も入力することがある(例:ライオンをナイフで殺す→KILL LION KNIFE)。</ref>を入力するが、移動などで省略形や特殊なコマンドを入力するものもある。おおむね英語の知識があれば、英単語総当りで何とかなる程度の単語数である。 ただし、「ATTACH」という単語を用いる場面がある。これは英単語としては「取り付ける」の意味で日常的に使われるものだが、当時の日本のコンピュータやゲーム分野では滅多に使われないものであり、SETやPUTのような類語がこの場面では通用しなかったため、難解な場面になった。あまりにもこの場面が難しかったことから、雑誌などの質問コーナーでこの場面の質問は定番であり、「デゼニランドといえばATTACH」として記憶されることになった。後発の[[PC-6000シリーズ|PC-6001mkII]]版では、画面に登場しているものをLOOKすることにより、ATTACHという単語を含んだヒントが表示される。 == アトラクション == ;インターナショナルバザール :[[ワールドバザール]]のパロディ。6つの店舗があり、3つはダミー。 ;瀬戸内海の海賊 :[[カリブの海賊]]のパロディ。 ;ジャングルクローズ :[[ジャングルクルーズ]]のパロディ。 ;ホラマンション :[[ホーンテッドマンション]]のパロディ。 ;スペースリバー :[[スペース・マウンテン]]のパロディ。アトラクション自体がダミーで、ここを飛ばしてもクリアできる<ref>テープ版では、ここでのクリアデータが無いと梅下館へ行けないので、このアトラクションにも必ず行く必要がある。</ref>。 ;梅下館(うめしたかん) :[[ミート・ザ・ワールド]]のパロディ。「梅下」は同アトラクションの当時のスポンサーだった[[パナソニック|松下電器産業]]のもじり。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[サラダの国のトマト姫]] * [[デゼニワールド]] * [[ハドソン]] * [[MSXのゲームタイトル一覧]] * [[桃太郎電鉄]] 初代ファミコン版で買える物件の名前として出てくる。 <!-- == 外部リンク == WP:EL * [http://www2.plala.or.jp/yasinoue/oldgame/dezmenu.html デゼニランド攻略サイト] --> {{DEFAULTSORT:てせにらんと}} [[Category:1983年のパソコンゲーム]] [[Category:グラフィックアドベンチャー]] [[Category:FM-7シリーズ用ゲームソフト]] [[Category:PC-6000/6600用ゲームソフト]] [[Category:PC-8800用ゲームソフト]] [[Category:MSX/MSX2用ソフト]] [[Category:MZ用ゲームソフト]] [[Category:X1用ゲームソフト]] [[Category:ハドソンのゲームソフト]] [[Category:埼玉県を舞台としたコンピュータゲーム]]
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滝田洋二郎
滝田 洋二郎(たきた ようじろう、1955年(昭和30年)12月4日 - )は、日本の映画監督。富山県高岡市(旧福岡町)出身。 富山県立高岡商業高等学校卒業。俳優・山田辰夫は高校時代の同級生。高校卒業後、知り合いの国会議員の秘書から「就職を世話してやる」と、東急不動産と東映の名が挙がったため、派手そうで良いなという理由から東映を選択する。だが実際は、東映の下請けである東映セントラルフィルムのポルノ(東映ポルノ)を製作していた向井プロ(のち、獅子プロ)だった。1974年(昭和49年)、同社に事務職として入社。高倉健のヤクザ映画は観ていたものの特に映画好きではなかったため当初は戸惑ったが、撮影現場の面白さに惹かれ助監督に転ずる。向井寛、山本晋也、稲尾実、梅沢薫監督らの下で低予算ポルノ(ピンク映画)の助監督を務めた。一般映画では、1979年(昭和54年)の『下落合焼とりムービー』で助監督を務めている。1981年(昭和56年)、『痴漢女教師』で監督デビュー。以降、1982年(昭和57年)2本、1983年(昭和58年)4本、1984年(昭和59年)8本と倍のペースでメガホンを握り、"邦ピン・ニューエンタテイメントの旗手"などと称された。脚本家・高木功とのコンビで成人映画の監督として話題作を連発し耳目を集める。 1985年(昭和60年)、主演と脚本を務めた内田裕也に指名され、初の一般映画『コミック雑誌なんかいらない!』を監督し、高い評価を得る。同作はニューヨーク・ロサンゼルスの一部映画館でも公開され話題となった。以降、コンスタントに話題作を発表し続けている。当初はコメディが目立ったが、次第にシリアスな大作を数多く手がけるようになった。現在では不羈奔放な演出で沸かせたピンク時代とは大きく異なる端正な作風となっている。 2001年(平成13年)の『陰陽師』は、実写日本映画ではトップクラスのヒットとなった。2004年(平成16年)には『壬生義士伝』で日本アカデミー賞最優秀作品賞。 2008年(平成20年)公開の『おくりびと』は大作ではなかったものの、ロングランされると、翌2009年(平成21年)の日本アカデミー賞で最優秀作品賞・最優秀監督賞を受賞。その後、第81回アカデミー賞では日本映画初の外国語映画賞を受賞した。 2009年(平成21年)3月18日高岡市のホテルニューオータニ高岡にて富山県初となる県民栄誉賞と、こちらも初となる高岡市民栄誉賞が贈られた。 2011年(平成23年)に映画芸術科学アカデミー会員に選出される。 2014年(平成26年)に紫綬褒章受章。 ミステリ喜劇「痴漢電車・下着検札」からハードサスペンス「連続暴姦」まで、非常に幅広い作風を示す。「下着検札」は、竹中直人(当時は竹中ナオト)が松本清張・松田優作の物真似のみで全編演じており、満州事変秘話から密室トリック殺人、人形アニメで締めくくるラストなど凝った演出で話題を呼んだ。「痴漢電車・極秘本番」では、現代と大阪城夏の陣をタイムスリップで往還する、メジャー大作では扱わないSFスラップスティックコメディにまで挑んでいる。「痴漢電車・聖子のお尻」の終盤では密室トリックの嗜好を如何なく発揮。5分間セリフなしでラヴェルの「ボレロ」だけを流し、視覚のみで仕掛けを解明する映像で気を吐いた。これらのほとんどで主演した螢雪次朗とは、今も盟友関係が続いている。ピンク映画の末期にはにっかつ配給作品も数本手掛けたが、ほとんどが獅子プロ製作の買取作品で撮影所が使用できなかった。のちに「木村家の人々」で組んだにっかつ出身の山田耕大プロデューサーは、滝田から当時のにっかつへの強い敵意を感じたという。滝田は一般映画進出を果たすまで、予算・撮影日数ともに、にっかつロマンポルノの数分の一にすぎないピンク映画業界で手腕を発揮し続けた。 所属した向井プロ(獅子プロ)が新宿南口にあり、西新宿の超高層ビル群を毎日眺め、頻繁に作品へ取り入れた。
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滝田 洋二郎は、日本の映画監督。富山県高岡市(旧福岡町)出身。
{{ActorActress | 芸名 = 滝田 洋二郎 | ふりがな = たきた ようじろう | 画像ファイル = Yōjirō Takita 20090406.jpg | 画像サイズ = | 画像コメント = 2009年、[[内閣総理大臣官邸|首相官邸]]にて | 本名 = | 別名義 = | 出生地 = {{JPN}}・[[富山県]][[高岡市]]<br />(旧:[[福岡町 (富山県)|福岡町]]) | 死没地 = | 国籍 = | 民族 = | 身長 = 175 [[センチメートル|cm]] | 血液型 = | 生年 = 1955 | 生月 = 12 | 生日 = 4 | 没年 = | 没月 = | 没日 = | 職業 = [[映画監督]] | ジャンル = [[映画]] | 活動期間 = [[1974年]] - | 活動内容 = 2008年:[[アカデミー外国語映画賞]](『[[おくりびと]]』) | 配偶者 = あり | 著名な家族 = | 事務所 = [[A-team_(芸能プロダクション)|A-team]] | 公式サイト = [https://ateam-japan.com/ateam/takitayojiro/ プロフィール] | 主な作品 = 『[[僕らはみんな生きている]]』<br>『[[秘密 (東野圭吾)|秘密]]』/『[[陰陽師 (映画)|陰陽師]]』シリーズ<br>『[[壬生義士伝#映画|壬生義士伝]]』/『[[おくりびと]]』<br>『[[天地明察]]』/『[[北の桜守]]』 | アカデミー賞 = '''[[アカデミー外国語映画賞|外国語映画賞]]'''<br />[[第81回アカデミー賞|2008年]]『[[おくりびと]]』<ref name="movie">[[#外部リンク|外部リンクに映像]]</ref> | AFI賞 = | 英国アカデミー賞 = | セザール賞 = | エミー賞 = | ジェミニ賞 = | ゴールデングローブ賞 = | ゴールデンラズベリー賞 = | ゴヤ賞 = | グラミー賞 = | ブルーリボン賞 = '''監督賞'''<br />[[1993年]]『[[僕らはみんな生きている]]』<br>『[[新宿鮫シリーズ|眠らない街 新宿鮫]]』 | ローレンス・オリヴィエ賞 = | 全米映画俳優組合賞 = | トニー賞 = | 日本アカデミー賞 = '''最優秀監督賞'''<br/>[[第32回日本アカデミー賞|2009年]]『おくりびと』 | その他の賞 = '''[[報知映画賞]]'''<br/>'''作品賞'''<br/>[[1986年]]『[[コミック雑誌なんかいらない!]]』<hr>'''[[高崎映画祭]]'''<br>'''最優秀作品賞'''<br>[[1988年]]『[[木村家の人びと]]』<hr>'''[[紫綬褒章]]'''<br>[[2014年]] | 備考 = }} '''滝田 洋二郎'''(たきた ようじろう、[[1955年]]([[昭和]]30年)[[12月4日]] - )は、[[日本]]の[[映画監督]]。[[富山県]][[高岡市]](旧[[福岡町 (富山県)|福岡町]])出身。 ==来歴== [[富山県立高岡商業高等学校]]卒業。[[俳優]]・[[山田辰夫]]は高校時代の同級生。高校卒業後、知り合いの[[国会議員政策担当秘書|国会議員の秘書]]から「就職を世話してやる」と<ref name="CR8504">{{Cite journal |和書 |author = 秋本鉄次 |title = 滝田洋二郎インタビュー 『今、タキタが面白い。ニューエンタテイメントの旗手としてピンクの枠を超える29歳』 |journal = [[シティロード]] |issue = 1985年4月号 |publisher = エコー企画 |page = 16頁 }}</ref>、[[東急不動産]]と[[東映]]の名が挙がったため<ref name="CR8504"/>、派手そうで良いなという理由から東映を選択する<ref name="CR8504"/>。だが実際は、東映の[[請負|下請け]]である<ref name="CR8504"/>[[東映セントラルフィルム]]の[[ポルノ映画#日本における「ポルノ映画」|ポルノ]]([[東映ポルノ]])を製作していた[[向井寛|向井プロ]](のち、獅子プロ)<ref name="CR8504" />だった。[[1974年]](昭和49年)、同社に事務職として入社<ref name="CR8504" />。[[高倉健]]の[[ヤクザ映画]]は観ていたものの特に映画好きではなかったため当初は戸惑ったが、撮影現場の面白さに惹かれ[[助監督 (映画スタッフ)|助監督]]に転ずる<ref name="CR8504" />。[[向井寛]]、[[山本晋也]]、[[深町章|稲尾実]]、[[梅沢薫]]監督らの下で低予算ポルノ([[ピンク映画]])の助監督を務めた<ref name="CR8504"/>。[[映画のレイティングシステム#区分|一般映画]]では、[[1979年]](昭和54年)の『[[下落合焼とりムービー]]』で助監督を務めている。[[1981年]](昭和56年)、『痴漢女教師』で監督[[デビュー]]<ref name="CR8504"/>。以降、[[1982年]](昭和57年)2本、[[1983年]](昭和58年)4本、[[1984年]](昭和59年)8本と倍のペースでメガホンを握り<ref name="CR8504"/>、"邦ピン・ニューエンタテイメントの旗手"などと称された<ref name="CR8504"/>。[[脚本家]]・[[高木功 (作家)|高木功]]とのコンビで[[ピンク映画|成人映画]]の監督として話題作を連発し耳目を集める。 [[1985年]](昭和60年)、主演と脚本を務めた[[内田裕也]]に指名され、初の一般映画『[[コミック雑誌なんかいらない!]]』を監督し、高い評価を得る。同作は[[ニューヨーク]]・[[ロサンゼルス]]の一部映画館でも公開され話題となった。以降、コンスタントに話題作を発表し続けている。当初はコメディが目立ったが、次第にシリアスな大作を数多く手がけるようになった。現在では不羈奔放な演出で沸かせたピンク時代とは大きく異なる端正な作風となっている。 [[2001年]](平成13年)の『陰陽師』は、実写日本映画ではトップクラスのヒットとなった<ref>[http://www.eiren.org/toukei/2001.html 日本映画製作者連盟]</ref>。[[2004年]](平成16年)には『壬生義士伝』で日本アカデミー賞最優秀作品賞。 [[2008年]](平成20年)公開の『[[おくりびと]]』は大作ではなかった<ref>公開時は約220スクリーン。[http://www.bunkatsushin.com/modules/bulletin/article.php?storyid=23532 文化通信.com]</ref>ものの、ロングランされると、翌[[2009年]](平成21年)の日本アカデミー賞で最優秀作品賞・最優秀監督賞を受賞。その後、[[第81回アカデミー賞]]では日本映画初の[[アカデミー外国語映画賞|外国語映画賞]]を受賞した<ref name="movie">[[#外部リンク|外部リンクに映像]]</ref>。 [[2009年]](平成21年)3月18日高岡市のホテル[[ニューオータニ]]高岡にて富山県初となる県民栄誉賞と、こちらも初となる高岡市民栄誉賞<ref>{{Cite web|和書|title=名誉市民|website=高岡市|url=https://www.city.takaoka.toyama.jp/hisho/shise/gaiyo/meyoshimin.html |accessdate=2022-08-14}}</ref>が贈られた<ref>[http://mytown.asahi.com/toyama/news.php?k_id=17000000903180003 滝田監督「凱旋」に熱狂]</ref>。 [[2011年]](平成23年)に[[映画芸術科学アカデミー]]会員に選出される。 [[2014年]](平成26年)に[[紫綬褒章]]受章。 ==作風== ミステリ喜劇「痴漢電車・下着検札」からハードサスペンス「[[連続暴姦]]」まで、非常に幅広い作風を示す。「下着検札」は、[[竹中直人]](当時は竹中ナオト)が松本清張・松田優作の物真似のみで全編演じており、満州事変秘話から密室トリック殺人、人形アニメで締めくくるラストなど凝った演出で話題を呼んだ。「痴漢電車・極秘本番」では、現代と[[大阪夏の陣|大阪城夏の陣]]をタイムスリップで往還する、メジャー大作では扱わないSFスラップスティックコメディにまで挑んでいる。「痴漢電車・聖子のお尻」の終盤では密室トリックの嗜好を如何なく発揮。5分間セリフなしで[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]の「[[ボレロ (ラヴェル)|ボレロ]]」だけを流し、視覚のみで仕掛けを解明する映像で気を吐いた。これらのほとんどで主演した[[螢雪次朗]]とは、今も盟友関係が続いている。ピンク映画の末期にはにっかつ配給作品も数本手掛けたが、ほとんどが獅子プロ製作の買取作品で撮影所が使用できなかった。のちに「木村家の人々」で組んだにっかつ出身の山田耕大プロデューサーは、滝田から当時のにっかつへの強い敵意を感じたという。滝田は一般映画進出を果たすまで、予算・撮影日数ともに、にっかつロマンポルノの数分の一にすぎないピンク映画業界で手腕を発揮し続けた。 所属した向井プロ(獅子プロ)が[[新宿駅|新宿南口]]にあり<ref name="CR8504"/>、[[西新宿]]の[[超高層建築物|超高層ビル]]群を毎日眺め、頻繁に作品へ取り入れた<ref name="CR8504"/>。 == 監督作品 == === 一般作品 === * [[コミック雑誌なんかいらない!]](1986年) * [[愛しのハーフ・ムーン]](1987年) * [[木村家の人びと]](1988年) * [[病院へ行こう]](1990年) * [[病院へ行こう#病は気から 病院へ行こう2|病は気から 病院へ行こう2]](1992年) * [[僕らはみんな生きている]](1993年) * [[新宿鮫シリーズ|眠らない街 新宿鮫]](1993年) * [[熱帯楽園倶楽部]](1994年) * [[シャ乱Qの演歌の花道]](1997年) * [[お受験]](1999年) * [[秘密 (東野圭吾)#映画|秘密]](1999年) * [[陰陽師 (映画)|陰陽師]](2001年) * [[壬生義士伝]](2003年) * [[陰陽師II]](2003年)※共同脚本も担当 * [[阿修羅城の瞳]](2005年) * [[バッテリー (小説)|バッテリー]](2007年) * [[おくりびと]](2008年) * [[釣りキチ三平#実写映画|釣りキチ三平]](2009年) * [[天地明察]](2012年)※共同脚本も担当 * [[ラストレシピ〜麒麟の舌の記憶〜]](2017年) * [[北の桜守]](2018年) *聞煙(2019年)<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/eiga/news/341548|title=滝田洋二郎による中国映画が8月に中国で公開、ポスターは黄海がデザイン(2019年7月29日)|accessdate=2021年1月24日|publisher=映画ナタリー}}</ref> === 成人作品 === * 痴漢女教師 (1981年) * 痴漢電車シリーズ ** 痴漢電車 もっと続けて (1982年) ** 痴漢電車 満員豆さがし (1982年) ** 痴漢電車 ルミ子のお尻(1983年) ** 痴漢電車 けい子のヒップ(1983年) ** 痴漢電車 百恵のお尻(1983年) ** 痴漢電車 下着検札(1984年) ** 痴漢電車 ちんちん発車(1984年) ** 痴漢電車 極秘本番(1984年) ** 痴漢電車 聖子のお尻(1985年) ** 痴漢電車 車内で一発(1985年) ** 痴漢電車 あと奥まで1cm(1985年) * 官能団地 上つき下つき刺激つき (1982年) * [[連続暴姦]](1983年) * グッバイボーイ(1984年) * OL24時 媚娼女(1984年) * 真昼の切り裂き魔(1984年) * 痴漢保健室(1984年) * ザ・緊縛(1984年) * [[桃色身体検査]](1985年) * [[痴漢通勤バス]](1985年) * 絶倫ギャル やる気ムンムン(1985年) * [[ザ・マニア 快感生体実験]](1986年) * 痴漢宅配便(1986年) * はみ出しスクール水着(1986年) * [[タイム・アバンチュール 絶頂5秒前]](1986年) == 助監督作品 == * [[下落合焼とりムービー]](1979年)他 == 受賞歴 == * 1984年 第5回ズームアップ映画祭 作品賞・監督賞 『[[連続暴姦]]』 * 1985年 第6回ズームアップ映画祭 作品賞・監督賞 『真昼の切り裂き魔』 * 1986年 第11回[[報知映画賞]] 作品賞 『[[コミック雑誌なんかいらない!]]』 * 1989年 [[毎日映画コンクール#第43回(1988年)|第43回毎日映画コンクール]] 日本映画優秀賞 『[[木村家の人びと]]』 * 1994年 ** [[毎日映画コンクール#第48回(1993年)|第48回毎日映画コンクール]] 日本映画優秀賞 『[[僕らはみんな生きている]]』 ** [[ブルーリボン賞 (映画)#第36回(1993年度)|第36回ブルーリボン賞]] 監督賞『僕らはみんな生きている』『[[新宿鮫シリーズ|眠らない街 新宿鮫]]』 ** [[第17回日本アカデミー賞]] 優秀監督賞『僕らはみんな生きている』『眠らない街 新宿鮫』 * 2002年 ヌーシャテル国際ファンタスティック映画祭 国際映画賞『[[陰陽師 (映画)|陰陽師]]』 * 2004年 [[第27回日本アカデミー賞]] 最優秀作品賞・優秀監督賞 『[[壬生義士伝]]』 * 2008年 ** 第32回[[モントリオール世界映画祭]] グランプリ『[[おくりびと]]』 ** 第17回金鶏百花映画祭国際映画部門 監督賞『おくりびと』 ** 第28回[[ハワイ]]国際映画祭観客賞(長編映画)『おくりびと』 ** 第33回報知映画賞 作品賞 『おくりびと』 ** 第21回[[日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞|日刊スポーツ映画大賞]]作品賞・監督賞『おくりびと』 ** 第30回[[ヨコハマ映画祭]]作品賞・監督賞『おくりびと』 ** 朝日新聞アスパラクラブ会員が選ぶ2008年映画ベストワン ** [[日本ペンクラブ]]会員選出 日本映画ベスト1 『おくりびと』 * 2009年 ** [[キネマ旬報#第82回(2008年度)|第82回キネマ旬報ベスト・テン]] *** 日本映画ベスト・テン第1位・日本映画監督賞・読者選出日本映画監督賞『おくりびと』 ** [[毎日映画コンクール#第63回(2008年)|第63回毎日映画コンクール]] 日本映画大賞 『おくりびと』 ** パームスプリング国際映画祭 観客賞『おくりびと』 ** [[第32回日本アカデミー賞]]最優秀作品賞・最優秀監督賞『おくりびと』 ** [[第81回アカデミー賞|第81回米国アカデミー賞]][[アカデミー外国語映画賞|外国語映画賞]]『おくりびと』<ref name="movie">[[#外部リンク|外部リンクに映像]]</ref> ** 第18回[[日本映画批評家大賞]] 監督賞『おくりびと』 ** 第23回ワシントン国際映画祭カトリックメディア協議会賞『おくりびと』 ** 第11回イタリア [[ウディネ・ファーイースト映画祭]]観客賞・ブラックドラゴン賞『おくりびと』 ** 第1回東京新聞「映画賞」『おくりびと』 ** 第4回サンスポ なにわ映画賞『おくりびと』 ** 第13回インターネット映画大賞 日本映画部門作品賞・監督賞『おくりびと』 ** 第33回日本カトリック映画賞『おくりびと』 ** 2009 [[エランドール賞]] 作品賞『おくりびと』 ** 第59回[[芸術選奨文部科学大臣賞]] ** [[文化庁長官表彰]] 国際芸術部門 ** 富山県民栄誉賞 ** 高岡市市民栄誉賞 ** 第54回「映画の日」特別功労賞 ** 第62回北日本新聞文化賞 ** 全興連会長特別賞『おくりびと』 ** マウイ映画祭2009ワールドシネマ・ドラマ部門観客賞『おくりびと』 ** DVDオブ・ザ・イヤー2009最優秀 邦画賞『おくりびと』 ** ビデオ・オブ・ザ・イヤー最優秀 邦画賞『おくりびと』 ** [[天草映画祭]]風の賞『おくりびと』 * 2010年 ** 日本映画記者会特別賞 ** 第15回リトアニア・ヴィリニュス映画祭 観客賞『おくりびと』 ** 第29回香港フィルム・アワード最優秀アジア賞『おくりびと』 ** 第12回Roger Ebert'sFilm Festival ゴールデン・サム賞『おくりびと』 * 2012年 囲碁三段<ref>[http://www.nihonkiin.or.jp/news/2012/10/post_443.html 日本棋院]</ref> * 2014年 [[紫綬褒章]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNZO70487860X20C14A4CR8000/?s=5|title=春の褒章684人・23団体 ソチ五輪金メダル羽生さんら|accessdate=2023-05-11|publisher=[[日本経済新聞]]|date =2014-04-28}}</ref> * 2019年 [[第42回日本アカデミー賞]] 優秀作品賞・優秀監督賞 『[[北の桜守]]』 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 外部リンク == *[https://ateam-japan.com/ateam/takitayojiro/ 滝田洋二郎 | A-Team.Inc(エーチーム)] *{{Allcinema name|127594}} *{{Kinejun name|92768}} *{{JMDb name|0260990}} *{{imdb name|id=0847690|name=Yojiro Takita}} *{{YouTube|3pRF9T3D6Bo|"Departures" Wins Foreign Language Film: 2009 Oscars}} 滝田洋二郎「[[おくりびと]]」[[アカデミー外国語映画賞]](受賞スピーチ映像) *[http://fjmovie.la.coocan.jp/interview/1999/takita1.htm ニフティ映画大賞監督賞 滝田洋二郎監督インタビュー] {{Navboxes |list= {{A-team}} {{キネマ旬報ベスト・テン日本映画監督賞}} {{ブルーリボン賞監督賞}} {{日刊スポーツ映画大賞監督賞}} {{日本アカデミー賞最優秀監督賞}} {{ヨコハマ映画祭監督賞}} {{日本映画批評家大賞監督賞}} {{ピンク大賞 監督賞}} }} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たきた ようしろう}} [[Category:日本の映画監督]] [[Category:アカデミー賞受賞者]] [[Category:日本のポルノ監督]] [[Category:A-team (芸能プロダクション)]] [[Category:紫綬褒章受章者]] [[Category:富山県立高岡商業高等学校出身の人物]] [[Category:富山県出身の人物]] [[Category:1955年生]] [[Category:存命人物]]
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岩井俊二
岩井 俊二(いわい しゅんじ、1963年1月24日 - )は、日本の映画監督・映像作家・脚本家・音楽家。脚本家としては、網野 酸(あみの さん)というペンネームを用いることもある。血液型はO型。 宮城県仙台市出身。仙台市立西多賀中学校、宮城県仙台第一高等学校、横浜国立大学教育学部美術学科卒業。学生時代から小説家を目指し、美術の学科に入ったのもその道に影響すればいいと思ったためである。絵はあくまでも趣味で描き、漫画の持込みなどもした。卒業前にも就職活動をせず、とにかく映像関係の仕事に就くためアルバイトをしながら人脈を広げる。 小学時代、ほかに家にレコードがなかったため、百科事典のオマケについていた『世界の名曲』というレコード集でシューベルトやショパンを聴き込んでいたという。ターンテーブルは幼稚園の頃から家にあった。 大学卒業後の翌1988年、ビーイングなどのミュージック・ビデオの仕事を始める。1993年、テレビドラマ『if もしも~打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』を演出し、日本映画監督協会新人賞を受賞。テレビドラマでの受賞はきわめて異例である。同作品は再編集され、1994年劇場公開される。1995年、初の長編映画『Love Letter』を監督。日本や中国でも好評だったが、韓国では特に爆発的な人気を呼んだ。これに続く『スワロウテイル』は賛否両論あったが、岩井の知名度を大きく上げた作品である。 その後長編・短編作品を順調に公開し、独特な映像美から「岩井美学」などと呼ばれるようになる。初めてドキュメンタリーを発表した1999年頃から劇映画の監督業以外にもフィールドを広げ、2000年には庵野秀明監督作の『式日』に俳優として出演。新しい技術の取り組みにも熱心で、日本で最初にAVIDによるノンリニア編集を取り入れ、『式日』と同じ年にはインターネット上のBBSを使った大衆参加による小説『リリイ・シュシュのすべて』を完成、映画化する。この映画もまたHD24Pという、フィルム表現に近いデジタル撮影による新しい方法で行われ、仮編集はApplePowerBookが用いられた。この撮影法をいち早く取り入れた一人である。また、2003年にはWEB配信という新しい上映方法で『花とアリス(ショートフィルム)』を公開。 2004年4月1日からオフィシャルのウェブページでシナリオ募集していた『しな丼』のコーナーを閉鎖し、「戯作通信」こと『playworks(プレイワークス)』というウェブサイトを開設、また合わせてラジオ番組、『円都通信』がスタート。この『playworks』(『しな丼』)で扱われたシナリオがラジオドラマとして毎週放送されていた。その中の作品「虹の女神」(2006年)、「BANDAGE バンデイジ」(2010年)が映画化。プロデューサーとしての手腕も見せる。 2005年よりロサンゼルスに拠点を移し活動している。2009年にはフランス・アメリカ合作映画である「ニューヨーク、アイラブユー」に監督の1人として参加。ハリウッドにて初の長編映画「vampire」を撮影した。 映画監督の市川崑へのリスペクトを示している事でも知られており、『市川崑物語』の監督も務めた。 フジテレビの深夜枠であるJOCX-MIDNIGHTのアイキャッチ「音楽美学」を製作した。 なお、2009年横浜開港150周年記念テーマイベント(開国博Y150)において、プロデュース及び、初のアニメ脚本『BATON』を手がけている。 2014年、短編『TOWN WORKERS』で初のアニメーション作品を手がける。 2015年1月8日から、NHKのEテレで『岩井俊二のMOVIEラボ』が放送。 2015年2月20日、長編アニメーション作品『花とアリス殺人事件』を公開。前作に引き続き、ロトスコープで作られた理由は、元々生々しいロトスコープを気持ち悪いと思っていたが、ラルフ・バクシの作品を見て、斬新さや美しさを感じたのがきっかけで、20年前からテストしており、ある水準に達したので挑戦している。実写を線でなぞるだけだと気持ち悪い絵になるため、顔だけ手描きでディフォルメするなど試行錯誤している。 本作でロトスコープアニメーションディレクターを務めた久野遥子について、「久野ちゃんの絵は時代的耐久性があって、たぶん10年経っても20年経ってもバグが発生しない」と評している。 映画プロデューサーの鈴木敏夫には、「アニメ業界でロトスコープはタブー」と否定的な意見も言われているが、本人は「アニメの人達からすると、それはアニメじゃないって事になるんですよ。なぞるだけじゃないかっていう。でも僕からすると、アニメだって言われてる物を見ると、本当の人の動きの美しさに欠ける訳ですよ。こんなんでいいんだろうかって」とも語っている。 2016年2月、NHKで『岩井俊二のMOVIEラボ シーズン2』が放送。 ■YEN TOWN BAND ■Lily Chou-Chou ■LANDS ■ヘクとパスカル ■ikire ■Kyrie ※ ただし、「Swallowtail Butterfly ~あいのうた~」はCHARAと小林武史との共同作詞、「飛べない翼」「オリンポス」「元気」「二十歳の戦争」は小林武史との共同作詞、「勇気」は赤西仁と小林武史との共同作詞、「君の好きな色」は椎名琴音の共同作詞、「知らない世界も見飽きた」「手紙」はChimaとの共同作詞、「幻影」「ヒカリに」はアイナ・ジ・エンドとの共同作詞となっている。 ※ 「花は咲く」は、日本放送協会の東日本大震災復興プロジェクトチャリティーソングとして製作された。 2012年9月18日に自身のTwitter公式アカウントで、中国人による日本企業の工場や商店に対する破壊・略奪・放火が頻発した2012年の中国における反日活動に関して、「国(日本政府)があの島(尖閣諸島)を買うことがどれだけ挑発的か考えるべきだ」「侵略された国(中国)がまだ怒っていても当然」、「(日本が)相手国(中国)ばかり責めたのでは相手だって怒り出すのが道理」、 「日本のメディアが中国のことを悪く言い過ぎており、祖国を悪く言われたらどんな気がするかを考えなければならない」と、日本政府の尖閣諸島国有化や日本人の中国に対する態度を非難した。また、中韓で行われている反日教育については「(侵略を)忘れてしまってる日本の方がどうかしている」、「自国(日本)びいきの歴史解釈は受け入れがたい」と日本の歴史認識を批判した。 この件は各韓国紙でも報じられ、これを伝える『朝鮮日報』のコメント欄では岩井を賞賛する書き込みが相次いだ。また、中国人民解放軍総政治部が出版する新聞『解放軍報』の「日本政府は悔い改めないと、自ら苦い結果を味わうことになる」と題する記事の中で、「日本の挑発行為を批判する正義の声」として岩井のこの発言が取り上げられた。
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岩井 俊二は、日本の映画監督・映像作家・脚本家・音楽家。脚本家としては、網野 酸というペンネームを用いることもある。血液型はO型。
{{ActorActress | 芸名 = 岩井 俊二 | ふりがな = いわい しゅんじ | 画像ファイル = Shunji Iwai.jpg | 画像サイズ = 220px | 画像コメント = [[2015年]]、[[アヌシー国際アニメーション映画祭]]にて | 本名 = | 別名義 = | 出生地 = {{JPN}}・[[宮城県]][[仙台市]]<ref>{{Cite web|和書|title=岩井俊二監督と、ほんとにつくること。|work=対談「これでも教育の話」|date=2003-04-24|url= https://www.1101.com/education_iwai/2003-04-24.html |publisher=[[ほぼ日刊イトイ新聞]] |accessdate=2018-08-08}}</ref> | 死没地 = | 国籍 = | 民族 = | 身長 = | 血液型 = [[ABO式血液型|O型]] | 生年 = 1963 | 生月 = 1 | 生日 = 24 | 没年 = | 没月 = | 没日 = | 職業 = [[映画監督]] | ジャンル = | 活動期間 = | 活動内容 = | 配偶者 = | 著名な家族 = | 事務所 = | 公式サイト = | 主な作品 = '''映画'''<br />『[[Love Letter (1995年の映画)|Love Letter]]』<br />『[[スワロウテイル]]』<br />『[[リリイ・シュシュのすべて]]』<br />『[[花とアリス]]』<br/>『[[リップヴァンウィンクルの花嫁]]』<br/>『[[ラストレター (映画)|ラストレター]]』<br />『[[キリエのうた]]』 | アカデミー賞 = | AFI賞 = | 英国アカデミー賞 = | セザール賞 = | エミー賞 = | ジェミニ賞 = | ゴールデングローブ賞 = | ゴールデンラズベリー賞 = | ゴヤ賞 = | グラミー賞 = | ブルーリボン賞 = | ローレンス・オリヴィエ賞 = | 全米映画俳優組合賞 = | トニー賞 = | ベルリン国際映画祭 = '''[[:en:Network_for_the_Promotion_of_Asian_Cinema|最優秀アジア映画賞]]'''<br />[[第45回ベルリン国際映画祭|1995年]]『[[undo (映画)|undo]]』<br>'''国際アートシアター連盟賞'''<br />[[第52回ベルリン国際映画祭|2002年]]『[[リリイ・シュシュのすべて]]』 | 日本アカデミー賞 = | その他の賞 = '''[[日本映画監督協会新人賞]]'''<br />[[1993年]]『[[打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?]]』<hr>'''[[芸術選奨]]'''<br /> '''[[芸術選奨新人賞|文部科学大臣新人賞]]'''<br />[[1995年]]『[[Love Letter]]』<hr>'''[[高崎映画祭]]'''<br>'''最優秀監督賞'''<br>[[1997年]]『[[スワロウテイル]]』<br>'''若手監督グランプリ'''<br>[[1995年]]『Love Letter』<hr>'''[[ヨコハマ映画祭]]'''<br>'''最優秀作品賞'''<br>[[1995年]]『Love Letter』<br>'''最優秀監督賞'''<br>1995年『Love Letter』<hr>'''[[上海国際映画祭]]<br>[[:en:Golden Goblet Jury Grand Prix|審査員特別賞]]'''<br />[[2002年]]『[[リリイ・シュシュのすべて]]』<hr>'''[[TAMA映画祭]]'''<br>'''最優秀作品賞'''<br>[[2020年]]『[[ラストレター]]』 | 備考 = }} '''岩井 俊二'''(いわい しゅんじ、[[1963年]][[1月24日]] - )は、[[日本]]の[[映画監督]]・[[映像作家]]・[[脚本家]]・[[音楽家]]。[[脚本家]]としては、網野 酸(あみの さん)という[[ペンネーム]]を用いることもある。[[ABO式血液型|血液型]]はO型。 == 経歴・人物 == [[宮城県]][[仙台市]]出身<ref>{{Cite news|title=遠慮なく声上げて 岩井俊二さん 映画監督 |newspaper=[[日本経済新聞]]|date=2011-04-07|url=https://www.nikkei.com/article/DGXDZO26315060X00C11A4CC0000/}}</ref>。[[仙台市立西多賀中学校]]<ref>{{Cite web|和書|title=西多賀城中学校60周年記念式典|url=http://www.sendai-c.ed.jp/~hakuou/60%27sAnniversary%20ceremony.html|publisher=仙台市立西多賀中学校 |accessdate=2018-08-08}}</ref>、[[宮城県仙台第一高等学校]]、[[横浜国立大学教育学部・大学院教育学研究科|横浜国立大学教育学部]][[美術科 (学科)#4年制大学における美術科|美術学科]]卒業。学生時代から[[小説家]]を目指し、美術の学科に入ったのもその道に影響すればいいと思ったためである。絵はあくまでも趣味で描き、[[漫画]]の持込みなどもした。卒業前にも[[就職活動]]をせず、とにかく映像関係の仕事に就くため[[アルバイト]]をしながら人脈を広げる。 小学時代、ほかに家にレコードがなかったため、百科事典のオマケについていた『世界の名曲』というレコード集で[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]や[[フレデリック・ショパン|ショパン]]を聴き込んでいたという。[[ターンテーブル]]は幼稚園の頃から家にあった<ref>[http://www.inlifeweb.com/reports/report_438.html INLIFE 男の履歴書 岩井俊二]</ref>。 大学卒業後の翌[[1988年]]、[[ビーイング]]などの[[ミュージック・ビデオ]]の仕事を始める。[[1993年]]、[[テレビドラマ]]『[[if もしも]]~[[打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?]]』を演出し、[[日本映画監督協会新人賞]]を受賞。テレビドラマでの受賞はきわめて異例である。同作品は再編集され、[[1994年]]劇場公開される。[[1995年]]、初の長編映画『[[Love Letter (1995年の映画)|Love Letter]]』を監督。日本や中国でも好評だったが、[[大韓民国|韓国]]では特に爆発的な人気を呼んだ。これに続く『[[スワロウテイル]]』は賛否両論あったが、岩井の知名度を大きく上げた作品である。 その後長編・短編作品を順調に公開し、独特な映像美から「岩井美学」などと呼ばれるようになる。初めてドキュメンタリーを発表した[[1999年]]頃から劇映画の監督業以外にもフィールドを広げ、[[2000年]]には[[庵野秀明]]監督作の『[[式日]]』に俳優として出演。新しい技術の取り組みにも熱心で、日本で最初にAVIDによる[[ノンリニア編集]]を取り入れ、『式日』と同じ年には[[インターネット]]上の[[電子掲示板|BBS]]を使った大衆参加による小説『[[リリイ・シュシュのすべて]]』を完成、映画化する。この映画もまた[[HD24P]]という、フィルム表現に近いデジタル撮影による新しい方法で行われ、仮編集は[[Apple]][[PowerBook]]が用いられた。この撮影法をいち早く取り入れた一人である。また、[[2003年]]には[[WEB配信]]という新しい上映方法で『[[花とアリス]]([[ショートフィルム]])』を公開。 [[2004年]]4月1日からオフィシャルのウェブページでシナリオ募集していた『しな丼』のコーナーを閉鎖し、「戯作通信」こと『playworks([[プレイワークス]])』というウェブサイトを開設、また合わせてラジオ番組、『[[円都通信]]』がスタート。この『playworks』(『しな丼』)で扱われたシナリオがラジオドラマとして毎週放送されていた。その中の作品「[[虹の女神]]」(2006年)、「[[グッドドリームズ|BANDAGE バンデイジ]]」(2010年)が映画化。プロデューサーとしての手腕も見せる。 {{要出典範囲|date=2015年2月16日 (月) 04:14 (UTC)|[[2005年]]より}}[[ロサンゼルス]]に拠点を移し活動している<ref name="asahi20100214">{{Cite news | url = http://www.asahi.com/showbiz/movie/TKY201002120289.html | title = 岩井俊二ら世界の監督10人 NYを舞台に紡ぐ愛の物語 | publisher = [[朝日新聞デジタル]] | date = 2010-02-14 | accessdate = 2015-02-16 }}</ref>。2009年にはフランス・アメリカ合作映画である「[[ニューヨーク、アイラブユー]]」に監督の1人として参加<ref name="asahi20100214"/>。ハリウッドにて初の長編映画「vampire」を撮影した。 映画監督の[[市川崑]]への[[オマージュ|リスペクト]]を示している事でも知られており、『市川崑物語』の監督も務めた。 フジテレビの深夜枠である[[JOCX-TV2|JOCX-MIDNIGHT]]の[[アイキャッチ]]「[[音楽美学]]」を製作した。 なお、2009年横浜開港150周年記念テーマイベント([[開国博Y150]])において、プロデュース及び、初のアニメ脚本『BATON』を手がけている。 2014年、短編『TOWN WORKERS』で初のアニメーション作品を手がける。 [[2015年]][[1月8日]]から、[[日本放送協会|NHK]]の[[NHK教育テレビジョン|Eテレ]]で『岩井俊二のMOVIEラボ』が放送<ref name="movielab">{{cite news|url=https://www.nhk.or.jp/pr/keiei/shiryou/soukyoku/2014/12/003.pdf|title=「岩井俊二のMOVIEラボ」放送決定のお知らせ|publisher=[[日本放送協会]]|date=2014-12-17|accessdate=2014-12-19}}</ref>。 [[2015年]][[2月20日]]、長編アニメーション作品『[[花とアリス殺人事件]]』を公開。前作に引き続き、[[ロトスコープ]]で作られた理由は、元々生々しいロトスコープを気持ち悪いと思っていたが、[[ラルフ・バクシ]]の作品を見て、斬新さや美しさを感じたのがきっかけで、20年前からテストしており、ある水準に達したので挑戦している。実写を線でなぞるだけだと気持ち悪い絵になるため、顔だけ手描きでディフォルメするなど試行錯誤している。 本作でロトスコープアニメーションディレクターを務めた[[久野遥子]]について、「久野ちゃんの絵は時代的耐久性があって、たぶん10年経っても20年経ってもバグが発生しない」と評している。<ref>{{Cite web|和書|title=第21回文化庁メディア芸術祭/マンガ部門新人賞『甘木唯子のツノと愛』 久野遥子×岩井俊二トークイベントレポート | マンバ通信|url=https://manba.co.jp/manba_magazines/5825 |accessdate=2020-05-14}}</ref> 映画プロデューサーの[[鈴木敏夫]]には、「アニメ業界でロトスコープは[[タブー]]」と否定的な意見も言われているが、本人は「アニメの人達からすると、それはアニメじゃないって事になるんですよ。なぞるだけじゃないかっていう。でも僕からすると、アニメだって言われてる物を見ると、本当の人の動きの美しさに欠ける訳ですよ。こんなんでいいんだろうかって」とも語っている<ref>『[[TOKYO DESIGNERS WEEK]]』(2015年2月15日、ゲスト出演)</ref>。 [[2016年]]2月、NHKで『岩井俊二のMOVIEラボ シーズン2』が放送。 == 作品 == === 映像作品 === ==== テレビドラマ ==== * 見知らぬ我が子(1991年4月17日放映、関西テレビ「DRAMADOS」、監督・脚本) * 殺しに来た男(1991年12月11日放映、関西テレビ「DRAMADOS」、監督) * マリア(1992年3月8日放映、関西テレビ「DRAMADOS」、監督・脚本) * 夏至物語(1992年9月16日放映、関西テレビ「薔薇DOS」、監督・脚本) * オムレツ(1992年10月19日放映、フジテレビ「[[La cuisine]]」、監督・脚本) * 蟹缶(1992年12月7日放映、フジテレビ「[[世にも奇妙な物語]]」、監督) * [[GHOST SOUP]](1992年12月21日放映、フジテレビ「La cuisine」、監督・脚本) * 雪の王様(1993年1月6日放映、関西テレビ「TV-DOS-T」、監督・脚本) * [[FRIED DRAGON FISH]](1993年3月22日放映、フジテレビ「La cuisine」、監督・脚本) * [[打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?]](1993年8月26日放映、フジテレビ「[[if もしも]]」、監督・脚本) * ルナティック・ラヴ(1994年1月6日放映、フジテレビ「世にも奇妙な物語」、監督・脚本) * [[賢者の贈り物 (テレビドラマ)|賢者の贈り物]](2001年12月24日放映、テレビ朝日、監修)【監督:[[永田琴]]/[[HIROMIX]]/[[カジワラノリコ]]】 * [[なぞの転校生#テレビ東京『ドラマ24』版|なぞの転校生]](2014年1月 - 3月放送、テレビ東京、企画・プロデュース・脚本・編集)【監督:[[長澤雅彦]]】 * [[リップヴァンウィンクルの花嫁|リップヴァンウィンクルの花嫁 serial edition]](2016年3月25日~放映、BSスカパー!、監督・原作・脚本・編集) * リップヴァンウィンクルの花嫁 complete edition(2018年4月30日放映、日本映画専門チャンネル、監督・原作・脚本・編集) * 夏至物語 リメイク版(2023年10月8日放映、関西テレビ、監督・脚本・編集) * 夏至物語 完全版(2023年10月10日放映、日本映画専門チャンネル、監督・脚本・編集) ==== 映画(監督作)==== * [[Undo (映画)|undo]](1994年10月7日公開、監督・脚本) * [[Love Letter (1995年の映画)|Love Letter]](1995年3月25日公開、監督・脚本・編集) * [[打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?]](1995年8月12日公開、監督・脚本) * [[PiCNiC]](1996年6月15日公開、監督・脚本・編集) * [[FRIED DRAGON FISH]](1996年6月15日公開、監督・脚本) * [[スワロウテイル]](1996年9月14日公開、監督・脚本・編集) * ¥entown Band Swallowtail Butterfly(1996年12月7日公開、監督) * [[四月物語]](1998年3月14日公開、監督・脚本・編集・音楽) * [[リリイ・シュシュのすべて]](2001年10月6日公開、監督・脚本・編集) *[[Jam Films]]「ARITA」(2002年12月28日公開、監督・脚本・編集・音楽) * [[花とアリス]](2004年3月13日公開、監督・プロデュース・脚本・編集・音楽) * [[市川崑物語]](2006年12月16日公開、監督・脚本・編集・音楽) * [[ニューヨーク、アイラブユー]](原題:New York, I Love You)(2010年2月27日公開、監督・脚本・音楽) * [[ヴァンパイア (2011年の映画)|ヴァンパイア]] (原題:Vampire)(2012年9月15日公開、監督・プロデュース・脚本・撮影・編集・音楽) * [[花とアリス殺人事件]](2015年2月20日公開、監督・製作・企画・プロデュース・原作・脚本・編集・音楽) * [[リップヴァンウィンクルの花嫁]](2016年3月26日公開、監督・原作・脚本・編集) * リップヴァンウィンクルの花嫁 complete edition(2018年4月1日限定公開、監督・原作・脚本・編集) * [[チィファの手紙]] (原題:你好,之华) (2018年11月9日中国公開、2020年9月11日日本公開、監督・原作・脚本・編集)【プロデュース:[[ピーター・チャン (映画監督)|ピーター・チャン]]】 * [[ラストレター (映画)|ラストレター]](2020年1月17日公開、監督・製作・原作・脚本・編集)【プロデュース:[[川村元気]]】 * [[8日で死んだ怪獣の12日の物語|8日で死んだ怪獣の12日の物語 -劇場版-]](2020年7月31日公開、監督・製作・脚本・編集・造形・撮影監督・音楽プロデュース)【原案:[[樋口真嗣]]】 * [[キリエのうた#映画|キリエのうた]](2023年10月13日公開、監督・原作・脚本・編集) ==== 映画(プロデュース等)==== * ACRI(1996年8月31日公開、原作)【監督:[[石井竜也]]】 * [[式日]](2000年12月7日公開、主演・撮影)【監督:[[庵野秀明]]】 * [[虹の女神 Rainbow Song]](2006年10月28日公開、プロデュース・脚本)【監督:[[熊澤尚人]]】 * [[ハルフウェイ]](2009年2月21日公開、プロデュース・製作・編集)【監督:[[北川悦吏子]]】 * BATON(2009年公開、開国博Y150限定上映、プロデュース・脚本)【監督:[[北村龍平]]】 * [[グッドドリームズ|BANDAGE バンデイジ]](2010年1月16日公開、プロデュース・製作・脚本)【監督:[[小林武史]]】 * FUKUSHIMA DAY(2012年3月24日公開、プロデュース・製作)【監督:[[桜井亜美]]】 * [[新しい靴を買わなくちゃ]](2012年10月6日公開、プロデュース・製作・撮影・編集)【監督:[[北川悦吏子]]】 * 遠くでずっとそばにいる(2013年6月15日公開、音楽)【監督:[[長澤雅彦]]】 * 恋する都市 5つの物語 (原題:恋愛中的城市)(2015年8月20日中国公開、2018年1月27日日本公開、監修)【監督:ウェン・ムーイエ/ドン・ルンニエン/ハン・イー/フー・ティエンユー/ジー・ジアトン 監修:[[スタンリー・クワン]]/[[ウェイ・ダーション]]】 * [[君の名は。]](2016年8月26日公開、Special Thanks)【監督:[[新海誠]]】 * [[ソウルメイト/七月と安生]] (原題:七月與安生)(2016年9月14日中国公開、2021年6月25日日本公開、Special Thanks)【監督:[[デレク・ツァン]]】 * [[打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?]](2017年8月18日公開、原作)【総監督:[[新房昭之]] 監督:[[武内宣之]] 脚本:[[大根仁]] プロデュース:[[川村元気]]】 * [[Ribbon (2022年の映画)|Ribbon]] (2022年2月25日公開、出演)【監督:[[のん (女優)|のん]]】 * [[世界の終わりから]](2023年4月7日公開、出演)【監督:[[紀里谷和明]]】 * パーフェクト・シェアハウス(2023年公開予定、プロデュース・製作)【監督:[[桜井亜美]]】 ==== ネット配信ムービー ==== * 花とアリス(ショートフィルム)(2003年配信、監督・脚本・編集・音楽) * 恋ばな-スイカと絆創膏-(2009年11月2日配信、LISMOオリジナルドラマ、プロデュース)【監督:[[萩生田宏治]]】 * 晴愛物語「成都一夜」(2013年5月28日配信、中国動画サイト、プロデュース)【監督:邵源】 * 晴愛物語「おじいちゃんの秘密」(2013年5月28日配信、中国動画サイト、プロデュース)【監督:席然】 * 晴愛物語「さよなら火鍋」(2013年5月28日配信、中国動画サイト、プロデュース)【監督:馬史】 * TOWN WORKERS(2014年配信、タウンワーク公式サイト、監督・脚本) * リップヴァンウィンクルの花嫁(配信限定版)(2016年3月26日配信、監督・原作・脚本・編集) * メモリぃプレイ(2016年10月4日配信、ネスレアミューズ、監修) * チャンオクの手紙(2017年2月16日配信、ネスレシアター、監督・脚本・編集・音楽) * halfway(2017年11月1日配信、ネスレシアター、脚本・音楽)【監督:[[長澤雅彦]]】 * 星に願いを 第3話「流れ星までの1時間」(2018年1月11日配信、ネスレシアター、編集)【監督:[[長澤雅彦]]】 * リトルレター(2019年12月23日配信、ネスレシアター、監督・脚本・編集) * 8日で死んだ怪獣の12日の物語(2020年5月20日~配信、YouTube、監督・脚本・造形)【原案:[[樋口真嗣]]】 * 夢で会えても(2020年12月5日配信、LINE NEWS VISION、監督・脚本・撮影・編集) * 檸檬色の夢(2023年2月19日配信、LINE NEWS VISION、監督・脚本・撮影・編集) * 檸檬色の夢 横型ディレクターズカット版(2023年9月9日配信、YouTube、監督・脚本・撮影・編集) ==== ドキュメンタリー ==== * 少年たちは花火を横から見たかった(1999年8月発売、監督・企画) * 六月の勝利の歌を忘れない 日本代表、真実の30日間ドキュメント VOL.1/VOL.2(2002年11月発売、監督・編集) * DOCUMENTARY of AKB48 to be continued 10年後、少女たちは今の自分に何を思うのだろう?(2011年1月22日公開、製作総指揮)【監督:[[寒竹ゆり]]】 * friends after 3.11(2011年10月1日放映、朝日ニュースター、監督・プロデュース・編集・出演) * friends after 3.11〈スペシャルバージョン〉(2011年12月30日放映、朝日ニュースター、監督・プロデュース・編集・出演) * friends after 3.11 vol.2(2012年3月6日放映、朝日ニュースター、監督・プロデュース・編集・出演) * [[friends after 3.11 劇場版]](2012年3月10日公開、監督・プロデュース・編集・出演) * つくるということ(2017年10月6日公開、札幌国際短編映画祭、Special Thanks) *さくらノート(2021年10月15日公開、うみぞら映画祭/淡路島短編映画祭、Special Thanks) ==== ライブ映像 ==== * 円都空間 in 犬島(2017年6月14日発売、監督) * クラムボン×岩井俊二「日比谷野外音楽堂ライブ」(2018年1月26日発売、監督) * 「チィファの手紙」公開記念/特別小演奏会「CHRONICLE(クロニクル)」(2020年9月4日配信、YouTube、監督) * 映画「Love Letter」中国再上映記念/「A WINTER STORY」「SMALL HAPPINESS」(2021年5月20日配信、YouTube、出演) *映画「スワロウテイル」25th Anniversary YEN TOWN BAND SPECIAL LIVE in KURKKU FIELDS(2021年11月6日配信、U-NEXT、監督) *円都LIVE(2023年12月配信予定、U-NEXT、監督) ==== 短編映像/ビデオクリップ ==== * 東京少年 陽のあたる坂道で(1991年2月発売、監督) * 東京少年 HIROSHIMA'90(1991年2月発売、監督) * 杉本理恵 妖精のスケッチ(1991年8月発売、監督) * 東京少年 Getting Home(1991年10月発売、監督) * 井上昌己 BALANCIN' LOVE(1991年11月発売、監督) * 東京少年 LOVE YOU SO LONG(1991年12月発売、監督) * Mi-Ke 白い2白い珊瑚礁(1991年12月発売、監督) * DOBOCHON ORIGINAL HORROR MOVIE (1991年12月発売、監督) * THE 5 TEARDROPS VIDEO MAGAZINE VOL.1 CHANNEL GOO!(1992年7月発売、監督) * 麗美 PLATFORM -Magic Railway Films-(1992年11月発売、監督) * 平松愛理 Variaction(1993年4月発売、監督) * 毛ぼうし(1997年3月発売、ムーンライダース「ニットキャップマン」ビデオクリップ、監督・脚本) * film 空の鏡(1997年10月発売、松たか子ビデオクリップ集、監督) * 生きていた信長 (1998年3月、「[[四月物語]]」劇中映画、監督・脚本) * 猛暑物語(2013年2月放映、NHK Eテレ『スコラ 坂本龍一 音楽の学校』<映画音楽編>課題映像、監督) * Black Balloon(2013年4月発表、[Iwai Shunji solo exhibition - Out of the Films -]撮りおろし作品、監督) * スペースシャワーTVプラス STATION ID「あたし、本と旅する」(2015年12月1日~放映、スペースシャワーTVプラス、原案・音楽)【監督:[[池田千尋]]】 * 8Kビジョンファンデーション 8K×8Kコラボ映像(2019年7月5日配信、プロデュース)【監督:田井えみ】  * PERFECT DIARY 完美日記「白昼夢」(2019年8月5日中国配信、監督)  * 静岡市美術館 開館10周年記念映像「しずびショートムービー」(2020年11月20日公開、監修)【監督:尾野慎太郎】 * ふだんのわたし 展/高橋愛・村田倫子・高山都 by HABA スクワラン(2021年10月4日配信、YouTube、監督・写真) ==== ミュージックビデオ ==== * [[いつか何処かで (I FEEL THE ECHO)]] / [[桑田佳祐]](1988年3月、監督) * [[ガール(GIRL)|ガール]] / [[原由子]](1988年4月、監督) * HOW ARE YOU / [[森川美穂]](1988年11月、監督) * 四月白書 / [[山中すみか]](1989年4月、監督) * なぜ / 山中すみか(1989年7月、監督) * J's BAR / 倉田浩行(1989年9月、監督) * [[夢だけ見てる (川越美和の曲)|夢だけ見てる]] / [[川越美和]](1989年9月、監督) * 失恋 / [[里中茶美]](1989年10月、監督) * いちばん輝いてね / [[藤谷美紀]](1989年10月、監督) * 陽のあたる坂道で / [[東京少年]](1990年3月、監督) * [[ココロの鍵 (川越美和の曲)|ココロの鍵]] / [[川越美和]](1990年3月、監督) * 海 / [[芳本美代子]](1990年5月、監督) * NEXT / [[立花理佐]](1990年5月、監督) * [[君の歌に僕をのせて]] / 東京少年 (1990年6月、監督) * 真夏の影 / [[星野由妃]](1990年6月、監督) * 1960's Gun / Wells(1990年6月、監督) * Good-Bye / [[杉本理恵]](1990年7月、監督) * Welcome Home Again / [[ザ・シャムロック]](1990年8月、監督) * [[プレゼント (東京少年の曲)|プレゼント]] / 東京少年(1990年8月、監督) * LaPaPa / ザ・シャムロック(1990年10月、監督) * [[Shy Shy Japanese]] / 東京少年(1990年11月、監督) * [[Good-bye My Loneliness]] / [[ZARD]](1991年2月、監督) * Harmony / 東京少年(1991年4月、監督) * Five / ザ・シャムロック(1991年6月、監督) * [[ブルーライト ヨコスカ]] / [[Mi-Ke]](1991年6月、監督) * 時代を変えたい / [[リクオ]](1991年6月、監督) * [[不思議ね…]] / ZARD(1991年6月、監督) * サイレントメビウス ~Sailing / 東京少年(1991年7月、監督) * 妖精のスケッチ / 杉本理恵(1991年8月、監督) * 口笛の帰り道 / PAN PAN HOUSE(1991年9月、監督) * [[君だけに愛を (曲)|君だけに愛を]] / [[FLYING KIDS]](1991年10月、監督) * [[もう探さない]] / ZARD(1991年11月、監督) * Merry X'masをあげたい / [[井上昌己 (歌手)|井上昌己]](1991年11月、監督) * BALANCIN' LOVE / 井上昌己(1991年11月、監督) * [[Merry Christmas To You]] / [[前田亘輝]](1991年12月、監督) * [[白い2白いサンゴ礁]] / [[Mi-Ke]](1991年12月、監督) * 夢見るJACK & BETTY / THE 5 TEARDROPS(1992年2月、監督) * GOODBYE I LOVE YOU / THE 5 TEARDROPS(1992年3月、監督) * 僕は君のサンタクロース / THE 5 TEARDROPS(1992年3月、監督) * [[部屋とYシャツと私]] / [[平松愛理]](1992年3月、監督) * 春をとめないで / 長澤義塾(1992年4月、監督) * [[悲しきテディ・ボーイ]] / Mi-Ke (1992年4月、監督) * [[うたをうたおう (大事MANブラザーズバンドの曲)|うたをうたおう]] / [[大事MANブラザーズバンド]](1992年4月、監督) * [[サーフィン・JAPAN]] / Mi-Ke(1992年6月、監督) * [[シュラバ★ラ★バンバ SHULABA-LA-BAMBA]] / [[サザンオールスターズ]](1992年7月、監督) * [[朝まで踊ろう (Mi-Keの曲)|朝まで踊ろう]] / Mi-Ke(1992年7月、監督) * Magic Railway / [[麗美]](1992年7月、監督) * OCEAN / 麗美(1992年7月、監督) * Last Fragrance / 麗美(1992年7月、監督) * [[もう 笑うしかない]] / 平松愛理(1992年9月、監督) * 笑っていようよ / BOO WHO WOO(1992年10月、監督) * さるのしっぽ / 長澤義塾(1992年10月、監督) * Wonder Girl / 麗美(1992年11月、監督) * BLUE MOONのように / Mi-Ke(1992年11月、監督) * [[横浜Boy Style]] / [[CoCo (アイドルグループ)|CoCo]](1992年11月、監督) * 大好き I LOVE YOU / BOO WHO WOO(1992年12月、監督) * 恋が素敵な理由 / 井上昌己(1993年1月、監督) * 君とずっと…暮らしたい / TO BE CONTINUED(1993年2月、監督) * [[Single is Best!?]] / 平松愛理 (1993年3月、監督) * GOOD LUCK ANGEL / [[UP-BEAT]](1993年3月、監督) * Variacion / 平松愛理(1993年4月、監督) * 見つめるだけで / [[陣内大蔵]](1993年5月、監督) * [[素敵なバーディー (NO NO BIRDY)]] / サザンオールスターズ(1993年7月、監督) * [[エロティカ・セブン]] / サザンオールスターズ(1993年7月、監督) * [[CHEERS FOR YOU]] / [[中山美穂]] (1995年5月、監督) * [[Swallowtail Butterfly 〜あいのうた〜]] / [[YEN TOWN BAND]](1996年7月、監督) * ニットキャップマン / [[ムーンライダーズ]](1996年11月、監督) * [[空の鏡]] / [[松たか子]](1997年6月、監督) * [[Stay with me (松たか子の曲)|Stay with me]] / 松たか子(1998年9月、監督) * グライド / [[Lily Chou-Chou]](2000年4月、監督) * 共鳴(空虚な石) / Lily Chou-Chou(2000年4月、監督) * [[飛べない翼]] / Lily Chou-Chou(2001年10月、監督) * [[クムリウタ]] / [[大塚愛]](2007年9月、監督) * [[桜の栞]] / [[AKB48]](2010年2月、監督) * [[ふわふわ♪]] / [[牧野由依]](2010年3月、監督) * [[片想い (miwaの曲)|片想い]] / [[miwa]](2012年2月、監督) *[[花は咲く]] / 花は咲くプロジェクト(2012年5月、監督) * いいんじゃない? / 平松愛理(2012年11月、監督) * テレビの海をクルージング / [[黒木華]]・[[刈谷友衣子]](2013年3月、監督) * [[ありがとうの輪]] / [[絢香]](2013年10月、監督) * HOME / [[古川本舗]](2013年10月、監督) * 風が吹いてる / ヘクとパスカル(2014年6月、監督) * fish in the pool / ヘクとパスカル(2015年2月、監督) * アイノネ / YEN TOWN BAND(2015年12月、監督) * コスモロジー / [[Cocco]](2016年3月、監督) * my town / YEN TOWN BAND(2016年6月、監督) * [[蝶々結び (Aimerの曲)|蝶々結び]] / [[Aimer]](2016年7月、監督) * [[こだま、ことだま。]] / [[Bank Band]] (2016年7月、監督) * 君の好きな色 / ヘクとパスカル(2016年10月、監督) * Miracle / [[illion]](2016年10月、監督) * Forever Friends / [[DAOKO]](2017年6月、監督) * [[さよなら私の恋心]] / [[新山詩織]](2017年8月、監督) * urar / [[Chima]](2018年1月、総監督)【監督:小谷野五王】 * step / [[羊文学]](2018年1月、監修)【監督:[[松本花奈]]】 * Break These Chain / ヘクとパスカル(2018年1月、監督) * 星が降る前に / [[知英|JY]](2018年3月、監督) * 様子 / 有生之年(2018年11月、監督) * 知らない世界も見飽きた / ikire(2019年3月、監督) * [[カエルノウタ]] / [[森七菜]](2020年1月、監督) * [[カエルノウタ#収録曲|あなたに会えてよかった]] / 森七菜(2020年1月、監督) * [[カエルノウタ#収録曲|返事はいらない]] / 森七菜(2020年1月、プロデュース)【監督:フルカワリョウ】 * カエルノウタ 映画『[[ラストレター (映画)|ラストレター]]』版 / 森七菜(2020年1月、監督) * little lie / ikire(2020年5月、監督) * つなぐ / ikire(2020年5月、監督) * beautiful / ikire(2020年6月、プロデュース)【監督:田井えみ】 * 手紙 / ikire(2020年6月、監督) * aoi / ikire(2020年10月、監督) *[[花は咲く]]2021/ 花は咲くプロジェクト(2021年1月、監督) *夢で会えても Music Issue 〜for rooftop〜/ [[[Alexandros]]](2021年2月、監督) *連れてってファンタァジェン / [[小泉今日子]](2021年3月、監督) * 明日は明日のお湯が沸く/[[穂志もえか]](2021年3月、監督) *足りたいモンスター/ ikire(2021年3月、監督) * 隣のモンスター/ ikire(2021年3月、監督) *夢じゃないモンスター/ ikire(2021年3月、監督) *ひかり/ ikire(2021年10月、監督) *Another Day Goes By/ Lizabet(2022年1月、監督) *キリエ・憐れみの讃歌/ Kyrie(2023年9月、監督) ==== テレビCM ==== * [[日産自動車]] ルキノ(1994年放映、監督、[[江口洋介]]・[[大塚寧々]]・[[田辺誠一]]出演) * [[セゾングループ]](1994年放映、監督) * [[パナソニック|ナショナル]] IHジャー炊飯器(1994年放映、監督) * [[パナソニック]]「Let'sノート」(1996年放映、監督) * [[日本電信電話|NTT]] サンクスフェア冬 (1997年放映、監督、[[SMAP]]出演) * NTT サンクスフェア夏(1997年6月放映、監督、SMAP出演) * NTT OCN(1997年6月放映、監督、[[木村拓哉]]出演) * NTT ISDN(1997年6月放映、監督、[[中居正広]]出演) * NTT D-MAIL(1997年6月放映、監督、[[草彅剛]]出演) * [[ソニー・コンピュータエンタテインメント]]『レガイア伝説』(1998年放映、監督) * [[the brilliant green]]「[[長いため息のように]]」(1999年3月放映、監督) * NTT ブランドビジョン広告(1999年2月放映、監督、SMAP出演) * [[コーセー]]「サロンスタイル」(2002年2月放映、監督、[[中山美穂]]主演) * [[日本コカ・コーラ]] 「爽健美茶」(2002年2月放映、監督、[[クルム伊達公子|伊達公子]]・[[ミハエル・クルム]]出演) * 日本コカ・コーラ「爽健美茶」(2002年2月放映、監督、[[加瀬亮]]出演) * [[ライフ (信販)|ライフ]] ライフカード "It's my life"(2002年5月放映、監督、[[窪塚洋介]]主演) * [[パナホーム]](2003年放映、監督、[[松たか子]]主演) * [[ネスレ日本]] キットカット(2003年3月放映、監督、[[鈴木杏]]・[[蒼井優]]出演) * ライフ ライフカード "It's my life" (2003年4月放映、監督、[[広末涼子]]主演) * [[三菱UFJモルガン・スタンレー証券|三菱UFJ証券]](2007年7月放映、監督、松たか子主演) * BS[[日本映画専門チャンネル]](2012年放映、監督、[[黒木華]]、[[刈谷友衣子]]出演) * ネスレ日本 ネスカフェ エクセラ(2013年2月放映、監督) * ネスレ日本 キットカット(2013年10月放映、監督) * ネスレ日本 キットカット(2019年12月放映、監督) ==== テレビ番組 ==== * 森川美穂 THEドキュメント(1988年放映、CATV、演出) * アイドル・アクエリアム(1989年放映、CATV、演出) * 文珍の歴史なんなんだ(1990年放映、東海テレビ、演出) * 世紀末歌姫水族館(1990年放映、CATV、演出) * Jocx Midnight 音楽美学(1993年放映、フジテレビ、演出) * 新アジア発見(2000年8月放映、NHK、オープニング映像製作) * ドキュメンタリー オブ AKB48?1ミリ先の未来?(2011年1月8日放映、NHK、製作総指揮) * friends after 3.11(2011年10月1日放映、朝日ニュースター、監督・プロデュース・編集・出演) * friends after 3.11 スペシャルエディション part1 part2(2011年12月30日放映、朝日ニュースター、監督・プロデュース・編集・出演) * 映画は世界に警鐘を鳴らし続ける(2012年1月5日~放映、日本映画専門チャンネル、監修・出演) * 岩井俊二映画祭presents マイリトル映画祭(2012年3月4日~放映、日本映画専門チャンネル、企画・構成・出演) * スコラ 坂本龍一 音楽の学校〈映画音楽編〉(2013年1月11日~放映、NHK Eテレ、出演) * 岩井俊二のMOVIEラボ(2015年1月8日~放映、NHK Eテレ、出演) * 24時間まるごと岩井俊二映画祭presents マイリトル映画祭(2015年3月8日放映、日本映画専門チャンネル、企画・構成・出演) * 岩井俊二のMOVIEラボ シーズン2(2016年2月4日~放映、NHK Eテレ、出演) * 3.26「リップヴァンウィンクルの花嫁」公開記念 24時間まるごと岩井俊二(2016年3月25日放映、日本映画専門チャンネル、出演) * YEN TOWN BAND ・ Lily Chou-Chou Project ~円都空間 in 犬島~(2016年11月6日放映、WOWOW、監督) * 大林宣彦映画祭!~花筐花言葉 今伝え遺したいこと。 大林宣彦×岩井俊二×常盤貴子特別鼎談~(2017年12月22日放映、日本映画専門チャンネル、出演) * ふたりに見えているこの空の下 新海誠×岩井俊二(2020年4月5日放映、日本映画専門チャンネル、出演) * 映画で未来を変えようよ〜大林宣彦から4人の監督へのメッセージ(2020年7月5日放映、NHK BS1、出演) * クローズアップ現代+ "未来を変える力”を問いかけられて〜大林宣彦からの遺言〜(2020年10月8日放映、NHK、出演) * 『キリエのうた』公開記念・マイリトル映画祭Special 夏至物語×夏至物語(2023年10月10日放映、日本映画専門チャンネル、出演) * ETV特集「いま ここを歩く〜映画監督・岩井俊二〜」(2023年10月28日放映、Eテレ、出演) ==== ネット配信番組 ==== <!-- YouTubeについては、下記外部リンクの公式chで一部視聴可。 --> * 【mini theater park×8日で死んだ怪獣の12日の物語 】オンライン上映開始記念トークライブ(2020年8月7日配信、YouTube、出演) * この空の下 対談・行定勲×岩井俊二(2020年9月18日~配信、YouTube、出演) *この空の下 対談・武井壮×岩井俊二(2020年9月27日~配信、YouTube、出演) *「リップヴァンウィンクルの花嫁」七海誕生祭2021(2021年3月31日~配信、YouTube、出演) *青葉市子と岩井俊二、記憶と創作のダイアローグ。(2021年6月4日~配信、YouTube、出演) *この空の下 対談・三重野慶×岩井俊二(2021年7月12日~配信、YouTube、出演) *「スワロウテイル」25周年スペシャルトーク 小林武史×Chara×岩井俊二(2021年9月14日~配信、YouTube、出演) *「リリイ・シュシュのすべて」20周年スペシャルトーク 小林武史×Salyu×岩井俊二 (2021年10月15日~配信、YouTube、出演) *この空の下 対談・モトーラ世理奈×枝優花×岩井俊二(2021年10月29日~配信、YouTube、出演) *片付かない部屋(2021年12月1日~配信、YouTube、出演) *《リリイ・シュシュのすべて》台湾上映記念 Online Event(2021年12月9日~配信、YouTube、出演) *《リリイ・シュシュのすべて》二十年目の再会 公開20周年記念スペシャルトーク(2021年12月16日~配信、YouTube、出演) *「スワロウテイル」25th Anniversary/岩井俊二 × 伊藤歩 ONCE UPON A TIME IN YEN TOWN(2021年12月30日~配信、YouTube、出演) *岩井俊二 × 映画 × 音楽|Schön! Magazine China インタビュー(2022年1月30日~配信、YouTube、出演) *「零の晩夏」刊行記念/文春オンライン・インタビュー(2022年2月7日~配信、YouTube、出演) *Love Letter A place of Memory(2022年4月9日~配信、YouTube、出演) *ikiradio(2022年4月20日~配信、YouTube、出演) *打ち上げ花火ができるまえと、できたあと。(2022年8月26日~配信、YouTube、出演) *「六月の勝利の歌を忘れない」岩井俊二 二十年越しのインタビュー(2022年11月16日~配信、YouTube、出演) *1/24 days Uploading Salyu | Salyu×岩井俊二 (2022年11月19日~配信、YouTube、出演) *1/24 days Uploading Ando Yuko | 安藤裕子×岩井俊二 (2023年1月7日~配信、YouTube、出演) *1/24 days Uploading Kazuaki Kiriya | 紀里谷和明×岩井俊二 (2023年4月16日~配信、YouTube、出演) *1/24 days Uploading Akio Nakamori | 中森明夫×岩井俊二 (2023年7月9日~配信、YouTube、出演) ==== メイキング ==== * behind the scene of undo(1994年、監修) * 円都 YEN TOWN(1996年、スーパーバイザー) * [[GAMERA1999]](1999年、製作協力) * 呼吸「リリイ・シュシュのすべて」のすべて(2002年、監修) * Filming H&A (2003年、監修) * 崑談 とある日、崑宅にて / とある日、劇場にて(2007年、監修) * His Work「犬神家の一族」舞台裏(2007年、監修) * リップヴァンウィンクルの日々 メイキング・オブ・「リップヴァンウィンクルの花嫁」(2016年、監修) * 映画『8日で死んだ怪獣の12日の物語』メイキング「2020年の五月物語」(2020年8月7日配信、監修) *8日で死んだ怪獣の48日の舞台裏(2021年、監修) ==== 映画予告編 ==== * [[ヤンヤン 夏の想い出]](2000年公開、演出)【監督:[[エドワード・ヤン]]】 * [[Ribbon (2022年の映画)|Ribbon]] (2022年公開、演出)【監督:[[のん (女優)|のん]]】 ==== 自主制作映画 ==== * 果実抄(1982年、監督) * ゆばりのソナタ(1982年、監督) *レクイエムを(1982年、監督) *白い国、夏の国(1982年、監督) * Lemu(雨の日の迷宮)(1984年、監督) * ミナ伝説(1986年、監督) * 霙花(1986年、監督) * ドンキー・ポピンズ ポッキー・ポピンズ(1987年、監督) * インディ・ポピンズ キャンディ・ポピンズ(1987年、監督) === 著作 === ==== 小説 ==== * ラヴレター(1995年3月発売) * スワロウテイル(1996年7月発売) * ウォーレスの人魚(1997年9月発売) * リリイ・シュシュのすべて(2001年9月発売) * リリイ・シュシュのすべて <完全版> (2001年10月発売、CD-ROM) * 番犬は庭を守る(2012年1月発売) * ヴァンパイア(2012年8月発売) * 花とアリス殺人事件(2015年2月発売、原作)【著:[[乙一]]】 * リップヴァンウィンクルの花嫁(2015年12月発売) * 少年たちは花火を横から見たかった(2017年6月発売) * 打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?(2017年6月発売、原作)【著:[[大根仁]]】 * 打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか? ノベライズ(2017年7月発売、原作)【著:[[大根仁]]】 * ラストレター(2018年10月発売) *零の晩夏(2021年6月発売) *消しゴム(2021年8月配信、2022年10月26日発売「モノガタリは終わらない」に収録) *キリエのうた(2023年7月発売) *キリエのうた・檸檬色の夢 愛蔵版(2023年11月発売) * 未咲(未発表) ==== コミック ==== * ラヴレター VOL.1/VOL.2(1995年2月発売) * Story Board of SWALLOWTAIL BUTTERFLY VOL.1/VOL.2(1997年1月発売) * 花とアリス(2004年9月発売) * 花とアリス殺人事件(2015年10月発売、原作)【漫画:[[道満晴明]]】 * 打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?(2017年8月発売、原作)【漫画:[[楓月誠]]】 ==== エッセイ・対談本 ==== * トラッシュバスケット・シアター(1997年10月発売) * マジック・ランチャー(1998年6月発売、[[庵野秀明]]との対談本) * NOW and THEN 岩井俊二(1998年6月発売、エッセイ) * フィルムメーカーズ17 岩井俊二(2001年10月発売) * 沈黙より軽い言葉を発するなかれ(2012年9月発売、[[柳美里]]の対談集) * 岩井俊二:「Love Letter」から「ラストレター」、そして「チィファの手紙」へ(2020年11月発売) *三重野慶画集 言葉にする前のそのまま(2021年12月発売、三重野慶との対談が収録) ==== 写真集 ==== * LETTERS in Love Letter(1995年発売) * undo 写真集(1995年12月発売) * Scrap Of YENTOWN(1996年8月発売) * PiCNiC POSTCARD BOOK(1996年12月発売) * April Front 四月物語(1998年3月発売) * 花とアリス寫眞館(2004年9月発売) * 黒木華写真集 映画『リップヴァンウィンクルの花嫁』より(2016年6月発売) === 音楽作品 === ==== 音楽ユニット ==== ■YEN TOWN BAND * Swallowtail Butterfly ~あいのうた~(1st Single、1996年7月22日発売、作詞・MV監督) * MONTAGE(1st Album、1996年9月16日発売、作詞) * アイノネ(2nd Single、2015年12月2日発売、MV監督・ジャケットデザイン) * my town(3rd Single、2016年6月22日発売、MV監督・ジャケットデザイン) * diverse journey(2nd Album、2016年7月20日発売、ジャケットデザイン) ■Lily Chou-Chou * グライド(1st Single、2000年4月19日発売、MV監督) * 共鳴 (空虚な石)(2nd Single、2010年6月21日発売、MV監督) * 呼吸-前奏曲-(配布限定Single、2001年10月配布) * 呼吸(1st Album、2001年10月17日発売、作詞) * エーテル(配信限定Single、2010年12月8日配信) ■LANDS * BANDAGE(1st Single、2009年11月25日発売) * Olympos(1st Album、2010年1月13日発売、作詞) ■ヘクとパスカル * 風が吹いてる(配信限定Single、2014年6月4日配信、作詞・作曲・MV監督) * ぼくら(配信限定Single、2014年9月24日配信、作詞) * 「花とアリス殺人事件」オリジナルサウンドトラック fish in the pool(サウンドトラック、2015年2月20日発売、作詞・作曲) * ぼくら(1st Mini Album、2015年3月18日発売、作詞・作曲) * 君の好きな色(配信限定Single、2016年11月2日配信、作詞) *キシカンミシカン(既視感未視感)(1st Album、2018年1月24日発売、作詞・作曲) ■ikire * 「你好,之华(チィファの手紙)」オリジナルサウンドトラック CHRONICLE(2018年1月24日配信、作曲) * 知らない世界も見飽きた(2019年3月27日配信、作曲) * aoi(2020年11月20日配信、作曲) ■Kyrie * DEBUT(1st Album、2023年10月18日発売、作詞) ==== サウンドトラック ==== *「GHOST SOUP」オリジナルサウンドトラック(1997年12月17日発売、プロデュース) *「四月物語」オリジナルサウンドトラック 四月のピアノ(1998年3月21日発売、CLASSIC(坪井新八、岸内萌)名義、作曲) *「Jam Films」 オリジナルサウンドトラック(2002年12月発売、作曲) *「花とアリス」オリジナルサウンドトラック H&A(2004年3月13日発売、作曲) *「市川崑物語」オリジナルサウンドトラック filmful life(2007年6月29日発売、作曲) * 「Newyork,I Love You」オリジナルサウンドトラック(日本未発売、作曲) * 「ヴァンパイア」オリジナルサウンドトラック VAMPURITY(2012年8月22日発売、作曲) * 「遠くでずっとそばにいる」オリジナルサウンドトラック(2013年6月5日発売、作曲) * 「花とアリス殺人事件」オリジナルサウンドトラック fish in the pool(2015年2月20日発売、ヘクとパスカル名義、作曲) * 「リップヴァンウィンクルの花嫁」オリジナルサウンドトラック bride -wedding scores for rip van winkle-(2016年3月26日発売、監修) * 「DAWN and DUSK」(作曲) * 「你好,之华(チィファの手紙)」オリジナルサウンドトラック CHRONICLE (2018年1月24日配信、岩井俊二&ikire名義、作曲) * 「8日で死んだ怪獣の12日の物語」オリジナルサウンドトラック KAIJU(2020年8月14日配信、岩井俊⼆meets⼩泉今⽇⼦&蒔⽥尚昊&酒井樹&穂志もえか&ikire名義、作詞・作曲・編曲) * 「キリエのうた」オリジナル・サウンドトラック ~路花~(2023年10月18日発売、監修、作詞) ==== 作詞 ==== {| class="wikitable" style="text-align:center" |- ! アーティスト || タイトル || 作曲 || 初めて<br/>発表された年 || 収録アルバム<br>(主にオリジナルアルバム) |- | [[鈴木慶一]] | 不信心な牧師 | 坪井信八(岩井俊二) | [[1992年]] | 「GHOST SOUP」<br/>オリジナルサウンドトラック |- | S.YUME | GHOST SOUP | [[土井宏紀]]<br/>坪井信八(岩井俊二) | [[1992年]] | 「GHOST SOUP」<br/>オリジナルサウンドトラック |- | [[YEN TOWN BAND]] | [[Swallowtail Butterfly ~あいのうた~]] | [[小林武史]] | [[1996年]] | MONTAGE |- | タテヤマユキ | 休日の歌 | 坪井信八(岩井俊二) | [[1997年]] | 「四月物語」オリジナルサウンドトラック 四月のピアノ |- | rowspan="2" | [[Lily Chou-Chou]] | アラベスク | rowspan="2" |[[小林武史]] | rowspan="2" | [[2001年]] | rowspan="2" | 呼吸 |- | 飛べない翼 |- | rowspan="4" | [[LANDS]] | オリンポス | rowspan="4" |[[小林武史]] | rowspan="4" | [[2010年]] | rowspan="4" | Olympos |- | 元気 |- | 二十歳の戦争 |- | 勇気 |- | [[花は咲くプロジェクト]] | [[花は咲く]] | [[菅野よう子]] | [[2011年]] | 花は咲く |- | [[加賀谷はつみ]] | 花の歌 | 岩井俊二 | [[2013年]] | シンガーソングハイカー |- | rowspan="3" | [[ヘクとパスカル]] | 風が吹いてる | 岩井俊二 | rowspan="2" | [[2014年]] | rowspan="2" | ぼくら |- |ぼくら |桑原まこ |- |君の好きな色 |桑原まこ |2016年 |キシカンミシカン(既視感未視感) |- | [[北乃きい]] | moment | 岩井俊二 | [[2016年]] | K |- | ikire(英語ver.) Rieyz(韓国語ver.) | moment | 岩井俊二 | [[2017年]] | |- | rowspan="5" | [[知英|JY]] | 星が降る前に Prod by 岩井俊二 | [[市川和則]] | rowspan="5" | [[2018年]] | rowspan="5" |星が降る前に |- |星が降る前に Prod by 亀田誠治 |[[亀田誠治]] |- |星が降る前に Prod by Seiho |[[Seiho]] |- |星が降る前に Prod by MONJOE |MONJOE |- |星が降る前に Prod by 山本加津彦 |[[山本加津彦]] |- | rowspan="6" |ikire |知らない世界も見飽きた |[[Chima]] | rowspan="4" |2019年 | rowspan="4" |知らない世界も見飽きた |- |moment |岩井俊二 |- |手紙 |[[市川和則]] |- |星が降る前に |[[市川和則]] |- |aoi |ikire |2020年 | |- |この空 |[[Chima]] |2021年 | |- |[[森七菜]] |カエルノウタ |[[小林武史]] |2020年 | |- |[[穂志もえか]] |明⽇は明⽇のお湯が沸く |岩井俊二 |2020年 |「8日で死んだ怪獣の12日の物語」オリジナルサウンドトラック KAIJU |- |[[牧野由依]] |世界でいちばん愛しい音 |[[牧野由依]] |2022年 |あなたと私を繋ぐもの |- | rowspan="3" |Kyrie |ひとりが好き | rowspan="3" |[[アイナ・ジ・エンド]] | rowspan="3" |2023年 | rowspan="3" |DEBUT |- |幻影 |- |ヒカリに |} ※ ただし、「Swallowtail Butterfly ~あいのうた~」は[[CHARA]]と小林武史との共同作詞、「飛べない翼」「オリンポス」「元気」「二十歳の戦争」は小林武史との共同作詞、「勇気」は[[赤西仁]]と小林武史との共同作詞、「君の好きな色」は椎名琴音の共同作詞、「知らない世界も見飽きた」「手紙」はChimaとの共同作詞、「幻影」「ヒカリに」はアイナ・ジ・エンドとの共同作詞となっている。 ※ 「花は咲く」は、[[日本放送協会]]の[[東日本大震災復興プロジェクト]]チャリティーソングとして製作された。 === その他の作品 === ==== 舞台・ミュージカル ==== * Undo(2013年10月20日中国上演、原作)【演出:蘇丹】 * Love Letter(2014年12月2日韓国上演、原作)【演出:ビョン・チョンジュ】 ==== ラジオドラマ ==== * [[J.C]](2004年4月15日~放送、プロデュース)【監督:藤本康生】 * [[朝日の陰で朝食を]](2004年5月20日~放送、プロデュース)【監督:[[永田琴恵]]】 * [[カルシウム (ラジオドラマ)|カルシウム]](2004年7月1日~放送、プロデュース・脚本)【監督:遠藤尚太郎】 * [[日時計 (ラジオドラマ)|日時計]](2004年7月15日~放送、プロデュース)【監督:水口智就】 * [[少女毛虫]](2004年9月9日~放送、プロデュース)【監督:[[熊澤尚人]]】 * [[メロス (ラジオ)|メロス]](2004年11月3日~放送、プロデュース)【監督:[[永田琴恵]]】 * [[ラッセ・ハルストレムがうまく言えない]](2004年12月8日~放送、プロデュース)【監督:[[窪田崇]]】 * [[グッドドリームズ|Bandage]](2005年2月2日~放送、プロデュース、脚本)【監督:中村真夕】 * [[虹の女神]](2005年4月9日~放送、プロデュース)【監督:[[桜井亜美]]、[[尾道幸治]]】 * [[サブライム]](2005年7月9日~放送、プロデュース)【監督:藤本康生】 * [[MY LITTLE HONDA]](2005年9月3日~放送、プロデュース、脚本)【監督:[[寒竹ゆり]]】 * [[ひまわり (ラジオドラマ)|ひまわり]](2005年11月12日~放送、プロデュース)【監督:[[寒竹ゆり]]】 * 爆発シネマ野郎(2006年2月11日~放送、プロデュース)【監督:藤本康生】 * [[東京安息日]](2006年4月29日~放送、プロデュース)【監督:[[尾道幸治]]】 * [[浅知恵ドライブ]](2006年8月5日~放送、プロデュース)【監督:[[窪田崇]]】 * 浮男の宴(2006年10月26日~放送、プロデュース)【監督:工藤慶二】 ==== オーディオドラマ ==== *初恋の(2021年10月20日配信、Audible presents モノガタリ by mercari、監督)【原作:川上未映子】 * 消しゴム(2021年10月20日配信、Audible presents モノガタリ by mercari、監督、原作) * 封印箪笥(2021年10月20日配信、Audible presents モノガタリ by mercari、監督)【原作:綿矢りさ】 ==== ヌービー・ヌーボー ==== * ヴァンパイア(2011年1月?発表) * リリイ・シュシュのすべて〈完全版〉 (2011年1月?発表) * カメラ(2011年3月発表) * ラヴレター(2012年2月発表) * undo(2013年5月発表) * April Front(2013年6月発表) * オニヒトデのクッキーとヘビイチゴのパン(2013年7月発表) * 檸檬哀歌(2013年8月発表) ==== ストーリーボード ==== * New York, I Love You(2012年9月発表) * ヴァンパイア(2013年10月発表) * 花とアリス殺人事件(2015年2月発表) === 製作中止となった作品 === * 番犬は庭を守る - 台湾の[[エドワード・ヤン]]、香港の[[スタンリー・クワン]]と共に発足させたY2Kプロジェクトの中で企画されたもので、廃棄炉となった原子力発電所で働く守衛の物語。チェルノブイリを原風景とする国を舞台としてイメージしており、イギリスで撮影予定だった。しかし、内容が壮大になりすぎため予算が不足、また『[[ガタカ]]』に内容が似ているという判断から企画段階で自ら制作中止に。2011年に企画を再始動させることを発表し、2012年に小説を刊行した。 * Heart of green - 同じくY2Kプロジェクトの企画で吸血衝動のある青年の話を考えていたが頓挫。数年後自殺サイトで知り合った自殺願望のある人を連続殺人していく物語の企画がありこれも頓挫したのだが、2011年にこの2つの企画を組み合わせて『ヴァンパイア』が制作された。 * [[リリイ・シュシュのすべて]] - これも元々はY2Kプロジェクトの企画。台湾の少年が主人公、リリイは香港のアーティストという設定だった。初期タイトルは「リー・チェンスのすべて」。リリイ・シュシュのPVも制作されたが岩井自身が内容に納得がいかずクランクイン寸前で白紙に。 * [[あずみ]] - [[小山ゆう]]の漫画原作、[[広末涼子]]主演で企画が進んでおり、1年近く準備をしていたが頓挫。あずみの名前の由来など脚本が原作にない部分まで踏み込んでしまったのが降板の原因。後に[[北村龍平]]監督で映画化。 * [[ヴィヨンの妻]] - [[市川崑]]との共同監督企画。[[太宰治]]原作。この企画のために作られた[[田中陽造]]の脚本は後に[[根岸吉太郎]]監督の『[[ヴィヨンの妻 〜桜桃とタンポポ〜]]』として発表された。ちなみにこれ以前にも[[丹下左膳]]、[[人間失格]]などの共同監督企画が出ていた。 * [[本陣殺人事件]] - [[横溝正史]]の原作を岩井が脚本化し、市川崑と岩井で共同監督するという企画があった。脚本は二部構成で一部は原作通り、二部はオリジナルの展開となっていたが市川が降板を申し出たため中止に。 * [[火の鳥 (漫画)|火の鳥]] 完結編 - NHK製作による[[手塚治虫]]原作のテレビアニメ化。オファーがあった際に原作にはない完結編をやりたいと提言したところ手塚プロの承認は下りたがNHK上層部からNGが入り企画は中止に。アニメ自体は2004年に放送された。 * [[日本沈没]] - 1973年公開の原作[[小松左京]]、脚本[[橋本忍]]、監督[[森谷司郎]]によるヒット作のリメイク企画。脚本執筆段階で岩井は降板し、後に[[樋口真嗣]]監督で2006年に映画化。 * [[グッドドリームズ|Bandage]] - 2006年公開予定で監督:北村龍平、脚本:岩井俊二、音楽:[[佐久間正英]]、主演:[[成宮寛貴]]という布陣で製作発表までされたが何らかの事情で製作中止に。後に[[小林武史]]監督、[[赤西仁]]主演の企画として再始動。 * アニメ作品 - [[名倉靖博]]が監督、岩井が脚本で準備が進んでいたが諸事情により製作中止に。 * [[宇宙戦艦ヤマト]] - 1974年からテレビ放映された「[[宇宙戦艦ヤマト]]」の実写映画化企画の脚本を任され執筆を進めていたが、古代進が登場しない原作より前の話になっていたため降板させられる。後に[[樋口真嗣]]監督が抜擢されるもまたしても降板し、最終的に[[山崎貴]]が『[[SPACE BATTLESHIP ヤマト]]』として2010年に映画化。 * 恋ばな - [[北川悦吏子]]原案、岩井プロデュース作品として携帯ドラマ配信された[[萩生田宏治]]監督作品『恋ばな-スイカと絆創膏-』は配信開始と合わせて映画化の発表もされていたが企画中止に。 * [[青春の蹉跌]] - 1974年公開の監督[[神代辰巳]]、脚本[[長谷川和彦]]による『青春の蹉跌』のリメイク企画。長谷川和彦の了承も得て韓国の監督を起用予定で企画が進んでいたが中断。 * 指の間の砂 - 上海メディアグループ(SMG)による純愛映画プロジェクトに岩井が参加し、岩井プロデュースの純愛三部作の第一作として制作が予定されていた。沖縄と上海を舞台にした作品で台湾のレスト・チェンが監督する予定だったが、製作中止に。 * 初恋 - 同じく純愛三部作の第二作として製作予定で、俳優でもあるホアン・レイが監督を務める予定だったが、製作中止に。 * ラストレター 韓国版 - [[ペ・ドゥナ]]主演で韓国で制作されたショートムービー「チャンオクの手紙」を元に「[[ラストレター (映画)|ラストレター]]」の企画開発が始まり、当初は日本・中国・韓国の3ヶ国で同じ脚本を元に別の作品を制作するというプロジェクトだった。中国では「你好,之华([[チィファの手紙]])」、日本では「[[ラストレター (映画)|ラストレター]]」として公開され、韓国でもペ・ドゥナ主演で企画が進んでいたが実現しなかった。 * 之南(チィナン) / 未咲 - 「你好,之华([[チィファの手紙]])」「[[ラストレター (映画)|ラストレター]]」の劇中小説である「之南(チィナン)」「未咲」の中身を書き上げたところ中国のプロデューサーが内容を気に入り脚本まで完成し2020年に撮影予定だったがコロナのため製作が中断した。日本でも企画を進めていたがなかなか実現せず「未咲」の劇中に登場する自主制作映画「真夜中の女たち」をベースとした短編を執筆していたところアイナ・ジ・エンドとの出会いにより「[[キリエのうた]]」の企画に繋がった(その後未発表小説である「フルマラソン」「イワン」のエピソードが加えられた)。 == 受賞歴 == *'''1991年''' ** 見知らぬ我が子 *** DRAMADOS大賞 *'''1993年''' ** [[打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?]] *** 第34回[[日本映画監督協会新人賞]] *'''1995年''' ** [[undo]] *** [[ベルリン国際映画祭]]フォーラム部門NETPAC賞 *** 第4回[[日本映画プロフェッショナル大賞]] 新人監督賞 ** [[Love Letter (1995年の映画)|Love Letter]] *** [[モントリオール世界映画祭]]観客賞 *** 第8回[[日刊スポーツ映画大賞]]新人賞 *** [[第19回日本アカデミー賞]]優秀作品賞 *** 第20回[[報知映画賞]]監督賞 *** 第17回[[ヨコハマ映画祭]]作品賞・監督賞 *** 第10回[[高崎映画祭]]若手監督グランプリ *** 第21回[[おおさか映画祭]]作品賞・監督賞 *** 第50回[[毎日映画コンクール]]日本映画優秀賞 *** 第69回[[キネマ旬報ベスト・テン]]読者選出監督賞 ***第6回[[文化庁]]優秀映画作品賞 *** 第46回[[芸術選奨新人賞]](映画部門) *'''1996年''' ** [[PiCNiC]] *** [[ベルリン国際映画祭]]フォーラム部門ベルリン新聞記者審査員賞 ** [[スワロウテイル]] *** 第11回[[高崎映画祭]]最優秀監督賞 *** [[第20回日本アカデミー賞]]優秀作品賞・話題賞 *'''1998年''' ** [[四月物語]] *** [[釜山国際映画祭]]観客賞 *'''2002年''' ** [[リリイ・シュシュのすべて]] *** ベルリン国際映画祭パノラマ部門国際アート・シアター連盟賞 *** [[上海国際映画祭]]コンペティション部門審査員特別賞 *** 第75回[[キネマ旬報ベスト・テン]]7位 * '''2016年''' ** 第15回ニューヨーク・アジア映画祭・生涯功労賞 <ref>{{cite news|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0084093|title=岩井俊二監督、ニューヨーク・アジア映画祭で生涯功労賞!|newspaper=シネマトゥデイ|date=2016-06-30|accessdate=2016-06-30}}</ref> *'''2020年''' ** [[ラストレター (映画)|ラストレター]] *** 第12回TAMA映画賞最優秀作品賞 == 政治的発言 == [[2012年]][[9月18日]]に自身の[[Twitter]]公式[[アカウント]]で、[[中国人]]による日本企業の[[工場]]や[[商店]]に対する破壊・[[略奪]]・[[放火]]が頻発した[[2012年の中国における反日活動]]に関して、「国([[日本政府]])があの[[島]]([[尖閣諸島]])を買うことがどれだけ挑発的か考えるべきだ」「[[侵略]]された国([[中華人民共和国|中国]])がまだ怒っていても当然」、「([[日本]]が)相手国(中国)ばかり責めたのでは相手だって怒り出すのが道理」、 「日本の[[マスメディア|メディア]]が中国のことを悪く言い過ぎており、祖国を悪く言われたらどんな気がするかを考えなければならない」と、日本政府の[[尖閣諸島国有化]]や日本人の中国に対する態度を非難した。また、中韓で行われている[[反日教育]]については「(侵略を)忘れてしまってる日本の方がどうかしている」、「自国(日本)びいきの歴史解釈は受け入れがたい」と日本の歴史認識を批判した。 この件は各韓国紙でも報じられ、これを伝える『[[朝鮮日報]]』のコメント欄では岩井を賞賛する書き込みが相次いだ<ref>[https://web.archive.org/web/20121103041125/http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2012&d=0920&f=entertainment_0920_007.shtml 「過去を忘れた日本、問題」岩井俊二監督のツイートが韓国で話題]、サーチナ 2012年9月20日</ref>。また、[[中国人民解放軍総政治部]]が出版する新聞『解放軍報』の「日本政府は悔い改めないと、自ら苦い結果を味わうことになる」と題する記事の中で、「日本の挑発行為を批判する正義の声」として岩井のこの発言が取り上げられた<ref>[https://megalodon.jp/2012-0925-0521-11/news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2012&d=0924&f=politics_0924_005.shtml 日本政府は悔い改めないと「苦い結果」味わう=中国・解放軍報]、サーチナ 2012年9月24日</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[市川崑]] - 岩井が最も尊敬する映画監督。 * [[篠田昇]] - ほとんどの岩井作品の撮影を担当していた。2004年に死去。 * [[REMEDIOS]] - 初期の岩井作品で音楽を担当。 * [[小林武史]] - 『スワロウテイル』『リリイ・シュシュのすべて』で音楽を担当、『BANDAGE』では岩井に監督に指名される。 * [[北川悦吏子]] - 親交が深く、『ハルフウェイ』は岩井との共同作業で製作された。 * [[庵野秀明]] - 共著『マジック・ランチャー』での対談、庵野秀明の実写作品の『式日』でカントク(庵野)役を岩井が務め、『ラストレター』に庵野が出演する等親交が深い。 * [[行定勲]] - 初期の岩井作品で助監督を務めた。 * [[永田琴]] - 何本かの岩井作品で助監督を務めた。 * [[北村龍平]] - 『BANDAGE』などを監督する予定があった。企画中止になった『あずみ』、岩井脚本・製作による『BATON』を監督。 * [[高畑勲]] - 遠縁の親戚。岩井が業界入りする時に高畑に相談し、止められている。 * [[一力敦彦]] - [[東北放送]]社長。高校の同級生。なお、一力の兄([[一力雅彦|雅彦]])も同じ高校で、岩井の先輩にあたる。 == 外部リンク == * {{Twitter|sindyeye|岩井俊二}} * {{weibo|iwaishunji}} * [http://www.iwaiff.com/ IWAI SHUNJI FILM FESTIVAL(マイリトル映画祭)] * {{Wayback |url=http://iwaiff.com/ |title=IWAI SHUNJI FILM FESTIVAL(マイリトル映画祭) |date=20171203191419 }} * {{YouTube|channel=UCOJ2u_men4pVHp8lPDfGIWQ|IWAI SHUNJI FILM FESTIVAL}}<!-- 「『リリイ・シュシュのすべて』二十年目の再会」等を公開。 --> * [https://manba.co.jp/manba_magazines/5825 第21回文化庁メディア芸術祭/マンガ部門新人賞『甘木唯子のツノと愛』 久野遥子×岩井俊二トークイベントレポート | マンバ通信] * {{Wayback |url=http://public-image.org/interview/2010/02/23/shunji-iwai.html |title=PUBLIC-IMAGE.ORG インタビュー |date=20120712044304 }}{{リンク切れ|date=2018年4月}} * {{Wayback |url=http://swallowtail-web.com/ |title=円都通信 |date=20021123071654 }} * [https://www.cinra.net/article/interview-2011-04-29-000000-php 蒼井優×岩井俊二×軽部真一が語る『リリイ・シュシュのすべて』/CINRA.NET2011年4月29日掲載] * [https://www.cinra.net/article/interview-2011-12-30-000000-php 「起きてほしくない未来」を描く映画 岩井俊二×鈴木敏夫対談/CINRA.NET2011年12月30日掲載] * [https://web.archive.org/web/20041010051200/http://www.ei.nagano-nct.ac.jp/Teachers/ohya/iwai-shunji-memories.html Memories of Iwai Shunji] - 同級生による思い出話の紹介 * {{Kinejun name}} * {{Tvdrama-db name}} * {{映画.com name|17343}} {{岩井俊二監督作品}} {{報知映画賞監督賞}} {{ヨコハマ映画祭監督賞}} {{日刊スポーツ映画大賞新人賞}} {{日本映画監督協会新人賞}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:いわい しゆんし}} [[Category:日本の映画監督]] [[Category:日本の脚本家]] [[Category:日本の映画の脚本家]] [[Category:日本のテレビの脚本家]] [[Category:日本のビデオアーティスト]] [[Category:日本のテレビディレクター]] [[Category:CMディレクター]] [[Category:日本のミュージック・ビデオ・ディレクター]] [[Category:日本の作曲家]] [[Category:日本の作詞家]] [[Category:ROBOTの人物]] [[Category:横浜国立大学出身の人物]] [[Category:宮城県仙台第一高等学校出身の人物]] [[Category:仙台市出身の人物]] [[Category:1963年生]] [[Category:存命人物]]
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青山真治
青山 真治(あおやま しんじ、1964年7月13日 - 2022年3月21日)は、日本の映画監督、小説家、音楽家、映画批評家。元多摩美術大学教授。妻は女優のとよた真帆。 福岡県北九州市出身。福岡県立門司高等学校在学時には音楽活動をしており、いくつかのバンド経験を経た後に広石武彦らとバンド「UP-BEAT UNDERGROUND」(後のUP-BEAT)を結成するが、青山は大学受験のために高校3年生の時点でバンドを脱退している。 1989年、立教大学文学部英米文学科卒業。立教大学一般教育部で、蓮實重彦の「映画表現論」の授業から強い影響を受けた。 大学卒業後、ディレクターズ・カンパニーの現場に参加、フリーの助監督になる。主に黒沢清や井筒和幸組に就き、同世代の新進監督をバックアップ。 1995年、黒沢の推薦により、 Vシネマ『教科書にないッ!』で監督デビュー。 1996年、助監督時代に知り合った仙頭武則プロデューサーと組み、初の劇場用長編映画『Helpless』を手がける。 2000年のカンヌ国際映画祭で、監督作品『EUREKA』が国際批評家連盟賞とエキュメニック賞を受賞。翌年、同作のノベライズ小説『EUREKA』で第14回三島由紀夫賞を受賞した。世界的な評価を集めた。 その後、『月の砂漠』、『レイクサイド マーダーケース』、『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』、『サッド ヴァケイション』などの作品を監督する。 2010年、著書『シネマ21 青山真治映画論+α集成2001-2010』を発表。 2011年、三浦春馬主演の『東京公園』が第64回ロカルノ国際映画祭で金豹賞審査員特別賞を受賞。同年、黒沢清と蓮實重彦との共著『映画長話』を発表した。 2012年4月、多摩美術大学造形表現学部映像演劇学科教授に就任。 2013年、田中慎弥原作、荒井晴彦脚本の『共喰い』を発表する。 2021年春頃に食道がんが判明し通院治療を続けてきたが、その後容態が悪化し入院。2022年3月21日0時30分、頸部食道がんのため、死去した、57歳。
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青山 真治は、日本の映画監督、小説家、音楽家、映画批評家。元多摩美術大学教授。妻は女優のとよた真帆。
{{別人|x1=北海道教育大学札幌校教授の|青山眞二}} {{ActorActress | 芸名 = 青山 真治 | ふりがな = あおやま しんじ | 画像ファイル = | 画像サイズ = | 画像コメント = | 本名 = | 別名義 = | 出生地 = {{JPN}}・[[福岡県]][[北九州市]] | 死没地 = | 国籍 = | 民族 = | 身長 = | 血液型 = | 生年 = 1964 | 生月 = 7 | 生日 = 13 | 没年 = 2022 | 没月 = 3 | 没日 = 21 | 職業 = [[映画監督]]<br>[[脚本家]]<br>[[小説家]]<br>[[音楽家]]<br>[[映画批評家]] | ジャンル = [[映画]]<br>[[オリジナルビデオ]]<br>[[テレビドラマ]]<br>[[舞台]] | 活動期間 = | 活動内容 = | 配偶者 = [[とよた真帆]] | 著名な家族 = | 事務所 = | 公式サイト = | 主な作品 = 『[[EUREKA (映画)|EUREKA]]』<br>『[[エリ・エリ・レマ・サバクタニ]]』<br>『[[サッド ヴァケイション]]』<br>『[[東京公園]]』 | アカデミー賞 = | AFI賞 = | 英国アカデミー賞 = | セザール賞 = | エミー賞 = | ジェミニ賞 = | ゴールデングローブ賞 = | ゴールデンラズベリー賞 = | ゴヤ賞 = | グラミー賞 = | ブルーリボン賞 = | ローレンス・オリヴィエ賞 = | 全米映画俳優組合賞 = | トニー賞 = | 日本アカデミー賞 = | カンヌ国際映画祭 = '''[[カンヌ国際映画祭 FIPRESCI賞|国際映画批評家連盟賞]]'''<br />[[第53回カンヌ国際映画祭|2000年]]『[[EUREKA (映画)|EUREKA]]』<br />'''[[エキュメニカル審査員賞]]'''<br />[[2000年]]『EUREKA』 | その他の賞 = '''[[ロカルノ国際映画祭]]'''<br/>'''審査員特別賞'''<br/>[[2011年]]『[[東京公園]]』 | 備考 = }} '''青山 真治'''(あおやま しんじ、[[1964年]][[7月13日]] - [[2022年]][[3月21日]])は、[[日本]]の[[映画監督]]<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.wowow.co.jp/detail/016606/001/02 |archiveurl = |author = |title = EUREKA ユリイカ|website = www.wowow.co.jp|publisher = www.wowow.co.jp|date = |archivedate = |accessdate = 2023-08-05}}</ref>、[[小説家]]<ref>{{Cite web|和書|url = https://cir.nii.ac.jp/crid/1520573331005270144 |archiveurl = |author = |title = 今月のひと 青山真治--三島賞受賞間もない映画監督の新作は、中上健次を巡るものだった|website = cir.nii.ac.jp|publisher = cir.nii.ac.jp|date = |archivedate = |accessdate = 2023-08-05}}</ref>、[[音楽家]]<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.youtube.com/wZcAykLH47c?t=103 |archiveurl = |author = TokyoJoshiEigabu|title = 『共喰い』予告編|website = www.youtube.com|publisher = www.youtube.com|date = |archivedate = |accessdate = 2023-08-05}}</ref>、[[映画批評家]]<ref>{{Cite web|和書|url = https://mikiki.tokyo.jp/articles/-/31599 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20220818104754/https://mikiki.tokyo.jp/articles/-/31599 |author = 松村正人|title = 青山真治 追悼――実作と批評の拮抗を作品に刻み、90年代日本映画を象徴した〈生〉の映画作家を悼む|website = mikiki.tokyo.jp|publisher = mikiki.tokyo.jp|date = 2022-05-02|archivedate = 2022-08-18|accessdate = 2023-08-05}}</ref>。元[[多摩美術大学]][[教授]]<ref>{{Cite web|和書|url = http://faculty.tamabi.ac.jp/ja/result/affiliation/0000000/0000001/0000007/ |archiveurl = https://web.archive.org/web/20121115022048/http://faculty.tamabi.ac.jp/ja/result/affiliation/0000000/0000001/0000007/ |author = |title = 所属検索結果|website = faculty.tamabi.ac.jp|publisher = 多摩美術大学教員業績公開システム|date = |archivedate = 2012-11-15|accessdate = 2023-08-05}}</ref>。妻は[[俳優|女優]]の[[とよた真帆]]<ref name="21世紀の映画監督">{{Cite book|和書|editor=[[キネマ旬報社]]編|year=2010|title=知っておきたい21世紀の映画監督100|chapter={{small|column}} 21世紀の"異業種監"督 /青山真治 {{small|映画という大枠で戦後父権社会を問う考察の作家}}|publisher=キネマ旬報社|isbn=9784873763354|pages=80–81}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.47news.jp/CN/200207/CN2002071201000329.html |title=とよた真帆さんが結婚 映画監督の青山真治さんと |publisher=[[47NEWS]] |date=2002年7月12日 |accessdate=2013年7月7日 |archivedate=2014-07-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140715215458/http://www.47news.jp/CN/200207/CN2002071201000329.html}}</ref>。 == 経歴 == [[福岡県]][[北九州市]]出身<ref name="21世紀の映画監督"/>。[[福岡県立門司高等学校]]在学時には音楽活動をしており<ref name="21世紀の映画監督"/>、いくつかのバンド経験を経た後に[[広石武彦]]らとバンド「UP-BEAT UNDERGROUND」(後の[[UP-BEAT]])を結成するが、青山は大学受験のために高校3年生の時点でバンドを脱退している<ref>UP-BEAT『WEEDS & FLOWERS』|[[ソニー・マガジンズ|CBS・ソニー出版]]/44ページ - 49ページより。</ref>。 1989年、[[立教大学大学院文学研究科・文学部|立教大学文学部]][[英文学|英米文学]]科卒業<ref name="21世紀の映画監督"/>。立教大学一般教育部で、[[蓮實重彦]]の「映画表現論」の授業から強い影響を受けた<ref name="21世紀の映画監督"/>。 大学卒業後、[[ディレクターズ・カンパニー]]の現場に参加、フリーの[[助監督 (映画スタッフ)|助監督]]になる<ref name="21世紀の映画監督"/>。主に[[黒沢清]]や[[井筒和幸]]組に就き<ref name="21世紀の映画監督"/>、同世代の新進監督をバックアップ<ref name="21世紀の映画監督"/>。 1995年、黒沢の推薦により<ref name="21世紀の映画監督"/>、 [[オリジナルビデオ|Vシネマ]]『[[教科書にないッ!]]』で監督デビュー<ref>{{Cite web|和書|url=http://adv.yomiuri.co.jp/tobira/2008_2-3/toku03.html |title=作家と編集者の関係にプラスアルファを求めたい 青山 真治 氏(映画監督、小説家) |publisher=本のとびら |date=2008年2月3日 |accessdate=2014年5月27日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140528045744/http://adv.yomiuri.co.jp/tobira/2008_2-3/toku03.html |archivedate=2014-05-28}}</ref>。 1996年、助監督時代に知り合った[[仙頭武則]][[映画プロデューサー|プロデューサー]]と組み<ref name="21世紀の映画監督"/>、初の劇場用長編映画『[[Helpless]]』を手がける<ref name="21世紀の映画監督"/><ref>{{Cite web|和書|url=http://eiga.com/movie/34098/interview/|title=サッド ヴァケイション インタビュー: 青山真治が語る「サッド ヴァケイション」|publisher=映画.com|date=2007年9月7日|accessdate=2014年5月27日}}</ref>。 2000年の[[カンヌ国際映画祭]]で、監督作品『[[EUREKA (映画)|EUREKA]]』が国際批評家連盟賞とエキュメニック賞を受賞<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2000773/full/|title=【ロカルノ映画祭】青山真治監督『東京公園』が審査員特別賞|publisher=[[オリコン]]|date=2011年8月14日|accessdate=2013年7月7日}}</ref>。翌年、同作のノベライズ小説『EUREKA』で第14回[[三島由紀夫賞]]を受賞した<ref>{{Cite web|和書|url=http://subaru.shueisha.co.jp/html/person/p0108_f.html |title=今月のひと 青山真治 |publisher=[[すばる (雑誌)|すばる]] |date=2001年7月6日 |first=隆志 |last=北小路 |accessdate=2013年7月7日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20010815073838/https://subaru.shueisha.co.jp/html/person/p0108_f.html |archivedate=2001-08-15}}</ref>。世界的な評価を集めた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.daily.co.jp/gossip/2022/04/13/0015217187.shtml|title=とよた真帆 夫・青山真治監督の遺作製作を宣言「何とか形に」自身もプロデューサーに|publisher=デイリースポーツ online|date=2022-04-13|accessdate=2022-04-13}}</ref>。 その後、『[[月の砂漠 (映画)|月の砂漠]]』<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nobodymag.com/journals/journal01_06.html|title=『月の砂漠』 青山真治|publisher=Nobody|first=幹子|last=黒岩|date=2001年6月24日|accessdate=2013年7月7日}}</ref>、『[[レイクサイド マーダーケース]]』<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nobodymag.com/journal/archives/2004/0912_0649.php|title=『レイクサイド マーダーケース』青山真治|publisher=Nobody|first=秀勇|last=結城|date=2004年9月12日|accessdate=2013年7月7日}}</ref>、『[[エリ・エリ・レマ・サバクタニ]]』<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nobodymag.com/journal/archives/2006/0304_1312.php|title=『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』青山真治|publisher=Nobody|first=秀勇|last=結城|date=2006年3月4日|accessdate=2013年7月7日}}</ref>、『[[サッド ヴァケイション]]』などの作品を監督する<ref>{{Cite web|和書|url=http://c-cross.cside2.com/html/a20a0001.htm|title=青山真治インタビュー 『サッド ヴァケイション』|publisher=Criss Cross|first=正明|last=大場|authorlink=大場正明|date=2009年4月1日|accessdate=2013年7月7日}}</ref>。 2010年、著書『シネマ21 青山真治映画論+α集成2001-2010』を発表<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kobe-eiga.net/siryo/2010/12/21_20012010.php |title=「シネマ21 青山真治映画論+α集成2001-2010」 |publisher=[[神戸映画資料館]] |first=秀和 |last=斗内 |date=2010年12月21日 |accessdate=2013年7月7日 |archivedate=2013-02-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130217095828/https://kobe-eiga.net/siryo/2010/12/21_20012010.php}}</ref>。 2011年、[[三浦春馬]]主演の『[[東京公園]]』が第64回[[ロカルノ国際映画祭]]で金豹賞審査員特別賞を受賞<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0034582|publisher=シネマトゥデイ|title=青山真治監督『東京公園』、グランプリに並ぶ金豹賞審査員特別賞!|first=麻美|last=下村|date=2011年8月14日|accessdate=2013年7月7日}}</ref>。同年、[[黒沢清]]と[[蓮實重彦]]との共著『映画長話』を発表した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.fukuishimbun.co.jp/nationalnews/EN/calture/494263.html |title=『映画長話』蓮実重彦、黒沢清、青山真治著 偏愛ぶりが普通じゃない |publisher=[[福井新聞]] |first=義博 |last=片岡 |date=2011年9月12日 |accessdate=2013年7月7日 |archivedate=2013-04-06 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130406064537/https://www.fukuishimbun.co.jp/nationalnews/EN/calture/494263.html}}</ref>。 2012年4月、[[多摩美術大学]]造形表現学部映像演劇学科教授に就任<ref>{{Cite web|和書|url=http://www2.tamabi.ac.jp/cgi-bin/eien/?p=2913|title=映画監督・青山真治教授就任|publisher=[[多摩美術大学]]|date=2012年2月10日|accessdate=2014年5月27日}}</ref>。 2013年、[[田中慎弥]]原作、[[荒井晴彦]]脚本の『[[共喰い (映画)|共喰い]]』を発表する<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.yomiuri.co.jp/adv/wol/reviews/130208.htm |title=血と転生 青山真治の『共喰い』 |publisher=[[読売新聞]] |first=仁子 |last=藤井 |authorlink=藤井仁子 |date=2013年2月8日 |accessdate=2013年7月7日 |deadlinkdate=2022-03}}</ref>。 2021年春頃に[[食道がん]]が判明し通院治療を続けてきたが、その後容態が悪化し入院。2022年3月21日0時30分、頸部食道がんのため、死去した、57歳<ref name="KYODO20220325">{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20220325093130/https://nordot.app/880020814707064832|title=映画監督の青山真治さんが死去|agency=共同通信社|publisher=ノアドット|date=2022-03-25|accessdate=2022-03-25}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=映画監督の青山真治さんが死去、57歳 妻・とよた真帆は「愛情に深く深く感謝しています」 |url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202203250001164.html |website=日刊スポーツ |accessdate=2022-03-26 |language=ja |date=2022-03-25}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.daily.co.jp/gossip/2022/03/25/0015163850.shtml|title=映画監督・青山真治氏死去、57歳 食道がんで闘病 妻のとよた真帆「最後は眠るように」|publisher=デイリースポーツ online|date=2022-03-25|accessdate=2022-03-25}}</ref>。 == フィルモグラフィー == === 長編映画 === * [[Helpless]](1996年) - 監督・脚本・音楽 * チンピラ(1996年) - 監督 * WiLd LIFe(1997年) - 監督・脚本 * 冷たい血(1997年) - 監督・脚本・製作・編集・音楽 * [[大いなる幻影 (1999年の映画)|大いなる幻影]](1999年) - 出演 * シェイディー・グローヴ(1999年) - 監督・脚本・音楽 * EM エンバーミング(1999年) - 監督・脚本 * [[EUREKA (映画)|EUREKA]](2000年) - 監督・脚本・編集・音楽 * [[クロエ (映画)|クロエ]](2001年) - 出演 * [[月の砂漠 (映画)|月の砂漠]](2001年) - 監督・脚本・編集 * [[レイクサイド マーダーケース]](2004年) - 監督・脚本 * [[エリ・エリ・レマ・サバクタニ]](2005年) - 監督・脚本 * [[こおろぎ (映画)|こおろぎ]](2006年) - 監督 * [[AA 音楽批評家:間章(映画)|AA 音楽批評家:間章]](2006年) - 監督 * [[サッド ヴァケイション]](2007年) - 監督・脚本・原作 * スリー☆ポイント(2011年) - 出演 * [[東京公園]](2011年) - 監督・脚本・音楽 * [[Cut (映画)|Cut]](2011年) - 脚本 * [[戦争と一人の女#映画作品|戦争と一人の女]](2013年) - 音楽 * [[共喰い (映画)|共喰い]](2013年) - 監督・音楽 * [[空に住む〜Living in your sky〜|空に住む]](2020年) - 監督・脚本 === 短編映画 === * セレブレート シネマ 101「1/5」(1996年) - 監督 * June 12, 1998 -カオスの緑-(1999年) - 監督 * 路地へ [[中上健次]]の残したフィルム(2000年) - 監督・構成<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.slowlearner.co.jp/movies/roji/index.shtml |title=作品紹介 |publisher=スローランナー |accessdate=2021年11月4日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20020208194010/http://www.slowlearner.co.jp/movies/roji/index.shtml |archivedate=2002-02-08}}</ref> * すでに老いた彼女のすべてについては語らぬために(2001年) - 監督 * 焼跡のイエス(2001年) - 監督 * 夜の足跡(2001年) - 音楽 * TAMPEN 短篇「空華 koo-ghe」(2001年) - 出演 * 夢見の芭蕉(2002年) - 監督 * なんくるムービー あじまぁのウタ 上原知子─天上の歌声(2002年) - 監督 * 刑事まつり「Noと言える刑事」(2003年) - 監督・脚本・出演 * 軒下のならず者みたいに(2003年) - 監督・脚本 * Trunk(2003年) - 監督 * 海流から遠く離れて(2003年) - 監督 * 秋聲旅日記(2003年) - 監督・脚本 * 赤ずきん(2008年) - 監督 * R246 STORY「224466」(2008年) - 脚本 * だうん(2010年) - 監督 * 60 Seconds of Solitude in Year Zero(2011年) - 監督 * FUGAKU1/犬小屋のゾンビ(2013年) - 監督 * FUGAKU 2/かもめ The Shots (2014年) - 監督 * FuGAK 3/さらば愛しのeien (2015年) - 監督 * [[破れたハートを売り物に#関連作品|破れたハートを売り物に]]「ヤキマ・カナットによろしく」(2015年) - 監督・脚本 === オリジナルビデオ === * [[教科書にないッ!]](1995年) - 監督・脚本 * 我が胸に凶器あり(1996年) - 監督・脚本 === テレビドラマ === * [[私立探偵 濱マイク]]「名前のない森」(2002年) - 監督・脚本 * [[D×TOWN]]「スパイダーズなう」(2012年) - 監督・脚本・音楽 * [[贖罪の奏鳴曲#テレビドラマ(WOWOW版)|贖罪の奏鳴曲]](2015年) - 監督・音楽 * [[金魚姫#テレビドラマ|金魚姫]](2020年、[[NHK BSプレミアム]]) - 演出 === 動画配信 === * [[最上のプロポーズ]](2013年) - 監督・音楽 === 舞台 === * グレンギャリー・グレン・ロス(2011年6月、天王洲 銀河劇場、作:デヴィッド・マメット) - 演出 * おやすみ、かあさん(2011年11月26日 - 12月4日、[[豊島区立舞台芸術交流センター|あうるすぽっと]]、[[マーシャ・ノーマン]]作) - 演出 * 私のなかの悪魔(2013年3月25日 - 31日、あうるすぽっと、[[ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ|ストリンドベリ]]作「債鬼」より) - 演出 * [[フェードル]](2015年12月4日 - 13日、[[東京芸術劇場]]、シアターウエスト) - 演出 * しがさん無事? are you alright, my-me?(2019年5月7日 - 12日、下北沢小劇場B1) - 作・演出 == 著書 == === 小説 === *『ユリイカ EUREKA』(2000年、[[角川書店]]) - のち文庫 *『月の砂漠』(2002年、角川書店) - のち文庫 *『Helpless』(2003年、[[新潮社]]) - のち角川文庫 *『ホテル・クロニクルズ』(2005年、[[講談社]]) - のち文庫 *『死の谷'95』(2005年、講談社) - のち文庫 *『雨月物語』(2006年、[[角川学芸出版]]) *『サッド・ヴァケイション』(2006年、新潮社) *『エンターテインメント!』(2007年、[[朝日新聞出版]]) - のち文庫 *『地球の上でビザもなく』(2009年、角川書店) *『帰り道が消えた』(2010年、講談社) *『ストレンジ・フェイス』(2010年、朝日新聞出版) === 批評 === *『われ映画を発見せり』(2001年、[[青土社]]) *『シネマ21 青山真治映画論+α集成2001-2010』(2010年、朝日新聞出版) ===共編著=== *『ヴィム・ヴェンダース』(2000年、[[キネマ旬報社]]) - 責任編集 *『ロスト・イン・アメリカ』(2000年、[[デジタルハリウッド|デジタルハリウッド出版局]]) - [[黒沢清]]、[[安井豊]]、[[阿部和重]]との共著、[[稲川方人]]、[[樋口泰人]]編 *『青山真治と阿部和重と中原昌也のシネコン!』(2004年、[[リトルモア]]) - 阿部和重、[[中原昌也]]との共著 *『酔眼のまち-ゴールデン街 1968~98年』(2007年、[[朝日新書]]) - [[たむらまさき]]との共著 *『映画長話』(2011年、リトルモア) - [[蓮實重彦]]、黒沢清との共著 *『しょうがないマイラブ/入り鉄砲に出女 PHOTO & DVD BOOK』(2012年、[[河出書房新社]]) - [[タルトタタン]]、[[アゼル&バイジャン]]との共著 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 外部リンク == * {{Twitter|cooff}} * {{allcinema name|2=青山真治}} * {{Kinejun name|2=青山真治}} * {{jmdb name|0457950|青山真治}} * {{IMDb name|0031888|Shinji Aoyama}} {{DEFAULTSORT:あおやま しんし}} {{三島由紀夫賞|第14回}} {{J・MOVIE・WARS}} {{Normdaten}} [[Category:日本の映画監督]] [[Category:ドキュメンタリー映画の監督]] [[Category:20世紀日本の脚本家]] [[Category:21世紀日本の脚本家]] [[Category:日本の映画の脚本家]] [[Category:日本のテレビの脚本家]] [[Category:20世紀日本の小説家]] [[Category:21世紀日本の小説家]] [[Category:日本のロック・ミュージシャン]] [[Category:日本の映画評論家]] [[Category:三島由紀夫賞受賞者]] [[Category:北九州市特命大使|文あおやま しんし]] [[Category:北九州市出身の人物]] [[Category:立教大学出身の人物]] [[Category:多摩美術大学の教員]] [[Category:食道癌で亡くなった人物]] [[Category:1964年生]] [[Category:2022年没]]
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北村龍平
北村 龍平(きたむら りゅうへい、1969年〈昭和44年〉5月30日 - )は、DGA(全米映画TV監督組合)に所属する日本人映画監督、映像作家、脚本家、プロデューサー。大阪府生まれ。血液型O型。カリフォルニア在住。 大阪府豊中市出身。幼少期は日本各地を転々として過ごす。高校を中退し、17歳でオーストラリアのシドニーへ渡り、School of Visual Arts Australia映画科に入学。卒業制作の短編映画『EXIT -イグジット-』が高い評価を受け、年間最優秀監督賞を受賞。 帰国後、高等学校卒業程度認定試験(旧大学入学資格検定)を受験し高卒認定を取得。肉体労働から政治家秘書までさまざまな仕事を経験して世界を巡り、バンド活動などをしながら自主映画を制作。 1996年、6人の仲間で自主制作したアクション・ホラー映画『ダウン・トゥ・ヘル』を持ち、東京で売り込みを開始。翌年、第1回インディーズムービー・フェスティバル入選作30作品に選ばれ、全国のTSUTAYAでレンタルビデオ化され、第1回初代グランプリを受賞。 1999年、渡部篤郎主演・プロデュース、鈴木一真、泉谷しげる出演で自主制作したフィルムノワール『ヒート・アフター・ダーク』がゆうばり国際ファンタスティック映画祭での上映を経て日活配給で劇場公開され、商業監督としてデビューする。公開前にいち早くこの作品を観た出版・映像プロデューサー高橋信之がその才能に惚れ込み、自社であるスタジオ・ハード内に「北村龍平部門」を作ろうと声をかけ、北村龍平と長年の映像製作の仲間であった進啓士郎の二人でナパーム・フィルムズを設立し、初の長編映画となる『VERSUS』の製作に着手。自主制作体制だったため、度重なる資金難と撮影中断を繰り返しながらも納得いくまで撮影を続け、完成まで一年近くを要した。 2001年、フランスのジェラルメ国際ファンタスティック映画祭にて『VERSUS』のワールドプレミア上映が行われた。吹雪の中、深夜0時からの上映にもかかわらず劇場には長蛇の列ができ、上映中から喝采が巻き起こり、当時最大手だった映画レビューサイトAin’t It Cool Newsに絶賛のレビューが出ると噂は瞬く間に世界に広がり、数週間後、北村の元にアメリカの映画会社ミラマックスから連絡があり、次回作の企画を優先的に見ることができる「ファーストルック契約」を結ぶ。無名の監督が自主映画をきっかけにハリウッドと契約したという噂が日本映画界に広がり、初めて自主制作体制ではなく出資を受けて、髙橋ツトム原作漫画『ALIVE』の実写映画化に着手。髙橋はそれまで自作の映画化の話が何度も頓挫していたこともあり、映画関係者に不信感を持っていたが、『VERSUS』を観てそのストーリーテリングや世界観を高く評価し、北村と会い意気投合し、映画化を許諾した。 映画プロデューサー河合真也も北村の才能を早くから認めていた1人で、自身が進めていた7人の監督による短編オムニバス『Jam Films』に北村を抜擢。北村は『the messenger - 弔いは夜の果てで -』で参加した。 『VERSUS』は北米プレミアとなったトロント国際映画祭を始めとして世界中の映画祭に招待され、ローマ国際ファンタスティック映画祭では最優秀監督賞を受賞。日本でも日本インディペンデント映画祭で優秀監督賞を、新藤兼人賞で銀賞を受賞した。 2002年、二度目の参加となったゆうばり国際ファンタスティック映画祭で『VERSUS』が上映され千葉真一賞・ファンタランド女王賞を受賞。ゲストとして来ていたプロデューサーの山本又一朗が作品、そして北村自身に感銘を受けて自分が進めていた小山ゆう原作漫画の映画化『あずみ』の監督を打診。小山ゆう作品の大ファンであった北村が快諾。山本と北村で脚本を作るのは難航したが、並行して大規模なオーディションも行われた。『あずみ』の準備が進む中、ドイツの映画祭で出会い、お互いの作品のファンでもあった堤幸彦監督から「ワンシチュエーションで2人が戦う作品を競作しよう」と持ちかけられ、大沢たかお・加藤雅也主演による時代劇『荒神』を9日間で撮影。堤による小池栄子・野波麻帆主演『2LDK』と二本立てプロジェクト『DUEL』として完成する。『VERSUS』、『ALIVE』を試写で観たゲーム・クリエイター小島秀夫からの依頼で世界的大ヒットゲーム『メタルギアソリッド』第1作のゲームキューブ版リメイクである『METAL GEAR SOLID THE TWIN 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2014年、モンキーパンチ原作の国民的漫画・アニメ『ルパン三世』実写映画化で6年ぶりに日本映画を監督。小栗旬、玉山鉄二、綾野剛、黒木メイサ、浅野忠信といった豪華キャストに、日本・タイでの長期ロケを敢行。スペインから撮影監督を、韓国からVFXとアクションチームを招聘する国際的なチームを編成。興行収入24億5千万円を記録。 2017年、ハリウッドに戻り再び自主制作体制で撮ったバイオレンス・スリラー『ダウンレンジ』が4度目のトロント国際ファンタスティック映画祭でワールドプレミア上映される。その後もスペインのシッチェス・カタロニア国際映画祭、釜山国際映画祭などに招待され大きな反響を得る。 2020年、ルビー・ローズ、ジャン・レノ主演のアクション映画『ドアマン』を発表。コロナ禍におけるロックダウンの影響で劇場公開ではなく配信リリースされたが、主だった配信サイトでベスト5にランクイン。全米大手のレンタルサービス「レッドボックス」では初登場1位を記録した。 2022年、エミール・ハーシュ、スティーブン・ドーフ主演のホラー『THE PRICE WE PAY』を監督・プロデュース。ブリュッセル国際ファンタスティック映画祭でワールドプレミア上映され、同時に長年の貢献を評価されて映画祭から栄誉称号であるナイト(騎士号)を授与される。これが授与されるのはアジア人監督としてはパク・チャヌク監督に次いで2番目、日本人監督としては初。同年10月、8年ぶりの日本映画となる髙橋ツトム原作、のん、門脇麦、大島優子主演『天間荘の三姉妹』を発表。デザイナー北山友之と共に新進気鋭のアパレルブランド「XROSSCOUNTER(クロスカウンター)」を設立。 映画界や芸能界には友人が少ないと語っているが、若いころに若松孝二、高橋伴明に大変お世話になったと公言している。若松は『ヒート・アフター・ダーク』で北村の才能を高く評価しており、新宿ロフトプラスワンで『GATEBREAK』という映画イベントを共催した。堤幸彦は早くから北村の才能を評価して競作を持ちかけ『DUEL』プロジェクトを実現。作風は全然違うがとても話が合う尊敬する監督として岩井俊二を挙げており、アニメ映画『BATON』でのコラボを始め、岩井の番組に北村が出演したり、二人の作品のオールナイト上映イベントを開催したりと親交が深い。 音楽に精通しており、吉田健一、wyolica、ポルノグラフィティ、ポール・ギルバート、hyde、キース・エマーソン、大友康平、布袋寅泰、玉置浩二、絢香など錚々たるミュージシャンとサウンドトラックや主題歌、テーマ曲などでタッグを組み、中学時代から熱狂的ファンだった長渕剛とは兄弟と呼び合う仲であり、長渕が故郷鹿児島で行ったオールナイトコンサートではDVD4枚組の大作ライブドキュメンタリーを監督、その後もCMやミュージックビデオを手掛けた。ミュージシャンが大勢出演していた『ラブデス』では敬愛するKANを口説いて俳優としてデビューさせ、公開時には『ラブデスライブ』と銘打ったライブイベントを渋谷AXにて大友康平、武田真治、DJ DRAGON、KAN、川村かおり、IZAMらと開催。『ルパン三世』公開時にもライブイベント『ドラカニ』を開催し、陣内大蔵、黒木渚、藤原紀香、武田真治、マジシャンのセロなど豪華ゲストと共に自らもステージで歌を披露した。映画『天間荘の三姉妹』にもミュージシャンの高橋ジョージ、つのだ⭐︎ひろ、ユウサミイがゲスト出演している。ロスで知り合ったジャズ・ピアニスト、エリック・ルイスの演奏を聴いて才能に惚れ込みミュージックビデオを監督、日本のレコード会社の知人に送ったことから日本デビューとブルーノートツアーが決まったことも。 自らもボクシング、剣道、空手の経験があり、格闘家全般にも詳しく友人も多い。プロレスラー、総合格闘家の船木誠勝を何度も作品に起用しており、『ゴジラFINAL WARS』ではドン・フライ、レイ・セフォー、ゲーリー・グッドリッジを、『ミッドナイト・ミート・トレイン』ではクイントン・ランペイジ・ジャクソンを俳優デビューさせた。 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1980年代の映画や音楽や本に多大な影響を受けたと語っている。アート系の映画以外はジャンルを問わずどんな映画でも観るが特に『ハイランダー』、『マッドマックス2』、『エイリアン2』、『コマンドー』などのアクションや『13日の金曜日』や『エルム街の悪夢』などのホラー、スプラッターやゾンビ映画の影響も大きい。ブレイク作となった『VERSUS』の時はとにかく自分の好きなものを全部詰め込み『ハイランダー』と『ゾンビ』と『サムライ』と『レザボア・ドッグス』とミックスしたと語っている。尊敬する監督はジョージ・ミラー、ジェームズ・キャメロン、ラッセル・マルケイなど。邦画では『丑三の村』『野生の証明』『夜叉』『スワロウテイル』『戦国自衛隊』『鉄拳』などのファンを公言している。作風的にアクションやホラーのイメージが強いがフェイバリット作品を聞かれると『ファンダンゴ』『リトル・ロマンス』『誓い』『マイ・ボディーガード』などの青春映画を答えることも多い。 ファッション・デザイナーの北山友之と組み、アパレル・サントラ・グッズを作るブランド、クロスカウンターを立ち上げる。敬愛する日本映画『丑三つの村』の一度も音源化されたことのないサウンドトラック素材を発掘・レストアし世界初CD化しクロスカウンターレコードから発売し、発売記念としてリバイバル上映も実現。80年代のカルト映画『エクスタミネーター』のサウンドトラックもヴァイナルとCDで発売し、同時にTシャツやパーカーも発表。さらにはインフルエンサー・ジェットコースター男とコラボしてナガシマスパーランドや志摩スペイン村のジェットコースターTシャツや、自身がファンだったという80年代レトロゲームのTシャツなどを展開している。
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"共に短編オムニバス『マスターズ・オブ・ホラー』を作ったミック・ギャリス、ジョー・ダンテといったベテラン監督を始め、ハリウッドデビュー作となった『ミッドナイト・ミート・トレイン』の原作者であり自らも映画監督であるクライブ・バーカーを始めとして、ギレルモ・デル・トロ、ジェームズ・ワン、ニコラス・ケイジ、アル・パチーノ、ケヴィン・コスナー、キアヌ・リーヴスなどハリウッドにも北村の才能を評価する者は多い。クエンティン・タランティーノはソフトバンクのCMで来日した時、共演のダンテ・カーヴァーに『あずみ』で上戸彩のファンだと言ったらしい。『シン・シティ』の原作者で共同監督のフランク・ミラーも『あずみ』の大ファンで、ミホ役を上戸彩にオファーしたがスケジュールの都合がつかず、その役はデヴォン・青木が演じることとなった。日本でも人気のボブ・リー・スワガー・シリーズで知られる作家のスティーブン・ハンターは日本を舞台にした『47番目の男』の冒頭で黒澤明、三隅研次ら時代劇の名匠監督らの名前と共に北村の名を挙げ賛辞を述べており、さらに劇中で主人公が『あずみ』を観ながら語るシーンがある。ギャレス・エヴァンスの『ザ・レイド GOKUDO』 では刑務所に潜入捜査する主人公の囚人番号が『VERSUS』の主人公と同じKSC2-303だったり、アカデミー賞にノミネートされたブラッドリー・クーパー主演『世界にひとつのプレイブック』の劇中に出てくる映画館のポスターが『ミッドナイト・ミート・トレイン』だったり、クリスチャン・ベール主演『ファーナス/訣別の朝』の冒頭、ドライブインシアターで上映されているのが『ミッドナイト・ミート・トレイン』だったりと、オマージュを捧げられることも多い。フランスの名匠ジャン・リュック・ゴダールは自らの作品『アワー・ミュージック』で『VERSUS』を引用している。", "title": "交友関係" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1980年代の映画や音楽や本に多大な影響を受けたと語っている。アート系の映画以外はジャンルを問わずどんな映画でも観るが特に『ハイランダー』、『マッドマックス2』、『エイリアン2』、『コマンドー』などのアクションや『13日の金曜日』や『エルム街の悪夢』などのホラー、スプラッターやゾンビ映画の影響も大きい。ブレイク作となった『VERSUS』の時はとにかく自分の好きなものを全部詰め込み『ハイランダー』と『ゾンビ』と『サムライ』と『レザボア・ドッグス』とミックスしたと語っている。尊敬する監督はジョージ・ミラー、ジェームズ・キャメロン、ラッセル・マルケイなど。邦画では『丑三の村』『野生の証明』『夜叉』『スワロウテイル』『戦国自衛隊』『鉄拳』などのファンを公言している。作風的にアクションやホラーのイメージが強いがフェイバリット作品を聞かれると『ファンダンゴ』『リトル・ロマンス』『誓い』『マイ・ボディーガード』などの青春映画を答えることも多い。", "title": "交友関係" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ファッション・デザイナーの北山友之と組み、アパレル・サントラ・グッズを作るブランド、クロスカウンターを立ち上げる。敬愛する日本映画『丑三つの村』の一度も音源化されたことのないサウンドトラック素材を発掘・レストアし世界初CD化しクロスカウンターレコードから発売し、発売記念としてリバイバル上映も実現。80年代のカルト映画『エクスタミネーター』のサウンドトラックもヴァイナルとCDで発売し、同時にTシャツやパーカーも発表。さらにはインフルエンサー・ジェットコースター男とコラボしてナガシマスパーランドや志摩スペイン村のジェットコースターTシャツや、自身がファンだったという80年代レトロゲームのTシャツなどを展開している。", "title": "交友関係" } ]
北村 龍平は、DGA(全米映画TV監督組合)に所属する日本人映画監督、映像作家、脚本家、プロデューサー。大阪府生まれ。血液型O型。カリフォルニア在住。
{{ActorActress | 芸名 = 北村 龍平 | ふりがな = きたむら りゅうへい | 画像ファイル = | 画像サイズ = | 画像コメント = | 本名 = 北村 龍平 | 別名義 = <!-- 別芸名がある場合に記載。愛称の欄ではありません --> | 出生地 = {{JPN}} [[大阪府]] | 死没地 = | 国籍 = <!--「出生地」からは推定できないときだけ --> | 民族 = <!-- 民族名には信頼できる情報源が出典として必要です --> | 身長 = 185 | 血液型 = [[ABO式血液型|O型]] | 生年 = 1969 | 生月 = 5 | 生日 = 30 | 没年 = | 没月 = | 没日 = | 職業 = [[映画監督]] | ジャンル = [[映画]]・[[テレビドラマ]] | 活動期間 = [[1996年]] - | 活動内容 = | 配偶者 = | 著名な家族 = <!-- 著名人が家族にいる場合に記載 --> | 所属劇団 = | 事務所 = | 公式サイト = [http://www.ryuheikitamura.com/ 北村龍平オフィシャルサイト] | 主な作品 = <!-- 皆が認める代表作品を入力 -->'''映画'''<br>『[[VERSUS (映画)|VERSUS -ヴァーサス-]]』<br>『[[あずみ (映画)|あずみ]]』<br>『[[ゴジラ FINAL WARS]]』<br>『[[ルパン三世 (2014年の映画)|ルパン三世]]』<hr>'''ドラマ'''<br>『[[スカイハイ]]』 | アカデミー賞 = | AFI賞 = | 英国アカデミー賞 = | セザール賞 = | エミー賞 = | ジェミニ賞 = | ゴールデングローブ賞 = | ゴールデンラズベリー賞 = | ゴヤ賞 = | グラミー賞 = | ブルーリボン賞 = | ローレンス・オリヴィエ賞 = | 全米映画俳優組合賞 = | トニー賞 = | 日本アカデミー賞 = | その他の賞 = '''[[新藤兼人賞]] 銀賞'''<br />[[2001年]]『[[VERSUS (映画)|VERSUS -ヴァーサス-]]』 | 備考 = }} '''北村 龍平'''(きたむら りゅうへい、[[1969年]]〈[[昭和]]44年〉[[5月30日]]{{R|超常識157}} - )は、DGA([[全米監督協会|全米映画TV監督組合]])に所属する日本人[[映画監督]]、[[映像作家]]、[[脚本家]]、[[プロデューサー]]。[[大阪府]]生まれ。[[ABO式血液型|血液型]][[ABO式血液型|O型]]。[[カリフォルニア州|カリフォルニア]]在住<ref>{{Cite web|和書|title=北村龍平:プロフィール・作品情報・最新ニュース |url=https://eiga.com/person/26078/ |website=映画.com |access-date=2023-11-10 |language=ja}}</ref>。 == 経歴・人物 == [[大阪府]][[豊中市]]出身。幼少期は日本各地を転々として過ごす。高校を中退し、17歳で[[オーストラリア]]の[[シドニー]]へ渡り、School of Visual Arts Australia映画科に入学。卒業制作の短編映画『EXIT -イグジット-』が高い評価を受け、年間最優秀監督賞を受賞<ref>{{Cite web|和書|title=7/3 北村龍平監督 特別講義「世界デビューへの道のり」 {{!}} イベント・プロジェクトに関するお知らせ |url=https://www.kyoto-art.ac.jp/student/event/news/140626-1196/ |website=京都芸術大学 在学生専用サイト |access-date=2023-11-10 |language=ja}}</ref>{{R|Madman}}。 帰国後、[[高等学校卒業程度認定試験]](旧大学入学資格検定)を受験し高卒認定を取得。肉体労働から政治家秘書までさまざまな仕事を経験して世界を巡り、バンド活動など<ref>{{Cite web |title=Instagram |url=https://www.instagram.com/p/CqugG9kuE9f/ |website=www.instagram.com |access-date=2023-11-16}}</ref>をしながら[[自主映画]]を制作<ref>{{Cite web|和書|title=メッセージ|北村龍平オフィシャルサイト |url=http://www.ryuheikitamura.com/message.php?bm=161 |website=www.ryuheikitamura.com |accessdate=2023-11-10}}</ref>。 [[1996年]]、6人の仲間で自主制作した[[アクション映画|アクション]]・[[ホラー映画]]『ダウン・トゥ・ヘル』を持ち、東京で売り込みを開始。[[1997年|翌年]]、第1回[[インディーズムービー・フェスティバル]]入選作30作品に選ばれ<ref>{{Cite web |title=PEC/バックナンバー/フォーラム/バックナンバー詳細 |url=https://c-place.ne.jp/0000engine/pec_engine.cgi?mode=show&call_dir=../3011BkForumDetail/&engine_dir=../0000engine/&&now_log_num=88 |website=c-place.ne.jp |access-date=2023-11-16}}</ref>、全国の[[カルチュア・コンビニエンス・クラブ|TSUTAYA]]で[[レンタルビデオ]]化され、第1回初代グランプリを受賞<ref>{{Cite web|和書|title=映画『DOWN TO HELL ダウン・トゥ・ヘル』の感想・レビュー[26件] {{!}} Filmarks |url=https://filmarks.com/movies/7740 |website=filmarks.com |date=2023-06-22 |accessdate=2023-11-10 |language=ja |last=株式会社つみき}}</ref>。 [[1999年]]、[[渡部篤郎]]主演・プロデュース、[[鈴木一真]]、[[泉谷しげる]]出演で自主制作したフィルムノワール『[[ヒート・アフター・ダーク]]』が[[ゆうばり国際ファンタスティック映画祭]]での上映を経て[[日活]]配給で劇場公開され、商業監督としてデビューする。公開前にいち早くこの作品を観た出版・映像プロデューサー[[高橋信之 (出版プロデューサー)|高橋信之]]がその才能に惚れ込み、自社であるスタジオ・ハード内に「北村龍平部門」を作ろうと声をかけ、北村龍平と長年の映像製作の仲間であった進啓士郎の二人でナパーム・フィルムズを設立し、初の長編映画となる『[[VERSUS (映画)|VERSUS]]』の製作に着手。自主制作体制だったため、度重なる資金難と撮影中断を繰り返しながらも納得いくまで撮影を続け、完成まで一年近くを要した<ref>{{Cite web|和書|title=VERSUS - 作品情報・映画レビュー - |url=https://www.kinejun.com/cinema/view/32642 |website=キネマ旬報WEB |access-date=2023-11-10 |language=ja}}</ref>。 [[2001年]]、[[フランス]]のジェラルメ国際ファンタスティック映画祭にて『VERSUS』のワールドプレミア上映が行われた。吹雪の中、深夜0時からの上映にもかかわらず劇場には長蛇の列ができ、上映中から喝采が巻き起こり、当時最大手だった映画レビューサイトAin’t It Cool Newsに絶賛のレビューが出ると噂は瞬く間に世界に広がり、数週間後、北村の元にアメリカの映画会社[[ミラマックス]]から連絡があり、次回作の企画を優先的に見ることができる「[[ファーストルック契約]]」を結ぶ。無名の監督が自主映画をきっかけに[[ハリウッド]]と契約したという噂が日本映画界に広がり、初めて自主制作体制ではなく出資を受けて、[[髙橋ツトム]]原作漫画『[[ALIVE (映画)|ALIVE]]』の実写映画化に着手。髙橋はそれまで自作の映画化の話が何度も頓挫していたこともあり、映画関係者に不信感を持っていたが、『VERSUS』を観てそのストーリーテリングや世界観を高く評価し、北村と会い意気投合し、映画化を許諾した<ref>{{Cite web|和書|title=VERSUS ヴァーサス|誰も見たことのない戦い。それは、終わりのない戦い。|この衝撃、問答無用のカタルシス。 |url=https://www.abelcane.com/versus-%e3%83%b4%e3%82%a1%e3%83%bc%e3%82%b5%e3%82%b9/ |website=映画の秘密基地アベルケイン・ドットコム |date=2017-05-04 |accessdate=2023-11-10 |language=ja |first=阿部 |last=遣治}}</ref>。 映画プロデューサー[[河井真也|河合真也]]も北村の才能を早くから認めていた1人で、自身が進めていた7人の監督による短編オムニバス『[[Jam Films]]』に北村を抜擢。北村は『the messenger - 弔いは夜の果てで -』で参加した<ref>{{Cite web |title=Jam Films |url=http://lindenhof.sakura.ne.jp/omuni12.html |website=lindenhof.sakura.ne.jp |accessdate=2023-11-10}}</ref>。 『VERSUS』は北米プレミアとなった[[トロント国際映画祭]]を始めとして世界中の映画祭に招待され、ローマ国際ファンタスティック映画祭では最優秀監督賞を受賞。日本でも日本インディペンデント映画祭で優秀監督賞<ref>{{Cite web |title=VERSUS-- a Ryuhei Kitamura film |url=https://indiesmoviefestival.com/1st-stage/movie/versus/index.html |website=indiesmoviefestival.com |accessdate=2023-11-10}}</ref>を、[[新藤兼人賞]]で銀賞を受賞した<ref>{{Cite web|和書|title=新藤兼人賞 |url=https://www.nitieikyo.com/shindokanetoawards |website=日本映画製作者協会 |access-date=2023-11-10 |language=ja}}</ref>。 [[2002年]]、二度目の参加となったゆうばり国際ファンタスティック映画祭で『VERSUS』が上映され[[千葉真一]]賞・ファンタランド女王賞を受賞<ref>{{Cite web |title=Instagram |url=https://www.instagram.com/p/CSwk1yCnJpq/?utm_medium=copy_link |website=www.instagram.com |access-date=2023-11-10}}</ref>。ゲストとして来ていたプロデューサーの[[山本又一朗]]が作品、そして北村自身に感銘を受けて自分が進めていた[[小山ゆう]]原作漫画の映画化『[[あずみ (映画)|あずみ]]』の監督を打診<ref>{{Cite web|和書|title=メッセージ|北村龍平オフィシャルサイト |url=http://www.ryuheikitamura.com/message.php?bm=177 |website=www.ryuheikitamura.com |accessdate=2023-11-10}}</ref>。小山ゆう作品の大ファンであった北村が快諾。山本と北村で脚本を作るのは難航したが、並行して大規模なオーディションも行われた。『あずみ』の準備が進む中、ドイツの映画祭で出会い、お互いの作品のファンでもあった[[堤幸彦]]監督から「ワンシチュエーションで2人が戦う作品を競作しよう」と持ちかけられ、[[大沢たかお]]・[[加藤雅也]]主演による時代劇『[[荒神 (映画)|荒神]]』を9日間で撮影<ref>{{Cite web|和書|title=荒神 {{!}} あらすじ・内容・スタッフ・キャスト・作品情報 |url=https://natalie.mu/eiga/film/141658 |website=映画ナタリー |accessdate=2023-11-10 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>。堤による[[小池栄子]]・[[野波麻帆]]主演『[[2LDK (映画)|2LDK]]』と二本立てプロジェクト『DUEL』として完成する<ref>{{Cite web|和書|title=DUEL!堤幸彦『2LDK』北村龍平『荒神』ガチンコ勝負! – CINEMATOPICS |url=http://report.cinematopics.com/archives/24051 |accessdate=2023-11-10 |language=ja}}</ref>。『VERSUS』、『ALIVE』を試写で観た[[ゲームクリエイター|ゲーム・クリエイター]][[小島秀夫 (ゲームデザイナー)|小島秀夫]]からの依頼で世界的大ヒットゲーム『[[メタルギアソリッド]]』第1作の[[ゲームキューブ]]版リメイクである『METAL GEAR SOLID THE TWIN SNAKES』の[[モーションキャプチャ]]シーンの演出を任され、トータルで4時間に渡るムービーシーンを演出<ref>{{Cite web|和書|title=【TGS】『MGS』トークイベント最後のゲストは北村龍平監督!テンション激高っ! - 電撃オンライン |url=https://dengekionline.com/data/news/2003/9/27/0fb7de46784848576bf5cbd02407cfbe.html |website=dengekionline.com |accessdate=2023-11-10}}</ref>。 [[2003年]]1月、[[テレビ朝日]]系列で髙橋ツトム原作、[[釈由美子]]主演『[[スカイハイ (漫画)|スカイハイ]]』が放送され<ref>{{Cite web|和書|title=スカイハイ 第8話 スカイハイ「フェイス(前編)」(ドラマ) {{!}} WEBザテレビジョン(1187-8) |url=https://thetv.jp/program/0000001187/8/ |website=WEBザテレビジョン |accessdate=2023-11-10 |language=ja}}</ref>、深夜枠にもかかわらず高視聴率を記録する。この企画は『あずみ』の撮影準備中に連載が始まった1話目を読んだ北村が河合真也プロデューサーに企画を持ち込み実現。[[鶴田法男]]、[[篠原哲雄]]、[[金子修介]]、[[中原俊]]、[[麻生学]]といった映画監督が各エピソードを担当。北村は最終話『フェイス』の演出、およびエンディング演出、[[wyolica]]によるエンディングテーマ曲「Mercy Me ~いつか光を抱けるように~」ミュージックビデオの演出を手がけた<ref>{{Cite web |title=messsage |url=https://www.sonymusic.co.jp/Music/Info/wyolica/message/backnumber.html |website=www.sonymusic.co.jp |accessdate=2023-11-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=スカイハイ 劇場版 - 作品情報・映画レビュー - |url=https://www.kinejun.com/cinema/view/70260 |website=キネマ旬報WEB |accessdate=2023-11-10 |language=ja}}</ref>。 同年5月、全国[[東宝]]系で[[上戸彩]]主演『あずみ』公開<ref>{{Cite web |title=Tristone Entertainment Inc. |url=https://tristone.co.jp/movie/2003/10/azumi.html |website=tristone.co.jp |accessdate=2023-11-10}}</ref>。宣伝キャンペーンでは「日本より先にハリウッドが目をつけた」と新しい才能として北村がフィーチャーされた。同年6月『ALIVE』、10月『荒神』、11月『スカイハイ劇場版』<ref>{{Cite web |title=Instagram |url=https://www.instagram.com/p/Bq1i3K5FXlC/ |website=www.instagram.com |access-date=2023-11-16}}</ref>と続けざまに北村作品が公開された。『荒神』はブリュッセル国際ファンタスティック映画祭に招待され、コンペ部門で銀賞を受賞。 [[2004年]]、『あずみ』が[[サンダンス映画祭]]を皮切りに全米各地の映画祭で上映され、ボストン・インディペンデント映画祭では審査員特別賞を、フィラデルフィア映画祭では観客賞を受賞した<ref>{{Cite web|和書|title=2005 Nikkei Voice: 「あずみ」・刺客少女のアクションコミック « 長山智香子HP |url=http://www.chikakonagayama.com/portfolio/2005-nikkei-voice/ |access-date=2023-11-10 |language=en-US |last=onioneye}}</ref>。前年の『あずみ』の実績が高く評価され、[[ゴジラ]]生誕50周年にして最終作(当時)である超大作『[[ゴジラ FINAL WARS]]』の監督に史上最年少で抜擢。本編・特撮・海外の三班体制により日本各地、[[シドニー]]、[[上海市|上海]]、[[パリ]]などでロケが行われた<ref>{{Cite web|和書|title=『ゴジラ FINAL WARS』北村龍平監督独占インタビュー|シネマトゥデイ |url=https://www.cinematoday.jp/interview/A0000744 |website=シネマトゥデイ |date=2004-12-20 |accessdate=2023-11-10 |language=ja}}</ref>。完成した作品は日本映画として初となるハリウッドの[[グローマンズ・チャイニーズ・シアター|チャイニーズ・シアター]]での[[ワールドプレミア]]が行われ、当日には[[ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]に日本のキャラクターとして初めて登録された<ref>{{Cite web|和書|title=ゴジラがハリウッドに上陸!ウォーク・オブ・フェイム授賞式 : 映画ニュース |url=https://eiga.com/news/20041130/13/ |website=映画.com |accessdate=2023-11-10 |language=ja}}</ref>。それまでのゴジラのイメージを一新するかのようなノンストップ怪獣バトルアクションや近未来的な世界観などを持ち込んだ作風は[[賛否両論]]を呼び、日本での公開時の興行成績は振るわなかったが、公開から時間が経つにつれ評価が高まり、[[2023年]]5月にCollider.comが発表した歴代全ゴジラ映画ランキングでは5位にランクイン<ref>{{Cite web |title=Instagram |url=https://www.instagram.com/p/By_vaF2I7SJ/ |website=www.instagram.com |access-date=2023-11-16}}</ref>、さらには公開から19年の時を経て当時の制作を掘り下げた『ゴジラFINAL WARSコンプリーション』というメイキング本が発売されるなど今も根強い人気を誇る<ref>{{Cite web|和書|title=【第10弾】「ゴジラ FINAL WARS コンプリーション」発売! : ゴジラまとめ情報 ゴジラボ |url=http://gozilabo.com/archives/48874253.html |website=ゴジラまとめ情報 ゴジラボ |accessdate=2023-11-10 |language=ja}}</ref>。 [[2005年]]、『VERSUS』以来となる自主制作体制で盟友・髙橋ツトムの短編にインスパイアされた『ラブデス』を脚本・監督・プロデューサーとして製作<ref>{{Cite web|和書|title=KAN オフィシャルウェブサイト 【金曜コラム #036】 - www.kimuraKAN.com |url=https://www.kimurakan.com/column/cbn036.php |website=www.kimurakan.com |accessdate=2023-11-10}}</ref>。同時に[[岩井俊二]]脚本・プロデュースで90年代[[バンドブーム]]を描く[[青春映画]]『[[グッドドリームズ#制作中止になった映画企画 (2005年)|BANDAGE]]』を[[成宮寛貴]]主演で準備していたが、[[クランクイン]]数週間前に問題が発生し製作は中止となった。この作品は後に[[小林武史]]監督、[[赤西仁]]主演で製作され[[2008年]]に公開された<ref>{{Cite web|和書|title=BANDAGE バンデイジ {{!}} あらすじ・内容・スタッフ・キャスト・作品情報 |url=http://bandage-movie.jp/ |website=映画ナタリー |accessdate=2023-11-10 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>。 [[2006年]]、『あずみ』全米公開に向けて[[サンディエゴ]]・[[コミコン]]で北米プレミアが行われた。ゲストで来場していた北村はアフターパーティー会場で北村の大ファンだという[[サミュエル・L・ジャクソン]]と会い、意気投合<ref>{{Cite web|和書|title=ハリウッドに賭ける映画監督・北村龍平 その1 |url=http://discovernikkei.org/es/journal/2016/5/31/ryuhei-kitamura-1/ |website=Descubra a los Nikkei |accessdate=2023-11-10 |language=en |first=Por Keiko Fukuda / 31 |last=May 2016}}</ref>。サミュエルが所属していたマネジメント会社、アノニマス・コンテントと契約<ref>{{Cite web|和書|title=【北村龍平】バイオレンスの鬼才、熱い魂! ハリウッド進出第2弾撮り終え凱旋帰国 |url=https://www.zakzak.co.jp/people/news/20130424/peo1304240714000-n1.htm |website=ZAKZAK |accessdate=2023-11-10 |language=ja-JP}}</ref>。同年9月、再び訪れたロサンゼルスで[[レイクショア・エンターテインメント|レイクショア・エンタテインメント]]のプロデューサー、[[トム・ローゼンバーグ]]から[[クライヴ・バーカー|クライブ・バーカー]]原作『ミッドナイト・ミート・トレイン』の監督をオファーされ、これが北村のハリウッド進出作となる。 [[2007年]]、カリフォルニアに移住して[[ブラッドリー・クーパー]]主演『ミッドナイト・ミート・トレイン』の製作に入る<ref>{{Cite web|和書|title=More Brain!! More Horror!! ミッドナイト・ミート・トレイン(★★★★) - 3年待った!クライブバーカーの「真夜中の人肉列車」を北村龍平が映像化! |url=http://chihiroc.blog9.fc2.com/blog-entry-281.html |website=chihiroc.blog9.fc2.com |accessdate=2023-11-10}}</ref>。 [[2009年]]、『ミッドナイト・ミート・トレイン』<ref>{{Cite web|和書|title=IZAM『世界の、北村龍平 監督と。』 |url=https://ameblo.jp/izamania/entry-12769928956.html |website=IZAMオフィシャルブログ「東京STYLE1972」Powered by Ameba |access-date=2023-11-10 |language=ja}}</ref>がジェラルメ国際ファンタスティック映画祭でSF審査員賞、観客賞をダブル受賞。[[横浜港]]開港150周年を記念した「[[開国博Y150]]」のパビリオン、未来シアターのために[[岩井俊二]]脚本・プロデュース、[[上戸彩]]・[[市原隼人]]主演のアニメ作品『BATON』を監督。この作品は[[ロトスコープ]]と言われる手法で実際に俳優を使って撮影し、それを[[トレース (製図)|トレース]]してアニメ化した<ref>{{Cite web|和書|title=「市原隼人は話を聞かない」と北村龍平監督がグチる {{!}} チケットぴあ[映画 邦画] |url=https://ticket.pia.jp/pia/newsDetail.ds?newsCd=200902060005 |website=ticket.pia.jp |accessdate=2023-11-10 |language=ja |last=PIA}}</ref>。 [[2010年]]、[[アカデミー賞]]俳優[[ウィリアム・ハート]]主演のホラー『HELLGATE』をプロデュース<ref>{{Cite web |title=北村龍平 filmography - RYM/Sonemic |url=https://rateyourmusic.com/films/%E5%8C%97%E6%9D%91%E9%BE%8D%E5%B9%B3 |website=Rate Your Music |accessdate=2023-11-10 |language=en}}</ref>。 [[2012年]]、[[ルーク・エヴァンズ|ルーク・エヴァンス]]主演のスリラーホラー『ノー・ワン・リヴズ』が[[トロント国際映画祭]]で[[ワールドプレミア]]。『VERSUS』『ALIVE』に続く3度目のトロント国際映画祭招待となった<ref>{{Cite web|和書|title=北村龍平監督インタビュー:映画「NO ONE LIVESノー・ワン・リヴズ」(4月27日公開)について【1/3】 |url=https://intro.ne.jp/contents/2013/04/24_2308.html |website=INTRO : オルタナティブな視点で映画を愉しむ映画情報サイト |accessdate=2023-11-10 |language=ja}}</ref>。 [[2014年]]、[[モンキー・パンチ|モンキーパンチ]]原作の国民的漫画・アニメ『[[ルパン三世]]』実写映画化で6年ぶりに日本映画を監督。[[小栗旬]]、[[玉山鉄二]]、[[綾野剛]]、[[黒木メイサ]]、[[浅野忠信]]といった豪華キャストに、日本・[[タイ王国|タイ]]での長期ロケを敢行。[[スペイン]]から撮影監督を、[[大韓民国|韓国]]から[[VFX]]とアクションチームを招聘する国際的なチームを編成。[[興行収入]]24億5千万円を記録<ref>{{Cite web|和書|title=実写ルパン三世『大ヒットの理由とは?チャレンジから生まれた“興行常識“を覆す成果』 |url=https://www.oricon.co.jp/special/1452/ |website=ORICON NEWS |accessdate=2023-11-10}}</ref>。 [[2017年]]、ハリウッドに戻り再び自主制作体制で撮ったバイオレンス・スリラー『ダウンレンジ』が4度目のトロント国際ファンタスティック映画祭でワールドプレミア上映される。その後もスペインの[[シッチェス・カタロニア国際映画祭]]、[[釜山国際映画祭]]などに招待され大きな反響を得る<ref>{{Cite web|和書|title=https://twitter.com/downrange_movie/status/1043681097622548481?s=20 |url=https://twitter.com/downrange_movie/status/1043681097622548481?s=20 |website=X (formerly Twitter) |accessdate=2023-11-10 |language=ja}}</ref>。 [[2020年]]、[[ルビー・ローズ]]、[[ジャン・レノ]]主演のアクション映画『ドアマン』を発表<ref>{{Cite web|和書|title=https://twitter.com/at_enta/status/1406895193152921604?s=20 |url=https://twitter.com/at_enta/status/1406895193152921604?s=20 |website=X (formerly Twitter) |accessdate=2023-11-10 |language=ja}}</ref>。[[コロナ禍]]における[[ロックダウン (政策)|ロックダウン]]の影響で劇場公開ではなく配信リリースされたが、主だった配信サイトでベスト5にランクイン。全米大手のレンタルサービス「レッドボックス」では初登場1位を記録した。 [[2022年]]、[[エミール・ハーシュ]]、[[スティーヴン・ドーフ|スティーブン・ドーフ]]主演のホラー『THE PRICE WE PAY』を監督・プロデュース<ref>{{Cite web|和書|title=北村龍平監督の最新作はエミール・ハーシュ、スティーヴン・ドーフ主演のアクションスリラー『The Price We Pay』! |url=http://blog.livedoor.jp/beyond_cinema/archives/1078966833.html |website=BEYOND |date=2021-09-12 |accessdate=2023-11-10 |language=ja}}</ref>。[[ブリュッセル国際ファンタスティック映画祭]]でワールドプレミア上映され<ref>{{Cite web |title=Instagram |url=https://www.instagram.com/p/Chtpu5jufRf/ |website=www.instagram.com |access-date=2023-11-16}}</ref>、同時に長年の貢献を評価されて映画祭から栄誉称号であるナイト([[騎士号]])を授与される<ref>{{Cite web |title=Instagram |url=https://www.instagram.com/p/CiXMxk_McUe/ |website=www.instagram.com |access-date=2023-11-09}}</ref>。これが授与されるのはアジア人監督としては[[パク・チャヌク]]監督に次いで2番目、日本人監督としては初。同年10月、8年ぶりの日本映画となる髙橋ツトム原作、[[のん (女優)|のん]]、[[門脇麦]]、[[大島優子]]主演『[[天間荘の三姉妹 スカイハイ|天間荘の三姉妹]]』を発表<ref>{{Cite web|和書|title=映画「天間荘の三姉妹」公式サイト |url=https://www.tenmasou.com/ |website=映画「天間荘の三姉妹」公式サイト |accessdate=2023-11-10 |language=ja}}</ref>。デザイナー[[北山友之]]と共に新進気鋭のアパレルブランド「XROSSCOUNTER(クロスカウンター)」を設立<ref>{{Cite web|和書 |title=XROSSCOUNTER(クロスカウンター)ストア |url=https://www.xrosscounter.com/ |website=XROSSCOUNTER |accessdate=2023-06-07 |language=ja}}</ref>。 == 交友関係 == === 映画界 === 映画界や芸能界には友人が少ないと語っているが、若いころに[[若松孝二]]、[[高橋伴明]]に大変お世話になったと公言している<ref>{{Cite web |title=Instagram |url=https://www.instagram.com/p/CodOZfFvpG1/ |website=www.instagram.com |access-date=2023-11-16}}</ref>。若松は『ヒート・アフター・ダーク』で北村の才能を高く評価しており、[[新宿ロフトプラスワン]]で『GATEBREAK』という映画イベントを共催した。[[堤幸彦]]は早くから北村の才能を評価して競作を持ちかけ『DUEL』プロジェクトを実現。作風は全然違うがとても話が合う尊敬する監督として[[岩井俊二]]を挙げており、アニメ映画『BATON』でのコラボを始め、岩井の番組に北村が出演したり、二人の作品のオールナイト上映イベントを開催したりと親交が深い<ref>{{Cite web |title=『この世界の片隅に』の真木太郎プロデューサーが放つ<終わりなき、絶望。> 北村龍平監督最新作『ダウンレンジ』 |url=https://www.cyzo.com/2018/09/post_175642_entry.html |website=日刊サイゾー |date=2018-09-13 |access-date=2023-11-16 |language=ja}}</ref>。 === 音楽 === 音楽に精通しており、吉田健一<ref>{{Cite web |title=VERSUS-- a Ryuhei Kitamura film |url=https://indiesmoviefestival.com/1st-stage/movie/versus/index.html |website=indiesmoviefestival.com |access-date=2023-11-16}}</ref>、[[wyolica]]<ref>{{Cite web |title=Instagram |url=https://www.instagram.com/p/Cjp5FvZv4iY/?utm_source=ig_web_copy_link |website=www.instagram.com |access-date=2023-11-16}}</ref>、[[ポルノグラフィティ]]、[[ポール・ギルバート]]、[[hyde]]、[[キース・エマーソン]]<ref>{{Cite web |title=メッセージ|北村龍平オフィシャルサイト |url=http://www.ryuheikitamura.com/message.php |website=www.ryuheikitamura.com |access-date=2023-11-16}}</ref>、[[大友康平]]、[[布袋寅泰]]<ref>{{Cite web |title=布袋寅泰が実写版『ルパン三世』にテーマ曲提供、書き下ろしの“TRICK ATTACK” {{!}} CINRA |url=https://www.cinra.net/news/20140624-hoteitomoyasu |website=www.cinra.net |access-date=2023-11-16 |language=ja}}</ref>、[[玉置浩二]]<ref>{{Cite web |title=玉置浩二と絢香のコラボ楽曲が世界観を彩る…『天間荘の三姉妹』最新予告映像が完成! - 2ページ目|最新の映画ニュースならMOVIE WALKER PRESS |url=https://moviewalker.jp/news/article/1101988/p2/ |website=MOVIE WALKER PRESS |date=2022-09-09 |access-date=2023-11-16 |language=ja}}</ref>、[[絢香]]<ref>{{Cite web |title=絢香 - Ayaka official web site |url=http://room-ayaka.jp/ |website=絢香 - Ayaka official web site |access-date=2023-11-16}}</ref>など錚々たるミュージシャンとサウンドトラックや主題歌、テーマ曲などでタッグを組み、中学時代から熱狂的ファンだった[[長渕剛]]<ref>{{Cite web |title=Instagram |url=https://www.instagram.com/p/CmkpyGHIG77/ |website=www.instagram.com |access-date=2023-11-16}}</ref>とは兄弟と呼び合う仲であり、長渕が故郷鹿児島で行ったオールナイトコンサートではDVD4枚組の大作ライブドキュメンタリーを監督、その後もCMやミュージックビデオを手掛けた<ref>{{Cite web |title=長渕剛 OFFICIAL WEBSITE|LIVE ON |url=https://tsuyoshinagabuchi.com/ |website=LIVE ON|長渕剛 OFFICIAL WEBSITE |access-date=2023-11-16 |language=ja}}</ref>。ミュージシャンが大勢出演していた『ラブデス』では敬愛する[[KAN]]を口説いて俳優としてデビューさせ<ref>{{Cite web |title=KAN オフィシャルウェブサイト 【金曜コラム #036】 - www.kimuraKAN.com |url=https://www.kimurakan.com/column/cbn036.php |website=www.kimurakan.com |access-date=2023-11-16}}</ref>、公開時には『ラブデスライブ』と銘打ったライブイベントを渋谷AXにて大友康平、[[武田真治]]<ref>{{Cite web |title=Instagram |url=https://www.instagram.com/p/CzLCl7VP7pS/ |website=www.instagram.com |access-date=2023-11-16}}</ref>、[[DJ DRAGON]]、KAN、[[川村かおり]]、[[IZAM]]らと開催。『[[ルパン三世 (2014年の映画)|ルパン三世]]』公開時にもライブイベント『ドラカニ』を開催し、[[陣内大蔵]]、[[黒木渚]]、[[藤原紀香]]、[[武田真治]]、マジシャンの[[セロ (マジシャン)|セロ]]など豪華ゲストと共に自らもステージで歌を披露した。映画『天間荘の三姉妹』にもミュージシャンの[[高橋ジョージ]]、[[つのだ☆ひろ|つのだ⭐︎ひろ]]、[[ユウサミイ]]がゲスト出演している<ref>{{Cite web |title=ユウサミイ『ついに、ついに、観てきました。映画「天間荘の三姉妹」もう、ほんとうに素晴らしい。』 |url=https://ameblo.jp/yusammy/entry-12764734134.html |website=ユウサミイオフィシャルブログ「世界中でたったひとりのひとり分の宇宙」Powered by Ameba |access-date=2023-11-16 |language=ja}}</ref>。ロスで知り合ったジャズ・ピアニスト、[[エリッキ・ルイス・コンラード・カルヴァーリョ|エリック・ルイス]]の演奏を聴いて才能に惚れ込みミュージックビデオを監督、日本のレコード会社の知人に送ったことから日本デビューとブルーノートツアーが決まったことも<ref>{{Cite web |title=Instagram |url=https://www.instagram.com/p/ChmjnOrOrbI/?img_index=1 |website=www.instagram.com |access-date=2023-11-16}}</ref><ref>{{Cite web |title=Instagram |url=https://www.instagram.com/p/BJh27yDABTr/ |website=www.instagram.com |access-date=2023-11-16}}</ref><ref>{{Cite web |title=Instagram |url=https://www.instagram.com/p/BYMpglZB6MQ/ |website=www.instagram.com |access-date=2023-11-16}}</ref>。 === 格闘技 === 自らも[[ボクシング]]、[[剣道]]、[[空手道|空手]]の経験があり、[[格闘家]]全般にも詳しく友人も多い。[[プロレスラー]]、[[総合格闘家]]の[[船木誠勝]]を何度も作品に起用しており<ref>{{Cite web |title=船木誠勝『北村龍平監督と。 ①』 |url=https://ameblo.jp/masa-funaki/entry-12776948970.html |website=船木誠勝 オフィシャルブログ「REDZONE」Powered by Ameba |access-date=2023-11-16 |language=ja}}</ref>、『ゴジラFINAL WARS』では[[ドン・フライ]]<ref>{{Cite web |title=Instagram |url=https://www.instagram.com/p/COiu8tmlons/ |website=www.instagram.com |access-date=2023-11-16}}</ref>、[[レイ・セフォー]]、[[ゲーリー・グッドリッジ]]を、『ミッドナイト・ミート・トレイン』では[[クイントン・ジャクソン|クイントン・ランペイジ・ジャクソン]]を俳優デビューさせた<ref>{{Cite web |title=Instagram |url=https://www.instagram.com/p/Cl74O2kyqx2/?img_index=1 |website=www.instagram.com |access-date=2023-11-16}}</ref>。 === 海外での評価 === 共に短編オムニバス『[[マスターズ・オブ・ホラー (映画)|マスターズ・オブ・ホラー]]』を作った[[ミック・ギャリス]]、[[ジョー・ダンテ]]といったベテラン監督を始め、ハリウッドデビュー作となった『ミッドナイト・ミート・トレイン』の原作者であり自らも映画監督である[[クライヴ・バーカー|クライブ・バーカー]]を始めとして、[[ギレルモ・デル・トロ]]、[[ジェームズ・ワン]]、[[ニコラス・ケイジ]]、[[アル・パチーノ]]、[[ケビン・コスナー|ケヴィン・コスナー]]、[[キアヌ・リーブス|キアヌ・リーヴス]]などハリウッドにも北村の才能を評価する者は多い<ref>{{Cite web |title=Instagram |url=https://www.instagram.com/p/CBxPcOOFy2q/?img_index=1 |website=www.instagram.com |access-date=2023-11-16}}</ref>。[[クエンティン・タランティーノ]]はソフトバンクのCMで来日した時、共演の[[ダンテ・カーヴァー]]に『あずみ』で上戸彩のファンだと言ったらしい。『[[シン・シティ]]』の原作者で共同監督の[[フランク・ミラー]]も『あずみ』の大ファンで、ミホ役を上戸彩にオファーしたがスケジュールの都合がつかず、その役は[[デヴォン青木|デヴォン・青木]]が演じることとなった。日本でも人気のボブ・リー・スワガー・シリーズで知られる作家の[[スティーブン・ハンター]]は日本を舞台にした『47番目の男』の冒頭で[[黒澤明]]、[[三隅研次]]ら[[時代劇]]の名匠監督らの名前と共に北村の名を挙げ賛辞を述べており、さらに劇中で主人公が『あずみ』を観ながら語るシーンがある<ref>{{Cite web |title=帰ってきた買っとけ! DVD |url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/20031126/buyd109.htm |website=av.watch.impress.co.jp |access-date=2023-11-16}}</ref>。[[ギャレス・エヴァンス]]の『[[ザ・レイド GOKUDO]]』 では刑務所に潜入捜査する主人公の囚人番号が『VERSUS』の主人公と同じKSC2-303だったり、アカデミー賞にノミネートされた[[ブラッドリー・クーパー]]主演『[[世界にひとつのプレイブック]]』の劇中に出てくる映画館のポスターが『ミッドナイト・ミート・トレイン』だったり、[[クリスチャン・ベール]]主演『[[ファーナス/訣別の朝]]』の冒頭、[[ドライブインシアター]]で上映されているのが『ミッドナイト・ミート・トレイン』だったりと、オマージュを捧げられることも多い。フランスの名匠[[ジャン=リュック・ゴダール|ジャン・リュック・ゴダール]]は自らの作品『[[アワーミュージック|アワー・ミュージック]]』で『VERSUS』を引用している<ref>{{Cite web |title=【映画】 ベイルを侮るな!『ファーナス/訣別の朝』 |url=https://cinemaland.hatenablog.com/entry/2014/04/20/163747 |website=しまんちゅシネマ |date=2014-04-20 |access-date=2023-11-16 |language=ja |last=puko3}}</ref>。 === 影響を受けた人物・作品 === [[1980年代]]の映画や音楽や本に多大な影響を受けたと語っている。アート系の映画以外はジャンルを問わずどんな映画でも観るが特に『[[ハイランダー 悪魔の戦士|ハイランダー]]』、『[[マッドマックス2]]』、『[[エイリアン2]]』、『[[コマンドー]]』などのアクションや『[[13日の金曜日 (1980年の映画)|13日の金曜日]]』や『[[エルム街の悪夢]]』などの[[ホラー映画|ホラー]]、[[スプラッター映画|スプラッター]]や[[ゾンビ映画]]の影響も大きい<ref>{{Cite web |title=J-WAVE ACROSS THE SKY : J-WAVE 81.3 FM RADIO |url=https://www.j-wave.co.jp/original/acrossthesky/ |website=www.j-wave.co.jp |access-date=2023-11-16 |language=ja}}</ref>。ブレイク作となった『VERSUS』の時はとにかく自分の好きなものを全部詰め込み『ハイランダー』と『ゾンビ』と『[[サムライ (映画)|サムライ]]』と『[[レザボア・ドッグス]]』とミックスしたと語っている<ref>{{Cite web |title=ハリウッドに賭ける映画監督・北村龍平 その1 |url=http://discovernikkei.org/es/journal/2016/5/31/ryuhei-kitamura-1/ |website=Descubra a los Nikkei |access-date=2023-11-16 |language=en |first=Por Keiko Fukuda / 31 |last=May 2016}}</ref>。尊敬する監督は[[ジョージ・ミラー (プロデューサー)|ジョージ・ミラー]]、[[ジェームズ・キャメロン]]、[[ラッセル・マルケイ]]など。邦画では『[[丑三つの村|丑三の村]]』『[[野性の証明|野生の証明]]』『[[夜叉 (映画)|夜叉]]』『[[スワロウテイル]]』『[[戦国自衛隊 (映画)|戦国自衛隊]]』『[[鉄拳 (1990年の映画)|鉄拳]]』などのファンを公言している<ref>{{Cite web |title=『天間荘の三姉妹』北村龍平監督 今の自分にしか撮れないものを【Director’s Interview Vol.252】|CINEMORE(シネモア) |url=https://cinemore.jp/jp/news-feature/2699/article_p1.html |website=cinemore.jp |access-date=2023-11-16 |language=ja}}</ref>。作風的にアクションやホラーのイメージが強いがフェイバリット作品を聞かれると『[[ファンダンゴ (映画)|ファンダンゴ]]』『[[リトル・ロマンス]]』『[[誓い (映画)|誓い]]』『[[マイ・ボディガード (1980年の映画)|マイ・ボディーガード]]』などの[[青春映画]]を答えることも多い<ref>{{Cite web |title=北村龍平のオールタイム映画ベストテン |url=https://kill-the-movie-on-sunday.blog.jp/archives/1037185374.html |website=日曜日には映画を殺せ |access-date=2023-11-16 |language=ja}}</ref>。 === クロスカウンター === [[ファッションデザイナー|ファッション・デザイナー]]の[[北山友之]]と組み、[[アパレル産業|アパレル]]・[[サウンドトラック|サントラ]]・[[グッズ]]を作る[[ブランド]]、クロスカウンターを立ち上げる。敬愛する日本映画『丑三つの村』の一度も音源化されたことのないサウンドトラック素材を発掘・レストアし世界初CD化しクロスカウンターレコードから発売し<ref>{{Cite web |title=Instagram |url=https://www.instagram.com/p/Cem0RP6vqrl/ |website=www.instagram.com |access-date=2023-11-16}}</ref>、発売記念としてリバイバル上映も実現<ref>{{Cite web |title=Instagram |url=https://www.instagram.com/p/Ceys0F7PIP6/?img_index=1 |website=www.instagram.com |access-date=2023-11-16}}</ref>。80年代の[[カルト映画]]『[[エクスタミネーター]]』のサウンドトラックも[[ヴァイナル]]とCDで発売し<ref>{{Cite web |title=Instagram |url=https://www.instagram.com/p/ClFXVmBs0eM/?img_index=1 |website=www.instagram.com |access-date=2023-11-16}}</ref>、同時にTシャツやパーカーも発表<ref>{{Cite web |title=Instagram |url=https://www.instagram.com/p/ClVCuqtMUuZ/?img_index=1 |website=www.instagram.com |access-date=2023-11-16}}</ref>。さらにはインフルエンサー・[[ジェットコースター男]]とコラボして[[ナガシマスパーランド]]<ref>{{Cite web |title=Instagram |url=https://www.instagram.com/p/CkedtFkSZcM/ |website=www.instagram.com |access-date=2023-11-16}}</ref>や[[志摩スペイン村]]<ref>{{Cite web |title=Instagram |url=https://www.instagram.com/p/Cjdw7iRvq3l/?img_index=1 |website=www.instagram.com |access-date=2023-11-16}}</ref>の[[ローラーコースター|ジェットコースター]]Tシャツ<ref>{{Cite web |title=Instagram |url=https://www.instagram.com/p/Col-uYBJpwC/ |website=www.instagram.com |access-date=2023-11-16}}</ref>や、自身がファンだったという80年代[[レトロゲーム]]のTシャツなどを展開している<ref>{{Cite web |title=Instagram |url=https://www.instagram.com/p/CeMDwq5PuX4/ |website=www.instagram.com |access-date=2023-11-16}}</ref>。 == その他 == * 『[[マッドマックス]]』シリーズや70年代、80年代のアメリカン・ホラーやアクション映画に対するリスペクトを公言している<ref>[https://jp.ign.com/downrange/29000/preview/ 暴力と恐怖に理由はいらない――『ダウンレンジ』北村龍平が撮った究極のミニマル・ホラー]</ref>。 * [[携帯機器|ハンドヘルド]]撮影(手持ちカメラ)を極端に嫌い、得意とするアクション・シーンではフィックス撮影、ドーリー撮影を多用する。 * フランス映画界の巨匠[[ジャン=リュック・ゴダール]]の監督作品『[[アワーミュージック]]』で北村の『VERSUS -ヴァーサス-』のことが触れられている。 * 『ゴジラ FINAL WARS』で製作を担当した[[東宝]]の[[富山省吾]]は、北村を監督した理由について「アメリカ映画に何のコンプレックスもない新しい世代のクリエイター」と語っており、「ハリウッド映画に喧嘩を仕掛けてやろうじゃないですか」と平気で言うことができる人物であったと証言している{{R|東宝SFSE0509}}。また、北村について「不可能を可能にするチャレンジ精神で映画を作っている人」と評しており、同作品は北村の執念により不可能と思えることも実現したとしている{{R|東宝SFSE0509}}。 * 北村自身は、[[ゴジラ]]シリーズについてフリークではないが中学生時代によく観ていたといい、好きな映画として『[[ゴジラ対メカゴジラ]]』を挙げている{{R|東宝SFSE0510}}。『FINAL WARS』での[[ミニラ]]や[[キングシーサー]]、初代[[轟天号]]の登場も北村の発案によるもので、[[ローランド・エメリッヒ]]版『[[GODZILLA]]』への皮肉めいたセリフは北村自身の同作品への感想を代弁したものでもあった{{R|東宝SFSE0510}}。 * 『FINAL WARS』に出演した[[佐原健二]]は、北村についてカメラアングルへのこだわりなどが強く、自身の考えをしっかり説明するなど妥協しない素晴らしい監督だと評しており、自身がセリフの解釈について疑問を感じた際に脚本家を呼んで納得のいくようミーティングを行うなど誠実な対応であったと述懐している{{R|VIP63}}。 == フィルモグラフィ == === 映画 === * DOWN TO HELL(1997年)監督 * [[ヒート・アフター・ダーク]](1999年)監督・脚本・編集 *中編作品 * [[VERSUS (映画)|VERSUS -ヴァーサス-]](2001年)監督・脚本 * [[Jam Films]]「the messenger -弔いは夜の果てで-」(2002年)監督 *短編オムニバス参加作品 * [[あずみ (映画)|あずみ]](2003年)監督 * [[ALIVE (映画)|ALIVE -アライブ-]](2003年)監督・脚本 * [[荒神 (映画)|荒神]](2003年)監督・脚本 * [[スカイハイ (漫画)#スカイハイ 劇場版|スカイハイ 劇場版]](2003年)監督 * LONGINUS(2004年)監督 - DVD作品 *中編作品 * [[ゴジラ FINAL WARS]](2004年、東宝)監督 * ラブデス(2007年)監督・脚本 * ミッドナイト・ミートトレイン(2008年)監督 * BATON(2009年)監督 *アニメ作品 * [[NO ONE LIVES ノー・ワン・リヴズ]] (2012年)監督 * [[ルパン三世 (2014年の映画)|ルパン三世]](2014年)監督・ストーリー * ダウンレンジ(2017年)監督・プロデュース・原案 * [[マスターズ・オブ・ホラー (映画)|マスターズ・オブ・ホラー]](2018年)監督 - 第3話「マシット」*短編オムニバス参加作品 * [[ドアマン]](2020年)監督 * [[天間荘の三姉妹]](2022年)監督 * THE PRICE WE PAY(2023年)監督・プロデュース・原案 === テレビドラマ === * 美少女H3「赤い波濤」(1999年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]])監督 * [[スカイハイ (漫画)#テレビドラマ|スカイハイ]](2003年、[[テレビ朝日]])監督 * [[恋愛小説 (2006年のテレビドラマ)|恋愛小説「月のしずく」]](2006年、[[TBSテレビ|TBS]])監督 === ビデオゲーム === * [[メタルギアソリッド|METAL GEAR SOLID THE TWIN SNAKES]](コナミ、2004年) ※ムービーパート演出 === ミュージックビデオ === * [[BENNIE K]] 「School Girl」(2001) * [[wyolica]] 「Mercy Me~いつか光を抱けるように~」(2003) * [[長渕剛]] 「[[金色のライオン (長渕剛の曲)|金色のライオン]]」(2005) * Eric Lewis 「Smells Like Teen Spirit」(2008) * [[AKB48]] 「[[鈴懸の木の道で「君の微笑みを夢に見る」と言ってしまったら僕たちの関係はどう変わってしまうのか、僕なりに何日か考えた上でのやや気恥ずかしい結論のようなもの]]」(2013) * AKB48 「Mosh & Dive」(2013) * [[黒木渚]] 「虎視眈々と淡々と」(2014) * HIRSCH 「KILLER BEES」(2022) * [[玉置浩二]] feat.[[絢香]] 「Beautiful World」(2022) === ライブドキュメンタリー === * 長渕剛 「桜島」(2004) === CM === * [[京セラ]] 携帯電話 A1403K(2004年) === その他 === * [[地獄甲子園]](2003) プロデューサー * 鎧 サムライゾンビ(2009年) プロデュース・脚本 * HELLGATE(2011年) プロデューサー * MIRRORLIAR FILMS Season2「巫.KANNAGI」(2022年)原案 == 書籍 == * 北村龍平MAN ON FIRE(キネマ旬報社、2003年) * 蛇VS龍 小島秀夫 × 北村龍平 対談集(太田出版、2004年) * FIRESTORM 北村龍平&ナパームフィルムズヒストリー(角川書店、2005年) * マリオンハイド(メディアファクトリー、2007年) * 映画監督という生き様(集英社、2014年) == 受賞歴 == * School of Visual Art Australia Kodak Award for Direction * 第一回インディーズムービーフェスティバル グランプリ * ローマ国際ファンタスティック映画祭 最優秀監督賞「VERSUS」 * ゆうばり国際ファンタスティック映画祭 千葉真一賞・ファンタランド女王賞 * 日本インディペンデント映画祭 優秀監督賞「VERSUS」 * 新藤兼人賞 銀賞 * ブリュッセル国際ファンタスティック映画祭 銀賞「荒神」 * ボストン・インディペンデント映画祭 審査員特別賞「あずみ」 * フィラデルフィア映画祭 観客賞「あずみ」 * ジェラルメ国際ファンタスティック映画祭 SF審査員賞・観客賞 * ブリュッセル国際ファンタスティック映画祭 栄誉称号ナイト(騎士号)授与 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist |refs= <ref name="Madman">{{Cite web|url=http://www.madman.com.au/news/riyuhei-kitamura-interview/|title=Ryuhei Kitamura Interview|publisher=Madman Entertainment|accessdate=2020-09-09}}</ref> <ref name="東宝SFSE0509">{{Harvnb|東宝SF特撮映画シリーズSPECIAL EDITION|2005|p=09|loc=「[インタビュー] 富山省吾」}}</ref> <ref name="東宝SFSE0510">{{Harvnb|東宝SF特撮映画シリーズSPECIAL EDITION|2005|pp=10-11|loc=「[インタビュー] 北村龍平」}}</ref> <ref name="超常識157">{{Harvnb|超常識|2016|p=157|loc=「Column ゴジラ映画 監督・特技監督人名録」}}</ref> <ref name="VIP63">{{Harvnb|ゴジラとともに|2016|p=63|loc=構成・文 友井健人「佐原健二」(『宇宙船116号』〈朝日ソノラマ2005年〉と『初代ゴジラ研究読本』などを合併再編集)}}</ref> }} == 参考文献 == * {{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/article/20071119-kitamura/|title=ハリウッドも呑み込むか - 自己ベストを更新し続ける男・北村龍平のあくなき挑戦 (1/5)|work=マイナビニュース|date=2007-11-19|accessdate=2015-12-08}} * {{Cite book|和書|title=GODZILLA FINAL WARS|date=2005-01-25|publisher=[[東宝]]|series=東宝SF特撮映画シリーズ SPECIAL EDITION|isbn=4-924609-89-7|ref={{SfnRef|東宝SF特撮映画シリーズSPECIAL EDITION|2005}}}} * {{Cite book|和書|others=[協力] 東宝|title=ゴジラの超常識|publisher=[[双葉社]]|date=2016-07-24|origdate=2014-07-06|isbn=978-4-575-31156-3|ref={{SfnRef|超常識|2016}}}} * {{Cite book|和書|editor=別冊[[映画秘宝]]編集部|title=ゴジラとともに 東宝特撮VIPインタビュー集|publisher=[[洋泉社]]|date=2016-09-21|series=映画秘宝COLLECTION|isbn=978-4-8003-1050-7|ref={{SfnRef|ゴジラとともに|2016}}}} == 外部リンク == * {{Instagram|ryuhei_kitamura|北村龍平}}(2016年2月25日〜)<ref>{{Cite web |title=Instagram |url=https://www.instagram.com/p/BCMZBuYSWa_/ |website=www.instagram.com |access-date=2023-11-16}}</ref> * [https://www.xrosscounter.com XROSSCOUNTER] * {{allcinema name|295496|北村龍平}} * {{Kinejun name|149821|北村龍平}} * {{jmdb name|0629550|北村龍平}} * {{IMDb name|0457565|Ryûhei Kitamura}} * [https://web.archive.org/web/19990422072150/http://plaza18.mbn.or.jp/~napalmfilms/%20Films.html napalm films] {{ゴジラ}} {{北村龍平監督作品}} {{新藤兼人賞金賞・銀賞}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:きたむら りゆうへい}} [[Category:日本の映画監督]] [[Category:クリエイティヴ・アーティスツ・エージェンシー]] [[Category:特撮スタッフ]] [[Category:在アメリカ合衆国日本人]] [[Category:大阪府出身の人物]] [[Category:1969年生]] [[Category:存命人物]]
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はやぶさ
はやぶさ、ハヤブサ、隼、Hayabusa
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はやぶさ、ハヤブサ、隼、Hayabusa
'''はやぶさ'''、'''ハヤブサ'''、'''隼'''、'''Hayabusa''' == 動物 == * [[ハヤブサ]] - 鳥類の名。 == 兵器・交通運輸・航空宇宙 == === 日本の軍備および防衛装備品 === * [[三菱航空機|三菱]]の試作戦闘機[[隼型試作戦闘機|1MF2]]の愛称。 * [[大日本帝国陸軍]]の[[一式戦闘機]]の愛称。 * [[陸上自衛隊]]の[[LR-2]]連絡偵察機の愛称。 * [[大日本帝国海軍]]の水雷艇の名称。 ** [[隼型水雷艇]]の一番艦 - 初代「[[隼 (隼型水雷艇)|隼]]」(1900年 - 1919年)。 ** [[鴻型水雷艇]]の三番艦 - 2代目「[[隼 (鴻型水雷艇)|隼]]」(1936年 - 1944年)。 * [[はやぶさ型駆潜艇]] - [[海上自衛隊]]の駆潜艇のクラス(昭和29年度計画)。 * [[はやぶさ型ミサイル艇]] - 海上自衛隊の[[ミサイル艇]]の[[艦級]](平成11年度計画)。 **ミサイル艇「[[はやぶさ (ミサイル艇)|はやぶさ]]」はやぶさ型1番艇。 === その他の交通運輸・航空宇宙関連 === * [[特別急行列車]]の名称。 ** [[はやぶさ (新幹線)]] - 東京⇔青森・北海道方面の新幹線 (2011年 - )。 ** [[はやぶさ (列車)]] - 東京⇔九州方面の寝台特急 (1958年 - 2009年)。 * [[スズキ・GSX1300Rハヤブサ]] - [[スズキ (企業)|スズキ]]が1999年に発売した[[自動二輪車|オートバイ]]。 ** [[フォーミュラ・スズキ隼]] - 上記のオートバイのエンジンを流用した市販[[レーシングカー]]。シャシーもスズキ製である。 * [[隼駅]] - [[若桜鉄道]]若桜線の駅。 * 高速はやぶさ号 - [[道南バス]]が運行している高速バスの名称。 * [[はやぶさ (高速フェリー)]] - [[九四フェリーボート]]で運航されていた高速フェリー。 * [[青函フェリー]]または前身の共栄運輸が運航するフェリー。 ** [[はやぶさ (フェリー・初代)]] ** [[3号はやぶさ (初代)]] ** [[はやぶさ (フェリー・2代)]] ** [[3号はやぶさ (2代)]] ** [[はやぶさ (フェリー・3代)]] ** [[3号はやぶさ (3代)]] ** [[はやぶさ (フェリー・4代)]] ** [[はやぶさII]] * [[名鉄海上観光船]]が運行する高速船。 ** [[はやぶさ (高速船)]] ** [[はやぶさ2 (高速船)]] ** [[はやぶさ3]] * [[はやぶさ (探査機)]] - [[宇宙科学研究所]] (後の[[宇宙航空研究開発機構|JAXA]])が2003年5月9日に打ち上げた工学実験探査機(MUSES-C)。 ** [[はやぶさ2]] - JAXAが2014年12月3日に打ち上げた小惑星探査機。上記の「はやぶさ」の後継機。 * [[警視庁航空隊]]の[[ヘリコプター]]。小型・高速の[[ターボシャフトエンジン|タービン]]ヘリコプターに付される愛称である。 * 隼(ソンゴルメ) - [[韓国陸軍]]の[[無人航空機|無人偵察機]]RQ-101の愛称。 == 作品名 == * [[ハヤブサ (アルバム)]] - スピッツが2000年に発売した9枚目のオリジナルアルバム。および同アルバムの収録曲(8823)。 * はやぶさ(楽曲) - SHO(キセノンP)による楽曲。 * はやぶさ (つるの剛士の楽曲) - [[つるの剛士]]の楽曲。 * [[海底人8823]](かいていじんはやぶさ) - 1960年に製作された特撮テレビ番組、および同作品の主人公。 * [[マシンハヤブサ]] - 1976年に放送された東映動画制作のテレビアニメ。および同作の主役メカ。 * [[隼走]](はやぶさ はしる) - 漫画『[[ドカベン]]』シリーズの登場人物。 * [[あばれ!隼]] - 漫画作品および、同作の主人公。 * 時代劇『[[幻之介世直し帖]]』に登場した怪盗。 * 隼 - [[ワシズ -閻魔の闘牌-#登場人物|『ワシズ -閻魔の闘牌-』に登場する人物]]。元一式戦闘機パイロットで鷲巣巌の部下。 * [[妖星ゴラス#登場メカ|JX-1 隼号]] - [[1962年]]の[[東宝特撮|東宝の特撮映画]]『[[妖星ゴラス]]』に登場する架空の有人宇宙船。 * [[はやぶさ (探査機)]]を題材とした映画。 ** [[はやぶさ/HAYABUSA]] - 2011年公開、[[竹内結子]]主演の日本映画。 ** [[はやぶさ 遥かなる帰還]] - 2012年公開、[[渡辺謙]]主演の日本映画。 ** [[おかえり、はやぶさ]] - 2012年公開、[[藤原竜也]]主演の日本映画。 == 人名 == * [[早房]](はやぶさ) - 苗字のひとつ。 == 人物 == * [[はやぶさ (コーラスグループ)]] - ([https://www.nagarapro.co.jp/top/artist/profile.php?id=37 はやぶさ])[[長良プロダクション]]所属の男性2人組の演歌ユニット。 * [[ハヤブサ (プロレスラー)]] - FMWに所属していたプロレスラー。 == その他 == * 隼 - [[パナソニック|松下電器産業]]が1970年代に発売した掃除機、および同機のテレビCMに登場した巨大ヒーローの名前。 * 隼軍 - 1945年、日本野球連盟活動停止後の[[1945年の正月大会|正月大会]]にあたって結成された、阪急軍、朝日軍を中心にした混成[[プロ野球チーム一覧|プロ野球球団]]。1945年1月1日から1月5日まで「猛虎軍」と8試合を行った。 * [[隼ジャパン]] - 2011年7月25日、財団法人日本バスケットボール協会が発表した、2012年ロンドンオリンピック出場権をかけて戦う、男女バスケットボール日本代表チームの愛称。ニックネーム募集キャンペーン(募集期間2011年4月15日から5月)にて公募し、応募総数341通から選考して決定された。 * [[隼章]] - ボーイスカウトで使用される記章のひとつ。 * はやぶさ跳び - [[縄跳び#短縄跳び|縄跳びで短縄を使った跳び方]]のひとつ。 * 隼村 - 鳥取県[[八頭郡]]にあった村。1952年に同郡[[船岡町 (鳥取県)|船岡町]]に編入され消滅。後の同郡[[八頭町]]。 * 隼 - [[音楽ゲーム]]『[[太鼓の達人]]』に収録されている曲。 * hayabusa - アメリカの総合格闘技、MMAのウエア、用具メーカー名。 * 隼シュート - [[高橋陽一]]の漫画『[[キャプテン翼]]』の[[新田瞬]]が使う技。 * チームはやぶさ - [[神奈川県警察|神奈川県警地域総務課地域指導室]]の[[執行隊]]。 {{aimai}} {{デフォルトソート:はやふさ}} [[Category:同名の船]] [[Category:日本海軍・海上自衛隊の同名艦船]] [[Category:同名の作品]]
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小数
小数(、英: decimal)とは、位取り記数法と小数点を用いて実数を表現するための表記法である。 0 超過 1 未満の数を、分数を使わずに表現する方法の一つ。1 を桁の基数 N で P 回割った数の桁を、小数第 P 位として表現する。 例えば、十進法で 1425 の百分の一に相当する数は、小数と小数点(ピリオドまたはコンマ)を用いて、 または、 のように表現する(なお、日本では小数点としてピリオドを用いることがほとんどである)。小数点より左を整数部(分)と呼んで、右から一の位、十の位の数を記述する。小数点より右は小数部(分)と呼んで、1 より小さい位として、左から十分の一の位、百分の一の位の数を順に記述する。上に挙げた数の場合には、十の位は「1」、一の位は「4」、十分の一の位は「2」、百分の一の位は「5」となる。より小さい数を表現する場合には、この後に「千分の一の位」や「一万分の一の位」と順に位を増やすことで対応することができる。 小数部分の位は、小数第一位は「十分の一の位」、小数第二位は「百分の一の位」となるが、単に「小数第一位」「小数第二位」というように序数で呼ぶ例も多い。「小数点以下第 P 位」と呼ぶこともあるが、この場合の「以下」は小数点自体は含まずに数えることになっているので、「小数第 P 位」と同じである。10進数以外の他の進数の表記においても同様である。 以下に使用例を挙げる。小数は長さや質量といった細分できる量を表現したり、割合や平均を表現するのにも用いる。 国際単位系(SI)の規定では、桁の数が多い場合の読取りを容易にするため、小数部の桁数が4以上の場合は、3桁ごとに空白(通常は、半スペース(en:thin space))で区切ることになっている。ただし、小数部の桁数が4の場合は、3桁と1桁とに分けないのが普通である。物理学をはじめとする理学や工学の分野では、この国際単位系(SI)の規定に従った記法が使われる。 ただし、設計図、財務諸表、コンピュータが読み取るスクリプト(script)などの特定の専門的分野では、上記のやりかたは必ずしも使われていない。 以下は、NIST SP811()における例である。 有限桁の数字で表せる小数を有限小数と呼ぶ。一般には分数が有限小数になる条件は、記数法の底(基数)と分母の素因数との関係で記述できる。既約分数 a/b が k 進法で有限小数となるための必要充分条件は rad(b)∣rad(k) となる。即ち b の素因数が全て k の素因数にもなっていることである。 一般の実数は有限小数として表せない。小数部の桁数が有限にならないものを無限小数と呼ぶ。例えば円周率は通常の位取り記数法において有限小数として表せず、無限小数として表される数の一つである。 1/3 = 0.3333... や 1/7 = 0.142857142857...、あるいは 1/2 = 0.5000... など、小数部に有限の長さの数列が繰り返し連続して現れるものを循環小数と呼ぶ。また繰り返し現れる数列のうち最も短いものを循環節と呼ぶ。 循環小数として表せる数は有理数に限られる。 循環小数は循環節と有限小数の組として表せる。様々な記法があるが、一般的に用いられる記法の一つとして、下記のように循環節の始点と終点をドットで示す方法がある: 循環節の長さが1桁の場合、ドットを1つだけ打つ: 必要ならば、有限小数として表せる数は循環小数としても表せる。例えば、1/8 = 0.125 = 0.125000... = 0.124999... のように、0 や 9 を無限に繰り返しているといえるからである。 無限小数のうち循環小数として表せないものを非循環小数と呼ぶ。小数展開が循環小数となる数は有理数であるから、非循環小数となる数は無理数である。非循環小数は簡単に作ることができ、例えば は非循環小数である。 殆どの場合に異なる無限小数表示は異なる実数を与えるが、 のように、途中から全ての桁に「10 - 1」にあたる数字が並び続けるような表示は、「10 - 1」の並びが始まる直前の数字を1つ増やして、後は0を続けたものと同じ実数を与える。 小数は、実数を整数 a0 と 0 から 9 までのどれかにあたる an (n ≥ 1) を用いて のような無限級数の形で表すことであるから、すべての an が一致しなくても極限が一致することはありうるのである。しかし、あるところから先にすべて 0 が続くことがないように循環小数として表せば表現は一意的になる。このためいくつかの場合には(たとえばカントールの対角線論法)、全てを循環小数として表現することが必要になる。 整数部が0である小数を純小数または真小数、それ以外を帯小数と呼ぶことがある。 与えられた実数xと2以上の自然数nに対して,xのn進無限小数表記を与える無限数列a0, a1, a2, ...の各項の値を決定する二種類の手続きを次のように与える。これらの手続きのどちらを採用してもその表記は一意的に定まるが、0以外の有限小数に対する無限小数表記は採用した手続きによって異なるものとなる。 一つ目: こうして得られた数列anは、1以降のiに対して0 ≤ ai ≤ an − 1を満たすから、aiはn進法を用いて1桁の数字で表現できる。ここで、sgnxを符号関数とし、(sgnx)a0のn進法表記の後に.を付け(これを小数点と呼ぶ)、数字 aiを列記してできる表記、即ち という形で無限小数表記が得られた。この手続きによる場合、無限数列aiの途中の項から0が無限に続くのは0しかない。 二つ目: こうして得られた数列 an は、1 以降の i に対して 0 ≤ ai ≤ n - 1 を満たすから、ai は n 進法を用いて 1 桁で表現できる。ここで、(sgnx)を符号関数とし、(sgn x)a0 の n 進法表記の後に . を付け(これを小数点と呼ぶ)、ai を列記していったもの、即ち とする表現を小数とする。この手続きによる場合、無限数列 an の途中の項から n - 1 が無限に続くことは無い。 但し、小数点以下のある項から 0 が無限に続くようであれば、その位置から 0 を省略し、何も書かなくてよい(この場合は有限小数となる)。特にその項が小数点以下第一位であった場合は小数点も省略して良い(この場合は整数となる)。また、そうでない場合は列記していく操作を永久に続けることになるが、実際は不可能である。このような時、省略記号を使って項を省略してよい。(上記「#小数の分類」参照) バビロニア数学では六十進法の位取り記数法で数字を記述していた。十進法以外を含めるなら、バビロニア数学での数字表記が最古の小数である。ただし現在で言う小数点に相当するものが存在しないため、記述された数字の実際の数値がどうなのかは、前後の文脈から判断しないといけないという問題点があった。 現代の小数と同じ十進法における小数は、記録に残る所では古代中国が最古である。中国では紀元前14世紀から十進法が使用されており、紀元前から計算上小数が使用されていたと推測される。現存する最古の小数は、紀元5年の日付のある劉歆による体積の標準単位に関する碑文にある「9.5」である。劉徽は263年に九章算術という数学書の注釈本を著していて、現代のアラビア数字表記での8.660254寸を「八寸六分六釐二秒五忽、五分忽之二」と書いている(小数第6位を表す単位が無いため、分数との併記になっている)。しかしこの時代の分はあくまで計量単位で『(長さの場合は常に)寸の1/10』を表しているのであり、現代的な無名数の小数が成立するのはもっと後の時代になる。 現代の数学の系譜であるヨーロッパの数学においては、小数の導入は遅れた。これはエジプト式分数表記が普及していたためである。ヨーロッパで初めて小数を提唱したのは、オランダのシモン・ステヴィンである。1585年に出版した「十進分数論」の中で、初めて小数を発表した。その名が示す通り、分数の分母を十の累乗に固定した場合に計算が非常にやりやすくなると主張し、それが小数の発明となった。 なお、ステヴィンの提唱した小数の表記法は、現代の「0.135」であれば、これを「113253」と表記する。ヨーロッパにおいて現代のような小数点による表記となったのは、20年ほど後にジョン・ネイピアの提唱による。
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小数(しょうすう、とは、位取り記数法と小数点を用いて実数を表現するための表記法である。
{{読み仮名|'''小数'''|しょうすう|{{lang-en-short|decimal}}{{efn2|{{en|decimal}} は[[十進法]]を意味し、すなわち {{en|decimal}} は特に十進小数を指す。一般の端数(小数)を意味する言葉は {{en|fraction}} だが、こちらは専ら[[分数]]と訳される。}}}}とは、[[位取り記数法]]と[[小数点]]を用いて[[実数]]を表現するための表記法である。 == 概要 == [[0]] 超過 [[1]] 未満の数を、[[分数]]を使わずに表現する方法の一つ。1 を[[桁]]の基数 N で P 回割った数の桁を、小数第 P 位として表現する。 例えば、[[十進法]]で 1425 の百分の一に相当する数は、小数と[[小数点]]([[終止符|ピリオド]]または[[コンマ]])を用いて、 {| cellspacing="0" cellpadding="0" style="margin-left:2em;text-align:center" |- style="font-size:300%;line-height:1" |style="text-align:right"|14||.||style="text-align:left"|25 |- |整数部||style="padding:0 1em"|小数点||小数部 |} または、 {| cellspacing="0" cellpadding="0" style="margin-left:2em;text-align:center" |- style="font-size:300%;line-height:1" |style="text-align:right"|14||,||style="text-align:left"|25 |- |整数部||style="padding:0 1em"|小数点||小数部 |} のように表現する(なお、日本では[[小数点]]としてピリオドを用いることがほとんどである)。小数点より左を'''整数部(分)'''と呼んで、右から一の位、十の位の数を記述する。小数点より右は'''小数部(分)'''と呼んで、1 より小さい位として、左から十分の一の位、百分の一の位の数を順に記述する。上に挙げた数の場合には、十の位は「1」、一の位は「4」、十分の一の位は「2」、百分の一の位は「5」となる。より小さい数を表現する場合には、この後に「千分の一の位」や「一万分の一の位」と順に位を増やすことで対応することができる。 小数部分の位は、小数第一位は「十分の一の位」、小数第二位は「百分の一の位」となるが、単に「小数第一位」「小数第二位」というように序数で呼ぶ例も多い。「小数点以下第 ''P'' 位」と呼ぶこともあるが、この場合の「以下」は小数点自体は含まずに数えることになっているので、「小数第 ''P'' 位」と同じである。10進数以外の他の進数の表記においても同様である。 ==使用例== 以下に使用例を挙げる。小数は[[長さ]]や[[質量]]といった細分できる量を表現したり、[[割合]]や[[平均]]を表現するのにも用いる。 ;細分できる量 * [[五円硬貨]]の厚さは {{val|1.5|u=ミリメートル}}、質量は {{val|3.75|u=グラム}}。 ;[[割合]]や[[平均]] * [[1986年]]の[[ランディ・バース]]の[[打率]]は {{val|0.389}}。 * [[国の人口密度順リスト]]によると、[[グリーンランド]]の[[人口密度]]は {{val|1|u=平方キロメートル}}あたり {{val|0.03|u=人}}である。 * [[円周率]]は円周の長さの直径に対する比率であり、{{val|{{#expr:pi round 8}}|s=&hellip; }}である。 == 小数部の区切り == 国際単位系(SI)の規定では、桁の数が多い場合の読取りを容易にするため、小数部の桁数が4以上の場合は、3桁ごとに空白(通常は、半スペース([[:en:thin space]]))で区切ることになっている<ref name="名前なし-1">[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf 国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版] 5.4.4 数字の形式および小数点、p.119、産業技術総合研究所、計量標準総合センター、2020年4月</ref><ref>[http://physics.nist.gov/Pubs/SP811/sec10.html Guide for the Use of the International System of Units (SI)]<blockquote>10.5.3 Grouping digits<br />Because the comma is widely used as the decimal marker outside the United States, it should not be used to separate digits into groups of three. Instead, digits should be separated into groups of three, counting from the decimal marker towards the left and right, by the use of a thin, fixed space. However, this practice is not usually followed for numbers having only four digits on either side of the decimal marker except when uniformity in a table is desired.</blockquote></ref>。ただし、小数部の桁数が4の場合は、3桁と1桁とに分けないのが普通である。物理学をはじめとする理学や工学の分野では、この国際単位系(SI)の規定に従った記法が使われる<ref>例えば、理科年表、2020年版、基礎物理定数表、pp.380-381など、2019年11月20日、ISBN 978-4-621-30426-6</ref>。 ただし、設計図、財務諸表、コンピュータが読み取るスクリプト(script)などの特定の専門的分野では、上記のやりかたは必ずしも使われていない<ref name="名前なし-1"/><ref>[http://physics.nist.gov/Pubs/SP811/sec10.html Guide for the Use of the International System of Units (SI)]<blockquote>10.5.3 Grouping digits<br />Note: The practice of using a space to group digits is not usually followed in certain specialized applications, such as engineering drawings and financial statements.</blockquote></ref>。 以下は、[[NIST]] SP811([https://www.nist.gov/pml/special-publication-811])における例である<ref>[https://www.nist.gov/pml/special-publication-811/nist-guide-si-chapter-10-more-printing-and-using-symbols-and-numbers NIST Guide to the SI, Chapter 10: More on Printing and Using Symbols and Numbers in Scientific and Technical Documents] 10.5.3 Grouping digits、Examples:</ref>。 * 76 483 522 とする(76,483,522 としない) * 43 279.168 29 とする(43,279.168 29 としない) * 8012 又は 8 012 とする(8,012 としない) * 0.491 722 3 の方が 0.4917223 より望ましい * 0.5947 又は 0.594 7 とする(0.59 47 としない) * 8012.5947 又は 8 012.594 7 とする(8 012.5947 や 8012.594 7 としない) == 小数の分類 == === {{vanc|有限小数と無限小数|有限小数|無限小数}} === 有限桁の数字で表せる小数を'''有限小数'''と呼ぶ。一般には[[分数]]が有限小数になる条件は、記数法の底(基数)と分母の[[素因数]]との関係で記述できる。既約分数 {{math2|''a''/''b''}} が {{mvar|k}} 進法で有限小数となるための必要充分条件は {{math2|rad(''b'')&mid;rad(''k'')}} となる。即ち {{mvar|b}} の[[素因数]]が全て {{mvar|k}} の素因数にもなっていることである。 * 例.10進数においては基数10が 2 × 5 で表せることより除数 ''b'' が 2{{sup|''i''}} × 5{{sup|''j''}} (''i'' , ''j'' ≧ 0) の数においては有限小数になる。他の進数においてもその進数の基数の数により有限小数になる数が定まる。 一般の[[実数]]は有限小数として表せない。小数部の桁数が有限にならないものを'''無限小数'''と呼ぶ。例えば[[円周率]]は通常の[[位取り記数法]]において有限小数として表せず、無限小数として表される数の一つである。 === {{vanc|循環小数と非循環小数|循環小数|非循環小数}} === {{main|循環小数}} {{math2|1={{sfrac|3}} = 0.3333…}} や {{math2|1={{sfrac|7}} = 0.142857142857…}}、あるいは {{math2|1={{sfrac|2}} = 0.5000…}} など、小数部に有限の長さの数列が繰り返し連続して現れるものを'''[[循環小数]]'''と呼ぶ。また繰り返し現れる数列のうち最も短いものを'''循環節'''と呼ぶ。 循環小数として表せる数は[[有理数]]に限られる。 循環小数は循環節と有限小数の組として表せる。様々な記法があるが、一般的に用いられる記法の一つとして、下記のように循環節の始点と終点をドットで示す方法がある: : {{math|1={{sfrac|7}} = 0.{{dot|1}}4285{{dot|7}}}} : {{math|1={{sfrac|124|990}} = 0.1252525… = 0.1{{dot|2}}{{dot|5}}}} 循環節の長さが1桁の場合、ドットを1つだけ打つ: : {{math|1=0.333… = 0.{{dot|3}}}} : {{math|1=0.1444… = 0.1{{dot|4}}}} 必要ならば、有限小数として表せる数は循環小数としても表せる。例えば、{{math2|1={{sfrac|8}} = 0.125 = 0.125000… = 0.124999…}} のように、0 や 9 を無限に繰り返しているといえるからである。 無限小数のうち循環小数として表せないものを'''非循環小数'''と呼ぶ。小数展開が循環小数となる数は有理数であるから、非循環小数となる数は[[無理数]]である。非循環小数は簡単に作ることができ、例えば : <math>\sum_{n=1}^\infty 10^{-\frac{1}{2}n(n+1)} = 0.101001000100001\dots </math> は非循環小数である。 === 表示の一意性 === {{see also|0.999...}} 殆どの場合に異なる無限小数表示は異なる実数を与えるが、 : 1/10 = 0.1 = 0.0999... : 273/1000 = 0.273 = 0.272999... のように、途中から全ての桁に「10 - 1」にあたる数字が並び続けるような表示は、「10 - 1」の並びが始まる直前の数字を1つ増やして、後は0を続けたものと同じ実数を与える。 小数は、[[実数]]を[[整数]] ''a''<sub>0</sub> と 0 から 9 までのどれかにあたる ''a''<sub>''n''</sub> (''n'' &ge; 1) を用いて : <math>a_0 + \sum_{n=1}^\infty a_n 10^{-n}</math> のような[[総和|無限級数]]の形で表すことであるから、すべての ''a''<sub>''n''</sub> が一致しなくても極限が一致することはありうるのである。しかし、あるところから先にすべて 0 が続くことがないように循環小数として表せば表現は一意的になる。このためいくつかの場合には(たとえば[[カントールの対角線論法]])、全てを循環小数として表現することが必要になる。 === その他の分類 === 整数部が0である小数を'''純小数'''または'''真小数'''、それ以外を'''帯小数'''と呼ぶことがある。 == 実数の表現 == 与えられた実数{{mvar|x}}と{{math|2}}以上の自然数{{mvar|n}}に対して,{{mvar|x}}の{{mvar|n}}進無限小数表記を与える無限数列{{math|{{mvar|a}}{{sub|0}}, {{mvar|a}}{{sub|1}}, {{mvar|a}}{{sub|2}}, …}}の各項の値を決定する二種類の手続きを次のように与える。これらの手続きのどちらを採用してもその表記は一意的に定まるが、{{math|0}}以外の有限小数に対する無限小数表記は採用した手続きによって異なるものとなる。 一つ目: # {{math|{{mvar|x}} {{=}} 0}}であれば、全ての項を{{math|0}}としてここで終了する。 # {{math|{{mvar|a}}{{sub|0}} {{=}} &lceil;abs&#8289;({{mvar|x}})&rceil; &minus; 1, {{mvar|x&prime;}} {{=}} abs&#8289;({{mvar|x}}) &minus; {{mvar|a}}{{sub|0}} &isin; (0, 1], {{mvar|p}}{{sub|1}} {{=}} 0}}({{math|&lceil;&sdot;&rceil;}}: [[天井関数|天井函数]],{{math|abs&#8289;(&sdot;)}}: [[絶対値]])とし,{{math|{{mvar|i}} {{=}} 1}}とおく。 # 区間{{math|({{mvar|p}}{{sub|{{mvar|i}}}}, {{mvar|p}}{{sub|{{mvar|i}}}} + {{sfrac|{{mvar|n}}|{{mvar|n}}{{sup|i}}}}]}}を{{mvar|n}}[[等分]]し、その両端点と{{math|{{mvar|n}} &minus; 1}}個の等分点を左から <math>s_{i,0}=p_i, s_{i,1}, \cdots, s_{i,j} = p_i {+} \frac{j}{n^i}, \cdots, s_{i,n-1}, s_{i,n}=p_i{+}\frac{n}{n^i}</math> とする。 # {{mvar|j}}を{{math|0}}から{{math|{{mvar|n}} &minus; 1}}まで移動させ、{{math|{{mvar|x}}&prime; &isin; ({{mvar|s}}{{sub|{{mvar|i, j}}}}, {{mvar|s}}{{sub|{{mvar|i, j}} + 1}}]}}なる{{mvar|j}}が存在すればそこで{{mvar|j}}を固定し、{{math|{{mvar|a}}{{sub|{{mvar|i}}}} {{=}} {{mvar|j}}, {{mvar|p}}{{sub|{{mvar|i}} + 1}} {{=}} {{mvar|s}}{{sub|{{mvar|i, j}}}}}}とした後,{{mvar|i}}に{{math|1}}を加算して 3. に戻る。 こうして得られた数列{{math|{{mvar|a}}{{sub|{{mvar|n}}}}}}は、{{math|1}}以降の{{mvar|i}}に対して{{math|0 &le; {{mvar|a}}{{sub|{{mvar|i}}}} &le; {{mvar|a}}{{sub|{{mvar|n}} &minus; 1}}}}を満たすから、{{math|{{mvar|a}}{{sub|{{mvar|i}}}}}}は{{mvar|n}}進法を用いて{{math|1}}桁の数字で表現できる。ここで、{{math|sgn&#8289;{{mvar|x}}}}を[[符号関数]]とし、{{math|(sgn&#8289;{{mvar|x}}){{mvar|a}}{{sub|0}}}}の{{mvar|n}}進法表記の後に{{math|.}}を付け(これを'''小数点'''と呼ぶ)、数字 {{math|{{mvar|a}}{{sub|{{mvar|i}}}}}}を列記してできる表記、即ち : {{math|{{mvar|x}} {{=}} (sgn&#8289;{{mvar|x}}){{mvar|a}}{{sub|0}}.{{mvar|a}}{{sub|1}}{{mvar|a}}{{sub|2}}{{mvar|a}}{{sub|3}}…}} という形で無限小数表記が得られた。この手続きによる場合、無限数列{{math|{{mvar|a}}{{sub|{{mvar|i}}}}}}の途中の項から{{math|0}}が無限に続くのは{{math|0}}しかない。 二つ目: # ''a''<sub>0</sub> = [abs&#8289;''x'']([・]:[[ガウス記号]])とし、''i'' = 1 とする。 # ''x''&#39; = abs ''x'' - ''a''<sub>0</sub>、''p''<sub>1</sub> = 0 とする。この時、''x''&#39; &isin; [0,1) である。もし、''x''&#39; = 0 であれば、残りの項を 0 としてここで終了する。 # 区間 [''p''<sub>''i''</sub> , ''p''<sub>''i''</sub>+''n''<sup>1-''i''</sup>) を ''n'' [[等分]]し、その両端点と ''n'' - 1 個の等分点を左から ''p''<sub>''i''</sub>=''s''<sub>''i'',0</sub>, ''s''<sub>''i'',1</sub>, &hellip;, ''s''<sub>''i'', ''n''-1</sub> , ''s''<sub>''i'', ''n''</sub>=''p''<sub>''i''</sub>+''n''<sup>1-''i''</sup> とする。 # ''j'' を 0 から ''n'' - 1 まで移動させ、''x''&#39; &isin; [''s''<sub>''ij''</sub>, ''s''<sub>''i'',''j'' + 1</sub>) なる ''j'' が存在すればそこで ''j'' を固定し、''a''<sub>''i''</sub> = ''j'' として次に進む。 # もし、''x''&#39; = ''s''<sub>''ij''</sub> であれば、残りの項を 0 としてここで終了する。そうでなければ ''p''<sub>''i''+1</sub> = ''s''<sub>''ij''</sub> とし、''i'' に 1 を加算して (3.) に戻る。 こうして得られた数列 ''a''<sub>''n''</sub> は、1 以降の ''i'' に対して 0 &le; ''a''<sub>''i''</sub> &le; ''n'' - 1 を満たすから、''a''<sub>''i''</sub> は ''n'' 進法を用いて 1 桁で表現できる。ここで、(sgn&#8289;''x'')を[[符号関数]]とし、(sgn ''x'')''a''<sub>0</sub> の ''n'' 進法表記の後に . を付け(これを'''小数点'''と呼ぶ)、''a''<sub>''i''</sub> を列記していったもの、即ち : <math>x = (\sgn x)a_0.a_1 a_2 a_3 \dots</math> とする表現を小数とする。この手続きによる場合、無限数列 ''a''<sub>''n''</sub> の途中の項から ''n'' - 1 が無限に続くことは無い。 但し、小数点以下のある項から 0 が無限に続くようであれば、その位置から 0 を省略し、何も書かなくてよい(この場合は有限小数となる)。特にその項が小数点以下第一位であった場合は小数点も省略して良い(この場合は整数となる)。また、そうでない場合は列記していく操作を永久に続けることになるが、実際は不可能である。このような時、省略記号を使って項を省略してよい。(上記「[[#小数の分類]]」参照) == 小数の起源 == 現代の小数と同じ[[十進法]]における小数は古代中国で発明された。中国では紀元前14世紀から十進法が使用されており、紀元前から計算上小数が使用されていたと推測される。現存する最古の小数は、紀元5年の日付のある[[劉歆]]による体積の標準単位に関する碑文にある「9.5」である<ref>{{Cite book |title=Science and civilisation in China = 中國科學技術史 |url=http://worldcat.org/oclc/1303643587 |publisher=Cambridge University Press |date=197-? - 2015 |isbn=0-521-08690-6 |oclc=1303643587 |first=Needham, Joseph, |last=1900-1995.}}</ref>。[[劉徽]]は[[263年]]に[[九章算術]]という数学書の注釈本を著していて、現代のアラビア数字表記での8.660254寸を「八寸六分六釐二秒五忽、五分忽之二」と書いている(小数第6位を表す単位が無いため、分数との併記になっている)。小数が最初に登場した現存の数学文献は3世紀中期の劉徽の著書であり、計量と方程式の解という2つの文献に登場する。そこでは古典「九章算術」(1世紀)に関する注釈で1.355尺の直径についてん述べている。 完全な小数がすべての一般的な演算に取り入れられ、その真の体系と研究法が確立したのは13世紀になってからであり、この発達に特に貢献した数学者は[[楊輝]]と[[秦九韶]]の2人の数学者である。{{See also|漢数字#小数}} 小数の概念は中国からアラビア人でサマルカンドの天文台長を務めたの[[アル・カーシー]]に伝わった。ヨーロッパで最初に小数を理解したのは1530年にアウグスブルクでExpempel-Buechlinを著した[[クリストッフ・ルドルフ]]であると数学史家のD・E・スミスが述べている。そしてクリストッフ・ルドルフが小数の意義を理解していたことを学術論文で明らかにした最初の人物がオランダの[[シモン・ステヴィン]]である。[[1585年]]に出版した「十進分数論」の中で小数を紹介した。その名が示す通り、分数の分母を[[10|十]]の累乗に固定した場合に計算が非常にやりやすくなると説明した。ステヴィンは他にも帆走車などの中国の科学や技術ををヨーロッパに紹介した。 なおステヴィンの提唱した小数の表記法は現代の「0.135」であれば、これを「1①3②5③」と表記する。ヨーロッパにおいて現代のような小数点による表記となったのは、20年ほど後に[[ジョン・ネイピア]]の提唱による。 == 注釈 == {{notelist2}} == 出典 == <references /> == 参考文献 == == 関連項目 == * [[小数点]] * [[浮動小数点数]] - 計算機における実数の表現 * [[固定小数点数]] - 計算機における実数の表現 * [[床関数と天井関数|床関数]] - 小数から整数部分を得るために使うことがある {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しようすう}} [[Category:数の表現]] [[Category:初等数学]] [[Category:数学に関する記事]]
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8,113
行列要素
数学における行列要素(ぎようれつようそ、英: matrix element)、成分 (matrix entry) あるいは係数 (matrix coefficient) は、群上の特別な形の函数で、その群の線型表現と付加的なデータに依存するものである 有限群に対する行列要素は、その群の元の特定の表現に関する作用に対応する行列の成分として表すことができる。 リー群の表現の行列要素は、特殊函数論と緊密な関係を持ち、理論の大部分を統一的に扱う方法を与える。行列要素の増加性質は、局所コンパクト群(特に簡約実および p-進群)の既約表現の分類において重大な役割を持つ。行列要素を用いた方法論は、モジュラー形式の概念に莫大な一般化をもたらした。別な方向では、ある種の力学系の持つ混合性質(英語版)が、適当な行列要素の性質によって制御される。 群 G の、ベクトル空間 V 上の線型表現 ρ の行列要素とは、群 G 上で定義された の形の写像 fv, η を言う。 ここで、v は V のベクトル、η は V 上の連続線型汎函数で、g は G の任意の元である。行列要素は G 上で定義され、スカラー値をとる函数となる。 V がヒルベルト空間ならば、リースの表現定理により、任意の行列要素は内積を用いて、適当なベクトル v, w に対する なる形に書くことができる。 V が有限次元の場合、v と w を標準基底からとれば実際に、行列要素は行列の特定の成分を与える函数として与えられる。 有限群の既約表現の行列要素は、バーンサイド、フロベニウス、シュアらの展開した有限群の表現論において顕著な役割を持っている。これら既約表現はシューアの直交関係式(英語版)を満たし、その表現の指標 ρ は行列要素 fvi,ηi の和となる。ただし、{vi} は ρ の表現空間における基底、{ηi} はその双対基底である。 リー群の表現の行列要素を初めて考えたのはエリ・カルタンである。ゲルファントは、多くの古典的特殊函数と直交多項式をリー群 G の表現の行列要素として表すことを実現した。この記述はそれまでに知られていた特殊函数の全く異なる性質、例えば加法公式、ある種の漸化式、直交関係式、積分表現、微分作用素に関する固有値などについて、統一的な枠組みを与えるものであった。数理物理に現れる特殊函数、例えば三角函数、超幾何級数とその一般化、ルジャンドルおよびヤコビ(英語版)の直交多項式、ベッセル函数などは何れもリー群の表現の行列要素として生じる。代数幾何学および数論において重要な、テータ函数および実解析的アイゼンシュタイン級数は、この方法で実現することができる。 ゲルファント、グラエフ、ピアテツキー=シャピロらによる、古典的モジュラー形式論への強力なアプローチは、それらをある種の無限次元ユニタリ表現であるアデール環の保型表現と見做すことである。このアプローチは、ラングランズが大域体上の一般の簡約代数群に対してさらに発展させている。
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数学における行列要素、成分 あるいは係数 は、群上の特別な形の函数で、その群の線型表現と付加的なデータに依存するものである 有限群に対する行列要素は、その群の元の特定の表現に関する作用に対応する行列の成分として表すことができる。 リー群の表現の行列要素は、特殊函数論と緊密な関係を持ち、理論の大部分を統一的に扱う方法を与える。行列要素の増加性質は、局所コンパクト群の既約表現の分類において重大な役割を持つ。行列要素を用いた方法論は、モジュラー形式の概念に莫大な一般化をもたらした。別な方向では、ある種の力学系の持つ混合性質が、適当な行列要素の性質によって制御される。
[[数学]]における'''行列要素'''(ぎようれつようそ、{{lang-en-short|''matrix element''}})、'''成分''' {{lang|en|(''matrix entry'')}} あるいは'''係数''' {{lang|en|(''matrix coefficient'')}} は、[[群 (数学)|群]]上の特別な形の函数で、その群の[[線型表現]]と付加的なデータに依存するものである 有限群に対する行列要素は、その群の元の特定の表現に関する作用に対応する[[行列]]の成分として表すことができる。 [[リー群]]の表現の行列要素は、[[特殊函数]]論と緊密な関係を持ち、理論の大部分を統一的に扱う方法を与える。行列要素の増加性質は、[[局所コンパクト群]](特に簡約実および {{mvar|p}}-進群)の[[既約表現]]の分類において重大な役割を持つ。行列要素を用いた方法論は、[[モジュラー形式]]の概念に莫大な一般化をもたらした。別な方向では、ある種の[[力学系]]の持つ{{ill2|混合 (数学)|en|Mixing (mathematics)|label=混合性質}}が、適当な行列要素の性質によって制御される。 == 定義 == [[群 (数学)|群]] {{mvar|G}} の、[[ベクトル空間]] {{mvar|V}} 上の[[線型表現]] {{mvar|ρ}} の'''行列要素'''とは、群 {{mvar|G}} 上で定義された : {{math|1=''f''{{sub|''v'', ''η''}}(''g'') {{coloneqq}} ''η''(''ρ''(''g'')''v'')}} の形の[[写像]] {{math|''f''{{sub|''v'', ''η''}}}} を言う。 ここで、{{mvar|v}} は {{mvar|V}} のベクトル、{{mvar|η}} は {{mvar|V}} 上の連続[[線型汎函数]]で、{{mvar|g}} は {{mvar|G}} の任意の元である。行列要素は {{mvar|G}} 上で定義され、スカラー値をとる函数となる。 {{mvar|V}} が[[ヒルベルト空間]]ならば、[[リースの表現定理]]により、任意の行列要素は[[内積]]を用いて、適当なベクトル {{math|''v'', ''w''}} に対する : {{math|1=''f''{{sub|''v'', ''w''}}(''g'') = {{angbr|''w'', ''ρ''(''g'')''v''}}}} なる形に書くことができる。 {{mvar|V}} が有限次元の場合、{{mvar|v}} と {{mvar|w}} を[[標準基底]]からとれば実際に、行列要素は[[行列]]の特定の成分を与える函数として与えられる。 == 応用 == === 有限群 === 有限群の既約表現の行列要素は、[[ウィリアム・バーンサイド|バーンサイド]]、[[ゲオルク・フロベニウス|フロベニウス]]、[[イサイ・シューア|シュア]]らの展開した有限群の表現論において顕著な役割を持っている。これら既約表現は{{ill2|シューアの直交関係式|en|Schur orthogonality relations|preserve=1}}を満たし、その表現の[[指標理論|指標]] {{mvar|ρ}} は行列要素 {{mvar|f{{sub|v{{sub|i}},η{{sub|i}}}}}} の和となる。ただし、{{math|{{mset|''v{{sub|i}}''}}}} は {{mvar|ρ}} の表現空間における基底、{{math|{{mset|''η{{sub|i}}''}}}} はその[[双対基底]]である。 === 有限次元リー群と特殊函数 === リー群の表現の行列要素を初めて考えたのは[[エリ・カルタン]]である。[[イズライル・ゲルファント|ゲルファント]]は、多くの古典的[[特殊函数]]と[[直交多項式]]をリー群 {{mvar|G}} の表現の行列要素として表すことを実現した<ref>[http://eom.springer.de/s/s086280.htm Springer Online Reference Works<!-- Bot generated title -->]</ref>。この記述はそれまでに知られていた特殊函数の全く異なる性質、例えば加法公式、ある種の漸化式、直交関係式、積分表現、微分作用素に関する[[固有値]]などについて、統一的な枠組みを与えるものであった<ref>完全な取扱いは参考文献を見よ</ref>。数理物理に現れる特殊函数、例えば[[三角函数]]、[[超幾何級数]]とその一般化、[[ルジャンドル多項式|ルジャンドル]]および{{ill2|ヤコビ多項式|label=ヤコビ|en|Jacobi polynomials}}の直交多項式、[[ベッセル函数]]などは何れもリー群の表現の行列要素として生じる。[[代数幾何学]]および[[数論]]において重要な、[[テータ函数]]および[[実解析的アイゼンシュタイン級数]]は、この方法で実現することができる。 === 保型形式論 === [[イズライル・ゲルファント|ゲルファント]]、グラエフ、[[イリヤ・ピアテツキー=シャピロ|ピアテツキー=シャピロ]]らによる<ref> {{citation| series=Generalized Functions Vol. 6 |title= Representation Theory and Automorphic Functions| first1=I. M.| last1= Gel'fand | first2= M. I. | last2=Graev | first3=Ilya | last3= Piatetski-Shapiro | isbn= 0122795067 | publisher= SPCK Publishing}}</ref>、古典的[[モジュラー形式]]論への強力なアプローチは、それらをある種の無限次元ユニタリ表現である[[アデール環]]の[[保型表現]]と見做すことである。このアプローチは、[[ロバート・ラングランズ|ラングランズ]]が[[大域体]]上の一般の[[簡約群|簡約代数群]]に対して[[ラングランズ・プログラム|さらに発展]]させている。 == 関連項目 == * {{仮リンク|ピーター-ワイルの定理|en|Peter–Weyl theorem}} * {{仮リンク|帯球函数|en|Zonal spherical function|label=球函数}} == 注記 == {{Reflist}} == 参考文献 == *[[Naum Vilenkin|Vilenkin, N. Ja.]] ''Special functions and the theory of group representations''. Translated from the Russian by V. N. Singh. Translations of Mathematical Monographs, Vol. 22 American Mathematical Society, Providence, R. I. 1968 * Vilenkin, N. Ja., Klimyk, A. U. ''Representation of Lie groups and special functions. Recent advances''. Translated from the Russian manuscript by V. A. Groza and A. A. Groza. Mathematics and its Applications, 316. Kluwer Academic Publishers Group, Dordrecht, 1995. xvi+497 pp. ISBN 0-7923-3210-5 * Vilenkin, N. Ja., Klimyk, A. U. ''Representation of Lie groups and special functions. Vol. 3. Classical and quantum groups and special functions''. Translated from the Russian by V. A. Groza and A. A. Groza. Mathematics and its Applications (Soviet Series), 75. Kluwer Academic Publishers Group, Dordrecht, 1992. xx+634 pp. ISBN 0-7923-1493-X * Vilenkin, N. Ja., Klimyk, A. U. ''Representation of Lie groups and special functions. Vol. 2. Class I representations, special functions, and integral transforms''. Translated from the Russian by V. A. Groza and A. A. Groza. Mathematics and its Applications (Soviet Series), 74. Kluwer Academic Publishers Group, Dordrecht, 1993. xviii+607 pp. ISBN 0-7923-1492-1 * Vilenkin, N. Ja., Klimyk, A. U. ''Representation of Lie groups and special functions. Vol. 1. Simplest Lie groups, special functions and integral transforms''. Translated from the Russian by V. A. Groza and A. A. Groza. Mathematics and its Applications (Soviet Series), 72. Kluwer Academic Publishers Group, Dordrecht, 1991. xxiv+608 pp. ISBN 0-7923-1466-2 == 外部リンク == * {{MathWorld|urlname=MatrixElement|title=Matrix Element}} * {{ProofWiki|urlname=Definition:Matrix/Element|title=Definition:Matrix/Element}} * {{SpringerEOM|urlname=Matrix_element|title=Matrix element}} <!--* {{nlab|urlname=quantized+function+algebra|title=quantized function algebra}}--> {{DEFAULTSORT:きようれつようそ}} [[Category:表現論]] [[Category:行列]] [[Category:数学に関する記事]]
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8,114
ACOS-6
ACOS-6(エイコスシックス)は日本電気のメインフレームおよびOSであるACOSの一系列である。同社のメインフレーム事業草創期にハネウェル社から導入した技術が元となっている。ただし、元にしたハネウェルの技術の内訳には、ハネウェルがGEから買収したコンピュータ部門の所有していたものが多く含まれている(たとえば、MITがGEのマシンを使用して開発していたMulticsの技術の一部を含む)。 2003年現在の名称はACOS-6/NVX PX、対象となるハードウェアはパラレルACOS PX7900である。 数少ないワードマシンである。1バイト=9ビットで処理をし、1ワード=36ビットである。 初期のアーキテクチャと後期のアーキテクチャではかなり構造が異なる。 コンピュータの中心にSCU(システム制御ユニット)があり、この配下に演算部(EPU)、メモリ、入出力プロセッサ(IOP)が繋がる。パラレルACOS以前は、初期の機種を除き、1つのSCUに最大2つのEPUを繋げることが出来る。システム2000では、SCPを2つ繋げて、1つのシステムとして4EPUをサポートしている。 RモードとVモードという2つのモードがある。 Rモードは、18ビットのメモリ空間(256Kワード=1Mバイト)の中で処理をする。その範囲でフラットなメモリ空間を提供する。アドレス空間が18ビットしかないので、最大256Kワード(=1Mバイト)しかアクセスできない。しかし、アドレスマッピングのためのレジスタがあり、256Kワード以上のメモリ空間をアクセスできる仕組みが用意されている。 アドレスマッピング機能はVモードでは無効になる。 Vモードは、セグメントを多用し、各種の保護機能を付加し、さらにメモリ空間を拡張したモードである。80386のプロテクトモードのようなもの、と思うと理解が早い。アドレスレジスタがセグメントのポインタ+オフセットとなり(名前もデータレジスタと変わる)、セグメント記述子に指定されたメモリ空間、保護機能等が有効に働くようになる。1つのプログラムは、複数のセグメントから構成されるようになる。システム1000以降は、アドレス空間が拡張され、72ビットになる。ただし、Vモードは、ごく初期のマシン(システム600など)では利用できない。また、システム2000以降では、命令空間も拡張される。PentiumプロセッサのEM-64Tモードのようなもの、と思うと理解が早い。 システム1000から取り入れられた機能である。ベクトル演算を実行する命令群である。システム2000からは、マスク制御付きベクトル演算が可能になり、FORTRANで、IF文を含むDOループがベクトル化可能になっている。1つのベクトル命令で処理可能な要素は、S1000では2の18乗個、S2000では2の36乗個である。 システム2000から取り入れられた機能である。ハードウェアが仮想計算機機能をサポートするようになった。このため、同時に複数のOSを動作させることが出来るようになった。 レジスタが、他のアーキテクチャに比べて少ないのも特徴である。演算が可能なレジスタは A レジスタ と Q レジスタの2つしかない(それぞれ36ビット)。そのほかにインデックスレジスタ(18ビット)とアドレスレジスタが存在する。インデックスレジスタ、アドレスレジスタともに、実効アドレスを生成する際にアドレスを修飾する際に使われる。Vモードではアドレスレジスタの機能が変わる。 アドレスレジスタを使う場合には、命令語(36ビット)のアドレスレジスタを使用するためのビットをonにする。この時、インデックスフィールド(18ビット)の先頭3ビットがアドレスレジスタのレジスタ番号を指定するようになる。 命令体系は比較的COBOL向けである。COBOLのMOVE、ADD、SUBTRACT等の演算命令をほぼ機械語レベルで1命令に対応可能である。そのため、データ部分の修飾機能が豊富で、パック/アンパック十進数を直接操作可能である。さらに、COBOLの文字列編集機能(PIC で指定するもの)をそのまま機械語に変換する機能もある。 最近のCPUのような、スタックの概念はRモードにはない。関数コールを行うときには、飛び先で戻りアドレスを保存するような処理が必要である。Vモードではスタックセグメントが存在する。 特権モードがある。特権モードに遷移する命令で特権モードに移行する。特権モードには複数のランク付けがされている。 専用のサービスプロセッサがある。メインのOSが稼働するプロセッサとは別に、ファームウェアが動作するプロセッサがある。そのプロセッサに対して操作を行なうことで、メインのOSの起動等を行なえる。 内部で使うコードは、6ビットの文字コードおよびJISコード(JIS X 0201)である。6ビットの文字コードは、BCDコードと呼ばれ、英数字のみ(かつ、大文字のみ)のコードであり、1ワード中に6文字を詰め込んで処理をしている。内部処理ルーチン等で使われている。JISコードは、通常の(COBOL等の)文字処理を行なうときに利用されている。メインフレームではあるが、EBCDICを使っていない。日本語(漢字)は、JIPS(J)コードと呼ばれるコード体系を使っている。このコードにはACOS-4系で使われるJIPS(E)や、A-VXで使われるNEC内部コード(E)への変換手段が用意されている。 ACOS-6はMulticsの流れを汲むOSである。UNIXの遠い親戚とも言える。そのため、UNIXに似た(というよりも、Multics風の、と言うべきだろう)機能がある。
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ACOS-6(エイコスシックス)は日本電気のメインフレームおよびOSであるACOSの一系列である。同社のメインフレーム事業草創期にハネウェル社から導入した技術が元となっている。ただし、元にしたハネウェルの技術の内訳には、ハネウェルがGEから買収したコンピュータ部門の所有していたものが多く含まれている(たとえば、MITがGEのマシンを使用して開発していたMulticsの技術の一部を含む)。 2003年現在の名称はACOS-6/NVX PX、対象となるハードウェアはパラレルACOS PX7900である。
'''ACOS-6'''(エイコスシックス)は[[日本電気]]の[[メインフレーム]]および[[オペレーティングシステム|OS]]である[[Advanced Comprehensive Operating System|ACOS]]の一系列である。同社のメインフレーム事業草創期に[[ハネウェル]]社から導入した技術が元となっている。ただし、元にしたハネウェルの技術の内訳には、ハネウェルが[[ゼネラルエレクトリック|GE]]から買収したコンピュータ部門の所有していたものが多く含まれている(たとえば、[[マサチューセッツ工科大学|MIT]]がGEのマシンを使用して開発していた[[Multics]]の技術の一部を含む)。 [[2003年]]現在の名称はACOS-6/NVX PX、対象となるハードウェアはパラレルACOS PX7900である。 == アーキテクチャ == 数少ない[[ワードマシン]]である。1[[バイト (情報)|バイト]]=9[[ビット]]で処理をし、1[[ワード]]=36[[ビット]]である。 初期のアーキテクチャと後期のアーキテクチャではかなり構造が異なる。 === システム構成 === コンピュータの中心にSCU(システム制御ユニット)があり、この配下に演算部(EPU)、メモリ、入出力プロセッサ(IOP)が繋がる。パラレルACOS以前は、初期の機種を除き、1つのSCUに最大2つのEPUを繋げることが出来る。システム2000では、SCPを2つ繋げて、1つのシステムとして4EPUをサポートしている。 === 2つのモード === RモードとVモードという2つのモードがある。 ==== Rモード ==== Rモードは、18ビットのメモリ空間(256Kワード=1Mバイト)の中で処理をする。その範囲でフラットなメモリ空間を提供する。アドレス空間が18ビットしかないので、最大256Kワード(=1Mバイト)しかアクセスできない。しかし、アドレスマッピングのためのレジスタがあり、256Kワード以上のメモリ空間をアクセスできる仕組みが用意されている。 アドレスマッピング機能はVモードでは無効になる。 ==== Vモード ==== Vモードは、セグメントを多用し、各種の保護機能を付加し、さらにメモリ空間を拡張したモードである。[[80386]]のプロテクトモードのようなもの、と思うと理解が早い。アドレスレジスタがセグメントのポインタ+オフセットとなり(名前もデータレジスタと変わる)、セグメント記述子に指定されたメモリ空間、保護機能等が有効に働くようになる。1つのプログラムは、複数のセグメントから構成されるようになる。システム1000以降は、アドレス空間が拡張され、72ビットになる。ただし、Vモードは、ごく初期のマシン(システム600など)では利用できない。また、システム2000以降では、命令空間も拡張される。PentiumプロセッサのEM-64Tモードのようなもの、と思うと理解が早い。 ==== 統合アレイプロセッサ ==== システム1000から取り入れられた機能である。ベクトル演算を実行する命令群である。システム2000からは、マスク制御付きベクトル演算が可能になり、FORTRANで、IF文を含むDOループがベクトル化可能になっている。1つのベクトル命令で処理可能な要素は、S1000では2の18乗個、S2000では2の36乗個である。 ==== 拡張仮想計算機システム ==== システム2000から取り入れられた機能である。ハードウェアが仮想計算機機能をサポートするようになった。このため、同時に複数のOSを動作させることが出来るようになった。 === レジスタ構成 === [[レジスタ (コンピュータ)|レジスタ]]が、他のアーキテクチャに比べて少ないのも特徴である。演算が可能なレジスタは A レジスタ と Q レジスタの2つしかない(それぞれ36ビット)。そのほかにインデックスレジスタ(18ビット)とアドレスレジスタが存在する。インデックスレジスタ、アドレスレジスタともに、実効アドレスを生成する際にアドレスを修飾する際に使われる。Vモードではアドレスレジスタの機能が変わる。 アドレスレジスタを使う場合には、命令語(36ビット)のアドレスレジスタを使用するためのビットをonにする。この時、インデックスフィールド(18ビット)の先頭3ビットがアドレスレジスタのレジスタ番号を指定するようになる。 === 命令体系 === 命令体系は比較的[[COBOL]]向けである。COBOLのMOVE、ADD、SUBTRACT等の演算命令をほぼ機械語レベルで1命令に対応可能である。そのため、データ部分の修飾機能が豊富で、パック/アンパック十進数を直接操作可能である。さらに、COBOLの文字列編集機能(PIC で指定するもの)をそのまま機械語に変換する機能もある。 最近のCPUのような、スタックの概念はRモードにはない。関数コールを行うときには、飛び先で戻りアドレスを保存するような処理が必要である。Vモードではスタックセグメントが存在する。 特権モードがある。特権モードに遷移する命令で特権モードに移行する。特権モードには複数のランク付けがされている。 === サービスプロセッサ === 専用のサービスプロセッサがある。メインのOSが稼働するプロセッサとは別に、ファームウェアが動作するプロセッサがある。そのプロセッサに対して操作を行なうことで、メインのOSの起動等を行なえる。 === 文字コード === 内部で使うコードは、6ビットの文字コードおよびJISコード([[JIS X 0201]])である。6ビットの文字コードは、BCDコードと呼ばれ、英数字のみ(かつ、大文字のみ)のコードであり、1ワード中に6文字を詰め込んで処理をしている。内部処理ルーチン等で使われている。JISコードは、通常の(COBOL等の)文字処理を行なうときに利用されている。メインフレームではあるが、EBCDICを使っていない。日本語(漢字)は、[[JIPS]](J)コードと呼ばれるコード体系を使っている。このコードには[[ACOS-4]]系で使われるJIPS(E)や、[[A-VX]]で使われるNEC内部コード(E)への変換手段が用意されている。 == OSの特徴 == ACOS-6は[[Multics]]の流れを汲むOSである。[[UNIX]]の遠い親戚とも言える。そのため、UNIXに似た(というよりも、Multics風の、と言うべきだろう)機能がある。 === ファイルシステム === * FMSというファイルシステムは、UNIXのような階層構造ディレクトリを提供する。ただし、rootディレクトリは1つではなく、複数のトップディレクトリがあり得る。1ファイル名は12文字までである。使用できる文字は、英文字、数字文字と、"-"(ハイフン)などの一部の特殊記号。英文字に大文字と小文字の区別はない(そもそも基本となるキャラクタコードが6ビットのため、小文字用のコードを定義する場所が確保できなかった)。ディレクトリやファイルの間を区切る文字は、[[UNIX]]系OSと同じく"/"(スラッシュ文字)である。 * 入出力が標準化されている。標準形式で書くのであれば、テープだろうがディスク上のファイルだろうが、細かなパラメータを指定しなくても簡単に入出力が行なえる。実デバイス(ファイル)とプログラム上の入出力の切り替え作業は、実行用のJCLを修正するだけで完了する。 * TSSがUNIXのようなコマンドベース(初期のもの)である。TSS上で簡単にファイルの作成等が行える。UNIX上のedのような行指向エディタが用意されている。 == 歴史 == * ACOS-6 * ACOS-6/MVX * ACOS-6/NVX * ACOS-6/NVX PX == 関連項目 == *[[GE-600シリーズ]] *[[GCOS]] *[[Multics]] == 参考文献 == 草創期のACOS-6開発の元となったOS技術情報の出自等について: * {{cite journal | author = [[高橋茂]] | year = 2003 | month = 8 | title = 日本のコンピュータ・メーカと7人の小人(1) | journal = 情報処理(ISPJ Magazine) | volume = 44 | issue = 8 | pages = 836p-842p | url = http://museum.ipsj.or.jp/guide/pdf/magazine/IPSJ-MGN440812.pdf | format = pdf | accessdate = 2007-02-19 }} * {{cite journal | author = 高橋茂 | year = 2003 | month = 9 | title = 日本のコンピュータ・メーカと7人の小人(2) | journal = 情報処理(ISPJ Magazine) | volume = 44 | issue = 9 | pages = 970p-975p | url = http://museum.ipsj.or.jp/guide/pdf/magazine/IPSJ-MGN440917.pdf | format = pdf | accessdate = 2007-02-19 }} == 外部リンク == * {{Cite web|和書 | last = 日本電気株式会社 | year = 2007 | url = http://www.sw.nec.co.jp/acosclub/acos6.html | title = ACOS Club ACOS-6(nec.co.jp) | work = ACOS Club ACOSシリーズポータルサイト(ホーム>製品>ACOSシリーズ) | publisher = 日本電気株式会社 | language = 日本語 |accessdate=2007-02-19 }} * {{Cite web|和書 | last = Groupe Bull | date = 2001-07-11 | url = http://www.sw.nec.co.jp/acosclub/acos6.html | title = from GECOS to GCOS8 | publisher = Groupe Bull | language = 英語 |accessdate=2007-02-19 }} -GEやハネウェル(HIS)のコンピュータ部門を最終的に買収・手中に収めた[[Bull]]から見たGCOSの歴史 * [http://museum.ipsj.or.jp/computer/os/nec/0014.html 【日本電気】 ACOS-6] - コンピュータ博物館([[情報処理学会]]) [[Category:メインフレームのオペレーティングシステム]] [[Category:NECのメインフレーム]] [[Category:NECのソフトウェア]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/ACOS-6
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キム・ノヴァク
キム・ノヴァク(Kim Novak、本名Marilyn Pauline Novak、1933年2月13日 - )は、アメリカ合衆国の映画女優。イリノイ州シカゴ出身。 チェコ系アメリカ人。父親は歴史教師をしていたが、世界大恐慌時には列車の発車係をしていたことがある。 ファラガット高校 (en)、短期大学のウィルバーライト・カレッジ (en) に進学し、さらに2つの奨学金をつかみ取りシカゴ美術館附属美術大学で学んだ。 短大2年時に見本市会場でデトロイトの企業の冷蔵庫のキャンペーンガールを始めた 。 この冷蔵庫製造企業のモデル時代、サンフランシスコでの見本市の時、他の二人のモデルらとフィルムチェックのため、ロサンゼルスに寄りRKOの数本の映画にエキストラとして出演することになった。この時、コロムビア映画にスカウトされ長期契約を結んだ。コロンビア映画の徹底した管理のもと、ダイエットや歯の矯正を行い、その妖艶な美貌で人気を集めた。1950年代に多くの映画に主演し、『ピクニック』(1955)、『愛情物語』(1956)、アルフレッド・ヒッチコック監督・ジェームズ・スチュアート共演の『めまい』(1958)などは日本でも大ヒットした。その後ギャラをめぐる対立から専属だったコロムビア映画を離れる。 1960年代以降は次第に出演作が減っていくが、ビリー・ワイルダー監督の『ねぇ!キスしてよ』(1964)、アガサ・クリスティ原作の『クリスタル殺人事件』(1980) などでは、得がたい存在感を示した。1991年を最後に女優業を引退。2007年のインタビューでは、良い役があればまた演じる可能性があると語っている。 1950年代のハリウッド時代は様々な人間と公私で交際したが、黒人のサミー・デイヴィスJr.との交際はコロンビア映画を巻き込んだ騒動になった。後に、同社のハリー・コーン社長が、サミーデービスに48時間以内に黒人女性と結婚しなければ無頼漢らを差し向ける旨の脅迫をしていたと報じられた。 1960年代初頭、『逢う時はいつも他人』を監督したリチャード・クワインと婚約していたが、後に解消。1965年にイギリス人俳優リチャード・ジョンソンと結婚したが、翌年離婚。 1976年に獣医師と再婚し、2人の成人した継子らと共にオレゴン州チェロキン (en) 近郊のウィリアムソン川沿いにログハウスを建て住む。1997年には同州サムズ・バレー (en) の牧場を購入し居住したが、2000年に全焼し、美術品や10年の間に書き溜めた自伝の草稿を喪失した。 2006年に落馬事故に遭い肺に穴が空き肋骨を折るなどの重傷を負うが、早期に回復している。2010年には乳がんを患ったが、これも後に回復している。2013年4月には夫の前妻 - 2人の継子の実母 - が自殺した。2020年11月には夫が死去した。 2014年に第86回アカデミー賞会場に出席し、久々に公の舞台に登場したが、会場では「この人は誰なのか?」と誰彼からも認識されず、整形手術を受けたのだろうと様々な憶測が飛び交ったと報じられた。ドナルド・トランプにも「整形手術をした医院を訴えたほうがいい」と、この件をツイートされた。この一件は、ノヴァクの心をいたく傷つけ落ち込んだが、その後整形手術は認めつつFacebookにて、これら"ハリウッドのいじめっ子" らに立ち向かう書簡を公開した。 1996年に夕張市で開催された「ゆうばり国際冒険・ファンタスティック映画祭'96」(2/16-2/20開催)ではヤング・ファンタスティックグランプリ部門の審査員を勤めている。 水彩画や油彩画、彫刻なども本格的に手掛けている。
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キム・ノヴァクは、アメリカ合衆国の映画女優。イリノイ州シカゴ出身。
{{ActorActress | 芸名 = キム・ノヴァク<br>Kim Novak | ふりがな = | 画像ファイル = Kim Novak (1967).jpg | 画像サイズ = 240 | 画像コメント = 1957年宣伝写真 | 本名 = Marilyn Pauline Novak | 別名義 = | 愛称 = | 出生地 = {{flagicon|USA}} [[イリノイ州]][[シカゴ]] | 死没地 = | 国籍 = {{USA}} | 身長 = | 血液型 = | 生年 = 1933 | 生月 = 2 | 生日 = 13 | 没年 = | 没月 = | 没日 = | 職業 = [[俳優|女優]] | ジャンル = [[映画]] | 活動期間 = 1950年代 - 1991年 | 活動内容 = | 配偶者 = [[リチャード・ジョンソン (俳優)|リチャード・ジョンソン]] (1965–1966)<br>Dr. Robert Malloy (1976–) | 著名な家族 = | 事務所 = | 公式サイト = | 主な作品 = 『[[黄金の腕]]』<br />『[[めまい (映画)|めまい]]』<!--皆が認める代表作品を入力--> | 備考 = }} '''キム・ノヴァク'''('''Kim Novak'''、本名Marilyn Pauline Novak、[[1933年]][[2月13日]] - )は、[[アメリカ合衆国]]の[[映画]][[俳優|女優]]。[[イリノイ州]][[シカゴ]]出身。 == 来歴 == [[チェコ人|チェコ系]]アメリカ人<ref>{{cite book|author=Larry Kleno|title=Kim Novak ("On Camera" series)|page=16|publisher=A.S. Barnes|year=1980|accessdate=February 23, 2011}}</ref><ref>{{cite book|last=Kashner|first=Sam|coauthor= Jennifer Macnair|title= The bad & the beautiful: Hollywood in the fifties|url=https://books.google.co.jp/books?id=GC0X-2FGdx8C&pg=PA200&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q&f=false|publisher=W.W. Norton & Company|year=2003|page=200|accessdate=February 23, 2010}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.people.com/people/archive/article/0,,20142557,00.html|title=Animal Magnetism – Personal Success, Kim Novak|author=Stephen M. Silverman|publisher= People Magazine|date=October 21, 1996|accessdate=February 23, 2011}}</ref>。父親は歴史教師をしていたが、[[世界大恐慌]]時には列車の発車係をしていたことがある<ref>{{cite web |last1=Levy |first1=Emanuel |author1-link=Emanuel Levy |title=Movie Stars: Novak, Kim–World's Most Popular Actress, 1956-1958 |url=https://emanuellevy.com/profile/movie-stars-novak-kim-world-most-popular-star-1956-1958/ |website=[[Emanuel Levy]] |access-date=9 January 2023}}</ref>。 ファラガット高校 ([[:en:Farragut Career Academy|en]])<ref name="Roger Ebert Interview">{{cite web|last=Ebert|first=Roger|title=Kim Novak on Hitchcock, Hollywood|url=http://rogerebert.suntimes.com/apps/pbcs.dll/article?AID=%2F19961017%2FPEOPLE%2F10010340|publisher=RogerEbert.Com|access-date=November 5, 2011|date=October 17, 1996|archive-date=July 22, 2012|archive-url=https://web.archive.org/web/20120722155501/http://rogerebert.suntimes.com/apps/pbcs.dll/article?AID=%2F19961017%2FPEOPLE%2F10010340|url-status=dead}}</ref>、短期大学のウィルバーライト・カレッジ ([[:en:Wilbur Wright College|en]]) に進学し、さらに2つの奨学金をつかみ取り[[シカゴ美術館附属美術大学]]で学んだ<ref name="Rosenbaum">{{citation|last=Rosenbaum|first=Jonathan|author-link=Jonathan Rosenbaum|title=Kim Novak as Midwestern Independent (Goodbye Cinema, Hello Cinephilia)|publisher=[[University of Chicago Press]]|orig-year=2006|year=2010|url=https://www.jonathanrosenbaum.net/2018/11/kim-novak-as-midwestern-independent/|isbn=978-0-226-72665-6|access-date=June 11, 2016}}</ref><ref name="TCM Classic Film Festival 2014 Bio">{{cite web|last=Cameron |first=Sue |title=Kim Novak, Elusive Legend |url=http://filmfestival.tcm.com/programs/special-guests/kim-novak/ |publisher=Turner Classic Movies |access-date=May 1, 2014 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20140501183624/http://filmfestival.tcm.com/programs/special-guests/kim-novak/ |archive-date=May 1, 2014 }}</ref><ref>{{cite web|last=Turnquist|first=Kristi|title=Interview with actress Kim Novak, who lives in Oregon and is revisiting her cinematic past|url=http://www.oregonlive.com/O/index.ssf/2010/07/actress_kim_novak_who_lives_in.html|work=[[The Oregonian]]|access-date=November 5, 2011|date=July 31, 2010}}</ref>。 短大2年時に[[見本市]]会場でデトロイトの企業の冷蔵庫の[[キャンペーンガール]]を始めた <ref name="TCM-Film-Festival-Kim-Novak-3-6">{{Cite web|url=http://www.tcm.com/this-month/article/568364%7C0/Live-From-the-TCM-Film-Festival-Kim-Novak-3-6.html|title=Kim Novak: Live from the TCM Classic Film Festival|website=Turner Classic Movies |accessdate=March 30, 2023 }}</ref><ref name="lflbhistory/Spark-of-Genius">{{cite web |title=A-Spark-of-Genius: Local Inventors and their Discoveries |url=https://lflbhistory.org/sites/default/files/assets/files/A-Spark-of-Genius-History-Center-of-Lake-Forest-Lake-Bluff.pdf |website=History Center of Lake Forest - 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2人の継子の実母 - が自殺した。2020年11月には夫が死去した。 2014年に[[第86回アカデミー賞]]会場に出席し、久々に公の舞台に登場したが、会場では「この人は誰なのか?」と誰彼からも認識されず、[[整形手術]]を受けたのだろうと様々な憶測が飛び交ったと報じられた<ref>{{Cite news |title=Kim Novak on Hitchcock, Sinatra and why she turned her back on Hollywood to paint |last=Hattenstone |first=Simon |newspaper=The Guardian |date=February 15, 2021 |url= https://www.theguardian.com/film/2021/feb/15/i-had-to-leave-hollywood-to-save-myself-kim-novak-on-art-bipolar-hitchcock-and-happiness}}</ref>。[[ドナルド・トランプ]]にも「整形手術をした医院を訴えたほうがいい」と、この件を[[ツイート]]された<ref>{{cite news |last1=McDonald |first1=Soraya Nadia |title=Kim Novak responds to post-Oscars ridicule: 'I was bullied.' |url=https://www.washingtonpost.com/news/morning-mix/wp/2014/04/18/after-the-oscars-kim-novak-responds-to-internet-snark/ |access-date=August 25, 2020 |newspaper=The Washington Post |date=April 18, 2014}}</ref>。この一件は、ノヴァクの心をいたく傷つけ落ち込んだが、その後整形手術は認めつつ[[Facebook]]にて、これら"ハリウッドのいじめっ子" らに立ち向かう書簡を公開した<ref>{{cite news |url= https://www.facebook.com/KimNovakActress/posts/641307919282830 |archive-url=https://ghostarchive.org/iarchive/facebook/631092706971018/641307919282830 |archive-date=2022-02-26 |url-access=limited|title= KIM NOVAK SPEAKS OUT ABOUT OSCAR BULLYING |last= Novak |first= Kim |work=Facebook |date=April 17, 2014 |access-date= August 6, 2017}}{{cbignore}}</ref>。 1996年に[[夕張市]]で開催された「ゆうばり国際冒険・ファンタスティック映画祭'96」(2/16-2/20開催)ではヤング・ファンタスティックグランプリ部門の審査員を勤めている。 水彩画や油彩画、彫刻なども本格的に手掛けている<ref>{{cite web|url=http://cowboyartistsofamerica.com/news-events/harley_browns_meet_kim_novak_in_iinternational_artist_magazine_i/news/ |title=Cowboyartistsofamerica |publisher=Cowboyartistsofamerica |accessdate=February 28, 2012}}</ref>。<!--:en:Kim Novak Revision as of 23:49, 19 March 2023 →‎Acting career の版を参照し、追記補正のために一部引用した。--> ==主な出演作品== [[File:Kim Novak at Los Angeles Union Station, 1956.jpg|thumb|1956年、ロサンゼルス・[[ユニオン駅 (ロサンゼルス)|ユニオン駅]]にて]] === 映画 === {| class="wikitable sortable" style="font-size:small" |- !公開年!!邦題<br>原題!!役名!!備考!!吹き替え |- |1953|| フランス航路<br>''The French Line'' || モデル || クレジットなし | |- |1954|| 殺人者はバッヂをつけていた<br>''Pushover'' || ロナ・マクレーン || | |- |rowspan="3"|1955|| 四十人の女盗賊<br>''Son of Sinbad'' || ハーレムの女 || クレジットなし | |- | [[ピクニック (1955年の映画)|ピクニック]]<br>''Picnic'' || マッジ・オーウェンズ || |真山知子 |- | [[黄金の腕]]<br>''The Man with the Golden Arm'' || モリー || | |- |1956|| [[愛情物語 (1956年の映画)|愛情物語]]<br>''The Eddy Duchin Story'' || マージョリー || |武藤礼子 |- |rowspan="2"|1957|| [[夜の豹]]<br>''Pal Joey'' || リンダ・イングリッシュ || |荒砂ゆき |- | 女ひとり<br>''Jeanne Eagels'' || ジャンヌ・イーグルス || | |- |rowspan="2"|1958|| [[めまい (映画)|めまい]]<br>''Vertigo'' || マデリン・エルスター/ジュディ・バートン || |田島令子(テレビ版),藤本喜久子(BD版) |- | 媚薬<br>''Bell Book and Candle'' || ジリアン・ホルロイド || |木村俊恵 |- |1959|| 真夜中<br>''Middle of the Night'' || ベティ || | |- |rowspan="2"|1960|| [[逢う時はいつも他人]]<br>''Strangers When We Meet'' || マギー || |木村俊恵 |- | [[ペペ (映画)|ペペ]]<br />''Pepe'' || 本人 || [[カメオ出演]] | |- |rowspan="2"|1962|| 悪名高き女<br>''The Notorious Landlady'' || カーリー・ハードウィック || | |- | プレイボーイ<br>''Boys' Night Out'' || キャシー|| | |- |rowspan="2"|1964|| 人間の絆<br>''Of Human Bondage'' || ミルドレッド・ロジャース || | |- | [[ねぇ!キスしてよ]]<br>''Kiss Me, Stupid'' || ポリー || | |- |1965|| モール・フランダースの愛の冒険<br>''The Amorous Adventures of Moll Flanders'' || モール・フランダース || | |- |1968|| 女の香り<br>''The Legend of Lylah Clare'' || ライラ・クレア/エルザ・ブリックマン/エルザ・キャンベル || | |- |1969|| 空かける強盗団<br>''The Great Bank Robbery'' || Sister Lyda Kebanov || |小原乃梨子 |- |1973|| 異界への扉<br>''Tales That Witness Madness'' || Auriol || 日本劇場未公開 | |- |1974|| 魔のバミューダ海域<br>''Satan's Triangle'' || エヴァ || [[テレビ映画]] |原知佐子 |- |1977|| [[ホワイト・バッファロー]]<br>''The White Buffalo'' || ポーカー・ジェニー || |高橋ひろ子 |- |1978|| [[ジャスト・ア・ジゴロ (1978年の映画)|ジャスト・ア・ジゴロ]]<br>''Schöner Gigolo, armer Gigolo'' || Helga von Kaiserling || | |- |1980|| [[クリスタル殺人事件]]<br>''The Mirror Crack'd'' || ローラ・ブリュースター || |小原乃梨子 |- |1991|| オブセッション/愛欲の幻<br>''Liebestraum'' || リリアン・アンダーソン・マンセン || 日本劇場未公開 | |- |} === テレビ === {| class="wikitable sortable" style="font-size:small" !年!!邦題<br />原題!!役名!!備考 |- | 1985 || [[ヒッチコック劇場]]<br />''Alfred Hitchcock Presents'' || ローザ || [[パイロット版]]内の "Man from the South" |- | 1986-1987 || ''Falcon Crest'' || Kit Marlowe || 19エピソード |- |} == 参照 == {{Reflist}} == 外部リンク == {{Commonscat|Kim Novak}} * {{allcinema name|38001|キム・ノヴァク}} * {{Kinejun name|662|キム・ノヴァク}} * {{IMDb name|0001571|Kim Novak}} {{Actor-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:のうあく きむ}} [[Category:アメリカ合衆国の女優]] [[Category:アメリカ合衆国の映画女優]] [[Category:シカゴ出身の人物]] [[Category:チェコ系アメリカ人]] [[Category:1933年生]] [[Category:存命人物]]
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ボロン (曖昧さ回避)
ボロン
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ボロン ホウ素 タングステンやカーボン繊維にホウ素を付着させた物質もこう呼ばれる。強度・剛性に優れ、ゴルフクラブのシャフト(ボロンシャフト)、釣りざお(ボロンロッド)の素材として一般的になったが、航空宇宙・軍事分野などが最初。航空機、戦車などのボディーに使われている。 ボロン (楽器) - 西アフリカの弦楽器。
'''ボロン''' * [[ホウ素]] * [[タングステン]]や[[カーボン繊維]]にホウ素を付着させた物質もこう呼ばれる。強度・剛性に優れ、ゴルフクラブのシャフト(ボロンシャフト)、釣りざお(ボロンロッド)の素材として一般的になったが、航空宇宙・軍事分野などが最初。航空機、戦車などのボディーに使われている。 * [[ボロン (楽器)]] - [[西アフリカ]]の[[弦楽器]]。 {{Aimai}} {{デフォルトソート:ほろん}}
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転移温度
転移温度(てんいおんど、Transition temperature)は相転移を起こす温度のこと。転移温度を Tc と書くこともあるが、異なる場合もある(例:反強磁性におけるネール温度を TN と書いたりする)。 超伝導において、常伝導から超伝導、超伝導から常伝導に相転移する温度のことを超伝導転移温度、あるいは転移温度という。または、臨界温度ともいう。記号はどちらも Tc (critical temperature) を使う。 この Tc は、BCS理論の中でも最も有名な次の理論式、デバイ温度 ΘD 、状態密度 N(0) 、相互作用強さ V で表される。
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'''転移温度'''(てんいおんど、Transition temperature)は[[相転移]]を起こす[[温度]]のこと。転移温度を T{{sub|c}} と書くこともあるが、異なる場合もある(例:[[反強磁性]]における[[ネール温度]]を T{{sub|N}} と書いたりする)。 [[超伝導]]において、[[常伝導]]から超伝導、超伝導から常伝導に[[相転移]]する温度のことを超伝導転移温度、あるいは転移温度という。または、臨界温度ともいう。記号はどちらも T{{sub|c}} (critical temperature) を使う。 この T{{sub|c}} は、[[BCS理論]]の中でも最も有名な次の理論式、[[デバイ温度]] Θ{{sub|D}} 、[[状態密度]] N(0) 、[[相互作用]]強さ V で表される。 :<math> T_\mathrm{c} = 1.13\Theta_\mathrm{D}\exp{(-1/N(0)V)} </math> ==関連項目== *[[物理学]] *[[統計力学]] *[[物性物理学]] {{DEFAULTSORT:てんいおんと}} [[Category:温度]] [[Category:超伝導]]
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魏 (三国)
魏(ぎ、拼音: Wèi、220年 - 265年)は、中国の三国時代に華北を支配した王朝。首都は洛陽。曹氏の王朝であることから曹魏(そうぎ)、あるいは北魏に対して前魏(ぜんぎ)とも(この場合は北魏を後魏と呼ぶ)いう。 45年間しか続かなかった王朝だが、成立の基礎を作った曹操の時期の政権である「曹操政権」と合わせて論じられることも多い。魏・蜀・呉の戦国史を描いた三国志(『三国志』・『三国志演義』など)などで後世に伝わり、日本で魏は卑弥呼を記述した「魏志倭人伝」で知られる。また、昭和に吉川英治が著した『三国志』を始め、この時代を描いた小説は今なお日本で人気があり、そのため知名度も高い王朝である。 後漢末期、黄巾の乱(184年)が起きた後、皇帝の統制力は非常に弱まり、董卓の専横が始まるも部下の呂布に殺され、群雄割拠の状態となる。その中で台頭したのが曹操であった。反董卓を掲げて挙兵したことを皮切りに活動を開始した曹操は192年に兗州牧となり、その地で青州から来た黄巾賊の兵30万人、非戦闘員100万人を投降させて自分の配下に納め、その後急激に勢力を拡大させた。 196年、曹操は屯田制を開始し、流民を集めて耕す者がいなくなった農地を耕させた。また曹操は献帝を自らの本拠である許昌に迎え入れ、董卓の元配下であった李傕・呂布・張繡などの勢力を滅ぼす。200年には官渡の戦いで袁紹を破り、207年には袁氏に味方する騎馬遊牧民族の烏桓を撃ち破って中国北部を手中に収め(白狼山の戦い)、同年後漢の丞相となる。 208年、曹操は南方の孫権・劉備連合軍を攻めるが、周瑜らの火計により敗れ、飢餓と疫病も重なり非常に多くの兵士が亡くなる(赤壁の戦い)。同年、南郡を守備していた曹仁が周瑜に敗れ、孫権の支配下となった。また、劉備が荊州の南部4郡を制圧し、曹操・劉備・孫権の三者鼎立の様相を呈した。 211年、曹操は馬超をはじめとする関中の軍閥連合軍を破った(潼関の戦い)。その後、曹操軍の夏侯淵らが関中の軍閥連合軍の残党を制圧した。212年、曹操は孫権征伐の軍を起こしたが、一月余り対峙した後撤退した(第一次濡須口の戦い)。 213年、曹操は十郡(河東郡・河内郡・魏郡・趙郡・中山郡・常山郡・鉅鹿郡・安平郡・甘陵郡・平原郡)をもって魏公に封じられた。216年、さらに曹操は魏王に封じられた。当時、皇族以外には「王」の位を与えないという不文律があったのにもかかわらず、曹操が王位に就いたということは、すなわち簒奪への前段階であった。しかし曹操は存命中は皇帝位を奪わずにいた。 215年、曹操は漢中の張魯を降伏させた(陽平関の戦い)。その後、曹操軍は数年間にわたり、益州(蜀)を制圧した劉備軍と漢中周辺で激戦を繰り広げた。216年、曹操は自ら軍を率いて再び孫権征討に赴いた。約半年間対峙した後、孫権が和睦を申し入れたため軍を引いた(第二次濡須口の戦い)。 219年、漢中を守備している夏侯淵が劉備に討ち取られ(定軍山の戦い)、曹操自ら漢中に援軍に出向いたが、苦戦し被害が大きくなったので撤退、漢中を劉備に奪われた。また、劉備の部将の関羽が北上して曹操の勢力下の樊城・襄陽を包囲し、曹操の部将の于禁が率いる七軍を壊滅させ、曹操の部将の于禁・龐徳を捕虜とした。曹操は司馬懿・蔣済の提案に従い、孫権と同盟を結び、徐晃らを派遣して関羽を破った(樊城の戦い)。 220年、曹操は病のため死去し、武王と諡された。曹操が死ぬとともに、曹操の子である曹丕が魏王と後漢の丞相の地位を継いだ。 そして曹丕は献帝から禅譲を受け、土徳の王朝のため、火徳であった後漢の都の雒陽の名を洛陽に戻して都とし、魏の皇帝となった。そして父曹操に太祖武皇帝と追号した。また、後漢の献帝を山陽公とし、後漢の諸侯王はそれぞれ崇徳侯に降封した。翌年に蜀の劉備も対抗して(漢の)皇帝を称し、さらに229年には呉の孫権も皇帝を称し、1人しか存在できないはずの皇帝が3人並び立つという、かつてない事態になった。 文帝(曹丕)は九品官人法を実施し、中書省の設置など諸制度を整備して魏の体制を完全なものへと移行させた。しかしその影響で後漢から形成されてきた豪族層が貴族化し、官職の独占を行うようになった。この問題は魏の時代はまだ端緒が見えた程度であるが、後の西晋になってから深刻化した。 また、222年に魏は3方向から呉を攻め、曹休が呂範を破り、曹真・夏侯尚・張郃らが江陵を包囲攻撃し、孫盛・諸葛瑾を破ったが、曹仁が朱桓に敗れ、疫病が流行したため退却した。 曹丕は226年に崩御し、長男の曹叡(明帝)が魏の皇帝となった。227年、呉の孫権・諸葛瑾らが3方向から魏を攻めたが、司馬懿・曹休らに敗れた。228年、孟達が蜀の諸葛亮と内応して魏に反乱を起こしたが、司馬懿に鎮圧され、また同年に諸葛亮・趙雲が攻めてきたが、曹叡が派遣した張郃・曹真が撃退している。さらに同年、曹休が呉を攻めるが、石亭において陸遜に大敗した。 229年、蜀の諸葛亮が派遣した陳式によって武都・陰平を奪われた。またクシャーナ朝(貴霜)のヴァースデーヴァ1世(波調)、初めて使節らを中国の魏に派遣。魏から親魏大月氏王の仮の金印を与っている。 231年、再び諸葛亮が攻めてきたが、両軍とも決着がつかず退却している。張郃は司馬懿に追撃を強いられ蜀軍を追ったが、伏兵に射殺された(祁山の戦い)。234年、蜀と呉は連携して同時期に魏に攻めてきたが、東では満寵らが孫権を撃退し、西では諸葛亮が病死したため蜀軍も撤退した。諸葛亮が死去した後は、曹叡が宮殿造営や酒にのめり込んで国政が疎かになったため、魏は疲弊していった。 235年、魏の幽州刺史王雄の部下の韓龍が鮮卑族の大人の軻比能を暗殺した。238年、司馬懿を派遣し、遼東で謀反を起こした公孫淵を滅ぼしている。同年、邪馬台国の卑弥呼、初めて難升米らを中国の魏に派遣。魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられる。 曹叡は239年に34歳で崩御し、その後を養子の曹芳が継いだ。曹叡は崩御の際、司馬懿と皇族の曹爽に曹芳の後見を託した。244年には毌丘倹を派遣して、高句麗の首都を陥落させるなど武威を振るったが、内部では曹爽と司馬懿の対立が起こり、曹爽が司馬懿を排除して専権を振るった。249年、司馬懿はこれに逆襲してクーデターを起こして曹爽一派を逮捕、権力を掌握し、曹芳を傀儡とした(高平陵の変)。250年、王昶・王基らは呉の荊州を攻め、朱績らに勝利し、30万石の兵糧を奪い、数千人を降伏させた。251年、司馬懿が死去し、子の司馬師が権力を引き継いだ。252年、諸葛誕・胡遵が呉を攻めるが、諸葛恪に大敗した(東興の戦い)。曹芳は権力奪還を目論むが、事前に発覚して254年に廃位され斉王とされた。その後、曹髦が皇帝に擁立された。 255年、毌丘倹が反乱を起こしたが、司馬師が鎮圧した(毌丘倹・文欽の乱)。そして同年、司馬師が死去し、その権力を弟の司馬昭が引き継いだ。さらに同年、王経が蜀の姜維に侵攻され、大敗している。しかし256年には、鄧艾が攻めてきた姜維に大勝した。257年、諸葛誕が呉と同盟を結んで反乱を起こしたが、258年に司馬昭が鎮圧した。諸葛誕の反乱は、魏軍26万と諸葛誕・呉軍20万が1年にわたり激突した大戦であった(諸葛誕の乱)。 当時、司馬昭の権力は強く、曹髦は全くの傀儡であった。260年、曹髦はこれに不満を抱き、側近数百名を引き連れて自殺的なクーデターを試みるが、賈充により殺された。その後に擁立されたのが曹操の孫にあたる曹奐であった。 263年、司馬昭は鄧艾・鍾会を派遣して蜀を滅ぼした(蜀漢の滅亡)。しかし264年、鍾会が姜維と共に益州で独立しようと反乱を起こし、混乱の中で姜維を含む多数の蜀将や鍾会・鄧艾が討たれた。魏により蜀が滅ぼされると、魏は機会に乗じ呉の交州を攻め、広大な領土を獲得することとなった。これにより、司馬昭は魏の最大領土を現出した。 265年、司馬昭は死去し、その権力を引き継いだ司馬炎により曹奐は禅譲を強要され、魏は滅びた。司馬炎は新たに西晋を建て、280年に呉を征服し、三国鼎立の時代を終わらせた。曹奐は西晋の賓客として陳留王に封じられ、西晋の八王の乱の最中に天寿を全うした。 曹奐の以降も晋・南朝宋の二王の後として存続していた様子がある。子孫は魏の滅亡から200年以上、二王の後として陳留王を相続した。 326年、曹奐の子の名は不明だが、曹操の玄孫である曹勱が東晋によって陳留王に封じられた、358年死去。363年、曹勱の子の曹恢が跡を継いだ。378年死去。383年、曹恢の子の曹霊誕が跡を継いだ408年死去。 420年、劉裕が東晋から禅譲を受け南朝宋となったが、劉裕に禅譲を勧める上奏に、陳留王曹虔嗣が名を連ねている。同年、曹虔嗣は死去。弟の曹虔秀が跡を継いだ、462年死去。462年、曹虔秀の子の曹銑が跡を継いだ。曹銑は473年死去。 479年、蕭道成が南朝宋から禅譲を受け南朝斉となったが、蕭道成に禅譲を勧める上奏に、陳留王曹粲が名を連ねている。同年8月、王位を除かれた。 この三国鼎立の時代は、後に陳寿により『三国志』に纏められた。 196年、曹操は韓浩・棗祗らの提言に従い、屯田制を開始している。屯田制とは、戦乱のために耕すものがいなくなった農地を官の兵士が農民を護衛して耕させる制度である(民屯)。屯田制は当初は難航したが、任峻らの尽力により軌道に乗り、この政策により曹操軍は食料に事欠かないようになり、各地の食い詰めた民衆達を大量に集める事が出来た。魏が建国されると国境付近や首都近郊で兵士にも農耕を行わせるようになった(軍屯)。 郷挙里選の科目の一つの孝廉には儒教知識人が主に推挙されるが、曹操勢力の幹部である荀彧・荀攸・賈詡・董昭・鍾繇・華歆・王朗らが孝廉に推挙されている。曹操自身も孝廉に推挙されている。川勝義雄は「荀彧の主導で、曹操の元に多くの名士(儒教的知識人)が集まり、やがて名士は武将を抑えて曹操政権内で大きな権力を持った。魏公国が出来た後は、政府の(文官系の)重要官職は名士によって占められた」としている。 曹操は勢力圏の境界付近に住む住民や烏桓族や氐族を勢力圏のより内側に住まわせた。これは戦争時にこれらの人々が敵に呼応したりしないようにするためであり、敵に戦争で負けて領地を奪われても住民を奪われないようにする為である。三国時代は相次ぐ戦乱などにより戸籍人口が激減しており、労働者は非常に貴重だった。曹操軍の烏桓の騎兵はその名を大いに轟かせた。魏の初代皇帝となった曹丕も冀州の兵士5万戸を河南郡に移した。 220年、魏の皇帝の曹丕は、陳羣の意見を採用し、九品官人法という官吏登用法を始めた(従来の官吏登用法は郷挙里選が有名)。九品官人法では官僚の役職を最高一品官から最低九品官までの9等の官品に分類する。また、郡の中正官が官僚候補を評価して、一品から九品までの郷品に分類する。この郷品を元に官僚への推薦が行われ、新人官僚は最初は郷品の四品下の役職に就く。例えば郷品が二品ならば六品官が官僚としての出発点(起家官と呼ばれる)となる。その後、順調に出世していけば最終的には郷品と同じ官品まで出世し、それ以上の官品へは通常は上れない。司馬懿が魏の実権を握ると、中正官の上に、郡よりも広い地域を管轄する州大中正を導入した。これにより権力のある者がより介入しやすくなった。魏から司馬氏の西晋へ移行したころから、郷品は本人の才能より親の郷品が大きく影響するようになり、郷品の世襲が始まり、貴族層が形成されるようになった。 官位のトップに着いた者達については 魏では、兵役義務が課せられた世襲軍人の家族は一般の戸籍とは異なり兵戸と呼ばれた(兵戸制)。魏や西晋や東晋などで兵戸出身の兵士が軍隊の根幹となった。隋・唐の時代になると一般の戸籍の民衆から徴兵する府兵制が行われるようになった。 後漢末期に戦乱による銭の不足と布帛の生産増大を受けて、204年に曹操は袁紹の支配地域であった華北を中心に布帛による徴税を導入している(ただし、部分的導入は霊帝の時代まで遡る可能性があり、また曹操による導入も全面的ではなかった可能性もある)。これをきっかけに魏では戸単位で布帛を課す戸調制が導入されることになる。 一方、曹操は208年に董卓が廃止した五銖銭を復活させ、魏が成立した221年と227年に五銖銭が新たに鋳造されたものの、すぐに鋳造が停止されている。これは国家的決済手段が布帛に移行した後も、民間においては全ての取引が物々交換に戻ることはなく、引き続き銭の需要が高かったのに対応するために五銖銭を発行したと考えられている。 曹丕・曹植兄弟は詩人としても有名で、曹植は「詩聖」と称されるなど高く評価され、曹丕は文学論である『典論』を著作し、中国文学界に大きな影響を与えた。 魏の何晏・王弼らが「玄学」を創始し、老荘思想を発展させた。また、竹林の七賢は清談を行い、老荘思想に大きな影響を与えた。 魏の相国となった鍾繇は書道家としても評価が高かったが、特に隷書と楷書の中間のような書体である「鍾繇体(しょうようたい)」は有名である。 魏の発明家の馬鈞は指南車や水転百戯と呼ばれる水で動くからくり人形の雑技団・楽隊を作った。 また、文学史的にいえば、後漢の建安年間(196年 - 220年)は曹操を中心とした文学サロンが形成され、新しい文学の形を作っていた(建安文学)。この建安文学の流れが、魏の時代のみならず、魏晋南北朝時代全体にわたって続いていく。それゆえに建安年間も魏の一時期と考えた方が、文学史的にはわかりやすいと言える。 厳密に言えば、曹丕が、禅譲を受けて皇帝になった220年を魏の成立とするべきである。しかしながら曹操の存命中も、曹操が皇帝のように君臨して万事を動かしていたのだから、曹操が権力を手に入れてからを魏王朝の成立と見ることもできる。その場合、次のような時期が事実上の魏王朝の成立と捉えられる。 魏志倭人伝によれば「倭人は帯方郡(現在の北朝鮮南西部にあたる地域)の東南、大海の中に在る。山島に依って国や邑(むら)を為している。旧(もと)は百余国あった。漢の時、朝見する者がいた。今は交流可能な国は三十国である......」などとある。卑弥呼を女王とする邪馬台国はその中心とされ、三十国のうちの多く(二十国弱=対馬国から奴国まで)がその支配下にあったという。
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"text": "この三国鼎立の時代は、後に陳寿により『三国志』に纏められた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "196年、曹操は韓浩・棗祗らの提言に従い、屯田制を開始している。屯田制とは、戦乱のために耕すものがいなくなった農地を官の兵士が農民を護衛して耕させる制度である(民屯)。屯田制は当初は難航したが、任峻らの尽力により軌道に乗り、この政策により曹操軍は食料に事欠かないようになり、各地の食い詰めた民衆達を大量に集める事が出来た。魏が建国されると国境付近や首都近郊で兵士にも農耕を行わせるようになった(軍屯)。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "郷挙里選の科目の一つの孝廉には儒教知識人が主に推挙されるが、曹操勢力の幹部である荀彧・荀攸・賈詡・董昭・鍾繇・華歆・王朗らが孝廉に推挙されている。曹操自身も孝廉に推挙されている。川勝義雄は「荀彧の主導で、曹操の元に多くの名士(儒教的知識人)が集まり、やがて名士は武将を抑えて曹操政権内で大きな権力を持った。魏公国が出来た後は、政府の(文官系の)重要官職は名士によって占められた」としている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "曹操は勢力圏の境界付近に住む住民や烏桓族や氐族を勢力圏のより内側に住まわせた。これは戦争時にこれらの人々が敵に呼応したりしないようにするためであり、敵に戦争で負けて領地を奪われても住民を奪われないようにする為である。三国時代は相次ぐ戦乱などにより戸籍人口が激減しており、労働者は非常に貴重だった。曹操軍の烏桓の騎兵はその名を大いに轟かせた。魏の初代皇帝となった曹丕も冀州の兵士5万戸を河南郡に移した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "220年、魏の皇帝の曹丕は、陳羣の意見を採用し、九品官人法という官吏登用法を始めた(従来の官吏登用法は郷挙里選が有名)。九品官人法では官僚の役職を最高一品官から最低九品官までの9等の官品に分類する。また、郡の中正官が官僚候補を評価して、一品から九品までの郷品に分類する。この郷品を元に官僚への推薦が行われ、新人官僚は最初は郷品の四品下の役職に就く。例えば郷品が二品ならば六品官が官僚としての出発点(起家官と呼ばれる)となる。その後、順調に出世していけば最終的には郷品と同じ官品まで出世し、それ以上の官品へは通常は上れない。司馬懿が魏の実権を握ると、中正官の上に、郡よりも広い地域を管轄する州大中正を導入した。これにより権力のある者がより介入しやすくなった。魏から司馬氏の西晋へ移行したころから、郷品は本人の才能より親の郷品が大きく影響するようになり、郷品の世襲が始まり、貴族層が形成されるようになった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "官位のトップに着いた者達については", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "魏では、兵役義務が課せられた世襲軍人の家族は一般の戸籍とは異なり兵戸と呼ばれた(兵戸制)。魏や西晋や東晋などで兵戸出身の兵士が軍隊の根幹となった。隋・唐の時代になると一般の戸籍の民衆から徴兵する府兵制が行われるようになった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "後漢末期に戦乱による銭の不足と布帛の生産増大を受けて、204年に曹操は袁紹の支配地域であった華北を中心に布帛による徴税を導入している(ただし、部分的導入は霊帝の時代まで遡る可能性があり、また曹操による導入も全面的ではなかった可能性もある)。これをきっかけに魏では戸単位で布帛を課す戸調制が導入されることになる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "一方、曹操は208年に董卓が廃止した五銖銭を復活させ、魏が成立した221年と227年に五銖銭が新たに鋳造されたものの、すぐに鋳造が停止されている。これは国家的決済手段が布帛に移行した後も、民間においては全ての取引が物々交換に戻ることはなく、引き続き銭の需要が高かったのに対応するために五銖銭を発行したと考えられている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "曹丕・曹植兄弟は詩人としても有名で、曹植は「詩聖」と称されるなど高く評価され、曹丕は文学論である『典論』を著作し、中国文学界に大きな影響を与えた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "魏の何晏・王弼らが「玄学」を創始し、老荘思想を発展させた。また、竹林の七賢は清談を行い、老荘思想に大きな影響を与えた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "魏の相国となった鍾繇は書道家としても評価が高かったが、特に隷書と楷書の中間のような書体である「鍾繇体(しょうようたい)」は有名である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "魏の発明家の馬鈞は指南車や水転百戯と呼ばれる水で動くからくり人形の雑技団・楽隊を作った。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "また、文学史的にいえば、後漢の建安年間(196年 - 220年)は曹操を中心とした文学サロンが形成され、新しい文学の形を作っていた(建安文学)。この建安文学の流れが、魏の時代のみならず、魏晋南北朝時代全体にわたって続いていく。それゆえに建安年間も魏の一時期と考えた方が、文学史的にはわかりやすいと言える。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "厳密に言えば、曹丕が、禅譲を受けて皇帝になった220年を魏の成立とするべきである。しかしながら曹操の存命中も、曹操が皇帝のように君臨して万事を動かしていたのだから、曹操が権力を手に入れてからを魏王朝の成立と見ることもできる。その場合、次のような時期が事実上の魏王朝の成立と捉えられる。", "title": "魏の成立の年代について" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "魏志倭人伝によれば「倭人は帯方郡(現在の北朝鮮南西部にあたる地域)の東南、大海の中に在る。山島に依って国や邑(むら)を為している。旧(もと)は百余国あった。漢の時、朝見する者がいた。今は交流可能な国は三十国である......」などとある。卑弥呼を女王とする邪馬台国はその中心とされ、三十国のうちの多く(二十国弱=対馬国から奴国まで)がその支配下にあったという。", "title": "邪馬台国" } ]
魏は、中国の三国時代に華北を支配した王朝。首都は洛陽。曹氏の王朝であることから曹魏(そうぎ)、あるいは北魏に対して前魏(ぜんぎ)とも(この場合は北魏を後魏と呼ぶ)いう。 45年間しか続かなかった王朝だが、成立の基礎を作った曹操の時期の政権である「曹操政権」と合わせて論じられることも多い。魏・蜀・呉の戦国史を描いた三国志(『三国志』・『三国志演義』など)などで後世に伝わり、日本で魏は卑弥呼を記述した「魏志倭人伝」で知られる。また、昭和に吉川英治が著した『三国志』を始め、この時代を描いた小説は今なお日本で人気があり、そのため知名度も高い王朝である。
{{otheruses|三国時代の王朝|その他|魏}} {{基礎情報 過去の国 |略名 = |日本語国名 = 魏 |公式国名 = {{lang|zh|'''魏'''}} |建国時期 = [[220年]] |亡国時期 = [[265年]] |先代1 = 後漢 |次代1 = 西晋 |位置画像 = 三国行政区划(繁).png |位置画像説明 = 魏の領域(緑)。 |公用語 = [[上古漢語]] |宗教 = [[儒教]]、[[仏教]]、[[道教]]、民間信仰 |首都 = [[許昌市|許昌]]([[220年]] - [[226年]])<br>[[洛陽市|洛陽]](226年 - [[265年]]) |元首等肩書 = [[皇帝 (中国)|皇帝]] |元首等年代始1 = [[220年]] |元首等年代終1 = [[226年]] |元首等氏名1 = [[曹丕|高祖 文帝]] |元首等年代始2 = [[260年]] |元首等年代終2 = [[265年]] |元首等氏名2 = [[曹奐|元帝]] |首相等肩書 = [[三国相国、丞相、司徒の一覧|司徒・相国]] |首相等年代始1 = [[220年]] |首相等年代終1 = [[226年]] |首相等氏名1 = [[華歆]] |首相等年代始2 = [[265年]] |首相等年代終2 = [[265年]] |首相等氏名2 = [[司馬炎]] |面積測定時期1 = |面積値1 = |面積測定時期2 = |面積値2 = |人口測定時期1 = [[260年]] |人口値1 = 4,432,881 |人口測定時期2 = |人口値2 = |変遷1 = [[後漢]]より禅譲、建国 |変遷年月日1 = [[220年]][[11月25日]] |変遷2 = [[公孫氏 (遼東)| 遼東公孫氏]]を滅ぼす |変遷年月日2 = [[238年]][[8月23日]] |変遷3 = [[高平陵の変]] |変遷年月日3 = [[249年]][[2月5日]] |変遷4 = [[蜀漢の滅亡|蜀漢を滅ぼす]] |変遷年月日4 = [[263年]][[12月23日]] |変遷5 = [[西晋]]ヘ禅譲、滅亡 |変遷年月日5 = [[265年]] |通貨 = [[五銖銭]] |通貨追記 = |時間帯 = |夏時間 = |時間帯追記 = |ccTLD = |ccTLD追記 = |国際電話番号 = |国際電話番号追記 = |現在 = {{PRC}}<br>{{PRK}}<br>{{KOR}}<br>{{MNG}} |注記 = }} {{中国の歴史}} [[画像:曹魏系図.png|120px|thumb|魏の系図]] '''魏'''(ぎ、{{ピン音|Wèi}}、[[220年]] - [[265年]])は、[[中国]]の[[三国時代 (中国)|三国時代]]に[[華北]]を支配した王朝。首都は[[洛陽]]。[[曹氏]]の王朝であることから'''曹魏'''(そうぎ)、あるいは[[北魏]]に対して'''前魏'''(ぜんぎ)とも(この場合は[[北魏]]を[[後魏]]と呼ぶ)いう。 45年間しか続かなかった王朝だが、成立の基礎を作った曹操の時期の政権である「曹操政権」と合わせて論じられることも多い。魏・[[蜀]]・[[呉 (三国)|呉]]の戦国史を描いた[[三国志]](『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』・『[[三国志演義]]』など)などで後世に伝わり、[[日本]]で魏は[[卑弥呼]]を記述した「[[魏志倭人伝]]」で知られる。また、[[昭和]]に[[吉川英治]]が著した『[[三国志 (吉川英治)|三国志]]』を始め、この時代を描いた小説は今なお日本で人気があり、そのため知名度も高い[[王朝]]である。 == 歴史 == === 曹操の台頭 === [[後漢]]末期、[[黄巾の乱]]([[184年]])が起きた後、[[皇帝]]の統制力は非常に弱まり、[[董卓]]の専横が始まるも部下の[[呂布]]に殺され、群雄割拠の状態となる。その中で台頭したのが[[曹操]]であった。反董卓を掲げて挙兵したことを皮切りに活動を開始した曹操は[[192年]]に[[兗州]][[刺史|牧]]となり、その地で[[青州 (山東省)|青州]]から来た黄巾賊の兵30万人、非戦闘員100万人を投降させて自分の配下に納め、その後急激に勢力を拡大させた。 [[196年]]、曹操は[[屯田]]制を開始し、流民を集めて耕す者がいなくなった農地を耕させた。また曹操は[[献帝 (漢)|献帝]]を自らの本拠である[[許昌市|許昌]]に迎え入れ、董卓の元配下であった[[李傕]]・呂布・[[張繡]]などの勢力を滅ぼす。[[200年]]には[[官渡の戦い]]で[[袁紹]]を破り、[[207年]]には[[袁氏]]に味方する[[遊牧民|騎馬遊牧民族]]の[[烏桓]]を撃ち破って中国北部を手中に収め([[白狼山の戦い]])、同年後漢の[[丞相]]となる。 [[208年]]、曹操は南方の[[孫権]]・[[劉備]]連合軍を攻めるが、[[周瑜]]らの火計により敗れ、飢餓と疫病も重なり非常に多くの兵士が亡くなる([[赤壁の戦い]])。同年、南郡を守備していた[[曹仁]]が周瑜に敗れ、孫権の支配下となった。また、劉備が[[荊州]]の南部4郡を制圧し、曹操・劉備・孫権の三者鼎立の様相を呈した。 [[211年]]、曹操は[[馬超]]をはじめとする[[関中]]の軍閥連合軍を破った([[潼関の戦い]])。その後、曹操軍の[[夏侯淵]]らが関中の軍閥連合軍の残党を制圧した。[[212年]]、曹操は孫権征伐の軍を起こしたが、一月余り対峙した後撤退した([[濡須口の戦い#第一次戦役(212年-213年)|第一次濡須口の戦い]])。 === 魏公・魏王に即位 === [[213年]]、曹操は十郡([[河東郡 (中国)|河東郡]]・[[河内郡 (河南省)|河内郡]]・[[魏郡]]・[[趙郡]]・[[中山郡]]・[[常山郡]]・[[鉅鹿郡]]・[[信都郡|安平郡]]・[[清河郡|甘陵郡]]・[[平原郡 (山東省)|平原郡]])をもって魏公に封じられた<ref>{{cite book |和書 |author1= [[池田恩]]編 |author2= 当該部分の執筆は[[窪添慶文]] |year = 1996 |title = 世界歴史体系 中国史2 |publisher = [[山川出版社]] |page=9 |isbn = 4-634-46160-9 }}</ref>。[[216年]]、さらに曹操は魏王に封じられた。当時、皇族以外には「[[諸侯王|王]]」の位を与えないという不文律があったのにもかかわらず、曹操が王位に就いたということは、すなわち[[簒奪]]への前段階であった。しかし曹操は存命中は皇帝位を奪わずにいた。 [[215年]]、曹操は[[漢中郡|漢中]]の[[張魯]]を降伏させた([[陽平関の戦い]])。その後、曹操軍は数年間にわたり、[[益州]](蜀)を制圧した劉備軍と漢中周辺で激戦を繰り広げた。[[216年]]、曹操は自ら軍を率いて再び孫権征討に赴いた。約半年間対峙した後、孫権が和睦を申し入れたため軍を引いた([[濡須口の戦い#第二次戦役(216年-217年)|第二次濡須口の戦い]])。 [[219年]]、漢中を守備している夏侯淵が劉備に討ち取られ([[定軍山の戦い]])、曹操自ら漢中に援軍に出向いたが、苦戦し被害が大きくなったので撤退、漢中を劉備に奪われた。また、劉備の部将の[[関羽]]が北上して曹操の勢力下の[[樊城区|樊城]]・[[襄州区|襄陽]]を包囲し、曹操の部将の[[于禁]]が率いる七軍を壊滅させ、曹操の部将の于禁・[[龐徳]]を捕虜とした。曹操は[[司馬懿]]・[[蔣済]]の提案に従い、孫権と同盟を結び、[[徐晃]]らを派遣して関羽を破った([[樊城の戦い]])。 [[220年]]、曹操は病のため死去し、武王と[[諡]]された。曹操が死ぬとともに、曹操の子である[[曹丕]]が魏王と後漢の丞相の地位を継いだ。 === 魏の建国 === そして曹丕は献帝から[[禅譲]]を受け、土徳の王朝のため、火徳であった後漢の都の[[雒陽]]の名を[[洛陽]]に戻して都とし、魏の皇帝となった。そして父曹操に太祖武皇帝と追号した。また、後漢の献帝を山陽公とし、後漢の諸侯王はそれぞれ崇徳侯に降封した。翌年に[[蜀]]の劉備も対抗して(漢の)皇帝を称し、さらに[[229年]]には呉の孫権も皇帝を称し、1人しか存在できないはずの皇帝が3人並び立つという、かつてない事態になった<ref>実際は[[新末後漢初]]の時代の群雄時代に三国時代以上に各地に皇帝が並び立った前例が存在する。</ref>。 文帝(曹丕)は[[九品官人法]]を実施し、[[中書省]]の設置など諸制度を整備して魏の体制を完全なものへと移行させた。しかしその影響で後漢から形成されてきた[[豪族]]層が[[貴族 (中国)|貴族]]化し、官職の独占を行うようになった。この問題は魏の時代はまだ端緒が見えた程度であるが、後の[[西晋]]になってから深刻化した。 また、[[222年]]に[[濡須口の戦い#第三次戦役・三方面攻撃(222年-223年)|魏は3方向から呉を攻め]]、[[曹休]]が[[呂範]]を破り、[[曹真]]・[[夏侯尚]]・[[張郃]]らが[[荊州区|江陵]]を包囲攻撃し、[[孫盛 (孫呉)|孫盛]]・[[諸葛瑾]]を破ったが、曹仁が[[朱桓]]に敗れ、疫病が流行したため退却した。 曹丕は[[226年]]に崩御し、長男の[[曹叡]](明帝)が魏の皇帝となった。[[227年]]、呉の孫権・諸葛瑾らが3方向から魏を攻めたが、[[司馬懿]]・曹休らに敗れた。[[228年]]、[[孟達]]が蜀の[[諸葛亮]]と内応して魏に反乱を起こしたが、司馬懿に鎮圧され、また同年に諸葛亮・[[趙雲]]が攻めてきたが、曹叡が派遣した張郃・曹真が撃退している。さらに同年、曹休が呉を攻めるが、石亭において[[陸遜]]に大敗した。 [[229年]]、蜀の諸葛亮が派遣した[[陳式]]によって[[武都郡|武都]]・[[陰平郡|陰平]]を奪われた。また[[クシャーナ朝|クシャーナ朝(貴霜)]]のヴァースデーヴァ1世(波調)、初めて使節らを中国の魏に派遣。魏から[[親魏大月氏王]]の仮の金印を与っている。 [[231年]]、再び諸葛亮が攻めてきたが、両軍とも決着がつかず退却している。張郃は司馬懿に追撃を強いられ蜀軍を追ったが、[[伏兵]]に射殺された([[祁山の戦い]])。[[234年]]、蜀と呉は連携して同時期に魏に攻めてきたが、東では[[満寵]]らが孫権を撃退し、西では諸葛亮が病死したため蜀軍も撤退した。諸葛亮が死去した後は、曹叡が宮殿造営や酒にのめり込んで国政が疎かになったため、魏は疲弊していった。 [[235年]]、魏の[[幽州]]刺史[[王雄 (三国)|王雄]]の部下の韓龍が[[鮮卑]]族の大人の[[軻比能]]を暗殺した。[[238年]]、司馬懿を派遣し、[[遼東]]で謀反を起こした[[公孫淵]]を滅ぼしている。同年、[[邪馬台国]]の[[卑弥呼]]、初めて難升米らを中国の魏に派遣。魏から[[親魏倭王]]の仮の金印と銅鏡100枚を与えられる。<ref>『魏志倭人伝』中の景初2年は、[[公孫淵]]との戦闘の最中である事から、古くから[[239年]](景初3年)の誤りとするのが学会の主流であるが、異論もある。</ref> === 司馬氏の台頭 === [[画像:三國264.jpg|360px|thumb|264年、魏の領域(青)]] 曹叡は[[239年]]に34歳<ref>年齢には諸説があり、34歳が有力とされる。</ref>で崩御し、その後を養子の[[曹芳]]が継いだ。曹叡は崩御の際、司馬懿と皇族の[[曹爽]]に曹芳の後見を託した。[[244年]]には[[毌丘倹]]を派遣して、[[高句麗]]の首都を陥落させるなど武威を振るったが、内部では曹爽と司馬懿の対立が起こり、曹爽が司馬懿を排除して専権を振るった。[[249年]]、司馬懿はこれに逆襲して[[クーデター]]を起こして曹爽一派を逮捕、権力を掌握し、曹芳を傀儡とした([[高平陵の変]])。[[250年]]、[[王昶 (曹魏)|王昶]]・[[王基]]らは呉の[[荊州]]を攻め、[[朱績]]らに勝利し、30万石の兵糧を奪い、数千人を降伏させた。[[251年]]、司馬懿が死去し、子の[[司馬師]]が権力を引き継いだ。[[252年]]、[[諸葛誕]]・[[胡遵]]が呉を攻めるが、[[諸葛恪]]に大敗した([[東興の戦い]])。曹芳は権力奪還を目論むが、事前に発覚して[[254年]]に廃位され斉王とされた。その後、[[曹髦]]が皇帝に擁立された。 [[255年]]、毌丘倹が反乱を起こしたが、司馬師が鎮圧した([[毌丘倹・文欽の乱]])。そして同年、司馬師が死去し、その権力を弟の[[司馬昭]]が引き継いだ。さらに同年、[[王経]]が蜀の[[姜維]]に侵攻され、大敗している。しかし[[256年]]には、[[鄧艾]]が攻めてきた姜維に大勝した。[[257年]]、[[諸葛誕]]が呉と同盟を結んで反乱を起こしたが、[[258年]]に司馬昭が鎮圧した。諸葛誕の反乱は、魏軍26万と諸葛誕・呉軍20万が1年にわたり激突した大戦であった([[諸葛誕の乱]])。 当時、司馬昭の権力は強く、曹髦は全くの傀儡であった。[[260年]]、曹髦はこれに不満を抱き、側近数百名を引き連れて自殺的なクーデターを試みるが、[[賈充]]により殺された。その後に擁立されたのが曹操の孫にあたる[[曹奐]]であった。 [[263年]]、司馬昭は鄧艾・[[鍾会]]を派遣して蜀を滅ぼした([[蜀漢の滅亡]])。しかし[[264年]]、鍾会が姜維と共に益州で独立しようと反乱を起こし、混乱の中で姜維を含む多数の蜀将や鍾会・鄧艾が討たれた。魏により蜀が滅ぼされると、魏は機会に乗じ呉の[[交州]]を攻め、広大な領土を獲得することとなった。これにより、司馬昭は魏の最大領土を現出した。 [[265年]]、司馬昭は死去し、その権力を引き継いだ[[司馬炎]]により曹奐は禅譲を強要され、魏は滅びた。司馬炎は新たに[[西晋]]を建て、[[280年]]に[[呉の滅亡 (三国)|呉を征服し]]、三国鼎立の時代を終わらせた。曹奐は西晋の賓客として陳留王に封じられ、西晋の[[八王の乱]]の最中に天寿を全うした。 === 曹氏のその後 === 曹奐の以降も晋・南朝宋の二王の後として存続していた様子がある。子孫は魏の滅亡から200年以上、二王の後として陳留王を相続した。 [[326年]]、曹奐の子の名は不明だが、曹操の玄孫である[[曹勱]]が[[東晋]]によって[[陳留王]]に封じられた、[[358年]]死去。[[363年]]、曹勱の子の[[曹恢]]が跡を継いだ。[[378年]]死去<ref>『[[晋書]]』「帝紀第八」</ref>。[[383年]]、曹恢の子の[[曹霊誕]]が跡を継いだ<ref>『晋書』「帝紀第九」</ref>[[408年]]死去<ref>『晋書』「帝紀第十」</ref>。 [[420年]]、[[劉裕]]が[[東晋]]から禅譲を受け[[宋 (南朝)|南朝宋]]となったが、劉裕に禅譲を勧める上奏に、[[陳留王]][[曹虔嗣]]が名を連ねている<ref name="a">『[[宋書]]』「本紀第六」</ref>。同年、曹虔嗣は死去<ref>『宋書』「本紀第三」</ref>。弟の[[曹虔秀]]が跡を継いだ、[[462年]]死去<ref name="a" />。[[462年]]、曹虔秀の子の[[曹銑]]が跡を継いだ。曹銑は[[473年]]死去<ref>『宋書』「本紀第九」</ref>。 [[479年]]、[[蕭道成]]が南朝宋から禅譲を受け[[斉 (南朝)|南朝斉]]となったが、蕭道成に禅譲を勧める上奏に、陳留王[[曹粲]]が名を連ねている。同年8月、王位を除かれた<ref>『[[南史]]』「斉本紀上第四」。ただし、陳留は前年4月に蕭道成の封地となったという記述もある。また、『[[南斉書]]』には記述無し。</ref>。 この三国鼎立の時代は、後に[[陳寿]]により『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』に纏められた。 == 政治 == [[196年]]、曹操は[[韓浩]]・[[棗祗]]らの提言に従い、[[屯田]]制を開始している。屯田制とは、戦乱のために耕すものがいなくなった農地を官の兵士が農民を護衛して耕させる制度である(民屯)。屯田制は当初は難航したが、[[任峻]]らの尽力により軌道に乗り、この政策により曹操軍は食料に事欠かないようになり、各地の食い詰めた民衆達を大量に集める事が出来た。魏が建国されると国境付近や首都近郊で兵士にも農耕を行わせるようになった(軍屯)。 [[郷挙里選]]の科目の一つの[[孝廉]]には儒教知識人が主に推挙されるが、曹操勢力の幹部である[[荀彧]]・[[荀攸]]・[[賈詡]]・[[董昭]]・[[鍾繇]]・[[華歆]]・[[王朗]]らが孝廉に推挙されている。曹操自身も孝廉に推挙されている。[[川勝義雄]]は「荀彧の主導で、曹操の元に多くの名士(儒教的知識人)が集まり、やがて名士は武将を抑えて曹操政権内で大きな権力を持った。魏公国が出来た後は、政府の(文官系の)重要官職は名士によって占められた」としている。 曹操は勢力圏の境界付近に住む住民や[[烏桓]]族や[[氐]]族を勢力圏のより内側に住まわせた。これは戦争時にこれらの人々が敵に呼応したりしないようにするためであり、敵に戦争で負けて領地を奪われても住民を奪われないようにする為である。三国時代は相次ぐ戦乱などにより戸籍人口が激減しており、労働者は非常に貴重だった。曹操軍の烏桓の騎兵はその名を大いに轟かせた。魏の初代皇帝となった曹丕も[[冀州]]の兵士5万戸を[[河南郡]]に移した。 [[220年]]、魏の皇帝の曹丕は、[[陳羣]]の意見を採用し、[[九品官人法]]という官吏登用法を始めた(従来の官吏登用法は[[郷挙里選]]が有名)。九品官人法では官僚の役職を最高一品官から最低九品官までの9等の官品に分類する。また、[[郡]]の中正官が官僚候補を評価して、一品から九品までの郷品に分類する。この郷品を元に官僚への推薦が行われ、新人官僚は最初は郷品の四品下の役職に就く。例えば郷品が二品ならば六品官が官僚としての出発点(起家官と呼ばれる)となる。その後、順調に出世していけば最終的には郷品と同じ官品まで出世し、それ以上の官品へは通常は上れない。司馬懿が魏の実権を握ると、中正官の上に、郡よりも広い地域を管轄する州大中正を導入した。これにより権力のある者がより介入しやすくなった。魏から司馬氏の西晋へ移行したころから、郷品は本人の才能より親の郷品が大きく影響するようになり、郷品の世襲が始まり、[[貴族 (中国)|貴族]]層が形成されるようになった。 官位のトップに着いた者達については{{see also|三国相国、丞相、司徒の一覧}} 魏では、兵役義務が課せられた世襲軍人の家族は一般の戸籍とは異なり兵戸と呼ばれた([[兵戸制]])。魏や西晋や[[東晋]]などで兵戸出身の兵士が軍隊の根幹となった。[[隋]]・[[唐]]の時代になると一般の戸籍の民衆から徴兵する[[府兵制]]が行われるようになった。 == 経済 == 後漢末期に戦乱による銭の不足と布帛の生産増大を受けて、204年に曹操は袁紹の支配地域であった華北を中心に布帛による徴税を導入している(ただし、部分的導入は霊帝の時代まで遡る可能性があり、また曹操による導入も全面的ではなかった可能性もある)。これをきっかけに魏では戸単位で布帛を課す戸調制が導入されることになる<ref>柿沼陽平「三国時代の曹魏の税制改革と貨幣経済と質的変化」(初出:『東洋学報』第92巻第3号(東洋文庫、2010年12月)/所収:柿沼「曹魏の税制改革と貨幣経済と質的変化」『中国古代貨幣経済の持続と展開』(汲古書院、2018年)) 2018年、P148-154.</ref>。 一方、曹操は208年に董卓が廃止した五銖銭を復活させ、魏が成立した221年と227年に五銖銭が新たに鋳造されたものの、すぐに鋳造が停止されている。これは国家的決済手段が布帛に移行した後も、民間においては全ての取引が物々交換に戻ることはなく、引き続き銭の需要が高かったのに対応するために五銖銭を発行したと考えられている<ref>柿沼陽平「三国時代の曹魏の税制改革と貨幣経済と質的変化」(初出:『東洋学報』第92巻第3号(東洋文庫、2010年12月)/所収:柿沼「曹魏の税制改革と貨幣経済と質的変化」『中国古代貨幣経済の持続と展開』(汲古書院、2018年)) 2018年、P155-160.</ref>。 == 文化 == [[曹丕]]・[[曹植]]兄弟は詩人としても有名で、曹植は「詩聖」と称されるなど高く評価され、曹丕は文学論である『[[典論]]』を著作し、中国文学界に大きな影響を与えた。 魏の[[何晏]]・[[王弼 (三国)|王弼]]らが「[[老荘思想|玄学]]」を創始し、老荘思想を発展させた。また、[[竹林の七賢]]は[[清談]]を行い、老荘思想に大きな影響を与えた。 魏の[[相国]]となった[[鍾繇]]は書道家としても評価が高かったが、特に[[隷書]]と[[楷書]]の中間のような書体である「鍾繇体(しょうようたい)」は有名である。 魏の発明家の[[馬鈞]]は[[指南車]]や水転百戯と呼ばれる水で動く[[からくり]]人形の雑技団・楽隊を作った。 また、文学史的にいえば、後漢の建安年間([[196年]] - [[220年]])は曹操を中心とした文学サロンが形成され、新しい文学の形を作っていた([[建安文学]])。この建安文学の流れが、魏の時代のみならず、[[魏晋南北朝時代]]全体にわたって続いていく。それゆえに建安年間も魏の一時期と考えた方が、文学史的にはわかりやすいと言える。 == 魏の成立の年代について == 厳密に言えば、曹丕が、禅譲を受けて皇帝になった220年を魏の成立とするべきである。しかしながら曹操の存命中も、曹操が皇帝のように君臨して万事を動かしていたのだから、曹操が権力を手に入れてからを魏王朝の成立と見ることもできる。その場合、次のような時期が事実上の魏王朝の成立と捉えられる。 #[[200年]]、曹操軍、官渡の戦いに勝利して中国北部の覇権を獲得 #[[207年]]、曹操、後漢の丞相となる #[[213年]]、曹操、魏公となる #[[216年]]、曹操、魏王となる #[[220年]]、曹丕、魏帝となる == 魏の皇帝の一覧 == {| border="1" cellpadding="2" cellspacing="0" style="text-align:center" |- style="background:#efefef;" ! 代数 ! [[廟号]] ! [[諡号]] ! 姓名 ! 字 ! 在位 ! [[元号]] ! [[陵墓]] ! 即位前の爵位 ! 退位後 |- |style="text-align:left"| |style="text-align:left"| |style="text-align:left"|高皇帝 |style="text-align:left"|[[曹騰]] |style="text-align:left"|季興 |style="text-align:left"| |style="text-align:left"| |style="text-align:left"| |style="text-align:left"|漢の費亭侯 |style="text-align:left"| |- |style="text-align:left"| |style="text-align:left"| |style="text-align:left"|太皇帝<ref>『[[会要|三国会要]]』では'''大皇帝'''とある。</ref> |style="text-align:left"|[[曹嵩]] |style="text-align:left"|巨高 |style="text-align:left"| |style="text-align:left"| |style="text-align:left"| |style="text-align:left"|漢の費亭侯 |style="text-align:left"| |- |style="text-align:left"| |style="text-align:left"|太祖 |style="text-align:left"|武皇帝 |style="text-align:left"|[[曹操]] |style="text-align:left"|孟徳 |style="text-align:left"| |style="text-align:left"| |style="text-align:left"|[[西高穴2号墓|高陵]] |style="text-align:left"|漢の魏公<br>→漢の魏王 |style="text-align:left"| |- |style="text-align:left"| 1 |style="text-align:left"|高祖<ref>『[[資治通鑑]]』・『[[会要|三国会要]]』・『[[歴代帝王廟諡年諱譜]]』では'''世祖'''とある。</ref> |style="text-align:left"|文皇帝 |style="text-align:left"|[[曹丕]] |style="text-align:left"|子桓 |style="text-align:left"|[[220年]] - [[226年]] |style="text-align:left"|[[黄初]] [[220年]]-[[226年]] |style="text-align:left"|首陽陵 |style="text-align:left"|漢の魏王 |style="text-align:left"| |- |style="text-align:left"| 2 |style="text-align:left"|烈祖 |style="text-align:left"|明皇帝 |style="text-align:left"|[[曹叡]] |style="text-align:left"|元仲 |style="text-align:left"|226年 - [[239年]] |style="text-align:left"|[[太和 (魏)|太和]] [[227年]]-[[233年]]<br>[[青龍 (魏)|青龍]] 233年-[[237年]]<br>[[景初]] 237年-[[239年]] |style="text-align:left"|高平陵 |style="text-align:left"|斉公<br>→平原王 |style="text-align:left"| |- |style="text-align:left"| 3 |style="text-align:left"| |style="text-align:left"|厲公 |style="text-align:left"|[[曹芳]] |style="text-align:left"|蘭卿 |style="text-align:left"|239年 - [[254年]] |style="text-align:left"|[[正始 (魏)|正始]] [[240年]]-[[249年]]<br>[[嘉平 (魏)|嘉平]] 249年-[[254年]] |style="text-align:left"| |style="text-align:left"|斉王 |style="text-align:left"|斉王<br>→晋の邵陵県公 |- |style="text-align:left"| 4 |style="text-align:left"| |style="text-align:left"| |style="text-align:left"|[[曹髦]] |style="text-align:left"|彦士 |style="text-align:left"|254年 - [[260年]] |style="text-align:left"|[[正元 (魏)|正元]] 254年-[[256年]]<br>[[甘露 (魏)|甘露]] 256年-[[260年]] |style="text-align:left"| |style="text-align:left"|高貴郷公 |style="text-align:left"| |- |style="text-align:left"| 5 |style="text-align:left"| |style="text-align:left"|元皇帝 |style="text-align:left"|[[曹奐]] |style="text-align:left"|景明 |style="text-align:left"|260年 - [[265年]] |style="text-align:left"|[[景元]] 260年-[[264年]]<br>[[咸熙]] 264年-[[265年]] |style="text-align:left"| |style="text-align:left"|常道郷公 |style="text-align:left"|晋の陳留王 |} *[[曹騰]]は太和三年に追号された。 *[[曹嵩]]は黄初元年に追号された。 *[[曹操]]は黄初元年に追号された。 === 系図 === {{familytree/start}} {{familytree|border=0 | AAA |-|-|.| AAA=[[夏侯氏]]より}} {{familytree|border=0 | | | | | |!| }} {{familytree|border=1 | BBB |~| CCC |-| DDD |v| EEE |v| FFF |-| GGG | BBB=[[曹騰|高皇帝曹騰]] |CCC=[[曹嵩|太皇帝曹嵩]] |DDD=[[曹操|太祖武皇帝曹操]] |EEE=<sup>1</sup>'''[[曹丕|高祖文皇帝曹丕]]''' |FFF=<sup>2</sup>'''[[曹叡|烈祖明皇帝曹叡]]''' |GGG=<sup>3</sup>'''[[曹芳|厲公曹芳]]'''}} {{familytree|border=1 | | | | | | | | | | | |!| | | |!| =}} {{familytree|border=1 | | | | | | | | | | | |)| XXX |`| HHH |-| III | XXX=[[曹植]] |HHH=[[曹霖]] |III=<sup>4</sup>'''[[曹髦]]'''}} {{familytree|border=1 | | | | | | | | | | | |!| }} {{familytree|border=1 | | | | | | | | | | | |`| JJJ |-| KKK | JJJ=[[曹宇]] |KKK=<sup>5</sup>'''[[曹奐|元皇帝曹奐]]'''}} {{familytree/end}} == 南朝の陳留王の一覧 == {| class="wikitable" style="text-align:left" |- ! 代数 !! 姓名 !! 在位 !! 備考 |- | 1 || [[曹奐]] || [[265年]] - [[302年]] || 魏の元皇帝 |- | 2 || 曹某 || ? - ? || [[司馬穎]]に貂蝉・文衣・鶡衣を贈った |- | 3 || [[曹キン|曹勱]] || [[326年]] - [[358年]] || [[曹操]]の玄孫 |- | 4 || [[曹恢]] || [[363年]] - [[378年]] || 曹勱の子 |- | 5 || [[曹霊誕]] || [[383年]] - [[408年]] || 曹恢の子 |- | 6 || [[曹虔嗣]] || 408年 - [[420年]] || 曹霊誕の子 |- | 7 || [[曹虔秀]] || 420年 - [[462年]] || 曹虔嗣の弟 |- | 8 || [[曹銑]] || 462年 - [[473年]] || 曹虔秀の子 |- | 9 || [[曹粲]] || 473年 - [[479年]] || |} {{注|※曹奐の以降も晋・南朝宋の二王の後として存続していた様子がある。子孫は魏の滅亡から200年以上、二王の後として陳留王を相続した。}} == 邪馬台国 == [[魏志倭人伝]]によれば「倭人は[[帯方郡]](現在の北朝鮮南西部にあたる地域)の東南、大海の中に在る。山島に依って国や邑(むら)を為している。旧(もと)は百余国あった。漢の時、朝見する者がいた。今は交流可能な国は三十国である……」などとある。[[卑弥呼]]を女王とする[[邪馬台国]]はその中心とされ、三十国のうちの多く(二十国弱=対馬国から奴国まで)がその支配下にあったという。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 参考文献 == * 「正史 [[三国志 (歴史書)|三国志]]」([[陳寿]]、[[裴松之]] 注、[[井波律子]]・[[今鷹真]]・[[小南一郎]] 訳、[[ちくま学芸文庫]]全8巻) * 「魏晋南北朝」([[川勝義雄]]、新版.[[講談社学術文庫]])-ISBN 978-4-06-159595-8 {{デフォルトソート:き}} [[Category:魏 (三国)|*]] [[Category:中国の三国時代]] [[Category:魏晋南北朝時代の王朝]]
2003-05-12T14:02:41Z
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二ホウ化マグネシウム
二ホウ化マグネシウム(にホウかマグネシウム、magnesium bromide、MgB2)はホウ素とマグネシウムからなる無機化合物で、六方晶の層状物質。結晶構造は AlB2 型構造 (P6/mmm)。これは、ホウ素がグラファイトのように亀の甲(ハニカム)状となって層状に積層した間を、マグネシウムがインターカレート(intercalate, 挿入)したような構造である。金属間化合物であり、金属の性質を示す。ホウ素層内は主に共有結合であり、ホウ素層、マグネシウム層間はイオン結合的な力で結合している(この点が、グラファイト層間のファンデルワールス結合と異なる)。 2001年1月に青山学院大学の秋光純らのグループが、ごくありふれた物質として市販もされていた MgB2 が、実は 39ケルビン (K) で超伝導を示すことを発見した。転移温度は銅酸化物を中心とした高温超伝導物質よりはるかに低いが、金属間化合物(あるいは金属)ではNb3Ge(転移温度 23 K)以来の更新であった。 MgB2 における多重超伝導ギャップの起源 (The origin of multiple superconducting gaps in MgB2) についての論文が2003年に出版されている。 超電導リニア用コイルとしてJR東海(東海旅客鉄道)などの研究がすすみ、2005年愛知万博で超電導リニア用の二ホウ化マグネシウムのコイルが公開された。 JR東海は2007年4月20日、二ホウ化マグネシウムを使った超伝導線材で大型(直径 500ミリメートル)超伝導コイルを製作、これを使用して(液体ヘリウムなどの液体冷媒でなく)冷凍機で冷却して磁界を発生させ錘()を浮上させる実験に成功したと発表した。 二ホウ化マグネシウムは山梨リニア実験線で使用されているニオブチタン合金よりも臨界温度が −234 °Cと 35 °C 高く、効率よく超伝導状態を維持できる。臨界温度はセラミックス系のほうがさらに高いが、二ホウ化マグネシウムはセラミックス系より丈夫で扱いやすく実用化上コストパフォーマンスが高い。JR東海では2003年に二ホウ化マグネシウムの線状化に成功、2004年にコイルを製作、当時世界最高の磁界を発生させた。従来は直径 30ミリメートルであったが2007年4月には直径 500ミリメートルの大型コイルを製作、(これを液体ヘリウムに直接浸し冷却した従来の方法に対し)冷凍機による伝導冷却で、磁界を発生させることができ、世界初の試験であった。実際には 0.05テスラ程度の磁界が発生したと想定され、約 630キログラムの錘を浮上させた。 直接浸して冷却する方式は、安定して冷やせる一方で、メンテナンスに手間がかかるという欠点があるが、リニアへの応用実用化を考えれば、伝導冷却ならば冷却装置も簡素化でき、全コストの低減も期待できるという。
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二ホウ化マグネシウム(にホウかマグネシウム、magnesium bromide、MgB2)はホウ素とマグネシウムからなる無機化合物で、六方晶の層状物質。結晶構造は AlB2 型構造 (P6/mmm)。これは、ホウ素がグラファイトのように亀の甲(ハニカム)状となって層状に積層した間を、マグネシウムがインターカレート(intercalate, 挿入)したような構造である。金属間化合物であり、金属の性質を示す。ホウ素層内は主に共有結合であり、ホウ素層、マグネシウム層間はイオン結合的な力で結合している(この点が、グラファイト層間のファンデルワールス結合と異なる)。
{{複数の問題|出典の明記=2017年8月}} {{Chembox | Name = 二ホウ化マグネシウム | ImageFile = Magnesium-diboride-3D-balls.png <!-- | ImageSize = 250px --> | ImageName = Ball-and-stick model of the part of the crystal structure of magnesium diboride | Section1 = {{Chembox Identifiers | CASNo = 12007-25-9 | CASNo_Ref = {{cascite}} }} | Section2 = {{Chembox Properties | Formula = MgB<sub>2</sub> | MolarMass = 45.93 g/mol | Density = 2.6 g/cm<sup>3</sup> | Solvent = | SolubleOther = | MeltingPt = 1300 [[°C]] (分解) | BoilingPt =}} }} '''二ホウ化マグネシウム'''(にホウかマグネシウム、magnesium bromide、MgB{{sub|2}})はホウ素とマグネシウムからなる[[無機化合物]]で、[[六方晶]]の層状物質。結晶構造は AlB{{sub|2}} 型構造 (''P''6/mmm)。これは、ホウ素が[[グラファイト]]のように亀の甲(ハニカム)状となって層状に積層した間を、[[マグネシウム]]が[[インターカレート]](intercalate, 挿入)したような構造である。[[金属間化合物]]であり、[[金属]]の性質を示す。ホウ素層内は主に[[共有結合]]であり、ホウ素層、マグネシウム層間は[[イオン結合]]的な力で結合している(この点が、グラファイト層間の[[ファンデルワールス結合]]と異なる)。 == 超伝導 == [[2001年]]1月に[[青山学院大学]]の[[秋光純]]らのグループが、ごくありふれた[[物質]]として市販もされていた MgB{{sub|2}} が、実は 39[[ケルビン]] (K) で[[超伝導]]を示すことを発見した<ref>Nagamatsu, J.; Nakagawa, N.; Muranaka, T.; Zenitani, Y.; Akimitsu, J. (2001). ''Nature'' '''410''': 63.</ref>。[[転移温度]]は[[銅酸化物]]を中心とした[[高温超伝導]]物質よりはるかに低いが、[[金属間化合物]](あるいは金属)ではNb{{sub|3}}Ge(転移温度 23 K)以来の更新であった。 MgB{{sub|2}} における多重超伝導ギャップの起源 (The origin of multiple superconducting gaps in MgB{{sub|2}}) についての論文が2003年に出版されている<ref>Souma, S.; Machida, Y.; Sato, T.; Takahashi, T.; Matsui, H.; Wang, S.-C.; Ding, H.; Kaminski, A.; Campuzano, J. C.; Sasaki, S.; Kadowaki, K. (2003). ''Nature'' '''423''': 65.</ref>。 == リニアモーターへの応用 == [[超電導リニア]]用コイルとして[[東海旅客鉄道|JR東海]](東海旅客鉄道)などの研究がすすみ、2005年[[愛知万博]]で超電導リニア用の二ホウ化マグネシウムのコイルが公開された。 JR東海は2007年4月20日、二ホウ化マグネシウムを使った超伝導線材で大型(直径 500[[ミリメートル]])超伝導コイルを製作、これを使用して([[液体ヘリウム]]などの液体冷媒でなく)冷凍機で冷却して磁界を発生させ{{読み仮名|錘|おもり}}を浮上させる実験に成功したと発表した{{r|JR東海}}<ref name="jr20070420">JR東海 - プレスリリース2007年4月20日、2007年度春季低温工学・超電導学会</ref>。 二ホウ化マグネシウムは[[山梨リニア実験線]]で使用されている[[ニオブチタン]]合金よりも臨界温度が &minus;234{{nbsp}}[[℃]]と 35{{nbsp}}℃ 高く、効率よく超伝導状態を維持できる。臨界温度はセラミックス系のほうがさらに高いが、二ホウ化マグネシウムはセラミックス系より丈夫で扱いやすく実用化上コストパフォーマンスが高い{{要出典|date=2017年8月}}。JR東海では2003年に二ホウ化マグネシウムの線状化に成功、2004年にコイルを製作、当時世界最高の磁界を発生させた。従来は直径 30ミリメートルであったが2007年4月には直径 500ミリメートルの大型コイルを製作、(これを液体ヘリウムに直接浸し冷却した従来の方法に対し)冷凍機による伝導冷却で、磁界を発生させることができ、世界初の試験であった。実際には 0.05[[テスラ (単位)|テスラ]]程度の磁界が発生したと想定され、約 630[[キログラム]]の錘を浮上させた{{要出典|date=2017年8月}}。 直接浸して冷却する方式は、安定して冷やせる一方で、メンテナンスに手間がかかるという欠点があるが、リニアへの応用実用化を考えれば、伝導冷却ならば冷却装置も簡素化でき、全コストの低減も期待できるという{{要出典|date=2017年8月}}。 == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|refs= <ref name="JR東海">{{Cite web|和書 | url = http://company.jr-central.co.jp/company/technologies/mgb2.html | archiveurl = https://web.archive.org/web/20080408112147/company.jr-central.co.jp/company/technologies/mgb2.html | title = MgB2(ニホウ化マグネシウム)を用いた超電導磁石の開発に成功 | work = 技術開発 | publisher = JR東海 | accessdate = 2008-6-6 | archivedate = 2008-4-8 | deadlinkdate = 2022年11月3日 }}</ref> }} == 関連項目 == * [[物性物理学]] * [[超伝導]] * [[秋光純]] {{マグネシウムの化合物}} {{DEFAULTSORT:にほうかまくねしうむ}} [[Category:無機化合物]] [[Category:ホウ化物]] [[Category:マグネシウムの化合物]] [[Category:超伝導]]
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コーエー
株式会社コーエー(登記上の商号:株式会社光栄、英: KOEI Co., Ltd.)は、かつて存在した日本のパソコンゲーム・開発ツールおよび家庭用ゲーム機のゲームソフト開発会社である。1978年創業。2010年に同業のテクモと合併し、コーエーテクモゲームスとなった。 光栄・KOEIのブランド名で知られる。元々は染料および工業薬品の問屋であったが、1980年に創業者の襟川陽一がゲーム開発に興味を示し業種転換した。2009年4月にテクモと経営統合を行い、コーエーテクモホールディングスを設立、2010年4月にテクモを吸収合併しコーエーテクモゲームスに商号変更した。合併時に開発部門が(新)コーエー、(新)テクモに分離されたが、2011年4月に再統合された。 1983年4月に発売された『信長の野望』はその後シリーズ化され、同社の代表作となった。以後『三國志』シリーズなどを加え、「歴史シミュレーション」というジャンルを確立した。売り上げ不振でパソコンのゲーム市場から撤退するメーカーが多いなか、数少ない国産非アダルトPCゲームメーカーとして、25年以上にわたりPC向けに歴史シミュレーションゲームを提供し続けた。 1994年9月には世界初となる女性向け恋愛シミュレーションゲーム『アンジェリーク』を発売。そのほか3Dアクション『無双シリーズ』やMMORPGの開発も手がけた。 会社設立の際に、業種にとらわれない社名を易学師に勧められ、「光り栄える会社に」という願いをこめて名づけられた。なおアルファベット表記は当初「KOEY」だったが、外国人には「コーイー」としか読めないという指摘を受け「KOEI」に改めた。 光栄マイコンシステム(KOEY)(設立〜1984年) → 光栄(KOEI)(1984〜98年) → コーエー(koei)(1998年9月CI実施)。 CI実施後も、関連団体だった科学技術融合振興財団(FOST)は2021年現在も初代のロゴを流用しているほか、エルゴソフト(ERGO)も会社解散まで同様のロゴを使用していた。 ゲーム開始画面などで現れるコーエーのロゴの特徴を示す。 「創造と貢献」 1978年7月25日、襟川陽一が前年倒産に陥った家業を継ぎ栃木県足利市に染料および工業薬品問屋「光栄」を創業。襟川27歳の時であった。その後、当時の学生ベンチャーで流行していたレコードレンタルなど異業種に進出。当時のアルバイト店員に後のスクウェア社長・鈴木尚がいる。 1980年10月26日、襟川は30歳の誕生日に妻・恵子からシャープ製パソコン・MZ-80Cをプレゼントされた。これがきっかけで、襟川はパソコンに没頭。社内に「光栄マイコンシステム」というソフト開発部門を設けて、同年12月よりパソコン販売および業務用特注ソフトの開発を開始。経営は専務である妻と二人三脚で行い、店舗は妻の実家の軒先を借りていた。 1981年10月、第1作『シミュレーションウォーゲーム 川中島の合戦』を発売(メディアはカセットテープ)し、染料だけの年商よりも3倍の年商を上げる。同時発売の『投資ゲーム』のほか、『地底探検』『コンバット』『ノルマンディー上陸作戦』の各作品が発売され、これら5作品はそのパッケージのデザインから「光栄の赤箱シリーズ」と呼ばれ人気を博した。またこの頃はビジネスソフトやアダルトゲーム(後にストロベリーポルノシリーズとして知られる)も手がけていた。 1983年3月30日、『信長の野望』を発売。大ヒット作となったことを機にソフト開発に専念することとし、1984年10月に本社を横浜市港北区日吉本町に移転した。この頃は自社開発以外に他社製ゲームの移植も受託しており、代表的な作品に『忍者くん 魔城の冒険』『フォーメーションZ』などがある。 1985年7月には『蒼き狼と白き牝鹿』が、同年12月には『三國志』が発売され、これら3作品を中心に「歴史シミュレーション」というジャンルを定着させた。 1988年4月より出版事業を開始、自社製ゲームのガイドブックを始め、小説やコミック、歴史や競馬などに関する雑学書籍などを発行している(2010年4月の再編で現在はコーエーテクモゲームスの出版部門となっている)。なお、2007年12月にライトノベル系文庫レーベル・GAMECITY文庫を創刊した。女性向けの作品が多い。 1994年9月、業界初の女性による女性ユーザーのための恋愛シミュレーションゲーム『アンジェリーク』を発売。以後他社でも同様の作品を制作するようになり、「女性向け恋愛シミュレーション」はジャンルとして確立した。 このようにシミュレーションゲームを中心に制作してきたが、1997年2月に対戦型格闘ゲーム『三國無双』を発売し新たなユーザー層を取り込んだ。逆に、2000年以降は日本の戦国時代・中国の三国時代以外を取り上げた歴史シミュレーション作品の発表が皆無となっている(2005年に『大航海時代Online』が発売されているが、同作はMMORPGである)。さらに、従来は1-2年おきに新作がリリースされてきた『信長の野望』『三國志』シリーズも、近年は発売間隔が長くなっている。 2008年9月4日に同業中堅のテクモと経営統合の協議を開始したと公表。同年11月18日に統合契約書を締結し、2009年4月1日に共同持株会社コーエーテクモホールディングスを設立。 2010年4月1日にコーエーを存続会社としてテクモを吸収合併し、コーエーテクモゲームスが発足。開発部門は(新)コーエー、(新)テクモに分離されたが、「更に柔軟かつ機動的な開発体制へと変えていく必要がある」として、2011年4月に再度吸収合併された。 出典: ほぼシミュレーションゲームの専業メーカーだった頃は、いわゆるヘビーユーザーがメインの購入者層と言えた。その後、女性向け恋愛シミュレーションゲーム・ネオロマンスシリーズや、アクションゲーム『真・三國無双』シリーズなどにより新しいユーザー層を獲得した。 さらに近年はガンダムシリーズや『北斗の拳』、『ONE PIECE』などの人気アニメを題材にした「無双シリーズ」を相次いで発売し、ライトユーザー層が大幅に増加している。 コーエーが運営するゲーム情報ウェブサイト。オンラインユーザー登録、コーエーファンクラブ入会、オンラインショッピング、オンラインゲームのアカウント作成などにはGAMECITY市民登録(無料)が必要となる。 なお、旧コーエークレジット(旧幸福銀行グループ、現新生フィナンシャル)との間に資本・人的関係はなかった。 元はリコエイションゲームとして発売されたが、後に独立シリーズ化。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "株式会社コーエー(登記上の商号:株式会社光栄、英: KOEI Co., Ltd.)は、かつて存在した日本のパソコンゲーム・開発ツールおよび家庭用ゲーム機のゲームソフト開発会社である。1978年創業。2010年に同業のテクモと合併し、コーエーテクモゲームスとなった。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "光栄・KOEIのブランド名で知られる。元々は染料および工業薬品の問屋であったが、1980年に創業者の襟川陽一がゲーム開発に興味を示し業種転換した。2009年4月にテクモと経営統合を行い、コーエーテクモホールディングスを設立、2010年4月にテクモを吸収合併しコーエーテクモゲームスに商号変更した。合併時に開発部門が(新)コーエー、(新)テクモに分離されたが、2011年4月に再統合された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1983年4月に発売された『信長の野望』はその後シリーズ化され、同社の代表作となった。以後『三國志』シリーズなどを加え、「歴史シミュレーション」というジャンルを確立した。売り上げ不振でパソコンのゲーム市場から撤退するメーカーが多いなか、数少ない国産非アダルトPCゲームメーカーとして、25年以上にわたりPC向けに歴史シミュレーションゲームを提供し続けた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1994年9月には世界初となる女性向け恋愛シミュレーションゲーム『アンジェリーク』を発売。そのほか3Dアクション『無双シリーズ』やMMORPGの開発も手がけた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "会社設立の際に、業種にとらわれない社名を易学師に勧められ、「光り栄える会社に」という願いをこめて名づけられた。なおアルファベット表記は当初「KOEY」だったが、外国人には「コーイー」としか読めないという指摘を受け「KOEI」に改めた。", "title": "社名" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "光栄マイコンシステム(KOEY)(設立〜1984年) → 光栄(KOEI)(1984〜98年) → コーエー(koei)(1998年9月CI実施)。", "title": "社名" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "CI実施後も、関連団体だった科学技術融合振興財団(FOST)は2021年現在も初代のロゴを流用しているほか、エルゴソフト(ERGO)も会社解散まで同様のロゴを使用していた。", "title": "社名" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ゲーム開始画面などで現れるコーエーのロゴの特徴を示す。", "title": "社名" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "「創造と貢献」", "title": "企業理念" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1978年7月25日、襟川陽一が前年倒産に陥った家業を継ぎ栃木県足利市に染料および工業薬品問屋「光栄」を創業。襟川27歳の時であった。その後、当時の学生ベンチャーで流行していたレコードレンタルなど異業種に進出。当時のアルバイト店員に後のスクウェア社長・鈴木尚がいる。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1980年10月26日、襟川は30歳の誕生日に妻・恵子からシャープ製パソコン・MZ-80Cをプレゼントされた。これがきっかけで、襟川はパソコンに没頭。社内に「光栄マイコンシステム」というソフト開発部門を設けて、同年12月よりパソコン販売および業務用特注ソフトの開発を開始。経営は専務である妻と二人三脚で行い、店舗は妻の実家の軒先を借りていた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1981年10月、第1作『シミュレーションウォーゲーム 川中島の合戦』を発売(メディアはカセットテープ)し、染料だけの年商よりも3倍の年商を上げる。同時発売の『投資ゲーム』のほか、『地底探検』『コンバット』『ノルマンディー上陸作戦』の各作品が発売され、これら5作品はそのパッケージのデザインから「光栄の赤箱シリーズ」と呼ばれ人気を博した。またこの頃はビジネスソフトやアダルトゲーム(後にストロベリーポルノシリーズとして知られる)も手がけていた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1983年3月30日、『信長の野望』を発売。大ヒット作となったことを機にソフト開発に専念することとし、1984年10月に本社を横浜市港北区日吉本町に移転した。この頃は自社開発以外に他社製ゲームの移植も受託しており、代表的な作品に『忍者くん 魔城の冒険』『フォーメーションZ』などがある。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1985年7月には『蒼き狼と白き牝鹿』が、同年12月には『三國志』が発売され、これら3作品を中心に「歴史シミュレーション」というジャンルを定着させた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1988年4月より出版事業を開始、自社製ゲームのガイドブックを始め、小説やコミック、歴史や競馬などに関する雑学書籍などを発行している(2010年4月の再編で現在はコーエーテクモゲームスの出版部門となっている)。なお、2007年12月にライトノベル系文庫レーベル・GAMECITY文庫を創刊した。女性向けの作品が多い。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1994年9月、業界初の女性による女性ユーザーのための恋愛シミュレーションゲーム『アンジェリーク』を発売。以後他社でも同様の作品を制作するようになり、「女性向け恋愛シミュレーション」はジャンルとして確立した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "このようにシミュレーションゲームを中心に制作してきたが、1997年2月に対戦型格闘ゲーム『三國無双』を発売し新たなユーザー層を取り込んだ。逆に、2000年以降は日本の戦国時代・中国の三国時代以外を取り上げた歴史シミュレーション作品の発表が皆無となっている(2005年に『大航海時代Online』が発売されているが、同作はMMORPGである)。さらに、従来は1-2年おきに新作がリリースされてきた『信長の野望』『三國志』シリーズも、近年は発売間隔が長くなっている。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2008年9月4日に同業中堅のテクモと経営統合の協議を開始したと公表。同年11月18日に統合契約書を締結し、2009年4月1日に共同持株会社コーエーテクモホールディングスを設立。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2010年4月1日にコーエーを存続会社としてテクモを吸収合併し、コーエーテクモゲームスが発足。開発部門は(新)コーエー、(新)テクモに分離されたが、「更に柔軟かつ機動的な開発体制へと変えていく必要がある」として、2011年4月に再度吸収合併された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "出典:", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ほぼシミュレーションゲームの専業メーカーだった頃は、いわゆるヘビーユーザーがメインの購入者層と言えた。その後、女性向け恋愛シミュレーションゲーム・ネオロマンスシリーズや、アクションゲーム『真・三國無双』シリーズなどにより新しいユーザー層を獲得した。", "title": "ユーザー層" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "さらに近年はガンダムシリーズや『北斗の拳』、『ONE PIECE』などの人気アニメを題材にした「無双シリーズ」を相次いで発売し、ライトユーザー層が大幅に増加している。", "title": "ユーザー層" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "コーエーが運営するゲーム情報ウェブサイト。オンラインユーザー登録、コーエーファンクラブ入会、オンラインショッピング、オンラインゲームのアカウント作成などにはGAMECITY市民登録(無料)が必要となる。", "title": "GAMECITY" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "なお、旧コーエークレジット(旧幸福銀行グループ、現新生フィナンシャル)との間に資本・人的関係はなかった。", "title": "関連会社" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "元はリコエイションゲームとして発売されたが、後に独立シリーズ化。", "title": "作品一覧" } ]
株式会社コーエーは、かつて存在した日本のパソコンゲーム・開発ツールおよび家庭用ゲーム機のゲームソフト開発会社である。1978年創業。2010年に同業のテクモと合併し、コーエーテクモゲームスとなった。
{{Otheruses|ゲーム制作会社|かつて山口県にあった医薬品卸売会社|コーエー (山口県)|かつて高知県にあった医薬品卸売会社|コーエイ}} {{Pathnav|コーエーテクモホールディングス|コーエーテクモゲームス|frame=1}} {{基礎情報 会社 |社名 = 株式会社光栄 |英文社名 = KOEI Co., Ltd. |ロゴ = [[File:Koei logo.svg|250px]] |画像 = [[File:KOEI headquarters 20091225.jpg|300px]] |画像説明 = 本社ビル(1991年 - 1997年) |種類 = [[株式会社]] |市場情報 = {{上場情報 | 東証1部 | 9654 | 1994年11月16日 | 2009年3月25日}} |略称 = コーエー |国籍 = {{JPN}} |本社郵便番号 = 223-0051 |本社所在地 = [[神奈川県]][[横浜市]][[港北区]]箕輪町一丁目18番12号 |設立 = [[1978年]]([[昭和]]53年)[[7月25日]] |業種 = 情報・通信業 |統一金融機関コード = |SWIFTコード = |事業内容 = パーソナルコンピューター・家庭用ビデオゲーム機用ソフトウェアの企画・開発・販売、書籍及びCDの企画・制作・販売 |代表者 = |資本金 = 90億9000万円 |発行済株式総数 = 6857万1624株 |売上高 = 単独:20,195百万円(2009年3月期) |営業利益 = 単独:4,161百万円(2009年3月期) |純利益 = 単独:1,123百万円(2009年3月期) |純資産 = 単独:48,823百万円(2009年3月期) |総資産 = 単独:53,197百万円(2009年3月期) |従業員数 = 932名 |決算期 = [[3月31日]] |主要株主 = [[コーエーテクモホールディングス]] 100% |主要子会社 = |関係する人物 = [[襟川陽一]](創業者) |外部リンク = http://www.koei.co.jp/ |特記事項 = 特記ある場合以外は2009年9月30日時点の情報<ref>{{PDFlink|[https://www.koeitecmo.co.jp/ir/docs/ird6_20100215.pdf グループ組織再編(会社分割並びに子会社の合併及び商号変更)のお知らせ(2010年2月15日)]}}</ref>。 }} '''株式会社コーエー'''(登記上の商号:'''株式会社光栄'''、{{Lang-en-short|KOEI Co., Ltd.}})は、かつて存在した[[日本]]の[[パソコンゲーム]]・開発ツールおよび[[家庭用ゲーム機]]の[[ゲームソフト]]開発会社である。1978年創業{{sfn|佐々木|2013|p=8}}。2010年に同業の[[テクモ]]と合併し、[[コーエーテクモゲームス]]となった。 == 概要 == '''光栄'''・'''KOEI'''のブランド名で知られる。元々は染料および工業薬品の問屋であったが、1980年に創業者の[[シブサワ・コウ|襟川陽一]]がゲーム開発に興味を示し業種転換した。<!-- グループ展開の概要が必要-->2009年4月にテクモと経営統合を行い、[[コーエーテクモホールディングス]]を設立、2010年4月にテクモを吸収合併し[[コーエーテクモゲームス]]に商号変更した。合併時に開発部門が(新)コーエー、(新)テクモに分離されたが、2011年4月に再統合された。 1983年4月に発売された『[[信長の野望 (初代)|信長の野望]]』はその後シリーズ化され、同社の代表作となった。以後[[三國志シリーズ|『三國志』シリーズ]]などを加え、「[[歴史シミュレーションゲーム|歴史シミュレーション]]」というジャンルを確立した。売り上げ不振でパソコンのゲーム市場から撤退するメーカーが多いなか、数少ない国産非アダルトPCゲームメーカーとして、25年以上にわたりPC向けに歴史シミュレーションゲームを提供し続けた。 1994年9月には世界初となる女性向け[[恋愛ゲーム (ゲームジャンル)|恋愛シミュレーションゲーム]]『[[アンジェリーク]]』を発売<ref>https://www.famitsu.com/news/201909/14183287.html</ref>。そのほか3Dアクション『[[無双シリーズ]]』やMMORPGの開発も手がけた。 {{Main2|テクモと合併後の事績|コーエーテクモゲームス|コーエーテクモグループ|コーエーテクモホールディングス}} == 社名 == 会社設立の際に、業種にとらわれない社名を易学師に勧められ、「'''光'''り'''栄'''える会社に」という願いをこめて名づけられた<ref>「光栄ゲーム用語事典」p.101</ref><ref name=denfami160322>[https://news.denfaminicogamer.jp/projectbook/koei/ 信長から乙女ゲームまで… シブサワ・コウとその妻が語るコーエー立志伝 「世界初ばかりだとユーザーに怒られた(笑)」] - 電ファミニコゲーマー・2016年3月22日</ref>。なおアルファベット表記は当初「KOEY」だったが、外国人には「コーイー」としか読めないという指摘を受け「KOEI」に改めた<ref>「光栄ゲーム用語事典」p.277</ref>。 === 変遷 === 光栄マイコンシステム(KOEY)(設立〜1984年) → 光栄(KOEI)(1984〜98年) → コーエー(koei)(1998年9月[[コーポレートアイデンティティ|CI]]実施)。 CI実施後も、関連団体だった科学技術融合振興財団(FOST)は2021年現在も初代のロゴを流用しているほか、エルゴソフト(ERGO)も会社解散まで同様のロゴを使用していた。 === ロゴ === ゲーム開始画面などで現れるコーエーのロゴの特徴を示す。 ; 初代 : 黒い画面に「KOEI」と赤い文字で記され、その下に菱形をモチーフとしたマークが添えられる。 ; 2代目 : 初代同様の黒い画面だが、音楽とともに現れ一瞬光る。 ; 3代目 : CI導入後のロゴで、2代目までとは異なり白い背景に黒い文字で小さな丸が移動して「koei」となる。音楽も2代目と違ってライトなものになっている。 == 企業理念 == 「創造と貢献」<ref>[https://www.koeitecmo.co.jp/recruit/graduate/interview/vol-2/ トップインタビュー襟川陽一]コーエーテクモホールディングス</ref><ref name=denfami160322 /> == 沿革 == 1978年7月25日、襟川陽一が前年[[倒産]]に陥った家業を継ぎ[[栃木県]][[足利市]]に染料および工業薬品問屋「光栄」を創業。襟川27歳の時であった<ref>『パソコンヒット商品物語』 pp.222 ソフトバンク ISBN 4-89052-194-1</ref>。その後、当時の学生ベンチャーで流行していたレコードレンタルなど異業種に進出。当時のアルバイト店員に後の[[スクウェア (ゲーム会社)|スクウェア]]社長・[[鈴木尚 (ゲームクリエイター)|鈴木尚]]がいる。 1980年10月26日、襟川は30歳の誕生日に妻・[[襟川恵子|恵子]]からシャープ製パソコン・[[MZ (コンピュータ)|MZ-80C]]をプレゼントされた。これがきっかけで、襟川はパソコンに没頭。社内に「光栄マイコンシステム」というソフト開発部門を設けて<ref name="ienorirekisyo">シブサワ・コウ『新 家の履歴書』 週刊文春2016年6月30日号</ref>、同年12月よりパソコン販売および業務用特注ソフトの開発を開始。経営は専務である妻と二人三脚で行い<ref>『ヒット商品物語』 pp.224-225</ref>、店舗は妻の実家の軒先を借りていた<ref>[https://www.4gamer.net/games/302/G030244/20151225064/index_2.html シブサワ・コウ,「川中島の合戦」から「三國志13」までを語る。コーエーテクモを引っ張るクリエイターは,筋金入りのコアゲーマーだった]4Gamer.net</ref>。 1981年10月、第1作『シミュレーションウォーゲーム 川中島の合戦』を発売(メディアはカセットテープ)し、染料だけの年商よりも3倍の年商を上げる<ref name="ienorirekisyo"/>。同時発売の『投資ゲーム』のほか、『地底探検』『コンバット』『ノルマンディー上陸作戦』の各作品が発売され、これら5作品はそのパッケージのデザインから「光栄の赤箱シリーズ」と呼ばれ人気を博した<ref>『ヒット商品物語』 pp.229</ref>。またこの頃は[[ビジネスソフトウェア|ビジネスソフト]]やアダルトゲーム(後に[[ストロベリーポルノシリーズ]]として知られる)も手がけていた<ref>『ヒット商品物語』 pp.226</ref>。 1983年3月30日、『[[信長の野望 (初代)|信長の野望]]』を発売。大ヒット作となったことを機にソフト開発に専念することとし、1984年10月に本社を横浜市港北区日吉本町に移転した<ref name="ienorirekisyo"/>。この頃は自社開発以外に他社製ゲームの移植も受託しており、代表的な作品に『[[忍者くん 魔城の冒険]]』『[[フォーメーションZ]]』などがある<ref name=denfami160322 />。 1985年7月には『[[蒼き狼と白き牝鹿シリーズ|蒼き狼と白き牝鹿]]』が、同年12月には『[[三國志 (ゲーム)|三國志]]』が発売され、これら3作品を中心に「歴史シミュレーション」というジャンルを定着させた。 1988年4月より出版事業を開始、自社製ゲームのガイドブックを始め、小説やコミック、歴史や競馬などに関する雑学書籍などを発行している(2010年4月の再編で現在はコーエーテクモゲームスの出版部門となっている)。なお、2007年12月にライトノベル系文庫レーベル・[[GAMECITY文庫]]を創刊した。女性向けの作品が多い。 1994年9月、業界初の女性による女性ユーザーのための[[恋愛ゲーム (ゲームジャンル)|恋愛シミュレーションゲーム]]『[[アンジェリーク]]』を発売。以後他社でも同様の作品を制作するようになり、「女性向け恋愛シミュレーション」はジャンルとして確立した。 このようにシミュレーションゲームを中心に制作してきたが、1997年2月に[[対戦型格闘ゲーム]]『[[三國無双]]』を発売し新たなユーザー層を取り込んだ。逆に、2000年以降は日本の戦国時代・中国の三国時代以外を取り上げた歴史シミュレーション作品の発表が皆無となっている(2005年に『[[大航海時代Online]]』が発売されているが、同作は[[MMORPG]]である)。さらに、従来は1-2年おきに新作がリリースされてきた『信長の野望』『三國志』シリーズも、近年は発売間隔が長くなっている。 2008年9月4日に同業中堅の[[テクモ]]と経営統合の協議を開始したと公表。同年11月18日に統合契約書を締結し、2009年4月1日に共同[[持株会社]][[コーエーテクモホールディングス]]を設立。 2010年4月1日にコーエーを存続会社としてテクモを吸収合併し、[[コーエーテクモゲームス]]が発足。開発部門は(新)コーエー、(新)テクモに分離されたが、「更に柔軟かつ機動的な開発体制へと変えていく必要がある」として、2011年4月に再度吸収合併された<ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.koeitecmo.co.jp/news/docs/news_20110207_01.pdf|title=連結子会社間の組織再編(合併及び会社分割)についてのお知らせ|publisher=コーエーテクモホールディングス|date=2011-02-07|accessdate=2018-01-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2011-02-08 |url=https://www.gamebusiness.jp/article/2011/02/08/3035.html |title=コーエーテクモゲームス、コーエーとテクモを吸収合併 |publisher=GameBusiness.jp |accessdate=2022-02-09}}</ref>。 === 年表 === * 1978年 7月 - 足利市今福町に会社設立 * 1980年12月 - パソコンの販売および業務用特注ソフトの開発開始 * 1981年10月 - エンターテインメントソフトの企画・開発・販売開始、「川中島の合戦」「投資ゲーム」発売 * 1983年 3月 - 「信長の野望」発売 * 1983年10月 - 旺文社刊「パソコンゲームランキングブック」にて「ホイホイ」第1位受賞「信長の野望」個人採点部門第1位受賞 * 1983年11月 - PC-8801「ダンジョン」日本ソフトバンク発行 「WEEKLY SOFTBANK」にて8週連続第1位獲得 * 1984年10月 - 本社を横浜市港北区日吉本町に移転 * 1988年 1月 - 米国・カリフォルニア現地法人「KOEI Corporation」設立 * 1988年 3月 - 「三國志」、月刊ログインBHS大賞(読者が選ぶ年間TOP20)第1位受賞ファミコンソフト発売 * 1988年 4月 - 出版事業開始 * 1988年 7月 - KOEI Corporation. IBM-PC「Nobunaga's Ambition」「Romance of the Three Kingdoms」全米発売 * 1988年 9月 - ビジネス・システム事業開始、音楽事業開始 * 1988年12月 - 「信長の野望・全国版」、日本ソフトバンク年間売れ筋総合ランキング第1位受賞 TOP * 1989年 7月 - アメリカにて「Romance of the Three Kingdoms」がStrategy Game of the Year受賞。「Nobunaga's Ambition」がBest Strategy Game of the Year受賞 * 1989年 8月 - 中国・天津現地法人「天津光栄軟件有限公司」設立 * 1989年10月 - 子会社 株式会社 コーエーミュージック設立 * 1990年 4月 - 「信長の野望・戦国群雄伝」、月刊ログインBHS大賞/その他各賞多数受賞 * 1990年 9月 - KOEI CorporationがINFOGRAMES LTD.(フランス)と提携。ヨーロッパにおいて当社歴史 シミュレーションゲーム販売開始 * 1990年12月 - 「三國志II」、ソフトバンク(株)ソフトウェア・オブ・ザ・イヤー受賞 * 1991年 4月 - 「三國志II」、ログイン誌BHS大賞、MSXマガジン誌BHS大賞/その他各賞受賞 * 1991年 6月 - 本社ビル竣工、本社移転 * 1991年 9月 - 子会社 株式会社 コーエーアド設立 [[スーパーファミコン]]ソフト発売 * 1991年10月 - 当社およびKOEI CorporationがAcer TWP Corp.(台湾)と提携。台湾において当社歴史シミュレーションゲーム販売開始 * 1991年11月 - (社)日本証券業協会に株式を店頭銘柄として登録 * 1992年 9月 - 中国・北京現地法人「北京光栄軟件有限公司」設立 * 1993年 3月 - 「三國志III」、日本ソフトウェア大賞ログイン賞、ポプコム大賞受賞 * 1993年 5月 - ワープロソフト事業を営む株式会社エルゴソフトの株式100%を取得 * 1993年12月 - 株式会社BISCO(韓国)と提携。韓国において当社歴史シミュレーションゲーム販売開始。 * 1994年 3月 - Macintosh対応ソフト発売、[[エデュテインメント]]作品「EMIT」発売 * 1994年11月 - 東京証券取引所市場第二部に株式を上場 * 1995年 3月 - Windows対応ソフト発売 * 1995年 4月 - セガサターンソフト発売、「EMIT」日本ソフトウェア大賞'94読売新聞社賞受賞 * 1995年 9月 - PlayStationソフト発売 * 1995年12月 - ベンチャーキャピタル業務を行う株式会社コーエーキャピタルを設立 * 1997年 2月 - 3D格闘ゲーム「三國無双」発売、新本社ビル竣工、本社を現住所に移転 * 1998年 1月 - ソフトウェアの流通を行う株式会社コーエーネットを設立 * 1998年 9月 - CIの実施により社名表記、ロゴマークを変更 * 1998年10月 - ネットワークゲーム「信長の野望Internet」発売 * 1999年 2月 - 「信長の野望Internet」、Digital Contents of the Year '98 The AMD Grand Prize~郵政大臣賞~その他各賞受賞 * 1999年 9月 - 「信長の野望」シリーズ、日経BP社主催「第12回140万読者が選ぶパソコン・ベスト・ソフト/ゲームソフト部門」受賞 * 2000年 1月 - 韓国・ソウル現地法人「KOEI KOREA Corporation」設立 * 2000年 3月 - 東京証券取引所市場第一部に株式を上場、PlayStation 2ソフト「決戦」発売 * 2000年 9月 - 「信長の野望」シリーズ、日経BP社主催「第13回190万読者が選ぶパソコン・ベスト・ソフト/ゲームソフト部門」受賞 * 2000年11月 - 台湾・台北現地法人「台湾光栄総合資訊股{{Lang|zh-tw|份}}有限公司」設立 * 2001年 2月 - 「アプサラス」、AMD Award Best Writer賞受賞 * 2001年 4月 - iモード対応ソフト「信長の野望」サービス開始、新感覚音楽ゲーム「ギタルマン」発売 * 2001年 6月 - カナダ・トロント現地法人「KOEI CANADA Inc.」設立 * 2001年 9月 - 「信長の野望」シリーズ、日経BP社主催「第14回190万読者が選ぶパソコン・ベスト・ソフト/ゲームソフト部門」受賞 * 2001年12月 - 「信長の野望・嵐世記」、毎日コミュニケーションズ発行「CD-ROM Fan」にて「読者が選ぶCD-ROM Fan of the Year 2001」グランプリを受賞 * 2002年 1月 - PlayStation 2ソフト「真・三國無双2」日米合計100万本出荷を達成、北米版「KESSEN II」、Strategy Game of the Year受賞(「IGN.com」「GAMERWEB.com」「PSE2」それぞれより) * 2002年 6月 - 「PlayStation Awards 2002」にて「真・三國無双2」がGOLD PRIZEを受賞 * 2002年 8月 - イギリス・ロンドン現地法人「KOEI Ltd.」設立 * 2002年10月 - 「信長の野望」シリーズ、日経BP社主催「第15回130万人が選ぶパソコン・ベスト・ソフト」のエンターテインメント部門で4年連続第1位を獲得。「真・三國無双2」が「第6回CESA GAME AWARDS」において「GAME AWARDS YEAR 2001-2002優秀賞」を受賞 * 2003年 3月 - PlayStation 2ソフト「真・三國無双3」国内100万本出荷を達成 * 2003年 7月 - 「PlayStation Awards 2003」にて「真・三國無双」シリーズ3作品が同時受賞。「真・三國無双2」PLATINUM PRIZE 「真・三國無双3」PLATINUM PRIZE 「真・三國無双2 猛将伝」GOLD PRIZE * 2003年10月 - リトアニア・ヴィリニュス現地法人「UAB KOEI Baltija」設立 * 2004年 1月 - 「真・三國無双3」が「第7回CESA GAME AWARDS」において「GAME AWARDS YEAR 2002-2003優秀賞」を受賞 * 2004年 3月 - PlayStation 2ソフト「戦国無双」国内100万本出荷を達成 * 2004年 7月 - 「PlayStation Awards 2004」にて「無双」シリーズ2作品が同時受賞、「戦国無双」PLATINUM PRIZE 「真・三國無双3 猛将伝」GOLD PRIZE * 2004年 8月 - シンガポール現地法人「KOEI ENTERTAINMENT SINGAPORE Pte. Ltd.」設立 * 2004年10月 - 「戦国無双」が「第8回CESA GAME AWARDS」において「GAME AWARDS YEAR 2003-2004優秀賞」を受賞 * 2005年 7月 - 「読者が選ぶ角川グループ広告大賞2005」「電撃プレイステーション部門」にて「真・三國無双4」が大賞を受賞 * 2005年 7月 - 「PlayStation Awards 2005」にて「真・三國無双」シリーズ2作品が同時受賞(「真・三國無双4」PLATINUM PRIZE、「真・三國無双(PSP)」SPECIAL PRIZE) * 2005年10月 - 「真・三國無双4」、「遙かなる時空の中で3」が「第9回CESA GAME AWARDS」において「GAME AWARDS YEAR 2004-2005優秀賞」を受賞 * 2006年 6月 - 「真・三國無双4 Empires」が「読者が選ぶ角川グループ広告大賞2006」「週刊ファミ通部門」にて金賞を受賞 * 2006年 7月 - 「戦国無双2」が「PlayStation Awards 2006」にてGOLD PRIZEを受賞 * 2006年10月 - 財団法人日本産業デザイン振興会主催「2006年グッドデザイン賞」の商品デザイン部門において、「egword Universal」「egbridge Universal」の両製品ともにグッドデザイン賞を受賞 * 2007年 5月 - コーエージェミニ(新社屋)竣工 * 2007年 7月 - 「PlayStation Awards 2007」において2作品が同時受賞。「無双OROCHI」GOLD PRIZE 「ガンダム無双」SPECIAL PRIZE * 2007年10月 - 「無双OROCHI」が「読者が選ぶKADOKAWA広告大賞2007」「週刊ファミ通部門」にて大賞を受賞 * 2007年11月 - 「しゃべる!DSお料理ナビ まるごと帝国ホテル~最高峰の料理長が教える家庭料理~」が「第47回 消費者のためになった広告コンクール」で 「新聞広告」部門・銀賞を受賞 * 2008年4月 - 「ガンダム無双」が「ファミ通アワード2007」優秀賞を受賞 * 2008年6月 - コーエーレオ(新社屋:京都ビル)竣工 * 2008年8月 - 株式会社コーエーネットを完全子会社化 * 2009年4月1日 - テクモ株式会社と経営統合を行い、[[コーエーテクモホールディングス]]株式会社を設立。 * 2010年3月15日 - (新)'''株式会社コーエー'''設立(こちらは登記上の商号も「株式会社コーエー」)。 * 2010年4月1日 - 当社を存続会社としてテクモ株式会社を吸収合併し、'''株式会社[[コーエーテクモゲームス]]'''に商号変更。同時に開発機能を(新)株式会社コーエーに分離。 * 2011年4月1日 - 開発部門の効率化を図る為にコーエーテクモゲームスに統合され、開発機能としてのコーエーは消滅した。 出典:<ref>https://web.archive.org/web/20200118002321/http://www.koei.co.jp/company/history/#a2</ref> == 製品の特徴 == ; 価格 : 『信長の野望』『三國志』シリーズをはじめとして、全般的に製品価格が他社よりも高価だった。これは、情報収集料のためと説明されている。他方で、大容量のデータを使ってるためであるという説もあった<ref>{{Cite book|和書|author=<!--株式会社-->QBQ(編)|title=懐かしファミコン パーフェクトガイド|publisher=マガジンボックス|series=M.B.ムック|year=2016|ISBN=9784906735891|page=103}}</ref>が<ref>[https://news.denfaminicogamer.jp/projectbook/koei/2 信長から乙女ゲームまで… シブサワ・コウとその妻が語るコーエー立志伝 「世界初ばかりだとユーザーに怒られた(笑)」]</ref>、実際には他社との交渉役を担っていた[[襟川恵子]]が「主人が精魂込めて作ったものを安売りしたくない」<ref>[https://www.zakzak.co.jp/people/news/20111123/peo1111230817000-n1.htm 【襟川恵子】ゲームで女性応援!もっと輝いて!]zakzak</ref>「自信のある商品を売り出す時に遠慮はいらない」<ref>『週刊現代』2021年7月10・17日号 p.51</ref>と強く主張したことによる。[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]移行後は旧作の廉価販売も行っている。 ; サウンドウェア : 『[[信長の野望・戦国群雄伝]]』(1988年12月発売)からしばらくの間、「with サウンドウェア」と称して、ゲーム音楽をアレンジしたオーディオCDが付属する限定版が販売された。PC版「with サウンドウェア」バージョンは、通常版よりも2週間程度先行して発売されていた。 : サウンドウェアのCDはレコード店で単体販売もされていたが、PCのサウンド機能向上とともに媒体がCD-ROMへ移行し、BGMが[[CD-DA]]で収められるようになると単体販売は行われなくなった。またゲームの大容量化に伴い、BGMの収録形式もCD-DAから[[Windows Media Audio|WMA]]形式や独自形式に移行していった。 ; パワーアップキット : 90年代後半から、「[[パワーアップキット]]」という既リリースソフトの機能強化ソフトウェアが販売されている。これはデータ編集や拡張、コンピュータの思考ロジック改善等を可能にするもので、単体販売のほか本体(元のソフト)とキットのパッケージ販売(「with パワーアップキット」)が行われているが高価であるため不満も多い。 ; 海賊版対策 : 2004〜05年の間(『[[ウイニングポスト7]]』から『[[真・三國無双3|真・三國無双3ハイパー]]』まで)、[[海賊版]]対策としてネットワーク認証システムを[[パソコンゲーム]]ソフトに導入した。しかしインターネット常時接続環境が要求され、『[[信長の野望・革新]]』以降は廃止された(なお、『信長の野望・革新』ではプレーヤーのクリアデータの集計・分析などを行う「NetJoy」システムが導入された)。 : 海賊版及び中古品への対策から、各ソフトごとにシリアルナンバー・ユーザー登録を済ませていない場合、一般的なソフトメーカーのサービスの一環であるアップデートプログラム(バグ修正パッチ等)のダウンロードは行えない。 ; キャラクターボイス : 出演声優は[[青二プロダクション]]所属の声優が比較的多い。『[[金色のコルダ]]』のアニメでは青二プロが音響製作を担当した。 == ユーザー層 == {{出典の明記|date=2017-11|section=1}} ほぼシミュレーションゲームの専業メーカーだった頃は、いわゆるヘビーユーザーがメインの購入者層と言えた。その後、女性向け恋愛シミュレーションゲーム・[[ネオロマンスシリーズ]]や、アクションゲーム『[[真・三國無双]]』シリーズなどにより新しいユーザー層を獲得した。 さらに近年は[[ガンダムシリーズ]]や『[[北斗の拳]]』、『[[ONE PIECE]]』などの人気アニメを題材にした「[[無双シリーズ]]」を相次いで発売し、ライトユーザー層が大幅に増加している。 == GAMECITY == コーエーが運営するゲーム情報ウェブサイト。オンラインユーザー登録、[[コーエーファンクラブ]]入会、オンラインショッピング、オンラインゲームのアカウント作成などにはGAMECITY市民登録(無料)が必要となる。 == 不祥事・問題 == * 2005年に社内関係者が社内LANからMMOゲーム評価サイトに接続して投票するという不正行為をしたことが発覚し問題となり、公式サイトに謝罪文が掲載された[https://www.gamecity.ne.jp/nol/news/important/body_0104.htm]。 * 2009年12月、『[[大航海時代Online]]』の拡張パックである『El Oriente』のオープニングムービーにおいて、[[日本海]]の位置に「朝鮮海」と読み取れる単語が記載された古地図が採用されたことについて、公式BBSに抗議が多数寄せられるなどの問題となった。 {{main|大航海時代Online#オープニングムービーにおける「朝鮮海」表記問題}} == 関連会社 == * 株式会社コーエーテクモホールディングス * テクモ株式会社 * 株式会社コーエーネット * 株式会社コーエーキャピタル * 株式会社コーエーリブ * 株式会社コーエーミュージック * 株式会社コーエーアド * [[エルゴソフト|株式会社エルゴソフト]] * KOEI Corporation(アメリカ・カリフォルニア州) * KOEI CANADA Inc.(カナダ・トロント) * KOEI Ltd.(イギリス) * KOEI KOREA Corporation(韓国・ソウル) * KOEI ENTERTAINMENT SINGAPORE Pte. Ltd.(シンガポール) * UAB KOEI Baltija(リトアニア・ヴィリニュス) * 台湾光栄綜合資訊股{{Lang|zh-tw|份}}有限公司(台湾・台北) * 天津光栄軟件有限公司(中国・天津) * 北京光栄軟件有限公司(中国・北京) * 株式会社光優(同社の筆頭株主で、オーナー企業でもある) なお、旧コーエークレジット(旧[[幸福銀行]]グループ、現[[新生フィナンシャル]])との間に資本・人的関係はなかった。 == 作品一覧 == === 歴史シミュレーション === * シミュレーションウォーゲーム 川中島の合戦 ** オリジナルは日立製作所製パソコン・[[ベーシックマスター]]レベル3用。32KB程度の非常に小さな作品であった<ref>『SLG(シミュレーションゲーム)解体新書』 pp.61 光栄 ISBN 4-87719-022-8</ref>。 * [[信長の野望シリーズ]] * [[三國志シリーズ]] * [[蒼き狼と白き牝鹿シリーズ]] ** 上記3シリーズは「歴史三部作」と総称された時期があったが、蒼き狼と白き牝鹿シリーズは1998年以降続編が製作されておらず、以後「歴史三部作」の呼称も用いられなくなっている。 * [[水滸伝・天命の誓い]] ** [[水滸伝・天導一〇八星]] * [[ランペルール]] * [[項劉記]] * [[源平合戦 (コーエー)|源平合戦]] * [[独立戦争 Liberty or Death]] === WWIIゲーム === * [[提督の決断シリーズ]] * [[ヨーロッパ戦線]] === 第二次世界大戦 === * コンバット * Das Boot * ノルマンディー上陸作戦 * シミュレーションパック:レストラン経営ゲーム・ルンガ沖夜戦 * アルデンヌの戦い === 戦略シミュレーション === * [[決戦シリーズ]] * [[三國志戦記]]シリーズ * [[凱歌の号砲 エアランドフォース]](開発元:[[Cyc (ブランド)|Cyc]]) * SFシミュレーションゲーム 銀河戦略 * GOTHA イスマイリア戦役 * GOTHA II 天空の騎士 * 北海道戦争 * ダスブート * ホイホイ === RÉKOEITION(リコエイション) === {{See also|リコエイションゲーム}} * [[維新の嵐]]シリーズ * [[大航海時代シリーズ]] * [[伊忍道 打倒信長]] * [[太閤立志伝シリーズ]] * 神々の大地 古事記外伝 * プロジェネター * [[ゼルドナーシルト]] === 英傑伝シリーズ === 元はリコエイションゲームとして発売されたが、後に独立シリーズ化。 * [[三國志英傑伝]] ** [[三國志孔明伝]] ** [[三國志曹操伝]] * [[毛利元就 誓いの三矢]] * [[織田信長伝]] === 恋愛シミュレーション === * [[ネオロマンスシリーズ]](女性向け) ** [[アンジェリークシリーズ]] ** [[遙かなる時空の中でシリーズ]] ** [[金色のコルダ]]シリーズ * 約束の絆(男性向け) === 競馬シミュレーション === * [[ウイニングポストシリーズ]] * [[ジーワンジョッキー]]シリーズ * ホースブレイカー === ビジネスシミュレーション === * シミュレーションゲーム 投資ゲーム * [[トップマネジメント]] * リーディングカンパニー * [[エアーマネジメント]]シリーズ * [[ザッツキューティ]](That's QT) === アーティスト人生シミュレーション === * ライフ・イズ・ミュージック * バンドくん === イマジネーションゲーム === * [[ロイヤルブラッド]] * [[ロイヤルブラッドII 〜ディナール王国年代記〜]] * ケルトの聖戦 === RPG === * [[マジカル封神]] * [[ジルオール]] * [[トリニティ ジルオール ゼロ]](アクションRPG) * [[オプーナ]] * ダンジョン * タイムエンパイア * [[もんすたあ★レース]] * 地底探検 * ドラゴンアンドプリンセス * クフ王の秘密 * 剣と魔法 * アクシオム * [[メタモード]] === シミュレーションRPG === * [[西遊記 (ゲーム)|西遊記]](開発元:福気) * [[封神演義 (ゲーム)|封神演義]](開発元:福気) * [[ゼルドナーシルト]] === レースアクションRPG === * [[モンスター☆レーサー]] === アドベンチャー === * コリドール * サンセット・イン・ラディック * アドベンチャーパック:コンピュータジャック・山手線アドベンチャー * 七つの秘館(パッケージには'''謎ベンチャーゲーム'''と表記) ** 七つの秘館 戦慄の微笑 * ルイン ** 発売中止。『[[ゲームセンターCX]]』のインタビューで、[[シブサワ・コウ]]は企画内容が豊富すぎたため没になったと説明している。 === アクションゲーム === * [[無双シリーズ]] ** [[TROY無双]] ** [[三國無双]] ** [[真・三國無双シリーズ]] ** [[戦国無双シリーズ]] ** [[ガンダム無双]]([[バンダイナムコエンターテインメント]]と共同開発) ** [[無双OROCHIシリーズ]] ** [[北斗無双]] ** [[ワンピース 海賊無双]] * [[バトル封神]] * [[鋼鉄の咆哮シリーズ]](自社制作だが開発元:[[マイクロキャビン]]) * {{仮リンク|紅の海 (ビデオゲーム)|label=紅の海|en|Crimson Sea}}シリーズ * [[BLADESTORM 百年戦争]] * 魂の門 [[ダンテ・アリギエーリ|ダンテ]]-[[神曲]] * クリス 愛の旅立ち * [[デストレーガ]] * 空中戦 * CONSTRUCTION * JAILUS * クリス愛の旅立ち * クッキンカレー * ローリングペーパーズ * WIN BACK === スポーツ === * ゴルフ大会 * セ・パ2001(平成13年12月)<ref>[https://dengekionline.com/data/news/2001/10/26/e8ccf4b42c2f64f0cdd953f1b89018ea.html 超リアルプロ野球!コーエーのPS2ソフト『セ・パ2001』発売日が12月6日に決定!]</ref><ref>[https://www.gamecity.ne.jp/report/tgs2001a/tgs2001a.htm コーエーブースレポート]</ref><ref>[https://game.watch.impress.co.jp/docs/20010724/sepa.htm プロ野球の醍醐味をドラマチックに再現!コーエー「セ・パ 2001」]</ref> * ペナントレース === テーブルゲーム === * [[麻雀大会]]シリーズ * [[雀・三國無双]] * たのしい麻雀 * 迷路脱出 * Platina Pack5 ** 山くずし、チェッカー、ゴルフ、ディグ・ダウン、ニム * Silver Pack2 ** イーブン、ACYデューシー、クラッシュ、さいころ賭博、フィンガーショック、モグラたたき、テニス、スターキャッチャー、スネーククネクネ、スタートレック、リバーシ * Golden Pack2 ** 2次元迷路、15ゲーム、恋うらない、センチピード、藤原京エイリアン、ザ・フリズナ、ハノイの塔、ビット&ブロー、ミグ25、ラビットハンター、ルーレット * Bronz Pack6 ** アレンジボール、国盗りゲーム、三次元迷路、スペースチェスダサク、バトルオブタンク * 連珠 * コンストラクション コンステト * 60コイコイ === オンラインゲーム === * [[アプサラス (コーエー)|アプサラス]] * [[信長の野望Online]] * [[大航海時代Online]] * [[真・三國無双Online]] * [[三國志Online]] * [[三國志Battlefield]] * [[信長の野望Internet]] * [[三國志Internet]] === 携帯向けソーシャルゲーム === * 100万人の戦国無双 * 100万人の信長の野望 * [[のぶニャがの野望]] * 100万人の金色のコルダ * [[アンジェリークシリーズ|ラブラブ♥天使様 ~アンジェリーク~]] * 100万人の超WORLDサッカー! * 100万人のウイニングポスト * 100万人のモンスターファーム * 100万人の三國志 * 100万人の真・三國無双 * 100万人の大航海時代 === アダルト === * ナイトライフ * [[ストロベリーポルノシリーズ]] ** 団地妻の誘惑 ** オランダ妻は電気ウナギの夢を見るか? * マイ・ロリータ === その他 === * N88ベーシックコンパイラ * いろは * 商売繁盛 * スーパードッグワールド * ヴァーチャパーク the フィッシュ * デルフォイの神託 * EMIT ** vol.1「時の迷子」 ** vol.2「命がけの旅」 ** vol.3「私にさよならを」 *: 英語学習ノベルソフト。1995年に[[日本ソフトウェア大賞]]の読売新聞社賞を受賞。タイトルは「TIME」の綴りをひっくり返したもの。 *: スタッフは、シナリオ原案:[[赤川次郎]]、作画:[[いのまたむつみ]]、音楽:[[小室哲哉]]、主題歌:[[篠原涼子]]、ヒロイン役[[声優]](日本語部分):[[林原めぐみ]]ほか。 *: 対応機種は[[FM TOWNS]]、[[パーソナルコンピュータ|PC]]、[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]、[[セガサターン]]、[[スーパーファミコン]](SFC)、[[3DO]]。CD-ROMドライブを持たないSFC版は別に対応した赤外線リモコン付きオーディオCDプレイヤーを用意し、付属の「ボイサーくん」を用いてSFCから音声出力を制御させる必要があった。 * ボイサーくん - SFC用サウンドウェア制御アダプタ * ダークハンター * HOIHOI(ゲームボーイ版はパズルゲーム) * セガサターン ワープロセット - セガサターン用[[EGWORD]]と、[[キヤノン]]製カラーバブルジェットプリンタBJC-210Jのセット。セガサターンを日本語ワープロとして使用できる。 == 出版 == * シブサワ・コウシリーズ(PC版ゲームのハンドブック(攻略法のみならず、歴史背景等を知るための読み物等も収録している)) * シブサワ・コウ攻略シリーズ(FC版ゲームの攻略本) * 光栄ゲーム用語事典(1989年12月発行。『信長の野望・全国版』『信長の野望・戦国群雄伝』『三國志』『蒼き狼と白き牝鹿・ジンギスカン』『水滸伝・天命の誓い』『維新の嵐』『麻雀大会』の7作品の全用語・データと、その他のゲーム・会社関連の用語解説を収録) * 歴史人物笑史([[シブサワ・コウ]]編、光栄出版部。1991年〜1998年。『爆笑三国志1〜6』『爆笑信長の野望1〜3』『爆笑クイズ三国志1〜4』『爆笑忍者伝』『爆笑剣豪伝』『爆笑ギリシア神話1〜3』『爆笑水滸伝1〜3』『爆笑新選組』『爆笑花の元禄』『爆笑西遊記』『爆笑アーサー王』『爆笑日本神話』『爆笑史記列伝1〜2』『爆笑平安京』『爆笑中国怪異伝』『爆笑アラビアンナイト』『爆笑平家物語』『爆笑グリム童話』『爆笑封神演義1〜3』『爆笑北欧神話』『爆笑フランス革命』『爆笑インド神話』『爆笑エジプト神話』『爆笑ケルト神話』『爆笑ヴァンパイア』『爆笑八犬伝』『爆笑封神演義人物事典』『爆笑幕末維新』『爆笑三国志人物事典』) * 電楽(1991年刊行のパソコン雑誌。半年足らずで廃刊) * 光栄ゲームパラダイス(1993年3月〜94年12月に刊行していた光栄ゲームファン情報・投稿誌。Vol.1.0〜Vol.10まで刊行。当初は季刊、後に隔月刊) ** 歴史パラダイス(1995年2月〜96年4月に刊行していた歴史ファン情報・投稿誌。『光栄ゲームパラダイス』の後継誌。全8巻刊行。隔月刊) ** 月刊Da Gama(1996年8月〜1997年7月に刊行していた歴史ファン情報・投稿誌。『歴史パラダイス』の後継誌。1996年9月号〜1997年8月号まで刊行) ** 歴史ファンワールド(1997年12月〜99年3月に刊行していた歴史ファン情報・投稿誌。『月刊Da Gama』の後継誌。全6巻刊行。季刊) * [[GAMECITY文庫]](2007年12月〜2009年3月に刊行していたライトノベル系文庫レーベル) == 脚注・出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book ja-jp | editor = THE COMPUTER編集部 | year = 1991 | title = パソコンヒット商品物語 | publisher = ソフトバンク | isbn = 4-89052-194-1 | pages = pp.220-}} - 襟川陽一インタビューなど。 * {{Cite book ja-jp | author = 多摩豊 | year = 1993 | title = SLG(シミュレーションゲーム)解体新書 | publisher = 光栄}} * {{Citation|last=佐々木|first=潤| year = 2013 | title = 80年代マイコン大百科 | publisher = 総合科学出版}} * [https://news.denfaminicogamer.jp/projectbook/koei 信長から乙女ゲームまで… シブサワ・コウとその妻が語るコーエー立志伝 | 電ファミニコゲーマー] 2016年3月22日 == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|コンピュータゲーム|[[画像:Gamepad.svg|34px|Portal:コンピュータゲーム]]}} * [[シブサワ・コウ]] * [[北見健]] * [[オメガフォース]] == 外部リンク == * [https://www.gamecity.ne.jp/ GAMECITY] * [http://www.koei.co.jp/koei_home.html 株式会社コーエー] * {{Mediaarts-db}} {{コーエーテクモグループ}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:こおええ}} [[Category:コーエーテクモグループの歴史|*こおええ]] [[Category:MSX]] [[Category:1978年設立の企業]] [[Category:2009年の合併と買収]] [[Category:かつて存在した神奈川県の企業]] [[Category:かつて存在した日本の出版社]] [[Category:かつて存在した日本のコンピュータゲームメーカー]] [[pt:Koei Tecmo Holdings#Koei]]
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映画スタッフ
映画スタッフ(えいがスタッフ)は、専門技術をもって、演出側(監督)の要求に応じて映画作品作りに参加している人々を指す。広い意味では、宣伝・配給など監督の権限が及ばない分野の関係者も指す。 大きくは技師と助手に分ける事が出来る。監督、プロデューサーもスタッフではあるが、技師の範疇には通常入れない。また演技者である俳優はこの中には含まない。以下は日本映画における例。 助手をつけず、単独で参加することが多いのが、 等。 スタッフの分け方として という分け方をする場合も多い。
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'''映画スタッフ'''(えいがスタッフ)は、専門技術をもって、演出側([[映画監督|監督]])の要求に応じて[[映画|映画作品]]作りに参加している人々を指す。広い意味では、[[宣伝]]・[[映画配給|配給]]など監督の権限が及ばない分野の関係者も指す。 == 役割による分類 == 大きくは技師と助手に分ける事が出来る。監督、[[映画プロデューサー|プロデューサー]]もスタッフではあるが、技師の範疇には通常入れない。また演技者である[[俳優]]はこの中には含まない。以下は[[日本映画]]における例。 === 技師 === * キャメラマン([[撮影技師]] 映画界では、動画撮影用のcameraのことを、“カメラ”ではなく“キャメラ”と表記・発音する人が多い{{要出典|date=2009年12月}}。また、スチール撮影等に使うcameraについては“カメラ”として区別する場合もある) * [[照明技師]] * [[録音技師]] * [[デザイナー]] * 装飾 * [[衣裳デザイナー]] [[スタイリスト]] * [[メイクアップアーティスト|ヘアメイク]] * [[編集]] * [[操演]] * ライン・プロデューサー、製作担当、製作主任 === 助手 === * 演出部([[助監督 (映画スタッフ)|助監督]]、[[アシスタントディレクター|AD]]) * 制作部([[制作進行]]、進行助手) * 撮影部(撮影助手、カメラアシスタント(CA)) * 照明部(照明助手) * 録音部(録音助手) * [[美術 (職業)|美術部]](美術助手) * 装飾部(装飾助手、小道具、持道具) * 特殊効果 * 衣裳部(衣裳助手) スタイリスト助手 * ヘアメイク部(ヘアメイク助手) * 編集部(編集助手) === その他 === 助手をつけず、単独で参加することが多いのが、 * [[脚本家]] * [[スクリプター]] * [[映画音楽|音楽家]] 等。 * [[スタント]](日本では[[スタントマン]]を技師の範疇とする事が多いが、海外作品では俳優としスタントコーディネイターを演出部とする)。 == 制作工程による分類 == スタッフの分け方として * 撮影準備期間([[プリプロダクション]])に主にかかわるスタッフ * 撮影期間に主にかかわるスタッフ * 撮影後の仕上げ段階作業(ポストプロダクション→[[スタジオ (映像編集)|編集スタジオ]]・[[録音スタジオ]]参照)で主にかかわるスタッフ という分け方をする場合も多い。 == 主な映画スタッフ == {{See|映画スタッフ一覧|日本の映画スタッフ一覧}} {{Film-bio-stub}} {{Filmmaking}} {{DEFAULTSORT:えいかすたつふ}} [[Category:映画スタッフ|*]]
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ニジェール
ニジェール共和国(ニジェールきょうわこく、フランス語: République du Niger)、通称ニジェールは、西アフリカのサハラ砂漠南縁のサヘル地帯に位置する共和制国家。首都はニアメである。内陸国であり、北西から反時計回りでアルジェリア、マリ、ブルキナファソ、ベナン、ナイジェリア、チャド、リビアと隣接する。 正式名称はフランス語で、République du Niger(レピュブリク・デュ・ニジェール)。通称、Niger。公式の英語表記は、Republic of Niger(リパブリク・オヴ・ナイジャもしくはニージェア)。通称、Niger。日本語の表記は、ニジェール共和国。通称、ニジェール。 国名の由来は、ニジェール国内を流れるニジェール川より。ニジェール川の語源は、遊牧民のトゥアレグ族によりこの川がニエジーレン(n'egiren)「川」、またはエジーレン(egiren)「川」と呼ばれていたことによる。これがフランス人に伝えられ、ラテン語で「黒」を意味するニジェール(niger)と転訛した。 ニジェール (Niger) とナイジェリア(Nigeria) の2か国は本来、同じ地域を指しているが旧宗主国を異にする両地域が別々に独立した際、現在のように別の国を指すこととなった。 9世紀ごろ、ニジェール川流域に現在のマリ東部のガオを首都とするソンガイ帝国が興り、ニジェール川流域地方を支配した。ソンガイは早くから北アフリカとの交易があり、イスラム化が進んでいた。東部のチャド湖周辺はカネム王国が支配していた。ソンガイ帝国は14世紀にはマリ帝国の属国となったものの14世紀後半には再独立し、15世紀には最盛期を迎えた。このころにはソンガイの勢力圏は中部にまで及んでいたが、16世紀末には帝国がモロッコのサアド朝に敗れたためこの支配は崩壊した。東部はカネム王国が南遷したボルヌ帝国の支配下にあった。19世紀にはダマガラム(現ザンデール)に小王朝があり、その他いくつかの小勢力が割拠していたが、ニジェール全体を支配する勢力は存在しなかった。 19世紀末にはイギリスとフランスが進出し、1898年両国の協定によってフランスが20世紀までに全土を領有(フランス領西アフリカ)。フランスはジェルマ人(英語版)を優遇し、最大民族のハウサ人などを支配させる政策を採った。1900年にはen:Sultanate of Agadez(1449年-1900年)も併合された。1916年、トゥアレグ族の貴族Kaocen Ag Mohammedがアガデスで蜂起した(en:Kaocen Revolt)。翌年、反乱はフランス軍に鎮圧された。1922年にフランス領西アフリカの一部に再編された。1926年、ハウサ人が多数派のザンデールからジェルマ人が多いニアメに行政機能が移され、遷都した。 1958年には自治国となり、自治政府首相にはニジェール進歩党党首のアマニ・ディオリが就任した。ディオリは1959年、政敵であるサワバ党のジボ・バカリを追放しサワバ党の活動を禁止した。1960年8月3日に共和国として独立し、初代大統領にはディオリが就いた。ディオリは建国後すぐに他党を禁止し一党制を敷くとともに親仏的立場を取りながらアフリカの有力政治家として外交で活躍したものの内政は停滞を続け、1970年代の大旱魃によって国内情勢は不安定化した。 1974年4月、陸軍のセイニ・クンチェ参謀長がクーデターで軍事政権「最高軍事評議会」を樹立し同評議会の議長に就任した。憲法は停止され、議会・政党活動も中止された。クンチェ政権のもとでは北部のアーリットでウランの生産が開始され、また旱魃が収まったため1980年ごろまで経済は成長を続けたが、その後はまた旱魃が起き、ウラン価格の低迷もあって経済はふたたび停滞した。1987年11月にはクンチェ参謀長が死亡し、アリー・セブが後継者となった。 そのセブは1989年に社会発展国民運動を結成して民政移管を目指し、同年9月の国民投票で新憲法が承認され、12月の選挙でアリー・セブが大統領に選出されて形式的に民政移管したものの、非民主的な体制はそのままだった。1990年、中央政府の資源独占に不満を持つトゥアレグ族とトゥーブゥー族(英語版)の反政府勢力との間でトゥアレグ抵抗運動(英語版)が勃発した。 1991年になると民主化運動が激しくなり、セブ政権は民主化にとりかかった。1992年12月に新憲法が国民投票で承認されて複数政党制が認められ、1993年2月の議会選で6党の連合体「変革勢力同盟」が、軍事政権時代の与党「社会発展国民運動(MNSD)」に勝利した。3月の大統領選挙では民主社会会議(CDS)のマハマヌ・ウスマン党首が当選。4月にマハマドゥ・イスフが首相に就任した。 1995年1月の総選挙では MNSD などの野党連合が勝利し、2月にハマ・アマドゥ(英語版)MNSD書記長が首相就任。4月、自治を求めるトゥアレグ族およびトゥーブゥー族(英語版)反政府勢力と和平合意。 1996年1月、軍のクーデターでイブライム・バレ・マイナサラ陸軍参謀長を議長とする「救国委員会」が軍事政権を樹立。 7月の大統領選挙でマイナサラ議長がウスマン前大統領をやぶり当選。12月マイナサラ大統領は救国委員会を解散、アマドゥ・シセ(英語版)前経済相を首相に任命したが、1997年11月には野党との対立やストライキ問題を解決できないとして解任、イブライム・ハッサン・マヤキ(英語版)外相を新首相に。 1999年4月、再び軍がクーデターを起こし、大統領警護隊がニアメの空港でマイナサラ大統領を銃殺した。そして警護隊隊長のダオダ・マラム・ワンケ少佐を議長とする軍事政権「国家和解評議会」が実権を掌握。議会を解散し、憲法を停止した。軍事政権による憲法草案の是非を問う国民投票が7月行われ、約90 %の支持で承認された。新憲法は大統領と首相の権力分担を規定。 10月の大統領選挙で軍の元幹部で MNSD党員のタンジャ・ママドゥが当選した。ママドゥ大統領は12月、MNSD書記長のハマ・アマドゥ(英語版)元首相を首相に任命した。 2000年3月、マハマドゥ・イスフ元首相が率いるニジェール民主社会主義党(PNDS)を中心とした野党勢力が「民主勢力連合」(CFD) を結成。6月 MNSD など大統領支持勢力が議会多数派の「民主勢力同盟」(AFD) を結成した。2001年2月、大学への政府補助金50 %以上削減に抗議した学生が各地でデモ、警官隊と衝突。政府はアブドゥ・ムムニ大学(英語版)(旧ニアメ大学)を閉鎖。4月マイナサラ大統領銃殺事件の捜査を求める支持者ら数千人が首都でデモ。2002年7月、賃金や待遇に抗議した軍兵士が南東部のディファで反乱を起こし、ラジオ局を占拠。政府は同月のうちに、ディファに非常事態宣言を発令した。反乱は8月にはニアメにも拡大したが、政府軍が鎮圧。200人以上の兵士が逮捕された。 ニジェール川のレテ島(英語版)の帰属問題をめぐり、ベナンと国境紛争を抱える。2000年5月、島に建設中のベナン政府施設をニジェール軍が破壊。6月に双方が会談したが決裂し、アフリカ統一機構(OAU、現アフリカ連合)などに仲裁を要請し2001年6月、両国は結論を国際司法裁判所(ICJ)の判断にゆだねることで合意した。 2004年末の大雨でサバクトビバッタが発生した結果(「サバクトビバッタの大量発生(英語版)(2003年 - 2005年)」、「2003-2005年の蝗害」)、マラディ、タウア、ティラベリ、ザンデールで食糧危機(英語版)が起こった(サヘル旱魃(英語版)を参照)。2007年にはトゥアレグ抵抗運動(英語版) が再燃した。 ママドゥ大統領は2009年8月4日に新憲法制定に関する国民投票を行うと表明した。憲法裁判所は違法な決定と判断したが、ママドゥは憲法裁判所を解散させ、投票を強行する構えを見せた(en)。この国民投票は予定通り実施され、新憲法は採択された。これにより、2012年の新憲法施行までの3年間、ママドゥが現行憲法のもとで引き続き政権を率いることになり、更に現行憲法に存在した3選禁止規定が新憲法では削除されたことで、2012年以降もママドゥが大統領職に留まり続ける可能性が出てきた。 2010年2月、ママドゥ大統領が3期目を目指し任期延長を強行しようとしたことから、国内の緊張が悪化。2月18日、再び軍がクーデターを起こし、軍が大統領と閣僚を拘束。国軍高官が「民主主義復興最高評議会(Supreme Council for the Restoration of Democracy、CSRD)」による軍事政権の樹立を宣言し、憲法の停止と政府の解散の宣言、国境の閉鎖、夜間外出の禁止を発令した。このクーデターに対し国際社会は批判を強めているが、一方で数千人の市民が軍の兵舎の周囲に集まり「軍万歳」などと叫びながら軍事政権への支持を示すなど国民はクーデターを歓迎。サル・ジボが暫定国家元首に就任した。その後、軍事政権が採択した新憲法案が2010年11月の国民投票(英語版)で可決され、ママドゥの企図した大統領権限を強化する新憲法は葬り去られた。 2011年4月7日、選挙による新大統領にニジェール民主社会主義党のマハマドゥ・イスフが選ばれた。なお、イスフ大統領は2016年の選挙で再選された。 イスフの任期満了に伴う総選挙(英語版)が2020年12月27日に実施されるも、候補の中で過半数を獲得した者がいなかったため2021年2月21日にモハメド・バズムとマハマヌ・ウスマンの決選投票が実施された。結果はバズムが55パーセントの票を獲得し当選した。敗北したウスマン陣営は、選挙結果の不正を主張しデモ活動を実施した。3月31日には一部の軍人によるクーデター未遂(フランス語版)が起きた。背景には選挙への不信感や、3月21日にタウア州ティリア(フランス語版)で発生したイスラム系過激派組織ISILによる虐殺事件(フランス語版)といったテロへの不安が挙げられる。 2021年4月2日、バズム大統領の就任式が執り行われた。民主的な選挙で選出された文民同士の政権交代はニジェールの歴史上初めてとなる。バズム大統領は翌日に新たな首相を指名し、新政権が発足した。 2023年7月26日にバズム大統領が大統領警護官により身柄を拘束され、アマドゥ・アブドラマン(英語版)大佐ら兵士が国営テレビにてバズム政権の崩壊を宣言した(2023年ニジェールクーデター)。ハッソウミ・マスドゥ(英語版)外相は自身が大統領代行であると宣言し、「全ての国民に対し、この国に危険を及ぼす軍部を打ち負かすように」と訴えた。バズム大統領を拘束した大統領警護隊は「祖国防衛国民評議会」と名乗っている。暫定元首である祖国防衛国民評議会議長にアブドゥラハマネ・チアニが選出された。 ニジェールは共和制・大統領制をとる立憲国家で、現行憲法は2010年11月25日に公布されたものである。ただし2023年クーデターを引き起こした軍事政権が2023年7月28日に憲法停止を宣言している。 国家元首である大統領は国民の直接選挙により選出され、任期は5年。2010年憲法により3選は禁止されている。 首相および閣僚は大統領により任命される。 立法府は一院制で、正式名称は「国民議会」。定数は113議席で、議員は国民の直接選挙により選出される。113議席のうち105議席は民族や地域に関係なく政党名簿比例代表制度により、残り8議席は小選挙区制により少数民族から選出される。議員の任期は5年である。5 %以上の投票が得られない政党には議席は配分されない。 ニジェールは複数政党制であり、2011年以降の与党は左派のニジェール民主社会主義党である。他に野党として中道右派の社会発展国民運動(MNSD)や中道の民主社会会議(CDS)などがある。 選抜徴兵制。兵役は2年。陸軍5,200人、空軍100人、憲兵隊1,400人、共和国警備隊2,500人、国家警察隊1,500人。2020年の国防予算は2.02億ドル。 フランスとの軍事協定を1977年から2020年にかけて5つ結んでおり、アルカーイダやISIL(イスラム国)と関連のある勢力に対抗するため1000~1500人規模のフランス軍部隊が駐留している。しかしクーデターを引き起こし政権を掌握した軍事政権が2023年8月3日に対仏軍事協定を破棄した。同年9月24日、フランスのエマニュエル・マクロン大統領は年内に駐留軍を撤退させると表明した。 ニジェールの気候は北部に行くほど乾燥しており、北部・中部を中心に国土の5分の4をサハラ砂漠が占めている。南部は全域がサヘル地帯に属しており、ステップ気候 (BSh、砂漠気候からサバナ気候への移行部) を示す。サヘル北部は降水量が150 mmから300 mmほどであり、農耕は不可能だがわずかに育つ草を利用して遊牧が行われている。サヘル中部は降水量が300 mmから600 mmほどとなり、天水農業が主力となり牧畜も行われている。この気候帯は全国土の10 %ほどを占め、首都のニアメやザンデールなどの主要都市が点在し、ニジェールの人口の多くがこの地域に居住する。南下するほど降水量は増加していき、ベナン国境に近い国土の最南部は全国土の1 %ほどにすぎないが降水量が600 mmから750 mmほどとなって最も農業に適している。雨季は南に行くほど長くなるが、おおよそ6月〜9月が雨季に当たり多湿となる。2月にはサハラ砂漠から非常に乾燥した季節風ハルマッタンが吹き込むため気温が下がり、または砂塵がひどくなる。 地形は基本的に南に向かうほど標高が低くなるが、国土中央のアイル山地および北端のリビア国境の山地を除いてはおおむね平坦な地形である。最高地点はアイル山地のイドゥカル・ン・タジェ山 (別称バグザン山、標高2022 m) で、最低地点はニジェール川の標高200 mである。 ニジェールは乾燥地帯に位置し、年間を通じて流水があるのは国土南西部を流れるニジェール川のみである。なお、南東端はチャド湖に面していて、このほかにも雨季になると各所に湖沼や季節河川が出現し貴重な水資源となっている。 ニジェールは7つの州 (région) と1つの首都特別区 (capital district) から構成されている。 ニジェールの最大都市は国土の南西部、ニジェール川沿いに位置する首都のニアメである。人口は国土の南部に偏在しており、マラディやザンデールといった都市が点在するが国土の中部・北部は砂漠地帯であり、オアシス都市で古くからのサハラ交易の要衝であるアガデスと、ウラン鉱開発の拠点として急速に都市化したアーリットを除き都市らしい都市は存在しない。 農業、畜産業、鉱業が主産業。国民総所得は161億ドル、(1人当たり610ドル、2022年)で、世界最貧国の1つでもある。周辺の8か国とともに西アフリカ諸国中央銀行を中央銀行としており、通貨はCFAフランである。 第1次産業人口は56.9 %(2005年)を占めるが、農業は自給農業が中心で、南部に限られる。降雨量は少ないが灌漑も発達しておらず、水源も乏しいため、ほとんどは天水農業である。そのため、降雨量に収量は大きく左右されるがサヘル地域は雨量が不安定であり降水量の年較差が激しいため、しばしば旱魃が起こる。 ニジェールのおもな作物は雨量の多いサヘル南部ではモロコシ、より乾燥したサヘル中部ではトウジンビエ(パールミレット)が栽培される。1980年代以降、特にモロコシにおいて単収の減少が目立ち、1980年の1ヘクタール当たり479kgから、2001年には1ヘクタール当たり255kgと、ほぼ半減している。これは人口増加により旧来の土地休閑が不可能になり、土地が酷使されるようになったためである。これに対し総生産量は増加しているが、これは耕作面積が3倍近く増加しているため、単収の減少を耕地の増加で補っているためである。トウジンビエにおいては旧来の土地休閑が可能であったため、単収減少は起こっていない。モロコシ・トウジンビエは平年は自給が可能であるが、旱魃が起こった場合供給が不足する。このほか、南部のニジェール川流域において米の栽培が行われており、とくにティラベリ州において集約的に栽培されるが、国内需要が大きく伸びているため自給ができず、多くを輸入に頼る状況となっている。 輸出用作物としては植民地時代に落花生の栽培が奨励され、1960年代初期には総輸出額の80 %が落花生およびピーナッツオイルによって占められていたが、1970年代にはすでに割合はかなり小さくなっており、それ以降は輸出額はごくわずかなものにとどまっている。農作物のなかで輸出額が多いのはタマネギやササゲであるが、いずれも総輸出額に占める割合は非常に少ない。ササゲの輸出の大半はナイジェリア向けであり、タマネギの輸出先も近隣諸国がほとんどである。 牧畜は農業よりは盛んであり、ウシやヒツジ、ヤギ、ラクダが主に飼育される。南部のフラニ人はウシを主に飼育し、北部のトゥアレグ人はラクダやヤギを中心に飼育を行っているほか、各地の農耕民も牧畜を行っている。家畜輸出は農業輸出よりも大きく、ウシ・ヒツジ・ヤギが主に輸出される。内水漁業の規模は2005年で年間漁獲高5万t前後であり、そのうちの約4万5000 t、90 %近くをチャド湖での漁獲が占めており、ニジェール川が3700 t前後、他の水域での漁獲はわずかなものにとどまっている。 独立時は上記のわずかな農牧業に頼っていたが、1971年に北部のアーリットでウラン鉱の生産が開始され、以後ウランの輸出が経済の柱となった。ウランは確認できるだけで世界第3位の埋蔵量を誇っている。ニジェールのウラン鉱山はアーリット鉱山とアクータ鉱山の2つの鉱山からなり、アーリット鉱山はフランス原子力庁(のちにアレヴァ社)とニジェール政府が、アクータ鉱山はニジェール政府・フランス原子力庁(のちにアレヴァ社)・日本の海外ウラン資源開発社・スペインの資本がそれぞれ出資している。 ウラン関連産業は全雇用の約20 %を占める。2014年にはウランが総輸出額の45.6 %を占め、ニジェール最大の輸出品となっているが、あまりにウランの経済に占める割合が高いため、ウランの市場価格の上下がそのまま経済に直撃する構造となっており、経済成長率はウラン価格の動静に左右されている。 一方、東部では油田が発見され、2014年には石油製品が総輸出額の25.9 %を占めて第2位の輸出品となった。またブルキナファソの国境に近いリプタコ地方においては金が産出され、これも輸出される。 ニジェールは、1997年の旱魃で国民の4分の1が飢餓の危機に陥った。さらにウラン価格の低下、度重なる政情不安による海外援助の途絶により、1999年末には国家経済が事実上の破産状態に陥った。しかし、2000年12月に国際通貨基金 (IMF) などは貧困削減対策としてニジェール政府が背負う8億9,000万ドルの債務免除を発表し、7,600万ドルの融資を決定するなど明るい兆しも見えてきている。 ニジェールの交通の主力は道路交通であるが、それほど整備が進んでいるわけではない。最も重要な道路は首都のニアメから国土の南端ガヤへ向かう道路で、ここからベナンに入りベナン中部のパラクーから鉄道でコトヌー港へと向かうのがニジェールの主な輸出ルートである。またマリ国境のからニアメ、ドッソ、マラディ、ザンデール、ディファといった主要都市を通ってチャド湖沿岸のンギグミまで、ニジェールの人口稠密地帯を結ぶ全線舗装の幹線道路が走っている。このほか、ザンデールからアガデス・アーリットを通ってアルジェリア国境のアッサマッカへと向かうサハラ縦断道路が存在するが、舗装はザンデールからアーリット間のみにとどまっている。ニジェール川には、ニアメ市のケネディ橋やガヤ市の橋など、数本の橋が架けられている。 ニジェールには、ニアメのディオリ・アマニ国際空港をはじめとしていくつかの空港が存在するが、国際便がニアメに発着するのみで1980年代以降国内線はわずかなチャーター便を除きほとんど運行していない。このため、国内輸送において航空輸送はほとんど意味を持っていない。 ニジェール国内に鉄道は存在しない。植民地時代にはコートジボワールのアビジャンからオートボルタの首都ワガドゥグーを通ってニアメまでの鉄道が計画されていたものの、1954年にワガドゥグーに到達したところで工事は中断し、やがて独立とともに計画は立ち消えとなってアビジャン・ニジェール鉄道の名にその痕跡を残すのみとなっている。これに代わってダオメー(現ベナン)経由の鉄道計画が浮上し、1959年にはベナン・ニジェール鉄道輸送共同体が設立されてダオメー国内の鉄道にニジェールが参画することとなった。1970年代にはパラクーからニアメへの鉄道延伸が決定されたが、資金不足で工事は中止された。 2016年の人口は2067万2987人。国連による統計では2015年〜2020年の人口増加率は3.81と世界3位。世界銀行によると、ニジェールの出生率は2016年には7.2となり世界一となっていることから人口爆発を引き起こし、2020年に2332万人、2050年に6120万人、2070年に1億0122万人、2100年には1億2403万人にまで増加すると予測されている。 ニジェールの最大民族はハウサ族であり、2001年には人口の55.4 %を占めていた。ハウサ人は主に南部のナイジェリア国境沿いに居住し、ザンデールやマラディなどが居住域の主な都市である。次の大きな民族グループは南西部に居住するジェルマ(英語版)-ソンガイ族であり、人口の21 %(2001年)を占めている。ジェルマ・ソンガイは首都ニアメの多数派民族であり、ニジェール川沿いを主な居住域としている。これに次ぐのは北部の砂漠地方を中心に居住する遊牧民トゥアレグ族であり、全人口の9.3 %(2001年)を占める。第4位の民族はフラニ族であり、人口の8.5 %(2001年)を占める。フラニ人も遊牧民であるが、北部に多いトゥアレグ人とは異なり、北端を除き全国にまんべんなく分布する。このほか、南東部に多いカヌリ族(英語版)や、同じく南東部のディファ市周辺に多いディファ・アラブ族(英語版)、トゥーブゥー族(英語版)、グルマ族(英語版)などの民族が居住する。 フランス語が公用語であるが、日常においてはハウサ語、ジェルマ語、フラニ語などの各民族語が主に話されている。 イスラムが90 %を占め、中でもスンニ派が全人口の85 %を占めている(2005年)。他にアニミズム、キリスト教も。 ニジェールの教育制度は小学校6年・中学校4年・高校3年・大学3年であり、小学校と中学校の10年間が義務教育となっている。ただし飛び級制度および落第制度があり、またそれ以外でも学校教育からドロップアウトする者も多いため、入学者に比べ卒業者は少なくなっている。識字率は19.1 %(2015年)にすぎない。 国内の大学は、1971年に設立された総合大学アブドゥ・ムムニ大学(旧ニアメ大学)やイスラム大学であるサイ・イスラム大学が存在する。 同国は慢性的な資源不足と人口に比べて医療提供者が少数である現状に苦しんでおり、今も事態が解決へ向かっていない。 イスラム過激派組織によるテロ・誘拐事件が多発しており、外国人も被害に遭っていることが報告されている。 日本の大学の講師である大山教授はニジェールにて緑化プロジェクトを2021/04/28に開始する。餓えと争いをなくすため、砂漠をゴミで緑化する活動を開始してプロジェクトを成功させる。 「アフリカの人道危機を解決する実践平和学」 アジア・アフリカ地域研究研究科 教授 主食にはキビ、米、キャッサバ、ソルガム、トウモロコシ、豆などを用いている。 料理に様々なスパイスが使用されることが特徴でもある。 ニジェール国内には、文化遺産が1件(アガデス歴史地区)及び自然遺産が2件(アイル・テネレ自然保護区、W国立公園)の3つの世界遺産が存在する。アガデスはサハラ交易で栄えたオアシス都市であり、その古い町並みが世界遺産に指定された。アイル・テネレ自然保護区は国土中央部の山地及び砂漠地帯である。W国立公園は国土の南端に位置し、ニジェール、ブルキナファソ、ベナンにまたがるニジェール川の流域で自然がよく残され、多くの動物が生息している。 ニジェール国内でも、他のアフリカ諸国同様にサッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。1966年にサッカーリーグのニジェール・スーパーリーグ(英語版)が創設された。ニジェールサッカー協会(英語版)によって構成されるサッカーニジェール代表は、FIFAワールドカップには未出場である。アフリカネイションズカップには、2012年大会で初出場し続く2013年大会にも出場したものの、両大会ともグループリーグ敗退に終わった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ニジェール共和国(ニジェールきょうわこく、フランス語: République du Niger)、通称ニジェールは、西アフリカのサハラ砂漠南縁のサヘル地帯に位置する共和制国家。首都はニアメである。内陸国であり、北西から反時計回りでアルジェリア、マリ、ブルキナファソ、ベナン、ナイジェリア、チャド、リビアと隣接する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "正式名称はフランス語で、République du Niger(レピュブリク・デュ・ニジェール)。通称、Niger。公式の英語表記は、Republic of Niger(リパブリク・オヴ・ナイジャもしくはニージェア)。通称、Niger。日本語の表記は、ニジェール共和国。通称、ニジェール。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "国名の由来は、ニジェール国内を流れるニジェール川より。ニジェール川の語源は、遊牧民のトゥアレグ族によりこの川がニエジーレン(n'egiren)「川」、またはエジーレン(egiren)「川」と呼ばれていたことによる。これがフランス人に伝えられ、ラテン語で「黒」を意味するニジェール(niger)と転訛した。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ニジェール (Niger) とナイジェリア(Nigeria) の2か国は本来、同じ地域を指しているが旧宗主国を異にする両地域が別々に独立した際、現在のように別の国を指すこととなった。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "9世紀ごろ、ニジェール川流域に現在のマリ東部のガオを首都とするソンガイ帝国が興り、ニジェール川流域地方を支配した。ソンガイは早くから北アフリカとの交易があり、イスラム化が進んでいた。東部のチャド湖周辺はカネム王国が支配していた。ソンガイ帝国は14世紀にはマリ帝国の属国となったものの14世紀後半には再独立し、15世紀には最盛期を迎えた。このころにはソンガイの勢力圏は中部にまで及んでいたが、16世紀末には帝国がモロッコのサアド朝に敗れたためこの支配は崩壊した。東部はカネム王国が南遷したボルヌ帝国の支配下にあった。19世紀にはダマガラム(現ザンデール)に小王朝があり、その他いくつかの小勢力が割拠していたが、ニジェール全体を支配する勢力は存在しなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "19世紀末にはイギリスとフランスが進出し、1898年両国の協定によってフランスが20世紀までに全土を領有(フランス領西アフリカ)。フランスはジェルマ人(英語版)を優遇し、最大民族のハウサ人などを支配させる政策を採った。1900年にはen:Sultanate of Agadez(1449年-1900年)も併合された。1916年、トゥアレグ族の貴族Kaocen Ag Mohammedがアガデスで蜂起した(en:Kaocen Revolt)。翌年、反乱はフランス軍に鎮圧された。1922年にフランス領西アフリカの一部に再編された。1926年、ハウサ人が多数派のザンデールからジェルマ人が多いニアメに行政機能が移され、遷都した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1958年には自治国となり、自治政府首相にはニジェール進歩党党首のアマニ・ディオリが就任した。ディオリは1959年、政敵であるサワバ党のジボ・バカリを追放しサワバ党の活動を禁止した。1960年8月3日に共和国として独立し、初代大統領にはディオリが就いた。ディオリは建国後すぐに他党を禁止し一党制を敷くとともに親仏的立場を取りながらアフリカの有力政治家として外交で活躍したものの内政は停滞を続け、1970年代の大旱魃によって国内情勢は不安定化した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1974年4月、陸軍のセイニ・クンチェ参謀長がクーデターで軍事政権「最高軍事評議会」を樹立し同評議会の議長に就任した。憲法は停止され、議会・政党活動も中止された。クンチェ政権のもとでは北部のアーリットでウランの生産が開始され、また旱魃が収まったため1980年ごろまで経済は成長を続けたが、その後はまた旱魃が起き、ウラン価格の低迷もあって経済はふたたび停滞した。1987年11月にはクンチェ参謀長が死亡し、アリー・セブが後継者となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "そのセブは1989年に社会発展国民運動を結成して民政移管を目指し、同年9月の国民投票で新憲法が承認され、12月の選挙でアリー・セブが大統領に選出されて形式的に民政移管したものの、非民主的な体制はそのままだった。1990年、中央政府の資源独占に不満を持つトゥアレグ族とトゥーブゥー族(英語版)の反政府勢力との間でトゥアレグ抵抗運動(英語版)が勃発した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1991年になると民主化運動が激しくなり、セブ政権は民主化にとりかかった。1992年12月に新憲法が国民投票で承認されて複数政党制が認められ、1993年2月の議会選で6党の連合体「変革勢力同盟」が、軍事政権時代の与党「社会発展国民運動(MNSD)」に勝利した。3月の大統領選挙では民主社会会議(CDS)のマハマヌ・ウスマン党首が当選。4月にマハマドゥ・イスフが首相に就任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1995年1月の総選挙では MNSD などの野党連合が勝利し、2月にハマ・アマドゥ(英語版)MNSD書記長が首相就任。4月、自治を求めるトゥアレグ族およびトゥーブゥー族(英語版)反政府勢力と和平合意。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1996年1月、軍のクーデターでイブライム・バレ・マイナサラ陸軍参謀長を議長とする「救国委員会」が軍事政権を樹立。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "7月の大統領選挙でマイナサラ議長がウスマン前大統領をやぶり当選。12月マイナサラ大統領は救国委員会を解散、アマドゥ・シセ(英語版)前経済相を首相に任命したが、1997年11月には野党との対立やストライキ問題を解決できないとして解任、イブライム・ハッサン・マヤキ(英語版)外相を新首相に。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1999年4月、再び軍がクーデターを起こし、大統領警護隊がニアメの空港でマイナサラ大統領を銃殺した。そして警護隊隊長のダオダ・マラム・ワンケ少佐を議長とする軍事政権「国家和解評議会」が実権を掌握。議会を解散し、憲法を停止した。軍事政権による憲法草案の是非を問う国民投票が7月行われ、約90 %の支持で承認された。新憲法は大統領と首相の権力分担を規定。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "10月の大統領選挙で軍の元幹部で MNSD党員のタンジャ・ママドゥが当選した。ママドゥ大統領は12月、MNSD書記長のハマ・アマドゥ(英語版)元首相を首相に任命した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2000年3月、マハマドゥ・イスフ元首相が率いるニジェール民主社会主義党(PNDS)を中心とした野党勢力が「民主勢力連合」(CFD) を結成。6月 MNSD など大統領支持勢力が議会多数派の「民主勢力同盟」(AFD) を結成した。2001年2月、大学への政府補助金50 %以上削減に抗議した学生が各地でデモ、警官隊と衝突。政府はアブドゥ・ムムニ大学(英語版)(旧ニアメ大学)を閉鎖。4月マイナサラ大統領銃殺事件の捜査を求める支持者ら数千人が首都でデモ。2002年7月、賃金や待遇に抗議した軍兵士が南東部のディファで反乱を起こし、ラジオ局を占拠。政府は同月のうちに、ディファに非常事態宣言を発令した。反乱は8月にはニアメにも拡大したが、政府軍が鎮圧。200人以上の兵士が逮捕された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ニジェール川のレテ島(英語版)の帰属問題をめぐり、ベナンと国境紛争を抱える。2000年5月、島に建設中のベナン政府施設をニジェール軍が破壊。6月に双方が会談したが決裂し、アフリカ統一機構(OAU、現アフリカ連合)などに仲裁を要請し2001年6月、両国は結論を国際司法裁判所(ICJ)の判断にゆだねることで合意した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2004年末の大雨でサバクトビバッタが発生した結果(「サバクトビバッタの大量発生(英語版)(2003年 - 2005年)」、「2003-2005年の蝗害」)、マラディ、タウア、ティラベリ、ザンデールで食糧危機(英語版)が起こった(サヘル旱魃(英語版)を参照)。2007年にはトゥアレグ抵抗運動(英語版) が再燃した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ママドゥ大統領は2009年8月4日に新憲法制定に関する国民投票を行うと表明した。憲法裁判所は違法な決定と判断したが、ママドゥは憲法裁判所を解散させ、投票を強行する構えを見せた(en)。この国民投票は予定通り実施され、新憲法は採択された。これにより、2012年の新憲法施行までの3年間、ママドゥが現行憲法のもとで引き続き政権を率いることになり、更に現行憲法に存在した3選禁止規定が新憲法では削除されたことで、2012年以降もママドゥが大統領職に留まり続ける可能性が出てきた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2010年2月、ママドゥ大統領が3期目を目指し任期延長を強行しようとしたことから、国内の緊張が悪化。2月18日、再び軍がクーデターを起こし、軍が大統領と閣僚を拘束。国軍高官が「民主主義復興最高評議会(Supreme Council for the Restoration of Democracy、CSRD)」による軍事政権の樹立を宣言し、憲法の停止と政府の解散の宣言、国境の閉鎖、夜間外出の禁止を発令した。このクーデターに対し国際社会は批判を強めているが、一方で数千人の市民が軍の兵舎の周囲に集まり「軍万歳」などと叫びながら軍事政権への支持を示すなど国民はクーデターを歓迎。サル・ジボが暫定国家元首に就任した。その後、軍事政権が採択した新憲法案が2010年11月の国民投票(英語版)で可決され、ママドゥの企図した大統領権限を強化する新憲法は葬り去られた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2011年4月7日、選挙による新大統領にニジェール民主社会主義党のマハマドゥ・イスフが選ばれた。なお、イスフ大統領は2016年の選挙で再選された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "イスフの任期満了に伴う総選挙(英語版)が2020年12月27日に実施されるも、候補の中で過半数を獲得した者がいなかったため2021年2月21日にモハメド・バズムとマハマヌ・ウスマンの決選投票が実施された。結果はバズムが55パーセントの票を獲得し当選した。敗北したウスマン陣営は、選挙結果の不正を主張しデモ活動を実施した。3月31日には一部の軍人によるクーデター未遂(フランス語版)が起きた。背景には選挙への不信感や、3月21日にタウア州ティリア(フランス語版)で発生したイスラム系過激派組織ISILによる虐殺事件(フランス語版)といったテロへの不安が挙げられる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2021年4月2日、バズム大統領の就任式が執り行われた。民主的な選挙で選出された文民同士の政権交代はニジェールの歴史上初めてとなる。バズム大統領は翌日に新たな首相を指名し、新政権が発足した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2023年7月26日にバズム大統領が大統領警護官により身柄を拘束され、アマドゥ・アブドラマン(英語版)大佐ら兵士が国営テレビにてバズム政権の崩壊を宣言した(2023年ニジェールクーデター)。ハッソウミ・マスドゥ(英語版)外相は自身が大統領代行であると宣言し、「全ての国民に対し、この国に危険を及ぼす軍部を打ち負かすように」と訴えた。バズム大統領を拘束した大統領警護隊は「祖国防衛国民評議会」と名乗っている。暫定元首である祖国防衛国民評議会議長にアブドゥラハマネ・チアニが選出された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ニジェールは共和制・大統領制をとる立憲国家で、現行憲法は2010年11月25日に公布されたものである。ただし2023年クーデターを引き起こした軍事政権が2023年7月28日に憲法停止を宣言している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "国家元首である大統領は国民の直接選挙により選出され、任期は5年。2010年憲法により3選は禁止されている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "首相および閣僚は大統領により任命される。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "立法府は一院制で、正式名称は「国民議会」。定数は113議席で、議員は国民の直接選挙により選出される。113議席のうち105議席は民族や地域に関係なく政党名簿比例代表制度により、残り8議席は小選挙区制により少数民族から選出される。議員の任期は5年である。5 %以上の投票が得られない政党には議席は配分されない。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ニジェールは複数政党制であり、2011年以降の与党は左派のニジェール民主社会主義党である。他に野党として中道右派の社会発展国民運動(MNSD)や中道の民主社会会議(CDS)などがある。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "選抜徴兵制。兵役は2年。陸軍5,200人、空軍100人、憲兵隊1,400人、共和国警備隊2,500人、国家警察隊1,500人。2020年の国防予算は2.02億ドル。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "フランスとの軍事協定を1977年から2020年にかけて5つ結んでおり、アルカーイダやISIL(イスラム国)と関連のある勢力に対抗するため1000~1500人規模のフランス軍部隊が駐留している。しかしクーデターを引き起こし政権を掌握した軍事政権が2023年8月3日に対仏軍事協定を破棄した。同年9月24日、フランスのエマニュエル・マクロン大統領は年内に駐留軍を撤退させると表明した。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ニジェールの気候は北部に行くほど乾燥しており、北部・中部を中心に国土の5分の4をサハラ砂漠が占めている。南部は全域がサヘル地帯に属しており、ステップ気候 (BSh、砂漠気候からサバナ気候への移行部) を示す。サヘル北部は降水量が150 mmから300 mmほどであり、農耕は不可能だがわずかに育つ草を利用して遊牧が行われている。サヘル中部は降水量が300 mmから600 mmほどとなり、天水農業が主力となり牧畜も行われている。この気候帯は全国土の10 %ほどを占め、首都のニアメやザンデールなどの主要都市が点在し、ニジェールの人口の多くがこの地域に居住する。南下するほど降水量は増加していき、ベナン国境に近い国土の最南部は全国土の1 %ほどにすぎないが降水量が600 mmから750 mmほどとなって最も農業に適している。雨季は南に行くほど長くなるが、おおよそ6月〜9月が雨季に当たり多湿となる。2月にはサハラ砂漠から非常に乾燥した季節風ハルマッタンが吹き込むため気温が下がり、または砂塵がひどくなる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "地形は基本的に南に向かうほど標高が低くなるが、国土中央のアイル山地および北端のリビア国境の山地を除いてはおおむね平坦な地形である。最高地点はアイル山地のイドゥカル・ン・タジェ山 (別称バグザン山、標高2022 m) で、最低地点はニジェール川の標高200 mである。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ニジェールは乾燥地帯に位置し、年間を通じて流水があるのは国土南西部を流れるニジェール川のみである。なお、南東端はチャド湖に面していて、このほかにも雨季になると各所に湖沼や季節河川が出現し貴重な水資源となっている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ニジェールは7つの州 (région) と1つの首都特別区 (capital district) から構成されている。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ニジェールの最大都市は国土の南西部、ニジェール川沿いに位置する首都のニアメである。人口は国土の南部に偏在しており、マラディやザンデールといった都市が点在するが国土の中部・北部は砂漠地帯であり、オアシス都市で古くからのサハラ交易の要衝であるアガデスと、ウラン鉱開発の拠点として急速に都市化したアーリットを除き都市らしい都市は存在しない。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "農業、畜産業、鉱業が主産業。国民総所得は161億ドル、(1人当たり610ドル、2022年)で、世界最貧国の1つでもある。周辺の8か国とともに西アフリカ諸国中央銀行を中央銀行としており、通貨はCFAフランである。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "第1次産業人口は56.9 %(2005年)を占めるが、農業は自給農業が中心で、南部に限られる。降雨量は少ないが灌漑も発達しておらず、水源も乏しいため、ほとんどは天水農業である。そのため、降雨量に収量は大きく左右されるがサヘル地域は雨量が不安定であり降水量の年較差が激しいため、しばしば旱魃が起こる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ニジェールのおもな作物は雨量の多いサヘル南部ではモロコシ、より乾燥したサヘル中部ではトウジンビエ(パールミレット)が栽培される。1980年代以降、特にモロコシにおいて単収の減少が目立ち、1980年の1ヘクタール当たり479kgから、2001年には1ヘクタール当たり255kgと、ほぼ半減している。これは人口増加により旧来の土地休閑が不可能になり、土地が酷使されるようになったためである。これに対し総生産量は増加しているが、これは耕作面積が3倍近く増加しているため、単収の減少を耕地の増加で補っているためである。トウジンビエにおいては旧来の土地休閑が可能であったため、単収減少は起こっていない。モロコシ・トウジンビエは平年は自給が可能であるが、旱魃が起こった場合供給が不足する。このほか、南部のニジェール川流域において米の栽培が行われており、とくにティラベリ州において集約的に栽培されるが、国内需要が大きく伸びているため自給ができず、多くを輸入に頼る状況となっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "輸出用作物としては植民地時代に落花生の栽培が奨励され、1960年代初期には総輸出額の80 %が落花生およびピーナッツオイルによって占められていたが、1970年代にはすでに割合はかなり小さくなっており、それ以降は輸出額はごくわずかなものにとどまっている。農作物のなかで輸出額が多いのはタマネギやササゲであるが、いずれも総輸出額に占める割合は非常に少ない。ササゲの輸出の大半はナイジェリア向けであり、タマネギの輸出先も近隣諸国がほとんどである。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "牧畜は農業よりは盛んであり、ウシやヒツジ、ヤギ、ラクダが主に飼育される。南部のフラニ人はウシを主に飼育し、北部のトゥアレグ人はラクダやヤギを中心に飼育を行っているほか、各地の農耕民も牧畜を行っている。家畜輸出は農業輸出よりも大きく、ウシ・ヒツジ・ヤギが主に輸出される。内水漁業の規模は2005年で年間漁獲高5万t前後であり、そのうちの約4万5000 t、90 %近くをチャド湖での漁獲が占めており、ニジェール川が3700 t前後、他の水域での漁獲はわずかなものにとどまっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "独立時は上記のわずかな農牧業に頼っていたが、1971年に北部のアーリットでウラン鉱の生産が開始され、以後ウランの輸出が経済の柱となった。ウランは確認できるだけで世界第3位の埋蔵量を誇っている。ニジェールのウラン鉱山はアーリット鉱山とアクータ鉱山の2つの鉱山からなり、アーリット鉱山はフランス原子力庁(のちにアレヴァ社)とニジェール政府が、アクータ鉱山はニジェール政府・フランス原子力庁(のちにアレヴァ社)・日本の海外ウラン資源開発社・スペインの資本がそれぞれ出資している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ウラン関連産業は全雇用の約20 %を占める。2014年にはウランが総輸出額の45.6 %を占め、ニジェール最大の輸出品となっているが、あまりにウランの経済に占める割合が高いため、ウランの市場価格の上下がそのまま経済に直撃する構造となっており、経済成長率はウラン価格の動静に左右されている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "一方、東部では油田が発見され、2014年には石油製品が総輸出額の25.9 %を占めて第2位の輸出品となった。またブルキナファソの国境に近いリプタコ地方においては金が産出され、これも輸出される。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ニジェールは、1997年の旱魃で国民の4分の1が飢餓の危機に陥った。さらにウラン価格の低下、度重なる政情不安による海外援助の途絶により、1999年末には国家経済が事実上の破産状態に陥った。しかし、2000年12月に国際通貨基金 (IMF) などは貧困削減対策としてニジェール政府が背負う8億9,000万ドルの債務免除を発表し、7,600万ドルの融資を決定するなど明るい兆しも見えてきている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ニジェールの交通の主力は道路交通であるが、それほど整備が進んでいるわけではない。最も重要な道路は首都のニアメから国土の南端ガヤへ向かう道路で、ここからベナンに入りベナン中部のパラクーから鉄道でコトヌー港へと向かうのがニジェールの主な輸出ルートである。またマリ国境のからニアメ、ドッソ、マラディ、ザンデール、ディファといった主要都市を通ってチャド湖沿岸のンギグミまで、ニジェールの人口稠密地帯を結ぶ全線舗装の幹線道路が走っている。このほか、ザンデールからアガデス・アーリットを通ってアルジェリア国境のアッサマッカへと向かうサハラ縦断道路が存在するが、舗装はザンデールからアーリット間のみにとどまっている。ニジェール川には、ニアメ市のケネディ橋やガヤ市の橋など、数本の橋が架けられている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "ニジェールには、ニアメのディオリ・アマニ国際空港をはじめとしていくつかの空港が存在するが、国際便がニアメに発着するのみで1980年代以降国内線はわずかなチャーター便を除きほとんど運行していない。このため、国内輸送において航空輸送はほとんど意味を持っていない。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "ニジェール国内に鉄道は存在しない。植民地時代にはコートジボワールのアビジャンからオートボルタの首都ワガドゥグーを通ってニアメまでの鉄道が計画されていたものの、1954年にワガドゥグーに到達したところで工事は中断し、やがて独立とともに計画は立ち消えとなってアビジャン・ニジェール鉄道の名にその痕跡を残すのみとなっている。これに代わってダオメー(現ベナン)経由の鉄道計画が浮上し、1959年にはベナン・ニジェール鉄道輸送共同体が設立されてダオメー国内の鉄道にニジェールが参画することとなった。1970年代にはパラクーからニアメへの鉄道延伸が決定されたが、資金不足で工事は中止された。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2016年の人口は2067万2987人。国連による統計では2015年〜2020年の人口増加率は3.81と世界3位。世界銀行によると、ニジェールの出生率は2016年には7.2となり世界一となっていることから人口爆発を引き起こし、2020年に2332万人、2050年に6120万人、2070年に1億0122万人、2100年には1億2403万人にまで増加すると予測されている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ニジェールの最大民族はハウサ族であり、2001年には人口の55.4 %を占めていた。ハウサ人は主に南部のナイジェリア国境沿いに居住し、ザンデールやマラディなどが居住域の主な都市である。次の大きな民族グループは南西部に居住するジェルマ(英語版)-ソンガイ族であり、人口の21 %(2001年)を占めている。ジェルマ・ソンガイは首都ニアメの多数派民族であり、ニジェール川沿いを主な居住域としている。これに次ぐのは北部の砂漠地方を中心に居住する遊牧民トゥアレグ族であり、全人口の9.3 %(2001年)を占める。第4位の民族はフラニ族であり、人口の8.5 %(2001年)を占める。フラニ人も遊牧民であるが、北部に多いトゥアレグ人とは異なり、北端を除き全国にまんべんなく分布する。このほか、南東部に多いカヌリ族(英語版)や、同じく南東部のディファ市周辺に多いディファ・アラブ族(英語版)、トゥーブゥー族(英語版)、グルマ族(英語版)などの民族が居住する。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "フランス語が公用語であるが、日常においてはハウサ語、ジェルマ語、フラニ語などの各民族語が主に話されている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "イスラムが90 %を占め、中でもスンニ派が全人口の85 %を占めている(2005年)。他にアニミズム、キリスト教も。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "ニジェールの教育制度は小学校6年・中学校4年・高校3年・大学3年であり、小学校と中学校の10年間が義務教育となっている。ただし飛び級制度および落第制度があり、またそれ以外でも学校教育からドロップアウトする者も多いため、入学者に比べ卒業者は少なくなっている。識字率は19.1 %(2015年)にすぎない。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "国内の大学は、1971年に設立された総合大学アブドゥ・ムムニ大学(旧ニアメ大学)やイスラム大学であるサイ・イスラム大学が存在する。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "同国は慢性的な資源不足と人口に比べて医療提供者が少数である現状に苦しんでおり、今も事態が解決へ向かっていない。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "イスラム過激派組織によるテロ・誘拐事件が多発しており、外国人も被害に遭っていることが報告されている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "日本の大学の講師である大山教授はニジェールにて緑化プロジェクトを2021/04/28に開始する。餓えと争いをなくすため、砂漠をゴミで緑化する活動を開始してプロジェクトを成功させる。 「アフリカの人道危機を解決する実践平和学」 アジア・アフリカ地域研究研究科 教授", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "主食にはキビ、米、キャッサバ、ソルガム、トウモロコシ、豆などを用いている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "料理に様々なスパイスが使用されることが特徴でもある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "ニジェール国内には、文化遺産が1件(アガデス歴史地区)及び自然遺産が2件(アイル・テネレ自然保護区、W国立公園)の3つの世界遺産が存在する。アガデスはサハラ交易で栄えたオアシス都市であり、その古い町並みが世界遺産に指定された。アイル・テネレ自然保護区は国土中央部の山地及び砂漠地帯である。W国立公園は国土の南端に位置し、ニジェール、ブルキナファソ、ベナンにまたがるニジェール川の流域で自然がよく残され、多くの動物が生息している。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "ニジェール国内でも、他のアフリカ諸国同様にサッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。1966年にサッカーリーグのニジェール・スーパーリーグ(英語版)が創設された。ニジェールサッカー協会(英語版)によって構成されるサッカーニジェール代表は、FIFAワールドカップには未出場である。アフリカネイションズカップには、2012年大会で初出場し続く2013年大会にも出場したものの、両大会ともグループリーグ敗退に終わった。", "title": "文化" } ]
ニジェール共和国、通称ニジェールは、西アフリカのサハラ砂漠南縁のサヘル地帯に位置する共和制国家。首都はニアメである。内陸国であり、北西から反時計回りでアルジェリア、マリ、ブルキナファソ、ベナン、ナイジェリア、チャド、リビアと隣接する。
{{基礎情報 国 | 略名 =ニジェール | 日本語国名 =ニジェール共和国 | 公式国名 ='''{{Lang|fr|République du Niger}}''' | 国旗画像 =Flag of Niger.svg | 国章画像 =[[ファイル:Coat_of_arms_of_Niger.svg|120px|ニジェールの国章]] | 国章リンク =([[ニジェールの国章|国章]]) | 標語 =''{{Lang|fr|Fraternité, Travail, Progrès}}''<br/>(フランス語: 友愛、労働、進歩) | 国歌 = [[祖国の栄誉|{{lang|fr|L'Honneur de la Patrie}}]]{{fr icon}}<br>''祖国の栄誉''<br><center>[[ファイル:Niger National Anthem The Honor of the Fatherland midi.mid]] | 位置画像 =Niger (orthographic projection).svg | 公用語 = [[フランス語]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://mjp.univ-perp.fr/constit/ne2010.htm |title=Constitution de la VIIe République. (25 novembre 2010) / ニジェール共和国憲法(2010年改正版)|accessdate=2017-09-05}}</ref> | 首都 =[[ニアメ]] | 最大都市 =ニアメ | 元首等肩書 =[[ニジェールの大統領|祖国防衛国民評議会議長]] | 元首等氏名 = [[アブドゥラハマネ・チアニ]] | 首相等肩書 =[[ニジェールの首相|首相]] | 首相等氏名 = {{ill2|アリ・ラミネ・ゼイン|en|Ali Lamine Zeine}} | 面積順位 =21 | 面積大きさ =1 E12 | 面積値 =1,267,000 | 水面積率 =極僅か | 人口統計年 =2020 | 人口順位 =57 | 人口大きさ =1 E7 | 人口値 =2420万7000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/ne.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-11-5}}</ref> | 人口密度値 =19.1<ref name=population/> | GDP統計年元 =2020 | GDP値元 =7兆9093億4500万<ref name="economy">IMF Data and Statistics 2021年10月18日閲覧([https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=692,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDN,GGXWDN_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1])</ref> | GDP統計年MER =2020 | GDP順位MER =129 | GDP値MER =129億1200万<ref name="economy" /> | GDP MER/人 =553.905(推計)<ref name="economy" /> | GDP統計年 =2020 | GDP順位 =138 | GDP値 =297億4500万<ref name="economy" /> | GDP/人 =1276.008(推計)<ref name="economy" /> | 建国形態 =[[独立]]<br/>&nbsp;- 日付 | 建国年月日 =[[フランス]]より<br/>[[1960年]][[8月3日]] | 通貨 =[[CFAフラン]] | 通貨コード =XOF | 時間帯 =(+1) | 夏時間 =なし | ISO 3166-1 = NE / NER | ccTLD =[[.ne]] | 国際電話番号 =227 | 注記 = }} '''ニジェール共和国'''(ニジェールきょうわこく、{{Lang-fr|République du Niger}})、通称'''ニジェール'''は、[[西アフリカ]]の[[サハラ砂漠]]南縁の[[サヘル]]地帯に位置する[[共和制]][[国家]]。[[首都]]は[[ニアメ]]である。[[内陸国]]であり、北西から反時計回りで[[アルジェリア]]、[[マリ共和国|マリ]]、[[ブルキナファソ]]、[[ベナン]]、[[ナイジェリア]]、[[チャド]]、[[リビア]]と隣接する。 == 国名 == 正式名称はフランス語で、{{Lang|fr|''République du Niger''}}(レピュブリク・デュ・ニジェール)。通称、{{Lang|fr|''Niger''}}。公式の英語表記は、{{Lang|en|''Republic of Niger''}}(リパブリク・オヴ・ナイジャもしくはニージェア)。通称、{{Lang|en|''Niger''}}。日本語の表記は、'''ニジェール共和国'''。通称、'''ニジェール'''。 国名の由来は、ニジェール国内を流れる[[ニジェール川]]より。ニジェール川の語源は、遊牧民の[[トゥアレグ族]]によりこの川がニエジーレン(n'egiren)「川」、またはエジーレン(egiren)「川」と呼ばれていたことによる。これがフランス人に伝えられ、[[ラテン語]]で「黒」を意味するニジェール(niger)と転訛した。 ニジェール (Niger) とナイジェリア(Nigeria) の2か国は本来、同じ地域を指しているが旧宗主国を異にする両地域が別々に独立した際、現在のように別の国を指すこととなった。 == 歴史 == {{main|{{仮リンク|ニジェールの歴史|en|History of Niger}}}} [[File:Photo1906 Zinder overview.jpg|thumb|フランス要塞から写した旧首都[[ザンデール]]([[1906年]])]] === 植民地化以前 === 9世紀ごろ、ニジェール川流域に現在のマリ東部のガオを首都とする[[ソンガイ帝国]]が興り、ニジェール川流域地方を支配した。ソンガイは早くから北アフリカとの交易があり、イスラム化が進んでいた。東部のチャド湖周辺は[[カネム・ボルヌ帝国|カネム王国]]が支配していた。ソンガイ帝国は14世紀には[[マリ帝国]]の属国となったものの14世紀後半には再独立し、15世紀には最盛期を迎えた。このころにはソンガイの勢力圏は中部にまで及んでいたが、16世紀末には帝国がモロッコの[[サアド朝]]に敗れたためこの支配は崩壊した。東部はカネム王国が南遷した[[カネム・ボルヌ帝国|ボルヌ帝国]]の支配下にあった。19世紀にはダマガラム(現ザンデール)に小王朝があり、その他いくつかの小勢力が割拠していたが、ニジェール全体を支配する勢力は存在しなかった。 === フランス植民地時代 === 19世紀末にはイギリスとフランスが進出し、[[1898年]]両国の協定によって[[フランス]]が[[20世紀]]までに全土を領有([[フランス領西アフリカ]])。フランスは{{仮リンク|ザルマ人|en|Zarma people|label=ジェルマ人}}を優遇し、最大民族の[[ハウサ人]]などを支配させる政策を採った。[[1900年]]には[[:en:Sultanate of Agadez]]([[1449年]]-[[1900年]])も併合された。[[1916年]]、[[トゥアレグ|トゥアレグ族]]の貴族[[:en:Ag Mohammed Wau Teguidda Kaocen|Kaocen Ag Mohammed]]が[[アガデス]]で蜂起した([[:en:Kaocen Revolt]])。翌年、反乱はフランス軍に鎮圧された。[[1922年]]に[[フランス領西アフリカ]]の[[ニジェール植民地|一部]]に再編された。[[1926年]]、ハウサ人が多数派の[[ザンデール]]からジェルマ人が多い[[ニアメ]]に行政機能が移され、遷都した。 === 独立・ディオリ政権 === [[1958年]]には自治国となり、自治政府首相にはニジェール進歩党党首の[[アマニ・ディオリ]]が就任した。ディオリは1959年、政敵であるサワバ党の[[ジボ・バカリ]]を追放しサワバ党の活動を禁止した。[[1960年]][[8月3日]]に[[共和国]]として独立し、初代大統領にはディオリが就いた。ディオリは建国後すぐに他党を禁止し一党制を敷くとともに親仏的立場を取りながらアフリカの有力政治家として外交で活躍したものの内政は停滞を続け、1970年代の大[[旱魃]]によって国内情勢は不安定化した<ref>田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』p448、朝倉書店 ISBN 4254166621 </ref>。 === 軍政期(最高軍事評議会) === [[1974年]]4月、[[陸軍]]の[[セイニ・クンチェ]]参謀長が[[クーデター]]で軍事政権「最高軍事評議会」を樹立し同評議会の議長に就任した。[[憲法]]は停止され、[[議会]]・[[政党]]活動も中止された。クンチェ政権のもとでは北部のアーリットでウランの生産が開始され、また旱魃が収まったため1980年ごろまで経済は成長を続けたが、その後はまた旱魃が起き、ウラン価格の低迷もあって経済はふたたび停滞した。[[1987年]][[11月]]にはクンチェ参謀長が死亡し、[[アリー・セブ]]が後継者となった。 === セブ政権 === そのセブは[[1989年]]に[[社会発展国民運動]]を結成して民政移管を目指し、同年9月の国民投票で新憲法が承認され、12月の選挙で[[アリー・セブ]]が[[大統領]]に選出されて形式的に民政移管したものの、非民主的な体制はそのままだった。[[1990年]]、中央政府の資源独占に不満を持つ[[トゥアレグ|トゥアレグ族]]と{{仮リンク|トゥーブゥー人|en|Toubou people|label=トゥーブゥー族}}の反政府勢力との間で{{仮リンク|トゥアレグ抵抗運動 (1990年-1995年)|label=トゥアレグ抵抗運動|en|Tuareg rebellion (1990–95)}}が勃発した。 === ウスマン政権 === 1991年になると民主化運動が激しくなり、セブ政権は民主化にとりかかった。1992年12月に新憲法が国民投票で承認されて[[複数政党制]]が認められ、[[1993年]][[2月]]の議会選で6党の連合体「変革勢力同盟」が、軍事政権時代の[[与党]]「[[社会発展国民運動]](MNSD)」に勝利した<ref>田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』p450、朝倉書店 ISBN 4254166621 </ref>。3月の大統領選挙では[[民主社会会議]](CDS)の[[マハマヌ・ウスマン]]党首が当選。4月に[[マハマドゥ・イスフ]]が首相に就任した。 [[1995年]]1月の総選挙では MNSD などの[[野党]]連合が勝利し、2月に{{仮リンク|ハマ・アマドゥ|en|Hama Amadou}}MNSD書記長が[[首相]]就任。4月、自治を求める[[トゥアレグ|トゥアレグ族]]および{{仮リンク|トゥーブゥー人|en|Toubou people|label=トゥーブゥー族}}反政府勢力と和平合意。 === 軍政期(救国委員会) === [[1996年]]1月、軍のクーデターで[[イブライム・バレ・マイナサラ]]陸軍参謀長を議長とする「救国委員会」が軍事政権を樹立。 === マイナサラ政権 === 7月の大統領選挙でマイナサラ議長がウスマン前大統領をやぶり当選。12月マイナサラ大統領は救国委員会を解散、{{仮リンク|アマドゥ・シセ|en|Amadou Cissé}}前経済相を首相に任命したが、[[1997年]]11月には野党との対立やストライキ問題を解決できないとして解任、{{仮リンク|イブライム・ハッサン・マヤキ|en|Ibrahim Hassane Mayaki}}外相を新首相に。 === 軍政期(国家和解評議会) === [[1999年]]4月、再び軍がクーデターを起こし、大統領警護隊がニアメの空港でマイナサラ大統領を銃殺した。そして警護隊隊長の[[ダオダ・マラム・ワンケ]]少佐を議長とする軍事政権「国家和解評議会」が実権を掌握。議会を解散し、憲法を停止した。軍事政権による憲法草案の是非を問う国民投票が7月行われ、約90 %の支持で承認された。新憲法は大統領と首相の権力分担を規定。 === ママドゥ政権 === [[File:Nigerien MNJ fighter technical gun.JPG|thumb|{{仮リンク|トゥアレグ抵抗運動 (2007年-2009年)|en|Tuareg rebellion (2007–09)}}]] 10月の大統領選挙で軍の元幹部で MNSD党員の[[タンジャ・ママドゥ]]が当選した。ママドゥ大統領は12月、MNSD書記長の{{仮リンク|ハマ・アマドゥ|en|Hama Amadou}}元首相を首相に任命した。 [[2000年]]3月、[[マハマドゥ・イスフ]]元首相が率いる[[ニジェール民主社会主義党]](PNDS)を中心とした野党勢力が「民主勢力連合」(CFD) を結成。6月 MNSD など大統領支持勢力が議会多数派の「民主勢力同盟」(AFD) を結成した。[[2001年]]2月、[[大学]]への政府補助金50 %以上削減に抗議した学生が各地でデモ、警官隊と衝突。政府は{{仮リンク|アブドゥ・ムムニ大学|en|Abdou Moumouni University}}(旧ニアメ大学)を閉鎖。4月マイナサラ大統領銃殺事件の捜査を求める支持者ら数千人が首都でデモ。[[2002年]]7月、賃金や待遇に抗議した軍兵士が南東部の[[ディファ]]で反乱を起こし、[[ラジオ]]局を占拠。政府は同月のうちに、ディファに非常事態宣言を発令した。反乱は8月にはニアメにも拡大したが、政府軍が鎮圧。200人以上の兵士が逮捕された。 [[ニジェール川]]の{{仮リンク|レテ島|en|Lete Island}}の帰属問題をめぐり、[[ベナン]]と[[国境]]紛争を抱える。[[2000年]][[5月]]、島に建設中のベナン政府施設をニジェール軍が破壊。6月に双方が会談したが決裂し、[[アフリカ統一機構]](OAU、現[[アフリカ連合]])などに仲裁を要請し[[2001年]][[6月]]、両国は結論を[[国際司法裁判所]](ICJ)の判断にゆだねることで合意した。 [[2004年]]末の大雨で[[サバクトビバッタ]]が発生した結果(「{{仮リンク|サバクトビバッタの大量発生 (2004年)|en|2004 Africa locust infestation|label=サバクトビバッタの大量発生}}([[2003年]] - [[2005年]])」、「[[サバクトビバッタ#2003-2005年|2003-2005年の蝗害]]」)、[[マラディ]]、[[タウア]]、[[ティラベリ]]、[[ザンデール]]で{{仮リンク|ニジェール食料危機 (2005年-2006年)|label=食糧危機|en|2005–06 Niger food crisis}}が起こった({{仮リンク|サヘル旱魃|en|Sahel drought}}を参照)。[[2007年]]には{{仮リンク|トゥアレグ抵抗運動 (2007年-2009年)|label=トゥアレグ抵抗運動|en|Tuareg rebellion (2007–09)}} が再燃した。 ママドゥ大統領は[[2009年]][[8月4日]]に新憲法制定に関する国民投票を行うと表明した。[[憲法裁判所]]は違法な決定と判断したが、ママドゥは憲法裁判所を解散させ、投票を強行する構えを見せた[[:en:Nigerien_constitutional_referendum,_2009|(en)]]。この国民投票は予定通り実施され、新憲法は採択された。これにより、[[2012年]]の新憲法施行までの3年間、ママドゥが現行憲法のもとで引き続き政権を率いることになり、更に現行憲法に存在した3選禁止規定が新憲法では削除されたことで、2012年以降もママドゥが大統領職に留まり続ける可能性が出てきた。 === 軍政期(民主主義復興最高評議会) === [[2010年]]2月、ママドゥ大統領が3期目を目指し任期延長を強行しようとしたことから、国内の緊張が悪化。[[2月18日]]、再び軍が[[ニジェール軍事クーデター (2010年)|クーデター]]を起こし、軍が大統領と閣僚を拘束。国軍高官が「[[民主主義復興最高評議会]](Supreme Council for the Restoration of Democracy、CSRD)」による軍事政権の樹立を宣言し、憲法の停止と政府の解散の宣言、国境の閉鎖、夜間外出の禁止を発令した<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2697873?pid=5357641 ニジェールでクーデター、「民主主義の回復を」] AFPBB News 2010年2月19日閲覧。</ref>。このクーデターに対し国際社会は批判を強めているが、一方で数千人の市民が軍の兵舎の周囲に集まり「軍万歳」などと叫びながら軍事政権への支持を示すなど国民はクーデターを歓迎<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2698497?pid=5358444 ニジェールのクーデターに国際社会の非難強まる、国民はクーデターを歓迎]AFPBB News 2010年2月20日</ref>。[[サル・ジボ]]が暫定国家元首に就任した。その後、軍事政権が採択した新憲法案が2010年11月の{{仮リンク|2010年ナイジェリア憲法国民投票|en|2010 Nigerien constitutional referendum|label=国民投票}}で可決され、ママドゥの企図した大統領権限を強化する新憲法は葬り去られた<ref>{{Cite news|url=https://www.bbc.com/news/world-africa-11684547|title=Niger backs constitution to end junta rule|work=BBC News|agency=[[英国放送協会|BBC]]|date=2010-11-03|accessdate=2020-11-25}}</ref>。 === イスフ政権 === [[2011年]][[4月7日]]、選挙による新大統領にニジェール民主社会主義党の[[マハマドゥ・イスフ]]が選ばれた。なお、イスフ大統領は[[2016年]]の選挙で再選された<ref>https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/niger/data.html 「ニジェール基礎データ」日本国外務省 平成30年2月5日 2018年11月14日閲覧</ref>。 === バズム政権 === イスフの任期満了に伴う{{仮リンク|2020年ニジェール総選挙|label=総選挙|en|2020–21 Nigerien general election}}が2020年12月27日に実施されるも<ref>{{Cite news|url=https://www.aljazeera.com/news/2021/1/2/niger-presidential-election-heads-to-runoff|agency=[[アルジャジーラ]]|date=2021-01-02|accessdate=2021-01-02}}</ref>、候補の中で過半数を獲得した者がいなかったため2021年2月21日に[[モハメド・バズム]]と[[マハマヌ・ウスマン]]の決選投票が実施された。結果はバズムが55パーセントの票を獲得し当選した<ref>{{Cite news|url=https://www.aljazeera.com/news/2021/2/23/ruling-partys-mohamed-bazoum-wins-niger-presidential-election|title=Mohamed Bazoum declared Niger’s new president|work=Al Jazeera English|agency=[[アルジャジーラ]]|date=2021-02-23|accessdate=2021-02-24}}</ref>。敗北したウスマン陣営は、選挙結果の不正を主張しデモ活動を実施した<ref>{{Cite web |url=https://www.rfi.fr/fr/podcasts/invit%C3%A9-afrique/20210331-mahamane-ousmane-au-niger-je-continue-de-rejeter-la-d%C3%A9cision-de-la-cour-constitutionnelle |title=Mahamane Ousmane, au Niger: «Je continue de rejeter la décision de la Cour constitutionnelle» |publisher=[[ラジオ・フランス・アンテルナショナル]] |date=2021-03-31 |accessdate=2021-04-05}}</ref>。3月31日には一部の軍人による{{仮リンク|2021年ニジェールクーデター未遂|label=クーデター未遂|fr|Tentative de coup d'État de 2021 au Niger}}が起きた<ref>{{Cite web |url=https://edition.cnn.com/2021/03/31/africa/niger-attempted-coup-intl/index.html |title=Arrests made in Niger attempted coup, days before President-elect's inauguration |publisher=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]] |date=2021-03-31 |accessdate=2021-04-05}}</ref>。背景には選挙への不信感や、3月21日に[[タウア州]]{{仮リンク|ティリア|fr|Tillia}}で発生したイスラム系過激派組織[[ISIL]]による{{仮リンク|ティリア虐殺|label=虐殺事件|fr|Massacre de Tillia}}<ref>{{Cite web |url=https://www.france24.com/fr/afrique/20210322-niger-des-dizaines-de-civils-tu%C3%A9s-pr%C3%A8s-du-mali-dans-de-nouvelles-attaques |title=Niger : les attaques de dimanche ont fait au moins 137 morts, selon le gouvernement |publisher=[[フランス24]] |date=2021-03-22 |accessdate=2021-04-05}}</ref>といったテロへの不安が挙げられる。 2021年4月2日、バズム大統領の就任式が執り行われた。民主的な選挙で選出された文民同士の政権交代はニジェールの歴史上初めてとなる<ref>{{Cite web |url=https://www.france24.com/en/tv-shows/eye-on-africa/20210402-historic-peaceful-transfer-of-power-in-niger |title=Historic, peaceful transfer of power in Niger |publisher=フランス24 |date=2021-04-02 |accessdate=2021-04-05}}</ref>。バズム大統領は翌日に新たな首相を指名し、新政権が発足した<ref>{{Cite web |url=https://www.jeuneafrique.com/1148915/politique/niger-ouhoumoudou-mahamadou-nomme-premier-ministre/ |title=Niger : Ouhoumoudou Mahamadou nommé Premier ministre |publisher=Jeune Afrique |date=2021-04-04 |accessdate=2021-04-05}}</ref>。 === 2023年ニジェールクーデター === [[2023年]][[7月26日]]にバズム大統領が大統領警護官により身柄を拘束され、{{仮リンク|アマドゥ・アブドラマン|en|Amadou Abdramane}}大佐ら兵士が国営テレビにてバズム政権の崩壊を宣言した([[2023年ニジェールクーデター]])<ref>{{Cite news|url=https://www.reuters.com/world/africa/soldiers-nigers-presidential-guard-blockade-presidents-office-security-sources-2023-07-26/|title=Niger soldiers say President Bazoum's government has been removed|agency=[[ロイター]]|date=2023-07-27|accessdate=2023-07-27}}</ref>。{{仮リンク|ハッソウミ・マスドゥ|en|Hassoumi Massaoudou}}外相は自身が大統領代行であると宣言し、「全ての国民に対し、この国に危険を及ぼす軍部を打ち負かすように」と訴えた<ref>{{cite web |last=Peter |first=Laurence |date=27 July 2023 |title=Niger soldiers announce coup on national TV |url=https://www.bbc.com/news/world-africa-66320895 |access-date=27 July 2023 |website=[[BBC]]}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASR7W62SLR7WUHBI01F.html|title= ニジェール軍幹部がクーデター宣言 抵抗訴える外相 国連は非難声明|newspaper= 朝日新聞デジタル |publisher= 朝日新聞社 |date=2023-07-27 |accessdate=2023-07-27}}</ref>。バズム大統領を拘束した大統領警護隊は「祖国防衛国民評議会」と名乗っている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tufs.ac.jp/asc/information/post-937.html |title=ニジェールでクーデタ |website=現代アフリカ地域研究センター公式ホームページ |date=2023-07-27 |accessdate=2023-07-28}}</ref>。暫定元首である祖国防衛国民評議会議長に[[アブドゥラハマネ・チアニ]]が選出された<ref>{{Cite web|和書|url=https://nordot.app/1057670644370555454|title=大統領警護隊長が新指導者 ニジェール、国営テレビが紹介 |website=共同通信 |date=2023-07-29 |accessdate=2023-08-03 }}</ref>。 == 政治 == [[File:Mohamed Bazoum (cropped).jpg|thumb|200px|モハメド・バズム大統領]] {{Main|{{仮リンク|ニジェールの政治|en|Politics of Niger}}}} ニジェールは[[共和制]]・[[大統領制]]をとる立憲国家で、現行[[憲法]]は[[2010年]][[11月25日]]に公布されたものである<ref name="名前なし-1">「ニジェール 独立50年の全体像」p36 小倉信雄・久保環著 東京図書出版 2013年5月23日初版発行</ref>。ただし[[2023年ニジェールクーデター|2023年クーデター]]を引き起こした軍事政権が2023年7月28日に憲法停止を宣言している<ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASR7Y3CDZR7YUHBI004.html|title=ニジェール軍、憲法停止を発表 ロシア国旗掲げるクーデター支持者も|work=朝日新聞デジタル|newspaper=[[朝日新聞]]|date=2023-07-29|accessdate=2023-08-03}}</ref>。 === 元首 === {{See also|ニジェールの大統領}} [[元首|国家元首]]である[[大統領]]は国民の直接選挙により選出され、任期は5年。2010年憲法により3選は禁止されている<ref name="名前なし-1"/>。 === 行政 === {{See also|ニジェールの首相}} [[首相]]および[[閣僚]]は大統領により任命される<ref name="名前なし-1"/>。 === 立法 === {{See also|ニジェールの政党}} [[立法]]府は[[一院制]]で、正式名称は「[[国民議会 (ニジェール)|国民議会]]」。定数は113議席で、議員は国民の直接選挙により選出される。113議席のうち105議席は民族や地域に関係なく[[政党名簿比例代表]]制度により、残り8議席は[[小選挙区制]]により[[少数民族]]から選出される。議員の任期は5年である。5 %以上の投票が得られない政党には議席は配分されない。 ニジェールは[[複数政党制]]であり、2011年以降の与党は[[左派]]の[[ニジェール民主社会主義党]]である。他に野党として[[中道右派]]の[[社会発展国民運動]](MNSD)や[[中道政治|中道]]の[[民主社会会議]](CDS)などがある。 == 国際関係 == {{main|{{仮リンク|ニジェールの国際関係|en|Foreign relations of Niger}}}} {{節スタブ}} === 日本との関係 === {{main|日本とニジェールの関係}} *在留日本人数 - 10人(2022年11月現在)<ref name="mofa">{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/niger/data.html#section6|publisher=外務省|title=ニジェール基礎データ|accessdate=2021-10-16}}</ref> *在日ニジェール人数 - 25人(2022年12月現在){{R|mofa}} == 軍事 == {{main|{{仮リンク|ニジェール軍|en|Niger Armed Forces}}}} 選抜[[徴兵制]]。兵役は2年。陸軍5,200人、空軍100人、憲兵隊1,400人、共和国警備隊2,500人、国家警察隊1,500人。[[2020年]]の国防予算は2.02億ドル<ref>{{Cite web|和書|title=ニジェール基礎データ |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/niger/data.html |website=Ministry of Foreign Affairs of Japan |access-date=2023-05-04 |language=ja}}</ref>。 [[フランス]]との軍事協定を1977年から2020年にかけて5つ結んでおり、[[アルカーイダ]]や[[ISIL]](イスラム国)と関連のある勢力に対抗するため1000~1500人規模のフランス軍部隊が駐留している。しかし[[2023年ニジェールクーデター|クーデター]]を引き起こし政権を掌握した軍事政権が2023年8月3日に対仏軍事協定を破棄した<ref>{{Cite news|url=https://jp.reuters.com/article/niger-security-idJPL6N39L014|title=ニジェール軍事政権、フランスとの軍事協定を破棄|agency=[[ロイター]]|date=2023-08-04|accessdate=2023-08-04}}</ref>。同年9月24日、フランスの[[エマニュエル・マクロン]]大統領は年内に駐留軍を撤退させると表明した<ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20230925-6HSIM54OIRK7PGDMVVZDW6IFOA/|title=マクロン大統領、ニジェールから仏軍撤収を表明 アフリカ・対テロ戦略に打撃|newspaper=産経新聞|date=2023-09-25|accessdate=2023-10-24}}</ref>。 {{節スタブ}} == 地理 == [[Image:Niger Topography.png|thumb|250px|地形図]] [[File:Niger map of Köppen climate classification.svg|thumb|ニジェールの[[ケッペンの気候区分|ケッペン気候区分]]。赤が[[砂漠気候]]、オレンジが[[ステップ気候]]であり、全域が[[乾燥帯]]に属する]] {{Main|{{仮リンク|ニジェールの地理|en|Geography of Niger}}}} ニジェールの気候は北部に行くほど乾燥しており、北部・中部を中心に国土の5分の4を[[サハラ砂漠]]が占めている。南部は全域が[[サヘル]]地帯に属しており、[[ステップ気候]] (BSh、[[砂漠気候]]から[[サバナ気候]]への移行部) を示す。サヘル北部は降水量が150 mmから300 mmほどであり、農耕は不可能だがわずかに育つ草を利用して遊牧が行われている。サヘル中部は降水量が300 mmから600 mmほどとなり、天水農業が主力となり牧畜も行われている。この気候帯は全国土の10 %ほどを占め、首都のニアメやザンデールなどの主要都市が点在し、ニジェールの人口の多くがこの地域に居住する。南下するほど降水量は増加していき、ベナン国境に近い国土の最南部は全国土の1 %ほどにすぎないが降水量が600 mmから750 mmほどとなって最も農業に適している<ref>「ニジェール 独立50年の全体像」p18 小倉信雄・久保環著 東京図書出版 2013年5月23日初版発行</ref>。雨季は南に行くほど長くなるが、おおよそ6月〜9月が雨季に当たり多湿となる。2月にはサハラ砂漠から非常に乾燥した季節風[[ハルマッタン]]が吹き込むため気温が下がり、または砂塵がひどくなる<ref>「ニジェール 独立50年の全体像」p17 小倉信雄・久保環著 東京図書出版 2013年5月23日初版発行</ref>。 地形は基本的に南に向かうほど標高が低くなるが、国土中央の[[アイル山地]]および北端のリビア国境の山地を除いてはおおむね平坦な地形である。最高地点はアイル山地のイドゥカル・ン・タジェ山 (別称バグザン山、標高2022 m) で<ref name="名前なし-2">「ニジェール 独立50年の全体像」p16 小倉信雄・久保環著 東京図書出版 2013年5月23日初版発行</ref>、最低地点はニジェール川の標高200 mである。 ニジェールは乾燥地帯に位置し、年間を通じて流水があるのは国土南西部を流れる[[ニジェール川]]のみである。なお、南東端は[[チャド湖]]に面していて、このほかにも雨季になると各所に湖沼や季節河川が出現し貴重な水資源となっている<ref name="名前なし-2"/>。 == 地方行政区分 == [[ファイル:Niger departments named.png|thumb|250px|left|ニジェールの地方行政区分]] {{Main|ニジェールの行政区画}} ニジェールは7つの州 (région) と1つの首都特別区 (capital district) から構成されている。 * [[ニアメ|ニアメ首都特別区]] (Niamey capital district) * [[アガデス州]] (Agadez) * [[ディファ州]] (Diffa) * [[ドッソ州]] (Dosso) * [[マラディ州]] (Maradi) * [[タウア州]] (Tahoua) * [[ティラベリ州]] (Tillabéri) * [[ザンデール州]] (Zinder) ===主要都市=== {{Main|ニジェールの都市の一覧}} ニジェールの最大都市は国土の南西部、ニジェール川沿いに位置する首都のニアメである。人口は国土の南部に偏在しており、[[マラディ]]や[[ザンデール]]といった都市が点在するが国土の中部・北部は砂漠地帯であり、[[オアシス]]都市で古くからのサハラ交易の要衝である[[アガデス]]と、ウラン鉱開発の拠点として急速に都市化した[[アーリット]]を除き都市らしい都市は存在しない。 == 経済 == {{Main|{{仮リンク|ニジェールの経済|en|Economy of Niger}}}} [[ファイル:Niamey from grand mosque theatre 2006.jpg|thumb|left|首都[[ニアメ]]。]] [[農業]]、[[畜産|畜産業]]、[[鉱業]]が主産業。国民総所得は161億ドル<ref>http://databank.worldbank.org/data/download/GNI.pdf</ref>、(1人当たり610ドル<ref>http://databank.worldbank.org/data/download/GNIPC.pdf</ref>、2022年)で、[[後発開発途上国|世界最貧国]]の1つでもある。周辺の8か国とともに[[西アフリカ諸国中央銀行]]を[[中央銀行]]としており、[[通貨]]は[[CFAフラン]]である。 === 農牧業 === 第1次産業人口は56.9 %(2005年)を占める<ref name="名前なし-3">「データブック オブ・ザ・ワールド 2016年版 世界各国要覧と最新統計」p299 二宮書店 平成28年1月10日発行</ref>が、農業は自給農業が中心で、南部に限られる。降雨量は少ないが[[灌漑]]も発達しておらず、水源も乏しいため、ほとんどは天水農業である。そのため、降雨量に収量は大きく左右されるがサヘル地域は雨量が不安定であり降水量の年較差が激しいため、しばしば[[旱魃]]が起こる。 ニジェールのおもな作物は雨量の多いサヘル南部では[[モロコシ]]、より乾燥したサヘル中部では[[トウジンビエ]](パールミレット)が栽培される<ref name="名前なし-4">「西アフリカ・サヘル地域における農耕民の暮らしと砂漠化問題」p221-222 大山修一(「朝倉世界地理講座 アフリカⅠ」初版所収)、2007年4月10日 朝倉書店</ref>。1980年代以降、特にモロコシにおいて単収の減少が目立ち、1980年の1ヘクタール当たり479㎏から、2001年には1ヘクタール当たり255㎏と、ほぼ半減している。これは人口増加により旧来の土地休閑が不可能になり、土地が酷使されるようになったためである。これに対し総生産量は増加しているが、これは耕作面積が3倍近く増加しているため、単収の減少を耕地の増加で補っているためである。トウジンビエにおいては旧来の土地休閑が可能であったため、単収減少は起こっていない<ref>http://www.jaicaf.or.jp/news/nigar_agri09.pdf 「ニジェールの農林業(2009 年版)」p22 社団法人 国際農林業協働協会2009 年3月発行 2018年12月15日閲覧</ref>。モロコシ・トウジンビエは平年は自給が可能であるが、旱魃が起こった場合供給が不足する。このほか、南部のニジェール川流域において[[米]]の栽培が行われており、とくにティラベリ州において集約的に栽培されるが、国内需要が大きく伸びているため自給ができず、多くを輸入に頼る状況となっている<ref>http://www.jaicaf.or.jp/news/nigar_agri09.pdf 「ニジェールの農林業(2009 年版)」p36-37 社団法人 国際農林業協働協会2009 年3月発行 2018年12月15日閲覧</ref>。 輸出用作物としては植民地時代に[[落花生]]の栽培が奨励され、1960年代初期には総輸出額の80 %が落花生および[[ピーナッツオイル]]によって占められていた<ref>「各国別 世界の現勢Ⅰ」(岩波講座 現代 別巻Ⅰ)p344 1964年9月14日第1刷 岩波書店</ref>が、1970年代にはすでに割合はかなり小さくなっており、それ以降は輸出額はごくわずかなものにとどまっている<ref name="名前なし-5">「ニジェール 独立50年の全体像」p184 小倉信雄・久保環著 東京図書出版 2013年5月23日初版発行</ref>。農作物のなかで輸出額が多いのは[[タマネギ]]や[[ササゲ]]であるが、いずれも総輸出額に占める割合は非常に少ない<ref name="名前なし-5"/>。ササゲの輸出の大半はナイジェリア向けであり<ref>http://www.jaicaf.or.jp/news/nigar_agri09.pdf 「ニジェールの農林業(2009 年版)」p25 社団法人 国際農林業協働協会2009 年3月発行 2018年12月15日閲覧</ref>、タマネギの輸出先も近隣諸国がほとんどである<ref>http://www.jaicaf.or.jp/news/nigar_agri09.pdf 「ニジェールの農林業(2009 年版)」p35 社団法人 国際農林業協働協会2009 年3月発行 2018年12月15日閲覧</ref>。 牧畜は農業よりは盛んであり、[[ウシ]]や[[ヒツジ]]、[[ヤギ]]、[[ラクダ]]が主に飼育される。南部のフラニ人はウシを主に飼育し、北部のトゥアレグ人はラクダやヤギを中心に飼育を行っている<ref name="名前なし-4"/>ほか、各地の農耕民も牧畜を行っている。家畜輸出は農業輸出よりも大きく、ウシ・ヒツジ・ヤギが主に輸出される<ref name="名前なし-5"/>。内水[[漁業]]の規模は2005年で年間漁獲高5万t前後であり、そのうちの約4万5000 t、90 %近くをチャド湖での漁獲が占めており、ニジェール川が3700 t前後、他の水域での漁獲はわずかなものにとどまっている<ref>「ニジェール 独立50年の全体像」p92-93 小倉信雄・久保環著 東京図書出版 2013年5月23日初版発行</ref>。 {{See also|{{仮リンク|ニジェールにおける季節的な移住|en|Seasonal migration in Niger}}}} === 鉱業 === [[File:MineArlit1.jpg|thumb|250px|アーリット・ウラン鉱山]] 独立時は上記のわずかな農牧業に頼っていたが、[[1971年]]に北部のアーリットで[[ウラン]]鉱の生産が開始され<ref name="名前なし-6">田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』p452、朝倉書店 ISBN 4254166621 </ref>、以後ウランの輸出が経済の柱となった。ウランは確認できるだけで世界第3位の埋蔵量を誇っている。ニジェールのウラン鉱山はアーリット鉱山と[[アクータ鉱山]]の2つの鉱山からなり、アーリット鉱山は[[フランス原子力庁]](のちに[[アレヴァ]]社)とニジェール政府が、アクータ鉱山はニジェール政府・フランス原子力庁(のちに[[アレヴァ]]社)・日本の[[海外ウラン資源開発]]社・[[スペイン]]の資本がそれぞれ出資している<ref name="名前なし-6"/>。 ウラン関連産業は全雇用の約20 %を占める。2014年にはウランが総輸出額の45.6 %を占め、ニジェール最大の輸出品となっている<ref name="名前なし-7">「データブック オブ・ザ・ワールド 2016年版 世界各国要覧と最新統計」p300 二宮書店 平成28年1月10日発行</ref>が、あまりにウランの経済に占める割合が高いため、ウランの市場価格の上下がそのまま経済に直撃する構造となっており、経済成長率はウラン価格の動静に左右されている。 一方、東部では油田が発見され、2014年には石油製品が総輸出額の25.9 %を占めて第2位の輸出品となった<ref name="名前なし-7"/>。またブルキナファソの国境に近いリプタコ地方においては[[金]]が産出され、これも輸出される<ref name="名前なし-8">「ニジェール 独立50年の全体像」p143 小倉信雄・久保環著 東京図書出版 2013年5月23日初版発行</ref>。 === その他 === ニジェールは、1997年の旱魃で国民の4分の1が飢餓の危機に陥った。さらにウラン価格の低下、度重なる政情不安による海外援助の途絶により、1999年末には国家経済が事実上の破産状態に陥った。しかし、2000年12月に[[国際通貨基金]] (IMF) などは貧困削減対策としてニジェール政府が背負う8億9,000万[[ドル]]の[[債務]]免除を発表し、7,600万ドルの融資を決定するなど明るい兆しも見えてきている。 {{Clearleft}} == 交通 == {{main|{{仮リンク|ニジェールの交通|en|Transport in Niger}}}} ニジェールの交通の主力は道路交通であるが、それほど整備が進んでいるわけではない。最も重要な道路は首都のニアメから国土の南端[[ガヤ (ニジェール)|ガヤ]]へ向かう道路で、ここからベナンに入りベナン中部の[[パラクー]]から鉄道で[[コトヌー]]港へと向かうのがニジェールの主な輸出ルートである。またマリ国境のからニアメ、[[ドッソ]]、マラディ、ザンデール、[[ディファ]]といった主要都市を通ってチャド湖沿岸の[[ンギグミ]]まで、ニジェールの人口稠密地帯を結ぶ全線舗装の<ref name="名前なし-8"/>幹線道路が走っている<ref>田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』p446、朝倉書店 ISBN 4254166621 </ref>。このほか、ザンデールからアガデス・アーリットを通ってアルジェリア国境のアッサマッカへと向かうサハラ縦断道路が存在するが、舗装はザンデールからアーリット間のみにとどまっている<ref name="名前なし-8"/>。ニジェール川には、ニアメ市の[[ケネディ橋 (ニアメ)|ケネディ橋]]やガヤ市の橋など、数本の橋が架けられている。 ニジェールには、ニアメの[[ディオリ・アマニ国際空港]]をはじめとしていくつかの空港が存在するが、国際便がニアメに発着するのみで1980年代以降国内線はわずかなチャーター便を除きほとんど運行していない。このため、国内輸送において航空輸送はほとんど意味を持っていない<ref>「ニジェール 独立50年の全体像」p139 小倉信雄・久保環著 東京図書出版 2013年5月23日初版発行</ref>。 ニジェール国内に[[鉄道]]は存在しない。植民地時代には[[コートジボワール]]の[[アビジャン]]から[[オートボルタ]]の首都[[ワガドゥグー]]を通ってニアメまでの鉄道が計画されていたものの、1954年にワガドゥグーに到達したところで工事は中断し、やがて独立とともに計画は立ち消えとなって[[アビジャン・ニジェール鉄道]]の名にその痕跡を残すのみとなっている。これに代わって[[ダオメー]](現ベナン)経由の鉄道計画が浮上し、1959年には[[ベナン・ニジェール鉄道輸送共同体]]が設立されてダオメー国内の鉄道にニジェールが参画することとなった<ref>「世界の鉄道」p337 [[海外鉄道技術協力協会|一般社団法人海外鉄道技術協力協会]]著 ダイヤモンド・ビッグ社 2015年10月2日初版発行</ref>。1970年代にはパラクーからニアメへの鉄道延伸が決定されたが、資金不足で工事は中止された<ref>「世界の鉄道」p337 一般社団法人海外鉄道技術協力協会著 ダイヤモンド・ビッグ社 2015年10月2日初版発行</ref>。 == 国民 == [[ファイル:Tahoua Niger Kids1 2006.jpg|thumb|ニジェールの子供たち。]] {{main|{{仮リンク|ニジェールの人口統計|en|Demographics of Niger|fr|Démographie du Niger}}}} 2016年の人口は2067万2987人。国連による統計では2015年〜2020年の人口増加率は3.81と世界3位<ref>{{Cite web|url=https://esa.un.org/unpd/wpp/Download/Standard/Population/|title=United Nations Population Div, World Population Prospects 2017, File: Population Growth Rate, retrieved 5/20/18|last=|first=|date=|website=|access-date=2019年1月29日}}</ref>。[[世界銀行]]によると、ニジェールの出生率は2016年には7.2となり世界一となっていることから人口爆発を引き起こし、2020年に2332万人、2050年に6120万人、2070年に1億0122万人、2100年には1億2403万人にまで増加すると予測されている。 === 民族 === ニジェールの最大民族は[[ハウサ族]]であり、2001年には人口の55.4 %を占めていた<ref name="名前なし-3"/>。ハウサ人は主に南部のナイジェリア国境沿いに居住し、ザンデールやマラディなどが居住域の主な都市である。次の大きな民族グループは南西部に居住する{{仮リンク|ザルマ人|en|Zarma people|label=ジェルマ}}-[[ソンガイ族]]であり、人口の21 %(2001年)を占めている<ref name="名前なし-3"/>。ジェルマ・ソンガイは首都ニアメの多数派民族であり、ニジェール川沿いを主な居住域としている。これに次ぐのは北部の砂漠地方を中心に居住する遊牧民[[トゥアレグ族]]であり、全人口の9.3 %(2001年)を占める<ref name="名前なし-3"/>。第4位の民族は[[フラニ族]]であり、人口の8.5 %(2001年)を占める<ref name="名前なし-3"/>。フラニ人も遊牧民であるが、北部に多いトゥアレグ人とは異なり、北端を除き全国にまんべんなく分布する。このほか、南東部に多い{{仮リンク|カヌリ人|en|Kanuri people|label=カヌリ族}}や、同じく南東部のディファ市周辺に多い{{仮リンク|ディファ・アラブ|en|Diffa Arabs|label=ディファ・アラブ族}}、{{仮リンク|トゥーブゥー人|en|Toubou people|label=トゥーブゥー族}}、{{仮リンク|グルマ人|en|Gurma people|label=グルマ族}}などの民族が居住する。 === 言語 === {{main|{{仮リンク|ニジェールの言語|fr|Langues au Niger}}}} [[フランス語]]が[[公用語]]であるが、日常においては[[ハウサ語]]、[[ジェルマ語]]、[[フラニ語]]などの各民族語が主に話されている。 === 宗教 === {{main|{{仮リンク|ニジェールの宗教|en|Religion in Niger}}}} [[イスラム]]が90 %を占め、中でもスンニ派が全人口の85 %を占めている(2005年)<ref name="名前なし-3"/>。他に[[アニミズム]]、[[キリスト教]]も。 === 教育 === {{main|{{仮リンク|ニジェールの教育|en|Education in Niger}}}} ニジェールの教育制度は[[小学校]]6年・[[中学校]]4年・[[高校]]3年・[[大学]]3年であり、小学校と中学校の10年間が[[義務教育]]となっている<ref name="名前なし-9">「諸外国・地域の学校情報 ニジェール共和国」日本国外務省 平成29年12月 2018年12月3日閲覧</ref>。ただし[[飛び級]]制度および[[落第]]制度があり<ref name="名前なし-9"/>、またそれ以外でも学校教育からドロップアウトする者も多い<ref>「ニジェール 独立50年の全体像」p159 小倉信雄・久保環著 東京図書出版 2013年5月23日初版発行</ref>ため、入学者に比べ卒業者は少なくなっている。識字率は19.1 %(2015年)にすぎない<ref name="名前なし-3"/>。 国内の大学は、1971年に設立された総合大学[[アブドゥ・ムムニ大学]](旧ニアメ大学)やイスラム大学である[[サイ・イスラム大学]]が存在する<ref>「ニジェール 独立50年の全体像」p163-165 小倉信雄・久保環著 東京図書出版 2013年5月23日初版発行</ref>。 === 保健 === {{main|{{仮リンク|ニジェールの保健|en|Health in Niger}}}} 同国は慢性的な資源不足と人口に比べて医療提供者が少数である現状に苦しんでおり、今も事態が解決へ向かっていない。 {{sectstub}} == 治安 == イスラム過激派組織による[[テロ]]・[[誘拐]]事件が多発しており、外国人も被害に遭っていることが報告されている。 {{sectstub}} === 人権 === {{main|{{仮リンク|ニジェールにおける人権|en|Human rights in Niger}}}} {{sectstub}} == マスコミ == 日本の大学の講師である大山教授はニジェールにて緑化プロジェクトを2021/04/28に開始する。餓えと争いをなくすため、砂漠をゴミで緑化する活動を開始してプロジェクトを成功させる。 「アフリカの人道危機を解決する実践平和学」 アジア・アフリカ地域研究研究科 教授 == 文化 == [[ファイル:Fachi-Bilma-Dünen.jpg|thumb|世界遺産[[アイル・テネレ自然保護区]]]] {{main|{{仮リンク|ニジェールの文化|en|Culture of Niger}}}} === 食文化 === {{main|{{仮リンク|ニジェール料理|en|Cuisine of Niger}}}} 主食には[[キビ]]、[[米]]、[[キャッサバ]]、[[ソルガム]]、[[トウモロコシ]]、[[豆]]などを用いている。 料理に様々な[[香辛料|スパイス]]が使用されることが特徴でもある。 {{sectstub}} === 文学 === {{sectstub}} {{See also|{{仮リンク|ニジェールの作家の一覧|en|List of Nigerien writers}}}} === 音楽 === {{main|[[ニジェールの音楽]]}} {{sectstub}} === 世界遺産 === {{Main|ニジェールの世界遺産}} ニジェール国内には、文化遺産が1件([[アガデス|アガデス歴史地区]])及び自然遺産が2件([[アイル・テネレ自然保護区]]、[[W国立公園]])の3つの世界遺産が存在する。アガデスはサハラ交易で栄えたオアシス都市であり、その古い町並みが世界遺産に指定された。アイル・テネレ自然保護区は国土中央部の山地及び砂漠地帯である。W国立公園は国土の南端に位置し、ニジェール、ブルキナファソ、ベナンにまたがるニジェール川の流域で自然がよく残され、多くの動物が生息している。 === 祝祭日 === {| class="wikitable" border="1" style="margin:0 auto" |+ 祝祭日 ! 日付 !! 日本語表記 !! 現地語表記 !!備考 |- |[[1月1日]]||[[元日]]||Jour de l'An|| |- |[[4月24日]]||コンコードの日|| | |- |[[5月1日]]||[[メーデー]]|| | |- |[[8月3日]]||独立記念日||Fête de l'Indépendance|| |- |[[12月18日]]||共和国の日||Jour de la République|| |- |[[12月25日]]||[[クリスマス]]||Noël|| |} === スポーツ === {{main|{{仮リンク|ニジェールのスポーツ|en|Sport in Niger}}}} ニジェール国内でも、他の[[アフリカ]]諸国同様に[[サッカー]]が圧倒的に1番人気の[[スポーツ]]となっている。[[1966年]]にサッカーリーグの{{仮リンク|ニジェール・スーパーリーグ|en|Super Ligue (Niger)}}が創設された。{{仮リンク|ニジェールサッカー協会|en|Nigerien Football Federation}}によって構成される[[サッカーニジェール代表]]は、[[FIFAワールドカップ]]には未出場である。[[アフリカネイションズカップ]]には、[[アフリカネイションズカップ2012|2012年大会]]で初出場し続く[[アフリカネイションズカップ2013|2013年大会]]にも出場したものの、両大会ともグループリーグ敗退に終わった。 {{See also|{{仮リンク|ニジェールのサッカー|en|Football in Niger}}}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 参考文献 == * 牧英夫『世界地名ルーツ辞典』1989/12 == 関連項目 == * [[ニジェール関係記事の一覧]] - 英語版{{enlink|List of Nigeriens}} * [[サヘルの声]](国営ラジオ放送) * [[後発開発途上国]] == 外部リンク == {{Commons&cat|Niger|Niger}} * [https://www.gouv.ne/ ニジェール共和国政府] {{fr icon}} * [https://www.presidence.ne/ ニジェール大統領府] {{fr icon}} * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/niger/ 日本外務省 - ニジェール] {{ja icon}} * [https://www.niger-tourisme.com/ ニジェール政府観光局] {{fr icon}}{{en icon}} * {{Kotobank}} {{アフリカ}} {{OIC}} {{OIF}} {{authority control}} {{DEFAULTSORT:にしええる}} [[Category:ニジェール|*]] [[Category:アフリカの国]] [[Category:内陸国]] [[Category:共和国]] [[Category:フランコフォニー加盟国]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:アフリカ連合加盟国]] [[Category:イスラム協力機構加盟国]] [[Category:後発開発途上国]]
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ルーマニア
ルーマニア(羅: România)は、東ヨーロッパ、バルカン半島東部に位置する共和制国家。首都はブカレスト。南西にセルビア、北西にはハンガリー、北がウクライナ、北東をモルドバ、南にブルガリアと国境を接し、東は黒海に面している。 国土の中央をほぼ逆L字のようにカルパティア山脈が通り、山脈に囲まれた北西部の平原のトランシルヴァニア、ブルガリアに接するワラキア、モルドバに接するモルダヴィア、黒海に面するドブロジャの4つの地方に分かれている。 ルーマニアは「多種多様な民族によって形成された国家」であるといって過言ではない。同国の住民は、紀元前からこの地方に住んでいたトラキア系のダキア人と、2世紀ごろにこの地方を征服した古代ローマ人、7世紀から8世紀ごろに侵入したスラブ人、9世紀から10世紀に侵入したマジャール人、その他にトルコ人、ゲルマン人などの混血や同化によって、重層的かつ複合的に形成された等と言述される複合民族 români(ロムニ、ルーマニア人)が約9割を占める(なお、români(ルーマニア人)の起源については諸説ある)。 そして少数のマジャール系のセーケイ人やロマ人(≒ジプシー)なども住んでいる。 なおルーマニアという国は、言語的には公用語がラテン語起源の(つまりロマンス諸語の)ルーマニア語で、宗教的には東方教会系のルーマニア正教会が多数派である。それに対し、ポーランド(ヨーロッパの北東部で、ルーマニアの北西方向に位置する国)のほうは同じ「東欧」と言っても、言語的にはスラヴ語派に属するポーランド語が主に話されており、宗教的には西方教会のカトリック教会が支配的である。 つまり、ルーマニアとポーランドは、東欧において、言語的にも宗教的にも好対照の存在となっている。 正式名称はルーマニア語で România [romɨˈni.a] ( 音声ファイル)。原音により忠実にカナ表記すると「ロムニア」が近い。 国名の由来(語源)は、ラテン語で「ローマ人(ローマ市民)の土地」という意味の表現。 ハンガリー語の表記は Románia [romaːniɒ](ロマーニア)。 かつて、英語では Rumania、ドイツ語では Rumänien、フランス語では Roumanieと表記するなど、現地の発音とは一つめの母音から既にずれた表記が流通していた。近年では、現地の表記に沿う方向で修正される動きもあり、たとえば英語での公式表記は Romania となったが、英語はロマンス諸語に表記だけを似せても発音は「[roʊˈmeɪniə] ( 音声ファイル)」(ロゥメイニア)となり、あまり参考にならない。 日本語の表記は、昔の英語式の表記に影響を受けた「ルーマニア」となっている。漢字表記は羅馬尼亜(羅馬尼亞)、緑馬尼、羅と略される。中国語も同じく「羅馬尼亞」と表記する。 独立してからの日本語での正式名称は、以下のように変遷している。 現在では政体を指す共和国は含まない国名が正式名称となっており、「ルーマニア共和国」という表記は誤りである。 古代にはゲタイ人(古代ギリシア語: Γέται)と呼ばれる民族が居住していた。紀元前513年、イストロス河(古代ギリシア語: Ἴστρος、現・ドナウ川)の南でゲタイ人の部族連合が、対スキタイ戦役中のペルシア王ダレイオス1世に敗れた(ヘロドトス『歴史』4巻93)。 約600年後、ダキイ人(ラテン語: Daci)は、ローマ帝国への侵攻に怒ったローマ皇帝トラヤヌスによる2度の遠征(101年 - 106年)に敗れ、ローマ帝国の領土となった。その王国の4分の1はローマ領となり、ローマ帝国の属州ダキアとなった。現在の国名もその時の状態である「ローマ人の土地(国)」を意味する。国歌の歌詞にトラヤヌスが登場するのは、こうした経緯からである。 238年から258年にかけて、ゴート人とカルピイ人がバルカン半島まで遠征した。ローマ帝国はドナウ川南まで後退し、以前の属領上モエシアの一部に新しく属領ダキアを再編した。 271年、かつてのダキアにゴート人の王国が建てられ、4世紀終わりまで続いたのち、フン人の帝国に併呑された。中央アジア出身の遊牧民族が入れ替わりルーマニアを支配した。ゲピド人、アヴァールがトランシルヴァニアを8世紀まで支配した。その後はブルガール人がルーマニアを領土に収め、その支配は1000年まで続いた。このころの史料には、ペチェネグ人、クマ人、ウゼ人への言及も見られる。その後、13世紀から14世紀にはバサラブ1世によるワラキア公国、ドラゴシュによるモルダヴィア公国の成立が続いた。 中世にはワラキア、モルダヴィア、トランシルヴァニアの3公国があった。完全な独立ではなく、オスマン帝国やハプスブルク家の支配下にあった。ワラキアとモルダヴィアは15世紀から16世紀にかけてオスマン帝国の属国であった。モルダヴィアは1812年東部のベッサラビアをロシア帝国に割譲した(パリ条約により1920年に再合併)。北東部は1775年、オーストリア帝国領土となり、南東部のブジャクはオスマン帝国領であった。 トランシルヴァニアは11世紀にハンガリー王国の一部となり、王位継承により1310年以降アンジュー家、のちにハプスブルク家領となったが、1526年にオスマン帝国の属国となった(オスマン帝国領ハンガリー)。18世紀には再びハプスブルク家のハンガリー王国領となり、第一次世界大戦の終わる1918年までその状態が続いた。 1859年にワラキアとモルダヴィアの公主が統一され、1861年、オスマン帝国宗主下の自治国として連合公国が成立した(ルーマニア公国)。1877年には露土戦争に乗じて完全な独立を果たすため、独立宣言を行った。1878年、ベルリン会議で国際的に承認され、ルーマニア王国が成立した。 第一次世界大戦では中央同盟国に攻め込まれ一時屈服したものの、与した連合国が勝利したことからトランシルヴァニアなどを併合して領土を倍増させ(「ルーマニア戦線」「トリアノン条約」参照)、大ルーマニアを実現させたが、全人口の4分の1が異民族という不安定な国家となった。1918年ベッサラビアを回復したが、これは1940年に再びソビエト連邦に占領され、最終的に割譲することとなる(現在はモルドバ共和国、ウクライナ)。 第二次世界大戦が始まると、ソ連はベッサラビアなどルーマニアの一部を占領した。国民は列強の領土割譲に対して無為無策であった国王カロル2世を批判し、退位させた。ルーマニアはドイツにつき枢軸国側として参戦した。この参戦により、ソ連が占領した地域を回復した。しかし、ドイツ敗退により再度ソ連に侵攻され、1944年8月の政変で独裁体制を敷いていたイオン・アントネスク元帥ら親ドイツ派を逮捕して連合国側につき、国内のドイツ軍を壊滅させたあとにチェコスロバキアまで戦線を拡大し、対ドイツ戦を続けた。 戦後はベッサラビアとブコヴィナをソ連に割譲させられ、ソ連軍の圧力により社会主義政権が樹立した。王制を廃止し、1947年にルーマニア人民共和国が成立した(1965年にルーマニア社会主義共和国に改称)。しかし、ニコラエ・チャウシェスクの独裁政権のもと、次第に他の東側諸国とは一線を画す「自主独立路線」を唱え始め西側との結びつきも強めた。1989年、ニコラエ・チャウシェスクの独裁政権が打倒され(「ルーマニア革命」)、民主化された。 2007年1月1日に欧州連合(EU)に加盟した。加盟に際しては「改革が不十分である」として欧州理事会によって再審査されたが、「加盟後も改革を続行する」として承認された。 現在の政体は大統領を国家元首とする共和制国家であり、議会から選出される首相が行政を行う議院内閣制を採用している。 大統領は任期が5年となっている(2004年までは任期4年)。 立法権は二院制の議会に属し、下院(代議院)は定数330人、上院(元老院)は定数136人で両院とも任期は4年。 ルーマニアは複数政党制となっている国家の一つである。少数民族政党も存在している。 司法権は最高裁判所に属している。 2004年には北大西洋条約機構(NATO)に参加。2007年1月に欧州連合に加盟した。2016年2月、コメルサントは政府が隣国モルドバの政治危機に乗じて両国の統合を目指し、そのための働きかけを強めていると報じた。 2012年、2017年に続いて大規模なルーマニア反政府運動(英語版)が起きた。 なお、ルーマニア国内では旧王家が「王室」を称して公的活動を積極的に展開している。旧王家の家督は「ルーマニア王冠守護者」の称号と「陛下」の敬称を自称し、ルーマニア社会では広範に認められている。現在の家督はマルガレータ・ア・ロムニエイ。2018年10月29日、旧王家を軸とする国家的価値推進機関「国王ミハイ1世」の創設に関する法案が下院を通過した。この法案には、特権を付与して「王室」を制度化するものであるとする違憲論もある。 大使・植田治(2020年12月) ルーマニア軍は、国防省の監督下にある総司令官が率いる陸・空・海軍の各軍からなり、戦時には大統領が最高司令官として指揮をとる。陸軍45,800人、空軍13,250人、海軍6,800人、その他8,800人で、文民は約15,000人、軍人は75,000人である。2007年の国防費は国内総生産(GDP)の2.05%、約29億ドルで、2006年から2011年にかけて近代化と新規装備の取得のために総額110億ドルが費やされている。 空軍はソ連の近代化戦闘機MiG-21ランサーを運用している。空軍はC-27Jスパルタン戦術空輸機7機を新たに購入し、海軍は英国海軍から近代化された22型フリゲート艦2隻を購入した。 2010年2月4日、アメリカのクローリー国務次官補(広報担当)は、ルーマニア政府が地上発射型迎撃ミサイルSM-3(イージス・アショア)の配備に同意したことを明らかにした。これは、バラク・オバマ政権が進めた、イランの弾道ミサイルの脅威に対処するための新たな欧州ミサイル防衛(SD)計画に参加したことになる。この件においてアメリカは同計画の参加国が南欧に広がったことを歓迎している。 また2009年10月には、ポーランド政府が新MD計画へ参加する方針をルーマニアが表明していたことが報道されている。 西のセルビア、南のブルガリアとの間におけるルーマニアの国境は、基本的にドナウ川を境界としている。モルドバとの国境線であるプルト川もドナウ川と合流し、東岸の黒海に注ぐ。ドナウ川の河口は三角州(ドナウ・デルタ)となっており、生物保護区となっている。 これらの自然国境はそれぞれの川の流路変更によって変化する。また、ドナウ・デルタは年に2 - 5kmずつ面積を増やしているため、ルーマニアの領土面積はここ数十年、増加の傾向にある。1969年に23万7,500kmだった総面積は、2005年には23万8,319kmとなっている。 ルーマニアの地形は34%が山地、33%が丘陵地、33%が平地である。国の中央をカルパチア山脈が占め、トランシルヴァニア平原を取り囲んでいる。カルパチア山脈のうち14の山は2,000メートル級であり、最高峰のモルドベアヌ山は 2,544メートルである。カルパチア山脈は南の丘陵地帯に続き、さらにバラガン平野(英語版、ルーマニア語版)に至る。 ルーマニアの地方行政は、41の県と首都ブカレストに区分されて行われている。 また、同国の県は「comună(コムーナ)」あるいは「municipiu(ムニチピウ)」などと呼ばれる小規模の自治体に分かれている。 IMFの統計によると、ルーマニアの2013年の国内総生産(GDP)は約1,889億ドルである。2016年の1人あたりの名目GDPは1万1,859ドルで、世界平均より少し高い程度だが、バルカン半島の旧社会主義国ではクロアチアに次いで高い。 ルーマニアは伝統的に農業国であり、第一次産業人口が人口の42.3%を占める(2001年)。一方で、社会主義時代に計画経済のもと工業化が進められた結果、2014年現在では鉄鋼やアルミニウム、繊維産業といった業種も主要産業となっている。そのほか、17世紀から続くモレニ油田が知られるように、ルーマニアは産油国であるが、今日ではその規模は限られている。 住民は、ロムニ(ルーマニア人)が89%。マジャル人(ハンガリー人)が6%、ロマ人が2%などである。その他にはセルビア人、ウクライナ人、ドイツ人、トルコ人、タタール人、スロヴァキア人、ブルガリア人、ロシア人、ユダヤ人、ノガイ族などが居住している。ルーマニア人は古代のダキア人と植民したローマ人の混血だとされているが、異論もある。マジャル人の多くはハンガリーとの領有権問題を抱えるトランシルヴァニアのなかでも特にティミショアラに多く居住しており、マジャル人は約160万人いる。 国勢調査ではロマ人の人口は約61万9000人とされているが、NGOは、これを大きく上回る約200万人と試算しており、ロマ人はルーマニアの全人口の約8%から約10%を占め、約190万人とも約200万人いるともいわれる。ロマ人は、すべての少数民族のうち、人口の算出がもっとも難しい民族であり、長きにわたって虐げられてきたロマ人に対する広範な差別は、雇用および住宅面などで依然根強いものがあり、「ジプシー」という烙印を押されるのを免れようとして、多くのロマ人が国勢調査で自らをルーマニア人と自己申告しており、事実、このようなロマ人の多くは身分証明書を所持していない。2002年の国勢調査では、ロマ人と自己申告した者は53万5140人であり、ルーマニア全人口の2.5%に過ぎない。しかし、ロマ人が多く住む東南ヨーロッパのなかでも、ルーマニアに住むロマ人の人口は群を抜いて多く、ルーマニアの社会学者の低めの推計では約100万人としている。一方、マイノリティ・ライツ・グループ(英語版)の1995年の報告では、約180万人から約250万人と試算しており、ロマ人はルーマニア全人口の8%から11%を占めている。国勢調査でロマ人であると自己申告した者のうち、約半数がロマ語を母語としていると申告しており、このことは、ルーマニア人への同化に段階性があり、同化が進行した者のなかには、その母語に従ってルーマニア人として自己申告している者が多数いる事実をうかがわせる。欧州評議会は、約185万人のロマ人がルーマニアに住んでおり、ルーマニア全人口の約8.32%がロマ人と推計している。世界銀行は、ルーマニアには約300万人のロマ人がいると推計している。ブカレスト大学のMarian Predaは、1998年にロマ人に関する研究をおこない、ロマ人の人口を150万人と割り出したが、そのうちの100万人は、公式の国勢調査においてロマ人と自己申告していなかった。つまり、ルーマニアのロマ人の3分の2以上が、恐怖、恥、差別などの理由で出自を隠し、自らをルーマニア人と自己申告しており、ルーマニアのロマ人のせいぜい3分の1だけが自らをロマ人と自己申告していた。上院議員であるマダリン・ヴォイク(英語版)は、「ルーマニアだけで70万人から130万人の定住生活者がいる他、70万人程度の移動生活者がおり、結果、ルーマニアのロマ人の人口は200万人ほどになる」と述べている。国際連合開発計画は、「ルーマニアは、専門家の推定では、最低180万人から最大250万人のヨーロッパで最大、そしておそらく世界でも最大のロマ人を抱えている」と報告している。ニュージーランドの社会開発省(英語版)のアナリストであるChungui Qiaoは、「ヨーロッパのロマ人の人口は700万人から900万人と推定されています。ルーマニアは、ロマ人の絶対数が最も多く、100万人から200万人の範囲にある国です」と報告している。 公用語はルーマニア語である。ルーマニア語はロマンス諸語の一つであり、古代ローマ帝国で話されていたラテン語の方言が変化したものである(なお、東欧ではロマンス系言語を公用語とする国家はモルドバとルーマニアだけである)。その他、ロマ語、ハンガリー語、ドイツ語、フランス語なども使われている。 2011年の調査によれば、キリスト教正教会の一派ルーマニア正教会が81%、プロテスタントが6.2%、カトリックが5.1%、その他(その他のキリスト教、イスラム教(英語版)、エホバの証人、ユダヤ教)が1.2%、無宗教が0.2%、無効データが6.2%である。 2015年を例にとってみると、ルーマニアでは12万5,000組超の婚姻が登録された(ルーマニア国政府の統計局によるデータ)。そのうち18.2%は25 - 29歳の(の年齢帯に統計局によって分類された)男女であり、14.3%は20 - 24歳の男女である。2015年の統計では、婚姻時の女性の平均年齢は29.1歳で、男性の平均年齢は32.5歳であった(平均年齢は、この年、前年と比べてやや上昇した)。 離婚数は2015年には3万1,527件であり、この年は前年比で15.9%増加した。 ルーマニア政府は、ルーマニア国民がそれぞれに住む地域の市役所で行う結婚式のみを法的に認知している。したがって、多くのカップルが市役所での結婚式を終えたあとに改めて宗教的な結婚式を行うことを選ぶ。 なお婚姻の際には、自己の姓を用い続ける(夫婦別姓)、相手の姓を用いる(夫婦同姓)、相手の姓を付加する、のいずれかを選択できる。 2019年時点で、ルーマニアでは同性婚を新たにすることは法的には認められていない(ただし、欧州連合においてすでに同性婚をしたカップルがルーマニアで暮らす場合は、婚姻関係にあると法的に認知される。en:Recognition of same-sex unions in Romaniaも参照)。 ルーマニアは、概して言えば、LGBTなどに関しては「保守的」である。LGBTなどの人々はルーマニアでは社会的な障壁に直面することになる。ただし、2000年以降にかなりの変化も見られ、この20年ほどの間に、ホモフォビアやそれに関連するヘイトクライムを禁止する法律が成立してきている(en:LGBT rights in Romaniaも参照可)。 7歳から14歳までの8年間の初等教育と前期中等教育が義務教育であり、無償となっている。 主な高等教育機関としては、ブカレスト大学(1864年創設)などが挙げられる。 ルーマニアの死亡率はヨーロッパで5番目に高く、人口10万人あたり691人であり、他のEU加盟国に比べて外的要因および感染症や寄生虫症による死亡者が多く見られる(4〜5%)。 2004年のルーマニアでの主な死因は心血管疾患(62%)であり、次いで悪性腫瘍(17%)、消化器疾患(6%)、事故、負傷および中毒(5%)、呼吸器疾患(5%)と続く。 総人口の5分の1が伝染病または慢性疾患に苦しんでいると推定されており、2015年の伝染病による死亡率はヨーロッパで4番目に高かった 。 現在ルーマニアは深刻な野犬の問題に直面しており、全国で推定200万匹が野放しになっている。2005年において同国内で2万人以上が犬に襲われる被害を受けている。 その為 当局は駆除に乗り出そうとしているが、動物保護団体の激しい反対にあい対策は進んでいない。 2006年1月7日、動物愛護活動家でもあるフランスの女優のブリジット・バルドーが声明を出して駆除計画に抗議、ルーマニア当局を非難した。同年1月29日、日本人男性がブカレストで野犬に噛まれて失血死する事件が起きた。 ルーマニアの治安は、『グローバル・ファイナンス(英語版)』が発表した「最も治安の良い国ランキング2022」によると31位となっている。 だが、首都のブカレストに危険地域に指定されている区域が存在することや都市開発から取り残された貧困層による犯罪が多発している状態が続いており、現地を訪れる際は充分な注意が求められる。 ルーマニアの警察の発表によれば、犯罪発生数は2012年~2018年にはピーク時より約28%減少しているもののスリやひったくり、置き引き、車上狙い、自動車盗難等の路上犯罪が後を絶たない状況が続いている。 ルーマニアの警察は、各郡に対応する41の郡警察検査局と首都に設置されたブカレスト警察総局(ルーマニア語版)(DGPMB)ならびにブカレスト地方警察(ルーマニア語版)に分かれている。 2015年時点での民主主義指数では、167ヶ国中59位にランクされており、「欠陥のある民主主義国家」と称されている。 有名な吸血鬼ドラキュラ伯爵は、15世紀のワラキア公であったヴラド・ツェペシュがモデルになったとされている。 ウィッチクラフト(魔女文化)が数世紀の歴史を持ち、現在も「魔女」や「まじない師」「占い師」として生計を立てる人々が多く存在する。「魔女」としてお金を得ている者らからも(他の自営業者と同様に)徴税するために2011年1月1日に労働法が改正され、「魔女」が職業として認められることとなった。それ以降、魔女たちは役所で営業許可を得て「魔女」として登録する必要があるほか、占いが外れると罰金が科されたり、逮捕されたりしてしまうようになる可能性もあるという。 ルーマニア料理は、他のバルカン諸国の料理と比べ、トルコ料理の影響が小さい。 19世紀に活躍した詩人として、ミハイ・エミネスクが特筆される。 地域ごとに様々な伝統音楽の形式が存在する。また、ロマ(ジプシー)の音楽も盛んである。 ルーマニアにおける映画の歴史は1900年以前から始まっており、最初の映画撮影は1896年5月27日に行われている。だが、活動が始まったのは1895年12月28日にリュミエール兄弟がパリにて最初に開催した映画展から5ヶ月も経過していない時期であった事から、ヨーロッパ各国においての映画の歴史としては比較的浅いものに分けられる。 ルーマニア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件、自然遺産が1件存在する。 この他、伝統的祭日として3月1日の 三月祭(ルーマニア語版、英語版、ロシア語版) (Mărţişorul) がある。これはバレンタインデーに似た祭日である。花のほかに、ペンダント・ヘッドやブローチなどを男性から女性に贈る。紅白の細い糸を縒って作った小さなリボンを、プレゼントに結びつけるのが慣わしとなっている。 ルーマニアでも他のヨーロッパ諸国同様に、サッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。国内リーグの歴史は非常に古く、今から110年以上前の1909年にリーガ1が創設されている。ルーマニアサッカー連盟(FRF)によって構成されるサッカールーマニア代表は、これまでFIFAワールドカップには7度出場しており、1994年大会ではベスト8の成績を収めた。UEFA欧州選手権には5度出場しており、2000年大会ではベスト8に進出した。著名な選手には、ゲオルゲ・ハジ、アドリアン・ムトゥ、クリスティアン・キヴなどが存在している。 女子体操競技においては世界屈指の強豪国であり、ナディア・コマネチ、シモナ・アマナール、アンドレーア・ラドゥカンなどのオリンピック金メダリストを多数輩出している。中でもコマネチは1976年のモントリオール大会で完璧な演技を見せ、五輪の体操競技史上初となる「10点満点」を獲得し世界中の人々を魅了した。その容姿やトレードマークの白いレオタードから、コマネチは「白い妖精」の愛称で呼ばれていた。 ルーマニアはハンドボールでは、世界選手権において4度の優勝を果たしており、2015年にフランス代表に抜かれるまでは最多優勝国であった。また、ラグビー代表はワールドカップの第1回大会から8回連続出場中である。なお、伝統的な競技としてはレスリング形式のスポーツであるトレンタが開催されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ルーマニア(羅: România)は、東ヨーロッパ、バルカン半島東部に位置する共和制国家。首都はブカレスト。南西にセルビア、北西にはハンガリー、北がウクライナ、北東をモルドバ、南にブルガリアと国境を接し、東は黒海に面している。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "国土の中央をほぼ逆L字のようにカルパティア山脈が通り、山脈に囲まれた北西部の平原のトランシルヴァニア、ブルガリアに接するワラキア、モルドバに接するモルダヴィア、黒海に面するドブロジャの4つの地方に分かれている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ルーマニアは「多種多様な民族によって形成された国家」であるといって過言ではない。同国の住民は、紀元前からこの地方に住んでいたトラキア系のダキア人と、2世紀ごろにこの地方を征服した古代ローマ人、7世紀から8世紀ごろに侵入したスラブ人、9世紀から10世紀に侵入したマジャール人、その他にトルコ人、ゲルマン人などの混血や同化によって、重層的かつ複合的に形成された等と言述される複合民族 români(ロムニ、ルーマニア人)が約9割を占める(なお、români(ルーマニア人)の起源については諸説ある)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "そして少数のマジャール系のセーケイ人やロマ人(≒ジプシー)なども住んでいる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "なおルーマニアという国は、言語的には公用語がラテン語起源の(つまりロマンス諸語の)ルーマニア語で、宗教的には東方教会系のルーマニア正教会が多数派である。それに対し、ポーランド(ヨーロッパの北東部で、ルーマニアの北西方向に位置する国)のほうは同じ「東欧」と言っても、言語的にはスラヴ語派に属するポーランド語が主に話されており、宗教的には西方教会のカトリック教会が支配的である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "つまり、ルーマニアとポーランドは、東欧において、言語的にも宗教的にも好対照の存在となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "正式名称はルーマニア語で România [romɨˈni.a] ( 音声ファイル)。原音により忠実にカナ表記すると「ロムニア」が近い。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "国名の由来(語源)は、ラテン語で「ローマ人(ローマ市民)の土地」という意味の表現。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ハンガリー語の表記は Románia [romaːniɒ](ロマーニア)。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "かつて、英語では Rumania、ドイツ語では Rumänien、フランス語では Roumanieと表記するなど、現地の発音とは一つめの母音から既にずれた表記が流通していた。近年では、現地の表記に沿う方向で修正される動きもあり、たとえば英語での公式表記は Romania となったが、英語はロマンス諸語に表記だけを似せても発音は「[roʊˈmeɪniə] ( 音声ファイル)」(ロゥメイニア)となり、あまり参考にならない。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "日本語の表記は、昔の英語式の表記に影響を受けた「ルーマニア」となっている。漢字表記は羅馬尼亜(羅馬尼亞)、緑馬尼、羅と略される。中国語も同じく「羅馬尼亞」と表記する。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "独立してからの日本語での正式名称は、以下のように変遷している。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "現在では政体を指す共和国は含まない国名が正式名称となっており、「ルーマニア共和国」という表記は誤りである。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "古代にはゲタイ人(古代ギリシア語: Γέται)と呼ばれる民族が居住していた。紀元前513年、イストロス河(古代ギリシア語: Ἴστρος、現・ドナウ川)の南でゲタイ人の部族連合が、対スキタイ戦役中のペルシア王ダレイオス1世に敗れた(ヘロドトス『歴史』4巻93)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "約600年後、ダキイ人(ラテン語: Daci)は、ローマ帝国への侵攻に怒ったローマ皇帝トラヤヌスによる2度の遠征(101年 - 106年)に敗れ、ローマ帝国の領土となった。その王国の4分の1はローマ領となり、ローマ帝国の属州ダキアとなった。現在の国名もその時の状態である「ローマ人の土地(国)」を意味する。国歌の歌詞にトラヤヌスが登場するのは、こうした経緯からである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "238年から258年にかけて、ゴート人とカルピイ人がバルカン半島まで遠征した。ローマ帝国はドナウ川南まで後退し、以前の属領上モエシアの一部に新しく属領ダキアを再編した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "271年、かつてのダキアにゴート人の王国が建てられ、4世紀終わりまで続いたのち、フン人の帝国に併呑された。中央アジア出身の遊牧民族が入れ替わりルーマニアを支配した。ゲピド人、アヴァールがトランシルヴァニアを8世紀まで支配した。その後はブルガール人がルーマニアを領土に収め、その支配は1000年まで続いた。このころの史料には、ペチェネグ人、クマ人、ウゼ人への言及も見られる。その後、13世紀から14世紀にはバサラブ1世によるワラキア公国、ドラゴシュによるモルダヴィア公国の成立が続いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "中世にはワラキア、モルダヴィア、トランシルヴァニアの3公国があった。完全な独立ではなく、オスマン帝国やハプスブルク家の支配下にあった。ワラキアとモルダヴィアは15世紀から16世紀にかけてオスマン帝国の属国であった。モルダヴィアは1812年東部のベッサラビアをロシア帝国に割譲した(パリ条約により1920年に再合併)。北東部は1775年、オーストリア帝国領土となり、南東部のブジャクはオスマン帝国領であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "トランシルヴァニアは11世紀にハンガリー王国の一部となり、王位継承により1310年以降アンジュー家、のちにハプスブルク家領となったが、1526年にオスマン帝国の属国となった(オスマン帝国領ハンガリー)。18世紀には再びハプスブルク家のハンガリー王国領となり、第一次世界大戦の終わる1918年までその状態が続いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1859年にワラキアとモルダヴィアの公主が統一され、1861年、オスマン帝国宗主下の自治国として連合公国が成立した(ルーマニア公国)。1877年には露土戦争に乗じて完全な独立を果たすため、独立宣言を行った。1878年、ベルリン会議で国際的に承認され、ルーマニア王国が成立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦では中央同盟国に攻め込まれ一時屈服したものの、与した連合国が勝利したことからトランシルヴァニアなどを併合して領土を倍増させ(「ルーマニア戦線」「トリアノン条約」参照)、大ルーマニアを実現させたが、全人口の4分の1が異民族という不安定な国家となった。1918年ベッサラビアを回復したが、これは1940年に再びソビエト連邦に占領され、最終的に割譲することとなる(現在はモルドバ共和国、ウクライナ)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦が始まると、ソ連はベッサラビアなどルーマニアの一部を占領した。国民は列強の領土割譲に対して無為無策であった国王カロル2世を批判し、退位させた。ルーマニアはドイツにつき枢軸国側として参戦した。この参戦により、ソ連が占領した地域を回復した。しかし、ドイツ敗退により再度ソ連に侵攻され、1944年8月の政変で独裁体制を敷いていたイオン・アントネスク元帥ら親ドイツ派を逮捕して連合国側につき、国内のドイツ軍を壊滅させたあとにチェコスロバキアまで戦線を拡大し、対ドイツ戦を続けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "戦後はベッサラビアとブコヴィナをソ連に割譲させられ、ソ連軍の圧力により社会主義政権が樹立した。王制を廃止し、1947年にルーマニア人民共和国が成立した(1965年にルーマニア社会主義共和国に改称)。しかし、ニコラエ・チャウシェスクの独裁政権のもと、次第に他の東側諸国とは一線を画す「自主独立路線」を唱え始め西側との結びつきも強めた。1989年、ニコラエ・チャウシェスクの独裁政権が打倒され(「ルーマニア革命」)、民主化された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2007年1月1日に欧州連合(EU)に加盟した。加盟に際しては「改革が不十分である」として欧州理事会によって再審査されたが、「加盟後も改革を続行する」として承認された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "現在の政体は大統領を国家元首とする共和制国家であり、議会から選出される首相が行政を行う議院内閣制を採用している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "大統領は任期が5年となっている(2004年までは任期4年)。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "立法権は二院制の議会に属し、下院(代議院)は定数330人、上院(元老院)は定数136人で両院とも任期は4年。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ルーマニアは複数政党制となっている国家の一つである。少数民族政党も存在している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "司法権は最高裁判所に属している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2004年には北大西洋条約機構(NATO)に参加。2007年1月に欧州連合に加盟した。2016年2月、コメルサントは政府が隣国モルドバの政治危機に乗じて両国の統合を目指し、そのための働きかけを強めていると報じた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2012年、2017年に続いて大規模なルーマニア反政府運動(英語版)が起きた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "なお、ルーマニア国内では旧王家が「王室」を称して公的活動を積極的に展開している。旧王家の家督は「ルーマニア王冠守護者」の称号と「陛下」の敬称を自称し、ルーマニア社会では広範に認められている。現在の家督はマルガレータ・ア・ロムニエイ。2018年10月29日、旧王家を軸とする国家的価値推進機関「国王ミハイ1世」の創設に関する法案が下院を通過した。この法案には、特権を付与して「王室」を制度化するものであるとする違憲論もある。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "大使・植田治(2020年12月)", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ルーマニア軍は、国防省の監督下にある総司令官が率いる陸・空・海軍の各軍からなり、戦時には大統領が最高司令官として指揮をとる。陸軍45,800人、空軍13,250人、海軍6,800人、その他8,800人で、文民は約15,000人、軍人は75,000人である。2007年の国防費は国内総生産(GDP)の2.05%、約29億ドルで、2006年から2011年にかけて近代化と新規装備の取得のために総額110億ドルが費やされている。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "空軍はソ連の近代化戦闘機MiG-21ランサーを運用している。空軍はC-27Jスパルタン戦術空輸機7機を新たに購入し、海軍は英国海軍から近代化された22型フリゲート艦2隻を購入した。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2010年2月4日、アメリカのクローリー国務次官補(広報担当)は、ルーマニア政府が地上発射型迎撃ミサイルSM-3(イージス・アショア)の配備に同意したことを明らかにした。これは、バラク・オバマ政権が進めた、イランの弾道ミサイルの脅威に対処するための新たな欧州ミサイル防衛(SD)計画に参加したことになる。この件においてアメリカは同計画の参加国が南欧に広がったことを歓迎している。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "また2009年10月には、ポーランド政府が新MD計画へ参加する方針をルーマニアが表明していたことが報道されている。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "西のセルビア、南のブルガリアとの間におけるルーマニアの国境は、基本的にドナウ川を境界としている。モルドバとの国境線であるプルト川もドナウ川と合流し、東岸の黒海に注ぐ。ドナウ川の河口は三角州(ドナウ・デルタ)となっており、生物保護区となっている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "これらの自然国境はそれぞれの川の流路変更によって変化する。また、ドナウ・デルタは年に2 - 5kmずつ面積を増やしているため、ルーマニアの領土面積はここ数十年、増加の傾向にある。1969年に23万7,500kmだった総面積は、2005年には23万8,319kmとなっている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "ルーマニアの地形は34%が山地、33%が丘陵地、33%が平地である。国の中央をカルパチア山脈が占め、トランシルヴァニア平原を取り囲んでいる。カルパチア山脈のうち14の山は2,000メートル級であり、最高峰のモルドベアヌ山は 2,544メートルである。カルパチア山脈は南の丘陵地帯に続き、さらにバラガン平野(英語版、ルーマニア語版)に至る。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ルーマニアの地方行政は、41の県と首都ブカレストに区分されて行われている。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "また、同国の県は「comună(コムーナ)」あるいは「municipiu(ムニチピウ)」などと呼ばれる小規模の自治体に分かれている。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "IMFの統計によると、ルーマニアの2013年の国内総生産(GDP)は約1,889億ドルである。2016年の1人あたりの名目GDPは1万1,859ドルで、世界平均より少し高い程度だが、バルカン半島の旧社会主義国ではクロアチアに次いで高い。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ルーマニアは伝統的に農業国であり、第一次産業人口が人口の42.3%を占める(2001年)。一方で、社会主義時代に計画経済のもと工業化が進められた結果、2014年現在では鉄鋼やアルミニウム、繊維産業といった業種も主要産業となっている。そのほか、17世紀から続くモレニ油田が知られるように、ルーマニアは産油国であるが、今日ではその規模は限られている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "住民は、ロムニ(ルーマニア人)が89%。マジャル人(ハンガリー人)が6%、ロマ人が2%などである。その他にはセルビア人、ウクライナ人、ドイツ人、トルコ人、タタール人、スロヴァキア人、ブルガリア人、ロシア人、ユダヤ人、ノガイ族などが居住している。ルーマニア人は古代のダキア人と植民したローマ人の混血だとされているが、異論もある。マジャル人の多くはハンガリーとの領有権問題を抱えるトランシルヴァニアのなかでも特にティミショアラに多く居住しており、マジャル人は約160万人いる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "国勢調査ではロマ人の人口は約61万9000人とされているが、NGOは、これを大きく上回る約200万人と試算しており、ロマ人はルーマニアの全人口の約8%から約10%を占め、約190万人とも約200万人いるともいわれる。ロマ人は、すべての少数民族のうち、人口の算出がもっとも難しい民族であり、長きにわたって虐げられてきたロマ人に対する広範な差別は、雇用および住宅面などで依然根強いものがあり、「ジプシー」という烙印を押されるのを免れようとして、多くのロマ人が国勢調査で自らをルーマニア人と自己申告しており、事実、このようなロマ人の多くは身分証明書を所持していない。2002年の国勢調査では、ロマ人と自己申告した者は53万5140人であり、ルーマニア全人口の2.5%に過ぎない。しかし、ロマ人が多く住む東南ヨーロッパのなかでも、ルーマニアに住むロマ人の人口は群を抜いて多く、ルーマニアの社会学者の低めの推計では約100万人としている。一方、マイノリティ・ライツ・グループ(英語版)の1995年の報告では、約180万人から約250万人と試算しており、ロマ人はルーマニア全人口の8%から11%を占めている。国勢調査でロマ人であると自己申告した者のうち、約半数がロマ語を母語としていると申告しており、このことは、ルーマニア人への同化に段階性があり、同化が進行した者のなかには、その母語に従ってルーマニア人として自己申告している者が多数いる事実をうかがわせる。欧州評議会は、約185万人のロマ人がルーマニアに住んでおり、ルーマニア全人口の約8.32%がロマ人と推計している。世界銀行は、ルーマニアには約300万人のロマ人がいると推計している。ブカレスト大学のMarian Predaは、1998年にロマ人に関する研究をおこない、ロマ人の人口を150万人と割り出したが、そのうちの100万人は、公式の国勢調査においてロマ人と自己申告していなかった。つまり、ルーマニアのロマ人の3分の2以上が、恐怖、恥、差別などの理由で出自を隠し、自らをルーマニア人と自己申告しており、ルーマニアのロマ人のせいぜい3分の1だけが自らをロマ人と自己申告していた。上院議員であるマダリン・ヴォイク(英語版)は、「ルーマニアだけで70万人から130万人の定住生活者がいる他、70万人程度の移動生活者がおり、結果、ルーマニアのロマ人の人口は200万人ほどになる」と述べている。国際連合開発計画は、「ルーマニアは、専門家の推定では、最低180万人から最大250万人のヨーロッパで最大、そしておそらく世界でも最大のロマ人を抱えている」と報告している。ニュージーランドの社会開発省(英語版)のアナリストであるChungui Qiaoは、「ヨーロッパのロマ人の人口は700万人から900万人と推定されています。ルーマニアは、ロマ人の絶対数が最も多く、100万人から200万人の範囲にある国です」と報告している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "公用語はルーマニア語である。ルーマニア語はロマンス諸語の一つであり、古代ローマ帝国で話されていたラテン語の方言が変化したものである(なお、東欧ではロマンス系言語を公用語とする国家はモルドバとルーマニアだけである)。その他、ロマ語、ハンガリー語、ドイツ語、フランス語なども使われている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2011年の調査によれば、キリスト教正教会の一派ルーマニア正教会が81%、プロテスタントが6.2%、カトリックが5.1%、その他(その他のキリスト教、イスラム教(英語版)、エホバの証人、ユダヤ教)が1.2%、無宗教が0.2%、無効データが6.2%である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2015年を例にとってみると、ルーマニアでは12万5,000組超の婚姻が登録された(ルーマニア国政府の統計局によるデータ)。そのうち18.2%は25 - 29歳の(の年齢帯に統計局によって分類された)男女であり、14.3%は20 - 24歳の男女である。2015年の統計では、婚姻時の女性の平均年齢は29.1歳で、男性の平均年齢は32.5歳であった(平均年齢は、この年、前年と比べてやや上昇した)。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "離婚数は2015年には3万1,527件であり、この年は前年比で15.9%増加した。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "ルーマニア政府は、ルーマニア国民がそれぞれに住む地域の市役所で行う結婚式のみを法的に認知している。したがって、多くのカップルが市役所での結婚式を終えたあとに改めて宗教的な結婚式を行うことを選ぶ。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "なお婚姻の際には、自己の姓を用い続ける(夫婦別姓)、相手の姓を用いる(夫婦同姓)、相手の姓を付加する、のいずれかを選択できる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "2019年時点で、ルーマニアでは同性婚を新たにすることは法的には認められていない(ただし、欧州連合においてすでに同性婚をしたカップルがルーマニアで暮らす場合は、婚姻関係にあると法的に認知される。en:Recognition of same-sex unions in Romaniaも参照)。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ルーマニアは、概して言えば、LGBTなどに関しては「保守的」である。LGBTなどの人々はルーマニアでは社会的な障壁に直面することになる。ただし、2000年以降にかなりの変化も見られ、この20年ほどの間に、ホモフォビアやそれに関連するヘイトクライムを禁止する法律が成立してきている(en:LGBT rights in Romaniaも参照可)。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "7歳から14歳までの8年間の初等教育と前期中等教育が義務教育であり、無償となっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "主な高等教育機関としては、ブカレスト大学(1864年創設)などが挙げられる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "ルーマニアの死亡率はヨーロッパで5番目に高く、人口10万人あたり691人であり、他のEU加盟国に比べて外的要因および感染症や寄生虫症による死亡者が多く見られる(4〜5%)。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "2004年のルーマニアでの主な死因は心血管疾患(62%)であり、次いで悪性腫瘍(17%)、消化器疾患(6%)、事故、負傷および中毒(5%)、呼吸器疾患(5%)と続く。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "総人口の5分の1が伝染病または慢性疾患に苦しんでいると推定されており、2015年の伝染病による死亡率はヨーロッパで4番目に高かった 。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "現在ルーマニアは深刻な野犬の問題に直面しており、全国で推定200万匹が野放しになっている。2005年において同国内で2万人以上が犬に襲われる被害を受けている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "その為 当局は駆除に乗り出そうとしているが、動物保護団体の激しい反対にあい対策は進んでいない。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "2006年1月7日、動物愛護活動家でもあるフランスの女優のブリジット・バルドーが声明を出して駆除計画に抗議、ルーマニア当局を非難した。同年1月29日、日本人男性がブカレストで野犬に噛まれて失血死する事件が起きた。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "ルーマニアの治安は、『グローバル・ファイナンス(英語版)』が発表した「最も治安の良い国ランキング2022」によると31位となっている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "だが、首都のブカレストに危険地域に指定されている区域が存在することや都市開発から取り残された貧困層による犯罪が多発している状態が続いており、現地を訪れる際は充分な注意が求められる。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "ルーマニアの警察の発表によれば、犯罪発生数は2012年~2018年にはピーク時より約28%減少しているもののスリやひったくり、置き引き、車上狙い、自動車盗難等の路上犯罪が後を絶たない状況が続いている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "ルーマニアの警察は、各郡に対応する41の郡警察検査局と首都に設置されたブカレスト警察総局(ルーマニア語版)(DGPMB)ならびにブカレスト地方警察(ルーマニア語版)に分かれている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "2015年時点での民主主義指数では、167ヶ国中59位にランクされており、「欠陥のある民主主義国家」と称されている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "有名な吸血鬼ドラキュラ伯爵は、15世紀のワラキア公であったヴラド・ツェペシュがモデルになったとされている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "ウィッチクラフト(魔女文化)が数世紀の歴史を持ち、現在も「魔女」や「まじない師」「占い師」として生計を立てる人々が多く存在する。「魔女」としてお金を得ている者らからも(他の自営業者と同様に)徴税するために2011年1月1日に労働法が改正され、「魔女」が職業として認められることとなった。それ以降、魔女たちは役所で営業許可を得て「魔女」として登録する必要があるほか、占いが外れると罰金が科されたり、逮捕されたりしてしまうようになる可能性もあるという。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "ルーマニア料理は、他のバルカン諸国の料理と比べ、トルコ料理の影響が小さい。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "19世紀に活躍した詩人として、ミハイ・エミネスクが特筆される。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "地域ごとに様々な伝統音楽の形式が存在する。また、ロマ(ジプシー)の音楽も盛んである。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "ルーマニアにおける映画の歴史は1900年以前から始まっており、最初の映画撮影は1896年5月27日に行われている。だが、活動が始まったのは1895年12月28日にリュミエール兄弟がパリにて最初に開催した映画展から5ヶ月も経過していない時期であった事から、ヨーロッパ各国においての映画の歴史としては比較的浅いものに分けられる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "ルーマニア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件、自然遺産が1件存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "この他、伝統的祭日として3月1日の 三月祭(ルーマニア語版、英語版、ロシア語版) (Mărţişorul) がある。これはバレンタインデーに似た祭日である。花のほかに、ペンダント・ヘッドやブローチなどを男性から女性に贈る。紅白の細い糸を縒って作った小さなリボンを、プレゼントに結びつけるのが慣わしとなっている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "ルーマニアでも他のヨーロッパ諸国同様に、サッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。国内リーグの歴史は非常に古く、今から110年以上前の1909年にリーガ1が創設されている。ルーマニアサッカー連盟(FRF)によって構成されるサッカールーマニア代表は、これまでFIFAワールドカップには7度出場しており、1994年大会ではベスト8の成績を収めた。UEFA欧州選手権には5度出場しており、2000年大会ではベスト8に進出した。著名な選手には、ゲオルゲ・ハジ、アドリアン・ムトゥ、クリスティアン・キヴなどが存在している。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "女子体操競技においては世界屈指の強豪国であり、ナディア・コマネチ、シモナ・アマナール、アンドレーア・ラドゥカンなどのオリンピック金メダリストを多数輩出している。中でもコマネチは1976年のモントリオール大会で完璧な演技を見せ、五輪の体操競技史上初となる「10点満点」を獲得し世界中の人々を魅了した。その容姿やトレードマークの白いレオタードから、コマネチは「白い妖精」の愛称で呼ばれていた。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "ルーマニアはハンドボールでは、世界選手権において4度の優勝を果たしており、2015年にフランス代表に抜かれるまでは最多優勝国であった。また、ラグビー代表はワールドカップの第1回大会から8回連続出場中である。なお、伝統的な競技としてはレスリング形式のスポーツであるトレンタが開催されている。", "title": "スポーツ" } ]
ルーマニアは、東ヨーロッパ、バルカン半島東部に位置する共和制国家。首都はブカレスト。南西にセルビア、北西にはハンガリー、北がウクライナ、北東をモルドバ、南にブルガリアと国境を接し、東は黒海に面している。 国土の中央をほぼ逆L字のようにカルパティア山脈が通り、山脈に囲まれた北西部の平原のトランシルヴァニア、ブルガリアに接するワラキア、モルドバに接するモルダヴィア、黒海に面するドブロジャの4つの地方に分かれている。
{{Otheruses}} {{Redirect|ROU|日本のシンガーソングライター|菊池卓也|その他|ロウ}} {{基礎情報 国 | 略名 =ルーマニア | 日本語国名 =ルーマニア | 公式国名 ='''{{lang|ro|România}}''' | 国旗画像 =Flag of Romania.svg | 国章画像 =[[ファイル:Coat of arms of Romania.svg|100px|ルーマニアの国章]] | 国章リンク =([[ルーマニアの国章|国章]]) | 標語 =なし | 位置画像 =EU-Romania.svg | 公用語 =[[ルーマニア語]] | 首都 =[[ブカレスト]] | 最大都市 =ブカレスト | 元首等肩書 =[[ルーマニアの大統領|大統領]] | 元首等氏名 =[[クラウス・ヨハニス]] | 首相等肩書 =[[ルーマニアの首相|首相]] | 首相等氏名 ={{ill2|マルチェル・チョラク|en|Marcel Ciolacu}} | 面積順位 =78 | 面積大きさ =1 E11 | 面積値 =238,391 | 水面積率 =3% | 人口統計年 =2020 | 人口順位 =60 | 人口大きさ =1 E7 | 人口値 =1923万8000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/ro.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-11-5}}</ref> | 人口密度値 =83.6<ref name=population/> | GDP統計年元 =2020 | GDP値元 =1兆555億4900万<ref name="imf2020">{{Cite web|url=https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=968,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LUR,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGSB,GGSB_NPGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDN,GGXWDN_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1|title=World Economic Outlook Database|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|accessdate=2021-10-14}}</ref> | GDP統計年MER =2020 | GDP順位MER =45 | GDP値MER =2487億1600万<ref name="imf2020" /> | GDP MER/人 =1万2867.64<ref name="imf2020" /> | GDP統計年 =2020 | GDP順位 =44 | GDP値 =5898億6600万<ref name="imf2020" /> | GDP/人 =3万517.480<ref name="imf2020" /> | 建国形態 =[[独立]] | 建国年月日 =連合公国の成立<br />[[1859年]][[2月5日]]<br />[[オスマン帝国]]の宗主権喪失<br />[[1877年]][[5月9日]] | 通貨 =[[ルーマニア・レウ]] | 通貨コード =RON | 時間帯 =+2 | 夏時間 =+3 | 国歌 =[[目覚めよ、ルーマニア人!|{{lang|ro|Deșteaptă-te române!}}]]{{ro icon}}<br>''目覚めよ、ルーマニア人!''<br>{{center|[[ファイル:Romania National Anthem - Desteapta-te Romane.ogg]]}} | ISO 3166-1 = RO / ROU | ccTLD =[[.ro]] | 国際電話番号 =40 | 注記 = }} '''ルーマニア'''({{Lang-ro-short|România}})は、[[東ヨーロッパ]]、[[バルカン半島]]東部に位置する[[共和制]][[国家]]。[[首都]]は[[ブカレスト]]。南西に[[セルビア]]、北西には[[ハンガリー]]、北が[[ウクライナ]]、北東を[[モルドバ]]、南に[[ブルガリア]]と国境を接し、東は[[黒海]]に面している。 国土の中央をほぼ逆L字のように[[カルパティア山脈]]が通り、山脈に囲まれた北西部の平原の[[トランシルヴァニア]]、ブルガリアに接する[[ワラキア]]、モルドバに接する[[モルダヴィア]]、黒海に面する[[ドブロジャ]]の4つの地方に分かれている。 == 概要 == ルーマニアは「多種多様な民族によって形成された国家」であるといって過言ではない。同国の住民は、[[紀元前]]からこの地方に住んでいた[[トラキア人|トラキア系]]の[[ダキア人]]と、[[2世紀]]ごろにこの地方を征服した[[古代ローマ]]人、[[7世紀]]から[[8世紀]]ごろに侵入した[[スラブ人]]、[[9世紀]]から[[10世紀]]に侵入した[[マジャール人]]、その他に[[トルコ人]]、[[ゲルマン人]]などの混血や同化によって、重層的かつ複合的に形成された等と言述される複合民族 {{Lang|ro|'''români'''}}('''ロムニ'''、[[ルーマニア人]])が約9割を占める(なお、români(ルーマニア人)の起源については諸説ある)。 そして少数のマジャール系の[[セーケイ人]]や[[ロマ人]](≒[[ジプシー]])<ref group="注釈">ロマ人のことはアルファベットでは「romani」などと書く。「români」(=ルーマニア人)と「romani」(=ロマ人、≒ジプシー)は、表記上や発音上、またその表記の意味も酷似しており非常に紛らわしいものとなっている。<br/>よほど気をつけない限り、誤解や混線が生じる恐れがある。</ref>なども住んでいる。 なおルーマニアという国は、言語的には[[公用語]]が[[ラテン語]]起源の(つまり[[ロマンス諸語]]の)[[ルーマニア語]]で、宗教的には[[正教会|東方教会]]系の[[ルーマニア正教会]]が多数派である。それに対し、[[ポーランド]](ヨーロッパの北東部で、ルーマニアの北西方向に位置する国)のほうは同じ「東欧」と言っても、言語的には[[スラヴ語派]]に属する[[ポーランド語]]が主に話されており、宗教的には[[西方教会]]の[[カトリック教会]]が支配的である。 つまり、ルーマニアとポーランドは、東欧において、言語的にも宗教的にも好対照の存在となっている。 == 国名 == 正式名称はルーマニア語で {{lang|ro|România}} {{IPA-ro|romɨˈni.a||Ro-România.ogg}}。原音により忠実にカナ表記すると「ロムニア」が近い。 国名の由来([[語源]])は、ラテン語で「ローマ人([[ローマ市民権|ローマ市民]])の土地」という意味の表現。 [[ハンガリー語]]の表記は {{lang|hu|Románia}} {{IPA|romaːniɒ}}(ロマーニア)。 <!--[[ファイル:WWI Poster Rumania.jpg|150px|サムネイル|[[第一次世界大戦]]時の[[イギリス]]のポスター。古いR'''u'''maniaという綴りが使われている。]]--> かつて、英語では {{Lang|en|Rumania}}、[[ドイツ語]]では {{lang|de|Rumänien}}、[[フランス語]]では {{lang|fr|Roumanie}}<ref group="注釈">フランス語は「ou」と書いて「ウ」と発音する。フランス人がフランス語で「ウ」という音を音写すると、ことごとく「ou」になる。</ref>と表記するなど、現地の発音とは一つめの[[母音]]から既にずれた表記が流通していた。近年では、現地の表記に沿う方向で修正される動きもあり、たとえば[[英語]]での公式表記は {{lang|en|Romania}} となったが、英語はロマンス諸語に表記だけを似せても発音は「{{IPA-en|roʊˈmeɪniə||en-us-Romania.ogg}}」(ロゥメイニア)となり、あまり参考にならない。 ;日本語表記 [[日本語]]の表記は、昔の英語式の表記に影響を受けた「ルーマニア」となっている。[[外国地名および国名の漢字表記一覧|漢字表記]]は'''羅馬尼亜'''('''羅馬尼亞''')、緑馬尼、'''羅'''<ref group="注釈">なお漢字の「羅」は、[[ラテン語]](=古代ローマで話されていた言葉)を漢字一文字で表す場合にも用いられる(英語を「英」、ドイツ語(独逸語)を「独」、フランス語(仏蘭西語)を「仏」と略記することは一般的であるが、これらでは重複は無いので混乱は起きない。たとえば、辞書での語源の解説では(一例として)「仏:terre < 羅:terra」と略記され、これだけで『フランス語の「terre(=土、地球)」の語源はラテン語の「terra」である』という意味なのだと理解できる)。<br/>そもそもルーマニアと古代[[ローマ帝国]]は元から深い関係を持っており、国名でも言語名でも類似の表現になっていて、漢字では「羅」となってしまうのは、ある意味「仕方がない」と言えば仕方がないのだが、辞書や語学書では「羅」がラテン語を指しているのかルーマニア語を指しているのかはっきりせず、略記しづらく難儀である。<br/>特にルーマニア語は[[ロマンス諸語]]のひとつである上、ラテン語の方言から派生している事からルーマニア語の語源の解説をすると、ほぼ必ずラテン語に言及することになる為にどちらも「羅」ではとても不便な状況となっており、現在も問題視されている。</ref>と略される。[[中国語]]も同じく「羅馬尼亞」と表記する。 独立してからの日本語での正式名称は、以下のように変遷している。 * [[1859年]] - [[1881年]] '''[[ルーマニア公国]]'''(連合公国) * [[1881年]] - [[1947年]] '''[[ルーマニア王国]]''' * [[1947年]] - [[1965年]] '''ルーマニア人民共和国''' * [[1965年]] - [[1989年]] '''[[ルーマニア社会主義共和国]]''' * [[1989年]] - 現在 '''ルーマニア''' 現在では政体を指す[[共和国]]は含まない国名が正式名称となっており、「ルーマニア共和国」という表記は誤りである。 == 歴史 == {{Main|ルーマニアの歴史}} {{See also|モルダヴィア}} [[ファイル:Dacia 82 BC.png|thumb|古代ダキア]] [[ファイル:Vlad_Tepes_002.jpg|thumb|180px|[[ヴラド・ツェペシュ]]]] 古代には[[ゲタイ|ゲタイ人]]({{lang-grc|Γέται}})と呼ばれる民族が居住していた。[[紀元前513年]]、イストロス河({{lang-grc|Ἴστρος}}、現・[[ドナウ川]])の南で[[ゲタイ人]]の[[部族]]連合が、対[[スキタイ]]戦役中の[[ペルシア]]王[[ダレイオス1世]]に敗れた([[ヘロドトス]]『歴史』4巻93)。 約600年後、[[ダキア人|ダキイ人]]({{lang-la|Daci}})は、[[ローマ帝国]]への侵攻に怒った[[ローマ皇帝]][[トラヤヌス]]による2度の遠征([[101年]] - [[106年]])に敗れ、ローマ帝国の領土となった。その王国の4分の1はローマ領となり、ローマ帝国の[[属州]][[ダキア]]となった。現在の国名もその時の状態である「ローマ人の土地(国)」を意味する。[[ルーマニアの国歌|国歌]]の歌詞にトラヤヌスが登場するのは、こうした経緯からである<ref>『ルーマニア史』[[白水社]][[文庫クセジュ]],1993年 ISBN 978-4560057476. pp.6-10.</ref>。 [[238年]]から[[258年]]にかけて、[[ゴート族|ゴート人]]と[[カルピイ人]]がバルカン半島まで遠征した。ローマ帝国はドナウ川南まで後退し、以前の属領[[モエシア|上モエシア]]の一部に新しく属領ダキアを再編した。 [[271年]]、かつてのダキアにゴート人の王国が建てられ、[[4世紀]]終わりまで続いたのち、[[フン人]]の帝国に併呑された。[[中央アジア]]出身の[[遊牧民族]]が入れ替わりルーマニアを支配した。[[ゲピド人]]、[[アヴァール]]が[[トランシルヴァニア]]を[[8世紀]]まで支配した。その後は[[ブルガール人]]がルーマニアを領土に収め、その支配は[[1000年]]まで続いた。このころの史料には、[[ペチェネグ人]]、[[クマ人]]、[[ウゼ人]]への言及も見られる。その後、13世紀から14世紀には[[バサラブ1世]]による[[ワラキア]][[公国]]、[[ドラゴシュ]]による[[モルダヴィア]]公国の成立が続いた。 [[中世]]にはワラキア、モルダヴィア、[[トランシルヴァニア]]の3公国があった。完全な独立ではなく、[[オスマン帝国]]や[[ハプスブルク家]]の支配下にあった。ワラキアとモルダヴィアは[[15世紀]]から[[16世紀]]にかけてオスマン帝国の属国であった。モルダヴィアは1812年東部の[[ベッサラビア]]を[[ロシア帝国]]に[[割譲]]した([[パリ条約 (1920年)|パリ条約]]により[[1920年]]に再合併)。北東部は[[1775年]]、[[オーストリア帝国]]領土となり、南東部の[[ブジャク]]はオスマン帝国領であった<ref>『ルーマニア史』白水社文庫クセジュ。pp.18-28.</ref>。 トランシルヴァニアは[[11世紀]]に[[ハンガリー王国]]の一部となり、王位継承により[[1310年]]以降[[ハンガリー・アンジュー朝|アンジュー家]]、のちにハプスブルク家領となったが、[[1526年]]にオスマン帝国の属国となった([[オスマン帝国領ハンガリー]])。[[18世紀]]には再びハプスブルク家のハンガリー王国領となり、[[第一次世界大戦]]の終わる[[1918年]]までその状態が続いた。 [[ファイル:RomaniaBorderHistoryAnnimation 1859-2010.gif|thumb|left|250px|ルーマニア国土の変遷([[1859年]] - [[2010年]])。濃い緑がその時代の領土、薄い緑がルーマニアが領有したことのある地域。]] [[1859年]]にワラキアとモルダヴィアの公主が統一され、[[1861年]]、オスマン帝国宗主下の自治国として連合公国が成立した([[ルーマニア公国]])。[[1877年]]には[[露土戦争 (1787年-1791年)|露土戦争]]に乗じて完全な独立を果たすため、独立宣言を行った。[[1878年]]、[[ベルリン会議 (1878年)|ベルリン会議]]で国際的に承認され、[[ルーマニア王国]]が成立した。 [[第一次世界大戦]]では[[中央同盟国]]に攻め込まれ一時屈服したものの、与した[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]が勝利したことから[[トランシルヴァニア]]などを併合して領土を倍増させ<ref name="歴史群像97">山崎雅弘「東欧枢軸国の興亡」『[[歴史群像]]』97号(2009年10月)</ref>(「[[ルーマニア戦線]]」「[[トリアノン条約]]」参照)、[[大ルーマニア]]を実現させたが、全人口の4分の1が[[民族|異民族]]という不安定な国家となった<ref name="コトバンクルーマニア">{{Kotobank|ルーマニア|}}</ref>。1918年ベッサラビアを回復したが、これは[[1940年]]に再び[[ソビエト連邦]]に占領され、最終的に割譲することとなる(現在は[[モルドバ|モルドバ共和国]]、ウクライナ)。 [[第二次世界大戦]]が始まると、ソ連はベッサラビアなどルーマニアの一部を占領した。国民は列強の領土割譲に対して無為無策であった国王[[カロル2世 (ルーマニア王)|カロル2世]]を批判し、退位させた。ルーマニアは[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]につき[[枢軸国]]側として参戦した。この参戦により、ソ連が占領した地域を回復した。しかし、ドイツ敗退により再度ソ連に侵攻され、[[1944年]]8月の政変で独裁体制を敷いていた[[イオン・アントネスク]]元帥ら親ドイツ派を逮捕して[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]側につき、国内の[[ドイツ軍]]を壊滅させたあとに[[チェコスロバキア]]まで戦線を拡大し、対ドイツ戦を続けた。 {{main|ソ連によるルーマニアの占領}} 戦後はベッサラビアとブコヴィナをソ連に割譲させられ、[[ソ連軍]]の圧力により社会主義政権が樹立した。王制を廃止し、[[1947年]]に[[ルーマニア人民共和国]]が成立した(1965年に[[ルーマニア社会主義共和国]]に改称)。しかし、[[ニコラエ・チャウシェスク]]の独裁政権のもと、次第に他の[[東側諸国]]とは一線を画す「[[自主独立路線]]」を唱え始め[[西側諸国|西側]]との結びつきも強めた。[[1989年]]、[[ニコラエ・チャウシェスク]]の独裁政権が打倒され(「[[ルーマニア革命 (1989年)|ルーマニア革命]]」)、[[民主化]]された。 [[2007年]]1月1日に[[欧州連合]](EU)に加盟した。加盟に際しては「改革が不十分である」として[[欧州理事会]]によって再審査されたが、「加盟後も改革を続行する」として承認された。 == 政治 == [[ファイル:EU27-2007_European_Union_map_enlargement.svg|thumb|2007年の欧州連合の拡大。黄色で表示されている国が新たに加盟したルーマニアとブルガリア。]] {{main|{{仮リンク|ルーマニアの政治|ro|Politica României|en|Politics of Romania}}}} 現在の政体は[[大統領]]を[[元首|国家元首]]とする[[共和制]]国家であり、[[ルーマニアの議会|議会]]から選出される首相が行政を行う[[議院内閣制]]を採用している。 === 行政 === 大統領は任期が5年となっている([[2004年]]までは任期4年)。 {{see also|ルーマニアの大統領|ルーマニアの首相}} === 議会 === [[立法権]]は[[二院制]]の議会に属し、[[下院]]([[代議院 (ルーマニア)|代議院]])は定数330人、[[上院]]([[元老院 (ルーマニア)|元老院]])は定数136人で両院とも任期は4年。 === 政党 === ルーマニアは[[複数政党制]]となっている国家の一つである。少数民族政党も存在している。 {{see also|{{仮リンク|ルーマニアの政党|en|List of political parties in_Romania}}}} === 司法 === [[司法権]]は最高裁判所に属している。 === 国内における動き === [[2004年]]には[[北大西洋条約機構]](NATO)に参加。[[2007年]]1月に[[欧州連合]]に加盟した。2016年2月、[[コメルサント]]は政府が隣国[[モルドバ]]の政治危機に乗じて両国の統合を目指し、そのための働きかけを強めていると報じた<ref>{{Cite web|url=http://www.kommersant.ru/doc/2917049|title=Румыния форсирует Прут|publisher=Коммерсантъ|date=2016-02-16|accessdate=2016-08-20}}</ref>。 2012年、2017年に続いて大規模な{{仮リンク|ルーマニア反政府運動|en|2017 Romanian protests}}が起きた。 なお、ルーマニア国内では旧王家が「王室」を称して公的活動を積極的に展開している。旧王家の家督は「ルーマニア王冠守護者」の称号と「[[陛下]]」の敬称を自称し、ルーマニア社会では広範に認められている。現在の[[家督]]は[[マルガレータ・ア・ロムニエイ]]。2018年10月29日、旧王家を軸とする国家的価値推進機関「国王[[ミハイ1世 (ルーマニア王)|ミハイ1世]]」の創設に関する法案が下院を通過した<ref name=機関の設立を承認>{{Cite news|url=https://adevarul.ro/news/politica/sinecuri-860000-euro-spinarea-regelui-mihai-camera-deputatilor-aprobat-infiintarea-institutii-promovarea-traditiilor-nationale-1_5bd9c60bdf52022f750a45cd/index.html|title=Sinecuri de 860.000 de euro pe spinarea Regelui Mihai. Camera Deputaţilor a aprobat înfiinţarea unei instituţii pentru promovarea tradiţiilor naţionale|agency={{仮リンク|Adevărul|en|Adevărul|ro|Adevărul}}|author=Radu Eremia|date=2018年10月31日|accessdate=2019年9月9日}}</ref><ref name=法案「国王ミハイ1世」を採択>{{Cite news|url=https://www.agerpres.ro/viata-parlamentara/2018/10/29/camera-proiectul-privind-infiintarea-institutiei-pentru-promovarea-valorilor-nationale-regele-mihai-i-adoptat-pe-articole--201500|title=Cameră: Proiectul privind înfiinţarea instituţiei pentru promovarea valorilor naţionale 'Regele Mihai I' - adoptat pe articole|agency={{仮リンク|Agerpres|ro|AGERPRES|en|Agerpres}}|date=2018年10月29日|accessdate=2019年9月9日}}</ref>。この法案には、特権を付与して「王室」を制度化するものであるとする違憲論もある{{要出典|date=2023年5月}}。 {{See also|{{仮リンク|ルーマニア王室|ro|Familia Regală a României}}}} == 国際関係 == {{main|{{仮リンク|ルーマニアの国際関係|ro|Relațiile externe ale României|en|Foreign relations of Romania}}}} {{節スタブ}} === 日本との関係 === {{main|日本とルーマニアの関係}} ==== 駐日ルーマニア大使館 ==== {{main|駐日ルーマニア大使館}} *住所:[[東京都]]港区[[西麻布]]三丁目16-19 *アクセス:[[東京メトロ日比谷線]] [[広尾駅]]3番出口 <gallery> File:ルーマニア大使館全景.jpg|ルーマニア大使館全景 File:ルーマニア国旗.jpg|[[ルーマニアの国旗]] File:ルーマニア大使館表札.jpg|ルーマニア大使館表札 File:ルーマニア大使館受付時間.jpg|ルーマニア大使館受付時間 File:ルーマニア大使館裏.jpg|ルーマニア大使館裏 </gallery> ==== 駐ルーマニア日本大使館 ==== 大使・植田治(2020年12月){{empty section}} == 軍事 == {{Main|ルーマニア軍}} ルーマニア軍は、国防省の監督下にある総司令官が率いる陸・空・海軍の各軍からなり、戦時には大統領が最高司令官として指揮をとる。陸軍45,800人、空軍13,250人、海軍6,800人、その他8,800人で、文民は約15,000人、軍人は75,000人である。2007年の国防費は国内総生産(GDP)の2.05%、約29億ドルで、2006年から2011年にかけて近代化と新規装備の取得のために総額110億ドルが費やされている。 空軍はソ連の近代化戦闘機MiG-21ランサーを運用している。空軍はC-27Jスパルタン戦術空輸機7機を新たに購入し、海軍は英国海軍から近代化された22型フリゲート艦2隻を購入した。 [[2010年]]2月4日、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]のクローリー国務次官補(広報担当)は、ルーマニア政府が地上発射型迎撃ミサイル[[RIM-161スタンダード・ミサイル3|SM-3]]([[イージス・アショア]])の配備に同意したことを明らかにした。これは、[[バラク・オバマ]]政権が進めた、[[イラン]]の[[弾道ミサイル]]の脅威に対処するための新たな欧州[[ミサイル防衛]](SD)計画に参加したことになる。この件においてアメリカは同計画の参加国が南欧に広がったことを歓迎している。 また2009年10月には、ポーランド政府が新MD計画へ参加する方針をルーマニアが表明していたことが報道されている<ref>[http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2010020500183 「米ミサイル防衛に参加=SM3配備に同意-ルーマニア」][[時事通信]](2010年2月5日)</ref>。 == 地理 == [[ファイル:Ro-map.png|300px|thumb|ルーマニアの地図]] {{main|[[ルーマニアの地理]]}} 西の[[セルビア]]、南の[[ブルガリア]]との間におけるルーマニアの国境は、基本的に[[ドナウ川]]を境界としている。[[モルドバ]]との国境線である[[プルト川]]もドナウ川と合流し、東岸の[[黒海]]に注ぐ。ドナウ川の[[河口]]は[[三角州]]([[ドナウ・デルタ]])となっており、[[生物圏保護区|生物保護区]]となっている。 これらの自然国境はそれぞれの川の流路変更によって変化する。また、ドナウ・デルタは年に2 - 5[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]ずつ面積を増やしているため、ルーマニアの領土面積はここ数十年、増加の傾向にある。1969年に23万7,500km<sup>2</sup>だった総面積は、2005年には23万8,319km<sup>2</sup>となっている。 ルーマニアの地形は34%が山地、33%が丘陵地、33%が平地である。国の中央を[[カルパチア山脈]]が占め、トランシルヴァニア平原を取り囲んでいる。カルパチア山脈のうち14の山は2,000メートル級であり、最高峰の[[モルドベアヌ山]]は 2,544メートルである。カルパチア山脈は南の[[丘陵]]地帯に続き、さらに{{仮リンク|バラガン平野|en|Bărăgan Plain|ro|Câmpia Bărăganului}}に至る。 == 地方行政区分 == {{main|ルーマニアの県}} [[ファイル:Romania counties.png|thumb|right|300px|ルーマニアの県]] ルーマニアの地方行政は、41の県と首都[[ブカレスト]]に区分されて行われている。 また、同国の県は「comună(コムーナ)」あるいは「municipiu(ムニチピウ)」などと呼ばれる小規模の[[地方政府|自治体]]に分かれている。 {| border=0 |- | style="white-space:nowrap;vertical-align:top;padding:0em 1em"| [[トランシルヴァニア|トランシルヴァニア地方]] * [[サトゥ・マーレ県]] * [[マラムレシュ県]] * [[サラージュ県]] * [[クルージュ県]] * [[ビストリツァ=ナサウド県]] * [[ハルギタ県]] * [[ムレシュ県]] * [[アルバ県]] * [[ビホル県]] * [[シビウ県]] * [[ブラショフ県]] * [[アラド県]] * [[フネドアラ県]] * [[カラシュ=セヴェリン県]] * [[ティミシュ県]] * [[コヴァスナ県]] | style="white-space:nowrap;vertical-align:top;padding:0em 1em"| [[ワラキア|ワラキア地方]] * [[メヘディンチ県]] * [[ゴルジュ県]] * [[ドルジュ県]] * [[ヴルチャ県]] * [[オルト県]] * [[アルジェシュ県]] * [[テレオルマン県]] * [[ドゥンボヴィツァ県]] * [[ジュルジュ県]] * [[イルフォヴ県]] * [[プラホヴァ県]] * [[ブザウ県]] * [[ブライラ県]] * [[ヤロミツァ県]] * [[カララシ県 (ルーマニア)|カララシ県]] | style="white-space:nowrap;vertical-align:top;padding:0em 1em"| [[モルダヴィア|モルダヴィア地方]] * [[バカウ県]] * [[ボトシャニ県]] * [[ガラツィ県]] * [[ヤシ県]] * [[ネアムツ県]] * [[スチャヴァ県]] * [[ヴァスルイ県]] * [[ヴランチャ県]] | style="white-space:nowrap;vertical-align:top;padding:0em 1em"| [[ドブロジャ|ドブロジャ地方]](黒海沿岸) * [[トゥルチャ県]] * [[コンスタンツァ県]] |} === 主要都市 === {{Main|ルーマニアの都市の一覧}} {| class="infobox" style="text-align:center; width:97%; margin-right:10px; font-size:90%" |- ! align=center style="background:#f5f5f5;" | ! align=center style="background:#f5f5f5;" | 都市 ! align=center style="background:#f5f5f5;" | [[ルーマニアの地方行政区画|行政区分]] ! align=center style="background:#f5f5f5;" | 人口 ! align=center style="background:#f5f5f5;" | ! align=center style="background:#f5f5f5;" | 都市 ! align=center style="background:#f5f5f5;" | [[ルーマニアの地方行政区画|行政区分]] ! align=center style="background:#f5f5f5;" | 人口 |- |----- |align="center"| '''1''' |align="center" colspan="2" | '''[[ブカレスト]]''' |align="right"| 1,931,838 |align="center"| '''11''' |align="center"| '''[[オラデア]]''' |align="center"| [[ビホル県]] |align="right"| 205,077 |----- |align="center"| '''2''' |align="center"| '''[[ヤシ (ルーマニア)|ヤシ]]''' |align="center"| [[ヤシ県]] |align="right"| 315,214 |align="center"| '''12''' |align="center"| '''[[バカウ]]''' |align="center"| [[バカウ県]] |align="right"| 178,203 |----- |align="center"| '''3''' |align="center"| '''[[クルージュ=ナポカ]]''' |align="center"| [[クルージュ県]] |align="right"| 310,243 |align="center"| '''13''' |align="center"| '''[[ピテシュティ]]''' |align="center"| [[アルジェシュ県]] |align="right"| 168,958 |----- |align="center"| '''4''' |align="center"| '''[[ティミショアラ]]''' |align="center"| [[ティミシュ県]] |align="right"| 307,347 |align="center"| '''14''' |align="center"| '''[[アラド (ルーマニア)|アラド]]''' |align="center"| [[アラド県]] |align="right"| 167,238 |----- |align="center"| '''5''' |align="center"| '''[[コンスタンツァ]]''' |align="center"| [[コンスタンツァ県]] |align="right"| 304,279 |align="center"| '''15''' |align="center"| '''[[シビウ]]''' |align="center"| [[シビウ県]] |align="right"| 154,458 |----- |align="center"| '''6''' |align="center"| '''[[クラヨーヴァ]]''' |align="center"| [[ドルジュ県]] |align="right"| 299,429 |align="center"| '''16''' |align="center"| '''[[トゥルグ・ムレシュ]]''' |align="center"| [[ムレシュ県]] |align="right"| 145,943 |----- |align="center"| '''7''' |align="center"| '''[[ガラツィ]] ''' |align="center"| [[ガラツィ県]] |align="right"| 293,523 |align="center"| '''17''' |align="center"| '''[[バイア・マーレ]]''' |align="center"| [[マラムレシュ県]] |align="right"| 139,870 |----- |align="center"| '''8''' |align="center"| '''[[ブラショフ]]''' |align="center"| [[ブラショフ県]] |align="right"| 277,945 |align="center"| '''18''' |align="center"| '''[[ブザウ]]''' |align="center"| [[ブザウ県]] |align="right"| 134,619 |----- |align="center"| '''9''' |align="center"| '''[[プロイェシュティ]]''' |align="center"| [[プラホヴァ県]] |align="right"| 230,240 |align="center"| '''19''' |align="center"| '''[[ボトシャニ]] ''' |align="center"| [[ボトシャニ県]] |align="right"| 115,739 |----- |align="center"| '''10''' |align="center"| '''[[ブライラ]]''' |align="center"| [[ブライラ県]] |align="right"| 215,316 |align="center"| '''20''' |align="center"| '''[[サトゥ・マーレ]]''' |align="center"| [[サトゥ・マーレ県]] |align="right"| 113,688 |----- | colspan="11" align=center style="background:#f5f5f5;" | 2007年調査 |} {{-}} == 経済 == {{main|ルーマニアの経済}} [[国際通貨基金|IMF]]の統計によると、ルーマニアの[[2013年]]の[[国内総生産]](GDP)は約1,889億ドルである。2016年の1人あたりの名目GDPは1万1,859ドル<ref>[http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2014/02/weodata/weorept.aspx?sy=2012&ey=2016&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=914%2C962%2C963%2C943%2C918%2C964%2C960%2C968%2C944%2C942%2C967%2C186%2C946&s=NGDPDPC%2CPPPPC&grp=0&a=&pr1.x=51&pr1.y=4 IMFの統計(欧州の非先進国に絞ったデータ)]</ref>で、世界平均より少し高い程度だが、バルカン半島の旧[[社会主義国]]では[[クロアチア]]に次いで高い。 ルーマニアは伝統的に[[農業国]]であり、[[第一次産業]]人口が人口の42.3%を占める(2001年)。一方で、[[社会主義]]時代に[[計画経済]]のもと工業化が進められた結果、[[2014年]]現在では[[鉄鋼業|鉄鋼]]や[[アルミニウム]]、[[繊維産業]]といった業種も主要産業となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/romania/data.html|title=ルーマニア基礎データ|work=各国・地域情勢|publisher=[[外務省]]|date=2014-01-01|accessdate=2014-11-19}}</ref>。そのほか、[[17世紀]]から続く[[モレニ]][[油田]]が知られるように、ルーマニアは産油国であるが、今日ではその規模は限られている。 == 交通 == {{main|{{仮リンク|ルーマニアの交通|en|Transport in Romania}}}} [[2024年]]3月により、空路と海路に限り[[シェンゲン圏]]へ参加が決定。多くの欧州国家との間で、出入国が自由になる<ref>{{Cite web |url=https://www.cnn.co.jp/world/35213373.html |title=ブルガリアとルーマニアがシェンゲン圏に参加、EU諸国と空・海路で移動自由に |publisher=CNN |date=2023-12-31 |accessdate=2023-12-31}}</ref>。 === 道路 === {{main|{{仮リンク|ルーマニアの道路|en|Roads in Romania}}}} === 鉄道 === {{main|[[ルーマニアの鉄道]]}} === 航空 === {{main|ルーマニアの空港の一覧}} == 国民 == [[ファイル:Romania demography 1961-2010.svg|thumb|260px|[[1961年]]から[[2010年]]までの人口動態グラフ]] {{main|{{仮リンク|ルーマニアの人口統計|en|Demographics of Romania}}}} === 民族 === {{bar box |title=民族構成(ルーマニア) |titlebar=#ddd |float=left |bars= {{bar percent|[[ルーマニア人]]|pink|89}} {{bar percent|[[マジャル人]]|orange|6}} {{bar percent|[[ロマ人]]|brown|2}} {{bar percent|その他|red|3}} }} 住民は、ロムニ([[ルーマニア人]])が89%。[[マジャル人]]([[ハンガリー人]])が6%、[[ロマ人]]が2%などである。その他には[[セルビア人]]、[[ウクライナ人]]、[[ドイツ人]]、[[トルコ人]]、[[タタール人]]、[[スロヴァキア人]]、[[ブルガリア人]]、[[ロシア人]]、[[ユダヤ人]]、[[ノガイ族]]などが居住している。ルーマニア人は古代の[[ダキア人]]と植民した[[ローマ人]]の混血だとされているが、異論もある。マジャル人の多くはハンガリーとの領有権問題を抱える[[トランシルヴァニア]]のなかでも特に[[ティミショアラ]]に多く居住しており、マジャル人は約160万人いる<ref name="コトバンクルーマニア"/>。 [[国勢調査]]では[[ロマ|ロマ人]]の人口は約61万9000人とされているが、[[非政府組織|NGO]]は、これを大きく上回る約200万人と試算しており<ref name="AFP0828"/>、[[ロマ|ロマ人]]はルーマニアの全人口の約8%<ref>{{Cite news |author=瀬能繁 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASGM0505H_W1A400C1EB1000/ |title=EU、ロマ人の統合促進で国別戦略策定へ |newspaper=[[日本経済新聞]] |publisher= |date=2011-04-06 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210816141949/https://www.nikkei.com/article/DGXNASGM0505H_W1A400C1EB1000/ |archivedate=2021-08-16 }}</ref>から約10%を占め<ref>{{Cite news |author=|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3228081 |title=ルーマニア訪問のフランシスコ法王、カトリック教会によるロマ人「差別」を謝罪 |newspaper=[[フランス通信社|AFP]] |publisher= |date=2019-06-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20190603032515/https://www.afpbb.com/articles/-/3228081 |archivedate=2019-06-03 }}</ref>、約190万人<ref>{{Cite news |author=|url=https://www.donga.com/jp/article/all/20140110/423726/1 |title=「東欧ジプシーが押し寄せる」…「戸締まり」に出た西欧の富国 |newspaper=[[東亜日報]] |publisher= |date=2014-01-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210816135824/https://www.donga.com/jp/article/all/20140110/423726/1 |archivedate=2021-08-16 }}</ref>とも約200万人いるともいわれる<ref>{{Cite news |author=[[鈴木春恵]] |url=https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/4346 |title=揺らぎ始めたフランスの自由、平等、博愛 |newspaper=[[日本ビジネスプレス|JBpress]] |publisher=[[日本ビジネスプレス]] |date=2010-09-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100903141657/https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/4346 |archivedate=2010-09-03 }}</ref>。[[ロマ|ロマ人]]は、すべての[[少数民族]]のうち、人口の算出がもっとも難しい民族であり、長きにわたって虐げられてきた[[ロマ|ロマ人]]に対する広範な[[差別]]は、[[雇用]]および[[住宅|住宅面]]などで依然根強いものがあり<ref name="AFP0828">{{Cite news |author=|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2964633 |title=「ロマ民族の王」死去、葬儀に2000人参列、ルーマニア |newspaper=[[フランス通信社|AFP]] |publisher= |date=2013-08-28 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131027204227/https://www.afpbb.com/articles/-/2964633 |archivedate=2013-10-27 }}</ref>、「[[ジプシー]]」という烙印を押されるのを免れようとして、多くの[[ロマ|ロマ人]]が[[国勢調査]]で自らをルーマニア人と自己申告しており、事実、このような[[ロマ|ロマ人]]の多くは[[身分証明書]]を所持していない<ref>{{cite news |author=鈴木信吾 |url=http://www.tufs.ac.jp/common/fs/ilr/EU/EU_houkokusho/suzuki.pdf |title=ルーマニアの言語状況および言語政策・言語教育政策 |publisher=拡大EU諸国における外国語教育政策とその実効性に関する総合的研究 |date=2009-03 |page=80-81 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210816153356/http://www.tufs.ac.jp/common/fs/ilr/EU/EU_houkokusho/suzuki.pdf |archivedate=2021-08-16 |format=PDF }}</ref>。[[2002年]]の[[国勢調査]]では、[[ロマ|ロマ人]]と自己申告した者は53万5140人であり、ルーマニア全人口の2.5%に過ぎない<ref name="鈴木信吾">{{cite news |author=鈴木信吾 |url=http://www.tufs.ac.jp/common/fs/ilr/EU/EU_houkokusho/suzuki.pdf |title=ルーマニアの言語状況および言語政策・言語教育政策 |publisher=拡大EU諸国における外国語教育政策とその実効性に関する総合的研究 |date=2009-03 |page=81 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210816153356/http://www.tufs.ac.jp/common/fs/ilr/EU/EU_houkokusho/suzuki.pdf |archivedate=2021-08-16 |format=PDF }}</ref>。しかし、[[ロマ|ロマ人]]が多く住む[[東南ヨーロッパ]]のなかでも、ルーマニアに住む[[ロマ|ロマ人]]の人口は群を抜いて多く、ルーマニアの[[社会学者の一覧|社会学者]]の低めの推計では約100万人としている<ref name="鈴木信吾"/>。一方、{{仮リンク|マイノリティ・ライツ・グループ|en|Minority Rights Group International}}の[[1995年]]の報告では、約180万人から約250万人と試算しており、[[ロマ|ロマ人]]はルーマニア全人口の8%から11%を占めている<ref name="鈴木信吾"/>。[[国勢調査]]で[[ロマ|ロマ人]]であると自己申告した者のうち、約半数が[[ロマ語]]を[[母語]]としていると申告しており、このことは、ルーマニア人への[[同化政策|同化]]に段階性があり、同化が進行した者のなかには、その母語に従ってルーマニア人として自己申告している者が多数いる事実をうかがわせる<ref>{{cite news |author=鈴木信吾 |url=http://www.tufs.ac.jp/common/fs/ilr/EU/EU_houkokusho/suzuki.pdf |title=ルーマニアの言語状況および言語政策・言語教育政策 |publisher=拡大EU諸国における外国語教育政策とその実効性に関する総合的研究 |date=2009-03 |page=83 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210816153356/http://www.tufs.ac.jp/common/fs/ilr/EU/EU_houkokusho/suzuki.pdf |archivedate=2021-08-16 |format=PDF }}</ref>。[[欧州評議会]]は、約185万人の[[ロマ|ロマ人]]がルーマニアに住んでおり、ルーマニア全人口の約8.32%が[[ロマ|ロマ人]]と推計している<ref>{{Cite news |author= |url=https://ec.europa.eu/info/policies/justice-and-fundamental-rights/combatting-discrimination/roma-eu/roma-inclusion-eu-country/roma-inclusion-romania_en |title=Roma inclusion in Romania |newspaper= |publisher=[[欧州委員会]] |date= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210702140652/https://ec.europa.eu/info/policies/justice-and-fundamental-rights/combatting-discrimination/roma-eu/roma-inclusion-eu-country/roma-inclusion-romania_en |archivedate=2021-07-02}}</ref>。[[世界銀行]]は、ルーマニアには約300万人の[[ロマ|ロマ人]]がいると推計している<ref name="Gândul"/>。[[ブカレスト大学]]のMarian Predaは、[[1998年]]に[[ロマ|ロマ人]]に関する研究をおこない、[[ロマ|ロマ人]]の人口を150万人と割り出したが、そのうちの100万人は、公式の[[国勢調査]]において[[ロマ|ロマ人]]と自己申告していなかった<ref name="Gândul"/>。つまり、ルーマニアの[[ロマ|ロマ人]]の3分の2以上が、[[恐怖]]、[[羞恥心|恥]]、[[差別]]などの理由で[[発祥|出自]]を隠し、自らをルーマニア人と自己申告しており、ルーマニアの[[ロマ|ロマ人]]のせいぜい3分の1だけが自らを[[ロマ|ロマ人]]と自己申告していた<ref name="Gândul"/>。[[代議院 (ルーマニア)|上院議員]]である{{仮リンク|マダリン・ヴォイク|en|Mădălin Voicu}}は、「ルーマニアだけで70万人から130万人の定住生活者がいる他、70万人程度の移動生活者がおり、結果、ルーマニアの[[ロマ|ロマ人]]の人口は200万人ほどになる」と述べている<ref name="Gândul">{{Cite news |author= |url=https://www.gandul.ro/stiri/recensamant-2011-doua-treimi-dintre-romi-se-declara-romani-700000-2000000-3000000-cati-romi-traiesc-in-romania-8883047 |title=RECENSĂMÂNT 2011. Două treimi dintre romi se declară români. 700.000, 2.000.000, 3.000.000 … câți romi trăiesc în România? |newspaper={{仮リンク|Gândul|en|Gândul}} |publisher= |date=2012-04-23 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210812043059/https://www.gandul.ro/stiri/recensamant-2011-doua-treimi-dintre-romi-se-declara-romani-700000-2000000-3000000-cati-romi-traiesc-in-romania-8883047 |archivedate=2021-08-12 }}</ref>。[[国際連合開発計画]]は、「ルーマニアは、専門家の推定では、最低180万人から最大250万人の[[ヨーロッパ]]で最大、そしておそらく[[世界]]でも最大の[[ロマ|ロマ人]]を抱えている」と報告している<ref>{{Cite news |author= |url=http://europeandcis.undp.org/uploads/public/File/rbec_web/vgr/chapter1.1.pdf |title=Roma in the Balkan context |newspaper= |publisher=[[国際連合開発計画]] |date= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20061007102931/http://europeandcis.undp.org/uploads/public/File/rbec_web/vgr/chapter1.1.pdf |archivedate=2006-10-07 |page=12 }}</ref>。[[ニュージーランド]]の{{仮リンク|社会開発省|en|Ministry of Social Development (New Zealand)}}の[[専門職|アナリスト]]であるChungui Qiaoは、「ヨーロッパの[[ロマ|ロマ人]]の人口は700万人から900万人と推定されています。ルーマニアは、[[ロマ|ロマ人]]の絶対数が最も多く、100万人から200万人の範囲にある国です」と報告している<ref>{{Cite news |author=Chungui Qiao |url=http://www.msd.govt.nz/documents/publications/msd/journal/issue25/25-pages154-164.pdf |title=IAOS SATELLITE MEETING “MEASURING SMALL AND INDIGENOUS POPULATIONS” |newspaper=Social Policy Journal of New Zealand |publisher={{仮リンク|国際公的統計協会|en|International Association for Official Statistics}} |date=2005-07 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080226202154/http://www.msd.govt.nz/documents/publications/msd/journal/issue25/25-pages154-164.pdf |archivedate=2008-02-26 |page=158 }}</ref>。 === 言語 === 公用語は[[ルーマニア語]]である。ルーマニア語は[[ロマンス諸語]]の一つであり、古代ローマ帝国で話されていた[[ラテン語]]の方言が変化したものである(なお、東欧では[[ロマンス諸語|ロマンス系言語]]を公用語とする国家はモルドバとルーマニアだけである)。その他、[[ロマ語]]、[[ハンガリー語]]、[[ドイツ語]]、[[フランス語]]なども使われている。 === 宗教 === {{main|[[ルーマニアの宗教]]}} [[2011年]]の調査によれば、[[キリスト教]][[正教会]]の一派[[ルーマニア正教会]]が81%、[[プロテスタント]]が6.2%、[[カトリック教会|カトリック]]が5.1%、その他(その他のキリスト教、{{仮リンク|ルーマニアのイスラム教|en|Islam in Romania|label=イスラム教}}、[[エホバの証人]]、[[ユダヤ教]])が1.2%、無宗教が0.2%、無効データが6.2%である。 === 婚姻 === ==== 統計 ==== 2015年を例にとってみると、ルーマニアでは12万5,000組超の婚姻が登録された(ルーマニア国政府の統計局によるデータ)。そのうち18.2%は25 - 29歳の(の年齢帯に統計局によって分類された)男女であり、14.3%は20 - 24歳の男女である。2015年の統計では、婚姻時の女性の平均年齢は29.1歳で、男性の平均年齢は32.5歳であった(平均年齢は、この年、前年と比べてやや上昇した)<ref name="romania-insider_marriage">[https://www.romania-insider.com/marriages-divorces-romania-2015]</ref>。 離婚数は2015年には3万1,527件であり、この年は前年比で15.9%増加した<ref name="romania-insider_marriage" />。 ==== 行政的な結婚と宗教的な結婚 ==== ルーマニア政府は、ルーマニア国民がそれぞれに住む地域の市役所で行う結婚式のみを法的に認知している。したがって、多くのカップルが市役所での結婚式を終えたあとに改めて宗教的な結婚式を行うことを選ぶ<ref>[https://ro.usembassy.gov/u-s-citizen-services/child-family-matters/marriages/ U.S. Embassy in Romania "marriage"] <!--The Government of Romania legally recognizes only civil marriage ceremonies that are performed in the City Hall in the area where the Romanian citizen resides. Many couples also choose to hold a religious ceremony after the completion of the civil ceremony.--></ref>。 なお婚姻の際には、自己の姓を用い続ける([[夫婦別姓]])、相手の姓を用いる(夫婦同姓)、相手の姓を付加する、のいずれかを選択できる。 {{See also|{{仮リンク|ルーマニア語の人名|en|Romanian name}}}} ==== 同性カップルの位置づけ ==== 2019年時点で、ルーマニアでは[[同性婚]]を新たにすることは法的には認められていない(ただし、欧州連合においてすでに同性婚をしたカップルがルーマニアで暮らす場合は、婚姻関係にあると法的に認知される。[[:en:Recognition of same-sex unions in Romania]]も参照)。 ルーマニアは、概して言えば、[[LGBT]]などに関しては「保守的」である。LGBTなどの人々はルーマニアでは社会的な障壁に直面することになる。ただし、2000年以降にかなりの変化も見られ、この20年ほどの間に、[[ホモフォビア]]やそれに関連する[[ヘイトクライム]]を禁止する法律が成立してきている([[:en:LGBT rights in Romania]]も参照可)。 === 教育 === {{main|{{仮リンク|ルーマニアの教育|en|Education in Romania}}}} 7歳から14歳までの8年間の[[初等教育]]と[[前期中等教育]]が[[義務教育]]であり、無償となっている。 主な高等教育機関としては、[[ブカレスト大学]](1864年創設)などが挙げられる。 === 保健 === {{main|{{仮リンク|ルーマニアの保健|en|Health in Romania}}}} ルーマニアの[[死亡率]]はヨーロッパで5番目に高く、人口10万人あたり691人であり、他のEU加盟国に比べて外的要因および[[感染症]]や[[寄生虫症]]による死亡者が多く見られる(4〜5%)<ref>{{cite web |url=http://www.cred.ro/cd_capitalisation/SCIH_CD/RONEONAT/THE_STATE_OF_HEALTH_IN_ROMANIA.HTM |title=The State of Health in Romania |work=RoNeonat|accessdate=2020-02-13}}</ref>。 2004年のルーマニアでの主な死因は[[心血管疾患]](62%)であり、次いで[[悪性腫瘍]](17%)、[[消化器疾患]](6%)、[[事故]]、[[負傷]]および[[中毒]](5%)、[[呼吸器疾患]](5%)と続く<ref>{{cite web|url=http://www.sfaturimedicale.ro/bolile-cele-mai-frecvente-la-romani.html|title=Sfaturi Medicale – Bolile cele mai frecvente la români|publisher=|access-date=2020-02-13|archive-url=https://web.archive.org/web/20120115015923/http://www.sfaturimedicale.ro/bolile-cele-mai-frecvente-la-romani.html|archive-date=2012-01-15|url-status=dead}}</ref>。 総人口の5分の1が[[伝染病]]または[[慢性疾患]]に苦しんでいると推定されており<ref>{{cite web|url=http://www.ghidularadean.ro/stiri/4718/cele-mai-frecvente-boli-din-rom%C3%A2nia.html|title=GHIDUL ARADEAN|author=GHIDUL ARADEAN|publisher=|access-date=2020-02-13}}</ref>、2015年の伝染病による死亡率はヨーロッパで4番目に高かった<ref>{{cite book|last1=Ballas|first1=Dimitris|last2=Dorling|first2=Danny|last3=Hennig|first3=Benjamin|title=The Human Atlas of Europe|date=2017|publisher=Policy Press|location=Bristol|isbn=9781447313540|page=66}}</ref> 。 {{See also|{{仮リンク|ルーマニアの医療|en|Healthcare_in_Romania}}}} 現在ルーマニアは深刻な[[野犬]]の問題に直面しており、全国で推定200万匹が野放しになっている。[[2005年]]において同国内で2万人以上が犬に襲われる被害を受けている。 その為 当局は駆除に乗り出そうとしているが、[[動物保護団体]]の激しい反対にあい対策は進んでいない。 [[2006年]]1月7日、動物愛護活動家でもある[[フランス]]の女優の[[ブリジット・バルドー]]が声明を出して駆除計画に抗議、ルーマニア当局を非難した。同年1月29日、[[日本人]]男性がブカレストで野犬に噛まれて失血死する事件が起きた。 == 治安 == ルーマニアの治安は、『{{仮リンク|グローバル・ファイナンス|en|Global Finance (magazine)}}』が発表した「最も治安の良い国ランキング2022」によると31位となっている<ref>[https://worldpopulationreview.com/country-rankings/safest-countries-in-the-world Safest Countries In The World 2021 - World Population Review] World Population Review</ref>。 だが、首都のブカレストに危険地域に指定されている区域が存在することや都市開発から取り残された貧困層による犯罪が多発している状態が続いており、現地を訪れる際は充分な注意が求められる。 ルーマニアの警察の発表によれば、犯罪発生数は2012年~2018年にはピーク時より約28%減少しているものの[[スリ]]や[[ひったくり]]、[[置き引き]]、[[車上狙い]]、自動車盗難等の路上犯罪が後を絶たない状況が続いている<ref>[https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure_177.html 海外安全ホームページ: 安全対策基礎データ :ルーマニア] [[外務省]]</ref>。 {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|ルーマニアにおける犯罪|ro|Criminalitatea în România|en|Crime in Romania}}|{{仮リンク|ルーマニアにおける汚職|ro|Corupția în România}}|{{仮リンク|ルーマニアにおける孤児|en|Romanian orphans}}}} === 警察 === [[File:Dacia Logan Romanian police vehicle - 2021.jpg|200px|right|thumb|ルーマニア警察の[[パトカー]] <br> ベースとなっているのは[[ダチア・ロガン]]である]] {{Main|{{仮リンク|ルーマニア警察|ro|principala instituție pentru aplicare a legii din România|en|Romanian Police}}}} ルーマニアの警察は、各郡に対応する41の郡警察検査局と首都に設置された{{仮リンク|ブカレスト警察総局|ro|Direcția Generală de Poliție a Municipiului București}}(DGPMB)ならびに{{仮リンク|ブカレスト地方警察|ro|Poliția locală București}}に分かれている。 {{節スタブ}} === 人権 === {{Main|{{仮リンク|ルーマニアにおける人権|en|Human rights in Romania}}}} 2015年時点での[[民主主義指数]]では、167ヶ国中59位にランクされており、「欠陥のある民主主義国家」と称されている。 {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|ルーマニアにおける人身売買|en|Human trafficking in Romania}}|{{仮リンク|ルーマニアにおけるLGBTの権利|en|LGBT rights in Romania}}}} == マスコミ == {{main|{{仮リンク|ルーマニアのメディア|en|Media of Romania}}}} === テレビメディア === * {{仮リンク|TVR 1|ro|TVR 1}} * {{仮リンク|TVR 2|ro|TVR 2}} * {{仮リンク|TVR 3|ro|TVR 3}} * [[ルーマニア・テレビ]] === ラジオメディア === {{main|{{仮リンク|ラジオルーマニア|en|Romanian Radio Broadcasting Company}}}} === 報道機関 === {{節スタブ}} === 印刷・出版 === *[[Actualităti]] *[[Argeş Express]] *[[Objectivargeşean]] *[[Piteşti.ro]] *[[Pro Argeş]] *[[Zirarul Profit]] *[[Curierul Zilei]] *[[Journal de Argeş]] {{See also|{{仮リンク|ルーマニアの雑誌|ro|Revista Română}}}} === 通信 === {{Main|{{仮リンク|ルーマニアにおける通信|ro|Comunicațiile în România}}|{{仮リンク|ルーマニアのインターネット|en|Internet in Romania}}}} {{節スタブ}} == 文化 == {{main|[[ルーマニアの文化]]}} 有名な吸血鬼[[ドラキュラ伯爵]]は、15世紀の[[ワラキア]]公であった[[ヴラド・ツェペシュ]]がモデルになったとされている。 ウィッチクラフト(魔女文化)が数世紀の歴史を持ち、現在も「[[魔女]]」や「まじない師」「[[占い師]]」として生計を立てる人々が多く存在する。「魔女」としてお金を得ている者らからも(他の自営業者と同様に)[[徴税]]するために2011年1月1日に労働法が改正され、「魔女」が職業として認められることとなった。それ以降、魔女たちは役所で営業許可を得て「魔女」として登録する必要があるほか、占いが外れると罰金が科されたり、逮捕されたりしてしまうようになる可能性もあるという。 === 食文化 === {{main|ルーマニア料理}} [[ルーマニア料理]]は、他の[[バルカン半島|バルカン諸国]]の料理と比べ、[[トルコ料理]]の影響が小さい。 === 文学 === [[ファイル:Eminescu.jpg|thumb|180px|詩人、[[ミハイ・エミネスク]]。]] {{main|[[ルーマニア文学]]}} 19世紀に活躍した[[詩人]]として、[[ミハイ・エミネスク]]が特筆される。 === 音楽 === {{main|ルーマニア音楽}} 地域ごとに様々な伝統音楽の形式が存在する。また、ロマ(ジプシー)の音楽も盛んである。 === 美術 === {{main|{{仮リンク|ルーマニアの芸術|en|Romanian art}}|{{仮リンク|19世紀と20世紀におけるルーマニアの芸術|en|Arta românească în secolele XIX și XX}}}} {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|ルーマニアの芸術家の一覧|en|List of Romanian artists}}}} === 映画 === {{main|{{仮リンク|ルーマニアの映画|en|Cinema of Romania}}}} ルーマニアにおける映画の歴史は1900年以前から始まっており、最初の映画撮影は1896年5月27日に行われている。だが、活動が始まったのは1895年12月28日に[[リュミエール兄弟]]が[[パリ]]にて最初に開催した映画展から5ヶ月も経過していない時期であった事から、ヨーロッパ各国においての映画の歴史としては比較的浅いものに分けられる。 {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|ルーマニア映画の一覧|en|List of Romanian films}}}} === 建築 === {{main|ルーマニアの建築}} {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|ルーマニアの復活建築|en|Romanian Revival architecture}}}} === 衣服 === {{main|{{仮リンク|ルーマニアとモルドバの民族衣装|ru|Румынский и молдавский национальные костюмы}}}} {{節スタブ}} === 世界遺産 === {{Main|ルーマニアの世界遺産}} ルーマニア国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された文化遺産が6件、自然遺産が1件存在する。 <gallery> ファイル:Delta Dunarii 500.jpg|[[ドナウ川三角州]] - (1991年) ファイル:RomanianSaxonianChurchTartlau Prejmer0015jpg.JPG|[[トランシルヴァニア地方の要塞聖堂のある村落群]] - (1993年、1999年拡大) ファイル:Horezu church.jpg|[[ホレズ修道院]] - (1993年) ファイル:Ihopulele EOS 30D0173 Voronet.jpg|[[モルダヴィア北部の壁画教会群]] - (1993年) ファイル:Sârbi Josani.jpg|[[マラムレシュの木造聖堂群]] - (1999年) ファイル:Sighisoara IMG 5622.jpg|[[シギショアラ歴史地区]] - (1999年) ファイル:Sarmizegetusa temples.jpg|[[オラシュチエ山脈のダキア人の要塞群]] - (1999年) </gallery> === 祝祭日 === {| class="wikitable" |+ !日付!!日本語表記!!ルーマニア語表記!!備考 |- |[[1月1日]] || [[元日]] || {{lang|ro|Anul nou}} || |- |[[1月15日]] || ルーマニア文化の日 || {{lang|ro|Cultură Ziua de vacanță}} || |- |3月から5月、年により移動 || [[復活大祭|復活祭]] || {{lang|ro|Paştele}} || [[正教会]]の暦に従う。期間は3日間。復活祭の翌日には[[イースターマンデー]]があり、連休として設定されている。 |- |[[5月1日]] || [[メーデー|労働の日]] || {{lang|ro|Ziua muncii}} || 国際労働日 |- |[[6月26日]] || [[国旗の日 ]] || {{lang|ro|zi de pavilion}} || {{仮リンク|ワラキア革命|en|Wallachian Revolution of 1848}}での法令第1号で[[ルーマニアの国旗|青・黄・赤の三色旗]]が国旗とされたことを記念したもの。1998年に導入された。 |- |[[11月30日]]|| [[アンデレ|セント・アンドリュー]]の日 || {{lang|ro|Ziua Sfântului Andrei}} || |- |[[12月1日]] || 国民の祝日(統一記念日) || {{lang|ro|Ziua Unirii}} || [[1918年]]12月1日のトランシルヴァニアとルーマニアの統一を祝う。 |- |[[12月8日]] ||[[憲法記念日]] || {{lang|ro|Ziua Constituției}} || |- |[[12月25日]]・[[12月26日]] || [[クリスマス]] || {{lang|ro|Crăciunul}} || 2日間。 |} この他、伝統的祭日として[[3月1日]]の {{仮リンク|マルティサール|label=三月祭|ro|Mărțișor|en|Mărțișor|ru|Мэрцишор}} {{lang|ro|(Mărţişorul)}} がある。これは[[バレンタインデー]]に似た祭日である。花のほかに、[[ペンダント・ヘッド]]や[[ブローチ (装身具)|ブローチ]]などを男性から女性に贈る。紅白の細い糸を縒って作った小さな[[リボン]]を、プレゼントに結びつけるのが慣わしとなっている。 == スポーツ == {{Main|{{仮リンク|ルーマニアのスポーツ|en|Sport in Romania}}}} {{See also|オリンピックのルーマニア選手団}} === サッカー === {{Main|{{仮リンク|ルーマニアのサッカー|en|Football in Romania}}}} ルーマニアでも他の[[ヨーロッパ]]諸国同様に、[[サッカー]]が圧倒的に1番人気の[[スポーツ]]となっている。国内リーグの歴史は非常に古く、今から110年以上前の[[1909年]]に[[リーガ1]]が創設されている。[[ルーマニアサッカー連盟]](FRF)によって構成される[[サッカールーマニア代表]]は、これまで[[FIFAワールドカップ]]には7度出場しており、[[1994 FIFAワールドカップ|1994年大会]]ではベスト8の成績を収めた。[[UEFA欧州選手権]]には5度出場しており、[[UEFA EURO 2000|2000年大会]]ではベスト8に進出した。著名な選手には、[[ゲオルゲ・ハジ]]、[[アドリアン・ムトゥ]]、[[クリスティアン・キヴ]]などが存在している。 === その他の競技 === [[File:Nadia_Comăneci_1976b.jpg|thumb|right|180px|[[ナディア・コマネチ]]]] 女子[[体操競技]]においては世界屈指の強豪国であり、[[ナディア・コマネチ]]、[[シモナ・アマナール]]、[[アンドレーア・ラドゥカン]]などの[[近代オリンピック|オリンピック]]金メダリストを多数輩出している。中でもコマネチは[[1976年]]の[[1976年モントリオールオリンピック|モントリオール大会]]で完璧な演技を見せ、五輪の体操競技史上初となる「10点満点」を獲得し世界中の人々を魅了した。その容姿やトレードマークの白い[[レオタード]]から、コマネチは「白い妖精」の愛称で呼ばれていた。 ルーマニアは[[ハンドボール]]では、[[世界男子ハンドボール選手権|世界選手権]]において4度の優勝を果たしており、[[2015年]]に[[ハンドボールフランス代表|フランス代表]]に抜かれるまでは最多優勝国であった。また、[[ラグビールーマニア代表|ラグビー代表]]は[[ラグビーワールドカップ|ワールドカップ]]の第1回大会から8回連続出場中である。なお、伝統的な競技としては[[レスリング]]形式のスポーツであるトレンタが開催されている<ref group="注釈">トレンタはルーマニアだけでなく、類似する文化圏の[[モルドバ]]でも支持されている。</ref>。 == 著名な出身者 == {{main|ルーマニア人の一覧}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == {{節スタブ}} == 関連項目 == * [[ルーマニア関係記事の一覧]] * [[ニコラエ・チャウシェスク]] ** [[ルーマニアの孤児]] * [[ルーマニア革命 (1944年)]] * [[ルーマニア革命 (1989年)]] == 外部リンク == {{Commons&cat|România|Romania}} ; 政府 * [https://gov.ro/ro ルーマニア政府] {{ro icon}}{{en icon}}{{fr icon}} * [https://www.presidency.ro/ ルーマニア大統領府] {{ro icon}}{{en icon}} ; 日本政府 * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/romania/ 日本外務省 - ルーマニア] {{ja icon}} ; 大使館 * [https://tokyo.mae.ro/jp 在日ルーマニア大使館]{{ja icon}}{{ro icon}}{{en icon}} * [https://www.ro.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在ルーマニア日本国大使館]{{ja icon}} ; 観光その他 * [https://www.romaniatabi.jp/ ルーマニア政府観光局] {{ja icon}} * {{Twitter|Romanian_Office|ルーマニア政府観光局}}{{Ja icon}} * {{Facebook|RomaniaTouristOffice|ルーマニア政府観光局}}{{Ja icon}} * [https://www.jetro.go.jp/world/europe/ro/ JETRO - ルーマニア] {{ja icon}} * [https://www.jrba.org/ 日本ルーマニアビジネス協会] {{ja icon}} * [https://r-ms.org/ 日本ルーマニア音楽協会] {{ja icon}} * [https://yokosoromania.wordpress.com/ Yokoso Romania]{{ja icon}} * [http://travelromania.tripod.com/ Your Online Portal to Romania]{{en icon}} {{ルーマニア}} {{ヨーロッパ}} {{EU}} {{OIF}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:るうまにあ}} [[Category:ルーマニア|*]] [[Category:ヨーロッパの国]] [[Category:共和国]] [[Category:欧州連合加盟国]] [[Category:フランコフォニー加盟国]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:NATO加盟国]]
2003-05-12T16:32:51Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%82%A2
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スタッフ
スタッフ(英語: staff)は、組織形態の一種。 表に出る仕事(興行など)を、裏で支える様々な部門を担当している関係者(裏方)、および、そのチームを指して言う英語であり、英語に由来する世界的共通単語である。 各分野でその役割は異なっており、その分野に適した技能を持つ専門の人もいる。 映画、演劇、商業用アニメーション、コンピュータゲームなどの作品づくりに関わるスタッフは、出演者以外の制作に携わった関係者全員 (カメラマンや照明担当、メイク担当など) を指す。映画における主体は出演者と考えられる。そのため、監督やプロデューサーなども裏方であり、スタッフに含まれる。また、そのスタッフの氏名が、ほとんどの作品においてクレジットタイトル(スタッフロール)として表される。 個人制作のYouTube動画等では出演者と考えられない。 なお、企業の売上・営業収益には直接関与しないものの、会計や法務などの専門的見地から業務部門に助言する役割を果たす、経営学・組織論で言われる「スタッフ」については別項「ラインアンドスタッフ」を参照のこと。 日本語においては、外来語で聞こえが良いため、小売店や飲食店で接客にあたる労働者をスタッフ、ストアスタッフ、"ホールスタッフ"としたり、製造現場で単純作業に従事する労働者、いわゆる工員をファクトリースタッフと呼び変えることもある。 改正男女雇用機会均等法の施行で、性別を表す職種名 (営業マンなど)の求人募集ができなくなったため、営業スタッフに言い換えられることも多い。 一般企業においては外部採用の派遣従業員をスタッフと呼び、自社採用のアルバイト従業員をバイトと呼んで区別する場合も見受けられる。本来、英語の staff (cf.staff ) は企業の被用者すべての集合を指すが、正規従業員の社員が非正規従業員の派遣従業員を捉まえて「スタッフさん」と呼ぶ場合もある。 日本企業の海外現地法人ではホワイトカラー系の従業員をスタッフ、ブルーカラー系の従業員をワーカーと呼び分ける慣行がある。 詳細は「漫画」など別項を参照。 詳細は別項「アニメ#関連項目」を参照。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "スタッフ(英語: staff)は、組織形態の一種。 表に出る仕事(興行など)を、裏で支える様々な部門を担当している関係者(裏方)、および、そのチームを指して言う英語であり、英語に由来する世界的共通単語である。 各分野でその役割は異なっており、その分野に適した技能を持つ専門の人もいる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "映画、演劇、商業用アニメーション、コンピュータゲームなどの作品づくりに関わるスタッフは、出演者以外の制作に携わった関係者全員 (カメラマンや照明担当、メイク担当など) を指す。映画における主体は出演者と考えられる。そのため、監督やプロデューサーなども裏方であり、スタッフに含まれる。また、そのスタッフの氏名が、ほとんどの作品においてクレジットタイトル(スタッフロール)として表される。 個人制作のYouTube動画等では出演者と考えられない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "なお、企業の売上・営業収益には直接関与しないものの、会計や法務などの専門的見地から業務部門に助言する役割を果たす、経営学・組織論で言われる「スタッフ」については別項「ラインアンドスタッフ」を参照のこと。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "日本語においては、外来語で聞こえが良いため、小売店や飲食店で接客にあたる労働者をスタッフ、ストアスタッフ、\"ホールスタッフ\"としたり、製造現場で単純作業に従事する労働者、いわゆる工員をファクトリースタッフと呼び変えることもある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "改正男女雇用機会均等法の施行で、性別を表す職種名 (営業マンなど)の求人募集ができなくなったため、営業スタッフに言い換えられることも多い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "一般企業においては外部採用の派遣従業員をスタッフと呼び、自社採用のアルバイト従業員をバイトと呼んで区別する場合も見受けられる。本来、英語の staff (cf.staff ) は企業の被用者すべての集合を指すが、正規従業員の社員が非正規従業員の派遣従業員を捉まえて「スタッフさん」と呼ぶ場合もある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "日本企業の海外現地法人ではホワイトカラー系の従業員をスタッフ、ブルーカラー系の従業員をワーカーと呼び分ける慣行がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "詳細は「漫画」など別項を参照。", "title": "各分野のスタッフ" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "詳細は別項「アニメ#関連項目」を参照。", "title": "各分野のスタッフ" } ]
スタッフは、組織形態の一種。 表に出る仕事(興行など)を、裏で支える様々な部門を担当している関係者(裏方)、および、そのチームを指して言う英語であり、英語に由来する世界的共通単語である。 各分野でその役割は異なっており、その分野に適した技能を持つ専門の人もいる。
{{otheruses}} {{WikipediaPage|[[ウィキメディア財団]]のスタッフについては、[[Wikipedia:利用者#スタッフ]]をご覧ください。}} <!--WP:POVに係る偏った記述が非常に目立つ。修正するが不十分。日本固有の語でないものを断り無く日本語限定で語るのは事実に反す。留意の上加筆願う。--> '''スタッフ'''({{Lang-en|staff}})は、組織形態の一種。<!--以上、定義1--> 表に出る仕事([[興行]]など)を、裏で支える様々な部門を担当している関係者(裏方)、および、その[[チーム]]を指して言う英語であり、英語に由来する世界的共通単語<!--×共通語-->である。 各分野でその役割は異なっており、その分野に適した[[スキル|技能]]を持つ専門の人もいる。<!--アルバイトもスタッフの一部--> == 概要 == [[映画]]、[[演劇]]、商業用[[アニメーション]]、[[コンピュータゲーム]]などの作品づくりに関わるスタッフは、[[出演者]]以外の制作に携わった関係者全員 ([[カメラマン]]や[[照明]]担当、[[化粧|メイク]]担当など) を指す。映画における主体は出演者と考えられる。そのため、[[監督]]や[[プロデューサー]]なども裏方であり、スタッフに含まれる。また、そのスタッフの氏名が、ほとんどの作品において[[クレジットタイトル]](スタッフロール)として表される。 個人制作のYouTube動画等では出演者と考えられない。 なお、企業の売上・営業収益には直接関与しないものの、[[会計]]や[[法務]]などの専門的見地から業務部門に助言する役割を果たす、[[経営学]]・[[組織論]]で言われる「スタッフ」については別項「[[ラインアンドスタッフ]]」を参照のこと。 === 日本語における用法 === [[日本語]]においては、[[外来語]]で聞こえが良いため、[[小売|小売店]]や[[飲食店]]で[[接客]]にあたる[[労働者]]をスタッフ、'''ストアスタッフ'''、"ホールスタッフ"としたり、製造現場で単純作業に従事する労働者、いわゆる[[ブルーカラー|工員]]を'''ファクトリースタッフ'''と呼び変えることもある。 改正[[雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律|男女雇用機会均等法]]の施行で、性別を表す職種名 (営業'''マン'''など)の[[求人]]募集ができなくなったため、営業'''スタッフ'''に言い換えられることも多い。 一般企業においては外部採用の派遣従業員を'''スタッフ'''と呼び、自社採用の[[アルバイト]]従業員を'''バイト'''と呼んで区別する場合も見受けられる。本来、英語の staff (cf.[[wikt:en:staff|staff]] <sup>3</sup>) は企業の被用者すべての集合を指すが、正規従業員の社員が非正規従業員の派遣従業員を捉まえて「スタッフさん」と呼ぶ場合もある。 日本企業の海外現地法人では[[ホワイトカラー]]系の従業員をスタッフ、[[ブルーカラー]]系の従業員をワーカーと呼び分ける慣行がある。 == 各分野のスタッフ == === テレビ番組 === {{columns-list|2| * [[チーフプロデューサー]]([[チーフプロデューサー|CP]]) * [[プロデューサー]] * アシスタントプロデューサー(AP) * [[チーフディレクター]](演出) * フロアディレクター(FD) * [[番組宣伝]](広報) * [[ウェブサイト]] * [[スチル]] * [[車輌]] * [[企画]] * 編成 * スケジュール * 演出補佐 * 制作担当 * 制作主任 * [[記録]](TK) * [[ディレクター]] * [[アシスタントディレクター]](AD) * [[技術]]([[テクニカルディレクター (テレビ)|テクニカルディレクター]])(TD) * [[撮影]]([[撮影技師|カメラマン]])(CAM) * [[照明]]([[ライティングディレクター]])(LD) * ライティングオペレーター(LO) * [[音声]]([[レコーディング・エンジニア|ミキサー]])(AUD・MIX) * [[スイッチャー]](SW) * MA<!--[[MA]]★曖昧回避にLinkせず該当項目に直接Linkを-->(整音) * 映像([[ビデオエンジニア|VE]]) * VTR(録画) * [[美術]](美術プロデューサー・美術制作、[[美術デザイナー]]、[[美術進行]]) * [[大道具]] * [[小道具]](一部のドラマのクレジットは「装飾」と表記) * 持道具 * 衣裳 * [[造園]] * [[アクリル装飾]] * [[電飾]] * [[花|生花]] * [[スタイリスト]] * [[特殊効果]] * [[化粧|ヘアメイク]] * [[編集]](オフライン) * ライン編集([[映像編集|EED]]) * [[選曲]] * [[音響効果]](SE) }} === 映画 === {{main|映画スタッフ}} * [[映画監督]] * [[映画プロデューサー]] * [[脚本家]] * [[撮影技師|カメラマン]] * 照明技師 * 録音技師 === 舞台・コンサート === {{columns-list|2| * [[制作]] * [[脚本]] * [[演出]] * [[舞台監督]] * [[舞台美術]] * [[音楽]] * [[PAエンジニア|PA]] (音響) ** [[舞台音響]] * [[舞台照明|照明]] * [[電源]] * [[ローディー]] (楽器) * [[衣裳]] * [[小道具]] (持道具) * [[床山]] * [[特殊効果]] * [[化粧|メイク]] }} === 漫画 === * [[編集者]] * アシスタント 詳細は「[[漫画]]」など別項を参照。 === アニメ === * [[声優]] * [[アニメ監督|監督・演出家]] * [[アニメーター]] * [[背景#背景美術|美術]] * [[制作進行#アニメーション作品の制作進行|制作進行]] 詳細は別項「[[アニメーション#関連項目|アニメ#関連項目]]」を参照。 == 関連項目 == {{Wiktionary|en:staff}} * [[音楽家]] * [[建築家]] * [[デザイナー]] * [[原作]] * [[ゲーム音楽の作曲家一覧]] * [[ゲームクリエイター一覧]] {{job-stub}} {{デフォルトソート:すたつふ}} [[Category:職業]] [[Category:英語の語句]] [[Category:外来語]]
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映画用語
映画用語(えいがようご)は、映画の用語の一覧。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "映画用語(えいがようご)は、映画の用語の一覧。", "title": null } ]
映画用語(えいがようご)は、映画の用語の一覧。
{{Pathnav|映画|映画の一覧|frame=1}} '''映画用語'''(えいがようご)は、[[映画]]の[[用語]]の一覧。 ==あ行== *[[アート・シアター]] *[[アイデア映画]]([[民主主義理念映画]]) *[[IMAX|アイマックス → IMAX]] *[[絞り|アイリス → 絞り (光学)]] *[[アバンギャルド#前衛映画|アヴァンギャルド映画]](前衛映画) *[[赤狩り#影響|赤狩り]] *[[アカデミー賞]] *[[アクション映画]] *[[アクターズ・スタジオ]] *[[画面アスペクト比|アスペクト比]]([[画面サイズ]]も参照) *[[アテレコ]] *[[アトーン]] *[[アニメーション]] *[[アバンタイトル]] *[[アニマティック]] *[[アフレコ]] *アベレージ *[[アメコミ映画]] *[[アメリカン・フィルム・インスティチュート]] *[[アメリカ映画協会 (業界団体)|アメリカ映画協会]] *[[アメリカの夜 (映画技法)|アメリカの夜]] *[[アメリカン・ニューシネマ]] *[[アラン・スミシー]] *[[:en:Arri|アリフレックス]] *[[アルゴ・プロジェクト]] *[[アンダーグラウンド映画]]([[アングラ映画]]) *[[インターバル撮影]] *[[イマジナリーライン]] *[[インターミッション (映画用語)|インターミッション]] *[[インタータイトル]] *[[インディペンデント映画]] *[[イントレランス|イントレ ← イントレランスから]] *[[絵コンテ|絵コンテ(えこんて)]] *[[映画産業]] *[[映画産業団体連合会|映団連 ← 映画産業団体連合会から]] *[[映画倫理委員会|映倫 ← 映画倫理委員会から]] *[[映画サービスデー]] *[[映画史]] *[[映画製作]] *[[映画の日]] *[[映画のレイティングシステム]] *[[エキストラ]] *[[クレジットタイトル|エンドロール]] *[[オールスター]] *[[お蔵入り]] *[[オスカー像|オスカー]] *[[光学合成|オプティカル合成 ← 光学合成]] *[[オプチカル・プリンター]] *[[オマージュ]] *[[オンリー (撮影技法)|オンリー]] ==か行== *[[カイエ・デュ・シネマ]] *[[カット]] *[[カットバック]] *[[カメオ出演]] *[[観客動員数]] *[[カチンコ]] *[[活動屋]] *[[活動写真]] *[[カメフレックス]] *[[撮影技師|カメラマン]] *[[カメラワーク]] *[[カラーコレクション|カラコレ ← カラーコレクションから]] *[[キネマ]] *[[脚本]] *[[キャスト]] *[[銀残し]] *[[クランクイン]] *[[クランクアップ]] *[[クレジットタイトル]] *[[クローズアップ]] *[[クロスカッティング]] *[[組 (映画)|組]] *[[興行]] *[[興行収入]] *[[興行成績]] *[[効果音]] *[[効果音楽]] *[[光学合成]] *[[合成]] *[[高速度撮影]](ハイスピード撮影) *[[コマ送り]] *[[コマ落とし]] *[[画コンテ|コンテ → 画コンテ]] ==さ行== * [[サイレント映画|サイレント(無声)映画]] * [[サウンドトラック]] * [[撮影]] * [[作家主義]] * [[三幕構成]] * [[ショット]] * [[シーン]] * [[シークエンス]] * [[試写]]、[[試写会]] * [[実写]] * [[シネマ]] * [[尺#映画フィルムにおける「尺」|尺]](上映時間) * [[正月映画]] * [[シネマスコープ]](シネスコ) * [[シネマコンプレックス]] * [[シネフィル]](シネ・フィル) * [[惹句]](キャッチコピー、キャッチフレーズ) * [[自主映画]] * [[画面サイズ|スクリーン・サイズ]] * [[スクリーン・プロセス]] * [[画面サイズ|スコープ・サイズ]] * [[スター・システム (俳優)|スター・システム]] * [[画面サイズ|スタンダード・サイズ]] * [[スタント]]、[[スタントマン]] * [[スチル写真]] * [[スチルカム]] * [[ステディカム]] * [[スピンオフ#作品制作におけるスピンオフ|スピンオフ]] * [[スローモーション]] * [[セッシュ|セッシュウ]] * [[アバンギャルド#前衛映画|前衛映画 → アヴァンギャルド映画]] * [[宣伝]] * [[操演]] ==た行== *[[タイアップ]] *[[タイイン]] *[[大作主義]] *[[代役]] *[[ダブル・ミーニング]] *[[ディゾルヴ]](オーバーラップ) *[[ティルト]] *[[ディレクターズ・カット]] *[[低速度撮影]](ロースピード撮影) *[[テクニカラー]] *[[デジタル合成]] *[[テレシネ]] *[[テレフィーチャー]] *[[トーキー]] *[[特撮]] *[[ドグマ95]] *[[ドライブイン・シアター]] *[[ドリー]] *[[ドルビーラボラトリーズ]] *[[ドルビーSR]] *[[ドルビーSRD]] *[[ドルビー・デジタル・サラウンドEX]] ==な行== *[[長回し]] *[[日本ヌーヴェルヴァーグ]] *[[ヌーヴェルヴァーグ]] *[[日本アカデミー賞協会]] *[[日本映画]] *[[日本語字幕]] *[[ニッケルオデオン (映画館)|ニッケルオデオン]] *[[ネオ・レアリスモ]] ==は行== *[[映画配給|配給]] *[[配給収入]] *[[画面サイズ|パナビジョン]] *[[画面サイズ|ビスタ]](・サイズ) *[[パースペクティブ]] *[[ハレーション]] *[[バレ消し]] *[[バレットタイム]] *[[パロディアス・ユニティー]] *[[:en:Panaflex|パナフレックス]] *[[パンフォーカス]] *[[パン (撮影技法)|パン]] *[[ビデオスルー]] *[[ピンク映画]] *[[ファイナル・カット権]] *[[フィルムクルー]] *[[フィルム・コミッション]] *[[フィルム・ノワール]] *[[フラッシュバック]] *[[ブルーバック]] *[[プリプロダクション]] *[[プログラムピクチャー]] *[[モンタージュ|編集]](モンタージュ) *[[ポストプロダクション]] *[[ホワイトバランス|ホワイト、ホワイトバランス]] *[[本編]] ==ま行== * [[マカロニ・ウェスタン]] * [[ミュージカル映画]] * [[ムービーカム]] * [[メタファー]] * [[モノローグ]] ==や行== ==ら行== *[[リメイク]] *[[リテイク]] *[[映画のレイティングシステム|レイティング・システム]] *[[連続活劇]] *[[ローアングル]] *[[ロケーション・ハンティング|ロケハン]] *[[ロングショット|ロング、ロングショット]] ==わ行== *[[ワイヤーアクション]] *[[ワイヤー消し]] ==アルファベット== *[[背景音楽|BGM]] *[[Cineon]] *[[DLP]](DLP上映) *[[DPV]] *[[DPX]] *[[DV (ビデオ規格)|DV]] *[[DVCPRO]] *[[HD24P]] *[[HDV]] *{{Anchors|[[IMAX]]}}[[IMAX]] *[[OpenEXR]] *[[SFX]] *[[VFX]] == 用語の選択の参考にした文献 == * {{Cite book ja-jp |author=山下 慧、井上 健一、松崎 健夫 |year=2012 |title=現代映画用語辞典 |publisher=キネマ句報社 |isbn=978-4-87376-367-5 }} == 外部リンク == * [https://web.archive.org/web/20040531121904/http://www.infoseek.co.jp/Topic/6/80/544/2448 映画用語集 総合情報] {{デフォルトソート:えいかようこ}} [[Category:映画|ようこ]] [[Category:映像技術]] [[Category:用語一覧]]
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か行
か行(かぎょう)とは、日本語の五十音図の2番目の行である。仮名「か」「き」「く」「け」「こ」が含まれる。どの仮名も子音と母音からなる音節またはモーラを表す。 清音か行の頭子音の音素は /k/ である。音声学的には、か行各音の頭子音は無声軟口蓋破裂音 [k] で、舌の後部を口蓋の奥の部分(軟口蓋)に押しあて一旦閉鎖した上で破裂させることで発する無声子音である。但し「き」の頭子音は硬口蓋化するため、調音点が他のか行音より前方推移して後部硬口蓋になる。 ローマ字では日本式・ヘボン式ともに ka ki ku ke ko と表記される。 か行の仮名に濁点をつけて表記される濁音が行(が・ぎ・ぐ・げ・ご)の頭子音の音素は /ɡ/ である。日常的に鼻濁音を使う話者の場合は、この頭子音は文節の頭では清音のそれを有声化した有声軟口蓋破裂音 [ɡ]、それ以外では軟口蓋鼻音 [ŋ] に、日常的に濁音を使わない話者の場合は、この頭子音は文節の頭および撥音「ん」の後では有声軟口蓋破裂音、撥音の後を除く文節中・文節尾では有声軟口蓋摩擦音 [ɣ] またはそれに近い音(閉鎖密着の度合いが弱い有声軟口蓋破裂音)に発音される。「ぎ」の頭子音は、「き」の場合と同様に硬口蓋化して調音点が前方推移する。 ローマ字では日本式・ヘボン式ともに ga gi gu ge go と表記される。日常的に鼻濁音を使う地域は、共通語の基盤となった東京方言が話される地域を中心に東日本から以北に広がっている。一方で中国、四国以西の地域ではほとんど鼻濁音は使われない。 「き」「く」の後に他の「か行」の音が連続する場合、モーラに合わせて促音化することがある。「学校→がくこう→がっこう([gäkːo̞ː])」「赤血球→せきけつきゅう→せっけっきゅう([se̞kːe̞kːjɯ̹ː])」。但し「的確」「毒気」など促音とならず表記・発音される場合もある。この場合は最初のか行の母音が無声化して発音されることが多い。「的確→てきかく→てkかk([te̞kji̥käkɯ̥])「毒気→どくけ→どkけ([do̞kɯ̥ke̞])」。 平仮名、片仮名のか行はそれぞれ次の漢字に由来している。 変体仮名として以下に示す漢字に由来するものも用いられた。 万葉仮名では「き」「け」「こ」とそれらの濁音には甲乙二種の使い分けが見られる。それぞれ次の二群に分けられる(上代特殊仮名遣い)。 無色が無声音、橙色が有声音。有声音の子音は、文頭や撥音の後では破裂音、それ以外では摩擦音(括弧内)となる。「クァ」「グァ」はそれぞれ「クヮ」「グヮ」とも表記される。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "か行(かぎょう)とは、日本語の五十音図の2番目の行である。仮名「か」「き」「く」「け」「こ」が含まれる。どの仮名も子音と母音からなる音節またはモーラを表す。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "清音か行の頭子音の音素は /k/ である。音声学的には、か行各音の頭子音は無声軟口蓋破裂音 [k] で、舌の後部を口蓋の奥の部分(軟口蓋)に押しあて一旦閉鎖した上で破裂させることで発する無声子音である。但し「き」の頭子音は硬口蓋化するため、調音点が他のか行音より前方推移して後部硬口蓋になる。", "title": "発音" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ローマ字では日本式・ヘボン式ともに ka ki ku ke ko と表記される。", "title": "発音" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "か行の仮名に濁点をつけて表記される濁音が行(が・ぎ・ぐ・げ・ご)の頭子音の音素は /ɡ/ である。日常的に鼻濁音を使う話者の場合は、この頭子音は文節の頭では清音のそれを有声化した有声軟口蓋破裂音 [ɡ]、それ以外では軟口蓋鼻音 [ŋ] に、日常的に濁音を使わない話者の場合は、この頭子音は文節の頭および撥音「ん」の後では有声軟口蓋破裂音、撥音の後を除く文節中・文節尾では有声軟口蓋摩擦音 [ɣ] またはそれに近い音(閉鎖密着の度合いが弱い有声軟口蓋破裂音)に発音される。「ぎ」の頭子音は、「き」の場合と同様に硬口蓋化して調音点が前方推移する。", "title": "発音" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ローマ字では日本式・ヘボン式ともに ga gi gu ge go と表記される。日常的に鼻濁音を使う地域は、共通語の基盤となった東京方言が話される地域を中心に東日本から以北に広がっている。一方で中国、四国以西の地域ではほとんど鼻濁音は使われない。", "title": "発音" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "「き」「く」の後に他の「か行」の音が連続する場合、モーラに合わせて促音化することがある。「学校→がくこう→がっこう([gäkːo̞ː])」「赤血球→せきけつきゅう→せっけっきゅう([se̞kːe̞kːjɯ̹ː])」。但し「的確」「毒気」など促音とならず表記・発音される場合もある。この場合は最初のか行の母音が無声化して発音されることが多い。「的確→てきかく→てkかk([te̞kji̥käkɯ̥])「毒気→どくけ→どkけ([do̞kɯ̥ke̞])」。", "title": "発音" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "平仮名、片仮名のか行はそれぞれ次の漢字に由来している。", "title": "か行の仮名の由来" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "変体仮名として以下に示す漢字に由来するものも用いられた。", "title": "か行の仮名の由来" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "万葉仮名では「き」「け」「こ」とそれらの濁音には甲乙二種の使い分けが見られる。それぞれ次の二群に分けられる(上代特殊仮名遣い)。", "title": "上代特殊仮名遣" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "無色が無声音、橙色が有声音。有声音の子音は、文頭や撥音の後では破裂音、それ以外では摩擦音(括弧内)となる。「クァ」「グァ」はそれぞれ「クヮ」「グヮ」とも表記される。", "title": "音声学的分類" } ]
か行(かぎょう)とは、日本語の五十音図の2番目の行である。仮名「か」「き」「く」「け」「こ」が含まれる。どの仮名も子音と母音からなる音節またはモーラを表す。
{{混同|力行}} {{出典の明記|date=2015年4月}} {{五十音}} '''か行'''(かぎょう)とは、[[日本語]]の[[五十音]]図の2番目の行である。[[仮名 (文字)|仮名]]「[[か]]」「[[き]]」「[[く]]」「[[け]]」「[[こ]]」が含まれる。どの仮名も[[子音]]と[[母音]]からなる[[音節]]または[[モーラ]]を表す。 == 発音 == === 清音 === [[清音]]か行の頭子音の[[音素]]は {{ipa|k}} である。音声学的には、か行各音の頭子音は[[無声軟口蓋破裂音]] {{IPA|k}} で、舌の後部を[[口蓋]]の奥の部分(軟口蓋)に押しあて一旦閉鎖した上で破裂させることで発する無声子音である。但し「き」の頭子音は[[硬口蓋化]]するため、調音点が他のか行音より前方推移して後部硬口蓋になる。 [[ローマ字]]では日本式・ヘボン式ともに ka ki ku ke ko と表記される。 === 濁音 === か行の仮名に濁点をつけて表記される[[濁音]]が行(が・ぎ・ぐ・げ・ご)の頭子音の音素は {{ipa|ɡ}} である。日常的に[[鼻濁音]]を使う話者の場合は、この頭子音は文節の頭では清音のそれを有声化した[[有声軟口蓋破裂音]] {{IPA|ɡ}}、それ以外では[[軟口蓋鼻音]] {{IPA|ŋ}} に、日常的に濁音を使わない話者の場合は、この頭子音は文節の頭および撥音「ん」の後では有声軟口蓋破裂音、撥音の後を除く文節中・文節尾では[[有声軟口蓋摩擦音]] {{IPA|ɣ}} またはそれに近い音(閉鎖密着の度合いが弱い有声軟口蓋破裂音)に発音される。「ぎ」の頭子音は、「き」の場合と同様に硬口蓋化して調音点が前方推移する。 ローマ字では日本式・ヘボン式ともに ga gi gu ge go と表記される。日常的に鼻濁音を使う地域は、共通語の基盤となった[[東京方言]]が話される地域を中心に東日本から以北に広がっている。一方で中国、四国以西の地域ではほとんど鼻濁音は使われない。 === 拗音 === *か行とが行のい段音を第一文字とする開[[拗音]] 「きゃ」「きゅ」「きょ」と「ぎゃ」「ぎゅ」「ぎょ」 の頭子音の音素はそれぞれ {{ipa|kj}} と {{ipa|ɡj}} である。その発音は「き」および「ぎ」の頭子音とまったく同様である。ローマ字では日本式・ヘボン式ともに kya kyu kyo および gya gyu gyo と表記される。 *伝統的に使われた合拗音「くゎ」「ぐゎ」は、現在はほとんど使われない。これらは、現在ではほとんどの地域で「か」「が」と発音され、[[現代仮名遣い]]では「か」「が」と書かれる。ローマ字では日本式・ヘボン式ともに ka ga である。 === 外来語の表記 === *「クァ」(クヮ)「クィ」「クェ」「クォ」は『[[外来語の表記]]』第2表に挙げられており、[[外来語]]の原音または原綴りになるべく近づけて書き表そうとする場合に使われる仮名である。日本語では「クア」「クイ」「クエ」「クオ」や「クワ」「クウィ」「クウェ」「クウォ」または「カ」「キ」「ケ」「コ」と発音され、またそのように表記される場合もある。クァルテット(カルテット)・クェスチョン(クエスチョン)など。 *「グァ」(グヮ)は『外来語の表記』第2表に挙げられており、外来語の原音または原つづりになるべく近づけて書き表そうとする場合に使われる仮名である。日本語では「グア」または「ガ」と発音され、またそのように表記される場合もある。パラグァイ(パラグアイ)・グァテマラ(グアテマラ・ガテマラ)など。 *「キェ」は『外来語の表記』の表中では挙げられていないが、たまに使われることがある(例えば[[キェルケゴール]](キルケゴール)など)。 === 「き」「く」の後にか行の音が連続する場合の促音化 === 「き」「く」の後に他の「か行」の音が連続する場合、[[モーラ]]に合わせて促音化することがある。「学校→がくこう→がっこう({{IPA|gäkːo̞ː}})」「赤血球→せきけつきゅう→せっけっきゅう({{IPA|se̞kːe̞kːʲɯ̹ː}})」。但し「的確」「毒気」など促音とならず表記・発音される場合もある。この場合は最初のか行の母音が[[無声化]]して発音されることが多い<ref>{{Cite web|和書|author=第7期国語審議会 |date=1966 |url=https://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/kakuki/07/tosin03/index.html |title=発音のゆれについて(部会報告) |website=bunka.go.jp |publisher=[[文化庁]] |accessdate=2020-04-10}}</ref>。「的確→てきかく→てkかk({{IPA|te̞kʲi̥käkɯ̥}})「毒気→どくけ→どkけ({{IPA|do̞kɯ̥ke̞}})」。 == か行の仮名の由来 == [[平仮名]]、[[片仮名]]のか行はそれぞれ次の漢字に由来している。 {| class="wikitable" ! 平仮名 || 漢字 | rowspan="6" | ! 片仮名 || 漢字 |- | か || 加 || カ || 加の偏から |- | き || 幾 || キ || 幾の上部の転じたもの |- | く || 久 || ク || 久の最初の二画 |- | け || 計 || ケ || 介を略したもの |- | こ || 己 || コ || 己の最初の二画 |} [[変体仮名]]として以下に示す漢字に由来するものも用いられた。 * か - 可、閑、家、我 * き - 支、起、貴、喜 * く - 具、倶、九、求 * け - 介、希、遣、気 * こ - 古、故、許、期 ==上代特殊仮名遣== [[万葉仮名]]では「き」「け」「こ」とそれらの濁音には甲乙二種の使い分けが見られる。それぞれ次の二群に分けられる([[上代特殊仮名遣い]])。 {| class="wikitable" ! || 甲類 || 乙類 |- | き || 伎岐吉棄支企など || 紀幾貴奇寄綺など |- | ぎ || 伎岐陣藝蟻など || 疑宜義擬 |- | け || 家計鶏介結啓など || 気既該戒階居など |- | げ || 下牙雅夏 || 気宜など |- | こ || 古故胡孤姑高など || 許去虚興己居など |- | ご || 吾呉胡後悟虞など || 其期碁語御馭 |} == 音声学的分類 == {| class="wikitable" style="text-align:center" |+発音表 ! 母音 !! [[あ|{{ipa|a}}]] !! [[い|{{ipa|i}}]] !! [[う|{{ipa|u}}]] !! [[え|{{ipa|e}}]] !! [[お|{{ipa|o}}]] |- ! カ行 | カ {{ipa|ka}} || {{ipa|ki}} || ク {{ipa|ku}} || ケ {{ipa|ke}} || コ {{ipa|ko}} |- ! キャ行 | キャ {{ipa|kʲa}} || キ {{ipa|kʲi}} || キュ {{ipa|kʲu}} || {{ipa|kʲe}} || キョ {{ipa|kʲo}} |- ! クァ行 | クァ {{ipa|kʷa}} || クィ {{ipa|kʷi}} || {{ipa|kʷu}} || クェ {{ipa|kʷe}} || クォ {{ipa|kʷo}} |- |- style="background:#ffdead;" ! style="background:#ffdead;" | ガ行 | ガ {{ipa|ga}} || {{ipa|gi}} || グ {{ipa|gu}} || ゲ {{ipa|ge}} || ゴ {{ipa|go}} |- style="background:#ffdead;" ! style="background:#ffdead;" | ギャ行 | ギャ {{ipa|gʲa}} || ギ {{ipa|gʲi}} || ギュ {{ipa|gʲu}} || {{ipa|gʲe}} || ギョ {{ipa|gʲo}} |- style="background:#ffdead;" ! style="background:#ffdead;" | グァ行 | グァ {{ipa|gʷa}} || グィ {{ipa|gʷi}} || {{ipa|gʷu}} || グェ {{ipa|gʷe}} || グォ {{ipa|gʷo}} |} 無色が[[無声音]]、橙色が[[有声音]]。有声音の子音は、文頭や[[撥音]]の後では[[破裂音]]、それ以外では[[摩擦音]](括弧内)となる。「クァ」「グァ」はそれぞれ「クヮ」「グヮ」とも表記される。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == *[[五十音]] *[[いろは歌]] * {{五十音各行}} {{DEFAULTSORT:かきよう}} [[Category:五十音]]
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カチンコ
カチンコ(英語: clapperboard)は、映画の撮影に使う道具である。音の鳴る拍子木部分とショット情報を記載するボード部分からなる、フィルムによるトーキー撮影に必要な道具である。 ハリウッドの古典的なスタイルでは、右図にあるように、 を記載する。 すべてのテイクの撮影前に他のテイクと区別・識別するために上記の情報を記載した上で、監督が「レディ?」と確認し、カメラを回す指示(「ロール!」コール)をする。カメラが回ったら、「マーク」と指示し、カチンコ係が記載内容を読み上げ、カメラがこれを撮影し、カチンコ係が拍子木を鳴らし、監督が演技の開始を指示(「アクション!」コール)する。 カチンコ係は通常はカメラオペレーターの助手であり、日本式の映画撮影のみがサードあるいはフォースといった助監督の末端である。撮影後に、拍子木が重なって映っている1コマと、録音された拍子木の音を合図として同期させるのが、拍子木の目的である。 日本の場合、利き手のみで操作できる小型で簡単なものであるが、たいていは、ボード部分が大きく、両手で操作する。左図の台湾の例では、コダックが支給したこのカチンコでは、記載内容が簡略化されており、タイトル、ロール番号、シーン番号、カット番号、監督名、撮影技師名、撮影日付のみ。 左図の英国(アイルランド)の例では、同様に記載される項目が簡略化されているが、ボードの中心部にデジタル表示が施されている。このデジタル表示は、カメラと連動しており、そのテイクのランニングタイムが正確に表示され、電子的に記録される。この場合、従来の拍子木部分にスイッチが仕込まれており、同スイッチで同期のための目的は果たされ、従来のように音を鳴らすことが役割ではなくなっている。 デジタル映像制作が一般化、更にタブレット端末の登場で、カチンコのアプリをダウンロードして使用するケースが、世界的に増えている。 日本では、長さ30cm程度の蝶番式拍子木に小さな黒板またはホワイトボードをつけたものとして知られる。ボード部分に記載される文字は「シーン番号 - カット番号 - テイク番号」である。「シーン1 - カット1 - テイク1」ならば「1-1-1」と書かれる。同テイクがNGの場合は再度撮影が行われ、その際には「テイク2」となるので「1-1-2」と記載される。 カチンコの名前は、拍子木を鳴らしたときの「カッチン!」という音に由来する(実際には“カーン”という鋭い音がする)。映画などのメイキングや、撮影現場を題材にしたコントにはよく登場する道具でもある。 ほかに「ボールド」と呼ばれることもある。これは英語の「Clapperboard」の慣用読みから来ている。 目的は2つ。1つは編集前のフィルムで、撮影内容の確認を容易にするためで、このために付属のボードに、シーン番号、カット番号、テイク数を記入し、それを撮影するという方法をとる。これには作品名、組の名前が加わることもある。 もう1つは映像と音声の同期を取ることである。映画用のカメラ(ムービーカメラ)は、一般に映像の撮影のみを行い、音声の録音は行わない(音声の録音をする場合には、別途テープレコーダーなどの録音機で行う)。そのため、現場の音を同時録音しておく場合には、映像フィルムと録音テープを編集の際に一致させる必要がある。そこで、撮影開始の際に、カチンコを撮影し、拍子木を打つ映像と音を撮影、録音しておくことで、一致させる手がかりとする。音声のみでも尺が判断できるよう、スタート時は一回、カット時には二回打たれるのが一般的。複数のマイク、複数の録音機で現場音を同時録音する場合でも、カチンコの音が届いている限り、一致させることができる。 日本では、かつては助監督入門者の必需品であり、撮影所の大道具が製造したものを購入した。サクラ等、高級な木材を使用した手作りであり量産不能のため、高価であり、現在でも東宝映像美術での相場は2万円である。現在では、助監督の多くがフィルム撮影の現場から入門しない場合が増加し、カチンコを必要としないVTR撮影、ハイビジョン撮影の現場出身の助監督は、その過程でカチンコに触れることなく、セカンド、チーフに昇進しているケースが増えている。カチンコ打ちにまつわる技術も、過去の遺物となりつつあるのが現状である。 黒板部分には、シーン番号、カット番号、テイク番号が記され、撮影される。その他の簡単な説明が記入される場合もある。テイク番号は、同一シーン・同一カットを複数回繰り返した場合のもので、監督のOKが出るまでカウントアップしていく。たいていはテイク番号の最も大きい数字のカットがOKが出たカットだが、実際にはそれ以前のものから比較的良いもの(キープカット)が使われることもある。 日本では、カチンコを手に持ち、手を伸ばした状態で鳴らすことが多い。また、カチンと鳴らした後、猛ダッシュで音もなく退散するか、地面にかがんだりひれ伏したりしてカメラの画角を外れることが要求され、短い時間で退避ができることが、カチンコを打つサードあるいはフォースの助監督にとって重要な職人芸であるとされる。これはフィルムを無駄にしないという実利とともに、そのシーンにおけるカメラの画角が判断できるようになれば一人前、という意味もある。ハリウッドなどでは、カメラが回り始めた後しばらく速度が安定するまで待つため、カチンコを鳴らした後猛烈な勢いで退避するということは要求されない。そのためもあって、ハリウッドでカチンコを叩く担当は特に決められておらず、多くは撮影部門の助手が行っている。 撮影開始にカチンコを鳴らさず回し始める場合は、尻にカチンコを挿れる。これを「尻ボールド」と言い、カチンコを逆さまにして打つ。「ケツカッチン」とも呼ばれ、「終了時刻が決まっている(人・もの)」という意味の言葉に転用されている。 現在の映画撮影では、同時録音ができるシステムを備えた機材が増えているため、映像と音声の同期を取るために「音を鳴らすカチンコ」の重要性は低まりつつある。特にビデオカメラで撮影する場合には、同時録音が前提なので、映像と音声を一致させるという作業そのものが不要である。コンマ何秒かのずれが生じているためフィルム撮影の場合、録音技師によっては頭にカチンコを入れるよう要求してくる場合が多い。 また、シーン番号やカット番号の記録は、同時録音の有無とは関係なく、重要である。そのため、ビデオ撮影の現場では、カチンコそのものは使われないとしても、スケッチブックにフェルトペンなどでシーン番号・カット番号・テイク番号を記したものを撮影するということは今でも行われている。カチンコを半開きにして番号をカメラに向ける手法も存在する。 セット・ロケセット内の撮影で、俳優のほかにカチンコ係の入る余地のない究極の狭い場所では、俳優が手を叩いたり、掌サイズの小型のものを使う。俳優に手を叩かせる場合、各種ナンバーを俳優の手には書けないため、録音部が音声で記録するのみで対応する。 引きのショットでは上半身サイズの大型なカチンコが使われる場合がある。通常は、カメラ前にカチンコ係が立ち、カメラ前に焦点を合わせてボールドを入れ、引きのショットの焦点に再度戻す。
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カチンコは、映画の撮影に使う道具である。音の鳴る拍子木部分とショット情報を記載するボード部分からなる、フィルムによるトーキー撮影に必要な道具である。
{{混同|ガチンコ}} {{出典の明記|date=2015年7月}}<!-- ほとんどの記述が映画オタクの見聞知識と経験則で成り立っている --> [[Image:Niña con claqueta.jpg|thumb|カチンコを持つ少女。]] '''カチンコ'''({{lang-en|clapperboard}})は、[[映画]]の[[撮影]]に使う道具である。音の鳴る[[拍子木]]部分とショット情報を記載するボード部分からなる、フィルムによる[[トーキー]]撮影に必要な道具である。 == 概要 == [[File:Clapboard Plexiglass.png|right|thumb|250px|ハリウッドスタイルの例。]] ハリウッドの古典的なスタイルでは、右図にあるように、 * PROD.TITLE : 製作タイトル(production title) - タイトルを記述する * SCENE : シーン(scene) - 台本上のシーンナンバー * TAKE : テイク(take) - 同カットの何テイク目か * NO. : カット(number)- コンティニュイティ上のカットナンバー * DIRECTOR : 監督(director) - 監督名 * CAMERA : 撮影監督(director of photography) - 撮影監督名 * ROLL : ロール(roll) - クランクインから使用したフィルムロールの通し番号 * DATE : 日付(date) - 撮影日を年月日で記載する * MOS : 無音(Motor Out of Sound) - シンクロの有無、通常シーンではシンクロするので斜線で消す * DAY NIGHT DAWN : デイシーン(day scene)、ナイター(night scene)、早朝(dawn scene) - シーン上の時間帯、該当しないものを斜線で消す * INT. EXT. : セット内(interior)、野外ロケ(exterior) - 撮影場所の屋内外の区別、該当しないものを斜線で消す を記載する。 [[File:Clap.jpg|left|thumb|200px|台湾の例。]][[File:Clapperboard, O2 film, September 2008.jpg|left|thumb|200px|英国の例。]] すべてのテイクの撮影前に他のテイクと区別・識別するために上記の情報を記載した上で、監督が「レディ?」と確認し、カメラを回す指示(「ロール!」コール)をする。カメラが回ったら、「マーク」と指示し、[[カチンコ係]]が記載内容を読み上げ、カメラがこれを撮影し、カチンコ係が拍子木を鳴らし、監督が演技の開始を指示(「アクション!」コール)する。 カチンコ係は通常は[[撮影技師|カメラオペレーター]]の助手であり、日本式の映画撮影のみがサードあるいはフォースといった[[助監督 (映画スタッフ)|助監督]]の末端である。撮影後に、拍子木が重なって映っている1コマと、録音された拍子木の音を合図として[[同期]]させるのが、拍子木の目的である。 日本の場合、利き手のみで操作できる小型で簡単なものであるが、たいていは、ボード部分が大きく、両手で操作する。左図の[[台湾]]の例では、[[コダック]]が支給したこのカチンコでは、記載内容が簡略化されており、タイトル、ロール番号、シーン番号、カット番号、監督名、撮影技師名、撮影日付のみ。 左図の英国([[アイルランド]])の例では、同様に記載される項目が簡略化されているが、ボードの中心部にデジタル表示([[7セグメントディスプレイ]])が施されている。このデジタル表示はカメラと連動しており、そのテイクのランニングタイムが正確に表示され、電子的に記録される。この場合、従来の拍子木部分にスイッチが仕込まれており、同スイッチで[[同期]]のための目的は果たされ、従来のように音を鳴らすことが役割ではなくなっている。 デジタル映像制作が一般化、更にタブレット端末の登場で、カチンコのアプリをダウンロードして使用するケースが、世界的に増えている。 {{ - }} == 日本 == 日本では、長さ30cm程度の蝶番式拍子木に小さな[[黒板]]または[[ホワイトボード]]をつけたものとして知られる<ref name="utb">[http://www.utb.jp/glossary/getword.php?w=%E3%82%AB%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B3%EF%BC%88%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%EF%BC%89 業界用語辞典 「カチンコ(ボールド)」] - UTB映像アカデミー</ref>。ボード部分に記載される文字は「シーン番号 - カット番号 - テイク番号」である。「シーン1 - カット1 - テイク1」ならば「1-1-1」と書かれる。同テイクがNGの場合は再度撮影が行われ、その際には「テイク2」となるので「1-1-2」と記載される。 カチンコの名前は、拍子木を鳴らしたときの「カッチン!」という音に由来する(実際には“カーン”という鋭い音がする)。映画などのメイキングや、撮影現場を題材にした[[コント]]にはよく登場する道具でもある。 ほかに「ボールド」と呼ばれることもある<ref name="utb"/>。これは英語の「Clapperboard」の慣用読みから来ている。 目的は2つ。1つは[[編集]]前のフィルムで、撮影内容の確認を容易にするためで、このために付属のボードに、[[シーン]]番号、[[カット]]番号、テイク数を記入し、それを撮影するという方法をとる。これには作品名、組の名前が加わることもある。 もう1つは[[動画|映像]]と[[音声]]の[[同期]]を取ることである。映画用のカメラ([[映画用カメラ|ムービーカメラ]])は、一般に映像の撮影のみを行い、音声の録音は行わない(音声の録音をする場合には、別途[[テープレコーダー]]などの[[録音]]機で行う)。そのため、現場の音を同時録音しておく場合には、映像フィルムと録音テープを編集の際に一致させる必要がある。そこで、撮影開始の際に、カチンコを撮影し、拍子木を打つ映像と音を撮影、録音しておくことで、一致させる手がかりとする。音声のみでも[[尺]]が判断できるよう、スタート時は一回、カット時には二回打たれるのが一般的。複数のマイク、複数の録音機で現場音を同時録音する場合でも、カチンコの音が届いている限り、一致させることができる。 日本では、かつては助監督入門者の必需品であり、撮影所の[[大道具]]が製造したものを購入した。[[サクラ]]等、高級な木材を使用した手作りであり量産不能のため、高価であり、現在でも[[東宝映像美術]]での相場は2万円である<ref>[http://www5b.biglobe.ne.jp/~t-masuda/cn20/pg132.html 映画講座(6)カチンコ]、[[増田俊光]]、2010年2月5日閲覧。</ref>。現在では、助監督の多くがフィルム撮影の現場から入門しない場合が増加し、カチンコを必要としないVTR撮影、[[ハイビジョン]]撮影の現場出身の助監督は、その過程でカチンコに触れることなく、セカンド、チーフに昇進しているケースが増えている。カチンコ打ちにまつわる技術も、過去の遺物となりつつあるのが現状である。 === カチンコの使われ方 === 黒板部分には、シーン番号、カット番号、テイク番号が記され、撮影される。その他の簡単な説明が記入される場合もある。テイク番号は、同一シーン・同一カットを複数回繰り返した場合のもので、監督のOKが出るまでカウントアップしていく。たいていはテイク番号の最も大きい数字のカットがOKが出たカットだが、実際にはそれ以前のものから比較的良いもの(キープカット)が使われることもある。 日本では、カチンコを手に持ち、手を伸ばした状態で鳴らすことが多い。また、カチンと鳴らした後、猛ダッシュで音もなく退散するか、地面にかがんだりひれ伏したりしてカメラの画角を外れることが要求され、短い時間で退避ができることが、カチンコを打つサードあるいはフォースの[[助監督 (映画スタッフ)|助監督]]にとって重要な職人芸であるとされる。これはフィルムを無駄にしないという実利とともに、そのシーンにおけるカメラの[[画角]]が判断できるようになれば一人前、という意味もある。[[ハリウッド]]などでは、カメラが回り始めた後しばらく速度が安定するまで待つため、カチンコを鳴らした後猛烈な勢いで退避するということは要求されない。そのためもあって、ハリウッドでカチンコを叩く担当は特に決められておらず、多くは撮影部門の助手が行っている。 撮影開始にカチンコを鳴らさず回し始める場合は、尻にカチンコを挿れる。これを「'''尻ボールド'''」と言い、カチンコを逆さまにして打つ。「[[ケツカッチン]]」とも呼ばれ、「終了時刻が決まっている(人・もの)」という意味の言葉に転用されている。 現在の映画撮影では、同時録音ができるシステムを備えた機材が増えているため、映像と[[音声]]の[[同期]]を取るために「音を鳴らすカチンコ」の重要性は低まりつつある。特に[[ビデオカメラ]]で撮影する場合には、同時録音が前提なので、映像と音声を一致させるという作業そのものが不要である。コンマ何秒かのずれが生じているためフィルム撮影の場合、[[録音技師]]によっては頭にカチンコを入れるよう要求してくる場合が多い{{要出典|date=2010年2月}}。 また、シーン番号やカット番号の記録は、同時録音の有無とは関係なく、重要である。そのため、ビデオ撮影の現場では、カチンコそのものは使われないとしても、[[スケッチブック]]に[[マジックインキ|フェルトペン]]などでシーン番号・カット番号・テイク番号を記したものを撮影するということは今でも行われている。カチンコを半開きにして番号をカメラに向ける手法も存在する。 セット・ロケセット内の撮影で、俳優のほかにカチンコ係の入る余地のない究極の狭い場所では、俳優が手を叩いたり、{{要出典範囲|掌サイズの小型のものを使う|date=2010年2月}}。俳優に手を叩かせる場合、各種ナンバーを俳優の手には書けないため、録音部が音声で記録するのみで対応する。 引きのショットでは上半身サイズの大型なカチンコが使われる場合がある{{要出典|date=2010年2月}}。通常は、カメラ前にカチンコ係が立ち、カメラ前に焦点を合わせてボールドを入れ、引きのショットの焦点に再度戻す。<!-- 映画撮影の世界では今でも先の理由でカチンコを最初に入れて打つ。演技者の動きの合図としても用いられているためでもある。--> == ギャラリー == <gallery> File:Clap Clapboard Blank.jpg|[[フランス]]の例。 File:Le clap.jpg|フランスの例。小型である。 File:White with red strips clapperboard.jpg|米国のインディペンデント映画の例。薄型、ホワイトボードである。 File:Clapperboard.png|[[アラビア語]]圏の例。 </gallery> == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Clapperboards}} * [[カチンコ係]] * [[ケツカッチン]] - 後のスケジュールが押している状態のこと。カットの「尻」に「カチンコ」を入れることからの派生語。 {{DEFAULTSORT:かちんこ}} [[Category:音具]] [[Category:映画映像の用語]]
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ファンタジー映画
ファンタジー映画(ファンタジーえいが)とは、冒険映画、児童映画の傍流で、ファンタジーをモチーフにした映画。「SFファンタジー映画」と称することもある。 剣と魔法、魔法使い、異世界、魔法生物などの題材がよく扱われる。モチーフとしては愛と友情、主人公の人間的な成長など。 1950年代から1960年代には、レイ・ハリーハウゼン製作の『シンバッド七回目の航海』等がヒットした。 その後、1960年代後半から1970年代に入ると、スパイ映画やSF映画等に押され、ファンタジー映画は長い間下火となっていたが、1982年にアーノルド・シュワルツェネッガー主演の『コナン・ザ・グレート』が大ヒットすると、衰退していたソード&サンダルやファンタジー映画が、1980年代にブームとなった。『コナン』をコピーした粗悪で安直なB級・Z級映画が大量に作られたほか、『ダーククリスタル』(1982年)『ネバーエンディング・ストーリー』(1984年)『レジェンド/光と闇の伝説』『レディホーク』(ともに1985年)『ラビリンス/魔王の迷宮』『ハイランダー 悪魔の戦士』(ともに1986年)『ウィロー』(1988年)等といった、多数のファンタジー映画が立て続けに公開され、幾つかの作品は高評価を得た。しかし、CG以前の当時の技術力ではファンタジー(剣と魔法)の表現に限界があったことや、粗悪なB級映画も多かったことから、1990年代に突入すると飽きられ、ファンタジー映画は再び衰退することとなった。 2001年には、J・K・ローリングのファンタジー小説が原作の、『ハリー・ポッターと賢者の石』が世界的に大ヒットを記録すると、その「ハリー・ポッターシリーズ」を中心に、児童文学原作のファンタジー映画がブームとなり、『ナルニア国物語』(2006年)や『ライラの冒険 黄金の羅針盤』(2007年)等が公開されたが、『ハリー・ポッター』程の成功には至らなかった。 2000年代に入ると、2001年公開の『ハリー・ポッターと賢者の石』と、同年公開の『ロード・オブ・ザ・リング』が大ヒットしたことで、1990年代以降衰退していたファンタジー映画の人気が久々に復活し、2020年代の現在まで製作され続けている。CGの大幅な発展と普及で、ファンタジー表現に対しての限界が事実上無くなったことも、ブームの理由の一つであるといえる。
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ファンタジー映画(ファンタジーえいが)とは、冒険映画、児童映画の傍流で、ファンタジーをモチーフにした映画。「SFファンタジー映画」と称することもある。 剣と魔法、魔法使い、異世界、魔法生物などの題材がよく扱われる。モチーフとしては愛と友情、主人公の人間的な成長など。
{{独自研究|date=2008年9月}} [[File:Fantasyfilm.png|200px|thumb|ファンタジー映画の[[アイコン]]]] '''ファンタジー映画'''(ファンタジーえいが)とは、[[冒険映画]]、[[児童映画]]の傍流で、[[ファンタジー]]を[[話題|モチーフ]]にした[[映画]]。「[[SF映画|SF]]ファンタジー映画」と称することもある。 [[剣と魔法]]、[[魔法使い]]、[[異世界]]、[[魔法]]生物などの題材がよく扱われる。[[話題|モチーフ]]としては愛と友情、[[主人公]]の人間的な成長など。 ==歴史== 1950年代から1960年代には、[[レイ・ハリーハウゼン]]製作の『[[シンバッド七回目の航海]]』等がヒットした。 その後、1960年代後半から1970年代に入ると、[[スパイ映画]]や[[SF映画]]等に押され、ファンタジー映画は長い間下火となっていたが、1982年に[[アーノルド・シュワルツェネッガー]]主演の『[[コナン・ザ・グレート]]』が大ヒットすると、衰退していた[[ソード&サンダル]]やファンタジー映画が、1980年代にブームとなった。『コナン』をコピーした粗悪で安直な[[B級映画|B級]]・[[Z級映画]]が大量に作られたほか、『[[ダーククリスタル]]』(1982年)『[[ネバーエンディング・ストーリー]]』(1984年)『[[レジェンド/光と闇の伝説]]』『[[レディホーク]]』(ともに1985年)『[[ラビリンス/魔王の迷宮]]』『[[ハイランダー 悪魔の戦士]]』(ともに1986年)『[[ウィロー]]』(1988年)等といった、多数のファンタジー映画が立て続けに公開され、幾つかの作品は高評価を得た。しかし、[[CG]]以前の当時の技術力では[[ファンタジー]]([[剣と魔法]])の表現に限界があったことや、粗悪なB級映画も多かったことから、1990年代に突入すると飽きられ、ファンタジー映画は再び衰退することとなった。 2001年には、[[J・K・ローリング]]の[[ファンタジー小説]]が原作の、『[[ハリー・ポッターと賢者の石]]』が世界的に大ヒットを記録すると、その「[[ハリー・ポッターシリーズ]]」を中心に、[[児童文学]]原作のファンタジー映画がブームとなり、『[[ナルニア国物語 (映画)|ナルニア国物語]]』(2006年)や『[[ライラの冒険 黄金の羅針盤]]』(2007年)等が公開されたが、『[[ハリー・ポッター]]』程の成功には至らなかった。 2000年代に入ると、2001年公開の『[[ハリー・ポッターと賢者の石]]』と、同年公開の『[[ロード・オブ・ザ・リング (2001年の映画)|ロード・オブ・ザ・リング]]』が大ヒットしたことで、1990年代以降衰退していたファンタジー映画の人気が久々に復活し、2020年代の現在まで製作され続けている。CGの大幅な発展と普及で、ファンタジー表現に対しての限界が事実上無くなったことも、ブームの理由の一つであるといえる。 ==代表的な作品== *[[オズの魔法使い]] *[[ピーターパン]] *[[ピノキオ]] *[[メリー・ポピンズ]] *[[ハリー・ポッターシリーズ]]([[魔法ワールド]]) *[[不思議の国のアリス]] *[[ロード・オブ・ザ・リング (2001年の映画)|ロード・オブ・ザ・リング]] *[[ネバーエンディング・ストーリー]]シリーズ *[[ダーククリスタル]] *[[ラビリンス/魔王の迷宮]] *[[コナン・ザ・グレート]] **[[キング・オブ・デストロイヤー/コナンPART2]] *[[レッドソニア]] *[[レジェンド/光と闇の伝説]] *[[ハイランダー 悪魔の戦士]] *[[ラスト・アクション・ヒーロー]] *[[魔法にかけられて]] *[[魔法使いの弟子 (映画)|魔法使いの弟子]] *[[ベッドタイム・ストーリー]] ==関連項目== * [[ソード&サンダル]] {{Movie-stub}} {{Fantasy fiction}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ふあんたしいえいか}} [[Category:ファンタジー映画|*]]
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東京国際映画祭
東京国際映画祭(とうきょうこくさいえいがさい、英語: Tokyo International Film Festival)は、毎年10月に日本の東京都にて開催される映画祭。公益財団法人ユニジャパンが主催する国際映画製作者連盟(FIAPF)公認の国際映画祭であり、アジア最大級の映画祭となっている。略称は、TIFF。 日本で唯一のFIAPF公認のコンペティティブ長編映画祭(Competitive Feature Film Festival)である。 1985年(昭和60年)のつくば万博開催を受け、通産省(現・経済産業省)からの誘いがあり、日本映画製作者連盟(以下、映連)会長・岡田茂東映社長や、瀬島龍三らの尽力で創設された。 1985年のスタート時は隔年開催で渋谷の映画館を中心に開かれていたが、1991年第4回に岡田映連会長の指名で徳間康快がゼネラル・プロデューサー(GP)就任後は、毎年開催されるようになった。1994年は平安遷都1200周年記念として「京都国際映画祭 / 第7回東京国際映画祭 - 京都大会」という名称のもと京都市で開催された。 国際審査委員が最優秀作品賞である“東京グランプリ”を選出する「コンペティション」や世界の映画祭で話題になった作品を日本公開前にプレミア上映する「ガラ・セレクション」、長編3作目までのアジアの新鋭監督の作品に焦点を当てた「アジアの未来」、まだ日本での配給が決まっていない世界の注目作品を紹介する「ワールド・フォーカス」、海外に紹介されるべき日本映画という視点で選考された作品を上映する「Nippon Cinema Now」などのメイン企画をはじめ様々な企画が毎年開催される。2004年には世界の映画界に貢献した映画人をたたえる賞として「黒澤明賞」が新設された。黒澤明賞が設けられたのは2008年まで。2005年には映画祭最高賞の名称が「東京グランプリ」から「東京 サクラ グランプリ」 に変更された が、2014年に「東京グランプリ」に戻された。 2014年、第27回東京国際映画祭ラインナップ発表会の際に、比類なき感性で常に時代を切り開き続けている人の実績をたたえる賞として「サムライ“SAMURAI”賞」が新設された(2017年まで)。2021年には商業経験のない作家を対象とした短編コンペの「Amazon Prime Videoテイクワン賞」が設立された。 2015年、上海国際映画祭との協力連携が発表される。 コンペティション部門への応募作品は2021年には113カ国・地域から1533本に上り、「アジア最大級の国際映画祭」へと成長している。 2003年までは渋谷のみで開催され、Bunkamura(オーチャードホール、シアターコクーン、ル・シネマ1・2)や渋谷の他の映画館やホールが会場となっていた。 2004年から2008年までは渋谷のBunkamuraと六本木ヒルズが会場となっていた。 2009年以降は渋谷を会場とせず、六本木ヒルズをメイン会場として映画祭が開催されている(2009年と2010年と2013年は六本木のみで開催、2011年は六本木と日比谷、2012年は六本木と日本橋、2014年は六本木・銀座・日本橋・京橋で開催。2015年は六本木・銀座・新宿で開催)。2016年は六本木・銀座で開催された。六本木ではシネマート六本木も会場として使われていた(2008年 - 2014年)。 2018年は、六本木は六本木ヒルズとEXシアター六本木を使用し、東京ミッドタウン日比谷 日比谷ステップ広場でも上映などが催された。 2021年からはメイン会場を日比谷・有楽町・銀座地区に完全移転し、オープニング会場は東京国際フォーラム(ホールC)で行われ新装開催となった。2022年は東京宝塚劇場でOP開催予定 1982年に通産省(現・経済産業省)から、岡田茂映連会長に1985年のつくば万博に合わせて国際映画祭をやれないかという要請があった。岡田に話を持ち掛けたのは小長啓一通産省政策局長とされる。通産省としては衰退の一途を辿る国内映画産業が復活の兆しが見えないため、国際映画祭という刺激を与えることで活を入れたいという話で、つくば万博に合わせ、一週間程度の期間で東京で開く案が有力視され、少なくとも二年に一回の開催とし、定期的な国際映画祭に育てていくという基本的なプランを映連で1982年7月末にまとめた。つくば万博の目玉がないため、映画祭の案が出たものと見られたが、日本政府からの援助は1億2000万円。1983年1月から2月にかけて第二回マニラ国際映画祭に岡田を団長とする映連幹部が参加し、同映画祭の運営の詳細を聞いたところ予算が約4億円で、その金額でも参加65ヵ国、約1000人のバイヤーの費用その他は賄えないと同映画祭を個人的な趣味で始めたといわれるイメルダ・マルコスから聞いた。映画祭の記者会見の席上、現地メディアから「日本で国際映画祭はやらないのか」という質問が出たため、岡田は「通産省からその種のものをやってくれないかという要請は来ているが、とても日本ではこういう映画祭は考えられない」と答えた。東洋の国、特に日本は地理的なハンデもあり、国際映画祭を行うと参加国の交通費など欧米と比べて資金が高くつくし、文化的に価値のあるものに金を出さないというお国柄で、映画業界にも金はないため、政府援助1億2000万円程度で開催できる筈もなかった。余程強力なスポンサーでも見つけない限り、日本での国際映画祭開催は不可能と見られた。 国際映画祭は1970年の大阪万博のプログラムの一つとして「日本国際映画祭」と銘打ち、行われたことがあり(1970年4月1日~10日、大阪フェスティバルホール)、実務を担当したのは当時の岡田の上司・大川博東映社長だった。しかし国際映画祭での出品作は未公開作に限るという規定が厳しく、辞退会社が続出。当時は日本映画の不況が深刻化した時代で、各社映画祭どころではなく、松竹の城戸四郎は全くやる気なし、大映の永田雅一は会社がおかしくなり、日活の堀久作はこんなものはダメだと言うし、東宝の松岡辰郎は乗り気でなく、どこも協力してくれず。上映は海外も合わせて全部で20本に留まった。また欧米の映画祭では自国の法律や倫理基準で、他国の芸術作品を測ることはできないという"通則"があり、スウェーデンのハードコア『私は好奇心の強い女』がノーカット無修正で上映されるのかが、マスメディアに盛んに取り上げられ、同作は過激な裸体・性愛描写が各国で検閲議論を巻き起こし、世界中で「ポルノ解禁」をもたらす引き金になった曰く付きの映画であったが、この影響もあって日本映画はさっぱり話題にならず、同作の監督と税関の間に挟まり大川は手を焼いた(結局45ヵ所の修正、11分間カットされて上映された)。「大川は勲章が欲しいからやるんだろう」「あれが国際映画祭か?」などと散々に叩かれ、成果なしに終わり、映画界では国際映画祭はタブーなどと言われた。間もなく大川が亡くなり、残務処理を岡田が引き継いで往生した。映画界にとって何の実利もなく、岡田は最初は乗り気でなく、やらない方がいいという先行的な考えを持っていた。 しかし元電通の小谷正一が中心となり、日本ヘラルドの原正人、岡田晃、山本又一朗、鹿内春雄がグループを組み、開催実現に向け、岡田に盛んに働きかけた。岡田は通産省やつくば万博のためのイベントだけでは映画界全体にとってメリットがなく、やる意味がないと突っぱねた。映画界のリーダーである岡田を説得しなければ実現は不可能で、小谷らが岡田に連日連夜押し込みを続け、引き受けざるを得なくなった。仕方なく岡田が東宝の松岡功、松竹の奥山融、大映の徳間康快、にっかつの根本悌二らに頭を下げ、協力を要請し、ようやく開催に向け動き出した。先の万博での映画祭は規模が小さかったため、東京国際映画祭が日本初の国際映画祭という認識だった。 1983年10月25日に最初の会議が開かれ、1983年11月に岡田らとマスコミとの懇談会を開くなど、輪郭を決め、岡田と小谷らで準備委員会を作り、1983年12月に大まかなプランニング発表があった。この後、組織委員会を作る際に岡田と小谷で相談し、日本商工会議所に協力を仰ぐことになり、当時の商工会議所会頭は岡田の後見人を自称していた永野重雄だったが、五島昇に会頭をバトンタッチすることが決まっていて、忙しいときに五島に頼むのは無理だろうと、誰かいい人はいないかとなり、岡田も付き合いのある瀬島龍三を候補に挙げたら、運輸省も是非と賛成し、岡田と小谷で瀬島に「組織委員会委員長になってくれ」と頼みに行ったら、瀬島から「いきなり組織委員長と言われても、わたしは映画を全然知らない人間だから困る」と断られた。岡田は必ず政府との問題が色々起こって来ると予想し強引に瀬島を口説き、永野重雄からも瀬島に協力要請があり、瀬島が渋々引き受けた。瀬島は当時の首相・中曽根康弘のブレーンの一人だった。 1984年2月24日、東京国際映画祭準備委員会が総会で準備委員会を「組織委員会」に発展改組し、実施運営の総括組織として「実行委員会」を発足させ、組織委員会会長に瀬島龍三、実行委員会実行委員長に岡田茂、ゼネラル・プロデューサーに小谷正一が就任。組織委員メンバーとして他に、天野房三渋谷区長、井川博日本商工会議所専務理事、大島渚日本映画監督協会理事長、岡道明東急エージェンシー常務取締役、加戸守行文化庁次長、川口幹夫NHK専務理事、小長啓一通産省政策局長、坂倉芳明西武百貨店社長、並木貞人商店会・全振連会長、古川勝巳外国映画輸入配給協会会長、三浦守東急百貨店社長、三宅和助外務省情報文化局長、八住利雄日本シナリオ作家協会理事長を選出した。構成メンバーの追加は岡田実行委員長を中心に人選すると発表した。メンバーは全員無償のボランティア。 国際映画製作者連盟から公認映画祭と認定を受け、1984年4月4日、ホテルキャピタル東急で正式に東京国際映画祭開催の決定発表があり、東京国際映画祭組織委員会、実行委員会が映画祭の概要を発表した。岡田茂実行委員長を補佐する副委員長には松岡功が選出された。当時国際映画製作者連盟から公認された国際映画祭は八つで、東京は九番目であった。 1984年のカンヌ国際映画祭に岡田茂東京国際映画祭実行委員長ら代表団と内田宏駐フランス大使が出席し、期間中の1984年5月19日の夜、当地のホテルマルチネで、東京国際映画祭開催の公式発表が行われた。カンヌには世界の映画祭関係者が集まるため、極東の遠い都市での映画祭に好奇心がそそられ、36ヵ国から800人のジャーナリストが集まり、記者会見に用意した椅子も足りずに立ち見が出る盛況ぶりで、各国の東京国際映画祭に対する関心の高さがうかがえた。アジア最大の映画マーケットである日本で、これまで国際映画祭が開かれなかったことが不思議という感想を持たれた。後述の理由で期日を反対された敵地での会見になったが、会見後はジャン・マレーやミレーヌ・ドモンジョなど、俳優、監督、プロデューサーらが「ぜひ東京に行きたい」と岡田実行委員長を祝福した。 1984年7月26日、ホテルニューオータニで、第2回実行委員会が開かれ、総合調整委員会実行委員長・岡田茂、ゼネラルプロデューサー・小谷正一、アソシエ―テッドプロデューサー・原正人、岡田晃、海外渉外委員会委員長・古川勝巳、副実行委員長兼広報委員会委員長・松岡功、上映委員会委員長・奥山融、作品選定委員会委員長・徳間康快などが決まった。各映画会社の社長に責任者になってもらう形をとった。渋谷地区の委員会も結成され、渋谷の街ぐるみの映画祭とすると申し合わせがあった。また部会は「映画企画」「一般企画」「科学万博」「ニューメディア」の4部会があり、「映画企画」の総合プロデュースが山本又一朗で、山本が自身のプロデュース作『Mishima』の上映問題で後に騒ぎを起こした。1984年11月、各企画の上映作品や開催場所、期間など具体的な内容も決定した。1984年12月25日、在京テレビ局各社に対し映画祭の説明会を開き、協力を要請。若者向けの企画も多く組まれ、映画の素晴らしさをファンにPRする絶好の機会となり、「どうしたら映画離れを食い止めることができるか」という長年映画人に課せられた映画再興という問いの答えを示す意地の舞台になった。 1985年5月7日、内幸町の日本プレスセンターで、岡田茂実行委員長より、映画祭の全ての企画の全容が発表された。また徳間康快作品選定委員会委員長が「すべての上映作品は国際映画祭規約に準じて上映される」と、間接的発言ながらヘアも無修正のまま上映されることを正式に認めた。 日本で初めて開かれる大規模な国際映画祭で、諸問題が山積で大揺れ。変更を余儀なくされていくケースがたくさん出た。国際映画製作者連盟から公認映画祭と認定はされたが、仮免許のようなもので「グランプリ」という名称は使えず。第二回からは「グランプリ」という名称が許されて映画祭の本命である東京グランプリを競う作品のコンペティションが出来るということで、第一回は「グランプリ」を選出するコンクールがないため、いろんな催しが企画され苦心のプログラムが組まれた。プログラムの超目玉が「ヤングシネマ85」(1945年以降に生まれた監督作品のコンペ)であった。内外の新進監督のコンクールで、最優秀作品に次回作品の製作資金として150万ドル(当時は3億8000万円に相当)を提供するという世界の映画祭でも前例のない高額賞金で、ヨーロッパの各国から「本当か?一桁間違えてないか?」と心配されたが、「さすが経済大国」と改めて感心された。国際映画祭では初めての賞金つきコンクールと書かれたものがある。同プログラムのチーフプロデューサー・佐々木史朗ATG社長がカンヌでいきなり「150万ドル出す」と発表したもので、隣にいた岡田が「大丈夫か、わしはそんな金知らんぞ」と思わず声を上げた。どこの国の若手監督も製作費に悩んでいるため、カンヌでの記者会見では作品の管理はどうするのだ等、若手監督らが代表団を質問責めに遭わせた。150万ドルはフジテレビとCSKが出資した。CSKグループには、セガ・エンタープライゼスやぴあが参加しており、ぴあは東京国際映画祭を皮切りに、新しく立ち上げた「ぴあ基金」制度を仲介として、各種文化イベントに資金援助していくと発表した。当時の社会主義国のほとんどを含む世界40ヵ国から519本の応募作品が殺到し、世界中から注目される良い切っ掛けになった。当時映画製作の主要国は54ヵ国といわれ、日本で上映されるのは10ヵ国以下で、70%がアメリカ映画、あとの30%が5、6ヵ国といわれた。「ヤングシネマ85」の最優秀作品は、519本の中から予備選で16作品が上映され、大手映画会社から無視され続けお蔵入りしていた相米慎二の『台風クラブ』が選ばれた。審査の席上で「少しでも多くの監督にチャンスを」などと妙な策略が行われ、賞金は150万ドルではなく、75万ドル(1億8000万円)に突如変更され、二位の『At』と三位の『止った時間』に残りの金額を分配した。相米は「次回作は武田泰淳の『富士』をやります」と話したが、賞金を『光る女』の製作に充てた。「ヤングシネマ85」は国内外の映画人から高い評価を受け、審査委員長だったデヴィッド・パットナムも「世界の若手を育てるために賞金を出すという発想に、これぞ時代を感じさせる映画祭だと感心した」と評した。企画は「映画企画」の部会のメンバーの中に映画祭の否定論が多く、やるなら「何かユニークな目玉がないか」となり、メンバーで話しているうち、誰かがこの企画を挙げたという。 岡田が1980年に渋谷を本拠に置く東急レクリエーション社長にも就任しており、渋谷を文化都市、文化エリアとして大いにイメージアップを図ろうと渋谷を開催地に決めた。NHKホール使用の許可も取り、連動すれば大きなイベントを組めると構想し、町ぐるみで映画祭に参加してもらうことになった。岡田の予想通り、開催に向け動き出すと外務省から「通産省主導型の映画祭はおかしい」とか、文化庁は「映画祭、フェスティバルという名前はわれわれの所管だ」などとクレームを付けてきたが、これらは瀬島でないと解決できない問題であった。カンヌ・ベルリン・ヴェネツィアの世界三大映画祭は、政府から物心両面の手厚い支援を受けていたが、日本政府にそれは期待できないため、独力で民間から資金を集めた。このため大部分は企業の協力に依存せざるを得ず、スポンサーの名が目立つ商業主義などと批判された。映画祭を国際的に宣伝するためには、できるだけ多くの映画人、ジャーナリストを招待することが必要で、財政が充分でないと招待者数を限定せざるを得なくなり「これでは国際映画祭ではなく、国内映画祭だ」と陰口をたたかれるからである。事務局で働く人の大半を映像の関係者にボランティアをお願いした。運営資金は5億円と算段し、資金調達の目途はついたが、寄付金などは税金を取られて実際は2億5000万円ぐらいしか使えないことが分かり、それなら財団でやろうと考え、東京都が財団を持っていることを知り、これを使おうとしたら政治問題化する可能性があると都の副知事から反対された。このため新しく独自の財団を作ったが、許可が降りるまで一年以上かかるとされたが、これも瀬島の力を借りて短期間で許可を降ろさせた。この財団を作るのに一億円以上かかった。5億円の資金調達は岡田と瀬島で相談し、岡田が各映画会社、各テレビ局、丸井の青井忠雄ら、渋谷地区の大きな流通関係に協力を仰ぎ、東急グループ1億円、2億円とも、西武グループ7000万円、鈴木俊一東京都知事にも頼みに行き、5000万円の予算措置をつけてもらい、通産省は最初の話より金を出さなかったともいわれ、予算額の5億円は調達した。5億でも足らないことが予想されたため、電通と東急エージェンシーで更に金を集めた。1985年に第一回理事会を開き、各映画会社社長、各テレビ局社長に全員理事で入ってもらった。 つくば万博との連動が趣旨だったため、最初は1985年4月の開催を予定していた。ところが毎年5月に開催するカンヌ国際映画祭当局が「4月は困る、カンヌの直前にやるなら一切協力しない、やるのなら秋に」とクレームを付けて来た。カンヌ映画祭当局は国際映画製作者連盟にかなりの圧力をかけた。秋にやっていては効果が薄いと岡田が判断し、カンヌ映画祭当局を説得し、1985年6月開催を決めた。渋谷のNHKホールを主会場に、渋谷の映画館、ホールを会場に1985年5月31日~6月9日の10日間の開催を決定した。また新しい科学技術のお披露目として『乱』をNHKホールと筑波万博の会場と同時に映すという宇宙中継(衛星放送)が計画されていたが、『乱』の完成遅れ等の理由で中止になった。 1970年の映画祭でも大きく取り上げられ、これまで幾度となく争われた"芸術か""ワイセツか"問題がここでも起き、"ヘア解禁"がなるのか、大きな注目を浴びた。欧米の多くの国の映画は一般映画でもヌードシーンやベッドシーンで、普通に男女の陰毛を隠さず上映するためで、世界に冠たる検閲制度を持つ日本では、明治43年に制定された関税定率法により、ヘアも含み輸入すると害があるものは上映してはいけないことになっており、前述のように欧米の映画祭では自国の法律や倫理基準で、他国の芸術作品を測ることはできないという"通則"があるため、国際慣例に従いノーカット無修正で全ての映画を上映するよう働きかけた。当時は風営法の改正で大揺れの時期で、さらに貿易摩擦が問題になっていた時期でもあり、関税障壁であるとの非難を受ける危険もあった。当初は東京税関も「法は勝手に曲げられません」と態度は固く、悲観的な予想が大半であったが、税関を管理する大蔵省(現・財務省)と折衝を続け、岡田茂と徳間康快の政治力で、超法規で映画祭期間中に限りヘア解禁を認めさせ、国際的なモノ笑いにならずに済んだ。勇気ある第一歩を踏み出したと称賛された。今回の措置は税関が見て通過させたのではなく、特例としてノーチェックで税関と通過させたというものであるが、税関はOKでも警察が鑑賞して猥褻と判断したら取締りの対象となるため(刑法175条)、ハードルは二つあった。警視庁保安一課は管轄の渋谷署と協力し、全てのヘア作品には係官を劇場に派遣して内容をチェックし、全ての作品に「わいせつな感じの表現はなかった」といった内容の報告書を提出し全てセーフになった。映倫もこの特例措置を鑑み、東京映画祭上映に限り、審査の対象外とし、カット又は修正をしないオリジナルの形で上映を認め、その後も特例措置を続けている。東京映画祭の「ヘア解禁」以降、捜査当局がヘア解禁を認め、「ヘアが見える程度では検挙されない。仮に検挙されても身柄の拘束はない」という見方が出版業界に広がり、映画祭以降、写真誌のポルノ度がエスカレートし、『ザ・写真』を出版していた東京三世社の社長らが警視庁保安一課に逮捕された。それまで任意での取り締まりはあったが、社長にまで強制捜査が及んだのは全くの異例であった。 作品の出来よりも日本初のヘア無修正映画として話題を集めた『1984年』は"ヘア解禁"をスポーツ紙や夕刊紙が書き立てたため、上映一週間前に前売り券が売り切れ、その後チケット問い合わせの電話が殺到した。「本当にヘアが出るんですか」という問い合わせが多かったという。1985年6月1日、渋谷東急で『1984年』は上映され、劇場は超満員で立ち見も出た。翌日のスポーツ新聞は「見えた―ヘアに息をのむ」などと歴史的"快挙"を大々的に報じた。続いてカナダ映画『ジャックと11月』、イギリス映画『狼の血族』、ブラジル映画『ピショット』、ハンガリー映画『ゲルニカ』などの10作品が、ノーカット無修正で上映され、地味なこれらの映画にも観客が詰めかけた。表現は大人しいものだったが『1984年』のヘアシーンでは報道席にいたカメラマンが、いっせいにシャッターを切る異様な光景が現出した。『1984年』が「ヤングシネマ85」のコンクール対象作品だったため、シャッター音が鑑賞を妨げて公正な審査が出来ないと審査員や同作の監督・マイケル・ラドフォードなどから「審査会場を変えろ」などと抗議の声が上がり、二日目からは入場時にカメラがないかボディーチェックを受けるなど厳戒態勢が敷かれた。2019年の今日では映画泥棒などで映画盗撮防止は常識だが、当時は予想外の事態で、渋谷東急前に「お願い 東京国際映画祭にて上映されます映画は国際規約及び国内の法律によって版権が保護されております。従いまして、映画を無断で撮影したり、録音したりした場合は罰せられますので、ご注意下さいますようお願い致します。 東京国際映画祭組織委員会事務局」と手書きで書かれた素朴な立て看板が掲示され、「場内での写真撮影は禁じられています」とアナウンスを流した。 同時期に開催されたアジア太平洋映画祭ではヘア解禁を認めなかったため、税関が人間のヘアを差別したと物議を醸した。 ポール・シュレイダー監督の『MISHIMA』が三島由紀夫の未亡人と製作者側のトラブルがあり、1984年末の予備選考の段階で出品作品のリストから落とした。映画祭で上映する作品は組織委員会が独自の立場で自由に選択出来るということが国際映連の規定で決められており、選考理由を言う必要はないという前提条件があり、問題は本来無かったが、『MISHIMA』のアメリカ側のプロデューサー・トム・ラディが映画祭事務局に「試写も見ないで『MISHIMA』を上映させないのはおかしい。これは国際映画祭の精神に反するものでまことに遺憾。上映できるように再考せよ」と公開質問状を送り付けて来た。『MISHIMA』の日本側のプロデューサーは、映画祭の「映画企画」総合プロデュースの山本又一朗だったが、山本もこれに同調して映画祭のプロデューサーを辞任した。ラディの意見に同調する欧米の映画人も多く、ラディが1985年4月からアメリカで「東京国際映画祭ボイコット運動」の署名活動を始め、これにロバート・ベントンやシドニー・ポラック、ウォルター・ヒル、ロバート・レッドフォードらが署名。当初、審査員として来日する予定だった『MISHIMA』のスタッフ・フランシス・コッポラやジョージ・ルーカスなどのスター監督らが、相次いで来日を取りやめる緊急事態に発展し、国際的にも注目を浴びた。映画祭当局は声明文を発表したり、アメリカの映画専門誌『バラエティ』1985年5月8日号に「同作品の上映要請はなく、東京国際映画祭の批判は同映画祭だけではなく世界の映画祭を著しく傷つけるもの」という公式見解を掲載したりし、対応に大わらわになった。1985年5月7日日本プレスセンターで行われた記者会見で、この騒動に答えて岡田茂がやっぱり腹を立て、「トム・ラディと山本又一朗はもっと署名を集めてカンヌ映画祭でも騒ぐらしい。これまで山本又一朗ごときを相手どってまともにケンカする気にもなれなかったが、もう黙っていられない。映画祭は『MISHIMA』の露払いじゃないんだ。彼らは映画祭の場を『MISHIMA』の宣伝に利用しようとした。実にずるいやり方だ。山本氏には映画祭のプロデューサーを辞めてもらった」などと激しい口調で非難した。岡田はかつて山本が小池一夫の代理人として活躍していた手腕に関心し、東映内で「山本君に学べ」と号令をかけるなど評価していたといわれ、映画祭の創設メンバーの一人でもあっただけに怒ったものと見られる。山本は岡田から「『MISHIMA』なんかやったら右翼が反対して騒ぎ、第1回目から大混乱になる」と反対されたと話し、山本は「文化的なイベントとしての国際映画祭は右翼に屈服してはいけない。日本は法治国家だから、右翼が来るなら警察を呼んで守ってもらえばいいんです」と反論したと言う。山本は「映画祭側が事実を語っていない」と東京国際映画祭の内部資料を公開。これに対して草壁久四郎事務局顧問は「右翼団体からの圧力があったと言いふらしているのは、宣伝キャンペーンとしか思えない」「右翼の圧力によって落としたという考えは全くの間違いで、三島夫人が映画製作に反対しているのに製作を強行し、仮に上映して何かトラブルがあれば、国際問題になりかねないし、岡田会長も『日本側のプロダクションの代表者に、三島家との問題がクリアされたら、検討します』と伝えており、それをクリアしないで何で上映しないのかというのは言いがかりだ」と反論し騒動が悪化した。一連の騒動で、欧米映画人の一部と亀裂が深まり、二回目以降の映画祭にマイナス面を残すのではないかとジャーナリストから心配された。 映画祭には世界各国から映画人がやってくる絶好の機会のため、岡田は映画界にメリットのあるフィルム・マーケット(マルシェ、見本市)を開催したいという希望を最初から表明していたが、準備期間が充分でなく第一回では出来ず、フィルム・マーケットの開催は第5回からになった。 組織委員会委員長は第1回(1985年)から第9回(1996年)まで瀬島龍三であるが、瀬島は記者会見にほとんど出席せず、第一回から陣頭指揮に当たったのは実行委員長の岡田茂であった。開催発表会見で真ん中に座るのも第一回から第11回(1998年)までずっと岡田で、最初の発言者も岡田で、次がゼネラル・プロデューサー(以下、GP)であった。この間、開催発表会見は4人から7人が出席して行われたが、奇数の出席の時は真ん中が岡田で、偶数の時は岡田とGPが真ん中。京都開催だった第7回(1994年)の開催発表会見は7人の出席で、真ん中が岡田で、岡田の両隣りが徳間康快GPと荒巻禎一京都府知事だった。岡田がトップと周りからも認知されていたものと見られる。 瀬島は組織委員会委員長を第9回(1996年)まで務めて勇退。第10回(1997年)と第11回(1998年)の組織委員会委員長は樋口廣太郎が務め、第12回(1999年)に第一回から11回まで実行委員長だった岡田茂が組織委員会委員長に就任し、岡田の後任実行委員長には石田敏彦が就いた。第13回(2000年)開催の直前に徳間康快が急逝したため、第13回は石田敏彦が実行委員長とGPを兼任した。 GPを最初から岡田茂とする文献も見られるが、GPは、第1回(1985年)が小谷正一、第2回(1987年)、第3回(1989年)が石田達郎、第4回(1991年)から第12回(1999年)までが徳間康快。京都で開催された第7回(1994年)は、徳間でなく、京都に縁のある高岩淡と奥山融が二頭GPを務めた。第13回(2000年)が石田敏彦、第14回(2001年)、第15回(2002年)が川内通康、第16回(2003年)から第20回(2007年)までが角川歴彦。角川が第18回(2005年)で、GPをチェアマンと改称。第21回(2008年)から第25回(2012年)までのチェアマンは依田巽。第26回(2013年)からチェアマンの代わりの役職として新設されたディレクター・ジェネラルに椎名保が就任。2017年3月10日、ディレクター・ジェネラルからフェスティバル・ディレクターに役職名を変えた役職に、元ワーナーブラザース映画副代表であり、松竹で常務取締役などを務めた久松猛朗が就任した。2019年7月からは元駐イタリア大使の安藤裕康がチェアマンに就任している。 1991年の第4回から徳間康快がGPに就任した経緯は、それまでGPを務めていた石田達郎が体が悪いのにカネ集めで苦労しており、岡田茂実行委員長から「徳さん何とか協力してやってくれないか」と頼まれていた徳間が「映画祭はよく知らないから」と断っていたが、1990年7月に石田が突然亡くなり、徳間「どうせオレに声をかけるんだからゼニだろう」岡田「実はそうなんだ」徳間「じゃあ、一生懸命やるよ」と引き受けることになった。徳間「で、第3回はいくらでやったんだ?」岡田「6億だ」徳間「発展させるには従来の倍のカネをかければいい。今回はキリのいい10億円でやろう」と、二人の話で「隔年開催では効果が薄いから毎年定期的に開催しよう。西のカンヌ、東の東京と銘打ってやろう。映画人が力を結集して映画界全体でやろう」と決まった。第2回と第3回は石田達郎がGPを務めていた関係から、フジサンケイグループがバックアップをした。このため東映以外の映画会社はあまり協力的でなかったが、徳間の就任でようやく映画界全体で協力をしようとなり、松岡功東宝社長が広報委員長に就いた。記者会見の時は「アジアを中心に意義と価値のある重要な映画祭にし、カンヌ、ベネチアと並ぶ三大映画祭にしたい」と発表した。徳間の自宅の四軒隣りが鈴木俊一東京都知事宅で、第3回のときに徳間と岡田で鈴木宅を訪れ1億円出してもらっていたが、徳間はGPに就任すると今度は鈴木に「毎年8億円出してくれ」と頼み、鈴木から「どういうことだ?」と言われたから「"東京"国際映画祭なんだ。カンヌでもベルリンでもベネチアでもみんな市がやっている。だから東京都が前面に立ってやってもらわないと困るんです。でないと"日本"国際映画祭になっちゃうから」「とりあえず今年は4億出してくれ」などと説得。通産省にはそれまでの1億5000万円だった助成金を2億円にアップさせた。徳間は中国に強いパイプを持つことで知られるが、台湾にも参加してもらって然るべきと岡田と二人で台湾に行って台湾の参加を正式に決めた。またカンヌのように世界中からバイヤーを集めるようにするには、短期的な方策としてはいいだろうと入賞作品の賞金を増額させた。バブル崩壊があり、資金集めが苦しくなったが、第5回から日本で初めてフィルム・マーケットが開かれた。GPに就任するとスポンサー集めに奔走しなければならず、岡田が第2回のとき、鹿内春雄に頼んだが断られ、徳間以降のGPはたいたい1回か2回で辞めている。2001年から二年務めた川内通康も「おまえ、石田のオヤジがやってたじゃないか。おまえ、その愛弟子じゃないか」と岡田から痛いところを突かれての就任。2003年も岡田がいろんな人にあたったが全員に断られ、角川歴彦は「この場で受けてもらわないと今年の開催ができない」と岡田から強い説得を受け、渋々承諾し第16回から六代目GPに就任している。 2010年(平成22年)に開催された第23回において、映画祭に招かれていた中華人民共和国と中華民国からの招待者の間で「台湾」表記をめぐって論争が生じ、一部の監督、俳優が開幕式をボイコットした。また、中国、台湾政府も反応し、双方のインターネット上では騒動になった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "東京国際映画祭(とうきょうこくさいえいがさい、英語: Tokyo International Film Festival)は、毎年10月に日本の東京都にて開催される映画祭。公益財団法人ユニジャパンが主催する国際映画製作者連盟(FIAPF)公認の国際映画祭であり、アジア最大級の映画祭となっている。略称は、TIFF。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "日本で唯一のFIAPF公認のコンペティティブ長編映画祭(Competitive Feature Film Festival)である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1985年(昭和60年)のつくば万博開催を受け、通産省(現・経済産業省)からの誘いがあり、日本映画製作者連盟(以下、映連)会長・岡田茂東映社長や、瀬島龍三らの尽力で創設された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1985年のスタート時は隔年開催で渋谷の映画館を中心に開かれていたが、1991年第4回に岡田映連会長の指名で徳間康快がゼネラル・プロデューサー(GP)就任後は、毎年開催されるようになった。1994年は平安遷都1200周年記念として「京都国際映画祭 / 第7回東京国際映画祭 - 京都大会」という名称のもと京都市で開催された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "国際審査委員が最優秀作品賞である“東京グランプリ”を選出する「コンペティション」や世界の映画祭で話題になった作品を日本公開前にプレミア上映する「ガラ・セレクション」、長編3作目までのアジアの新鋭監督の作品に焦点を当てた「アジアの未来」、まだ日本での配給が決まっていない世界の注目作品を紹介する「ワールド・フォーカス」、海外に紹介されるべき日本映画という視点で選考された作品を上映する「Nippon Cinema Now」などのメイン企画をはじめ様々な企画が毎年開催される。2004年には世界の映画界に貢献した映画人をたたえる賞として「黒澤明賞」が新設された。黒澤明賞が設けられたのは2008年まで。2005年には映画祭最高賞の名称が「東京グランプリ」から「東京 サクラ グランプリ」 に変更された が、2014年に「東京グランプリ」に戻された。 2014年、第27回東京国際映画祭ラインナップ発表会の際に、比類なき感性で常に時代を切り開き続けている人の実績をたたえる賞として「サムライ“SAMURAI”賞」が新設された(2017年まで)。2021年には商業経験のない作家を対象とした短編コンペの「Amazon Prime Videoテイクワン賞」が設立された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "2015年、上海国際映画祭との協力連携が発表される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "コンペティション部門への応募作品は2021年には113カ国・地域から1533本に上り、「アジア最大級の国際映画祭」へと成長している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2003年までは渋谷のみで開催され、Bunkamura(オーチャードホール、シアターコクーン、ル・シネマ1・2)や渋谷の他の映画館やホールが会場となっていた。 2004年から2008年までは渋谷のBunkamuraと六本木ヒルズが会場となっていた。 2009年以降は渋谷を会場とせず、六本木ヒルズをメイン会場として映画祭が開催されている(2009年と2010年と2013年は六本木のみで開催、2011年は六本木と日比谷、2012年は六本木と日本橋、2014年は六本木・銀座・日本橋・京橋で開催。2015年は六本木・銀座・新宿で開催)。2016年は六本木・銀座で開催された。六本木ではシネマート六本木も会場として使われていた(2008年 - 2014年)。 2018年は、六本木は六本木ヒルズとEXシアター六本木を使用し、東京ミッドタウン日比谷 日比谷ステップ広場でも上映などが催された。 2021年からはメイン会場を日比谷・有楽町・銀座地区に完全移転し、オープニング会場は東京国際フォーラム(ホールC)で行われ新装開催となった。2022年は東京宝塚劇場でOP開催予定", "title": "会場" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1982年に通産省(現・経済産業省)から、岡田茂映連会長に1985年のつくば万博に合わせて国際映画祭をやれないかという要請があった。岡田に話を持ち掛けたのは小長啓一通産省政策局長とされる。通産省としては衰退の一途を辿る国内映画産業が復活の兆しが見えないため、国際映画祭という刺激を与えることで活を入れたいという話で、つくば万博に合わせ、一週間程度の期間で東京で開く案が有力視され、少なくとも二年に一回の開催とし、定期的な国際映画祭に育てていくという基本的なプランを映連で1982年7月末にまとめた。つくば万博の目玉がないため、映画祭の案が出たものと見られたが、日本政府からの援助は1億2000万円。1983年1月から2月にかけて第二回マニラ国際映画祭に岡田を団長とする映連幹部が参加し、同映画祭の運営の詳細を聞いたところ予算が約4億円で、その金額でも参加65ヵ国、約1000人のバイヤーの費用その他は賄えないと同映画祭を個人的な趣味で始めたといわれるイメルダ・マルコスから聞いた。映画祭の記者会見の席上、現地メディアから「日本で国際映画祭はやらないのか」という質問が出たため、岡田は「通産省からその種のものをやってくれないかという要請は来ているが、とても日本ではこういう映画祭は考えられない」と答えた。東洋の国、特に日本は地理的なハンデもあり、国際映画祭を行うと参加国の交通費など欧米と比べて資金が高くつくし、文化的に価値のあるものに金を出さないというお国柄で、映画業界にも金はないため、政府援助1億2000万円程度で開催できる筈もなかった。余程強力なスポンサーでも見つけない限り、日本での国際映画祭開催は不可能と見られた。", "title": "創設経緯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "国際映画祭は1970年の大阪万博のプログラムの一つとして「日本国際映画祭」と銘打ち、行われたことがあり(1970年4月1日~10日、大阪フェスティバルホール)、実務を担当したのは当時の岡田の上司・大川博東映社長だった。しかし国際映画祭での出品作は未公開作に限るという規定が厳しく、辞退会社が続出。当時は日本映画の不況が深刻化した時代で、各社映画祭どころではなく、松竹の城戸四郎は全くやる気なし、大映の永田雅一は会社がおかしくなり、日活の堀久作はこんなものはダメだと言うし、東宝の松岡辰郎は乗り気でなく、どこも協力してくれず。上映は海外も合わせて全部で20本に留まった。また欧米の映画祭では自国の法律や倫理基準で、他国の芸術作品を測ることはできないという\"通則\"があり、スウェーデンのハードコア『私は好奇心の強い女』がノーカット無修正で上映されるのかが、マスメディアに盛んに取り上げられ、同作は過激な裸体・性愛描写が各国で検閲議論を巻き起こし、世界中で「ポルノ解禁」をもたらす引き金になった曰く付きの映画であったが、この影響もあって日本映画はさっぱり話題にならず、同作の監督と税関の間に挟まり大川は手を焼いた(結局45ヵ所の修正、11分間カットされて上映された)。「大川は勲章が欲しいからやるんだろう」「あれが国際映画祭か?」などと散々に叩かれ、成果なしに終わり、映画界では国際映画祭はタブーなどと言われた。間もなく大川が亡くなり、残務処理を岡田が引き継いで往生した。映画界にとって何の実利もなく、岡田は最初は乗り気でなく、やらない方がいいという先行的な考えを持っていた。", "title": "創設経緯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "しかし元電通の小谷正一が中心となり、日本ヘラルドの原正人、岡田晃、山本又一朗、鹿内春雄がグループを組み、開催実現に向け、岡田に盛んに働きかけた。岡田は通産省やつくば万博のためのイベントだけでは映画界全体にとってメリットがなく、やる意味がないと突っぱねた。映画界のリーダーである岡田を説得しなければ実現は不可能で、小谷らが岡田に連日連夜押し込みを続け、引き受けざるを得なくなった。仕方なく岡田が東宝の松岡功、松竹の奥山融、大映の徳間康快、にっかつの根本悌二らに頭を下げ、協力を要請し、ようやく開催に向け動き出した。先の万博での映画祭は規模が小さかったため、東京国際映画祭が日本初の国際映画祭という認識だった。", "title": "創設経緯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1983年10月25日に最初の会議が開かれ、1983年11月に岡田らとマスコミとの懇談会を開くなど、輪郭を決め、岡田と小谷らで準備委員会を作り、1983年12月に大まかなプランニング発表があった。この後、組織委員会を作る際に岡田と小谷で相談し、日本商工会議所に協力を仰ぐことになり、当時の商工会議所会頭は岡田の後見人を自称していた永野重雄だったが、五島昇に会頭をバトンタッチすることが決まっていて、忙しいときに五島に頼むのは無理だろうと、誰かいい人はいないかとなり、岡田も付き合いのある瀬島龍三を候補に挙げたら、運輸省も是非と賛成し、岡田と小谷で瀬島に「組織委員会委員長になってくれ」と頼みに行ったら、瀬島から「いきなり組織委員長と言われても、わたしは映画を全然知らない人間だから困る」と断られた。岡田は必ず政府との問題が色々起こって来ると予想し強引に瀬島を口説き、永野重雄からも瀬島に協力要請があり、瀬島が渋々引き受けた。瀬島は当時の首相・中曽根康弘のブレーンの一人だった。", "title": "開催まで" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1984年2月24日、東京国際映画祭準備委員会が総会で準備委員会を「組織委員会」に発展改組し、実施運営の総括組織として「実行委員会」を発足させ、組織委員会会長に瀬島龍三、実行委員会実行委員長に岡田茂、ゼネラル・プロデューサーに小谷正一が就任。組織委員メンバーとして他に、天野房三渋谷区長、井川博日本商工会議所専務理事、大島渚日本映画監督協会理事長、岡道明東急エージェンシー常務取締役、加戸守行文化庁次長、川口幹夫NHK専務理事、小長啓一通産省政策局長、坂倉芳明西武百貨店社長、並木貞人商店会・全振連会長、古川勝巳外国映画輸入配給協会会長、三浦守東急百貨店社長、三宅和助外務省情報文化局長、八住利雄日本シナリオ作家協会理事長を選出した。構成メンバーの追加は岡田実行委員長を中心に人選すると発表した。メンバーは全員無償のボランティア。", "title": "開催まで" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "国際映画製作者連盟から公認映画祭と認定を受け、1984年4月4日、ホテルキャピタル東急で正式に東京国際映画祭開催の決定発表があり、東京国際映画祭組織委員会、実行委員会が映画祭の概要を発表した。岡田茂実行委員長を補佐する副委員長には松岡功が選出された。当時国際映画製作者連盟から公認された国際映画祭は八つで、東京は九番目であった。", "title": "開催まで" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1984年のカンヌ国際映画祭に岡田茂東京国際映画祭実行委員長ら代表団と内田宏駐フランス大使が出席し、期間中の1984年5月19日の夜、当地のホテルマルチネで、東京国際映画祭開催の公式発表が行われた。カンヌには世界の映画祭関係者が集まるため、極東の遠い都市での映画祭に好奇心がそそられ、36ヵ国から800人のジャーナリストが集まり、記者会見に用意した椅子も足りずに立ち見が出る盛況ぶりで、各国の東京国際映画祭に対する関心の高さがうかがえた。アジア最大の映画マーケットである日本で、これまで国際映画祭が開かれなかったことが不思議という感想を持たれた。後述の理由で期日を反対された敵地での会見になったが、会見後はジャン・マレーやミレーヌ・ドモンジョなど、俳優、監督、プロデューサーらが「ぜひ東京に行きたい」と岡田実行委員長を祝福した。", "title": "開催まで" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1984年7月26日、ホテルニューオータニで、第2回実行委員会が開かれ、総合調整委員会実行委員長・岡田茂、ゼネラルプロデューサー・小谷正一、アソシエ―テッドプロデューサー・原正人、岡田晃、海外渉外委員会委員長・古川勝巳、副実行委員長兼広報委員会委員長・松岡功、上映委員会委員長・奥山融、作品選定委員会委員長・徳間康快などが決まった。各映画会社の社長に責任者になってもらう形をとった。渋谷地区の委員会も結成され、渋谷の街ぐるみの映画祭とすると申し合わせがあった。また部会は「映画企画」「一般企画」「科学万博」「ニューメディア」の4部会があり、「映画企画」の総合プロデュースが山本又一朗で、山本が自身のプロデュース作『Mishima』の上映問題で後に騒ぎを起こした。1984年11月、各企画の上映作品や開催場所、期間など具体的な内容も決定した。1984年12月25日、在京テレビ局各社に対し映画祭の説明会を開き、協力を要請。若者向けの企画も多く組まれ、映画の素晴らしさをファンにPRする絶好の機会となり、「どうしたら映画離れを食い止めることができるか」という長年映画人に課せられた映画再興という問いの答えを示す意地の舞台になった。", "title": "開催まで" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1985年5月7日、内幸町の日本プレスセンターで、岡田茂実行委員長より、映画祭の全ての企画の全容が発表された。また徳間康快作品選定委員会委員長が「すべての上映作品は国際映画祭規約に準じて上映される」と、間接的発言ながらヘアも無修正のまま上映されることを正式に認めた。", "title": "開催まで" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "日本で初めて開かれる大規模な国際映画祭で、諸問題が山積で大揺れ。変更を余儀なくされていくケースがたくさん出た。国際映画製作者連盟から公認映画祭と認定はされたが、仮免許のようなもので「グランプリ」という名称は使えず。第二回からは「グランプリ」という名称が許されて映画祭の本命である東京グランプリを競う作品のコンペティションが出来るということで、第一回は「グランプリ」を選出するコンクールがないため、いろんな催しが企画され苦心のプログラムが組まれた。プログラムの超目玉が「ヤングシネマ85」(1945年以降に生まれた監督作品のコンペ)であった。内外の新進監督のコンクールで、最優秀作品に次回作品の製作資金として150万ドル(当時は3億8000万円に相当)を提供するという世界の映画祭でも前例のない高額賞金で、ヨーロッパの各国から「本当か?一桁間違えてないか?」と心配されたが、「さすが経済大国」と改めて感心された。国際映画祭では初めての賞金つきコンクールと書かれたものがある。同プログラムのチーフプロデューサー・佐々木史朗ATG社長がカンヌでいきなり「150万ドル出す」と発表したもので、隣にいた岡田が「大丈夫か、わしはそんな金知らんぞ」と思わず声を上げた。どこの国の若手監督も製作費に悩んでいるため、カンヌでの記者会見では作品の管理はどうするのだ等、若手監督らが代表団を質問責めに遭わせた。150万ドルはフジテレビとCSKが出資した。CSKグループには、セガ・エンタープライゼスやぴあが参加しており、ぴあは東京国際映画祭を皮切りに、新しく立ち上げた「ぴあ基金」制度を仲介として、各種文化イベントに資金援助していくと発表した。当時の社会主義国のほとんどを含む世界40ヵ国から519本の応募作品が殺到し、世界中から注目される良い切っ掛けになった。当時映画製作の主要国は54ヵ国といわれ、日本で上映されるのは10ヵ国以下で、70%がアメリカ映画、あとの30%が5、6ヵ国といわれた。「ヤングシネマ85」の最優秀作品は、519本の中から予備選で16作品が上映され、大手映画会社から無視され続けお蔵入りしていた相米慎二の『台風クラブ』が選ばれた。審査の席上で「少しでも多くの監督にチャンスを」などと妙な策略が行われ、賞金は150万ドルではなく、75万ドル(1億8000万円)に突如変更され、二位の『At』と三位の『止った時間』に残りの金額を分配した。相米は「次回作は武田泰淳の『富士』をやります」と話したが、賞金を『光る女』の製作に充てた。「ヤングシネマ85」は国内外の映画人から高い評価を受け、審査委員長だったデヴィッド・パットナムも「世界の若手を育てるために賞金を出すという発想に、これぞ時代を感じさせる映画祭だと感心した」と評した。企画は「映画企画」の部会のメンバーの中に映画祭の否定論が多く、やるなら「何かユニークな目玉がないか」となり、メンバーで話しているうち、誰かがこの企画を挙げたという。", "title": "開催まで" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "岡田が1980年に渋谷を本拠に置く東急レクリエーション社長にも就任しており、渋谷を文化都市、文化エリアとして大いにイメージアップを図ろうと渋谷を開催地に決めた。NHKホール使用の許可も取り、連動すれば大きなイベントを組めると構想し、町ぐるみで映画祭に参加してもらうことになった。岡田の予想通り、開催に向け動き出すと外務省から「通産省主導型の映画祭はおかしい」とか、文化庁は「映画祭、フェスティバルという名前はわれわれの所管だ」などとクレームを付けてきたが、これらは瀬島でないと解決できない問題であった。カンヌ・ベルリン・ヴェネツィアの世界三大映画祭は、政府から物心両面の手厚い支援を受けていたが、日本政府にそれは期待できないため、独力で民間から資金を集めた。このため大部分は企業の協力に依存せざるを得ず、スポンサーの名が目立つ商業主義などと批判された。映画祭を国際的に宣伝するためには、できるだけ多くの映画人、ジャーナリストを招待することが必要で、財政が充分でないと招待者数を限定せざるを得なくなり「これでは国際映画祭ではなく、国内映画祭だ」と陰口をたたかれるからである。事務局で働く人の大半を映像の関係者にボランティアをお願いした。運営資金は5億円と算段し、資金調達の目途はついたが、寄付金などは税金を取られて実際は2億5000万円ぐらいしか使えないことが分かり、それなら財団でやろうと考え、東京都が財団を持っていることを知り、これを使おうとしたら政治問題化する可能性があると都の副知事から反対された。このため新しく独自の財団を作ったが、許可が降りるまで一年以上かかるとされたが、これも瀬島の力を借りて短期間で許可を降ろさせた。この財団を作るのに一億円以上かかった。5億円の資金調達は岡田と瀬島で相談し、岡田が各映画会社、各テレビ局、丸井の青井忠雄ら、渋谷地区の大きな流通関係に協力を仰ぎ、東急グループ1億円、2億円とも、西武グループ7000万円、鈴木俊一東京都知事にも頼みに行き、5000万円の予算措置をつけてもらい、通産省は最初の話より金を出さなかったともいわれ、予算額の5億円は調達した。5億でも足らないことが予想されたため、電通と東急エージェンシーで更に金を集めた。1985年に第一回理事会を開き、各映画会社社長、各テレビ局社長に全員理事で入ってもらった。", "title": "開催まで" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "つくば万博との連動が趣旨だったため、最初は1985年4月の開催を予定していた。ところが毎年5月に開催するカンヌ国際映画祭当局が「4月は困る、カンヌの直前にやるなら一切協力しない、やるのなら秋に」とクレームを付けて来た。カンヌ映画祭当局は国際映画製作者連盟にかなりの圧力をかけた。秋にやっていては効果が薄いと岡田が判断し、カンヌ映画祭当局を説得し、1985年6月開催を決めた。渋谷のNHKホールを主会場に、渋谷の映画館、ホールを会場に1985年5月31日~6月9日の10日間の開催を決定した。また新しい科学技術のお披露目として『乱』をNHKホールと筑波万博の会場と同時に映すという宇宙中継(衛星放送)が計画されていたが、『乱』の完成遅れ等の理由で中止になった。", "title": "開催まで" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1970年の映画祭でも大きく取り上げられ、これまで幾度となく争われた\"芸術か\"\"ワイセツか\"問題がここでも起き、\"ヘア解禁\"がなるのか、大きな注目を浴びた。欧米の多くの国の映画は一般映画でもヌードシーンやベッドシーンで、普通に男女の陰毛を隠さず上映するためで、世界に冠たる検閲制度を持つ日本では、明治43年に制定された関税定率法により、ヘアも含み輸入すると害があるものは上映してはいけないことになっており、前述のように欧米の映画祭では自国の法律や倫理基準で、他国の芸術作品を測ることはできないという\"通則\"があるため、国際慣例に従いノーカット無修正で全ての映画を上映するよう働きかけた。当時は風営法の改正で大揺れの時期で、さらに貿易摩擦が問題になっていた時期でもあり、関税障壁であるとの非難を受ける危険もあった。当初は東京税関も「法は勝手に曲げられません」と態度は固く、悲観的な予想が大半であったが、税関を管理する大蔵省(現・財務省)と折衝を続け、岡田茂と徳間康快の政治力で、超法規で映画祭期間中に限りヘア解禁を認めさせ、国際的なモノ笑いにならずに済んだ。勇気ある第一歩を踏み出したと称賛された。今回の措置は税関が見て通過させたのではなく、特例としてノーチェックで税関と通過させたというものであるが、税関はOKでも警察が鑑賞して猥褻と判断したら取締りの対象となるため(刑法175条)、ハードルは二つあった。警視庁保安一課は管轄の渋谷署と協力し、全てのヘア作品には係官を劇場に派遣して内容をチェックし、全ての作品に「わいせつな感じの表現はなかった」といった内容の報告書を提出し全てセーフになった。映倫もこの特例措置を鑑み、東京映画祭上映に限り、審査の対象外とし、カット又は修正をしないオリジナルの形で上映を認め、その後も特例措置を続けている。東京映画祭の「ヘア解禁」以降、捜査当局がヘア解禁を認め、「ヘアが見える程度では検挙されない。仮に検挙されても身柄の拘束はない」という見方が出版業界に広がり、映画祭以降、写真誌のポルノ度がエスカレートし、『ザ・写真』を出版していた東京三世社の社長らが警視庁保安一課に逮捕された。それまで任意での取り締まりはあったが、社長にまで強制捜査が及んだのは全くの異例であった。", "title": "開催まで" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "作品の出来よりも日本初のヘア無修正映画として話題を集めた『1984年』は\"ヘア解禁\"をスポーツ紙や夕刊紙が書き立てたため、上映一週間前に前売り券が売り切れ、その後チケット問い合わせの電話が殺到した。「本当にヘアが出るんですか」という問い合わせが多かったという。1985年6月1日、渋谷東急で『1984年』は上映され、劇場は超満員で立ち見も出た。翌日のスポーツ新聞は「見えた―ヘアに息をのむ」などと歴史的\"快挙\"を大々的に報じた。続いてカナダ映画『ジャックと11月』、イギリス映画『狼の血族』、ブラジル映画『ピショット』、ハンガリー映画『ゲルニカ』などの10作品が、ノーカット無修正で上映され、地味なこれらの映画にも観客が詰めかけた。表現は大人しいものだったが『1984年』のヘアシーンでは報道席にいたカメラマンが、いっせいにシャッターを切る異様な光景が現出した。『1984年』が「ヤングシネマ85」のコンクール対象作品だったため、シャッター音が鑑賞を妨げて公正な審査が出来ないと審査員や同作の監督・マイケル・ラドフォードなどから「審査会場を変えろ」などと抗議の声が上がり、二日目からは入場時にカメラがないかボディーチェックを受けるなど厳戒態勢が敷かれた。2019年の今日では映画泥棒などで映画盗撮防止は常識だが、当時は予想外の事態で、渋谷東急前に「お願い 東京国際映画祭にて上映されます映画は国際規約及び国内の法律によって版権が保護されております。従いまして、映画を無断で撮影したり、録音したりした場合は罰せられますので、ご注意下さいますようお願い致します。 東京国際映画祭組織委員会事務局」と手書きで書かれた素朴な立て看板が掲示され、「場内での写真撮影は禁じられています」とアナウンスを流した。", "title": "開催まで" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "同時期に開催されたアジア太平洋映画祭ではヘア解禁を認めなかったため、税関が人間のヘアを差別したと物議を醸した。", "title": "開催まで" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ポール・シュレイダー監督の『MISHIMA』が三島由紀夫の未亡人と製作者側のトラブルがあり、1984年末の予備選考の段階で出品作品のリストから落とした。映画祭で上映する作品は組織委員会が独自の立場で自由に選択出来るということが国際映連の規定で決められており、選考理由を言う必要はないという前提条件があり、問題は本来無かったが、『MISHIMA』のアメリカ側のプロデューサー・トム・ラディが映画祭事務局に「試写も見ないで『MISHIMA』を上映させないのはおかしい。これは国際映画祭の精神に反するものでまことに遺憾。上映できるように再考せよ」と公開質問状を送り付けて来た。『MISHIMA』の日本側のプロデューサーは、映画祭の「映画企画」総合プロデュースの山本又一朗だったが、山本もこれに同調して映画祭のプロデューサーを辞任した。ラディの意見に同調する欧米の映画人も多く、ラディが1985年4月からアメリカで「東京国際映画祭ボイコット運動」の署名活動を始め、これにロバート・ベントンやシドニー・ポラック、ウォルター・ヒル、ロバート・レッドフォードらが署名。当初、審査員として来日する予定だった『MISHIMA』のスタッフ・フランシス・コッポラやジョージ・ルーカスなどのスター監督らが、相次いで来日を取りやめる緊急事態に発展し、国際的にも注目を浴びた。映画祭当局は声明文を発表したり、アメリカの映画専門誌『バラエティ』1985年5月8日号に「同作品の上映要請はなく、東京国際映画祭の批判は同映画祭だけではなく世界の映画祭を著しく傷つけるもの」という公式見解を掲載したりし、対応に大わらわになった。1985年5月7日日本プレスセンターで行われた記者会見で、この騒動に答えて岡田茂がやっぱり腹を立て、「トム・ラディと山本又一朗はもっと署名を集めてカンヌ映画祭でも騒ぐらしい。これまで山本又一朗ごときを相手どってまともにケンカする気にもなれなかったが、もう黙っていられない。映画祭は『MISHIMA』の露払いじゃないんだ。彼らは映画祭の場を『MISHIMA』の宣伝に利用しようとした。実にずるいやり方だ。山本氏には映画祭のプロデューサーを辞めてもらった」などと激しい口調で非難した。岡田はかつて山本が小池一夫の代理人として活躍していた手腕に関心し、東映内で「山本君に学べ」と号令をかけるなど評価していたといわれ、映画祭の創設メンバーの一人でもあっただけに怒ったものと見られる。山本は岡田から「『MISHIMA』なんかやったら右翼が反対して騒ぎ、第1回目から大混乱になる」と反対されたと話し、山本は「文化的なイベントとしての国際映画祭は右翼に屈服してはいけない。日本は法治国家だから、右翼が来るなら警察を呼んで守ってもらえばいいんです」と反論したと言う。山本は「映画祭側が事実を語っていない」と東京国際映画祭の内部資料を公開。これに対して草壁久四郎事務局顧問は「右翼団体からの圧力があったと言いふらしているのは、宣伝キャンペーンとしか思えない」「右翼の圧力によって落としたという考えは全くの間違いで、三島夫人が映画製作に反対しているのに製作を強行し、仮に上映して何かトラブルがあれば、国際問題になりかねないし、岡田会長も『日本側のプロダクションの代表者に、三島家との問題がクリアされたら、検討します』と伝えており、それをクリアしないで何で上映しないのかというのは言いがかりだ」と反論し騒動が悪化した。一連の騒動で、欧米映画人の一部と亀裂が深まり、二回目以降の映画祭にマイナス面を残すのではないかとジャーナリストから心配された。", "title": "開催まで" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "映画祭には世界各国から映画人がやってくる絶好の機会のため、岡田は映画界にメリットのあるフィルム・マーケット(マルシェ、見本市)を開催したいという希望を最初から表明していたが、準備期間が充分でなく第一回では出来ず、フィルム・マーケットの開催は第5回からになった。", "title": "開催まで" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "組織委員会委員長は第1回(1985年)から第9回(1996年)まで瀬島龍三であるが、瀬島は記者会見にほとんど出席せず、第一回から陣頭指揮に当たったのは実行委員長の岡田茂であった。開催発表会見で真ん中に座るのも第一回から第11回(1998年)までずっと岡田で、最初の発言者も岡田で、次がゼネラル・プロデューサー(以下、GP)であった。この間、開催発表会見は4人から7人が出席して行われたが、奇数の出席の時は真ん中が岡田で、偶数の時は岡田とGPが真ん中。京都開催だった第7回(1994年)の開催発表会見は7人の出席で、真ん中が岡田で、岡田の両隣りが徳間康快GPと荒巻禎一京都府知事だった。岡田がトップと周りからも認知されていたものと見られる。", "title": "トップの変遷" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "瀬島は組織委員会委員長を第9回(1996年)まで務めて勇退。第10回(1997年)と第11回(1998年)の組織委員会委員長は樋口廣太郎が務め、第12回(1999年)に第一回から11回まで実行委員長だった岡田茂が組織委員会委員長に就任し、岡田の後任実行委員長には石田敏彦が就いた。第13回(2000年)開催の直前に徳間康快が急逝したため、第13回は石田敏彦が実行委員長とGPを兼任した。", "title": "トップの変遷" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "GPを最初から岡田茂とする文献も見られるが、GPは、第1回(1985年)が小谷正一、第2回(1987年)、第3回(1989年)が石田達郎、第4回(1991年)から第12回(1999年)までが徳間康快。京都で開催された第7回(1994年)は、徳間でなく、京都に縁のある高岩淡と奥山融が二頭GPを務めた。第13回(2000年)が石田敏彦、第14回(2001年)、第15回(2002年)が川内通康、第16回(2003年)から第20回(2007年)までが角川歴彦。角川が第18回(2005年)で、GPをチェアマンと改称。第21回(2008年)から第25回(2012年)までのチェアマンは依田巽。第26回(2013年)からチェアマンの代わりの役職として新設されたディレクター・ジェネラルに椎名保が就任。2017年3月10日、ディレクター・ジェネラルからフェスティバル・ディレクターに役職名を変えた役職に、元ワーナーブラザース映画副代表であり、松竹で常務取締役などを務めた久松猛朗が就任した。2019年7月からは元駐イタリア大使の安藤裕康がチェアマンに就任している。", "title": "トップの変遷" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1991年の第4回から徳間康快がGPに就任した経緯は、それまでGPを務めていた石田達郎が体が悪いのにカネ集めで苦労しており、岡田茂実行委員長から「徳さん何とか協力してやってくれないか」と頼まれていた徳間が「映画祭はよく知らないから」と断っていたが、1990年7月に石田が突然亡くなり、徳間「どうせオレに声をかけるんだからゼニだろう」岡田「実はそうなんだ」徳間「じゃあ、一生懸命やるよ」と引き受けることになった。徳間「で、第3回はいくらでやったんだ?」岡田「6億だ」徳間「発展させるには従来の倍のカネをかければいい。今回はキリのいい10億円でやろう」と、二人の話で「隔年開催では効果が薄いから毎年定期的に開催しよう。西のカンヌ、東の東京と銘打ってやろう。映画人が力を結集して映画界全体でやろう」と決まった。第2回と第3回は石田達郎がGPを務めていた関係から、フジサンケイグループがバックアップをした。このため東映以外の映画会社はあまり協力的でなかったが、徳間の就任でようやく映画界全体で協力をしようとなり、松岡功東宝社長が広報委員長に就いた。記者会見の時は「アジアを中心に意義と価値のある重要な映画祭にし、カンヌ、ベネチアと並ぶ三大映画祭にしたい」と発表した。徳間の自宅の四軒隣りが鈴木俊一東京都知事宅で、第3回のときに徳間と岡田で鈴木宅を訪れ1億円出してもらっていたが、徳間はGPに就任すると今度は鈴木に「毎年8億円出してくれ」と頼み、鈴木から「どういうことだ?」と言われたから「\"東京\"国際映画祭なんだ。カンヌでもベルリンでもベネチアでもみんな市がやっている。だから東京都が前面に立ってやってもらわないと困るんです。でないと\"日本\"国際映画祭になっちゃうから」「とりあえず今年は4億出してくれ」などと説得。通産省にはそれまでの1億5000万円だった助成金を2億円にアップさせた。徳間は中国に強いパイプを持つことで知られるが、台湾にも参加してもらって然るべきと岡田と二人で台湾に行って台湾の参加を正式に決めた。またカンヌのように世界中からバイヤーを集めるようにするには、短期的な方策としてはいいだろうと入賞作品の賞金を増額させた。バブル崩壊があり、資金集めが苦しくなったが、第5回から日本で初めてフィルム・マーケットが開かれた。GPに就任するとスポンサー集めに奔走しなければならず、岡田が第2回のとき、鹿内春雄に頼んだが断られ、徳間以降のGPはたいたい1回か2回で辞めている。2001年から二年務めた川内通康も「おまえ、石田のオヤジがやってたじゃないか。おまえ、その愛弟子じゃないか」と岡田から痛いところを突かれての就任。2003年も岡田がいろんな人にあたったが全員に断られ、角川歴彦は「この場で受けてもらわないと今年の開催ができない」と岡田から強い説得を受け、渋々承諾し第16回から六代目GPに就任している。", "title": "トップの変遷" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2010年(平成22年)に開催された第23回において、映画祭に招かれていた中華人民共和国と中華民国からの招待者の間で「台湾」表記をめぐって論争が生じ、一部の監督、俳優が開幕式をボイコットした。また、中国、台湾政府も反応し、双方のインターネット上では騒動になった。", "title": "トラブル" } ]
東京国際映画祭は、毎年10月に日本の東京都にて開催される映画祭。公益財団法人ユニジャパンが主催する国際映画製作者連盟(FIAPF)公認の国際映画祭であり、アジア最大級の映画祭となっている。略称は、TIFF。
{{イベントインフォメーション |イベント名称=東京国際映画祭 |英文表記=Tokyo International Film Festival |種類=映画 |画像=Red Carpet of the Tokyo International Film Festival 2022 - 52460343892.jpg |画像説明=[[第35回東京国際映画祭]]の様子 |通称=TIFF |正式名称=東京国際映画祭 |旧名称= |開催時期=毎年10月下旬~11月上旬 |初回開催=[[1985年]] |会場=[[日比谷]]・[[有楽町]]・[[銀座]]地区ほか<br />東京都内の各劇場及び施設・ホール |主催=公益財団法人[[ユニジャパン]] |共催=[[経済産業省]]<br />[[国際交流基金]]アジアセンター(アジア映画交流事業)<br />[[東京都]](コンペティション部門) |後援= |協賛=[[日本コカ・コーラ]]、[[Amazon Prime Video]](オフィシャルパートナー)<br />[[三井不動産]]、[[タカラベルモント]](プレミアムスポンサー)<br />[[大和証券グループ本社|大和証券グループ]]、アイム・ユニバース、[[バンダイナムコホールディングス]]、[[ハイアットホテルアンドリゾーツ|ハイアット リージェンシー 東京ベイ]](スポンサー)<br />ほか各社 |企画制作= |運営= |プロデューサー='''チェアマン''':[[安藤裕康_(外交官)|安藤裕康]] |出展数= |来場者数= |会場アクセス名= |最寄駅= |直通バス= |駐車場=<!--駐車場の有無--> |URL=https://www.tiff-jp.net |特記事項=[[1985年]]、[[1987年]]、[[1989年]]は隔年開催。[[1991年]]より毎年開催。ただし[[1994年]]のみ「東京国際映画祭・京都大会」。 }} '''東京国際映画祭'''(とうきょうこくさいえいがさい、{{lang-en|Tokyo International Film Festival}})は、毎年[[10月]]に[[日本]]の[[東京都]]にて開催される[[映画祭]]。[[ユニジャパン|公益財団法人ユニジャパン]]が主催する[[国際映画製作者連盟]](FIAPF)公認の[[国際映画祭]]であり、[[アジア]]最大級の映画祭となっている。[[略語|略称]]は、'''TIFF'''。 == 概要 == 日本で唯一のFIAPF公認のコンペティティブ長編映画祭(Competitive Feature Film Festival)である。 [[1985年]]([[昭和]]60年)の[[国際科学技術博覧会|つくば万博]]開催を受け、通産省(現・[[経済産業省]])からの誘いがあり、[[日本映画製作者連盟]](以下、映連)会長・[[岡田茂 (東映)|岡田茂]][[東映]]社長や、[[瀬島龍三]]らの尽力で創設された<ref>{{Cite news |title=東映会長・岡田茂(ことば)抄 |newspaper=[[朝日新聞]][[夕刊]] |publisher=[[朝日新聞社]] |date=1993-12-9 |page=2}}、『週刊現代』2012年1月5、12日号、p21、「映画・トピック・ジャーナル」、『キネマ旬報』1983年3月上旬号、168-169頁、「映画界の動き」、『キネマ旬報』1984年4月上旬号、170頁、「映画・トピック・ジャーナル」、『キネマ旬報』1984年5月下旬号、170-171頁、[http://www.eiga-portal.com/eigasai/tokyo14/classic/01.shtml DVD映画ポータル 第14回東京国際映画祭 ニッポン・シネマ・クラシック ]、[https://heraldobkai.com/life/index.html 「東京国際映画祭」 古川勝巳 年譜(映画人生50年 永遠の青春) - ヘラルド OB会]、[http://www.yasutoshi.jp/blog/?y=2011&m=05 「外務委員会で質問。」ニッシーブログ、2011.05.11] - [http://www.yasutoshi.jp/ 西村やすとし オフィシャルサイト]</ref><ref name="tiff2">[http://2014.tiff-jp.net/news/ja/?p=17859 第27回東京国際映画祭 | 連載企画第2回:【映画祭の重鎮が語る、リアルな映画祭史!】]</ref>。 1985年のスタート時は隔年開催で渋谷の映画館を中心に開かれていたが、[[1991年]]第4回に岡田映連会長の指名で[[徳間康快]]がゼネラル・プロデューサー(GP)就任後は<ref name="金澤">{{Cite book | 和書 | title = 徳間康快 | author = 金澤誠 | publisher = [[新文化通信社|文化通信社]] | year = 2010 | id = | pages = 148-150 }}</ref><ref>{{Cite journal | 和書 | author = 室井実 | date = 2013年3月号 | title = スタジオジブリを創った男 徳間康快伝 | journal = 月刊BOSS | publisher = 経営塾 | pages = 91-92 }}{{Cite journal | 和書 | author = [[針木康雄]] | date = 2000年11月号 | title = 東映会長・岡田茂 メディアミックス時代の名プロデューサー『もののけ姫』の生みの親 徳間康快氏の死を悼む| journal = 月刊経営塾(現・月刊BOSS)| publisher = 経営塾 | pages = 56-57 }}</ref><ref name="tiff18199">[http://2014.tiff-jp.net/news/ja/?p=18199 第27回東京国際映画祭 | 連載企画第3回:【映画祭の重鎮が語る、リアルな映画祭史!】-平成時代に入って徳間体制へ(1989年-1992年)]</ref>、毎年開催されるようになった<ref name="金澤" /><ref name="tiff18199" />。[[1994年]]は[[平安京|平安]]遷都1200周年記念として「京都国際映画祭 / 第7回東京国際映画祭 - 京都大会」という名称のもと[[京都市]]で開催された<ref>{{Cite web|和書|url=http://history.tiff-jp.net/ja/overviews?no=7 |title=TIFF HISTORY &#x7C; 東京国際映画祭の輝かしき軌跡をたどる > OVERVIEW > 7th 1994 |publisher=東京国際映画祭 |author= |date= |language=日本語 |accessdate=2014-10-28}}</ref>。 国際審査委員が最優秀作品賞である“東京グランプリ”を選出する「コンペティション」や世界の映画祭で話題になった作品を日本公開前にプレミア上映する「ガラ・セレクション」、長編3作目までのアジアの新鋭監督の作品に焦点を当てた「アジアの未来」、まだ日本での配給が決まっていない世界の注目作品を紹介する「ワールド・フォーカス」、海外に紹介されるべき日本映画という視点で選考された作品を上映する「Nippon Cinema Now」などのメイン企画をはじめ様々な企画が毎年開催される。[[2004年]]には世界の映画界に貢献した映画人をたたえる賞として「黒澤明賞」が新設された<ref>{{Cite web|和書|url=http://history.tiff-jp.net/ja/overviews?no=17 |title=TIFF HISTORY &#x7C; 東京国際映画祭の輝かしき軌跡をたどる > OVERVIEW > 17th 2004 |publisher=東京国際映画祭 |author= |date= |language=日本語 |accessdate=2014-10-28}}</ref>。黒澤明賞が設けられたのは[[2008年]]まで。2005年には映画祭最高賞の名称が「東京グランプリ」から「東京 サクラ グランプリ」<!-- 「サクラ」の前後にはスペースがある[http://2008.tiff-jp.net/ja/awards/][http://2009.tiff-jp.net/ja/awards/][http://2010.tiff-jp.net/ja/tiff/prizes.html][http://2011.tiff-jp.net/ja/tiff/prizes.html][http://2012.tiff-jp.net/ja/tiff/list_of_winners.html][http://tiff.yahoo.co.jp/2013/jp/tiff/prizes.php] --> に変更された <ref>{{Cite web|和書|url=http://history.tiff-jp.net/ja/overviews?no=18 |title=TIFF HISTORY &#x7C; 東京国際映画祭の輝かしき軌跡をたどる > OVERVIEW > 18th 2005 |publisher=東京国際映画祭 |author= |date= |language=日本語 |accessdate=2014-10-28}}</ref>が、2014年に「東京グランプリ」に戻された。 2014年、第27回東京国際映画祭ラインナップ発表会の際に、比類なき感性で常に時代を切り開き続けている人の実績をたたえる賞として「サムライ“SAMURAI”賞」が新設された<ref>{{Cite web|和書|url=http://2014.tiff-jp.net/news/ja/?p=26707 |title=「サムライ“SAMURAI”賞」新設!第1回受賞者は北野 武さん、ティム・バートンさん! |publisher=第27回東京国際映画祭 |author= |date=2014-09-30 |language=日本語 |accessdate=2014-10-28}}</ref><ref name="samurai">[https://www.cinematoday.jp/news/N0066822 東京国際映画祭「SAMURAI賞」を新設!北野武、ティム・バートンが受賞](シネマトゥデイ、2014年9月30日)</ref>([[2017年]]まで)。2021年には商業経験のない作家を対象とした短編コンペの「Amazon Prime Videoテイクワン賞」が設立された。 2015年、[[上海国際映画祭]]との協力連携が発表される<ref>{{Cite web|和書|url=http://eiga.com/news/20150612/14/|title=東京国際映画祭と上海国際映画祭が協力提携 上映作品の連携などで発展目指す|publisher=映画.com|date=2015-06-12|accessdate=2015-06-17}}</ref>。 コンペティション部門への応募作品は2021年には113カ国・地域から1533本に上り、「アジア最大級の国際映画祭」へと成長している<ref>{{Cite web|和書|title=100以上の国・地域から応募、「アジア最大級」に成長-東京国際映画祭|url=https://www.nippon.com/ja/features/h00327/|website=nippon.com|date=2018-11-02|accessdate=2019-03-01|language=ja}}</ref>。 == 開催日程&受賞一覧 == {| class="wikitable" !回数!!開催日程!!グランプリ受賞作品!!<small>黒澤明賞<br />(第17回 - 第21回)<br />サムライ“SAMURAI”賞<br />(第27回 - 第30回)</small> |- |style="text-align:center"|[[第1回東京国際映画祭|第1回]]||[[1985年]][[5月31日]] <br />- [[6月9日]]||『[[台風クラブ]]』([[相米慎二]]監督){{JPN}}|| |- |style="text-align:center"|[[第2回東京国際映画祭|第2回]]||[[1987年]][[9月25日]] <br />- [[10月4日]]||『[[古井戸 (映画)|古井戸]]』([[呉天明]]監督){{CHN}}|| |- |style="text-align:center"|[[第3回東京国際映画祭|第3回]]||[[1989年]][[9月29日]] <br />- [[10月8日]]||『ホワイト・ローズ』(ライコ・グルリチ監督)[[ファイル:Flag of SFR Yugoslavia.svg|border|25px]] [[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア]]|| |- |style="text-align:center"|[[第4回東京国際映画祭|第4回]]||[[1991年]][[9月27日]] <br />- [[10月6日]]||『[[希望の街]]』([[ジョン・セイルズ]]監督){{USA}}|| |- |style="text-align:center"|[[第5回東京国際映画祭|第5回]]||[[1992年]]9月25日 <br />- 10月4日||『[[ホワイト・バッジ]]』([[鄭智泳]]監督){{KOR}}|| |- |style="text-align:center"|[[第6回東京国際映画祭|第6回]]||[[1993年]][[9月24日]] <br />- [[10月3日]]||『[[青い凧]]』([[田壮壮]]監督){{CHN}}|| |- |style="text-align:center"|[[第7回東京国際映画祭|第7回]]||[[1994年]]9月24日 <br />- [[10月2日]]||『息子の告発』([[巌浩]]監督){{CHN}}|| |- |style="text-align:center"|[[第8回東京国際映画祭|第8回]]||[[1995年]][[9月22日]] <br />- [[10月1日]]||該当作品なし|| |- |style="text-align:center"|[[第9回東京国際映画祭|第9回]]||[[1996年]]9月27日 <br />- 10月6日||『[[コーリャ 愛のプラハ]]』([[ヤン・スヴェラーク]]監督){{CZE}}|| |- |style="text-align:center; white-space:nowrap"|[[第10回東京国際映画祭|第10回]]||[[1997年]][[11月1日]] <br />- [[11月10日|10日]]||『[[ビヨンド・サイレンス]]』([[カロリーヌ・リンク]]監督){{DEU}}<br />『[[パーフェクト サークル]]』(アデミル・ケノヴィッチ監督){{BIH}}|| |- |style="text-align:center"|[[第11回東京国際映画祭|第11回]]||style="white-space:nowrap"|[[1998年]][[10月31日]] <br />- [[11月8日]]||『[[オープン・ユア・アイズ (映画)|オープン・ユア・アイズ]]』([[アレハンドロ・アメナバル]]監督){{ESP}}|| |- |style="text-align:center"|[[第12回東京国際映画祭|第12回]]||[[1999年]][[10月30日]] <br />- [[11月7日]]||『ダークネス&ライト』(チャン・ツォーチ監督){{TWN}}|| |- |style="text-align:center"|[[第13回東京国際映画祭|第13回]]||[[2000年]][[10月28日]] <br />- [[11月5日]]||『[[アモーレス・ペロス]]』([[アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ]]監督){{MEX}}|| |- |style="text-align:center"|[[第14回東京国際映画祭|第14回]]||[[2001年]][[10月27日]] <br />- [[11月4日]]||『スローガン』(ジェルジ・ジュヴァニ監督){{ALB}}|| |- |style="text-align:center"|[[第15回東京国際映画祭|第15回]]||[[2002年]][[10月26日]] <br />- 11月4日||『ブロークン・ウィング』(ニル・ベルグマン監督){{ISR}}|| |- |style="text-align:center"|[[第16回東京国際映画祭|第16回]]||[[2003年]]11月1日 <br />- [[11月9日|9日]]||『暖〜ヌアン』<ref>劇場公開時の邦題『[[故郷の香り|故郷(ふるさと)の香り]]』</ref>([[霍建起]]監督){{CHN}}|| |- |style="text-align:center"|[[第17回東京国際映画祭|第17回]]||[[2004年]][[10月23日]] <br />- 31日||『[[ウィスキー (映画)|ウィスキー]]』([[フアン・パブロ・レベージャ]]、[[パブロ・ストール]]監督){{URY}}||[[スティーヴン・スピルバーグ]]<br />[[山田洋次]] |- |style="text-align:center"|[[第18回東京国際映画祭|第18回]]||[[2005年]][[10月22日]] <br />- 31日||『[[雪に願うこと]]』([[根岸吉太郎]]監督){{JPN}}||[[侯孝賢]]<br />[[市川崑]] |- |style="text-align:center"|[[第19回東京国際映画祭|第19回]]||[[2006年]][[10月21日]] <br />- [[10月29日|29日]]||『OSS 117 カイロ、スパイの巣窟』<ref>DVD化の際の邦題『[[OSS 117 私を愛したカフェオーレ]]』</ref>([[ミシェル・アザナヴィシウス]]監督){{FRA}}||[[ミロス・フォアマン]]<br />[[市川崑]] |- |style="text-align:center"|[[第20回東京国際映画祭|第20回]]||[[2007年]][[10月20日]] - 28日||『[[迷子の警察音楽隊]]』([[エラン・コリリン]]監督){{ISR}}||[[デヴィッド・パットナム]] |- |style="text-align:center"|[[第21回東京国際映画祭|第21回]]||[[2008年]][[10月18日]] <br />- 26日||『トルパン』(セルゲイ・ドヴォルツェヴォイ監督){{DEU}}・{{CHE}}・{{KAZ}}・{{RUS}}・{{POL}}||[[ニキータ・ミハルコフ]]<br />[[チェン・カイコー]] |- |style="text-align:center"|[[第22回東京国際映画祭|第22回]]||[[2009年]][[10月17日]] <br />- [[10月25日|25日]]||『イースタン・プレイ』<ref>劇場公開時の邦題『[[ソフィアの夜明け]]』</ref>(カメン・カレフ監督){{BGR}}|| |- |style="text-align:center"|[[第23回東京国際映画祭|第23回]]||[[2010年]][[10月23日]] <br />- [[10月31日|31日]]||『僕の心の奥の文法』(ニル・ベルグマン監督){{ISR}}|| |- |style="text-align:center"|[[第24回東京国際映画祭|第24回]]||[[2011年]][[10月22日]] <br />- [[10月30日|30日]]||『[[最強のふたり]]』(エリック・トレダノ/オリヴィエ・ナカシュ監督){{FRA}}|| |- |style="text-align:center"|[[第25回東京国際映画祭|第25回]]||[[2012年]][[10月20日]] <br />- [[10月28日|28日]]||『[[もうひとりの息子]]』(ロレーヌ・レヴィ監督){{FRA}}|| |- |style="text-align:center"|[[第26回東京国際映画祭|第26回]]||[[2013年]][[10月17日]] <br />- [[10月25日|25日]]||『ウィ・アー・ザ・ベスト!』([[ルーカス・ムーディソン]]監督){{SWE}}|| |- |style="text-align:center"|[[第27回東京国際映画祭|第27回]]||[[2014年]][[10月23日]] <br />- [[10月31日|31日]]||『[[神様なんかくそくらえ]]』(ジョシュア・サフディ、ベニー・サフディ監督){{USA}}・{{FRA}}||[[ビートたけし|北野武]]<br />[[ティム・バートン]] |- |style="text-align:center"|[[第28回東京国際映画祭|第28回]]||[[2015年]][[10月22日]] <br />- [[10月31日|31日]]||『ニーゼ』(ホベルト・ベリネール監督){{BRA}}||[[山田洋次]]<br />[[ジョン・ウー]] |- |style="text-align:center"|[[第29回東京国際映画祭|第29回]]||[[2016年]][[10月25日]] <br />- [[11月3日]]|| 『ブルーム・オヴ・イエスタディ』(クリス・クラウス監督){{GER}}{{AUT}} ||[[マーティン・スコセッシ]]<br />[[黒沢清]] |- |style="text-align:center"|[[第30回東京国際映画祭|第30回]]||[[2017年]][[10月25日]] <br />- [[11月3日]]|| 『グレイン』 ''[[:en:Grain (film)|Grain]]'' ([[セミフ・カプランオール]]監督){{TUR}}<ref name="TZrQTAjA0">{{Cite news|url= https://www.cinemaniera.com/movie/32485 |title= 第30回TIFF東京グランプリはトルコ映画『グレイン』! |newspaper= シネママニエラ |publisher= ギャラリーくぼた |date= 2017-11-3 |accessdate= 2018-1-2}}</ref> ||[[坂本龍一]]<ref name="TZrQTAjA0" /> |- |style="text-align:center"|[[第31回東京国際映画祭|第31回]]||[[2018年]][[10月25日]] <br />- [[11月3日]]|| 『アマンダと僕』 ([[ミカエル・アース]]監督){{FRA}}|| |- |style="text-align:center"|[[第32回東京国際映画祭|第32回]]||[[2019年]][[10月28日]] <br />- [[11月5日]]||『わたしの叔父さん』([[フラレ・ピーダセン]]監督) | |- |style="text-align:center"|[[第33回東京国際映画祭|第33回]]||[[2020年]][[10月31日]] <br />- [[11月9日]]||[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]]の感染拡大に伴いコンペティション部門中止<br />TOKYOプレミア2020部門観客賞/東京都知事賞受賞『[[私をくいとめて]]』([[大九明子]]監督){{JPN}} | |- |style="text-align:center"|[[第34回東京国際映画祭|第34回]]||[[2021年]][[10月30日]] <br />- [[11月8日]]||『ヴェラは海の夢を見る』([[カルトリナ・クラスニチ]]監督)<br />観客賞/スペシャルメンション『[[ちょっと思い出しただけ]]』([[松居大悟]]監督){{JPN}} |- |style="text-align:center"|[[第35回東京国際映画祭|第35回]]||[[2022年]][[10月24日]] <br />- [[11月2日]]||『ザ・ビースト』(ロドリゴ・ソロゴイェン監督) | |- |style="text-align:center"|[[第36回東京国際映画祭|第36回]]||[[2023年]][[10月23日]] <br />- [[11月1日]]||『雪豹』(ペマ・ツェテン監督) |} == 部門 == === 現在ある部門・企画 === * コンペティション ** 当初は「インターナショナル・コンペティション」と「ヤングシネマ・コンペティション」に分かれていた。 * ガラ・セレクション([[2021年]] - ) * アジアの未来([[2013年]] - ) * ワールド・フォーカス([[2013年]] - ) * Nippon Cinema Now([[2021年]] - ) * 日本映画クラシックス([[2015年]]- ) * ジャパニーズ・アニメーション([[2019年]]- ) * TIFFシリーズ([[2021年]]- ) * Amazon Prime Videoテイクワン賞([[2021年]]- ) === 過去にあった部門・企画 === ==== 日本映画部門 ==== * ニッポン・シネマ・ナウ([[1989年]] - [[1993年]]、[[1999年]] - [[2001年]]) * NIPPON CINEMA WEEK([[1994年]]) * ニッポン・シネマ・クラシック([[1995年]] - [[1998年]]、[[2000年]] - [[2008年]])<ref>{{Cite book|和書 |title=映画を追え:フィルムコレクター歴訪の旅 |date=2023.2 |publisher=草思社 |pages=126-132 |author=[[山根貞男]] |isbn=978-4-7942-2614-3}}</ref> * ニッポン・シネマ・マスターズ([[1999年]]) * 日本映画・ある視点([[2004年]] - [[2012年]]) * 日本映画・スプラッシュ([[2013年]] - [[2019年]]) ==== アジア映画部門 ==== * アジア秀作映画週間([[1985年]] - [[1996年]]) * シネマプリズム([[1997年]] - [[2001年]]) * アジアの風([[2002年]] - [[2012年]]) * [[国際交流基金]]アジアセンター presents CROSSCUT [[アジア|ASIA]]([[2014年]] - [[2020年]]) ==== その他 ==== * シネマ・ヴァイブレーション/映画と音楽の共振関係([[2006年]] - [[2008年]]) * animecs TIFF([[2006年]] - [[2008年]]) * WORLD CINEMA([[2007年]] - [[2012年]]) ** [[2007年]]のみ「ワールドシネマ」部門 * 映画人の視点([[2008年]] - [[2011年]]) * natural TIFF([[2008年]] - [[2012年]]) == 会場 == 2003年までは渋谷のみで開催され、[[Bunkamura]]([[オーチャードホール]]、[[シアターコクーン]]、[[ル・シネマ|ル・シネマ1・2]])や渋谷の他の映画館やホールが会場となっていた。 2004年から2008年までは渋谷のBunkamuraと六本木ヒルズが会場となっていた。 2009年以降は渋谷を会場とせず、六本木ヒルズをメイン会場として映画祭が開催されている(2009年と2010年と2013年は六本木のみで開催、2011年は六本木と[[日比谷]]、2012年は六本木と[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]、2014年は六本木・[[銀座]]・日本橋・京橋で開催。2015年は六本木・銀座・[[新宿]]で開催)。2016年は六本木・銀座で開催された。六本木では[[シネマート六本木]]も会場として使われていた(2008年 - 2014年)。 2018年は、六本木は六本木ヒルズとEXシアター六本木を使用し、東京ミッドタウン日比谷 日比谷ステップ広場でも上映などが催された。 2021年からはメイン会場を[[日比谷]]・[[有楽町]]・[[銀座]]地区に完全移転し、オープニング会場は[[東京国際フォーラム]](ホールC)で行われ新装開催となった。2022年は[[東京宝塚ビル|東京宝塚劇場]]でOP開催予定 == 日本人の受賞 == *[[相米慎二]]監督『[[台風クラブ]]』が、グランプリを受賞(1985年) *[[長崎俊一]]監督『[[誘惑者]]』が、国際映画批評家連盟賞を受賞(1989年) *[[恩地日出夫]]監督『[[四万十川]]』で、斎藤岩男と[[安藤庄平]]が最優秀芸術貢献賞を受賞(1991年) *[[柳町光男]]監督『[[愛について、東京]]』が審査員特別賞を受賞(1992年) *[[杉田成道]]監督『[[ラストソング]]』で、[[本木雅弘]]が男優賞を受賞(1993年) *[[市川崑]]監督『[[四十七人の刺客]]』が、審査員特別賞を受賞(1994年) *トニー・オウ監督『[[南京の基督]]』で、[[富田靖子]]が女優賞を受賞(1995年) *[[貞永方久]]監督『[[良寛]]』で、貞永片久が最優秀芸術貢献賞を受賞(1996年) *[[黒沢清]]監督『[[CURE]]』で、[[役所広司]]が男優賞を受賞(1997年) *[[深作欣二]]監督『[[おもちゃ]]』で、[[宮本真希]]が女優賞を受賞(1998年) *[[庵野秀明]]監督『[[式日]]』で、庵野秀明が最優秀芸術貢献賞を受賞(2000年) *[[田中光敏]]監督『[[化粧師 KEWAISHI]]』で、[[横田与志]]が最優秀脚本賞を受賞(2001年) *[[中江裕司]]監督『[[ホテル・ハイビスカス]]』が、審査員特別賞を受賞(2002年) *霍建起監督『故郷の香り』で、[[香川照之]]が男優賞を受賞(2003年) *[[廣木隆一]]監督『[[ヴァイブレータ]]』で、[[寺島しのぶ]]が女優賞を受賞(2003年) *[[森崎東]]監督『[[ニワトリはハダシだ]]』で、森崎東監督が最優秀芸術貢献賞を受賞(2004年) *[[根岸吉太郎]]監督『[[雪に願うこと]]』が、グランプリと観客賞を受賞(2005年) *根岸吉太郎監督『雪に願うこと』で、根岸吉太郎が最優秀監督賞を受賞(2005年) *根岸吉太郎監督『雪に願うこと』で、[[佐藤浩市]]が男優賞を受賞(2005年) *[[前田哲]]監督『[[ブタがいた教室]]』が、観客賞を受賞(2008年) *[[新藤兼人]]監督『[[一枚のハガキ]]』が、審査員特別賞を受賞(2010年) *[[沖田修一]]監督『[[キツツキと雨]]』が、審査員特別賞を受賞(2011年) *[[松江哲明]]監督『フラッシュバックメモリーズ3D』が、観客賞を受賞(2012年) *[[吉田大八 (映画監督)|吉田大八]]監督『[[紙の月]]』が、観客賞を受賞(2014年) *吉田大八監督『紙の月』で、[[宮沢りえ]]が女優賞を受賞(2014年) *[[大九明子]]監督『[[勝手にふるえてろ]]』が、観客賞を受賞(2017年) *[[阪本順治]]監督『[[半世界]]』が、観客賞を受賞(2018年) *[[足立紳]]監督『[[喜劇 愛妻物語]]』で、足立紳が最優秀脚本賞を受賞(2019年) *大九明子監督『[[私をくいとめて]]』が、観客賞を受賞(2020年) *[[松居大悟]]監督『[[ちょっと思い出しただけ]]』が、観客賞を受賞(2021年) *[[今泉力哉]]監督『[[窓辺にて]]』が、観客賞を受賞(2022年) *[[岸善幸]]監督『[[正欲]]』で、岸善幸が監督賞を受賞(2023年) *岸善幸監督『正欲』が、観客賞を受賞(2023年) == 創設経緯 == [[1982年]]に[[通産省]](現・[[経済産業省]])から、[[岡田茂 (東映)|岡田茂]]映連会長に1985年の[[国際科学技術博覧会|つくば万博]]に合わせて国際映画祭をやれないかという要請があった<ref name="nikkei19820629">{{Cite news |title=これなら摩擦起こるまい、映像文化は世界市場をめざす―通産省が音頭の東京映画祭|newspaper=[[日本経済新聞]] |publisher=[[日本経済新聞社]] |date=1982-6-29 |page=23}}</ref><ref name="映画時報19850405">{{Cite journal|和書 |author = |title = 特集1 多彩な企画で全世界の注目を集める {{small|第一回}}東京国際映画祭の全貌 実行委員長岡田茂氏 {{small|(映連会長・東映社長)}}インタビュー {{small|開幕式には中曽根首相も出席 渋谷の街がシネマタウンになる…}} |journal = 映画時報 |issue = 1985年4、5月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 4-7 }}</ref><ref name="キネ旬19830301">{{Cite journal|和書 |author =西沢正史・脇田巧彦・川端靖男・[[黒井和男]] |title = 映画・トピック・ジャーナル 60年科学博でその開催が要請されている"国際映画祭"だが、果たして実現するのか? | journal = [[キネマ旬報]] |issue =1983年3月上旬号 |publisher = [[キネマ旬報社]] | pages = 168-169 }}</ref>。岡田に話を持ち掛けたのは[[小長啓一]]通産省政策局長とされる<ref name="週刊新潮19850613">{{Cite journal|和書 |author = |title =『ヘア』が圧勝した東京国際映画祭の『官民』凝視 |journal = [[週刊新潮]] |issue = 1985年6月13日号 |publisher = [[新潮社]] |pages = 140–143頁 }}</ref>。通産省としては衰退の一途を辿る国内[[映画産業]]が復活の兆しが見えないため、国際映画祭という刺激を与えることで活を入れたいという話で<ref name="nikkei19820629"/>、つくば万博に合わせ、一週間程度の期間で東京で開く案が有力視され、少なくとも二年に一回の開催とし、定期的な国際映画祭に育てていくという基本的なプランを映連で1982年7月末にまとめた<ref name="nikkei19820629"/>。つくば万博の目玉がないため、映画祭の案が出たものと見られたが<ref name="キネ旬19830301"/>、日本政府からの援助は1億2000万円<ref name="キネ旬19830301"/>。1983年1月から2月にかけて第二回マニラ国際映画祭に岡田を団長とする映連幹部が参加し、同映画祭の運営の詳細を聞いたところ予算が約4億円で<ref name="キネ旬19830301"/>、その金額でも参加65ヵ国、約1000人の[[バイヤー]]の費用その他は賄えないと同映画祭を個人的な趣味で始めたといわれる[[イメルダ・マルコス]]から聞いた<ref name="キネ旬19830301"/>。映画祭の記者会見の席上、現地メディアから「日本で国際映画祭はやらないのか」という質問が出たため、岡田は「通産省からその種のものをやってくれないかという要請は来ているが、とても日本ではこういう映画祭は考えられない」と答えた<ref name="キネ旬19830301"/>。[[東洋]]の国、特に日本は地理的なハンデもあり、国際映画祭を行うと参加国の[[交通費]]など欧米と比べて資金が高くつくし、文化的に価値のあるものに金を出さないというお国柄で<ref name="キネ旬19830301"/><ref name="asahi19870914">{{Cite news |title= 国際映画祭を定着させたい(社説) |newspaper=朝日新聞 |publisher=朝日新聞社 |date=1987-9-14 |page=5}}</ref>、映画業界にも金はないため、政府援助1億2000万円程度で開催できる筈もなかった<ref name="キネ旬19830301"/>。余程強力な[[スポンサー]]でも見つけない限り、日本での国際映画祭開催は不可能と見られた<ref name="キネ旬19830301"/>。 国際映画祭は[[1970年]]の[[日本万国博覧会|大阪万博]]のプログラムの一つとして「日本国際映画祭」と銘打ち、行われたことがあり(1970年4月1日~10日、[[フェスティバルホール|大阪フェスティバルホール]])<ref name="tiff2"/><ref name="キネ旬19840502"/><ref name="報知19691202">{{Cite news |title = 万国博で国際映画祭75か国に招待 |date = 1969年7月3日 |newspaper = [[スポーツ報知|報知新聞]] |publisher = [[報知新聞社]] |page = 10 }}</ref><ref name="週刊映画19700302">{{Cite news |title = 開幕が近づいた二大行事 日本国際映画祭 アカデミー賞とで興行に齎らす点 |date = 1970年3月21日 |newspaper = 週刊映画ニュース |publisher = 全国映画館新聞社 |page = 1 }}</ref>、実務を担当したのは当時の岡田の上司・[[大川博]]東映社長だった<ref name="キネ旬19840502">{{Cite journal|和書 |author =西沢正史・脇田巧彦・川端靖男・黒井和男 |title = 映画・トピック・ジャーナル 全容を明らかにした『東京国際映画祭』、最大のネック、センサーの問題はどうなるのか? | journal = キネマ旬報 |issue =1984年5月下旬号 |publisher = キネマ旬報社 | pages = 170-171 }}</ref><ref name="報知19691202"/><ref>{{Cite journal|和書 |author = |title = 五百万でも苦しいのに一億五千万円とは |journal = [[週刊文春]] |issue = 1967年11月6日号 |publisher = [[文藝春秋]] |pages = 23 }}</ref>。しかし国際映画祭での出品作は未公開作に限るという規定が厳しく<ref name="報知19691202"/>、辞退会社が続出<ref name="報知19691202"/><ref>{{Cite news |title = 69年十大ニュース 日本国際映画祭開催決定 |date = 1969年12月20日 |newspaper = 週刊映画ニュース |publisher = 全国映画館新聞社 |page = 1 }}</ref>。当時は日本映画の不況が深刻化した時代で<ref>{{Cite journal|和書 |author = |title = 新しい年の重要ニュースの回顧と'70年への建設的な展望'70年代の超非常事態にいかに処するか |journal = 映画時報 |issue = 1970年1月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 12-21 }}</ref>、各社映画祭どころではなく<ref name="映画時報19850405"/>、[[松竹]]の[[城戸四郎]]は全くやる気なし<!---<ref name="映画時報19850405"/>--->、[[大映]]の[[永田雅一]]は会社がおかしくなり<!---<ref name="映画時報19850405"/>--->、[[日活]]の[[堀久作]]はこんなものはダメだと言うし<!---<ref name="映画時報19850405"/>--->、[[東宝]]の[[松岡辰郎]]は乗り気でなく<!---<ref name="映画時報19850405"/>--->、どこも協力してくれず<ref name="週刊ポスト19700417">{{Cite journal|和書 |author = |title = 国際映画祭の不思議なお祭り騒ぎ |journal = [[週刊ポスト]] |issue = 1970年4月17日号 |publisher = [[小学館]] |pages = 29 }}</ref><!---<ref name="映画時報19850405"/>---><ref>{{Cite news |title = 万国博の国際映画祭日本各社の出品"ゼロ"期日(出品通知)すぎたのに前途多難・頭かかえる関係者 |date = 1969年7月3日 |newspaper = 報知新聞 |publisher = 報知新聞社 |page = 10 }}</ref>。上映は海外も合わせて全部で20本に留まった<ref name="週刊映画19700302"/><ref name="映画時報19850405_8">{{Cite journal|和書 |author = |title = 特集2 事務局顧問・草壁久四郎氏(映画評論家) 海外渉外委員・福中修氏(東映取締役国際部長)インタビュー 映画という世界共通の言葉で友好の輪! |journal = 映画時報 |issue = 1985年4、5月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 8-18 }}</ref>。また欧米の映画祭では自国の[[法律]]や[[倫理]]基準で、他国の芸術作品を測ることはできないという"通則"があり<ref name="週刊新潮19700411">{{Cite journal|和書 |author = |title = 日本初の国際映画祭の非礼 |journal = [[週刊新潮]] |issue = 1970年4月11日号 |publisher = [[新潮社]] |pages = 15 }}</ref><ref name="映倫50年_80">{{Cite book |和書 | author = 「映倫50年の歩み」編纂委員会編 | title = 映倫50年の歩み | publisher = 映画倫理管理委員会 | year = 2006 | id = | pages = 80-81 }}</ref><ref name="asahi19850609">{{Cite news |title= アルフォンス・ブリッソンさん 国際映画祭りのお目付け役 (ひと) |newspaper=朝日新聞 |publisher=朝日新聞社 |date=1985-6-9 |page=3}}</ref>、[[スウェーデン]]の[[ハードコア (ポルノ)|ハードコア]]『[[私は好奇心の強い女 (イエロー篇)|私は好奇心の強い女]]』がノーカット無修正で上映されるのかが、[[マスメディア]]に盛んに取り上げられ<ref name="tiff2"/><ref name="映倫50年_124">{{Cite book |和書 | author = 「映倫50年の歩み」編纂委員会編 | title = 映倫50年の歩み | publisher = [[映倫管理委員会|映画倫理管理委員会]] | year = 2006 | id = | pages = 124 }}</ref><ref name="週刊サンケイ19700413">{{Cite journal |和書 |author = |title = 芸能情報 万博で初封切り "私は好奇心の…" |journal = [[SPA!|週刊サンケイ]] |issue = 1970年4月13日号 |publisher = [[産業経済新聞社]] |pages = 19 }}</ref><ref name="週刊ポスト19700410">{{Cite journal | 和書 |author = |title = NEWS MAKERS "芸術作品"もバッサリ 税関の"ハサミ" |journal = 週刊ポスト |issue = 1970年4月10日号 |publisher = 小学館 |pages = 26 }}</ref>、同作は過激な裸体・性愛描写が各国で[[検閲]]議論を巻き起こし、世界中で「ポルノ解禁」をもたらす引き金になった曰く付きの映画であったが<ref name="映倫50年_124"/>、この影響もあって日本映画はさっぱり話題にならず<ref name="キネ旬19840502"/><ref name="週刊新潮19700411"/>、同作の監督と[[税関]]の間に挟まり大川は手を焼いた<ref name="週刊サンケイ19700413"/><ref name="週刊ポスト19700410"/>(結局45ヵ所の修正、11分間カットされて上映された)<ref name="映倫50年_124"/><ref name="週刊朝日19700612">{{Cite journal|和書 |author = |title = 文化チャンネル 税関の『検問』で輸入映画は受難続き |journal = [[週刊朝日]] |issue = 1970年6月12日号 |publisher = [[朝日新聞社]] |pages = 111 }}</ref>。「大川は[[勲章]]が欲しいからやるんだろう」<ref name="週刊ポスト19700417"/>「あれが国際映画祭か?」などと散々に叩かれ<!---<ref name="映画時報19850405"/>---><ref name="映画時報197004">{{Cite journal|和書 |author = | title = 各社映画を軸に附帯事業に本腰攻めるも守るもニガイ顔の春斗| journal = 映画時報 |issue = 1970年4月号 |publisher = 映画時報社 | pages = 31 }}</ref>、成果なしに終わり<ref name="キネ旬19840502"/>、映画界では国際映画祭は[[タブー]]などと言われた<!---<ref name="映画時報19850405"/>--->。間もなく大川が亡くなり、残務処理を岡田が引き継いで往生した<ref name="映画時報19850405"/>。映画界にとって何の実利もなく、岡田は最初は乗り気でなく<ref name="キネ旬19840502"/><!---<ref name="映画時報19850405"/>--->、やらない方がいいという先行的な考えを持っていた<ref name="映画時報19850405"/>。 しかし元[[電通]]の[[小谷正一]]が中心となり<ref name="映画時報19850405"/>、[[日本ヘラルド映画|日本ヘラルド]]の[[原正人]]、岡田晃、[[山本又一朗]]、[[鹿内春雄]]がグループを組み<!---<ref name="映画時報19850405"/>--->、開催実現に向け、岡田に盛んに働きかけた<ref name="映画時報19850405"/>。岡田は通産省やつくば万博のためのイベントだけでは映画界全体にとってメリットがなく、やる意味がないと突っぱねた<!---<ref name="映画時報19850405"/>--->。映画界のリーダーである岡田を説得しなければ実現は不可能で<!---<ref name="映画時報19850405"/>--->、小谷らが岡田に連日連夜押し込みを続け、引き受けざるを得なくなった<ref name="映画時報19850405"/><ref name="キネ旬19840502"/>。仕方なく岡田が東宝の[[松岡功]]、松竹の[[奥山融]]、大映の[[徳間康快]]、[[にっかつ]]の[[根本悌二]]らに頭を下げ、協力を要請し、ようやく開催に向け動き出した<ref name="映画時報19850405"/><ref name="heraldobkai">[https://heraldobkai.com/life/index.html 「東京国際映画祭」 古川勝巳 年譜(映画人生50年 永遠の青春) - ヘラルド OB会]</ref>。先の万博での映画祭は規模が小さかったため、東京国際映画祭が日本初の国際映画祭という認識だった<ref name="キネ旬19840502"/><ref name="映倫50年_124"/>{{Sfn|公式プログラム|1985|pp=2、5、7、12-13}}<ref name="asahi19850601">{{Cite news |title=世界の名優勢ぞろい 東京国際映画祭が開幕 |newspaper=朝日新聞 |publisher=朝日新聞社 |date=1985-6-1 |page=23}}</ref><ref name="daily20160731">{{cite news |title= さんま タモリと映画祭司会クビになった理由|newspaper = [[デイリースポーツ]] |publisher = [[神戸新聞社]] |date= 2016-07-31 |url= https://www.daily.co.jp/gossip/2016/07/31/0009338353.shtml|accessdate=2019-10-05 |archiveurl= https://megalodon.jp/2019-1004-2113-08/https://www.daily.co.jp:443/gossip/2016/07/31/0009338353.shtml|archivedate= 2019-10-05}}</ref><ref name="SCREEN198508">{{Cite journal|和書 |author = |title = こんなに世界のスターが大集合してまるでハリウッドのパーティーみたい 第一回東京国際映画祭ドキュメント |journal = [[SCREEN (雑誌)|SCREEN]] |issue = 1985年8月号 |publisher = [[近代映画社]] |pages = 110–112頁 }}</ref><ref name="アニメージュ198506">{{Cite journal|和書 |author = |title = 第一回東京国際映画祭アニメ・フェスティバル 〔ワクワク〕プログラム5月11日前売開始 |journal = [[アニメージュ]] |issue = 1985年6月号 |publisher = [[徳間書店]] |pages = 198頁 }}</ref>。 == 開催まで == 1983年10月25日に最初の会議が開かれ<ref name="映画情報198507"/>、1983年11月に岡田らとマスコミとの懇談会を開くなど<ref name="キネ旬19840502"/>、輪郭を決め、岡田と小谷らで準備委員会を作り、1983年12月に大まかな[[計画|プランニング]]発表があった<ref name="週刊映画19840101">{{Cite news |title = 再来年四月東京渋谷で開催の『東京国際映画祭』プラン発表 |date = 1984年1月1日 |newspaper = 週刊映画ニュース |publisher = 全国映画館新聞社 |page = 9 }}</ref>。この後、組織委員会を作る際に岡田と小谷で相談し、[[日本商工会議所]]に協力を仰ぐことになり<ref name="映画時報19850405"/>、当時の商工会議所会頭は岡田の[[後見人]]を自称していた[[永野重雄]]だったが<ref name="経済界19800321">{{Cite journal|和書 |author = 河合基吉 | title = 五島東急軍団、岡田東映が16年振りに復縁 実力社長同士の『信頼』から生まれた『兄弟仁義』の一部始終 | journal = [[経済界 (出版社)|経済界]] |issue = 1980年3月21日号 |publisher = 経済界 | pages = 18 - 21 }}</ref>、[[五島昇]]に会頭をバトンタッチすることが決まっていて<!---<ref name="映画時報19850405"/>---->、忙しいときに五島に頼むのは無理だろうと、誰かいい人はいないかとなり、岡田も付き合いのある[[瀬島龍三]]を候補に挙げたら<ref name="映画時報19850405"/><ref name="経済界19830524">{{Cite journal|和書 |author = 佐藤正忠 | title = 核心レポート 財界の若き首領(ドン) 岡田茂東映社長の魅力 | journal = 経済界 |issue = 1983年3月25日号 |publisher = 経済界 | pages = 26 - 29 }}</ref>、運輸省も是非と賛成し、岡田と小谷で瀬島に「組織委員会委員長になってくれ」と頼みに行ったら、瀬島から「いきなり組織委員長と言われても、わたしは映画を全然知らない人間だから困る」と断られた<ref name="映画時報19850405"/>。岡田は必ず[[日本国政府|政府]]との問題が色々起こって来ると予想し強引に瀬島を口説き、永野重雄からも瀬島に協力要請があり<ref name="週刊映画19840417">{{Cite news |title = 世界国際映画祭東京開催に会場は渋谷、原宿他も決る |date = 1984年4月17日 |newspaper = 週刊映画ニュース |publisher = 全国映画館新聞社 |page = 1 }}</ref><ref name="映画時報198404">{{Cite journal|和書 |author = |title =第一回『東京国際映画祭』 '85年5・31~6・9開催 |journal = 映画時報 |issue = 1984年4月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 18 }}</ref>、瀬島が渋々引き受けた<ref name="映画時報19850405"/>。瀬島は当時の[[内閣総理大臣|首相]]・[[中曽根康弘]]の[[ブレーントラスト|ブレーン]]の一人だった。 1984年2月24日、東京国際映画祭準備委員会が総会で準備委員会を「組織委員会」に発展改組し<ref name="映画時報198403">{{Cite journal|和書 |author = |title = 東京国際映画祭、実行委員長に岡田茂氏 準備委員会は『組織委員会』に発展改組 |journal = 映画時報 |issue = 1984年3月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 18 }}</ref><ref name="年鑑1985">{{Cite journal |和書 |author = |title = 映画界重要日誌 |journal = 映画年鑑 1984年版([[映画産業団体連合会]]協賛) |issue = 1984年12月1日発行 |publisher = 時事映画通信社 | pages = 12頁 }}</ref>、実施運営の総括組織として「実行委員会」を発足させ、組織委員会会長に瀬島龍三、実行委員会実行委員長に岡田茂、ゼネラル・プロデューサーに小谷正一が就任<ref name="映画時報198403"/><ref name="年鑑1985"/>。組織委員メンバーとして他に、[[天野房三]][[渋谷区|渋谷区長]]、井川博[[日本商工会議所]]専務理事、[[大島渚]][[日本映画監督協会]]理事長、岡道明[[東急エージェンシー]]常務取締役、[[加戸守行]][[文化庁]]次長、[[川口幹夫]][[日本放送協会|NHK]]専務理事、[[小長啓一]][[経済産業省|通産省]]政策局長、[[坂倉芳明]][[西武百貨店]]社長、並木貞人商店会・全振連会長、[[古川勝巳]]外国映画輸入配給協会会長、三浦守[[東急百貨店]]社長、[[三宅和助]]外務省情報文化局長、[[八住利雄]][[日本シナリオ作家協会]]理事長を選出した<ref name="キネ旬19840502"/><ref name="heraldobkai"/><ref name="映画時報198403"/>。構成メンバーの追加は岡田実行委員長を中心に人選すると発表した<ref name="映画時報198403"/>。メンバーは全員無償の[[ボランティア]]<ref name="映画時報19850405_8"/>。 [[国際映画製作者連盟]]から[[国際映画製作者連盟#公認映画祭|公認映画祭]]と認定を受け、1984年4月4日、[[キャピトル東急ホテル|ホテルキャピタル東急]]で正式に東京国際映画祭開催の決定発表があり<ref name="週刊映画19840417"/><ref name="映画時報198404"/>{{Sfn|ぴあ|1985|pp=150-151}}、東京国際映画祭組織委員会、実行委員会が映画祭の概要を発表した<ref>{{Cite journal |和書 |author = |title = 映画界重要日誌 |journal = 映画年鑑 1985年版(映画産業団体連合会協賛) |issue = 1984年が12月1日発行 |publisher = 時事映画通信社 | pages = 13頁 }}</ref>。岡田茂実行委員長を補佐する副委員長には[[松岡功]]が選出された{{Sfn|ぴあ|1985|pp=150-151}}。当時国際映画製作者連盟から公認された国際映画祭は八つで<ref name="映画情報198507">{{Cite journal|和書 |author = 川喜多和子・河原畑寧・小藤田千栄子 |title = 第一回東京国際映画祭 渋谷の街に映画があふれる10日間 |journal = 映画情報 |issue = 1985年7月号 |publisher = [[国際情報社]] |pages = 4–19頁 }}</ref>、東京は九番目であった<ref name="映画情報198507"/>。 [[第37回カンヌ国際映画祭|1984年のカンヌ国際映画祭]]に岡田茂東京国際映画祭実行委員長ら代表団と[[内田宏]]駐[[フランス]][[特命全権大使|大使]]が出席し<ref name="heraldobkai"/><ref name="ロードショー198408">{{Cite journal |和書 |author = |title = 東京国際映画祭カンヌで公式発表 |journal = [[ロードショー (雑誌)|ロードショー]] |issue = 1984年8月号 |publisher = [[集英社]] |pages = 213 }}</ref>、期間中の1984年5月19日の夜、当地のホテルマルチネで、東京国際映画祭開催の公式発表が行われた<ref name="ロードショー198408"/><ref name="yomiuri19840622">{{Cite news |title= カンヌ映画祭'84 東京国際映画祭へ |newspaper=読売新聞夕刊 |publisher=読売新聞社 |date=1984-6-22 |page=13}}</ref>。カンヌには世界の映画祭関係者が集まるため、[[極東]]の遠い都市での映画祭に好奇心がそそられ<ref name="yomiuri19840622"/>、36ヵ国から800人の[[ジャーナリスト]]が集まり、記者会見に用意した椅子も足りずに立ち見が出る盛況ぶりで、各国の東京国際映画祭に対する関心の高さがうかがえた{{Sfn|公式プログラム|1985|p=3}}<ref name="ロードショー198408"/>。アジア最大の映画マーケットである日本で、これまで国際映画祭が開かれなかったことが不思議という感想を持たれた<ref name="yomiuri19850612">{{Cite news |author = |title=〔芸能〕 東京の10日間 国際映画祭ふりかえる(下) 個性打ち出し飛躍を |newspaper=読売新聞夕刊 |publisher=読売新聞社 |date=1985-6-12 |page=13}}</ref>。後述の理由で期日を反対された敵地での会見になったが<ref name="ロードショー198408"/>、会見後は[[ジャン・マレー]]や[[ミレーヌ・ドモンジョ]]など、俳優、監督、プロデューサーらが「ぜひ東京に行きたい」と岡田実行委員長を祝福した<ref name="ロードショー198408"/>。 1984年7月26日、[[ホテルニューオータニ]]で、第2回実行委員会が開かれ、総合調整委員会実行委員長・岡田茂、ゼネラルプロデューサー・小谷正一、アソシエ―テッドプロデューサー・原正人、岡田晃、海外渉外委員会委員長・古川勝巳、副実行委員長兼広報委員会委員長・松岡功、上映委員会委員長・奥山融、作品選定委員会委員長・徳間康快などが決まった<ref name="映画時報19840809">{{Cite journal|和書 |author = |title = 『東京国際映画祭』各専門委決る 作品選定特別委員長に徳間康快氏 |journal = 映画時報 |issue = 1984年8、9月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 35 }}</ref>。各映画会社の社長に責任者になってもらう形をとった<ref name="sponichi19850530">{{Cite news |title = あす開幕『東京国際映画祭』上機嫌ソフィー祭典の華がきた |date = 1985年5月30日 |newspaper = [[スポーツニッポン]] |publisher = スポーツニッポン新聞社 |page = 14 }}</ref>。渋谷地区の委員会も結成され、渋谷の街ぐるみの映画祭とすると申し合わせがあった{{Sfn|ぴあ|1985|pp=150-151}}。また部会は「映画企画」「一般企画」「科学万博」「ニューメディア」の4部会があり、「映画企画」の総合プロデュースが山本又一朗で<ref name="映画時報19840809"/>、山本が自身のプロデュース作『[[ミシマ:ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ|Mishima]]』の上映問題で後に騒ぎを起こした<ref name="週刊読売19850519">{{Cite journal|和書 |author = |title = NEWS COMPO 東京国際映画祭揺るがす『MISHIMA』の問題シーン |journal = [[週刊読売]] |issue = 1985年5月19日号 |publisher = [[読売新聞社]] |pages = 30 }}</ref>。1984年11月、各企画の上映作品や開催場所、期間など具体的な内容も決定した<ref name="映画時報198412">{{Cite journal|和書 |author = |title = 第一回『東京国際映画祭』 映画企画、一般企画固る |journal = 映画時報 |issue = 1984年12月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 18 }}</ref>。1984年12月25日、[[在京テレビジョン放送局|在京テレビ局]]各社に対し映画祭の説明会を開き、協力を要請{{Sfn|ぴあ|1985|pp=150-151}}。若者向けの企画も多く組まれ、映画の素晴らしさをファンに[[パブリック・リレーションズ|PR]]する絶好の機会となり<ref name="nikkei19850107">{{Cite news |title= 再興への好機、東京国際映画祭(文化往来) |newspaper=日本経済新聞 |publisher=日本経済新聞社 |date=1985-1-7 |page=32}}</ref>、「どうしたら映画離れを食い止めることができるか」という長年映画人に課せられた映画再興という問いの答えを示す意地の舞台になった<ref name="nikkei19850107"/><ref name="mainichi19850514">{{Cite news |author = [[松島利行]] |title= 娯楽 近づく第一回東京国際映画祭〈上〉 |newspaper=毎日新聞夕刊 |publisher=毎日新聞社 |date=1985-5-14 |page=5}}</ref>。 1985年5月7日、[[内幸町]]の[[日本プレスセンタービル|日本プレスセンター]]で、岡田茂実行委員長より、映画祭の全ての企画の全容が発表された<ref name="年鑑1986">{{Cite journal |和書 |author = |title = 映画界重要日誌 |journal = 映画年鑑 1986(映画産業団体連合会協賛) |issue = 1985年12月1日発行 |publisher = 時事映画通信社 | pages = 14頁}}</ref><ref name="サンスポ19850508">{{Cite news |title = 『MISHIMA』の宣伝許さん 岡田実行委員長激怒 正式な要請ない 原作権所持者との問題も… |date = 1985年5月8日 |newspaper = [[サンケイスポーツ]] |publisher = [[産業経済新聞社]] |page = 17 }}</ref><ref name="sponichi19850508">{{Cite news |title = ヘア無修正上映 『国際規約通りに…』組織委正式発表 "解禁"へ半歩前進!? 『MISHIMA』を激しく非難 |date = 1985年5月8日 |newspaper = スポーツニッポン |publisher = スポーツニッポン新聞社 |page = 15 }}</ref>。また徳間康快作品選定委員会委員長が「すべての上映作品は国際映画祭規約に準じて上映される」と、間接的発言ながらヘアも無修正のまま上映されることを正式に認めた<ref name="sponichi19850508"/>。 === 諸問題 === ; 公認問題 日本で初めて開かれる大規模な国際映画祭で、諸問題が山積で大揺れ{{Sfn|公式プログラム|1985|p=6}}<ref name="yomiuri19850503">{{Cite news |author = |title=東京国際映画祭ピンチ米作品『MISHIMA』めぐり海外著名監督ら不参加の動き「なぜ上映とりやめ」 |newspaper=読売新聞 |publisher=読売新聞社 |date=1985-5-3 |page=23}}</ref><ref name="サンスポ19850520">{{Cite news |author = |title = 31日から東京国際映画祭 特例解禁!! ヘア見られソ 会場は治外法権!? あくまで自然に… 国際レベルなら当然かも |date = 1985年5月20日 |newspaper = サンケイスポーツ |publisher = 産業経済新聞社 |page = 19 }}</ref>。変更を余儀なくされていくケースがたくさん出た<ref name="キネ旬19840502"/>。国際映画製作者連盟から公認映画祭と認定はされたが<ref name="映画時報19850405_8"/>、[[仮運転免許|仮免許]]のようなもので「グランプリ」という名称は使えず<ref name="映画時報19850405_8"/>。第二回からは「グランプリ」という名称が許されて映画祭の本命である東京グランプリを競う作品の[[コンペティション]]が出来るということで<ref name="映画時報19850405_8"/>、第一回は「グランプリ」を選出する[[コンクール]]がないため<ref name="yomiuri19850530">{{Cite news |author = 土屋好生 |title=PR 第一回東京国際映画祭あす開幕渋谷わき立つ |newspaper=[[読売新聞]]夕刊 |publisher=[[読売新聞社]] |date=1985-5-30 |pages=6–7}}</ref>、いろんな催しが企画され苦心のプログラムが組まれた<ref name="yomiuri19850530"/>。プログラムの超目玉が「ヤングシネマ85」(1945年以降に生まれた監督作品のコンペ)であった<ref name="tiff2"/>{{Sfn|公式プログラム|1985|p=16}}<ref name="映画情報198505_26">{{Cite journal|和書 |author = 八森稔 |title = 予告篇!! 第一回東京国際映画祭 |journal = 映画情報 |issue = 1985年5月号 |publisher = 国際情報社 |pages = 26–27頁 }}</ref>。内外の新進監督のコンクールで、最優秀作品に次回作品の製作資金として150万ドル(当時は3億8000万円に相当)<ref name="映画時報19850405_8"/>を提供するという世界の映画祭でも前例のない高額賞金で<!---<ref name="映画時報19850405"/>--->、[[ヨーロッパ]]の各国から「本当か?一桁間違えてないか?」と心配されたが<ref name="映画時報19850405_8"/>、「さすが[[経済大国]]」と改めて感心された<ref name="映画時報19850405_8"/>。国際映画祭では初めての賞金つきコンクールと書かれたものがある<ref name="asahi19850611">{{Cite news |title=まずは成功 東京国際映画祭 映画人の熱意に好感 外人客への対応企画になお課題 |newspaper=[[朝日新聞]][[夕刊]] |publisher=[[朝日新聞社]] |date=1985-6-11 |page=9}}</ref>。同プログラムのチーフプロデューサー・[[佐々木史朗 (映画プロデューサー)|佐々木史朗]][[日本アート・シアター・ギルド|ATG]]社長がカンヌでいきなり「150万ドル出す」と発表したもので、隣にいた岡田が「大丈夫か、わしはそんな金知らんぞ」と思わず声を上げた<ref name="映画時報19850405"/>。どこの国の若手監督も製作費に悩んでいるため、カンヌでの記者会見では作品の管理はどうするのだ等、若手監督らが代表団を質問責めに遭わせた<ref name="ロードショー198408"/><ref name="映画情報198505_26"/>。150万ドルは[[フジテレビ]]と[[CSK (企業)|CSK]]が出資した<ref name="サンスポ19850610">{{Cite news |author = |title = 映画の祭典フィナーレ見た!!25万ファン『ビルマの竪琴』で終幕「ヤングシネマ'85」『台風クラブ』に大賞 |date = 1985年6月10日 |newspaper = サンケイスポーツ |publisher = 産業経済新聞社 |page = 17 }}</ref>。CSKグループには、[[セガ・エンタープライゼス]]や[[ぴあ]]が参加しており<ref name="ns19850508">{{Cite news |title= ぴあ、基金制度を設立―文化イベント資金援助 |newspaper=[[日経産業新聞]] |publisher=[[日本経済新聞社]] |date=1985-5-8 |page=6}}</ref>、ぴあは東京国際映画祭を皮切りに、新しく立ち上げた「ぴあ基金」制度を仲介として、各種文化イベントに資金援助していくと発表した<ref name="ns19850508"/>。当時の[[社会主義国]]のほとんどを含む世界40ヵ国から519本の応募作品が殺到し{{Sfn|公式プログラム|1985|p=38}}<!---<ref name="映画時報19850405"/><ref name="映画情報198505_26"/>--->、世界中から注目される良い切っ掛けになった<ref name="映画時報19850405_8"/><ref name="映画情報198505_26"/>。当時映画製作の主要国は54ヵ国といわれ<ref name="映画時報19850405_8"/>、日本で上映されるのは10ヵ国以下で、70%が[[アメリカ合衆国の映画|アメリカ映画]]、あとの30%が5、6ヵ国といわれた<ref name="映画時報19850405_8"/>。「ヤングシネマ85」の最優秀作品は、519本の中から予備選で16作品が上映され、[[日本映画製作者連盟|大手映画会社]]から無視され続け[[お蔵入り]]していた<ref>{{Cite journal|和書 |author = |title = グランプリ受賞の『台風クラブ』 なぜか熱低に衰退映画 |journal = 週刊読売 |issue = 1985年9月15日号 |publisher = 読売新聞社 |pages = 31 }}</ref>[[相米慎二]]の『[[台風クラブ]]』が選ばれた<ref name="週刊新潮19850620"/><ref>[https://www.cinematoday.jp/gallery/E0012101/6.jpg.html 『台風クラブ』でヤングシネマ大賞を獲得した相米慎二監督] – cinematoday</ref><ref name="nikkan198506010">{{Cite news |title = 相米監督にヤングシネマ大賞配給先もなかった『台風クラブ』絶賛 |date = 1985年6月10日 |newspaper = 日刊スポーツ |publisher = 日刊スポーツ新聞社 |page = 15 }}</ref>。審査の席上で「少しでも多くの監督にチャンスを」などと<ref name="報知19850610">{{Cite news |title = 東京国際映画祭フィナーレ 相米監督にヤングシネマ大賞 大喜び相米氏 配給決らず飲んだくれていた 昨年10月完成『台風クラブ』 |date = 1985年6月10日 |newspaper = 報知新聞 |publisher = 報知新聞社 |pages = 14 }}</ref>妙な策略が行われ<ref name="tiff2"/><ref name="シナリオ198508">{{Cite journal|和書 |author = |title = シナリオボックス 第一回東京国際映画祭盛況裡に6月9日閉幕 |journal = シナリオ |issue = 1985年8月号 |publisher = 日本シナリオ作家協会 |pages = 92 }}</ref>、賞金は150万ドルではなく、75万ドル(1億8000万円)に突如変更され<ref name="tiff2"/><ref name="シナリオ198508"/><ref name="映画時報198506">{{Cite journal|和書 |author = |title = "ヤングシネマ85"大賞は相米慎二監督『台風クラブ』/海外映画人350人参加... |journal = 映画時報 |issue = 1985年6月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 27-28 }}</ref>、二位の『At』と三位の『止った時間』に残りの金額を分配した<ref name="報知19850610"/><ref name="asahi19850610">{{Cite news |title=ヤングシネマ大賞に相米監督 東京国際映画祭終わる 入場者は10万人超す |newspaper=朝日新聞夕刊 |publisher=朝日新聞社 |date=1985-6-10 |page=16}}</ref>。相米は「次回作は[[武田泰淳]]の『富士』をやります」と話したが<ref name="サンスポ19850610"/>、賞金を『[[光る女]]』の製作に充てた。「ヤングシネマ85」は国内外の映画人から高い評価を受け<ref name="yomiuri19850530"/>、審査委員長だった[[デヴィッド・パットナム]]も「世界の若手を育てるために賞金を出すという発想に、これぞ時代を感じさせる映画祭だと感心した」と評した<ref name="asahi19850611"/>。企画は「映画企画」の部会のメンバーの中に映画祭の否定論が多く<ref name="映画情報198507"/>、やるなら「何かユニークな目玉がないか」となり、メンバーで話しているうち、誰かがこの企画を挙げたという<ref name="映画情報198507"/>。 ; 資金調達 岡田が1980年に渋谷を本拠に置く[[東急レクリエーション]]社長にも就任しており、渋谷を文化都市、文化エリアとして大いにイメージアップを図ろうと渋谷を開催地に決めた<ref name="映画時報19850405"/>。[[NHKホール]]使用の許可も取り、連動すれば大きなイベントを組めると構想し、町ぐるみで映画祭に参加してもらうことになった<ref name="映画時報19850405"/>。岡田の予想通り、開催に向け動き出すと外務省から「通産省主導型の映画祭はおかしい」とか<!---<ref name="映画時報19850405"/>--->、[[文化庁]]は「映画祭、フェスティバルという名前はわれわれの所管だ」などとクレームを付けてきたが<ref name="映画時報19850405"/>、これらは瀬島でないと解決できない問題であった<ref name="映画時報19850405"/>。[[カンヌ国際映画祭|カンヌ]]・[[ベルリン国際映画祭|ベルリン]]・[[ヴェネツィア国際映画祭|ヴェネツィア]]の[[映画祭#世界三大映画祭|世界三大映画祭]]は、政府から物心両面の手厚い支援を受けていたが<ref name="asahi19870914"/>、日本政府にそれは期待できないため<ref name="asahi19870914"/>、独力で民間から資金を集めた<ref name="asahi19870914"/>。このため大部分は企業の協力に依存せざるを得ず、スポンサーの名が目立つ[[商業主義]]などと批判された<ref name="asahi19870914"/>。映画祭を国際的に宣伝するためには、できるだけ多くの映画人、[[ジャーナリスト]]を招待することが必要で<!---<ref name="asahi19870914"/>--->、財政が充分でないと招待者数を限定せざるを得なくなり「これでは国際映画祭ではなく、国内映画祭だ」と陰口をたたかれるからである<ref name="asahi19870914"/>。事務局で働く人の大半を映像の関係者に[[ボランティア]]をお願いした<ref name="asahi19870914"/>。運営資金は5億円と算段し<ref name="キネ旬19840502"/>、資金調達の目途はついたが、[[寄付金]]などは[[税金]]を取られて実際は2億5000万円ぐらいしか使えないことが分かり、それなら[[財団]]でやろうと考え、[[東京都]]が財団を持っていることを知り、これを使おうとしたら[[政治問題]]化する可能性があると都の[[副知事 (日本)|副知事]]から反対された<ref name="映画時報19850405"/>。このため新しく独自の財団を作ったが、許可が降りるまで一年以上かかるとされたが、これも瀬島の力を借りて短期間で許可を降ろさせた<ref name="tiff2"/><ref name="映画時報19850405"/>。この財団を作るのに一億円以上かかった<!---<ref name="映画時報19850405"/>--->。5億円の資金調達は岡田と瀬島で相談し<ref name="映画時報19850405"/>、岡田が各映画会社、各[[テレビ局]]、[[丸井]]の青井忠雄ら、渋谷地区の大きな[[流通]]関係に協力を仰ぎ、[[東急グループ]]1億円、2億円とも<ref name="nikkei19860303">{{Cite news |title=高い?安い?財界活動、カネ、ヒトのズシリ―見返りは人脈・名誉(人事ロジー)|newspaper=日本経済新聞 |publisher=日本経済新聞社 |date=1986-3-3 |page=44}}</ref>、[[西武グループ]]7000万円<ref name="yomiuri19850531">{{Cite news |author = 土屋好生 |title=東京発 "巨笑"がにらむ 映画祭が始まった 渋谷はシネマシティーに |newspaper=[[読売新聞]]夕刊 |publisher=[[読売新聞社]] |date=1985-5-31 |page=22}}</ref>、[[鈴木俊一 (東京都知事)|鈴木俊一]][[東京都知事]]にも頼みに行き、5000万円の[[予算]]措置をつけてもらい、通産省は最初の話より金を出さなかったともいわれ<!---<ref name="映画時報19850405"/>--->、予算額の5億円は調達した<ref name="映画時報19850405"/>。5億でも足らないことが予想されたため、[[電通]]と[[東急エージェンシー]]で更に金を集めた<ref name="映画時報19850405"/>。1985年に第一回理事会を開き、各映画会社社長、各テレビ局社長に全員理事で入ってもらった<ref name="映画時報19850405"/>。 ; 開催期日の変更 つくば万博との連動が趣旨だったため、最初は1985年4月の開催を予定していた<ref name="映画時報19850405"/><ref name="ロードショー198408"/>。ところが毎年5月に開催する[[カンヌ国際映画祭]]当局が「4月は困る、カンヌの直前にやるなら一切協力しない、やるのなら秋に」と[[クレーム]]を付けて来た<ref name="tiff2"/><ref name="キネ旬19840502"/><ref name="ロードショー198408"/>。カンヌ映画祭当局は国際映画製作者連盟にかなりの圧力をかけた<ref name="キネ旬19840502"/>。秋にやっていては効果が薄いと岡田が判断し、カンヌ映画祭当局を説得し、1985年6月開催を決めた<ref name="映画時報19850405"/><ref name="キネ旬19840502"/>。渋谷の[[NHKホール]]を主会場に、渋谷の映画館、ホールを会場に1985年5月31日~6月9日の10日間の開催を決定した<ref name="映画情報1985">{{Cite journal|和書 |author = 八森稔 |title = 雑談えいが情報 総決算/不調だった84年の映画界 |journal = 映画情報 |issue = 1985年5月号 |publisher = [[国際情報社]] |pages = 72 }}{{Cite journal|和書 |author = 八森稔 |title = 雑談えいが情報 東京国際映画祭は、日本の映画界の流れを変えるチャンス! |journal = 映画情報 |issue = 1985年7月号 |publisher = 国際情報社 |pages = 72 }}</ref><ref name="週刊読売19831030">{{Cite journal|和書 |author = |title = NEWS COMPO 構想なった『東京国際映画祭』にヘアの悩み |journal = 週刊読売 |issue = 1985年10月30日号 |publisher = 読売新聞社 |pages = 32 }}</ref>。また新しい[[科学技術]]のお披露目として『[[乱 (映画)|乱]]』をNHKホールと筑波万博の会場と同時に映すという宇宙中継([[衛星放送]])が計画されていたが<ref name="映画情報198507"/>、『乱』の完成遅れ等の理由で中止になった<ref name="映画情報198507"/>。 ; ヘア問題 1970年の映画祭でも大きく取り上げられ<ref name="週刊読売19831030"/>、これまで幾度となく争われた"芸術か""ワイセツか"問題がここでも起き<ref name="映画情報198505_26"/>、"[[ヘアヌード|ヘア解禁]]"がなるのか、大きな注目を浴びた<ref name="キネ旬19840502"/><ref name="映倫50年_80"/><ref name="週刊新潮19850523">{{Cite journal|和書 |author = |title = タウン お待たせしましたいよいよヘア解禁? |journal = 週刊新潮 |issue = 1985年5月23日号 |publisher = 新潮社 |pages = 13 }}</ref><ref name="週プレ19850611">{{Cite journal|和書 |author = |title = ホラー{{small|戦慄!!}} or ヘアー{{small|一瞬毛!?}} 第一回東京国際映画祭のおいしい楽しみ方 |journal = [[週刊プレイボーイ]] |issue = 1985年6月11日号 |publisher = [[集英社]] |pages = 68–69頁 }}</ref>。欧米の多くの国の映画は一般映画でも[[ヌード]]シーンや[[濡れ場|ベッドシーン]]で、普通に男女の[[陰毛]]を隠さず上映するためで<ref name="映画情報198505_26"/><ref name="報知19850602">{{Cite news |title = 見ぇた 歴史的瞬間は売春婦だった ヘアに息をのむ 『1984年』 クールな受け止め 目光らす警視庁 それでも寛大 わいせつ感なし |date = 1985年6月2日 |newspaper = 報知新聞 |publisher = 報知新聞社 |pages = 14 }}</ref>、世界に冠たる[[日本における検閲|検閲制度]]を持つ日本では、[[1910年|明治43年]]に制定された[[関税定率法]]により<ref name="サンスポ19850520"/><ref name="yomiuri19850305">{{Cite news |author = 西沢正史 |title= 「ヘア」大揺れ映画祭 |newspaper=読売新聞 |publisher=読売新聞社 |date=1985-3-5 |page=9}}</ref>、ヘアも含み輸入すると害があるものは上映してはいけないことになっており<ref name="週刊朝日19700612"/><ref name="サンスポ19850520"/><ref name="週刊読売19831030"/><ref name="週刊新潮19850523"/>、前述のように欧米の映画祭では自国の法律や倫理基準で、他国の芸術作品を測ることはできないという"通則"があるため<ref name="週刊新潮19700411"/><ref name="asahi19850609"/><ref name="映画情報198505_26"/>、国際慣例に従いノーカット無修正で全ての映画を上映するよう働きかけた<ref name="サンスポ19850520"/><ref name="週刊新潮19850523"/><ref name="yomiuri19850524">{{Cite news |author = |title=ヘア規制 東京国際映画祭出品の約100本 おかたい税関にも時代の波? 無キズでパス 心配だった10作品含め |newspaper=読売新聞 |publisher=読売新聞社 |date=1985-5-24 |page=23}}</ref>。当時は[[風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律|風営法]]の改正で大揺れの時期で<ref name="キネ旬19840502"/>、さらに[[貿易摩擦]]が問題になっていた時期でもあり<ref name="映倫50年_80"/>、[[非関税障壁|関税障壁である]]との非難を受ける危険もあった<ref name="映倫50年_80"/>。当初は[[東京税関]]も「法は勝手に曲げられません」と態度は固く<ref name="映画情報198505_26"/>、悲観的な予想が大半であったが<ref name="キネ旬19840502"/>、税関を管理する[[大蔵省]](現・[[財務省]])と折衝を続け<ref name="映画情報198505_26"/><ref name="週刊読売19831030"/><ref name="yomiuri19850524"/><ref name="nikkan19850530">{{Cite news |title = ヘアが見えた コンマ5秒、歴史的"解禁" 初試写『狼の血族』他10作品に期待 |date = 1985年5月30日 |newspaper = 日刊スポーツ |publisher = 日刊スポーツ新聞社 |page = 15 }}</ref>、岡田茂と徳間康快の政治力で<ref name="サンスポ19850520"/><ref name="週刊新潮19850523"/>、[[超法規的措置|超法規]]で映画祭期間中に限りヘア解禁を認めさせ<ref name="映倫50年_80"/><ref name="週刊新潮19850523"/>、国際的なモノ笑いにならずに済んだ<ref name="映倫50年_80"/><ref name="映画情報198507"/><ref name="yomiuri19850612"/><ref name="asahi19850611"/>。勇気ある第一歩を踏み出したと称賛された<ref name="asahi19850611"/>。今回の措置は税関が見て通過させたのではなく<ref name="デイリー19850528">{{Cite news |author = |title = 結局ヘア無修正上映へ 解禁の序幕!? トラブル回避!? ノーチェック通関 東京税関 警視庁黙認した形 |date = 1985年5月28日 |newspaper = [[デイリースポーツ]] |publisher = デイリースポーツ社 |page = 12 }}</ref>、特例としてノーチェックで税関と通過させたというものであるが<ref name="sponichi19850602">{{Cite news |title = ヘア見えた!無修正作品第一弾『1984年』上映 客席 平然 警視庁係官も『OK』 |date = 1985年6月2日 |newspaper = スポーツニッポン |publisher = スポーツニッポン新聞社 |page = 15 }}</ref>、税関はOKでも警察が鑑賞して[[わいせつ|猥褻]]と判断したら取締りの対象となるため([[わいせつ物頒布等の罪|刑法175条]])<ref name="報知19850602"/><ref name="sponichi19850602"/>、[[ハードル#日本語における用法|ハードル]]は二つあった<ref name="報知19850602"/>。[[生活安全部#組織(警視庁)|警視庁保安一課]]は[[管轄]]の[[渋谷警察署|渋谷署]]と協力し、全てのヘア作品には係官を劇場に派遣して内容をチェックし<ref name="デイリー19850528"/>、全ての作品に「わいせつな感じの表現はなかった」といった内容の報告書を提出し全てセーフになった<ref name="sponichi19850602"/>。[[映画倫理機構|映倫]]もこの特例措置を鑑み、東京映画祭上映に限り、審査の対象外とし、カット又は修正をしないオリジナルの形で上映を認め<ref name="映倫50年_80"/>、その後も特例措置を続けている<ref name="映倫50年_80"/>。東京映画祭の「ヘア解禁」以降、捜査当局がヘア解禁を認め、「ヘアが見える程度では[[検挙]]されない。仮に検挙されても[[法律上の身柄拘束処分の一覧|身柄の拘束]]はない」という見方が[[出版社|出版業界]]に広がり<ref name="asahi19850705">{{Cite news |title= ヘア解禁にブレーキ 加熱の写真誌摘発 |newspaper=朝日新聞夕刊 |publisher=朝日新聞社 |date=1985-7-5 |page=19}}</ref>、映画祭以降、写真誌のポルノ度がエスカレートし<ref name="asahi19850705"/>、『ザ・写真』を出版していた[[東京三世社]]の社長らが警視庁保安一課に逮捕された<ref name="asahi19850705"/>。それまで[[任意同行|任意]]での取り締まりはあったが、社長にまで[[強制捜査]]が及んだのは全くの異例であった<ref name="asahi19850705"/>。 作品の出来よりも日本初のヘア無修正映画として話題を集めた『[[1984 (1984年の映画)|1984年]]』は"ヘア解禁"を[[スポーツ紙]]や[[夕刊#主な夕刊専売紙|夕刊紙]]が書き立てたため、上映一週間前に[[前売り#前売り券|前売り券]]が売り切れ、その後チケット問い合わせの電話が殺到した<ref name="週刊新潮19850613"/><ref name="asahi19850607">{{Cite news |title=人出も好調 東京国際映画祭 幅広いファン層集める 監督同士の熱い議論も |newspaper=朝日新聞夕刊 |publisher=朝日新聞社 |date=1985-6-7 |page=13}}</ref>。「本当にヘアが出るんですか」という問い合わせが多かったという<ref name="週刊新潮19850613"/>。1985年6月1日、[[東急文化会館#映画館|渋谷東急]]で『1984年』は上映され、劇場は超満員で立ち見も出た<ref name="週刊新潮19850613"/><ref name="sponichi19850602"/><ref>{{Cite news |author = |title = 観客冷静"初のヘア公開"『1984年』 ばっちり"三度"見えたけど… "ワイセツ感"はなし |date = 1985年6月2日 |newspaper = デイリースポーツ |publisher = デイリースポーツ社 |page = 10 }}</ref>。翌日のスポーツ新聞は「見えた―ヘアに息をのむ」などと歴史的"快挙"を大々的に報じた<ref name="週刊新潮19850613"/><ref name="hochi19850603">{{Cite news |title = 写真撮影許せぬ 不謹慎きわまる 審査員監督ら怒った ヘア後進国の"珍事" バシャバシャ シャッター音審査の妨げだ |date = 1985年6月3日 |newspaper = 報知新聞 |publisher = 報知新聞社 |page = 17 }}</ref>。続いてカナダ映画『ジャックと11月』、イギリス映画『[[狼の血族]]』、ブラジル映画『ピショット』、ハンガリー映画『ゲルニカ』などの10作品が<ref name="nikkan19850530"/>、ノーカット無修正で上映され、地味なこれらの映画にも観客が詰めかけた<ref name="週刊新潮19850613"/><ref name="週プレ19850611"/><ref name="デイリー19850531">{{Cite news |author = |title = 東京国際映画祭きょう開幕 ジャンヌ・モロー来日 |date = 1985年5月31日 |newspaper = デイリースポーツ |publisher = デイリースポーツ社 |page = 12 }}</ref><ref>{{Cite news |author = |title= "目こぼし"ヘアに話題沸騰 |newspaper=毎日新聞 |publisher=毎日新聞社 |date=1985-6-4 |page=18}}</ref>。表現は大人しいものだったが『1984年』のヘアシーンでは報道席にいたカメラマンが、いっせいに[[シャッター (カメラ)|シャッター]]を切る異様な光景が現出した<ref name="週刊新潮19850613"/>。『1984年』が「ヤングシネマ85」のコンクール対象作品だったため、シャッター音が鑑賞を妨げて公正な審査が出来ないと審査員や同作の監督・[[マイケル・ラドフォード]]などから「審査会場を変えろ」などと抗議の声が上がり<ref name="週刊新潮19850613"/><ref name="hochi19850603"/>、二日目からは入場時にカメラがないかボディーチェックを受けるなど厳戒態勢が敷かれた<ref name="hochi19850603"/>。2019年の今日では[[NO MORE 映画泥棒|映画泥棒]]などで[[映画の盗撮の防止に関する法律|映画盗撮防止]]は常識だが、当時は予想外の事態で、[[東急文化会館#映画館|渋谷東急]]前に「お願い 東京国際映画祭にて上映されます映画は国際規約及び国内の法律によって版権が保護されております。従いまして、映画を無断で撮影したり、録音したりした場合は罰せられますので、ご注意下さいますようお願い致します。 東京国際映画祭組織委員会事務局」と手書きで書かれた素朴な立て看板が掲示され<ref name="hochi19850603"/>、「場内での写真撮影は禁じられています」とアナウンスを流した<ref name="hochi19850603"/>。 同時期に開催されたアジア太平洋映画祭ではヘア解禁を認めなかったため、税関が人間のヘアを差別したと物議を醸した<ref name="週刊新潮19850620">{{Cite journal|和書 |author = |title = 東京国際映画祭 エンドマークのあとで |journal = 週刊新潮 |issue = 1985年6月20日号 |publisher = 新潮社 |pages = 17 }}</ref><ref name="hochi19850608">{{Cite news |title = ヘア"差別" 東京国際映画祭では黙認なのに… アジア太平洋映画祭で2本税関ストップ こりゃ問題ですぞ! 保税扱いで審査 実害なかったが… |date = 1985年6月8日 |newspaper = 報知新聞 |publisher = 報知新聞社 |page = 15 }}</ref>。 ; 『MISHIMA』問題 [[ポール・シュレイダー]]監督の『[[ミシマ:ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ|MISHIMA]]』が[[平岡瑤子|三島由紀夫の未亡人]]と製作者側のトラブルがあり<ref name="週刊読売19850519" /><ref name="週刊読売19850602">{{Cite journal|和書 |author = |title = NEWS COMPO 『MISHIMA』の配給をためらう東宝東和のド慎重 |journal = 週刊読売 |issue = 1985年6月2日号 |publisher = 読売新聞社 |pages = 29 }}</ref><ref name="hochi19850503">{{Cite news |title = 映画『MISHIMA』で開催揺れる東京国際映画祭 なぜ上映しない! 公開質問状も届く アカデミー賞監督らボイコットも |date = 1985年5月5日 |newspaper = 報知新聞 |publisher = 報知新聞社 |page = 15 }}</ref>、1984年末の予備選考の段階で出品作品のリストから落とした<ref name="週刊読売19850519" /><ref name="yomiuri19850503" />。映画祭で上映する作品は組織委員会が独自の立場で自由に選択出来るということが国際映連の規定で決められており<ref name="映画時報19850405_8" /><ref name="週刊読売19850519" />、選考理由を言う必要はないという前提条件があり、問題は本来無かったが<!---<ref name="映画時報19850405_8"/>--->、『MISHIMA』のアメリカ側のプロデューサー・[[トム・ラディ]]が映画祭事務局に「試写も見ないで『MISHIMA』を上映させないのはおかしい。これは国際映画祭の精神に反するものでまことに遺憾。上映できるように再考せよ」と公開質問状を送り付けて来た<ref name="週刊読売19850519" /><ref name="年鑑1986" /><ref name="yomiuri19850503" />。『MISHIMA』の日本側のプロデューサーは、映画祭の「映画企画」総合プロデュースの[[山本又一朗]]だったが<ref name="映画時報19840809" />、山本もこれに同調して映画祭のプロデューサーを辞任した<ref name="週刊読売19850519" /><ref name="mainichi19850514" />。ラディの意見に同調する欧米の映画人も多く<ref name="映画情報198507" /><ref name="yomiuri19850503" />、ラディが1985年4月からアメリカで「東京国際映画祭ボイコット運動」の[[署名運動|署名活動]]を始め<ref name="サンスポ19850508" />、これに[[ロバート・ベントン]]や[[シドニー・ポラック]]、[[ウォルター・ヒル]]、[[ロバート・レッドフォード]]らが署名<ref name="hochi19850503" /><ref name="hochi19850508">{{Cite news |title = 『MISHIMA』問題 映画祭側 製作者側全面対決へ 揺れる東京国際映画祭 正式な上映要請なかった 宣伝行為だ×拒否された証拠はある |date = 1985年5月8日 |newspaper = [[スポーツ報知|報知新聞]] |publisher = [[報知新聞社]] |page = 17 }}</ref>。当初、審査員として来日する予定だった『MISHIMA』のスタッフ・[[フランシス・フォード・コッポラ|フランシス・コッポラ]]や[[ジョージ・ルーカス]]などのスター監督らが<ref name="サンスポ19850508" /><ref name="yomiuri19850503" />、相次いで来日を取りやめる緊急事態に発展し<ref name="サンスポ19850508" /><ref name="yomiuri19850503" />、国際的にも注目を浴びた<ref name="映画情報198507" /><ref name="yomiuri19850503" />。映画祭当局は声明文を発表したり、アメリカの映画専門誌『[[バラエティ (アメリカ合衆国の雑誌)|バラエティ]]』1985年5月8日号に「同作品の上映要請はなく、東京国際映画祭の批判は同映画祭だけではなく世界の映画祭を著しく傷つけるもの」という公式見解を掲載したりし<ref name="年鑑1986" /><ref name="sponichi19850508" />、対応に大わらわになった<ref name="週刊読売19850519" />。1985年5月7日[[日本プレスセンタービル|日本プレスセンター]]で行われた記者会見で<ref name="sponichi19850508" />、この騒動に答えて岡田茂がやっぱり腹を立て<ref name="sponichi19850508" />、「トム・ラディと山本又一朗はもっと署名を集めて[[第38回カンヌ国際映画祭|カンヌ映画祭]]でも騒ぐらしい。これまで山本又一朗ごときを相手どってまともにケンカする気にもなれなかったが、もう黙っていられない。映画祭は『MISHIMA』の[[露払い]]じゃないんだ。彼らは映画祭の場を『MISHIMA』の宣伝に利用しようとした。実にずるいやり方だ。山本氏には映画祭のプロデューサーを辞めてもらった」などと激しい口調で非難した<ref name="サンスポ19850508" /><ref name="sponichi19850508" /><ref name="hochi19850508" /><ref name="シナリオ198507">{{Cite journal|和書 |author = [[松島利行]] |title = 角川映画の十年―面白い映画が勝利する― |journal = [[シナリオ (雑誌)|シナリオ]] |issue = 1985年7月号 |publisher = [[日本シナリオ作家協会]] |pages = 38 }}</ref><ref name="シナリオ198507_97">{{Cite journal|和書 |author = |title = シナリオボックス 東京国際映画祭『MISHIMA』問題、食い違う両者の言い分 |journal = シナリオ |issue = 1985年7月号 |publisher = 日本シナリオ作家協会 |pages = 97 }}</ref>。岡田はかつて山本が[[小池一夫]]の[[代理人]]として活躍していた手腕に関心し<ref name="シナリオ198507"/>、東映内で「山本君に学べ」と号令をかけるなど評価していたといわれ<ref name="シナリオ198507"/>、映画祭の創設メンバーの一人でもあっただけに怒ったものと見られる<ref name="映画時報19850405"/>。山本は岡田から「『MISHIMA』なんかやったら[[右翼]]が反対して騒ぎ、第1回目から大混乱になる」と反対されたと話し<ref name="lite-ra">[https://lite-ra.com/2015/11/post-1654_2.html 『コウノドリ』好調の綾野剛と小栗旬を結ぶ絆とは? 綾野、小栗を見出した伝説のプロデューサーが語る]</ref>、山本は「文化的なイベントとしての国際映画祭は右翼に屈服してはいけない。日本は[[法治国家]]だから、右翼が来るなら警察を呼んで守ってもらえばいいんです」と反論したと言う<ref name="lite-ra"/>。山本は「映画祭側が事実を語っていない」と東京国際映画祭の内部資料を公開<ref name="シナリオ198507_97"/>。これに対して草壁久四郎事務局顧問は「右翼団体からの圧力があったと言いふらしているのは、宣伝キャンペーンとしか思えない」<ref name="hochi19850508"/>「右翼の圧力によって落としたという考えは全くの間違いで、三島夫人が映画製作に反対しているのに製作を強行し、仮に上映して何かトラブルがあれば、国際問題になりかねないし、岡田会長も『日本側のプロダクションの代表者に、三島家との問題がクリアされたら、検討します』と伝えており、それをクリアしないで何で上映しないのかというのは言いがかりだ」と反論し騒動が悪化した<ref name="映画時報19850405_8"/><ref name="yomiuri19850503"/><ref name="シナリオ198507_97"/>。一連の騒動で、欧米映画人の一部と亀裂が深まり、二回目以降の映画祭にマイナス面を残すのではないかとジャーナリストから心配された<ref name="hochi19850508"/>。 ; フィルム・マーケット 映画祭には世界各国から映画人がやってくる絶好の機会のため、岡田は映画界に[[wikt:長所|メリット]]のあるフィルム・マーケット(マルシェ、見本市)を開催したいという希望を最初から表明していたが<ref name="asahi19850611"/>、準備期間が充分でなく第一回では出来ず<ref name="映画時報19850405"/>、フィルム・マーケットの開催は[[第5回東京国際映画祭|第5回]]からになった。 == トップの変遷 == 組織委員会委員長は[[第1回東京国際映画祭|第1回]](1985年)から[[第9回東京国際映画祭|第9回]](1996年)まで[[瀬島龍三]]であるが<ref name="tiff番外">[http://2014.tiff-jp.net/news/ja/?p=18560 連載企画第6回:【映画祭の重鎮が語る、リアルな映画祭史!】-番外編]</ref>、瀬島は[[記者会見]]にほとんど出席せず<ref name="時報87_98">{{Cite journal|和書 |author = |title = 第2回東京国際映画祭の全容 |journal = 映画時報 |issue = 1987年8月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 5–6頁 }}{{Cite journal|和書 |author = |title = 第3回東京国際映画祭の全容 1989 TOKYO INTERNATIONAL FILM FESTIVAL |journal = 映画時報 |issue = 1989年7月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 4–5頁 }}{{Cite journal|和書 |author = |title = 1991 TOKYO INTERNATIONAL FILM FESTIVAL 第4回東京国際映画祭 |journal = 映画時報 |issue = 1987年8月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 19–20頁 }}{{Cite journal|和書 |author = |title = 第6回東京国際映画祭 9・24開幕 |journal = 映画時報 |issue = 1993年9月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 14–15頁 }}{{Cite journal|和書 |author = 高坂哲也 |title = CINEMA・EXITING 京都国際映画祭に行きたい! |journal = 映画時報 |issue = 1994年8、9月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 27、30頁 }}{{Cite journal|和書 |author = |title = 1995 TOKYO INTERNATIONAL FILM FESTIVAL 第8回東京国際映画祭 |journal = 映画時報 |issue = 1995年7月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 26–27頁 }}{{Cite journal|和書 |author = |title = CINEMA・EXITING 第9回東京国際映画祭 予算6億、前回通りの規模 |journal = 映画時報 |issue = 1996年9月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 33頁 }}{{Cite journal|和書 |author = |title = 1997 TOKYO INTERNATIONAL FILM FESTIVAL 第10回東京国際映画祭 |journal = 映画時報 |issue = 1997年910月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 27–28頁 }}{{Cite journal|和書 |author = |title = 1997 TOKYO INTERNATIONAL FILM FESTIVAL 第10回東京国際映画祭 |journal = 映画時報 |issue = 1997年9、10月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 26–27頁 }}{{Cite journal|和書 |author = |title = 1998 TOKYO INTERNATIONAL FILM FESTIVAL 第11回東京国際映画祭 |journal = 映画時報 |issue = 1998年9月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 28頁 }}</ref><ref name="キネ旬19931002">{{Cite journal|和書 |author = 脇田巧彦・川端靖男・斎藤明・黒井和男 |title = 映画・トピック・ジャーナル 東京国際映画祭会見 | journal = キネマ旬報 |issue =1993年10月下旬号 |publisher = キネマ旬報社 |pages = 169 }}</ref><ref name="avjournal199012">{{Cite journal|和書 |author = | title = 映画界主導の国際映画祭へと岡田実行委員長 第4回東京国際映画祭、来9月27日から渋谷地区で開催 | journal = AVジャーナル |issue = 1990年12月号 |publisher = [[新文化通信社|文化通信社]] |pages = 126 }}</ref>、第一回から陣頭指揮に当たったのは実行委員長の[[岡田茂 (東映)|岡田茂]]であった<ref name="週刊新潮19850613"/><ref name="sponichi19850601"/><ref name="時報87_98"/>。開催発表会見で真ん中に座るのも第一回から[[第11回東京国際映画祭|第11回]](1998年)までずっと岡田で<ref name="sponichi19850508"/><ref name="時報87_98"/>、最初の発言者も岡田で<ref name="時報87_98"/>、次がゼネラル・プロデューサー(以下、GP)であった<ref name="時報87_98"/>。この間、開催発表会見は4人から7人が出席して行われたが<ref name="時報87_98"/>、奇数の出席の時は真ん中が岡田で、偶数の時は岡田とGPが真ん中<ref name="時報87_98"/>。京都開催だった[[第7回東京国際映画祭|第7回]](1994年)の開催発表会見は7人の出席で<ref name="時報19940809">{{Cite journal|和書 |author = 高坂哲也 |title = CINEMA・EXITING 京都国際映画祭に行きたい! |journal = 映画時報 |issue = 1994年8、9月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 27、30頁 }}</ref>、真ん中が岡田で、岡田の両隣りが[[徳間康快]]GPと[[荒巻禎一]][[京都府知事]]だった<ref name="時報19940809"/>。岡田がトップと周りからも認知されていたものと見られる。 瀬島は組織委員会委員長を第9回(1996年)まで務めて勇退<ref name="tiff番外"/>。[[第10回東京国際映画祭|第10回]](1997年)と[[第11回東京国際映画祭|第11回]](1998年)の組織委員会委員長は[[樋口廣太郎]]が務め<ref>{{Cite journal|和書 |author = 竹入栄二郎 |title = 第11回『東京国際映画祭'98』総括... |journal = 映画時報 |issue = 1998年11、12月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 6頁 }}</ref>、[[第12回東京国際映画祭|第12回]](1999年)に第一回から11回まで実行委員長だった岡田茂が組織委員会委員長に就任し<ref name="時報19991011">{{Cite journal|和書 |author = |title = 第12回東京国際映画祭 |journal = 映画時報 |issue = 1999年10、11月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 28頁 }}</ref>、岡田の後任実行委員長には[[石田敏彦]]が就いた<ref name="時報19991011"/>。[[第13回東京国際映画祭|第13回]](2000年)開催の直前に[[徳間康快]]が急逝したため、第13回は石田敏彦が実行委員長とGPを兼任した<ref>{{Cite journal|和書 |author = |title = CINEMA・EXITING 第13回『東京国際映画祭2000』展望 |journal = 映画時報 |issue = 2000年9月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 5–6頁 }}</ref>。 GPを最初から岡田茂とする文献も見られるが<ref>{{Cite journal|和書 |author = |title = CINEMA・EXITING 第9回東京国際映画祭 予算6億、前回通りの規模 |journal = 映画時報 |issue = 1996年9月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 33頁 }}</ref>、GPは、[[第1回東京国際映画祭|第1回]](1985年)が[[小谷正一]]、[[第2回東京国際映画祭|第2回]](1987年)、[[第3回東京国際映画祭|第3回]](1989年)が[[石田達郎]]、[[第4回東京国際映画祭|第4回]](1991年)から[[第12回東京国際映画祭|第12回]](1999年)までが[[徳間康快]]<ref name="tiff番外"/>。[[京都府|京都]]で開催された[[第7回東京国際映画祭|第7回]](1994年)は、徳間でなく、京都に縁のある[[高岩淡]]と[[奥山融]]が二頭GPを務めた<ref name="時報19940809"/><ref>[http://2014.tiff-jp.net/news/ja/?p=18413 連載企画第4回:【映画祭の重鎮が語る、リアルな映画祭史!】-アジア映画の隆盛と映画祭10周年(1993年-1995年)]</ref><ref>{{Cite journal|和書 |author =脇田巧彦・川端靖男・斎藤明・黒井和男 | title = 映画・トピック・ジャーナル | journal = キネマ旬報 |issue =1993年12月下旬号 |publisher = キネマ旬報社 | pages = 189 }}</ref>。[[第13回東京国際映画祭|第13回]](2000年)が[[石田敏彦]]、[[第14回東京国際映画祭|第14回]](2001年)、[[第15回東京国際映画祭|第15回]](2002年)が[[川内通康]]、[[第16回東京国際映画祭|第16回]](2003年)から[[第20回東京国際映画祭|第20回]](2007年)までが[[角川歴彦]]。角川が[[第18回東京国際映画祭|第18回]](2005年)で、GPを[[チェアマン]]と改称<ref name="tiff9">[http://2013.tiff-jp.net/news/ja/?p=23867 第27回東京国際映画祭 | 連載企画第2回:【映画祭の重鎮が語る、リアルな映画祭史!】]</ref>。[[第21回東京国際映画祭|第21回]](2008年)から[[第25回東京国際映画祭|第25回]](2012年)までのチェアマンは[[依田巽]]。[[第26回東京国際映画祭|第26回]](2013年)からチェアマンの代わりの役職として新設されたディレクター・ジェネラルに[[椎名保]]が就任。2017年3月10日、ディレクター・ジェネラルからフェスティバル・ディレクターに役職名を変えた役職に、元ワーナーブラザース映画副代表であり、松竹で常務取締役などを務めた久松猛朗が就任した。2019年7月からは元駐イタリア大使の安藤裕康がチェアマンに就任している。 1991年の第4回から徳間康快がGPに就任した経緯は、それまでGPを務めていた石田達郎が体が悪いのにカネ集めで苦労しており、岡田茂実行委員長から「徳さん何とか協力してやってくれないか」と頼まれていた徳間が「映画祭はよく知らないから」と断っていたが、1990年7月に石田が突然亡くなり、徳間「どうせオレに声をかけるんだからゼニだろう」岡田「実はそうなんだ」徳間「じゃあ、一生懸命やるよ」と引き受けることになった<ref name="avjournal199103">{{Cite journal|和書 |author = | title = インタビュー/徳間康快 『日本映画再興のために"毀誉褒貶"を問わず捨身の行動をとる』 | journal = AVジャーナル |issue = 1991年3月号 |publisher = [[新文化通信社|文化通信社]] |pages = 14-19 }}</ref>。徳間「で、第3回はいくらでやったんだ?」岡田「6億だ」徳間「発展させるには従来の倍のカネをかければいい。今回はキリのいい10億円でやろう」と、二人の話で「隔年開催では効果が薄いから毎年定期的に開催しよう。西の[[カンヌ国際映画祭|カンヌ]]、東の東京と銘打ってやろう。映画人が力を結集して映画界全体でやろう」と決まった<ref name="avjournal199103"/>。第2回と第3回は石田達郎がGPを務めていた関係から、[[フジサンケイグループ]]がバックアップをした<ref name="avjournal199012"/>。このため[[東映]]以外の映画会社はあまり協力的でなかったが<ref name="avjournal199103"/>、徳間の就任でようやく映画界全体で協力をしようとなり<ref name="avjournal199103"/><ref name="avjournal199012"/>、[[松岡功]][[東宝]]社長が広報委員長に就いた<ref name="avjournal199107">{{Cite journal|和書 |author = | title = NEWS FLASH 『第4回東京国際映画祭の詳細が決定した 予算規模10億円、毎年開催の方向というが』 | journal = AVジャーナル |issue = 1991年7月号 |publisher = 文化通信社 |pages = 14 }}</ref>。記者会見の時は「アジアを中心に意義と価値のある重要な映画祭にし、カンヌ、[[ヴェネツィア国際映画祭|ベネチア]]と並ぶ三大映画祭にしたい」と発表した<ref name="avjournal199012"/>。徳間の自宅の四軒隣りが[[鈴木俊一 (東京都知事)|鈴木俊一]][[東京都知事]]宅で、第3回のときに徳間と岡田で鈴木宅を訪れ1億円出してもらっていたが<ref name="avjournal199103"/>、徳間はGPに就任すると今度は鈴木に「毎年8億円出してくれ」と頼み、鈴木から「どういうことだ?」と言われたから「"東京"国際映画祭なんだ。カンヌでも[[ベルリン国際映画祭|ベルリン]]でも[[ヴェネツィア国際映画祭|ベネチア]]でもみんな市がやっている。だから東京都が前面に立ってやってもらわないと困るんです。でないと"日本"国際映画祭になっちゃうから」「とりあえず今年は4億出してくれ」などと説得<ref name="avjournal199103"/>。[[通産省]]にはそれまでの1億5000万円だった[[助成金]]を2億円にアップさせた<ref name="avjournal199103"/><ref name="avjournal199012"/>。徳間は[[中華人民共和国|中国]]に強いパイプを持つことで知られるが、[[台湾]]にも参加してもらって然るべきと岡田と二人で台湾に行って台湾の参加を正式に決めた<ref name="avjournal199103"/>。またカンヌのように世界中から[[バイヤー]]を集めるようにするには、短期的な方策としてはいいだろうと入賞作品の賞金を増額させた<ref name="avjournal199103"/><ref name="avjournal199107"/>。[[バブル崩壊]]があり、資金集めが苦しくなったが<ref name="avjournal199210">{{Cite journal|和書 |author = | title = "マーケット部門"も成功の第5回東京国際映画祭 | journal = AVジャーナル |issue = 1992年10月号 |publisher = 文化通信社 |pages = 7 }}</ref>、第5回から日本で初めてフィルム・マーケットが開かれた<ref name="avjournal199210"/><ref>{{Cite journal|和書 |author = [[江戸木純]] | title = ハーフタイム 『東京国際映画祭について考える』 | journal = 小説club |issue = 1992年12月号 |publisher = [[桃園書房]] |pages = 146-148 }}</ref>。GPに就任すると[[スポンサー]]集めに奔走しなければならず、岡田が第2回のとき、[[鹿内春雄]]に頼んだが断られ<ref>{{Cite journal|和書 |author =脇田巧彦・川端靖男・斎藤明・黒井和男 | title = 映画・トピック・ジャーナル | journal = キネマ旬報 |issue =1985年10月上旬号 |publisher = キネマ旬報社 | pages = 174 }}</ref>、徳間以降のGPはたいたい1回か2回で辞めている<ref name="kinejunl20030302">{{Cite journal|和書 |author = 川端靖男・指田洋・鈴木元・石川昇 | title = トピック・ジャーナル 『第16回東京国際映画祭新GPの船出』 | journal = キネマ旬報 |issue = 2003年3月下旬号 |publisher = キネマ旬報社 |pages = 146–147頁 }}</ref>。2001年から二年務めた[[川内通康]]も「おまえ、[[石田達郎|石田のオヤジ]]がやってたじゃないか。おまえ、その愛弟子じゃないか」と岡田から痛いところを突かれての就任<ref>{{Cite journal|和書 |author = | title = トップインタビュー/川内通康・東京国際映画祭GP 映画祭のIT化で映画の存在価値を高める | journal = AVジャーナル |issue = 2001年9月号 |publisher = 文化通信社 |pages = 24–27頁 }}</ref>。2003年も岡田がいろんな人にあたったが全員に断られ、[[角川歴彦]]は「この場で受けてもらわないと今年の開催ができない」と岡田から強い説得を受け、渋々承諾し第16回から六代目GPに就任している<ref name="kinejunl20030302"/><ref name="avjournal200303">{{Cite journal|和書 |author = | title = NEW SFLASH | journal = AVジャーナル |issue = 2003年3月号 |publisher = 文化通信社 |pages = 13 }}</ref>。 == トラブル == 2010年(平成22年)に開催された[[第23回東京国際映画祭|第23回]]において、映画祭に招かれていた[[中華人民共和国]]と[[中華民国]]からの招待者の間で「[[台湾]]」表記をめぐって論争が生じ、一部の監督、俳優が開幕式を[[ボイコット]]した<ref>{{Cite web|和書|date=2010-10-24|url=https://www.moviecollection.jp/news/9815/|title=中国と台湾でトラブル、東京国際映画祭開幕式にビビアン・スーらが登場せず!|publisher=MOVIE Collection [ムビコレ]|accessdate=2011-01-11}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2010-10-25|url=http://ticket-news.pia.jp/pia/news.do?newsCd=201010250006|title=昨夜のグリーンカーペット欠席にビビアン・スーが大粒の悔し涙|publisher=チケットぴあ|accessdate=2011-01-11}}</ref>。また、中国、台湾政府も反応し、双方の[[インターネット]]上では騒動になった。{{Main|第23回東京国際映画祭#台湾表記問題}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2|refs= <ref name="sponichi19850601">{{Cite news |title = 『東京国際映画祭』盛大に開幕 日本の華『乱』 中曽根さんも来た 英仏語で映画談義 |date = 1985年6月1日 |newspaper = [[スポーツニッポン]] |publisher = スポーツニッポン新聞社 |page = 15 }}</ref> }} == 参考文献 == * {{Cite book |和書 |author=東京国際映画祭組織委員会/広報委員会 |year=1985 |title=第一回東京国際映画祭 公式プログラム |publisher=[[東急エージェンシー]] |ref={{SfnRef|公式プログラム|1985}}}} * {{Cite journal |和書 |author= |title=東京国際映画祭 ぴあフィルムフェスティバル {{small|ハンディマップ&スケジュール表}} |journal=[[ぴあ]] |issue = 1985年5月3日号 |publisher=ぴあ |ref={{SfnRef|ぴあ|1985}}}} == 外部リンク == {{commonscat|Tokyo International Film Festival}} * [https://2019.tiff-jp.net/ja/ 公式サイト] * {{Twitter|tiff_site|#東京国際映画祭 #TIFFJP}} * {{Facebook|tifftokyo.net|東京国際映画祭 TOKYO INTERNATIONAL FILM FESTIVAL}} * {{Instagram|tokyo_intl_film_festival|東京国際映画祭}} * [https://line.me/R/ti/p/%40tiff LINE] * [https://www.youtube.com/user/TIFFTOKYOnet?sub_confirmation=1 Tokyo International Film Festival 東京国際映画祭 公式YouTubeチャンネル] {{東京国際映画祭}} {{映画祭}} {{デフォルトソート:とうきようこくさいえいかさい}} [[Category:東京国際映画祭|*]] [[Category:日本の映画賞]] [[Category:JAPAN国際コンテンツフェスティバル]] [[Category:1985年開始のイベント]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E6%98%A0%E7%94%BB%E7%A5%AD
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ベルリン国際映画祭
ベルリン国際映画祭(ベルリンこくさいえいがさい、独: Internationale Filmfestspiele Berlin, 1951年 - )は、ドイツのベルリンで毎年2月に開催される国際映画製作者連盟(FIAPF)公認の国際映画祭。カンヌ国際映画祭、ヴェネツィア国際映画祭と並び世界三大映画祭のひとつに数えられる。ドイツではベルリナーレ(Berlinale)と呼ばれることが多い。 他の映画祭と比べると社会派の作品が集まる傾向がある。また、近年は新人監督の発掘に力を注いでいる。 最高賞は作品賞にあたる金熊賞(Goldener Bär)。この賞の名は熊がベルリン市の紋章であることにちなむ。 FIAPF公認の国際映画祭中、2006年の上映作品数は第7位(360本)、来場者数は第1位(418,000人)であった。三大映画祭では唯一大都市で開催されている(ベルリンは人口360万、ヴェネツイアは26万、カンヌは7万)ことが来場者数の多さにつながっている。 2014年版開催終了時点で、10日間の期間中に販売した一般入場券が33万枚を突破し、「世界最大の映画祭」であると映画祭責任者のディーター・コスリック(英語版)によって発表された。 1951年に映画史家のアルフレッド・バウアー(ドイツ語版)をディレクターに開催されたのが起こり。第二次世界大戦前に芸術の都として栄えたベルリンの西側の拠点であり、東側の中にある当時の西ベルリンにて西側の芸術文化をアピールしたいという政治的意図があったとされる。1955年にFIAPFに公式に認められた。当初は東側の作品は除かれており、ソ連の初参加は1974年である。 バウアーの引退後、1976年にヴォルフ・ドナー(ドイツ語版)が第2代のディレクターに就任する。ドナーは夏開催であった本映画祭を2月開催に変更した。1980年に第3代ディレクターとしてモーリッツ・デ・ハデルン(英語版)が就任する。ハデルンはハリウッド映画に重点をおくセレクションを映画祭にもたらした。1994年には、映画にも及んだGATTの貿易対立で、アメリカ側が映画祭をボイコットする騒ぎとなり、ハリウッド重視の方針により大きな影響を受けた。2000年にハデルンはディレクターを解任され、2001年で退任。2002年からはディーター・コスリックが第4代ディレクターとなっている。 ベルリナーレにはコンペティション部門、パノラマ部門、エンカウンターズ部門(第70回より追加)、ジェネレーション(青少年映画)部門、レトルスペクティブ部門、ドイツ映画部門、フォーラム(部門)、の7つの公式部門がある。それぞれに部門にディレクターがおり、コンペティション部門、パノラマ部門、エンカウンターズ部門などはベルリナーレ本部が運営しているが、フォーラム(部門)は実際は本部とは別の独立した組織が運営している。その他、2004年から始まったベルリナーレ・スペシャルや、映画を売り買いするヨーロピアン・フィルム・マーケット (Europian Film Market) なども開催されている。 その他の日本映画関連の受賞は、
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ベルリン国際映画祭は、ドイツのベルリンで毎年2月に開催される国際映画製作者連盟(FIAPF)公認の国際映画祭。カンヌ国際映画祭、ヴェネツィア国際映画祭と並び世界三大映画祭のひとつに数えられる。ドイツではベルリナーレ(Berlinale)と呼ばれることが多い。
{{イベントインフォメーション |イベント名称=ベルリン国際映画祭 |種類=[[映画祭]] |画像=Berlinale2007.jpg |画像サイズ=300px |画像説明=Berlinale 2007 |開催時期= |初回開催=[[1951年]] |会場=[[ベルリン]] |主催={{仮リンク|アルフレッド・バウアー|de|Alfred Bauer}} |共催= |後援= |協賛= |企画制作=アルフレッド・バウアー |来場者数= |最寄駅= |URL=https://www.berlinale.de/en/HomePage.html |特記事項=[[映画祭#世界三大映画祭|世界三大映画祭]]のひとつ。 }} [[ファイル:Journalists_during_the_Berlin_Film_Festival_in_2008.jpg|thumb|300px]] '''ベルリン国際映画祭'''(ベルリンこくさいえいがさい、{{lang-de-short|Internationale Filmfestspiele Berlin}}, [[1951年]] - )は、[[ドイツ]]の[[ベルリン]]で毎年2月に開催される[[国際映画製作者連盟]](FIAPF)公認の国際[[映画祭]]。[[カンヌ国際映画祭]]、[[ヴェネツィア国際映画祭]]と並び世界三大映画祭のひとつに数えられる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20210614-KBPKZPKWZBOTRCORL3OI772OPI/|title=濱口監督「賞の重み実感」 ベルリン映画祭授賞式|publisher=産経ニュース|date=2021-06-14|accessdate=2021-06-14}}</ref>。ドイツでは'''ベルリナーレ'''(Berlinale)と呼ばれることが多い。 ==概要== 他の映画祭と比べると社会派の作品が集まる傾向がある。また、近年は新人監督の発掘に力を注いでいる。 最高賞は作品賞にあたる[[金熊賞]]({{lang|de|Goldener Bär}})。この賞の名は熊がベルリン市の紋章であることにちなむ。 FIAPF公認の国際映画祭中、2006年の上映作品数は第7位(360本)、来場者数は第1位(418,000人)であった。三大映画祭では唯一大都市で開催されている(ベルリンは人口360万、ヴェネツイアは26万、カンヌは7万)ことが来場者数の多さにつながっている。 2014年版開催終了時点で、10日間の期間中に販売した一般入場券が33万枚を突破し、「世界最大の映画祭」であると映画祭責任者の{{仮リンク|ディーター・コスリック|en|Dieter Kosslick}}によって発表された。 == 歴史 == [[1951年]]に映画史家の{{仮リンク|アルフレッド・バウアー|de|Alfred Bauer}}をディレクターに開催されたのが起こり。[[第二次世界大戦]]前に芸術の都として栄えたベルリンの西側の拠点であり、東側の中にある当時の[[西ベルリン]]にて西側の芸術文化をアピールしたいという政治的意図があったとされる。[[1955年]]にFIAPFに公式に認められた。当初は東側の作品は除かれており、ソ連の初参加は1974年である。 バウアーの引退後、1976年に{{仮リンク|ヴォルフ・ドナー|de|Wolf Donner (Filmpublizist)}}が第2代のディレクターに就任する。ドナーは夏開催であった本映画祭を2月開催に変更した。1980年に第3代ディレクターとして{{仮リンク|モーリッツ・デ・ハデルン|en|Moritz de Hadeln}}が就任する。ハデルンは[[ハリウッド映画]]に重点をおくセレクションを映画祭にもたらした。1994年には、映画にも及んだ[[関税および貿易に関する一般協定|GATT]]の貿易対立で、アメリカ側が映画祭をボイコットする騒ぎとなり、ハリウッド重視の方針により大きな影響を受けた。2000年にハデルンはディレクターを解任され、2001年で退任。2002年からはディーター・コスリックが第4代ディレクターとなっている。 == 部門 == ベルリナーレにはコンペティション部門、パノラマ部門、エンカウンターズ部門(第70回より追加)<ref name="名前なし-1">{{Cite web|和書|url=https://www.banger.jp/movie/28299/ |title=ベルリン映画祭 新部門設立のねらいは? レッドカーペットにジェレミー・アイアンズやシガニー・ウィーバー |author= |website=BANGER!!!(バンガー) |publisher= |language= |year= |date=2020-02-25 |accessdate=2023-02-27 }}</ref>、ジェネレーション(青少年映画)部門、レトルスペクティブ部門、ドイツ映画部門、フォーラム(部門)、の7つの公式部門がある。それぞれに部門にディレクターがおり、コンペティション部門、パノラマ部門、エンカウンターズ部門などはベルリナーレ本部が運営しているが、フォーラム(部門)は実際は本部とは別の独立した組織が運営している。<ref name="名前なし-2">https://filmex.jp/2019/news/information/filmex2020</ref>その他、2004年から始まったベルリナーレ・スペシャルや、映画を売り買いするヨーロピアン・フィルム・マーケット (Europian Film Market) なども開催されている。 ;コンペティション部門 :世界中から優れた映画作品が集められ、最優秀賞である金熊賞などが授与される。コンペティション部門にノミネートされるには、ワールドプレミア(世界初映)もしくはインターナショナルプレミア(製作国以外で初映)が必要となる。 ;パノラマ部門 :コンペティション部門から外れたもの、もしくはワールドプレミアおよびインターナショナルプレミアではない優れた作品を上映する。のちに名をなす監督のデビュー作がこの部門で紹介されたことも多い。作品のテーマ、質ともにかなり幅広いのが特徴である。ドキュメンタリー映画が上映されることも多い。 ;エンカウンターズ部門 :2020年の第70回から新たに作られた部門。優れたインディペンデント作品や新人作家の発掘に重きをおいている。カンヌのある視点部門、ヴェネチアのオリゾンティ部門に近い部門である。<ref name="名前なし-1"/> ;ジェネレーション部門 :1978年からあったが、2007年から2つに分かれることになった。子供が主人公であり、子供を題材に扱った作品が選ばれる。Generation Kplusは4歳以上が対象で、11人の子どもの審査員によって最優秀賞が選ばれる。Generation 14plusは14歳以上が対象で、7人の子どもの審査員によって最優秀賞が選ばれる。 ;レトロスペクティブ部門 :1977年からドイツ・キネマテークの運営で行われており、過去に制作された優れた作品を上映している。毎年テーマが決められ、特定の監督をフィーチャーする場合もある。 ;フォーラム(部門) :当初は若手監督の支援を目的に始まり、名前も以前は「ヤング・フォーラム」であったため、新人の作品が多く上映される。また、アヴァンギャルド映画、実験映画、ルポルタージュの上映、埋もれていた過去の優れた作品を再上映することもある。フォーラム「部門」と紹介されることが多いが、実際はベルリナーレ本部とは別の独立した事業、組織で運営されている。<ref name="名前なし-2"/> == 賞 == * [[金熊賞]] (Golden Bear / {{lang|de|Goldener Berliner Bär}}) - 以下は国際審査員によって選出される。 * [[金熊名誉賞]] (Golden Bear – Honorary Award / {{lang|de|Goldener Ehrenbär}}) * [[銀熊賞]] (Silver Bear / {{lang|de|Silberner Bär}}) ** [[銀熊賞 (審査員グランプリ)|審査員グランプリ]] (Jury Grand Prix - Silver Bear) ** [[銀熊賞 (監督賞)|監督賞]] (Silver Bear for Best Director / {{lang|de|Silberner Berliner Bär Beste Regie}}) ** [[銀熊賞 (主演俳優賞)|主演俳優賞]] - 2020年に[[銀熊賞 (男優賞)|男優賞]]、[[銀熊賞 (女優賞)|女優賞]]が廃止され、性的区別のない主演俳優賞、助演俳優賞が新設された<ref>{{Cite web|和書|url=https://eiga.com/news/20200830/1/ |title=ベルリン国際映画祭が「男優賞」「女優賞」を廃止 「俳優賞」に統一して新設 |publisher =映画.com ニュース(2020年8月30日) |accessdate=2021-09-28}}</ref>。 ** [[銀熊賞 (助演俳優賞)|助演俳優賞]] ** [[銀熊賞 (脚本賞)|脚本賞]] (Silver Bear for Best Script / {{lang|de|Silberner Berliner Bär, Bestes Drehbuch}}) ** [[銀熊賞 (審査員賞)|審査員賞]](Preis der Jury - Silver Bear) *** [[アルフレッド・バウアー賞]] (Alfred-Bauer Prize / Alfred-Bauer Preis) - 映画祭初代ディレクター[[アルフレッド・バウアー]]の名を冠し、新しい視点を示した作品に贈られていたが、バウアーが[[ナチス・ドイツ]]と癒着関係であったことが発覚し、2021年から廃止された。 ** [[銀熊賞 (芸術貢献賞)|芸術貢献賞]] (Silver Bear for an outstanding artistic contribution / {{lang|de|Silberner Berliner Bär Besondere künstlerische Leistung}}) ** 特別個人貢献賞 (Silver Bear for an outstanding single achievement) ** 音楽賞 (Silver Bear Best Film Music / {{lang|de|Silberner Berliner Bär Beste Filmmusik}}) - 2007年に廃止された。 * 最優秀新人作品賞 (The Best First Feature Award / {{lang|de|Der Preis für den Besten Erstlingsfilm}}) - 本賞専任の審査員 (Best First Feature Jury) によって選出される。 * 短編部門 - 本部門専任の審査員 (International Short Film Jury) によって選出される。 ** 金熊賞 ** 銀熊賞 * パノラマ観客賞 - 観客賞 * [[ベルリナーレ・カメラ]] - 功労賞 * クリスタル・ベア - 4歳以上の子どもを対象にした映画部門(Kplus)、14歳以上の青少年を対象にした映画部門(14plus)に贈られる。 === 独立賞 === * [[ベルリン国際映画祭 FIPRESCI賞]] - ベルリン国際映画祭国際映画批評家連盟賞。 * [[シューティング・スター賞]] - 欧州の若手俳優・女優に贈られる。 * [[テディ賞]] - [[LGBT]]を扱った映画に贈られる。 * [[エキュメニカル審査員賞]]<ref>{{Cite web |url=https://www.berlinale.de/en/festival/awards-and-juries/further-prizes.html |title=Berlinale &#124; Festival &#124; Awards & Juries |author= |website=Berlinale |publisher= |language=de |year= |date= |accessdate=2023-02-27 }}</ref> == 日本との関わり == * 1958年 - [[今井正]]監督『[[純愛物語]]』が[[銀熊賞 (監督賞)]]を受賞 * 1959年 - [[黒澤明]]監督『[[隠し砦の三悪人]]』が、[[銀熊賞 (監督賞)]]を受賞 * 1963年 - [[今井正]]監督『[[武士道残酷物語]]』が、[[金熊賞]]を受賞 * 1963年 - [[今村昌平]]監督『[[にっぽん昆虫記]]』で、[[左幸子]]が[[銀熊賞 (女優賞)]]を受賞 * 1975年 - [[熊井啓]]監督『[[サンダカン八番娼館 望郷]]』で、[[田中絹代]]が[[銀熊賞 (女優賞)]]を受賞 * 1976年 - [[柳川武夫]]監督『[[彫る 棟方志功の世界]]』が短編部門(金熊賞)を受賞 * 1986年 - [[篠田正浩]]監督『[[鑓の権三]]』が[[銀熊賞 (芸術貢献賞)]]を受賞 * 1986年 - [[熊井啓]]監督『[[海と毒薬]]』が[[銀熊賞 (審査員グランプリ)]]を受賞 * 2000年 - [[緒方明]]監督『[[独立少年合唱団]]』が[[アルフレッド・バウアー賞]]を受賞 * 2001年 - [[東陽一]]監督『[[絵の中のぼくの村]]』が特別個人貢献賞を受賞 * 2002年 - [[宮崎駿]]監督『[[千と千尋の神隠し]]』が、[[金熊賞]]を受賞 * 2008年 - [[熊坂出]]監督『[[パーク アンド ラブホテル]]』が最優秀新人作品賞を受賞 * 2010年 - [[若松孝二]]監督『キャタピラー』で、[[寺島しのぶ]]が[[銀熊賞 (女優賞)]]を受賞 * 2012年 - [[和田淳]]監督『グレートラビット』が短編部門(銀熊賞)を受賞 * 2014年 - [[山田洋次]]監督『[[小さいおうち]]』で、[[黒木華]]が[[銀熊賞 (女優賞)]]を受賞<ref>[https://web.archive.org/web/20140216034853/http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20140216-OHT1T00024.htm 山田洋次監督「小さいおうち」の黒木華に女優賞…ベルリン国際映画祭](2014年2月16日)、[[スポーツ報知]]、2014年2月16日閲覧。</ref> * 2021年 - [[濱口竜介]]監督『[[偶然と想像]]』が[[銀熊賞 (審査員グランプリ)]]を受賞 その他の日本映画関連の受賞は、 * [[本橋成一]]監督『[[アレクセイと泉]]』がベルリナー新聞賞・国際シネクラブ賞 * [[黒澤明]]監督『[[生きる (映画)|生きる]]』がベルリン市政府特別賞 * [[関川秀雄]]監督『[[ひろしま]]』が長編映画賞 * [[黒澤明]]監督『[[隠し砦の三悪人]]』が[[ベルリン国際映画祭_FIPRESCI賞|国際映画批評家連盟賞]] * [[家城巳代治]]監督『[[裸の太陽 (映画)|裸の太陽]]』が青少年向映画賞(西ベルリン参事会賞) * [[小川紳介]]監督『[[ニッポン国・古屋敷村]]』が国際映画批評家連盟賞 * [[原一男]]監督『[[ゆきゆきて、神軍]]』がカリガリ映画賞 * [[山本政志]]監督『[[ロビンソンの庭]]』がzitty読者賞 * [[勅使河原宏]]監督『[[利休]]』が国際アートシアター連盟賞 * [[高嶺剛]]監督『[[ウンタマギルー]]』がカリガリ映画賞 * [[イワモトケンチ]]監督『菊池』がヴォルフガング・シュタウテ賞(最優秀新人監督賞)を受賞 * [[崔洋一]]監督『[[月はどっちに出ている]]』が最優秀アジア映画賞 * [[利重剛]]監督『[[エレファント・ソング]]』が最優秀アジア映画賞 * [[市川準]]監督『[[東京兄妹]]』が国際映画批評家連盟賞 * [[岩井俊二]]監督『[[Undo (映画)|undo]]』が最優秀アジア映画賞 * [[篠崎誠]]監督『[[おかえり (映画)|おかえり]]』がヴォルフガング・シュタウテ賞(最優秀新人監督賞)を受賞 * [[新藤風]]監督『[[LOVE/JUICE]]』がヴォルフガング・シュタウテ賞(最優秀新人監督賞)を受賞 * [[岩井俊二]]監督『[[リリイ・シュシュのすべて]]』が国際アートシアター連盟賞 * [[ヤン・ヨンヒ]]監督『[[ディア・ピョンヤン]]』が最優秀アジア映画賞 * [[中川陽介]]監督『[[真昼ノ星空]]』が国際アートシアター連盟賞 * [[桃井かおり]]監督『[[無花果の顔]]』が最優秀アジア映画賞 * [[若松孝二]]監督『[[実録・連合赤軍 あさま山荘への道程]]』が最優秀アジア映画賞ならびに国際アートシアター連盟賞、[[荻上直子]]がザルツゲーバー賞などを受賞。 * [[園子温]]監督『[[愛のむきだし]]』が国際映画批評家連盟賞、カリガリ映画賞 * [[行定勲]]監督『[[パレード (吉田修一)|パレード]]』が国際映画批評家連盟賞 * [[瀬々敬久]]監督『[[ヘヴンズ ストーリー]]』が国際映画批評家連盟賞 * [[ヤン・ヨンヒ]]監督『[[かぞくのくに]]』が国際アートシアター連盟賞 * [[今泉かおり]]監督『[[聴こえてる、ふりをしただけ]]』が子供向け映画を対象とした部門特別表彰 * [[杉田真一]]監督『[[人の望みの喜びよ]]』が子供向け映画を対象とした部門特別表彰<ref>[https://web.archive.org/web/20140222184556/http://www.47news.jp/CN/201402/CN2014021501002317.html 黒木華さんに最優秀女優賞 ベルリン国際映画祭](2014年2月16日)、[[47NEWS]]、[[共同通信]]、2014年2月16日閲覧。</ref> * [[平林勇]]監督『[[663114]]』が[[:de:Gläserner_Bär|ガラスの熊賞]]特別賞 * [[池谷薫 (映画監督)|池谷薫]]監督『[[先祖になる]]』がエキュメニカル審査員賞 * [[坂本あゆみ]]監督『[[FORMA]]』がフォーラム部門で国際映画批評家連盟賞<ref>[https://web.archive.org/web/20140222051024/http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20140215-OHT1T00018.htm?from=related 坂本監督の「FORMA」に批評家連盟賞…ベルリン国際映画祭](2014年2月15日)、[[スポーツ報知]]、2014年2月16日閲覧。</ref> * [[行定勲]]監督『[[リバーズ・エッジ (漫画)|リバースエッジ]]』が国際映画批評家連盟賞 * [[荻上直子]]監督『[[彼らが本気で編むときは、]]』が[[テディ賞]]審査員特別賞 * [[HIKARI (映画監督)|HIKARI]]監督『[[37セカンズ]]』がパノラマ部門の観客賞及び国際アートシアター連盟賞 * [[長久允]]監督『[[WE ARE LITTLE ZOMBIES]]』がガラスの熊賞特別賞 * [[想田和弘]]監督『[[精神0]]』がエキュメニカル審査員賞 * [[諏訪敦彦]]監督『[[風の電話 (映画)|風の電話]]』がガラスの熊賞特別賞 * [[和田淳]]監督『半島の鳥』が短編部門特別表彰 * [[川和田恵真]]監督『[[マイスモールランド]]』がアムネスティ国際映画賞スペシャルメンション * [[市川昆]]監督がベルリナーレ・カメラ受賞(2000年) * [[熊井啓]]監督がベルリナーレ・カメラ受賞(2001年) * [[松竹]]が会社としてベルリナーレ・カメラ受賞(2005年) * [[山田洋次]]監督がベルリナーレ・カメラ受賞(2010年) == 日本作品の出品記録(2000年以降)== {|class="wikitable sortable" background:#ffffff;"} |- ! 年<br /><small>(授賞式)</small> !! 作品名 !! 監督 !! 部門 !! 結果 |- | rowspan="10"| [[2000年の映画|2000年]]<br /><small>[[第50回ベルリン国際映画祭|(第50回)]]</small> | [[:fr:La Chorale des garçons|独立少年合唱団]] | [[緒方明]] | rowspan="2"|コンペティション部門 | align=center style="background:#91CFF6"|[[アルフレッド・バウアー賞]]受賞(緒方明) |- | [[異邦人たち]] | [[スタンリー・クワン]] | {{nom|ノミネート}} |- | [[ボクの、おじさん]] | [[東陽一]] | rowspan="2"|パノラマ部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[金融腐蝕列島#映画|金融腐蝕列島〔呪縛〕]] | [[原田眞人]] | {{nom|ノミネート}} |- | [[MONDAY]] | [[SABU]] | rowspan="6"|フォーラム部門 | align=center style="background:#91CFF6"|[[ベルリン国際映画祭_FIPRESCI賞|国際映画批評家連盟賞]]受賞(SABU) |- | [[ナビィの恋]] | [[中江裕司]] | align=center style="background:#91CFF6"|[[:en:Network_for_the_Promotion_of_Asian_Cinema|最優秀アジア映画賞]]受賞(中江裕司) |- | [[TRUTHS: A STREAM]] | [[槌橋雅博]] | align=center style="background:#91CFF6"|[[:de:Wolfgang-Staudte-Preis|最優秀新人監督賞]]特別賞受賞(槌橋雅博) |- | [[金髪の草原]] | [[犬童一心]] | {{nom|ノミネート}} |- | [[白 THE WHITE]] | [[平野勝之]] | {{nom|ノミネート}} |- | ホームシック | [[水戸ひねき]] | {{nom|ノミネート}} |- | rowspan="11"| [[2001年の映画|2001年]]<br /><small>[[第51回ベルリン国際映画祭|(第51回)]]</small> | クロエ | [[利重剛]] | rowspan="2"|コンペティション部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[狗神|狗神 INUGAMI]] | 原田眞人 | {{nom|ノミネート}} |- | [[日本の黒い夏─冤罪]] | [[熊井啓]] | rowspan="2"|パノラマ部門 | align=center style="background:#91CFF6"|[[:de:Berlinale Kamera|功労賞]]受賞(熊井啓) |- | [[ほとけ]] | [[辻仁成]] | {{nom|ノミネート}} |- | [[LOVE/JUICE]] | [[新藤風]] | rowspan="6"|フォーラム部門 | align=center style="background:#91CFF6"|[[:de:Wolfgang-Staudte-Preis|最優秀新人監督賞]]、国際アートシアター連盟賞受賞(新藤風) |- | [[風花 (2001年の映画)|風花 kaza-hana]] | [[相米慎二]] | {{nom|ノミネート}} |- | [[連弾]] | [[竹中直人]] | {{nom|ノミネート}} |- | [[空の穴]] | [[熊切和嘉]] | {{nom|ノミネート}} |- | Departure | [[中川陽介]] | {{nom|ノミネート}} |- | [[日本鬼子 日中15年戦争・元皇軍兵士の告白]] | [[松井稔]] | {{nom|ノミネート}} |- | [[NAGISA (映画)|NAGISA]] | [[小沼勝]] |キンダーフィルムフェスト部門 |align=center style="background:#91CFF6"|[[:de:Gläserner_Bär|ガラスの熊賞]]受賞(小沼勝) |- | rowspan="12"| [[2002年の映画|2002年]]<br /><small>[[第52回ベルリン国際映画祭|(第52回)]]</small> | [[千と千尋の神隠し]] | [[宮崎駿]] | rowspan="2"|コンペティション部門 | align=center style="background:#91CFF6"|[[金熊賞]]受賞(宮崎駿) |- | [[KT (映画)|KT]] | [[阪本順治]] | {{nom|ノミネート}} |- | [[リリイ・シュシュのすべて]] | [[岩井俊二]] | rowspan="5"|パノラマ部門 |align=center style="background:#91CFF6"|国際アートシアター連盟賞受賞(岩井俊二) |- | [[アレクセイと泉]] | [[本橋成一]] |align=center style="background:#91CFF6"|ベルリナー新聞賞、国際シネクラブ賞受賞(本橋成一) |- | [[GO (小説)#映画|GO]] | [[行定勲]] | {{nom|ノミネート}} |- | [[仄暗い水の底から]] | [[中田秀夫]] | {{nom|ノミネート}} |- | [[いたいふたり]] | [[斎藤久志]] | {{nom|ノミネート}} |- | [[私立探偵 濱マイク|名前のない森]] | [[青山真治]] | rowspan="5"|フォーラム部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[火星のカノン]] | [[風間志織]] | {{nom|ノミネート}} |- | [[修羅雪姫]] | [[佐藤信介]] | {{nom|ノミネート}} |- | [[延安の娘]] | [[池谷薫]] | {{nom|ノミネート}} |- | [[パルムの樹]] | [[なかむらたかし]] | {{nom|ノミネート}} |- | rowspan="6"| [[2003年の映画|2003年]]<br /><small>[[第53回ベルリン国際映画祭|(第53回)]]</small> | [[たそがれ清兵衛]] | [[山田洋次]] | コンペティション部門 |{{nom|ノミネート}} |- | [[ぼくんち]] | 阪本順治 | rowspan="2"|パノラマ部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[ラストシーン]] | 中田秀夫 | {{nom|ノミネート}} |- | [[幸福の鐘]] | SABU | rowspan="3"|フォーラム部門 | align=center style="background:#91CFF6"|[[:en:Network_for_the_Promotion_of_Asian_Cinema|最優秀アジア映画賞]]受賞(SABU) |- | [[小川プロ訪問記]] |[[大重潤一郎]] | {{nom|ノミネート}} |- | 味 | [[李纓]] | {{nom|ノミネート}} |- | rowspan="7"| [[2004年の映画|2004年]]<br /><small>[[第54回ベルリン国際映画祭|(第54回)]]</small> | [[赤目四十八瀧心中未遂]] | [[荒戸源次郎]] | rowspan="3"|パノラマ部門 |{{nom|ノミネート}} |- | [[オー!マイキー#映画|The Fuccon Family]] | [[石橋義正]] | {{nom|ノミネート}} |- | [[きょうのできごと (小説)|きょうのできごと a day on the planet]] | 行定勲 | {{nom|ノミネート}} |- | [[ニワトリはハダシだ]] | [[森崎東]] | rowspan="3"|フォーラム部門 |{{nom|ノミネート}} |- | [[着信アリ]] | [[三池崇史]] | {{nom|ノミネート}} |- | [[ハードラックヒーロー]] | SABU | {{nom|ノミネート}} |- | [[バーバー吉野]] | [[荻上直子]] |キンダーフィルムフェスト部門 |align=center style="background:#91CFF6"|[[:de:Gläserner_Bär|ガラスの熊賞]]特別賞受賞(荻上直子) |- | rowspan="9"| [[2005年の映画|2005年]]<br /><small>[[第55回ベルリン国際映画祭|(第55回)]]</small> | [[隠し剣 鬼の爪]] | 山田洋次 | rowspan="2"|コンペティション部門 | {{nom|ノミネート}} |- | 太陽 | [[アレクサンドル・ソクーロフ]] | {{nom|ノミネート}} |- | 理由 | [[大林宣彦]] | パノラマ部門 |{{nom|ノミネート}} |- | [[真昼ノ星空]] | 中川陽介 | rowspan="3"|フォーラム部門 |align=center style="background:#91CFF6"|国際アートシアター連盟賞受賞(中川陽介) |- | [[山中常盤 牛若丸と常盤御前 母と子の物語]] | [[羽田澄子]] |{{nom|ノミネート}} |- | [[せかいのおわり]] | 風間志織 |{{nom|ノミネート}} |- | [[花とアリス]] | 岩井俊二 | rowspan="2"|ジェネレーション部門 |{{nom|ノミネート}} |- | [[千年火]] | [[瀬木直貴]] |{{nom|ノミネート}} |- | [[KAMATAKI -窯焚-]] | [[クロード・ガニオン]] | ジェネレーション14プラス部門 |align=center style="background:#91CFF6"|[[:de:Gläserner_Bär|ガラスの熊賞]]特別賞受賞(クロード・ガニオン) |- | rowspan="6"| [[2006年の映画|2006年]]<br /><small>[[第56回ベルリン国際映画祭|(第56回)]]</small> | [[46億年の恋]] | 三池崇史 | rowspan="2"|パノラマ部門 | {{nom|ノミネート}} |- | 疾走 | SABU | {{nom|ノミネート}} |- | [[ディア・ピョンヤン]] | [[ヤン・ヨンヒ]] | rowspan="4"|フォーラム部門 | align=center style="background:#91CFF6"|[[:en:Network_for_the_Promotion_of_Asian_Cinema|最優秀アジア映画賞]]受賞(ヤン・ヨンヒ) |- | [[Strange Circus 奇妙なサーカス]] | [[園子温]] | align=center style="background:#91CFF6"|ベルリナー・ツァイトゥング紙・新聞読者賞受賞(園子温) |- | [[BIG RIVER]] | [[舩橋淳]] | {{nom|ノミネート}} |- | [[ぼくらはもう帰れない]] | [[藤原敏史]] | {{nom|ノミネート}} |- | rowspan="6"| [[2007年の映画|2007年]]<br /><small>[[第57回ベルリン国際映画祭|(第57回)]]</small> | [[NAMIKIBASHI#DVD|THE JAPANESE TRADITION 日本の形 謝罪]] | [[小林賢太郎]]、[[小島淳二]] | 短編コンペティション部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[武士の一分]] | 山田洋次 | パノラマ部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[無花果の顔]] | [[桃井かおり]] | rowspan="2"|フォーラム部門 | align=center style="background:#91CFF6"|[[:en:Network_for_the_Promotion_of_Asian_Cinema|最優秀アジア映画賞]]受賞(桃井かおり) |- | [[カインの末裔 (映画)|カインの末裔]] | [[奥秀太郎]] | {{nom|ノミネート}} |- | [[鉄コン筋クリート]] | [[マイケル・アリアス]] | ジェネレーション14プラス部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[さくらん]] | [[蜷川実花]] | コンペティション外 | {{N/a}} |- | rowspan="7"| [[2008年の映画|2008年]]<br /><small>[[第58回ベルリン国際映画祭|(第58回)]]</small> | [[母べえ]] | 山田洋次 | コンペティション部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[めがね (映画)|めがね]] | 荻上直子 | rowspan="2"|パノラマ部門 | align=center style="background:#91CFF6"|[[:it:Premio Manfred Salzgeber|マンフレート・ザルツゲーバー賞]](荻上直子) |- | [[初戀 Hatsu-Koi]] | [[今泉浩一]] | {{nom|ノミネート}} |- | [[パーク アンド ラブホテル]] | [[熊坂出]] | rowspan="4"|フォーラム部門 | align=center style="background:#91CFF6"|[[:fr:Prix du meilleur premier film de la Berlinale|最優秀新人作品賞]]受賞(熊坂出) |- | [[実録・連合赤軍 あさま山荘への道程]] | [[若松孝二]] | align=center style="background:#91CFF6"|[[:en:Network_for_the_Promotion_of_Asian_Cinema|最優秀アジア映画賞]]、国際アートシアター連盟賞受賞(若松孝二) |- | ひぐらし | [[廣末哲万]] | {{nom|ノミネート}} |- | [[むすんでひらいて]] | [[高橋泉]] | {{nom|ノミネート}} |- | rowspan="6"| [[2009年の映画|2009年]]<br /><small>[[第59回ベルリン国際映画祭|(第59回)]]</small> | [[ぐるりのこと。]] | [[橋口亮輔]] | パノラマ部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[愛のむきだし]] | 園子温 | rowspan="4"|フォーラム部門 | align=center style="background:#91CFF6"|[[ベルリン国際映画祭_FIPRESCI賞|国際映画批評家連盟賞]]、[[:de:Caligari Filmpreis|カリガリ賞]]受賞(園子温) |- | 精神 | [[想田和弘]] | {{nom|ノミネート}} |- | 無防備 | [[市井昌秀]] | {{nom|ノミネート}} |- | [[谷中暮色]] | 舩橋淳 | {{nom|ノミネート}} |- | [[そらそい]] | [[石井克人]]、[[三木俊一郎]]、[[オースミユーカ]] | ジェネレーション14プラス部門 | {{nom|ノミネート}} |- | rowspan="14"| [[2010年の映画|2010年]]<br /><small>[[第60回ベルリン国際映画祭|(第60回)]]</small> | [[キャタピラー]] | 若松孝二 | コンペティション部門 | align=center style="background:#91CFF6"|[[銀熊賞 (女優賞)|女優賞]]受賞([[寺島しのぶ]]) |- | [[aramaki]] | [[平林勇]] | rowspan="2"|短編コンペティション部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[赤い森の歌]] | [[泉原昭人]] | {{nom|ノミネート}} |- | パレード | 行定勲 | rowspan="2"|パノラマ部門 | align=center style="background:#91CFF6"|[[ベルリン国際映画祭_FIPRESCI賞|国際映画批評家連盟賞]]受賞(行定勲) |- | [[ゴールデンスランバー]] | [[中村義洋]] | {{nom|ノミネート}} |- | [[川の底からこんにちは]] | [[石井裕也]] | rowspan="5"|フォーラム部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[ケンタとジュンとカヨちゃんの国]] | [[大森立嗣]] | {{nom|ノミネート}} |- | [[京都太秦物語]] | 山田洋次、[[阿部勉]] | {{nom|ノミネート}} |- | [[蟹工船]] | SABU | {{nom|ノミネート}} |- | [[愛しきソナ]] | ヤン・ヨンヒ | {{nom|ノミネート}} |- | [[ユキとニナ]] | [[諏訪敦彦]] | rowspan="2"|ジェネレーション部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[宇宙ショーへようこそ]] | [[舛成孝二]] | {{nom|ノミネート}} |- | [[サマーウォーズ]] | [[細田守]] | ジェネレーション14プラス部門 | {{nom|ノミネート}} |- | いもうと | 山田洋次 | コンペティション外 | align=center style="background:#91CFF6"|[[:de:Berlinale Kamera|功労賞]]受賞(山田洋次) |- | rowspan="10"| [[2011年の映画|2011年]]<br /><small>[[第61回ベルリン国際映画祭|(第61回)]]</small> | [[PLANET Z]] | [[瀬戸桃子]] | 短編コンペティション部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[白夜行]] | [[深川栄洋]] | rowspan="2"| パノラマ部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[ヴァンパイア (2011年の映画)|ヴァンパイア]] | 岩井俊二 | {{nom|ノミネート}} |- | [[ヘヴンズ ストーリー]] | [[瀬々敬久]] | rowspan="4"| フォーラム部門 |align=center style="background:#91CFF6"|[[ベルリン国際映画祭_FIPRESCI賞|国際映画批評家連盟賞]]、[[:en:Network_for_the_Promotion_of_Asian_Cinema|最優秀アジア映画賞]]受賞(瀬々敬久) |- | [[家族X]] | [[吉田光希]] | {{nom|ノミネート}} |- | [[世界グッドモーニング!!]] | [[廣原暁]] | {{nom|ノミネート}} |- | FIT | 廣末哲万 | {{nom|ノミネート}} |- | [[くちゃお]] | [[奥田昌輝]] |ジェネレーション14プラス部門 |{{nom|ノミネート}} |- | [[ハックニーの子守歌]] | [[三宅響子]] | タレント・キャンパス部門 | align=center style="background:#91CFF6"|ベルリン・トゥデイ賞受賞(三宅響子) |- | [[飯と乙女]] | [[栗村実]] | キュリナリー・シネマ部門 | {{N/a}} |- | rowspan="11"| [[2012年の映画|2012年]]<br /><small>[[第62回ベルリン国際映画祭|(第62回)]]</small> | [[グレート・ラビット]] | [[和田淳]] | rowspan="3"|短編コンペティション部門 |align=center style="background:#91CFF6"|[[銀熊賞|銀熊賞(短編部門)]]受賞(和田淳) |- | 渦潮 | [[川本直人]] | {{nom|ノミネート}} |- | [[リリタアル]] | 泉原昭人 | {{nom|ノミネート}} |- | [[レンタネコ]] | 荻上直子 | パノラマ部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[かぞくのくに]] | ヤン・ヨンヒ | rowspan="5"|フォーラム部門 | align=center style="background:#91CFF6"|国際アートシアター連盟賞受賞(ヤン・ヨンヒ) |- | [[恋に至る病]] | [[木村承子]] | {{nom|ノミネート}} |- | [[Friends after 3.11 劇場版]] | 岩井俊二 | {{nom|ノミネート}} |- | [[フタバから遠く離れて]] | 舩橋淳 | {{nom|ノミネート}} |- | 無人地帯 | 藤原敏史 | {{nom|ノミネート}} |- | [[きこえてる、ふりをしただけ]] | [[今泉かおり]] | ジェネレーション部門 |align=center style="background:#91CFF6"|[[:de:Gläserner_Bär|ガラスの熊賞]]特別賞受賞(今泉かおり) |- | [[663114]] | [[平林勇]] |ジェネレーション14プラス部門 |align=center style="background:#91CFF6"|[[:de:Gläserner_Bär|ガラスの熊賞]]特別賞受賞(平林勇) |- | rowspan="9"| [[2013年の映画|2013年]]<br /><small>[[第63回ベルリン国際映画祭|(第63回)]]</small> | [[無言の乗客]] | [[仲本拡史]] | rowspan="3"|短編コンペティション部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[定常と非定常との狭間]] | [[津谷昌弘]] | {{nom|ノミネート}} |- | [[渦汐]] | 川本直人 | {{nom|ノミネート}} |- | [[先祖になる]] | 池谷薫 |rowspan="3"|フォーラム部門 |align=center style="background:#91CFF6"|[[:fr:Prix du jury œcuménique de la Berlinale|エキュメニカル審査員賞]]特別賞受賞(池谷薫) |- | [[くじらのまち]] | [[鶴岡慧子]] | {{nom|ノミネート}} |- | [[桜並木の満開の下に]] | 舩橋淳 | {{nom|ノミネート}} |- | [[チチを撮りに]] | [[中野量太]] | rowspan="2"|ジェネレーション14プラス部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[Ninja & Soldier]] | 平林勇 | {{nom|ノミネート}} |- | [[東京家族 (映画)|東京家族]] | 山田洋次 | コンペティション外 | {{N/a}} |- | rowspan="9"| [[2014年の映画|2014年]]<br /><small>[[第64回ベルリン国際映画祭|(第64回)]]</small> | [[小さいおうち]] | 山田洋次 | コンペティション部門 | align=center style="background:#91CFF6"|[[銀熊賞 (女優賞)|女優賞]]受賞([[黒木華]]) |- | かまくら | [[水尻自子]] | rowspan="2"|短編コンペティション部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[WONDER]] | [[水江未来]] | {{nom|ノミネート}} |- | [[家路 (2014年の映画)|家路]] | [[久保田直]] | パノラマ部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[FORMA]] | [[坂本あゆみ]] | フォーラム部門 | align=center style="background:#91CFF6"|[[ベルリン国際映画祭_FIPRESCI賞|国際映画批評家連盟賞]]受賞(坂本あゆみ) |- | [[人の望みの喜びよ]] | [[杉田真一]] | ジェネレーション部門 | align=center style="background:#91CFF6"|[[:de:Gläserner_Bär|ガラスの熊賞]]特別賞受賞(杉田真一) |- | [[rhizome:リゾーム]] | [[大須賀政裕]] | rowspan="2"|ジェネレーション14プラス部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[SOLTION]] | 平林勇 | {{nom|ノミネート}} |- | [[武士の献立]] | [[朝間義隆]] | コンペティション外 | {{N/a}} |- | rowspan="9"| [[2015年の映画|2015年]]<br /><small>[[第65回ベルリン国際映画祭|(第65回)]]</small> | [[天の茶助]] | SABU | コンペティション部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[PLANET Σ]] | 瀬戸桃子 | rowspan="2"|短編コンペティション部門 |align=center style="background:#91CFF6"|アウディ短編映画賞受賞(瀬戸桃子) |- | [[幕 Maku]] | 水尻自子 | {{nom|ノミネート}} |- | [[リベリアの白い血]] | [[福永壮志]] | パノラマ部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[水の声を聞く]] | [[山本政志]] | rowspan="3"|フォーラム部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[フタバから遠く離れて 第二部]] | 舩橋淳 | {{nom|ノミネート}} |- | [[ダリ―・マルサン]] | 高橋泉 | {{nom|ノミネート}} |- | [[ワンダフルワールドエンド]] | [[松居大悟]] | ジェネレーション部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[リトル・フォレスト]] | [[森淳一]] | キュリナリー・シネマ部門 | {{N/a}} |- | rowspan="6"| [[2016年の映画|2016年]]<br /><small>[[第66回ベルリン国際映画祭|(第66回)]]</small> | [[Vita Lakamaya]] | 泉原昭人 | 短編コンペティション部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[フクシマ・モナムール]] | [[ドーリス・デリエ]] | rowspan="2"|パラノマ部門 | align=center style="background:#91CFF6"|国際アートシアター連盟賞、ハイナー・カーロウ賞受賞(ドーリス・デリエ) |- | [[女が眠る時]] | [[ウェイン・ワン]] | {{nom|ノミネート}} |- | [[あるみち]] | [[杉本大地]] | rowspan="2"|フォーラム部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[火 Hee]] | 桃井かおり | {{nom|ノミネート}} |- | [[クリーピー 偽りの隣人]] | [[黒沢清]] | コンペティション外 | {{N/a}} |- | rowspan="5"| [[2017年の映画|2017年]]<br /><small>[[第67回ベルリン国際映画祭|(第67回)]]</small> | [[Mr.Long/ミスター・ロン]] | SABU | コンペティション部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[彼らが本気で編むときは、]] | 荻上直子 | パノラマ部門 | align=center style="background:#91CFF6"|[[テディ賞]]審査員特別賞受賞(荻上直子) |- | [[映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ]] | 石井裕也 | rowspan="2"|フォーラム部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[三つの光]] | 吉田光希 | {{nom|ノミネート}} |- | [[The Foolish Bird]] | [[大塚竜治]] | ジェネレーション部門 | align=center style="background:#91CFF6"|[[:de:Gläserner_Bär|ガラスの熊賞]]特別賞受賞(大塚竜治) |- | rowspan="8"| [[2018年の映画|2018年]]<br /><small>[[第68回ベルリン国際映画祭|(第68回)]]</small> | [[リバーズ・エッジ (漫画)|リバース・エッジ]] | 行定勲 | rowspan="2"|パノラマ部門 | align=center style="background:#91CFF6"|[[ベルリン国際映画祭_FIPRESCI賞|国際映画批評家連盟賞]]受賞(行定勲) |- | [[予兆 散歩する侵略者]] | 黒沢清 | {{nom|ノミネート}} |- | 港町 | 想田和弘 | rowspan="3"|フォーラム部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[あみこ]] | [[山中瑤子]] | {{nom|ノミネート}} |- | [[わたしたちの家]] | [[清原惟]] | {{nom|ノミネート}} |- | [[Blue Wind Blows]] | [[富名哲也]] | ジェネレーション部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[坂本龍一|坂本龍一 PERFORMANCE IN NEW YORK : async]] | [[スティーブン・ノムラ・シブル]] | コンペティション外 | {{N/a}} |- | [[家族のレシピ]] | [[エリック・クー]] | キュリナリー・シネマ部門 | {{N/a}} |- | rowspan="5"| [[2019年の映画|2019年]]<br /><small>[[第69回ベルリン国際映画祭|(第69回)]]</small> | [[37セカンズ]] | [[HIKARI (映画監督)|HIKARI]] | パノラマ部門 | align=center style="background:#91CFF6"|[[:de:Panorama_Publikumspreis|パノラマ観客賞]]、国際アートシアター連盟賞受賞(HIKARI) |- | [[きみの鳥はうたえる]] | [[三宅唱]] | フォーラム部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[WE ARE LITTLE ZOMBIES]] | [[長久允]] | rowspan="2"|ジェネレーション14プラス部門 | align=center style="background:#91CFF6"|[[:de:Gläserner_Bär|ガラスの熊賞]]特別賞受賞(長久允) |- | [[Leaking Life]] | [[林俊作]] | {{nom|ノミネート}} |- | [[コンプリシティ/優しい共犯]] | [[近浦啓]] | キュリナリー・シネマ部門 | {{N/a}} |- | rowspan="3"| [[2020年の映画|2020年]]<br /><small>[[第70回ベルリン国際映画祭|(第70回)]]</small> | [[:en:The Works and Days|仕事と日(塩尻たよこと塩谷の谷間で)]] | [[C・W・ウィンター]]、[[アンダース・エドストローム]] | エンカウンターズ部門 | align=center style="background:#91CFF6"|グランプリ受賞(C・W・ウィンター、アンダース・エドストローム) |- | 精神0 | 想田和弘 |フォーラム部門 |align=center style="background:#91CFF6"|[[:fr:Prix du jury œcuménique de la Berlinale|エキュメニカル審査員賞]]受賞(想田和弘) |- | [[風の電話]] | 諏訪敦彦 | ジェネレーション14プラス部門 | align=center style="background:#91CFF6"|[[:de:Gläserner_Bär|ガラスの熊賞]]特別賞受賞(諏訪敦彦) |- | rowspan="2"| [[2021年の映画|2021年]]<br /><small>[[第71回ベルリン国際映画祭|(第71回)]]</small> | [[偶然と想像]] | [[濱口竜介]] | コンペティション部門 | align=center style="background:#91CFF6"|[[銀熊賞 (審査員グランプリ)|銀熊賞(審査員グランプリ)]]受賞(濱口竜介) |- | [[由宇子の天秤]] | [[春本雄二郎]] | フォーラム部門 | {{nom|ノミネート}} |- | rowspan="4"| [[2022年の映画|2022年]]<br /><small>[[第72回ベルリン国際映画祭|(第72回)]]</small> | [[半島の鳥]] | 和田淳 | 短編コンペティション部門 | align=center style="background:#91CFF6"|特別賞受賞(和田淳) |- | [[ケイコ 目を澄ませて]] | 三宅唱 | エンカウンターズ部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[バブル (2022年の映画)|バブル]] | [[荒木哲郎]] | ジェネレーション部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[マイスモールランド]] | [[川和田恵真]] | ジェネレーション14プラス部門 | align=center style="background:#91CFF6"|アムネスティ国際映画賞特別賞受賞(川和田恵真) |- | rowspan="4"| [[2023年の映画|2023年]]<br /><small>[[第73回ベルリン国際映画祭|(第73回)]]</small> | [[すずめの戸締まり]] | [[新海誠]] | コンペティション部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[石がある]] | [[太田達成]] | rowspan="2"|フォーラム部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[すべての夜を思いだす]] | 清原惟 | {{nom|ノミネート}} |- | [[#マンホール]] | 熊切和嘉 | コンペティション外 | {{N/a}} |} == ギャラリー == <gallery> |Berlinale Palast 2007 ファイル:Internationalkma.jpg|Kino International ファイル:Cubix2008.jpg|Cubix Kino ファイル:delphiberlin.jpg|Delphi Filmpalast ファイル:Wendersinterview.JPG|[[ヴィム・ヴェンダース]] ファイル:SharonStoneBerlinale.jpg|[[シャロン・ストーン]] ファイル:Denzel Washington.jpeg|[[デンゼル・ワシントン]] </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[ベルリン芸術祭]] * [[ベルリン国際映画祭 FIPRESCI賞]] == 外部リンク == * [https://www.berlinale.de/en/HomePage.html 公式ページ] {{ベルリン国際映画祭}} {{映画祭}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:へるりんこくさいえいかさい}} [[Category:ベルリン国際映画祭|*]] [[Category:1951年開始のイベント]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E6%98%A0%E7%94%BB%E7%A5%AD
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カンヌ国際映画祭
カンヌ国際映画祭(カンヌこくさいえいがさい、仏: Festival International du Film de Cannes)は、1946年にフランス政府が開催して以来、毎年5月(1948年、1950年は中止)にフランス南部コート・ダジュール沿いの都市カンヌで開かれている世界で最も有名な国際映画祭の一つ。2002年から正式にカンヌ映画祭(Festival de Cannes)という名称が使用されるようになった。 カンヌ国際映画祭はベルリン国際映画祭、ヴェネツィア国際映画祭と併せ、世界三大映画祭の一つである。審査員は著名な映画人や文化人によって構成されている。 併設されている国際映画見本市(フィルム・マーケット)、マルシェ・デュ・フィルム(MARCHÉ DU FILM)も、MIFED(イタリア語版)、アメリカン・フィルム・マーケットと並び世界三大マーケットのひとつである。マーケットには例年800社、数千人の映画製作者(プロデューサー)、バイヤー、俳優などが揃い、世界各国から集まる映画配給会社へ新作映画を売り込むプロモーションの場となっている。とりわけ、世界三大映画祭と世界三大マーケットが同時に開催されるのはカンヌだけであるため、集中的に世界中のマスメディアから多大な注目が集まり、毎回全世界から数多くの俳優、映画製作者が出席する。 開催期間中は、メイン会場を始め各映画館では映画が上映され、見本市では各製作会社によるブースでプレゼンとパーティが行われる。これから公開される映画はもちろんのこと、予告編しかできていない映画やまだ脚本すらできていない企画段階の映画までが売り込みに出され売買される。このマーケットでどれだけ先にヒット映画を予測し買い取るのかがバイヤーの腕の見せ所でもある。 なお、名称の類似したカンヌ世界映画祭(Cannes World Film Festival)とは別の映画祭である。 監督週間と批評家週間に並ぶ、カンヌ映画祭の3つの並行部門のうちのひとつ。芸術的作品を支援するために映画作家たちが創設した「インディペンデント映画普及協会(ACID)」が作品選定・運営。1993年に創設。カンヌでは、世界の先鋭的な9作品を紹介し続けている重要な部門。 最高賞はパルム・ドール(Palme d'Or)と呼ばれ、ノミネートされた20本前後の映画作品の中から選ばれる。二本以上の作品が選ばれる年もある。当初は最高賞を「グランプリ」(Grand Prix du Festival International du Film、国際映画祭のグランプリ)としていたが、1955年にトロフィーの形にちなんだ「パルム・ドール」(黄金のシュロ)を正式名称とし、「グランプリ」とも呼ばれる形とした。1965年に最高賞の正式名称を「グランプリ」に戻すが、1975年に再度「パルム・ドール」としている。長らくカンヌにおいては「グランプリ」とは最高賞の正式名称もしくは別名であったが、1990年に審査員特別賞('Grand Prix Spécial du Jury')に「グランプリ」の名が与えられることとなり、混乱を招いている。 年度別に関してはCategory:カンヌ国際映画祭を参照。 1960年にアニメーション部門を独立させ、アヌシー国際アニメーション映画祭を設立した。このため、長年に渡り原則としてアニメーション作品はノミネートされなかったが、近年ようやく時代の変化を受け、徐々にノミネートを試み始めている。 1930年代後半、ファシスト政府の介入を受け次第に政治色を強めたヴェネツィア国際映画祭に対抗するため、フランス政府の援助を受けて開催されることになったのがカンヌ国際映画祭である。1939年から開催の予定だったが、当日に第二次世界大戦勃発のため中止。終戦後の1946年に正式に開始されることになった。 しかし1948年から1950年まで、予算の関係で開催されず、1951年に再び開催。この頃からパレ・デ・フェスティバルが会場として使用されている。 1968年には五月革命が起こり、ルイ・マル、フランソワ・トリュフォー、クロード・ベリ、ジャン=ガブリエル・アルビコッコ、クロード・ルルーシュ、ロマン・ポランスキー、ジャン=リュック・ゴダールなどの要請により、映画祭が中断されるという事態が起こった(1968年のカンヌ映画祭(フランス語版))。 2020年は新型コロナウイルスの感染拡大を受け、開催が延期された。またパルム・ドールなどの選考も中止。 会長職はフランス映画産業と文化・通信省、外務省、議会の代表者で構成されるフランス国際映画祭協会によって選出される。 2014年には34年間映画祭の運営に携わってきたジル・ジャコブ(フランス語版)会長が引退し、ピエール・レスキュール(フランス語版)が新会長となっている。 映画祭のメインの運営資金は、半分以上が文化・通信省管轄のフランス国立映画センター(フランス語版)(CNC)から融資されている。フランスでは文化特例制度と呼ばれる映画振興政策が取られておりフランス国内で公開された映画は入場料の10.72%が特別追加税として差し引かれ、更にビデオ制作会社やテレビ事業者からの税収がCNCが行う助成活動の資金となる。このため映画祭に出品される映画は、文化特例制度を遵守している必要があり、フランス国内での公開が義務付けられる上に、一般公開日後のメディア化や動画配信の際に規定のスケジュールを守らない場合には出品が認められない。2017年にはNetflixが一般公開せず、限定公開後に間もなく動画配信を行ったが、2018年からの出品が認められなくなっている。 2007年に開催60回記念として、映画『それぞれのシネマ〜カンヌ国際映画祭60回記念製作映画〜』が映画祭公式で製作、上映された。「それぞれのシネマ」は映画祭プロデューサー、ジル・ジャコブの呼びかけにより、映画祭にゆかりのある監督たちがそれぞれの「映画館」への想いを3分間でつづったオムニバス映画。参加監督は以下の通り(()内は主な作品)。
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カンヌ国際映画祭は、1946年にフランス政府が開催して以来、毎年5月(1948年、1950年は中止)にフランス南部コート・ダジュール沿いの都市カンヌで開かれている世界で最も有名な国際映画祭の一つ。2002年から正式にカンヌ映画祭という名称が使用されるようになった。
{{イベントインフォメーション |イベント名称=カンヌ国際映画祭 |種類=[[映画祭]] |画像=Cannes.Redcarpet.jpg |画像サイズ=300px |画像説明=映画祭会場[[レッドカーペット]]([[2001年]]) |開催時期= |初回開催=[[1946年]] |会場=[[カンヌ]] |主催=フランス国際映画祭協会 |共催= |後援= |協賛= |企画制作= |来場者数= |最寄駅= |URL=https://www.festival-cannes.com/en/ |特記事項=[[映画祭#世界三大映画祭|世界三大映画祭]]のひとつ。 }} '''カンヌ国際映画祭'''(カンヌこくさいえいがさい、{{lang-fr-short|Festival International du Film de Cannes}})は、[[1946年]]に[[フランス]]政府が開催して以来、毎年5月(1948年、1950年は中止)にフランス南部[[コート・ダジュール]]沿いの都市[[カンヌ]]で開かれている[[世界]]で最も有名な[[映画祭|国際映画祭]]の一つ。2002年から正式に'''カンヌ映画祭'''(Festival de Cannes)という名称が使用されるようになった<ref>{{Cite web|url=https://www.palaisdesfestivals.com/le-festival-de-cannes|title=Le Festival de Cannes|website=[[パレ・デ・フェスティバル・エ・デ・コングレ]]|accessdate=2023-05-23|quote=Jusqu’alors Festival International du Film, l’appellation de Festival de Cannes est rendue officielle en 2002.}}</ref>。 == 概要 == カンヌ国際映画祭は[[ベルリン国際映画祭]]、[[ヴェネツィア国際映画祭]]と併せ、[[映画祭#世界三大映画祭|世界三大映画祭]]の一つである。審査員は著名な映画人や文化人によって構成されている。 併設されている[[国際]]映画[[見本市]](フィルム・マーケット)、マルシェ・デュ・フィルム([[:fr:Marché du film de Cannes|MARCHÉ DU FILM]])も、{{仮リンク|MIFED|it|Mercato internazionale del film e del documentario}}、[[アメリカン・フィルム・マーケット]]と並び世界三大マーケットのひとつである。マーケットには例年800社、数千人の映画製作者([[プロデューサー]])、[[バイヤー]]、[[俳優]]などが揃い、世界各国から集まる[[映画]]配給会社へ新作映画を売り込む[[宣伝|プロモーション]]の場となっている。とりわけ、世界三大映画祭と世界三大マーケットが同時に開催されるのはカンヌだけであるため、集中的に世界中のマスメディアから多大な注目が集まり、毎回全世界から数多くの俳優、映画製作者が出席する。 開催期間中は、メイン会場を始め各映画館では映画が上映され、見本市では各製作会社によるブースでプレゼンとパーティが行われる。これから公開される映画はもちろんのこと、予告編しかできていない映画やまだ脚本すらできていない企画段階の映画までが売り込みに出され売買される。このマーケットでどれだけ先にヒット映画を予測し買い取るのかがバイヤーの腕の見せ所でもある。 なお、名称の類似したカンヌ世界映画祭(Cannes World Film Festival)とは別の映画祭である<ref>{{Cite web|url=https://www.cannesworldfilmfestival.com/about|title=Cannes World Film Festival - ABOUT OUR FESTIVAL|publisher=Cannes World Film Festival|accessdate=2023-03-20}}</ref>。 == 賞 == ===公式選出=== *'''コンペティション部門'''(シアターリュミエールで上映される。カンヌ映画祭の中心となる部門) **[[パルム・ドール]](最高賞) **[[カンヌ国際映画祭 審査員特別グランプリ|グランプリ]](最高賞に次ぐ賞) **[[カンヌ国際映画祭 監督賞|監督賞]] **[[カンヌ国際映画祭 男優賞|男優賞]] **[[カンヌ国際映画祭 女優賞|女優賞]] **[[カンヌ国際映画祭 脚本賞|脚本賞]] **[[カンヌ国際映画祭 審査員賞|審査員賞]] *'''[[ある視点]]部門''' **{{仮リンク|ある視点作品賞|fr|Prix Un certain regard}} **その他の賞もあるが、毎年贈られる賞は異なる(審査員賞、特別賞、監督賞、名脇役賞など) *'''短編部門''' ** {{仮リンク|短編映画パルム・ドール|fr|Palme d'or du court métrage}} *'''{{仮リンク|シネファウンデーション|fr|Cinéfondation}}''' : 学生作品が対象の短編作品賞。 *'''[[カメラ・ドール]]''' : 新人監督賞。「コンペティション部門」「監督週間」「国際批評家週間」で紹介された処女作の中から、最も優秀な作品に贈られる。 ===独立選出=== *'''{{仮リンク|国際批評家週間|fr|Semaine de la critique}}''' - 国際批評家連盟主催 **{{仮リンク|ネスプレッソ大賞|fr|Grand prix de la semaine de la critique}} **フランス4ヴィジョナリー賞 **SACD賞 **ライカ・シネディスカヴァリー短編映画賞 *'''監督週間(英: [[:en:Directors'_Fortnight|Directors' Fortnight]]、仏: [[:fr:Quinzaine_des_réalisateurs|Quinzaine des réalisateurs]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2384382|title=カンヌ国際映画祭の監督週間、注目作と出品作一覧|accessdate=2018-12-22|website=www.afpbb.com|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://unijapan.org/news/entry/festival/directors_fortnight.html|title=47th Directors' Fortnight(監督週間)|accessdate=2018-12-22|website=公益財団法人 ユニジャパン}}</ref> - 監督協会主催''' *:1968年の[[カンヌ国際映画祭粉砕事件]]をきっかけに、政治や商業を抜きにして、より自由な映画選出を謳って設けられた上映週間。 **芸術映画賞 **SACD賞 **ヨーロッパ・シネマ・ラベル賞 **イリー短編映画賞 * '''[https://www.lacid.org/fr/cannes ACID] -'''  インディペンデント映画普及協会主催    監督週間と批評家週間に並ぶ、カンヌ映画祭の3つの並行部門のうちのひとつ。芸術的作品を支援するために映画作家たちが創設した「[https://www.lacid.org/fr/en インディペンデント映画普及協会(ACID)]」が作品選定・運営。1993年に創設。カンヌでは、世界の先鋭的な9作品を紹介し続けている重要な部門。 ===独立賞=== *[[カンヌ国際映画祭 FIPRESCI賞|FIPRESCI賞]](国際映画批評家連盟賞) *[[エキュメニカル審査員賞]] *[[カンヌ国際映画祭 バルカン賞|バルカン賞]](技術賞) *[[パルム・ドッグ賞]] *[[クィア・パルム]] *{{仮リンク|ショパール・トロフィー|fr|Trophée Chopard}} *{{仮リンク|フランソワ・シャレ賞|fr|Prix François-Chalais}} *{{仮リンク|ルイユ・ドール|fr|L'Œil d'or (prix)}} ===特別賞=== *[[パルム・ドール・ドヌール]](名誉パルム・ドール、パルム・ドール名誉賞とも) *{{仮リンク|金の馬車賞|fr|Carrosse d'or}}(監督週間の特別賞) *記念賞 **20周年記念賞([[第19回カンヌ国際映画祭|1966年]]):[[オーソン・ウェルズ]]『[[オーソン・ウェルズのフォルスタッフ]]』 **25周年記念賞([[第24回カンヌ国際映画祭|1971年]]):[[ルキノ・ヴィスコンティ]]『[[ベニスに死す]]』 **35周年記念賞([[第35回カンヌ国際映画祭|1982年]]):[[ミケランジェロ・アントニオーニ]]『[[ある女の存在証明]]』 **40周年記念賞([[第40回カンヌ国際映画祭|1987年]]):[[フェデリコ・フェリーニ]]『[[インテルビスタ]]』 **45周年記念賞([[第45回カンヌ国際映画祭|1992年]]):[[ジェームズ・アイボリー]]『[[ハワーズ・エンド]]』 **50周年記念賞([[第50回カンヌ国際映画祭|1997年]]):[[ユーセフ・シャヒーン]]『[[炎のアンダルシア]]』 **55周年記念賞([[第55回カンヌ国際映画祭|2002年]]):[[マイケル・ムーア]]『[[ボウリング・フォー・コロンバイン]]』 **60周年記念賞([[第60回カンヌ国際映画祭|2007年]]):[[ガス・ヴァン・サント]]『[[パラノイドパーク]]』 **70周年記念賞([[第70回カンヌ国際映画祭|2017年]]):[[ニコール・キッドマン]] **75周年記念賞([[第75回カンヌ国際映画祭|2022年]]):[[ダルデンヌ兄弟]]『Tori et Lokita』 ===過去に存在した賞=== *[[カンヌ国際映画祭 バルカン賞#フランス映画高等技術委員会賞|フランス映画高等技術委員会賞]](1951年~2001年) : 2003年から[[カンヌ国際映画祭 バルカン賞|バルカン賞]]に改められた。 *[[カンヌ国際映画祭 国際カトリック映画事務局賞|国際カトリック映画事務局賞]](1952年~1973年) : 1974年から[[エキュメニカル審査員賞]]に改められた。 * {{仮リンク|ユース賞|fr|Prix de la jeunesse}}(1982年〜2012年) * 撮影賞 * 音楽賞 最高賞は[[パルム・ドール]](''Palme d'Or'')と呼ばれ、ノミネートされた20本前後の映画作品の中から選ばれる。二本以上の作品が選ばれる年もある。当初は最高賞を「グランプリ」(Grand Prix du Festival International du Film、国際映画祭のグランプリ)としていたが、1955年にトロフィーの形にちなんだ「パルム・ドール」(黄金の[[シュロ]])を正式名称とし、「グランプリ」とも呼ばれる形とした。1965年に最高賞の正式名称を「グランプリ」に戻すが、1975年に再度「パルム・ドール」としている。長らくカンヌにおいては「グランプリ」とは最高賞の正式名称もしくは別名であったが、1990年に審査員特別賞('Grand Prix Spécial du Jury')に「グランプリ」の名が与えられることとなり、混乱を招いている。 年度別に関しては[[:Category:カンヌ国際映画祭]]を参照。 1960年にアニメーション部門を独立させ、[[アヌシー国際アニメーション映画祭]]を設立した。このため、長年に渡り原則としてアニメーション作品はノミネートされなかったが、近年ようやく時代の変化を受け、徐々にノミネートを試み始めている。 == 歴史 == 1930年代後半、ファシスト政府の介入を受け次第に政治色を強めた[[ヴェネツィア国際映画祭]]に対抗するため、フランス政府の援助を受けて開催されることになったのがカンヌ国際映画祭である。1939年から開催の予定だったが、当日に[[第二次世界大戦]]勃発のため中止。終戦後の1946年に正式に開始されることになった。 しかし1948年から1950年まで、予算の関係で開催されず、1951年に再び開催。この頃から[[パレ・デ・フェスティバル・エ・デ・コングレ|パレ・デ・フェスティバル]]が会場として使用されている。 1968年には[[五月危機|五月革命]]が起こり、[[ルイ・マル]]、[[フランソワ・トリュフォー]]、[[クロード・ベリ]]、[[ジャン=ガブリエル・アルビコッコ]]、[[クロード・ルルーシュ]]、[[ロマン・ポランスキー]]、[[ジャン=リュック・ゴダール]]などの要請により、映画祭が中断されるという事態が起こった({{仮リンク|1968年のカンヌ映画祭|fr|Festival de Cannes 1968}})。 2020年は[[2019新型コロナウイルス|新型コロナウイルス]]の感染拡大を受け、開催が延期された<ref>{{Cite news|url= https://eiga.com/news/20200320/11/ |title= カンヌ国際映画祭が延期を発表 |newspaper= 映画.com |publisher= 株式会社エイガ・ドット・コム |date= 2020-03-20 |accessdate= 2020-03-22 }}</ref>。またパルム・ドールなどの選考も中止。 == 運営 == 会長職はフランス映画産業と[[文化・通信省]]、[[外務省 (フランス)|外務省]]、議会の代表者で構成されるフランス国際映画祭協会によって選出される<ref>{{Cite web |author=[[ル・モンド]] |date=2014/1/14|url=https://www.lemonde.fr/culture/article/2014/01/14/filippetti-annonce-l-election-de-lescure-a-la-presidence-du-festival-de-cannes_4347727_3246.html |title=Pierre Lescure officiellement &agrave; la t&ecirc;te du Festival de Cannes |website=[[ル・モンド]]|publisher=[[ル・モンド]]|accessdate=2018-06-09}}</ref>。 2014年には34年間映画祭の運営に携わってきた{{仮リンク|ジル・ジャコブ|fr|Gilles Jacob}}会長が引退し、{{仮リンク|ピエール・レスキュール|fr|Pierre_Lescure}}が新会長となっている。 映画祭のメインの運営資金は、半分以上が文化・通信省管轄の{{仮リンク|フランス国立映画センター|fr|Centre national du cinéma et de l'image animée}}(CNC)から融資されている<ref name="LEXUS">{{Cite web|和書|author=[[ニューヨーク・タイムス]] |date=2017/7/10 |url=https://lexus.jp/magazine/20170710/43/cul_cannes_netflix.html |title=映画は誰のためのものか。カンヌとNetflixが繰り広げる攻防戦 |website=LEXUS‐ VISIONARY |publisher=トヨタ自動車 |accessdate=2018-06-09}} -2017年5月16日の[[ニューヨーク・タイムス]] の記事を翻訳したもの</ref>。フランスでは文化特例制度と呼ばれる映画振興政策が取られておりフランス国内で公開された映画は入場料の10.72%が特別追加税として差し引かれ、更にビデオ制作会社やテレビ事業者からの税収がCNCが行う助成活動の資金となる<ref name="ル・モンド・ディプロマティーク" >{{Cite web|和書|author=エウジェニオ・レンジ |coauthors=石木隆治(訳)|date=2017/7/10 |url=http://www.diplo.jp/articles13/1302cinema.html|title=フランス映画の現実−−意義の薄れる助成金制度 |website=ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版|publisher=ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版|accessdate=2018-06-09}} </ref>。このため映画祭に出品される映画は、文化特例制度を遵守している必要があり、フランス国内での公開が義務付けられる上に、一般公開日後のメディア化や動画配信の際に規定のスケジュールを守らない場合には出品が認められない。2017年には[[Netflix]]が一般公開せず、限定公開後に間もなく動画配信を行ったが、2018年からの出品が認められなくなっている<ref name="LEXUS"/>。 == 60回記念製作映画 == 2007年に開催60回記念として、映画『[[それぞれのシネマ]]〜カンヌ国際映画祭60回記念製作映画〜』が映画祭公式で製作、上映された。「それぞれのシネマ」は映画祭プロデューサー、ジル・ジャコブの呼びかけにより、映画祭にゆかりのある監督たちがそれぞれの「映画館」への想いを3分間でつづった[[オムニバス|オムニバス映画]]。参加監督は以下の通り(()内は主な作品)。 *[[レイモン・ドゥパルドン]](『[[アフリカ、痛みはいかがですか]]』) *[[北野武]](『[[HANA-BI]]』) *[[テオ・アンゲロプロス]](『[[永遠と一日]]』) *[[アンドレイ・コンチャロフスキー]](『[[映写技師は見ていた]]』) *[[ナンニ・モレッティ]](『[[息子の部屋]]』) *[[ホウ・シャオシェン]](『[[悲情城市]]』) *[[ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ]](『[[ロゼッタ (映画)|ロゼッタ]]』) *[[コーエン兄弟|ジョエル&イーサン・コーエン]](『[[ノーカントリー]]』)  *[[デヴィッド・リンチ]](『[[マルホランド・ドライブ]]』) *[[アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ]](『[[バベル (映画)|バベル]]』) *[[チャン・イーモウ]](『[[HERO (2002年の映画)|HERO]]』) *[[アモス・ギタイ]](『[[キプールの記憶]]』) *[[ジェーン・カンピオン]](『[[ピアノ・レッスン]]』) *[[アトム・エゴヤン]](『[[スウィート ヒアアフター]]』) *[[アキ・カウリスマキ]](『[[過去のない男]]』) *[[オリヴィエ・アサヤス]](『[[夏時間の庭]]』) *[[ユーセフ・シャヒーン]](『[[炎のアンダルシア]]』) *[[ツァイ・ミンリャン]](『[[西瓜 (映画)|西瓜]]』) *[[ラース・フォン・トリアー]](『[[ダンサー・イン・ザ・ダーク]]』) *[[ラウル・ルイス]](『ミステリーズ 運命のリスボン』) *[[クロード・ルルーシュ]](『[[男と女]]』) *[[ガス・ヴァン・サント]](『[[エレファント (映画)|エレファント]]』) *[[ロマン・ポランスキー]](『[[戦場のピアニスト]]』) *[[マイケル・チミノ]](『[[ディア・ハンター]]』) *[[デヴィッド・クローネンバーグ]](『[[ヒストリー・オブ・バイオレンス]]』) *[[ウォン・カーウァイ]](『[[花様年華]]』) *[[アッバス・キアロスタミ]](『[[桜桃の味]]』) *[[ビレ・アウグスト]](『[[マンデラの名もなき看守]]』) *[[エリア・スレイマン]](『[[D.I.]]』) *[[マノエル・デ・オリヴェイラ]](『[[クレーヴの奥方 (1999年の映画)|クレーヴの奥方]]』) *[[ウォルター・サレス]](『[[モーターサイクル・ダイアリーズ]]』) *[[ヴィム・ヴェンダース]](『[[パリ、テキサス]]』) *[[チェン・カイコー]](『[[さらば、わが愛/覇王別姫]]』) *[[ケン・ローチ]](『[[麦の穂をゆらす風]]』) == 日本映画の受賞 == *コンペティション部門受賞 **[[杉山公平]] 『[[源氏物語 (1951年の映画)|源氏物語]]』:撮影賞 **[[衣笠貞之助]]『[[地獄門]]』:[[パルム・ドール]] **[[今村貞雄]] 『[[白い山脈]]』:記録映画賞 **[[市川崑]]『[[鍵 (1959年の映画)|鍵]]』:[[カンヌ国際映画祭 審査員賞|審査員特別賞]] **[[小林正樹]]『[[切腹 (映画)|切腹]]』:審査員特別賞 **[[勅使河原宏]]『[[砂の女]]』:審査員特別賞 **小林正樹『[[怪談 (1965年の映画)|怪談]]』:審査員特別賞 **[[大島渚]]『[[愛の亡霊]]』:[[カンヌ国際映画祭 監督賞|監督賞]] **[[黒澤明]]『[[影武者 (映画)|影武者]]』:パルム・ドール **[[今村昌平]]『[[楢山節考 (1983年の映画)|楢山節考]]』:パルム・ドール **[[ポール・シュレイダー]]『[[ミシマ:ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ]]』:芸術貢献賞 **[[三國連太郎]]『[[親鸞 白い道]]』:審査員賞 **[[小栗康平]]『[[死の棘]]』:[[カンヌ国際映画祭 審査員特別グランプリ|グランプリ]] **今村昌平『[[うなぎ (映画)|うなぎ]]』:パルム・ドール **[[柳楽優弥]]『[[誰も知らない]]』:[[カンヌ国際映画祭 男優賞|男優賞]] **[[河瀬直美]]『[[殯の森]]』:グランプリ **[[是枝裕和]]『[[そして父になる]]』:審査員賞 **是枝裕和『[[万引き家族]]』:パルム・ドール **[[濱口竜介]]、[[大江崇允]]『[[ドライブ・マイ・カー_(映画)|ドライブ・マイ・カー]]』:[[カンヌ国際映画祭 脚本賞|脚本賞]] **[[役所広司]]『[[PERFECT DAYS]]』:男優賞 **[[坂元裕二]]『[[怪物 (2023年の映画)|怪物]]』:脚本賞 *[[ある視点部門]]受賞 **黒沢清『[[トウキョウソナタ]]』:審査員賞 **黒沢清『[[岸辺の旅]]』:監督賞 **[[深田晃司]]『[[淵に立つ]]』:審査員賞 **[[マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット]]『[[レッドタートル ある島の物語]]』:特別賞 *短編部門受賞 **[[渋谷昶子]]『[[挑戦]]』:短編パルム・ドール *カメラ・ドール部門受賞 **河瀬直美『[[萌の朱雀]]』:[[カメラ・ドール]] *独立部門受賞 **[[アラン・レネ]]『[[二十四時間の情事]]』:[[カンヌ国際映画祭 FIPRESCI賞|国際映画批評家連盟賞]] **[[小栗康平]]『死の棘』:[[カンヌ国際映画祭 FIPRESCI賞|国際映画批評家連盟賞]] **今村昌平『[[黒い雨]]』:[[カンヌ国際映画祭 バルカン賞|フランス高等技術委員会賞]] **[[諏訪敦彦]]『[[M/OTHER]]』:国際映画批評家連盟賞 **[[青山真治]]『[[EUREKA]]』:国際映画批評家連盟賞、[[エキュメニカル審査員賞]] **[[黒沢清]]『[[回路 (映画)|回路]]』:国際映画批評家連盟賞 **河瀬直美『[[光 (2017年の河瀨直美監督の映画)|光]]』:エキュメニカル審査員賞 **濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』:国際映画批評家連盟賞、エキュメニカル審査員賞 **是枝裕和『[[ベイビー・ブローカー]]』:エキュメニカル審査員賞 **[[ヴィム・ヴェンダース]]『[[PERFECT DAYS]]』:エキュメニカル審査員賞 **是枝裕和『怪物』:[[クィア・パルム]] == カンヌ国際映画祭を舞台にした作品 == *[[カンヌの恋人]]([[:en:An Almost Perfect Affair|An Almost Perfect Affair]]) (1979) - [[映画監督]]とある[[プロデューサー]]の[[妻]]との恋愛を描くアメリカ映画。 *[[カンヌ映画通り]](Notre Dame de la Croisette) (1981) - [[ダニエル・シュミット]]のセミ・[[ドキュメンタリー]]。 *[[カンヌ映画祭殺人事件]]([[:fr:La Cité de la peur (film, 1994)|La Cité de la peur]]) (1994) - [[フランス]]制作の[[コメディ]]。 *[[カンヌ 愛と欲望の都]]([[:en:Festival in Cannes|Festival in Cannes]]) (2002) - 映画祭での売り込みに明け暮れる監督、女優、プロデューサー等を描いたドラマ。 *[[悪魔の毒々映画をカンヌで売る方法!]](All the Love You Cannes! An Indie's Guide to Cannes Film Festival) (2004) - 映画祭での[[トロマ・エンターテインメント]]を描いたドキュメンタリー。 *[[ファム・ファタール (映画)|ファム・ファタール]] (2004) - [[ブライアン・デ・パルマ]]監督のサスペンス。 *[[Mr.ビーン カンヌで大迷惑?!]] (2007) - [[Mr.ビーン]]劇場版の2作目。 *[[山田孝之のカンヌ映画祭]] (2017) - ドキュメンタリー風ドラマ == ギャラリー == <gallery> File:Francis Ford Coppola(CannesPhotoCall).jpg|[[フランシス・コッポラ]]、[[2001年]] Image:CANNES (festival1).jpg|2001年の風景 Image:Starlette.jpg|売り出し中の若手[[俳優#性別での分類|女優]]が[[カメラ]]に向かってポーズをとる姿は、カンヌの名物のひとつ。 Image:Leo Scor Diaz(GangsofNY)-.jpg|映画祭の出席者達左から[[レオナルド・ディカプリオ|ディカプリオ]]、[[マーティン・スコセッシ|スコセッシ監督]]、[[キャメロン・ディアス]]([[2002年]]) </gallery> == 関連項目 == *[[映画]] *[[短編映画]] *[[映画祭]] *[[ショパール]] *[[国際映画祭]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連文献 == {{参照方法|date=2018年6月|section=1}} *{{Cite |和書 | author = 田山力哉 | authorlink = 田山力哉 | title = カンヌ映画祭35年史 | date = 1984-03 | publisher = [[三省堂]] | isbn = 4-385-34865-0 | ref = harv }} *{{Cite |和書 | author = 田山力哉 | title = 田山力哉のカンヌ映画祭 | date = 1991-08 | publisher = 三省堂 | isbn = 4-385-34866-9 | ref = harv }} *{{Cite |和書 | author = 中川洋吉 | title = カンヌ映画祭 | date = 1994-04 | publisher = [[講談社]] | series = [[講談社現代新書]] | isbn = 4-06-149199-7 | pages = 236-238 | ref = harv }} *{{Cite |和書 | editor= [[樋口泰人]] | title = カンヌ映画祭の50年 出品全3280作リスト集 | date = 1998-04 | publisher = [[アスペクト (企業)|アスペクト]] | isbn = 4-7572-0048-X | ref = harv }} == 外部リンク == {{commons|Cannes Film Festival}} *[https://www.festival-cannes.com/ 公式サイト(フランス語)] *[https://www.marchedufilm.com/en/ カンヌ国際映画祭マーケットのサイト](英語) {{カンヌ国際映画祭}} {{映画祭}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かんぬこくさいえいかさい}} [[Category:カンヌ国際映画祭|*]] [[Category:フランスの映画]] [[Category:フランスの観光]] [[Category:1946年開始のイベント]]
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ヴェネツィア国際映画祭
ヴェネツィア国際映画祭(ヴェネツィアこくさいえいがさい、Mostra Internazionale d'Arte Cinematografica)は、イタリアのヴェネツィアで毎年8月末から9月初旬に開催される映画祭である。カンヌ国際映画祭、ベルリン国際映画祭と並んで三大映画祭のひとつとされ、世界の映画祭で最も長い歴史をもつ。 最も歴史の古い国際美術展であるヴェネツィア・ビエンナーレの第18回(1932年8月6日)の際に、映画部門として開始された。国際映画祭としては最初ともいわれる。初回の最優秀賞は観客の投票で決められた。1934年から1942年までは、最高賞が「ムッソリーニ賞」であった。第二次世界大戦のために1940年から1942年は参加作品が激減する。戦後も低迷していた中、1950年代に多くの日本映画を世界に紹介した。 1979年から1982年にカルロ・リッツァーニがディレクターを務めた間に、現在のプログラム構成に繋がるプログラミングが行われ、再度脚光を浴びることとなった。長らくマーケット部門を持たず商業よりも芸術の映画祭として続いてきたが、2002年にマーケットが設けられるなど、商業映画の比重は次第に高まっている。 2006年の映画祭は、国際映画製作者連盟 (FIAPF) 公認の国際映画祭のうち、上映作品数で第41位(115本)、来場者数では第10位(174,000人)であった。 映画批評家連盟、ペンクラブ、文化団体などが公式賞からは独立して授与する作品賞・監督賞など。
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ヴェネツィア国際映画祭は、イタリアのヴェネツィアで毎年8月末から9月初旬に開催される映画祭である。カンヌ国際映画祭、ベルリン国際映画祭と並んで三大映画祭のひとつとされ、世界の映画祭で最も長い歴史をもつ。
{{イベントインフォメーション |イベント名称=ヴェネツィア国際映画祭 |種類=[[映画祭]] |画像=Venice_Film_Festival.JPG |画像サイズ=300px |画像説明=リド島における映画祭会場([[2010年]]) |開催時期= |初回開催=[[1932年]] |会場=[[ヴェネツィア]] [[リード・ディ・ヴェネツィア|リド島]] |主催=[[ヴェネツィア・ビエンナーレ]] |共催= |後援= |協賛= |企画制作= |来場者数= |最寄駅= |URL=https://www.labiennale.org/ |特記事項=[[映画祭#世界三大映画祭|世界三大映画祭]]のひとつ。 }} '''ヴェネツィア国際映画祭'''(ヴェネツィアこくさいえいがさい、{{lang|it|Mostra Internazionale d'Arte Cinematografica}}){{Refnest|group="注釈"|ベニス国際映画祭、ヴェニス国際映画祭、ベネチア国際映画祭、ヴェネチア国際映画祭などと表記されることもある。}}は、[[イタリア]]の[[ヴェネツィア]]で毎年8月末から9月初旬に開催される[[映画祭]]である。[[カンヌ国際映画祭]]、[[ベルリン国際映画祭]]と並んで[[映画祭#世界三大映画祭|三大映画祭]]のひとつとされ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20220824-WWXRQQXEBBFKJBJV3DR6WG6LPI/|title=ヴェネチア国際映画祭受賞なるか 日本のVR演劇ノミネート「三度目の正直」|publisher=産経ニュース|date=2022-08-24|accessdate=2022-08-24}}</ref>、世界の映画祭で最も長い歴史をもつ<ref>{{Cite news |title=Factbox: Venice, the world's oldest film festival |url=https://www.reuters.com/article/us-venice-festival-idUKBRE87S01Z20120829 |work=Reuters |date=2012-08-29 |access-date=2023-09-09 |language=en}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|ただし中断期間があるため、中断なく一貫して行われている映画祭では[[エディンバラ国際映画祭]]が世界最古である。}}。 == 歴史 == [[ファイル:Lido_di_Venezia.JPG|thumb|300px|right|出席者たちは船で会場に到着する(2010年)]] 最も歴史の古い国際美術展である[[ヴェネツィア・ビエンナーレ]]の第18回([[1932年]][[8月6日]])の際に、映画部門として開始された。国際映画祭としては最初ともいわれる。初回の最優秀賞は観客の投票で決められた。[[1934年]]から[[1942年]]までは、最高賞が「[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]賞」であった。[[第二次世界大戦]]のために1940年から1942年は参加作品が激減する。戦後も低迷していた中、[[1950年代]]に多くの日本映画を世界に紹介した。 [[1979年]]から[[1982年]]に[[カルロ・リッツァーニ]]がディレクターを務めた間に、現在のプログラム構成に繋がるプログラミングが行われ、再度脚光を浴びることとなった。長らくマーケット部門を持たず商業よりも芸術の映画祭として続いてきたが、2002年にマーケットが設けられるなど、商業映画の比重は次第に高まっている。 [[2006年]]の映画祭は、[[国際映画製作者連盟]] (FIAPF) 公認の国際映画祭のうち、上映作品数で第41位(115本)、来場者数では第10位(174,000人)であった。 == 賞 == === 主な公式賞<ref>{{Cite web |title=Biennale Cinema 2023 {{!}} Official awards of the 80th Venice Flm Festival |url=https://www.labiennale.org/en/news/official-awards-80th-venice-flm-festival |website=La Biennale di Venezia |date=2023-09-09 |access-date=2023-09-10 |language=en}}</ref> === * [[金獅子賞]]:最高賞 <small>GOLDEN LION for Best Film</small> * [[銀獅子賞]]:監督賞 <small>SILVER LION – Award for Best Director</small> * [[銀獅子賞]]:[[ヴェネツィア国際映画祭 審査員大賞|審査員大賞]] <small>SILVER LION – Grand Jury Prize</small> * [[ヴェネツィア国際映画祭 審査員特別賞|審査員特別賞]] <small>Special Jury Prize</small> * [[ヴォルピ杯]](俳優賞) ** [[ヴェネツィア国際映画祭 男優賞|男優賞]] <small>COPPA VOLPI for Best Actor</small> ** [[ヴェネツィア国際映画祭 女優賞|女優賞]] <small>COPPA VOLPI for Best Actress</small> * [[マルチェロ・マストロヤンニ賞]](新人俳優賞)<small>MARCELLO MASTROIANNI AWARD for Best Young Actor</small> * [[金オゼッラ賞#脚本賞|脚本賞]] <small>AWARD FOR BEST SCREENPLAY</small> * [[ルイジ・デ・ラウレンティス賞]](新人監督賞)<small>LION OF THE FUTURE – “LUIGI DE LAURENTIIS” VENICE AWARD FOR A DEBUT FILM</small> * [[栄誉金獅子賞]] <small>GOLDEN LION for Lifetime Achievement</small> * [[監督・ばんざい!賞]] <small>Jaeger-LeCoultre Glory to the Filmmaker Award</small> * {{仮リンク|オリゾンティ賞|it|Premio Orizzonti per il miglior film}}(監督賞・作品賞など)<small>Orizzonti section</small> === 独立賞 === 映画批評家連盟、ペンクラブ、文化団体などが公式賞からは独立して授与する作品賞・監督賞など<ref name="受賞">{{Cite web |url=https://www.labiennale.org/en/news/collateral-awards-77th-venice-film-festival |title=COLLATERAL AWARDS OF THE 77TH VENICE FILM FESTIVAL |website=labiennale.org |language=英語 |accessdate=2020年9月13日}}</ref>。 * [[ヴェネツィア国際映画祭 FIPRESCI賞|FIPRESCI賞]](国際映画批評家連盟) * FEDIC賞({{仮リンク|イタリア・シネクラブ連盟|it|Federazione italiana dei cineclub}})<ref name="受賞"/> * {{仮リンク|フランチェスコ・パシネッティ賞|it|Premio Pasinetti}}(イタリア映画記者組合)<ref name="受賞"/> * SIGNIS賞({{仮リンク|SIGNIS|en|SIGNIS}}、前身はOCIC賞)<ref>{{Cite web |url=http://www.signis.net/news/culture/28-08-2018/seventy-years-of-signis-at-the-venice-film-festival |title=Seventy years of SIGNIS at the Venice Film Festival |website=SIGNIS |language=英語 |accessdate=2020年9月13日}}</ref> * [[クィア獅子賞]] * {{仮リンク|ロベール・ブレッソン賞|it|Premio Robert Bresson}} === 過去に存在した賞 === * {{仮リンク|ムッソリーニ杯|it|Coppa Mussolini (cinema)}}(1932年 - 1945年) * [[国際賞]](1946年 - 1952年) * [[サン・ジョルジョ賞]](1956年 - 1968年) * 助演男優賞 / 女優賞(1993年 - 1996年) * [[金オゼッラ賞|技術貢献賞]](2004年 - 2012年) == 主な日本に関係した受賞 == *[[第6回ヴェネツィア国際映画祭|1938年]] - [[田坂具隆]]監督『[[五人の斥候兵]]』がイタリア民衆文化大臣賞を受賞。 *[[第12回ヴェネツィア国際映画祭|1951年]] - [[黒澤明]]監督『[[羅生門 (1950年の映画)|羅生門]]』が [[金獅子賞]]を受賞。 *[[第13回ヴェネツィア国際映画祭|1952年]] - [[溝口健二]]監督『[[西鶴一代女]]』が[[国際賞]]を受賞。 *[[第14回ヴェネツィア国際映画祭|1953年]] - 溝口健二監督『[[雨月物語]]』が[[銀獅子賞]]を受賞。 *[[第15回ヴェネツィア国際映画祭|1954年]] - 黒澤明監督『[[七人の侍]]』と溝口健二監督『[[山椒大夫]]』が銀獅子賞を受賞。 *[[第17回ヴェネツィア国際映画祭|1956年]] - [[市川崑]]監督『[[ビルマの竪琴]]』が[[サン・ジョルジョ賞]]を受賞。 *[[第19回ヴェネツィア国際映画祭|1958年]] - [[稲垣浩]]監督『[[無法松の一生]]』が金獅子賞を受賞。 *[[第21回ヴェネツィア国際映画祭|1960年]] - [[小林正樹]]監督『[[人間の條件 (映画)|人間の條件]]』がサン・ジョルジョ賞を受賞。 *[[第22回ヴェネツィア国際映画祭|1961年]] - 黒澤明監督『[[用心棒]]』で[[三船敏郎]]が[[ヴェネツィア国際映画祭 男優賞|男優賞]]を受賞。 *[[第26回ヴェネツィア国際映画祭|1965年]] - 黒澤明監督『[[赤ひげ]]』でサン・ジョルジョ賞、三船敏郎が男優賞を受賞。 *[[第28回ヴェネツィア国際映画祭|1967年]] - 小林正樹監督『[[上意討ち 拝領妻始末]]』が[[ヴェネツィア国際映画祭 FIPRESCI賞|国際映画批評家連盟賞]]を受賞。 *[[第39回ヴェネツィア国際映画祭|1982年]] - 黒澤明が[[栄誉金獅子賞]]を受賞。 *[[第46回ヴェネツィア国際映画祭|1989年]] - [[熊井啓]]監督『[[千利休 本覚坊遺文]]』が銀獅子賞を受賞。 *[[第48回ヴェネツィア国際映画祭|1991年]] - [[竹中直人]]監督『[[無能の人]]』が国際映画批評家連盟賞を受賞。 *[[第52回ヴェネツィア国際映画祭|1995年]] - [[是枝裕和]]監督『[[幻の光]]』で[[中堀正夫]]が[[金オゼッラ賞|撮影賞]]を受賞。 *[[第54回ヴェネツィア国際映画祭|1997年]] - [[ビートたけし|北野武]]監督『[[HANA-BI]]』が金獅子賞を受賞。 *[[第56回ヴェネツィア国際映画祭|1999年]] - [[小泉堯史]]監督『[[雨あがる]]』が緑の獅子賞(シネマ・アヴェニーレ賞)を受賞。 *[[第59回ヴェネツィア国際映画祭|2002年]] - [[塚本晋也]]監督『[[六月の蛇]]』がコントロ・コレンテ部門 審査員特別賞を受賞。 *[[第60回ヴェネツィア国際映画祭|2003年]] - 北野武監督『[[座頭市 (2003年の映画)|座頭市]]』が銀獅子賞を受賞。 *2003年 - [[ペンエーグ・ラッタナルアーン]]監督『[[地球で最後のふたり]]』で[[浅野忠信]]がコントロ・コレンテ部門 男優賞を受賞。 *[[第61回ヴェネツィア国際映画祭|2004年]] - [[宮崎駿]]監督『[[ハウルの動く城]]』が[[金オゼッラ賞|技術貢献賞]]を受賞。 *[[第62回ヴェネツィア国際映画祭|2005年]] - 宮崎駿が栄誉金獅子賞を受賞。 *[[第68回ヴェネツィア国際映画祭|2011年]] - [[園子温]]監督『[[ヒミズ (漫画)|ヒミズ]]』で[[染谷将太]]と[[二階堂ふみ]]が[[マルチェロ・マストロヤンニ賞]]を受賞。 *2011年 - 塚本晋也監督『[[KOTOKO]]』がオリゾンティ部門でグランプリを受賞。 *[[第72回ヴェネツィア国際映画祭|2015年]] - [[長谷井宏紀]]監督『[[ブランカとギター弾き]]』がランテルナ・マジカ賞を受賞。 *[[第77回ヴェネツィア国際映画祭|2020年]] - [[黒沢清]]監督『[[スパイの妻#映画版|スパイの妻]]』が銀獅子賞を受賞。 *[[第79回ヴェネツィア国際映画祭|2022年]] - [[是枝裕和]]が[[:fr:Prix_Robert-Bresson|ロベール・ブレッソン賞]]を受賞。 * 2022年 - [[鈴木清順]]監督『[[殺しの烙印]]』がクラシック部門 最優秀復元映画賞を受賞。 *[[第80回ヴェネツィア国際映画祭|2023年]] - [[濱口竜介]]監督『[[悪は存在しない (映画)|悪は存在しない]]』が[[ヴェネツィア国際映画祭 審査員大賞|銀獅子賞(審査員大賞)]]と国際映画批評家連盟賞を受賞<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202309090000200.html|title=濱口監督の「悪は存在しない」が国際批評家連盟賞、塚本監督「ほかげ」は最優秀アジア映画賞|newspaper=日刊スポーツ|publisher=日刊スポーツ新聞社|date=2023-09-09|accessdate=2023-09-10}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/540406|title=ヴェネツィア金獅子賞は「哀れなるものたち」、濱口竜介の新作が審査員大賞を受賞|newspaper=映画ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-09-10|accessdate=2023-09-10}}</ref>。 * 2023年 - 塚本晋也監督『[[ほかげ]]』がオリゾンティ部門 NETPAC賞(最優秀アジア映画賞)を受賞<ref>{{Cite news|url=https://www.oricon.co.jp/news/2294245/full/|title=塚本晋也監督『ほかげ』ベネチア国際映画祭にて最優秀アジア映画賞受賞 審査員「このような映画は観たことがない」と絶賛|newspaper=ORICON NEWS|publisher=oricon ME|date=2023-09-09|accessdate=2023-09-09}}</ref>。 * 2023年 - [[相米慎二]]監督『[[お引越し]]』がクラシック部門 最優秀復元映画賞を受賞。 == 日本作品の出品記録 (2000年以降) == {|class="wikitable sortable" background:#ffffff;"} |- ! 年<br /><small>(授賞式)</small> !! 作品名 !! 監督 !! 部門 !! 結果 |- | rowspan="4"| [[2000年の映画|2000年]]<br /><small>[[第57回ヴェネツィア国際映画祭|(第57回)]]</small> | [[BROTHER (映画)|BROTHER]] | [[北野武]] | コンペティション外 | {{N/a}} |- | [[通貨と金髪]] | [[望月六郎]] | rowspan="2"|「新しい視点」部門 | {{N/a}} |- | [[1999・大島渚・映画と生きる]] | [[合津直枝]] | {{N/a}} |- | [[PAIN/ペイン]] | [[石岡正人]] | 国際映画批評家週間 | {{N/a}} |- | rowspan="2"|[[2001年の映画|2001年]]<br /><small>[[第58回ヴェネツィア国際映画祭|(第58回)]]</small> | [[害虫 (映画)|害虫]] | [[塩田明彦]] | 現代映画部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[少女〜an adolescent]] | [[奥田瑛二]] | 国際映画批評家週間 | {{N/a}} |- | rowspan="3"| [[2002年の映画|2002年]]<br /><small>[[第59回ヴェネツィア国際映画祭|(第59回)]]</small> | [[Dolls (映画)|Dolls]] | 北野武 | コンペティション部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[六月の蛇]] | [[塚本晋也]] | コントロ・コレンテ部門 | align=center style="background:#91CFF6"|審査員特別賞受賞(塚本晋也) |- | [[水の女]] | [[杉森秀則]] | 国際映画批評家週間 | {{N/a}} |- | rowspan="4"| [[2003年の映画|2003年]]<br /><small>[[第60回ヴェネツィア国際映画祭|(第60回)]]</small> | [[座頭市 (2003年の映画)|座頭市]] | 北野武 | コンペティション部門 | align=center style="background:#91CFF6"|[[銀獅子賞]]受賞(北野武) |- | [[地球で最後のふたり]] | [[ペンエーグ・ラッタナルアーン]] | rowspan="2"|コントロ・コレンテ部門 | align=center style="background:#91CFF6"|男優賞受賞([[浅野忠信]]) |- | [[アンテナ (小説)#映画|アンテナ]] | [[熊切和嘉]] | {{nom|ノミネート}} |- | [[ヴァイブレータ (映画)|ヴァイブレータ]] | [[廣木隆一]] | 「新しい視点」部門 | {{N/a}} |- | rowspan="7"| [[2004年の映画|2004年]]<br /><small>[[第61回ヴェネツィア国際映画祭|(第61回)]]</small> | [[ハウルの動く城]] | [[宮崎駿]] | コンペティション部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[IZO (映画)|IZO]] | [[三池崇史]] | rowspan="2"|オリゾンティ部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[ヴィタール]] | 塚本晋也 | {{nom|ノミネート}} |- | [[スチームボーイ]] | [[大友克洋]] | コンペティション外 | {{N/a}} |- | [[美しい夜、残酷な朝]] | 三池崇史 | ヴェネツィア・メッツァノッテ部門 | {{N/a}} |- | [[稀人 (映画)|稀人]] | [[清水崇]] | ヴェネツィア・デジタルシネマ部門 | {{N/a}} |- | [[恋の門#映画版|恋の門]] | [[松尾スズキ]] | 国際映画批評家週間 | {{N/a}} |- | rowspan="3"| [[2005年の映画|2005年]]<br /><small>[[第62回ヴェネツィア国際映画祭|(第62回)]]</small> | [[TAKESHIS']] | 北野武 | コンペティション部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[ファイナルファンタジーVII アドベントチルドレン]] | [[野村哲也]] | rowspan="2"|コンペティション外 | {{N/a}} |- | [[妖怪大戦争 (2005年の映画)|妖怪大戦争]] | 三池崇史 | {{N/a}} |- | rowspan="6"| [[2006年の映画|2006年]]<br /><small>[[第63回ヴェネツィア国際映画祭|(第63回)]]</small> | [[パプリカ (アニメ映画)|パプリカ]] | [[今敏]] | rowspan="2"|コンペティション部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[蟲師 (映画)|蟲師]] | 大友克洋 | {{nom|ノミネート}} |- | [[こおろぎ (映画)|こおろぎ]] | [[青山真治]] | rowspan="2"|オリゾンティ部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[立喰師列伝]] | [[押井守]] | {{nom|ノミネート}} |- | [[ゲド戦記 (映画)|ゲド戦記]] | [[宮崎吾郎]] | rowspan="2"|コンペティション外 | {{N/a}} |- | [[叫]] | [[黒沢清]] | {{N/a}} |- | rowspan="3"| [[2007年の映画|2007年]]<br /><small>[[第64回ヴェネツィア国際映画祭|(第64回)]]</small> | [[スキヤキ・ウエスタン・ジャンゴ]] | 三池崇史 | コンペティション部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[サッド ヴァケイション]] | 青山真治 | オリゾンティ部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[監督・ばんざい!]] | 北野武 | コンペティション外 | align=center style="background:#91CFF6"|[[監督・ばんざい!賞]]受賞(北野武) |- | rowspan="4"| [[2008年の映画|2008年]]<br /><small>[[第65回ヴェネツィア国際映画祭|(第65回)]]</small> | [[アキレスと亀 (映画)|アキレスと亀]] | 北野武 | rowspan="3"|コンペティション部門 | align=center style="background:#91CFF6"|白い杖賞(バストーネ・ビアンコ賞)受賞(北野武) |- | [[崖の上のポニョ]] | 宮崎駿 | align=center style="background:#91CFF6"|ミンモ・ロッテラ財団賞受賞(宮崎駿) |- | [[スカイ・クロラシリーズ#映画|スカイ・クロラ The Sky 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style="background:#91CFF6"|[[マルチェロ・マストロヤンニ賞]]受賞([[染谷将太]]、[[二階堂ふみ]]) |- | [[KOTOKO (映画)|KOTOKO]] | 塚本晋也 | rowspan="4"|オリゾンティ部門 | align=center style="background:#91CFF6"|[[:it:Premio Orizzonti per il miglior film|オリゾンティ賞]]受賞(塚本晋也) |- | [[Cut (映画)|Cut]] | [[アミール・ナデリ]] | {{nom|ノミネート}} |- | [[MODERN No.2]] | [[水江未来]] | {{nom|ノミネート}} |- | [[663114]] | [[平林勇]] | {{nom|ノミネート}} |- | [[ラビット・ホラー3D]] | 清水崇 | コンペティション外 | {{N/a}} |- | rowspan="3"| [[2012年の映画|2012年]]<br /><small>[[第69回ヴェネツィア国際映画祭|(第69回)]]</small> | [[アウトレイジ ビヨンド]] | 北野武 | コンペティション部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[千年の愉楽#映画|千年の愉楽]] | [[若松孝二]] | オリゾンティ部門 |{{nom|ノミネート}} |- | [[贖罪 (湊かなえ)#テレビドラマ|贖罪]] | 黒沢清 | コンペティション外 | {{N/a}} |- | rowspan="4"| [[2013年の映画|2013年]]<br /><small>[[第70回ヴェネツィア国際映画祭|(第70回)]]</small> | [[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]] | 宮崎駿 | コンペティション部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[地獄でなぜ悪い]] | 園子温 | オリゾンティ部門 |{{nom|ノミネート}} |- | [[キャプテンハーロック -SPACE PIRATE CAPTAIN HARLOCK-]] | [[荒牧伸志]] | rowspan="2"|コンペティション外 | {{N/a}} |- | [[許されざる者 (2013年の映画)|許されざる者]] 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Lanterna magica al Festival del Cinema di Venezia|ランテルナ・マジカ賞]]受賞(長谷井宏紀) |- | rowspan="2"| [[2016年の映画|2016年]]<br /><small>[[第73回ヴェネツィア国際映画祭|(第73回)]]</small> | [[愚行録]] | [[石川慶]] | オリゾンティ部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[GANTZ#劇場アニメ|GANTZ:O]] | [[川村泰]] | コンペティション外 | {{N/a}} |- | rowspan="5"| [[2017年の映画|2017年]]<br /><small>[[第74回ヴェネツィア国際映画祭|(第74回)]]</small> | [[三度目の殺人]] | [[是枝裕和]] | コンペティション部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[泳ぎすぎた夜]] | [[五十嵐耕平]] | オリゾンティ部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[アウトレイジ 最終章]] | 北野武 | rowspan="3"|コンペティション外 | {{N/a}} |- | [[坂本龍一|Ryuichi Sakamoto: CODA]] | [[スティーブン・ノムラ・シブル]] | {{N/a}} |- | [[マンハント (2017年の映画)|マンハント]] | [[ジョン・ウー]] | {{N/a}} |- | rowspan="3"|[[2018年の映画|2018年]]<br /><small>[[第75回ヴェネツィア国際映画祭|(第75回)]]</small> | [[斬、]] | 塚本晋也 | コンペティション部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[攻殻機動隊 新劇場版|攻殻機動隊 新劇場版 Virtual Reality Diver]] | [[東弘明]] | rowspan="2"|コンペティション外 | {{N/a}} |- | [[結婚指輪物語VR]] | [[曹家栄]] | {{N/a}} |- | rowspan="9"| [[2019年の映画|2019年]]<br /><small>[[第76回ヴェネツィア国際映画祭|(第76回)]]</small> | [[真実 (2019年の映画)|真実]] | 是枝裕和 | コンペティション部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[ある船頭の話]] | [[オダギリジョー]] | ヴェニス・デイズ部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[A Life in Flowers]] | [[アルマンド・カーウィン]] | rowspan="2"|イマーシブ部門(VR部門) | {{nom|ノミネート}} |- | [[攻殻機動隊|攻殻機動隊 Ghost Chaser]] | 東弘明 | {{nom|ノミネート}} |- | [[人間失格 太宰治と3人の女たち]] | [[蜷川実花]] | rowspan="5"|コンペティション外 |{{N/a}} |- | [[楽園 (2019年の映画)|楽園]] | [[瀬々敬久]] |{{N/a}} |- | [[カツベン!]] | [[周防正行]] |{{N/a}} |- | [[蜜蜂と遠雷#映画|蜜蜂と遠雷]] | 石川慶 |{{N/a}}  |- | [[Father (伊東ケイスケ)|Father]] | [[伊東ケイスケ]] |{{N/a}} |- | rowspan="2"|[[2020年の映画|2020年]]<br /><small>[[第77回ヴェネツィア国際映画祭|(第77回)]]</small> | [[スパイの妻|スパイの妻〈劇場版〉]] | 黒沢清 | コンペティション部門 | align=center style="background:#91CFF6"|[[銀獅子賞]]受賞(黒沢清) |- | [[Beat (2020年の映画)|Beat]] | 伊東ケイスケ | イマーシブ部門(VR部門) | {{nom|ノミネート}} |- | rowspan="3"| [[2021年の映画|2021年]]<br /><small>[[第78回ヴェネツィア国際映画祭|(第78回)]]</small> | [[犬王 (アニメ映画)|犬王]] | [[湯浅政明]] | rowspan="2"|オリゾンティ部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[かの山]] | [[山下つぼみ]] | {{nom|ノミネート}} |- | [[Clap (映画)|Clap]] | 伊東ケイスケ | イマーシブ部門(VR部門) | {{nom|ノミネート}} |- | rowspan="5"| [[2022年の映画|2022年]]<br /><small>[[第79回ヴェネツィア国際映画祭|(第79回)]]</small> | [[LOVE LIFE (映画)|LOVE LIFE]] | [[深田晃司]] | コンペティション部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[ある男]] | 石川慶 | オリゾンティ部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[石門 (映画)|石門]] | [[大塚竜治]]、[[ホアン・ジー]] | ヴェニス・デイズ部門 | {{nom|ノミネート}} |- | [[Thank you for sharing your world]] | [[作道雄]]、[[半崎信朗]] | rowspan="2"|イマーシブ部門(VR部門) | {{nom|ノミネート}} |- | [[Typeman]] | 伊東ケイスケ | {{nom|ノミネート}} |- | rowspan="7"| [[2023年の映画|2023年]]<br /><small>[[第80回ヴェネツィア国際映画祭|(第80回)]]</small> | [[悪は存在しない (映画)|悪は存在しない]] | [[濱口竜介]] | コンペティション部門 | align=center style="background:#91CFF6"|[[ヴェネツィア国際映画祭 審査員大賞|審査員大賞]]、[[ヴェネツィア国際映画祭 FIPRESCI賞|国際映画批評家連盟賞]]受賞(濱口竜介) |- | [[ほかげ]] | 塚本晋也 | オリゾンティ部門 | align=center style="background:#91CFF6"|最優秀アジア映画賞受賞(塚本晋也) |- | [[彼方のうた]] | [[杉田協士]] | rowspan="2"|ヴェニス・デイズ部門 | {{nom|ノミネート}} |- | ''[[Sidonie in Japan]]'' | [[エリーズ・ジラール]] | {{nom|ノミネート}} |- | [[周波数 (映画)|周波数]] | [[大宮エリー]] | rowspan="2"|イマーシブ部門(VR部門) | {{nom|ノミネート}} |- | [[Sen]] | 伊東ケイスケ | {{nom|ノミネート}} |- | [[坂本龍一|opus]] | [[空音央]] | |コンペティション外 |{{N/a}} |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == {{commonscat|Venice Film Festival}} *[https://www.labiennale.org/ La Biennale di Venezia - sito ufficiale] * {{Kotobank|ベネチア国際映画祭}} *[https://web.archive.org/web/20000824020216/http://www2f.biglobe.ne.jp/~dondetch/movie/m&v-11.html Dondech Movie] {{ヴェネツィア国際映画祭}} {{映画祭}} {{authority control}} {{DEFAULTSORT:へねついあこくさいえいかさい}} [[Category:ヴェネツィア国際映画祭|*]] [[Category:イタリアの映画]] [[Category:1932年開始のイベント]]
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日本アカデミー賞
日本アカデミー賞(にっぽんアカデミーしょう、英: Japan Academy Film Prize)は、日本の映画賞。主催は日本アカデミー賞協会で、米国の映画芸術科学アカデミーより正式な許諾を得て発足。1978年(昭和53年)4月6日から毎年催されている。 アメリカのアカデミー賞と同様の運営方式を執り、「映画産業のより一層の発展と振興、さらには映画界に携わる人々の親睦の機会を作る事」を主旨とし、「映画人の創意を結集し、日本映画界にあって最高の権威と栄誉を持つ賞に育成すること」を念頭に創設された。 それまでの映画賞が、映画評論家、新聞、雑誌記者などジャーナリストによる外部の決定に対し、実際に日本の映画製作に従事する映画人が会員となり、会員の投票により、その年度の業績の優れた作品・映画人を選出し表彰する映画人による映画人のための賞である。 日本アカデミー賞協会の会員数は当初は800名に満たなかったとされるが、年々増加し1987年に約3,700名、1992年に約5,000名になったといわれた。その後は減少し2007年度で約4,300名、2011年度で3,991名、2019年度は3,959名である。会員の資格は、日本の映画事業に現在も含め3年以上従事していることが前提で、運営・実行委員会または賛助法人より推薦され認められた者となる。内訳は東宝、東映、松竹の邦画三大メジャーにKADOKAWAを加えた大手映画製作配給会社(日本映画製作者連盟、以下映連)4社の社員と、俳優/マネージャー、監督、映画プロデューサー、さらに映画関連企業やプロダクション関係、テレビ局、出版社などの賛助法人の社員などを含み、その中には声優事務所の青二プロダクションや映像配信サービスNetflixなども名を連ねている。2019年の会員数3,959人のうち、東宝(298人)・松竹(298人)・東映(281人)の社員が計877人で全体の22%を占める(KADOKAWA133人)。このため大手3社の作品が有利とされ、これまでも度々物議を醸したが、これが本映画賞の特徴ともいえる(詳細は後述)。 初期の会員構成については資料がないため分からないが、製作委員会方式の多い現状により、今日では必ずしも映画の現場に携わっていない会員も存在するとされる。 運営費の主要財源は、協会会員の年会費であるが、第1回は大赤字でその後も赤字が続いた。実際に会員の年会費で概ね賄えるようになったのは会員数が約5,000名になった第15回辺りからで、東京開催なら開催費用は一億円前後といわれるため、2019年の会員数約4,000名だと年会費2万円だけでは授賞式にかかる費用だけでも賄えないことになる。京都で初開催となったこの第15回では、京都府と京都市で計2,000万円の協力があり、京都に縁の深い東映と松竹、及び電通で京都財界に掛け合い、月桂冠、ワコール、オムロンなどから約6,000万円を集め、関連イベントとして併催した京都映画まつりと合わせ総額2億5,000万円の費用がかかった。2020年今日の運営費は、授賞式入場料が一番大きく、その他、会員の会費、賛助法人の会費、協賛企業、テレビ、ラジオの放映料という。 公式サイトでは、設立にあたり、今日出海(文化庁初代長官・文化功労者)が名誉会長に就任、初代会長は大谷隆三(松竹社長)が務め、岡田茂(東映社長)ら関係者が映画各界の幅広い賛同・参加を得ることに奔走し創設されたとしている。テレビの中継を行う日本テレビの『おもいッきりDON!』は、2010年4月6日放送の「きょうは何の日」のコーナーで日本アカデミー賞を取り上げ、同賞は「映画の未来を憂い奮い立った岡田茂がアメリカのアカデミー賞に並ぶ権威ある賞を日本でも創設することを考え、岡田と共に電通の入江雄三 が創設に尽力した」と紹介した。『映画時報』は「歌謡界にはテレビとジョイントした大きなイベントが幾つもあるが、映画界にはフェスティバル的な大きな催しがない。そういうものが欲しい」と考えていた岡田に、電通が話を持ち掛け、創設が決まったと書かれ、スポーツニッポンは岡田が創設に尽力したとしている。東宝の堀内實三は1995年の映画誌のインタビューで「岡田茂さんが第一回から約10年ほど日本アカデミー協会の会長をされた」と述べている。1993年、第38回「映画の日」で岡田茂が映画産業団体連合会から特別功労大章を受賞した際、受賞の功労理由として「日本アカデミー賞や東京国際映画祭の創設」が明記された。その功績を称え、2007年から「岡田茂賞」が設けられている。 映画評論家の水野晴郎は「日本アカデミー賞を発案した」と自身でも話し、一部のサイトに「水野が映画の素晴らしさをさらに盛り上げる祭典として日本アカデミー賞を発案し、松竹・東宝・東映のトップや日本テレビのプロデューサーへ持ち掛けて準備を進め、途中から電通が仕切ることになり、水野は会員として投票するだけの立場となった」などと書かれたものがある。しかし公式サイトは勿論、第三者から水野が発案したとする証言はなく、日本アカデミー賞は水野のような映画評論家やジャーナリストをオミットすることを最初から念頭に置いており、水野が映画評論家をオミットする賞を発案するとは考えにくいことから、水野の発案と日本アカデミー賞が繋がるのかは分からない。また水野は日本アカデミー賞創設の時点では、まだ映画の実制作に関わったことがなく、公式サイト内の「日本アカデミー賞概要 協会会員資格」では、ジャーナリストは会員の資格がなく、映画評論家は運営委員又は実行委員の推薦状が必要だった。「2019年度会員所属内訳」を見てもジャーナリストは会員にいない。水野は映画評論家になる前は、日本ユナイトの社員で、同社は外国映画の配給会社で映画の実制作をする会社ではないため、これも会員になるためには外国映画輸入配給協会の推薦が必要だった。水野が日本アカデミー賞の会員だったかについても分からない。公式サイトの「公式パンフレットで振り返る受賞式」の「第一回協会概要」に、日本アカデミー賞協会役員とノミネート委員の記載があるが(『キネマ旬報』1978年3月下旬号にも記載あり)、この中にジャーナリストの名前はなく、当然水野の名前もない。 第1回は日本テレビでの中継が決まったが、創設は電通と映連を中心に進められたもので、日本テレビはイニシアティブを執ってはいなかった。このため他社専属みたいなスターは日本テレビに出ることに難色を示し、ショー形式のシナリオが出来ず、第1回放送は根回しが充分でないまま放送された。岡田茂は「第9回のとき、日本テレビ以外のテレビ局からウチで放送させてくれと申し出があった」と述べている。アメリカ合衆国のアカデミー賞を模し、暖簾分けとして設立され、約4か月間で第1回開催にこぎつけた。 京都市民映画祭は、映画事情、諸物価の高騰などの理由で、1977年限りで中止が決まったもので、日本アカデミー賞の創設とは関係がない。 第1回は会員が各賞を選考したとはいえない形で行われた。公式サイトの「公式パンフレットで振り返る受賞式」の「第一回協会概要」にノミネート委員として60人の記載があるが、第1回は作品賞他、全部で10部門で、この10部門の各々5作品(又は5人)をノミネート委員が記名投票により選んだ。この各々5作品(又は5人)が優秀賞となり、優秀賞の中から最優秀賞1作品(又は1人)を協会会員の投票で決定した。この協会会員の数字は創設前の文献に12,000人と書かれているものがあるが、公式サイトでは1,200人、1997年の第20回から日本アカデミー賞協会会長を務めた高岩淡が「創設当時は会員は800人に満たなかった」と話しており、12,000人という桁外れの数字は誤りと見られる。公式サイトに書かれた「第2回目が1,058名で、第1回は準備期間がほとんどなかったことから、800人よりさらに少なかったかもしれない。公式サイトに書かれた「第2回目からは、会員(1058名)による投票がおこなわれ、文字どおり映画人が選ぶ映画賞となり...第4回からは一次選考も会員全員の投票によっておこなわれる事となり...」の意味は、第2回目から一次選考も会員全員の投票によっておこなったのか、第4回から一次選考も会員全員の投票によっておこなったのか分かりかねるが、いづれにしても第1回以降にノミネート作品(優秀賞)も協会全会員が選出することになったということで、それまでは会員がノミネート作品以外を記載すると投票は無効という意味であるため、それまでは会員ではなくノミネート委員が賞を選出したといえるのかも知れない。 1977年11月15日、電通からと見られる「日本アカデミー賞」創設原案が映連に到着する。1977年11月24日、映連の定例理事会において、かねてより立案であった「日本映画芸術科学アカデミー(仮称)」の設立について協議し、設立の趣旨について、満場一致で賛成があり、アメリカ映画界の一大イベントと同様の「日本アカデミー賞」を設け、日本映画界の年中最大行事として実施しようという申し合わせがあった。一億円近くかかるであろうと見られた運営費は、本来アメリカのアカデミー同様、協会会員の会費で賄わなければならなかったが、準備不足で会員が何人いるのか、会費がいくらならいいのか等、把握仕切れず、第1回はアメリカ式は無理で、色々なスポンサーに頼ろうと考えていたら、電通が運営費については責任を持つと云ったためこれに乗ることになった。実施方法や時期などの具体的な問題は、準備委員長・大谷隆三映連会長、副委員長・岡田茂東映社長を中心に、映連加盟4社(当時は東宝、松竹、東映、日活) より、製作・宣伝部門からおのおの一名づつの委員を選出し、早急に準備委員会を設立し検討を始めると決定した。1977年12月1日に準備委員会が会合を開き、1978年春に「第一回アカデミー賞」を実施する方向で問題を討議した。 1977年12月15日、映連の定例理事会において、1978年3月下旬の第1回開催を目標に諸準備を進めていると報告があり、1978年1月16日、映画関係団体、日本映画監督協会、日本シナリオ作家協会、日本映画テレビプロデューサー協会、映画テレビ技術協会、日本映画撮影監督協会、日本映画照明技術者協会、映画俳優協会、日本映画美術監督協会、独立映画協会、外国映画輸入配給協会の10団体の代表に協力要請を行った。公式サイトの「公式パンフレットで振り返る受賞式」の第一回協会概要に、日本アカデミー賞協会立ち上げ時の役員とノミネート委員の記載があり、メンバーは映連加盟4社の幹部、上記映画関係団体10社の幹部がほとんどであるため、この後、準備委員会を日本アカデミー賞協会に発展改組し、このメンバーが役員、ノミネート委員に名を連ねたものと見られる。 1978年2月8日、帝国ホテルで設立発表会見が行われ、1978年4月6日に「第一回アカデミー賞」の発表授賞式を帝国劇場で行い、その後帝国ホテルで記念晩餐会を開くと発表された。合わせて、この日、全10部門のノミネート(優秀賞)が発表され、最優秀賞の最終選考は全協会会員による記名投票で、1978年3月20日から27日までの郵送により第三者機関が集計保管し当日発表する、授賞式は日本テレビ系全国ネットで生中継され、各部門でノミネートを受けた授賞対象者は4月6日の発表授賞式に全員出席を予定、授賞式にはカーク・ダグラスがアカデミー賞協会のメッセージを持って出席し(ロック・ハドソンに変更)、映画界に携わる人々の親睦の機会を作ると、授賞式は関係者席を除き映画ファンにも有料で開放し、入場前売り券を都内の主要プレイガイドなどで発売する等、実施要項、運営方式の説明があった。この授賞式の入場券が3,000円から最高1万円の計四種類、晩餐会は一律4万円であったため、興行臭がぷんぷんするなどと批判された。 この会見で岡田茂が「何が何でもフェスティバルが欲しい。歌謡界には大きな賞があるが、映画界にはない。そういえば東京映画記者会の何とかという賞はあるが」などと東映が配給した『人間の証明』が主たる映画賞で無視されたことに腹を立て、東京映画記者会の投票で決まるブルーリボン賞をコケにした発言をし、詰めかけた記者たちを唖然とさせた。また「既存の映画賞が記者や評論家などの外部の人による決定だったのに対し、『日本アカデミー賞』は『映画人による映画人のための賞』で、1,200人の映画人の投票で受賞者を決め、その模様はテレビで全国生中継される」と映画人が主催者であると力説した。ジャーナリストを除け者にする発言を行ったためか、授賞式の翌日のスポーツ新聞は、サンケイスポーツが「アメリカのアカデミー賞をそっくりマネたお祭り」、日刊スポーツは4万円の会費の晩餐会の出席者が医師や財界人が大半で、4万円の食事メニューを詳しく紹介するなどややおちょくったような記事を書き、週刊誌などマスメディアの記事も好意的に書いたものは無かった。 日本アカデミー賞は映連を中心とした映画関係団体と電通とで創設したものであったが、電通と日本テレビがイニシアティブを執っているなどと批判され、また短期間での開催で一億円近い運営費の出所が不透明などと、マスメディアに叩かれ評判が悪かった。こうした事情で、なかなか賞を受け取ってもらえないケースもあり、お金もなく運営に苦労した。 創設に当たり国内最大の映画賞を作るという意図で、前述のようにアカデミー賞協会準備委員会が発足され、東映、松竹、東宝など各映画会社を始め、日本を代表する映画人に参加を呼び掛けた。しかし参加を打診された黒澤明が、週刊誌上などでそのネーミングに散々ケチを付け、「アメリカには映画芸術科学アカデミーという組織があって、そこが与える賞だから、アカデミー賞なんだ。そんな実体も無いくせに、何が日本アカデミー賞だ。電通か日本テレビ賞とでもすべきだろう」「アカデミー賞の真似事でくだらない。あんな賞には、なんの権威もない」「大手映画会社抜きで、映画芸術科学会議をぼくたちで作って出直しをやるべき。まず実行委員会を組織して映画研究所の設立から始めるべきでしょう」 などと批判した。この黒澤発言に腹を立てた映連会長で東映社長の岡田茂が「黒澤などウチ(東映)では映画は撮らさん」と批判。「黒澤は権威主義だ」などと黒澤バッシングも起こり大きな騒動になった。また黒澤以外からも運営方式、投票方式などで批判が相次ぎ、勝新太郎や石原裕次郎など独立プロを率いる実力者も批判ないし無視した。しかし同じ独立プロを率いる三船敏郎は「年一度のお祭りなんだから出席しなきゃいかん」と何故か協力的だった。 各賞は日本アカデミー賞協会会員の投票により、担当部門の選考をするものだが、当初問題となったのは俳優部門の会員の意識が低いことで、ノミネート投票の有効率は全体で60%ぐらいで、俳優会員が25%。アメリカのように俳優のユニオンが確立していないためか、忙しくて映画を観ないのか、自分たちで映画を育てていこうという意識がなさすぎた。一本でも多くの映画を観てもらおうという配慮で、会員は年会費(当初は1万5千円)を払えば、主要映画館で映画を無料で観ることができる会員証が与えられていたが、中にはポルノ映画ばかり見続けた剛の者もいた。 第1回は本場アカデミー賞を意識し、テレビ生中継もアカデミー賞のVTRが流れた翌日の放送にした。第1回授賞式ではアカデミー賞を代表してロック・ハドソンが「私たちのアカデミー賞は創設後半世紀を経た。その間技術のみならず文化、教育に大きく寄与してきたが、日本にも同じ目的の協会が出来て大変うれしい」などと祝辞を述べた。授賞式会場にはノミネートされた映画人全員が出席し、司会は岡田真澄と徳光和夫が務め、高倉健、渥美清、北大路欣也、郷ひろみ、林隆三、武田鉄矢、川谷拓三、若山富三郎ら、男性はタキシードで、岩下志麻、秋吉久美子、大竹しのぶ、倍賞千恵子、山口百恵、桃井かおりら女性は目の覚めるような着物かイブニングドレスできめた。またプレゼンターを森繁久彌、三船敏郎、山田五十鈴、京マチ子、鶴田浩二、丹波哲郎、原田美枝子、二谷英明、松坂慶子、田宮二郎、田中健、司葉子、市川右太衛門、フランキー堺、三橋達也、八千草薫、上原謙、多岐川裕美、中井貴恵が務め、アトラクションで石坂浩二、小林旭らが登場し、これほどのスターが一堂に会したのは日本映画史上初めてといわれた。ただこの年は各映画賞とも『幸福の黄色いハンカチ』が主要部門を独占したため、主たる映画賞が終わった最後の開催でまた『幸福の黄色いハンカチ』の各賞独占で盛り上がらず、映画賞と関係のない和田アキ子やクレイジーキャッツ、木の実ナナなどの派手なショープログラムが途中に挟み込まれ、そうした場に慣れてない映画人は面食らった。 第1回は受賞式の進行も拙く準備不足を露呈し、「来年もやれるの?」という声がマスコミから上がり、長くは持たないという見方もあった。このため第1回の大谷隆三から協会会長が岡田茂に代わり、岡田は「電通色が強すぎたという反省をこめ、本賞の主旨に沿う組織作りからやり直した。映画界にとっての最大のイベントを作る」と抱負を述べた。第1回の赤字1,200 - 1,300万円は、電通と各映画会社で被ると発表した。また第2回から協会副会長に森繁久彌を指名した。 第2回では最優秀音楽賞を受賞した武満徹が受賞会見で黒澤同様「アメリカのマネをした名が嫌い」と批判し、さらに「撮影、録音、照明、効果、美術などの重要なパートを技術賞一つに押し込んでいる。実際の映画作りにおいて、いかに現場の人たちをないがしろにしているかの象徴」などと製作側からの無茶な仕事の発注を批判し「来年は出ない」と話した。武満の批判を受け、翌年からは技術賞を撮影賞、照明賞、美術賞、録音賞に独立させ裏方的存在だった技術部門にスポットを当てた。 第3回の冒頭挨拶で、岡田茂協会会長は「我が協会は、ようやく3歳の幼児であり、まだまだ本当の意味で自立できるところまで成長できていません。日本映画にはお祭りがなさすぎるのでこの祭典を大切にしていきたい」と述べた。また森繁協会副会長は「この催しはお祭りだと思う。固くならないで楽しい会であって欲しい。役者というものは女優は35歳ぐらいまで、男優は40歳ぐらいまでセックスの勉強をして芸の本番が発揮できるのはそれからだし」と笑いを求めたが拍手はお義理で空虚なものだった。第1回の岡田真澄、第2回の宝田明のような真面目な司会ではなく、ショー的要素を高めるという意向で、第3回からは山城新伍が司会を担当。スペシャルゲストにラクエル・ウェルチを招いた。「ハリウッドで最も衣装代が少なくてすむ女優」と評されるウェルチは、日本人にはとても出来ない胸元のVが深々とカットされたグラマラスな姿態を否応なしに見せつけ、受賞者のようにテレることのない威風堂々とした態度と晴れやかなこの表情こそ、ショーアップ最大のポイントであるとアピールをしているようだった。しかしウェルチの登場だけは熱気を帯びたが、全体には熱気に乏しく祭りの感はなかった。閉会の挨拶は三船敏郎が務めた。 この第3回では最優秀主演女優賞として桃井かおりが有力候補に挙がったが、桃井が受賞を拒否するという噂が早くから流れたため、全国中継で受賞を拒否すれば一大ニュースになると、それを期待し授賞式当日にマスメディアが大勢会場に押しかけた。この予想に反して桃井は授賞式に出席し最優秀賞を受け、「嬉しいです。以上」の一言で壇上から降りた。記者会見では「私が貰わないという噂が流れてたのよね。貰えると思っていなかったけど、来なかったら騒がれるし、それがイヤで来たわけよ」などと、賞に対するリスペクト0の発言をし、また反発を買った。第6回では同じ最優秀主演女優賞候補だった夏目雅子と田中裕子から桃井は「同席はご免よ」と同じテーブルに着くことを拒否され、松坂慶子といしだあゆみにも「桃井さんの隣はイヤ。怖いもの」などと候補者全員から同席を拒否された。この煽りで桃井は授賞式を欠席し後味が悪いものになった。 大きな騒動になったのは第4回。この年の最有力は『影武者』であったが、創設時より本賞の批判を繰り返していた黒澤明がノミネートの発表前に『影武者』を選考対象にしないよう日本アカデミー協会に申し入れてきた。次いで『影武者』に関係し賞にノミネートされていた山﨑努や大滝秀治が同調し、スタッフもそれに続いた。仲代達矢は『二百三高地』まで辞退する形をとった。黒澤は『週刊プレイボーイ』のインタビューで、「いま日本映画にとって重要なのは監督、撮影、シナリオ等の各種団体が一丸となる組織が必要だ。そんなものがないからアカデミー協会なんてバカなものが出来る。あれは金もうけでやっているのだろう」などと改めて批判した。これを受けアカデミー協会は岡田茂会長名で黒澤に質問状を発送し、質問状に「巷間、伝えられるところによると、あなたは他の出演者、スタッフに対しても自分と同じようにボイコットをするように働きかけた」と書かれた箇所があり、これに黒澤がカチンときて1981年1月12日に東宝撮影所で記者会見を開き、質問状を報道陣に見せ、「事を穏便に済まそうと思うから、事前にノミネートを辞退するという細かい配慮をしているのにこういうことをされちゃ怒らざるを得ない。強制したなんて全くの事実無根だ」などと烈火の如く怒った。これを受け同じ日に岡田茂も懇談会を開き、その場で痛烈な黒澤批判をブチ上げ「黒澤監督程の巨匠になれば、自分はひいても他の人に賞をやるべきだ。かつての巨匠、例えば田坂具隆にしても内田吐夢にしてもみんなそういう精神でスタッフ、役者を育ててきた。確かに日本アカデミー賞というのは、業界にとっては何のメリットもなく、ただお祭りをやるだけなのだが、日頃、スポットの当たらない人たちにスポットを当てて上げるのが狙いでもある。黒澤監督はカンヌ国際映画祭でグランプリも取り、世界的な名誉も与えられているんだから、日本でも同じように受けてもいいと思う。黒澤監督が辞退すれば、関係者が辞退するのは目に見えていることで、もう少し考えて欲しい」と話した。キネマ旬報は岡田を擁護し「日本アカデミー賞は次第に失われつつある映画への関心度を少しでも回復するのが狙い。黒澤監督も映画人の一人なのだから、他の人たちと一緒に、どうしたら盛り上がるかを考える立場にいるべき人」「岡田さんと黒澤さんは絶対に合わないと思う。一方は『お祭りでいい』、一方は『お祭り騒ぎだけで終始し権威がない』と言うのだから考え方が根本的に違うんで、だから黒澤監督が辞退してもお祭りは出来るんだぐらいの気持ちを持って行動した方がいい」などと評した。噂の眞相は「新年早々、黒沢明監督VS日本アカデミー賞協会の確執には、いささかうんざりさせられた。そもそも1978年に於ける日本アカデミー賞なる制度の発足そのものが、観客不在にして商魂のみによって成立しているイカガワしい"お祭り"にすぎず、かといって、今さら"権威"を持ち出す黒沢の前近代的なセンスには失笑を禁じ得ない。このあたり映画界上層部に君臨する雲上人たちの泥仕合に辟易」と批判した。田中友幸協会副会長が、岡田・黒澤会談を画策したが、前日になって黒澤側から「質問状の内容に対しての会見は出来ない、やるならその前にキチッと話し合ってから」と回答があり取り止めになり、そのまま黒澤騒動は打ち切られた。最優秀作品賞は鈴木清順監督の『ツィゴイネルワイゼン』が独立系映画として初めて受賞。 第4回授賞式で司会を務めた山城新伍がテレビ生中継で『影武者』を全員ノミネート辞退させた黒澤を批判した。山城は実は黒澤映画のファンで、山城が親しい勝新太郎と黒澤コンビによる『影武者』への期待が膨れ上がっていたため、勝を降板させた黒澤批判に至ってしまったこと、また「黒澤批判をテレビで言うらしいぜということで僅かに視聴率が増えるということがTVを利用した日本アカデミー賞と称するものが存続していく方法。視聴率が3%、5%だったらすぐに打ち切りです。だから黒澤さんをターゲットにやった」などと発言の真意を述べた。田山力哉は「日本(世界)映画史上に限りない貢献をした先輩に対して、たかが白馬童子の白塗りチンピラ二枚目上りが、壇上からテレビ中継を通して、感情的に黒澤を悪しざまに言うなど許されるのか」と激怒した。 黒澤はそれから10年後の第14回『夢』で優秀作品賞と優秀監督賞にノミネートされ今度は受諾し、日本アカデミー賞もやっと黒澤から認知された格好になった。岡田茂は第10回開催の際にキネマ旬報のインタビューで「第9回のとき、日本テレビ以外のテレビ局からウチで放送させてくれと申し出があった。ここまで来るのに色々なことがあったけど、今の日本のメジャー会社ががっちりスクラムを組む大きな役割を果たしているんだ。だから今では各俳優さんに来てくれって言って断る人はいない。僕は途中、あんまり酷い時に『来たくない人は呼ぶな』『賞をもらいたくない人にはやるな』と言ったことがあるんだ。でもこれは何と言っても黒澤監督の"日本アカデミー賞ボイコット事件"が大きかった。あれは日本アカデミー賞を象徴的に押し上げた部分はあったし、各マスコミが取り上げてくれて、黒澤さんにも一理ある面もあったし、色んな面で良かったんじゃないかと思う」などと述べた。第4回のときに黒澤は「お祭り騒ぎのようなことをしても映画の地位は上がらない。政府を動かして国際映画祭を開くべき。映画先進国で国際映画祭がないのは日本だけ」という批判をしたが、結局この国際映画祭も間もなく岡田茂らの尽力で創設されている。 第5回では『連合艦隊』で優秀美術賞と優秀録音賞に選ばれた阿久根巌と矢野口文雄が「お祭り騒ぎの賞」と批判し、それぞれ朝倉摂と中山茂二が繰り上げ受賞した。 仲代達矢は1982年の『鬼龍院花子の生涯』で第6回優秀主演男優賞を受賞して同賞を受け取り、仲代は「僕は東映に恩義がありますから」と話し、黒澤は非常に落胆していたといわれる。 第1回から第6回まで、東映作品の授賞がほとんどなく、1984年の第7回で東映の製作配給映画がごっそり最優秀賞を独占したため、東映会員の投票用紙は東映作品が印刷されてあったなどの噂が立った。また第7回では話題賞で大島渚を犬(『南極物語』)と並ばせたと批判された。 1985年の第8回くらいから、特に女優たちからの関心が深くなり、「日本アカデミー賞を取りたい」という意欲が聞かれるようになった。第14回の発表授賞式で松岡功組織実行委員長が「日本アカデミー賞は14年目を迎え映画人がどうしても欲しいと思う権威ある賞に育った」と話した。 1988年の第11回では『マルサの女』で最優秀監督賞を受賞した伊丹十三が、受賞スピーチで「皆さん、映画は映画館の大きなスクリーンで観ましょう」と呼びかけた。これに司会の武田鉄矢や『マルサの女』で最優秀主演男優賞を獲得した山﨑努も同調した。当時は「TSUTAYA」がオープンした頃で、「映画はビデオを借りて、家で観る」というライフスタイルが生まれた頃。映画関係者は機会あるごとに、映画館に足を運ぶよう呼びかけた。 賞の選出は、日本アカデミー賞協会会員の投票によって行われる。日本アカデミー賞協会は、日本国内の映画関係者によって構成される。会員は年会費2万円を払い、主要な映画館で映画を無料で観ることができる会員証(フリーパス)が与えられている。会員は2019年(令和元年)時点で3,959名である。 選考の対象となる作品は、授賞式の前々年12月中旬から前年12月中旬までの1年間に東京地区の商業映画劇場にて有料で初公開され、40分以上の新作劇場用劇映画およびアニメーション作品で、同一劇場で1日3回以上、かつ2週間以上継続し上映された作品。商業上映でない映画や配信限定の作品は選考の対象でない。かつては、授賞式の前年の1月初から12月末までの1年間に公開された映画を対象とした。しかし、アメリカ合衆国のアカデミー賞授賞式の開催日が、3月・4月頃から2月・3月頃に繰り上げられたため、日本アカデミー賞授賞式も開催時期を3月・4月頃から2月・3月頃に早め、それに伴い対象となる作品の公開期間も1か月前倒しし、前々年12月初から前年11月末までの1年間となった。2013年発表の第36回より、対象期間が12月中旬頃と少々後ろにずらされた。授与される賞は正賞が15部門あり、その他に新人俳優賞などがある。正賞の優秀賞と新人俳優賞は、投票(協会員全員)により選ばれ、そのうち正賞については優秀賞受賞の中より最優秀賞が投票(協会員全員)により選ばれる(新人俳優賞は男女各2 - 5名を選び最優秀賞は選ばない)。得票数は公表されない。日本アカデミー賞は日本国内の他の多くの映画賞とは異なり、作品賞・監督賞・脚本賞・俳優賞のみならず技術部門賞も設けている。2007年からは本家のアカデミー賞がアニメ部門を創設したことに倣い、独立部門としてアニメーション作品賞が新設された。 各賞は以下の通り(2015年現在)。正賞には彫刻家流政之デザインによるブロンズ像(トロフィー)が贈られる。最優秀賞ブロンズと優秀賞ブロンズがあり流政之制作の「映画神像」が元になったデザインである。この像は有楽町マリオン9Fロビーに恒久展示され授賞式時にステージに設置される。このほか正賞およびその他の賞に対し賞状、賞金が贈られる(正賞個人賞12部門に最優秀賞30万円・優秀賞20万円、新人俳優賞・協会特別賞・岡田茂賞10万円)。 日本アカデミー賞は、映画業界自身が選出する映画賞としての特別の意義を持つと同時に、スタッフ部門賞を設けている映画賞としての希少性も有している。日本国内の映画賞の中では新しく立ち上げられた映画賞だが、プライムタイムにテレビ地上波で全国生中継で放送される唯一の映画賞でもあり、前年一年間に活躍した俳優や監督がドレスアップし一堂に会する式典で、授賞式の場で初めて最優秀賞を公表するイベント性を持ち、それを支える主催者の日本アカデミー賞協会の影響力もあって、近年映画業界においてその地位を向上させつつある。しかし選出する日本アカデミー賞協会は、映画監督や俳優といった人々も含むものの、約25%が日本映画製作者連盟(映連)加盟会社、すなわち松竹・東宝・東映・大映(大映の解散後は角川映画)の大手4社とその系列企業社員により構成されている。そのため優秀賞を選ぶ時点で上記4社の製作あるいは配給した作品が有利になり、他の映画会社の配給作品が選ばれるチャンスが低いとされている。立ち上げ時に創立メンバーとして呼ばれたという山本晋也は、「まず大賞を五社持ち回りでと言われガッカリした」と証言している。この件について岡田裕介会長は「フリーの会員も多い。大手が占めているのは、このうち数%。だから大手でも大きな影響力は持っていない」と述べたが、数%の発言は誤りである。 年齢層や所属先の偏った約3900人のアカデミー会員が、主要な作品の全てを公平な視点で観賞するのは困難である。それゆえ少数の選考委員による審査方式の映画賞と違い、多くのアカデミー会員を擁する日本映画製作者連盟(映連)加盟会社である大手4社が配給した映画が贔屓され、各部門の最終的な評価の対象になる可能性が高い。よって単館系公開などの小規模上映の作品や、例え口コミで公開規模が大きくなったとしても大手ではない配給会社が中心となって関わっている作品は各部門の選考において不遇を強いられることになる。加えて、過去の実績だけが大きく、認知度の高い監督やその作品、それに関わる俳優や部門スタッフらに対して権威主義的に受賞結果が偏重し、加えて社会問題を特に批評性の無いまま新しくない模範的な手法で取り扱うような、映画ファンからの支持が少ない旧弊な作風の作品が各部門賞を多数獲得する様な偏重傾向があり、弊害としてそういった賞レースの基準に作風を合わせた作品が増えることで映画業界の新しい才能や試みが評価される場を狭めているなど、映画賞としての問題点は多いとされている。 また、女優の樹木希林は日本アカデミー賞における自らの受賞スピーチの際に「日本アカデミー賞が早く本当に権威のある賞になってほしい」と暗に皮肉を込めたコメントを出している。 黒澤明監督は第4回(1981年(昭和56年))、『影武者』での受賞を「権威のない賞は認められない」として辞退し、同作品の出演俳優や部門スタッフもその意向を尊重して全員ノミネートを辞退した。 本家である米国アカデミー賞との主な違いとして、「オリジナル脚本賞」と「脚色賞(既存の原作を使った脚本)」、「長編アニメ賞」と「短編アニメ賞」のような細かい区分けがされていない。また、ドキュメンタリー映画は対象外となっている。 会場は1998年以降、東京都港区高輪のグランドプリンスホテル新高輪国際館パミールが恒例となっている。この授賞式の入場チケットは一般客にも販売され、2014年時点では、授賞式後の映画にちなんだメニューのフランス料理コースディナーを含め4万円の料金であったが、2022年の第45回ではディナーが実施されない替わりに、会場ホテルのチケット(系列ホテルで使用できる商品券)が渡される形になった。観客にはセミフォーマルでの来場が求められ、小学生以下は入場不可となっている。 男性司会者は関口宏が1998年(平成10年)から2009年(平成21年)まで長く務めていた。女性司会者は1999年(平成11年)以降、前年の最優秀主演女優賞受賞者が務めている。 ステージ上でエスコート役などを務める授賞式のアシスタントは、日テレイベンツに所属する日テレイベコン(日本テレビイベントコンパニオン)が担当している。 日本アカデミー賞は、放映権を有する日本テレビが第1回(1978年(昭和53年))から一貫してその模様を中継している。当初は地上波で生中継していたが、その後、録画と生放送の組み合わせによる放送となっている。第3回(1980年(昭和55年))の「オールナイトニッポン話題賞」の設立後は、『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)が特別番組を組んで授賞式の模様を深夜に録音で中継している(第34回から第40回と第42回は『オールナイトニッポンGOLD』枠で放送)。 日本テレビ(地上波)での放送は第1回は1978年4月6日に、『木曜スペシャル』を枠拡大した19:00-20:54の中継、第2回は1979年4月7日 19:30-20:54枠に新設された「土曜スペシャル」(『土曜トップスペシャル』の前身)での中継、第3回は1980年3月29日で同枠での放送、第4回から2月開催に繰り上がり、『木曜スペシャル』枠で放送(第8回までは90分、第9回からは120分に拡大)、第12回から3月開催で「金曜ロードショー」(21:00-22:54)特別企画として放送、第17回から6年振りに「木曜スペシャル」(ただし19:00の『追跡』を休止して19:00-20:54)枠、第18回から土曜 21:30-23:24(『土曜グランド劇場』と『THE夜もヒッパレ』の両枠を借り切っての放送。第20回は21:20-23:24)となるなど曲折を経て、第21回以降はミニ番組(21:00-21:03)後の「金曜ロードショー→金曜ロードSHOW!→金曜ロードショー」(21:03-22:54)枠を借り切っての放送に落ち着いている(この時期は『金曜ロードショー』扱いはされない)。 主要部門関連の最多受賞者は、主演、助演両方で役所広司、樹木希林、佐藤浩市、山﨑努がそれぞれ4回。主演賞のみで高倉健と吉永小百合でそれぞれ4回。助演賞のみで竹中直人、余貴美子、黒木華の3回。また、原田美枝子、渡辺謙、長澤まさみ、本木雅弘、安藤サクラ、妻夫木聡も主演、助演両方合わせそれぞれ3回。 監督賞の最多受賞者は3回で山田洋次、深作欣二、今村昌平、是枝裕和の4名。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "日本アカデミー賞(にっぽんアカデミーしょう、英: Japan Academy Film Prize)は、日本の映画賞。主催は日本アカデミー賞協会で、米国の映画芸術科学アカデミーより正式な許諾を得て発足。1978年(昭和53年)4月6日から毎年催されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "アメリカのアカデミー賞と同様の運営方式を執り、「映画産業のより一層の発展と振興、さらには映画界に携わる人々の親睦の機会を作る事」を主旨とし、「映画人の創意を結集し、日本映画界にあって最高の権威と栄誉を持つ賞に育成すること」を念頭に創設された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "それまでの映画賞が、映画評論家、新聞、雑誌記者などジャーナリストによる外部の決定に対し、実際に日本の映画製作に従事する映画人が会員となり、会員の投票により、その年度の業績の優れた作品・映画人を選出し表彰する映画人による映画人のための賞である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "日本アカデミー賞協会の会員数は当初は800名に満たなかったとされるが、年々増加し1987年に約3,700名、1992年に約5,000名になったといわれた。その後は減少し2007年度で約4,300名、2011年度で3,991名、2019年度は3,959名である。会員の資格は、日本の映画事業に現在も含め3年以上従事していることが前提で、運営・実行委員会または賛助法人より推薦され認められた者となる。内訳は東宝、東映、松竹の邦画三大メジャーにKADOKAWAを加えた大手映画製作配給会社(日本映画製作者連盟、以下映連)4社の社員と、俳優/マネージャー、監督、映画プロデューサー、さらに映画関連企業やプロダクション関係、テレビ局、出版社などの賛助法人の社員などを含み、その中には声優事務所の青二プロダクションや映像配信サービスNetflixなども名を連ねている。2019年の会員数3,959人のうち、東宝(298人)・松竹(298人)・東映(281人)の社員が計877人で全体の22%を占める(KADOKAWA133人)。このため大手3社の作品が有利とされ、これまでも度々物議を醸したが、これが本映画賞の特徴ともいえる(詳細は後述)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "初期の会員構成については資料がないため分からないが、製作委員会方式の多い現状により、今日では必ずしも映画の現場に携わっていない会員も存在するとされる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "運営費の主要財源は、協会会員の年会費であるが、第1回は大赤字でその後も赤字が続いた。実際に会員の年会費で概ね賄えるようになったのは会員数が約5,000名になった第15回辺りからで、東京開催なら開催費用は一億円前後といわれるため、2019年の会員数約4,000名だと年会費2万円だけでは授賞式にかかる費用だけでも賄えないことになる。京都で初開催となったこの第15回では、京都府と京都市で計2,000万円の協力があり、京都に縁の深い東映と松竹、及び電通で京都財界に掛け合い、月桂冠、ワコール、オムロンなどから約6,000万円を集め、関連イベントとして併催した京都映画まつりと合わせ総額2億5,000万円の費用がかかった。2020年今日の運営費は、授賞式入場料が一番大きく、その他、会員の会費、賛助法人の会費、協賛企業、テレビ、ラジオの放映料という。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "公式サイトでは、設立にあたり、今日出海(文化庁初代長官・文化功労者)が名誉会長に就任、初代会長は大谷隆三(松竹社長)が務め、岡田茂(東映社長)ら関係者が映画各界の幅広い賛同・参加を得ることに奔走し創設されたとしている。テレビの中継を行う日本テレビの『おもいッきりDON!』は、2010年4月6日放送の「きょうは何の日」のコーナーで日本アカデミー賞を取り上げ、同賞は「映画の未来を憂い奮い立った岡田茂がアメリカのアカデミー賞に並ぶ権威ある賞を日本でも創設することを考え、岡田と共に電通の入江雄三 が創設に尽力した」と紹介した。『映画時報』は「歌謡界にはテレビとジョイントした大きなイベントが幾つもあるが、映画界にはフェスティバル的な大きな催しがない。そういうものが欲しい」と考えていた岡田に、電通が話を持ち掛け、創設が決まったと書かれ、スポーツニッポンは岡田が創設に尽力したとしている。東宝の堀内實三は1995年の映画誌のインタビューで「岡田茂さんが第一回から約10年ほど日本アカデミー協会の会長をされた」と述べている。1993年、第38回「映画の日」で岡田茂が映画産業団体連合会から特別功労大章を受賞した際、受賞の功労理由として「日本アカデミー賞や東京国際映画祭の創設」が明記された。その功績を称え、2007年から「岡田茂賞」が設けられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "映画評論家の水野晴郎は「日本アカデミー賞を発案した」と自身でも話し、一部のサイトに「水野が映画の素晴らしさをさらに盛り上げる祭典として日本アカデミー賞を発案し、松竹・東宝・東映のトップや日本テレビのプロデューサーへ持ち掛けて準備を進め、途中から電通が仕切ることになり、水野は会員として投票するだけの立場となった」などと書かれたものがある。しかし公式サイトは勿論、第三者から水野が発案したとする証言はなく、日本アカデミー賞は水野のような映画評論家やジャーナリストをオミットすることを最初から念頭に置いており、水野が映画評論家をオミットする賞を発案するとは考えにくいことから、水野の発案と日本アカデミー賞が繋がるのかは分からない。また水野は日本アカデミー賞創設の時点では、まだ映画の実制作に関わったことがなく、公式サイト内の「日本アカデミー賞概要 協会会員資格」では、ジャーナリストは会員の資格がなく、映画評論家は運営委員又は実行委員の推薦状が必要だった。「2019年度会員所属内訳」を見てもジャーナリストは会員にいない。水野は映画評論家になる前は、日本ユナイトの社員で、同社は外国映画の配給会社で映画の実制作をする会社ではないため、これも会員になるためには外国映画輸入配給協会の推薦が必要だった。水野が日本アカデミー賞の会員だったかについても分からない。公式サイトの「公式パンフレットで振り返る受賞式」の「第一回協会概要」に、日本アカデミー賞協会役員とノミネート委員の記載があるが(『キネマ旬報』1978年3月下旬号にも記載あり)、この中にジャーナリストの名前はなく、当然水野の名前もない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "第1回は日本テレビでの中継が決まったが、創設は電通と映連を中心に進められたもので、日本テレビはイニシアティブを執ってはいなかった。このため他社専属みたいなスターは日本テレビに出ることに難色を示し、ショー形式のシナリオが出来ず、第1回放送は根回しが充分でないまま放送された。岡田茂は「第9回のとき、日本テレビ以外のテレビ局からウチで放送させてくれと申し出があった」と述べている。アメリカ合衆国のアカデミー賞を模し、暖簾分けとして設立され、約4か月間で第1回開催にこぎつけた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "京都市民映画祭は、映画事情、諸物価の高騰などの理由で、1977年限りで中止が決まったもので、日本アカデミー賞の創設とは関係がない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "第1回は会員が各賞を選考したとはいえない形で行われた。公式サイトの「公式パンフレットで振り返る受賞式」の「第一回協会概要」にノミネート委員として60人の記載があるが、第1回は作品賞他、全部で10部門で、この10部門の各々5作品(又は5人)をノミネート委員が記名投票により選んだ。この各々5作品(又は5人)が優秀賞となり、優秀賞の中から最優秀賞1作品(又は1人)を協会会員の投票で決定した。この協会会員の数字は創設前の文献に12,000人と書かれているものがあるが、公式サイトでは1,200人、1997年の第20回から日本アカデミー賞協会会長を務めた高岩淡が「創設当時は会員は800人に満たなかった」と話しており、12,000人という桁外れの数字は誤りと見られる。公式サイトに書かれた「第2回目が1,058名で、第1回は準備期間がほとんどなかったことから、800人よりさらに少なかったかもしれない。公式サイトに書かれた「第2回目からは、会員(1058名)による投票がおこなわれ、文字どおり映画人が選ぶ映画賞となり...第4回からは一次選考も会員全員の投票によっておこなわれる事となり...」の意味は、第2回目から一次選考も会員全員の投票によっておこなったのか、第4回から一次選考も会員全員の投票によっておこなったのか分かりかねるが、いづれにしても第1回以降にノミネート作品(優秀賞)も協会全会員が選出することになったということで、それまでは会員がノミネート作品以外を記載すると投票は無効という意味であるため、それまでは会員ではなくノミネート委員が賞を選出したといえるのかも知れない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1977年11月15日、電通からと見られる「日本アカデミー賞」創設原案が映連に到着する。1977年11月24日、映連の定例理事会において、かねてより立案であった「日本映画芸術科学アカデミー(仮称)」の設立について協議し、設立の趣旨について、満場一致で賛成があり、アメリカ映画界の一大イベントと同様の「日本アカデミー賞」を設け、日本映画界の年中最大行事として実施しようという申し合わせがあった。一億円近くかかるであろうと見られた運営費は、本来アメリカのアカデミー同様、協会会員の会費で賄わなければならなかったが、準備不足で会員が何人いるのか、会費がいくらならいいのか等、把握仕切れず、第1回はアメリカ式は無理で、色々なスポンサーに頼ろうと考えていたら、電通が運営費については責任を持つと云ったためこれに乗ることになった。実施方法や時期などの具体的な問題は、準備委員長・大谷隆三映連会長、副委員長・岡田茂東映社長を中心に、映連加盟4社(当時は東宝、松竹、東映、日活) より、製作・宣伝部門からおのおの一名づつの委員を選出し、早急に準備委員会を設立し検討を始めると決定した。1977年12月1日に準備委員会が会合を開き、1978年春に「第一回アカデミー賞」を実施する方向で問題を討議した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1977年12月15日、映連の定例理事会において、1978年3月下旬の第1回開催を目標に諸準備を進めていると報告があり、1978年1月16日、映画関係団体、日本映画監督協会、日本シナリオ作家協会、日本映画テレビプロデューサー協会、映画テレビ技術協会、日本映画撮影監督協会、日本映画照明技術者協会、映画俳優協会、日本映画美術監督協会、独立映画協会、外国映画輸入配給協会の10団体の代表に協力要請を行った。公式サイトの「公式パンフレットで振り返る受賞式」の第一回協会概要に、日本アカデミー賞協会立ち上げ時の役員とノミネート委員の記載があり、メンバーは映連加盟4社の幹部、上記映画関係団体10社の幹部がほとんどであるため、この後、準備委員会を日本アカデミー賞協会に発展改組し、このメンバーが役員、ノミネート委員に名を連ねたものと見られる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1978年2月8日、帝国ホテルで設立発表会見が行われ、1978年4月6日に「第一回アカデミー賞」の発表授賞式を帝国劇場で行い、その後帝国ホテルで記念晩餐会を開くと発表された。合わせて、この日、全10部門のノミネート(優秀賞)が発表され、最優秀賞の最終選考は全協会会員による記名投票で、1978年3月20日から27日までの郵送により第三者機関が集計保管し当日発表する、授賞式は日本テレビ系全国ネットで生中継され、各部門でノミネートを受けた授賞対象者は4月6日の発表授賞式に全員出席を予定、授賞式にはカーク・ダグラスがアカデミー賞協会のメッセージを持って出席し(ロック・ハドソンに変更)、映画界に携わる人々の親睦の機会を作ると、授賞式は関係者席を除き映画ファンにも有料で開放し、入場前売り券を都内の主要プレイガイドなどで発売する等、実施要項、運営方式の説明があった。この授賞式の入場券が3,000円から最高1万円の計四種類、晩餐会は一律4万円であったため、興行臭がぷんぷんするなどと批判された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "この会見で岡田茂が「何が何でもフェスティバルが欲しい。歌謡界には大きな賞があるが、映画界にはない。そういえば東京映画記者会の何とかという賞はあるが」などと東映が配給した『人間の証明』が主たる映画賞で無視されたことに腹を立て、東京映画記者会の投票で決まるブルーリボン賞をコケにした発言をし、詰めかけた記者たちを唖然とさせた。また「既存の映画賞が記者や評論家などの外部の人による決定だったのに対し、『日本アカデミー賞』は『映画人による映画人のための賞』で、1,200人の映画人の投票で受賞者を決め、その模様はテレビで全国生中継される」と映画人が主催者であると力説した。ジャーナリストを除け者にする発言を行ったためか、授賞式の翌日のスポーツ新聞は、サンケイスポーツが「アメリカのアカデミー賞をそっくりマネたお祭り」、日刊スポーツは4万円の会費の晩餐会の出席者が医師や財界人が大半で、4万円の食事メニューを詳しく紹介するなどややおちょくったような記事を書き、週刊誌などマスメディアの記事も好意的に書いたものは無かった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "日本アカデミー賞は映連を中心とした映画関係団体と電通とで創設したものであったが、電通と日本テレビがイニシアティブを執っているなどと批判され、また短期間での開催で一億円近い運営費の出所が不透明などと、マスメディアに叩かれ評判が悪かった。こうした事情で、なかなか賞を受け取ってもらえないケースもあり、お金もなく運営に苦労した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "創設に当たり国内最大の映画賞を作るという意図で、前述のようにアカデミー賞協会準備委員会が発足され、東映、松竹、東宝など各映画会社を始め、日本を代表する映画人に参加を呼び掛けた。しかし参加を打診された黒澤明が、週刊誌上などでそのネーミングに散々ケチを付け、「アメリカには映画芸術科学アカデミーという組織があって、そこが与える賞だから、アカデミー賞なんだ。そんな実体も無いくせに、何が日本アカデミー賞だ。電通か日本テレビ賞とでもすべきだろう」「アカデミー賞の真似事でくだらない。あんな賞には、なんの権威もない」「大手映画会社抜きで、映画芸術科学会議をぼくたちで作って出直しをやるべき。まず実行委員会を組織して映画研究所の設立から始めるべきでしょう」 などと批判した。この黒澤発言に腹を立てた映連会長で東映社長の岡田茂が「黒澤などウチ(東映)では映画は撮らさん」と批判。「黒澤は権威主義だ」などと黒澤バッシングも起こり大きな騒動になった。また黒澤以外からも運営方式、投票方式などで批判が相次ぎ、勝新太郎や石原裕次郎など独立プロを率いる実力者も批判ないし無視した。しかし同じ独立プロを率いる三船敏郎は「年一度のお祭りなんだから出席しなきゃいかん」と何故か協力的だった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "各賞は日本アカデミー賞協会会員の投票により、担当部門の選考をするものだが、当初問題となったのは俳優部門の会員の意識が低いことで、ノミネート投票の有効率は全体で60%ぐらいで、俳優会員が25%。アメリカのように俳優のユニオンが確立していないためか、忙しくて映画を観ないのか、自分たちで映画を育てていこうという意識がなさすぎた。一本でも多くの映画を観てもらおうという配慮で、会員は年会費(当初は1万5千円)を払えば、主要映画館で映画を無料で観ることができる会員証が与えられていたが、中にはポルノ映画ばかり見続けた剛の者もいた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "第1回は本場アカデミー賞を意識し、テレビ生中継もアカデミー賞のVTRが流れた翌日の放送にした。第1回授賞式ではアカデミー賞を代表してロック・ハドソンが「私たちのアカデミー賞は創設後半世紀を経た。その間技術のみならず文化、教育に大きく寄与してきたが、日本にも同じ目的の協会が出来て大変うれしい」などと祝辞を述べた。授賞式会場にはノミネートされた映画人全員が出席し、司会は岡田真澄と徳光和夫が務め、高倉健、渥美清、北大路欣也、郷ひろみ、林隆三、武田鉄矢、川谷拓三、若山富三郎ら、男性はタキシードで、岩下志麻、秋吉久美子、大竹しのぶ、倍賞千恵子、山口百恵、桃井かおりら女性は目の覚めるような着物かイブニングドレスできめた。またプレゼンターを森繁久彌、三船敏郎、山田五十鈴、京マチ子、鶴田浩二、丹波哲郎、原田美枝子、二谷英明、松坂慶子、田宮二郎、田中健、司葉子、市川右太衛門、フランキー堺、三橋達也、八千草薫、上原謙、多岐川裕美、中井貴恵が務め、アトラクションで石坂浩二、小林旭らが登場し、これほどのスターが一堂に会したのは日本映画史上初めてといわれた。ただこの年は各映画賞とも『幸福の黄色いハンカチ』が主要部門を独占したため、主たる映画賞が終わった最後の開催でまた『幸福の黄色いハンカチ』の各賞独占で盛り上がらず、映画賞と関係のない和田アキ子やクレイジーキャッツ、木の実ナナなどの派手なショープログラムが途中に挟み込まれ、そうした場に慣れてない映画人は面食らった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "第1回は受賞式の進行も拙く準備不足を露呈し、「来年もやれるの?」という声がマスコミから上がり、長くは持たないという見方もあった。このため第1回の大谷隆三から協会会長が岡田茂に代わり、岡田は「電通色が強すぎたという反省をこめ、本賞の主旨に沿う組織作りからやり直した。映画界にとっての最大のイベントを作る」と抱負を述べた。第1回の赤字1,200 - 1,300万円は、電通と各映画会社で被ると発表した。また第2回から協会副会長に森繁久彌を指名した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "第2回では最優秀音楽賞を受賞した武満徹が受賞会見で黒澤同様「アメリカのマネをした名が嫌い」と批判し、さらに「撮影、録音、照明、効果、美術などの重要なパートを技術賞一つに押し込んでいる。実際の映画作りにおいて、いかに現場の人たちをないがしろにしているかの象徴」などと製作側からの無茶な仕事の発注を批判し「来年は出ない」と話した。武満の批判を受け、翌年からは技術賞を撮影賞、照明賞、美術賞、録音賞に独立させ裏方的存在だった技術部門にスポットを当てた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "第3回の冒頭挨拶で、岡田茂協会会長は「我が協会は、ようやく3歳の幼児であり、まだまだ本当の意味で自立できるところまで成長できていません。日本映画にはお祭りがなさすぎるのでこの祭典を大切にしていきたい」と述べた。また森繁協会副会長は「この催しはお祭りだと思う。固くならないで楽しい会であって欲しい。役者というものは女優は35歳ぐらいまで、男優は40歳ぐらいまでセックスの勉強をして芸の本番が発揮できるのはそれからだし」と笑いを求めたが拍手はお義理で空虚なものだった。第1回の岡田真澄、第2回の宝田明のような真面目な司会ではなく、ショー的要素を高めるという意向で、第3回からは山城新伍が司会を担当。スペシャルゲストにラクエル・ウェルチを招いた。「ハリウッドで最も衣装代が少なくてすむ女優」と評されるウェルチは、日本人にはとても出来ない胸元のVが深々とカットされたグラマラスな姿態を否応なしに見せつけ、受賞者のようにテレることのない威風堂々とした態度と晴れやかなこの表情こそ、ショーアップ最大のポイントであるとアピールをしているようだった。しかしウェルチの登場だけは熱気を帯びたが、全体には熱気に乏しく祭りの感はなかった。閉会の挨拶は三船敏郎が務めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "この第3回では最優秀主演女優賞として桃井かおりが有力候補に挙がったが、桃井が受賞を拒否するという噂が早くから流れたため、全国中継で受賞を拒否すれば一大ニュースになると、それを期待し授賞式当日にマスメディアが大勢会場に押しかけた。この予想に反して桃井は授賞式に出席し最優秀賞を受け、「嬉しいです。以上」の一言で壇上から降りた。記者会見では「私が貰わないという噂が流れてたのよね。貰えると思っていなかったけど、来なかったら騒がれるし、それがイヤで来たわけよ」などと、賞に対するリスペクト0の発言をし、また反発を買った。第6回では同じ最優秀主演女優賞候補だった夏目雅子と田中裕子から桃井は「同席はご免よ」と同じテーブルに着くことを拒否され、松坂慶子といしだあゆみにも「桃井さんの隣はイヤ。怖いもの」などと候補者全員から同席を拒否された。この煽りで桃井は授賞式を欠席し後味が悪いものになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "大きな騒動になったのは第4回。この年の最有力は『影武者』であったが、創設時より本賞の批判を繰り返していた黒澤明がノミネートの発表前に『影武者』を選考対象にしないよう日本アカデミー協会に申し入れてきた。次いで『影武者』に関係し賞にノミネートされていた山﨑努や大滝秀治が同調し、スタッフもそれに続いた。仲代達矢は『二百三高地』まで辞退する形をとった。黒澤は『週刊プレイボーイ』のインタビューで、「いま日本映画にとって重要なのは監督、撮影、シナリオ等の各種団体が一丸となる組織が必要だ。そんなものがないからアカデミー協会なんてバカなものが出来る。あれは金もうけでやっているのだろう」などと改めて批判した。これを受けアカデミー協会は岡田茂会長名で黒澤に質問状を発送し、質問状に「巷間、伝えられるところによると、あなたは他の出演者、スタッフに対しても自分と同じようにボイコットをするように働きかけた」と書かれた箇所があり、これに黒澤がカチンときて1981年1月12日に東宝撮影所で記者会見を開き、質問状を報道陣に見せ、「事を穏便に済まそうと思うから、事前にノミネートを辞退するという細かい配慮をしているのにこういうことをされちゃ怒らざるを得ない。強制したなんて全くの事実無根だ」などと烈火の如く怒った。これを受け同じ日に岡田茂も懇談会を開き、その場で痛烈な黒澤批判をブチ上げ「黒澤監督程の巨匠になれば、自分はひいても他の人に賞をやるべきだ。かつての巨匠、例えば田坂具隆にしても内田吐夢にしてもみんなそういう精神でスタッフ、役者を育ててきた。確かに日本アカデミー賞というのは、業界にとっては何のメリットもなく、ただお祭りをやるだけなのだが、日頃、スポットの当たらない人たちにスポットを当てて上げるのが狙いでもある。黒澤監督はカンヌ国際映画祭でグランプリも取り、世界的な名誉も与えられているんだから、日本でも同じように受けてもいいと思う。黒澤監督が辞退すれば、関係者が辞退するのは目に見えていることで、もう少し考えて欲しい」と話した。キネマ旬報は岡田を擁護し「日本アカデミー賞は次第に失われつつある映画への関心度を少しでも回復するのが狙い。黒澤監督も映画人の一人なのだから、他の人たちと一緒に、どうしたら盛り上がるかを考える立場にいるべき人」「岡田さんと黒澤さんは絶対に合わないと思う。一方は『お祭りでいい』、一方は『お祭り騒ぎだけで終始し権威がない』と言うのだから考え方が根本的に違うんで、だから黒澤監督が辞退してもお祭りは出来るんだぐらいの気持ちを持って行動した方がいい」などと評した。噂の眞相は「新年早々、黒沢明監督VS日本アカデミー賞協会の確執には、いささかうんざりさせられた。そもそも1978年に於ける日本アカデミー賞なる制度の発足そのものが、観客不在にして商魂のみによって成立しているイカガワしい\"お祭り\"にすぎず、かといって、今さら\"権威\"を持ち出す黒沢の前近代的なセンスには失笑を禁じ得ない。このあたり映画界上層部に君臨する雲上人たちの泥仕合に辟易」と批判した。田中友幸協会副会長が、岡田・黒澤会談を画策したが、前日になって黒澤側から「質問状の内容に対しての会見は出来ない、やるならその前にキチッと話し合ってから」と回答があり取り止めになり、そのまま黒澤騒動は打ち切られた。最優秀作品賞は鈴木清順監督の『ツィゴイネルワイゼン』が独立系映画として初めて受賞。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "第4回授賞式で司会を務めた山城新伍がテレビ生中継で『影武者』を全員ノミネート辞退させた黒澤を批判した。山城は実は黒澤映画のファンで、山城が親しい勝新太郎と黒澤コンビによる『影武者』への期待が膨れ上がっていたため、勝を降板させた黒澤批判に至ってしまったこと、また「黒澤批判をテレビで言うらしいぜということで僅かに視聴率が増えるということがTVを利用した日本アカデミー賞と称するものが存続していく方法。視聴率が3%、5%だったらすぐに打ち切りです。だから黒澤さんをターゲットにやった」などと発言の真意を述べた。田山力哉は「日本(世界)映画史上に限りない貢献をした先輩に対して、たかが白馬童子の白塗りチンピラ二枚目上りが、壇上からテレビ中継を通して、感情的に黒澤を悪しざまに言うなど許されるのか」と激怒した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "黒澤はそれから10年後の第14回『夢』で優秀作品賞と優秀監督賞にノミネートされ今度は受諾し、日本アカデミー賞もやっと黒澤から認知された格好になった。岡田茂は第10回開催の際にキネマ旬報のインタビューで「第9回のとき、日本テレビ以外のテレビ局からウチで放送させてくれと申し出があった。ここまで来るのに色々なことがあったけど、今の日本のメジャー会社ががっちりスクラムを組む大きな役割を果たしているんだ。だから今では各俳優さんに来てくれって言って断る人はいない。僕は途中、あんまり酷い時に『来たくない人は呼ぶな』『賞をもらいたくない人にはやるな』と言ったことがあるんだ。でもこれは何と言っても黒澤監督の\"日本アカデミー賞ボイコット事件\"が大きかった。あれは日本アカデミー賞を象徴的に押し上げた部分はあったし、各マスコミが取り上げてくれて、黒澤さんにも一理ある面もあったし、色んな面で良かったんじゃないかと思う」などと述べた。第4回のときに黒澤は「お祭り騒ぎのようなことをしても映画の地位は上がらない。政府を動かして国際映画祭を開くべき。映画先進国で国際映画祭がないのは日本だけ」という批判をしたが、結局この国際映画祭も間もなく岡田茂らの尽力で創設されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "第5回では『連合艦隊』で優秀美術賞と優秀録音賞に選ばれた阿久根巌と矢野口文雄が「お祭り騒ぎの賞」と批判し、それぞれ朝倉摂と中山茂二が繰り上げ受賞した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "仲代達矢は1982年の『鬼龍院花子の生涯』で第6回優秀主演男優賞を受賞して同賞を受け取り、仲代は「僕は東映に恩義がありますから」と話し、黒澤は非常に落胆していたといわれる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "第1回から第6回まで、東映作品の授賞がほとんどなく、1984年の第7回で東映の製作配給映画がごっそり最優秀賞を独占したため、東映会員の投票用紙は東映作品が印刷されてあったなどの噂が立った。また第7回では話題賞で大島渚を犬(『南極物語』)と並ばせたと批判された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1985年の第8回くらいから、特に女優たちからの関心が深くなり、「日本アカデミー賞を取りたい」という意欲が聞かれるようになった。第14回の発表授賞式で松岡功組織実行委員長が「日本アカデミー賞は14年目を迎え映画人がどうしても欲しいと思う権威ある賞に育った」と話した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1988年の第11回では『マルサの女』で最優秀監督賞を受賞した伊丹十三が、受賞スピーチで「皆さん、映画は映画館の大きなスクリーンで観ましょう」と呼びかけた。これに司会の武田鉄矢や『マルサの女』で最優秀主演男優賞を獲得した山﨑努も同調した。当時は「TSUTAYA」がオープンした頃で、「映画はビデオを借りて、家で観る」というライフスタイルが生まれた頃。映画関係者は機会あるごとに、映画館に足を運ぶよう呼びかけた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "賞の選出は、日本アカデミー賞協会会員の投票によって行われる。日本アカデミー賞協会は、日本国内の映画関係者によって構成される。会員は年会費2万円を払い、主要な映画館で映画を無料で観ることができる会員証(フリーパス)が与えられている。会員は2019年(令和元年)時点で3,959名である。", "title": "賞の選考" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "選考の対象となる作品は、授賞式の前々年12月中旬から前年12月中旬までの1年間に東京地区の商業映画劇場にて有料で初公開され、40分以上の新作劇場用劇映画およびアニメーション作品で、同一劇場で1日3回以上、かつ2週間以上継続し上映された作品。商業上映でない映画や配信限定の作品は選考の対象でない。かつては、授賞式の前年の1月初から12月末までの1年間に公開された映画を対象とした。しかし、アメリカ合衆国のアカデミー賞授賞式の開催日が、3月・4月頃から2月・3月頃に繰り上げられたため、日本アカデミー賞授賞式も開催時期を3月・4月頃から2月・3月頃に早め、それに伴い対象となる作品の公開期間も1か月前倒しし、前々年12月初から前年11月末までの1年間となった。2013年発表の第36回より、対象期間が12月中旬頃と少々後ろにずらされた。授与される賞は正賞が15部門あり、その他に新人俳優賞などがある。正賞の優秀賞と新人俳優賞は、投票(協会員全員)により選ばれ、そのうち正賞については優秀賞受賞の中より最優秀賞が投票(協会員全員)により選ばれる(新人俳優賞は男女各2 - 5名を選び最優秀賞は選ばない)。得票数は公表されない。日本アカデミー賞は日本国内の他の多くの映画賞とは異なり、作品賞・監督賞・脚本賞・俳優賞のみならず技術部門賞も設けている。2007年からは本家のアカデミー賞がアニメ部門を創設したことに倣い、独立部門としてアニメーション作品賞が新設された。", "title": "賞の選考" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "各賞は以下の通り(2015年現在)。正賞には彫刻家流政之デザインによるブロンズ像(トロフィー)が贈られる。最優秀賞ブロンズと優秀賞ブロンズがあり流政之制作の「映画神像」が元になったデザインである。この像は有楽町マリオン9Fロビーに恒久展示され授賞式時にステージに設置される。このほか正賞およびその他の賞に対し賞状、賞金が贈られる(正賞個人賞12部門に最優秀賞30万円・優秀賞20万円、新人俳優賞・協会特別賞・岡田茂賞10万円)。", "title": "賞の選考" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "日本アカデミー賞は、映画業界自身が選出する映画賞としての特別の意義を持つと同時に、スタッフ部門賞を設けている映画賞としての希少性も有している。日本国内の映画賞の中では新しく立ち上げられた映画賞だが、プライムタイムにテレビ地上波で全国生中継で放送される唯一の映画賞でもあり、前年一年間に活躍した俳優や監督がドレスアップし一堂に会する式典で、授賞式の場で初めて最優秀賞を公表するイベント性を持ち、それを支える主催者の日本アカデミー賞協会の影響力もあって、近年映画業界においてその地位を向上させつつある。しかし選出する日本アカデミー賞協会は、映画監督や俳優といった人々も含むものの、約25%が日本映画製作者連盟(映連)加盟会社、すなわち松竹・東宝・東映・大映(大映の解散後は角川映画)の大手4社とその系列企業社員により構成されている。そのため優秀賞を選ぶ時点で上記4社の製作あるいは配給した作品が有利になり、他の映画会社の配給作品が選ばれるチャンスが低いとされている。立ち上げ時に創立メンバーとして呼ばれたという山本晋也は、「まず大賞を五社持ち回りでと言われガッカリした」と証言している。この件について岡田裕介会長は「フリーの会員も多い。大手が占めているのは、このうち数%。だから大手でも大きな影響力は持っていない」と述べたが、数%の発言は誤りである。", "title": "受賞傾向と批判" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "年齢層や所属先の偏った約3900人のアカデミー会員が、主要な作品の全てを公平な視点で観賞するのは困難である。それゆえ少数の選考委員による審査方式の映画賞と違い、多くのアカデミー会員を擁する日本映画製作者連盟(映連)加盟会社である大手4社が配給した映画が贔屓され、各部門の最終的な評価の対象になる可能性が高い。よって単館系公開などの小規模上映の作品や、例え口コミで公開規模が大きくなったとしても大手ではない配給会社が中心となって関わっている作品は各部門の選考において不遇を強いられることになる。加えて、過去の実績だけが大きく、認知度の高い監督やその作品、それに関わる俳優や部門スタッフらに対して権威主義的に受賞結果が偏重し、加えて社会問題を特に批評性の無いまま新しくない模範的な手法で取り扱うような、映画ファンからの支持が少ない旧弊な作風の作品が各部門賞を多数獲得する様な偏重傾向があり、弊害としてそういった賞レースの基準に作風を合わせた作品が増えることで映画業界の新しい才能や試みが評価される場を狭めているなど、映画賞としての問題点は多いとされている。", "title": "受賞傾向と批判" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "また、女優の樹木希林は日本アカデミー賞における自らの受賞スピーチの際に「日本アカデミー賞が早く本当に権威のある賞になってほしい」と暗に皮肉を込めたコメントを出している。", "title": "受賞傾向と批判" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "黒澤明監督は第4回(1981年(昭和56年))、『影武者』での受賞を「権威のない賞は認められない」として辞退し、同作品の出演俳優や部門スタッフもその意向を尊重して全員ノミネートを辞退した。", "title": "受賞傾向と批判" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "本家である米国アカデミー賞との主な違いとして、「オリジナル脚本賞」と「脚色賞(既存の原作を使った脚本)」、「長編アニメ賞」と「短編アニメ賞」のような細かい区分けがされていない。また、ドキュメンタリー映画は対象外となっている。", "title": "受賞傾向と批判" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "会場は1998年以降、東京都港区高輪のグランドプリンスホテル新高輪国際館パミールが恒例となっている。この授賞式の入場チケットは一般客にも販売され、2014年時点では、授賞式後の映画にちなんだメニューのフランス料理コースディナーを含め4万円の料金であったが、2022年の第45回ではディナーが実施されない替わりに、会場ホテルのチケット(系列ホテルで使用できる商品券)が渡される形になった。観客にはセミフォーマルでの来場が求められ、小学生以下は入場不可となっている。", "title": "授賞式" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "男性司会者は関口宏が1998年(平成10年)から2009年(平成21年)まで長く務めていた。女性司会者は1999年(平成11年)以降、前年の最優秀主演女優賞受賞者が務めている。", "title": "授賞式" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ステージ上でエスコート役などを務める授賞式のアシスタントは、日テレイベンツに所属する日テレイベコン(日本テレビイベントコンパニオン)が担当している。", "title": "授賞式" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "日本アカデミー賞は、放映権を有する日本テレビが第1回(1978年(昭和53年))から一貫してその模様を中継している。当初は地上波で生中継していたが、その後、録画と生放送の組み合わせによる放送となっている。第3回(1980年(昭和55年))の「オールナイトニッポン話題賞」の設立後は、『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)が特別番組を組んで授賞式の模様を深夜に録音で中継している(第34回から第40回と第42回は『オールナイトニッポンGOLD』枠で放送)。", "title": "放送" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "日本テレビ(地上波)での放送は第1回は1978年4月6日に、『木曜スペシャル』を枠拡大した19:00-20:54の中継、第2回は1979年4月7日 19:30-20:54枠に新設された「土曜スペシャル」(『土曜トップスペシャル』の前身)での中継、第3回は1980年3月29日で同枠での放送、第4回から2月開催に繰り上がり、『木曜スペシャル』枠で放送(第8回までは90分、第9回からは120分に拡大)、第12回から3月開催で「金曜ロードショー」(21:00-22:54)特別企画として放送、第17回から6年振りに「木曜スペシャル」(ただし19:00の『追跡』を休止して19:00-20:54)枠、第18回から土曜 21:30-23:24(『土曜グランド劇場』と『THE夜もヒッパレ』の両枠を借り切っての放送。第20回は21:20-23:24)となるなど曲折を経て、第21回以降はミニ番組(21:00-21:03)後の「金曜ロードショー→金曜ロードSHOW!→金曜ロードショー」(21:03-22:54)枠を借り切っての放送に落ち着いている(この時期は『金曜ロードショー』扱いはされない)。", "title": "放送" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "主要部門関連の最多受賞者は、主演、助演両方で役所広司、樹木希林、佐藤浩市、山﨑努がそれぞれ4回。主演賞のみで高倉健と吉永小百合でそれぞれ4回。助演賞のみで竹中直人、余貴美子、黒木華の3回。また、原田美枝子、渡辺謙、長澤まさみ、本木雅弘、安藤サクラ、妻夫木聡も主演、助演両方合わせそれぞれ3回。", "title": "歴代受賞作品" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "監督賞の最多受賞者は3回で山田洋次、深作欣二、今村昌平、是枝裕和の4名。", "title": "歴代受賞作品" } ]
日本アカデミー賞は、日本の映画賞。主催は日本アカデミー賞協会で、米国の映画芸術科学アカデミーより正式な許諾を得て発足。1978年(昭和53年)4月6日から毎年催されている。
{{Infobox Award | name = 日本アカデミー賞<br />''Japan Academy Film Prize'' | current_awards = | image = 201211 Twenty-four eyes17s5.jpg | imagesize = | caption = <small>[[第35回日本アカデミー賞]]トロフィー([[2012年]])<br />(最優秀監督賞『[[八日目の蟬]]』[[成島出]])</small> | description = 優れた映画作品 | presenter = 日本アカデミー賞協会 | host = [[#歴代司会者]]を参照 | country = {{JPN}} | location = [[グランドプリンスホテル新高輪]]「国際館パミール」 | reward = {{Hlist-comma|ブロンズ像|賞状|賞金}} | year = [[1978年]] | year2 = [[2022年]] | holder = [[第46回日本アカデミー賞|第46回]]を参照 | website = [https://www.japan-academy-prize.jp/ 日本アカデミー賞公式サイト] | network = [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]([[テレビ]])<br />[[ニッポン放送]]([[ラジオ]]) | runtime = [[#放送]]を参照 | previous = | main = | next = }} '''日本アカデミー賞'''(にっぽんアカデミーしょう、{{Lang-en-short|''Japan Academy Film Prize''}})は、[[日本]]の[[映画賞]]。主催は日本アカデミー賞協会で、米国の[[映画芸術科学アカデミー]]より正式な許諾を得て発足<ref name="officialhistory">{{Cite web|和書|url = http://www.japan-academy-prize.jp/history/index.php |title = 日本アカデミー賞の誕生 1978年 |work = 日本アカデミー賞の歴史 |publisher = 日本アカデミー賞 |accessdate = 2017-9-20 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}}</ref><ref name="kotobank">{{Cite web|和書|title=日本アカデミー賞|work=コトバンク|publisher=The Asahi Shimbun Company / VOYAGE GROUP, Inc.|url=https://kotobank.jp/word/日本アカデミー賞-1574096|accessdate=2021-06-19|archivedate=2016-05-15|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160315065210/https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%83%87%E3%83%9F%E3%83%BC%E8%B3%9E-1574096}}</ref>、「[[映画産業]]のより一層の発展と振興、さらには映画界に携わる人々の親睦の機会を作る事」を主旨とし{{Sfn|映画用語|2012|p=107}}<ref name="キネ旬19780302"/><ref name="kotobank"/><ref name="jap_prize">{{Cite web|和書|url=http://www.japan-academy-prize.jp/about/index.php|title=日本アカデミー賞とは?|publisher=日本アカデミー賞|accessdate=2015-1-18}}</ref><ref name="映画時報197802_18">{{Cite journal|和書 |author = |title = 日本アカデミー賞、四月六日に授賞式第一回ノミネート、10部門の候補決る |journal = 映画時報 |issue = 1978年2月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 18 }}</ref><ref name="geo">{{Cite web|和書|author = Matsuoka Yoshifusa|date=2016-10-25 |url = https://geo-online.co.jp/noranoroshi/wp/00024.html|title =日本映画の祭典日本アカデミー賞|work = ゲオナビPUSH|publisher = [[ゲオ]] |accessdate = 2020-03-17 |archiveurl = https://archive.md/uHhg6|archivedate = 2019-11-30 }}</ref>、「映画人の創意を結集し、日本映画界にあって最高の権威と栄誉を持つ賞に育成すること」を念頭に創設された<ref name="pia academy"/><ref name="キネ旬19780302"/><ref name="映画時報197802_18"/><ref name="シナリオ201206">{{Cite journal |和書 |author = [[古田求]] |title = 映画『影武者』『乱』などの脚本家― 井出雅人の遺したノート 〜映画とシナリオに関する未公開手記〜 |journal = [[シナリオ (雑誌)|シナリオ]] |issue = 2012年6月号 |publisher = [[日本シナリオ作家協会]] |pages = 100-101 }}</ref>。 それまでの[[映画の賞|映画賞]]が、[[映画評論家]]、[[新聞]]、[[雑誌]][[記者]]など[[ジャーナリスト]]による外部の決定に対し<ref name="文春19780223">{{Cite journal |和書 |author = |title = This Week サル真似と嗤われながらも『日本アカデミー賞』の発足 |journal = [[週刊文春]] |issue = 1978年2月23号 |publisher = [[文藝春秋]] |pages = 24 }}</ref><ref name="oricon200317">{{Cite news |title=『新聞記者』で示した日本アカデミー賞のプライド 大手の意向「ない」 |work=ORICON NEWS |publisher=[[オリコン]] |date=2020-03-17 |author=磯部正和 |url= https://www.oricon.co.jp/news/2157604/full/|accessdate=2020-03-17}}</ref><ref name="encount10560">{{Cite news|url=https://encount.press/archives/10560/|title=権力中枢の“闇”を描いた映画「新聞記者」が日本アカデミー賞3冠を獲得した意味|author=平辻哲也|work=ENCOUNT|publisher=Creative2|date=2020-03-08|accessdate=2020-03-17}}</ref><ref name="newsyahoo200307">[https://news.yahoo.co.jp/byline/saitohiroaki/20200307-00166531 「よくやった!」と日本アカデミー賞を見直す声に、一部に猛批判ツイートも。『新聞記者』頂点の反応と理由]</ref>、実際に日本の映画製作に従事する映画人が会員となり<ref name="officialhistory"/>{{Sfn|映画用語|2012|p=107}}<ref name="kotobank"/><ref name="oricon200317"/><ref name="新潮19870305">{{Cite journal |和書 |author = |title = タウン アカデミー賞を独占『火宅の人』の不思議 |journal = [[週刊新潮]] |issue = 1987年3月5日号 |publisher = [[新潮社]] |pages = 17 }}</ref>、会員の投票により、その年度の業績の優れた作品・映画人を選出し表彰する{{Sfn|映画用語|2012|p=107}}'''映画人による映画人のための賞'''である<ref name="officialhistory"/><ref name="pia academy"/><ref name="cinemacafe2019226"/><ref name="kotobank"/><ref name="映画時報197802_18"/><ref name="oricon200317"/><ref>[https://www.ntv.co.jp/j-academy/ 第43回日本アカデミー賞 | 日本テレビ]、[https://www.nitteleplus.com/program/j_academy43/ 第43回日本アカデミー賞授賞式 地上波版/完全版]</ref>{{Sfn|映画の賞|2009|p=49}}<ref name="報知197804">{{Cite news |title = 番組案内 10部門の栄冠きまる1978日本アカデミー賞「映画界最高の栄誉を決定する初の祭典!」/広告 |date = 1978年4月6日 |newspaper = 報知新聞 |publisher = 報知新聞社 |page = 16 }}{{Cite news |title = 初の日本アカデミー賞 主演男優 高倉健 主演女優 岩下志麻 |date = 1978年4月7日 |newspaper = 報知新聞 |publisher = 報知新聞社 |page = 15 }}</ref><ref name="officialabout">{{Cite web|和書|url = https://www.japan-academy-prize.jp/about/index.php |title = 日本アカデミー賞概要 |work = 日本アカデミー賞の歴史 |publisher = 日本アカデミー賞 |accessdate = 2019-10-12 }}</ref>。 日本アカデミー賞協会の会員数は当初は800名に満たなかったとされるが<ref name="映画時報199204">{{Cite journal|和書 |author = |title = 東映(株)専務取締役 高岩淡インタビュー 盛り上がった第15回日本アカデミー賞 京都初開催に全映画人が熱視線 |journal = 映画時報 |issue = 1992年4月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 4-15 }}</ref>、年々増加し1987年に約3,700名<ref name="新潮19870305"/>、1992年に約5,000名になったといわれた<ref name="映画時報199204"/>。その後は減少し2007年度で約4,300名{{Sfn|映画の賞|2009|p=49}}、2011年度で3,991名{{Sfn|映画用語|2012|p=107}}、2019年度は3,959名である<ref name="jap_prize"/><ref name="oricon200317"/>。会員の資格は、日本の映画事業に現在も含め3年以上従事していることが前提で<ref name="officialhistory"/>、運営・実行委員会または賛助法人より推薦され認められた者となる<ref name="officialhistory"/>。内訳は[[東宝]]、[[東映]]、[[松竹]]の邦画三大メジャーに<ref name="mizuhosangyou">「コンテンツ産業の展望 [http://www.mizuhobank.co.jp/corporate/bizinfo/industry/sangyou/pdf/1048_03_02.pdf 第2章 映画産業]」pp.45–46、57–59 みずほ銀行 産業調査部</ref><ref>[https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/185060 剛力彩芽 非大手映画出演で本気の“就活”(東スポWEB)]</ref>[[KADOKAWA]]を加えた大手映画製作配給会社([[日本映画製作者連盟]]、以下映連)4社の社員と<ref name="jap_prize"/><ref name="oricon200317"/>、[[俳優]]/[[マネージャー]]、[[映画監督|監督]]、[[映画プロデューサー]]、さらに映画関連企業や[[芸能プロダクション|プロダクション]]関係、[[テレビ局]]、[[出版社]]などの賛助法人の社員などを含み<ref name="jap_prize"/><ref name="oricon200317"/>、その中には[[芸能プロダクション|声優事務所]]の[[青二プロダクション]]や[[ストリーミング|映像配信サービス]][[Netflix]]なども名を連ねている<ref name="officialhistory"/>。2019年の会員数3,959人のうち、東宝(298人)・松竹(298人)・東映(281人)の社員が計877人で全体の22%を占める<ref name="encount10560"/><ref name="dailyshincho200313">{{Cite web|和書|url = https://www.dailyshincho.jp/article/2020/03131110/?all=1 |title = 映画「新聞記者」、日本アカデミー賞“三冠”で思い出す「北野武監督」の苦言 |date=2020-03-13 |author=週刊新潮WEB取材班 |work = デイリー新潮 |publisher = [[新潮社]] |accessdate = 2020-03-17 }}</ref>(KADOKAWA133人)。このため大手3社の作品が有利とされ、これまでも度々物議を醸したが、これが本映画賞の特徴ともいえる<ref name="oricon200317"/><ref name="encount10560"/><ref name="newsyahoo200307"/><ref name="dailyshincho200313"/><ref>[https://www.asagei.com/141470 ナイナイ岡村、優秀助演男優賞で「日本アカデミー賞にまさかの忖度?」指摘!]</ref>(詳細は[[#受賞傾向と批判|後述]])。 初期の会員構成については資料がないため分からないが、[[製作委員会方式]]の多い現状により{{Sfn|映画用語|2012|p=107}}<ref name="mizuhosangyou"/>、今日では必ずしも映画の現場に携わっていない会員も存在するとされる{{Sfn|映画用語|2012|p=107}}。 運営費の主要財源は、協会会員の年会費であるが<ref name="officialhistory"/>、[[第1回日本アカデミー賞|第1回]]は大[[黒字と赤字|赤字]]でその後も赤字が続いた<ref name="映画時報199204"/>。実際に会員の年会費で概ね賄えるようになったのは会員数が約5,000名になった[[第15回日本アカデミー賞|第15回]]辺りからで<ref name="映画時報199204"/>、東京開催なら開催費用は一億円前後といわれるため<ref name="映画時報199204"/>、2019年の会員数約4,000名だと年会費2万円だけでは授賞式にかかる費用だけでも賄えないことになる。[[京都府|京都]]で初開催となったこの第15回では、[[京都府]]と[[京都市]]で計2,000万円の協力があり<ref name="映画時報199204"/>、京都に縁の深い東映と松竹、及び電通で京都財界に掛け合い、[[月桂冠 (企業)|月桂冠]]、[[ワコール]]、[[オムロン]]などから約6,000万円を集め<ref name="映画時報199204"/>、関連イベントとして併催した京都映画まつりと合わせ総額2億5,000万円の費用がかかった<ref name="映画時報199204"/><!--- ※出典をお願いします。 同趣旨の映画賞に、[[英国アカデミー賞]]がある。[[フランス]]の[[セザール賞]]もアカデミー賞を参考に創設されたものだが、暖簾分けの形式は採っていない。 --->。2020年今日の運営費は、授賞式入場料が一番大きく、その他、会員の会費、賛助法人の会費、協賛企業、テレビ、ラジオの放映料という<ref name="oricon200317"/>。 == 歴史 == === 創設経緯 === 公式サイトでは、設立にあたり、[[今日出海]]([[文化庁]]初代長官・[[文化功労者]])が名誉会長に就任、初代会長は[[大谷隆三]]([[松竹]]社長)が務め、[[岡田茂 (東映)|岡田茂]]([[東映]]社長)ら関係者が映画各界の幅広い賛同・参加を得ることに奔走し創設されたとしている<ref name="officialhistory"/>。テレビの中継を行う[[日本テレビ]]の『[[おもいッきりDON!]]』は、2010年4月6日放送の「きょうは何の日」のコーナーで日本アカデミー賞を取り上げ、同賞は「映画の未来を憂い奮い立った岡田茂がアメリカのアカデミー賞に並ぶ権威ある賞を日本でも創設することを考え、岡田と共に[[電通]]の[[入江雄三]]<ref>{{Cite news |title = 入江雄三氏が死去 元電通専務 |newspaper = [[日本経済新聞]] |date = 2015-2-4 |url = https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG04H9S_U5A200C1CZ8000/ |accessdate = 2017-9-20 |publisher = [[日本経済新聞社]] <!--|archiveurl = https://web.archive.org/web/20170920222900/https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG04H9S_U5A200C1CZ8000/ |archivedate = 2017-9-20--> }}</ref> が創設に尽力した」と紹介した<ref name="don">{{Cite web|和書|url = http://www.ntv.co.jp/don/contents03/2010/04/46.html |title = 1978年4月6日「日本アカデミー賞授賞式が挙行された日」 |date = 2010-4-6 |work = きょうは何の日 |publisher = [[DON!]] |accessdate = 2017-9-20 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20110814091950/http://www.ntv.co.jp/don/contents03/2010/04/46.html |archivedate = 2011-8-14 }}</ref>。『映画時報』は「[[歌謡曲|歌謡界]]にはテレビとジョイントした大きなイベントが幾つもあるが、映画界には[[イベント|フェスティバル]]的な大きな催しがない。そういうものが欲しい」と考えていた岡田に<ref name="文春19780223"/><ref name="映画時報197802">{{Cite journal|和書 |author = |title = 映画界東西南北談議 明るい話題の続く今年の映画界 |journal = 映画時報 |issue = 1978年2月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 35-36 }}</ref><ref name="キネ旬19870301">{{Cite journal|和書 |author = 脇田巧彦・川端晴男・斎藤明・[[黒井和男]] |title = 映画・トピック・ジャーナル〔ワイド版〕 特別ゲスト岡田茂 映連会長、東映社長、そしてプロデューサーとして |journal = [[キネマ旬報]] |issue = 1987年3月上旬号 |publisher = [[キネマ旬報社]] |page = 93-94 }}</ref>、電通が話を持ち掛け<ref name="文春19780223"/><ref name="don"/><ref name="映画時報197802"/>、創設が決まったと書かれ<ref name="映画時報197802"/>、[[スポーツニッポン]]は岡田が創設に尽力したとしている<ref name="sponichi20170920">{{Cite news |title = 「日本映画界のドン」岡田茂氏逝く |newspaper = [[スポーツニッポン]] |date = 2011-5-10 |url = http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2011/05/10/kiji/K20110510000789400.html |accessdate = 2017-9-20 |publisher = [[毎日新聞グループホールディングス]] <!--|archiveurl = https://web.archive.org/web/20110513090859/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2011/05/10/kiji/K20110510000789400.html |archivedate = 2011-5-13--> }}</ref>。東宝の[[堀内實三]]は1995年の映画誌のインタビューで「岡田茂さんが第一回から約10年ほど日本アカデミー協会の会長をされた」と述べている<ref>{{Cite journal|和書 |author = 松崎輝夫 |title = 東宝(株)専務取締役 堀内實三インタビュー 年間配収連続100億突破"V11"当確 製作配給の95年回顧と96年の展望 |journal = 映画時報 |issue = 1995年11月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 15 }}</ref>。1993年、第38回「[[映画の日]]」で岡田茂が[[映画産業団体連合会]]から特別功労大章を受賞した際、受賞の功労理由として「日本アカデミー賞や[[東京国際映画祭]]の創設」が明記された<ref>{{Cite news |title = ことば抄 |date = 1993年12月9日 |newspaper = [[朝日新聞]][[夕刊]] |publisher = [[朝日新聞社]] |page = 2 }}</ref><ref>{{Cite journal|和書 |author = |title = 第38回「映画の日」中央大会ひらく 岡田茂東映会長に特別功労大章 |journal = 映画時報 |issue = 1993年12月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 16-17 }}</ref>。その功績を称え、2007年から「岡田茂賞」が設けられている<ref name="officialabout"/><ref name="sponichi20170920"/>。 [[映画評論家]]の[[水野晴郎]]は「日本アカデミー賞を発案した」と自身でも話し<ref name="kyouiku">{{Cite web|和書|author = 桑田博之 |url = https://www.j-n.co.jp/kyouiku/link/michi/61/no61_3.html |title = あの人に聞きたい 私が選んだ道 第61回 映画評論家、映画監督 水野晴郎さん |work = 実業之日本 |publisher = [[実業之日本社]] |accessdate = 2019-10-12 }}</ref>、一部のサイトに「水野が映画の素晴らしさをさらに盛り上げる祭典として日本アカデミー賞を発案し、松竹・東宝・東映のトップや[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の[[テレビプロデューサー|プロデューサー]]へ持ち掛けて準備を進め、途中から[[電通]]が仕切ることになり、水野は会員として投票するだけの立場となった」などと書かれたものがある<ref name = mizuno>{{Cite web|和書|url = http://www.cyzo.com/2009/02/post_1611_entry.html |title = 水野晴郎の遺作『ギララの逆襲』岡山弁で語った最後の台詞は...... |author = 長野辰次 |authorlink = 長野辰次 |date = 2009-2-24 |work = 深読みCINEMA コラム【パンドラ映画館】Vol.03 |publisher = [[日刊サイゾー]] |accessdate = 2017-9-20 <!--|archiveurl = https://web.archive.org/web/20170920213244/http://www.cyzo.com/2009/02/post_1611_entry.html |archivedate = 2017-9-20--> }}</ref>。しかし公式サイトは勿論、[[第三者]]から水野が発案したとする証言はなく<ref name="officialhistory"/>、日本アカデミー賞は水野のような映画評論家やジャーナリストを[[省略|オミット]]することを最初から念頭に置いており<ref name="cinemacafe2019226"/><ref name="文春19780223"/><ref name="officialabout"/><ref name="キネ旬19780201">{{Cite journal|和書 |author = |title = 映画界の動き 映連の77年12月定例理事会 |journal = キネマ旬報 |issue = 1978年2月上旬号 |publisher = キネマ旬報社 |page = 196 }}</ref>、水野が映画評論家をオミットする賞を発案するとは考えにくいことから、水野の発案と日本アカデミー賞が繋がるのかは分からない。また水野は日本アカデミー賞創設の時点では、まだ映画の実制作に関わったことがなく、公式サイト内の「日本アカデミー賞概要 協会会員資格」では、ジャーナリストは会員の資格がなく<ref name="officialabout"/>、映画評論家は運営委員又は実行委員の推薦状が必要だった<ref name="officialabout"/>。「2019年度会員所属内訳」を見てもジャーナリストは会員にいない<ref name="officialabout"/>。水野は映画評論家になる前は、[[ユナイテッド・アーティスツ#日本での活動|日本ユナイト]]の社員で<ref name="kyouiku"/>、同社は[[映画|外国映画]]の[[映画配給|配給会社]]で映画の実制作をする会社ではないため、これも会員になるためには外国映画輸入配給協会の推薦が必要だった<ref name="officialabout"/>。水野が日本アカデミー賞の会員だったかについても分からない。公式サイトの「公式パンフレットで振り返る授賞式」の「第一回協会概要」に、日本アカデミー賞協会役員とノミネート委員の記載があるが<ref name="officialhistory"/>(『キネマ旬報』1978年3月下旬号にも記載あり)<ref name="キネ旬19780302"/>、この中にジャーナリストの名前はなく<ref name="officialhistory"/><ref name="キネ旬19780302"/>、当然水野の名前もない。 第1回は日本テレビでの中継が決まったが<ref name="映画時報197802"/>、創設は電通と[[日本映画製作者連盟|映連]]を中心に進められたもので<ref name="クロニクル東映2">{{Cite book |和書 |author=岡田茂|authorlink=岡田茂 (東映) | title = クロニクル東映 1947-1991 |chapter = 映画界トピックス 第一回日本アカデミー賞開催|year = 1992 |volume = 2 |publisher = [[東映|東映株式会社]] |page = 65 }}</ref><ref name="読売19810114">{{Cite news |author = 美浜勝久 |title = 日本アカデミー賞不毛のケンカ騒ぎ 黒沢監督と対立そのまま |date = 1981年1月14日 |newspaper = [[読売新聞]] |publisher = [[読売新聞社]] |page = 5 }}</ref>、日本テレビは[[イニシアティブ]]を執ってはいなかった<ref name="映画時報197802"/>。このため他社専属みたいなスターは日本テレビに出ることに難色を示し<ref name="映画時報197802"/>、ショー形式のシナリオが出来ず、第1回放送は[[根回し]]が充分でないまま放送された<ref name="映画時報197802"/>。岡田茂は「[[第9回日本アカデミー賞|第9回]]のとき、日本テレビ以外の[[テレビ局]]からウチで放送させてくれと申し出があった」と述べている<ref name="キネ旬19870301"/>。[[アメリカ合衆国]]の[[アカデミー賞]]を模し{{Sfn|映画用語|2012|p=107}}、{{要出典|date=2018年9月|暖簾分けとして設立され}}、約4か月間で第1回開催にこぎつけた。 <!--- 本項目と関係のない詳細説明は不要。--->[[京都市民映画祭]]は、映画事情<ref name="キネ旬19771201">{{Cite journal|和書 |author = 新堀翔 |title = 映画界の動き "さよなら"第23回京都市民映画祭 |journal = キネマ旬報 |issue = 1977年12月上旬号 |publisher = キネマ旬報社 |page = 181 }}</ref>、諸物価の高騰などの理由で<ref name="キネ旬19771201"/>、1977年限りで中止が決まったもので<ref name="キネ旬19771201"/>、日本アカデミー賞の創設とは関係がない<!--- 同映画祭は[[大映]]・[[東宝]]・[[松竹]]・[[日活]]・[[東映]]らの[[京都市|京都]]で製作された[[映画]]の中で、部門毎に優秀賞を贈呈し、全国的な賞として取り上げられていた<ref name=tamao>{{Cite web |url = http://mytown.asahi.com/kyoto/news.php?k_id=27000140712260001 |title = 「久々の映画」中村玉緒さん 「戻ろ」主人と話も |date = 2007-12-26 |work = 京の人 07年を駆けたスターたち ☆4☆ - マイタウン京都 |publisher = [[asahi.com]] |accessdate = 2011-11-17 |archiveurl = https://archive.is/20120711152747/http://mytown.asahi.com/kyoto/news.php?k_id=27000140712260001 |archivedate = 2012年7月11日 |deadlinkdate = 2017年10月 }}</ref>{{refnest|group=注|このため、京都市民映画祭は日本アカデミー賞が発足された同年から催されていない。}}。 --->。 === 第1回の選考 === 第1回は会員が各賞を選考したとはいえない形で行われた。公式サイトの「公式パンフレットで振り返る授賞式」の「第一回協会概要」にノミネート委員として60人の記載があるが<ref name="officialhistory"/>、第1回は作品賞他、全部で10部門で、この10部門の各々5作品(又は5人)をノミネート委員が[[表決#記名投票|記名投票]]により選んだ<ref name="officialhistory"/><ref name="キネ旬19780302"/><ref name="映画時報197802_18"/>。この各々5作品(又は5人)が優秀賞となり<ref name="officialhistory"/><ref name="キネ旬19780302"/><ref name="映画時報197802_18"/>、優秀賞の中から最優秀賞1作品(又は1人)を協会会員の投票で決定した<ref name="officialhistory"/><ref name="キネ旬19780302"/><ref name="映画時報197802_18"/>。この協会会員の数字は創設前の文献に12,000人と書かれているものがあるが<ref name="キネ旬19780302"/><ref name="映画時報197802_18"/>、公式サイトでは1,200人<ref name="officialhistory"/>、1997年の[[第20回日本アカデミー賞|第20回]]から日本アカデミー賞協会会長を務めた[[高岩淡]]が「創設当時は会員は800人に満たなかった」と話しており<ref name="映画時報199204"/>、12,000人という桁外れの数字は誤りと見られる。公式サイトに書かれた「第2回目が1,058名で<ref name="officialhistory"/>、第1回は準備期間がほとんどなかったことから、800人よりさらに少なかったかもしれない。公式サイトに書かれた「第2回目からは、会員(1058名)による投票がおこなわれ、文字どおり映画人が選ぶ映画賞となり...第4回からは一次選考も会員全員の投票によっておこなわれる事となり...」の意味は<ref name="officialhistory"/>、第2回目から一次選考も会員全員の投票によっておこなったのか、第4回から一次選考も会員全員の投票によっておこなったのか分かりかねるが、いづれにしても第1回以降にノミネート作品(優秀賞)も協会全会員が選出することになったということで、それまでは会員がノミネート作品以外を記載すると投票は無効という意味であるため、それまでは会員ではなくノミネート委員が賞を選出したといえるのかも知れない。 === 開催まで === 1977年11月15日、電通からと見られる「日本アカデミー賞」創設原案が映連に到着する<ref>{{Cite journal |和書 |author = 今村三四夫編 |title = 映画界重要日誌 |journal = 映画年鑑 1979([[映画産業団体連合会]]協賛) |issue = 1978年12月1日発行 |publisher = 時事映画通信社 |pages = 8頁 }}</ref>。1977年11月24日、映連の定例理事会において、かねてより立案であった「日本映画芸術科学アカデミー(仮称)」の設立について協議し、設立の趣旨について、満場一致で賛成があり<ref name="キネ旬19780101">{{Cite journal|和書 |author = |title = 映画界の動き 日本映画芸術科学アカデミー設立へ |journal = キネマ旬報 |issue = 1978年1月上旬号 |publisher = キネマ旬報社 |pages = 212-213 }}</ref><ref name="VM197711">{{Cite journal|和書 |author = |title = ビジネス・ガイド『映団連、日本アカデミー賞の設立を検討』 |journal = 月刊ビデオ&ミュージック |issue = 1977年11月号 |publisher = 東京映音 |pages = 44 }}</ref>、アメリカ映画界の一大イベントと同様の「日本アカデミー賞」を設け、日本映画界の年中最大行事として実施しようという申し合わせがあった<ref name="キネ旬19780101"/><ref name="VM197711"/>。一億円近くかかるであろうと見られた運営費は<ref name="映画時報197802"/>、本来アメリカのアカデミー同様、協会会員の会費で賄わなければならなかったが<ref name="映画時報197802"/>、準備不足で会員が何人いるのか、会費がいくらならいいのか等、把握仕切れず、第1回はアメリカ式は無理で、色々な[[スポンサー]]に頼ろうと考えていたら、電通が運営費については責任を持つと云ったためこれに乗ることになった<ref name="映画時報197802"/>。実施方法や時期などの具体的な問題は、準備委員長・[[大谷隆三]]映連会長、副委員長・[[岡田茂 (東映)|岡田茂]]東映社長を中心に<ref name="キネ旬19780101"/><ref name="VM197711"/>、映連加盟4社(当時は[[東宝]]、[[松竹]]、[[東映]]、[[日活]])<ref name="キネ旬19780101"/> より、製作・宣伝部門からおのおの一名づつの委員を選出し、早急に準備委員会を設立し検討を始めると決定した<ref name="キネ旬19780101"/><ref name="VM197711"/>。1977年12月1日に準備委員会が会合を開き、1978年春に「第一回アカデミー賞」を実施する方向で問題を討議した<ref>{{Cite journal|和書 |author = |title = 映画界の動き 短信 |journal = キネマ旬報 |issue = 1978年1月上旬号 |publisher = キネマ旬報社 |page = 190 }}</ref>。 1977年12月15日、映連の定例理事会において、1978年3月下旬の第1回開催を目標に諸準備を進めていると報告があり<ref name="キネ旬19780201"/>、1978年1月16日、映画関係団体、[[日本映画監督協会]]、[[日本シナリオ作家協会]]、[[日本映画テレビプロデューサー協会]]、映画テレビ技術協会、[[日本映画撮影監督協会]]、[[日本映画・テレビ照明協会|日本映画照明技術者協会]]、映画俳優協会、[[日本映画・テレビ美術監督協会|日本映画美術監督協会]]、独立映画協会、外国映画輸入配給協会の10団体の代表に協力要請を行った<ref name="キネ旬19780201"/>。公式サイトの「公式パンフレットで振り返る授賞式」の第一回協会概要に、日本アカデミー賞協会立ち上げ時の役員とノミネート委員の記載があり<ref name="officialhistory"/>、メンバーは映連加盟4社の幹部、上記映画関係団体10社の幹部がほとんどであるため<ref name="officialhistory"/><ref name="キネ旬19780302"/>、この後、準備委員会を日本アカデミー賞協会に発展改組し、このメンバーが役員、ノミネート委員に名を連ねたものと見られる。 1978年2月8日、[[帝国ホテル]]で設立発表会見が行われ<ref name="映画時報197802_18"/><ref name="年鑑1979">{{Cite journal |和書 |author = 今村三四夫編 |title = 映画界重要日誌 |journal = 映画年鑑 1979(映画産業団体連合会協賛) |issue = 1978年12月1日発行 |publisher = 時事映画通信社 |pages = 10頁 }}</ref><ref name="キネ旬19780401">{{Cite journal|和書 |author = |title = 映画界の動き 日本アカデミー賞 のノミネート |journal = キネマ旬報 |issue = 1978年4月上旬号 |publisher = キネマ旬報社 |page = 204 }}</ref>、1978年4月6日に「第一回アカデミー賞」の発表授賞式を[[帝国劇場]]で行い、その後[[帝国ホテル]]で記念[[晩餐会]]を開くと発表された<ref name="映画時報197802_18"/>。合わせて、この日、全10部門のノミネート(優秀賞)が発表され<ref name="キネ旬19780401"/>、最優秀賞の最終選考は全協会会員による[[表決#記名投票|記名投票]]で、1978年3月20日から27日までの[[郵送]]により第三者機関が集計保管し当日発表する、授賞式は[[日本テレビ系]][[全国ネット]]で[[生中継]]され、各部門でノミネートを受けた授賞対象者は4月6日の発表授賞式に全員出席を予定<ref name="キネ旬19780401"/>、授賞式には[[カーク・ダグラス]]がアカデミー賞協会のメッセージを持って出席し<ref name="文春19780223"/><ref name="週刊映画19780218">{{Cite news |title = コンクール百花繚乱の中に日本アカデミー賞が新登場 |date = 1978年2月18日 |newspaper = 週刊映画ニュース |publisher = 全国映画館新聞社 |page = 1 }}</ref>([[ロック・ハドソン]]に変更)<ref name="officialhistory"/><ref name="映画時報197804">{{Cite journal|和書 |author = |title = topics 第一回日本アカデミー賞盛大に開く|journal = 映画時報 |issue = 1978年4月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 16 }}</ref>、映画界に携わる人々の親睦の機会を作ると、授賞式は関係者席を除き映画ファンにも有料で開放し、入場[[前売り#前売り券|前売り券]]を都内の主要[[プレイガイド]]などで発売する等、実施要項、運営方式の説明があった<ref name="映画時報197802_18"/><ref name="文春19780223"/><ref name="年鑑1979"/><ref name="週刊映画19780218"/>。この授賞式の入場券が3,000円から最高1万円の計四種類<ref name="キネ旬19780302"/>、晩餐会は一律4万円であったため<ref name="文春19780223"/><ref name="週刊映画19780218"/>、興行臭がぷんぷんするなどと批判された<ref name="文春19780223"/>。 この会見で岡田茂が「何が何でもフェスティバルが欲しい。歌謡界には大きな賞があるが、映画界にはない。そういえば東京映画記者会の何とかという賞はあるが」などと東映が配給した『[[人間の証明#映画|人間の証明]]』が[[映画の賞#日本|主たる映画賞]]で無視されたことに腹を立て<ref name="文春19780223"/>、東京映画記者会の投票で決まる[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]]をコケにした発言をし<ref name="文春19780223"/>、詰めかけた[[ジャーナリスト|記者]]たちを唖然とさせた<ref name="文春19780223"/>。また「既存の映画賞が記者や[[映画評論家|評論家]]などの外部の人による決定だったのに対し、『日本アカデミー賞』は『映画人による映画人のための賞』で、1,200人の映画人の投票で受賞者を決め、その模様はテレビで全国生中継される」と映画人が主催者であると力説した<ref name="文春19780223"/>。ジャーナリストを除け者にする発言を行ったためか、授賞式の翌日の[[スポーツ新聞]]は、[[サンケイスポーツ]]が「アメリカのアカデミー賞をそっくりマネたお祭り」<ref name="サンスポ19780407">{{Cite news |title = 第一回日本アカデミー賞決る 主演賞 健さん お志麻 山田監督トリプル受賞 |date = 1975年1月10日 |newspaper = [[サンケイスポーツ]] |publisher = [[産業経済新聞社]] |page = 15 }}</ref>、[[日刊スポーツ]]は4万円の会費の晩餐会の出席者が[[医師]]や[[財界人]]が大半で、4万円の食事メニューを詳しく紹介するなどややおちょくったような記事を書き<ref name="日刊19780407">{{Cite news |title = 初の日本アカデミー"黄色いハンカチ勢"6部門 歌あり寸劇あり本場そっくり 財界人が大半 4万円パーティー |date = 1978年4月7日 |newspaper = [[日刊スポーツ]] |publisher = [[日刊スポーツ新聞社]] |page = 17 }}</ref>、[[週刊誌]]など[[マスメディア]]の記事も好意的に書いたものは無かった<ref name="週刊明星19780423">{{Cite journal |和書 |author = |title = POST 内容乏しい第一回日本アカデミー賞 本場アカデミー賞のマネに精一杯 |journal = [[週刊明星]] |issue = 1978年4月23号 |publisher = [[集英社]] |pages = 47 }}</ref>。 === 初期の頃 === 日本アカデミー賞は映連を中心とした映画関係団体と電通とで創設したものであったが<ref name="クロニクル東映2"/><ref name="読売19810114"/>、電通と日本テレビが[[イニシアティブ]]を執っているなどと批判され<ref name="キネ旬19870301"/><ref name="キネ旬19790502">{{Cite journal|和書 |author = 木崎徹郎 |title = 興行価値 日本アカデミー賞について |journal = キネマ旬報 |issue = 1979年5月下旬号 |publisher = キネマ旬報社 |page = 168 }}</ref><ref name="キネ旬19810301">{{Cite journal|和書 |author = 脇田巧彦・川端晴男・斎藤明・黒井和男 |title = 映画・トピック・ジャーナル 黒澤監督日本アカデミー賞辞退 |journal = キネマ旬報 |issue = 1981年3月上旬号 |publisher = キネマ旬報社 |page = 174-175 }}</ref><ref name="映画時報197812">{{Cite journal|和書 |author = |title = 映画界東西南北談議 表面は静かだった映画界 |journal = 映画時報 |issue = 1978年12月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 36 }}</ref>、また短期間での開催で一億円近い運営費の出所が不透明などと<ref name="映画時報197802"/>、マスメディアに叩かれ評判が悪かった<ref name="キネ旬19870301"/><ref name="キネ旬19810301"/><ref name="映画時報197812"/>。こうした事情で、なかなか賞を受け取ってもらえないケースもあり、お金もなく運営に苦労した<ref name="高岩">{{Cite book |和書 | author=高岩淡|authorlink=高岩淡 |year = 2013 |title = 銀幕おもいで話 |publisher = [[双葉社]] |id = ISBN 4-5757-14-01-1 |pages = 174-177 }}</ref>。 創設に当たり国内最大の映画賞を作るという意図で<ref name="シナリオ201206"/>、前述のようにアカデミー賞協会準備委員会が発足され<ref name="シナリオ201206"/><ref name="映画時報197712">{{Cite journal|和書 |author = |title = 日本アカデミー賞、3月下旬に実施 作品賞など10部門、発表会場は帝劇有力 |journal = 映画時報 |issue = 1977年12月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 26 }}</ref>、東映、松竹、東宝など各映画会社を始め、日本を代表する映画人に参加を呼び掛けた<ref name="シナリオ201206"/>。しかし参加を打診された[[黒澤明]]が<ref name="シナリオ201206"/>、[[週刊誌]]上などでその[[命名|ネーミング]]に散々ケチを付け<ref name="シナリオ201206"/><ref name="読売19810114"/><ref name="週刊朝日19780901">{{Cite journal |和書 |author = [[白井佳夫]] |title = 〔エンタテインメント〕 『駅馬車 ジョン・フォードが僕のおやじならコッポラ、ルーカスは息子だよ』 黒沢明の語るアメリカ映画最新事情 |journal = [[週刊朝日]] |issue = 1978年9月1日号 |publisher = [[朝日新聞社]] |pages = 42–43頁 }}</ref>、「アメリカには映画芸術科学アカデミーという組織があって、そこが与える賞だから、アカデミー賞なんだ。そんな実体も無いくせに、何が日本アカデミー賞だ。電通か日本テレビ賞とでもすべきだろう」<ref name="シナリオ201206"/>「アカデミー賞の真似事でくだらない。あんな賞には、なんの権威もない」<ref name="読売19810114"/>「[[日本映画製作者連盟|大手映画会社]]抜きで、映画芸術科学会議をぼくたちで作って出直しをやるべき。まず実行委員会を組織して映画研究所の設立から始めるべきでしょう」<ref name="週刊朝日19780901"/> などと批判した<ref name="読売19810114"/><ref name="高岩"/><ref>[https://cinema.ne.jp/friday/academy2019030117/ 日本アカデミー賞、歴代最優秀作品から5本選んで振り返ってみた]</ref>。この黒澤発言に腹を立てた映連会長で東映社長の岡田茂が「黒澤などウチ(東映)では映画は撮らさん」と批判<ref name="シナリオ201206"/>。「黒澤は権威主義だ」などと黒澤バッシングも起こり大きな騒動になった<ref name="シナリオ201206"/>。また黒澤以外からも運営方式、投票方式などで批判が相次ぎ、[[勝新太郎]]や[[石原裕次郎]]など[[制作プロダクション|独立プロ]]を率いる実力者も批判ないし無視した<ref name="読売19800406">{{Cite journal |和書 |author = |title = 情報バザール 賛否両論あるが、どうにか三年もった日本アカデミー賞 |journal = [[週刊読売]] |issue = 1980年4月6号 |publisher = [[読売新聞社]] |pages = 134 }}</ref>。しかし同じ独立プロを率いる[[三船敏郎]]は「年一度のお祭りなんだから出席しなきゃいかん」と何故か協力的だった<ref name="キネ旬19830401">{{Cite journal|和書 |author = 竹入栄二郎 |title = やぶにらみ 今年もまた日本アカデミーはTV観戦 |journal = キネマ旬報 |issue = 1983年4月上旬号 |publisher = キネマ旬報社 |page = 177 }}</ref>。 各賞は日本アカデミー賞協会会員の投票により、担当部門の選考をするものだが<ref name="読売19800406"/>、当初問題となったのは俳優部門の会員の意識が低いことで<ref name="読売19800406"/>、ノミネート投票の有効率は全体で60%ぐらいで、俳優会員が25%<ref name="読売19800406"/>。アメリカのように俳優の[[労働組合|ユニオン]]が確立していないためか<ref name="読売19800406"/>、忙しくて映画を観ないのか、自分たちで映画を育てていこうという意識がなさすぎた<ref name="読売19800406"/>。一本でも多くの映画を観てもらおうという配慮で<ref name="読売19800406"/>、会員は年会費(当初は1万5千円)を払えば<ref name="読売19800406"/>、主要映画館で映画を無料で観ることができる会員証が与えられていたが<ref name="読売19800406"/>、中には[[ポルノ映画]]ばかり見続けた剛の者もいた<ref name="読売19800406"/>。  [[第1回日本アカデミー賞|第1回]]は本場アカデミー賞を意識し<ref name="週刊明星19780423"/>、テレビ生中継もアカデミー賞の[[VTR]]が流れた翌日の放送にした<ref name="週刊明星19780423"/>。第1回授賞式ではアカデミー賞を代表して[[ロック・ハドソン]]が「私たちのアカデミー賞は創設後半世紀を経た。その間技術のみならず文化、教育に大きく寄与してきたが、日本にも同じ目的の協会が出来て大変うれしい」などと祝辞を述べた<ref name="officialhistory"/><ref name="映画時報197804"/><ref name="週刊明星19780423"/>。授賞式会場にはノミネートされた映画人全員が出席し<ref name="報知197804"/><ref name="サンスポ19780407"/><ref name="日刊19780407"/>、司会は[[岡田真澄]]と[[徳光和夫]]が務め<ref name="報知197804"/>、[[高倉健]]、[[渥美清]]、[[北大路欣也]]、[[郷ひろみ]]、[[林隆三]]、[[武田鉄矢]]、[[川谷拓三]]、[[若山富三郎]]ら、男性は[[タキシード]]で、[[岩下志麻]]、[[秋吉久美子]]、[[大竹しのぶ]]、[[倍賞千恵子]]、[[山口百恵]]、[[桃井かおり]]ら女性は目の覚めるような[[着物]]か[[イブニングドレス]]できめた<ref name="サンスポ19780407"/><ref name="日刊19780407"/>。またプレゼンターを[[森繁久彌]]、[[三船敏郎]]、[[山田五十鈴]]、[[京マチ子]]、[[鶴田浩二]]、[[丹波哲郎]]、[[原田美枝子]]、[[二谷英明]]、[[松坂慶子]]、[[田宮二郎]]、[[田中健 (俳優)|田中健]]、[[司葉子]]、[[市川右太衛門]]、[[フランキー堺]]、[[三橋達也]]、[[八千草薫]]、[[上原謙]]、[[多岐川裕美]]、[[中井貴恵]]が務め<ref name="報知197804"/><ref name="サンスポ19780407"/><ref name="日刊19780407"/>、[[イベント|アトラクション]]で[[石坂浩二]]、[[小林旭]]らが登場し<ref name="報知197804"/><ref name="日刊19780407"/>、これほどのスターが一堂に会したのは日本映画史上初めてといわれた<ref name="報知197804"/>。ただこの年は各映画賞とも『[[幸福の黄色いハンカチ]]』が主要部門を独占したため、主たる映画賞が終わった最後の開催でまた『幸福の黄色いハンカチ』の各賞独占で盛り上がらず<ref name="週刊明星19780423"/>、映画賞と関係のない[[和田アキ子]]や[[クレイジーキャッツ]]、[[木の実ナナ]]などの派手なショープログラムが途中に挟み込まれ<ref name="週刊明星19780423"/>、そうした場に慣れてない映画人は面食らった<ref name="週刊明星19780423"/>。 第1回は授賞式の進行も拙く準備不足を露呈し<ref name="映画時報197812"/><ref name="週刊映画19790210">{{Cite news |title = 第二回日本アカデミー賞要項 組織委員一部改定して発足す |date = 1979年2月10日 |newspaper = 週刊映画ニュース |publisher = 全国映画館新聞社 |page = 1 }}</ref><ref name="映画時報197902">{{Cite journal|和書 |author = |title = 第二回日本アカデミー賞、実施要項決る |journal = 映画時報 |issue = 1979年2月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 30–31 }}</ref>、「来年もやれるの?」という声がマスコミから上がり<ref name="映画時報197812"/><ref name="週刊映画19790210"/>、長くは持たないという見方もあった<ref name="キネ旬19870301"/><ref name="読売19800406"/>。このため第1回の[[大谷隆三]]から協会会長が岡田茂に代わり<ref name="読売19810114"/><ref name="週刊映画19790210"/>、岡田は「電通色が強すぎたという反省をこめ、本賞の主旨に沿う組織作りからやり直した。映画界にとっての最大のイベントを作る」と抱負を述べた<ref name="週刊映画19790210"/><ref name="読売19790209">{{Cite news |author = |title = 昨年不評 日本アカデミー賞 組織を作り直して再出発 |date = 1979年2月9日 |newspaper = 読売新聞[[夕刊]] |publisher = 読売新聞社 |page = 5 }}</ref>。第1回の[[黒字と赤字|赤字]]1,200 - 1,300万円は、電通と各映画会社で被ると発表した<ref name="週刊映画19790210"/><ref name="読売19790209"/>。また[[第2回日本アカデミー賞|第2回]]から協会副会長に[[森繁久彌]]を指名した<ref name="週刊映画19790210"/>。 第2回では[[第2回日本アカデミー賞#最優秀音楽賞|最優秀音楽賞]]を受賞した[[武満徹]]が受賞会見で黒澤同様「アメリカのマネをした名が嫌い」と批判し<ref name="文春19790419">{{Cite journal |和書 |author = |title = This Week 受賞者でさえ批判した日本アカデミー賞のナンセンス |journal = 週刊文春 |issue = 1979年4月19号 |publisher = 文藝春秋 |pages = 21 }}</ref>、さらに「撮影、録音、照明、効果、美術などの重要なパートを技術賞一つに押し込んでいる。実際の映画作りにおいて、いかに現場の人たちをないがしろにしているかの象徴」などと製作側からの無茶な仕事の発注を批判し「来年は出ない」と話した<ref name="文春19790419"/>。武満の批判を受け、翌年からは技術賞を撮影賞、照明賞、美術賞、録音賞に独立させ裏方的存在だった技術部門にスポットを当てた<ref name="キネ旬19800502">{{Cite journal|和書 |author = 植草信和 |title = 1980(第3回)日本アカデミー賞授賞式レポート |journal = キネマ旬報 |issue = 1980年5月下旬号 |publisher = キネマ旬報社 |page = 134-135 }}</ref>。 [[第3回日本アカデミー賞|第3回]]の冒頭挨拶で、岡田茂協会会長は「我が協会は、ようやく3歳の幼児であり、まだまだ本当の意味で自立できるところまで成長できていません。日本映画にはお祭りがなさすぎるのでこの祭典を大切にしていきたい」と述べた<ref name="キネ旬19800502"/>。また森繁協会副会長は「この催しはお祭りだと思う。固くならないで楽しい会であって欲しい。役者というものは[[俳優#性別での分類|女優]]は35歳ぐらいまで、[[男優]]は40歳ぐらいまで[[セックス]]の勉強をして芸の本番が発揮できるのはそれからだし」と笑いを求めたが拍手はお義理で空虚なものだった<ref name="週刊映画19800405">{{Cite news |title = ヘンリー坊や会見熱気あり 日本アカデミ祭り笑い少し |date = 1980年4月5日 |newspaper = 週刊映画ニュース |publisher = 全国映画館新聞社 |page = 1 }}</ref>。第1回の[[岡田真澄]]、第2回の[[宝田明]]のような真面目な司会ではなく<ref name="キネ旬19800502"/>、ショー的要素を高めるという意向で<ref name="キネ旬19800502"/>、第3回からは[[山城新伍]]が司会を担当<ref name="キネ旬19800502"/>。スペシャルゲストに[[ラクエル・ウェルチ]]を招いた<ref name="officialhistory"/><ref name="キネ旬19800502"/><ref name="週刊映画19800405"/>。「[[アメリカ合衆国の映画|ハリウッド]]で最も衣装代が少なくてすむ女優」と評されるウェルチは<ref name="週刊映画19800405"/>、日本人にはとても出来ない胸元のVが深々とカットされたグラマラスな姿態を否応なしに見せつけ<ref name="officialhistory"/><ref name="キネ旬19800502"/>、受賞者のようにテレることのない威風堂々とした態度と晴れやかなこの表情こそ、ショーアップ最大のポイントであるとアピールをしているようだった<ref name="キネ旬19800502"/>。しかしウェルチの登場だけは熱気を帯びたが、全体には熱気に乏しく祭りの感はなかった<ref name="週刊映画19800405"/>。閉会の挨拶は[[三船敏郎]]が務めた<ref name="キネ旬19800502"/>。 この第3回では[[第3回日本アカデミー賞#最優秀主演女優賞|最優秀主演女優賞]]として[[桃井かおり]]が有力候補に挙がったが、桃井が受賞を拒否するという噂が早くから流れたため<ref name="週刊現代1980417">{{Cite journal |和書 |author = |title = 〔ワイドコラム・ルック・るっく 人と事件〕 桃井かおり 『日本アカデミー賞』授賞式に流れた噂 |journal = 週刊現代 |issue = 1980年4月17日号 |publisher = 講談社 |page = 57 }}</ref>、全国中継で受賞を拒否すれば一大ニュースになると、それを期待し授賞式当日にマスメディアが大勢会場に押しかけた<ref name="週刊現代1980417"/>。この予想に反して桃井は授賞式に出席し最優秀賞を受け<ref name="キネ旬19800502"/>、「嬉しいです。以上」の一言で壇上から降りた<ref name="キネ旬19800502"/>。記者会見では「私が貰わないという噂が流れてたのよね。貰えると思っていなかったけど、来なかったら騒がれるし、それがイヤで来たわけよ」などと、賞に対するリスペクト0の発言をし、また反発を買った<ref name="週刊現代1980417"/>。[[第6回日本アカデミー賞|第6回]]では同じ[[第6回日本アカデミー賞#最優秀主演女優賞|最優秀主演女優賞]]候補だった[[夏目雅子]]と[[田中裕子]]から桃井は「同席はご免よ」と同じテーブルに着くことを拒否され<ref name="週刊現代19830226">{{Cite journal |和書 |author = |title = 〔ワイドコラム・ルック・るっく 芸能〕 『彼女の隣はイヤ』桃井かおりがライバルから総スカン |journal = 週刊現代 |issue = 1983年2月26日号 |publisher = 講談社 |page = 49 }}</ref><ref name="週刊映画19830226">{{Cite news |title = 週間点描 表彰と批判の両面 採り方もさまざま |date = 1983年2月26日 |newspaper = 週刊映画ニュース |publisher = 全国映画館新聞社 |page = 1 }}</ref>、[[松坂慶子]]と[[いしだあゆみ]]にも「桃井さんの隣はイヤ。怖いもの」などと候補者全員から同席を拒否された<ref name="週刊現代19830226"/><ref name="週刊映画19830226"/>。この煽りで桃井は授賞式を欠席し後味が悪いものになった<ref name="週刊映画19830226"/>。 大きな騒動になったのは[[第4回日本アカデミー賞|第4回]]<ref name="読売19810114"/><ref name="キネ旬19810301"/><ref name="週刊映画19810117">{{Cite news |author = 今村三四夫 |title = 週間点描 映画選奨について一つの出来事惹起 |date = 1981年1月17日 |newspaper = 週刊映画ニュース |publisher = 全国映画館新聞社 |page = 1 }}</ref><ref name="読売19820127">{{Cite news |title = 〈耳〉 5周年の日本アカデミー賞 今回から賞金も |date = 1982年1月27日 |newspaper = 読売新聞[[夕刊]] |publisher = 読売新聞社 |page = 9 }}</ref><ref name="東スポ20100817">{{Cite news |title = 芸能事件史 1980年 黒澤明日本アカデミー賞を一喝 『はらわたが煮えくり返る思い』 "天皇"の批判で賞は形無しに |date = 2010年8月17日 |newspaper = [[東京スポーツ]] |publisher = 東京スポーツ新聞社 |page = 23 }}</ref><ref name="噂の眞相8103">{{Cite journal |和書 |author = 川崎宏 |title = ATG・1000万映画路線のターニング・ポイント |journal = [[噂の眞相]] |issue = 1981年3月号 |publisher = 噂の眞相 |page = 36頁 }}</ref>。この年の最有力は『[[影武者 (映画)|影武者]]』であったが<ref name="読売19810114"/><ref name="週刊映画19810117"/>、創設時より本賞の批判を繰り返していた黒澤明がノミネートの発表前に『影武者』を選考対象にしないよう日本アカデミー協会に申し入れてきた<ref name="読売19810114"/><ref name="キネ旬19810301"/><ref name="週刊映画19810117"/>。次いで『影武者』に関係し賞にノミネートされていた[[山﨑努]]や[[大滝秀治]]が同調し<ref name="週刊映画19810117"/><ref name="東スポ20100817"/>、スタッフもそれに続いた<ref name="週刊映画19810117"/>。[[仲代達矢]]は『[[二百三高地]]』まで辞退する形をとった<ref name="週刊映画19810117"/>。黒澤は『[[週刊プレイボーイ]]』のインタビューで<ref name="週刊映画19810117"/>、「いま日本映画にとって重要なのは監督、撮影、シナリオ等の各種団体が一丸となる組織が必要だ。そんなものがないからアカデミー協会なんてバカなものが出来る。あれは金もうけでやっているのだろう」などと改めて批判した<ref name="週刊映画19810117"/>。これを受けアカデミー協会は岡田茂会長名で黒澤に質問状を発送し<ref name="読売19810114"/><ref name="キネ旬19810301"/><ref name="東スポ20100817"/>、質問状に「巷間、伝えられるところによると、あなたは他の出演者、スタッフに対しても自分と同じようにボイコットをするように働きかけた」と書かれた箇所があり<ref name="読売19810114"/><ref name="キネ旬19810301"/><ref name="東スポ20100817"/>、これに黒澤がカチンときて1981年1月12日に[[東宝スタジオ|東宝撮影所]]で記者会見を開き<ref name="読売19810114"/>、質問状を報道陣に見せ、「事を穏便に済まそうと思うから、事前にノミネートを辞退するという細かい配慮をしているのにこういうことをされちゃ怒らざるを得ない。強制したなんて全くの事実無根だ」などと烈火の如く怒った<ref name="読売19810114"/><ref name="キネ旬19810301"/><ref name="東スポ20100817"/>。これを受け同じ日に岡田茂も懇談会を開き、その場で痛烈な黒澤批判をブチ上げ「黒澤監督程の巨匠になれば、自分はひいても他の人に賞をやるべきだ。かつての巨匠、例えば[[田坂具隆]]にしても[[内田吐夢]]にしてもみんなそういう精神でスタッフ、役者を育ててきた。確かに日本アカデミー賞というのは、業界にとっては何のメリットもなく、ただお祭りをやるだけなのだが、日頃、スポットの当たらない人たちにスポットを当てて上げるのが狙いでもある。黒澤監督は[[カンヌ国際映画祭]]で[[パルム・ドール|グランプリ]]も取り、世界的な名誉も与えられているんだから、日本でも同じように受けてもいいと思う。黒澤監督が辞退すれば、関係者が辞退するのは目に見えていることで、もう少し考えて欲しい」と話した<ref name="キネ旬19810301"/>。[[キネマ旬報]]は岡田を擁護し「日本アカデミー賞は次第に失われつつある映画への関心度を少しでも回復するのが狙い。黒澤監督も映画人の一人なのだから、他の人たちと一緒に、どうしたら盛り上がるかを考える立場にいるべき人」<ref name="キネ旬19810301"/>「岡田さんと黒澤さんは絶対に合わないと思う。一方は『お祭りでいい』、一方は『お祭り騒ぎだけで終始し権威がない』と言うのだから考え方が根本的に違うんで、だから黒澤監督が辞退してもお祭りは出来るんだぐらいの気持ちを持って行動した方がいい」などと評した<ref name="キネ旬19810301"/>。[[噂の眞相]]は「新年早々、黒沢明監督VS日本アカデミー賞協会の確執には、いささかうんざりさせられた。そもそも1978年に於ける日本アカデミー賞なる制度の発足そのものが、観客不在にして商魂のみによって成立しているイカガワしい"お祭り"にすぎず、かといって、今さら"権威"を持ち出す黒沢の前近代的なセンスには失笑を禁じ得ない。このあたり映画界上層部に君臨する雲上人たちの泥仕合に辟易」と批判した<ref name="噂の眞相8103"/>。[[田中友幸]]協会副会長が<ref name="読売19810114"/>、岡田・黒澤会談を画策したが<ref name="読売19810114"/>、前日になって黒澤側から「質問状の内容に対しての会見は出来ない、やるならその前にキチッと話し合ってから」と回答があり取り止めになり<ref name="週刊映画19810117"/>、そのまま黒澤騒動は打ち切られた<ref name="読売19810114"/><ref name="週刊映画19810117"/><ref name="東スポ20100817"/>。[[第4回日本アカデミー賞#最優秀作品賞|最優秀作品賞]]は[[鈴木清順]]監督の『[[ツィゴイネルワイゼン (映画)|ツィゴイネルワイゼン]]』が[[自主映画|独立系映画]]として初めて受賞<ref name="cinemaplus20190302 ">{{cite news|author = [[村松健太郎]] |url=https://cinema.ne.jp/article/detail/43331 |title=第42回日本アカデミー賞で起こったこと|newspaper=cinemas PLUS|publisher=クラップス|date=2019-03-02|accessdate=2020-03-17}}</ref>。  第4回授賞式で司会を務めた[[山城新伍]]がテレビ生中継で『影武者』を全員ノミネート辞退させた黒澤を批判した<ref name="東スポ20100817"/><ref name="おこりんぼ">{{Cite book |和書 |author= 山城新伍|authorlink=山城新伍 |year = 1993|title = 若山富三郎・勝新太郎 無頼控 おこりんぼ さびしんぼ |publisher = [[幻冬舎]] |isbn = 4877282424 |pages = 181-185 }}</ref><ref name="辛口シネマ批判">{{Cite book |和書 |author= 田山力哉|authorlink=田山力哉 |year = 1993|title = 辛口シネマ批判 これだけは言う |publisher = [[講談社]] |isbn = 406206619X |pages = 98-99 }}</ref>。山城は実は黒澤映画のファンで<ref name="おこりんぼ"/>、山城が親しい[[勝新太郎]]と黒澤コンビによる『影武者』への期待が膨れ上がっていたため、勝を降板させた黒澤批判に至ってしまったこと<ref name="おこりんぼ"/>、また「黒澤批判をテレビで言うらしいぜということで僅かに[[視聴率]]が増えるということがTVを利用した日本アカデミー賞と称するものが存続していく方法。視聴率が3%、5%だったらすぐに打ち切りです。だから黒澤さんをターゲットにやった」などと発言の真意を述べた<ref name="キネ旬19831202">{{Cite journal|和書 |author = 野村正昭 |title =ざ・インタビュー(30) 山城新伍 |journal = キネマ旬報 |issue = 1983年12月下旬号 |publisher = キネマ旬報社 |page = 123 }}</ref>。[[田山力哉]]は「日本(世界)映画史上に限りない貢献をした先輩に対して、たかが[[白馬童子]]の白塗りチンピラ二枚目上りが、壇上からテレビ中継を通して、感情的に黒澤を悪しざまに言うなど許されるのか」と激怒した<ref name="辛口シネマ批判"/>。 黒澤はそれから10年後の[[第14回日本アカデミー賞|第14回]]『[[夢 (映画)|夢]]』で[[第14回日本アカデミー賞#優秀作品賞|優秀作品賞]]と[[第14回日本アカデミー賞#優秀監督賞|優秀監督賞]]にノミネートされ今度は受諾し<ref name="東スポ20100817"/>、日本アカデミー賞もやっと黒澤から認知された格好になった<ref name="東スポ20100817"/>。岡田茂は[[第10回日本アカデミー賞|第10回]]開催の際にキネマ旬報のインタビューで「[[第9回日本アカデミー賞|第9回]]のとき、日本テレビ以外の[[テレビ局]]からウチで放送させてくれと申し出があった。ここまで来るのに色々なことがあったけど、今の[[日本映画製作者連盟|日本のメジャー会社]]ががっちり[[スクラム]]を組む大きな役割を果たしているんだ。だから今では各俳優さんに来てくれって言って断る人はいない。僕は途中、あんまり酷い時に『来たくない人は呼ぶな』『賞をもらいたくない人にはやるな』と言ったことがあるんだ。でもこれは何と言っても黒澤監督の"日本アカデミー賞ボイコット事件"が大きかった。あれは日本アカデミー賞を象徴的に押し上げた部分はあったし、各マスコミが取り上げてくれて、黒澤さんにも一理ある面もあったし、色んな面で良かったんじゃないかと思う」などと述べた<ref name="キネ旬19870301"/>。第4回のときに黒澤は「お祭り騒ぎのようなことをしても映画の地位は上がらない。政府を動かして[[国際映画祭]]を開くべき。映画先進国で国際映画祭がないのは日本だけ」という批判をしたが<ref name="読売19810114"/>、結局この国際映画祭も間もなく岡田茂らの尽力で創設されている。 [[第5回日本アカデミー賞|第5回]]では『[[連合艦隊 (映画)|連合艦隊]]』で[[第5回日本アカデミー賞#優秀美術賞|優秀美術賞]]と[[第5回日本アカデミー賞#優秀録音賞|優秀録音賞]]に選ばれた[[阿久根巌]]と[[矢野口文雄]]が「お祭り騒ぎの賞」と批判し<ref name="読売19820127"/>、それぞれ[[朝倉摂]]と[[中山茂二]]が繰り上げ受賞した<ref name="読売19820127"/>。 [[仲代達矢]]は1982年の『[[鬼龍院花子の生涯]]』で[[第6回日本アカデミー賞#優秀主演男優賞|第6回優秀主演男優賞]]を受賞して同賞を受け取り<ref name="高岩"/>、仲代は「僕は東映に恩義がありますから」と話し、黒澤は非常に落胆していたといわれる<ref name="高岩"/>。 第1回から第6回まで、東映作品の授賞がほとんどなく、1984年の[[第7回日本アカデミー賞|第7回]]で東映の製作配給映画がごっそり最優秀賞を独占したため<ref name="シナリオ198405">{{Cite journal |和書 |author = |title = 疑惑?の第7回日本アカデミー賞 |journal = [[シナリオ (雑誌)|シナリオ]] |issue = 1984年5月号 |publisher = [[日本シナリオ作家協会]] |pages = 79 }}</ref>、東映会員の投票用紙は東映作品が印刷されてあったなどの噂が立った<ref name="シナリオ198405"/>。また第7回では話題賞で[[大島渚]]を[[犬]](『[[南極物語]]』)と並ばせたと批判された<ref name="シナリオ198405"/>。 1985年の[[第8回日本アカデミー賞|第8回]]くらいから<ref name="映画時報199204"/>、特に女優たちからの関心が深くなり<ref name="映画時報199204"/>、「日本アカデミー賞を取りたい」という意欲が聞かれるようになった<ref name="映画時報199204"/>。[[第14回日本アカデミー賞|第14回]]の発表授賞式で[[松岡功]]組織実行委員長が「日本アカデミー賞は14年目を迎え映画人がどうしても欲しいと思う権威ある賞に育った」と話した<ref name="映画時報199102">{{Cite journal|和書 |author = |title = 1991年(第14回)日本アカデミー・優秀賞及び新人俳優賞決る |journal = 映画時報 |issue = 1991年2月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 20 }}</ref>。 1988年の[[第11回日本アカデミー賞|第11回]]では『[[マルサの女]]』で最優秀監督賞を受賞した[[伊丹十三]]が、受賞スピーチで「皆さん、映画は映画館の大きなスクリーンで観ましょう」と呼びかけた<ref name="業界研究">{{Cite book|和書|author1=中村恵二|author2=佐々木亜希子|authorlink2=佐々木亜希子|year=2021|title=図解入門業界研究 最新映画産業の動向とカラクリがよ~くわかる本[第4版]|publisher=[[秀和システム]]|isbn=978-4-7980-6462-8|page=4}}</ref>。これに司会の[[武田鉄矢]]や『マルサの女』で最優秀主演男優賞を獲得した[[山﨑努]]も同調した。当時は「[[カルチュア・コンビニエンス・クラブ|TSUTAYA]]」がオープンした頃で、「映画は[[レンタルビデオ|ビデオを借りて]]、家で観る」という[[ライフスタイル]]が生まれた頃<ref name="業界研究"/>。映画関係者は機会あるごとに、映画館に足を運ぶよう呼びかけた<ref name="業界研究"/>。 == 賞の選考 == 賞の選出は、日本アカデミー賞協会会員の投票によって行われる<ref name="jap_prize"/><ref name="oricon200317"/>。日本アカデミー賞協会は、日本国内の映画関係者によって構成される。会員は年会費2万円を払い、主要な映画館で映画を無料で観ることができる会員証(フリーパス)が与えられている。会員は2019年(令和元年)時点で3,959名である<ref name="jap_prize"/><ref name="oricon200317"/>。 選考の対象となる作品は、授賞式の前々年12月中旬から前年12月中旬までの1年間に東京地区の商業映画劇場にて有料で初公開され、40分以上の新作劇場用劇映画およびアニメーション作品で、同一劇場で1日3回以上、かつ2週間以上継続し上映された作品<ref name="kotobank"/><ref name="jap_prize"/><ref name="oricon200317"/>。商業上映でない映画や配信限定の作品は選考の対象でない<ref name="oricon200317"/><ref>[https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/178722 日本アカデミー賞に世界主流「ネットフリックス」作品ゼロのワケ]</ref>。かつては、授賞式の前年の1月初から12月末までの1年間に公開された映画を対象とした。しかし、アメリカ合衆国の[[アカデミー賞]]授賞式の開催日が、3月・4月頃から2月・3月頃に繰り上げられたため、日本アカデミー賞授賞式も開催時期を3月・4月頃から2月・3月頃に早め、それに伴い対象となる作品の公開期間も1か月前倒しし、前々年12月初から前年11月末までの1年間となった。2013年発表の第36回より、対象期間が12月中旬頃と少々後ろにずらされた。授与される賞は正賞が15部門あり、その他に新人俳優賞などがある。正賞の優秀賞と新人俳優賞は、投票(協会員全員)により選ばれ、そのうち正賞については優秀賞受賞の中より最優秀賞が投票(協会員全員)により選ばれる(新人俳優賞は男女各2 - 5名を選び最優秀賞は選ばない)<ref name="jap_prize"/><ref name="oricon200317"/>。得票数は公表されない<ref name="oricon200317"/>。日本アカデミー賞は日本国内の他の多くの映画賞とは異なり、作品賞・監督賞・脚本賞・俳優賞のみならず技術部門賞も設けている<ref name="jap_prize" />。[[2007年]]からは本家のアカデミー賞がアニメ部門を創設したことに倣い、独立部門として[[日本アカデミー賞アニメーション作品賞|アニメーション作品賞]]が新設された<ref name="jap_prize" />。 [[ファイル:150425 Katsumi Nishikawa Film Museum Chizu Tottori pref Japan02s3.jpg|thumb|会長特別賞([[西河克己]]、2011年)]] 各賞は以下の通り(2015年現在)。正賞には彫刻家[[流政之]]デザインによる[[ブロンズ像]]([[トロフィー]])が贈られる。最優秀賞ブロンズと優秀賞ブロンズがあり流政之制作の「映画神像」が元になったデザインである。この像は[[有楽町マリオン]]9Fロビーに恒久展示され授賞式時にステージに設置される。このほか正賞およびその他の賞に対し[[賞状]]、[[賞金]]が贈られる(正賞個人賞12部門に最優秀賞30万円・優秀賞20万円、新人俳優賞・協会特別賞・岡田茂賞10万円)<ref name="jap_prize" />。 {| class="wikitable" style="white-space: nowrap;" !colspan="2"|正賞!!その他の賞 |- | * [[日本アカデミー賞作品賞|作品賞]] * [[日本アカデミー賞アニメーション作品賞|アニメーション作品賞]]<ref group="注">2007年新設。</ref> * [[日本アカデミー賞監督賞|監督賞]] * [[日本アカデミー賞脚本賞|脚本賞]] * [[日本アカデミー賞主演男優賞|主演男優賞]] * [[日本アカデミー賞主演女優賞|主演女優賞]] * [[日本アカデミー賞助演男優賞|助演男優賞]] * [[日本アカデミー賞助演女優賞|助演女優賞]] |style="vertical-align:top"| * 音楽賞 * 撮影賞 * 照明賞 * 美術賞 * 録音賞 * 編集賞 * [[日本アカデミー賞外国作品賞|外国作品賞]] |style="vertical-align:top"| * 新人俳優賞 * 話題賞(作品・俳優)<ref group="注">「[[日本アカデミー賞話題賞のオールナイトニッポン|オールナイトニッポン話題賞]]」(『[[オールナイトニッポン]]』のリスナーによる投票にて決まる)。</ref> * 協会特別賞<ref group="注">製作現場の種々の職能に従事する者に対する賞。</ref> * 協会栄誉賞<ref group="注">国民的栄誉に該当する表彰を受けたものへの賞。</ref> * 会長特別賞<ref group="注">物故者に対する賞。</ref> * 会長功労賞<ref group="注">永年にわたり活躍する者、あるいはその年顕著な興行成績を挙げ、企画性が優れた作品のチームに対する賞。</ref> * 岡田茂賞<ref group="注">その年、独自の創造性と高い技術力により娯楽性と芸術性とを併せ持つ高品質の映画を製作した「製作プロダクション」を顕彰する賞。</ref> |} == 受賞傾向と批判 == {{独自研究|date=2015-11|section=1}} 日本アカデミー賞は、映画業界自身が選出する映画賞としての特別の意義を持つと同時に<ref name="officialhistory"/><ref name="pia academy"/>、スタッフ部門賞を設けている映画賞としての希少性も有している<ref name="cinemaplus20190302 "/>。日本国内の映画賞の中では新しく立ち上げられた映画賞だが、[[プライムタイム]]にテレビ地上波で全国生中継で放送される唯一の映画賞でもあり<ref name="pia academy"/><ref name="geo"/><ref name="oricon200317"/>、前年一年間に活躍した俳優や監督がドレスアップし一堂に会する式典で<ref>[https://precious.jp/articles/-/17772 女優たちのドレスは「ダークトーン」が人気! 第43回「日本アカデミー賞」授賞式での着こなしを拝見]、[https://www.fnn.jp/posts/00050661HDK/202003091619_MEZAMASHITelevision_HDK 長澤まさみ デコルテ露わなドレス姿に絶賛の声 「日本アカデミー賞」涙のスピーチも]</ref>、授賞式の場で初めて最優秀賞を公表するイベント性を持ち、それを支える主催者の日本アカデミー賞協会の影響力もあって、近年映画業界においてその地位を向上させつつある<ref name="pia academy"/><ref>{{Cite web|和書|url = https://t.pia.jp/pia/events/academy|title = 八木亜希子、「オールナイトニッポンGOLD 〜第42回日本アカデミー賞SP〜のパーソナリティに決定|date=2019-02-09|work = @llnightnippon.com|publisher = [[ニッポン放送]] |accessdate = 2019-11-30 |archiveurl = https://archive.md/uHhg6|archivedate = 2019-11-30 }}</ref>。しかし選出する日本アカデミー賞協会は、映画監督や俳優といった人々も含むものの、約25%が<!---1010÷3959=0.25511492801<ref name="jap_prize"/>--->[[日本映画製作者連盟]](映連)加盟会社、すなわち松竹・東宝・東映・大映(大映の解散後は[[角川映画 (企業)|角川映画]])の大手4社とその系列企業社員により構成されている<ref name="jap_prize"/><ref name="dailyshincho200313"/><ref name="cinemaplus20190302 "/>。そのため優秀賞を選ぶ時点で上記4社の製作あるいは配給した作品が有利になり、他の映画会社の配給作品が選ばれるチャンスが低いとされている<ref name="dailyshincho200313"/><ref name="cinemaplus20190302 "/>。立ち上げ時に創立メンバーとして呼ばれたという[[山本晋也]]は<ref name="カントク記">{{Cite book |和書 |author= 山本晋也|authorlink=山本晋也 |year = 2016 |title = カントク記 焼とりと映画と寿司屋の二階の青春 |publisher = [[双葉社]] |isbn= 9784575311273 |page = 131 }}</ref>、「まず大賞を五社持ち回りでと言われガッカリした」と証言している<ref name="カントク記"/>。この件について[[岡田裕介]]会長は「フリーの会員も多い。大手が占めているのは、このうち数%。だから大手でも大きな影響力は持っていない」と述べたが、数%の発言は誤りである<ref name="dailyshincho200313"/><ref>{{Cite news |title=日本アカデミー賞協会会長 北野監督の“持ち回り”発言に反論 |newspaper=[[スポーツニッポン]] |date=2015-01-15 |url=http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2015/01/15/kiji/K20150115009629980.html |accessdate=2015-01-15}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2015-01-14 |url=http://www.oricon.co.jp/news/2047171/full/ |title=日本アカデミー賞協会会長、北野武の批判「誤解されている」 |publisher=[[ORICON STYLE]] |accessdate=2015-01-15}}</ref>。 年齢層や所属先の偏った約3900人のアカデミー会員が、主要な作品の全てを公平な視点で観賞するのは困難である。それゆえ少数の選考委員による審査方式の映画賞と違い、多くのアカデミー会員を擁する[[日本映画製作者連盟]](映連)加盟会社である大手4社が配給した映画が贔屓され、各部門の最終的な評価の対象になる可能性が高い<ref name="カントク記"/><ref name="jap_prize"/>。よって単館系公開などの小規模上映の作品や、例え口コミで公開規模が大きくなったとしても大手ではない配給会社が中心となって関わっている作品は各部門の選考において不遇を強いられることになる。加えて、過去の実績だけが大きく、認知度の高い監督やその作品、それに関わる俳優や部門スタッフらに対して[[権威主義]]的に受賞結果が偏重し、加えて[[社会問題]]を特に批評性の無いまま新しくない模範的な手法で取り扱うような、映画ファンからの支持が少ない旧弊な作風の作品が各部門賞を多数獲得する様な偏重傾向があり、弊害としてそういった賞レースの基準に作風を合わせた作品が増えることで映画業界の新しい才能や試みが評価される場を狭めているなど、映画賞としての問題点は多いとされている<ref name="カントク記"/><ref name="dailyshincho200313"/><ref name="jap_prize"/>。 また、女優の[[樹木希林]]は日本アカデミー賞における自らの受賞スピーチの際に「日本アカデミー賞が早く本当に[[権威]]のある賞になってほしい」と暗に皮肉を込めたコメントを出している<ref>{{Cite web|和書|date=2020-01-17|url=https://www.oricon.co.jp/news/2047171/full/ |title =日本アカデミー賞主演男優賞にGACKTが選出……とにかく権威無さすぎ |publisher=エンタMEGA|accessdate=2022-01-17}}</ref>。 [[黒澤明]]監督は第4回([[1981年]](昭和56年))、『[[影武者 (映画)|影武者]]』での受賞を「権威のない賞は認められない」として辞退し、同作品の出演俳優や部門スタッフもその意向を尊重して全員ノミネートを辞退した<ref>{{Cite web|和書|url=https://xn--ccks8f7d9fs72q3w7a0ec83o890g.com/screenplay/ |title=権威皆無の日本アカデミー賞|publisher= 第4回日本アカデミー賞|accessdate=2022-01-17}}</ref>。 本家である[[アカデミー賞|米国アカデミー賞]]との主な違いとして、「オリジナル脚本賞」と「脚色賞(既存の原作を使った脚本)」、「長編アニメ賞」と「短編アニメ賞」のような細かい区分けがされていない<ref>{{Cite web|和書|url=https://xn--ccks8f7d9fs72q3w7a0ec83o890g.com/screenplay/ |title=日本アカデミー賞 脚本賞(歴代) |publisher=アワードウォッチ|accessdate=2022-01-17}}</ref>。また、[[ドキュメンタリー|ドキュメンタリー映画]]は対象外となっている。 == 授賞式 == [[ファイル:Grand Prince Hotel New Takanawa International Convention Center PAMIR outside 2014.jpg|サムネイル|代替文=グランドプリンスホテル新高輪・国際館パミール|会場となるグランドプリンスホテル新高輪・国際館パミール(宴会場棟)]] 会場は1998年以降、[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]高輪の[[グランドプリンスホテル新高輪]]国際館パミールが恒例となっている。この授賞式の入場チケットは一般客にも販売され、2014年時点では、授賞式後の映画にちなんだメニューの[[フランス料理]]コースディナーを含め4万円の料金であったが<ref name="pia">{{Cite web|和書|url=http://t2.pia.jp/feature/cinema/academy/index.html |title=第37回 日本アカデミー賞授賞式 |accessdate=2015-01-16 |publisher=[[チケットぴあ]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140928180518/https://t2.pia.jp/feature/cinema/academy/index.html |archivedate=2014-09-28 |deadlinkdate=2022-04-09 }}</ref>、2022年の第45回ではディナーが実施されない替わりに、会場ホテルのチケット(系列ホテルで使用できる商品券)が渡される形になった<ref name="pia2022">[https://t.pia.jp/pia/event/event.do?eventBundleCd=b2299982 第45回 日本アカデミー賞 プリンスチケット付授賞式観覧チケット]、チケットぴあ、2022年4月9日閲覧。</ref>。観客には[[礼服|セミフォーマル]]での来場が求められ、小学生以下は入場不可となっている<ref name="pia2022" />。 === 歴代司会者 === 男性司会者は[[関口宏]]が[[1998年]](平成10年)から[[2009年]](平成21年)まで長く務めていた。女性司会者は[[1999年]](平成11年)以降、前年の最優秀主演女優賞受賞者が務めている。 {| class="wikitable" style="font-size:small; text-align:center" ! rowspan="2"| 回数 !! rowspan="2"| 授賞式開催日 !! rowspan="2"| 会場 !! colspan="2"| 司会者 |- ! 男性 !! 女性 |- ! 1 | [[1978年]]([[昭和]]53年)4月{{0}}6日 || [[帝国劇場]]・[[帝国ホテル]] || [[岡田眞澄|岡田真澄]]<br />[[土居まさる]] || - |- ! 2 | [[1979年]](昭和54年)4月{{0}}7日 || rowspan="2"| [[京王プラザホテル]] || [[宝田明]]<br />[[平田昭彦]] || - |- ! 3 | [[1980年]](昭和55年)3月29日 || rowspan="4"| [[山城新伍]] || rowspan="3"| - |- ! 4 | [[1981年]](昭和56年)2月12日 || rowspan="11"| [[東京プリンスホテル]] |- ! 5 | [[1982年]](昭和57年)2月18日 |- ! 6 | [[1983年]](昭和58年)2月17日 || [[石田えり]] |- ! 7 | [[1984年]](昭和59年)2月16日 || [[フランキー堺]] || [[沢田亜矢子]] |- ! 8 | [[1985年]](昭和60年)2月21日 || rowspan="5"| [[武田鉄矢]] || [[高倉美貴]] |- ! 9 | [[1986年]](昭和61年)2月20日 || [[檀ふみ]] |- ! 10 | [[1987年]](昭和62年)2月19日 || [[名取裕子]] |- ! 11 | [[1988年]](昭和63年)2月18日 || [[斉藤由貴]] |- ! 12 | [[1989年]]([[平成]]元年)3月17日 || [[かたせ梨乃]] |- ! 13 | [[1990年]](平成{{0}}2年)2月23日 || [[西田敏行]] || [[島田陽子]] |- ! 14 | [[1991年]](平成{{0}}3年)3月22日 || rowspan="5"| [[高島忠夫]] || [[古手川祐子]] |- ! 15 | [[1992年]](平成{{0}}4年)3月20日 || [[国立京都国際会館]] || [[田中好子]] |- ! 16 | [[1993年]](平成{{0}}5年)3月19日 || rowspan="2"| [[グランドプリンスホテル新高輪|新高輪プリンスホテル]] || [[松坂慶子]] |- ! 17 | [[1994年]](平成{{0}}6年)3月17日 || [[南野陽子]] |- ! 18 | [[1995年]](平成{{0}}7年)3月18日 || 国立京都国際会館 || [[三田佳子]] |- ! 19 | [[1996年]](平成{{0}}8年)3月23日 || [[横浜国際平和会議場|国立横浜国際会議場]] || rowspan="2"| 西田敏行 || かたせ梨乃 |- ! 20 | [[1997年]](平成{{0}}9年)3月29日 || [[東京国際フォーラム]] || [[いしだあゆみ]] |- ! 21 | [[1998年]](平成10年)3月{{0}}6日 || rowspan="26"|新高輪プリンスホテル<br />グランドプリンスホテル新高輪<ref>第31回開催時より名称変更</ref> || rowspan="12"| [[関口宏]] || [[浅野ゆう子]] |- ! 22 | [[1999年]](平成11年)3月12日 || [[黒木瞳]] |- ! 23 | [[2000年]](平成12年)3月10日 || [[原田美枝子]] |- ! 24 | [[2001年]](平成13年)3月{{0}}9日 || [[大竹しのぶ]] |- ! 25 | [[2002年]](平成14年)3月{{0}}8日 || [[吉永小百合]] |- ! 26 | [[2003年]](平成15年)3月{{0}}7日 || [[岸惠子]] |- ! 27 | [[2004年]](平成16年)2月20日 || [[宮沢りえ]] |- ! 28 | [[2005年]](平成17年)2月18日 || [[寺島しのぶ]] |- ! 29 | [[2006年]](平成18年)3月{{0}}3日 || [[鈴木京香]] |- ! 30 | [[2007年]](平成19年)2月16日 || 吉永小百合 |- ! 31 | [[2008年]](平成20年)2月15日 || [[中谷美紀]] |- ! 32 | [[2009年]](平成21年)2月20日 || [[樹木希林]] |- ! 33 | [[2010年]](平成22年)3月{{0}}5日 || rowspan="4"| [[関根勤]] || [[木村多江]] |- ! 34 | [[2011年]](平成23年)2月18日 || [[松たか子]] |- ! 35 | [[2012年]](平成24年)3月{{0}}2日 || [[深津絵里]] |- ! 36 | [[2013年]](平成25年)3月{{0}}8日 || [[井上真央]] |- ! 37 | [[2014年]](平成26年)3月{{0}}7日 || rowspan="6"| 西田敏行 || 樹木希林 |- ! 38 | [[2015年]](平成27年)2月27日 || [[真木よう子]] |- ! 39 | [[2016年]](平成28年)3月{{0}}4日 || 宮沢りえ |- ! 40 | [[2017年]](平成29年)3月{{0}}3日 || [[安藤サクラ]] |- ! 41 | [[2018年]](平成30年)3月{{0}}2日 || 宮沢りえ |- ! 42 | [[2019年]](平成31年)3月{{0}}1日 || [[蒼井優]] |- ! 43 | [[2020年]]([[令和]]{{0}}2年)3月{{0}}6日 || rowspan="4"| [[羽鳥慎一]] || 安藤サクラ |- ! 44 | [[2021年]](令和{{0}}3年)3月19日 || [[シム・ウンギョン]] |- ! 45 | [[2022年]](令和{{0}}4年)3月11日||[[長澤まさみ]] |- ! 46 | [[2023年]](令和{{0}}5年)3月10日||[[有村架純]] |} === アシスタント === ステージ上でエスコート役などを務める授賞式のアシスタントは、[[日テレイベンツ]]に所属する日テレイベコン(日本テレビイベントコンパニオン)が担当している<ref>{{Cite web|和書|date=2008-04-08|url=https://www.oricon.co.jp/news/53523/full/|title=ステージ上のエスコート役として活躍|website=ORICON NEWS|publisher=[[オリコン|株式会社oricon ME]]|accessdate=2022-03-12}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ntve.co.jp/companion/|title=日テレイベコン|website=[[日テレイベンツ]]|publisher=株式会社日テレイベンツ|accessdate=2022-03-12}}</ref>。 == 放送== 日本アカデミー賞は、放映権を有する[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]が第1回(1978年(昭和53年))から一貫してその模様を中継している。当初は地上波で生中継していたが、その後、録画と[[生放送]]の組み合わせによる放送となっている。第3回([[1980年]](昭和55年))の「[[日本アカデミー賞話題賞のオールナイトニッポン|オールナイトニッポン話題賞]]」の設立後は、『[[オールナイトニッポン]]』([[ニッポン放送]])が特別番組を組んで授賞式の模様を深夜に録音で中継している(第34回から第40回と第42回は『[[オールナイトニッポンGOLD]]』枠で放送)。 [[日本テレビ放送網|日本テレビ]](地上波)での放送は第1回は1978年[[4月6日]]に、『[[木曜スペシャル]]』を枠拡大した19:00-20:54の中継、第2回は1979年[[4月7日]] 19:30-20:54枠に新設された「土曜スペシャル」(『[[土曜トップスペシャル]]』の前身)での中継、第3回は1980年[[3月29日]]で同枠での放送、第4回から2月開催に繰り上がり、『木曜スペシャル』枠で放送(第8回までは90分、第9回からは120分に拡大)、第12回から3月開催で「金曜ロードショー」(21:00-22:54)特別企画として放送、第17回から6年振りに「木曜スペシャル」(ただし19:00の『[[追跡 (情報番組)|追跡]]』を休止して19:00-20:54)枠、第18回から土曜 21:30-23:24(『[[土曜ドラマ (日本テレビ)|土曜グランド劇場]]』と『[[THE夜もヒッパレ]]』の両枠を借り切っての放送。第20回は21:20-23:24)となるなど曲折を経て、第21回以降はミニ番組(21:00-21:03)後の「[[金曜ロードショー]]→金曜ロードSHOW!→金曜ロードショー」(21:03-22:54)枠を借り切っての放送に落ち着いている(この時期は『金曜ロードショー』扱いはされない)<ref>{{cite|和書|title=[[読売新聞]]|publisher=読売新聞社|page=|date=1978年4月4日 - 2020年3月6日付のテレビ欄}}</ref>。 <!-- [[BS日テレ]]では第25回([[2002年]](平成14年))から、授賞式の第1部(技術各部門の最優秀賞及び新人賞・話題賞の顕彰)の模様が、生中継されるようになった(第25回は16:25-18:00、第26 - 28回は16:00-18:00、第29回は17:00-19:00の各放送枠。第30回の生中継は無し)。また地上波放送翌日、翌々日などに地上波放送の録画再放送、拡大再放送による完全版の放送が行われることもある。第29回([[2006年]](平成18年))は授賞式翌日の[[3月4日]] 17:00-19:00に地上波再放送、[[3月19日]] 14:30-17:24に3時間バージョンを放送、第30回(2007年(平成19年))は[[3月10日]] 16:30-19:00に2時間15分版を放送している。 [[CS日本]]の[[日テレプラス ドラマ・アニメ・音楽ライブ|日テレプラス]]では第29回から授賞式の模様を放送しており、技術部門賞や地上波完全版などの放送は今日ではBSではなくCSチャンネルでの扱いがメインになってきている。第29回は[[3月21日]] 14:00-16:00に地上波再放送、[[3月11日]] 15:30-18:30に3時間バージョン、[[3月30日]] 15:00-18:00に3時間バージョン再放送、第30回は[[2月25日]] 16:30-19:50に3時間15分版、[[3月17日]] 17:00-20:20に3時間15分版の再放送、3月4日 18:00-20:00に地上波再放送、[[3月28日]] 26:00-28:00に地上波再放送(2回目)が行なわれた。 --> == 歴代受賞作品 == 主要部門関連の最多受賞者は、主演、助演両方で[[役所広司]]、[[樹木希林]]、[[佐藤浩市]]、[[山﨑努]]がそれぞれ4回。主演賞のみで[[高倉健]]と[[吉永小百合]]でそれぞれ4回。助演賞のみで[[竹中直人]]、[[余貴美子]]、[[黒木華]]の3回。また、[[原田美枝子]]、[[渡辺謙]]、[[長澤まさみ]]、[[本木雅弘]]、[[安藤サクラ]]、[[妻夫木聡]]も主演、助演両方合わせそれぞれ3回。 監督賞の最多受賞者は3回で[[山田洋次]]、[[深作欣二]]、[[今村昌平]]、[[是枝裕和]]の4名。 {| class="wikitable" style=font-size:small ! style="width:5%" |回 ! style="width:10%" |年 ! style="width:20%" |部門 ! style="width:30%" |受賞作・受賞者 ! style="text-align: left;" | 特記事項 |- ! [[第1回日本アカデミー賞|1]] | style="white-space: nowrap; text-align: center;" | [[1978年]]<br />(昭和53年) | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | 最優秀作品賞<br />最優秀監督賞<br /><br />最優秀脚本賞<br /><br />最優秀主演男優賞<br />最優秀主演女優賞<br />最優秀助演男優賞 <br />最優秀助演女優賞 | style="white-space: nowrap; text-align: left;" | 『'''[[幸福の黄色いハンカチ]]'''』([[山田洋次]])<br />'''[[山田洋次]]''' - 『幸福の黄色いハンカチ』、<br />『[[男はつらいよ]]』シリーズ<br />'''山田洋次'''・'''[[朝間義隆]]''' - 『男はつらいよ』シリーズ、<br />『幸福の黄色いハンカチ』<br />'''[[高倉健]]''' - 『幸福の黄色いハンカチ』、『[[八甲田山 (映画)|八甲田山]]』<br />'''[[岩下志麻]]''' - 『[[はなれ瞽女おりん]]』<br />'''[[武田鉄矢]]''' - 『幸福の黄色いハンカチ』<br />'''[[桃井かおり]]''' - 『幸福の黄色いハンカチ』 | style="text-align: left; vertical-align: top;" | <!-- 特記事項/エピソード --> |- ! [[第2回日本アカデミー賞|2]] | style="white-space: nowrap; text-align: center;" | [[1979年]]<br />(昭和54年) | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | 最優秀作品賞<br />最優秀監督賞<br />最優秀脚本賞<br />最優秀主演男優賞<br />最優秀主演女優賞<br />最優秀助演男優賞 <br />最優秀助演女優賞 | style="white-space: nowrap; text-align: left;" | 『'''[[事件 (小説)#映画|事件]]'''』([[野村芳太郎]])<br />'''[[野村芳太郎]]''' - 『事件』、『[[鬼畜 (松本清張)#映画|鬼畜]]』<br />'''[[新藤兼人]]''' - 『事件』<br />'''[[緒形拳]]''' - 『鬼畜』<br />'''[[大竹しのぶ]]''' - 『事件』<br />'''[[渡瀬恒彦]]''' - 『事件』<br />'''[[大竹しのぶ]]''' - 『事件』、『[[聖職の碑]]』 | style="text-align: left; vertical-align: top;" | 第1回で高額だと一部で批判も出た4万円のパーティー入場券を8000円に大幅値下げした。しかし以降は再び4万円に戻した。 |- ! [[第3回日本アカデミー賞|3]] | style="white-space: nowrap; text-align: center;" | [[1980年]]<br />(昭和55年) | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | 最優秀作品賞<br />最優秀監督賞<br />最優秀脚本賞<br />最優秀主演男優賞<br />最優秀主演女優賞<br /><br />最優秀助演男優賞 <br />最優秀助演女優賞<br /><br /> | style="white-space: nowrap; text-align: left;" | 『'''[[復讐するは我にあり]]'''』([[今村昌平]])<br />'''[[今村昌平]]''' - 『復讐するは我にあり』<br />'''[[馬場当]]''' - 『復讐するは我にあり』<br />'''[[若山富三郎]]''' - 『[[衝動殺人 息子よ]]』<br />'''[[桃井かおり]]''' - 『[[神様のくれた赤ん坊]]』、<br />『[[もう頬づえはつかない]]』<br />'''[[菅原文太]]''' - 『[[太陽を盗んだ男]]』<br />'''[[小川眞由美]]''' - 『[[配達されない三通の手紙]]』、<br />『復讐するは我にあり』 | style="text-align: left; vertical-align: top;" | <!-- 特記事項/エピソード --> |- ! [[第4回日本アカデミー賞|4]] | style="white-space: nowrap; text-align: center;" | [[1981年]]<br />(昭和56年) | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | 最優秀作品賞<br />最優秀監督賞<br />最優秀脚本賞<br /><br />最優秀主演男優賞<br />最優秀主演女優賞<br /><br />最優秀助演男優賞 <br />最優秀助演女優賞 | style="white-space: nowrap; text-align: left;" | 『'''[[ツィゴイネルワイゼン (映画)|ツィゴイネルワイゼン]]'''』([[鈴木清順]])<br />'''[[鈴木清順]]''' - 『ツィゴイネルワイゼン』<br />'''[[朝間義隆]]'''・'''[[山田洋次]]''' - 『[[遙かなる山の呼び声]]』、<br />『[[男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花]]』<br />'''[[高倉健]]''' - 『[[動乱 (映画)|動乱]]』、『遙かなる山の呼び声』<br />'''[[倍賞千恵子]]''' - 『遙かなる山の呼び声』、<br />『男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花』<br />'''[[丹波哲郎]]''' - 『[[二百三高地]]』<br />'''[[大楠道代]]''' - 『ツィゴイネルワイゼン』 | style="text-align: left; vertical-align: top;" | [[黒澤明]]が『[[影武者 (映画)|影武者]]』での優秀賞受賞を辞退{{small|([[#受賞辞退者|下記参照]])}}。最優秀作品賞は製作・配給が独立系の『[[ツィゴイネルワイゼン (映画)|ツィゴイネルワイゼン]]』が受賞した。 |- ! [[第5回日本アカデミー賞|5]] | style="white-space: nowrap; text-align: center;" | [[1982年]]<br />(昭和57年) | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | 最優秀作品賞<br />最優秀監督賞<br />最優秀脚本賞<br />最優秀主演男優賞<br />最優秀主演女優賞<br /><br />最優秀助演男優賞 <br /><br />最優秀助演女優賞 | style="white-space: nowrap; text-align: left;" | 『'''[[駅 STATION]]'''』([[降旗康男]])<br />'''[[小栗康平]]''' - 『[[泥の河]]』<br />'''[[倉本聰]]''' - 『駅 STATION』<br />'''[[高倉健]]''' - 『駅 STATION』<br />'''[[松坂慶子]]''' - 『[[青春の門]]』、<br />『[[男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎]]』<br />'''[[中村嘉葎雄]]''' - 『[[陽炎座]]』、『[[ラブレター (1981年の映画)|ラブレター]]』、<br />『[[仕掛人・藤枝梅安#映画(1981年)|仕掛人梅安]]』、『[[ブリキの勲章 (映画)|ブリキの勲章]]』<br />'''[[田中裕子]]''' - 『[[北斎漫画 (映画)|北斎漫画]]』、『[[ええじゃないか (映画)|ええじゃないか]]』 | style="text-align: left; vertical-align: top;" | <!-- 特記事項/エピソード --> |- ! [[第6回日本アカデミー賞|6]] | style="white-space: nowrap; text-align: center;" | [[1983年]]<br />(昭和58年) | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | 最優秀作品賞<br />最優秀監督賞<br />最優秀脚本賞<br />最優秀主演男優賞<br />最優秀主演女優賞<br />最優秀助演男優賞 <br />最優秀助演女優賞 | style="white-space: nowrap; text-align: left;" | 『'''[[蒲田行進曲]]'''』([[深作欣二]])<br />'''[[深作欣二]]''' - 『蒲田行進曲』、『[[道頓堀川 (映画)|道頓堀川]]』<br />'''[[つかこうへい]]''' - 『蒲田行進曲』<br />'''[[平田満]]''' - 『蒲田行進曲』<br />'''[[松坂慶子]]''' - 『蒲田行進曲』、『道頓堀川』<br />'''[[風間杜夫]]''' - 『蒲田行進曲』<br />'''[[小柳ルミ子]]''' - 『[[誘拐報道]]』 | style="text-align: left; vertical-align: top;" | <!-- 特記事項/エピソード --> |- ! [[第7回日本アカデミー賞|7]] | style="white-space: nowrap; text-align: center;" | [[1984年]]<br />(昭和59年) | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | 最優秀作品賞<br />最優秀監督賞<br />最優秀脚本賞<br />最優秀主演男優賞<br />最優秀主演女優賞<br />最優秀助演男優賞 <br />最優秀助演女優賞 | style="white-space: nowrap; text-align: left;" | 『'''[[楢山節考 (1983年の映画)|楢山節考]]'''』([[今村昌平]])<br />'''[[五社英雄]]''' - 『[[陽暉楼]]』<br />'''[[高田宏治]]''' - 『陽暉楼』<br />'''[[緒形拳]]''' - 『楢山節考』、『陽暉楼』、『[[魚影の群れ]]』<br />'''[[小柳ルミ子]]''' - 『[[白蛇抄]]』<br />'''[[風間杜夫]]''' - 『陽暉楼』、『[[人生劇場]]』<br />'''[[浅野温子]]''' - 『陽暉楼』、『[[汚れた英雄]]』 | style="text-align: left; vertical-align: top;" | 個人賞6部門のうち5部門(監督、脚本、主演男優、助演男優、助演女優)で最優秀賞を独占した『[[陽暉楼]]』が、なぜか作品部門では優秀賞にもノミネートされないという現象が発生。選考経過が公表されていないため、原因は不明である。 |- ! [[第8回日本アカデミー賞|8]] | style="white-space: nowrap; text-align: center;" | [[1985年]]<br />(昭和60年) | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | 最優秀作品賞<br />最優秀監督賞<br />最優秀脚本賞<br />最優秀主演男優賞<br />最優秀主演女優賞<br />最優秀助演男優賞 <br />最優秀助演女優賞 | style="white-space: nowrap; text-align: left;" | 『'''[[お葬式]]'''』([[伊丹十三]])<br />'''[[伊丹十三]]''' - 『お葬式』<br />'''伊丹十三''' - 『お葬式』<br />'''[[山﨑努]]''' - 『お葬式』、『[[さらば箱舟]]』<br />'''[[吉永小百合]]''' - 『[[おはん]]』、『[[天国の駅]]』<br />'''[[高品格]]''' - 『[[麻雀放浪記]]』<br />'''[[菅井きん]]''' - 『お葬式』、『[[必殺! THE HISSATSU]]』 | style="text-align: left; vertical-align: top;" | 独立系製作の『[[お葬式]]』(配給:ATG [[日本アート・シアター・ギルド]])が最優秀作品賞受賞。 |- ! [[第9回日本アカデミー賞|9]] | style="white-space: nowrap; text-align: center;" | [[1986年]]<br />(昭和61年) | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | 最優秀作品賞<br />最優秀監督賞<br />最優秀脚本賞<br />最優秀主演男優賞<br />最優秀主演女優賞<br /><br /><br />最優秀助演男優賞 <br />最優秀助演女優賞 | style="white-space: nowrap; text-align: left;" | 『'''[[花いちもんめ (映画)|花いちもんめ]]'''』([[伊藤俊也]])<br />'''[[澤井信一郎]]''' - 『[[早春物語]]』、『[[Wの悲劇 (映画)|Wの悲劇]]』<br />'''[[松田寛夫]]''' - 『花いちもんめ』<br />'''[[千秋実]]''' - 『花いちもんめ』<br />'''[[倍賞美津子]]''' - 『[[生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言|生きているうちが花なのよ<br />死んだらそれまでよ党宣言]]』、『[[恋文 (1985年の映画)|恋文]]』、<br />『[[友よ、静かに瞑れ]]』<br />'''[[小林薫]]''' - 『恋文』、『[[それから]]』<br />'''[[三田佳子]]''' - 『Wの悲劇』、『[[春の鐘]]』 | style="text-align: left; vertical-align: top;" | <!-- 特記事項/エピソード --> |- ! [[第10回日本アカデミー賞|10]] | style="white-space: nowrap; text-align: center;" | [[1987年]]<br />(昭和62年) | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | 最優秀作品賞<br />最優秀監督賞<br />最優秀脚本賞<br />最優秀主演男優賞<br />最優秀主演女優賞<br />最優秀助演男優賞 <br />最優秀助演女優賞<br /><br /> | style="white-space: nowrap; text-align: left;" | 『'''[[火宅の人]]'''』([[深作欣二]])<br />'''[[深作欣二]]''' - 『火宅の人』<br />'''[[神波史男]]'''・'''深作欣二''' - 『火宅の人』<br />'''[[緒形拳]]''' - 『火宅の人』<br />'''[[いしだあゆみ]]''' - 『火宅の人』、『[[時計 Adieu l'Hiver]]』<br />'''[[植木等]]''' - 『祝辞』、『新・喜びも悲しみも幾歳月』<br />'''[[原田美枝子]]''' - 『火宅の人』、『国士無双』、<br />『[[プルシアンブルーの肖像]]』 | style="text-align: left; vertical-align: top;" | 国内外で数多くの賞を獲った『[[海と毒薬 (映画)|海と毒薬]]』が賞を独占するものと思われたが、一切ノミネートすらされず、「特別賞」という取って付けたような賞を“特別に”用意しお茶を濁した結果となり、この不透明な結果はマスコミでも多く取り上げられた。毒舌で知られる映画評論家[[大黒東洋士]]は特に激しく批判し、映画月刊誌『[[ロードショー (雑誌)|ロードショー]]』の連載『いじわる批評家エンマ帳』の丸々1ページを使って日本アカデミー賞の存在自体を激しく糾弾した。 |- ! [[第11回日本アカデミー賞|11]] | style="white-space: nowrap; text-align: center;" | [[1988年]]<br />(昭和63年) | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | 最優秀作品賞<br />最優秀監督賞<br />最優秀脚本賞<br />最優秀主演男優賞<br />最優秀主演女優賞<br />最優秀助演男優賞 <br />最優秀助演女優賞 | style="white-space: nowrap; text-align: left;" | 『'''[[マルサの女]]'''』([[伊丹十三]])<br />'''[[伊丹十三]]''' - 『マルサの女』<br />'''伊丹十三''' - 『マルサの女』<br />'''[[山﨑努]]''' - 『マルサの女』<br />'''[[宮本信子]]''' - 『マルサの女』<br />'''[[津川雅彦]]''' - 『マルサの女』、『夜汽車』<br />'''[[かたせ梨乃]]''' - 『[[極道の妻たちII]]』、『[[吉原炎上]]』 | style="text-align: left; vertical-align: top;" | <!-- 特記事項/エピソード --> |- ! [[第12回日本アカデミー賞|12]] | style="white-space: nowrap; text-align: center;" | [[1989年]]<br />(昭和64年<br />/平成元年) | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | 最優秀作品賞<br />最優秀監督賞<br />最優秀脚本賞<br />最優秀主演男優賞<br />最優秀主演女優賞<br />最優秀助演男優賞 <br />最優秀助演女優賞<br /><br /> | style="white-space: nowrap; text-align: left;" | 『'''[[敦煌 (映画)|敦煌]]'''』([[佐藤純彌]])<br />'''[[佐藤純彌]]''' - 『敦煌』<br />'''[[市川森一]]''' - 『[[異人たちとの夏]]』<br />'''[[西田敏行]]''' - 『敦煌』<br />'''[[吉永小百合]]''' - 『つる-鶴-』、『[[華の乱]]』<br />'''[[片岡鶴太郎]]''' - 『異人たちとの夏』、『妖女の時代』<br />'''[[石田えり]]''' - 『[[嵐が丘 (1988年の映画)|嵐が丘]]』、『[[ダウンタウン・ヒーローズ]]』、<br />『華の乱』 | style="text-align: left; vertical-align: top;" | <!-- 特記事項/エピソード --> |- ! [[第13回日本アカデミー賞|13]] | style="white-space: nowrap; text-align: center;" | [[1990年]]<br />(平成2年) | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | 最優秀作品賞<br />最優秀監督賞<br />最優秀脚本賞<br />最優秀主演男優賞<br />最優秀主演女優賞<br />最優秀助演男優賞 <br />最優秀助演女優賞 | style="white-space: nowrap; text-align: left;" | 『'''[[黒い雨 (映画)|黒い雨]]'''』([[今村昌平]])<br />'''[[今村昌平]]''' - 『黒い雨』<br />'''[[石堂淑朗]]'''・'''今村昌平''' - 『黒い雨』<br />'''[[三國連太郎]]''' - 『[[釣りバカ日誌#映画(第1作)|釣りバカ日誌]]』、『[[利休 (映画)|利休]]』<br />'''[[田中好子]]''' - 『黒い雨』<br />'''[[板東英二]]''' - 『[[あ・うん#映画『あ・うん』|あ・うん]]』<br />'''[[市原悦子]]''' - 『黒い雨』 | style="text-align: left; vertical-align: top;" | 『[[その男、凶暴につき]]』で優秀主演男優賞にノミネートされた[[ビートたけし]]が[[鞍馬天狗 (小説)|鞍馬天狗]]の出で立ちで登場し、話題となった。 |- ! [[第14回日本アカデミー賞|14]] | style="white-space: nowrap; text-align: center;" | [[1991年]]<br />(平成3年) | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | 最優秀作品賞<br />最優秀監督賞<br />最優秀脚本賞<br />最優秀主演男優賞<br />最優秀主演女優賞<br />最優秀助演男優賞 <br /><br />最優秀助演女優賞<br /><br /> | style="white-space: nowrap; text-align: left;" | 『'''[[少年時代]]'''』([[篠田正浩]])<br />'''[[篠田正浩]]''' - 『少年時代』<br />'''[[山田太一 (脚本家)|山田太一]]''' - 『少年時代』<br />'''[[岸部一徳]]''' - 『[[死の棘]]』<br />'''[[松坂慶子]]''' - 『死の棘』<br />'''[[石橋蓮司]]''' - 『[[公園通りの猫たち]]』、『[[浪人街]]』、<br />『われに撃つ用意あり』<br />'''[[石田えり]]''' - 『[[釣りバカ日誌2]]』、『[[釣りバカ日誌3]]』、<br />『[[飛ぶ夢をしばらく見ない]]』 | style="text-align: left; vertical-align: top;" | 第4回で『影武者』でのノミネートを辞退した黒澤明が、『[[夢 (映画)|夢]]』での作品賞・監督賞ノミネートを受諾したものの無冠に終わる。 |- ! [[第15回日本アカデミー賞|15]] | style="white-space: nowrap; text-align: center;" | [[1992年]]<br />(平成4年) | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | 最優秀作品賞<br />最優秀監督賞<br />最優秀脚本賞<br />最優秀主演男優賞<br />最優秀主演女優賞<br />最優秀助演男優賞 <br />最優秀助演女優賞 | style="white-space: nowrap; text-align: left;" | 『'''[[息子 (映画)|息子]]'''』([[山田洋次]])<br />'''[[岡本喜八]]''' - 『[[大誘拐 RAINBOW KIDS]]』<br />'''[[岡本喜八]]''' - 『大誘拐 RAINBOW KIDS』<br />'''[[三國連太郎]]''' - 『[[釣りバカ日誌4]]』、『息子』<br />'''[[北林谷栄]]''' - 『大誘拐 RAINBOW KIDS』<br />'''[[永瀬正敏]]''' - 『息子』、『[[喪の仕事]]』<br />'''[[和久井映見]]''' - 『[[就職戦線異状なし]]』、『息子』 | style="text-align: left; vertical-align: top;" | [[小津安二郎]]監督や黒澤明監督作品で女優のヘアメークを数多く手がけた[[中尾さかい]]が協会特別賞を受賞<ref>中尾さかいさん(元東宝ヘアデザイナー)死去 読売新聞 1997年9月2日 朝刊31ページ</ref>。 |- ! [[第16回日本アカデミー賞|16]] | style="white-space: nowrap; text-align: center;" | [[1993年]]<br />(平成5年) | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | 最優秀作品賞<br />最優秀監督賞<br />最優秀脚本賞<br />最優秀主演男優賞<br />最優秀主演女優賞<br />最優秀助演男優賞 <br />最優秀助演女優賞 | style="white-space: nowrap; text-align: left;" | 『'''[[シコふんじゃった。]]'''』([[周防正行]])<br />'''[[周防正行]]''' - 『シコふんじゃった。』<br />'''周防正行''' - 『シコふんじゃった。』<br />'''[[本木雅弘]]''' - 『シコふんじゃった。』<br />'''[[三田佳子]]''' - 『[[遠き落日]]』<br />'''[[竹中直人]]''' - 『シコふんじゃった。』、『[[死んでもいい (1992年の映画)|死んでもいい]]』<br />'''[[藤谷美和子]]''' - 『[[女殺油地獄]]』、『[[寝盗られ宗介]]』 | style="text-align: left; vertical-align: top;" | <!-- 特記事項/エピソード --> |- ! [[第17回日本アカデミー賞|17]] | style="white-space: nowrap; text-align: center;" | [[1994年]]<br />(平成6年) | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | 最優秀作品賞<br />最優秀監督賞<br />最優秀脚本賞<br /><br />最優秀主演男優賞<br />最優秀主演女優賞<br />最優秀助演男優賞 <br /><br />最優秀助演女優賞 | style="white-space: nowrap; text-align: left;" | 『'''[[学校 (映画)|学校]]'''』([[山田洋次]])<br />'''[[山田洋次]]''' - 『[[男はつらいよ 寅次郎の縁談]]』、『学校』<br />'''山田洋次'''・'''[[朝間義隆]]''' - <br />『男はつらいよ 寅次郎の縁談』、『学校』<br />'''[[西田敏行]]''' - 『学校』、『[[釣りバカ日誌6]]』<br />'''[[和久井映見]]''' - 『[[虹の橋 (映画)|虹の橋]]』<br />'''[[田中邦衛]]''' - 『学校』、『[[子連れ狼 その小さき手に]]』、<br />『虹の橋』<br />'''[[香川京子]]''' - 『[[まあだだよ]]』 | style="text-align: left; vertical-align: top;" | <!-- 特記事項/エピソード --> |- ! [[第18回日本アカデミー賞|18]] | style="white-space: nowrap; text-align: center;" | [[1995年]]<br />(平成7年) | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | 最優秀作品賞<br />最優秀監督賞<br />最優秀脚本賞<br />最優秀主演男優賞<br />最優秀主演女優賞<br />最優秀助演男優賞 <br />最優秀助演女優賞 | style="white-space: nowrap; text-align: left;" | 『'''[[忠臣蔵外伝 四谷怪談]]'''』([[深作欣二]])<br />'''[[深作欣二]]''' - 『忠臣蔵外伝 四谷怪談』<br />'''[[古田求]]'''・'''深作欣二''' - 『忠臣蔵外伝 四谷怪談』<br />'''[[佐藤浩市]]''' - 『忠臣蔵外伝 四谷怪談』<br />'''[[高岡早紀]]''' - 『忠臣蔵外伝 四谷怪談』<br />'''[[中井貴一]]''' - 『[[四十七人の刺客#映画|四十七人の刺客]]』<br />'''[[室井滋]]''' - 『[[居酒屋ゆうれい]]』 | style="text-align: left; vertical-align: top;" | <!-- 特記事項/エピソード --> |- ! [[第19回日本アカデミー賞|19]] | style="white-space: nowrap; text-align: center;" | [[1996年]]<br />(平成8年) | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | 最優秀作品賞<br />最優秀監督賞<br />最優秀脚本賞<br />最優秀主演男優賞<br />最優秀主演女優賞<br />最優秀助演男優賞 <br />最優秀助演女優賞 | style="white-space: nowrap; text-align: left;" | 『'''[[午後の遺言状]]'''』([[新藤兼人]])<br />'''[[新藤兼人]]''' - 『午後の遺言状』<br />'''新藤兼人''' - 『午後の遺言状』<br />'''[[三國連太郎]]''' - 『[[三たびの海峡#映画|三たびの海峡]]』<br />'''[[浅野ゆう子]]''' - 『[[藏]]』<br />'''[[竹中直人]]''' - 『[[EAST MEETS WEST]]』<br />'''[[乙羽信子]]''' - 『午後の遺言状』 | style="text-align: left; vertical-align: top;" | 独立系製作の『[[午後の遺言状]]』(配給:[[日本ヘラルド映画]])が最優秀作品賞受賞。 |- ! [[第20回日本アカデミー賞|20]] | style="white-space: nowrap; text-align: center;" | [[1997年]]<br />(平成9年) | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | 最優秀作品賞<br />最優秀監督賞<br />最優秀脚本賞<br />最優秀主演男優賞<br />最優秀主演女優賞<br />最優秀助演男優賞 <br />最優秀助演女優賞 | style="white-space: nowrap; text-align: left;" | 『'''[[Shall we ダンス?]]'''』([[周防正行]])<br />'''[[周防正行]]''' - 『Shall we ダンス?』<br />'''周防正行''' - 『Shall we ダンス?』<br />'''[[役所広司]]''' - 『Shall we ダンス?』<br />'''[[草刈民代]]''' - 『Shall we ダンス?』<br />'''[[竹中直人]]''' - 『Shall we ダンス?』<br />'''[[渡辺えり|渡辺えり子]]''' - 『Shall we ダンス?』 | style="text-align: left; vertical-align: top;" | 『[[Shall we ダンス?]]』が史上最多の13冠を獲得。 |- ! [[第21回日本アカデミー賞|21]] | style="white-space: nowrap; text-align: center;" | [[1998年]]<br />(平成10年) | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | 最優秀作品賞<br />最優秀監督賞<br />最優秀脚本賞<br />最優秀主演男優賞<br />最優秀主演女優賞<br />最優秀助演男優賞 <br />最優秀助演女優賞 | style="white-space: nowrap; text-align: left;" | 『'''[[もののけ姫]]'''』([[宮崎駿]])<br />'''[[今村昌平]]''' - 『[[うなぎ (映画)|うなぎ]]』<br />'''[[三谷幸喜]]''' - 『[[ラヂオの時間]]』<br />'''[[役所広司]]''' - 『うなぎ』<br />'''[[黒木瞳]]''' - 『[[失楽園 (渡辺淳一の小説)|失楽園]]』<br />'''[[西村雅彦]]''' - 『ラヂオの時間』<br />'''[[倍賞美津子]]''' - 『うなぎ』 | style="text-align: left; vertical-align: top;" | 『[[もののけ姫]]』がアニメとして初めて作品賞にノミネートされ、最優秀作品賞に。 |- ! [[第22回日本アカデミー賞|22]] | style="white-space: nowrap; text-align: center;" | [[1999年]]<br />(平成11年) | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | 最優秀作品賞<br />最優秀監督賞<br />最優秀脚本賞<br />最優秀主演男優賞<br />最優秀主演女優賞<br />最優秀助演男優賞 <br />最優秀助演女優賞 | style="white-space: nowrap; text-align: left;" | 『'''[[愛を乞うひと]]'''』([[平山秀幸]])<br />'''[[平山秀幸]]''' - 『愛を乞うひと』<br />'''[[鄭義信]]''' - 『愛を乞うひと』<br />'''[[柄本明]]''' - 『[[カンゾー先生]]』<br />'''[[原田美枝子]]''' - 『愛を乞うひと』<br />'''[[いかりや長介]]''' - 『[[踊る大捜査線 THE MOVIE]]』<br />'''[[麻生久美子]]''' - 『カンゾー先生』 | style="text-align: left; vertical-align: top;" | <!-- 特記事項/エピソード --> |- ! [[第23回日本アカデミー賞|23]] | style="white-space: nowrap; text-align: center;" | [[2000年]]<br />(平成12年) | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | 最優秀作品賞<br />最優秀監督賞<br />最優秀脚本賞<br />最優秀主演男優賞<br />最優秀主演女優賞<br />最優秀助演男優賞 <br />最優秀助演女優賞 | style="white-space: nowrap; text-align: left;" | 『'''[[鉄道員 (小説)#映画|鉄道員(ぽっぽや)]]'''』([[降旗康男]])<br />'''[[降旗康男]]''' - 『鉄道員(ぽっぽや)』<br />'''[[岩間芳樹]]'''・'''[[降旗康男]]''' - 『鉄道員(ぽっぽや)』<br />'''[[高倉健]]''' - 『鉄道員(ぽっぽや)』<br />'''[[大竹しのぶ]]''' - 『鉄道員(ぽっぽや)』<br />'''[[小林稔侍]]''' - 『鉄道員(ぽっぽや)』<br />'''[[岸本加世子]]''' - 『[[菊次郎の夏]]』 | style="text-align: left; vertical-align: top;" | <!-- 特記事項/エピソード --> |- ! [[第24回日本アカデミー賞|24]] | style="white-space: nowrap; text-align: center;" | [[2001年]]<br />(平成13年) | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | 最優秀作品賞<br />最優秀監督賞<br />最優秀脚本賞<br />最優秀主演男優賞<br />最優秀主演女優賞<br />最優秀助演男優賞 <br />最優秀助演女優賞 | style="white-space: nowrap; text-align: left;" | 『'''[[雨あがる]]'''』([[小泉堯史]])<br />'''[[阪本順治]]''' - 『[[顔 (2000年の映画)|顔]]』<br />'''[[黒澤明]]''' - 『雨あがる』<br />'''[[寺尾聰]]''' - 『雨あがる』<br />'''[[吉永小百合]]''' - 『[[長崎ぶらぶら節]]』<br />'''[[佐藤浩市]]''' - 『[[ホワイトアウト (小説)|ホワイトアウト]]』<br />'''[[原田美枝子]]''' - 『雨あがる』 | style="text-align: left; vertical-align: top;" | <!-- 特記事項/エピソード --> |- ! [[第25回日本アカデミー賞|25]] | style="white-space: nowrap; text-align: center;" | [[2002年]]<br />(平成14年) | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | 最優秀作品賞<br />最優秀監督賞<br />最優秀脚本賞<br />最優秀主演男優賞<br />最優秀主演女優賞<br />最優秀助演男優賞 <br />最優秀助演女優賞 | style="white-space: nowrap; text-align: left;" | 『'''[[千と千尋の神隠し]]'''』([[宮崎駿]])<br />'''[[行定勲]]''' - 『[[GO (小説)|GO]]』<br />'''[[宮藤官九郎]]''' - 『GO』<br />'''[[窪塚洋介]]''' - 『GO』<br />'''[[岸惠子]]''' - 『[[かあちゃん]]』<br />'''[[山﨑努]]''' - 『GO』<br />'''[[柴咲コウ]]''' - 『GO』 | style="text-align: left; vertical-align: top;" | [[高倉健]]が『[[ホタル (映画)|ホタル]]』での優秀主演男優賞を辞退{{small|([[#受賞辞退者|下記参照]])}}。また、25回目を記念して特別ゲストとして[[アーノルド・シュワルツェネッガー]]が登場した。 |- ! [[第26回日本アカデミー賞|26]] | style="white-space: nowrap; text-align: center;" | [[2003年]]<br />(平成15年) | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | 最優秀作品賞<br />最優秀監督賞<br />最優秀脚本賞<br />最優秀主演男優賞<br />最優秀主演女優賞<br />最優秀助演男優賞 <br />最優秀助演女優賞 | style="white-space: nowrap; text-align: left;" | 『'''[[たそがれ清兵衛]]'''』([[山田洋次]])<br />'''[[山田洋次]]''' - 『たそがれ清兵衛』<br />'''山田洋次'''・'''[[朝間義隆]]''' - 『たそがれ清兵衛』<br />'''[[真田広之]]''' - 『たそがれ清兵衛』<br />'''[[宮沢りえ]]''' - 『たそがれ清兵衛』<br />'''[[田中泯]]''' - 『たそがれ清兵衛』<br />'''[[北林谷栄]]''' - 『[[阿弥陀堂だより]]』 | style="text-align: left; vertical-align: top;" | 『[[たそがれ清兵衛]]』が[[第20回日本アカデミー賞|第20回]]での『[[Shall we ダンス?]]』に次ぐ12冠を達成<ref name="asahi20060304">{{Cite news|title=「ALWAYS 三丁目の夕日」が12冠|publisher=[[朝日新聞社]]|date=2006-3-4|accessdate=2015-11-10}}</ref>。 |- ! [[第27回日本アカデミー賞|27]] | style="white-space: nowrap; text-align: center;" | [[2004年]]<br />(平成16年) | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | 最優秀作品賞<br />最優秀監督賞<br />最優秀脚本賞<br />最優秀主演男優賞<br />最優秀主演女優賞<br />最優秀助演男優賞 <br />最優秀助演女優賞 | style="white-space: nowrap; text-align: left;" | 『'''[[壬生義士伝]]'''』([[滝田洋二郎]])<br />'''[[森田芳光]]''' - 『[[阿修羅のごとく]]』<br />'''[[筒井ともみ]]''' - 『阿修羅のごとく』<br />'''[[中井貴一]]''' - 『壬生義士伝』<br />'''[[寺島しのぶ]]''' - 『[[赤目四十八瀧心中未遂]]』<br />'''[[佐藤浩市]]''' - 『壬生義士伝』<br />'''[[深津絵里]]''' - 『阿修羅のごとく』 | style="text-align: left; vertical-align: top;" | <!-- 特記事項/エピソード --> |- ! [[第28回日本アカデミー賞|28]] | style="white-space: nowrap; text-align: center;" | [[2005年]]<br />(平成17年) | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | 最優秀作品賞<br />最優秀監督賞<br />最優秀脚本賞<br />最優秀主演男優賞<br />最優秀主演女優賞<br />最優秀助演男優賞 <br />最優秀助演女優賞 | style="white-space: nowrap; text-align: left;" | 『'''[[半落ち]]'''』([[佐々部清]])<br />'''[[崔洋一]]''' - 『[[血と骨]]』<br />'''[[矢口史靖]]''' - 『[[スウィングガールズ]]』<br />'''[[寺尾聰]]''' - 『半落ち』<br />'''[[鈴木京香]]''' - 『血と骨』<br />'''[[オダギリジョー]]''' - 『血と骨』<br />'''[[長澤まさみ]]''' - 『[[世界の中心で、愛をさけぶ]]』 | style="text-align: left; vertical-align: top;" | 『[[世界の中心で、愛をさけぶ]]』出演の[[長澤まさみ]]が、すべての部門中で史上最年少となる17歳での最優秀助演女優賞受賞。 |- ! [[第29回日本アカデミー賞|29]] | style="white-space: nowrap; text-align: center;" | [[2006年]]<br />(平成18年) | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | 最優秀作品賞<br />最優秀監督賞<br />最優秀脚本賞<br />最優秀主演男優賞<br />最優秀主演女優賞<br />最優秀助演男優賞 <br />最優秀助演女優賞 | style="white-space: nowrap; text-align: left;" | 『'''[[ALWAYS 三丁目の夕日]]'''』([[山崎貴]])<br />''' [[山崎貴]]''' - 『ALWAYS 三丁目の夕日』<br />'''山崎貴'''・'''[[古沢良太]]''' - 『ALWAYS 三丁目の夕日』<br />'''[[吉岡秀隆]]''' - 『ALWAYS 三丁目の夕日』<br />'''[[吉永小百合]]''' - 『[[北の零年]]』<br />'''[[堤真一]]''' - 『ALWAYS 三丁目の夕日』<br />'''[[薬師丸ひろ子]]''' - 『ALWAYS 三丁目の夕日』 | style="text-align: left; vertical-align: top;" | 『[[ALWAYS 三丁目の夕日]]』が[[第26回日本アカデミー賞|第26回]]での『[[たそがれ清兵衛]]』に並ぶ12冠を達成<ref name="asahi20060304" />。 |- ! [[第30回日本アカデミー賞|30]] | style="white-space: nowrap; text-align: center;" | [[2007年]]<br />(平成19年) | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | 最優秀作品賞<br />最優秀アニメーション作品賞<br />最優秀監督賞<br />最優秀脚本賞<br />最優秀主演男優賞<br />最優秀主演女優賞<br />最優秀助演男優賞 <br />最優秀助演女優賞 | style="white-space: nowrap; text-align: left;" | 『'''[[フラガール]]'''』([[李相日]])<br />『'''[[時をかける少女 (アニメ映画)|時をかける少女]]'''』([[細田守]])<br />'''[[李相日]]''' - 『フラガール』<br />'''李相日'''・'''[[羽原大介]]''' - 『フラガール』<br />'''[[渡辺謙]]''' - 『[[明日の記憶]]』<br />'''[[中谷美紀]]''' - 『[[嫌われ松子の一生 (映画)|嫌われ松子の一生]]』<br />'''[[笹野高史]]''' - 『[[武士の一分]]』<br />'''[[蒼井優]]''' - 『フラガール』 | style="text-align: left; vertical-align: top;" | この回からアニメーション部門が新設され、『[[時をかける少女]]』がアニメーション部門新設後としては初の受賞作となった。<br />『[[武士の一分]]』の[[木村拓哉]]が優秀主演男優賞を辞退{{small|([[#受賞辞退者|下記参照]])}}。また『[[フラガール]]』(製作・配給:[[シネカノン]])が製作・配給とも独立系としては『ツィゴイネルワイゼン』(第4回)以来の最優秀作品賞を受賞した。 |- ! [[第31回日本アカデミー賞|31]] | style="white-space: nowrap; text-align: center;" | [[2008年]]<br />(平成20年) | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | 最優秀作品賞<br /><br />最優秀アニメーション作品賞<br />最優秀監督賞<br /><br />最優秀脚本賞<br /><br />最優秀主演男優賞<br />最優秀主演女優賞<br /><br />最優秀助演男優賞 <br /><br />最優秀助演女優賞 | style="white-space: nowrap; text-align: left;" | 『'''[[東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜 (映画)|東京タワー オカンとボクと、時々、オトン]]'''』<br />([[松岡錠司]])<br />『'''[[鉄コン筋クリート]]'''』([[マイケル・アリアス]])<br />'''[[松岡錠司]]''' - 『東京タワー オカンとボクと、<br />時々、オトン』<br />'''[[松尾スズキ]]''' - 『東京タワー オカンとボクと、<br />時々、オトン』<br />'''[[吉岡秀隆]]''' - 『[[ALWAYS 続・三丁目の夕日]]』<br />'''[[樹木希林]]''' - 『東京タワー オカンとボクと、<br />時々、オトン』<br />'''[[小林薫]]''' - 『東京タワー オカンとボクと、<br />時々、オトン』<br />'''[[もたいまさこ]]''' - 『[[それでもボクはやってない]]』 | style="text-align: left; vertical-align: top;" | 『[[東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜 (映画)|東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜]]』が作品賞を始め、数々の賞を受賞したが、この作品で最優秀主演女優賞を受賞した[[樹木希林]]は、文芸誌『[[en-taxi]]』のインタビューで「賞を取るほどの作品ではない」、「監督とは撮影の時から合わなかったし、良い作品が出来上がる気もしなかった」と本作の好評価および各賞受賞への異議を唱えた。 |- ! [[第32回日本アカデミー賞|32]] | style="white-space: nowrap; text-align: center;" | [[2009年]]<br />(平成21年) | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | 最優秀作品賞<br />最優秀アニメーション作品賞<br />最優秀監督賞<br />最優秀脚本賞<br />最優秀主演男優賞<br />最優秀主演女優賞<br />最優秀助演男優賞 <br />最優秀助演女優賞 | style="white-space: nowrap; text-align: left;" | 『'''[[おくりびと]]'''』([[滝田洋二郎]])<br />『'''[[崖の上のポニョ]]'''』([[宮崎駿]])<br />'''[[滝田洋二郎]]''' - 『おくりびと』<br />'''[[小山薫堂]]''' - 『おくりびと』<br />'''[[本木雅弘]]''' - 『おくりびと』<br />'''[[木村多江]]''' - 『[[ぐるりのこと。]]』<br />'''[[山﨑努]]''' - 『おくりびと』<br />'''[[余貴美子]]''' - 『おくりびと』 | style="text-align: left; vertical-align: top;" | <!-- 特記事項/エピソード --> |- ! [[第33回日本アカデミー賞|33]] | style="white-space: nowrap; text-align: center;" | [[2010年]]<br />(平成22年) | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | 最優秀作品賞<br />最優秀アニメーション作品賞<br />最優秀監督賞<br />最優秀脚本賞<br />最優秀主演男優賞<br />最優秀主演女優賞<br />最優秀助演男優賞 <br />最優秀助演女優賞 | style="white-space: nowrap; text-align: left;" | 『'''[[沈まぬ太陽#映画|沈まぬ太陽]]'''』([[若松節朗]])<br />『'''[[サマーウォーズ]]'''』([[細田守]])<br />'''[[木村大作]]''' - 『[[劔岳 点の記]]』<br />'''[[西川美和]]''' - 『[[ディア・ドクター]]』<br />'''[[渡辺謙]]''' - 『沈まぬ太陽』<br />'''[[松たか子]]''' - 『[[ヴィヨンの妻 〜桜桃とタンポポ〜]]』<br />'''[[香川照之]]''' - 『劒岳 点の記』<br />'''[[余貴美子]]''' - 『ディア・ドクター』 | style="text-align: left; vertical-align: top;" | [[鳩山由紀夫]][[内閣総理大臣]]が現役総理として初めて授賞式に出席。最優秀作品賞を受賞した『[[沈まぬ太陽]]』と同作品のモデルとなった[[日本航空]]の経営再建問題を絡めたスピーチを行った<ref>[https://web.archive.org/web/20100307113051/http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100305/plc1003052302032-n1.htm 『アカデミー授賞式で首相、「JALは沈んじゃったが…」』] - [[産経新聞]] [[2010年]][[3月5日]]</ref><ref>[http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20100306-OHT1T00033.htm 『渡辺謙栄冠!鳩山首相が祝福「あなたこそ沈まぬ太陽」…日本アカデミー賞授賞式』] - [[スポーツ報知]] 2010年[[3月6日]]</ref><ref>[http://www.daily.co.jp/gossip/article/2010/03/06/0002762055.shtml 『渡辺謙、涙の戴冠「一番ほしかった」』] - [[デイリースポーツ]] 2010年3月6日</ref>。 |- ! [[第34回日本アカデミー賞|34]] | style="white-space: nowrap; text-align: center;" | [[2011年]]<br />(平成23年) | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | 最優秀作品賞<br />最優秀アニメーション作品賞<br />最優秀監督賞<br />最優秀脚本賞<br />最優秀主演男優賞<br />最優秀主演女優賞<br />最優秀助演男優賞 <br />最優秀助演女優賞 | style="white-space: nowrap; text-align: left;" | 『'''[[告白 (2010年の映画)|告白]]'''』([[中島哲也]])<br />『'''[[借りぐらしのアリエッティ]]'''』([[米林宏昌]])<br />'''[[中島哲也]]''' - 『告白』<br />'''中島哲也''' - 『告白』<br />'''[[妻夫木聡]]''' - 『[[悪人 (小説)|悪人]]』<br />'''[[深津絵里]]''' - 『悪人』<br />'''[[柄本明]]''' - 『悪人』<br />'''[[樹木希林]]''' - 『悪人』 | style="text-align: left; vertical-align: top;" | <!-- 特記事項/エピソード --> |- ! [[第35回日本アカデミー賞|35]] | style="white-space: nowrap; text-align: center;" | [[2012年]]<br />(平成24年) | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | 最優秀作品賞<br />最優秀アニメーション作品賞<br />最優秀監督賞<br />最優秀脚本賞<br />最優秀主演男優賞<br />最優秀主演女優賞<br />最優秀助演男優賞 <br />最優秀助演女優賞 | style="text-align: left;" | 『'''[[八日目の蝉]]'''』([[成島出]])<br />『'''[[コクリコ坂から]]'''』([[宮崎吾朗]])<br />'''[[成島出]]''' - 『八日目の蝉』<br />'''[[奥寺佐渡子]]''' - 『八日目の蝉』<br />'''[[原田芳雄]]''' - 『[[大鹿村騒動記]]』<br />'''[[井上真央]]''' - 『八日目の蝉』<br />'''[[でんでん]]''' - 『[[冷たい熱帯魚]]』<br />'''[[永作博美]]''' - 『八日目の蝉』 | style="text-align: left; vertical-align: top;" | この回より日本テレビ系列の地上デジタル放送で[[ステレオ放送]]を開始した。また、『[[八日目の蝉]]』が10冠を達成したほか、授賞式時点で故人の[[原田芳雄]]が最優秀主演男優賞を受賞<ref name="oricon20120302">{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2007893/full/|title=日本アカデミー賞、『八日目の蝉』が10冠! 主演女優賞・井上真央「逃げなくてよかった」|publisher=[[オリコン|オリコンスタイル]]|date=2012-3-2|accessdate=2015-11-10}}</ref>。 |- ! [[第36回日本アカデミー賞|36]] | style="white-space: nowrap; text-align: center;" | [[2013年]]<br />(平成25年) | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | 最優秀作品賞<br />最優秀アニメーション作品賞<br />最優秀監督賞<br />最優秀脚本賞<br />最優秀主演男優賞<br />最優秀主演女優賞<br />最優秀助演男優賞 <br />最優秀助演女優賞 | style="white-space: nowrap; text-align: left;" | 『'''[[桐島、部活やめるってよ]]'''』([[吉田大八 (映画監督)|吉田大八]])<br />『'''[[おおかみこどもの雨と雪]]'''』([[細田守]])<br />'''[[吉田大八 (映画監督)|吉田大八]]''' - 『桐島、部活やめるってよ』<br />'''[[内田けんじ]]''' - 『[[鍵泥棒のメソッド]]』<br />'''[[阿部寛]]''' - 『[[テルマエ・ロマエ]]』<br />'''[[樹木希林]]''' - 『[[わが母の記]]』<br />'''[[大滝秀治]]''' - 『[[あなたへ (映画)|あなたへ]]』<br />'''[[余貴美子]]''' - 『あなたへ』 | style="text-align: left; vertical-align: top;" | <!-- 特記事項/エピソード --> |- ! [[第37回日本アカデミー賞|37]] | style="white-space: nowrap; text-align: center;" | [[2014年]]<br />(平成26年) | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | 最優秀作品賞<br />最優秀アニメーション作品賞<br />最優秀監督賞<br />最優秀脚本賞<br />最優秀主演男優賞<br />最優秀主演女優賞<br />最優秀助演男優賞 <br />最優秀助演女優賞 | style="white-space: nowrap; text-align: left;" | 『'''[[舟を編む#映画|舟を編む]]'''』([[石井裕也 (映画監督)|石井裕也]])<br />『'''[[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]]'''』([[宮崎駿]])<br />'''[[石井裕也 (映画監督)|石井裕也]]''' - 『舟を編む』<br />'''[[渡辺謙作]]''' - 『舟を編む』<br />'''[[松田龍平]]''' - 『舟を編む』<br />'''[[真木よう子]]''' - 『[[さよなら渓谷#映画|さよなら渓谷]]』<br />'''[[リリー・フランキー]]''' - 『[[そして父になる]]』<br />'''真木よう子''' - 『そして父になる』 | style="text-align: left; vertical-align: top;" | 『[[舟を編む#映画|舟を編む]]』が6冠を達成<ref name="cinemacafe220140307" />。また、[[真木よう子]]が『[[さよなら渓谷#映画|さよなら渓谷]]』で最優秀主演女優賞、『[[そして父になる]]』で助演女優賞を同時受賞<ref name="cinemacafe220140307">{{Cite web|和書|url=https://www.cinemacafe.net/article/2014/03/07/22200.html|title=『舟を編む』に日本アカデミー賞! 松田龍平が主演男優賞、真木よう子は女優2冠の快挙|publisher=[[シネマカフェ]]|date=2014-3-7|accessdate=2015-11-10}}</ref>。 |- ! [[第38回日本アカデミー賞|38]] | style="white-space: nowrap; text-align: center;" | [[2015年]]<br />(平成27年) | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | 最優秀作品賞<br />最優秀アニメーション作品賞<br />最優秀監督賞<br />最優秀脚本賞<br />最優秀主演男優賞<br />最優秀主演女優賞<br />最優秀助演男優賞 <br />最優秀助演女優賞 | style="white-space: nowrap; text-align: left;" | 『'''[[永遠の0#映画|永遠の0]]'''』([[山崎貴]])<br />『'''[[STAND BY ME ドラえもん]]'''』(山崎貴)<br />'''[[山崎貴]]''' - 『永遠の0』<br />'''[[土橋章宏]]''' - 『[[超高速!参勤交代]]』<br />'''[[岡田准一]]''' - 『永遠の0』<br />'''[[宮沢りえ]]''' - 『[[紙の月#映画|紙の月]]』<br />'''岡田准一''' - 『[[蜩ノ記]]』<br />'''[[黒木華]]''' - 『[[小さいおうち]]』 | style="text-align: left; vertical-align: top;" | 『[[永遠の0]]』が8冠達成<ref name="f_zero">{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2049221/full/|title=【日本アカデミー賞】『永遠の0』が席巻 最優秀作品賞など8冠獲得|publisher=[[オリコン|オリコンスタイル]]|date=2015-2-27|accessdate=2015-11-10}}</ref>。 また、[[岡田准一]]は『[[永遠の0]]』での最優秀主演男優賞<ref name="f_zero" /> と『[[蜩ノ記]]』で最優秀助演男優賞を同時受賞<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG27HA3_X20C15A2CR8000/|title=「永遠の0」が8冠 日本アカデミー賞|publisher=[[日本経済新聞]]|date=2015-2-27|accessdate=2015-11-10}}</ref>。 |- ! [[第39回日本アカデミー賞|39]] | style="white-space: nowrap; text-align: center;" | [[2016年]]<br />(平成28年) | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | 最優秀作品賞<br />最優秀アニメーション作品賞<br />最優秀監督賞<br />最優秀脚本賞<br />最優秀主演男優賞<br />最優秀主演女優賞<br />最優秀助演男優賞 <br />最優秀助演女優賞 | style="white-space: nowrap; text-align: left;" | 『'''[[海街diary (映画)|海街diary]]'''』([[是枝裕和]])<br />『'''[[バケモノの子]]'''』([[細田守]])<br />'''[[是枝裕和]]''' - 『海街diary』<br />'''[[足立紳]]''' - 『[[百円の恋]]』<br />'''[[二宮和也]]''' - 『[[母と暮せば]]』<br />'''[[安藤サクラ]]''' - 『百円の恋』<br />'''[[本木雅弘]]''' - 『[[日本のいちばん長い日#2015年版の映画|日本のいちばん長い日]]』<br />'''[[黒木華]]''' - 『母と暮せば』 | |- ! [[第40回日本アカデミー賞|40]] | style="white-space: nowrap; text-align: center;" | [[2017年]]<br />(平成29年) | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | 最優秀作品賞<br />最優秀アニメーション作品賞<br />最優秀監督賞<br />最優秀脚本賞<br />最優秀主演男優賞<br />最優秀主演女優賞<br />最優秀助演男優賞 <br />最優秀助演女優賞 | style="white-space: nowrap; text-align: left;" | 『'''[[シン・ゴジラ]]'''』([[庵野秀明]]・[[樋口真嗣]])<br />『'''[[この世界の片隅に (映画)|この世界の片隅に]]'''』([[片渕須直]])<br />'''[[庵野秀明]]'''・'''[[樋口真嗣]]''' - 『シン・ゴジラ』<br />'''[[新海誠]]''' - 『[[君の名は。]]』<br />'''[[佐藤浩市]]''' - 『[[64(ロクヨン)#映画|64-ロクヨン-前編]]』<br />'''[[宮沢りえ]]''' - 『[[湯を沸かすほどの熱い愛]]』<br />'''[[妻夫木聡]]''' - 『[[怒り (小説)#映画|怒り]]』<br />'''[[杉咲花]]''' - 『湯を沸かすほどの熱い愛』 | style="text-align: left; vertical-align: top;"|『シン・ゴジラ』が7冠を達成。<br />40回目にして初めてアニメーション作品が最優秀脚本賞を受賞した。 |- ! [[第41回日本アカデミー賞|41]] | style="white-space: nowrap; text-align: center;" | [[2018年]]<br />(平成30年) | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | 最優秀作品賞<br />最優秀アニメーション作品賞<br />最優秀監督賞<br />最優秀脚本賞<br />最優秀主演男優賞<br />最優秀主演女優賞<br />最優秀助演男優賞 <br />最優秀助演女優賞 | style="white-space: nowrap; text-align: left;" |『'''[[三度目の殺人]]'''』([[是枝裕和]])<br />『'''[[夜は短し歩けよ乙女#アニメ映画|夜は短し歩けよ乙女]]'''』([[湯浅政明]])<br />'''是枝裕和''' - 『三度目の殺人』<br />'''是枝裕和''' - 『三度目の殺人』<br />'''[[菅田将暉]]''' - 『[[あゝ、荒野 (映画)|あゝ、荒野]]前編』<br />'''[[蒼井優]]''' - 『[[彼女がその名を知らない鳥たち#映画|彼女がその名を知らない鳥たち]]』<br />'''[[役所広司]]''' - 『三度目の殺人』<br />'''[[広瀬すず]]''' - 『三度目の殺人』 | style="text-align: left; vertical-align: top;"|『[[三度目の殺人]]』が6冠を達成。<ref name="natalie20180302">{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/eiga/news/271828|title=「三度目の殺人」が最多6冠!第41回日本アカデミー賞授賞式|publisher=[[映画ナタリー]]|date=2018-03-02|accessdate=2018-03-05}}</ref> 『三度目の殺人』の是枝裕和監督が最優秀監督賞の他に最優秀編集賞、最優秀脚本賞を同時受賞。 |- ! [[第42回日本アカデミー賞|42]] | style="white-space: nowrap; text-align: center;" | [[2019年]]<br />(平成31年<br />/令和元年) | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | 最優秀作品賞<br />最優秀アニメーション作品賞<br />最優秀監督賞<br />最優秀脚本賞<br />最優秀主演男優賞<br />最優秀主演女優賞<br /> 最優秀助演男優賞 <br />最優秀助演女優賞 | style="white-space: nowrap; text-align: left;" |『'''[[万引き家族]]'''』([[是枝裕和]])<br />『'''[[未来のミライ]]'''』([[細田守]])<br />'''是枝裕和''' - 『万引き家族』<br />'''是枝裕和''' - 『万引き家族』<br />'''[[役所広司]]''' - 『[[孤狼の血 (映画)|孤狼の血]]』<br />'''[[安藤サクラ]]''' - 『万引き家族』<br />'''[[松坂桃李]]''' - 『孤狼の血』<br />'''[[樹木希林]]''' - 『万引き家族』<br /> | style="text-align: left; vertical-align: top;"|樹木希林は2018年に亡くなったため、没後の受賞となった。授賞式では娘の[[内田也哉子]]が代理としてブロンズ像を受け取り、スピーチを行った<ref>{{Cite news|title=【第42回日本アカデミー賞】樹木希林、最優秀助演女優賞を受賞!西田敏行が語り掛け「あなたの真似はできない」|date=2019-03-01|url=https://www.cinemacafe.net/article/2019/03/01/60520.html|newspaper=[[シネマカフェ]]|accessdate=2021-03-20}}</ref>。 |- ! [[第43回日本アカデミー賞|43]] | style="white-space: nowrap; text-align: center;" | [[2020年]]<br />(令和2年) | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | 最優秀作品賞<br />最優秀アニメーション作品賞<br />最優秀監督賞<br />最優秀脚本賞<br />最優秀主演男優賞<br />最優秀主演女優賞<br /> 最優秀助演男優賞 <br />最優秀助演女優賞 | style="white-space: nowrap; text-align: left;" |『'''[[新聞記者 (映画)|新聞記者]]'''』([[藤井道人]])<br />『'''[[天気の子]]'''』([[新海誠]])<br />'''[[武内英樹]]''' - 『[[翔んで埼玉]]』<br />'''[[徳永友一]]''' - 『翔んで埼玉』<br />'''[[松坂桃李]]''' - 『新聞記者』<br />'''[[シム・ウンギョン]]''' - 『新聞記者』<br />'''[[吉沢亮]]''' - 『[[キングダム (映画)|キングダム]]』<br />'''[[長澤まさみ]]''' - 『キングダム』 | style="text-align: left; vertical-align: top;"|[[2019新型コロナウイルス|新型コロナウイルス]]の感染拡大防止のため、一般招待客や取材陣もいない無観客形式での進行となり、最低限の人数での開催となった<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202002280000067.html|title=日本アカデミー賞は無観客、最低限の人数で開催|date=2020-02-28|accessdate=2020-02-28|newspaper=日刊スポーツ}}</ref>。<br />また、最優秀主演賞で初めて外国人が受賞した<ref>{{Cite news|title=日本アカデミー賞「新聞記者」3冠 シム・ウンギョン、外国人初の最優秀主演賞に感涙|date=2020-03-07|newspaper=スポーツニッポン|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/03/07/kiji/20200307s00041000022000c.html|accessdate=2020-03-09}}</ref>。 |- ! [[第44回日本アカデミー賞|44]] | style="white-space: nowrap; text-align: center;" | [[2021年]]<br />(令和3年) | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | 最優秀作品賞<br />最優秀アニメーション作品賞<br />最優秀監督賞<br />最優秀脚本賞<br />最優秀主演男優賞<br />最優秀主演女優賞<br /> 最優秀助演男優賞 <br />最優秀助演女優賞 | style="white-space: nowrap; text-align: left;" | 『'''[[ミッドナイトスワン]]'''』([[内田英治]])<br />『'''[[劇場版「鬼滅の刃」無限列車編]]'''』([[外崎春雄]])<br />'''[[若松節朗]]''' - 『[[Fukushima 50 (映画)|Fukushima 50]]』<br />'''[[野木亜紀子]]''' - 『罪の声』<br />'''[[草彅剛]]''' - 『ミッドナイトスワン』<br />'''長澤まさみ''' - 『[[MOTHER マザー]]』<br />'''渡辺謙''' - 『Fukushima 50』<br />'''[[黒木華]]''' - 『[[浅田家!]]』 | style="text-align: left; vertical-align: top;"|独立系製作・配給作品の『ミッドナイトスワン』が最優秀作品賞を受賞。主演を務めた草彅剛が最優秀主演男優賞に輝いた。 |- ! [[第45回日本アカデミー賞|45]] | style="white-space: nowrap; text-align: center;" | [[2022年]]<br />(令和4年) | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | 最優秀作品賞<br />最優秀アニメーション作品賞<br />最優秀監督賞<br />最優秀脚本賞<br />最優秀主演男優賞<br />最優秀主演女優賞<br /> 最優秀助演男優賞 <br />最優秀助演女優賞 | style="white-space: nowrap; text-align: left;" | 『'''[[ドライブ・マイ・カー (映画)|ドライブ・マイ・カー]]'''』([[濱口竜介]]) <br />『'''[[シン・エヴァンゲリオン劇場版|シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇]]'''』([[庵野秀明]]) <br /> '''濱口竜介''' - 『ドライブ・マイ・カー』 <br /> '''濱口竜介、[[大江崇允]]''' - 『ドライブ・マイ・カー』 <br /> '''[[西島秀俊]]''' - 『ドライブ・マイ・カー』 <br />'''[[有村架純]]''' - 『[[花束みたいな恋をした]]』 <br />'''[[鈴木亮平 (俳優)|鈴木亮平]]''' - 『[[孤狼の血 LEVEL2]]』<br />'''[[清原果耶]]''' - 『[[護られなかった者たちへ]]』 | style="text-align: left; vertical-align: top;"|独立系製作・配給作品の『ドライブ・マイ・カー』が最優秀作品賞を受賞。<br />[[日テレ系リアルタイム配信|日テレ系ライブ配信]]の正式サービス開始に伴い、授賞式としては初めてインターネットでも[[サイマル放送#インターネットサイマル配信|同時配信]]が行われた<ref>{{Cite web|和書|title=第45回日本アカデミー賞、レッドカーペット&授賞式をTVerでリアルタイム配信へ 各賞候補者が出演するドラマも |url=https://eiga.com/news/20220302/9/ |website=映画.com |accessdate=2022-03-12 |date=2022-03-02}}</ref>。 |- ! [[第46回日本アカデミー賞|46]] | style="white-space: nowrap; text-align: center;" | [[2023年]]<br />(令和5年) | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | 最優秀作品賞<br />最優秀アニメーション作品賞<br />最優秀監督賞<br />最優秀脚本賞<br />最優秀主演男優賞<br />最優秀主演女優賞<br /> 最優秀助演男優賞 <br />最優秀助演女優賞 | style="white-space: nowrap; text-align: left;" | '''『[[ある男#映画|ある男]]』'''([[石川慶]])<br />『'''[[THE FIRST SLAM DUNK]]'''』([[井上雄彦]])<br /> '''石川慶''' - 『[[ある男]]』 <br />'''[[向井康介]]''' - 『ある男』<br /> '''[[妻夫木聡]]''' - 『ある男』<br /> '''[[岸井ゆきの]]''' - 『[[ケイコ 目を澄ませて]]』 <br />'''[[窪田正孝]]''' - 『ある男』<br /> '''[[安藤サクラ]]''' - 『ある男』 | style="white-space: nowrap; text-align: right;" | |} == 受賞辞退者 == ; [[黒澤明]] : 第4回([[1981年]]([[昭和]]56年))、『[[影武者 (映画)|影武者]]』での優秀賞受賞を「権威のない賞は認められない」(表向きの理由は「スケジュールの都合」)として辞退し、同作品の出演俳優やスタッフもその意向を尊重して全員ノミネートを辞退した。授賞式司会の[[山城新伍]]はその対応を「すでに権威がある賞は受け取るくせに、これから映画人が育てていこうとしている賞は『権威が無いからいらない』なんて言う人物が受賞しなくてよかった」と批判した。 ; [[高倉健]] : 第25回([[2002年]]([[平成]]14年))、『[[ホタル (映画)|ホタル]]』での優秀主演男優賞を「後輩の俳優に道を譲りたい」として辞退。 ; [[木村拓哉]] : 第30回([[2007年]](平成19年))、『[[武士の一分]]』にて「優秀賞のほかの皆さんと最優秀賞を競わせたくない」との[[ジャニーズ事務所]]の意向により、優秀主演男優賞を辞退。 == 最多受賞 == === 作品 === 『[[Shall we ダンス?]]』は「[[第20回日本アカデミー賞]]」において[[日本アカデミー賞外国作品賞|外国作品賞]]以外の全ての正賞(最優秀賞)を独占している。 {| class="wikitable" !数!!回(年)!!作品!!部門 |- |13部門||[[第20回日本アカデミー賞|第20回<br />(1997年)]]||『[[Shall we ダンス?]]』||作品賞・監督賞・脚本賞・主演男優賞・主演女優賞・助演男優賞・助演女優賞<br />音楽賞・撮影賞・照明賞・美術賞・録音賞・編集賞 |- |rowspan="2"|12部門||[[第26回日本アカデミー賞|第26回<br />(2003年)]]||『[[たそがれ清兵衛]]』||作品賞・監督賞・脚本賞・主演男優賞・主演女優賞・助演男優賞<br />音楽賞・撮影賞・照明賞・美術賞・録音賞・編集賞 |- |[[第29回日本アカデミー賞|第29回]]<br />(2006年)||『[[ALWAYS 三丁目の夕日]]』||作品賞・監督賞・脚本賞・主演男優賞・助演男優賞・助演女優賞<br />音楽賞・撮影賞・照明賞・美術賞・録音賞・編集賞 |- |rowspan="2"|10部門||[[第32回日本アカデミー賞|第32回<br />(2009年)]]||『[[おくりびと]]』||作品賞・監督賞・脚本賞・主演男優賞・助演男優賞・助演女優賞<br />撮影賞・照明賞・録音賞・編集賞 |- |[[第35回日本アカデミー賞|第35回]]<br />(2012年)||『[[八日目の蟬#映画|八日目の蝉]]』||作品賞・監督賞・脚本賞・主演女優賞・助演女優賞<br />音楽賞・撮影賞・照明賞・録音賞・編集賞 |} === 俳優 === {| class="wikitable" !数!!名前!!部門 |- !rowspan="6"|4 |[[高倉健]]||主演男優賞 4(第1回・第4回・第5回・第23回) |- |[[吉永小百合]]||主演女優賞 4(第8回・第12回・第24回・第29回) |- |[[役所広司]]||主演男優賞 3(第20回・第21回・第42回)<br />助演男優賞 1(第41回) |- |[[山﨑努]]||主演男優賞 2(第8回・第11回)<br />助演男優賞 2(第25回・第32回) |- |[[佐藤浩市]]||主演男優賞 2(第18回・第40回)<br />助演男優賞 2(第24回・第27回) |- |[[樹木希林]]||主演女優賞 2(第31回・第36回)<br />助演女優賞 2(第34回・第42回) |- !rowspan="9"|3 |[[竹中直人]]||助演男優賞 3(第16回・第19回・第20回) |- |[[余貴美子]]||助演女優賞 3(第32回・第33回・第36回) |- |[[黒木華]]||助演女優賞 3(第38回・第39回・第44回) |- |[[本木雅弘]]||主演男優賞 2(第16回・第32回)<br />助演男優賞 1(第39回) |- |[[渡辺謙]]||主演男優賞 2(第30回・第33回)<br />助演男優賞 1(第44回) |- |[[妻夫木聡]]||主演男優賞 2(第34回・第46回)<br />助演男優賞 1(第40回) |- |[[安藤サクラ]]||主演女優賞 2(第39回・第42回)<br />助演女優賞 1(第46回) |- |[[原田美枝子]]||主演女優賞 1(第12回)<br />助演女優賞 2(第10回・第24回) |- |[[長澤まさみ]]||主演女優賞 1(第44回)<br />助演女優賞 2(第28回・第43回) |} === 監督・脚本 === {| class="wikitable" !数!!名前!!部門 |- !7 |[[山田洋次]]||監督賞 3(第1回・第17回・第26回)<br />脚本賞 4(第1回・第4回・第17回・第26回) |- !rowspan="2"|5 |[[深作欣二]]||監督賞 3(第6回・第10回・第18回)<br />脚本賞 2(第10回・第18回) |- |[[是枝裕和]]||監督賞 3(第31回・第41回・第42回)<br />脚本賞 2(第41回・第42回) |- !rowspan="2"|4 |[[今村昌平]]||監督賞 3(第3回・第13回・第21回)<br />脚本賞 1(第13回) |- |[[朝間義隆]]||脚本賞 4(第1回・第4回・第17回・第26回) |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book |和書 |author= |year=2009 |title= 映画の賞事典 |isbn= 9784816922237 |publisher= [[日外アソシエーツ]] |ref= {{SfnRef|映画の賞|2009}}}} * {{Cite book |和書 |author= 山下慧・井上健一・松崎健夫 |year=2012 |title= 現代映画用語事典 |isbn= 9784873763675 |publisher= [[キネマ旬報社]] |ref= {{SfnRef|映画用語|2012}}}} == 関連項目 == * [[日本アカデミー賞話題賞のオールナイトニッポン]] * [[日本映画]] * [[映画の賞]] * [[アカデミー賞]] * [[キネマ旬報#キネマ旬報ベスト・テン|キネマ旬報ベスト・テン]] * [[英国アカデミー賞]](BAFTA賞) * [[セザール賞]](フランス版アカデミー賞) * [[ザテレビジョンドラマアカデミー賞]](日本のテレビドラマに関する賞) == 外部リンク == * [https://www.japan-academy-prize.jp/ 日本アカデミー賞公式サイト] * [https://www.ntv.co.jp/j-academy/ 日本アカデミー賞授賞式|日本テレビ] * {{Twitter|japanacademy|日本アカデミー賞協会}} {{日本アカデミー賞}} {{DEFAULTSORT:につほんあかてみいしよう}} [[Category:日本アカデミー賞|*]] [[Category:日本の映画賞]] [[Category:1978年開始のイベント]] [[Category:日本テレビの特別番組]] [[Category:年1回放送の特別番組]]
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ブルーリボン賞 (映画)
ブルーリボン賞(ブルーリボンしょう)は、1950年(昭和25年)に創設された日本の映画賞である。 現在の主催は、東京のスポーツ7紙(スポーツ報知・デイリースポーツ・サンケイスポーツ・東京中日スポーツ・東京スポーツ・スポーツニッポン・日刊スポーツ)の映画担当記者で構成された「東京映画記者会」。ブルーリボン賞は加盟各社の合資と映画会社からの賛助金によって運営され、作品賞・個人賞計8部門の賞を毎年1月に発表、2月に授賞式が行われる。 1950年(昭和25年)、朝日新聞の井沢淳(井沢純)が、毎日新聞の岡本博、読売新聞の谷村錦一をはじめとする「東京映画記者会」の記者会員に呼びかけ、1年間の映画界を総括する記者同士のおさらいの成果を賞として世に問うとして「東京映画記者会賞」の名で始まった。別説として「日本映画文化賞」の名称で始まったとする資料も存在。1951年3月22日、東京・築地にあった東京劇場で第1回授賞式が行われた。第4回から第7回までは、銀座・並木座が授賞式会場となった。 当初は記者の親睦的組織として始まった東京映画記者会だったが、最大時には在京の日刊紙・通信社の加盟社は17社、会員数は80人を超えるまでに成長し、規模が大きくなるにつれ、選考に対する考え方に違いが生じるようになった。大衆賞が欲しい美空ひばりが事前運動をしたという噂が広まったことがキッカケに、一般紙よりスポーツ新聞記者の票数が多いことに対する不満が噴出し、1960年(昭和35年)3月には大手新聞6社(読売新聞・朝日新聞・毎日新聞・産経新聞・東京新聞・日本経済新聞)および共同通信社が脱退。これによりブルーリボン賞は第11回(1960年度)からスポーツ紙を中心にした新聞社による主催となり、現在に至っている。 1967年(昭和42年)、新聞記者が審査員を務める日本レコード大賞の「黒い霧」の噂を気にした新聞社上層部が、〔賄賂を受け取る立場になりかねない〕記者会主催の賞を辞めるように厳命し、第17回(1966年度)を最後にブルーリボン賞は一時廃止される事となる。また、分裂した7社が設立した日本映画記者会賞や、テアトロン賞(東京演劇記者会)、ホワイトブロンズ賞(地方新聞映画記者会)などの記者会賞も1966年度で一斉に廃止されている。 しかし、若手記者を中心に再開を望む声があがるようになり、1973年(昭和48年)秋にブルーリボン復活準備委員会が発足され、1975年度に再スタートを果たした。 毎年1月1日から12月31日までに、首都圏で封切られた全作品を対象とし、1月に選考が行われる。作品、監督、主演男女優、助演男女優、新人(監督も含み、映画デビュー2年以内が対象)、外国映画の各部門がある。年によってスタッフ賞や特別賞も選ばれる。前年末までに記者会員全員による投票で選ばれたノミネートの中から、選考会で合議ののち投票で過半数を得た作品・人に賞が贈られる。選考にあたっては、演技だけでなく、映画に対する姿勢や人格も対象とする。 授賞式は2月に行われ、受賞者発表時の各紙で、授賞式への読者抽選無料招待の応募要項が掲載される。なお、「映画記者の手作りの賞」を標榜することから、この選考だけでなく授賞式会場の設営、照明・音響、観客の誘導といった裏方の仕事なども全て各紙の映画記者たちが行っている。 進行役(司会者)は、前年度に主演男優賞、主演女優賞を受賞した俳優が担当する。 しかし新型コロナの影響で2020年度から開催していない。 開始当初は主催者の財政が厳しいため受賞者への賞品も特になく、賞状を青色のリボンで結んで渡したことから「ブルーリボン賞」と呼ばれるようになり、のちに正式名称になった。現在も続くこの青いリボンには「青空の下で取材した記者が選考する」という意味が込められている。この他に記者の象徴であるペンを賞品とし、受賞者名入りのモンブランの万年筆1本が贈られる。 この逸話が当賞が日本映画界の最高栄誉とされる根拠とされている。
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ブルーリボン賞(ブルーリボンしょう)は、1950年(昭和25年)に創設された日本の映画賞である。 現在の主催は、東京のスポーツ7紙(スポーツ報知・デイリースポーツ・サンケイスポーツ・東京中日スポーツ・東京スポーツ・スポーツニッポン・日刊スポーツ)の映画担当記者で構成された「東京映画記者会」。ブルーリボン賞は加盟各社の合資と映画会社からの賛助金によって運営され、作品賞・個人賞計8部門の賞を毎年1月に発表、2月に授賞式が行われる。
{{Infobox Award | name = ブルーリボン賞 | current_awards = | image = | imagesize = | caption = | description = 作品、監督、俳優<!-- 受賞対象 --> | presenter = 東京映画記者会<!-- 主催 --> | date = 毎年2月<!-- 開催日{{Start date|YYYY|MM|DD}} --> | country = {{JPN}}<!-- 国 --> | location = [[イイノホール]]<!-- 授賞式会場 --> | year = 第1回([[1950年]]度) | year2 = 第64回([[2021年]]度)<!-- 最新回 --> | holder =『[[孤狼の血 LEVEL2]]』 <!-- 最新受賞者 --> | website = | previous = | main = | next = }} '''ブルーリボン賞'''(ブルーリボンしょう)は、[[1950年]]([[昭和]]25年)に創設された[[日本]]の[[映画賞]]である。 現在の主催は、東京のスポーツ7紙([[スポーツ報知]]・[[デイリースポーツ]]・[[サンケイスポーツ]]・[[東京中日スポーツ]]・[[東京スポーツ]]・[[スポーツニッポン]]・[[日刊スポーツ]])の[[映画]]担当[[記者]]で構成された「東京映画記者会」。ブルーリボン賞は加盟各社の合資と映画会社からの賛助金によって運営され、作品賞・個人賞計8部門の賞を毎年1月に発表、2月に授賞式が行われる<ref name="hochiblue">{{Cite 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|editor=石原良太 |isbn=4-8261-0520-7 |pages=32-34}}</ref>、1年間の映画界を総括する記者同士のおさらいの成果を賞として世に問うとして「'''東京映画記者会賞'''」の名で始まった<ref name="hochiblue" />。別説として「'''日本映画文化賞'''」の名称で始まったとする資料も存在<ref name="award1950">{{Wayback|url=http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/1950/|date=20120219003503|title=シネマ報知 ブルーリボン賞ヒストリー 今井正監督の「また逢う日まで」が2冠で初代王者に}}</ref><ref name="ishizaka1986"/><ref>{{Cite book|和書 |title=「映画の賞事典」チラシ |url=https://www.nichigai.co.jp/PDF/2223-7.pdf |publisher=[[日外アソシエーツ]] |page=2 |format=pdf |access-date=2023-07-30}}</ref>。[[1951年]][[3月22日]]、東京・[[築地]]にあった[[東京劇場]]で第1回授賞式が行われた<ref name="award1950" />。第4回から第7回までは、[[銀座]]・並木座が授賞式会場となった<ref name="award1953">{{Wayback|url=http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/1953/|date=20090207075508|title=シネマ報知 ブルーリボン賞ヒストリー 新設の大衆賞は昭和の大スター長谷川一夫に}}</ref><ref name="award1954">{{Wayback|url=http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/1954/|date=20090207075514|title=シネマ報知 ブルーリボン賞ヒストリー 初代男優賞の山村聰が監督で新人賞}}</ref><ref name="award1955">{{Wayback|url=http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/1955/|date=20090207075520mp_|title=シネマ報知 ブルーリボン賞ヒストリー 淡島千景が第1回以来の主演女優 森繁久彌と“夫婦受賞”}}</ref><ref name="award1956">{{Wayback|url=http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/1956/|date=20090207075528mp_|title=シネマ報知 ブルーリボン賞ヒストリー 「あなた買います」佐田啓二に初の主演男優賞}}</ref>。 当初は記者の[[親睦]]的組織として始まった東京映画記者会だったが、最大時には在京の日刊紙・通信社の加盟社は17社、会員数は80人を超えるまでに成長し、規模が大きくなるにつれ、選考に対する考え方に違いが生じるようになった<ref name="hochiblue"/>。大衆賞が欲しい[[美空ひばり]]が事前運動をしたという噂が広まったことがキッカケに{{efn|実際に美空ひばりが大衆賞を受賞したのは、第12回(1961年度)で授賞式は1962年1月25日<ref name="award1961">{{Wayback|url=http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/1961/|date=20090207075550mp_|title=シネマ報知 ブルーリボン賞ヒストリー 美空ひばりが念願の大衆賞}}</ref>。}}、一般紙よりスポーツ新聞記者の票数が多いことに対する不満が噴出し<ref name="ishizaka1986" />、[[1960年]](昭和35年)3月には大手新聞6社(読売新聞・朝日新聞・毎日新聞・[[産経新聞]]・[[東京新聞]]・[[日本経済新聞]])および[[共同通信社]]が脱退<ref name="hochiblue"/><ref name="award1960">{{Wayback|url=http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/1960/|date=20090207075528mp_|title=シネマ報知 松竹ヌーベル・バーグの旗手・大島渚監督が新人賞}}</ref>。これによりブルーリボン賞は第11回(1960年度)から[[スポーツ新聞|スポーツ紙]]を中心にした新聞社による主催となり、現在に至っている<ref name="hochiblue"/>{{efn|『映画賞・映画祭日本・外国受賞作品大全集』では、大手新聞などの脱退は「1961年」、第12回(1961年度)からスポーツ新聞主体となっている<ref name="ishizaka1986" />。}}。 [[1967年]](昭和42年)、新聞記者が審査員を務める[[日本レコード大賞]]の「黒い霧」の噂を気にした新聞社上層部が、〔[[賄賂]]を受け取る立場になりかねない〕記者会主催の賞を辞めるように厳命し<ref name="ishizaka1986" />、第17回(1966年度)を最後にブルーリボン賞は一時廃止される事となる<ref name="hochiblue"/><ref name="ishizaka1986" />。また、分裂した7社が設立した日本映画記者会賞や、テアトロン賞(東京演劇記者会)、[[ホワイトブロンズ賞]](地方新聞映画記者会)などの記者会賞も1966年度で一斉に廃止されている<ref name="hochiblue"/>。 しかし、若手記者を中心に再開を望む声があがるようになり、1973年(昭和48年)秋にブルーリボン復活準備委員会が発足され、1975年度に再スタートを果たした<ref name="hochiblue"/>。 == 選考・授賞式 == 毎年1月1日から12月31日までに、首都圏で封切られた全作品を対象とし、1月に選考が行われる。作品、監督、主演男女優、助演男女優、新人(監督も含み、映画デビュー2年以内が対象)、外国映画の各部門がある。年によってスタッフ賞や特別賞も選ばれる。前年末までに記者会員全員による投票で選ばれたノミネートの中から、選考会で合議ののち投票で過半数を得た作品・人に賞が贈られる。<ref name="hochiblue" />選考にあたっては、演技だけでなく、映画に対する姿勢や人格も対象とする<ref name="nikkan2014123">{{Cite news|和書|title = 第56回ブルーリボン賞発表 |newspaper = [[日刊スポーツ]] |date = 2014-01-23 |location = [[大阪]] |publisher = [[日刊スポーツ新聞西日本]] |page = 20 }}</ref>。 授賞式は2月に行われ、受賞者発表時の各紙で、授賞式への読者抽選無料招待の応募要項が掲載される。なお、「映画記者の手作りの賞」を標榜することから、この選考だけでなく授賞式会場の設営、照明・音響、観客の誘導といった裏方の仕事なども全て各紙の映画記者たちが行っている<ref name="hochiblue" /><ref name="miyaji" />。 進行役(司会者)は、前年度に主演男優賞、主演女優賞を受賞した俳優が担当する。 しかし新型コロナの影響で2020年度から開催していない。 == 由来と賞品 == 開始当初は主催者の財政が厳しいため受賞者への賞品も特になく、[[賞状]]を[[青色]]の[[リボン]]で結んで渡したことから「'''ブルーリボン賞'''」と呼ばれるようになり、のちに正式名称になった<ref name="hochiblue" />。現在も続くこの青いリボンには「[[空|青空]]の下で取材した記者が選考する」という意味が込められている<ref name="miyaji" /><ref name="nikkan2014123" />。この他に記者の象徴である[[ペン]]を賞品とし<ref name="nikkan2014123" />、受賞者名入りの[[モンブラン (企業)|モンブラン]]の[[万年筆]]1本が贈られる<ref name="hochiblue" />。 この逸話が当賞が日本映画界の最高栄誉とされる根拠とされている。 == 歴代各賞 == :(表記年は対象映画の年度であり、授賞式は翌年2月) === 第1回(1950年度) - 第10回(1959年度) === ==== 第1回(1950年度) ==== *作品賞『[[また逢う日まで (1950年の映画)|また逢う日まで]]』<ref name="award1950"/> *監督賞 [[今井正]]『また逢う日まで』<ref name="award1950"/> *主演男優賞 [[山村聰|山村聡]]『[[宗方姉妹]]』ほか<ref name="award1950"/> *主演女優賞 [[淡島千景]]『[[てんやわんや]]』『[[奥様に御用心]]』<ref name="award1950"/> *脚本賞 [[黒澤明]]、[[橋本忍]]『[[羅生門 (1950年の映画)|羅生門]]』<ref name="award1950"/> *撮影賞 [[中井朝一]]『[[偽れる盛装]]』<ref name="award1950"/> *新人賞 [[佐分利信]](監督として)『女性対男性』『[[執行猶予 (映画)|執行猶予]]』<ref name="award1950"/> *日本映画文化賞 [[松竹]] [[富士写真フィルム]](長編天然色劇映画『[[カルメン故郷に帰る]]』の製作)<ref name="award1950"/> ==== 第2回(1951年度) ==== *作品賞『[[めし]]』 *監督賞 [[小津安二郎]]『[[麦秋 (1951年の映画)|麦秋]]』 *主演男優賞 [[三船敏郎]]『[[馬喰一代]]』『[[女ごころ誰か知る]]』 *主演女優賞 [[原節子]]『麦秋』『めし』 *助演男優賞 [[笠智衆]]『[[我が家は楽し]]』『[[命美わし]]』 *助演女優賞 [[杉村春子]]『麦秋』『めし』『命美わし』 *外国作品賞『[[サンセット大通り (映画)|サンセット大通り]]』([[アメリカ合衆国|アメリカ]]) *脚本賞 [[田中澄江]]『我が家は楽し』『[[少年期 (往復書簡集)|少年期]]』『めし』 *撮影賞 [[厚田雄春]]『我が家は楽し』『[[あの丘越えて]]』『麦秋』 *新人賞 [[三國連太郎]]『[[善魔]]』『[[海の花火]]』 *日本映画文化賞 [[大映]](『羅生門』の輸出および『[[源氏物語 (1951年の映画)|源氏物語]]』の製作) ==== 第3回(1952年度) ==== *作品賞『[[稲妻 (映画)|稲妻]]』<ref name="allcinema1952">{{Cite web|和書|url=https://www.allcinema.net/award/791|title=1952年 第3回 ブルーリボン賞|publisher=[[allcinema]]|accessdate=2022-9-20}}</ref><ref name="cinemahochi1952">{{Cite web|和書|url=http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/1952/ |title=ブルーリボン賞ヒストリー 成瀬巳喜男監督が「稲妻」で2年連続の作品賞 |publisher=シネマ報知 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120529112631mp_/http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/1952/ |archivedate=2012-05-29|deadlinkdate=2022年9月}}</ref> *監督賞 [[成瀬巳喜男]]『稲妻』『[[おかあさん (映画)|おかあさん]]』<ref name="allcinema1952"/><ref name="cinemahochi1952"/> *主演男優賞 該当者なし<ref name="allcinema1952"/><ref name="cinemahochi1952"/> *主演女優賞 [[山田五十鈴]]『[[現代人 (映画)|現代人]]』『[[箱根風雲録]]』<ref name="allcinema1952"/><ref name="cinemahochi1952"/> *助演男優賞 [[加東大介]]『[[荒木又右衛門 決闘鍵屋の辻]]』『おかあさん』<ref name="allcinema1952"/><ref name="cinemahochi1952"/> *助演女優賞 [[中北千枝子]]『[[丘は花ざかり (1952年の映画)|丘は花ざかり]]』『稲妻』<ref name="allcinema1952"/><ref name="cinemahochi1952"/> *外国作品賞『[[チャップリンの殺人狂時代]]』([[アメリカ合衆国|アメリカ]])<ref name="allcinema1952"/><ref name="cinemahochi1952"/> *脚本賞 [[斎藤良輔 (脚本家)|斎藤良輔]]『[[本日休診]]』<ref name="allcinema1952"/><ref name="cinemahochi1952"/> *撮影賞 [[宮川一夫]]『[[千羽鶴_(小説)#映画化|千羽鶴]]』<ref name="allcinema1952"/><ref name="cinemahochi1952"/> *企画賞 [[永島一朗]]『おかあさん』<ref name="cinemahochi1952"/> ==== 第4回(1953年度) ==== *作品賞『[[にごりえ (映画)|にごりえ]]』 *監督賞 [[今井正]]『[[ひめゆりの塔]]』 *主演男優賞 該当者なし *主演女優賞 [[乙羽信子]]『[[縮図]]』『[[慾望]]』『[[女の一生 (ギ・ド・モーパッサン)#1953年版|女の一生]]』 *助演男優賞 [[進藤英太郎]]『女の一生』『[[祇園囃子 (1953年の映画)|祇園囃子]]』 *助演女優賞 [[浪花千栄子]]『祇園囃子』 *外国作品賞『[[禁じられた遊び]]』([[フランス]]) *脚本賞 [[木下惠介]]『[[日本の悲劇 (1953年の映画)|日本の悲劇]]』『[[恋文 (1953年の映画)|恋文]]』『[[まごころ (1953年の映画)|まごころ]]』『[[愛の砂丘]]』 *撮影賞 [[三浦光雄]]『[[煙突の見える場所]]』『[[雁 (1953年の映画)|雁]]』 *音楽賞 [[芥川也寸志]]『煙突の見える場所』『[[雲ながるる果てに]]』『にごりえ』 *新人賞 [[野村芳太郎]]『[[次男坊]]』『[[愚弟賢兄]]』『[[鞍馬天狗 青面夜叉]]』『[[きんぴら先生とお嬢さん]]』 *企画賞 [[伊藤武郎]]『にごりえ』『ひめゆりの塔』『雲ながるる果てに』 *大衆賞 [[長谷川一夫]] ==== 第5回(1954年度) ==== *作品賞『[[二十四の瞳 (映画)|二十四の瞳]]』 *監督賞 [[溝口健二]]『[[近松物語]]』 *主演男優賞 該当者なし *主演女優賞 [[高峰秀子]]『二十四の瞳』『[[女の園]]』『[[この広い空のどこかに]]』 *助演男優賞 [[東野英治郎]]『[[黒い潮]]』、『勲章』 *助演女優賞 [[望月優子]]『[[晩菊]]』 *外国作品賞『[[恐怖の報酬]]』([[フランス]]) *脚本賞 [[木下惠介]]『二十四の瞳』『女の園』 *音楽賞 [[早坂文雄]]『[[七人の侍]]』『近松物語』 *新人賞 [[山村聰|山村聡]]『[[黒い潮]]』 *日本映画文化賞 [[永田雅一]]、[[川喜多長政]](日本映画の海外進出に対する功績) ==== 第6回(1955年度) ==== *作品賞『[[浮雲 (映画)|浮雲]]』 *監督賞 [[豊田四郎]]『[[夫婦善哉 (映画)|夫婦善哉]]』 *主演男優賞 [[森繁久彌]]『夫婦善哉』 *主演女優賞 [[淡島千景]]『夫婦善哉』 *助演男優賞 [[加東大介]]『[[血槍富士]]』『[[ここに泉あり]]』 *助演女優賞 [[山田五十鈴]]『[[たけくらべ (1955年の映画)|たけくらべ]]』『石合戦』 *外国作品賞『[[エデンの東]]』([[アメリカ合衆国|アメリカ]]) *脚本賞 [[菊島隆三]]『[[男ありて]]』『[[六人の暗殺者]]』 *撮影賞 [[楠田浩之]]『[[遠い雲]]』『[[野菊の如き君なりき]]』 *音楽賞 [[伊福部昭]]『[[美女と怪龍]]』 *新人賞 [[小林恒夫 (映画監督)|小林恒夫]]『[[終電車の死美人]]』『[[暴力街]]』 *企画賞 [[坂上静翁]]『[[女中ッ子 (映画)|女中ッ子]]』『[[おふくろ]]』 *大衆賞 [[片岡千恵蔵]](『血槍富士』『飛龍無双』の演技と長年映画界に尽くした努力) *日本映画文化賞 [[岩波映画製作所]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/1955/ |title=シネマ報知 ブルーリボン賞ヒストリー 淡島千景が第1回以来の主演女優 森繁久彌と“夫婦受賞” |accessdate=2012年2月12日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121130211031/http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/1955/ |archivedate=2012年11月30日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref> ==== 第7回(1956年度) ==== *作品賞『[[真昼の暗黒 (映画)|真昼の暗黒]]』 *監督賞 [[今井正]]『真昼の暗黒』 *主演男優賞 [[佐田啓二]]『[[あなた買います]]』『[[台風騒動記]]』 *主演女優賞 [[山田五十鈴]]『[[母子像]]』『[[猫と庄造と二人のをんな]]』『[[流れる]]』 *助演男優賞 [[多々良純]]『[[鶴八鶴次郎]]』『あなた買います』『台風騒動記』 *助演女優賞 [[久我美子]]『[[夕やけ雲]]』『[[女囚と共に]]』『[[太陽とバラ]]』 *外国作品賞『[[居酒屋 (1956年の映画)|居酒屋]]』([[フランス]]) *脚本賞 [[橋本忍]]『真昼の暗黒』 *撮影賞 [[三浦光雄]]『[[白夫人の妖恋]]』『猫と庄造と二人のをんな』 *音楽賞 [[伊福部昭]]『[[ビルマの竪琴]]』『真昼の暗黒』『鬼火』 *新人賞 [[川頭義郎]]『[[子供の眼]]』『涙』 *大衆賞 [[市川右太衛門]]『[[旗本退屈男]]』 *日本映画文化賞 [[溝口健二]](日本映画の発展に尽くした功績) ==== 第8回(1957年度) ==== *作品賞『[[米 (映画)|米]]』 *監督賞 [[今井正]]『米』『[[純愛物語]]』 *主演男優賞 [[フランキー堺]]『[[幕末太陽傳]]』『[[倖せは俺等のねがい]]』 *主演女優賞 [[望月優子]]『米』『[[うなぎとり]]』 *助演男優賞 [[三井弘次]]『[[気違い部落]]』『[[どん底 (1957年の映画)|どん底]]』 *助演女優賞 [[淡路恵子]]『[[太夫さんより 女体は哀しく]]』『[[下町 (映画)|下町]]』 *外国作品賞『[[道 (1954年の映画)|道]]』([[イタリア]]) *脚本賞 [[菊島隆三]]『気違い部落』 *技術賞 [[村木与四郎]]『[[蜘蛛巣城]]』『どん底』の美術 *音楽賞 [[團伊玖磨]]『[[雪国 (小説)|雪国]]』『メソポタミア』 *新人賞 [[石原裕次郎]]『[[勝利者 (1957年の映画)|勝利者]]』 *企画賞 [[マキノ光雄]]『米』『純愛物語』『[[どたんば]]』『[[爆音と大地]]』 *大衆賞 [[渡辺邦男]](大衆に親しまれる映画を数多く作った功績) *特別賞 [[横山隆一]](漫画映画『ふくすけ』を作ったおとぎプロの製作活動に対して) *日本映画文化賞 マキノ光雄(その生涯を通じて日本映画界に尽くした功績) ==== 第9回(1958年度) ==== *作品賞『[[隠し砦の三悪人]]』 *監督賞 [[田坂具隆]]『[[陽のあたる坂道 (小説)|陽のあたる坂道]]』 *主演男優賞 [[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]]『[[炎上 (映画)|炎上]]』『[[弁天小僧 (1958年の映画)|弁天小僧]]』 *主演女優賞 [[山本富士子]]『[[白鷺]]』『[[彼岸花_(映画)|彼岸花]]』 *助演男優賞 [[中村鴈治郎 (2代目)]]『炎上』『[[鰯雲]]』 *助演女優賞 [[渡辺美佐子]]『[[果てしなき欲望]]』 *外国作品賞『[[老人と海]]』([[アメリカ合衆国|アメリカ]]) *脚本賞 [[橋本忍]]『[[張込み]]』『鰯雲』 *撮影賞 [[宮川一夫]]『炎上』『弁天小僧』 *技術賞 [[藤林甲]]『陽のあたる坂道』『[[紅の翼]]』の照明 *音楽賞 [[芥川也寸志]]『[[裸の太陽 (映画)|裸の太陽]]』 *新人賞 [[今村昌平]]『[[盗まれた欲情]]』『[[果てしなき欲望]]』 *大衆賞 [[萬屋錦之介|中村錦之助]]『[[一心太助 天下の一大事]]』 *特別賞 『[[白蛇伝 (1958年の映画)|白蛇伝]]』製作スタッフ ==== 第10回(1959年度) ==== *作品賞『[[キクとイサム]]』 *監督賞 [[市川崑]]『[[鍵 (1959年の映画)|鍵]]』『[[野火 (小説)|野火]]』 *主演男優賞 [[長門裕之]]『[[にあんちゃん]]』 *主演女優賞 [[北林谷栄]]『キクとイサム』 *助演男優賞 [[小沢昭一]]『にあんちゃん』 *助演女優賞 [[新珠三千代]]『[[人間の條件 (映画)|人間の條件 第1・2部]]』『[[人間の條件 (映画)|人間の條件 第3・4部]]』『[[私は貝になりたい]]』 *外国作品賞『[[十二人の怒れる男]]』([[アメリカ合衆国|アメリカ]]) *脚本賞 [[水木洋子]]『キクとイサム』 *撮影賞 [[小林節雄]]『野火』 *技術賞 [[足立伶二郎]]の殺陣と東映剣会 *音楽賞 [[林光]]『[[第五福竜丸 (映画)|第五福竜丸]]』『[[荷車の歌]]』『[[人間の壁]]』 *企画賞 山本プロダクション『荷車の歌』『人間の壁』 *大衆賞 [[月形龍之介]](娯楽映画に尽くした功績) *特別賞 『[[警視庁物語]]』シリーズのスタッフ、キャスト === 第11回(1960年度) - 第17回(1966年度) === ==== 第11回(1960年度) ==== *作品賞『[[おとうと (1960年の映画)|おとうと]]』 *監督賞 [[市川崑]]『おとうと』 *主演男優賞 [[三國連太郎]]『[[大いなる旅路]]』 *主演女優賞 [[岸惠子]]『おとうと』 *助演男優賞 [[織田政雄]]『[[笛吹川 (映画)|笛吹川]]』『[[墨東綺譚]]』 *助演女優賞 [[中村玉緒]]『[[ぼんち (小説)|ぼんち]]』『[[大菩薩峠 (小説)|大菩薩峠]]』 *外国作品賞『[[渚にて (小説)#映画|渚にて]]』(アメリカ) *脚本賞 該当者なし *撮影賞 [[宮川一夫]]『おとうと』 *音楽賞 [[眞鍋理一郎]]『[[太陽の墓場]]』 *新人賞 [[大島渚]]『[[青春残酷物語]]』 *企画賞 [[新藤兼人]]『[[裸の島]]』 *大衆賞 [[小林桂樹]](一連のサラリーマンものに対して) *特別賞 『[[武器なき斗い]]』の[[山本薩夫]]ほか製作スタッフ ==== 第12回(1961年度) ==== *作品賞『[[豚と軍艦]]』 *監督賞 [[伊藤大輔 (映画監督)|伊藤大輔]]『[[反逆児 (1961年の映画)|反逆児]]』 *主演男優賞 [[三船敏郎]]『[[用心棒]]』『[[価値ある男]]』([[メキシコ]]) *主演女優賞 [[若尾文子]]『[[女は二度生まれる]]』『[[妻は告白する]]』『[[婚期]]』 *助演男優賞 [[山村聰]]『[[あれが港の灯だ]]』『河口』 *助演女優賞 [[高千穂ひづる]]『[[背徳のメス]]』『[[ゼロの焦点]]』 *外国作品賞『[[ふたりの女 (1960年の映画)|ふたりの女]]』([[イタリア]]) *脚本賞 [[松山善三]]『[[名もなく貧しく美しく]]』『[[二人の息子]]』 *技術賞 『[[釈迦 (映画)|釈迦]]』の大映技術陣 *音楽賞 [[佐藤勝]]『[[南の風と波]]』『[[はだかっ子]]』 *新人賞 [[岩下志麻]]『[[わが恋の旅路]]』 *大衆賞 [[美空ひばり]] *特別賞 三船敏郎 ==== 第13回(1962年度) ==== *作品賞『[[キューポラのある街 (映画)|キューポラのある街]]』 *監督賞 [[市川崑]]『[[私は二歳]]』『[[破戒_(小説)#1962年版|破戒]]』 *主演男優賞 [[仲代達矢]]『[[切腹 (映画)|切腹]]』 *主演女優賞 [[吉永小百合]]『キューポラのある街』 *助演男優賞 [[伊藤雄之助]]『[[忍びの者]]』 *助演女優賞 [[岸田今日子]]『破戒』『[[秋刀魚の味]]』 *外国作品賞『[[怒りの葡萄 (映画)|怒りの葡萄]]』([[アメリカ合衆国|アメリカ]]) *脚本賞 [[橋本忍]]『切腹』 *技術賞 [[鈴木孝俊]]『[[宮本武蔵 (1961年の映画)|宮本武蔵]]』『[[恋や恋なすな恋]]』の美術 *音楽賞 [[武満徹]]『切腹』 *新人賞 [[浦山桐郎]]『キューポラのある街』 *企画賞 市川崑『私は二歳』 *大衆賞 [[伴淳三郎]] *特別賞 [[大河内傳次郎]](長年日本映画界に尽くした功績) ==== 第14回(1963年度) ==== *作品賞『[[にっぽん昆虫記]]』 *監督賞 [[今村昌平]]『にっぽん昆虫記』 *主演男優賞 [[萬屋錦之介|中村錦之助]]『[[武士道残酷物語]]』 *主演女優賞 [[左幸子]]『にっぽん昆虫記』『[[彼女と彼 (1963年の映画)|彼女と彼]]』 *助演男優賞 [[河原崎長一郎]]『[[五番町夕霧楼]]』 *助演女優賞 [[南田洋子]]『[[競輪上人行状記]]』『[[サムライの子]]』 *外国作品賞『[[シベールの日曜日]]』([[フランス]]) *脚本賞 [[今村昌平]]、[[長谷部慶次]]『にっぽん昆虫記』 *撮影賞 [[成島東一郎]]『[[古都 (1963年の映画)|古都]]』 *音楽賞 [[武満徹]]『古都』 *新人賞 [[佐藤純彌]]『[[陸軍残虐物語]]』 *企画賞 [[石原裕次郎]]、[[中井景]]『[[太平洋ひとりぼっち]]』 *大衆賞 [[勝新太郎]]『[[座頭市]]』シリーズ *特別賞 [[川島雄三]](数々の異色作を残した功績) *日本映画文化賞 [[小津安二郎]] ==== 第15回(1964年度) ==== *作品賞『[[砂の女]]』 *監督賞 [[勅使河原宏]]『砂の女』 *主演男優賞 [[小林桂樹]]『[[われ一粒の麦なれど]]』 *主演女優賞 [[岩下志麻]]『[[五瓣の椿]]』 *助演男優賞 [[西村晃]]『[[赤い殺意]]』 *助演女優賞 [[吉村実子]]『[[鬼婆 (映画)|鬼婆]]』 *外国作品賞『[[野のユリ]]』([[アメリカ合衆国|アメリカ]]) *脚本賞 [[国弘威雄]]『[[幕末残酷物語]]』 *撮影賞 [[黒田清巳]]『鬼婆』 *新人賞 [[緑魔子]]『[[二匹の牝犬]]』 *企画賞 [[佐藤一郎 (映画プロデューサー)|佐藤一郎]]、[[椎野英之]]『われ一粒の麦なれど』 *大衆賞 [[吉永小百合]] *特別賞 [[佐田啓二]](映画人としての業績) ==== 第16回(1965年度) ==== *作品賞『[[赤ひげ]]』 *監督賞 [[山本薩夫]]『[[にっぽん泥棒物語]]』『[[証人の椅子]]』 *主演男優賞 [[三船敏郎]]『赤ひげ』 *主演女優賞 [[若尾文子]]『[[清作の妻 (1965年の映画)|清作の妻]]』『[[波影]]』 *助演男優賞 [[田村高廣]]『[[兵隊やくざ]]』 *助演女優賞 [[二木てるみ]]『赤ひげ』 *外国作品賞『[[メリー・ポピンズ]]』([[アメリカ合衆国|アメリカ]]) *脚本賞 [[鈴木尚之]]『[[飢餓海峡]]』 *撮影賞 [[岡崎宏三]]『[[六條ゆきやま紬]]』 *音楽賞 [[黛敏郎]]『[[東京オリンピック (映画)|東京オリンピック]]』 *新人賞 [[熊井啓]]『[[日本列島 (映画)|日本列島]]』 *大衆賞 [[植木等]] *特別賞 本宮方式映画教室運動 *日本映画文化賞 [[市川崑]]と『東京オリンピック』 ==== 第17回(1966年度) ==== *作品賞『[[白い巨塔 (映画)|白い巨塔]]』 *監督賞 [[山田洋次]]『[[運が良けりゃ]]』 *主演男優賞 [[ハナ肇]]『運が良けりゃ』 *主演女優賞 [[司葉子]]『[[紀ノ川 (小説)|紀ノ川]]』 *助演男優賞 [[中村嘉葎雄|中村賀津雄]]『[[湖の琴]]』 *助演女優賞 [[乙羽信子]]『[[本能 (映画)|本能]]』 *外国作品賞『[[男と女]]』([[フランス]]) *脚本賞 [[橋本忍]]『[[白い巨塔 (映画)|白い巨塔]]』 *技術賞 『[[大魔神]]』の特撮グループ *音楽賞 [[武満徹]]『紀ノ川』 *新人賞 [[渡哲也]]『[[愛と死の記録]]』ほか *大衆賞 [[加山雄三]]『[[若大将シリーズ]]』ほか === 第18回(1975年度) - 第20回(1977年度) === ==== 第18回(1975年度) ==== *作品賞『[[化石 (小説)|化石]]』 *監督賞 [[深作欣二]]『[[仁義の墓場]]』『[[県警対組織暴力]]』 *主演男優賞 [[菅原文太]]『県警対組織暴力』『[[トラック野郎・御意見無用]]』『[[トラック野郎・爆走一番星]]』 *主演女優賞 [[浅丘ルリ子]]『[[男はつらいよ 寅次郎相合い傘]]』 *助演男優賞 [[原田芳雄]]『[[祭りの準備]]』『[[田園に死す]]』 *助演女優賞 [[倍賞千恵子]]『男はつらいよ 寅次郎相合い傘』 *外国作品賞『[[レニー・ブルース (映画)|レニー・ブルース]]』([[アメリカ合衆国|アメリカ]]) *新人賞 [[三浦友和]]『[[伊豆の踊子 (1974年の映画)|伊豆の踊子]]』ほか *新人賞 [[大竹しのぶ]]『[[青春の門]]』 ==== 第19回(1976年度) ==== *作品賞『[[大地の子守歌]]』 *監督賞 [[山根成之]]『[[さらば夏の光よ]]』『[[パーマネント・ブルー 真夏の恋]]』 *主演男優賞 [[渡哲也]]『[[やくざの墓場 くちなしの花]]』 *主演女優賞 [[秋吉久美子]]『さらば夏の光よ』『[[あにいもうと]]』 *助演男優賞 [[大滝秀治]]『[[不毛地帯#映画版|不毛地帯]]』『あにいもうと』 *助演女優賞 [[高峰三枝子]]『[[犬神家の一族 (1976年の映画)|犬神家の一族]]』 *外国作品賞『[[タクシードライバー (1976年の映画)|タクシードライバー]]』([[アメリカ合衆国|アメリカ]]) *新人賞 [[原田美枝子]]『[[大地の子守歌]]』『[[青春の殺人者]]』など ==== 第20回(1977年度) ==== *作品賞『[[幸福の黄色いハンカチ]]』 *監督賞 [[山田洋次]]『幸福の黄色いハンカチ』 *主演男優賞 [[高倉健]]『[[八甲田山 (映画)|八甲田山]]』『幸福の黄色いハンカチ』 *主演女優賞 [[岩下志麻]]『[[はなれ瞽女おりん]]』 *助演男優賞 [[若山富三郎]]『[[姿三四郎]]』『[[悪魔の手毬唄]]』 *助演女優賞 [[桃井かおり]]『幸福の黄色いハンカチ』 *外国作品賞『[[ロッキー (映画)|ロッキー]]』([[アメリカ合衆国|アメリカ]]) *新人賞 [[大林宣彦]]『[[ハウス (映画)|ハウス]]』 === 第21回(1978年度) - 第30回(1987年度) === ==== 第21回(1978年度) ==== *作品賞『[[サード (映画)|サード]]』 *監督賞 [[野村芳太郎]]『[[鬼畜 (松本清張)|鬼畜]]』『[[事件 (小説)|事件]]』 *主演男優賞 [[緒形拳]]『鬼畜』 *主演女優賞 [[梶芽衣子]]『[[曽根崎心中]]』 *助演男優賞 [[渡瀬恒彦]]『事件』『[[赤穂城断絶]]』 *助演女優賞 [[宮下順子]]『[[ダイナマイトどんどん]]』『[[雲霧仁左衛門]]』 *外国作品賞『[[家族の肖像 (映画)|家族の肖像]]』([[イタリア]]/[[フランス]]) *新人賞 [[永島敏行]]『サード』<ref>{{Wayback|url=http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/1978/|date=20120219003737|title=シネマ報知 ブルーリボン賞ヒストリー 野村芳太郎監督が“一家”で4冠}}</ref> ==== 第22回(1979年度) ==== *作品賞『[[復讐するは我にあり]]』 *監督賞 [[今村昌平]]『復讐するは我にあり』 *主演男優賞 [[若山富三郎]]『[[衝動殺人 息子よ]]』 *主演女優賞 [[桃井かおり]]『[[もう頬づえはつかない]]』『[[神様のくれた赤ん坊]]』『[[男はつらいよ 翔んでる寅次郎]]』 *助演男優賞 [[三國連太郎]]『復讐するは我にあり』 *助演女優賞 [[倍賞美津子]]『復讐するは我にあり』 *外国作品賞『[[ディア・ハンター]]』([[アメリカ合衆国|アメリカ]]) *新人賞 [[金田賢一]]『[[正午なり]]』 *スタッフ賞 [[千葉真一]]と[[ジャパンアクションクラブ]] *特別賞 [[高野悦子 (映画運動家)|高野悦子]]と[[岩波ホール]]<ref>{{Wayback|url=http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/1979/|date=20120219003741|title=シネマ報知 ブルーリボン賞ヒストリー 桃井かおり 初の主演女優賞に「これが欲しかったのよね」}}</ref> ==== 第23回(1980年度) ==== *作品賞『[[影武者 (映画)|影武者]]』 *監督賞 [[鈴木清順]] 『[[ツィゴイネルワイゼン (映画)|ツィゴイネルワイゼン]]』 *主演男優賞 [[仲代達矢]] 『影武者』、『[[二百三高地]]』 *主演女優賞 [[十朱幸代]] 『[[震える舌]]』 *助演男優賞 [[丹波哲郎]] 『二百三高地』 *助演女優賞 [[加賀まりこ]] 『[[夕暮まで]]』 *外国作品賞『[[クレイマー、クレイマー]]』([[アメリカ合衆国|アメリカ]]) *新人賞 [[隆大介]] 『[[影武者]]』 *スタッフ賞 [[石井聰亙]]と『[[狂い咲きサンダーロード]]』のスタッフ *特別賞 『ツィゴイネルワイゼン』とシネマ・プラセット<ref>{{Wayback|url=http://cinemahochi.yomiuri.co.jp:80/b_award/1980/|date=20130115223235|title=シネマ報知 ブルーリボン賞ヒストリー 黒澤明監督3度目の作品賞 仲代達矢が隆大介と師弟受賞}}</ref> ==== 第24回(1981年度) ==== *作品賞『[[泥の河]]』 *監督賞 [[根岸吉太郎]]『[[遠雷 (映画)|遠雷]]』『[[狂った果実 (1981年の映画)|狂った果実]]』 *主演男優賞 [[永島敏行]]『遠雷』 *主演女優賞 [[松坂慶子]]『[[青春の門]]』『[[男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎]]』 *助演男優賞 [[津川雅彦]]『[[マノン (映画)|マノン]]』 *助演女優賞 [[田中裕子]]『[[北斎漫画]]』『[[ええじゃないか (映画)|ええじゃないか]]』 *外国作品賞『[[ブリキの太鼓]]』([[西ドイツ]]/[[フランス]]) *新人賞 [[佐藤浩市]]『青春の門』『マノン』 *スタッフ賞 [[安藤庄平]]『泥の河』『遠雷』 *特別賞 [[日活ロマンポルノ]]<ref>{{Wayback|url=http://cinemahochi.yomiuri.co.jp:80/b_award/1981/|date=20090207075655|title=シネマ報知 ブルーリボン賞ヒストリー 佐藤浩市が父・三國連太郎に続く新人賞}}</ref> ==== 第25回(1982年度) ==== *作品賞『[[蒲田行進曲]]』 *監督賞 [[深作欣二]]『蒲田行進曲』 *主演男優賞 [[渥美清]]『[[男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋]]』『[[男はつらいよ 花も嵐も寅次郎]]』 *主演女優賞 [[夏目雅子]]『[[鬼龍院花子の生涯]]』 *助演男優賞 [[柄本明]]『男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋』『[[道頓堀川 (映画)|道頓堀川]]』 *助演女優賞 [[山口美也子]]『[[さらば愛しき大地]]』 *外国作品賞『[[E.T.]]』([[アメリカ合衆国|アメリカ]]) *新人賞 [[美保純]]『[[ピンクのカーテン]]』ほか ==== 第26回(1983年度) ==== *作品賞『[[東京裁判 (映画)|東京裁判]]』 *監督賞 [[森田芳光]]『[[家族ゲーム]]』 *主演男優賞 [[緒形拳]]『[[楢山節考]]』『[[陽暉楼]]』『[[魚影の群れ]]』『[[オキナワの少年 (映画)|OKINAWAN BOYS オキナワの少年]]』 *主演女優賞 [[田中裕子]]『[[天城越え (松本清張)|天城越え]]』 *助演男優賞 [[田中邦衛]]『[[逃れの街]]』『[[居酒屋兆治]]』 *助演女優賞 [[永島暎子]]『[[竜二 (映画)|竜二]]』 *外国作品賞『[[フラッシュダンス]]』([[アメリカ合衆国|アメリカ]]) *新人賞 [[原田知世]]『[[時をかける少女 (1983年の映画)|時をかける少女]]』 *新人賞 [[金子正次]]『竜二』 ==== 第27回(1984年度) ==== *作品賞『[[瀬戸内少年野球団]]』 *監督賞 [[伊丹十三]]『[[お葬式]]』 *主演男優賞 [[山﨑努]]『お葬式』『[[さらば箱舟]]』 *主演女優賞 [[薬師丸ひろ子]]『[[Wの悲劇 (映画)|Wの悲劇]]』 *助演男優賞 [[高品格]]『[[麻雀放浪記]]』 *助演女優賞 [[三田佳子]]『Wの悲劇』『[[序の舞 (映画)|序の舞]]』 *外国作品賞『[[ライトスタッフ]]』([[アメリカ合衆国|アメリカ]]) *新人賞 [[吉川晃司]]『[[すかんぴんウォーク]]』 ==== 第28回(1985年度) ==== *作品賞『[[乱 (映画)|乱]]』 *監督賞 [[黒澤明]]『乱』 *主演男優賞 [[千秋実]]『[[花いちもんめ]]』 *主演女優賞 [[十朱幸代]]『[[花いちもんめ]]』『[[櫂]]』 *助演男優賞 [[ビートたけし]]『[[夜叉 (映画)|夜叉]]』 *助演女優賞 [[藤真利子]]『[[薄化粧]]』『[[危険な女たち]]』 *外国作品賞『[[刑事ジョン・ブック 目撃者]]』([[アメリカ合衆国|アメリカ]]) *新人賞 [[斉藤由貴]]『雪の断章 - 情熱 -』 ==== 第29回(1986年度) ==== *作品賞『[[ウホッホ探険隊 (映画)|ウホッホ探険隊]]』 *監督賞 [[熊井啓]]『[[海と毒薬 (映画)|海と毒薬]]』 *主演男優賞 [[田中邦衛]]『ウホッホ探険隊』 *主演女優賞 [[いしだあゆみ]]『[[火宅の人]]』『[[時計 Adieu l'Hiver]]』 *助演男優賞 [[すまけい]]『[[キネマの天地]]』 *助演女優賞 [[大竹しのぶ]]『[[波光きらめく果て]]』 *外国作品賞『[[カラーパープル (映画)|カラーパープル]]』([[アメリカ合衆国|アメリカ]]) *新人賞 [[有森也実]]『[[キネマの天地]]』 ==== 第30回(1987年度) ==== *作品賞『[[マルサの女]]』 *監督賞 [[原一男]]『[[ゆきゆきて、神軍]]』 *主演男優賞 [[陣内孝則]]『[[ちょうちん (映画)|ちょうちん]]』 *主演女優賞 [[三田佳子]]『[[別れぬ理由]]』 *助演男優賞 [[三船敏郎]]『[[男はつらいよ 知床慕情]]』 *助演女優賞 [[秋吉久美子]]『[[夜汽車 (映画)|夜汽車]]』 *外国作品賞『[[アンタッチャブル (映画)|アンタッチャブル]]』([[アメリカ合衆国|アメリカ]]) *新人賞 [[髙嶋政宏]]『[[トットチャンネル]]』『[[BU・SU]]』 === 第31回(1988年度) - 第40回(1997年度) === ==== 第31回(1988年度) ==== *作品賞『[[敦煌 (映画)|敦煌]]』 *監督賞 [[和田誠]]『[[快盗ルビイ]]』 *主演男優賞 [[ハナ肇]]『[[会社物語 MEMORIES OF YOU]]』 *主演女優賞 [[桃井かおり]]『[[木村家の人びと]]』『[[噛む女 (1988年の映画)|噛む女]]』『[[TOMORROW 明日]]』 *助演男優賞 [[片岡鶴太郎]]『[[異人たちとの夏]]』 *助演女優賞 [[秋吉久美子]]『異人たちとの夏』 *新人賞 [[緒形直人]]『[[優駿 ORACION]]』 *外国作品賞『[[ベルリン・天使の詩]]』([[西ドイツ]]/[[フランス]]) *特別賞 『[[となりのトトロ]]』、『[[火垂るの墓]]』 ==== 第32回(1989年度) ==== *作品賞『[[どついたるねん]]』 *監督賞 [[舛田利雄]]『[[社葬 (映画)|社葬]]』 *主演男優賞 [[三國連太郎]]『[[利休 (映画)|利休]]』 *主演女優賞 [[田中好子]]『[[黒い雨 (映画)|黒い雨]]』 *助演男優賞 [[板東英二]]『[[あ・うん]]』 *助演女優賞 [[南果歩]]『[[夢見通りの人々]]』『[[せんせい (1989年の映画)|せんせい]]』『[[螢 (映画)|螢]]』『[[226 (映画)|226]]』 *新人賞 [[川原亜矢子]]『[[キッチン (小説)#1989年版|キッチン]]』 *外国作品賞『[[ダイ・ハード]]』([[アメリカ合衆国|アメリカ]]) ==== 第33回(1990年度) ==== *作品賞『[[少年時代]]』 *監督賞 [[篠田正浩]]『少年時代』 *主演男優賞 [[原田芳雄]]『[[浪人街]]』『[[われに撃つ用意あり]]』 *主演女優賞 [[松坂慶子]]『[[死の棘]]』 *助演男優賞 [[柳葉敏郎]]『[[さらば愛しのやくざ]]』 *助演女優賞 [[中嶋朋子]]『[[TUGUMI#映画|つぐみ]]』 *新人賞 [[牧瀬里穂]]『[[東京上空いらっしゃいませ]]』『つぐみ』、[[松岡錠司]]『[[バタアシ金魚]]』 *外国作品賞『[[フィールド・オブ・ドリームス]]』([[アメリカ合衆国|アメリカ]]) *スタッフ賞 [[桑田佳祐]]と音楽スタッフ『[[稲村ジェーン]]』 ==== 第34回(1991年度) ==== *作品賞『[[あの夏、いちばん静かな海。]]』 *監督賞 [[ビートたけし|北野武]]『あの夏、いちばん静かな海。』 *主演男優賞 [[竹中直人]]『[[無能の人]]』 *主演女優賞 [[工藤夕貴]]『[[戦争と青春]]』 *助演男優賞 [[永瀬正敏]]『[[息子 (映画)|息子]]』 *助演女優賞 [[風吹ジュン]]『無能の人』 *新人賞 [[石田ひかり]]『[[ふたり]]』『[[咬みつきたい]]』『[[あいつ (映画)|あいつ]]』 *外国作品賞『[[羊たちの沈黙 (映画)|羊たちの沈黙]]』([[アメリカ合衆国|アメリカ]]) ==== 第35回(1992年度) ==== *作品賞『[[シコふんじゃった。]]』 *監督賞 [[周防正行]]『シコふんじゃった。』 *主演男優賞 [[本木雅弘]]『シコふんじゃった。』 *主演女優賞 [[三田佳子]]『[[遠き落日]]』 *助演男優賞 [[室田日出男]]『[[修羅の伝説]]』『[[死んでもいい (1992年の映画)|死んでもいい]]』 *助演女優賞 [[藤谷美和子]]『[[女殺油地獄]]』『[[寝盗られ宗介]]』 *新人賞 [[墨田ユキ]]『[[墨東綺譚]]』 *外国作品賞『[[JFK (映画)|JFK]]』([[アメリカ合衆国|アメリカ]]) ==== 第36回(1993年度) ==== *作品賞『[[月はどっちに出ている]]』 *監督賞 [[滝田洋二郎]]『[[僕らはみんな生きている]]』 *主演男優賞 [[真田広之]]『僕らはみんな生きている』 *主演女優賞 [[ルビー・モレノ]]『月はどっちに出ている』 *助演男優賞 [[所ジョージ]]『[[まあだだよ]]』 *助演女優賞 [[香川京子]]『まあだだよ』 *新人賞 [[岸谷五朗]]『月はどっちに出ている』 *新人賞 [[遠山景織子]]『[[高校教師 (1993年の映画)|高校教師]]』 *外国作品賞『[[ジュラシックパーク]]』([[アメリカ合衆国|アメリカ]]) *特別賞 [[萩本欽一]]『[[欽ちゃんのシネマジャック]]』 ==== 第37回(1994年度) ==== *作品賞『[[棒の哀しみ]]』 *監督賞 [[神代辰巳]]『棒の哀しみ』 *主演男優賞 [[奥田瑛二]]『棒の哀しみ』 *主演女優賞 [[高岡早紀]]『[[忠臣蔵外伝 四谷怪談]]』 *助演男優賞 [[中村敦夫]]『[[集団左遷]]』 *助演女優賞 [[室井滋]]『[[居酒屋ゆうれい]]』 *新人賞 [[鈴木砂羽]]『[[愛の新世界]]』 *外国作品賞『[[パルプ・フィクション]]』([[アメリカ合衆国|アメリカ]]) ==== 第38回(1995年度) ==== *作品賞 『[[午後の遺言状]]』 *監督賞 [[金子修介]]『[[ガメラ 大怪獣空中決戦]]』 *主演男優賞 [[真田広之]]『[[写楽 (映画)|写楽]]』『[[EAST MEETS WEST]]』『[[緊急呼出し エマージェンシー・コール]]』 *主演女優賞 [[中山美穂]]『[[Love Letter (1995年の映画)|Love Letter]]』 *助演男優賞 [[萩原聖人]]『[[マークスの山]]』 *助演女優賞 [[中山忍]]『ガメラ 大怪獣空中決戦』 *新人賞 [[江角マキコ]]『[[幻の光]]』 *外国作品賞 『[[マディソン郡の橋 (映画)|マディソン郡の橋]]』([[アメリカ合衆国|アメリカ]]) *特別賞 [[渥美清]] ==== 第39回(1996年度) ==== *作品賞『[[岸和田少年愚連隊]]』 *監督賞 [[ビートたけし|北野武]]『[[キッズ・リターン]]』 *主演男優賞 [[役所広司]]『[[Shall we ダンス?]]』『[[眠る男]]』『[[シャブ極道]]』 *主演女優賞 該当者なし *助演男優賞 [[渡哲也]]『[[わが心の銀河鉄道 宮沢賢治物語]]』 *助演女優賞 [[岸田今日子]]『[[学校の怪談 (映画)#『学校の怪談2』(1996年)|学校の怪談2]]』『[[八つ墓村]]』 *新人賞 [[ナインティナイン]]([[岡村隆史]]・[[矢部浩之]])『岸和田少年愚連隊』 *外国作品賞『[[セブン (映画)|セブン]]』([[アメリカ合衆国|アメリカ]]) *特別賞 [[渥美清]]、[[群馬県]]『[[眠る男]]』 ==== 第40回(1997年度) ==== *作品賞『[[バウンス ko GALS]]』 *監督賞 [[原田眞人]]『バウンス ko GALS』 *主演男優賞 [[役所広司]]『[[うなぎ (映画)|うなぎ]]』『[[失楽園 (映画)|失楽園]]』『[[CURE (映画)|CURE]]』 *主演女優賞 [[桃井かおり]]『[[東京夜曲]]』 *助演男優賞 [[西村雅彦]]『[[マルタイの女]]』『[[ラヂオの時間]]』 *助演女優賞 [[倍賞美津子]]『うなぎ』、『東京夜曲』 *新人賞 [[三谷幸喜]]『ラヂオの時間』、[[佐藤仁美]]『バウンス ko GALS』 *外国作品賞『[[タイタニック (1997年の映画)|タイタニック]]』([[アメリカ合衆国|アメリカ]]) *特別賞『[[もののけ姫]]』 === 第41回(1998年度) - 第50回(2007年度) === ==== 第41回(1998年度) ==== *作品賞『[[HANA-BI]]』 *監督賞 [[ビートたけし|北野武]]『HANA-BI』 *主演男優賞 [[ビートたけし]]『HANA-BI』 *主演女優賞 [[原田美枝子]]『[[愛を乞うひと]]』 *助演男優賞 [[大杉漣]]『HANA-BI』 *助演女優賞 [[余貴美子]]『[[学校 (映画)|学校III]]』『[[あ、春]]』 *新人賞 [[田中麗奈]]『[[がんばっていきまっしょい]]』 *外国作品賞『[[L.A.コンフィデンシャル]]』([[アメリカ合衆国|アメリカ]]) *特別賞 [[黒澤明]]、[[木下惠介]] ==== 第42回(1999年度) ==== *作品賞『[[御法度 (映画)|御法度]]』 *監督賞 [[大島渚]]『御法度』 *主演男優賞 [[高倉健]]『[[鉄道員 (小説)|鉄道員]]』 *主演女優賞 [[鈴木京香]]『[[39 刑法第三十九条]]』 *助演男優賞 [[武田真治]]『御法度』 *助演女優賞 [[富司純子]]『[[おもちゃ (1999年の映画)|おもちゃ]]』 *新人賞 [[松田龍平]]『御法度』 *外国作品賞『[[ライフ・イズ・ビューティフル]]』([[イタリア]]) ==== 第43回(2000年度) ==== *作品賞『[[バトル・ロワイアル (映画)|バトル・ロワイアル]]』 *監督賞 [[阪本順治]]『[[顔 (2000年の映画)|顔]]』 *主演男優賞 [[織田裕二]]『[[ホワイトアウト (小説)|ホワイトアウト]]』 *主演女優賞 [[吉永小百合]]『[[長崎ぶらぶら節]]』 *助演男優賞 [[香川照之]]『スリ』『[[独立少年合唱団]]』 *助演女優賞 [[宮崎美子]]『[[雨あがる]]』 *新人賞 [[藤原竜也]]『バトル・ロワイアル』 *外国作品賞『[[ダンサー・イン・ザ・ダーク]]』([[デンマーク]]) ==== 第44回(2001年度) ==== *作品賞『[[千と千尋の神隠し]]』 *監督賞 [[行定勲]]『[[GO (小説)|GO]]』 *主演男優賞 [[野村萬斎]]『[[陰陽師 (映画)|陰陽師]]』 *主演女優賞 [[天海祐希]]『[[狗神 (小説)|狗神]]』『[[連弾 (映画)|連弾]]』『[[千年の恋 ひかる源氏物語]]』 *助演男優賞 [[山﨑努]]『GO』 *助演女優賞 [[奈良岡朋子]]『ホタル』 *新人賞 [[柴咲コウ]]『GO』 *外国作品賞『[[JSA (映画)|JSA]]』([[大韓民国|韓国]]) ==== 第45回(2002年度) ==== *作品賞『[[たそがれ清兵衛]]』 *監督賞 [[崔洋一]]『[[刑務所の中]]』 *主演男優賞 [[佐藤浩市]]『[[KT (映画)|KT]]』 *主演女優賞 [[片岡礼子]]『[[ハッシュ!]]』 *助演男優賞 [[津田寛治]]『[[模倣犯 (小説)|模倣犯]]』 *助演女優賞 [[宮沢りえ]]『たそがれ清兵衛』 *新人賞 [[中村獅童 (2代目)|中村獅童]]『[[ピンポン (漫画)|ピンポン]]』、[[小西真奈美]]『[[阿弥陀堂だより]]』 *外国作品賞『[[少林サッカー]]』([[香港]]) *特別賞 [[深作欣二]] ==== 第46回(2003年度) ==== *作品賞 『[[赤目四十八瀧心中未遂#映画|赤目四十八瀧心中未遂]]』 *監督賞 [[森田芳光]]『[[阿修羅のごとく]]』 *主演男優賞 [[西田敏行]]『[[ゲロッパ!]]』『[[釣りバカ日誌14]]』 *主演女優賞 [[寺島しのぶ]]『赤目四十八瀧心中未遂』『[[ヴァイブレータ (映画)|ヴァイブレータ]]』 *助演男優賞 [[山本太郎]]『[[MOON CHILD (映画)|MOON CHILD]]』『ゲロッパ!』『[[精霊流し (曲)#映画|精霊流し]]』 *助演女優賞 [[大楠道代]]『[[座頭市 (2003年の映画)|座頭市]]』『赤目四十八瀧心中未遂』 *新人賞 [[石原さとみ]]『[[わたしのグランパ]]』 *外国作品賞『[[インファナル・アフェア]]』([[香港]]) *特別賞 [[渡辺謙]]『[[ラスト サムライ]]』([[アメリカ合衆国|アメリカ]]) ==== 第47回(2004年度) ==== *作品賞『[[誰も知らない]]』 *監督賞 [[是枝裕和]]『誰も知らない』 *主演男優賞 [[寺尾聰]]『[[半落ち]]』 *主演女優賞 [[宮沢りえ]]『[[父と暮せば]]』 *助演男優賞 [[オダギリジョー]]『[[血と骨]]』『[[この世の外へ クラブ進駐軍]]』 *助演女優賞 [[長澤まさみ]]『[[世界の中心で、愛をさけぶ]]』『[[深呼吸の必要 (映画)|深呼吸の必要]]』 *新人賞 [[土屋アンナ]]『[[下妻物語]]』『[[茶の味]]』、[[森山未來]]『世界の中心で、愛をさけぶ』 *外国作品賞『[[ミスティック・リバー]]』([[アメリカ合衆国|アメリカ]]) ==== 第48回(2005年度) ==== *作品賞『[[パッチギ!]]』 *監督賞 [[佐藤純彌]]『[[男たちの大和/YAMATO]]』 *主演男優賞 [[真田広之]]『[[亡国のイージス]]』 *主演女優賞 [[小泉今日子]]『[[空中庭園 (映画)|空中庭園]]』 *助演男優賞 [[堤真一]]『[[ALWAYS 三丁目の夕日]]』『[[フライ、ダディ、フライ]]』 *助演女優賞 [[薬師丸ひろ子]]『ALWAYS 三丁目の夕日』『[[オペレッタ狸御殿]]』 *新人賞 [[多部未華子]]『[[HINOKIO]]』『[[青空のゆくえ]]』 *外国作品賞『[[ミリオンダラー・ベイビー]]』([[アメリカ合衆国|アメリカ]]) *特別賞 [[岡本喜八]] *スタッフ賞 [[内田けんじ]]『[[運命じゃない人]]』 ==== 第49回(2006年度) ==== *作品賞『[[フラガール]]』 *監督賞 [[西川美和]] 『[[ゆれる]]』 *主演男優賞 [[渡辺謙]] 『[[明日の記憶]]』 *主演女優賞 [[蒼井優]] 『[[フラガール]]』『[[ハチミツとクローバー]]』 *助演男優賞 [[香川照之]] 『ゆれる』『[[出口のない海]]』『明日の記憶』 *助演女優賞 [[富司純子]] 『フラガール』『[[犬神家の一族 (2006年の映画)|犬神家の一族]]』『[[寝ずの番]]』 *新人賞 [[塚地武雅]] 『[[間宮兄弟]]』、[[檀れい]] 『[[武士の一分]]』 *外国作品賞『[[父親たちの星条旗]]』([[アメリカ合衆国|アメリカ]]) *特別賞 [[今村昌平]] ==== 第50回(2007年度) ==== *作品賞『[[キサラギ]]』<ref name="hochi120219">{{Wayback|url=http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/2007/|date=20120219003733| title=シネマ報知 ブルーリボン賞ヒストリー 節目の50回 三國連太郎が新垣結衣にエール}}</ref> *監督賞 [[周防正行]] 『[[それでもボクはやってない]]』<ref name="hochi120219"/> *主演男優賞 [[加瀬亮]] 『それでもボクはやってない』<ref name="hochi120219"/> *主演女優賞 [[麻生久美子]] 『[[夕凪の街 桜の国]]』<ref name="hochi120219"/> *助演男優賞 [[三浦友和]] 『[[松ヶ根乱射事件]]』『[[転々]]』<ref name="hochi120219"/> *助演女優賞 [[永作博美]] 『[[腑抜けども、悲しみの愛を見せろ]]』<ref name="hochi120219"/> *新人賞 [[新垣結衣]] 『[[恋するマドリ]]』『[[ワルボロ]]』『[[恋空]]』<ref name="hochi120219"/> *外国作品賞 『[[ドリームガールズ (映画)|ドリームガールズ]]』([[アメリカ合衆国|アメリカ]])<ref name="hochi120219"/> *特別賞 [[植木等]]<ref name="hochi120219"/> === 第51回(2008年度) - 第60回(2017年度) === ==== 第51回(2008年度) ==== *作品賞 『[[クライマーズ・ハイ]]』<ref name="hochi120529">{{Wayback|url=http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/2008/|date=20120529112350|title=シネマ報知 ブルーリボン賞ヒストリー オスカーを前に、本木雅弘が14年ぶりの夫婦ツーショットを披露}}</ref> *監督賞 [[是枝裕和]] 『[[歩いても 歩いても]]』<ref name="hochi120529"/> *主演男優賞 [[本木雅弘]] 『[[おくりびと]]』<ref name="hochi120529"/> *主演女優賞 [[木村多江]] 『[[ぐるりのこと。]]』<ref name="hochi120529"/> *助演男優賞 [[堺雅人]] 『[[アフタースクール (映画)|アフタースクール]]』『[[クライマーズ・ハイ]]』<ref name="hochi120529"/> *助演女優賞 [[樹木希林]] 『[[歩いても 歩いても]]』<ref name="hochi120529"/> *新人賞 [[吉高由里子]] 『[[蛇にピアス]]』、[[リリーフランキー]] 『[[ぐるりのこと。]]』<ref name="hochi120529"/> *外国作品賞 『[[ダークナイト]]』([[アメリカ合衆国|アメリカ]])<ref name="hochi120529"/> *特別賞 [[市川崑]]、[[緒形拳]]<ref name="hochi120529"/> ==== 第52回(2009年度) ==== *作品賞『[[劒岳 点の記]]』 *監督賞 西川美和 『[[ディア・ドクター]]』 *主演男優賞 [[笑福亭鶴瓶]] 『ディア・ドクター』 *主演女優賞 [[綾瀬はるか]] 『[[おっぱいバレー]]』 *助演男優賞 [[永山瑛太|瑛太]] 『ディア・ドクター』『[[ガマの油]]』『[[なくもんか]]』『[[のだめカンタービレ 最終楽章]]』 *助演女優賞 [[深田恭子]] 『[[ヤッターマン (映画)|ヤッターマン]]』 *新人賞 [[岡田将生]] 『[[重力ピエロ]]』『[[ホノカアボーイ]]』、[[木村大作]] 『劒岳 点の記』 *外国作品賞 『[[グラン・トリノ]]』([[アメリカ合衆国|アメリカ]]) *特別賞『[[釣りバカ日誌|釣りバカ日誌シリーズ]]』 <ref>{{Cite web|和書|title=2009年 第52回 ブルーリボン賞 受賞結果 映画データベース|url=https://www.allcinema.net/award/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%9C%E3%83%B3%E8%B3%9E(2009)|website=allcinema|accessdate=2020-09-11|language=ja|last=allcinema}}</ref> ==== 第53回(2010年度) ==== *作品賞『[[告白 (2010年の映画)|告白]]』 *監督賞 [[石井裕也 (映画監督)|石井裕也]] 『[[川の底からこんにちは]]』 *主演男優賞 [[妻夫木聡]] 『[[悪人 (小説)|悪人]]』 *主演女優賞 [[寺島しのぶ]] 『[[キャタピラー (映画)|キャタピラー]]』 *助演男優賞 [[石橋蓮司]] 『[[アウトレイジ (2010年の映画)|アウトレイジ]]』『[[今度は愛妻家]]』 *助演女優賞 [[木村佳乃]] 『告白』 *新人賞 [[生田斗真]] 『[[人間失格]]』、[[桜庭ななみ]] 『[[最後の忠臣蔵]]』『[[書道ガールズ!! わたしたちの甲子園]]』 *外国作品賞 『[[第9地区]]』([[南アフリカ共和国]]) ==== 第54回(2011年度) ==== *作品賞『[[冷たい熱帯魚]]』 *監督賞 [[新藤兼人]] 『[[一枚のハガキ]]』 *主演男優賞 [[竹野内豊]] 『[[太平洋の奇跡]]』 *主演女優賞 [[永作博美]] 『[[八日目の蝉 (映画)|八日目の蝉]]』 *助演男優賞 [[伊勢谷友介]] 『[[あしたのジョー]]』『[[賭博黙示録カイジ|カイジ2人生奪回ゲーム]]』 *助演女優賞 [[長澤まさみ]] 『[[モテキ]]』 *新人賞 [[芦田愛菜]] 『[[うさぎドロップ]]』『[[阪急電車 (小説)|阪急電車 片道15分の奇跡]]』 *外国作品賞 『[[ブラック・スワン (映画)|ブラック・スワン]]』([[アメリカ合衆国]]) *特別賞 [[原田芳雄]] ==== 第55回(2012年度) ==== *作品賞『[[かぞくのくに]]』 *監督賞 [[内田けんじ]] 『[[鍵泥棒のメソッド]]』 *主演男優賞 [[阿部寛]] 『[[麒麟の翼]]』『[[テルマエ・ロマエ]]』『[[カラスの親指]]』 *主演女優賞 [[安藤サクラ]] 『かぞくのくに』 *助演男優賞 [[井浦新]] 『かぞくのくに』 *助演女優賞 [[広末涼子]] 『鍵泥棒のメソッド』 *新人賞 [[マキタスポーツ]] 『[[苦役列車]]』 *外国作品賞 『[[レ・ミゼラブル]]』([[イギリス]]) *特別賞 [[若松孝二]] ==== 第56回(2013年度) ==== *作品賞『[[横道世之介#映画|横道世之介]]』<ref name="nikkan2014123" /> *監督賞 [[大森立嗣]] 『[[ぼっちゃん]]』『[[さよなら渓谷#映画|さよなら渓谷]]』 *主演男優賞 [[高良健吾]] 『横道世之介』 *主演女優賞 [[貫地谷しほり]] 『[[くちづけ (宅間孝行)#映画|くちづけ]]』 *助演男優賞 [[ピエール瀧]] 『[[凶悪 (映画)|凶悪]]』『[[くじけないで]]』『[[そして父になる]]』 *助演女優賞 [[二階堂ふみ]] 『[[地獄でなぜ悪い]]』『[[脳男#映画|脳男]]』『[[四十九日のレシピ#映画|四十九日のレシピ]]』 *新人賞 [[黒木華]] 『[[舟を編む#映画|舟を編む]]』『[[草原の椅子#映画|草原の椅子]]』『[[シャニダールの花]]』 *外国作品賞 『[[ゼロ・グラビティ (映画)|ゼロ・グラビティ]]』([[アメリカ合衆国]]) *特別賞 [[大島渚]]、[[三國連太郎]] ==== 第57回(2014年度) ==== *作品賞『[[超高速!参勤交代]]』<ref>{{Cite news|和書|author=入倉功一|date=2015-01-23|title=第57回ブルーリボン賞が決定!佐々木蔵之介『超高速!参勤交代』が作品賞! |newspaper=シネマトゥデイ |url=https://www.cinematoday.jp/news/N0070022 |accessdate=2015-01-23}}</ref> *監督賞 [[呉美保]] 『[[そこのみにて光輝く]]』 *主演男優賞 [[浅野忠信]] 『[[私の男]]』 *主演女優賞 [[安藤サクラ]] 『[[0.5ミリ]]』『[[百円の恋]]』 *助演男優賞 [[池松壮亮]] 『[[紙の月#映画|紙の月]]』『[[海を感じる時]]』『[[ぼくたちの家族]]』 *助演女優賞 [[小林聡美]] 『[[紙の月#映画|紙の月]]』 *新人賞 [[小芝風花]] 『[[魔女の宅急便]]』 *外国作品賞 『[[ジャージー・ボーイズ (映画)|ジャージー・ボーイズ]]』 ==== 第58回(2015年度) ==== *作品賞『[[日本のいちばん長い日#2015年版の映画|日本のいちばん長い日]]』 <ref name="today160127">{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0079858|title=有村架純、主演女優賞に輝く!第58回ブルーリボン賞受賞結果発表|publisher=シネマトゥデイ|date=2016-01-27|accessdate=2016-01-27}}</ref> *監督賞 [[橋口亮輔]]『[[恋人たち (2015年の映画)|恋人たち]]』<ref name="today160127"/> *主演男優賞 [[大泉洋]]『[[駆込み女と駆出し男]]』<ref name="today160127"/> *主演女優賞 [[有村架純]]『[[ストロボ・エッジ#映画|ストロボ・エッジ]]』『[[学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話#映画|ビリギャル]]』<ref name="today160127"/> *助演男優賞 [[本木雅弘]]『[[日本のいちばん長い日]]』『[[天空の蜂#映画|天空の蜂]]』<ref name="today160127"/> *助演女優賞 [[吉田羊]]『[[ビリギャル]]』『[[脳内ポイズンベリー#映画|脳内ボイズンベリー]]』『[[愛を積むひと]]』<ref name="today160127"/> *新人賞 [[石井杏奈 (E-girls)|石井杏奈]]『[[ガールズ・ステップ#映画|ガールズ・ステップ]]』『[[ソロモンの偽証#映画|ソロモンの偽証]]』<ref name="today160127"/> *外国作品賞 『[[マッドマックス 怒りのデス・ロード]]』<ref name="today160127"/> ==== 第59回(2016年度) ==== *作品賞 『[[シン・ゴジラ]]』<ref>{{Cite news|和書|url= https://www.cinematoday.jp/news/N0089196 |title= 『シン・ゴジラ』作品賞!『君の名は。』特別賞!第59回ブルーリボン賞決定 |newspaper= シネマトゥデイ |publisher= 株式会社シネマトゥデイ |date= 2017-01-26 |accessdate= 2017-01-26 }}</ref> *監督賞 [[片渕須直]]『[[この世界の片隅に (映画)|この世界の片隅に]]』 *主演男優賞 [[松山ケンイチ]]『[[聖の青春#映画|聖の青春]]』他 *主演女優賞 [[大竹しのぶ]]『[[後妻業の女]]』 *助演男優賞 [[リリー・フランキー]]『[[SCOOP!]]』『聖の青春』他 *助演女優賞 [[杉咲花]]『[[湯を沸かすほどの熱い愛]]』 *新人賞 [[岡村いずみ]]『[[ジムノペディに乱れる]]』 *特別賞 『[[君の名は。]]』 *外国作品賞 『[[ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー]]』 ==== 第60回(2017年度) ==== *作品賞 『[[あゝ、荒野 (映画)|あゝ、荒野]]』<ref>[https://natalie.mu/eiga/news/266417 ブルーリボン賞「あゝ、荒野」が作品賞に、阿部サダヲ&新垣結衣も受賞]映画ナタリー(2018年1月24日), 2018年1月24日閲覧。</ref> *監督賞 [[白石和彌]]『[[彼女がその名を知らない鳥たち]]』 *主演男優賞 [[阿部サダヲ]]『彼女がその名を知らない鳥たち』 *主演女優賞 [[新垣結衣]]『[[ミックス。]]』 *助演男優賞 [[ユースケ・サンタマリア]]『あゝ、荒野』『[[泥棒役者]]』 *助演女優賞 [[斉藤由貴]]『[[三度目の殺人]]』 *新人賞 [[石橋静河]]『[[映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ]]』 *外国作品賞 『[[ドリーム (2016年の映画)|ドリーム]]』 === 第61回(2018年度) - 第65回(2022年度) === ==== 第61回(2018年度) ==== *作品賞 『[[カメラを止めるな!]]』 *監督賞 [[白石和彌]] 『[[孤狼の血 (映画)|孤狼の血]]』『[[止められるか、俺たちを]]』『[[サニー/32]]』 *主演男優賞 [[舘ひろし]] 『[[終わった人]]』 *主演女優賞 [[門脇麦]] 『[[止められるか、俺たちを]]』 *助演男優賞 [[松坂桃李]] 『[[孤狼の血 (映画)|孤狼の血]]』 *助演女優賞 [[松岡茉優]] 『[[万引き家族]]』『[[ちはやふる#映画|ちはやふる -結び-]]』 *新人賞 [[南沙良]] 『[[志乃ちゃんは自分の名前が言えない]]』 *外国作品賞 『[[ボヘミアン・ラプソディ (映画)|ボヘミアン・ラプソディ]]』 ==== 第62回(2019年度) ==== *作品賞 『[[翔んで埼玉]]』<ref>{{Cite news|和書|url=https://hochi.news/articles/20200127-OHT1T50177.html|title=「翔んで埼玉」武内英樹監督、作品賞に「ウソだろうと」…ブルーリボン賞|newspaper=[[スポーツ報知]]|publisher=[[報知新聞社]]|date=2020-01-28|accessdate=2020-01-28}}</ref> *監督賞 [[真利子哲也]] 『[[宮本から君へ#映画|宮本から君へ]]』 *主演男優賞 [[中井貴一]] 『[[記憶にございません!]]』 *主演女優賞 [[長澤まさみ]] 『[[コンフィデンスマンJP#映画|コンフィデンスマンJP -ロマンス編-]]』 *助演男優賞 [[吉沢亮]] 『[[キングダム (映画)|キングダム]]』 *助演女優賞 [[MEGUMI]] 『[[台風家族]]』 『[[ひとよ (映画)|ひとよ]]』 *新人賞 [[関水渚]] 『[[町田くんの世界#映画|町田くんの世界]]』 *外国作品賞 『[[ジョーカー (映画)|ジョーカー]]』 ==== 第63回(2020年度)==== {{efn|[[SARSコロナウイルス2|新型コロナウイルス]]感染拡大防止に伴い、授賞式は見送られた<ref name="oricon2184862">{{Cite news2|title=「第63回ブルーリボン賞」受賞作品&草なぎ剛、長澤まさみ、成田凌、伊藤沙莉ら受賞者発表|url=https://www.oricon.co.jp/news/2184862/full/|newspaper=ORICON NEWS|publisher=oricon ME|date=2021-02-24|accessdate=2021-02-24}}</ref>。}} *作品賞 『[[Fukushima 50 (映画)|Fukushima 50]]』{{R|oricon2184862}} *監督賞 [[中野量太]] 『[[浅田家!]]』 *主演男優賞 [[草彅剛]] 『[[ミッドナイトスワン]]』 *主演女優賞 [[長澤まさみ]] 『[[コンフィデンスマンJP#映画|コンフィデンスマンJP -プリンセス編-]]』『[[MOTHER マザー]]』 *助演男優賞 [[成田凌]] 『[[スマホを落としただけなのに 囚われの殺人鬼]]』『[[糸 (映画)|糸]]』『[[窮鼠はチーズの夢を見る#映画|窮鼠はチーズの夢を見る]]』 *助演女優賞 [[伊藤沙莉]] 『[[劇場 (又吉直樹)#映画|劇場]]』『[[十二単衣を着た悪魔 源氏物語異聞#映画|十二単衣を着た悪魔]]』『[[ホテルローヤル (桜木紫乃)#映画|ホテルローヤル]]』 *新人賞 [[奥平大兼]] 『[[MOTHER マザー]]』 *外国作品賞 『[[パラサイト 半地下の家族]]』 ==== 第64回(2021年度) ==== {{efn|前年度に引き続き、新型コロナウイルス感染拡大防止に伴い、授賞式は中止された<ref name=hochi51195>{{Cite news2|title=白石和彌監督、「孤狼の血」さらなる続編意欲「-LEVEL2」がブルーリボン賞作品賞|url=https://hochi.news/articles/20220223-OHT1T51195.html?page=1|newspaper=スポーツ報知|publisher=報知新聞社|date=2022-02-24|accessdate=2022-02-24}}</ref>。}} * 作品賞 『[[孤狼の血 LEVEL2]]』{{R|hochi51195}} * 監督賞 [[西川美和]] 『[[身分帳#映画|すばらしき世界]]』 * 主演男優賞 [[岡田准一]] 『[[燃えよ剣#2021年版|燃えよ剣]]』『[[ザ・ファブル#映画|ザ・ファブル 殺さない殺し屋]]』 * 主演女優賞 [[永野芽郁]] 『[[そして、バトンは渡された#映画|そして、バトンは渡された]]』『[[地獄の花園]]』 * 助演男優賞 [[仲野太賀]] 『すばらしき世界』 * 助演女優賞 [[三浦透子]] 『[[ドライブ・マイ・カー (映画)|ドライブ・マイ・カー]]』 * 新人賞 [[河合優実]] 『[[由宇子の天秤]]』『[[サマーフィルムにのって]]』 * 外国作品賞 『[[007/ノー・タイム・トゥ・ダイ]]』 ==== 第65回(2022年度) ==== * 作品賞 『[[ある男#映画|ある男]]』<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202302240000024.html|title=第65回ブルーリボン賞の受賞作&受賞者/一覧|newspaper=日刊スポーツ|publisher=日刊スポーツ新聞社|date=2023-02-24|accessdate=2023-02-24}}</ref> * 監督賞 [[早川千絵]] 『[[PLAN 75]]』 * 主演男優賞 [[二宮和也]] 『[[TANG タング]]』『[[ラーゲリより愛を込めて]]』 * 主演女優賞 [[倍賞千恵子]] 『PLAN 75』 * 助演男優賞 [[飯尾和樹]] 『[[沈黙のパレード#映画|沈黙のパレード]]』 * 助演女優賞 [[清野菜名]] 『[[キングダム2 遥かなる大地へ]]』『[[異動辞令は音楽隊!]]』『ある男』 * 新人賞 [[Kōki,]] 『[[牛首村]]』 * 外国作品賞 『[[トップガン マーヴェリック]]』 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[ブルーリボン賞 (曖昧さ回避)]] == 外部リンク == * {{Cite web|和書|url=http://hochi.yomiuri.co.jp/feature/entertainment/20130404-476995/data/b_about.htm|title=ブルーリボン賞とは|accessdate=2014-01-10|publisher=スポーツ報知|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140329021026/http://hochi.yomiuri.co.jp/feature/entertainment/20130404-476995/data/b_about.htm|archivedate=2014年3月29日|ref=ブルーリボン賞とは|deadlinkdate=2014-11}} * {{Wayback |url=http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/ |title=Cinem@Hochi-シネマ報知- |date=20131019083904 }} - ブルーリボン賞の歴史など * [https://www.allcinema.net/award/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%9C%E3%83%B3%E8%B3%9E ブルーリボン賞 - allcinema ONLINE] - 受賞リスト {{ブルーリボン賞作品賞}} {{ブルーリボン賞監督賞}} {{ブルーリボン賞主演男優賞}} {{ブルーリボン賞主演女優賞}} {{ブルーリボン賞助演男優賞}} {{ブルーリボン賞助演女優賞}} {{ブルーリボン賞新人賞}} {{DEFAULTSORT:ふるうりほんしよう}} [[Category:日本の映画賞]]
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ゴールデングローブ賞
ゴールデングローブ賞(、英: Golden Globe Awards)は、アメリカ合衆国における映画とテレビドラマに与えられる賞。毎年1月に発表され、アカデミー賞の前哨戦としての注目度も高い。 1943年にハリウッド外国人映画記者協会(HFPA)により創設。同協会の会員の投票で受賞者を決定していた。2008年の授賞式は脚本家によるストライキの影響で中止となった。2012年に行われた第69回ゴールデングローブ賞からテーマ曲が設定され、日本のミュージシャンのYOSHIKIが作曲した「ゴールデングローブのテーマ」が使用されている。 1月1日から12月31日までにロサンゼルス地域で公開された映画が対象になる。 1月1日から12月31日に放送および配信された番組を対象にする。ただし放送はプライムタイムの番組に限る。 その他多数。 本賞はハリウッド外国人映画研究協会(HFPA)の会員の投票により選定される。2021年2月現在、HFPAのメンバーは87人いるが、その87人の中に黒人会員が一人もいないことをロサンゼルス・タイムズが報じた。批判が集まり、ゴールデングローブ賞は「黒人会員に加え、他の過小評価されている背景を持つ会員も参加する必要があることは理解しており、これらの目標をできるだけ早く達成するため、直ちに取り組みます」と声明を発表した。その後、HFPA会長のフィリップ・バークがブラック・ライヴズ・マター運動について、「憎悪団体」と形容した電子メールを転送していたことが判明し、辞任に追い込まれた。 更に一部の俳優に対して、HFPA会員から性差別的な質問を受けていたことが判明した。 これらを受けて、ワーナーメディアやNetflixなどが本賞関連のイベントに参加しないことを表明したほか、本賞の授賞式を放送しているNBCテレビも2022年の中継を行わないことを2021年5月10日に発表した。また、過去の受賞者が抗議の意志を示すためにトロフィーをHFPA本部に送り返したと同年5月に現地メディアから報じられている。 なお2023年1月10日に行われた第80回授賞式は、ワーナーメディアやNetflixもボイコットを行わず、NBCが中継放送しPeacockが配信した。 ロサンゼルス・タイムズは2021年5月、ドラマの撮影現場への視察で一部の会員が宿泊費用をHFPAが負担するという金銭的恩恵を受けていたことを報じた。
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ゴールデングローブ賞(ゴールデングローブしょう、は、アメリカ合衆国における映画とテレビドラマに与えられる賞。毎年1月に発表され、アカデミー賞の前哨戦としての注目度も高い。 1943年にハリウッド外国人映画記者協会により創設。同協会の会員の投票で受賞者を決定していた。2008年の授賞式は脚本家によるストライキの影響で中止となった。2012年に行われた第69回ゴールデングローブ賞からテーマ曲が設定され、日本のミュージシャンのYOSHIKIが作曲した「ゴールデングローブのテーマ」が使用されている。
{{Otheruseslist|アメリカの演劇・映画団体の賞|[[FIFAワールドカップ]]における[[ゴールキーパー]]の表彰|FIFAワールドカップにおける賞|[[プレミアリーグ]]における[[ゴールキーパー]]の表彰|プレミアリーグ・ゴールデングローブ|[[日本プロ野球]]における守備表彰|ゴールデングラブ賞|[[メジャーリーグベースボール|MLB]]における守備表彰|ゴールドグラブ賞}} {{Infobox Award | name = ゴールデングローブ賞 | image = Golden Globe.jpg | caption = | current_awards = 第81回ゴールデングローブ賞 | description = 優れた[[映画]]ならびに[[テレビ番組]] | presenter = {{Plainlist| *[[Hollywood Foreign Press Association|Hollywood Foreign Correspondents Association]] (1943–1954) *[[Hollywood Foreign Press Association|Foreign Correspondents of Hollywood]] (1951–1954) *[[ハリウッド外国人記者協会]] (1955–2023) *Golden Globes, LLC<br>([[ディック・クラーク]]・プロダクション) (''2024–) }} | country = {{USA}} | year = {{Start date and age|1944|1|20}} | network = [[CBS]] | website = {{url|goldenglobes.com}} }} {{読み仮名|'''ゴールデングローブ賞'''|ゴールデングローブしょう|{{lang-en-short|Golden Globe Awards}}}}は、[[アメリカ合衆国]]における[[映画]]と[[テレビドラマ]]に与えられる賞。毎年[[1月]]に発表され、[[アカデミー賞]]の[[前哨戦]]としての注目度も高い。 [[1943年]]に[[ハリウッド外国人映画記者協会]](HFPA)により創設。同協会の会員の投票で受賞者を決定していた。[[2008年]]の授賞式は[[2007年-2008年全米脚本家組合ストライキ|脚本家によるストライキ]]の影響で中止となった。2012年に行われた[[第69回ゴールデングローブ賞]]からテーマ曲が設定され、日本のミュージシャンの[[YOSHIKI]]が作曲した「[[ゴールデングローブのテーマ]]」が使用されている。 == ゴールデングローブ賞の部門 == === 映画部門 === 1月1日から12月31日までにロサンゼルス地域で公開された映画が対象になる。 {|class=wikitable style="font-size:small" !日本での日本語名!!正式名称(英語) |- |[[ゴールデングローブ賞 作品賞 (ドラマ部門)|作品賞(ドラマ部門)]]||{{lang|en|Best Motion Picture – Drama}} |- |[[ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)|主演女優賞(ドラマ部門)]]||{{lang|en|Best Performance by an Actress in a Motion Picture – Drama}} |- |[[ゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ドラマ部門)|主演男優賞(ドラマ部門)]]||{{lang|en|Best Performance by an Actor in a Motion Picture – Drama}} |- |[[ゴールデングローブ賞 作品賞 (ミュージカル・コメディ部門)|作品賞(ミュージカル・コメディ部門)]]||{{lang|en|Best Motion Picture - Musical or Comedy}} |- |[[ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ミュージカル・コメディ部門)|主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)]]||{{lang|en|Best Performance by an Actress in a Motion Picture - Musical or Comedy}} |- |[[ゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ミュージカル・コメディ部門)|主演男優賞(ミュージカル・コメディ部門)]]||{{lang|en|Best Performance by an Actor in a Motion Picture -Musical or Comedy}} |- |[[ゴールデングローブ賞 外国語映画賞|外国語映画賞]]||{{lang|en|Best Foreign Language Film}} |- |[[ゴールデングローブ賞 助演女優賞|助演女優賞]]||{{lang|en|Best Performance by an Actress in a Supporting Role in a Motion Picture}} |- |[[ゴールデングローブ賞 助演男優賞|助演男優賞]]||{{lang|en|Best Performance by an Actor in a Supporting Role in a Motion Picture}} |- |[[ゴールデングローブ賞 監督賞|監督賞]]||{{lang|en|Best Director - Motion Picture}} |- |[[ゴールデングローブ賞 脚本賞|脚本賞]]||{{lang|en|Best Screenplay - Motion Picture}} |- |[[ゴールデングローブ賞 作曲賞|作曲賞]]||{{lang|en|Best Original Score - Motion Picture}} |- |[[ゴールデングローブ賞 主題歌賞|主題歌賞]]||{{lang|en|Best Original SONG - Motion Picture}} |- |[[ゴールデングローブ賞 アニメ映画賞|アニメ映画賞]]||{{lang|en|Best Animated Feature Film}} |- |[[ゴールデングローブ賞 セシル・B・デミル賞|セシル・B・デミル賞]]||{{lang|en|The Cecil B. DeMille award}} |} === テレビドラマ部門 === 1月1日から12月31日に放送および配信された番組を対象にする。ただし放送は[[プライムタイム]]の番組に限る。 {|class=wikitable style="font-size:small" !日本での日本語名||正式名称(英語) |- |[[ゴールデングローブ賞 テレビドラマ部門 作品賞 (ドラマ部門)|作品賞(ドラマ部門)]]||{{lang|en|Best Television Series - Drama}} |- |女優賞(ドラマ部門)||{{lang|en|Best Performance by an Actress in a Television Series - Drama}} |- |男優賞(ドラマ部門)||{{lang|en|Best Performance by an Actor in a Television Series - Drama}} |- |[[ゴールデングローブ賞 テレビドラマ部門 作品賞 (ミュージカル・コメディ部門)|作品賞(ミュージカル・コメディ部門)]]||{{lang|en|Best Television Series - Musical or Comedy}} |- |女優賞(ミュージカル・コメディ部門)||{{lang|en|Best Performance by an Actress in a Television Series - Musical or Comedy}} |- |男優賞(ミュージカル・コメディ部門)||{{lang|en|Best Performance by an Actor in a Television Series - Musical or Comedy}} |- |[[ゴールデングローブ賞 テレビドラマ部門 作品賞 (ミニシリーズ・テレビ映画部門)|作品賞(ミニシリーズ・テレビ映画部門)]]||{{lang|en|Best Mini-Series or Motion Picture Made for Television}} |- |女優賞([[ミニシリーズ]]・[[テレビ映画]]部門)||{{lang|en|Best Performance by an Actress in a Mini-Series or a Motion Picture Made for Television}} |- |男優賞(ミニシリーズ・テレビ映画部門)||{{lang|en|Best Performance by an Actor in a Mini-Series or a Motion Picture Made for Television}} |- |助演女優賞(シリーズ・ミニシリーズ・テレビ映画部門)||{{lang|en|Best Performance by an Actress in a Supporting Role in a Series, Mini-Series or Motion Picture Made for Television}} |- |助演男優賞(シリーズ・ミニシリーズ・テレビ映画部門)||{{lang|en|Best Performance by an Actor in a Supporting Role in a Series, Mini-Series or Motion Picture Made for Television}} |} === 廃止された賞 === {|class=wikitable style="font-size:small" !日本での日本語名!!正式名称(英語)!!存在していた期間 |- |ヘンリエッタ賞(世界でもっとも好かれた女優)||{{lang|en|Henrietta Award (World Film Favorite – Female) }}||1950年-1979年 |- |ヘンリエッタ賞(世界でもっとも好かれた男優)||{{lang|en|Henrietta Award (World Film Favorite – Male)}}||1950年-1979年 |} == 日本語話者に関係した受賞・ノミネート歴 == {{節スタブ}} * [[1957年]] - [[京マチ子]]が『[[八月十五夜の茶屋]]』で主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)にノミネート。 * [[1959年]] - [[市川崑]]監督『[[鍵 (1959年の映画)|鍵]]』が外国語映画賞を受賞<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20220110/k00/00m/030/019000c|title=濱口竜介監督「ドライブ・マイ・カー」にゴールデン・グローブ賞|accessdate=2022-1-10|publisher=毎日新聞社}}</ref>。 * [[1963年]] - 『[[太平洋ひとりぼっち#映画|太平洋ひとりぼっち]]』が外国映画賞<!-- 当時の名称 -->にノミネート<ref>{{Cite web|url=https://www.imdb.com/event/ev0000292/1964/1|title=Golden Globes, USA - 1964 Awards(1964年開催 / 1963年度)|website=[[IMDb]]|accessdate=2021-06-19}}</ref>。 * [[1966年]] - [[黛敏郎]]が『[[天地創造 (映画)|天地創造]]』で作曲賞にノミネート<ref>{{Cite web|url=https://www.imdb.com/event/ev0000292/1967/1|title=Golden Globes, USA - 1967 Awards(1967年開催 / 第24回 / 1966年度)|website=[[IMDb]]|accessdate=2021-06-24}}</ref>。 * [[1970年]] - 『[[ある兵士の賭け]]』が外国映画賞(英語映画)<!-- 『外国語映画賞』での表記より -->にノミネート<ref>{{Cite web|url=https://www.imdb.com/event/ev0000292/1971/1|title=Golden Globes, USA - 1971 Awards(1971年開催 / 1970年度)|website=[[IMDb]]|accessdate=2021-06-21}}</ref>。 * [[1981年]] - [[島田陽子]]がテレビドラマ『[[将軍 SHŌGUN]]』で女優賞(テレビドラマシリーズ部門)を受賞。 * [[1987年]] - [[坂本龍一]]が『[[ラストエンペラー]]』で作曲賞を受賞。 * [[1990年]] - [[坂本龍一]]が『[[シェルタリング・スカイ]]』で作曲賞を受賞。 * [[1990年]] - 『[[夢 (映画)|夢]]』が外国語映画賞にノミネート。 * [[1993年]] - [[喜多郎]]が『[[天と地]]』で作曲賞を受賞。 * [[2003年]] - [[渡辺謙]]が『[[ラスト サムライ]]』で助演男優賞にノミネート。 * [[2007年]] - 『[[HEROES (テレビドラマ)|HEROES]]』でヒロ・ナカムラ役を演じ人気を博した[[マシ・オカ]]が、助演男優賞(ミニシリーズ・テレビ映画部門)にノミネート。 * [[2007年]] - [[渡辺謙]]、[[二宮和也]]など多数の日本人俳優が出演した『[[硫黄島からの手紙]]』が外国語映画賞を受賞。[[菊地凛子]]が『[[バベル (映画)|バベル]]』で助演女優賞にノミネート。 * [[2013年]] - 『[[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]]』が外国語映画賞にノミネート<ref>{{Cite web|和書|author=編集部 福田麗|date=2014-01-13|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0059582|title=『風立ちぬ』はGG賞を逃す 54年ぶりの快挙ならず…1990年度の黒澤明監督『夢』以来、邦画は23年ぶりノミネート…字幕版が出品されたため、外国語映画賞の対象|website=[[シネマトゥデイ]]|publisher=株式会社シネマトゥデイ|accessdate=2019-01-08}}</ref>。 * [[2018年]] - 『[[万引き家族]]』が外国語映画賞に、『[[未来のミライ]]』がアニメーション映画賞にノミネート<ref>{{Cite news|url= https://www.cinemacafe.net/article/2018/12/06/59361.html |title= 『万引き家族』『未来のミライ』ゴールデン・グローブ賞にノミネート! |newspaper= シネマカフェ |publisher= イード |date= 2018-12-07 |accessdate= 2018-12-07 }}</ref>。 * [[2021年]] - [[濱口竜介]]監督『[[ドライブ・マイ・カー (映画)|ドライブ・マイ・カー]]』が非英語映画賞(旧外国語映画賞)を受賞<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20220110/k00/00m/030/019000c|title=濱口竜介監督「ドライブ・マイ・カー」にゴールデン・グローブ賞|accessdate=2022-1-10|publisher=毎日新聞社}}</ref>。 * [[2022年]] - [[湯浅政明]]監督『[[犬王 (アニメ映画)|犬王]]』がアニメーション映画賞にノミネート<ref>{{Cite web|和書|title=湯浅政明『犬王』ゴールデン・グローブ賞ノミネート!|シネマトゥデイ |url=https://www.cinematoday.jp/news/N0134112 |website=シネマトゥデイ |access-date=2022-12-12 |date=2022-12-12}}</ref>。 その他多数。 == 不祥事 == === 人種・性差別問題 === 本賞はハリウッド外国人映画研究協会(HFPA)の会員の投票により選定される。2021年2月現在、HFPAのメンバーは87人いるが、その87人の中に[[黒人]]会員が一人もいないことを[[ロサンゼルス・タイムズ]]が報じた<ref>{{Cite web|title=Who really gives out the Golden Globes? A tiny group full of quirky characters — and no Black members|url=https://www.latimes.com/entertainment-arts/business/story/2021-02-21/hfpa-golden-globes-2021-who-are-the-members|website=Los Angeles Times|date=2021-02-21|accessdate=2021-03-08|language=en-US|last=Facebook}}</ref>。批判が集まり、ゴールデングローブ賞は「黒人会員に加え、他の過小評価されている背景を持つ会員も参加する必要があることは理解しており、これらの目標をできるだけ早く達成するため、直ちに取り組みます」と声明を発表した<ref>{{Cite web|和書|title=【ゴールデングローブ賞2021】3つの問題点が浮上。人種差別と接待疑惑、授賞式はどうなる?|url=https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_603ae691c5b617a7e40e245d|website=ハフポスト|date=2021-02-28|accessdate=2021-03-08|language=ja}}</ref>。その後、HFPA会長のフィリップ・バークが[[ブラック・ライヴズ・マター]]運動について、「憎悪団体」と形容した[[電子メール]]を転送していたことが判明し、辞任に追い込まれた<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=米NBC、来年のゴールデングローブ賞中継せず 主催団体の多様性欠如に批判|url=https://www.cnn.co.jp/showbiz/35170509.html|website=CNN.co.jp|accessdate=2021-05-11|date=2021-05-11}}</ref>。 更に一部の俳優に対して、HFPA会員から性差別的な質問を受けていたことが判明した<ref>{{Cite web|和書|title=米テレビ局ゴールデングローブ賞放送見送り|url=https://news.ntv.co.jp/category/international/870432|website=日テレNEWS24|accessdate=2021-05-11|publisher=日本テレビ|date=2021-05-11}}</ref>。 これらを受けて、[[ワーナーメディア]]や[[Netflix]]などが本賞関連のイベントに参加しないことを表明したほか、本賞の授賞式を放送している[[NBC|NBCテレビ]]も2022年の中継を行わないことを2021年5月10日に発表した<ref name=":0" />。また、過去の受賞者が抗議の意志を示すために[[トロフィー]]をHFPA本部に送り返したと同年5月に現地メディアから報じられている<ref>{{Cite web|和書|title=トム・クルーズ、HFPAへの抗議でゴールデン・グローブ賞トロフィー返上|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202105110000307.html|website=日刊スポーツ|accessdate=2021-05-11|date=2021-05-11}}</ref>。 なお2023年1月10日に行われた第80回授賞式は、ワーナーメディアやNetflixもボイコットを行わず、NBCが中継放送し[[Peacock]]が配信した<ref>{{cite web |url=https://variety.com/2022/tv/news/golden-globes-2023-nbc-hfpa-dick-clark-productions-1235324403/ |title=Golden Globes Return to TV in 2023, NBC and HFPA Set One-Year Deal |first=Michael |last=Schneider |work=[[Variety (magazine)|Variety]] |date=September 20, 2022 |access-date=September 20, 2022}}</ref>。 === 一部会員に対しての金銭的恩恵問題 === ロサンゼルス・タイムズは2021年5月、ドラマの撮影現場への視察で一部の会員が宿泊費用をHFPAが負担するという金銭的恩恵を受けていたことを報じた<ref name=":0" />。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[映画の賞]] == 外部リンク == * {{Official website|http://www.goldenglobes.com/ |Golden Globe Awards}}{{en icon}} {{ゴールデングローブ賞}} {{Culture Award of US}} {{テレビドラマの賞}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:こおるてんくろおふ}} [[Category:ゴールデングローブ賞|*]] [[Category:ドラマの賞]] [[Category:アメリカ合衆国の映画賞]]
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映画評論
映画評論(えいがひょうろん、英語:film criticism)とは、映画を分析し、評論(批評)する事。 ティモシー・コーリガンは、映画批評(The Movie Review )と理論的なエッセイ(The Theoretical Essay )という用語を用いて、次のように説明している。映画批評(The Movie Review )は、一般によく知られている映画分析の一つで、通常、できるだけ多くの観客や、映画について特別な知識を持たない読み手が対象となる。対して、特定の映画や、映画史、及び映画に関する文献などの多くの知識をもつ読者に対して、映画の表現について何が他の映画と違うのか、また他の芸術との共通点を主張して、より大きく複雑な構造と、その理解方法を明らかにすることを目指しているのが理論的なエッセイ(The Theoretical Essay )だという。 日本のマスメディアにおいては、印象批評的な文章が映画評論として扱われている事がしばしば見受けられるが、実際、感想文や批判ではなく、映画をどう評論していくかはかなりの修練が必要とされる。基本は数多くの映画を注意深く鑑賞する事に始まるが、そこから先の方法論となると、多種多様である。「第七芸術」である映画は文芸評論や美学とも違い、映像(動画)、音声も含めた総合的な評論が必要だが、一面的な捉え方からの評論や流行している評論の流用、単なる批判で終わっていることがある。 映画評論の歴史はサイレント初期にまで遡る。ヨーロッパではその頃から映画を美学的考察の対象とした人々がおり、詩人で映画脚本も書いたベラ・バラージュ、美学者ルドルフ・アルンハイムなどが出た。これより少し遅れるが、日本では今村太平がこの傾向の代表者である。第二次世界大戦前のこの段階では、映画学と映画評論は現在ほど大きく分離していた訳ではない。より正確に言えば、学問としての「映画学」は公式には存在せず、他分野の研究者や在野の研究者が映画評論家を兼ねる部分が大きかった。ともあれ、これらの映画美学的著書の数々は、現在に至るまで映画学における映画理論の最重要文献と見なされている。 現在の映画評論に最も大きな影響を与えたのは、1950年代後半から1960年代初頭にかけてのフランスに現れた「作家主義」という考え方である。映画監督アレクサンドル・アストリュックの「カメラ万年筆論」に始まり、評論家アンドレ・バザンがそれを代表した。この考えによれば、映画は監督や脚本家の思想を体現した「作品」であり、それはエイゼンシュテインの映画であってもヒッチコックの映画であっても同じことである。これ以前にも、映画を監督や脚本家の「作品」として捉える見方がなかった訳ではないが、「作家主義」はヌーヴェル・ヴァーグという創作上の運動を生み出し、それと連動していたために、国外への影響力が大きかった。「作家主義」的な立場からは厳密な評論の方法論は生まれえず、その亜流達は原始的な印象評論に退行した。 1960年代半ば以降、その反動として個々の映画の価値判断をしない映画記号学という方法論が映画学界を席巻することになった。言語学的モデルに支えられたこの方法論は評論との共通点をほとんど持っておらず、映画学を学問として成立させることはできても、映画評論に影響を与えることはできなかった。1970年代に入り、精神分析学的映画記号学の出現は事態を更に紛糾させた。そこに至って方法論の厳密さすら失われ、映画学はますます蛸壺化したからである。映画評論と映画学の不幸な分離をもたらしたこの状況は、1980年代まで続く。 1980年代以降、映画学の中で、個々の作品の意味を作者(監督)の意図やスタイルとも関連付けながら、分析・解釈してゆく動きが見られた。映画研究への物語論(ナラトロジー)の応用、ポストモダニズム的な現代の文化状況における「イデオロギー装置」としての映画の研究が、必然的にそのような動きをもたらしたと言えよう。主に英語圏で行われたこれらの研究の成果は、日本の映画評論には十分に反映されていない。一方で、各国で映画史的な研究が評論家によって精力的に行われていた。映画史は厳密な方法論を要求しなかったからである。 映画評論に方法論が必要かどうかという問題は、評論家の良心が記述の客観性と明快さ、作品分析の厳密さを求めるかどうかという問題でもある。評論家が映画文化の担い手としての社会的責任を果たすためには、自らにそのような戒律を課すことも必要であろう。その意味で、第二次大戦以前の古典的な映画理論家達に学ぶべき事は多い。 旧態依然の評論が多かったが、ビデオテープやレーザーディスク、DVD、Blu-ray Discなどの記録メディアの出現によって、より多くの人が評論できるインターネット環境や映画評サイトも揃い、例えば、ロジャー・イーバートのようにネット上に評論を出している専門家も出てきた。中には映画館で見ないで評論する人も増えている。同時に、「Rotten Tomatoes」のように集団で評論をしあい、集計することも可能になってきた。 作り手もフランソワ・トリュフォーの『ある映画の物語』(『華氏451』撮影日記)や『アメリカの夜』、トリュフォーとアルフレッド・ヒッチコックの『定本 映画術』、伊丹十三の『「お葬式」日記』や多くのメイキング映画などのように撮影の方法論について明らかにすることも増えてきた。 作り手側の意見としては、『月刊シナリオ』2009年8月号において同誌代表者である浦崎浩實が言及している。映画評論家・石上三登志の「ミステリマガジン」連載記事の文章について、「悪文に閉口」「手柄話を連ね、読む方が赤面」「何ものをも生産しない(生産できない)批評家なるものは悲しい。自分で自分の力を吹聴してプライドを維持するのか」と断罪した上で、「今、映画批評家たちは、ご飯粒どころか、テーブルから落ちたパンくずに群がっているようなものではなかろうか?飛躍するようだが、批評の自律性がほぼ完全に失われている、ように思える」と厳しい指摘を行っている。黒澤明の口癖は「伝えたいメッセージがあるなら、看板でも作って繁華街を練り歩くことだ」だった。
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映画評論とは、映画を分析し、評論(批評)する事。
{{Otheruses|言論活動行為|かつて存在した雑誌|映画評論 (雑誌)}} {{複数の問題 |出典の明記 = 2011年12月 |独自研究 = 2011年12月 }} '''映画評論'''(えいがひょうろん、[[英語]]:film criticism)とは、[[映画]]を分析し、[[批評|評論]](批評)する事。 == 概要 == ティモシー・コーリガンは、映画批評(''The Movie Review'' )と理論的なエッセイ(''The Theoretical Essay'' )という用語を用いて、次のように説明している{{Sfn|Timothy Corrigan|1998|p=10-13}}。映画批評(''The Movie Review'' )は、一般によく知られている映画分析の一つで、通常、できるだけ多くの観客や、映画について特別な知識を持たない読み手が対象となる{{Sfn|Timothy Corrigan|1998|p=10-11}}。対して、特定の映画や、映画史、及び映画に関する文献などの多くの知識をもつ読者に対して、映画の表現について何が他の映画と違うのか、また他の芸術との共通点を主張して、より大きく複雑な構造と、その理解方法を明らかにすることを目指しているのが理論的なエッセイ(''The Theoretical Essay'' )だという{{Sfn|Timothy Corrigan|1998|p=11-13}}。 === 日本マスメディアの論調 === [[日本]]の[[マスメディア]]においては、[[印象批評]]的な文章が映画評論として扱われている事がしばしば見受けられるが、実際、感想文や批判ではなく、映画をどう評論していくかはかなりの修練が必要とされる。基本は数多くの映画を注意深く[[鑑賞]]する事に始まるが、そこから先の方法論となると、多種多様である。「第七[[芸術]]」である映画は[[文芸評論]]や[[美学]]とも違い、映像([[動画]])、[[音声]]も含めた総合的な評論が必要だが、一面的な捉え方からの評論や流行している評論の流用、単なる批判で終わっていることがある。 == 映画評論の歴史 == === 前史 === 映画評論の歴史は[[サイレント映画|サイレント]]初期にまで遡る。[[ヨーロッパ]]ではその頃から映画を美学的考察の対象とした人々がおり、詩人で映画脚本も書いた[[ベラ・バラージュ]]、美学者[[ルドルフ・アルンハイム]]などが出た。これより少し遅れるが、日本では[[今村太平]]がこの傾向の代表者である。[[第二次世界大戦]]前のこの段階では、[[映画学]]と映画評論は現在ほど大きく分離していた訳ではない。より正確に言えば、[[学問]]としての「映画学」は公式には存在せず、他分野の研究者や在野の研究者が映画[[評論家]]を兼ねる部分が大きかった。ともあれ、これらの映画美学的著書の数々は、現在に至るまで映画学における映画理論の最重要文献と見なされている。 === 作家主義 === 現在の映画評論に最も大きな影響を与えたのは、[[1950年代]]後半から[[1960年代]]初頭にかけての[[フランス]]に現れた「[[作家主義]]」という考え方である。[[映画監督]][[アレクサンドル・アストリュック]]の「[[カメラ万年筆]]論」に始まり、評論家[[アンドレ・バザン]]がそれを代表した。この考えによれば、映画は監督や[[脚本家]]の思想を体現した「作品」であり、それは[[セルゲイ・エイゼンシュテイン|エイゼンシュテイン]]の映画であっても[[アルフレッド・ヒッチコック|ヒッチコック]]の映画であっても同じことである。これ以前にも、映画を監督や脚本家の「作品」として捉える見方がなかった訳ではないが、「作家主義」は[[ヌーヴェル・ヴァーグ]]という創作上の運動を生み出し、それと連動していたために、国外への影響力が大きかった。「作家主義」的な立場からは厳密な評論の方法論は生まれえず、その亜流達は原始的な印象評論に退行した。 === 記号学 === 1960年代半ば以降、その反動として個々の映画の価値判断をしない映画[[記号学]]という方法論が映画学界を席巻することになった。言語学的モデルに支えられたこの方法論は評論との共通点をほとんど持っておらず、映画学を学問として成立させることはできても、映画評論に影響を与えることはできなかった。[[1970年代]]に入り、[[精神分析学]]的映画記号学の出現は事態を更に紛糾させた。そこに至って方法論の厳密さすら失われ、映画学はますます蛸壺化したからである。映画評論と映画学の不幸な分離をもたらしたこの状況は、1980年代まで続く。 === 物語論 === [[1980年代]]以降、映画学の中で、個々の作品の意味を作者(監督)の意図やスタイルとも関連付けながら、分析・解釈してゆく動きが見られた。映画研究への[[物語論]](ナラトロジー)の応用、[[ポストモダニズム]]的な現代の[[文化_(代表的なトピック)|文化]]状況における「[[イデオロギー]]装置」としての映画の研究が、必然的にそのような動きをもたらしたと言えよう。主に英語圏で行われたこれらの研究の成果は、日本の映画評論には十分に反映されていない。一方で、各国で映画史的な研究が評論家によって精力的に行われていた。映画史は厳密な方法論を要求しなかったからである。 == 方法論の必要性 == 映画評論に方法論が必要かどうかという問題は、評論家の良心が記述の客観性と明快さ、作品分析の厳密さを求めるかどうかという問題でもある。評論家が映画文化の担い手としての社会的責任を果たすためには、自らにそのような戒律を課すことも必要であろう。その意味で、第二次大戦以前の古典的な映画理論家達に学ぶべき事は多い。 旧態依然の評論が多かったが、[[ビデオテープ]]や[[レーザーディスク]]、[[DVD]]、[[Blu-ray Disc]]などの[[記録メディア]]の出現によって、より多くの人が評論できるインターネット環境や映画評サイトも揃い、例えば、[[ロジャー・イーバート]]のようにネット上に評論を出している専門家も出てきた<ref>[http://www.rogerebert.com/ Movie Reviews and Ratings by Film Critic Roger Ebert]</ref>。中には[[映画館]]で見ないで評論する人も増えている。同時に、「[[Rotten Tomatoes]]」のように集団で評論をしあい、集計することも可能になってきた。 作り手も[[フランソワ・トリュフォー]]の『ある映画の物語』(『[[華氏451]]』撮影日記)や『[[アメリカの夜]]』、トリュフォーと[[アルフレッド・ヒッチコック]]の『[[映画術 ヒッチコック/トリュフォー|定本 映画術]]』、[[伊丹十三]]の『「[[お葬式]]」日記』や多くの[[メイキング]]映画などのように撮影の方法論について明らかにすることも増えてきた。 作り手側の意見としては、『[[月刊シナリオ]]』2009年8月号において同誌代表者である[[浦崎浩實]]が言及している。映画評論家・[[石上三登志]]の「[[ミステリマガジン]]」連載記事の文章について、「悪文に閉口」「手柄話を連ね、読む方が赤面」「何ものをも生産しない(生産できない)批評家なるものは悲しい。自分で自分の力を吹聴してプライドを維持するのか」と断罪した上で、「今、映画批評家たちは、ご飯粒どころか、テーブルから落ちたパンくずに群がっているようなものではなかろうか?飛躍するようだが、批評の自律性がほぼ完全に失われている、ように思える」と厳しい指摘を行っている。[[黒澤明]]の口癖は「伝えたいメッセージがあるなら、看板でも作って繁華街を練り歩くことだ」だった。 == 関連項目 == * [[映画評論家一覧]] == 脚注 == === 注釈 === <references group="注釈" /> === 出典 === <references /> == 参考文献 == *{{Cite book | author = Timothy Corrigan | year = 1998 | title = A short guide to writing about film | publisher = New York : Longman | series = The short guide series | ref = harv}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:えいかひようろん}} [[Category:映画評論|*]]
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映画評論家一覧
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{{Pathnav|映画|映画の一覧|frame=1}} '''映画評論家'''の五十音順の一覧。 == アメリカ人の映画評論家 == {{Div col|2}} * [[A・O・スコット]] * [[アンドリュー・サリス]] * [[ヴィンセント・キャンビー]] * [[ウェスリー・モリス]] * [[オーウェン・グレイバーマン]] * [[ジーン・シスケル]] * [[ジェイ・コックス]] * [[ジェームズ・エイジー]] * [[ジェームズ・ベラーディネリ]] * [[ジャネット・マスリン]] * [[ジョー・モーゲンスターン]] * [[スティーヴン・ハンター]] * [[トッド・マッカーシー]] * [[パーカー・タイラー]] * [[ピーター・トラヴァース]] * [[ポーリン・ケイル]] * [[ボズレー・クラウザー]] * [[マニー・ファーバー]] * [[リチャード・ローパー]] * [[ロバート・オズボーン (映画史家)]] {{Div col end}} == イギリス人の映画評論家 == * [[マーク・カーモード]] == インド人の映画評論家 == {{Div col|2}} * [[タラン・アダルシュ]] * [[ラジーヴ・マサンド]] {{Div col end}} == スウェーデン人の映画評論家 == {{Div col|2}} * [[LiLiCo]] {{Div col end}} == 日本人の映画評論家 == === あ === {{Div col|2}} * [[青山真治]] - [[映画監督]]、[[カイエ・デュ・シネマ・ジャポン|『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』]]批評委員、[[東京大学]]元非常勤講師。 * [[青山正明]] * [[赤坂太輔]]  * [[秋本鉄次]] * [[浅野潜]] * [[阿部嘉昭]] * [[荒木久文]] * [[晏妮]] * [[飯島正]] * [[飯島哲夫]] * [[池田憲章]] * [[石坂昌三]] * [[石原郁子]] * [[井筒和幸]] - 映画監督を兼任 * [[稲川方人]] * [[井上徳士]] * [[今村太平]] * [[岩井田雅行]] * [[岩崎昶]] - [[ドイツ文学者]]。 * [[植草甚一]] * [[上野昻志]] * [[宇田川幸洋]] * [[内田岐三雄]] * [[内海陽子]] * [[梅本洋一 (映画評論家)|梅本洋一]] - [[フランス文学者]]、『[[カイエ・デュ・シネマ・ジャポン]]』創刊編集長、元[[横浜国立大学]]教授、[[パリ大学]]芸術学博士、[[早稲田大学]]文学博士。 * [[鵜戸口哲尚]] * [[浦山珠夫]] * [[江戸木純]] * [[襟川クロ]] * [[大久保賢一]] * [[大滝功|大黒東洋士]]               * [[大寺眞輔]] * [[大場正明]] * [[岡俊雄]] * [[岡部まり]] * [[おかむら良]] * [[尾形敏朗]] * [[荻昌弘]] * [[おすぎ]] * [[小野耕世]] {{Div col end}} === か === {{Div col|2}} * [[柏倉正美]] * [[快楽亭ブラック_(2代目)]] * [[加藤幹郎]] * [[河原晶子]] * [[河原畑寧]] * [[川本三郎]] * [[北川冬彦]] * [[北川れい子]] * [[木村奈保子]] * 黒沢清 - [[映画監督]]、『[[カイエ・デュ・シネマ・ジャポン]]』批評委員、[[東京芸術大学]]大学院映画研究科教授。 * [[久保田明]] * [[河野基比古]] * [[粉川哲夫]] *[[コトブキツカサ]] * [[こはたあつこ]] * [[小藤田千栄子]] * [[小森和子]] * [[今野雄二]] {{Div col end}} === さ === {{Div col|2}} * [[斎藤工]] * [[斎藤正治]] * [[斉藤龍鳳]] * [[佐々木敦]] * [[佐藤忠男]] * [[佐藤利明]] * [[塩田時敏]] * [[芝山幹郎]] * [[品田雄吉]] * [[清水節]] * [[白井佳夫]] * [[白石顕二]] * [[白石雅彦]] * [[白河清風]] * [[新保博久]] * [[杉谷伸子]] * [[杉山すぴ豊]] * [[鈴村たけし]] * [[瀬川裕司]] * [[添野知生]] {{Div col end}} === た === {{Div col|2}} * [[高橋ヨシキ]] * [[高橋紀子]] * [[田中純一郎]] * [[田中千世子]] * [[田沼雄一]] * [[田山力哉]] * [[冨田弘嗣]] * [[中条省平]] - [[フランス文学者]]、[[学習院大学文学部|学習院大学文学部フランス語圏文化学科]]教授、同大学院人文科学研究科身体表象文化学専攻教授、[[朝日新聞社]]書評委員、[[パリ大学]]第3期課程文学博士。 * [[寺本直未]] * [[寺脇研]] * [[テリー・天野]] [[(映画ガチンコ兄弟)]] * [[登川直樹]] * [[ドリー・尾崎]] [[(映画ガチンコ兄弟)]] {{Div col end}} === な === {{Div col|2}} * [[中井圭]] * [[長沢節]] * [[なかざわひでゆき]] * [[中野翠]] * [[中村勝則]] * [[七海見理]] * [[南部圭之助]] * [[西村雄一郎]] * [[西脇英夫]](東史朗) * [[野村正昭]] {{Div col end}} === は === {{Div col|2}} * [[蓮實重彦]] - [[フランス文学者]]、[[東京大学]]元総長、元[[立教大学]]教授、季刊『リュミエール』編集長、[[パリ大学]]名誉文学博士。 * [[筈見有弘]] * [[筈見恒夫]] * [[秦早穂子]] * [[畑中佳樹]] * [[服部弘一郎]] * [[浜村淳]] * [[春岡勇二]] * [[樋口尚文]] * [[樋口泰人]] - boid主宰、『[[カイエ・デュ・シネマ・ジャポン]]』元編集委員長。 * [[日野康一]] * [[兵頭頼明]] * [[平野秀朗]] * [[平山允]] * [[福岡翼]] * [[福間健二]] * [[藤川治水]] * [[双葉十三郎]] * [[古田昴生]] * [[細越麟太郎]] * [[本間ひろむ]] {{Div col end}} === ま === {{Div col|2}} * [[前田秀一郎]] * [[前田有一]] * [[増井孝子]]  * [[ますだけいこ]] * [[増田貴光]] * [[町山智浩]] * [[松島利明]] * [[松田政男]] * [[水野晴郎]] * [[三留まゆみ]] * [[南俊子]] * [[三浦哲哉]] * [[森卓也]] * [[森直人]] * [[盛内政志]] {{Div col end}} === や === {{Div col|2}} * [[安井豊]] * [[柳下毅一郎]] * [[山口猛]] * [[山田和夫]] * [[山田宏一]] - フランス文学者 * [[山田誠二]] * [[山根貞男]] - 映画監督 * [[山本恭子 (映画評論家)|山本恭子]] * [[淀川長治]] *[[吉田伊知郎|吉田伊知郎(モルモット吉田)]] * [[吉村英夫]] * [[四方田犬彦]] - フランス文学者 {{Div col end}} === わ === {{Div col|2}} * [[和久本みさ子]] * [[渡辺祥子]] * [[渡辺武信]] * [[渡部保子]] {{Div col end}} == 関連項目 == * [[映画評論]] {{DEFAULTSORT:えいかひようろんか}} [[category:映画評論家| えいかひようろんかいちらん]] [[category:映画理論家| えいかひようろんかいちらん]] [[Category:著作家一覧]] [[Category:職業別人名一覧]]
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映画プロデューサー一覧
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日本の映画プロデューサー一覧
日本の映画プロデューサー一覧 (にほんのえいがプロデューサーいちらん) は、Wikipedia日本語版に存在する日本の映画プロデューサーを一覧にしたものである。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "日本の映画プロデューサー一覧 (にほんのえいがプロデューサーいちらん) は、Wikipedia日本語版に存在する日本の映画プロデューサーを一覧にしたものである。", "title": null } ]
日本の映画プロデューサー一覧 (にほんのえいがプロデューサーいちらん) は、Wikipedia日本語版に存在する日本の映画プロデューサーを一覧にしたものである。
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ジャンル
ジャンル(フランス語: genre)とは、芸術表現群をある一つの側面から客観的に分類したものをいう。 少なくとも古代ギリシア時代にまで遡ることのできる「悲劇」など、長い歴史の中で用いられているジャンルがある一方、時代の変化を捉えるべく新しいジャンルが提案され、中には普及するものもある。 分類の基準として用いられるのは作品であることが多いが、その内実は多様である。また「女流文学」のように作品ではなく作者の特徴を基準としたものもある。体系として広く共有された形では存在しないため、使う人によって「SF映画」などのジャンル名の判断基準が異なっていたり、複数のジャンル間で重複があったりすることもしばしばである。 より狭義には、文学などでは主題(テーマ)や様式にまつわる作品の特性を基準として作品を分類する範疇(カテゴリー)を特にジャンルと呼ぶ。この意味では、作者の性別や国籍などといった基準による分類範疇の「女流文学」「ラテンアメリカ文学」などは「ジャンル」ではないということになる。 「戦争映画」「西部劇」なども、範疇名としては題材や舞台についての限定を与えるだけで、主題、様式については必ずしも特定しない。ただし「ハリウッド映画」が名称上は単に映画の製作会社の本拠地を限定しているだけのものでありながらも、実質的には主題やスタイル上の特徴(ハッピー・エンディングであること、実験的な手法を避ける傾向にあること、娯楽性を重視すること、作品が「映画」であることを強調せず「自然な」感じの映像表現を多用すること、など)を含意している範疇もあるため、特定の分類用語をとりあげてそれがジャンル名であるか否かを決めようとすると困難にぶつかる場合もある。 映画については、あるジャンルに固定できる映画は多くはない。公開時のセールスの仕方に従っているのが通例である。 漫画においては、アメリカン・コミックスではスーパーヒーロー以外のジャンルを「グリッタージャンル」としている。
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ジャンルとは、芸術表現群をある一つの側面から客観的に分類したものをいう。 少なくとも古代ギリシア時代にまで遡ることのできる「悲劇」など、長い歴史の中で用いられているジャンルがある一方、時代の変化を捉えるべく新しいジャンルが提案され、中には普及するものもある。
{{複数の問題 |出典の明記=2014年9月 |独自研究=2014年9月 }} '''ジャンル'''({{lang-fr|genre}})とは、[[芸術]][[表現]]群をある一つの側面から客観的に[[分類]]したものをいう。 少なくとも[[古代ギリシア|古代ギリシア時代]]にまで遡ることのできる「[[悲劇]]」など、長い歴史の中で用いられているジャンルがある一方、時代の変化を捉えるべく新しいジャンルが提案され、中には普及するものもある。 == 概要 == 分類の基準として用いられるのは作品であることが多いが、その内実は多様である。また「[[女流文学]]」のように作品ではなく作者の特徴を基準としたものもある。体系として広く共有された形では存在しないため、使う人によって「[[SF映画]]」などのジャンル名の判断基準が異なっていたり、複数のジャンル間で重複があったりすることもしばしばである。 より狭義には、[[文学]]などでは主題(テーマ)や様式にまつわる作品の特性を基準として作品を分類する範疇(カテゴリー)を特にジャンルと呼ぶ。この意味では、作者の性別や国籍などといった基準による分類範疇の「女流文学」「[[ラテンアメリカ文学]]」などは「ジャンル」ではないということになる。 「[[戦争映画]]」「[[西部劇]]」なども、範疇名としては題材や舞台についての限定を与えるだけで、主題、様式については必ずしも特定しない。ただし「[[ハリウッド映画]]」が名称上は単に映画の製作会社の本拠地を限定しているだけのものでありながらも、実質的には主題やスタイル上の特徴(ハッピー・エンディングであること、実験的な手法を避ける傾向にあること、娯楽性を重視すること、作品が「映画」であることを強調せず「自然な」感じの映像表現を多用すること、など)を含意している範疇もあるため、特定の分類用語をとりあげてそれがジャンル名であるか否かを決めようとすると困難にぶつかる場合もある。 映画については、あるジャンルに固定できる映画は多くはない。公開時のセールスの仕方に従っているのが通例である。 [[漫画]]においては、[[アメリカン・コミックス]]では[[スーパーヒーロー]]以外のジャンルを「グリッタージャンル」としている。 <!-- == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}}--> == 関連項目 == {{Wiktionary|Genre}} * [[映画のジャンル]] * [[コンピュータゲームのジャンル]] * [[音楽のジャンル一覧]] * {{Prefix}} * {{intitle}} {{DEFAULTSORT:しやんる}} [[Category:ジャンル|*しやんる]] [[Category:分類]] [[Category:哲学の概念]] [[Category:フランス語の語句]]
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TV (曖昧さ回避)
TV tv
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "TV", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "tv", "title": null } ]
TV テレビジョン(Television) 異性装(Transvestite) ツバル(Tuvalu)のISO 3166-1国名コード。 トレヴィーゾ県の略号およびISO 3166-2:IT県名コード - イタリアの県。 T.V.(後のTV-WILDINGS)- 葛城哲哉らが在籍したロックバンド。 ヴァージン・エキスプレスのIATA航空会社コード。 トップバリュの略称 ザ・ベンチャーズの略称 練習艦の艦船記号。 tv .tv - ツバルの国名コードトップレベルドメイン。
'''TV''' *[[テレビ|テレビジョン]](Television) *[[異性装]](Transvestite) *[[ツバル]](Tuvalu)の[[ISO 3166-1]][[国名コード]]。 *[[トレヴィーゾ県]]の[[イタリア共和国の県名略記号|略号]]および[[ISO 3166-2:IT]]県名コード - [[イタリア]]の[[県]]。 *[[T.V.]](後のTV-WILDINGS)- [[葛城哲哉]]らが在籍した[[ロックバンド]]。 *[[ヴァージン・エキスプレス]]の[[国際航空運送協会|IATA]][[航空会社コード]]。 *[[トップバリュ]]の[[略語|略称]] *[[ザ・ベンチャーズ]](The Ventures)の略称 *[[練習艦]](Training Vessel)の艦船記号。 '''tv''' *[[.tv]] - ツバルの[[国名コードトップレベルドメイン]]。 {{aimai}}
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映画プロデューサー
映画プロデューサー(えいがプロデューサー、film producer)は、映画を企画、立案し、作品にする総合責任者である。 日本映画では「製作」や「企画」と表記されることもある。近年は特にその職域が広くなっていることもあり、プロデューサーとしての職分を複数人で分担する場合が大半である。エンドロールでは、「プロデューサー」として連名で表示されることもあれば、「協力プロデューサー」「プロデューサー補」等とされることもある。「企画」は、言葉通り純粋に当該プロジェクトの立ち上げやアイディア提供にだけ関わった人物の場合もあり、大部分の東映映画などのように(同社は長らく「製作」のクレジットは社長のみにしか許されなかった)プロデューサーを指す場合もある。 日本以外映画作品のエグゼクティブ・プロデューサー(Executive Producer、製作総指揮)は、ここで定義する映画プロデューサーとは、必ずしも一致しない。映画製作において具体的な実務内容が定められておらず、一般には、プロデューサーに対して社会的・経済的信用を付与する存在(日本的に言えば「後見人」)と理解されており、実質的な名義貸しともいえる。その職責は前述の通り名義のみのほか、出資を伴う事もあれば、企画やプロデュースへの関与、中には「総監督」のような立場で製作を全面的に指揮している場合もあり、監督やプロデューサーの上位に来る最高責任者であるが、その定義は明確ではない。『ジョーズ』等の製作をしたリチャード・ザナックによると、賞を受け取るために壇上に上がるのがラインプロデューサーで、ザナックや相棒のブラウンは上がらないとインタビューで説明している。 近年のハリウッド映画では、リメイク作やアメコミの映画化などで「映画の元となる作品の権利を持つ人物」は、その作品に携わらずとも権利者として「エグゼクティブ・プロデューサー」にクレジットされる慣習となっている。 これに対し、日本映画におけるエグゼクティブ・プロデューサーは、洋画と同じ意味合いで使われる場合もあるが、「複数のプロデューサーの中の筆頭者」を意味する場合もある。 企画者・製作者をプロデューサーと呼び、業務、ライン上のランク等でプロデューサーを区分する場合がある。
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映画プロデューサーは、映画を企画、立案し、作品にする総合責任者である。
{{出典の明記|date=2022年12月28日 (水) 06:55 (UTC)}} '''映画プロデューサー'''(えいがプロデューサー、film producer)は、[[映画]]を企画、立案し、作品にする総合責任者である。 == 概要 == [[日本映画]]では「製作」や「企画」と表記されることもある。近年は特にその職域が広くなっていることもあり、プロデューサーとしての職分を複数人で分担する場合が大半である。[[エンドロール]]では、「プロデューサー」として連名で表示されることもあれば、「協力プロデューサー」「プロデューサー補」等とされることもある。「企画」は、言葉通り純粋に当該プロジェクトの立ち上げやアイディア提供にだけ関わった人物の場合もあり、大部分の[[東映]]映画などのように(同社は長らく「製作」の[[クレジットタイトル|クレジット]]は社長のみにしか許されなかった)プロデューサーを指す場合もある。 日本以外映画作品の[[エグゼクティブ・プロデューサー]](Executive Producer、製作総指揮)は、ここで定義する映画プロデューサーとは、必ずしも一致しない。映画製作において具体的な実務内容が定められておらず、一般には、プロデューサーに対して社会的・経済的信用を付与する存在(日本的に言えば「[[後見人]]」)と理解されており、実質的な名義貸しともいえる。その職責は前述の通り名義のみのほか、出資を伴う事もあれば、企画やプロデュースへの関与、中には「総監督」のような立場で製作を全面的に指揮している場合もあり、監督やプロデューサーの上位に来る最高責任者であるが、その定義は明確ではない。『ジョーズ』等の製作をしたリチャード・ザナックによると、賞を受け取るために壇上に上がるのがラインプロデューサーで、ザナックや相棒のブラウンは上がらないとインタビューで説明している。 近年のハリウッド映画では、[[リメイク]]作や[[アメリカン・コミックス|アメコミ]]の映画化などで「映画の元となる作品の権利を持つ人物」は、その作品に携わらずとも権利者として「エグゼクティブ・プロデューサー」にクレジットされる慣習となっている{{要出典|date=2009年12月}}。 これに対し、日本映画におけるエグゼクティブ・プロデューサーは、洋画と同じ意味合いで使われる場合もあるが、「複数のプロデューサーの中の筆頭者」を意味する場合もある。 {{main|製作}} == 主な役割 == * 企画立案 * [[資金調達]](出資者候補との交渉、確保) * プロデューサーチームの編成 * [[脚本家]]や[[映画監督]]、その他のスタッフ選び * [[キャスト]]選び * 準備から撮影、[[映画音楽|音楽]]、仕上げ、作品の完成までの全ての工程の包括的管理 * [[映画配給|配給]]、販売サイドとの交渉 * 資金の流れの管理 * ファイナル・カットの権限 == その他のプロデューサー == 企画者・製作者をプロデューサーと呼び、業務、ライン上のランク等でプロデューサーを区分する場合がある。 * [[エグゼクティヴ・プロデューサー]] - 映画プロデューサーの最上位の役職、製作総指揮と訳す。実際には製作現場での実務はほとんどない。 * 協力プロデューサー - associate producerの日本語への訳語。映画プロデューサーの下で企画、制作などに参加。 一部、もしくは限定された業務を行うプロデューサー。「製作補」の訳語もある。 * 共同プロデューサー - co-producerの日本語への訳語。主に製作に参加する企業等との交渉や資金の調達などを担当するプロデューサー。 * 企画プロデューサー - 原案、企画、映画作品自体のコンセプトの礎を担う。以下と区別するための便宜上の語。 * ラインプロデューサー - 製作担当、製作主任、製作進行、進行助手のラインのトップ * キャスティングプロデューサー - キャスティング業務のプロデュース、演技事務のラインのトップ * [[音楽プロデューサー]] - [[劇伴]]、[[主題歌]]のプロデュース * 宣伝プロデューサー - 配給部門における宣伝業務のプロデュース == 教育機関 == * [[映画専門大学院大学]] - [[2013年]]廃止。 <!-- == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}}--> == 関連項目 == * [[プロデューサー]] * [[映画プロデューサー一覧]] ** [[日本の映画プロデューサー一覧]] * [[アービング・G・タルバーグ賞]] - プロデューサーを対象とした賞 {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:えいかふろてゆうさあ}} [[category:映画プロデューサー|*]] [[Category:映画スタッフ]]
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オリジナルビデオ
オリジナルビデオは、劇場公開や放送を前提としないビデオ専用の映画、レンタルビデオ店での貸出用に作られた劇映画をいう。後にビデオ以外で公開されてもオリジナルビデオである(銀河英雄伝説など)。中には、劇場公開や放送を前提としながらも諸事情によりパッケージ専用となった映画もあるが、こちらはビデオスルーと呼んで区別している。ネット配信業者が国や地域で独占的に配信する映画やドラマはビデオスルーやOVAを含み配信業者のオリジナル(『Amazonオリジナル』や『Netflixオリジナル』)と配信業者が称している。 略称はOV。その他の通称として、ビデオ映画、Vシネマ、Vシネがある。ここでは主に実写作品について述べる。アニメ作品に関してはOVA(オリジナル・ビデオ・アニメーション)を参照。 オリジナルビデオで扱われるテーマは多種多様であるが、その中でも特に多いのがヤクザ、ギャンブル、エロの3ジャンルである。 黎明期である1990年の『月刊シナリオ』(日本シナリオ作家協会)10月号の「特集 ビデオシネマの可能性と現在」では、「ビデオシネマとは...ビデオのマーケットを主目的に作られた『ビデオの劇作品』を、一般的には『オリジナルビデオ』とか、『オリジナルビデオ映画』『OV』などと呼び、各制作会社はそれぞれの商品名をつけていますが、このジャンル全体を指す適当な呼名はまだ確立していないようなので『ビデオ独自の劇作品部門全体の名称』として編集部で仮につけたタイトルです」と書かれ、ここでは「ビデオシネマ」と呼んでいる。しかしこの特集では執筆者によって呼び方が違い、塩田時敏はビデオ・オリジナル、桂千穂はヴィデオドラマ(Vドラマ)、鴨井達比古(日本シナリオ協会理事)は、オリジナル・ビデオと呼んでいる。他にVオリジナル、ビデオムービーという呼び名もあった。 また、東映のオリジナルビデオレーベル・東映Vシネマを始め、各社が別々の名称、レーベルでオリジナルビデオ映画を発売した(#オリジナルビデオの主なメーカーおよびレーベルを参照)。 1985年、バンダイのエモーションレーベルが30分の短編ながら早川光監督の『うばわれた心臓』を製作し発売。同年にはオレンジビデオハウスから『ギニーピッグ』シリーズが出されており、これらオリジナルビデオ製作の背景にはスプラッター映画のブームがあった。その他にもアダルトアニメを発売していたワンダーキッズが井筒和幸監督で『コンバってんねん』を出すなど、黎明期のビデオ市場において散発的にオリジナルビデオは発表されていた。 『キネマ旬報』1990年5月下旬号の特集「編集長対談 東映V CINEMA特集」では、「オリジナル・ビデオ映画の登場は1985年からで、この年東芝映像ソフトの『若者気分の基礎知識』『餓鬼魂』、徳間ジャパン『俺ら東京さ行ぐだ』、バンダイ『うばわれた心臓』、V&R『ギニーピッグ 惨殺スペシャル』の5本が製作・発売された。ただしフィルム製作は東芝映像の『餓鬼魂』だけで、残りはビデオ収録。しかし、当時のビデオ市場は作品ストックが豊富にあり、時期早尚であった」などと書かれている。 1989年、東映映画制作部が製作と発売をし、東映ビデオが販売した東映Vシネマがオリジナルビデオを市場として確立する。東映は低迷する日本映画の現状打開のため、映画制作とは別部門が管轄する映画配給にかかる費用を作品制作費に回すことで、低予算ながら劇場公開作品に劣らぬ品質を生み出そうとしたのである。いわゆる大作ではなくプログラムピクチャーをビデオ供給したものであり、東映のこの試みは功を奏し、1990年までに発売した20本の平均売り上げ数2万7千本と1万本でヒットといわれるビデオ業界で大成功を収め、1990年4月からは月に1本、10月からは月2本と量産体制を整え、東映が商標権を保有する「Vシネマ」及び「Vシネ」をオリジナルビデオの略称とする意味合い(商標の普通名称化)で、事実上の代名詞として使用されることも多い。このため、日本映画黄金時代にあたる1960年代から東映映画制作部がお家芸としているヤクザ映画も、この頃を境に劇場公開からVシネマに軸足を移した。配給スケジュールに囚われない制作のしやすさを活かした低予算製作のため、劇場用作品に比べて大量製作が実現できた。 東映の成功を追って、1990年代に入り他の映画会社も参入。にっかつが1990年3月15日に「Vフィーチャー」の製作開始を発表し、その第一弾『首都高速トライアル2』は3万本売れた。続いて松竹は1990年12月28日に「SHVシネマ」第1回作品、向井寛監督『女刑事サシバ』を発売し2万3000本売れた。以降、大映が「新映画天国」を出し、様子を窺っていた東宝も「シネパック」を出した。当時、映画会社は自社での劇場用映画の制作を減らしており、これら映画会社がオリジナルビデオをこぞって制作を始めたのは、それまでレンタルビデオのソフト供給源だった劇場用映画のVHS化作品が底を突き始めていたためという事情もあった。とはいえ、外部事業者制作作品が主の東宝作品は、OVに関しても、外部受託に頼りきりで、民放キー局で唯一ビデオ会社との縁が無いテレビ東京が東宝向けの受託制作と発売を行っていた。また、映画会社のみならず、ビデオ会社のジャパンホームビデオや『ミナミの帝王シリーズ』が有名作のケイエスエス、アダルトビデオを制作していたダイヤモンド映像の村西とおるが1990年11月、「日本ビデオ映像」を設立してオリジナルビデオの制作を開始し異様な活気と展開を見せた。 さらには、バブル経済末期ということもあいまって、それまで映画製作に縁のなかった人々までが映画のプロデューサーに近いことをやれるということも魅力と3000万円から4000万という映画としては低予算な理由から殺到し、当時全盛を迎えていたレンタルビデオ市場にオリジナルビデオが投入されていくことになった。 1989年に数本だった製作本数は1990年に60本と急増、1989年~1990年の二年間に19社のメーカーによってオリジナルビデオが発売された。1991年には21社となり、150タイトルがリリース。この1991年はVHSとベータのビデオ戦争がほぼ終わった年で、VHSに統一されたことで普及率も頂点に達し、ビデオ産業の頂点の年ともいわれる。1995年には150本、2000年には年間製作本数が300本を越えるほどの濫造ぶりを見せた。 しかし、濫作は育ちかけた市場を早期に供給過多に陥らせ、個々の商品の売り上げを落とし、その結果、粗製濫造された商品が出回り、さらに売り上げは落ちていった。製作当初、東映のVシネマは6000万円から7000万円の予算で製作されていたが、2000年頃のオリジナルビデオの制作費は2000万円から3000万円だったと言われる。ピンク映画、アダルトビデオとの関わりが多いエロス系の作品においては予算はさらに切り詰められており、50万~100万円台の作品まで登場している(参考:ピンク映画の一般的な予算は250万~300万円と言われており、最近では200万円台の予算の作品も登場している。この予算枠は機材費やフィルム代、セッティング時間を食われる35ミリ映画時代も大差なかったため、低予算ノウハウがもっとも発達した業界となっている)。 低予算のオリジナルビデオでは、撮影もフィルム撮影からビデオ撮影へと変わり、近年ではシリーズ物の製作において、同じスタッフ・出演者で一度のスケジュール拘束で2話・3話とまとめて撮影するという手法が目立っている。 オリジナルビデオは、プロモーションのため短期間、単館で劇場公開されることも多く、そうした作品はレンタルビデオ店で劇場公開作品として扱われる。 なお、アニメ作品に関してはOVA(オリジナル・ビデオ・アニメーション)と呼ぶのが通例であり、こちらは上記の実写作品に先立つ1983年にはすでに最初の作品が発売されており、内容的にも上記のエロス作品等に該当しないものも多く存在する。 ホラーやアニメ、ヒーロー戦隊物など、オタクと呼ばれる層が広がり市民権を得ていったのは、オリジナルビデオを生み出したビデオレンタルの急成長と時期を同じくする1980年代半ばのこと。 オリジナルビデオで扱われるテーマは多種多様であったが、その中でも特に多かったのがヤクザ、ギャンブル、エロの3ジャンルで、ホラーや都市伝説モノも一定の支持を集め、のちのジャパン・ホラーブームの下地をつくるなど、その後の映画界発展に大きく貢献したと評価される。 1990年代までは地上波地方局の深夜枠を中心に放送されることもあった。 近年、レンタルビデオ市場自体が縮小傾向にあり、2002年辺りからDVD-Videoが市場に投入され、オンラインDVDレンタルやDVDセルの市場に移行しだした。DVDの場合、1本あたりの小売価格がVHSの10分の1に近いため、作品映像自体の製作費もそれに応じて安くなりつつある。さらに2010年代後半になると、例えオリジナルビデオであってもネット配信でのビデオ・オン・デマンド(VOD)による視聴が普及しつつある。『日本統一』シリーズ(2013年 - )がその代表格で、DVD発売が先のオリジナルビデオではあるものの、2010年代中盤辺りからからVODでの配信で人気に火がついた。そのため、初期の頃は低予算ではあったものの、シリーズを重ねる毎に製作費の意図的な高騰や映画化を行うようになった。 すでに撤退しているものも含める。
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オリジナルビデオは、劇場公開や放送を前提としないビデオ専用の映画、レンタルビデオ店での貸出用に作られた劇映画をいう。後にビデオ以外で公開されてもオリジナルビデオである(銀河英雄伝説など)。中には、劇場公開や放送を前提としながらも諸事情によりパッケージ専用となった映画もあるが、こちらはビデオスルーと呼んで区別している。ネット配信業者が国や地域で独占的に配信する映画やドラマはビデオスルーやOVAを含み配信業者のオリジナル(『Amazonオリジナル』や『Netflixオリジナル』)と配信業者が称している。 略称はOV。その他の通称として、ビデオ映画、Vシネマ、Vシネがある。ここでは主に実写作品について述べる。アニメ作品に関してはOVA(オリジナル・ビデオ・アニメーション)を参照。 オリジナルビデオで扱われるテーマは多種多様であるが、その中でも特に多いのがヤクザ、ギャンブル、エロの3ジャンルである。
{{Redirect|Vシネマ|東映によるオリジナルビデオシリーズ|東映Vシネマ}} {{国際化|領域=日本|date=2014年6月}} {{独自研究|date=2014年6月}} '''オリジナルビデオ'''は、劇場公開や放送を前提としないビデオ専用の[[映画]]、[[レンタルビデオ|レンタルビデオ店]]での貸出用に作られた劇映画をいう<ref name="Vシネ伝説">[[#Vシネ伝説]]</ref><ref name="シナリオ" >[[#シナリオ]]、p4</ref>。後にビデオ以外で公開されてもオリジナルビデオである([[銀河英雄伝説]]など)。中には、劇場公開や放送を前提としながらも諸事情によりパッケージ専用となった[[映画]]もあるが、こちらは[[ビデオスルー]]と呼んで区別している。ネット配信業者が国や地域で独占的に配信する映画やドラマはビデオスルーやOVAを含み配信業者のオリジナル(『Amazonオリジナル』や『Netflixオリジナル』)と配信業者が称している。 略称は'''OV'''。その他の通称として、'''ビデオ映画'''、'''Vシネマ'''、'''Vシネ'''がある。ここでは主に実写作品について述べる。[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]作品に関しては[[OVA]](オリジナル・ビデオ・アニメーション)を参照。 オリジナルビデオで扱われるテーマは多種多様であるが、その中でも特に多いのが[[ヤクザ映画|ヤクザ]]、[[ギャンブル]]、[[エロス (曖昧さ回避)|エロ]]の3ジャンルである<ref name="postseven20140703" />。 == 名称について == 黎明期である1990年の『月刊シナリオ』([[日本シナリオ作家協会]])10月号の「特集 ビデオシネマの可能性と現在」では、「'''ビデオシネマ'''とは...ビデオのマーケットを主目的に作られた『ビデオの劇作品』を、一般的には『オリジナルビデオ』とか、『オリジナルビデオ映画』『OV』などと呼び、各制作会社はそれぞれの商品名をつけていますが、このジャンル全体を指す適当な呼名はまだ確立していないようなので『ビデオ独自の劇作品部門全体の名称』として編集部で仮につけたタイトルです」と書かれ、ここでは「ビデオシネマ」と呼んでいる<ref name="シナリオ" />。しかしこの特集では執筆者によって呼び方が違い、塩田時敏は'''ビデオ・オリジナル'''<ref>[[#シナリオ]]、pp.9-11「東映Vシネマとビデオ・オリジナルのゆくえー塩田時敏」</ref>、[[桂千穂]]は'''ヴィデオドラマ(Vドラマ)'''<ref>[[#シナリオ]]、pp.9-11「若者よ、Vドラマを目指せー桂千穂」</ref>、鴨井達比古(日本シナリオ協会理事)は、'''オリジナル・ビデオ'''と呼んでいる<ref>[[#シナリオ]]、pp.14-15「『オリジナル・ビデオ』に関する作家協会の立場 ー鴨井達比古(日本シナリオ協会理事)」</ref>。他に'''Vオリジナル'''、'''ビデオムービー'''という呼び名もあった<ref name="Vシネ伝説"/>。 また、[[東映]]のオリジナルビデオレーベル・[[東映Vシネマ]]を始め、各社が別々の名称、レーベルでオリジナルビデオ映画を発売した([[#オリジナルビデオの主なメーカーおよびレーベル]]を参照)<ref name="Vシネ伝説"/><ref name="postseven20140703" >[https://www.news-postseven.com/archives/20140703_263405.html?DETAIL Vシネマ誕生から25年 その歴史と扱われやすいテーマを解説]</ref>。   == 概要 == [[1985年]]、[[バンダイビジュアル|バンダイのエモーションレーベル]]が30分の短編ながら[[早川光]]監督の『うばわれた心臓』を製作し発売。同年には[[オレンジビデオハウス]]から『[[ギニーピッグ]]』シリーズが出されており、これらオリジナルビデオ製作の背景には[[スプラッター映画]]のブームがあった<ref>[http://www.water.ne.jp/uba.html 早川光極私的映画史 うばわれた心臓] 早川光公式サイト</ref><ref>尾崎一男「狂い咲き美少女ホラー その解体と検証」『別冊映画秘宝 アイドル映画30年史』洋泉社、2003年、p186</ref>。その他にも[[アダルトアニメ]]を発売していたワンダーキッズが[[井筒和幸]]監督で『コンバってんねん』を出すなど、黎明期のビデオ市場において散発的にオリジナルビデオは発表されていた。 『[[キネマ旬報]]』1990年5月下旬号の特集「編集長対談 東映V CINEMA特集」では、「オリジナル・ビデオ映画の登場は1985年からで、この年東芝映像ソフトの『若者気分の基礎知識』『[[餓鬼魂]]』、[[徳間ジャパンコミュニケーションズ|徳間ジャパン]]『[[俺ら東京さ行ぐだ]]』、[[バンダイビジュアル|バンダイ]]『うばわれた心臓』、[[V&Rプランニング|V&R]]『[[ギニーピッグ|ギニーピッグ 惨殺スペシャル]]』の5本が製作・発売された。ただしフィルム製作は東芝映像の『餓鬼魂』だけで、残りはビデオ収録。しかし、当時のビデオ市場は作品ストックが豊富にあり、時期早尚であった」などと書かれている<ref name="キネ旬19905-41" >[[#キネ旬19905]]、p.41</ref>。 [[1989年]]、[[東映]][[映画制作]]部が製作と発売をし、[[東映ビデオ]]が販売した[[東映Vシネマ]]がオリジナルビデオを市場として確立する<ref name="Vシネ伝説"/><ref>[https://wpb.shueisha.co.jp/news/entertainment/2014/11/06/38380/ 東映Vシネマ25周年! “Vシネの帝王”哀川翔が語る「今いる場所で花を咲かせる働き方」]</ref><ref name="山根">[[#山根]]、p63-65</ref>。東映は低迷する[[日本映画]]の現状打開のため、映画制作とは別部門が管轄する[[映画配給]]にかかる[[費用]]を作品制作費に回すことで、低予算ながら劇場公開作品に劣らぬ品質を生み出そうとしたのである。いわゆる大作ではなく[[プログラムピクチャー]]をビデオ供給したものであり<ref>『ニッポン映画戦後50年 1945~1995』朝日ソノラマ、1995年、p221</ref>、東映のこの試みは功を奏し、1990年までに発売した20本の平均売り上げ数2万7千本と1万本でヒットといわれるビデオ業界で大成功を収め<ref>佐野眞一『日本映画は、いま スクリーンの裏側からの証言』TBSブリタニカ、1996年、p108</ref>、1990年4月からは月に1本、10月からは月2本と量産体制を整え<ref>[[尾形英夫]]『あの旗を撃て』オークラ出版、2004年、p297</ref>、東映が商標権を保有する「Vシネマ」及び「Vシネ」をオリジナルビデオの[[略称]]とする意味合い([[商標の普通名称化]])で、事実上の代名詞として使用されることも多い<ref name="Vシネ伝説"/><ref name="postseven20140703" /><ref>[https://www.tokyo-np.co.jp/article/entertainment/news/CK2014102602000162.html Vシネマ 咲き乱れ25年 2014年10月26日 朝刊]</ref><ref name="ddnavi">[https://ddnavi.com/news/214382/ 東映Vシネマ誕生25周年!カオスの歴史に埋もれた傑作・怪作Vシネマを発掘! 『90年代狂い咲きVシネマ地獄』]</ref>。このため、日本映画[[黄金時代]]にあたる[[1960年代]]から東映映画制作部が[[お家芸]]としている[[ヤクザ映画]]も、この頃を境に劇場公開からVシネマに軸足を移した。配給スケジュールに囚われない制作のしやすさを活かした低予算製作のため、劇場用作品に比べて大量製作が実現できた。 東映の成功を追って<ref>三池崇史『監督中毒』ぴあ、2003年、p202</ref>、[[1990年代]]に入り他の映画会社も参入<ref name="Vシネ伝説"/><ref name="postseven20140703" />。[[日活|にっかつ]]が1990年3月15日に「Vフィーチャー」の製作開始を発表し、その第一弾『[[首都高速トライアル#首都高速トライアル2|首都高速トライアル2]]』は3万本売れた<ref name="Vシネマ魂15" >[[#Vシネマ魂]]、pp.15-16、73-74</ref>。続いて[[松竹]]は[[1990年]][[12月28日]]に「SHVシネマ」第1回作品、[[向井寛]]監督『女刑事サシバ』を発売し2万3000本売れた<ref name="Vシネマ魂15" />。以降、[[大映]]が「新映画天国」を出し、様子を窺っていた[[東宝]]も「シネパック」を出した<ref name="Vシネマ魂15" />。当時、映画会社は自社での劇場用映画の制作を減らしており、これら映画会社がオリジナルビデオをこぞって制作を始めたのは、それまでレンタルビデオのソフト供給源だった劇場用映画の[[VHS]]化作品が底を突き始めていたためという事情もあった<ref>佐野眞一『日本映画は、いま スクリーンの裏側からの証言』TBSブリタニカ、1996年、p113</ref>。とはいえ、外部事業者制作作品が主の東宝作品は、OVに関しても、外部[[受託]]に頼りきりで、[[民間放送|民放]][[キー]]局で唯一ビデオ会社との縁が無い[[テレビ東京]]が東宝向けの受託制作と発売を行っていた{{efn2|[[日本テレビ系列]]は[[バップ]]、[[TBS系列]]は[[パック・イン・ビデオ]](現在は[[TCエンタテインメント]])、[[フジテレビ系列]]は[[ポニーキャニオン]](当時は[[ニッポン放送]]グループだが、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]・[[産業経済新聞社|産経新聞社]]・[[扶桑社]]などの[[フジサンケイグループ]]各社も出資)がある。[[テレビ朝日]]は開局当初の親会社で、グループ外ながら[[東映アニメーション|東映動画]]とともに出資していた東映ビデオ(現在は東映の完全子会社)を関連ビデオ会社に準じた扱いとしているようで、[[朝日新聞社]]発売のビデオコンテンツは、資本上で親戚関係があった東映ビデオが販売元。}}。また、映画会社のみならず、ビデオ会社の[[ジャパンホームビデオ]]や『[[難波金融伝・ミナミの帝王|ミナミの帝王シリーズ]]』が有名作の[[ケイエスエス]]、[[アダルトビデオ]]を制作していた[[ダイヤモンド映像]]の[[村西とおる]]が1990年11月、「日本ビデオ映像」を設立してオリジナルビデオの制作を開始し異様な活気と展開を見せた<ref name="Vシネマ魂15" /><ref>足立倫行『アダルトな人びと』講談社文庫、1995年、p51</ref>。 さらには、[[バブル経済]]末期ということもあいまって、それまで映画製作に縁のなかった人々までが映画のプロデューサーに近いことをやれるということも魅力と3000万円から4000万という映画としては低予算な理由から殺到し<ref>『三池崇拝の仕事』太田出版、2003年、p29、p137.</ref>、当時全盛を迎えていた[[レンタルビデオ]]市場にオリジナルビデオが投入されていくことになった<ref>轟夕起夫編『映画監督になる15の方法』洋泉社、2001年、p37</ref>。 1989年に数本だった製作本数は1990年に60本と急増<ref>[https://www.tokyo-np.co.jp/article/entertainment/news/CK2014102602000162.html Vシネマ 咲き乱れ25年 東京新聞 2014年10月26日]</ref>、1989年~1990年の二年間に19社のメーカーによってオリジナルビデオが発売された<ref name="アニキ考39" >[[#アニキ考]]、pp.39-40</ref>。1991年には21社となり、150タイトルがリリース<ref name="アニキ考39" />。この1991年は[[ビデオ戦争#VHS対ベータマックス|VHSとベータのビデオ戦争]]がほぼ終わった年で<ref name="Vシネマ魂15" />、VHSに統一されたことで普及率も頂点に達し、ビデオ産業の頂点の年ともいわれる<ref name="Vシネマ魂15" />。[[1995年]]には150本<ref>『キネマ旬報』1995年10月上旬号、p.204。</ref>、2000年には年間製作本数が300本を越えるほどの濫造ぶりを見せた<ref name="ddnavi"/>。 しかし、濫作は育ちかけた市場を早期に供給過多に陥らせ、個々の商品の売り上げを落とし、その結果、粗製濫造された商品が出回り、さらに売り上げは落ちていった。製作当初、東映のVシネマは6000万円から7000万円の予算で製作されていたが、2000年頃のオリジナルビデオの制作費は2000万円から3000万円だったと言われる<ref>福田卓郎『脚本家になる方法』青弓社、2000年、p13</ref>。ピンク映画、アダルトビデオとの関わりが多いエロス系の作品においては予算はさらに切り詰められており、50万~100万円台の作品まで登場している(参考:ピンク映画の一般的な予算は250万~300万円と言われており、最近では200万円台の予算の作品も登場している。この予算枠は機材費やフィルム代、セッティング時間を食われる35ミリ映画時代も大差なかったため、低予算ノウハウがもっとも発達した業界となっている)。<BR> 低予算のオリジナルビデオでは、撮影も[[写真フィルム|フィルム]]撮影から[[ビデオ信号記録装置|ビデオ]]撮影へと変わり、近年ではシリーズ物の製作において、同じスタッフ・出演者で一度のスケジュール拘束で2話・3話とまとめて撮影するという手法が目立っている。 オリジナルビデオは、プロモーションのため短期間、単館で劇場公開されることも多く<ref>三池崇史『監督中毒』ぴあ、2003年、p208</ref>、そうした作品はレンタルビデオ店で劇場公開作品として扱われる。 なお、[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]作品に関しては[[OVA]](オリジナル・ビデオ・アニメーション)と呼ぶのが通例であり、こちらは上記の実写作品に先立つ[[1983年]]にはすでに最初の作品が発売されており、内容的にも上記のエロス作品等に該当しないものも多く存在する。 [[ホラー映画|ホラー]]や[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]、ヒーロー戦隊物など、[[オタク]]と呼ばれる層が広がり市民権を得ていったのは、オリジナルビデオを生み出した[[レンタルビデオ|ビデオレンタル]]の急成長と時期を同じくする1980年代半ばのこと<ref>[[#アニキ考]]、pp.32-33</ref>。 オリジナルビデオで扱われるテーマは多種多様であったが、その中でも特に多かったのが[[ヤクザ]]、[[ギャンブル]]、[[エロス (曖昧さ回避)|エロ]]の3ジャンルで、[[ホラー映画|ホラー]]や[[都市伝説]]モノも一定の支持を集め、のちの[[ホラー映画#日本|ジャパン・ホラー]]ブームの下地をつくるなど、その後の映画界発展に大きく貢献したと評価される<ref name="postseven20140703" />。 1990年代までは地上波地方局の深夜枠を中心に放送されることもあった。 近年、レンタルビデオ市場自体が縮小傾向にあり、2002年辺りから[[DVD-Video]]が市場に投入され、[[オンラインDVDレンタル]]や[[セルビデオ|DVDセル]]の市場に移行しだした。DVDの場合、1本あたりの小売価格が[[VHS]]の10分の1に近いため、作品映像自体の製作費もそれに応じて安くなりつつある。さらに2010年代後半になると、例えオリジナルビデオであっても[[ネット配信]]での[[ビデオ・オン・デマンド]](VOD)による視聴が普及しつつある。『[[日本統一]]』シリーズ(2013年 - )がその代表格で、DVD発売が先のオリジナルビデオではあるものの、2010年代中盤辺りからからVODでの配信で人気に火がついた。そのため、初期の頃は低[[予算]]ではあったものの、シリーズを重ねる毎に製作費の意図的な高騰や映画化を行うようになった。 == オリジナルビデオの主なメーカーおよびレーベル == すでに撤退しているものも含める。 * 東映ビデオ:東映Vシネマ * にっかつビデオフィルムズ:にっかつビデオフィーチャー * [[ジャパンホームビデオ]]:Vムーヴィー * [[松竹]]:SHVシネマ * [[大映]]:新映画天国 * [[東宝]]:東宝シネパック * [[オールインエンタテインメント|GPミュージアムソフト]]:ミュージアム → オールインエンタテインメント * レジェンドピクチャーズ:ネクスタシー、シネポップ、リップスほか * VIP:Vピクチャー * TMC:MIDNIGHT、TABOO7、JUNKFILM、STAR★DUST、ENGELほか * [[ソフトガレージ]] * [[マクザム]] === ネット動画配信サービスのオリジナル === * Huluプレミア - [[Hulu]] * Netflixオリジナル - [[Netflix]] * Amazonオリジナル(『Amazon Prime オリジナル』との表記も有り) - [[Amazonプライム・ビデオ]] * YouTube Originals - [[YouTube]] * FODオリジナル - [[フジテレビオンデマンド]] * Paraviオリジナル - [[Paravi]] * ABEMAオリジナル - [[ABEMAビデオ]] * dTVオリジナル([[BeeTV]]制作を含む)- [[dTV (NTTドコモ)|dTV]] * ひかりTVオリジナル - [[ひかりTV]] == オリジナルビデオ作品の例 == * [[ネオチンピラ 鉄砲玉ぴゅ〜]](1990年) 主演:[[哀川翔]] * [[静かなるドン]]シリーズ 主演:[[香川照之]] * [[スーパー戦隊Vシネマ]](1996年発売の『[[超力戦隊オーレンジャー オーレVSカクレンジャー]]」から2008年発売『[[獣拳戦隊ゲキレンジャーVSボウケンジャー]]』まではスーパー戦隊VSシリーズのみを取り扱い、2010年からは前年からスーパー戦隊VSシリーズが劇場公開用作品になった代替措置として、その年に放送を終えた作品の後日談を描く『スーパー戦隊・ラストエディション』(『[[侍戦隊シンケンジャー]]』(2009年2月15日〜2010年2月7日放送)から『[[動物戦隊ジュウオウジャー]]』(2016年2月14日〜2017年2月5日放送)までの『[[海賊戦隊ゴーカイジャー]]』(2011年2月13日〜2012年2月19日放送)を除く、全ての作品でリリースされた。また、放送開始・終了から10年を経た作品の後日談を描く『10 YEARS シリーズ』(現在、『[[忍風戦隊ハリケンジャー]]』(2002年2月17日〜2003年2月9日放送)『[[特捜戦隊デカレンジャー]]』(2004年2月15日〜2005年2月6日放送)『[[炎神戦隊ゴーオンジャー]]』(2008年2月17日〜2009年2月8日放送)の後日談がリリースされている。しかし、2018年よりスーパー戦隊VSシリーズとスーパー戦隊・ラストエディションが1つの枠で扱われるようになり、東映Vシネマの新レーベル『[[Vシネクスト]]』で期間限定上映・DVD発売という流れになった。(該当作品『[[宇宙戦隊キュウレンジャーVSスペース・スクワッド]]』『[[ルパンレンジャーVSパトレンジャーVSキュウレンジャー]]』『[[魔進戦隊キラメイジャーVSリュウソウジャー]]』『[[テン・ゴーカイジャー]]』) * [[真・仮面ライダー 序章]](1992年) * [[仮面ライダーW RETURNS]](2011年) * [[宇宙刑事 NEXT GENERATION]](2014年) * [[鎧武外伝]](2015年) * [[ドライブサーガ]](2016年) * [[ゴースト RE:BIRTH 仮面ライダー スペクター]] * [[仮面ライダーエグゼイド トリロジー アナザー・エンディング]](2018年、DVD発売に先駆け劇場公開) * [[ビルド NEW WORLD]](2019年、東映Vシネマ内のレーベル「Vシネクスト」から期間限定上映・DVD発売) * [[仮面ライダージオウ NEXT TIME ゲイツ、マジェスティ]] * [[ゼロワン Others]] * [[ビーロボカブタック クリスマス大決戦!!]](1997年) * [[テツワン探偵ロボタック&カブタック 不思議の国の大冒険]](1998年) * [[燃えろ!!ロボコンVSがんばれ!!ロボコン]](1999年) * [[ウルトラシリーズ]] ** [[ウルトラマンG]](1990〜1991年、一部編集され劇場公開され、テレビ放送あり) ** [[ウルトラマンパワード]](1993〜1994年、後にテレビ放送された。) ** [[ウルトラマンネオス]](2000〜2001年、後にテレビ放送された。) ** [[ウルトラマンティガ外伝 古代に蘇る巨人]](2001年) ** [[ウルトラマンダイナ 帰ってきたハネジロー]](2001年) ** [[ウルトラマンガイア ガイアよ再び]](2001年) ** [[ウルトラマン怪獣伝説 40年目の真実]](2005年) ** [[ウルトラマンメビウス外伝 アーマードダークネス]](2008年) ** [[ウルトラマンメビウス外伝 ゴーストリバース]](2009年) ** [[ウルトラ銀河伝説外伝 ウルトラマンゼロVSダークロプスゼロ]](2010年) ** [[ウルトラマンゼロ外伝 キラー ザ ビートスター]](2011年) ** [[平成ウルトラセブン|ウルトラセブン]](1998〜2002年) * [[ブラック・ジャック (実写版)|ブラック・ジャック(1996年)]]シリーズ 主演:[[隆大介]] * [[難波金融伝・ミナミの帝王]]シリーズ * [[ガチバン]]シリーズ * [[XX (Vシネマ)|XX]](ダブルエックス)シリーズ * [[借王#映画|借王]](シャッキング)シリーズ<ref>日活製作の全9作のうち第1作〜第7作は劇場公開映画(参照[https://www.japanese-cinema-db.jp/KeywordSearches/result?keyword=借王&keyword_kind=movie 「借王」名の劇場公開映画一覧|日本映画情報システム])、第8作と第9作がオリジナルビデオ。</ref> * [[Zero WOMAN]](ゼロ・ウーマン・0課の女)シリーズ * [[首都高速トライアル]]シリーズ * [[修羅がゆく]]シリーズ 主演:[[哀川翔]] * [[首領への道]]シリーズ 主演:[[清水健太郎]] * [[白竜 (オリジナルビデオ)|白竜]]シリーズ 主演:[[白竜 (俳優)|白竜]] * [[JINGI 仁義|仁義]]シリーズ 主演:[[竹内力]] * [[日本統一]]シリーズ 主演:[[本宮泰風]]・[[山口祥行]] * 極道の紋章シリーズ 主演:白竜 * 喧嘩の極意シリーズ 主演:[[小笠原大晃]] * [[オールナイトロング (映画)|オールナイトロング]]シリーズ(『[[オールナイトロング2]]』から) * [[けっこう仮面]]シリーズ * [[喧嘩の花道]]シリーズ 主演:[[やべきょうすけ]] * 勝手にしやがれ!!シリーズ * [[岸和田少年愚連隊]]・「[[岸和田少年愚連隊 カオルちゃん最強伝説|カオルちゃん]]」シリーズ - 他の「岸和田少年愚連隊」シリーズは同項参照 * [[DEAD OR ALIVE 犯罪者|DEAD OR ALIVEシリーズ]] - 劇場公開作品でもある。 * [[狂犬と呼ばれた男たち]]シリーズ * [[恐怖新聞]] * [[東京フレンズ]] * [[RAY (漫画)|RAY]] * [[龍が如く]] * [[ギニーピッグ]] * [[呪怨]]シリーズ - 最初の2作と[[アメリカ合衆国|アメリカ]]([[ハリウッド]])版3作目『呪怨/ザ・グラッジ3』のみ。 * こっくりさん 日本版 * 心霊2002 * [[怪異伝承 鬼殻村]] * [[普通の人々]] * [[地球防衛少女イコちゃん]] * [[竹中直人の放送禁止テレビ]] - バラエティーがビデオ作品化するという珍しい例 * [[エコエコアザラク]] * ぱちんこバトルロワイヤル * 牝牌シリーズ * 黒い下着の女教師 - [[フランス書院|フランス書院文庫]]の映像化作品。 * 恐怖の訪問者<!--[[ザ・プラマー/恐怖の訪問者]]と同一か不明のため保留。同一であれば赤リンクを置き換えてください。--> * [[スピーシーズ3 禁断の種]] - 米本国ではオリジナルビデオだったが、日本では劇場にて特別上映。 * ミミックIII - 2作目はTVムービー * [[ザ・マークスマン]] - [[ウェズリー・スナイプス]]主演。2006年に劇場公開。 * [[アート・オブ・ウォー2]] - ウェズリー・スナイプス主演。2009年に劇場公開。 * [[インビジブル2]] - [[クリスチャン・スレーター]]主演。2006年に劇場公開。 * [[ラストサマー3]] * [[ナポレオン・ダイナマイト]] * [[テディです! TEDDY DEATH]] * [[北斗の拳|北斗の拳 韓国版]] - 韓国にて無許可で制作したため日本では未発売 * [[湾岸ミッドナイト|湾岸ミッドナイト9101]]シリーズ === ネット配信サービス発のオリジナルビデオ === * [[HITOSHI MATSUMOTO presents ドキュメンタル]] - [[Amazonプライム・ビデオ]]にて配信されているお笑いドキュメンタリー番組。『Amazonプライム・ビデオ』限定で配信されている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献・ウェブサイト == * {{Cite web|和書|publisher=[[東映ビデオ]]|url=https://www.toei-video.co.jp/vcinema/ |title=25th Anniversary 東映 Vシネ伝説|accessdate=2014-09-13|ref = Vシネ伝説}} * {{Cite book|和書|author=|year=1990|month=|title=[[キネマ旬報]] 5月下旬号|chapter=編集長対談 東映V CINEMA特集|publisher=[[キネマ旬報社]]|isbn=|ref=キネ旬19905}} * {{Cite book|和書|author=|year=1990|month=10|title=月刊シナリオ|chapter=特集 ビデオシネマの可能性と現在|publisher=[[日本シナリオ作家協会]]|isbn=|ref=シナリオ}} * {{Cite book|和書|author=山根貞男|authorlink=山根貞男|year=1993|month=4|title=映画はどこへ行くか 日本映画時評'89‐'92|publisher=[[筑摩書房]]|isbn=978-4480872203|ref=山根}} * {{Cite book|和書|author=谷岡雅樹|authorlink=谷岡雅樹|year=1999|month=12|title=Vシネマ魂 <small>二千本のどしゃぶりをいつくしみ…</small>|publisher=四谷ラウンド|isbn=4-946515-42-9|ref=Vシネマ魂}} * {{Cite book|和書|author=谷岡雅樹|date=|year=2008|month=1|title=アニキの時代 <small>~Vシネマに見るアニキ考~</small>|accessdate=|publisher=[[角川マガジンズ]]|isbn=978-4-8275-5023-8|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=|ref=アニキ考}} == 関連項目 == * [[アダルトビデオ]] * [[ビデオスルー]] * [[テレビ映画]] * [[オンラインDVDレンタル]] * [[東映Vシネマ]] * [[ピンク映画]] - エロス物において、キャスト・スタッフなど人脈的に重複する事が多い。 * [[三池崇史]] * [[黒沢清]] * [[城定秀夫]] {{DEFAULTSORT:おりしなるひてお}} [[Category:オリジナルビデオ|*]] [[Category:映画|*]] [[Category:特撮]] [[Category:アニメ]] [[Category:和製英語]]
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コンパイル
コンパイル(英: compile) 英語の動詞
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コンパイル 英語の動詞 (IT用語)高水準のプログラミング言語で書かれたプログラムをそれより低い水準の言語や機械語に変換すること。それを行うソフトウェアをコンパイラという。具体的な手順については【コンパイラ】の記事で説明。→コンパイラを参照のこと。 (IT用語登場以前の、元の意味)いくつかの資料や文献から情報を集めてきて、一緒にして、ひとつの資料としてまとめること。たとえばレポート類を書くために、いくつもの資料・文献を読んで、あちこちから少しづつ文や節を集めてひとつの文書にまとめること。compileの語の構成としては com + pileとなっており、comは「一緒に」といった意味の接頭辞で、compileの語源は中世のラテン語のcompilareで、この語の意味がやや曖昧なもののおそらく「一緒に束ねる」というような意味で意味で使われていたらしい言葉で、13世紀ころのフランス語では「集める」というような意味で使われていた言葉で、それが英語のcompileの語源になった。日本人は「編集」という訳語を充てることは多い。(なお現代の政治的な場面では「編集」という用語はしばしば大切な情報を勝手に削ってしまう行為を隠すための用語になってしまっているが、そういう意味では全然無くて)、どちらかというと素直に文字通りの意味、つまり文献や資料を読んで集めた複数の材料をひとつのレポートや作文などにまとめるような作業だとイメージしたほうがよい。 コンパイル (企業) -- かつて存在した日本のゲームソフト開発会社。すでに消滅。
'''コンパイル'''({{Lang-en-short|compile}}) 英語の動詞 *(IT用語)高水準のプログラミング言語で書かれたプログラムをそれより低い水準の言語や機械語に変換すること。それを行うソフトウェアを[[コンパイラ]]という。具体的な手順については【[[コンパイラ]]】の記事で説明。→'''[[コンパイラ]]'''を参照のこと。 *(IT用語登場以前の、元の意味)いくつかの資料や文献から情報を集めてきて、一緒にして、ひとつの資料としてまとめること。たとえばレポート類を書くために、いくつもの資料・文献を読んで、あちこちから少しづつ文や節を集めてひとつの文書にまとめること。compileの語の構成としては com + pileとなっており、comは「一緒に」といった意味の接頭辞で、compileの語源は中世のラテン語のcompilareで、この語の意味がやや曖昧なもののおそらく「一緒に束ねる」というような意味で意味で使われていたらしい言葉で<ref name="etymonline">[https://www.etymonline.com/word/compile etymonline, compile]</ref>、13世紀ころのフランス語では「集める」というような意味で使われていた言葉で<ref name="etymonline" />、それが英語のcompileの語源になった。日本人は「[[編集]]」という訳語を充てることは多い。(なお現代の政治的な場面では「編集」という用語はしばしば大切な情報を勝手に削ってしまう行為を隠すための用語になってしまっているが、そういう意味では全然無くて)、どちらかというと素直に文字通りの意味、つまり文献や資料を読んで集めた複数の材料をひとつのレポートや作文などにまとめるような作業だとイメージしたほうがよい。 ;固有名詞、企業名 *[[コンパイル (企業)]] -- かつて存在した日本のゲームソフト開発会社。すでに消滅。 == 脚注 == {{reflist}} == 関連項目 == * [[コンピレーション]](compilation) -- 動詞のcompileを 名詞形にしたもの。CDやレコードの<u>コンピレーション</u>アルバムというのは、上で2番目に説明したIT用語以前の意味の動詞compileの名詞形であり、複数のアーティストのCDなどから楽曲を少しづつ選んでそれらをひとつのアルバムとしてまとめ上げたもの。 {{Aimai}} {{DEFAULTSORT:こんはいる}}
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XDピクチャーカード
xDピクチャーカード(エックスディーピクチャーカード、xD-Picture Card)は、富士フイルムとオリンパスが共同開発したメモリーカード規格である。2002年9月発売。 メディアのサイズは長さ20.0 mm×幅25.0 mm×厚さ1.7 mm、重さは2 gで、主要なメモリーカード規格では小型の部類に入る。 裏表、前後方向の誤挿入防止のため、断面形状が非対称である。端子は18ピンで、裏面に剥き出しで配置されている。 富士フイルムとオリンパスがそれまでデジタルカメラの記録メディアとして採用していたスマートメディアが大容量化の限界に達していたこと、機器の小型化に際してより小型の形状が求められたこと、書き込み・読み出し速度が遅いことを理由とし、新たな規格を開発した。SDメモリーカードなどの既存規格ではなく、あえて新規格を立ち上げた背景には、この時点で両社がデジカメ市場に占めるシェアが非常に高く、強者連合として市場を牽引していく見通しが立てられていたことがある。しかし、両社のシェアはこの時期をピークに下がり始め、その後他社が参入しないxD規格がハンデとなってしまう悪循環を招くことになった。 さらに、同じメモリーカードであるSDメモリーカードやメモリースティックなどがデジタルカメラ以外にもオーディオ、ビデオ、携帯電話などにも採用されているのに対し、xDピクチャーカードは著作権保護機能が無くデジタルカメラしかサポートしていないことなどが普及の障害となり、採用メーカーは規格提唱者の富士フイルムとオリンパスのほか、コダックが一時期採用していたに留まる。著作権保護機能を付けなかった事により、SDメモリーカードよりも低コストで低価格になるはずだったが、普及率の差から逆にSDメモリーカードより割高となってしまい、量販店などでは同一の容量・メーカー品で数倍の値段差が付くことも少なくない。 従来xDピクチャーカードのみに対応していた富士フイルム製のコンパクトデジタルカメラでは、2007年発売の機種からSDメモリーカードとの両対応となり、2009年6月発売のFinePix Z300ではSDHC/SDメモリーカード専用となった。そして、2010年12月をもってxDピクチャーカードの生産および出荷を終了している。またオリンパスも2008年発売の一部製品からmicroSDアタッチメント(MASD-1;xDピクチャーカードとは非互換)を提供しmicroSD対応と主張し、2009年7月にはSDHC/SDメモリーカード専用のE-P1を発売している。オリンパスは「今後もxDピクチャーカードが適しているカメラには、xDピクチャーカードを採用する」と述べていたが、2010年2月2日に発売を発表したコンパクトデジタルカメラ7機種全てでxDピクチャーカードに代わりSDHC/SDメモリーカードを採用した。 また複数のメモリーカード規格に対応したカードリーダーの中には、xDピクチャーカードだけに非対応の製品が多く出回っている。これは、xDピクチャーカードの普及率の低さ、および、「xDピクチャーカード対応」をうたう場合、ライセンスを取得した上でコンプライアンステストに合格しなければならないという制約があるためである。他に、富士フイルムからコンパクトフラッシュとの変換アダプタが販売されている。 大容量化されたxDピクチャーカードの名称で、NAND型フラッシュメモリのMLC(Multi Level Cell)に由来する。2005年3月に発売された1GB製品から採用された。今後、8GBまでの大容量タイプはTypeMとして製品化される予定となっていたが、市販品の最大容量は2GBで留まっている。 大容量化に伴い、書き込み時の転送速度は向上しているが、読み出し時の転送速度は従来品よりも遅くなっている。また、従来の製品と仕様が異なることから互換性が保証されておらず、各デジタルカメラで使用できるかは確認が必要である。 従来の製品と区別できるように、富士フイルム製の製品名には「M1GB」など容量表記の前に、オリンパス製の製品名には「M-XD1GM」など容量表記の後ろに「M」が付けられている。 2008年春、1GBと2GB製品を発売。メモリ高密度化技術を採用。オリンパス製デジタルカメラで使用した場合、書き込み速度は従来モデルと比較して1.5倍の高速化を実現としている。 2005年11月にオリンパスによって発表された高速タイプのxDピクチャーカード。512MBが2006年1月、1GBが2006年2月、256MBが2006年3月に発売された。 書き込み速度は従来の2 - 3倍とされているが、オリンパスのデジタルカメラでの利用時に限られる。 2002年9月発売時には、16MB・32MB・64MB・128MB。将来的には8GBまで拡張される予定であったが実際に製品化されたのは2GBまでとなった。
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xDピクチャーカードは、富士フイルムとオリンパスが共同開発したメモリーカード規格である。2002年9月発売。
{{小文字|title=xDピクチャーカード}} [[ファイル:XD-Picture Card TypeH 1GB front.jpg|thumb|250px|xDピクチャーカード表面 (TypeH 1GB)]] [[ファイル:XD-Picture Card TypeH 1GB back.jpg|thumb|250px|同裏面]] '''xDピクチャーカード'''(エックスディーピクチャーカード、xD-Picture Card)は、[[富士フイルム]]と[[オリンパス]]が共同開発した[[メモリーカード]]規格である。[[2002年]]9月発売。 == 概要 == メディアのサイズは長さ20.0&nbsp;mm×幅25.0&nbsp;mm×厚さ1.7&nbsp;mm、重さは2&nbsp;gで、主要なメモリーカード規格では小型の部類に入る。 裏表、前後方向の誤挿入防止のため、断面形状が非対称である。端子は18ピンで、裏面に剥き出しで配置されている。 富士フイルムとオリンパスがそれまで[[デジタルカメラ]]の記録メディアとして採用していた[[スマートメディア]]が大容量化の限界に達していたこと、機器の小型化に際してより小型の形状が求められたこと、書き込み・読み出し速度が遅いことを理由とし、新たな規格を開発した<ref>[https://web.archive.org/web/20021016150601/http://www.fujifilm.co.jp/news_r/nrj945.html 超小型のデジタルカメラ用記録メディア「xD-Picture Card」開発](富士フイルム プレスリリース)</ref>。[[SDメモリーカード]]などの既存規格ではなく、あえて新規格を立ち上げた背景には、この時点で両社がデジカメ市場に占めるシェアが非常に高く、強者連合として市場を牽引していく見通しが立てられていたことがある。しかし、両社のシェアはこの時期をピークに下がり始め、その後他社が参入しないxD規格がハンデとなってしまう悪循環を招くことになった。 さらに、同じメモリーカードであるSDメモリーカードや[[メモリースティック]]などがデジタルカメラ以外にもオーディオ、ビデオ、携帯電話などにも採用されているのに対し、xDピクチャーカードは[[著作権]]保護機能が無くデジタルカメラしかサポートしていないことなどが普及の障害となり、採用メーカーは規格提唱者の富士フイルムとオリンパスのほか、[[コダック]]が一時期採用していたに留まる。著作権保護機能を付けなかった事により、SDメモリーカードよりも低コストで低価格になるはずだったが、普及率の差から逆にSDメモリーカードより割高となってしまい、量販店などでは同一の容量・メーカー品で数倍の値段差が付くことも少なくない。 従来xDピクチャーカードのみに対応していた富士フイルム製のコンパクトデジタルカメラでは、2007年発売の機種からSDメモリーカードとの両対応となり、2009年6月発売のFinePix Z300ではSDHC/SDメモリーカード専用となった。そして、2010年12月をもってxDピクチャーカードの生産および出荷を終了している。またオリンパスも2008年発売の一部製品からmicroSDアタッチメント(MASD-1;xDピクチャーカードとは非互換)を提供しmicroSD対応と主張し、2009年7月にはSDHC/SDメモリーカード専用の[[E-P1]]を発売している。オリンパスは「今後もxDピクチャーカードが適しているカメラには、xDピクチャーカードを採用する」<ref>[https://dc.watch.impress.co.jp/docs/news/294286.html オリンパス、「E-P1」の発表会を開催],デジカメWatch,2009年6月16日</ref>と述べていたが、2010年2月2日に発売を発表したコンパクトデジタルカメラ7機種全てでxDピクチャーカードに代わりSDHC/SDメモリーカードを採用した。 また複数のメモリーカード規格に対応したカードリーダーの中には、xDピクチャーカードだけに非対応の製品が多く出回っている。これは、xDピクチャーカードの普及率の低さ、および、「xDピクチャーカード対応」をうたう場合、ライセンスを取得した上でコンプライアンステストに合格しなければならないという制約があるためである。他に、富士フイルムから[[コンパクトフラッシュ]]との変換アダプタが販売されている<ref>[http://fujifilmmall.jp/shop/g/g15366136/ コンパクトフラッシュカードアダプター] (Fujifilm Mall)</ref>。 == ラインナップ == === TypeM === 大容量化されたxDピクチャーカードの名称で、[[NAND型フラッシュメモリ]]の'''MLC'''(Multi Level Cell)に由来する。2005年3月に発売された1GB製品から採用された。今後、8GBまでの大容量タイプはTypeMとして製品化される予定となっていたが、市販品の最大容量は2GBで留まっている。 大容量化に伴い、書き込み時の転送速度は向上しているが、読み出し時の転送速度は従来品よりも遅くなっている。また、従来の製品と仕様が異なることから互換性が保証されておらず、各デジタルカメラで使用できるかは確認が必要である。 従来の製品と区別できるように、富士フイルム製の製品名には「'''M'''1GB」など容量表記の前に、オリンパス製の製品名には「M-XD1G'''M'''」など容量表記の後ろに「'''M'''」が付けられている。 === TypeM+(プラス) === 2008年春、1GBと2GB製品を発売。メモリ高密度化技術を採用。オリンパス製デジタルカメラで使用した場合、書き込み速度は従来モデルと比較して1.5倍の高速化を実現としている。 === TypeH === 2005年11月にオリンパスによって発表された高速タイプのxDピクチャーカード。512MBが2006年1月、1GBが2006年2月、256MBが2006年3月に発売された。 書き込み速度は従来の2 - 3倍とされているが、オリンパスのデジタルカメラでの利用時に限られる。 == 容量と転送速度 == [[ファイル:FUJIFILM xD-Picture Card 16MB.jpg|thumb|250px|xDピクチャーカード(無印)]] 2002年9月発売時には、16MB・32MB・64MB・128MB。将来的には8GBまで拡張される予定であったが実際に製品化されたのは2GBまでとなった。 * 2003年1月、256MBが発売開始 * 2003年6月、512MBが発売開始 * 2005年3月、TypeM (1GB) が発売開始 * 2006年1月、TypeH (512MB) が発売開始 * 2006年2月、TypeH (1GB) が発売開始 * 2006年3月、TypeH (256MB) が発売開始 * 2006年9月、TypeM (2GB) が発売開始 * 2006年12月、TypeH (2GB) が発売開始 * 2008年春、TypeM+ (1GB・2GB) が発売開始 {| class="wikitable" style="text-align:center; margin-top: 2em;" |+ データ転送速度 |- ! 種類 !! 容量 !! 書き込み !! 読み出し |- ! 無印 | 16 - 32MB || 1.3MB/秒 || 5.0MB/秒 |- ! 無印 | 64 - 512MB || 3.0MB/秒 || 5.0MB/秒 |- ! TypeM | 256 - 2GB || 2.5MB/秒 || 4.0MB/秒 |- ! TypeH | 256 - 2GB || 5.0 - 9.0MB/秒 || 8.0 - 15.0MB/秒 |} * ただし、あらゆる機器でこの数値を保証するものではない。 * '''無印'''はxDピクチャーカード登場時からあるものを指す。 * TypeHについては公式発表の「従来品の約2 - 3倍の速度」を元に推定。少ない数字はTypeMを、多い数字は無印の64 - 512MBを基準にしている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == {{Commonscat|XD-Picture Card}} * [https://www.olympus.co.jp/jp/support/cs/media/ オリンパス記録メディア対応一覧表 ] * {{Wayback |url=https://xd-licensee-support.jp/ |title=xDピクチャーカード公式サイト |date=20110204075639}} {{メモリーカード}} {{DEFAULTSORT:XDひくちやあかあと}} [[Category:メモリーカード]] [[Category:オリンパス]] [[Category:富士フイルム]]
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マルチメディアカード
マルチメディアカード(Multi Media Card)とは、メモリーカードの規格である。MMCと略される。 サンディスクとシーメンス(インフィニオン・テクノロジーズ)が共同開発し、1997年11月に発表した規格が元となって1998年10月に設立されたMultiMediaCard Associationが規格の開発維持を行っている。 サイズは 32mm×24mm×1.4mm、重さは2g未満である。 インタフェースは7ピン・シリアルで、クロックは最大20Mbps、書き込み速度は最大2MB/s程である。 Version 4.2まではSPIモードがあり、低速で良ければSPIバスでの複数デバイスの接続を簡単にできた。 記憶容量は当初の4MBから順次増加し、最大4GB(2005年)までのメディアが存在する。 高速化した HS-MMC(52MB/s, 13ピン)やミニサイズの RS(Reduced Size)-MMC(24x18x1.4mm)、さらに小型のMMC Micro、コンテンツ保護機能があるSecureMMC(UDAC-MB方式)などのバリエーションがある。 このように高速化が進んだ結果、端子数の少ない高速インタフェースとしてSIMカードの高速化や、超小型ハードディスクドライブ用にATAコマンドへ対応し低消費電力インタフェースとしてなど、応用範囲が広がりつつある。 SDメモリーカードとは物理形状・電気特性・コマンドフォーマットで互換があるため、SDメモリーカードを使用している機器でもマルチメディアカードを利用できることが多い。但しコマンド自体は機能置き換えや追加があり互換は無い。また小型のminiSDやmicroSDとはRS-MMC、MMC Microともに物理形状などが異なり互換性はない。 日本国外では携帯電話シェアトップのノキアがRS-MMCを外部メディアとして採用していたために需要も大きかったが、近年ではそのノキアもmicroSDカードにシフトしている。日本では、もともとマイナーだったことに加え上位互換性のあるSDメモリーカードの急速な普及によりほとんど見かけなくなり、過去の規格と見られていた。 2004年12月に発売されたノキア製携帯電話Vodafone 702NK (Nokia 6630)のヒットにより同端末に採用されているRS-MMCの取り扱いを始めるメーカーやショップが現れるなど、一時注目を集めた。加えて、FreeBSDではSDメモリーカードの特許問題を回避するためSDメモリーカードを「マルチメディアカードの例外的な実装」として認識し「SDメモリーカードではない」と主張、実装が進められている。またMMC microというさらに小型のカードも発売され、また新たにカシオやキヤノンのデジタルカメラにMMCplusも対応している。 eMMC は embedded MMC の略で、MMC のコンポーネントを BGA パッケージに入れた物。SPIバスはサポートしない。スマートフォンやタブレットなどでよく使われている。JEDEC より 2013年10月に eMMC 5.0 が、2015年2月に eMMC 5.1 がリリースされた。eMMC 5.0 の転送速度は400MB/sec。 eMMCでは、ホスト・システムは単に論理ブロック・アドレスにデータを読み書きするだけである。 eMMCコントローラのハードウェアとファームウェアは、エラー訂正とデータ管理を実行することで、ホストシステムの負荷を軽減する。 e.MMCは100、153、169ボール パッケージで、8ビット パラレル インターフェイスをベースとしている。 eMMCは、基本的なホームタスクやオフィスタスクなど、小さなファイルやポータブル家電の保存に適している。 eMMCはSPIバスプロトコルをサポートしておらず、NANDフラッシュメモリを使用している。 eMMC の容量は、32 GB から 64 GB、128 GB から 256 GB。
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マルチメディアカードとは、メモリーカードの規格である。MMCと略される。
{{複数の問題 |出典の明記=2013年5月22日 |正確性=2013年5月22日 }} [[画像:マルチメディアカード.png|thumb|right|200px|マルチメディアカード]] '''マルチメディアカード'''(Multi Media Card)とは、[[メモリーカード]]の規格である<ref name="MMC">{{Cite web|和書| url =http://www.jpo.go.jp/shiryou/pdf/gidou-houkoku/1306-036_card.pdf | title = コンテンツ記録用メモリカードに関する技術動向調査 | author = | authorlink = | coauthors = | date = | format = PDF | work = | publisher = 特許庁技術調査課 | pages = | language = | archiveurl = | archivedate = | quote = | accessdate = 2014-03-08}}</ref>。MMCと略される。 ==概要== [[サンディスク]]と[[シーメンス]]([[インフィニオン・テクノロジーズ]])が共同開発し、[[1997年]][[11月]]に発表した規格<ref name="1997 Wescon">{{cite web | url = https://books.google.co.jp/books?id=G8onAQAAMAAJ&q=Multimediacard+announced+1997&dq=Multimediacard+announced+1997&hl=ja&sa=X&ei=o84ZU8P1Do2AogT-0YCQBA | title = 1997 Wescon | author = | authorlink = | coauthors = | date = 1997 | format = | work = | publisher = IEEE | pages = | language = | archiveurl = | archivedate = | isbn = 9780780343030 | accessdate = 2014-03-07 }}</ref>が元となって[[1998年]][[10月]]に設立されたMultiMediaCard Associationが規格の開発維持を行っている。 サイズは 32mm×24mm×1.4mm、重さは2g未満である。 [[インタフェース (情報技術)|インタフェース]]は7ピン・[[シリアル通信|シリアル]]で、クロックは最大20Mbps、書き込み速度は最大2MB/s程である。 Version 4.2までは[[シリアル・ペリフェラル・インタフェース|SPI]]モードがあり、低速で良ければSPIバスでの複数デバイスの接続を簡単にできた。 記憶容量は当初の4MBから順次増加し、最大4GB([[2005年]])までのメディアが存在する。 高速化した HS-MMC(52MB/s, 13ピン)やミニサイズの RS(Reduced Size)-MMC(24x18x1.4mm)、さらに小型のMMC Micro、コンテンツ保護機能があるSecureMMC(UDAC-MB方式)などのバリエーションがある。 このように高速化が進んだ結果、端子数の少ない高速インタフェースとして[[SIMカード]]の高速化や、超小型[[ハードディスクドライブ]]用に[[Advanced Technology Attachment|ATA]]コマンドへ対応し低消費電力インタフェースとしてなど、応用範囲が広がりつつある。 [[SDメモリーカード]]とは物理形状・電気特性・コマンドフォーマットで[[後方互換|互換]]があるため、SDメモリーカードを使用している機器でもマルチメディアカードを利用できることが多い。但しコマンド自体は機能置き換えや追加があり互換は無い。また小型のminiSDやmicroSDとはRS-MMC、MMC Microともに物理形状などが異なり互換性はない。 [[日本]]国外では[[携帯電話]]シェアトップの[[ノキア]]がRS-MMCを外部メディアとして採用していたために需要も大きかったが、近年ではそのノキアもmicroSDカードにシフトしている。日本では、もともとマイナーだったことに加え上位互換性のあるSDメモリーカードの急速な普及によりほとんど見かけなくなり、過去の規格と見られていた。 [[2004年]][[12月]]に発売されたノキア製携帯電話Vodafone 702NK ([[Nokia 6630]])のヒットにより同端末に採用されているRS-MMCの取り扱いを始めるメーカーやショップが現れるなど、一時注目を集めた。加えて、[[FreeBSD]]ではSDメモリーカードの特許問題を回避するためSDメモリーカードを「マルチメディアカードの例外的な実装」として認識し「SDメモリーカードではない」と主張、実装が進められている。またMMC microというさらに小型のカードも発売され、また新たに[[カシオ]]や[[キヤノン]]の[[デジタルカメラ]]にMMCplusも対応している。 [[File:15-04-29-MMC-Karte-RalfR-dscf4734-d.jpg|thumb|MMCplus High Speed 32 MB]] {| class="wikitable" align="center" |+ '''各MMC規格メモリーカードの比較''' |- ! !MMC !HS-MMC !MMCplus !RS-MMC !DV RS-MMC !MMCmobile !MMCmicro |- |幅 |24mm |24mm |24mm |24mm |24mm |24mm |12mm |- |長さ |32mm |32mm |32mm |18mm |18mm |18mm |14mm |- |厚み |1.4mm |1.4mm |1.4mm |1.4mm |1.4mm |1.4mm |1.1mm |- |体積 |1,075.2mm<sup>3</sup> |1,075.2mm<sup>3</sup> |1,075.2mm<sup>3</sup> |604.8mm<sup>3</sup> |604.8mm<sup>3</sup> |604.8mm<sup>3</sup> |184.8mm<sup>3</sup> |- |動作電圧 |2.7V~3.6V |2.7V~3.6V |1.65V~1.95V<br />2.7V~3.6V |2.7V~3.6V |1.65V~1.95V<br />2.7V~3.6V |1.65V~1.95V<br />2.7V~3.6V |1.65V~1.95V<br />2.7V~3.6V |- |端子数 |7ピン |13ピン |13ピン |7ピン |7ピン |13ピン |10ピン |- |バス幅 |1ビット |1・4・8ビット |1・4・8ビット |1ビット |1ビット |1・4・8ビット |1・4ビット |- |最大クロック |20MHz |20・26・52MHz |20・26・52MHz |20MHz |20・26MHz |20・26・52MHz |20・26・52MHz |- |バス最大速度 |2.5MB/s |52MB/s |52MB/s |2.5MB/s |3.25MB/s |52MB/s |26MB/s |} == eMMC == eMMC は embedded MMC の略で、MMC のコンポーネントを BGA パッケージに入れた物。SPIバスはサポートしない。スマートフォンやタブレットなどでよく使われている。[[JEDEC]] より 2013年10月に eMMC 5.0 が<ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/617793.html JEDEC、400MB/secの転送速度に対応するeMMC 5.0規格を公開 ~スマートフォンやタブレットのストレージ性能が2倍に - PC Watch]</ref>、2015年2月に eMMC 5.1 がリリースされた。eMMC 5.0 の転送速度は400MB/sec。 eMMCでは、ホスト・システムは単に論理ブロック・アドレスにデータを読み書きするだけである<ref>{{cite web|title=eMMC and its applications in the Medical Field|url=https://www.flexxon.com/emmc-and-its-applications-in-the-medical-field/|accessdate=2023-09-04|work=www.flexxon.com}}</ref>。 eMMCコントローラのハードウェアとファームウェアは、エラー訂正とデータ管理を実行することで、ホストシステムの負荷を軽減する<ref>{{cite web|title=Working with embedded MultiMediaCard (eMMC) |url=https://www.embeddedartists.com/wp-content/uploads/2020/04/Working_with_eMMC.pdf|accessdate=2023-09-04|work=www.embeddedartists.com}}</ref><ref>{{cite web|title=eMMC VS HDD: Which Is Better & What's The Difference|url=https://www.easeus.com/computer-instruction/emmc-vs-hdd.html|accessdate=2023-09-04|work=www.easeus.com}}</ref>。 e.MMCは100、153、169ボール パッケージで、8ビット パラレル インターフェイスをベースとしている<ref>{{cite web|title=What is MMC and eMMC?|url=https://ici2016.org/what-is-mmc-and-emmc/|accessdate=2023-09-04|work=ici2016.org}}</ref>。 eMMCは、基本的なホームタスクやオフィスタスクなど、小さなファイルやポータブル家電の保存に適している<ref>{{cite web|title=Introduction to MMC Card – Its Definition and Variants|url=https://www.minitool.com/lib/mmc-card.html|accessdate=2023-09-04|work=www.minitool.com}}</ref>。 eMMCはSPIバスプロトコルをサポートしておらず、NANDフラッシュメモリを使用している<ref>{{cite web|title=NAND and eMMC: All You Need to Know About Flash Memory|url=https://www.makeuseof.com/tag/nand-emmc-need-know-flash-memory/|accessdate=2023-09-04|work=www.makeuseof.com}}</ref>。 eMMC の容量は、32 GB から 64 GB、128 GB から 256 GB。 ==関連項目== * [[メモリーカード]] * [[SDメモリーカード]] * [[セキュア マルチメディアカード]] * [[Universal Flash Storage]] - eMMCの後継 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} ==外部リンク== {{commonscat|Multi Media Card}} * [https://www.jedec.org/ JEDEC] ** [https://www.jedec.org/news/pressreleases/multimediacard-association-merges-jedec MultiMediaCard Association Merges with JEDEC] - 2008年9月23日 * [https://web.archive.org/web/20120818221743/http://www.mmca.org/ MultiMediaCard Associsation (MMCA)] - 閉鎖。(2012年8月18日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) {{メモリーカード}} {{DEFAULTSORT:まるちめていあかあと}} [[Category:メモリーカード]] [[Category:マルチメディア]]
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8,168
ギャンブル映画
ギャンブル映画(ギャンブルえいが)は、映画の一ジャンルで、パチンコ、パチスロ、公営競技、麻雀、花札など、ギャンブル(賭博)を題材としたもの。 このうち公営競技は実際の場所での撮影許可が下りにくくなり、最近では製作されていない。現在、製作されているのは、主に麻雀物とパチンコ&パチスロ物である。 麻雀物は、「真・雀鬼」というシリーズが長く続いている。これは主人公のモデルが実在の人物であり、かつ、その人物が作品の監修とゲスト出演をしているという点が大きく寄与していると思われる。 パチンコ&パチスロ物は、人気機種の登場に合わせて、その攻略法めいた部分を核にドラマを展開させることでセールスにつなげている。
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'''ギャンブル映画'''(ギャンブルえいが)は、[[映画]]の一ジャンルで、[[パチンコ]]、[[パチスロ]]、[[公営競技]]、[[麻雀]]、[[花札]]など、[[賭博|ギャンブル(賭博)]]を題材としたもの。 このうち公営競技は実際の場所での撮影許可が下りにくくなり、最近では製作されていない。現在、製作されているのは、主に麻雀物とパチンコ&パチスロ物である。 麻雀物は、「真・雀鬼」というシリーズが長く続いている。これは主人公のモデルが実在の人物であり、かつ、その人物が作品の監修とゲスト出演をしているという点が大きく寄与していると思われる{{要出典|date=2013年3月}}。 パチンコ&パチスロ物は、人気機種の登場に合わせて、その攻略法めいた部分を核にドラマを展開させることでセールスにつなげている{{要出典|date=2013年3月}}。 == 関連項目 == *[[アクション映画]] *[[映画]] *[[賭博]] {{Movie-stub}} {{DEFAULTSORT:きやんふるえいか}} [[Category:映画のジャンル]] [[Category:日本のオリジナルビデオ]] [[Category:賭博]] [[Category:ギャンブル|えいか]]
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8,174
部分集合
部分集合(ぶぶんしゅうごう)とは数学における概念の1つ。集合Aが集合Bの部分集合であるとは、AがBの一部の要素だけからなることである。AがBの一部分であるという意味で部分集合という。二つの集合の一方が他方の部分集合であるとき、この二つの集合の間に包含関係があるという。 集合 A の要素はすべて集合 B の要素でもあるとき、すなわち、 が成り立つとき、A は B の部分集合であるといい、 で表す。A が B の部分集合であることを、「A は B に(部分集合として)含まれる(包含される)」、「A は B に包まれる(包摂あるいは内包される)」などということもある。またこのとき、B は A の上位集合()であるということもある。B 以外の集合で B の部分集合であるようなものは、B の真部分集合(しんぶぶんしゅうごう)あるいは狭義(強い意味で)の部分集合と呼ばれる。すなわち、集合 A が集合 B の真部分集合であるとは、A ⊆ B かつ A ≠ B が成り立つことである。A が B の真部分集合であることを で表す。 A が B の部分集合であることを A ⊆ B で表し、A が B の真部分集合であることを A ⊂ B で表した。大小関係の不等式において不等号を とする記法に合わせて、包含関係においても とする記法は自然である。しかし、これとは異なる流儀もいくつか存在し、統一されていない。例えば、A が B の部分集合であることを A ⊂ B で表し、A が B の真部分集合であることを A ⊊ B で表すという流儀がある。他にも、部分集合には ⊆ を用い、真部分集合には ⊂ かつ ≠ を用いることもある。真部分集合であることを明示できる ⊊ という記号を用意する時もある。真部分集合であることに言及する箇所が少なく煩雑にならなければ、混乱をさけるために逐一 のように「かつ A ≠ B 」という条件を明記する場合もある。 以下、S, T, U を集合とする。
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部分集合(ぶぶんしゅうごう)とは数学における概念の1つ。集合Aが集合Bの部分集合であるとは、AがBの一部の要素だけからなることである。AがBの一部分であるという意味で部分集合という。二つの集合の一方が他方の部分集合であるとき、この二つの集合の間に包含関係があるという。
'''部分集合'''(ぶぶんしゅうごう)とは[[数学]]における[[概念]]の1つ。[[集合]]Aが集合Bの部分集合であるとは、AがBの一部の[[元 (数学)|要素]]だけからなることである。AがBの一部分であるという意味で部分集合という。二つの集合の一方が他方の部分集合であるとき、この二つの集合の間に包含関係があるという。 == 定義 == 集合 ''A'' の要素はすべて集合 ''B'' の要素でもあるとき、すなわち、 :<math>\forall x (x\in A \rightarrow x\in B)</math> が成り立つとき、''A'' は ''B'' の'''部分集合'''であるといい、 :<math>A\sube B</math> で表す{{sfn|Devlin|1993|p={{google books quote|id=hCv-vFu4jskC|page=3|3}}}}。''A'' が ''B'' の部分集合であることを、「''A'' は ''B'' に(部分集合として)含まれる(包含される)」<ref group="注釈">{{lang-en-short|contained|links=no}}</ref>、「''A'' は ''B'' に包まれる(包摂あるいは内包される)」<ref group="注釈">{{lang-en-short|included|links=no}}</ref>などということもある。またこのとき、''B'' は ''A'' の{{読み仮名|'''上位集合'''|じょういしゅうごう}}<ref group="注釈">{{lang-en-short|superset|links=no}}</ref>であるということもある。''B'' 以外の集合で ''B'' の部分集合であるようなものは、''B'' の{{読み仮名_ruby不使用|'''真部分集合'''|しんぶぶんしゅうごう}}<ref group="注釈">{{lang-en-short|proper subset|links=no}}</ref>あるいは'''狭義'''(強い意味で)'''の部分集合'''<ref group="注釈">{{lang-en-short|strict subset|links=no}}</ref>と呼ばれる。すなわち、集合 ''A'' が集合 ''B'' の真部分集合であるとは、''A'' &sube; ''B'' かつ ''A'' &ne; ''B'' が成り立つことである。''A'' が ''B'' の真部分集合であることを :<math>A\sub B</math> で表す。 == 記法に関する注意 == <div style="float:right"> {| class=wikitable style="text-align:center; margin:1em;" |+記法の組み合わせ ! 部分集合 !! 真部分集合 |- | rowspan=3 | ''A'' &sube; ''B'' || ''A'' &sub; ''B'' |- || ''A'' ⊊ ''B'' |- || ''A'' &sube; ''B'' かつ ''A'' &ne; ''B'' |- | rowspan=2 | ''A'' &sub; ''B'' || ''A'' ⊊ ''B'' |- || ''A'' &sub; ''B'' かつ ''A'' &ne; ''B'' |}</div> ''A'' が ''B'' の部分集合であることを ''A'' &sube; ''B'' で表し、''A'' が ''B'' の真部分集合であることを ''A'' &sub; ''B'' で表した。大小関係の[[不等式]]において[[不等号]]を :''x'' &le; ''y'' かつ ''x'' &ne; ''y'' のとき ''x'' &lt; ''y'' と書く とする記法に合わせて、包含関係においても : ''A'' &sube; ''B'' かつ ''A'' &ne; ''B'' のとき ''A'' &sub; ''B'' と書く とする記法は自然である。しかし、これとは異なる流儀もいくつか存在し、統一されていない。例えば、''A'' が ''B'' の部分集合であることを ''A'' &sub; ''B'' で表し、''A'' が ''B'' の真部分集合であることを ''A'' ⊊ ''B'' で表すという流儀がある。他にも、部分集合には &sube; を用い、真部分集合には &sub; かつ &ne; を用いることもある。真部分集合であることを明示できる ⊊ という記号を用意する時もある。真部分集合であることに言及する箇所が少なく煩雑にならなければ、混乱をさけるために逐一 :''A'' &sube; ''B'' かつ ''A'' &ne; ''B'' :''A'' &sub; ''B'' かつ ''A'' &ne; ''B'' のように「かつ ''A'' &ne; ''B'' 」という条件を明記する場合もある。 == 基本的な性質 == 以下、''S'', ''T'', ''U'' を集合とする。 * ''S'' = ''T'' と ''S'' &sube; ''T'' かつ ''T'' &sube; ''S'' は同値である([[集合#外延性の公理|外延性の原理]])。 * [[空集合]] &empty; はすべての集合の部分集合である。 * ''S'' ⊆ ''S'' 。 * ''S'' ⊆ ''T'' かつ ''T'' ⊆ ''U'' ならば ''S'' ⊆ ''U'' である。 * ''S'' ⊆ ''S'' ∪ ''T'' 。 * ''S'' ⊆ ''T'' ならば ''S'' ∪ ''U'' ⊆ ''T'' ∪ ''U'' 。 * ''S'' ⊆ ''U'' かつ ''T'' ⊆ ''U'' ならば ''S'' ∪ ''T'' ⊆ ''U'' 。 * ''S'' ∩ ''T'' ⊆ ''S'' 。 * ''S'' ⊆ ''T'' ならば ''S'' ∩ ''U'' ⊆ ''T'' ∩ ''U'' 。 * ''S'' ⊆ ''T'' かつ ''S'' ⊆ ''U'' ならば ''S'' ⊆ ''T'' ∩ ''U'' 。 * ''S'' - ''T'' ⊆ ''S'' 。 * ''S'' ⊆ ''T'' ならば ''S'' - ''U'' ⊆ ''T'' - ''U'' 。 * ''S'' ⊆ ''T'' かつ ''S'' ⊆ ''U'' <sup>''C''</sup> ならば ''S'' ⊆ ''T'' - ''U'' 。 * 以下は[[同値]]である: **''S'' ⊆ ''T'' 。 **''S'' ∩ ''T'' = ''S'' 。 **''S'' ∪ ''T'' = ''T'' 。 **''S'' − ''T'' = &empty; 。 * ''S'' と ''T'' がともに ''U'' の部分集合のとき、''S'' &sube; ''T'' と ''U'' - ''T'' ⊆ ''V'' - ''S'' は同値である。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{reflist}} == 参考文献 == * {{cite book |last = Devlin |first = K. |title = The Joy of Sets: Fundamentals of Contemporary Set Theory |series = [[Undergraduate Texts in Mathematics]] |edition = Second |year = 1993 |publisher = Springer |isbn = 0-387-94094-4 |ref = harv }} == 関連項目 == *[[集合]] *[[集合論]] *[[集合の代数学]] *[[冪集合]] - 集合Bの全ての部分集合からなる集合族(<math>2^B= \{ A | A \sube B \}</math>) {{集合論}} {{DEFAULTSORT:ふふんしゆうこう}} [[Category:集合論]] [[Category:初等数学]] [[Category:数学に関する記事]] [[ro:Mulțime#Submulțimi]]
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8,179
内閣
内閣(ないかく、英: Cabinet)は、主に議院内閣制や半大統領制などの国家において、行政を担当する合議体の執行機関である。権力を担わない場合には、大統領顧問団(だいとうりょうこもんだん)などと訳される場合もある。 主に議院内閣制を採用する国家において、行政権を担う合議体の機関のことを指す。英語のCabinetという単語は、小部屋で会合を開き協議していたところから由来する。「内閣」という漢語は、中国の明や清の時代に、皇帝の諮問にあずかった内閣大学士制度から引用され、1877年(明治10年)頃に日本で定着した。なお、行政権が大統領に専属するアメリカ合衆国などにおいて、権力を担っていないCabinetはその訳語として、「大統領顧問団」と呼ばれる。 内閣制度は元々イギリスがその元祖であるが、最初は国王に対して助言するだけの諮問機関に過ぎなかった。時代や国によって、様々な位置づけがみられる。内閣制度は、合議制の原則、分担管理の原則、首相指導の原則を基本原則とする。 内閣は立法府(議会)との関係という観点から、大きく5つに類型化できる。 以下に各国の内閣または内閣に相当する組織を挙げる。国・地域によって、仕組みや名称もそれぞれ異なっている。各国の内閣については各項目を参照。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "内閣(ないかく、英: Cabinet)は、主に議院内閣制や半大統領制などの国家において、行政を担当する合議体の執行機関である。権力を担わない場合には、大統領顧問団(だいとうりょうこもんだん)などと訳される場合もある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "主に議院内閣制を採用する国家において、行政権を担う合議体の機関のことを指す。英語のCabinetという単語は、小部屋で会合を開き協議していたところから由来する。「内閣」という漢語は、中国の明や清の時代に、皇帝の諮問にあずかった内閣大学士制度から引用され、1877年(明治10年)頃に日本で定着した。なお、行政権が大統領に専属するアメリカ合衆国などにおいて、権力を担っていないCabinetはその訳語として、「大統領顧問団」と呼ばれる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "内閣制度は元々イギリスがその元祖であるが、最初は国王に対して助言するだけの諮問機関に過ぎなかった。時代や国によって、様々な位置づけがみられる。内閣制度は、合議制の原則、分担管理の原則、首相指導の原則を基本原則とする。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "内閣は立法府(議会)との関係という観点から、大きく5つに類型化できる。", "title": "類型" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "以下に各国の内閣または内閣に相当する組織を挙げる。国・地域によって、仕組みや名称もそれぞれ異なっている。各国の内閣については各項目を参照。", "title": "各国の内閣" } ]
内閣は、主に議院内閣制や半大統領制などの国家において、行政を担当する合議体の執行機関である。権力を担わない場合には、大統領顧問団(だいとうりょうこもんだん)などと訳される場合もある。
'''内閣'''(ないかく、{{lang-en-short|Cabinet}})は、主に[[議院内閣制]]や[[半大統領制]]などの[[国家]]において、[[行政]]を担当する[[合議制|合議体]]の[[行政機関|執行機関]]である<ref name="yamakawa">『政治・経済用語集』(山川出版社)</ref>。[[権力]]を担わない場合には、'''大統領顧問団'''(だいとうりょうこもんだん)などと訳される場合もある<ref name="cabinet">『[https://kotobank.jp/ejword/cabinet cabinet]』 - [[コトバンク]]</ref>。 == 概要 == 主に[[議院内閣制]]を採用する国家において、[[政権|行政権]]を担う合議体の機関のことを指す<ref name="yamakawa" />。[[英語]]の''Cabinet''という単語は、[[小部屋]]で[[会合]]を開き[[協議]]していたところから由来する<ref name="内閣" >{{コトバンク|内閣}}</ref>。「内閣」という[[漢語]]は、[[中華人民共和国|中国]]の[[明]]や[[清]]の時代に、[[皇帝 (中国)|皇帝]]の[[諮問]]にあずかった[[内閣大学士]]制度から引用され、[[1877年]]([[明治]]10年)頃に日本で定着した<ref name="内閣" />。なお、行政権が[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]に専属する[[アメリカ合衆国]]などにおいて、権力を担っていない''Cabinet''はその訳語として、「大統領顧問団」と呼ばれる<ref name="cabinet" />。 内閣制度は元々[[イギリス]]がその元祖であるが、最初は[[国王]]に対して助言するだけの[[諮問機関]]に過ぎなかった。時代や国によって、様々な位置づけがみられる。内閣制度は、'''合議制の原則'''、'''分担管理の原則'''、'''首相指導の原則'''を基本原則とする{{Sfn|西尾勝|2001|p=104}}。 == 類型 == 内閣は[[立法府]]([[議会]])との関係という観点から、大きく5つに類型化できる<ref name="introduction118">{{Cite book|和書|author1=砂原庸介|author2=稗田健志|author3=多湖淳|title=政治学の第一歩 |publisher=有斐閣|year=2015|page=118}}</ref>。 ; [[超然内閣制]] : 内閣の存立に関して議会の信任を法的要件としないタイプ。例えば[[イタリア王国]]や[[プロイセン王国]]では[[国王]]のみに、[[大日本帝国]]では[[天皇]]のみに対して責任を負っていた<ref>{{Cite web|和書|author=笹口裕二|url=https://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2014pdf/20140115165.pdf|title=議院内閣制における内閣の在り方― 我が国の統治機構の在り方を考える視座 ―|publisher=参議院|accessdate=2021-07-11}}</ref>。 : [[国務大臣|閣僚]]の選出は民主的な手段によらない。例えば戦前の日本において、[[内閣総理大臣]]の人選は[[元老]]や[[重臣会議|重臣]]のような憲法外の機関・人物が行い、天皇が任命していた<ref>{{Cite web|和書|author=笹口裕二|url=https://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2014pdf/20140115165.pdf|title=議院内閣制における内閣の在り方― 我が国の統治機構の在り方を考える視座 ―|publisher=参議院|accessdate=2021-07-11}}</ref>。ただし、議会が可決した[[予算]]の枠内で[[政府]]を運営しなければならないことには変わりないため、間接的に議会のコントロール下に置かれる<ref>{{Cite web|和書|author=笹口裕二|url=https://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2014pdf/20140115165.pdf|title=議院内閣制における内閣の在り方― 我が国の統治機構の在り方を考える視座 ―|publisher=参議院|accessdate=2021-07-11}}</ref>。 : 議会の協力が得られなかった場合は政権が立ち行かなくなったり、歪な政権運営を強いられたりするため、この制度のもとでも[[政党内閣制|政党内閣]]は成立しうる([[大正デモクラシー]]期の日本の[[憲政の常道]]など)。しかし、法的に担保されたものではないので超然内閣制下の政党内閣と議院内閣制とは違う概念である<ref>{{Cite web|和書|author=笹口裕二|url=https://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2014pdf/20140115165.pdf|title=議院内閣制における内閣の在り方― 我が国の統治機構の在り方を考える視座 ―|publisher=参議院|accessdate=2021-07-11}}</ref>。 ; [[議院内閣制]] : 内閣が議会に対して責任を負い、議会の信任を内閣存立の条件とするタイプ。議院内閣制は、議会に[[議席]]を保持する[[政党]]を基礎に内閣を組織することから[[政党内閣制]]とも呼ばれ、議会の信任に基づいて[[政権]]を運営する<ref> {{Cite book|和書|author=橋本五郎 |author2=飯田政之 |author3=加藤秀治郎 |title=Q&A日本政治ハンドブック : 政治ニュースがよくわかる! |date=2006 |publisher=一藝社 |page=72 |isbn=4901253794 |ref=harv}}</ref>。政党内閣制は議会の多数党を基盤に成立するもので、閣僚のほとんどは多数党の所属議員によって構成される<ref name="gendai">{{Cite book|和書|title=現代社会用語集 |publisher=山川出版社|year=1995|page=139}}</ref>。ただし、単一政党では議会で安定多数を維持できない場合などには複数の政党が政策協定を締結して[[連立政権|連立内閣]]を組織することがある<ref name="gendai" />。 : 現在の[[日本]]や[[イギリス]]など、多くの国で採用されている。日本の内閣は[[ウェストミンスター・システム|イギリスの内閣]]を模して作られた。議院内閣制の本質をめぐっては内閣の対議会責任を本質的要素とみる責任本質説と、内閣の[[解散 (議会)|議会解散権]]をその要素に含める均衡本質説の対立がある。 ; 自律内閣制 : 議会多数派から[[首相]]が選出されるが、任期期間中は解任できないタイプ。[[議会統治制]]とも呼ばれ、スイスで採用されている<ref name="introduction118" />。議会において各地域各言語圏を代表する政党から内閣の構成員を選出し、全体で等しく政策決定に責任を負う政治制度になっている<ref name="introduction118" />。 ; [[首相公選制]] : 有権者が直接的に首相を選出するが、議会多数派により解任されうる制度<ref name="introduction118" />。 ; [[大統領制]] : 有権者が直接的に大統領を選出するタイプで、大統領の任期は固定任期である<ref name="introduction118" />。大統領制の下での内閣の役割は国により大きな違いがあり、ドイツやイタリアのように大統領が形式的・象徴的存在にすぎず議会多数派から首相が選出される議院内閣制に近い形態の国と、韓国やアルゼンチンのように首相の選出や解任が大統領によって行われ大統領のスタッフとして機能している国がある<ref name="introduction118-119" />。行政権が[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]に専属する[[アメリカ合衆国]]の場合、 Cabinet は「大統領顧問団」と訳されることがある<ref name="cabinet" />。 == 各国の内閣 == 以下に各国の内閣または内閣に相当する組織を挙げる。国・地域によって、仕組みや名称もそれぞれ異なっている。各国の内閣については各項目を参照。 * {{JPN}}:[[内閣 (日本)|内閣]] * {{ROK}}:[[国務会議]]([[朝鮮語|朝]]:國務會議、국무회의) * {{DPRK}} : [[朝鮮民主主義人民共和国内閣|内閣]] * {{GBR}}:[[内閣 (イギリス)|内閣]]([[英語|英]]:{{lang|en|Cabinet}}) * {{AUS}}:[[内閣 (オーストラリア)|内閣]]([[英語|英]]:{{lang|en|Cabinet}}) * {{CAN}}:[[内閣 (カナダ)|内閣]]([[英語|英]]:{{lang|en|Cabinet}}) * {{DOM}}:[[内閣 (ドミニカ共和国)|内閣]]([[スペイン語|西]]:{{lang|es|Gabinete}}) * {{IDN}}:[[内閣 (インドネシア)|内閣]]([[インドネシア語|尼]]:{{lang|id|Kabinet}}) * {{UKR}}:[[内閣 (ウクライナ)|内閣]]([[ウクライナ語|烏]]:{{lang|uk|Кабінет}}) * {{THA}}:[[内閣 (タイ)|内閣]]([[タイ語|泰]]:{{lang|th|คณะรัฐมนตรีไทย}}) * {{DEU}}:[[連邦政府 (ドイツ)|連邦政府]]([[ドイツ語|独]]:{{lang|de|Bundesregierung}}) * {{NED}}:[[内閣 (オランダ)|内閣]]([[オランダ語|蘭]]:{{lang|nl|Kabinet}}) * {{ITA}}:{{仮リンク|内閣 (イタリア)|label=閣僚評議会|it|Consiglio dei Ministri}} ({{lang-it-short|Consiglio dei Ministri}}) * {{SWE}}:[[政府 (スウェーデン)|政府]]([[スウェーデン語|瑞]]:{{lang|sv|Regeringen}}) * {{PRC}}:[[中華人民共和国国務院|国務院]]([[中国語|中]]:{{lang|simp-zh|国务院}}、[[英語|英]]:{{lang|en|State Council}}) ** {{HKG}}:[[行政会議 (香港)|行政会議]]([[中国語|中]]:{{lang|trad-zh|行政會議}}、[[英語|英]]:{{lang|en|Executive Council}}) * {{ROC}}:[[行政院]]([[中国語|中]]:{{lang|trad-zh|行政院}}、[[英語|英]]:{{lang|en|Executive Yuan}}) * {{USA}}:[[アメリカ合衆国内閣|内閣]]([[英語|英]]:{{lang|en|Cabinet}})<ref name="introduction118-119">{{Cite book|和書|author1=砂原庸介|author2=稗田健志|author3=多湖淳|title=政治学の第一歩 |publisher=有斐閣|year=2015|pages=118-119}}</ref>、別名:大統領顧問団(英:Cabinet Advisors) {{see also|閣僚評議会|en:List of national governments}} == 脚注 == {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=西尾勝 |title=行政学 |date=2001 |edition=新版 |publisher=有斐閣 |isbn=9784641049772 |ref=harv}} == 関連項目 == * [[内閣連帯責任]] {{small|([[:w:Cabinet collective responsibility|Cabinet collective responsibility]])}} * [[個別大臣責任]] {{small|([[:w:Individual ministerial responsibility|Individual ministerial responsibility]])}} * [[政府]] * [[首相]] * [[内閣総理大臣]]、[[内閣総理大臣臨時代理]] * [[内閣総理大臣指名選挙]] * [[内閣総理大臣の一覧]] * [[日本国歴代内閣]] * [[連立政権|連立内閣]] * [[閣外協力]] * [[内閣支持率]] * [[内閣法]] * [[内閣官房]] * [[閣議]] * [[組閣]] * [[倒閣]] * [[内閣総辞職]] * [[内閣改造]] * [[国務大臣]] * [[民間人閣僚]] * [[女性政治家#日本の女性閣僚の一覧|女性閣僚の一覧]] {{権力分立}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ないかく}} [[Category:内閣|*]]
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サミュエル・アイレンベルグ
サミュエル・アイレンベルグ(Samuel Eilenberg, 1913年9月30日 - 1998年1月30日)はポーランド出身でアメリカ合衆国の数学者である。 ワルシャワ生まれ。1936年ワルシャワ大学でKarol Borsukの指導の下、数学のPh.D.を取得、1939年にナチス・ドイツによるポーランド侵攻の後、渡米した。 長年コロンビア大学数学科教授を務めた。数学者集団ブルバキのメンバーでもあった。圏論の導入、代数的位相幾何学、ホモロジー代数に大きな業績を残した。 1986年にウルフ賞数学部門、1987年にスティール賞を受賞。
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サミュエル・アイレンベルグはポーランド出身でアメリカ合衆国の数学者である。
{{Infobox scientist |name = サミュエル・アイレンベルグ |image = Samuel Eilenberg MFO.jpeg |image_size = |caption = 1970年 |birth_name = |birth_date = [[1913年]][[9月30日]] |birth_place = {{RUS1883}} {{仮リンク|ワルシャワ総督府|ru|Варшавское генерал-губернаторство}} [[ワルシャワ]] |death_date = {{死亡年月日と没年齢|1913|9|30|1998|1|30}} |death_place = {{USA}} [[ニューヨーク]] |residence = |citizenship = |nationality = {{POL}}<br>{{USA}} |field = [[数学]] |work_institutions = [[コロンビア大学]] |alma_mater = [[ワルシャワ大学]] |doctoral_advisor = [[カジミェシュ・クラトフスキ]] |academic_advisors = |doctoral_students = [[ダニエル・カン]]<br />[[ウィリアム・ローヴェア]] |notable_students = |known_for = [[代数的位相幾何学]]<br />[[ホモロジー代数]] |author_abbrev_bot = |author_abbrev_zoo = |influences = |influenced = |prizes = [[ウルフ賞数学部門]](1986年) |religion = |footnotes = |signature = }} '''サミュエル・アイレンベルグ'''(''Samuel Eilenberg'', [[1913年]][[9月30日]] - [[1998年]][[1月30日]])は[[ポーランド]]出身で[[アメリカ合衆国]]の数学者である。 == 生涯 == [[ワルシャワ]]生まれ。1936年[[ワルシャワ大学]]でKarol Borsukの指導の下、数学の[[Doctor of Philosophy|Ph.D.]]を取得、1939年に[[ナチス・ドイツ]]によるポーランド侵攻の後、渡米した。 長年[[コロンビア大学]]数学科教授を務めた。数学者集団[[ニコラ・ブルバキ|ブルバキ]]のメンバーでもあった。[[圏論]]の導入、[[代数的位相幾何学]]、[[ホモロジー代数]]<ref>{{Cite web |url = https://www.sugakushobo.co.jp/903342_16_mae.html|title = ホモロジー代数学|website = www.sugakushobo.co.jp|publisher = 数学書房|date = |accessdate = 2020-10-06}}</ref>に大きな業績を残した。 [[1986年]]に[[ウルフ賞数学部門]]、[[1987年]]に[[スティール賞]]を受賞。 == 出典 == {{Reflist}} ==外部リンク== *{{MathGenealogy |id=7643}} *{{MacTutor Biography|id=Eilenberg}} {{mathematician-stub}} {{ウルフ賞数学部門}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あいれんへるく さみゆえる}} [[Category:ポーランドの数学者]] [[Category:アメリカ合衆国の数学者]] [[Category:位相幾何学者]] [[Category:ウルフ賞数学部門受賞者]] [[Category:米国科学アカデミー会員]] [[Category:アメリカ芸術科学アカデミー会員]] [[Category:ポーランド科学アカデミー会員]] [[Category:グッゲンハイム・フェロー]] [[Category:20世紀の数学者|130930]] [[Category:ブルバキ]] [[Category:コロンビア大学の教員]] [[Category:ワルシャワ出身の人物]] [[Category:ロシア帝国のユダヤ人]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:ニューヨーク州の数学者]] [[Category:1913年生]] [[Category:1998年没]]
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アンドレ・ヴェイユ
アンドレ・ヴェイユ(André Weil, 1906年5月6日 - 1998年8月6日)は、フランスの数学者で、20世紀を代表する数学者の一人である。思想家のシモーヌ・ヴェイユは妹、児童文学者のシルヴィ・ヴェイユ(フランス語版)は娘である。 ユダヤ人ブルジョワ家庭の長男としてパリに生まれ育つ。父方はアルザスのユダヤ人の家系で、普仏戦争時にパリに逃れた。母方はガリツィアのユダヤ人の家系。学生時代にはインドに関心を寄せ、サンスクリット語を勉強していた。高等師範学校卒業。1928年、パリ大学博士。博士学位論文は既にモーデル・ヴェイユの定理を含むものであった。 博士号取得後はボンベイ(ムンバイ)にあるアリーガル・ムスリム大学の教授となり、また、同地でインド哲学を学んだ。 その後、フランスに戻り、ストラスブール大学教授となった。このときの同僚にアンリ・カルタンがおり、これがきっかけで学生時代の友人たちと数学者集団ブルバキを結成した。ブルバキは数学全体を再構成するべく数学原論を刊行し、20世紀の数学に強い影響を与えた。 兵役拒否など戦争中の体験から無実の罪で処刑されそうになるが、初代フィールズ賞受賞者のアールフォルスに助けられ1941年にアメリカに亡命し、最初は米軍の学校で教えていたが学生の程度が低かったため、退職してブラジルへ再移住し、サンパウロ大学教授に就任。以後、南米の数学者と、ブルバキを中心とするフランスの数学者は、いくらかの関係を持つこととなる。 1944年にパリが解放されると、翌年6月20日に帰仏した。1947年に再びアメリカに渡り、シカゴ大学やプリンストン高等研究所などで研究生活を送った。 数論、代数幾何学に大きな業績を残した。ヴェイユ予想は数論と代数幾何学の深いつながりについて予想したもので、リーマン仮説の類似の一つであるが、その後のセールやグロタンディークの活躍につながるものである。またヴェイユ予想の解決は20世紀の数学の大きな出来事でもあった。 彼はブルバキの中心的なメンバーであった。ヨーロッパの多くの言語に通じていて、サンスクリットの『バガヴァッド・ギーター』は彼の愛読書だった。空集合の記号 Ø も彼の考え出したものだが、これはノルウェー語のアルファベットの一つである。数学史に関する造詣も非常に深く、その一端はブルバキの『数学史』からもうかがい知ることができる(ブルバキに数学史を載せることは彼の発案で始まった)。またブルバキの数学史に関する記述は大半がヴェイユとデュドネによるものともいわれ、単著でも数学史に関する著作も多い。 主著は『代数幾何学の基礎』、『アーベル多様体と代数曲線』、『代数曲線とそれに関する多様体』。この他に、自伝や数学史の著作もある。 シカゴ大時代、ヴェイユは小平邦彦、岩澤健吉らの訪問及び手紙のやり取りを通じて日本人数学者達と次第に親密な関係を結んでいった。その中の一人、中山正(元名古屋大教授)に対しては「中山は1951年に、私の命ではないが名誉を救ってくれた」と述べている。それは日本の数学者達の求めに応じて高木貞治記念号への寄稿予定であった類体論に関する証明に対してのことである。当時アーバナにいた中山はヴェイユの証明中に誤りを見出し、既に東京に送られていたヴェイユ原稿の刊行前での改正に大きく貢献した。それらもあり、ヴェイユは日本での数論のシンポジウムへの招待に対して「とりわけ嬉しく思った」としている。結果も、「見事で楽しくまた実り多い会議」と述べている。その中で、志村五郎、谷山豊の虚数乗法理論のアーベル多様体への拡張へのアイデアがヴェイユと共通しており、かつ三者で補い合う関係にあった為に、自身の新しいものとばかり信じていたヴェイユを大いに驚かせている。 谷山・志村予想の発案者でもある日本の数学者、谷山豊はヴェイユを評して「歯に衣を着せない」、「その批判は辛辣である」、「温厚な大先生方には余り評判は宜しくない」とする一方で「それを一概に排斥しないだけの自由な空気がなかったならば、数学は窒息してしまったであろう」としている。そしてヴェイユの大胆な推測、ハッタリではないかと思われかねない発言に対し「凡眼を以って、天才の思想を云々するのは危険であろう」と記している。谷山はヴェイユの才能を第一はclassicな理論の中から本質を鋭く見抜き、何が、いかに抽象化され一般化されるべきかを問う能力、第二に、それを実行に移す際に山積する障害に対し、挫折したり迂回路を取ることなく、障害を一つ一つ強引にねじ伏せる腕力と息の長さであると評し、「奇麗事が好きで腕力の弱い我が国の多くの数学者」に対する頂門の一針であるとした。 同時代の数学者・数理物理学者ヘルマン・ヴァイル(Hermann Weyl)と名前が似ていることから、「後世の数学史家は、私と彼が同一人物なのかをめぐって激しい議論をすることになるだろう」と冗談を言っている。 ヴェイユは応用数学(同時代的には、数学と物理学の組み合わせは一種の花形であった)には興味が無いとしていた。しかし、人文科学者を含めて交友はあり、友人の人類学者であるクロード・レヴィ=ストロースからのオーストラリア北端のムルンギン族の婚姻制度の組合せ問題の解決依頼に対して協力している。ヴェイユはこの問題を、婚姻のかたちを二つの元が生成するアーベル群に抽象化して整理できると見抜き解決した。この件により「ムルンギン族に対しある種の愛情を感じるようになった」と後に認めている。 ヴェイユはブルバキの初期メンバーで有名だが、彼自身そのことを非常に誇らしく思っており、娘の名前もニコラ・ブルバキからとってNicoletteと名付けるほどであった。 数学は少数の天才によって進歩するのであって、2流以下の数学者たちは共鳴箱にすぎないとも言っている 。
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アンドレ・ヴェイユは、フランスの数学者で、20世紀を代表する数学者の一人である。思想家のシモーヌ・ヴェイユは妹、児童文学者のシルヴィ・ヴェイユは娘である。
{{Infobox Scientist | name = アンドレ・ヴェイユ<br />André Weil | image = Weil.jpg | caption = <!--画像の説明--> | birth_date = [[1906年]][[5月6日]] | birth_place = {{FRA1870}}、[[パリ]] | death_date = {{死亡年月日と没年齢|1906|5|6|1998|8|6}} | death_place = {{USA}}、[[ニュージャージー州]]、[[プリンストン (ニュージャージー州)|プリンストン]] | residence = <!--居住国--> | nationality = <!--国籍--> | field = [[数学]] | work_institution = [[アリーガル・ムスリム大学]]<br />[[リーハイ大学]]<br />[[サンパウロ大学]]<br />[[シカゴ大学]]<br />[[プリンストン高等研究所]] | alma_mater = [[パリ大学]]<br />[[高等師範学校 (フランス)|高等師範学校]] | doctoral_advisor = [[ジャック・アダマール]]<br />[[エミール・ピカール]] | doctoral_students = [[ピエール・カルティエ]]<br />[[ハーリー・フランダース]]<br />[[ウィリアム・アルヴィン・ホワード]]<br />[[松阪輝久]]<br />[[ピーター・スウィナートン=ダイアー]] | known_for = [[数論]]、[[代数幾何学]] | prizes = [[ウルフ賞数学部門]](1979年)<br />[[スティール賞]](1980年)<br />[[京都賞基礎科学部門]](1994年) | religion = <!--信仰--> | footnotes = <!--備考--> }} '''アンドレ・ヴェイユ'''(André Weil, [[1906年]][[5月6日]] - [[1998年]][[8月6日]])は、[[フランス]]の[[数学者]]で、20世紀を代表する数学者の一人である。思想家の[[シモーヌ・ヴェイユ 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1939年11月:[[フィンランド]]でソ連のスパイとして逮捕される。帰仏後に[[ルーアン]]の軍事監獄に収容。 * 1940年:軍務不服従の裁判にかけられる。 * 1941年:[[アメリカ合衆国]]へ渡る。 * 1945-1947年:[[ブラジル]]の[[サンパウロ大学]]講師。 * 1947-1958年:[[シカゴ大学]]教授。 * 1958-1976年:[[プリンストン高等研究所]]教授。 * 1976年:プリンストン高等研究所名誉教授。 * 1986年5月24日:妻エヴリンが歿する。 * 1998年8月6日:[[プリンストン (ニュージャージー州)|プリンストン]]にて歿する。 == 受賞歴 == * 1979年:[[ウルフ賞数学部門]] * 1980年:[[スティール賞]] * 1994年:[[京都賞基礎科学部門]] == 業績 == [[数論]]、[[代数幾何学]]に大きな業績を残した。[[ヴェイユ予想]]は数論と代数幾何学の深いつながりについて予想したもので、[[リーマン予想|リーマン仮説]]の類似の一つであるが、その後の[[ジャン=ピエール・セール|セール]]や[[アレクサンドル・グロタンディーク|グロタンディーク]]の活躍につながるものである。またヴェイユ予想の解決は20世紀の数学の大きな出来事でもあった。 彼はブルバキの中心的なメンバーであった。ヨーロッパの多くの言語に通じていて、[[サンスクリット]]の『[[バガヴァッド・ギーター]]』は彼の愛読書だった。[[空集合]]の記号 &Oslash; も彼の考え出したものだが、これは[[ノルウェー語]]のアルファベットの一つである<ref>[http://jeff560.tripod.com/set.html Earliest Uses of Symbols of Set Theory and Logic] の2010-09-01版(2010-10-29閲覧)に、彼の自伝にそう記してある旨の記述が見える。[[#ヴェイユ2004b|ヴェイユ(2004b)]]、36頁によると以下の通りである。 {{Quotation|我々が提案した記号はかなり一般的に受け入れられた.ずっと後になって,その当時の討論で発案したおかげで,娘のニコレットから尊敬の眼差しを受けることになった.ニコレットが学校で空集合の記号&oslash;を教わってきたとき,その記号を決めたのは私だと教えてやったのである.&oslash;はノルウェー語のアルファベットの一文字だが,ブルバキでノルウェー語を知っていたのは私だけだった.|アンドレ・ヴェイユ|[[#ヴェイユ2004b|ヴェイユ(2004b)]]、36頁}}</ref>。数学史に関する造詣も非常に深く<ref name="math"/>、その一端はブルバキの『数学史』からもうかがい知ることができる(ブルバキに数学史を載せることは彼の発案で始まった)<ref>日本語訳は[[#ブルバキ2006a|ブルバキ(2006a)]]、[[#ブルバキ2006b|ブルバキ(2006b)]]などがある。</ref>。またブルバキの数学史に関する記述は大半がヴェイユと[[ジャン・デュドネ|デュドネ]]によるものともいわれ、単著でも数学史に関する著作も多い<ref name="math"/>。 主著は『代数幾何学の基礎』、『アーベル多様体と代数曲線』、『代数曲線とそれに関する多様体』。この他に、自伝や数学史の著作もある。 === ヴェイユと日本人数学者 === シカゴ大時代、ヴェイユは[[小平邦彦]]、[[岩澤健吉]]らの訪問及び手紙のやり取りを通じて日本人数学者達と次第に親密な関係を結んでいった。その中の一人、[[中山正]](元名古屋大教授)に対しては「中山は1951年に、私の命ではないが名誉を救ってくれた」と述べている。それは日本の数学者達の求めに応じて[[高木貞治]]記念号への寄稿予定であった類体論に関する証明に対してのことである。当時アーバナにいた中山はヴェイユの証明中に誤りを見出し、既に東京に送られていたヴェイユ原稿の刊行前での改正に大きく貢献した。それらもあり、ヴェイユは日本での数論のシンポジウムへの招待に対して「とりわけ嬉しく思った」としている。結果も、「見事で楽しくまた実り多い会議」と述べている。その中で、[[志村五郎]]、[[谷山豊]]の虚数乗法理論のアーベル多様体への拡張へのアイデアがヴェイユと共通しており、かつ三者で補い合う関係にあった為に、自身の新しいものとばかり信じていたヴェイユを大いに驚かせている。 === 谷山豊によるヴェイユ評 === [[谷山・志村予想]]の発案者でもある日本の数学者、[[谷山豊]]はヴェイユを評して「歯に衣を着せない」、「その批判は辛辣である」、「温厚な大先生方には余り評判は宜しくない」とする一方で「それを一概に排斥しないだけの自由な空気がなかったならば、数学は窒息してしまったであろう」としている。そしてヴェイユの大胆な推測、ハッタリではないかと思われかねない発言に対し「凡眼を以って、天才の思想を云々するのは危険であろう」と記している。谷山はヴェイユの才能を第一はclassicな理論の中から本質を鋭く見抜き、何が、いかに抽象化され一般化されるべきかを問う能力、第二に、それを実行に移す際に山積する障害に対し、挫折したり迂回路を取ることなく、障害を一つ一つ強引にねじ伏せる腕力と息の長さであると評し、「奇麗事が好きで腕力の弱い我が国の多くの数学者」に対する頂門の一針であるとした。 === エピソード === 同時代の数学者・数理物理学者[[ヘルマン・ヴァイル]](Hermann Weyl)と名前が似ていることから、「後世の数学史家は、私と彼が同一人物なのかをめぐって激しい議論をすることになるだろう」と冗談を言っている。 ヴェイユは応用数学(同時代的には、数学と物理学の組み合わせは一種の花形であった)には興味が無いとしていた。しかし、人文科学者を含めて交友はあり、友人の人類学者である[[クロード・レヴィ=ストロース]]からのオーストラリア北端の[[ムルンギン族]]の婚姻制度の組合せ問題の解決依頼に対して協力している。ヴェイユはこの問題を、婚姻のかたちを二つの元が生成する[[アーベル群]]に抽象化して整理できると見抜き解決した。この件により「ムルンギン族に対しある種の愛情を感じるようになった」と後に認めている。 ヴェイユはブルバキの初期メンバーで有名だが、彼自身そのことを非常に誇らしく思っており、娘の名前もニコラ・ブルバキからとってNicoletteと名付けるほどであった<ref>J.ファング 『ブルバキの思想』 森毅監訳、河村勝久訳、東京図書、1975年。</ref>。 数学は少数の天才によって進歩するのであって、2流以下の数学者たちは共鳴箱にすぎないとも言っている<ref> 倉田令二朗、『数学の天才と悪魔たち ノイマン・ゲーデル・ヴェイユ』、河合文化教育研究所、河合ブックレット9、1987年、52頁。ISBN 4-87999-908-3</ref> 。 == 著作 == === 単著 === * {{Cite book|和書|others=[[彌永昌吉]]訳|year=1948|title=数学の将来|publisher=|ref=ヴェイユ1948}} * {{Cite book|和書|others=[[杉浦光夫]]訳|year=1983|month=7|title=数学の創造 著作集自註|series=数セミ・ブックス 4|publisher=[[日本評論社]]|isbn=4-535-60204-2|ref=ヴェイユ1983}} * {{Cite book|和書|others=[[足立恒雄]]・[[三宅克哉]]訳|year=1987|month=12|title=数論 歴史からのアプローチ|publisher=日本評論社|isbn=4-535-78160-5|url=http://www.nippyo.co.jp/book/1256.html|ref=ヴェイユ1987}} * {{Cite book|和書|others=[[稲葉延子]]訳|year=1994|month=5|title=アンドレ・ヴェイユ自伝 ある数学者の修業時代|publisher=[[シュプリンガー・フェアラーク東京]]|isbn=4-431-70659-3|ref=ヴェイユ1994}} ** {{Cite book|和書|others=稲葉延子訳|year=2004|month=5|title=アンドレ・ヴェイユ自伝 ある数学者の修業時代|volume=上|edition=増補新版|series=シュプリンガー数学クラブ 第12巻 |publisher=シュプリンガー・フェアラーク東京|isbn=4-431-71109-0|url=http://www.springer.jp/978-4-431-71109-4|ref=ヴェイユ2004a}} ** {{Cite book|和書|others=稲葉延子訳|year=2004|month=5|title=アンドレ・ヴェイユ自伝 ある数学者の修業時代|volume=下|edition=増補新版|series=シュプリンガー数学クラブ 第13巻 |publisher=シュプリンガー・フェアラーク東京|isbn=4-431-71110-4|url=http://www.springer.jp/978-4-431-71110-0|ref=ヴェイユ2004b}} ** {{Cite book|和書|others=稲葉延子訳|year=2004|month=5|title=アンドレ・ヴェイユ自伝 ある数学者の修業時代|series=シュプリンガー数学クラブ12|volume=上|edition=増補新版|publisher=[[丸善出版]]|isbn=978-4-621-06390-3|url=http://pub.maruzen.co.jp/book_magazine/book_data/search/9784621063903.html|ref=ヴェイユ2004c}} ** {{Cite book|和書|others=稲葉延子訳|year=2004|month=5|title=アンドレ・ヴェイユ自伝 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ポール・エルデシュ
ポール・エルデシュ、エルデーシュ・パール(Erdős Pál, Paul Erdős; (本姓:Engländer), 1913年3月26日 - 1996年9月20日)は、ハンガリー・ブダペスト出身のユダヤ系ハンガリー人の数学者である。20世紀で最も多くの論文を書いた数学者である。彼は、生涯で500人以上という数多くの数学者との共同研究を行ったことと、その奇妙なライフスタイルで知られていた(タイム誌は彼を「変わり者中の変わり者」(The Oddball's Oddball) と称した)。彼は、晩年になってさえも、起きている時間を全て数学に捧げた。彼が亡くなったのは、ワルシャワで開催された会議で幾何学の問題を解いた数時間後のことだった。 数論、組合せ論、グラフ理論をはじめ、集合論、確率論、級数論など幅広い分野で膨大な結果を残した。グラフ理論・数論などにおける確率論的方法、組合せ論の種々のテクニックは著しく、特にセルバーグと共に素数定理の初等的な証明を発見したことは有名である。彼はラムゼー理論を擁護し、貢献し、秩序が必ず現れる条件を研究した。彼の数学は、次々に問題を考えてはそれを解くという独特のスタイルであったが、彼が発する散発的な問題が実際には理論的に重要なものであったり、あるいは新しい理論の発展に非常に重要な貢献をした例も少なくない。 エルデシュは生涯に約1500篇の論文(多くは共著)を発表した。これ以上の論文を発表した数学者は、18世紀のレオンハルト・オイラーのみである。 彼は数学は社会活動であるという信念を持っており、他の数学者と数学論文を書くという目的のためだけに巡回生活を営んでいた。エルデシュが多くの研究者と論文を執筆したことから、エルデシュ数が生まれた。これは、論文の共著者同士で研究者をつないだときに、エルデシュとの間の最短経路上の人数を表したものである。 エルデシュは、1913年3月26日にオーストリア=ハンガリーのブダペストで生まれた。彼は、AnnaとLajos Erdős(旧姓Engländer)の間の唯一大人まで成長した子供だった。彼の2人の姉は、いずれも彼が生まれる前に、3歳と5歳で猩紅熱により死亡した。両親は2人ともユダヤ人で、活発な知的コミュニティの数学教師だった。彼は早くから数学への魅力を感じていた。彼の父親がシベリアのグラグに投獄され、母親が家計を支えるために長時間働かなくてはならないため、彼は家に1人でいることが多かった。彼は両親が家に残していた数学の教科書を読んで独学した。4歳までに、年齢から生まれてからの秒数を暗算できるようになっていた。姉が早く死んでいたことから、母親との間に異常に密接な関係が築かれていた。エルデシュが大学に入学するまで、2人は同じベッドで寝ていたと言われている。 エルデシュは、後に初等平面幾何学の問題についてのいくつかの記事を毎月発表した。1934年、21歳でブダペスト大学で数学博士号を取得した。エルデシュの論文指導教員は、ジョン・フォン・ノイマン、ジョージ・ポリア、トゥラーン・パールの論文指導もしたことがあるフェイェール・リポートだった。彼の2人の叔母、2人の叔父および父親を含むエルデシュの家族の大半は、ホロコーストによりブダペストで死亡した。彼の母は隠れて生き延びた。当時彼はアメリカに在住し、プリンストン高等研究所で働いていた。 1996年9月20日、83歳のときにワルシャワでの会議に出席中に心臓発作で死亡した。彼は結婚しておらず、子供もいなかった。彼はブダペストのコズマ通り墓地(英語版)の区画17A-6-29で母親と父親の隣に埋葬されている。墓碑文には、エルデシュ自身の生前の提案による"Végre nem butulok tovább"(I will not go any further. これ以上進むつもりはない)と書かれている。彼の生涯は、彼の生前に作られたドキュメンタリー映画『N Is a Number: A Portrait of Paul Erdős』や、死後の伝記『放浪の天才数学者エルデシュ(英語版)』(1998年)にまとめられている。 エルデシュ (Erdős) の名前にはハンガリー語の" ő "(ダブルアキュートつきの"o")が含まれるが、誤って、または活字がないために、Erdos や Erdös と表記されることがよくある。 生涯のほとんどを旅に過ごし、行く先々で色々な数学者たちと研究し共著で論文を発表することを好んだ。 エルデシュは物を所有することにほとんど意味を見出さなかった。彼の持ち物はスーツケース1つに収まるだろう。それは、彼の巡回的な生活様式に合わせたものである。賞やその他の収入は、通常、必要な人々やさまざまな価値ある目的のために寄付された。彼は世界中の科学会議、大学、そして同僚の家庭の間を旅していた。彼は客員講師として大学からの奨励金や様々な数学賞の賞金から、旅行や必要最小限の物のための資金を捻出し、残ったお金は、「エルデシュの問題」(後述)を証明した人の賞金としていた。彼は多くの場合、同僚の玄関口に現れて「私の脳は開いている」(my brain is open) と述べ、いくつかの論文を共同編集するために長く滞在し、次の場所へ移動していた。多くの場合、彼は現在の協力者に次にどこを訪問すればよいか尋ねていた。 彼の同僚のレーニ・アルフレードは「数学者はコーヒーを定理に変換する機械である」と述べたが、エルデシュは多量のコーヒーを飲んでいた(この言葉はしばしばエルデシュに誤って帰せられるが、エルデシュ自身はそれをレーニに帰している。) 彼の伝記(邦題『放浪の天才数学者エルデシュ』)には「博物館に行ってもついていくのは彼の体だけだった」等、数学への情熱を具体的に示すような記述が多くあり、彼がいかに純粋な研究者であったかが窺われる。いつ寝ているか分からないほど数学に没頭していたらしく、一日19時間数学の問題を考えていたといわれている。これほどの長時間を研究に割けた背景として、アンフェタミンを常用していたということが挙げられる。1971年以降、彼は友人の心配にもかかわらず、アンフェタミンを常用した。その友人の一人であるロン・グラハムと、1ヶ月間薬を止められるかどうかで500ドルの賭けをした。エルデシュは1ヶ月間服用を断ってこの賭けに勝利したが、その間研究は全く進まなかったそうである。その後彼は、すぐに薬の服用を再開した。 彼は独特な語彙を持っていた。彼は不可知論的無神論者(英語版)であったが、彼は「あの本」("The Book") のみは信じていた。それは、全ての定理や理論が掲載された想像上の本であり、一種のアカシックレコードとも呼べるものである。1985年の講演では、「神を信じる必要はないが、『あの本』は信じるべきだ」と言った。彼自身は、神(彼は"Supreme Fascist"(最高のファシスト、SF)と呼んだ)の存在を疑った。彼は、靴下やパスポートを隠し、最も優雅な数学的証明を自分自身の中に持っているという理由でSFを非難した。彼は特に美しい数学的な証拠を見たとき、「これは「あの本」から来たものだ!」と言った。後に書かれた『Proofs from THE BOOK(英語版)』という本のタイトルは、この言葉から取られたものである。 その他のエルデシュの独特な語彙には、以下のものがある。 彼は多くの国にニックネームを付けた。例えば、米国は「サムランド (samland)」(アンクルサムから)、ソ連は「ジョーダム (joedom)」(ヨシフ・スターリンから)、イスラエル (Israel) は「イズリアル (isreal)」といった。 1970年にロサンゼルスで「数学における私の初めの25億年」について「説教」した際には、「私が子供のとき、地球は20億歳だと言われていた。今ではそれが45億歳だと科学者たちは言う。それならば私は25億歳になる」と語った。恐竜はどうだったかと問われると「そうだねぇ、覚えてない。年寄りはごく若い時期のことしか覚えていないが、恐竜は昨日、たった1億年前に生まれたから」と答えたという。 1934年、彼は客員講師となるためにイングランドのマンチェスターに転居した。1938年、彼はプリンストン大学で奨学金受給者として彼のアメリカでの最初の地位が受け入れられた。この時から、大学から大学へ旅行し続けるようになった。彼は1つの場所に長く留まらず、死ぬまで数学の研究機関の間を行き来した。 1954年、米国市民権・移民業務局(英語版)は、ハンガリー市民であるエルデシュへの再入国ビザの発給を、理由の完全な説明なしに拒否した。エルデシュは当時ノートルダム大学で教職に就いていたので、米国に留まることを選ぶこともできた。しかし彼は荷物をまとめ、定期的に移民業務局に再審査を要求した。 当時、ハンガリーはソ連とのワルシャワ条約の下にあった。ハンガリー政府は自国市民の出入国の自由を制限していたが、1956年にエルデシュに好きなだけ入出国が認められる独占的特権を与えた。米国移民局は1963年にエルデシュにビザを発給し、彼はアメリカの大学での教授や旅行を再開した。10年後の1973年、60歳のエルデシュは自主的にハンガリーから退去した。 晩年の数十年間で、エルデシュは少なくとも15の名誉博士号を取得した。彼は米国国立科学アカデミーと英国王立協会を含む8ヶ国の科学アカデミーに加入した。彼は死の直前、同僚であったジョン・ボンディ(英語版)の解雇処分に対する抗議として、ウォータールー大学での名誉学位を返上している。 エルデシュは数学的な歴史の中で、レオンハルト・オイラーの次に多くの論文を書いた数学者である。ただし、エルデシュはオイラーと違って論文の大多数を他の数学者との共同で発表した。エルデシュは生涯に約1,525の数学論文を書いたが、それらの大部分は他の数学者との共著である。彼は、数学を社会活動として強く信じ、実践した。彼は生涯に511人の研究者と共同研究を行った。 エルデシュの数学のスタイルは、「理論の開発者」というよりは「問題の解決者」である(ティモシー・ガワーズの"The Two Cultures of Mathematics"を参照。2つのスタイルと、なぜ問題の解決者はあまり評価されないかを詳細に論じている)。ジョエル・スペンサー(英語版)は、「20世紀の数学者たちの中における彼の位置は、彼の著名な経歴を通じて特定の定理と予想に断固として集中していたため、論争中の問題である」と述べている。エルデシュは、数学界の最高の賞であるフィールズ賞を受賞したこともなく、受賞した人物と共著したこともない。他の賞についても同様である。彼はウルフ賞は受賞している。授賞理由は、「数論、組合せ数学、確率論、集合論、解析学への著名な貢献」、「世界中の数学者を個人的に刺激したこと」などである。 彼の貢献のうち、ラムゼー理論の発展と確率的方法(英語版)の適用が特に際立つ。極値組合せ論(英語版)は、解析的整数論の伝統から部分的に導かれた全体的なアプローチを彼に与えている。エルデシュは、パフヌティ・チェビシェフの元のものよりもはるかに近いと証明されたベルトランの仮説の証明を発見した。彼はアトル・セルバーグと共に素数定理の初等的証明(英語版)を発見した。しかし、証明に至る状況や、発表についての意見の相違は、エルデシュとセルバーグの間で激しい論争を招いた。エルデシュはまた、トポロジーのようなほとんど関心のない分野に貢献し、0次元ではない完全不連結トポロジー空間の例を与えた最初の人物とされている。また、高校生の時にルジャンドルの定理を用いて、ベルトラン=チェビシェフの定理に初等的な証明を与えた。 彼のキャリアを通して、エルデシュは未解決問題を解決した者に対して賞金を贈った。その額は、現在の数学的思考(彼と他者の両方)の範囲外だと彼が感じた問題に対する25ドルから、攻撃が困難で数学的にも重要な問題については数千ドルに及んだ。賞金の対象となる問題の公式かつ包括的な一覧はないが、千以上の未解決問題があると考えられている。エルデシュの死後も賞金の提供は引き続き行われており、ロナルド・グラハムが(非公式な)管理者となっている。問題を解決した者は、エルデシュが生前に署名したオリジナルの小切手(換金のできない単なる記念品)か、グラハムによる換金可能な小切手のいずれかを受け取ることができる。 数学的に最も重要であると考えられる問題は、等差数列に関するエルデシュ予想(英語版)である。 これが真であれば、数論における他のいくつかの未解決問題が解決することになる(素数の列に任意の長さの等差数列が含まれているという、この予想の主な包含は、グリーン・タオの定理とは独立に証明されている)。この問題を解決すると支払われる金額は、現在、5000ドルである。 エルデシュ賞の最もよく知られた問題は、3N+1問題とも呼ばれるコラッツ予想である。エルデシュは、解決した人に500ドルを提供すると申し出た。 彼と最も頻繁に共同研究を行った学者には、ハンガリーの数学者シャルケジ・アンドラーシュ(62件)、ハイナル・アンドラーシュ(英語版)(56件)、アメリカの数学者ラルフ・フォードリー(英語版)(50件)がいる。他の主な共同研究者は以下の通りである。 上記以外のエルデシュとの共同研究者については、エルデシュ数を持つ人物の一覧(英語版)の「エルデシュ数1」の部分を参照。 エルデシュに共著論文が非常に多いことから、エルデシュの友人たちは、敬意と軽いユーモアを込めてエルデシュ数を作った。エルデシュ数は、共著論文による結び付きにおいて、エルデシュとどれだけ近いかを表す。エルデシュ自身のエルデシュ数を 0 とし、彼と直接共同研究した研究者はエルデシュ数が 1 になり、エルデシュ数が n の研究者と共同研究した研究者は n + 1 のエルデシュ数を持つ。エルデシュ数 1 の数学者は、2007年2月28日の時点で511人いるとされる。約200,000人の数学者にエルデシュ数が割り当てられており、世界の活発な数学者の90%が8より小さいエルデシュ数を持っていると推定されている(スモール・ワールド現象に照らせば驚くことではない)。物理学、工学、生物学、経済学の分野の科学者の多くは、数学者との共著論文によりエルデシュ数を持っている。 いくつかの研究により、特に数学の指導者にはエルデシュ数が低くなる傾向があることが示されている。例えば、エルデシュ数を持っている約268,000人の数学者のエルデシュ数の中央値は5である。フィールズ賞受賞者のエルデシュ数の中央値は3である。2015年現在、約11,000人の数学者が2以下のエルデシュ数を持っている。エルデシュ数が少ない数学者が死に、その人物との共同研究ができなくなることで、長い時間スケールで見ると必然的に数学者全体のエルデシュ数は増加する傾向にある。アメリカ数学協会は、Mathematical Reviewsカタログに記載されている全ての数学者のエルデシュ数を決定する無料のオンラインツールを提供している。 エルデシュ数は、エルデシュ数2を持つ解析学者のキャスパー・ゴフマン Casper Goffman) によって最初に定義された可能性が最も高い。ゴフマンは、1969年に"And what is your Erdős number?"(そしてあなたのエルデシュ数は?)というタイトルで、エルデシュの多岐にわたる共同作業についての記事を書いている。 ジェラルド・グロスマン (Jerry Grossman) は、野球選手のハンク・アーロンはエルデシュ数1を持つと主張している。アーロンとエルデシュが同じ日にエモリー大学で名誉学位を授与されたとき、カール・ポメランスの求めで2人が同じ野球ボールにサインしたからである。幼児、馬、何人かの俳優のエルデシュ数も提案されている。 エルデシュは"Paul Erdos P.G.O.M."と署名した。60歳の時に"L.D."を付け加え、それが65歳の時には"A.D."に、70歳の時に"L.D."に、75歳の時に"C.D."に変わった。それぞれの略語は以下の意味である。 エルデシュを主題とした本は少なくとも3冊ある。ポール・ホフマン(英語版)のThe Man Who Loved Only Numbers(日本語訳題『放浪の天才数学者エルデシュ(英語版)』)と、ブルース・シェヒターのMy Brain is Open(日本語訳題『My brain is open 20世紀数学界の異才ポール・エルデシュ放浪記』)の2冊の伝記は、ともに1998年に発刊した。他に2013年に発刊したデボラ・ハイリグマン(英語版)の子供向けの絵本The Boy Who Loved Math; The Improbable Life of Paul Erdősがある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ポール・エルデシュ、エルデーシュ・パール(Erdős Pál, Paul Erdős; (本姓:Engländer), 1913年3月26日 - 1996年9月20日)は、ハンガリー・ブダペスト出身のユダヤ系ハンガリー人の数学者である。20世紀で最も多くの論文を書いた数学者である。彼は、生涯で500人以上という数多くの数学者との共同研究を行ったことと、その奇妙なライフスタイルで知られていた(タイム誌は彼を「変わり者中の変わり者」(The Oddball's Oddball) と称した)。彼は、晩年になってさえも、起きている時間を全て数学に捧げた。彼が亡くなったのは、ワルシャワで開催された会議で幾何学の問題を解いた数時間後のことだった。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "数論、組合せ論、グラフ理論をはじめ、集合論、確率論、級数論など幅広い分野で膨大な結果を残した。グラフ理論・数論などにおける確率論的方法、組合せ論の種々のテクニックは著しく、特にセルバーグと共に素数定理の初等的な証明を発見したことは有名である。彼はラムゼー理論を擁護し、貢献し、秩序が必ず現れる条件を研究した。彼の数学は、次々に問題を考えてはそれを解くという独特のスタイルであったが、彼が発する散発的な問題が実際には理論的に重要なものであったり、あるいは新しい理論の発展に非常に重要な貢献をした例も少なくない。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "エルデシュは生涯に約1500篇の論文(多くは共著)を発表した。これ以上の論文を発表した数学者は、18世紀のレオンハルト・オイラーのみである。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "彼は数学は社会活動であるという信念を持っており、他の数学者と数学論文を書くという目的のためだけに巡回生活を営んでいた。エルデシュが多くの研究者と論文を執筆したことから、エルデシュ数が生まれた。これは、論文の共著者同士で研究者をつないだときに、エルデシュとの間の最短経路上の人数を表したものである。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "エルデシュは、1913年3月26日にオーストリア=ハンガリーのブダペストで生まれた。彼は、AnnaとLajos Erdős(旧姓Engländer)の間の唯一大人まで成長した子供だった。彼の2人の姉は、いずれも彼が生まれる前に、3歳と5歳で猩紅熱により死亡した。両親は2人ともユダヤ人で、活発な知的コミュニティの数学教師だった。彼は早くから数学への魅力を感じていた。彼の父親がシベリアのグラグに投獄され、母親が家計を支えるために長時間働かなくてはならないため、彼は家に1人でいることが多かった。彼は両親が家に残していた数学の教科書を読んで独学した。4歳までに、年齢から生まれてからの秒数を暗算できるようになっていた。姉が早く死んでいたことから、母親との間に異常に密接な関係が築かれていた。エルデシュが大学に入学するまで、2人は同じベッドで寝ていたと言われている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "エルデシュは、後に初等平面幾何学の問題についてのいくつかの記事を毎月発表した。1934年、21歳でブダペスト大学で数学博士号を取得した。エルデシュの論文指導教員は、ジョン・フォン・ノイマン、ジョージ・ポリア、トゥラーン・パールの論文指導もしたことがあるフェイェール・リポートだった。彼の2人の叔母、2人の叔父および父親を含むエルデシュの家族の大半は、ホロコーストによりブダペストで死亡した。彼の母は隠れて生き延びた。当時彼はアメリカに在住し、プリンストン高等研究所で働いていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1996年9月20日、83歳のときにワルシャワでの会議に出席中に心臓発作で死亡した。彼は結婚しておらず、子供もいなかった。彼はブダペストのコズマ通り墓地(英語版)の区画17A-6-29で母親と父親の隣に埋葬されている。墓碑文には、エルデシュ自身の生前の提案による\"Végre nem butulok tovább\"(I will not go any further. これ以上進むつもりはない)と書かれている。彼の生涯は、彼の生前に作られたドキュメンタリー映画『N Is a Number: A Portrait of Paul Erdős』や、死後の伝記『放浪の天才数学者エルデシュ(英語版)』(1998年)にまとめられている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "エルデシュ (Erdős) の名前にはハンガリー語の\" ő \"(ダブルアキュートつきの\"o\")が含まれるが、誤って、または活字がないために、Erdos や Erdös と表記されることがよくある。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "生涯のほとんどを旅に過ごし、行く先々で色々な数学者たちと研究し共著で論文を発表することを好んだ。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "エルデシュは物を所有することにほとんど意味を見出さなかった。彼の持ち物はスーツケース1つに収まるだろう。それは、彼の巡回的な生活様式に合わせたものである。賞やその他の収入は、通常、必要な人々やさまざまな価値ある目的のために寄付された。彼は世界中の科学会議、大学、そして同僚の家庭の間を旅していた。彼は客員講師として大学からの奨励金や様々な数学賞の賞金から、旅行や必要最小限の物のための資金を捻出し、残ったお金は、「エルデシュの問題」(後述)を証明した人の賞金としていた。彼は多くの場合、同僚の玄関口に現れて「私の脳は開いている」(my brain is open) と述べ、いくつかの論文を共同編集するために長く滞在し、次の場所へ移動していた。多くの場合、彼は現在の協力者に次にどこを訪問すればよいか尋ねていた。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "彼の同僚のレーニ・アルフレードは「数学者はコーヒーを定理に変換する機械である」と述べたが、エルデシュは多量のコーヒーを飲んでいた(この言葉はしばしばエルデシュに誤って帰せられるが、エルデシュ自身はそれをレーニに帰している。)", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "彼の伝記(邦題『放浪の天才数学者エルデシュ』)には「博物館に行ってもついていくのは彼の体だけだった」等、数学への情熱を具体的に示すような記述が多くあり、彼がいかに純粋な研究者であったかが窺われる。いつ寝ているか分からないほど数学に没頭していたらしく、一日19時間数学の問題を考えていたといわれている。これほどの長時間を研究に割けた背景として、アンフェタミンを常用していたということが挙げられる。1971年以降、彼は友人の心配にもかかわらず、アンフェタミンを常用した。その友人の一人であるロン・グラハムと、1ヶ月間薬を止められるかどうかで500ドルの賭けをした。エルデシュは1ヶ月間服用を断ってこの賭けに勝利したが、その間研究は全く進まなかったそうである。その後彼は、すぐに薬の服用を再開した。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "彼は独特な語彙を持っていた。彼は不可知論的無神論者(英語版)であったが、彼は「あの本」(\"The Book\") のみは信じていた。それは、全ての定理や理論が掲載された想像上の本であり、一種のアカシックレコードとも呼べるものである。1985年の講演では、「神を信じる必要はないが、『あの本』は信じるべきだ」と言った。彼自身は、神(彼は\"Supreme Fascist\"(最高のファシスト、SF)と呼んだ)の存在を疑った。彼は、靴下やパスポートを隠し、最も優雅な数学的証明を自分自身の中に持っているという理由でSFを非難した。彼は特に美しい数学的な証拠を見たとき、「これは「あの本」から来たものだ!」と言った。後に書かれた『Proofs from THE BOOK(英語版)』という本のタイトルは、この言葉から取られたものである。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "その他のエルデシュの独特な語彙には、以下のものがある。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "彼は多くの国にニックネームを付けた。例えば、米国は「サムランド (samland)」(アンクルサムから)、ソ連は「ジョーダム (joedom)」(ヨシフ・スターリンから)、イスラエル (Israel) は「イズリアル (isreal)」といった。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1970年にロサンゼルスで「数学における私の初めの25億年」について「説教」した際には、「私が子供のとき、地球は20億歳だと言われていた。今ではそれが45億歳だと科学者たちは言う。それならば私は25億歳になる」と語った。恐竜はどうだったかと問われると「そうだねぇ、覚えてない。年寄りはごく若い時期のことしか覚えていないが、恐竜は昨日、たった1億年前に生まれたから」と答えたという。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1934年、彼は客員講師となるためにイングランドのマンチェスターに転居した。1938年、彼はプリンストン大学で奨学金受給者として彼のアメリカでの最初の地位が受け入れられた。この時から、大学から大学へ旅行し続けるようになった。彼は1つの場所に長く留まらず、死ぬまで数学の研究機関の間を行き来した。", "title": "業績" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1954年、米国市民権・移民業務局(英語版)は、ハンガリー市民であるエルデシュへの再入国ビザの発給を、理由の完全な説明なしに拒否した。エルデシュは当時ノートルダム大学で教職に就いていたので、米国に留まることを選ぶこともできた。しかし彼は荷物をまとめ、定期的に移民業務局に再審査を要求した。", "title": "業績" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "当時、ハンガリーはソ連とのワルシャワ条約の下にあった。ハンガリー政府は自国市民の出入国の自由を制限していたが、1956年にエルデシュに好きなだけ入出国が認められる独占的特権を与えた。米国移民局は1963年にエルデシュにビザを発給し、彼はアメリカの大学での教授や旅行を再開した。10年後の1973年、60歳のエルデシュは自主的にハンガリーから退去した。", "title": "業績" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "晩年の数十年間で、エルデシュは少なくとも15の名誉博士号を取得した。彼は米国国立科学アカデミーと英国王立協会を含む8ヶ国の科学アカデミーに加入した。彼は死の直前、同僚であったジョン・ボンディ(英語版)の解雇処分に対する抗議として、ウォータールー大学での名誉学位を返上している。", "title": "業績" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "エルデシュは数学的な歴史の中で、レオンハルト・オイラーの次に多くの論文を書いた数学者である。ただし、エルデシュはオイラーと違って論文の大多数を他の数学者との共同で発表した。エルデシュは生涯に約1,525の数学論文を書いたが、それらの大部分は他の数学者との共著である。彼は、数学を社会活動として強く信じ、実践した。彼は生涯に511人の研究者と共同研究を行った。", "title": "業績" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "エルデシュの数学のスタイルは、「理論の開発者」というよりは「問題の解決者」である(ティモシー・ガワーズの\"The Two Cultures of Mathematics\"を参照。2つのスタイルと、なぜ問題の解決者はあまり評価されないかを詳細に論じている)。ジョエル・スペンサー(英語版)は、「20世紀の数学者たちの中における彼の位置は、彼の著名な経歴を通じて特定の定理と予想に断固として集中していたため、論争中の問題である」と述べている。エルデシュは、数学界の最高の賞であるフィールズ賞を受賞したこともなく、受賞した人物と共著したこともない。他の賞についても同様である。彼はウルフ賞は受賞している。授賞理由は、「数論、組合せ数学、確率論、集合論、解析学への著名な貢献」、「世界中の数学者を個人的に刺激したこと」などである。", "title": "業績" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "彼の貢献のうち、ラムゼー理論の発展と確率的方法(英語版)の適用が特に際立つ。極値組合せ論(英語版)は、解析的整数論の伝統から部分的に導かれた全体的なアプローチを彼に与えている。エルデシュは、パフヌティ・チェビシェフの元のものよりもはるかに近いと証明されたベルトランの仮説の証明を発見した。彼はアトル・セルバーグと共に素数定理の初等的証明(英語版)を発見した。しかし、証明に至る状況や、発表についての意見の相違は、エルデシュとセルバーグの間で激しい論争を招いた。エルデシュはまた、トポロジーのようなほとんど関心のない分野に貢献し、0次元ではない完全不連結トポロジー空間の例を与えた最初の人物とされている。また、高校生の時にルジャンドルの定理を用いて、ベルトラン=チェビシェフの定理に初等的な証明を与えた。", "title": "業績" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "彼のキャリアを通して、エルデシュは未解決問題を解決した者に対して賞金を贈った。その額は、現在の数学的思考(彼と他者の両方)の範囲外だと彼が感じた問題に対する25ドルから、攻撃が困難で数学的にも重要な問題については数千ドルに及んだ。賞金の対象となる問題の公式かつ包括的な一覧はないが、千以上の未解決問題があると考えられている。エルデシュの死後も賞金の提供は引き続き行われており、ロナルド・グラハムが(非公式な)管理者となっている。問題を解決した者は、エルデシュが生前に署名したオリジナルの小切手(換金のできない単なる記念品)か、グラハムによる換金可能な小切手のいずれかを受け取ることができる。", "title": "業績" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "数学的に最も重要であると考えられる問題は、等差数列に関するエルデシュ予想(英語版)である。", "title": "業績" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "これが真であれば、数論における他のいくつかの未解決問題が解決することになる(素数の列に任意の長さの等差数列が含まれているという、この予想の主な包含は、グリーン・タオの定理とは独立に証明されている)。この問題を解決すると支払われる金額は、現在、5000ドルである。", "title": "業績" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "エルデシュ賞の最もよく知られた問題は、3N+1問題とも呼ばれるコラッツ予想である。エルデシュは、解決した人に500ドルを提供すると申し出た。", "title": "業績" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "彼と最も頻繁に共同研究を行った学者には、ハンガリーの数学者シャルケジ・アンドラーシュ(62件)、ハイナル・アンドラーシュ(英語版)(56件)、アメリカの数学者ラルフ・フォードリー(英語版)(50件)がいる。他の主な共同研究者は以下の通りである。", "title": "業績" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "上記以外のエルデシュとの共同研究者については、エルデシュ数を持つ人物の一覧(英語版)の「エルデシュ数1」の部分を参照。", "title": "業績" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "エルデシュに共著論文が非常に多いことから、エルデシュの友人たちは、敬意と軽いユーモアを込めてエルデシュ数を作った。エルデシュ数は、共著論文による結び付きにおいて、エルデシュとどれだけ近いかを表す。エルデシュ自身のエルデシュ数を 0 とし、彼と直接共同研究した研究者はエルデシュ数が 1 になり、エルデシュ数が n の研究者と共同研究した研究者は n + 1 のエルデシュ数を持つ。エルデシュ数 1 の数学者は、2007年2月28日の時点で511人いるとされる。約200,000人の数学者にエルデシュ数が割り当てられており、世界の活発な数学者の90%が8より小さいエルデシュ数を持っていると推定されている(スモール・ワールド現象に照らせば驚くことではない)。物理学、工学、生物学、経済学の分野の科学者の多くは、数学者との共著論文によりエルデシュ数を持っている。", "title": "エルデシュ数" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "いくつかの研究により、特に数学の指導者にはエルデシュ数が低くなる傾向があることが示されている。例えば、エルデシュ数を持っている約268,000人の数学者のエルデシュ数の中央値は5である。フィールズ賞受賞者のエルデシュ数の中央値は3である。2015年現在、約11,000人の数学者が2以下のエルデシュ数を持っている。エルデシュ数が少ない数学者が死に、その人物との共同研究ができなくなることで、長い時間スケールで見ると必然的に数学者全体のエルデシュ数は増加する傾向にある。アメリカ数学協会は、Mathematical Reviewsカタログに記載されている全ての数学者のエルデシュ数を決定する無料のオンラインツールを提供している。", "title": "エルデシュ数" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "エルデシュ数は、エルデシュ数2を持つ解析学者のキャスパー・ゴフマン Casper Goffman) によって最初に定義された可能性が最も高い。ゴフマンは、1969年に\"And what is your Erdős number?\"(そしてあなたのエルデシュ数は?)というタイトルで、エルデシュの多岐にわたる共同作業についての記事を書いている。", "title": "エルデシュ数" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ジェラルド・グロスマン (Jerry Grossman) は、野球選手のハンク・アーロンはエルデシュ数1を持つと主張している。アーロンとエルデシュが同じ日にエモリー大学で名誉学位を授与されたとき、カール・ポメランスの求めで2人が同じ野球ボールにサインしたからである。幼児、馬、何人かの俳優のエルデシュ数も提案されている。", "title": "エルデシュ数" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "エルデシュは\"Paul Erdos P.G.O.M.\"と署名した。60歳の時に\"L.D.\"を付け加え、それが65歳の時には\"A.D.\"に、70歳の時に\"L.D.\"に、75歳の時に\"C.D.\"に変わった。それぞれの略語は以下の意味である。", "title": "署名" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "エルデシュを主題とした本は少なくとも3冊ある。ポール・ホフマン(英語版)のThe Man Who Loved Only Numbers(日本語訳題『放浪の天才数学者エルデシュ(英語版)』)と、ブルース・シェヒターのMy Brain is Open(日本語訳題『My brain is open 20世紀数学界の異才ポール・エルデシュ放浪記』)の2冊の伝記は、ともに1998年に発刊した。他に2013年に発刊したデボラ・ハイリグマン(英語版)の子供向けの絵本The Boy Who Loved Math; The Improbable Life of Paul Erdősがある。", "title": "エルデシュに関する書籍" } ]
ポール・エルデシュ、エルデーシュ・パールは、ハンガリー・ブダペスト出身のユダヤ系ハンガリー人の数学者である。20世紀で最も多くの論文を書いた数学者である。彼は、生涯で500人以上という数多くの数学者との共同研究を行ったことと、その奇妙なライフスタイルで知られていた。彼は、晩年になってさえも、起きている時間を全て数学に捧げた。彼が亡くなったのは、ワルシャワで開催された会議で幾何学の問題を解いた数時間後のことだった。 数論、組合せ論、グラフ理論をはじめ、集合論、確率論、級数論など幅広い分野で膨大な結果を残した。グラフ理論・数論などにおける確率論的方法、組合せ論の種々のテクニックは著しく、特にセルバーグと共に素数定理の初等的な証明を発見したことは有名である。彼はラムゼー理論を擁護し、貢献し、秩序が必ず現れる条件を研究した。彼の数学は、次々に問題を考えてはそれを解くという独特のスタイルであったが、彼が発する散発的な問題が実際には理論的に重要なものであったり、あるいは新しい理論の発展に非常に重要な貢献をした例も少なくない。 エルデシュは生涯に約1500篇の論文(多くは共著)を発表した。これ以上の論文を発表した数学者は、18世紀のレオンハルト・オイラーのみである。 彼は数学は社会活動であるという信念を持っており、他の数学者と数学論文を書くという目的のためだけに巡回生活を営んでいた。エルデシュが多くの研究者と論文を執筆したことから、エルデシュ数が生まれた。これは、論文の共著者同士で研究者をつないだときに、エルデシュとの間の最短経路上の人数を表したものである。
{{ハンガリー人の姓名|エルデーシュ|パール|West=1}} {{Infobox scientist |name = ポール・エルデシュ<br />Paul Erdős |image = Erdos head budapest fall 1992.jpg |image_size = 200px |caption = ポール・エルデシュ(1992年秋、ブダペストにおけるセミナーにて) |birth_date = {{生年月日と年齢|1913|3|26|no}} |birth_place = {{AUT1867}} [[ブダペスト]] |death_date = {{死亡年月日と没年齢|1913|3|26|1996|9|20}} |death_place = {{POL}} [[ワルシャワ]] |residence = {{HUN}}<br />{{GBR}}<br />{{ISR}}<br />{{USA}} |citizenship = |nationality = {{HUN}} |fields = [[数学者]] |workplaces = {{仮リンク|マンチェスター・ビクトリア大学|en|Victoria University of Manchester}}<br />[[プリンストン大学]]<br />[[パデュー大学]]<br />[[ノートルダム大学]]<br />[[ヘブライ大学]]<br />[[イスラエル工科大学]] |alma_mater = [[エトヴェシュ・ロラーンド大学]] |doctoral_advisor = [[フェイェール・リポート]] |academic_advisors = |doctoral_students = [[Bonifac Donat]]<br />{{仮リンク|ジョゼフ・クラスカル|en|Joseph Kruskal}}<br />{{仮リンク|ジョージ・B・パーディ|en|George B. Purdy}}<br />{{仮リンク|アレクサンダー・ソイファー|en|Alexander Soifer}}<br />[[ベラ・バラバシ]] <ref>{{Cite web |url=http://genealogy.math.ndsu.nodak.edu/id.php?id=19470 |title=Mathematics Genealogy Project |accessdate=2012-08-13}}</ref> |notable_students = |known_for = [[ポール・エルデシュに因んで命名された物の一覧]]を参照 |author_abbrev_bot = |author_abbrev_zoo = |influences = |influenced = |awards = [[ウルフ賞数学部門]](1983/84年)<br />[[コール賞]](1951年) |signature = <!--(filename only)--> }} '''ポール・エルデシュ'''、'''エルデーシュ・パール'''(''Erdős Pál'', ''Paul Erdős''; (本姓:Engländer), [[1913年]][[3月26日]] - [[1996年]][[9月20日]])は、[[ハンガリー]]・[[ブダペスト]]出身の[[アシュケナジム|ユダヤ系ハンガリー人]]の[[数学者]]である。20世紀で最も多くの論文を書いた数学者である<ref>{{cite web |title=Paul Erdős |url=http://www.britannica.com/EBchecked/topic/191138/Paul-Erdos |publisher="Encyclopædia Britannica |author=Paul Hoffman |date=2013-07-08 |accessdate=2017-09-14}}</ref>。彼は、生涯で500人以上という数多くの数学者との共同研究を行ったことと、その奇妙なライフスタイルで知られていた([[タイム (雑誌)|タイム誌]]は彼を「変わり者中の変わり者」(''The Oddball's Oddball'') と称した<ref>{{Cite web |url=http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,990598,00.html |title=Paul Erdos: The Oddball's Oddball |author=Michael D. Lemonick |date=1999-03-29 |publisher=Time Magazine |accessdate=2017-09-14}}</ref>)。彼は、晩年になってさえも、起きている時間を全て数学に捧げた。彼が亡くなったのは、[[ワルシャワ]]で開催された会議で幾何学の問題を解いた数時間後のことだった。 [[数論]]、[[組合せ論]]、[[グラフ理論]]をはじめ、[[集合論]]、[[確率論]]、級数論など幅広い分野で膨大な結果を残した<ref>[http://www.britannica.com/EBchecked/topic/191138/Paul-Erdos Encyclopædia Britannica article]</ref>。グラフ理論・数論などにおける確率論的方法、組合せ論の種々のテクニックは著しく、特に[[アトル・セルバーグ|セルバーグ]]と共に[[素数定理]]の初等的な証明を発見したことは有名である。彼は[[ラムゼー理論]]を擁護し、貢献し、秩序が必ず現れる条件を研究した。彼の数学は、次々に問題を考えてはそれを解くという独特のスタイルであったが、彼が発する散発的な問題が実際には理論的に重要なものであったり、あるいは新しい理論の発展に非常に重要な貢献をした例も少なくない。 エルデシュは生涯に約1500篇の論文(多くは共著)を発表した<ref>According to {{Cite web |title=Facts about Erdös Numbers and the Collaboration Graph |url=http://oakland.edu/enp/trivia/ |accessdate=2017-09-14}}, using the Mathematical Reviews data base, the next highest article count is roughly 823.</ref>。これ以上の論文を発表した数学者は、18世紀の[[レオンハルト・オイラー]]のみである。 彼は数学は社会活動であるという信念を持っており、他の数学者と数学論文を書くという目的のためだけに巡回生活を営んでいた。エルデシュが多くの研究者と論文を執筆したことから、[[エルデシュ数]]が生まれた。これは、論文の共著者同士で研究者をつないだときに、エルデシュとの間の最短経路上の人数を表したものである。 == 生涯 == エルデシュは、1913年3月26日に[[オーストリア=ハンガリー]]の[[ブダペスト]]で生まれた<ref>{{Cite web |url=http://www.gap-system.org/~history/Biographies/Erdos.html |title=Erdos biography |publisher=Gap-system.org |accessdate=2010-05-29 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110607183318/http://www.gap-system.org/~history/Biographies/Erdos.html |archivedate=2011-06-07 |deadlinkdate=2017-09}}</ref>。彼は、AnnaとLajos Erdős(旧姓Engländer)の間の唯一大人まで成長した子供だった<ref>{{Cite journal |last1=Baker |first1=A. |author2=[[ベラ・バラバシ]] |doi=10.1098/rsbm.1999.0011 |title=Paul Erdős 26 March 1913 - 20 September 1996: Elected For.Mem.R.S. 1989 |journal=[[Biographical Memoirs of Fellows of the Royal Society]] |volume=45 |page=147 |year=1999}}</ref>。彼の2人の姉は、いずれも彼が生まれる前に、3歳と5歳で[[猩紅熱]]により死亡した<ref>{{Cite web |url=http://www-history.mcs.st-and.ac.uk/history/Biographies/Erdos.html |title=Paul Erdős |accessdate=2015-06-11}}</ref>。両親は2人とも[[ユダヤ人]]で、活発な知的コミュニティの数学教師だった。彼は早くから数学への魅力を感じていた。彼の父親が[[シベリア]]の[[グラグ]]に投獄され、母親が家計を支えるために長時間働かなくてはならないため、彼は家に1人でいることが多かった。彼は両親が家に残していた数学の教科書を読んで独学した。4歳までに、年齢から生まれてからの秒数を暗算できるようになっていた<ref>Hoffman, p.66.</ref>。姉が早く死んでいたことから、母親との間に異常に密接な関係が築かれていた。エルデシュが大学に入学するまで、2人は同じベッドで寝ていたと言われている<ref>{{YouTube|9634A0iBw7w|{{Nowiki|Paul Erdős: The Man Who Loved Only Numbers [1998]}}}}</ref>。 {{quote|エルデシュの両親は高校の数学教師であり、エルデシュは彼らから早期の教育を受けた。エルデシュはいつも大きな愛情を持って両親を思い出した。16歳のとき、彼の父親は、彼が生涯好んだテーマである無限[[級数]]と[[集合論]]を彼を紹介した。高校時代、エルデシュは高校生向けの数学・物理学の月刊誌『{{仮リンク|Középiskolai Matematikai és Fizikai Lapok|en|Középiskolai Matematikai és Fizikai Lapok}}』(KöMaL) に毎月掲載される問題を熱心に解いていた<ref>{{Cite web |url=http://www.cs.uchicago.edu/files/tr_authentic/TR-2001-11.ps |title=Paul Erdős just left town |author=László Babai |publisher= |accessdate= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110609174744/http://www.cs.uchicago.edu/files/tr_authentic/TR-2001-11.ps |archivedate=2011-06-09 |deadlinkdate=2017-09 }}</ref>。}} エルデシュは、後に初等平面幾何学の問題についてのいくつかの記事を毎月発表した。1934年、21歳で[[エトヴェシュ・ロラーンド大学|ブダペスト大学]]で数学博士号を取得した。エルデシュの論文指導教員は、[[ジョン・フォン・ノイマン]]、[[ジョージ・ポリア]]、[[トゥラーン・パール]]の論文指導もしたことがある[[フェイェール・リポート]]だった。彼の2人の叔母、2人の叔父および父親を含むエルデシュの家族の大半は、[[ホロコースト]]によりブダペストで死亡した。彼の母は隠れて生き延びた。当時彼はアメリカに在住し、[[プリンストン高等研究所]]で働いていた<ref name="documentary">{{Cite video |author=Csicsery, George Paul |title=N Is a Number: A Portrait of Paul Erdős |publisher=Springer Verlag |location=Berlin; Heidelberg |year=2005 |isbn=3-540-22469-6}}</ref>。 1996年9月20日、83歳のときに[[ワルシャワ]]での会議に出席中に[[心臓発作]]で死亡した。彼は結婚しておらず、子供もいなかった。彼は[[ブダペスト]]の{{仮リンク|コズマ通り墓地|en|Kozma Street Cemetery}}の区画17A-6-29で母親と父親の隣に埋葬されている<ref>[http://www.agt.bme.hu/varga/foto/izraelita/erdos-p.html grave 17A-6-29]</ref>。[[エピタフ|墓碑文]]には、エルデシュ自身の生前の提案による"Végre nem butulok tovább"(I will not go any further. これ以上進むつもりはない)と書かれている<ref>Hoffman, p. 3.</ref>。彼の生涯は、彼の生前に作られたドキュメンタリー映画『[[:en:N Is a Number: A Portrait of Paul Erdős|N Is a Number: A Portrait of Paul Erdős]]』や、死後の伝記『{{仮リンク|放浪の天才数学者エルデシュ|en|The Man Who Loved Only Numbers}}』(1998年)にまとめられている。 エルデシュ (Erdős) の名前にはハンガリー語の" ő "([[ダブルアキュート]]つきの"o")が含まれるが、誤って、または活字がないために、''Erdos'' や ''Erdös'' と表記されることがよくある<ref>The full quote is "Note the pair of long accents on the "ő," often (even in Erdos's own papers) by mistake or out of typographical necessity replaced by "ö," the more familiar German umlaut which also exists in Hungarian.", from {{Cite book |title=Combinatorics, Paul Erdős is eighty |author=Paul Erdős, D. Miklós, [[Vera T. Sós]] |year=1996}}</ref>。 == 人物 == {{quote box |align=left |quote=Another roof, another proof.(別の屋根、別の証明) |source=ポール・エルデシュ<ref>Cited in at least [https://www.google.com/search?q=%22another%20roof%20another%20proof%22&tbs=bks:1 20 books].</ref> }} 生涯のほとんどを旅に過ごし、行く先々で色々な数学者たちと研究し共著で論文を発表することを好んだ。 エルデシュは物を所有することにほとんど意味を見出さなかった。彼の持ち物はスーツケース1つに収まるだろう。それは、彼の巡回的な生活様式に合わせたものである。賞やその他の収入は、通常、必要な人々やさまざまな価値ある目的のために[[寄付]]された。彼は世界中の科学会議、大学、そして同僚の家庭の間を旅していた。彼は客員講師として大学からの奨励金や様々な数学賞の賞金から、旅行や必要最小限の物のための資金を捻出し、残ったお金は、「エルデシュの問題」(後述)を証明した人の賞金としていた。彼は多くの場合、同僚の玄関口に現れて「私の脳は開いている」(my brain is open) と述べ、いくつかの論文を共同編集するために長く滞在し、次の場所へ移動していた。多くの場合、彼は現在の協力者に次にどこを訪問すればよいか尋ねていた。 彼の同僚の[[レーニ・アルフレード]]は「数学者は[[コーヒー]]を[[定理]]に変換する機械である」と述べたが<ref>[http://www-history.mcs.st-andrews.ac.uk/Biographies/Renyi.html Biography of Alfréd Rényi] by J.J. O'Connor and E.F. Robertson</ref>、エルデシュは多量のコーヒーを飲んでいた(この言葉はしばしばエルデシュに誤って帰せられるが<ref>{{Citation |author=Bruno Schechter |title=My Brain is Open: The Mathematical Journeys of Paul Erdős |year=2000 |page=155 |isbn=0-684-85980-7}}</ref>、エルデシュ自身はそれをレーニに帰している<ref>{{Cite journal |author=Paul Erdős |title=Child Prodigies |journal=Mathematics Competitions |volume=8 |url=http://www.amt.edu.au/mc19951erdos.pdf |accessdate=2012-07-17 |number=1 |year=1995 |pages=7-15}}</ref>。) 彼の伝記(邦題『[[#ホフマン2000|放浪の天才数学者エルデシュ]]』)には「博物館に行ってもついていくのは彼の体だけだった」等、数学への情熱を具体的に示すような記述が多くあり、彼がいかに純粋な研究者であったかが窺われる。いつ寝ているか分からないほど数学に没頭していたらしく、一日19時間数学の問題を考えていたといわれている。これほどの長時間を研究に割けた背景として、[[アンフェタミン]]を常用していたということが挙げられる<ref>[[藤原正彦]]は「エルデシュ数」(『とんでもない奴』[[新潮社]] 2014年)pp.159-161でエルデシュに会った時のことを書いていて、シュミット教授夫人が「一昨年、母親を失って以来、アンフェタミンという覚せい剤を医師に処方してもらっているそうよ。ずっと母親がすべてだったの」という言葉を紹介し、「数学に没頭することで辛うじて生き延びているのだろうと思った」と書いている。</ref>。1971年以降、彼は友人の心配にもかかわらず、アンフェタミンを常用した。その友人の一人である[[ロナルド・グラハム|ロン・グラハム]]と、1ヶ月間薬を止められるかどうかで500ドルの賭けをした<ref>Hill, J. [http://www.untruth.org/~josh/math/Paul%20Erd%F6s%20bio-rev2.pdf Paul Erdos, Mathematical Genius, Human (In That Order)]</ref>。エルデシュは1ヶ月間服用を断ってこの賭けに勝利したが、その間研究は全く進まなかったそうである<ref>ポール・ホフマン『放浪の天才数学者エルデシュ』第0章</ref>。その後彼は、すぐに薬の服用を再開した。 彼は独特な語彙を持っていた。彼は{{仮リンク|不可知論的無神論|en|Agnostic atheism|label=不可知論的無神論者}}であったが<ref>{{Cite web |title=Centenary of Mathematician Paul Erdős – Source of Bacon Number Concept |url=https://www.huffpost.com/entry/paul-erdos_b_2945871|publisher=Huffington Post |accessdate=2013-04-13 |author=[[Colm Mulcahy]] |date=2013-03-26 |quote=In his own words, "I'm not qualified to say whether or not God exists. I kind of doubt He does. Nevertheless, I'm always saying that the SF has this transfinite Book that contains the best proofs of all mathematical theorems, proofs that are elegant and perfect...You don't have to believe in God, but you should believe in the Book.".}}</ref><ref>{{Cite book |title=Quotable Atheist: Ammunition for Nonbelievers, Political Junkies, Gadflies, and Those Generally Hell-Bound |year=2008 |publisher=Nation Books |isbn=9781568584195 |page=107 |author=Jack Huberman |quote=I kind of doubt He [exists]. Nevertheless, I'm always saying that the SF has this transfinite Book ... that contains the best proofs of all theorems, proofs that are elegant and perfect.... You don't have to believe in God, but you should believe in the Book.}}</ref>、彼は「あの本」("The Book") のみは信じていた。それは、全ての定理や理論が掲載された想像上の本であり、一種の[[アカシックレコード]]とも呼べるものである。1985年の講演では、「神を信じる必要はないが、『あの本』は信じるべきだ」と言った。彼自身は、神(彼は"Supreme Fascist"(最高のファシスト、SF)と呼んだ)の存在を疑った<ref>{{Cite book |author=Schechter, Bruce |title=My brain is open: The mathematical journeys of Paul Erdős |publisher=[[Simon & Schuster]] |location=New York |year=2000 |pages=70-71 |isbn=0-684-85980-7}}</ref><ref>{{Cite book |title=Variety in Religion And Science: Daily Reflections |year=2005 |publisher=iUniverse |isbn=9780595358403 |author=Varadaraja Raman |page=256}}</ref>。彼は、靴下や[[パスポート]]を隠し、最も優雅な数学的証明を自分自身の中に持っているという理由でSFを非難した。彼は特に美しい数学的な証拠を見たとき、「これは「あの本」から来たものだ!」と言った。後に書かれた『{{仮リンク|Proofs from THE BOOK|en|Proofs from THE BOOK}}』という本のタイトルは、この言葉から取られたものである。 その他のエルデシュの独特な語彙には、以下のものがある<ref>Hoffman, chapter 1. [https://www.nytimes.com/books/first/h/hoffman-man.html As included with the New York Times review of the book].</ref>。 * 「子供」のことは「[[Ε|イプシロン]]」と呼んだ。数学、特に微積分では、任意に小さな正の数量を一般にギリシャ文字のイプシロン (ε) で表すためである。 * 「女性」のことは「ボス」と呼んだ。結婚すると男性を「捕えて」それを「奴隷」にするためである。離婚した男性のことを「解放された」(liberated) と表現した。 * 数学をやめた人は「死んだ」(died)、死んだ人は「去った」(left)。 * アルコール飲料は「毒」(poison)。 * 音楽(クラシック音楽を除く)は「雑音」(noise)。 * 数学の講義をすることは「説教する」(to preach)。 * 学生に口頭で試験をすることは「拷問する」(to torture)。 彼は多くの国にニックネームを付けた。例えば、米国は「サムランド (samland)」([[アンクルサム]]から)、ソ連は「ジョーダム (joedom)」([[ヨシフ・スターリン]]から)、[[イスラエル]] (Israel) は「イズリアル (isreal)」<ref>Israelの"e"と"a"が入れ替わっている</ref>といった。 1970年にロサンゼルスで「数学における私の初めの25億年」について「説教」<ref>もちろん、この「説教」(preach) は先述の通り講義・講演を意味する彼独特の語彙である。</ref>した際には、「私が子供のとき、地球は20億歳だと言われていた。今ではそれが45億歳だと科学者たちは言う。それならば私は25億歳になる」と語った。恐竜はどうだったかと問われると「そうだねぇ、覚えてない。年寄りはごく若い時期のことしか覚えていないが、恐竜は昨日、たった1億年前に生まれたから」と答えたという<ref>{{Cite web |url=https://archive.nytimes.com/www.nytimes.com/books/first/h/hoffman-man.html |title=The Man Who Loved Only Numbers - The Story of Paul Erdös and the Search for Mathematical Truth |access-date=2023-07-28 |publisher=[[The New York Times]] |last=Hoffman |first=Paul}}</ref>。 == 業績 == 1934年、彼は客員講師となるためにイングランドのマンチェスターに転居した。1938年、彼は[[プリンストン大学]]で奨学金受給者として彼のアメリカでの最初の地位が受け入れられた。この時から、大学から大学へ旅行し続けるようになった。彼は1つの場所に長く留まらず、死ぬまで数学の研究機関の間を行き来した。 1954年、{{仮リンク|アメリカ合衆国市民権・移民業務局|en|United States Citizenship and Immigration Services|label=米国市民権・移民業務局}}は、ハンガリー市民であるエルデシュへの再入国ビザの発給を、理由の完全な説明なしに拒否した<ref>{{Cite web |url=http://www-history.mcs.st-and.ac.uk/history/Biographies/Erdos.html |title=Erdos biography |accessdate=2008-11-11 |publisher=School of Mathematics and Statistics, University of St Andrews, Scotland |date=2000-01}}</ref>。エルデシュは当時[[ノートルダム大学]]で教職に就いていたので、米国に留まることを選ぶこともできた。しかし彼は荷物をまとめ、定期的に移民業務局に再審査を要求した。 [[画像:ronald graham couple with erdos 1986.jpg|thumb|左から反時計回りにエルデシュ、{{仮リンク|金芳蓉|en|Fan Chung}}、彼女の夫の[[ロナルド・グラハム]](1986年、日本にて)]] 当時、[[ハンガリー]]は[[ソビエト連邦|ソ連]]との[[ワルシャワ条約 (1955年)|ワルシャワ条約]]の下にあった。ハンガリー政府は自国市民の出入国の自由を制限していたが、1956年にエルデシュに好きなだけ入出国が認められる独占的特権を与えた。米国移民局は1963年にエルデシュにビザを発給し、彼はアメリカの大学での教授や旅行を再開した。10年後の1973年、60歳のエルデシュは自主的にハンガリーから退去した<ref>{{Cite journal |title=Paul Erdős (1913–1996) |journal=[[Notices of the American Mathematical Society]] |publisher=[[American Mathematical Society]] |url=http://www.ams.org/notices/199801/comm-erdos.pdf |volume=45 |issue=1 |author1=László Babai |author2=Joel Spencer |format=PDF}}</ref>。 晩年の数十年間で、エルデシュは少なくとも15の名誉博士号を取得した。彼は[[米国国立科学アカデミー]]と英国[[王立協会]]を含む8ヶ国の科学アカデミーに加入した。彼は死の直前、同僚であった{{仮リンク|ジョン・ボンディ|en|John Adrian Bondy}}の解雇処分に対する抗議として、[[ウォータールー大学]]での名誉学位を返上している<ref>{{Cite web |last1=Erdős |first1=Paul |title=Dear President Downey |url=http://ecp6.jussieu.fr/pageperso/bondy/uw/letters/erdos.pdf |accessdate=2014-07-08 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20051015141515/http://ecp6.jussieu.fr/pageperso/bondy/uw/letters/erdos.pdf |archivedate=2005-10-15 |format=PDF |date=1996-06-04 |quote=With a heavy heart I feel that I have to sever my connections with the University of Waterloo, including resigning my honorary degree which I received from the University in 1981 (which caused me great pleasure). I was very upset by the treatment of Professor Adrian Bondy. I do not maintain that Professor Bondy was innocent, but in view of his accomplishments and distinguished services to the University I feel that 'justice should be tempered with mercy.'}}</ref><ref>[http://communications.uwaterloo.ca/Gazette/1996/October02/Arbitrator%20upholds%20math%20prof's%20dismissal Transcription of October 2, 1996, article] from University of Waterloo Gazette ([https://web.archive.org/web/20120427141236/http://www.communications.uwaterloo.ca/Gazette/1996/October02/Arbitrator%20upholds%20math%20prof%27s%20dismissal archive]) {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20101123212756/http://communications.uwaterloo.ca/Gazette/1996/October02/Arbitrator%20upholds%20math%20prof's%20dismissal |date=2010-11-23}}</ref>。 === 数学での業績 === エルデシュは数学的な歴史の中で、[[レオンハルト・オイラー]]の次に多くの論文を書いた数学者である。ただし、エルデシュはオイラーと違って論文の大多数を他の数学者との共同で発表した<ref name="Hoffman">Hoffman, p.42.</ref>。エルデシュは生涯に約1,525の数学論文を書いたが<ref>{{Cite web |url=http://www.oakland.edu/enp/pubinfo/ |title=Publications of Paul Erdös |author=Jerry Grossman |accessdate=2011-02-01}}</ref><!--現在確認されているオイラーの論文は886編で、数の上ではエルデシュよりも少ないが、オイラーの論文はほとんどが単独での著作である。また、オイラーの論文は全部で5万ページを超えており、論文の総ページ数ではオイラーが勝っているともいえる。-->、それらの大部分は他の数学者との共著である<ref name="Hoffman" />。彼は、数学を社会活動として強く信じ、実践した<ref>{{Cite news |periodical=[[Washington Post]] |author=[[Charles Krauthammer]] |title=Paul Erdos, Sweet Genius |date=1996-09-27 |page=A25 |url=http://www.fmf.uni-lj.si/~mohar/Erdos.html |accessdate=2017-09-14}}</ref>。彼は生涯に511人の研究者と共同研究を行った<ref>{{Cite web |url=http://www.oakland.edu/enp/thedata/ |title=The Erdős Number Project Data Files |publisher=Oakland.edu |date=2009-05-29 |accessdate=2010-05-29}}</ref>。 エルデシュの数学のスタイルは、「理論の開発者」というよりは「問題の解決者」である([[ウィリアム・ティモシー・ガワーズ|ティモシー・ガワーズ]]の"The Two Cultures of Mathematics"<ref>This essay is in ''Mathematics: Frontiers and Perspectives'', Edited by V. I. Arnold, Michael Atiyah, Peter D. Lax and Barry Mazur, American Mathematical Society, 2000. Available online at [http://www.dpmms.cam.ac.uk/~wtg10/2cultures.pdf].</ref>を参照。2つのスタイルと、なぜ問題の解決者はあまり評価されないかを詳細に論じている)。{{仮リンク|ジョエル・スペンサー|en|Joel Spencer}}は、「20世紀の数学者たちの中における彼の位置は、彼の著名な経歴を通じて特定の定理と予想に断固として集中していたため、論争中の問題である」と述べている<ref>Joel Spencer, "Prove and Conjecture!", a review of ''Mathematics: Frontiers and Perspectives''. ''American Scientist'', Volume 88, No. 6 November-December 2000</ref>。エルデシュは、数学界の最高の賞であるフィールズ賞を受賞したこともなく、受賞した人物と共著したこともない<ref>[http://www.oakland.edu/enp/erdpaths/ Paths to Erdös — The Erdös Number Project]</ref>。他の賞についても同様である<ref>From [http://www.oakland.edu/upload/docs/Erdos%20Number%20Project/trails.pdf "trails to Erdos"], by DeCastro and Grossman, in ''The Mathematical Intelligencer'', vol. 21, no. 3 (Summer 1999), 51-63: A careful reading of Table 3 shows that although Erdos never wrote jointly with any of the 42 [Fields] medalists (a fact perhaps worthy of further contemplation)... there are many other important international awards for mathematicians. Perhaps the three most renowned...are the Rolf Nevanlinna Prize, the Wolf Prize in Mathematics, and the Leroy P. Steele Prizes. ... Again, one may wonder why KAPLANSKY is the only recipient of any of these prizes who collaborated with Paul Erdös. (After this paper was written, collaborator Lovász received the Wolf prize, making 2 in all).</ref>。彼は[[ウルフ賞数学部門|ウルフ賞]]は受賞している。授賞理由は、「[[数論]]、[[組合せ数学]]、[[確率論]]、[[集合論]]、[[解析学]]への著名な貢献」、「世界中の数学者を個人的に刺激したこと」などである<ref>{{Cite web |url=http://www.wolffund.org.il/cat.asp?id=23&cat_title=MATHEMATICS |title=Wolf Foundation Mathematics Prize Page |publisher=Wolffund.org.il |accessdate=2010-05-29}}</ref>。 彼の貢献のうち、[[ラムゼー理論]]の発展と{{仮リンク|確率的方法|en|probabilistic method}}の適用が特に際立つ。{{仮リンク|極値組合せ論|en|Extremal combinatorics}}は、[[解析的整数論]]の伝統から部分的に導かれた全体的なアプローチを彼に与えている。エルデシュは、[[パフヌティ・チェビシェフ]]の元のものよりもはるかに近いと証明された[[ベルトランの仮説]]の証明を発見した。彼は[[アトル・セルバーグ]]と共に[[素数定理]]の{{仮リンク|初等的証明|en|elementary proof}}を発見した。しかし、証明に至る状況や、発表についての意見の相違は、エルデシュとセルバーグの間で激しい論争を招いた<ref name="goldfeld">{{Cite journal |last=Goldfeld |first=Dorian |year=2003 |title=The Elementary Proof of the Prime Number Theorem: an Historical Perspective |journal=Number Theory: New York Seminar |pages=179-192}}</ref><ref name=interview>{{Cite journal |url=http://www.ams.org/bull/2008-45-04/S0273-0979-08-01223-8/S0273-0979-08-01223-8.pdf |first=Nils A. |last=Baas |first2= Christian F. |last2=Skau |journal=Bull. Amer. Math. Soc. |volume=45 |year=2008 |pages=617-649 |title=The lord of the numbers, Atle Selberg. On his life and mathematics |doi=10.1090/S0273-0979-08-01223-8 |issue=4 |postscript=<!-- Bot inserted parameter. Either remove it; or change its value to "." for the cite to end in a ".", as necessary. -->{{inconsistent citations}}}}</ref>。エルデシュはまた、[[トポロジー]]のようなほとんど関心のない分野に貢献し、[[0次元]]ではない[[完全不連結空間|完全不連結トポロジー空間]]の例を与えた最初の人物とされている<ref>{{Cite web |url=http://www.maa.org/features/erdos.html |title=Reminiscences of Paul Erdös (1913–1996) |author=Melvin Henriksen |publisher=Mathematical Association of America |accessdate=2008-09-01}}</ref>。また、高校生の時に[[ルジャンドルの定理]]を用いて、[[ベルトランの仮説|ベルトラン=チェビシェフの定理]]に初等的な証明を与えた<ref>{{高校数学の美しい物語|926|整数論の美しい定理7つ}}</ref><ref>{{citation |last=Erdős |first=P. |author-link=Paul Erdős |journal=Acta Litt. Sci. Szeged |language=de |pages=194&ndash;198 |title=Beweis eines Satzes von Tschebyschef |trans-title=Proof of a theorem of Chebyshev |url=https://users.renyi.hu/~p_erdos/1932-01.pdf |volume=5 |year=1932 |zbl=0004.10103}}</ref>。 === エルデシュの問題 === [[画像:Paul Erdos with Terence Tao.jpg|thumb|ポール・エルデシュは多くの若い数学者に影響を与えた。1985年にアデレード大学で撮影されたこの写真では、エルデシュは当時10歳の[[テレンス・タオ]]に問題を説明している。タオは2006年に[[フィールズ賞]]を受賞し、2007年に[[王立協会フェロー]]に選出された。]] 彼のキャリアを通して、エルデシュは未解決問題を解決した者に対して賞金を贈った<ref>Brent Wittmeier, "Math genius left unclaimed sum," Edmonton Journal, September 28, 2010. [http://www.edmontonjournal.com/business/Math+genius+left+unclaimed/3589345/story.html?cid=megadrop_story]</ref>。その額は、現在の数学的思考(彼と他者の両方)の範囲外だと彼が感じた問題に対する25ドルから、攻撃が困難で数学的にも重要な問題については数千ドルに及んだ。賞金の対象となる問題の公式かつ包括的な一覧はないが、千以上の未解決問題があると考えられている。エルデシュの死後も賞金の提供は引き続き行われており、ロナルド・グラハムが(非公式な)管理者となっている。問題を解決した者は、エルデシュが生前に署名したオリジナルの小切手(換金のできない単なる記念品)か、グラハムによる換金可能な小切手のいずれかを受け取ることができる<ref>{{Cite journal |title=Erdös's Hard-to-Win Prizes Still Draw Bounty Hunters |author=Charles Seife |journal=Science |url=http://www.sciencemag.org/cgi/content/full/sci%3B296/5565/39 |doi=10.1126/science.296.5565.39 |date=2002-04-05 |volume=296 |pmid=11935003 |issue=5565 |pages=39-40}}</ref>。 数学的に最も重要であると考えられる問題は、{{仮リンク|等差数列に関するエルデシュ予想|en|Erdős conjecture on arithmetic progressions}}である。 {{quote|一連の整数の逆数の和が発散するならば、その数列には任意の長さの[[等差数列]]が含まれる。}} これが真であれば、数論における他のいくつかの未解決問題が解決することになる([[素数]]の列に任意の長さの等差数列が含まれているという、この予想の主な包含は、[[グリーン・タオの定理]]とは独立に証明されている)。この問題を解決すると支払われる金額は、現在、5000ドルである<ref>p.354, Soifer, Alexander (2008); ''The Mathematical Coloring Book: Mathematics of Coloring and the Colorful Life of its Creators''; New York: Springer. {{ISBN2|978-0-387-74640-1}}</ref>。 エルデシュ賞の最もよく知られた問題は、3''N''+1問題とも呼ばれる[[コラッツの問題|コラッツ予想]]である。エルデシュは、解決した人に500ドルを提供すると申し出た。 === 共同研究 === 彼と最も頻繁に共同研究を行った学者には、ハンガリーの数学者[[シャルケジ・アンドラーシュ]](62件)、{{仮リンク|ハイナル・アンドラーシュ|en|András Hajnal}}(56件)、アメリカの数学者{{仮リンク|ラルフ・フォードリー|en|Ralph Faudree}}(50件)がいる。他の主な共同研究者は以下の通りである<ref>[http://www.oakland.edu/enp/Erdos0p List of collaborators of Erdős by number of joint papers] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20080804180523/http://www.oakland.edu/enp/Erdos0p |date=2008年8月4日}}, from the Erdős number project web site.</ref>。 {{colbegin|colwidth=18em}} * {{仮リンク|リチャード・シェルプ|en|Richard Schelp}}(42件) * {{仮リンク|セシル・C・ルソー|en|Cecil C. Rousseau}}(35件) * {{仮リンク|T・ショーシュ・ベラ|en|Vera T. Sós}}(35件) * [[レーニ・アルフレード]](32件) * [[トゥラーン・パール]](30件) * [[エンドレ・セメレディ]](29件) * [[ロナルド・グラハム]](28件) * {{仮リンク|ステファン・バー|en|Stefan Burr}}(27件) * [[カール・ポメランス]](23件) * {{仮リンク|ジョエル・スペンサー|en|Joel Spencer}}(23件) * [[János Pach]](21件) * [[Miklós Simonovits]](21件) * [[Ernst G. Straus]](20件) * [[Melvyn B. Nathanson]](19件) * [[Jean-Louis Nicolas]](19件) * [[Richard Rado]](18件) * [[ベラ・バラバシ]](18件) * [[Eric Charles Milner]](15件) * [[András Gyárfás]](15件) * [[John Selfridge]](14件) * [[Fan Chung]](14件) * [[Richard R. Hall]](14件) * [[George Piranian]](14件) * [[István Joó]](12件) * [[Zsolt Tuza]](12件) * [[A. R. Reddy]](11件) * [[Vojtěch Rödl]](11件) * [[Pal Revesz]](10件) * [[Zoltán Füredi]](10件) {{colend}} 上記以外のエルデシュとの共同研究者については、{{仮リンク|エルデシュ数を持つ人物の一覧|en|List of people by Erdős number}}の「エルデシュ数1」の部分を参照。 == エルデシュ数 == {{Main|エルデシュ数}} エルデシュに共著論文が非常に多いことから、エルデシュの友人たちは、敬意と軽いユーモアを込めて'''エルデシュ数'''を作った。エルデシュ数は、共著論文による結び付きにおいて、エルデシュとどれだけ近いかを表す。エルデシュ自身のエルデシュ数を 0 とし、彼と直接共同研究した研究者はエルデシュ数が 1 になり、エルデシュ数が ''n'' の研究者と共同研究した研究者は ''n'' + 1 のエルデシュ数を持つ。エルデシュ数 1 の数学者は、2007年2月28日の時点で511人いるとされる<ref>[https://files.oakland.edu/users/grossman/enp/Erdos0.html Erdős Number Project]</ref>。約200,000人の数学者にエルデシュ数が割り当てられており<ref>{{Cite episode |url=http://www.wnyc.org/shows/radiolab/episodes/2009/10/09/segments/137643 |title=From Benford to Erdös |series=Radio Lab |serieslink=Radio Lab |airdate=2009-09-30 |number=2009-10-09}}</ref>、世界の活発な数学者の90%が8より小さいエルデシュ数を持っていると推定されている([[スモール・ワールド現象]]に照らせば驚くことではない)。物理学、工学、生物学、経済学の分野の科学者の多くは、数学者との共著論文によりエルデシュ数を持っている<ref>{{Cite web |url=http://www.oakland.edu/enp/erdpaths/ |title=Some Famous People with Finite Erdös Numbers |author=Jerry Grossman |accessdate=2011-02-01}}</ref>。 いくつかの研究により、特に数学の指導者にはエルデシュ数が低くなる傾向があることが示されている<ref name="trails">{{Cite journal |last1=De Castro |first1=Rodrigo |last2=Grossman |first2=Jerrold W. |doi=10.1007/BF03025416 |issue=3 |journal=[[The Mathematical Intelligencer]] |mr=1709679 |pages=51-63 |title=Famous trails to Paul Erdős |url=http://www.oakland.edu/upload/docs/Erdos%20Number%20Project/trails.pdf |volume=21 |year=1999}} Original Spanish version in ''Rev. Acad. Colombiana Cienc. Exact. Fís. Natur.'' '''23''' (89) 563-582, 1999, {{MR|1744115}}.</ref>。例えば、エルデシュ数を持っている約268,000人の数学者のエルデシュ数の中央値は5である<ref>{{Cite web |url=https://www.oakland.edu/enp/trivia/ |title=Facts about Erdös Numbers and the Collaboration Graph |accessdate=2017-09-14}}</ref>。[[フィールズ賞]]受賞者のエルデシュ数の中央値は3である<ref>{{cite web |url=http://www.financial-math.org/blog/2016/11/erdos-numbers-in-finance/ |title=Erdös Numbers in Finance |accessdate=2017-09-14}}</ref>。2015年現在、約11,000人の数学者が2以下のエルデシュ数を持っている<ref>{{Cite web |url=https://files.oakland.edu/users/grossman/enp/Erdos2.html |title=Erdos2 |accessdate=2017-09-14}}</ref><ref name="oakland.edu">The Erdős Number Project http://www.oakland.edu/enp/erdpaths</ref>。エルデシュ数が少ない数学者が死に、その人物との共同研究ができなくなることで、長い時間スケールで見ると必然的に数学者全体のエルデシュ数は増加する傾向にある。[[アメリカ数学協会]]は、[[Mathematical Reviews]]カタログに記載されている全ての数学者のエルデシュ数を決定する無料のオンラインツールを提供している<ref>http://www.ams.org/mathscinet/collaborationDistance.html</ref>。 エルデシュ数は、エルデシュ数2を持つ<ref>https://files.oakland.edu/users/grossman/enp/ErdosA.html from the Erdos Number Project</ref>解析学者のキャスパー・ゴフマン Casper Goffman) によって最初に定義された可能性が最も高い<ref>[[Michael Golomb]]'s [http://www.math.purdue.edu/about/purview/fall96/paul-erdos.html obituary of Paul Erdős]</ref>。ゴフマンは、1969年に"And what is your Erdős number?"(そしてあなたのエルデシュ数は?)というタイトルで、エルデシュの多岐にわたる共同作業についての記事を書いている<ref>{{Cite journal |author=Goffman, Casper |title=And what is your Erdős number? |jstor=2317868 |journal=American Mathematical Monthly |volume=76 |issue=7 |year=1969 |page=791 |doi=10.2307/2317868}}</ref>。 ジェラルド・グロスマン (Jerry Grossman) は、野球選手の[[ハンク・アーロン]]はエルデシュ数1を持つと主張している。アーロンとエルデシュが同じ日に[[エモリー大学]]で名誉学位を授与されたとき、[[カール・ポメランス]]の求めで2人が同じ野球ボールにサインしたからである<ref>{{Cite web |url=http://www.oakland.edu/enp/related/ |title=Items of Interest Related to Erdös Numbers |author=Jerry Grossman |accessdate=2017-09-17}}</ref>。幼児、馬、何人かの俳優のエルデシュ数も提案されている<ref>[http://harveycohen.net/erdos/ Extended Erdős Number Project]</ref>。 == 署名 == エルデシュは"Paul Erdos P.G.O.M."と署名した。60歳の時に"L.D."を付け加え、それが65歳の時には"A.D."に、70歳の時に"L.D."に、75歳の時に"C.D."に変わった。それぞれの略語は以下の意味である<ref>''My Brain is Open. The Mathematical Journeys of Paul Erdos'', Bruce Schechter, Simon & Schuster, 1998, p.41</ref><ref>{{YouTube|zRNGV85kPbI|Paul Erdös: N is a number}}, a documentary film by George Paul Csicsery, 1991.</ref>。 * P.G.O.M. - "Poor Great Old Man"(貧しい偉大な老人) * 1回目のL.D. - "Living Dead"(生ける屍) * A.D. - "Archaeological Discovery"(考古学的な発見) * 2回目のL.D. - "Legally Dead"(法的に死亡している) * C.D. - "Counts Dead"(死んだとみなされる) == エルデシュに関する書籍 == エルデシュを主題とした本は少なくとも3冊ある。{{仮リンク|ポール・ホフマン|en|Paul Hoffman (science writer)}}の''The Man Who Loved Only Numbers''(日本語訳題『{{仮リンク|放浪の天才数学者エルデシュ|en|The Man Who Loved Only Numbers}}』)と、ブルース・シェヒターの''My Brain is Open''(日本語訳題『My brain is open 20世紀数学界の異才ポール・エルデシュ放浪記』)の2冊の伝記は、ともに1998年に発刊した。他に2013年に発刊した{{仮リンク|デボラ・ハイリグマン|en|Deborah Heiligman}}の子供向けの絵本''The Boy Who Loved Math; The Improbable Life of Paul Erdős''がある<ref>{{Cite news |last=Silver |first=Nate |title=Children's Books Beautiful Minds ‘The Boy Who Loved Math’ and ‘On a Beam of Light’|url=https://www.nytimes.com/2013/07/14/books/review/the-boy-who-loved-math-and-on-a-beam-of-light.html?_r=0 |accessdate=2014-10-29 |publisher=New York Times |date=2013-07-12}}</ref>。 == 関連項目 == * [[ポール・エルデシュに因んで命名された物の一覧]] * [[モンティ・ホール問題]] == 出典 == {{Reflist|30em}} == 参考文献 == * {{Cite book |author=[[ポール・ホフマン]] |title=[[:en:The Man Who Loved Only Numbers|The Man Who Loved Only Numbers]]: The Story of Paul Erdős and the Search for Mathematical Truth |publisher=Fourth Estate Ltd |location=London |year=1998 |isbn=1-85702-811-2 }} **{{Cite book|和書 |author = [[ポール・ホフマン]] |translator = [[平石律子]] |title = 放浪の天才数学者エルデシュ |date = 2000-04 |publisher = [[草思社]] |isbn = 4-7942-0950-9 |url = http://www.soshisha.com/book_search/detail/1_950.html |ref = ホフマン2000 }} - ''The man who loved only numbers''の日本語訳版 **{{Cite book|和書 |author = ポール・ホフマン |translator = 平石律子 |title = 放浪の天才数学者エルデシュ |date = 2011-10 |publisher = 草思社 |series = 草思社文庫 |isbn = 978-4-7942-1854-4 |url = http://www.soshisha.com/book_search/detail/1_1854.html |ref = ホフマン2011 }} - [[#ホフマン2000|ホフマン 2000]]の文庫版 * {{Cite book |author=Bruce Schechter |title=My Brain is Open: The Mathematical Journeys of Paul Erdős |publisher=Simon & Schuster |year=1998 |isbn=0-684-84635-7}} **{{Cite book|和書 |author = [[ブルース・シェヒター]] |translator = [[グラベルロード]] |date = 2003-09 |title = My brain is open 20世紀数学界の異才ポール・エルデシュ放浪記 |publisher = 共立出版 |isbn = 4-320-01744-7 |ref = Schechter2003 }} - ''My Brain is Open: The Mathematical Journeys of Paul Erdős''の日本語訳版 *{{Citation |last=Aigner |first=Martin |last2=Ziegler |first2=Günter M. |date=2018-07 |title=Proofs from the Book |publisher=Springer |edition=6th |isbn=978-3-662-57264-1 }} **{{Cite book|和書 |first=M. |last=アイグナー |first2=G.M. |last2=ツィーグラー |translator=蟹江幸博 |date=2012-09 |title=天書の証明 |edition=縮刷版 |publisher=丸善出版 |isbn=978-4-621-06535-8 |ref={{Harvid|アイグナー|ツィーグラー|2012}} }} - 注釈:原著第2版(2001年)の日本語訳。 * {{Cite news |title=Paul Erdos, 83, a Wayfarer In Math's Vanguard, Is Dead |author=[[ジーナ・コラータ]] |work=[[ニューヨーク・タイムズ]] |pages=A1 and B8 |date=1996-09-24 |accessdate=2008-09-29 |url=https://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9C02EED7113DF937A1575AC0A960958260}} *{{Cite book|和書 |author = [[矢野健太郎 (数学者)|矢野健太郎]] |date = 1981-12 |title = ゆかいな数学者たち |series = 新潮文庫 |publisher = 新潮社 |isbn = 4-10-121904-4 |ref = 矢野1981 }} == 外部リンク == {{Wikiquote|Paul Erdős}} {{commonscat|Paul Erdős}} * [https://scholar.google.com.au/citations?hl=en&user=_sb8TE0AAAAJ&view_op=list_works&pagesize=100 Erdős's Google Scholar profile] * [http://www.renyi.hu/~p_erdos/Erdos.html エルデシュの論文集] * {{MacTutor Biography|id=Erdos}} * {{MathGenealogy|19470}} * Jerry Grossman at Oakland University. [http://www.oakland.edu/enp/ ''The Erdös Number Project''] * [http://www.vega.org.uk/series/vpl/vpl1/index.php The Man Who Loved Only Numbers ] - Royal Society Public Lecture by Paul Hoffman (video) * [http://www.wnyc.org/shows/radiolab/episodes/2009/10/09 Radiolab: Numbers, with a story on Paul Erdős] * [http://math.ucsd.edu/~fan/ep.pdf Fan Chung, "Open problems of Paul Erdős in graph theory"] {{ウルフ賞数学部門}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:えるてしゆ ほおる}} [[Category:ポール・エルデシュ|*]] [[Category:20世紀の数学者|130326]] [[Category:ハンガリーの数論学者]] [[Category:集合論研究者]] [[Category:確率理論家]] [[Category:ウルフ賞数学部門受賞者]] [[Category:王立協会外国人会員]] [[Category:ハンガリー科学アカデミー会員]] [[Category:米国科学アカデミー外国人会員]] [[Category:アメリカ芸術科学アカデミー会員]] [[Category:グッゲンハイム・フェロー]] [[Category:オランダ王立芸術科学アカデミー会員]] [[Category:ポーランド科学アカデミー会員]] [[Category:ユダヤ人の不可知論者]] [[Category:ユダヤ人の無神論者]] [[Category:ノートルダム大学の教員]] [[Category:パデュー大学の教員]] [[Category:プリンストン大学の教員]] [[Category:エトヴェシュ・ロラーンド大学出身の人物]] [[Category:ブダペスト出身の人物]] [[Category:ユダヤ系ハンガリー人]] [[Category:オーストリア=ハンガリー帝国のユダヤ人]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:1913年生]] [[Category:1996年没]]
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国民
国民(こくみん、英: nationals)とは、国家を構成する人民のことである。 「国に属する個々の人間」を指す場合と、「国に対応する社会集団全体」を指す場合とがある。国によっては議員のみの状態を表す単語でもある。共産主義的なニュアンスを嫌悪するなどの理由で「人民」(people)(じんみん)の言い換えとして用いられることも多いが、外国人を含むかどうかなど意味合いも変わるため、「国民」ではなく「人々」などと言い換える場合もある。ネーションも参照されたい。 個々の人間を指す場合、国民とはある特定の国において、その国の国籍を持つ者をいう。国民と対比して、その国の国籍をもたない者を外国人という。 近代に成立した国民国家では、第二次世界大戦後、国内では人種・性別等による格差を是正し法の下の平等を確保しようとする一方で、出入国管理を厳格化するなど外国人を排除し国民との差を明確にする動きが進展した。定住外国人はしばしばこの狭間に置かれる存在である。 何らかの共通属性を根拠にしてまとまった広域の政治的共同体を、集合的に国民と呼ぶこともある。国民は、居住する地理範囲に一つの国家を形成することが予定される。そのような条件を満たす国家を、国民国家と呼ぶ。この意味での国民は、民族と重なる例が多いが、言語・文化に基づかない国民もあるため、完全に同等というわけではない。 国民が持つとされる属性は、文化・言語・宗教・歴史経験など国によって基準が異なる。また、どのような基準をとっても国内外にそこから外れる人がでてくる。そのような逸脱に対しては、同化・排斥・追放などの動きが生じる場合がある。 国民は、共通属性の産物ではなく、政治の産物である。国民の擁護者が出現し、その宣伝や教育が成功して、人々が自らを宣伝された区分での国民であると自覚したときに、国民が生まれる。ベネディクト・アンダーソンは以上のように説き、国民を「想像の共同体」と規定した。実際に、共通属性を持つ集団が国民意識を生まないことは非常に多く、スイスの例のように共通属性がないところに国民意識が生まれることも稀にある。 デイヴィッド・ミラーは、ナショナリティ(国民意識)はナショナル・アイデンティティとして、人間のアイデンティティの構成する重要な要素だという。ただし、他のアイデンティティを排除したり、特権的な位置にあるわけでも無いと注意している。また、ナショナリティにはネーション(同胞国民)という倫理共同体を作り、正義や分配といった規範を形成し、ある種の義務感を生じさせる機能がある。ナショナリティによって作り上げられたネーションは、共同で物事を決めていく政治の基本的な単位であるという。 一方で対内的には、国民という概念は政治を一部の特権者や有力者だけに関わるものとする考えを退ける。少なくとも観念的には、その範囲内のすべての人を身分、財産、能力等に関わらず政治共同体の中に含め、国家の行為をすべての人の共同行為とみなす。 それゆえ、国民という概念からは、ある共通属性から外れる人を排除し(場合によっては差別し)つつ、区切った範囲内においては人を平等化するという二重の作用が生まれる。このような国民を求める運動は、歴史的には、18世紀のヨーロッパで国民主義として始まり、20世紀には世界中に広まった。 最高法規である憲法において国民主権を定める国家において、国民は主権を有し、主に選挙権及び被選挙権を以って参政権を行使することができる。
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国民とは、国家を構成する人民のことである。 「国に属する個々の人間」を指す場合と、「国に対応する社会集団全体」を指す場合とがある。国によっては議員のみの状態を表す単語でもある。共産主義的なニュアンスを嫌悪するなどの理由で「人民」(people)(じんみん)の言い換えとして用いられることも多いが、外国人を含むかどうかなど意味合いも変わるため、「国民」ではなく「人々」などと言い換える場合もある。ネーションも参照されたい。
{{Otheruses|国中の民}} {{出典の明記|date=2015年4月}} '''国民'''(こくみん、{{lang-en-short|nationals}}<ref>{{Cite web |url=https://eow.alc.co.jp/search?q=nationals |title=英辞郎 |publisher=株式会社アルク |accessdate=2023-12-31 }}</ref>)とは、[[国家]]を構成する[[人民]]のことである<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E6%B0%91-64215 コトバンク]</ref>。 「[[国]]に属する個々の[[人間]]」を指す場合と、「国に対応する[[社会集団]]全体」を指す場合とがある。国によっては[[議員]]のみの状態を表す単語でもある。[[共産主義]]的なニュアンスを嫌悪するなどの理由で「'''人民'''」(people)(じんみん)の言い換えとして用いられることも多いが、[[外国人]]を含むかどうかなど意味合いも変わるため、「国民」ではなく「人々」などと言い換える場合もある。'''[[ネーション]]'''も参照されたい。 == 国籍を持つ人 (nationals) == {{see also|国籍}} 個々の人間を指す場合、'''国民'''とはある特定の国において、その国の[[国籍]]を持つ者をいう。国民と対比して、その国の国籍をもたない者を[[外国人]]という。 近代に成立した[[国民国家]]では、[[第二次世界大戦]]後、国内では[[人種]]・[[性別]]等による格差を是正し[[法の下の平等]]を確保しようとする一方で、[[出入国管理]]を厳格化するなど外国人を排除し国民との差を明確にする動きが進展した<ref>佐藤 成基 [https://doi.org/10.15002/00021229 国民国家と外国人の権利 : 戦後ドイツの外国人政策から]</ref>。[[定住外国人]]はしばしばこの狭間に置かれる存在である<ref>[https://www.jstage.jst.go.jp/article/kokusaiseiji1957/1995/110/1995_110_1/_pdf ]</ref>。 == 政治共同体 (nation) == 何らかの共通属性を根拠にしてまとまった広域の政治的[[共同体]]を、集合的に'''国民'''と呼ぶこともある。国民は、居住する地理範囲に一つの国家を形成することが予定される。そのような条件を満たす国家を、'''国民国家'''と呼ぶ。この意味での国民は、[[民族]]と重なる例が多いが、言語・文化に基づかない国民もあるため、完全に同等というわけではない。 国民が持つとされる属性は、[[文化_(代表的なトピック)|文化]]・[[言語]]・[[宗教]]・[[歴史]]経験など国によって基準が異なる。また、どのような基準をとっても国内外にそこから外れる人がでてくる。そのような逸脱に対しては、[[同化政策|同化]]・[[排外主義|排斥]]・[[追放]]などの動きが生じる場合がある。 国民は、共通属性の産物ではなく、政治の産物である。国民の擁護者が出現し、その宣伝や教育が成功して、人々が自らを宣伝された区分での国民であると自覚したときに、国民が生まれる。[[ベネディクト・アンダーソン]]は以上のように説き、国民を「想像の共同体」と規定した。実際に、共通属性を持つ集団が国民意識を生まないことは非常に多く、[[スイス]]の例のように共通属性がないところに国民意識が生まれることも稀にある。 [[デイヴィッド・ミラー (政治学者)|デイヴィッド・ミラー]]は、ナショナリティ(国民意識)はナショナル・アイデンティティとして、人間の[[自己同一性|アイデンティティ]]の構成する重要な要素だという<ref name="Itou">[[伊藤恭彦]]『政治哲学』 <ブックガイドシリーズ 基本の30冊> 人文書房 2012年 ISBN 9784409001080 pp.110-115.</ref>。ただし、他のアイデンティティを排除したり、特権的な位置にあるわけでも無いと注意している。また、ナショナリティにはネーション(同胞国民)という[[道徳|倫理]]共同体を作り、[[正義]]や[[再配分|分配]]といった規範を形成し、ある種の[[義務]]感を生じさせる機能がある。ナショナリティによって作り上げられたネーションは、共同で物事を決めていく[[政治]]の基本的な単位であるという<ref name="Itou"/>。 一方で対内的には、国民という概念は政治を一部の特権者や有力者だけに関わるものとする考えを退ける。少なくとも観念的には、その範囲内のすべての人を身分、財産、能力等に関わらず政治共同体の中に含め、国家の行為をすべての人の共同行為とみなす。 それゆえ、国民という概念からは、ある共通属性から外れる人を排除し(場合によっては差別し)つつ、区切った範囲内においては人を平等化するという二重の作用が生まれる。このような国民を求める運動は、歴史的には、[[18世紀]]の[[ヨーロッパ]]で[[国民主義]]として始まり、[[20世紀]]には世界中に広まった。 最高法規である[[憲法]]において[[国民主権]]を定める国家において、国民は主権を有し、主に[[選挙権]]及び[[被選挙権]]を以って[[参政権]]を行使することができる。 == 出典 == {{Reflist}} == 関連項目 == {{Wiktionary|国民}} *[[国民主義]]、[[国民国家]] *[[国民性]] *[[ナショナル・アイデンティティ]] *[[市民]] *[[公民]] *[[臣民]] *[[住民]] *[[人民]] *[[民衆]] *[[国民党]] == 外部リンク == *[https://hdl.handle.net/2433/48375 国民(Nation)再考 -フランス革命における国民創出をめぐって] {{DEFAULTSORT:こくみん}} [[Category:政治システム]] [[Category:国民|*]] {{Poli-stub}} [[Category:政治学の用語]]
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岡潔
岡 潔(おか きよし、1901年〈明治34年〉4月19日 - 1978年〈昭和53年〉3月1日)は、日本の数学者。理学博士(京都帝国大学、・論文博士・1940年)。奈良女子大学名誉教授。奈良市名誉市民。従三位勲一等瑞宝章。 1901年(明治34年)4月19日に大阪府大阪市で生まれた。父祖の地は和歌山県伊都郡紀見村である。1925年(大正14年)、京都帝国大学講師、1929年(昭和4年)、同大学助教授。1929年(昭和4年)、フランス留学。中谷宇吉郎と中谷治宇二郎に出会い、妻の岡ミチも合流する。1932年(昭和7年)、広島文理科大学助教授。1938年(昭和13年)、病気で郷里に戻り、孤高の研究生活に身を投じた。1941年(昭和16年)、北海道帝国大学研究補助。札幌市在住の、終生に亘る心腹の友だった中谷宇吉郎と旧交を温めた。再び帰郷し、郷里で終戦を迎えた。1949年(昭和24年)、奈良女子大学教授。1961年(昭和36年)、橋本市名誉市民。1968年(昭和43年)、奈良市名誉市民。 フランス留学時代に、生涯の研究テーマである多変数複素関数論に出会う。当時まだまだ発展途上であった多変数複素関数論において大きな業績を残した。一変数複素関数論は解析学から数学的解析に至る雛型であり、そこでは幾何、代数、解析が一体となった理論が展開される。本来あるべき数学はこれを多次元化する試みであると考えられる。一変数複素関数論の素朴な一般化は多変数複素関数論であるものの、多変数複素関数論には一変数複素関数論にはなかったような本質的な困難が伴う。これらの困難を一人で乗り越えて荒野を開拓した人物こそ岡である。 具体的には三つの大問題の解決が有名だが、特に当時の重要な未解決問題であったハルトークスの逆問題(レヴィの問題ともいう。および関連する諸問題)に挑み、約二十年の歳月をかけてそれを(内分岐しない有限領域において)解決した。岡はその過程で生み出した概念を不定域イデアルとするが、アンリ・カルタンを筆頭としたフランスの数学者達がこの概念を基に連接層という現代の数学において極めて重要な概念を定義した。また、解析関数であるクザンの第2問題を解くためには、非解析関数である連続関数の問題に置き換えるべきであるとする「岡の原理」も著名である。 その強烈な異彩を放つ業績から、西欧の数学界ではそれがたった一人の数学者によるものとは当初信じられず「岡潔」はニコラ・ブルバキのような数学者集団によるペンネームであろうと思われていたこともある。 京都帝国大学時代には湯川秀樹、朝永振一郎らも岡の講義を受けており、物理学の授業よりもよほど刺激的だったと語っている。 一時期、広島文理科大学時代に精神不安定状態に陥り、学生による講義のボイコットなども経験したが、奈良女子大学時代には、与えられた任務には何事も全身全霊で取り組むという彼の性格から、女子教育に関する論文を書くなど、教育にも心を配った。 広中平祐が33歳でコロンビア大学教授に就任が決まった時、未解決問題であった代数多様体の特異点解消問題について日本数学会で講演した。その内容は、一般的に考えるのでは問題があまりに難しいから、様々な制限条件を付けた形でまずは研究しようという提案であった。その時、岡が立ち上がり、問題を解くためには、広中が提案したように制限条件を付けるのではなく、むしろ逆にもっと理想化した難しい問題を設定して、それを解くべきであると言った。その後、広中は制限を外して理想化する形で解き、フィールズ賞の受賞業績となる。 奈良女子大学退官後、京都産業大学教授となり「日本民族」を講義した。 晩年の主張は超高次元の理想である真善美妙を大切にせよというもので、真には知、善には意、美には情が対応し、それらを妙が統括し智が対応すると述べた。一方で日本民族は人類の中でもとりわけ情の民族であるため、根本は情であるべきとも語った。また日本民族は知が不得手であるため、西洋的なインスピレーションより東洋的な情操・情緒を大切にすることで分別智と無差別智の働きにより知を身につけるべきと提唱している。さらに現代日本は自他弁別本能、理性主義、合理主義、物質主義、共産主義などにより「汚染されている」と警鐘を鳴らし、これらを無明と位置づけ、心の彩りを神代調に戻し生命の喜びを感じることで無限に捨てるべきと述べた。 岡は仏教をある時期まで信仰しており、特に山崎弁栄に帰依していた。岡自身によれば、岡は「純粋な日本人」であり、日本人として持っている「情緒」に基づいて、その数学的世界を創造した。岡はこのような自身の体験に基づいた随筆をいくつか書いていて、一般にはむしろそちらの方でよく知られている。 三高時代、岡は友人に対し「僕は論理も計算もない数学をやってみたい」と語っている。岡の考えでは論理や計算は数学の本体ではなく、表面的なことを追うだけでは答えが見えてこないと思っていた。この見えざる数学の本体に迫ることと、仏教的叡智や情緒の探求は岡にとって表裏一体であったと考えられる。 作家の藤本義一は、岡をモデルとした戯曲『雨のひまわり』を製作するために密着取材をしたことがあり、著書『人生の自由時間』『人生に消しゴムはいらない』で彼の日常生活について記している。岡は起床してすぐに精神分析を行い、高揚している時は「プラスの日」、減退している時は「マイナスの日」と呼んだという。 プラスの日は知識欲が次々湧いて出て、見聞きするあらゆる出来事や物象を徹底的に考察するのだが(例えば、柿本人麻呂の和歌を見ると、内容はもとより人麻呂の生きた時代背景、人麻呂の人物像にまで持論を展開する)、マイナスの日は、寝床から起き上がりもせず一日中眠っており、無理に起こそうとすると「非国民」などと怒鳴る有様であった。この岡の行動を見た藤本は「恐らく岡は躁鬱病であると考えられるが、プラスの日・マイナスの日は一日おき、もしくは数日おき...といった具合で、躁と鬱の交代期間は比較的短かった」と述べている。 日本の未来をいつも憂えていた。漫画家の東海林さだおとの対談は最初断っていたが、実際には盛り上がった。『ショージ君のにっぽん拝見』によると「最近の人間は頭頂葉を使わずに、前頭葉ばかり使っています。自然科学的なものの考えの元は前頭葉にあります。西洋人は前頭葉ばかり使ってきました。だから物質第一主義となったのです」「最近の女性は、あれはいったいなんですか。性欲まる出しにして尻ふりダンスなどしておる。まったく情操の世界から逸脱しておる。仏教では親が子を生むのではなく、子が親を選ぶのだといいます。ですから男女のまじわりは気高く行なわねばなりません」などといい、特に“そして「頭頂葉」といわれるたびに頭のテッペンをバシッとたたかれる。そのありさまは、ほんとにバシッという感じで、先生の腕時計が、そのたびに、カチャカチャと音を立てるほどなのである”という位の興奮ぶりだった。 また画家の坂本繁二郎と対話したのを契機に、日本人の精神統一法について思考を巡らせている。繁二郎が「馬」を描いていた若い頃は分別智の雲が途切れる瞬間無差別智の閃光が差し込むインスピレーションを主とする純西洋型精神統一法を用いていたが、「月」を描くような年頃になってからは分別智の春雨と無差別智の明かりによる情操・情緒を主とする日本的西洋型精神統一法を用いていたという。岡自身も三つの大問題の解決にあたりインスピレーション型(花木型)→梓弓型→情操・情緒型(大木型)と移行してゆき、この日本的西洋型精神統一法と無差別智のみの禅型精神統一法を使い分けることで老後の日常生活を乗り切っていたと語っている。一方最晩年になると世間智については使ってはならないと語っているが、西洋の理性はすべて世間智型平等性智であるため、理性を使わなくてよい社会を建設しなければならないとも語っている。 前述のように晩年は『春宵十話』を皮切りに他人の手を介していくつか随筆が書かれており、教育者の側面や人格の項で触れたような内容が流麗なタッチで記されている。ただし初期は『一葉舟』のように非常に将来に対して悲観的であり、日本を憂う発言が多かった。しかし日本について詳しく調べるうち、やがてそれは自らの手で描く警鐘へと繋がり、さらに最晩年は活字にはならなかったが日本の将来は安泰だという確信に転じている。 日本史においては神代は矛盾の無い知情意のもと、素戔嗚尊に代表される「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を」と雄大な歌を詠めるほど健康的であったが、大陸文化伝来と共に氏を表すという悪習(氏姓制度)が入り、それにより日本民族の心は汚れていったという。 まず西行の「心無き 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ」に代表されるように無明を直視したため美しく弱々しい「たをやめぶり」になってしまい、さらに武士の世では源実朝の「箱根路を わが越え来れば 伊豆の海や 沖の小島に 波の寄る見ゆ」のように無明に呑まれすっかり弱まってしまった。 太平の世であった江戸時代に(知と意は抜けているものの)神代調の情や「個性」を歌った松尾芭蕉の歌が出た以外は、神代より後の日本は概ね心が弱っているか、それすら気づかず自他対立に明け暮れていると言えよう。知が暴走しやがて大東亜戦争敗戦という結果を招いた日露戦争以後や、意が暴走し社会が乱れた戦後のように。 また人智の進歩の中で一つのキーワードとなるのが仏教用語でいう「我」で、氏を表す悪習により日本民族は自他弁別本能に取り憑かれ「小我」になってしまったという。 これに対し日本民族の「準中核」に当たるのが「武士道」や「大和魂」に相当する人物で、こうした人物は小我から脱しつつあるため、旧制中学などを利用してこのような人材をまず日本は育てなさいと提言している。 それより上の次元に進むと、日本民族の「中核」である「真我」や「大我」に繋がり、この次元にまで達すると決して自他対立せず衆善奉行できるという。仁徳天皇に自らの皇位継承権を譲るために自殺してしまった菟道稚郎子や、生涯を日本に捧げた昭和天皇は典型例であろうと語っている。
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"具体的には三つの大問題の解決が有名だが、特に当時の重要な未解決問題であったハルトークスの逆問題(レヴィの問題ともいう。および関連する諸問題)に挑み、約二十年の歳月をかけてそれを(内分岐しない有限領域において)解決した。岡はその過程で生み出した概念を不定域イデアルとするが、アンリ・カルタンを筆頭としたフランスの数学者達がこの概念を基に連接層という現代の数学において極めて重要な概念を定義した。また、解析関数であるクザンの第2問題を解くためには、非解析関数である連続関数の問題に置き換えるべきであるとする「岡の原理」も著名である。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "その強烈な異彩を放つ業績から、西欧の数学界ではそれがたった一人の数学者によるものとは当初信じられず「岡潔」はニコラ・ブルバキのような数学者集団によるペンネームであろうと思われていたこともある。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "京都帝国大学時代には湯川秀樹、朝永振一郎らも岡の講義を受けており、物理学の授業よりもよほど刺激的だったと語っている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "一時期、広島文理科大学時代に精神不安定状態に陥り、学生による講義のボイコットなども経験したが、奈良女子大学時代には、与えられた任務には何事も全身全霊で取り組むという彼の性格から、女子教育に関する論文を書くなど、教育にも心を配った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": 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岡 潔は、日本の数学者。理学博士(京都帝国大学、・論文博士・1940年)。奈良女子大学名誉教授。奈良市名誉市民。従三位勲一等瑞宝章。
{{Infobox scientist |name=岡 潔<br />おか きよし |image=Kiyoshi Oka.jpg |image_width= |alt= |caption=[[1973年]]、京都にて。 |birth_name=坂本 潔 |birth_date={{生年月日と年齢|1901|04|19|no}} |birth_place=[[大阪府]][[大阪市]] |death_date={{死亡年月日と没年齢|1901|04|19|1978|03|01}} |death_place= |death_cause= |residence= |citizenship= |nationality={{JPN}} |field=[[多変数複素関数|多変数複素関数論]] |workplaces=[[京都大学#沿革|京都帝国大学]]、[[パリ大学|ソルボンヌ大学]]ポアンカレ研究所、[[広島文理科大学 (旧制)|広島文理科大学]]、[[北海道大学#北海道帝国大学時代|北海道帝国大学]]、[[奈良女子大学]]、[[京都産業大学]] |alma_mater=京都帝国大学 |doctoral_advisor= |academic_advisors= |doctoral_students= |notable_students= |known_for=[[多変数複素関数|多変数複素関数論]] |influences= |influenced=[[湯川秀樹]]、[[朝永振一郎]]、[[広中平祐]] |awards=[[朝日賞|朝日文化賞]]([[1954年]]) |author_abbreviation_bot= |author_abbreviation_zoo= |signature= |signature_alt= |footnotes= }} '''岡 潔'''(おか きよし、[[1901年]]〈[[明治]]34年〉[[4月19日]] - [[1978年]]〈[[昭和]]53年〉[[3月1日]])は、[[日本]]の[[日本の数学者の一覧#1901年 - 1910年生まれの日本の数学者|数学者]]。[[博士(理学)|理学博士]]([[京都大学#沿革|京都帝国大学]]、・[[博士#博士学位の取得方法|論文博士]]・1940年)。[[奈良女子大学]]名誉教授。[[奈良市]][[名誉市民]]。[[従三位]][[勲一等]][[瑞宝章]]。 == 生涯 == === 通史 === [[1901年]]([[明治]]34年)[[4月19日]]に[[大阪府]][[大阪市]]で生まれた<ref>[http://www.lib.nara-wu.ac.jp/oka/ikou/s18/p150.html 岡潔文庫の年譜]</ref>。父祖の地は[[和歌山県]][[伊都郡]][[紀見村]]である。[[1925年]]([[大正]]14年)、[[京都大学|京都帝国大学]]講師、[[1929年]]([[昭和]]4年)、同大学助教授。[[1929年]](昭和4年)、[[フランス]]留学。[[中谷宇吉郎]]と[[中谷治宇二郎]]に出会い、妻の岡ミチも合流する。[[1932年]](昭和7年)、[[広島文理科大学 (旧制)|広島文理科大学]][[助教授]]。[[1938年]](昭和13年)、病気で郷里に戻り、孤高の研究生活に身を投じた。[[1941年]](昭和16年)、[[北海道大学|北海道帝国大学]]研究補助。[[札幌市]]在住の、終生に亘る心腹の友だった中谷宇吉郎と旧交を温めた。再び帰郷し、郷里で終戦を迎えた。[[1949年]](昭和24年)、[[奈良女子大学]]教授<ref>[http://www.asahi.com/articles/DA3S12755553.html (都ものがたり)岡潔の愛した奈良・高畑町 世の移ろいに超然、古き良き情緒]</ref>。[[1961年]](昭和36年)、[[橋本市]]名誉市民。[[1968年]](昭和43年)、[[奈良市]]名誉市民。 === 数学者としての挑戦 === [[フランス]]留学時代に、生涯の研究テーマである[[多変数複素関数|多変数複素関数論]]に出会う。当時まだまだ発展途上であった多変数複素関数論において大きな業績を残した。[[複素解析|一変数複素関数論]]は解析学から数学的解析に至る雛型であり、そこでは[[幾何学|幾何]]、[[代数学|代数]]、[[解析学|解析]]が一体となった理論が展開される。本来あるべき数学はこれを多次元化する試みであると考えられる。一変数複素関数論の素朴な一般化は多変数複素関数論であるものの、多変数複素関数論には一変数複素関数論にはなかったような本質的な困難が伴う。これらの困難を一人で乗り越えて荒野を開拓した人物こそ岡である<ref name="31頁" />。 具体的には三つの大問題の解決が有名だが、特に当時の重要な未解決問題であったハルトークスの逆問題(レヴィの問題ともいう。および関連する諸問題)に挑み、約二十年の歳月をかけてそれを(内分岐しない有限領域において)解決した。岡はその過程で生み出した概念を不定域イデアルとするが、[[アンリ・カルタン]]を筆頭としたフランスの数学者達がこの概念を基に[[連接層]]という現代の数学において極めて重要な概念を定義した。また、解析関数である[[クザン問題|クザンの第2問題]]を解くためには、非解析関数である連続関数の問題に置き換えるべきであるとする「岡の原理」も著名である。 その強烈な異彩を放つ業績から、西欧の数学界ではそれがたった一人の数学者によるものとは当初信じられず「岡潔」は[[ニコラ・ブルバキ]]のような数学者集団によるペンネームであろうと思われていたこともある<ref>[http://www008.upp.so-net.ne.jp/shonan/oka.htm 著作集 岡潔]</ref>。 === 教育者の側面 === 京都帝国大学時代には[[湯川秀樹]]、[[朝永振一郎]]らも岡の講義を受けており、物理学の授業よりもよほど刺激的だったと語っている。 一時期、広島文理科大学時代に精神不安定状態に陥り、学生による講義のボイコットなども経験したが、奈良女子大学時代には、与えられた任務には何事も全身全霊で取り組むという彼の性格から、女子教育に関する論文を書くなど、教育にも心を配った。 [[広中平祐]]が33歳でコロンビア大学教授に就任が決まった時、未解決問題であった代数多様体の特異点解消問題について[[日本数学会]]で講演した。その内容は、一般的に考えるのでは問題があまりに難しいから、様々な制限条件を付けた形でまずは研究しようという提案であった。その時、岡が立ち上がり、問題を解くためには、広中が提案したように制限条件を付けるのではなく、むしろ逆にもっと理想化した難しい問題を設定して、それを解くべきであると言った。その後、広中は制限を外して理想化する形で解き、[[フィールズ賞]]の受賞業績となる<ref>[[岡潔#広中1992|広中 1992]]、129頁。</ref>。 奈良女子大学退官後、[[京都産業大学]]教授となり「日本民族」を講義した。 晩年の主張は超高次元の理想である真善美妙を大切にせよというもので、真には知、善には意、美には情が対応し、それらを妙が統括し智が対応すると述べた。一方で日本民族は人類の中でもとりわけ情の民族であるため、根本は情であるべきとも語った。また日本民族は知が不得手であるため、西洋的なインスピレーションより東洋的な情操・情緒を大切にすることで分別智と無差別智の働きにより知を身につけるべきと提唱している。さらに現代日本は自他弁別本能、[[理性主義]]、[[合理主義哲学|合理主義]]、[[物質主義]]、[[共産主義]]などにより「汚染されている」と警鐘を鳴らし、これらを[[無明]]と位置づけ、心の彩りを神代調に戻し生命の喜びを感じることで無限に捨てるべきと述べた<ref>[[岡潔#岡2004|岡 2004]]、311-332頁。</ref>。 === 人柄 === 岡は[[仏教]]をある時期まで信仰しており、特に[[山崎弁栄]]に帰依していた。岡自身によれば、岡は「純粋な日本人」であり、日本人として持っている「情緒」に基づいて、その数学的世界を創造した。岡はこのような自身の体験に基づいた随筆をいくつか書いていて、一般にはむしろそちらの方でよく知られている。 三高時代、岡は友人に対し「僕は論理も計算もない数学をやってみたい」と語っている。岡の考えでは論理や計算は数学の本体ではなく、表面的なことを追うだけでは答えが見えてこないと思っていた。この見えざる数学の本体に迫ることと、仏教的叡智や情緒の探求は岡にとって表裏一体であったと考えられる。 作家の[[藤本義一 (作家)|藤本義一]]は、岡をモデルとした[[戯曲]]『雨のひまわり』を製作するために密着取材をしたことがあり、著書『人生の自由時間』『人生に消しゴムはいらない』で彼の日常生活について記している。岡は起床してすぐに[[精神分析学|精神分析]]を行い、高揚している時は「プラスの日」、減退している時は「マイナスの日」と呼んだという。 プラスの日は知識欲が次々湧いて出て、見聞きするあらゆる出来事や物象を徹底的に考察するのだが(例えば、[[柿本人麻呂]]の[[和歌]]を見ると、内容はもとより人麻呂の生きた時代背景、人麻呂の人物像にまで持論を展開する)、マイナスの日は、寝床から起き上がりもせず一日中眠っており、無理に起こそうとすると「非国民」などと怒鳴る有様であった。この岡の行動を見た藤本は「恐らく岡は[[躁鬱病]]であると考えられるが、プラスの日・マイナスの日は一日おき、もしくは数日おき…といった具合で、躁と鬱の交代期間は比較的短かった」と述べている。 日本の未来をいつも憂えていた。漫画家の[[東海林さだお]]との対談は最初断っていたが、実際には盛り上がった。『ショージ君のにっぽん拝見』によると「最近の人間は頭頂葉を使わずに、前頭葉ばかり使っています。自然科学的なものの考えの元は前頭葉にあります。西洋人は前頭葉ばかり使ってきました。だから物質第一主義となったのです」「最近の女性は、あれはいったいなんですか。性欲まる出しにして尻ふりダンスなどしておる。まったく情操の世界から逸脱しておる。仏教では親が子を生むのではなく、子が親を選ぶのだといいます。ですから男女のまじわりは気高く行なわねばなりません」などといい、特に“そして「頭頂葉」といわれるたびに頭のテッペンをバシッとたたかれる。そのありさまは、ほんとにバシッという感じで、先生の腕時計が、そのたびに、カチャカチャと音を立てるほどなのである”という位の興奮ぶりだった。 また画家の[[坂本繁二郎]]と対話したのを契機に、日本人の精神統一法について思考を巡らせている。繁二郎が「馬」を描いていた若い頃は分別智の雲が途切れる瞬間無差別智の閃光が差し込むインスピレーションを主とする純西洋型精神統一法を用いていたが、「月」を描くような年頃になってからは分別智の春雨と無差別智の明かりによる情操・情緒を主とする日本的西洋型精神統一法を用いていたという。岡自身も三つの大問題の解決にあたりインスピレーション型(花木型)→梓弓型→情操・情緒型(大木型)と移行してゆき、この日本的西洋型精神統一法と無差別智のみの禅型精神統一法を使い分けることで老後の日常生活を乗り切っていたと語っている。一方最晩年になると世間智については使ってはならないと語っているが、西洋の理性はすべて世間智型平等性智であるため、理性を使わなくてよい社会を建設しなければならないとも語っている<ref name="127-210頁">[[岡潔#岡2004|岡 2004]]、127-210頁。</ref>。 === 随筆 === 前述のように晩年は『春宵十話』を皮切りに他人の手を介していくつか随筆が書かれており、教育者の側面や人格の項で触れたような内容が流麗なタッチで記されている。ただし初期は『一葉舟』のように非常に将来に対して悲観的であり、日本を憂う発言が多かった。しかし日本について詳しく調べるうち、やがてそれは自らの手で描く警鐘へと繋がり、{{要出典範囲|date=2022-06-19|さらに最晩年は活字にはならなかったが日本の将来は安泰だという確信に転じている。}} 日本史においては神代は矛盾の無い知情意のもと、[[スサノオ|素戔嗚尊]]に代表される「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を」と雄大な歌を詠めるほど健康的であったが、大陸文化伝来と共に氏を表すという悪習([[氏姓制度]])が入り、それにより日本民族の心は汚れていったという。 まず[[西行]]の「心無き 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ」に代表されるように無明を直視したため美しく弱々しい「たをやめぶり」になってしまい、さらに武士の世では[[源実朝]]の「箱根路を わが越え来れば 伊豆の海や 沖の小島に 波の寄る見ゆ」のように無明に呑まれすっかり弱まってしまった。 太平の世であった江戸時代に(知と意は抜けているものの)神代調の情や「個性」を歌った[[松尾芭蕉]]の歌が出た以外は、神代より後の日本は概ね心が弱っているか、それすら気づかず自他対立に明け暮れていると言えよう。知が暴走しやがて大東亜戦争敗戦という結果を招いた日露戦争以後や、意が暴走し社会が乱れた戦後のように。 また人智の進歩の中で一つのキーワードとなるのが仏教用語でいう「我」で、氏を表す悪習により日本民族は自他弁別本能に取り憑かれ「小我」になってしまったという。 これに対し日本民族の「準中核」に当たるのが「武士道」や「大和魂」に相当する人物で、こうした人物は小我から脱しつつあるため、[[旧制中学校|旧制中学]]などを利用してこのような人材をまず日本は育てなさいと提言している。 それより上の次元に進むと、日本民族の「中核」である「真我」や「大我」に繋がり、この次元にまで達すると決して自他対立せず衆善奉行できるという。[[仁徳天皇]]に自らの皇位継承権を譲るために自殺してしまった[[菟道稚郎子]]や、生涯を日本に捧げた[[昭和天皇]]は典型例であろうと語っている<ref name="127-210頁" />。 == 略歴 == * [[1907年]](明治40年) ** 4月 - 柱本尋常小学校に飛び級入学(正規の学齢より1年早く入学) * [[1913年]]([[大正]]2年) ** 3月 - 柱本尋常小学校卒業 ** 4月 - 紀見尋常高等小学校高等科へ進み飛び級解消 * [[1914年]](大正3年) ** 4月 - [[和歌山県立粉河高等学校|和歌山県立粉河中学校]]入学 * [[1919年]](大正8年) ** 3月 - 和歌山県立粉河中学校卒業 ** 9月 - [[第三高等学校 (旧制)|第三高等学校]]理科甲類入学 * [[1922年]](大正11年) ** 3月 - 第三高等学校卒業 ** 4月 - [[京都大学#沿革|京都帝国大学]][[京都大学大学院理学研究科・理学部|理学部]]入学 * [[1923年]](大正12年) ** 3月 - 二回生進級時に物理学志望だったのを数学志望に変更。 * [[1925年]](大正14年) ** 3月 - 京都帝国大学理学部卒業 ** 4月 - 京都帝国大学理学部[[講師 (教育)#高等教育|講師]] * [[1927年]](昭和2年) ** 4月 - 第三高等学校講師兼任 * [[1929年]](昭和4年) ** 4月 - 京都帝国大学理学部[[准教授|助教授]]、[[フランス]]留学、[[パリ大学|ソルボンヌ大学]]ポアンカレ研究所([[パリ第6大学]][[フランス国立科学研究センター]])所属 * [[1932年]](昭和7年) ** 3月 - [[広島文理科大学 (旧制)|広島文理科大学]]助教授 ** 5月 - 留学終え帰国 * [[1935年]](昭和10年) ** 1月 - 前年の暮れ多変数解析関数の分野の現状を展望したベンケ、トゥルレン共著の冊子を入手、ここで取り上げられた問題の解決に取り組む。 ** 9月 - 数学上の最初の発見(インスピレーション型発見)があり、これにより論文ⅠからⅤまで発表。 * [[1938年]](昭和13年) ** 6月 - 広島文理科大学休職 * [[1939年]](昭和14年) ** 6月 - 数学上の第二の発見(梓弓型発見)があり、これにより論文Ⅵまで発表。 * [[1940年]](昭和15年) ** 6月 - 広島文理科大学辞職 ** 10月 - 京都帝国大学から[[学位]]授与される。 * [[1941年]](昭和16年) ** 10月 - [[北海道大学大学院理学研究院・大学院理学院・理学部|北海道帝国大学理学部]]研究補助嘱託 * [[1942年]](昭和17年) ** 11月 - 北海道帝国大学理学部研究補助辞職 * [[1946年]](昭和21年) ** 8月 - 数学上の第三の発見(情操・情緒型発見)があり、これにより論文Ⅶまで発表。 ** 9月 - 道元の別時 * [[1949年]](昭和24年) ** 7月 - [[奈良女子大学]]理家政学部[[教授]]<ref group="注釈">理学部と家政学部が分離してから理学部教授。</ref> * [[1951年]](昭和26年) ** 3月 - 論文Ⅷを発表 * [[1953年]](昭和28年) ** 10月 - 論文Ⅸを発表 * [[1954年]](昭和29年) ** 4月 - [[京都大学大学院理学研究科・理学部|京都大学理学部]][[講師 (教育)#高等教育|非常勤講師]]兼任 * [[1962年]](昭和37年) ** 9月 - 冬を終えた春の問題を扱った論文Ⅹを発表 * [[1964年]](昭和39年) ** 3月 - 奈良女子大学定年退職、京都大学非常勤講師定年退職 ** 4月 - 奈良女子大学名誉教授、奈良女子大学非常勤講師 * [[1969年]](昭和44年) ** 4月 - [[京都産業大学]]理学部教授、教養科目「日本民族」担当<ref>[[#岡2001|岡 2001]]、296-299頁。</ref><ref>[[#帯金2003|帯金 2003]]、265-281頁。</ref> == 受賞歴・叙勲歴 == * [[1951年]](昭和26年) ** [[日本学士院賞]] * [[1954年]](昭和29年) ** [[朝日賞|朝日文化賞]](多変数解析関数に関する研究<ref name="31頁">[[#高瀬2008|高瀬 2008]]、31頁。</ref><ref>[http://www.asahi.com/shimbun/award/asahiaward/winners.html#winners1953 朝日賞:過去の受賞者]</ref>) * [[1960年]](昭和35年) ** [[文化功労者]]、[[文化勲章]] * [[1961年]](昭和36年) ** [[橋本市]][[名誉市民]]<ref>{{Cite web|和書|title=名誉市民|website=橋本市|url=https://www.city.hashimoto.lg.jp/guide/sogoseisakubu/hisho_koho/meiyosimin/index.html|accessdate=2022-07-27}}</ref> * [[1963年]](昭和38年) ** [[毎日出版文化賞]] * [[1968年]](昭和43年) ** [[奈良市]]名誉市民 * [[1973年]](昭和48年) ** [[勲等|勲一等]][[瑞宝章]] * [[1978年]](昭和53年) ** [[従三位]] == 著作 == === 単著 === * {{Cite book|和書|title=春宵十話|year=1963|publisher=[[毎日新聞社]]|ref=岡1963}} ** {{Cite book|和書|title=春宵十話|year=1969|publisher=[[角川書店]]|series=[[角川文庫]]|ref=岡1969}} ** {{Cite book|和書|title=春宵十話|year=1972|edition=改訂新版|publisher=[[毎日新聞社]]|ref=岡1972}} ** {{Cite book|和書|title=春宵十話|year=2006|month=10|publisher=[[光文社]]|series=[[光文社文庫]]|isbn=4-334-74146-0|ref=岡2006}} ** {{Cite book|和書|title=春宵十話|year=2014|month=5|series=[[角川ソフィア文庫]]|publisher=[[角川学芸出版]]|isbn=978-4-044-09464-5|ref={{Harvid|岡|2014a}}}} * {{Cite book|和書|title=風蘭|year=1964|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社現代新書]]|ref=岡1964}} ** {{Cite book|和書|title=風蘭|year=2016|month=2|series=[[角川ソフィア文庫]]|publisher=[[角川学芸出版]]|isbn=978-4-044-00125-4|ref={{Harvid|岡|2016a}}}} * {{Cite book|和書|title=紫の火花|year=1964|publisher=[[朝日新聞社]]|ref=岡1964}} ** {{Cite book|和書|title=紫の火花|year=2020|month=3|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=[[朝日文庫]]|isbn=978-4-022-62004-0|ref=岡2020}} * {{Cite book|和書|title=春風夏雨|year=1965|publisher=[[毎日新聞社]]|ref=岡1965}} ** {{Cite book|和書|title=春風夏雨|year=1970|publisher=[[角川書店]]|series=[[角川文庫]]|ref=岡1970}} ** {{Cite book|和書|title=春風夏雨|year=1972|edition=改訂新版|publisher=[[毎日新聞社]]|ref=岡1972}} ** {{Cite book|和書|title=春風夏雨|year=2014|month=5|series=[[角川ソフィア文庫]]|publisher=[[角川学芸出版]]|isbn=978-4-044-09465-2|ref={{Harvid|岡|2014b}}}} * {{Cite book|和書|title=月影|year=1966|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社現代新書]]|ref=岡1966a}} * {{Cite book|和書|title=春の草 私の生い立ち|year=1966|publisher=[[日本経済新聞社]]|ref=岡1966b}} ** {{Cite book|和書|title=春の草 私の生い立ち|year=2010|month=7|publisher=[[日本経済新聞出版社]]|series=日経ビジネス人文庫|isbn=978-4-532-19549-6|ref=岡2010}} - [[#岡1966b|日本経済新聞社(1966年刊)]]の修正、加筆。 * {{Cite book|和書|title=春の雲|year=1967|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社現代新書]]|ref=岡1967a}} * {{Cite book|和書|title=日本のこころ|year=1967|publisher=[[講談社]]|series=思想との対話 2|ref=岡1967b}} ** {{Cite book|和書|title=日本のこころ|year=1968|publisher=[[講談社]]|series=名著シリーズ|ref=岡1968a}} ** {{Cite book|和書|title=日本のこころ|year=1971|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社文庫]]|ref=岡1971a}}Kindle版、2019年10月 * {{Cite book|和書|title=一葉舟|year=1968|publisher=[[読売新聞社]]|ref=岡1968b}} ** {{Cite book|和書|title=一葉舟|year=1971|publisher=[[角川書店]]|series=[[角川文庫]]|ref=岡1971b}} ** {{Cite book|和書|title=一葉舟|year=2016|month=3|series=[[角川ソフィア文庫]]|publisher=[[角川学芸出版]]|isbn=978-4-044-00126-1|ref=岡2016b}} * {{Cite book|和書|title=昭和への遺書 敗るるもまたよき国へ|year=1968|publisher=月刊ペン社|ref=岡1968c}} ** {{Cite book|和書|title=昭和への遺書 敗るるもまたよき国へ|edition=新装版|year=1975|publisher=月刊ペン社|ref=岡1975}} * {{Cite book|和書|title=わが人生観 心といのち|year=1968|publisher=[[大和書房]]|volume=|ref=岡1968d}} ** {{Cite book|和書|title=わが人生観 心といのち|year=1972|publisher=[[大和出版]]|volume=|ref=岡1972}} ** {{Cite book|和書|title=心といのち|year=1984|month=6|edition=新装版|publisher=[[大和出版]]|series=わが人生観|isbn=978-4-804-73000-4|ref=岡1984}} - 解説:[[松永伍一]]。 * {{Cite book|和書|title=日本民族|year=1968|publisher=月刊ペン社|ref=岡1968e}} ** {{Cite book|和書|title=日本民族|edition=新装版|year=1975|publisher=月刊ペン社|ref=岡1975}} * {{Cite book|和書|title=葦牙よ萠えあがれ|year=1969|publisher=心情圏|ref=岡1969a}} ** {{Cite book|和書|title=日本民族の危機 葦牙よ萌えあがれ!|year=2011|month=10|publisher=日新報道|isbn=978-4-817-40727-6|ref=岡2011}} - [[#岡1969a|心情圏(1969年刊)]]の復刻。 ** {{Cite book|和書|title=日本民族の危機|year=2020|month=6|publisher=土曜社|isbn=978-4-907-51179-1|ref=岡2020}} * {{Cite book|和書|title=曙|year=1969|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社現代新書]]|ref=岡1969b}} * {{Cite book|和書|title=神々の花園|year=1969|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社現代新書]]|ref=岡1969c}} * {{Cite book|和書|title=岡潔集 第1巻|year=1969|publisher=[[学習研究社]]|ref=岡1969d}} *: 収録:春宵十話、宗教について、日本人と直観、日本的情緒、無差別智、私の受けた道義教育、絵画教育について、一番心配なこと、顔と動物性、三河島惨事と教育、義務教育私話、数学を志す人に、数学と芸術、音楽のこと、好きな芸術家、女性を描いた文学者、奈良の良さ、相撲・野球、新春放談、ある想像、中谷宇吉郎さんを思う、吉川英治さんのこと、わが師わが友、春の草(私の生い立ち)、対話・全か無か(岡潔、[[石原慎太郎]])、解題([[保田與重郎]])、年譜。 ** {{Cite book|和書|title=岡潔集 第1巻|year=2008|month=11|publisher=学術出版会(発行)[[日本図書センター]](発売)|series=学術著作集ライブラリー|isbn=978-4-284-10162-2|ref=岡2008b}} - [[#岡1969d|学習研究社(1969年刊)]]の復刻。 * {{Cite book|和書|title=岡潔集 第2巻|year=1969|publisher=[[学習研究社]]|ref=岡1969e}} *: 収録:春風夏雨、片雲、女性と数学、若いおかあさまへのお願い、春の日、冬の日、二つのお願い、伊勢神宮参拝の感想、ある日の授業の回想、ふるさとを行く、科学と人間、夜明けを待つ、対話・昭和維新([[松下幸之助]]、岡潔)、解題([[保田與重郎]])。 ** {{Cite book|和書|title=岡潔集 第2巻|year=2008|month=11|publisher=学術出版会(発行)[[日本図書センター]](発売)|series=学術著作集ライブラリー|isbn=978-4-284-10163-9|ref=岡2008c}} - [[#岡1969e|学習研究社(1969年刊)]]の復刻。 * {{Cite book|和書|title=岡潔集 第3巻|year=1969|publisher=[[学習研究社]]|ref=岡1969f}} *: 収録:紫の火花、情緒、すみれの言葉、春の日射し、こころ、童心の世界、独創とは何か、新義務教育の是正について、創造性の教育、教育と研究の間、かぼちゃの生いたち、数学と大脳と赤ん坊、ロケットと女性美と古都、秋に思う、春の水音、わが座右の書、おかあさんがたに語る、人間のいのち、幼児と脳のはなし、生命の芽、対話・萌え騰るもの([[司馬遼太郎]]、岡潔)、解題([[保田與重郎]])。 ** {{Cite book|和書|title=岡潔集 第3巻|year=2008|month=11|publisher=学術出版会(発行)[[日本図書センター]](発売)|series=学術著作集ライブラリー|isbn=978-4-284-10164-6|ref=岡2008d}} - [[#岡1969f|学習研究社(1969年刊)]]の復刻。 * {{Cite book|和書|title=岡潔集 第4巻|year=1969|publisher=[[学習研究社]]|ref=岡1969g}} *: 収録:科学と仏教、教育を語る、梅日和、弁栄上人伝、人という不思議な生物、一葉舟、ラテン文化とともに、対話・人にほれる(小林茂、岡潔)、解題([[保田與重郎]])。 ** {{Cite book|和書|title=岡潔集 第4巻|year=2008|month=11|publisher=学術出版会(発行)[[日本図書センター]](発売)|series=学術著作集ライブラリー|isbn=978-4-284-10165-3|ref=岡2008e}} - [[#岡1969g|学習研究社(1969年刊)]]の復刻。 * {{Cite book|和書|title=岡潔集 第5巻|year=1969|publisher=[[学習研究社]]|ref=岡1969h}} *: 収録:講演集 こころと国語、私のみた『正法眼蔵』、教育論序説、二十世紀の奇蹟――光明主義、義務教育について、小我を超える――救いへの唯一の道、「情」というものについて、日本の教育への提言、日本民族のこころ、日本人は自己を見失っている、自己とは何かを『正法眼蔵』にきく、愛国、産業界に訴える、こころの世界、中谷治宇二郎君の思い出、対話・美へのいざない([[井上靖]]、岡潔)、解題([[保田與重郎]])。 ** {{Cite book|和書|title=岡潔集 第5巻|year=2008|month=11|publisher=学術出版会(発行)[[日本図書センター]](発売)|series=学術著作集ライブラリー|isbn=978-4-284-10166-0|ref=岡2008f}} - [[#岡1969h|学習研究社(1969年刊)]]の復刻。 * {{Cite book|和書|title=春雨の曲|year=1978|month=7|publisher=真情会|volume=第8稿|ref=岡1978a}} - 書き直した作品だが絶筆により未完となり、没後出版となった。 * {{Cite book|和書|title=春雨の曲|year=1978|month=9|publisher=真情会|volume=第7稿|ref=岡1978b}} - 完成形だが取り下げ、没後出版となった。 *: 金星の娘との出会い、生命と物質の関係、天衆の挨拶、第一の心である自然科学の顕在識(第一識から第六識)と西洋人に存在する潜在識(無明の入る第七識)、第二の心である東洋人に存在する悟り識(第八識から第十五識)、世間智を用いる自他の別、分別智を用いる時空の框、分別智と無差別智を用いる発見(インスピレーション型発見と梓弓型発見と情操・情緒型発見)、無差別智(大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智)を用いる純粋直観(知的純粋直観と情的純粋直観と意的純粋直観)、九識論を上回る日本人に存在する第十識「真情」への到達(情が知や意より先であることの当然性)、過度だと早死にを招く抜き身を自浄其意で起こすことによる第十一識「時」への到達(道元の別時)、男女の別を懐かしさと喜びから生じる好みで超えることによる第十二識「主宰性」への到達(天照大神と天月読尊の見神)、第十三識「造化」、第十四識「帰趣」、第十五識「内外」などの最晩年の境地も描かれている<ref>[http://www.okakiyoshi-ken.jp/oka-japanese11.html 数学者 岡潔思想研究会 (1)「情と日本人」の解説 【11】参考資料の図表]</ref>。 * {{Cite book|和書|title=岡潔講演集|year=1978|month=10|publisher=市民大学講座出版局|series=エク・ディエス選書 3|ref=岡1978}} - 解説:[[松下正寿]]。 * {{Cite book|和書|title=岡潔 日本の心|year=1997|month=12|publisher=[[日本図書センター]]|series=人間の記録 54|isbn=978-4-820-54297-1|ref=岡1997}} * {{Cite book|和書|title=情緒の教育|year=2001|month=11|publisher=[[燈影舎]]|isbn=978-4-924-52044-8|ref=岡2001}} * {{Cite book|和書|title=情緒と創造|year=2002|month=2|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4-062-11173-7|ref=岡2002}} * {{Cite book|和書|title=日本の国という水槽の水の入れ替え方 憂国の随想集|year=2004|month=4|publisher=[[成甲書房]]|isbn=978-4-880-86163-0|ref=岡2004}} * {{Cite book|和書|title=情緒と日本人|year=2008|month=1|publisher=[[PHP研究所]]|isbn=978-4-569-69552-5|ref=岡2008}} ** {{Cite book|和書|title=情緒と日本人|year=2015|month=4|publisher=[[PHP研究所]]〈PHP文庫〉|isbn=978-4-569-76362-0|ref=岡2015a}} * {{Cite book|和書|editor=山折哲雄|editor-link=山折哲雄|title=夜雨の声|year=2014|month=9|series=[[角川ソフィア文庫]]|publisher=[[角川学芸出版]]|isbn=978-4-044-09470-6|ref=岡2014c}} * {{Cite book|和書|title=岡潔 数学を志す人に|year=2015|month=12|publisher=[[平凡社]]|series=STANDARD BOOKS|isbn=978-4-582-53153-4|ref=岡2015b}} * {{Cite book|和書|editor=森田真生|editor-link=森田真生|title=数学する人生|year=2016|month=2|series=|publisher=[[新潮社]]|isbn=978-4103398912|ref=岡2016}} ** {{Cite book|和書|editor=森田真生|title=数学する人生|year=2019|month=4|series=[[新潮文庫]]|publisher=新潮社|isbn=978-4101012513|ref=岡2019}} * {{Cite book|和書|title=[https://twitter.com/oka_kiyoshi_bot 岡潔bot]集|year=2018|month=10|publisher=真情会|ref=岡2018a}} * {{Cite book|和書|title=[https://twitter.com/chouroku_bot 岡潔聴雨録bot]集|year=2018|month=10|publisher=真情会|ref=岡2018b}} === 共著 === * {{Cite book|和書|author=小林秀雄|authorlink=小林秀雄 (批評家)|title=対話 人間の建設|year=1965|publisher=[[新潮社]]|ref=岡&小林1965}} ** {{Cite book|和書|author=小林秀雄|authorlink=小林秀雄 (批評家)|title=対話 人間の建設 新装版|year=1978|month=3|publisher=[[新潮社]]|ref=岡&小林1978}} ** {{Cite book|和書|author=小林秀雄|authorlink=小林秀雄 (批評家)|title=人間の建設|year=2010|month=3|publisher=[[新潮社]]|series=[[新潮文庫]]|isbn=978-4-101-00708-3|ref=岡&小林2010}} * {{Cite book|和書|author=林房雄|authorlink=林房雄|title=心の対話|year=1968|month=3|publisher=日本ソノサービスセンター|ref=岡&林1968}} ** {{Cite book|和書|author=林房雄|authorlink=林房雄|title=心の対話|year=2020|month=9|publisher=土曜社|isbn=978-4-907-51182-1|ref=岡&林2020}} * {{Cite book|和書|title=岡潔先生二十年祭記念 聴雨録―師弟座談集|year=1998|month=3|publisher=真情会|ref=岡1998}} * {{Cite book|和書|author=胡蘭成|authorlink=胡蘭成|title=岡潔/[[胡蘭成]]|year=2004|month=11|publisher=[[新学社]]|series=近代浪漫派文庫 37|isbn=978-4-786-80095-5|ref=岡&胡2004}} * {{Cite book|和書|author=司馬遼太郎|authorlink=司馬遼太郎|title=萌え騰るもの|year=2020|month=7|publisher=土曜社|isbn=978-4-907-51181-4|ref=岡&司馬2020}} * {{Cite book|和書|author1=司馬遼太郎|authorlink1=司馬遼太郎|author2=井上靖|authorlink2=井上靖|author3=時実利彦|authorlink3=時実利彦|author4=山本健吉|authorlink4=山本健吉|title=岡潔対談集|year=2021|month=5|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=[[朝日文庫]]|isbn=978-4-022-62050-7|ref=岡2021}} * {{Cite book|和書|author1=岡潔|authorlink1=岡潔|author2=森本弘|authorlink2=森本弘|author3=中沢新一|authorlink3=中沢新一|title=岡潔の教育論|year=2023|month=3|publisher=コトニ社|isbn=978-4-910-10810-0}} === 論文集 === * {{Cite book|author=Oka, Kiyoshi|year=1961|title=Sur les fonctions analytiques de plusieurs variables|publisher=Iwanami Shoten|page=234|location=Tokyo, Japan|language=French|ref=Oka1961}} - Includes bibliographical references. ** {{Cite book|author=Oka, Kiyoshi|title=Sur les fonctions analytiques de plusieurs variables|edition=Nouv. éd. augmentée.|year=1983|publisher=Iwanami|page=246|location=Tokyo, Japan|language=French|ref=Oka1983}} * {{Cite book|和書|title=岡潔先生遺稿集|year=1983|month=12|publisher=論文集刊行会|volume=全7集|ref=岡1983}} - 数学論文集。解説:[[秋月康夫]]。 * {{Cite book|author=Oka, Kiyoshi|others=English translation from the French by Raghavan Narasimhan; With Commentaries by [[アンリ・カルタン|Henri Cartan]]|editor=Reinhold Remmert|year=1984|title=KIYOSHI OKA COLLECTED PAPERS|publisher=Springer-Verlag|page=223|language=English, French (translation)|isbn=978-3-540-13240-0|ref=Oka1984}} === 公表論文 === # {{Cite journal|first=Kiyoshi|last=Oka|title=Domaines convexes par rapport aux fonctions rationnelles|journal=Journal of Science of the Hiroshima University|volume=6|year=1936|pages=pp. 245-255|url=http://www.lib.nara-wu.ac.jp/oka/ko_ron/f/n01/p001.html}} [http://www.lib.nara-wu.ac.jp/oka/ko_ron/pdf/ko-f1.pdf PDF] [http://www.lib.nara-wu.ac.jp/oka/ko_ron/tex/ko-f1.tex TeX] # {{Cite journal|first=Kiyoshi|last=Oka|title=Domaines d'holomorphie|journal=Journal of Science of the Hiroshima University|volume=7|year=1937|pages=pp. 115-130|url=http://www.lib.nara-wu.ac.jp/oka/ko_ron/f/n02/p001.html}} [http://www.lib.nara-wu.ac.jp/oka/ko_ron/pdf/ko-f2.pdf PDF] [http://www.lib.nara-wu.ac.jp/oka/ko_ron/tex/ko-f2.tex TeX] # {{Cite journal|first=Kiyoshi|last=Oka|title=Deuxième problème de Cousin|journal=Journal of Science of the Hiroshima University|volume=9|year=1939|pages=pp. 7-19|url=http://www.lib.nara-wu.ac.jp/oka/ko_ron/f/n03/p001.html}} [http://www.lib.nara-wu.ac.jp/oka/ko_ron/pdf/ko-f3.pdf PDF] [http://www.lib.nara-wu.ac.jp/oka/ko_ron/tex/ko-f3.tex TeX] # {{Cite journal|first=Kiyoshi|last=Oka|title=Domaines d'holomorphie et domaines rationnellement convexes|journal=Japanese Journal of Mathematics|volume=17|year=1941|pages=pp. 517-521|url=http://www.lib.nara-wu.ac.jp/oka/ko_ron/f/n04/p001.html}} [http://www.lib.nara-wu.ac.jp/oka/ko_ron/pdf/ko-f4.pdf PDF] [http://www.lib.nara-wu.ac.jp/oka/ko_ron/tex/ko-f4.tex TeX] # {{Cite journal|first=Kiyoshi|last=Oka|title=L'intégrale de Cauchy|journal=Japanese Journal of Mathematics|volume=17|year=1941|pages=pp. 523-531|url=http://www.lib.nara-wu.ac.jp/oka/ko_ron/f/n05/p001.html}} [http://www.lib.nara-wu.ac.jp/oka/ko_ron/pdf/ko-f5.pdf PDF] [http://www.lib.nara-wu.ac.jp/oka/ko_ron/tex/ko-f5.tex TeX] # {{Cite journal|first=Kiyoshi|last=Oka|title=Domaines pseudoconvexes|journal=Tôhoku Mathematical Journal|volume=49|year=1942|pages=pp. 15-52|url=http://www.lib.nara-wu.ac.jp/oka/ko_ron/f/n06/p001.html}} [http://www.lib.nara-wu.ac.jp/oka/ko_ron/pdf/ko-f6.pdf PDF] [http://www.lib.nara-wu.ac.jp/oka/ko_ron/tex/ko-f6.lzh TeX] # {{Cite journal|first=Kiyoshi|last=Oka|title=Sur quelques notions arithmétiques|journal=Bulletin de la Société Mathématique de France|volume=78|year=1950|pages=pp. 1-27|url=http://www.lib.nara-wu.ac.jp/oka/ko_ron/f/n07/p001.html}} [http://www.lib.nara-wu.ac.jp/oka/ko_ron/pdf/ko-f7.pdf PDF] [http://www.lib.nara-wu.ac.jp/oka/ko_ron/tex/ko-f7.tex TeX] # {{Cite journal|first=Kiyoshi|last=Oka|title=Lemme fondamental|journal=Journal of 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アルキメデス
アルキメデス(Archimedes、希: Ἀρχιμήδης、紀元前287年? - 紀元前212年)は、古代ギリシアの数学者、物理学者、技術者、発明家、天文学者。古典古代における第一級の科学者という評価を得ている。 アルキメデスの生涯は、彼の死後長い年月が過ぎてから古代ローマの歴史家たちによって記録されたため、判然としない部分が多い。友人のヘラクレイデスが、彼の伝記を書き残したといわれるが、散佚したため断片しか伝わっていない。しかし、没年については例外的に正確にわかっている。これは、彼がローマ軍のシラクサ攻囲戦の中で死んだことが、故事の記述からわかっているからである。彼の生年は分かっていないため、没年から逆算して求められたものである。 シラクサ攻囲を記したポリュビオスの『普遍史』には、70年前のアルキメデスの死が記されており、これはプルタルコスやティトゥス・リウィウスが引用している。この書では、アルキメデス個人についても若干触れ、街を防衛するために彼が武器を製作したことも言及している。 アルキメデスは紀元前287年頃、マグナ・グラエキアの自治植民都市であるシケリア(シチリア)島のシラクサで生まれた。この生年は、ビサンチン時代のギリシア(英語版)の歴史家イオニアス・セツィス(英語版)が主張した、アルキメデスは満75歳で没したという意見から導かれている。『砂の計算』の中でアルキメデスは、父親を無名の天文学者「ペイディアス (Phidias)」と告げている。プルタルコスは著書『対比列伝』にて、シラクサを統治していたヒエロン2世の縁者だったと記している。アルキメデスは、サモスのコノンやエラトステネスがいたエジプトのアレクサンドリアで学問を修めた可能性がある。アルキメデスはサモスのコノンを友人と呼び、『幾何学理論(英語版)』(アルキメデスの無限小)や『牛の問題』にはエラトステネスに宛てた序文がある。 アルキメデスは紀元前212年、第二次ポエニ戦争でローマの将軍マルクス・クラウディウス・マルケッルスがシラクサを占領した時に死んだ。 アルキメデスの評判を知っていたマルケッルスは、彼には危害を加えないよう命令を出したが、自宅にローマ兵が入ってきた時、アルキメデスは砂盤に描いた図形(英語版)の上にかがみこんで、何か考えこんでいた。アルキメデスの家とは知らないローマ兵が名前を聞いたが、没頭していた彼が無視したので、兵士は腹を立てて彼を殺したという。 アルキメデス最期の言葉は「私の円をこわすな!(Noli turbare circulos meos!(英語版))」とされる。マルケッルスは命令に反してアルキメデスが殺されたことに苦しんだと伝わる。 アルキメデスの墓は、彼自身が好んだ数学的証明を題材に選ばれ、同じ径と高さを持つ球と円筒のデザインがなされたと伝わっていた。彼が亡くなってから137年後の紀元前75年、ローマの雄弁家(英語版)マルクス・トゥッリウス・キケロがクァエストルとしてシチリアに勤めていた頃、アルキメデスの墓について聞いた。場所は伝わっていなかったが、彼は探した末にシラクサのAgrigentine門の近く、低木が繁る省みられない場所に墓を見つけ出した。キケロが墓を清掃させたところ、彫刻がはっきり分かるようになり、詩を含む碑文も見出せるようになった。 最も広く知られたアルキメデスのエピソードは、「アルキメデスの原理」を思いついた経緯である。ヒエロン2世は金細工職人に金塊を渡して、神殿に奉納するための誓いの王冠(英語版)を作らせることにした。しかし王冠が納品された後、ヒエロン王は金細工師が金を盗み、その重量分の銀を混ぜてごまかしたのではないかと疑いだした。 もし金細工師が金を盗み、金より軽い銀で混ぜ物をしていれば、王冠の重さは同じでも、体積はもとの金地金より大きい。しかし体積を再確認するには王冠をいったん溶かし、体積を計算できる単純な立方体にしなくてはならなかった。困った王はアルキメデスを呼んで、王冠を壊さずに体積を測る方法を訊いた。アルキメデスもすぐには答えられず、いったん家に帰って考えることにした。 何日か悩んでいたアルキメデスはある日、風呂に入ることにした。浴槽に入ると水面が高くなり、水が縁からあふれ出した。これを見たアルキメデスは、王冠を水槽に沈めれば、同じ体積分だけ水面が上昇することに気がついた。王冠の体積と等しい、増えた水の体積を測れば、つまり王冠の体積を測ることができる。ここに気がついたアルキメデスは、服を着るのを忘れて表にとびだし「ヘウレーカ(ηὕρηκα!)、ヘウレーカ!(わかった! わかったぞ!)」と叫びながら、裸のままで通りをかけだした。確認作業の結果、王冠に銀が混ざっていることが確かめられ、不正がばれた金細工師は、死刑にされた。 この黄金の冠の話は、伝わっているアルキメデスの著作には見られず、アルキメデスが没してから約200年後、ウィトルウィウスが著した文献『デ・アーキテクチュラ』に記述されているエピソードである。さらに、比重が大きい金の体積をこの方法で調べようとしても、水位変動が小さいため測定誤差を無視できないという疑問も提示されている。実際には、アルキメデスは自身が論述『浮体の原理』で主張した、今日アルキメデスの原理と呼ばれる流体静力学上の原理を用いて解決したのではと考えられる。この原理は、物質を流体に浸した際、それは押し退ける流体の重量と等しい浮力を得ることを主張する。この事実を利用し、天秤の一端に吊るした冠と釣り合う質量の金をもう一端に吊し、冠と金を水中に浸ける。もし冠に混ぜ物があって比重が低いと体積は大きくなり、押し退ける水の量が多くなるため冠は金よりも浮力が大きくなるので、空中で釣り合いのとれていた天秤は冠側を上に傾くことになる。ガリレオ・ガリレイもアルキメデスはこの浮力を用いる方法を考え付いていたと推測している。 工学分野におけるアルキメデスの業績には、彼の生誕地であるシラクサに関連する。ギリシア人著述家のアテナイオスが残した記録によると、ヒエロン2世はアルキメデスに観光、運輸、そして海戦用の巨大な船「シュラコシア号(英語版)」 の設計を依頼したという。シュラコシア号は古代ギリシア・ローマ時代を通じて建造された最大の船で、アテナイオスによれば搭乗員数600、船内に庭園やギュムナシオン、さらには女神アプロディーテーの神殿まで備えていた。この規模の船になると浸水も無視できなくなるため、アルキメデスはアルキメディアン・スクリューと名づけられた装置を考案し、溜まった水を掻き出す工夫を施した。これは、円筒の内部にらせん状の板を設けた構造で、これを回転させると低い位置にある水を汲み上げ、上に持ち上げることができる。アルキメディアン・スクリューは、ねじ構造を初めて機械に使用した例として知られている。。ウィトルウィウスは、この機構はバビロンの空中庭園を灌漑するためにも使われたと伝える。現代では、このスクリューは液体だけでなく石炭の粒など固体を搬送する手段にも応用されている。 アルキメデスの鉤爪(英語版)とは、シラクサ防衛のために設計された兵器の一種である。「シップ・シェイカー」(the ship shaker) とも呼ばれるこの装置は、クレーン状の腕部の先に吊るされた金属製の鉤爪を持つ構造で、この鉤爪を近づいた敵船に引っ掛けて腕部を持ち上げることで船を傾けて転覆させるものである。2005年、ドキュメント番組『Superweapons of the Ancient World』でこれが製作され、実際に役に立つか検証してみたところ、クレーンは見事に機能した。 2世紀の著述家ルキアノスは、紀元前214年-紀元前212年のシラクサ包囲の際にアルキメデスが敵船に火災を起こして撃退したという説話を記している。数世紀後、トラレスのアンテミオスはアルキメデスの兵器とは太陽熱取りレンズだったと叙述した。これは太陽光線をレンズで集め、焦点を敵艦に合わせて火災を起こしていたもので「アルキメデスの熱光線」と呼ばれたという。 このようなアルキメデスの兵器についての言及は、その事実関係がルネサンス以降に議論された。ルネ・デカルトは否定的立場を取ったが、当時の科学者たちはアルキメデスの時代に実現可能な手法で検証を試みた。その結果、念入りに磨かれた青銅や銅の盾を鏡の代用とすると太陽光線を標的の船に集めることができた。これは、太陽炉と同様に放物面反射器の原理を利用したものと考えられた。1973年にギリシアの科学者イオアニス・サッカスがアテネ郊外のスカラガマス(英語版)海軍基地で実験を行った。縦5フィート(約1.5m)横3フィート(約1メートル)の銅で皮膜された鏡70枚を用意し、約160フィート(約50m)先のローマ軍艦に見立てたベニヤ板製の実物大模型に太陽光を集めたところ、数秒で船は炎上した。ただし、模型にはタールが塗られていたため、実際よりも燃えやすかった可能性は否定できない。 2005年10月、マサチューセッツ工科大学 (MIT) の学生グループは一辺1フィート(約30cm)の四角い鏡127枚を用意し、木製の模型船に100フィート(約30m)先から太陽光を集中させる実験を行った。やがて斑点状の発火が見られたが、空が曇り出したために10分間の照射を続けたが船は燃えなかった。しかし、この結果から気象条件が揃えばこの手段は兵器として成り立つと結論づけられた。MITは同様な実験をテレビ番組『怪しい伝説』と協同しサンフランシスコで木製の漁船を標的に行われ、少々の黒こげとわずかな炎を発生させた。しかし、シラクサは東岸で海に面しているため、効果的に太陽光を反射させる時間は朝方に限られてしまう点、同じ火災を起こす目的ならば実験を行った程度の距離では火矢やカタパルトで射出する太矢の方が効果的という点も指摘された。 てこについて記述した古い例は、アリストテレスの流れを汲む逍遙学派やアルキタスに見られるが、アルキメデスは『平面の釣合について』において、てこの原理を説明している。4世紀のエジプトの数学者パップスは、アルキメデスの言葉「私に支点を与えよ。そうすれば地球を動かしてみせよう。(希: δῶς μοι πᾶ στῶ καὶ τὰν γᾶν κινάσω)」を引用して伝えた。プルタルコスは、船員が非常に重い荷物を運べるようにするためにアルキメデスがブロックと滑車機構をどのように設計したかを述べた。また、アルキメデスは第一次ポエニ戦争の際にカタパルトの出力や精度を高める工夫や、オドメーター(距離計)も発明した。オドメーターは歯車機構を持つ荷車で、決まった距離を走る毎に球を箱に落として知らせる構造を持っていた。 マルクス・トゥッリウス・キケロは対話篇『国家論』にて紀元前129年にあった逸話を採録している。紀元前212年にシラクサを占領した将軍マルクス・クラウディウス・マルケッルスは、2台の機器をローマに持ち帰った。これは、太陽と月そして5惑星の運行を模倣する天文学用機器であり、キケロはタレスやエウドクソスが設計した同様の機器にも触れている。問答では、マルケッルスは独自のルートを経由しシラクサから持ち帰って1台を手元に留め、もう1台はローマの美徳の神殿 (ヴィルトゥースの神殿、Temple of Virtue) に寄贈した。キケロは、マルケッルスの機器についてガイウス・スルピキウス・ガッルスがルキウス・フリウス・ピルスに説明する下りを残している。 これはまさにプラネタリウムか太陽系儀の説明である。アレクサンドリアのパップスは、現代では失われたアルキメデスの原稿『On Sphere-Making(英語版)』でこれら機器の設計について触れていると述べた。近年、アンティキティラ島の機械やギリシア・ローマの古典時代に同じ目的で製作された機械類の研究が行われている。これらは、以前はオーパーツ視されていたが、1902年に発見されたアンティキティラ島の機械を通じて、古代ギリシア時代には機構の重要部分に当たる差動装置の技術は充分に実用可能な域に達していたと確認された。 アルキメデスはまた数学の分野にも大きな貢献を残した。級数を放物線の面積、円周率の計算に用いた他、代数螺旋の定義、回転面の体積の求め方や、大数の記数法も考案している。彼が物理学にもたらした革新は流体静力学の基礎となり、静力学の考察はてこの本質を説明した。 アルキメデスは、現代で言う積分法と同じ手法で無限小を利用していた。背理法を用いる彼の証明では、解が存在するある範囲を限定することで任意の精度で解を得ることができた。これは取り尽くし法の名で知られ、円周率π(パイ)の近似値を求める際に用いられた。アルキメデスは、ひとつの円に対し外接する正多角形と、円に内接する正多角形を想定した。この2つの正多角形は辺の数を増やせば増やす程、円そのものに近似してゆく。アルキメデスは正96角形を用いて円周率を試算し、ふたつの正多角形からこれは3⁄7(約3.1429)と3⁄71(約3.1408)の間にあるという結果を得た。また彼は、円の面積は半径でつくる正方形に円周率を乗じた値に等しいことを証明した。『球と円柱について』では、任意の2つの実数について、一方の実数を何度か足し合わせる(ある自然数を掛ける)と、必ずもうひとつの実数を上回ることを示し、これは実数におけるアルキメデスの性質と呼ばれる。 『円周の測定』にてアルキメデスは3の平方根を⁄153(約1.7320261)と⁄780(約1.7320512)の間と導いた。実際の3の平方根は約1.7320508であり、これは非常に正確な見積もりだったが、アルキメデスはこの結果を導く方法を記していない。ジョン・ウォリスは、アルキメデスは結論だけを示し、後世に対して方法をそこから引き出させようとしたのではと考察している。 球の体積は無限小・積分を用いることで公式を発見した。また球の表面積は無限小・積分・カヴァリエリの原理を用いることで公式を同じ高さの円柱の側面の表面積と等しいことを示した。 『放物線の求積法』でアルキメデスは、放物線が直線で切られた部分の面積が、放物線と直線の交点(英語版)と直線と平行な接線が接触する3点を頂点とする三角形の面積の⁄3倍になることを証明した。これは、無限級数と公比を用いる。最初の三角形の面積を1とし、この三角形の2辺を割線とし、放物線の隙間に同様な手段で2つの新しい三角形を想定すると、この面積の和は1/4となる。これを無数に繰り返して放物線の切片を取り尽くすと、面積は、 となる。 『砂の計算』では、アルキメデスは宇宙空間を砂ですべて充填するとした時、果たして何粒が必要かという試算に挑んだ。ジェーロ王(英語版)(ヒエロン2世の息子)を始めそのような数は無限と言える膨大なものとしか捉えられない中、アルキメデスはミリアド(英語版)(希: μυριάς)という古代ギリシアで10,000を表す単位を元に大数単位を設定し、最終的に宇宙を埋める砂の数は 10(1000那由他)を超えないと結論づけた。 また、ゼロの対極にある無限集合の概念に、到達していたらしいという新しい資料が発見されている。 彼は革新的な機械設計にも秀で、攻城兵器や彼の名を冠したアルキメディアン・スクリューなどでも知られる。また、数々の武器を考案したことでも知られ、シラクサの戦いにおいて、てこを利用した投石機を用いて敵の海軍を打ち破った。 ギリシア的学問は純粋に論理を展開することに美しさを見出して重視し、実利的・営利的な技術などの知識はむしろ軽蔑された。プルタルコスは『対比列伝』(「英雄伝」)にて、「彼(アルキメデス)は純粋なる思索にすべての愛情と大望を注ぎ、俗な実用的応用を論及したことは皆無だと言い切れる」と記したと書いた。(ただしソクラテスのように実利性があれば必要だとしても実利性ない学問は意味がないとする哲学者もいた。) この2つの側面を併せ持つアルキメデスは、数学に限らずこの時代の学者としては異例な存在だった。しかし、この矛盾する2つの側面をアルキメデスは共存させながら、ピタゴラス的な数の概念とは大きく異なる「天文学的数字」を『砂の計算』で想定したり、現代の積分法に繋がる方法で面積を求めつつエウドクソスの方法で証明しなおしたりと、自己内に相克を見せた。だが、このような論理と技術の鬩ぎ合いは特に近代ヨーロッパ以降で表面化した数学の現象であり、それが数学を進歩させた原動力となった。アルキメデスが生きた時代にはこのような矛盾を孕んだ発展は望むべくも無く、彼以後のギリシア数学は形骸化した権威に沈んだ。 月の北緯25.3°西経4.6°には、アルキメデスの名を冠したクレーター「アルキメデス(英語版)」があり、小惑星「アルキメデス(英語版)」も彼の名に由来する。 フィールズ・メダルはアルキメデスの横顔を意匠とし、その周囲にはラテン語で彼の言葉「羅: Transire suum pectus mundoque potiri」(Rise above oneself and grasp the world)が刻銘に使われている。そして裏面には、彼がその関係を発見した球と円柱が描かれている。アルキメデスの肖像は切手にも用いられ、スペイン(1963年)、ニカラグア(1971年)、ドイツ民主共和国(1973年)、サンマリノ(1982年)、ギリシア(1983年)、イタリア(1983年)と多くの国で使われた。 アルキメデスの数学に関する記述は古代においてほとんど知られていなかった。アルキメデスの著述は古代シラクサで使われたギリシア語のドーリス方言(英語版)であった。ただし彼の著作はエウクレイデスのもの同様に原典は伝わっておらず、7つの論文は他者の参照などから判明しているに止まる。アルキメデスは存命中アレクサンドリアの数学者たちと交流を持っていた事も手伝い、この地ではアルキメデスの論説を引用した例があり、パップスは多面体の考察を通じてアルキメデスの失われた著作『On Sphere-Making』や他の思索に触れ、アレクサンドリアのテオンは屈折に関する言及の中でやはり失われた『Catoptrica』(反射光学)を参考にしている。 東ローマ帝国の建築家ミレトスのイシドロス(530年頃)はアルキメデスの著作を蒐集し、6世紀にアスカロンのエウトキオスが注釈を加えて世に知らしめた。その後、アルキメデスの仕事はサービト・イブン・クッラ(836年 – 901年)がアラビア語へ、クレモナのジェラルド(1114年 – 1187年)がラテン語へ翻訳した。ルネサンス期には1544年にヨハン・ヘルヴァーゲンが、ギリシア語とラテン語でアルキメデスの仕事を含む「最初の校訂版 (Editio Princeps)」をバーゼルで発刊した。多くの科学者にインスピレーションを提供する役目を持ち、1586年頃ガリレオ・ガリレイは、アルキメデスの仕事にヒントを得て空気と水で金属の重量を計測する天秤を開発した。 最も近年発見されたアルキメデスの著作は『アルキメデス・パリンプセスト』である。1906年、デンマーク人の教授ヨハン・ルーズヴィー・ハイベア(英語版)がコンスタンティノープルで1229年に完成した174ページの山羊皮紙の祈りの書を調査した際、それがパリンプセスト(一度書かれた文字のインクを削るなどの方法で消し、別な文字を上書きされたもの)であることを発見した。調査の結果、山羊皮紙にかつて書かれていた文章は、それまで知られていなかったアルキメデスの提議を10世紀に写したものと判明した。数百年コンスタンティノープルの修道院図書館に所蔵されていたこのパリンプセストは1920年代に民間へ売りに出され、1998年10月29日にはニューヨークのクリスティーズで競売に掛けられ、匿名の落札者が200万ドルで入手した。 その後、落札者は写本の情報をデータ化するため素粒子物理学者など多様な解読の協力者を集め解読プロジェクトを始めた。彼らは画像を撮るため、本の背の糊を取り除き解体し、礼拝時にろうそくを使用したため付着したろうも取り除き、断片を元の場所にあてがった。そしてさまざまに波長を変えた光を紙にあて画像を合成し、金箔でおおわれている部分については蛍光X線分析を行いインクに含まれる鉄成分の分布を調べた。 このパリンプセストは、唯一のオリジナルであるギリシア語で書かれた『浮体の原理』を含む7つの論文が写されていた。ここには、既に失われてしまったスーダ辞典を参照した『方法』についての唯一の情報があり、『ストマッキオン』も以前には発見されていなかった切断パズルがより完成度が高い解説つきで見つかった。他の4つは『平面の釣合について』『螺旋について』『円周の測定』『球と円柱について』である。合わせてヒュペレイデスの演説やアリストテレスの文章の注釈書も発見された。このパリンプセストは現在メリーランド州ボルチモアのウォルターズ美術館に保管され、隠された文字の全貌を明かそうと、紫外線やX線照射など先端技術を用いた研究が行われている。 円の性質について15の提議が書かれたアルキメデスの『補助定理集(英語版)』(Book of LemmasまたはLiber Assumptorum) は、アラビア語で書かれた写しが知られている。古典学者のT.L.ヒース(英語版)とマーシャル・クラーゲット(英語版)は、現在確認できるこれらの書がアルキメデスの著作をそのまま伝えているとは考えにくいと主張し、他の人物が引用しながら変更されたものだと述べた。そして、この元になった考察はアルキメデスの初期の著述であり、これは失われていると述べた。 また、三角形の面積を求めるヘロンの公式もアルキメデスの発案に源泉があるとも唱えられた。しかし、この公式について信頼に足る証拠は1世紀にアレクサンドリアのヘロンが提唱したものしか無い。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "アルキメデス(Archimedes、希: Ἀρχιμήδης、紀元前287年? - 紀元前212年)は、古代ギリシアの数学者、物理学者、技術者、発明家、天文学者。古典古代における第一級の科学者という評価を得ている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "アルキメデスの生涯は、彼の死後長い年月が過ぎてから古代ローマの歴史家たちによって記録されたため、判然としない部分が多い。友人のヘラクレイデスが、彼の伝記を書き残したといわれるが、散佚したため断片しか伝わっていない。しかし、没年については例外的に正確にわかっている。これは、彼がローマ軍のシラクサ攻囲戦の中で死んだことが、故事の記述からわかっているからである。彼の生年は分かっていないため、没年から逆算して求められたものである。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "シラクサ攻囲を記したポリュビオスの『普遍史』には、70年前のアルキメデスの死が記されており、これはプルタルコスやティトゥス・リウィウスが引用している。この書では、アルキメデス個人についても若干触れ、街を防衛するために彼が武器を製作したことも言及している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "アルキメデスは紀元前287年頃、マグナ・グラエキアの自治植民都市であるシケリア(シチリア)島のシラクサで生まれた。この生年は、ビサンチン時代のギリシア(英語版)の歴史家イオニアス・セツィス(英語版)が主張した、アルキメデスは満75歳で没したという意見から導かれている。『砂の計算』の中でアルキメデスは、父親を無名の天文学者「ペイディアス (Phidias)」と告げている。プルタルコスは著書『対比列伝』にて、シラクサを統治していたヒエロン2世の縁者だったと記している。アルキメデスは、サモスのコノンやエラトステネスがいたエジプトのアレクサンドリアで学問を修めた可能性がある。アルキメデスはサモスのコノンを友人と呼び、『幾何学理論(英語版)』(アルキメデスの無限小)や『牛の問題』にはエラトステネスに宛てた序文がある。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "アルキメデスは紀元前212年、第二次ポエニ戦争でローマの将軍マルクス・クラウディウス・マルケッルスがシラクサを占領した時に死んだ。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "アルキメデスの評判を知っていたマルケッルスは、彼には危害を加えないよう命令を出したが、自宅にローマ兵が入ってきた時、アルキメデスは砂盤に描いた図形(英語版)の上にかがみこんで、何か考えこんでいた。アルキメデスの家とは知らないローマ兵が名前を聞いたが、没頭していた彼が無視したので、兵士は腹を立てて彼を殺したという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "アルキメデス最期の言葉は「私の円をこわすな!(Noli turbare circulos meos!(英語版))」とされる。マルケッルスは命令に反してアルキメデスが殺されたことに苦しんだと伝わる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "アルキメデスの墓は、彼自身が好んだ数学的証明を題材に選ばれ、同じ径と高さを持つ球と円筒のデザインがなされたと伝わっていた。彼が亡くなってから137年後の紀元前75年、ローマの雄弁家(英語版)マルクス・トゥッリウス・キケロがクァエストルとしてシチリアに勤めていた頃、アルキメデスの墓について聞いた。場所は伝わっていなかったが、彼は探した末にシラクサのAgrigentine門の近く、低木が繁る省みられない場所に墓を見つけ出した。キケロが墓を清掃させたところ、彫刻がはっきり分かるようになり、詩を含む碑文も見出せるようになった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "最も広く知られたアルキメデスのエピソードは、「アルキメデスの原理」を思いついた経緯である。ヒエロン2世は金細工職人に金塊を渡して、神殿に奉納するための誓いの王冠(英語版)を作らせることにした。しかし王冠が納品された後、ヒエロン王は金細工師が金を盗み、その重量分の銀を混ぜてごまかしたのではないかと疑いだした。", "title": "発見と発明" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "もし金細工師が金を盗み、金より軽い銀で混ぜ物をしていれば、王冠の重さは同じでも、体積はもとの金地金より大きい。しかし体積を再確認するには王冠をいったん溶かし、体積を計算できる単純な立方体にしなくてはならなかった。困った王はアルキメデスを呼んで、王冠を壊さずに体積を測る方法を訊いた。アルキメデスもすぐには答えられず、いったん家に帰って考えることにした。", "title": "発見と発明" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "何日か悩んでいたアルキメデスはある日、風呂に入ることにした。浴槽に入ると水面が高くなり、水が縁からあふれ出した。これを見たアルキメデスは、王冠を水槽に沈めれば、同じ体積分だけ水面が上昇することに気がついた。王冠の体積と等しい、増えた水の体積を測れば、つまり王冠の体積を測ることができる。ここに気がついたアルキメデスは、服を着るのを忘れて表にとびだし「ヘウレーカ(ηὕρηκα!)、ヘウレーカ!(わかった! わかったぞ!)」と叫びながら、裸のままで通りをかけだした。確認作業の結果、王冠に銀が混ざっていることが確かめられ、不正がばれた金細工師は、死刑にされた。", "title": "発見と発明" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "この黄金の冠の話は、伝わっているアルキメデスの著作には見られず、アルキメデスが没してから約200年後、ウィトルウィウスが著した文献『デ・アーキテクチュラ』に記述されているエピソードである。さらに、比重が大きい金の体積をこの方法で調べようとしても、水位変動が小さいため測定誤差を無視できないという疑問も提示されている。実際には、アルキメデスは自身が論述『浮体の原理』で主張した、今日アルキメデスの原理と呼ばれる流体静力学上の原理を用いて解決したのではと考えられる。この原理は、物質を流体に浸した際、それは押し退ける流体の重量と等しい浮力を得ることを主張する。この事実を利用し、天秤の一端に吊るした冠と釣り合う質量の金をもう一端に吊し、冠と金を水中に浸ける。もし冠に混ぜ物があって比重が低いと体積は大きくなり、押し退ける水の量が多くなるため冠は金よりも浮力が大きくなるので、空中で釣り合いのとれていた天秤は冠側を上に傾くことになる。ガリレオ・ガリレイもアルキメデスはこの浮力を用いる方法を考え付いていたと推測している。", "title": "発見と発明" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "工学分野におけるアルキメデスの業績には、彼の生誕地であるシラクサに関連する。ギリシア人著述家のアテナイオスが残した記録によると、ヒエロン2世はアルキメデスに観光、運輸、そして海戦用の巨大な船「シュラコシア号(英語版)」 の設計を依頼したという。シュラコシア号は古代ギリシア・ローマ時代を通じて建造された最大の船で、アテナイオスによれば搭乗員数600、船内に庭園やギュムナシオン、さらには女神アプロディーテーの神殿まで備えていた。この規模の船になると浸水も無視できなくなるため、アルキメデスはアルキメディアン・スクリューと名づけられた装置を考案し、溜まった水を掻き出す工夫を施した。これは、円筒の内部にらせん状の板を設けた構造で、これを回転させると低い位置にある水を汲み上げ、上に持ち上げることができる。アルキメディアン・スクリューは、ねじ構造を初めて機械に使用した例として知られている。。ウィトルウィウスは、この機構はバビロンの空中庭園を灌漑するためにも使われたと伝える。現代では、このスクリューは液体だけでなく石炭の粒など固体を搬送する手段にも応用されている。", "title": "発見と発明" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "アルキメデスの鉤爪(英語版)とは、シラクサ防衛のために設計された兵器の一種である。「シップ・シェイカー」(the ship shaker) とも呼ばれるこの装置は、クレーン状の腕部の先に吊るされた金属製の鉤爪を持つ構造で、この鉤爪を近づいた敵船に引っ掛けて腕部を持ち上げることで船を傾けて転覆させるものである。2005年、ドキュメント番組『Superweapons of the Ancient World』でこれが製作され、実際に役に立つか検証してみたところ、クレーンは見事に機能した。", "title": "発見と発明" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2世紀の著述家ルキアノスは、紀元前214年-紀元前212年のシラクサ包囲の際にアルキメデスが敵船に火災を起こして撃退したという説話を記している。数世紀後、トラレスのアンテミオスはアルキメデスの兵器とは太陽熱取りレンズだったと叙述した。これは太陽光線をレンズで集め、焦点を敵艦に合わせて火災を起こしていたもので「アルキメデスの熱光線」と呼ばれたという。", "title": "発見と発明" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "このようなアルキメデスの兵器についての言及は、その事実関係がルネサンス以降に議論された。ルネ・デカルトは否定的立場を取ったが、当時の科学者たちはアルキメデスの時代に実現可能な手法で検証を試みた。その結果、念入りに磨かれた青銅や銅の盾を鏡の代用とすると太陽光線を標的の船に集めることができた。これは、太陽炉と同様に放物面反射器の原理を利用したものと考えられた。1973年にギリシアの科学者イオアニス・サッカスがアテネ郊外のスカラガマス(英語版)海軍基地で実験を行った。縦5フィート(約1.5m)横3フィート(約1メートル)の銅で皮膜された鏡70枚を用意し、約160フィート(約50m)先のローマ軍艦に見立てたベニヤ板製の実物大模型に太陽光を集めたところ、数秒で船は炎上した。ただし、模型にはタールが塗られていたため、実際よりも燃えやすかった可能性は否定できない。", "title": "発見と発明" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "2005年10月、マサチューセッツ工科大学 (MIT) の学生グループは一辺1フィート(約30cm)の四角い鏡127枚を用意し、木製の模型船に100フィート(約30m)先から太陽光を集中させる実験を行った。やがて斑点状の発火が見られたが、空が曇り出したために10分間の照射を続けたが船は燃えなかった。しかし、この結果から気象条件が揃えばこの手段は兵器として成り立つと結論づけられた。MITは同様な実験をテレビ番組『怪しい伝説』と協同しサンフランシスコで木製の漁船を標的に行われ、少々の黒こげとわずかな炎を発生させた。しかし、シラクサは東岸で海に面しているため、効果的に太陽光を反射させる時間は朝方に限られてしまう点、同じ火災を起こす目的ならば実験を行った程度の距離では火矢やカタパルトで射出する太矢の方が効果的という点も指摘された。", "title": "発見と発明" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "てこについて記述した古い例は、アリストテレスの流れを汲む逍遙学派やアルキタスに見られるが、アルキメデスは『平面の釣合について』において、てこの原理を説明している。4世紀のエジプトの数学者パップスは、アルキメデスの言葉「私に支点を与えよ。そうすれば地球を動かしてみせよう。(希: δῶς μοι πᾶ στῶ καὶ τὰν γᾶν κινάσω)」を引用して伝えた。プルタルコスは、船員が非常に重い荷物を運べるようにするためにアルキメデスがブロックと滑車機構をどのように設計したかを述べた。また、アルキメデスは第一次ポエニ戦争の際にカタパルトの出力や精度を高める工夫や、オドメーター(距離計)も発明した。オドメーターは歯車機構を持つ荷車で、決まった距離を走る毎に球を箱に落として知らせる構造を持っていた。", "title": "発見と発明" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "マルクス・トゥッリウス・キケロは対話篇『国家論』にて紀元前129年にあった逸話を採録している。紀元前212年にシラクサを占領した将軍マルクス・クラウディウス・マルケッルスは、2台の機器をローマに持ち帰った。これは、太陽と月そして5惑星の運行を模倣する天文学用機器であり、キケロはタレスやエウドクソスが設計した同様の機器にも触れている。問答では、マルケッルスは独自のルートを経由しシラクサから持ち帰って1台を手元に留め、もう1台はローマの美徳の神殿 (ヴィルトゥースの神殿、Temple of Virtue) に寄贈した。キケロは、マルケッルスの機器についてガイウス・スルピキウス・ガッルスがルキウス・フリウス・ピルスに説明する下りを残している。", "title": "発見と発明" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "これはまさにプラネタリウムか太陽系儀の説明である。アレクサンドリアのパップスは、現代では失われたアルキメデスの原稿『On Sphere-Making(英語版)』でこれら機器の設計について触れていると述べた。近年、アンティキティラ島の機械やギリシア・ローマの古典時代に同じ目的で製作された機械類の研究が行われている。これらは、以前はオーパーツ視されていたが、1902年に発見されたアンティキティラ島の機械を通じて、古代ギリシア時代には機構の重要部分に当たる差動装置の技術は充分に実用可能な域に達していたと確認された。", "title": "発見と発明" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "アルキメデスはまた数学の分野にも大きな貢献を残した。級数を放物線の面積、円周率の計算に用いた他、代数螺旋の定義、回転面の体積の求め方や、大数の記数法も考案している。彼が物理学にもたらした革新は流体静力学の基礎となり、静力学の考察はてこの本質を説明した。", "title": "数学" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "アルキメデスは、現代で言う積分法と同じ手法で無限小を利用していた。背理法を用いる彼の証明では、解が存在するある範囲を限定することで任意の精度で解を得ることができた。これは取り尽くし法の名で知られ、円周率π(パイ)の近似値を求める際に用いられた。アルキメデスは、ひとつの円に対し外接する正多角形と、円に内接する正多角形を想定した。この2つの正多角形は辺の数を増やせば増やす程、円そのものに近似してゆく。アルキメデスは正96角形を用いて円周率を試算し、ふたつの正多角形からこれは3⁄7(約3.1429)と3⁄71(約3.1408)の間にあるという結果を得た。また彼は、円の面積は半径でつくる正方形に円周率を乗じた値に等しいことを証明した。『球と円柱について』では、任意の2つの実数について、一方の実数を何度か足し合わせる(ある自然数を掛ける)と、必ずもうひとつの実数を上回ることを示し、これは実数におけるアルキメデスの性質と呼ばれる。", "title": "数学" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "『円周の測定』にてアルキメデスは3の平方根を⁄153(約1.7320261)と⁄780(約1.7320512)の間と導いた。実際の3の平方根は約1.7320508であり、これは非常に正確な見積もりだったが、アルキメデスはこの結果を導く方法を記していない。ジョン・ウォリスは、アルキメデスは結論だけを示し、後世に対して方法をそこから引き出させようとしたのではと考察している。", "title": "数学" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "球の体積は無限小・積分を用いることで公式を発見した。また球の表面積は無限小・積分・カヴァリエリの原理を用いることで公式を同じ高さの円柱の側面の表面積と等しいことを示した。", "title": "数学" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "『放物線の求積法』でアルキメデスは、放物線が直線で切られた部分の面積が、放物線と直線の交点(英語版)と直線と平行な接線が接触する3点を頂点とする三角形の面積の⁄3倍になることを証明した。これは、無限級数と公比を用いる。最初の三角形の面積を1とし、この三角形の2辺を割線とし、放物線の隙間に同様な手段で2つの新しい三角形を想定すると、この面積の和は1/4となる。これを無数に繰り返して放物線の切片を取り尽くすと、面積は、", "title": "数学" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "となる。", "title": "数学" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "『砂の計算』では、アルキメデスは宇宙空間を砂ですべて充填するとした時、果たして何粒が必要かという試算に挑んだ。ジェーロ王(英語版)(ヒエロン2世の息子)を始めそのような数は無限と言える膨大なものとしか捉えられない中、アルキメデスはミリアド(英語版)(希: μυριάς)という古代ギリシアで10,000を表す単位を元に大数単位を設定し、最終的に宇宙を埋める砂の数は 10(1000那由他)を超えないと結論づけた。", "title": "数学" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "また、ゼロの対極にある無限集合の概念に、到達していたらしいという新しい資料が発見されている。", "title": "数学" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "彼は革新的な機械設計にも秀で、攻城兵器や彼の名を冠したアルキメディアン・スクリューなどでも知られる。また、数々の武器を考案したことでも知られ、シラクサの戦いにおいて、てこを利用した投石機を用いて敵の海軍を打ち破った。", "title": "発明家としての評価" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ギリシア的学問は純粋に論理を展開することに美しさを見出して重視し、実利的・営利的な技術などの知識はむしろ軽蔑された。プルタルコスは『対比列伝』(「英雄伝」)にて、「彼(アルキメデス)は純粋なる思索にすべての愛情と大望を注ぎ、俗な実用的応用を論及したことは皆無だと言い切れる」と記したと書いた。(ただしソクラテスのように実利性があれば必要だとしても実利性ない学問は意味がないとする哲学者もいた。)", "title": "発明家としての評価" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "この2つの側面を併せ持つアルキメデスは、数学に限らずこの時代の学者としては異例な存在だった。しかし、この矛盾する2つの側面をアルキメデスは共存させながら、ピタゴラス的な数の概念とは大きく異なる「天文学的数字」を『砂の計算』で想定したり、現代の積分法に繋がる方法で面積を求めつつエウドクソスの方法で証明しなおしたりと、自己内に相克を見せた。だが、このような論理と技術の鬩ぎ合いは特に近代ヨーロッパ以降で表面化した数学の現象であり、それが数学を進歩させた原動力となった。アルキメデスが生きた時代にはこのような矛盾を孕んだ発展は望むべくも無く、彼以後のギリシア数学は形骸化した権威に沈んだ。", "title": "発明家としての評価" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "月の北緯25.3°西経4.6°には、アルキメデスの名を冠したクレーター「アルキメデス(英語版)」があり、小惑星「アルキメデス(英語版)」も彼の名に由来する。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "フィールズ・メダルはアルキメデスの横顔を意匠とし、その周囲にはラテン語で彼の言葉「羅: Transire suum pectus mundoque potiri」(Rise above oneself and grasp the world)が刻銘に使われている。そして裏面には、彼がその関係を発見した球と円柱が描かれている。アルキメデスの肖像は切手にも用いられ、スペイン(1963年)、ニカラグア(1971年)、ドイツ民主共和国(1973年)、サンマリノ(1982年)、ギリシア(1983年)、イタリア(1983年)と多くの国で使われた。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "アルキメデスの数学に関する記述は古代においてほとんど知られていなかった。アルキメデスの著述は古代シラクサで使われたギリシア語のドーリス方言(英語版)であった。ただし彼の著作はエウクレイデスのもの同様に原典は伝わっておらず、7つの論文は他者の参照などから判明しているに止まる。アルキメデスは存命中アレクサンドリアの数学者たちと交流を持っていた事も手伝い、この地ではアルキメデスの論説を引用した例があり、パップスは多面体の考察を通じてアルキメデスの失われた著作『On Sphere-Making』や他の思索に触れ、アレクサンドリアのテオンは屈折に関する言及の中でやはり失われた『Catoptrica』(反射光学)を参考にしている。", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "東ローマ帝国の建築家ミレトスのイシドロス(530年頃)はアルキメデスの著作を蒐集し、6世紀にアスカロンのエウトキオスが注釈を加えて世に知らしめた。その後、アルキメデスの仕事はサービト・イブン・クッラ(836年 – 901年)がアラビア語へ、クレモナのジェラルド(1114年 – 1187年)がラテン語へ翻訳した。ルネサンス期には1544年にヨハン・ヘルヴァーゲンが、ギリシア語とラテン語でアルキメデスの仕事を含む「最初の校訂版 (Editio Princeps)」をバーゼルで発刊した。多くの科学者にインスピレーションを提供する役目を持ち、1586年頃ガリレオ・ガリレイは、アルキメデスの仕事にヒントを得て空気と水で金属の重量を計測する天秤を開発した。", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "最も近年発見されたアルキメデスの著作は『アルキメデス・パリンプセスト』である。1906年、デンマーク人の教授ヨハン・ルーズヴィー・ハイベア(英語版)がコンスタンティノープルで1229年に完成した174ページの山羊皮紙の祈りの書を調査した際、それがパリンプセスト(一度書かれた文字のインクを削るなどの方法で消し、別な文字を上書きされたもの)であることを発見した。調査の結果、山羊皮紙にかつて書かれていた文章は、それまで知られていなかったアルキメデスの提議を10世紀に写したものと判明した。数百年コンスタンティノープルの修道院図書館に所蔵されていたこのパリンプセストは1920年代に民間へ売りに出され、1998年10月29日にはニューヨークのクリスティーズで競売に掛けられ、匿名の落札者が200万ドルで入手した。", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "その後、落札者は写本の情報をデータ化するため素粒子物理学者など多様な解読の協力者を集め解読プロジェクトを始めた。彼らは画像を撮るため、本の背の糊を取り除き解体し、礼拝時にろうそくを使用したため付着したろうも取り除き、断片を元の場所にあてがった。そしてさまざまに波長を変えた光を紙にあて画像を合成し、金箔でおおわれている部分については蛍光X線分析を行いインクに含まれる鉄成分の分布を調べた。", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "このパリンプセストは、唯一のオリジナルであるギリシア語で書かれた『浮体の原理』を含む7つの論文が写されていた。ここには、既に失われてしまったスーダ辞典を参照した『方法』についての唯一の情報があり、『ストマッキオン』も以前には発見されていなかった切断パズルがより完成度が高い解説つきで見つかった。他の4つは『平面の釣合について』『螺旋について』『円周の測定』『球と円柱について』である。合わせてヒュペレイデスの演説やアリストテレスの文章の注釈書も発見された。このパリンプセストは現在メリーランド州ボルチモアのウォルターズ美術館に保管され、隠された文字の全貌を明かそうと、紫外線やX線照射など先端技術を用いた研究が行われている。", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "円の性質について15の提議が書かれたアルキメデスの『補助定理集(英語版)』(Book of LemmasまたはLiber Assumptorum) は、アラビア語で書かれた写しが知られている。古典学者のT.L.ヒース(英語版)とマーシャル・クラーゲット(英語版)は、現在確認できるこれらの書がアルキメデスの著作をそのまま伝えているとは考えにくいと主張し、他の人物が引用しながら変更されたものだと述べた。そして、この元になった考察はアルキメデスの初期の著述であり、これは失われていると述べた。", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "また、三角形の面積を求めるヘロンの公式もアルキメデスの発案に源泉があるとも唱えられた。しかし、この公式について信頼に足る証拠は1世紀にアレクサンドリアのヘロンが提唱したものしか無い。", "title": "著作" } ]
アルキメデスは、古代ギリシアの数学者、物理学者、技術者、発明家、天文学者。古典古代における第一級の科学者という評価を得ている。
{{Otheruses|古代ギリシアの科学者|その他}} {{Infobox scientist | name = シラクサのアルキメデス<br>{{lang-el-short|Ἀρχιμήδης}} | image = Retrato de un erudito (¿Arquímedes?), por Domenico Fetti.jpg | caption = [[ドメニコ・フェッティ]]1620年画<br/>『Archimedes Thoughtful』 | birth_date = [[紀元前287年]]頃 | birth_place = [[シチリア島]]・[[シラクサ]]<br />([[マグナ・グラエキア]]の自治[[古代の植民都市|植民都市]]) | death_date = [[紀元前212年]](75歳前後) | death_place = [[シチリア島]]・[[シラクサ]] | cause of death = Killed By Roman Soldiers at the battle of Syracuse | residence = [[シチリア島]]・[[シラクサ]] | ethnicity = [[ギリシア]] | field = [[数学]]、[[物理学]]、[[工学]]、[[天文学]]、[[発明]] | known_for = [[アルキメデスの原理]]、[[アルキメディアン・スクリュー]]、[[流体静力学]]、 [[てこ]]、[[無限小]] }} '''アルキメデス'''(Archimedes、{{lang-el-short|Ἀρχιμήδης}}、[[紀元前287年]]? - [[紀元前212年]])は、[[古代ギリシア]]の[[数学者]]、[[物理学者]]、[[技術者]]、[[発明家]]、[[天文学者]]。[[古典古代]]における第一級の[[科学者]]という評価を得ている。 == 生涯 == [[Image:Gerhard Thieme Archimedes.jpg|thumb|right|[[ベルリン]]の[[アルヒェンホルト天文台]]にあるアルキメデスの[[ブロンズ]]像。ゲルハルト・ゲルダ作、1972年公開]] アルキメデスの生涯は、彼の死後長い年月が過ぎてから[[古代ローマ]]の歴史家たちによって記録されたため、判然としない部分が多い。友人の[[ヘラクレイデス]]が、彼の伝記を書き残したといわれるが、散佚したため断片しか伝わっていない。しかし、没年については例外的に正確にわかっている。これは、彼がローマ軍のシラクサ攻囲戦の中で死んだことが、故事の記述からわかっているからである。彼の生年は分かっていないため、没年から逆算して求められたものである。 シラクサ攻囲を記した[[ポリュビオス]]の『[[普遍史]]』には、70年前のアルキメデスの死が記されており、これは[[プルタルコス]]や[[ティトゥス・リウィウス]]が引用している。この書では、アルキメデス個人についても若干触れ、街を防衛するために彼が武器を製作したことも言及している<ref>{{cite web|url=http://www.math.nyu.edu/~crorres/Archimedes/Siege/Polybius.html|title=Siege of Syracuse|accessdate=2007-07-23|publisher=クーラン数理科学研究所|language=英語|first=Chris|last=Rorres}}</ref>。 アルキメデスは紀元前287年頃、[[マグナ・グラエキア]]の自治[[古代の植民都市|植民都市]]である[[シチリア|シケリア(シチリア)島]]の[[シラクサ]]で生まれた。この生年は、{{Ill|ビサンチン時代のギリシア|en|Byzantine Greeks}}の歴史家{{Ill|イオニアス・セツィス|en|John Tzetzes}}が主張した、アルキメデスは満75歳で没したという意見から導かれている<ref>{{ill|T.L.ヒース|en|T. L. Heath}}, ''Works of Archimedes'', 1897年</ref>。『[[砂粒を数えるもの|砂の計算]]』の中でアルキメデスは、父親を無名の天文学者<ref name = "Osakakyo-u" />「ペイディアス<ref name="Mie-u">{{Cite web|和書|url=http://kanielabo.org/mybook/humanind/jinmei_a.htm#Archimedes|title=人名索引 あい アルキメデス|accessdate=2010-07-03|author=TOSM三重|publisher=[[三重大学]]|language=日本語}}</ref> (Phidias)」と告げている。[[プルタルコス]]は著書『[[対比列伝]]』にて、シラクサを統治していた[[ヒエロン2世]]の縁者だったと記している<ref>{{cite web|url=http://www.gutenberg.org/etext/674|title=''Parallel Lives'' Complete e-text from Gutenberg.org|accessdate=2007-07-23|author=[[プルタルコス]]|publisher=[[プロジェクト・グーテンベルク]]|language=英語| name| lives}}</ref>。アルキメデスは、[[サモスのコノン]]や[[エラトステネス]]がいた[[古代エジプト|エジプト]]の[[アレクサンドリア]]で学問を修めた可能性がある<ref name = "Mie-u" />。アルキメデスはサモスのコノンを友人と呼び、『{{Ill|幾何学理論|en|The Method of Mechanical Theorems}}』(アルキメデスの無限小)や『[[アルキメデスの牛の問題|牛の問題]]』にはエラトステネスに宛てた序文がある{{Efn|アルキメデスは『螺旋について』にてペルシウムのドシセオスに宛てた序文を載せているが、そこで彼は「コノンが亡くなってから何年もが過ぎた」と書いている、サモスのコノンは紀元前280年から紀元前220年を生き、この言葉はアルキメデスが著作を書いた時は晩年だった可能性を示す。}}。 === 死亡 === [[Image:Archimedes sphere and cylinder.svg|thumb|right|[[球体|球]]と、外接する[[円柱 (数学)|円柱]]との体積および表面積の比は、いずれも2対3。アルキメデスの墓標はこの球と円柱の形で作られた。]] アルキメデスは紀元前212年、[[第二次ポエニ戦争]]でローマの将軍[[マルクス・クラウディウス・マルケッルス]]がシラクサを占領した時に死んだ。 アルキメデスの評判を知っていたマルケッルスは、彼には危害を加えないよう命令を出したが、自宅にローマ兵が入ってきた時、アルキメデスは砂盤{{efn|紙も鉛筆もない時代、浅い箱に砂を入れ、字や図が描けるようにした道具}}に描いた<ref name = "Osakakyo-u" />{{Ill|数学図形|en|Mathematical diagram|label=図形}}の上にかがみこんで、何か考えこんでいた。アルキメデスの家とは知らないローマ兵が名前を聞いたが、没頭していた彼が無視したので、兵士は腹を立てて彼を殺した<ref name="Math">[[プルタルコス]]の説による{{Cite book|和書|author=森毅|authorlink=森毅|title=数学の歴史|edition=第12刷|date=1994年(初版1988年)|publisher=[[講談社]]学術文庫|pages=45-50|isbn=4-06-158844-3}}。これとは別に、プルタルコスはアルキメデスが製図器械を運んでいたところ、これを何か価値のあるものと見たローマ兵が奪おうとし、抵抗したため殺されたとする説も伝えている。</ref>という。 アルキメデス最期の言葉は「私の円をこわすな!({{Ill|Noli turbare circulos meos!|en|Noli turbare circulos meos!}})」とされる。マルケッルスは命令に反してアルキメデスが殺されたことに苦しんだと伝わる<ref>({{lang-el-short|μή μου τούς κύκλους τάραττε}}、{{lang-la-short|Noli turbare circulos meos}}、{{lang-en-short|Do not disturb my circles}}){{cite web|url=http://www.math.nyu.edu/~crorres/Archimedes/Death/Histories.html|title=Death of Archimedes: Sources|accessdate=2007-01-02|publisher={{ill|クーラン数理科学研究所|en|Courant Institute of Mathematical Sciences}}|language=英語|first=Chris|last=Rorres}}(円を乱すな)。しかし、この俗説はプルタルコスの記述の中に見出せない</ref>。 アルキメデスの[[墓]]は、彼自身が好んだ数学的証明を題材に選ばれ、同じ径と高さを持つ球と円筒のデザインがなされたと伝わっていた。彼が亡くなってから137年後の紀元前75年、ローマの{{Ill|雄弁家|en|Orator}}[[マルクス・トゥッリウス・キケロ]]が[[クァエストル]]として[[シチリア]]に勤めていた頃、アルキメデスの墓について聞いた。場所は伝わっていなかったが、彼は探した末にシラクサのAgrigentine門の近く、低木が繁る省みられない場所に墓を見つけ出した。キケロが墓を清掃させたところ、彫刻がはっきり分かるようになり、詩を含む碑文も見出せるようになった<ref>{{cite web|url=http://www.math.nyu.edu/~crorres/Archimedes/Tomb/Cicero.html|title=Tomb of Archimedes: Sources|accessdate=2007-01-02|publisher=クーラン数理科学研究所|language=英語|first=Chris|last=Rorres}}</ref>。 == 発見と発明 == [[Image:Archimede bain.jpg|thumb|right|180px|風呂場で「アルキメデスの原理」を考えつく]] [[Image:Archimedes water balance.gif|thumb|right|180px|アルキメデスは[[浮力]]の原理を用いて黄金の王冠が純金よりも[[密度]]が低いか否か判断したと言われる。]] === 黄金の王冠 === 最も広く知られたアルキメデスの[[逸話|エピソード]]は、「[[アルキメデスの原理]]」を思いついた経緯である。[[ヒエロン2世]]は[[金細工職人]]に[[金]]塊を渡して、神殿に奉納するための{{Ill|誓いの王冠|en|Votive crown}}を作らせることにした。しかし王冠が納品された後、ヒエロン王は金細工師が金を盗み、その重量分の銀{{Efn|鉛を混ぜたとする資料もある。}}を混ぜてごまかしたのではないかと疑いだした。 もし金細工師が金を盗み、金より軽い銀で混ぜ物をしていれば、王冠の重さは同じでも、体積はもとの金地金より大きい。しかし体積を再確認するには王冠をいったん溶かし、体積を計算できる単純な立方体にしなくてはならなかった。困った王はアルキメデスを呼んで、王冠を壊さずに体積を測る方法を訊いた<ref>{{cite web|url=http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Vitruvius/9*.html|title=''De Architectura'', Book IX, paragraphs 9–12, text in English and Latin|accessdate=2007-08-30|author=[[ウィトルウィウス]]|publisher=[[シカゴ大学]]|language=英語|deadlinkdate=2020-09-03}}</ref>。アルキメデスもすぐには答えられず、いったん家に帰って考えることにした。 何日か悩んでいたアルキメデスはある日、風呂に入ることにした。浴槽に入ると水面が高くなり、水が縁からあふれ出した。これを見たアルキメデスは<ref>水は圧縮では容易に減容しない {{cite web|url=http://www.fas.harvard.edu/~scdiroff/lds/NewtonianMechanics/IncompressibilityofWater/IncompressibilityofWater.html|title=Incompressibility of Water|accessdate=2008-02-27|author=|publisher=[[ハーバード大学]]|language=英語|deadlinkdate=2020-09-03}}</ref>、王冠を水槽に沈めれば、同じ体積分だけ水面が上昇することに気がついた。王冠の体積と等しい、増えた水の体積を測れば、つまり王冠の体積を測ることができる。ここに気がついたアルキメデスは、服を着るのを忘れて表にとびだし「[[Eureka|ヘウレーカ]]({{lang|grc|ηὕρηκα!}})、ヘウレーカ!(わかった! わかったぞ!)」と叫びながら、裸のままで通りをかけだした。確認作業の結果、王冠に銀が混ざっていることが確かめられ<ref>{{cite web|url=http://hyperphysics.phy-astr.gsu.edu/Hbase/pbuoy.html|title=Buoyancy|accessdate=2007-07-23|author=[[:en:HyperPhysics|HyperPhysics]]|publisher=[[ジョージア州立大学]]|language=英語}}</ref>、不正がばれた金細工師は、死刑にされた。 この黄金の冠の話は、伝わっているアルキメデスの著作には見られず、アルキメデスが没してから約200年後、[[ウィトルウィウス]]が著した文献『[[デ・アーキテクチュラ]]』に記述されているエピソードである<!--「戦争と科学者」トマス・J・クローウェル著 原書房-->。さらに、比重が大きい金の体積をこの方法で調べようとしても、水位変動が小さいため測定誤差を無視できないという疑問も提示されている<ref name="inaccuracy">{{cite web|url=http://www.math.nyu.edu/~crorres/Archimedes/Crown/CrownIntro.html|title=The Golden Crown|accessdate=2009-03-24|publisher=[[ドレクセル大学]]|language=英語|first=Chris|last=Rorres}}</ref>。実際には、アルキメデスは自身が論述『浮体の原理』で主張した、今日[[アルキメデスの原理]]と呼ばれる[[流体静力学]]上の原理を用いて解決したのではと考えられる。この原理は、物質を流体に浸した際、それは[[排水量|押し退ける流体]]の[[重さ|重量]]と等しい[[浮力]]を得ることを主張する<ref>{{cite web|url=http://www.physics.weber.edu/carroll/Archimedes/principle.htm|title=''Archimedes' Principle''|accessdate=2007-07-23|publisher={{ill|ウェーバー州立大学|en|Weber State University}}|language=英語|first=Bradley W|last=Carroll}}</ref>。この事実を利用し、[[天秤ばかり|天秤]]の一端に吊るした冠と釣り合う質量の金をもう一端に吊し、冠と金を水中に浸ける。もし冠に混ぜ物があって比重が低いと体積は大きくなり、押し退ける水の量が多くなるため冠は金よりも浮力が大きくなるので、空中で釣り合いのとれていた天秤は冠側を上に傾くことになる。[[ガリレオ・ガリレイ]]もアルキメデスはこの浮力を用いる方法を考え付いていたと推測している<ref name="inaccuracy" />。 === アルキメディアン・スクリュー === {{main|アルキメディアン・スクリュー}} [[Image:Archimedes-screw one-screw-threads with-ball 3D-view animated small.gif|thumb|left|[[アルキメディアン・スクリュー]]は効率的な揚水に威力を発揮する。]] 工学分野におけるアルキメデスの業績には、彼の生誕地であるシラクサに関連する。ギリシア人著述家の[[アテナイオス]]が残した記録によると、ヒエロン2世はアルキメデスに観光、運輸、そして海戦用の巨大な船「{{Ill|シュラコシア号|en|Syracusia}}」 の設計を依頼したという<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hs.osakafu-u.ac.jp/~ken.saito/archimedes.html|title=『よみがえる天才アルキメデス』のページ|accessdate=2010-07-10|author=斉藤憲|publisher=[[大阪府立大学]]人間社会学部|language=日本語|deadlinkdate=2020-09-03}}</ref>。シュラコシア号は古代ギリシア・ローマ時代を通じて建造された最大の船で<ref>{{cite book|last=Casson|first=Lionel|title=''Ships and Seamanship in the Ancient World''|date=1971年|publisher=Princeton University Press|location=|authorlink=|coauthors=|isbn=0691035369}}</ref>、アテナイオスによれば搭乗員数600、船内に[[庭園]]や[[ギュムナシオン]]、さらには[[女神]][[アプロディーテー]]の神殿まで備えていた。この規模の船になると浸水も無視できなくなるため、アルキメデスは'''[[アルキメディアン・スクリュー]]'''と名づけられた装置を考案し、溜まった水を掻き出す工夫を施した。これは、円筒の内部にらせん状の板を設けた構造で、これを回転させると低い位置にある水を汲み上げ、上に持ち上げることができる。アルキメディアン・スクリューは、ねじ構造を初めて機械に使用した例として知られている。<ref>[[ねじ]]の歴史</ref>。ウィトルウィウスは、この機構は[[バビロンの空中庭園]]を[[灌漑]]するためにも使われたと伝える<ref>{{cite web|url=https://muse.jhu.edu/article/40151|title=''Sennacherib, Archimedes, and the Water Screw: The Context of Invention in the Ancient World''|accessdate=2007-07-23|author=Dalley, Stephanie. Oleson, John Peter|publisher=''Technology and Culture'' Volume 44, Number 1, January 2003 (PDF)|language=英語}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.cs.drexel.edu/~crorres/Archimedes/Screw/optimal/optimal.html|title=Archimedes screw - Optimal Design|accessdate=2007-07-23|author=Rorres, Chris|publisher=Courant Institute of Mathematical Sciences|language=英語}}</ref>。現代では、このスクリューは液体だけでなく[[石炭]]の粒など固体を搬送する手段にも応用されている。 === アルキメデスの鉤爪 === [[File:Parigi griffe.jpg|thumb|left|90px]] '''{{仮リンク|アルキメデスの鉤爪|en|Claw of Archimedes}}'''とは、シラクサ防衛のために設計された兵器の一種である。「シップ・シェイカー」(the ship shaker) とも呼ばれるこの装置は、[[クレーン]]状の腕部の先に吊るされた金属製の鉤爪を持つ構造で、この鉤爪を近づいた敵船に引っ掛けて腕部を持ち上げることで船を傾けて転覆させるものである。2005年、ドキュメント番組『Superweapons of the Ancient World』でこれが製作され、実際に役に立つか検証してみたところ、クレーンは見事に機能した<ref>{{cite web|url=http://www.math.nyu.edu/~crorres/Archimedes/Claw/illustrations.html|title=Archimedes' Claw - Illustrations and Animations - a range of possible designs for the claw|accessdate=2007-07-23|publisher=クーラン数理科学研究所|language=英語|first=Chris|last=Rorres}}</ref><ref>{{cite web|url=http://physics.weber.edu/carroll/Archimedes/claw.htm|title=Archimedes' Claw - watch an animation|accessdate=2007-08-12|publisher=Weber State University|language=英語|first=Bradley W|last=Carroll}}</ref>。 [[Image:Archimedes Heat Ray conceptual diagram.svg|thumb|right|アルキメデスは海岸に複数の[[鏡]]を並べて{{ill|放物面反射器|en|Parabolic reflector}}として太陽光線を集め、シラクサを攻撃する洋上の船に火災を起こしたという説がある。]] === 「アルキメデスの熱光線」は嘘か真実か === 2世紀の著述家[[ルキアノス]]は、紀元前214年-紀元前212年の[[シュラクサイ包囲戦 (紀元前214年-紀元前212年)|シラクサ包囲]]の際にアルキメデスが敵船に火災を起こして撃退したという説話を記している。数世紀後、[[トラレスのアンテミオス]]はアルキメデスの兵器とは[[収れん火災|太陽熱取りレンズ]]だったと叙述した<ref>''Hippias'', 2 (cf. [[ガレノス]], ''On temperaments'' 3.2, who mentions ''pyreia'', "torches"); [[トラレスのアンテミオス]], ''On miraculous engines'' 153 [Westerman].</ref>。これは太陽光線をレンズで集め、[[焦点 (光学)|焦点]]を敵艦に合わせて火災を起こしていたもので「'''アルキメデスの熱光線'''」と呼ばれたという。 このようなアルキメデスの兵器についての言及は、その事実関係が[[ルネサンス]]以降に議論された。[[ルネ・デカルト]]は否定的立場を取ったが、当時の科学者たちはアルキメデスの時代に実現可能な手法で検証を試みた<ref>{{cite web|url=http://wesley.nnu.edu/john_wesley/wesley_natural_philosophy/duten12.htm|title=''A Compendium of Natural Philosophy'' (1810) Chapter XII, ''Burning Glasses''|accessdate=2007-09-14|author=[[ジョン・ウェスレー]]|publisher=Online text at Wesley Center for Applied Theology|language=英語|last=|deadlinkdate=2020-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20071012154432/http://wesley.nnu.edu/john_wesley/wesley_natural_philosophy/duten12.htm|archivedate=2007-10-12}}</ref>。その結果、念入りに磨かれた[[青銅]]や[[銅]]の盾を鏡の代用とすると太陽光線を標的の船に集めることができた。これは、[[太陽炉]]と同様に[[放物面鏡|放物面反射器]]の原理を利用したものと考えられた。1973年にギリシアの科学者イオアニス・サッカスが[[アテネ]]郊外の{{Ill|スカラガマス|en|Skaramagas}}海軍基地で実験を行った。縦5フィート(約1.5m)横3フィート(約1メートル)の銅で皮膜された鏡70枚を用意し、約160フィート(約50m)先のローマ軍艦に見立てた[[合板|ベニヤ板]]製の実物大模型に太陽光を集めたところ、数秒で船は炎上した。ただし、模型には[[乾留液|タール]]が塗られていたため、実際よりも燃えやすかった可能性は否定できない<ref>{{cite web|url=http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,908175,00.html|title=Archimedes' Weapon|accessdate=2007-08-12|date=November 26, 1973|publisher=[[タイム (雑誌)|タイム誌]]|language=英語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080307165621/http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,908175,00.html|archivedate=2008-05-07|deadlinkdate=2020年9月}}</ref>。 2005年10月、[[マサチューセッツ工科大学]] (MIT) の学生グループは一辺1フィート(約30cm)の四角い鏡127枚を用意し、木製の模型船に100フィート(約30m)先から太陽光を集中させる実験を行った。やがて斑点状の発火が見られたが、空が曇り出したために10分間の照射を続けたが船は燃えなかった。しかし、この結果から気象条件が揃えばこの手段は兵器として成り立つと結論づけられた。MITは同様な実験をテレビ番組『[[怪しい伝説]]』と協同し[[サンフランシスコ]]で木製の漁船を標的に行われ、少々の黒こげとわずかな炎を発生させた<ref>{{Cite web|和書|url=http://japan.discovery.com/mythbusters/myt00004.html|title=怪しい伝説実験ハイライト映像 鏡と太陽の光で船が炎上?|accessdate=2010-07-03|publisher=Discovery Channel Japan|language=日本語|deadlinkdate=2020年9月}}</ref>。しかし、シラクサは東岸で海に面しているため、効果的に太陽光を反射させる時間は朝方に限られてしまう点、同じ火災を起こす目的ならば実験を行った程度の距離では火矢やカタパルトで射出する太矢の方が効果的という点も指摘された<ref name="death ray">{{cite web|url=http://web.mit.edu/2.009/www//experiments/deathray/10_Mythbusters.html|title=Archimedes Death Ray: Testing with MythBusters|accessdate=2007-07-23|author=|publisher=[[マサチューセッツ工科大学]]|language=英語}}</ref>。 === その他 === [[てこ]]について記述した古い例は、[[アリストテレス]]の流れを汲む[[逍遙学派]]や[[アルキタス]]に見られる<ref name="lever rorres">{{cite web|url=http://www.math.nyu.edu/~crorres/Archimedes/Lever/LeverLaw.html|title=The Law of the Lever According to Archimedes|accessdate=2010-03-20|publisher=クーラン数理科学研究所|language=英語|first=Chris|last=Rorres}}</ref><ref name="lever clagett">{{cite book |first=Marshall |last=Clagett |title = Greek Science in Antiquity| publisher = Dover Publications |isbn=0486419738 }}</ref>が、アルキメデスは『平面の釣合について』において、てこの原理を説明している。4世紀のエジプトの数学者[[パップス]]は、アルキメデスの言葉「私に支点を与えよ。そうすれば地球を動かしてみせよう。({{lang-el-short|δῶς μοι πᾶ στῶ καὶ τὰν γᾶν κινάσω}})」を引用して伝えた<ref>[[パップス]]『Synagoge』, Book VIII、引用部分</ref>。[[プルタルコス]]は、船員が非常に重い荷物を運べるようにするためにアルキメデスがブロックと[[滑車]]機構をどのように設計したかを述べた<ref>{{cite web|url=http://www.swe.org/iac/lp/pulley_03.html|title=Pulleys|accessdate=2007-07-23|author=Dougherty, F. C.; Macari, J.; Okamoto, C.|publisher={{ill|女性科学者の会|en|Society of Women Engineers}}|language=英語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080720150536/http://www.swe.org/iac/lp/pulley_03.html|archivedate=2008-7-20|deadlinkdate=2020年9月}}</ref>。また、アルキメデスは[[第一次ポエニ戦争]]の際に[[カタパルト (投石機)|カタパルト]]の出力や精度を高める工夫や、[[オドメーター]](距離計)も発明した。オドメーターは歯車機構を持つ荷車で、決まった距離を走る毎に球を箱に落として知らせる構造を持っていた<ref>{{cite web|url=http://www.tmth.edu.gr/en/aet/5/55.html|title=Ancient Greek Scientists: Hero of Alexandria|accessdate=2007-09-14|publisher=テッサロニキ科学博物館(Technology Museum of Thessaloniki)|language=英語|first=|last=|deadlinkdate=2020年9月}}</ref>。 マルクス・トゥッリウス・キケロは[[対話篇]]『[[国家について|国家論]]』にて紀元前129年にあった逸話を採録している。紀元前212年にシラクサを占領した将軍マルクス・クラウディウス・マルケッルスは、2台の機器をローマに持ち帰った。これは、太陽と月そして5惑星の運行を模倣する[[天文学]]用機器であり、キケロは[[タレス]]や[[エウドクソス]]が設計した同様の機器にも触れている<ref name="Cicero">{{Cite web|和書|url=http://fusehime.c.u-tokyo.ac.jp/gottschewski/musica/1F/Archimedes.html|title=古代の機械と音楽 アルキメデスのプラネタリウム、キケロ著「国家について」岡道夫訳『キケロー選集』岩波書店、第8巻、p23-24引用部分|accessdate=2010-07-03|author=[[マルクス・トゥッリウス・キケロ]]、岡道夫訳|publisher=[[東京大学]]駒場博物館|language=日本語}}</ref>。問答では、マルケッルスは独自のルートを経由しシラクサから持ち帰って1台を手元に留め、もう1台はローマの美徳の神殿 (ヴィルトゥースの神殿、Temple of Virtue) に寄贈した。キケロは、マルケッルスの機器について[[ガイウス・スルピキウス・ガッルス (紀元前166年の執政官)|ガイウス・スルピキウス・ガッルス]]が[[ルキウス・フリウス・ピルス]]に説明する下りを残している<ref name ="Cicero" />。 {{quote|Hanc sphaeram Gallus cum moveret, fiebat ut soli luna totidem conversionibus in aere illo quot diebus in ipso caelo succederet, ex quo et in caelo sphaera solis fieret eadem illa defectio, et incideret luna tum in eam metam quae esset umbra terrae, cum sol e regione. <br/>訳:ガルスが球を動かすと、天空に見立てた青銅製の装置上で何度も回転が起り、月が太陽を追った。そして月と太陽が一直線に並ぶところでは月の影が地球に落ち、日食が再現された<ref name ="Cicero" /><ref>{{cite web | title = ''De re publica'' 1.xiv §21|author= [[マルクス・トゥッリウス・キケロ]]| publisher =thelatinlibrary.com | url = http://www.thelatinlibrary.com/cicero/repub1.shtml#21|language=英語|accessdate=2007-07-23}}</ref><ref>{{cite web|title =''De re publica'' Complete e-text in English from Gutenberg.org|author=マルクス・トゥッリウス・キケロ | publisher = プロジェクト・グーテンベルク|url= http://www.gutenberg.org/etext/14988|language=英語|accessdate=2007-09-18}}</ref>。}} これはまさに[[プラネタリウム]]<ref name = "Mie-u" />か[[太陽系儀]]の説明である<ref name ="Cicero" />。アレクサンドリアのパップスは、現代では失われたアルキメデスの原稿『{{ill|On Sphere-Making|en|On Sphere-Making}}』でこれら機器の設計について触れていると述べた。近年、[[アンティキティラ島の機械]]やギリシア・ローマの古典時代に同じ目的で製作された機械類の研究が行われている。これらは、以前は[[オーパーツ]]視されていたが、1902年に発見されたアンティキティラ島の機械を通じて、古代ギリシア時代には機構の重要部分に当たる[[差動装置]]の技術は充分に実用可能な域に達していたと確認された<ref>{{cite web|url=http://www.math.nyu.edu/~crorres/Archimedes/Sphere/SphereIntro.html|title=Spheres and Planetaria|accessdate=2007-07-23|publisher=クーラン数理科学研究所|language=英語|first=Chris|last=Rorres}}</ref><ref>{{cite web|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/sci/tech/6191462.stm|title=Ancient Moon 'computer' revisited|accessdate=2007-07-23|author=|date=November 29, 2006|publisher=[[BBC]] News|language=英語}}</ref>。 == 数学== アルキメデスはまた[[数学]]の分野にも大きな貢献を残した。[[級数]]を[[放物線]]の[[面積]]、[[円周率]]の計算に用いた他、[[代数螺旋]]の定義<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.cuc.ac.jp/~minohara/lecture/sfc/java2003/chapter11.pdf|title=Chapter11.グラフィックスと計算 11-2-5.螺旋(らせん)を描く|accessdate=2010-07-02|format=PDF|publisher=[[慶應義塾大学]]|language=日本語|author=箕原辰夫}}</ref>、[[回転面]]の[[体積]]の求め方や、大数の記数法も考案している<ref name="Osakakyo-u">{{Cite web|和書|url=http://okumedia.cc.osaka-kyoiku.ac.jp/~masako/exp/hare/arukimedesu.htm|title=アルキメデス Archimedes(前287-前212頃)|accessdate=2010-07-02|author=尾山(立川)貴子|publisher=[[大阪教育大学]]種村研究室|language=日本語}}</ref>。彼が物理学にもたらした革新は[[流体静力学]]の基礎となり、[[静力学]]の考察は[[てこ]]の本質を説明した。 [[Image:Archimedes pi.svg|thumb|right|アルキメデスは[[取り尽くし法]]を駆使して[[円周率]]を求めた。]] アルキメデスは、現代で言う[[積分法]]と同じ手法で[[無限小]]を利用していた。[[背理法]]を用いる彼の証明では、解が存在するある範囲を限定することで任意の精度で解を得ることができた。これは[[取り尽くし法]]の名で知られ、[[円周率|円周率π(パイ)]]の近似値を求める際に用いられた。アルキメデスは、ひとつの円に対し[[外接]]する[[正多角形]]と、円に[[内接図形|内接]]する正多角形を想定した。この2つの正多角形は辺の数を増やせば増やす程、円そのものに近似してゆく。アルキメデスは正96角形を用いて円周率を試算し、ふたつの正多角形からこれは3{{frac|1|7}}(約3.1429)と3{{frac|10|71}}(約3.1408)の間にあるという結果を得た<ref name="it-HiroshimaKo">{{Cite web|和書|url=http://www.eds.it-hiroshima.ac.jp/koyama/01sem.pdf|title=アルキメデスに倣って円周率を計算する|accessdate=2010-07-03|author=小山哲也|format=PDF|publisher=[[広島工業大学]]工学部|language=日本語}}</ref>。また彼は、[[円の面積]]は[[半径]]でつくる[[正方形]]に円周率を乗じた値に等しいことを証明した。『球と円柱について』では、任意の2つの[[実数]]について、一方の実数を何度か足し合わせる(ある自然数を掛ける)と、必ずもうひとつの実数を上回ることを示し、これは'''実数における[[アルキメデスの性質]]'''と呼ばれる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.math.titech.ac.jp/~inoue/EAI-07holder/EAI-07.4.19.pdf|title=微分積分学第一 1類M組第2回講義内容|accessdate=2010-07-03|author=井上淳|format=PDF|publisher=[[東京工業大学]]大学院理工学研究科 数学専攻|language=英語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111210012209/http://www.math.titech.ac.jp/~inoue/EAI-07holder/EAI-07.4.19.pdf|archivedate=2011-12-10|deadlinkdate=2020年9月}}</ref><ref>{{cite web|url=http://web.mat.bham.ac.uk/R.W.Kaye/seqser/archfields|title=Archimedean ordered fields|accessdate=2009-11-07|author=R.W. Kaye|publisher=web.mat.bham.ac.uk|language=英語}}</ref>。 『円周の測定』にてアルキメデスは3の[[平方根]]を{{frac|265|153}}(約1.7320261)と{{frac|1351|780}}(約1.7320512)の間と導いた。実際の3の平方根は約1.7320508であり、これは非常に正確な見積もりだったが、アルキメデスはこの結果を導く方法を記していない。[[ジョン・ウォリス]]は、アルキメデスは結論だけを示し、後世に対して方法をそこから引き出させようとしたのではと考察している<ref>Quoted in T. L. Heath, ''Works of Archimedes'', Dover Publications, ISBN 0-486-42084-1.</ref>。 球の体積は無限小・積分を用いることで公式を発見した<ref>{{Cite web|和書|title=数学トピックQ&A|url=https://www.shinko-keirin.co.jp/keirinkan/kosu/mathematics/qanda/04-07.html|website=www.shinko-keirin.co.jp|accessdate=2020-09-02}}</ref>。また球の表面積は無限小・積分・[[カヴァリエリの原理]]を用いることで公式を同じ高さの円柱の側面の表面積と等しいことを示した。 [[Image:Parabolic segment and inscribed triangle.svg|thumb|アルキメデスの立証では、上図にある直線で区切られた[[放物線]]の面積は、下図にある内接する三角形の面積の4/3倍に等しくなる。]] 『[[放物線の求積法]]』でアルキメデスは、放物線が直線で切られた部分の面積が、放物線と直線の{{仮リンク|交点 (数学)|en|Intersection|label=交点}}と直線と平行な接線が接触する3点を頂点とする[[三角形]]の面積の{{frac|4|3}}倍になることを証明した。これは、[[無限級数]]と公比を用いる。最初の三角形の面積を1とし、この三角形の2辺を[[割線]]とし、放物線の隙間に同様な手段で2つの新しい三角形を想定すると、この面積の和は1/4となる。これを無数に繰り返して放物線の切片を取り尽くすと、面積は、 :<math>\sum_{n=0}^\infty 4^{-n} = 1 + 4^{-1} + 4^{-2} + 4^{-3} + \cdots = {4\over 3}. \;</math> となる<ref name="Kyushu-uNii">{{Cite web|和書|url=http://www2.math.kyushu-u.ac.jp/~snii/Calculus-half/5-11.pdf|title=アルキメデスによる放物線の求積|accessdate=2010-07-02|author=新居俊作|format=PDF|publisher=[[九州大学]]大学院数理学研究院|language=日本語|deadlinkdate=2020年9月}}</ref><ref name="Tsukuba">{{Cite web|和書|url=https://math-info.criced.tsukuba.ac.jp/Forall/project/history/2003/planimeter/doc/day1.pdf |title=求績のはなし |accessdate=2022-03-05 |author=奥山洋士 |format=PDF |publisher=[[筑波大学]]数学教育研究室 |language=日本語 |website=代数・幾何・微積 For All プロジェクト |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210227033424/https://math-info.criced.tsukuba.ac.jp/Forall/project/history/2003/planimeter/doc/day1.pdf |archivedate=2021-02-27}}</ref>。 『[[砂粒を数えるもの|砂の計算]]』では、アルキメデスは[[宇宙空間]]を[[砂]]ですべて充填するとした時、果たして何粒が必要かという試算に挑んだ。{{Ill|ジェーロ王|en|Gelo, son of Hiero II|label=}}(ヒエロン2世の息子)を始めそのような数は無限と言える膨大なものとしか捉えられない中、アルキメデスは{{Ill|ミリアド (単位)|en|Myriad|label=ミリアド}}({{lang-el-short|μυριάς}})という古代ギリシアで10,000を表す単位を元に大数単位を設定し、最終的に宇宙を埋める砂の数は 10<sup>63</sup>(1000[[那由他]])を超えないと結論づけた<ref name="waterloo">{{cite web|url=http://www.math.uwaterloo.ca/navigation/ideas/reckoner.shtml|title=English translation of ''The Sand Reckoner''|accessdate=2007-07-23|author=|publisher=[[ウォータールー大学]]|language=英語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200726085045/http://www.math.uwaterloo.ca/navigation/ideas/reckoner.shtml|archivedate=2020-07-26|deadlinkdate=2020-09}}</ref>。 また、ゼロの対極にある[[集合|無限集合]]の概念に、到達していたらしいという新しい資料が発見されている。 == 発明家としての評価 == 彼は革新的な[[機械]][[設計]]にも秀で、攻城兵器<!--<ref>{{cite web|url=http://www.maruzen.co.jp/home/irn/topics/2005_K5.pdf|title=Maruzen’s Rare Books Catalogue 2005|accessdate=2010-07-02|author=|format=PDF|publisher=[[丸善]]|language=日本語|chapter=151 ウィトルウィウス「建築十書」伊訳初版1521年コモ刊}}</ref>-->や彼の名を冠した[[アルキメディアン・スクリュー]]などでも知られる。また、数々の[[武器]]を考案したことでも知られ、[[シュラクサイ包囲戦 (紀元前214年-紀元前212年)|シラクサの戦い]]において、てこを利用した投石機を用いて敵の海軍を打ち破った。 ギリシア的学問は純粋に論理を展開することに美しさを見出して重視し、実利的・営利的な技術などの知識はむしろ軽蔑された。[[プルタルコス]]は『対比列伝』(「英雄伝」)にて、「彼(アルキメデス)は純粋なる思索にすべての愛情と大望を注ぎ、俗な実用的応用を論及したことは皆無だと言い切れる」{{Efn|原文:He placed his whole affection and ambition in those purer speculations where there can be no reference to the vulgar needs of life.}}と記した<ref>{{Cite|和書|author=野崎昭弘|author2=何森仁|author3=伊藤潤一|author4=小沢健一|title=微分・積分の意味がわかる|date=2000|publisher=ベレ出版|isbn=4939076490|series=数学の風景が見える|ref=harv}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://fulltextarchive.com/pages/Plutarch-s-Lives10.php#p35|title=対比列伝|accessdate=2009-08-10|author=[[プルタルコス]]|publisher=fulltextarchive.com|language=英語}}</ref>と書いた。(ただし[[ソクラテス]]のように実利性があれば必要だとしても実利性ない学問は意味がないとする哲学者もいた。) この2つの側面を併せ持つアルキメデスは、数学に限らずこの時代の学者としては異例な存在だった。しかし、この矛盾する2つの側面をアルキメデスは共存させながら、ピタゴラス的な数の概念とは大きく異なる「[[巨大数|天文学的数字]]」を『砂の計算』で想定したり、現代の[[積分法]]に繋がる方法で面積を求めつつ[[エウドクソス]]の方法で証明しなおしたりと、自己内に相克を見せた。だが、このような論理と技術の鬩ぎ合いは特に近代ヨーロッパ以降で表面化した数学の現象であり、それが数学を進歩させた原動力となった。アルキメデスが生きた時代にはこのような矛盾を孕んだ発展は望むべくも無く、彼以後のギリシア数学は形骸化した権威に沈んだ<ref name = "Math" />。 == その他 == [[Image:FieldsMedalFrontArchimedes.jpg|thumb|[[フィールズ賞|フィールズ・メダル]]]] [[月]]の北緯25.3°西経4.6°には、アルキメデスの名を冠した[[クレーター]]「{{Ill|アルキメデス (クレーター)|en|Archimedes (crater)|label=アルキメデス}}」があり<ref>{{cite web|url=http://nssdc.gsfc.nasa.gov/imgcat/html/object_page/a15_m_1541.html|title=Oblique view of Archimedes crater on the Moon|accessdate=2007-09-13|author=Friedlander, Jay and Williams, Dave|publisher=[[アメリカ航空宇宙局]]|language=英語}}</ref>、[[小惑星]]「{{Ill|アルキメデス (小惑星)|en|3600 Archimedes|label=アルキメデス}}」も彼の名に由来する<ref>{{Cite web|和書|url=http://starbrite.jpl.nasa.gov/pds-explorer/index.jsp?selection=othertarget&targname=3600%20ARCHIMEDES|title=Planetary Data System|accessdate=2007-09-13|author=|publisher=NASA|language=英語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090603171428/http://starbrite.jpl.nasa.gov/pds-explorer/index.jsp?selection=othertarget&targname=3600%20ARCHIMEDES|archivedate=2009-06-03|deadlinkdate=2020-09}}</ref>。 [[フィールズ賞|フィールズ・メダル]]はアルキメデスの横顔を[[意匠]]とし、その周囲にはラテン語で彼の言葉「{{lang-la-short|Transire suum pectus mundoque potiri}}」(Rise above oneself and grasp the world)が刻銘に使われている。そして裏面には、彼がその関係を発見した球と円柱が描かれている<ref>{{cite web|url=https://www.mathunion.org/imu-awards/fields-medal|title=Fields Medal|accessdate=2007-07-23|author=|publisher=[[国際数学連合]]|language=英語}}</ref>。アルキメデスの肖像は[[切手]]にも用いられ、[[スペイン]](1963年)、[[ニカラグア]](1971年)、[[ドイツ民主共和国]](1973年)、[[サンマリノ]](1982年)、ギリシア(1983年)、[[イタリア]](1983年)と多くの国で使われた<ref>{{cite web|url=http://math.nyu.edu/~crorres/Archimedes/Stamps/stamps.html|title=Stamps of Archimedes|accessdate=2007-08-25|publisher=Courant Institute of Mathematical Sciences|language=英語|first=Chris|last=Rorres}}</ref>。 == 著作 == アルキメデスの数学に関する記述は古代においてほとんど知られていなかった。アルキメデスの著述は古代シラクサで使われた[[ギリシア語]]の{{Ill|ドーリス方言|en|Doric Greek}}であった<ref>{{Cite |author=Wilson,NigelGuy |title=Encyclopedia of ancient Greece |date=2006 |publisher=Routledge |isbn=9780415973342 |page=77 |ref=harv}}</ref>。ただし彼の著作は[[エウクレイデス]]のもの同様に原典は伝わっておらず、7つの論文は他者の参照などから判明しているに止まる。アルキメデスは存命中[[アレクサンドリア]]の数学者たちと交流を持っていた事も手伝い、この地ではアルキメデスの論説を引用した例があり、[[パップス]]は[[多面体]]の考察を通じてアルキメデスの失われた著作『On Sphere-Making』や他の思索に触れ、[[アレクサンドリアのテオン]]は[[屈折]]に関する言及の中でやはり失われた『Catoptrica』(反射光学)を参考にしている{{Efn|アルキメデスの失われた著作については、他にZeuxippusに宛て『砂の計算』で用いた数の単位を説明した『Principles』、『On Balances and Levers』『On the Calendar』がある。{{仮リンク|トーマス・ヒース (古典学者)|en|Thomas Heath (classicist)|label=T. L. ヒース}}は、後世に伝わるアルキメデスの業績は『平面の釣合について I』『放物線の求積』『平面の釣合について II』『球と円柱について I, II』『螺旋について』『円錐と球体について』『浮体の原理 I, II』『円周の測定』『砂の計算』だと主張した。}}。 [[東ローマ帝国]]の建築家[[ミレトスのイシドロス]](530年頃)はアルキメデスの著作を蒐集し、6世紀に[[アスカロンのエウトキオス]]が注釈を加えて世に知らしめた。その後、アルキメデスの仕事は[[サービト・イブン・クッラ]](836年 – 901年)が[[アラビア語]]へ、[[クレモナのジェラルド]](1114年 – 1187年)が[[ラテン語]]へ翻訳した。ルネサンス期には1544年にヨハン・ヘルヴァーゲンが、ギリシア語とラテン語でアルキメデスの仕事を含む「最初の校訂版 (Editio Princeps)」を[[バーゼル]]で発刊した<ref>{{cite web|url=http://www.brown.edu/Facilities/University_Library/exhibits/math/wholefr.html|title=Editions of Archimedes' Work|accessdate=2007-07-23|author=|publisher=[[ブラウン大学]]図書館|language=英語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150227153213/http://www.brown.edu/Facilities/University_Library/exhibits/math/wholefr.html|archivedate=2015-02-27}}</ref>。多くの科学者にインスピレーションを提供する役目を持ち<ref>{{cite web|url=http://www.sciencelive.org/component/option,com_mediadb/task,view/idstr,CU-MMP-PiersBursillHall/Itemid,30|title=Galileo, Archimedes, and Renaissance engineers|accessdate=2007-08-07|author=Bursill-Hall, Piers|publisher=sciencelive with the University of Cambridge|language=英語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090107110947/http://www.sciencelive.org/component/option,com_mediadb/task,view/idstr,CU-MMP-PiersBursillHall/Itemid,30|archivedate=2009-01-07|deadlinkdate=2020年9月}}</ref>、1586年頃[[ガリレオ・ガリレイ]]は、アルキメデスの仕事にヒントを得て空気と水で金属の重量を計測する天秤を開発した<ref>{{cite web|url=http://galileo.rice.edu/sci/instruments/balance.html|title=The Galileo Project: Hydrostatic Balance|accessdate=2007-09-14|author=Van Helden, Al|publisher=[[ライス大学]]|language=英語}}</ref>。 [[Image:Archimedes lever (Small).jpg|thumb|right|アルキメデスは「私に支点を与えよ。そうすれば地球を動かしてみせよう」<ref name = "Mie-u" /><ref name = "Math" />と豪語し、てこの原理を端的に言い表したという。]] === 残存している研究 === ; 『{{Ill|平面の釣合について|en|On the Equilibrium of Planes}}』<ref name="Kanazawa-itLib">{{Cite web|和書|url=http://www.kanazawa-it.ac.jp/dawn/154401.html|title=アルキメデス(c.287B.C-212B.C).哲学及び幾何学の卓越たる全集/バーゼル, 1544年, 初版|accessdate=2010-07-02|author=|publisher=[[金沢工業大学]]ライブラリーセンター|language=日本語}}</ref>(2巻)({{lang|grc|Περὶ ἐπιπέδων ἱσορροπιῶν}}) :本書では、第1巻で7つの[[公理]]に基づく15の提議、第2巻で10の提議が示されている。この研究でアルキメデスは[[てこ]]の原理である[[トルク]]について説明し、「大きさは、質量と相互的に比例した距離に均衡する」と述べた。 :また、三角形、[[平行四辺形]]、[[放物線]]など多くの幾何学図形の面積と[[重心]]を求める法則を用いた<ref name="works">{{cite web|url=https://archive.org/details/worksofarchimede029517mbp|title=''The Works of Archimedes'' (1897). The unabridged work in PDF form (19&nbsp;MB)|accessdate=2007-10-14|publisher=[[インターネットアーカイブ]]|language=英語|first=|last=Heath,T.L.}}</ref>。 ; 『[[円周の測定]]』<ref name="KufsLib">{{Cite web|和書|url=http://www.kufs.ac.jp/toshokan/japitaly/14.pdf|title=アルキメデス『著作集』|accessdate=2010-07-03|author=|format=PDF|publisher=[[京都外国語大学]]附属図書館|language=日本語}}</ref>または'''『円の計測』'''<ref name ="Tsukuba" /><ref name="Gakusyuin">{{Cite web|和書|url=http://www-cc.gakushuin.ac.jp/~851051/maed/%90%94%8Aw%8Ej1.pdf|title=数学史の窓から 古代ギリシアの数学者たちの新しい姿|accessdate=2010-07-03|author=中村滋|format=PDF|publisher=[[学習院大学]]|language=日本語|deadlinkdate=2020年9月}}</ref><ref name ="Tokai-press" /> ({{lang|grc|Κύκλου μέτρησις}}) :本書では、[[サモスのコノン]]の元で学ぶペルーシオンのドシセオス(Dositheus of Pelusium) との通信という形式を取り、3つの短い提議が示されている。2つ目の提議では、円周率は{{frac|223|71}}と{{frac|22|7}}の間にあることを示し、特に後ろの分数は中世そして現代に至るまで円周率の近似値として用いられている<ref>{{Cite web|和書|url=http://theochem.chem.nagoya-u.ac.jp/wiki/wiki.cgi/kkg2008?page=%B2%DD%C2%EA20081112|title=課題20081112|accessdate=2010-07-03|author=大峰巌|publisher=[[名古屋大学]]理論化学研究室|language=日本語|deadlinkdate=2020年9月}}</ref>。 ; 『[[螺旋について]]』<ref name="Tsukuba" /><ref name ="KufsLib" /> ({{lang|grc|Περὶ ἑλίκων}}) :本書における28の提議もまたドシセオスに宛てたものであり、アルキメデスのらせん([[代数螺旋]])についての定義を示す。これは、一定の[[角速度]]で回転しながら定速度で遠ざかる[[点 (数学)|点]]の[[軌跡 (数学)|軌跡]]について述べられ、これは[[極座標系]] (''r'', θ)において [[実数]] ''a'' と ''b''を用いる以下の等式で説明される。 ::<math>\, r=a+b\theta</math> :これは、ギリシア数学において動く点の軌跡がつくる[[曲線]]に対する考察の初期の例に当たる。 ; 『[[球と円柱について]]』<ref name="Tokai-press">{{Cite|和書|author=Archimedes|author2=佐藤徹|title=アルキメデス方法|date=1990|publisher=東海大学出版会|isbn=4486011023|series=東海大学古典叢書|ref=harv|volume=2}}</ref><ref name="NACSIS">{{Cite|和書|author=伊東俊太郎|title=アルキメデス|date=1981|publisher=朝日出版社|isbn=425581029X|series=科学の名著|ref=harv}}</ref>({{lang|grc|Περὶ σφαίρας καὶ κυλίνδρου}}) :これもドシセオス宛ての形式を取り、アルキメデスは彼自身が最も誇る帰結である球とそれに外接する同じ[[半径]] ''r''の円筒の間にある関係を述べている。両者の体積はそれぞれ、球が{{frac|4|3}}π''r''<sup>3</sup>、円筒が2π''r''<sup>3</sup>となり、表面積はそれぞれ球が4π''r''<sup>2</sup>、円筒が上下の平面を含み6π''r''<sup>2</sup>となる。この結果から、球の体積と表面積は常に円筒の{{frac|2|3}}になる。 ; 『円錐と球体について』<ref name ="KufsLib" />または'''『円錐状体と球状体について』'''<ref name ="Tokai-press" /> ({{lang|grc|Περὶ κωνοειδέων καὶ σϕαιοειδέων}}, {{en|On Conoids and Spheroids}}) :本書にはドシセオスに向けた32の提議があり、この中でアルキメデスは[[円錐]]、球、放物線を切り取った際の、[[断面]]の面積や体積を計算する方法を示している。 ; 『{{ill|浮体の原理|en|On Floating Bodies}}』<ref name = "Kanazawa-itLib" />(2巻) ({{lang|grc|Περὶ τῶν ἐπιπλεόντων σωμάτων}}) :第1巻では、アルキメデスは流体が重心のまわりに集まって球状で均衡する様を説明した。これは、地球が丸いという[[エラトステネス]]など当時のギリシア天文学者らの説明を理論化する目的があった可能性がある。ただし彼はあらゆる物質が球体を成す落下点を想定しており、物質自らの重力によって集まるような状況は想定していない。 :第2巻では、彼は放物線の切片が均衡する状態を計算しており、そのうちいくつかは[[氷山]]のように下部は水中にありながら上部が水上に出ているものを扱っており、これは船体を想定したものとみなされる。そして、[[浮力]]についての[[アルキメデスの原理]]が考察され、以下のように述べられている。 {{quote|Any body wholly or partially immersed in a fluid experiences an upthrust equal to, but opposite in sense to, the weight of the fluid displaced.<br/>訳:どのような物体であっても全体、または一部が液体に浸かっているとき、その物体が置き換えた体積と同じだけの液体が持つ質量と同じだけの力が、方向を逆にして、物体を押し上げる。}} ; 『[[放物線の求積]]』<ref name ="Tsukuba" /><ref name ="Tokai-press" /> ({{lang|grc|Τετραγωνισμὸς παραβολῆς}}) :本書もドシセオスへ24の提議を行う通信形式で、アルキメデスは放物線を[[直線]]で区切った部分の面積が、直線と平行な線を接線とする点と2つの交点でつくる三角形の面積の{{frac|4|3}}倍になることを証明した。これは[[比]]{{frac|1|4}}の{{等比級数}}を用いて求められた。 ; 『{{ill|ストマッキオン|en|Ostomachion}}』または'''『アルキメデスの小筥』'''({{lang|grc|Στομάχιον, Ὀστομάχιον}}) :これは[[タングラム]]に近い[[シルエットパズル|切断パズル]]であり、後に[[アルキメデス・パリンプセスト]]として詳しく説明された。本書にてアルキメデスは、正方形に組み立てられる14個のピースの形状を示した。これを研究していた[[スタンフォード大学]]博士のリヴィエル・ネッツは2003年に、アルキメデスはこの14個のピースを用いて正方形を組み立てる際に、果たして何通りの組み合わせがあるかを問題にしていたと発表し、それは17,152通りあると見込んだ<ref>{{cite web|url=http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9D00E6DD133CF937A25751C1A9659C8B63&sec=&spon=&pagewanted=all|title=In Archimedes' Puzzle, a New Eureka Moment|accessdate=2007-07-23|author=Kolata, Gina|date=December 14, 2003|publisher=[[ニューヨーク・タイムズ]]|language=英語}}</ref>。ただし、回転や反射など対称となるものを除くとそれは536通りとなる<ref>{{cite web|url=http://www.maa.org/editorial/mathgames/mathgames_11_17_03.html|title=The Loculus of Archimedes, Solved|accessdate=2008-05-18|author=Ed Pegg Jr.|date=November 17, 2003|publisher={{ill|アメリカ数学協会|en|Mathematical Association of America}}|language=英語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130126192721/http://www.maa.org/editorial/mathgames/mathgames_11_17_03.html|archivedate=2013-01-16|deadlinkdate=2020年9月}}</ref>。このパズルは、[[組合せ数学]]の初歩的な例に当たる。 :このパズルの名称「ストマッキオン」ははっきり判っていないが、[[古代ギリシア語]]で[[咽喉|喉]]もしくは[[食道]]を意味する{{lang-el-short|στόμαχος}}が[[語源学|語源]]と推測される<ref>{{cite web|url=http://math.nyu.edu/~crorres/Archimedes/Stomachion/intro.html|title=Archimedes' Stomachion|accessdate=2007-09-14|publisher=Courant Institute of Mathematical Sciences|language=英語|first=Chris|last=Rorres}}</ref>。[[アウソニウス]]はこれを、[[骨]]({{lang-el-short|ὀστέον}}、osteon)と[[戦闘]]({{lang-el-short|μάχη}}、machē)の[[合成語]]「Ostomachion」だと言った。「ストマッキオン」は別名にて「Loculus of Archimedes or Archimedes' Box」(アルキメデスの小筥)とも呼ばれる<ref>{{cite web|url=http://www.archimedes-lab.org/latin.html#archimede|title=Graeco Roman Puzzles|accessdate=2008-05-09|publisher=Gianni A. Sarcone and Marie J. Waeber|language=英語|first=|last=}}</ref>。 ; 『[[アルキメデスの牛の問題|牛の問題]]』<ref name="Matsubara">{{Cite web|和書|url=http://www.qmss.jp/interss/01/materials/archim.htm|title=牛の問題|accessdate=2010-07-03|author=松原望|publisher=|language=日本語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180320030012/http://www.qmss.jp/interss/01/materials/archim.htm|archivedate=2018-3-20|deadlinkdate=2020年9月}}</ref> (Archimedes' cattle problem) :この原稿は1773年に[[ドイツ]]の[[ヴォルフェンビュッテル]]にあるヘルツォーク・アウグスト図書館で、[[ゴットホルト・エフライム・レッシング]]が発見した、[[エラトステネス]]と[[アレクサンドリア]]の数学者に宛てた44行の[[詩]]の形式<ref name ="Matsubara" />で纏められている。アルキメデスは[[太陽神]][[ヘーリオス]]が持つ[[ウシ|牛]]の群れが果たして何頭なのか、[[ディオファントス方程式]]の整数解を求める問題として提示した。この設問は1880年にA. Amthorが初めて解き<ref>B. Krumbiegel, A. Amthor, ''Das Problema Bovinum des Archimedes'', Historisch-literarische Abteilung der Zeitschrift Für Mathematik und Physik 25 (1880) 121-136, 153-171.</ref>、その数は7.760271{{e|206544}}という非常に大きなものとなった<ref>{{cite web|url=http://www.andrews.edu/~calkins/profess/cattle.htm|title=Archimedes' Problema Bovinum|accessdate=2007-09-14|publisher=Andrews University|language=英語|first=Keith G|last=Calkins}}</ref>。 ; 『[[砂粒を数えるもの|砂の計算]]』<ref name = "Mie-u" /><ref name ="KufsLib" />または'''『砂の計算者』'''<ref name = "Math" /> ({{lang|grc|Ψαμμίτης}}) :この本はアルキメデスが天文学について述べた、確認されている唯一の資料である<ref name="waterloo" />。この著作でアルキメデスは宇宙空間を埋め尽くすのに、何個の砂粒が必要かという計算に挑んでいる。当時のギリシャ人は、宇宙は地球を中心にした有限の球([[天球]])であると考えていたので、「宇宙の大きさ」は太陽や月までの距離の計算と同じく、仮想ではない現実的な設問であった。当時のギリシャ数字ではミリアド(万)より大きい数字表記がなく、1億(1万の1万倍)までしか数えられなかったので、アルキメデスは自分で大きな数を表記する方法を考案し、必要な砂粒の個数は10<sup>51</sup> を超えないと計算した。本著の序文でアルキメデスは天文学者である父「フィディアス (Phidias)」について触れている。 ; 『[[方法 (アルキメデスの著書)|方法]]』<ref name ="Tsukuba" /><ref name ="Tokai-press" /><ref name="Aichikyo">{{Cite web|和書|url=http://www.auelib.aichi-edu.ac.jp/lib/dokushoannnai/kyoutuu_2005.html|title=共通科目のための読書案内|accessdate=2010-07-03|author=|publisher=[[愛知教育大学]]附属図書館|language=日本語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304102531/http://www.auelib.aichi-edu.ac.jp/lib/dokushoannnai/kyoutuu_2005.html|archivedate=2016-03-04}}</ref>または'''『方法論』'''<ref name = "Math" /> ({{lang|grc|Περὶ μηχανικῶν θεωρημάτων πρὸς Ἐρατοσθένη ἔφοδος}}) :本書は、1906年に発見されたアルキメデス・パリンプセストによって存在が知られ、アルキメデスが得た数学的帰結に至る、知られていなかった洞察の過程についての情報を得ることができた<ref name ="Tokai-press" /><ref>{{cite web|url=http://www.archimedespalimpsest.org/palimpsest_making1.html|title=Archimedes - The Palimpsest|accessdate=2007-10-14|author=|publisher={{ill|ウォルターズ・ミュージアム|en|Walters Art Museum}}|language=英語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080117194656/http://www.archimedespalimpsest.org/palimpsest_making1.html|archivedate=2008-01-18}}</ref>。ここでは無限小を用いて、どのように面を無数の小片に分けて面積や量を求めるかという方法を示した。ただし、彼自身はこの方法が厳密さに欠けた箇所があると考えた模様で、結論を得るために取り尽くし法を考案したと思われる。本書は『牛の問題』同様、アレクサンドリアのエラトステネスに宛てたものとして書かれている。 === アルキメデス・パリンプセスト === {{Main|アルキメデス・パリンプセスト}} [[Image:Stomachion.JPG|thumb|right|{{ill|ストマッキオン|en|Ostomachion}}は、『[[アルキメデス・パリンプセスト]]』の中で見つかった[[シルエットパズル]]である。]] 最も近年発見されたアルキメデスの著作は『アルキメデス・パリンプセスト』である。1906年、[[デンマーク]]人の教授{{Ill|ヨハン・ルーズヴィー・ハイベア|en|Johan Ludvig Heiberg (historian)}}が[[コンスタンティノープル]]で1229年<ref name="ted">{{Cite web|和書|title=Transcript of "ウィリアム・ノエル:失われたアルキメデスの写本の解読"|url=https://www.ted.com/talks/william_noel_revealing_the_lost_codex_of_archimedes/transcript|website=www.ted.com|accessdate=2020-09-02|language=en|first=William|last=Noel}}</ref>に完成した174ページの山羊皮紙の祈りの書を調査した際、それが[[パリンプセスト]](一度書かれた文字のインクを削るなどの方法で消し、別な文字を上書きされたもの)であることを発見した。調査の結果、山羊皮紙にかつて書かれていた文章は、それまで知られていなかったアルキメデスの提議を10世紀に写したものと判明した<ref>{{cite web|url=https://www.smithsonianmag.com/science-nature/reading-between-the-lines-148131057/|title=Reading Between the Lines|accessdate=2008-01-24|author=Miller, Mary K.|date=March 2007|publisher={{ill|スミソニアン・マガジン|en|Smithsonian (magazine)}}|language=英語}}</ref>。数百年コンスタンティノープルの修道院図書館に所蔵されていたこのパリンプセストは1920年代に民間へ売りに出され、1998年10月29日には[[ニューヨーク]]の[[クリスティーズ]]で競売に掛けられ、匿名の落札者が200万ドルで入手した<ref>{{cite web|url=http://edition.cnn.com/books/news/9810/29/archimedes/|title=Rare work by Archimedes sells for $2 million|accessdate=2008-01-15|author=|date=October 29, 1998|publisher=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]]|language=英語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080516000109/http://edition.cnn.com/books/news/9810/29/archimedes/|archivedate=2008-05-16}}</ref>。 その後、落札者は写本の情報をデータ化するため素粒子物理学者など多様な解読の協力者を集め解読プロジェクトを始めた。彼らは画像を撮るため、本の背の糊を取り除き解体し、礼拝時にろうそくを使用したため付着したろうも取り除き、断片を元の場所にあてがった。そしてさまざまに波長を変えた光を紙にあて画像を合成し、金箔でおおわれている部分については[[蛍光X線分析法 (考古学)|蛍光X線分析]]を行いインクに含まれる鉄成分の分布を調べた<ref name="ted" />。 このパリンプセストは、唯一のオリジナルであるギリシア語で書かれた『浮体の原理』を含む7つの論文が写されていた。ここには、既に失われてしまった[[スーダ辞典]]を参照した『方法』についての唯一の情報があり、『ストマッキオン』も以前には発見されていなかった切断パズルがより完成度が高い解説つきで見つかった。他の4つは『平面の釣合について』『螺旋について』『円周の測定』『球と円柱について』である。合わせて[[ヒュペレイデス]]の演説や[[アリストテレス]]の文章の注釈書も発見された<ref name="ted" />。このパリンプセストは現在[[メリーランド州]][[ボルチモア]]の[[ウォルターズ美術館]]に保管され、隠された文字の全貌を明かそうと、[[紫外線]]や[[X線]]照射など先端技術を用いた研究が行われている<ref>{{cite web|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/sci/tech/5235894.stm|title=X-rays reveal Archimedes' secrets|accessdate=2007-07-23|author=|date=August 2, 2006|publisher=BBC News|language=英語}}</ref>。 === 未確認の著作 === 円の性質について15の提議が書かれたアルキメデスの『{{ill|補助定理集|en|Book of Lemmas}}』(Book of LemmasまたはLiber Assumptorum) は、[[アラビア語]]で書かれた写しが知られている。古典学者の{{仮リンク|トーマス・ヒース (古典学者)|en|Thomas Heath (classicist)|label=T.L.ヒース}}と{{Ill|マーシャル・クラーゲット|en|Marshall Clagett}}は、現在確認できるこれらの書がアルキメデスの著作をそのまま伝えているとは考えにくいと主張し、他の人物が引用しながら変更されたものだと述べた。そして、この元になった考察はアルキメデスの初期の著述であり、これは失われていると述べた<ref>{{cite web|url=http://www.cut-the-knot.org/Curriculum/Geometry/BookOfLemmas/index.shtml|title=Archimedes' Book of Lemmas|accessdate=2007-08-07|author=|publisher=[[:en:cut-the-knot|cut-the-knot]]|language=英語}}</ref>。 また、三角形の面積を求める[[ヘロンの公式]]もアルキメデスの発案に源泉があるとも唱えられた{{Efn|カール・ベンジャミン・ボイヤーの『数学の歴史』(A History of Mathematics、1991年)では「一般にヘロンの公式と呼ばれる三辺の長さから三角形の面積を求める公式は、ヘロンよりも数世紀前の人物であるアルキメデスの仕事だとアラブの学者は伝える。彼らはまた、broken-chord定理もアルキメデスの作だと考える。アラブ人は、いくつもの定理をアルキメデスが証明したと報告している」と述べられている。}}。しかし、この公式について信頼に足る証拠は1世紀に[[アレクサンドリアのヘロン]]が提唱したものしか無い<ref>{{cite web|url=http://www-history.mcs.st-and.ac.uk/Biographies/Heron.html|title=Heron of Alexandria|accessdate=2010-02-17|author=O'Connor, J.J. and Robertson, E.F.|date=April 1999|publisher=[[セント・アンドルーズ大学 (スコットランド)|セント・アンドルーズ大学]]|language=英語}}</ref>。 == 日本語訳 == {{Refbegin}} *『アルキメデス方法』 [[佐藤徹]]訳・解説、[[学校法人東海大学出版会|東海大学出版会]]〈東海大学古典叢書〉、1990年。ISBN 4486011023 *「球と円柱について 第1巻」 佐藤徹訳・訳注 『科学の名著9』 [[朝日出版社]]、1981年。ISBN 425581029X *「アルキメデスの科学」 [[三田博雄]]訳 『[[世界の名著]]9』 [[中央公論社]]、1972年。 {{Refend}} == アルキメデスを描いた作品 == *『[[ヘウレーカ]]』[[岩明均]] * 『[[哲学者サッカー]]』 - ギリシア哲学者チームと、ドイツ近代哲学者チームが、サッカーの試合をするというコメディ。哲学者たちは思索にふけって全く試合にならないのだが、突然アルキメデスが「Eureka」と叫んで走り出し、ソクラテスとともに得点をあげるという筋立て。 == 参考文献 == {{Refbegin}} *{{cite book |author={{ill|T.L.ヒース|en|T. L. Heath}} ||authorlink= |coauthors= |title=''Works of Archimedes'' |date=1897年 |publisher=Dover Publications |location= |isbn=0-486-42084-1 }} Complete works of Archimedes in English. {{Refend}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 読書案内 == {{Refbegin|2}} *[[ウィリアム・ノエル]]、[[リヴィエル・ネッツ]]『解読! アルキメデス写本』[[光文社]]、2008年。ISBN 4334962033 *[[斎藤憲]]『よみがえる天才アルキメデス―無限との闘い』[[岩波書店]]〈岩波科学ライブラリー〉、2006年。ISBN 4000074571 *[[林栄治]]・[[齋藤憲]]『天秤の魔術師 アルキメデスの数学』[[共立出版]]、2009年、ISBN 978-4-320-01910-2 *[[伊達文治]]『アルキメデスの数学―静力学的な考え方による求積法』[[森北出版]]、1993年。ISBN 4627015402 *{{cite book |last=[[Carl Benjamin Boyer|Boyer, Carl Benjamin]] |first= |authorlink= |coauthors= |title=''A History of Mathematics'' |date=1991年|publisher= Wiley|location= New York|isbn=0-471-54397-7 }} *{{cite book |last=[[Eduard Jan Dijksterhuis|Dijksterhuis, E.J.]] |first= |authorlink= |coauthors= |title=''Archimedes'' |date=1987年 |publisher= Princeton University Press, Princeton|location= |isbn=0-691-08421-1 }} Republished translation of the 1938 study of Archimedes and his works by an historian of science. *{{cite book |last=Gow |first=Mary |authorlink= |coauthors= |title=''Archimedes: Mathematical Genius of the Ancient World'' |date=2005年|publisher=Enslow Publishers, Inc |location= |isbn=0-7660-2502-0 }} *{{cite book |last=Hasan |first=Heather |authorlink= |coauthors= |title=''Archimedes: The Father of Mathematics'' |date= 2005年|publisher=Rosen Central |location= |isbn=978-1404207745 }} *{{cite book |last=Netz, Reviel and Noel, William |first= |authorlink= |coauthors= |title=''The Archimedes Codex'' |date=2007年|publisher=Orion Publishing Group|location= |isbn= 0-297-64547-1 }} *{{cite book |last=[[Clifford A. Pickover|Pickover, Clifford A.]]|first= |authorlink= |coauthors= |title =''Archimedes to Hawking: Laws of Science and the Great Minds Behind Them'' |date=2008年 |publisher= [[オックスフォード大学出版局|Oxford University Press]] |location= | isbn=978-0195336115}} *{{cite book |last=Simms, Dennis L. |first= |authorlink= |coauthors= |title=''Archimedes the Engineer'' |date=1995年 |publisher= Continuum International Publishing Group Ltd |location= |isbn=0-720-12284-8 }} *{{cite book |last=Stein, Sherman |first= |authorlink= |coauthors= |title=''Archimedes: What Did He Do Besides Cry Eureka?'' |date=1999年 |publisher= Mathematical Association of America|location= |isbn=0-88385-718-9 }} {{Refend}} {{Wikisource1911Enc|Archimedes}} {{Wikiquote}} {{Commonscat|Archimedes}} == 関連項目 == {{Div col}} *[[アルキメデスの牛の問題]] *[[アルキメデスの性質]] *[[アルキメデス数]] *{{仮リンク|アルキメデスのパラドックス|en|Vertical pressure variation#Hydrostatic paradox}} *[[半正多面体]](アルキメデスの立体) *{{仮リンク|アルキメデスの円|en|Archimedes' circles}} *{{仮リンク|アルキメデスの楕円コンパス|en|Trammel of Archimedes}} *[[アルキメデスの無限小]] *[[アルキタス]] *[[ディオクレス (数学者)]] *[[開平法]] *{{仮リンク|偽アルキメデス|en|Pseudo-Archimedes}} *{{仮リンク|塩入れ (図形)|en|Salinon|label=塩入れ}} - 円と半円でつくられる図形。サリノン({{lang-el-short|σάλινον}})とも。 *{{仮リンク|蒸気砲|en|Steam cannon}} *[[アルシメード]] - [[フランス海軍]]の[[バチスカーフ]]。アルキメデスのフランス語読みに基づく命名で、日本語では「アルキメデス号」と呼ばれることもある。 {{Div col end}} == 外部リンク == {{Refbegin|2}} *古代ギリシア語のテキスト:[http://www.wilbourhall.org PDF Heibergの『アルキメデス著作集』のPDFスキャン(パブリック・ドメイン)] *英訳:[https://archive.org/details/worksofarchimede029517mbp 『アルキメデス著作集』]、T.L.ヒース訳;補足:[https://books.google.co.jp/books?id=suYGAAAAYAAJ&redir_esc=y&hl=ja 『方法』]、L.G. ロビンソン訳 *[http://www-history.mcs.st-andrews.ac.uk/Biographies/Archimedes.html Archimedes of Syracuse] ''MacTutor History of Mathematics archive.''(英語) *[http://archimedespalimpsest.org/ アルキメデス・パリンプセスト](英語) *[http://www.bbc.co.uk/radio4/history/inourtime/inourtime_20070125.shtml Archimedes—The Greek mathematician and his Eureka moments]—''In Our Time'', broadcast in 2007 (requires [[RealPlayer]])(英語) *[http://mathdb.org/articles/archimedes/e_archimedes.htm アルキメデスの『方法』](英語) *[http://www.giovannipastore.it/ANTIKYTHERA.htm Antikythera mechanism (Italian and English versions)](英語) *[http://www.mathpages.com/home/kmath038.htm Article examining how Archimedes may have calculated the square root of 3] at MathPages(英語) *[http://www.mathpages.com/home/kmath343/kmath343.htm アルキメデスの『球と円柱について』] at MathPages(英語) *[http://www.cs.drexel.edu/~crorres/bbc_archive/mirrors_sailors_sakas.jpg Photograph of the Sakkas experiment in 1973](英語) *[http://web.mit.edu/2.009/www/experiments/steamCannon/ArchimedesSteamCannon.html アルキメデスの蒸気砲](英語) * {{Kotobank}} {{Refend}} {{古代ギリシア}} {{Normdaten}} {{Good article}} {{DEFAULTSORT:あるきめてす}} [[Category:アルキメデス|*]] [[Category:古代ギリシアの数学者]] [[Category:古代ギリシアの発明家]] [[Category:ヘレニズム時代の哲学者]] [[Category:幾何学者]] [[Category:流体力学者]] [[Category:紀元前の数学者|2870000]] [[Category:数値解析研究者]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:ポエニ戦争]] [[Category:殺人被害者]] [[Category:シラクサ出身の人物]] [[Category:紀元前3世紀ギリシアの人物]] [[Category:紀元前287年生]] [[Category:紀元前212年没]]
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映画の分類
映画の分類(えいがのぶんるい)としては、どういう分類の仕方をするかによって名称が変わってくる。 映画を「作品」としてとらえ、単に知見を広めたり視聴覚的に情報を得るためではなく、 映画独自の表現を楽しむ事を主たる目的として「鑑賞」する観点からは以下の三つに大別する事が出来る。 この分類は、全世界の映画祭や映画市場の他、映画に関する学術的文章や批評などでも使用されている、 最も一般的なものである。映画館やフィルムアーカイブ、シネクラブなどでの上映に際しても、 この分類によってプログラムを組む事が多い。 この他、日本においては劇映画と非劇映画を分け、使用目的の観点から分類する事もあるが、あまり一般的ではない。 ここに非劇映画に属するものとして挙げた下位区分は、形式的に厳密な区分を持たない。説明的なナレーションやタイトル、比較的短い上映時間、特定の制作会社によって伝統的に決まっている型通りの構成など、共通する部分が多い。 学校教育映画の中には劇映画のスタイルを取っているものも多く、PR映画は企業VPなどと基本的な作りは変わらない。 作りが基本的に同じなのは、これらの映画が「手段」と割り切って制作されるからであり、上映・鑑賞する際にも「作品」として鑑賞するよりもむしろ「啓蒙」「情報」「教育」の手段として利用されるからである。そこでは情報伝達の効率性が最優先され、美的側面は二次的なものとされている。 別の分類方法として、対象とする鑑賞者の年齢による分類(一般、18禁など)があるが、これについては映画のレイティングシステムを参照。
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映画の分類(えいがのぶんるい)としては、どういう分類の仕方をするかによって名称が変わってくる。 映画を「作品」としてとらえ、単に知見を広めたり視聴覚的に情報を得るためではなく、 映画独自の表現を楽しむ事を主たる目的として「鑑賞」する観点からは以下の三つに大別する事が出来る。 劇映画(フィクション映画) ドキュメンタリー映画 実験映画 この分類は、全世界の映画祭や映画市場の他、映画に関する学術的文章や批評などでも使用されている、 最も一般的なものである。映画館やフィルムアーカイブ、シネクラブなどでの上映に際しても、 この分類によってプログラムを組む事が多い。 この他、日本においては劇映画と非劇映画を分け、使用目的の観点から分類する事もあるが、あまり一般的ではない。  劇映画 非劇映画(文化映画) ニュース映画 教育記録映画 学校教育映画 社会教育映画 産業教育映画 PR映画 記録映画 ここに非劇映画に属するものとして挙げた下位区分は、形式的に厳密な区分を持たない。説明的なナレーションやタイトル、比較的短い上映時間、特定の制作会社によって伝統的に決まっている型通りの構成など、共通する部分が多い。 学校教育映画の中には劇映画のスタイルを取っているものも多く、PR映画は企業VPなどと基本的な作りは変わらない。 作りが基本的に同じなのは、これらの映画が「手段」と割り切って制作されるからであり、上映・鑑賞する際にも「作品」として鑑賞するよりもむしろ「啓蒙」「情報」「教育」の手段として利用されるからである。そこでは情報伝達の効率性が最優先され、美的側面は二次的なものとされている。 別の分類方法として、対象とする鑑賞者の年齢による分類(一般、18禁など)があるが、これについては映画のレイティングシステムを参照。
{{独自研究|date=2009年5月}} '''映画の分類'''(えいがのぶんるい)としては、どういう分類の仕方をするかによって名称が変わってくる。 映画を「作品」としてとらえ、単に知見を広めたり視聴覚的に情報を得るためではなく、 映画独自の表現を楽しむ事を主たる目的として「鑑賞」する観点からは以下の三つに大別する事が出来る。 *劇映画(フィクション映画) *[[ドキュメンタリー映画]] *[[実験映画]] この分類は、全世界の映画祭や映画市場の他、映画に関する学術的文章や批評などでも使用されている、 最も一般的なものである。映画館やフィルムアーカイブ、シネクラブなどでの上映に際しても、 この分類によってプログラムを組む事が多い。 この他、日本においては劇映画と非劇映画を分け、使用目的の観点から分類する事もあるが、あまり一般的ではない。  *劇映画 *非劇映画(文化映画) **ニュース映画 **教育記録映画 ***学校教育映画 ***社会教育映画 ***産業教育映画 ***PR映画 ***記録映画 ここに非劇映画に属するものとして挙げた下位区分は、形式的に厳密な区分を持たない。説明的なナレーションやタイトル、比較的短い上映時間、特定の制作会社によって伝統的に決まっている型通りの構成など、共通する部分が多い。 学校教育映画の中には劇映画のスタイルを取っているものも多く、PR映画は企業VPなどと基本的な作りは変わらない。 作りが基本的に同じなのは、これらの映画が「手段」と割り切って制作されるからであり、上映・鑑賞する際にも「作品」として鑑賞するよりもむしろ「啓蒙」「情報」「教育」の手段として利用されるからである。そこでは情報伝達の効率性が最優先され、美的側面は二次的なものとされている。 別の分類方法として、対象とする鑑賞者の[[年齢]]による分類(一般、18禁など)があるが、これについては[[映画のレイティングシステム]]を参照。 {{DEFAULTSORT:えいかのふんるい}} [[Category:映画のジャンル|*ふんるい]] [[Category:ジャンル]]
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ジェロラモ・カルダーノ
ジェロラモ・カルダーノ(Gerolamo Cardano、1501年9月24日 - 1576年9月21日)は、16世紀のイタリアの人物。ジローラモ・カルダーノ (Girolamo Cardano) との表記もある。 ミラノで生まれ、ローマで没した。一般に数学者として知られている。本業は医者、占星術師、賭博師、哲学者でもあった。 ジェロラモの父親はレオナルド・ダ・ヴィンチの友人で数学の才能に恵まれた弁護士であり、彼はその私生児として生まれた。自叙伝には、ジェロラモの母親は彼を中絶しようとして失敗した、と書かれている。母親は3人の子供を伝染病で失い、それから逃れるために彼が生まれて間もなくミラノからパヴィアに移った。ジェロラモは1520年にパヴィア大学に入学して医学を学び、後に薬学を学ぶためにパドヴァ大学へと移った。彼は他人にうち解けない気性だったため友人は殆どおらず、大学を卒業してからも長い間仕事に就くことができなかった。 最終的にジェロラモは医者となり、後には注目すべき医者として名声を得て、彼の意見は裁判所で尊重されるほどになった。1543年にはパヴィア大学の医学教授に任ぜられた。腸チフスの発見者でもある。他にもアレルギー症の発見、ヒ素中毒の研究、痛風と発熱性疾患の治療法の確立などがある。科学者としては磁気現象と電気現象の区別の確立、カルダノの輪の考察、さらに発明家としてオートキー暗号の考案やカルダノ松明通信の考案、1550年にカルダングリルの発表も行っている。自伝によれば多くの本を著したようだが、現在では失われてしまったものも多い。 自在継手の考案者であり、自在継手の「カルダンジョイント」という別名は彼に由来する(電車などの「カルダン駆動方式」も、カルダンジョイントを使うことからの名称だが、間接的に彼に由来するものと言える)。 占星術に凝っており、キリストの占いまでしてしまって投獄されたこともある。占星術で自らの死期を予言しており、その予言は外れたが、その当日に自殺したと伝えられる。 カルダーノは今日では代数学の業績で最も良く知られている。1545年に著した本『偉大なる術(アルス・マグナ)』(ラテン語: Ars magna de Rebus Algebraicis) の中で三次方程式の解の公式、四次方程式の解法を示した。三次方程式の解の公式についてはいささか奇妙な歴史があり、『偉大なる術』にも紹介されている。 当時、習慣的に行われていた数学競技は、問題を出し合っては解くのを競うものであったが、あるとき三次方程式の問題が出された。この頃、三次方程式はまだ完全に解かれておらず、その回答能力で勝負が決まる切り札となる問題であった。これに参加していた一方の人物は、その師よりすでに三次方程式の解の公式を伝授されて無敗を誇っていたフィオルという人で、もう一方はニコロ・フォンタナ・タルタリアという人であった。タルタリアはその時点ではまだ解法を得ていなかったが、彼は幸い自らの力でこれを導き、おまけに彼が提示した巧妙な三次方程式は相手には解かれなかった。この公式はタルタリアが長らく秘蔵していたが、カルダーノが絶対公表しないと誓いを立てたのでタルタリアはカルダーノに公式を教えた。しかし最初に述べたようにカルダーノは自著でこれを公表したためにタルタリアは怒り、カルダーノと長い論争をすることになる。また、四次方程式の解についてはカルダーノの弟子であったルドヴィコ・フェラーリが解いたものである。どちらの式もこの本で広く知られるようになった。これらの業績は他人のものだが、三次方程式の解を示す際に世界で初めて虚数の概念を導入したのはカルダーノである。 もう一つ重要なのは、カルダーノによる解法の公表が数学史上の転換点に当たっていることである。フォンタナもそうだったように、当時数学的知識は師から弟子へと口伝されるような秘術の一種であり、いまだ近代的な学問としての体をなしていなかった。カルダーノの『偉大なる術』の発表は、数学が共有される知である学問として自立を始めた端緒ということができ、「古い数秘術師」であるフォンタナを牽制する目的もまたあったと考えられる。 彼は金遣いが荒いことで知られており、本人は自身を賭博者、あるいはチェスのプレーヤーだと考えていたようである。しかし数学者らしく、1560年代に『さいころあそびについて』(Liber de ludo aleae、発行されたのは彼の死後1663年)を著し、その中で効率的なイカサマの方法として、初めて系統的に確率論について触れて記している。「ギャンブラーにとっては、全くギャンブルをしないことが最大の利益となる。」という言葉も残している。 彼はこの中で世界で初めて虚数の概念を登場させた。以下の問題が登場する。 「足して10、掛けて40になる二つの数はなにか」 これは従来「解なし」であるが、この本の中では 「 5 + − 15 {\displaystyle 5+{\sqrt {-15}}} 」と「 5 − − 15 {\displaystyle 5-{\sqrt {-15}}} 」 が答えだと書かれている。虚数があれば答えのない問題にも答えを与えることができると示している。
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{{Reflist}}{{Infobox scientist |name = ジェロラモ・カルダーノ (Gerolamo Cardano) |image = Jerôme Cardan.jpg |image_size = 250px |caption = Gerolamo Cardano |birth_date = {{Birth date|1501|9|24|df=yes}} |birth_place = [[ミラノ公国]] [[パヴィア]] |death_date = {{Death date and age|1576|9|21|1501|9|24|df=yes}} |death_place = {{PAP-1}} [[ローマ]] |residence = |citizenship = |nationality = [[イタリア]] |ethnicity = |field = 科学、数学、哲学、文学 |work_institutions = |alma_mater = [[パヴィア大学]] |doctoral_advisor = |doctoral_students = |known_for = [[博学者]]、発明家 |author_abbrev_bot = |author_abbrev_zoo = |influences = [[アルキメデス]]、[[フワーリズミー]]、[[レオナルド・フィボナッチ]] |influenced = [[ブレーズ・パスカル]]、[[ピエール・ド・フェルマー]]、[[アイザック・ニュートン|ニュートン]]、[[ゴットフリート・ライプニッツ]]、[[マリア・ガエターナ・アニェージ]]、[[ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ]]、[[カール・フリードリヒ・ガウス]] |prizes = |religion = [[カトリック]] |footnotes = |signature = }} [[画像:Cardano.jpg|thumb|ジェロラモ・カルダーノ]] '''ジェロラモ・カルダーノ'''(Gerolamo Cardano、[[1501年]][[9月24日]] - [[1576年]][[9月21日]]<ref>{{Kotobank|カルダーノ}}</ref>)は、16世紀の[[イタリア]]の人物。''ジローラモ・カルダーノ'' (Girolamo Cardano) との表記もある。 [[ミラノ]]で生まれ、[[ローマ]]で没した。一般に[[数学者]]として知られている。本業は[[医者]]、[[占星術師]]、[[賭博師]]、[[哲学者]]でもあった。 == 生涯 == [[画像:Cardano - De propria vita, 1821 - 698063 F.jpg|thumb|''De propria vita'', 1821]] ジェロラモの父親は[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]の友人で数学の才能に恵まれた弁護士であり、彼はその私生児として生まれた。自叙伝には、ジェロラモの母親は彼を中絶しようとして失敗した、と書かれている。母親は3人の子供を[[伝染病]]で失い、それから逃れるために彼が生まれて間もなくミラノから[[パヴィア]]に移った。ジェロラモは[[1520年]]に[[パヴィア大学]]に入学して医学を学び、後に薬学を学ぶために[[パドヴァ大学]]へと移った。彼は他人にうち解けない気性だったため友人は殆どおらず、大学を卒業してからも長い間仕事に就くことができなかった。 最終的にジェロラモは医者となり、後には注目すべき医者として名声を得て、彼の意見は裁判所で尊重されるほどになった。[[1543年]]には[[パヴィア大学]]の医学教授に任ぜられた。[[腸チフス]]の発見者でもある。他にも[[アレルギー]]症の発見、[[ヒ素]]中毒の研究、[[痛風]]と発熱性疾患の治療法の確立などがある。科学者としては[[磁気]]現象と[[電気]]現象の区別の確立、[[チャイニーズリング|カルダノの輪]]の考察、さらに発明家として[[オートキー暗号]]の考案やカルダノ松明通信の考案、[[1550年]]に[[カルダングリル]]の発表も行っている。自伝によれば多くの本を著したようだが、現在では失われてしまったものも多い。 [[自在継手]]の考案者であり、自在継手の「カルダンジョイント」という別名は彼に由来する(電車などの「[[カルダン駆動方式]]」も、カルダンジョイントを使うことからの名称だが、間接的に彼に由来するものと言える)。 [[占星術]]に凝っており、キリストの占いまでしてしまって投獄されたこともある。占星術で自らの死期を予言しており、その予言は外れたが、その当日に[[自殺]]したと伝えられる。 == 数学の業績 == [[画像:Gerolamo Cardano.jpg|200px|thumb|[[セント・アンドルーズ大学 (スコットランド)|セント・アンドルーズ大学]]にあるカルダーノのポートレート]] カルダーノは今日では[[代数学]]の業績で最も良く知られている。[[1545年]]に著した本『偉大なる術(アルス・マグナ)』(''ラテン語:'' ''Ars magna de Rebus Algebraicis'') の中で[[三次方程式]]の解の公式、[[四次方程式]]の解法を示した。三次方程式の解の公式についてはいささか奇妙な歴史があり、『偉大なる術』にも紹介されている。 当時、習慣的に行われていた数学競技は、問題を出し合っては解くのを競うものであったが、あるとき三次方程式の問題が出された。この頃、三次方程式はまだ完全に解かれておらず、その回答能力で勝負が決まる切り札となる問題であった。これに参加していた一方の人物は、その師よりすでに三次方程式の解の公式を伝授されて無敗を誇っていたフィオルという人で、もう一方は[[ニコロ・フォンタナ・タルタリア]]という人であった。タルタリアはその時点ではまだ解法を得ていなかったが、彼は幸い自らの力でこれを導き、おまけに彼が提示した巧妙な三次方程式は相手には解かれなかった。この公式はタルタリアが長らく秘蔵していたが、カルダーノが絶対公表しないと誓いを立てたのでタルタリアはカルダーノに公式を教えた。しかし最初に述べたようにカルダーノは自著でこれを公表したためにタルタリアは怒り、カルダーノと長い論争をすることになる。また、四次方程式の解についてはカルダーノの弟子であった[[ルドヴィコ・フェラーリ]]が解いたものである。どちらの式もこの本で広く知られるようになった。これらの業績は他人のものだが、三次方程式の解を示す際に世界で初めて[[虚数]]の概念を導入したのはカルダーノである。 もう一つ重要なのは、カルダーノによる解法の公表が数学史上の転換点に当たっていることである。フォンタナもそうだったように、当時数学的知識は師から弟子へと口伝されるような秘術の一種であり、いまだ近代的な学問としての体をなしていなかった。カルダーノの『偉大なる術』の発表は、数学が共有される知である学問として自立を始めた端緒ということができ、「古い数秘術師」であるフォンタナを牽制する目的もまたあったと考えられる。 彼は金遣いが荒いことで知られており、本人は自身を賭博者、あるいは[[チェス]]のプレーヤーだと考えていたようである。しかし数学者らしく、1560年代に『[[さいころ]]あそびについて』(''Liber de ludo aleae''、発行されたのは彼の死後[[1663年]])を著し、その中で効率的なイカサマの方法として、初めて系統的に[[確率論]]について触れて記している。「ギャンブラーにとっては、全くギャンブルをしないことが最大の利益となる。」という言葉も残している。 === 偉大なる術(アルス・マグナ) === [[file:ArsMagna.jpg|thumb|right|200px|『偉大なる術』のタイトルページ]] 彼はこの中で世界で初めて[[虚数]]の概念を登場させた。以下の問題が登場する。 「足して10、掛けて40になる二つの数はなにか」 これは従来「解なし」であるが、この本の中では 「<math>5+\sqrt{-15}</math>」と「<math>5-\sqrt{-15}</math>」 が答えだと書かれている。虚数があれば答えのない問題にも答えを与えることができると示している。 == 著作 == * ''De malo recentiorum medicorum usu libellus'', Venice, 1536 (on medicine). * ''Practica arithmetice et mensurandi singularis'', Milan, 1539 (on mathematics). * ''Artis magnae, sive de regulis algebraicis'' (also known as ''Ars magna''), Nuremberg, 1545 (on algebra).<ref>http://www.filosofia.unimi.it/cardano/testi/operaomnia/vol_4_s_4.pdf An electronic copy of his book ''[[Ars Magna (Gerolamo Cardano)|Ars Magna]]'' (in Latin)</ref> * ''De immortalitate'' (on alchemy). * ''[http://archimedes.mpiwg-berlin.mpg.de/cgi-bin/toc/toc.cgi?dir=carda_propo_015_la_1570;step=thumb Opus novum de proportionibus]'' (on mechanics) (Archimedes Project). * ''Contradicentium medicorum'' (on medicine). * ''De subtilitate rerum'', Nuremberg, Johann Petreius, 1550 (on natural phenomena). * ''De libris propriis'', Leiden, 1557 (commentaries). * ''De varietate rerum'', Basle, Heinrich Petri, 1559 (on natural phenomena). * ''Opus novum de proportionibus numerorum, motuum, ponderum, sonorum, aliarumque rerum mensurandarum. Item de aliza regula'', Basel, 1570. * ''De vita propria'', 1576 ([[自伝]]). * ''Liber de ludo aleae'', ("On Casting the Die")<ref>p963, [[Jan Gullberg]], Mathematics from the birth of numbers, W. W. Norton & Company; ISBN 039304002X ISBN 978-0393040029</ref> posthumous (on probability). * ''De Musica'', ca 1546 (on music theory), posthumously published in ''Hieronymi Cardani Mediolensis opera omnia, Sponius'', Lyons, 1663. * ''De Consolatione'', Venice, 1542. == 参考文献 == *{{Cite book|和書|author=アンソニー・グラフトン|authorlink=アンソニー・グラフトン|translator=[[榎本恵美子]]・[[山本啓二]]|date=2007-12|title=カルダーノのコスモス ルネサンスの占星術師|publisher=[[勁草書房]]|isbn=978-4-326-10175-7}} *{{Cite book|和書|author=カルダーノ|translator=[[青木靖三]]・榎本恵美子|date=1989-10|title=わが人生の書 ルネサンス人間の数奇な生涯|series=[[現代教養文庫]] 1310|publisher=社会思想社|isbn=4-390-11310-0}} **{{Cite book|和書|author=カルダーノ|others=青木靖三・榎本恵美子訳|date=1980-07|title=わが人生の書 ルネサンス人間の数奇な生涯|series=そしおぶっくす|publisher=[[社会思想社]]}} - 旧版。 *{{Cite book|和書|author=カルダーノ|translator=[[清瀬卓]]・[[澤井繁男]]|date=1995-04|title=カルダーノ自伝 ルネサンス万能人の生涯|series=[[平凡社ライブラリー]]|publisher=[[平凡社]]|isbn=4-582-76093-7}} - 別訳。 **{{Cite book|和書|author=カルダーノ|others=清瀬卓・澤井茂夫訳|date=1980-11|title=カルダーノ自伝|publisher=[[海鳴社]]}} === 伝記研究 === *榎本恵美子『天才カルダーノの肖像 {{small|ルネサンスの自叙伝、占星術、夢解釈}}』[[ヒロ・ヒライ]]編、勁草書房、2013年 *オインステイン・オア『カルダノの生涯 悪徳数学者の栄光と悲惨』安藤洋美訳、東京図書、1978年 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://www-gap.dcs.st-and.ac.uk/~history/Mathematicians/Cardan.html MacTutor History of Mathematics archive 'Girolamo Cardano'] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かるたの しえろらも}} [[Category:16世紀イタリアの哲学者]] [[Category:16世紀の数学者|010924]] [[Category:イタリアの数学者]] [[Category:パヴィア大学の教員]] [[Category:ミラノ出身の人物]] [[Category:1501年生]] [[Category:1576年没]] [[Category:数学に関する記事]]
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アンリ・カルタン
アンリ・ポール・カルタン(仏: Henri Paul Cartan、1904年7月8日 - 2008年8月13日)は、フランスの数学者。数学者エリ・カルタンの長男。ニコラ・ブルバキの創始者のひとり。 1904年ナンシー生まれ。1929年高等師範学校卒業。リール大学準教授を経て、1938年からストラスブール大学教授、1940年からソルボンヌ大学教授を務めた。アメリカ、ドイツなどでも教え、1975年までパリ第11大学で教鞭を執った。2008年にパリで104歳という長寿を全うした。 多変数複素関数論、ホモロジー代数に業績を残し、このうち多変数複素関数論では岡潔の業績を層 (数学)の概念を用いて整理し、多くの数学者に受け入れられるようにした。1980年のウルフ賞数学部門をはじめ数々の賞を受賞した。
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アンリ・ポール・カルタンは、フランスの数学者。数学者エリ・カルタンの長男。ニコラ・ブルバキの創始者のひとり。 1904年ナンシー生まれ。1929年高等師範学校卒業。リール大学準教授を経て、1938年からストラスブール大学教授、1940年からソルボンヌ大学教授を務めた。アメリカ、ドイツなどでも教え、1975年までパリ第11大学で教鞭を執った。2008年にパリで104歳という長寿を全うした。 多変数複素関数論、ホモロジー代数に業績を残し、このうち多変数複素関数論では岡潔の業績を層 (数学)の概念を用いて整理し、多くの数学者に受け入れられるようにした。1980年のウルフ賞数学部門をはじめ数々の賞を受賞した。
{{Infobox scientist | name = アンリ・カルタン<br> Henri Cartan | image = Henri Cartan.jpg | image_size = 200px | caption = | birth_date = {{Birth date|1904|07|08|mf=y}} | birth_place = {{FRA1870}}、[[ナンシー]] | death_date = {{death date and age|2008|8|13|1904|7|08|mf=y}} | death_place = {{FRA}}、[[パリ]] | nationality = {{FRA}} | fields = [[数学]] | workplaces = [[パリ大学]] | alma_mater = [[高等師範学校 (フランス)|エコール・ノルマル]] | doctoral_advisor = {{仮リンク|ポール・モンテル|en|Paul Montel}} | doctoral_students = [[ジャン=ポール・ベンゼクリ]](Jean-Paul Benzécri)<br />[[ジャン=ポール・ブラスレ]](Jean-Paul Brasselet)<br />[[ピエール・カルティエ]]<br />{{仮リンク|ジャン・セーフ|en|Jean Cerf}}<br />{{仮リンク|ジャック・デニ|en|Jacques Deny}}<br />{{仮リンク|アドリアン・ドゥアディ|en|Adrien Douady}}<br />{{仮リンク|ピエール・ドルボー|en|Pierre Dolbeault}}<br />{{仮リンク|ロジャー・ゴドマン|en|Roger Godement}}<br />{{仮リンク|マックス・カルビ|en|Max Karoubi}}<br />{{仮リンク|ジャン=ルイ・コシュル|en|Jean-Louis Koszul}}<br />[[ジャン=ピエール・セール]]<br />[[ルネ・トム]] | known_for = [[カルタンの定理A, B]] | awards = [[ウルフ賞数学部門]] (1980) }} '''アンリ・ポール・カルタン'''({{lang-fr-short|Henri Paul Cartan}}、[[1904年]][[7月8日]] - [[2008年]][[8月13日]])は、[[フランス]]の[[数学者]]。数学者[[エリ・カルタン]]の長男。[[ニコラ・ブルバキ]]の創始者のひとり。 1904年[[ナンシー]]生まれ。1929年[[高等師範学校 (フランス)|高等師範学校]]卒業。[[リール (フランス)|リール]]大学準教授を経て、1938年から[[ストラスブール大学]]教授、1940年から[[パリ大学|ソルボンヌ大学]]教授を務めた。アメリカ、ドイツなどでも教え、1975年まで[[パリ第11大学]]で教鞭を執った。2008年に[[パリ]]で104歳という長寿を全うした。 多変数[[複素関数]]論、[[ホモロジー代数]]に業績を残し、このうち多変数複素関数論では[[岡潔]]の業績を[[層 (数学)]]の概念を用いて整理し、多くの数学者に受け入れられるようにした。1980年の[[ウルフ賞数学部門]]をはじめ数々の賞を受賞した。 == 訳書 == *『[[複素函数論]]』[[高橋礼司]]訳、[[岩波書店]]、1965年、新版2010年ほか {{people-substub}} {{Mathematician-stub}} {{ウルフ賞数学部門}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かるたん あんり ほおる}} [[Category:フランスの数学者]] [[Category:20世紀の数学者|040708]] [[Category:21世紀の数学者|-040708]] [[Category:ウルフ賞数学部門受賞者]] [[Category:ブルバキ]] [[Category:フランス科学アカデミー会員]] [[Category:日本学士院客員]] [[Category:王立協会外国人会員]] [[Category:米国科学アカデミー会員]] [[Category:ロシア科学アカデミー外国人会員]] [[Category:ポーランド科学アカデミー会員]] [[Category:ゲッティンゲン科学アカデミー会員]] [[Category:バイエルン科学アカデミー会員]] [[Category:ベルギー王立アカデミー会員]] [[Category:パリ大学の教員]] [[Category:ストラスブール大学の教員]] [[Category:リール大学の教員]] [[Category:ナンシー出身の人物]] [[Category:フランスのセンテナリアン]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:1904年生]] [[Category:2008年没]]
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