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8,338 | ミステリ映画 | ミステリー映画(ミステリーえいが)とは映画のジャンルのひとつで、
謎を解く行為によってドラマが展開していくことが多い。また、謎は不安感や緊張感を煽ることも多いので、スリラー映画やサスペンス映画との区別は明確ではない。スリル(どきどき)とサスペンス(はらはら)は対で使われることも多い。 | [
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] | ミステリー映画(ミステリーえいが)とは映画のジャンルのひとつで、 狭義には探偵映画、推理映画
広い意味で、謎がドラマに深くかかわっている映画作品 謎を解く行為によってドラマが展開していくことが多い。また、謎は不安感や緊張感を煽ることも多いので、スリラー映画やサスペンス映画との区別は明確ではない。スリル(どきどき)とサスペンス(はらはら)は対で使われることも多い。 | {{複数の問題
| 出典の明記 = 2012年7月23日 (月) 04:04 (UTC)
| 特筆性 = 2012年7月23日 (月) 04:04 (UTC)
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'''ミステリー映画'''(ミステリーえいが)とは[[映画のジャンル]]のひとつで、
# 狭義には探偵映画、推理映画
# 広い意味で、謎がドラマに深くかかわっている映画作品
謎を解く行為によってドラマが展開していくことが多い。また、謎は不安感や緊張感を煽ることも多いので、[[スリラー映画]]や[[サスペンス映画]]との区別は明確ではない。スリル(どきどき)とサスペンス(はらはら)は対で使われることも多い。
== 関連項目 ==
*[[スリラー映画]]
*[[サスペンス映画]]
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[[Category:ミステリ映画|*]]
[[Category:映画のジャンル]] | null | 2021-10-23T11:53:22Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%AA%E6%98%A0%E7%94%BB |
8,339 | 日本地図 | 日本地図(にほんちず)とは、日本国の領域あるいはそれを構成する主たる要素である日本列島小島とその周辺地域を描いた地図のことである。
現在の日本の地図は、国土地理院が定期的に日本全土を測量し発行する「国土地理院発行地形図」が基本となっている。
平安時代初期の弘仁5年6月23日付官符に引用されている「天平10年5月28日格」に「国図」の語が見えており、『続日本紀』の天平10年8月の記事に「天下の諸国をして国郡図を造進させる」と見えているので、この頃には全国の図が存在していたことは間違いない。 また『日本後紀』延暦15年8月の記事には既存の「諸国地図」が文字や情報の欠落が多いために作り直しを命じ、「諸国郷邑、駅道遠近、名山大川、形体広狭」をつぶさに記録させたという。これらの律令時代に基礎資料として使用された地図は現存していないが、18世紀の学者、籐貞幹の著した『集古図』巻二に、「延暦24年(805年)改定」と注記のある『興地図』が収められている。この地図は下鴨神社の伝本を書写したもので、後世の改訂が加えられているものの、日本の形状や基礎データは原図を踏襲したものと考えられている。また、13世紀の類書集『二中歴』には、地形や輪郭は無いが、66か国の国名を位置関係に合わせて街道で繋ぎ、移動に要する日数を記した『道線日本図』が収められている。
中世には他に「行基図」と呼ばれる台密の世界観に基づいて国土を図式した密教系の日本地図がある。例えば、13世紀の天台宗の僧、光宗が著した『渓嵐拾葉集』には、琵琶湖を中心として日本の国土を独鈷杵の形に当てはめた『行棊菩薩記』が引用されている。初期の行基図は位置関係は把握できるものの正確さには欠けているが、仁和寺収蔵の『日本図』や、類書『拾芥抄』に収録されている『大日本国図』に類する行基図は密教系とは大きく異なり、各国を団子状に並べて街道を記した形式となっており、行基図の概念は拾芥抄系によって完成したと言われる。海野一隆は、行基図は国家行政を行うために政府高官が使う参考資料として性格付けた。一方、村井章介は行政資料というよりも歌枕や旅行用の地図と位置付けている。現存する最古の行基図は、室町時代のものであるが、琉球が書き込まれているものがあるなど、用途に応じてバージョンアップが図られていることがうかがえる。
江戸時代には、公的な地理把握・領主支配を用途とした幕府選の国絵図など国家事業として地図製作が行われているが、日本全土を対象とした日本地図は国絵図の内容を整理する形で行われていた。安永8年(1779年)に日本で初めて経緯度線が入った地図『改正日本輿地路程全図』(通称『赤水図』)が長久保赤水により刊行された。 測量に基づくものではないが、蝦夷地(北海道)を除く日本全土が示されており、経緯度線も含まれていて見やすく、明治初期まで日本地図として広く一般に使われた(伊能忠敬の地図は国家機密とされており、一般には出回っていない)。
1800年頃から伊能忠敬らにより、はじめて測量技術に基づいた正確な日本地図「大日本沿海輿地全図」が作られた(ただし、それ以前に琉球王国では測量に基づく正確な地図が作られている)。
明治維新ののち、行政官から府県・諸侯に対し管轄地図を調製させる旨の沙汰が下った。その後、1869年民部官に庶務司戸籍地図掛を設置、1871年工部省に測量司、兵部省に陸軍参謀局間諜隊を設置、近代地図の作成が開始された。1884年地図の作成は参謀本部測量局に統合され、1888年参謀本部陸地測量部に改称。1925年に全国の五万分一地形図を完成させる。これらの組織はすべて国土地理院の前身である。
測量には三角点や水準点が使われる。
座標系(測地系)が2002年4月に「日本測地系」からGPSなどで使われる「世界測地系」に変わっているため、その前後の緯度、経度は座標変換が必要である。 | [
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] | 日本地図(にほんちず)とは、日本国の領域あるいはそれを構成する主たる要素である日本列島小島とその周辺地域を描いた地図のことである。 現在の日本の地図は、国土地理院が定期的に日本全土を測量し発行する「国土地理院発行地形図」が基本となっている。 | [[画像:日本地図.png|thumb|300px|right|日本地図(領有権主張) ]]
[[画像:Gyokizu.jpg|right|thumb|[[行基図]](『[[拾芥抄]]』写本。[[明暦]]2年([[1656年]])村上勘兵衛刊行。2枚の画像を合成)<br>左上に「大日本国図は行基菩薩の図する所也」より始まる説明が記されている。]]
[[画像:Ino-zu-90-Musashi Shimousa Sagami.jpg|thumb|『[[大日本沿海輿地全図]]』[[武蔵国|武蔵]]・[[下総国|下総]]・[[相模国|相模]]]]
[[画像:Map of Japan appears in the Cihannuma.jpg|thumb|[[オスマン帝国]]の[[キャーティプ・チェレビー]]、[[イブラヒム・ミュテフェッリカ]]によって発行された日本の地図]]
'''日本地図'''(にほんちず)とは、'''[[日本国]]'''の[[領域 (国家)|領域]]あるいはそれを構成する主たる要素である[[日本列島]]小島とその周辺地域を描いた[[地図]]のことである。
現在の日本の地図は、[[国土地理院]]が定期的に日本全土を[[測量]]し発行する「[[地形図|国土地理院発行地形図]]」が基本となっている。
== 歴史 ==
平安時代初期の弘仁5年6月23日付官符に引用されている「天平10年5月28日格」に「国図」の語が見えており、『[[続日本紀]]』の天平10年8月の記事に「天下の諸国をして国郡図を造進させる」と見えているので、この頃には全国の図が存在していたことは間違いない。
また『[[日本後紀]]』延暦15年8月の記事には既存の「諸国地図」が文字や情報の欠落が多いために作り直しを命じ、「諸国郷邑、駅道遠近、名山大川、形体広狭」をつぶさに記録させたという<ref name="Murai">村井章介「「日本」の自画像」『日本の思想 第三巻:内と外』 <岩波講座> 岩波書店 2014年 ISBN 978-4-00-011313-7 pp.45-58.</ref>。これらの[[律令制|律令時代]]に基礎資料として使用された地図は現存していないが、18世紀の学者、籐貞幹の著した『集古図』巻二に、「[[延暦]]24年(805年)改定」と注記のある『興地図』が収められている。この地図は[[下鴨神社]]の伝本を書写したもので、後世の改訂が加えられているものの、日本の形状や基礎データは原図を踏襲したものと考えられている<ref name="Murai"/>。また、13世紀の[[類書]]集『二中歴』には、地形や輪郭は無いが、66か国の国名を位置関係に合わせて街道で繋ぎ、移動に要する日数を記した『道線日本図』が収められている。
中世には他に「[[行基図]]」と呼ばれる[[台密]]の世界観に基づいて国土を図式した密教系の日本地図がある<ref name="Murai"/>。例えば、13世紀の[[天台宗]]の僧、光宗が著した『渓嵐拾葉集』には、[[琵琶湖]]を中心として日本の国土を[[独鈷杵]]の形に当てはめた『行棊菩薩記』が引用されている。初期の行基図は位置関係は把握できるものの正確さには欠けているが、[[仁和寺]]収蔵の『日本図』や、類書『[[拾芥抄]]』に収録されている『大日本国図』に類する行基図は密教系とは大きく異なり、各国を団子状に並べて街道を記した形式となっており、行基図の概念は拾芥抄系によって完成したと言われる<ref name="Murai"/>。[[海野一隆]]は、行基図は国家行政を行うために政府高官が使う参考資料として性格付けた<ref name="Murai"/>。一方、[[村井章介]]は行政資料というよりも[[歌枕]]や旅行用の地図と位置付けている<ref name="Murai"/>。現存する最古の行基図は、[[室町時代]]のもの<ref>{{Cite journal|author=角田清美|year=|date=2006-03-16|title=京都仁和寺と輝津館所蔵の「日本図」|journal=専修人文論集|volume=78|page=|pages=227-228|DOI=10.34360/00002543}}</ref>であるが、[[琉球]]が書き込まれているものがあるなど、用途に応じてバージョンアップが図られていることがうかがえる<ref>{{Cite web|和書
| url = http://www.yomiuri.co.jp/culture/20180615-OYT1T50074.html
| archiveurl = https://archive.fo/bcjRj
| title = 最古級の日本全図、室町初期作か
| website = [[YOMIURI ONLINE]]
| date = 2018-6-15
| accessdate = 2018-6-15
| archivedate = 2018-6-15
| deadlinkdate = 2019年7月16日
}}</ref>。
江戸時代には、公的な地理把握・領主支配を用途とした幕府選の[[国絵図]]など国家事業として地図製作が行われているが、日本全土を対象とした日本地図は国絵図の内容を整理する形で行われていた。安永8年([[1779年]])に日本で初めて経緯度線が入った地図『改正日本輿地路程全図』(通称『赤水図』)が[[長久保赤水]]により刊行された<ref>{{Cite journal|author=海田俊一|year=2017|title=改正日本輿地路程全図(赤水図)の改版過程について|journal=地図|volume=55|issue=3|page=10|DOI=10.11212/jjca.55.3_10}}</ref>。 測量に基づくものではないが、蝦夷地([[北海道]])を除く日本全土が示されており、経緯度線も含まれていて見やすく、[[明治]]初期まで日本地図として広く一般に使われた(伊能忠敬の地図は国家機密とされており、一般には出回っていない<ref name=":0">{{Cite news|title=濱口和久(5)地図は今も国家機密 あの伊能忠敬は地球一周分を歩いた…〝外圧〟が生んだ初の実測地図|date=2014-09-20|url=https://www.sankei.com/west/news/140920/wst1409200018-n1.html|agency=[[産経新聞]]|publisher=産経WEST}}</ref>)。
[[1800年]]頃から[[伊能忠敬]]らにより、はじめて[[測量]]技術に基づいた正確な日本地図「[[大日本沿海輿地全図]]」が作られた<ref name=":0" />(ただし、それ以前に[[琉球王国]]では測量に基づく正確な地図が作られている)。
[[明治維新]]ののち、行政官から府県・諸侯に対し管轄地図を調製させる旨の沙汰<ref>{{Citation|和書|url={{NDLDC|787948/261}} |title=法令全書 : 慶応3年10月–明治45年7月 |publisher=内閣官報局 |page=421 |doi=10.11501/787948 }}</ref>が下った。その後、[[1869年]]民部官に庶務司[[戸籍]]地図掛を設置、[[1871年]][[工部省]]に測量司、[[兵部省]]に陸軍参謀局[[スパイ|間諜]]隊を設置、近代地図の作成が開始された。[[1884年]]地図の作成は[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]測量局に統合され、[[1888年]]参謀本部[[陸地測量部]]に改称。[[1925年]]に全国の五万分一地形図を完成させる。これらの組織はすべて国土地理院の前身である。
== その他 ==
測量には[[三角点]]や[[水準点]]が使われる。
座標系([[測地系]])が2002年4月に「日本測地系」から[[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]]などで使われる「世界測地系」に変わっているため、その前後の[[緯度]]、[[経度]]は座標変換が必要である。
== 画像 ==
<gallery>
Japan map 1783.jpeg|[[1783年]]に出版された日本地図
Corea and Japan Map in 1815.jpg|[[1815年]]にイギリスで出版された[[日本]]と[[李氏朝鮮|朝鮮]]の地図
The Eastern Japan map of Haiguotuzhi.jpg|[[1853年]]、[[清]]で発行された{{仮リンク|海国図志|zh|海国图志}}の「日本國東界圖」に描かれた日本
The Western Japan map of Haiguotuzhi.jpg|海国図志の「日本國西界圖」
Charger with Japanese Map Design.jpg|[[天保]]年間に作成された大皿。大まかな地図が描かれている。
1880s Meiji Japanese Folding Map of Japan - Geographicus - Japan-meiji-1880.jpg|[[1880年代]]、[[明治]]に作成された日本地図
Things Japanese, map (1902).jpg|[[1902年]]に出版された日本地図
</gallery>
== 脚注 ==
<references/>
== 関連項目 ==
* [[プロジェクト:地図]]
* [[江戸幕府の地図事業]]
* [[電子国土]]
* [[世界地図]]
* [[電子国土基本図]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat}}
*[http://maps.gsi.go.jp 地理院地図]
*[https://www.start-point.net/map_quiz/nihonchizu/ 日本地図クイズ]
*[http://www.davidrumsey.com/japan/ Japanese Historical Maps] - [[カリフォルニア大学]]東アジア図書館
{{デフォルトソート:にほんちす}}
[[Category:地図]]
[[Category:日本の地図|*]]
[[Category:日本の地理]] | 2003-05-16T01:44:22Z | 2023-11-23T06:21:03Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9C%B0%E5%9B%B3 |
8,341 | リチャード・D・ザナック | リチャード・ダリル・ザナック(Richard Darryl Zanuck、1934年12月13日 - 2012年7月13日)は、アメリカ合衆国の映画プロデューサー。カリフォルニア州ロサンゼルス出身。『ジョーズ』、『スティング』、『評決』は、デイヴィッド・ブラウンとコンビ(ザナック&ブラウン)で世界的名声を得た。
20世紀フォックスのトップであったダリル・F・ザナックの息子。スタンフォード大学在学中から映画製作に携わるようになった。
1990年、アービング・G・タルバーグ賞(アカデミー賞)を受賞。
2012年7月13日、心臓発作のためにカリフォルニア州ロサンゼルスの自宅で死去。77歳没。 | [
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| 生年 = 1934
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| 主な作品 = 『[[ジョーズ]]』シリーズ<br>『[[コクーン]]』シリーズ<br>『[[ドライビング MISS デイジー]]』<br>『[[ディープ・インパクト (映画)|ディープ・インパクト]]』<br>『[[ロード・トゥ・パーディション]]』<br>『[[ビッグ・フィッシュ]]』<br>『[[チャーリーとチョコレート工場]]』<br>『[[スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師]]』<br>『[[アリス・イン・ワンダーランド]]』<br>『[[ダーク・シャドウ]]』
| アカデミー賞 = '''[[アカデミー作品賞|作品賞]]'''<br />[[第62回アカデミー賞|1989年]]『[[ドライビング MISS デイジー]]』<br />'''[[アービング・G・タルバーグ賞]]'''<br />[[第63回アカデミー賞|1990年]] 映画界への貢献に対して
| ゴールデンラズベリー賞 = '''[[ゴールデンラズベリー賞 最低前日譚・リメイク・盗作・続編賞|最低リメイク・続編賞]]'''<br>[[2001年]]『[[PLANET OF THE APES/猿の惑星]]』
| 備考 = [[第5回東京国際映画祭]] 審査委員長(1992年)
}}
'''リチャード・ダリル・ザナック'''('''Richard Darryl Zanuck'''、[[1934年]][[12月13日]] - [[2012年]][[7月13日]])は、[[アメリカ合衆国]]の[[映画プロデューサー]]。[[カリフォルニア州]][[ロサンゼルス]]出身。『ジョーズ』、『スティング』、『評決』は、[[デイヴィッド・ブラウン (映画プロデューサー)|デイヴィッド・ブラウン]]とコンビ(ザナック&ブラウン)で世界的名声を得た。
== 来歴 ==
[[20世紀フォックス]]のトップであった[[ダリル・F・ザナック]]の息子。[[スタンフォード大学]]在学中から映画製作に携わるようになった。
[[1990年]]、[[アービング・G・タルバーグ賞]]([[アカデミー賞]])を受賞。
2012年7月13日、心臓発作のために[[カリフォルニア州]][[ロサンゼルス]]の自宅で死去<ref>[http://www.variety.com/article/VR1118056567 Oscar-winning producer Richard Zanuck dies at 77] Variety 2012年7月14日閲覧</ref>。{{没年齢|1934|12|13|2012|7|13}}。
== プロデュース作品 ==
*[[強迫/ロープ殺人事件]] ''Compulsion'' (1959)
*[[サウンド・オブ・ミュージック (映画)|サウンド・オブ・ミュージック]] ''The Sound of Music'' (1965)
*[[アイガー・サンクション]] ''The Eiger Sanction'' (1975)
*[[ジョーズ]] ''Jaws'' (1975)
*[[ジョーズ2]] ''Jaws 2'' (1978)
*[[アイランド (1980年の映画)|アイランド]] ''The Island'' (1980)
*ネイバーズ ''Neighbors'' (1981)
*[[評決]] ''The Verdict'' (1982)
*[[ターゲット (1985年の映画)|ターゲット]] ''Target'' (1985)
*[[コクーン (映画)|コクーン]] ''Cocoon'' (1985)
*[[コクーン2/遥かなる地球]] ''Cocoon: The Return'' (1988)
*[[ドライビング Miss デイジー]] ''Driving Miss Daisy'' (1989)
*RUSH ラッシュ ''Rush'' (1991)
*リッチ・イン・ラブ 'Rich in Love'' (1992)
*ワイルド・ビル ''Wild Bill'' (1995)
*[[狼たちの街]] ''Mulholland Falls'' (1996)
*[[チェーン・リアクション]] ''Chain Reaction'' (1996)
*[[ディープ・インパクト (映画)|ディープ・インパクト]] ''Deep Impact'' (1998)
*[[トゥルー・クライム (1999年の映画)|トゥルー・クライム]] ''True Crime'' (1999)
*[[英雄の条件]] ''Rules of Engagement'' (2000)
*[[PLANET OF THE APES/猿の惑星]] ''Planet of the Apes'' (2001)
*[[サラマンダー (映画)|サラマンダー]] ''Reign of Fire'' (2002)
*[[ロード・トゥ・パーディション]] ''Road to Perdition'' (2002)
*[[ビッグ・フィッシュ]] ''Big Fish'' (2003)
*[[チャーリーとチョコレート工場]] ''Charlie and the Chocolate Factory'' (2005)
*[[スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師]] ''Sweeney Todd: The Demon Barber of Fleet Street'' (2007)
*[[アリス・イン・ワンダーランド (映画)|アリス・イン・ワンダーランド]] ''Alice in Wonderland'' (2010)
*[[ダーク・シャドウ]] ''Dark Shadows'' (2012)
==外部リンク==
*{{imdb name|id=0005573|name=Richard D. Zanuck}}
*[http://www.cbsnews.com/stories/2005/07/08/sunday/main707725.shtml The Zanucks: Reel Royalty]
== 脚注 ==
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8,342 | デイヴィッド・ブラウン (映画プロデューサー) | デイヴィッド・ブラウン(David Brown, 1916年7月28日 - 2010年2月1日)は、アメリカの映画および劇場のプロデューサー、著作家。ピーター・ベンチリーのベストセラー小説に基づく映画『ジョーズ』を制作したことで最もよく知られている。
デイヴィッド・ブラウンは、ニューヨークでエドワード・フィッシャー・ブラウンと最初の妻であるリリアン(旧制:バレン)との間に生まれた。
ブラウンはスタンフォード大学とコロンビア大学ジャーナリズム大学院を卒業した。
ブラウンはジャーナリストとして職業キャリアを開始し、『サタデー・イブニング・ポスト』『ハーパーズ』『コリアーズ』などの雑誌に寄稿し、後に編集者になった。彼は、『コスモポリタン』の編集長を妻のヘレン・ガーリー・ブラウンが雑誌に加わるまで務めた。
1951年、プロデューサーのダリル・F・ザナックは、彼のスタジオである20世紀フォックスのストーリー部門のトップとしてブラウンを雇った。ブラウンは後に、クリエイティブ・オペレーション部門のエグゼクティブ・バイスプレジデントに昇進した。1971年に彼は、ダリルの息子であるリチャード・D・ザナックと共に、フォックスを離れワーナー・ブラザースに移ったが、翌年に彼ら独自の制作会社を設立を試みた。
ポール・ニューマンとロバート・レッドフォードが主演した映画『スティング』(1973年)は、ザナック/ブラウンの共同作品であった。 1974年、彼らはユニバーサルピクチャーズとともに、スティーヴン・スピルバーグの映画監督デビュー作である『続・激突!/カージャック』をプロデュースした。 その後、このコンビは、シドニー・ルメット監督でポール・ニューマン主演の法廷ドラマ『評決』(1982年)や、ロン・ハワード監督のSF映画『コクーン』(1985年)、ブルース・ベレスフォード監督、ジェシカ・タンディとモーガン・フリーマン主演のコメディドラマ『ドライビング Miss デイジー』(1989年)を含む、12本以上の映画のプロデューサーまたはエグゼクティブプロデューサーとして参加した。『ドライビング Miss デイジー』は、最優秀作品賞を含む4つのアカデミー賞を受賞した。
ブラウン単独ではドラマ『アンジェラの灰』(1999年)やロマンス映画『ショコラ』(2000年)などの映画を制作し続けた。
ブラウンとザナックは、スピルバーグ監督の『ジョーズ』(1975年)などの映画製作の功績により、1990年に映画芸術科学アカデミーからアービング・G・タルバーグ賞を受賞した。
ブラウンは『成功の甘き香り:ミュージカル』(2002)、『ペテン師と詐欺師』(2005)、オフ・ブロードウェイのジェリー・ハーマンのミュージカルレビュー『ショーチューン』(2003)など、さまざまなブロードウェイミュージカルをプロデュースした。
彼は、劇作家アーロン・ソーキンが書いたドラマ劇『ア・フュー・グッドメン』の映画と舞台の権利を購入した。 この舞台劇は1989年11月に始まり、500回の公演が行われた。 同名の映画(1992年)は、トム・クルーズとジャック・ニコルソンが主演している。
1959年から51年間、ブラウンは亡くなるまでヘレン・ガーリー・ブラウン(英語版)と夫婦だった。なお、彼女はコスモポリタン誌の編集者を32年間務め、『セックス・アンド・ザ・シングルガール(英語版)』(1964年に『求婚専科』として映画化)の著者である。
ブラウンには死別した最初の妻との間に1人息子ブルースがいる。また、異母弟にエドワード・フィッシャー・ブラウン・ジュニアがいる。
彼は彼の礼儀正しさ、上質なワードローブ、独特の口ひげ、そして作家を擁護することで等しく知られている。 彼は出版社やエージェントと強いつながりを持っていた。
ブラウンは『Brown's Guide to the Good Life: Tears, Fears and Boredom』(2005年)を書き、人生についてのアドバイスを提供している。 彼はまた、逸話的な自伝である『Let Me Entertain You』(1990年)を書いている。
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] | デイヴィッド・ブラウンは、アメリカの映画および劇場のプロデューサー、著作家。ピーター・ベンチリーのベストセラー小説に基づく映画『ジョーズ』を制作したことで最もよく知られている。 | {{ActorActress
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'''デイヴィッド・ブラウン'''(David Brown, [[1916年]][[7月28日]] - [[2010年]][[2月1日]])は、アメリカの映画および劇場の[[プロデューサー]]、著作家。[[ピーター・ベンチリー]]のベストセラー小説に基づく映画『[[ジョーズ]]』を制作したことで最もよく知られている。
==生涯==
デイヴィッド・ブラウンは、[[ニューヨーク]]でエドワード・フィッシャー・ブラウンと最初の妻であるリリアン(旧制:バレン)との間に生まれた<ref>{{cite news |author=Hearst Corporation |author-link=Hearst Corporation |url=http://www.prnewswire.com/news-releases/david-brown-acclaimed-movie-producer-of-popular-classics-including-the-sting-jaws-and-driving-miss-daisy-author-and-journalist-dead-at-93-83303022.html |title=David Brown, Acclaimed Movie Producer of Popular Classics Including The Sting, Jaws and Driving Miss Daisy, Author and Journalist, Dead at 93 |work=PR Newswire Association LLC |date= February 1, 2010 |access-date= February 2, 2021 |publisher=Cision|language=en}}</ref><ref>{{Cite web
| url = https://digital.janeaddams.ramapo.edu/items/show/4658
| title = Brown, Edward Fisher (1889-1973)
| website = Jane Adam : Digital Edition
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ブラウンは[[スタンフォード大学]]と[[コロンビア大学ジャーナリズム大学院]]を卒業した<ref name="nytimes">{{cite news |first=Bruce |last=Weber |url=https://www.nytimes.com/2010/02/02/arts/02brown.html |title=David Brown, Film and Stage Producer, Dies at 93 |newspaper=[[ニューヨーク・タイムズ|The New York Times]] |date= February 2, 2010 |access-date= February 2, 2021 |language=en}}</ref>。
==経歴==
ブラウンはジャーナリストとして職業キャリアを開始し、『[[サタデー・イブニング・ポスト]]』『ハーパーズ』『コリアーズ』などの雑誌に寄稿し、後に編集者になった。彼は、『[[コスモポリタン (雑誌)|コスモポリタン]]』の編集長を妻のヘレン・ガーリー・ブラウンが雑誌に加わるまで務めた。
===映画===
1951年、プロデューサーの[[ダリル・F・ザナック]]は、彼のスタジオである[[20世紀スタジオ|20世紀フォックス]]のストーリー部門のトップとしてブラウンを雇った。ブラウンは後に、クリエイティブ・オペレーション部門のエグゼクティブ・バイスプレジデントに昇進した。1971年に彼は、ダリルの息子である[[リチャード・D・ザナック]]と共に、フォックスを離れ[[ワーナー・ブラザース]]に移ったが、翌年に彼ら独自の制作会社を設立を試みた。
[[ポール・ニューマン]]と[[ロバート・レッドフォード]]が主演した映画『[[スティング (映画)|スティング]]』(1973年)は、ザナック/ブラウンの共同作品であった。 1974年、彼らは[[ユニバーサル・スタジオ|ユニバーサルピクチャーズ]]とともに、[[スティーヴン・スピルバーグ]]の映画監督デビュー作である『[[続・激突!/カージャック]]』をプロデュースした。
その後、このコンビは、[[シドニー・ルメット]]監督で[[ポール・ニューマン]]主演の法廷ドラマ『[[評決]]』(1982年)や、[[ロン・ハワード]]監督のSF映画『[[コクーン (映画)|コクーン]]』(1985年)、[[ブルース・ベレスフォード]]監督、[[ジェシカ・タンディ]]と[[モーガン・フリーマン]]主演の[[コメディドラマ]]『[[ドライビング Miss デイジー]]』(1989年)を含む、12本以上の映画のプロデューサーまたはエグゼクティブプロデューサーとして参加した。『ドライビング Miss デイジー』は、最優秀作品賞を含む4つの[[アカデミー賞]]を受賞した。
ブラウン単独ではドラマ『[[アンジェラの灰 (映画)|アンジェラの灰]]』(1999年)やロマンス映画『[[ショコラ (2000年の映画)|ショコラ]]』(2000年)などの映画を制作し続けた。
ブラウンとザナックは、スピルバーグ監督の『[[ジョーズ]]』(1975年)などの映画製作の功績により、1990年に[[映画芸術科学アカデミー]]から[[アービング・G・タルバーグ賞]]を受賞した。
===劇場===
ブラウンは『成功の甘き香り:ミュージカル』(2002)、『[[ペテン師と詐欺師]]』(2005)、[[オフ・ブロードウェイ]]のジェリー・ハーマンのミュージカルレビュー『ショーチューン』(2003)など、さまざまな[[ブロードウェイ (ニューヨーク)|ブロードウェイ]]ミュージカルをプロデュースした。
彼は、劇作家[[アーロン・ソーキン]]が書いたドラマ劇『[[ア・フュー・グッドメン]]』の映画と舞台の権利を購入した。 この舞台劇は1989年11月に始まり、500回の公演が行われた。 同名の映画(1992年)は、[[トム・クルーズ]]と[[ジャック・ニコルソン]]が主演している。
==私生活==
1959年から51年間、ブラウンは亡くなるまで{{仮リンク|ヘレン・ガーリー・ブラウン|en|Helen Gurley Brown}}と夫婦だった。なお、彼女は[[コスモポリタン (雑誌)|コスモポリタン]]誌の編集者を32年間務め、『{{仮リンク|セックス・アンド・ザ・シングルガール|en|Sex and the Single Girl}}』(1964年に『[[求婚専科]]』として映画化)の著者である。
ブラウンには死別した最初の妻との間に1人息子ブルースがいる。また、異母弟にエドワード・フィッシャー・ブラウン・ジュニアがいる。
彼は彼の礼儀正しさ、上質なワードローブ、独特の口ひげ、そして作家を擁護することで等しく知られている。 彼は出版社やエージェントと強いつながりを持っていた{{要出典|date=2022-05-06}}。
ブラウンは『''Brown's Guide to the Good Life: Tears, Fears and Boredom''』(2005年)を書き、人生についてのアドバイスを提供している。 彼はまた、逸話的な自伝である『''Let Me Entertain You''』(1990年)を書いている。
===死去===
[[2010年]][[2月1日]]、[[腎不全]]のために逝去<ref name="nytimes" />。{{没年齢|1916|7|28|2010|2|1}}。
==プロデュース作品==
*[[続・激突!/カージャック]] ''The Sugarland Express'' (1974年)
*[[アイガー・サンクション]] ''The Eiger Sanction'' (1975年)
*[[ジョーズ]] ''Jaws'' (1975年)
*[[ジョーズ2]] ''Jaws 2'' (1978年)
*[[アイランド (1980年の映画)|アイランド]] ''The Island'' (1980年)
*[[ネイバーズ]] ''Neighbors'' (1981年)
*[[評決]] ''The Verdict'' (1982年)
*[[コクーン (映画)|コクーン]] ''Cocoon'' (1985年)
*[[コクーン2/遥かなる地球]] ''Cocoon: The Return'' (1988年)
*[[ドライビング Miss デイジー]] ''Driving Miss Daisy'' (1989年)
*[[ザ・プレイヤー]] ''The Player'' (1992年)
*[[ア・フュー・グッドメン]] ''A Few Good Men'' (1992年)
*[[ジョン・キャンディの大進撃]] ''Canadian Bacon'' (1995年)
*[[セイント (映画)|セイント]] ''The Saint'' (1997年)
*[[コレクター (1997年の映画)|コレクター]] ''Kiss the Girls'' (1997年)
*[[ディープ・インパクト (映画)|ディープ・インパクト]] ''Deep Impact'' (1998年)
*[[アンジェラの灰 (映画)|アンジェラの灰]] ''Angela's Ashes'' (1999年)
*[[ショコラ (2000年の映画)|ショコラ]] ''Chocolat'' (2000年)
*[[スパイダー (映画)|スパイダー]] ''Along Came a Spider'' (2001年)
==受賞==
*[[1990年]]、[[アービング・G・タルバーグ賞]]([[アカデミー賞]])受賞。
*[[1993年]]、デイヴィッド・O・セルズニック・ライフタイム・アチーヴメント賞(プロデューサー組合の賞)受賞。
==出典==
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==外部リンク ==
*{{allcinema name|222|デヴィッド・ブラウン}}
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*{{imdb name|0113360|David Brown}}
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[[Category:アカデミー賞受賞者]]
[[Category:アメリカ合衆国の雑誌編集者]]
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[[Category:スタンフォード大学出身の人物]]
[[Category:コロンビア大学出身の人物]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%B3_(%E6%98%A0%E7%94%BB%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC) |
8,346 | 伊能忠敬 | 伊能 忠敬(いのう ただたか、延享2年1月11日〈1745年2月11日〉- 文化15年4月13日〈1818年5月17日〉)は、江戸時代の商人・天文学者・地理学者・測量家。通称は三郎右衛門(さぶろえもん)、勘解由(かげゆ)。字は子斉、号は東河。
寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)まで、17年をかけて日本全国を測量し、『大日本沿海輿地全図』を完成させ、国土の正確な姿を明らかにした。
1883年(明治16年)、贈正四位。
延享2年(1745年)1月11日、上総国山辺郡小関村(現・千葉県山武郡九十九里町小関)の名主・小関五郎左衛門家で生まれた。幼名は三治郎。父親の神保貞恒は武射郡小堤村(現・横芝光町)にあった酒造家の次男で、小関家には婿入りした。三治郎のほかに男1人女1人の子がおり、三治郎は末子だった。
6歳のとき母が亡くなり、家は叔父が継ぐことになった。そのため、婿養子だった父・貞恒は兄と姉を連れて実家の小堤村の神保家に戻るが、三治郎は祖父母の下に残った。
小関家での三治郎の生活状況について、詳しくは分かっていない。当時の小関村は鰯漁が盛んで、三治郎は漁具が収納されてある納屋の番人をしていたと伝えられている。一方で、名主の家に残されていたということもあって、読み書きそろばんや、将来必要となるであろう教養も教え込まれていたのではないかとも考えられている。
10歳のとき、三治郎は父の下に引き取られた。神保家は父の兄である宗載が継いでいたため、父は当初そこで居候のような生活をしていたが、やがて分家として独立した。
神保家での三治郎の様子についても文献が少なく、詳細は知られていない。三治郎は神保家には定住せず、親戚や知り合いのもとを転々としたと言われている。常陸(現在の茨城県)の寺では半年間そろばんを習い、優れた才能を見せた。また17歳くらいのとき、「佐忠太」と名乗り、土浦の医者に医学を教わった記録がある。ただしここで習った医学の内容はあまり専門的なものではなく、余興の類だったといわれている。
三治郎が流浪した理由について、研究家の大谷亮吉は、父親が新たに迎え入れた継母とそりが合わなかったこともあって、家に居づらくなったからだとしている。このように、三治郎が周囲の環境に恵まれず不幸な少年時代を過ごしたとする説は昔から広く伝えられている。しかしこの見解に対しては、父や周辺の人物が三治郎のことを思って各地で教育を受けさせたのではないかという反論もある。
三治郎が生まれる前の寛保2年(1742年)、下総国香取郡佐原村(現・香取市佐原)にある酒造家の伊能三郎右衛門家(以下、伊能家と)では、当主の長由(ながよし)が、妻・タミと1歳の娘・ミチを残して亡くなった。長由の死後、伊能家は長由の兄が面倒を見ていたが、その兄も翌年亡くなった。そのため伊能家は親戚の手で家業を営むことになった。
ミチが14歳になったとき、伊能家の跡取りとなるような婿をもらったが、その婿も数年後に亡くなった。そのためミチは、再び跡取りを見つけなければならなくなった。
伊能家・神保家の両方の親戚である平山藤右衛門(タミの兄)は、土地改良工事の現場監督として三治郎を使ったところ、三治郎は若輩ながらも有能ぶりを発揮した。そこで三治郎を伊能家の跡取りにと薦め、親族もこれを了解した。三治郎は形式的にいったん平山家の養子になり、平山家から伊能家へ婿入りさせる形でミチと結婚することになった。その際、大学頭の林鳳谷から、忠敬という名をもらった。
宝暦12年(1762年)12月8日に忠敬とミチは婚礼を行い、忠敬は正式に伊能家を継いだ。このとき忠敬は満17歳、ミチは21歳で、前の夫との間に残した3歳の男子が1人いた。忠敬ははじめ通称を源六と名乗ったが、のちに三郎右衛門と改め、伊能三郎右衛門忠敬とした。
忠敬が入婿した時代の佐原村は、利根川を利用した舟運の中継地として栄え、人口はおよそ5,000人という、関東でも有数の村であった。舟運を通じた江戸との交流も盛んで、物のほか人や情報も多く行き交った。このような佐原の土壌はのちの忠敬の活躍にも影響を与えたと考えられている。
当時の佐原村は天領で、武士は1人も住んでおらず、村政は村民の自治に負うところが多かった。その村民の中でも特に経済力があり村全体に大きな発言権を持っていたのが、永沢家と伊能家であった。伊能家は酒、醤油の醸造、貸金業を営んでいたほか、利根川水運などにも関わっていたが、当主不在の時代が長く続いたために事業規模を縮小していた。一方、永沢家は事業を広げて名字帯刀を許される身分となり、伊能家と差をつけていた。そのため伊能家としては、家の再興のため、新当主の忠敬に期待するところが多かった。
忠敬が伊能家に来た翌年の1763年、長女のイネ(稲)が生まれた。同じ年、妻・ミチと前の夫との間に生まれた男子は亡くなった。3年後の明和3年(1766年)には長男の景敬が生まれた。
忠敬は伊能家の当主という立場から、村民からの推薦で名主後見に就いた。とはいえ忠敬はまだ年も若かったため、初めのうちは親戚である伊能豊明の力を借りることが多かった。この時期の忠敬は病気で長い間寝込んでいたこともあった。新当主として親戚づきあいなどの気苦労も絶えなかったからではと推測されている。
明和6年(1769年)、佐原の村で祭りにかかわる騒動が起き、これは当時24歳の忠敬にとって力量が試される事件となった。
佐原の中心部は小野川を境に大きく本宿と新宿に分かれ、祭りはそれぞれ年に1回ずつ開かれる。伊能家と永沢家は本宿にあり、そこでの祭礼は牛頭天王(ごずてんのう)の祭礼(祇園祭)であった。当時は毎年6月に開催されており、祭りの際は各町が所有する、趣向を凝らした山車が引き回されていた。ところが明和3年(1766年)以来、佐原村は不作続きで、農民も商人も困窮していた。そこで佐原村本宿の村役人3人が話し合い、今年は倹約を心がけ、豪華な山車の飾りものは慎むことに決め、町内にもそのように通達した。しかしそれにもかかわらず、各町内は例年のように豪華な飾りものの準備を始めた。そのうえ、山車を引き回す順番についても、双方の町が自分たちが一番先に出すと主張し、収拾のつかないまま当日を迎えることになった。このまま祭りが始まると大騒動に発展すると判断した村役人たちは、この年は山車を出さないことを決定した。このときに各町を説得しに回ったのが、名主後見の立場にあった永沢家の永沢治郎右衛門と、伊能家の忠敬であった。
佐原村本宿は大きく、本宿組と浜宿組に分かれていた。忠敬と永沢は分担して、忠敬は本宿組の各町を、永沢は浜宿組の各町を説得し、ようやく各町の同意を取りつけた。ところが祭礼2日目、永沢家が説得したはずの浜宿組において禁が破られ、山車が引き回されるという事態が発生した。本宿組の町民はさっそく忠敬を問い詰め、忠敬も永沢家に赴き責任を追及した。しかし本宿組の担当者はそれだけでは納得がいかず、浜宿組が山車を出したのだからこちらも出すと強硬に主張した。忠敬は、このままでは大きな争いになるのは必至で、町内に申し訳が立たないと感じたため、伊能家は永沢家と「義絶」すると宣言した。このときの義絶とはどのような状態なのか詳しく分かっていないが、伊能家は永沢家と今後一切の付き合いをやめるという意味であると推測される。これにより、各町は山車を出すことをようやく取り止めた。さらに、佐原で「両家」と呼ばれ、富と地位のある2つの家の義絶は村にとっても良くないと考えられたため、仲介によって、同年に両家は和解することとなった。
祭礼騒動が起こった年の7月、忠敬とミチとの間に次女・シノ(篠)が生まれた。さらに同じ年、忠敬は江戸に薪問屋を出したが、翌年に火事に遭い、薪7万駄を焼くという損害を出してしまった。
この頃、幕府では田沼意次が強い力を持つようになっていった。田沼は幕府の収入を増やすため、利根川流域などに公認の河岸問屋を設け、そこから運上金を徴収する政策を実行した。そして明和8年(1771年)11月、佐原村も、河岸運上を吟味するため、名主・組頭・百姓代は出頭するよう通告された。
河岸問屋が公認されると運上金を支払わなければならなくなる。そのため佐原の商人や船主は公認に乗り気でなかった。そこで名主4人が江戸の勘定奉公所へ行き、「佐原は利根川から十四、五町も離れていて、河岸問屋もないから、運上は免除願いたい」と申し出た。しかしこの願いは奉公所に全く聞き入れられず、それならば佐原には河岸運送をすることは認めないと言われることとなった。
これを受けて佐原村では再び話し合い、その結果、それまで河岸運送に大きく関わってきた永沢治郎右衛門、伊能茂左衛門、伊能権之丞、そして忠敬の4人が河岸問屋を引き受けることになった。ところがその数日後、永沢治郎右衛門と伊能権之丞は突然辞退したため、結局、引き受けるのは伊能茂左衛門と忠敬の2人だけになった。
翌年、2人は願書を作って勘定奉公所に提出した。そしてこの願書は奉公所の怒りを買った。というのも去年の願書では、「佐原は利根川から十四、五町離れている」としていたが今年の願書では「利根川から二、三町」だとしていたうえ、以前は「河岸問屋がない」としていたところ、今度は「2人は前から問屋を営んでいた」などと書かれていたためである。矛盾を追及された佐原側は、昨年申し上げたことは間違いであったなどと言い訳をしたが、最終的に奉公所から「以前から問屋を営んでいたというのであれば、その証拠を出すように」と命じられた。
これを聞いた忠敬は数日の猶予を願い出ていったん佐原へ帰り、先祖が書き残した古い記録をかき集めて奉公所に提出した。この記録によって、佐原は昔から河岸運送をしていたことが証明され、忠敬と茂左衛門は公認を受けることができた。運上金の額は話し合いのうえ、2人で一貫五百文と決まった。
ところが同年5月、佐原村内の権三郎という者が「自分も問屋を始めたい」と奉公所へ願い出たため、その関係で忠敬は再び江戸へ出向くことになった。忠敬は「権三郎も問屋を始めたのでは自分たちの商いの領分も減ってしまうし、村方も了承していない」と反対意見を述べた。それに対して奉公所の役人は「権三郎は、自分ひとりに問屋を任せれば、忠敬・茂左衛門の運上金に加えてさらに毎年十貫文上納すると言っているので、2人も問屋を続けたいなら、運上金を増額せよ」と迫った。忠敬は返答の先送りを願い出て、佐原に帰った。
そして同年7月、忠敬は村役人惣代、舟持惣代らとともに出頭し、同じく出頭していた権三郎と対決した。忠敬は、自分たちは村役・村方の推薦のもと問屋を引き受けたと主張し、さらに権三郎については、多額の運上金を払えるだけの財産もなく、過去にも問屋のことで問題を起こしていると批判した。村役人惣代や舟持惣代も忠敬を支持した。そのため忠敬の主張が認められ、公認の問屋は元のように2人に決まり、この問題はようやく解決をみた。運上金の金額も、一時は二貫文に上がったが、2年後には一貫五百文に戻った。
この事件で重要な役割を果たすことになった伊能家の古い記録の多くは、忠敬の三代前の主人である伊能景利がまとめあげたものだった。景利は佐原村や伊能家に関わることをはじめ、多くのことを丹念に記録に残しており、その量は本にして100冊以上になっていた。忠敬はこの事件で記録を残すことの重要性を身にしみて認識し、自らもこの事件について『佐原邑河岸一件』としてまとめた。また、先祖の景利が多くの記録をまとめ始めたのは、隠居したあとになってからのことだった。この、隠居後に大きな仕事を成し遂げるという先祖のした事は、のちの忠敬の隠居後の行動にもつながることになる。
河岸の一件が片づくと、忠敬は比較的安定した生活を送った。安永3年(1774年)、忠敬29歳のときの伊能家の収益は以下のようになっている。
安永7年(1778年)には、妻・ミチと奥州旅行へ出かけた。これは忠敬にとって、妻と一緒に行った唯一の旅行となった。
同じ年、これまで天領だった佐原村は、旗本の津田氏の知行地となった。忠敬は名主や村の有力者と、江戸にある津田氏の屋敷に挨拶に出向いた。そのとき、名主5人と永沢治郎右衛門は麻の裃を着用していたのに対し、忠敬は裃の着用を許されず、屋敷内で座る場所も差をつけられた。これは永沢が名字帯刀を許された身分だったためであるが、商いが順調なのに相変わらず永沢家と身分に差をつけられていることに悔しさを感じた忠敬は、永沢に対抗心を燃やすようになった。しかし、そのうちに忠敬の待遇も上がり、天明元年(1781年)、名主の藤左衛門が死去すると、代わりに忠敬が36歳で名主となった。
天明3年(1783年)、浅間山の噴火などに伴って天明の大飢饉が発生し、佐原村もこの年、米が不作となった。忠敬は他の名主らとともに地頭所に出頭し、年貢についての配慮を願い出た。その結果、この年の年貢は全額免除となり、さらに、「御救金」として100両が下された。
また、同じ年の冬になってから行われた利根川の堤防に関する国役普請では、普請掛りを命じられた。忠敬は堤防工事を指揮するとともに、工材を安く買い入れることで、工事費の節約の面でも手腕を発揮した。一方その頃、妻・ミチは重い病にかかり、同じ年の暮れに42歳で亡くなった。
地頭の津田氏は前述のように佐原村の年貢を免除していたが、一方で伊能家や永沢家に金の無心を度々していた。そのため、両家は地頭に対して多くの貸金を持つようになり、地頭所や村民に対し、より一層の発言力を持つようになった。そして忠敬は、天明3年(1783年)9月には津田氏から名字帯刀を許されるようになり、さらには天明4年(1784年)、名主の役を免ぜられ、新たに村方後見の役を命じられた。
村方後見は名主を監視する権限を持っており、これは永沢治郎右衛門も就いている役である。こうして忠敬は、永沢とほぼ同格の扱いを受けることができた。
浅間山の噴火以降、佐原村では毎年不作が続いていた。天明5年(1785年)、忠敬は米の値上がりを見越して関西方面から大量の米を買い入れた。しかし米相場は翌年の春から夏にかけて下がり続け、伊能家は多額の損失を抱えた。周囲からは、今のうちに米を売り払って、これ以上の損を防いだ方がよいと忠告されたが、忠敬は、あえて米を全く売らないことにした。
忠敬は、もしこのまま米価が下がり続けて大損したら、そのときは本宅は貸地にして、裏の畑に家を建てて10年間質素に暮らしながら借金を返していこうと思っていた が、その年の7月、利根川の大洪水によって佐原村の農業は大損害を受け、農民は日々の暮らしにも困るようになった。
忠敬は村の有力者と相談しながら、身銭を切って米や金銭を分け与えるなど、貧民救済に取り組んだ。各地区で、特に貧困で暮らすにもままならない者を調べ上げてもらい、そのような人には特に重点的に施しを与えた。また、他の村から流れ込んできた浮浪人には、一人につき一日一文を与えた。質屋にも金を融通し、村人が質入れしやすくするようにした。翌年もこうした取り組みを続け、村やその周辺の住民に米を安い金額で売り続けた。このような活動によって、佐原村からは一人の餓死者も出なかったという。
天明7年(1787年)5月、江戸で天明の打ちこわしが起こると、この情報を聞いた佐原の商人たちも、打ちこわし対策を考えるようになった。このとき、皆で金を出しあって地頭所の役人に来てもらい、打ちこわしを防いでもらってはどうかという意見が出された。しかし忠敬は、役人は頼りにならないと反対した。そして、役人に金を与えるならば農民に与えた方がよい、そうすれば、打ちこわしが起きたとしても、その農民たちが守ってくれると主張した。この意見が通り、佐原村は役人の力を借りずに打ちこわしを防ぐことができた。
忠敬が貧民救済に積極的に取り組んだことについては、村方後見という立場からくる使命感、伊能家や永沢家が昔から貧民救済を行っていたという歴史、そして農民による打ちこわしを恐れたという危機感など、いくつかの理由が考えられている。また、伊能家代々の名望家意識とともに商人としての利害得失を見極めた合理的精神がこうした判断を促したと考えられている。
佐原が危機を脱したところで、忠敬は持っていた残りの米を江戸で売り払い、これによって多額の利益を得ることができた。
妻・ミチが死去してから間もなく、忠敬は内縁で2人目の妻を迎えた。この妻については詳しいことは分かっておらず、名前も定かではない。天明6年(1786年)に次男・秀蔵、天明8年(1788年)に三男・順次、寛政元年(1789年)に三女・コト(琴)が生まれ、妻は寛政2年(1790年)に26歳で死去した。一方、最初の妻・ミチとの間に生まれた次女・シノも、天明8年に19歳で死去した。寛政2年、忠敬は仙台藩医である桑原隆朝の娘・ノブを新たな妻として迎え入れた。
このころ、長女のイネは既に結婚して江戸に移っており、長男・景敬は成年を迎えていた。忠敬は、景敬に家督を譲り、自分は隠居して新たな人生を歩みたいと思うようになっていった。そして寛政2年、地頭所に隠居を願い出た。しかし地頭の津田氏はこの願いを受け入れなかった。これは、当時の津田氏は代替わりしたばかりのころだったため、まだ村方後見として忠敬の力を必要としていたからである。
地頭所には断られたが、忠敬の隠居への思いはなお強かった。このとき忠敬が興味を持っていたのは、暦学であった。忠敬は江戸や京都から暦学の本を取り寄せて勉強したり、天体観測を行ったりして日々を過ごし、店の仕事は実質的に景敬に任せるようにした。寛政3年(1791年)には、次のような家訓をしたためて景敬に渡した。
寛政4年(1792年)、忠敬は、これまで地頭所に金銭を用立てすることによって財政的に貢献したという理由で、地頭所から三人扶持を与えられた。ただしこれは、忠敬にまだ隠居してほしくないという地頭所の思惑も含まれていたと考えられている。
翌寛政5年(1793年)には、久保木清淵らとともに、3か月にわたって関西方面への旅に出かけた。忠敬はこの旅についての旅行記を残している。そしてそこには、各地で測った方位角や、天体観測で求めた緯度などが記されており、測量への関心がうかがえる。また、久保木も『西遊日記』と呼ばれる旅行記を残している。
寛政6年(1794年)、忠敬は再び隠居の願いを出し、地頭所は12月にようやくこれを受け入れた。忠敬は家督を長男の景敬に譲り、通称を勘解由(伊能家が代々使っていた隠居名)と改め、江戸で暦学の勉強をするための準備に取り掛かった。その最中の寛政7年(1795年)、妻・ノブは難産が原因で亡くなった。
なお、寛政6年に佐原の橋本町(現・本橋元町)の惣代より村役人および村方後見である伊能三郎右衛門宛てに町内への便所の設置を求める願書が出されており、ここに登場する三郎右衛門は忠敬から家督を譲られた景敬であるとされている。ちなみに、現在の本橋元町にある公衆便所がこのとき設置された便所の後身に当たるという。
忠敬が隠居する前年の寛政5年(1793年)、伊能家の商売の利益は以下のようになっていた。
安永3年(1774年)の目録と比較すると、忠敬は伊能家を再興し、かなりの財産を築いていた。このときの伊能家の資産については正確な数字は明らかでないが、寛政12年に村人が「3万両ぐらいだろう」と答えた記録が残っている。この資産は30億 - 35億円程に相当する。
ただし、伊能家の状況は必ずしも順風満帆ではなかったとする説もある。伊能家(三郎右衛門家)が得意としてきた酒造業の実績を示す酒造高は天明の大飢饉後の天明8年(1788年)には1480石を誇っていたが、享和3年(1803年)には600石に減少しており、忠敬没後の天保10年(1839年)には株仲間の記録に伊能家の名前は存在していない、すなわち廃業状態にあったことを示している。これは伊能家だけではなく、競合する永沢家も含めて天明期の仲間35家のうち22家が天保期に姿を消し、代わりに天明期に存在が確認できなかった14家の新興酒造家が名前を連ねている状況 から、江戸幕府の度重なる酒株政策の変更に伊能家を含めた旧来の酒造家が対応しきれなかったことが背景にあるとみられている。また、貨幣経済の浸透は旗本などの中小領主たちに先納金・御用金・領主貸などの手段による貨幣の確保に向かわせることになった。先納金は年貢米を貨幣で前借することであるが、実際には貨幣による年貢徴収の口実とされて結果的には年貢米の輸送減少をもたらし、御用金や領主貸は伊能家のような地方商人への負担となった。また、農村の疲弊は伊能家から村単位への貸付の増加になって現れており、その中にはこれらの村が御用金や先納金を納めるための貸付もあったとみられている。さらに伊能家の土地所持高を見ると、享保5年(1720年)には52石7斗あまりだったのが、忠敬の相続後である明和3年(1766年)には84石1斗あまり、隠居後の享和2年(1802年)には145石1斗あまりと、忠敬当主時代に急激に増加しているのである。これは金融業における質流れの増加とともに忠敬が酒造や輸送業に限界を感じ、土地の集積へと軸足を移そうとしていたことの表れとされる。実際に隠居後の忠敬が佐原に送った書状には「店賃と田の収益ばかりになっても仕方がない」「もし、古酒の勘定もよくなく、未回収金が過分になったら酒造も見合わせてやめるように」などと記しており、特に後継者であった景敬が没した文化9年(1812年)以降には、酒造業や運送業、領主貸を縮小する意向を示している。しかし、地主としての土地経営も小作人となった農民との衝突を招くなど困難な状況が続いており、忠敬隠居後の文化年間に入ると土地集積の対象を山林にも広げている。
佐原の町は昔から大雨が降ると利根川堤防が決壊し、大きな被害を受けていた。いったん洪水が起きてしまうと田畑の形が変わってしまうため、測量して境界線を引き直さなければならない。忠敬は江戸に出る前から測量や地図作成の技術をある程度身につけていたが、それはこうした地で名主などの重要な役に就いていたという経験によるところが大きい。
さらに、前述したように、祖先の伊能景利は隠居してから膨大な記録をまとめるという仕事に取り組み、また、忠敬の家から川を挟んで向かい側に住んでいた楫取魚彦も、隠居後に江戸へ出て国学者や歌人として活動した。忠敬もこの2人の生き方から大きな影響を受けたと考えられている。
寛政7年(1795年)、50歳の忠敬は江戸へ行き、深川黒江町に家を構えた。
ちょうどその頃、江戸ではそれまで使われていた暦を改める動きが起こっていた。当時の日本は宝暦4年(1754年)に作られた宝暦暦が使われていたが、この暦は日食や月食の予報を度々外していたため、評判が悪かった。そこで江戸幕府は松平信明、堀田正敦を中心として、改暦に取り組んだ。しかし幕府の天文方には改暦作業を行えるような優れた人材がいなかったため、民間で特に高い評価を受けていた麻田剛立一門の高橋至時と間重富に任務にあたらせることにした。至時は寛政7年(1795年)4月、重富は同年6月に出府した。
忠敬が江戸に出たのは同年の5月のため、2人の出府と時期が重なる。改暦の動きは秘密裏に行われていたが、この時期の符合から、忠敬は事前に2人が江戸に来ることを知っていたとも考えられている。その情報元として、渡辺一郎は、忠敬の3人目の妻・ノブの父親である桑原隆朝を挙げている。桑原は改暦を推し進めていた堀田正敦と強いつながりがあった。そのため桑原は、堀田から聞いた改暦の話を忠敬に伝えていたのではないかという説がある。
同年、忠敬は高橋至時の弟子となった。50歳の忠敬に対し、師匠の至時は31歳だった。弟子入りしたきっかけについては、昔の中国の暦『授時暦』が実際の天文現象と合わないことに気づいた忠敬がその理由を江戸の学者たちに質問したが誰も答えられず、唯一回答できたのが至時だったからだという話が伝えられている。そして至時に必死に懇願して入門を認めさせたとのことであるが、至時が多忙な改暦作業のなかで入門を許した理由についても、渡辺は、桑原と堀田正敦の影響を指摘している。一方で今野武雄は、麻田剛立の弟子で大名貸の升屋小右衛門とのつながりを推測している。
弟子入りした忠敬は、19歳年下の師・至時に師弟の礼をとり、熱心に勉学に励んだ。忠敬は寝る間を惜しみ天体観測や測量の勉強をしていたため、「推歩先生」(推歩とは暦学のこと)というあだ名で呼ばれていた。
至時は弟子に対しては、まずは古くからの暦法『授時暦』で基礎を学ばせ、次にティコ・ブラーエなどの西洋の天文学を取り入れている『暦象考成上下編』、さらに続けて、ケプラーの理論を取り入れた『暦象考成後編』と、順を追って学ばせることにしていた。しかし忠敬は、既に『授時暦』についてはある程度の知識があったため、『授時暦』と『暦象考成上下編』は短期間で理解できるようになった。
寛政8年(1796年)9月からおよそ1年半の間、至時は改暦作業のため京都に行くことになり、その間は間重富が指導についた。同年11月に重富から至時に宛てた手紙の中では、「伊能も後編の推歩がそろそろ出来候。月食も出来候」と記されており、既に『暦象考成後編』を学んでいた。
忠敬は天体観測についても教えを受けた。観測技術や観測のための器具については重富が精通していたため、忠敬は重富を通じて観測機器を購入した。さらには、江戸職人の大野弥五郎・弥三郎親子にも協力してもらい、こうしてそろえた器具で自宅に天文台を作り観測を行った。取り揃えた観測機器は象限儀、圭表儀、垂揺球儀、子午儀などで、質量ともに幕府の天文台にも見劣りしなかった。
観測はなかなか難しく、入門から4年が経った寛政10年(1798年)の時点でもまだ至時からの信頼は得られていなかった が、忠敬は毎日観測を続けた。太陽の南中を測るために外出していても昼には必ず家に戻るようにしており、また、星の観測も悪天候の日を除いて毎日行った。至時と暦法の話をしていても、夕方になるとそわそわし始めて、話の途中で席を立って急いで家に帰っていた。慌てるあまり、懐中物や脇差を忘れて帰ったりもした。
忠敬が観測していたのは、太陽の南中以外には、緯度の測定、日食、月食、惑星食、星食などである。また、金星の南中(子午線経過)を日本で初めて観測した記録も残っている。
長女・イネの夫・盛右衛門は伊能家の江戸店を任されていたが、忠敬は盛右衛門に、イネとの離縁を言い渡した。この理由は定かではないが、盛右衛門が商売で何らかの不祥事を起こしたためだと伝えられている。
しかしイネは盛右衛門との離縁を受け入れず、夫に従った。そのため忠敬はイネを勘当した。ただし勘当した時期については、忠敬隠居後ということは分かっているが、正確には明らかになっていない。
一方忠敬は江戸に出てから、エイ(栄)という女性を妻に持った。至時は重富に宛てた手紙の中で、この女性のことを「才女と相見候。素読を好み、四書五経の白文を、苦もなく読候由。算術も出来申候。絵図様のもの出来申候。象限儀形の目もり抔、見事に出来申候」と褒め称え、勘解由は幸せ者だと綴っている。江戸で忠敬が行った天体観測についても、一人で行える内容ではないため、妻の手助けがあったのではないかと推測されている。
エイについては、長年にわたり謎の人物とされていたが、1995年、この人物は女流漢詩人の大崎栄(号は小窓、字は文姫)であることが明らかになった。エイはのちの忠敬の第一次測量のときは佐原に預けられたが、その後は忠敬の元を離れて文人として生き、忠敬と同じ文政元年(1818年)にこの世を去っている。
至時と重富は、寛政9年(1797年)に新たな暦『寛政暦』を完成させた。しかし至時は、この暦に満足していなかった。そして、暦をより正確なものにするためには、地球の大きさや、日本各地の経度・緯度を知ることが必要だと考えていた。地球の大きさは、緯度1度に相当する子午線弧長を測ることで計算できるが、当時日本で知られていた子午線1度の相当弧長は25里、30里、32里とまちまちで、どれも信用できるものではなかった。
忠敬は、自ら行った観測により、黒江町の自宅と至時のいる浅草の暦局の緯度の差は1分ということを知っていた。そこで、両地点の南北の距離を正確に求めれば1度の距離を求められると思い、実際に測量を行った。そしてその内容を至時に報告すると、至時からは「両地点の緯度の差は小さすぎるから正確な値は出せない」と返答された。そして「正確な値を出すためには、江戸から蝦夷地(現在の北海道)ぐらいまでの距離を測ればよいのではないか」と提案された。
忠敬と至時が地球の大きさについて思いを巡らせていたころ、蝦夷地では帝政ロシアの圧力が強まってきていた。寛政4年(1792年)にロシアの特使アダム・ラクスマンは根室に入港して通商を求め、その後もロシア人による択捉島上陸などの事件が起こった。日本側も最上徳内、近藤重蔵らによって蝦夷地の調査を行った。また、堀田仁助は蝦夷地の地図を作成した。
至時はこうした北方の緊張を踏まえたうえで、蝦夷地の正確な地図を作る計画を立て、幕府に願い出た。蝦夷地を測量することで、地図を作成するかたわら、子午線一度の距離も求めてしまおうという狙いである。そしてこの事業の担当として忠敬があてられた。忠敬は高齢な点が懸念されたが、測量技術や指導力、財力などの点で、この事業にはふさわしい人材であった。
至時の提案は、幕府にはすんなりとは受け入れられなかった。寛政11年(1799年)から寛政12年(1800年)にかけて、佐原の村民たちから、それまでの功績をたたえて伊能忠敬・景敬親子に幕府から直々に名字帯刀を許可していただきたいとの箱訴が出されたが、これも、忠敬が立派な人間であることを幕府に印象づけて、測量事業を早く認めさせるという狙いがあったとみられている(この箱訴は第一次測量後の享和元年(1801年)に認められ、忠敬はそれまでの地頭からの許可に加え、幕府からも名字帯刀を許されることとなった。ただ、忠敬は測量中は方位磁針が狂うのを防ぐため竹光を所持していたという)。
幕府は寛政12年の2月頃に、測量は認めるが、荷物は蝦夷まで船で運ぶと定めた。しかし船で移動したのでは、道中に子午線の長さを測るための測量ができない。忠敬と至時は陸路を希望し、地図を作るにあたって船上から測量したのでは距離がうまく測れず、入り江などの地形を正確に描けないなどと訴えた。その結果、希望通り陸路を通って行くこととなったが、測量器具などの荷物の数は減らされた。
同年閏4月14日、幕府から正式に蝦夷測量の命令が下された。ただし目的は測量ではなく「測量試み」とされた。このことから、当時の幕府は忠敬をあまり信用しておらず、結果も期待していなかったことがうかがえる。忠敬は「元百姓・浪人」という身分で、1日当たり銀7匁5分が手当として出された。
忠敬は出発直前、蝦夷地取締御用掛の松平信濃守忠明に申請書を出した。そこでは自らの思いが次のように綴られている。
ここでは蝦夷地だけでなく、奥州から江戸までの海岸線の地図作成についても述べられている。このことから、忠敬は最初から日本全国の測量が念頭にあったのではないかと考えられているが、その見解に対しては異論もある。
忠敬一行は寛政12年(1800年)閏4月19日、自宅から蝦夷地へ向けて出発した。忠敬は当時55歳で、内弟子3人(息子の秀蔵を含む)、下男2人を連れての測量となった。富岡八幡宮に参拝後、浅草の暦局に立ち寄り、至時宅で酒をいただいた。千住で親戚や知人の見送りを受けてから、奥州街道を北上しながら測量を始めた。千住からは、測量器具を運ぶための人足3人、馬2頭も加わった。寒くなる前に蝦夷地測量を済ませたいということもあって、距離は歩測で測り、1日におよそ40kmを移動した。出発して21日目の5月10日、津軽半島最北端の三厩に到達した。
三厩からは船で箱館(現・函館市)へと向かう予定だったが、やませなどの影響で船が出せず、ここに8日間滞在した。9日目に船は出たが、やはり風の影響で箱館には着けず、松前半島南端の吉岡に船をつけ、そこから歩いて箱館へと向かった。
箱館には手続きの関係で8泊し、その間に箱館山に登り方位の測定を行った。また下男の1人が病気を理由に暇を申し出たため、金を与えて本州側の三厩行きの船に乗せた。
5月29日、箱館を出発し、本格的な蝦夷地測量が始まった。しかし、蝦夷地では測量器具を運ぶ馬は1頭しか使うことを許されなかったため、持ってきた大方位盤は箱館に置いてくることにした。また、初日は間縄を使って距離を丁寧に測っていたが、あまりに時間がかかりすぎたため、2日目以降は歩測に切り替えた。
一行は海岸沿いを測量しながら進み、夜は天体観測を行った。海岸沿いを通れないときは山越えをした。蝦夷地の道は険しく、歩測すらままならなかったところも多い。また、本州のような宿がなかったため、宿泊は会所や役人の仮家を利用した。難所続きで草鞋もことごとく破れて困っているところに目に入った会所からの迎え提灯は「地獄に仏」のようだったという。
7月2日、忠敬らはシャマニ(様似町)からホロイズミ(幌泉、えりも町)に向かったが、襟裳岬の先端まで行くことはできず、近くを横断して東へ向かった。その後クスリ(釧路市)を経て、ゼンホウジ(仙鳳趾)から船でアツケシ(厚岸町)に渡り、アンネベツ(姉別)まで歩き、再び船を利用して、8月7日にニシベツ(西別、別海町)に到達した。
一行はここから船でネモロ(根室市)まで行き、測量を続ける予定だった。しかしこの時期は鮭漁の最盛期で、「船も人も出すことができない」と現地の人に言われたため、そのまま引き返すことにした。
8月9日にニシベツを発った忠敬は、行きとほぼ同じ道を測量しながら帰路についた。9月18日に蝦夷を離れて三厩に到着し、そこから本州を南下して、10月21日、人々が出迎えるなか、千住に到着した。第一次測量にかかった日数は180日、うち蝦夷地滞在は117日だった。なお、後年に忠敬が記した文書によれば、蝦夷地滞在中に間宮林蔵に会って弟子にしたとのことであるが、このときの測量日記には林蔵のことは書かれていない。
11月上旬から測量データをもとに地図の製作にかかり、約20日間を費やして地図を完成させた。地図製作には妻のエイも協力した。完成した地図は12月21日に下勘定所に提出した。
12月29日、測量の手当として1日銀7匁5分の180日分、合計22両2分を受け取った。忠敬は測量に出かけるときに100両を持参しており、戻ってきたときは1分しか残らなかったとの記述があるため、差し引きすると70両以上を忠敬個人が負担したことになる。後世の試算 によると、このとき忠敬が負担した金額は現在の金額に換算して1,200万円程度であった。また忠敬はこのほかに測量器具代として70両を支払っている。
忠敬の測量について、師の至時は「蝦夷地で大方位盤を使わなかったことについては残念だ」としながらも、測量自体は高く評価した。そして、間重富宛ての手紙で、「このように測ることは私が指図はいたしましたが、これほどきちんとやれるとは思いませんでした」と綴った。また、当初の目的であった子午線1度の距離について、忠敬は「27里余」と求めたが、これに対する至時の反応は残されていない。
蝦夷地測量で作成した地図に対する高い評価は若年寄堀田正敦の知るところとなり、正敦と親しい桑原隆朝を中心に第二次測量の計画が立てられた。
寛政12年(1800年)の暮れ、忠敬は桑原から第二次測量の計画を出すように勧められた。忠敬は案を作成し、寛政13年(1801年)の正月に桑原と至時の添削を受けた。
この計画は、行徳から本州東海岸を北上して蝦夷地の松前へと渡り、松前で船を調達して、船を住めるように改造し、食料も積み込んでから蝦夷地の西海岸を回り、さらにクナシリからエトロフ、ウルップまで行くというものであった。途中で船を買うことにしたのは、蝦夷地は道が悪く宿舎がないことを見越したもので、用が済んだら船は売り払う計画だった。また測量器具を運ぶため、人足1人、馬1匹、長棹1棹の持ち人足を要求した。
しかし桑原がこの計画を堀田正敦に内々で相談したところ、「船を買う件と長持の件は書面には書かずに口頭で述べる方がよい」との返答を得た。忠敬は、口頭で伝えたのでは計画の実現は難しく、測量は不十分なものになってしまうと反発した。しかし結局は、忠敬は桑原・至時と話し合ったうえで、船と長持の件はやはり口頭で伝えることとし、「これが認められなければ蝦夷地を諦めて本州東海岸のみを測量する」という案を出すことで納得した。
最終的に、今回は蝦夷地は測量せず、伊豆半島以東の本州東海岸を測量することに決められた。手当は前回より少し上がって1日10匁となった。また、道中奉行、勘定奉行から先触れが出るようになり、この結果、現地の村の人々の協力を得ることも可能になった。
享和元年(1801年)4月2日、一行は江戸を出て東海道を西に向かった。品川で親類・知人の見送りを受けた。
今回の測量から、歩測ではなく間縄(けんなわ)を使って距離を測ることにした。一行は三浦半島を一周し、鎌倉では鶴岡八幡宮を参詣。さらに伊豆半島を南下して、5月13日に下田に到着した。伊豆半島の道は断崖絶壁で測量が難しく、海が荒れるなかで船を出して縄を張って距離を求めたり、岩をよじのぼって方角を測ったりするなど苦労を重ねた。荷物を運ぶのにも労を要したが、聞いた話によると、下田から先の伊豆半島西海岸はこれに輪をかけて大変だということで、ここまで持ってきた大方位盤は江戸に送り返すことにした。
5月17日に下田を発ち、西海岸を回って5月30日に三島に到着、ここで至時によって江戸から送られてきた測量器具「量程車」を受け取った。三島からは東海道を東進して箱根の関所を越え、6月6日に北品川宿へ到着。いったん桑原や至時に報告した。
6月19日、一行は再び江戸を発ち、房総半島を測量しながら一周し、7月18日に銚子に着いた。銚子には9泊し、富士山の方角などを確かめた。また、銚子で忠敬は病気にかかったが、すぐに回復した。
7月29日に銚子を出発し、太平洋沿いを北上していった。しばらくはおおむね順調に測量できていたが、8月21日に到着した塩釜湾岸は山越えができずに舟を出して引き縄で距離を測った。さらに翌日に測量した松島や、その先の釜石、宮古までの間も、地形が入り組んでいるうえに断崖絶壁だったため、度々、舟の上からの測量となった。
10月1日に宮古湾を越えて北上を続け、雪に悩まされながらも10月17日に下北半島の尻屋に到着、そして半島を一周して奥州街道、松前街道を進み、11月3日、三厩に辿り着いた。ここからは第一次測量と同じように奥州街道を南下して、12月7日に江戸に到着した。
忠敬は江戸に戻ったが、5月に下田から送った大方位盤はまだ届いていなかった。忠敬は下田の宿主と名主に照会をとり、荷物は翌年の2月にようやく届けられた。忠敬はこれに対して「不届きの者なり」と立腹した。
地図は第一次測量のものと合わせて、大図・中図・小図の3種類が作られた。そのうち大図・小図は幕府に上程し、中図は堀田正敦に提出した。また、子午線一度の距離は28.2里と導き出した。
忠敬らは、前回計画を立てながらも実行できなかった蝦夷地の測量をやり遂げたい気持ちがあった。しかし、忠敬の立てた測量計画が幕府に採用される見込みは相変わらず薄かった。そこで、まずは内地の測量に従事した方がよいと判断した。
享和2年(1802年)6月3日、忠敬は堀田正敦からの測量命令を、至時を通して聞いた。測量地点は日本海側の陸奥・三厩から越前まで、および太平洋側の尾張国から駿河国までで、これと第一次・第二次測量を合わせて東日本の地図を完成させる計画である。また、8月に起きる日食も観測するよう指示された。
本測量では人足5人、馬3匹、長持人足4人が与えられ、手当は60両支給された。これは過去2回よりもはるかに恵まれた待遇で、費用の収支もようやく均衡するようになった。
一行は6月11日に出発、奥州街道を進み6月21日に白河まで辿り着いた。ここから奥州街道を離れ会津若松に向かい、山形、新庄などを経て、7月23日に能代に到着した。ここで、8月1日に起こる日食を観測するための準備を整えた。しかし当日は曇りで、太陽は日食が終わる直前にほんの少し見えただけで、観測は失敗に終わった。
8月4日に能代を発ち、羽州街道を油川(現・青森市)まで進んだ。途中の弘前では宿の設備や対応が悪く、忠敬は役人に注意した。このように第三次測量からは、忠敬が測量に協力的でない役人を叱りつけることがままあった。これは幕府の事業を請け負っているという自負が強くなってきたためだろうと考えられている。
油川からは第一次、第二次と同じ道をたどり、8月15日に三厩に到着した。ここから算用師峠を越えて日本海側の小泊(現・中泊町)に行き、そこから南下した。9月2日から6日まで二手に分かれて男鹿半島を測量し、9日からは象潟周辺を測量した。当時の象潟は入り江の中に幾多の島々が浮かぶ景勝地だったが、忠敬測量の2年後に起きた象潟地震によって土地が隆起し、姿を全く変えてしまった。そのため、忠敬によって実測された地震前の象潟の記録は貴重なものとなっている。
その後、越後に入ると、海岸沿いでも岩山が多くなり、苦労しながらの測量となった。9月24日に新潟、10月1日に柏崎、10月4日に今町(現・上越市)に到着し、ここで海岸線を離れて南下した。そして追分(現・軽井沢町)から中山道を通り、10月23日に江戸に戻った。
江戸に帰った忠敬らは地図作成に取りかかったが、今回の測量だけでは東日本全体の地図は作れないため下図のみ作成し、享和3年(1803年)1月15日に幕府に提出した。
また、今回の測量結果から忠敬は再度、子午線一度の距離を計算し、28.2里という、第二次測量のときと同じ値を導き出した。しかし至時は、この値は自分の想定していた値よりも少し大きいとして、忠敬の結果を信用しなかった。忠敬はこの師匠の態度に不満を感じた。そして、「この値が信用できないというのであれば、それまで自分が行ってきた測量をすべて疑っているということではないか、ならば今後測量を続けることはできない」と言った。至時は忠敬をなだめ、何とか次の測量の手はずを整えた。
享和3年(1803年)2月18日、忠敬は至時を通じて堀田正敦からの辞令を受け取った。今回の測量地域は駿河、遠江、三河、尾張、越前、加賀、能登、越中、越後などで、また、佐渡にも渡るよう指示された。人足や馬は前回と同様で、旅費としては82両2分が支給された。
2月25日に一行は出発し、東海道を沼津まで測量した(第二次測量の再測)。沼津からは海岸沿いを通り、御前崎、渥美半島、知多半島を回って、5月6日に名古屋に着いた。名古屋からは海岸線を離れて北上し、大垣、関ヶ原を経て、5月27日に敦賀に到着した。28日から敦賀周辺を測量し、その後日本海沿いを北上していったが、5月末から6月にかけては隊員が次々と麻疹などの病気にかかり、測量は忠敬と息子の秀蔵の2人だけで行うこともあった。
6月22日には病人は快方に向かい、24日に一行は加賀国へと入った。しかし加賀では、地元の案内人に地名や家数などを尋ねても、回答を拒まれた。これは、加賀藩の情報が他に漏れるのを恐れたためである。そのため忠敬は藩の抵抗に遭いながらの測量となった。加賀を出て、7月5日からは能登半島を二手に分かれて測量した。
8月2日ごろからしばらく忠敬は病気にかかり、体調の悪い日が続いていた。そんななか、8月8日に訪れた糸魚川藩で、糸魚川事件と呼ばれるいざこざを起こした。
忠敬はこの日、姫川河口を測ろうとして手配を依頼したところ、町役人は、姫川は大河で舟を出すのは危険だと断った。ところが翌日に忠敬らが行って確認したところ、川幅は10間程度しかなく、簡単に測ることができた。忠敬は、偽った証言で測量に差し障りを生じさせたとして、役人たちを呼び出してとがめ、藩の役人にも伝えておくようにと言った。
その後、忠敬一行は直江津(現・上越市)を通過して、8月25日に尼瀬(現・出雲崎町)に到着、ここで船を待って8月26日に佐渡島に渡り、二手に分かれて島を一周し、9月17日に島を離れた。佐渡の測量によって、本州東半分の海岸線は全て測量し終えたことになる。
翌日からは内陸部を測りながら帰路についたが、途中の六日町(現・南魚沼市)で、至時からの至急の御用書を2通受け取った。糸魚川での事件が江戸の藩主に伝わり、藩主から勘定所に申し入れがあったためである。至時は1通目の公式な手紙で「忠敬の言い回しはことさら御用を申し立てるようでがさつに聞こえる、もってのほかだ」と非難した。2通目の私的な手紙では、「今後測量できなくなるかもしれないから、細かいことにこだわってはいけない」と、割合くだけた調子で注意した。忠敬はこれに対して弁明の書を出した。
その後一行は三国峠を越え、三国街道から中山道に入り、10月7日に帰府した。
帰府後、忠敬は糸魚川事件の詳細な報告書を提出した。至時の力もあって、結果的に忠敬は幕府から咎められることはなく、測量に支障を来さずに済んだ。
忠敬が帰府したとき、至時は西洋の天文書『ラランデ暦書』の解読に努めていた。この本には緯度1度に相当する子午線弧長が記載されており、計算したところ、忠敬が測量した28.2里に非常に近い値になることが分かった。これを知った忠敬と至時は大いに喜び合った。
しかし、翌文化元年(1804年)正月5日、至時は死去した。至時の死後、忠敬は毎朝、至時の墓のある源空寺の方角に向かって手を合わせたという。幕府は至時の跡継ぎとして、息子の高橋景保を天文方に登用した。
忠敬らは第一次から第四次までの測量結果から東日本の地図を作る作業に取り組み、文化元年(1804年)、大図69枚、中図3枚、小図1枚からなる『日本東半部沿海地図』としてまとめあげた。この地図は同年9月6日、江戸城大広間でつなぎ合わされ、十一代将軍徳川家斉の上覧を受けた。ただし忠敬は身分の違いにより、この場には出席していない。
初めて忠敬の地図を見た家斉は、その見事な出来栄えを賞賛したのではないかといわれている。9月10日、忠敬は堀田正敦から小普請組で10人扶持を与えるという通知を受け取った。
またこの年、漢学者として佐原にて門人の教育にあたっていた久保木清淵が後漢の鄭玄の『孝経』註釈を復元した『補訂鄭註孝経』を刊行し、忠敬は同書の序文を執筆している。
至時は元々、忠敬には東日本の測量を任せ、西日本は間重富に担当させる予定でいた。しかし至時の死後に天文方となった景保は当時19歳と若く、重富が景保の補佐役にあたらなければならなくなったため、西日本の測量も忠敬が受け持つことになった。
西日本の測量は幕府直轄事業となった。そのため、測量隊員には幕府の天文方も加わり人数が増えた。また、測量先での藩の受け入れ態勢が強化され、それまで以上の協力が得られるようになった。
当初の測量の予定は、本州の西側と四国、九州、さらには対馬、壱岐などの離島も含めて、33か月かけて一気に測量してしまおうという大計画だった。しかし実際は、西日本の海岸線が予想以上に複雑だったこともあって、4回に分けて、期間も11年を要することになる。
文化2年(1805年)2月25日、忠敬らは江戸を発ち、高輪大木戸から測量を開始した。隊員は16人、隊長の忠敬は60歳になっていた。
東海道を測量しながら進み、3月16日に浜松に到着、浜名湖周辺を測った。さらに伊勢路に入ると二手に分かれて、沿岸と街道筋の測量を行った。
4月22日、伊勢国の山田(現・伊勢市)に到着し、この日の夜、経度を測定するため木星の衛星食を観測した。木星衛星食の観測は5月6日から8日にかけて、鳥羽でも行った。
6月17日からは紀伊半島の尾鷲付近を測量したが、地形が入り組んでいたため作業は難航した。さらに測量隊から病人も相次いだ。
その後、紀伊半島を一周し、8月18日に大坂に着いた。大坂では12泊し、間重富の家族とも接触した。また、測量隊のうち市野金助ら3人は病気を理由に帰府した。ただし幕府下役である市野の離脱については、忠敬の内弟子、あるいは忠敬本人の測量方針と見解の相違があったためではないかとも言われている。
閏8月5日、一行は京都に入った。これまでの測量で予想以上に日数を費やしてしまっていたため、3年で西日本を測量するという計画は成し遂げられそうになかった。忠敬は江戸の景保に手紙を出し、計画の変更と隊員の増員を願い出た。江戸とは何度か書状のやり取りをしながら37日間かけて琵琶湖を測量した。
結局測量計画は変更され、中国地方沿岸部を終えたらいったん帰府することになった。また人数も2名増員された が、瀬戸内海の海岸線は複雑で、家島諸島の測量にも日数を要したため、さらに2名の増員を要請した。一行は岡山で越年することになった。
文化3年(1806年)1月18日、岡山を出発し、瀬戸内海沿岸および瀬戸内海の島々を測量した。測量にあたっては地元の協力も得た。瀬戸内海の島々を多くの舟と多くの人数で測量している様子を描いた絵巻『浦島測量之図』が残されている。1月28日に福山、2月5日に尾道、3月29日に広島に到着した。
4月30日、秋穂浦(現・山口市)まで測量を進めた忠敬は、ここでおこりの症状を訴え、以後、医師の診療を受けながら別行動で移動することになった。一行は下関を経て6月18日に松江に着き、ここで忠敬は留まって治療に専念した。その間に隊員は三保関(現・松江市美保関町)から隠岐へ渡り、測量を終えてから三保関に戻り、8月4日に松江で忠敬と合流した。
忠敬の病状は回復し、松江から再び山陰海岸を測り始めた。しかし病気の間に隊員の統率は乱れ、隊員は禁止されている酒を飲んだり、地元の人に横柄な態度をとったりしていた。これは幕府の耳にも入っていたため、10月、景保から戒告状が届けられた。
その後、一行は若狭湾を測量し、大津、桑名を経て11月3日に熱田(現・愛知県名古屋市熱田区)に着いた。熱田からは測量は行わず東海道を江戸へ向かい、11月15日に品川に到着した。
測量後、忠敬は景保と相談し、隊規を乱した測量隊の平山郡蔵、小坂寛平の2名を破門にし、3名を謹慎処分にした。
また、弟子とともに地図の作製や天体観測を行い、今回の地図は文化4年12月に完成した。
今回の測量の経験から、忠敬は「長期に及ぶ測量は隊員の規律を守る点で好ましくない」と感じた。そこで次回の測量は四国のみにとどめることにした。
文化5年(1808年)1月25日、忠敬らは四国測量のため江戸を出発した。江戸から浜松までは測量せずに移動し、浜松から御油(現・愛知県豊川市)までは気賀街道を通って測量した。御油から先はまたほとんど測量を行わず、2月24日に大坂に着いた。
3月3日、淡路島の岩屋(現・兵庫県淡路市)に着き、ここから島の東岸を鳴門まで測り3月21日に徳島に渡った。そして四国を南下し、4月21日に室戸岬に着き、4月28日、赤岡(現・高知県香南市)で隊を分け、坂部貞兵衛らに、伊予国(現在の愛媛県)と土佐国(現在の高知県)の国境まで縦断測量を行わせた。4月29日に高知に着いた。
その後も海岸線を測量し、8月11日に松山に着いた。ここからも引き続き海岸線を測りつつ、加えて瀬戸内海の島々も測量し、さらに川之江(現・愛媛県四国中央市)からは再び坂部に四国縦断測量を行わせた。このように海岸線だけでなく内陸部も測らせたのは、測量の信頼性を高めるためである。10月1日、塩飽諸島で日食を観測し、高松を経て、鳴門から淡路島に渡り島の西岸を測量、11月21日に大坂へ戻った。
大坂で、病気の伊能秀蔵を江戸に帰し、ここから法隆寺、唐招提寺、薬師寺、東大寺、長谷寺といった社寺を回りながら奈良・吉野の大和路を測った。その後、伊勢(現在の三重県)を経由して帰路につき、文化6年(1809年)1月18日に江戸に戻った。
今回の測量では秀蔵が途中で離脱し、また忠敬自身も病気に罹ったが、それ以外は大きな問題はなく、隊員の統率もとれた。測量作業においては藩の協力も多く得られ、測量のために新たに道を作ったところもあった。
第七次測量は文化6年(1809年)8月27日に開始した。今回は中山道経由で移動することとなり、測量は王子(現・東京都北区)から行なった。御成街道や岩淵の渡し(荒川)などを利用して岩槻まで行き、岩槻から熊谷へ向かい中山道に入った。中山道を武佐(現・近江八幡市)まで測り、そこから、東海道へ向かう御代参街道を土山(現・滋賀県甲賀市)まで測った。土山から淀、西宮を経て山陽道を行き、11月には備後国神辺(現・広島県福山市)にて儒学者として有名な菅茶山と面会し、その際に忠敬は自身が序文を書いた久保木清淵の『補訂鄭註孝経』を茶山に贈呈している。その後、豊前小倉(現・福岡県北九州市)で越年し、ここから九州測量を始めた。
小倉から海岸線を南下し、2月12日に大分、28日に鳩浦(現・津久見市)に入った。鳩浦では3月1日に起こる日食を観測したが、天候が悪く失敗した。
4月6日に延岡、27日に飫肥(現・日南市)に到着。ここで支隊を出して都城方面の街道測量にあたらせた。本隊はそのまま南下して大隅半島をぐるりと回り、再び都城方面に支隊を出して測線をつないだのち、6月23日に鹿児島に着いた。
鹿児島で桜島の測量や木星の観測を行ってから、一行は薩摩半島を南下し、7月8日に山川湊に着いた。ここから舟に乗り種子島、屋久島の測量を行う予定であったが、天候が悪かったため後回しにして、そのまま薩摩半島の海岸線を測量し、8月1日、串木野(現・鹿児島県いちき串木野市)付近から甑島に渡って測量。8月19日に串木野に戻ったあと、本隊はそのまま海岸線を北上、支隊は鹿児島から街道筋を通って肥後国(現在の熊本県)へと向かわせた。
両隊はその後合流して天草諸島を測った。しかし甑島や天草の測量には手間がかかり、病人も出たので、今回は種子島、屋久島の測量は諦め、いったん江戸に帰ることにした。忠敬らは天草周辺の街道を測ったあと、九州を横断して大分で越年した。
翌文化8年(1811年)、大分を出発して本州に渡り、中国地方の内陸部などを測量しながら帰路についた。そして5月8日、江戸に到着した。
今回の測量では天候の関係などで種子島、屋久島に渡ることができなかった。薩摩の役人は忠敬に対し、「波が荒いので、両島に渡る時期は3 - 4月頃にして、6 - 7月頃に帰るようにしないといけない」という趣旨の説明をしている。元々、忠敬と景保は両島への渡航は難しいということを知っており無理して渡らなくてもいいと申し合わせていたので、断念する結果となった。
しかし結果的には幕府の方針で、次回の九州測量の計画に両島への渡航は組み込まれた。両島を測ろうとした理由は定かではないが、忠敬に全国の測量をさせるとともに、当時閉鎖的だった薩摩藩の偵察の意味合いも重きにおいていたのではないかと推測されている。なお忠敬は両島の測量が決まったとき、薩摩藩の担当者に対して硫黄島などの測量も希望したが、これは実現していない。
文化7年(1810年)、かつて忠敬が勘当した娘・イネが、佐原の家に戻ってきた。イネは夫・盛右衛門の死没後に剃髪し、名を妙薫と改めていた。忠敬や親類に詫びを入れた妙薫は、以後は景敬の妻・りてとともに伊能家を支え、旅先の忠敬ともたくさんの手紙をやり取りし、老年の父を気遣った。
また、忠敬は江戸で九州測量の地図を作成している際、間宮林蔵の訪問を受けた。忠敬は林蔵に1週間かけて測量技術を教えた。のちに林蔵は、忠敬が測り残した蝦夷地北西部の測量を行うことになる。
文化8年11月25日、忠敬らは、前回の九州測量で測れなかった種子島、屋久島、九州北部などの地域を測量するため、江戸を出発した。高齢の忠敬は、出発にあたって息子の景敬宛てに今後の家政や事業についての教訓や、自分の隠居資金の分配について記した書状を残しており、万一の事態も覚悟しての旅立ちだった。
一行は、本州については一部地域を除いて測量せずに東海道、山陽道を進み、文化9年(1812年)1月25日に小倉に着いた。小倉からは手分けして北九州の内陸部を測量しながら南下し、鹿児島に到着した。鹿児島から山川(現・鹿児島県指宿市)を経て海を渡り、3月27日に屋久島に着いた。
屋久島では二手に分かれ、忠敬は北半分を測量し、南半分は坂部が担当した。13日間かけて測量し、その後11日風待ちをして、4月26日に種子島に渡った。5月9日まで測量し、風待ち後、5月23日に山川に戻った。その後、九州内陸部を手分けして測量しながら北上し、小倉に戻った。小倉から九州北部の海岸線を通って博多に出て、佐賀、久留米を経由して、島原半島を一周し、大村湾を測り、佐世保で越年した。
文化10年(1813年)、佐世保近くの相浦(相神浦)で新年を迎えた忠敬は、
と詠んだ。そして九十九島と呼ばれる島々と複雑な海岸線を測りながら平戸へ向かい、平戸島などの島を測量してから、3月13日に壱岐島に渡り、15日間かけて壱岐を測量した。
壱岐の次は対馬に渡る予定だったが、対馬藩士の中村郷左衛門は忠敬に対し、「実測を取りやめてもらえないか」と申し出た。対馬には既に元禄13年(1700年)に作られた精密な地図『元禄対馬国絵図』があり、実測はやめにして、朝鮮通信使の礼で駆り出された農民たちを休ませたいという理由である。実際、『元禄対馬国絵図』は精度が極めて高い優れた地図で、忠敬も高く評価した。しかし対馬の正確な位置を決めるには天体観測を行う必要があるため、測量作業は実施された。
対馬は53日間かけて測量した。また、交会法を使って朝鮮半島の山々の位置も測った。忠敬は測量中、中村郷左衛門に対して「高橋家の息子(景保)も成長したし、間宮林蔵や副隊長の坂部貞兵衛もいることだから、私はこの御用を終えたら元の隠居に戻りたい」と、自らの思いを話している。5月21日に対馬の測量を終え、いったん平戸に戻ってから、5月23日に五島列島の宇久島に渡った。
五島列島では、忠敬率いる忠敬隊と、副隊長の坂部貞兵衛率いる坂部隊に分かれ、北から南に向かって測っていった。
しかし6月24日頃から坂部の体調は思わしくなく、6月26日、日ノ島にいた坂部は忠敬に宛てて、体調がよくないので福江島に渡って服薬したいと手紙をつづった。27日、坂部は福江で治療に専念したが、治療は実らず、7月15日に死亡した。
忠敬は16日に両隊を呼び寄せ、葬儀を行った。忠敬は坂部の死について、鳥が翼を取られたようだと述べ、長い間落胆を隠せなかった。1か月後に九州に戻ったとき、ようやく失敗した隊員を叱るようになったのでよかった、といった内容の手紙を内弟子が書き残している。
さらに、坂部の死に先立つ6月7日、佐原にいた忠敬の長男の伊能景敬も死去していた。忠敬の娘・妙薫は、忠敬に心配をかけまいとこのことを伏せ、8月12日に出した手紙にも、景敬は大病に罹っているとだけ書いた。これを読んだ忠敬は、景敬がよくなればよいが難しいだろうとして、そのうえで、景敬が大病でも、孫の三治郎と銕之助がいるから安心だと妙薫に送り返した。忠敬はこのときすでに景敬の死を察知していたと推定されている。
九州本土に戻った忠敬一行は、8月15日に長崎に着き、長崎半島を一周してから小倉へ行き、本州に渡った。そして中国地方の内陸部を測量しながら東に向かい、広島、松江、鳥取、津山、岡山を経由して、姫路で越年した。
翌文化11年(1814年)、引き続き内陸部を測量しながら進み、京都を経由し、3月20日四日市に着いた。ここから北上し、岐阜、大垣、髙山を通過し、古川から反転して野麦峠を越えた。さらに松本に出て善光寺に参詣し、反転して飯田まで南下したところで再び北上し、中山道を江戸に向かった。5月22日、板橋宿に到着した。
忠敬がこれまで住んでいた深川黒江町の家は、地図の作成作業には手狭となっていた。そこで忠敬は文化11年(1814年)5月、かつて桑原隆朝が住んでいた八丁堀亀島町の屋敷を改修し、6月からここに住むことにした。
文化12年(1815年)4月27日、測量隊は伊豆七島などを測量するため、江戸を出発した。ただし、下役や弟子の勧めもあって、高齢の忠敬は測量には参加しなかった。永井甚左衛門を隊長とした一行は、下田から三宅島、八丈島の順に渡り測量した。しかし八丈島から三宅島に戻ろうとしたときに黒潮に流されてしまい、三浦半島の三崎(現・神奈川県三浦市)に流れ着いた。三崎から御蔵島へ行き、三宅島を経由して神津島、新島、利島と測量を続け、いったん新島に戻った。ここから大島に向かう予定であったが、下田近くの須崎に流れ着いた。そこから大島へ行き、測量後に下田に戻り、周辺を測量しながら帰路につき、文化13年(1816年)4月12日に江戸に着いた。
第九次測量と並行して、江戸府内を測る第十次測量を行った。
これまでの測量では、たとえば東海道では高輪大木戸を、甲州街道では四谷大木戸を起点としていた。今回の測量は、各街道から日本橋までの間を測量して、起点を1つにまとめることが目的である。
測量は71歳になった忠敬も参加し、文化12年(1815年)2月3日から2月19日まで行われた。
測量を終えたところで、忠敬は、昔に測った東日本の測量は西日本の測量と比べて見劣りがすると感じた。そこで景保と相談し、もう一度詳しく測り直す計画を立てた。しかし幕府はこれを採用せず、代わりに江戸府内の地図を作るよう命じた。この測量は文化13年(1816年)8月8日から10月23日まで行われた。忠敬も度々指揮を執ったが、おそらく作業の大部分は下役と弟子たちが行っていたと推定されている。
測量作業を終えた忠敬らは、八丁堀の屋敷で最終的な地図の作成作業に取りかかった。文化14年(1817年)には、間宮林蔵が、忠敬が測量していなかった蝦夷地の測量データを持って現れた。また同年、忠敬は破門していた平山郡蔵を許し、作業に参加させた。
地図の作成作業は、当初は文化14年の暮れには終わらせる予定だったが、この計画は大幅に遅れた。これは、忠敬が地図投影法の理論を詳しく知らなかったため、各地域の地図を1枚に合わせるときにうまくつながらず、その修正に手間取ったためと考えられている。
忠敬は新しい投影法について研究し、資料を作り始めた。しかし文化14年秋頃から喘息がひどくなり、病床につくようになった。それでも文化14年いっぱいは、地図作成作業を監督したり、門弟の質問に返事を書いたりしていたが、文政元年(1818年)になると急に体が衰えるようになった。そして4月13日、弟子たちに見守られながら74歳で生涯を終えた。
地図はまだ完成していなかったため、忠敬の死は隠され、高橋景保を中心に地図の作成作業は進められた。
文政4年(1821年)、『大日本沿海輿地全図』と名づけられた地図はようやく完成した。7月10日、景保と、忠敬の孫・忠誨(ただのり、幼名三治郎)らは登城し、地図を広げて上程した。そして9月4日、忠敬の喪が発せられた。
忠敬の子の秀蔵は文化12年、素行が良くなく忠敬に勘当されていた。忠敬の死後は佐原で神保姓を名乗り、手習い師匠となった。
孫の忠誨、銕之助のうち、銕之助は忠敬の死の翌年に亡くなった。忠誨は、忠敬の喪が発せられた年、15歳で五人扶持と85坪の江戸屋敷が与えられ、帯刀を許された。忠誨は佐原と江戸を行き来しながら、景保らの指導も受け、さらに佐原の伊能家の跡継ぎとしても期待されていたが、文政10年(1827年)、21歳で病死した。忠誨の死により、忠敬直系の血筋は途絶えた。また測量隊の中には、忠敬が測量できなかった霞ヶ浦などを測量しようという意見もあったが、忠誨の死によりその案も立ち消えとなった。
忠敬は死の直前、「私がここまでくることができたのは高橋至時先生のおかげであるから、死んだあとは先生のそばで眠りたい」と語った。そのため墓地は高橋至時・景保父子と同じく上野源空寺にある。また佐原の観福寺にも遺髪を納めた参り墓がある。
佐原の名家の一つである伊能三郎右衛門家は、忠誨の没後も一族の管理下に置かれて存続するものの、当主不在が続くなかで家業の不振は深刻化していき、天保年間には酒造業は廃業に追い込まれている。こうした中で同族の伊能茂左衛門家および三郎右衛門家の分家的扱いであった清宮家 が、佐原における三郎右衛門家の地位を継承することになる。茂左衛門家・清宮家を中心とした伊能家一族の協議の末、三郎右衛門家に養子を迎えて再興させる話が実現するのは、忠誨の死から34年が経過した文久元年(1861年)のことである。なお、伊能茂左衛門家は楫取魚彦 を、清宮家は清宮秀堅 を輩出したことで知られ、特に清宮秀堅は文久の伊能三郎右衛門家再興時に清宮家当主として大きな役割を果たしている。
忠敬とその弟子たちによって作られた大日本沿海輿地全図は「伊能図」とも呼ばれている。縮尺36,000分の1の大図、216,000分の1の中図、432,000分の1の小図があり、大図は214枚、中図は8枚、小図は3枚で測量範囲をカバーしている。このほかに特別大図や特別小図、特別地域図などといった特殊な地図も存在する。
伊能図は日本で初めての実測による日本地図である。しかし測量は主に海岸線と主要な街道に限られていたため、内陸部の記述は乏しい。測量していない箇所は空白となっているが、蝦夷地については間宮林蔵の測量結果を取り入れている。
地図には沿道の風景や山などが描かれ、絵画的に美しい地図になっている点も特徴の一つである。 最後は弟子たちによって完成された。
忠敬は地図を作る際、地球を球形と考え、緯度1度の距離は28.2里とした。そしてこの前提のもと、測量結果から地図を描き、その後、経度の線を計算によって書き入れた。伊能図の経緯線はサンソン図法と同じである。
忠敬が求めた緯度1度の距離は、現在の値と比較して誤差がおよそ1,000分の1と、当時としては極めて正確であった。また、各地の緯度も天体観測により多数測定できた。そのため緯度に関してはわずかな誤差しか見られない。一方で経度については、天体観測による測定が十分にできなかったこと、地図投影法の研究が足りず各地域の地図を1枚にまとめるときに接合部が正しくつながらなかったこと、あとから書き加えた経線が地図と合っていなかったこと などの理由で、特に北海道と九州において大きな誤差が生じている。
忠敬死後、地図は幕府の紅葉山文庫に納められた。その後の文政11年(1828年)、シーボルトがこの日本地図を国外に持ち出そうとしたことが発覚し、これに関係した日本の蘭学者(高橋景保ら)などが処罰される事件が起こった(シーボルト事件)。シーボルトは内陸部の記述を正保日本図などで補っているため、実際の地形と異なる地形が描かれている。
江戸時代を通じて伊能図の正本は国家機密として秘匿されたが、シーボルトが国外に持ち出した写本をもとにした日本地図が開国とともに日本に逆輸入されてしまったため、秘匿の意味がなくなってしまった。慶応年間に勝海舟が海防のために作成した地図は、逆輸入された伊能図をモデルとしている。
伊能図は明治時代に入って、「輯製二十万分一図」を作成する際などに活用された。この地図は、のちに三角測量を使った地図に置き換えられるまで使われた。
伊能図の大図については、幕府に献上された正本は明治初期、1873年の皇居炎上で失われ、伊能家で保管されていた写しも関東大震災で焼失したとされる。しかし2001年、アメリカ議会図書館で写本207枚が発見された。その後も各地で発見が相次ぎ、現在では地図の全容がつかめるようになっている。2006年12月には、大図全214枚を収録した『伊能大図総覧』が刊行された。
忠敬が測量で主に使用していた方法は、導線法と交会法である。これは当時の日本で一般的に使われていた方法であり、実際に測量作業を見学した徳島藩の測量家も、伊能測量は特別なことはしていないと報告している。当時の西洋で主流だった三角測量は使用していない。
忠敬による測量の特徴的な点は、誤差を減らす工夫を随所に設けたことと、天体観測を重視したことにある。
導線法とは、2点の距離と方角を連続して求める方法である。測量を始める点に器具を置き、少し離れたところに梵天(竹の棒の先に細長い紙をはたきのように吊るしたもの)を持った人を立たせる。そして、測量開始地点から梵天の位置までの距離と角度を測る。測り終えたら、器具を梵天の位置まで移動し、別の場所に梵天持ちを立たせ、同じように距離と角度を測る。これを繰り返すことで測量を進めていく。
導線法を長い距離にわたって続けると、段々と誤差が大きくなってくる。その誤差を修正するために交会法が使われる。交会法とは、山の頂上や家の屋根など、共通の目標物を決めておいて、測量地点からその目標物までの方角を測る方法である。導線法で求めた位置が正しければ、それぞれの測量地点と目標物を結ぶ直線は一点で交わるため、この方法で導線法による誤差を確かめることができる。
さらに忠敬はこれに加えて、富士山などの遠くの山の方位を測って測量結果を確かめる遠山仮目的(えんざんかりめあて)の法などを活用している。
測量にあたって天体観測を活用することで、観測地の緯度や経度を求めることができるため、地図の精度が向上する。このことは忠敬が測量を始めるおよそ80年前に建部賢弘が指摘していた。しかしそれを実行に移したのは忠敬が初めてである。忠敬は測量中、晴れていれば必ず天体観測を行うようにしており、宿泊場所も観測器具が置けるだけの敷地があるところを指定していた。全測量日数3,754日のうち、1,404日は天体観測を行っている。主な観測内容は、恒星の南中高度、太陽の南中、日食、月食、木星の衛星食などである。また、文化2年(1805年)に家島で彗星を見たという記録が残っている(ビエラ彗星と推定される)。
恒星が南中したときの地平からの角度を測る。この角度と、予め江戸で測定しておいた角度を比較することで観測地点の緯度が求められる。しかし、動いている星が南中した瞬間を正確にとらえるのは難しい。そのため忠敬らは、多いときには1日で20個から30個の星の南中を観測し、誤差の軽減に努めた。
また、日中に太陽の南中を観測することもあった。これは緯度を求める目的のほか、南中した時刻を確かめて、日食・月食の観測で使う器具を調整するという目的もあった。
基準となる江戸での観測は、忠敬の自宅がある深川黒江町で行った。この観測にも注意を払い、1つの星に対して数日から数十日かけて観測を続け、観測誤差が少なくなるようにした。
日食・月食の観測は、観測地点の経度を求める目的で行われた。
経度を求めるのは緯度を求めるのと比べて格段に難しい。西洋では18世紀の終わり頃に、クロノメーターや月距法を利用した経度測定方法がようやく確立してきていた。しかし当時の日本にはそれらはまだ伝わっていなかったため、忠敬は主に伝統的な日食・月食を使って経度を測定していた。
方法としては、まず日食・月食が起きる前日までに太陽の南中を観測し、垂揺球儀(後述)を起動させる。そして当日、日食や月食を観測し、時間を記録する。このとき、江戸の暦局と大坂の間家(間重富の家)でも観測を行っているため、日食・月食が起きた時刻を3か所で比較することで、経度の差が求められる。
とはいえ日食や月食を観測できる機会は少ない。忠敬らは少ない機会を逃さぬようにするため、食が起こる7日ほど前に現地に到着し準備していた。しかしそれでも当日が雨や曇りの場合は観測できず、たとえ晴れていて観測できたとしても、江戸と大坂が曇っていれば意味がなくなってしまう。忠敬は測量中、日食や月食を観測できる機会が13回あったが、そのうち2か所以上で観測できたのは5回、3か所全てで観測できたのはわずか2回だった。
経度の測定法として、ほかに木星の衛星食を利用する方法も試された。
木星の周りを回っている衛星が、木星の後ろに隠れたり、また現れたりする時刻を観測する。日食・月食のときと同じように、同時に2か所以上で観測し、その差から経度差を求める。木星の衛星食は日食や月食と比べて頻繁に起こるため、観測には適している。
この方法で経度が求められることは、日本では高橋至時がすでに知っていた。しかし至時は、実際に食がいつ起きるかについては、そのときは予想できずにいた。しかしその後、至時は、この方法が詳しく載っている西洋書『ラランデ暦書』を入手することができた。そして同書をもとに研究に取り組み、この研究は至時の死後、間重富らによって引き継がれた。そうして忠敬の第五次測量の直前にようやく実用化できるようになった。
実際の観測は、第五次測量中の文化2年(1805年)4月22日、伊勢の山田(現・三重県伊勢市)で初めて行われた。その後も測量日記によると合計11回観測している。しかし測量にあたっては、前もって計算していた衛星食の時刻予想が正確ではなかったこともあり、苦労を要した。結果的に観測回数は少なく、経度の測定にはほとんど役に立たなかったと考えられている。
歩いた歩数をもとに距離を計算する方法である。主に第一次測量のときに採用した。
忠敬の歩幅について、井上ひさしは小説『四千万歩の男』を執筆する際に、「二歩で一間」(一歩約90cm)と仮定した。測量中に忠敬の歩いた距離はおよそ35,000キロメートルで、換算するとおよそ4,000万歩となる。
しかしその後、実際の歩幅はそれよりも小さいことが明らかになった。昭和63年(1988年)、伊能忠敬記念館に勤めていた佐久間達夫は、来館者に忠敬の歩幅について尋ねられたのをきっかけに歩幅の調査を行った。そして、忠敬が書いた『雑録』の中に、「1町に158歩」という記述を発見した。佐久間はこの記述と、忠敬が使っていた「折衷尺」(1尺30.303cm)をもとに、忠敬の歩幅を約69cmと導き出している。
第二次測量からは歩測の代わりに、間縄と呼ばれる縄や、鉄鎖を使って距離を求めるようになった。
第二次測量では麻の縄を使って海岸線を測量した。しかし縄は伸び縮みして正確な距離が測れなかったため、第三次測量からは新たに考案された鉄鎖が使われた。鉄鎖が使えないような場所では引き続き間縄が使われたが、藤づるを編んだ藤縄や、鯨の鰭を裂いて編んだ鯨縄を使うといった工夫を加えた。
鉄鎖は、両端を輪のように加工した長さ一尺の鉄線を60本つないだ鎖で、伸ばすと長さは十間となる。間縄は古くから使われていた方法だが、高橋至時によると、鉄鎖は忠敬が初めて考案したものである(ただし異説もある)。鉄鎖も使っていくうちに摩耗するため、間棹で毎日長さを確認していた。間棹とは長さ二間の木の棹で、両端に真鍮帽をかぶせている。
量程車とは車輪と歯車のついた箱状の測量器具である。地面に置いて車輪を転がしながら進むことによって、車輪に連動した歯車が回り、移動した距離が表示されるようになっている。中国では古くから存在し、日本にもすでに伝わっていた。忠敬は第二次測量の途中で高橋至時から量程車を受け取り、これを使って測量してみたが、海岸線などの砂地や、凹凸のある道では、距離が正確に測れなかった。したがって、以後は名古屋、金沢の城下など、限られた地域のみで使われ、西日本の測量においては全く使用されなかった。
方位の測定は大中小3種類の方位盤および半円方位盤にて行った。
小方位盤は杖の先に羅針盤をつけたものである。彎窠(わんか)羅針、杖先羅針とも呼ばれる。
羅針盤は杖を傾けても常に水平が保たれるようになっており、精度としては10分(6分の1度)単位の角度まで読むことができた。平地では三脚に固定して使用し、傾斜地では杖を地面に突き立てて使用した。
小方位盤自体は当時よく使われていた器具だったが、忠敬は羅針の形や軸受けの材質を変えるなどの工夫を加えた。小方位盤は忠敬の測量器具の中で最も重要なものと言われており、西日本を測量するころになると10個ほどを持っていっている。
小方位盤は主に導線法と交会法において使われた。導線法で使う際には正・副2本の羅針盤を使って2点の両方から角度を測り、その平均を取るようにしていた。
大方位盤と中方位盤は実物が残っていないために詳細は定かではないが、『量地伝習録』で解説がなされている。それによるとこの方位盤は、脚のついた円形の盤の中央に望遠鏡を設置したものである。円盤には方位を測るための磁石が取りつけられるようになっており、また円盤の周囲には、角度が分かるように目盛りのついた真鍮の環が組み込まれている。さらに円盤の上には指標板というものが置かれており、これは望遠鏡と連動して円盤状を回転できるようになっている。大方位盤と中方位盤は大きさが異なるだけで、外形や使用方法はほとんど変わらないといわれている。円盤の直径は大方位盤が2尺6寸、中方位盤が1尺2寸である。
これらの方位盤は、富士山など、遠くの目標物の方角を測るのに用いられた。円盤内の方位磁針の向きと、真鍮の環に刻まれた北を示す目盛りの向きを合わせてから、望遠鏡を目標物の向きに合わせる。すると、指標板が求める方角を指し示す。
大方位盤は精密な測定ができるため、高橋至時はこれを使って正確に方位を求めるべきだと主張した。しかし忠敬は、「正しい位置に設置するための器具が不十分なので精度向上は見込めない」と反論した。また、大方位盤は運搬に手間がかかるという問題もあった。そのため第一次測量では使用せず、第二次測量でも途中で江戸に送り返している。その後、第五次、第六次測量では使用されたが、第七次、第八次測量では持参していない。
中方位盤は大方位盤と比べて小型なため、第二次測量以降に持ち出され使われている。第五次測量以降の記録では中方位盤の名前は見られないが、忠敬は中方位盤のことを小方位盤と記すこともあるため、本当に使用されなかったかどうかは定かでない。
半円方位盤はその名の通り半円形の方位盤である。大・中方位盤と同じように、目盛り付きの真鍮板と方位磁針が付属している。また半円盤の上に視準器があり、これを半円盤上で回転させて目標物に合わせることで方角を求める。
この方位盤は十分単位で角度目盛がついていて、目測では分単位の角度を求めることができたが、構造が単純で偏心による誤差が生じやすかった。しかし小方位盤と比べると細かな方位が求めやすく、大・中方位盤と比べて持ち運びやすいという利点もあった。そのため遠くの山などを測る目的で、第四次測量以降は頻繁に使うようになった。
坂道の傾斜や星の高度は象限儀を使って求めた。象限儀の種類としては杖先小象限儀、大象限儀、中象限儀がある。
2点間の距離を導線法により求めても、その2点間が坂道になっていると、地図に表すとき距離が異なってしまう。この補正は、はじめのうちは目測で傾斜角を測って補正していたが、第三次測量からは杖先小象限儀を使うようになった。
この象限儀は長さ一尺二寸で、三脚に据えて、梵天を持っている人の目を目標にして測った。測った角度は割円八線対数表と呼ばれる三角関数の対数表を利用して距離に換算した。
恒星の南中高度を測るための象限儀は、大(長さ六尺)、中(長さ三尺八寸)の2種類が使われた。構造はどちらも同じである。大象限儀は江戸に常設しており、全国測量では中象限儀を持ち出した。この象限儀は、刻まれた目盛りによって一分単位の角度を読み取ることができ、目測を加えると十秒または五秒程度の単位まで測ることができた。
象限儀は地面に対して正確に垂直になるように設置しなければならない。そのため設置にあたっては本体以外に多数の木材が必要となり、全部合わせると、解体して運んでも馬一頭では積みきれないほどの大きさになった。
日食・月食が起きた時刻は、垂揺球儀によって求めた。垂揺球儀は振り子の振動によって時間を求める器具である。仕組みとしては振り子時計と同じで、日本でも麻田剛立によって既に使われていた。忠敬が使っていた垂揺球儀は現存しており、歯車を組み合わせることで十万の桁まで振動数が表示されるようになっている。振り子は1日におよそ59,500回振動するため、最大で約17日連続稼働できる。
日食・月食の前日までに、観測地において予め垂揺球儀を駆動させて1日の振動数を求めておく。そしてその数値と、南中から日食・月食開始までの振動数をもとにして、日食・月食が起こった時刻を求めることができる。
厳格な性格だった。測量期間中は隊員に禁酒を命じ、規律を重んじていた。また、能力の低い隊員に対しては評価が厳しく、測量中に娘の妙薫にあてた手紙にも、隊員についての愚痴がいくつも綴られている。身内でも特別扱いせず、息子の秀蔵も1人の内弟子として扱い、そして最終的には破門している。
また、根気強く、几帳面であった。測量中に合わせて51冊の日記(『伊能忠敬先生日記』)を残し、のちにそれを清書して28巻の『測量日記』としてまとめた。測量作業においても、技術の革新はなかったが、根気強い観測とさまざまな工夫でそれを補った。
商売人であったことから金銭には厳しく、家人に宛てた手紙にも、「野菜や薪など買わなくてすむものに金を使うな」「ためることが第一」などと書かれている。また飯炊きが毎日少しずつ米をくすねていたことに忠敬が気づき、咎めたとの記録もある。晩年、自身が病気になって江戸の自宅で玉子酒を飲んで治療をしているときも、「卵は江戸より佐原の方が安いから佐原で多めに買って江戸まで送るように」と指示を出している。一方で天明の飢饉のときには貧民に米などを分け与えたりしており、また九州測量中にも、利根川の洪水で被害を受けた人々に施しを与えるよう指示している。ただしこのとき、食べていける者にも分け与えることは名聞を求めるのにあたるから慎むべきだとしている。これらのことから、忠敬は意味のあることについては大金を投じることも惜しまないが、そうでないことには出さないという、合理的な考えの持ち主だったことがうかがえる。
全国測量の旅に出かける際は、安全祈願のために富岡八幡宮に必ず参拝に来ていた。2001年、境内に銅像が建てられた。近くの江東区門前仲町には、伊能忠敬宅跡を示す石碑が建てられている。
測量中も近くの寺社や名所旧跡を多く訪れており、その門前までの測量記録を残している。また、詩歌にも関心が強かった。
食べ物に関しては、測量中に毛利家徳山藩が調べたところによると、かぶら、大根、人参、せり、鳥、卵、長いも、蓮根、くわい、豆腐、菜、菜類、椎茸、鰹節といったものを好んだという。本人が妙薫などに宛てて書いた手紙では、「しそ巻唐辛子を毎日食べていて、残りが少なくなったからあれば送ってほしい」「蕎麦を1日か2日置きに食べている」などの記述があり、さらに豆類も好物とされている。また、「歯が時々痛み奈良漬も食べられない」と書かれた手紙も残っている。
忠敬の体格は、着物の丈が135cmであることから、身長は160cm前後、体重は55kg程度と推定されている。
若い頃から体は弱い方で、病気で寝込むこともしばしばあった。加えて四国測量の頃からは「痰咳の病」にかかるようになっていった。これは現代でいう慢性気管支炎のことであり、冬になる度に痰に悩まされていた。そのため、とりわけ食事に気をつけ咳痰の予防のため、食事療法として鶏卵を用いていた。特に70歳を過ぎた頃から、卵湯療法を続けている。鶏肉も滋養食として食事療法の対象としていた。忠敬の死因も、慢性気管支炎が悪化して起こる急性肺炎(老人性肺炎)とみられている。
忠敬と幕府との関係については様々な説がある。幕府との関係の証拠は
などが挙げられており、単なる引退した商人の測量技師ではなかったことを示している。
忠敬についての最も古い伝記は、江戸時代に書かれた『旌門金鏡類録(せいもんきんきょうるいろく)』の中にある。この書は、伊能家がいかに名家であるかを伝えるために編集されたものであるが、作者や作成時期については分かっていない。本書ではその性質上、忠敬についても、家の復興に努めて村のためにも尽くしたことが強調された書き方になっている。ただし本書は伊能家のために残された書であり、外部に見せるための伝記ではない。
公開された初めての伝記は、文政5年(1822年)に建てられた、源空寺の墓に刻まれている墓碑銘である。この墓碑銘は墓石の左面、背面、右面の3面にわたって刻まれた漢文で、作者は儒学者の佐藤一斎である。その内容は『旌門金鏡類録』を参考にしたものとうかがえる。ただし墓碑銘には、忠敬は西洋の技術を学ぶことによって知識が高まったといった内容が刻まれており、こうした記述は『旌門金鏡類録』にはない。おそらくこの記述については、渋川景佑の本から採ったものと考えられている。
弘化2年(1845年)には、佐原出身で縁戚関係にあたる清宮秀堅によって『下総国旧事考(くじこう)』が書かれ、その中で忠敬についても触れられている。この忠敬伝は墓碑銘をもとに書かれているが、忠敬と洋学との関係に関しては記されていない。このことについて小島一仁は、シーボルト事件や蛮社の獄といった、洋学者に対する弾圧が影響しているのではないかと述べている。
佐賀藩出身の佐野常民は、長崎海軍伝習所で訓練しているときに伊能図を使ったところ、この地図は正確でとても役に立つことを知った。さらに佐野は、伊能図がイギリス海軍にも評価されていたことなどを知り、元老院議長となったあとの明治13年(1880年)には佐原を巡視し、香取郡長の大須賀庸之助と伊能家の伊能節軒から忠敬についての話を聞いた。そして佐野は明治15年(1882年)9月、東京地学協会において、「故伊能忠敬翁事蹟」と題する講演を行った。
この講演では墓碑銘をもとにして忠敬の生涯を紹介したうえで、伊能図の素晴らしさに触れ、忠敬を偉人として讃えている。この講演は忠敬伝としては初めてのものであると言われており、その内容はその後における忠敬の評価にも影響を与えることとなる。
佐野の講演の目的は、忠敬に対しての贈位を申請することと、忠敬の業績に対して記念碑を建設することであった。このうち贈位については、大須賀らの協力もあって、明治16年(1883年)1月、東京地学協会長である北白川宮能久親王の名で申請が出された。そして同年2月、正四位が贈られた。
もう一方の記念碑について、佐野は講演の中で「忠敬が測量の基準とした高輪大木戸に建てるのがふさわしい」と述べ、明治16年の東京地学協会総会で、芝、高輪の大木戸に遺功表を立てることを議決した。その後、建設場所は芝公園に変更となり、明治22年(1889年)に遺功表が建てられた。
遺功表が建てられてからは、徳富蘇峰や幸田露伴の手による少年向けの忠敬伝が出され、明治20年代から30年代にかけて、忠敬の名は全国に知られるようになっていった。
明治36年(1903年)、国定教科書の制度が始まると、忠敬はさっそく国語の教科書に採用された。教科書の内容は佐野の講演をもとに書かれており、忠敬の生涯のほか、測量方法についても簡単に述べられている。教科書に載ったことで忠敬の名はさらに広まった。地元の佐原で忠敬を偉人と称えるようになったのもこの頃からである。
明治43年(1910年)に国定教科書の改訂がなされると、忠敬は国語の教科書から外され、代わりに修身の教科書に載るようになった。そして内容も変化した。修身教科書では、国語教科書で見られたような忠敬の測量における業績についてはほとんど書かれず、「勤勉」「迷信を避けよ」「師を敬へ」といった表題のもと、忠敬が家業に懸命に取り組んだこと、江戸に出てからは雨や風の中で測量に従事し地図を作ったことなどが記され、最後に「精神一到何事カ成ラザラン」などといった格言で締めるという、精神的な面が強調されるようになった。こうした内容の教科書は第二次世界大戦の終戦まで使われた。
忠敬が国定教科書に採用されたころ、忠敬について書かれた伝記は偉人伝としての要素が強く、測量内容に関する科学的な評価はほとんどなされていなかった。そのような状態のなか、物理学者の長岡半太郎は忠敬に興味を持ち、明治41年(1908年)に開かれた帝国学士院総会において、忠敬の業績を調べるよう提案した。この提案は賛同を得て、長岡の弟子の大谷亮吉の手により調査が始められた。
大谷は調査を行いながら、その結果などを発表していった。大正3年(1914年)には大谷の調査結果をもとに、長岡が、「伊能忠敬翁の事蹟に就て」と題する講演を行った。この講演は忠敬の業績のほか、麻田剛立、高橋至時、間重富の果たした役割についても述べており、従来の忠敬伝とは一線を画したものとなっている。そして大正6年(1917年)、大谷はおよそ9年にわたる調査をまとめた書『伊能忠敬』を書き上げた。
『伊能忠敬』は本文766ページの大著で、特に忠敬の測量法や測量精度に関する記述が詳しく書かれている。本書はそれまでにないほど精細であり、忠敬研究における決定版ともいわれた。また、これ以後に書かれた忠敬についての本についても、ほとんどは大谷の引き写しだともいわれている。本書は大正6年に源空寺で行われた忠敬の100遠忌法要において、墓前に供えられた。
また、忠敬没後100年の企画としては、他に佐原の有志による銅像と記念文庫建設の計画があった。結果として寄付額が足りず記念文庫の建設は断念されたが、銅像は大正8年(1919年)、佐原の佐原公園に建設された(作者は大熊氏廣)。
第二次世界大戦の終戦後は、戦前の国定教科書のような、忠敬を偉人として讃える書き方は鳴りを潜め、教科書の記述も簡単なものになった。しかし戦前の教育の影響からか、忠敬の知名度は相変わらず高く、忠敬は努力によって偉大な業績を上げたという偉人的な見方も年配者を中心に消えずに残っていた。
一方で新たな角度から忠敬を論ずる研究者も現れてきた。今野武雄は昭和33年(1958年)に出された本で、それまでの忠敬伝では忠敬の学問に対する情熱と精力がどこからきたのか得心できないと述べ、「忠敬は努力した」という旧来の書かれ方ではその努力の根源が明らかにされていないことを指摘した。また、歴史学者の高橋磌一は、昭和43年(1968年)に千葉県立佐原高等学校で開かれた伊能忠敬翁150年祭の記念講演で「みなさんは、伊能忠敬を、はじめから、えらい人だとか、えらくない人だとか、きめてかかってはいけません」と発言し、忠敬を先入観で偉人として見る感覚を戒めた。また小島一仁は昭和53年(1978年)に出された本で、従来の偉人伝としての忠敬伝を批判した。
さらに、伊能図の科学的な研究も進んだ。この分野においては大谷の『伊能忠敬』が圧倒的であり、昭和43年(1968年)に東京地学協会で行われた講演において保柳睦美は、「今日まで、忠敬の業績に関する科学的研究は、大谷氏のものが最後といってよい」と発言するほどであった。しかし保柳はこの講演で、大谷の研究は「独断や誤解のみならず、考察の不十分な点がところどころに発見される」と語り、大谷を批判した。一例として、伊能図における経度方向のずれに関する見解があげられる。大谷は、伊能図はサンソン図法によって描写されており、その投影方法が間違っていたことが経度方向のずれの原因の1つになっていると述べ、この地図投影方法を「大失態」と評し、忠敬および高橋景保を非難している。しかし保柳は大谷に反論し、経度のずれについては、伊能図は経緯線こそサンソン図法と同じだが、地図自体はサンソン図法によって描いたものではなく、両者の違いが経度差となって現れたためだと大谷の誤りを指摘した。そして、幕府の要求は海岸線の測定などが主であって経線は重要視されておらず、当時の日本の研究水準などを考えても、このことについて忠敬をことさらに非難するのは間違っていると主張した。保柳らの研究活動はのちの昭和49年(1974年)に『伊能忠敬の科学的業績』としてまとめられた。
また千葉県は昭和48年(1973年)、忠敬の手紙をまとめた『伊能忠敬書状』を出版した。
井上ひさしは昭和52年(1977年)、それまで小説に登場する機会がほとんどなかった忠敬を主人公にした小説『四千万歩の男』を『週刊現代』に連載した。井上が忠敬に特に関心を持ったのは、隠居後に新たな挑戦を始める、「一身にして二生を得る」という生き方だった。井上は、平均寿命が延びた時代において、退職後の人生を送るにあたって忠敬の生き方は手本になると述べている。
このように、高齢化社会という時代性から、「第二の人生を有意義に送った忠敬を評価する」という見方はこのころから広まるようになり、忠敬に対する人々の関心も高まっていった。『四千万歩の男』はその一つの要因と考えられている。このような忠敬の捉え方はその後も続き、忠敬は「中高年の星」「人生を2度生きた男」とも呼ばれるようになっている。
電電公社(現・NTT)に勤めていた渡辺一郎は、仕事で日本地図を毎日眺めている間に忠敬に対して興味を持ち、そして国立国会図書館で伊能図を見て感激したことがきっかけで、忠敬の研究を始めた。そして平成7年(1995年)には伊能忠敬研究会を結成した。研究会の活動などによって、1990年代後半から2000年前後にかけて、忠敬に関するイベントがいくつも開催された。平成10年(1998年)4月10日、朝日新聞社は創刊120周年記念事業として、徒歩で全国を回る「伊能ウォーク」を主催すると発表した(日本歩け歩け協会(現・日本ウォーキング協会)、伊能忠敬研究会との共同開催)。このイベントでは、忠敬の測量隊が歩いたルートを歩くほか、拠点地で伊能図の展示会などが行われた。平成11年(1999年)1月25日から平成13年(2001年)1月1日までの開催期間中に、16万人以上の一般参加者が参加した。
また、平成10年(1998年)4月21日から6月21日まで、江戸東京博物館において、伊能忠敬展が開催された。この展覧会では11万1,399人の来館者を集めた。
一方、忠敬生誕地の九十九里町では、伊能忠敬記念公園が整備され、忠敬の銅像が作られた。佐原市(現・香取市)においても新しい伊能忠敬記念館が建てられ、1998年5月22日に開館した。当地には伊能忠敬旧宅が保存されており、江戸時代の風情を残す佐原の町並みの一部をなしている。
伊能忠敬研究会がによる没後200年記念誌『伊能忠敬 日本列島を測る 後編』(2018年)掲載の調査結果によると、伊能忠敬を顕彰する記念碑や案内板などを、北は北海道別海町から南は鹿児島県南種子町まで190基以上ある。
ほかにもこの時期に、忠敬が主人公の演劇、映画が公開されている。また、平成13年(2001年)にアメリカで発見された伊能図の写本などによって伊能図の全貌が明らかになったことにより、原寸大の伊能図を並べて展示するイベントが開かれるようになった。
平成22年(2010年)、伊能忠敬作成の地図や使用した測量器具、関係文書など2,345点が、「我が国の測量史・地図史上における極めて高い学術的価値を有する」として、「伊能忠敬関係資料」の名称で国宝に指定された。これらは伊能家に伝来したもので、香取市の伊能忠敬記念館に保管されている。
現在の佐原において、忠敬の名は忠敬橋などに見られる。また、原付のデザインナンバープレートにも採用されている。
現代における忠敬の人物としての評価については、先に触れた二度の人生を生きたということのほか、渡辺一郎は、忠敬は才能こそあったものの、偉人や天才ではなく普通の人だったと述べたうえで、「ただ、いささか好奇心が強く、凝り性で、根気がよい性格だった」と評している。また星埜由尚は、「愚直なまでの忍耐と努力」を挙げたうえで、17年にわたって愚直に測量を続けたことは公共性(世のため人のため)という観念もあったのではないかとして、忠敬の生き方を、効率化や自らの利益が重視される現代におけるアンチテーゼとしてとらえている。
平成28年、伊能忠敬研究会が、忠敬の測量事業において協力した各地の人物を公表した。これは忠敬の日記を基に作成されたもので、忠敬没後200年の節目の記念行事(交流顕彰発表会)を行う予定である。
2018年にはバーチャルリアリティ(VR)作品『伊能忠敬の日本図』が東京国立博物館と凸版印刷により制作・上映された。 | [
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"text": "伊能 忠敬(いのう ただたか、延享2年1月11日〈1745年2月11日〉- 文化15年4月13日〈1818年5月17日〉)は、江戸時代の商人・天文学者・地理学者・測量家。通称は三郎右衛門(さぶろえもん)、勘解由(かげゆ)。字は子斉、号は東河。",
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"text": "寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)まで、17年をかけて日本全国を測量し、『大日本沿海輿地全図』を完成させ、国土の正確な姿を明らかにした。",
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"text": "1883年(明治16年)、贈正四位。",
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"text": "延享2年(1745年)1月11日、上総国山辺郡小関村(現・千葉県山武郡九十九里町小関)の名主・小関五郎左衛門家で生まれた。幼名は三治郎。父親の神保貞恒は武射郡小堤村(現・横芝光町)にあった酒造家の次男で、小関家には婿入りした。三治郎のほかに男1人女1人の子がおり、三治郎は末子だった。",
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"text": "6歳のとき母が亡くなり、家は叔父が継ぐことになった。そのため、婿養子だった父・貞恒は兄と姉を連れて実家の小堤村の神保家に戻るが、三治郎は祖父母の下に残った。",
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"text": "小関家での三治郎の生活状況について、詳しくは分かっていない。当時の小関村は鰯漁が盛んで、三治郎は漁具が収納されてある納屋の番人をしていたと伝えられている。一方で、名主の家に残されていたということもあって、読み書きそろばんや、将来必要となるであろう教養も教え込まれていたのではないかとも考えられている。",
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"text": "10歳のとき、三治郎は父の下に引き取られた。神保家は父の兄である宗載が継いでいたため、父は当初そこで居候のような生活をしていたが、やがて分家として独立した。",
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"text": "神保家での三治郎の様子についても文献が少なく、詳細は知られていない。三治郎は神保家には定住せず、親戚や知り合いのもとを転々としたと言われている。常陸(現在の茨城県)の寺では半年間そろばんを習い、優れた才能を見せた。また17歳くらいのとき、「佐忠太」と名乗り、土浦の医者に医学を教わった記録がある。ただしここで習った医学の内容はあまり専門的なものではなく、余興の類だったといわれている。",
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"text": "三治郎が流浪した理由について、研究家の大谷亮吉は、父親が新たに迎え入れた継母とそりが合わなかったこともあって、家に居づらくなったからだとしている。このように、三治郎が周囲の環境に恵まれず不幸な少年時代を過ごしたとする説は昔から広く伝えられている。しかしこの見解に対しては、父や周辺の人物が三治郎のことを思って各地で教育を受けさせたのではないかという反論もある。",
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"text": "三治郎が生まれる前の寛保2年(1742年)、下総国香取郡佐原村(現・香取市佐原)にある酒造家の伊能三郎右衛門家(以下、伊能家と)では、当主の長由(ながよし)が、妻・タミと1歳の娘・ミチを残して亡くなった。長由の死後、伊能家は長由の兄が面倒を見ていたが、その兄も翌年亡くなった。そのため伊能家は親戚の手で家業を営むことになった。",
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"text": "ミチが14歳になったとき、伊能家の跡取りとなるような婿をもらったが、その婿も数年後に亡くなった。そのためミチは、再び跡取りを見つけなければならなくなった。",
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"text": "伊能家・神保家の両方の親戚である平山藤右衛門(タミの兄)は、土地改良工事の現場監督として三治郎を使ったところ、三治郎は若輩ながらも有能ぶりを発揮した。そこで三治郎を伊能家の跡取りにと薦め、親族もこれを了解した。三治郎は形式的にいったん平山家の養子になり、平山家から伊能家へ婿入りさせる形でミチと結婚することになった。その際、大学頭の林鳳谷から、忠敬という名をもらった。",
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"text": "宝暦12年(1762年)12月8日に忠敬とミチは婚礼を行い、忠敬は正式に伊能家を継いだ。このとき忠敬は満17歳、ミチは21歳で、前の夫との間に残した3歳の男子が1人いた。忠敬ははじめ通称を源六と名乗ったが、のちに三郎右衛門と改め、伊能三郎右衛門忠敬とした。",
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"text": "忠敬が入婿した時代の佐原村は、利根川を利用した舟運の中継地として栄え、人口はおよそ5,000人という、関東でも有数の村であった。舟運を通じた江戸との交流も盛んで、物のほか人や情報も多く行き交った。このような佐原の土壌はのちの忠敬の活躍にも影響を与えたと考えられている。",
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"text": "当時の佐原村は天領で、武士は1人も住んでおらず、村政は村民の自治に負うところが多かった。その村民の中でも特に経済力があり村全体に大きな発言権を持っていたのが、永沢家と伊能家であった。伊能家は酒、醤油の醸造、貸金業を営んでいたほか、利根川水運などにも関わっていたが、当主不在の時代が長く続いたために事業規模を縮小していた。一方、永沢家は事業を広げて名字帯刀を許される身分となり、伊能家と差をつけていた。そのため伊能家としては、家の再興のため、新当主の忠敬に期待するところが多かった。",
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"text": "忠敬が伊能家に来た翌年の1763年、長女のイネ(稲)が生まれた。同じ年、妻・ミチと前の夫との間に生まれた男子は亡くなった。3年後の明和3年(1766年)には長男の景敬が生まれた。",
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"text": "忠敬は伊能家の当主という立場から、村民からの推薦で名主後見に就いた。とはいえ忠敬はまだ年も若かったため、初めのうちは親戚である伊能豊明の力を借りることが多かった。この時期の忠敬は病気で長い間寝込んでいたこともあった。新当主として親戚づきあいなどの気苦労も絶えなかったからではと推測されている。",
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"text": "明和6年(1769年)、佐原の村で祭りにかかわる騒動が起き、これは当時24歳の忠敬にとって力量が試される事件となった。",
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"text": "佐原の中心部は小野川を境に大きく本宿と新宿に分かれ、祭りはそれぞれ年に1回ずつ開かれる。伊能家と永沢家は本宿にあり、そこでの祭礼は牛頭天王(ごずてんのう)の祭礼(祇園祭)であった。当時は毎年6月に開催されており、祭りの際は各町が所有する、趣向を凝らした山車が引き回されていた。ところが明和3年(1766年)以来、佐原村は不作続きで、農民も商人も困窮していた。そこで佐原村本宿の村役人3人が話し合い、今年は倹約を心がけ、豪華な山車の飾りものは慎むことに決め、町内にもそのように通達した。しかしそれにもかかわらず、各町内は例年のように豪華な飾りものの準備を始めた。そのうえ、山車を引き回す順番についても、双方の町が自分たちが一番先に出すと主張し、収拾のつかないまま当日を迎えることになった。このまま祭りが始まると大騒動に発展すると判断した村役人たちは、この年は山車を出さないことを決定した。このときに各町を説得しに回ったのが、名主後見の立場にあった永沢家の永沢治郎右衛門と、伊能家の忠敬であった。",
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"text": "佐原村本宿は大きく、本宿組と浜宿組に分かれていた。忠敬と永沢は分担して、忠敬は本宿組の各町を、永沢は浜宿組の各町を説得し、ようやく各町の同意を取りつけた。ところが祭礼2日目、永沢家が説得したはずの浜宿組において禁が破られ、山車が引き回されるという事態が発生した。本宿組の町民はさっそく忠敬を問い詰め、忠敬も永沢家に赴き責任を追及した。しかし本宿組の担当者はそれだけでは納得がいかず、浜宿組が山車を出したのだからこちらも出すと強硬に主張した。忠敬は、このままでは大きな争いになるのは必至で、町内に申し訳が立たないと感じたため、伊能家は永沢家と「義絶」すると宣言した。このときの義絶とはどのような状態なのか詳しく分かっていないが、伊能家は永沢家と今後一切の付き合いをやめるという意味であると推測される。これにより、各町は山車を出すことをようやく取り止めた。さらに、佐原で「両家」と呼ばれ、富と地位のある2つの家の義絶は村にとっても良くないと考えられたため、仲介によって、同年に両家は和解することとなった。",
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"text": "祭礼騒動が起こった年の7月、忠敬とミチとの間に次女・シノ(篠)が生まれた。さらに同じ年、忠敬は江戸に薪問屋を出したが、翌年に火事に遭い、薪7万駄を焼くという損害を出してしまった。",
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"text": "この頃、幕府では田沼意次が強い力を持つようになっていった。田沼は幕府の収入を増やすため、利根川流域などに公認の河岸問屋を設け、そこから運上金を徴収する政策を実行した。そして明和8年(1771年)11月、佐原村も、河岸運上を吟味するため、名主・組頭・百姓代は出頭するよう通告された。",
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"text": "河岸問屋が公認されると運上金を支払わなければならなくなる。そのため佐原の商人や船主は公認に乗り気でなかった。そこで名主4人が江戸の勘定奉公所へ行き、「佐原は利根川から十四、五町も離れていて、河岸問屋もないから、運上は免除願いたい」と申し出た。しかしこの願いは奉公所に全く聞き入れられず、それならば佐原には河岸運送をすることは認めないと言われることとなった。",
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"text": "これを受けて佐原村では再び話し合い、その結果、それまで河岸運送に大きく関わってきた永沢治郎右衛門、伊能茂左衛門、伊能権之丞、そして忠敬の4人が河岸問屋を引き受けることになった。ところがその数日後、永沢治郎右衛門と伊能権之丞は突然辞退したため、結局、引き受けるのは伊能茂左衛門と忠敬の2人だけになった。",
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"text": "翌年、2人は願書を作って勘定奉公所に提出した。そしてこの願書は奉公所の怒りを買った。というのも去年の願書では、「佐原は利根川から十四、五町離れている」としていたが今年の願書では「利根川から二、三町」だとしていたうえ、以前は「河岸問屋がない」としていたところ、今度は「2人は前から問屋を営んでいた」などと書かれていたためである。矛盾を追及された佐原側は、昨年申し上げたことは間違いであったなどと言い訳をしたが、最終的に奉公所から「以前から問屋を営んでいたというのであれば、その証拠を出すように」と命じられた。",
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"text": "これを聞いた忠敬は数日の猶予を願い出ていったん佐原へ帰り、先祖が書き残した古い記録をかき集めて奉公所に提出した。この記録によって、佐原は昔から河岸運送をしていたことが証明され、忠敬と茂左衛門は公認を受けることができた。運上金の額は話し合いのうえ、2人で一貫五百文と決まった。",
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"text": "ところが同年5月、佐原村内の権三郎という者が「自分も問屋を始めたい」と奉公所へ願い出たため、その関係で忠敬は再び江戸へ出向くことになった。忠敬は「権三郎も問屋を始めたのでは自分たちの商いの領分も減ってしまうし、村方も了承していない」と反対意見を述べた。それに対して奉公所の役人は「権三郎は、自分ひとりに問屋を任せれば、忠敬・茂左衛門の運上金に加えてさらに毎年十貫文上納すると言っているので、2人も問屋を続けたいなら、運上金を増額せよ」と迫った。忠敬は返答の先送りを願い出て、佐原に帰った。",
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"text": "そして同年7月、忠敬は村役人惣代、舟持惣代らとともに出頭し、同じく出頭していた権三郎と対決した。忠敬は、自分たちは村役・村方の推薦のもと問屋を引き受けたと主張し、さらに権三郎については、多額の運上金を払えるだけの財産もなく、過去にも問屋のことで問題を起こしていると批判した。村役人惣代や舟持惣代も忠敬を支持した。そのため忠敬の主張が認められ、公認の問屋は元のように2人に決まり、この問題はようやく解決をみた。運上金の金額も、一時は二貫文に上がったが、2年後には一貫五百文に戻った。",
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"text": "この事件で重要な役割を果たすことになった伊能家の古い記録の多くは、忠敬の三代前の主人である伊能景利がまとめあげたものだった。景利は佐原村や伊能家に関わることをはじめ、多くのことを丹念に記録に残しており、その量は本にして100冊以上になっていた。忠敬はこの事件で記録を残すことの重要性を身にしみて認識し、自らもこの事件について『佐原邑河岸一件』としてまとめた。また、先祖の景利が多くの記録をまとめ始めたのは、隠居したあとになってからのことだった。この、隠居後に大きな仕事を成し遂げるという先祖のした事は、のちの忠敬の隠居後の行動にもつながることになる。",
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"text": "河岸の一件が片づくと、忠敬は比較的安定した生活を送った。安永3年(1774年)、忠敬29歳のときの伊能家の収益は以下のようになっている。",
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"text": "安永7年(1778年)には、妻・ミチと奥州旅行へ出かけた。これは忠敬にとって、妻と一緒に行った唯一の旅行となった。",
"title": "前半生"
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"text": "同じ年、これまで天領だった佐原村は、旗本の津田氏の知行地となった。忠敬は名主や村の有力者と、江戸にある津田氏の屋敷に挨拶に出向いた。そのとき、名主5人と永沢治郎右衛門は麻の裃を着用していたのに対し、忠敬は裃の着用を許されず、屋敷内で座る場所も差をつけられた。これは永沢が名字帯刀を許された身分だったためであるが、商いが順調なのに相変わらず永沢家と身分に差をつけられていることに悔しさを感じた忠敬は、永沢に対抗心を燃やすようになった。しかし、そのうちに忠敬の待遇も上がり、天明元年(1781年)、名主の藤左衛門が死去すると、代わりに忠敬が36歳で名主となった。",
"title": "前半生"
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"paragraph_id": 32,
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"text": "天明3年(1783年)、浅間山の噴火などに伴って天明の大飢饉が発生し、佐原村もこの年、米が不作となった。忠敬は他の名主らとともに地頭所に出頭し、年貢についての配慮を願い出た。その結果、この年の年貢は全額免除となり、さらに、「御救金」として100両が下された。",
"title": "前半生"
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"paragraph_id": 33,
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"text": "また、同じ年の冬になってから行われた利根川の堤防に関する国役普請では、普請掛りを命じられた。忠敬は堤防工事を指揮するとともに、工材を安く買い入れることで、工事費の節約の面でも手腕を発揮した。一方その頃、妻・ミチは重い病にかかり、同じ年の暮れに42歳で亡くなった。",
"title": "前半生"
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"paragraph_id": 34,
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"text": "地頭の津田氏は前述のように佐原村の年貢を免除していたが、一方で伊能家や永沢家に金の無心を度々していた。そのため、両家は地頭に対して多くの貸金を持つようになり、地頭所や村民に対し、より一層の発言力を持つようになった。そして忠敬は、天明3年(1783年)9月には津田氏から名字帯刀を許されるようになり、さらには天明4年(1784年)、名主の役を免ぜられ、新たに村方後見の役を命じられた。",
"title": "前半生"
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"paragraph_id": 35,
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"text": "村方後見は名主を監視する権限を持っており、これは永沢治郎右衛門も就いている役である。こうして忠敬は、永沢とほぼ同格の扱いを受けることができた。",
"title": "前半生"
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"paragraph_id": 36,
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"text": "浅間山の噴火以降、佐原村では毎年不作が続いていた。天明5年(1785年)、忠敬は米の値上がりを見越して関西方面から大量の米を買い入れた。しかし米相場は翌年の春から夏にかけて下がり続け、伊能家は多額の損失を抱えた。周囲からは、今のうちに米を売り払って、これ以上の損を防いだ方がよいと忠告されたが、忠敬は、あえて米を全く売らないことにした。",
"title": "前半生"
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"text": "忠敬は、もしこのまま米価が下がり続けて大損したら、そのときは本宅は貸地にして、裏の畑に家を建てて10年間質素に暮らしながら借金を返していこうと思っていた が、その年の7月、利根川の大洪水によって佐原村の農業は大損害を受け、農民は日々の暮らしにも困るようになった。",
"title": "前半生"
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"paragraph_id": 38,
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"text": "忠敬は村の有力者と相談しながら、身銭を切って米や金銭を分け与えるなど、貧民救済に取り組んだ。各地区で、特に貧困で暮らすにもままならない者を調べ上げてもらい、そのような人には特に重点的に施しを与えた。また、他の村から流れ込んできた浮浪人には、一人につき一日一文を与えた。質屋にも金を融通し、村人が質入れしやすくするようにした。翌年もこうした取り組みを続け、村やその周辺の住民に米を安い金額で売り続けた。このような活動によって、佐原村からは一人の餓死者も出なかったという。",
"title": "前半生"
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"paragraph_id": 39,
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"text": "天明7年(1787年)5月、江戸で天明の打ちこわしが起こると、この情報を聞いた佐原の商人たちも、打ちこわし対策を考えるようになった。このとき、皆で金を出しあって地頭所の役人に来てもらい、打ちこわしを防いでもらってはどうかという意見が出された。しかし忠敬は、役人は頼りにならないと反対した。そして、役人に金を与えるならば農民に与えた方がよい、そうすれば、打ちこわしが起きたとしても、その農民たちが守ってくれると主張した。この意見が通り、佐原村は役人の力を借りずに打ちこわしを防ぐことができた。",
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"text": "忠敬が貧民救済に積極的に取り組んだことについては、村方後見という立場からくる使命感、伊能家や永沢家が昔から貧民救済を行っていたという歴史、そして農民による打ちこわしを恐れたという危機感など、いくつかの理由が考えられている。また、伊能家代々の名望家意識とともに商人としての利害得失を見極めた合理的精神がこうした判断を促したと考えられている。",
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"paragraph_id": 41,
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"text": "佐原が危機を脱したところで、忠敬は持っていた残りの米を江戸で売り払い、これによって多額の利益を得ることができた。",
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"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "妻・ミチが死去してから間もなく、忠敬は内縁で2人目の妻を迎えた。この妻については詳しいことは分かっておらず、名前も定かではない。天明6年(1786年)に次男・秀蔵、天明8年(1788年)に三男・順次、寛政元年(1789年)に三女・コト(琴)が生まれ、妻は寛政2年(1790年)に26歳で死去した。一方、最初の妻・ミチとの間に生まれた次女・シノも、天明8年に19歳で死去した。寛政2年、忠敬は仙台藩医である桑原隆朝の娘・ノブを新たな妻として迎え入れた。",
"title": "前半生"
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"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "このころ、長女のイネは既に結婚して江戸に移っており、長男・景敬は成年を迎えていた。忠敬は、景敬に家督を譲り、自分は隠居して新たな人生を歩みたいと思うようになっていった。そして寛政2年、地頭所に隠居を願い出た。しかし地頭の津田氏はこの願いを受け入れなかった。これは、当時の津田氏は代替わりしたばかりのころだったため、まだ村方後見として忠敬の力を必要としていたからである。",
"title": "前半生"
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{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "地頭所には断られたが、忠敬の隠居への思いはなお強かった。このとき忠敬が興味を持っていたのは、暦学であった。忠敬は江戸や京都から暦学の本を取り寄せて勉強したり、天体観測を行ったりして日々を過ごし、店の仕事は実質的に景敬に任せるようにした。寛政3年(1791年)には、次のような家訓をしたためて景敬に渡した。",
"title": "前半生"
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"tag": "p",
"text": "寛政4年(1792年)、忠敬は、これまで地頭所に金銭を用立てすることによって財政的に貢献したという理由で、地頭所から三人扶持を与えられた。ただしこれは、忠敬にまだ隠居してほしくないという地頭所の思惑も含まれていたと考えられている。",
"title": "前半生"
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"tag": "p",
"text": "翌寛政5年(1793年)には、久保木清淵らとともに、3か月にわたって関西方面への旅に出かけた。忠敬はこの旅についての旅行記を残している。そしてそこには、各地で測った方位角や、天体観測で求めた緯度などが記されており、測量への関心がうかがえる。また、久保木も『西遊日記』と呼ばれる旅行記を残している。",
"title": "前半生"
},
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"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "寛政6年(1794年)、忠敬は再び隠居の願いを出し、地頭所は12月にようやくこれを受け入れた。忠敬は家督を長男の景敬に譲り、通称を勘解由(伊能家が代々使っていた隠居名)と改め、江戸で暦学の勉強をするための準備に取り掛かった。その最中の寛政7年(1795年)、妻・ノブは難産が原因で亡くなった。",
"title": "前半生"
},
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"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "なお、寛政6年に佐原の橋本町(現・本橋元町)の惣代より村役人および村方後見である伊能三郎右衛門宛てに町内への便所の設置を求める願書が出されており、ここに登場する三郎右衛門は忠敬から家督を譲られた景敬であるとされている。ちなみに、現在の本橋元町にある公衆便所がこのとき設置された便所の後身に当たるという。",
"title": "前半生"
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"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "忠敬が隠居する前年の寛政5年(1793年)、伊能家の商売の利益は以下のようになっていた。",
"title": "前半生"
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{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "安永3年(1774年)の目録と比較すると、忠敬は伊能家を再興し、かなりの財産を築いていた。このときの伊能家の資産については正確な数字は明らかでないが、寛政12年に村人が「3万両ぐらいだろう」と答えた記録が残っている。この資産は30億 - 35億円程に相当する。",
"title": "前半生"
},
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"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "ただし、伊能家の状況は必ずしも順風満帆ではなかったとする説もある。伊能家(三郎右衛門家)が得意としてきた酒造業の実績を示す酒造高は天明の大飢饉後の天明8年(1788年)には1480石を誇っていたが、享和3年(1803年)には600石に減少しており、忠敬没後の天保10年(1839年)には株仲間の記録に伊能家の名前は存在していない、すなわち廃業状態にあったことを示している。これは伊能家だけではなく、競合する永沢家も含めて天明期の仲間35家のうち22家が天保期に姿を消し、代わりに天明期に存在が確認できなかった14家の新興酒造家が名前を連ねている状況 から、江戸幕府の度重なる酒株政策の変更に伊能家を含めた旧来の酒造家が対応しきれなかったことが背景にあるとみられている。また、貨幣経済の浸透は旗本などの中小領主たちに先納金・御用金・領主貸などの手段による貨幣の確保に向かわせることになった。先納金は年貢米を貨幣で前借することであるが、実際には貨幣による年貢徴収の口実とされて結果的には年貢米の輸送減少をもたらし、御用金や領主貸は伊能家のような地方商人への負担となった。また、農村の疲弊は伊能家から村単位への貸付の増加になって現れており、その中にはこれらの村が御用金や先納金を納めるための貸付もあったとみられている。さらに伊能家の土地所持高を見ると、享保5年(1720年)には52石7斗あまりだったのが、忠敬の相続後である明和3年(1766年)には84石1斗あまり、隠居後の享和2年(1802年)には145石1斗あまりと、忠敬当主時代に急激に増加しているのである。これは金融業における質流れの増加とともに忠敬が酒造や輸送業に限界を感じ、土地の集積へと軸足を移そうとしていたことの表れとされる。実際に隠居後の忠敬が佐原に送った書状には「店賃と田の収益ばかりになっても仕方がない」「もし、古酒の勘定もよくなく、未回収金が過分になったら酒造も見合わせてやめるように」などと記しており、特に後継者であった景敬が没した文化9年(1812年)以降には、酒造業や運送業、領主貸を縮小する意向を示している。しかし、地主としての土地経営も小作人となった農民との衝突を招くなど困難な状況が続いており、忠敬隠居後の文化年間に入ると土地集積の対象を山林にも広げている。",
"title": "前半生"
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"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "佐原の町は昔から大雨が降ると利根川堤防が決壊し、大きな被害を受けていた。いったん洪水が起きてしまうと田畑の形が変わってしまうため、測量して境界線を引き直さなければならない。忠敬は江戸に出る前から測量や地図作成の技術をある程度身につけていたが、それはこうした地で名主などの重要な役に就いていたという経験によるところが大きい。",
"title": "前半生"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "さらに、前述したように、祖先の伊能景利は隠居してから膨大な記録をまとめるという仕事に取り組み、また、忠敬の家から川を挟んで向かい側に住んでいた楫取魚彦も、隠居後に江戸へ出て国学者や歌人として活動した。忠敬もこの2人の生き方から大きな影響を受けたと考えられている。",
"title": "前半生"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "寛政7年(1795年)、50歳の忠敬は江戸へ行き、深川黒江町に家を構えた。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "ちょうどその頃、江戸ではそれまで使われていた暦を改める動きが起こっていた。当時の日本は宝暦4年(1754年)に作られた宝暦暦が使われていたが、この暦は日食や月食の予報を度々外していたため、評判が悪かった。そこで江戸幕府は松平信明、堀田正敦を中心として、改暦に取り組んだ。しかし幕府の天文方には改暦作業を行えるような優れた人材がいなかったため、民間で特に高い評価を受けていた麻田剛立一門の高橋至時と間重富に任務にあたらせることにした。至時は寛政7年(1795年)4月、重富は同年6月に出府した。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "忠敬が江戸に出たのは同年の5月のため、2人の出府と時期が重なる。改暦の動きは秘密裏に行われていたが、この時期の符合から、忠敬は事前に2人が江戸に来ることを知っていたとも考えられている。その情報元として、渡辺一郎は、忠敬の3人目の妻・ノブの父親である桑原隆朝を挙げている。桑原は改暦を推し進めていた堀田正敦と強いつながりがあった。そのため桑原は、堀田から聞いた改暦の話を忠敬に伝えていたのではないかという説がある。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "同年、忠敬は高橋至時の弟子となった。50歳の忠敬に対し、師匠の至時は31歳だった。弟子入りしたきっかけについては、昔の中国の暦『授時暦』が実際の天文現象と合わないことに気づいた忠敬がその理由を江戸の学者たちに質問したが誰も答えられず、唯一回答できたのが至時だったからだという話が伝えられている。そして至時に必死に懇願して入門を認めさせたとのことであるが、至時が多忙な改暦作業のなかで入門を許した理由についても、渡辺は、桑原と堀田正敦の影響を指摘している。一方で今野武雄は、麻田剛立の弟子で大名貸の升屋小右衛門とのつながりを推測している。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "弟子入りした忠敬は、19歳年下の師・至時に師弟の礼をとり、熱心に勉学に励んだ。忠敬は寝る間を惜しみ天体観測や測量の勉強をしていたため、「推歩先生」(推歩とは暦学のこと)というあだ名で呼ばれていた。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "至時は弟子に対しては、まずは古くからの暦法『授時暦』で基礎を学ばせ、次にティコ・ブラーエなどの西洋の天文学を取り入れている『暦象考成上下編』、さらに続けて、ケプラーの理論を取り入れた『暦象考成後編』と、順を追って学ばせることにしていた。しかし忠敬は、既に『授時暦』についてはある程度の知識があったため、『授時暦』と『暦象考成上下編』は短期間で理解できるようになった。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "寛政8年(1796年)9月からおよそ1年半の間、至時は改暦作業のため京都に行くことになり、その間は間重富が指導についた。同年11月に重富から至時に宛てた手紙の中では、「伊能も後編の推歩がそろそろ出来候。月食も出来候」と記されており、既に『暦象考成後編』を学んでいた。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "忠敬は天体観測についても教えを受けた。観測技術や観測のための器具については重富が精通していたため、忠敬は重富を通じて観測機器を購入した。さらには、江戸職人の大野弥五郎・弥三郎親子にも協力してもらい、こうしてそろえた器具で自宅に天文台を作り観測を行った。取り揃えた観測機器は象限儀、圭表儀、垂揺球儀、子午儀などで、質量ともに幕府の天文台にも見劣りしなかった。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "観測はなかなか難しく、入門から4年が経った寛政10年(1798年)の時点でもまだ至時からの信頼は得られていなかった が、忠敬は毎日観測を続けた。太陽の南中を測るために外出していても昼には必ず家に戻るようにしており、また、星の観測も悪天候の日を除いて毎日行った。至時と暦法の話をしていても、夕方になるとそわそわし始めて、話の途中で席を立って急いで家に帰っていた。慌てるあまり、懐中物や脇差を忘れて帰ったりもした。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "忠敬が観測していたのは、太陽の南中以外には、緯度の測定、日食、月食、惑星食、星食などである。また、金星の南中(子午線経過)を日本で初めて観測した記録も残っている。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "長女・イネの夫・盛右衛門は伊能家の江戸店を任されていたが、忠敬は盛右衛門に、イネとの離縁を言い渡した。この理由は定かではないが、盛右衛門が商売で何らかの不祥事を起こしたためだと伝えられている。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "しかしイネは盛右衛門との離縁を受け入れず、夫に従った。そのため忠敬はイネを勘当した。ただし勘当した時期については、忠敬隠居後ということは分かっているが、正確には明らかになっていない。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "一方忠敬は江戸に出てから、エイ(栄)という女性を妻に持った。至時は重富に宛てた手紙の中で、この女性のことを「才女と相見候。素読を好み、四書五経の白文を、苦もなく読候由。算術も出来申候。絵図様のもの出来申候。象限儀形の目もり抔、見事に出来申候」と褒め称え、勘解由は幸せ者だと綴っている。江戸で忠敬が行った天体観測についても、一人で行える内容ではないため、妻の手助けがあったのではないかと推測されている。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "エイについては、長年にわたり謎の人物とされていたが、1995年、この人物は女流漢詩人の大崎栄(号は小窓、字は文姫)であることが明らかになった。エイはのちの忠敬の第一次測量のときは佐原に預けられたが、その後は忠敬の元を離れて文人として生き、忠敬と同じ文政元年(1818年)にこの世を去っている。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "至時と重富は、寛政9年(1797年)に新たな暦『寛政暦』を完成させた。しかし至時は、この暦に満足していなかった。そして、暦をより正確なものにするためには、地球の大きさや、日本各地の経度・緯度を知ることが必要だと考えていた。地球の大きさは、緯度1度に相当する子午線弧長を測ることで計算できるが、当時日本で知られていた子午線1度の相当弧長は25里、30里、32里とまちまちで、どれも信用できるものではなかった。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "忠敬は、自ら行った観測により、黒江町の自宅と至時のいる浅草の暦局の緯度の差は1分ということを知っていた。そこで、両地点の南北の距離を正確に求めれば1度の距離を求められると思い、実際に測量を行った。そしてその内容を至時に報告すると、至時からは「両地点の緯度の差は小さすぎるから正確な値は出せない」と返答された。そして「正確な値を出すためには、江戸から蝦夷地(現在の北海道)ぐらいまでの距離を測ればよいのではないか」と提案された。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "忠敬と至時が地球の大きさについて思いを巡らせていたころ、蝦夷地では帝政ロシアの圧力が強まってきていた。寛政4年(1792年)にロシアの特使アダム・ラクスマンは根室に入港して通商を求め、その後もロシア人による択捉島上陸などの事件が起こった。日本側も最上徳内、近藤重蔵らによって蝦夷地の調査を行った。また、堀田仁助は蝦夷地の地図を作成した。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "至時はこうした北方の緊張を踏まえたうえで、蝦夷地の正確な地図を作る計画を立て、幕府に願い出た。蝦夷地を測量することで、地図を作成するかたわら、子午線一度の距離も求めてしまおうという狙いである。そしてこの事業の担当として忠敬があてられた。忠敬は高齢な点が懸念されたが、測量技術や指導力、財力などの点で、この事業にはふさわしい人材であった。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "至時の提案は、幕府にはすんなりとは受け入れられなかった。寛政11年(1799年)から寛政12年(1800年)にかけて、佐原の村民たちから、それまでの功績をたたえて伊能忠敬・景敬親子に幕府から直々に名字帯刀を許可していただきたいとの箱訴が出されたが、これも、忠敬が立派な人間であることを幕府に印象づけて、測量事業を早く認めさせるという狙いがあったとみられている(この箱訴は第一次測量後の享和元年(1801年)に認められ、忠敬はそれまでの地頭からの許可に加え、幕府からも名字帯刀を許されることとなった。ただ、忠敬は測量中は方位磁針が狂うのを防ぐため竹光を所持していたという)。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "幕府は寛政12年の2月頃に、測量は認めるが、荷物は蝦夷まで船で運ぶと定めた。しかし船で移動したのでは、道中に子午線の長さを測るための測量ができない。忠敬と至時は陸路を希望し、地図を作るにあたって船上から測量したのでは距離がうまく測れず、入り江などの地形を正確に描けないなどと訴えた。その結果、希望通り陸路を通って行くこととなったが、測量器具などの荷物の数は減らされた。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "同年閏4月14日、幕府から正式に蝦夷測量の命令が下された。ただし目的は測量ではなく「測量試み」とされた。このことから、当時の幕府は忠敬をあまり信用しておらず、結果も期待していなかったことがうかがえる。忠敬は「元百姓・浪人」という身分で、1日当たり銀7匁5分が手当として出された。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "忠敬は出発直前、蝦夷地取締御用掛の松平信濃守忠明に申請書を出した。そこでは自らの思いが次のように綴られている。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "ここでは蝦夷地だけでなく、奥州から江戸までの海岸線の地図作成についても述べられている。このことから、忠敬は最初から日本全国の測量が念頭にあったのではないかと考えられているが、その見解に対しては異論もある。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "忠敬一行は寛政12年(1800年)閏4月19日、自宅から蝦夷地へ向けて出発した。忠敬は当時55歳で、内弟子3人(息子の秀蔵を含む)、下男2人を連れての測量となった。富岡八幡宮に参拝後、浅草の暦局に立ち寄り、至時宅で酒をいただいた。千住で親戚や知人の見送りを受けてから、奥州街道を北上しながら測量を始めた。千住からは、測量器具を運ぶための人足3人、馬2頭も加わった。寒くなる前に蝦夷地測量を済ませたいということもあって、距離は歩測で測り、1日におよそ40kmを移動した。出発して21日目の5月10日、津軽半島最北端の三厩に到達した。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "三厩からは船で箱館(現・函館市)へと向かう予定だったが、やませなどの影響で船が出せず、ここに8日間滞在した。9日目に船は出たが、やはり風の影響で箱館には着けず、松前半島南端の吉岡に船をつけ、そこから歩いて箱館へと向かった。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "箱館には手続きの関係で8泊し、その間に箱館山に登り方位の測定を行った。また下男の1人が病気を理由に暇を申し出たため、金を与えて本州側の三厩行きの船に乗せた。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "5月29日、箱館を出発し、本格的な蝦夷地測量が始まった。しかし、蝦夷地では測量器具を運ぶ馬は1頭しか使うことを許されなかったため、持ってきた大方位盤は箱館に置いてくることにした。また、初日は間縄を使って距離を丁寧に測っていたが、あまりに時間がかかりすぎたため、2日目以降は歩測に切り替えた。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "一行は海岸沿いを測量しながら進み、夜は天体観測を行った。海岸沿いを通れないときは山越えをした。蝦夷地の道は険しく、歩測すらままならなかったところも多い。また、本州のような宿がなかったため、宿泊は会所や役人の仮家を利用した。難所続きで草鞋もことごとく破れて困っているところに目に入った会所からの迎え提灯は「地獄に仏」のようだったという。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "7月2日、忠敬らはシャマニ(様似町)からホロイズミ(幌泉、えりも町)に向かったが、襟裳岬の先端まで行くことはできず、近くを横断して東へ向かった。その後クスリ(釧路市)を経て、ゼンホウジ(仙鳳趾)から船でアツケシ(厚岸町)に渡り、アンネベツ(姉別)まで歩き、再び船を利用して、8月7日にニシベツ(西別、別海町)に到達した。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "一行はここから船でネモロ(根室市)まで行き、測量を続ける予定だった。しかしこの時期は鮭漁の最盛期で、「船も人も出すことができない」と現地の人に言われたため、そのまま引き返すことにした。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "8月9日にニシベツを発った忠敬は、行きとほぼ同じ道を測量しながら帰路についた。9月18日に蝦夷を離れて三厩に到着し、そこから本州を南下して、10月21日、人々が出迎えるなか、千住に到着した。第一次測量にかかった日数は180日、うち蝦夷地滞在は117日だった。なお、後年に忠敬が記した文書によれば、蝦夷地滞在中に間宮林蔵に会って弟子にしたとのことであるが、このときの測量日記には林蔵のことは書かれていない。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "11月上旬から測量データをもとに地図の製作にかかり、約20日間を費やして地図を完成させた。地図製作には妻のエイも協力した。完成した地図は12月21日に下勘定所に提出した。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "12月29日、測量の手当として1日銀7匁5分の180日分、合計22両2分を受け取った。忠敬は測量に出かけるときに100両を持参しており、戻ってきたときは1分しか残らなかったとの記述があるため、差し引きすると70両以上を忠敬個人が負担したことになる。後世の試算 によると、このとき忠敬が負担した金額は現在の金額に換算して1,200万円程度であった。また忠敬はこのほかに測量器具代として70両を支払っている。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "忠敬の測量について、師の至時は「蝦夷地で大方位盤を使わなかったことについては残念だ」としながらも、測量自体は高く評価した。そして、間重富宛ての手紙で、「このように測ることは私が指図はいたしましたが、これほどきちんとやれるとは思いませんでした」と綴った。また、当初の目的であった子午線1度の距離について、忠敬は「27里余」と求めたが、これに対する至時の反応は残されていない。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "蝦夷地測量で作成した地図に対する高い評価は若年寄堀田正敦の知るところとなり、正敦と親しい桑原隆朝を中心に第二次測量の計画が立てられた。",
"title": "後半生"
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{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "寛政12年(1800年)の暮れ、忠敬は桑原から第二次測量の計画を出すように勧められた。忠敬は案を作成し、寛政13年(1801年)の正月に桑原と至時の添削を受けた。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "この計画は、行徳から本州東海岸を北上して蝦夷地の松前へと渡り、松前で船を調達して、船を住めるように改造し、食料も積み込んでから蝦夷地の西海岸を回り、さらにクナシリからエトロフ、ウルップまで行くというものであった。途中で船を買うことにしたのは、蝦夷地は道が悪く宿舎がないことを見越したもので、用が済んだら船は売り払う計画だった。また測量器具を運ぶため、人足1人、馬1匹、長棹1棹の持ち人足を要求した。",
"title": "後半生"
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{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "しかし桑原がこの計画を堀田正敦に内々で相談したところ、「船を買う件と長持の件は書面には書かずに口頭で述べる方がよい」との返答を得た。忠敬は、口頭で伝えたのでは計画の実現は難しく、測量は不十分なものになってしまうと反発した。しかし結局は、忠敬は桑原・至時と話し合ったうえで、船と長持の件はやはり口頭で伝えることとし、「これが認められなければ蝦夷地を諦めて本州東海岸のみを測量する」という案を出すことで納得した。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "最終的に、今回は蝦夷地は測量せず、伊豆半島以東の本州東海岸を測量することに決められた。手当は前回より少し上がって1日10匁となった。また、道中奉行、勘定奉行から先触れが出るようになり、この結果、現地の村の人々の協力を得ることも可能になった。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "享和元年(1801年)4月2日、一行は江戸を出て東海道を西に向かった。品川で親類・知人の見送りを受けた。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "今回の測量から、歩測ではなく間縄(けんなわ)を使って距離を測ることにした。一行は三浦半島を一周し、鎌倉では鶴岡八幡宮を参詣。さらに伊豆半島を南下して、5月13日に下田に到着した。伊豆半島の道は断崖絶壁で測量が難しく、海が荒れるなかで船を出して縄を張って距離を求めたり、岩をよじのぼって方角を測ったりするなど苦労を重ねた。荷物を運ぶのにも労を要したが、聞いた話によると、下田から先の伊豆半島西海岸はこれに輪をかけて大変だということで、ここまで持ってきた大方位盤は江戸に送り返すことにした。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "5月17日に下田を発ち、西海岸を回って5月30日に三島に到着、ここで至時によって江戸から送られてきた測量器具「量程車」を受け取った。三島からは東海道を東進して箱根の関所を越え、6月6日に北品川宿へ到着。いったん桑原や至時に報告した。",
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{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "6月19日、一行は再び江戸を発ち、房総半島を測量しながら一周し、7月18日に銚子に着いた。銚子には9泊し、富士山の方角などを確かめた。また、銚子で忠敬は病気にかかったが、すぐに回復した。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "7月29日に銚子を出発し、太平洋沿いを北上していった。しばらくはおおむね順調に測量できていたが、8月21日に到着した塩釜湾岸は山越えができずに舟を出して引き縄で距離を測った。さらに翌日に測量した松島や、その先の釜石、宮古までの間も、地形が入り組んでいるうえに断崖絶壁だったため、度々、舟の上からの測量となった。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "10月1日に宮古湾を越えて北上を続け、雪に悩まされながらも10月17日に下北半島の尻屋に到着、そして半島を一周して奥州街道、松前街道を進み、11月3日、三厩に辿り着いた。ここからは第一次測量と同じように奥州街道を南下して、12月7日に江戸に到着した。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "忠敬は江戸に戻ったが、5月に下田から送った大方位盤はまだ届いていなかった。忠敬は下田の宿主と名主に照会をとり、荷物は翌年の2月にようやく届けられた。忠敬はこれに対して「不届きの者なり」と立腹した。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 100,
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"text": "地図は第一次測量のものと合わせて、大図・中図・小図の3種類が作られた。そのうち大図・小図は幕府に上程し、中図は堀田正敦に提出した。また、子午線一度の距離は28.2里と導き出した。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "忠敬らは、前回計画を立てながらも実行できなかった蝦夷地の測量をやり遂げたい気持ちがあった。しかし、忠敬の立てた測量計画が幕府に採用される見込みは相変わらず薄かった。そこで、まずは内地の測量に従事した方がよいと判断した。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "享和2年(1802年)6月3日、忠敬は堀田正敦からの測量命令を、至時を通して聞いた。測量地点は日本海側の陸奥・三厩から越前まで、および太平洋側の尾張国から駿河国までで、これと第一次・第二次測量を合わせて東日本の地図を完成させる計画である。また、8月に起きる日食も観測するよう指示された。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "本測量では人足5人、馬3匹、長持人足4人が与えられ、手当は60両支給された。これは過去2回よりもはるかに恵まれた待遇で、費用の収支もようやく均衡するようになった。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "一行は6月11日に出発、奥州街道を進み6月21日に白河まで辿り着いた。ここから奥州街道を離れ会津若松に向かい、山形、新庄などを経て、7月23日に能代に到着した。ここで、8月1日に起こる日食を観測するための準備を整えた。しかし当日は曇りで、太陽は日食が終わる直前にほんの少し見えただけで、観測は失敗に終わった。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "8月4日に能代を発ち、羽州街道を油川(現・青森市)まで進んだ。途中の弘前では宿の設備や対応が悪く、忠敬は役人に注意した。このように第三次測量からは、忠敬が測量に協力的でない役人を叱りつけることがままあった。これは幕府の事業を請け負っているという自負が強くなってきたためだろうと考えられている。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "油川からは第一次、第二次と同じ道をたどり、8月15日に三厩に到着した。ここから算用師峠を越えて日本海側の小泊(現・中泊町)に行き、そこから南下した。9月2日から6日まで二手に分かれて男鹿半島を測量し、9日からは象潟周辺を測量した。当時の象潟は入り江の中に幾多の島々が浮かぶ景勝地だったが、忠敬測量の2年後に起きた象潟地震によって土地が隆起し、姿を全く変えてしまった。そのため、忠敬によって実測された地震前の象潟の記録は貴重なものとなっている。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "その後、越後に入ると、海岸沿いでも岩山が多くなり、苦労しながらの測量となった。9月24日に新潟、10月1日に柏崎、10月4日に今町(現・上越市)に到着し、ここで海岸線を離れて南下した。そして追分(現・軽井沢町)から中山道を通り、10月23日に江戸に戻った。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 108,
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"text": "江戸に帰った忠敬らは地図作成に取りかかったが、今回の測量だけでは東日本全体の地図は作れないため下図のみ作成し、享和3年(1803年)1月15日に幕府に提出した。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "また、今回の測量結果から忠敬は再度、子午線一度の距離を計算し、28.2里という、第二次測量のときと同じ値を導き出した。しかし至時は、この値は自分の想定していた値よりも少し大きいとして、忠敬の結果を信用しなかった。忠敬はこの師匠の態度に不満を感じた。そして、「この値が信用できないというのであれば、それまで自分が行ってきた測量をすべて疑っているということではないか、ならば今後測量を続けることはできない」と言った。至時は忠敬をなだめ、何とか次の測量の手はずを整えた。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "享和3年(1803年)2月18日、忠敬は至時を通じて堀田正敦からの辞令を受け取った。今回の測量地域は駿河、遠江、三河、尾張、越前、加賀、能登、越中、越後などで、また、佐渡にも渡るよう指示された。人足や馬は前回と同様で、旅費としては82両2分が支給された。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 111,
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"text": "2月25日に一行は出発し、東海道を沼津まで測量した(第二次測量の再測)。沼津からは海岸沿いを通り、御前崎、渥美半島、知多半島を回って、5月6日に名古屋に着いた。名古屋からは海岸線を離れて北上し、大垣、関ヶ原を経て、5月27日に敦賀に到着した。28日から敦賀周辺を測量し、その後日本海沿いを北上していったが、5月末から6月にかけては隊員が次々と麻疹などの病気にかかり、測量は忠敬と息子の秀蔵の2人だけで行うこともあった。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "6月22日には病人は快方に向かい、24日に一行は加賀国へと入った。しかし加賀では、地元の案内人に地名や家数などを尋ねても、回答を拒まれた。これは、加賀藩の情報が他に漏れるのを恐れたためである。そのため忠敬は藩の抵抗に遭いながらの測量となった。加賀を出て、7月5日からは能登半島を二手に分かれて測量した。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "8月2日ごろからしばらく忠敬は病気にかかり、体調の悪い日が続いていた。そんななか、8月8日に訪れた糸魚川藩で、糸魚川事件と呼ばれるいざこざを起こした。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "忠敬はこの日、姫川河口を測ろうとして手配を依頼したところ、町役人は、姫川は大河で舟を出すのは危険だと断った。ところが翌日に忠敬らが行って確認したところ、川幅は10間程度しかなく、簡単に測ることができた。忠敬は、偽った証言で測量に差し障りを生じさせたとして、役人たちを呼び出してとがめ、藩の役人にも伝えておくようにと言った。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "その後、忠敬一行は直江津(現・上越市)を通過して、8月25日に尼瀬(現・出雲崎町)に到着、ここで船を待って8月26日に佐渡島に渡り、二手に分かれて島を一周し、9月17日に島を離れた。佐渡の測量によって、本州東半分の海岸線は全て測量し終えたことになる。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "翌日からは内陸部を測りながら帰路についたが、途中の六日町(現・南魚沼市)で、至時からの至急の御用書を2通受け取った。糸魚川での事件が江戸の藩主に伝わり、藩主から勘定所に申し入れがあったためである。至時は1通目の公式な手紙で「忠敬の言い回しはことさら御用を申し立てるようでがさつに聞こえる、もってのほかだ」と非難した。2通目の私的な手紙では、「今後測量できなくなるかもしれないから、細かいことにこだわってはいけない」と、割合くだけた調子で注意した。忠敬はこれに対して弁明の書を出した。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "その後一行は三国峠を越え、三国街道から中山道に入り、10月7日に帰府した。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "帰府後、忠敬は糸魚川事件の詳細な報告書を提出した。至時の力もあって、結果的に忠敬は幕府から咎められることはなく、測量に支障を来さずに済んだ。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "忠敬が帰府したとき、至時は西洋の天文書『ラランデ暦書』の解読に努めていた。この本には緯度1度に相当する子午線弧長が記載されており、計算したところ、忠敬が測量した28.2里に非常に近い値になることが分かった。これを知った忠敬と至時は大いに喜び合った。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "しかし、翌文化元年(1804年)正月5日、至時は死去した。至時の死後、忠敬は毎朝、至時の墓のある源空寺の方角に向かって手を合わせたという。幕府は至時の跡継ぎとして、息子の高橋景保を天文方に登用した。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "忠敬らは第一次から第四次までの測量結果から東日本の地図を作る作業に取り組み、文化元年(1804年)、大図69枚、中図3枚、小図1枚からなる『日本東半部沿海地図』としてまとめあげた。この地図は同年9月6日、江戸城大広間でつなぎ合わされ、十一代将軍徳川家斉の上覧を受けた。ただし忠敬は身分の違いにより、この場には出席していない。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "初めて忠敬の地図を見た家斉は、その見事な出来栄えを賞賛したのではないかといわれている。9月10日、忠敬は堀田正敦から小普請組で10人扶持を与えるという通知を受け取った。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "またこの年、漢学者として佐原にて門人の教育にあたっていた久保木清淵が後漢の鄭玄の『孝経』註釈を復元した『補訂鄭註孝経』を刊行し、忠敬は同書の序文を執筆している。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "至時は元々、忠敬には東日本の測量を任せ、西日本は間重富に担当させる予定でいた。しかし至時の死後に天文方となった景保は当時19歳と若く、重富が景保の補佐役にあたらなければならなくなったため、西日本の測量も忠敬が受け持つことになった。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "西日本の測量は幕府直轄事業となった。そのため、測量隊員には幕府の天文方も加わり人数が増えた。また、測量先での藩の受け入れ態勢が強化され、それまで以上の協力が得られるようになった。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "当初の測量の予定は、本州の西側と四国、九州、さらには対馬、壱岐などの離島も含めて、33か月かけて一気に測量してしまおうという大計画だった。しかし実際は、西日本の海岸線が予想以上に複雑だったこともあって、4回に分けて、期間も11年を要することになる。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "文化2年(1805年)2月25日、忠敬らは江戸を発ち、高輪大木戸から測量を開始した。隊員は16人、隊長の忠敬は60歳になっていた。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "東海道を測量しながら進み、3月16日に浜松に到着、浜名湖周辺を測った。さらに伊勢路に入ると二手に分かれて、沿岸と街道筋の測量を行った。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "4月22日、伊勢国の山田(現・伊勢市)に到着し、この日の夜、経度を測定するため木星の衛星食を観測した。木星衛星食の観測は5月6日から8日にかけて、鳥羽でも行った。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "6月17日からは紀伊半島の尾鷲付近を測量したが、地形が入り組んでいたため作業は難航した。さらに測量隊から病人も相次いだ。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "その後、紀伊半島を一周し、8月18日に大坂に着いた。大坂では12泊し、間重富の家族とも接触した。また、測量隊のうち市野金助ら3人は病気を理由に帰府した。ただし幕府下役である市野の離脱については、忠敬の内弟子、あるいは忠敬本人の測量方針と見解の相違があったためではないかとも言われている。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "閏8月5日、一行は京都に入った。これまでの測量で予想以上に日数を費やしてしまっていたため、3年で西日本を測量するという計画は成し遂げられそうになかった。忠敬は江戸の景保に手紙を出し、計画の変更と隊員の増員を願い出た。江戸とは何度か書状のやり取りをしながら37日間かけて琵琶湖を測量した。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 133,
"tag": "p",
"text": "結局測量計画は変更され、中国地方沿岸部を終えたらいったん帰府することになった。また人数も2名増員された が、瀬戸内海の海岸線は複雑で、家島諸島の測量にも日数を要したため、さらに2名の増員を要請した。一行は岡山で越年することになった。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 134,
"tag": "p",
"text": "文化3年(1806年)1月18日、岡山を出発し、瀬戸内海沿岸および瀬戸内海の島々を測量した。測量にあたっては地元の協力も得た。瀬戸内海の島々を多くの舟と多くの人数で測量している様子を描いた絵巻『浦島測量之図』が残されている。1月28日に福山、2月5日に尾道、3月29日に広島に到着した。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 135,
"tag": "p",
"text": "4月30日、秋穂浦(現・山口市)まで測量を進めた忠敬は、ここでおこりの症状を訴え、以後、医師の診療を受けながら別行動で移動することになった。一行は下関を経て6月18日に松江に着き、ここで忠敬は留まって治療に専念した。その間に隊員は三保関(現・松江市美保関町)から隠岐へ渡り、測量を終えてから三保関に戻り、8月4日に松江で忠敬と合流した。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 136,
"tag": "p",
"text": "忠敬の病状は回復し、松江から再び山陰海岸を測り始めた。しかし病気の間に隊員の統率は乱れ、隊員は禁止されている酒を飲んだり、地元の人に横柄な態度をとったりしていた。これは幕府の耳にも入っていたため、10月、景保から戒告状が届けられた。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 137,
"tag": "p",
"text": "その後、一行は若狭湾を測量し、大津、桑名を経て11月3日に熱田(現・愛知県名古屋市熱田区)に着いた。熱田からは測量は行わず東海道を江戸へ向かい、11月15日に品川に到着した。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 138,
"tag": "p",
"text": "測量後、忠敬は景保と相談し、隊規を乱した測量隊の平山郡蔵、小坂寛平の2名を破門にし、3名を謹慎処分にした。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 139,
"tag": "p",
"text": "また、弟子とともに地図の作製や天体観測を行い、今回の地図は文化4年12月に完成した。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 140,
"tag": "p",
"text": "今回の測量の経験から、忠敬は「長期に及ぶ測量は隊員の規律を守る点で好ましくない」と感じた。そこで次回の測量は四国のみにとどめることにした。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 141,
"tag": "p",
"text": "文化5年(1808年)1月25日、忠敬らは四国測量のため江戸を出発した。江戸から浜松までは測量せずに移動し、浜松から御油(現・愛知県豊川市)までは気賀街道を通って測量した。御油から先はまたほとんど測量を行わず、2月24日に大坂に着いた。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 142,
"tag": "p",
"text": "3月3日、淡路島の岩屋(現・兵庫県淡路市)に着き、ここから島の東岸を鳴門まで測り3月21日に徳島に渡った。そして四国を南下し、4月21日に室戸岬に着き、4月28日、赤岡(現・高知県香南市)で隊を分け、坂部貞兵衛らに、伊予国(現在の愛媛県)と土佐国(現在の高知県)の国境まで縦断測量を行わせた。4月29日に高知に着いた。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 143,
"tag": "p",
"text": "その後も海岸線を測量し、8月11日に松山に着いた。ここからも引き続き海岸線を測りつつ、加えて瀬戸内海の島々も測量し、さらに川之江(現・愛媛県四国中央市)からは再び坂部に四国縦断測量を行わせた。このように海岸線だけでなく内陸部も測らせたのは、測量の信頼性を高めるためである。10月1日、塩飽諸島で日食を観測し、高松を経て、鳴門から淡路島に渡り島の西岸を測量、11月21日に大坂へ戻った。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 144,
"tag": "p",
"text": "大坂で、病気の伊能秀蔵を江戸に帰し、ここから法隆寺、唐招提寺、薬師寺、東大寺、長谷寺といった社寺を回りながら奈良・吉野の大和路を測った。その後、伊勢(現在の三重県)を経由して帰路につき、文化6年(1809年)1月18日に江戸に戻った。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 145,
"tag": "p",
"text": "今回の測量では秀蔵が途中で離脱し、また忠敬自身も病気に罹ったが、それ以外は大きな問題はなく、隊員の統率もとれた。測量作業においては藩の協力も多く得られ、測量のために新たに道を作ったところもあった。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 146,
"tag": "p",
"text": "第七次測量は文化6年(1809年)8月27日に開始した。今回は中山道経由で移動することとなり、測量は王子(現・東京都北区)から行なった。御成街道や岩淵の渡し(荒川)などを利用して岩槻まで行き、岩槻から熊谷へ向かい中山道に入った。中山道を武佐(現・近江八幡市)まで測り、そこから、東海道へ向かう御代参街道を土山(現・滋賀県甲賀市)まで測った。土山から淀、西宮を経て山陽道を行き、11月には備後国神辺(現・広島県福山市)にて儒学者として有名な菅茶山と面会し、その際に忠敬は自身が序文を書いた久保木清淵の『補訂鄭註孝経』を茶山に贈呈している。その後、豊前小倉(現・福岡県北九州市)で越年し、ここから九州測量を始めた。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 147,
"tag": "p",
"text": "小倉から海岸線を南下し、2月12日に大分、28日に鳩浦(現・津久見市)に入った。鳩浦では3月1日に起こる日食を観測したが、天候が悪く失敗した。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 148,
"tag": "p",
"text": "4月6日に延岡、27日に飫肥(現・日南市)に到着。ここで支隊を出して都城方面の街道測量にあたらせた。本隊はそのまま南下して大隅半島をぐるりと回り、再び都城方面に支隊を出して測線をつないだのち、6月23日に鹿児島に着いた。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 149,
"tag": "p",
"text": "鹿児島で桜島の測量や木星の観測を行ってから、一行は薩摩半島を南下し、7月8日に山川湊に着いた。ここから舟に乗り種子島、屋久島の測量を行う予定であったが、天候が悪かったため後回しにして、そのまま薩摩半島の海岸線を測量し、8月1日、串木野(現・鹿児島県いちき串木野市)付近から甑島に渡って測量。8月19日に串木野に戻ったあと、本隊はそのまま海岸線を北上、支隊は鹿児島から街道筋を通って肥後国(現在の熊本県)へと向かわせた。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 150,
"tag": "p",
"text": "両隊はその後合流して天草諸島を測った。しかし甑島や天草の測量には手間がかかり、病人も出たので、今回は種子島、屋久島の測量は諦め、いったん江戸に帰ることにした。忠敬らは天草周辺の街道を測ったあと、九州を横断して大分で越年した。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 151,
"tag": "p",
"text": "翌文化8年(1811年)、大分を出発して本州に渡り、中国地方の内陸部などを測量しながら帰路についた。そして5月8日、江戸に到着した。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 152,
"tag": "p",
"text": "今回の測量では天候の関係などで種子島、屋久島に渡ることができなかった。薩摩の役人は忠敬に対し、「波が荒いので、両島に渡る時期は3 - 4月頃にして、6 - 7月頃に帰るようにしないといけない」という趣旨の説明をしている。元々、忠敬と景保は両島への渡航は難しいということを知っており無理して渡らなくてもいいと申し合わせていたので、断念する結果となった。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 153,
"tag": "p",
"text": "しかし結果的には幕府の方針で、次回の九州測量の計画に両島への渡航は組み込まれた。両島を測ろうとした理由は定かではないが、忠敬に全国の測量をさせるとともに、当時閉鎖的だった薩摩藩の偵察の意味合いも重きにおいていたのではないかと推測されている。なお忠敬は両島の測量が決まったとき、薩摩藩の担当者に対して硫黄島などの測量も希望したが、これは実現していない。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 154,
"tag": "p",
"text": "文化7年(1810年)、かつて忠敬が勘当した娘・イネが、佐原の家に戻ってきた。イネは夫・盛右衛門の死没後に剃髪し、名を妙薫と改めていた。忠敬や親類に詫びを入れた妙薫は、以後は景敬の妻・りてとともに伊能家を支え、旅先の忠敬ともたくさんの手紙をやり取りし、老年の父を気遣った。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 155,
"tag": "p",
"text": "また、忠敬は江戸で九州測量の地図を作成している際、間宮林蔵の訪問を受けた。忠敬は林蔵に1週間かけて測量技術を教えた。のちに林蔵は、忠敬が測り残した蝦夷地北西部の測量を行うことになる。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 156,
"tag": "p",
"text": "文化8年11月25日、忠敬らは、前回の九州測量で測れなかった種子島、屋久島、九州北部などの地域を測量するため、江戸を出発した。高齢の忠敬は、出発にあたって息子の景敬宛てに今後の家政や事業についての教訓や、自分の隠居資金の分配について記した書状を残しており、万一の事態も覚悟しての旅立ちだった。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 157,
"tag": "p",
"text": "一行は、本州については一部地域を除いて測量せずに東海道、山陽道を進み、文化9年(1812年)1月25日に小倉に着いた。小倉からは手分けして北九州の内陸部を測量しながら南下し、鹿児島に到着した。鹿児島から山川(現・鹿児島県指宿市)を経て海を渡り、3月27日に屋久島に着いた。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 158,
"tag": "p",
"text": "屋久島では二手に分かれ、忠敬は北半分を測量し、南半分は坂部が担当した。13日間かけて測量し、その後11日風待ちをして、4月26日に種子島に渡った。5月9日まで測量し、風待ち後、5月23日に山川に戻った。その後、九州内陸部を手分けして測量しながら北上し、小倉に戻った。小倉から九州北部の海岸線を通って博多に出て、佐賀、久留米を経由して、島原半島を一周し、大村湾を測り、佐世保で越年した。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 159,
"tag": "p",
"text": "文化10年(1813年)、佐世保近くの相浦(相神浦)で新年を迎えた忠敬は、",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 160,
"tag": "p",
"text": "と詠んだ。そして九十九島と呼ばれる島々と複雑な海岸線を測りながら平戸へ向かい、平戸島などの島を測量してから、3月13日に壱岐島に渡り、15日間かけて壱岐を測量した。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 161,
"tag": "p",
"text": "壱岐の次は対馬に渡る予定だったが、対馬藩士の中村郷左衛門は忠敬に対し、「実測を取りやめてもらえないか」と申し出た。対馬には既に元禄13年(1700年)に作られた精密な地図『元禄対馬国絵図』があり、実測はやめにして、朝鮮通信使の礼で駆り出された農民たちを休ませたいという理由である。実際、『元禄対馬国絵図』は精度が極めて高い優れた地図で、忠敬も高く評価した。しかし対馬の正確な位置を決めるには天体観測を行う必要があるため、測量作業は実施された。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 162,
"tag": "p",
"text": "対馬は53日間かけて測量した。また、交会法を使って朝鮮半島の山々の位置も測った。忠敬は測量中、中村郷左衛門に対して「高橋家の息子(景保)も成長したし、間宮林蔵や副隊長の坂部貞兵衛もいることだから、私はこの御用を終えたら元の隠居に戻りたい」と、自らの思いを話している。5月21日に対馬の測量を終え、いったん平戸に戻ってから、5月23日に五島列島の宇久島に渡った。",
"title": "後半生"
},
{
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"tag": "p",
"text": "五島列島では、忠敬率いる忠敬隊と、副隊長の坂部貞兵衛率いる坂部隊に分かれ、北から南に向かって測っていった。",
"title": "後半生"
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{
"paragraph_id": 164,
"tag": "p",
"text": "しかし6月24日頃から坂部の体調は思わしくなく、6月26日、日ノ島にいた坂部は忠敬に宛てて、体調がよくないので福江島に渡って服薬したいと手紙をつづった。27日、坂部は福江で治療に専念したが、治療は実らず、7月15日に死亡した。",
"title": "後半生"
},
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"paragraph_id": 165,
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"text": "忠敬は16日に両隊を呼び寄せ、葬儀を行った。忠敬は坂部の死について、鳥が翼を取られたようだと述べ、長い間落胆を隠せなかった。1か月後に九州に戻ったとき、ようやく失敗した隊員を叱るようになったのでよかった、といった内容の手紙を内弟子が書き残している。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 166,
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"text": "さらに、坂部の死に先立つ6月7日、佐原にいた忠敬の長男の伊能景敬も死去していた。忠敬の娘・妙薫は、忠敬に心配をかけまいとこのことを伏せ、8月12日に出した手紙にも、景敬は大病に罹っているとだけ書いた。これを読んだ忠敬は、景敬がよくなればよいが難しいだろうとして、そのうえで、景敬が大病でも、孫の三治郎と銕之助がいるから安心だと妙薫に送り返した。忠敬はこのときすでに景敬の死を察知していたと推定されている。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 167,
"tag": "p",
"text": "九州本土に戻った忠敬一行は、8月15日に長崎に着き、長崎半島を一周してから小倉へ行き、本州に渡った。そして中国地方の内陸部を測量しながら東に向かい、広島、松江、鳥取、津山、岡山を経由して、姫路で越年した。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 168,
"tag": "p",
"text": "翌文化11年(1814年)、引き続き内陸部を測量しながら進み、京都を経由し、3月20日四日市に着いた。ここから北上し、岐阜、大垣、髙山を通過し、古川から反転して野麦峠を越えた。さらに松本に出て善光寺に参詣し、反転して飯田まで南下したところで再び北上し、中山道を江戸に向かった。5月22日、板橋宿に到着した。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 169,
"tag": "p",
"text": "忠敬がこれまで住んでいた深川黒江町の家は、地図の作成作業には手狭となっていた。そこで忠敬は文化11年(1814年)5月、かつて桑原隆朝が住んでいた八丁堀亀島町の屋敷を改修し、6月からここに住むことにした。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 170,
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"text": "文化12年(1815年)4月27日、測量隊は伊豆七島などを測量するため、江戸を出発した。ただし、下役や弟子の勧めもあって、高齢の忠敬は測量には参加しなかった。永井甚左衛門を隊長とした一行は、下田から三宅島、八丈島の順に渡り測量した。しかし八丈島から三宅島に戻ろうとしたときに黒潮に流されてしまい、三浦半島の三崎(現・神奈川県三浦市)に流れ着いた。三崎から御蔵島へ行き、三宅島を経由して神津島、新島、利島と測量を続け、いったん新島に戻った。ここから大島に向かう予定であったが、下田近くの須崎に流れ着いた。そこから大島へ行き、測量後に下田に戻り、周辺を測量しながら帰路につき、文化13年(1816年)4月12日に江戸に着いた。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 171,
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"text": "第九次測量と並行して、江戸府内を測る第十次測量を行った。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 172,
"tag": "p",
"text": "これまでの測量では、たとえば東海道では高輪大木戸を、甲州街道では四谷大木戸を起点としていた。今回の測量は、各街道から日本橋までの間を測量して、起点を1つにまとめることが目的である。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 173,
"tag": "p",
"text": "測量は71歳になった忠敬も参加し、文化12年(1815年)2月3日から2月19日まで行われた。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 174,
"tag": "p",
"text": "測量を終えたところで、忠敬は、昔に測った東日本の測量は西日本の測量と比べて見劣りがすると感じた。そこで景保と相談し、もう一度詳しく測り直す計画を立てた。しかし幕府はこれを採用せず、代わりに江戸府内の地図を作るよう命じた。この測量は文化13年(1816年)8月8日から10月23日まで行われた。忠敬も度々指揮を執ったが、おそらく作業の大部分は下役と弟子たちが行っていたと推定されている。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 175,
"tag": "p",
"text": "測量作業を終えた忠敬らは、八丁堀の屋敷で最終的な地図の作成作業に取りかかった。文化14年(1817年)には、間宮林蔵が、忠敬が測量していなかった蝦夷地の測量データを持って現れた。また同年、忠敬は破門していた平山郡蔵を許し、作業に参加させた。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 176,
"tag": "p",
"text": "地図の作成作業は、当初は文化14年の暮れには終わらせる予定だったが、この計画は大幅に遅れた。これは、忠敬が地図投影法の理論を詳しく知らなかったため、各地域の地図を1枚に合わせるときにうまくつながらず、その修正に手間取ったためと考えられている。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 177,
"tag": "p",
"text": "忠敬は新しい投影法について研究し、資料を作り始めた。しかし文化14年秋頃から喘息がひどくなり、病床につくようになった。それでも文化14年いっぱいは、地図作成作業を監督したり、門弟の質問に返事を書いたりしていたが、文政元年(1818年)になると急に体が衰えるようになった。そして4月13日、弟子たちに見守られながら74歳で生涯を終えた。",
"title": "後半生"
},
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"paragraph_id": 178,
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"text": "地図はまだ完成していなかったため、忠敬の死は隠され、高橋景保を中心に地図の作成作業は進められた。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 179,
"tag": "p",
"text": "文政4年(1821年)、『大日本沿海輿地全図』と名づけられた地図はようやく完成した。7月10日、景保と、忠敬の孫・忠誨(ただのり、幼名三治郎)らは登城し、地図を広げて上程した。そして9月4日、忠敬の喪が発せられた。",
"title": "後半生"
},
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"tag": "p",
"text": "忠敬の子の秀蔵は文化12年、素行が良くなく忠敬に勘当されていた。忠敬の死後は佐原で神保姓を名乗り、手習い師匠となった。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 181,
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"text": "孫の忠誨、銕之助のうち、銕之助は忠敬の死の翌年に亡くなった。忠誨は、忠敬の喪が発せられた年、15歳で五人扶持と85坪の江戸屋敷が与えられ、帯刀を許された。忠誨は佐原と江戸を行き来しながら、景保らの指導も受け、さらに佐原の伊能家の跡継ぎとしても期待されていたが、文政10年(1827年)、21歳で病死した。忠誨の死により、忠敬直系の血筋は途絶えた。また測量隊の中には、忠敬が測量できなかった霞ヶ浦などを測量しようという意見もあったが、忠誨の死によりその案も立ち消えとなった。",
"title": "後半生"
},
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"paragraph_id": 182,
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"text": "忠敬は死の直前、「私がここまでくることができたのは高橋至時先生のおかげであるから、死んだあとは先生のそばで眠りたい」と語った。そのため墓地は高橋至時・景保父子と同じく上野源空寺にある。また佐原の観福寺にも遺髪を納めた参り墓がある。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 183,
"tag": "p",
"text": "佐原の名家の一つである伊能三郎右衛門家は、忠誨の没後も一族の管理下に置かれて存続するものの、当主不在が続くなかで家業の不振は深刻化していき、天保年間には酒造業は廃業に追い込まれている。こうした中で同族の伊能茂左衛門家および三郎右衛門家の分家的扱いであった清宮家 が、佐原における三郎右衛門家の地位を継承することになる。茂左衛門家・清宮家を中心とした伊能家一族の協議の末、三郎右衛門家に養子を迎えて再興させる話が実現するのは、忠誨の死から34年が経過した文久元年(1861年)のことである。なお、伊能茂左衛門家は楫取魚彦 を、清宮家は清宮秀堅 を輩出したことで知られ、特に清宮秀堅は文久の伊能三郎右衛門家再興時に清宮家当主として大きな役割を果たしている。",
"title": "後半生"
},
{
"paragraph_id": 184,
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"text": "忠敬とその弟子たちによって作られた大日本沿海輿地全図は「伊能図」とも呼ばれている。縮尺36,000分の1の大図、216,000分の1の中図、432,000分の1の小図があり、大図は214枚、中図は8枚、小図は3枚で測量範囲をカバーしている。このほかに特別大図や特別小図、特別地域図などといった特殊な地図も存在する。",
"title": "大日本沿海輿地全図"
},
{
"paragraph_id": 185,
"tag": "p",
"text": "伊能図は日本で初めての実測による日本地図である。しかし測量は主に海岸線と主要な街道に限られていたため、内陸部の記述は乏しい。測量していない箇所は空白となっているが、蝦夷地については間宮林蔵の測量結果を取り入れている。",
"title": "大日本沿海輿地全図"
},
{
"paragraph_id": 186,
"tag": "p",
"text": "地図には沿道の風景や山などが描かれ、絵画的に美しい地図になっている点も特徴の一つである。 最後は弟子たちによって完成された。",
"title": "大日本沿海輿地全図"
},
{
"paragraph_id": 187,
"tag": "p",
"text": "忠敬は地図を作る際、地球を球形と考え、緯度1度の距離は28.2里とした。そしてこの前提のもと、測量結果から地図を描き、その後、経度の線を計算によって書き入れた。伊能図の経緯線はサンソン図法と同じである。",
"title": "大日本沿海輿地全図"
},
{
"paragraph_id": 188,
"tag": "p",
"text": "忠敬が求めた緯度1度の距離は、現在の値と比較して誤差がおよそ1,000分の1と、当時としては極めて正確であった。また、各地の緯度も天体観測により多数測定できた。そのため緯度に関してはわずかな誤差しか見られない。一方で経度については、天体観測による測定が十分にできなかったこと、地図投影法の研究が足りず各地域の地図を1枚にまとめるときに接合部が正しくつながらなかったこと、あとから書き加えた経線が地図と合っていなかったこと などの理由で、特に北海道と九州において大きな誤差が生じている。",
"title": "大日本沿海輿地全図"
},
{
"paragraph_id": 189,
"tag": "p",
"text": "忠敬死後、地図は幕府の紅葉山文庫に納められた。その後の文政11年(1828年)、シーボルトがこの日本地図を国外に持ち出そうとしたことが発覚し、これに関係した日本の蘭学者(高橋景保ら)などが処罰される事件が起こった(シーボルト事件)。シーボルトは内陸部の記述を正保日本図などで補っているため、実際の地形と異なる地形が描かれている。",
"title": "大日本沿海輿地全図"
},
{
"paragraph_id": 190,
"tag": "p",
"text": "江戸時代を通じて伊能図の正本は国家機密として秘匿されたが、シーボルトが国外に持ち出した写本をもとにした日本地図が開国とともに日本に逆輸入されてしまったため、秘匿の意味がなくなってしまった。慶応年間に勝海舟が海防のために作成した地図は、逆輸入された伊能図をモデルとしている。",
"title": "大日本沿海輿地全図"
},
{
"paragraph_id": 191,
"tag": "p",
"text": "伊能図は明治時代に入って、「輯製二十万分一図」を作成する際などに活用された。この地図は、のちに三角測量を使った地図に置き換えられるまで使われた。",
"title": "大日本沿海輿地全図"
},
{
"paragraph_id": 192,
"tag": "p",
"text": "伊能図の大図については、幕府に献上された正本は明治初期、1873年の皇居炎上で失われ、伊能家で保管されていた写しも関東大震災で焼失したとされる。しかし2001年、アメリカ議会図書館で写本207枚が発見された。その後も各地で発見が相次ぎ、現在では地図の全容がつかめるようになっている。2006年12月には、大図全214枚を収録した『伊能大図総覧』が刊行された。",
"title": "大日本沿海輿地全図"
},
{
"paragraph_id": 193,
"tag": "p",
"text": "忠敬が測量で主に使用していた方法は、導線法と交会法である。これは当時の日本で一般的に使われていた方法であり、実際に測量作業を見学した徳島藩の測量家も、伊能測量は特別なことはしていないと報告している。当時の西洋で主流だった三角測量は使用していない。",
"title": "測量方法"
},
{
"paragraph_id": 194,
"tag": "p",
"text": "忠敬による測量の特徴的な点は、誤差を減らす工夫を随所に設けたことと、天体観測を重視したことにある。",
"title": "測量方法"
},
{
"paragraph_id": 195,
"tag": "p",
"text": "導線法とは、2点の距離と方角を連続して求める方法である。測量を始める点に器具を置き、少し離れたところに梵天(竹の棒の先に細長い紙をはたきのように吊るしたもの)を持った人を立たせる。そして、測量開始地点から梵天の位置までの距離と角度を測る。測り終えたら、器具を梵天の位置まで移動し、別の場所に梵天持ちを立たせ、同じように距離と角度を測る。これを繰り返すことで測量を進めていく。",
"title": "測量方法"
},
{
"paragraph_id": 196,
"tag": "p",
"text": "導線法を長い距離にわたって続けると、段々と誤差が大きくなってくる。その誤差を修正するために交会法が使われる。交会法とは、山の頂上や家の屋根など、共通の目標物を決めておいて、測量地点からその目標物までの方角を測る方法である。導線法で求めた位置が正しければ、それぞれの測量地点と目標物を結ぶ直線は一点で交わるため、この方法で導線法による誤差を確かめることができる。",
"title": "測量方法"
},
{
"paragraph_id": 197,
"tag": "p",
"text": "さらに忠敬はこれに加えて、富士山などの遠くの山の方位を測って測量結果を確かめる遠山仮目的(えんざんかりめあて)の法などを活用している。",
"title": "測量方法"
},
{
"paragraph_id": 198,
"tag": "p",
"text": "測量にあたって天体観測を活用することで、観測地の緯度や経度を求めることができるため、地図の精度が向上する。このことは忠敬が測量を始めるおよそ80年前に建部賢弘が指摘していた。しかしそれを実行に移したのは忠敬が初めてである。忠敬は測量中、晴れていれば必ず天体観測を行うようにしており、宿泊場所も観測器具が置けるだけの敷地があるところを指定していた。全測量日数3,754日のうち、1,404日は天体観測を行っている。主な観測内容は、恒星の南中高度、太陽の南中、日食、月食、木星の衛星食などである。また、文化2年(1805年)に家島で彗星を見たという記録が残っている(ビエラ彗星と推定される)。",
"title": "測量方法"
},
{
"paragraph_id": 199,
"tag": "p",
"text": "恒星が南中したときの地平からの角度を測る。この角度と、予め江戸で測定しておいた角度を比較することで観測地点の緯度が求められる。しかし、動いている星が南中した瞬間を正確にとらえるのは難しい。そのため忠敬らは、多いときには1日で20個から30個の星の南中を観測し、誤差の軽減に努めた。",
"title": "測量方法"
},
{
"paragraph_id": 200,
"tag": "p",
"text": "また、日中に太陽の南中を観測することもあった。これは緯度を求める目的のほか、南中した時刻を確かめて、日食・月食の観測で使う器具を調整するという目的もあった。",
"title": "測量方法"
},
{
"paragraph_id": 201,
"tag": "p",
"text": "基準となる江戸での観測は、忠敬の自宅がある深川黒江町で行った。この観測にも注意を払い、1つの星に対して数日から数十日かけて観測を続け、観測誤差が少なくなるようにした。",
"title": "測量方法"
},
{
"paragraph_id": 202,
"tag": "p",
"text": "日食・月食の観測は、観測地点の経度を求める目的で行われた。",
"title": "測量方法"
},
{
"paragraph_id": 203,
"tag": "p",
"text": "経度を求めるのは緯度を求めるのと比べて格段に難しい。西洋では18世紀の終わり頃に、クロノメーターや月距法を利用した経度測定方法がようやく確立してきていた。しかし当時の日本にはそれらはまだ伝わっていなかったため、忠敬は主に伝統的な日食・月食を使って経度を測定していた。",
"title": "測量方法"
},
{
"paragraph_id": 204,
"tag": "p",
"text": "方法としては、まず日食・月食が起きる前日までに太陽の南中を観測し、垂揺球儀(後述)を起動させる。そして当日、日食や月食を観測し、時間を記録する。このとき、江戸の暦局と大坂の間家(間重富の家)でも観測を行っているため、日食・月食が起きた時刻を3か所で比較することで、経度の差が求められる。",
"title": "測量方法"
},
{
"paragraph_id": 205,
"tag": "p",
"text": "とはいえ日食や月食を観測できる機会は少ない。忠敬らは少ない機会を逃さぬようにするため、食が起こる7日ほど前に現地に到着し準備していた。しかしそれでも当日が雨や曇りの場合は観測できず、たとえ晴れていて観測できたとしても、江戸と大坂が曇っていれば意味がなくなってしまう。忠敬は測量中、日食や月食を観測できる機会が13回あったが、そのうち2か所以上で観測できたのは5回、3か所全てで観測できたのはわずか2回だった。",
"title": "測量方法"
},
{
"paragraph_id": 206,
"tag": "p",
"text": "経度の測定法として、ほかに木星の衛星食を利用する方法も試された。",
"title": "測量方法"
},
{
"paragraph_id": 207,
"tag": "p",
"text": "木星の周りを回っている衛星が、木星の後ろに隠れたり、また現れたりする時刻を観測する。日食・月食のときと同じように、同時に2か所以上で観測し、その差から経度差を求める。木星の衛星食は日食や月食と比べて頻繁に起こるため、観測には適している。",
"title": "測量方法"
},
{
"paragraph_id": 208,
"tag": "p",
"text": "この方法で経度が求められることは、日本では高橋至時がすでに知っていた。しかし至時は、実際に食がいつ起きるかについては、そのときは予想できずにいた。しかしその後、至時は、この方法が詳しく載っている西洋書『ラランデ暦書』を入手することができた。そして同書をもとに研究に取り組み、この研究は至時の死後、間重富らによって引き継がれた。そうして忠敬の第五次測量の直前にようやく実用化できるようになった。",
"title": "測量方法"
},
{
"paragraph_id": 209,
"tag": "p",
"text": "実際の観測は、第五次測量中の文化2年(1805年)4月22日、伊勢の山田(現・三重県伊勢市)で初めて行われた。その後も測量日記によると合計11回観測している。しかし測量にあたっては、前もって計算していた衛星食の時刻予想が正確ではなかったこともあり、苦労を要した。結果的に観測回数は少なく、経度の測定にはほとんど役に立たなかったと考えられている。",
"title": "測量方法"
},
{
"paragraph_id": 210,
"tag": "p",
"text": "歩いた歩数をもとに距離を計算する方法である。主に第一次測量のときに採用した。",
"title": "おもな測量器具"
},
{
"paragraph_id": 211,
"tag": "p",
"text": "忠敬の歩幅について、井上ひさしは小説『四千万歩の男』を執筆する際に、「二歩で一間」(一歩約90cm)と仮定した。測量中に忠敬の歩いた距離はおよそ35,000キロメートルで、換算するとおよそ4,000万歩となる。",
"title": "おもな測量器具"
},
{
"paragraph_id": 212,
"tag": "p",
"text": "しかしその後、実際の歩幅はそれよりも小さいことが明らかになった。昭和63年(1988年)、伊能忠敬記念館に勤めていた佐久間達夫は、来館者に忠敬の歩幅について尋ねられたのをきっかけに歩幅の調査を行った。そして、忠敬が書いた『雑録』の中に、「1町に158歩」という記述を発見した。佐久間はこの記述と、忠敬が使っていた「折衷尺」(1尺30.303cm)をもとに、忠敬の歩幅を約69cmと導き出している。",
"title": "おもな測量器具"
},
{
"paragraph_id": 213,
"tag": "p",
"text": "第二次測量からは歩測の代わりに、間縄と呼ばれる縄や、鉄鎖を使って距離を求めるようになった。",
"title": "おもな測量器具"
},
{
"paragraph_id": 214,
"tag": "p",
"text": "第二次測量では麻の縄を使って海岸線を測量した。しかし縄は伸び縮みして正確な距離が測れなかったため、第三次測量からは新たに考案された鉄鎖が使われた。鉄鎖が使えないような場所では引き続き間縄が使われたが、藤づるを編んだ藤縄や、鯨の鰭を裂いて編んだ鯨縄を使うといった工夫を加えた。",
"title": "おもな測量器具"
},
{
"paragraph_id": 215,
"tag": "p",
"text": "鉄鎖は、両端を輪のように加工した長さ一尺の鉄線を60本つないだ鎖で、伸ばすと長さは十間となる。間縄は古くから使われていた方法だが、高橋至時によると、鉄鎖は忠敬が初めて考案したものである(ただし異説もある)。鉄鎖も使っていくうちに摩耗するため、間棹で毎日長さを確認していた。間棹とは長さ二間の木の棹で、両端に真鍮帽をかぶせている。",
"title": "おもな測量器具"
},
{
"paragraph_id": 216,
"tag": "p",
"text": "量程車とは車輪と歯車のついた箱状の測量器具である。地面に置いて車輪を転がしながら進むことによって、車輪に連動した歯車が回り、移動した距離が表示されるようになっている。中国では古くから存在し、日本にもすでに伝わっていた。忠敬は第二次測量の途中で高橋至時から量程車を受け取り、これを使って測量してみたが、海岸線などの砂地や、凹凸のある道では、距離が正確に測れなかった。したがって、以後は名古屋、金沢の城下など、限られた地域のみで使われ、西日本の測量においては全く使用されなかった。",
"title": "おもな測量器具"
},
{
"paragraph_id": 217,
"tag": "p",
"text": "方位の測定は大中小3種類の方位盤および半円方位盤にて行った。",
"title": "おもな測量器具"
},
{
"paragraph_id": 218,
"tag": "p",
"text": "小方位盤は杖の先に羅針盤をつけたものである。彎窠(わんか)羅針、杖先羅針とも呼ばれる。",
"title": "おもな測量器具"
},
{
"paragraph_id": 219,
"tag": "p",
"text": "羅針盤は杖を傾けても常に水平が保たれるようになっており、精度としては10分(6分の1度)単位の角度まで読むことができた。平地では三脚に固定して使用し、傾斜地では杖を地面に突き立てて使用した。",
"title": "おもな測量器具"
},
{
"paragraph_id": 220,
"tag": "p",
"text": "小方位盤自体は当時よく使われていた器具だったが、忠敬は羅針の形や軸受けの材質を変えるなどの工夫を加えた。小方位盤は忠敬の測量器具の中で最も重要なものと言われており、西日本を測量するころになると10個ほどを持っていっている。",
"title": "おもな測量器具"
},
{
"paragraph_id": 221,
"tag": "p",
"text": "小方位盤は主に導線法と交会法において使われた。導線法で使う際には正・副2本の羅針盤を使って2点の両方から角度を測り、その平均を取るようにしていた。",
"title": "おもな測量器具"
},
{
"paragraph_id": 222,
"tag": "p",
"text": "大方位盤と中方位盤は実物が残っていないために詳細は定かではないが、『量地伝習録』で解説がなされている。それによるとこの方位盤は、脚のついた円形の盤の中央に望遠鏡を設置したものである。円盤には方位を測るための磁石が取りつけられるようになっており、また円盤の周囲には、角度が分かるように目盛りのついた真鍮の環が組み込まれている。さらに円盤の上には指標板というものが置かれており、これは望遠鏡と連動して円盤状を回転できるようになっている。大方位盤と中方位盤は大きさが異なるだけで、外形や使用方法はほとんど変わらないといわれている。円盤の直径は大方位盤が2尺6寸、中方位盤が1尺2寸である。",
"title": "おもな測量器具"
},
{
"paragraph_id": 223,
"tag": "p",
"text": "これらの方位盤は、富士山など、遠くの目標物の方角を測るのに用いられた。円盤内の方位磁針の向きと、真鍮の環に刻まれた北を示す目盛りの向きを合わせてから、望遠鏡を目標物の向きに合わせる。すると、指標板が求める方角を指し示す。",
"title": "おもな測量器具"
},
{
"paragraph_id": 224,
"tag": "p",
"text": "大方位盤は精密な測定ができるため、高橋至時はこれを使って正確に方位を求めるべきだと主張した。しかし忠敬は、「正しい位置に設置するための器具が不十分なので精度向上は見込めない」と反論した。また、大方位盤は運搬に手間がかかるという問題もあった。そのため第一次測量では使用せず、第二次測量でも途中で江戸に送り返している。その後、第五次、第六次測量では使用されたが、第七次、第八次測量では持参していない。",
"title": "おもな測量器具"
},
{
"paragraph_id": 225,
"tag": "p",
"text": "中方位盤は大方位盤と比べて小型なため、第二次測量以降に持ち出され使われている。第五次測量以降の記録では中方位盤の名前は見られないが、忠敬は中方位盤のことを小方位盤と記すこともあるため、本当に使用されなかったかどうかは定かでない。",
"title": "おもな測量器具"
},
{
"paragraph_id": 226,
"tag": "p",
"text": "半円方位盤はその名の通り半円形の方位盤である。大・中方位盤と同じように、目盛り付きの真鍮板と方位磁針が付属している。また半円盤の上に視準器があり、これを半円盤上で回転させて目標物に合わせることで方角を求める。",
"title": "おもな測量器具"
},
{
"paragraph_id": 227,
"tag": "p",
"text": "この方位盤は十分単位で角度目盛がついていて、目測では分単位の角度を求めることができたが、構造が単純で偏心による誤差が生じやすかった。しかし小方位盤と比べると細かな方位が求めやすく、大・中方位盤と比べて持ち運びやすいという利点もあった。そのため遠くの山などを測る目的で、第四次測量以降は頻繁に使うようになった。",
"title": "おもな測量器具"
},
{
"paragraph_id": 228,
"tag": "p",
"text": "坂道の傾斜や星の高度は象限儀を使って求めた。象限儀の種類としては杖先小象限儀、大象限儀、中象限儀がある。",
"title": "おもな測量器具"
},
{
"paragraph_id": 229,
"tag": "p",
"text": "2点間の距離を導線法により求めても、その2点間が坂道になっていると、地図に表すとき距離が異なってしまう。この補正は、はじめのうちは目測で傾斜角を測って補正していたが、第三次測量からは杖先小象限儀を使うようになった。",
"title": "おもな測量器具"
},
{
"paragraph_id": 230,
"tag": "p",
"text": "この象限儀は長さ一尺二寸で、三脚に据えて、梵天を持っている人の目を目標にして測った。測った角度は割円八線対数表と呼ばれる三角関数の対数表を利用して距離に換算した。",
"title": "おもな測量器具"
},
{
"paragraph_id": 231,
"tag": "p",
"text": "恒星の南中高度を測るための象限儀は、大(長さ六尺)、中(長さ三尺八寸)の2種類が使われた。構造はどちらも同じである。大象限儀は江戸に常設しており、全国測量では中象限儀を持ち出した。この象限儀は、刻まれた目盛りによって一分単位の角度を読み取ることができ、目測を加えると十秒または五秒程度の単位まで測ることができた。",
"title": "おもな測量器具"
},
{
"paragraph_id": 232,
"tag": "p",
"text": "象限儀は地面に対して正確に垂直になるように設置しなければならない。そのため設置にあたっては本体以外に多数の木材が必要となり、全部合わせると、解体して運んでも馬一頭では積みきれないほどの大きさになった。",
"title": "おもな測量器具"
},
{
"paragraph_id": 233,
"tag": "p",
"text": "日食・月食が起きた時刻は、垂揺球儀によって求めた。垂揺球儀は振り子の振動によって時間を求める器具である。仕組みとしては振り子時計と同じで、日本でも麻田剛立によって既に使われていた。忠敬が使っていた垂揺球儀は現存しており、歯車を組み合わせることで十万の桁まで振動数が表示されるようになっている。振り子は1日におよそ59,500回振動するため、最大で約17日連続稼働できる。",
"title": "おもな測量器具"
},
{
"paragraph_id": 234,
"tag": "p",
"text": "日食・月食の前日までに、観測地において予め垂揺球儀を駆動させて1日の振動数を求めておく。そしてその数値と、南中から日食・月食開始までの振動数をもとにして、日食・月食が起こった時刻を求めることができる。",
"title": "おもな測量器具"
},
{
"paragraph_id": 235,
"tag": "p",
"text": "厳格な性格だった。測量期間中は隊員に禁酒を命じ、規律を重んじていた。また、能力の低い隊員に対しては評価が厳しく、測量中に娘の妙薫にあてた手紙にも、隊員についての愚痴がいくつも綴られている。身内でも特別扱いせず、息子の秀蔵も1人の内弟子として扱い、そして最終的には破門している。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 236,
"tag": "p",
"text": "また、根気強く、几帳面であった。測量中に合わせて51冊の日記(『伊能忠敬先生日記』)を残し、のちにそれを清書して28巻の『測量日記』としてまとめた。測量作業においても、技術の革新はなかったが、根気強い観測とさまざまな工夫でそれを補った。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 237,
"tag": "p",
"text": "商売人であったことから金銭には厳しく、家人に宛てた手紙にも、「野菜や薪など買わなくてすむものに金を使うな」「ためることが第一」などと書かれている。また飯炊きが毎日少しずつ米をくすねていたことに忠敬が気づき、咎めたとの記録もある。晩年、自身が病気になって江戸の自宅で玉子酒を飲んで治療をしているときも、「卵は江戸より佐原の方が安いから佐原で多めに買って江戸まで送るように」と指示を出している。一方で天明の飢饉のときには貧民に米などを分け与えたりしており、また九州測量中にも、利根川の洪水で被害を受けた人々に施しを与えるよう指示している。ただしこのとき、食べていける者にも分け与えることは名聞を求めるのにあたるから慎むべきだとしている。これらのことから、忠敬は意味のあることについては大金を投じることも惜しまないが、そうでないことには出さないという、合理的な考えの持ち主だったことがうかがえる。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 238,
"tag": "p",
"text": "全国測量の旅に出かける際は、安全祈願のために富岡八幡宮に必ず参拝に来ていた。2001年、境内に銅像が建てられた。近くの江東区門前仲町には、伊能忠敬宅跡を示す石碑が建てられている。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 239,
"tag": "p",
"text": "測量中も近くの寺社や名所旧跡を多く訪れており、その門前までの測量記録を残している。また、詩歌にも関心が強かった。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 240,
"tag": "p",
"text": "食べ物に関しては、測量中に毛利家徳山藩が調べたところによると、かぶら、大根、人参、せり、鳥、卵、長いも、蓮根、くわい、豆腐、菜、菜類、椎茸、鰹節といったものを好んだという。本人が妙薫などに宛てて書いた手紙では、「しそ巻唐辛子を毎日食べていて、残りが少なくなったからあれば送ってほしい」「蕎麦を1日か2日置きに食べている」などの記述があり、さらに豆類も好物とされている。また、「歯が時々痛み奈良漬も食べられない」と書かれた手紙も残っている。",
"title": "人物"
},
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"paragraph_id": 241,
"tag": "p",
"text": "忠敬の体格は、着物の丈が135cmであることから、身長は160cm前後、体重は55kg程度と推定されている。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 242,
"tag": "p",
"text": "若い頃から体は弱い方で、病気で寝込むこともしばしばあった。加えて四国測量の頃からは「痰咳の病」にかかるようになっていった。これは現代でいう慢性気管支炎のことであり、冬になる度に痰に悩まされていた。そのため、とりわけ食事に気をつけ咳痰の予防のため、食事療法として鶏卵を用いていた。特に70歳を過ぎた頃から、卵湯療法を続けている。鶏肉も滋養食として食事療法の対象としていた。忠敬の死因も、慢性気管支炎が悪化して起こる急性肺炎(老人性肺炎)とみられている。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 243,
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"text": "忠敬と幕府との関係については様々な説がある。幕府との関係の証拠は",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 244,
"tag": "p",
"text": "などが挙げられており、単なる引退した商人の測量技師ではなかったことを示している。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 245,
"tag": "p",
"text": "忠敬についての最も古い伝記は、江戸時代に書かれた『旌門金鏡類録(せいもんきんきょうるいろく)』の中にある。この書は、伊能家がいかに名家であるかを伝えるために編集されたものであるが、作者や作成時期については分かっていない。本書ではその性質上、忠敬についても、家の復興に努めて村のためにも尽くしたことが強調された書き方になっている。ただし本書は伊能家のために残された書であり、外部に見せるための伝記ではない。",
"title": "評価の移り変わり"
},
{
"paragraph_id": 246,
"tag": "p",
"text": "公開された初めての伝記は、文政5年(1822年)に建てられた、源空寺の墓に刻まれている墓碑銘である。この墓碑銘は墓石の左面、背面、右面の3面にわたって刻まれた漢文で、作者は儒学者の佐藤一斎である。その内容は『旌門金鏡類録』を参考にしたものとうかがえる。ただし墓碑銘には、忠敬は西洋の技術を学ぶことによって知識が高まったといった内容が刻まれており、こうした記述は『旌門金鏡類録』にはない。おそらくこの記述については、渋川景佑の本から採ったものと考えられている。",
"title": "評価の移り変わり"
},
{
"paragraph_id": 247,
"tag": "p",
"text": "弘化2年(1845年)には、佐原出身で縁戚関係にあたる清宮秀堅によって『下総国旧事考(くじこう)』が書かれ、その中で忠敬についても触れられている。この忠敬伝は墓碑銘をもとに書かれているが、忠敬と洋学との関係に関しては記されていない。このことについて小島一仁は、シーボルト事件や蛮社の獄といった、洋学者に対する弾圧が影響しているのではないかと述べている。",
"title": "評価の移り変わり"
},
{
"paragraph_id": 248,
"tag": "p",
"text": "佐賀藩出身の佐野常民は、長崎海軍伝習所で訓練しているときに伊能図を使ったところ、この地図は正確でとても役に立つことを知った。さらに佐野は、伊能図がイギリス海軍にも評価されていたことなどを知り、元老院議長となったあとの明治13年(1880年)には佐原を巡視し、香取郡長の大須賀庸之助と伊能家の伊能節軒から忠敬についての話を聞いた。そして佐野は明治15年(1882年)9月、東京地学協会において、「故伊能忠敬翁事蹟」と題する講演を行った。",
"title": "評価の移り変わり"
},
{
"paragraph_id": 249,
"tag": "p",
"text": "この講演では墓碑銘をもとにして忠敬の生涯を紹介したうえで、伊能図の素晴らしさに触れ、忠敬を偉人として讃えている。この講演は忠敬伝としては初めてのものであると言われており、その内容はその後における忠敬の評価にも影響を与えることとなる。",
"title": "評価の移り変わり"
},
{
"paragraph_id": 250,
"tag": "p",
"text": "佐野の講演の目的は、忠敬に対しての贈位を申請することと、忠敬の業績に対して記念碑を建設することであった。このうち贈位については、大須賀らの協力もあって、明治16年(1883年)1月、東京地学協会長である北白川宮能久親王の名で申請が出された。そして同年2月、正四位が贈られた。",
"title": "評価の移り変わり"
},
{
"paragraph_id": 251,
"tag": "p",
"text": "もう一方の記念碑について、佐野は講演の中で「忠敬が測量の基準とした高輪大木戸に建てるのがふさわしい」と述べ、明治16年の東京地学協会総会で、芝、高輪の大木戸に遺功表を立てることを議決した。その後、建設場所は芝公園に変更となり、明治22年(1889年)に遺功表が建てられた。",
"title": "評価の移り変わり"
},
{
"paragraph_id": 252,
"tag": "p",
"text": "遺功表が建てられてからは、徳富蘇峰や幸田露伴の手による少年向けの忠敬伝が出され、明治20年代から30年代にかけて、忠敬の名は全国に知られるようになっていった。",
"title": "評価の移り変わり"
},
{
"paragraph_id": 253,
"tag": "p",
"text": "明治36年(1903年)、国定教科書の制度が始まると、忠敬はさっそく国語の教科書に採用された。教科書の内容は佐野の講演をもとに書かれており、忠敬の生涯のほか、測量方法についても簡単に述べられている。教科書に載ったことで忠敬の名はさらに広まった。地元の佐原で忠敬を偉人と称えるようになったのもこの頃からである。",
"title": "評価の移り変わり"
},
{
"paragraph_id": 254,
"tag": "p",
"text": "明治43年(1910年)に国定教科書の改訂がなされると、忠敬は国語の教科書から外され、代わりに修身の教科書に載るようになった。そして内容も変化した。修身教科書では、国語教科書で見られたような忠敬の測量における業績についてはほとんど書かれず、「勤勉」「迷信を避けよ」「師を敬へ」といった表題のもと、忠敬が家業に懸命に取り組んだこと、江戸に出てからは雨や風の中で測量に従事し地図を作ったことなどが記され、最後に「精神一到何事カ成ラザラン」などといった格言で締めるという、精神的な面が強調されるようになった。こうした内容の教科書は第二次世界大戦の終戦まで使われた。",
"title": "評価の移り変わり"
},
{
"paragraph_id": 255,
"tag": "p",
"text": "忠敬が国定教科書に採用されたころ、忠敬について書かれた伝記は偉人伝としての要素が強く、測量内容に関する科学的な評価はほとんどなされていなかった。そのような状態のなか、物理学者の長岡半太郎は忠敬に興味を持ち、明治41年(1908年)に開かれた帝国学士院総会において、忠敬の業績を調べるよう提案した。この提案は賛同を得て、長岡の弟子の大谷亮吉の手により調査が始められた。",
"title": "評価の移り変わり"
},
{
"paragraph_id": 256,
"tag": "p",
"text": "大谷は調査を行いながら、その結果などを発表していった。大正3年(1914年)には大谷の調査結果をもとに、長岡が、「伊能忠敬翁の事蹟に就て」と題する講演を行った。この講演は忠敬の業績のほか、麻田剛立、高橋至時、間重富の果たした役割についても述べており、従来の忠敬伝とは一線を画したものとなっている。そして大正6年(1917年)、大谷はおよそ9年にわたる調査をまとめた書『伊能忠敬』を書き上げた。",
"title": "評価の移り変わり"
},
{
"paragraph_id": 257,
"tag": "p",
"text": "『伊能忠敬』は本文766ページの大著で、特に忠敬の測量法や測量精度に関する記述が詳しく書かれている。本書はそれまでにないほど精細であり、忠敬研究における決定版ともいわれた。また、これ以後に書かれた忠敬についての本についても、ほとんどは大谷の引き写しだともいわれている。本書は大正6年に源空寺で行われた忠敬の100遠忌法要において、墓前に供えられた。",
"title": "評価の移り変わり"
},
{
"paragraph_id": 258,
"tag": "p",
"text": "また、忠敬没後100年の企画としては、他に佐原の有志による銅像と記念文庫建設の計画があった。結果として寄付額が足りず記念文庫の建設は断念されたが、銅像は大正8年(1919年)、佐原の佐原公園に建設された(作者は大熊氏廣)。",
"title": "評価の移り変わり"
},
{
"paragraph_id": 259,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦の終戦後は、戦前の国定教科書のような、忠敬を偉人として讃える書き方は鳴りを潜め、教科書の記述も簡単なものになった。しかし戦前の教育の影響からか、忠敬の知名度は相変わらず高く、忠敬は努力によって偉大な業績を上げたという偉人的な見方も年配者を中心に消えずに残っていた。",
"title": "評価の移り変わり"
},
{
"paragraph_id": 260,
"tag": "p",
"text": "一方で新たな角度から忠敬を論ずる研究者も現れてきた。今野武雄は昭和33年(1958年)に出された本で、それまでの忠敬伝では忠敬の学問に対する情熱と精力がどこからきたのか得心できないと述べ、「忠敬は努力した」という旧来の書かれ方ではその努力の根源が明らかにされていないことを指摘した。また、歴史学者の高橋磌一は、昭和43年(1968年)に千葉県立佐原高等学校で開かれた伊能忠敬翁150年祭の記念講演で「みなさんは、伊能忠敬を、はじめから、えらい人だとか、えらくない人だとか、きめてかかってはいけません」と発言し、忠敬を先入観で偉人として見る感覚を戒めた。また小島一仁は昭和53年(1978年)に出された本で、従来の偉人伝としての忠敬伝を批判した。",
"title": "評価の移り変わり"
},
{
"paragraph_id": 261,
"tag": "p",
"text": "さらに、伊能図の科学的な研究も進んだ。この分野においては大谷の『伊能忠敬』が圧倒的であり、昭和43年(1968年)に東京地学協会で行われた講演において保柳睦美は、「今日まで、忠敬の業績に関する科学的研究は、大谷氏のものが最後といってよい」と発言するほどであった。しかし保柳はこの講演で、大谷の研究は「独断や誤解のみならず、考察の不十分な点がところどころに発見される」と語り、大谷を批判した。一例として、伊能図における経度方向のずれに関する見解があげられる。大谷は、伊能図はサンソン図法によって描写されており、その投影方法が間違っていたことが経度方向のずれの原因の1つになっていると述べ、この地図投影方法を「大失態」と評し、忠敬および高橋景保を非難している。しかし保柳は大谷に反論し、経度のずれについては、伊能図は経緯線こそサンソン図法と同じだが、地図自体はサンソン図法によって描いたものではなく、両者の違いが経度差となって現れたためだと大谷の誤りを指摘した。そして、幕府の要求は海岸線の測定などが主であって経線は重要視されておらず、当時の日本の研究水準などを考えても、このことについて忠敬をことさらに非難するのは間違っていると主張した。保柳らの研究活動はのちの昭和49年(1974年)に『伊能忠敬の科学的業績』としてまとめられた。",
"title": "評価の移り変わり"
},
{
"paragraph_id": 262,
"tag": "p",
"text": "また千葉県は昭和48年(1973年)、忠敬の手紙をまとめた『伊能忠敬書状』を出版した。",
"title": "評価の移り変わり"
},
{
"paragraph_id": 263,
"tag": "p",
"text": "井上ひさしは昭和52年(1977年)、それまで小説に登場する機会がほとんどなかった忠敬を主人公にした小説『四千万歩の男』を『週刊現代』に連載した。井上が忠敬に特に関心を持ったのは、隠居後に新たな挑戦を始める、「一身にして二生を得る」という生き方だった。井上は、平均寿命が延びた時代において、退職後の人生を送るにあたって忠敬の生き方は手本になると述べている。",
"title": "評価の移り変わり"
},
{
"paragraph_id": 264,
"tag": "p",
"text": "このように、高齢化社会という時代性から、「第二の人生を有意義に送った忠敬を評価する」という見方はこのころから広まるようになり、忠敬に対する人々の関心も高まっていった。『四千万歩の男』はその一つの要因と考えられている。このような忠敬の捉え方はその後も続き、忠敬は「中高年の星」「人生を2度生きた男」とも呼ばれるようになっている。",
"title": "評価の移り変わり"
},
{
"paragraph_id": 265,
"tag": "p",
"text": "電電公社(現・NTT)に勤めていた渡辺一郎は、仕事で日本地図を毎日眺めている間に忠敬に対して興味を持ち、そして国立国会図書館で伊能図を見て感激したことがきっかけで、忠敬の研究を始めた。そして平成7年(1995年)には伊能忠敬研究会を結成した。研究会の活動などによって、1990年代後半から2000年前後にかけて、忠敬に関するイベントがいくつも開催された。平成10年(1998年)4月10日、朝日新聞社は創刊120周年記念事業として、徒歩で全国を回る「伊能ウォーク」を主催すると発表した(日本歩け歩け協会(現・日本ウォーキング協会)、伊能忠敬研究会との共同開催)。このイベントでは、忠敬の測量隊が歩いたルートを歩くほか、拠点地で伊能図の展示会などが行われた。平成11年(1999年)1月25日から平成13年(2001年)1月1日までの開催期間中に、16万人以上の一般参加者が参加した。",
"title": "評価の移り変わり"
},
{
"paragraph_id": 266,
"tag": "p",
"text": "また、平成10年(1998年)4月21日から6月21日まで、江戸東京博物館において、伊能忠敬展が開催された。この展覧会では11万1,399人の来館者を集めた。",
"title": "評価の移り変わり"
},
{
"paragraph_id": 267,
"tag": "p",
"text": "一方、忠敬生誕地の九十九里町では、伊能忠敬記念公園が整備され、忠敬の銅像が作られた。佐原市(現・香取市)においても新しい伊能忠敬記念館が建てられ、1998年5月22日に開館した。当地には伊能忠敬旧宅が保存されており、江戸時代の風情を残す佐原の町並みの一部をなしている。",
"title": "評価の移り変わり"
},
{
"paragraph_id": 268,
"tag": "p",
"text": "伊能忠敬研究会がによる没後200年記念誌『伊能忠敬 日本列島を測る 後編』(2018年)掲載の調査結果によると、伊能忠敬を顕彰する記念碑や案内板などを、北は北海道別海町から南は鹿児島県南種子町まで190基以上ある。",
"title": "評価の移り変わり"
},
{
"paragraph_id": 269,
"tag": "p",
"text": "ほかにもこの時期に、忠敬が主人公の演劇、映画が公開されている。また、平成13年(2001年)にアメリカで発見された伊能図の写本などによって伊能図の全貌が明らかになったことにより、原寸大の伊能図を並べて展示するイベントが開かれるようになった。",
"title": "評価の移り変わり"
},
{
"paragraph_id": 270,
"tag": "p",
"text": "平成22年(2010年)、伊能忠敬作成の地図や使用した測量器具、関係文書など2,345点が、「我が国の測量史・地図史上における極めて高い学術的価値を有する」として、「伊能忠敬関係資料」の名称で国宝に指定された。これらは伊能家に伝来したもので、香取市の伊能忠敬記念館に保管されている。",
"title": "評価の移り変わり"
},
{
"paragraph_id": 271,
"tag": "p",
"text": "現在の佐原において、忠敬の名は忠敬橋などに見られる。また、原付のデザインナンバープレートにも採用されている。",
"title": "評価の移り変わり"
},
{
"paragraph_id": 272,
"tag": "p",
"text": "現代における忠敬の人物としての評価については、先に触れた二度の人生を生きたということのほか、渡辺一郎は、忠敬は才能こそあったものの、偉人や天才ではなく普通の人だったと述べたうえで、「ただ、いささか好奇心が強く、凝り性で、根気がよい性格だった」と評している。また星埜由尚は、「愚直なまでの忍耐と努力」を挙げたうえで、17年にわたって愚直に測量を続けたことは公共性(世のため人のため)という観念もあったのではないかとして、忠敬の生き方を、効率化や自らの利益が重視される現代におけるアンチテーゼとしてとらえている。",
"title": "評価の移り変わり"
},
{
"paragraph_id": 273,
"tag": "p",
"text": "平成28年、伊能忠敬研究会が、忠敬の測量事業において協力した各地の人物を公表した。これは忠敬の日記を基に作成されたもので、忠敬没後200年の節目の記念行事(交流顕彰発表会)を行う予定である。",
"title": "評価の移り変わり"
},
{
"paragraph_id": 274,
"tag": "p",
"text": "2018年にはバーチャルリアリティ(VR)作品『伊能忠敬の日本図』が東京国立博物館と凸版印刷により制作・上映された。",
"title": "評価の移り変わり"
}
] | 伊能 忠敬は、江戸時代の商人・天文学者・地理学者・測量家。通称は三郎右衛門(さぶろえもん)、勘解由(かげゆ)。字は子斉、号は東河。 寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)まで、17年をかけて日本全国を測量し、『大日本沿海輿地全図』を完成させ、国土の正確な姿を明らかにした。 1883年(明治16年)、贈正四位。 | {{Infobox scientist
| 名前 = 伊能 忠敬
| image = Ino Tadataka (cropped).jpg
| image_size = 250px
| caption = 『伊能忠敬像』<br />(伝青木勝次郎画 伊能忠敬記念館蔵)
| fullname = 神保 三治郎(幼名)
| other_names = 三郎右衛門、勘解由
| 生年月日 = [[延享]]2年[[1月11日 (旧暦)|1月11日]]<br>〈{{生年月日と年齢|1745|2|11|no}}〉
| birth_name = 神保三治郎
| 生誕地 = [[上総国]][[山辺郡 (千葉県)|山辺郡]][[片貝町 (千葉県)|小関村]]
| 没年月日 = [[文化 (元号)|文化]]15年[[4月13日 (旧暦)|4月13日]]<br>〈[[1818年]][[5月17日]]〉<br>({{没年齢|1745|2|11|1818|5|17}})
| 死没地 =
| 時代 = [[江戸時代]]中期 - 後期
| 職業 = 商人、測量家
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| 両親 = 父:[[神保貞恒]]
| 子供 = イネ、[[伊能景敬]]、[[神保玄二郎]]、[[伊能順次]]、シノ、コト
| 出身地 = [[千葉県九十九里町]]
| 学派 =
| 研究分野 = [[天文学]]
| 研究機関 = [[天文方]]
| 特筆すべき概念 = 日本初の正確な地図の製作
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| known_for =
}}
'''伊能 忠敬'''(いのう ただたか{{refnest|group=注釈|地元などでは親しみと尊敬の念をこめて「'''いのう ちゅうけい'''」とも称されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201903260000604.html|title=中江有里 伊能忠敬の地元では「ちゅうけい」と説明|publisher=[[日刊スポーツ]]|date=2019-03-26|accessdate=2020-08-27}}</ref>。}}、[[延享]]2年[[1月11日 (旧暦)|1月11日]]〈[[1745年]][[2月11日]]〉- [[文化 (元号)|文化]]15年[[4月13日 (旧暦)|4月13日]]〈[[1818年]][[5月17日]]〉)は、[[江戸時代]]の[[商人]]・[[天文学者]]・[[地理学者]]・[[測量|測量家]]。[[仮名 (通称)|通称]]は'''三郎右衛門'''(さぶろえもん)、'''勘解由'''(かげゆ)。[[字]]は'''子斉'''、[[号 (称号)|号]]は'''東河'''。
[[寛政]]12年([[1800年]])から文化13年([[1816年]])まで、17年をかけて[[日本]]全国を測量し<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/sp/topics/word/%E4%BC%8A%E8%83%BD%E5%BF%A0%E6%95%AC.html|title=伊能忠敬に関するトピックス|publisher=[[朝日新聞デジタル]]|accessdate=2020-08-06}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20211201-47EZCNYLSBO43DX66C7OV37ERA/|title=地図の上を歩こう 伊能忠敬企画展 茨城・つくば市|publisher=産経ニュース|date=2021-12-01|accessdate=2021-12-01}}</ref>、『[[大日本沿海輿地全図]]』を完成させ、国土の正確な姿を明らかにした。
[[1883年]]([[明治]]16年)、贈[[正四位]]。
== 前半生 ==
[[File:Ino Tadataka's birth place.JPG|thumb|200px|伊能忠敬出生の地(千葉県九十九里町)]]
=== 幼少期 ===
[[延享]]2年([[1745年]])1月11日、[[上総国]][[山辺郡 (千葉県)|山辺郡]]小関村(現・[[千葉県]][[山武郡]][[九十九里町]]小関)の[[名主]]・小関五郎左衛門家で生まれた。[[幼名]]は'''三治郎'''。父親の[[神保貞恒]]は[[武射郡]]小堤村(現・[[横芝光町]])にあった酒造家の次男で、小関家には婿入りした。三治郎のほかに男1人女1人の子がおり、三治郎は末子だった<ref>[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.17</ref>。
6歳のとき母が亡くなり、家は[[おじ|叔父]]が継ぐことになった。そのため、婿養子だった父・貞恒は兄と姉を連れて実家の小堤村の神保家に戻るが、三治郎は祖父母の下に残った。
小関家での三治郎の生活状況について、詳しくは分かっていない。当時の小関村は[[イワシ|鰯]]漁が盛んで、三治郎は漁具が収納されてある[[納屋]]の番人をしていたと伝えられている<ref>[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] pp.2-3</ref>。一方で、名主の家に残されていたということもあって、読み書き[[算盤|そろばん]]や、将来必要となるであろう教養も教え込まれていたのではないかとも考えられている<ref>[[#渡辺(1999)|渡辺(1999)]] pp.17-18</ref>。
10歳のとき、三治郎は父の下に引き取られた。神保家は父の兄である{{Ruby|宗載|むねのり}}が継いでいたため、父は当初そこで居候のような生活をしていたが、やがて分家として独立した<ref name="小島1978 p.65">[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.65</ref>。
神保家での三治郎の様子についても文献が少なく、詳細は知られていない<ref>[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.3</ref>。三治郎は神保家には定住せず、親戚や知り合いのもとを転々としたと言われている<ref name="watanabe1999-19">[[#渡辺(1999)|渡辺(1999)]] p.19</ref>。[[常陸]](現在の[[茨城県]])の寺では半年間そろばんを習い、優れた才能を見せた<ref>[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] pp.3-4</ref>。また17歳くらいのとき、「佐忠太」と名乗り、[[土浦市|土浦]]の医者に医学を教わった記録がある<ref name="今野2002 p.20">[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.20</ref>。ただしここで習った医学の内容はあまり専門的なものではなく、余興の類だったといわれている<ref name="watanabe1999-19"/>。
三治郎が流浪した理由について、研究家の大谷亮吉は、父親が新たに迎え入れた継母とそりが合わなかったこともあって、家に居づらくなったからだとしている。このように、三治郎が周囲の環境に恵まれず不幸な少年時代を過ごしたとする説は昔から広く伝えられている。しかしこの見解に対しては、父や周辺の人物が三治郎のことを思って各地で教育を受けさせたのではないかという反論もある<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.67</ref>。
=== 伊能家に婿入り ===
三治郎が生まれる前の[[寛保]]2年([[1742年]])、[[下総国]][[香取郡]][[佐原市|佐原村]](現・[[香取市]]佐原)にある酒造家の伊能三郎右衛門家(以下、伊能家と)では、当主の長由(ながよし)が、妻・タミと1歳の娘・ミチを残して亡くなった。長由の死後、伊能家は長由の兄が面倒を見ていたが、その兄も翌年亡くなった。そのため伊能家は親戚の手で家業を営むことになった。
ミチが14歳になったとき、伊能家の跡取りとなるような婿をもらったが、その婿も数年後に亡くなった。そのためミチは、再び跡取りを見つけなければならなくなった<ref name="小島1978 p.65"/>。
伊能家・神保家の両方の親戚である平山藤右衛門(タミの兄)は、[[土地改良]]工事の現場監督として三治郎を使ったところ、三治郎は若輩ながらも有能ぶりを発揮した。そこで三治郎を伊能家の跡取りにと薦め、親族もこれを了解した<ref>[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.27</ref>。三治郎は形式的にいったん平山家の養子になり、平山家から伊能家へ婿入りさせる形でミチと結婚することになった。その際、[[大学頭]]の[[林鳳谷]]から、'''忠敬'''という名をもらった。
[[宝暦]]12年([[1762年]])12月8日に忠敬とミチは婚礼を行い、忠敬は正式に伊能家を継いだ。このとき忠敬は満17歳、ミチは21歳で、前の夫との間に残した3歳の男子が1人いた<ref name="kojima78">[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.78</ref>。忠敬ははじめ通称を源六と名乗ったが、のちに三郎右衛門と改め、伊能三郎右衛門忠敬とした<ref name="kojima78" />。
=== 佐原時代 ===
==== 当時の佐原と伊能家 ====
[[ファイル:Inou-tadataka-house,katori-city,japan.JPG|thumb|250px|[[伊能忠敬旧宅]](香取市佐原)]]
忠敬が入婿した時代の佐原村は、[[利根川]]を利用した[[河川舟運|舟運]]の中継地として栄え、人口はおよそ5,000人という、[[関東]]でも有数の村であった。舟運を通じた[[江戸]]との交流も盛んで、物のほか人や情報も多く行き交った。このような佐原の土壌はのちの忠敬の活躍にも影響を与えたと考えられている<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.72</ref>。
当時の佐原村は[[天領]]で、武士は1人も住んでおらず、村政は村民の自治に負うところが多かった<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.72-75</ref>。その村民の中でも特に経済力があり村全体に大きな発言権を持っていたのが、永沢家と伊能家であった<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.75-76</ref>。伊能家は[[酒]]、[[醤油]]の[[醸造]]、[[貸金業]]を営んでいたほか、利根川水運などにも関わっていたが、当主不在の時代が長く続いたために事業規模を縮小していた。一方、永沢家は事業を広げて[[名字帯刀]]を許される身分となり、伊能家と差をつけていた。そのため伊能家としては、家の再興のため、新当主の忠敬に期待するところが多かった<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.79-81</ref>。
==== 祭礼騒動 ====
忠敬が伊能家に来た翌年の1763年、長女のイネ(稲)が生まれた。同じ年、妻・ミチと前の夫との間に生まれた男子は亡くなった。3年後の明和3年([[1766年]])には長男の景敬が生まれた<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.82</ref>。
忠敬は伊能家の当主という立場から、村民からの推薦で[[名主]]後見に就いた。とはいえ忠敬はまだ年も若かったため、初めのうちは親戚である伊能豊明の力を借りることが多かった<ref>[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] pp.14-15</ref>。この時期の忠敬は病気で長い間寝込んでいたこともあった。新当主として親戚づきあいなどの気苦労も絶えなかったからではと推測されている<ref name="kojima84">[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.82-84</ref>。
明和6年([[1769年]])、佐原の村で祭りにかかわる騒動が起き、これは当時24歳の忠敬にとって力量が試される事件となった<ref name="kojima84"/>。
佐原の中心部は[[小野川 (千葉県)|小野川]]を境に大きく本宿と新宿に分かれ、祭りはそれぞれ年に1回ずつ開かれる。伊能家と永沢家は本宿にあり、そこでの祭礼は[[牛頭天王]](ごずてんのう)の祭礼(祇園祭)であった。当時は毎年6月に開催されており、祭りの際は各町が所有する、趣向を凝らした[[山車]]が引き回されていた<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.74</ref><ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.24</ref>。ところが明和3年(1766年)以来、佐原村は不作続きで、農民も商人も困窮していた。そこで佐原村本宿の村役人3人が話し合い、今年は倹約を心がけ、豪華な山車の飾りものは慎むことに決め、町内にもそのように通達した。しかしそれにもかかわらず、各町内は例年のように豪華な飾りものの準備を始めた。そのうえ、山車を引き回す順番についても、双方の町が自分たちが一番先に出すと主張し、収拾のつかないまま当日を迎えることになった。このまま祭りが始まると大騒動に発展すると判断した村役人たちは、この年は山車を出さないことを決定した。このときに各町を説得しに回ったのが、名主後見の立場にあった永沢家の永沢治郎右衛門と、伊能家の忠敬であった<ref name="w25">[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.25</ref>。
佐原村本宿は大きく、本宿組と浜宿組に分かれていた。忠敬と永沢は分担して、忠敬は本宿組の各町を、永沢は浜宿組の各町を説得し、ようやく各町の同意を取りつけた。ところが祭礼2日目、永沢家が説得したはずの浜宿組において禁が破られ、山車が引き回されるという事態が発生した。本宿組の町民はさっそく忠敬を問い詰め、忠敬も永沢家に赴き責任を追及した。しかし本宿組の担当者はそれだけでは納得がいかず、浜宿組が山車を出したのだからこちらも出すと強硬に主張した。忠敬は、このままでは大きな争いになるのは必至で、町内に申し訳が立たないと感じたため、伊能家は永沢家と「義絶」すると宣言した<ref name="w25"/><ref name="小島1978 p.87">[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.87</ref>。このときの義絶とはどのような状態なのか詳しく分かっていないが、伊能家は永沢家と今後一切の付き合いをやめるという意味であると推測される<ref>[[#渡辺(1999)|渡辺(1999)]] p.25</ref>。これにより、各町は山車を出すことをようやく取り止めた。さらに、佐原で「両家」と呼ばれ、富と地位のある2つの家の義絶は村にとっても良くないと考えられたため、仲介によって、同年に両家は和解することとなった<ref name="w25"/>。
==== 河岸一件 ====
祭礼騒動が起こった年の7月、忠敬とミチとの間に次女・シノ(篠)が生まれた。さらに同じ年、忠敬は江戸に[[薪]]問屋を出したが、翌年に火事に遭い、薪7万駄を焼くという損害を出してしまった<ref name="小島1978 p.87"/>。
この頃、[[江戸幕府|幕府]]では[[田沼意次]]が強い力を持つようになっていった。田沼は幕府の収入を増やすため、利根川流域などに公認の[[河岸|河岸問屋]]を設け、そこから[[運上金]]を徴収する政策を実行した。そして明和8年([[1771年]])11月、佐原村も、河岸運上を吟味するため、名主・組頭・百姓代は出頭するよう通告された<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.88</ref><ref name="w26">[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.26</ref>。
河岸問屋が公認されると運上金を支払わなければならなくなる。そのため佐原の商人や船主は公認に乗り気でなかった。そこで名主4人が江戸の[[勘定奉行|勘定奉公所]]へ行き、「佐原は利根川から十四、五[[町 (単位)#長さの単位|町]]も離れていて、河岸問屋もないから、運上は免除願いたい」と申し出た<ref name="w26"/><ref name="kojima89">[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.89</ref>。しかしこの願いは奉公所に全く聞き入れられず、それならば佐原には河岸運送をすることは認めないと言われることとなった<ref name="w26"/><ref name="kojima89"/>。
これを受けて佐原村では再び話し合い、その結果、それまで河岸運送に大きく関わってきた永沢治郎右衛門、伊能茂左衛門、伊能権之丞、そして忠敬の4人が河岸問屋を引き受けることになった。ところがその数日後、永沢治郎右衛門と伊能権之丞は突然辞退したため、結局、引き受けるのは伊能茂左衛門と忠敬の2人だけになった<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.89-90</ref>。
翌年、2人は願書を作って勘定奉公所に提出した。そしてこの願書は奉公所の怒りを買った。というのも去年の願書では、「佐原は利根川から十四、五町離れている」としていたが今年の願書では「利根川から二、三町」だとしていたうえ、以前は「河岸問屋がない」としていたところ、今度は「2人は前から問屋を営んでいた」などと書かれていたためである。矛盾を追及された佐原側は、昨年申し上げたことは間違いであったなどと言い訳をしたが、最終的に奉公所から「以前から問屋を営んでいたというのであれば、その証拠を出すように」と命じられた<ref name="w26"/><ref name="kojima91">[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.91</ref>。
これを聞いた忠敬は数日の猶予を願い出ていったん佐原へ帰り、先祖が書き残した古い記録をかき集めて奉公所に提出した。この記録によって、佐原は昔から河岸運送をしていたことが証明され、忠敬と茂左衛門は公認を受けることができた。運上金の額は話し合いのうえ、2人で一貫五百文と決まった<ref name="kojima91"/>。
ところが同年5月、佐原村内の権三郎という者が「自分も問屋を始めたい」と奉公所へ願い出たため、その関係で忠敬は再び江戸へ出向くことになった。忠敬は「権三郎も問屋を始めたのでは自分たちの商いの領分も減ってしまうし、村方も了承していない」と反対意見を述べた。それに対して奉公所の役人は「権三郎は、自分ひとりに問屋を任せれば、忠敬・茂左衛門の運上金に加えてさらに毎年十[[貫]]文上納すると言っているので、2人も問屋を続けたいなら、運上金を増額せよ」と迫った。忠敬は返答の先送りを願い出て、佐原に帰った<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.92-93</ref>。
そして同年7月、忠敬は村役人惣代、舟持惣代らとともに出頭し、同じく出頭していた権三郎と対決した。忠敬は、自分たちは村役・村方の推薦のもと問屋を引き受けたと主張し、さらに権三郎については、多額の運上金を払えるだけの財産もなく、過去にも問屋のことで問題を起こしていると批判した。村役人惣代や舟持惣代も忠敬を支持した。そのため忠敬の主張が認められ、公認の問屋は元のように2人に決まり、この問題はようやく解決をみた。運上金の金額も、一時は二貫文に上がったが、2年後には一貫五百[[文 (通貨単位)#日本|文]]に戻った<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.93-94</ref>。
この事件で重要な役割を果たすことになった伊能家の古い記録の多くは、忠敬の三代前の主人である[[伊能景利]]がまとめあげたものだった<ref name="kojima91"/>。景利は佐原村や伊能家に関わることをはじめ、多くのことを丹念に記録に残しており、その量は本にして100冊以上になっていた<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.95-96</ref>。忠敬はこの事件で記録を残すことの重要性を身にしみて認識し、自らもこの事件について『佐原邑河岸一件』としてまとめた<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.94</ref><ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.27</ref>。また、先祖の景利が多くの記録をまとめ始めたのは、隠居したあとになってからのことだった。この、隠居後に大きな仕事を成し遂げるという先祖のした事は、のちの忠敬の隠居後の行動にもつながることになる<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.96</ref>。
==== 佐原村名主へ ====
河岸の一件が片づくと、忠敬は比較的安定した生活を送った。[[安永]]3年([[1774年]])、忠敬29歳のときの伊能家の収益は以下のようになっている<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.32</ref>。
*酒造 163[[両#通貨単位|両]]3[[一分金|分]]
*田徳 95両
*倉敷・店賃 30両
*舟利 23両2分
*薪木 37両3分
*[[木炭|炭]] 1両1分
*合計 351両1分
安永7年([[1778年]])には、妻・ミチと[[奥州]]旅行へ出かけた。これは忠敬にとって、妻と一緒に行った唯一の旅行となった<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.98-99</ref>。
同じ年、これまで天領だった佐原村は、[[旗本]]の津田氏の[[地方知行|知行地]]となった。忠敬は名主や村の有力者と、江戸にある津田氏の屋敷に挨拶に出向いた。そのとき、名主5人と永沢治郎右衛門は[[麻]]の[[裃]]を着用していたのに対し、忠敬は裃の着用を許されず、屋敷内で座る場所も差をつけられた<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.104</ref>。これは永沢が名字帯刀を許された身分だったためであるが、商いが順調なのに相変わらず永沢家と身分に差をつけられていることに悔しさを感じた忠敬は、永沢に対抗心を燃やすようになった<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.104-105</ref>。しかし、そのうちに忠敬の待遇も上がり、[[天明]]元年([[1781年]])、名主の藤左衛門が死去すると、代わりに忠敬が36歳で名主となった<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.106</ref>。
==== 名主としての忠敬 ====
天明3年([[1783年]])、[[天明大噴火|浅間山の噴火]]などに伴って[[天明の大飢饉]]が発生し、佐原村もこの年、[[米]]が不作となった。忠敬は他の名主らとともに[[地頭]]所に出頭し、[[年貢]]についての配慮を願い出た。その結果、この年の年貢は全額免除となり、さらに、「御救金」として100両が下された<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.107</ref>。
また、同じ年の冬になってから行われた利根川の[[堤防]]に関する国役[[普請]]では、普請掛りを命じられた。忠敬は堤防工事を指揮するとともに、工材を安く買い入れることで、工事費の節約の面でも手腕を発揮した<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.108-109</ref>。一方その頃、妻・ミチは重い病にかかり、同じ年の暮れに42歳で亡くなった<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.109</ref>。
地頭の津田氏は前述のように佐原村の年貢を免除していたが、一方で伊能家や永沢家に金の無心を度々していた。そのため、両家は地頭に対して多くの貸金を持つようになり、地頭所や村民に対し、より一層の発言力を持つようになった<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.110-111</ref>。そして忠敬は、天明3年(1783年)9月には津田氏から名字帯刀を許されるようになり、さらには天明4年([[1784年]])、名主の役を免ぜられ、新たに村方後見の役を命じられた。
村方後見は名主を監視する権限を持っており、これは永沢治郎右衛門も就いている役である。こうして忠敬は、永沢とほぼ同格の扱いを受けることができた<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.111</ref>。
==== 天明の大飢饉 ====
浅間山の噴火以降、佐原村では毎年不作が続いていた<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.112</ref>。天明5年([[1785年]])、忠敬は米の値上がりを見越して[[関西]]方面から大量の米を買い入れた。しかし米相場は翌年の春から夏にかけて下がり続け、伊能家は多額の損失を抱えた<ref name="w29">[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.29</ref><ref name="小島1978 p.116">[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.116</ref>。周囲からは、今のうちに米を売り払って、これ以上の損を防いだ方がよいと忠告されたが、忠敬は、あえて米を全く売らないことにした。
忠敬は、もしこのまま米価が下がり続けて大損したら、そのときは本宅は貸地にして、裏の畑に家を建てて10年間質素に暮らしながら借金を返していこうと思っていた<ref name="w29"/> が、その年の7月、利根川の大洪水によって佐原村の農業は大損害を受け、農民は日々の暮らしにも困るようになった<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.112-113</ref>。
忠敬は村の有力者と相談しながら、身銭を切って米や金銭を分け与えるなど、貧民救済に取り組んだ。各地区で、特に貧困で暮らすにもままならない者を調べ上げてもらい、そのような人には特に重点的に施しを与えた。また、他の村から流れ込んできた浮浪人には、一人につき一日一文を与えた。[[質屋]]にも金を融通し、村人が質入れしやすくするようにした<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.113</ref>。翌年もこうした取り組みを続け、村やその周辺の住民に米を安い金額で売り続けた。このような活動によって、佐原村からは一人の餓死者も出なかったという<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.114</ref>。
天明7年([[1787年]])5月、江戸で[[天明の打ちこわし]]が起こると、この情報を聞いた佐原の商人たちも、打ちこわし対策を考えるようになった。このとき、皆で金を出しあって地頭所の役人に来てもらい、打ちこわしを防いでもらってはどうかという意見が出された。しかし忠敬は、役人は頼りにならないと反対した。そして、役人に金を与えるならば農民に与えた方がよい、そうすれば、打ちこわしが起きたとしても、その農民たちが守ってくれると主張した。この意見が通り、佐原村は役人の力を借りずに打ちこわしを防ぐことができた<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.115</ref><ref name="chibaken344">[[#千葉県(2008)|千葉県(2008)]] p.344</ref>。
忠敬が貧民救済に積極的に取り組んだことについては、村方後見という立場からくる使命感、伊能家や永沢家が昔から貧民救済を行っていたという歴史、そして農民による打ちこわしを恐れたという危機感など、いくつかの理由が考えられている<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.80,114-115</ref><ref>[[#星埜(2010)|星埜(2010)]] p.8</ref>。また、伊能家代々の名望家意識とともに商人としての利害得失を見極めた合理的精神がこうした判断を促したと考えられている<ref name="chibaken344"/>。
佐原が危機を脱したところで、忠敬は持っていた残りの米を江戸で売り払い、これによって多額の利益を得ることができた<ref name="小島1978 p.116"/>。
==== 隠居 ====
妻・ミチが死去してから間もなく、忠敬は[[内縁]]で2人目の妻を迎えた。この妻については詳しいことは分かっておらず、名前も定かではない<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.117</ref>。天明6年([[1786年]])に次男・秀蔵、天明8年([[1788年]])に三男・順次、寛政元年([[1789年]])に三女・コト(琴)が生まれ、妻は[[寛政]]2年([[1790年]])に26歳で死去した<ref name="w297">[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.297</ref>。一方、最初の妻・ミチとの間に生まれた次女・シノも、天明8年に19歳で死去した<ref name="w297"/>。寛政2年、忠敬は[[仙台藩]]医である桑原隆朝の娘・ノブを新たな妻として迎え入れた<ref name="kojima121">[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.121</ref>。
このころ、長女のイネは既に結婚して江戸に移っており、長男・景敬は成年を迎えていた<ref>[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.23</ref>。忠敬は、景敬に[[家督]]を譲り、自分は[[隠居]]して新たな人生を歩みたいと思うようになっていった<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.118-119</ref>。そして寛政2年、地頭所に隠居を願い出た。しかし地頭の津田氏はこの願いを受け入れなかった。これは、当時の津田氏は代替わりしたばかりのころだったため、まだ村方後見として忠敬の力を必要としていたからである<ref name="kojima121"/>。
地頭所には断られたが、忠敬の隠居への思いはなお強かった。このとき忠敬が興味を持っていたのは、[[暦学]]であった。忠敬は江戸や京都から暦学の本を取り寄せて勉強したり、[[天体観測]]を行ったりして日々を過ごし、店の仕事は実質的に景敬に任せるようにした<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.119-125</ref>。寛政3年([[1791年]])には、次のような家訓をしたためて景敬に渡した<ref name="kojima121"/>。
{{Quotation|
*第一 仮にも偽をせす孝弟忠信にして正直たるへし
*第二 身の上の人ハ<!--「ハ」がカタカナなのは、忠敬の原文の通りです-->勿論身下の人にても教訓異見あらは急度相用堅く守るへし
*第三 篤敬謙譲とて言語進退を寛容に諸事謙り敬み少も人と争論など成べからず }}
寛政4年([[1792年]])、忠敬は、これまで地頭所に金銭を用立てすることによって財政的に貢献したという理由で、地頭所から三人扶持を与えられた。ただしこれは、忠敬にまだ隠居してほしくないという地頭所の思惑も含まれていたと考えられている<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.125</ref>。
翌寛政5年([[1793年]])には、[[久保木清淵]]らとともに、3か月にわたって関西方面への旅に出かけた。忠敬はこの旅についての旅行記を残している。そしてそこには、各地で測った方位角や、天体観測で求めた[[緯度]]などが記されており、測量への関心がうかがえる<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.126</ref>。また、久保木も『西遊日記』と呼ばれる旅行記を残している<ref name="chibaken930">[[#千葉県(2008)|千葉県(2008)]] p.930</ref>。
寛政6年([[1794年]])、忠敬は再び隠居の願いを出し、地頭所は12月にようやくこれを受け入れた。忠敬は家督を長男の景敬に譲り、通称を勘解由(伊能家が代々使っていた隠居名)と改め、江戸で暦学の勉強をするための準備に取り掛かった<ref name="kojima127">[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.127</ref>。その最中の寛政7年([[1795年]])、妻・ノブは難産が原因で亡くなった<ref name="kojima127"/>。
なお、寛政6年に佐原の橋本町(現・本橋元町)の惣代より村役人および村方後見である伊能三郎右衛門宛てに町内への[[便所]]の設置を求める願書が出されており、ここに登場する三郎右衛門は忠敬から家督を譲られた景敬であるとされている。ちなみに、現在の本橋元町にある[[公衆便所]]がこのとき設置された便所の後身に当たるという<ref name="chibaken341">[[#千葉県(2008)|千葉県(2008)]] p.341-342</ref>。
==== 忠敬と佐原 ====
[[File:Ino Tadataka monument (Ono-gawa, Sawara).jpg|thumb|小野川沿いにある記念碑]]
忠敬が隠居する前年の寛政5年(1793年)、伊能家の商売の利益は以下のようになっていた<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.31-33</ref>。
*酒造 370両3分
*田徳・店貸 142両1分
*倉敷 30両
*運送 39両3分
*利潤高 450両1分
*米利 231両1分
*合計 1264両2分
安永3年(1774年)の目録と比較すると、忠敬は伊能家を再興し、かなりの財産を築いていた<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.33</ref>。このときの伊能家の資産については正確な数字は明らかでないが、寛政12年に村人が「3万両ぐらいだろう」と答えた記録が残っている<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.33-34</ref>。この資産は30億 - 35億円程に相当する。
ただし、伊能家の状況は必ずしも順風満帆ではなかったとする説もある。伊能家(三郎右衛門家)が得意としてきた酒造業の実績を示す酒造高は天明の大飢饉後の天明8年(1788年)には1480[[石 (単位)|石]]を誇っていたが、享和3年(1803年)には600石に減少しており、忠敬没後の[[天保]]10年([[1839年]])には株仲間の記録に伊能家の名前は存在していない、すなわち廃業状態にあったことを示している<ref name="chibaken330図表">[[#千葉県(2008)|千葉県(2008)]] p.330図表</ref>。これは伊能家だけではなく、競合する永沢家も含めて天明期の仲間35家のうち22家が天保期に姿を消し、代わりに天明期に存在が確認できなかった14家の新興酒造家が名前を連ねている状況<ref name="chibaken332図表">[[#千葉県(2008)|千葉県(2008)]] p.332図表</ref> から、江戸幕府の度重なる[[酒株]]政策の変更に伊能家を含めた旧来の酒造家が対応しきれなかったことが背景にあるとみられている。また、貨幣経済の浸透は旗本などの中小領主たちに[[先納金]]・[[御用金]]・領主貸などの手段による貨幣の確保に向かわせることになった。先納金は[[年貢米]]を貨幣で前借することであるが、実際には貨幣による年貢徴収の口実とされて結果的には年貢米の輸送減少をもたらし、御用金や領主貸は伊能家のような地方商人への負担となった。また、農村の疲弊は伊能家から村単位への貸付の増加になって現れており<ref name="chibaken335図表">[[#千葉県(2008)|千葉県(2008)]] p.335図表</ref>、その中にはこれらの村が御用金や先納金を納めるための貸付もあったとみられている。さらに伊能家の土地所持高を見ると、享保5年(1720年)には52石7斗あまりだったのが、忠敬の相続後である明和3年(1766年)には84石1[[斗]]あまり、隠居後の享和2年(1802年)には145石1斗あまりと、忠敬当主時代に急激に増加しているのである<ref name="chibaken325図表">[[#千葉県(2008)|千葉県(2008)]] p.325図表</ref>。これは金融業における質流れの増加とともに忠敬が酒造や輸送業に限界を感じ、土地の集積へと軸足を移そうとしていたことの表れとされる。実際に隠居後の忠敬が佐原に送った書状には「店賃と田の収益ばかりになっても仕方がない」「もし、古酒の勘定もよくなく、未回収金が過分になったら酒造も見合わせてやめるように」などと記しており、特に後継者であった景敬が没した文化9年(1812年)以降には、酒造業や運送業、領主貸を縮小する意向を示している。しかし、地主としての土地経営も小作人となった農民との衝突を招くなど困難な状況が続いており、忠敬隠居後の文化年間に入ると土地集積の対象を山林にも広げている<ref name="chibaken325">[[#千葉県(2008)|千葉県(2008)]] p.325-336</ref>。
佐原の町は昔から大雨が降ると利根川堤防が決壊し、大きな被害を受けていた。いったん洪水が起きてしまうと田畑の形が変わってしまうため、[[測量]]して境界線を引き直さなければならない。忠敬は江戸に出る前から測量や地図作成の技術をある程度身につけていたが、それはこうした地で名主などの重要な役に就いていたという経験によるところが大きい<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.100-101</ref>。
さらに、前述したように、祖先の伊能景利は隠居してから膨大な記録をまとめるという仕事に取り組み、また、忠敬の家から川を挟んで向かい側に住んでいた[[楫取魚彦]]も、隠居後に江戸へ出て[[国学]]者や[[歌人]]として活動した。忠敬もこの2人の生き方から大きな影響を受けたと考えられている<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.74-75</ref>。
== 後半生 ==
=== 高橋至時に師事 ===
[[File:Ino Tadataka dwelling site.JPG|thumb|伊能忠敬住居跡。]]
==== 弟子入り ====
寛政7年([[1795年]])、50歳の忠敬は江戸へ行き、深川黒江町に家を構えた<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.128</ref>。
ちょうどその頃、江戸ではそれまで使われていた暦を改める動きが起こっていた。当時の日本は宝暦4年([[1754年]])に作られた[[宝暦暦]]が使われていたが、この暦は[[日食]]や[[月食]]の予報を度々外していたため、評判が悪かった<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.41</ref><ref name="kojima120">[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.120</ref>。そこで[[江戸幕府]]は[[松平信明 (三河吉田藩主)|松平信明]]、[[堀田正敦]]を中心として、[[改暦]]に取り組んだ<ref name="w47">[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.47</ref>。しかし幕府の[[天文方]]には改暦作業を行えるような優れた人材がいなかったため、民間で特に高い評価を受けていた[[麻田剛立]]一門の[[高橋至時]]と[[間重富]]に任務にあたらせることにした<ref name="kojima120"/><ref name="w47"/>。至時は寛政7年(1795年)4月、重富は同年6月に出府した<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.51</ref>。
忠敬が江戸に出たのは同年の5月のため、2人の出府と時期が重なる。改暦の動きは秘密裏に行われていたが、この時期の符合から、忠敬は事前に2人が江戸に来ることを知っていたとも考えられている。その情報元として、渡辺一郎は、忠敬の3人目の妻・ノブの父親である桑原隆朝を挙げている。桑原は改暦を推し進めていた堀田正敦と強いつながりがあった。そのため桑原は、堀田から聞いた改暦の話を忠敬に伝えていたのではないかという説がある<ref name="w54">[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.54</ref>。
同年、忠敬は高橋至時の弟子となった。50歳の忠敬に対し、師匠の至時は31歳だった。弟子入りしたきっかけについては、昔の中国の暦『[[授時暦]]』が実際の天文現象と合わないことに気づいた忠敬がその理由を江戸の学者たちに質問したが誰も答えられず、唯一回答できたのが至時だったからだという話が伝えられている<ref>[[#伊藤(2000)|伊藤(2000)]] p.59</ref>。そして至時に必死に懇願して入門を認めさせたとのことであるが、至時が多忙な改暦作業のなかで入門を許した理由についても、渡辺は、桑原と堀田正敦の影響を指摘している<ref name="w54"/>。一方で今野武雄は、麻田剛立の弟子で[[大名貸]]の升屋小右衛門とのつながりを推測している<ref name="今野2002 p.20"/>。
==== 暦学への取り組み ====
弟子入りした忠敬は、19歳年下の師・至時に師弟の礼をとり、熱心に勉学に励んだ<ref name="w54"/>。忠敬は寝る間を惜しみ[[天体観測]]や測量の勉強をしていたため、「推歩先生」(推歩とは暦学のこと)というあだ名で呼ばれていた。
至時は弟子に対しては、まずは古くからの暦法『授時暦』で基礎を学ばせ、次に[[ティコ・ブラーエ]]などの西洋の天文学を取り入れている『暦象考成上下編』、さらに続けて、[[ヨハネス・ケプラー|ケプラー]]の理論を取り入れた『暦象考成後編』と、順を追って学ばせることにしていた。しかし忠敬は、既に『授時暦』についてはある程度の知識があったため、『授時暦』と『暦象考成上下編』は短期間で理解できるようになった<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.57</ref><ref name="kojima134">[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.134</ref>。
寛政8年([[1796年]])9月からおよそ1年半の間、至時は改暦作業のため京都に行くことになり、その間は間重富が指導についた。同年11月に重富から至時に宛てた手紙の中では、「伊能も後編の推歩がそろそろ出来候。月食も出来候」と記されており、既に『暦象考成後編』を学んでいた<ref>[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.38</ref>。
==== 天体観測 ====
忠敬は天体観測についても教えを受けた。観測技術や観測のための器具については重富が精通していたため、忠敬は重富を通じて観測機器を購入した。さらには、江戸職人の大野弥五郎・弥三郎親子にも協力してもらい<ref name="kojima134"/>、こうしてそろえた器具で自宅に天文台を作り観測を行った<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.58</ref>。取り揃えた観測機器は[[象限儀]]、[[圭表儀]]、[[垂揺球儀]]、[[子午儀]]などで、質量ともに幕府の[[天文台]]にも見劣りしなかった<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.61</ref>。
観測はなかなか難しく、入門から4年が経った寛政10年([[1798年]])の時点でもまだ至時からの信頼は得られていなかった<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.58-59</ref><ref>[[#間・高橋(1971)|間・高橋(1971)]] p.201</ref> が、忠敬は毎日観測を続けた。太陽の南中を測るために外出していても昼には必ず家に戻るようにしており、また、星の観測も悪天候の日を除いて毎日行った<ref>[[#今野(2002)|今野(2002)]] pp.63-64</ref>。至時と暦法の話をしていても、夕方になるとそわそわし始めて、話の途中で席を立って急いで家に帰っていた。慌てるあまり、懐中物や[[脇差]]を忘れて帰ったりもした<ref name="konno64">[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.64</ref>。
忠敬が観測していたのは、太陽の南中以外には、緯度の測定、日食、月食、[[掩蔽|惑星食、星食]]などである<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.68-69</ref>。また、[[金星]]の南中([[子午線]]経過)を日本で初めて観測した記録も残っている<ref name="konno64"/><ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.64</ref>。
==== 長女の勘当と再婚 ====
長女・イネの夫・盛右衛門は伊能家の江戸店を任されていたが、忠敬は盛右衛門に、イネとの離縁を言い渡した。この理由は定かではないが、盛右衛門が商売で何らかの不祥事を起こしたためだと伝えられている<ref>[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.225</ref><ref name="w253">[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.253</ref>。
しかしイネは盛右衛門との離縁を受け入れず、夫に従った。そのため忠敬はイネを[[勘当]]した。ただし勘当した時期については、忠敬隠居後ということは分かっているが、正確には明らかになっていない<ref name="w253"/>。
一方忠敬は江戸に出てから、エイ(栄)という女性を妻に持った。至時は重富に宛てた手紙の中で、この女性のことを「才女と相見候。素読を好み、[[四書五経]]の白文を、苦もなく読候由。算術も出来申候。絵図様のもの出来申候。[[象限儀]]形の目もり抔、見事に出来申候<ref>[[#間・高橋(1971)|間・高橋(1971)]] p.221</ref>」と褒め称え、勘解由は幸せ者だと綴っている。江戸で忠敬が行った天体観測についても、一人で行える内容ではないため、妻の手助けがあったのではないかと推測されている<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.70</ref>。
エイについては、長年にわたり謎の人物とされていたが、[[1995年]]、この人物は女流[[漢詩]]人の[[大崎栄 (漢詩人)|大崎栄]](号は小窓、字は文姫)であることが明らかになった<ref>[[#中村(2008)|中村(2008)]] p.145</ref>。エイはのちの忠敬の第一次測量のときは佐原に預けられたが、その後は忠敬の元を離れて文人として生き、忠敬と同じ文政元年([[1818年]])にこの世を去っている<ref>[[#中村(2008)|中村(2008)]] p.146</ref><ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.72</ref>。
==== 子午線一度の距離測定 ====
至時と重富は、寛政9年([[1797年]])に新たな暦『[[寛政暦]]』を完成させた。しかし至時は、この暦に満足していなかった。そして、暦をより正確なものにするためには、[[地球]]の大きさや、日本各地の[[経度]]・緯度を知ることが必要だと考えていた<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.75-76</ref>。地球の大きさは、緯度1[[度 (角度)|度]]に相当する[[子午線弧]]長を測ることで計算できるが、当時日本で知られていた[[子午線]]1度の相当[[弧長]]は25[[里 (尺貫法)|里]]、30里、32里とまちまちで、どれも信用できるものではなかった<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.137</ref>。
忠敬は、自ら行った観測により、黒江町の自宅と至時のいる[[浅草]]の暦局の緯度の差は1[[分 (角度)|分]]ということを知っていた。そこで、両地点の南北の距離を正確に求めれば1度の距離を求められると思い、実際に測量を行った。そしてその内容を至時に報告すると、至時からは「両地点の緯度の差は小さすぎるから正確な値は出せない」と返答された。そして「正確な値を出すためには、江戸から[[蝦夷地]](現在の[[北海道]])ぐらいまでの距離を測ればよいのではないか」と提案された<ref group="注釈">本段落の内容については当時の複数の文献でも多少の差異がある。詳しくは[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.76-81を参照</ref>。
=== 第一次測量(蝦夷地) ===
==== 測量の許可 ====
忠敬と至時が地球の大きさについて思いを巡らせていたころ、蝦夷地では[[ロシア帝国|帝政ロシア]]の圧力が強まってきていた。寛政4年([[1792年]])にロシアの特使[[アダム・ラクスマン]]は[[根室]]に入港して通商を求め、その後もロシア人による[[択捉島]]上陸などの事件が起こった。日本側も[[最上徳内]]、[[近藤重蔵]]らによって蝦夷地の調査を行った。また、[[堀田仁助]]は蝦夷地の地図を作成した<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.87</ref>。
至時はこうした北方の緊張を踏まえたうえで、蝦夷地の正確な地図を作る計画を立て、幕府に願い出た。蝦夷地を測量することで、地図を作成するかたわら、子午線一度の距離も求めてしまおうという狙いである<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.87-88</ref>。そしてこの事業の担当として忠敬があてられた。忠敬は高齢な点が懸念されたが<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.85</ref>、測量技術や指導力、財力などの点で、この事業にはふさわしい人材であった<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.139</ref>。
至時の提案は、幕府にはすんなりとは受け入れられなかった。寛政11年([[1799年]])から寛政12年([[1800年]])にかけて、佐原の村民たちから、それまでの功績をたたえて伊能忠敬・景敬親子に幕府から直々に名字帯刀を許可していただきたいとの箱訴が出されたが、これも、忠敬が立派な人間であることを幕府に印象づけて、測量事業を早く認めさせるという狙いがあったとみられている(この箱訴は第一次測量後の享和元年([[1801年]])に認められ、忠敬はそれまでの地頭からの許可に加え、幕府からも名字帯刀を許されることとなった。ただ、忠敬は測量中は[[方位磁針]]が狂うのを防ぐため[[竹光]]を所持していたという)<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.141</ref>。
幕府は寛政12年の2月頃に、測量は認めるが、荷物は蝦夷まで船で運ぶと定めた。しかし船で移動したのでは、道中に子午線の長さを測るための測量ができない。忠敬と至時は陸路を希望し、地図を作るにあたって船上から測量したのでは距離がうまく測れず、入り江などの地形を正確に描けないなどと訴えた。その結果、希望通り陸路を通って行くこととなったが、測量器具などの荷物の数は減らされた<ref name="w88">[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.88</ref><ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.141-142</ref>。
同年閏4月14日、幕府から正式に蝦夷測量の命令が下された。ただし目的は測量ではなく「測量試み」とされた。このことから、当時の幕府は忠敬をあまり信用しておらず、結果も期待していなかったことがうかがえる<ref name="w88"/><ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.142</ref>。忠敬は「元[[百姓]]・[[浪人]]」という身分で、1日当たり[[銀]]7[[匁]]5分が手当として出された<ref name="w88"/>。
忠敬は出発直前、蝦夷地取締御用掛の[[松平忠明 (信濃守)|松平信濃守忠明]]に申請書を出した。そこでは自らの思いが次のように綴られている<ref>[[#今野(2002)|今野(2002)]] pp.85-86の現代語訳から引用、一部略</ref>。
{{Quotation|(前略)私は若い時から数術が好きで、自然と暦算をも心掛け、ついには天文も心掛けるようになりましたが、自分の村に居たのでは研究も思うようには進まないので、高橋作佐衛門様の御門弟になって六年間昼夜精を出して勉めたおかげで、現在は観測などもまちがいないようになりました。この観測についてはいろいろな道具をも取りそろえ、身分不相応の金もつかいました。隠居のなぐさみとはいいながら、私のようなものがこんな勝手なことをするのはまことに相済まないことでございます。したがって、せめては将来の御参考になるような地図でも作りたいと思いましたが、御大名様や御旗本様方の御領内や御知行所などの土地に間棹や間縄を入れて距離を測りましたり、大道具を持ち運ぶなどいたしますとき、必ず御役人衆の御咎にもあうことでありましょうし、とても私どもの身分ではできないことでございます。(中略)ありがたいことにこのたび公儀の御声掛りで蝦夷地に出発できるようになりました。ついては、蝦夷地の図と奥州から江戸までの海岸沿いの諸国の地図を作って差し上げたいと存じますので、この地図が万一にも公儀の御参考になればかさねがさねありがたいことでございます。(中略)地図はとても今年中に完成できるわけではなくおよそ三年ほど手間取ることでございましょう。(後略)}}
ここでは蝦夷地だけでなく、奥州から江戸までの[[海岸#海岸線|海岸線]]の地図作成についても述べられている。このことから、忠敬は最初から日本全国の測量が念頭にあったのではないかと考えられているが、その見解に対しては異論もある<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.83</ref>。
==== 出発 ====
忠敬一行は寛政12年([[1800年]])[[閏]]4月19日、自宅から蝦夷地へ向けて出発した。忠敬は当時55歳で、内弟子3人(息子の秀蔵を含む)、下男2人を連れての測量となった<ref>[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.95</ref>。[[富岡八幡宮]]に参拝後、浅草の暦局に立ち寄り、至時宅で酒をいただいた。千住で親戚や知人の見送りを受けてから、[[奥州街道]]を北上しながら測量を始めた<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.85-86</ref>。[[千住]]からは、測量器具を運ぶための人足3人、馬2頭も加わった。寒くなる前に蝦夷地測量を済ませたいということもあって、距離は歩測で測り、1日におよそ40kmを移動した<ref name="w86">[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.86</ref>。出発して21日目の5月10日、[[津軽半島]]最北端の[[三厩]]に到達した<ref name="w86"/>。
三厩からは船で箱館(現・[[函館市]])へと向かう予定だったが、[[やませ]]などの影響で船が出せず、ここに8日間滞在した。9日目に船は出たが、やはり風の影響で箱館には着けず、[[松前半島]]南端の[[吉岡村 (北海道)|吉岡]]に船をつけ、そこから歩いて箱館へと向かった<ref name="w89">[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.89</ref>。
箱館には手続きの関係で8泊し、その間に[[函館山|箱館山]]に登り方位の測定を行った<ref name="w89"/><ref name="kenzo114">[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.114</ref>。また下男の1人が病気を理由に暇を申し出たため、金を与えて[[本州]]側の[[三厩村|三厩]]行きの船に乗せた<ref name="kenzo114"/>。
==== 蝦夷地測量 ====
5月29日、箱館を出発し、本格的な蝦夷地測量が始まった。しかし、蝦夷地では測量器具を運ぶ馬は1頭しか使うことを許されなかったため、持ってきた大方位盤は箱館に置いてくることにした<ref name="konno101">[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.101</ref>。また、初日は間縄を使って距離を丁寧に測っていたが、あまりに時間がかかりすぎたため、2日目以降は歩測に切り替えた<ref name="konno101"/>。
一行は海岸沿いを測量しながら進み、夜は天体観測を行った。海岸沿いを通れないときは山越えをした。蝦夷地の道は険しく、歩測すらままならなかったところも多い。また、本州のような宿がなかったため、宿泊は会所や役人の仮家を利用した<ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.116</ref>。難所続きで[[草鞋]]もことごとく破れて困っているところに目に入った会所からの迎え[[提灯]]は「地獄に仏」のようだったという<ref name="kojima146">[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.146</ref>。
7月2日、忠敬らはシャマニ([[様似町]])からホロイズミ(幌泉、[[えりも町]])に向かったが、[[襟裳岬]]の先端まで行くことはできず、近くを横断して東へ向かった。その後クスリ([[釧路市]])を経て、ゼンホウジ([[釧路町|仙鳳趾]])から船でアツケシ([[厚岸町]])に渡り、アンネベツ(姉別)まで歩き、再び船を利用して、8月7日にニシベツ(西別、[[別海町]])に到達した<ref name="kojima146"/><ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.119</ref><ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.90</ref>。
一行はここから船でネモロ([[根室市]])まで行き、測量を続ける予定だった。しかしこの時期は[[鮭]]漁の最盛期で、「船も人も出すことができない」と現地の人に言われたため、そのまま引き返すことにした<ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] pp.119-120</ref>。
8月9日にニシベツを発った忠敬は、行きとほぼ同じ道を測量しながら帰路についた。9月18日に蝦夷を離れて三厩に到着し<ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.122</ref>、そこから本州を南下して、10月21日、人々が出迎えるなか、千住に到着した。第一次測量にかかった日数は180日、うち蝦夷地滞在は117日だった<ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] pp.121,123</ref>。なお、後年に忠敬が記した文書によれば、蝦夷地滞在中に[[間宮林蔵]]に会って弟子にしたとのことであるが、このときの測量日記には林蔵のことは書かれていない<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.91-92</ref>。
==== 地図作成・事後処理 ====
11月上旬から測量データをもとに地図の製作にかかり、約20日間を費やして地図を完成させた<ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.124</ref>。地図製作には妻のエイも協力した<ref>[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] pp.71-72</ref>。完成した地図は12月21日に下勘定所に提出した<ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.125</ref>。
12月29日、測量の手当として1日銀7匁5分の180日分、合計22両2分を受け取った。忠敬は測量に出かけるときに100両を持参しており、戻ってきたときは1分しか残らなかったとの記述があるため、差し引きすると70両以上を忠敬個人が負担したことになる。後世の試算<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.102-103</ref> によると、このとき忠敬が負担した金額は現在の金額に換算して1,200万円程度であった。また忠敬はこのほかに測量器具代として70両を支払っている<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.103</ref>。
忠敬の測量について、師の至時は「蝦夷地で大方位盤を使わなかったことについては残念だ」としながらも、測量自体は高く評価した。そして、間重富宛ての手紙で、「このように測ることは私が指図はいたしましたが、これほどきちんとやれるとは思いませんでした」と綴った<ref>[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.104</ref><ref>[[#間・高橋(1971)|間・高橋(1971)]] p.216</ref>。また、当初の目的であった子午線1度の距離について、忠敬は「27里余」と求めたが、これに対する至時の反応は残されていない<ref>[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.107</ref>。
=== 第二次測量(伊豆・東日本東海岸) ===
==== 計画 ====
蝦夷地測量で作成した地図に対する高い評価は[[若年寄]][[堀田正敦#伊能忠敬・高橋至時父子との交流|堀田正敦]]の知るところとなり、正敦と親しい桑原隆朝を中心に第二次測量の計画が立てられた<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.104</ref>。
寛政12年(1800年)の暮れ、忠敬は桑原から第二次測量の計画を出すように勧められた。忠敬は案を作成し、寛政13年([[1801年]])の正月に桑原と至時の添削を受けた<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.95</ref><ref name="kenzo128">[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.128</ref>。
この計画は、[[行徳]]から[[本州]]東海岸を北上して蝦夷地の[[松前郡|松前]]へと渡り、松前で船を調達して、船を住めるように改造し、食料も積み込んでから蝦夷地の西海岸を回り、さらに[[国後島|クナシリ]]から[[択捉島|エトロフ]]、[[得撫島|ウルップ]]まで行くというものであった<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.95-96</ref>。途中で船を買うことにしたのは、蝦夷地は道が悪く宿舎がないことを見越したもので、用が済んだら船は売り払う計画だった<ref name="w96">[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.96</ref>。また測量器具を運ぶため、人足1人、馬1匹、長棹1棹の持ち人足を要求した<ref name="kenzo128"/><ref name="w96"/>。
しかし桑原がこの計画を堀田正敦に内々で相談したところ、「船を買う件と長持の件は書面には書かずに口頭で述べる方がよい」との返答を得た。忠敬は、口頭で伝えたのでは計画の実現は難しく、測量は不十分なものになってしまうと反発した。しかし結局は、忠敬は桑原・至時と話し合ったうえで、船と長持の件はやはり口頭で伝えることとし、「これが認められなければ蝦夷地を諦めて本州東海岸のみを測量する」という案を出すことで納得した<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.97</ref>。
最終的に、今回は蝦夷地は測量せず、[[伊豆半島]]以東の本州東海岸を測量することに決められた。手当は前回より少し上がって1日10[[匁]]となった。また、[[道中奉行]]、[[勘定奉行]]から先触れが出るようになり、この結果、現地の村の人々の協力を得ることも可能になった<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.105</ref>。
==== 伊豆測量 ====
[[File:Ino Tadataka monument (Choshi).JPG|thumb|銚子測量記念碑]]
[[享和]]元年([[1801年]])4月2日、一行は江戸を出て[[東海道]]を西に向かった。[[品川宿|品川]]で親類・知人の見送りを受けた<ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.129</ref>。
今回の測量から、歩測ではなく間縄(けんなわ)を使って距離を測ることにした。一行は[[三浦半島]]を一周し、[[鎌倉]]では[[鶴岡八幡宮]]を参詣。さらに伊豆半島を南下して、5月13日に[[下田市|下田]]に到着した<ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.132</ref><ref name="konno122">[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.122</ref>。伊豆半島の道は断崖絶壁で測量が難しく、海が荒れるなかで船を出して縄を張って距離を求めたり、岩をよじのぼって方角を測ったりするなど苦労を重ねた<ref name="konno122"/><ref name="kenzo133">[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.133</ref>。荷物を運ぶのにも労を要したが、聞いた話によると、下田から先の伊豆半島西海岸はこれに輪をかけて大変だということで、ここまで持ってきた大方位盤は江戸に送り返すことにした<ref name="konno122"/><ref name="kenzo133"/>。
5月17日に下田を発ち、西海岸を回って5月30日に[[三島市|三島]]に到着、ここで至時によって江戸から送られてきた測量器具「量程車」を受け取った<ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.134</ref>。三島からは[[東海道]]を東進して[[箱根関|箱根の関所]]を越え、6月6日に北品川宿へ到着。いったん桑原や至時に報告した<ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.135</ref>。
==== 本州東海岸測量 ====
[[File:Ino Tadataka's monument in Kamaishi.jpg|thumb|[[伊能忠敬測量の碑・星座石]]([[岩手県]][[釜石市]])。1814年、葛西昌丕によって建てられた<ref name="Kamaishi">{{Cite web|和書|url=https://www.thr.mlit.go.jp/sanriku/10_iji/kamaishi/mametishiki/sokuryo/sokuryo.html |title=伊能忠敬 三陸測量の軌跡 |publisher=[[国土交通省]]東北地方整備局三陸国道事務所釜石維持出張所 |accessdate=2016-09-22}}</ref>。]]
6月19日、一行は再び江戸を発ち、[[房総半島]]を測量しながら一周し、7月18日に[[銚子市|銚子]]に着いた<ref name="kenzo139">[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.139</ref>。銚子には9泊し、[[富士山]]の方角などを確かめた<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.106-107</ref>。また、銚子で忠敬は病気にかかったが、すぐに回復した<ref name="kenzo139"/>。
7月29日に銚子を出発し、[[太平洋]]沿いを北上していった。しばらくはおおむね順調に測量できていたが、8月21日に到着した[[松島#塩竈市|塩釜湾]]岸は山越えができずに舟を出して引き縄で距離を測った<ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.142</ref>。さらに翌日に測量した[[松島]]や、その先の[[釜石市|釜石]]、[[宮古市|宮古]]までの間も、地形が入り組んでいるうえに断崖絶壁だったため、度々、舟の上からの測量となった<ref>[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.123</ref>。
10月1日に[[宮古湾]]を越えて北上を続け、雪に悩まされながらも10月17日に[[下北半島]]の[[尻屋]]に到着、そして半島を一周して[[奥州街道]]、[[松前街道]]を進み、11月3日、三厩に辿り着いた<ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] pp.157-159</ref>。ここからは第一次測量と同じように奥州街道を南下して、12月7日に江戸に到着した<ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.167</ref>。
==== 地図作成等 ====
忠敬は江戸に戻ったが、5月に下田から送った大方位盤はまだ届いていなかった。忠敬は下田の宿主と名主に照会をとり、荷物は翌年の2月にようやく届けられた。忠敬はこれに対して「不届きの者なり」<!--(これ、洒落なんですかね…。)-->と立腹した<ref name="kenzo133"/>。
地図は第一次測量のものと合わせて、大図・中図・小図の3種類が作られた。そのうち大図・小図は幕府に上程し、中図は堀田正敦に提出した<ref name="w107">[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.107</ref>。また、子午線一度の距離は28.2里と導き出した<ref name="w107"/><ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.169</ref>。
=== 第三次測量(東北日本海沿岸) ===
==== 測量計画 ====
忠敬らは、前回計画を立てながらも実行できなかった蝦夷地の測量をやり遂げたい気持ちがあった。しかし、忠敬の立てた測量計画が幕府に採用される見込みは相変わらず薄かった。そこで、まずは内地の測量に従事した方がよいと判断した<ref>[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] pp.86-87</ref>。
享和2年([[1802年]])6月3日、忠敬は堀田正敦からの測量命令を、至時を通して聞いた。測量地点は[[日本海]]側の[[陸奥]]・三厩から[[越前]]まで、および太平洋側の[[尾張国]]から[[駿河国]]までで、これと第一次・第二次測量を合わせて東日本の地図を完成させる計画である。また、8月に起きる日食も観測するよう指示された<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.108</ref><ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.172</ref>。
本測量では人足5人、馬3匹、長持人足4人が与えられ、手当は60両支給された。これは過去2回よりもはるかに恵まれた待遇で、費用の収支もようやく均衡するようになった<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.113</ref>。
==== 測量 ====
一行は6月11日に出発、奥州街道を進み6月21日に[[白河市|白河]]まで辿り着いた<ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.175</ref>。ここから奥州街道を離れ[[会津若松市|会津若松]]に向かい、[[山形市|山形]]、[[新庄市|新庄]]などを経て、7月23日に[[能代市|能代]]に到着した<ref name="konno143">[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.143</ref>。ここで、8月1日に起こる日食を観測するための準備を整えた。しかし当日は曇りで、太陽は日食が終わる直前にほんの少し見えただけで、観測は失敗に終わった<ref name="konno143"/><ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.185</ref>。
8月4日に能代を発ち、[[羽州街道]]を油川(現・[[青森市]])まで進んだ。途中の[[弘前市|弘前]]では宿の設備や対応が悪く、忠敬は役人に注意した<ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.187</ref>。このように第三次測量からは、忠敬が測量に協力的でない役人を叱りつけることがままあった。これは幕府の事業を請け負っているという自負が強くなってきたためだろうと考えられている<ref name="kenzo189">[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.189</ref><ref name="今野2002 p.145">[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.145</ref>。
油川からは第一次、第二次と同じ道をたどり、8月15日に三厩に到着した<ref name="kenzo189"/>。ここから算用師峠を越えて日本海側の小泊(現・[[中泊町]])に行き、そこから南下した。9月2日から6日まで二手に分かれて[[男鹿半島]]を測量し<ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] pp.192-193</ref>、9日からは[[象潟]]周辺を測量した。当時の象潟は入り江の中に幾多の島々が浮かぶ景勝地だったが、忠敬測量の2年後に起きた[[象潟地震]]によって土地が隆起し、姿を全く変えてしまった。そのため、忠敬によって実測された地震前の象潟の記録は貴重なものとなっている<ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] pp.194-195</ref>。
その後、[[越後]]に入ると、海岸沿いでも岩山が多くなり、苦労しながらの測量となった<ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.198</ref>。9月24日に[[新潟市|新潟]]、10月1日に[[柏崎市|柏崎]]、10月4日に今町(現・[[上越市]])に到着し、ここで海岸線を離れて南下した<ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] pp.200-203</ref>。そして[[追分宿|追分]](現・[[軽井沢町]])から[[中山道]]を通り、10月23日に江戸に戻った<ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] pp.206-207</ref><ref>[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.144</ref>。
==== 地図作成等 ====
江戸に帰った忠敬らは地図作成に取りかかったが、今回の測量だけでは[[東日本]]全体の地図は作れないため下図のみ作成し、享和3年([[1803年]])1月15日に幕府に提出した<ref name="今野2002 p.145"/>。
また、今回の測量結果から忠敬は再度、子午線一度の距離を計算し、28.2里という、第二次測量のときと同じ値を導き出した。しかし至時は、この値は自分の想定していた値よりも少し大きいとして、忠敬の結果を信用しなかった。忠敬はこの師匠の態度に不満を感じた。そして、「この値が信用できないというのであれば、それまで自分が行ってきた測量をすべて疑っているということではないか、ならば今後測量を続けることはできない」と言った。至時は忠敬をなだめ、何とか次の測量の手はずを整えた<ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.208</ref>。
=== 第四次測量(東海・北陸) ===
[[File:Ino-zu-76-Echigo.jpg|thumb|300px|right|『[[大日本沿海輿地全図]]』第76図 越後(越後・時水村・[[長岡市|長岡]]・潟町)([{{NDLDC|1286627}} 国立国会図書館デジタルコレクション]より)]]
==== 測量 ====
享和3年([[1803年]])2月18日、忠敬は至時を通じて堀田正敦からの辞令を受け取った。今回の測量地域は[[駿河国|駿河]]、[[遠江国|遠江]]、[[三河国|三河]]、尾張、越前、[[加賀国|加賀]]、[[能登国|能登]]、[[越中国|越中]]、越後などで、また、[[佐渡島|佐渡]]にも渡るよう指示された。人足や馬は前回と同様で、旅費としては82両2分が支給された<ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.212</ref><ref>[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.146</ref>。
2月25日に一行は出発し、東海道を[[沼津市|沼津]]まで測量した(第二次測量の再測)。沼津からは海岸沿いを通り、[[御前崎]]、[[渥美半島]]、[[知多半島]]を回って、5月6日に[[名古屋市|名古屋]]に着いた<ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] pp.214-215</ref>。名古屋からは海岸線を離れて北上し、[[大垣市|大垣]]、[[関ケ原町|関ヶ原]]を経て、5月27日に[[敦賀市|敦賀]]に到着した<ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] pp.216-217</ref>。28日から敦賀周辺を測量し、その後日本海沿いを北上していったが、5月末から6月にかけては隊員が次々と[[麻疹]]などの病気にかかり、測量は忠敬と息子の秀蔵の2人だけで行うこともあった<ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] pp.218-219</ref>。
6月22日には病人は快方に向かい、24日に一行は[[加賀国]]へと入った。しかし加賀では、地元の案内人に地名や家数などを尋ねても、回答を拒まれた。これは、[[加賀藩]]の情報が他に漏れるのを恐れたためである<ref name="w114">[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.114</ref>。そのため忠敬は藩の抵抗に遭いながらの測量となった<ref name="w114"/>。加賀を出て、7月5日からは[[能登半島]]を二手に分かれて測量した<ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] pp.221-223</ref>。
==== 糸魚川事件 ====
8月2日ごろからしばらく忠敬は病気にかかり、体調の悪い日が続いていた<ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] pp.226-227</ref>。そんななか、8月8日に訪れた[[糸魚川藩]]で、糸魚川事件と呼ばれるいざこざを起こした。
忠敬はこの日、[[姫川]][[河口]]を測ろうとして手配を依頼したところ、町役人は、姫川は大河で舟を出すのは危険だと断った。ところが翌日に忠敬らが行って確認したところ、川幅は10[[間]]程度しかなく、簡単に測ることができた<ref name="w89"/><ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.158-159</ref>。忠敬は、偽った証言で測量に差し障りを生じさせたとして、役人たちを呼び出してとがめ、藩の役人にも伝えておくようにと言った<ref name="watanabe71">[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.71</ref>。
その後、忠敬一行は直江津(現・[[上越市]])を通過して、8月25日に尼瀬(現・[[出雲崎町]])に到着、ここで船を待って8月26日に佐渡島に渡り、二手に分かれて島を一周し、9月17日に島を離れた<ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] pp.226-232</ref>。佐渡の測量によって、本州東半分の海岸線は全て測量し終えたことになる<ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.232</ref>。
翌日からは内陸部を測りながら帰路についたが、途中の[[六日町]](現・[[南魚沼市]])で、至時からの至急の御用書を2通受け取った。糸魚川での事件が江戸の藩主に伝わり、藩主から勘定所に申し入れがあったためである<ref name="watanabe71"/>。至時は1通目の公式な手紙で「忠敬の言い回しはことさら御用を申し立てるようでがさつに聞こえる、もってのほかだ」と非難した。2通目の私的な手紙では、「今後測量できなくなるかもしれないから、細かいことにこだわってはいけない」と、割合くだけた調子で注意した。忠敬はこれに対して弁明の書を出した<ref>[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] pp.71-72</ref><ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.159</ref>。
その後一行は[[三国峠 (群馬県・新潟県)|三国峠]]を越え、[[三国街道]]から[[中山道]]に入り、10月7日に帰府した<ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] pp.234-235</ref>。
帰府後、忠敬は糸魚川事件の詳細な報告書を提出した<ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.235</ref>。至時の力もあって、結果的に忠敬は幕府から咎められることはなく、測量に支障を来さずに済んだ<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.160</ref>。
==== 至時の死 ====
忠敬が帰府したとき、至時は西洋の天文書『[[ラランデ暦書]]』の解読に努めていた<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.174</ref>。この本には緯度1[[度 (角度)|度]]に相当する[[子午線弧]]長が記載されており、計算したところ、忠敬が測量した28.2里に非常に近い値になることが分かった。これを知った忠敬と至時は大いに喜び合った<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.156</ref>。
しかし、翌文化元年([[1804年]])正月5日、至時は死去した。至時の死後、忠敬は毎朝、至時の墓のある源空寺の方角に向かって手を合わせたという<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.177</ref>。幕府は至時の跡継ぎとして、息子の[[高橋景保]]を天文方に登用した<ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.240</ref>。
==== 日本東半部沿海地図 ====
忠敬らは第一次から第四次までの測量結果から東日本の地図を作る作業に取り組み、文化元年(1804年)、大図69枚、中図3枚、小図1枚からなる『日本東半部沿海地図』としてまとめあげた。この地図は同年9月6日、[[江戸城]]大広間でつなぎ合わされ、十一代将軍[[徳川家斉]]の上覧を受けた<ref>[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.16</ref>。ただし忠敬は身分の違いにより、この場には出席していない<ref name="watanabe17">[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.17</ref>。
初めて忠敬の地図を見た家斉は、その見事な出来栄えを賞賛したのではないかといわれている<ref name="watanabe17"/><ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.243</ref>。9月10日、忠敬は堀田正敦から小普請組で10人扶持を与えるという通知を受け取った<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.117</ref>。
またこの年、[[漢学]]者として佐原にて門人の教育にあたっていた久保木清淵が[[後漢]]の[[鄭玄]]の『[[孝経]]』註釈を復元した『補訂鄭註孝経』を刊行し、忠敬は同書の序文を執筆している<ref name="chibaken930"/>。
=== 第五次測量(近畿・中国) ===
==== 西国測量計画 ====
至時は元々、忠敬には東日本の測量を任せ、[[西日本]]は間重富に担当させる予定でいた<ref>[[#上原(1977)|上原(1977)]] p.224</ref>。しかし至時の死後に天文方となった景保は当時19歳と若く、重富が景保の補佐役にあたらなければならなくなったため、西日本の測量も忠敬が受け持つことになった<ref>[[#上原(1977)|上原(1977)]] p.239</ref>。
西日本の測量は幕府直轄事業となった。そのため、測量隊員には幕府の[[天文方]]も加わり人数が増えた。また、測量先での藩の受け入れ態勢が強化され、それまで以上の協力が得られるようになった<ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.249</ref><ref name="w119">[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.119</ref>。
当初の測量の予定は、本州の西側と[[四国]]、[[九州]]、さらには[[対馬]]、[[壱岐]]などの離島も含めて、33か月かけて一気に測量してしまおうという大計画だった。しかし実際は、西日本の海岸線が予想以上に複雑だったこともあって、4回に分けて、期間も11年を要することになる<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.118,120,121</ref>。
==== 測量 ====
[[File:Takanawa Okido 20130629.JPG|thumb|高輪大木戸跡]]
文化2年([[1805年]])2月25日、忠敬らは江戸を発ち、[[高輪大木戸跡|高輪大木戸]]から測量を開始した。隊員は16人、隊長の忠敬は60歳になっていた<ref name="w119"/>。
東海道を測量しながら進み、3月16日に[[浜松市|浜松]]に到着、[[浜名湖]]周辺を測った<ref>[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.84</ref><ref>[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.167</ref>。さらに[[伊勢路]]に入ると二手に分かれて、沿岸と街道筋の測量を行った<ref>[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.86</ref>。
4月22日、[[伊勢国]]の山田(現・[[伊勢市]])に到着し、この日の夜、経度を測定するため[[木星]]の[[衛星]]食を観測した。木星衛星食の観測は5月6日から8日にかけて、鳥羽でも行った<ref>[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.89</ref>。
6月17日からは[[紀伊半島]]の[[尾鷲市|尾鷲]]付近を測量したが、地形が入り組んでいたため作業は難航した<ref>[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.93</ref>。さらに測量隊から病人も相次いだ<ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.255</ref>。
その後、紀伊半島を一周し、8月18日に[[大阪市|大坂]]に着いた<ref name="kenzo256">[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.256</ref>。大坂では12泊し、間重富の家族とも接触した<ref name="kenzo256"/>。また、測量隊のうち市野金助ら3人は病気を理由に帰府した。ただし幕府下役である市野の離脱については、忠敬の内弟子、あるいは忠敬本人の測量方針と見解の相違があったためではないかとも言われている<ref>[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] pp.96-98</ref>。
閏8月5日、一行は[[京都市|京都]]に入った。これまでの測量で予想以上に日数を費やしてしまっていたため、3年で西日本を測量するという計画は成し遂げられそうになかった。忠敬は江戸の景保に手紙を出し、計画の変更と隊員の増員を願い出た<ref>[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.105</ref>。江戸とは何度か書状のやり取りをしながら37日間かけて[[琵琶湖]]を測量した<ref name="渡部2001 p.258">[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.258</ref>。
結局測量計画は変更され、中国地方沿岸部を終えたらいったん帰府することになった<ref>[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.106</ref>。また人数も2名増員された<ref name="渡部2001 p.258"/> が、瀬戸内海の海岸線は複雑で、[[家島諸島]]の測量にも日数を要したため、さらに2名の増員を要請した<ref>[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] pp.106-107</ref>。一行は[[岡山市|岡山]]で越年することになった。
文化3年([[1806年]])1月18日、岡山を出発し、瀬戸内海沿岸および[[瀬戸内海]]の島々を測量した。測量にあたっては地元の協力も得た。瀬戸内海の島々を多くの舟と多くの人数で測量している様子を描いた絵巻『浦島測量之図』が残されている<ref>[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] pp.127-133</ref>。1月28日に[[福山市|福山]]、2月5日に[[尾道市|尾道]]、3月29日に[[広島市|広島]]に到着した<ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] pp.260-262</ref>。
4月30日、秋穂浦(現・[[山口市]])まで測量を進めた忠敬は、ここで[[おこり]]の症状を訴え、以後、医師の診療を受けながら別行動で移動することになった<ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.264</ref>。一行は[[下関市|下関]]を経て6月18日に[[松江市|松江]]に着き、ここで忠敬は留まって治療に専念した。その間に隊員は三保関(現・松江市[[美保関町]])から[[隠岐諸島|隠岐]]へ渡り、測量を終えてから三保関に戻り、8月4日に松江で忠敬と合流した<ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.265</ref><ref name="watanabe142">[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.142</ref>。
忠敬の病状は回復し、松江から再び[[山陰]]海岸を測り始めた<ref name="watanabe142"/>。しかし病気の間に隊員の統率は乱れ、隊員は禁止されている酒を飲んだり、地元の人に横柄な態度をとったりしていた。これは幕府の耳にも入っていたため、10月、景保から戒告状が届けられた<ref name="konno178">[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.178</ref>。
その後、一行は[[若狭湾]]を測量し、[[大津市|大津]]、[[桑名市|桑名]]を経て11月3日に[[宮宿|熱田]](現・愛知県名古屋市[[熱田区]])に着いた。熱田からは測量は行わず東海道を江戸へ向かい、11月15日に品川に到着した<ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.267</ref>。
==== 測量後 ====
測量後、忠敬は景保と相談し、隊規を乱した測量隊の平山郡蔵、小坂寛平の2名を破門にし、3名を謹慎処分にした<ref name="konno178"/><ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.270</ref>。
また、弟子とともに地図の作製や天体観測を行い、今回の地図は文化4年12月に完成した<ref>[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.127</ref>。
今回の測量の経験から、忠敬は「長期に及ぶ測量は隊員の規律を守る点で好ましくない」と感じた。そこで次回の測量は四国のみにとどめることにした<ref name="konno178"/>。
=== 第六次測量(四国) ===
文化5年([[1808年]])1月25日、忠敬らは四国測量のため江戸を出発した<ref>[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.146</ref>。江戸から浜松までは測量せずに移動し、浜松から[[御油宿|御油]](現・愛知県[[豊川市]])までは[[本坂通|気賀街道]]を通って測量した<ref name="watanabe147">[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.147</ref>。御油から先はまたほとんど測量を行わず、2月24日に[[大阪|大坂]]に着いた<ref name="watanabe147"/>。
3月3日、[[淡路島]]の岩屋(現・[[兵庫県]][[淡路市]])に着き、ここから島の東岸を[[鳴門市|鳴門]]まで測り3月21日に[[徳島市|徳島]]に渡った<ref name="watanabe147"/><ref name="watanabe1999-130">[[#渡辺(1999)|渡辺(1999)]] p.130</ref>。そして四国を南下し、4月21日に[[室戸岬]]に着き、4月28日、赤岡(現・[[高知県]][[香南市]])で隊を分け、坂部貞兵衛らに、[[伊予国]](現在の[[愛媛県]])と[[土佐国]](現在の高知県)の国境まで縦断測量を行わせた<ref name="watanabe147"/>。4月29日に[[高知市|高知]]に着いた。
その後も海岸線を測量し、8月11日に[[松山市|松山]]に着いた。ここからも引き続き海岸線を測りつつ、加えて瀬戸内海の島々も測量し、さらに川之江(現・愛媛県[[四国中央市]])からは再び坂部に四国縦断測量を行わせた<ref name="watanabe1999-130"/>。このように海岸線だけでなく内陸部も測らせたのは、測量の信頼性を高めるためである<ref>[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.166</ref>。10月1日、[[塩飽諸島]]で日食を観測し、[[高松市|高松]]を経て、鳴門から淡路島に渡り島の西岸を測量、11月21日に大坂へ戻った<ref>[[#渡辺(1999)|渡辺(1999)]] pp.130-131</ref>。
大坂で、病気の伊能秀蔵を江戸に帰し、ここから[[法隆寺]]、[[唐招提寺]]、[[薬師寺]]、[[東大寺]]、[[長谷寺]]といった社寺を回りながら[[奈良]]・[[吉野]]の[[大和路]]を測った<ref>[[#渡辺(1999)|渡辺(1999)]] pp.131,142-144</ref>。その後、[[伊勢国|伊勢]](現在の[[三重県]])を経由して帰路につき、文化6年([[1809年]])1月18日に江戸に戻った<ref name="watanabe147"/>。
今回の測量では秀蔵が途中で離脱し、また忠敬自身も病気に罹ったが、それ以外は大きな問題はなく、隊員の統率もとれた。測量作業においては藩の協力も多く得られ、測量のために新たに道を作ったところもあった<ref>[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] pp.129-131</ref>。
=== 第七次測量(九州第一次) ===
==== 測量 ====
第七次測量は文化6年(1809年)8月27日に開始した。今回は中山道経由で移動することとなり、測量は[[王子 (東京都北区)|王子]](現・[[北区 (東京都)|東京都北区]])から行なった。[[日光御成街道|御成街道]]や[[岩淵街|岩淵]]の渡し([[荒川 (関東)|荒川]])などを利用して[[岩槻区|岩槻]]まで行き、岩槻から[[熊谷市|熊谷]]へ向かい中山道に入った<ref name="watanabe172">[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.172</ref>。中山道を武佐(現・[[近江八幡市]])まで測り、そこから、東海道へ向かう[[御代参街道]]を土山(現・滋賀県[[甲賀市]])まで測った<ref name="watanabe1999-146">[[#渡辺(1999)|渡辺(1999)]] p.146</ref>。土山から[[淀]]、[[西宮市|西宮]]を経て[[山陽道]]を行き、11月には[[備後国]][[神辺町|神辺]](現・広島県[[福山市]])にて[[儒学者]]として有名な[[菅茶山]]と面会し、その際に忠敬は自身が序文を書いた久保木清淵の『補訂鄭註孝経』を茶山に贈呈している<ref name="chibaken931">[[#千葉県(2008)|千葉県(2008)]] p.931</ref>。その後、[[豊前国|豊前]]小倉(現・福岡県[[北九州市]])で越年し、ここから九州測量を始めた<ref name="watanabe172"/>。
小倉から海岸線を南下し、2月12日に[[大分市|大分]]、28日に鳩浦(現・[[津久見市]])に入った。鳩浦では3月1日に起こる日食を観測したが、天候が悪く失敗した<ref name="watanabe173">[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.173</ref>。
4月6日に[[延岡市|延岡]]、27日に[[飫肥]](現・[[日南市]])に到着。ここで支隊を出して[[都城市|都城]]方面の街道測量にあたらせた。本隊はそのまま南下して[[大隅半島]]をぐるりと回り、再び都城方面に支隊を出して測線をつないだのち、6月23日に[[鹿児島市|鹿児島]]に着いた<ref name="watanabe1999-146"/>。
鹿児島で[[桜島]]の測量や[[木星]]の観測を行ってから、一行は[[薩摩半島]]を南下し、7月8日に山川湊に着いた<ref name="watanabe1999-146"/>。ここから舟に乗り[[種子島]]、[[屋久島]]の測量を行う予定であったが、天候が悪かったため後回しにして、そのまま薩摩半島の海岸線を測量し、8月1日、串木野(現・鹿児島県[[いちき串木野市]])付近から[[甑島]]に渡って測量。8月19日に串木野に戻ったあと、本隊はそのまま海岸線を北上、支隊は鹿児島から街道筋を通って[[肥後国]](現在の[[熊本県]])へと向かわせた<ref name="watanabe1999-147">[[#渡辺(1999)|渡辺(1999)]] p.147</ref>。
両隊はその後合流して[[天草諸島]]を測った。しかし甑島や天草の測量には手間がかかり、病人も出たので、今回は[[種子島]]、[[屋久島]]の測量は諦め、いったん江戸に帰ることにした<ref>[[#渡辺(1999)|渡辺(1999)]] pp.161</ref>。忠敬らは天草周辺の街道を測ったあと、九州を横断して[[大分市|大分]]で越年した<ref name="watanabe173"/><ref name="watanabe1999-147"/>。
翌文化8年([[1811年]])、大分を出発して本州に渡り、中国地方の内陸部などを測量しながら帰路についた。そして5月8日、江戸に到着した<ref name="watanabe173"/>。
==== 種子島・屋久島測量に関して ====
今回の測量では天候の関係などで種子島、屋久島に渡ることができなかった。薩摩の役人は忠敬に対し、「波が荒いので、両島に渡る時期は3 - 4月頃にして、6 - 7月頃に帰るようにしないといけない」という趣旨の説明をしている<ref name="watanabe205">[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.205</ref>。元々、忠敬と景保は両島への渡航は難しいということを知っており無理して渡らなくてもいいと申し合わせていたので、断念する結果となった<ref name="watanabe205"/>。
しかし結果的には幕府の方針で、次回の九州測量の計画に両島への渡航は組み込まれた。両島を測ろうとした理由は定かではないが、忠敬に全国の測量をさせるとともに、当時閉鎖的だった[[薩摩藩]]の偵察の意味合いも重きにおいていたのではないかと推測されている<ref>[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.206</ref>。なお忠敬は両島の測量が決まったとき、薩摩藩の担当者に対して[[硫黄島 (鹿児島県)|硫黄島]]などの測量も希望したが、これは実現していない<ref>[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.215</ref>。
==== 再会 ====
文化7年(1810年)、かつて忠敬が勘当した娘・イネが、佐原の家に戻ってきた。イネは夫・盛右衛門の死没後に剃髪し、名を妙薫と改めていた。忠敬や親類に詫びを入れた妙薫は、以後は景敬の妻・りてとともに伊能家を支え、旅先の忠敬ともたくさんの手紙をやり取りし、老年の父を気遣った<ref>[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.226</ref><ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.254</ref>。
また、忠敬は江戸で九州測量の地図を作成している際、[[間宮林蔵]]の訪問を受けた。忠敬は林蔵に1週間かけて測量技術を教えた<ref>[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.181</ref>。のちに林蔵は、忠敬が測り残した蝦夷地北西部の測量を行うことになる。
=== 第八次測量(九州第二次) ===
==== 種子島・屋久島・九州北部測量 ====
文化8年11月25日、忠敬らは、前回の九州測量で測れなかった種子島、屋久島、九州北部などの地域を測量するため、江戸を出発した<ref name="watanabe1999-168">[[#渡辺(1999)|渡辺(1999)]] p.168</ref>。高齢の忠敬は、出発にあたって息子の景敬宛てに今後の家政や事業についての教訓や、自分の隠居資金の分配について記した書状を残しており、万一の事態も覚悟しての旅立ちだった<ref name="watanabe1999-168"/>。
一行は、本州については一部地域を除いて測量せずに東海道、山陽道を進み、文化9年([[1812年]])1月25日に小倉に着いた<ref name="watanabe203">[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.203</ref>。小倉からは手分けして北九州の内陸部を測量しながら南下し、鹿児島に到着した。鹿児島から山川(現・鹿児島県[[指宿市]])を経て海を渡り、3月27日に屋久島に着いた<ref name="watanabe203"/>。
屋久島では二手に分かれ、忠敬は北半分を測量し、南半分は坂部が担当した<ref>[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.209</ref>。13日間かけて測量し、その後11日風待ちをして、4月26日に種子島に渡った<ref>[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.210</ref>。5月9日まで測量し、風待ち後、5月23日に山川に戻った<ref>[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] pp.212-213</ref>。その後、九州内陸部を手分けして測量しながら北上し、小倉に戻った。小倉から九州北部の海岸線を通って[[福岡市|博多]]に出て、[[佐賀市|佐賀]]、[[久留米市|久留米]]を経由して、[[島原半島]]を一周し、[[大村湾]]を測り、[[佐世保市|佐世保]]で越年した<ref name="watanabe203"/>。
文化10年([[1813年]])、佐世保近くの[[相浦]](相神浦)で新年を迎えた忠敬は、
{{Quote|七十に近き春にぞあひの浦九十九島をいきの松原}}
と詠んだ<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.187</ref>。そして[[九十九島 (西海国立公園)|九十九島]]と呼ばれる島々と複雑な海岸線を測りながら[[平戸市|平戸]]へ向かい、[[平戸島]]などの島を測量してから、3月13日に[[壱岐島]]に渡り、15日間かけて壱岐を測量した<ref name="watanabe203"/>。
壱岐の次は[[対馬]]に渡る予定だったが、[[対馬藩]]士の中村郷左衛門は忠敬に対し、「実測を取りやめてもらえないか」と申し出た<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.184</ref>。対馬には既に[[元禄]]13年([[1700年]])に作られた精密な地図『元禄対馬国絵図』があり、実測はやめにして、[[朝鮮通信使]]の礼で駆り出された農民たちを休ませたいという理由である<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.190</ref>。実際、『元禄対馬国絵図』は精度が極めて高い優れた地図で<ref>[[#後藤・全・長野(1996)|後藤・全・長野(1996)]] pp.375-380</ref>、忠敬も高く評価した<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.187,190</ref>。しかし対馬の正確な位置を決めるには天体観測を行う必要があるため、測量作業は実施された<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.190-191</ref>。
対馬は53日間かけて測量した。また、[[交会法]]を使って[[朝鮮半島]]の山々の位置も測った<ref>[[#星埜(2010)|星埜(2010)]] p.42</ref>。忠敬は測量中、中村郷左衛門に対して「高橋家の息子(景保)も成長したし、間宮林蔵や副隊長の坂部貞兵衛もいることだから、私はこの御用を終えたら元の隠居に戻りたい」と、自らの思いを話している<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.194</ref>。5月21日に対馬の測量を終え、いったん平戸に戻ってから、5月23日に[[五島列島]]の[[宇久島]]に渡った<ref>[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] pp.203,220</ref>。
==== 坂部と景敬の死 ====
五島列島では、忠敬率いる忠敬隊と、副隊長の坂部貞兵衛率いる坂部隊に分かれ、北から南に向かって測っていった<ref name="watanabe220">[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.220</ref>。
しかし6月24日頃から坂部の体調は思わしくなく、6月26日、[[日島|日ノ島]]にいた坂部は忠敬に宛てて、体調がよくないので[[福江島]]に渡って服薬したいと手紙をつづった<ref name="watanabe220"/>。27日、坂部は福江で治療に専念したが、治療は実らず、7月15日に死亡した<ref>[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.221</ref>。
忠敬は16日に両隊を呼び寄せ、葬儀を行った。忠敬は坂部の死について、鳥が翼を取られたようだと述べ、長い間落胆を隠せなかった。1か月後に九州に戻ったとき、ようやく失敗した隊員を叱るようになったのでよかった、といった内容の手紙を内弟子が書き残している<ref>[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.222</ref>。
さらに、坂部の死に先立つ6月7日、佐原にいた忠敬の長男の伊能景敬も死去していた。忠敬の娘・妙薫は、忠敬に心配をかけまいとこのことを伏せ、8月12日に出した手紙にも、景敬は大病に罹っているとだけ書いた。これを読んだ忠敬は、景敬がよくなればよいが難しいだろうとして、そのうえで、景敬が大病でも、孫の三治郎と銕之助がいるから安心だと妙薫に送り返した。忠敬はこのときすでに景敬の死を察知していたと推定されている<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.178-179</ref>。
==== 帰路 ====
九州本土に戻った忠敬一行は、8月15日に[[長崎市|長崎]]に着き、[[長崎半島]]を一周してから小倉へ行き、本州に渡った<ref name="watanabe205"/>。そして中国地方の内陸部を測量しながら東に向かい、[[広島市|広島]]、[[松江市|松江]]、[[鳥取市|鳥取]]、[[津山市|津山]]、岡山を経由して、[[姫路市|姫路]]で越年した<ref name="watanabe205"/>。
翌文化11年([[1814年]])、引き続き内陸部を測量しながら進み、京都を経由し、3月20日[[四日市市|四日市]]に着いた。ここから北上し、[[岐阜市|岐阜]]、[[大垣市|大垣]]、[[高山市|髙山]]を通過し、[[古川町|古川]]から反転して[[野麦峠]]を越えた。さらに[[松本市|松本]]に出て[[善光寺]]に参詣し、反転して[[飯田市|飯田]]まで南下したところで再び北上し、[[中山道]]を江戸に向かった。5月22日、[[板橋宿]]に到着した<ref name="watanabe205"/>。
=== 第九次測量(伊豆諸島) ===
忠敬がこれまで住んでいた[[深川 (江東区)|深川]]黒江町の家は、地図の作成作業には手狭となっていた。そこで忠敬は文化11年(1814年)5月、かつて桑原隆朝が住んでいた[[八丁堀 (東京都中央区)|八丁堀]]亀島町の屋敷を改修し、6月からここに住むことにした<ref name="konno185">[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.185</ref>。
文化12年([[1815年]])4月27日、測量隊は[[伊豆七島]]などを測量するため、江戸を出発した。ただし、下役や弟子の勧めもあって、高齢の忠敬は測量には参加しなかった<ref name="watanabe238">[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.238</ref>。永井甚左衛門を隊長とした一行は、[[下田市|下田]]から[[三宅島]]、[[八丈島]]の順に渡り測量した。しかし八丈島から三宅島に戻ろうとしたときに黒潮に流されてしまい、[[三浦半島]]の三崎(現・[[神奈川県]][[三浦市]])に流れ着いた。三崎から[[御蔵島]]へ行き、三宅島を経由して[[神津島]]、[[新島]]、[[利島]]と測量を続け、いったん新島に戻った。ここから[[伊豆大島|大島]]に向かう予定であったが、下田近くの須崎に流れ着いた。そこから大島へ行き、測量後に下田に戻り、周辺を測量しながら帰路につき、文化13年([[1816年]])4月12日に江戸に着いた<ref name="watanabe238"/>。
=== 第十次測量(江戸府内) ===
第九次測量と並行して、江戸府内を測る第十次測量を行った。
これまでの測量では、たとえば東海道では[[高輪大木戸跡|高輪大木戸]]を、[[甲州街道]]では[[四谷大木戸]]を起点としていた。今回の測量は、各街道から[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]までの間を測量して、起点を1つにまとめることが目的である<ref name="konno185"/><ref name="watanabe238"/>。
測量は71歳になった忠敬も参加し、文化12年(1815年)2月3日から2月19日まで行われた<ref>[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] pp.238,248</ref>。
測量を終えたところで、忠敬は、昔に測った東日本の測量は西日本の測量と比べて見劣りがすると感じた。そこで景保と相談し、もう一度詳しく測り直す計画を立てた。しかし幕府はこれを採用せず、代わりに江戸府内の地図を作るよう命じた<ref>[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.186</ref>。この測量は文化13年(1816年)8月8日から10月23日まで行われた<ref name="watanabe238"/>。忠敬も度々指揮を執ったが、おそらく作業の大部分は下役と弟子たちが行っていたと推定されている<ref>[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.250</ref>。
=== 地図作成作業と死 ===
[[ファイル:Grave of Ino Tadataka (Genkuji Taito).jpg|thumb|200px|上野源空寺にある伊能忠敬墓。左側に高橋至時・景保の墓が並んでいる]]
測量作業を終えた忠敬らは、八丁堀の屋敷で最終的な地図の作成作業に取りかかった。文化14年([[1817年]])には、間宮林蔵が、忠敬が測量していなかった蝦夷地の測量データを持って現れた<ref>[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.251</ref><ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.184</ref>。また同年、忠敬は破門していた平山郡蔵を許し、作業に参加させた<ref name="kojima189">[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.189</ref>。
地図の作成作業は、当初は文化14年の暮れには終わらせる予定だったが、この計画は大幅に遅れた<ref>[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.252</ref>。これは、忠敬が[[地図投影法]]の理論を詳しく知らなかったため、各地域の地図を1枚に合わせるときにうまくつながらず、その修正に手間取ったためと考えられている<ref name="渡辺1997 pp.252-253">[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] pp.252-253</ref><ref>[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.188</ref>。
忠敬は新しい投影法について研究し、資料を作り始めた<ref>[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] pp.253-254</ref>。しかし文化14年秋頃から[[喘息]]がひどくなり、病床につくようになった<ref>[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.189</ref>。それでも文化14年いっぱいは、地図作成作業を監督したり、門弟の質問に返事を書いたりしていたが、文政元年([[1818年]])になると急に体が衰えるようになった<ref>[[#今野(2002)|今野(2002)]] pp.190-191</ref><ref>[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.254</ref>。そして4月13日、弟子たちに見守られながら74歳で生涯を終えた<ref name="kojima189"/>。
=== 死後 ===
[[ファイル:Tomb of Ino Tadataka at Sawara.jpg|thumb|180px|千葉県香取市の観福寺にある伊能忠敬の墓]]
地図はまだ完成していなかったため、忠敬の死は隠され、高橋景保を中心に地図の作成作業は進められた<ref name="konno191">[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.191</ref>。
文政4年([[1821年]])、『[[大日本沿海輿地全図]]』と名づけられた地図はようやく完成した。7月10日、景保と、忠敬の孫・忠誨(ただのり、幼名三治郎)らは登城し、地図を広げて上程した<ref name="konno191"/><ref>[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.255</ref>。そして9月4日、忠敬の喪が発せられた<ref name="konno191"/>。
忠敬の子の秀蔵は文化12年、素行が良くなく忠敬に勘当されていた。忠敬の死後は佐原で神保姓を名乗り、手習い師匠となった<ref>[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.279</ref>。
孫の忠誨、銕之助のうち、銕之助は忠敬の死の翌年に亡くなった。忠誨は、忠敬の喪が発せられた年、15歳で五人扶持と85坪の江戸屋敷が与えられ、帯刀を許された<ref>[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.182</ref><ref>[[#今野(2002)|今野(2002)]] pp.191-192</ref>。忠誨は佐原と江戸を行き来しながら、景保らの指導も受け、さらに佐原の伊能家の跡継ぎとしても期待されていたが、文政10年([[1827年]])、21歳で病死した<ref name="konno192">[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.192</ref>。忠誨の死により、忠敬直系の血筋は途絶えた<ref name="konno192"/><ref>[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] pp.187-188</ref><ref group="注釈">忠敬の分家としては、子孫に[[金沢工業大学]]土木工学科客員教授の伊能忠敏らがいる([[#伊能(1991)|伊能(1991)]])。</ref>。また測量隊の中には、忠敬が測量できなかった[[霞ヶ浦]]などを測量しようという意見もあったが、忠誨の死によりその案も立ち消えとなった<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.190-191</ref>。
忠敬は死の直前、「私がここまでくることができたのは高橋至時先生のおかげであるから、死んだあとは先生のそばで眠りたい」と語った。そのため墓地は高橋至時・景保父子と同じく[[上野]][[源空寺 (台東区)|源空寺]]にある<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.291-292</ref>。また佐原の[[観福寺 (香取市牧野)|観福寺]]にも遺髪を納めた[[参り墓]]がある<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] 口絵</ref>。
佐原の名家の一つである伊能三郎右衛門家は、忠誨の没後も一族の管理下に置かれて存続するものの、当主不在が続くなかで家業の不振は深刻化していき、[[天保]]年間には酒造業は廃業に追い込まれている。こうした中で同族の伊能茂左衛門家および三郎右衛門家の分家的扱いであった清宮家<ref group="注釈">清宮家は伊能家とは直接の血縁はないものの、清宮家の初代当主は伊能三郎右衛門家2代目である景常の後妻の連れ子であり、継父の支援で清宮家を興したと伝えられ、両家はそれ以来の深い関係を有していた([[#千葉県(2008)|千葉県(2008)]] p.346-347)。</ref> が、佐原における三郎右衛門家の地位を継承することになる。茂左衛門家・清宮家を中心とした伊能家一族の協議の末、三郎右衛門家に養子を迎えて再興させる話が実現するのは、忠誨の死から34年が経過した[[文久]]元年([[1861年]])のことである<ref name="chibaken944">[[#千葉県(2008)|千葉県(2008)]] p.944-946</ref><ref group="注釈">海保景文に[[伊能景晴]](茂左衛門家当主、楫取魚彦の曾孫にあたる)の次女を娶せて、三郎右衛門家の祭祀を継がせた(『千葉縣香取郡誌』(1921年刊行の復刻版)、崙書房、1972年、P782-783.「伊能景晴」)。</ref>。なお、伊能茂左衛門家は[[楫取魚彦]]<ref name="chibaken868">[[#千葉県(2008)|千葉県(2008)]] p.868</ref> を、清宮家は[[清宮秀堅]]<ref name="chibaken346">[[#千葉県(2008)|千葉県(2008)]] p.346-349</ref> を輩出したことで知られ、特に清宮秀堅は文久の伊能三郎右衛門家再興時に清宮家当主として大きな役割を果たしている<ref name="chibaken346"/>。
== 年表 ==
{| class=wikitable width="100%"
|-
!style="width:5em;"|[[和暦]]
!style="width:4em;"|[[西暦]]
!style="width:5em;"|月日<br />([[旧暦]])
!nowrap|年齢
!内容<!--内容は簡潔に記してください-->
|-
|[[延享]]2年
|[[1745年]]
|2月11日
|0
|上総国山辺郡小関村の名主・五郎左衛門家で生まれる。
|-
|[[宝暦]]元年
|[[1751年]]
|
|6
|母(みね)が亡くなり、[[婿養子]]だった父は実家の武射郡小堤村の神保家に戻る。
|-
|宝暦5年
|[[1755年]]
|
|10
|実家の神保家に戻っていた父の元に引き取られる。
|-
|宝暦12年
|[[1762年]]
|
|18
|下総国香取郡佐原村の[[酒屋|酒造業]]を営む伊能家に婿養子に入る。
|-
|天明元年
|[[1781年]]
|
|36
|佐原村本宿組[[庄屋|名主]]となる。
|-
|天明3年
|[[1783年]]
|
|38
|天明の大飢饉では、私財を投げ打って地域の窮民を救済する。
|-
|[[寛政]]6年
|[[1794年]]
|12月
|50
|[[隠居]]し、[[家督]]を長男景敬に譲る。
|-
|寛政7年
|[[1795年]]
|
|51
|江戸に出て幕府[[天文方]][[高橋至時]]に[[暦学]]、[[天文学|天文]]を学ぶ。
|-
|寛政12年
|[[1800年]]
|閏4月19日
|56
|第1次測量 [[奥州街道]]‐[[蝦夷地]]太平洋岸‐奥州街道 180日間
|-
|[[享和]]元年
|[[1801年]]
|
|57
|第2次測量 [[三浦半島]]‐[[伊豆半島]]‐[[房総半島]]‐[[東北地方]][[太平洋]]沿岸‐[[津軽半島]]‐奥州街道 230日間
|-
|享和2年
|[[1802年]]
|
|58
|第3次測量 奥州街道‐山形‐秋田‐[[津軽半島]]‐東北[[日本海]]沿岸‐[[直江津]]‐長野‐[[中山道]] 132日間
|-
|享和3年
|[[1803年]]
|
|59
|第4次測量 [[東海道]]‐沼津‐太平洋沿岸‐名古屋‐敦賀‐[[北陸]]沿岸‐[[佐渡島|佐渡]]‐長岡‐中山道 219日間
|-
|[[文化 (元号)|文化]]2年
|[[1805年]]
|
|61
|第5次測量 幕府直轄事業となる。東海道‐[[紀伊半島]]‐大阪‐[[琵琶湖]]‐[[瀬戸内海]]沿岸‐下関‐[[山陰]]沿岸‐[[隠岐諸島|隠岐]]‐敦賀‐琵琶湖‐東海道
|-
|文化5年
|[[1808年]]
|
|64
|第6次測量 東海道‐大阪‐鳴門‐高知‐松山‐高松‐[[淡路島]]‐大阪‐[[吉野]]‐[[伊勢神宮|伊勢]]‐東海道
|-
|文化6年
|[[1809年]]
|
|65
|第7次測量 中山道‐岐阜‐大津‐[[山陽道]]‐小倉‐[[九州]]東海岸‐鹿児島‐[[天草諸島|天草]]‐熊本‐大分‐小倉‐萩‐[[中国地方|中国]]内陸部‐名古屋‐[[甲州街道]]
|-
|文化8年
|[[1811年]]
|
|67
|第8次測量 甲府‐小倉‐鹿児島‐[[屋久島]]‐[[種子島]]‐九州内陸部‐長崎‐[[壱岐島|壱岐]]‐[[対馬]]‐[[五島列島|五島]]‐中国内陸部‐京都‐高山‐飯山‐川越 913日間
|-
|文化12年
|[[1815年]]
|
|71
|第9次測量 忠敬は参加せず。東海道‐三島‐下田‐[[八丈島]]‐[[御蔵島]]‐[[三宅島]]‐[[神津島]]‐[[新島]]‐[[利島]]‐[[伊豆大島|大島]]‐伊豆半島東岸‐八王子‐熊谷‐江戸
|-
|文化13年
|[[1816年]]
|
|72
|第10次測量 江戸府内
|-
|文化15年
|[[1818年]]
|4月13日
|73
|死去、喪を秘して地図製作を続行。
|-
|[[文政]]4年
|[[1821年]]
|
|没後
|『大日本沿海輿地全図』完成、三ヶ月後喪を公表。
|-
|明治16年
|1883年
|2月27日<br>(新暦)
|没後
|贈[[正四位]]。
|}
== 大日本沿海輿地全図 ==
[[File:Ino Tadataka map (daizu,, Atsumi-hanto).jpg|thumb|250px|大図 渥美半島付近(千葉県香取市 伊能忠敬記念館所蔵)]]
{{Main|大日本沿海輿地全図}}
=== 種類・特徴 ===
忠敬とその弟子たちによって作られた大日本沿海輿地全図は「伊能図」とも呼ばれている。縮尺36,000分の1の大図、216,000分の1の中図、432,000分の1の小図があり、大図は214枚、中図は8枚、小図は3枚で測量範囲をカバーしている<ref>[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.8</ref>。このほかに特別大図や特別小図、特別地域図などといった特殊な地図も存在する<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.260</ref>。
伊能図は日本で初めての実測による日本地図である<ref>[[#小島(2009)|小島(2009)]] p.152</ref>。しかし測量は主に海岸線と主要な街道に限られていたため、内陸部の記述は乏しい。測量していない箇所は空白となっているが、蝦夷地については間宮林蔵の測量結果を取り入れている<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.264-265</ref>。
地図には沿道の風景や山などが描かれ、絵画的に美しい地図になっている点も特徴の一つである<ref>[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.14</ref>。
最後は弟子たちによって完成された。
=== 精度 ===
忠敬は地図を作る際、地球を球形と考え、緯度1度の距離は28.2里とした<ref>[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.26</ref>。そしてこの前提のもと、測量結果から地図を描き、その後、経度の線を計算によって書き入れた。伊能図の経緯線は[[サンソン図法]]と同じである<ref>[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] pp.22-23</ref>。
忠敬が求めた緯度1度の距離は、現在の値と比較して誤差がおよそ1,000分の1と、当時としては極めて正確であった<ref>[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.10</ref>。また、各地の緯度も天体観測により多数測定できた<ref>[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.215</ref>。そのため緯度に関してはわずかな誤差しか見られない<ref>[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.21</ref>。一方で経度については、天体観測による測定が十分にできなかったこと、[[地図投影法]]の研究が足りず各地域の地図を1枚にまとめるときに接合部が正しくつながらなかったこと<ref name="渡辺1997 pp.252-253"/>、あとから書き加えた経線が地図と合っていなかったこと<ref>[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.29</ref> などの理由で、特に北海道と九州において大きな誤差が生じている<ref>[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.25</ref>。
=== その後の伊能図 ===
忠敬死後、地図は幕府の[[紅葉山文庫]]に納められた。その後の文政11年([[1828年]])、[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|シーボルト]]がこの日本地図を国外に持ち出そうとしたことが発覚し、これに関係した日本の[[蘭学]]者(高橋景保ら)などが処罰される事件が起こった([[シーボルト事件]])。シーボルトは内陸部の記述を[[正保日本図]]などで補っているため、実際の地形と異なる地形が描かれている<ref>[[#織田(1974)|織田(1974)]] pp.158-159</ref>。
江戸時代を通じて伊能図の正本は[[国家機密]]として秘匿されたが、シーボルトが国外に持ち出した写本をもとにした日本地図が[[開国]]とともに日本に逆輸入されてしまったため、秘匿の意味がなくなってしまった。[[慶応]]年間に[[勝海舟]]が海防のために作成した地図は、逆輸入された伊能図をモデルとしている<ref>[[#織田(1974)|織田(1974)]] p.112</ref>。
伊能図は[[明治時代]]に入って、「[[地勢図|輯製二十万分一図]]」を作成する際などに活用された。この地図は、のちに[[三角測量]]を使った地図に置き換えられるまで使われた<ref>[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] pp.274-275</ref>。
伊能図の大図については、幕府に献上された正本は明治初期、[[1873年]]の[[皇居]]炎上で失われ、伊能家で保管されていた写しも[[関東大震災]]で焼失したとされる。しかし[[2001年]]、[[アメリカ議会図書館]]で写本207枚が発見された。その後も各地で発見が相次ぎ、現在では地図の全容がつかめるようになっている<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.275-289</ref>。[[2006年]]12月には、大図全214枚を収録した『伊能大図総覧』が刊行された<ref>[[#星埜(2010)|星埜(2010)]] p.78</ref>。
== 測量方法 ==
忠敬が測量で主に使用していた方法は、導線法と[[交会法]]である。これは当時の日本で一般的に使われていた方法であり<ref>[[#星埜(2010)|星埜(2010)]] pp.40,60-61</ref>、実際に測量作業を見学した[[徳島藩]]の測量家も、伊能測量は特別なことはしていないと報告している<ref name="w136">[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.136</ref>。当時の西洋で主流だった[[三角測量]]は使用していない<ref name="w136"/>。
忠敬による測量の特徴的な点は、誤差を減らす工夫を随所に設けたことと、天体観測を重視したことにある<ref name="hoshino44">[[#星埜(2010)|星埜(2010)]] p.44</ref><ref name="w137-138">[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.137-138</ref>。
=== 導線法・交会法 ===
導線法とは、2点の距離と方角を連続して求める方法である。測量を始める点に器具を置き、少し離れたところに[[梵天]](竹の棒の先に細長い紙を[[はたき]]のように吊るしたもの)を持った人を立たせる。そして、測量開始地点から梵天の位置までの距離と角度を測る。測り終えたら、器具を梵天の位置まで移動し、別の場所に梵天持ちを立たせ、同じように距離と角度を測る。これを繰り返すことで測量を進めていく<ref name="hoshino44"/><ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.136-137</ref>。
導線法を長い距離にわたって続けると、段々と誤差が大きくなってくる。その誤差を修正するために交会法が使われる<ref name="hoshino44"/><ref>[[#中村(2008)|中村(2008)]] p.142</ref>。交会法とは、山の頂上や家の屋根など、共通の目標物を決めておいて、測量地点からその目標物までの方角を測る方法である。導線法で求めた位置が正しければ、それぞれの測量地点と目標物を結ぶ直線は一点で交わるため、この方法で導線法による誤差を確かめることができる<ref name="hoshino44"/><ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.142-143</ref>。
さらに忠敬はこれに加えて、富士山などの遠くの山の方位を測って測量結果を確かめる遠山仮目的(えんざんかりめあて)の法などを活用している<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.137</ref>。
=== 天体観測 ===
測量にあたって天体観測を活用することで、観測地の緯度や経度を求めることができるため、地図の精度が向上する。このことは忠敬が測量を始めるおよそ80年前に[[建部賢弘]]が指摘していた。しかしそれを実行に移したのは忠敬が初めてである<ref name="w137-138"/><ref name="otani255">[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.255</ref>。忠敬は測量中、晴れていれば必ず天体観測を行うようにしており、宿泊場所も観測器具が置けるだけの敷地があるところを指定していた。全測量日数3,754日のうち、1,404日は天体観測を行っている<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.152</ref>。主な観測内容は、[[恒星]]の南中高度、太陽の南中、日食、月食、木星の衛星食などである。また、文化2年(1805年)に[[家島]]で[[彗星]]を見たという記録が残っている([[ビエラ彗星]]と推定される)<ref>[[#荻原(2007)|荻原(2007)]] pp.612-614</ref>。
==== 恒星の南中観測 ====
恒星が南中したときの地平からの角度を測る。この角度と、予め江戸で測定しておいた角度を比較することで観測地点の緯度が求められる<ref name="otani255"/><ref name="w153">[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.153</ref>。しかし、動いている星が南中した瞬間を正確にとらえるのは難しい。そのため忠敬らは、多いときには1日で20個から30個の星の南中を観測し、誤差の軽減に努めた<ref name="w157">[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.157</ref>。
また、日中に太陽の南中を観測することもあった。これは緯度を求める目的のほか、南中した時刻を確かめて、日食・月食の観測で使う器具を調整するという目的もあった<ref name="w153"/>。
基準となる江戸での観測は、忠敬の自宅がある深川黒江町で行った。この観測にも注意を払い、1つの星に対して数日から数十日かけて観測を続け、観測誤差が少なくなるようにした<ref>[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.347</ref>。
==== 日食・月食の観測 ====
日食・月食の観測は、観測地点の経度を求める目的で行われた。
経度を求めるのは緯度を求めるのと比べて格段に難しい。西洋では18世紀の終わり頃に、[[クロノメーター]]や[[月距法]]を利用した経度測定方法がようやく確立してきていた。しかし当時の日本にはそれらはまだ伝わっていなかったため、忠敬は主に伝統的な日食・月食を使って経度を測定していた<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.161</ref>。
方法としては、まず日食・月食が起きる前日までに太陽の南中を観測し、垂揺球儀(後述)を起動させる。そして当日、日食や月食を観測し、時間を記録する。このとき、江戸の暦局と大坂の間家([[間重富]]の家)でも観測を行っているため、日食・月食が起きた時刻を3か所で比較することで、経度の差が求められる<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.159</ref>。
とはいえ日食や月食を観測できる機会は少ない。忠敬らは少ない機会を逃さぬようにするため、食が起こる7日ほど前に現地に到着し準備していた。しかしそれでも当日が雨や曇りの場合は観測できず、たとえ晴れていて観測できたとしても、江戸と大坂が曇っていれば意味がなくなってしまう。忠敬は測量中、日食や月食を観測できる機会が13回あったが、そのうち2か所以上で観測できたのは5回、3か所全てで観測できたのはわずか2回だった<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.160</ref>。
==== 木星の衛星食の観測 ====
経度の測定法として、ほかに[[木星]]の衛星食を利用する方法も試された。
木星の周りを回っている衛星が、木星の後ろに隠れたり、また現れたりする時刻を観測する。日食・月食のときと同じように、同時に2か所以上で観測し、その差から経度差を求める。木星の衛星食は日食や月食と比べて頻繁に起こるため、観測には適している。
この方法で経度が求められることは、日本では高橋至時がすでに知っていた。しかし至時は、実際に食がいつ起きるかについては、そのときは予想できずにいた。しかしその後、至時は、この方法が詳しく載っている西洋書『[[ラランデ暦書]]』を入手することができた。そして同書をもとに研究に取り組み<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.161-162</ref>、この研究は至時の死後、間重富らによって引き継がれた。そうして忠敬の第五次測量の直前にようやく実用化できるようになった<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.162-163</ref>。
実際の観測は、第五次測量中の文化2年([[1805年]])4月22日、伊勢の山田(現・三重県[[伊勢市]])で初めて行われた。その後も測量日記によると合計11回観測している<ref name="w163">[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.163</ref>。しかし測量にあたっては、前もって計算していた衛星食の時刻予想が正確ではなかったこともあり、苦労を要した<ref name="otani350">[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.350</ref>。結果的に観測回数は少なく、経度の測定にはほとんど役に立たなかったと考えられている<ref name="w163"/><ref name="otani350"/>。
== おもな測量器具 ==
=== 距離測定 ===
[[File:Ino Tadataka's step.JPG|thumb|200px|right|[[佐原駅]]前の床には、かつて伊能忠敬の実物大の歩幅(約70cm)が表示されていた。(2008年撮影)]]
==== 歩測 ====
歩いた歩数をもとに距離を計算する方法である。主に第一次測量のときに採用した。
忠敬の歩幅について、[[井上ひさし]]は小説『四千万歩の男』を執筆する際に、「二歩で一間」(一歩約90cm)と仮定した。測量中に忠敬の歩いた距離はおよそ35,000キロメートルで、換算するとおよそ4,000万歩となる<ref>[[#井上(2000)|井上(2000)]] pp.8,59</ref>。
しかしその後、実際の歩幅はそれよりも小さいことが明らかになった。昭和63年([[1988年]])、[[伊能忠敬記念館]]に勤めていた佐久間達夫は、来館者に忠敬の歩幅について尋ねられたのをきっかけに歩幅の調査を行った。そして、忠敬が書いた『雑録』の中に、「1町に158歩」という記述を発見した。佐久間はこの記述と、忠敬が使っていた「折衷尺」(1[[尺]]30.303cm)をもとに、忠敬の歩幅を約69cmと導き出している<ref>[[#斎藤(1998)|斎藤(1998)]] pp.532-534</ref>。
==== 間縄・鉄鎖 ====
第二次測量からは歩測の代わりに、間縄と呼ばれる[[縄]]や、鉄[[鎖]]を使って距離を求めるようになった。
第二次測量では麻の縄を使って海岸線を測量した<ref>[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] pp.286-287</ref>。しかし縄は伸び縮みして正確な距離が測れなかったため、第三次測量からは新たに考案された鉄鎖が使われた。鉄鎖が使えないような場所では引き続き間縄が使われたが、[[フジ (植物)|藤づる]]を編んだ藤縄や、[[鯨]]の[[鰭]]を裂いて編んだ鯨縄を使うといった工夫を加えた<ref name="w138">[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.138</ref>。
鉄鎖は、両端を輪のように加工した長さ一尺の鉄線を60本つないだ鎖で、伸ばすと長さは十間となる。間縄は古くから使われていた方法だが、高橋至時によると、鉄鎖は忠敬が初めて考案したものである(ただし異説もある)<ref name="w138"/>。鉄鎖も使っていくうちに摩耗するため、間棹で毎日長さを確認していた。間棹とは長さ二間の木の棹で、両端に真鍮帽をかぶせている<ref name="w138"/>。
==== 量程車 ====
[[File:Surveyor's measuring wheel - National Museum of Nature and Science, Tokyo - DSC07420.JPG|thumb|200px|right|伊能忠敬の量程車(複製)。[[国立科学博物館]]の展示。]]
量程車とは[[車輪]]と[[歯車]]のついた箱状の測量器具である。地面に置いて車輪を転がしながら進むことによって、車輪に連動した歯車が回り、移動した距離が表示されるようになっている。中国では古くから存在し、日本にもすでに伝わっていた<ref>[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.291</ref>。忠敬は第二次測量の途中で高橋至時から量程車を受け取り、これを使って測量してみたが、海岸線などの砂地や、凹凸のある道では、距離が正確に測れなかった。したがって、以後は名古屋、[[金沢市|金沢]]の城下など、限られた地域のみで使われ、西日本の測量においては全く使用されなかった<ref>[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.293</ref><ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.146</ref>。
=== 方位測定 ===
方位の測定は大中小3種類の方位盤および半円方位盤にて行った。
==== 小方位盤 ====
小方位盤は杖の先に[[羅針盤]]をつけたものである。彎窠(わんか)羅針、杖先羅針とも呼ばれる<ref name="w141">[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.141</ref>。
羅針盤は杖を傾けても常に水平が保たれるようになっており、精度としては10分(6分の1度)単位の角度まで読むことができた<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.140-141</ref>。平地では三脚に固定して使用し、傾斜地では杖を地面に突き立てて使用した<ref name="w141"/>。
小方位盤自体は当時よく使われていた器具だったが、忠敬は羅針の形や軸受けの材質を変えるなどの工夫を加えた。小方位盤は忠敬の測量器具の中で最も重要なものと言われており、西日本を測量するころになると10個ほどを持っていっている<ref name="w141"/><ref>[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.302</ref>。
小方位盤は主に導線法と交会法において使われた。導線法で使う際には正・副2本の羅針盤を使って2点の両方から角度を測り、その平均を取るようにしていた<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.141-142</ref>。
==== 大・中方位盤 ====
[[File:Houiban.png|thumb|200px|right|伊能忠敬が使用したとされる大・中方位盤。大谷亮吉著『伊能忠敬』(1919) p.322 より。]]
大方位盤と中方位盤は実物が残っていないために詳細は定かではないが、『[[量地伝習録]]』で解説がなされている。それによるとこの方位盤は、脚のついた円形の盤の中央に[[望遠鏡]]を設置したものである。円盤には方位を測るための[[磁石]]が取りつけられるようになっており、また円盤の周囲には、角度が分かるように目盛りのついた真鍮の環が組み込まれている。さらに円盤の上には指標板というものが置かれており、これは望遠鏡と連動して円盤状を回転できるようになっている<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.149-150</ref>。大方位盤と中方位盤は大きさが異なるだけで、外形や使用方法はほとんど変わらないといわれている。円盤の直径は大方位盤が2尺6寸、中方位盤が1尺2寸である<ref>[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] pp.322-323,326</ref>。
これらの方位盤は、富士山など、遠くの目標物の方角を測るのに用いられた。円盤内の方位磁針の向きと、真鍮の環に刻まれた北を示す目盛りの向きを合わせてから、望遠鏡を目標物の向きに合わせる。すると、指標板が求める方角を指し示す<ref name="w150">[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.150</ref>。
大方位盤は精密な測定ができるため、高橋至時はこれを使って正確に方位を求めるべきだと主張した。しかし忠敬は、「正しい位置に設置するための器具が不十分なので精度向上は見込めない」と反論した<ref>[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.328</ref>。また、大方位盤は運搬に手間がかかるという問題もあった。そのため第一次測量では使用せず、第二次測量でも途中で江戸に送り返している。その後、第五次、第六次測量では使用されたが、第七次、第八次測量では持参していない<ref name="w150"/>。
中方位盤は大方位盤と比べて小型なため、第二次測量以降に持ち出され使われている。第五次測量以降の記録では中方位盤の名前は見られないが、忠敬は中方位盤のことを小方位盤と記すこともあるため、本当に使用されなかったかどうかは定かでない<ref>[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] pp.327-328</ref>。
==== 半円方位盤 ====
半円方位盤はその名の通り半円形の方位盤である。大・中方位盤と同じように、目盛り付きの真鍮板と方位磁針が付属している。また半円盤の上に視準器があり、これを半円盤上で回転させて目標物に合わせることで方角を求める<ref name="w151">[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.151</ref>。
この方位盤は十分単位で角度目盛がついていて、目測では分単位の角度を求めることができたが、構造が単純で偏心による誤差が生じやすかった<ref name="w151"/><ref name="otani321">[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.321</ref>。しかし小方位盤と比べると細かな方位が求めやすく、大・中方位盤と比べて持ち運びやすいという利点もあった。そのため遠くの山などを測る目的で、第四次測量以降は頻繁に使うようになった<ref name="otani321"/>。
=== 傾斜・高度測定 ===
[[File:Quadrant(Sawara).JPG|thumb|210px|right|象限儀のレプリカ([[佐原駅]]北口付近)]]
坂道の傾斜や星の高度は[[象限儀]]を使って求めた。象限儀の種類としては杖先小象限儀、大象限儀、中象限儀がある。
==== 杖先小象限儀 ====
2点間の距離を導線法により求めても、その2点間が坂道になっていると、地図に表すとき距離が異なってしまう。この補正は、はじめのうちは目測で傾斜角を測って補正していたが、第三次測量からは杖先小象限儀を使うようになった<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.139</ref>。
この象限儀は長さ一尺二寸で、三脚に据えて、梵天を持っている人の目を目標にして測った。測った角度は割円八線対数表と呼ばれる[[三角関数]]の[[対数表]]を利用して距離に換算した<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.139-140</ref><ref>[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.330</ref>。
==== 大・中象限儀 ====
恒星の南中高度を測るための象限儀は、大(長さ六尺)、中(長さ三尺八[[寸]])の2種類が使われた。構造はどちらも同じである<ref>[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.357</ref>。大象限儀は江戸に常設しており、全国測量では中象限儀を持ち出した<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.155</ref><ref>[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.352</ref>。この象限儀は、刻まれた目盛りによって一分単位の角度を読み取ることができ、目測を加えると十秒または五秒程度の単位まで測ることができた<ref>[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.354</ref>。
象限儀は地面に対して正確に垂直になるように設置しなければならない。そのため設置にあたっては本体以外に多数の木材が必要となり、全部合わせると、解体して運んでも馬一頭では積みきれないほどの大きさになった<ref name="w157"/><ref>[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.357-358</ref>。
=== 時間測定 ===
日食・月食が起きた時刻は、[[垂揺球儀]]によって求めた。垂揺球儀は振り子の振動によって時間を求める器具である。仕組みとしては振り子時計と同じで、日本でも[[麻田剛立]]によって既に使われていた<ref>[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] pp.398-401</ref>。忠敬が使っていた垂揺球儀は現存しており、歯車を組み合わせることで十万の桁まで振動数が表示されるようになっている。振り子は1日におよそ59,500回振動するため、最大で約17日連続稼働できる<ref>[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.409</ref>。
日食・月食の前日までに、観測地において予め垂揺球儀を駆動させて1日の振動数を求めておく。そしてその数値と、南中から日食・月食開始までの振動数をもとにして、日食・月食が起こった時刻を求めることができる<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.159-161</ref>。
== 人物 ==
[[ファイル:Ino Tadataka Statue at Tomioka Hachiman-gu 01.jpg|thumb|200px|伊能忠敬の銅像([[富岡八幡宮]])]]
=== 性格 ===
厳格な性格だった。測量期間中は隊員に禁酒を命じ、規律を重んじていた<ref name="hoshino20">[[#星埜(2010)|星埜(2010)]] p.20</ref>。また、能力の低い隊員に対しては評価が厳しく、測量中に娘の妙薫にあてた手紙にも、隊員についての愚痴がいくつも綴られている<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.238</ref>。身内でも特別扱いせず、息子の秀蔵も1人の内弟子として扱い、そして最終的には[[破門]]している<ref name="hoshino20"/><ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.245-246</ref>。
また、根気強く、几帳面であった。測量中に合わせて51冊の日記(『伊能忠敬先生日記』)を残し、のちにそれを清書して28巻の『測量日記』としてまとめた<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.229</ref>。測量作業においても、技術の革新はなかったが、根気強い観測とさまざまな工夫でそれを補った<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.227</ref>。
商売人であったことから金銭には厳しく、家人に宛てた手紙にも、「野菜や薪など買わなくてすむものに金を使うな」「ためることが第一」などと書かれている<ref>[[#小島(2009)|小島(2009)]] p.120</ref>。また飯炊きが毎日少しずつ米をくすねていたことに忠敬が気づき、咎めたとの記録もある。晩年、自身が病気になって江戸の自宅で[[卵酒|玉子酒]]を飲んで治療をしているときも、「卵は江戸より佐原の方が安いから佐原で多めに買って江戸まで送るように」と指示を出している<ref>[[#杉浦(2003)|杉浦(2003)]] pp.4813-4814</ref>。一方で天明の飢饉のときには貧民に米などを分け与えたりしており、また九州測量中にも、利根川の洪水で被害を受けた人々に施しを与えるよう指示している。ただしこのとき、食べていける者にも分け与えることは名聞を求めるのにあたるから慎むべきだとしている<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.246-248</ref>。これらのことから、忠敬は意味のあることについては大金を投じることも惜しまないが、そうでないことには出さないという、合理的な考えの持ち主だったことがうかがえる<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.123-124</ref><ref>[[#佐久間達夫編著(1998)|佐久間達夫編著(1998)]] pp.268-269</ref>。
=== 嗜好 ===
全国測量の旅に出かける際は、安全祈願のために[[富岡八幡宮]]に必ず参拝に来ていた<ref name="hoshino20"/>。2001年、[[境内]]に銅像が建てられた。近くの江東区[[門前仲町]]には、伊能忠敬宅跡を示す石碑が建てられている<ref>[http://koto-kanko.jp/theme/detail_spot.php?id=S00041 伊能忠敬宅跡] 江東おでかけ情報局(2018年5月3日閲覧)</ref>。
測量中も近くの寺社や名所旧跡を多く訪れており、その門前までの測量記録を残している<ref name="hoshino20"/>。また、詩歌にも関心が強かった<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.228</ref>。
食べ物に関しては、測量中に毛利家[[徳山藩]]が調べたところによると、かぶら、大根、人参、せり、鳥、卵、長いも、[[蓮根]]、くわい、豆腐、菜、菜類、[[椎茸]]、[[鰹節]]といったものを好んだという<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.257</ref>。本人が妙薫などに宛てて書いた手紙では、「しそ巻唐辛子を毎日食べていて、残りが少なくなったからあれば送ってほしい」「[[蕎麦]]を1日か2日置きに食べている」などの記述があり、さらに豆類も好物とされている<ref>[[#千葉県史編纂審議会編(1973)|千葉県史編纂審議会編(1973)]] pp.40,117,123,288</ref>。また、「歯が時々痛み[[奈良漬]]も食べられない」と書かれた手紙も残っている<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.186</ref><ref>[[#千葉県史編纂審議会編(1973)|千葉県史編纂審議会編(1973)]] p.176</ref>。
=== 身体 ===
忠敬の体格は、着物の丈が135cmであることから、身長は160cm前後、体重は55kg程度と推定されている<ref>[[#佐久間達夫編著(1998)|佐久間達夫編著(1998)]] p.267</ref>。
若い頃から体は弱い方で、病気で寝込むこともしばしばあった<ref>[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] pp.237-238</ref><ref>[[#杉浦(2003)|杉浦(2003)]] pp.4808</ref>。加えて四国測量の頃からは「痰咳の病」にかかるようになっていった<ref name="sugiura4809">[[#杉浦(2003)|杉浦(2003)]] p.4809</ref>。これは現代でいう[[慢性気管支炎]]のことであり、冬になる度に痰に悩まされていた<ref name="sugiura4809"/>。そのため、とりわけ食事に気をつけ咳痰の予防のため、[[食事療法]]として[[鶏卵]]を用いていた<ref>[[宮本義己]]『歴史をつくった人びとの健康法―生涯現役をつらぬく―』(中央労働災害防止協会、2002年)p.199</ref>。特に70歳を過ぎた頃から、卵湯療法を続けている。鶏肉も滋養食として食事療法の対象としていた<ref>宮本義己『歴史をつくった人びとの健康法―生涯現役をつらぬく―』(中央労働災害防止協会、2002年)p.199</ref>。忠敬の死因も、慢性気管支炎が悪化して起こる[[急性]][[肺炎]]([[老人性肺炎]])とみられている<ref>[[#杉浦(2003)|杉浦(2003)]] pp.4817</ref>。
=== 幕府との関係 ===
忠敬と幕府との関係については様々な説がある。幕府との関係の証拠は
#完成したら国家機密となる{{efn|「[[シーボルト事件]]」において、[[紅葉山文庫]]にある[[伊能図]]を写させたことが原因で、何人か罪に問われ死亡している。}}沿海部を測量した
#『[[オランダ風説書]]』(文化5年(1808年)10月)の正確な抜粋を残していること
#[[ヴァシーリー・ゴロヴニーン|ゴローニン]]の尋問の様子を記した手紙
#北方警備のための出兵の正確な人数を書いた手紙
などが挙げられており、単なる引退した商人の[[測量技師]]ではなかったことを示している<ref>「伊能忠敬は国際情報通だった 機密文書が語る顔」日本経済新聞2006年2月20日夕刊24面『夕刊文化』 </ref>。
== 評価の移り変わり ==
=== 江戸時代 ===
忠敬についての最も古い[[伝記]]は、江戸時代に書かれた『旌門金鏡類録(せいもんきんきょうるいろく)』の中にある。この書は、伊能家がいかに名家であるかを伝えるために編集されたものであるが、作者や作成時期については分かっていない<ref group="注釈">作者は忠敬本人という説もあるが、小島一仁はこれに反論し、息子の景敬によるものではないかと述べている。</ref>。本書ではその性質上、忠敬についても、家の復興に努めて村のためにも尽くしたことが強調された書き方になっている<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.10-11</ref>。ただし本書は伊能家のために残された書であり、外部に見せるための伝記ではない<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.11</ref>。
公開された初めての伝記は、[[文政]]5年([[1822年]])に建てられた、源空寺の墓に刻まれている墓碑銘である。この墓碑銘は墓石の左面、背面、右面の3面にわたって刻まれた漢文で、作者は儒学者の[[佐藤一斎]]である<ref>[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.283</ref>。その内容は『旌門金鏡類録』を参考にしたものとうかがえる。ただし墓碑銘には、忠敬は西洋の技術を学ぶことによって知識が高まったといった内容が刻まれており、こうした記述は『旌門金鏡類録』にはない<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.15-16</ref>。おそらくこの記述については、渋川景佑の本から採ったものと考えられている<ref>[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.305</ref>。
[[弘化]]2年(1845年)には、佐原出身で縁戚関係にあたる清宮秀堅によって『下総国旧事考(くじこう)』が書かれ、その中で忠敬についても触れられている。この忠敬伝は墓碑銘をもとに書かれているが、忠敬と[[洋学]]との関係に関しては記されていない。このことについて小島一仁は、シーボルト事件や[[蛮社の獄]]といった、洋学者に対する弾圧が影響しているのではないかと述べている<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.16-17</ref>。
=== 贈位と遺功表 ===
[[佐賀藩]]出身の[[佐野常民]]は、[[長崎海軍伝習所]]で訓練しているときに伊能図を使ったところ、この地図は正確でとても役に立つことを知った<ref>[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.270</ref>。さらに佐野は、伊能図が[[イギリス海軍]]にも評価されていたことなどを知り、[[元老院 (日本)|元老院]]議長となったあとの[[明治]]13年(1880年)には佐原を巡視し、香取郡長の[[大須賀庸之助]]と伊能家の伊能節軒から忠敬についての話を聞いた<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.19-20</ref>。そして佐野は明治15年(1882年)9月、[[東京地学協会]]において、「故伊能忠敬翁事蹟」と題する講演を行った。
この講演では墓碑銘をもとにして忠敬の生涯を紹介したうえで、伊能図の素晴らしさに触れ、忠敬を偉人として讃えている<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.24-25</ref>。この講演は忠敬伝としては初めてのものであると言われており、その内容はその後における忠敬の評価にも影響を与えることとなる<ref name="hoyanagi381">[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.381</ref>。
佐野の講演の目的は、忠敬に対しての贈位を申請することと、忠敬の業績に対して記念碑を建設することであった<ref name="hoyanagi381"/>。このうち贈位については、大須賀らの協力もあって、明治16年(1883年)1月、東京地学協会長である[[北白川宮能久親王]]の名で申請が出された<ref>[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] pp.270-271</ref>。そして同年2月、正四位が贈られた。
もう一方の記念碑について、佐野は講演の中で「忠敬が測量の基準とした高輪大木戸に建てるのがふさわしい」と述べ、明治16年の東京地学協会総会で、芝、高輪の大木戸に遺功表を立てることを議決した。その後、建設場所は[[芝公園]]に変更となり、明治22年(1889年)に遺功表が建てられた<ref>[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.273</ref>。
=== 国定教科書 ===
遺功表が建てられてからは、[[徳富蘇峰]]や[[幸田露伴]]の手による少年向けの忠敬伝が出され、明治20年代から30年代にかけて、忠敬の名は全国に知られるようになっていった<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.27</ref><ref>[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.277</ref>。
明治36年([[1903年]])、[[国定教科書]]の制度が始まると、忠敬はさっそく国語の教科書に採用された。教科書の内容は佐野の講演をもとに書かれており、忠敬の生涯のほか、測量方法についても簡単に述べられている<ref name="小島1978 p.32">[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.32</ref>。教科書に載ったことで忠敬の名はさらに広まった。地元の佐原で忠敬を偉人と称えるようになったのもこの頃からである<ref name="小島1978 p.32"/>。
明治43年([[1910年]])に国定教科書の改訂がなされると、忠敬は国語の教科書から外され、代わりに[[修身]]の教科書に載るようになった。そして内容も変化した。修身教科書では、国語教科書で見られたような忠敬の測量における業績についてはほとんど書かれず、「勤勉」「[[迷信]]を避けよ」「師を敬へ」といった表題のもと、忠敬が家業に懸命に取り組んだこと、江戸に出てからは雨や風の中で測量に従事し地図を作ったことなどが記され、最後に「精神一到何事カ成ラザラン」などといった格言で締めるという、精神的な面が強調されるようになった<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.35-36</ref><ref>[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] pp.277-278</ref>。こうした内容の教科書は[[第二次世界大戦]]の終戦まで使われた<ref>[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.278</ref>。
=== 大谷亮吉による研究 ===
忠敬が国定教科書に採用されたころ、忠敬について書かれた伝記は偉人伝としての要素が強く、測量内容に関する科学的な評価はほとんどなされていなかった。そのような状態のなか、物理学者の[[長岡半太郎]]は忠敬に興味を持ち、明治41年(1908年)に開かれた[[帝国学士院]]総会において、忠敬の業績を調べるよう提案した。この提案は賛同を得て、長岡の弟子の大谷亮吉の手により調査が始められた<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.33-34</ref>。
大谷は調査を行いながら、その結果などを発表していった。大正3年(1914年)には大谷の調査結果をもとに、長岡が、「伊能忠敬翁の事蹟に就て」と題する講演を行った。この講演は忠敬の業績のほか、麻田剛立、高橋至時、間重富の果たした役割についても述べており、従来の忠敬伝とは一線を画したものとなっている<ref>[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] pp.280,387</ref>。そして[[大正]]6年([[1917年]])、大谷はおよそ9年にわたる調査をまとめた書『伊能忠敬』を書き上げた。
『伊能忠敬』は本文766ページの大著で、特に忠敬の測量法や測量精度に関する記述が詳しく書かれている<ref name="保柳編1997 p.280">[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.280</ref><ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.43-44</ref>。本書はそれまでにないほど精細であり、忠敬研究における決定版ともいわれた<ref name="kojima44">[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.44</ref>。また、これ以後に書かれた忠敬についての本についても、ほとんどは大谷の引き写しだともいわれている<ref name="保柳編1997 p.280"/><ref name="kojima44"/>。本書は大正6年に源空寺で行われた忠敬の100遠忌法要において、墓前に供えられた<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.50</ref>。
また、忠敬没後100年の企画としては、他に佐原の有志による銅像と記念文庫建設の計画があった。結果として寄付額が足りず記念文庫の建設は断念されたが、銅像は大正8年(1919年)、佐原の佐原公園に建設された<ref>{{Cite web|和書|date=2009-03-15 |url=http://www.city.katori.lg.jp/02profile/kouhou/20090315/katori090315-web.pdf |title=『広報かとり』No.72 |format=PDF |publisher=香取市 |accessdate=2014-04-12}}</ref>(作者は[[大熊氏廣]]<ref name="毎日新聞20201103">[https://mainichi.jp/articles/20201029/dde/014/040/002000c 没後200年 伊能忠敬を歩く(28)銅像の姿さまざま 彫刻家らが思い込め/全国に記念碑や案内板]『[[毎日新聞]]』朝刊2020年11月3日(2020年11月23日閲覧)</ref>)。
=== 戦後の忠敬研究 ===
第二次世界大戦の終戦後は、戦前の国定教科書のような、忠敬を偉人として讃える書き方は鳴りを潜め、教科書の記述も簡単なものになった<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.3-4</ref><ref name="hoshino80">[[#星埜(2010)|星埜(2010)]] p.80</ref>。しかし戦前の教育の影響からか、忠敬の知名度は相変わらず高く、忠敬は努力によって偉大な業績を上げたという偉人的な見方も年配者を中心に消えずに残っていた<ref name="hoshino80"/><ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.4-5</ref>。
一方で新たな角度から忠敬を論ずる研究者も現れてきた。今野武雄は[[昭和]]33年(1958年)に出された本で、それまでの忠敬伝では忠敬の学問に対する情熱と精力がどこからきたのか得心できないと述べ、「忠敬は努力した」という旧来の書かれ方ではその努力の根源が明らかにされていないことを指摘した<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.47-48</ref>。また、歴史学者の[[高橋磌一]]は、[[昭和]]43年(1968年)に[[千葉県立佐原高等学校]]で開かれた伊能忠敬翁150年祭の記念講演で「みなさんは、伊能忠敬を、はじめから、えらい人だとか、えらくない人だとか、きめてかかってはいけません」と発言し、忠敬を先入観で偉人として見る感覚を戒めた<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.51</ref>。また小島一仁は昭和53年(1978年)に出された本で、従来の偉人伝としての忠敬伝を批判した<ref>[[#星埜(2010)|星埜(2010)]] p.83</ref>。
さらに、伊能図の科学的な研究も進んだ。この分野においては大谷の『伊能忠敬』が圧倒的であり、昭和43年(1968年)に東京地学協会で行われた講演において保柳睦美は、「今日まで、忠敬の業績に関する科学的研究は、大谷氏のものが最後といってよい」と発言するほどであった<ref>[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.2</ref>。しかし保柳はこの講演で、大谷の研究は「独断や誤解のみならず、考察の不十分な点がところどころに発見される」と語り、大谷を批判した<ref name="kojima53">[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.53</ref>。一例として、伊能図における経度方向のずれに関する見解があげられる。大谷は、伊能図は[[サンソン図法]]によって描写されており、その投影方法が間違っていたことが経度方向のずれの原因の1つになっていると述べ、この地図投影方法を「大失態」と評し、忠敬および高橋景保を非難している。しかし保柳は大谷に反論し、経度のずれについては、伊能図は経緯線こそサンソン図法と同じだが、地図自体はサンソン図法によって描いたものではなく、両者の違いが経度差となって現れたためだと大谷の誤りを指摘した。そして、幕府の要求は海岸線の測定などが主であって経線は重要視されておらず、当時の日本の研究水準などを考えても、このことについて忠敬をことさらに非難するのは間違っていると主張した<ref>[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] pp.21-30</ref>。保柳らの研究活動はのちの昭和49年(1974年)に『伊能忠敬の科学的業績』としてまとめられた。
また千葉県は昭和48年(1973年)、忠敬の手紙をまとめた『伊能忠敬書状』を出版した<ref name="kojima53"/>。
=== 『四千万歩の男』と新たなる忠敬像 ===
[[井上ひさし]]は昭和52年(1977年)、それまで小説に登場する機会がほとんどなかった忠敬を主人公にした小説『[[四千万歩の男]]』を『[[週刊現代]]』に連載した<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.54-56</ref>。井上が忠敬に特に関心を持ったのは、隠居後に新たな挑戦を始める、「一身にして二生を得る」という生き方だった。井上は、平均寿命が延びた時代において、退職後の人生を送るにあたって忠敬の生き方は手本になると述べている<ref>[[#井上(2000)|井上(2000)]] pp.10-11,18-19</ref>。
このように、[[高齢化社会]]という時代性から、「第二の人生を有意義に送った忠敬を評価する」という見方はこのころから広まるようになり、忠敬に対する人々の関心も高まっていった。『四千万歩の男』はその一つの要因と考えられている<ref>[[#鈴木(2011)|鈴木(2011)]] p.27</ref>。このような忠敬の捉え方はその後も続き、忠敬は「中高年の星」「人生を2度生きた男」とも呼ばれるようになっている<ref>『[[朝日新聞]]』1998年1月3日14面</ref><ref>[[#星埜(2010)|星埜(2010)]] p.1</ref>。
=== イベントの拡大 ===
[[電電公社]](現・[[NTT]])に勤めていた渡辺一郎は、仕事で日本地図を毎日眺めている間に忠敬に対して興味を持ち、そして[[国立国会図書館]]で伊能図を見て感激したことがきっかけで、忠敬の研究を始めた<ref>[[#伊能忠敬研究会(1998)|伊能忠敬研究会(1998)]] pp.6-7</ref>。そして[[平成]]7年(1995年)には伊能忠敬研究会を結成した<ref>[[#伊能忠敬研究会(1998)|伊能忠敬研究会(1998)]] p.9</ref>。研究会の活動などによって、1990年代後半から2000年前後にかけて、忠敬に関するイベントがいくつも開催された。平成10年(1998年)4月10日、[[朝日新聞社]]は創刊120周年記念事業として、徒歩で全国を回る「伊能ウォーク」を主催すると発表した(日本歩け歩け協会(現・日本ウォーキング協会)、伊能忠敬研究会との共同開催)<ref name="walk111">[[#日本ウオーキング協会, 伊能ウオーク実行委員会(2001)|日本ウオーキング協会, 伊能ウオーク実行委員会(2001)]] p.111</ref>。このイベントでは、忠敬の測量隊が歩いたルートを歩くほか、拠点地で伊能図の展示会などが行われた。平成11年(1999年)1月25日から平成13年(2001年)1月1日までの開催期間中に、16万人以上の一般参加者が参加した<ref>[[#日本ウオーキング協会, 伊能ウオーク実行委員会(2001)|日本ウオーキング協会, 伊能ウオーク実行委員会(2001)]] p.152</ref>。
また、平成10年(1998年)4月21日から6月21日まで、[[江戸東京博物館]]において、伊能忠敬展が開催された。この展覧会では11万1,399人の来館者を集めた<ref name="walk111"/>。
一方、忠敬生誕地の九十九里町では、伊能忠敬記念公園が整備され、忠敬の銅像が作られた。佐原市(現・香取市)においても新しい伊能忠敬記念館が建てられ、1998年5月22日に開館した<ref>『[[千葉日報]]』1998年5月22日</ref>。当地には[[伊能忠敬旧宅]]が保存されており、江戸時代の風情を残す[[佐原の町並み]]の一部をなしている。
伊能忠敬研究会がによる没後200年記念誌『伊能忠敬 日本列島を測る 後編』(2018年)掲載の調査結果によると、伊能忠敬を顕彰する記念碑や案内板などを、北は北海道[[別海町]]から南は[[鹿児島県]][[南種子町]]まで190基以上ある<ref name="毎日新聞20201103"/>。
ほかにもこの時期に、忠敬が主人公の演劇、映画が公開されている。また、平成13年(2001年)にアメリカで発見された伊能図の写本などによって伊能図の全貌が明らかになったことにより、原寸大の伊能図を並べて展示するイベントが開かれるようになった<ref>[[#星埜(2010)|星埜(2010)]] p.84</ref>。
=== 現在 ===
[[File:Ino Tadataka kaijo hikinawa sokuryo no hi in Kamaishi.jpg|thumb|200px|伊能忠敬海上引縄測量之碑(岩手県釜石市)。忠敬測量200周年を記念して、2001年9月23日に建てられた<ref name="Kamaishi"/>。]]
[[ファイル:伊能忠敬銅像(2020年6月).JPG|thumb|250px|伊能忠敬銅像(2020年6月)]]
平成22年(2010年)、伊能忠敬作成の地図や使用した測量器具、関係文書など2,345点が、「我が国の測量史・地図史上における極めて高い学術的価値を有する」として、「伊能忠敬関係資料」の名称で[[国宝]]に指定された<!--指定者は文化庁ではなく文部科学大臣-->。これらは伊能家に伝来したもので、香取市の[[伊能忠敬記念館]]に保管されている<ref>平成22年6月29日[[文部科学省]]告示第95号</ref><ref>「新指定の文化財」『月刊文化財』561号、[[第一法規]]、2010年</ref>。
現在の佐原において、忠敬の名は[[忠敬橋]]などに見られる。また、原付の[[デザインナンバープレート]]にも採用されている<ref>{{Cite web|和書|date=2012-10-03 |url=https://www.city.katori.lg.jp/03government/section/zeimu/news/2011-0602-0916-2.html |title=香取市オリジナルナンバーが決定しました |publisher=香取市 |accessdate=2014-04-16}}</ref>。
現代における忠敬の人物としての評価については、先に触れた二度の人生を生きたということのほか、渡辺一郎は、忠敬は才能こそあったものの、偉人や天才ではなく普通の人だったと述べたうえで、「ただ、いささか好奇心が強く、凝り性で、根気がよい性格だった」と評している<ref>[[#渡辺(1999)|渡辺(1999)]] p.219</ref>。また星埜由尚は、「愚直なまでの忍耐と努力」を挙げたうえで、17年にわたって愚直に測量を続けたことは公共性(世のため人のため)という観念もあったのではないかとして、忠敬の生き方を、効率化や自らの利益が重視される現代におけるアンチテーゼとしてとらえている<ref>[[#星埜(2010)|星埜(2010)]] pp.85-88</ref>。
[[平成28年]]、伊能忠敬研究会が、忠敬の測量事業において協力した各地の人物を公表した<ref>「[https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1602/16/news073.html 江戸時代に伊能忠敬の測量に協力した子孫を探しています 協力者約1万2000人の名前をデータベース化し発表]」[[ITmedia|ねとらぼ]](2016年2月16日)2020年11月23日閲覧</ref><ref>「[http://www.asahi.com/articles/ASJ2H5SQ0J2HUCVL03X.html 伊能忠敬に協力した人の子孫どこ? 1万人余の氏名公開]」[[朝日新聞デジタル]](2016年2月16日)2020年11月23日閲覧</ref><ref>「[https://www.iwate-np.co.jp/newspack/cgi-bin/newspack_c.cgi?c_culture_l+CO2016021501001761_1 伊能忠敬の協力者、名乗り出て 各地で測量記録発掘に期待]」『[[岩手日報]]』</ref><ref>[http://www.nagasaki-np.co.jp/f24/CO20160220/li2016022001001579.shtml 「伊能忠敬」協力者の情報相次ぐ 「先祖が案内」など60件]『[[長崎新聞]]』</ref>。これは忠敬の日記を基に作成されたもので、忠敬没後200年の節目の記念行事(交流顕彰発表会)を行う予定である。
2018年には[[バーチャルリアリティ]](VR)作品『伊能忠敬の日本図』が[[東京国立博物館]]と[[凸版印刷]]により制作・上映された<ref>「[https://www.sankei.com/economy/news/180418/prl1804180106-n1.html 伊能忠敬の偉業VR上演]」『産経新聞』2018年4月18日(2018年5月3日閲覧)</ref>。
== 登場作品 ==
[[ファイル:Ino Tadataka stamp.jpg|thumb|1995年発行の[[切手]]]]
=== 小説 ===
* [[井上ひさし]]『[[四千万歩の男]]』([[講談社]]/1992年)
=== 映画 ===
* [[伊能忠敬 子午線の夢]](2001年 [[東映]] 監督:[[小野田嘉幹]]) - 演:[[加藤剛]]
* [[大河への道]](2022年5月20日 [[松竹]] 監督:中西健二) - 名前のみの登場
=== テレビドラマ ===
* [[からくり儀右衛門]](NHK, 1969年) - 演:[[信欣三]]
* [[四千万歩の男#テレビドラマ|四千万歩の男・伊能忠敬 人生ふた山、55歳の挑戦 妻が支えた日本地図作り]](2001年[[日本放送協会|NHK]]正月時代劇) - 演:[[橋爪功]]
* [[偉人の来る部屋]]第8回(TOKYO MX、2009年11月23日) - 演:[[志賀廣太郎]]
* [[歴史誕生]] / 日本を測った男 〜伊能忠敬50歳の挑戦〜(NHK、1991年2月1日放送) - 演:[[川谷拓三]](再現ドラマの主演及びナビゲーター)
* [[歴史秘話ヒストリア]](NHK、2018年6月6日放送) - 演:[[藤本幸広]][https://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/346.html]
* [[三匹が斬る!|続続・三匹が斬る!]](テレビ朝日系、1990年1月4日) - 演:[[財津一郎]](時代劇シリーズのゲスト)
* [[新解釈・日本史]]第4話(2014年5月) - 演:[[長谷川忍]]([[シソンヌ (お笑いコンビ)|シソンヌ]])
=== テレビアニメ ===
* [[ふるさとめぐり 日本の昔ばなし]] 「伊能忠敬」([[テレビ東京]]、2017年4月16日放送) - 声:[[柄本明]]
* [[ねこねこ日本史#テレビアニメ|ねこねこ日本史]]([[Eテレ]] - 声:[[小林ゆう]])
=== 舞台 ===
* 伊能忠敬物語 - 演:[[加藤剛]]
=== 漫画 ===
* [[みなもと太郎]] 『[[風雲児たち]]』
* [[谷口ジロー]] 『[[ふらり。]]』 - 作中では明言されていないが、忠敬をモデルとしたと思しき中年男性を主人公とし、妻のお栄との江戸市中での生活する様子を、虚実取り混ぜながら描いた作品<!--<ref name="ふらり。" />-->。終盤で、蝦夷地での測量の許可が幕府からおり、男性は旅立ちを決意するが、この際お栄に同行を求めている(史実では大崎栄は同行しなかったとされる)<ref name="ふらり。">{{Cite web|和書|title=ふらり。|website=[[マンガペディア]]|publisher=百科綜合リサーチ・センター、[[一ツ橋グループ|エイトリンクス]]、[[CARTA HOLDINGS|VOYAGE MARKETING]]|url=https://mangapedia.com/%E3%81%B5%E3%82%89%E3%82%8A%E3%80%82-2vo92du3r|accessdate=2021-05-11}}</ref>。
* [[仲間りょう]] 『[[磯部磯兵衛物語~浮世はつらいよ~]]』
* [[そにしけんじ]] 『[[ねこねこ日本史]]』
* [[増田こうすけ]]『[[ギャグマンガ日和]]』
* [[本宮ひろ志]]『猛き黄金の国 伊能忠敬』
=== CM ===
*『[[夢の扉 〜NEXT DOOR〜]]』(56歳になって地図制作を開始したことから「いくつになっても夢を諦めちゃいけない」と語る。ただし地図の完成は彼の没後である。)
=== 楽曲 ===
*『風の薔薇〜歩いて地図をつくった男のウタ〜』(作詞:[[三浦徳子]]、作曲:[[中島卓偉]]、歌:[[真野恵里菜]]。2012年発売のアルバム『[[More Friends Over]]』収録)
*『伊能忠敬〜初めて日本地図を測った男〜』(作詞:二木葉子、作曲・編曲:丸山雅仁、歌:甕経風(もたいけいふう)。 2017年4月26日発売 日本コロムビア)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 参照元 ===
{{Reflist|20em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書
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|year=2000|month=10
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* {{Cite book|和書
|author=井上ひさし
|year=2000|month=12
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|isbn=4-06-209536-X
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* {{Cite book|和書
|author=伊能忠敬研究会
|year=1998|month=9
|title=忠敬と伊能図
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* {{Cite journal|和書
|author=伊能忠敏
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|title=北陸と伊能忠敬
|journal=土と基礎
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|pages=
|publisher=社団法人地盤工学会
|issn=0041-3798
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|author=上原久
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|author=大谷亮吉編著
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|url={{NDLDC|1874853}}
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* {{Cite book|和書
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|author=渡部健三
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* {{Cite book|和書
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* [[宮本義己]]『歴史をつくった人びとの健康法―生涯現役をつらぬく―』(中央労働災害防止協会、2002年)
== 関連項目 ==
* [[江戸幕府の地図事業]]
* [[伊能忠敬旧宅]]
* [[伊能忠敬記念館]]
== 外部リンク ==
{{commonscat|Ino Tadataka}}
*[https://www.city.katori.lg.jp/sightseeing/museum/ 伊能忠敬記念館] - 香取市
*[https://www.suigo-sawara.ne.jp/?p=we-page-tabbed-entries&spotlist=14319&cat=13830&type=story 伊能忠敬:香取の魅力が見つかる12の物語]
*[https://adeac.jp/ino-demo/ WEB版デジタル伊能図]ADEAC(アデアック)デジタルアーカイブシステム
*[http://core.kyoto3.jp/tran.html 江戸時代の測量機(これなあに)]
* {{Kotobank}}
* {{Cite web|和書|url=https://kochizu.gsi.go.jp/inouzu |title=伊能図 |access-date=2022-05-23 |publisher=[[国土地理院]] |website=古地図コレクション}}
*[https://iiif.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/repo/s/sokuchigenkozu/page/home 東京大学総合図書館所蔵 測地原稿図(伊能図)]
{{Normdaten}}
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[[Category:伊能忠敬|*]]
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[[Category:天文学に関する記事]] | 2003-05-16T03:52:04Z | 2023-12-29T12:45:46Z | false | false | false | [
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8,347 | 311年 | 311年(311 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。 | [
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[辛未]]
* [[日本]]
** 天皇空位(便宜上[[応神天皇]]42年と表記されることもある)
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]971年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[西晋]] : [[永嘉 (晋)|永嘉]]5年
** [[前趙]] : [[光興 (前趙)|光興]]2年、[[嘉平 (前趙)|嘉平]]元年
** [[成漢]] : [[玉衡]]元年
* [[朝鮮]]
** [[高句麗]] : [[美川王]]12年
** [[百済]] : [[比流王]]8年
** [[新羅]] : [[訖解尼師今|訖解王]]2年
** [[檀君紀元|檀紀]]2644年
* [[仏滅紀元]] : 854年
* [[ユダヤ暦]] : 4071年 - 4072年
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== カレンダー ==
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== できごと ==
* 西晋の実権を握っていた[[皇族]]・[[政治家]]の[[司馬越]]が[[憤死]]する。
* 西晋にて[[永嘉の乱]]が起こる( - [[316年]])
* 前趙が西晋の都である[[洛陽]]を攻略する(西晋の事実上の滅亡)。
== 誕生 ==
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<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
== 死去 ==
{{see also|Category:311年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[5月5日]] - [[ガレリウス]]、[[ローマ皇帝]](* [[250年]])
* [[12月3日]] - [[ディオクレティアヌス]]、[[ローマ皇帝]](* [[245年]])
* [[司馬越]]、西晋の皇族、[[八王の乱]]を終結させた(* 生年不詳)
== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|311}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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8,348 | 1822年 | 1822年(1822 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。 | [
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] | 1822年は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。 | {{年代ナビ|1822}}
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[壬午]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]([[寛政暦]])
** [[文政]]5年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2482年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[道光]]2年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[純祖]]22年
** [[檀君紀元|檀紀]]4155年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[阮朝]] : [[明命]]3年
* [[仏滅紀元]] : 2364年 - 2365年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1237年4月7日 - 1238年4月16日
* [[ユダヤ暦]] : 5582年4月8日 - 5583年4月17日
* [[ユリウス暦]] : 1821年12月20日 - 1822年12月19日
* [[修正ユリウス日]](MJD) : -13469 - -13105
* [[リリウス日]](LD) : 87372 - 87736
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1822}}
== できごと ==
* [[1月1日]]にギリシャ暫定政府([[ギリシャ第一共和政]])が発足する。
* [[9月7日]]に[[ブラジル]]が[[ポルトガル]]から独立する。
* [[ジャン=フランソワ・シャンポリオン]]により、[[古代エジプト文字の解読]]が部分的になされる。この発見をきっかけとして全面解読が成し遂げられた<ref>{{Cite book|和書|author=吉成 薫|date=1999|title=ヒエログリフ入門|publisher=株式会社 弥呂久|ISBN=4946482121|ref={{sfnref|吉成|1999}}}} pp.24-27</ref>。
* [[ニセフォール・ニエプス]]が、世界初の[[写真]]エッチングを製作。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1822年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月2日]] - [[ルドルフ・クラウジウス]]、[[物理学者]](+ [[1888年]])
* [[1月6日]] - [[ハインリヒ・シュリーマン|シュリーマン]]、ドイツの[[考古学者]](+ [[1890年]])
* [[1月12日]] - [[ジャン=ジョゼフ・エティエンヌ・ルノアール]]、[[技術者]]・[[実業家]](+ [[1900年]])
* [[1月22日]]([[文政]]4年[[12月30日 (旧暦)|12月30日]])- [[小中村清矩]]、[[国学|国学者]](+ [[1895年]])
* [[2月4日]](文政5年[[1月13日 (旧暦)|1月13日]])- [[本田親徳]]、[[神道|神道家]](+ [[1889年]])
* [[2月14日]] - [[ヴィクトワール・ド・サクス=コブール=コアリー]]、[[フランス王国|フランス王族]](+ [[1857年]])
* [[2月16日]] - [[フランシス・ゴルトン]]、[[人類学|人類学者]]・[[統計学|統計学者]](+ [[1911年]])
* [[2月22日]] - [[アドルフ・クスマウル]]、[[医学者]](+ [[1902年]])
* [[3月14日]] - [[テレサ・クリスティナ・デ・ボルボン=シシリアス|テレサ・クリスティナ]]、[[ブラジル帝国|ブラジル皇帝]][[ペドロ2世 (ブラジル皇帝)|ペドロ2世]]の皇后(+ [[1889年]])
* [[3月16日]] - [[ローザ・ボヌール]]、[[画家]]・[[彫刻家]](+ [[1899年]])
* [[3月17日]] - [[サイード・パシャ]]、[[ムハンマド・アリー朝]]エジプト総督(+ [[1863年]])
* [[3月20日]] - [[フレデリック・パシー]]、[[経済学者]](+ [[1912年]])
* [[3月27日]] - [[アンリ・ミュルジェール]]、[[小説家]](+ [[1861年]])
* [[4月16日]] - [[ロベルト・ルター]]、[[天文学者]](+ [[1900年]])
* [[4月27日]] - [[ユリシーズ・グラント|グラント]]、第18代[[アメリカ合衆国大統領]](+ [[1885年]])
* [[5月1日]](文政5年[[3月10日 (旧暦)|3月10日]])- [[栗本鋤雲]]、[[新聞記者]]・[[江戸幕府]][[外国奉行]]、[[勘定奉行]](+ [[1897年]])
* [[5月12日]] - [[ジェイムズ・ローレンス・オア]]、[[サウスカロライナ州]]知事(+ [[1873年]])
* [[5月26日]] - [[エドモン・ド・ゴンクール]]、フランスの[[作家]]・[[美術評論家]](+ [[1896年]])
* [[6月2日]] - [[ジョン・スペンサー=チャーチル (第7代マールバラ公)|第7代マールバラ公ジョン・スペンサー=チャーチル]]、イギリスの貴族・政治家(+ [[1883年]])
* [[6月29日]](文政5年[[5月11日 (旧暦)|5月11日]])- [[小笠原長行]]、江戸幕府[[老中]](+ [[1891年]])
* 6月 - 7月(文政5年5月) - [[新見正興]]、江戸幕府外国奉行(+ [[1869年]])
* [[7月13日]] - [[ハインリヒ・ダレスト]]、天文学者(+ [[1875年]])
* [[7月19日]] - [[オーガスタ・オブ・ケンブリッジ|オーガスタ]]、メクレンブルク=シュトレーリッツ大公[[フリードリヒ・ヴィルヘルム (メクレンブルク=シュトレーリッツ大公)|フリードリヒ・ヴィルヘルム]]の妃(+ [[1916年]])
* [[7月20日]] - [[グレゴール・ヨハン・メンデル|メンデル]]、[[オーストリア]]の[[神父]]・[[生物学者]]・[[メンデルの法則]]発見者(+ [[1884年]])
* [[8月14日]] - [[ジェイムズ・ウィリアム・マーシャル (郵政長官)|ジェイムズ・ウィリアム・マーシャル]]、第27代[[アメリカ合衆国郵政長官]](+ [[1910年]])
* [[9月11日]] - [[オリガ・ニコラエヴナ (ヴュルテンベルク王妃)|オリガ・ニコラエヴナ]]、[[ヴュルテンベルク王国|ヴュルテンベルク王]][[カール1世 (ヴュルテンベルク王)|カール1世]]の妃(+ [[1892年]])
* [[10月4日]] - [[ラザフォード・ヘイズ]]、第19代アメリカ合衆国大統領(+ [[1893年]])
* [[10月18日]] - [[ミドハト・パシャ]]、[[オスマン帝国]]の[[政治家]](+ [[1884年]])
* [[10月21日]] - [[アドルフ・ストレッカー]]、[[化学者]](+ [[1871年]])
* [[10月23日]] - [[グスタフ・シュペーラー]]、天文学者(+ [[1895年]])
* [[10月26日]](文政5年[[9月12日 (旧暦)|9月12日]]) - [[島義勇]]、元[[開拓使]]主席判官・[[秋田県|秋田県令]](+ [[1874年]])
* [[11月10日]] - [[ウィリアム・ヘンリー・トレスコット]]、[[政治家]](+ [[1898年]])
* [[11月26日]] - [[リリー・マーティン・スペンサー]]、[[画家]](+ [[1902年]])
* [[12月10日]] - [[セザール・フランク]]、[[作曲家]](+ [[1890年]])
* [[12月24日]] - [[マシュー・アーノルド]]、[[詩人]](+ [[1888年]])
* 12月24日 - [[シャルル・エルミート]]、[[数学者]](+ [[1901年]])
* [[12月27日]] - [[ルイ・パスツール|パスツール]]、フランスの[[生化学|生化学者]]・[[細菌学|細菌学者]](+ [[1895年]])
* 月日不詳 - [[雲龍久吉]]、[[大相撲]]第10代[[横綱]](+ [[1890年]])
* 月日不詳 - [[橋本勘五郎]]、[[熊本藩]]の[[石工]](+ [[1897年]])
* 月日不詳 - [[関東綱五郎]]、[[侠客]](+ [[1886年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1822年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[4月2日]](文政5年[[3月11日 (旧暦)|3月11日]]) - [[上杉治憲|上杉鷹山]]、[[米沢藩]][[藩主]](* [[1751年]])
* [[6月25日]] - [[E.T.A.ホフマン]]、[[作家]]・[[作曲家]]・[[音楽評論家]]・[[画家]]・[[法律家]](* [[1776年]])
* [[8月25日]] - [[ウィリアム・ハーシェル]]、[[天文学者]]・[[音楽家]](* [[1738年]])
* [[10月13日]] - [[アントニオ・カノーヴァ]]、[[彫刻家]](* [[1757年]])
* [[11月6日]] - [[クロード・ルイ・ベルトレー]]、[[化学者]](* [[1749年]])
* [[12月21日]] - [[ギデオン・グレンジャー]]、第7代[[アメリカ合衆国郵政長官]](* [[1767年]])
== 出典 ==
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== 関連項目 ==
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
== 外部リンク ==
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1822%E5%B9%B4 |
8,351 | 組み立てパズル | 組み立てパズル(くみたてパズル)は、大小さまざまなサイズまたは形状の部品を組み合わせて目的の形状を作るパズルの一種である。立方体を単位とした形状をしている部品からなるものが多い。
なお、平面のものは組み立てパズルとはいわないことが多い。
日本の伝統的な木工品に組み木パズルがある。
組木には主に以下の2つがある。
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'''組み立てパズル'''(くみたてパズル)は、大小さまざまなサイズまたは形状の部品を組み合わせて目的の形状を作る[[パズル]]の一種である。[[立方体]]を[[単位]]とした形状をしている部品からなるものが多い。
なお、[[平面]]のものは組み立てパズルとはいわないことが多い。
==組木==
[[File:Hlavolamy - letadlo.jpg|thumb|飛行機の形の組み木]]
[[日本]]の伝統的な[[木工品]]に[[組み木パズル]]がある。
組木には主に以下の2つがある。
*棒状のパーツが互いに交わっている物。
*物(動物・建造物など)をかたどった物。
いずれも、
*完成しているものをすべて分解する。
*バラバラの状態から組上げる。
という2つの問題を有している。
産地として、神奈川県[[箱根町]]、島根県[[益田市]]匹見町が有名である。
箱根町のものは、箱根細工という名前で知られている。
==関連項目==
*[[寄木細工]]
*[[秘密箱]]
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[[Category:パズル]] | null | 2021-06-17T05:48:55Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%84%E3%81%BF%E7%AB%8B%E3%81%A6%E3%83%91%E3%82%BA%E3%83%AB |
8,352 | イギリス連邦 | コモンウェルス・オブ・ネイションズ(英語: Commonwealth of Nations)、通称:コモンウェルス(Commonwealth)は、イギリス帝国のほぼ全ての旧領土である56の加盟国から構成される国家連合。この組織の主な機関は、政府間の関係に焦点を当てたコモンウェルス事務局と、加盟国間の非政府関係に焦点を当てたコモンウェルス基金である。
日本では旧名(英語: British Commonwealth)に由来するイギリス連邦(イギリスれんぽう)、英連邦(えいれんぽう)と称されることも多いが、1949年にイギリス(British)という表記は撤廃されている。
コモンウェルスの歴史は20世紀前半に遡り、イギリス帝国の脱植民地化に伴い、領土の自治が強化されたことで始まった。元々は1926年の帝国会議でのバルフォア宣言によってイギリス連邦(British Commonwealth of Nations)として設立され、1931年にはウェストミンスター憲章でイギリスによって正式に制定された。現在のコモンウェルスは1949年のロンドン宣言(英語版)によって正式に構成され、共同体を近代化して加盟国を「自由で平等」なものとして確立した。加盟国は、56ヶ国(一覧)。
コモンウェルス首長(英語: Head of the Commonwealth)は現在、イギリス国王のチャールズ3世(在位:2022年9月8日 - )である。国王は、君主制である加盟国20ヶ国のうち15ヶ国の元首であり(イギリス連邦王国)、他の5つの君主国は独自の君主を持つ。他の36の加盟国は共和制である。
加盟国は相互に法的義務を負っていないが、英語の使用や歴史的な繋がりを通じて繋がっている。民主主義・人権・法の支配といった共通の価値観はコモンウェルス憲章に明記されており、4年に1度のコモンウェルスゲームズによって推進されている。
イギリス連邦の国々の面積は31,844,000 km (12,295,000 sq mi)以上で、これは世界の国土面積の21パーセントに相当する。総人口は2021年時点で26億1266万人と推定されており、これは世界人口の3分の1近くに相当し、人口別では国際連合(UN)と上海協力機構(SCO)に次いで3番目に大きな政府間組織となっている。
19世紀には世界最大の帝国として覇を唱えていたイギリス帝国は、20世紀に入るとアメリカ合衆国、ドイツの追い上げによって国力の優位は次第に小さなものとなっていった。こうした中で19世紀後半以降イギリス本国は世界各地の入植型植民地の権限を強化していき、特に白人が人口の多くを占める植民地に自治権を与え、自治領(ドミニオン)とするようになっていった。1867年にイギリス領北アメリカ法によって3つのイギリスの北アメリカ植民地が連邦を組み、カナダとしてドミニオン化したのを皮切りに、1901年にはオーストラリア大陸の6植民地が連邦化してオーストラリア連邦が成立し、1907年にはニュージーランドとニューファンドランドが、1910年には南アフリカの4植民地が合同して連邦化して南アフリカ連邦が成立した(現在の南アフリカ共和国の前身)。これらの自治領とイギリスとの間には1887年から協議機関として植民地会議が開催されていたが、1907年にはこれは帝国会議と改称され、帝国会議に出席できる自治領は植民地(Colony)ではなくドミニオン(Dominion)と呼称するようになった。この動きの中で、1911年にはオーストラリアとカナダが独自の海軍創設を認められるなど(→オーストラリア海軍、カナダ海軍)、自治領諸国は自立の動きを強めていった。
こうした動きは第一次世界大戦においてより強まった。この大戦には全てのドミニオン・植民地が参戦したが、オーストラリアで1916年に徴兵制導入が拒否されたり、ボーア戦争以来反英感情のくすぶる南アフリカにおいては1914年にボーア人によるマリッツ反乱が起きるなど、各ドミニオンにおいてイギリスからの自立を目指す動きが活発化した。この動きが最も激しかったのはイギリス本国に組み込まれていたアイルランドであり、1919年にはついにアイルランド独立戦争が勃発し、1921年にはアイルランド自由国としてドミニオンの地位を獲得した。こうした中で各植民地の協力を得るためにイギリス本国はさらに融和的な姿勢を取るようになり、1917年には各ドミニオンの代表が参加した帝国戦時内閣が開催された。第一次世界大戦の講和条約であるヴェルサイユ条約が1919年に締結された際には各ドミニオンの代表は出席を許され、国際連盟の委任統治領としてオーストラリアがニューギニアを、南アフリカが南西アフリカを、ニュージーランドが西サモアをそれぞれ本国とは別に獲得し、連盟にもそれぞれ加盟を許された。こうして、各ドミニオンは既に実質的には独立国と変わりないものとなっていった。
第一次世界大戦後にイギリスの国力退潮が鮮明となると帝国の支配体制は揺らぎはじめ、それに伴って各ドミニオンはさらに独立傾向を強めていき、1926年の帝国会議では特に反英感情に強かったアイルランド自由国とアフリカーナー主体の南アフリカ連邦がついに帝国離脱を要求した。これを受けてイギリス本国と各ドミニオンとが対等であるとするバルフォア報告書が作成され、これを土台とした新しい帝国の在り方を規定する憲章が制定されることとなった。こうして制定されたのがウェストミンスター憲章である。
1931年にイギリス議会におけるウェストミンスター憲章(Statute of Westminster)において、イギリス国王に対する共通の忠誠によって結ばれた、それぞれが主権をもつ対等な独立国の自由な連合体と定義され、イギリス、アイルランド自由国(のちに脱退)、カナダ、ニューファンドランド(のちにカナダの1州となる)、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ連邦をメンバーとして発足した。この時点では旧来のドミニオンの連合に過ぎず、白人自治領の連合体としての性格を持っていた。また、この時点においては旧来のイギリス帝国はいまだ存続しており、帝国とコモンウェルスが併存する体制を取っていた。
成立期はブロック経済としての側面を強める傾向にあった。1929年に始まった世界恐慌はコモンウェルスにも甚大な被害をもたらしており、こうした中でイギリスは従来取っていた自由貿易主義を放棄し、他国からの輸入に関税をかけた一方で、コモンウェルス内においては1932年のオタワ協定において相互に関税率を引き下げ、連邦内の貿易を促進する政策を取った。この関税は帝国特恵関税と呼ばれ、これによってポンド圏(スターリング・ブロック)が成立した。ただし、経済的にアメリカと非常に強い関係にあったカナダはこのブロックには加入していなかった。逆にイギリスと非常に強い経済関係にあったアルゼンチンはこのブロックに加入するなど、コモンウェルスとスターリング・ブロックの範囲は完全に一致していたわけではない。この帝国特恵関税およびスターリング・ブロックは第二次世界大戦中に崩壊し、以後コモンウェルスが経済ブロック化することはなかった。
第二次世界大戦後、1947年にインドおよびパキスタンが独立したことで(インド・パキスタン分離独立)、白人連合としての性格が消滅した。さらにこの独立の際にインドは近日中に制定される予定の憲法において共和制を取ることを表明し、なおかつその後もコモンウェルスにとどまることを希望した。この要望は受け入れられ、1950年にインドが共和制をとった後も残留を認めたために、以後「イギリス国王に対する共通の忠誠」は連合体の必要条件から除外されることとなり、同君連合以外の国家も連邦参加が可能となった。こうして、同君連合である英連邦王国とコモンウェルスが制度的に分離した。これにより、政治体制にかかわらずイギリスから新たに独立した国家がコモンウェルスに留まることが可能になり、以後の拡大をもたらすこととなった。一方で、1947年には当時まだ形式上は同君連合である印パ両国が第一次印パ戦争に至るなど、連邦や同君連合の拘束力の形骸化も顕わとなった。1949年には、従来の加盟国の中で最も反英的だったアイルランドが脱退した。
戦後のイギリスは海上覇権をほぼ喪失した形となり、1940年代から1950年代にはアジア諸国が次々とイギリスから独立した。1956年に起きたスエズ動乱において、エジプトに軍事介入したイギリスの行動はコモンウェルス内でほとんど支持を得ることができず、さらに戦後の超大国であるアメリカとソ連の反対によって軍事介入自体が失敗に終わった。これによりイギリスの軍事的威信は失墜し、脱植民地化の流れはとどめようのないものとなっていった。イギリスも植民地を独立させたうえでコモンウェルスにとどめて影響力を維持する戦略へと転換し、1960年代にはアフリカ諸国が次々とイギリスから独立した。こうした新独立国のほとんどはコモンウェルスにとどまった。
一方で1961年には創設時からの加盟国であった南アフリカ共和国が脱退した。南アフリカは1961年に国民投票を行ってイギリス連邦王国から共和制を取ることとなったが、共和制でも加盟はできるため、南アフリカ政府は当初は脱退する意向は持っていなかった。しかしいまや有色人種の国が多数を占めるコモンウェルスにおいて南アフリカのアパルトヘイト政策への批判が噴出し、これで態度を硬化させた南アフリカが脱退を通告した。
こうした流れは1964年に起きたローデシア問題においてよりいっそう明確なものとなった。1923年以降広範な自治権をもっていた南ローデシアはコモンウェルスの準加盟国に近い立場にあったが、その後身であるローデシア・ニヤサランド連邦が1963年に解体し、そこから独立したマラウイとザンビアが加盟すると、いまだ人種差別主義を取る南ローデシアの完全独立および加盟が焦点となった。コモンウェルス加盟国のほとんどは南ローデシアに対して強硬な姿勢を取り、人種差別が撤廃されない限り独立およびコモンウェルス加盟を認めない立場を取ったため、宗主国であるイギリスもこれを考慮せざるを得なくなった。これに南ローデシア政府は反発し、1965年にはローデシア共和国として一方的に独立を宣言した。この対立は、1980年にローデシアが崩壊し黒人国家であるジンバブエ共和国がコモンウェルスに加盟するまで続いた。
また同じく創設時からの加盟国であるカナダ・オーストラリア・ニュージーランドが軍事および経済においてアメリカ合衆国に依存するようになる一方、新独立国の経済規模は当時まだ大きくなかった。こうした流れの中で、イギリス本国もコモンウェルスよりも、統一化の進むヨーロッパ大陸を志向するようになり、1961年には保守党のハロルド・マクミラン政権のもとで欧州経済共同体(EEC)加盟を申請した。この申請はフランスのシャルル・ド・ゴールに拒否されて実現しなかったものの、結局1973年にエドワード・ヒース政権のもとでEEC加盟は実現し、イギリスはコモンウェルスからヨーロッパへと重心を移すこととなった。
創設時のコモンウェルスにおける事務は1926年に植民地省から分離独立したイギリス政府内の自治領省が担っていた。自治領省は1947年にコモンウェルス省に改名され、その後も事務を担っていたが、イギリス領植民地の急速な独立とそれによる加盟国の急増によってイギリスの地位は低下し、ガーナのクワメ・エンクルマなどによってイギリス政府からの事務の独立が要求されることになった。こうして1965年にコモンウェルスの独立事務局が創設され、コモンウェルスはイギリス政府から独立した機構となった。さらにそれまでロンドンにおいて行われていたコモンウェルスの首相会議が1966年にはナイジェリアのラゴスにおいて開催された。1971年には首相会議がシンガポールで行われ、これ以降会議はイギリス本国での開催から加盟国間における持ち回りでの開催となった。
1971年に発せられたシンガポール宣言において、コモンウェルスは「民族の共通の利益の中で、また国際的な理解と世界平和の促進の中で、協議し、協力する自発的な独立の主権国の組織である(コモンウェルス原則の宣言前文)」と再定義され、ゆるやかな独立主権国家の連合となった(連邦国家ではない)。1970年代から1980年代には残されたイギリス植民地のほとんどが独立し、コモンウェルス加盟国となった。1994年にはアパルトヘイトを撤廃した南アフリカが再加盟した。
1995年に旧イギリス領または旧ドミニオン諸国領以外の初の加盟国としてモザンビーク(旧ポルトガル領)の加盟が承認され、コモンウェルスは旧イギリス領以外にも加盟国の範囲を広げることとなった。さらに、ルワンダ紛争による新政権樹立を経て親フランスから親イギリス・アメリカへと外交方針を転換したルワンダ(旧ドイツ帝国領→ベルギー委任・信託統治領)が2009年に加盟した。この前年にルワンダは、ルワンダ語やフランス語に加えて新たに英語を公用語としている。2022年には旧フランス領のガボンとトーゴが加盟した。背景にはイギリスの欧州連合離脱に伴う両国関係の再構築と、旧フランス領諸国のフランス離れがあるという。
コモンウェルスは独立した事務局(英: Commonwealth Secretariat)及び各種機関を備えており、それらの多くはロンドンのマールボロ・ハウスに設置されている。
コモンウェルス首脳は、加盟国56カ国の大統領または首相、ブルネイにあっては国王兼首相である。
コモンウェルス首長は、現在54の主権国家で構成される政府間組織であるコモンウェルス・オブ・ネイションズ(旧イギリス連邦)の「独立した加盟国の自由連想法」を象徴する儀礼的指導者に与えられる称号である。任期とその制限は規定されておらず、その役割自体は、連邦内の加盟国における普段の統治には関与していない。この称号は、設立以来、現役のイギリスの君主によって保持されてきた。
1949年までに、イギリス連邦は8か国のグループになり、各国が国王ジョージ6世を君主として持っていた。しかし、インドは共和制への移行を希望していたが、イギリス連邦からの脱退は望んでいなかった。これは、王の連邦首長という称号の創設によって対応され、インドは1950年に共和制となった。その後、パキスタン、スリランカ、ガーナ、シンガポールを含む他の多くの国が、イギリスの君主を自国の国家元首とすることを廃止したものの、コモンウェルス・オブ・ネイションズの加盟国として、イギリスの君主がコモンウェルスの首長を担うことは認めた。
この地位には長らくエリザベス2世(ジョージ6世長女)が就いていたが、在位中の2018年コモンウェルス首脳会議(英語版)で、ウェールズ公チャールズ(エリザベス2世長男)が指定後継者に任命され、2022年9月8日のエリザベス2世崩御により、チャールズ3世がコモンウェルス首長となった。
※CHOGM:コモンウェルス首脳会議(Commonwealth Heads of Government Meeting)
加盟国同士では、通常の国対国のように特命全権大使を交換せず、「高等弁務官」を外交使節長として、大使館の代わりに高等弁務官事務所を置いている。
これは大使が国家元首の代理及びその大使の駐在先を大使館として呼ぶことが、各国の国家元首が同一人物たる同君連合に当たる諸国間では不適当であったためだが、加盟国の中でイギリス国王を君主・元首としなくなった国においても伝統的にこの名称が使われている。
イギリスは加盟国国民に国政および地方選挙における選挙権および被選挙権を認めている。また加盟国国民には査証発給(免除)やワーキング・ホリデーに関する優遇措置がある。さらに自国の在外公館が置かれていないコモンウェルス外の国において、イギリスの在外公館による援護を受けることができる。
これらの特典はコモンウェルス市民権(英語版)(英: Commonwealth Citizenship)と称される。この市民権は旧来の「イギリス帝国臣民」に対応するもので、1948年のイギリス国籍法において制定された。ただし市民権は互恵的なものではなく、加盟国国民に対する待遇は加盟国によってまちまちである。
加盟国の政府の長(首相または大統領)は2年に1度、西暦の奇数年に会議を行う。開催地は1971年以降、加盟各国による持ち回りとなっている。 前身は以下のとおり。
加盟国には共和制と君主制が混在し、共和制においては選挙された大統領や首相が置かれるが、君主制においては国家元首・君主を置く国、すなわちイギリス国王を君主とする国(英連邦王国15カ国)やブルネイ王国がある。英連邦王国では、法人としての国王が任命した総督が国王の役割を代行しているが、現代では総督は実質的には首相による指名制とする場合が多い。カナダの総督、オーストラリアの総督、ニュージーランドの総督などがこの事例に含まれる(詳細は、「現在の英連邦王国」を参照)。
モザンビーク(旧ポルトガル領、公用語はポルトガル語)を除くほとんどの国では、英語を公用語かそれに準じる言語としている。ルワンダはベルギー統治時代以降、ベルギーの主要公用語であったフランス語を第二公用語としてきたが、親仏(および旧フランス植民地)的な政府が打倒されたルワンダ紛争後は、英語が公用語に追加された。
イギリスの旧植民地やコモンウェルス加盟国は、統治時代に英語教育と共に導入されたイングランド式の教育制度を独立後もそのまま引き継いだり、一部を変更して継続する国が多い。資格制度においてもイギリスの制度設計が導入されていることが多い。
このためイギリスへの留学時に優遇される措置や、本国での資格を有していればイギリスで同じ資格を取得する際に試験の一部が免除されるなどの共通化制度がある。
イングランドに倣いコモン・ロー(英米法)を導入した国が多い。ただし、コモン・ローは土着の慣行を柱とする法体系でもあるため、それ以前から大陸法が根付いていた地域(南アフリカ共和国など)では大陸法ないし大陸法的な要素が取り入れられている。政治制度では、ウェストミンスター・システム(議院内閣制)を採用する国も多いが、これにもナイジェリアのような例外もある。
人権尊重と法の支配が求められ、これらに対して重大な侵害があるという理由で資格停止とされる国もある。
また、国際司法裁判所の選択条項受諾宣言における「コモンウェルス留保」というものがあり、2014年時点でバルバドス、カナダ、インド、ケニア、マルタ、モーリシャス、イギリス、ガンビアの8カ国が採用している。この留保を付すると、同じくイギリス連邦諸国から訴えられる場合、紛争は国際司法裁判所の管轄権限外と見做される。特にインドはこの宣言により、パキスタンからの提訴を回避できたことがある。
世界的には右側通行が多くを占めているが、コモンウェルスやイギリスの影響が強い国では左側通行が大半を占める(それ以外では旧植民地の香港。またそれ以外だと日本やタイ、インドネシアなど)。また2階建てバスの運行、さらにイギリス本国との航空便数が多かったり、フラッグキャリアの唯一の長距離国際線がロンドンと首都を結ぶ便でことであることも多い(ロイヤルブルネイ航空やビーマン・バングラデシュ航空、マレーシア航空など)。
加盟国や旧加盟国ではイギリス本国の影響で、食文化では紅茶を飲む習慣など、元々現地には無かった文化や風習が導入され定着している。また、英語が国民多数派の母語であったり、あるいは多様な母語をもつ国民の共通語として用いられる場合が多いが、その英語の綴りや用法はイギリス英語と共通であることが多い。
スポーツでは、ラグビーやクリケット、ポロやモータースポーツなどが盛んな国が多い。1930年以降、4年に1回コモンウェルスゲームズと呼ばれる、加盟国による総合競技大会も行われている。 | [
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"text": "コモンウェルス・オブ・ネイションズ(英語: Commonwealth of Nations)、通称:コモンウェルス(Commonwealth)は、イギリス帝国のほぼ全ての旧領土である56の加盟国から構成される国家連合。この組織の主な機関は、政府間の関係に焦点を当てたコモンウェルス事務局と、加盟国間の非政府関係に焦点を当てたコモンウェルス基金である。",
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"text": "日本では旧名(英語: British Commonwealth)に由来するイギリス連邦(イギリスれんぽう)、英連邦(えいれんぽう)と称されることも多いが、1949年にイギリス(British)という表記は撤廃されている。",
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"text": "コモンウェルスの歴史は20世紀前半に遡り、イギリス帝国の脱植民地化に伴い、領土の自治が強化されたことで始まった。元々は1926年の帝国会議でのバルフォア宣言によってイギリス連邦(British Commonwealth of Nations)として設立され、1931年にはウェストミンスター憲章でイギリスによって正式に制定された。現在のコモンウェルスは1949年のロンドン宣言(英語版)によって正式に構成され、共同体を近代化して加盟国を「自由で平等」なものとして確立した。加盟国は、56ヶ国(一覧)。",
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"text": "コモンウェルス首長(英語: Head of the Commonwealth)は現在、イギリス国王のチャールズ3世(在位:2022年9月8日 - )である。国王は、君主制である加盟国20ヶ国のうち15ヶ国の元首であり(イギリス連邦王国)、他の5つの君主国は独自の君主を持つ。他の36の加盟国は共和制である。",
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"text": "加盟国は相互に法的義務を負っていないが、英語の使用や歴史的な繋がりを通じて繋がっている。民主主義・人権・法の支配といった共通の価値観はコモンウェルス憲章に明記されており、4年に1度のコモンウェルスゲームズによって推進されている。",
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"text": "イギリス連邦の国々の面積は31,844,000 km (12,295,000 sq mi)以上で、これは世界の国土面積の21パーセントに相当する。総人口は2021年時点で26億1266万人と推定されており、これは世界人口の3分の1近くに相当し、人口別では国際連合(UN)と上海協力機構(SCO)に次いで3番目に大きな政府間組織となっている。",
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"text": "19世紀には世界最大の帝国として覇を唱えていたイギリス帝国は、20世紀に入るとアメリカ合衆国、ドイツの追い上げによって国力の優位は次第に小さなものとなっていった。こうした中で19世紀後半以降イギリス本国は世界各地の入植型植民地の権限を強化していき、特に白人が人口の多くを占める植民地に自治権を与え、自治領(ドミニオン)とするようになっていった。1867年にイギリス領北アメリカ法によって3つのイギリスの北アメリカ植民地が連邦を組み、カナダとしてドミニオン化したのを皮切りに、1901年にはオーストラリア大陸の6植民地が連邦化してオーストラリア連邦が成立し、1907年にはニュージーランドとニューファンドランドが、1910年には南アフリカの4植民地が合同して連邦化して南アフリカ連邦が成立した(現在の南アフリカ共和国の前身)。これらの自治領とイギリスとの間には1887年から協議機関として植民地会議が開催されていたが、1907年にはこれは帝国会議と改称され、帝国会議に出席できる自治領は植民地(Colony)ではなくドミニオン(Dominion)と呼称するようになった。この動きの中で、1911年にはオーストラリアとカナダが独自の海軍創設を認められるなど(→オーストラリア海軍、カナダ海軍)、自治領諸国は自立の動きを強めていった。",
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"text": "こうした動きは第一次世界大戦においてより強まった。この大戦には全てのドミニオン・植民地が参戦したが、オーストラリアで1916年に徴兵制導入が拒否されたり、ボーア戦争以来反英感情のくすぶる南アフリカにおいては1914年にボーア人によるマリッツ反乱が起きるなど、各ドミニオンにおいてイギリスからの自立を目指す動きが活発化した。この動きが最も激しかったのはイギリス本国に組み込まれていたアイルランドであり、1919年にはついにアイルランド独立戦争が勃発し、1921年にはアイルランド自由国としてドミニオンの地位を獲得した。こうした中で各植民地の協力を得るためにイギリス本国はさらに融和的な姿勢を取るようになり、1917年には各ドミニオンの代表が参加した帝国戦時内閣が開催された。第一次世界大戦の講和条約であるヴェルサイユ条約が1919年に締結された際には各ドミニオンの代表は出席を許され、国際連盟の委任統治領としてオーストラリアがニューギニアを、南アフリカが南西アフリカを、ニュージーランドが西サモアをそれぞれ本国とは別に獲得し、連盟にもそれぞれ加盟を許された。こうして、各ドミニオンは既に実質的には独立国と変わりないものとなっていった。",
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"text": "第一次世界大戦後にイギリスの国力退潮が鮮明となると帝国の支配体制は揺らぎはじめ、それに伴って各ドミニオンはさらに独立傾向を強めていき、1926年の帝国会議では特に反英感情に強かったアイルランド自由国とアフリカーナー主体の南アフリカ連邦がついに帝国離脱を要求した。これを受けてイギリス本国と各ドミニオンとが対等であるとするバルフォア報告書が作成され、これを土台とした新しい帝国の在り方を規定する憲章が制定されることとなった。こうして制定されたのがウェストミンスター憲章である。",
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"text": "1931年にイギリス議会におけるウェストミンスター憲章(Statute of Westminster)において、イギリス国王に対する共通の忠誠によって結ばれた、それぞれが主権をもつ対等な独立国の自由な連合体と定義され、イギリス、アイルランド自由国(のちに脱退)、カナダ、ニューファンドランド(のちにカナダの1州となる)、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ連邦をメンバーとして発足した。この時点では旧来のドミニオンの連合に過ぎず、白人自治領の連合体としての性格を持っていた。また、この時点においては旧来のイギリス帝国はいまだ存続しており、帝国とコモンウェルスが併存する体制を取っていた。",
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"text": "成立期はブロック経済としての側面を強める傾向にあった。1929年に始まった世界恐慌はコモンウェルスにも甚大な被害をもたらしており、こうした中でイギリスは従来取っていた自由貿易主義を放棄し、他国からの輸入に関税をかけた一方で、コモンウェルス内においては1932年のオタワ協定において相互に関税率を引き下げ、連邦内の貿易を促進する政策を取った。この関税は帝国特恵関税と呼ばれ、これによってポンド圏(スターリング・ブロック)が成立した。ただし、経済的にアメリカと非常に強い関係にあったカナダはこのブロックには加入していなかった。逆にイギリスと非常に強い経済関係にあったアルゼンチンはこのブロックに加入するなど、コモンウェルスとスターリング・ブロックの範囲は完全に一致していたわけではない。この帝国特恵関税およびスターリング・ブロックは第二次世界大戦中に崩壊し、以後コモンウェルスが経済ブロック化することはなかった。",
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"text": "第二次世界大戦後、1947年にインドおよびパキスタンが独立したことで(インド・パキスタン分離独立)、白人連合としての性格が消滅した。さらにこの独立の際にインドは近日中に制定される予定の憲法において共和制を取ることを表明し、なおかつその後もコモンウェルスにとどまることを希望した。この要望は受け入れられ、1950年にインドが共和制をとった後も残留を認めたために、以後「イギリス国王に対する共通の忠誠」は連合体の必要条件から除外されることとなり、同君連合以外の国家も連邦参加が可能となった。こうして、同君連合である英連邦王国とコモンウェルスが制度的に分離した。これにより、政治体制にかかわらずイギリスから新たに独立した国家がコモンウェルスに留まることが可能になり、以後の拡大をもたらすこととなった。一方で、1947年には当時まだ形式上は同君連合である印パ両国が第一次印パ戦争に至るなど、連邦や同君連合の拘束力の形骸化も顕わとなった。1949年には、従来の加盟国の中で最も反英的だったアイルランドが脱退した。",
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"text": "戦後のイギリスは海上覇権をほぼ喪失した形となり、1940年代から1950年代にはアジア諸国が次々とイギリスから独立した。1956年に起きたスエズ動乱において、エジプトに軍事介入したイギリスの行動はコモンウェルス内でほとんど支持を得ることができず、さらに戦後の超大国であるアメリカとソ連の反対によって軍事介入自体が失敗に終わった。これによりイギリスの軍事的威信は失墜し、脱植民地化の流れはとどめようのないものとなっていった。イギリスも植民地を独立させたうえでコモンウェルスにとどめて影響力を維持する戦略へと転換し、1960年代にはアフリカ諸国が次々とイギリスから独立した。こうした新独立国のほとんどはコモンウェルスにとどまった。",
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"text": "一方で1961年には創設時からの加盟国であった南アフリカ共和国が脱退した。南アフリカは1961年に国民投票を行ってイギリス連邦王国から共和制を取ることとなったが、共和制でも加盟はできるため、南アフリカ政府は当初は脱退する意向は持っていなかった。しかしいまや有色人種の国が多数を占めるコモンウェルスにおいて南アフリカのアパルトヘイト政策への批判が噴出し、これで態度を硬化させた南アフリカが脱退を通告した。",
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"text": "こうした流れは1964年に起きたローデシア問題においてよりいっそう明確なものとなった。1923年以降広範な自治権をもっていた南ローデシアはコモンウェルスの準加盟国に近い立場にあったが、その後身であるローデシア・ニヤサランド連邦が1963年に解体し、そこから独立したマラウイとザンビアが加盟すると、いまだ人種差別主義を取る南ローデシアの完全独立および加盟が焦点となった。コモンウェルス加盟国のほとんどは南ローデシアに対して強硬な姿勢を取り、人種差別が撤廃されない限り独立およびコモンウェルス加盟を認めない立場を取ったため、宗主国であるイギリスもこれを考慮せざるを得なくなった。これに南ローデシア政府は反発し、1965年にはローデシア共和国として一方的に独立を宣言した。この対立は、1980年にローデシアが崩壊し黒人国家であるジンバブエ共和国がコモンウェルスに加盟するまで続いた。",
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"text": "また同じく創設時からの加盟国であるカナダ・オーストラリア・ニュージーランドが軍事および経済においてアメリカ合衆国に依存するようになる一方、新独立国の経済規模は当時まだ大きくなかった。こうした流れの中で、イギリス本国もコモンウェルスよりも、統一化の進むヨーロッパ大陸を志向するようになり、1961年には保守党のハロルド・マクミラン政権のもとで欧州経済共同体(EEC)加盟を申請した。この申請はフランスのシャルル・ド・ゴールに拒否されて実現しなかったものの、結局1973年にエドワード・ヒース政権のもとでEEC加盟は実現し、イギリスはコモンウェルスからヨーロッパへと重心を移すこととなった。",
"title": "歴史"
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"text": "創設時のコモンウェルスにおける事務は1926年に植民地省から分離独立したイギリス政府内の自治領省が担っていた。自治領省は1947年にコモンウェルス省に改名され、その後も事務を担っていたが、イギリス領植民地の急速な独立とそれによる加盟国の急増によってイギリスの地位は低下し、ガーナのクワメ・エンクルマなどによってイギリス政府からの事務の独立が要求されることになった。こうして1965年にコモンウェルスの独立事務局が創設され、コモンウェルスはイギリス政府から独立した機構となった。さらにそれまでロンドンにおいて行われていたコモンウェルスの首相会議が1966年にはナイジェリアのラゴスにおいて開催された。1971年には首相会議がシンガポールで行われ、これ以降会議はイギリス本国での開催から加盟国間における持ち回りでの開催となった。",
"title": "歴史"
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"text": "1971年に発せられたシンガポール宣言において、コモンウェルスは「民族の共通の利益の中で、また国際的な理解と世界平和の促進の中で、協議し、協力する自発的な独立の主権国の組織である(コモンウェルス原則の宣言前文)」と再定義され、ゆるやかな独立主権国家の連合となった(連邦国家ではない)。1970年代から1980年代には残されたイギリス植民地のほとんどが独立し、コモンウェルス加盟国となった。1994年にはアパルトヘイトを撤廃した南アフリカが再加盟した。",
"title": "歴史"
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"text": "1995年に旧イギリス領または旧ドミニオン諸国領以外の初の加盟国としてモザンビーク(旧ポルトガル領)の加盟が承認され、コモンウェルスは旧イギリス領以外にも加盟国の範囲を広げることとなった。さらに、ルワンダ紛争による新政権樹立を経て親フランスから親イギリス・アメリカへと外交方針を転換したルワンダ(旧ドイツ帝国領→ベルギー委任・信託統治領)が2009年に加盟した。この前年にルワンダは、ルワンダ語やフランス語に加えて新たに英語を公用語としている。2022年には旧フランス領のガボンとトーゴが加盟した。背景にはイギリスの欧州連合離脱に伴う両国関係の再構築と、旧フランス領諸国のフランス離れがあるという。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "コモンウェルスは独立した事務局(英: Commonwealth Secretariat)及び各種機関を備えており、それらの多くはロンドンのマールボロ・ハウスに設置されている。",
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"text": "コモンウェルス首脳は、加盟国56カ国の大統領または首相、ブルネイにあっては国王兼首相である。",
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"text": "コモンウェルス首長は、現在54の主権国家で構成される政府間組織であるコモンウェルス・オブ・ネイションズ(旧イギリス連邦)の「独立した加盟国の自由連想法」を象徴する儀礼的指導者に与えられる称号である。任期とその制限は規定されておらず、その役割自体は、連邦内の加盟国における普段の統治には関与していない。この称号は、設立以来、現役のイギリスの君主によって保持されてきた。",
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"text": "1949年までに、イギリス連邦は8か国のグループになり、各国が国王ジョージ6世を君主として持っていた。しかし、インドは共和制への移行を希望していたが、イギリス連邦からの脱退は望んでいなかった。これは、王の連邦首長という称号の創設によって対応され、インドは1950年に共和制となった。その後、パキスタン、スリランカ、ガーナ、シンガポールを含む他の多くの国が、イギリスの君主を自国の国家元首とすることを廃止したものの、コモンウェルス・オブ・ネイションズの加盟国として、イギリスの君主がコモンウェルスの首長を担うことは認めた。",
"title": "制度"
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"text": "この地位には長らくエリザベス2世(ジョージ6世長女)が就いていたが、在位中の2018年コモンウェルス首脳会議(英語版)で、ウェールズ公チャールズ(エリザベス2世長男)が指定後継者に任命され、2022年9月8日のエリザベス2世崩御により、チャールズ3世がコモンウェルス首長となった。",
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"text": "※CHOGM:コモンウェルス首脳会議(Commonwealth Heads of Government Meeting)",
"title": "制度"
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"text": "加盟国同士では、通常の国対国のように特命全権大使を交換せず、「高等弁務官」を外交使節長として、大使館の代わりに高等弁務官事務所を置いている。",
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"text": "これは大使が国家元首の代理及びその大使の駐在先を大使館として呼ぶことが、各国の国家元首が同一人物たる同君連合に当たる諸国間では不適当であったためだが、加盟国の中でイギリス国王を君主・元首としなくなった国においても伝統的にこの名称が使われている。",
"title": "制度"
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"text": "イギリスは加盟国国民に国政および地方選挙における選挙権および被選挙権を認めている。また加盟国国民には査証発給(免除)やワーキング・ホリデーに関する優遇措置がある。さらに自国の在外公館が置かれていないコモンウェルス外の国において、イギリスの在外公館による援護を受けることができる。",
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"text": "これらの特典はコモンウェルス市民権(英語版)(英: Commonwealth Citizenship)と称される。この市民権は旧来の「イギリス帝国臣民」に対応するもので、1948年のイギリス国籍法において制定された。ただし市民権は互恵的なものではなく、加盟国国民に対する待遇は加盟国によってまちまちである。",
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"text": "加盟国の政府の長(首相または大統領)は2年に1度、西暦の奇数年に会議を行う。開催地は1971年以降、加盟各国による持ち回りとなっている。 前身は以下のとおり。",
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"text": "加盟国には共和制と君主制が混在し、共和制においては選挙された大統領や首相が置かれるが、君主制においては国家元首・君主を置く国、すなわちイギリス国王を君主とする国(英連邦王国15カ国)やブルネイ王国がある。英連邦王国では、法人としての国王が任命した総督が国王の役割を代行しているが、現代では総督は実質的には首相による指名制とする場合が多い。カナダの総督、オーストラリアの総督、ニュージーランドの総督などがこの事例に含まれる(詳細は、「現在の英連邦王国」を参照)。",
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"text": "モザンビーク(旧ポルトガル領、公用語はポルトガル語)を除くほとんどの国では、英語を公用語かそれに準じる言語としている。ルワンダはベルギー統治時代以降、ベルギーの主要公用語であったフランス語を第二公用語としてきたが、親仏(および旧フランス植民地)的な政府が打倒されたルワンダ紛争後は、英語が公用語に追加された。",
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"text": "イギリスの旧植民地やコモンウェルス加盟国は、統治時代に英語教育と共に導入されたイングランド式の教育制度を独立後もそのまま引き継いだり、一部を変更して継続する国が多い。資格制度においてもイギリスの制度設計が導入されていることが多い。",
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"text": "このためイギリスへの留学時に優遇される措置や、本国での資格を有していればイギリスで同じ資格を取得する際に試験の一部が免除されるなどの共通化制度がある。",
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"text": "イングランドに倣いコモン・ロー(英米法)を導入した国が多い。ただし、コモン・ローは土着の慣行を柱とする法体系でもあるため、それ以前から大陸法が根付いていた地域(南アフリカ共和国など)では大陸法ないし大陸法的な要素が取り入れられている。政治制度では、ウェストミンスター・システム(議院内閣制)を採用する国も多いが、これにもナイジェリアのような例外もある。",
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"text": "人権尊重と法の支配が求められ、これらに対して重大な侵害があるという理由で資格停止とされる国もある。",
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] | コモンウェルス・オブ・ネイションズ、通称:コモンウェルス(Commonwealth)は、イギリス帝国のほぼ全ての旧領土である56の加盟国から構成される国家連合。この組織の主な機関は、政府間の関係に焦点を当てたコモンウェルス事務局と、加盟国間の非政府関係に焦点を当てたコモンウェルス基金である。 日本では旧名に由来するイギリス連邦(イギリスれんぽう)、英連邦(えいれんぽう)と称されることも多いが、1949年にイギリス(British)という表記は撤廃されている。 コモンウェルスの歴史は20世紀前半に遡り、イギリス帝国の脱植民地化に伴い、領土の自治が強化されたことで始まった。元々は1926年の帝国会議でのバルフォア宣言によってイギリス連邦として設立され、1931年にはウェストミンスター憲章でイギリスによって正式に制定された。現在のコモンウェルスは1949年のロンドン宣言によって正式に構成され、共同体を近代化して加盟国を「自由で平等」なものとして確立した。加盟国は、56ヶ国(一覧)。 コモンウェルス首長は現在、イギリス国王のチャールズ3世である。国王は、君主制である加盟国20ヶ国のうち15ヶ国の元首であり(イギリス連邦王国)、他の5つの君主国は独自の君主を持つ。他の36の加盟国は共和制である。 加盟国は相互に法的義務を負っていないが、英語の使用や歴史的な繋がりを通じて繋がっている。民主主義・人権・法の支配といった共通の価値観はコモンウェルス憲章に明記されており、4年に1度のコモンウェルスゲームズによって推進されている。 イギリス連邦の国々の面積は31,844,000 km2 (12,295,000 sq mi)以上で、これは世界の国土面積の21パーセントに相当する。総人口は2021年時点で26億1266万人と推定されており、これは世界人口の3分の1近くに相当し、人口別では国際連合(UN)と上海協力機構(SCO)に次いで3番目に大きな政府間組織となっている。 | {{混同|x1=[[イギリス]]を指す|連合王国|x2=[[イギリスの君主|イギリス君主]]と同一人を自国の[[君主]]として戴く独立国家15か国・個々を指す|英連邦王国}}
{{暫定記事名|date=2020年5月|代案=英連邦、コモンウェルス・オブ・ネイションズ、コモンウェルス (旧イギリス領などの連合体)|t=ノート:英連邦王国}}
{{Infobox Geopolitical organisation
| name = コモンウェルス・オブ・ネイションズ<br>{{en|Commonwealth of Nations}}
| image_flag = Commonwealth Flag 2013.svg
| linking_name = the Commonwealth of Nations
| image_map = Member states of the Commonwealth of Nations.svg
| image_map_size = 300px
| map_caption = {{仮リンク|イギリス連邦加盟国|label=コモンウェルスの加盟国|en|Member states of the Commonwealth of Nations}}
| org_type = [[政府間組織]]<ref>{{cite web|url=http://thecommonwealth.org/our-charter|title=Commonwealth Charter|date=6 June 2013|quote=Recalling that the Commonwealth is a voluntary association of independent and equal sovereign states, each responsible for its own policies, consulting and co-operating in the common interests of our peoples and in the promotion of international understanding and world peace, and influencing international society to the benefit of all through the pursuit of common principles and values|access-date=5 March 2019}}</ref>
| membership = 56ヶ国([[#現在の加盟国一覧|#一覧]])
| admin_center_type = 本部
| admin_center = {{GBR}}<br>{{ENG}}<br>[[ロンドン]]<br>{{仮リンク|マールバラハウス|en|Marlborough House}}
| languages_type = 公用語
| languages = [[英語]]<br>([[:en:English in the Commonwealth of Nations|English in the Commonwealth of Nations]])
| leader_title1 = [[コモンウェルス首長]]
| leader_name1 = 国王[[チャールズ3世 (イギリス王)|チャールズ3世]]
| leader_title2 = [[:en:Commonwealth Secretary-General|事務総長]]
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| established_date1 = [[1926年]][[11月18日]]
| established_event2 = [[ウェストミンスター憲章]]
| established_date2 = [[1931年]][[12月11日]]<ref>{{cite web |url=http://www.civilservice.gov.uk/wp-content/uploads/2011/09/AnnexB_Commonwealth.pdf |archive-url=https://web.archive.org/web/20111206072849/http://www.civilservice.gov.uk/wp-content/uploads/2011/09/AnnexB_Commonwealth.pdf |url-status=dead |archive-date=6 December 2011 |title=Annex B – Territories Forming Part of the Commonwealth |date=September 2011 |publisher=[[:en:Civil Service (United Kingdom)|Her Majesty's Civil Service]] |access-date=19 November 2013}}</ref>
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}}
[[File:Marlborough House.jpg|thumb|事務局及び主要機関が置かれている[[ロンドン]]のマールボロ・ハウス。]]
'''コモンウェルス・オブ・ネイションズ'''({{lang-en|'''Commonwealth of Nations'''}})、通称:'''コモンウェルス'''({{en|'''Commonwealth'''}})<ref name="name">{{Cite news|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/europe/country_profiles/1554175.stm|title=BBC News – Profile: The Commonwealth|website=news.bbc.co.uk|date=February 2012}}</ref>は、[[イギリス帝国]]のほぼ全ての旧領土である56の加盟国から構成される[[国家連合]]<ref>{{Cite web|url=http://thecommonwealth.org/about-us|title=About us|publisher=The Commonwealth|accessdate=3 October 2013}}</ref>。この組織の主な機関は、政府間の関係に焦点を当てた[[:en:Commonwealth Secretariat|コモンウェルス事務局]]と、加盟国間の非政府関係に焦点を当てた[[:en:Commonwealth Foundation|コモンウェルス基金]]である<ref name="the commonwealth">{{Cite web|url=http://www.thecommonwealth.org/Internal/191086/191247/the_commonwealth|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100619122827/http://thecommonwealth.org/Internal/191086/191247/the_commonwealth/|archivedate=19 June 2010|title=The Commonwealth|publisher=The Commonwealth|accessdate=30 June 2013}}</ref>。
日本では旧名({{lang-en|British Commonwealth}})に由来する'''イギリス連邦'''(イギリスれんぽう)、'''英連邦'''(えいれんぽう)と称されることも多い<ref>{{Cite journal |和書|title=「新コモンウェルス」と南アフリカ共和国の脱退 (一九六一年) -拡大と制度変化- |url=https://doi.org/10.11375/kokusaiseiji1957.136_79 |author=小川浩之 |journal=国際政治 |volume=2004 |issue=136 |pages=79-96,L10 |year=2004 |doi=10.11375/kokusaiseiji1957.136_79 |publisher=日本国際政治学会 |accessdate=2020-06-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=[[藤川隆男|大阪大学大学院 文学研究科 藤川研究室]]|date=2011年|url=http://www.let.osaka-u.ac.jp/seiyousi/bun45dict/dict-html/00276_CommonwealthofNations.html|title=Commonwealth of Nations|publisher=[[大阪大学]]大学院文学研究科・文学部 西洋史学研究室|accessdate=2020-05-30}}</ref>が、[[1949年]]にイギリス({{en|British}})という表記は撤廃されている。[[File:Commonwealth realms republics and monarchies.svg|thumb|400px|加盟国{{Legend|#000080|英連邦王国(英国との同君連合)}} {{Legend|#FF0080|共和制}} {{Legend|#1ECE0B|独自の君主制}}]]
コモンウェルスの歴史は[[20世紀]]前半に遡り、イギリス帝国の[[脱植民地化]]に伴い、領土の自治が強化されたことで始まった。元々は[[1926年]]の帝国会議での[[バルフォア報告書|バルフォア宣言]]によって'''イギリス連邦'''<ref>{{Cite web|url=https://www.foundingdocs.gov.au/resources/transcripts/cth11_doc_1926.pdf|title=Imperial Conference 1926 Inter-Imperial Relations Committee Report, Proceedings and Memoranda|date=November 1926|accessdate=14 June 2018|quote=Their position and mutual relation may be readily defined. ''They are autonomous Communities within the British Empire, equal in status, in no way subordinate one to another in any aspect of their domestic or external affairs, though united by a common allegiance to the Crown, and freely associated as members of the British Commonwealth of Nations.''}}</ref>({{en|'''British Commonwealth of Nations'''}})として設立され、[[1931年]]には[[ウェストミンスター憲章]]でイギリスによって正式に制定された。現在のコモンウェルスは[[1949年]]の{{仮リンク|ロンドン宣言 (1949年)|label=ロンドン宣言|en|London Declaration}}によって正式に構成され、共同体を近代化して加盟国を「自由で平等」なものとして確立した<ref>{{Cite web|url=http://www.thecommonwealth.org/document/181889/34293/35468/214257/londondeclaration.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100706045924/http://www.thecommonwealth.org/document/181889/34293/35468/214257/londondeclaration.htm|archivedate=6 July 2010|title=The London Declaration|publisher=The Commonwealth|accessdate=4 July 2013}}</ref>。加盟国は、56ヶ国([[#現在の加盟国一覧|一覧]])。
[[コモンウェルス首長]]({{lang-en|Head of the Commonwealth}})は現在、[[イギリスの君主|イギリス国王]]の[[チャールズ3世]](在位:2022年9月8日 - )である。国王は、[[君主制]]である加盟国20ヶ国のうち15ヶ国の[[元首]]であり([[英連邦王国|イギリス連邦王国]])、他の5つの君主国は独自の君主を持つ{{efn|[[マレーシア]]、[[ブルネイ]]、[[トンガ]]、[[レソト]]、[[エスワティニ]]の5ヶ国。}}。他の36の加盟国は[[共和制]]である。
加盟国は相互に法的義務を負っていないが、英語の使用や歴史的な繋がりを通じて繋がっている。[[民主主義]]・[[人権]]・[[法の支配]]といった共通の価値観はコモンウェルス憲章<ref name="charter">{{Cite web|url=http://www.thecommonwealth.org/document/181889/34293/35468/252053/charter.htm|title=Charter of the Commonwealth|publisher=The Commonwealth|accessdate=30 June 2013}}</ref>に明記されており、4年に1度の[[コモンウェルスゲームズ]]によって推進されている。
イギリス連邦の国々の面積は{{convert|31844000|km2|sqmi|abbr=on}}以上で、これは世界の国土面積の21パーセントに相当する。総人口は2021年時点で26億1266万人と推定されており、これは[[世界人口]]の3分の1近くに相当し、人口別では[[国際連合]](UN)と[[上海協力機構]](SCO)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB1559F0V10C22A9000000/ |title=上海協力機構(SCO)とは 中国・ロシア主導、安保で連携 |access-date=2022年9月16日 |publisher=日本経済新聞}}</ref>に次いで3番目に大きな[[政府間組織]]となっている<ref>{{Cite web |url=https://data.un.org/ |title=UNdate/Population, surface area and density |publisher=国際連合 |date=2021-11-01 |accessdate=2022-06-26}}</ref>。
== 歴史 ==
=== 前史 ===
[[19世紀]]には世界最大の[[帝国]]として覇を唱えていた[[イギリス帝国]]は、20世紀に入ると[[アメリカ合衆国]]、[[ドイツ]]の追い上げによって国力の優位は次第に小さなものとなっていった。こうした中で19世紀後半以降イギリス本国は世界各地の入植型植民地の権限を強化していき、特に[[白人]]が人口の多くを占める植民地に自治権を与え、[[自治領]](ドミニオン)とするようになっていった。[[1867年]]に[[英領北アメリカ法|イギリス領北アメリカ法]]によって[[イギリスによるアメリカ大陸の植民地化|3つのイギリスの北アメリカ植民地]]が連邦を組み、[[カナダ]]としてドミニオン化したのを皮切りに、[[1901年]]には[[オーストラリア大陸]]の6植民地が連邦化して[[オーストラリア]]連邦が成立し、[[1907年]]には[[ニュージーランド]]と[[ニューファンドランド]]が、[[1910年]]には南アフリカの4植民地が合同して連邦化して[[南アフリカ連邦]]が成立した(現在の[[南アフリカ共和国]]の前身)。これらの自治領とイギリスとの間には[[1887年]]から協議機関として植民地会議が開催されていたが、[[1907年]]にはこれは帝国会議と改称され、帝国会議に出席できる自治領は'''植民地'''({{en|Colony}})ではなく'''ドミニオン'''({{en|Dominion}})と呼称するようになった。この動きの中で、[[1911年]]にはオーストラリアとカナダが独自の海軍創設を認められるなど(→[[オーストラリア海軍]]、[[カナダ海軍]])、自治領諸国は自立の動きを強めていった。
こうした動きは[[第一次世界大戦]]においてより強まった。この大戦には全てのドミニオン・植民地が参戦したが、オーストラリアで[[1916年]]に[[徴兵制]]導入が拒否されたり<ref>『西洋の歴史――近現代編』p248 大下尚一・服部春彦・望田幸男・西川正雄編(ミネルヴァ書房, 1988年)</ref>、[[ボーア戦争]]以来反英感情のくすぶる南アフリカにおいては[[1914年]]に[[ボーア人]]による[[マリッツ反乱]]が起きるなど、各ドミニオンにおいてイギリスからの自立を目指す動きが活発化した。この動きが最も激しかったのはイギリス本国に組み込まれていた[[アイルランド]]であり、[[1919年]]にはついに[[アイルランド独立戦争]]が勃発し、[[1921年]]には[[アイルランド自由国]]としてドミニオンの地位を獲得した。こうした中で各植民地の協力を得るためにイギリス本国はさらに融和的な姿勢を取るようになり、[[1917年]]には各ドミニオンの代表が参加した帝国戦時内閣が開催された。第一次世界大戦の[[講和条約]]である[[ヴェルサイユ条約]]が[[1919年]]に締結された際には各ドミニオンの代表は出席を許され、[[国際連盟]]の[[委任統治領]]としてオーストラリアが[[ニューギニア]]を、南アフリカが[[南西アフリカ]]を、ニュージーランドが[[西サモア]]をそれぞれ本国とは別に獲得し、連盟にもそれぞれ加盟を許された<ref>『イギリス帝国の歴史――アジアから考える』p201 秋田茂(中公新書, 2012年)</ref>。こうして、各ドミニオンは既に実質的には独立国と変わりないものとなっていった。
第一次世界大戦後にイギリスの国力退潮が鮮明となると帝国の支配体制は揺らぎはじめ、それに伴って各ドミニオンはさらに独立傾向を強めていき、[[1926年]]の帝国会議では特に反英感情に強かった[[アイルランド自由国]]と[[アフリカーナー]]主体の南アフリカ連邦がついに帝国離脱を要求した。これを受けてイギリス本国と各ドミニオンとが対等であるとする[[バルフォア報告書]]が作成され、これを土台とした新しい帝国の在り方を規定する憲章が制定されることとなった。こうして制定されたのがウェストミンスター憲章である<ref name="名前なし-1">『イギリス帝国の歴史――アジアから考える』p202 秋田茂(中公新書, 2012年)</ref>。
=== 始まり ===
[[File:CommonwealthPrimeMinisters1944.jpg|thumb|250px|[[1944年]]のコモンウェルスの会議に出席したメンバー<br> (左から右: カナダの[[ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キング|ウィリアム・キング]]、南アフリカ連邦の[[ヤン・スマッツ]]、イギリスの[[ウィンストン・チャーチル]]、ニュージーランドの[[ピーター・フレイザー]]、オーストラリアの[[ジョン・カーティン]])]]
[[1931年]]にイギリス議会における[[ウェストミンスター憲章]]({{en|Statute of Westminster}})において、イギリス国王に対する共通の忠誠によって結ばれた、それぞれが主権をもつ対等な独立国の自由な連合体と定義され、イギリス、[[アイルランド自由国]](のちに脱退)、[[カナダ]]、[[ニューファンドランド (ドミニオン)|ニューファンドランド]](のちにカナダの1州となる)、オーストラリア、ニュージーランド、[[南アフリカ連邦]]をメンバーとして発足した<ref>レナード・トンプソン 『南アフリカの歴史』p480 宮本正興・峯陽一・吉国恒雄訳、明石書店、1995年6月、新訂増補版第1刷。ISBN 4-7503-0699-1</ref>。この時点では旧来の[[ドミニオン]]の連合に過ぎず、[[白人]]自治領の連合体としての性格を持っていた。また、この時点においては旧来のイギリス帝国はいまだ存続しており、帝国とコモンウェルスが併存する体制を取っていた<ref name="名前なし-1"/>。
=== ブロック経済化とその崩壊 ===
成立期は[[ブロック経済]]としての側面を強める傾向にあった。[[1929年]]に始まった[[世界恐慌]]はコモンウェルスにも甚大な被害をもたらしており、こうした中でイギリスは従来取っていた[[自由貿易]]主義を放棄し、他国からの輸入に[[関税]]をかけた一方で、コモンウェルス内においては[[1932年]]のオタワ協定において相互に関税率を引き下げ、連邦内の貿易を促進する政策を取った。この関税は帝国特恵関税と呼ばれ、これによって[[ポンド (通貨)|ポンド]]圏(スターリング・ブロック)が成立した<ref>『イギリス帝国の歴史――アジアから考える』p207 秋田茂(中公新書, 2012年)</ref>。ただし、経済的にアメリカと非常に強い関係にあったカナダはこのブロックには加入していなかった<ref>『イギリス帝国の歴史――アジアから考える』p210 秋田茂(中公新書, 2012年)</ref>。逆にイギリスと非常に強い経済関係にあった[[アルゼンチン]]はこのブロックに加入する<ref>『イギリス帝国の歴史――アジアから考える』p209-210 秋田茂(中公新書, 2012年)</ref>など、コモンウェルスとスターリング・ブロックの範囲は完全に一致していたわけではない。この帝国特恵関税およびスターリング・ブロックは第二次世界大戦中に崩壊し<ref>『イギリス帝国の歴史――アジアから考える』p223 秋田茂(中公新書, 2012年)</ref>、以後コモンウェルスが経済ブロック化することはなかった。
=== 非同君連合化 ===
第二次世界大戦後、[[1947年]]に[[インド連邦 (ドミニオン)|インド]]および[[パキスタン (ドミニオン)|パキスタン]]が独立したことで([[インド・パキスタン分離独立]])、白人連合としての性格が消滅した。さらにこの独立の際にインドは近日中に制定される予定の憲法において[[共和制]]を取ることを表明し、なおかつその後もコモンウェルスにとどまることを希望した。この要望は受け入れられ、[[1950年]]にインドが共和制をとった後も残留を認めたために、以後「イギリス国王に対する共通の忠誠」は連合体の必要条件から除外されることとなり、同君連合以外の国家も連邦参加が可能となった<ref>「世界民族問題事典」(新訂増補)p440 平凡社 2002年11月25日新訂増補第1刷</ref>。こうして、[[同君連合]]である[[英連邦王国]]とコモンウェルスが制度的に分離した。これにより、政治体制にかかわらずイギリスから新たに独立した国家がコモンウェルスに留まることが可能になり、以後の拡大をもたらすこととなった<ref>『イギリス帝国の歴史――アジアから考える』p234 秋田茂(中公新書, 2012年)</ref>。一方で、1947年には当時まだ形式上は同君連合である印パ両国が[[第一次印パ戦争]]に至るなど、連邦や同君連合の拘束力の形骸化も顕わとなった。[[1949年]]には、従来の加盟国の中で最も反英的だったアイルランドが脱退した<ref>「イギリス史10講」p281 近藤和彦 岩波書店 2013年12月20日第1刷発行</ref>。
=== 独立主権国家連合 ===
戦後のイギリスは海上覇権をほぼ喪失した形となり、[[1940年代]]から[[1950年代]]には[[アジア]]諸国が次々とイギリスから独立した。[[1956年]]に起きた[[スエズ動乱]]において、[[エジプト]]に軍事介入したイギリスの行動はコモンウェルス内でほとんど支持を得ることができず、さらに戦後の超大国であるアメリカとソ連の反対によって軍事介入自体が失敗に終わった。これによりイギリスの軍事的威信は失墜し、脱植民地化の流れはとどめようのないものとなっていった<ref>『イギリス帝国の歴史――アジアから考える』p242 秋田茂(中公新書, 2012年)</ref>。イギリスも植民地を独立させたうえでコモンウェルスにとどめて影響力を維持する戦略へと転換し、[[1960年代]]には[[アフリカ]]諸国が次々とイギリスから独立した。こうした新独立国のほとんどはコモンウェルスにとどまった。
一方で[[1961年]]には創設時からの加盟国であった[[南アフリカ共和国]]が脱退した。南アフリカは[[1961年]]に[[国民投票]]を行ってイギリス連邦王国から共和制を取ることとなったが、共和制でも加盟はできるため、南アフリカ政府は当初は脱退する意向は持っていなかった。しかしいまや有色人種の国が多数を占めるコモンウェルスにおいて南アフリカの[[アパルトヘイト]]政策への批判が噴出し、これで態度を硬化させた南アフリカが脱退を通告した<ref>「南部アフリカ政治経済論」p119 林晃史 アジア経済研究所 1999年4月15日</ref>。
こうした流れは[[1964年]]に起きた[[ローデシア問題]]においてよりいっそう明確なものとなった。[[1923年]]以降広範な自治権をもっていた[[南ローデシア]]はコモンウェルスの準加盟国に近い立場にあったが、その後身である[[ローデシア・ニヤサランド連邦]]が[[1963年]]に解体し、そこから独立した[[マラウイ]]と[[ザンビア]]が加盟すると、いまだ[[人種差別]]主義を取る南ローデシアの完全独立および加盟が焦点となった。コモンウェルス加盟国のほとんどは南ローデシアに対して強硬な姿勢を取り、人種差別が撤廃されない限り独立およびコモンウェルス加盟を認めない立場を取ったため、宗主国であるイギリスもこれを考慮せざるを得なくなった。これに南ローデシア政府は反発し、[[1965年]]には[[ローデシア]]共和国として一方的に独立を宣言した。この対立は、[[1980年]]にローデシアが崩壊し黒人国家である[[ジンバブエ]]共和国がコモンウェルスに加盟するまで続いた。
また同じく創設時からの加盟国である[[カナダ]]・[[オーストラリア]]・[[ニュージーランド]]が軍事および経済においてアメリカ合衆国に依存するようになる一方、新独立国の経済規模は当時まだ大きくなかった。こうした流れの中で、イギリス本国もコモンウェルスよりも、統一化の進む[[ヨーロッパ大陸]]を志向するようになり、[[1961年]]には[[保守党 (イギリス)|保守党]]の[[ハロルド・マクミラン]]政権のもとで[[欧州経済共同体]](EEC)加盟を申請した。この申請は[[フランス]]の[[シャルル・ド・ゴール]]に拒否されて実現しなかったものの、結局[[1973年]]に[[エドワード・ヒース]]政権のもとでEEC加盟は実現し、イギリスはコモンウェルスからヨーロッパへと重心を移すこととなった。
=== 事務局創設と首相会議の持ち回り化 ===
[[File:Parliament Square 11 3 09 (3346753423).jpg|thumb|ロンドンのパーラメント・スクエアに掲げられたコモンウェルス加盟国の国旗]]
[[File:Commonwealth flag Ottawa.jpg|thumb|upright|[[オタワ]]のカナダ国会議事堂に掲げられたコモンウェルスの旗]]
創設時のコモンウェルスにおける事務は[[1926年]]に植民地省から分離独立したイギリス政府内の自治領省が担っていた。自治領省は1947年にコモンウェルス省に改名され、その後も事務を担っていたが、イギリス領植民地の急速な独立とそれによる加盟国の急増によってイギリスの地位は低下し、[[ガーナ]]の[[クワメ・エンクルマ]]などによってイギリス政府からの事務の独立が要求されることになった。こうして1965年にコモンウェルスの独立事務局が創設され、コモンウェルスはイギリス政府から独立した機構となった<ref>「二〇世紀後半のコモンウェルス 新しい統合の展望」p140 旦祐介:「現代世界とイギリス帝国」(イギリス帝国と20世紀第5巻)所収 ミネルヴァ書房 2007年6月30日初版第1刷</ref>。さらにそれまでロンドンにおいて行われていたコモンウェルスの首相会議が[[1966年]]には[[ナイジェリア]]の[[ラゴス]]において開催された。[[1971年]]には首相会議が[[シンガポール]]で行われ、これ以降会議はイギリス本国での開催から加盟国間における持ち回りでの開催となった<ref>「二〇世紀後半のコモンウェルス 新しい統合の展望」p144 旦祐介:「現代世界とイギリス帝国」(イギリス帝国と20世紀第5巻)所収 ミネルヴァ書房 2007年6月30日初版第1刷</ref>。
1971年に発せられたシンガポール宣言において、コモンウェルスは「民族の共通の利益の中で、また国際的な理解と世界平和の促進の中で、協議し、協力する自発的な独立の主権国の組織である(コモンウェルス原則の宣言前文)」と再定義され、ゆるやかな独立[[主権]]国家の連合となった([[連邦]]国家ではない)。[[1970年代]]から[[1980年代]]には残されたイギリス植民地のほとんどが独立し、コモンウェルス加盟国となった。[[1994年]]にはアパルトヘイトを撤廃した南アフリカが再加盟した。
[[1995年]]に旧イギリス領または旧ドミニオン諸国領以外の初の加盟国として[[モザンビーク]](旧[[ポルトガル]]領)の加盟が承認され、コモンウェルスは旧イギリス領以外にも加盟国の範囲を広げることとなった。さらに、[[ルワンダ紛争]]による新政権樹立を経て親[[フランス]]から親イギリスへと外交方針を転換した[[ルワンダ]](旧[[ドイツ帝国]]領→[[ベルギー]][[委任統治|委任]]・[[信託統治]]領)が[[2009年]]に加盟した。この前年にルワンダは、[[ルワンダ語]]や[[フランス語]]に加えて新たに[[英語]]を公用語としている。[[2022年]]には旧フランス領の[[ガボン]]と[[トーゴ]]が加盟した<ref>{{Cite web |url=https://thecommonwealth.org/news/gabon-and-togo-join-commonwealth |title=Gabon and Togo join the Commonwealth |publisher=イギリス連邦 |date=2022-06-25 |accessdate=2022-06-26}}</ref>。背景には[[イギリスの欧州連合離脱]]に伴う両国関係の再構築と、旧フランス領諸国の[[フランス]]離れがあるという<ref>{{Cite web |url=https://www.france24.com/en/live-news/20220625-west-african-states-gabon-and-togo-join-commonwealth |title=West African states Gabon and Togo join Commonwealth |publisher=[[フランス24]] |date=2022-06-25 |accessdate=2022-06-26}}</ref>。
== 制度 ==
コモンウェルスは独立した事務局(英: [[:en:Commonwealth Secretariat|Commonwealth Secretariat]])及び各種機関を備えており、それらの多くは[[ロンドン]]のマールボロ・ハウスに設置されている。
=== コモンウェルス首脳 ===
{{see|[[:en:List_of_Commonwealth heads of government|List of Commonwealth heads of government]]}}
コモンウェルス首脳は、加盟国56カ国の大統領または首相、[[ブルネイ]]にあっては[[ブルネイの国王|国王]]兼[[首相]]である。
=== 歴代コモンウェルス首長 ===
{{main|コモンウェルス首長}}
コモンウェルス首長は、現在[[#現在の加盟国一覧|54の主権国家]]で構成される[[政府間組織]]であるコモンウェルス・オブ・ネイションズ(旧イギリス連邦)の「独立した加盟国の自由連想法」を象徴する儀礼的指導者に与えられる称号である。任期とその制限は規定されておらず、その役割自体は、連邦内の加盟国における普段の統治には関与していない。この称号は、設立以来、現役の[[イギリスの君主]]によって保持されてきた。
[[1949年]]までに、イギリス連邦は8か国のグループになり、各国が国王[[ジョージ6世 (イギリス王)|ジョージ6世]]を君主として持っていた。しかし、[[インド]]は[[共和制]]への移行を希望していたが、イギリス連邦からの脱退は望んでいなかった。これは、王の連邦首長という称号の創設によって対応され、インドは[[1950年]]に[[共和制]]となった。その後、[[パキスタン]]、[[スリランカ]]、[[ガーナ]]、[[シンガポール]]を含む他の多くの国が、イギリスの君主を自国の国家元首とすることを廃止したものの、コモンウェルス・オブ・ネイションズの加盟国として、イギリスの君主がコモンウェルスの首長を担うことは認めた<ref>{{cite web|title=About the commonwealth|url=https://www.gov.uk/government/organisations/foreign-commonwealth-office|website=www.gov.uk|publisher=The Foreign and Commonwealth office, UK|access-date=12 January 2018}}</ref>。
この地位には長らく[[エリザベス2世]](ジョージ6世長女)が就いていたが、在位中の{{仮リンク|2018年コモンウェルス首脳会議|en|2018 Commonwealth Heads of Government Meeting}}で、ウェールズ公チャールズ(エリザベス2世長男)が指定後継者に任命され、2022年9月8日のエリザベス2世崩御により、[[チャールズ3世 (イギリス王)|チャールズ3世]]がコモンウェルス首長となった。
<gallery>
Queen Elizabeth II and the Prime Ministers of the Commonwealth Nations, at Windsor Castle (1960 Commonwealth Prime Minister's Conference).jpg|1960年、[[ウィンザー城]]での女王エリザベス2世と連邦の首相たち
Her Majesty Queen Elizabeth II delivering the inaugural address at the CHOGM 2011 at Perth Convention and Exhibition Centre, in Australia. The Vice President, Shri Mohd. Hamid Ansari and other Heads of States are also seen.jpg|[[オーストラリア]]の[[パース (西オーストラリア州)|パース]]で開催された2011年コモンウェルス首脳会議において、コモンウェルス首長として演説を行うエリザベス2世
</gallery>
*以下、歴代のコモンウェルス首長一覧。
{| class="wikitable unsortable" style="text-align:center;width:98%;margin-top:0.5em;"
! rowspan="2" |代
! rowspan="2" |肖像
! rowspan="2" |名
! rowspan="2" |誕生
! colspan="2" |任期
! rowspan="2" |崩御
|-
! 開始
! 終了
|-
!1
|[[File:Georg VI England.jpg|100px]]
| scope="row" |'''[[ジョージ6世 (イギリス王)|ジョージ6世]]'''
|[[1895年]][[12月14日]]
|[[1949年]][[4月26日]]/[[4月28日|28日]]{{Efn|{{仮リンク|ロンドン宣言|en|London Declaration}}に基づく。|name=GVI}}
|[[1952年]][[2月6日]]
|[[1952年]][[2月6日]]
|-
!2
|[[File:Elizabeth II in Berlin 2015 (cropped).JPG|100px]]
| scope="row" |'''[[エリザベス2世]]'''
|[[1926年]][[4月21日]]
|[[1952年]][[2月6日]]
|[[2022年]][[9月8日]]
|[[2022年]][[9月8日]]
|-
!3
|[[File:Charles, Prince of Wales in 2021 (cropped) (2).jpg|100px]]
| scope="row" |'''[[チャールズ3世 (イギリス王)|チャールズ3世]]'''
|[[1948年]][[11月14日]]
|[[2022年]][[9月8日]]
|
|
|}
=== 歴代事務総長 (Commonwealth Secretary-General) ===
{{main|:en:Commonwealth Secretary-General}}
{| class="wikitable"
! 代
! 肖像
! 名
! 国
! 就任
! 退任
! 経歴
|-
! 1
| [[File:Commonwealth Icon2.svg|100px]]
| アーノルド・スミス<br>([[:en:Arnold Smith|Arnold Smith]])
| {{flag|Canada}}
| [[1965年]][[7月1日]]
| [[1975年]][[6月30日]]
|<small>駐[[エジプト]]カナダ大使 (1958–1961)<br />駐[[ソビエト連邦]]カナダ大使 (1961–1963)</small>
|-
! 2
| [[File:Shridath Ramphal.JPG|100px]]
| シュリダス・ランファル<br>([[:en:Shridath Ramphal|Shridath Ramphal]])
| {{flag|Guyana}}
| [[1975年]][[7月1日]]
| [[1990年]][[6月30日]]
|<small>[[:en:Ministry_of_Foreign_Affairs_(Guyana)|ガイアナ外務大臣]] (1972–1975)</small>
|-
! 3
| [[File:Commonwealth Icon2.svg|100px]]
| エメカ・アンヤオク<br>([[:en:Emeka Anyaoku|Emeka Anyaoku]])
| {{flag|Nigeria}}
| [[1990年]][[7月1日]]
| [[2000年]][[3月31日]]
|<small>[[:en:Commonwealth_Deputy_Secretary-General|Deputy Secretary-General]] for [[:en:Commonwealth_Deputy_Secretary-General#Political_Affairs|Political Affairs]] (1977–1990)</small>
|-
! 4
| [[File:Don McKinnon 2012.jpg|100px]]
| [[ドン・マキノン]]
| {{flag|New Zealand}}
| [[2000年]][[4月1日]]
| [[2008年]][[3月31日]]
|<small>[[ニュージーランド副首相]] (1990–1996)<br>[[:en:Minister of Trade (New Zealand)|貿易大臣]] (1990–1996)<br>[[:en:Minister of Foreign Affairs (New Zealand)|外務大臣]] (1990–1999)</small>
|-
! 5
| [[File:Kamalesh Sharma January 2015.jpg|100px]]
| カマレシュ・シャーマ<br>([[:en:Kamalesh Sharma|Kamalesh Sharma]])
| {{flag|India}}
| [[2008年]][[4月1日]]
| [[2016年]][[3月31日]]
|<small>[[:en:Permanent Representative of India to the United Nations|インド国際連合大使]] (1997–2002)<br />
[[:en:List_of_High_Commissioners_of_India_to_the_United_Kingdom|駐英インド高等弁務官]] (2004–2008)</small>
|-
! 6
| [[File:Patricia Scotland 2013 (cropped).jpg|100px]]
| パトリシア・スコットランド<br>([[:en:Patricia Scotland|Patricia Scotland]])
| {{flag|Dominica}}<br />{{flag|United Kingdom}}
| [[2016年]][[4月1日]]
| ''現職''
|<small>[[法務長官 (イギリス)|イングランド、ウェールズ及び北アイルランド法務長官]] (2007–2010)<br />イギリス[[閣外大臣]] ([[内務省 (イギリス)|内務省]]; 2003–2007)<br /> [[政務次官 (イギリス)|イギリス政務次官]] ([[:en:Lord Chancellor's Department|大法官省]]; 2001–2003)<br />[[外務・英連邦・開発省]][[:en:Under-Secretary_of_State_for_Foreign_Affairs|国務次官]] (1999–2001)<br /> [[貴族院 (イギリス)|イギリス貴族院]]議員 (1997–現在)</small>
|}
=== 歴代議長 (Commonwealth Chair-in-Office) ===
{{main|:en:Commonwealth Chair-in-Office}}
※CHOGM:[[#コモンウェルス首脳会議|コモンウェルス首脳会議]](Commonwealth Heads of Government Meeting)
{| class="wikitable"
! width=2%| 代
! width=1%|写真
! width=12%| 名
! width=10%| 国
! width=10%| 職
! width=5%| CHOGM
! width=12%| 就任
! width=12%| 退任
! width=8%| [[:en:Commonwealth Secretary-General|事務総長]]
|-
! rowspan="2" | 1
| rowspan="2" | [[File:SthAfrica.ThaboMbeki.01 (cropped).jpg|80px]]
| rowspan="2" | [[タボ・ムベキ]]
| rowspan="2" | {{Flag|南アフリカ共和国}}
| rowspan="2" | [[南アフリカの大統領|大統領]]
| rowspan="2" | [[:en:1999 Commonwealth Heads of Government Meeting|1999年]]
| rowspan="2" | [[1999年]][[11月12日]]
| rowspan="2" | [[2002年]][[3月2日]]
| {{flagicon|NGR}} [[:en:Emeka Anyaoku|エメカ・アンヤオク]]
|-
| rowspan="5" | {{flagicon|NZL}} [[ドン・マキノン]]
|-
! 2
| [[File:Howard2003port.JPG|80px]]
| [[ジョン・ハワード]]
| {{Flag|AUS}}
| [[オーストラリアの首相|首相]]
| [[:en:2002 Commonwealth Heads of Government Meeting|2002年]]
| [[2002年]][[3月2日]]
| [[2003年]][[12月5日]]
|-
! 3
| [[File:Olusegun Obasanjo 2001-05-10 (002).jpg|80px]]
| [[オルシェグン・オバサンジョ]]
| {{Flag|Nigeria}}
| [[ナイジェリアの大統領|大統領]]
| [[:en:2003 Commonwealth Heads of Government Meeting|2003年]]
| [[2003年]][[12月5日]]
| [[2005年]][[11月25日]]
|-
! 4
| [[File:Lawrence Gonzi 2009.jpg|80px]]
| ロウレンス・ゴンジ<br>([[:en:Lawrence Gonzi|Lawrence Gonzi]])
| {{Flag|Malta}}
| [[マルタの首相|首相]]
| [[:en:2005 Commonwealth Heads of Government Meeting|2005年]]
| [[2005年]][[11月25日]]
| [[2007年]][[11月23日]]
|-
! rowspan="2" | 5
| rowspan="2" | [[File:Yoweri Kaguta Museveni.jpg|80px]]
| rowspan="2" | [[ヨウェリ・ムセベニ]]
| rowspan="2" | {{Flag|Uganda}}
| rowspan="2" | [[ウガンダの大統領|大統領]]
| rowspan="2" | [[:en:2007 Commonwealth Heads of Government Meeting|2007年]]
| rowspan="2" | [[2007年]][[11月23日]]
| rowspan="2" | [[2009年]][[11月27日]]
|-
| rowspan="9" | {{flagicon|IND}} [[:en:Kamalesh Sharma|カマレシュ・シャーマ]]
|-
! 6
| [[File:Patrick Manning 2008.jpg|80px]]
| パトリック・マニング<br>([[:en:Patrick Manning|Patrick Manning]])<ref name="Manning resign">{{cite news |title=Former Trinidad PM Manning resigns as political leader |author=Staff writer |url=http://www.caribbeannetnews.com/trinidad/trinidad.php?news_id=23374&start=0&category_id=17 |publisher=CaribbeanNetNews |date=28 May 2010 |access-date=29 May 2010 |quote=Trinidad and Tobago's former prime minister Patrick Manning has handed in his resignation as political leader of the People's National Movement (PNM), three days after being defeated at the polls. |archive-url=https://web.archive.org/web/20100728005702/http://www.caribbeannetnews.com/trinidad/trinidad.php?news_id=23374&start=0&category_id=17 |archive-date=28 July 2010 |url-status=dead }}</ref>
| rowspan=2| {{Flag|Trinidad and Tobago}}
| rowspan=2| [[トリニダード・トバゴの首相|首相]]
| [[:en:2009 Commonwealth Heads of Government Meeting|2009年]]
| [[2009年]][[11月27日]]
| [[2010年]][[5月25日]]<ref name="Manning resign" />
|-
! 7
| [[File:Kamla Persad-Bissesar 2013.jpg|80px]]
| [[カムラ・パサード=ビセッサー]]<ref name="TT 2010 elections">{{cite news |title=Kamla now Commonwealth Chair |author=Staff writer |url=http://www.newsday.co.tt/news/0,121594.html |newspaper=[[:en:Trinidad and Tobago Newsday]] |date=29 May 2010 |access-date=29 May 2010 |quote=The position she has inherited from former prime minister Patrick Manning following the nation’s hosting of the Commonwealth Heads of Government Meeting in November, 2009. In a statement issued yesterday, the Royal Commonwealth Society congratulated Persad-Bissessar on her appointment as Prime Minister and also praised the conduct of her election campaign. }}</ref>
| ''(なし)''<ref name="TT 2010 elections" />
| [[2010年]][[5月26日]]<ref name="TT 2010 elections" />
| [[2011年]][[10月28日]]
|-
! 8
| [[File:Gillard.jpg|80px]]
| [[ジュリア・ギラード]]
| rowspan=3| {{Flag|AUS}}
| rowspan=3| [[オーストラリアの首相|首相]]
| [[:en:2011 Commonwealth Heads of Government Meeting|2011年]]
| [[2011年]][[10月28日]]
| [[2013年]][[6月27日]]
|-
! 9
| [[File:Kevin Rudd portrait.jpg|80px]]
| [[ケビン・ラッド]]
| ''(なし)''
| [[2013年]][[6月27日]]
| [[2013年]][[9月18日]]
|-
! 10
| [[File:Prime Minister Tony Abbott.jpg|80px]]
| [[トニー・アボット]]
| ''(なし)''
| [[2013年]][[9月18日]]
| [[2013年]][[11月15日]]
|-
! 11
| [[File:Mahinda Rajapaksa.jpg|80px]]
| [[マヒンダ・ラージャパクサ]]
| rowspan=2| {{Flag|Sri Lanka}}
| rowspan=2| [[スリランカの大統領|大統領]]
| [[:en:2013 Commonwealth Heads of Government Meeting|2013年]]
| [[2013年]][[11月15日]]
| [[2015年]][[1月9日]]
|-
! 12
| [[File:Maithripala Sirisena (cropped).jpg|80px]]
| [[マイトリーパーラ・シリセーナ]]
| ''(なし)''
| [[2015年]][[1月9日]]
| [[2015年]][[11月27日]]
|-
! rowspan="2" | 13
| rowspan="2" | [[File:Joseph muscat 2018 cropped v2.jpg|80px]]
| rowspan="2" | [[ジョゼフ・ムスカット]]
| rowspan="2" | {{Flag|Malta}}
| rowspan="2" | [[マルタの首相|首相]]
| rowspan="2" | [[:en:2015 Commonwealth Heads of Government Meeting|2015年]]
| rowspan="2" | [[2015年]][[11月27日]]
| rowspan="2" | [[2018年]][[4月19日]]
|-
| rowspan="4" | {{nowrap|{{flagicon|GBR}} [[:en:Patricia Scotland|パトリシア・スコットランド]]}}
|-
! 14
| [[File:Theresa May in 2017 (cropped).jpg|80px]]
| [[テリーザ・メイ]]
| rowspan=2| {{Flag|United Kingdom}}
| rowspan=2| [[イギリスの首相|首相]]
| [[:en:2018 Commonwealth Heads of Government Meeting|2018年]]
|[[2018年]][[4月19日]]
|[[2019年]][[7月24日]]
|-
! 15
| [[File:Boris Johnson official portrait (cropped).jpg|80px]]
| [[ボリス・ジョンソン]]
| ''(なし)''
| [[2019年]][[7月24日]]
| [[2022年]][[6月24日]]
|-
! 16
| [[File:Paul_Kagame_2014.jpg|80px]]
| [[ポール・カガメ]]
| {{Flag|Rwanda}}
| [[ルワンダの大統領一覧|大統領]]
| [[:en:2022 Commonwealth Heads of Government Meeting|2022年]]
| [[2022年]][[6月24日]]
| ''現職''
|}
=== 高等弁務官 ===
{{main|高等弁務官 (コモンウェルス)}}
加盟国同士では、通常の国対国のように[[特命全権大使]]を交換せず、「[[高等弁務官 (コモンウェルス)|高等弁務官]]」を外交使節長として、[[大使館]]の代わりに高等弁務官事務所を置いている。
これは大使が国家元首の代理及びその大使の駐在先を大使館として呼ぶことが、各国の国家元首が同一人物たる同君連合に当たる諸国間では不適当であったためだが、加盟国の中でイギリス国王を君主・元首としなくなった国においても伝統的にこの名称が使われている。
=== 市民権 ===
イギリスは加盟国国民に国政および地方選挙における選挙権および被選挙権を認めている。また加盟国国民には[[査証]]発給(免除)や[[ワーキング・ホリデー]]に関する優遇措置がある。さらに自国の[[在外公館]]が置かれていないコモンウェルス外の国において、イギリスの在外公館による援護を受けることができる。
これらの特典は{{仮リンク|コモンウェルス市民権|en|Commonwealth citizen}}({{lang-en-short|Commonwealth Citizenship}})と称される。この市民権は旧来の「イギリス帝国臣民」に対応するもので、1948年のイギリス国籍法において制定された<ref>『イギリス帝国の歴史――アジアから考える』p232 秋田茂(中公新書, 2012年)</ref>。ただし市民権は互恵的なものではなく、加盟国国民に対する待遇は加盟国によってまちまちである。
=== 首脳会議開催履歴 ===
{{see also|:en:Commonwealth Heads of Government Meeting}}
{| class="wikitable"
|- bgcolor="#cccccc"
! 年
! 開催日
! 国
! 開催都市
! リトリート(会議合宿)
! 議長
|-
! [[:en:1971 Commonwealth Heads of Government Meeting|1971年]]
| 1月14-22日 || {{SGP}} || シンガポール || (なし) ||[[リー・クアンユー]]
|-
! [[:en:1973 Commonwealth Heads of Government Meeting|1973年]]
| 8月2-10日 || {{CAN}} || [[オタワ]] || [[モントランブラン (ケベック州)|モントランブラン]] || [[ピエール・トルドー]]
|-
! [[:en:1975 Commonwealth Heads of Government Meeting|1975年]]
| 4月29日-5月6日 || {{JAM}} || [[キングストン (ジャマイカ)|キングストン]] || (なし) || [[マイケル・マンリー]]
|-
! [[:en:1977 Commonwealth Heads of Government Meeting|1977年]]
| 6月8-15日 || {{GBR}} || [[ロンドン]] || [[グレンイーグルス・ホテル]] || [[ジェームズ・キャラハン]]
|-
! [[:en:1979 Commonwealth Heads of Government Meeting|1979年]]
| 8月1-7日 || {{ZMB}} || [[ルサカ]] || [[ルサカ]] || [[ケネス・カウンダ]]
|-
! [[:en:198 Commonwealth Heads of Government Meeting|1981年]]
| 9月30日-10月7日 || {{AUS}} || [[メルボルン]] || [[キャンベラ]] || [[マルコム・フレーザー]]
|-
! [[:en:1983 Commonwealth Heads of Government Meeting|1983年]]
| 11月23-29日 || {{IND}} || [[ニューデリー]] || [[ゴア]] || [[インディラ・ガンディー]]
|-
! [[:en:1985 Commonwealth Heads of Government Meeting|1985年]]
| 10月16-22日 || {{BHS}} || [[ナッソー]] || Lyford Cay || [[リンドン・ピンドリング]]
|-<ref>{{cite news|url=http://www.bbc.com/news/uk-34953782|work=BBC News|date=28 November 2015}}</ref>
! [[:en:1986 Commonwealth Heads of Government Meeting|1986年]]
| 8月3-5日 || {{GBR}} || ロンドン || (なし) || [[マーガレット・サッチャー]]
|-
! [[:en:1987 Commonwealth Heads of Government Meeting|1987年]]
| 10月13-17日 || {{CAN}} || [[バンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)|バンクーバー]] || [[オカナガン]] || [[ブライアン・マルルーニー]]
|-
! [[:en:1989 Commonwealth Heads of Government Meeting|1989年]]
| 10月18-24日 || {{MYS}} || [[クアラルンプール]] || [[ランカウイ]] || [[マハティール・ビン・モハマド]]
|-
! [[:en:1991 Commonwealth Heads of Government Meeting|1991年]]
| 10月16-21日 || {{ZWE}} || [[ハラレ]] || [[ヴィクトリアフォールズ]] || [[ロバート・ムガベ]]
|-
! [[:en:1993 Commonwealth Heads of Government Meeting|1993年]]
| 10月21-25日 || {{CYP}} || [[リマソール]] || (なし) || [[グラフコス・クレリデス]]
|-
! [[:en:1995 Commonwealth Heads of Government Meeting|1995年]]
| 11月10-13日 || {{NZL}} || [[オークランド (ニュージーランド)|オークランド]] || [[ミルブルック]] || [[ジム・ボルジャー]]
|-
! [[:en:1997 Commonwealth Heads of Government Meeting|1997年]]
| 10月24-27日 || {{GBR}} || [[エディンバラ]] || [[セント・アンドリュース]] || [[トニー・ブレア]]
|-
! [[:en:1999 Commonwealth Heads of Government Meeting|1999年]]
| 11月12-14日 || {{ZAF}} || [[ダーバン]] || [[ジョージ (南アフリカ共和国)|ジョージ]] || [[ターボ・ムベキ]]
|-
! [[:en:2002 Commonwealth Heads of Government Meeting|2002年]]
| 3月2-5日 || {{AUS}} || {{仮リンク|クーラム・ビーチ|en|Coolum Beach, Queensland|label=クーラム}} || (なし) || [[ジョン・ハワード]]
|-
! [[:en:2003 Commonwealth Heads of Government Meeting|2003年]]
| 12月5-8日 ||{{NGA}}|| [[アブジャ]] || Aso Rock || [[オルセグン・オバサンジョ]]
|-
! [[:en:2005 Commonwealth Heads of Government Meeting|2005年]]
| 11月25-27日 || {{MLT}} || [[バレッタ]] || [[メリッハ]] || [[ローレンス・ゴンズィ]]
|-
! [[:en:2007 Commonwealth Heads of Government Meeting|2007年]]
| 11月23-25日 || {{UGA}} || [[カンパラ]] || Munyonyo || [[ヨウェリ・ムセベニ]]
|-
! [[:en:2009 Commonwealth Heads of Government Meeting|2009年]]
| 11月27-29日 || {{TTO}} || [[ポートオブスペイン]] || Laventille Heights || [[パトリック・マニング]]
|-
! [[:en:2011 Commonwealth Heads of Government Meeting|2011年]]
| 10月28-30日 || {{AUS}} || [[パース (西オーストラリア州)|パース]] || キングスパーク || [[ジュリア・ギラード]]
|-
! [[:en:2013 Commonwealth Heads of Government Meeting|2013年]]
| 11月15-17日 || {{LKA}} ||[[コロンボ]] || [[スリジャヤワルダナプラコッテ]] || [[マヒンダ・ラージャパクサ]]
|-
! [[:en:2015 Commonwealth Heads of Government Meeting|2015年]]
| 11月27-29日 || {{MLT}} || [[バレッタ]]; [[メリッハ]] || Fort St Angelo || [[ジョゼフ・ムスカット]]
|-
! [[:en:2018 Commonwealth Heads of Government Meeting|2018年]]
| 4月19-20日 || {{GBR}} || [[ロンドン]]; [[ウィンザー (イングランド)|ウィンザー]] || [[ウィンザー城]]|| [[テリーザ・メイ]]
|-
!''[[:en:2022 Commonwealth Heads of Government Meeting|2022年]]''
| ''6月20-26日'' || {{RWA}} ||[[キガリ]] || Radisson Blu Hotel Kigali || [[ポール・カガメ]]
|-
! ''27回目''
| 未定 || {{WSM}} || || ||
|}
加盟国の政府の長([[首相]]または[[大統領]])は2年に1度、[[西暦]]の奇数年に会議を行う。開催地は[[1971年]]以降、加盟各国による持ち回りとなっている。
前身は以下のとおり<ref>Commonwealth Secretariat (2007): Brief History of CHOGM. ''Commonwealth Heads of Government Meeting - CHOGM''. http://www.thecommonwealth.org/subhomepage/33250/ 2007-11-15 現在</ref>。
* [[1887年]] - [[1909年]]: 植民地会議({{lang-en-short|Colonial Conference}})
* [[1911年]] - [[1937年]]: 帝国会議({{lang-en-short|Imperial Conference}})
* [[1944年]] - [[1966年]]: [[イギリス連邦首相会議|英連邦首相会議]]({{lang-en-short|[[:en:Commonwealth Prime Ministers' Conference|Commonwealth Prime Ministers' Conference]]}})(ほぼ毎年)
* [[1971年]] - 現在: 英連邦首脳会議({{lang-en-short|[[:en:Commonwealth Heads of Government Meeting|Commonwealth Heads of Government Meeting]]}}、CHOGM)
=== 加盟国の種類 ===
{{main|:en:Head of the Commonwealth}}
加盟国には[[共和制]]と[[君主制]]が混在し、共和制においては[[選挙]]された大統領や首相が置かれるが、君主制においては[[国家元首]]・[[君主]]を置く国、すなわち[[イギリスの君主|イギリス国王]]を君主とする国([[英連邦王国]]15カ国)や[[ブルネイ王国]]がある。英連邦王国では、[[国王 (法人)|法人としての国王]]が任命した[[総督]]が国王の役割を代行しているが、現代では総督は実質的には[[首相]]による指名制とする場合が多い。[[カナダの総督]]、[[オーストラリアの総督]]、[[ニュージーランドの総督]]などがこの事例に含まれる(詳細は、「[[英連邦王国#現在の英連邦王国一覧|現在の英連邦王国]]」を参照)。
=== 文化・国内制度 ===
==== 共通語としての英語 ====
{{main|:en:English in the Commonwealth of Nations}}
[[モザンビーク]](旧[[ポルトガル]]領、[[公用語]]は[[ポルトガル語]])を除くほとんどの国では、[[英語]]を公用語かそれに準じる言語としている。ルワンダはベルギー統治時代以降、ベルギーの主要公用語であった[[フランス語]]を第二公用語としてきたが、親仏(および旧フランス植民地)的な政府が打倒された[[ルワンダ紛争]]後は、英語が公用語に追加された。
==== 教育 ====
イギリスの旧植民地やコモンウェルス加盟国は、統治時代に[[英語教育]]と共に導入された[[イギリスの教育|イングランド式の教育制度]]を独立後もそのまま引き継いだり、一部を変更して継続する国が多い。資格制度においてもイギリスの制度設計が導入されていることが多い。
このためイギリスへの留学時に優遇される措置や、本国での資格を有していればイギリスで同じ資格を取得する際に試験の一部が免除されるなどの共通化制度がある。
==== 法と政治の制度 ====
イングランドに倣い[[コモン・ロー]]([[英米法]])を導入した国が多い。ただし、コモン・ローは土着の慣行を柱とする法体系でもあるため、それ以前から[[大陸法]]が根付いていた地域([[南アフリカ共和国]]など)では大陸法ないし大陸法的な要素が取り入れられている。政治制度では、[[ウェストミンスター・システム]]([[議院内閣制]])を採用する国も多いが、これにも[[ナイジェリア]]のような例外もある。
[[人権]]尊重と[[法の支配]]が求められ、これらに対して重大な侵害があるという理由で資格停止とされる国もある。
また、[[国際司法裁判所]]の[[選択条項受諾宣言]]における「コモンウェルス留保」というものがあり、2014年時点でバルバドス、カナダ、インド、ケニア、マルタ、モーリシャス、イギリス、ガンビアの8カ国が採用している。この留保を付すると、同じくイギリス連邦諸国から訴えられる場合、紛争は国際司法裁判所の管轄権限外と見做される。特にインドはこの宣言により、パキスタンからの提訴を回避できたことがある<ref>{{Cite journal|author=[[喜多康夫]]|month=3|year=2014|title=国際司法裁判所の選択条項受諾宣言における コモンウェルス留保 -イギリス帝国の「残滓」の存在意義-|journal=帝京法学|volume=29|issue=1|pages=513-549}}</ref>。
==== 交通 ====
世界的には[[右側通行]]が多くを占めているが、コモンウェルスやイギリスの影響が強い国では左側通行が大半を占める(それ以外では旧植民地の[[香港]]。またそれ以外だと[[日本]]や[[タイ王国|タイ]]、[[インドネシア]]など)。また2階建てバスの運行、さらにイギリス本国との航空便数が多かったり、[[フラッグキャリア]]の唯一の長距離国際線がロンドンと首都を結ぶ便でことであることも多い([[ロイヤルブルネイ航空]]や[[ビーマン・バングラデシュ航空]]、[[マレーシア航空]]など)。
==== 生活・スポーツ ====
加盟国や旧加盟国ではイギリス本国の影響で、食文化では[[紅茶]]を飲む習慣など、元々現地には無かった文化や風習が導入され定着している。また、[[英語]]が国民多数派の[[母語]]であったり、あるいは多様な母語をもつ国民の共通語として用いられる場合が多いが、その英語の綴りや用法は[[イギリス英語]]と共通であることが多い。
スポーツでは、[[ラグビーフットボール|ラグビー]]や[[クリケット]]、[[ポロ]]や[[モータースポーツ]]などが盛んな国が多い。[[1930年]]以降、4年に1回[[コモンウェルスゲームズ]]と呼ばれる、加盟国による総合競技大会も行われている<ref>「スポーツの世界地図」p20 Alan Tomlinson著 阿部生雄・寺島善一・森川貞夫監訳 丸善出版 平成24年5月30日</ref>。
== 現在の加盟国一覧 ==
{{main|:en:Member states of the Commonwealth of Nations}}
*イギリス連邦加盟国は、以下の56ヶ国。
*'''[[英連邦王国]]'''である15ヶ国は、'''太字'''で記載。
{| class="wikitable sortable"
!width="260"|国
!width="110"|最初の加盟日
!width="160"|領域
!備考{{ref|1|[A]}}
|-
|'''{{Flag|Antigua and Barbuda}}'''
|1981年11月1日
|カリブ海・南北アメリカ
|
|-
|'''{{Flag|Australia}}'''
|1926年11月19日
|オセアニア
|
|-
|'''{{Flag|The Bahamas}}'''
|1973年7月10日
|カリブ海・南北アメリカ
|
|-
|{{Flag|Bangladesh}}
|1972年4月18日
|アジア
|
|-
|{{Flag|Barbados}}
|1966年11月30日
|カリブ海・南北アメリカ
|[[2021年]][[11月30日]]に[[エリザベス2世]]を国家元首から除外し、共和制へ移行した<ref name=":2">{{Cite web|last=Yasharoff|first=Hannah|title=Barbados announces plan to remove Queen Elizabeth as head of state next year|url=https://www.usatoday.com/story/entertainment/celebrities/2020/09/16/queen-elizabeth-removed-barbados-head-state-barbados-says/5814409002/|access-date=2020-09-18|website=USA TODAY|language=en-US}}</ref>。
|-
|'''{{Flag|Belize}}'''
|1981年9月21日
|カリブ海・南北アメリカ
|
|-
|{{Flag|Botswana}}
|1966年9月30日
|アフリカ
|
|-
|{{Flag|Brunei}}
|1984年1月1日
|アジア
|
|-
|{{Flag|Cameroon}}
|1995年11月13日
|アフリカ
|
|-
|'''{{Flag|Canada}}'''
|1926年11月19日
|カリブ海・南北アメリカ
|
|-
|{{Flag|Cyprus}}
|1961年3月13日
|ヨーロッパ
|
|-
|{{Flag|Dominica}}
|1978年11月3日
|カリブ海・南北アメリカ
|
|-
|{{Flag|Eswatini}}
|1968年9月6日
|アフリカ
|当初「スワジランド」として加盟していたが、2018年に現名称に改名。
|-
|{{Flag|Fiji}}
|1970年10月10日
|オセアニア
|クーデターにより1987年に脱退、共和制移行。1997年の改正憲法公布により再加盟。<br/>2000年に軍の戒厳令により加盟停止<ref>{{cite journal|last=Ingram|first=Derek|author-link=:en:Derek Ingram (journalist)|date=July 2000|title=Commonwealth Update|journal=[[:en:The Round Table Journal|The Round Table]]|volume=89|issue=355|pages=311–55|doi=10.1080/00358530050083406}}</ref>。2001年に総選挙を実施して加盟停止解除<ref name="Commonwealth Update Apr 2002">{{cite journal|last=Ingram|first=Derek|author-link=:en:Derek Ingram (journalist)|date=April 2002|title=Commonwealth Update|journal=[[:en:The Round Table Journal|The Round Table]]|volume=91|issue=364|pages=131–59|doi=10.1080/00358530220144148}}</ref>。<br/>2006年に再びクーデターが発生し、加盟停止<ref>{{cite journal|last=Ingram|first=Derek|author-link=:en:Derek Ingram (journalist)|last2=Soal|first2=Judith|date=February 2007|title=Commonwealth Update|journal=[[:en:The Round Table Journal|The Round Table]]|volume=96|issue=388|pages=2–28|doi=10.1080/00358530701189734}}</ref><ref name=":4">[http://www.thecommonwealth.org/news/34580/34581/213088/010909fijisuspended.htm Fiji suspended from the Commonwealth] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110429161637/http://www.thecommonwealth.org/news/34580/34581/213088/010909fijisuspended.htm|date=2011-04-29}}. Commonwealth Secretariat, 1 September 2009; retrieved 11 April 2011.</ref>。2014年に停止処分解除。
|-
|{{Flag|Gabon}}
|2022年6月25日
|アフリカ
|1960年に'''フランス'''から独立。[[2023年ガボンクーデター]]の発生を受け、首脳会議など政府間会議から追放される「部分的加盟停止」処分が下された<ref>{{Cite web |url=https://thecommonwealth.org/news/gabon-partially-suspended-commonwealth-pending-restoration-democracy |title=Gabon partially suspended from the Commonwealth pending restoration of democracy |publisher=イギリス連邦 |date=2023-09-19 |accessdate=2023-09-26}}</ref>。
|-
|{{Flag|The Gambia}}
|1965年2月18日
|アフリカ
|[[ヤヒヤ・ジャメ]]政権下の2013年に[[新植民地主義]]を理由に脱退<ref name=":5">{{cite web|url=http://thecommonwealth.org/media/news/statement-commonwealth-secretary-general-kamalesh-sharma-gambia|title=Statement by Commonwealth Secretary-General Kamalesh Sharma on The Gambia|publisher=The Commonwealth|date=4 October 2013|accessdate=6 October 2013}}</ref><ref name=":6">{{cite web|url=https://www.theguardian.com/world/2013/oct/03/gambia-quits-commonwealth-yahya-jammeh|title=Gambia quits the Commonwealth|publisher=The Guardian|date=2 October 2013|accessdate=5 October 2013}}</ref>。 ジャメ政権崩壊後の2018年に再加盟申請を提出し、再加盟<ref name=":7">{{cite news|title=The Gambia presents formal application to re-join the Commonwealth|url=http://thecommonwealth.org/media/news/gambia-presents-formal-application-re-join-commonwealth|accessdate=24 January 2018|publisher=The Commonwealth|date=23 January 2018|format=Media Release}}</ref><ref name="gambia">{{cite web|url=http://thecommonwealth.org/media/news/gambia-rejoins-commonwealth|title=The Gambia rejoins the Commonwealth|date=8 February 2018|publisher=Commonwealth Secretariat|accessdate=2021-11-07}}</ref>。
|-
|{{Flag|Ghana}}
|1957年3月6日
|アフリカ
|
|-
|'''{{Flag|Grenada}}'''
|1974年2月7日
|カリブ海・南北アメリカ
|
|-
|{{Flag|Guyana}}
|1966年5月26日
|アメリカ
|
|-
|{{Flag|India}}
|1947年8月15日
|アジア
|
|-
|'''{{Flag|Jamaica}}'''
|1962年8月6日
|カリブ海・南北アメリカ
|
|-
|{{Flag|Kenya}}
|1963年12月12日
|アフリカ
|
|-
|{{Flag|Kiribati}}
|1979年7月12日
|オセアニア
|
|-
|{{Flag|Lesotho}}
|1966年10月4日
|アフリカ
|
|-
|{{Flag|Malawi}}
|1964年7月6日
|アフリカ
|
|-
|{{Flag|Malaysia}}
|1957年8月31日
|アジア
|1957年の加盟当時は「マラヤ連邦」。
|-
|{{Flag|Maldives}}
|1982年7月9日
|アジア
|2016年に脱退、2020年に再加盟<ref>[https://thecommonwealth.org/media/news/maldives-becomes-54th-member-commonwealth-family Maldives becomes 54th member of Commonwealth family | The Commonwealth] {{en icon}}</ref>。
|-
|{{Flag|Malta}}
|1964年9月21日
|ヨーロッパ
|
|-
|{{Flag|Mauritius}}
|1968年3月12日
|アフリカ
|
|-
|{{Flag|Mozambique}}
|1995年11月13日
|アフリカ
|旧ポルトガル植民地(1975年独立)であり、イギリス領となった経験のない最初の加盟国<ref name="rwandajoins">{{cite web|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/africa/8384930.stm|title=Rwanda becomes a member of the Commonwealth|publisher=BBC News|date=29 November 2009|accessdate=29 November 2009}}</ref>。
|-
|{{Flag|Namibia}}
|1990年3月21日
|アフリカ
|
|-
|{{Flag|Nauru}}
|1968年11月1日
|オセアニア
|1968年にオーストラリア・ニュージーランド・イギリスの共同信託統治から独立。<br/>加盟時は特別加盟国だったが、1999年に正加盟国に昇格<ref name=":4" />。<br/>2006年に特別加盟国に戻った<ref name=":5" />が、2011年に再び正加盟国となった<ref name="RNZI_61413">{{cite news|date=26 June 2011|title=Nauru back as full Commonwealth member|work=[[:en:Radio New Zealand International|Radio New Zealand International]]|url=https://www.rnz.co.nz/international/pacific-news/197957/nauru-back-as-full-commonwealth-member|accessdate=23 October 2011}}</ref>。
|-
|'''{{Flag|New Zealand}}'''
|1926年11月19日
|オセアニア
|
|-
|{{Flag|Nigeria}}
|1960年10月1日
|アフリカ
|クーデターにより1995年に加盟停止、1999年に停止解除<ref name=":7" />。
|-
|{{Flag|Pakistan}}
|1947年8月14日
|アジア
|独立時はイギリスの君主を国王とする王国。1956年以降共和制。1972年に脱退、1989年に再加盟。<br/>クーデターにより1999年に加盟停止、2004年に加盟停止解除。<br/>2007年に再び加盟停止<ref name=":8" />、2008年に加盟停止解除<ref name=":9" />。
|-
|'''{{Flag|Papua New Guinea}}'''
|1975年9月16日
|オセアニア
|
|-
|{{Flag|Rwanda}}
|2009年11月29日
|アフリカ
|旧ベルギー植民地(1962年独立)。
|-
|'''{{Flag|Saint Kitts and Nevis}}'''
|1983年9月19日
|カリブ海・南北アメリカ
|
|-
|'''{{Flag|Saint Lucia}}'''
|1979年2月22日
|カリブ海・南北アメリカ
|
|-
|'''{{Flag|Saint Vincent and the Grenadines}}'''
|1979年10月27日
|カリブ海・南北アメリカ
|1979年から1985年まで特別加盟国。
|-
|{{Flag|Samoa}}
|1970年8月28日
|オセアニア
|当初「西サモア」として加盟していたが、1997年に現名称に改名<ref name=":10" />。
|-
|{{Flag|Seychelles}}
|1976年6月29日
|アフリカ
|
|-
|{{Flag|Sierra Leone}}
|1961年4月27日
|アフリカ
|
|-
|{{Flag|Singapore}}
|1966年8月9日{{efn|1965年8月9日から有効。}}
|アジア
|1963年にマレーシア連邦に加盟し資格消滅。1965年に独立し、資格回復<ref>{{cite news|title=Road to Independence|publisher=AsiaOne|accessdate=28 June 2006|url=http://ourstory.asia1.com.sg/merger/merger.html|url-status=dead|archive-url=https://web.archive.org/web/20131013002423/http://ourstory.asia1.com.sg/merger/merger.html|archive-date=13 October 2013}}</ref>。
|-
|'''{{Flag|Solomon Islands}}'''
|1978年7月7日
|オセアニア
|
|-
|{{Flag|South Africa}}
|1926年11月19日
|アフリカ
|1961年に[[アパルトヘイト]]への批判に対抗して脱退、1994年に再加盟<ref>{{cite web|url=http://thecommonwealth.org/our-member-countries/south-africa|title=South Africa|publisher=Commonwealth Secretariat|accessdate=2016-01-25}}</ref>。
|-
|{{Flag|Sri Lanka}}
|1948年2月4日
|アジア
|当初はイギリスの君主を国王とする「[[セイロン (ドミニオン)|セイロン]]」として加盟していたが、1972年に共和制移行、現名称に改名した。
|-
|{{Flag|Tanzania}}
|1961年12月9日
|アフリカ
|1964年にタンガニーカとザンジバルが合併<ref name="Tanzania">{{cite web|url=http://www.thecommonwealth.org/YearbookInternal/145193/history|title=Tanzania – History|publisher=Commonwealth Secretariat|accessdate=15 February 2008|url-status=dead|archive-url=https://web.archive.org/web/20080903225028/http://www.thecommonwealth.org/YearbookInternal/145193/history/|archive-date=3 September 2008}}</ref>。
|-
|{{Flag|Togo}}
|2022年6月25日
|アフリカ
|旧フランス植民地(1960年独立)。
|-
|{{Flag|Tonga}}
|1970年6月4日
|オセアニア
|
|-
|{{Flag|Trinidad and Tobago}}
|1962年8月31日
|カリブ海・南北アメリカ
|
|-
|'''{{Flag|Tuvalu}}'''
|1978年10月1日
|オセアニア
|1978年から2000年まで特別加盟国<ref name="Tanzania2">{{cite web|url=http://www.thecommonwealth.org/YearbookInternal/145193/history|title=Tanzania – History|publisher=Commonwealth Secretariat|accessdate=15 February 2008|url-status=dead|archive-url=https://web.archive.org/web/20080903225028/http://www.thecommonwealth.org/YearbookInternal/145193/history/|archive-date=3 September 2008}}</ref>。
|-
|{{Flag|Uganda}}
|1962年10月9日
|アフリカ
|
|-
|'''{{Flag|United Kingdom}}'''
|1926年11月19日
|ヨーロッパ
|イギリス連邦主導国。
|-
|{{Flag|Vanuatu}}
|1980年7月30日
|オセアニア
|フランスとイギリスの[[共同主権]]地域(コンドミニアム)から独立。
|-
|{{Flag|Zambia}}
|1964年10月24日
|アフリカ
|
|}
== 過去の加盟国 ==
=== 脱退した国 ===
{| class="wikitable"
!国名
!加盟日
!脱退日
!備考
|-
|[[ファイル:Flag_of_Ireland.svg|境界|25x25ピクセル]] [[アイルランド]]
|1926年11月19日
|1949年4月18日
|1948年に[[アイルランド共和国法]]を可決した後に脱退。
|-
|{{ZWE}}
|1980年10月1日
|2003年12月7日
|土地没収政策により2002年に加盟停止<ref name="Commonwealth Update Apr 20022">{{cite journal|last=Ingram|first=Derek|author-link=:en:Derek Ingram (journalist)|date=April 2002|title=Commonwealth Update|journal=[[:en:The Round Table Journal|The Round Table]]|volume=91|issue=364|pages=131–59|doi=10.1080/00358530220144148}}</ref>、2003年に脱退<ref>{{cite journal|date=January 2004|title=Editorial: CHOGM 2003, Abuja, Nigeria|journal=[[:en:The Round Table Journal|The Round Table]]|volume=93|issue=373|pages=3–6|doi=10.1080/0035853042000188139}}</ref>。<br/>2018年に[[エマーソン・ムナンガグワ|ムナンガグワ]]大統領が再加盟を申請した。
|}
=== 消滅した国・自治領 ===
{| class="wikitable"
!旧国名
!加盟日
!消滅日
!備考
|-
|[[ファイル:Dominion_of_Newfoundland_Red_Ensign.svg|境界|25x25ピクセル]] [[ニューファンドランド (ドミニオン)|ニューファンドランド]]
|1926年11月19日
|1949年3月31日
|1934年2月16日に政府停止、1949年3月31日にカナダに合併<ref name="Dominion status5">{{cite web|url=http://www.commonwealthofnations.org/commonwealth/history|title=Dominion Status|publisher=Commonwealth of Nations|date=2016|accessdate=2016-10-15}}</ref>。
|-
|[[ファイル:Flag of the Federation of Rhodesia and Nyasaland (1953–1963).svg|境界|25x25ピクセル]] [[ローデシア・ニヤサランド連邦]]
|1953年8月1日
|1963年12月31日
|1963年に3つの植民地に再分割され資格消滅。<br>現在のマラウイ、ザンビア、ジンバブエ。
|-
|{{flagicon|Malaya}} [[マラヤ連邦|マラヤ]]
|1957年8月31日
|1963年7月31日
|1963年にシンガポール、北ボルネオ、サラワクを加えてマレーシア連邦を結成。
|-
|[[ファイル:Flag of the West Indies Federation (1958–1962).svg|境界|25x25ピクセル]] [[西インド連邦]]
|1958年
|1962年
|1963年に12の植民地に分割され資格消滅。
|-
|{{flagicon|Tanganyika}} [[タンガニーカ]]
|1961年12月9日
| rowspan="2" |1964年4月26日
| rowspan="2" |1964年4月26日にタンザニアとして合併<ref name="Tanzania4">{{cite web|url=http://www.thecommonwealth.org/YearbookInternal/145193/history|title=Tanzania – History|publisher=Commonwealth Secretariat|accessdate=15 February 2008|url-status=dead|archive-url=https://web.archive.org/web/20080903225028/http://www.thecommonwealth.org/YearbookInternal/145193/history/|archive-date=3 September 2008}}</ref>。
|-
|[[ファイル:Flag_of_Zanzibar_(January-April_1964).svg|境界|25x25ピクセル]] [[ザンジバル人民共和国|ザンジバル]]
|1963年12月10日
|}
== 加盟申請中の国(加盟経験なし) ==
{| class="wikitable"
!国
!申請年
!備考
|-
|{{Flag|South Sudan}}
|2011年
|1956年にスーダンの一部としてイギリスから独立。2011年にスーダンから独立し、まもなく加盟を申請<ref>[http://shimronletters.blogspot.com/2011/05/south-sudan-on-track-to-join.html South Sudan on Track to Join Commonwealth.]</ref>。
|-
|{{Flag|Suriname}}
|2012年
|17世紀から19世紀までイギリスの支配下にあった。2012年にコモンウェルスに加盟する計画を発表した<ref name="Suriname eyeing membership of Commonwealth">{{cite web|url=http://www.stabroeknews.com/2012/news/regional/06/14/suriname-eying-membership-of-commonwealth-2|title=Suriname eying membership of Commonwealth|author=Staff Writer|work=Stabroek News|accessdate=2021-11-07}}</ref>。
|-
|{{Flag|Burundi}}
|2013年
|
|}
== 非加盟国 ==
=== 元加盟国 ===
*{{Flag|アイルランド}}([[1931年]]加盟、[[1949年]]脱退、旧称・[[アイルランド自由国]])
*{{Flag|ジンバブエ}}([[1980年]]加盟、[[2002年]]資格停止、[[2003年]]脱退、旧称・[[ローデシア=ニアサランド連邦]]→[[南ローデシア]]→[[ローデシア]]→[[ジンバブエ=ローデシア]])
*[[ファイル:Dominion of Newfoundland Blue Ensign.svg|border|25x20px]] [[ニューファンドランド (ドミニオン)|ニューファンドランド]]([[1931年]]加盟、[[1949年]]カナダの連邦政府に加盟)
=== かつてイギリスの支配下にあった非加盟国・地域 ===
*{{Flag|アフガニスタン}}
*{{Flag|アメリカ合衆国}}
*{{Flag|アラブ首長国連邦}}
*{{Flag|イエメン}}
*{{Flag|イスラエル}}
*{{Flagicon|パレスチナ}} [[パレスチナ国]]
*{{Flag|イラク}}
*{{Flag|エジプト}}
*{{Flag|オマーン}}
*{{Flag|カタール}}
*{{Flag|クウェート}}
*{{Flag|スーダン}}
*{{Flag|ソマリア}}
*{{Flag|バーレーン}}
*{{Flag|フランス}}
*{{Flag|ミャンマー}}
*{{Flag|ヨルダン}}
*{{Flag|香港}}({{Flag|中華人民共和国}} [[特別行政区]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em|refs=
<ref name=":8">{{cite web|url=http://www.thecommonwealth.org/YearbookInternal/145165/history|title=Malaysia – History|publisher=Commonwealth Secretariat|accessdate=15 February 2008|url-status=dead|archive-url=https://web.archive.org/web/20080203015006/http://www.thecommonwealth.org/YearbookInternal/145165/history/|archive-date=3 February 2008}}</ref>
<ref name=":9">{{cite web|url=http://www.thecommonwealth.org/YearbookInternal/145167/history|title=Maldives – History|publisher=Commonwealth Secretariat|accessdate=15 February 2008|url-status=dead|archive-url=https://web.archive.org/web/20080705060545/http://www.thecommonwealth.org/YearbookInternal/145167/history/|archive-date=5 July 2008}}</ref>
<ref name=":10">{{Cite web|url=http://www.maldiveshighcommission.org/?id_w=8|title=The Maldives and the Commonwealth|accessdate=30 January 2009|publisher=Republic of Maldives|archive-url=https://webcitation.org/6BEpmgd4n?url=http://www.maldiveshighcommission.org/?id_w=8|archive-date=7 October 2012|url-status=dead}}</ref>
}}
== 関連項目 ==
* [[英連邦王国]]
* [[英語圏]]
* [[5か国防衛取極]]
* [[西インド連邦]]
* [[イギリスの海外領土]]
* [[イギリスのカントリー]]
*[[ポルトガル語諸国共同体]]
*[[自由連合]]
*[[独立国家共同体]]
*[[北大西洋条約機構]]
*[[イギリス英語]]
== 外部リンク ==
* {{official|thecommonwealth.org}} {{en icon}}
* {{Facebook|commonwealthsec}} {{en icon}}
* {{Twitter|commonwealthsec}} {{en icon}}
* [http://journals.cambridge.org/action/displayAbstract?fromPage=online&aid=325369 コモンウェルス制裁の正当性について] (最近の研究){{en icon}}
* [http://www.commonwealthofnations.org The Commonwealth of Nations Network]
* [http://www.commonwealthfoundation.com Commonwealth Foundation]
* [https://web.archive.org/web/20191214000728/https://thercs.org/ The Royal Commonwealth Society]
* [https://web.archive.org/web/20191212142446/https://www.the-ccl.org/ The Commonwealth Countries League]
{{イギリス連邦}}
{{イギリス植民地帝国}}
{{authority control}}
{{デフォルトソート:いきりすれんほう}}
[[Category:イギリス連邦|*]]
[[Category:海洋国家]]
[[Category:イギリスの国際関係]]
[[Category:国際連合総会オブザーバー]]
[[Category:イギリスの植民政策]]
[[Category:カナダの政治史]] | 2003-05-16T07:23:27Z | 2023-12-28T05:20:15Z | false | false | false | [
"Template:Main",
"Template:NZL",
"Template:Cite journal",
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"Template:IND",
"Template:MYS",
"Template:Lang-en",
"Template:Flag",
"Template:イギリス連邦"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E9%80%A3%E9%82%A6 |
8,354 | バリトン | バリトン(独: Bariton〈バーリトン〉、英: baritone〈バリトーン〉、仏: baryton〈バリトン〉、伊: baritono〈バリートノ〉)は、男声のバスとテノールの中間の声域およびそれを受け持つ歌手。男声を音域で二分する場合はバスの側に分類される。 典型的なバリトンの音域は概ねG2~G4、合唱ではA2~F4くらいである。記譜はバス記号が用いられることが多く、バリトン記号は現在はあまり用いられない。
音域で分類すると、高い方を「ハイ・バリトン」、低い方を「バス・バリトン」などと呼ぶ場合もある。
オペラの領域では、音色を含めて総合的に「バリトン・レジェ」「リリック・バリトン」、「キャラクター・バリトン」、「ヘルデン・バリトン」など様々に細分化することもある。
バリトンという言葉は器楽にも用いられ、音域が異なる同種の楽器グループでの区分を行う。例えばサクソフォーン属においてバリトン・サクソフォーンなどと呼ばれる。
単独で管楽器名を表すバリトンは、ユーフォニアムと同属の金管楽器である。また古楽器にヴィオール属の撥弦兼弓奏楽器バリトンがあるが、これは英語などでは baryton で綴りが異なる(綴りが同じ言語もある)。 | [
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}
] | バリトンは、男声のバスとテノールの中間の声域およびそれを受け持つ歌手。男声を音域で二分する場合はバスの側に分類される。
典型的なバリトンの音域は概ねG2~G4、合唱ではA2~F4くらいである。記譜はバス記号が用いられることが多く、バリトン記号は現在はあまり用いられない。 | {{Otheruseslist|声域|金管楽器|ユーフォニアム|弦楽器|バリトン (弦楽器)|エフェクター|バリトーン}}
{{Portal クラシック音楽}}
'''バリトン'''({{lang-de-short|Bariton}}{{small|〈バーリトン〉}}、{{lang-en-short|baritone}}{{small|〈バリトーン〉}}、{{lang-fr-short|baryton}}{{small|〈バリトン〉}}、{{lang-it-short|baritono}}{{small|〈バリートノ〉}})は、[[男声]]の[[バス (声域)|バス]]と[[テノール]]の中間の[[声域]]およびそれを受け持つ[[歌手]]。男声を音域で二分する場合はバスの側に分類される。
典型的なバリトンの音域は概ね[[音名・階名表記#オクターヴ表記|G2]]~[[音名・階名表記#オクターヴ表記|G4]]<ref>フレデリック・フースラー/イヴォンヌ・ロッド=マーリング 『うたうこと 発声器官の肉体的特質』 須永義雄・大熊文子訳 音楽之友社、2000年、111頁。ISBN 4-276-14252-0</ref>、合唱ではA2~F4くらいである。記譜は[[バス記号]]が用いられることが多く、[[バリトン記号]]は現在はあまり用いられない。
==分類==
音域で分類すると、高い方を「ハイ・バリトン」、低い方を「バス・バリトン」などと呼ぶ場合もある。
オペラの領域では、音色を含めて総合的に「バリトン・レジェ」「リリック・バリトン」、「キャラクター・バリトン」、「ヘルデン・バリトン」など様々に細分化することもある。
== 楽器のバリトン ==
バリトンという言葉は器楽にも用いられ、音域が異なる同種の楽器グループでの区分を行う。例えば[[サクソフォーン]]属においてバリトン・サクソフォーンなどと呼ばれる。
単独で管楽器名を表す[[サクソルン|バリトン]]は、[[ユーフォニアム]]と同属の金管楽器である。また[[古楽器]]に[[ヴィオール属]]の撥弦兼弓奏楽器[[バリトン (弦楽器)|バリトン]]があるが、これは英語などでは {{interlang|en|baryton}} で綴りが異なる(綴りが同じ言語もある)。
== バリトンに分類される声楽家の例 ==
=== 海外 ===
; あ行
* [[マウロ・アウグスティーニ]]
* [[テオ・アダム]]
* [[カルロス・アルヴァレス]]
* [[トーマス・アレン]]
* [[ベルント・ヴァイクル]]
*[[ジョゼ・ヴァン・ダム]]
* [[ラモン・ヴィナイ]]
* [[ヘルマン・ウーデ]]
* [[エーベルハルト・ウェヒター|エーベルハルト・ヴェヒター]]
* [[マルクス・ヴェルバ]]
* [[レナード・ウォーレン]]
* [[オットー・エーデルマン]]
* [[クラウディオ・オテッリ]]
; か行
* [[KAI (声楽家)|KAI]]
* [[ピエロ・カプッチルリ]]
* [[サイモン・キーンリーサイド]]
* [[トマス・クヴァストホフ]]
* [[トム・クラウゼ]]
* [[グリア・グリムスレイ]]
* [[ユーリー・グリャーエフ]]
* [[エーリッヒ・クンツ]]
* [[マティアス・ゲルネ]]
* [[クリスティアン・ゲルハーヘル]]
* [[シュテファン・ゲンツ]]
* [[ティート・ゴッビ]]
* [[アンセルモ・コルツァーニ]]
; さ行
* [[レナート・ザネッリ]]
* [[ジョルジョ・ザンカナロ]]
* [[ブライアン・シェクスネイダー]]
* [[ジャック・ジャンセン]]
* [[アンドレアス・シュミット]]
* [[ハインリヒ・シュルスヌス]]
* [[アレッド・ジョーンズ]]
* [[ジェラール・スゼー]]
* [[リッカルド・ストラッチアーリ]]
* [[ソ・ジョンハク]](徐廷學)
; た行
* [[ジュゼッペ・タッデイ]]
* [[ブリン・ターフェル]]
* [[ローレンス・ティベット]]
* [[ジュゼッペ・デ・ルーカ]]
* [[アーサー・トンプソン]]
; な行
* [[グスタフ・ナイトリンガー]]
* [[レオ・ヌッチ]]
; は行
* [[フランツ・ハヴラタ]]
* [[パオロ (タレント)]]
* [[エットーレ・バスティアニーニ]]
* [[マッティア・バッティスティーニ]]
* [[キュウ・ウォン・ハン]]
* [[シャルル・パンゼラ]]
* [[トーマス・ハンプソン (バリトン歌手)|トーマス・ハンプソン]]
* [[ゲルハルト・ヒュッシュ]]
* [[ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ]]
* [[ヘルマン・プライ]]
* [[セスト・ブルスカンティーニ]]
* [[レナート・ブルゾン]]
* [[アルド・プロッティ]]
* [[オラフ・ベーア]]
* [[ピエール・ベルナック]]
* [[ディートリヒ・ヘンシェル]]
* [[ハンス・ホッター]]
* [[ヴォルフガング・ホルツマイア]]
* [[ディミトリー・ホロストフスキー]]
* [[ファン・ポンス]]
; ま行
* [[アンブロージョ・マエストリ]]
* [[コーネル・マックニール]]
* [[マッテオ・マヌグエッラ]]
* [[サルバトーレ・マルケージ]]
* [[シェリル・ミルンズ]]
* [[ロバート・メリル]]
* [[イヴァン・メルニコフ]]
; ら行
* [[ティッタ・ルッフォ]]
* [[セルゲイ・レイフェルクス]]
; わ行
* [[ウィリアム・ワークマン]]
=== 日本 ===
; あ行
* [[池田明良]]
* [[池田直樹 (声楽家)|池田直樹]]
* [[伊藤和広]]
* [[伊藤武雄 (声楽家)|伊藤武雄]]
* [[伊藤正 (声楽家)|伊藤正]]
* [[伊藤宣行]]
* [[井上雅人]]
* [[今仲幸雄]]
* [[大賀典雄]]
* [[大久保真]]
* [[大久保光哉]]
* [[大島幾雄]]
* [[大西宇宙]]
* [[大沼徹]]
* [[大橋國一]]
* [[緒方敏郎]]
* [[小川雄亮]]
* [[奥村泰憲]]
* [[小田清 (声楽家)|小田清]]
* [[折江忠道]]
; か行
* [[加耒徹]]
* [[花月真]]
* [[片桐直樹]]
* [[加藤隼人]]
* [[勝部太]]
* [[金子亮平]]
* [[川下登]]
* [[管野滋樹]]
* [[木川田澄]]
* [[木川田誠]]
* [[木村俊光]]
* [[熊谷公博]]
* [[蔵田裕行]]
* [[栗林義信]]
* [[黒田博]]
* [[河野克典]]
* [[小玉晃 (歌手)|小玉晃]]
* [[小森輝彦]]
* [[今野博之]]
; さ行
* [[斎藤達雄 (歌手)|斎藤達雄]]
* [[佐藤光政]]
* [[志村文彦]]
* [[清水金太郎]]
* [[新川和孝]]
* [[菅井英斗|菅井英憲(英斗)]]
; た行
* [[高曲伸和]]
* [[竹内肇]]
* [[竹澤嘉明]]
* [[多田羅迪夫]]
* [[立川清登]]
* [[橘茂]]
* [[田中勉 (声楽家)|田中勉]]
* [[田中由也]]
* [[谷友博]]
* [[谷口伸]]
* [[塚田康弘]]
* [[築地利三郎]]
* [[土屋広次郎]]
* [[手登根直樹]]
* [[徳山璉]]
* [[豊島雄一]]
* [[友竹正則]]
; な行
* [[直野資]]
* [[中山悌一]]
* [[中村義春]]
* [[灘井誠]]
* [[成田博之]]
* [[根津貴行]]
* [[則竹正人]]
; は行
* [[萩原次己]]
* [[萩原寛明]]
* [[蓮井求道]]
* [[畑中良輔]]
* [[原田茂生]]
* [[初鹿野剛]]
* [[平野忠彦]]
* [[福島明也]]
* [[星野淳]]
* [[堀内康雄]]
; ま行
* [[牧野正人]]
* [[増永丈夫]]
* [[増本隆]]
* [[町英和]]
* [[町田健児]]
* [[松尾興]]
* [[宮本益光]]
* [[村田健司]]
; や行
* [[山本哲也 (バリトン歌手)|山本哲也]]
* [[吉江忠男]]
* [[芳野靖夫]]
* [[吉武大地]]
* [[米田哲二]]
== 他の声域 ==
* [[メゾソプラノ]]
* [[ソプラノ]]
* [[アルト]]([[コントラルト]])
* [[カウンターテナー]] / [[カストラート]]
* [[テノール]]
* [[バス (声域)|バス]]
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[音楽]]
* [[声楽]]
* [[歌手]]
* [[オペラ]]
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[[Category:声楽]]
[[Category:合唱]]
[[he:קולות (מוזיקה)#בריטון]] | null | 2022-10-01T14:18:07Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AA%E3%83%88%E3%83%B3 |
8,355 | オットー・エーデルマン | オットー・エーデルマン(Otto Edelmann、1917年2月5日 - 2003年5月14日)は、オーストリアのオペラ歌手(バス・バリトン)。
リヒャルト・シュトラウス『ばらの騎士』のオックス男爵、ワーグナー『ニュルンベルクのマイスタージンガー』のハンス・ザックス、モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』のレポレロを得意とし、40を超えるレパートリーを駆使して国際的に活躍した。
オットー・エーデルマンは第一次世界大戦末期の1917年2月5日にオーストリア=ハンガリー帝国、エースタライヒ・ウンター・デア・エンス大公国、ブルン・アム・ゲビルゲ(ドイツ語版)で生まれる。幼少期から音楽的才能を発揮し、幼稚園の出し物で早くも歌を披露した。また、音楽のみならずスポーツ、特にボクシングを好み、幼少期のアイドルはジーン・タニーとジャック・デンプシーで、家の窓枠にその名前を刻むほどであった。11歳のときに初めてウィーン国立歌劇場でオペラを鑑賞し、その時の演目はレオンカヴァッロの『道化師』で、カニオを歌っていたのはレオ・スレザーク(英語版)あった。やがてエーデルマンはウィーン国立音楽アカデミーに入学し、テオドール・リアハンメルとギュンナー・グラールド(英語版)の教えを受けた。1937年、エーデルマンは弱冠20歳でナチス・ドイツのテューリンゲン州ゲーラでモーツァルト『フィガロの結婚』に出演してデビューを飾る。翌1938年から1940年まではニュルンベルク歌劇場(英語版)に所属し、モーツァルト『後宮からの誘拐』のオスミンやコルネリウス『バグダッドの理髪師(英語版)』のアブドラ・ハッサンのほか、シュトラウスの『アラベラ』のヴァルトナー伯爵を作曲者自身の指揮で歌ったこともあった。しかし、時代はすでに第二次世界大戦に突入しており、エーデルマンも歌手としてのキャリアはドイツ国防軍による徴兵でいったん休止せざるを得ず、レンツブルクの高射砲部隊や独ソ戦の戦場などに赴く。やがてナチス・ドイツは崩壊してエーデルマンも赤軍の捕虜となり、リトアニアの収容所に送られた。
1947年秋、釈放されてオーストリアに戻ったエーデルマンは歌手活動を再開させる。ウィーン国立歌劇場は爆撃で崩壊しており、フォルクスオーパーとアン・デア・ウィーン劇場を仮住まいとして公演を継続していた時期にあたっていたが、エーデルマンはフォルクスオーパーで歌劇場のオーディションを受けて合格し、1947年11月30日にフォルクスオーパーでのウェーバー『魔弾の射手』の隠者で、ウィーン国立歌劇場所属歌手としてデビューを果たした。ヴィルヘルム・フルトヴェングラーやヨーゼフ・クリップス、ヘルベルト・フォン・カラヤン、クレメンス・クラウス、ハンス・クナッパーツブッシュといった指揮者との共演を重ね、1951年には第二次世界大戦後初開催のバイロイト音楽祭に出演し、カラヤンの指揮で『マイスタージンガー』のハンス・ザックスを初めて歌い、フルトヴェングラー指揮によるベートーヴェンの交響曲第9番(第九)のソリストも務めた。この1951年にはバイロイトのほかに、3月から4月にかけてフルトヴェングラー指揮のワーグナー『パルジファル』のアンフォルタスでスカラ座にデビューしている。翌1952年1月、エーデルマンはスカラ座におけるカラヤン指揮の『ばらの騎士』の公演で、初めてオックス男爵を歌う。夏にはバイロイト音楽祭に登場してクナッパーツブッシュ指揮により『マイスタージンガー』のハンス・ザックスを再び歌ったが、バイロイトへの出演はこの年限りとなった。バイロイトに引き続いてエディンバラ音楽祭にハンブルク州立歌劇場の引っ越し公演に客演という形で初登場し、レオポルト・ルートヴィヒの指揮でハンス・ザックスを歌った。
1953年、エーデルマンはザルツブルク音楽祭にデビューし、フルトヴェングラー指揮の『ドン・ジョヴァンニ』で初めてレポレロを歌う。翌1954年のザルツブルク音楽祭では、同じくフルトヴェングラーの指揮でレポレロと『魔弾』の隠者を歌い、前者はパウル・ツィンナー(英語版)による映画でその舞台姿を残した。この年、フルトヴェングラーとはルツェルン音楽祭での「第九」公演でも共演したが、フルトヴェングラーは11月30日に亡くなった。その直前の11月11日にはメトロポリタン歌劇場(メト)にデビューし、フリッツ・シュティードリーの指揮でハンス・ザックスを歌った。エーデルマンのレパートリーは広かったが、メトではドイツもののレパートリーに絞って活躍し、ハンス・ザックスやオックス男爵のほかに『指環』のヴォータン、『トリスタンとイゾルデ』のマルケ王、『ローエングリン』のハインリヒといったワーグナー諸作品のほか、ベートーヴェン『フィデリオ』のロッコなどを歌っている。1960年のザルツブルク音楽祭、新たに祝祭大劇場がオープンし、こけら落としとしてカラヤン指揮の『ばらの騎士』が上演され、エーデルマンも得意のオックス男爵でオープンに花を添えた。この公演もツィンナーの手により映像化された。
オックス男爵の映像が残された1960年、エーデルマンはイルゼ・マリア・シュトラウブと結婚し、1962年6月15日に長男ペーター、1968年4月12日に次男パウル・アルミン(ドイツ語版)が誕生し、ペーターとパウル・アルミンはともにバリトン歌手となった。子どもは3人で、ペーターとパウル・アルミンのほかに娘が一人いる。1960年代後半からはレパートリーと出番を徐々に絞るようになり、メトにおいてはハンス・ザックスとオックス男爵、ロッコのみを歌ったが、1969年以降はオックス男爵のみを歌うだけとなった。ウィーンにおいても1970年代には、フォルクスオーパーで上演されるオルフ『月』やロルツィング『ロシア皇帝と船大工』、ヨハン・シュトラウス2世『ウィーン気質』などの軽いオペラに出演するようになった。1976年4月7日、エーデルマンはジェームズ・レヴァイン指揮の『ばらの騎士』でオックス男爵を歌い、メトにおけるこの公演をオックス男爵の歌い納めとした。同じ年の12月16日、ウィーン国立歌劇場における『アラベラ』の公演でヴァルトナー伯爵を歌い、この公演を最後に現役を引退した。引退後はウィーン国立音楽大学で長年教鞭をとり、2003年5月14日にウィーン・リージング区(英語版)カルクスブルク(ドイツ語版)で86年の生涯を終えた。
当たり役は何といっても、1952年から引退する1976年までおよそ四半世紀かけて歌い続けてきた『ばらの騎士』のオックス男爵であり、初めて演じたスカラ座、ウィーン、メトのほか、1955年にはサンフランシスコ・オペラ、1964年にはグラインドボーン音楽祭で歌い、ザルツブルクにおいてもカラヤンのほか、1961年にカール・ベームの指揮でも歌っている。ツィンナーによる映画では、元帥夫人がエリーザベト・シュヴァルツコップ、セーナ・ユリナッチのオクタヴィアンにアンネリーゼ・ローテンベルガーのゾフィーという配役で、このオペラ演奏の一つの頂点とされるものであり、ツィンナーによる映画はオペラ映画史を代表する名作として現在も親しまれている。1960年における実公演では元帥夫人は、一公演のみシュヴァルツコップが歌った以外はリーザ・デラ・カーザに代わっているが、その録音も公式発売されている。1954年のザルツブルク音楽祭でのツィンナーが撮影した『ドン・ジョヴァンニ』のレポレロも記憶に残る歌唱と言えるが、エーデルマンが『ドン・ジョヴァンニ』を手掛けたのはオックス男爵と比較するときわめて少なく、フルトヴェングラー指揮による1953年、1954年のザルツブルク音楽祭でレポレロを歌ったほかは、1948年にブリュッセルでのウィーン国立歌劇場の引っ越し公演で騎士団長を歌っただけである。
オックス男爵、レポレロとならんでエーデルマンの主要なレパートリーは、ドイツ物では『マイスタージンガー』のハンス・ザックスおよびポーグナー、『ローエングリン』のハインリヒ、『パルジファル』のアンフォルタスとグルネマンツ、『アラベラ』のヴァルトナー伯爵、『魔弾』の隠者、『フィデリオ』のロッコ、ドン・ピサロおよびドン・フェルナンド、フロトー『マルタ』のプランケットなどが記録に残っており、ポーグナー、ドン・ピサロ、隠者とヴァルトナー伯爵は正規録音が残されている。ドイツ物以外ではヴェルディの『ドン・カルロ』のフィリッポ2世と『ファルスタッフ』のタイトル・ロール、スメタナ『売られた花嫁』のケツァル、グノー『ファウスト』のメフィストフェレス、ドニゼッティ『愛の妙薬』のドゥルカマーラなどを歌っている。ウィーン国立歌劇場所属歌手としては36の役柄で430公演に出演し、レパートリーの総計は40を優に超えていた。極めて珍しいレパートリーとしては、引退後の1983年にセゲド国民劇場(ハンガリー)の公演で歌ったシューベルト『魔法の竪琴』のフォルコ、リーノおよびアルフの3役がある。 | [
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] | オットー・エーデルマンは、オーストリアのオペラ歌手(バス・バリトン)。 リヒャルト・シュトラウス『ばらの騎士』のオックス男爵、ワーグナー『ニュルンベルクのマイスタージンガー』のハンス・ザックス、モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』のレポレロを得意とし、40を超えるレパートリーを駆使して国際的に活躍した。 | {{Infobox Musician <!--プロジェクト:音楽家を参照-->
| Name = オットー・エーデルマン<br/>Otto Edelmann
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| Blood = <!-- 個人のみ -->
| School_background = ウィーン国立音楽アカデミー
| Born = [[1917年]][[2月5日]]<br>{{AUT1867}}・[[ニーダーエスターライヒ州|エースタライヒ・ウンター・デア・エンス大公国]] {{仮リンク|ブルン・アム・ゲビルゲ|de|Brunn am Gebirge}}
| Died = {{死亡年月日と没年齢|1917|2|5|2003|5|14}}<br>{{AUT}}・[[ウィーン]] リージング区カルクスブルク
| Origin = {{AUT}}
| Instrument = <!-- 個人のみ -->
| Genre = [[オペラ]]、コンサート
| Occupation = [[歌手]]、[[教育者]]
| Years_active = [[1937年]] - [[1976年]]
| Label =
| Production =
| Associated_acts =
| Influences =
| URL = [http://www.ottoedelmannsociety.com/ The Otto Edelmann society]
| Current_members = <!-- グループのみ -->
| Past_members = <!-- グループのみ -->
| Notable_instruments =
}}
{{Portal クラシック音楽}}
'''オットー・エーデルマン'''({{Lang|de|Otto Edelmann}}、[[1917年]][[2月5日]] - [[2003年]][[5月14日]])は、[[オーストリア]]の[[オペラ]]歌手([[バス・バリトン]])。
[[リヒャルト・シュトラウス]]『[[ばらの騎士]]』のオックス男爵、[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]『[[ニュルンベルクのマイスタージンガー]]』のハンス・ザックス、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]『[[ドン・ジョヴァンニ]]』のレポレロを得意とし、40を超えるレパートリー<ref name="bach">[[#Bach Cantatas]]</ref>を駆使して国際的に活躍した。
==生涯==
オットー・エーデルマンは[[第一次世界大戦]]末期の1917年2月5日に[[オーストリア=ハンガリー帝国]]、[[ニーダーエスターライヒ州|エースタライヒ・ウンター・デア・エンス大公国]]、{{仮リンク|ブルン・アム・ゲビルゲ|de|Brunn am Gebirge}}で生まれる<ref name="nyt">[[#NYT]]</ref><ref name="tele">[[#Telegraph]]</ref>。幼少期から音楽的才能を発揮し、[[幼稚園]]の出し物で早くも歌を披露した<ref name="oebio">[[#OEBIO]]</ref>。また、音楽のみならずスポーツ、特に[[ボクシング]]を好み、幼少期のアイドルは[[ジーン・タニー]]と[[ジャック・デンプシー]]で、家の窓枠にその名前を刻むほどであった<ref name="oebio"/>。11歳のときに初めて[[ウィーン国立歌劇場]]でオペラを鑑賞し、その時の演目は[[ルッジェーロ・レオンカヴァッロ|レオンカヴァッロ]]の『[[道化師 (オペラ)|道化師]]』で、カニオを歌っていたのは{{仮リンク|レオ・スレザーク|en|Leo Slezak}}あった<ref name="oebio"/>。やがてエーデルマンは[[ウィーン国立音楽大学|ウィーン国立音楽アカデミー]]に入学し、テオドール・リアハンメルと{{仮リンク|ギュンナー・グラールド|en|Gunnar Graarud}}の教えを受けた<ref name="tele"/><ref name="bach"/><ref name="grove">[[#Grove]]</ref>。1937年、エーデルマンは弱冠20歳で[[ナチス・ドイツ]]の[[テューリンゲン州]][[ゲーラ]]でモーツァルト『[[フィガロの結婚]]』に出演してデビューを飾る<ref name="nyt"/><ref name="tele"/>。翌1938年から1940年までは{{仮リンク|ニュルンベルク歌劇場|en|Gunnar Graarud}}に所属し、モーツァルト『[[後宮からの誘拐]]』のオスミンや[[ペーター・コルネリウス|コルネリウス]]『{{仮リンク|バグダッドの理髪師|en|Der Barbier von Bagdad}}』のアブドラ・ハッサンのほか、シュトラウスの『[[アラベラ (オペラ)|アラベラ]]』のヴァルトナー伯爵を作曲者自身の指揮で歌ったこともあった<ref name="nyt"/><ref name="oebio"/>。しかし、時代はすでに[[第二次世界大戦]]に突入しており、エーデルマンも歌手としてのキャリアは[[ドイツ国防軍]]による徴兵でいったん休止せざるを得ず、[[レンツブルク]]の[[高射砲]]部隊や[[独ソ戦]]の戦場などに赴く<ref name="oebio"/>。やがてナチス・ドイツは崩壊してエーデルマンも[[赤軍]]の[[捕虜]]となり、[[リトアニア]]の収容所に送られた<ref name="nyt"/><ref name="tele"/><ref name="oebio"/>。
1947年秋、釈放されてオーストリアに戻ったエーデルマンは歌手活動を再開させる<ref name="oebio"/>。ウィーン国立歌劇場は爆撃で崩壊しており、[[ウィーン・フォルクスオーパー|フォルクスオーパー]]と[[アン・デア・ウィーン劇場]]を仮住まいとして公演を継続していた時期にあたっていたが、エーデルマンはフォルクスオーパーで歌劇場のオーディションを受けて合格し、1947年11月30日にフォルクスオーパーでのウェーバー『[[魔弾の射手]]』の隠者で、ウィーン国立歌劇場所属歌手としてデビューを果たした<ref name="nyt"/><ref name="tele"/><ref name="oebio"/><ref name="grove"/>。[[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー]]や[[ヨーゼフ・クリップス]]、[[ヘルベルト・フォン・カラヤン]]、[[クレメンス・クラウス]]、[[ハンス・クナッパーツブッシュ]]といった指揮者との共演を重ね<ref name="oebio"/>、1951年には第二次世界大戦後初開催の[[バイロイト音楽祭]]に出演し、カラヤンの指揮で『マイスタージンガー』のハンス・ザックスを初めて歌い、フルトヴェングラー指揮による[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|交響曲第9番(第九)]]のソリストも務めた<ref name="nyt"/><ref name="oebio"/><ref>[[#Hunt]] p.318</ref>。この1951年にはバイロイトのほかに、3月から4月にかけてフルトヴェングラー指揮のワーグナー『[[パルジファル]]』のアンフォルタスで[[スカラ座]]にデビューしている<ref name="oebio"/><ref>[[#Hunt]] p.316</ref>。翌1952年1月、エーデルマンはスカラ座におけるカラヤン指揮の『ばらの騎士』の公演で、初めてオックス男爵を歌う<ref name="oebio"/>。夏にはバイロイト音楽祭に登場してクナッパーツブッシュ指揮により『マイスタージンガー』のハンス・ザックスを再び歌ったが、バイロイトへの出演はこの年限りとなった<ref name="tele"/><ref name="oebio"/><ref name="grove"/>。バイロイトに引き続いて[[エディンバラ国際フェスティバル|エディンバラ音楽祭]]に[[ハンブルク州立歌劇場]]の引っ越し公演に客演という形で初登場し、[[レオポルト・ルートヴィヒ]]の指揮でハンス・ザックスを歌った<ref name="oebio"/><ref name="grove"/>。
1953年、エーデルマンは[[ザルツブルク音楽祭]]にデビューし、フルトヴェングラー指揮の『ドン・ジョヴァンニ』で初めてレポレロを歌う<ref name="oebio"/><ref>[[#Hunt]] p.325</ref>。翌1954年のザルツブルク音楽祭では、同じくフルトヴェングラーの指揮でレポレロと『魔弾』の隠者を歌い<ref name="oebio"/><ref name="h329">[[#Hunt]] p.329</ref>、前者は{{仮リンク|パウル・ツィンナー|en|Paul Czinner}}による映画でその舞台姿を残した。この年、フルトヴェングラーとは[[ルツェルン音楽祭]]での「第九」公演でも共演したが<ref name="h329"/>、フルトヴェングラーは11月30日に亡くなった。その直前の11月11日には[[メトロポリタン歌劇場|メトロポリタン歌劇場(メト)]]にデビューし、[[フリッツ・シュティードリー]]の指揮でハンス・ザックスを歌った<ref name="oebio"/><ref name="grove"/>。エーデルマンのレパートリーは広かったが、メトではドイツもののレパートリーに絞って活躍し、ハンス・ザックスやオックス男爵のほかに『[[ニーベルングの指環|指環]]』のヴォータン、『[[トリスタンとイゾルデ (楽劇)|トリスタンとイゾルデ]]』のマルケ王、『[[ローエングリン]]』のハインリヒといったワーグナー諸作品のほか、ベートーヴェン『[[フィデリオ]]』のロッコなどを歌っている<ref name="nyt"/><ref name="oebio"/>。1960年のザルツブルク音楽祭、新たに[[ザルツブルク祝祭大劇場|祝祭大劇場]]がオープンし、こけら落としとしてカラヤン指揮の『ばらの騎士』が上演され、エーデルマンも得意のオックス男爵でオープンに花を添えた<ref name="nyt"/><ref name="oebio"/><ref name="grove"/>。この公演もツィンナーの手により映像化された。
オックス男爵の映像が残された1960年、エーデルマンはイルゼ・マリア・シュトラウブと結婚し、1962年6月15日に長男ペーター<ref name="oebio"/>、1968年4月12日に次男{{仮リンク|パウル・アルミン・エーデルマン|de|Paul Armin Edelmann|label=パウル・アルミン}}が誕生し<ref name="oebio"/>、ペーターとパウル・アルミンはともにバリトン歌手となった。子どもは3人で、ペーターとパウル・アルミンのほかに娘が一人いる<ref name="nyt"/><ref name="tele"/>。1960年代後半からはレパートリーと出番を徐々に絞るようになり、メトにおいてはハンス・ザックスとオックス男爵、ロッコのみを歌ったが、1969年以降はオックス男爵のみを歌うだけとなった<ref name="oebio"/>。ウィーンにおいても1970年代には、フォルクスオーパーで上演される[[カール・オルフ|オルフ]]『[[月 (オペラ)|月]]』や[[アルベルト・ロルツィング|ロルツィング]]『ロシア皇帝と船大工』、[[ヨハン・シュトラウス2世]]『ウィーン気質』などの軽いオペラに出演するようになった<ref name="oebio"/>。1976年4月7日、エーデルマンは[[ジェームズ・レヴァイン]]指揮の『ばらの騎士』でオックス男爵を歌い、メトにおけるこの公演をオックス男爵の歌い納めとした<ref name="oebio"/>。同じ年の12月16日、ウィーン国立歌劇場における『アラベラ』の公演でヴァルトナー伯爵を歌い、この公演を最後に現役を引退した<ref name="nyt"/><ref name="oebio"/>。引退後はウィーン国立音楽大学で長年教鞭をとり、2003年5月14日にウィーン・{{仮リンク|リージング (ウィーン)|en|Liesing|label=リージング区}}{{仮リンク|カルクスブルク|de|Kalksburg}}で86年の生涯を終えた<ref name="tele"/><ref name="nyt"/><ref name="oebio"/>。
==レパートリー==
当たり役は何といっても、1952年から引退する1976年までおよそ四半世紀かけて歌い続けてきた『ばらの騎士』のオックス男爵であり、初めて演じたスカラ座、ウィーン、メトのほか、1955年には[[サンフランシスコ・オペラ]]、1964年には[[グラインドボーン音楽祭]]で歌い、ザルツブルクにおいてもカラヤンのほか、1961年に[[カール・ベーム]]の指揮でも歌っている<ref name="oebio"/>。ツィンナーによる映画では、元帥夫人が[[エリーザベト・シュヴァルツコップ]]、[[セーナ・ユリナッチ]]のオクタヴィアンに[[アンネリーゼ・ローテンベルガー]]のゾフィーという配役で、このオペラ演奏の一つの頂点とされるものであり、ツィンナーによる映画はオペラ映画史を代表する名作として現在も親しまれている。1960年における実公演では元帥夫人は、一公演のみシュヴァルツコップが歌った以外は[[リーザ・デラ・カーザ]]に代わっているが<ref group="注釈">6回公演のうち、シュヴァルツコップは1回のみの出演。ただし、1961年、1963年および1964年の公演ではシュヴァルツコップのシングルキャストとなった([[#山崎]] p.24)</ref>、その録音も公式発売されている。1954年のザルツブルク音楽祭でのツィンナーが撮影した『ドン・ジョヴァンニ』のレポレロも記憶に残る歌唱と言えるが、エーデルマンが『ドン・ジョヴァンニ』を手掛けたのはオックス男爵と比較するときわめて少なく、フルトヴェングラー指揮による1953年、1954年のザルツブルク音楽祭でレポレロを歌ったほかは、1948年に[[ブリュッセル]]でのウィーン国立歌劇場の引っ越し公演で騎士団長を歌っただけである<ref name="oebio"/>。
オックス男爵、レポレロとならんでエーデルマンの主要なレパートリーは、ドイツ物では『マイスタージンガー』のハンス・ザックスおよびポーグナー、『ローエングリン』のハインリヒ、『パルジファル』のアンフォルタスとグルネマンツ、『アラベラ』のヴァルトナー伯爵、『魔弾』の隠者、『フィデリオ』のロッコ、ドン・ピサロおよびドン・フェルナンド、[[フリードリッヒ・フォン・フロトー|フロトー]]『[[マルタ (オペラ)|マルタ]]』のプランケットなどが記録に残っており<ref name="oebio"/><ref name="grove"/>、ポーグナー、ドン・ピサロ、隠者とヴァルトナー伯爵は正規録音が残されている。ドイツ物以外では[[ジュゼッペ・ヴェルディ|ヴェルディ]]の『[[ドン・カルロ]]』のフィリッポ2世と『[[ファルスタッフ]]』のタイトル・ロール、[[ベドルジハ・スメタナ|スメタナ]]『[[売られた花嫁]]』のケツァル、[[シャルル・グノー|グノー]]『[[ファウスト (グノー)|ファウスト]]』のメフィストフェレス、[[ガエターノ・ドニゼッティ|ドニゼッティ]]『[[愛の妙薬]]』のドゥルカマーラなどを歌っている<ref name="oebio"/><ref name="grove"/>。ウィーン国立歌劇場所属歌手としては36の役柄で430公演に出演し<ref name="bach"/>、レパートリーの総計は40を優に超えていた。極めて珍しいレパートリーとしては、引退後の1983年にセゲド国民劇場([[ハンガリー]])の公演で歌った[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]『魔法の竪琴』のフォルコ、リーノおよびアルフの3役がある。
==主なディスコグラフィ・フィルモグラフィ==
===オペラ・スタジオ録音===
*ワーグナー『ニュルンベルクのマイスタージンガー』(ポーグナー):[[パウル・シェフラー]]、カール・デンヒ、ギュンター・トレプトウ、[[アントン・デルモタ|アントン・デルモータ]]、ヒルデ・ギューデン:クナッパーツブッシュ指揮[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団|ウィーン・フィル]]:1950 - 1951年:Naxos Historical 8.111128-31(CD)<ref>{{Cite web|url= http://www.operadis-opera-discography.org.uk/CLSIEDEL.HTM#2 |title= There are 46 recordings on file in which Otto Edelmann appears|work= Operadis-opera-Discography|publisher= Brian Capon|language=英語|accessdate=2013-04-04}}</ref>
*ウェーバー『魔弾の射手』(隠者):ハンス・ホップ、モード・クニッツ、アルフレッド・ポエル:オットー・アッカーマン指揮ウィーン・フィル:1951年:Preiser Records 20018(CD)<ref>{{Cite web|url= http://www.operadis-opera-discography.org.uk/CLSIEDEL.HTM#4 |title= There are 46 recordings on file in which Otto Edelmann appears|work= Operadis-opera-Discography|publisher= Brian Capon|language=英語|accessdate=2013-04-04}}</ref>
*ベートーヴェン『フィデリオ』(ドン・ピサロ):[[マルタ・メードル]]、[[ヴォルフガング・ヴィントガッセン]]、ゴッドローブ・フリック、[[セーナ・ユリナッチ]]:フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィル:1953年10月13 - 17日:Naxos Great Opera Recordings 8.111020-21(CD)<ref>{{Cite web|url= http://www.operadis-opera-discography.org.uk/CLSIEDEL.HTM#11 |title= There are 46 recordings on file in which Otto Edelmann appears|work= Operadis-opera-Discography|publisher= Brian Capon|language=英語|accessdate=2013-04-04}}</ref><ref>[[#Hunt]] p.44</ref>
*リヒャルト・シュトラウス『ばらの騎士』(オックス男爵):シュヴァルツコップ、[[クリスタ・ルートヴィヒ]]、テレサ・シュテッヒ=ランダル、[[エバーハルト・ヴェヒター]]:カラヤン指揮[[フィルハーモニア管弦楽団]]:1956年:EMI 77357(CD)<ref>{{Cite web|url= http://www.operadis-opera-discography.org.uk/CLSIEDEL.HTM#22 |title= There are 46 recordings on file in which Otto Edelmann appears|work= Operadis-opera-Discography|publisher= Brian Capon|language=英語|accessdate=2013-04-04}}</ref>
*リヒャルト・シュトラウス『アラベラ』(ヴァルトナー伯爵):デラ・カーザ、ギューデン、[[ジョージ・ロンドン (バス・バリトン歌手)|ジョージ・ロンドン]]、イラ・マラニウク:[[ゲオルク・ショルティ]]指揮ウィーン・フィル:1957年:Decca 475 7731(CD)<ref>{{Cite web|url= http://www.operadis-opera-discography.org.uk/CLSIEDEL.HTM#28 |title= There are 46 recordings on file in which Otto Edelmann appears|work= Operadis-opera-Discography|publisher= Brian Capon|language=英語|accessdate=2013-04-04}}</ref>
*ワーグナー『[[ワルキューレ (楽劇)|ワルキューレ]]』第3幕(ヴォータン):セット・スヴァンホルム、[[キルステン・フラグスタート]]:ショルティ指揮ウィーン・フィル:1958年:Decca Legends 467 124-2(CD):<ref>{{Cite web|url= http://www.operadis-opera-discography.org.uk/CLSIEDEL.HTM#27 |title= There are 46 recordings on file in which Otto Edelmann appears|work= Operadis-opera-Discography|publisher= Brian Capon|language=英語|accessdate=2013-04-04}}</ref>
===オペラ・ライヴ録音===
*ベートーヴェン『フィデリオ』(ドン・フェルナンド):エルナ・シュリューター、ユリウス・パツァーク、フェルディナンド・フランツ、デラ・カーザ:フルトヴェングラー指揮:1948年8月3日ザルツブルク音楽祭:Walhall Eternity Series WLCD 0149(CD):<ref>{{Cite web|url= http://www.operadis-opera-discography.org.uk/CLSIEDEL.HTM#1 |title= There are 46 recordings on file in which Otto Edelmann appears|work= Operadis-opera-Discography|publisher= Brian Capon|language=英語|accessdate=2013-04-04}}</ref><ref>[[#Hunt]] p.43</ref><ref group="注釈">第1幕第5曲から第8曲が欠落([[#Hunt]] p.43)</ref>
*ワーグナー『ニュルンベルクのマイスタージンガー』(ハンス・ザックス):フリードリヒ・ダルベルク、[[エーリッヒ・クンツ]]、ホップ、シュヴァルツコップ:カラヤン指揮:1951年バイロイト音楽祭:Naxos Historical 8.110872-75(CD)<ref>{{Cite web|url= http://www.operadis-opera-discography.org.uk/CLSIEDEL.HTM#3 |title= There are 46 recordings on file in which Otto Edelmann appears|work= Operadis-opera-Discography|publisher= Brian Capon|language=英語|accessdate=2013-04-04}}</ref>
*ワーグナー『ニュルンベルクのマイスタージンガー』(ハンス・ザックス):[[クルト・ベーメ]]、ハインリヒ・プファンツル、ホップ、デラ・カーザ:クナッパーツブッシュ指揮:1952年バイロイト音楽祭:Archipel ARPCD 0111-4(CD)<ref>{{Cite web|url= http://www.operadis-opera-discography.org.uk/CLSIEDEL.HTM#5 |title= There are 46 recordings on file in which Otto Edelmann appears|work= Operadis-opera-Discography|publisher= Brian Capon|language=英語|accessdate=2013-04-04}}</ref>
*モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』(レポレロ):[[チェーザレ・シエピ]]、エリーザベト・グリュンマー、デルモータ、シュヴァルツコップ、ラファエル・アリエ:フルトヴェングラー指揮:1953年ザルツブルク音楽祭:Orfeo C 624 043D(CD)<ref>{{Cite web|url= http://www.operadis-opera-discography.org.uk/CLSIEDEL.HTM#7 |title= There are 46 recordings on file in which Otto Edelmann appears|work= Operadis-opera-Discography|publisher= Brian Capon|language=英語|accessdate=2013-04-04}}</ref>
*モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』(レポレロ):シエピ、グリュンマー、デルモータ、シュヴァルツコップ、デジュー・エルンスター:フルトヴェングラー指揮:1954年ザルツブルク音楽祭:EMI Historical 336 799-2(CD)<ref>{{Cite web|url= http://www.operadis-opera-discography.org.uk/CLSIEDEL.HTM#13 |title= There are 46 recordings on file in which Otto Edelmann appears|work= Operadis-opera-Discography|publisher= Brian Capon|language=英語|accessdate=2013-04-04}}</ref>
*ウェーバー『魔弾の射手』(隠者):ホップ、グリュンマー、ベーメ、ポエル、デンヒ:フルトヴェングラー指揮:1954年ザルツブルク音楽祭:EMI CMS 5 67419-2(CD)<ref>{{Cite web|url= http://www.operadis-opera-discography.org.uk/CLSIEDEL.HTM#14 |title= There are 46 recordings on file in which Otto Edelmann appears|work= Operadis-opera-Discography|publisher= Brian Capon|language=英語|accessdate=2013-04-04}}</ref>
*ベートーヴェン『フィデリオ』(ロッコ):クリステル・ゴルツ、ジュゼッペ・ザンピエリ、シェフラー、ユリナッチ、ニコラ・ザッカリア:カラヤン指揮:1957年ザルツブルク音楽祭:Andromeda ANDRCD 9030(CD):<ref>{{Cite web|url= http://www.operadis-opera-discography.org.uk/CLSIEDEL.HTM#23 |title= There are 46 recordings on file in which Otto Edelmann appears|work= Operadis-opera-Discography|publisher= Brian Capon|language=英語|accessdate=2013-04-04}}</ref>
*リヒャルト・シュトラウス『アラベラ』(ヴァルトナー伯爵):デラ・カーザ、ローテンベルガー、[[ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ]]:[[ヨーゼフ・カイルベルト]]指揮:1958年ザルツブルク音楽祭:Orfeo C 651 053 D(CD)<ref>{{Cite web|url= http://www.operadis-opera-discography.org.uk/CLSIEDEL.HTM#29 |title= There are 46 recordings on file in which Otto Edelmann appears|work= Operadis-opera-Discography|publisher= Brian Capon|language=英語|accessdate=2013-04-04}}</ref>
*リヒャルト・シュトラウス『ばらの騎士』(オックス男爵):デラ・カーザ、ユリナッチ、ギューデン、クンツ:カラヤン指揮:1960年ザルツブルク音楽祭:DG Salzburger Festspieldokumente 453 200-2 GX3(CD)<ref>{{Cite web|url= http://www.operadis-opera-discography.org.uk/CLSIEDEL.HTM#34 |title= There are 46 recordings on file in which Otto Edelmann appears|work= Operadis-opera-Discography|publisher= Brian Capon|language=英語|accessdate=2013-04-04}}</ref>
*[[クリストフ・ヴィリバルト・グルック|グルック]]『[[アウリスのイフィゲニア]]』(カルカース):ルートヴィヒ、[[ヴァルター・ベリー]]、イング・ボコール、[[ジェームズ・キング (声楽家)|ジェームズ・キング]]:ベーム指揮:1962年ザルツブルク音楽祭:Orfeo d'Or C 428962(CD)<ref>{{Cite web|url= http://www.operadis-opera-discography.org.uk/CLSIEDEL.HTM#35 |title= There are 46 recordings on file in which Otto Edelmann appears|work= Operadis-opera-Discography|publisher= Brian Capon|language=英語|accessdate=2013-04-04}}</ref>
*シューベルト『魔法の竪琴』(フォルコ、リーノ、アルフ):トーマス・モーザー、クリスティン・オスターマイヤー:ティート・ゴッティ指揮:1983年セゲド国民劇場:Bongiovanni GB 2019-2020(CD)<ref>{{Cite web|url= http://www.operadis-opera-discography.org.uk/CLSIEDEL.HTM#44 |title= There are 46 recordings on file in which Otto Edelmann appears|work= Operadis-opera-Discography|publisher= Brian Capon|language=英語|accessdate=2013-04-04}}</ref>
===オペラ以外===
*[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ]]『[[マタイ受難曲]]』:グリュンマー、マルガ・ヘフゲン、デルモータ、フィッシャー=ディースカウ:フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィル:1954年4月14 - 17日ウィーン:TELDEC 94321-25705-2(CD)<ref>[[#Hunt]] p.13</ref><ref name="lee">{{Cite web|url= http://fischer.hosting.paran.com/music/Furtwangler/furtwangler-discography.htm |title= Wilhelm Furtwangler's discography(1) - from J.S.Bach to Beethoven |work= Here is the homepage of Youngrok LEE |publisher= Youngrok LEE|language=英語|accessdate=2013-04-04}}</ref>
*ベートーヴェン 交響曲第9番:シュヴァルツコップ、エリーザベト・ヘンゲン、ホップ:フルトヴェングラー指揮バイロイト祝祭管弦楽団:1951年7月29日バイロイト音楽祭:Orfeo d'or 754 081(CD)<ref name="lee"/><ref>[[#Hunt]] p.33</ref>
*ベートーヴェン 交響曲第9番:シュヴァルツコップ、エルザ・カヴェルティ、[[エルンスト・ヘフリガー]]:フルトヴェングラー指揮フィルハーモニア管弦楽団:1954年8月22日ルツェルン音楽祭:Tahra FURT 1003(CD)<ref name="lee"/><ref>[[#Hunt]] p.35</ref>
===映像作品===
*モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』(レポレロ):シエピ、エリーザベト・グリュンマー、デルモータ、デラ・カーザ、エルンスター:フルトヴェングラー指揮:1954年ザルツブルク音楽祭:DG 073 019-9(DVD)<ref>{{Cite web|url= http://www.operadis-opera-discography.org.uk/CLSIEDEL.HTM#12 |title= There are 46 recordings on file in which Otto Edelmann appears|work= Operadis-opera-Discography|publisher= Brian Capon|language=英語|accessdate=2013-04-04}}</ref>
*リヒャルト・シュトラウス『ばらの騎士』(オックス男爵):シュヴァルツコップ、ユリナッチ、ローテンベルガー、クンツ:カラヤン指揮:1960年ザルツブルク音楽祭:Dreamlife Classics DLVC 1183(DVD)<ref>{{Cite web|url= http://www.operadis-opera-discography.org.uk/CLSIEDEL.HTM#33 |title= There are 46 recordings on file in which Otto Edelmann appears|work= Operadis-opera-Discography|publisher= Brian Capon|language=英語|accessdate=2013-04-04}}</ref>
==脚注==
=== 注釈 ===
<references group="注釈"/>
=== 出典 ===
{{reflist|2}}
==参考文献==
===サイト===
* {{Cite web|url= http://www.ottoedelmannsociety.com/index.php?p=1_23_KS-OTTO-EDELMANN-BIO |title= KS OTTO EDELMANN BIO |work= The Otto Edelmann society|publisher= The Otto Edelmann society|language=英語|accessdate=2013-04-04|ref=OEBIO}}
* {{Cite web|url= http://www.bach-cantatas.com/Bio/Edelmann-Otto.htm |year=2002|title= Biographies of Performers - Otto Edelmann (Bass-Baritone) |work= Bach Cantatas Website |publisher= Aryeh Oron |language=英語|accessdate=2013-04-04|ref=Bach Cantatas}}
* {{Cite web|url= http://www.nytimes.com/2003/05/16/arts/otto-edelmann-86-bass-baritone-who-appeared-often-at-the-met.html |title= Otto Edelmann, 86, Bass-Baritone Who Appeared Often at the Met |year=2003|work= The New York Times |publisher= The New York Times / Anne Midgette |language=英語|accessdate=2013-04-04|ref=NYT}}
* {{Cite web|url= http://www.telegraph.co.uk/news/obituaries/1430293/Otto-Edelmann.html |title= OBITUARIES - Otto Edelmann |year=2003|work= The Telegraph |publisher= The Telegraph |language=英語|accessdate=2013-04-04|ref=Telegraph}}
* {{imdb name|id=0249019|name=Otto Edelmann|ref=imdb}}
===印刷物===
* {{Cite book|和書|author=山崎睦|year=1986|title=ザルツブルク音楽祭|publisher=音楽之友社|isbn = 4-276-38016-2|ref=山崎}}
* {{Cite book|last=Hunt|first=John|year=1999|title=the furtwangler sound {{small|6th edition}}|publisher=John Hunt|isbn=978-1901395976|oclc=42671968|ref=Hunt}}
* {{Google books|N0zthpCZuAUC|The Grove book of opera singers|page=141|ref=Grove}}
== 外部リンク ==
* [http://www.ottoedelmannsociety.com/ The Otto Edelmann society]
* [http://www.operadis-opera-discography.org.uk/CLSIEDEL.HTM There are 46 recordings on file in which Otto Edelmann appears]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ええてるまん おつとお}}
[[Category:オーストリアのバリトン歌手]]
[[Category:オーストリアのバス歌手]]
[[Category:ウィーン国立音楽大学の教員]]
[[Category:ウィーン国立音楽大学出身の人物]]
[[Category:ニーダーエスターライヒ州出身の人物]]
[[Category:1917年生]]
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8,356 | 低軌道 | 低軌道 (ていきどう、英語: low orbit) は、人工衛星などの物体のとる衛星軌道のうち、中軌道よりも高度が低いもの。
地球を回る低軌道を地球低軌道 (low Earth orbit、LEO) と言う。LEOは、地球表面からの高度2,000km以下を差し、これに対し、中軌道(MEO)は2,000 kmから36,000 km未満、静止軌道(GEO)は36 000 km前後である。地球低軌道衛星は、約27400 km/h(約8 km/s)で飛行し、1回の周回に約1.5時間を要する(高度約350 kmの例)。
大気のある天体では、低軌道より低い軌道は安定せず、大気の抵抗で急激に高度を下げ、やがては大気中で燃え尽きてしまう。
地球低軌道では、日本の宇宙航空研究開発機構(JAXA)の超低高度衛星技術試験機「つばめ」が2019年、高度167.4 kmで軌道を7日間保持して、地球観測衛星の最も低い軌道高度としてギネス世界記録に認定された。
低軌道は、地球に接近しているという点で、次のような利点がある。
反面、地表から見て衛星が常に移動しているため、通信衛星は連続的な通信を提供するための複数衛星からなるネットワークが必要とされる。→衛星コンステレーション
低軌道の環境は、スペースデブリで混雑が進みつつあり、北アメリカ航空宇宙防衛司令部 (NORAD) では、直径10 cm以上ある低軌道上の物体を8000以上も追跡している。 | [
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] | 低軌道 は、人工衛星などの物体のとる衛星軌道のうち、中軌道よりも高度が低いもの。 地球を回る低軌道を地球低軌道 と言う。LEOは、地球表面からの高度2,000km以下を差し、これに対し、中軌道(MEO)は2,000 kmから36,000 km未満、静止軌道(GEO)は36 000 km前後である。地球低軌道衛星は、約27400 km/hで飛行し、1回の周回に約1.5時間を要する。 大気のある天体では、低軌道より低い軌道は安定せず、大気の抵抗で急激に高度を下げ、やがては大気中で燃え尽きてしまう。 地球低軌道では、日本の宇宙航空研究開発機構(JAXA)の超低高度衛星技術試験機「つばめ」が2019年、高度167.4 kmで軌道を7日間保持して、地球観測衛星の最も低い軌道高度としてギネス世界記録に認定された。 低軌道は、地球に接近しているという点で、次のような利点がある。 低軌道に衛星を投入するほうが少ないエネルギーで済むため、小型のロケットで打ち上げ可能である。
リモートセンシングでは、地表との距離が近いので画像などの分解能が向上する。
通信衛星では、送受信機の発生電力がより少なくてすむ。 反面、地表から見て衛星が常に移動しているため、通信衛星は連続的な通信を提供するための複数衛星からなるネットワークが必要とされる。→衛星コンステレーション 低軌道の環境は、スペースデブリで混雑が進みつつあり、北アメリカ航空宇宙防衛司令部 (NORAD) では、直径10 cm以上ある低軌道上の物体を8000以上も追跡している。 | [[File:Orbits around earth scale diagram.svg|thumb|250px|地球周辺の衛星の軌道。水色が低軌道、黄色が[[中軌道]]、黒色の点線が[[静止軌道]]を表している。]]
'''低軌道''' (ていきどう、英語: low orbit) は、[[人工衛星]]などの物体のとる衛星[[軌道 (力学)|軌道]]のうち、[[中軌道]]よりも[[高さ|高度]]が低いもの。
[[地球]]を回る低軌道を'''地球低軌道''' (low Earth orbit、'''LEO''') と言う。LEOは、[[地球]]表面からの高度2,000km以下を差し<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20120402111821/http://spaceinfo.jaxa.jp/ja/types_orbits.html |title=軌道の種類 |author= JAXA宇宙情報センター|date= |work= |publisher= |accessdate=2020-01-15 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.astroarts.co.jp/news/2007/02/02asas_debris/index-j.shtml |title=人工衛星破壊実験は「史上最大規模の宇宙ごみ投棄」 |author= |date=2007-02-02 |work= |publisher=アストロアーツ |accessdate= 2016-01-13}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://orbitaldebris.jsc.nasa.gov/faqs.html |title=NASA Orbital Debris FAQs |author= [[アメリカ航空宇宙局]](NASA)|date= |work= |publisher= |accessdate=2016-01-13 }}</ref>、これに対し、中軌道(MEO)は2,000 kmから36,000 km未満、[[静止軌道]](GEO)は36 000 km前後である。地球低軌道衛星は、約27400 km/h(約8 km/s)で飛行し、1回の周回に約1.5時間を要する(高度約350 kmの例)。
[[大気]]のある[[天体]]では、低軌道より低い軌道は安定せず、大気の[[抗力|抵抗]]で急激に高度を下げ、やがては大気中で[[燃焼|燃え]]尽きてしまう。
地球低軌道では、[[日本]]の[[宇宙航空研究開発機構]](JAXA)の超低高度衛星技術試験機「[[つばめ (人工衛星)|つばめ]]」が2019年、高度167.4 kmで軌道を7日間保持して、地球観測衛星の最も低い軌道高度として[[ギネス世界記録]]に認定された<ref>[https://www.jaxa.jp/press/2019/12/20191224a_j.html 超低高度衛星技術試験機「つばめ」(SLATS)がギネス世界記録(R)に認定されました]JAXA(2019年12月24日)2020年2月15日閲覧</ref>。
低軌道は、地球に接近しているという点で、次のような利点がある。
* 低軌道に衛星を投入するほうが少ない[[エネルギー]]で済むため、小型の[[ロケット]]で打ち上げ可能である。
* [[リモートセンシング]]では、地表との距離が近いので[[画像]]などの[[分解能]]が向上する。
* [[通信衛星]]では、[[送信機|送]][[受信機]]の発生[[電力]]がより少なくてすむ。
反面、地表から見て衛星が常に移動しているため、通信衛星は連続的な通信を提供するための複数衛星からなる[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]が必要とされる。→[[衛星コンステレーション]]
低軌道の環境は、[[スペースデブリ]]で混雑が進みつつあり、[[北アメリカ航空宇宙防衛司令部]] (NORAD) では、直径10 cm以上ある低軌道上の物体を8000以上も追跡している。
== 低軌道衛星・宇宙船の例 ==
* [[気象観測衛星]]
** [[TIROS-N/NOAA]]
* [[リモートセンシング]]
** [[ランドサット|LANDSAT]]
** [[みどり (人工衛星)|みどり]] (ADEOS)
** [[もも (人工衛星)|もも]] (MOS)
* [[偵察衛星]]
* [[国際宇宙ステーション]](ISS)
* [[スペースシャトル]]
* [[ハッブル宇宙望遠鏡]]
* [[アマチュア衛星]]
* [[劫蘊寺]]
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[人工衛星]]
* [[人工衛星の軌道]]
{{軌道}}
{{デフォルトソート:ていきとう}}
[[Category:人工衛星の軌道]] | 2003-05-16T09:49:17Z | 2023-11-13T13:39:30Z | false | false | false | [
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8,357 | 中軌道 | 中軌道 (medium earth orbit; MEO)は、低軌道(約2,000km以下)と対地同期軌道(平均高度約36,000km)の中間に位置する人工衛星の軌道の総称である。ICO(intermediate circular orbit)という言い方もあるが、これは後述の企業名でもある。
公転周期1/2恒星日(11時間58分)の準同期軌道は中軌道に含まれる。
地上から見て常に動き、地平線下に沈むので、多数を衛星コンステレーションとして利用することが多い。
中軌道では、地表との距離が長くなるため、リモートセンシングには不利であるが、全地球でのカバレージを確保するための衛星個数が低軌道より削減できるため、中軌道衛星コンステレーションを使った衛星電話および通信システムが提案されている。
参考:低軌道衛星のコンステレーションの例。これら各社の衛星数はICO社のものより多い。 | [
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] | 中軌道 (medium earth orbit; MEO)は、低軌道(約2,000km以下)と対地同期軌道(平均高度約36,000km)の中間に位置する人工衛星の軌道の総称である。ICOという言い方もあるが、これは後述の企業名でもある。 公転周期1/2恒星日(11時間58分)の準同期軌道は中軌道に含まれる。 地上から見て常に動き、地平線下に沈むので、多数を衛星コンステレーションとして利用することが多い。 | '''中軌道''' (medium earth orbit; '''MEO''')は、[[低軌道]](約2,000km以下)と[[対地同期軌道]](平均高度約36,000km)の中間に位置する[[人工衛星の軌道]]の総称である<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20120402111821/http://spaceinfo.jaxa.jp/ja/types_orbits.html |title=軌道の種類 |author= 宇宙情報センター|date= |work= |publisher= |accessdate=2016-01-13 }}</ref><ref>{{Cite web |url=http://gcmd.nasa.gov/add/ancillaryguide/platforms/orbit.html |title=Ancillary Description Writer's Guide: Orbit |author=NASA |date= |work= |publisher= |accessdate=2016-01-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130511114407/http://gcmd.nasa.gov/add/ancillaryguide/platforms/orbit.html |archivedate=2013年5月11日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。'''ICO'''(intermediate circular orbit)という言い方もあるが、これは後述の企業名でもある。
[[公転周期]]1/2[[恒星日]](11時間58分)の[[準同期軌道]]は中軌道に含まれる。
地上から見て常に動き、地平線下に沈むので、多数を[[衛星コンステレーション]]として利用することが多い。
==使用例==
===衛星測位システム===
*[[GPS衛星]] 高度20200km(準同期軌道)の31機を使用する。
===通信システム ===
中軌道では、地表との距離が長くなるため、[[リモートセンシング]]には不利であるが、全地球でのカバレージを確保するための衛星個数が低軌道より削減できるため、中軌道衛星コンステレーションを使った[[衛星電話]]および[[電気通信|通信]]システムが提案されている。
*[[モルニヤ衛星]] 高度500~40000km(準同期軌道)の20機余を使用。
*[[ICO社]] 高度10,390kmの衛星を10機使用したシステムを計画していた会社であるが1999年に経営破綻し再建中。
参考:低軌道衛星のコンステレーションの例。これら各社の衛星数はICO社のものより多い。
*[[衛星電話#イリジウム|イリジウム社]] 高度780kmの衛星を66機使用
*[[テレデシック]]社 高度1,300~1,400kmの衛星を288機使用
*[[グローバルスター]]社 高度1,400kmの衛星を48機使用
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{軌道}}
{{DEFAULTSORT:ちゆうきとう}}
[[Category:人工衛星の軌道]] | 2003-05-16T09:53:08Z | 2023-11-12T00:22:14Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%BB%8C%E9%81%93 |
8,359 | 国土利用計画法 | 国土利用計画法(こくどりようけいかくほう、昭和49年法律第92号)は、重要な資源である国土を、総合的かつ計画的に利用するために必要とされる規定をおく法律。土地利用基本計画の作成や、土地取引の規制を定めている。1974年(昭和49年)6月25日に公布された。
国土利用計画法では、国土を、規制区域、監視区域、注視区域、その他一般と分類している。
国土利用計画法施行令第9条により、都道府県知事は、自然的・社会的条件からみて類似の利用価値を有すると認められる地域において、土地の利用状況、環境等が通常と認められる画地(基準地という)を選定し、毎年1回、不動産鑑定士の鑑定評価を求め、7月1日における基準地の標準価格(基準地価という)を判定することと定められている。 | [
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] | 国土利用計画法(こくどりようけいかくほう、昭和49年法律第92号)は、重要な資源である国土を、総合的かつ計画的に利用するために必要とされる規定をおく法律。土地利用基本計画の作成や、土地取引の規制を定めている。1974年(昭和49年)6月25日に公布された。 | {{law}}
{{日本の法令
|題名=国土利用計画法
|通称=国土法
|番号=昭和49年法律第92号
|効力=現行法
|種類=[[環境法]]
|内容=土地利用について
|関連=[[国土形成計画法]]、[[都市計画法]]
|リンク= [https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=349AC1000000092 e-Gov法令検索]
}}
'''国土利用計画法'''(こくどりようけいかくほう、昭和49年法律第92号)は、重要な資源である国土を、総合的かつ計画的に利用するために必要とされる規定をおく法律。土地利用基本計画の作成や、土地取引の規制を定めている。[[1974年]]([[昭和]]49年)[[6月25日]]に[[公布]]された。
== 概要 ==
=== 国土利用計画 ===
* 全国計画:国が国土形成計画と一体的に策定することとされており、国土審議会、都道府県知事の意見聴取などを経て、閣議決定する<ref>国土交通省公式サイト[http://www.mlit.go.jp/kokudokeikaku/kokudoriyou/plantoha/index.html]</ref>。
* 都道府県計画:都道府県が全国計画を基本として、審議会、市町村長の意見聴取などを行い、都道府県議会の議決を経て、定めることができる(自治事務)。
* 市町村計画:市町村が都道府県計画を基本として、住民意向を反映させたうえで、市町村議会の議決を経て定めることができる(自治事務)<ref>例えば宮城県の事例をみると、仙台市・石巻市・美里町が未策定、それ以外は策定済みになっている。[http://www.pref.miyagi.jp/totai/keikaku/sityouson_keikaku.htm]</ref>。
=== 土地取引の規制制度 ===
国土利用計画法では、国土を、規制区域、監視区域、注視区域、その他一般と分類している。
; 規制区域制度(許可制)
: [[都市計画区域]]にあっては、その全部又は一部の区域で土地の投機的取引が相当範囲にわたり集中して行われ、又は行われるおそれがあり、及び地価が急激に上昇し、又は上昇するおそれがあると認められるもの、都市計画区域以外の区域にあっては、前述の事態が生ずると認められる場合において、その事態を緊急に除去しなければ適正かつ合理的な土地利用の確保が著しく困難となると認められる区域に都道府県知事によって指定される。
: '''土地の取引面積に関わらず'''、土地取引に関して都道府県知事の許可が必要となる。許可を得ずになされた契約は'''[[無効]]'''となる。都道府県知事は、許可の申請があったときは、その申請があった日から起算して6週間以内に、許可又は不許可の処分をしなければならない。
: 規制区域に所在する土地について土地に関する権利を有している者は、不許可の処分を受けたときは、都道府県知事に対し、当該土地に関する権利を買い取るべきことを請求することができる。
: 処分に不服がある者は、[[土地利用審査会]]に対して[[審査請求]]をすることができる。土地利用審査会の裁決に不服がある者は、[[国土交通大臣]]に対して[[再審査請求]]をすることができる。処分の取消しの訴えは、当該処分についての審査請求に対する土地利用審査会の裁決を経た後でなければ、提起することができない('''審査請求前置主義''')。
: 規制区域は、取引の制限につながるため、制度創設以後、指定された区域は存在しない。
; 監視区域制度(事前届出制)
: 都道府県知事は、当該都道府県の区域のうち、地価が急激に上昇し、又は上昇するおそれがあり、これによって適正かつ合理的な土地利用の確保が困難となるおそれがあると認められる区域を、期間を定めて、監視区域として指定することができる。
: 都道府県が規則で定める面積以上の土地取引を行う際に、都道府県知事に事前届出が必要となる。
: バブル期の地価高騰に対処するため、1987年の法改正により創設された制度であり、1993年11月1日の時点では1212市町村において指定されていたが、現在は[[小笠原村]]のみが指定されている。小笠原村では、都市計画区域内(父島・母島)において500[[平方メートル|m<sup>2</sup>]]以上の土地取引を行う際に事前届出が必要である([[2020年]]1月4日までの期間を定めて[[東京都知事]]により指定がされた)。なお東京都では条例により、2000m<sup>2</sup>未満の土地取引に関する事前届出は、小笠原村に事務処理を委任していて、村長は、届出書を受理したときは、遅滞なく、その意見を付して、これを都知事に送付しなければならないこととしている。
; 注視区域制度(事前届出制)
: 都道府県知事は、当該都道府県の区域のうち、地価が一定の期間内に社会的経済的事情の変動に照らして相当な程度を超えて上昇し、又は上昇するおそれがあるものとして国土交通大臣が定める基準に該当し、これによって適正かつ合理的な土地利用の確保に支障を生ずるおそれがあると認められる区域を、期間を定めて、注視区域として指定することができる。
: 注視区域内において土地を取引する契約を結ぼうとする際、「一定の面積以上の」「一団の土地に関する権利を」「対価を得て移転・設定する契約をしようとする者」は、都道府県知事へ事前の届出が必要となる。
: [[1998年]]の法改正により、後述の事後届出制が土地取引規制の中核へと移行したことに伴って創設されたが、制度創設以後、指定された区域は存在しない。
; 事後届出制(全国)
: 規制区域・監視区域・注視区域以外の土地で、「一定の面積以上の」「一団の土地に関する権利を」「対価を得て移転・設定する契約をした権利取得者」は、原則として、契約後2週間以内に都道府県知事に届出なければならない。
* 面積要件(注視区域、事後届出制共通)
** [[市街化区域]]:2,000m<sup>2</sup>以上
** [[市街化調整区域]]・[[非線引き都市計画区域]]:5,000m<sup>2</sup>以上
** [[準都市計画区域]]・[[都市計画区域]]外:10,000m<sup>2</sup>以上
** 監視区域においては、上記の区域ごとの面積に満たない範囲で、都道府県の規則で定める。
* 一団の土地
**個々の取引では面積要件を満たさなくても、物理的・計画的な一体性をもって複数の土地に関する権利が取得されることを「一団の土地」という。この場合、事後届出制においては権利取得者側において、監視区域制度・注視区域制度においては権利取得者・権利設定者双方において、「一団の土地」が面積要件を満たすと、個々の取引について届出が必要である。
**たとえば市街化区域において、売主Aが2,000m<sup>2</sup>の土地を買主B,C,D,Eに4分割して売却する場合、買主(権利取得者)が面積要件を満たさないので、事後届出制においては届出は不要であるが、売主(権利設定者)は面積要件を満たすので、注視区域制度においてはB,C,D,Eのいずれも届出が必要である。一方、買主Fが、売主G,H,I,Jから各500m<sup>2</sup>の土地(合計2,000m<sup>2</sup>)を購入する場合、買主(権利取得者)が面積要件を満たすので、全ての取引について届出が必要である。
* 対価を得て移転・設定する契約
** [[贈与]]、[[相続]]、法人の合併、[[信託契約]]、[[時効]]による取得は投機性が認められないので、届出は不要である。
** 契約の一方または双方の当事者が、国、地方公共団体、[[土地開発公社]]、[[地方住宅供給公社]]等である場合は届出不要である。
** [[民事調停法]]による調停の場合、[[農地法]]3条1項の許可を得なければならない場合には、届出不要である。一方、農地法5条による移転([[農地転用|転用目的権利移動]])は届出が必要である。
; 届出と審査
: 届出は、対価と土地の利用目的・方法(直接的な土地の利用区分)等を記載した届出書を、市町村を経由して都道府県知事に提出する。届出を怠ると刑事罰が科されるが、規制区域以外では当該契約が無効となることはない。
: 届出を受けた都道府県知事は、事後届出制では土地の利用方法のみを審査する。事前届出制では対価と土地の利用目的の双方を審査する。審査の結果、問題があると判断された場合、都道府県知事は必要に応じ助言もしくは勧告を行う。勧告に従わないときは、その旨や勧告内容が公表される場合があるが、刑事罰はない。なお、勧告は届出をした日から6週間以内にしなければならない。都道府県知事は勧告をした場合において、必要があると認めるときは、その勧告を受けた者に対し、その勧告に基づいて講じた措置について報告をさせることができる。
== 国土利用計画法施行令 ==
{{main|国土利用計画法施行令}}
国土利用計画法施行令第9条により、都道府県知事は、自然的・社会的条件からみて類似の利用価値を有すると認められる地域において、土地の利用状況、環境等が通常と認められる画地([[基準地]]という)を選定し、毎年1回、[[不動産鑑定士]]の[[鑑定評価]]を求め、[[7月1日]]における基準地の[[標準価格]]([[基準地価]]という)を判定することと定められている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[土地価格比準表]]
== 外部リンク ==
* [https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=349CO0000000387 国土利用計画法施行令] e-Gov法令検索
* [https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=349M50000002072 国土利用計画法施行規則] e-Gov法令検索
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8,360 | デバイスドライバ | デバイスドライバ(略称:ドライバ、ドライバー)とは、ディスプレイモニター、プリンターやイーサネットボード、拡張カードやその他周辺機器など、パソコンに接続されているハードウェアなどをオペレーティングシステム (OS) によって制御可能にするために用意されたソフトウェアである。
近年は多くの機器がプラグアンドプレイに対応しており、機器を接続した直後に、標準ドライバが自動でインストールされるため、ユーザーがデバイスドライバの存在を意識することは少なくなってきている。ユーザが意識せずにドライバが組み込まれることを「ドライバレス」や「ドライバ不要」と呼ぶ場合もある。
デバイスドライバは、一般にバスや通信サブシステムを経由してそこに接続している周辺機器と通信する。プログラムからドライバ内のルーチンを呼び出すと、ドライバが周辺機器に対してコマンドを発行する。周辺機器がドライバに対してデータを送り返してきたら、ドライバは元の呼び出したプログラム内のルーチンを呼び出すなどする。ドライバはハードウェアに依存し、OS毎に異なる。非同期なハードウェアインターフェイスに対応するため、割り込み処理を提供していることが多い。
ワープロソフトや表計算ソフトなどのアプリケーションなどが、モニター、プリンター、ネットワークカードなどのデバイスを利用する際、OSが提供する共通化されたAPI(アプリケーション・プログラミング・インターフェイス)によってデバイスの機能を利用できるようにしておく。そして、抽象化されたAPIとハードウェアとの間の対応を、各ハードウェア用のデバイスドライバが受け持つ。
このような仕組みを採用することで、結果的にハードウェアの差異を吸収することができる。ソフトウェアプログラマは、特定のハードウェアに対応する細々としたソフトウェアを書かずとも、APIにあわせたアプリケーションプログラムを作ることで、作成したソフトウェアから不特定多数のハードウェアを利用することができる。
広く共通化が進んだハードウェア(キーボード、マウス、USBなど)では、OS内部に標準ドライバ(ジェネリックドライバ)が含まれている場合が多い。標準ドライバがサポートしないハードウェアに関しては、一般に、そのハードウェアを提供するメーカー(ベンダー)が、デバイスドライバを製品にフロッピーディスクやCD-ROMで添付するか、あるいはインターネット上で配布する。
プリンターやグラフィックスカードなど一部の製品では、ベンダーの提供するドライバと標準ドライバの両方が用意されている場合がある。標準ドライバは最低限の機能を有する安定したドライバ、ベンダー提供のドライバはそのハードウェアのもつ機能を最大限利用できる最適化されたドライバである場合が多い。
ドライバは、OSの一部として機能する。
ユーザープロセスでのAPI呼び出しをきっかけに、ドライバのコードが呼び出される。しかしドライバのコード自身は、ユーザープロセスではなく、カーネルコードの一部として動作する。
上で言う抽象化されたAPIとは、ほとんどの近代的なOSでは、open, read, write, ioctl, close というAPIに統一化されている。歴史的にいうと、これらのAPIは、記憶装置上のファイルにアクセスするためのAPIであるが、これがデバイスに対してもアクセス可能なように拡張された形で提供されているのが、一般的な作りである。すなわち、デバイスに対して、入出力の準備をするopen処理、デバイスからデータを入力するためのread処理、デバイスにデータを出力するためのwrite処理、デバイスに対して特別な処理を行うためのioctl処理、入出力処理を終えるためのclose処理、などである。
read, writeで実際に何が行われるかは、デバイスごとに異なる。例えば、プリンターに対してwriteを行うと印字されるが、サウンドデバイスに対してwriteを行うと、音が鳴る。マウスに対してreadを行うと、マウスの移動量が読み出せる。デバイスによっては、read, writeの片方にしか意味がない場合も多い。例えば、プリンターに対してreadを行うと、何も行われない場合がほとんどである。read, writeでは何もせずに、実際の入出力をioctlだけで行う、という実装も良く用いられる。
デバイスドライバの一般的な内部プログラムの構成は、アプリケーションのAPI呼び出しをきっかけに起動されるディスパッチコードと、ハードウェア割り込みにより起動される割り込み処理コード、の2つからなる。 割り込みに対してはさらに、純粋な割り込みルーチンと、OSのタスクスイッチングのタイミングで呼び出される後処理コードの、2段階に分けて実装する作りになっているケースが多い。これは、ハードウェア割り込みルーチンからは、可能な限り早く復帰して欲しいという要望があるため(そうしないと、他のハードウェア割り込みが入れなくなる)、多少時間がかかっても良い処理は、カーネル内で余裕ができたタイミングまで後回しにして実行しよう、という考えに基づいた構成手法である。(後処理コードは、Windowsでは、DPC(英語版) (Deferred Procedure Call) 、Linuxでは、softirqあるいはTaskletと呼ばれる部分に相当する。また、過去のLinuxの実装では、Bottom Halfと呼ばれた部分である。)
最近のOSでは、ハードウェア同士で機能が似たものは、まとめてひとつのクラス(デバイスクラス)として扱う仕組みも存在する。この場合のドライバはドライバモジュールによる階層構造になっており、あるデバイスクラスで共通の処理をするクラスドライバ(英: Class Driver)はOS側で供給され、デバイスベンダーが各デバイス固有のミニドライバ(英: Minidriver)を作製する。これにより、ドライバの開発工数を削減できるようになっている。上位/下位のドライバペアは他の名称としてポートドライバ/ミニポートドライバ、クラスドライバ/ミニクラスドライバなどと呼ばれる場合もある。
例えば、シリアルポートではXON/XOFF(英語版)のようにシリアルポート全般に共通する標準通信プロトコルに対応する必要がある。これはシリアルポートの論理層(クラスドライバ)で管理することになる。しかし、物理層(ミニドライバ)は特定のシリアルポートのチップと通信できなければならない。16550 UART というハードウェアはPL011とは異なる。物理層はそういったチップ固有の差異に対応している。慣例的に、OSからの要求はまず論理層に対して行われる。そして論理層から物理層が呼び出され、OSの要求をハードウェアが理解できる形にして実行する。逆にハードウェア周辺機器がOSに返答しなければならないとき、まず物理層が対応して論理層を呼び出す。
デバイスドライバがクラスごとに共通化されることで、特定のハードウェアが独自に持っている機能が使えなくなる、あるいは使いにくくなるという欠点もある。新規技術開発で出現したハードウェアでは、その機能をどのようにOSが抽象化するか(クラス化するか)が決まるまで、ミニドライバの開発が待たされることもある。この場合は、ハードウェア毎にネイティブなデバイスドライバを、階層化されないドライバ(モノリシック ドライバ)として作成すれば、早期にドライバを提供することができる。
モノリシックドライバでは、ioctlに、そのハードウェア独自の機能を使うための仕掛けを組み入れることも可能であり、これをあやつる専用のアプリケーションを作れば、さらにきめ細かなハードウェア制御を実現することもできる。
デバイスドライバの内部構造は、OSごとに大きく異なる。
Windowsでは、Windows 98以降、様々なバージョンのWindowsごとにドライバを書く手間を省くために、Win32 ドライバモデル (WDM) アーキテクチャが導入された。 Windowsでは、ドライバの最下層にハードウェアを抽象化する層である Hardware Abstraction Layer (HAL) を設けて、プラットフォームによる違いを吸収する仕組みも存在する(386, 486, Pentium, Alpha, SPARC, IA-32, IA-64, EM64Tなどといった、CPUの違い、CPUアーキテクチャの進化を吸収する)。
Linuxでは、デバイスドライバをLinuxカーネルの一部として構築することもできるし、Linuxカーネルとは別のモジュールとして構築することもできる。MakedevにはLinuxでの周辺機器の一覧が含まれており、ttyS(端末)、lp(パラレルポート)、hd(ディスク)、loop(ループデバイス(英語版))、sound(mixer(英語版)、sequencer、dsp、audio を含む)など様々な周辺機器が定義されている。
ロード可能なデバイスドライバは、Windowsでは ".sys"、Linuxでは ".ko" という拡張子のファイルになっている。この形のデバイスドライバは必要なときだけロードできるという利点があり、カーネルメモリの節約につながる。
以上は、ハードウェアに合わせて、ドライバを各種OSに対して用意するという方針である。これとは逆に、PDAなどの開発現場では、ハードウェアの仕様をできるだけ同じにすることでデバイスドライバの開発の手間を省く、という方針が採用されているケースもある。
デバイスドライバ開発には、そのプラットフォームでのハードウェアとソフトウェアについて詳細まで理解している必要がある。ドライバは高い特権を与えられた環境で動作するので、間違った動作をすると破壊的な結果を招く。対照的に現代のオペレーティングシステムでのユーザーレベルのソフトウェアは、システムの他の部分に影響せずに停止することができる。ユーザーモードで動作するデバイスドライバであっても、バグがあればシステムをクラッシュさせることがある。そういった要因から、問題の診断も困難で危険なものとなる。
したがってドライバを書く仕事は、ハードウェア開発企業のソフトウェア技術者の仕事となることが多い。これは、部外者よりもハードウェア開発元の方がそのデザインに関する情報をより多く得られるためである。さらに言えば、デバイスドライバを提供することで製品を最適な方法で使えることを保証するという意味もある。一般に論理層(クラスドライバ)はOSベンダーが書き、物理層(ミニドライバ)は周辺機器ベンダーが書く。しかし最近では FLOSS OS で使用するためにベンダー以外の者がデバイスドライバを書くことも増えている。その場合、ハードウェア製造業者がその周辺機器のインターフェイス仕様について情報を提供することが重要となる。リバースエンジニアリングでそういった情報を解明することもできるが、対応ソフトウェアが全くない状態ではそれも難しくなる。
マイクロソフトは品質の低いデバイスドライバによってシステムの安定性が損なわれるのを防ぐため、ドライバ開発の新たなフレームワーク Windows Driver Foundation (WDF) を開発した。WDFには User-Mode Driver Framework (UMDF) と Kernel-Mode Driver Framework (KMDF) がある。UMDFはユーザーモードで動作するドライバ開発用のフレームワークで、UMDFを使ったユーザーモードのドライバにバグがあったとしても、システム安定性に影響を与えない。KMDFはカーネルモードで動作するデバイスドライバ開発を扱うが、I/O操作のキャンセル、パワーマネジメント、プラグ・アンド・プレイのサポートなど問題を起こしやすい機能の標準的実装を提供している。
AppleはmacOS用のドライバ開発のオープンソース・フレームワーク I/O Kit(英語版) を提供している。
Windowsでは、デバイスドライバはカーネルモード(x86 CPU のリング0)またはユーザーモード(x86 CPU のリング3)で動作する。ドライバをユーザーモードで動作させる最大の利点は安定性の向上であり、ユーザーモードのデバイスドライバは品質が悪くてもカーネルメモリを上書きしてシステムをクラッシュさせるということがない。一方、カーネルモードからユーザーモードに移行させると性能が低下するので、性能が要求されるデバイスドライバはユーザーモードに移行できない。
ユーザーモードのモジュールはシステムコールを使わないとカーネル空間にアクセスできない。
仮想デバイスドライバはハードウェア周辺機器をエミュレートするもので、特に仮想化環境で使われる。例えば、Windowsの動作しているコンピュータ上でMS-DOSプログラムを実行する場合や、Xenなどの上で動作するゲストOSの場合である。ゲストOSがハードウェアと直接やりとりできるようにするのではなく、仮想デバイスドライバがハードウェアをエミュレートすることで、VM内で動作するゲストOS(とその中のデバイスドライバ)が実際のハードウェアにアクセスしているかのような幻影を生じさせる。ゲストOSがハードウェアにアクセスしようとしたとき、ホストOS内の仮想デバイスドライバがそれに対応して呼び出される。仮想デバイスドライバはまた、VM内に割り込みなどのプロセッサレベルのイベントを擬似的に発生させることができる。
仮想化環境以外でも仮想デバイスが使われることがある。例えば、Virtual Private Networkでは仮想ネットワークカードが使われ、iSCSIでは仮想ディスクデバイスが使われる。仮想デバイスドライバの好例としてDaemon Toolsなどがある。
アプリケーションソフトウェアとは違い、デバイスドライバはハードウェアのアーキテクチャや仕様が公開されていなければ作成が困難であるため、オープンソース版のドライバ開発はクローズドソース版と比較して活発でなかったり機能や性能が劣ったりすることが多い。 | [
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] | デバイスドライバとは、ディスプレイモニター、プリンターやイーサネットボード、拡張カードやその他周辺機器など、パソコンに接続されているハードウェアなどをオペレーティングシステム (OS) によって制御可能にするために用意されたソフトウェアである。 近年は多くの機器がプラグアンドプレイに対応しており、機器を接続した直後に、標準ドライバが自動でインストールされるため、ユーザーがデバイスドライバの存在を意識することは少なくなってきている。ユーザが意識せずにドライバが組み込まれることを「ドライバレス」や「ドライバ不要」と呼ぶ場合もある。 | {{出典の明記|date=2021年5月}}
{{OS}}
'''デバイスドライバ'''(略称:'''ドライバ'''、'''ドライバー''')とは、[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイモニター]]、[[プリンター]]や[[イーサネット]]ボード、[[拡張カード]]やその他[[周辺機器]]など、パソコンに接続されている[[ハードウェア]]などを[[オペレーティングシステム]] (OS) によって制御可能にするために用意された[[ソフトウェア]]である。
近年は多くの機器が[[プラグアンドプレイ]]に対応しており、機器を接続した直後に、標準ドライバが自動でインストールされるため、ユーザーがデバイスドライバの存在を意識することは少なくなってきている。ユーザが意識せずにドライバが組み込まれることを「ドライバレス」や「ドライバ不要」と呼ぶ場合もある<ref>Microsoft はUniversal Printをドライバレスと言っている [https://news.mynavi.jp/techplus/article/20200304-987933/]</ref>。
== 概要 ==
デバイスドライバは、一般に[[バス (コンピュータ)|バス]]や通信サブシステムを経由してそこに接続している[[周辺機器]]と通信する。プログラムからドライバ内の[[サブルーチン|ルーチン]]を呼び出すと、ドライバが周辺機器に対してコマンドを発行する。周辺機器がドライバに対してデータを送り返してきたら、ドライバは元の呼び出したプログラム内のルーチンを呼び出すなどする。ドライバはハードウェアに依存し、OS毎に異なる。非同期なハードウェアインターフェイスに対応するため、[[割り込み (コンピュータ)|割り込み]]処理を提供していることが多い。
[[ワープロソフト]]や[[表計算ソフト]]などの[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]などが、モニター、プリンター、ネットワークカードなどの[[デバイス]]を利用する際、OSが提供する共通化されたAPI([[アプリケーションプログラミングインタフェース|アプリケーション・プログラミング・インターフェイス]])によってデバイスの機能を利用できるようにしておく。そして、抽象化されたAPIとハードウェアとの間の対応を、各ハードウェア用のデバイスドライバが受け持つ。
このような仕組みを採用することで、結果的にハードウェアの差異を吸収することができる。ソフトウェアプログラマは、特定のハードウェアに対応する細々としたソフトウェアを書かずとも、APIにあわせたアプリケーションプログラムを作ることで、作成したソフトウェアから不特定多数のハードウェアを利用することができる。
== 標準ドライバ ==
広く共通化が進んだハードウェア([[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]、[[マウス (コンピュータ)|マウス]]、[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]など)では、OS内部に標準ドライバ(ジェネリックドライバ)が含まれている場合が多い。標準ドライバがサポートしないハードウェアに関しては、一般に、そのハードウェアを提供するメーカー(ベンダー)が、デバイスドライバを製品に[[フロッピーディスク]]や[[CD-ROM]]で添付するか、あるいはインターネット上で配布する。
プリンターや[[グラフィックスカード]]など一部の製品では、ベンダーの提供するドライバと標準ドライバの両方が用意されている場合がある。標準ドライバは最低限の機能を有する安定したドライバ、ベンダー提供のドライバはそのハードウェアのもつ機能を最大限利用できる最適化されたドライバである場合が多い。
== APIとの関係 ==
ドライバは、OSの一部として機能する。
[[ユーザーモード|ユーザー]][[プロセス]]でのAPI呼び出しをきっかけに、ドライバのコードが呼び出される。しかしドライバのコード自身は、ユーザープロセスではなく、[[カーネル|カーネルコード]]の一部として動作する。
上で言う''抽象化されたAPI''とは、ほとんどの近代的なOSでは、open, read, write, ioctl, close というAPIに統一化されている。歴史的にいうと、これらのAPIは、記憶装置上のファイルにアクセスするためのAPIであるが、これがデバイスに対してもアクセス可能なように拡張された形で提供されているのが、一般的な作りである。すなわち、デバイスに対して、入出力の準備をするopen処理、デバイスからデータを入力するためのread処理、デバイスにデータを出力するためのwrite処理、デバイスに対して特別な処理を行うためのioctl処理、入出力処理を終えるためのclose処理、などである。
read, writeで実際に何が行われるかは、デバイスごとに異なる。例えば、プリンターに対してwriteを行うと印字されるが、サウンドデバイスに対してwriteを行うと、音が鳴る。マウスに対してreadを行うと、マウスの移動量が読み出せる。デバイスによっては、read, writeの片方にしか意味がない場合も多い。例えば、プリンターに対してreadを行うと、何も行われない場合がほとんどである<ref>印刷タスクの進行状況、紙切れやインク量の状態が読める、という実装もあり得る。</ref>。read, writeでは何もせずに、実際の入出力をioctlだけで行う、という実装も良く用いられる。
== 内部構成 ==
デバイスドライバの一般的な内部プログラムの構成は、アプリケーションのAPI呼び出しをきっかけに起動されるディスパッチコードと、[[割り込み (コンピュータ)#ハードウェア割り込み|ハードウェア割り込み]]により起動される[[割り込み (コンピュータ)|割り込み]]処理コード、の2つからなる。
割り込みに対してはさらに、純粋な割り込み[[ルーチン]]と、OSの[[コンテキストスイッチ|タスクスイッチング]]のタイミングで呼び出される後処理コードの、2段階に分けて実装する作りになっているケースが多い。これは、ハードウェア割り込みルーチンからは、可能な限り早く復帰して欲しいという要望があるため(そうしないと、他のハードウェア割り込みが入れなくなる)、多少時間がかかっても良い処理は、カーネル内で余裕ができたタイミングまで後回しにして実行しよう、という考えに基づいた構成手法である。(後処理コードは、Windowsでは、{{仮リンク|Deferred Procedure Call|en|Deferred Procedure Call|label=DPC}} (Deferred Procedure Call) 、Linuxでは、softirqあるいはTaskletと呼ばれる部分に相当する。また、過去のLinuxの実装では、Bottom Halfと呼ばれた部分である。)
{{いつ範囲|最近|date=2016年4月}}のOSでは、ハードウェア同士で機能が似たものは、まとめてひとつのクラス('''デバイスクラス''')として扱う仕組みも存在する。この場合のドライバはドライバモジュールによる[[階層構造]]になっており、あるデバイスクラスで共通の処理をする'''クラスドライバ'''({{lang-en-short|Class Driver}})はOS側で供給され、デバイスベンダーが各デバイス固有の'''ミニドライバ'''({{lang-en-short|Minidriver}})を作製する<ref>"A Microsoft-provided class driver is an intermediate driver designed to provide a simple interface between a vendor-written minidriver and the operating system." ''[https://docs.microsoft.com/en-us/windows-hardware/drivers/stream/class-driver-and-minidriver-definitions Class Driver and Minidriver Definitions]''. Windows Hardware Developer.</ref>。これにより、ドライバの開発工数を削減できるようになっている。上位/下位のドライバペアは他の名称としてポートドライバ/ミニポートドライバ、クラスドライバ/ミニクラスドライバなどと呼ばれる場合もある<ref>"The different technology-specific driver models use a variety of names for the specific and general pieces of a driver pair. ... Here are some of ... pairs ... audio miniport driver, audio port driver ... battery miniclass driver, battery class driver" ''[https://docs.microsoft.com/en-us/windows-hardware/drivers/gettingstarted/minidrivers-and-driver-pairs Minidrivers, Miniport drivers, and driver pairs]''. Windows Hardware Developer.</ref>。
例えば、[[シリアルポート]]では{{仮リンク|ソフトウェアフロー制御|en|Software flow control|label=XON/XOFF}}のようにシリアルポート全般に共通する標準通信プロトコルに対応する必要がある。これはシリアルポートの論理層(クラスドライバ)で管理することになる。しかし、物理層(ミニドライバ)は特定のシリアルポートのチップと通信できなければならない。[[16550 UART]] というハードウェアはPL011<ref>{{Cite web |url= http://infocenter.arm.com/help/topic/com.arm.doc.ddi0183f/DDI0183.pdf |title=PrimeCell UART (PL011) Technical Reference Manual |publisher=ARM |accessdate=2012-10-03}}</ref>とは異なる。物理層はそういったチップ固有の差異に対応している。慣例的に、OSからの要求はまず論理層に対して行われる。そして論理層から物理層が呼び出され、OSの要求をハードウェアが理解できる形にして実行する。逆にハードウェア周辺機器がOSに返答しなければならないとき、まず物理層が対応して論理層を呼び出す。
デバイスドライバがクラスごとに共通化されることで、特定のハードウェアが独自に持っている機能が使えなくなる、あるいは使いにくくなるという欠点もある。新規技術開発で出現したハードウェアでは、その機能をどのようにOSが抽象化するか(クラス化するか)が決まるまで、ミニドライバの開発が待たされることもある。この場合は、ハードウェア毎にネイティブなデバイスドライバを、階層化されないドライバ('''モノリシック ドライバ''')として作成すれば、早期にドライバを提供することができる。
モノリシックドライバでは、ioctlに、そのハードウェア独自の機能を使うための仕掛けを組み入れることも可能であり、これをあやつる専用のアプリケーションを作れば、さらにきめ細かなハードウェア制御を実現することもできる。
デバイスドライバの内部構造は、OSごとに大きく異なる。
[[Microsoft Windows|Windows]]では、[[Microsoft Windows 98|Windows 98]]以降、様々なバージョンのWindowsごとにドライバを書く手間を省くために、Win32 ドライバモデル ('''[[Windows Driver Model|WDM]]''') アーキテクチャが導入された。
Windowsでは、ドライバの最下層にハードウェアを抽象化する層である [[Hardware Abstraction Layer]] ('''HAL''') を設けて、プラットフォームによる違いを吸収する仕組みも存在する(386, 486, Pentium, Alpha, SPARC, IA-32, IA-64, EM64Tなどといった、CPUの違い、CPUアーキテクチャの進化を吸収する)。
[[Linux]]では、デバイスドライバを[[Linuxカーネル]]の一部として構築することもできるし、Linuxカーネルとは別の[[ローダブル・カーネル・モジュール|モジュール]]として構築することもできる。MakedevにはLinuxでの周辺機器の一覧が含まれており、ttyS(端末)、lp([[パラレルポート]])、hd(ディスク)、loop({{仮リンク|ループデバイス|en|Loop device}})、sound({{仮リンク|サウンドカードミキサー|en|Sound card mixer|label=mixer}}、[[ミュージックシーケンサー|sequencer]]、[[デジタルシグナルプロセッサ|dsp]]、audio を含む)など様々な周辺機器が定義されている<ref>{{Cite web| url = http://linux.about.com/od/commands/l/blcmdl8_MAKEDEV.htm | title = MAKEDEV — Linux Command — Unix Command | publisher = Linux.about.com | date = 2009-09-11 | accessdate = 2009-09-17}}</ref>。
ロード可能なデバイスドライバは、Windowsでは ".sys"、Linuxでは ".ko" という拡張子のファイルになっている。この形のデバイスドライバは必要なときだけロードできるという利点があり、カーネルメモリの節約につながる。
以上は、ハードウェアに合わせて、ドライバを各種OSに対して用意するという方針である。これとは逆に、[[携帯情報端末|PDA]]などの開発現場では、ハードウェアの仕様をできるだけ同じにすることでデバイスドライバの開発の手間を省く、という方針が採用されているケースもある。
== 開発 ==
デバイスドライバ開発には、その[[プラットフォーム (コンピューティング)|プラットフォーム]]でのハードウェアとソフトウェアについて詳細まで理解している必要がある。ドライバは高い特権を与えられた環境で動作するので、間違った動作をすると破壊的な結果を招く。対照的に現代の[[オペレーティングシステム]]でのユーザーレベルのソフトウェアは、システムの他の部分に影響せずに停止することができる。[[ユーザーモード]]で動作するデバイスドライバであっても、バグがあればシステムをクラッシュさせることがある。そういった要因から、問題の診断も困難で危険なものとなる。
したがってドライバを書く仕事は、ハードウェア開発企業のソフトウェア技術者の仕事となることが多い。これは、部外者よりもハードウェア開発元の方がそのデザインに関する情報をより多く得られるためである。さらに言えば、デバイスドライバを提供することで製品を最適な方法で使えることを保証するという意味もある。一般に論理層(クラスドライバ)はOSベンダーが書き、物理層(ミニドライバ)は周辺機器ベンダーが書く。しかし最近では [[FLOSS]] [[オペレーティングシステム|OS]] で使用するためにベンダー以外の者がデバイスドライバを書くことも増えている。その場合、ハードウェア製造業者がその周辺機器のインターフェイス仕様について情報を提供することが重要となる。[[リバースエンジニアリング]]でそういった情報を解明することもできるが、対応ソフトウェアが全くない状態ではそれも難しくなる。
[[マイクロソフト]]は品質の低いデバイスドライバによってシステムの安定性が損なわれるのを防ぐため、ドライバ開発の新たなフレームワーク [[Windows Driver Foundation]] (WDF) を開発した。WDFには [[User-Mode Driver Framework]] (UMDF) と [[Kernel-Mode Driver Framework]] (KMDF) がある。UMDFはユーザーモードで動作するドライバ開発用のフレームワークで、UMDFを使ったユーザーモードのドライバにバグがあったとしても、システム安定性に影響を与えない。KMDFはカーネルモードで動作するデバイスドライバ開発を扱うが、I/O操作のキャンセル、パワーマネジメント、プラグ・アンド・プレイのサポートなど問題を起こしやすい機能の標準的実装を提供している。
[[Apple]]は[[macOS]]用のドライバ開発のオープンソース・フレームワーク {{仮リンク|I/O Kit|en|I/O Kit}} を提供している。
== カーネルモードとユーザーモード ==
Windowsでは、デバイスドライバは[[カーネルモード]]([[リングプロテクション|x86 CPU のリング0]])または[[ユーザーモード]](x86 CPU のリング3)で動作する<ref>{{Cite web| url = http://technet.microsoft.com/en-us/library/cc784266(v=WS.10).aspx | title = User-mode vs. Kernel-mode Drivers | publisher = [[マイクロソフト]] | date = 2003-03-01 | accessdate = 2008-03-04}}</ref>。ドライバをユーザーモードで動作させる最大の利点は安定性の向上であり、ユーザーモードのデバイスドライバは品質が悪くてもカーネルメモリを上書きしてシステムをクラッシュさせるということがない<ref>{{Cite web| url = http://blogs.msdn.com/iliast/archive/2006/10/10/Introduction-to-the-User_2D00_Mode-Driver-Framework.aspx | title = Introduction to the User-Mode Driver Framework (UMDF) | date = 2006-10-10 | accessdate = 2008-03-04 | publisher = [[マイクロソフト]]}}</ref>。一方、カーネルモードからユーザーモードに移行させると性能が低下するので、性能が要求されるデバイスドライバはユーザーモードに移行できない。
ユーザーモードのモジュールは[[システムコール]]を使わないとカーネル空間にアクセスできない。
== 仮想デバイスドライバ ==
仮想デバイスドライバはハードウェア周辺機器をエミュレートするもので、特に[[仮想化]]環境で使われる。例えば、Windowsの動作しているコンピュータ上で[[MS-DOS]]プログラムを実行する場合や、[[Xen (仮想化ソフトウェア)|Xen]]などの上で動作するゲストOSの場合である。ゲストOSがハードウェアと直接やりとりできるようにするのではなく、仮想デバイスドライバがハードウェアをエミュレートすることで、[[仮想機械|VM]]内で動作するゲストOS(とその中のデバイスドライバ)が実際のハードウェアにアクセスしているかのような幻影を生じさせる。ゲストOSがハードウェアにアクセスしようとしたとき、ホストOS内の仮想デバイスドライバがそれに対応して呼び出される。仮想デバイスドライバはまた、VM内に[[割り込み (コンピュータ)|割り込み]]などのプロセッサレベルのイベントを擬似的に発生させることができる。
仮想化環境以外でも仮想デバイスが使われることがある。例えば、[[Virtual Private Network]]では仮想[[ネットワークカード]]が使われ、[[iSCSI]]では仮想[[ハードディスクドライブ|ディスク]]デバイスが使われる。仮想デバイスドライバの好例として[[Daemon Tools]]などがある。
== オープンなドライバ ==
アプリケーションソフトウェアとは違い、デバイスドライバはハードウェアのアーキテクチャや仕様が公開されていなければ作成が困難であるため、[[オープンソース]]版のドライバ開発はクローズドソース版と比較して活発でなかったり機能や性能が劣ったりすることが多い。
* プリンター: [[CUPS]]
* [[RAID]]: CCISS<ref>{{Cite web| url= http://sourceforge.net/projects/cciss/| title= CCISS| year= 2010| work= [[SourceForge.net|SourceForge]]| accessdate= 2010-08-11| quote= Drivers for the HP (previously Compaq) Smart Array controllers which provide hardware RAID capability.}}</ref>
* スキャナー: {{仮リンク|Scanner Access Now Easy|en|Scanner Access Now Easy|label=SANE}}
* ビデオ: {{仮リンク|Vidix|en|Vidix}}、[[ダイレクト・レンダリング・インフラストラクチャ]]
* Linux用[[AMD Radeon]]グラフィックスドライバ <ref>[http://developer.amd.com/tools-and-sdks/open-source/ Open Source Zone - AMD]</ref>
* Linux用[[インテル]]グラフィックスドライバ <ref>[https://01.org/linuxgraphics Intel® Graphics for Linux* | 01.org]</ref>
* Linux用[[NVIDIA]]グラフィクスドライバ[[nouveau]]
== デバイスドライバ関連のAPIや規格 ==
* [[Network Driver Interface Specification]] (NDIS) – 標準[[ネットワークカード]]ドライバAPI
* [[Advanced Linux Sound Architecture]] (ALSA) – Linuxのサウンドドライバの標準インターフェイス
* {{仮リンク|Scanner Access Now Easy|en|Scanner Access Now Easy}} (SANE) – [[イメージスキャナ]]用のパブリックドメインのインターフェイス
* {{仮リンク|I/O Kit|en|I/O Kit}} – [[Apple]]の[[macOS]]用デバイスドライバのためのオープンソースのフレームワーク
* {{仮リンク|Installable File System|en|Installable File System}} (IFS) – [[OS/2]]と[[Microsoft Windows NT|Windows NT]]の[[ファイルシステムAPI]]。[[Windows Driver Kit]]の一部
* [[Open Data-Link Interface]] (ODI) – NDISと同様のネットワークカード用API
* {{仮リンク|Uniform Driver Interface|en|Uniform Driver Interface}} (UDI) – クロスプラットフォームのドライバインターフェイス策定プロジェクト。Windowsや[[UNIX]]などのOSの枠を越えて、複数のOSに対して共通のドライバを1本書けば、どのOSでも動作可能なようにする試み
* [http://dxd.dynax.at/ Dynax Driver Framework] (dxd) – マイクロソフトの[[Kernel-Mode Driver Framework|KMDF]]とAppleのI/O Kitで共通のドライバを開発可能にするC++のオープンソース・フレームワーク
=== Windows ===
*パッケージ規格
** Windows Drivers: 全てのWindows 10プラットフォームで機能する厳格な規格<ref>"Windows Drivers will run on all Window 10 variants" Windows Hardware Developers. ''[https://docs.microsoft.com/en-us/windows-hardware/drivers/develop/getting-started-with-windows-drivers Getting Started with Windows Drivers]''.</ref>
**Windows Desktop Drivers: デスクトップ版のみで機能する規格
**[[Universal Windows Drivers]](UWD)<ref>"Windows Universal Drivers" Windows Blogs. ''[https://blogs.windows.com/windowsexperience/tag/windows-universal-drivers/ Windows Universal Drivers]''.</ref>: Windows Driversへ移行<ref>"The ''Windows Driver'' classification will extend and replace the current ''Universal Driver'' classification." Windows Hardware Developers. ''[https://docs.microsoft.com/en-us/windows-hardware/drivers/develop/getting-started-with-windows-drivers Getting Started with Windows Drivers]''.</ref>
*ドライバ規格
**[[Windows Driver Model]] (WDM) - Windows用ドライバの標準インターフェース
**[[Windows Driver Foundation|Windows Driver Frameworks]] (WDF) - WDMをラップ・抽象化してシンプルかつ高機能にした公式ライブラリ・フレームワーク
***[[Windows Kernel-Mode Driver Framework|Kernel-Mode Driver Framework]] (KMDF)
***[[Windows User-Mode Driver Framework|User-Mode Driver Framework]] (UMDF)
**[[仮想デバイスドライバ]] (VxD) - かつて利用されていた形式([[Windows 9x系]]など)
**Windows NT driver model<ref>"For a software driver, your two options are KMDF and the legacy Windows NT driver model." ''[https://docs.microsoft.com/en-us/windows-hardware/drivers/gettingstarted/choosing-a-driver-model Choosing a driver model]''. Windows Hardware Developer.</ref> - [[Microsoft Windows NT|Windows NT]]で主に利用されていた形式
*[[Windows Display Driver Model]] (WDDM) – [[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]] でのグラフィックスドライバのアーキテクチャ
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[動作環境]]
* [[オープンソースハードウェア]]
* [[オペレーティングシステム]]
* [[ファームウェア]]
* [[ローダブル・カーネル・モジュール]]
* [[割り込み (コンピュータ)]]
* [[Basic Input/Output System|BIOS]]
* [[udev]]
== 外部リンク ==
* [https://developer.microsoft.com/en-us/windows/hardware Microsoft Windows Hardware Developer Central]
* [https://www.filehelp.jp/drivers FileHelp.jp]
* [http://www.linux-drivers.org Linux Hardware Compatibility Lists and Linux Drivers]
* [http://pages.cs.wisc.edu/~kadav/study/study.pdf Understanding Modern Device Drivers(Linux)]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%90 |
8,361 | 対応 (数学) | 数学における対応(たいおう、Correspondence)は、古い文献に頻繁に現れていた多価函数(多値写像)の概念を明確にしたものである。通常の意味の函数(写像)が定義集合の各元に値の集合の一つの元を値として割り当てるのに対して、多価函数は値の集合の複数の元を割り当てることが許されるのであった。対応の概念を考えるときには、これら複数の函数値を一つの集合(値の集合の部分集合)として割り当てる。言い換えれば、対応とは定義域の各元に終域の部分集合を割り当てる写像である。
集合 A から B への(部分)対応とは、直積集合 A × B の部分集合 G が与えられたとき、三つ組 f = (A, B; G) のことをいう。このとき、
などと表す。A, B, G はそれぞれ対応 f の始域 (initial set, source)、終域、グラフ(英語版)と呼ばれる。グラフの各成分への射影
は f の定義域といい、
を f の像または値域と呼ぶ。D(f) = A であるとき、f は(左)全域的対応あるいは単に対応であるといい、V(f) = B であるとき f は全射あるいは右全域的対応という。左全域的かつ右全域的であるときに限って対応と呼ぶこともある。 対応 f: A → B が与えられたとき、dom(f) の元 a に対して、B の部分集合(空集合であってもよい)
は、対応 f による a の像または値 (value) と呼ばれる。このとき、
は f のグラフ G に一致する。
対応 f: A → B が与えられているとき、A の元 a と B の元 b に対して a Rf b ⇔ (a, b) ∈ G(f) と置いて得られる Rf は二項関係である。逆に二項関係 R ⊂ A × B が与えられたとき、a ∈ A に対して、f(a) = {b | a R b} を割り当てる対応 fR: A → B が定まる。
直積の部分集合をグラフとして定まるという意味では、対応は二項関係と同じ概念を表すものと考えることができるが、対応というときはある集合から別な集合へ元を写すというニュアンスが強い。例えば、対応 f: A → A に対して、a ∈ f(a) となるような A の元 a を対応 f の不動点という。
対応によって、一つの元に(部分集合に属する)複数の元が割り当てられているとみなすと、多価函数に近いものと考えることもできるが、対応による像の濃度は元ごとに異なっていてもよいという点で多価函数とは異なる。
二つの対応 f: A → B と g: C → D が相等しい: f = g とは、順序三つ組としての相当をいう。これは、始域、終域を共有し、始域の各元の像が常に等しいこと、すなわち集合として A = C, B = D であって、なおかつどんな a ∈ A (= C) に対しても、f(a) = g(a) を満たすことである。
なお、終域を重視しない立場もあり、その場合はグラフの相等 G(f) = G(g) を以って対応の相等 f = g と定める。f = g となるための必要十分条件は dom(f) = dom(g) かつ a ∈ dom(f) ならば f(a) = g(a) を満たすことであり、また、(dom(f), ran(f), G(f)) と (dom(g), ran(g), G(g)) が順序三つ組として相等であることである。
対応 f: A → B が与えられているとき、
をグラフとする対応 g: B → A を f の逆対応と呼び、f で表す。
対応 f が(部分)写像であるとき、f(a) = {b} となることを f(a) = b と略記して、この元 b を a の像と呼ぶ。
写像の言葉で言えば、集合 A から集合 B への対応 φとは、A から B の冪集合 P(B) への写像、すなわち集合値写像
として理解できる。 | [
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"text": "写像の言葉で言えば、集合 A から集合 B への対応 φとは、A から B の冪集合 P(B) への写像、すなわち集合値写像",
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] | 数学における対応(たいおう、Correspondence)は、古い文献に頻繁に現れていた多価函数(多値写像)の概念を明確にしたものである。通常の意味の函数(写像)が定義集合の各元に値の集合の一つの元を値として割り当てるのに対して、多価函数は値の集合の複数の元を割り当てることが許されるのであった。対応の概念を考えるときには、これら複数の函数値を一つの集合(値の集合の部分集合)として割り当てる。言い換えれば、対応とは定義域の各元に終域の部分集合を割り当てる写像である。 | [[数学]]における'''対応'''(たいおう、''Correspondence'')は、古い文献に頻繁に現れていた[[多価函数]](多値写像)の概念を明確にしたものである。通常の意味の函数([[写像]])が[[定義域|定義集合]]の各元に[[値域|値の集合]]の一つの元を値として割り当てるのに対して、多価函数は値の集合の複数の元を割り当てることが許されるのであった。対応の概念を考えるときには、これら複数の函数値を一つの集合(値の集合の部分集合)として割り当てる。言い換えれば、対応とは定義域の各元に終域の部分集合を割り当てる写像である。
== 定義 ==
集合 {{mvar|A}} から {{mvar|B}} への('''部分''')'''対応'''とは、直積集合 {{math|''A'' × ''B''}} の部分集合 {{mvar|G}} が与えられたとき、三つ組 {{math|1=''f'' = (''A'', ''B''; ''G'')}} のことをいう。このとき、<math display="block">
f\colon A\to B,\quad A \stackrel{f}{{}\to{}}B,\quad f\colon A\multimap B
</math> などと表す。{{mvar|A, B, G}} はそれぞれ対応 {{mvar|f}} の'''始域''' (initial set, source)、[[終域]]、{{ill2|関係のグラフ|en|graph of a relation|label=グラフ}}と呼ばれる。グラフの各成分への[[射影]]<math display="block">
D(f) = \operatorname{dom}(f) := \operatorname{pr}_l(G) = \{a\in A \mid (a,\exists b)\in G\}
</math> は {{mvar|f}} の[[定義域]]といい、<math display="block">
V(f) = \operatorname{ran}(f) := \operatorname{pr}_r(G) = \{b\in B \mid (\exists a,b)\in G\}
</math> を {{mvar|f}} の[[像 (数学)|像]]または[[値域]]と呼ぶ。{{math|1=''D''(''f'') = ''A''}} であるとき、{{mvar|f}} は(左)'''全域的対応'''あるいは単に対応であるといい、{{math|1=''V''(''f'') = ''B''}} であるとき {{mvar|f}} は[[全射]]あるいは'''右全域的対応'''という。左全域的かつ右全域的であるときに限って対応と呼ぶこともある{{sfn|ProofWiki}}。
対応 {{math|''f'': ''A'' → ''B''}} が与えられたとき、{{math|dom(''f'')}} の元 {{mvar|a}} に対して、{{mvar|B}} の部分集合([[空集合]]であってもよい)<math display="block">f(a) := \{b\in B\mid (a,b)\in G\}</math>は、対応 {{mvar|f}} による {{mvar|a}} の'''像'''または'''値''' (value) と呼ばれる。このとき、<math display="block">G(f) = \{(a,b) \mid a\in A,\,b\in f(a)\}</math> は {{mvar|f}} のグラフ {{mvar|G}} に一致する。
== 対応と関係 ==
{{main|二項関係}}
対応 {{math|''f'': ''A'' → ''B''}} が与えられているとき、{{mvar|A}} の元 {{mvar|a}} と {{mvar|B}} の元 {{mvar|b}} に対して {{math|''a'' ''R''<sub>''f''</sub> ''b'' ⇔ (''a'', ''b'') ∈ ''G''(''f'')}} と置いて得られる {{math|''R''<sub>''f''</sub>}} は[[二項関係]]である。逆に二項関係 {{math|''R'' ⊂ ''A'' × ''B''}} が与えられたとき、{{math|''a'' ∈ ''A''}} に対して、{{math|1=''f''(''a'') = {{mset|''b'' | ''a'' ''R'' ''b''}}}} を割り当てる対応 {{math|''f{{sub|R}}'': ''A'' → ''B''}} が定まる。
直積の部分集合を[[グラフ (函数)|グラフ]]として定まるという意味では、対応は[[二項関係]]と同じ概念を表すものと考えることができるが、対応というときはある集合から別な集合へ元を写すというニュアンスが強い。例えば、対応 {{math|''f'': ''A'' → ''A''}} に対して、{{math|''a'' ∈ ''f''(''a'')}} となるような {{mvar|A}} の元 {{mvar|a}} を対応 {{mvar|f}} の[[不動点]]という。
対応によって、一つの元に(部分集合に属する)複数の元が割り当てられているとみなすと、[[多価函数]]に近いものと考えることもできるが、対応による像の濃度は元ごとに異なっていてもよいという点で多価函数とは異なる。
== 対応の相等 ==
二つの対応 {{math|''f'': ''A'' → ''B''}} と {{math|''g'': ''C'' → ''D''}} が'''相等しい''': {{math|1=''f'' = ''g''}} とは、順序三つ組としての相当をいう。これは、始域、終域を共有し、始域の各元の像が常に等しいこと、すなわち集合として {{math|1=''A'' = ''C'', ''B'' = ''D''}} であって、なおかつどんな {{math|1=''a'' ∈ ''A'' (= ''C'')}} に対しても、{{math|1=''f''(''a'') = ''g''(''a'')}} を満たすことである。
なお、終域を重視しない立場もあり、その場合はグラフの相等 {{math|1=''G''(''f'') = ''G''(''g'')}} を以って対応の相等 {{math|1=''f'' = ''g''}} と定める。{{math|1=''f'' = ''g''}} となるための[[同値|必要十分条件]]は {{math|1=dom(''f'') = dom(''g'')}} かつ {{math|''a'' ∈ dom(''f'')}} ならば {{math|1=''f''(''a'') = ''g''(''a'')}} を満たすことであり、また、{{math|(dom(''f''), ran(''f''), ''G''(''f''))}} と {{math|(dom(''g''), ran(''g''), ''G''(''g''))}} が順序三つ組として相等であることである。
== 逆対応 ==
{{seealso|逆関係|逆写像}}
対応 {{math|''f'': ''A'' → ''B''}} が与えられているとき、<math display="block">G(g) = \{(b,a) \in B \times A \mid (a,b) \in G(f)\}</math> をグラフとする対応 {{math|''g'': ''B'' → ''A''}} を {{mvar|f}} の'''逆対応'''と呼び、{{math|''f''<sup>−1</sup>}} で表す。
== 写像 ==
{{main|部分写像|写像}}
; 定義: 対応 {{math|1=''f'' = (''A'', ''B'', ''G''<sub>''f''</sub>)}} は、<div style="margin: 1ex 2em;">「各元 {{math|''a'' ∈ ''A''}} に対して {{math|(''a'', ''b'') ∈ ''G''<sub>''f''</sub>}} となるような {{math|''b'' ∈ ''B''}} が一つしかない(すなわち、{{mvar|A}} のどの元 {{mvar|a}} についても {{math|''f''(''a'')}} がただ一つの元からなる)」</div>という条件をみたすとき、'''部分写像'''(一意対応)という。特に {{math|1=''D''(''f'') = ''A''}}(全域的)なとき'''写像'''と呼ばれる。
対応 {{mvar|f}} が(部分)写像であるとき、{{math|1=''f''(''a'') = {{mset|''b''}}}} となることを {{math|1=''f''(''a'') = ''b''}} と略記して、この元 {{mvar|b}} を {{mvar|a}} の'''像'''と呼ぶ。
写像の言葉で言えば、集合 {{mvar|A}} から集合 {{mvar|B}} への対応 {{mvar|φ}}とは、{{mvar|A}} から {{mvar|B}} の[[冪集合]] {{math|𝒫(''B'')}} への写像、すなわち[[集合値函数|集合値写像]]<math display="block">\varphi\colon A \to \mathcal{P}(B)</math> として理解できる。
== 参考文献 ==
{{reflist}}
* {{cite book|和書|author=松坂和夫|title=集合・位相入門|publisher=岩波書店|year=1968|mouth=6|isbn=978-4000054249}}
== 関連項目 ==
* [[集合]]
* [[二項関係]]
== 外部リンク ==
* {{nlab|urlname=correspondence|title=correspondence}}
* {{ProofWiki|urlname=Definition:Correspondence|title=Definition:Correspondence}}
* {{SpringerEOM|urlname=Correspondence|title=Correspondence|author=Tsalenko, M.Sh.}}
{{DEFAULTSORT:たいおう}}
[[Category:集合の基本概念]]
[[Category:数学に関する記事]] | null | 2020-08-14T00:14:19Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E5%BF%9C_(%E6%95%B0%E5%AD%A6) |
8,362 | ジャック・マイヨール | ジャック・マイヨール(Jacques Mayol, 1927年4月1日- 2001年12月22日)は、フランスのフリーダイバー。上海生まれ。イタリアのエルバ島にて没。
4歳の時、母親に初めて水とのつき合い方を教わる。10歳の時に、佐賀県唐津市の屋形石の七ツ釜ではじめてイルカと出会い、その後の生活の原点となる。12歳で一家でフランスのマルセイユに移住。17歳で父の設計事務所で働きながらバカロレアを取得。高校を出ると北極圏でイヌイットと暮らすなど、以後コペンハーゲンを起点に旅を繰り返す。
22歳の時、ヴィブケ・ボージュ・ワズショルドとの間に長女ドッティをもうける。正式な結婚は後の25歳の時、コペンハーゲンにて執り行われた。その後水夫としてカナダのアルバータ州、アメリカのマイアミに移住。その間、レポーター、ジャーナリストとして働き、長男ジャン・ジャックが誕生する。 フロリダではフランス語系新聞の手伝いやラジオ番組のリポーターを務めながら、マイアミ水族館で働く。そこで1957年にイルカの調教を担当したことから水中での泳ぎ方などを体得。
その後水族館を退職しカイコス諸島に移住、素潜りによる伊勢エビ漁を島民に教える。その頃になると周りの勧めでフリーダイビングに挑戦するようになり、1966年にハバナにて60メートルを記録したのを皮切りにエンゾ・マイオルカと共に記録合戦を繰り広げた。1973年、イタリアに居を移し、10余りの潜水実験に参加。それにより数十メートルの深度でフリーダイビング中のマイヨールの脈拍が毎分26回になっていることや赤血球が著しく増加していることが、スキューバで潜った医師によって測定されたこともある。1976年11月23日、エルバ島にて人類史上初めて素潜りで100メートルを超える記録をつくる。この時49歳であった。
1983年、母親の葬儀に参列するためにマルセイユに行った折にリュック・ベッソンと出会う。1988年、自伝をもとにした映画『グラン・ブルー』が同監督により製作され、世界中の人にその存在を知られる。
1989年マルセイユ出身の女性編集者ジャンヌ・ラフィットと結婚し、本をいくつか出版する(そのひとつが『イルカと海に帰る日』である)。
大の親日家であり、フリーダイビングにヨーガや禅を取り入れていた。千葉県館山市坂田に別荘を設けている。1995年にはTBSテレビのドキュメンタリー番組『いのちの響』に出演したことがある。1997年の秋には27HOUR SPECIAL CHALLENGE 97内で放送された『イルカが海に帰る日 ~ユキよ、自由の海を泳げ~』のスペシャルゲストを担当した。
ダイビングの第一線から引退した後は、イルカと人間との共存を訴えた。晩年はうつ病を患っていた。2001年12月22日、エルバ島の自宅の部屋で首吊り自殺をしているのが発見された。遺体のそばのテーブルの上に、『グラン・ブルー』のビデオと、直前に出演したテレビ朝日の『グレートマザー物語 ジャック・マイヨールの母』(演出 北村亜子 佐藤VINCI)のビデオが置いてあった。撮影時から孫に伝えたいメッセージをこの番組を通して残したいと話していた。自殺直前の経緯については、兄ピエールらの『ジャック・マイヨール、イルカと海に還る』に詳しい。
遺骨はトスカーナ湾に散骨された。 | [
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] | ジャック・マイヨールは、フランスのフリーダイバー。上海生まれ。イタリアのエルバ島にて没。 | {{出典の明記|date=2017年5月}}
{{Infobox Swimmer
| 氏名 = Jacques Mayol<br>ジャック・マイヨール
| 画像 =
| 画像サイズ = 250px
| 画像説明 = 1989年(左)
| 国籍 = {{FRA}}
| 所属 =
| 生年月日 = [[1927年]][[4月1日]]
| 生誕地 = [[上海市]]
| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1927|4|1|2001|12|22}}
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'''ジャック・マイヨール'''('''Jacques Mayol''', [[1927年]][[4月1日]]- [[2001年]][[12月22日]])は、[[フランス]]の[[フリーダイビング|フリーダイバー]]。[[上海市|上海]]生まれ。[[イタリア]]の[[エルバ島]]にて没。
==生涯==
4歳の時、母親に初めて水とのつき合い方を教わる。10歳の時に、[[佐賀県]][[唐津市]]の[[屋形石の七ツ釜]]ではじめて[[イルカ]]と出会い、その後の生活の原点となる。12歳で一家でフランスの[[マルセイユ]]に移住。17歳で父の設計事務所で働きながら[[バカロレア (フランス)|バカロレア]]を取得。高校を出ると[[北極圏]]で[[イヌイット]]と暮らすなど、以後[[コペンハーゲン]]を起点に旅を繰り返す。
22歳の時、ヴィブケ・ボージュ・ワズショルドとの間に長女ドッティをもうける。正式な結婚は後の25歳の時、コペンハーゲンにて執り行われた。その後水夫としてカナダの[[アルバータ州]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[マイアミ]]に移住。その間、[[レポーター]]、[[ジャーナリスト]]として働き、長男ジャン・ジャックが誕生する。
<!-- [[Image:Tursiops truncatus head.jpg|150px|right|thumb|マイヨールは[[マイアミ・シークアリウム|マイアミ水族館]]で昼休みに"クラウン"という名のイルカと共に泳ぎ、多くのことを体得したと著書『イルカと海に帰る日』に述べられている(写真は別のイルカ)]]-->
[[フロリダ]]ではフランス語系新聞の手伝いやラジオ番組のリポーターを務めながら、[[マイアミ・シークアリウム|マイアミ水族館]]で働く。そこで[[1957年]]にイルカの調教を担当したことから水中での泳ぎ方などを体得。
その後水族館を退職し[[タークス・カイコス諸島|カイコス諸島]]に移住、[[素潜り]]による[[伊勢エビ]]漁を島民に教える。その頃になると周りの勧めで[[フリーダイビング]]に挑戦するようになり、[[1966年]]に[[ハバナ]]にて60メートルを記録したのを皮切りに[[エンゾ・マイオルカ]]と共に記録合戦を繰り広げた。[[1973年]]、イタリアに居を移し、10余りの潜水実験に参加。それにより数十メートルの深度でフリーダイビング中のマイヨールの[[脈拍]]が毎分26回になっていることや[[赤血球]]が著しく増加していることが、スキューバで潜った医師によって測定されたこともある<!--(フリーダイビングについての医学的知識の進歩にも貢献した)-->。[[1976年]][[11月23日]]、[[エルバ島]]にて人類史上初めて素潜りで100メートルを超える記録をつくる。この時49歳であった。
[[1983年]]、母親の葬儀に参列するために[[マルセイユ]]に行った折に[[リュック・ベッソン]]と出会う。[[1988年]]、自伝をもとにした映画『[[グラン・ブルー (映画)|グラン・ブルー]]』が同監督により製作され、世界中の人にその存在を知られる。
[[1989年]]マルセイユ出身の女性編集者ジャンヌ・ラフィットと結婚し、本をいくつか出版する(そのひとつが『イルカと海に帰る日』である)。
大の[[親日家]]であり、フリーダイビングに[[ヨーガ]]や[[禅]]を取り入れていた。[[千葉県]][[館山市]]坂田に別荘を設けている。[[1995年]]には[[TBSテレビ]]のドキュメンタリー番組『[[いのちの響]]』に出演したことがある。[[1997年]]の秋には[[テレビ朝日系列]]『[[27時間チャレンジテレビ|27HOUR SPECIAL CHALLENGE 97]]』内で放送された『イルカが海に帰る日 ~ユキよ、自由の海を泳げ~』のスペシャルゲストを担当した。
ダイビングの第一線から引退した後は、イルカと人間との共存を訴えた。晩年は[[うつ病]]を患っていた。2001年12月22日、[[エルバ島]]の自宅の部屋で首吊り自殺をしているのが発見された。遺体のそばのテーブルの上に、『グラン・ブルー』のビデオと、直前に出演したテレビ朝日の『[[グレートマザー物語]] ジャック・マイヨールの母』(演出:北村亜子、佐藤VINCI)のビデオが置いてあった。撮影時から孫に伝えたいメッセージをこの番組を通して残したいと話していた。自殺直前の経緯については、兄ピエールらの『ジャック・マイヨール、イルカと海に還る』に詳しい。
遺骨は[[トスカーナ]][[湾]]に[[散骨]]された。
== マイヨールの記録 ==
*1966年:60 m
*1976年:100 m
*1983年:105 m(当時55歳)
==著作==
*自伝『イルカと、海へ還る日』(原題:ホモ・デルフィナス、[[関邦博]]訳)講談社、1993年2月 ISBN 4062061473。改訂版・講談社文庫、2008年
*『海の記憶を求めて』(兄ピエールとの共著、北沢真木訳)翔泳社、1998年7月 ISBN 4881356372
*『海の人々からの遺産』(写真解説、外山厚子ほか訳)翔泳社、1999年9月 ISBN 488135776X
==参考文献==
*[[佐藤嘉尚]]『潜る人 ジャック・マイヨールと大崎映晋』文藝春秋、2006年1月 ISBN 4163678603
*『ジャック・マイヨール、イルカと海へ還る』講談社、2003年12月 ISBN 4062119587
::ピエール・マイヨール/パトリック・ムートン([[岡田好惠]]訳)
==関連映画==
*『[https://web.archive.org/web/20120402042325/http://chi.iii.u-tokyo.ac.jp/film/blog/ Blue Symphony ブルーシンフォニー ジャック・マイヨールの愛した海]』監督[[みつよしたかひろ]]
::製作:産学共同映像研究所有限責任事業組合/[[東京大学]]大学院情報学環/[[唐津市]]、2008年10月。[[東京国際映画祭]]招待作品
{{Normdaten}}
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[[Category:フランスのフリーダイビング選手]]
[[Category:上海出身の人物]]
[[Category:自殺したフランスの人物]]
[[Category:1927年生]]
[[Category:2001年没]] | 2003-05-16T14:19:23Z | 2023-10-11T23:26:48Z | false | false | false | [
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"Template:出典の明記"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AB |
8,364 | 星野道夫 | 星野 道夫(ほしの みちお、1952年(昭和27年)9月27日 - 1996年(平成8年)8月8日)は、日本の写真家、探検家、詩人。千葉県市川市出身。ヒグマの食害に遭い死去した。
アラスカの野生動物、自然、人々を撮影した。厳しい自然の中で動物が生きる姿、人間の生活、命の尊さを綴ったエッセイも執筆。著書に『アラスカ 光と風』(1986年)、『旅をする木』(1994年)など。
千葉県市川市に生まれ、少年時代を同市で過ごす。通い始めた学習塾を1日で辞めたこともあった。実家には今も、通っていた市川市立平田小学校から児童がインタビューのために訪れることがある。
慶應義塾高等学校在学中に北米大陸への旅行を計画し、地下鉄工事等さまざまなアルバイトをして旅費を貯め、父の理解と援助を得て、1968年に16歳のとき、約2ヶ月間の冒険の旅に出た。その時の様子はエッセイ「16歳の時」にまとめられている。同高卒業後、慶應義塾大学経済学部へ進学。大学時代は探検部で活動し、熱気球による琵琶湖横断や最長飛行記録に挑戦した。19歳のとき、神田の洋書専門店で購入したアラスカの写真集を見て、同書に掲載されていたシシュマレフを訪問したいと村長に手紙を送ってみたところ、半年後に村長本人から訪問を歓迎する旨の返事がきた。そこで翌年の夏、日本から何回も航空機を乗り継いでシシュマレフに渡航する。現地でホームステイをしながらクジラ漁についていき、写真を撮ったり漁などの手伝いをしたりしながら3ヶ月間を過ごす。帰国してから指導教官にアラスカでのレポートを提出し、なんとか卒業単位を取ることができたという。
慶大卒業後、動物写真家である田中光常の助手として写真の技術を学ぶはずだったが、助手としてはカメラの設置や掃除・事務所の留守番などの雑用ばかりで、2年間で職を辞した。
1978年、アラスカ大学フェアバンクス校の入試を受けた。入試では、英語(英会話)の合格点には30点足りなかったが、学長に直談判して野生動物管理学部に入学した。その後、アラスカを中心にカリブーやグリズリーなど野生の動植物や、そこで生活する人々の魅力的な写真を撮影した。しかしアラスカ大学の方は結局中退してしまう。1989年には『Alaska 極北・生命の地図』で第15回木村伊兵衛写真賞を受賞する。1993年、萩谷直子と結婚。翌1994年、長男・翔馬が誕生。
1996年8月8日の午前4時頃、TBSテレビ番組『どうぶつ奇想天外!』取材のため滞在していたロシアのカムチャツカ半島南部のクリル湖畔に設営したテントでヒグマに襲われて死亡した。43歳没。この事故については、星野の友人たちやクマを専門とする研究者によって行われた検証によって、地元テレビ局のオーナーに餌付けされたことで人間への警戒心が薄くなっていた個体であったことが明らかにされた。なお、昼間にテントの入り口から入ろうとするヒグマの写真が星野道夫が最期に撮影したものとして出回っているが、襲撃は深夜のことであり偽物である。
以下の事件の経緯はTBSが作成した「遭難報告書」によるものである。
1996年7月25日、TBSの人気動物番組『どうぶつ奇想天外!』の撮影の為、同地を訪れた。今回は星野の持ち込み企画で、「ヒグマと鮭(サケ)」をテーマに撮影する予定で、星野の他にTBSスタッフ3名とロシア人ガイド2名が同行していた。小屋には取材班とガイドの5名が泊まり、星野はそこから数m程離れた所にテントを張り、1人でそこに泊まることにした。その時小屋の食糧がヒグマにあさられていた形跡をガイドが発見している。
7月27日、別のアメリカ人写真家が現地を訪れ、星野のテント近くにテントを張ったが、その夜、写真家は金属音で目が覚めた。外に出ると小屋の食糧庫にヒグマがよじ登り、飛び跳ねていた。ヒグマは体長2 m超・体重250 kgはある巨大な雄クマで、額に特徴的な赤い傷があった。アメリカ人写真家が大声を出して手を叩くとヒグマは跳ねるのを止め地面に降りると、今度は星野のテント後方に周りはじめた。その最中、星野がテントから顔を出したので、写真家は「あなたのテントから3 mにヒグマがいる」と警告した。星野は「どこ?」と返す。「すぐそこ。ガイドを呼ぼうか?」と写真家が聞くと「うん呼んで」と答えたので、写真家は小屋のドアを叩いてヒグマが出たとガイドに告げた。小屋から出てきたガイドは鍋を叩き鳴らしながら近づき、7-8 mあたりでクマ除けスプレー(以下スプレーと略)をヒグマに向けて噴射したが、ヒグマには届かなかった。なお、同地は自然保護区のため銃の所持・使用は禁止されている。その後もスプレーを掛けようとガイドは悪戦苦闘するが上手くいかず、やがてヒグマはテントから離れていった。
このため、ガイドたちは星野に小屋で寝るよう説得したが、星野は「この時期はサケが川を上って食べ物が豊富だから、ヒグマは襲ってこない」として取り合わなかった。一方でアメリカ人写真家は身の危険を感じ、近くの鮭観察タワーに宿泊した。
8月1日、環境保護団体のグループが訪れ同地でキャンプをしたが、靴をヒグマに持ち去られたり、写真家が不在だった鮭観察タワーに泊まった1人は、一晩中タワーによじ登ろうとするヒグマに怯え眠れなかったという。
8月6日夜、再度星野のテント近くにヒグマが現れて、ガイドがスプレーで追い払った。ガイドは再び強く小屋への移動を勧めたが、星野はこの時も聞き入れなかったという。
8月8日の深夜4時頃、星野の悲鳴とヒグマのうなり声が暗闇のキャンプ場に響き渡った。小屋から出てきたTBSスタッフは「テント!ベアー!ベアー!」とガイドに叫んだ。ガイドが懐中電灯で照らすとヒグマが星野を咥えて森へ引きずっていく姿が見えた。ガイドたちは大声をあげシャベルをガンガン叩いたが、ヒグマは一度頭をあげただけで、そのまま森へ消えていった。テントはひしゃげていてポール(支柱)は折れ、星野の寝袋は切り裂かれていた。ガイドが無線で救助を要請し、ヘリコプターで到着した捜索隊は上空からヒグマを捜索し、発見すると射殺した。星野の遺体は森の中でヒグマに喰い荒らされた姿で発見された。
星野は「野生のヒグマは遡上する鮭の多いこの季節に人を襲わない」との考えからテントに泊まり続けた。その知識は基本的には間違いではないが、今回星野を襲ったのは地元テレビ局の社長によって餌付けされていたヒグマで、人間のもたらす食糧の味を知っている個体であった。さらにこの年は鮭の遡上が遅れ気味で、食糧が不足していた。死の直前まで撮影された星野の映像は遺族の意向もあり、「極東ロシアヒグマ王国~写真家・星野道夫氏をしのんで~」と題し、後日放送された。
1997年、龍村仁監督による映画『地球交響曲第3番』の第1部に「星野道夫編」として取り上げられる(第2部はフリーマン・ダイソン編、第3部はナイノア・トンプソン編)。なお星野は元々出演予定だったが、事故を踏まえ星野の追悼を主題とし、その足跡を辿りながら星野と交流のあった人を紹介している。
2003年、三省堂出版の高等学校向け文部科学省検定済教科書『CROWN ENGLISH SERIES I』にエッセイ「16歳の時(英題:When I was sixteen)」が掲載される。また2006年には、桐原書店出版の高校向け文部科学省検定済教科書『PRO-VISION ENGLISH COURSE II』に偉人の一人として掲載される。
2006年7月24日、NHKにて『ハイビジョン特集 アラスカ 星のような物語〜写真家・星野道夫 大地との対話〜』が放映された。
2016年8月より、「没後20年 特別展 星野道夫の旅」と題した写真展が開催されている。この巡回展は2018年夏頃まで、全国を巡回して行われる予定である。写真展示のほか、星野道夫が使用していたカメラやカヌーなどの愛用品の展示も行われている。
2018年1月11日にNHK BS1の『BS1スペシャル』にて『父と子のアラスカ〜星野道夫 生命(いのち)の旅〜』が放映された。
随筆のみの著書が多数出版されている。代表的な写真作品の一部は、富士フイルムのウェブ写真美術館に展示され鑑賞することができる。 | [
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"text": "星野 道夫(ほしの みちお、1952年(昭和27年)9月27日 - 1996年(平成8年)8月8日)は、日本の写真家、探検家、詩人。千葉県市川市出身。ヒグマの食害に遭い死去した。",
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"text": "アラスカの野生動物、自然、人々を撮影した。厳しい自然の中で動物が生きる姿、人間の生活、命の尊さを綴ったエッセイも執筆。著書に『アラスカ 光と風』(1986年)、『旅をする木』(1994年)など。",
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"text": "千葉県市川市に生まれ、少年時代を同市で過ごす。通い始めた学習塾を1日で辞めたこともあった。実家には今も、通っていた市川市立平田小学校から児童がインタビューのために訪れることがある。",
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"text": "慶應義塾高等学校在学中に北米大陸への旅行を計画し、地下鉄工事等さまざまなアルバイトをして旅費を貯め、父の理解と援助を得て、1968年に16歳のとき、約2ヶ月間の冒険の旅に出た。その時の様子はエッセイ「16歳の時」にまとめられている。同高卒業後、慶應義塾大学経済学部へ進学。大学時代は探検部で活動し、熱気球による琵琶湖横断や最長飛行記録に挑戦した。19歳のとき、神田の洋書専門店で購入したアラスカの写真集を見て、同書に掲載されていたシシュマレフを訪問したいと村長に手紙を送ってみたところ、半年後に村長本人から訪問を歓迎する旨の返事がきた。そこで翌年の夏、日本から何回も航空機を乗り継いでシシュマレフに渡航する。現地でホームステイをしながらクジラ漁についていき、写真を撮ったり漁などの手伝いをしたりしながら3ヶ月間を過ごす。帰国してから指導教官にアラスカでのレポートを提出し、なんとか卒業単位を取ることができたという。",
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"text": "慶大卒業後、動物写真家である田中光常の助手として写真の技術を学ぶはずだったが、助手としてはカメラの設置や掃除・事務所の留守番などの雑用ばかりで、2年間で職を辞した。",
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"text": "1978年、アラスカ大学フェアバンクス校の入試を受けた。入試では、英語(英会話)の合格点には30点足りなかったが、学長に直談判して野生動物管理学部に入学した。その後、アラスカを中心にカリブーやグリズリーなど野生の動植物や、そこで生活する人々の魅力的な写真を撮影した。しかしアラスカ大学の方は結局中退してしまう。1989年には『Alaska 極北・生命の地図』で第15回木村伊兵衛写真賞を受賞する。1993年、萩谷直子と結婚。翌1994年、長男・翔馬が誕生。",
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"text": "1996年8月8日の午前4時頃、TBSテレビ番組『どうぶつ奇想天外!』取材のため滞在していたロシアのカムチャツカ半島南部のクリル湖畔に設営したテントでヒグマに襲われて死亡した。43歳没。この事故については、星野の友人たちやクマを専門とする研究者によって行われた検証によって、地元テレビ局のオーナーに餌付けされたことで人間への警戒心が薄くなっていた個体であったことが明らかにされた。なお、昼間にテントの入り口から入ろうとするヒグマの写真が星野道夫が最期に撮影したものとして出回っているが、襲撃は深夜のことであり偽物である。",
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"text": "以下の事件の経緯はTBSが作成した「遭難報告書」によるものである。",
"title": "ヒグマ襲撃事件"
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"text": "1996年7月25日、TBSの人気動物番組『どうぶつ奇想天外!』の撮影の為、同地を訪れた。今回は星野の持ち込み企画で、「ヒグマと鮭(サケ)」をテーマに撮影する予定で、星野の他にTBSスタッフ3名とロシア人ガイド2名が同行していた。小屋には取材班とガイドの5名が泊まり、星野はそこから数m程離れた所にテントを張り、1人でそこに泊まることにした。その時小屋の食糧がヒグマにあさられていた形跡をガイドが発見している。",
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"text": "7月27日、別のアメリカ人写真家が現地を訪れ、星野のテント近くにテントを張ったが、その夜、写真家は金属音で目が覚めた。外に出ると小屋の食糧庫にヒグマがよじ登り、飛び跳ねていた。ヒグマは体長2 m超・体重250 kgはある巨大な雄クマで、額に特徴的な赤い傷があった。アメリカ人写真家が大声を出して手を叩くとヒグマは跳ねるのを止め地面に降りると、今度は星野のテント後方に周りはじめた。その最中、星野がテントから顔を出したので、写真家は「あなたのテントから3 mにヒグマがいる」と警告した。星野は「どこ?」と返す。「すぐそこ。ガイドを呼ぼうか?」と写真家が聞くと「うん呼んで」と答えたので、写真家は小屋のドアを叩いてヒグマが出たとガイドに告げた。小屋から出てきたガイドは鍋を叩き鳴らしながら近づき、7-8 mあたりでクマ除けスプレー(以下スプレーと略)をヒグマに向けて噴射したが、ヒグマには届かなかった。なお、同地は自然保護区のため銃の所持・使用は禁止されている。その後もスプレーを掛けようとガイドは悪戦苦闘するが上手くいかず、やがてヒグマはテントから離れていった。",
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"text": "このため、ガイドたちは星野に小屋で寝るよう説得したが、星野は「この時期はサケが川を上って食べ物が豊富だから、ヒグマは襲ってこない」として取り合わなかった。一方でアメリカ人写真家は身の危険を感じ、近くの鮭観察タワーに宿泊した。",
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"text": "8月1日、環境保護団体のグループが訪れ同地でキャンプをしたが、靴をヒグマに持ち去られたり、写真家が不在だった鮭観察タワーに泊まった1人は、一晩中タワーによじ登ろうとするヒグマに怯え眠れなかったという。",
"title": "ヒグマ襲撃事件"
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"text": "8月6日夜、再度星野のテント近くにヒグマが現れて、ガイドがスプレーで追い払った。ガイドは再び強く小屋への移動を勧めたが、星野はこの時も聞き入れなかったという。",
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"text": "8月8日の深夜4時頃、星野の悲鳴とヒグマのうなり声が暗闇のキャンプ場に響き渡った。小屋から出てきたTBSスタッフは「テント!ベアー!ベアー!」とガイドに叫んだ。ガイドが懐中電灯で照らすとヒグマが星野を咥えて森へ引きずっていく姿が見えた。ガイドたちは大声をあげシャベルをガンガン叩いたが、ヒグマは一度頭をあげただけで、そのまま森へ消えていった。テントはひしゃげていてポール(支柱)は折れ、星野の寝袋は切り裂かれていた。ガイドが無線で救助を要請し、ヘリコプターで到着した捜索隊は上空からヒグマを捜索し、発見すると射殺した。星野の遺体は森の中でヒグマに喰い荒らされた姿で発見された。",
"title": "ヒグマ襲撃事件"
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"text": "星野は「野生のヒグマは遡上する鮭の多いこの季節に人を襲わない」との考えからテントに泊まり続けた。その知識は基本的には間違いではないが、今回星野を襲ったのは地元テレビ局の社長によって餌付けされていたヒグマで、人間のもたらす食糧の味を知っている個体であった。さらにこの年は鮭の遡上が遅れ気味で、食糧が不足していた。死の直前まで撮影された星野の映像は遺族の意向もあり、「極東ロシアヒグマ王国~写真家・星野道夫氏をしのんで~」と題し、後日放送された。",
"title": "ヒグマ襲撃事件"
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"text": "1997年、龍村仁監督による映画『地球交響曲第3番』の第1部に「星野道夫編」として取り上げられる(第2部はフリーマン・ダイソン編、第3部はナイノア・トンプソン編)。なお星野は元々出演予定だったが、事故を踏まえ星野の追悼を主題とし、その足跡を辿りながら星野と交流のあった人を紹介している。",
"title": "死後"
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"text": "2003年、三省堂出版の高等学校向け文部科学省検定済教科書『CROWN ENGLISH SERIES I』にエッセイ「16歳の時(英題:When I was sixteen)」が掲載される。また2006年には、桐原書店出版の高校向け文部科学省検定済教科書『PRO-VISION ENGLISH COURSE II』に偉人の一人として掲載される。",
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"text": "2006年7月24日、NHKにて『ハイビジョン特集 アラスカ 星のような物語〜写真家・星野道夫 大地との対話〜』が放映された。",
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"text": "2016年8月より、「没後20年 特別展 星野道夫の旅」と題した写真展が開催されている。この巡回展は2018年夏頃まで、全国を巡回して行われる予定である。写真展示のほか、星野道夫が使用していたカメラやカヌーなどの愛用品の展示も行われている。",
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"text": "2018年1月11日にNHK BS1の『BS1スペシャル』にて『父と子のアラスカ〜星野道夫 生命(いのち)の旅〜』が放映された。",
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"text": "随筆のみの著書が多数出版されている。代表的な写真作品の一部は、富士フイルムのウェブ写真美術館に展示され鑑賞することができる。",
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] | 星野 道夫は、日本の写真家、探検家、詩人。千葉県市川市出身。ヒグマの食害に遭い死去した。 アラスカの野生動物、自然、人々を撮影した。厳しい自然の中で動物が生きる姿、人間の生活、命の尊さを綴ったエッセイも執筆。著書に『アラスカ 光と風』(1986年)、『旅をする木』(1994年)など。 | {{画像提供依頼|顔写真|date=2022年10月|cat=人物}}
{{Infobox 写真家
| 名前 = 星野 道夫
| ふりがな = ほしの みちお
| 画像 =
| キャプション =
| 本名 = 星野 道夫
| 国籍 =
| 生年月日 = [[1952年]][[9月27日]]<br/>{{JPN}}・[[千葉県]][[市川市]]
| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1952|09|27|1996|08|08}}<br/>{{RUS}}・[[カムチャツカ地方]]クリル湖畔
| 出身地 =
| 血液型 =
| 身長 =
| 言語 = [[日本語]]
| 最終学歴 = [[慶應義塾大学]][[経済学部]]卒業<br/>[[アラスカ大学フェアバンクス校]][[野生動物管理]]学部中退
| 師匠 = ([[田中光常]])
| 出身 =
| グループ名 =
| 撮影スタイル =
| 使用カメラ =
| 事務所 =
| 活動時期 = [[1973年]] - [[1996年]]
| 同期 =
| 作品 = 『GRIZZLY アラスカの王者』(1985年)<br/>『アラスカ 光と風』(1986年)<br/>『MOOSE』(1988年)<br/>『アラスカ 極北・生命の地図』(1990年)<br/>『Alaska 風のような物語』(1991年)<br/>『イニュニック〔生命〕』(1993年)<br/>『アークティック・オデッセイ』(1994年)
| 他の活動 = [[探検家]]、[[詩人]]
| 弟子 =
| 公式サイト = https://michio-hoshino.com
| 受賞歴 = 第3回アニマ賞(1986年)<br/>第15回[[木村伊兵衛写真賞]](1989年)<br/>日本写真協会賞特別賞(1999年)<br/>市川市名誉市民(2004年)<ref>{{Cite web|和書|title=市川市名誉市民・市民栄誉賞|website=市川市|url=https://www.city.ichikawa.lg.jp/pla03/1111000006.html|accessdate=2022-08-10}}</ref>
}}
'''星野 道夫'''(ほしの みちお、[[1952年]]([[昭和]]27年)[[5月27日|9月27日]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.michio-hoshino.com/profile/ |title=プロフィール |publisher=星野道夫事務所公式サイト |accessdate=2022-4-16}}</ref> - [[1996年]]([[平成]]8年)[[8月8日]])は、[[日本]]の[[写真家]]、[[探検家]]、[[詩人]]。[[千葉県]][[市川市]]出身。[[ヒグマ]]の[[食害]]に遭い死去した。
アラスカの野生動物、自然、人々を撮影した。厳しい自然の中で動物が生きる姿、人間の生活、命の尊さを綴ったエッセイも執筆。著書に『アラスカ 光と風』(1986年)、『旅をする木』(1994年)など。
== 生涯 ==
{{出典の明記|date=2018年10月15日 (月) 03:10 (UTC)|section=1}}
千葉県市川市に生まれ、少年時代を同市で過ごす。通い始めた学習塾を1日で辞めたこともあった。実家には今も、通っていた[[市川市立平田小学校]]から児童がインタビューのために訪れることがある。
[[慶應義塾高等学校]]在学中に北米大陸への旅行を計画し、[[地下鉄]]工事等さまざまな[[アルバイト]]をして旅費を貯め、父の理解と援助を得て、[[1968年]]に16歳のとき、約2ヶ月間の冒険の旅に出た。その時の様子は[[エッセイ]]「16歳の時」にまとめられている{{Full citation needed |date=2019-03-20 |title=刊行年、発行元、ページ番号の記載がない。}}。同高卒業後、[[慶應義塾大学]][[経済学部]]へ進学。大学時代は探検部で活動し、[[熱気球]]による[[琵琶湖]]横断や最長飛行記録に挑戦した。19歳のとき、[[神田 (千代田区)|神田]]の洋書専門店で購入した[[アラスカ州|アラスカ]]の写真集を見て、同書に掲載されていた[[シシュマレフ (アラスカ州)|シシュマレフ]]を訪問したいと村長に手紙を送ってみたところ、半年後に村長本人から訪問を歓迎する旨の返事がきた。そこで翌年の夏、日本から何回も航空機を乗り継いでシシュマレフに渡航する。現地で[[ホームステイ]]をしながら[[クジラ目|クジラ]]漁についていき、写真を撮ったり漁などの手伝いをしたりしながら3ヶ月間を過ごす。帰国してから指導教官にアラスカでのレポートを提出し、なんとか卒業単位を取ることができたという。
慶大卒業後、動物写真家である[[田中光常]]の助手として写真の技術を学ぶはずだったが、助手としてはカメラの設置や掃除・事務所の留守番などの雑用ばかりで、2年間で職を辞した。
[[1978年]]、[[アラスカ大学フェアバンクス校]]の入試を受けた。入試では、英語(英会話)の合格点には30点足りなかったが、学長に直談判して[[野生動物管理学]]部に入学した。その後、アラスカを中心に[[トナカイ|カリブー]]や[[ハイイログマ|グリズリー]]など野生の動植物や、そこで生活する人々の魅力的な写真を撮影した。しかしアラスカ大学の方は結局中退してしまう。[[1989年]]には『Alaska 極北・生命の地図』で第15回[[木村伊兵衛写真賞]]を受賞する。[[1993年]]、萩谷直子と結婚。翌[[1994年]]、長男・翔馬が誕生。
[[1996年]]8月8日の午前4時頃、[[TBSテレビ|TBS]]テレビ番組『[[どうぶつ奇想天外!]]』取材のため滞在していた[[ロシア]]の[[カムチャツカ半島]]南部の[[クリル湖]]畔に設営した[[テント]]で[[ヒグマ]]に襲われて死亡した。43歳没。この事故については、星野の友人たちやクマを専門とする研究者によって行われた検証によって、地元テレビ局のオーナーに餌付けされたことで人間への警戒心が薄くなっていた個体であったことが明らかにされた<ref>[[小坂洋右]]、[[大山卓悠]]『星野道夫・永遠のまなざし』[[山と渓谷社]]、2006年。{{要ページ番号|date=2018-10-15}}</ref>。なお、昼間に[[テント]]の入り口から入ろうとするヒグマの写真が星野道夫が最期に撮影したものとして出回っているが、襲撃は深夜のことであり偽物である。
== ヒグマ襲撃事件 ==
以下の事件の経緯はTBSが作成した「遭難報告書」によるものである<ref>[[木村盛武]]『ヒグマそこが知りたい―理解と予防のための10章』共同文化社、2001年。{{要ページ番号|date=2018-10-15}}</ref>。
1996年7月25日、TBSの人気動物番組『[[どうぶつ奇想天外!]]』の撮影の為、同地を訪れた。今回は星野の持ち込み企画で、「ヒグマと[[サケ|鮭(サケ)]]」をテーマに撮影する予定で、星野の他にTBSスタッフ3名とロシア人ガイド2名が同行していた。小屋には取材班とガイドの5名が泊まり、星野はそこから数m程離れた所にテントを張り、1人でそこに泊まることにした。その時小屋の食糧がヒグマにあさられていた形跡をガイドが発見している。
7月27日、別のアメリカ人写真家が現地を訪れ、星野のテント近くにテントを張ったが、その夜、写真家は金属音で目が覚めた。外に出ると小屋の食糧庫にヒグマがよじ登り、飛び跳ねていた。ヒグマは体長2 [[メートル|m]]超・体重250 [[キログラム|kg]]はある巨大な雄クマで、額に特徴的な赤い傷があった。アメリカ人写真家が大声を出して手を叩くとヒグマは跳ねるのを止め地面に降りると、今度は星野のテント後方に周りはじめた。その最中、星野がテントから顔を出したので、写真家は「あなたのテントから3 mにヒグマがいる」と警告した。星野は「どこ?」と返す。「すぐそこ。ガイドを呼ぼうか?」と写真家が聞くと「うん呼んで」と答えたので、写真家は小屋のドアを叩いてヒグマが出たとガイドに告げた。小屋から出てきたガイドは鍋を叩き鳴らしながら近づき、7-8 mあたりでクマ除けスプレー(以下スプレーと略)をヒグマに向けて噴射したが、ヒグマには届かなかった。なお、同地は自然保護区のため銃の所持・使用は禁止されている。その後もスプレーを掛けようとガイドは悪戦苦闘するが上手くいかず、やがてヒグマはテントから離れていった。
このため、ガイドたちは星野に小屋で寝るよう説得したが、星野は「この時期はサケが川を上って食べ物が豊富だから、ヒグマは襲ってこない」として取り合わなかった。一方でアメリカ人写真家は身の危険を感じ、近くの鮭観察タワーに宿泊した。
8月1日、環境保護団体のグループが訪れ同地でキャンプをしたが、靴をヒグマに持ち去られたり、写真家が不在だった鮭観察タワーに泊まった1人は、一晩中タワーによじ登ろうとするヒグマに怯え眠れなかったという。
8月6日夜、再度星野のテント近くにヒグマが現れて、ガイドがスプレーで追い払った。ガイドは再び強く小屋への移動を勧めたが、星野はこの時も聞き入れなかったという。
8月8日の深夜4時頃、星野の悲鳴とヒグマのうなり声が暗闇のキャンプ場に響き渡った。小屋から出てきたTBSスタッフは「テント!ベアー!ベアー!」とガイドに叫んだ。ガイドが懐中電灯で照らすとヒグマが星野を咥えて森へ引きずっていく姿が見えた。ガイドたちは大声をあげシャベルをガンガン叩いたが、ヒグマは一度頭をあげただけで、そのまま森へ消えていった。テントはひしゃげていてポール(支柱)は折れ、星野の[[寝袋]]は切り裂かれていた。ガイドが無線で救助を要請し、ヘリコプターで到着した捜索隊は上空からヒグマを捜索し、発見すると射殺した。星野の遺体は森の中でヒグマに喰い荒らされた姿で発見された。
星野は「野生のヒグマは遡上する鮭の多いこの季節に人を襲わない」との考えからテントに泊まり続けた。その知識は基本的には間違いではないが、今回星野を襲ったのは地元テレビ局の社長によって餌付けされていたヒグマで、人間のもたらす食糧の味を知っている個体であった。さらにこの年は鮭の遡上が遅れ気味で、食糧が不足していた。死の直前まで撮影された星野の映像は遺族の意向もあり、「極東ロシアヒグマ王国~写真家・星野道夫氏をしのんで~」と題し、後日放送された。
== 死後 ==
[[1997年]]、[[龍村仁]]監督による映画『[[地球交響曲]]第3番』の第1部に「星野道夫編」として取り上げられる(第2部は[[フリーマン・ダイソン]]編、第3部は[[ナイノア・トンプソン]]編)。なお星野は元々出演予定だったが、事故を踏まえ星野の追悼を主題とし、その足跡を辿りながら星野と交流のあった人を紹介している。
[[2003年]]、[[三省堂]]出版の[[高等学校]]向け[[文部科学省検定済教科書]]『CROWN ENGLISH SERIES I』にエッセイ「16歳の時(英題:When I was sixteen)」が掲載される。また[[2006年]]には、[[桐原書店]]出版の高校向け文部科学省検定済教科書『PRO-VISION ENGLISH COURSE Ⅱ』に[[偉人]]の一人として掲載される。
[[2006年]][[7月24日]]、[[日本放送協会|NHK]]にて『[[ハイビジョン特集]] アラスカ 星のような物語〜写真家・星野道夫 大地との対話〜』が放映された。
[[2016年]]8月より、「没後20年 特別展 星野道夫の旅」と題した写真展が開催されている。この巡回展は2018年夏頃まで、全国を巡回して行われる予定である。写真展示のほか、星野道夫が使用していたカメラやカヌーなどの愛用品の展示も行われている<ref>[http://www.michio-hoshino.com/info.html#photo201606 写真展情報 没後20年 特別展 星野道夫の旅(全国巡回展)](最終閲覧日2017年6月11日)</ref>。
[[2018年]][[1月11日]]に[[NHK BS1]]の『[[BS1スペシャル]]』にて『父と子のアラスカ〜星野道夫 生命(いのち)の旅〜』が放映された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nhk.or.jp/docudocu/program/2443/3115268/index.html|title=NHKドキュメンタリー - BS1スペシャル「父と子のアラスカ~星野道夫 生命(いのち)の旅~」|publisher=NHK|accessdate=2018-10-15}}</ref>。
== 作品 ==
[[随筆]]のみの著書が多数出版されている。代表的な写真作品の一部は、富士フイルムのウェブ写真美術館に展示され鑑賞することができる{{要出典|date=2021年6月27日}}。
=== 写真集 ===
*GRIZZLY([[平凡社]] 1985年)
*Alaska 極北・生命の地図([[朝日新聞社]] 1990年)
*ALASKA 風のような物語([[小学館]] 1991年)
*アークティック・オデッセイ([[新潮社]] 1994年)
*GOMBE([[メディアファクトリー]] 1997年)
*星野道夫の仕事〔全4巻〕(朝日新聞社 1998年 - 1999年)
=== 随筆 ===
*アラスカ 光と風([[六興出版]] 1986年)
*イニュニック[生命](新潮社 1993年)
*旅をする木([[文藝春秋]] 1994年)
*森と氷河と鯨-ワタリガラスの伝説を求めて([[世界文化社]] 1996年)
*ノーザンライツ(新潮社 1997年)
*長い旅の途上 [遺稿集](文藝春秋 1999年)
=== 写真絵本 ===
*アラスカたんけん記([[福音館書店]] 1990年)
*ナヌークの贈りもの(小学館 1996年)
*森へ(福音館書店 1996年)小学校の教科書にも載っている作品
*クマよ(福音館書店 1999年)
=== その他 ===
*表現者 (星野道夫、松家仁之、大谷映芳、他 著 [[スイッチ・パブリッシング]] 1998年)
*魔法のことば [講演集] (スイッチ・パブリッシング 2003年)
*星野道夫著作集 1~5 (新潮社 2003年)
*星野道夫と見た風景(星野道夫・星野直子 著 新潮社 2005年)
*終わりのない旅 星野道夫インタヴュー ([[湯川豊]] 著 スイッチ・パブリッシング 2006年)
== 関連書籍 ==
*Switch Vol.12 No.3『星野道夫 狩猟の匂いを我々は嗅ぐことができるか』(スイッチ・パブリッシング 1994年)
*Switch Vol.15 No.1『星野道夫 種から植える花 旅をする人』(スイッチ・パブリッシング 1997年)
*Switch Vol.17 No.1『星野道夫 星を継ぐ者たち』(スイッチ・パブリッシング 1999年)
*旅をした人 星野道夫の生と死 (池澤夏樹 著 スイッチ・パブリッシング 2000年)
*星野道夫物語―アラスカの呼び声 (国松俊英 著 [[ポプラ社]] 2003年)
*ブルーベア (Lynn Schooler 原著・[[永井淳]] 訳 [[集英社]] 2003年)
*COYOTE No.2『特集 星野道夫 ぼくはこのような本を読んで旅に出かけた』(スイッチ・パブリッシング 2004年)
*星野道夫 永遠のまなざし (小坂洋右・大山卓悠 著 [[山と渓谷社]] 2006年)
*COYOTE No.16『特集 トーテムポールを立てる[見えないものに価値を置く世界]』(スイッチ・パブリッシング 2007年)
*COYOTE No.34『特集 たったひとりのアラスカ』(スイッチ・パブリッシング 2008年)
*[[教育出版]]「中学国語2」(中学検定教科書) - 『長い旅の途上』より『悠久の自然』掲載。
*[[三省堂]]「CROWN1」(高校検定教科書) - Lesson2でアラスカに行った時のことが本文として使われている。
*[[中井貴惠]]『ニューイングランド物語 信号三つの町に暮らして』 角川書店〈角川文庫〉、1997年2月
*中井貴恵『ピリカ コタン―北の大地からのラブレター』 角川書店〈角川文庫〉、2000年4月
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
*[[ティモシー・トレッドウェル#死|ティモシー・トレッドウェル]]
== 外部リンク ==
*[http://michio-hoshino.com/ 星野道夫公式サイト]
*{{NHK人物録|D0009072247_00000}}
{{-}}
{{Normdaten}}
{{リダイレクトの所属カテゴリ
|header=この記事は以下のカテゴリからも参照できます
|redirect1=星野道夫ヒグマ襲撃事件
|1-1=熊害
|1-2=TBSの歴史
|1-3=1996年のロシア
|1-4=1996年8月
}}
{{デフォルトソート:ほしの みちお}}
[[Category:20世紀日本の写真家]]
[[Category:野生生物の芸術家]]
[[Category:20世紀日本の探検家]]
[[Category:北極探検家]]
[[Category:20世紀日本の詩人]]
[[Category:木村伊兵衛写真賞受賞者]]
[[Category:慶應義塾高等学校出身の人物]]
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[[Category:1996年没]] | 2003-05-16T15:23:04Z | 2023-11-23T15:34:09Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%9F%E9%87%8E%E9%81%93%E5%A4%AB |
8,365 | 電圧計 | 電圧計(でんあつけい、英語: voltmeter)は、ある2点間の電位差を測る電気計器である。
デジタル電圧計や自動車、オートバイに搭載される電圧計も、この項目で説明する。
内部電気抵抗の大きな測定器であり、測定する回路の2点間に並列に接続する。
直流の場合、電流制限用の大きな抵抗と可動コイル形計器を接続し、流れる微小な電流でムービング・コイル(電磁石)を動かして電圧を測る。
測定範囲の拡大のために、直流では倍率器が、交流では計器用変圧器が利用される。
また、交流の測定にあたっては整流器と直流用計器を組み合わせたもので測定される。
基本的な構造は電流計と同じであるが、回路上に電気抵抗があるため定電流が流れるとオームの法則により求められた電圧を検針可能な構造となっている。右に可動コイル型の図を示す。構成部品は永久磁石、コイル、指針となっている。さらにその下の図は可動鉄片形で構成部品は可動鉄片、固定鉄片、指針となる。
直流においての電圧を測定するのに使用される。構造は可動コイル型 (Moving-Coil Type) であり永久磁石およびコイルで構成される。また、振れ角は電流に比例するので目盛り平等目盛りとなる。
構造は可動鉄片形 (Moving-iron Type) であり、非常に簡単、堅牢、安価で商用電源周波数程度 (45 - 65Hz) の交流電圧を測定するのに広く使用されている。本来は実効値の2乗で針が振れるが固定鉄片の形を改良することにより、定格の10 - 20%以上はほぼ平等目盛りとすることができる(写真の目盛りの始まり付近のことである)。
構造的には電力計と同様だが内部配線が異なる。原理的には直流から商用周波数程度(DC - 1000Hzまで可能なものも)である。
二つの金属板に加えられた電圧により力が生じることによって指示する。低電圧の場合金属板に生じるトルクが小さいので、もっぱら高電圧 (1 - 500kV) で使用される。
熱電形電圧計は15 - 150Vまでが製品化されている。
交流電圧の実効値を広い周波数帯域及び広い電圧の範囲を測ることができる装置である。バルボルとは真空管電圧計(vacuum tube voltmeter, VTVM)の俗称である。またミリバルはミリボルト・バルボルの俗称で、微小電圧測定のための測定器である。
ここでは汎用の16bit ADCを例にあげ解説する。IC内部には入力マルチプレクサ(MUX)、プログラマブルゲインアンプ(PGA)、アナログ-デジタル変換回路(ADC)とそれらを制御しマイコン(MCU)などとの通信をつかさどる制御通信部からなる。下記にMCUによる電圧値取得の例を書く。ピンの割り当てやリファレンス電圧、PGAの設定、サンプルレートなどを指定した後に電圧値を1秒ごとにコンピュータに送信するソフトウェアである。
表示部をLCDや7セグメントディスプレイに置き換えればデジタルパネルメータとして仕上げることも可能になる。
倍率器(ばいりつき,Multiplier)は直流電圧計の測定範囲拡大に使われる抵抗器で、電圧計に直列に挿入する。直列抵抗器とも呼ばれる。
自動車やオートバイの一部には、蓄電池性能監視のためにメーターパネル内などに電圧をデジタルまたはアナログメーターによって指示したり、「正常」「不足」「要点検」などの抽象的な表示を行う電圧計を備えた車種も存在しているが、パネル計器としての精度しかなく警告灯で代用するものが多い。 | [
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"text": "電圧計(でんあつけい、英語: voltmeter)は、ある2点間の電位差を測る電気計器である。",
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"text": "デジタル電圧計や自動車、オートバイに搭載される電圧計も、この項目で説明する。",
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"text": "内部電気抵抗の大きな測定器であり、測定する回路の2点間に並列に接続する。",
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"text": "基本的な構造は電流計と同じであるが、回路上に電気抵抗があるため定電流が流れるとオームの法則により求められた電圧を検針可能な構造となっている。右に可動コイル型の図を示す。構成部品は永久磁石、コイル、指針となっている。さらにその下の図は可動鉄片形で構成部品は可動鉄片、固定鉄片、指針となる。",
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"text": "直流においての電圧を測定するのに使用される。構造は可動コイル型 (Moving-Coil Type) であり永久磁石およびコイルで構成される。また、振れ角は電流に比例するので目盛り平等目盛りとなる。",
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"text": "構造は可動鉄片形 (Moving-iron Type) であり、非常に簡単、堅牢、安価で商用電源周波数程度 (45 - 65Hz) の交流電圧を測定するのに広く使用されている。本来は実効値の2乗で針が振れるが固定鉄片の形を改良することにより、定格の10 - 20%以上はほぼ平等目盛りとすることができる(写真の目盛りの始まり付近のことである)。",
"title": "アナログ電圧計"
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"text": "構造的には電力計と同様だが内部配線が異なる。原理的には直流から商用周波数程度(DC - 1000Hzまで可能なものも)である。",
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"title": "アナログ電圧計"
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"text": "ここでは汎用の16bit ADCを例にあげ解説する。IC内部には入力マルチプレクサ(MUX)、プログラマブルゲインアンプ(PGA)、アナログ-デジタル変換回路(ADC)とそれらを制御しマイコン(MCU)などとの通信をつかさどる制御通信部からなる。下記にMCUによる電圧値取得の例を書く。ピンの割り当てやリファレンス電圧、PGAの設定、サンプルレートなどを指定した後に電圧値を1秒ごとにコンピュータに送信するソフトウェアである。",
"title": "デジタル電圧計"
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"text": "倍率器(ばいりつき,Multiplier)は直流電圧計の測定範囲拡大に使われる抵抗器で、電圧計に直列に挿入する。直列抵抗器とも呼ばれる。",
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"text": "自動車やオートバイの一部には、蓄電池性能監視のためにメーターパネル内などに電圧をデジタルまたはアナログメーターによって指示したり、「正常」「不足」「要点検」などの抽象的な表示を行う電圧計を備えた車種も存在しているが、パネル計器としての精度しかなく警告灯で代用するものが多い。",
"title": "自動車・オートバイにおける電圧計"
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] | 電圧計は、ある2点間の電位差を測る電気計器である。 デジタル電圧計や自動車、オートバイに搭載される電圧計も、この項目で説明する。 | '''電圧計'''(でんあつけい、{{lang-en|voltmeter}})は、ある2点間の[[電位差]]を測る[[電気計器]]である。
デジタル電圧計や[[自動車]]、[[オートバイ]]に搭載される電圧計も、この項目で説明する。
[[File:Hewlett-Packard_Company_Digital_Voltmeter_3456A.jpg|thumb|300px|ヒューレットパッカード社の電圧計]]
== 使用方法・接続方法 ==
内部[[電気抵抗]]の大きな測定器であり、測定する回路の2点間に[[並列回路|並列]]に接続する。
[[直流]]の場合、電流制限用の大きな抵抗と[[指示電気計器|可動コイル形計器]]を接続し、流れる微小な[[電流]]で[[ムービング・コイル]]([[電磁石]])を動かして[[電圧]]を測る。
測定範囲の拡大のために、直流では[[抵抗器#直列抵抗器(倍率器)|倍率器]]が、[[交流]]では[[計器用変成器#計器用変圧器|計器用変圧器]]が利用される。
また、交流の測定にあたっては[[整流器]]と直流用計器を組み合わせたもので測定される。
== アナログ電圧計 ==
=== 内部構造 ===
[[File:D.C.VOLTMETER(OPEN).JPG|thumb|100px|可動コイル形]]
[[File:A.C.VOLTMETER(OPEN).JPG|thumb|100px|可動鉄片形]]
基本的な構造は[[電流計]]と同じであるが、回路上に[[電気抵抗]]があるため定電流が流れると[[オームの法則]]により求められた電圧を検針可能な構造となっている。右に可動コイル型の図を示す。構成部品は[[永久磁石]]、[[コイル]]、指針となっている。さらにその下の図は可動鉄片形で構成部品は可動鉄片、固定鉄片、指針となる。
=== 直流電圧計 ===
[[File:D.C.VOLTMETER.JPG|thumb|100px|直流電圧計]]
直流においての電圧を測定するのに使用される。構造は可動コイル型 (Moving-Coil Type) であり永久磁石およびコイルで構成される。また、振れ角は電流に比例するので目盛り平等目盛りとなる。
=== 交流電圧計 ===
[[File:A.C.VOLTMETER.JPG|thumb|100px|交流電圧計]]
構造は可動鉄片形 (Moving-iron Type) であり、非常に簡単、堅牢、安価で[[商用電源]]周波数程度 (45 - 65Hz) の交流電圧を測定するのに広く使用されている。本来は実効値の2乗で針が振れるが固定鉄片の形を改良することにより、定格の10 - 20%以上はほぼ平等目盛りとすることができる(写真の目盛りの始まり付近のことである)。
=== 電流力計型電圧計 ===
構造的には電力計と同様だが内部配線が異なる。原理的には直流から商用周波数程度(DC - 1000Hzまで可能なものも)である。
=== 静電電圧計 ===
二つの金属板に加えられた電圧により力が生じることによって指示する。低電圧の場合金属板に生じる[[トルク]]が小さいので、もっぱら高電圧 (1 - 500kV) で使用される。
=== 熱電形電圧計 ===
熱電形電圧計は15 - 150Vまでが製品化されている。<!--→熱電形*[[電流計]]-->
=== 電子電圧計(バルボル、ミリバル) ===
[[File:HP RMS Voltmeter 3400A.jpg|thumb|100px|電子電圧計]]
交流電圧の[[実効値]]を広い周波数帯域及び広い電圧の範囲を測ることができる装置である。バルボルとは[[真空管]]電圧計(vacuum tube voltmeter, VTVM)の俗称である<ref>電圧計の[[測定誤差]]を少なくするために、入力電圧を精密抵抗器による[[分圧回路|分圧]]の後に真空管陽極接地増幅器(cathode follower amplifier)で受けて入力[[インピーダンス]]を大きくしていた。現在は真空管でなく[[半導体素子]]が使用されている。(中林忠志 『オーディオ用測定器 : 解説と製作』、第2章 真空管電圧計 p.19)</ref>。またミリバルはミリボルト・バルボルの俗称で、微小電圧測定のための測定器である。
== デジタル電圧計 ==
[[File:ADC_and_MCU_diagram.png|thumb|300px|right|SPIバスでの接続の例]]
ここでは汎用の16bit ADCを例にあげ解説する。IC内部には入力[[マルチプレクサ]](MUX)、プログラマブルゲインアンプ(PGA)、[[アナログ-デジタル変換回路]](ADC)とそれらを制御し[[マイコン]](MCU)などとの通信をつかさどる制御通信部からなる。下記にMCUによる電圧値取得の例を書く。ピンの割り当てやリファレンス電圧、PGAの設定、サンプルレートなどを指定した後に電圧値を1秒ごとにコンピュータに送信するソフトウェアである。
<syntaxhighlight lang="c">
SPI spi(p5, p6, p7); // mosi(out), miso(in), sclk(clock)
DigitalOut cs(p8); // cs (the chip select signal)
Serial pc(USBTX, USBRX);
int main() {
spi.format(8,1); //(bits, mode) (mode1 (CPOL=0, CPHA=1)
spi.frequency(1000000); //1MHz
wait_ms(20);//Delay for minimum of 16ms to allow power supplies to settle and power-on reset to complete.
cs = 0;// Select the device by seting chip select low
wait_ms(1);//Delay for minimum of tsccs(=10ns)
spi.write(0x06);//reset
wait_ms(1);//Delay for minimum of 0.6ms
spi.write(0x16);//SDATAC: Stop read data continuous mode.
wait_ms(1);
//WREG: Write to register rrrr
spi.write(0x40);//WREG, MUX0
spi.write(0x00);//
spi.write(0x01);//AIN0 = + , AIN1 = -
wait_ms(1);
spi.write(0x42);//System Control Register0
spi.write(0x00);//
spi.write(0x30);//Internal Reference is always on. & Internal Reference selected.
wait_ms(1);
spi.write(0x43);//System Control Register0
spi.write(0x00);//
spi.write(0x12);//PGA=2, Data Output Rate = 20SPS
wait_ms(1);
spi.write(0x04);//SYNC: Synchronize ADC conversions.
wait_ms(1);
cs = 1;
while(1) {
cs = 0;
spi.write(0x12);//RDATA: Read data once.
wait_ms(1);
unsigned char Volt_hex1 = spi.write(0xff);
unsigned char Volt_hex2 = spi.write(0xff);
unsigned short Volt_hex = (Volt_hex1 << 8) | Volt_hex2;
float Volt = (float)Volt_hex / 0x7fff; //0 ~ 1.024V
cs= 1;
pc.printf("%f\r", Volt);
wait(1);
}
}
</syntaxhighlight>
表示部を[[LCD]]や[[7セグメントディスプレイ]]に置き換えればデジタルパネルメータとして仕上げることも可能になる。
== 倍率器 ==
[[File:Potential Divider.JPG|thumb|100px|マンガニン抵抗による倍率器]]
{{main|倍率器}}
'''倍率器'''(ばいりつき,Multiplier)は[[直流]]電圧計の測定範囲拡大に使われる[[抵抗器]]で、電圧計に直列に挿入する。直列抵抗器とも呼ばれる。
== 自動車・オートバイにおける電圧計 ==
[[File:Maserati 4200 Coupe GranSport - Flickr - The Car Spy (5).jpg|thumb|電圧計を装備した自動車の計器周り([[マセラティ]])]]
自動車やオートバイの一部には、[[蓄電池]]性能監視のためにメーターパネル内などに電圧をデジタルまたはアナログメーターによって指示したり、「正常」「不足」「要点検」などの抽象的な表示を行う電圧計を備えた車種も存在しているが、パネル計器としての精度しかなく警告灯で代用するものが多い。<!--修正したが、いい加減な内容なのでコメントアウト。そもそもこのようなセクションが必要とは思えない。指針による表示では、12V電装の車種では指針上限が16V、中央部分が12V、指針下限が8V程度、6V電装車の場合は指針上限が9V、中央部分が6V、指針下限が3V程度を示している事がある。なお、[[アクセサリーソケット]]に接続する電圧計は正確性に劣る。-->
== 関連項目 ==
* [[指示電気計器]]
* [[回路計]]
* [[電流計]]
* [[電力計]]
* [[制御盤]]
* [[電位差計]]
* [[絶縁抵抗計]]
* [[検電器]]
* [[分圧回路]]
==参考文献==
* {{Cite |和書
|author = 西野治
|title = 電気計測
|date = 1958
|publisher = [[コロナ社 (出版社)|コロナ社]]
|isbn = 978-4-339-00161-7
|ref = harv }}
* {{Cite |和書
|author = 中林忠志
|title = オーディオ用測定器 : 解説と製作
|date = 1964
|publisher = [[誠文堂新光社]]([[無線と実験]]シリーズ)
|isbn =
|ref = harv }}
* {{Cite |和書
|author = 三好正二
|title = 基礎テキスト 電気・電子計測
|date = 1995
|publisher = [[東京電機大学出版局]]
|isbn = 4-501-10670-0
|ref = harv }}
== 注・出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
{{Commonscat|Voltmeters}}
{{電気電子計測機器}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:てんあつけい}}
[[Category:電気・電子計測機器]] | null | 2022-10-23T16:23:59Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E5%9C%A7%E8%A8%88 |
8,366 | 金属元素 | 金属元素(きんぞくげんそ)は、金属の性質を示す元素のグループである。周期表の第1族~第12族元素は水素を除いてすべて金属元素であり、第13族以降にも金属元素が存在する。金属と非金属の中間的な性質を示す元素もあり半金属と呼ばれる。 周期表の族により
とも呼ばれている。
金属元素は金属としての物性を有するほかに、化学的には
という性質を持つものが多い(例外も少なくない)。化学式で金属一般を表す場合にはMという略号で表すことが多い。 | [
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] | 金属元素(きんぞくげんそ)は、金属の性質を示す元素のグループである。周期表の第1族~第12族元素は水素を除いてすべて金属元素であり、第13族以降にも金属元素が存在する。金属と非金属の中間的な性質を示す元素もあり半金属と呼ばれる。
周期表の族により とも呼ばれている。 金属元素は金属としての物性を有するほかに、化学的には 電気陰性度が2未満で、陽イオンになりやすい。
酸化物のうち酸化数の低いものは塩基性を示す。 という性質を持つものが多い(例外も少なくない)。化学式で金属一般を表す場合にはMという略号で表すことが多い。 | '''金属元素'''(きんぞくげんそ)は、[[金属]]の性質を示す[[元素]]のグループである。[[周期表]]の第1族~第12族元素は[[水素]]を除いてすべて金属元素であり、第13族以降にも金属元素が存在する。金属と非金属の中間的な性質を示す元素もあり[[半金属]]と呼ばれる。
周期表の族により
{| class="wikitable"
! style="text-align:left" | 第1族
| [[アルカリ金属]]
|-
! style="text-align:left" | 第2族
| [[アルカリ土類金属]]
|-
! style="text-align:left" | 第3族~第11族<br>(第12族を含めることもある)
| [[遷移元素]]
|}
とも呼ばれている。
金属元素は金属としての物性を有するほかに、化学的には
* [[電気陰性度]]が2未満で、[[陽イオン]]になりやすい。
* [[酸化物]]のうち[[酸化数]]の低いものは[[塩基]]性を示す。
という性質を持つものが多い(例外も少なくない)。[[化学式]]で金属一般を表す場合にはMという略号で表すことが多い。
==関連項目==
*[[周期表]]
*[[半金属]](メタロイドともいう)
*[[アルカリ金属]](第1族元素。[[水素|H]]を除く。)
*[[アルカリ土類金属]](第2族元素。[[ベリリウム|Be]]、[[マグネシウム|Mg]]を除く)
[[category:元素群|きんそくけんそ]] | null | 2019-03-02T06:48:21Z | false | false | false | [] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%B1%9E%E5%85%83%E7%B4%A0 |
8,368 | 非金属元素 | 非金属元素(ひきんぞくげんそ、英: nonmetal)とは、金属元素以外の元素のこと。
元素のうち特定の性質(単体が光沢、導電性、延性・展性に富む、いわゆる金属結晶をつくる)を持つ主に遷移金属(遷移金属とは性質を異にする金属ポスト遷移金属、卑金属、典型金属などと呼ばれる)を指して「金属(元素)」と呼んでおり、非金属元素とはそれ以外の元素である。
非金属には「金属ではない」という定義上、それを特徴づける性質は金属の厳密な定義と金属と非金属の境界をどこにおくか(英語版)に関わってくる。一般には非金属元素は金属元素に比べて電子親和力が高い。このため自由電子を放出する金属結合ではなく共有結合に性質が漸近的に移り、金属結晶ができない。ところが金属と非金属の中間の性質をもつものがあり、半金属、半導体(単体で半導体の性質を示すIV族半導体)などと分類され、ヨウ素やアスタチンはハロゲン族だが常温の固体では金属光沢を持つ。これらの分類は単純に元素の族や元素の周期だけで決めることはできない。
なお、高圧下の水素は金属的な性質を持つとされる(金属水素)が、特殊な条件下で予測されている性質であり金属に分類することはない。
炭化水素で見られる同種原子が直鎖状に連続するカテネーションと呼ばれる結合構造は硫黄にも見られるが、半金属のシリコンやセレン、テルルなどにも見られることがわかっている。
非金属をさらに、
で分類することがある。
水素がヒドリド(H)となったときのイオン半径はハロゲンであるフッ素アニオンよりも大きく、アルカリ金属やアルカリ土類金属と反応して金属水素化物を作るなど特異な挙動をする。このような特徴のため水素を第1族元素の位置に置かず、水素が非金属であることを強調した周期表もある。 | [
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"title": "さらなる分類"
}
] | 非金属元素とは、金属元素以外の元素のこと。 元素のうち特定の性質(単体が光沢、導電性、延性・展性に富む、いわゆる金属結晶をつくる)を持つ主に遷移金属(遷移金属とは性質を異にする金属ポスト遷移金属、卑金属、典型金属などと呼ばれる)を指して「金属(元素)」と呼んでおり、非金属元素とはそれ以外の元素である。 非金属には「金属ではない」という定義上、それを特徴づける性質は金属の厳密な定義と金属と非金属の境界をどこにおくかに関わってくる。一般には非金属元素は金属元素に比べて電子親和力が高い。このため自由電子を放出する金属結合ではなく共有結合に性質が漸近的に移り、金属結晶ができない。ところが金属と非金属の中間の性質をもつものがあり、半金属、半導体(単体で半導体の性質を示すIV族半導体)などと分類され、ヨウ素やアスタチンはハロゲン族だが常温の固体では金属光沢を持つ。これらの分類は単純に元素の族や元素の周期だけで決めることはできない。 なお、高圧下の水素は金属的な性質を持つとされる(金属水素)が、特殊な条件下で予測されている性質であり金属に分類することはない。 炭化水素で見られる同種原子が直鎖状に連続するカテネーションと呼ばれる結合構造は硫黄にも見られるが、半金属のシリコンやセレン、テルルなどにも見られることがわかっている。 | {{出典の明記|date=2023年3月}}
[[ファイル:Simple Periodic Table Chart-en.svg|thumb|right|upright=1.75|[[周期表]]中の非金属(および[[半金属]])元素:
{|
|- style="line-height:50%;"
|-
| {{legend inline|{{Element color|metalloid}}|[[半金属]]}} {{legend inline|{{Element color|reactive nonmetal}}|[[:en:Reactive_nonmetal|反応性非金属]]}} {{legend inline|{{Element color|Noble gas}}|[[貴ガス]]}}
|-
|半金属は非金属のような化学的性質をもつように振る舞うためここに分類してある。
|-
|非金属は[[pブロック元素]]であるため、[[水素]]は離れた位置におかれる。[[ヘリウム]]は[[sブロック元素]]として水素の隣、[[ベリリウム]]の上に置くべきだが、ヘリウムは[[貴ガス]]でもあるため(pブロック元素の)[[ネオン]]の上に置かれる。
|}]]
'''非金属元素'''(ひきんぞくげんそ、{{lang-en-short|nonmetal}})とは、[[金属元素]]以外の[[元素]]のこと。
[[元素]]のうち特定の性質([[単体]]が光沢、導電性、延性・展性に富む、いわゆる[[金属結晶]]をつくる)を持つ主に[[遷移金属]](遷移金属とは性質を異にする金属[[ポスト遷移金属]]、[[卑金属]]、[[典型金属]]などと呼ばれる)を指して「[[金属]](元素)」と呼んでおり、非金属元素とはそれ以外の元素である。
非金属には「金属ではない」という定義上、それを特徴づける性質は金属の厳密な定義と{{仮リンク|金属と非金属の境界をどこにおくか|en|Dividing line between metals and nonmetals}}に関わってくる。一般には非金属元素は金属元素に比べて[[電子親和力]]が高い。このため[[自由電子]]を放出する[[金属結合]]ではなく[[共有結合]]に性質が漸近的に移り、金属結晶ができない。ところが金属と非金属の中間の性質をもつものがあり、[[半金属]]、[[半導体]](単体で半導体の性質を示すIV族半導体)などと分類され、[[ヨウ素]]や[[アスタチン]]は[[ハロゲン|ハロゲン族]]だが常温の固体では[[金属光沢]]を持つ。これらの分類は単純に[[元素の族]]や[[元素の周期]]だけで決めることはできない。
なお、高圧下の水素は金属的な性質を持つとされる([[金属水素]])が、特殊な条件下で予測されている性質であり金属に分類することはない。
[[炭化水素]]で見られる同種原子が直鎖状に連続する[[カテネーション]]と呼ばれる結合構造は[[硫黄]]にも見られるが、半金属の[[シリコン]]や[[セレン]]、[[テルル]]などにも見られることがわかっている。
== さらなる分類 ==
{{anchors|二原子非金属|多原子非金属}}<!--Diatominc Nonmetal--><!--Polyatomic Nonmetal-->
{| class="wikitable floatright" style="font-size:90%; margin-left: 0.5cm; "
|-
| style="border-top: 1px solid white; border-left:1px solid white; border-bottom:1px solid white; border-right:1px solid white; background-color:white;"|
| colspan=5 style="border-top: 1px solid white; background-color:white; border-left:1px solid white; border-right:1px solid white; text-align:center; font-size:112%" | '''非金属の分類'''
|-
| style="text-align:right; border-left:1px solid white; border-bottom:1px solid white; background-color:white;" |
| colspan=5 style="background-color:{{element color|nonmetal}}; border-bottom: 1px solid #a0a0a0;" |'''非金属'''
|-
| rowspan=2 style="text-align:right; border-left:1px solid white; border-bottom:1px solid white; background-color:white;" | '''(1)'''
| colspan=4 style="background-color:{{element color|reactive nonmetal}}; border-top: 1px solid #a0a0a0; border-bottom: 1px solid {{element color|reactive nonmetal}};" | '''[[:en:Reactive nonmetal|反応性非金属]]'''
| style="background-color:{{element color|noble gas}}; border-top: 1px solid #a0a0a0; border-bottom: 1px solid {{element color|noble gas}};" | '''[[貴ガス]]'''
|-
| colspan=4 style="background-color:{{element color|reactive nonmetal}}; border-top: 1px solid {{element color|reactive nonmetal}}" | [[水素|H]], [[炭素|C]], [[窒素|N]], [[酸素|O]], [[フッ素|F]], [[リン|P]], [[硫黄|S]], [[塩素|Cl]], [[臭素|Br]] (,[[セレン|Se]]), [[ヨウ素|I]]
| style="background-color:{{element color|noble gas}}; border-top: 1px solid {{element color|noble gas}};" | [[ヘリウム|He]], [[ネオン|Ne]], [[アルゴン|Ar]], [[クリプトン|Kr]], [[キセノン|Xe]], [[ラドン|Rn]]
|-
| rowspan=2 style="text-align:right; border-left:1px solid white; border-bottom:1px solid white; background-color:white;" | '''(2)'''
| colspan=3 style="background-color:#f5fffa; border-bottom: 1px solid #f5fffa;" | '''[[固体]]'''
| style="background-color:#f5fffa; border-bottom: 1px solid #f5fffa;" | '''[[液体]]'''
| style="background-color:#f5fffa; border-bottom: 1px solid #f5fffa;" | '''[[気体]]'''
|-
| colspan=3 style="background-color:#f5fffa; border-top: 1px solid #f5fffa;" | C, P, S, Se, I
| style="background-color:#f5fffa; border-top: 1px solid #f5fffa;" | Br
| style="background-color:#f5fffa; border-top: 1px solid #f5fffa;" | H, N, O, F, Cl, He, Ne, Ar, Kr, Xe, Rn
|-
| rowspan=2 style="text-align:right; border-left:1px solid white; border-bottom:1px solid white; background-color:white;" | '''(3)'''
| colspan=2 style="background-color:#f5fffa; border-bottom: 1px solid #f5fffa;" | '''[[電気陰性度|電気陰性]]のある非金属'''
| colspan=2 style="background-color:#f5fffa; border-bottom: 1px solid #f5fffa;" | '''電気陰性の強い非金属'''
| style="background-color:#f5fffa; border-bottom: 1px solid #f5fffa; vertical-align: text-bottom" | '''貴ガス'''
|-
| colspan=2 style=" background-color:#f5fffa; border-top: 1px solid #f5fffa;" | H, C, P, S, Se, I
| colspan=2 style="background-color:#f5fffa; border-top: 1px solid #f5fffa;" | N, O, F, Cl, Br
| style="background-color:#f5fffa; border-top: 1px solid #f5fffa;" | He, Ne, Ar, Kr, Xe, Rn
|-
| rowspan=2 style="text-align:right; border-left:1px solid white; border-bottom:1px solid white; background-color:white;" | '''(4)'''
| style="background-color:{{element color|poly-atomic nonmetal}}; border-bottom: 1px solid {{element color|poly-atomic nonmetal}};" | '''[[:en:Polyatomic nonmetal|多原子非金属]]'''
| colspan=3 style="background-color:{{element color|diatomic nonmetal}}; border-bottom: 1px solid {{element color|diatomic nonmetal}};" | '''[[:en:Category:Diatomic nonmetal|二原子非金属]]'''
| style="background-color:{{element color|noble gas}}; border-bottom: 1px solid {{element color|noble gas}}; vertical-align: text-bottom"| '''単原子非金属(貴ガス)'''
|-
| style="background-color:{{element color|poly-atomic nonmetal}}; border-top: 1px solid {{element color|poly-atomic nonmetal}}"| C, P, S, Se
| colspan=3 style="background-color:{{element color|diatomic nonmetal}}; border-top: 1px solid {{element color|diatomic nonmetal}};" | H, N, O, F, Cl, Br, I
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| rowspan=2 style="text-align:right; border-left:1px solid white; border-bottom:1px solid white; background-color:white;" | '''(5)'''
| style="background-color:{{element color|poly-atomic nonmetal}}; border-bottom: 1px solid {{element color|poly-atomic nonmetal}};"| '''その他の非金属'''
| style="background-color:{{element color|hydrogen}}; border-bottom: 1px solid {{element color|hydrogen}};"| '''[[水素]]'''
| style="background-color:{{element color|diatomic nonmetal}}; border-bottom: 1px solid {{element color|diatomic nonmetal}};"| '''その他の非金属'''
| style="background-color:{{element color|halogen}}; border-bottom: 1px solid {{element color|halogen}};"| '''[[ハロゲン]]'''
| style="background-color:{{element color|noble gas}}; border-bottom:1px solid {{element color|noble gas}};"| '''貴ガス'''
|-
| style="background-color:{{element color|poly-atomic nonmetal}}; border-top: 1px solid {{element color|poly-atomic nonmetal}};"| C, P, S, Se
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| style="background-color:{{element color|halogen}}; border-top: 1px solid {{element color|halogen}};"| F, Cl, Br, I
| style="background-color:{{element color|noble gas}}; border-top:{{element color|noble gas}};"| He, Ne, Ar, Kr, Xe, Rn
|}
非金属をさらに、
# 反応性による分類
# 物理的な[[三態]]([[常温]][[常圧]]下)
# [[電気陰性度]]
# [[単体]]の物質構造
# (4)から[[ハロゲン]]を分離
で分類することがある。
水素が[[ヒドリド]](H<sup>-</sup>)となったときの[[イオン半径]]はハロゲンである[[フッ素]][[アニオン]]よりも大きく、[[アルカリ金属]]や[[アルカリ土類金属]]と反応して[[金属水素化物]]を作るなど特異な挙動をする。このような特徴のため水素を[[第1族元素]]の位置に置かず、[[周期表#水素の位置|水素が非金属であることを強調した周期表]]もある。
{{-}}
== 関連項目 ==
*[[周期表]]
{{Normdaten}}
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[[Category:非金属元素|*]]
[[Category:元素群]] | null | 2023-03-18T23:25:13Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%9E%E9%87%91%E5%B1%9E%E5%85%83%E7%B4%A0 |
8,369 | テリー・プラチェット | テリー・プラチェット(Terry Pratchett)、本名サー・テレンス・デイヴィッド・ジョン・プラチェット OBE(Sir Terence David John Pratchett OBE, 1948年4月28日 - 2015年3月12日)はイングランドのSF作家・ファンタジー作家。 ユーモアのセンスをファンタジーやSFに持ち込んだ作家として広く愛されており、毎年ベストセラー入りする人気作家である。 特に《ディスクワールド》シリーズ(Discworld)で知られる。1998年「文学に対する貢献」によりOBEに叙され、2008年にはナイト・バチェラー(en:Knight Bachelor)に叙される。
テリー・プラチェットは1990年代のイギリスのベストセラー作家の一人であり、その著作は36言語に翻訳され、2007年12月には5500万部の売り上げを達成している。
1948年バッキンガムシャー州ビーコンズフィールドに生まれる。
2007年12月若年期アルツハイマー病を発症していることを公表し、アルツハイマー病研究財団に約100万ドルの資金援助を行うことを発表した 。
また、2009年2月にはアルツハイマー、末期ガンなどの患者の自殺幇助(安楽死)を合法化するよう提言し、自らそのテストケースになる用意があると述べた。 声明の中で、彼の父親は末期ガンで安楽死を望んだが果たせなかった、と述べている。
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] | テリー・プラチェット、本名サー・テレンス・デイヴィッド・ジョン・プラチェット OBEはイングランドのSF作家・ファンタジー作家。
ユーモアのセンスをファンタジーやSFに持ち込んだ作家として広く愛されており、毎年ベストセラー入りする人気作家である。
特に《ディスクワールド》シリーズ(Discworld)で知られる。1998年「文学に対する貢献」によりOBEに叙され、2008年にはナイト・バチェラーに叙される。 | {{Infobox 作家
| name = テリー・プラチェット<br />''Terry Pratchett''
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| caption = 2009年
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'''テリー・プラチェット'''(Terry Pratchett)、本名'''サー・テレンス・デイヴィッド・ジョン・プラチェット [[大英帝国勲章|OBE]]'''(Sir Terence David John Pratchett OBE, [[1948年]][[4月28日]]<ref>{{Cite web
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|title=Terry Pratchett Biography
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|accessdate=2009-04-19
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</ref> - [[2015年]][[3月12日]]<ref>{{Cite web
|url=http://www.bbc.com/news/entertainment-arts-31858156
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}}</ref>)は[[イングランド]]の[[SF作家]]・[[ファンタジー]]作家。
ユーモアのセンスをファンタジーやSFに持ち込んだ作家として広く愛されており、毎年ベストセラー入りする人気作家である。
特に《[[ディスクワールド]]》シリーズ([[:en:Discworld|Discworld]])で知られる。1998年「文学に対する貢献」によりOBEに叙され<ref name="terry">{{Cite web
| publisher = TerryPratchettbooks.com, HarperCollins
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| title = Meet Terry
| date = no date
| accessdate = June 6, 2007
}}</ref>、2008年には[[ナイト・バチェラー]]([[:en:Knight Bachelor]])に叙される<ref>{{LondonGazette |issue=58929 |date=31 December 2008 |page=1 |supp=yes}}</ref><ref>[http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/books/article5420707.ece Terry Pratchett lost for words as he receives knighthood]</ref>。
== 概要 ==
テリー・プラチェットは1990年代のイギリスのベストセラー作家の一人であり<ref name="guardian">{{
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| publisher = Guardian Unlimited
| url = http://www.guardian.co.uk/g2/story/0,3604,835862,00.html
| title = Life on planet Pratchett
| date = 8 November 2002
| accessdate = June 6, 2007
}}</ref><ref name="BBC Wiltshire">{{
cite web
| publisher = BBC Wiltshire
| url = http://www.bbc.co.uk/wiltshire/going_out/theatre/pratchett.shtml
| title = Terry Pratchett in conversation
| date = no date
| accessdate = June 6, 2007
}}</ref>、その著作は36言語に翻訳され<ref name="terry" />、2007年12月には5500万部の売り上げを達成している<ref>{{
cite web
| work = [[BBC News Online]]
| url = http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/7141458.stm
| title = Pratchett has Alzheimer's disease
| date = 12 December 2007
| accessdate = 13 December 2007
}}</ref>。
== 略歴 ==
1948年[[バッキンガムシャー|バッキンガムシャー州]][[ビーコンズフィールド]]に生まれる<ref name="birthplace">{{
cite book
| editor = Priscilla Olsen and Sheila Perry
| title = Once More* *With Footnotes
| publisher = NESFA Press
| ISBN = 1-886778-57-4}}</ref><ref>{{
cite book
| last = Pratchett
| first = Terry
| authorlink = テリー・プラチェット
| title = Sourcery
| publisher = Corgi Books
| ISBN = 0-552-13107-5
}}</ref>。
2007年12月[[アルツハイマー病|若年期アルツハイマー病]]を発症していることを公表し、[[アルツハイマー病研究財団]]に約100万ドルの資金援助を行うことを発表した
<ref name="alzheimerdonation">{{
cite web
| publisher = [[BBC News]]
| url = http://news.bbc.co.uk/1/hi/health/7291315.stm
| title = Pratchett funds Alzheimer's study
| date = 13 March 2008
| accessdate = March 13, 2008
}}</ref>。
また、2009年2月にはアルツハイマー、末期ガンなどの患者の自殺幇助([[安楽死]])を合法化するよう提言し、自らそのテストケースになる用意があると述べた。
声明の中で、彼の父親は末期ガンで安楽死を望んだが果たせなかった、と述べている。
2015年3月12日にアルツハイマーのため亡くなった<ref>{{Cite web|和書|url=https://japanese.engadget.com/jp-2015-03-13-66.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210125084219/https://japanese.engadget.com/jp-2015-03-13-66.html|archivedate=2021-01-25|deadlinkdate=2022-05-01|title=『ディスクワールド』の作家テリー・プラチェット氏が死去、66歳|publisher=Engadget 日本版|date=2015-03-13|accessdate=2020-11-18}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/sp/articles/DA3S11649215.html|title=テリー・プラチェットさん死去|publisher=朝日新聞デジタル|date=2015-03-14|accessdate=2020-03-10}}</ref>。
== 作品リスト ==
* [[ニール・ゲイマン]]との共著「グッド・オーメンズ」''Good Omens'' 1990
* [[ディスクワールド]]シリーズ
** ディスクワールド騒動記 (''The Colour of Magic'', 1983) [[角川文庫Fシリーズ]]収録 1991年 ISBN 4042745016
** 天才ネコモーリスとその仲間たち (''The Amazing Maurice and his Educated Rodents'', 2001) - 2001年[[カーネギー賞]]受賞
** ''Making Money'' (2007) - 2008年[[ローカス賞 ファンタジイ長篇部門|ローカス賞]]
**''Unseen Academicals'' (2009)
* [[遠い星からきたノーム]]シリーズ
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [http://www.terrypratchettbooks.org/ Terry Pratchett Books Forum] {{en icon}}
* {{Isfdb name|id=Terry_Pratchett|name=Summary Bibliography: Terry Pratchett}}
{{典拠管理}}
{{writer-stub}}
{{DEFAULTSORT:ふらちえつと てりい}}
[[Category:20世紀イングランドの小説家]]
[[Category:21世紀イングランドの小説家]]
[[Category:イングランドのSF作家]]
[[Category:イングランドのファンタジー作家]]
[[Category:イングランドの児童文学作家]]
[[Category:大英帝国勲章受章者]]
[[Category:ローカス賞作家]]
[[Category:カーネギー賞の受賞者]]<!-- 2001年 -->
[[Category:E・E・スミス記念賞の受賞者]]<!-- 2009年 -->
[[Category:アンドレ・ノートン賞の受賞者]]<!-- 2011年 -->
[[Category:マーガレット・A・エドワーズ賞の受賞者]]<!-- 2011年 -->
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[[Category:不条理フィクション]]
[[Category:イングランドの無神論者]]
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[[Category:2015年没]] | 2003-05-16T15:48:00Z | 2023-10-20T01:49:56Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%83%E3%83%88 |
8,370 | 遷移元素 | 遷移元素(せんいげんそ、英: transition element)とは、周期表で第3族元素から第12族元素の間に存在する元素の総称である。遷移金属(せんいきんぞく、英: transition metal)とも呼ばれる。第12族元素(亜鉛族元素、Zn、Cd、Hg)は化学的性質が典型元素の金属に似ており、またイオン化してもd軌道が10電子で満たされて閉殻していることから、IUPACの定義より典型元素に分類されるが、遷移元素に分類される例も見られる。
遷移元素の単体は一般に高い融点と硬さを有する金属である。常磁性を示すものも多く、鉄、コバルト、ニッケルのように強磁性を示すものも存在する。
化合物や水和イオンが色を呈するものが多い。種々の配位子と錯体を形成できるほか、触媒として有用なものも多い。
簡潔にまとめると、似たような性質の元素が周期表において、横に並ぶようなものである。反意語は、典型元素といって周期表において縦に似たような性質の元素が並ぶものである。
以前までは11族までが遷移元素であったが電子配置による分類への変更により12族までが遷移元素となった。
最初に「遷移金属」という言葉が使われるようになったのは19世紀の最終四半世紀ごろであり、当時は周期表のVIII族(現在の第8族-第10族)に属する元素を指していた。
当時の周期表は「短周期表」と呼ばれるもので、現在の第1族-第7族と第11族-第17族がともにI族-VII族とされていた。第18族(希ガス)はまだ同定されておらず、第8族-第10族は同じ周期であれば互いに性質が似通っていることから、VIII族にまとめられた。このVIII族が、VII族とI族を繋ぐ元素グループという意味で「遷移金属」(ドイツ語:Übergangsmetalle/英語:transitional metal)と呼ばれるようになった。
その後、量子化学により元素のもつ電子殻の構造が理解され、K、L、M電子殻やそれを構成するs、p、d、f電子軌道など電子ブロック分類に基づく長周期表や拡張周期表で元素が分類されるようになり、第3-第11族元素を指して「遷移元素」と呼ぶようになった。
遷移元素は典型元素とは異なりd軌道あるいはf軌道が閉殻になっていない。そして、原子番号の増加によって変化するのは主に、d軌道ないしはf軌道電子である。
s軌道ないしはp軌道電子においては、主量子数の小さい軌道は大きい軌道を超えて外側にほとんど分布しないのに対し、d軌道ないしはf軌道電子はより主量子数が大きいs軌道、p軌道の内側にも外側にも分布する。この性質は、遷移元素の特徴に大きく影響を与えている。
d軌道ないしはf軌道電子が、より主量子数の大きいs軌道の外側にも分布するということは、そのs軌道電子に対する核電荷遮蔽(しゃへい)の効果が弱いことを意味している。そのため、d軌道ないしはf軌道が閉核でない元素ではs軌道準位が、それより主量子数の小さいd軌道あるいはf軌道よりも低くなる。この効果により、遷移元素では原子番号の増加に対し、s軌道よりもエネルギー準位の高いd軌道やf軌道が変化することになる。
d軌道ないしはf軌道の外部にも広く分布する電子が多数存在するという性質は、金属結合に関与しうる電子が多いということも意味する。その多数の電子が結合力を増大させるため、遷移金属では典型元素金属に比べて融点が高いものが多く、とりうる酸化数も多数存在することになる。
遷移元素においては第4・第5周期はd軌道に電子が存在するが、第6・第7周期にはd軌道とf軌道に電子が存在することになる。このことは、ランタノイド系列やアクチノイド系列が存在するという理由以上には電子配置や核遮蔽による準位への影響度合いが、第4・第5周期の場合と第6・第7周期の場合とでは異なることを意味する。したがって、典型元素では同じ族の元素の性質が似通っていたのに対し、遷移元素においては第4・第5周期と第6・第7周期とでは性質が異なる場合もしばしば見られる。
むしろ同じ周期であれば、s軌道電子の構造が等しい隣接する族と性質が似通う面も多く、三組元素の鉄族元素や白金族元素のように同じ属だけではなく、同じ周期でも区分される場合もある。
遷移元素は全て金属元素であるが、d軌道またはf軌道など内殻に空位の軌道を持つため、典型元素の金属とは異なる化学的性質を持つ。そのため、これら金属元素は「遷移金属」とも呼ばれる。
例えば、内殻のd軌道に安定な不対電子を持つことが可能なため、遷移金属の多くは常磁性であったり、複数の酸化数をとることが容易である。あるいはd軌道はさまざまな配位子と結合して、同じ元素でも多様な錯体を形成する。
一方、内殻軌道が閉殻の亜鉛、カドミウム、水銀(亜鉛族元素)は電子配置も化学的性質も典型元素の金属に近いので遷移元素とはされない。
第三遷移元素は、ランタン(La)から金(Au)までの元素をいう。不完全4f殻への電子充填であるランタノイドを内部遷移元素としてさらに区別する場合がある。
第四遷移元素は、アクチニウムからレントゲニウムまでの元素をいう。ほぼ不完全5f殻への電子充填であるアクチノイドを内部遷移元素としてさらに区別する場合がある。
遷移金属とも呼ばれるように、遷移元素は単体では良導体であるが、酸化物になると配位数や格子間距離などに応じて、様々な電気的特性を示す。
例えば PrNiO3 や NdNiO3 は低温では絶縁体であるが、室温になると金属になる。これらは典型的なモット絶縁体であり、低温では価電子がNiサイトに局在している。しかし、温度が上昇するとPr、Ndのイオン半径が増加するため、結晶構造に歪みが生じる。これにより、Niサイトに局在していた電子が波動性を回復して結晶全体に広がり、金属に転移する。
遷移元素において安定な不対電子が存在しやすい性質は、磁性を持つ元素が多数含まれることの理由の一つとなっている。すなわち、典型元素では最外殻の不対電子は他の原子と共有結合することで安定化して不対電子の磁気的性質が容易に打ち消されるのに対し、遷移金属では不対電子を持つ単体やイオンが安定であるために典型元素に比べて磁気的性質を発現するものが多い。
電子配置の面だけでなく、磁性は結晶構造や錯体構造とも密接な関連があり、このことが多様な構造を持つ遷移元素においてさまざまな磁気的性質を発現する要因にもなっている。
遷移元素は良い均一系・不均一系触媒となりうる。例えば鉄はハーバー・ボッシュ法の触媒である。また、五酸化バナジウムは硫酸製造の接触法に、ニッケルはマーガリン製造の水素添加に、白金は硝酸製造に、それぞれ用いられる。遷移元素は反応中にさまざまな酸化状態をとりながら錯体を形成し、活性化エネルギーの低い経路を提供する。
光は電場と磁場の振動であり、その振動数が異なると、目を通して違った色として認識される。色の変化は、ある物質に入射した光が反射・透過・吸収されることによって起こる。遷移元素のイオンや錯体は、その構造に由来してさまざまに着色している。同じ元素であっても構造が違えばその色は異なる。例えば7価のマンガンのイオン MnO4 は紫だが、Mn は薄い桃色である。
遷移元素の錯体では配位子が化合物の色を決定する要素となるが、これは配位によってd軌道のエネルギーが変化するためである。配位子が遷移元素イオンと結びつくと、縮退していたd軌道は高エネルギー準位の組と低エネルギー準位の組に分かれる。配位子を持つイオン、つまり錯体に光を当てると、低エネルギー準位にあった電子が高エネルギーの準位に移動する(遷移する)。このとき吸収される光が、色として認識される。吸収される光はエネルギー準位の差とちょうどエネルギーを持つものに限られるため、準位差の違いは吸収する光の波長、すなわち色の違いとして現れる。
錯体の色は以下の要素によって決まる。
亜鉛の場合、3d軌道がすべて満たされているため、低エネルギーのd軌道から高エネルギーのd軌道への遷移が起こらない。それゆえ、亜鉛の錯体は無色である。 | [
{
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"text": "遷移元素(せんいげんそ、英: transition element)とは、周期表で第3族元素から第12族元素の間に存在する元素の総称である。遷移金属(せんいきんぞく、英: transition metal)とも呼ばれる。第12族元素(亜鉛族元素、Zn、Cd、Hg)は化学的性質が典型元素の金属に似ており、またイオン化してもd軌道が10電子で満たされて閉殻していることから、IUPACの定義より典型元素に分類されるが、遷移元素に分類される例も見られる。",
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"text": "遷移元素の単体は一般に高い融点と硬さを有する金属である。常磁性を示すものも多く、鉄、コバルト、ニッケルのように強磁性を示すものも存在する。",
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"text": "化合物や水和イオンが色を呈するものが多い。種々の配位子と錯体を形成できるほか、触媒として有用なものも多い。",
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"text": "簡潔にまとめると、似たような性質の元素が周期表において、横に並ぶようなものである。反意語は、典型元素といって周期表において縦に似たような性質の元素が並ぶものである。",
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"text": "以前までは11族までが遷移元素であったが電子配置による分類への変更により12族までが遷移元素となった。",
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"text": "最初に「遷移金属」という言葉が使われるようになったのは19世紀の最終四半世紀ごろであり、当時は周期表のVIII族(現在の第8族-第10族)に属する元素を指していた。",
"title": "歴史"
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"text": "当時の周期表は「短周期表」と呼ばれるもので、現在の第1族-第7族と第11族-第17族がともにI族-VII族とされていた。第18族(希ガス)はまだ同定されておらず、第8族-第10族は同じ周期であれば互いに性質が似通っていることから、VIII族にまとめられた。このVIII族が、VII族とI族を繋ぐ元素グループという意味で「遷移金属」(ドイツ語:Übergangsmetalle/英語:transitional metal)と呼ばれるようになった。",
"title": "歴史"
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"text": "その後、量子化学により元素のもつ電子殻の構造が理解され、K、L、M電子殻やそれを構成するs、p、d、f電子軌道など電子ブロック分類に基づく長周期表や拡張周期表で元素が分類されるようになり、第3-第11族元素を指して「遷移元素」と呼ぶようになった。",
"title": "歴史"
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"text": "遷移元素は典型元素とは異なりd軌道あるいはf軌道が閉殻になっていない。そして、原子番号の増加によって変化するのは主に、d軌道ないしはf軌道電子である。",
"title": "特徴"
},
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"text": "s軌道ないしはp軌道電子においては、主量子数の小さい軌道は大きい軌道を超えて外側にほとんど分布しないのに対し、d軌道ないしはf軌道電子はより主量子数が大きいs軌道、p軌道の内側にも外側にも分布する。この性質は、遷移元素の特徴に大きく影響を与えている。",
"title": "特徴"
},
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"text": "d軌道ないしはf軌道電子が、より主量子数の大きいs軌道の外側にも分布するということは、そのs軌道電子に対する核電荷遮蔽(しゃへい)の効果が弱いことを意味している。そのため、d軌道ないしはf軌道が閉核でない元素ではs軌道準位が、それより主量子数の小さいd軌道あるいはf軌道よりも低くなる。この効果により、遷移元素では原子番号の増加に対し、s軌道よりもエネルギー準位の高いd軌道やf軌道が変化することになる。",
"title": "特徴"
},
{
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"tag": "p",
"text": "d軌道ないしはf軌道の外部にも広く分布する電子が多数存在するという性質は、金属結合に関与しうる電子が多いということも意味する。その多数の電子が結合力を増大させるため、遷移金属では典型元素金属に比べて融点が高いものが多く、とりうる酸化数も多数存在することになる。",
"title": "特徴"
},
{
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"text": "遷移元素においては第4・第5周期はd軌道に電子が存在するが、第6・第7周期にはd軌道とf軌道に電子が存在することになる。このことは、ランタノイド系列やアクチノイド系列が存在するという理由以上には電子配置や核遮蔽による準位への影響度合いが、第4・第5周期の場合と第6・第7周期の場合とでは異なることを意味する。したがって、典型元素では同じ族の元素の性質が似通っていたのに対し、遷移元素においては第4・第5周期と第6・第7周期とでは性質が異なる場合もしばしば見られる。",
"title": "特徴"
},
{
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"text": "むしろ同じ周期であれば、s軌道電子の構造が等しい隣接する族と性質が似通う面も多く、三組元素の鉄族元素や白金族元素のように同じ属だけではなく、同じ周期でも区分される場合もある。",
"title": "特徴"
},
{
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"text": "遷移元素は全て金属元素であるが、d軌道またはf軌道など内殻に空位の軌道を持つため、典型元素の金属とは異なる化学的性質を持つ。そのため、これら金属元素は「遷移金属」とも呼ばれる。",
"title": "遷移金属"
},
{
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"tag": "p",
"text": "例えば、内殻のd軌道に安定な不対電子を持つことが可能なため、遷移金属の多くは常磁性であったり、複数の酸化数をとることが容易である。あるいはd軌道はさまざまな配位子と結合して、同じ元素でも多様な錯体を形成する。",
"title": "遷移金属"
},
{
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"text": "一方、内殻軌道が閉殻の亜鉛、カドミウム、水銀(亜鉛族元素)は電子配置も化学的性質も典型元素の金属に近いので遷移元素とはされない。",
"title": "遷移金属"
},
{
"paragraph_id": 17,
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"text": "第三遷移元素は、ランタン(La)から金(Au)までの元素をいう。不完全4f殻への電子充填であるランタノイドを内部遷移元素としてさらに区別する場合がある。",
"title": "遷移元素の電子配位一覧"
},
{
"paragraph_id": 18,
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"text": "第四遷移元素は、アクチニウムからレントゲニウムまでの元素をいう。ほぼ不完全5f殻への電子充填であるアクチノイドを内部遷移元素としてさらに区別する場合がある。",
"title": "遷移元素の電子配位一覧"
},
{
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"text": "遷移金属とも呼ばれるように、遷移元素は単体では良導体であるが、酸化物になると配位数や格子間距離などに応じて、様々な電気的特性を示す。",
"title": "電気伝導性"
},
{
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"text": "例えば PrNiO3 や NdNiO3 は低温では絶縁体であるが、室温になると金属になる。これらは典型的なモット絶縁体であり、低温では価電子がNiサイトに局在している。しかし、温度が上昇するとPr、Ndのイオン半径が増加するため、結晶構造に歪みが生じる。これにより、Niサイトに局在していた電子が波動性を回復して結晶全体に広がり、金属に転移する。",
"title": "電気伝導性"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "遷移元素において安定な不対電子が存在しやすい性質は、磁性を持つ元素が多数含まれることの理由の一つとなっている。すなわち、典型元素では最外殻の不対電子は他の原子と共有結合することで安定化して不対電子の磁気的性質が容易に打ち消されるのに対し、遷移金属では不対電子を持つ単体やイオンが安定であるために典型元素に比べて磁気的性質を発現するものが多い。",
"title": "磁性"
},
{
"paragraph_id": 22,
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"text": "電子配置の面だけでなく、磁性は結晶構造や錯体構造とも密接な関連があり、このことが多様な構造を持つ遷移元素においてさまざまな磁気的性質を発現する要因にもなっている。",
"title": "磁性"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "遷移元素は良い均一系・不均一系触媒となりうる。例えば鉄はハーバー・ボッシュ法の触媒である。また、五酸化バナジウムは硫酸製造の接触法に、ニッケルはマーガリン製造の水素添加に、白金は硝酸製造に、それぞれ用いられる。遷移元素は反応中にさまざまな酸化状態をとりながら錯体を形成し、活性化エネルギーの低い経路を提供する。",
"title": "触媒活性"
},
{
"paragraph_id": 24,
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"text": "光は電場と磁場の振動であり、その振動数が異なると、目を通して違った色として認識される。色の変化は、ある物質に入射した光が反射・透過・吸収されることによって起こる。遷移元素のイオンや錯体は、その構造に由来してさまざまに着色している。同じ元素であっても構造が違えばその色は異なる。例えば7価のマンガンのイオン MnO4 は紫だが、Mn は薄い桃色である。",
"title": "色"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "遷移元素の錯体では配位子が化合物の色を決定する要素となるが、これは配位によってd軌道のエネルギーが変化するためである。配位子が遷移元素イオンと結びつくと、縮退していたd軌道は高エネルギー準位の組と低エネルギー準位の組に分かれる。配位子を持つイオン、つまり錯体に光を当てると、低エネルギー準位にあった電子が高エネルギーの準位に移動する(遷移する)。このとき吸収される光が、色として認識される。吸収される光はエネルギー準位の差とちょうどエネルギーを持つものに限られるため、準位差の違いは吸収する光の波長、すなわち色の違いとして現れる。",
"title": "色"
},
{
"paragraph_id": 26,
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"text": "錯体の色は以下の要素によって決まる。",
"title": "色"
},
{
"paragraph_id": 27,
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"text": "亜鉛の場合、3d軌道がすべて満たされているため、低エネルギーのd軌道から高エネルギーのd軌道への遷移が起こらない。それゆえ、亜鉛の錯体は無色である。",
"title": "色"
}
] | 遷移元素とは、周期表で第3族元素から第12族元素の間に存在する元素の総称である。遷移金属とも呼ばれる。第12族元素(亜鉛族元素、Zn、Cd、Hg)は化学的性質が典型元素の金属に似ており、またイオン化してもd軌道が10電子で満たされて閉殻していることから、IUPACの定義より典型元素に分類されるが、遷移元素に分類される例も見られる。 遷移元素の単体は一般に高い融点と硬さを有する金属である。常磁性を示すものも多く、鉄、コバルト、ニッケルのように強磁性を示すものも存在する。 化合物や水和イオンが色を呈するものが多い。種々の配位子と錯体を形成できるほか、触媒として有用なものも多い。 簡潔にまとめると、似たような性質の元素が周期表において、横に並ぶようなものである。反意語は、典型元素といって周期表において縦に似たような性質の元素が並ぶものである。 以前までは11族までが遷移元素であったが電子配置による分類への変更により12族までが遷移元素となった。 | '''遷移元素'''(せんいげんそ、{{lang-en-short|transition element}})とは、[[周期表]]で[[第3族元素]]から[[第12族元素]]の間に存在する[[元素]]の総称である<ref name="GOLDBOOK">{{en icon}} ''[http://goldbook.iupac.org/T06456.html transition element]'' IUPAC. Compendium of Chemical Terminology, 2nd ed. (the "Gold Book"). Compiled by A. D. McNaught and A. Wilkinson. Blackwell Scientific Publications, Oxford (1997). XML on-line corrected version: http://goldbook.iupac.org (2006-) created by M. Nic, J. Jirat, B. Kosata; updates compiled by A. Jenkins. ISBN 0-9678550-9-8. {{doi|10.1351/goldbook.T06456}}.</ref><ref>IUPAC REDBOOK p.43:IUPAC Nomenclature of Inorganic Chemistry. Third Edition, Blackwell Scientific Publications, Oxford, 1990.</ref>。'''遷移金属'''(せんいきんぞく、{{lang-en-short|transition metal}})とも呼ばれる。[[第12族元素]](亜鉛族元素、[[亜鉛|Zn]]、[[カドミウム|Cd]]、[[水銀|Hg]])は化学的性質が[[典型元素]]の[[金属]]に似ており、また[[イオン化]]しても[[d軌道]]が10電子で満たされて[[閉殻]]していることから、典型元素に分類されることも遷移元素に分類されることもある<ref name=jce2003/>。IUPACのRed Bookでは「the elements of groups 3–12 are the d-block elements. These elements are also commonly referred to as the transition elements, though the elements of group 12 are not always included」(p51)、つまり第3-12族はdブロック元素で遷移元素とも呼ばれるが,第12族は(遷移元素に)含まれないこともある、記されている。
遷移元素の単体は一般に高い[[融点]]と[[硬さ]]を有する金属である。[[常磁性]]を示すものも多く、[[鉄]]、[[コバルト]]、[[ニッケル]]のように[[強磁性]]を示すものも存在する。
[[化合物]]や[[溶媒和|水和]]イオンが[[色]]を呈するものが多い。種々の[[配位子]]と[[錯体]]を形成できるほか、[[触媒]]として有用なものも多い。
簡潔にまとめると、似たような性質の[[元素]]が[[周期表]]において、横に並ぶようなものである。反意語は、[[典型元素]]といって周期表において縦に似たような性質の元素が並ぶものである。
== 歴史 ==
[[image:Mendelejevs periodiska system 1871.png|thumb|300px|right|メンデレーエフの短周期表。まずVIII族元素が遷移金属と呼ばれるようになる。]]
[[image:IUPAC Periodic Table.PNG|thumb|300px|right|[[IUPAC]]分類に従い3族から11族までを遷移元素とした長周期表。]]
最初に「遷移金属」という言葉が使われるようになったのは19世紀の最終四半世紀ごろであり、当時は周期表のVIII族(現在の第8族-第10族)に属する元素を指していた。
当時の周期表は「短周期表」と呼ばれるもので、現在の第1族-第7族と第11族-第17族がともにI族-VII族とされていた。第18族([[希ガス]])はまだ同定されておらず、第8族-第10族は同じ周期であれば互いに性質が似通っていることから、VIII族にまとめられた。このVIII族が、VII族とI族を繋ぐ元素グループという意味で「遷移金属」(ドイツ語:[[:de:Übergangsmetalle|Übergangsmetalle]]/英語:[[:en:transitional metal|transitional metal]])と呼ばれるようになった<ref name="jce2003">{{en icon}} {{cite journal | journal = Journal of Chemical Education | volume = 80 | issue = 8 | year = 2003 | url = http://www.uv.es/~borrasj/ingenieria_web/temas/tema_1/lecturas_comp/p952.pdf | title = The Place of Zinc, Cadmium, and Mercury in the Periodic Table | first = William B. | last = Jensen | pages = 952–561 | doi = 10.1021/ed080p952}}</ref>。
その後、[[量子化学]]により元素のもつ[[電子殻]]の構造が理解され、K、L、M電子殻やそれを構成するs、p、d、f[[電子軌道]]など電子ブロック分類に基づく長周期表や[[拡張周期表]]で元素が分類されるようになり、第3-第11族元素を指して「遷移元素」と呼ぶようになった。
== 特徴 ==
遷移元素は典型元素とは異なり[[d軌道]]あるいは[[f軌道]]が閉殻になっていない。そして、原子番号の増加によって変化するのは主に、d軌道ないしはf軌道電子である{{efn|原子番号増加でs軌道、d軌道ないしはf軌道電子が変化する箇所も存在する。}}。
s軌道ないしはp軌道電子においては、主量子数の小さい軌道は大きい軌道を超えて外側にほとんど分布しないのに対し、d軌道ないしはf軌道電子はより主量子数が大きいs軌道、p軌道の内側にも外側にも分布する。この性質は、遷移元素の特徴に大きく影響を与えている。
d軌道ないしはf軌道電子が、より主量子数の大きいs軌道の外側にも分布するということは、そのs軌道電子に対する核電荷遮蔽(しゃへい)の効果が弱いことを意味している。そのため、d軌道ないしはf軌道が閉核でない元素ではs軌道準位が、それより主量子数の小さいd軌道あるいはf軌道よりも低くなる。この効果により、遷移元素では原子番号の増加に対し、s軌道よりもエネルギー準位の高いd軌道やf軌道が変化することになる{{efn|d軌道やf軌道が閉殻の場合は核遮蔽が強く、準位が高くなったs軌道電子が変化する。}}。
d軌道ないしはf軌道の外部にも広く分布する電子が多数存在するという性質は、[[金属結合]]に関与しうる電子が多いということも意味する。その多数の電子が結合力を増大させるため、遷移金属では典型元素金属に比べて融点が高いものが多く、とりうる酸化数も多数存在することになる。
遷移元素においては第4・第5周期はd軌道に電子が存在するが、第6・第7周期にはd軌道とf軌道に電子が存在することになる。このことは、[[ランタノイド]]系列や[[アクチノイド]]系列が存在するという理由以上には電子配置や核遮蔽による準位への影響度合いが、第4・第5周期の場合と第6・第7周期の場合とでは異なることを意味する。したがって、典型元素では同じ族の元素の性質が似通っていたのに対し、遷移元素においては第4・第5周期と第6・第7周期とでは性質が異なる場合もしばしば見られる。
むしろ同じ周期であれば、s軌道電子の構造が等しい隣接する族と性質が似通う面も多く、三組元素の[[鉄族元素]]や[[白金族元素]]のように同じ属だけではなく、同じ周期でも区分される場合もある。
== 遷移金属 ==
遷移元素は全て[[金属]]元素であるが、[[d軌道]]またはf軌道など[[電子殻|内殻]]に空位の軌道を持つため、典型元素の金属とは異なる化学的性質を持つ。そのため、これら金属元素は「遷移金属」とも呼ばれる。
例えば、内殻の[[d軌道]]に安定な不対電子を持つことが可能なため、遷移金属の多くは常磁性であったり、複数の酸化数をとることが容易である。あるいはd軌道はさまざまな配位子と結合して、同じ元素でも多様な錯体を形成する。
一方、内殻軌道が閉殻の[[亜鉛]]、[[カドミウム]]、[[水銀]]([[第12族元素|亜鉛族元素]])は[[電子配置]]も化学的性質も典型元素の金属に近いので遷移元素とはされない。
== 遷移元素の電子配位一覧 ==
=== 第一遷移元素 ===
{| class="wikitable"
|+ 第一遷移元素(3d遷移元素)<ref name=kotobank>{{Cite Kotobank|word=遷移元素|encyclopedia=世界大百科事典 第2版|accessdate=2022-01-26}}</ref>
! 元素記号</th><th>元素名</th><th>電子配位(基底状態、中性原子)
|-
| Sc || [[スカンジウム]] || 3d4s<sup>2</sup>
|-
| Ti || [[チタン]] || 3d<sup>2</sup>4s<sup>2</sup>
|-
| V || [[バナジウム]] || 3d<sup>3</sup>4s<sup>2</sup>
|-
| Cr || [[クロム]] || 3d<sup>5</sup>4s
|-
| Mn || [[マンガン]] || 3d<sup>5</sup>4s<sup>2</sup>
|-
| Fe || [[鉄]] || 3d<sup>6</sup>4s<sup>2</sup>
|-
| Co || [[コバルト]] || 3d<sup>7</sup>4s<sup>2</sup>
|-
| Ni || [[ニッケル]] || 3d<sup>8</sup>4s<sup>2</sup>
|-
| Cu || [[銅]] || 3d<sup>10</sup>4s<sup>1</sup>
|}
* [[亜鉛]](Zn [3d<sup>10</sup>4s<sup>2</sup>])を含めることがある<ref name=kotobank2>{{Cite Kotobank|word=遷移元素|encyclopedia=百科事典マイペディア|accessdate=2022-01-26}}</ref>。
=== 第二遷移元素 ===
{| class="wikitable"
|+ 第二遷移元素(4d遷移元素)<ref name=kotobank />
! 元素記号 !! 元素名 !! 電子配位(基底状態、中性原子)
|-
| Y || [[イットリウム]] || 4d<sup>1</sup>5s<sup>2</sup>
|-
| Zr || [[ジルコニウム]] || 4d<sup>2</sup>5s<sup>2</sup>
|-
| Nb || [[ニオブ]] || 4d<sup>4</sup>5s<sup>1</sup>
|-
| Mo || [[モリブデン]] || 4d<sup>5</sup>5s<sup>1</sup>
|-
| Tc || [[テクネチウム]] || 4d<sup>5</sup>5s<sup>2</sup>
|-
| Ru || [[ルテニウム]] || 4d<sup>7</sup>5s<sup>1</sup>
|-
| Rh || [[ロジウム]] || 4d<sup>8</sup>5s<sup>1</sup>
|-
| Pd || [[パラジウム]] || 4d<sup>10</sup>
|-
| Ag || [[銀]] || 4d<sup>10</sup>5s<sup>1</sup>
|}
* [[カドミウム]](Cd [4d<sup>10</sup>5s<sup>2</sup>])を含めることがある<ref name=kotobank2 />。
=== 第三遷移元素 ===
第三遷移元素は、[[ランタン]](La)から[[金]](Au)までの元素をいう<ref name="GOLDBOOK" /><ref name="LTChem">[http://www.chem.latech.edu/~upali/chem481/481CHEM%20c7.htm Chapter_7._d-Metal Complexes]</ref><ref name=kotobank />。不完全4f殻への電子充填である[[ランタノイド]]を内部遷移元素としてさらに区別する場合がある。
{| class="wikitable"
|+ 第三遷移元素(5d、4f遷移元素)
! 元素記号 !! 元素名 !! 電子配位(基底状態、中性原子)
|-
| La || [[ランタン]] || 5d<sup>1</sup>6s<sup>2</sup>
|-
| Ce || [[セリウム]] || 4f<sup>1</sup>5d<sup>1</sup>6s<sup>2</sup>
|-
| Pr || [[プラセオジム]] || 4f<sup>3</sup>6s<sup>2</sup>
|-
| Nd || [[ネオジム]] || 4f<sup>4</sup>6s<sup>2</sup>
|-
| Pm || [[プロメチウム]] || 4f<sup>5</sup>6s<sup>2</sup>
|-
| Sm || [[サマリウム]] || 4f<sup>6</sup>6s<sup>2</sup>
|-
| Eu || [[ユウロピウム]] || 4f<sup>7</sup>6s<sup>2</sup>
|-
| Gd || [[ガドリニウム]] || 4f<sup>7</sup>5d<sup>1</sup>6s<sup>2</sup>
|-
| Tb || [[テルビウム]] || 4f<sup>9</sup>6s<sup>2</sup>
|-
| Dy || [[ジスプロシウム]] || 4f<sup>10</sup>6s<sup>2</sup>
|-
| Ho || [[ホルミウム]] || 4f<sup>11</sup>6s<sup>2</sup>
|-
| Er || [[エルビウム]] || 4f<sup>12</sup>6s<sup>2</sup>
|-
| Tm || [[ツリウム]] || 4f<sup>13</sup>6s<sup>2</sup>
|-
| Yb || [[イッテルビウム]] || 4f<sup>14</sup>6s<sup>2</sup>
|-
| Lu || [[ルテチウム]] || 4f<sup>14</sup>5d<sup>1</sup>6s<sup>2</sup>
|-
| Hf || [[ハフニウム]] || 4f<sup>14</sup>5d<sup>2</sup>6s<sup>2</sup>
|-
| Ta || [[タンタル]] || 4f<sup>14</sup>5d<sup>3</sup>6s<sup>2</sup>
|-
| W || [[タングステン]] || 4f<sup>14</sup>5d<sup>4</sup>6s<sup>2</sup>
|-
| Re || [[レニウム]] || 4f<sup>14</sup>5d<sup>5</sup>6s<sup>2</sup>
|-
| Os || [[オスミウム]] || 4f<sup>14</sup>5d<sup>6</sup>6s<sup>2</sup>
|-
| Ir || [[イリジウム]] || 4f<sup>14</sup>5d<sup>7</sup>6s<sup>2</sup>
|-
| Pt || [[白金]] || 4f<sup>14</sup>5d<sup>9</sup>6s<sup>1</sup>
|-
| Au || [[金]] || 4f<sup>14</sup>5d<sup>10</sup>6s<sup>1</sup>
|}
*[[水銀]](Hg [4f<sup>14</sup>5d<sup>10</sup>6s<sup>2</sup>])を含めることがある<ref name=kotobank2 />。
=== 第四遷移元素 ===
第四遷移元素は、[[アクチニウム]]から[[レントゲニウム]]までの元素をいう<ref name="GOLDBOOK" /><ref name="LTChem" />。ほぼ不完全5f殻への電子充填である[[アクチノイド]]を内部遷移元素としてさらに区別する場合がある。
<!-- [[コペルニシウム]](Cn)は含めない?)
{| class="wikitable"
|+ 第四遷移元素(6d、5f遷移元素)
! 元素記号 !! 元素名 !! 電子配位(基底状態、中性原子)
|-
| Ac || [[アクチニウム]] || 6d7s<sup>2</sup>
|-
| Th || [[トリウム]] || 6d<sup>2</sup>7s<sup>2</sup>
|-
| Pa || [[プロトアクチニウム]] || 5f<sup>2</sup>6d7s<sup>2</sup>
|-
| U || [[ウラニウム]] || 5f<sup>3</sup>6d7s<sup>2</sup>
|-
| Np || [[ネプツニウム]] || 5f<sup>4</sup>6d7s<sup>2</sup>
|-
| Pu || [[プルトニウム]] || 5f<sup>6</sup>7s<sup>2</sup>
|-
| Am || [[アメリシウム]] || 5f<sup>7</sup>7s<sup>2</sup>
|-
| Cm || [[キュリウム]] || 5f<sup>7</sup>6d7s<sup>2</sup>
|-
| Bk || [[バークリウム]] || 5f<sup>9</sup>7s<sup>2</sup>
|-
| Cf || [[カリホルニウム]] || 5f<sup>10</sup>6d7s<sup>2</sup>
|-
| Es || [[アインスタイニウム]] || 5f<sup>11</sup>7s<sup>2</sup>
|-
| Fm || [[フェルミウム]] || 5f<sup>12</sup>7s<sup>2</sup>
|-
| Md || [[メンデレビウム]] || 5f<sup>13</sup>7s<sup>2</sup>
|-
| No || [[ノーベリウム]] || 5f<sup>14</sup>7s<sup>2</sup>
|-
| Lr || [[ローレンシウム]] || 5f<sup>14</sup>7s<sup>2</sup>7p
|}
-->
== 電気伝導性 ==
遷移金属とも呼ばれるように、遷移元素は単体では良導体であるが、[[酸化物]]になると配位数や格子間距離などに応じて、様々な電気的特性を示す。
例えば PrNiO<sub>3</sub> や NdNiO<sub>3</sub> は低温では絶縁体であるが、室温になると金属になる。これらは典型的な[[モット絶縁体]]であり、低温では[[価電子]]が[[ニッケル|Ni]]サイトに局在している。しかし、温度が上昇すると[[プラセオジム|Pr]]、[[ネオジム|Nd]]のイオン半径が増加するため、結晶構造に歪みが生じる。これにより、Niサイトに局在していた電子が波動性を回復して結晶全体に広がり、金属に転移する。
== 磁性 ==
遷移元素において安定な不対電子が存在しやすい性質は、磁性を持つ元素が多数含まれることの理由の一つとなっている。すなわち、典型元素では最外殻の不対電子は他の原子と共有結合することで安定化して不対電子の磁気的性質が容易に打ち消されるのに対し、遷移金属では不対電子を持つ単体やイオンが安定であるために典型元素に比べて磁気的性質を発現するものが多い。
電子配置の面だけでなく、磁性は結晶構造や錯体構造とも密接な関連があり、このことが多様な構造を持つ遷移元素においてさまざまな磁気的性質を発現する要因にもなっている。
== 触媒活性 ==
遷移元素は良い均一系・不均一系触媒となりうる。例えば鉄は[[ハーバー・ボッシュ法]]の触媒である。また、[[五酸化バナジウム]]は[[硫酸]]製造の[[接触法]]に、ニッケルはマーガリン製造の[[水素添加]]に、白金は[[硝酸]]製造に、それぞれ用いられる。遷移元素は反応中にさまざまな酸化状態をとりながら[[錯体]]を形成し、活性化エネルギーの低い経路を提供する。
== 色 ==
[[Image:Coloured-transition-metal-solutions.jpg|thumb|270px|遷移元素化合物の水溶液。左から<br /> [[硝酸コバルト|Co(NO<sub>3</sub>)<sub>2</sub>]] (赤)、[[二クロム酸カリウム|K<sub>2</sub>Cr<sub>2</sub>O<sub>7</sub>]] (橙)、[[クロム酸カリウム|K<sub>2</sub>CrO<sub>4</sub>]] (黄)、[[塩化ニッケル|NiCl<sub>2</sub>]] (緑)、[[硫酸銅(II)|CuSO<sub>4</sub>]] (青)、[[過マンガン酸カリウム|KMnO<sub>4</sub>]] (紫)]]
[[光]]は電場と磁場の振動であり、その振動数が異なると、目を通して違った色として認識される。色の変化は、ある物質に入射した光が反射・透過・吸収されることによって起こる。遷移元素のイオンや錯体は、その構造に由来してさまざまに着色している。同じ元素であっても構造が違えばその色は異なる。例えば7価のマンガンのイオン MnO<sub>4</sub><sup>−</sup> は紫だが、Mn<sup>2+</sup> は薄い桃色である。
遷移元素の錯体では配位子が化合物の色を決定する要素となるが、これは配位によって[[d軌道]]のエネルギーが変化するためである。配位子が遷移元素イオンと結びつくと、縮退していたd軌道は高[[エネルギー準位]]の組と低エネルギー準位の組に分かれる。配位子を持つイオン、つまり錯体に光を当てると、低エネルギー準位にあった電子が高エネルギーの準位に移動する([[遷移]]する)。このとき吸収される光が、色として認識される。吸収される光はエネルギー準位の差とちょうどエネルギーを持つものに限られるため、準位差の違いは吸収する光の波長、すなわち色の違いとして現れる。
錯体の色は以下の要素によって決まる。
* 中心となる遷移元素イオンの性質、特にd電子の数。
* 中心イオンの周りの配位子の位置。[[幾何異性体]]は異なる色を示すことがある。
* 配位子の性質。強い配位子が結合すると、エネルギー準位の分裂幅は大きい。
亜鉛の場合、3d軌道がすべて満たされているため、低エネルギーのd軌道から高エネルギーのd軌道への遷移が起こらない。それゆえ、亜鉛の錯体は無色である。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* F.A.Cotton, G.Wilkinson, C.A. Murio, M. Bochmann, "Advanced Inorganic Chemistry", 6th Ed., 1999. {{ISBN2|0-471-19957-5}}.
== 関連項目 ==
* [[結晶場理論]]
* [[配位子場理論]]
* [[周期表]]
* [[dブロック元素]]
* [[ランタノイド]]
* [[アクチノイド]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
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[[Category:遷移金属|*]]
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8,372 | 金剛峯寺 | 金剛峯寺(こんごうぶじ)は、和歌山県伊都郡高野町高野山にある高野山真言宗の総本山の寺院。正式には高野山金剛峯寺(こうやさんこんごうぶじ)と号する。
高野山は、和歌山県北部、周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの盆地状の平坦地に位置する。100か寺以上の寺院が密集する日本では他に例を見ない宗教都市である。京都の東寺と共に、真言宗の宗祖である空海(弘法大師)が修禅の道場として開創し、真言密教の聖地、また、弘法大師入定信仰の山として、21世紀の今日も多くの参詣者を集めている。2004年(平成16年)7月に登録されたユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産の一部。
「金剛峯寺」という寺号は、明治期以降は1つの寺院の名称になっている。しかし高野山は「一山境内地」といわれ高野山全域が寺の境内地とされ、金剛峯寺の山号が高野山であることからも分かるように、元来は真言宗の総本山としての高野山全体と同義であった。寺紋は五三桐紋と三つ巴紋。
空海は、最澄(天台宗の開祖)と並び、平安仏教を開いた僧である。著作家、書道家としても優れ、灌漑事業などを行った社会事業家、綜藝種智院を開設した教育者としての側面もある。後世には「お大師様」として半ば伝説化・神格化され、信仰の対象ともなっており、日本の仏教、芸術、その他文化全般に与えた影響は大きい。空海は宝亀5年(774年)、讃岐国屏風浦(香川県善通寺市)に生まれ、俗姓を佐伯氏といった。十代末から30歳頃までは修行期で、奈良の寺院で仏典の研究に励み、時に山野に分け入って修行した。延暦23年(804年)、留学生(るがくしょう)として唐に渡航。長安・青龍寺の恵果に密教の奥義を学び、大同元年(806年)帰国している。
空海が嵯峨天皇から高野山の地を賜ったのは弘仁7年(816年)のことであった。空海は、高い峰に囲まれた平坦地である高野山を、高い峰々を蓮の花に見立て八葉蓮華(八枚の花弁をもつ蓮の花=曼荼羅の象徴)として、山上に曼荼羅世界を現出しようとしたものである。
既述のように、空海が嵯峨天皇から高野山の地を賜ったのは弘仁7年(816年)のことであり、空海が若い時に修行したことのあるこの山に真言密教の道場を設立することを天皇に願い出たというのが史実とされている。なお、平安中期の成立とされる『金剛峯寺建立修行縁起』にはこれとは異なった開創伝承が残されている。空海が修行に適した土地を探して歩いていたところ、大和国宇智郡(奈良県五條市)で、黒白2匹の犬を連れた狩人(実は、狩場明神という名の神)に出会った。狩人は犬を放ち、それについていくようにと空海に告げた。言われるまま、犬についていくと、今度は紀伊国天野(和歌山県かつらぎ町)というところで土地の神である丹生明神(にうみょうじん)が現れた。空海は丹生明神から高野山を譲り受け、伽藍を建立することになったという。この説話に出てくる丹生明神は山の神であり、狩場明神は山の神を祭る祭祀者(原始修験者)であると解釈されている。つまり、神聖な山に異国の宗教である仏教の伽藍を建てるにあたって、地元の山の神の許可を得たということを示しているのだとされている。高野山では狩場明神(高野明神とも称する)と丹生明神とを開創に関わる神として尊崇し、壇上伽藍の御社(明神社)において現在でも祀られている。また丹生都比売神社でも、丹生明神と狩場明神が祀られ、金剛峯寺と丹生都比売神社は古くから密接な関係にあり、神仏分離後の今日でも金剛峯寺の僧の丹生都比売神社への参拝が行われている。
空海が天長9年(835年)奥之院に入定後、86年経った延喜21年(921年)に東寺長者の観賢の上奏により醍醐天皇が空海に「弘法大師」の諡号を贈った。観賢は、その報告のため高野山へ登り奥之院の廟窟に入ると、入定した空海(即身仏)は、髪を伸ばし、その姿は普段と変わりなく、まるで生きているかのように禅定している空海の姿があったと伝えている。このことから「弘法大師は今も奥之院に生き続け、世の中の平和と人々の幸福を願っている」という入定信仰が生まれた。
空海が高野山に入山し最初にしたことは、高野山を中心に東西、南北にそれぞれ七里の結界を張り、俗世と聖地高野山との境界としたことであった。高野山は元々祖霊の集まる神聖な場所で、それを人々へ承知させ、結界内に不浄なものを入れないために、高野山を囲む山々の峰をつなぐ線として、密法の法により結界を張ったとされている。また高野山全域の結界の中に更に二重の結界が張られ、その二重の結界内部は、のちに信仰の中心となる伽藍を建立する壇上(壇場)とされた。
結界内に開創以来、次の4つの禁が明治まで続いた。
女人禁制により女性が山内に入ることができず、高野参詣道の終着点の高野七口といわれる結界への入り口付近に女性たちの籠もり堂(参籠所)として女人堂ができ、各女人堂をめぐる結界に沿ってできた参詣道が女人道である。1872年(明治5年)明治政府が太政官布告第98号「神社仏閣女人結界ノ場所ヲ廃シ登山参詣随意トス」を発布し、女人禁制が廃止されたが、実質、高野山において公式に女人禁制が解かれたのは高野山開創1100年記念大法会にむけて、高野山の結界残部を残らず解除した1906年(明治39年)である。
遊芸に関わる鳴り物をしない禁を破ったことに関する逸話として、豊臣秀吉が、母大政所の三回忌の際に高野山開創以来の禁令の笛太鼓や鼓などを用いた能狂言を催したところ、当日、雲がなかったが、能が始まると暗雲が広がり、天地が振動し凄まじい雷雨が襲った。大師の怒りと恐れおののいた秀吉は、単騎一目散に山を駆け降り難を逃れたと伝わる。
鶏と猫は禁じているが、犬だけは飼うことが許されたのは、高野山開創伝承で犬が空海を高野山へ導いたためである。
平安時代以降、江戸時代まで存在した高野山の僧徒の三派の称で、学侶、行人、聖で構成され、明治になり廃止、統合された。通称「高野十谷」といわれる谷ごとに学侶や行人の坊が造られ、多くの子院・塔頭があった。学侶、行人、聖の順に階級的要素があり、聖が一番下層に見られる傾向があり、度々派閥的争いがあった。
高野山内は、壇上伽藍、奥之院と十谷とよばれる十の地区で構成されている。各谷には学侶や行人の塔頭・子院が立ち並び、各谷ごとに共用の堂宇や湯屋などの施設があり、谷ごとに講などが行われていた。現在においても117か寺が存在する(後述)。この他に、念仏を唱える聖(念仏聖)が集まった十谷から離れた「別所」とよばれる場所もあった。
奈良東大寺の大仏勧進で知られる重言が再興した別所は「真別処」(正式名称:高野山事相講伝所円通律寺)とよばれ、現在でも女人禁制の戒律を守り、年に1度、旧暦の花祭り(釈尊降誕会)のときだけ、一般に開放され女性も参拝できる。
弘仁7年(816年)、高野山を賜った空海は、翌年から実恵、円明などの東寺にいた弟子達に命じ草堂を建てさせ、819年に空海が高野山に結界を張り伽藍の建立に取りかかったが、国の援助を得ずに人々からの勧進による私寺建立を目指したこと、交通不便な山中であること、また朝廷からの要請による821年の香川県の満濃池の修築や828年の京都の綜芸種智院の開設などにより、空海が多忙であったことで、工事ははかどらなかった。空海の在世中に完成した堂宇はごくわずかであり、無論、当時の建築物は現存していない。承和2年(835年)には定額寺に列し官寺に准ずる寺格を得た(『続日本後紀』承和八年二月七日条)。空海の入定(835年)の後、弟子であり実の甥でもあった真然が887年頃に根本大塔などの伽藍を整備した。
真然が空海が唐で恵果から教わった奥義や経典を書写した「三十帖策子(三十帖冊子)」を東寺から借り出したが、「三十帖策子」を所有することで真言宗の根本寺院を意味したので、その後の東寺からの返却要請に応じず、紛争の原因となった。第2代座主無空は返還を拒否し「三十帖策子」を持って一山の者を連れ下山し、約20年にわたり高野山に人影が無い状態が続き、第一期の荒廃期を迎えた。この紛争を解決したのが東寺長者の観賢であった。「三十帖策子」は東寺に返却され、観賢が高野山座主を兼ねることで、高野山は東寺の配下となり、明治維新まで高野山は東寺の末寺となったが、先述したように、921年この観賢の上奏により空海に「弘法大師」の諡号が贈られ、入定信仰が生まれ次第に高野山の復興に繋がっていった。
正暦5年(994年)には落雷による火災のため、ほとんどの伽藍を失い、また朝廷から復興の命を受けた国司による専横もあり、僧は皆、山を下り麓の天野(現、丹生都比売神社)に本拠を移し、第2の荒廃の時期を迎えた。荒廃した高野山は、長和5年(1016年)頃から、奈良・興福寺の勧進聖だった定誉(祈親上人)が再興に着手し、定誉の働きかけで宗派を超えた様々な勧進僧(後の高野聖)が協力した。その中でも仁海が定誉に協力し京都で高野山の霊場信仰を説いたことで、治安3年(1023年)には藤原道長の登拝に結びついた。また平安末期は、末法思想が広がっていた時代で、高野聖による勧進により浄土信仰、弘法大師信仰が、皇族などにも広がり、白河上皇、鳥羽上皇が相次いで参詣するなど、高野山は現世の浄土としての信仰を集め、寺領も増加し堂塔の再建や寺院の建立など高野山の復興に弾みがついた。この頃には高野三方とよばれる学侶、行人、聖の三派の原型が成立していたと考えられ、高野聖は各地で勧進活動を行い皇族、貴族、一般庶民への浄土信仰が広まっていった。定誉(祈親上人)が高野山復興を志したのは、奈良県・長谷寺を参詣したおりに、本尊の十一面観音菩薩から高野山に登るようにとのお告げを受けたためという伝承があり、お告げに従い高野山奥の院で灯明を捧げるが、それが現在も奥の院で1000年以上も燃え続ける「持経灯(祈親灯)」である。
時の権力者の藤原道長の参詣を期に多くの権力者からの帰依を得ることができ、高野山の復興は進むが、空海が入定した地として真言宗最高の聖地でありながら東寺の末寺として扱われ、社会的地位は低いままであった。これは仏教の世俗化により勧進僧の聖(高野聖)など志の低い僧が増加していたことも一因であった。高野山中興の祖といわれる興教大師覚鑁は、鳥羽上皇の院宣を得て大伝法院座主に就任し、長承3年1(1134年)には金剛峯寺の座主を兼任し、教学、行法上の改革を志した。しかし保延6年(1140年)には高野山内で勢力を急拡大させた覚鑁は、聖方だったことや、また「密教では大日如来と阿弥陀如来は同体異名で、阿弥陀如来の極楽浄土と大日如来の密厳浄土は、名前は違うが同じ」と説いたことで、保守系の学侶方の多数の僧徒が反発し、覚鑁がいた密厳院を襲うなどして覚鑁一派を高野山から下山させ(錐もみの乱)、覚鑁らはやがて根来寺へ移り新義真言宗を成立させてゆく。
平安時代末期からの源平の騒乱期には、高野山は都から離れた場所にあり、また中立を保っていたことで戦禍に見舞われることが無かったため、現世浄土として様々な僧が集まり、また敗者の平家の納骨も活発に行われた。また源氏方でも恩賞に不服があり出家する武士が目立つようになり、そして高野山に草庵を建てて住み、仏道に励んだり、堂宇を建てることで空海の功徳を得ようとした。彼らも、また高野聖となっていった。そのため平安中期以降の高野山は様々な僧侶や聖が集う「お山」となっていった。武士政権になり皇族や貴族の権威は落ちるが、むしろ堂宇建立が以前より活発に行われた。その一例として鳥羽上皇の皇后美福門院が菩提心院、六角経蔵の建立、荘園の寄進があげられる。
高野山表参道の町石道に高野山開創の頃からあった道標で町数をしめす木製卒塔婆は、鎌倉時代には老朽化が激しく、皇族・貴族、僧侶、庶民にいたるあらゆる階層の人々の寄進により建て替えられていくが、その最大の支援を行ったのは鎌倉幕府で、幕府の有力御家人の安達泰盛や他の幕府要人の支援があり、文永2年(1265年)から20年の歳月をかけ、石製卒塔婆に置き換えられ、現在にも残る町石道として整備された。また時の権力者、源頼朝の正室北条政子は、亡夫の源頼朝菩提のため禅定院(金剛三昧院の前身)を建立し、その後金剛三昧院を建立した。政子が鎌倉から離れた高野山へ帰依した理由として、高野山への敬意があったのは勿論のことだが、源頼朝の三男の貞暁の存在が大きい。貞暁は政子の子で無かったため、嫉妬深い政子の迫害から逃れるために承久2年(1220年)高野山に入山する。江戸時代の歴史書「高野春秋」によると、北条政子は実子の3代将軍源実朝を亡くすと、貞暁が4代将軍になる意志があるか確認するために高野山を訪れ、女人禁制があるため高野山山麓の天野社(現・丹生都比売神社)で貞暁と面会した。政子と面会した貞暁はすぐさま短刀を取り出し自身の左目をえぐり出し武士に戻る意思がないことを示した。この潔さに心打たれた政子は貞暁に強く帰依し、高野山へ多くの寄進を行うようになった。一説では、それは高野山への監視の目的もあったとされるが、鎌倉幕府からの強い庇護につながった。また政子は、この面会が行われた天野社(丹生都比売神社)の社殿も寄進している。
このように有力者による寺院建立もあり、永承3年(1048年)には僧坊16宇だったが、100年後の久安4年(1148年)には学侶方300人、行人方・聖方2000人を有する規模になったと伝わり、最盛期には2,000もの堂舎が立ち並んだという。またこの頃には諸堂伽藍は主に学侶方が、奥之院は行人方が支配するようになっていた。
鎌倉末期から南北朝が合一に至るまで日本全土に争乱が続く中、大勢力となっていた高野山に南北朝両勢力より協力要請などの働きかけがあったが、高野山は一貫して中立を保っていたため、南朝の後醍醐天皇が1334年に愛染堂を寄進、また南北朝統一後すぐに北朝方の足利尊氏は高野山の段銭や諸役の免除、寺領への守護不入の権利を与え手厚く庇護した。その後、足利尊氏、義満が高野参詣し、室町幕府とも良好な関係が続く。
高野山の教学を二分する学侶方勢力の宝性院院主の宥快は「宝門」、無量寿院院主の長覚は「寿門」という学派を組織し、応永19年(1412年)頃に「応永の大成」とよばれる教学の組織改編を推し進め、その結果、真言密教教学の確立にともなって、高野山の主導権が学侶方にあるべきとの風潮が高まった。この学侶の二大勢力は、その後も塔頭寺院筆頭格として江戸時代まで続き、明治時代に両院は合併し、宝寿院となった。しだいに学侶と行人との対立は深まり、寛正5年(1464年)には学侶方と高野山の実務を行ってきた行人方と合戦が行われた。また、この頃の高野聖は密教教学から離れて時宗化し、また禁止されていた鳴り物を使った踊り念仏、鉦叩きを別所(本拠地を離れた所に営まれた聖が集まって修行するための庵や仏堂を設けた場所)で行っていたため、それら行為を学侶方から禁止され、学侶、行人、聖の対立が表面化する。またこの頃の聖の中には、利潤追求のためだけの宿坊経営や高野山を利用した商売を行う者、また諸国を遍歴していた者による他人の妻・娘をかどわかしたりする問題行為も絶えなかったと伝わる。
永正18年(1521年)には大火により大塔、金堂以下伽藍300余宇、僧坊など3900余宇を焼失し、全山が壊滅状態となり高野山は著しく衰退する。高野聖は熱心な諸国遍歴で勧進を続け、弘法大師信仰は急速に庶民の間にも広がっていったが、戦国の世のため、なかなか伽藍復興には結びつかなかった。そこで高野山は有力大名との間で師壇関係や宿坊契約を結ぶことで、高野山への宝物寄進や奥之院への納骨・納髪、石塔建設が盛んとなった。この頃は武士の間で高野山信仰が広まり、戦国大名が寄進した子院が数多く作られた。例えば子院で宿坊の高室院は鎌倉時代の創建であるが、小田原北条氏が壇越(スポンサー)となり、北条氏の菩提寺となった。同寺院は北条氏の領国である武蔵・相模・伊豆三国を布教地域としていた。のち北条氏が滅ぶと、当主の北条氏直は高室院に隠棲して生涯を終えている。
戦国時代の高野山は寺領17万石、3万の僧兵を擁す巨大勢力であったため、織田信長の標的の一つであったが、天正8年(1580年)に織田信長に謀反を起こした荒木村重が家臣数人とともに高野山へ逃げ込んだため、信長家臣三十数名が取り調べに高野山へ来たが、行人方山徒が足軽達は捜索ではなく乱暴狼藉を働いたという理由で誅殺してしまう。激怒した信長は畿内を巡遊していた高野聖1383人を捉え惨殺し、さらに数万の軍勢で高野山攻めが行われた。しかし、ほどなく信長が本能寺の変で倒れたため、高野山は取り敢えずの難を免れた。しかし豊臣秀吉は、根来攻めに引き続き、高野山に使者を派遣し寺領の返還や武装解除を迫るなどの条件をだし降伏を勧めた。当時高野山にいた武士出身の僧・木食応其が仲介者となって秀吉に武装解除などの服従を誓ったため、石高は減らされたものの、高野山は存続することができた。のちに秀吉は応其を強く信頼し帰依するようになり、最終的に2万1000石の寺領が安堵され、秀吉は永正18年(1521年)に消失した伽藍の大塔、金堂など25棟の堂宇の再建に協力し、興山寺や母・大政所の菩提のために青巌寺(豊臣秀次が自刃した場所としても知られ、現在の総本山金剛峯寺の前身である)を建て高野山を庇護することとなった。応其は、秀吉の高野山攻めを阻止しただけでなく、秀吉の信頼を得、庇護につなげたため、「高野は応其にしてならず」と言わしめたと伝わる。
文禄3年(1594年)徳川家が子院の蓮華院に大徳院という院号を与え、菩提所・宿坊と定めたこともあり、諸大名もこれに見習い、また多くの有力者が高野山の子院と壇縁関係を結び、また奥之院に霊屋、墓碑、供養塔などを建立するようになった。その数は多く、徳川家、及び譜代大名は大徳院と師壇関係を、その他300程度の大名が山内の寺院と師壇関係を結んだとされる。徳川幕府も高野山に寺領を2万1000石を安堵したが、その内訳は慶長6年(1601年)に得た朱印状の寺領安堵状によると、学侶方に9500石の寺領、行人方に11500石の寺領が分け与えられた。しかし聖方には寺領は与えられず、家光の時代に聖方の大徳院境内にあった徳川家霊台の祭祀料として支給された200石のみであった。この朱印状により、高野山の寺領管理は、学侶方・行人方に分けて任されることとなった。しかし、学侶方の宝性院、無量寿院の門主には十万石の大名の格式での江戸への参勤交代を義務づけ、高野山が幕藩体制に組み込まれることとなった。この頃、時宗化していた聖(時宗聖)は大徳院の院号の権威で勢いをまし、学侶、行人方と同じ屋形作りで破風に狐格子の院を構えたところ、行人方の反感をかい、慶長11年(1606年)に行人方は大徳院を襲撃し狐格子を壊したが、聖方が家康に訴えたところ、幕府からの裁定が下り、行人は時宗聖方の屋造りに干渉せぬこと、時宗聖方は時宗を改めて真言宗に帰入することが定められた。この後、聖方は大徳院の聖方に留まる者と、行人方に転派するものに分かれ、事実上の高野聖の終焉となった。また幕府により遊芸者や諸国を遍歴する勧進僧は厳しく取り締まられ、今までのような高野聖としての役目を全うすることが難しくなり、全国を遍歴していた聖は、日本全国各地の村落にある小堂・小庵に定着するようになった。そのことで全国各地に大師堂や弘法大使を信仰する寺が造られ、庶民も気軽に先祖供養が行なえるようになったと考えられている。
正保3年(1646年)の「御公儀上一山図」によると山内院家数は最盛期の1600年代中頃で、学侶方210院、行人方1440院、聖方120院、客僧坊42院、その他53院の1865院と記録されている。幕府の力は強大で、元禄高野騒動といわれる学侶方と行人方の権力闘争の結果、元禄5年(1692年)に幕府が裁定を下し、従わなかった行人627人を流刑にし、行人方の坊を280坊にまで減らし、以後増えることは無く、完全に幕藩体制に組み込まれていたことがうかがえる。元禄年間(1688年 - 1704年)の頃から庶民の参詣が増加したのに伴い、高野山内に僧侶以外の職人や町人が多く常住するようになっていた。
明治の新時代の1868年(慶応4年/明治元年)に神仏判然令(神仏分離令)が発布されたことで、仏教界にとって未曾有の危機的状況となったが、高野山にとっても例外ではなかった。政府より高野山に神仏分離の通達が下り、また政府の命令により学侶、行人、聖の3派が廃止され、1869年(明治2年)に秀吉が建立した青巌寺と興山寺が合併し寺号が金剛峯寺と改められた。このことで、金剛峯寺という寺号は本来高野山全体を指す寺号であったが、この時より「金剛峯寺」は高野山真言宗の管長が住む総本山寺院を意味するようになった。
1871年(明治4年)に版籍奉還によって寺領2万1000石は新政府に返還させられ、また高野山が行っていた自治制を失い、山内に役場の設置、警察の派遣が行われた。1872年(明治5年)明治政府から太政官布告第98号「神社仏閣女人結界ノ場所ヲ廃シ登山参詣随意トス」が発布され、近代化政策を進める新政府によって女人禁制が解かれた。1873年(明治6年)には高野山所有の山林3000ヘクタールも返上し、完全に経済的基盤を失うこととなった。このため還俗し山を去る僧侶も増え廃寺となる寺院が増えていったが、追い打ちをかけるように1879年(明治12年)の火災で70の堂舎が焼失、次いで1884年(明治17年)50ヶ寺焼失、130戸に類焼、さらに1888年(明治21年)3月23日、24日にも大火災があり多くの寺院、町家を焼失することとなった。高野山の危機的状況に1891年(明治24年)高野山の維持と自立存続を図るために一山が協議し、明治初期に680余ヶ寺もあった寺院を、130ヶ寺まで統廃合することを決定し、現在に近い状態へとなった。
明治中期に国内情勢が安定してくると、高野山に残る膨大な宝物の保護活動が始まった。1891年(明治24年)・1893年(明治26年)に宮内省臨時全国宝物取調局より重要宝物の鑑査状が交付された。1894年(明治27年)世間に高野山の宝物の価値を認知してもらうために金剛峯寺で宝物展を開催。1898年(明治31年)帝室博物館による高野山宝物調査と修復が行われた。1906年(明治39年)開創1100年記念大法会に向け、金剛峯寺が高野山全域に残る結界を解除したことで、全ての禁制が解かれ実質的に女人禁制も完全解除され、金剛峯寺が公式に女性の入居住を認めたこととなった。1899年金剛三昧院多宝塔、金剛峯寺不動堂などが、また1908年(明治41年)には66点もの多くの美術工芸品が旧国宝に指定されたことで、宝物館建設の声が高まった。1913年(大正2年)2年後を迎える高野山開創1100年大法会記念事業として宝物館建設を目標とする「高野山興隆会」が発足し、建設費を募る勧進運動が全国展開された。1916年(大正5年)宝物館建設趣旨徹底のための二度目の「宝物展覧会」が金剛峯寺にて開催された。第一次世界大戦が勃発してから日本からの輸出が活発になったことで、物価や人件費が高騰し建設費も高騰したため、当初計画よりも規模を縮小し、1918年(大正7年)高野山初の宝物館「霊宝館」の建設が始まる。1921年(大正10年)霊宝館開館。1918年(大正7年)に公布された大学令に基づいて、1926年(大正15年)高野山大学が開設された。同年12月26日、金堂が創建当初のものと云わる本尊像などとともに焼失(#壇上伽藍 金堂で後述)。
1934年(昭和9年)9月21日、室戸台風の暴風雨により倒木多数。御廟所前の灯篭堂は二丈あまりの老木が倒れ掛かり倒壊した。
第二次世界大戦後の混乱期には日本各地の文化財が海外へ流出したことで、高野山でも文化財保護の機運が高まり、1957年(昭和32年)財団法人(現・公益財団法人)高野山文化財保存会が設立され、高野山の文化財を一括管理するようになり、また文化財防災専用水管が山内の1万メートルに張り巡らされた。2004年(平成16年)ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産の一部として高野山が登録された。2015年(平成27年)高野山開創1200年記念大法会が執り行なわれた。
平安期、摂関政治が盛んであった頃、「入定信仰」や「高野浄土信仰」が起こり、その信仰が高まりを見せると、上皇・天皇・皇族や貴族による、高野山参詣が相次ぎ、また帰依したことで、高野山の復興・発展することに繋がった。
高野山は「一山境内地」といわれ、かつて結界が張られていた内部全域が境内地とされ、境内の中に開かれた宗教都市である。山内を大きく分別すると、壇上伽藍(伽藍地区)、総本山金剛峯寺(本坊)、奥之院(墓域)、高野十谷(子院・塔頭地区(既述))で構成されている。これらの地区全体の西端には高野山の正門にあたる大門(重要文化財)がある。信仰の中心となるのは山内の西寄りに位置し、かつて空海により二重の結界(既述)が張られた壇上伽藍と呼ばれる聖域である。ここには総本山金剛峯寺の総本堂にあたる金堂や真言密教の根本道場となる根本大塔を中心とする主要な堂塔が立ち並び、伽藍地区となっている。その東北方に本坊である主殿が建つ総本山金剛峯寺がある(広義における金剛峯寺は高野山全体と同義だが、狭義における金剛峯寺はこの本坊のある総本山金剛峯寺を指す)。壇上伽藍の周辺地区には高野十谷があり、「子院(塔頭)」と呼ばれる多くの寺院が立ち並び、また高野山大学、霊宝館(各寺院の文化財を収蔵展示する)などもある。地区東端には墓域である奥之院への入口である一の橋があり、ここから2キロほどの墓域が続き、最奥に弘法大師信仰の中心地である奥之院がある。
空海が高野山を開創したさいに、二重の結界を張り密教思想に基づく堂宇の建立をめざした場所である。曼荼羅の道場の意 の壇場と、梵語のサンガ・アーラーマの音訳で僧侶が集い修行をする閑静清浄な所の意の伽藍の壇場伽藍であるが、一段高い土地にあるため、今日では「壇上伽藍」と表記されることが多い。空海が高野山を開創し、真っ先に整備に着手した場所が壇上伽藍で、最初に計画した伽藍配置は、空海独自の密教理論に基づく伽藍配置であり、壇上伽藍の南北の中心線上に南から中門、講堂(現、金堂)、僧房が配置され、また真言密教の根本経典の「大日経」、「金剛頂経」の世界を象徴する塔を、僧房を挟み、東に大塔(胎蔵界)、西に西塔(金剛界)を相対させて建立し、伽藍配置によって密教空間を創り出そうとしたものである。実際に空海が計画した伽藍がすべて完成したのは、経済的、地理的要因などにより空海が入定してから52年後の887年(仁和3年)となった。
壇上伽藍は、高野山内の西寄りに位置し、金堂・根本大塔・西塔・御影堂などの立ち並び、境内地の核にあたる場所で、奥之院(後述)とともに信仰の中心となる高野山の2大聖地の1つである。ここは、空海が在世中に堂宇を営んだところで、現在の諸堂塔は大部分が江戸時代後期から昭和時代の再建であるが、現在も真言密教の道場として高野山の中核となっている。なお、壇上伽藍には両壇遶堂次第(りょうだんにょうどうしだい)にのっとり、右遶(うにょう)という正式な参拝方法があり、それにならって概ね以下の順番で堂宇を紹介する。
以下、高野山真言宗 総本山金剛峯寺が推奨する参拝順に記載する。
壇上伽藍の東北にあり、本坊である主殿が建つ。1869年(明治2年)、いずれも豊臣秀吉ゆかりの寺院である学侶方の巌寺と興行人方の山寺 (廃寺)を合併し、高野山真言宗総本山金剛峯寺と改称した。寺紋は桐紋と巴紋だが桐は豊臣家の家紋で、巴は地主神として祀られている天野社の紋である。青巌寺は、文禄2年(1593年)秀吉が亡母の菩提のために木食応其に命じて建立し、母の大政所の剃髪を納めたことから当初「剃髪寺」とよばれ、のちに「青巌寺」と改称する。「金剛峯寺」の寺号は空海が経典「金剛峯楼閣一切瑜伽瑜経」から名付けたもので、元来は高野山全体を指す名称であったが、明治期以降は、高野山真言宗の管長が住むこの総本山寺院のことを「金剛峯寺」と称している。主殿の持仏の間には1680年検校文啓の支持で制作された本尊弘法大師座像が祀られ、高野山開創1200年記念大法会(2015年4月2日 - 5月21日)で16年ぶりに開帳された。境内の広さは48295坪あり、主殿(1863年再建)、主殿から長い渡り廊下を渡ると、奥殿(1934年建立)、別殿(1934年建立)、新別殿(1984年建立)、阿字観道場(1967年建立)、蟠龍庭(石庭)などがある。和歌山県指定文化財となっているのは、大主殿一棟、奥書院一棟、経蔵一棟、鐘楼一棟、真然堂(廟)一棟、護摩堂一棟、山門一棟、会下門一棟の9棟と、それを取り巻くかご塀である。
表記は「奥の院」「奥院」などとされる場合もある。寺院群の東端にある奥之院入り口の一の橋から中の橋を経て御廟橋まで、約2キロにわたる参道と墓域が続く。日本には古来から川を、この世とあの世の境とする習わしがあり、橋を渡る事であの世へ渡るとされ、また川を渡る事で穢れを落とすと考えられていた。奥之院では3本の川を渡る三重構成となっており、これら川と橋を渡る事で仏の浄土(聖地)へ至ることができるとされている。中世以降、高野聖による勧進や納骨の勧めにより参道沿いには約20万基を超すともいわれている石塔(供養塔、墓碑、歌碑など)が立ち並ぶ。御廟橋を渡ると空海入定の地とされる聖地となる。一番奥に空海が今も瞑想しているとされる御廟があり、その手前には信者が供えた無数の灯明がゆらめく燈篭堂がある。空海は62歳の時、座禅を組み、手には大日如来の印を組んだまま永遠の悟りの世界に入り、今も高野山奥之院で生きていると信じられている入定信仰があり「死去」「入寂」「寂滅」などといわず「入定」というのはそのためである。
毎年8月13日に奥之院で萬燈供養会が開催され、一の橋から奥之院までの約2kmの参道を一般参拝者によって約10万本のローソクに灯をともし、先祖や奥之院に眠る御霊を供養する高野山ろうそく祭りが催されている。
奥之院参道に沿って並ぶ石塔の数は10万基とも20万基とも言われ、皇族から名もない人々まで、あらゆる階層の人々が競ってここに墓碑を建立した。日本古来の山岳信仰では、山中は「他界」であり、死後の魂の行くところであった。高野山周辺には、人が死ぬと、火葬の場合は「お骨」の一部を、土葬の場合は死者の左右の耳ぎわの「頭髪」の一部を奥之院に納める「骨のぼり」または「骨上せ」(こつのぼせ)という風習がある。高野山への納骨(または納髪)が歴史上の文献での初見は平安時代末期に著された「中右記」で、天任元年(1108年)堀河院が奥之院に法華経とともに納髪したとある。こうした古来の山岳信仰に、弘法大師の永眠する土地に墓碑を建てたいという人々の願いが加わり、石塔群が形成されていくことになる。戦国時代になり高野山が所有する全国各地の荘園が略奪などにより消失したことで経済的困窮になり、高野山各寺院は有力な戦国大名に庇護を求め繋がりをもち、そのため奥之院に供養墓を持つものが増えた。また徳川家が高野山の子院を菩提寺に定めたことから、各大名も高野山の子院と関係を持ち奥之院に供養墓石塔群が造られるようになった。全国の大名家の42%以上、110藩の大名家の墓所があり、大名の石墓だけでも約2000基程度作られている。高野山には石塔や石墓となる石がなく下界から運び込まれた。巨石は麓までは船で運ばれたが、動力がない時代に、船の舳先に綱を結び男たちが船を引く情景を描いた絵図が高野山持明院に残っている。また山中は巨石の真ん中に穴を開け大きな丸太を挿し入れ、その丸太に直行するように棒を結びつけ何十人もの男たちが棒を担いでいる模様が、紀伊国名所図会に描かれている。
奥之院は、様々な人々を供養する霊場であり、戦国時代の大名が建立した五輪塔も多くあるが敵・味方関係なく建立され、また宗派も関係なく、法然や親鸞のような墓碑もある。また佐竹義重霊屋、松平秀康及び同母霊屋、上杉謙信・景勝霊屋(たまや)の建造物として重要文化財に指定されているものを始め、平敦盛、熊谷蓮生房、織田信長、明智光秀、曾我兄弟、赤穂四十七士、初代 市川團十郎などがある。奥之院は江戸時代までは身分のあるものにしか五輪塔の墓碑の建立が許されておらず、庶民は20cm程度の長方形の石を五輪塔の形状に彫った一石五輪塔とよばれる墓石を建てた。明治以降は自由となり、俳優の鶴田浩二など古今の様々な人物の墓碑や、関東大震災・阪神淡路大震災・東日本大震災などの大規模な自然災害の犠牲者、太平洋戦争の戦没者らを慰霊する為の慰霊碑・供養碑や、様々な企業による慰霊碑・供養碑もある。また芭蕉や高浜虚子の句碑もある。
五之室谷に所在。徳川家霊台は重要文化財で、徳川家康と秀忠を祀る二棟の廟堂が建つ。寛永20年(1643年)、徳川家光の建立。かつては高野聖方の代表寺院であり徳川家の菩提寺・宿坊でもあった大徳院の境内に建つが、大徳院は明治時代に他寺院と合併し廃寺となったため、現在、金剛峯寺管理となっている。
高野山内の寺院数は総本山金剛峯寺と大本山宝寿院を除いて117か寺とされている。ただし、この中には独立した堂宇としては現存せず、寺名だけが引き継がれているものも含まれる。山内寺院のうち52か寺は「宿坊寺院」となっており、塔頭寺院と参拝者の宿泊施設を兼ねている。これらの寺院はもともとは単なる僧の住居である草庵に過ぎなかったが、宿坊の起源は古くは平安時代にさかのぼり、諸国の大名の帰依、壇縁関係を結ぶことで、経済的な支援も受けた。やがて現在のような一般参詣者も宿泊できる宿坊となり、伝統の精進料理を味わったり、お勤め(朝勤行)、写経、写仏、阿字観(瞑想)などを体験できるようになっている。国宝の多宝塔を有する金剛三昧院も宿坊の一つである。
高野山内の寺院は117か寺とされるが、その中の主なものを下記にあげる。寺院名の後の名は、関わりの深かった権力者・武将の名である。
1921年(大正10年)に有志者の寄付と金剛峯寺により開設され、公益財団法人・高野山文化財保存会が運営する宝物館で、一般にも開放されていて、宝物を拝観(有料)することができる。今なお117ヶ寺に伝わる寺宝は膨大にあり、こうした高野山内の貴重な文化遺産を保存し展示する施設として運営されている。1961年(昭和36年)に大宝蔵(収蔵庫)が増設され、高野山内の国指定文化財の美術工芸品の大半を所蔵している。その後も指定物件が増え1984年(昭和59年)に新館の増築、2003年(平成15年)に平成大宝蔵(収蔵庫)を増設している。開館当初に建てられた本館は、1998年(平成10年)に現存する日本最古の木造博物館として高野山霊宝館紫雲殿、玄関・北廊・中廊、放光閣、南廊及西廊、宝蔵が登録有形文化財に登録されている。
現在では、国宝21件、重要文化財148件、和歌山県指定文化財17件、重要美術品2件(計約2万8000点)を含め、5万点以上を収蔵している。
大講堂は高野山開創1100年記念事業として1925年(大正14年)に建立され、本尊には弘法大師、脇仏に愛染明王と不動明王が祀られている。高野山真言宗の布教、御詠歌、宗教舞踊等の総本部で、各種研修会や講習会が催され、一般参詣者でも授戒、写経などが体験できる。
真言密教の聖地「高野山」と、外界(俗世)を結ぶ参詣道(古道)である。(詳細は高野参詣道参照)
外界(俗世)から聖地「高野山」へ通じる入り口が7つあり、それら入口に繋がる参詣道は峠を進み、中には険しい道もある。空海が切り開き、かつて最もよく使われた表参詣道とよばれる「町石道」等、参詣者の出発地点に応じた7つの主要な参詣道が、7つの入口へと繋がる。それら入り口と、それに繋がる参詣道は、総称して「高野七口」とよばれる。また、主要参詣道の高野七口以外に、高野七口へ繋がる、その他参詣道がある。
「高野七口」の、外界(俗世)から聖地「高野山」への入り口7つと、それに繋がる各参詣道を「入口名 - 参詣道名」として、次にあげる。
現在では、車や電車、バスなどで手軽に参詣できるが、かつて高野参詣道は多くの参詣者で賑わった。
国の史跡に「高野参詣道」として指定されている。ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」を構成する資産として「高野参詣道」が登録されている。
かつて高野山は、1872年(明治5年)までは女人禁制であったため、女性は高野山内へは入れず、高野七口とよばれる高野山の結界入り口7つそれぞれに、女性のための籠もり堂(参籠所)として女人堂が置かれた。女人堂は、宿泊に利用したり、堂内の大日如来に祈願したり、また空海御廟や壇上伽藍を遥拝するために利用された。京大坂道の到着地点の不動坂口に、唯一現存する女人堂(高野参詣道#女人堂)がある。
空海に関連した伝説を中心に、7つの伝説が伝わる。
以上のほか、本坊12棟の指定が答申されている(官報告示を経て正式指定となる)。
典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
(昭和37年出土)
(昭和37年出土)
(昭和37年出土)
(昭和38年出土)
典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』(2004年7月登録)は以下13件の文化財を含む。 | [
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"text": "金剛峯寺(こんごうぶじ)は、和歌山県伊都郡高野町高野山にある高野山真言宗の総本山の寺院。正式には高野山金剛峯寺(こうやさんこんごうぶじ)と号する。",
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"text": "高野山は、和歌山県北部、周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの盆地状の平坦地に位置する。100か寺以上の寺院が密集する日本では他に例を見ない宗教都市である。京都の東寺と共に、真言宗の宗祖である空海(弘法大師)が修禅の道場として開創し、真言密教の聖地、また、弘法大師入定信仰の山として、21世紀の今日も多くの参詣者を集めている。2004年(平成16年)7月に登録されたユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産の一部。",
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"text": "「金剛峯寺」という寺号は、明治期以降は1つの寺院の名称になっている。しかし高野山は「一山境内地」といわれ高野山全域が寺の境内地とされ、金剛峯寺の山号が高野山であることからも分かるように、元来は真言宗の総本山としての高野山全体と同義であった。寺紋は五三桐紋と三つ巴紋。",
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"text": "空海は、最澄(天台宗の開祖)と並び、平安仏教を開いた僧である。著作家、書道家としても優れ、灌漑事業などを行った社会事業家、綜藝種智院を開設した教育者としての側面もある。後世には「お大師様」として半ば伝説化・神格化され、信仰の対象ともなっており、日本の仏教、芸術、その他文化全般に与えた影響は大きい。空海は宝亀5年(774年)、讃岐国屏風浦(香川県善通寺市)に生まれ、俗姓を佐伯氏といった。十代末から30歳頃までは修行期で、奈良の寺院で仏典の研究に励み、時に山野に分け入って修行した。延暦23年(804年)、留学生(るがくしょう)として唐に渡航。長安・青龍寺の恵果に密教の奥義を学び、大同元年(806年)帰国している。",
"title": "概要"
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"text": "空海が嵯峨天皇から高野山の地を賜ったのは弘仁7年(816年)のことであった。空海は、高い峰に囲まれた平坦地である高野山を、高い峰々を蓮の花に見立て八葉蓮華(八枚の花弁をもつ蓮の花=曼荼羅の象徴)として、山上に曼荼羅世界を現出しようとしたものである。",
"title": "概要"
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"text": "既述のように、空海が嵯峨天皇から高野山の地を賜ったのは弘仁7年(816年)のことであり、空海が若い時に修行したことのあるこの山に真言密教の道場を設立することを天皇に願い出たというのが史実とされている。なお、平安中期の成立とされる『金剛峯寺建立修行縁起』にはこれとは異なった開創伝承が残されている。空海が修行に適した土地を探して歩いていたところ、大和国宇智郡(奈良県五條市)で、黒白2匹の犬を連れた狩人(実は、狩場明神という名の神)に出会った。狩人は犬を放ち、それについていくようにと空海に告げた。言われるまま、犬についていくと、今度は紀伊国天野(和歌山県かつらぎ町)というところで土地の神である丹生明神(にうみょうじん)が現れた。空海は丹生明神から高野山を譲り受け、伽藍を建立することになったという。この説話に出てくる丹生明神は山の神であり、狩場明神は山の神を祭る祭祀者(原始修験者)であると解釈されている。つまり、神聖な山に異国の宗教である仏教の伽藍を建てるにあたって、地元の山の神の許可を得たということを示しているのだとされている。高野山では狩場明神(高野明神とも称する)と丹生明神とを開創に関わる神として尊崇し、壇上伽藍の御社(明神社)において現在でも祀られている。また丹生都比売神社でも、丹生明神と狩場明神が祀られ、金剛峯寺と丹生都比売神社は古くから密接な関係にあり、神仏分離後の今日でも金剛峯寺の僧の丹生都比売神社への参拝が行われている。",
"title": "概要"
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"text": "空海が天長9年(835年)奥之院に入定後、86年経った延喜21年(921年)に東寺長者の観賢の上奏により醍醐天皇が空海に「弘法大師」の諡号を贈った。観賢は、その報告のため高野山へ登り奥之院の廟窟に入ると、入定した空海(即身仏)は、髪を伸ばし、その姿は普段と変わりなく、まるで生きているかのように禅定している空海の姿があったと伝えている。このことから「弘法大師は今も奥之院に生き続け、世の中の平和と人々の幸福を願っている」という入定信仰が生まれた。",
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"text": "空海が高野山に入山し最初にしたことは、高野山を中心に東西、南北にそれぞれ七里の結界を張り、俗世と聖地高野山との境界としたことであった。高野山は元々祖霊の集まる神聖な場所で、それを人々へ承知させ、結界内に不浄なものを入れないために、高野山を囲む山々の峰をつなぐ線として、密法の法により結界を張ったとされている。また高野山全域の結界の中に更に二重の結界が張られ、その二重の結界内部は、のちに信仰の中心となる伽藍を建立する壇上(壇場)とされた。",
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"paragraph_id": 8,
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"text": "結界内に開創以来、次の4つの禁が明治まで続いた。",
"title": "概要"
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{
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"text": "女人禁制により女性が山内に入ることができず、高野参詣道の終着点の高野七口といわれる結界への入り口付近に女性たちの籠もり堂(参籠所)として女人堂ができ、各女人堂をめぐる結界に沿ってできた参詣道が女人道である。1872年(明治5年)明治政府が太政官布告第98号「神社仏閣女人結界ノ場所ヲ廃シ登山参詣随意トス」を発布し、女人禁制が廃止されたが、実質、高野山において公式に女人禁制が解かれたのは高野山開創1100年記念大法会にむけて、高野山の結界残部を残らず解除した1906年(明治39年)である。",
"title": "概要"
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"text": "遊芸に関わる鳴り物をしない禁を破ったことに関する逸話として、豊臣秀吉が、母大政所の三回忌の際に高野山開創以来の禁令の笛太鼓や鼓などを用いた能狂言を催したところ、当日、雲がなかったが、能が始まると暗雲が広がり、天地が振動し凄まじい雷雨が襲った。大師の怒りと恐れおののいた秀吉は、単騎一目散に山を駆け降り難を逃れたと伝わる。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 11,
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"text": "鶏と猫は禁じているが、犬だけは飼うことが許されたのは、高野山開創伝承で犬が空海を高野山へ導いたためである。",
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"text": "平安時代以降、江戸時代まで存在した高野山の僧徒の三派の称で、学侶、行人、聖で構成され、明治になり廃止、統合された。通称「高野十谷」といわれる谷ごとに学侶や行人の坊が造られ、多くの子院・塔頭があった。学侶、行人、聖の順に階級的要素があり、聖が一番下層に見られる傾向があり、度々派閥的争いがあった。",
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"text": "高野山内は、壇上伽藍、奥之院と十谷とよばれる十の地区で構成されている。各谷には学侶や行人の塔頭・子院が立ち並び、各谷ごとに共用の堂宇や湯屋などの施設があり、谷ごとに講などが行われていた。現在においても117か寺が存在する(後述)。この他に、念仏を唱える聖(念仏聖)が集まった十谷から離れた「別所」とよばれる場所もあった。",
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"text": "奈良東大寺の大仏勧進で知られる重言が再興した別所は「真別処」(正式名称:高野山事相講伝所円通律寺)とよばれ、現在でも女人禁制の戒律を守り、年に1度、旧暦の花祭り(釈尊降誕会)のときだけ、一般に開放され女性も参拝できる。",
"title": "概要"
},
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"paragraph_id": 15,
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"text": "弘仁7年(816年)、高野山を賜った空海は、翌年から実恵、円明などの東寺にいた弟子達に命じ草堂を建てさせ、819年に空海が高野山に結界を張り伽藍の建立に取りかかったが、国の援助を得ずに人々からの勧進による私寺建立を目指したこと、交通不便な山中であること、また朝廷からの要請による821年の香川県の満濃池の修築や828年の京都の綜芸種智院の開設などにより、空海が多忙であったことで、工事ははかどらなかった。空海の在世中に完成した堂宇はごくわずかであり、無論、当時の建築物は現存していない。承和2年(835年)には定額寺に列し官寺に准ずる寺格を得た(『続日本後紀』承和八年二月七日条)。空海の入定(835年)の後、弟子であり実の甥でもあった真然が887年頃に根本大塔などの伽藍を整備した。",
"title": "歴史"
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"text": "真然が空海が唐で恵果から教わった奥義や経典を書写した「三十帖策子(三十帖冊子)」を東寺から借り出したが、「三十帖策子」を所有することで真言宗の根本寺院を意味したので、その後の東寺からの返却要請に応じず、紛争の原因となった。第2代座主無空は返還を拒否し「三十帖策子」を持って一山の者を連れ下山し、約20年にわたり高野山に人影が無い状態が続き、第一期の荒廃期を迎えた。この紛争を解決したのが東寺長者の観賢であった。「三十帖策子」は東寺に返却され、観賢が高野山座主を兼ねることで、高野山は東寺の配下となり、明治維新まで高野山は東寺の末寺となったが、先述したように、921年この観賢の上奏により空海に「弘法大師」の諡号が贈られ、入定信仰が生まれ次第に高野山の復興に繋がっていった。",
"title": "歴史"
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"text": "正暦5年(994年)には落雷による火災のため、ほとんどの伽藍を失い、また朝廷から復興の命を受けた国司による専横もあり、僧は皆、山を下り麓の天野(現、丹生都比売神社)に本拠を移し、第2の荒廃の時期を迎えた。荒廃した高野山は、長和5年(1016年)頃から、奈良・興福寺の勧進聖だった定誉(祈親上人)が再興に着手し、定誉の働きかけで宗派を超えた様々な勧進僧(後の高野聖)が協力した。その中でも仁海が定誉に協力し京都で高野山の霊場信仰を説いたことで、治安3年(1023年)には藤原道長の登拝に結びついた。また平安末期は、末法思想が広がっていた時代で、高野聖による勧進により浄土信仰、弘法大師信仰が、皇族などにも広がり、白河上皇、鳥羽上皇が相次いで参詣するなど、高野山は現世の浄土としての信仰を集め、寺領も増加し堂塔の再建や寺院の建立など高野山の復興に弾みがついた。この頃には高野三方とよばれる学侶、行人、聖の三派の原型が成立していたと考えられ、高野聖は各地で勧進活動を行い皇族、貴族、一般庶民への浄土信仰が広まっていった。定誉(祈親上人)が高野山復興を志したのは、奈良県・長谷寺を参詣したおりに、本尊の十一面観音菩薩から高野山に登るようにとのお告げを受けたためという伝承があり、お告げに従い高野山奥の院で灯明を捧げるが、それが現在も奥の院で1000年以上も燃え続ける「持経灯(祈親灯)」である。",
"title": "歴史"
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"text": "時の権力者の藤原道長の参詣を期に多くの権力者からの帰依を得ることができ、高野山の復興は進むが、空海が入定した地として真言宗最高の聖地でありながら東寺の末寺として扱われ、社会的地位は低いままであった。これは仏教の世俗化により勧進僧の聖(高野聖)など志の低い僧が増加していたことも一因であった。高野山中興の祖といわれる興教大師覚鑁は、鳥羽上皇の院宣を得て大伝法院座主に就任し、長承3年1(1134年)には金剛峯寺の座主を兼任し、教学、行法上の改革を志した。しかし保延6年(1140年)には高野山内で勢力を急拡大させた覚鑁は、聖方だったことや、また「密教では大日如来と阿弥陀如来は同体異名で、阿弥陀如来の極楽浄土と大日如来の密厳浄土は、名前は違うが同じ」と説いたことで、保守系の学侶方の多数の僧徒が反発し、覚鑁がいた密厳院を襲うなどして覚鑁一派を高野山から下山させ(錐もみの乱)、覚鑁らはやがて根来寺へ移り新義真言宗を成立させてゆく。",
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"text": "平安時代末期からの源平の騒乱期には、高野山は都から離れた場所にあり、また中立を保っていたことで戦禍に見舞われることが無かったため、現世浄土として様々な僧が集まり、また敗者の平家の納骨も活発に行われた。また源氏方でも恩賞に不服があり出家する武士が目立つようになり、そして高野山に草庵を建てて住み、仏道に励んだり、堂宇を建てることで空海の功徳を得ようとした。彼らも、また高野聖となっていった。そのため平安中期以降の高野山は様々な僧侶や聖が集う「お山」となっていった。武士政権になり皇族や貴族の権威は落ちるが、むしろ堂宇建立が以前より活発に行われた。その一例として鳥羽上皇の皇后美福門院が菩提心院、六角経蔵の建立、荘園の寄進があげられる。",
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"text": "高野山表参道の町石道に高野山開創の頃からあった道標で町数をしめす木製卒塔婆は、鎌倉時代には老朽化が激しく、皇族・貴族、僧侶、庶民にいたるあらゆる階層の人々の寄進により建て替えられていくが、その最大の支援を行ったのは鎌倉幕府で、幕府の有力御家人の安達泰盛や他の幕府要人の支援があり、文永2年(1265年)から20年の歳月をかけ、石製卒塔婆に置き換えられ、現在にも残る町石道として整備された。また時の権力者、源頼朝の正室北条政子は、亡夫の源頼朝菩提のため禅定院(金剛三昧院の前身)を建立し、その後金剛三昧院を建立した。政子が鎌倉から離れた高野山へ帰依した理由として、高野山への敬意があったのは勿論のことだが、源頼朝の三男の貞暁の存在が大きい。貞暁は政子の子で無かったため、嫉妬深い政子の迫害から逃れるために承久2年(1220年)高野山に入山する。江戸時代の歴史書「高野春秋」によると、北条政子は実子の3代将軍源実朝を亡くすと、貞暁が4代将軍になる意志があるか確認するために高野山を訪れ、女人禁制があるため高野山山麓の天野社(現・丹生都比売神社)で貞暁と面会した。政子と面会した貞暁はすぐさま短刀を取り出し自身の左目をえぐり出し武士に戻る意思がないことを示した。この潔さに心打たれた政子は貞暁に強く帰依し、高野山へ多くの寄進を行うようになった。一説では、それは高野山への監視の目的もあったとされるが、鎌倉幕府からの強い庇護につながった。また政子は、この面会が行われた天野社(丹生都比売神社)の社殿も寄進している。",
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"text": "このように有力者による寺院建立もあり、永承3年(1048年)には僧坊16宇だったが、100年後の久安4年(1148年)には学侶方300人、行人方・聖方2000人を有する規模になったと伝わり、最盛期には2,000もの堂舎が立ち並んだという。またこの頃には諸堂伽藍は主に学侶方が、奥之院は行人方が支配するようになっていた。",
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"text": "鎌倉末期から南北朝が合一に至るまで日本全土に争乱が続く中、大勢力となっていた高野山に南北朝両勢力より協力要請などの働きかけがあったが、高野山は一貫して中立を保っていたため、南朝の後醍醐天皇が1334年に愛染堂を寄進、また南北朝統一後すぐに北朝方の足利尊氏は高野山の段銭や諸役の免除、寺領への守護不入の権利を与え手厚く庇護した。その後、足利尊氏、義満が高野参詣し、室町幕府とも良好な関係が続く。",
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"text": "高野山の教学を二分する学侶方勢力の宝性院院主の宥快は「宝門」、無量寿院院主の長覚は「寿門」という学派を組織し、応永19年(1412年)頃に「応永の大成」とよばれる教学の組織改編を推し進め、その結果、真言密教教学の確立にともなって、高野山の主導権が学侶方にあるべきとの風潮が高まった。この学侶の二大勢力は、その後も塔頭寺院筆頭格として江戸時代まで続き、明治時代に両院は合併し、宝寿院となった。しだいに学侶と行人との対立は深まり、寛正5年(1464年)には学侶方と高野山の実務を行ってきた行人方と合戦が行われた。また、この頃の高野聖は密教教学から離れて時宗化し、また禁止されていた鳴り物を使った踊り念仏、鉦叩きを別所(本拠地を離れた所に営まれた聖が集まって修行するための庵や仏堂を設けた場所)で行っていたため、それら行為を学侶方から禁止され、学侶、行人、聖の対立が表面化する。またこの頃の聖の中には、利潤追求のためだけの宿坊経営や高野山を利用した商売を行う者、また諸国を遍歴していた者による他人の妻・娘をかどわかしたりする問題行為も絶えなかったと伝わる。",
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"text": "永正18年(1521年)には大火により大塔、金堂以下伽藍300余宇、僧坊など3900余宇を焼失し、全山が壊滅状態となり高野山は著しく衰退する。高野聖は熱心な諸国遍歴で勧進を続け、弘法大師信仰は急速に庶民の間にも広がっていったが、戦国の世のため、なかなか伽藍復興には結びつかなかった。そこで高野山は有力大名との間で師壇関係や宿坊契約を結ぶことで、高野山への宝物寄進や奥之院への納骨・納髪、石塔建設が盛んとなった。この頃は武士の間で高野山信仰が広まり、戦国大名が寄進した子院が数多く作られた。例えば子院で宿坊の高室院は鎌倉時代の創建であるが、小田原北条氏が壇越(スポンサー)となり、北条氏の菩提寺となった。同寺院は北条氏の領国である武蔵・相模・伊豆三国を布教地域としていた。のち北条氏が滅ぶと、当主の北条氏直は高室院に隠棲して生涯を終えている。",
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"text": "戦国時代の高野山は寺領17万石、3万の僧兵を擁す巨大勢力であったため、織田信長の標的の一つであったが、天正8年(1580年)に織田信長に謀反を起こした荒木村重が家臣数人とともに高野山へ逃げ込んだため、信長家臣三十数名が取り調べに高野山へ来たが、行人方山徒が足軽達は捜索ではなく乱暴狼藉を働いたという理由で誅殺してしまう。激怒した信長は畿内を巡遊していた高野聖1383人を捉え惨殺し、さらに数万の軍勢で高野山攻めが行われた。しかし、ほどなく信長が本能寺の変で倒れたため、高野山は取り敢えずの難を免れた。しかし豊臣秀吉は、根来攻めに引き続き、高野山に使者を派遣し寺領の返還や武装解除を迫るなどの条件をだし降伏を勧めた。当時高野山にいた武士出身の僧・木食応其が仲介者となって秀吉に武装解除などの服従を誓ったため、石高は減らされたものの、高野山は存続することができた。のちに秀吉は応其を強く信頼し帰依するようになり、最終的に2万1000石の寺領が安堵され、秀吉は永正18年(1521年)に消失した伽藍の大塔、金堂など25棟の堂宇の再建に協力し、興山寺や母・大政所の菩提のために青巌寺(豊臣秀次が自刃した場所としても知られ、現在の総本山金剛峯寺の前身である)を建て高野山を庇護することとなった。応其は、秀吉の高野山攻めを阻止しただけでなく、秀吉の信頼を得、庇護につなげたため、「高野は応其にしてならず」と言わしめたと伝わる。",
"title": "歴史"
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"text": "文禄3年(1594年)徳川家が子院の蓮華院に大徳院という院号を与え、菩提所・宿坊と定めたこともあり、諸大名もこれに見習い、また多くの有力者が高野山の子院と壇縁関係を結び、また奥之院に霊屋、墓碑、供養塔などを建立するようになった。その数は多く、徳川家、及び譜代大名は大徳院と師壇関係を、その他300程度の大名が山内の寺院と師壇関係を結んだとされる。徳川幕府も高野山に寺領を2万1000石を安堵したが、その内訳は慶長6年(1601年)に得た朱印状の寺領安堵状によると、学侶方に9500石の寺領、行人方に11500石の寺領が分け与えられた。しかし聖方には寺領は与えられず、家光の時代に聖方の大徳院境内にあった徳川家霊台の祭祀料として支給された200石のみであった。この朱印状により、高野山の寺領管理は、学侶方・行人方に分けて任されることとなった。しかし、学侶方の宝性院、無量寿院の門主には十万石の大名の格式での江戸への参勤交代を義務づけ、高野山が幕藩体制に組み込まれることとなった。この頃、時宗化していた聖(時宗聖)は大徳院の院号の権威で勢いをまし、学侶、行人方と同じ屋形作りで破風に狐格子の院を構えたところ、行人方の反感をかい、慶長11年(1606年)に行人方は大徳院を襲撃し狐格子を壊したが、聖方が家康に訴えたところ、幕府からの裁定が下り、行人は時宗聖方の屋造りに干渉せぬこと、時宗聖方は時宗を改めて真言宗に帰入することが定められた。この後、聖方は大徳院の聖方に留まる者と、行人方に転派するものに分かれ、事実上の高野聖の終焉となった。また幕府により遊芸者や諸国を遍歴する勧進僧は厳しく取り締まられ、今までのような高野聖としての役目を全うすることが難しくなり、全国を遍歴していた聖は、日本全国各地の村落にある小堂・小庵に定着するようになった。そのことで全国各地に大師堂や弘法大使を信仰する寺が造られ、庶民も気軽に先祖供養が行なえるようになったと考えられている。",
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"text": "正保3年(1646年)の「御公儀上一山図」によると山内院家数は最盛期の1600年代中頃で、学侶方210院、行人方1440院、聖方120院、客僧坊42院、その他53院の1865院と記録されている。幕府の力は強大で、元禄高野騒動といわれる学侶方と行人方の権力闘争の結果、元禄5年(1692年)に幕府が裁定を下し、従わなかった行人627人を流刑にし、行人方の坊を280坊にまで減らし、以後増えることは無く、完全に幕藩体制に組み込まれていたことがうかがえる。元禄年間(1688年 - 1704年)の頃から庶民の参詣が増加したのに伴い、高野山内に僧侶以外の職人や町人が多く常住するようになっていた。",
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"text": "明治の新時代の1868年(慶応4年/明治元年)に神仏判然令(神仏分離令)が発布されたことで、仏教界にとって未曾有の危機的状況となったが、高野山にとっても例外ではなかった。政府より高野山に神仏分離の通達が下り、また政府の命令により学侶、行人、聖の3派が廃止され、1869年(明治2年)に秀吉が建立した青巌寺と興山寺が合併し寺号が金剛峯寺と改められた。このことで、金剛峯寺という寺号は本来高野山全体を指す寺号であったが、この時より「金剛峯寺」は高野山真言宗の管長が住む総本山寺院を意味するようになった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 29,
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"text": "1871年(明治4年)に版籍奉還によって寺領2万1000石は新政府に返還させられ、また高野山が行っていた自治制を失い、山内に役場の設置、警察の派遣が行われた。1872年(明治5年)明治政府から太政官布告第98号「神社仏閣女人結界ノ場所ヲ廃シ登山参詣随意トス」が発布され、近代化政策を進める新政府によって女人禁制が解かれた。1873年(明治6年)には高野山所有の山林3000ヘクタールも返上し、完全に経済的基盤を失うこととなった。このため還俗し山を去る僧侶も増え廃寺となる寺院が増えていったが、追い打ちをかけるように1879年(明治12年)の火災で70の堂舎が焼失、次いで1884年(明治17年)50ヶ寺焼失、130戸に類焼、さらに1888年(明治21年)3月23日、24日にも大火災があり多くの寺院、町家を焼失することとなった。高野山の危機的状況に1891年(明治24年)高野山の維持と自立存続を図るために一山が協議し、明治初期に680余ヶ寺もあった寺院を、130ヶ寺まで統廃合することを決定し、現在に近い状態へとなった。",
"title": "歴史"
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"text": "明治中期に国内情勢が安定してくると、高野山に残る膨大な宝物の保護活動が始まった。1891年(明治24年)・1893年(明治26年)に宮内省臨時全国宝物取調局より重要宝物の鑑査状が交付された。1894年(明治27年)世間に高野山の宝物の価値を認知してもらうために金剛峯寺で宝物展を開催。1898年(明治31年)帝室博物館による高野山宝物調査と修復が行われた。1906年(明治39年)開創1100年記念大法会に向け、金剛峯寺が高野山全域に残る結界を解除したことで、全ての禁制が解かれ実質的に女人禁制も完全解除され、金剛峯寺が公式に女性の入居住を認めたこととなった。1899年金剛三昧院多宝塔、金剛峯寺不動堂などが、また1908年(明治41年)には66点もの多くの美術工芸品が旧国宝に指定されたことで、宝物館建設の声が高まった。1913年(大正2年)2年後を迎える高野山開創1100年大法会記念事業として宝物館建設を目標とする「高野山興隆会」が発足し、建設費を募る勧進運動が全国展開された。1916年(大正5年)宝物館建設趣旨徹底のための二度目の「宝物展覧会」が金剛峯寺にて開催された。第一次世界大戦が勃発してから日本からの輸出が活発になったことで、物価や人件費が高騰し建設費も高騰したため、当初計画よりも規模を縮小し、1918年(大正7年)高野山初の宝物館「霊宝館」の建設が始まる。1921年(大正10年)霊宝館開館。1918年(大正7年)に公布された大学令に基づいて、1926年(大正15年)高野山大学が開設された。同年12月26日、金堂が創建当初のものと云わる本尊像などとともに焼失(#壇上伽藍 金堂で後述)。",
"title": "歴史"
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"text": "1934年(昭和9年)9月21日、室戸台風の暴風雨により倒木多数。御廟所前の灯篭堂は二丈あまりの老木が倒れ掛かり倒壊した。",
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"text": "第二次世界大戦後の混乱期には日本各地の文化財が海外へ流出したことで、高野山でも文化財保護の機運が高まり、1957年(昭和32年)財団法人(現・公益財団法人)高野山文化財保存会が設立され、高野山の文化財を一括管理するようになり、また文化財防災専用水管が山内の1万メートルに張り巡らされた。2004年(平成16年)ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産の一部として高野山が登録された。2015年(平成27年)高野山開創1200年記念大法会が執り行なわれた。",
"title": "歴史"
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"text": "",
"title": "歴史"
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"text": "平安期、摂関政治が盛んであった頃、「入定信仰」や「高野浄土信仰」が起こり、その信仰が高まりを見せると、上皇・天皇・皇族や貴族による、高野山参詣が相次ぎ、また帰依したことで、高野山の復興・発展することに繋がった。",
"title": "主な権力者の高野参詣と高野山との関わり"
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"text": "高野山は「一山境内地」といわれ、かつて結界が張られていた内部全域が境内地とされ、境内の中に開かれた宗教都市である。山内を大きく分別すると、壇上伽藍(伽藍地区)、総本山金剛峯寺(本坊)、奥之院(墓域)、高野十谷(子院・塔頭地区(既述))で構成されている。これらの地区全体の西端には高野山の正門にあたる大門(重要文化財)がある。信仰の中心となるのは山内の西寄りに位置し、かつて空海により二重の結界(既述)が張られた壇上伽藍と呼ばれる聖域である。ここには総本山金剛峯寺の総本堂にあたる金堂や真言密教の根本道場となる根本大塔を中心とする主要な堂塔が立ち並び、伽藍地区となっている。その東北方に本坊である主殿が建つ総本山金剛峯寺がある(広義における金剛峯寺は高野山全体と同義だが、狭義における金剛峯寺はこの本坊のある総本山金剛峯寺を指す)。壇上伽藍の周辺地区には高野十谷があり、「子院(塔頭)」と呼ばれる多くの寺院が立ち並び、また高野山大学、霊宝館(各寺院の文化財を収蔵展示する)などもある。地区東端には墓域である奥之院への入口である一の橋があり、ここから2キロほどの墓域が続き、最奥に弘法大師信仰の中心地である奥之院がある。",
"title": "高野山真言宗総本山金剛峯寺"
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"text": "空海が高野山を開創したさいに、二重の結界を張り密教思想に基づく堂宇の建立をめざした場所である。曼荼羅の道場の意 の壇場と、梵語のサンガ・アーラーマの音訳で僧侶が集い修行をする閑静清浄な所の意の伽藍の壇場伽藍であるが、一段高い土地にあるため、今日では「壇上伽藍」と表記されることが多い。空海が高野山を開創し、真っ先に整備に着手した場所が壇上伽藍で、最初に計画した伽藍配置は、空海独自の密教理論に基づく伽藍配置であり、壇上伽藍の南北の中心線上に南から中門、講堂(現、金堂)、僧房が配置され、また真言密教の根本経典の「大日経」、「金剛頂経」の世界を象徴する塔を、僧房を挟み、東に大塔(胎蔵界)、西に西塔(金剛界)を相対させて建立し、伽藍配置によって密教空間を創り出そうとしたものである。実際に空海が計画した伽藍がすべて完成したのは、経済的、地理的要因などにより空海が入定してから52年後の887年(仁和3年)となった。",
"title": "高野山真言宗総本山金剛峯寺"
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"paragraph_id": 37,
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"text": "壇上伽藍は、高野山内の西寄りに位置し、金堂・根本大塔・西塔・御影堂などの立ち並び、境内地の核にあたる場所で、奥之院(後述)とともに信仰の中心となる高野山の2大聖地の1つである。ここは、空海が在世中に堂宇を営んだところで、現在の諸堂塔は大部分が江戸時代後期から昭和時代の再建であるが、現在も真言密教の道場として高野山の中核となっている。なお、壇上伽藍には両壇遶堂次第(りょうだんにょうどうしだい)にのっとり、右遶(うにょう)という正式な参拝方法があり、それにならって概ね以下の順番で堂宇を紹介する。",
"title": "高野山真言宗総本山金剛峯寺"
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{
"paragraph_id": 38,
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"text": "以下、高野山真言宗 総本山金剛峯寺が推奨する参拝順に記載する。",
"title": "高野山真言宗総本山金剛峯寺"
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"paragraph_id": 39,
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"text": "壇上伽藍の東北にあり、本坊である主殿が建つ。1869年(明治2年)、いずれも豊臣秀吉ゆかりの寺院である学侶方の巌寺と興行人方の山寺 (廃寺)を合併し、高野山真言宗総本山金剛峯寺と改称した。寺紋は桐紋と巴紋だが桐は豊臣家の家紋で、巴は地主神として祀られている天野社の紋である。青巌寺は、文禄2年(1593年)秀吉が亡母の菩提のために木食応其に命じて建立し、母の大政所の剃髪を納めたことから当初「剃髪寺」とよばれ、のちに「青巌寺」と改称する。「金剛峯寺」の寺号は空海が経典「金剛峯楼閣一切瑜伽瑜経」から名付けたもので、元来は高野山全体を指す名称であったが、明治期以降は、高野山真言宗の管長が住むこの総本山寺院のことを「金剛峯寺」と称している。主殿の持仏の間には1680年検校文啓の支持で制作された本尊弘法大師座像が祀られ、高野山開創1200年記念大法会(2015年4月2日 - 5月21日)で16年ぶりに開帳された。境内の広さは48295坪あり、主殿(1863年再建)、主殿から長い渡り廊下を渡ると、奥殿(1934年建立)、別殿(1934年建立)、新別殿(1984年建立)、阿字観道場(1967年建立)、蟠龍庭(石庭)などがある。和歌山県指定文化財となっているのは、大主殿一棟、奥書院一棟、経蔵一棟、鐘楼一棟、真然堂(廟)一棟、護摩堂一棟、山門一棟、会下門一棟の9棟と、それを取り巻くかご塀である。",
"title": "高野山真言宗総本山金剛峯寺"
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"paragraph_id": 40,
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"text": "表記は「奥の院」「奥院」などとされる場合もある。寺院群の東端にある奥之院入り口の一の橋から中の橋を経て御廟橋まで、約2キロにわたる参道と墓域が続く。日本には古来から川を、この世とあの世の境とする習わしがあり、橋を渡る事であの世へ渡るとされ、また川を渡る事で穢れを落とすと考えられていた。奥之院では3本の川を渡る三重構成となっており、これら川と橋を渡る事で仏の浄土(聖地)へ至ることができるとされている。中世以降、高野聖による勧進や納骨の勧めにより参道沿いには約20万基を超すともいわれている石塔(供養塔、墓碑、歌碑など)が立ち並ぶ。御廟橋を渡ると空海入定の地とされる聖地となる。一番奥に空海が今も瞑想しているとされる御廟があり、その手前には信者が供えた無数の灯明がゆらめく燈篭堂がある。空海は62歳の時、座禅を組み、手には大日如来の印を組んだまま永遠の悟りの世界に入り、今も高野山奥之院で生きていると信じられている入定信仰があり「死去」「入寂」「寂滅」などといわず「入定」というのはそのためである。",
"title": "高野山真言宗総本山金剛峯寺"
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"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "毎年8月13日に奥之院で萬燈供養会が開催され、一の橋から奥之院までの約2kmの参道を一般参拝者によって約10万本のローソクに灯をともし、先祖や奥之院に眠る御霊を供養する高野山ろうそく祭りが催されている。",
"title": "高野山真言宗総本山金剛峯寺"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "奥之院参道に沿って並ぶ石塔の数は10万基とも20万基とも言われ、皇族から名もない人々まで、あらゆる階層の人々が競ってここに墓碑を建立した。日本古来の山岳信仰では、山中は「他界」であり、死後の魂の行くところであった。高野山周辺には、人が死ぬと、火葬の場合は「お骨」の一部を、土葬の場合は死者の左右の耳ぎわの「頭髪」の一部を奥之院に納める「骨のぼり」または「骨上せ」(こつのぼせ)という風習がある。高野山への納骨(または納髪)が歴史上の文献での初見は平安時代末期に著された「中右記」で、天任元年(1108年)堀河院が奥之院に法華経とともに納髪したとある。こうした古来の山岳信仰に、弘法大師の永眠する土地に墓碑を建てたいという人々の願いが加わり、石塔群が形成されていくことになる。戦国時代になり高野山が所有する全国各地の荘園が略奪などにより消失したことで経済的困窮になり、高野山各寺院は有力な戦国大名に庇護を求め繋がりをもち、そのため奥之院に供養墓を持つものが増えた。また徳川家が高野山の子院を菩提寺に定めたことから、各大名も高野山の子院と関係を持ち奥之院に供養墓石塔群が造られるようになった。全国の大名家の42%以上、110藩の大名家の墓所があり、大名の石墓だけでも約2000基程度作られている。高野山には石塔や石墓となる石がなく下界から運び込まれた。巨石は麓までは船で運ばれたが、動力がない時代に、船の舳先に綱を結び男たちが船を引く情景を描いた絵図が高野山持明院に残っている。また山中は巨石の真ん中に穴を開け大きな丸太を挿し入れ、その丸太に直行するように棒を結びつけ何十人もの男たちが棒を担いでいる模様が、紀伊国名所図会に描かれている。",
"title": "高野山真言宗総本山金剛峯寺"
},
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"paragraph_id": 43,
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"text": "奥之院は、様々な人々を供養する霊場であり、戦国時代の大名が建立した五輪塔も多くあるが敵・味方関係なく建立され、また宗派も関係なく、法然や親鸞のような墓碑もある。また佐竹義重霊屋、松平秀康及び同母霊屋、上杉謙信・景勝霊屋(たまや)の建造物として重要文化財に指定されているものを始め、平敦盛、熊谷蓮生房、織田信長、明智光秀、曾我兄弟、赤穂四十七士、初代 市川團十郎などがある。奥之院は江戸時代までは身分のあるものにしか五輪塔の墓碑の建立が許されておらず、庶民は20cm程度の長方形の石を五輪塔の形状に彫った一石五輪塔とよばれる墓石を建てた。明治以降は自由となり、俳優の鶴田浩二など古今の様々な人物の墓碑や、関東大震災・阪神淡路大震災・東日本大震災などの大規模な自然災害の犠牲者、太平洋戦争の戦没者らを慰霊する為の慰霊碑・供養碑や、様々な企業による慰霊碑・供養碑もある。また芭蕉や高浜虚子の句碑もある。",
"title": "高野山真言宗総本山金剛峯寺"
},
{
"paragraph_id": 44,
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"text": "五之室谷に所在。徳川家霊台は重要文化財で、徳川家康と秀忠を祀る二棟の廟堂が建つ。寛永20年(1643年)、徳川家光の建立。かつては高野聖方の代表寺院であり徳川家の菩提寺・宿坊でもあった大徳院の境内に建つが、大徳院は明治時代に他寺院と合併し廃寺となったため、現在、金剛峯寺管理となっている。",
"title": "高野山真言宗総本山金剛峯寺"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "高野山内の寺院数は総本山金剛峯寺と大本山宝寿院を除いて117か寺とされている。ただし、この中には独立した堂宇としては現存せず、寺名だけが引き継がれているものも含まれる。山内寺院のうち52か寺は「宿坊寺院」となっており、塔頭寺院と参拝者の宿泊施設を兼ねている。これらの寺院はもともとは単なる僧の住居である草庵に過ぎなかったが、宿坊の起源は古くは平安時代にさかのぼり、諸国の大名の帰依、壇縁関係を結ぶことで、経済的な支援も受けた。やがて現在のような一般参詣者も宿泊できる宿坊となり、伝統の精進料理を味わったり、お勤め(朝勤行)、写経、写仏、阿字観(瞑想)などを体験できるようになっている。国宝の多宝塔を有する金剛三昧院も宿坊の一つである。",
"title": "子院・塔頭"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "高野山内の寺院は117か寺とされるが、その中の主なものを下記にあげる。寺院名の後の名は、関わりの深かった権力者・武将の名である。",
"title": "子院・塔頭"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "1921年(大正10年)に有志者の寄付と金剛峯寺により開設され、公益財団法人・高野山文化財保存会が運営する宝物館で、一般にも開放されていて、宝物を拝観(有料)することができる。今なお117ヶ寺に伝わる寺宝は膨大にあり、こうした高野山内の貴重な文化遺産を保存し展示する施設として運営されている。1961年(昭和36年)に大宝蔵(収蔵庫)が増設され、高野山内の国指定文化財の美術工芸品の大半を所蔵している。その後も指定物件が増え1984年(昭和59年)に新館の増築、2003年(平成15年)に平成大宝蔵(収蔵庫)を増設している。開館当初に建てられた本館は、1998年(平成10年)に現存する日本最古の木造博物館として高野山霊宝館紫雲殿、玄関・北廊・中廊、放光閣、南廊及西廊、宝蔵が登録有形文化財に登録されている。",
"title": "その他施設"
},
{
"paragraph_id": 48,
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"text": "現在では、国宝21件、重要文化財148件、和歌山県指定文化財17件、重要美術品2件(計約2万8000点)を含め、5万点以上を収蔵している。",
"title": "その他施設"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "大講堂は高野山開創1100年記念事業として1925年(大正14年)に建立され、本尊には弘法大師、脇仏に愛染明王と不動明王が祀られている。高野山真言宗の布教、御詠歌、宗教舞踊等の総本部で、各種研修会や講習会が催され、一般参詣者でも授戒、写経などが体験できる。",
"title": "その他施設"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "真言密教の聖地「高野山」と、外界(俗世)を結ぶ参詣道(古道)である。(詳細は高野参詣道参照)",
"title": "高野参詣道"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "外界(俗世)から聖地「高野山」へ通じる入り口が7つあり、それら入口に繋がる参詣道は峠を進み、中には険しい道もある。空海が切り開き、かつて最もよく使われた表参詣道とよばれる「町石道」等、参詣者の出発地点に応じた7つの主要な参詣道が、7つの入口へと繋がる。それら入り口と、それに繋がる参詣道は、総称して「高野七口」とよばれる。また、主要参詣道の高野七口以外に、高野七口へ繋がる、その他参詣道がある。",
"title": "高野参詣道"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "「高野七口」の、外界(俗世)から聖地「高野山」への入り口7つと、それに繋がる各参詣道を「入口名 - 参詣道名」として、次にあげる。",
"title": "高野参詣道"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "現在では、車や電車、バスなどで手軽に参詣できるが、かつて高野参詣道は多くの参詣者で賑わった。",
"title": "高野参詣道"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "国の史跡に「高野参詣道」として指定されている。ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」を構成する資産として「高野参詣道」が登録されている。",
"title": "高野参詣道"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "かつて高野山は、1872年(明治5年)までは女人禁制であったため、女性は高野山内へは入れず、高野七口とよばれる高野山の結界入り口7つそれぞれに、女性のための籠もり堂(参籠所)として女人堂が置かれた。女人堂は、宿泊に利用したり、堂内の大日如来に祈願したり、また空海御廟や壇上伽藍を遥拝するために利用された。京大坂道の到着地点の不動坂口に、唯一現存する女人堂(高野参詣道#女人堂)がある。",
"title": "高野参詣道"
},
{
"paragraph_id": 56,
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"text": "空海に関連した伝説を中心に、7つの伝説が伝わる。",
"title": "高野七不思議"
},
{
"paragraph_id": 57,
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"text": "以上のほか、本坊12棟の指定が答申されている(官報告示を経て正式指定となる)。",
"title": "文化財(金剛峯寺所有)"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。",
"title": "文化財(金剛峯寺所有)"
},
{
"paragraph_id": 59,
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"text": "(昭和37年出土)",
"title": "文化財(金剛峯寺所有)"
},
{
"paragraph_id": 60,
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"text": "(昭和37年出土)",
"title": "文化財(金剛峯寺所有)"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "(昭和37年出土)",
"title": "文化財(金剛峯寺所有)"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "(昭和38年出土)",
"title": "文化財(金剛峯寺所有)"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。",
"title": "文化財(子院所有分)"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』(2004年7月登録)は以下13件の文化財を含む。",
"title": "世界遺産"
}
] | 金剛峯寺(こんごうぶじ)は、和歌山県伊都郡高野町高野山にある高野山真言宗の総本山の寺院。正式には高野山金剛峯寺(こうやさんこんごうぶじ)と号する。 高野山は、和歌山県北部、周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの盆地状の平坦地に位置する。100か寺以上の寺院が密集する日本では他に例を見ない宗教都市である。京都の東寺と共に、真言宗の宗祖である空海(弘法大師)が修禅の道場として開創し、真言密教の聖地、また、弘法大師入定信仰の山として、21世紀の今日も多くの参詣者を集めている。2004年(平成16年)7月に登録されたユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産の一部。 「金剛峯寺」という寺号は、明治期以降は1つの寺院の名称になっている。しかし高野山は「一山境内地」といわれ高野山全域が寺の境内地とされ、金剛峯寺の山号が高野山であることからも分かるように、元来は真言宗の総本山としての高野山全体と同義であった。寺紋は五三桐紋と三つ巴紋。 | {{JIS2004|記事中の仏名:『阿閦如来』(あしゅくにょらい)の2文字目}}
{{日本の寺院
|名称 = 金剛峯寺
|画像 = [[ファイル:Danjogaran Koyasan16n4272.jpg|280px]]<br />根本大塔
|所在地 = [[和歌山県]][[伊都郡]][[高野町]][[高野山]]132
|位置 = {{Coord|34|12|50.7|N|135|35|3|E|type:landmark_region:JP-30|display=inline,title}}
|山号 = [[高野山]]
|宗旨 =
|宗派 = [[高野山真言宗]]
|寺格 = 総本山
|本尊 = [[薬師如来]]([[阿閦如来]]とも){{efn|本尊名称については本記事の[[金剛峯寺#壇上伽藍(壇場伽藍)|#壇上伽藍]]の節を参照。}}
|創建年 = [[弘仁]]7年([[816年]])
|開基 = [[空海]]
|中興年 = [[長和]]5年([[1016年]])
|中興 = [[定誉]]、[[木食応其]]
|正式名 = 高野山真言宗 総本山金剛峯寺
|別称 =
|札所等 = [[真言宗十八本山]]18番<br />[[西国三十三所]]特別札所<br/>[[神仏霊場巡拝の道]] 第13番(和歌山第13番)
|文化財 = 不動堂、絹本著色仏涅槃図ほか([[国宝]])<br />大門、絹本著色[[大日如来]]像ほか([[重要文化財]])<br />世界遺産
|地図 = Japan Wakayama
|公式HP = https://www.koyasan.or.jp/
|公式HP名 = 高野山真言宗 総本山金剛峯寺
}}
'''金剛峯寺'''(こんごうぶじ)は、[[和歌山県]][[伊都郡]][[高野町]][[高野山]]にある[[高野山真言宗]]の[[本山|総本山]]の[[寺院]]。正式には'''高野山金剛峯寺'''(こうやさんこんごうぶじ)と号する。
高野山は、和歌山県北部、周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの盆地状の平坦地に位置する。100か寺以上の寺院が密集する日本では他に例を見ない[[宗教都市]]である。京都の[[東寺]]と共に、[[真言宗]]の宗祖である[[空海]](弘法大師)が修禅の道場として開創し、真言密教の聖地、また、弘法大師入定信仰の山として、[[21世紀]]の今日も多くの参詣者を集めている。[[2004年]](平成16年)7月に登録された[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]『[[紀伊山地の霊場と参詣道]]』の構成資産の一部<ref name="Heritage">{{Cite book ja-jp|author=世界遺産登録推進三県協議会|year=2005|title=世界遺産 紀伊山地の霊場と参詣道|publisher=世界遺産登録推進三県協議会(和歌山県・奈良県・三重県)}}、pp.39,75</ref>。
「金剛峯寺」という寺号は、[[明治|明治期]]以降は1つの寺院の名称になっている。しかし高野山は「一山境内地」といわれ高野山全域が寺の境内地とされ、金剛峯寺の[[山号]]が高野山であることからも分かるように、元来は真言宗の総本山としての高野山全体と同義であった。寺紋は五三桐紋と三つ巴紋。
== 概要 ==
=== 空海と高野山 ===
空海は、[[最澄]]([[天台宗]]の開祖)と並び、[[平安仏教]]を開いた僧である。著作家、書道家としても優れ、灌漑事業などを行った社会事業家、[[綜藝種智院]]を開設した教育者としての側面もある。後世には「お大師様」として半ば伝説化・神格化され、信仰の対象ともなっており、日本の仏教、芸術、その他文化全般に与えた影響は大きい。[[空海]]は[[宝亀]]5年([[774年]])、[[讃岐国]]屏風浦([[香川県]][[善通寺市]])に生まれ、俗姓を[[佐伯直#地方豪族の佐伯直氏|佐伯氏]]といった。十代末から30歳頃までは修行期で、奈良の寺院で仏典の研究に励み、時に山野に分け入って修行した。[[延暦]]23年([[804年]])、留学生(るがくしょう)として[[唐]]に渡航。[[長安]]・青龍寺の[[恵果]]に密教の奥義を学び、[[大同 (日本)|大同]]元年([[806年]])帰国している。
空海が[[嵯峨天皇]]から高野山の地を賜ったのは[[弘仁]]7年([[816年]])のことであった。空海は、高い峰に囲まれた平坦地である高野山を、高い峰々を蓮の花に見立て八葉蓮華(八枚の花弁をもつ蓮の花=[[曼荼羅]]の象徴)として、山上に曼荼羅世界を現出しようとしたものである。
=== 開創伝承 ===
既述のように、空海が嵯峨天皇から高野山の地を賜ったのは弘仁7年(816年)のことであり、空海が若い時に修行したことのあるこの山に真言密教の道場を設立することを天皇に願い出たというのが史実とされている。なお、[[平安時代|平安]]中期の成立とされる『金剛峯寺建立修行縁起』にはこれとは異なった開創伝承が残されている。空海が修行に適した土地を探して歩いていたところ、[[大和国]]宇智郡([[奈良県]][[五條市]])で、黒白2匹の犬を連れた狩人(実は、[[狩場明神]]という名の神)に出会った。狩人は犬を放ち、それについていくようにと空海に告げた。言われるまま、犬についていくと、今度は[[紀伊国]]天野([[和歌山県]][[かつらぎ町]])というところで土地の神である[[丹生明神]](にうみょうじん)が現れた。空海は丹生明神から高野山を譲り受け、伽藍を建立することになったという。この説話に出てくる丹生明神は山の神であり、狩場明神は山の神を祭る祭祀者(原始修験者)であると解釈されている。つまり、神聖な山に異国の宗教である仏教の伽藍を建てるにあたって、地元の山の神の許可を得たということを示しているのだとされている。高野山では狩場明神(高野明神とも称する)と丹生明神とを開創に関わる神として尊崇し、壇上伽藍の御社(明神社)において現在でも祀られている。また[[丹生都比売神社]]でも、丹生明神と狩場明神が祀られ、金剛峯寺と丹生都比売神社は古くから密接な関係にあり、[[神仏分離]]後の今日でも金剛峯寺の僧の丹生都比売神社への参拝が行われている。
=== 入定信仰 ===
空海が[[天長]]9年([[835年]])奥之院に[[入定]]後、86年経った[[延喜]]21年([[921年]])に東寺長者の[[観賢]]の上奏により[[醍醐天皇]]が空海に「弘法大師」の[[諡号]]を贈った。観賢は、その報告のため高野山へ登り奥之院の廟窟に入ると、[[入定]]した空海(即身仏)は、髪を伸ばし、その姿は普段と変わりなく、まるで生きているかのように禅定している空海の姿があったと伝えている。このことから「弘法大師は今も奥之院に生き続け、世の中の平和と人々の幸福を願っている」という入定信仰が生まれた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.koyasan.or.jp/shingonshu/temple.html|title=日本各地の大師信仰|accessdate=2020.12.14|publisher=高野山真言宗 総本山金剛峯寺}}</ref>{{Sfn|高野山の秘密|2015|p=57}}。
=== 結界 ===
空海が高野山に入山し最初にしたことは、高野山を中心に東西、南北にそれぞれ七里の[[結界]]を張り、俗世と聖地高野山との境界としたことであった。高野山は元々祖霊の集まる神聖な場所で、それを人々へ承知させ、結界内に不浄なものを入れないために、高野山を囲む山々の峰をつなぐ線として、密法の法により結界を張ったとされている。また高野山全域の結界の中に更に二重の結界が張られ、その二重の結界内部は、のちに信仰の中心となる[[伽藍]]を建立する壇上(壇場)とされた{{Sfn|高野山の秘密|2015|p=37}}。
結界内に開創以来、次の4つの禁が明治まで続いた{{Sfn|高野山の秘密|2015|p=40}}。
# 肉や魚を持ち込まない。食べない。
# 女人禁制。
# 遊芸に関わる鳴り物をしない。
# 鶏と猫を飼わない。
[[女人禁制]]により女性が山内に入ることができず、[[高野参詣道]]の終着点の[[高野参詣道#高野七口|高野七口]]といわれる結界への入り口付近に女性たちの籠もり堂(参籠所)として[[高野参詣道#女人堂|女人堂]]ができ<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.koyasan.or.jp/meguru/sights.html#nyonindo|title=女人堂/名所一覧|accessdate=2020.12.13|publisher=高野真言宗 総本山金剛峯寺}}</ref>、各女人堂をめぐる結界に沿ってできた参詣道が[[女人道 (高野参詣道)|女人道]]である{{Sfn|歩いて旅する|2015|p=135}}。[[1872年]]([[明治]]5年)明治政府が[[太政官布告・太政官達|太政官布告]]第98号「神社仏閣女人結界ノ場所ヲ廃シ登山参詣随意トス」を発布し<ref name="ReferenceA">[[金剛峯寺#horei1879|明治5年「法令全集」]], 第98号。{{NDLJP|787952/7}},{{NDLJP|787952/97}}</ref>、女人禁制が廃止されたが、実質、高野山において公式に女人禁制が解かれたのは高野山開創1100年記念大法会にむけて、高野山の結界残部を残らず解除した1906年(明治39年)である<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.reihokan.or.jp/bunkazai/nenpyo/meiji.html|title=高野山文化財年表 明治時代|accessdate=2020.12.13|publisher=(公財)高野山文化財年表保存会 高野山霊宝館}}</ref>。
遊芸に関わる鳴り物をしない禁を破ったことに関する逸話として、[[豊臣秀吉]]が、母[[大政所]]の[[三回忌]]の際に高野山開創以来の禁令の笛太鼓や鼓などを用いた能狂言を催したところ、当日、雲がなかったが、能が始まると暗雲が広がり、天地が振動し凄まじい雷雨が襲った。大師の怒りと恐れおののいた秀吉は、単騎一目散に山を駆け降り難を逃れたと伝わる{{Sfn|高野山を歩く|2009|p=100}}。
鶏と猫は禁じているが、犬だけは飼うことが許されたのは、高野山開創伝承で犬が空海を高野山へ導いたためである{{Sfn|高野山の秘密|2015|p=40}}。
=== 高野三方 ===
平安時代以降、江戸時代まで存在した高野山の僧徒の三派の称で、学侶、行人、聖で構成され、明治になり廃止、統合された{{Sfn|高野山の秘密|2015|p=118}}。通称「高野十谷」といわれる谷ごとに学侶や行人の坊が造られ、多くの子院・塔頭があった{{Sfn|空海高野山|2013|p=128}}。学侶、行人、聖の順に階級的要素があり、聖が一番下層に見られる傾向があり、度々派閥的争いがあった。
* [[学侶]] - 学侶方ともいわれ、純粋な真言密教の教義、学問、法会などの学業修行に努めた僧衆{{Sfn|高野山の秘密|2015|p=118}}。貴族の子弟も多くいた{{Sfn|空海高野山|2013|p=128}}。代表寺院は、[[青巌寺]]であった。
* [[行人 (仏教)|行人]] - 行人方ともいわれ、[[修験道|修験]]的傾向が強く、学侶が法会などの行事を行うときに裏方でサポートを行う。「承仕」という灯明・線香を灯すなどの雑務や、夜間の堂宇の見張りをする堂守り、諸堂建立や寺領・[[荘園 (日本)|荘園]]管理、外敵から高野山を守る僧兵もした僧衆である{{Sfn|高野山の秘密|2015|p=118}}{{Sfn|空海高野山|2013|p=128}}。代表寺院は、[[興山寺 (廃寺)|興山寺]]であった。
* [[聖]] - 聖方ともいわれ、高野山に集まった聖は[[高野聖]]とよばれ、代表寺院は、大徳院であった。行人から派生した僧や他宗派、霊場などから入山したり、また高野山へ隠遁して念仏修行した僧衆。のちに諸国を遍歴し説法、[[勧進]]、護符や薬草を売る行商を行ったり、高野山への納骨・納髪を勧め、高野山の経済を底辺から支えた。その活動範囲は、一般庶民から、貴族、皇室にいたり、活動で得た浄財は高野山へ納め、その一部を自身の収入とした。高野山の浄土信仰と弘法大師信仰を日本全国へ広めるうえで大きな存在だった。公に認められていた官僧は皇室や貴族のために存在していたため、聖が諸国を遍歴するまでは一般庶民が死者供養できなかった{{Sfn|高野山の秘密|2015|p=118}}。高野山へ訪れることができない人々に空海との結縁を作り、説教節とよばれる講談調の「[[苅萱]]」の語り手でもあり、庶民の娯楽にもなった。また日本各地の空海が訪れたことがない場所での弘法大師伝説は高野聖の活動によるといわれる{{Sfn|空海高野山|2013|p=129}}。山内に別所とよばれる庵を作り真言密教とは違う浄土信仰と念仏信仰を説いたため、学侶方から疎まれる存在であった{{Sfn|高野山の秘密|2015|p=120}}。高野山は真言密教の修禅道場であるが、[[浄土教|浄土信仰]]ゆかりの地ともいわれ、浄土信仰の教えを説く僧が入山し高野聖となった者も多く、中興の祖といわれる[[覚鑁]]も聖方で、真言密教と浄土教を統合した教えを説いている{{Sfn|空海高野山|2013|p=130}}。
=== 高野十谷 ===
高野山内は、壇上伽藍、奥之院と十谷とよばれる十の地区で構成されている。各谷には学侶や行人の塔頭・子院が立ち並び、各谷ごとに共用の堂宇や湯屋などの施設があり、谷ごとに講などが行われていた。現在においても117か寺が存在する([[#子院・塔頭|後述]])。この他に、念仏を唱える聖(念仏聖)が集まった十谷から離れた「別所」とよばれる場所もあった{{Sfn|はじめての大師|2018|p=109-110}}。
奈良[[東大寺]]の大仏勧進で知られる重言が再興した別所は「真別処」(正式名称:高野山事相講伝所円通律寺)とよばれ、現在でも女人禁制の戒律を守り、年に1度、旧暦の花祭り(釈尊降誕会)のときだけ、一般に開放され女性も参拝できる{{Sfn|はじめての大師|2018|p=110}}。
{| class="wikitable"
|+高野十谷
|西院谷
|往生院谷
|-
|南谷
|蓮華谷
|-
|谷上院谷
|千手院谷
|-
|谷中院谷
|五之室谷
|-
|小田原院谷
|一心院谷
|}
== 歴史 ==
=== 平安・鎌倉時代 ===
[[弘仁]]7年([[816年]])、高野山を賜った空海は、翌年から[[実恵]]、[[円明]]などの[[東寺]]にいた弟子達に命じ草堂を建てさせ、819年に空海が高野山に結界を張り伽藍の建立に取りかかったが、国の援助を得ずに人々からの勧進による私寺建立を目指したこと、交通不便な山中であること、また朝廷からの要請による821年の[[香川県]]の[[満濃池]]の修築や828年の京都の[[綜芸種智院]]の開設などにより、空海が多忙であったことで、工事ははかどらなかった{{Sfn|高野山の秘密|2015|p=115}}。空海の在世中に完成した堂宇はごくわずかであり、無論、当時の建築物は現存していない。[[承和 (日本)|承和]]2年([[835年]])には[[定額寺]]に列し[[官寺]]に准ずる[[寺格]]を得た(『[[続日本後紀]]』承和八年二月七日条)。空海の入定(835年)の後、弟子であり実の甥でもあった[[真然]]が887年頃に根本大塔などの伽藍を整備した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.koyasan.or.jp/meguru/sights.html|title=大塔/壇上伽藍/名所一覧|accessdate=2020.12.17|publisher=高野山真言宗 総本山金剛峯寺}}</ref>。
真然が空海が[[唐]]で[[恵果]]から教わった奥義や[[経典]]を書写した「三十帖策子(三十帖冊子)」を東寺から借り出したが、「三十帖策子」を所有することで真言宗の根本寺院を意味したので、その後の東寺からの返却要請に応じず、紛争の原因となった{{Sfn|高野山の秘密|2015|pp=116–117}}。第2代座主無空は返還を拒否し「三十帖策子」を持って一山の者を連れ下山し、約20年にわたり高野山に人影が無い状態が続き、第一期の荒廃期を迎えた。この紛争を解決したのが[[東寺長者]]の[[観賢]]であった。「三十帖策子」は東寺に返却され、観賢が高野山座主を兼ねることで、高野山は東寺の配下となり、明治維新まで高野山は東寺の末寺となったが、先述したように、921年この観賢の[[上奏]]により空海に「弘法大師」の諡号が贈られ、入定信仰が生まれ次第に高野山の復興に繋がっていった{{Sfn|高野山の秘密|2015|p=|pp=116–117}}。
[[正暦]]5年([[994年]])には落雷による火災のため、ほとんどの伽藍を失い、また朝廷から復興の命を受けた国司による専横もあり、僧は皆、山を下り麓の天野(現、[[丹生都比売神社]])に本拠を移し、第2の荒廃の時期を迎えた{{Sfn|高野山の秘密|2015|p=119}}。荒廃した高野山は、[[長和]]5年([[1016年]])頃から、奈良・[[興福寺]]の[[勧進]][[聖]]だった[[定誉]](祈親上人)が再興に着手し、定誉の働きかけで宗派を超えた様々な[[勧進|勧進僧]](後の[[高野聖]])が協力した。その中でも[[仁海]]が定誉に協力し京都で高野山の[[霊場]]信仰を説いたことで、[[治安 (元号)|治安]]3年([[1023年]])には[[藤原道長]]の登拝に結びついた{{Sfn|高野山の秘密|2015|p=119}}。また平安末期は、[[末法思想]]が広がっていた時代で、[[高野聖]]による勧進により浄土信仰、弘法大師信仰が、皇族などにも広がり、[[白河天皇|白河上皇]]、[[鳥羽天皇|鳥羽上皇]]が相次いで参詣するなど、高野山は現世の浄土としての信仰を集め、寺領も増加し堂塔の再建や寺院の建立など高野山の復興に弾みがついた。この頃には[[高野三方]]とよばれる[[学侶]]、[[行人 (仏教)|行人]]、[[聖]]の三派の原型が成立していたと考えられ、高野聖は各地で勧進活動を行い皇族、貴族、一般庶民への[[浄土教|浄土信仰]]が広まっていった{{Sfn|高野山の秘密|2015|p=118}}。[[定誉]](祈親上人)が高野山復興を志したのは、奈良県・[[長谷寺]]を参詣したおりに、本尊の[[十一面観音|十一面観音菩薩]]から高野山に登るようにとのお告げを受けたためという伝承があり、お告げに従い高野山[[金剛峯寺#奥之院|奥の院]]で[[灯明]]を捧げるが、それが現在も奥の院で1000年以上も燃え続ける「持経灯(祈親灯)」である{{Sfn|図解高野山|2014|p=66}}。
時の権力者の藤原道長の参詣を期に多くの権力者からの帰依を得ることができ、高野山の復興は進むが、空海が入定した地として真言宗最高の聖地でありながら東寺の末寺として扱われ、社会的地位は低いままであった。これは仏教の世俗化により勧進僧の[[聖]](高野聖)など志の低い僧が増加していたことも一因であった{{Sfn|図解高野山|2014|p=68}}。高野山中興の祖といわれる興教大師[[覚鑁]]は<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=http://www.koyasan.or.jp/shingonshu/history.html|title=年表|accessdate=2020.12.22|publisher=高野山真言宗 総本山金剛峯寺}}</ref>、鳥羽上皇の[[院宣]]を得て大伝法院[[座主]]に就任し、[[長承]]3年1([[1134年]])には金剛峯寺の座主を兼任し<ref name=":1" />、教学、行法上の改革を志した{{Sfn|高野山の秘密|2015|p=120}}。しかし[[保延]]6年([[1140年]])には高野山内で勢力を急拡大させた覚鑁は、聖方だったことや、また「密教では大日如来と阿弥陀如来は同体異名で、阿弥陀如来の極楽浄土と大日如来の密厳浄土は、名前は違うが同じ」と説いたことで、保守系の学侶方の多数の僧徒が反発し{{Sfn|高野山の秘密|2015|p=120}}、覚鑁がいた[[密厳院]]を襲うなどして覚鑁一派を高野山から下山させ([[錐もみの乱]])、覚鑁らはやがて[[根来寺]]へ移り[[新義真言宗]]を成立させてゆく。
平安時代末期からの源平の騒乱期には、高野山は都から離れた場所にあり、また中立を保っていたことで戦禍に見舞われることが無かったため、現世浄土として様々な僧が集まり、また敗者の[[伊勢平氏|平家]]の[[納骨]]も活発に行われた。また[[源氏]]方でも[[恩賞]]に不服があり[[出家]]する[[武士]]が目立つようになり、そして高野山に[[草庵]]を建てて住み、仏道に励んだり、堂宇を建てることで空海の功徳を得ようとした。彼らも、また高野聖となっていった。そのため平安中期以降の高野山は様々な僧侶や聖が集う「お山」となっていった{{Sfn|高野山の秘密|2015|p=72}}。武士政権になり皇族や貴族の権威は落ちるが、むしろ堂宇建立が以前より活発に行われた{{Sfn|図解高野山|2014|p=74}}{{Sfn|高野山の秘密|2015|p=95}}。その一例として鳥羽上皇の皇后[[美福門院]]が菩提心院、六角経蔵の建立、荘園の寄進があげられる{{Sfn|図解高野山|2014|p=70}}。
高野山表参道の[[町石道]]に高野山開創の頃からあった道標で町数をしめす木製[[板塔婆|卒塔婆]]は、鎌倉時代には老朽化が激しく、皇族・貴族、僧侶、庶民にいたるあらゆる階層の人々の寄進により建て替えられていくが、その最大の支援を行ったのは[[鎌倉幕府]]で、幕府の有力[[御家人]]の[[安達泰盛]]や他の幕府要人の支援があり、[[文永]]2年([[1265年]])から20年の歳月をかけ、石製卒塔婆に置き換えられ、現在にも残る町石道として整備された{{Sfn|入谷|2019|p=44}}。また時の権力者、[[源頼朝]]の[[正室]][[北条政子]]は、亡夫の源頼朝菩提のため禅定院(金剛三昧院の前身)を建立し、その後[[金剛三昧院]]を建立した。政子が鎌倉から離れた高野山へ帰依した理由として、高野山への敬意があったのは勿論のことだが、源頼朝の三男の[[貞暁]]の存在が大きい。貞暁は政子の子で無かったため、嫉妬深い政子の迫害から逃れるために[[承久]]2年([[1220年]])高野山に入山する。[[江戸時代]]の歴史書「高野春秋」によると、北条政子は実子の3代将軍[[源実朝]]を亡くすと、貞暁が4代将軍になる意志があるか確認するために高野山を訪れ、女人禁制があるため高野山山麓の天野社(現・[[丹生都比売神社]])で貞暁と面会した。政子と面会した貞暁はすぐさま短刀を取り出し自身の左目をえぐり出し武士に戻る意思がないことを示した。この潔さに心打たれた政子は貞暁に強く帰依し、高野山へ多くの寄進を行うようになった。一説では、それは高野山への監視の目的もあったとされるが、鎌倉幕府からの強い庇護につながった{{Sfn|高野山の秘密|2015|p=96}}{{Sfn|図解高野山|2014|p=74}}。また政子は、この面会が行われた天野社(丹生都比売神社)の社殿も寄進している{{Sfn|高野山の秘密|2015|p=96}}。
このように有力者による寺院建立もあり、[[永承]]3年([[1048年]])には僧坊16宇だったが、100年後の[[久安]]4年([[1148年]])には学侶方300人、行人方・聖方2000人を有する規模になったと伝わり、最盛期には2,000もの堂舎が立ち並んだという{{Sfn|高野山の秘密|2015|p=121}}。またこの頃には諸堂伽藍は主に学侶方が、奥之院は行人方が支配するようになっていた{{Sfn|高野山の秘密|2015|p=121}}。
=== 室町・江戸時代 ===
鎌倉末期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝]]が合一に至るまで日本全土に争乱が続く中、大勢力となっていた高野山に南北朝両勢力より協力要請などの働きかけがあったが、高野山は一貫して中立を保っていたため、南朝の[[後醍醐天皇]]が1334年に愛染堂を寄進、また南北朝統一後すぐに北朝方の[[足利尊氏]]は高野山の[[段銭]]や[[小物成|諸役]]の免除、寺領への[[守護使不入|守護不入]]の権利を与え手厚く庇護した{{Sfn|図解高野山|2014|p=81}}。その後、足利尊氏、[[足利義満|義満]]が高野参詣し、[[室町幕府]]とも良好な関係が続く。
高野山の教学を二分する学侶方勢力の宝性院院主の[[宥快]]は「宝門」、無量寿院院主の長覚は「寿門」という学派を組織し、[[応永]]19年([[1412年]])頃に「応永の大成」とよばれる教学の組織改編を推し進め、その結果、真言密教教学の確立にともなって、高野山の主導権が学侶方にあるべきとの風潮が高まった{{Sfn|図解高野山|2014|p=81}}{{Sfn|高野山の秘密|2015|p=126}}。この学侶の二大勢力は、その後も塔頭寺院筆頭格として江戸時代まで続き、明治時代に両院は合併し、宝寿院となった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.reihokan.or.jp/tenrankai/list_tokubetsu/2015_09.html|title=宝寿院の名宝/特別展・企画展/展覧会について|accessdate=2021.2.19|publisher=高野山霊宝館/(公財)高野山文化財保存会}}</ref>。しだいに学侶と行人との対立は深まり、[[寛正]]5年([[1464年]])には学侶方と高野山の実務を行ってきた行人方と合戦が行われた{{Sfn|高野山の秘密|2015|p=127}}。また、この頃の高野聖は密教教学から離れて[[時宗]]化し、また禁止されていた鳴り物を使った[[念仏|踊り念仏]]、[[鉦叩|鉦叩き]]を別所(本拠地を離れた所に営まれた[[聖]]が集まって修行するための[[庵]]や[[仏堂]]を設けた場所)で行っていたため、それら行為を学侶方から禁止され、学侶、行人、聖の対立が表面化する{{Sfn|高野山の秘密|2015|p=126}}。またこの頃の聖の中には、利潤追求のためだけの宿坊経営や高野山を利用した商売を行う者、また諸国を遍歴していた者による他人の妻・娘をかどわかしたりする問題行為も絶えなかったと伝わる{{Sfn|高野山の秘密|2015|p=126}}。
[[永正]]18年([[1521年]])には大火により大塔、金堂以下伽藍300余宇、僧坊など3900余宇を焼失し、全山が壊滅状態となり高野山は著しく衰退する。高野聖は熱心な諸国遍歴で勧進を続け、弘法大師信仰は急速に庶民の間にも広がっていったが、戦国の世のため、なかなか伽藍復興には結びつかなかった。そこで高野山は有力大名との間で師壇関係や宿坊契約を結ぶことで、高野山への宝物寄進や奥之院への納骨・納髪、石塔建設が盛んとなった{{Sfn|図解高野山|2014|p=82}}{{Sfn|高野山の秘密|2015|p=127}}。この頃は武士の間で高野山信仰が広まり、戦国大名が寄進した子院が数多く作られた。例えば子院で宿坊の[[高室院]]は鎌倉時代の創建であるが、小田原北条氏が壇越(スポンサー)となり、北条氏の菩提寺となった。同寺院は北条氏の領国である武蔵・相模・伊豆三国を布教地域としていた<ref>山陰加春夫『巡礼高野山』新潮社</ref>。のち北条氏が滅ぶと、当主の[[北条氏直]]は高室院に隠棲して生涯を終えている。
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の高野山は寺領17万石、3万の[[僧兵]]を擁す巨大勢力であったため、[[織田信長]]の標的の一つであったが{{Sfn|空海高野山|2013|p=142}}、[[天正]]8年([[1580年]])に織田信長に[[謀反]]を起こした[[荒木村重]]が家臣数人とともに高野山へ逃げ込んだため、信長家臣三十数名が取り調べに高野山へ来たが、行人方山徒が[[足軽]]達は捜索ではなく乱暴狼藉を働いたという理由で誅殺してしまう。激怒した信長は[[畿内]]を巡遊していた高野聖1383人を捉え惨殺し、さらに数万の軍勢で[[紀州征伐#高野攻め|高野山攻め]]が行われた。しかし、ほどなく信長が[[本能寺の変]]で倒れたため、高野山は取り敢えずの難を免れた。しかし[[豊臣秀吉]]は、根来攻めに引き続き、高野山に使者を派遣し寺領の返還や武装解除を迫るなどの条件をだし降伏を勧めた。当時高野山にいた武士出身の僧・[[木食応其]]が仲介者となって秀吉に武装解除などの服従を誓ったため、石高は減らされたものの、高野山は存続することができた。のちに秀吉は応其を強く信頼し帰依するようになり、最終的に2万1000石の寺領が[[安堵]]され、秀吉は永正18年(1521年)に消失した伽藍の大塔、金堂など25棟の堂宇の再建に協力し、[[興山寺 (廃寺)|興山寺]]や母・[[大政所]]の菩提のために[[青巌寺]]([[豊臣秀次]]が[[切腹|自刃]]した場所としても知られ、現在の総本山金剛峯寺の前身である)を建て高野山を庇護することとなった{{Sfn|図解高野山|2014|p=82}}{{Sfn|高野山の秘密|2015|p=128}}。応其は、秀吉の高野山攻めを阻止しただけでなく、秀吉の信頼を得、庇護につなげたため、「高野は応其にしてならず」と言わしめたと伝わる{{Sfn|空海高野山|2013|p=143}}。[[ファイル:091031 Takamuroin Koyasan Wakayama pref Japan01s3.jpg|thumb|高室院]]
[[文禄]]3年([[1594年]])徳川家が子院の蓮華院に大徳院という院号を与え、[[菩提所]]・宿坊と定めたこともあり、諸[[大名]]もこれに見習い、また多くの有力者が高野山の子院と壇縁関係を結び、また奥之院に霊屋、墓碑、供養塔などを建立するようになった{{Sfn|図解高野山|2014|p=84}}。その数は多く、徳川家、及び譜代大名は大徳院と師壇関係を、その他300程度の大名が山内の寺院と師壇関係を結んだとされる{{Sfn|高野山千百年|1942|p=238}}。徳川幕府も高野山に寺領を2万1000石を安堵したが、その内訳は[[慶長]]6年([[1601年]])に得た朱印状の寺領安堵状によると、学侶方に9500石の寺領、行人方に11500石の寺領が分け与えられた。しかし聖方には寺領は与えられず、[[徳川家光|家光]]の時代に聖方の大徳院境内にあった[[徳川家霊台]]の祭祀料として支給された200石のみであった{{Sfn|村上|2018|p=162}}。この朱印状により、高野山の寺領管理は、学侶方・行人方に分けて任されることとなった{{Sfn|村上|2018|p=162}}。しかし、学侶方の宝性院、無量寿院の門主には十万石の大名の格式での江戸への参勤交代を義務づけ、高野山が幕藩体制に組み込まれることとなった。この頃、[[時宗]]化していた聖(時宗聖)は大徳院の院号の権威で勢いをまし、学侶、行人方と同じ屋形作りで[[破風]]に狐格子の院を構えたところ、行人方の反感をかい、慶長11年([[1606年]])に行人方は大徳院を襲撃し狐格子を壊したが、聖方が家康に訴えたところ、幕府からの裁定が下り、行人は時宗聖方の屋造りに干渉せぬこと、時宗聖方は時宗を改めて真言宗に帰入することが定められた{{Sfn|五来|1975|p=270}}。この後、聖方は大徳院の聖方に留まる者と、行人方に転派するものに分かれ、事実上の高野聖の終焉となった{{Sfn|高野山の秘密|2015|p=129}}。また幕府により[[遊行|遊芸者]]や諸国を遍歴する勧進僧は厳しく取り締まられ、今までのような高野聖としての役目を全うすることが難しくなり、全国を遍歴していた聖は、日本全国各地の村落にある小堂・小庵に定着するようになった。そのことで全国各地に大師堂や弘法大使を信仰する寺が造られ、庶民も気軽に先祖供養が行なえるようになったと考えられている{{Sfn|高野山の秘密|2015|p=129}}。
[[正保]]3年([[1646年]])の「御公儀上一山図」によると山内院家数は最盛期の1600年代中頃で、学侶方210院、行人方1440院、聖方120院、客僧坊42院、その他53院の1865院と記録されている{{Sfn|村上|2018|p=163}}。幕府の力は強大で、元禄高野騒動といわれる学侶方と行人方の権力闘争の結果、[[元禄]]5年([[1692年]])に幕府が裁定を下し、従わなかった行人627人を[[流罪|流刑]]にし、行人方の坊を280坊にまで減らし、以後増えることは無く、完全に幕藩体制に組み込まれていたことがうかがえる{{Sfn|図解高野山|2014|p=84}}{{Sfn|高野山の秘密|2015|p=130}}{{Sfn|村上|2018|p=163}}。元禄年間([[1688年]] - [[1704年]])の頃から庶民の参詣が増加したのに伴い、高野山内に僧侶以外の職人や町人が多く常住するようになっていた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.koyasan.or.jp/shingonshu/history.html|title=年表|accessdate=2021.2.20|publisher=高野山真言宗総本山金剛峯寺}}</ref>。
=== 明治時代以降 ===
明治の新時代の[[1868年]]([[慶応]]4年/明治元年)に[[神仏分離|神仏判然令]](神仏分離令)が発布されたことで、仏教界にとって未曾有の危機的状況となったが、高野山にとっても例外ではなかった。政府より高野山に神仏分離の通達が下り、また政府の命令により学侶、行人、聖の3派が廃止され、[[1869年]](明治2年)に秀吉が建立した青巌寺と興山寺が合併し寺号が金剛峯寺と改められた。このことで、金剛峯寺という寺号は本来高野山全体を指す寺号であったが、この時より「金剛峯寺」は高野山真言宗の管長が住む総本山寺院を意味するようになった{{Sfn|図解高野山|2014|p=86}}。
[[1871年]](明治4年)に版籍奉還によって寺領2万1000石は新政府に返還させられ、また高野山が行っていた自治制を失い、山内に役場の設置、警察の派遣が行われた{{Sfn|高野山の秘密|2015|p=132}}。[[1872年]](明治5年)明治政府から[[太政官布告・太政官達|太政官布告]]第98号「神社仏閣女人結界ノ場所ヲ廃シ登山参詣随意トス」が発布され<ref name="ReferenceA"/>、近代化政策を進める新政府によって女人禁制が解かれた。[[1873年]](明治6年)には高野山所有の山林3000ヘクタールも返上し、完全に経済的基盤を失うこととなった{{Sfn|図解高野山|2015|p=86}}。このため[[還俗]]し山を去る僧侶も増え廃寺となる寺院が増えていったが、追い打ちをかけるように[[1879年]](明治12年)の火災で70の堂舎が焼失<ref name="ando">『明治日本美術紀行 ドイツ人女性美術史家の日記 』フリーダ・フィッシャー、安藤勉、講談社 (2002/7/10), p77</ref>、次いで1884年(明治17年)50ヶ寺焼失、130戸に類焼<ref name=":7">{{Cite web|和書|url=http://www.reihokan.or.jp/bunkazai/nenpyo/meiji.html|title=高野山文化財年表 明治時代|accessdate=2021.2.20|publisher=高野山霊宝館/(公財)高野山文化財保存会}}</ref>、さらに[[1888年]](明治21年)3月23日、24日にも大火災があり多くの寺院、町家を焼失することとなった。高野山の危機的状況に[[1891年]](明治24年)高野山の維持と自立存続を図るために一山が協議し、明治初期に680余ヶ寺もあった寺院を、130ヶ寺まで統廃合することを決定し{{Sfn|高野山の秘密|2014|p=132}}、現在に近い状態へとなった。
明治中期に国内情勢が安定してくると、高野山に残る膨大な宝物の保護活動が始まった。[[1891年]](明治24年)・[[1893年]](明治26年)に宮内省臨時全国宝物取調局より重要宝物の鑑査状が交付された<ref name=":7" />。[[1894年]](明治27年)世間に高野山の宝物の価値を認知してもらうために金剛峯寺で宝物展を開催。[[1898年]](明治31年)帝室博物館による高野山宝物調査と修復が行われた{{Sfn|図解高野山|2014|p=86}}。[[1906年]](明治39年)開創1100年記念大法会に向け、金剛峯寺が高野山全域に残る結界を解除したことで、全ての禁制が解かれ実質的に女人禁制も完全解除され、金剛峯寺が公式に女性の入居住を認めたこととなった<ref name=":7" />。1899年金剛三昧院多宝塔、金剛峯寺不動堂などが、また[[1908年]](明治41年)には66点もの多くの美術工芸品が旧国宝に指定されたことで<ref name=":7" />、宝物館建設の声が高まった{{Sfn|図解高野山|2014|p=86}}。[[1913年]]([[大正]]2年)2年後を迎える高野山開創1100年大法会記念事業として宝物館建設を目標とする「高野山興隆会」が発足し、建設費を募る勧進運動が全国展開された{{Sfn|図解高野山|2014|p=86}}。[[1916年]](大正5年)宝物館建設趣旨徹底のための二度目の「宝物展覧会」が金剛峯寺にて開催された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.reihokan.or.jp/bunkazai/nenpyo/taisyo.html|title=高野山文化財年表 大正時代/高野山と文化財|accessdate=2021.2.20|publisher=高野山霊宝館/(公財)高野山文化財}}</ref>。第一次世界大戦が勃発してから日本からの輸出が活発になったことで、物価や人件費が高騰し建設費も高騰したため、当初計画よりも規模を縮小し、1918年(大正7年)高野山初の宝物館「霊宝館」の建設が始まる。1921年(大正10年)霊宝館開館{{Sfn|図解高野山|2014|p=87}}。[[1918年]](大正7年)に公布された大学令に基づいて、[[1926年]](大正15年)[[高野山大学]]が開設された。同年12月26日{{efn|前日の25日に大正天皇が崩御し改元が行われたため、この日は大正15年ではなく昭和元年である。}}、金堂が創建当初のものと云わる本尊像などとともに焼失([[金剛峯寺#壇上伽藍(壇場伽藍)|#壇上伽藍]] 金堂で後述)。
[[1934年]](昭和9年)9月21日、[[室戸台風]]の暴風雨により倒木多数。御廟所前の灯篭堂は二丈あまりの老木が倒れ掛かり倒壊した<ref>京都・奈良の国宝建造物も大損害『大阪毎日新聞』昭和9年9月23日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p234 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。
第二次世界大戦後の混乱期には日本各地の文化財が海外へ流出したことで、高野山でも文化財保護の機運が高まり、[[1957年]]([[昭和]]32年)財団法人(現・公益財団法人)高野山文化財保存会が設立され、高野山の文化財を一括管理するようになり、また文化財防災専用水管が山内の1万メートルに張り巡らされた{{Sfn|図解高野山|2014|p=87}}。2004年(平成16年)ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産の一部として高野山が登録された。[[2015年]]([[平成]]27年)高野山開創1200年記念大法会が執り行なわれた。
<!-- 2012年2月27日、お布施など運用に失敗して少なくとも6億8千万円の損失を出していたことが[[朝日新聞]]で報道された。約3700の末寺から集めた壇信徒からのお布施も含まれているという。庄野光昭宗務総長は、多額の損失を出したことについて「運用が思いにまかせず推移している。慙愧に堪えない」と宗会で説明した<ref>http://www.asahi.com/national/update/0227/NGY201302260021.html</ref>。(歴史の節に記載する内容では無いと思うのでコメントアウトします。) -->
== 主な権力者の高野参詣と高野山との関わり ==
平安期、[[摂関政治]]が盛んであった頃、「入定信仰」や「高野浄土信仰」が起こり、その信仰が高まりを見せると、上皇・天皇・皇族や貴族による、高野山参詣が相次ぎ、また帰依したことで、高野山の復興・発展することに繋がった。
{| class="wikitable"
|+年表:主な権力者の高野参詣と高野山との関わり<ref name=":8">「高野山名所図会」石倉重継 1904年 近代デジタルライブラリー</ref>{{Sfn|はじめての大師|2018|p=104-105|pp=104-105}}
!
!主な権力者
!備考
|-
|900年
|[[宇多天皇|宇多法皇]]参詣
|905年に、二度目の参詣
|-
|1023年
|[[藤原道長]]参詣
|
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|1048年
|[[藤原頼通]]参詣
|
|-
|1088年
|[[白河天皇|白河上皇]]参詣
|他に1091年、1103年、1127年の計4度の参詣
|-
|1124年
|[[鳥羽天皇|鳥羽上皇]]参詣
|他に1132年、1127年の計3度の参詣
|-
|1156年
|[[平清盛]]を奉行として大塔落慶
|
|-
|1169年
|[[後白河天皇|後白河法皇]]参詣
|
|-
|1207年
|[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]参詣
|
|-
|1223年
|[[北条政子]]が[[金剛三昧院]]建立
|
|-
|1258年
|[[後嵯峨天皇|後嵯峨上皇]]参詣
|
|-
|1313年
|[[後宇多天皇|後宇多法皇]]参詣
|
|-
|1334年
|[[後醍醐天皇]]御願による愛染堂建立
|
|-
|1338年
|[[後醍醐天皇]]参詣
|[[吉野行宮]]より潜幸
|-
|1344年
|[[足利尊氏]]参詣
|
|-
|1378年
|[[長慶天皇]]参詣
|
|-
|1389年
|[[足利義満]]参詣
|
|-
|1581年
|[[織田信長]]の高野攻め開始
|翌年:信長没、後に豊臣秀吉が高野山と和議し、庇護することに繋がる
|-
|1585年
|[[豊臣秀吉]]と和議
|
|-
|1594年
|豊臣秀吉参詣
|
|-
|1594年
|[[徳川家康]]参詣
|
|-
|1599年
|[[石田三成]]が経蔵建立
|
|-
|1848年
|[[紀伊徳川家]]が御影堂を再建
|
|}
== 高野山真言宗総本山金剛峯寺 ==
高野山は「一山境内地」といわれ、かつて結界が張られていた内部全域が境内地とされ、境内の中に開かれた宗教都市である。山内を大きく分別すると、'''壇上伽藍'''(伽藍地区)、'''総本山金剛峯寺'''(本坊)、'''奥之院'''(墓域)、'''高野十谷'''(子院・塔頭地区([[金剛峯寺#高野十谷|既述]]))で構成されている。これらの地区全体の西端には高野山の正門にあたる大門(重要文化財)がある。信仰の中心となるのは山内の西寄りに位置し、かつて空海により二重の結界([[金剛峯寺#結界|既述]])が張られた壇上伽藍と呼ばれる聖域である。ここには総本山金剛峯寺の総本堂にあたる金堂や真言密教の根本道場となる根本大塔を中心とする主要な堂塔が立ち並び、伽藍地区となっている。その東北方に'''本坊'''である主殿が建つ総本山金剛峯寺がある(広義における金剛峯寺は高野山全体と同義だが、狭義における金剛峯寺はこの本坊のある総本山金剛峯寺を指す)。壇上伽藍の周辺地区には高野十谷があり'''、'''「子院([[塔頭]])」と呼ばれる多くの寺院が立ち並び、また高野山大学、[[高野山霊宝館|霊宝館]](各寺院の文化財を収蔵展示する)などもある。地区東端には墓域である奥之院への入口である一の橋があり、ここから2キロほどの墓域が続き、最奥に弘法大師信仰の中心地である奥之院がある。
=== 伽藍 ===
[[File:Daimon Koyasan01n4272.jpg|thumb|200px|right|大門(重要文化財)]]
*'''大門'''(重要文化財) - [[宝永]]2年([[1705年]])再建。五間三戸の二階二層門で高さ25.1m。西方極楽浄土の方角に建てられ、表参道の入り口である。左右の金剛力士像は江戸時代中期の仏師・康意(阿形)と法橋運長(吽形)の作であり{{Sfn|図解高野山|2014|p=24}}、東大寺南大門の金剛力士像につぐ日本で二番目に大きい像とされる<ref name=":2">{{Cite web|和書|url=http://www.koyasan.or.jp/meguru/sights.html#nyonindo|title=大門/名所一覧|accessdate=2020.12.14|publisher=高野山真言宗 総本山金剛峯寺}}</ref>。1141年(永治元年)から楼門形式の門となっているが、それ以前は、現在地より少し下がった九十九折(つづらおり)谷に鳥居があり、それを総門とし神社同様そこから結界内は聖域であることを示していた<ref name=":2" />{{Sfn|高野山の秘密|2015|p=48}}。
*'''嶽弁才天''' - 高野七弁天の一つ。大門に向かって左側に鳥居が建ち、そこから弁天岳登山道([[高野参詣道#女人道|女人道]])が続き、頂上の社に空海が高野山開創時に勧請したと伝わる弁財天が祀られている{{Sfn|図解高野山|2014|p=24}}。
==== 壇上伽藍(壇場伽藍) ====
空海が高野山を開創したさいに、二重の結界を張り密教思想に基づく堂宇の建立をめざした場所である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.koyasan.or.jp/meguru/sights.html|title=壇上伽藍|accessdate=2021.10.31|publisher=高野山真言宗総本山金剛峯寺}}</ref>。曼荼羅の道場の意<ref>(松永、2014)、p.27</ref> の壇場と、梵語のサンガ・アーラーマの音訳で僧侶が集い修行をする閑静清浄な所の意の伽藍の壇場伽藍であるが、一段高い土地にあるため、今日では「壇上伽藍」と表記されることが多い{{efn|名称や建築年に諸説あるが、現地で配布している総本山金剛峯寺伽藍御供所が発行するパンフレットの内容に合わせて、この項では表記する。}}。空海が高野山を開創し、真っ先に整備に着手した場所が壇上伽藍で、最初に計画した伽藍配置は、空海独自の密教理論に基づく伽藍配置であり、壇上伽藍の南北の中心線上に南から中門、講堂(現、金堂)、僧房が配置され、また真言密教の根本経典の「大日経」、「金剛頂経」の世界を象徴する塔を、僧房を挟み、東に大塔([[両界曼荼羅|胎蔵界]])、西に西塔([[両界曼荼羅|金剛界]])を相対させて建立し、伽藍配置によって密教空間を創り出そうとしたものである{{Sfn|竹内|2008|p=180}}。実際に空海が計画した伽藍がすべて完成したのは、経済的、地理的要因などにより空海が入定してから52年後の887年(仁和3年)となった{{Sfn|はじめての大師|2018|p=45}}。
壇上伽藍は、高野山内の西寄りに位置し、金堂・根本大塔・西塔・御影堂などの立ち並び、境内地の核にあたる場所で、[[金剛峯寺#奥之院|奥之院]](後述)とともに信仰の中心となる高野山の2大聖地の1つである。ここは、空海が在世中に堂宇を営んだところで、現在の諸堂塔は大部分が江戸時代後期から昭和時代の再建であるが、現在も真言密教の道場として高野山の中核となっている。なお、壇上伽藍には両壇遶堂次第(りょうだんにょうどうしだい)にのっとり<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.koyasan.or.jp/meguru/sights.html|title=壇上伽藍|accessdate=2021.2.14|publisher=高野山真言宗総本山金剛峯寺}}</ref>、右遶(うにょう)という正式な参拝方法{{efn|右手が清浄とされ、中央に位置する金堂の本尊に右肩を向け右回り(時計回り)で巡る。}}があり、それにならって概ね以下の順番で堂宇を紹介する<ref>以下、本節の記述は、特記なき限り、松長有慶『高野山』(岩波新書)、pp.20 - 48による。</ref>。
* '''手水舎''' - 各堂宇を参拝する前に、手、口を清める。
* '''御供所''' - 伽藍の納経を拝受できる。
以下、高野山真言宗 総本山金剛峯寺が推奨する参拝順に記載する。
[[File:高野山伽藍中門.jpg|thumb|200px|right|中門]]
* '''中門(ちゅうもん)''' - [[弘仁]]10年([[819年]])創建。[[天保]]14年([[1843年]])に焼失後172年ぶりの再建で、高野山開創1200年記念事業として、[[2015年]]([[平成]]27年)4月2日落慶、旧・中門には、持国天・多聞天(江戸時代末期の作)が安置されていたが難をのがれ、根本大塔内に保管されていたものを、仏師[[松本明慶]]が修理をし、さらに、増長天・広目天像も新造して四天王像を安置する四天門として甦った<ref>[http://www..nankaikoya.jp/event/koyasan1200/event/chumon.html 高野山開創1200年記念法会](南海高野ほっとねっと)</ref><ref>松長有慶『高野山』(岩波新書、2014)、p.36</ref>。再建された中門は、元の位置より金堂寄りに建てられていて、元の中門の礎石が今も残り、見ることができる。
[[ファイル:Danjogaran Koyasan02s5s3200.jpg|thumb|200px|right|金堂]]
* '''金堂(こんどう)''' - 高野山の総本堂。初代の堂は大師により弘仁10年(819年)から造営し[[承和 (日本)|承和]]5年([[838年]])に完成したと伝わる。6代目の堂は[[万延|萬延]]元年([[1860年]])に再建されたが66年後の[[1926年]]([[昭和]]元年)12月26日未明に、創建当初のものと云わる本尊と6体の仏像(金剛薩埵坐像、金剛王菩薩坐像、不動明王坐像、降三世明王立像、普賢延命菩薩坐像、虚空蔵菩薩坐像{{efn|この6体の仏像については写真が残されており、作風から見て、空海の時代からあまり隔たらない9世紀頃に作られた密教像として、極めて貴重なものであった。}})と共に焼失した。本尊の像名は薬師如来とされてきたが、焼失した旧本尊も、現在の金堂再建時に新造された[[高村光雲]]作の丈六の新本尊も、公開されたことのない秘仏であったため、阿閦如来とする説もあり、新本尊が高野山開創1200年を記念して2015年(平成27年)4月2日から5月21日まで初めて開帳された<ref>[http://www.koyasan.or.jp/k1200/ 高野山開創1200年](金剛峯寺公式サイト)</ref> のを機に、両者は同体で像容は阿閦如来である{{efn|左手は衣を握り、右手は触地印になっている。}}が、像名は薬師如来とされた<ref>[http://www.reihokan.or.jp/bunkazai/nenpyo/kondo-s.html 高野山霊宝館サイト「高野山と文化財:文化財年表 金堂焼失諸仏」]</ref>。なお、現在の7代目の堂は[[1932年]](昭和7年)に落慶され、耐震、耐火の[[鉄筋コンクリート構造|鉄筋コンクリート造]]で外部に檜材を貼り付けた木造建築の外観で、屋根は入母屋造、梁間23.8m、桁行30m、高さ23.73m<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.koyasan.or.jp/meguru/sights.html|title=金堂/壇上伽藍/名所一覧|accessdate=2021.2.14|publisher=高野山真言宗総本山金剛峯寺}}</ref>。内陣・外陣壁面の仏画は[[木村武山]]の筆で、「八供養菩薩像」(下記参照)、「釈迦成道驚覚開示の図」が、壁面腰下には「[[散華]]」が描かれている{{Sfn|図解高野山|2014|p=30}}。[[平清盛]]の血を混ぜて描いたと伝わる[[両界曼荼羅|両界曼荼羅図]](血曼荼羅)が[[保元]]元年([[1156年]])に金堂に奉納されたが(現在、霊宝館にて所蔵([[金剛峯寺#絵画|重要文化財]]の項で詳述))、高野山開創1200年記念事業として[[凸版印刷]]と金剛峯寺がプロジェクトチームを組み約8年の歳月をかけ、デジタル技術を駆使して当時の色彩や輪郭を忠実に再現した複製版を作成し、[[2015年]]([[平成]]27年)に奉納開眼法会が行われ、金堂内に縦横約4メートルの原寸大の2幅の複製と、縦横約2メートルの縮小版2幅が掲げられている<ref>{{Cite web|和書|url=http://hashimoto-news.com/news/2015/07/03/29324/|title=平清盛の血曼荼羅再現~高野山・金堂で奉納開眼法会|accessdate=2021.2.15|publisher=橋本新聞}}</ref>。
** 八供養菩薩 - 金剛界曼荼羅で、成身会(じょうじんね) (羯磨会(かつまえ)ともいう)で、大日如来が四方の如来を供養するために現出した内四供養菩薩と、その逆に四方の如来が大日如来を供養するために現出した外四供養菩薩を合わせた八尊の供養菩薩のこと。
{| class="wikitable"
|+八供養菩薩一覧
| rowspan="8" |八供養菩薩
| rowspan="4" |内四供養菩薩
|金剛嬉菩薩
|-
|金剛鬘菩薩
|-
|金剛歌菩薩
|-
|金剛舞菩薩
|-
| rowspan="4" |外四供養菩薩
|金剛焼香菩薩
|-
|金剛華菩薩
|-
|金剛燈菩薩
|-
|金剛塗香菩薩
|}
* '''登天(とうてん)の松と杓子の芝''' - 壇上伽藍の北側の明王院の平安時代の高僧・如法上人が[[久安]]5年([[1149年]])に、この松の木より[[弥勒菩薩]]の浄土へと昇天されたと伝わる。[[精進料理|斎食]]の用意をしていた弟子が、師匠が登天するのを見、後を追って昇天したが、その時、弟子が手に持っていた[[しゃもじ|杓子]]が、昇天の途中に落ち、当時、松の周辺に生い茂っていた芝に杓子が墜ちてきたことから杓子の芝とよばれている{{Sfn|図解高野山|2014|p=33}}<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.koyasan.or.jp/meguru/sights.html|title=登天の松と杓子の芝/壇上伽藍/名所一覧|accessdate=2021.2.14|publisher=高野山真言宗総本山金剛峯寺}}</ref>。
[[File:Rokkaku kyōzō at Danjogaran of Mount Kōya 001.webm|thumb|200px|right|六角経蔵 基壇上部を回転させる様子]]
* '''六角経蔵(ろっかくきょうぞう)''' - 1934年再建。[[鳥羽天皇|鳥羽法皇]]の菩提を弔うため、皇后の[[藤原得子|美福門院得子]]が1159年に創建し、紺紙に金泥で浄写した紺紙金泥一切経を1000巻納めるとともに[[紀伊国]][[荒川荘]]を寄進した。そのため、別名荒川経蔵と呼ばれ、一切経は荒川経または美福院経と呼ばれる{{Sfn|図解高野山|2014|p=33}}<ref name=":3" />。重要文化財の一切経は[[高野山霊宝館|霊宝館]]に移されたが、写しが納められている。基壇は円形で上部に基壇と同じ円形の把手がついた幅20cmほどの枠があり、把手を押すことで基壇に沿って回すことができ、一回転すれば一切経を一通り称えたのと同じ功徳が得られるとされる<ref name=":3">{{Cite web|和書|url=http://www.koyasan.or.jp/meguru/sights.html|title=六角経蔵/壇上伽藍/名所一覧|accessdate=2020.12.17|publisher=高野山真言宗 総本山金剛峯寺}}</ref>。
[[File:Miyasiro0ɨ.jpg|thumb|200px|right|御社(重要文化財)]]
* '''御社(みやしろ)'''(重要文化財) - 明神社<ref>建物名称は松長有慶『高野山』、p.39による</ref> で1522年の再建、重要文化財指定名称は「山王院本殿」である。弘法大師が弘仁10年(819年)に山麓の[[丹生都比売神社]](天野社)から地主神として勧請、高野山の鎮守としている。高野山開創の伝承にあるが、高野山一帯は丹生(にう)明神の神領であり、弘法大師が密教を広めるには、日本の地元の神々によってその教えが尊ばれ守られるとする思想を打ち出し、神仏習合思想の大きな原動力になる。高野山においても修行者らを護り導くとされる四社明神への信仰は現在でも大切にされている。 社殿は三つあり、一ノ宮は丹生明神・気比明神、二ノ宮は高野明神(狩場明神)・厳島明神<ref>空海は丹生・高野の両明神を勧請したが、後に行勝上人([[1130年]] - [[1217年]]、一山の興隆に尽力した)が気比明神と厳島明神を勧請し四社明神とした</ref>、総社は十二王子・百二十伴神がまつられ、一ノ宮とノ二宮の構造形式は春日造で、総社は三間社流見世棚造(さんげんしゃながれみせだなづくり)であり、いずれも檜皮葺の屋根で仕上げられている。<ref>[http://www.koyasan.or.jp/meguru/sights.html#miyashirop/ 高野山真言宗 総本山金剛峯寺 御社]</ref>
* '''山王院(さんのういん)''' - [[承安 (日本)|承安]]4年([[1174年]])以前の創建で1845年再建、御社(明神社)の拝殿として建てられた。両側面向拝付入母屋造り(りょうがわめんこうはいつきいりもやづくり)の建物であり、桁行21.3メートル、梁間7.8メートル。山王院とは地主の神を山王として礼拝する場所の意味。堂では、毎年竪精(りっせい)論議や御最勝講(みさいしょうこう)などの重要行事や問答が行われ、高野山の鎮守たる明神(みょうじん)さまに神法楽(じんほうらく)として捧げられている。同様に毎月16日にも月次門徒・問講の法会が行われている。<ref>[http://www.koyasan.or.jp/meguru/sights.html#sannouin/ 高野山真言宗 総本山金剛峯寺 山王院]</ref>
[[ファイル:Danjogaran Koyasan08n4272.jpg|thumb|200px|right|西塔]]
* '''西塔(さいとう)''' - 空海の伽藍建立計画の『御図記』に従い創建され、空海が構想した大日如来の密教世界を具体的に表現する「法界体性塔(ほっかいたいしょうとう)」として根本大塔と西塔を二基一対として建立され{{Sfn|図解高野山|2014|p=31}}<ref name=":4">{{Cite web|和書|url=http://www.koyasan.or.jp/meguru/sights.html#saito|title=西塔/壇上伽藍/名所一覧|accessdate=2021.2.15|publisher=高野山真言宗総本山金剛峯寺}}</ref>、後述する根本大塔の本尊が胎蔵界大日如来であるのに対し、金剛界大日如来像{{efn|重要文化財の平安初期の作で高野山に現存する最古の仏像の本尊は霊宝館に移され当堂には新造された像が安置されている。}}と江戸時代作で胎蔵界四仏の宝幢如来・開敷華王如来・無量寿如来・天鼓雷音如来<ref>「KUKAI空海密教の宇宙」2018年10月13日発行 16ページより</ref> を安置する。[[仁和]]3年([[887年]])初代塔建立、現在の塔は5代目で[[天保]]5年([[1834年]])の再建で擬宝珠(ぎぼし)高欄付多宝塔で屋根は本瓦型銅板葺である。高さ27.27m<ref name=":4" />。再建にあたり、西塔近くの正智院住職が二十数年、三代におよび私財をなげうち勧進をしたと伝わる{{Sfn|はじめての大師|2018|p=123}}。
* '''孔雀堂(くじゃくどう)''' - [[1200年]]初代建立、弘法大師御入定1150年御遠忌記念事業として[[1983年]](昭和58年)再建。[[後鳥羽天皇|後鳥羽法皇]]の御願による[[神泉苑]]での請雨祈願が成就したことにより奉納された堂。本尊の[[快慶]]作の孔雀明王像(重要文化財)は霊宝館に移され、当堂には新しく造られた像が安置された。
* '''逆指しの藤''' - 寺伝によると、平安時代に高野山再興に着手した[[定誉]](祈親)([[金剛峯寺#平安・鎌倉時代|平安・鎌倉時代]]で記述)が、高野山の再興を誓い「願掛け」として藤を地面へ逆さに植えると、不思議と芽生え、それとともに高野山の再興の兆しが見え始めたと伝わる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.koyasan.or.jp/meguru/sights.html#sakasashifuji|title=逆指しの藤/壇上伽藍|accessdate=2021.9.11|publisher=高野山真言宗 総本山金剛峯寺}}</ref>。
* '''准胝堂(じゅんていどう)''' - [[光孝天皇]]の御願により第二世[[真然]]大徳が973年ごろ創建、現在の堂は[[1883年]](明治16年)再建{{Sfn|図解高野山|2014|p=32}}<ref name=":5">{{Cite web|和書|url=http://www.koyasan.or.jp/meguru/sights.html#junteido|title=准胝堂/壇上伽藍/名所一覧|accessdate=2021.2.15|publisher=高野山真言宗総本山金剛峯寺}}</ref>。本尊は准胝観音(准胝仏母)で、空海が出家得度の際の本尊として自ら造立したと伝わり{{Sfn|図解高野山|2014|p=32}}、当初、食堂に安置していたが当堂を創建後に移したと伝わる<ref name=":5" />。
[[ファイル:Danjogaran Koyasan15n3200.jpg|thumb|200px|right|御影堂]]
* '''御影堂(みえどう)''' - 大師の持仏堂として創建され、天保14年([[1843年]])の大火で消失し、[[弘化]]4年([[1847年]])再建、梁間15.1mの向背付宝形造檜皮葺。空海の弟子の真如親王筆とされる弘法大師御影を本尊とし、外陣には空海十大弟子の肖像が掲げられている{{Sfn|図解高野山|2013|p=32}}。堂の背後には、土蔵造りの御影堂宝蔵があり、かつては数々の霊宝や貴重な文書を保管する金庫や宝物庫としての重要な役割を果たした{{Sfn|はじめての大師|2018|p=124}}。毎年、空海が入定した旧暦の3月21日に旧正御影供が行われ、前夜の御逮夜法会(おたいやほうえ)のときのみ一般の外陣参拝が許される{{efn|当日夕方整理券を配り法要の終わった夜7時過ぎから内拝できる。本尊も開帳されるが燈明の灯りだけで暗くてほとんど見えない。}}。御逮夜法会では宗教舞踏の奉納や、御影堂まわり一面にロウソクと花が供えられる{{Sfn|はじめての大師|2018|p=124}}。
* '''三鈷の松(さんこのまつ)''' - 金堂と御影堂の間にある三葉の[[松]]。松の根が参拝者に踏まれないよう二重の柵で囲まれ、[[赤松]]と一緒に植栽されている。松は単体では生育しにくい性質を持つためにあえて、植栽している。空海が、[[恵果]]から密教を受法後、[[大同 (日本)|大同元年]]([[806年]])に[[中国]]・[[寧波]]の浜から「密教を弘通するため」の地を求めんと願いつつ、[[金剛杵|三鈷杵]](飛行三鈷杵)を投げた。後に嵯峨天皇より、勅許を得て高野山を下賜され、伽藍を造営の途中に、空海が松に掛かった[[三鈷杵]]を見つけ、高野山を「修禅の道場」とするのに相応の地であると確信した。空海の霊跡とされる。この[[松葉]]は、三鈷杵と同じく三股に分かれている。現在の「三鈷の松」は七代目で、[[平成]]期に植え替えられた。枯れのときのために同じ株から分けた松を別に育成している。松は[[常緑樹]]が多いが、高野山の「三鈷の松」は秋から冬にかけて落葉するので、「再生」の象徴される。落葉した三葉の松葉は黄金色をしており、身につけていると「金運」を招く縁起物として、また、「飛行三鈷杵」の霊験にあやかるため、「お守り」とするために探し求める参拝者もいる。<ref>[[中外日報]](2011年12月6日)</ref>
[[File:Konpondaitou0ɨ.jpg|thumb|200px|right|根本大塔]]
* '''根本大塔(こんぽんだいとう)''' - 真言密教の根本道場(修行の中心地)として高野山開創当初から着工され、887年に日本最初の多宝塔として完成した高野山のシンボルである。「[[性霊集]]」に、根本大塔と西塔が二基一対として建立されたことが書かれている{{Sfn|竹内|2008|p=180}}。何度かの焼失の後、現在の塔は[[1937年]](昭和12年)に空海[[入定]]1100年を記念して再建したもので1階平面が方形・2階平面が円形の鉄筋コンクリート造の16間(約30m)四面・高さ16丈(約50m)の2層の多宝塔である。中尊は、丈六の胎蔵大日如来坐像、その中尊を取り囲むように、四方に金剛界四仏の、[[阿閦如来|阿閦]]・[[宝生如来|宝生]]・[[阿弥陀如来|阿弥陀]]・[[不空成就如来|不空成就]]の4如来を安置し、本来別々の密教経典に説かれている「[[両界曼荼羅#胎蔵曼荼羅|胎蔵曼荼羅]]」の仏像と「[[両界曼荼羅#金剛界曼荼羅|金剛界曼荼羅]]」の仏像を一緒に安置するが、これは「金胎不二(こんたいふに)」の教えで、両者は不二一体である(根本的には1つ)という空海の思想を表したもので、堂内そのものが立体曼荼羅となっている。(「金剛界」等の密教用語については別項「[[両界曼荼羅]]」を参照)。また塔内の柱16本には、十六大菩薩画像、壁面には[[真言宗#伝持の八祖|真言八祖]]画像が[[堂本印象]]画伯によって描かれている{{Sfn|図解高野山|2014|p=28}}。そして内部正面の[[梁 (建築)|梁]]には[[昭和天皇]][[宸筆]]の[[勅額]]「弘法」が掲げられている。高野山開創1200年記念大法会事業で、2015年(平成27年)5月12日から17日まで、根本大塔を背景にし『南無大師遍照金剛』をテーマとし、プロジェクションマッピングとレーザーによる光の饗宴が行われた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.koyasan1200-hikari.jp/index.html|title=高野山1200年の光|accessdate=2020.12.13|publisher=高野山真言宗 総本山金剛峯寺 ・ COSMIC LAB}}</ref>。
[[File:Koyasan Danjogaran Konpondaito Mosikizu 01.jpg|thumb|高野山 壇上伽藍 根本大塔内の立体曼荼羅配置模式図|550x550px]]
{| class="wikitable"
|+根本大塔内立体曼荼羅:如来、菩薩、八祖一覧{{Sfn|図解高野山|2014|p=28}}
|中尊
|胎蔵界
| colspan="2" |大日如来
|-
| rowspan="4" |中尊を囲む四仏
| rowspan="4" |金剛界
| colspan="2" |阿閦如来
|-
| colspan="2" |宝生如来
|-
| colspan="2" |阿弥陀如来
|-
| colspan="2" |不空成就如来
|-
| rowspan="16" |堂内の柱に描かれた菩薩
| rowspan="16" |十六大菩薩
| rowspan="4" |東方四菩薩
|[[金剛薩埵]]菩薩
|-
|金剛王菩薩
|-
|金剛愛菩薩
|-
|金剛喜菩薩
|-
| rowspan="4" |南方四菩薩
|金剛宝菩薩
|-
|金剛光菩薩
|-
|金剛幢菩薩
|-
|金剛笑菩薩
|-
| rowspan="4" |西方四菩薩
|金剛法菩薩
|-
|金剛利菩薩
|-
|金剛因菩薩
|-
|金剛語菩薩
|-
| rowspan="4" |北方四菩薩
|金剛業菩薩
|-
|金剛護菩薩
|-
|金剛牙菩薩
|-
|金剛拳菩薩
|-
| rowspan="8" |壁面に描かれた真言八祖
| rowspan="8" |[[真言宗#伝持の八祖|伝持の八祖]]
| colspan="2" |[[龍樹|龍猛]]
|-
| colspan="2" |龍智
|-
| colspan="2" |[[金剛智]]
|-
| colspan="2" |[[不空金剛|不空]]
|-
| colspan="2" |[[善無畏]]
|-
| colspan="2" |[[一行]]
|-
| colspan="2" |[[恵果]]
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| colspan="2" |空海
|}
* '''対面桜''' - 寺伝によると、もとは大塔前、金堂の東辺りに桜があったと伝わる。平安時代に大塔が落雷で焼失し再建の折、平清盛が「修造奉行」として任命され、大塔が再建された。修造が完了し、清盛が大塔を参拝した折に桜の樹前に老僧が現れ「大塔が修造されたことはめでたいことだ‐中略‐ただし、悪行を行うことがあれば、このさき子孫まで願望が叶うことはないだろう」と説いたのち、姿が消えた。清盛は、その老僧が大師だと悟り、その桜の樹を「対面桜」または「影向桜(ようごうざくら)」と呼ぶようになったと伝わる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.koyasan.or.jp/meguru/sights.html#taimenzakura|title=対面桜/壇上伽藍|accessdate=2021.9.11|publisher=高野山真言宗 総本山金剛峯寺}}</ref>。
* '''大塔の鐘''' - 大師発願で二世真然の代に完成。現在の鐘は日本で四番目に大きな鐘であることから「高野四郎{{efn|東大寺・知恩院・方広寺の鐘に次いで日本で4番目に大きい。}}」と呼ばれ、1547年に鋳造され約6トン直径7尺である。1日5回、計108回突かれる。鐘楼は鉄筋コンクリート製。
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ファイル:Toutennomatua.jpg|登天の松
ファイル:Danjogaran Koyasan04n3200.jpg|六角経蔵(荒川経蔵)
ファイル:Danjogaran Koyasan07n3200.jpg|御社(重要文化財)
ファイル:Danjogaran Koyasan05s5s4272.jpg|山王院
ファイル:Danjogaran Koyasan10n3200.jpg|鐘楼
ファイル:Danjogaran Koyasan11n3200.jpg|孔雀堂
ファイル:Danjogaran Koyasan13n3200.jpg|准胝堂
ファイル:Sankonomatu.jpg|三鈷の松
ファイル:Kouyasiroua.jpg|大塔の鐘(高野四郎)
ファイル:Noukyousyo0ɨ.jpg|御供所(納経所)
ファイル:Danjogaran Koyasan Daito Projection Mapping02.jpg|高野山開創1200年記念大法会で大塔で行われたプロジェクションマッピング
ファイル:Danjogaran Koyasan Daito Projection Mapping01.jpg|高野山開創1200年記念大法会で大塔で行われたプロジェクションマッピング
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[[ファイル:Koyasan Fudodo.jpg|thumb|200px|right|不動堂(国宝)]]
* '''愛染堂(あいぜんどう)''' - [[建武 (日本)|建武]]元年([[1334年]])に初代建立、現在の堂は[[1848年]]([[嘉永]]元年)再建。後醍醐天皇の勅願により四海静平、玉体安穏(天下泰平)を祈念のため創建{{Sfn|図解高野山|2014|p=32}}。本尊は後醍醐天皇と等身とされる愛染明王<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.koyasan.or.jp/meguru/sights.html#aizendo|title=愛染堂/壇上伽藍/名所一覧|accessdate=2021.2.15|publisher=高野山真言宗総本山金剛峯寺}}</ref>。
* '''不動堂(ふどうどう)'''([[国宝]]) - [[建久]]8年([[1197年]])上皇の皇女八條女院内親王の発願により[[行勝 (木食)|行勝]]上人が創建{{Sfn|図会高野山|2014|p=32}}。現在の堂は[[14世紀]]初頭に再建で、高野山内では金剛三昧院多宝塔に次ぎ、2番目に古い建築物{{Sfn|はじめての空海|2018|p=127}}。高野山内の一心院谷から、[[1908年]](明治41年)に現在地に移築された。桧皮葺(ひわだぶき)、入母屋造の住宅風仏堂である。当初は阿弥陀堂であったと推定されるが、後に本尊の[[不動明王]](重要文化財)と[[運慶]]作の[[不動明王#八大童子|八大童子]]像(国宝)が奉安され、現在いずれも霊宝館に移されている。堂の四隅の形状がそれぞれ違い、四隅それぞれを四人の工匠が随意に造ったためと伝わる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.koyasan.or.jp/meguru/sights.html#fudodo|title=不動堂/壇上伽藍/名所一覧|accessdate=2021.2.16|publisher=高野山真言宗総本山金剛峯寺}}</ref>。近年の解体修理報告書によると元来、僧侶が臨終を迎えるための堂だったとの説がある{{Sfn|はじめての空海|2018|p=127}}。屋根が桧皮葺のため境内で火災が発生した場合、類焼しやすいため屋根にドレンチャーを設置し、バルブを開けると桧皮葺屋根がドレンチャーからの水膜で覆われるようになっている。高野山内では、檀上伽藍の御影堂、徳川家霊台の2棟、奥の院の経蔵、金剛三昧院の多宝塔など計6棟に、地上に放水銃を設置しているが、屋根にドレンチャーを設けているのは不動堂だけである<ref>{{Cite web|和書|url=http://hashimoto-news.com/news/2015/01/27/26192/|title=国宝・不動堂、水幕が覆う|accessdate=2020.12.14|publisher=橋本新聞}}</ref>。
* '''勧学院(かんがくいん)''' - [[金剛峯寺#子院・塔頭|子院・塔頭]]で後述
* '''蓮池(はすいけ)''' - 名の由来は、昭和の頃まで蓮の花が咲き誇っていたため。[[明和]]年間([[1764年]] - [[1772年]])に度々の干ばつで民衆が苦しんでいたため、明和8年([[1771年]])頃、善女竜王像と仏舎利を池の中島の祠に祀ったと伝わる。[[1996年]](平成8年)橋と祠を修復<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.koyasan.or.jp/meguru/sights.html#hasuike|title=蓮池/壇上伽藍/名所一覧|accessdate=2021.2.16|publisher=高野山真言宗総本山金剛峯寺}}</ref>。
* '''大会堂(だいえどう)''' - [[安元]]元年(1175年)[[鳥羽天皇|鳥羽上皇]]の皇女五辻斎院[[頌子内親王]]が父の追福のため創建。もとは東別所にあったが西行法師が、長日不断談義の学堂として現在地に移し蓮華乗院と称していた。後に法会の集会堂になり、現在の堂は[[嘉永]]元年([[1848年]])再建。本尊は阿弥陀如来{{Sfn|図会高野山|2014|p=32}}。
* '''三昧堂(さんまいどう)''' - [[延長 (元号)|延長]]7年([[929年]])初代創建、もとは総持院境内にあったが、[[治承]]元年([[1177年]])西行法師が現在地に移した。現在の堂は[[文化]]13年([[1816年]])再建。金剛峯寺座主済高が創建し、堂内で理趣三昧の法要を行っていたことから、この名がついた。堂前の桜は、西行法師手植の桜と伝わるが元の桜は枯れ、植え替えられ、現在も西行桜とよばれている{{Sfn|図解高野山|2014|p=33}}。
* '''東塔(とうとう)''' - [[大治 (日本)|大治]]2年([[1127年]])初代創建、尊勝仏頂尊と不動明王・降三世明王を祀る。弘法大師入定1150年御遠忌記念事業で1984年再建。白河上皇の御願により醍醐寺三宝院[[勝覚]]権僧正が創建{{Sfn|はじめての空海|2018|p=31}}。
* '''智泉廟(ちせんびょう)''' - 空海の甥の[[智泉]]大徳([[789年]] - [[825年]])の廟。37歳の若さで亡くなり、空海が築いたと伝わる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.koyasan.or.jp/meguru/sights.html#chisenbyo|title=智泉廟/壇上伽藍/名所一覧|accessdate=2021.2.15|publisher=高野山真言宗総本山金剛峯寺}}</ref>。
* '''蛇腹道(じゃばらみち)''' - 名の由来は、空海が高野山を龍が東西に伏せるが如くとたとえ、この道が龍の腹付近に相当することによる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.koyasan.or.jp/meguru/sights.html#jabaramichi|title=蛇腹道/壇上伽藍/名所一覧|accessdate=2021.2.15|publisher=高野山真言宗総本山金剛峯寺}}</ref>。地主の明神様が弓矢の稽古をしているため、真ん中を歩いてはいけないとの伝説が伝わる{{Sfn|はじめての空海|2018|p=129}}。秋には紅葉で覆われ観光客で賑わう。
* '''六時の鐘''' - 大伽藍を出てすぐにあり、午前6時から午後10時の偶数時に鳴らされる。[[元和 (日本)|元和]]4年([[1618年]])[[福島正則]]により建立されるも焼失、[[寛永]]7年([[1640年]])その子・正利により再建され、鐘銘は通常、漢字で書かれるが、仮名まじり文である<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.koyasan.or.jp/meguru/sights.html#rokujinokane|title=六時の鐘/壇上伽藍/名所一覧|accessdate=2021.2.15|publisher=高野山真言宗総本山金剛峯寺}}</ref>。
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ファイル:Hasuike0ɨa.jpg|蓮池
ファイル:Danjogaran Koyasan20n3200.jpg|愛染堂
ファイル:Daiedou0ɨ.jpg|大会堂
ファイル:Danjogaran Koyasan22n3200.jpg|三昧堂
ファイル:Danjogaran Koyasan23n3200.jpg|東塔
ファイル:Tisenbyou.jpg|智泉廟
ファイル:Tyouzusyaœɨa.jpg|手水舎
ファイル:Zyabaramiti.jpg|蛇腹道
ファイル:Autumn leaves at Jabaramichi in Danjogaran of Mount Kōya (2021.11) 001.jpg|秋の蛇腹道
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==== 総本山金剛峯寺(本坊) ====
[[ファイル:Kongobuji Koyasan01n4272.jpg|thumb|200px|right|主殿(総本山金剛峯寺 本坊)]]
壇上伽藍の東北にあり、本坊である主殿が建つ。[[1869年]](明治2年)、いずれも豊臣秀吉ゆかりの寺院である学侶方の[[青巌寺|巌寺]]と[[興山寺 (廃寺)|興行人方の山寺 (廃寺)]]を合併し、高野山真言宗総本山金剛峯寺と改称した。寺紋は桐紋と巴紋だが桐は豊臣家の家紋で、巴は地主神として祀られている天野社の紋である{{Sfn|空海高野山|2013|p=142}}。青巌寺は、[[文禄]]2年([[1593年]])秀吉が亡母の菩提のために[[木食応其]]に命じて建立し、母の大政所の剃髪を納めたことから当初「剃髪寺」とよばれ、のちに「青巌寺」と改称する{{Sfn|空海高野山|2013|p=144}}。「金剛峯寺」の寺号は空海が経典「金剛峯楼閣一切瑜伽瑜経」から名付けたもので{{Sfn|図解高野山|2014|p=34}}、元来は高野山全体を指す名称であったが、明治期以降は、高野山真言宗の管長が住むこの総本山寺院のことを「金剛峯寺」と称している。主殿の持仏の間には1680年検校文啓の支持で制作された本尊弘法大師座像が祀られ、高野山開創1200年記念大法会(2015年4月2日 - 5月21日)で16年ぶりに開帳された。境内の広さは48295坪あり、主殿([[1863年]]再建)、主殿から長い渡り廊下を渡ると、奥殿([[1934年]]建立)、別殿(1934年建立)、新別殿([[1984年]]建立)、阿字観道場([[1967年]]建立)、蟠龍庭(石庭)などがある。和歌山県指定文化財となっているのは、大主殿一棟、奥書院一棟、経蔵一棟、鐘楼一棟、真然堂(廟)一棟、護摩堂一棟、山門一棟、会下門一棟の9棟と、それを取り巻くかご塀である<ref>[http://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/500700/mokuroku/mokuroku/kenkenzo.html 「県指定文化財・有形文化財・建造物」] 和歌山県公式webページ</ref>。
* 正門 - [[文禄]]2年([[1593年]])再建。かつて正門を利用できたのは皇族と高野山の重職の僧だけで、一般僧は右方にある小さなくぐり戸を使用した<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://www.koyasan.or.jp/kongobuji/jinai.html#banryutei|title=蟠龍庭/寺内のみどころ|accessdate=2020.12.14|publisher=高野山真言宗 総本山金剛峯寺}}</ref>。
* 鐘楼 - [[元治]]元年([[1864年]])再建と考えれている。袴腰付入母屋造り<ref name=":0" />。
* 経蔵 - [[延宝]]7年([[1679年]])に、釈迦三尊とともに寄進された。火災発生時に類焼しにくいように主殿とは別棟として建てられ、重要なものを収蔵していた<ref name=":0" />。
* 主殿 - [[文久]]3年([[1863年]])再建。東西 54 m 南北 63 m の書院造建築である。屋根は檜皮葺で、屋根上には雨水を貯める天水桶とよばれる桶が設置され、境内で火災発生時、桶の水を屋根にまくことで火の粉による類焼を防ぐ役割があった。大玄関と小玄関があり、大玄関は表玄関に相当し、かつては皇室、高野山の重職に就いている僧のみが使用した。小玄関は大玄関を使用できない上位の僧侶が使用し、一般僧侶は裏口を使用した<ref name=":0" />。
** 大広間 - 重要な法事・儀式が行われる間。[[狩野元信]]作と伝わる松、群鶴の[[襖絵]]がある<ref name=":0" />。
** 梅の間 - [[狩野探幽]]作と伝わる梅月流水の襖絵がある<ref name=":0" />。
** 柳の間 - 文禄4年([[1595年]])に[[豊臣秀次]]が自刃したことから「秀次自刃の間」ともよばれている<ref name=":0" />。山本深斉の四季の柳の襖絵がある{{Sfn|図解高野山|2014|p=35}}。
** 書院上段の間 - 天皇・上皇が参詣した際に応接間として使用された。壁は総金箔押し、天井は[[天井#構造|折上式格天井]]の[[書院造|書院造り]]で、上段の間に上々段の間と装束の間があり、上段右側に武者隠しの間(稚児の間)がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.koyasan.or.jp/kongobuji/jinai.html#syoinjoudannoma|title=書院上段の間/寺内みどころ|accessdate=2021.3.5|publisher=高野山真言宗総本山金剛峯寺}}</ref>。
** 稚児の間 - 上段の間の武者隠しの間で、天皇・上皇に随行した護衛が待機した部屋。狩野探斎作と伝わる襖絵があり、旧伯爵副島家より奉安された地蔵菩薩が祀られている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.koyasan.or.jp/kongobuji/jinai.html#chigonoma|title=稚児の間/寺内みどころ|accessdate=2021.3.5|publisher=高野山真言宗総本山金剛峯寺}}</ref>。
** 奥書院 - 皇族方の休憩所として、上段の間と共に高野山最高の部屋として使用されていた。[[雲谷等益]]、雲谷等爾作と伝わる襖絵がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.koyasan.or.jp/kongobuji/jinai.html#okushoin|title=奥書院/寺内みどころ|accessdate=2021.3.5|publisher=高野山真言宗総本山金剛峯寺}}</ref>。
** 囲炉裏の間 - 「土を塗り固めて作った部屋」で土室とも呼ばれ、部屋の中に囲炉裏が設けられている。空海自筆と伝わる愛染明王が祀られている{{Sfn|図解高野山|2014|p=35}}。
** 台所 - 江戸期以降、実際に使用され大勢の僧侶の食事を作った場所。大釜が3基並び、1基で約7[[斗]](98 kg)、3基で約2000人分の米を炊くことができる<ref name=":0" />。
* 別殿 - [[1934年]](昭和9年)弘法大師御入定1100年御遠忌大法会記念事業として建立。主殿から長い渡り廊下で繋がる。襖絵には、[[守屋多々志|守谷多々志]]筆による、四季の花鳥や弘法大師入唐から高野山草創までの風景が描かれている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.koyasan.or.jp/kongobuji/jinai.html#betsuden|title=別殿/寺内みどころ|accessdate=2021.3.5|publisher=高野山真言宗総本山金剛峯寺}}</ref>。
* 奥殿 - 1934年(昭和9年)弘法大師御入定1100年御遠忌大法会記念事業として建立。総本山金剛峯寺の前身で、青巌寺と合併した興山寺の跡地に建ち、奥殿が建立されるまでは高野山大学、中学があった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.koyasan.or.jp/kongobuji/jinai.html#okuden|title=奥殿/寺内みどころ|accessdate=2021.3.5|publisher=高野山真言宗総本山金剛峯寺}}</ref>。
* 蟠龍庭 - [[1984年]](昭和59年)弘法大師御入定1150年御遠忌大法会記念事業として造園された日本最大級の2340平方メートルの石庭。雲海の中で雌雄一対の龍が奥殿を守っている姿を表現している。龍を表す石は四国の[[花崗岩]]を140個使用し、雲海を表す白川砂は京都産を使用<ref name=":0" />。
* 新別殿 - 1984年(昭和59年)弘法大師御入定1150年御遠忌大法会記念事業として参詣者への接待所として建立。鉄筋コンクリート造り、入母屋、91畳と78畳の二間からなり、169畳の大広間として使用できる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.koyasan.or.jp/kongobuji/jinai.html#shinbetsuden|title=新別殿/寺内みどころ|accessdate=2021.3.5|publisher=高野山真言宗総本山金剛峯寺}}</ref>。金剛峯寺内部有料拝観者には新別殿にて茶菓子が振る舞われる。
* 新書院・真松庵 - [[1965年]](昭和40年)の高野山開創1150年記念法会の際、[[松下幸之助]]により寄贈され、茶室は[[佐藤栄作]]により「真松庵」と名付けられる。[[1971年]](昭和46年)[[第26回国民体育大会|黒潮国体]]の際に[[昭和天皇]]と[[香淳皇后]]が宿泊した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.koyasan.or.jp/kongobuji/jinai.html#shinsyoin_shinsyouan|title=新書院と真松庵/寺内みどころ|accessdate=2021.3.5|publisher=高野山真言宗総本山金剛峯寺}}</ref>。
* 阿字観道場 - [[1967年]](昭和42年)金剛峯寺第401世座主の発願で建立。本道場にて真言宗における呼吸法・瞑想法の[[阿字観]]体験が行われている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.koyasan.or.jp/kongobuji/jinai.html#ajikandojo|title=阿字観道場/寺内みどころ|accessdate=2021.3.5|publisher=高野山真言宗/総本山金剛峯寺}}</ref>。
* [[真然]]堂 - 主殿裏の丘に建つ真然の御廟。750回忌の寛永17年([[1640年]])に建立され、[[1990年]](平成2年)真然大徳1100年御遠忌記念事業で解体修理された。元々、真然堂として祀られていたが、解体修理の際に、遺骨が入っていた御舎利器が発見されたため、現在、真然廟として整備されている{{Sfn|図解高野山|2014|p=36}}。
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ファイル:Kongobuji Koyasan Syoro.jpg|鐘楼。右後方に見えるのは正門
ファイル:Kongobuji Koyasan Genkan.jpg|主殿の大玄関(左)と少玄関(右)
ファイル:Kongobuji Koyasan Daidokoro02.jpg|台所
ファイル:Kongobuji Koyasan Daidokoro01.jpg|台所
ファイル:Kongobuji Koyasan Kyozo.jpg|経蔵
ファイル:Banryutei01.jpg|蟠龍庭
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==== 奥之院 ====
表記は「奥の院」「奥院」などとされる場合もある{{efn|例えば重要文化財の経蔵の文化財指定名称は「奥院経蔵」である。}}。寺院群の東端にある奥之院入り口の一の橋から中の橋を経て御廟橋まで、約2キロにわたる参道と墓域が続く。日本には古来から川を、この世とあの世の境とする習わしがあり、橋を渡る事であの世へ渡るとされ、また川を渡る事で穢れを落とすと考えられていた。奥之院では3本の川を渡る三重構成となっており、これら川と橋を渡る事で仏の浄土(聖地)へ至ることができるとされている{{Sfn|高野山の秘密|2015|p=50}}{{Sfn|図解高野山|2014|p=38}}。中世以降、高野聖による勧進や納骨の勧めにより参道沿いには約20万基を超すともいわれている石塔(供養塔、墓碑、歌碑など)が立ち並ぶ{{Sfn|はじめての高野山|2018|p=131}}。御廟橋を渡ると空海[[入定]]の地とされる聖地となる。一番奥に空海が今も[[瞑想]]しているとされる御廟があり、その手前には信者が供えた無数の灯明がゆらめく燈篭堂がある。空海は62歳の時、座禅を組み、手には大日如来の印を組んだまま永遠の[[悟り]]の世界に入り、今も高野山奥之院で生きていると信じられている入定信仰があり「死去」「入寂」「寂滅」などといわず「入定」というのはそのためである。
毎年8月13日に奥之院で萬燈供養会が開催され、一の橋から奥之院までの約2kmの参道を一般参拝者によって約10万本のローソクに灯をともし、先祖や奥之院に眠る御霊を供養する高野山ろうそく祭りが催されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.koyasan.or.jp/kongobuji/event.html|title=年中行事|accessdate=2020.12.14|publisher=高野山真言宗 総本山金剛峯寺}}</ref>。
* '''一の橋''' - 大殿川(おどがわ)にかかる橋で、高野山でも特に聖なる地(他界)である奥之院への入り口であるため、僧侶は三回礼拝をし橋を渡っている{{Sfn|はじめての高野山|2018|p=132}}。ここより御廟まで約2kmの参道が続く。
* '''中の橋''' - 中間地点にある金の川にかかる橋で、正式名称は「手水橋」。この名は、ここが禊の場であったことに由来する{{Sfn|高野山の秘密|2015|p=51}}。橋を渡るとすぐに、汗かき地蔵堂と姿見の井戸があり、井戸を覗き込み自身の姿が水面に写らなければ3年以内に命を落とす、もしくは写った姿が薄い場合、寿命が短いと伝わる{{Sfn|はじめての高野山|2018|p=133}}。また、汗かき地蔵は、人々の罪業を一身に背負い、代わりに地獄の業火の苦を受けているため汗をかいていると伝わる{{Sfn|はじめての高野山|2018|p=133}}。地蔵は石像のため表面が冷たく、特に湿度の高い日に露が付きやすく(窓ガラスに露がつく原理と同じ)、地蔵の表面に水滴がついたり、よだれ掛けが湿り、まるで汗をかいているように見えることがある。他に付近の参道沿いに、四国八十八箇所写し石仏、数取地蔵、化粧地蔵、仲良し地蔵、覚鑁坂、禅尼上智碑{{efn|ここに参拝に来た回数を数える数取地蔵、この坂で転ぶと三年以内に死んでしまう覚鑁坂、耳を当てると地獄の釜の音の聞こえる禅尼上智碑などの七不思議の逸話がある。<}}が点在している。
[[File:Ɡobyoubasi.jpg|thumb|200px|right|御廟ノ橋]]
* '''御廟ノ橋''' - 玉川にかかる橋、通称「無明橋」<ref>「巡礼高野山」32ページ 2008.11.20発行 新潮社</ref>。36枚の橋板と橋全体を1枚とした37枚で、金剛界37尊を表す。ここに橋が掛かったのは平安時代後期と考えられており、この川は特に神聖とされ、橋が掛かるまでは川に浸かりながら渡ることで、手足を清め御廟へ参ったと伝わる{{Sfn|高野山の秘密|2015|p=54}}。1124年(天治元年)に鳥羽上皇が参詣したおりに、すでに橋が掛かっていたが、わざわざ川で足をすすいだと伝わる{{Sfn|高野山の秘密|2015|p=54}}。
* '''水向地蔵''' - 御廟橋手前にあり玉川を背に15尊が立つ。水向場の15体の内の1体の不動明王は1643年作。
* '''奥院護摩堂''' - 不動明王、毘沙門天、大師像を祀る。
* '''御供所''' - お大師様への食事や供え物を準備する場所で大黒天を祀る。経木を求めたり、納経をしてもらう所でもある。大師に食事を供える儀式の事を「生身供」とよび、朝食(午前6時)、昼食(午前10時半)の1日2回供えられる。現在では、パスタなどの洋風の食事を供えることもあるが、料理はすべて高野山開創以来の禁である肉、魚を使用しない精進料理となっている。食事を供える前に、御供所の脇の「嘗試地蔵(あじみじぞう)」に供え、地蔵が味見をしてから御廟の大師に供えられる。また、空海が快適に過ごせるように、食事以外にも夏は虫除け、団扇、冬は火鉢なども供えられる{{Sfn|はじめての大師|2018|p=141}}。
* '''頌徳殿''' - [[1915年]](大正4年)建立。茶処で無料休憩所。
* '''英霊殿'''
* '''奥院経蔵''' - 石田三成により慶長4年([[1599年]])建立(重要文化財)。弘法大師御廟向かって右にあり、扁額に石田三成の銘がある。裏面には木食応其の銘があり、建立に関わったと考えられている。本尊は文殊菩薩騎獅像。八角形の回転式輪蔵に高麗版一切経6285帖(重要文化財)が納められている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.reihokan.or.jp/bunkazai/kenzobutsu/okuin.html|title=奥院経蔵/高野山の指定建造物/高野山と文化財|accessdate=2021.2.19|publisher=高野山霊宝館/(公財)高野山文化財保存会}}</ref>。
* '''灯籠堂''' - 現在の堂は1964年(昭和39年)建立。堂内に「消えずの火」とよばれる1000年近く燃え続ける火があり、一つは祈親上人が奉じた「持経灯(祈親灯)」、もう一つは、白河上皇が奉じた「白河灯」。また全国から奉納された多くの灯籠が天井に灯り、廻向や祈祷を受けられる。また、灯籠堂地下には入定する空海のいちばん近くまで行ける法場がある。そして、灯籠堂の裏側中央には御廟を参拝する場所があり、ここに来た全ての人々はここで祈りを捧げ読経する。その左側方には納骨堂、右側方には経蔵(重要文化財)、東側に増えた灯籠を納めるための記念灯籠堂が建ち、御廟橋から入って左側の小さな祠には[[弥勒石]]が入っていて持ち上げることができるとご利益があると伝わる。
* '''弘法大師御廟''' - 空海が入定留身の地。檜皮葺三間四面宝形造(ほうぎょうづくり)の堂宇で正面に唐戸とよばれる扉がある。御廟は瑞垣(みずがき)に囲われている。入定塚は石室に小石が積まれた形状で{{Sfn|高野山の秘密|2015|p=59}}、御廟の裏側、北西の壁面の下部には直径約20㎝の穴が設けられている。衆生救済のために、各地に顕現される空海の御霊の出入り口とされる。この入定塚の形状は、空海の弟子で[[観心寺]]にある[[実恵]](道興大師)御廟、真言宗中興の祖といわれる[[覚鑁]](興教大師)の[[根来寺]]にある御廟も同様である{{Sfn|高野山の秘密|2015|p=60}}。また近畿地方・瀬戸内沿岸の社殿にも同様のものがあり、穴はご神体や御霊の出入り口となっている。御廟の東側には、二社の社祠がある。いずれも檜皮葺一間社春日造で、東北側に丹生明神(高野山の地主神)、その南側に高野明神(高野山開創に最初に勧請)、西側には白髭稲荷大明神の小祠が奉祀されている。弘仁10年(823年)に嵯峨天皇より、東寺を下賜されたときに「密教と国土の安泰」を稲荷大明神に契約されたという伝承「稲荷契約事」(いなりけいやくのこと)があり、真言宗寺院では、守護神・鎮守神として「稲荷大明神」を祀ることが多い。御廟の西側の大杉の穴に住む白狐の霊験談が「紀伊続風土記」にあることから、「白狐の信仰」と「稲荷契約事」の伝承が結びつき、明治時代に神格化され、白髭稲荷大明神として奉祀されたと推察される<ref>高野山教報社「高野山教報」2010年5月1日号 平成の高野百景</ref>。
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ファイル:Touroudou0ɨ.jpg|灯籠堂
ファイル:Ɡobyounohasi.jpg|御廟ノ橋の裏には36の梵字が刻まれている
ファイル:Mizumukaizizou0ɨ.jpg|水向地蔵15尊
ファイル:Hudoudou0ø.jpg|奥院護摩堂と御供所
ファイル:Syoutokuden.jpg|頌徳殿
ファイル:Eireiden0ɨa.jpg|英霊殿
ファイル:Nakanohasi 0ɨ.jpg|中の橋と汗かき地蔵
ファイル:Kesyouzizou 0ɨ.jpg|化粧地蔵
ファイル:Koyasan Okunoin Rosoku01.jpg|毎年8月13日に奥之院参道で行われる、ろうそく祭り
ファイル:Koyasan Okunoin Rosoku02.jpg|毎年8月13日に奥之院参道で行われる、ろうそく祭り
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===== 墓域(奥之院参道) =====
奥之院参道に沿って並ぶ石塔の数は10万基とも20万基とも言われ、皇族から名もない人々まで、あらゆる階層の人々が競ってここに墓碑を建立した。日本古来の[[山岳信仰]]では、山中は「[[他界]]」であり、死後の魂の行くところであった。高野山周辺には、人が死ぬと、火葬の場合は「お骨」の一部を、土葬の場合は死者の左右の耳ぎわの「頭髪」の一部を奥之院に納める「骨のぼり」または「骨上せ」(こつのぼせ)という風習がある。高野山への納骨(または納髪)が歴史上の文献での初見は平安時代末期に著された「[[中右記]]」で、[[天任]]元年([[1108年]])[[堀河天皇|堀河院]]が奥之院に法華経とともに納髪したとある{{Sfn|高野山の秘密|2015|p=70}}。こうした古来の山岳信仰に、弘法大師の永眠する土地に墓碑を建てたいという人々の願いが加わり、石塔群が形成されていくことになる。戦国時代になり高野山が所有する全国各地の荘園が略奪などにより消失したことで経済的困窮になり、高野山各寺院は有力な戦国大名に庇護を求め繋がりをもち、そのため奥之院に供養墓を持つものが増えた。また徳川家が高野山の子院を菩提寺に定めたことから、各大名も高野山の子院と関係を持ち奥之院に供養墓石塔群が造られるようになった{{Sfn|高野山の秘密|2015|p=72-73}}。全国の大名家の42%以上、110藩の大名家の墓所があり、大名の石墓だけでも約2000基程度作られている{{Sfn|図解高野山|2014|p=40}}。高野山には石塔や石墓となる石がなく下界から運び込まれた。巨石は麓までは船で運ばれたが、動力がない時代に、船の舳先に綱を結び男たちが船を引く情景を描いた絵図が高野山持明院に残っている{{Sfn|高野山の秘密|2015|p=73}}。また山中は巨石の真ん中に穴を開け大きな丸太を挿し入れ、その丸太に直行するように棒を結びつけ何十人もの男たちが棒を担いでいる模様が、紀伊国名所図会に描かれている{{Sfn|高野山の秘密|2015|p=73}}。
奥之院は、様々な人々を供養する霊場であり、戦国時代の大名が建立した五輪塔も多くあるが敵・味方関係なく建立され、また宗派も関係なく、[[法然]]や[[親鸞]]のような墓碑もある。また[[佐竹義重 (十八代当主)|佐竹義重]]霊屋、[[結城秀康|松平秀康]]及び同母霊屋、[[上杉謙信]]・[[上杉景勝|景勝]]霊屋(たまや)の建造物として重要文化財に指定されているものを始め、[[平敦盛]]、[[熊谷直実|熊谷蓮生房]]、[[織田信長]]、[[明智光秀]]、[[曾我兄弟の仇討ち|曾我兄弟]]、[[赤穂浪士|赤穂四十七士]]、[[市川團十郎 (初代)|初代 市川團十郎]]などがある。奥之院は江戸時代までは身分のあるものにしか五輪塔の墓碑の建立が許されておらず{{Sfn|図解高野山|2014|p=41}}、庶民は20cm程度の長方形の石を五輪塔の形状に彫った一石五輪塔とよばれる墓石を建てた。明治以降は自由となり、俳優の[[鶴田浩二]]など古今の様々な人物の墓碑や、関東大震災・阪神淡路大震災・東日本大震災などの大規模な自然災害の犠牲者、太平洋戦争の戦没者らを慰霊する為の[[慰霊碑]]・供養碑や、様々な企業による慰霊碑・供養碑もある。また[[松尾芭蕉|芭蕉]]や[[高浜虚子]]の句碑もある。
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ファイル:Koyasan Okunoin Satake Graves 02.JPG|佐竹家霊屋(重要文化財)
ファイル:Okunoin Ⅴ.JPG|越前松平家([[結城秀康]]、同母)石廟(重要文化財)
ファイル:Uesugi Kenshin Grave.jpg|[[上杉謙信]]・[[上杉景勝|景勝]]霊屋(重要文化財)
ファイル:20120310-KoyaOdaNobunagaNoHaka.jpg|[[織田信長]]供養塔
ファイル:Asano Naganori Grave.jpg|[[浅野長矩|浅野内匠頭]]墓所
ファイル:Koyasan-Okunoin-Honenshounin-bosho.jpg|[[法然]](円光大師)供養塔
ファイル:Okunoin Ⅹⅶ.JPG|[[武田信玄]]・[[武田勝頼|勝頼]]墓所
ファイル:Mitsugondo (Okunoin, koyasan).jpg|密厳堂(新義真言宗開祖[[覚鑁]]墓所)
ファイル:Kuukai masoleum 153635083 400708ef92 o.jpg|一番石塔、徳川秀忠の二男忠長が母(淀君妹)のために建立
ファイル:Koyasan Okunoin Yakult.jpg|ヤクルト慰霊碑
ファイル:Koyasan Okunoin Nissan.jpg|日産慰霊碑
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==== 徳川家霊台 ====
五之室谷に所在。[[徳川家霊台]]は重要文化財で、[[徳川家康]]と[[徳川秀忠|秀忠]]を祀る二棟の廟堂が建つ。寛永20年([[1643年]])、[[徳川家光]]の建立。かつては[[高野聖]]方の代表寺院であり[[徳川家]]の[[菩提寺]]・[[宿坊]]でもあった大徳院の境内に建つが{{Sfn|高野山1200年|2016|p=20}}、大徳院は[[明治]]時代に他寺院と合併し廃寺となったため、現在、金剛峯寺管理となっている。
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File:Tokuwakereidi0ɨ.jpg|徳川家霊台
File:Tokuɡawaɡoreidai0ɨ.jpg|徳川家康霊屋
File:Tokugawa Mausoleums, Koyasan, Japan.JPG|徳川秀忠霊屋
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== 子院・塔頭 ==
高野山内の寺院数は総本山金剛峯寺と[[寳壽院|大本山宝寿院]]を除いて117か寺とされている。ただし、この中には独立した堂宇としては現存せず、寺名だけが引き継がれているものも含まれる<ref>{{Cite journal|和書|author=森本一彦 |title=前近代における僧侶の移動 : -金剛峯寺諸院家析負輯を中心として- |journal=比較家族史研究 |issn=0913-5812 |publisher=比較家族史学会 |year=2017 |volume=31 |pages=43-66 |naid=130006594575 |doi=10.11442/jscfh.31.43 |url=https://doi.org/10.11442/jscfh.31.43}}</ref>。山内寺院のうち52か寺は「[[宿坊]]寺院」となっており、塔頭寺院と参拝者の宿泊施設を兼ねている。これらの寺院はもともとは単なる僧の住居である草庵に過ぎなかったが、宿坊の起源は古くは平安時代にさかのぼり、諸国の大名の帰依、壇縁関係を結ぶことで、経済的な支援も受けた。やがて現在のような一般参詣者も宿泊できる宿坊となり、伝統の精進料理を味わったり、お勤め(朝勤行)、写経、写仏、阿字観(瞑想)などを体験できるようになっている{{Sfn|空海高野山|2013|p=134}}。国宝の多宝塔を有する[[金剛三昧院]]も宿坊の一つである。
=== 主な子院・塔頭 ===
高野山内の寺院は117か寺とされるが、その中の主なものを下記にあげる。寺院名の後の名は、関わりの深かった権力者・武将の名である。
* [[金剛三昧院]] - 北条政子
*: [[建暦]]元年([[1211年]])、[[北条政子]]が夫・[[源頼朝]]の菩提を弔うために禅定院として創建。[[承久]]元年([[1219年]])に3代将軍・[[源実朝]]が暗殺されると禅定院を廃し、金剛三昧院を新たに建立{{Sfn|図解高野山|2014|p=74}}。[[貞応]]2年([[1223年]])建立の多宝塔が、[[石山寺]]多宝塔に次ぎ日本で2番目に古く国宝。経蔵、客殿・台所、四所明神神社本殿が国の重要文化財。他に重要文化財の寺宝を所蔵する。
* 勧学院 - 北条時宗
*: [[北条時宗]]が金剛三昧院境内に僧侶の勉学・修練のための道場として建立。後の[[文保]]2年([[1318年]])に、[[後宇多天皇|後宇多法皇]]の院宣により現在位置に移される。本尊は重要文化財の大日如来。現在でも勉学・修練の行事である勧学会が毎年行われている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.koyasan.or.jp/meguru/sights.html|title=勧学院|accessdate=2021.3.5|publisher=高野山真言宗総本山金剛峯寺}}</ref>。(一般には非公開)
* [[密厳院]]
*: 元は覚鑁の念仏堂と伝わる。説経節の[[苅萱]]で知られる苅萱道心と石童丸の悲話が伝わる苅萱堂があり、堂内には親子地蔵尊が祀られている。石童丸は父を探すため、母と共に高野山の麓まで来るが、高野山の掟であった女人禁制により、母を学文路の宿に残し、一人高野山に登ったが、母は病気を患い亡くなってしまう。父の苅萱道心は、石童丸を自分の子供と知っていたが、修行中の身であるため、お互いに名乗り合わず、共に高野山で修行したと伝わる。
* 青巌寺(後の金剛峯寺) - 豊臣秀吉:既述。
* 蓮華院(後の大徳院) - 徳川家康
*: [[永享]]11年([[1439年]])に徳川家の始祖と伝わる松平親氏が師壇契約を結んで以来の関係であり蓮華院を名乗っていたが{{Sfn|空海高野山|2013|p=146}}、1594年(文禄3年)に徳川家康が高野参詣した際に大徳院に改称する。大徳院は聖方の代表寺院で既述の徳川家霊台は大徳院境内に建ち、明治に大徳院は他塔頭と合併し廃寺となったが、旧名の蓮花院として金剛峯寺の隣で現在も徳川家歴代将軍や大奥関係の位牌を祀る。
* 成慶院 - [[武田信玄]]
*: [[土御門天皇]]から院号を賜る。[[甲斐源氏]]一門と縁深い寺と伝わり、[[永禄]]3年([[1560年]])に武田信玄と宿坊関係を結び武田家の菩提寺の一つとして知られる。重要文化財の[[長谷川等伯|長谷川信春(等伯)]]筆の信玄公像など武田家ゆかりの寺宝を所蔵する{{Sfn|空海高野山|2013|p=140}}。また[[周防国]]の[[大内氏]]とも師壇関係を結んでいた{{Sfn|図解高野山|2014|p=47}}。
* 蓮華定院 - [[真田信繁|真田幸村]]
*: 建久元年([[1190年]])頃、[[行勝 (木食)|行勝]]が念仏院として創建、のち改称。真田幸村、父[[真田昌幸|昌幸]]が[[関ヶ原の戦い|関ケ原の合戦]]で西軍の敗戦で徳川家康の命により最初に[[蟄居]]をした地。奥方は女人禁制のため麓の[[九度山町|九度山]]に住み様々な物資を幸村へ送ったと伝わる。障子や提灯などに真田家の家紋の六文銭が使用されている。重要文化財の国広銘の剣、正幸が豊臣秀吉から拝領した秀吉像、昌幸使用の南蛮鉄兜、幸村が焼酎を請う書状などの真田家ゆかりの寺宝を所蔵する{{Sfn|空海高野山|2013|p=138}}。
* 清浄心院 - [[上杉謙信]]
*: 空海が創建した寺と伝わり、本尊は「二十日大師像」とよばれる空海作と伝わる弘法大師像である。平安時代に平宗盛により再建され戦国時代に上杉謙信の祈願所となる。謙信自らが毘沙門天の生まれ変わりと語ったとされるが、護摩堂本尊の不動明王の横に毘沙門天が祀られ、また重要文化時の運慶作と伝わる阿弥陀如来立像を所蔵する。境内に豊臣秀吉お手植えと伝わる桜の木がある{{Sfn|空海高野山|2013|p=136}}。
* 持明院 - [[浅井長政]]
*: 鳥羽天皇の御代に創建。[[伊達氏|伊達家]]、[[京極氏|京極家]]、浅井家などの有力大名を壇主としたことで知られる。浅井長政夫妻の長女・[[淀殿]]が両親の供養に納めたとされる浅井長政・[[お市の方]]の肖像画が寺宝として伝わる{{Sfn|図解高野山|2014|p=47}}。
* 光明院 - [[蜂須賀正勝|蜂須賀小六(正勝)]]
*: [[寿永]]2年([[1183年]])に木曽義仲との法住寺合戦で戦死した後白河法皇の第4皇子の[[円恵法親王]]の菩提を弔うための草庵が前身。蜂須賀小六の子が十二世住職になり、その縁で蜂須賀家代々の遺骨を納め、その一族、家臣を弔う石碑が建てられている。本尊は弥陀如来立像。寺宝に弘法大師筆と伝わる毘沙門天一幅などが伝わる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.komyouin.jp/|title=略縁起|accessdate=2021.3.5|publisher=光明院}}</ref>{{Sfn|図解高野山|2014|p=47}}。
* 安養院 - [[毛利元就]]
*: 鎌倉末期に、[[融通念仏宗]]の中興の祖、法明上人が[[平野区|大阪平野]]・[[大念仏寺]]を再興するまでの約10年間、当院を修行道場としたと伝わる。その後、[[天正]]年間([[1573年]] - [[1593年]])、当院十六世、勢尊法印が、山陽・山陰の二街道巡錫さした際に、毛利元就の帰依を受け師壇の関係を結び、二代毛利輝元に[[知行]]五十石を与えられ、境内に毛利家の菩提所として歴代の建牌、石塔が数十基建立されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.annyouin.com/yurai-annyouin.html|title=由来|accessdate=2021.3.5|publisher=安養院公式}}</ref>。本尊は、重要文化財の金剛界大日如来坐像で、霊宝館に寄託されている。また境内に高野山真言宗準別格本山 金蔵院があり本尊は重要文化財の愛染明王で霊宝館に寄託されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.annyouin.com/keidai.html|title=境内案内|accessdate=2021.3.5|publisher=安養院公式}}</ref>。
<div class="NavFrame" style="width:100%;">
<div class="NavHead" style="padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px;"> 高野山宿坊一覧 52院</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
{| class="wikitable"
|+
五十音順
|
*安養院
*一乗院
*恵光院
*北室院
*熊谷寺
*光台院
*光明院
*金剛三昧院
*西禅院
*西南院
*三宝院
*西門院
*地蔵院
*持明院
*釈迦文院
*常喜院
*清浄心院
*成就院
*正智院
*上池院
*成福院
*親王院
*赤松院
*総持院
*増福院
*大円院
|<div class="NavContent" style="text-align:left;">
*大明王院
*高室院
*天徳院
*南院
*西室院
*巴陵院
*福智院
*普賢院
*不動院
*普門院
*遍照光院
*遍照尊院
*報恩院
*宝亀院
*宝城院
*宝善院
*本覚院
*本王院
*密厳院
*明王院
*無量光院
*桜池院
*龍光院
*龍泉院
*蓮華院
*蓮華定院
</div>
|}
</div>
</div>
== その他施設 ==
=== 高野山霊宝館 ===
[[1921年]](大正10年)に有志者の寄付と金剛峯寺により開設され、公益財団法人・高野山文化財保存会が運営する宝物館で、一般にも開放されていて、宝物を拝観(有料)することができる。今なお117ヶ寺に伝わる寺宝は膨大にあり、こうした高野山内の貴重な文化遺産を保存し展示する施設として運営されている。[[1961年]](昭和36年)に大宝蔵(収蔵庫)が増設され、高野山内の国指定文化財の美術工芸品の大半を所蔵している。その後も指定物件が増え[[1984年]](昭和59年)に新館の増築、[[2003年]](平成15年)に平成大宝蔵(収蔵庫)を増設している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.reihokan.or.jp/about/gaiyo.html|title=高野山霊宝館の概要|accessdate=2021.3.5|publisher=高野山霊宝館/(公財)高野山文化財保存会}}</ref>。開館当初に建てられた本館は、[[1998年]](平成10年)に現存する日本最古の木造博物館として高野山霊宝館紫雲殿、玄関・北廊・中廊、放光閣、南廊及西廊、宝蔵が登録有形文化財に登録されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/166112|title=高野山霊宝館紫雲殿|accessdate=2021.3.4|publisher=文化遺産オンライン/文化庁}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/180713|title=高野山霊宝館玄関・北廊・中廊|accessdate=2021.3.4|publisher=文化遺産オンライン/文化庁}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/147415|title=高野山霊宝館南廊及西廊|accessdate=2021.3.4|publisher=文化遺産オンライン/文化庁}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/113684|title=高野山霊宝館放光閣|accessdate=2021.3.4|publisher=文化遺産オンライン/文化庁}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/177026|title=高野山霊宝館宝蔵|accessdate=2021.3.4|publisher=文化遺産オンライン/文化庁}}</ref>。
現在では、国宝21件、重要文化財148件、和歌山県指定文化財17件、重要美術品2件(計約2万8000点)を含め、5万点以上を収蔵している<ref>{{Cite web|和書|url=高野山霊宝館の概要|title=高野山霊宝館の概要/高野山霊宝館とは|accessdate=2021.2.21|publisher=高野山霊宝館(公財)高野山文化財保存会}}</ref>。
=== 大師教会 ===
[[ファイル:Daisikyoukai01.jpg|サムネイル|大師教会]]
大講堂は高野山開創1100年記念事業として[[1925年]](大正14年)に建立され、本尊には弘法大師、脇仏に愛染明王と不動明王が祀られている。高野山真言宗の布教、御詠歌、宗教舞踊等の総本部で、各種研修会や講習会が催され<ref>{{Cite web|和書|url=https://shingonshu.crayonsite.com/p/13/|title=高野山 真言宗 大師教会|accessdate=2021.2.21|publisher=高野山 大師教会 七福支部 真言宗 無憂庵}}</ref>、一般参詣者でも授戒、写経などが体験できる。
{{-}}
== 高野参詣道 ==
真言密教の聖地「高野山」と、外界(俗世)を結ぶ参詣道(古道)である。(詳細は[[高野参詣道]]参照)
外界(俗世)から聖地「高野山」へ通じる入り口が7つあり{{Sfn|歩いて旅する|2015|p=108}}、それら入口に繋がる参詣道は峠を進み、中には険しい道もある。空海が切り開き、かつて最もよく使われた表参詣道とよばれる「[[高野山町石道|町石道]]」等、参詣者の出発地点に応じた7つの主要な参詣道が、7つの入口へと繋がる。それら入り口と、それに繋がる参詣道は、総称して「高野七口」とよばれる<ref name=":02">{{Cite web|和書|url=https://www.kouyananakuchi.jp/%E9%AB%98%E9%87%8E%E4%B8%83%E5%8F%A3%E3%81%A8%E3%81%AF/|title=高野七口とは|accessdate=2019-12-26|publisher=高野七口再生保存会}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.wakayama-kanko.or.jp/walk/koya/index.html|title=高野参詣道の街道マップ|accessdate=2019-12-26|publisher=公益社団法人 和歌山県観光連盟}}</ref>。また、主要参詣道の高野七口以外に、高野七口へ繋がる、その他参詣道がある<ref name=":02" />。
「高野七口」の、外界(俗世)から聖地「高野山」への入り口7つと、それに繋がる各参詣道を「入口名 - 参詣道名」として、次にあげる{{Sfn|歩いて旅する|2015|p=108}}。
* 「大門口 - [[高野山町石道|町石道]]」
* 「黒河口 - [[黒河道]]」
* 「不動坂口 - [[京大坂道]]」
* 「大滝口 - [[小辺路]]([[熊野古道]])」
* 「大峰口 - 大峰道」
* 「龍神口 - 有田・龍神道」
* 「相ノ浦口 - 相ノ浦道」
現在では、車や電車、バスなどで手軽に参詣できるが、かつて高野参詣道は多くの参詣者で賑わった。
国の[[史跡]]に「高野参詣道」として指定されている<ref name=":12">{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/401/2092|title=高野参詣道|accessdate=2020-1-30|publisher=国指定文化財等データベース/文化庁}}</ref>。[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]「[[紀伊山地の霊場と参詣道]]」を構成する資産として「高野参詣道」が登録されている<ref name=":52">{{Cite web|和書|url=https://bunka.nii.ac.jp/suisensyo/kiisanchi/start-j.html|title=資産の内容/紀伊山地の霊場と参詣道|accessdate=2019-12-28|publisher=世界遺産オンライン/文化庁}}</ref>。
=== 女人堂 ===
かつて高野山は、[[1872年]]([[明治]]5年)までは[[女人禁制]]であったため、女性は高野山内へは入れず、高野七口とよばれる高野山の結界入り口7つそれぞれに、女性のための籠もり堂(参籠所)として女人堂が置かれた<ref name=":53">{{Cite web|和書|url=http://www.koyasan.or.jp/meguru/sights.html#nyonindo|title=女人堂|accessdate=2021.2.21|publisher=高野真言宗 総本山金剛峯寺}}</ref>{{Sfn|歩いて旅する|2015|p=135}}。女人堂は、宿泊に利用したり、堂内の大日如来に祈願したり{{Sfn|高野山1200年|2016|p=25}}、また[[空海]]御廟や壇上伽藍を遥拝するために利用された{{Sfn|高野山を歩く|2009|p=31}}。京大坂道の到着地点の不動坂口に、唯一現存する女人堂([[高野参詣道#女人堂]])がある。
== 高野七不思議 ==
空海に関連した伝説を中心に、7つの伝説が伝わる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town.koya.wakayama.jp/bunka/history/693.html|title=こうや七不思議|accessdate=2021.3.5|publisher=高野町役場}}</ref>{{Sfn|図解高野山|2014|p=41}}。
# 高野にハブなし
#: 昔、高野山に大蛇のような毒ヘビがいたが、参詣者を見つけると襲いかかり食べていた。 これを聞いた空海は竹ぼうきで大蛇を払って封印し、再び竹ぼうきを使う時代になれば封印を解くといったと伝わる。
# 高野に臼なし
#: 豊臣秀吉が割粥を所望したが、高野山には米臼がなかったため、米粒を包丁で二つに切って献上した。秀吉は米粒が綺麗に2つに割れていることに気付き「山に臼はないのか」と尋ねたところ、住職は機転をきかせ「女人禁制の山に杵はたくさんありますが、臼は一つもありません」と答えたところ、秀吉は上機嫌だったと伝わる。
# 姿見の井戸
#: 奥之院の中の橋脇の汗かき地蔵を祀っている堂があり、その右側の小さな井戸は「姿見の井戸」と呼ばれている。 この井戸を覗き込んで、水面に自分の顔が映らないと三年以内に死んでしまうと伝わる。
# 高野の大雨
#: 開創以来、魚や肉が禁じられているが、肉食愛好者が入山すると空海が山を洗い清めるために大雨を降らすと伝わる。また毎年御影供で御影堂が公開されるが、翌日は穢を流し清めるために大雨が降ると伝わる。
# 玉川の魚
#: 空海が、奥之院の玉川のほとりで小魚を捕って串に刺して焼いて食べようとしていた男を見つけた。空海は、小魚を買い取り清流に放すと串に刺さっていた小魚が泳ぎはじめた。それを見た男は殺生の罪をくい、殺生をやめた。 小魚には串の跡の斑点が残ったといわれ、今でも高野山ではこの魚を食べないと伝わる。
# 杖ヶ藪
#: 空海が京からの帰り道、高野山に差し掛かり、今まで使っていた竹の杖を、もう必要ないと道端に挿し込んだ。竹は逆さまに挿されていたが、やがて根を張り枝を張り葉を茂らせ、大きな竹薮になったと伝わる。
# 覚鑁坂
#: 奥之院の中の橋を渡ってすぐの石段は、覚鑁坂とよばれている。 石段の数は、四二(死)を越えるという意味があるためか、四三段になっている。万一途中で転ぶと三年ともたないと伝わり、別名を「三年坂」とよばれている。
== 文化財(金剛峯寺所有) ==
{{JIS2004|対象=節|説明=烏倶婆誐童子の4文字目は言偏に我}}
[[File:Buddha's Nirvana.jpg|thumb|200px|right|絹本著色仏涅槃図(国宝)]]
[[File:Eight Attendants I Kongobuji.jpg|thumb|280px|right|木造八大童子像(国宝)のうち(左より)制多迦童子、矜羯羅童子、慧光童子、慧喜童子]]
[[File:Eight Attendants II Kongobuji.jpg|thumb|280px|right|木造八大童子像(国宝)のうち(左より金剛峯寺清浄比丘、烏倶婆誐童子、指徳童子、阿耨達童子]]
[[File:Seitaka Doji Kongobuji.jpg|thumb|180px|right|木造八大童子像(国宝)のうち制多迦童子]]
[[File:Miniature Buddhist shrine Kongobuji.jpg|thumb|200px|right|木造諸尊仏龕(国宝)]]
=== 国宝 ===
* 金剛峯寺不動堂
*: 鎌倉後期建立。1952年3月29日国宝指定<ref>{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/102/2882|title=金剛峯寺不動堂/国指定文化財等データーベース|accessdate=2021.2.17|publisher=文化庁}}</ref><ref>https://www.pref.wakayama.lg.jp/bcms/prefg/500700/mokuroku/mokuroku/kunikenzo.html より建造物と国宝のみ建設年代と指定日を記述する</ref>。既述。
* 絹本著色仏涅槃図
*: 平安後期の[[仏涅槃図]]。画面寸法は縦267.6センチメートル、横271.2センチメートル。伝来経緯は不明だが、諸宗寺院において涅槃図を本尊とした涅槃会が普及した平安後期にあたる「[[応徳]]三年丙寅四月七日甲午奉写己畢」([[1086年]])の銘があり、日本における在銘[[仏画]]として現存最古のもの。1951年6月9日国宝指定<ref>{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/27|title=絹本著色仏涅槃図/国指定文化財等データーベース|accessdate=2021.2.17|publisher=文化庁}}</ref>。
* 絹本著色善女竜王像〈定智筆〉
*: 平安後期の[[絵仏師]][[定智]]の作。旧裏書や『[[続宝簡集]]』によれば久安元年([[1145年]])の製作で、作者の判明する平安仏画としても類例が少ない。真言密教の[[雨乞い]]儀礼である[[請雨経法]]に関係し、『[[御遺告]]』にも登場する[[善女竜王]]を描いた仏画。現在では色彩が剥落しているが、模本の存在からかつては色彩豊かであったと考えられている。1953年11月14日国宝指定<ref>{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/97|title=絹本著色善女竜王像〈定智筆/〉/国指定文化財等データーベース|accessdate=2021.2.17|publisher=文化庁}}</ref>。
* 木造八大童子立像〈(恵光、恵喜、烏倶婆誐、清浄比丘、矜羯羅、制多伽)/(所在不動堂)〉附:木造阿耨達童子像、指徳童子像 二駆
*: もと不動堂に安置されていた。八大童子は不動明王の眷属。8体のうち6体が:鎌倉時代の作で、作風等から[[運慶]]一門の作と推定される。残りの2体(阿耨達童子、指徳童子)は時代が下り、附(つけたり)指定となっている。1955年2月2日国宝指定<ref>{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/254|title=木造八大童子立像〈(恵光、恵喜、烏倶婆誐、清浄比丘、矜羯羅、制多伽)/(所在不動堂)〉 /国指定文化財等データベース|accessdate=2021.2.17|publisher=文化庁}}</ref>。
* 木造諸尊仏龕(もくぞうしょそんぶつがん)附:銅製厨子
*: [[文明 (日本)|文明]]18年([[1486年]])の[[仏龕]](枕本尊)。木造一基。高さ23センチの[[ビャクダン]]材で3分割された物を蝶番で繋いだ八角筒形の仏龕、中央の龕には釈迦如来を中心に11尊、左右の龕には菩薩像を中心に各7尊が精緻な浮き彫りで施され{{Sfn|図解高野山|2014|p=63}}、中国的要素が見られる。空海が唐から持ち帰った文物を記した『御請来目録』の「阿闍梨付嘱」の項目の『刻白檀佛菩薩金剛等像一龕』との記載があり、これを本仏龕に比定する説があり、空海が恵果から授かり、恵果も代々授かってきた可能性が高いと考えられている{{Sfn|図解高野山|2014|p=63}}。銅製厨子の底に文明十八年卯月八日作之(1486年)の刻銘がある<ref name=":6">{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/275|title=木造諸尊仏龕/国指定文化財等データベース|accessdate=2021.2.18|publisher=文化庁}}</ref>。1964年5月26日国宝指定<ref name=":6" />。
* [[聾瞽指帰]](ろうこしいき)〈弘法大師筆〉2巻(附:澄恵寄進状(天文五年三月廿一日)1巻)
*: 平安時代作。797年空海が24歳時の著作{{Sfn|空海高野山|2013|p=83}}。天皇が使用する特別な縦簾紙を用いている{{Sfn|空海高野山|2013|p=83}}。縦28.3 cm、全長:巻上10.11m、巻下11.76m、紙数:巻上18紙、巻下21紙。空海青年期の著作で、空海の自筆本である。1963年7月1日国宝指定<ref>{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/761|title=聾瞽指帰〈弘法大師筆/〉/国指定文化財等データベース|accessdate=2021.2.18|publisher=文化庁}}</ref>。
* 金銀字一切経(中尊寺経)4296巻(附:漆塗経箱316合)
*: [[奥州平泉]]の[[藤原清衡]]が[[中尊寺]]の造立時に発願し書き写したと伝わり、のちに豊臣秀次が高野山に寄進と伝わる。紺色に染めた紙に、一行おきに金字と銀字で書いた写経。1表紙は金銀泥の宝相華唐草文様で装飾され、見返しに金銀泥で釈迦説法図や風俗図のような図柄がみられる{{Sfn|空海高野山|2013|p=115}}。2世紀の作。1951年6月9日国宝指定<ref>{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/595|title=金銀字一切経〈(中尊寺経)/〉/国指定文化財等データベース|accessdate=2021.2.18|publisher=文化庁}}</ref>。
* 法華経〈巻第六(色紙)〉
*: 色変わりの華麗な用紙に書かれた写経。12世紀の作。1952年11月22日国宝指定<ref>{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/554|title=法華経〈巻第六(色紙)/〉/国指定文化財等データベース|accessdate=2021.2.18|publisher=文化庁}}</ref>。
* 宝簡集(54巻)・続宝簡集(77巻、6冊)・又続宝簡集(167巻、9冊)
*: 高野山の歴史、所領、行事などに関わる[[古文書]]を巻物の形に整理したもの。[[西行]](寺域内の草庵で修行した)、源頼朝、[[源義経]]を始めとする歴史上の著名人の自筆書状を含む。1953年11月14日国宝指定<ref>{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/827|title=宝簡集/国指定文化財等データベース|accessdate=2021.2.18|publisher=文化庁}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/828|title=続宝簡集/国指定文化財等データベース|accessdate=2021.2.18|publisher=文化庁}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/829|title=又続宝簡集/国指定文化財等データベース|accessdate=2021.2.18|publisher=文化庁}}</ref>。
* 澤千鳥螺鈿蒔絵小唐櫃(さわちどりらさいまきえこからびつ)
*: 平安後期の漆工芸品。金と青金の研出蒔絵を主体に螺鈿で表された千鳥には毛彫りが施され、土坡や岩などをぼかし、空間を平塵の地にするなど、技法を駆使して色彩感を出している。また、地の黒に金具の金色と螺鈿の色調が互いに映え、蓋表の主文とは別の趣を出している。1951年6月9日国宝指定<ref>{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/322|title=澤千鳥螺鈿蒔絵小唐櫃/国指定文化財等データベース|accessdate=2021.2.18|publisher=文化庁}}</ref>。
=== 重要文化財 ===
==== 建造物 ====
* 金剛峯寺大門 附棟札 (1枚):[[宝永]]2年([[1705年]])再建。1965年5月29日指定<ref>{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/102/2889|title=金剛峯寺大門/国指定文化財等データーベース|accessdate=2021.2.17|publisher=文化庁}}</ref>。既述
* 山王院本殿(丹生明神社、高野明神社、総社)3棟(附鳥居及び透塀):既述。
* [[徳川家霊廟#高野山|徳川家霊台]](家康霊屋、秀忠霊屋)2棟(所在五室院谷)、既述。
* 金剛峯寺奥院経蔵:1922年4月13日指定<ref>{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/102/2883|title=金剛峯寺奥院経蔵/国指定文化財等データーベース|accessdate=2021.2.19|publisher=文化庁}}</ref>。既述。
以上のほか、本坊12棟の指定が答申されている(官報告示を経て正式指定となる)<ref>[https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/93968501.html 文化審議会の答申(重要文化財(建造物)の指定)](文化庁報道発表、2023年11月24日)。</ref>。
==== 絵画 ====
* 絹本著色愛染明王像
* 絹本著色大日如来像
* 絹本著色如来像(寺伝薬師如来)
* 絹本著色両界曼荼羅図(血曼荼羅):平安時代作。1908年1月10日指定。{{efn|両界曼荼羅図の復元版「想定色平成再生版」が2015年7月3日に[[凸版印刷]]より金剛峯寺に奉納された<ref>読売新聞2015年7月4日 31面</ref>。}}
*: 1149年(久安5年)の大火で焼失した金堂を再建した際に、平清盛が奉納。空海が唐から持ち帰った胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅の写しで絹7枚を繋げ一画面としている。「平家物語」によると、高野山大塔が完成した際、平清盛が奥之院に参詣すると不思議な老人から予言を授かったが、それが空海だと考えた清盛は、金堂に奉納する両界曼荼羅の政策を決意し、金剛界曼荼羅は絵師・常命法印が、胎蔵界曼荼羅は清盛自身が描いたとされる{{Sfn|図解高野山|2014|p=72-73}}。その際、胎蔵界曼荼羅の大日如来の宝冠部分に清盛の頭の血を混ぜ彩色したと伝わる。近年のX線調査で金剛界、胎蔵界それぞれの軸内に毛髪の束が確認されている。毛髪の束は、江戸時代に修復時に納められたとの記録が残るが、平家一門の関係者の遺髪と考えられるものも納められている{{Sfn|空海高野山|2013|p=106-107}}。
* 絹本著色両頭愛染曼荼羅図
* 絹本著色山水屏風 六曲屏風
* 絹本著色丹生明神像・狩場明神像
* 絹本著色弘法大師・丹生高野両明神像(問答講本尊)
==== 彫刻 ====
* 木造大日如来及両脇侍阿弥陀如来・釈迦如来坐像(旧所在谷上大日堂)附:木造天蓋1面
* 木造大日如来坐像(旧西塔本尊)
* 木造大日如来坐像(旧所在勧学院)
* 木造阿弥陀如来坐像(旧所在大会堂)
* 木造孔雀明王像(孔雀堂安置)
*: 鎌倉時代作。孔雀堂の本尊として造立。大きく羽を開いた孔雀座で4本の腕を持つ明王像が座す{{Sfn|図解高野山|2014|p=79}}。1908年1月10日重文指定<ref>{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/4311|title=木造孔雀明王像〈/(孔雀堂安置)〉/国指定文化財等データベース|accessdate=2021.2.18|publisher=文化庁}}</ref>。
* 木造天弓愛染明王坐像
* 木造不動明王立像・毘沙門天立像・毘沙門天立像(胎内仏){{efn|胎内仏は2005年追加指定<ref>平成17年6月9日文部科学省告示第88号</ref>}}
* 木造不動明王坐像(旧所在奥之院護摩堂)
* 木造不動明王坐像(旧所在不動堂)
* 木造不動明王立像
* 木造四天王立像(快慶作)附:紙本墨書広目天真言等1巻
* 木造四天王立像
* 木造執金剛神立像・深沙大将立像(附 宝篋印陀羅尼(執金剛神像内納入)8通、宝篋印陀羅尼(深沙大将像内納入)7通){{efn|2012年重要文化財指定<ref>平成24年9月6日文部科学省告示第127号</ref>、2017年に宝篋印陀羅尼(執金剛神像内納入)7通と宝篋印陀羅尼(深沙大将像内納入)一括を追加指定<ref>平成29年9月15日文部科学省告示第117号</ref>。}}{{efn|文化庁サイトの「国指定文化財等データベース」には附指定の「宝篋印陀羅尼」の記載なし。}}<ref>令和4年3月22日文部科学省告示第43号で名称変更・員数訂正。</ref>
* 胎蔵界板彫曼荼羅 2枚(金剛界蒔絵箱入)
* 板彫両界曼荼羅
* 木造浮彫九尊像(柿木九尊仏)
==== 工芸品 ====
* 華形大壇
* 華形大壇・箱形礼盤(不動堂所在)
* 飛行三鈷杵(伝弘法大師所持)
* 金銅仏具(五鈷鈴2、独鈷鈴1、五鈷1、三鈷2、独鈷2)
* 紙胎花蝶蒔絵念珠箱
*: 12枚の花弁ある花の形をした念珠箱で、紙と麻布を交互に張り重ね漆が塗られ、蓋の裏面から側面に金粉や銀粉を蒔いて、さらに漆を塗り、[[蒔絵|研出蒔絵]]の技法で花や蝶の模様が描かれている。海が唐の皇帝の順宗から賜ったと考えられている{{Sfn|図解高野山|2014|p=65}}。
* 蒔絵螺鈿筥 三衣入<ref>{{国指定文化財等データベース|201|5435|蒔絵螺鈿筥〈三衣入/〉}}</ref>
*: [[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[興国]]3年/暦応5年([[1342年]])3月21日の弘法大師忌に、元・[[東寺一長者]]で当時は[[南朝 (日本)|南朝]]の重鎮だった[[文観|文観房弘真]]が、[[大覚寺統]]重代の御物である三衣袈裟を高野山に寄進した際、その容れ物として使用した箱{{sfn|内田|2006|pp=250–251}}。[[仏教美術]]研究者の[[内田啓一]]は、確実な証拠はないものの、これまでの文観の経歴からして、この箱の製作にも文観が何らかの形で関わったのではないか、と推測した{{sfn|内田|2006|pp=250–251}}。
* 厨子入金銅水神像
* 成身会八葉蒔絵厨子
* 銅鐘([[梵鐘]]) 永正元年及び元亀三年銘
* 銅鐘 弘安三年銘
* 銅仏餉鉢 建久八年銘
* 舞楽装束類 一括(天野社伝来)(袍1領、蛮絵袍3領、半臂12領、下襲7領、水干小袴2具、小袴1腰、表袴1腰、帯3条、前掛2領、附:唐櫃覆1枚)
* 太刀 銘国広(附:沃懸地蒔絵太刀拵金具 正阿弥常吉作)
* 短刀 銘国光
* 剣 銘真守(備前)
* 脇指 銘長谷部国重 拵黒糸柄蝋色鞘脇指
==== 書跡典籍、古文書 ====
* 金剛峯寺根本縁起 後醍醐天皇手印並跋(絹本)
* 増壱阿含経 巻第三十二(天平宝字三年中臣村屋連鷹取書写奥書)
* 即身成仏品(附:静遍相承記)
* 紺紙金字一切経(荒川経)3,575巻
* 紺紙金字法華一品経(開結共)28巻
* 紺紙金泥般若心経 霊元天皇宸翰
* 細字金光明最勝王経 2巻
* 雑阿含経 巻第三十九(天平十五年五月十一日光明皇后願経)
* 宋版一切経 3,750帖
* 高麗版一切経(版本6,027帖、写本258帖)6,285帖
* 紺紙金字法華経 8巻 高麗<ref>平成30年10月31日文部科学省告示第208号</ref>
* 聖観音造立願文
* 町石建立供養願文
==== 考古資料・歴史資料 ====
* 高野山奥之院出土品 一括(比丘尼法薬経塚出土品、御廟及び周辺出土品、灯籠堂及び周辺出土品)(明細は後出)
* 南保又二郎納骨遺品(金銅宝篋印塔、鋳出銅板三尊仏像)
* 高野版板木 5,488枚(附 添板68枚)
典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
<div class="NavFrame" style="width:100%;">
<div class="NavHead" style="padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px;"> 高野山奥之院出土品の明細</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
; 高野山奥之院出土品
; 比丘尼法薬経塚出土品
* 陶製外筒 1口 蓋裏に永久二年九月十日尼法薬墨書銘
* 銅経筒 1口 底裏に天永四年五月三日比丘尼法薬鋳出銘
* 漆塗木製内容器 1口
* 紺紙金字法華経(開結共) 10巻
* 紺紙銀字般若心経・阿弥陀経 1巻
* 比丘尼法薬願文 1巻 永久二年三月十五日比丘尼法薬奥書
* 紺紙銀字比丘尼法薬供養目録 1巻 永久二年八月八日比丘尼法薬奥書
* 経帙 1枚
* 包紙 1枚
* 絹本墨書両界種子曼荼羅 2鋪 金剛界裏面に永承七年二月十六日女子誕生日時墨書
* 絹本墨書法華種子曼荼羅 1鋪
* 法華経断簡 一括
(昭和37年出土)
; 御廟及び周辺出土品
* 陶製骨蔵器 6口
* 磁製骨蔵器 4口
* 鉄骨蔵器 1口
* 銅骨蔵器 11口
* 金銅骨蔵器 5口
* 金銅阿弥陀如来立像 2躯
* 和鏡(残欠共) 5面分
* 石仏 2躯
* 土製菩薩像残欠 1箇
* 古銭 22枚
* 陶磁器類等伴出物一切
(昭和37年出土)
; 燈籠堂及び周辺出土品
* 陶製骨蔵器 16口
* 磁製骨蔵器 6口
* 銅骨蔵器 8口
* 金銅骨蔵器 3口
* 金銅経筒 1口
* 金銅梵字形金具 1箇
* 古銭 9枚
* 陶磁器類等伴出物一切
(昭和37年出土)
* 金銅菩薩立像 1躯
* 金銅光背 1面
(昭和38年出土)
; 出土地不明品
* 金銅基台 1基
</div>
</div>
==== 焼失した重要文化財(旧国宝) ====
{{JIS2004|対象=節|説明=薩埵(さった)の2文字目は土偏に垂}}
* 木造金剛薩埵坐像、金剛王菩薩坐像、不動明王坐像、降三世明王立像、普賢延命菩薩坐像、虚空蔵菩薩坐像 - もと金堂安置。1926年12月26日焼失。旧国宝。
=== 国指定史跡 ===
* 金剛峯寺境内
*: 史跡指定地は6か所に分かれる。大門地区、伽藍地区(壇上伽藍)、本山地区(総本山金剛峯寺)、奥の院地区は[[1977年]](昭和52年)7月14日指定。[[2002年]](平成14年)9月20日付けで徳川家霊台地区と金剛三昧院境内が追加指定された<ref>{{国指定文化財等データベース2 |name=金剛峯寺境内 |register=401 |item=2093 |year=1977 |jyear=昭和52 |month=7 |date=14 |year2=2002 |jyear2=平成14 |month2=9 |date2=20 |additional=追加 |cat1=史跡 |cat2= |class= |accessdate=2011-1-21 }}</ref>。
=== 国登録有形文化財 ===
* 高野山霊宝館紫雲殿:大正9年建設。
* 高野山霊宝館放光閣
* 高野山霊宝館宝蔵
* 高野山霊宝館玄関・北廊・中廊
* 高野山霊宝館南廊及び西廊
=== 和歌山県指定有形文化財 ===
* 金剛峯寺 9棟
** 大主殿 - 文久2年(1862年)再建。
** 奥書院 - 文久2年(1862年)再建。
** 経蔵 - 延宝7年(1679年)再建。
** 鐘楼 - 元治元年(1864年)再建。
** 真然堂 - 寛永17年(1640年)再建。
** 護摩堂 - 文久3年(1863年)再建。
** 山門 - 文久2年(1862年)再建。
** 会下門 - 江戸時代末期の再建。
** かご塀 - 江戸時代末期の再建。
* 紙本墨画山水図 1幅
* 赤銅菊花牡丹文透彫箱 1台
* 白銅手錫杖 1柄
* 木造金剛力士立像 2躯
=== 和歌山県指定史跡 ===
* 豊臣家墓所
* 禅尼上智碑
=== 和歌山県指定天然記念物 ===
* 奥の院の大杉林
* 高野槙の純林
== 文化財(子院所有分) ==
[[File:Konɡouzanmaiin0ɜ.jpg|thumb|200px|right|金剛三昧院 多宝塔(国宝)]]
[[File:Kongōku.jpg|thumb|200px|right|有志八幡講 五大力菩薩像(国宝)のうち金剛吼]]
[[File:AmidaRaigo.jpg|thumb|200px|right|有志八幡講 阿弥陀聖衆来迎図(国宝)の一部]]
* 以下の子院所有の文化財については、全て財団法人高野山文化財保存会が文化財保護法に定める「管理団体」(同法第32条の2の規定に基づく)に指定されており、大部分は高野山霊宝館に保管されている。
* 以下の子院のうちには、名跡(寺籍)のみが継がれ、房舎を持たないものも含まれる(蓮華三昧院、蓮上院、西生院、泰雲院、全光院など)。
=== 国宝 ===
* '''[[金剛三昧院]]'''
** 金剛三昧院多宝塔 - [[貞応]]2年([[1223年]])頃に建立。1952年11月22日国宝指定。
* '''有志八幡講'''
** 絹本著色[[五大力菩薩]]像 - 平安時代後期の仏画。5幅のうち[[金剛吼菩薩]]、[[竜王吼菩薩]]、[[無畏十力吼菩薩]]の3幅のみ現存。他の2幅([[無量力吼菩薩]]、[[雷電吼菩薩]])は[[1888年]]([[明治]]21年)焼失した。もと[[東寺]]に伝来した。
** 絹本著色阿弥陀聖衆来迎図 三幅- 浄土信仰に基づく平安後期の仏画。もと[[比叡山]]にあったが、信長の比叡山焼き討ちの後、高野山に移された。
* '''蓮華三昧院'''
** 絹本著色阿弥陀三尊像 - 平安後期の仏画。
* '''普門院'''
** 絹本著色勤操僧正像 - [[勤操]]は空海の師。この画像は12世紀の作。
* '''[[龍光院 (和歌山県高野町)|龍光院]]'''
** 絹本著色伝船中湧現観音像 - 平安後期の仏画。
** 紫紙金字金光明最勝王経 10巻(附:経帙1枚) - [[聖武天皇]]が各地の[[国分寺]]に安置させた「国分寺経」の遺品。どこの国分寺にあったものかは不明。
** 大字法華経(巻第三欠、明算白点本)7巻(附:経帙1枚) - 奈良時代の写経。
** 細字金光明最勝王経 2巻(附:竹帙1枚) - 細字(さいじ)は細かい文字の意。9世紀の写経。
* '''三宝院'''
** 不空羂索神変真言経 - 奈良時代の写経。
* '''正智院'''
** 文館詞林残巻 12巻 - 唐時代の詩集を日本で弘仁14年([[823年]])に書写したもの。この詩集は中国には遺品がなく、日本にだけ伝わる点で貴重。
* '''[[寳壽院|宝寿院]]'''
** [[文館詞林]]残巻 1巻
* '''遍照光院'''
** 紙本著色山水人物図 10面 - 江戸時代の文人画家・[[池大雅]]が描いた襖絵。
<gallery>
File:Amida Trinity.jpg|蓮華三昧院 阿弥陀三尊像(国宝)
File:Senchū Yūgen Kannon.jpg|龍光院 伝・船中湧現観音像(国宝)
File:Wenguan cilin Shochiin.jpg|正智院 文館詞林残巻 第691(国宝)
</gallery>
=== 重要文化財 ===
<table width="100%"><tr><td valign=top width="50%">
'''本中院谷'''
* 親王院
** 銅造阿閦如来立像
** 木造兜跋毘沙門天立像
** 金銅蝶形磬
** 木造不動明王坐像
* [[明王院 (和歌山県高野町)|明王院]]
** 絹本著色不動明王二童子像(赤不動)
* 龍光院
** 絹本著色狩場明神像
** 絹本著色両界曼荼羅図
** 木造屏風本尊
** 木造兜跋毘沙門天立像
** 厨子入倶利伽羅竜剣
** 蓮華形柄香炉
** 灌頂道具類<ref>平成17年6月9日文部科学省告示第87号</ref>
** 諸経要集 巻第五
** 註仁王般若経 巻第一
** 放光般若波羅蜜経 巻第九(天平十五年五月十一日光明皇后願経)
** 大毘盧遮那経(白朱両点本)・大毘盧遮那経供養次第法疏 巻第二(朱点本)8帖
** 大毘盧遮那経 巻第一
* 成蓮院
** 木造地蔵菩薩立像(附:像内納入品 願文、結縁交名等16点、天聖元宝1枚){{efn|「附」は2015年追加指定<ref>平成27年9月4日文部科学省告示第137号</ref>。}}
'''谷上院谷'''
* 西禅院
** 絹本著色阿弥陀浄土曼荼羅図
* 正智院
** 絹本著色紅玻璃阿弥陀像
** 絹本著色八字文殊曼荼羅図
** 絹本著色普賢延命像
** 木造毘沙門天立像
** 木造不動明王坐像
** 銅五鈷鈴
** 仏頂尊勝陀羅尼経
* 宝城院
** 絹本墨画弁才天図
* [[寳壽院|宝寿院]]
** 絹本著色七髻文殊像
** 絹本著色尊勝曼荼羅図
** 絹本著色地蔵菩薩像祐円筆
** 絹本著色文殊菩薩像
** 絹本著色六字尊像
** 金銅三鈷(伝覚鑁所持)
** 往生瑞応伝
** 決定往生集本末
** 日本法花験記上
** 梵本大般涅槃経断簡
'''西院谷'''
* 西南院
** 絹本著色五大虚空蔵像
** 絹本著色大元帥明王像
** 紙本墨画五部心観
** 木造大日如来坐像
** 和泉往来
** 後小松天皇宸翰秘調伝授書(永享二年六月廿六日)
** 西南院文書
* 桜池院
** 絹本著色紅頗梨色阿弥陀像
** 絹本著色薬師十二神将像
* [[宝亀院]]
** 紙本著色鶏図([[曽我直庵]]筆)
** 木造十一面観音立像
** 崔子玉座右銘断簡 伝弘法大師筆
* 善集院
** 絹本著色八宗論大日如来像
* 成慶院
** 絹本著色[[武田信玄#肖像画|武田信玄像]]([[長谷川等伯|長谷川信春]]筆)
'''南谷'''
* 釈迦文院
** 木造大日如来坐像
** 木造不動明王立像
** 大和州益田池碑銘並序(絹本)
** 紙本白描及著色覚禅鈔 50巻(附:紙本白描及著色覚禅鈔 2巻)
* 常喜院
** 木造地蔵菩薩坐像 永仁2年(1294年)、院修ら作
'''小田原谷'''
* 如意輪寺
** 木造如意輪観音坐像
* 金蔵院
** 木造愛染明王坐像
* 蓮花院
** 孔雀文磬
* 安養院
** 木造大日如来坐像
* [[金剛三昧院]]
** 経蔵:大正11年4月13日指定
** 客殿及び台所:昭和40年5月29日指定
** 四所明神社本殿:昭和40年5月29日指定
** 木造五智如来坐像(多宝塔安置)
** 木造千手観音立像
** 木造不動明王立像
** 絹本著色愛染明王像
** 金地著色梅花雉子図(客殿大広間襖)14面
** 刀 銘繁慶2口
** 銅鐘(承元四年十一月日鋳之の銘あり)
** 高野版板木 486枚
* 高室院
** 木造薬師如来坐像
* 蓮上院
** 木造不動明王立像(帆不動)
</td><td valign=top>
'''往生院谷'''
* 不動院
** 銅造阿弥陀如来及両脇侍立像
* 北室院
** 絹本著色五大力菩薩像
* 遍照光院
** 紙本著色商山四皓及虎渓三笑図(曽我直庵筆 六曲屏)
** 絹本著色一字金輪曼荼羅図
** 紙本墨画菊図・紙本墨書菊図賛
** 木造多聞天立像・持国天立像
** 木造阿弥陀如来立像(快慶作)
* 三宝院
** [[五行大義]]巻第五
** 白氏文集巻第三残巻
** 文鏡秘府論
* 地蔵院
** 紙本著色高野大師行状図絵(第一巻は天保11年([[1840年]])[[狩野養信]]による補写)
** 木造阿弥陀如来坐像
* [[持明院 (和歌山県高野町)|持明院]]
** 絹本著色[[浅井久政]]像・紙本著色[[浅井長政]]像・絹本著色[[お市の方|浅井長政夫人]]像
* 成福院
** 絹本著色阿弥陀如来像
'''蓮華谷'''
* 大明王院
** [[漢書]][[周勃]]伝残闕
* 清浄心院
** 絹本著色九品曼荼羅図
** 絹本著色当麻曼荼羅縁起
** 木造阿弥陀如来立像
** 花鳥文磬
* 遍明院
** 木造文殊菩薩及使者像 1基
*赤松院
**金銅宝相華文線刻蓮華形磬
* 円通寺
** 紙本著色十巻抄
** 紙本白描不動明王二童子毘沙門天図像
** 木造釈迦如来坐像
'''千手院谷'''
* 普賢院
** 四脚門:江戸寛永頃の建築、昭和40年5月29日指定
** 紙本墨画五大力菩薩像
** 木造毘沙門天立像
* 普門院
** 木造釈迦如来及諸尊像(枕本尊)
* 五大院
** 木造薬師如来坐像
* 西生院
** 絹本著色恵果阿闍梨像
'''五室院谷(一心院谷)'''
* 竜泉院
** 絹本著色伝熊野曼荼羅図
** 木造薬師如来坐像
** 絹本著色弘法大師像
* 光台院
** 絹本著色毘沙門天像
** 木造阿弥陀如来及両脇侍立像
* [[五坊寂静院]]
** 絹本著色不動明王三童子像
** 木造阿弥陀如来及両脇侍立像
* [[南院 (和歌山県高野町)|南院]]
** 木造不動明王立像(浪切不動)
* 巴陵院
** 金銅金剛盤
* 蓮華定院
** 剣 銘[[堀川国広|国広]]
* 多聞院
** 木造毘沙門天立像
* 全光院
** 花文刺繍打敷
* 泰雲院
** 木造竜猛菩薩立像
'''墓原'''
* [[佐竹義重 (十八代当主)|佐竹義重]]霊屋(清浄心院所有):桃山慶長4年・作、昭和40年5月29日指定
* 松平秀康及び同母霊屋2棟(蓮花院所有):桃山慶長12年と桃山慶長9年・作、昭和40年5月29日指定
* [[上杉謙信]]霊屋(清浄心院所有):江戸前期・作、昭和40年5月29日指定
</td></tr></table>
典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
=== 国登録記念物(名勝地関係) ===
* 光臺院庭園
* 西禅院庭園
* 正智院庭園
* 本覚院庭園
* 桜池院庭園
=== 和歌山県指定有形文化財 ===
<table width="100%"><tr><td valign=top width="50%">
'''本中院谷'''
* 親王院
** 金銅五鈷鈴 1口
** 金銅金剛盤 2面
** 金銅五鈷杵 1握
** 金銅花鳥文磬 1面
'''谷上院谷'''
* 西禅院
** 高野版木製活字 2834個
* 宝城院
** 絹本著色不動明王二童子像 1幅
* [[寳壽院|宝寿院]]
** 紙本墨画瓜竹の子図 2幅
** 絹本著色金剛薩埵像 1幅
* [[天徳院 (和歌山県高野町)|天徳院]]
** 絹本著色理趣経十八会曼荼羅図 1幅
'''西院谷'''
* 西南院
** 石造五輪塔 4基 - 鎌倉時代建立。
** 絹本著色真言八祖像 8幅
** 紙本墨画釈迦三尊像 3幅
* 桜池院
** 絹本墨画淡彩騎獅文殊菩薩像 1幅
'''南谷'''
* 常喜院
** 常喜院校倉 - 寛永年間(1624年 - 1645年)建立。
'''小田原谷'''
* 安養院
** 文禄三年連歌懐紙 1帖
* [[金剛三昧院]]
** 絹本著色仏涅槃図 1幅
** 金剛峯寺境内出土の地鎮・鎮壇具 135点
</td><td valign=top>
'''往生院谷'''
* 不動院
** 不動院書院 - 安土桃山時代建立。
* 遍照光院
** 石造多層塔 1基 - 鎌倉時代建立。
** 絹本著色不動明王二童子像 3幅
* 三宝院
** 木造弘法大師坐像 1躯
'''千手院谷'''
* 普賢院
** 銅磬 1面
* 無量光院
** 絹本著色弘法大師像 1幅
'''五室院谷(一心院谷)'''
* 光台院
** 紙本墨画山水図襖 2面
* 巴陵院
** 金銅五鈷鈴 1口
* 蓮華定院
** 真田幸村自筆書状 1巻2通
** 白銅素文磬 1面
</td></tr></table>
=== 和歌山県指定史跡 ===
* 正智院
** 高麗陣敵味方戦死者供養碑
* 蓮華院
** 崇源夫人五輪石塔
* 桜池院
** 武田信玄・武田勝頼墓地
=== 和歌山県指定名勝 ===
* 宝善院
** 宝善院庭園
== 世界遺産 ==
ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』(2004年7月登録)は以下13件の文化財を含む<ref name="sekai_isan">{{Cite web|和書
|author=[[文化庁]]
|date=2006-9-26
|url=http://www.bunka.go.jp/bunkashingikai/sekaibunkaisan/01/pdf/sanko_3_1.pdf
|title=条約上の資産種別と登録資産の国内法上の指定状況
|format=PDF
|work=[http://www.bunka.go.jp/bunkashingikai/sekaibunkaisan/01/index.html 文化審議会文化財分科会世界文化遺産特別委員会(第1回)議事次第]
|publisher=文化庁
|accessdate=2011-01-18
}}</ref>。
[[File:Kyouzou0ɨ.jpg|200px|right|thumb|奥院経蔵(重要文化財)]]
[[File:Konɡouzanmaiin0ɨ.jpg|200px|right|thumb|[[金剛三昧院]]客殿(重要文化財)]]
* 史跡
** 伽藍地区境内<ref>以下も http://www.sekaiisan-wakayama.jp/know/kouya-oku.html 和歌山県世界遺産センター(2019.6.9参照)</ref>
** 松平秀康及び同母霊屋
** 大門地区境内
** 金剛三昧院地区境内
** 徳川家霊台地区境内
** 本山地区境内
* 国宝
** 金剛峯寺不動堂
** 金剛三昧院多宝塔
* 重要文化財
** 金剛峯寺山王院本殿3棟(附:鳥居及び透塀)
** 金剛峯寺奥院経蔵
** 上杉謙信霊屋
** 佐竹義重霊屋(附:宝篋印塔5基)
** 松平秀康及び同母霊屋(附:秀康霊屋‐宝篋印塔5基、秀康母‐宝篋印塔2基)
** 金剛峯寺大門(附棟札1枚)
** 金剛三昧院経蔵・四所明神社本殿・客殿及び台所
** 金剛峯寺徳川家霊台2棟(家康霊屋‐厨子1基、秀忠霊屋‐厨子1基)
* 県指定文化財
** 豊臣家墓所
** 禅尼上智碑
** 崇源夫人五輪石塔
** 高麗陣敵味方供養碑
** 奥院の大杉林
** 金剛峯寺大主殿・奥書院・経蔵・鐘楼・真然堂・護摩堂・山門・会下門・かご塀
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
== 参考文献 ==
* [[井上靖]]、[[佐和隆研]]監修、[[司馬遼太郎]]、阿部野竜正、和多秀乗著『古寺巡礼 西国1 高野山金剛峯寺』、[[淡交社]]、1981
* 山本智教監修『高野山のすべて』[[講談社]]、1984
* 山田耕二『高野山』(日本の古寺美術9)、[[保育社]]、1986
* 『週刊朝日百科 日本の国宝』37号(金剛峯寺)、[[朝日新聞社]]、1997
* [[大阪市立美術館]]編『祈りの道 - 吉野・熊野・高野の名宝 - 』(特別展図録)、[[毎日新聞社]]、2004
* {{Citation|和書|last=内田|first=啓一|author-link=内田啓一|title=文観房弘真と美術|publisher=[[法藏館]]|date=2006|isbn=978-4831876393}}
* [[松長有慶]]『高野山』([[岩波新書]])、[[岩波書店]]、2014
* 『[[日本歴史地名大系]] 和歌山県の地名』、[[平凡社]]
* 『[[角川日本地名大辞典]] 和歌山県』、[[角川書店]]
* 『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]』、[[吉川弘文館]]
* {{Cite book|title=高野山1200年の歴史舞台を歩く (別冊宝島2495号) 一生に一度は見たい日本人の原風景がここにある!|date=2016.9.29|year=|publisher=宝島社|isbn=978-4-8002-5977-6|ref={{SfnRef|高野山1200年|2016}}}}
* {{Cite book|和書|title=高野山の秘密 語り 元高野山奥之院維那 日野西眞定|date=2015.3.27|year=|publisher=株式会社扶桑社|author=伊豆野 誠|ref={{SfnRef|高野山の秘密|2015}}|isbn=978-4-594-07245-2}}
* {{Cite book|和書|title=高野山を歩く旅 世界文化遺産 山上の伽藍と高野七口をめぐる特選9コース&高野山の宿坊|date=2009-11-5|year=|publisher=[[山と渓谷社]]|isbn=978-4-635-60042-2|ref={{SfnRef|高野山を歩く|2009}}}}
* {{Cite book|和書|title=歩いて旅する熊野古道・高野・吉野 -世界遺産の参詣道を楽しむ-|date=2015-11-30|publisher=[[山と渓谷社]]|isbn=978-4-635-60111-5|ref={{SfnRef|歩いて旅する|2015}}|year=}}
* {{Cite book|和書|title=図解高野山のすべて 空海がひらいた“天空の聖地”を完全解説! 別冊宝島 2135 高野山真言宗総本山金剛峯寺/監修|date=2014-3-15|year=|publisher=[[宝島社]]|pages=|isbn=978-4-8002-2249-7|ref={{SfnRef|図解高野山|2014}}}}
* {{Cite book|和書|title=はじめての「弘法大師信仰・高野山信仰」入門 セルバ仏教ブックス 知る・わかる・こころの旅を豊かにする|date=2018-5-16|year=|publisher=[[セルバ出版]]|pages=|ref={{SfnRef|はじめての大師|2018}}|isbn=978-4-86367-416-5|author=北川真寛}}
* {{Cite book|和書|title=空海・高野山の教科書 絶対に知っておきたい! 総本山金剛峯寺、高野山大学/監修|date=2013-3-30|publisher=株式会社枻出版社|isbn=978-4-7779-2665-7|ref={{SfnRef|空海高野山|2013}}}}
* {{Cite book|和書|title=はじめての「高野七口と参詣道」入門 セルバ仏教ブックス 知る・わかる・こころの旅を豊かにする|publisher=セルバ出版|author=入谷和也|isbn=978-4-86367-486-8|year=2019|ref={{SfnRef|入谷|2019}}}}
* {{Cite journal|和書||title=明治初期にあける高野山:一山組織の改変/佛教経済研究|date=|year=2018|publisher=仏教経済研究所/駒沢大学|author=村上弘子|ref={{SfnRef|村上|2018}}|accessdate=2020.2.8|url=http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/38110/kbk047-07-murakami.pdf|format=PDF|volume=47}}
* {{Cite book|和書|title=高野聖|date=1975年6月25年|publisher=角川書店|author=五来重|ref={{SfnRef|五来|1975}}|isbn=4-04-703079-1}}
* {{Cite book|和書|title=法令全書|year=1872|publisher=内閣官報局|author=|id={{NDLJP|787952}}|date=|ref=horei1879|volume=明治5年版}}
* {{Cite book|和書|title=高野山千百年史|year=1942|publisher=金剛峯寺|author=高野山開創千百年記念大法会事務局|ref={{SfnRef|高野千百年|1942}}}}
* {{Cite book|和書|title=弘法大師伝承と史実 絵伝を読み解く|date=2008年7月21年|publisher=朱鷺書房|author=竹内孝善|ref={{SfnRef|竹内|2008}}|isbn=4-04-703079-1}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Mount Kōya|高野山(金剛峯寺)}}
* [[空海]]
* [[高野山]]
* [[高野山真言宗]]
* [[紀伊山地の霊場と参詣道]]
* [[高野参詣道]]
* [[高野山霊宝館]]
* [[立里荒神社]] - 空海が高野山を開創する際に祀ったと伝わる。
* [[近畿地方の史跡一覧]] - 「和歌山県」節
== 外部リンク ==
* [https://www.koyasan.or.jp/ 高野山真言宗 総本山金剛峯寺]
* [http://www.reihokan.or.jp/ 高野山霊宝館]
* [https://www.shukubo.net/contents/stay/ 一般社団法人高野山宿坊協会]
{{紀伊山地の霊場と参詣道}}
{{Buddhism2}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:こんこうふし}}
[[Category:高野町の寺]]
[[Category:高野山真言宗|*]]
[[Category:紀伊山地の霊場と参詣道]]
[[Category:高野山]]
[[Category:神仏霊場巡拝の道]]
[[Category:和歌山県の国宝]]
[[Category:日本の国宝 (建造物)]]
[[Category:日本の国宝 (絵画)]]
[[Category:日本の国宝 (彫刻)]]
[[Category:日本の国宝 (工芸品)]]
[[Category:日本の国宝 (書跡・典籍・古文書)]]
[[Category:日本の霊廟]]
[[Category:重要文化財 (建造物)]]
[[Category:高野町の重要文化財]]
[[Category:和歌山県の登録有形文化財]]
[[Category:和歌山県指定有形文化財]]
[[Category:和歌山県の歴史]]
[[Category:和歌山県にある国指定の史跡]]
[[Category:鎌倉時代の建築]]
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[[Category:安土桃山時代の建築]]
[[Category:江戸時代の建築]]
[[Category:空海]] | 2003-05-16T18:22:37Z | 2023-12-03T15:48:40Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%89%9B%E5%B3%AF%E5%AF%BA |
8,373 | 核膜 | 核膜(かくまく、英: nuclear membrane, nuclear envelope)は、真核生物の核を細胞質から隔てている生体膜であり、遺伝物質を内包している。内膜と外膜からなる二重の脂質二重層構造をとり、外膜は小胞体とつながっている。内膜と外膜の空間は核膜槽 (perinuclear space)と呼ばれ、その幅は約 20–40 nmである。核膜に存在する核膜孔は多数のタンパク質からなる核膜孔複合体で構成され、核の内外を移動する物質の通り道となっている。内膜の内側 (核質側) にはラミンからなる中間径フィラメントが格子状に裏打ち構造 (核ラミナ) を形成し、核の形態を保っている。中間径フィラメントは外膜の外側にもより緩やかな構造を形成し、核膜の構造的支持を行っている。
核膜は細胞分裂の際に一時消失することがあるが終期には再形成される。
核膜は、内膜と外膜からなる二重の脂質二重層構造である。内膜と外膜は、核膜孔によって互いに連結されている。2種類の中間径フィラメントのネットワークが核膜の支持を行っている。内側のネットワークは内膜の内側に形成される核ラミナである。外膜の外側でもより緩やかなネットワークが形成され、外側からの支持を行っている。
外膜は小胞体の膜と連続している。外膜は小胞体の膜は物理的に連結されている一方で、小胞体の膜よりもはるかに高濃度のタンパク質を含んでいる。哺乳類に存在する4つのネスプリン(英語版) (nuclear envelope spectrin repeat, nesprin) タンパク質は、すべて外膜に発現している。ネスプリンタンパク質はKASHドメイン(英語版)を持っており、LINC複合体(英語版) (linker of nucleoskeleton and cytoskeleton complex) の一部として、細胞骨格繊維と核の骨格を連結している。ネスプリンを介した細胞骨格への連結は、核の配置と細胞の機械受容機能に寄与している。ネスプリン-1とネスプリン-2はアクチン繊維のような細胞骨格の構成要素と直接結合したり、核膜槽のタンパク質と結合したりする。ネスプリン-3とネスプリン-4は、核輸送の「積み荷」を降ろす過程に寄与している可能性がある。ネスプリン-3はプレクチン (plectin) に結合し、核膜と細胞質の中間径フィラメントを連結している。ネスプリン-4は、微小管の+端方向へ移動するモータータンパク質のキネシン-1と結合する。また、外膜は内膜と融合して核膜孔を形成し、この過程は細胞の成長に寄与している。
内膜は核質を包んでおり、内膜の内側は核ラミナと呼ばれるメッシュ状の中間径フィラメントで覆われている。核ラミナの厚さは約 10–40 nmで、核膜を安定化するとともに、クロマチンの機能や遺伝子発現にも関与している。内膜は、核膜を貫く核膜孔によって外膜と連結されている。内膜と外膜は小胞体の膜と連結しているものの、膜に埋め込まれているタンパク質は連続体中へ拡散するよりも、むしろその場に留まる傾向にある。
内膜のタンパク質の変異は、いくつかのラミノパシーと呼ばれる疾患を引き起こす。
核膜には、核膜孔による穴が数千個程度存在する。核膜孔は直径約 100 nmのタンパク質複合体で、内側のチャネルの直径は約 40 nmである。核膜孔は内膜と外膜を連結している。
細胞周期の間期のG2期の間、核膜は表面積を増し、核膜孔の数は倍増する。酵母のような真核生物ではclosed mitosisという形式の有糸分裂が行われ、核膜は細胞分裂中も形成されたままである。紡錘糸は核膜の内部で形成されるか、核膜をばらばらにすることなく貫通する。他の真核生物 (動物や植物など) ではopen mitosisという形式の有糸分裂が行われ、紡錘糸が内部の染色体にアクセスできるよう、核膜は前中期の間に解体されなければならない。核膜の解体と再形成の過程はあまり解明されていない。
哺乳類では、有糸分裂初期の一連の段階の後、核膜は数分以内に解体される。まず、M-Cdkがヌクレオポリンのポリペプチドをリン酸化し、それらは核膜孔複合体から選択的に除去される。その後、核膜孔複合体の残りの部分が同時に解体される。核膜孔複合体は小さなポリペプチドの断片へ分解されるのではなく、いくつかの安定なパーツへ解体されることが、生化学的な証拠からは示唆される。また、M-Cdkは核ラミナの要素をリン酸化して解体し、核膜は小さな小胞へと解体される。核膜が小胞体へ吸収されるという強力な証拠が電子顕微鏡と蛍光顕微鏡から得られており、通常小胞体では見られない核内タンパク質が有糸分裂中には出現する。
哺乳類細胞では、有糸分裂前中期の核膜の解体以外にも、細胞の移動によって核膜が破れることがある。この一時的な破壊は、細胞質のタンパク質複合体ESCRT (endosomal sorting complexes required for transport) によって迅速に修復される。核膜が破れている間は、DNAの2本鎖切断も引き起こされる。限られた環境を通って移動する細胞の生存は、効率的な核膜とDNAの修復装置に依存していると考えられる。
核膜の解体の異常はラミノパシーやがん細胞でも観察され、細胞のタンパク質の誤った局在、小核の形成やゲノムの不安定性をもたらす。
終期において核膜が再形成される正確な機構については議論があり、2つの理論が存在する。
比較ゲノミクスや進化、核膜の起源についての研究からは、核は原始的な真核生物の祖先に出現し、古細菌と細菌の共生によって引き起こされたことが提唱されている。核膜の進化的起源についてはいくつかの考えが提唱されており、原核生物の祖先の細胞膜の陥入、古細菌宿主中に始原的ミトコンドリアの存在が確立されたことに伴う新規の膜系の形成、などが唱えられている。核膜の適応的機能としては、ミトコンドリアの祖先によって細胞中で産生される活性酸素種からゲノムを保護する障壁となっていた可能性がある。 | [
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"text": "核膜(かくまく、英: nuclear membrane, nuclear envelope)は、真核生物の核を細胞質から隔てている生体膜であり、遺伝物質を内包している。内膜と外膜からなる二重の脂質二重層構造をとり、外膜は小胞体とつながっている。内膜と外膜の空間は核膜槽 (perinuclear space)と呼ばれ、その幅は約 20–40 nmである。核膜に存在する核膜孔は多数のタンパク質からなる核膜孔複合体で構成され、核の内外を移動する物質の通り道となっている。内膜の内側 (核質側) にはラミンからなる中間径フィラメントが格子状に裏打ち構造 (核ラミナ) を形成し、核の形態を保っている。中間径フィラメントは外膜の外側にもより緩やかな構造を形成し、核膜の構造的支持を行っている。",
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"text": "核膜は、内膜と外膜からなる二重の脂質二重層構造である。内膜と外膜は、核膜孔によって互いに連結されている。2種類の中間径フィラメントのネットワークが核膜の支持を行っている。内側のネットワークは内膜の内側に形成される核ラミナである。外膜の外側でもより緩やかなネットワークが形成され、外側からの支持を行っている。",
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"text": "外膜は小胞体の膜と連続している。外膜は小胞体の膜は物理的に連結されている一方で、小胞体の膜よりもはるかに高濃度のタンパク質を含んでいる。哺乳類に存在する4つのネスプリン(英語版) (nuclear envelope spectrin repeat, nesprin) タンパク質は、すべて外膜に発現している。ネスプリンタンパク質はKASHドメイン(英語版)を持っており、LINC複合体(英語版) (linker of nucleoskeleton and cytoskeleton complex) の一部として、細胞骨格繊維と核の骨格を連結している。ネスプリンを介した細胞骨格への連結は、核の配置と細胞の機械受容機能に寄与している。ネスプリン-1とネスプリン-2はアクチン繊維のような細胞骨格の構成要素と直接結合したり、核膜槽のタンパク質と結合したりする。ネスプリン-3とネスプリン-4は、核輸送の「積み荷」を降ろす過程に寄与している可能性がある。ネスプリン-3はプレクチン (plectin) に結合し、核膜と細胞質の中間径フィラメントを連結している。ネスプリン-4は、微小管の+端方向へ移動するモータータンパク質のキネシン-1と結合する。また、外膜は内膜と融合して核膜孔を形成し、この過程は細胞の成長に寄与している。",
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"text": "内膜は核質を包んでおり、内膜の内側は核ラミナと呼ばれるメッシュ状の中間径フィラメントで覆われている。核ラミナの厚さは約 10–40 nmで、核膜を安定化するとともに、クロマチンの機能や遺伝子発現にも関与している。内膜は、核膜を貫く核膜孔によって外膜と連結されている。内膜と外膜は小胞体の膜と連結しているものの、膜に埋め込まれているタンパク質は連続体中へ拡散するよりも、むしろその場に留まる傾向にある。",
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"text": "核膜には、核膜孔による穴が数千個程度存在する。核膜孔は直径約 100 nmのタンパク質複合体で、内側のチャネルの直径は約 40 nmである。核膜孔は内膜と外膜を連結している。",
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"text": "細胞周期の間期のG2期の間、核膜は表面積を増し、核膜孔の数は倍増する。酵母のような真核生物ではclosed mitosisという形式の有糸分裂が行われ、核膜は細胞分裂中も形成されたままである。紡錘糸は核膜の内部で形成されるか、核膜をばらばらにすることなく貫通する。他の真核生物 (動物や植物など) ではopen mitosisという形式の有糸分裂が行われ、紡錘糸が内部の染色体にアクセスできるよう、核膜は前中期の間に解体されなければならない。核膜の解体と再形成の過程はあまり解明されていない。",
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"text": "哺乳類では、有糸分裂初期の一連の段階の後、核膜は数分以内に解体される。まず、M-Cdkがヌクレオポリンのポリペプチドをリン酸化し、それらは核膜孔複合体から選択的に除去される。その後、核膜孔複合体の残りの部分が同時に解体される。核膜孔複合体は小さなポリペプチドの断片へ分解されるのではなく、いくつかの安定なパーツへ解体されることが、生化学的な証拠からは示唆される。また、M-Cdkは核ラミナの要素をリン酸化して解体し、核膜は小さな小胞へと解体される。核膜が小胞体へ吸収されるという強力な証拠が電子顕微鏡と蛍光顕微鏡から得られており、通常小胞体では見られない核内タンパク質が有糸分裂中には出現する。",
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"text": "哺乳類細胞では、有糸分裂前中期の核膜の解体以外にも、細胞の移動によって核膜が破れることがある。この一時的な破壊は、細胞質のタンパク質複合体ESCRT (endosomal sorting complexes required for transport) によって迅速に修復される。核膜が破れている間は、DNAの2本鎖切断も引き起こされる。限られた環境を通って移動する細胞の生存は、効率的な核膜とDNAの修復装置に依存していると考えられる。",
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"text": "核膜の解体の異常はラミノパシーやがん細胞でも観察され、細胞のタンパク質の誤った局在、小核の形成やゲノムの不安定性をもたらす。",
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"text": "終期において核膜が再形成される正確な機構については議論があり、2つの理論が存在する。",
"title": "細胞分裂"
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"text": "比較ゲノミクスや進化、核膜の起源についての研究からは、核は原始的な真核生物の祖先に出現し、古細菌と細菌の共生によって引き起こされたことが提唱されている。核膜の進化的起源についてはいくつかの考えが提唱されており、原核生物の祖先の細胞膜の陥入、古細菌宿主中に始原的ミトコンドリアの存在が確立されたことに伴う新規の膜系の形成、などが唱えられている。核膜の適応的機能としては、ミトコンドリアの祖先によって細胞中で産生される活性酸素種からゲノムを保護する障壁となっていた可能性がある。",
"title": "起源"
}
] | 核膜は、真核生物の核を細胞質から隔てている生体膜であり、遺伝物質を内包している。内膜と外膜からなる二重の脂質二重層構造をとり、外膜は小胞体とつながっている。内膜と外膜の空間は核膜槽と呼ばれ、その幅は約 20–40 nmである。核膜に存在する核膜孔は多数のタンパク質からなる核膜孔複合体で構成され、核の内外を移動する物質の通り道となっている。内膜の内側 (核質側) にはラミンからなる中間径フィラメントが格子状に裏打ち構造 (核ラミナ) を形成し、核の形態を保っている。中間径フィラメントは外膜の外側にもより緩やかな構造を形成し、核膜の構造的支持を行っている。 核膜は細胞分裂の際に一時消失することがあるが終期には再形成される。 | [[Image:Diagram human cell nucleus ja.svg|300x300px|thumb|ヒトの細胞核の全体図。核膜は内膜と外膜からなり、核膜孔で接続されている。]]
<!-- [[ファイル:Biological cell.svg|thumb|400px|典型的な動物細胞の模式図: (1) [[核小体]](仁)、(2) [[細胞核]]、(3) [[リボソーム]]、(4) [[小胞]]、(5) [[粗面小胞体]]、(6) [[ゴルジ体]]、(7) [[微小管]]、(8) [[滑面小胞体]]、(9) [[ミトコンドリア]]、(10) [[液胞]]、(11) [[細胞質基質]]、(12) [[リソソーム]]、(13) [[中心体]]]] -->
<!-- [[Image:nucleus_ER.png|thumb|right|320px|'''細胞核の概要'''(1) '''核膜''' (2) [[リボソーム]] (3) [[核膜孔]] (4) [[核小体]]
(5) [[クロマチン]] (6) [[細胞核]] (7) [[小胞体]] (8) [[核質]]]] -->
'''核膜'''(かくまく、{{lang-en-short|nuclear membrane, nuclear envelope}})は、[[真核生物]]の[[細胞核|核]]を[[細胞質]]から隔てている[[生体膜]]であり、[[ゲノム|遺伝物質]]を内包している。内膜と外膜からなる二重の[[脂質二重層]]構造をとり、外膜は[[小胞体]]とつながっている<ref name="Alberts2">{{cite book|last1=Alberts|first1=Bruce|title=Molecular biology of the cell|date=2002|publisher=Garland|location=New York [u.a.]|isbn=0815340729|page=197|edition=4th}}</ref>。内膜と外膜の空間は核膜槽 (perinuclear space)と呼ばれ、その幅は約 20–40 nmである<ref name=":0">{{cite web|title=Perinuclear space|url=http://www.biology-online.org/dictionary/Perinuclear_space|work=Dictionary|publisher=Biology Online|accessdate=7 December 2012}}</ref><ref name=":1">{{cite book|last1=Berrios|first1=Miguel, ed.|title=Nuclear structure and function.|date=1998|publisher=Academic Press|location=San Diego|isbn=9780125641555|page=4}}</ref>。核膜に存在する[[核膜孔]]は多数の[[タンパク質]]からなる核膜孔複合体で構成され、核の内外を移動する物質の通り道となっている<ref name="Alberts2" />。内膜の内側 ([[核質]]側) には[[ラミン]]からなる[[中間径フィラメント]]が格子状に裏打ち構造 ([[核ラミナ]]) を形成し、核の形態を保っている。中間径フィラメントは外膜の外側にもより緩やかな構造を形成し、核膜の構造的支持を行っている<ref name="Alberts2" />。
核膜は[[細胞分裂]]の際に一時消失することがあるが[[終期 (細胞分裂)|終期]]には再形成される。
==構造==
核膜は、内膜と外膜からなる二重の[[脂質二重層]]構造である。内膜と外膜は、[[核膜孔]]によって互いに連結されている。2種類の[[中間径フィラメント]]のネットワークが核膜の支持を行っている。内側のネットワークは内膜の内側に形成される[[核ラミナ]]である<ref name="Coutinho">{{cite web|last1=Coutinho|first1=Henrique Douglas M|last2=Falcão-Silva|first2=Vivyanne S|last3=Gonçalves|first3=Gregório Fernandes|last4=da Nóbrega|first4=Raphael Batista|title=Molecular ageing in progeroid syndromes: Hutchinson-Gilford progeria syndrome as a model|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2674425/figure/F1/|website=Immunity & Ageing : I & A|accessdate=11 March 2018|pages=4|doi=10.1186/1742-4933-6-4|date=20 April 2009}}</ref>。外膜の外側でもより緩やかなネットワークが形成され、外側からの支持を行っている<ref name="Alberts2" />。
===外膜===
外膜は[[小胞体]]の膜と連続している<ref name=":2">{{cite web|title=Chloride channels in the Nuclear membrane|url=http://clapham.tch.harvard.edu/publications/pdf/Tabares_JMB_91.pdf|publisher=Harvard.edu|accessdate=7 December 2012}}</ref>。外膜は小胞体の膜は物理的に連結されている一方で、小胞体の膜よりもはるかに高濃度の[[タンパク質]]を含んでいる<ref name="TheNuclearEnvelope-NCBI">{{cite journal|last=Hetzer|first=Mertin|date=February 3, 2010|title=The Nuclear Envelope|journal=Cold Spring Harbor Perspectives in Biology|volume=2|issue=3|pages=a000539|doi=10.1101/cshperspect.a000539|pmid=20300205|pmc=2829960}}</ref>。[[哺乳類]]に存在する4つの{{仮リンク|ネスプリン|en|Nesprin}} (nuclear envelope spectrin repeat, nesprin) タンパク質は、すべて外膜に発現している<ref name=":3">{{Cite journal|last=Wilson|first=Katherine L.|last2=Berk|first2=Jason M.|date=2010-06-15|title=The nuclear envelope at a glance|url=http://jcs.biologists.org/content/123/12/1973|journal=J Cell Sci|volume=123|issue=12|pages=1973–1978|language=en|doi=10.1242/jcs.019042|issn=0021-9533|pmid=20519579|pmc=2880010}}</ref>。ネスプリンタンパク質は{{仮リンク|KASHドメイン|en|KASH domains}}を持っており、{{仮リンク|LINC複合体|en|LINC complex}} (linker of nucleoskeleton and cytoskeleton complex) の一部として、[[細胞骨格]]繊維と核の骨格を連結している<ref name=":4">{{Cite journal|last=Burke|first=Brian|last2=Roux|first2=Kyle J.|date=2009-11-01|title=Nuclei take a position: managing nuclear location|journal=Developmental Cell|volume=17|issue=5|pages=587–597|doi=10.1016/j.devcel.2009.10.018|issn=1878-1551|pmid=19922864}}</ref><ref name=":5">{{Cite journal|last=Crisp|first=Melissa|last2=Liu|first2=Qian|last3=Roux|first3=Kyle|last4=Rattner|first4=J. B.|last5=Shanahan|first5=Catherine|last6=Burke|first6=Brian|last7=Stahl|first7=Phillip D.|last8=Hodzic|first8=Didier|date=2006-01-02|title=Coupling of the nucleus and cytoplasm: role of the LINC complex|journal=The Journal of Cell Biology|volume=172|issue=1|pages=41–53|doi=10.1083/jcb.200509124|issn=0021-9525|pmid=16380439|pmc=2063530}}</ref><ref name="Zeng">{{cite journal|last1=Zeng et. al|first1=X|date=2017|title=Nuclear Envelope-Associated Chromosome Dynamics during Meiotic Prophase I.|journal=Frontiers in Cell and Developmental Biology|volume=5|pages=121|doi=10.3389/fcell.2017.00121|pmid=29376050}}</ref>。ネスプリンを介した細胞骨格への連結は、核の配置と細胞の[[機械受容器|機械受容]]機能に寄与している<ref name=":6">{{Cite journal|last=Uzer|first=Gunes|last2=Thompson|first2=William R.|last3=Sen|first3=Buer|last4=Xie|first4=Zhihui|last5=Yen|first5=Sherwin S.|last6=Miller|first6=Sean|last7=Bas|first7=Guniz|last8=Styner|first8=Maya|last9=Rubin|first9=Clinton T.|date=2015-06-01|title=Cell Mechanosensitivity to Extremely Low-Magnitude Signals Is Enabled by a LINCed Nucleus|url=http://europepmc.org/articles/pmc4458857|journal=Stem Cells|volume=33|issue=6|pages=2063–2076|language=en|doi=10.1002/stem.2004|issn=1066-5099|pmid=25787126|pmc=4458857}}</ref>。ネスプリン-1とネスプリン-2は[[アクチン]]繊維のような細胞骨格の構成要素と直接結合したり、核膜槽のタンパク質と結合したりする<ref name=":5" /><ref name="Zeng" />。ネスプリン-3とネスプリン-4は、[[核輸送]]の「積み荷」を降ろす過程に寄与している可能性がある。ネスプリン-3は[[プレクチン]] (plectin) に結合し、核膜と細胞質の中間径フィラメントを連結している<ref name=":7">{{Cite journal|last=Wilhelmsen|first=Kevin|last2=Litjens|first2=Sandy H. M.|last3=Kuikman|first3=Ingrid|last4=Tshimbalanga|first4=Ntambua|last5=Janssen|first5=Hans|last6=van den Bout|first6=Iman|last7=Raymond|first7=Karine|last8=Sonnenberg|first8=Arnoud|date=2005-12-05|title=Nesprin-3, a novel outer nuclear membrane protein, associates with the cytoskeletal linker protein plectin|journal=The Journal of Cell Biology|volume=171|issue=5|pages=799–810|doi=10.1083/jcb.200506083|issn=0021-9525|pmid=16330710|pmc=2171291}}</ref>。ネスプリン-4は、[[微小管]]の+端方向へ移動する[[モータータンパク質]]の[[キネシン|キネシン-1]]と結合する<ref name=":8">{{Cite journal|last=Roux|first=Kyle J.|last2=Crisp|first2=Melissa L.|last3=Liu|first3=Qian|last4=Kim|first4=Daein|last5=Kozlov|first5=Serguei|last6=Stewart|first6=Colin L.|last7=Burke|first7=Brian|date=2009-02-17|title=Nesprin 4 is an outer nuclear membrane protein that can induce kinesin-mediated cell polarization|journal=Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America|volume=106|issue=7|pages=2194–2199|doi=10.1073/pnas.0808602106|issn=1091-6490|pmid=19164528|pmc=2650131}}</ref>。また、外膜は内膜と融合して核膜孔を形成し、この過程は細胞の成長に寄与している<ref name=":9">{{Cite journal|last=Fichtman|first=Boris|last2=Ramos|first2=Corinne|last3=Rasala|first3=Beth|last4=Harel|first4=Amnon|last5=Forbes|first5=Douglass J.|date=2010-12-01|title=Inner/Outer Nuclear Membrane Fusion in Nuclear Pore Assembly|journal=Molecular Biology of the Cell|volume=21|issue=23|pages=4197–4211|doi=10.1091/mbc.E10-04-0309|issn=1059-1524|pmid=20926687|pmc=2993748}}</ref>。
===内膜===
{{Further |{{仮リンク|核の内膜のタンパク質|en|Inner nuclear membrane proteins}}}}
内膜は[[核質]]を包んでおり、内膜の内側は核ラミナと呼ばれるメッシュ状の中間径フィラメントで覆われている。核ラミナの厚さは約 10–40 nmで、核膜を安定化するとともに、[[クロマチン]]の機能や[[遺伝子発現]]にも関与している<ref name="TheNuclearEnvelope-NCBI" />。内膜は、核膜を貫く核膜孔によって外膜と連結されている。内膜と外膜は小胞体の膜と連結しているものの、膜に埋め込まれているタンパク質は連続体中へ拡散するよりも、むしろその場に留まる傾向にある<ref name="Inner membrane—EMBO">{{cite journal|date=April 19, 2001|title=The inner nuclear membrane: simple, or very complex?|url=http://www.nature.com/emboj/journal/v20/n12/full/7593796a.html|journal=The EMBO Journal|volume=20|issue=12|pages=2989–2994|accessdate=7 December 2012|doi=10.1093/emboj/20.12.2989|pmid=11406575|pmc=150211}}</ref>。
内膜のタンパク質の[[変異]]は、いくつかの[[ラミノパシー]]と呼ばれる疾患を引き起こす。
===核膜孔===
{{main|核膜孔}}
[[File:Endomembrane system diagram en.svg|thumb|核膜を横切る核膜孔]]
核膜には、核膜孔による穴が数千個程度存在する。核膜孔は直径約 100 nmのタンパク質複合体で、内側のチャネルの直径は約 40 nmである<ref name=TheNuclearEnvelope-NCBI />。核膜孔は内膜と外膜を連結している。
==細胞分裂==
[[細胞周期]]の[[間期 (細胞分裂)|間期]]の[[G2期]]の間、核膜は表面積を増し、核膜孔の数は倍増する<ref name="TheNuclearEnvelope-NCBI" />。[[酵母]]のような[[真核生物]]ではclosed mitosisという形式の[[有糸分裂]]が行われ、核膜は[[細胞分裂]]中も形成されたままである。[[紡錘糸]]は核膜の内部で形成されるか、核膜をばらばらにすることなく貫通する<ref name="TheNuclearEnvelope-NCBI" />。他の真核生物 (動物や植物など) ではopen mitosisという形式の[[有糸分裂]]が行われ、紡錘糸が内部の[[染色体]]にアクセスできるよう、核膜は[[前中期 (細胞分裂)|前中期]]の間に解体されなければならない。核膜の解体と再形成の過程はあまり解明されていない。
===解体===
[[File:Nuclear_envelope_breakdown_and_reassembly_in_mitosis.jpg|thumb|upright=1.6|[[有糸分裂]]における解体と再形成]]
哺乳類では、有糸分裂初期の一連の段階の後、核膜は数分以内に解体される。まず、[[サイクリン依存性キナーゼ|M-Cdk]]が[[ヌクレオポリン]]のポリペプチドを[[リン酸化]]し、それらは核膜孔複合体から選択的に除去される。その後、核膜孔複合体の残りの部分が同時に解体される。核膜孔複合体は小さなポリペプチドの断片へ分解されるのではなく、いくつかの安定なパーツへ解体されることが、[[生化学]]的な証拠からは示唆される<ref name="TheNuclearEnvelope-NCBI" />。また、M-Cdkは核ラミナの要素をリン酸化して解体し、核膜は小さな[[小胞]]へと解体される<ref name=":10">{{cite book|last=Alberts (et al)|title=Molecular Biology of The Cell|year=2008|publisher=Garland Science|location=New York|isbn=978-0-8153-4106-2|pages=1079–1080|edition=5th|chapter=Chapter 17: The Cell Cycle}}</ref>。核膜が小胞体へ吸収されるという強力な証拠が[[電子顕微鏡]]と[[蛍光顕微鏡]]から得られており、通常小胞体では見られない核内タンパク質が有糸分裂中には出現する<ref name="TheNuclearEnvelope-NCBI" />。
哺乳類細胞では、有糸分裂前中期の核膜の解体以外にも、細胞の移動によって核膜が破れることがある<ref name="pmid27013426">{{cite journal|year=2016|title=ESCRT III repairs nuclear envelope ruptures during cell migration to limit DNA damage and cell death|url=|journal=Science|volume=352|issue=6283|pages=359–62|doi=10.1126/science.aad7611|pmid=27013426|vauthors=Raab M, Gentili M, de Belly H, Thiam HR, Vargas P, Jimenez AJ, Lautenschlaeger F, Voituriez R, Lennon-Duménil AM, Manel N, Piel M}}</ref>。この一時的な破壊は、細胞質のタンパク質複合体[[ESCRT]] (endosomal sorting complexes required for transport) によって迅速に修復される<ref name="pmid27013426" />。核膜が破れている間は、DNAの2本鎖切断も引き起こされる。限られた環境を通って移動する細胞の生存は、効率的な核膜とDNAの修復装置に依存していると考えられる。
核膜の解体の異常はラミノパシーやがん細胞でも観察され、細胞のタンパク質の誤った局在、小核の形成やゲノムの不安定性をもたらす<ref>{{Cite journal|last=Vargas|first=Jesse D.|last2=Hatch|first2=Emily M.|last3=Anderson|first3=Daniel J.|last4=Hetzer|first4=Martin W.|date=2012-1|title=Transient nuclear envelope rupturing during interphase in human cancer cells|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/22567193|journal=Nucleus (Austin, Tex.)|volume=3|issue=1|pages=88–100|doi=10.4161/nucl.18954|issn=1949-1042|pmid=22567193|pmc=3342953}}</ref><ref>{{Cite journal|last=Lim|first=Sanghee|last2=Quinton|first2=Ryan J.|last3=Ganem|first3=Neil J.|date=11 01, 2016|title=Nuclear envelope rupture drives genome instability in cancer|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/27799497|journal=Molecular Biology of the Cell|volume=27|issue=21|pages=3210–3213|doi=10.1091/mbc.E16-02-0098|issn=1939-4586|pmid=27799497|pmc=5170854}}</ref><ref>{{Cite journal|last=Hatch|first=Emily M.|last2=Hetzer|first2=Martin W.|date=2016-10-10|title=Nuclear envelope rupture is induced by actin-based nucleus confinement|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/27697922|journal=The Journal of Cell Biology|volume=215|issue=1|pages=27–36|doi=10.1083/jcb.201603053|issn=1540-8140|pmid=27697922|pmc=5057282}}</ref>。
===再形成===
[[終期 (細胞分裂)|終期]]において核膜が再形成される正確な機構については議論があり、2つの理論が存在する<ref name="TheNuclearEnvelope-NCBI" />。
*{{仮リンク|小胞の融合|en|Vesicle fusion}}: 核膜の小胞が互いに融合し、核膜が再構築される。
*小胞体の整形: 小胞体の吸収された核膜を含む部分が核の空間を包み、閉じた膜が再形成される。
==起源==
[[比較ゲノミクス]]や[[進化]]、核膜の起源についての研究からは、核は原始的な真核生物の祖先に出現し、[[古細菌]]と[[細菌]]の[[共生]]によって引き起こされたことが提唱されている<ref name="pmid15611647">{{cite journal|year=2004|title=Comparative genomics, evolution and origins of the nuclear envelope and nuclear pore complex|url=|journal=Cell Cycle|volume=3|issue=12|pages=1612–37|doi=10.4161/cc.3.12.1316|pmid=15611647|vauthors=Mans BJ, Anantharaman V, Aravind L, Koonin EV}}</ref>。核膜の進化的起源についてはいくつかの考えが提唱されており、[[原核生物]]の祖先の細胞膜の陥入、古細菌宿主中に始原的[[ミトコンドリア]]の存在が確立されたことに伴う新規の膜系の形成、などが唱えられている<ref name="pmid16242992">{{cite journal|year=2005|title=Archaebacteria (Archaea) and the origin of the eukaryotic nucleus|url=|journal=Curr. Opin. Microbiol.|volume=8|issue=6|pages=630–7|doi=10.1016/j.mib.2005.10.004|pmid=16242992|vauthors=Martin W}}</ref>。核膜の適応的機能としては、ミトコンドリアの祖先によって細胞中で産生される[[活性酸素種]]から[[ゲノム]]を保護する障壁となっていた可能性がある<ref name="pmid26577075">{{cite journal|year=2015|title=Birth of the eukaryotes by a set of reactive innovations: New insights force us to relinquish gradual models|url=|journal=BioEssays|volume=37|issue=12|pages=1268–76|doi=10.1002/bies.201500107|pmid=26577075|vauthors=Speijer D}}</ref><ref name=":11">Bernstein H, Bernstein C. Sexual communication in archaea, the precursor to meiosis. pp. 103-117 in Biocommunication of Archaea (Guenther Witzany, ed.) 2017. Springer International Publishing {{ISBN2|978-3-319-65535-2}} DOI 10.1007/978-3-319-65536-9</ref>。
==出典==
{{Reflist}}
==外部リンク==
{{Commons category|Nuclear membranes}}
* {{BUHistology|20102loa}}
* [http://sspatel.googlepages.com/nuclearporecomplex Animations of nuclear pores and transport through the nuclear envelope]
* [http://sspatel.googlepages.com/nuclearporecomplex2 Illustrations of nuclear pores and transport through the nuclear membrane]
* {{MeshName|Nuclear+membrane}}
{{Normdaten}}
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[[Category:細胞解剖学]]
[[Category:細胞核]]
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8,377 | 会社法 | 会社法(かいしゃほう、平成17年7月26日法律第86号、英語 : Companies Act)は、会社の設立、組織、運営および管理について定めた日本の法律。所管官庁は、法務省である。
同時に成立した会社法の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律(平成17年法律第87号、以下「整備法」)では、関連法律を本法に適合させるための改廃が行われた。
会社法には2つの意味がある。1つは固有の法律である「会社法」(平成17年7月26日法律第86号)を指す。
もう1つは「実質的意義の会社法」で会社の利害関係者の利害調整を行う法律のことを指す。「実質的意義の会社法」には、会社法施行規則、会社計算規則、電子公告規則、社債株式等振替法、担保付社債信託法、商業登記法などが含まれる。
その他にも会社にかかわる法律は多数あり取引においては民法や商法、税制に関しては法人税法、また競争政策上会社に制約を課す私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(独占禁止法)など多岐に渡る。
「実質的意義の会社法」が持つ特徴は利害関係者の利害調整を主な目的として会社の組織、運営について定めたルールという点である。ここで言う「利害関係者」は主に株主と会社債権者を指す。
日本では従来固有の法律としての「会社法」は存在しなかった。その代りに会社に関する法の総称(「実質的意義の会社法」)として会社法の用語が用いられていた。
日本で会社に関する最初の一般的規則はお雇い外国人(ドイツ人)、法学者ヘルマン・ロエスレル起草草案をもとに制定された商法(明治23年法律番号32号)1編6章である。その後商法は明治32年に改正され現在の商法、会社法の原型となる。特に商法の会社法規定である商法旧第2編会社(以下「旧法」)は高頻度で大改正を受けつつ、日本の会社に関する一般規定として存続した。
戦後は会社不祥事をきっかけに監査役制度の強化がされ指名委員会等設置会社や業務の適正を確保するための体制(内部統制システム)の導入など、会社に対する規制が強化される方向に進んだ。一方で資金調達に関しては調達手段を多様化、拡大し、規制を緩和、合理化する傾向が続いている。
2005年6月「会社法」が国会で成立2006年5月に施行された。これに伴いかつて会社法としての役割を果たしていた「旧法」、有限会社法、株式会社の監査等に関する商法の特例に関する法律(商法特例法または監査特例法)等は会社法に統合、再編成された。
会社法の役割として、第一に会社の取引相手を保護するという役割がある。具体的には、会社の法律関係、事実関係を明確にし、法人格を与え、必要な情報を開示することで保護が図られている。
第二に、利害関係者の権利利益を保護し、会社制度によって利益を得やすい仕組みを作ることが挙げられる。株式会社では利害関係者たちの合意があれば、定款によって異なる定めができる規定が多数存在する。柔軟な制度にすることで利害関係者の利益を実現するのが目的である。
第三に、法律関係を明確にすることができる。例えば、「会社の組織に関する訴え」(828~846条)の多くは、一定の期間に訴訟をしなければ法的主張ができないようになっている。これによって、法律関係を早期に安定させることができる。
もっとも、これらの役割は会社法のみならず、様々な法律、慣行などによっても果たされている。
2006年(平成18年)5月以降、会社法の規定する会社の種類は4種類あり(2条1項)、横断的な規制の下に置かれる。
会社法以外で規定されている会社の種類。
株式の発行につき、証券(株券)を発行しないことが原則となった。この点は社債と同様である。 株式会社は、定款で定めることで株券を発行することができ、この場合その会社を「株券発行会社」という(会社法117条7項かっこ書き) 。
定款に定める発行可能株式総数(いわゆる授権資本枠)は、株式消却により減少する旨の記載が定款にない場合には、減少しないこととなり発行済株式数のみが減少することとなった。
当該株式の取得に発行会社の承認を要する旨のいわゆる譲渡制限株式は、全株に共通する内容として、また、種類株式ごとに種類として規定することも可能である。
株式会社が一定の事由が生じた場合には、株主の同意なく発行株式を取得することができるとする取得条項付株式の発行が認められている。
複数の種類株式を発行する株式会社は、株主総会の特別決議により特定の種類株式を全部取得できる旨の全部取得条項付種類株式を発行することができる(これにより、いわゆる「100%減資」が必要な企業再生が容易となることが期待される)。
株式の分割、併合により生じる1株に満たない端数については、会社がまとめて売却、換価して代金を交付するものとされた。
会社法では、株式会社の機関設計にあたり配慮すべき対象は、以下の2つの視点から整理される。
株式会社には、株主総会および取締役は置かなければならない。その他の機関である取締役会、会計参与、監査役、監査役会、会計監査人または委員会については、会社の規模(大会社か大会社でない会社か)や株式の譲渡制限の有無(公開会社か公開会社でない会社か)などに応じて、それを設置するか否かを選ぶことができ、または、設置、不設置の義務が生じるなど、規律の違いがある。任意に設置できる機関の選択により、39通りもの種々の柔軟な機関設計が可能となる。
なお、2015年5月27日に施行された「会社法の一部を改正する法律」において新たに監査等委員会設置会社が導入された。
大会社、指名委員会等設置会社および監査等委員会設置会社においては、取締役の職務執行が法令および定款に適合することを確保するなどの業務の適正を確保するための体制(内部統制システム)を設けることが義務付けられている。具体的には、取締役会決議によって内部統制システムの大綱を決定したうえで、各事業部門の担当取締役をして具体的なシステムの詳細を整備させる必要がある。
旧法においては、株式会社は以下の4類型のみの機関設計が認められていた。
有限会社についても監査役を置くか否か、また代表取締役を置くか否かの4通りの機関設計のみが認められるに過ぎなかった。
資本金の最低金額に制限はない。資本金を1円として各種の会社を設立することができる。また、設立後に一定の手続きを行うことによって資本金の額を0円にする事も可能。
剰余金の配当などの資本の部における計数の変動は、定時株主総会に限らずいずれの株主総会において原則可能である。純資産額300万円未満の株式会社については、配当などの方法による株主に対する剰余金の配当が禁止される。
配当については、毎事業年度末に「連結配当規制」の適用を受けるか受けないかを選択できる。これは、事業が企業グループで行われている場合で、企業グループとして財源規制を受けるもの。なお、単体ベースで黒字であることが必要であり、その上で、子会社の赤字と連結して残った剰余金を配当することとなる。本体が赤字である場合は連結配当規制の適用は受けられない。
会計監査人設置会社は、連結計算書類を作成することができ、大会社である有価証券報告書提出会社は、連結計算書類の作成が会社法上も義務付けられている。
株式会社、持分会社のいずれの会社も社債の発行が可能である。社債を規律する他の特別法としては、担保付社債信託法、社債等登録法、社債、株式等の振替に関する法律が挙げられる。
社債は、株式同様、原則として証券(社債券)を発行しない。社債券は、社債券を発行することを発行決議により定めた場合にのみ発行することができる。また、株式と異なり、社債の種類ごとに券面の発行・不発行を選択することができる。
社債は、銘柄統合をできるようになった。
会社法における組織変更とは、株式会社が持分会社になること又は持分会社が株式会社になることをいう(2条26項イ、ロ)。旧法では合資会社と合名会社、株式会社と有限会社のそれぞれの間のみでの組織変更が認められていた。4種類の会社形態のいずれからも他の会社形態への変更も可能であるが、持分会社間での会社形態への変更は、ここでいう組織変更にはあたらない(社員が負担する責任の限度の変更により行われるため、手続として可能である)。
なお、特例有限会社は通常の株式会社に変更することができる。
会社のM&A(合併、買収)に関しては、いわゆる黄金株や、より実践的な「ポイズン・ピル(毒薬条項)」等を用いることが、会社法上明示で認められることから、これらを買収防衛策・買収対抗策として用いることが想定されている。関連して、東京証券取引所は当初、投資家保護に問題があるとして、黄金株の導入を原則として上場廃止事由とする方針を打ち出していたが、後に、株主総会での普通決議により黄金株の拒否権を無効にできるとする「停止条項」を定款に盛り込むことを条件に容認する方針に転換している。
合併の対価として、存続会社の株式等に限らず金銭等を含めたその他の財産の交付を行うことができるものとされている。これによりいわゆる三角合併や交付金合併も可能となる。かかる規定は会社法施行の日である2006年5月1日から1年間は適用されないものとされている。
また、合併の対価として何も交付しないこと(無対価合併)も明文で認められた(744条1項5号で「金銭等・・・を交付するときは」と規定し、無対価もあり得る旨の規定ぶりとなっている。)。
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"title": "資本金、配当、計算"
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"text": "会計監査人設置会社は、連結計算書類を作成することができ、大会社である有価証券報告書提出会社は、連結計算書類の作成が会社法上も義務付けられている。",
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"text": "株式会社、持分会社のいずれの会社も社債の発行が可能である。社債を規律する他の特別法としては、担保付社債信託法、社債等登録法、社債、株式等の振替に関する法律が挙げられる。",
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"text": "社債は、株式同様、原則として証券(社債券)を発行しない。社債券は、社債券を発行することを発行決議により定めた場合にのみ発行することができる。また、株式と異なり、社債の種類ごとに券面の発行・不発行を選択することができる。",
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"text": "旧法に定められていた会社整理は廃止された。同手続は、民事再生法の成立(2000年4月施行)により実質的に存在意義が失われていた。",
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] | 会社法は、会社の設立、組織、運営および管理について定めた日本の法律。所管官庁は、法務省である。 同時に成立した会社法の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律(平成17年法律第87号、以下「整備法」)では、関連法律を本法に適合させるための改廃が行われた。 | {{Otheruseslist|日本の会社法(平成17年7月26日法律第86号)|広く企業の組織や取引に関する法体系(各国で会社やLLPやLLCなどを規律している法)|企業法}}
{{Law}}
{{日本の法令
| 題名=会社法
| 通称=
| 番号=平成17年7月26日法律第86号
| 効力=現行法
| 種類=[[商法]]
| 所管=[[法務省]]
| 内容=[[株式会社 (日本)|株式会社]]、[[持分会社]]、[[社債]]、[[組織変更]]、[[合併 (企業)|合併]]、[[会社分割]]、[[株式交換]]、[[株式移転]]、[[外国会社]]
| 関連=[[商法]]、[[民法 (日本)|民法]]、[[保険業法]]、[[金融商品取引法]]、[[有限責任事業組合契約に関する法律]]、[[会社法の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律]]など
| リンク=[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=417AC0000000086&openerCode=1 e-Gov法令検索]
| ウィキソース = 会社法
}}
'''会社法'''(かいしゃほう、平成17年7月26日法律第86号、英語 : Companies Act<ref>[http://www.japaneselawtranslation.go.jp/law/detail/?id=2035&vm=&re= 会社法] 日本法令外国語訳データベースシステム 2021年10月6日閲覧。</ref>)は、[[会社]]の設立、組織、運営および管理について定めた[[日本]]の[[法律]]。所管官庁は、[[法務省]]である。
同時に成立した[[会社法の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律]](平成17年法律第87号、以下「整備法」)では、関連法律を本法に適合させるための改廃が行われた。
== 会社法の意義等 ==
会社法には2つの意味がある。1つは固有の法律である「'''会社法'''」(平成17年7月26日法律第86号)を指す。
もう1つは「'''実質的意義の会社法'''」で会社の利害関係者の利害調整を行う法律のことを指す<ref>{{cite kotobank|word=会社法|encyclopedia=日本大百科全書(ニッポニカ)|accessdate=2021-08-03}}</ref>。「実質的意義の会社法」には、[[会社法施行規則]]、[[会社計算規則]]、電子公告規則、[[社債、株式等の振替に関する法律|社債株式等振替法]]、[[担保付社債信託法]]、[[商業登記法]]などが含まれる。
その他にも会社にかかわる法律は多数あり取引においては[[民法]]や[[商法]]、税制に関しては[[法人税法]]、また競争政策上会社に制約を課す[[私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律]](独占禁止法)など多岐に渡る。
「実質的意義の会社法」が持つ特徴は利害関係者の利害調整を主な目的として会社の組織、運営について定めたルールという点である。ここで言う「利害関係者」は主に[[株主]]と会社債権者を指す<ref>{{harvnb|伊藤靖史|大杉謙一|田中亘|松井秀征|2009|pp=9-10}}</ref>。
== 歴史 ==
日本では従来固有の法律としての「会社法」は存在しなかった。その代りに会社に関する法の総称(「実質的意義の会社法」)として会社法の用語が用いられていた。
日本で会社に関する最初の一般的規則は[[お雇い外国人]]([[ドイツ人]])、[[法学者]][[ヘルマン・ロエスレル]]起草草案をもとに制定された商法(明治23年法律番号32号)1編6章である。その後商法は明治32年に改正され現在の商法、会社法の原型となる。特に商法の会社法規定である'''商法旧第2編会社'''(以下「旧法」)は高頻度で大改正を受けつつ、日本の会社に関する一般規定として存続した。
[[戦後]]は[[企業不祥事]]をきっかけに[[監査役]]制度の強化がされ[[指名委員会等設置会社]]や[[業務の適正を確保するための体制]](内部統制システム)の導入など、会社に対する規制が強化される方向に進んだ。一方で資金調達に関しては調達手段を多様化、拡大し、規制を緩和、合理化する傾向が続いている。
2005年6月「'''会社法'''」が国会で成立2006年5月に[[施行]]された。これに伴いかつて会社法としての役割を果たしていた「旧法」、[[有限会社法]]、[[株式会社の監査等に関する商法の特例に関する法律]](商法特例法または監査特例法)等は会社法に統合、再編成された<ref> {{harvnb|伊藤靖史|大杉謙一|田中亘|松井秀征|2009|pp=15-17}}</ref>。
== 構成 ==
*第一編 総則
*第二編 [[株式会社 (日本)|株式会社]]
*第三編 [[持分会社]]
*第四編 [[社債]]
*第五編 [[組織変更]]、[[合併 (企業)|合併]]、[[会社分割]]、[[株式交換]]及び[[株式移転]]
*第六編 [[外国会社]]
*第七編 雑則
*第八編 罰則
== 役割 ==
会社法の役割として、第一に会社の取引相手を保護するという役割がある。具体的には、会社の法律関係、事実関係を明確にし、法人格を与え、必要な情報を開示することで保護が図られている。
第二に、利害関係者の権利利益を保護し、会社制度によって利益を得やすい仕組みを作ることが挙げられる。株式会社では利害関係者たちの合意があれば、定款によって異なる定めができる規定が多数存在する。柔軟な制度にすることで利害関係者の利益を実現するのが目的である。
第三に、法律関係を明確にすることができる。例えば、「会社の組織に関する訴え」(828~846条)の多くは、一定の期間に訴訟をしなければ法的主張ができないようになっている。これによって、法律関係を早期に安定させることができる。
もっとも、これらの役割は会社法のみならず、様々な法律、慣行などによっても果たされている<ref>{{harvnb|伊藤靖史|大杉謙一|田中亘|松井秀征|2009|pp=25-26}}</ref>。
== 会社法上の会社の種類 ==
[[2006年]]([[平成]]18年)5月以降、会社法の規定する会社の種類は4種類あり(2条1項)、横断的な規制の下に置かれる。
=== 株式会社===
: 社員全てが有限責任からなる会社。株主の責任は、その有する株式の引受価額が限度となる(104条)。
===持分会社===
: 合名会社、合資会社および合同会社を[[持分会社]]と総称する。
; [[合名会社]]
: 社員全てが無限責任社員からなる会社。
; [[合資会社]]
:無限責任社員と[[有限責任]]社員からなる会社。
; [[合同会社]]
: 社員の全部が有限責任社員である会社。会社法で[[2006年]]([[平成]]18年)5月1日に新たに導入された会社形態。出資の範囲内に責任が限定される物的会社の安全性と、人的会社において認められる内部規律の高い自由度を併せ持つ組織として会社法により新たに誕生した。
: 持分会社の利点である幅広い定款自治やシンプルなガバナンス構造などがメリットとしてあり、間接有限責任のメリットと併せて普及が見込まれた。旧有限会社の新規設立よりも設立費用が低減できるメリットもあり、将来に株式会社に移行するための前段階としての会社形態としても有効といわれている。一方で、株式会社から合同会社へ転換する動きも一部では見受けられている。
: 合同会社は、法務省により法人格を有する企業形態として立案された。いわゆる日本版[[LLC]] ({{en|Limited Liability Company}}) として米国のようなパススルー税制(構成員課税)が期待されたものの、財務省は法人格を有することなどを理由として法人税の課税対象から外すことを承認しなかった。
: そこで、[[経済産業省]]は[[2005年]]8月1日に[[有限責任事業組合]](後述)という会社形態を創設した。
<!--なぜコメントアウト?date=2023-02-->
===その他===
会社法以外で規定されている会社の種類。
; [[相互会社]]
: [[保険業法]]に規定されているが、営利を目的としてはいないため前記4種類の会社とは性質を異にする。
; [[有限会社]]
: 2006年(平成18年)4月30日をもって有限会社法が廃止されたため新設立はできない。会社法の施行時点で存在していた有限会社は、株式会社の一種としての「[[特例有限会社]]」として取り扱われ、商号中に有限会社の文言使用を義務付けられている。特例有限会社に対しては、原則として会社法の中の「取締役会を設置しない株式会社」の規定が適用される。
; [[有限責任事業組合]]
: 法人格のない(したがって構成員課税となる)、合同会社と類似の企業形態。「日本版[[LLP]](ここでいうLLPは[[英国]]のLLP)」。[[有限責任事業組合契約に関する法律]]に規定される。
: 企業間や産学協同で事業化を目指す場合など、リスクが高い場合に有効な制度であると考えられている。合同会社との主要な違いは、税制上の違い(前述)のほか、登記上の取扱い、2人以上の組合員が必要であること、会社への組織変更ができないことなど。
<!-- -->
==株式会社==
{{main|株式会社}}
===株式===
{{main|株式}}
[[株式]]の発行につき、証券([[株券]])を発行しないことが原則となった。この点は社債と同様である。
株式会社は、定款で定めることで株券を発行することができ、この場合その会社を「[[株券発行会社]]」という(会社法117条7項かっこ書き) <ref group="注釈">旧法では株券発行が原則であったため、定款で株券不発行を定めた場合のみ株券不発行とできた。</ref>。
定款に定める発行可能株式総数(いわゆる[[授権資本制度|授権資本枠]])は、[[株式消却]]により減少する旨の記載が定款にない場合には、減少しないこととなり発行済株式数のみが減少することとなった<ref group="注釈">旧法では株式消却により授権資本枠も減少するというのが有力説であり、実務上も同様に取り扱っていた。</ref>。
当該株式の取得に発行会社の承認を要する旨のいわゆる[[譲渡制限株式]]は、全株に共通する内容として、また、[[種類株式]]ごとに種類として規定することも可能である<ref group="注釈">旧法では、一部の種類株式のみを譲渡制限株式とすることに疑義があった。 </ref>。
株式会社が一定の事由が生じた場合には、株主の同意なく発行株式を取得することができるとする[[取得条項付株式]]の発行が認められている<ref group="注釈">旧法では、明文の規定なく、一定の事由の規定の方法に一部疑義があった。 </ref>。
複数の[[種類株式]]を発行する株式会社は、株主総会の特別決議により特定の種類株式を全部取得できる旨の全部取得条項付種類株式を発行することができる(これにより、いわゆる「100%[[減資]]」が必要な企業再生が容易となることが期待される)<ref group="注釈">旧法では、規定がなく、対象株主の同意が必要であった。 </ref>。
株式の分割、併合により生じる1株に満たない端数については、会社がまとめて売却、換価して代金を交付するものとされた<ref group="注釈">旧法で認められていた[[端株]]制度は廃止され、会社法施行前から端株が存在していた場合のみ端株制度を維持可能となった。</ref>。
====株式会社の機関設計====
{{seealso|株式会社|株主総会|取締役|取締役会}}
{{更新|date=2018年12月|section=1}}
会社法では、株式会社の機関設計にあたり配慮すべき対象は、以下の2つの視点から整理される。
* [[公開会社]]<ref group="注釈" name="kokai">「公開会社」とは、その発行する全部または一部の株式の内容として譲渡による当該株式の取得について株式会社の承認を要する旨の定款の定めを設けていない株式会社をいう(2条5号)。いわゆる「上場企業」のことではなく、[[株式公開]]の有無を問わない。公開会社は、取締役会を置かなければならない(327条1項1号)。</ref>の場合 - 出資者保護の観点
* 会社の規模に応じて、[[大会社]]、大会社でない会社のいずれかの場合 - 債権者保護の観点
株式会社には、[[株主総会]]および[[取締役]]は置かなければならない。その他の機関である[[取締役会]]、[[会計参与]]、[[監査役]]、[[監査役会]]、[[会計監査人]]または[[委員会設置会社|委員会]]については、会社の規模(大会社か大会社でない会社か)や株式の譲渡制限の有無(公開会社か公開会社でない会社か)などに応じて、それを設置するか否かを選ぶことができ、または、設置、不設置の義務が生じるなど、規律の違いがある。任意に設置できる機関の選択により、39通りもの種々の柔軟な機関設計が可能となる。
なお、2015年5月27日に施行された「会社法の一部を改正する法律」において新たに'''[[監査等委員会設置会社]]'''が導入された。
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%;" width="100%"
|+株式会社の機関設計
|-
! rowspan="2" colspan="2" width="30%" | 株式会社の分類
! colspan="7" | 株式会社の機関
|-
! width="10%" | 株主総会
! width="10%" | 取締役
! width="10%" | 取締役会
! width="10%" | 監査役
! width="10%" | 監査役会
! width="10%" | 会計監査人
! width="10%" | 会計参与
|-
| rowspan="2" | 公開会社
| 大会社
| rowspan="6" style="background-color:#FFE4E1;"| 義務
| rowspan="6" style="background-color:#FFE4E1;"| 義務
| rowspan="2" style="background-color:#FFE4E1;"| 義務
| rowspan="2" style="background-color:#FFE4E1;"| 義務<ref group="注釈">公開会社は必ず「取締役会設置会社」となるため、監査役を置かなければならない(327条2項)。</ref>
|style="background-color:#FFE4E1;"| 義務<ref group="注釈" name="kansa1">公開会社である大会社は、監査役会及び会計監査人を置かなければならない(328条1項)。</ref>
|style="background-color:#FFE4E1;"| 義務<ref group="注釈" name="kansa1"/>
|style="background-color:#FFDEAD;" rowspan="6" | 任意
|-
| 大会社でない会社
|style="background-color:#FFDEAD;"| 任意
|style="background-color:#FFDEAD;"| 任意
|-
| rowspan="3" | [[公開会社でない株式会社]]
| 大会社
|style="background-color:#FFDEAD;" rowspan="3" | 任意<ref group="注釈">取締役会を設置しない会社においては、取締役は1人以上置けばよい(326条1項、331条4項)。取締役会を設置しない会社は、[[代表取締役]]を設ける必要もない。この場合、取締役が株式会社を代表し(349条1項本文)、取締役が2人以上ある場合には、取締役は、各自、株式会社を代表する(同条2項)。また、定款や取締役の互選、株主総会の決議によって、取締役の中から代表取締役を定めることもできる(349条3項)。代表取締役を定めた場合は、代表取締役が株式会社を代表する(349条1項ただし書)。</ref><ref group="注釈" name="yakukai">[[監査役会設置会社]]は、取締役会を置かなければならない(327条1項2号)。</ref>
|style="background-color:#FFE4E1;"| 義務<ref group="注釈" name="kansa2">[[会計監査人設置会社]](監査等委員会設置会社及び指名委員会等設置会社を除く。)は、監査役を置かなければならない(327条3項)。</ref>
|style="background-color:#FFDEAD;" rowspan="3" | 任意<ref group="注釈" name="yakukai"/>
|style="background-color:#FFE4E1;"| 義務<ref group="注釈" name="kansa3">公開会社でない大会社は、会計監査人を置かなければならない(328条2項)。</ref><ref group="注釈" name="kansa2"/>
|-
| 大会社でない会社<br/>(会計監査人を置くとき)
|style="background-color:#FFE4E1;"| 義務<ref group="注釈" name="kansa2"/>
|style="background-color:#FFE4E1;"| (置く)<ref group="注釈" name="kansa2"/>
|-
| 大会社でない会社<br/>(会計監査人を置かないとき)
|style="background-color:#FFDEAD;"| 任意<ref group="注釈">公開会社でなく大会社でない会社が取締役会を設置した場合、監査役または会計参与のいずれかを置かなければならない(327条2項)。</ref><ref group="注釈">公開会社でない株式会社では、監査役会、会計監査人を置かない場合、監査役の監査の範囲を会計に関するものに限定する旨を定款で定めることができる(389条1項)。</ref>
|style="background-color:#E6E6FA;"|(置かない)
|-
| colspan="2" | [[指名委員会等設置会社]]<ref group="注釈" name="iinkai">「[[指名委員会等設置会社]]」とは、指名委員会、監査委員会及び報酬委員会を置く株式会社をいう(2条12号)。公開会社・公開会社でない会社、大会社・大会社でない会社のいずれも指名委員会等設置会社とすることができる。指名委員会等設置会社は、取締役会、会計監査人、[[執行役]]・[[代表執行役]]を置かなければならない(327条1項3号、同条5項、402条1項、420条1項)。また、監査役を置いてはならない(同条4項)。</ref>
|style="background-color:#FFE4E1;"| 義務<ref group="注釈" name="iinkai"/>
|style="background-color:#E6E6FA;" colspan="2"| 設置できない<ref group="注釈" name="iinkai"/>
|style="background-color:#FFE4E1;"| 義務<ref group="注釈" name="iinkai"/>
|}
=====業務の適正を確保するための体制の整備=====
大会社、指名委員会等設置会社および監査等委員会設置会社においては、取締役の職務執行が法令および定款に適合することを確保するなどの[[業務の適正を確保するための体制]](内部統制システム)を設けることが義務付けられている。具体的には、取締役会決議によって内部統制システムの大綱を決定したうえで、各事業部門の担当取締役をして具体的なシステムの詳細を整備させる必要がある<ref>[[#tenitoru|川井信之 2021]](iBooks、206-207/375)</ref>。
{{main| 業務の適正を確保するための体制}}
====旧法====
旧法においては、株式会社は以下の4類型のみの機関設計が認められていた。
#委員会を設置しない大会社(みなし大会社とよばれる中会社を含む)
#*監査役3名以上(うち半数以上が社外監査役)、監査役会および会計監査人の設置義務
#上記+[[重要財産委員会]]
#*[[取締役]]10名以上(うち1名以上が社外取締役)
#委員会等設置会社(大会社およびみなし大会社に認められる)
#*監査役(会)設置不可、重要財産委員会設置不可
#その他の中小会社
有限会社についても監査役を置くか否か、また[[代表取締役]]を置くか否かの4通りの機関設計のみが認められるに過ぎなかった。
== 資本金、配当、計算 ==
[[資本金]]の最低金額に制限はない。資本金を1円として各種の会社を設立することができる。また、設立後に一定の手続きを行うことによって資本金の額を0円にする事も可能<ref group="注釈">旧法では、[[新事業創出促進法]](廃止済み)上の特例を除き、株式会社の場合1000万円、有限会社の場合には300万円が[[最低資本金]]とされていた。 </ref>。
[[剰余金]]の[[配当]]などの資本の部における計数の変動は、定時[[株主総会]]に限らずいずれの株主総会において原則可能である。純資産額300万円未満の株式会社については、配当などの方法による株主に対する剰余金の配当が禁止される<ref group="注釈">旧法では、資本の部における計数の変動は、利益処分案ないしは損失処理案を定時株主総会で決議することにより行われていた。[[剰余金の配当]]には、最低資本金制度のもとでの財源規制がなされていた。 </ref>。<ref group="注釈">旧法では、資本の部の計数の変更に関する書類としては、利益処分案ないしは損失処理案を作成するものとされていた。</ref>
配当については、毎事業年度末に「連結配当規制」の適用を受けるか受けないかを選択できる。これは、事業が企業グループで行われている場合で、企業グループとして財源規制を受けるもの。なお、単体ベースで黒字であることが必要であり、その上で、子会社の赤字と連結して残った剰余金を配当することとなる。本体が赤字である場合は連結配当規制の適用は受けられない<ref group="注釈">旧法では、企業単体の業績のみが取り沙汰されていたが、企業グループでの事業運営の実態を反映したもの。</ref>。
会計監査人設置会社は、[[連結計算書類]]を作成することができ、[[大会社]]である[[有価証券報告書]]提出会社は、連結計算書類の作成が会社法上も義務付けられている<ref group="注釈">旧法では、連結計算書類を作成できるのは大会社に限られており、会社法上連結計算書類の作成が義務付けられる会社はなかった。</ref>。
== 社債 ==
株式会社、持分会社のいずれの会社も[[社債]]の発行が可能である。社債を規律する他の特別法としては、[[担保付社債信託法]]、[[社債等登録法]]、[[社債、株式等の振替に関する法律]]が挙げられる<ref group="注釈">旧法では、株式会社のみ社債の発行が認められていた。</ref>。
社債は、株式同様、原則として証券(社債券)を発行しない。社債券は、社債券を発行することを発行決議により定めた場合にのみ発行することができる。また、株式と異なり、社債の種類ごとに券面の発行・不発行を選択することができる<ref group="注釈">旧法では、社債等登録法・社債等の振替に関する法律の規定に合致する場合のみ、社債券不発行とできた。</ref>。
社債は、[[銘柄統合]]をできるようになった。
==組織変更、合併、会社分割、株式交換及び株式移転等==
{{See also|会社分割|株式交換|株式移転}}
===組織変更===
会社法における[[組織変更]]とは、株式会社が持分会社になること又は持分会社が株式会社になることをいう(2条26項イ、ロ)。旧法では合資会社と合名会社、株式会社と有限会社のそれぞれの間のみでの組織変更が認められていた。4種類の会社形態のいずれからも他の会社形態への変更も可能であるが、持分会社間での会社形態への変更は、ここでいう組織変更にはあたらない(社員が負担する責任の限度の変更により行われるため、手続として可能である)。
なお、特例有限会社は通常の株式会社に変更することができる。
===M&A===
会社の[[M&A]](合併、買収)に関しては、いわゆる[[黄金株]]や、より実践的な「[[M&A#買収対抗策(買収防衛策)|ポイズン・ピル]](毒薬条項)」等を用いることが、会社法上明示で認められることから、これらを[[M&A#買収対抗策(買収防衛策)|買収防衛策・買収対抗策]]として用いることが想定されている。関連して、東京証券取引所は当初、投資家保護に問題があるとして、黄金株の導入を原則として[[上場廃止]]事由とする方針を打ち出していたが、後に、株主総会での普通決議により黄金株の拒否権を無効にできるとする「停止条項」を定款に盛り込むことを条件に容認する方針に転換している<ref group="注釈">旧法では、種類株式の制度は、直接、買収対抗策等を意識したものではなく、買収対策の目的上どこまで実効性ある種類株式が認められるのかには疑問が残った。</ref>。
合併の対価として、存続会社の株式等に限らず金銭等を含めたその他の財産の交付を行うことができるものとされている。これによりいわゆる[[三角合併]]や[[交付金合併]]も可能となる。かかる規定は会社法施行の日である2006年5月1日から1年間は適用されないものとされている<ref group="注釈">旧法では、合併の対価として、原則、存続会社の株式および合併等の比率調整のための交付金やそれに代わる自己株式の交付のみ認められていた。 </ref>。
また、合併の対価として何も交付しないこと(無対価合併)も明文で認められた(744条1項5号で「金銭等・・・を交付するときは」と規定し、無対価もあり得る旨の規定ぶりとなっている。)<ref group="注釈">旧法では、100%子会社同士の合併などにおいては新株の発行は無意味であることから、法務省民事局通達によってそのような登記も認められるとして、登記実務的に運用上認められていたに過ぎず、明文規定はなかった。 </ref>。
== 会社整理の廃止 ==
旧法に定められていた[[会社整理]]は廃止された。同手続は、[[民事再生法]]の成立(2000年4月施行)により実質的に存在意義が失われていた。
== その他 ==
* 従来「調査および確認に膨大な手間がかかる」などとして批判の多かった同一市区町村における類似[[商号]]規制が撤廃された。(ただし、同住所に同名の会社を設立することはできない。)
* [[背任罪|特別背任罪]]など会社法上の一定の犯罪について、[[国外犯]]を処罰できる旨の規定が設けられた。
* [[資本確定の原則]]が完全に放棄され、設立段階においてもいわゆる株式の打切発行が認められることに伴い、株式の払込責任を逃れる目的で他人名義や架空人名義で株式の引受を行うことを禁ずる「株式払込責任免脱罪」の規定は存在意義を失うため、廃止されることとなった。
* 2012年9月7日開催の[[法制審議会]](第167回会議)において、監査・監督委員会設置会社制度や多重株主代表訴訟の新設等を内容とする「会社法制の見直しに関する要綱案」及び附帯決議が採択されたが、国会への提出は未了である。同要綱案では[[社外取締役]]の設置の強制は見送られた。
== 下位法令及び経過措置 ==
=== 下位法令 ===
*[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=417CO0000000364 会社法施行令] e-Gov法令検索
*[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=418M60000010012 会社法施行規則] e-Gov法令検索
*[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=418M60000010013 会社計算規則] e-Gov法令検索
*[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=418M60000010014 電子公告規則] e-Gov法令検索
=== 経過措置 ===
*[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=417AC0000000087 会社法の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律(平成17年法律第87号:通称、整備法)] e-Gov法令検索
*[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=417CO0000000367 会社法の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律の施行に伴う経過措置を定める政令(通称、経過措置政令)] e-Gov法令検索
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
==参考文献==
* [[相澤哲]]『一問一答 新・会社法』([[商事法務研究会]]、2005年)ISBN 478571249X
* [[神田秀樹]]『会社法(第10版)』(弘文堂、2008年)ISBN 4335302398
* [[弥永真生]]『リーガルマインド会社法[第10版]』([[有斐閣]]、2006年) ISBN 4641134596
* [[菅原貴与志]]『新しい会社法の知識〔全訂版〕』(商事法務、2006年)ISBN 4785713682
* [[長島・大野・常松法律事務所]]編『アドバンス新会社法(第2版)』(商事法務研究会、2006年)ISBN 4785713399
* {{Cite book |title=Corporations and Other Business Organizations: Cases, Materials, Problems |first=Larry D. |last=Soderquist |coauthors=Linda O. Smiddy; Lawrence A. Cunningham |year=2005 |publisher=LexisNexis |edition=Sixth Edition |id=ISBN 0-8205-6338-2 }}
*{{cite book |和書|title=LEGAL QUEST 会社法|author=伊藤靖史|author2=大杉謙一|author3=田中亘|author4=松井秀征|year=2009|ISBN=978-4-641-17906-6|ref=harv|publisher=有斐閣}}
*{{cite book |和書|title=手にとるようにわかる会社法入門|author=川井信之|publisher=かんき出版|year=2021|ISBN=978-4761275297|ref=tenitoru|asin=B08T9BY2R3}}
==関連項目==
{{Wikibooks|コンメンタール会社法}}
{{Wikibooks|会社法}}
*[[商法]]
*[[有限会社法]]
*[[会社法の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律]]
*[[株式会社の監査等に関する商法の特例に関する法律]](商法特例法)
*[[会社法施行規則]]
*[[相澤哲]]、[[葉玉匡美]]、[[郡谷大輔]] - 立案担当者
*[[会社法立案担当者の会]]
*[[業務の適正を確保するための体制]]
*[[有限責任事業組合]]
==外部リンク==
* [https://elaws.e-gov.go.jp/ e-Gov法令検索]
** [https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=417AC0000000086 会社法]
** [https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=417CO0000000364 会社法施行令]
** [https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=418M60000010012 会社法施行規則]
*[[法制審議会]]
** [https://www.moj.go.jp/SHINGI/kaishahou_gendai_index.html 法制審議会会社法(現代化関係)部会議事録等]
* {{Kotobank}}
* {{Kotobank|新会社法}}
{{法学のテンプレート}}
{{DEFAULTSORT:かいしやほう}}
[[Category:日本の法律]]
[[Category:2005年の法]]
[[Category:日本の法典]]
[[Category:商法]] | 2003-05-16T19:29:06Z | 2023-12-12T08:50:19Z | false | false | false | [
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8,378 | 株主名簿 | 株主名簿(かぶぬしめいぼ)とは、発行会社が株主を把握するために作成される名簿のこと。日本法では会社法121条(商法旧223条)以下に規定がある。
株式の取得(譲受)を株式発行会社に認知させ、株主権利を確定させるためには、株主名簿に自己の氏名又は名称を記載(又は記録)してもらう(名義書換請求)必要がある(130条)。仮に名義書換を失念した場合(失念株)は株主としての権利が制約される。また、会社が株主に対してする通知等は、株主名簿に記載等がある株主の住所に宛てて発すれば足りる(126条)。
日本法においては121条に規定が有り、以下の事項が株式名簿記載事項と定められている。
かつて商法旧会社編に存在していた制度。一定の期間、株主名簿の名義書換を拒否できるというもの。株主総会において議決権を行使する株主を確定する手段の一つとして存在したが、その閉鎖期間においては株式の権利が大きく制約を受けるため、株式の譲渡の利益をより損なわない制度である基準日制度に一本化された。
その日に株主名簿に記載・記録されている基準日株主を定め権利者とする日のこと(124条1項)。 基準日から三箇月以内に行使することができる権利の内容を定めなければならない(124条2項)。
株主名簿の作成及び備置きその他株主名簿に関する事務に携わる人(法人)のことを平成17年改正前商法においては名義書換代理人と呼称していたが、業務内容は名義書換に留まるものではないため、会社法では、123条において、株主名簿管理人と名称が改められた。株主名簿管理人を設置する場合は定款にその旨規定される。具体的な株主名簿管理人は株式取扱規程に規定され、登記により公示される。
(代行専業3社)
(大手信託銀行3行)
株式公開企業では、証券取引所の規定により証券代行専門会社あるいは信託銀行を株主名簿管理人に選任し、株主名簿の作成と株主の管理を委託することが義務づけられている。
上場会社は社債、株式等の振替に関する法律の施行により平成21年1月5日より株式等振替制度(いわゆる株券の電子化)に一斉移行したため、上場会社の株券は全て無効となっている。 振替制度への移行に伴い、株式の権利移転方法が従来の(1)株券の譲渡および(2)口座振替(保管振替制度を利用した場合のみ)から、口座振替による権利移転に一本化された。
振替制度では、株主の権利は証券会社等の口座管理機関の振替口座簿に記載される電磁記録により生じる。
株券電子化までに証券会社等を通じて証券保管振替機構に株券を預託していた株式については、特段の手続きを経ることなく新制度へ移行した。
一方、タンス株や株券の発行されていない単元未満株式等、証券会社の口座にて管理していなかった株式については、株券電子化の際に会社が「特別口座」を開設し、その権利を保護することになっている。特別口座にて管理されている株式は、いつでも証券会社等に開設した自身の口座へ移す(口座振替)ことが可能であるが、特別口座から直接株式を売却することはできない。また証券会社にて管理している株式を特別口座に移すこともできない。
振替制度では株券が廃止されるため、株券の名義書換(=株主名簿の書換)手続きが無くなる。
振替制度におけるの株主名簿は以下の流れにより作成される。
この総株主通知により通知した株主については、次の決算基準日(通常は半年後)までその株主情報に変更がある都度その変更を発行会社に通知する。これは、基準日とその後の諸事務が実施されるまでの間の変更を反映させるためである。これにより、例えば3月末の基準日と6月に招集通知を発する際の間に住所変更があった場合でも、(事務的に可能な限り)最新の情報を反映させることができる。
上場会社の株主名簿は基準日(通常は半年ごと)しか作成されないため、期中において新たに株主となった者を株主であるか確認する手段がなく、また直近の基準日で株主であっても株式を売却する可能性があることから、「知りたい時」に株主であるか把握することができない。また、株主側からも少数株主権の行使の際などに会社に対し株主であることを証明することができないという問題が生じる。このため、以下の手続きが用意されている。 | [
{
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"text": "株主名簿(かぶぬしめいぼ)とは、発行会社が株主を把握するために作成される名簿のこと。日本法では会社法121条(商法旧223条)以下に規定がある。",
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},
{
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"text": "株式の取得(譲受)を株式発行会社に認知させ、株主権利を確定させるためには、株主名簿に自己の氏名又は名称を記載(又は記録)してもらう(名義書換請求)必要がある(130条)。仮に名義書換を失念した場合(失念株)は株主としての権利が制約される。また、会社が株主に対してする通知等は、株主名簿に記載等がある株主の住所に宛てて発すれば足りる(126条)。",
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},
{
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"text": "日本法においては121条に規定が有り、以下の事項が株式名簿記載事項と定められている。",
"title": "株主名簿記載(記録)事項"
},
{
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"text": "かつて商法旧会社編に存在していた制度。一定の期間、株主名簿の名義書換を拒否できるというもの。株主総会において議決権を行使する株主を確定する手段の一つとして存在したが、その閉鎖期間においては株式の権利が大きく制約を受けるため、株式の譲渡の利益をより損なわない制度である基準日制度に一本化された。",
"title": "株主名簿の閉鎖"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "その日に株主名簿に記載・記録されている基準日株主を定め権利者とする日のこと(124条1項)。 基準日から三箇月以内に行使することができる権利の内容を定めなければならない(124条2項)。",
"title": "基準日"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "株主名簿の作成及び備置きその他株主名簿に関する事務に携わる人(法人)のことを平成17年改正前商法においては名義書換代理人と呼称していたが、業務内容は名義書換に留まるものではないため、会社法では、123条において、株主名簿管理人と名称が改められた。株主名簿管理人を設置する場合は定款にその旨規定される。具体的な株主名簿管理人は株式取扱規程に規定され、登記により公示される。",
"title": "株主名簿管理人"
},
{
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"text": "(代行専業3社)",
"title": "株主名簿管理人"
},
{
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"text": "(大手信託銀行3行)",
"title": "株主名簿管理人"
},
{
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"text": "株式公開企業では、証券取引所の規定により証券代行専門会社あるいは信託銀行を株主名簿管理人に選任し、株主名簿の作成と株主の管理を委託することが義務づけられている。",
"title": "実務での運用"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "上場会社は社債、株式等の振替に関する法律の施行により平成21年1月5日より株式等振替制度(いわゆる株券の電子化)に一斉移行したため、上場会社の株券は全て無効となっている。 振替制度への移行に伴い、株式の権利移転方法が従来の(1)株券の譲渡および(2)口座振替(保管振替制度を利用した場合のみ)から、口座振替による権利移転に一本化された。",
"title": "実務での運用"
},
{
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"text": "振替制度では、株主の権利は証券会社等の口座管理機関の振替口座簿に記載される電磁記録により生じる。",
"title": "実務での運用"
},
{
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"text": "株券電子化までに証券会社等を通じて証券保管振替機構に株券を預託していた株式については、特段の手続きを経ることなく新制度へ移行した。",
"title": "実務での運用"
},
{
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"text": "一方、タンス株や株券の発行されていない単元未満株式等、証券会社の口座にて管理していなかった株式については、株券電子化の際に会社が「特別口座」を開設し、その権利を保護することになっている。特別口座にて管理されている株式は、いつでも証券会社等に開設した自身の口座へ移す(口座振替)ことが可能であるが、特別口座から直接株式を売却することはできない。また証券会社にて管理している株式を特別口座に移すこともできない。",
"title": "実務での運用"
},
{
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"text": "振替制度では株券が廃止されるため、株券の名義書換(=株主名簿の書換)手続きが無くなる。",
"title": "実務での運用"
},
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"text": "振替制度におけるの株主名簿は以下の流れにより作成される。",
"title": "実務での運用"
},
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"text": "この総株主通知により通知した株主については、次の決算基準日(通常は半年後)までその株主情報に変更がある都度その変更を発行会社に通知する。これは、基準日とその後の諸事務が実施されるまでの間の変更を反映させるためである。これにより、例えば3月末の基準日と6月に招集通知を発する際の間に住所変更があった場合でも、(事務的に可能な限り)最新の情報を反映させることができる。",
"title": "実務での運用"
},
{
"paragraph_id": 16,
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"text": "上場会社の株主名簿は基準日(通常は半年ごと)しか作成されないため、期中において新たに株主となった者を株主であるか確認する手段がなく、また直近の基準日で株主であっても株式を売却する可能性があることから、「知りたい時」に株主であるか把握することができない。また、株主側からも少数株主権の行使の際などに会社に対し株主であることを証明することができないという問題が生じる。このため、以下の手続きが用意されている。",
"title": "実務での運用"
}
] | 株主名簿(かぶぬしめいぼ)とは、発行会社が株主を把握するために作成される名簿のこと。日本法では会社法121条(商法旧223条)以下に規定がある。 会社法は、以下で条数のみ記載する。 | '''株主名簿'''(かぶぬしめいぼ)とは、[[株式会社|発行会社]]が[[株主]]を把握するために作成される名簿のこと。日本法では[[b:会社法第121条|会社法121条]]([[商法]]旧223条)以下に規定がある。
*[[会社法]]は、以下で条数のみ記載する。
== 株主名簿の機能 ==
株式の取得(譲受)を株式発行会社に認知させ、株主権利を確定させるためには、株主名簿に自己の氏名又は名称を記載(又は記録)してもらう(名義書換請求)必要がある([[b:会社法第130条|130条]])。仮に名義書換を失念した場合('''失念株''')は株主としての権利が制約される。また、会社が株主に対してする通知等は、株主名簿に記載等がある株主の住所に宛てて発すれば足りる([[b:会社法第126条|126条]])。
== 株主名簿記載(記録)事項 ==
日本法においては[[b:会社法第121条|121条]]に規定が有り、以下の事項が株式名簿記載事項と定められている。
#[[株主]]の氏名及び住所
#株主の有する[[株式]]の種類及び数(種類株式発行会社にあっては、株式の種類及び種類ごとの数)
#各株式の取得年月日
#[[株券]]を発行している場合にはその番号
== 株主名簿の公示 ==
*書面等の交付([[b:会社法第122条|122条]])
*店頭での備置及び閲覧([[b:会社法第125条|125条]]2項)
*:本店又は、株主名簿管理人がある場合にあっては、その営業所に備え置かなければならない。
*:株主及び債権者は、株式会社の営業時間内は、いつでも、閲覧又は謄写の請求をすることができる。
== 株主名簿の閉鎖 ==
かつて商法旧会社編に存在していた制度。一定の期間、株主名簿の名義書換を拒否できるというもの。株主総会において議決権を行使する株主を確定する手段の一つとして存在したが、その閉鎖期間においては株式の権利が大きく制約を受けるため、株式の譲渡の利益をより損なわない制度である基準日制度に一本化された。
== 基準日 ==
その日に株主名簿に記載・記録されている基準日株主を定め権利者とする日のこと([[b:会社法第124条|124条]]1項)。
基準日から三箇月以内に行使することができる権利の内容を定めなければならない(124条2項)。
== 株主名簿管理人 ==
株主名簿の作成及び備置きその他株主名簿に関する事務に携わる人(法人)のことを平成17年改正前商法においては'''名義書換代理人'''と呼称していたが、業務内容は名義書換に留まるものではないため、会社法では、[[b:会社法第123条|123条]]において、'''株主名簿管理人'''と名称が改められた。株主名簿管理人を設置する場合は[[定款]]にその旨規定される。具体的な株主名簿管理人は株式取扱規程に規定され、登記により公示される。
=== 主な株主名簿管理人 ===
(代行専業3社)
* [[日本証券代行|日本証券代行株式会社]]
* [[東京証券代行|東京証券代行株式会社]]
* [[アイ・アールジャパン|株式会社アイ・アールジャパン]]
(大手信託銀行3行)
* [[三菱UFJ信託銀行|三菱UFJ信託銀行株式会社]]
* [[みずほ信託銀行|みずほ信託銀行株式会社]]
* [[三井住友信託銀行|三井住友信託銀行株式会社]]
== 実務での運用 ==
=== 公開企業の株主名簿 ===
[[株式公開]]企業では、証券取引所の規定により証券代行専門会社あるいは[[信託銀行]]を株主名簿管理人に選任し、株主名簿の作成と株主の管理を委託することが義務づけられている。
=== 株券電子化 ===
上場会社は社債、株式等の振替に関する法律の施行により平成21年1月5日より[[株式等振替制度]](いわゆる株券の電子化)に一斉移行したため、上場会社の株券は全て無効となっている。
振替制度への移行に伴い、株式の権利移転方法が従来の(1)株券の譲渡および(2)口座振替(保管振替制度を利用した場合のみ)から、口座振替による権利移転に一本化された。
振替制度では、株主の権利は証券会社等の口座管理機関の振替口座簿に記載される電磁記録により生じる。
=== 振替制度への移行===
株券電子化までに証券会社等を通じて証券保管振替機構に株券を預託していた株式については、特段の手続きを経ることなく新制度へ移行した。
一方、タンス株や株券の発行されていない単元未満株式等、証券会社の口座にて管理していなかった株式については、株券電子化の際に会社が「特別口座」を開設し、その権利を保護することになっている。特別口座にて管理されている株式は、いつでも証券会社等に開設した自身の口座へ移す(口座振替)ことが可能であるが、特別口座から直接株式を売却することはできない。また証券会社にて管理している株式を特別口座に移すこともできない。
=== 振替制度における株主名簿の作成 ===
振替制度では株券が廃止されるため、株券の名義書換(=株主名簿の書換)手続きが無くなる。
振替制度におけるの株主名簿は以下の流れにより作成される。
# 証券会社等は、基準日(決算基準日など)時点で株式を保有する株主(加入者)を証券保管振替機構に報告(=総株主報告)
# 証券保管振替機構は、受け取った情報の中から重複する株主をまとめたうえで、発行会社(株主名簿管理人)に通知(=総株主通知)
この総株主通知により通知した株主については、次の決算基準日(通常は半年後)までその株主情報に変更がある都度その変更を発行会社に通知する。これは、基準日とその後の諸事務が実施されるまでの間の変更を反映させるためである。これにより、例えば3月末の基準日と6月に招集通知を発する際の間に住所変更があった場合でも、(事務的に可能な限り)最新の情報を反映させることができる。
=== 株式等振替制度における株主の確認手段===
上場会社の株主名簿は基準日(通常は半年ごと)しか作成されないため、期中において新たに株主となった者を株主であるか確認する手段がなく、また直近の基準日で株主であっても株式を売却する可能性があることから、「知りたい時」に株主であるか把握することができない。また、株主側からも少数株主権の行使の際などに会社に対し株主であることを証明することができないという問題が生じる。このため、以下の手続きが用意されている。
# 個別株主通知:株主が、株主であることを発行会社に通知するもの
# 情報提供請求:会社が、自社の株主に該当する者が居るか、各口座管理機関(証券会社など)に通知させるもの
==関連項目==
{{デフォルトソート:かふぬしめいほ}}
{{law-stub}}
[[Category:日本の株式会社法]] | null | 2023-02-24T01:37:29Z | false | false | false | [
"Template:Law-stub"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%AA%E4%B8%BB%E5%90%8D%E7%B0%BF |
8,380 | 署名 | 署名(しょめい、英語: sign, signature)とは、行為者がある行為(例えばクレジットカードの利用時)をする際に、自己の氏名を自署すること、また自署したものである。
署名(サイン)と印章とは、ともに自己同一性を証明するものとして洋の東西を問わず古来広く使用されてきた。花押も署名の一種と理解される。
日本においては、律令制度の確立以降は印章が重視されていたが、次第に簡便な署名が通用するようになり、中世以降は花押全盛となる。もっとも、戦国時代から印章の使用も再度広まり始め朱印状などが発行されるようになる。江戸時代になると、印章の使用も広がる。明治時代以降は印章が非常に重視されるようになる。もっとも、閣議署名は今なお花押が使用されている。なお刑法においては、「印章又は署名」「印章若しくは署名」等のように同列に扱われており、署名や印章の偽造等は犯罪とされている。
西洋においても、印章と署名との盛衰がある。また、他人が偽造出来ないよう、特別な書き方が為される(署名を考案し、且つ全く同一の筆跡に出来る様指導してくれる業者が存在する)。
記名は、(狭義には)署名以外の方法で書類等に氏名・名称を記すことをいう。記名が必要とされているのみの場合は、自署を必要としない(例:記名証券・無記名証券)。一方、署名は自署を要求される。
通例、意思表示があったことを示すものとされる。
日本法上、本来「署名」とは自署(手書きでの記名、いわゆるサイン)を指すが、自署に代えて記名押印が求められることが多い。商法32条は、商法上の署名は記名押印で代えることができることを規定している。記名押印とは、氏名・名称を記し(手書きに限らず、ゴム印や印刷等で構わない)、併せて印章を捺印することをいう。
署名と捺印の両方が必要とされる場合には、署名を記名押印で代えることができない。そのような例はごく少数であるが、たとえば遺言の作成に当たっては、自筆証書遺言の場合は遺言者の、秘密証書遺言と公正証書遺言の場合は遺言者、証人と公証人の、それぞれ署名と捺印が必要である(民法968条、969条、970条)。また、戸籍に関する届出も届出人や証人の署名と押印が必要とされる(戸籍法第29条)が、署名できないときには氏名を代書させ押印(または拇印)することで足りる(戸籍法施行規則第62条。印を持っていないときには署名だけで足りる)。そのほか、区分建物の管理組合における集会の議事録については、議長および集会に出席した区分所有者の2人が署名押印しなければならない(区分所有法42条3項)。
日本法上の手形の券面上の署名についての解釈論については、手形理論・手形行為等の項目を参照。
なお、日本において法令上押印を求められる場合でも、外国人については外国人ノ署名捺印及無資力証明ニ関スル法律により署名をもって足りるものとされている。これは、特にヨーロッパおよびアメリカでは、個人が印章を持つ慣習がないためである。
日本国憲法第74条により、日本の法律及び政令には、主任の国務大臣の署名と、内閣総理大臣の連署が求められている。これは法律の執行や、政令の制定・執行の責任の所在を明らかにするためである。
国際法上の署名には次の2種類がある。
外交会議等において条約の内容が確定したときに、全権を委任された各代表団の長(首席代表)が条約の内容を公式に確認した証拠として記名することを指す。条約の内容は署名によって確定し、以後、正式な手続による場合を除いては、内容を修正することはできない。
例えば、京都議定書においては、条約の末尾に
という文が付されているが、この文中でいう署名が条約の内容を確定する署名に相当する。
通常の条約は、一定数の国家が条約に拘束されることへの同意を示すことによって効力を発生する。このような意思を表明する方法としては、批准、受諾、承認、加入などがある。このうち、批准、受諾とは、条約に署名することによって将来的に条約に拘束される意思があることを予め表明(条約の内容に対する基本的な賛意の表明)し、その後に国会による承認等の所要の国内手続を行って、しかる後に条約の事務局等に批准書等を寄託することによって条約に拘束される手続のことである。署名の要・不要や、署名が可能な期間等は条約中に規定されている。日本の場合、条約への署名を行う際には、事前に閣議決定が必要なため、署名を行うのは重要な条約のみに限られる傾向がある。
例えば、京都議定書第24条1には次のように規定されている。 | [
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"text": "署名(しょめい、英語: sign, signature)とは、行為者がある行為(例えばクレジットカードの利用時)をする際に、自己の氏名を自署すること、また自署したものである。",
"title": null
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"text": "署名(サイン)と印章とは、ともに自己同一性を証明するものとして洋の東西を問わず古来広く使用されてきた。花押も署名の一種と理解される。",
"title": "印章との関係"
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"text": "日本においては、律令制度の確立以降は印章が重視されていたが、次第に簡便な署名が通用するようになり、中世以降は花押全盛となる。もっとも、戦国時代から印章の使用も再度広まり始め朱印状などが発行されるようになる。江戸時代になると、印章の使用も広がる。明治時代以降は印章が非常に重視されるようになる。もっとも、閣議署名は今なお花押が使用されている。なお刑法においては、「印章又は署名」「印章若しくは署名」等のように同列に扱われており、署名や印章の偽造等は犯罪とされている。",
"title": "印章との関係"
},
{
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"text": "西洋においても、印章と署名との盛衰がある。また、他人が偽造出来ないよう、特別な書き方が為される(署名を考案し、且つ全く同一の筆跡に出来る様指導してくれる業者が存在する)。",
"title": "印章との関係"
},
{
"paragraph_id": 4,
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"text": "記名は、(狭義には)署名以外の方法で書類等に氏名・名称を記すことをいう。記名が必要とされているのみの場合は、自署を必要としない(例:記名証券・無記名証券)。一方、署名は自署を要求される。",
"title": "記名との違い"
},
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"text": "通例、意思表示があったことを示すものとされる。",
"title": "法律上の署名行為"
},
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"text": "日本法上、本来「署名」とは自署(手書きでの記名、いわゆるサイン)を指すが、自署に代えて記名押印が求められることが多い。商法32条は、商法上の署名は記名押印で代えることができることを規定している。記名押印とは、氏名・名称を記し(手書きに限らず、ゴム印や印刷等で構わない)、併せて印章を捺印することをいう。",
"title": "法律上の署名行為"
},
{
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"text": "署名と捺印の両方が必要とされる場合には、署名を記名押印で代えることができない。そのような例はごく少数であるが、たとえば遺言の作成に当たっては、自筆証書遺言の場合は遺言者の、秘密証書遺言と公正証書遺言の場合は遺言者、証人と公証人の、それぞれ署名と捺印が必要である(民法968条、969条、970条)。また、戸籍に関する届出も届出人や証人の署名と押印が必要とされる(戸籍法第29条)が、署名できないときには氏名を代書させ押印(または拇印)することで足りる(戸籍法施行規則第62条。印を持っていないときには署名だけで足りる)。そのほか、区分建物の管理組合における集会の議事録については、議長および集会に出席した区分所有者の2人が署名押印しなければならない(区分所有法42条3項)。",
"title": "法律上の署名行為"
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"text": "日本法上の手形の券面上の署名についての解釈論については、手形理論・手形行為等の項目を参照。",
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"text": "なお、日本において法令上押印を求められる場合でも、外国人については外国人ノ署名捺印及無資力証明ニ関スル法律により署名をもって足りるものとされている。これは、特にヨーロッパおよびアメリカでは、個人が印章を持つ慣習がないためである。",
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"text": "国際法上の署名には次の2種類がある。",
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"text": "外交会議等において条約の内容が確定したときに、全権を委任された各代表団の長(首席代表)が条約の内容を公式に確認した証拠として記名することを指す。条約の内容は署名によって確定し、以後、正式な手続による場合を除いては、内容を修正することはできない。",
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"text": "例えば、京都議定書においては、条約の末尾に",
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},
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"text": "という文が付されているが、この文中でいう署名が条約の内容を確定する署名に相当する。",
"title": "国際法上の署名"
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"tag": "p",
"text": "通常の条約は、一定数の国家が条約に拘束されることへの同意を示すことによって効力を発生する。このような意思を表明する方法としては、批准、受諾、承認、加入などがある。このうち、批准、受諾とは、条約に署名することによって将来的に条約に拘束される意思があることを予め表明(条約の内容に対する基本的な賛意の表明)し、その後に国会による承認等の所要の国内手続を行って、しかる後に条約の事務局等に批准書等を寄託することによって条約に拘束される手続のことである。署名の要・不要や、署名が可能な期間等は条約中に規定されている。日本の場合、条約への署名を行う際には、事前に閣議決定が必要なため、署名を行うのは重要な条約のみに限られる傾向がある。",
"title": "国際法上の署名"
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"text": "例えば、京都議定書第24条1には次のように規定されている。",
"title": "国際法上の署名"
}
] | 署名とは、行為者がある行為(例えばクレジットカードの利用時)をする際に、自己の氏名を自署すること、また自署したものである。 | {{WikipediaPage}}
{{出典の明記|date=2012年8月}}
[[File:Meiji Kenpo03.jpg|thumb|right|300px|[[大日本帝国憲法]]の[[上諭]]。右ページの[[御璽]]の上方に「睦仁」と、[[明治天皇]]の「名」(諱)が署名されている。また、左ページには、国務大臣の官名と爵位に続けて、[[人名|氏名]]が署名されている。]]
'''署名'''(しょめい、{{lang-en|sign, signature}})とは、行為者がある行為(例えば[[クレジットカード]]の利用時)をする際に、自己の[[氏名]]を自署すること、また自署したものである。
== 印章との関係 ==
署名(サイン)と[[印章]]とは、ともに自己同一性を証明するものとして洋の東西を問わず古来広く使用されてきた。[[花押]]も署名の一種と理解される。
[[日本]]においては、[[律令制度]]の確立以降は印章が重視されていたが、次第に簡便な署名が通用するようになり、[[中世]]以降は花押全盛となる。もっとも、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から印章の使用も再度広まり始め[[朱印状]]などが発行されるようになる。[[江戸時代]]になると、印章の使用も広がる。[[明治時代]]以降は印章が非常に重視されるようになる。もっとも、[[閣議 (日本)|閣議]]署名は今なお花押が使用されている。なお[[刑法 (日本)|刑法]]においては、「印章又は署名」「印章若しくは署名」等のように同列に扱われており、署名や印章の偽造等は[[犯罪]]とされている。
[[西洋]]においても、印章と署名との盛衰がある。また、他人が偽造出来ないよう、特別な書き方が為される(署名を考案し、且つ全く同一の筆跡に出来る様指導してくれる業者が存在する)。
== 記名との違い ==
記名は、(狭義には)署名以外の方法で書類等に氏名・名称を記すことをいう。記名が必要とされているのみの場合は、自署を必要としない<ref>『有斐閣 法律用語辞典 [第3版]』法令用語研究会 編、有斐閣、2006年、ISBN 4-641-00025-5</ref>(例:記名証券・無記名証券)。一方、署名は自署を要求される。
== 法律上の署名行為 ==
通例、[[意思表示]]があったことを示すものとされる。
日本法上、本来「署名」とは自署(手書きでの記名、いわゆるサイン)を指すが、自署に代えて記名押印が求められることが多い。[[b:商法第32条|商法32条]]は、商法上の署名は記名押印で代えることができることを規定している。'''記名押印'''とは、氏名・名称を記し(手書きに限らず、ゴム印や印刷等で構わない)、併せて[[印章]]を捺印<ref group="注釈">捺印は押印と同じ意味であるが、慣例的に、記名'''押'''印、署名'''捺'''印と呼ぶことが多い。</ref>することをいう。
署名と捺印の両方が必要とされる場合には、署名を記名押印で代えることができない。そのような例はごく少数であるが、たとえば[[遺言]]の作成に当たっては、自筆証書遺言の場合は遺言者の、秘密証書遺言と公正証書遺言の場合は遺言者、証人と公証人の、それぞれ署名と捺印が必要である([[b:民法第968条|民法968条]]、[[b:民法第969条|969条]]、[[b:民法第970条|970条]])。また、[[戸籍]]に関する届出も届出人や証人の署名と押印が必要とされる([[戸籍法]]第29条)が、署名できないときには氏名を代書させ押印(または拇印)することで足りる(戸籍法施行規則第62条。印を持っていないときには署名だけで足りる)。そのほか、[[区分建物]]の[[管理組合]]における集会の議事録については、議長および集会に出席した区分所有者の2人が署名押印しなければならない([[b:建物の区分所有等に関する法律第42条|区分所有法42条3項]])。
日本法上の手形の券面上の署名についての解釈論については、[[手形理論]]・[[手形行為]]等の項目を参照。
なお、日本において法令上押印を求められる場合でも、外国人については[[外国人ノ署名捺印及無資力証明ニ関スル法律]]により署名をもって足りるものとされている。これは、特にヨーロッパおよびアメリカでは、個人が印章を持つ慣習がないためである。
[[日本国憲法第74条]]により、日本の法律及び[[政令]]には、[[主任の大臣|主任の国務大臣]]の署名と、[[内閣総理大臣]]の[[連署・副署|連署]]が求められている。これは法律の執行や、政令の制定・執行の責任の所在を明らかにするためである<ref>{{cite book|和書 |editor=法制執務研究会|title=新訂 ワークブック法制執務 第2版|publisher=株式会社ぎょうせい|date=2018-01-15|isbn=978-4-324-10388-3|page=30|chapter=問8}}</ref>。
== 国際法上の署名 ==
国際法上の署名には次の2種類がある。
=== 条約の内容を確定する署名 ===
外交会議等において[[条約]]の内容が確定したときに、全権を委任された各代表団の長(首席代表)が条約の内容を公式に確認した証拠として記名することを指す。条約の内容は署名によって確定し、以後、正式な手続による場合を除いては、内容を修正することはできない。
例えば、[[京都議定書]]においては、条約の末尾に
:''千九百九十七年十二月十一日に京都で作成した。''
:''以上の証拠として、下名は、正当に委任を受けて、それぞれ明記する日にこの議定書に署名した。''
:(以下署名者一覧の表記)
という文が付されているが、この文中でいう署名が条約の内容を確定する署名に相当する。
=== 条約に拘束される意思を示す署名 ===
通常の条約は、一定数の国家が条約に拘束されることへの同意を示すことによって効力を発生する。このような意思を表明する方法としては、[[批准]]、[[条約の受諾|受諾]]、[[承認]]、[[加入]]などがある。このうち、批准、受諾とは、条約に署名することによって将来的に条約に拘束される意思があることを予め表明(条約の内容に対する基本的な賛意の表明)し、その後に[[国会]]による承認等の所要の国内手続を行って、しかる後に条約の事務局等に批准書等を[[寄託 (国際法)|寄託]]することによって条約に拘束される手続のことである。署名の要・不要や、署名が可能な期間等は条約中に規定されている。日本の場合、条約への署名を行う際には、事前に閣議決定が必要なため、署名を行うのは重要な条約のみに限られる傾向がある。
例えば、京都議定書第24条1には次のように規定されている。
:''この議定書は、条約の締約国である国家及び地域的な経済統合のための機関による署名のために開放されるものとし、批准され、受諾され又は承認されなければならない。この議定書は、千九百九十八年三月十六日から千九百九十九年三月十五日までニュー・ヨークにある国際連合本部において、署名のために開放しておく。この議定書は、この議定書の署名のための期間の終了の日の後は、加入のために開放しておく。批准書、受諾書、承認書又は加入書は、寄託者に寄託する。''
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
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* [[サイン (有名人の署名)]]
* [[印章]]
* [[花押]]
* [[画指]] - かつて[[文盲]]の者が利用した
* [[商法中署名スヘキ場合ニ関スル法律]]
* [[電子署名]] - [[電子署名及び認証業務に関する法律|電子署名法]]
* [[日本国憲法第16条]]
* [[請願法]]
* [[署名運動]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BD%B2%E5%90%8D |
8,381 | 商法中署名スヘキ場合ニ関スル法律 | 商法中署名スヘキ場合ニ関スル法律(しょうほうちゅうしょめいすべきばあいにかんするほうりつ)は、第14回帝国議会において成立した日本の法律。本法は、件名の通り、商法の規定により署名すべき場合においては、記名捺印をもって、署名に代えることができるというものである。本法は、2006年5月1日に会社法の施行により廃止された。
本法が法律として制定されるまで、以下のような主張と進行が行われた。
明治中期、政府は紆余曲折を経て遂に民法、商法等の法典整備を終了(詳しくは商法の項目を参照すること。)させ、これら法典は無事施行されることとなった。しかしこれら法典は、一部旧来の日本の慣習とはそぐわない部分が存在した。その代表的な部分としてあげられるのが、署名に関する事項である。
旧来の日本では、契約等の書面を作成するには以下の慣習が存在していた。
民法では、意思表示による不要式行為を原則としているため、署名をしなければ効力を発しないということは認められないが、商法では、署名を必要としている書面は、署名以外の記名、捺印等の従来の慣習的行為をしても効力を発しないとしていた。
このような背景を前提として、提出者である衆議院議員木村格之輔は、本案の理由として3点をあげている。
第一に、慣習にそぐわない現状についてである。商法だけそのような要件を加えることは、上記に列挙した旧来の慣習とそぐわない状態であった。また実情としても、上記の要件で経済活動に不自由を感じている嘆願が議員に対し寄せられていた。
第二に、識字率についてである。明治30年頃の日本人は、教育機関が発達していなかったこともあり、識字率も低く、中には文字を書けないものも程度存在していたため、署名のみ認めてしまうと、文字を書けない人達を蔑ろにしてしまうことになってしまう。本案の提出者は、例として県会議員選挙を示し、投票者の2割が自署できない状態であったと述べている。
第三に、株券の発行についてである。多数の枚数を発行するものになると、それを逐一署名するためには、多大な労力を伴うことになる。しかし、記名捺印が認められれば、その労力は大幅に削減できることにもなる。
これらの理由をふまえ、提出者は、利便性や非識字者のためを考え、商法にある署名の規定は従前の状態を維持しつつ、誰が名前を書いてもそれに印判を押せば効力を発生する規定を、新たに別個の法律として作成することとした。
本案に対し政府は、真っ向から反対する立場をとった。今回政府委員として政府見解を述べたのは、商法典の整備に大きく携わった人物であり、東京帝国大学法学博士でもある梅謙次郎であった。
まずこの問題について、主張を2つに分けることができるとした。1つは、署名説である。当時施行されている商法に規定されているのはこの説に則ったものであり、経済活動の安全性を重視したものである。もう1つが、捺印説である。これは、安全性よりも利便性に重きを置いたものである。この件に関しては、以前にも政府内で審議が行われ、数回の討論を行った結果、政府は署名説を採用するにいたったことをふまえ、梅謙次郎は本案に反対する理由として2点を掲げた。
第一に、印影盗用の危険性である。捺印するには、金属、木、象牙などの個体に文字を彫刻して完成した印判がなくてはならない。印判は人とは別個の物体であるため、印判を利用するには印判を自ら占有するか、必要時に利用できる場所に保管しなければならないが、署名とは異なり、印判が盗まれ、印影が盗用される可能性が生じる。もし印判が盗用された場合、本人が捺印したか判明しがたい状態になり、経済活動に新たな危険性を発生させる要因となってしまう。実情としても、印影盗用に関しては、明治30年中現に裁判所で事件として取り上げられたものでも509件存在しており、捺印に重きをおくことは得策ではないと説明した。
第二に、真偽の難易である。署名の場合、いくら他人が真似て書こうとも人それぞれの個性が存在するため、真似るにはそれ相応の技術が必要であるが、印影の場合、印影を真似ることは署名よりも容易である。さらに真偽の鑑別精度に対しても、印影よりも署名の方が高い。真似る精度も格段に高い。
以上の点を避けるために政府は、署名を主とし捺印を従とする従来の商法の規定を支持し、本案のように記名捺印をもってこれに代える規定に賛成でき兼ねると説明した。
また、貴族院議員であり商法典の整備に携わった東京帝国大学法学博士の富井政章は委員会にて、政府見解が重視する安全性と本案が重視する利便性の折衷案として、新たに修正する案を提出した。この修正案は、商法第148条及び第205条の場合は、花押をもって署名に代えることができるという内容であった。修正案の理由として彼は、署名よりも花押の方が多少利便性が向上されるとし、また安全性に関しても、自筆にはかわらないため、政府見解と矛盾することはないと説明した。
しかしこの修正案は、他の委員より批判された。批判の理由として大まかに2点の事項があげられる。
第一に、花押の普及度である。花押は、当時においても花押を有する者自体極めて少い状態であり、花押が盛んであった時代においてすら、使用範囲は武士階級以上の者に限定されていた。委員等は、仮にこの修正案通り花押を認めたとしても、このような事実が存在するため、実行性に欠けると批判した。
第二に、花押の安全性である。江戸時代の花押はこれを銅版に彫刻し使用していたという事実が存在しており、花押自体必ずしも自筆のものとは限定されないものである。この場合、印影との性質的な相違は見当たらず、修正案提出者がいう安全性が確保されないおそれがあると批判された。
これらのことから、委員会での採決を前に本人により当該修正案は撤回されることとなった。
本案は、木村格之輔により衆議院に提出され、1899年12月8日に第一読会が開かれ、同日設置された商法中署名スヘキ場合ニ関スル法律案特別委員会に付託された。12月9日の委員会では政府見解といくつかの質疑が行われ、次回である12月14日の委員会では本案に対する採決がなされた結果、異議無しと判断され、本案は可決された。12月19日に本会議で第一読会の続きが開かれ、本案の採決がなされた結果、全会一致で可決し、第二読会、第三読会と異議無く連続して進み、本案は原案どおり確定した。
衆議院から貴族院へ送付された本案は、1900年1月23日に第一読会が開始され、商法中署名スヘキ場合ニ関スル法律案特別委員会に付託された。2月1日の特別委員会では上記修正案の審議やいくつかの質疑が行われた結果、賛成、反対がほぼ拮抗する形で採決が行われ、7人中4人の反対により、本案は否決されるに至った。
2月5日に本会議で第一読会の続きが開かれ、ここでも賛成派、反対派の両派から主張が飛び交う中討論が終了し、第二読会に移行するかの採決が取られた。結果、起立者多数で本案は第二読会へ移行した。第二読会では、記名捺印をもってこれに代える部分の削除を求める修正案が提出されそうになるが、第二読会へ移行する動議で本案はほぼ確定したこととなるため、議事の進行を妨げる行為と他の議員から批判されたため、本修正案の提出は本人の発言をもって取り止められた。その後、第二読会の終了、第三読会の開始及び本案の確定と異議無く可決されることとなり本案は原案どおり確定した。
帝国議会で可決された本法は、明治33年2月26日に公布され、法例第1条により3月18日に施行された。
本法は条文の短さの割に適用の場面は非常に多いが、この法律そのものが意識されることはほとんどなかった。平成17年の会社法の成立とともに商法の規定が整理され、新商法32条に「この法律の規定により署名すべき場合には、記名押印をもって、署名に代えることができる。」との規定が設けられることになったため、会社法の施行とともに本法は廃止されることとなった(会社法の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律第1条、64条)。また同様の規定として、手形法82条などが存在している。
商法では、取締役会「議事録ガ書面ヲ以テ作ラレタルトキハ出席シタル取締役及監査役之ニ署名スルコトヲ要ス(商法第260条の4第3項)」と定めている。これと、本法を合わせて、取締役会議事録については、署名(すなわち、自署)に代え、記名捺印(代筆やゴム印など+押印)でもよいということが分かる。これに対し、会社法では、「取締役会の議事については、法務省令で定めるところにより、議事録を作成し、議事録が書面をもって作成されているときは、出席した取締役及び監査役は、これに署名し、又は記名押印しなければならない(会社法第369条第3項)。」という規定が設けられた。会社法においては、これと同様に、第250条第2項、第3項、第270条第2項、第289条など規定ごとに、署名でも記名捺印でもよいという規定が個別に定められている。
なお、商法や会社法等に基づき作成すべき書面が電磁的記録により作成されることが許されている場合において、その書面に署名が要求されているときは、法務省令で定める署名又は記名押印に代わる措置(すなわち、電子署名)をとらなければならない。 | [
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] | 商法中署名スヘキ場合ニ関スル法律(しょうほうちゅうしょめいすべきばあいにかんするほうりつ)は、第14回帝国議会において成立した日本の法律。本法は、件名の通り、商法の規定により署名すべき場合においては、記名捺印をもって、署名に代えることができるというものである。本法は、2006年5月1日に会社法の施行により廃止された。 | {{DISPLAYTITLE:しようほうちゆうしよめいすへきはあいにかんするほうりつ}}
{{日本の法令
| 題名=商法中署名スヘキ場合ニ関スル法律
| 効力=廃止
| 種類=[[商法]]
| 内容=商法中の署名すべき場合の規定
| 関連=[[商法]]、[[会社法]]等
| リンク=[{{NDLDC|2948286/1}} 官報1900年2月26日]
| ウィキソース=商法中署名スヘキ場合ニ關スル法律
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'''商法中署名スヘキ場合ニ関スル法律'''(しょうほうちゅうしょめいすべきばあいにかんするほうりつ)は、第14回[[帝国議会]]において成立した[[日本]]の[[法律]]。本法は、件名の通り、[[商法]]の規定により[[署名]]すべき場合においては、[[記名]][[捺印]]をもって、署名に代えることができるというものである。本法は、[[2006年]][[5月1日]]に[[会社法]]の施行により廃止された。
== 制定 ==
本法が法律として制定されるまで、以下のような主張と進行が行われた。
=== 立法主旨 ===
明治中期、[[政府]]は紆余曲折を経て遂に[[民法 (日本)|民法]]、商法等の[[法典]]整備を終了(詳しくは[[商法#商法典論争|商法の項目]]を参照すること。)させ、これら法典は無事[[施行]]されることとなった。しかしこれら法典は、一部旧来の日本の[[慣習]]とはそぐわない部分が存在した。その代表的な部分としてあげられるのが、署名に関する事項である。
旧来の日本では、契約等の書面を作成するには以下の慣習が存在していた。
#名前は誰が書いても構わないものであった。
#その代わり、実印に重きを置くこととしていた。
民法では、[[意思表示]]による不要式行為を原則としているため、署名をしなければ効力を発しないということは認められないが、商法では、署名を必要としている書面は、署名以外の記名、捺印等の従来の慣習的行為をしても効力を発しないとしていた。
このような背景を前提として、提出者である[[衆議院議員]][[木村格之輔]]は、本案の理由として3点をあげている。
第一に、慣習にそぐわない現状についてである。商法だけそのような要件を加えることは、上記に列挙した旧来の慣習とそぐわない状態であった。また実情としても、上記の要件で経済活動に不自由を感じている嘆願が議員に対し寄せられていた。
第二に、識字率についてである。明治30年頃の日本人は、教育機関が発達していなかったこともあり、識字率も低く、中には文字を書けないものも程度存在していたため、署名のみ認めてしまうと、文字を書けない人達を蔑ろにしてしまうことになってしまう。本案の提出者は、例として県会議員選挙を示し、投票者の2割が自署できない状態であったと述べている。
第三に、株券の発行についてである。多数の枚数を発行するものになると、それを逐一署名するためには、多大な労力を伴うことになる。しかし、記名捺印が認められれば、その労力は大幅に削減できることにもなる。
これらの理由をふまえ、提出者は、利便性や非識字者のためを考え、商法にある署名の規定は従前の状態を維持しつつ、誰が名前を書いてもそれに印判を押せば効力を発生する規定を、新たに別個の法律として作成することとした。
=== 政府見解 ===
本案に対し[[政府]]は、真っ向から反対する立場をとった。今回[[政府委員]]として政府見解を述べたのは、商法典の整備に大きく携わった人物であり、[[東京大学|東京帝国大学]][[法学博士]]でもある[[梅謙次郎]]であった。
まずこの問題について、主張を2つに分けることができるとした。1つは、署名説である。当時施行されている商法に規定されているのはこの説に則ったものであり、経済活動の安全性を重視したものである。もう1つが、捺印説である。これは、安全性よりも利便性に重きを置いたものである。この件に関しては、以前にも政府内で審議が行われ、数回の討論を行った結果、政府は署名説を採用するにいたったことをふまえ、梅謙次郎は本案に反対する理由として2点を掲げた。
第一に、印影盗用の危険性である。捺印するには、[[金属]]、[[木]]、[[象牙]]などの[[個体]]に[[文字]]を[[彫刻]]して完成した[[印判]]がなくてはならない。印判は人とは別個の物体であるため、印判を利用するには印判を自ら占有するか、必要時に利用できる場所に保管しなければならないが、署名とは異なり、印判が盗まれ、印影が盗用される可能性が生じる。もし印判が盗用された場合、本人が捺印したか判明しがたい状態になり、経済活動に新たな危険性を発生させる要因となってしまう。実情としても、印影盗用に関しては、明治30年中現に裁判所で事件として取り上げられたものでも509件存在しており、捺印に重きをおくことは得策ではないと説明した。
第二に、真偽の難易である。署名の場合、いくら他人が真似て書こうとも人それぞれの個性が存在するため、真似るにはそれ相応の技術が必要であるが、印影の場合、印影を真似ることは署名よりも容易である。さらに真偽の鑑別精度に対しても、印影よりも署名の方が高い。真似る精度も格段に高い。
以上の点を避けるために政府は、署名を主とし捺印を従とする従来の商法の規定を支持し、本案のように記名捺印をもってこれに代える規定に賛成でき兼ねると説明した。
=== 富井政章の見解 ===
また、貴族院議員であり商法典の整備に携わった[[東京大学|東京帝国大学]][[法学博士]]の[[富井政章]]は委員会にて、政府見解が重視する安全性と本案が重視する利便性の折衷案として、新たに修正する案を提出した。この修正案は、商法第148条及び第205条の場合は、[[花押]]をもって署名に代えることができるという内容であった。修正案の理由として彼は、署名よりも花押の方が多少利便性が向上されるとし、また安全性に関しても、自筆にはかわらないため、政府見解と矛盾することはないと説明した。
しかしこの修正案は、他の委員より批判された。批判の理由として大まかに2点の事項があげられる。
第一に、花押の普及度である。花押は、当時においても花押を有する者自体極めて少い状態であり、花押が盛んであった時代においてすら、使用範囲は[[武士]]階級以上の者に限定されていた。委員等は、仮にこの修正案通り花押を認めたとしても、このような事実が存在するため、実行性に欠けると批判した。
第二に、花押の安全性である。[[江戸時代]]の花押はこれを銅版に彫刻し使用していたという事実が存在しており、花押自体必ずしも自筆のものとは限定されないものである。この場合、印影との性質的な相違は見当たらず、修正案提出者がいう安全性が確保されないおそれがあると批判された。
これらのことから、委員会での採決を前に本人により当該修正案は撤回されることとなった。
=== 議会での進行 ===
本案は、[[木村格之輔]]により[[衆議院]]に提出され、[[1899年]][[12月8日]]に第一読会が開かれ、同日設置された商法中署名スヘキ場合ニ関スル法律案特別委員会に付託された。[[12月9日]]の委員会では政府見解といくつかの質疑が行われ、次回である[[12月14日]]の委員会では本案に対する採決がなされた結果、異議無しと判断され、本案は可決された。[[12月19日]]に本会議で第一読会の続きが開かれ、本案の採決がなされた結果、全会一致で可決し、第二読会、第三読会と異議無く連続して進み、本案は原案どおり確定した。
衆議院から[[貴族院 (日本)|貴族院]]へ送付された本案は、[[1900年]][[1月23日]]に第一読会が開始され、商法中署名スヘキ場合ニ関スル法律案特別委員会に付託された。[[2月1日]]の特別委員会では上記修正案の審議やいくつかの質疑が行われた結果、賛成、反対がほぼ拮抗する形で採決が行われ、7人中4人の反対により、本案は否決されるに至った。
[[2月5日]]に本会議で第一読会の続きが開かれ、ここでも賛成派、反対派の両派から主張が飛び交う中討論が終了し、第二読会に移行するかの採決が取られた。結果、起立者多数で本案は第二読会へ移行した。第二読会では、記名捺印をもってこれに代える部分の削除を求める修正案が提出されそうになるが、第二読会へ移行する動議で本案はほぼ確定したこととなるため、議事の進行を妨げる行為と他の議員から批判されたため、本修正案の提出は本人の発言をもって取り止められた。その後、第二読会の終了、第三読会の開始及び本案の確定と異議無く可決されることとなり本案は原案どおり確定した。
== 制定後 ==
[[帝国議会]]で可決された本法は、明治33年[[2月26日]]に公布され、[[法例]]第1条により[[3月18日]]に[[施行]]された。
本法は条文の短さの割に適用の場面は非常に多いが、この法律そのものが意識されることはほとんどなかった。平成17年の[[会社法]]の成立とともに商法の規定が整理され、新商法32条に「この法律の規定により署名すべき場合には、記名押印をもって、署名に代えることができる。」との規定が設けられることになったため、会社法の施行とともに本法は廃止されることとなった(会社法の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律第1条、64条)。また同様の規定として、手形法82条などが存在している。
== 商法適用下と会社法適用下との違い ==
商法では、取締役会「議事録ガ書面ヲ以テ作ラレタルトキハ出席シタル取締役及監査役之ニ署名スルコトヲ要ス(商法第260条の4第3項)」と定めている。これと、本法を合わせて、取締役会議事録については、署名(すなわち、自署)に代え、記名捺印(代筆やゴム印など+押印)でもよいということが分かる。これに対し、会社法では、「取締役会の議事については、法務省令で定めるところにより、議事録を作成し、議事録が書面をもって作成されているときは、出席した取締役及び監査役は、これに署名し、又は記名押印しなければならない(会社法第369条第3項)。」という規定が設けられた。会社法においては、これと同様に、第250条第2項、第3項、第270条第2項、第289条など規定ごとに、署名でも記名捺印でもよいという規定が個別に定められている。
なお、商法や会社法等に基づき作成すべき書面が電磁的記録により作成されることが許されている場合において、その書面に署名が要求されているときは、法務省令で定める署名又は記名押印に代わる措置(すなわち、[[電子署名]])をとらなければならない。
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8,382 | 有価証券 | 有価証券(ゆうかしょうけん、英語: security)は、伝統的には財産的価値のある私権を表章する証券で、その権利の発生、移転または行使の全部又は一部が証券によってなされるものをいう。
なお、有価証券(独: Wertpapier)の典型例に手形や小切手があるが、これらの証券は英米法では流通証券(英: negotiable instruments)という概念で扱われる。
有価証券の本質は権利の行使(権利の行使に証券が必要であるため移転も必要)にあるか、権利の移転(権利の証券化による流通)にあるかなど有価証券の定義については争いがある。
日本の伝統的な学説では財産的価値のある私権を表章する証券で、その権利の発生、移転または行使の全部又は一部が証券によってなされるものをいうとしている。ただし、伝統的な通説に対しては、権利の発生には証券が必要で移転や行使には不要という有価証券を考えにくく、株券のように権利の発生と証券の作成が一体でない証券があることなどから、権利の移転に証券の引き渡しを要する証券を有価証券とする有力説がある。この有力説に対しても、株券発行会社で現に株券を発行している会社が権利を行使するには、会社に対して株券を呈示する必要があることから、権利の移転及び行使に証券の引き渡しを要する証券を有価証券とする別の有力説がある。
ドイツの通説では権利行使面を重視し、有価証券は権利の主張(行使)に証券の所持を必要とする私権を表章する証券をいうとする。ただし、抗弁の対抗が制限されるものに限定する学説もある。
有価証券は紙に書かれた思想内容の対象そのものが財産的価値を有する私権でなければならず、書家の書のように文化的・学術的・芸術的価値から二次的に財産的価値を生じているものは有価証券とは言えない。
日本銀行券その他の紙幣、収入印紙、郵便切手などの金券は、財産権を表章するというわけではなく、法律上証券自体が特定の価値を有するとされているものであり、これらは有価証券には含まれない。
なお、事実(特に証券になした行為)の書証としての性質を有する証券を証拠証券という。有価証券にも証拠証券性は認められるが、売買契約書や借用証書など多くの証拠証券は財産的に価値のある権利を内容としているものの、それを持っていても権利者であるという法律上の推定を受けるわけでなく、それがなくても他の証拠方法で立証できれば権利を行使できる。これらは契約上の権利の移転と証券の移転が結びついていない証拠証券であり有価証券とは区別される。
また、証券の形式的資格をもつ所持人を権利者として弁済すれば義務者は責任を免れる証券を免責証券という。有価証券にも免責証券性があるが、クロークの預かり証のように他の免責証券では証券の所持人を権利者とする法律上の推定を受けることはなくこれらも有価証券には含まれない。
証拠証券とは事実(特に証券になした行為)の書証としての性質を有する証券をいう。すべての有価証券には証拠証券性がある。
要式証券とは法律によって一定の記載事項を記載することが要求されている証券をいう。株券や社債券、為替手形、小切手などが要式証券である。
文言証券とは証券の表章する権利の内容が証券に記載されている文言のみによって定まり、他の立証方法では変更・補充できない証券をいう。手形や小切手などが文言証券である。
設権証券とは権利の発生には証券の作成が要件となっている証券をいう。手形や小切手などは設権証券であるが、株券や貨物引換証は既存の法律関係を証券に記載したもので設権証券ではない。
呈示証券とは証券の表章する権利の行使に証券の呈示が要件となっている証券をいう。
受戻証券とは証券と引換えでなければ目的物の給付を要しない証券をいう。倉荷証券などが受戻証券である。呈示証券の多くは受戻証券であるが、数回の給付が予定されている証券では呈示証券性はあるが最後の給付までは受戻証券性はない。
免責証券とは形式的資格をもつ所持人を権利者として弁済すれば義務者は責任を免れる証券をいう。
引渡証券とは証券の引渡しが物品の引渡しと法律上同一の効力(物権的効力)をもつ証券をいう。貨物引換証、倉庫証券、船荷証券などが引渡証券である。
有価証券は、表章する権利の種類に応じて、上述のとおり、債権証券(債権のみを表章するもの)、物権証券(債権及び当該債権を担保する担保物権を表章するもの)及び社員証券(社員権を表章するもの)があるとされる。いずれにも分類されないものとして、受益証券(信託受益権を表章するもの)がある。
有価証券は、表章する権利の内容に応じて、資本証券(投資証券。債券・株券など資金調達・投資の手段として用いられるもの。UCC上の投資証券(investment securities)に対応)、金銭証券(貨幣証券。手形・小切手のように一定の金銭債権を表章して決済や送金の手段として用いられるもの。UCC上の流通証券(negotiable instruments)に対応)、物品証券(物財証券。貨物引換証、倉庫証券、商品券のように物品引渡請求権を表章するもの。UCC上の権原証券(documents of title)に対応)という分類もなされる。ただし、このほかにも、労務の提供を受ける債券を表章するものとして、乗車券、観覧券、テレホンカードなどの有価証券がある。
有価証券は権利者の指定方式に応じて、記名証券(記名により指定。記名式小切手や記名式社債券など)、指図証券(記名及び裏書により指定。約束手形、為替手形、指図式小切手など)、無記名証券(所持により指定。無記名社債券、持参人払式小切手など)及び選択無記名証券(記名又は所持により指定。選択持参人払式小切手など)に分類される。
手形法・小切手法は商人の慣習法として成立したが、17世紀に近代的統一国家が出現すると各国で手形法・小切手法が制定されるようになった。
このような各国法の違いは国際的に流通する手形や小切手の取引の障害となるため、19世紀後半には統一化が試みられるようになった。オランダ政府の呼びかけで1910年と1912年に手形法統一会議を招集し、為替手形及び約束手形の統一に関する条約が成立した。
さらに1930年にはジュネーブで手形法統一のための国際会議が開催され、1.為替手形及び約束手形に関し統一法を制定する条約並びに第一及び第二付属書、2.為替手形及び約束手形に関し法律のある抵触を解決するための条約、3.為替手形及び約束手形についての印紙法に関する条約の3条約が成立した。1931年には小切手についても手形に関する3条約に対応する条約が締結され、1934年1月1日に発効した。
大陸法系の国々ではジュネーブ統一法による統一が図られたが、イギリスは印紙法に関する条約のみの批准にとどまり、アメリカもオブザーバー資格での参加にとどまった。そのため大陸法系と英米法系の立法例が存在することになったが、有価証券のうち特に手形については国際商取引の決済手段として重要な役割を果たすようになったため、1971年の国連国際商取引法委員会で統一規則を作成することが決定された。そして1988年12月9日の国連総会で国際為替手形及び国際約束手形に関する条約が採択された。
英米法における流通証券とは、証券の交付または譲受人の裏書を伴う証券の交付により法律上の権原が譲渡され得るもので、譲受人が善意で対価を支払って取得した限り譲渡人に対する抗弁の対抗を受けることなく証券の所有権及び証券が表章している権利が譲受人に移転する証券をいう。
ドイツ法とは異なり英米法では手形要件が厳格でなく、分割払手形を認め、手形の善意取得に消極的である。
イギリスでは判例法や慣習法を整理して1882年に手形法(Bills of exchange Act)が制定され現行法となっている。
アメリカでは1896年に統一流通証券法(Uniform Negotiable Instruments Law)が制定された。法改正により1952年の統一商法典では第3章「商業証券」で規制され、1990年の同法の改正で第3章「流通証券」となった。
日本法における有価証券については民法と商法に個々に規定があったが、改正前民法は有価証券法理と抵触する点も多く、厳密には有価証券の規定ではなく債権の譲渡・行使と証書の存在とが密接に関連している債権についての規定と解されていた。これらが2017年に成立した改正民法により民法第3編第7節の「有価証券」にまとめられ有価証券の一般的な規律として整備された。
なお、手形法及び小切手法は民法の特別法にあたるため手形や小切手にはこれらの特別法が優先して適用される。
このほか、金融商品取引法(旧:証券取引法)、刑法、民事訴訟法、民事執行法、法人税法などにおいてそれぞれ当該法律の目的によって異なる意義で用いられている。特に、金融商品取引法(旧:証券取引法)においては後述のように特別な定義がなされている。
金融商品取引法上(以下金商法という)の有価証券は、同法2条1項及び2項に規定されており、第一項有価証券と第二項有価証券に分類される。旧証券取引法は米国の証券法及び証券取引所法を参考として立法されたものであり、米国法におけるsecuritiesに相当する。もっとも、米国とは違って、定義上、商法上の有価証券を出発点としている点や、明確化のため限定列挙とされているのが特徴である。私法上の有価証券やそれに類する証券又は証書をまずは有価証券と定義し、券面の発行されない権利についても有価証券とみなすという体裁を採っている点については、あまりに不自然であるなどの批判がある。
第一項有価証券とは、金商法2条1項に掲げられる有価証券又は同条2項の規定により有価証券とみなされる有価証券表示権利若しくは特定電子記録債権をいう(金商法2条3項)。
まず、金商法2条1項には、同項各号に掲げられた、券面の発行され比較的流通性の高い伝統的な有価証券(基本的には私法上の有価証券である)が同法における有価証券である旨規定されている。具体的には以下のとおり。
なお、医療機関債に係る「債券」は(金銭消費貸借契約の)証拠証券と解されているため、上記のいずれにも含まれない。
金商法2条2項柱書では上記の有価証券のうち、
に表示されるべき権利(有価証券表示権利)は、有価証券表示権利について当該権利を表示する当該有価証券が発行されていない場合においても、当該権利を当該有価証券とみなすものとされている。
例えば、株式で株券の発行されていないものは株券とみなされ、社債で社債券の発行されていないものは社債券とみなされ、受益証券発行信託の受益権で受益証券の発行されていないものは受益証券とみなされる。現在では、有価証券のペーパーレス化の進展により、実際に流通している第一項有価証券のほとんどは金商法2条2項により有価証券とみなされる有価証券表示権利である。
さらに、金商法2条2項柱書では、電子記録債権のうち、流通性その他の事情を勘案し、社債券その他の1項各号に掲げる有価証券とみなすことが必要と認められるものとして政令(現在は空振り)で定めるもの(特定電子記録債権)は、当該電子記録債権を当該有価証券とみなすものとされている。
第二項有価証券とは、金商法2条2項の規定により有価証券とみなされる同項各号に掲げる権利をいう(金商法2条3項)。金商法2条2項柱書においては、同項各号に掲げられた、新たに設けられた類型の流通性の低いものが有価証券とみなされている。具体的には以下の通り。
金融商品取引法を参照。
刑法においては、有価証券偽造等の罪が定められており、有価証券の偽造・変造やその行使などが処罰の対象とされている。 しかしながら、有価証券の意義については、条文上、「公債証書、官庁の証券、会社の株券」が例示されているに過ぎず、明文の定義はない。したがって、規定の趣旨に従って解釈がなされている。
判例によると、「財産上の権利が証券に表示され、その表示された権利の行使につきその証券の占有を必要とするもの」とされる(大判明治42・3・16刑録15輯261頁、最判昭和32・7・25刑集11巻7号2037頁、最決平成3・4・5刑集45巻4号171頁など)。また、日本国内で発行され、又は日本国内で流通するものに限られる(大判大正3・11・14刑録20輯2111頁)。私法上の有価証券とは異なって流通性は要求されない(前掲最判昭和32・7・25)。具体的には、乗車券(普通、定期)、劇場の入場券、商品券、クーポン、タクシーチケット、宝くじ、競輪の車券、競馬の勝馬投票券などが含まれるとされる。
テレホンカードを含むプリペイドカードのように電磁的記録によるものが有価証券であるかについては事件ごとに判決が異なり、争いがあったが、最終的に示された判例ではテレホンカードについてこれを肯定し、有価証券偽造等の罪の対象となることを肯定した。その後2001年(平成13年)の刑法改正により支払用カード電磁的記録に関する罪が新設されたため、現在は、本罪によって処罰されることとなる。
この他には握手会整理券が「ネットオークションで売買の対象とされている事から財産価値は明らかで有価証券と認められる」とした判例がある(東京地裁 2010年(平成22年)8月25日)。
なお、刑法上の有価証券に該当しないものとしては、預貯金通帳や無記名定期預金証書やゴルフクラブ入会保証金預託証書(いずれも証拠証券にすぎない。私文書偽造による処罰の対象)、下足札や手荷物預り証(いずれも免責証券にすぎない。私文書偽造等による処罰の対象)、印紙や郵便切手(いずれも金券。ただし、印紙犯罪処罰法や郵便法による処罰の対象)などがある。
法人税法においては、以下のものが有価証券とされている(法人税法2条21号、法人税法施行令11条、法人税法施行規則8条の2の3)。ただし、自己が有する自己の株式又は出資及びデリバティブ取引(法人税法61条の5第1項)に係るものは除かれる。
民事訴訟法においては、訴訟費用の担保のため、金銭又は有価証券の提供が求められることがある(民事訴訟法75条、76条)。ここでいう有価証券には、私法上の有価証券のほか、振替債が含まれる。
振替債とは、次の権利のうち、振替機関が取り扱うものをいう(振替法278条1項)。 | [
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"text": "設権証券とは権利の発生には証券の作成が要件となっている証券をいう。手形や小切手などは設権証券であるが、株券や貨物引換証は既存の法律関係を証券に記載したもので設権証券ではない。",
"title": "有価証券の性質と分類"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "呈示証券とは証券の表章する権利の行使に証券の呈示が要件となっている証券をいう。",
"title": "有価証券の性質と分類"
},
{
"paragraph_id": 14,
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"text": "受戻証券とは証券と引換えでなければ目的物の給付を要しない証券をいう。倉荷証券などが受戻証券である。呈示証券の多くは受戻証券であるが、数回の給付が予定されている証券では呈示証券性はあるが最後の給付までは受戻証券性はない。",
"title": "有価証券の性質と分類"
},
{
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"text": "免責証券とは形式的資格をもつ所持人を権利者として弁済すれば義務者は責任を免れる証券をいう。",
"title": "有価証券の性質と分類"
},
{
"paragraph_id": 16,
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"text": "引渡証券とは証券の引渡しが物品の引渡しと法律上同一の効力(物権的効力)をもつ証券をいう。貨物引換証、倉庫証券、船荷証券などが引渡証券である。",
"title": "有価証券の性質と分類"
},
{
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"text": "有価証券は、表章する権利の種類に応じて、上述のとおり、債権証券(債権のみを表章するもの)、物権証券(債権及び当該債権を担保する担保物権を表章するもの)及び社員証券(社員権を表章するもの)があるとされる。いずれにも分類されないものとして、受益証券(信託受益権を表章するもの)がある。",
"title": "有価証券の性質と分類"
},
{
"paragraph_id": 18,
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"text": "有価証券は、表章する権利の内容に応じて、資本証券(投資証券。債券・株券など資金調達・投資の手段として用いられるもの。UCC上の投資証券(investment securities)に対応)、金銭証券(貨幣証券。手形・小切手のように一定の金銭債権を表章して決済や送金の手段として用いられるもの。UCC上の流通証券(negotiable instruments)に対応)、物品証券(物財証券。貨物引換証、倉庫証券、商品券のように物品引渡請求権を表章するもの。UCC上の権原証券(documents of title)に対応)という分類もなされる。ただし、このほかにも、労務の提供を受ける債券を表章するものとして、乗車券、観覧券、テレホンカードなどの有価証券がある。",
"title": "有価証券の性質と分類"
},
{
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"text": "有価証券は権利者の指定方式に応じて、記名証券(記名により指定。記名式小切手や記名式社債券など)、指図証券(記名及び裏書により指定。約束手形、為替手形、指図式小切手など)、無記名証券(所持により指定。無記名社債券、持参人払式小切手など)及び選択無記名証券(記名又は所持により指定。選択持参人払式小切手など)に分類される。",
"title": "有価証券の性質と分類"
},
{
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"text": "手形法・小切手法は商人の慣習法として成立したが、17世紀に近代的統一国家が出現すると各国で手形法・小切手法が制定されるようになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "このような各国法の違いは国際的に流通する手形や小切手の取引の障害となるため、19世紀後半には統一化が試みられるようになった。オランダ政府の呼びかけで1910年と1912年に手形法統一会議を招集し、為替手形及び約束手形の統一に関する条約が成立した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "さらに1930年にはジュネーブで手形法統一のための国際会議が開催され、1.為替手形及び約束手形に関し統一法を制定する条約並びに第一及び第二付属書、2.為替手形及び約束手形に関し法律のある抵触を解決するための条約、3.為替手形及び約束手形についての印紙法に関する条約の3条約が成立した。1931年には小切手についても手形に関する3条約に対応する条約が締結され、1934年1月1日に発効した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 23,
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"text": "大陸法系の国々ではジュネーブ統一法による統一が図られたが、イギリスは印紙法に関する条約のみの批准にとどまり、アメリカもオブザーバー資格での参加にとどまった。そのため大陸法系と英米法系の立法例が存在することになったが、有価証券のうち特に手形については国際商取引の決済手段として重要な役割を果たすようになったため、1971年の国連国際商取引法委員会で統一規則を作成することが決定された。そして1988年12月9日の国連総会で国際為替手形及び国際約束手形に関する条約が採択された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 24,
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"text": "英米法における流通証券とは、証券の交付または譲受人の裏書を伴う証券の交付により法律上の権原が譲渡され得るもので、譲受人が善意で対価を支払って取得した限り譲渡人に対する抗弁の対抗を受けることなく証券の所有権及び証券が表章している権利が譲受人に移転する証券をいう。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 25,
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"text": "ドイツ法とは異なり英米法では手形要件が厳格でなく、分割払手形を認め、手形の善意取得に消極的である。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "イギリスでは判例法や慣習法を整理して1882年に手形法(Bills of exchange Act)が制定され現行法となっている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
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"text": "アメリカでは1896年に統一流通証券法(Uniform Negotiable Instruments Law)が制定された。法改正により1952年の統一商法典では第3章「商業証券」で規制され、1990年の同法の改正で第3章「流通証券」となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
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"text": "日本法における有価証券については民法と商法に個々に規定があったが、改正前民法は有価証券法理と抵触する点も多く、厳密には有価証券の規定ではなく債権の譲渡・行使と証書の存在とが密接に関連している債権についての規定と解されていた。これらが2017年に成立した改正民法により民法第3編第7節の「有価証券」にまとめられ有価証券の一般的な規律として整備された。",
"title": "日本法における有価証券"
},
{
"paragraph_id": 29,
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"text": "なお、手形法及び小切手法は民法の特別法にあたるため手形や小切手にはこれらの特別法が優先して適用される。",
"title": "日本法における有価証券"
},
{
"paragraph_id": 30,
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"text": "このほか、金融商品取引法(旧:証券取引法)、刑法、民事訴訟法、民事執行法、法人税法などにおいてそれぞれ当該法律の目的によって異なる意義で用いられている。特に、金融商品取引法(旧:証券取引法)においては後述のように特別な定義がなされている。",
"title": "日本法における有価証券"
},
{
"paragraph_id": 31,
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"text": "金融商品取引法上(以下金商法という)の有価証券は、同法2条1項及び2項に規定されており、第一項有価証券と第二項有価証券に分類される。旧証券取引法は米国の証券法及び証券取引所法を参考として立法されたものであり、米国法におけるsecuritiesに相当する。もっとも、米国とは違って、定義上、商法上の有価証券を出発点としている点や、明確化のため限定列挙とされているのが特徴である。私法上の有価証券やそれに類する証券又は証書をまずは有価証券と定義し、券面の発行されない権利についても有価証券とみなすという体裁を採っている点については、あまりに不自然であるなどの批判がある。",
"title": "日本法における有価証券"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "第一項有価証券とは、金商法2条1項に掲げられる有価証券又は同条2項の規定により有価証券とみなされる有価証券表示権利若しくは特定電子記録債権をいう(金商法2条3項)。",
"title": "日本法における有価証券"
},
{
"paragraph_id": 33,
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"text": "まず、金商法2条1項には、同項各号に掲げられた、券面の発行され比較的流通性の高い伝統的な有価証券(基本的には私法上の有価証券である)が同法における有価証券である旨規定されている。具体的には以下のとおり。",
"title": "日本法における有価証券"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "なお、医療機関債に係る「債券」は(金銭消費貸借契約の)証拠証券と解されているため、上記のいずれにも含まれない。",
"title": "日本法における有価証券"
},
{
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"text": "金商法2条2項柱書では上記の有価証券のうち、",
"title": "日本法における有価証券"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "に表示されるべき権利(有価証券表示権利)は、有価証券表示権利について当該権利を表示する当該有価証券が発行されていない場合においても、当該権利を当該有価証券とみなすものとされている。",
"title": "日本法における有価証券"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "例えば、株式で株券の発行されていないものは株券とみなされ、社債で社債券の発行されていないものは社債券とみなされ、受益証券発行信託の受益権で受益証券の発行されていないものは受益証券とみなされる。現在では、有価証券のペーパーレス化の進展により、実際に流通している第一項有価証券のほとんどは金商法2条2項により有価証券とみなされる有価証券表示権利である。",
"title": "日本法における有価証券"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "さらに、金商法2条2項柱書では、電子記録債権のうち、流通性その他の事情を勘案し、社債券その他の1項各号に掲げる有価証券とみなすことが必要と認められるものとして政令(現在は空振り)で定めるもの(特定電子記録債権)は、当該電子記録債権を当該有価証券とみなすものとされている。",
"title": "日本法における有価証券"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "第二項有価証券とは、金商法2条2項の規定により有価証券とみなされる同項各号に掲げる権利をいう(金商法2条3項)。金商法2条2項柱書においては、同項各号に掲げられた、新たに設けられた類型の流通性の低いものが有価証券とみなされている。具体的には以下の通り。",
"title": "日本法における有価証券"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "金融商品取引法を参照。",
"title": "日本法における有価証券"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "刑法においては、有価証券偽造等の罪が定められており、有価証券の偽造・変造やその行使などが処罰の対象とされている。 しかしながら、有価証券の意義については、条文上、「公債証書、官庁の証券、会社の株券」が例示されているに過ぎず、明文の定義はない。したがって、規定の趣旨に従って解釈がなされている。",
"title": "日本法における有価証券"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "判例によると、「財産上の権利が証券に表示され、その表示された権利の行使につきその証券の占有を必要とするもの」とされる(大判明治42・3・16刑録15輯261頁、最判昭和32・7・25刑集11巻7号2037頁、最決平成3・4・5刑集45巻4号171頁など)。また、日本国内で発行され、又は日本国内で流通するものに限られる(大判大正3・11・14刑録20輯2111頁)。私法上の有価証券とは異なって流通性は要求されない(前掲最判昭和32・7・25)。具体的には、乗車券(普通、定期)、劇場の入場券、商品券、クーポン、タクシーチケット、宝くじ、競輪の車券、競馬の勝馬投票券などが含まれるとされる。",
"title": "日本法における有価証券"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "テレホンカードを含むプリペイドカードのように電磁的記録によるものが有価証券であるかについては事件ごとに判決が異なり、争いがあったが、最終的に示された判例ではテレホンカードについてこれを肯定し、有価証券偽造等の罪の対象となることを肯定した。その後2001年(平成13年)の刑法改正により支払用カード電磁的記録に関する罪が新設されたため、現在は、本罪によって処罰されることとなる。",
"title": "日本法における有価証券"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "この他には握手会整理券が「ネットオークションで売買の対象とされている事から財産価値は明らかで有価証券と認められる」とした判例がある(東京地裁 2010年(平成22年)8月25日)。",
"title": "日本法における有価証券"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "なお、刑法上の有価証券に該当しないものとしては、預貯金通帳や無記名定期預金証書やゴルフクラブ入会保証金預託証書(いずれも証拠証券にすぎない。私文書偽造による処罰の対象)、下足札や手荷物預り証(いずれも免責証券にすぎない。私文書偽造等による処罰の対象)、印紙や郵便切手(いずれも金券。ただし、印紙犯罪処罰法や郵便法による処罰の対象)などがある。",
"title": "日本法における有価証券"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "法人税法においては、以下のものが有価証券とされている(法人税法2条21号、法人税法施行令11条、法人税法施行規則8条の2の3)。ただし、自己が有する自己の株式又は出資及びデリバティブ取引(法人税法61条の5第1項)に係るものは除かれる。",
"title": "日本法における有価証券"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "民事訴訟法においては、訴訟費用の担保のため、金銭又は有価証券の提供が求められることがある(民事訴訟法75条、76条)。ここでいう有価証券には、私法上の有価証券のほか、振替債が含まれる。",
"title": "日本法における有価証券"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "振替債とは、次の権利のうち、振替機関が取り扱うものをいう(振替法278条1項)。",
"title": "日本法における有価証券"
}
] | 有価証券は、伝統的には財産的価値のある私権を表章する証券で、その権利の発生、移転または行使の全部又は一部が証券によってなされるものをいう。 なお、有価証券の典型例に手形や小切手があるが、これらの証券は英米法では流通証券という概念で扱われる。 | '''有価証券'''(ゆうかしょうけん、{{Lang-en|[[:wikt:security#名詞|security]]{{efn2|複数形の「[[:en:wikt:securities|securities]]」と表記されることがしばしばある<ref>[https://www.dictionary.com/browse/security Security Definition Meaning | Dictionary.com]の11番目の解説を参照。</ref>。}}}})は、伝統的には財産的価値のある[[私権]]を表章する[[証券]]で、その権利の発生、移転または行使の全部又は一部が証券によってなされるものをいう{{sfn|大塚・林・福瀧(2006)|p=254}}。
なお、有価証券({{lang-de-short|[[:en:wikt:Wertpapier|Wertpapier]]}})の典型例に[[手形]]や[[小切手]]があるが、これらの証券は[[英米法]]では流通証券({{lang-en-short|[[:en:wikt:negotiable instruments|negotiable instruments]]}})という概念で扱われる{{sfn|田邊|1990|p=22}}。
== 定義 ==
有価証券の本質は権利の行使(権利の行使に証券が必要であるため移転も必要)にあるか、権利の移転(権利の証券化による流通)にあるかなど有価証券の定義については争いがある{{sfn|大塚・林・福瀧(2006)|pp=254-255}}。
日本の伝統的な学説では財産的価値のある私権を表章する証券で、その権利の発生、移転または行使の全部又は一部が証券によってなされるものをいうとしている{{sfn|大塚・林・福瀧(2006)|p=254}}。ただし、伝統的な通説に対しては、権利の発生には証券が必要で移転や行使には不要という有価証券を考えにくく、株券のように権利の発生と証券の作成が一体でない証券があることなどから、権利の移転に証券の引き渡しを要する証券を有価証券とする有力説がある{{sfn|田邊|1990|p=22}}。この有力説に対しても、株券発行会社で現に株券を発行している会社が権利を行使するには、会社に対して株券を呈示する必要があることから、権利の移転及び行使に証券の引き渡しを要する証券を有価証券とする別の有力説がある{{sfn|田邊|1990|pp=22-23}}。
[[ドイツ]]の通説では権利行使面を重視し、有価証券は権利の主張(行使)に証券の所持を必要とする私権を表章する証券をいうとする{{sfn|田邊|1990|p=23}}。ただし、抗弁の対抗が制限されるものに限定する学説もある{{sfn|田邊|1990|p=23}}。
有価証券は紙に書かれた思想内容の対象そのものが財産的価値を有する私権でなければならず、書家の書のように[[文化]]的・[[学問|学術]]的・[[芸術]]的価値から二次的に財産的価値を生じているものは有価証券とは言えない{{sfn|大塚・林・福瀧(2006)|p=256}}。
[[日本銀行券]]その他の[[紙幣]]、[[収入印紙]]、[[郵便切手]]などの[[金券]]は、財産権を表章するというわけではなく、法律上証券自体が特定の価値を有するとされているものであり、これらは有価証券には含まれない{{sfn|大塚・林・福瀧(2006)|p=258}}。
なお、事実(特に証券になした行為)の書証としての性質を有する証券を[[証拠証券]]という{{sfn|大塚・林・福瀧(2006)|pp=261-262}}。有価証券にも証拠証券性は認められるが{{sfn|大塚・林・福瀧(2006)|p=262}}、売買契約書や借用証書など多くの証拠証券は財産的に価値のある権利を内容としているものの、それを持っていても権利者であるという法律上の推定を受けるわけでなく、それがなくても他の証拠方法で立証できれば権利を行使できる{{sfn|大塚・林・福瀧(2006)|p=257}}。これらは契約上の権利の移転と証券の移転が結びついていない証拠証券であり有価証券とは区別される{{sfn|大塚・林・福瀧(2006)|p=257}}。
また、証券の形式的資格をもつ所持人を権利者として弁済すれば義務者は責任を免れる証券を免責証券という{{sfn|大塚・林・福瀧(2006)|p=266}}。有価証券にも免責証券性があるが{{sfn|大塚・林・福瀧(2006)|p=266}}、[[クロークルーム|クローク]]の預かり証のように他の免責証券では証券の所持人を権利者とする法律上の推定を受けることはなくこれらも有価証券には含まれない{{sfn|大塚・林・福瀧(2006)|pp=266-257}}。
== 有価証券の性質と分類 ==
=== 有価証券の性質 ===
==== 証拠証券 ====
証拠証券とは事実(特に証券になした行為)の書証としての性質を有する証券をいう{{sfn|大塚・林・福瀧(2006)|p=265}}。すべての有価証券には証拠証券性がある{{sfn|大塚・林・福瀧(2006)|p=261}}。
==== 要式証券 ====
要式証券とは法律によって一定の記載事項を記載することが要求されている証券をいう{{sfn|大塚・林・福瀧(2006)|p=262}}。株券や社債券、為替手形、小切手などが要式証券である{{sfn|大塚・林・福瀧(2006)|p=262}}。
==== 文言証券 ====
文言証券とは証券の表章する権利の内容が証券に記載されている文言のみによって定まり、他の立証方法では変更・補充できない証券をいう{{sfn|大塚・林・福瀧(2006)|p=263}}。手形や小切手などが文言証券である{{sfn|大塚・林・福瀧(2006)|p=263}}。
==== 設権証券 ====
設権証券とは権利の発生には証券の作成が要件となっている証券をいう{{sfn|大塚・林・福瀧(2006)|p=264}}。手形や小切手などは設権証券であるが、株券や貨物引換証は既存の法律関係を証券に記載したもので設権証券ではない{{sfn|大塚・林・福瀧(2006)|p=264}}。
==== 呈示証券 ====
呈示証券とは証券の表章する権利の行使に証券の呈示が要件となっている証券をいう{{sfn|大塚・林・福瀧(2006)|pp=264-265}}。
==== 受戻証券 ====
受戻証券とは証券と引換えでなければ目的物の給付を要しない証券をいう{{sfn|大塚・林・福瀧(2006)|p=265}}。倉荷証券などが受戻証券である{{sfn|大塚・林・福瀧(2006)|p=265}}。呈示証券の多くは受戻証券であるが、数回の給付が予定されている証券では呈示証券性はあるが最後の給付までは受戻証券性はない{{sfn|大塚・林・福瀧(2006)|p=265}}。
==== 免責証券 ====
免責証券とは形式的資格をもつ所持人を権利者として弁済すれば義務者は責任を免れる証券をいう{{sfn|大塚・林・福瀧(2006)|p=266}}。
==== 引渡証券 ====
引渡証券とは証券の引渡しが物品の引渡しと法律上同一の効力(物権的効力)をもつ証券をいう{{sfn|大塚・林・福瀧(2006)|p=266}}。貨物引換証、倉庫証券、船荷証券などが引渡証券である{{sfn|大塚・林・福瀧(2006)|p=266}}。
=== 有価証券の分類 ===
{{出典の明記|date=2018年1月|section=1}}
==== 表章する権利の種類による分類 ====
有価証券は、表章する権利の種類に応じて、上述のとおり、債権証券([[債権]]のみを表章するもの)、物権証券(債権及び当該債権を担保する[[担保物権]]を表章するもの)及び社員証券([[社員権]]を表章するもの)があるとされる。いずれにも分類されないものとして、受益証券([[信託|信託受益権]]を表章するもの)がある。
==== 表章する権利の内容による分類 ====
有価証券は、表章する権利の内容に応じて、資本証券(投資証券。債券・株券など資金調達・投資の手段として用いられるもの。[[統一商事法典|UCC]]上の投資証券(investment securities)に対応)、金銭証券(貨幣証券。手形・小切手のように一定の金銭債権を表章して決済や送金の手段として用いられるもの。UCC上の流通証券(negotiable instruments)に対応)、物品証券(物財証券。貨物引換証、[[倉庫証券]]、商品券のように物品引渡請求権を表章するもの。UCC上の権原証券(documents of title)に対応)という分類もなされる。ただし、このほかにも、労務の提供を受ける債券を表章するものとして、乗車券、観覧券、テレホンカードなどの有価証券がある。
==== 権利者の指定方式による分類 ====
有価証券は権利者の指定方式に応じて、記名証券(記名により指定。記名式小切手や記名式社債券など)、指図証券(記名及び裏書により指定。約束手形、為替手形、指図式小切手など)、無記名証券(所持により指定。無記名社債券、持参人払式小切手など)及び選択無記名証券(記名又は所持により指定。選択持参人払式小切手など)に分類される。
== 歴史 ==
{{節スタブ|section=1|date=2021年10月26日}}
[[File:Vereinigte_Ostindische_Compagnie_bond_-_Middelburg_-_Amsterdam_-_1622.jpg|thumb|right|300px|[[1622年]]、[[アムステルダム]]で作成された有価証券]]
{{Gallery|width=240px
|File:South Carolina consolidation bond.jpg|1873年[[サウスカロライナ州]]で作られたもの
|File:1969 $100K Treasury Bill (front).jpg|1969年のアメリカで作られたもの
}}
=== 国際法における有価証券の歴史 ===
手形法・小切手法は商人の慣習法として成立したが、17世紀に近代的統一国家が出現すると各国で手形法・小切手法が制定されるようになった{{sfn|大塚・林・福瀧(2006)|pp=24-55}}。
このような各国法の違いは国際的に流通する手形や小切手の取引の障害となるため、19世紀後半には統一化が試みられるようになった{{sfn|大塚・林・福瀧(2006)|p=25}}。オランダ政府の呼びかけで1910年と1912年に手形法統一会議を招集し、為替手形及び約束手形の統一に関する条約が成立した{{sfn|大塚・林・福瀧(2006)|p=25}}。
さらに[[1930年]]にはジュネーブで手形法統一のための国際会議が開催され、1.為替手形及び約束手形に関し統一法を制定する条約並びに第一及び第二付属書、2.為替手形及び約束手形に関し法律のある抵触を解決するための条約、3.為替手形及び約束手形についての印紙法に関する条約の3条約が成立した{{sfn|大塚・林・福瀧(2006)|p=26}}。[[1931年]]には小切手についても手形に関する3条約に対応する条約が締結され、[[1934年]][[1月1日]]に発効した{{sfn|大塚・林・福瀧(2006)|p=26}}。
大陸法系の国々ではジュネーブ統一法による統一が図られたが、イギリスは印紙法に関する条約のみの批准にとどまり、アメリカもオブザーバー資格での参加にとどまった{{sfn|大塚・林・福瀧(2006)|p=26}}。そのため大陸法系と英米法系の立法例が存在することになったが、有価証券のうち特に手形については国際商取引の決済手段として重要な役割を果たすようになったため、[[1971年]]の国連国際商取引法委員会で統一規則を作成することが決定された{{sfn|大塚・林・福瀧(2006)|p=26}}。そして[[1988年]][[12月9日]]の国連総会で国際為替手形及び国際約束手形に関する条約が採択された{{sfn|大塚・林・福瀧(2006)|p=27}}。
=== 英米法における流通証券の歴史 ===
英米法における流通証券とは、証券の交付または譲受人の裏書を伴う証券の交付により法律上の権原が譲渡され得るもので、譲受人が善意で対価を支払って取得した限り譲渡人に対する抗弁の対抗を受けることなく証券の所有権及び証券が表章している権利が譲受人に移転する証券をいう{{sfn|田邊|1990|p=23}}。
ドイツ法とは異なり英米法では手形要件が厳格でなく、分割払手形を認め、手形の善意取得に消極的である{{sfn|大塚・林・福瀧(2006)|p=25}}。
==== イギリス ====
イギリスでは判例法や慣習法を整理して[[1882年]]に手形法(Bills of exchange Act)が制定され現行法となっている{{sfn|大塚・林・福瀧(2006)|p=26}}。
==== アメリカ合衆国 ====
アメリカでは[[1896年]]に統一流通証券法(Uniform Negotiable Instruments Law)が制定された{{sfn|大塚・林・福瀧(2006)|p=25}}。法改正により[[1952年]]の[[統一商事法典|統一商法典]]では第3章「商業証券」で規制され、[[1990年]]の同法の改正で第3章「流通証券」となった{{sfn|大塚・林・福瀧(2006)|p=26}}。
== 日本法における有価証券 ==
{{See|有価証券 (日本法)}}
日本法における有価証券については民法と商法に個々に規定があったが、改正前民法は有価証券法理と抵触する点も多く、厳密には有価証券の規定ではなく債権の譲渡・行使と証書の存在とが密接に関連している債権についての規定と解されていた{{sfn|田邊|2017|pp=145-174}}。これらが2017年に成立した改正民法により民法第3編第7節の「有価証券」にまとめられ有価証券の一般的な規律として整備された{{sfn|田邊|2017|pp=145-174}}。
なお、[[手形法]]及び[[小切手法]]は民法の特別法にあたるため手形や小切手にはこれらの特別法が優先して適用される{{sfn|川村|2018|p=17}}。
このほか、[[金融商品取引法]](旧:証券取引法)、[[刑法 (日本)|刑法]]、[[民事訴訟法]]、[[民事執行法]]、[[法人税法]]などにおいてそれぞれ当該法律の目的によって異なる意義で用いられている。特に、金融商品取引法(旧:証券取引法)においては後述のように特別な定義がなされている。
=== 私法上の有価証券 ===
* 債権証券
** [[為替手形]](手形法)
** [[約束手形]](手形法)
** [[小切手]](小切手法)
** [[貨物引換証]]([[b:商法第571条|商法571条]])
** [[倉庫証券|預り証券]]([[b:商法第598条|商法598条]])
** [[倉庫証券|倉荷証券]]([[b:商法第627条|商法627条]])
** [[船荷証券]]([[b:商法第767条|商法767条]])
** [[債券]]
*** [[国債|国債証券]]
*** [[地方債|地方債証券]]
*** [[社債|社債券]]([[b:会社法第676条|会社法676条]]6号)
*** [[相互会社]]の社債券([[保険業法]])
*** [[投資法人|投資法人債券]]([[投信法]])
*** [[特定目的会社|特定社債券]]([[資産流動化法]])
*** [[金融債|農林債の債券]]([[農林中央金庫法]])、[[金融債|全国連合会債]]の債券([[信用金庫法]])、[[国立病院機構]]債券([[独立行政法人国立病院機構法]])、[[日本原子力研究開発機構]]債券([[独立行政法人日本原子力研究開発機構法]])、[[放送債券]]([[放送法]])、[[社会医療法人債|社会医療法人債券]]([[医療法]])、[[日本私立学校振興・共済事業団|私学振興債券]]([[日本私立学校振興・共済事業団法]])、[[沖縄振興開発金融公庫]]債券([[沖縄開発金融公庫法]])、[[預金保険機構]]債の債券([[預金保険法]])、[[銀行等保有株式取得機構]]債の債券([[銀行株式保有制限法]])など
*** [[学校債券]]([[b:民法第86条|民法86条]]3項、最判 昭和44年6月24日民集第23巻7号1143頁)
** [[商品券]]
** [[図書券]]
* 物権証券
** [[倉庫証券|質入証券]]([[b:商法第598条|商法598条]])
** [[抵当証券]]([[抵当証券法]])
* 社員証券
** [[株券]]([[b:会社法第214条|会社法214条]])
** [[新株予約権証券]]([[b:会社法第288条|会社法288条]])
** 投資証券(投信法)
** [[特定目的会社]]の[[優先出資証券]](資産流動化法)
** 特定目的会社の新優先出資引受権証券(資産流動化法)
** [[協同組織金融機関]]の優先出資証券([[協同組織金融機関の優先出資に関する法律]])
** [[日本銀行]]、[[新エネルギー・産業技術総合開発機構|独立行政法人新エネルギー・産業技術総合開発機構]]、独立行政法人日本原子力研究開発機構、[[科学技術振興機構|独立行政法人科学技術振興機構]]、[[理化学研究所|独立行政法人理化学研究所]]、[[宇宙航空研究開発機構|独立行政法人宇宙航空研究開発機構]]などの発行する出資証券
* 受益証券
** 受益証券発行信託の受益証券([[信託法]])
** [[貸付信託]]の受益証券([[貸付信託法]])
** [[投資信託 (法律)|投資信託]]の受益証券(投信法)
** [[特定目的信託]]の受益証券(資産流動化法)
=== 金融商品取引法上の有価証券 ===
[[金融商品取引法]]上(以下金商法という)の有価証券は、同法2条1項及び2項に規定されており、第一項有価証券と第二項有価証券に分類される。旧証券取引法は米国の証券法及び証券取引所法を参考として立法されたものであり、米国法におけるsecuritiesに相当する。もっとも、米国とは違って、定義上、商法上の有価証券を出発点としている点や、明確化のため限定列挙とされているのが特徴である。私法上の有価証券やそれに類する証券又は証書をまずは有価証券と定義し、券面の発行されない権利についても有価証券とみなすという体裁を採っている点については、あまりに不自然であるなどの批判がある。
==== 第一項有価証券 ====
第一項有価証券とは、金商法2条1項に掲げられる有価証券又は同条2項の規定により有価証券とみなされる有価証券表示権利若しくは特定電子記録債権をいう(金商法2条3項)。
===== 金商法2条1項に掲げられる有価証券 =====
まず、金商法2条1項には、同項各号に掲げられた、[[券面]]の発行され比較的流通性の高い伝統的な有価証券(基本的には私法上の有価証券である)が同法における有価証券である旨規定されている。具体的には以下のとおり。
# [[日本国債|国債証券]]
# [[地方債|地方債証券]]
# 特別の法律により[[法人]]の発行する[[債券]]([[金融債]]の債券、[[独立行政法人国立病院機構|独立行政法人国立病院機構債券]]、[[日本原子力研究開発機構|日本原子力研究開発機構債券]]、[[放送債|放送債券]]、[[社会医療法人債]]、[[私学振興債券]]、[[沖縄振興開発金融公庫|沖縄振興開発金融公庫債券]]、[[預金保険機構|預金保険機構債]]の債券、[[銀行等保有株式取得機構|銀行等保有株式取得機構債]]の債券など)
# [[特定目的会社]]の[[特定社債|特定社債券]]
# [[社債|社債券]]([[相互会社]]の社債券を含む)
# [[特別の法律により設立された法人]]([[特殊法人]]、[[認可法人]]または[[独立行政法人]])の発行する出資証券(7、8及び11に掲げるものを除く)
# [[協同組織金融機関]]の[[優先出資|優先出資証券]]
# 特定目的会社の優先出資証券・[[新優先出資引受権|新優先出資引受権証券]]
# [[株式|株券]]・[[新株予約権|新株予約権証券]]
# [[投資信託]]・[[外国投資信託]]の受益証券
# [[投資証券]]・[[投資法人債|投資法人債券]]・[[外国投資証券]]
# [[貸付信託]]の[[受益証券]]
# [[特定目的信託]]の受益証券
# [[受益証券発行信託]]の受益証券([[日本預託証券|JDR]]など)
# [[コマーシャル・ペーパー]]
# 抵当証券
# [[外国]]又は外国の者の発行する証券又は証書で1から9まで又は12から16までに掲げる証券又は証書の性質を有するもの(18に掲げるものを除く。外国国債証券、外国社債券、外国株券、外国新株予約権証券など)
# 外国の者の発行する証券又は証書で銀行業を営む者その他の金銭の貸付けを業として行う者の貸付債権を信託する信託の受益権又はこれに類する権利を表示するもの
# [[カバード・ワラント]]
# 前各号に掲げる証券又は証書の預託を受けた者が当該証券又は証書の発行された国以外の国において発行する証券又は証書で、当該預託を受けた証券又は証書に係る権利を表示するもの(いわゆる[[預託証券]]。[[米国預託証券|ADR]]、EDR、GDRなど。)
# 以上に掲げるもののほか、流通性その他の事情を勘案し、公益又は投資者の保護を確保することが必要と認められるものとして政令で定める証券又は証書([[外国法人]]発行の[[譲渡性預金]](払戻しについて期限の定めがある預金で、[[指名債権]]でないもの。)の預金証書、及び指名債権でない[[学校債|学校債券]])
なお、[[医療機関債]]に係る「債券」は(金銭消費貸借契約の)証拠証券と解されているため、上記のいずれにも含まれない。
===== 金商法2条2項の規定により有価証券とみなされる有価証券表示権利 =====
金商法2条2項柱書では上記の有価証券のうち、
* 上記1から15までに掲げる有価証券、上記17に掲げる有価証券(16に掲げる有価証券の性質を有するものを除く)及び上記18に掲げる有価証券
* 上記16に掲げる有価証券、上記17に掲げる有価証券(上記16に掲げる有価証券の性質を有するものに限る)及び上記19から21までに掲げる有価証券であって[[内閣府令]](現在は空振り)で定めるもの
に表示されるべき権利(有価証券表示権利)は、有価証券表示権利について当該権利を表示する当該有価証券が発行されていない場合においても、当該権利を当該有価証券とみなすものとされている。
例えば、[[株式]]で株券の発行されていないものは株券とみなされ、[[社債]]で社債券の発行されていないものは社債券とみなされ、受益証券発行信託の[[信託|受益権]]で受益証券の発行されていないものは受益証券とみなされる。現在では、[[有価証券のペーパーレス化]]の進展により、実際に流通している第一項有価証券のほとんどは金商法2条2項により有価証券とみなされる有価証券表示権利である。
===== 金商法2条2項の規定により有価証券とみなされる特定電子記録債権 =====
さらに、金商法2条2項柱書では、[[電子記録債権]]のうち、流通性その他の事情を勘案し、社債券その他の1項各号に掲げる有価証券とみなすことが必要と認められるものとして政令(現在は空振り)で定めるもの(特定電子記録債権)は、当該電子記録債権を当該有価証券とみなすものとされている。
==== 第二項有価証券 ====
第二項有価証券とは、金商法2条2項の規定により有価証券とみなされる同項各号に掲げる権利をいう(金商法2条3項)。金商法2条2項柱書においては、同項各号に掲げられた、新たに設けられた類型の流通性の低いものが有価証券とみなされている。具体的には以下の通り。
# [[信託受益権]](第一項有価証券に該当するものを除く)
# 外国の者に対する権利で信託受益権の性質を有するもの(第一項有価証券に該当するものを除く)
# その[[社員]]のすべてが[[株式会社]]若しくは[[合同会社]]のいずれかに該当する[[合名会社]]の[[社員権]]、その無限責任社員のすべてが株式会社若しくは合同会社のいずれかに該当する[[合資会社]]の社員権、又は合同会社の社員権
# 外国法人の社員権で3.に掲げる権利の性質を有するもの
# [[集団投資スキーム]]持分([[任意組合]]や[[匿名組合]]、[[投資事業有限責任組合]]などを利用した[[投資ファンド]]の持分など)
# 外国集団投資スキーム持分([[ケイマン諸島|ケイマン]]籍[[リミテッド・パートナーシップ]]を利用した投資ファンドの持分など)
# 特定電子記録債権及び以上に掲げるもののほか、金商法2条1項に規定する有価証券及び以上に掲げる権利と同様の経済的性質を有することその他の事情を勘案し、有価証券とみなすことにより公益又は投資者の保護を確保することが必要かつ適当と認められるものとして政令で定める権利(貸付債権形態の学校債)
==== 有価証券に関する規制 ====
[[金融商品取引法]]を参照。
=== 刑法上の有価証券 ===
刑法においては、[[有価証券偽造罪|有価証券偽造等の罪]]が定められており、有価証券の偽造・変造やその行使などが処罰の対象とされている。
しかしながら、有価証券の意義については、条文上、「公債証書、官庁の証券、会社の株券」が例示されているに過ぎず、明文の定義はない。したがって、規定の趣旨に従って解釈がなされている。
判例によると、「財産上の権利が証券に表示され、その表示された権利の行使につきその証券の占有を必要とするもの」とされる(大判明治42・3・16刑録15輯261頁、最判昭和32・7・25刑集11巻7号2037頁、最決平成3・4・5刑集45巻4号171頁など)。また、日本国内で発行され、又は日本国内で流通するものに限られる(大判大正3・11・14刑録20輯2111頁)。私法上の有価証券とは異なって流通性は要求されない(前掲最判昭和32・7・25)。具体的には、[[乗車券]](普通、定期)、劇場の入場券、商品券、[[クーポン]]、[[タクシーチケット]]、[[宝くじ]]、[[競輪]]の[[車券]]、[[競馬]]の[[勝馬投票券]]などが含まれるとされる。
[[テレホンカード]]を含む[[プリペイドカード]]のように[[電磁的記録]]によるものが有価証券であるかについては事件ごとに判決が異なり、争いがあったが、最終的に示された判例ではテレホンカードについてこれを肯定し、有価証券偽造等の罪の対象となることを肯定した。その後[[2001年]](平成13年)の刑法改正により[[支払用カード電磁的記録に関する罪]]が新設されたため、現在は、本罪によって処罰されることとなる。
この他には握手会整理券が「ネットオークションで売買の対象とされている事から財産価値は明らかで有価証券と認められる」とした判例がある(東京地裁 [[2010年]](平成22年)8月25日)。
なお、刑法上の有価証券に該当しないものとしては、[[預金通帳|預貯金通帳]]や[[無記名定期預金]]証書や[[ゴルフクラブ]]入会保証金預託証書(いずれも証拠証券にすぎない。[[私文書偽造]]による処罰の対象)、下足札や手荷物預り証(いずれも免責証券にすぎない。私文書偽造等による処罰の対象)、印紙や郵便切手(いずれも金券。ただし、[[印紙犯罪処罰法]]や[[郵便法]]による処罰の対象)などがある。
=== 法人税法上の有価証券 ===
[[法人税法]]においては、以下のものが有価証券とされている(法人税法2条21号、法人税法施行令11条、法人税法施行規則8条の2の3)。ただし、自己が有する自己の株式又は出資及びデリバティブ取引(法人税法61条の5第1項)に係るものは除かれる。
*(金融商品取引法上の)[[第一項有価証券]]
* 譲渡性預金の預金証書([[外国法人]]が発行するものを除く)をもって表示される金銭債権
* 合名会社、合資会社又は合同会社の社員の持分、協同組合等の組合員又は会員の持分その他法人の出資者の持分
* 株主又は投資法人の投資主となる権利、協同組織金融機関の優先出資者となる権利、特定目的会社の特定社員又は優先出資社員となる権利その他法人の出資者となる権利
=== 民事訴訟法上の有価証券 ===
民事訴訟法においては、訴訟費用の担保のため、金銭又は有価証券の提供が求められることがある([[b:民事訴訟法第75条|民事訴訟法75条]]、[[b:民事訴訟法第76条|76条]])。ここでいう有価証券には、私法上の有価証券のほか、[[振替債]]が含まれる。
振替債とは、次の権利のうち、[[振替機関]]が取り扱うものをいう([[振替法]]278条1項)。
*社債(新株予約権付社債を除く)
*国債
*地方債
*投資法人債
*相互会社の社債
*特定社債(転換特定社債及び新優先出資引受権付特定社債を除く)
*特別の法律により法人の発行する債券(農林債の債券、独立行政法人国立病院機構債券、日本原子力研究開発機構債券、放送債券、社会医療法人債券、私学振興債券、沖縄振興開発金融公庫債券、預金保険機構債の債券、銀行等保有株式取得機構債の債券など)に表示されるべき権利
*投資信託又は外国投資信託の受益権
*貸付信託の受益権
*特定目的信託の受益権
*外国又は外国法人の発行する債券(新株予約権付社債券の性質を有するものを除く)に表示されるべき権利
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
<!--原則、発行年順としたい。-->
* {{Cite book|和書 |author=田邊光政|authorlink=田邊光政|title=最新手形法小切手法 3訂版|year=1990|publisher=[[中央経済社]]|isbn=978-4502709920|ref={{SfnRef|田邊|1990}}}}
* {{Cite book|和書 |author1=大塚龍児 |authorlink1=大塚龍児 |author2=林竧 |authorlink2=林竧 |author3=福瀧博之 |authorlink3=福瀧博之 |title=商法III 手形・小切手 第3版|year=2006|publisher=[[有斐閣]]|isbn=978-4641159174|ref={{SfnRef|大塚・林・福瀧(2006)}}}}
* {{Cite journal|和書 |author=田邊宏康 |authorlink=田邊宏康 |doi=10.34360/00006134 |title=改正民法における有価証券について |year=2017|journal=専修法学論集 |publisher=[[専修大学]]法学会 |volume=130 |ref={{SfnRef|田邊|2017}}}}
* {{Cite book|和書 |author=川村正幸|authorlink=川村正幸|title=手形・小切手法 第4版|year=2018|publisher=[[新世社]]|isbn=978-4883842810|ref={{SfnRef|川村|2018}}}}
== 関連項目 ==
{{Div col}}
* [[証券]]
* [[有価証券報告書]]
* [[除権決定]]
* [[有価証券偽造罪]]
* [[有価証券のペーパーレス化]]
* [[プリペイドカード]]
* [[優先出資証券]]
* [[不動産担保証券]]
* [[証券取引等監視委員会]]
{{Div col end}}
== 外部リンク ==
{{wiktionary}}
{{commonscat}}
* {{kotobank}}
* [https://www.nta.go.jp/law/shitsugi/inshi/19/09.htm 有価証券の範囲] - 日本の[[国税庁]]による有価証券の範囲
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ゆうかしようけん}}
[[Category:有価証券|*]]
[[Category:財]]
[[Category:私法]]
[[Category:刑法]]
[[Category:日本の有価証券法]]
[[Category:金融商品取引法]]
[[Category:日本の刑法]]
[[Category:日本の税法]]
[[Category:民事訴訟法]] | 2003-05-16T20:06:51Z | 2023-09-27T20:16:28Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E4%BE%A1%E8%A8%BC%E5%88%B8 |
8,385 | アメリカ軍 | アメリカ軍(アメリカぐん、英語: United States Armed Forces、別名:合衆国軍、米軍)は、アメリカ合衆国が保有する軍隊。陸軍・海軍・空軍・海兵隊・宇宙軍の5軍種からなる常備軍と、平時は海上警備を主とした法執行機関としての役割もある沿岸警備隊を含めた6つの軍種からなっており、これらはいずれも8つの武官組織に含まれる。陸軍・空軍については普段からアメリカ合衆国連邦政府の指揮下にある連邦軍と、州知事の指揮下にあり必要に応じて連邦軍に編入される州兵がある。なお各州政府の州防衛軍は連邦政府の指揮下に入らない為、通常アメリカ軍に含まない。軍の最高司令官は大統領であり、連邦行政部のうちの国防総省と国土安全保障省と共に軍事政策を決定する。
アメリカ軍はその発足以来同国の歴史において決定的な役割を果たしてきた。第一次バーバリ戦争と第二次バーバリ戦争での勝利の結果として、国民の統一とアイデンティティの感覚が生成された。それはアメリカ南北戦争において重要な役割を果たし、アメリカの軍隊としての役割を果たし続けたが、その多くの将校が南軍の分離主義軍に加わることを拒絶した。1947年9月に採択された国家安全保障法は、現代のアメリカ軍の枠組みを構築した。この法律は国防長官が率いる国家軍事施設(National Military Establishment)を設立し、空軍省と国家安全保障会議を設立した。1949年8月の法改正で国家軍事施設は国防総省に改名され、内閣レベルの陸軍省・海軍省・空軍省が国防総省に統合された。
アメリカ軍は人員の面で最大の軍隊の一つである。有給の志願兵の大規模な人員から兵士を構成している。徴兵制度は1861年から実施されていたが1973年のベトナム戦争終結で停止となった。現在はセレクティブ・サービス・システム(選抜徴兵登録制度)が設けられており、18歳から25歳までのアメリカ国籍を持つ男性はセレクティブサービスに登録し、訓練を受ける義務がある。
アメリカ軍は世界で最も強力な軍隊と見なされている。同国の軍事予算(2022年度)は8,769億米ドルであり、世界の軍事費シェアの39.1%を占め世界最大である。アメリカ軍は予算が巨額な為、防衛と戦力投射の両方に重要な能力を備えており、国外の約800の軍事基地を含む世界中に軍を広範囲に配備できる高度で強力な技術力を創出している。アメリカ空軍は世界最大の空軍であり、アメリカ海軍はトン数で世界最大の海軍であり、アメリカ海軍とアメリカ海兵隊を合わせると世界で2番目に大きい航空戦力である。規模の面ではアメリカ沿岸警備隊は世界で12番目に大きい海上戦力である。ちなみに2019年の会計年度現在の軍事備蓄で保有する航空機数は14,061機である。
アメリカ軍は文民統制の下に、大統領が最高司令官であり、同じく文民かつ大統領顧問団の閣僚である国防長官が大統領を補佐し、国防総省を統括する。
部隊の作戦指揮は大統領から国防長官を通じ、地域別及び機能別の各統合軍司令官に直接伝達される。統合参謀本部(JCS)は、作戦指揮命令系統に入っておらず、軍事的な助言や作戦計画の立案や兵站要求など参謀としての業務に携わっている。なお陸海軍及び民兵団の編成権・軍律制定権・戦争宣言の権限は連邦議会が有している。
アメリカ軍は次の6つの軍種からなる。そのうち国土安全保障省に属する沿岸警備隊を除く5軍は国防総省の管轄下に属し、アメリカ合衆国大統領の指揮統制下にある。
各軍は部隊の編成・維持・訓練が中心となっており、各統合軍に部隊を拠出する責任を負っている。陸軍は陸軍省、海軍・海兵隊は海軍省、空軍・宇宙軍は空軍省が軍政を司る。指揮命令系統において、海軍と海兵隊の間・空軍と宇宙軍の間に上下関係は無い。有事においては沿岸警備隊も海軍省の管轄となり、海軍に準じた扱いがなされる。なお5軍の部隊の作戦指揮は統合軍が管轄する。
米軍の運用は、軍種ごとではなく、軍種横断的に編成された統合軍(Unified Combatant Command)の指揮のもとで行われており、統合軍は、地域によって編成された7つの地域統合軍と、機能によって編成された4つの機能統合軍から構成されている。
それぞれの統合軍に属する陸海空軍及び海兵隊部隊を1人の統合軍司令官が運用するという編制は統合作戦の円滑な遂行と軍事学的な指揮統一の原則を同時に達成するためである。
アメリカは米ソ冷戦における安全保障政策を受けて、多くの国家(国防総省が公表しているだけで170か国以上、内大規模基地を置くのは約60か国)に現在も軍部隊を駐留させている。防衛条約並びに協定によってアメリカ軍が常時駐留している国家は以下の通り(2022年3月31日現在)。〔〕内数値は駐留兵力を示す。
あくまでも施設の維持や連絡要員・駐在武官として常駐している人数である為、特殊部隊や作戦行動中の数を含むと実数はこれよりも多い可能性がある。近年は大規模な恒久基地ではなく特殊任務に特化した小規模基地を中心に展開している為、駐留人数は少数(数十~数百人、一桁の場合も)傾向にある(通称:リリー・パッド戦略)。
基地の兵士が地元商店街の客層となり、また地元住民が基地の従業員として雇用されるなど、経済的に重要な存在になっている場合も多い。
1950年以降各軍独自の公式記念日は廃止され、5月の第3土曜日の軍隊記念日 (Armed Forces Day) に統合された。 | [
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"text": "アメリカ軍(アメリカぐん、英語: United States Armed Forces、別名:合衆国軍、米軍)は、アメリカ合衆国が保有する軍隊。陸軍・海軍・空軍・海兵隊・宇宙軍の5軍種からなる常備軍と、平時は海上警備を主とした法執行機関としての役割もある沿岸警備隊を含めた6つの軍種からなっており、これらはいずれも8つの武官組織に含まれる。陸軍・空軍については普段からアメリカ合衆国連邦政府の指揮下にある連邦軍と、州知事の指揮下にあり必要に応じて連邦軍に編入される州兵がある。なお各州政府の州防衛軍は連邦政府の指揮下に入らない為、通常アメリカ軍に含まない。軍の最高司令官は大統領であり、連邦行政部のうちの国防総省と国土安全保障省と共に軍事政策を決定する。",
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"text": "部隊の作戦指揮は大統領から国防長官を通じ、地域別及び機能別の各統合軍司令官に直接伝達される。統合参謀本部(JCS)は、作戦指揮命令系統に入っておらず、軍事的な助言や作戦計画の立案や兵站要求など参謀としての業務に携わっている。なお陸海軍及び民兵団の編成権・軍律制定権・戦争宣言の権限は連邦議会が有している。",
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},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "アメリカ軍は次の6つの軍種からなる。そのうち国土安全保障省に属する沿岸警備隊を除く5軍は国防総省の管轄下に属し、アメリカ合衆国大統領の指揮統制下にある。",
"title": "機構"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "各軍は部隊の編成・維持・訓練が中心となっており、各統合軍に部隊を拠出する責任を負っている。陸軍は陸軍省、海軍・海兵隊は海軍省、空軍・宇宙軍は空軍省が軍政を司る。指揮命令系統において、海軍と海兵隊の間・空軍と宇宙軍の間に上下関係は無い。有事においては沿岸警備隊も海軍省の管轄となり、海軍に準じた扱いがなされる。なお5軍の部隊の作戦指揮は統合軍が管轄する。",
"title": "機構"
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"text": "米軍の運用は、軍種ごとではなく、軍種横断的に編成された統合軍(Unified Combatant Command)の指揮のもとで行われており、統合軍は、地域によって編成された7つの地域統合軍と、機能によって編成された4つの機能統合軍から構成されている。",
"title": "機構"
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"text": "それぞれの統合軍に属する陸海空軍及び海兵隊部隊を1人の統合軍司令官が運用するという編制は統合作戦の円滑な遂行と軍事学的な指揮統一の原則を同時に達成するためである。",
"title": "機構"
},
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"text": "アメリカは米ソ冷戦における安全保障政策を受けて、多くの国家(国防総省が公表しているだけで170か国以上、内大規模基地を置くのは約60か国)に現在も軍部隊を駐留させている。防衛条約並びに協定によってアメリカ軍が常時駐留している国家は以下の通り(2022年3月31日現在)。〔〕内数値は駐留兵力を示す。",
"title": "駐留国"
},
{
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"text": "あくまでも施設の維持や連絡要員・駐在武官として常駐している人数である為、特殊部隊や作戦行動中の数を含むと実数はこれよりも多い可能性がある。近年は大規模な恒久基地ではなく特殊任務に特化した小規模基地を中心に展開している為、駐留人数は少数(数十~数百人、一桁の場合も)傾向にある(通称:リリー・パッド戦略)。",
"title": "駐留国"
},
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"text": "基地の兵士が地元商店街の客層となり、また地元住民が基地の従業員として雇用されるなど、経済的に重要な存在になっている場合も多い。",
"title": "駐留国"
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"text": "1950年以降各軍独自の公式記念日は廃止され、5月の第3土曜日の軍隊記念日 (Armed Forces Day) に統合された。",
"title": "各軍記念日"
}
] | アメリカ軍は、アメリカ合衆国が保有する軍隊。陸軍・海軍・空軍・海兵隊・宇宙軍の5軍種からなる常備軍と、平時は海上警備を主とした法執行機関としての役割もある沿岸警備隊を含めた6つの軍種からなっており、これらはいずれも8つの武官組織に含まれる。陸軍・空軍については普段からアメリカ合衆国連邦政府の指揮下にある連邦軍と、州知事の指揮下にあり必要に応じて連邦軍に編入される州兵がある。なお各州政府の州防衛軍は連邦政府の指揮下に入らない為、通常アメリカ軍に含まない。軍の最高司令官は大統領であり、連邦行政部のうちの国防総省と国土安全保障省と共に軍事政策を決定する。 | {{Infobox 国軍
|国 = {{USA}}
|名前 = アメリカ軍
|各国語表記 = {{en|United States Armed Forces}}
|画像 = [[File:Military service mark of the United States Army.svg|80px]] [[File:Emblem of the United States Marine Corps.svg|80px]] [[File:Emblem of the United States Navy.svg|80px]]<br />[[File:Military service mark of the United States Air Force.svg|80px]] [[File:Seal of the United States Space Force.svg|78px]] [[File:Seal of the United States Coast Guard.svg|80px]]
|画像説明 = 6軍の[[エンブレム]]
|画像2 =
|画像説明2 =
|創設 = {{start date and years ago|df=yes|1775|06|14}}
|再組織 =
|解散 =
|派生組織 =
{{Collapsible list
|framestyle=border:none; padding:0;
|title =
|titlestyle=center
|liststyle=|[[File:Flag of the United States Army.svg|30px]] [[アメリカ陸軍]]<br />[[File:Flag of the United States Navy.svg|30px]] [[アメリカ海軍]]<br />[[File:Flag of the United States Air Force.svg|30px]] [[アメリカ空軍]]<br />[[File:Flag of the United States Marine Corps.svg|30px]] [[アメリカ海兵隊]]<br />[[File:Flag of the United States Coast Guard.svg|30px]] [[アメリカ沿岸警備隊]]<br/>{{Flagicon image|Flag of the United States Space Force.svg|35px}} [[アメリカ宇宙軍]]
}}
|本部 =
|最高司令官 = [[ジョー・バイデン]](第46代)
|最高司令官名 = [[アメリカ合衆国大統領|大統領]]
|国防大臣= [[ロイド・オースティン]]
|国防大臣名 = [[アメリカ合衆国国防長官|国防長官]]
|参謀長 = 第20代<br>[[マーク・ミリー|マーク・A・ミリー]]<br>[[アメリカ陸軍|陸軍]][[大将]]
|参謀長名 = [[アメリカ統合参謀本部議長|統合参謀本部議長]]
|徴兵制度 = あり(男性と一部の女性に、軍隊への{{仮リンク|アメリカ合衆国における徴兵制度|label=選抜登録|en|Conscription in the United States}}が義務付けられている)<br />
{{Collapsible list
|framestyle=border:none; padding:0;
|title =
|titlestyle=center
|liststyle=|下限兵役適齢:<br />17歳(保護者の同意あり)、<br />18歳(当人の意思のみ){{efn|初回兵役可能年齢の上限は陸軍が35歳<ref name="goarmy.com">{{cite web|title=United States Army|url=http://www.goarmy.com/about/service-options/enlisted-soldiers-and-officers/enlisted-soldier.html|website=Goarmy.com|accessdate=18 June 2013|deadurl=yes|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130629172147/http://www.goarmy.com/about/service-options/enlisted-soldiers-and-officers/enlisted-soldier.html|archivedate=29 June 2013|df=dmy-all}}</ref>、海兵隊は28歳、海軍は34歳、空軍は39歳<ref>{{cite web|url=http://www.airforce.com/contact-us/faq/eligibility/#what-cut-off-age|title=Contact Us: Frequently Asked Questions - airforce.com|work=airforce.com|accessdate=1 April 2015|archive-url=https://web.archive.org/web/20150420232249/http://www.airforce.com/contact-us/faq/eligibility/#what-cut-off-age|archive-date=20 April 2015|dead-url=no|df=dmy-all}}</ref>、沿岸警備隊は27歳<ref name=USCGcareers>{{cite web|title=Plan Your Next Move to Become a Coast Guard Member|url=http://www.gocoastguard.com/active-duty-careers/enlisted-opportunities/plan-your-next-move|work=Enlisted Opportunities|publisher=U.S. Coast Guard|accessdate=27 April 2014|archive-url=https://web.archive.org/web/20140428023201/http://www.gocoastguard.com/active-duty-careers/enlisted-opportunities/plan-your-next-move|archive-date=28 April 2014|dead-url=no|df=dmy-all}}</ref>。}}<br />
情報年度:2016年度<br />
適用年齢:18歳 - 25歳<br />
適齢総数:1700万人<ref>{{cite web |title=QUICK FACTS AND FIGURES |url=https://www.sss.gov/About/Quick-Facts-and-Figures |publisher=Selective Service System |accessdate=6 November 2018 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180612141339/https://www.sss.gov/About/Quick-Facts-and-Figures |archivedate=12 June 2018}}</ref><br />
年間適齢到達人数:200万人<ref>{{cite web |title=Number of births in the United States from 1990 to 2016 (in millions) |url=https://www.statista.com/statistics/195908/number-of-births-in-the-united-states-since-1990/ |website=Statista |accessdate=6 November 2018 |date=2018 |archive-url=https://web.archive.org/web/20181107104044/https://www.statista.com/statistics/195908/number-of-births-in-the-united-states-since-1990/ |archive-date=7 November 2018 |dead-url=no |df=dmy-all }}</ref><br />
現役軍人数:135万9450人{{sfn|IISS|2019|p=47}}<br />
予備役:84万5600人{{sfn|IISS|2019|p=47}}<br />
配備:21万人<br />
順位:世界第3位
}}
|国内活動 =
|国外活動 =
|軍事費 = [[:en:Military budget of the United States|7301億4900万米ドル (2019年)]]<ref name="NATO"/> ([[:en:List of countries by military expenditures|世界第1位]])
|軍事費/GDP = 3.42%(2019年)<ref name="NATO">{{cite web |title=Defence Expenditure of NATO Countries (2012-2019) |url=https://www.nato.int/nato_static_fl2014/assets/pdf/pdf_2019_06/20190625_PR2019-069-EN.pdf|date=25 June 2019|publisher=NATO Public Diplomacy Division|access-date=18 July 2019}}</ref>
|国内供給 =
{{Collapsible list
|framestyle=border:none; padding:0;
|title =
|titlestyle=center
|liststyle=|{{仮リンク|アメリカ合衆国の国防請負企業一覧|label='''リスト'''|en|List of United States defense contractors}}:<br>[[ボーイング]]<br />[[ジェネラル・ダイナミクス]]<br />[[ロッキード・マーティン]]<br />[[ノースロップ・グラマン]]<br />[[ユナイテッド・テクノロジーズ]]<br />[[ハネウェル]]<br />など
}}
|国外供給 =
|輸入 =
|輸出 =
<!-- 関連リンク -->
|歴史 =
{{Collapsible list
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|title = {{仮リンク|アメリカ合衆国の軍事史|lable='''アメリカ合衆国の軍事史'''|en|Military history of the United States}}
|titlestyle=center
|liststyle=|<br />[[アメリカ独立戦争]]<br />[[ウィスキー税反乱]]<br />[[インディアン戦争]]<br />[[バーバリ戦争]]<br />[[米英戦争]]<br />[[西インド諸島海賊掃討作戦]]<br />[[米墨戦争]]<br />[[ユタ戦争]]<br />[[レフォルマ戦争]]<br />[[南北戦争]]<br />[[下関戦争]]<br />[[辛未洋擾]]<br />[[米西戦争]]<br />[[第二次サモア内戦]]<br />[[米比戦争]]<br />[[義和団の乱]]<br />[[アメリカ合衆国によるハイチ共和国占領]]<br />[[アメリカ合衆国によるドミニカ共和国占領 (1916年-1924年) |アメリカ合衆国によるドミニカ共和国占領]]<br />[[第一次世界大戦]]<br />[[ロシア内戦]]<br />[[シベリア出兵]]<br />[[バナナ戦争]]<br />[[第二次世界大戦]]<br />[[冷戦]]<br />[[台湾海峡危機]]<br />[[朝鮮戦争]]<br />[[アメリカ軍によるドミニカ共和国占領 (1965年-1966年)|アメリカ合衆国によるドミニカ共和国占領]]<br />[[ベトナム戦争]]<br />[[グレナダ侵攻]]<br />[[リビア爆撃 (1986年)]]<br />[[パナマ侵攻]]<br />[[ソマリア内戦]]<br />[[湾岸戦争]]<br />[[コソボ紛争]]<br />[[アフガニスタン紛争 (2001年-2021年)|2001年アフガニスタン紛争]]<br />[[不朽の自由作戦]]<br />[[イラク戦争]]<br />[[2011年リビア内戦]]<br />[[フィリピンにおける不朽の自由作戦]]<br />[[シリア内戦]]<br />[[生来の決意作戦]]<br />[[アフガニスタン紛争 (2001年-2021年)|アフガニスタン紛争 (2015年–2021年)]]<br />[[シャイラト空軍基地攻撃]]
}}
|順位 = [[アメリカ軍の階級]]
}}
[[File:Space Force Leader to Become 8th Member of Joint Chiefs (3).jpg|thumb|[[2020年]]の[[アメリカ統合参謀本部|統合参謀本部]]]]
'''アメリカ軍'''(アメリカぐん、{{lang-en|United States Armed Forces}}<ref>As stated on the [http://www.navy.mil/submit/view_styleguide.asp?sort=A official U.S. Navy website] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110629064644/http://www.navy.mil/submit/view_styleguide.asp?sort=A |date=29 June 2011 }}, "armed forces" is capitalized when preceded by "United States" or "U.S.".</ref>、別名:'''合衆国軍'''、'''米軍''')は、[[アメリカ合衆国]]が保有する[[軍隊]]。[[アメリカ陸軍|陸軍]]・[[アメリカ海軍|海軍]]・[[アメリカ空軍|空軍]]・[[アメリカ海兵隊|海兵隊]]・[[アメリカ宇宙軍|宇宙軍]]の5[[軍種]]からなる[[常備軍]]と<ref>{{Cite web|和書|url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E7%B1%B3%E8%BB%8D/#jn-198099|title=米軍(べいぐん)の意味|publisher=goo国語辞書|accessdate=2020-11-06}}</ref>、平時は海上警備を主とした法執行機関としての役割もある[[アメリカ沿岸警備隊|沿岸警備隊]]を含めた6つの軍種からなっており、これらはいずれも[[アメリカ合衆国武官組織|8つの武官組織]]に含まれる{{efn|[[武官]]([[士官]]のみ)から構成され、[[将官]]・[[佐官]]・[[尉官]]の[[軍隊の階級|階級]]が定められている組織である。6軍種の他に[[アメリカ合衆国商務省|商務省]]の[[アメリカ海洋大気庁|海洋大気局]]所属の[[アメリカ海洋大気庁士官部隊|海洋大気局士官部隊]]({{en|National Oceanic and Atmospheric Administration Commissioned Corps}})と[[アメリカ公衆衛生局|公衆衛生局]]傘下の[[アメリカ公衆衛生局士官部隊|公衆衛生局士官部隊]]({{en|United States Public Health Service Commissioned Corps}})があり、この2つの組織は共に海軍・沿岸警備隊と同様の階級(「中将 - {{en|Vice Admiral}}」など)および制服(冬服 - 黒色 / 夏服 - 白色)が定められ、6軍と同様に[[ジュネーヴ条約]]による傷病者・[[捕虜]]としての保護の対象となる<ref name="USC10-101"/>。}}<ref name="USC10-101">{{合衆国法典|10|101}}</ref><ref>{{uscsub|10|101|a|4}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.defense.gov/explore/story/Article/2046035/trump-signs-law-establishing-us-space-force/|title=Trump Signs Law Establishing U.S. Space Force|website=U.S. DEPARTMENT OF DEFENSE|language=en-US|access-date=2019-12-21}}</ref>。陸軍・空軍については普段から[[アメリカ合衆国連邦政府]]の指揮下にある[[連邦軍]]と、州知事の指揮下にあり必要に応じて連邦軍に編入される[[州兵]]がある。なお各州政府の[[州防衛軍]]は連邦政府の指揮下に入らない為、通常アメリカ軍に含まない。軍の最高司令官は[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]であり、[[アメリカ合衆国連邦行政部|連邦行政部]]のうちの[[アメリカ国防総省|国防総省]]と[[アメリカ合衆国国土安全保障省|国土安全保障省]]と共に軍事政策を決定する。
== 概要 ==
アメリカ軍はその発足以来[[アメリカ合衆国の歴史|同国の歴史]]において決定的な役割を果たしてきた。[[第一次バーバリ戦争]]と[[第二次バーバリ戦争]]での勝利の結果として、国民の統一とアイデンティティの感覚が生成された。それは[[アメリカ南北戦争]]において重要な役割を果たし、アメリカの軍隊としての役割を果たし続けたが、その多くの将校が[[:en:Military forces of the Confederate States|南軍]]の分離主義軍に加わることを拒絶した。1947年9月に採択された[[国家安全保障法]]は、現代のアメリカ軍の枠組みを構築した。この法律は国防長官が率いる[[アメリカ国防総省|国家軍事施設]]({{en|National Military Establishment}})を設立し、[[アメリカ合衆国空軍省|空軍省]]と[[アメリカ国家安全保障会議|国家安全保障会議]]を設立した。1949年8月の法改正で国家軍事施設は国防総省に改名され、内閣レベルの陸軍省・海軍省・空軍省が国防総省に統合された。
アメリカ軍は人員の面で最大の軍隊の一つである。有給の[[志願兵]]の大規模な人員から兵士を構成している。[[徴兵制度]]は1861年から実施されていたが1973年のベトナム戦争終結で停止となった。現在は[[セレクティブ・サービス・システム]](選抜徴兵登録制度)が設けられており、18歳から25歳までのアメリカ国籍を持つ男性はセレクティブサービスに登録し、訓練を受ける義務がある<ref>{{Cite web |title=徴兵制度 - アメリカンセンターJAPAN |url=https://americancenterjapan.com/aboutusa/faq/faq-category/draft-system/ |website=americancenterjapan.com |access-date=2023-11-05}}</ref>。
アメリカ軍は[[軍隊#軍事ランキング|世界で最も強力な軍隊]]と見なされている<ref name="CreditSuisse2015">{{cite report|url=http://publications.credit-suisse.com/tasks/render/file/index.cfm?fileid=EE7A6A5D-D9D5-6204-E9E6BB426B47D054|title=The End of Globalization or a more Multipolar World?|publisher=[[Credit Suisse]] AG|first1=Michael|last1=O’Sullivan|first2=Krithika|last2=Subramanian|date=2015-10-17|accessdate=2017-07-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180215235711/http://publications.credit-suisse.com/tasks/render/file/index.cfm?fileid=EE7A6A5D-D9D5-6204-E9E6BB426B47D054|archivedate=15 February 2018|url-status=dead}}</ref>。同国の軍事予算(2022年度)は8,769億米ドルであり、世界の軍事費シェアの39.1%を占め世界最大である<ref>{{Cite web |title=アメリカ合衆国と中国だけで全世界の軍事費の半分以上…主要国の軍事費最新情報(2023年公開版)(不破雷蔵) - エキスパート |url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/9a5126e75103203cbdb6afb83720d030b0556ad8 |website=Yahoo!ニュース |access-date=2023-11-05 |language=ja}}</ref>。アメリカ軍は予算が巨額な為、防衛と[[戦力投射]]の両方に重要な能力を備えており、国外の約800の軍事基地を含む世界中に軍を広範囲に配備できる高度で強力な技術力を創出している<ref>{{cite web|url=http://www.acq.osd.mil/ie/download/bsr/CompletedBSR2015-Final.pdf|title=Wayback Machine|date=5 September 2015|accessdate=18 October 2017|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150905060541/http://www.acq.osd.mil/ie/download/bsr/CompletedBSR2015-Final.pdf|archivedate=5 September 2015|df=dmy-all}}</ref>。アメリカ空軍は世界最大の空軍であり、アメリカ海軍は[[トン数]]で世界最大の海軍であり、アメリカ海軍とアメリカ海兵隊を合わせると世界で2番目に大きい航空戦力である。規模の面ではアメリカ沿岸警備隊は世界で12番目に大きい海上戦力である<ref>{{cite web|title=Coast Guard Organization and Administration, Chapter One|url=http://www.uscg.mil/INTERNATIONAL/affairs/Publications/MMSCode/english/Chap1.htm|accessdate=7 October 2013|archive-url=https://web.archive.org/web/20131103063142/http://www.uscg.mil/INTERNATIONAL/affairs/Publications/MMSCode/english/Chap1.htm|archive-date=3 November 2013|url-status=live|df=dmy-all}}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.rd.com/culture/america-fascinating-facts/ |title='15 Fascinating Facts You Never Learned About America' – Reader's digest |publisher=rd.com |access-date=11 April 2017 |archive-url=https://web.archive.org/web/20170401223607/http://www.rd.com/culture/america-fascinating-facts/ |archive-date=1 April 2017 |url-status=live |df=dmy-all }}</ref>。ちなみに2019年の会計年度現在の軍事備蓄で保有する航空機数は14,061機である<ref>{{Cite web|url=https://apps.dtic.mil/dtic/tr/fulltext/u2/1062648.pdf|title=Annual Aviation Inventory and Funding Plan Fiscal Years (FY) 2019-2048|accessdate=2020-07-19}}</ref>。
== 歴史 ==
=== 18世紀以前 ===
: [[1775年]]
::[[アメリカ独立戦争]]に際し軍隊の編成が急務となり、[[大陸会議|第2次大陸会議]]により陸海海兵の3軍が編成された。
:: [[6月14日]] - [[大陸軍 (アメリカ)|大陸軍]]が設立される。
:: [[10月13日]] - [[大陸海軍]]が設立される。
:: [[11月10日]] - [[大陸海兵隊]]が設立される。
: 1783年11月3日 - 独立戦争に勝利したことで小規模な警備部隊を残し大陸軍部隊の多くが解散される。
: 1784年6月3日 - 大陸会議の決議により常備陸軍として[[アメリカ陸軍]]が設立される。
: 1790年8月4日 - [[アメリカ沿岸警備隊]]の前身となる税関監視艇部が設立される。
: 1792年5月2日 - 1792年民兵法{{enlink|Militia Acts of 1792}}により、民兵組織だった[[州兵]]の位置付けが明確化された。
: 1794年3月27日 - フランスの[[私掠船]]から商船を守るため常備海軍の設置が決定され[[アメリカ海軍]]が設立される。
: 1798年7月11日 - [[擬似戦争]]により[[アメリカ海兵隊]]が設立され4軍体制となる。
=== 19世紀 ===
: 1817年4月 - [[米英戦争の結果|1812年戦争]]の結果としてアメリカ・イギリス・[[カナダの歴史#英領カナダ|イギリス領カナダ]]との間で、軍縮協定である[[ラッシュ・パゴット協定]]が締結された。
=== 20世紀 ===
: [[1907年]][[8月1日]] - [[気球]]や[[飛行船]]を運用するため初の航空機部門である{{仮リンク|アメリカ陸軍信号隊航空機部門|label=陸軍信号隊航空機部門|en|Aeronautical Division, U.S. Signal Corps}}が創設された。
: 1945年9月の[[第二次世界大戦]]終結後は[[核兵器]]の保有と戦力の充実により、[[ソビエト連邦軍]]との2大勢力となった。
: [[1947年]][[9月18日]] - [[アメリカ陸軍航空軍]]が改組され、[[アメリカ空軍]]が正式に発足して現在の5軍体制となる。
: 1985年9月23日 - [[アメリカ宇宙コマンド|アメリカ宇宙軍]]が設立(2002年に戦略軍へ統合)
: 1992年6月1日 - [[アメリカ戦略軍]]が設立。
=== 21世紀 ===
:1991年12月の[[ソビエト連邦の崩壊]]・実戦経験・ハイテク兵器などにより規模・質共に他国を圧倒する存在となったが、パイロットなど高度な人材の不足が深刻化しており、アメリカ軍を描いた映画の撮影に協力するなど志願者の獲得に努めている<ref name=wor1806040009>[https://www.sankei.com/article/20180604-YLMVHVOR7FPHZEKIVDQ43PF6VU/ 米映画「トップガン」続編の制作開始で海軍と空軍が「舌戦」 宣材写真の戦闘機めぐり性能論争] - [[産経デジタル|産経ニュース]]</ref>。
: 2009年 - [[サイバー戦争]]への対応を強化するため[[アメリカサイバー軍]]を設立。
: 2011年9月20日 - [[同性愛者]](男性:[[ゲイ]]、女性:[[レズビアン]])であることを公言して軍務に就くことを禁じた軍務規定が撤廃された<ref>{{cite news |language = | author =| url =https://www.afpbb.com/articles/-/2829520?pid=7808219| title =
米軍の同性愛者入隊規制、撤廃される
| publisher =| date= 2011-9-21| accessdate =2013-1-24}}</ref>。
:2016年1月、アメリカ軍内のすべての軍事的職業を女性に解放した<ref>{{cite news|url=https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2016/07/post-5412.php|title=米軍は5年前、女性兵だけの特殊部隊をアフガンに投入していた|newspaper=|publisher=|date=2016-07-01|accessdate=2020-07-24}}</ref>
: 2018年1月1日から[[トランスジェンダー]]の志願者の入隊を受け付ける<ref>[https://finance.yahoo.com/news/transgender-people-enlist-military-jan-181029241.html?soc_trk=gcm&soc_src=d2d2ab95-084f-340a-8e4e-6f5012fc5c36&.tsrc=notification-brknews Transgender People Can Enlist in Military Jan. 1, Pentagon Says]</ref>。
: 2019年8月29日 - [[統合軍 (アメリカ軍)|統合軍]]の一つとして[[アメリカ宇宙コマンド|アメリカ宇宙軍]](軍種の設立による混同を避けるため現在はアメリカ宇宙コマンドと訳される)が再度設立<ref>{{Cite news | url = https://web.archive.org/web/20200722083141/https://www.jiji.com/jc/article?k=2019083000262 | title = 米宇宙軍、正式に発足=司令官「対中ロで優勢維持」 | agency = 時事通信社 | date = 2019-8-30 }}</ref><ref>{{Cite news | url = https://www.cnn.co.jp/usa/35141982.html | title = 米宇宙軍、正式に発足 トランプ大統領が発表 | newspaper = CNN | date = 2019-8-30 }}</ref><ref>{{Cite news | url = https://www.yomiuri.co.jp/world/20190830-OYT1T50167/ | title = 米宇宙軍、統合軍として発足…中露の抑止狙う | newspaper = 読売新聞 | date = 2019-8-30 }}</ref><ref>{{Cite news | url = https://www.sankei.com/article/20190830-362D7PMNWFPLTD4EXW57L3XEDI/ | title = 米国防総省が「宇宙統合軍」を発足 宇宙空間で中露に対抗 | newspaper = 産経新聞 | date = 2019-8-30 }}</ref>。
: 2019年12月20日 - 大統領[[ドナルド・トランプ]]は20日、アメリカ議会で可決された2020会計年度の国防権限法案に署名し、陸軍や海軍などと同格の軍種の一つとして[[アメリカ宇宙軍|宇宙軍]]を創設する法律が成立した。人員は約1万6000人、予算総額は7380億ドル<ref>{{Cite news | url = https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191221/amp/k10012223811000.html | title = トランプ大統領 「宇宙軍」創設 陸軍や海軍などと同格 | agency = NHK | date = 2019-12-21 }}</ref><ref>{{Cite news | url = https://this.kiji.is/580930430141154401?c=39546741839462401 | title = 米宇宙軍が発足、陸海空と並ぶ、軍拡競争激化の恐れ | agency = 共同通信社 | date = 2019-12-21 }}</ref>。
== 機構 ==
アメリカ軍は[[文民統制]]の下に、[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]が最高司令官であり<ref>[[アメリカ合衆国憲法|憲法]]第2章第32条</ref>、同じく文民かつ[[アメリカ合衆国大統領顧問団|大統領顧問団]]の閣僚である[[アメリカ合衆国国防長官|国防長官]]が大統領を補佐し、[[アメリカ国防総省|国防総省]]を統括する。
部隊の作戦指揮は大統領から国防長官を通じ、地域別及び機能別の各[[統合軍 (アメリカ軍)|統合軍]]司令官に直接伝達される<ref name="USC10-162">{{合衆国法典|10|162}}</ref>。[[アメリカ統合参謀本部|統合参謀本部]](JCS)は、作戦指揮命令系統に入っておらず、軍事的な助言や作戦計画の立案や兵站要求など[[参謀]]としての業務に携わっている。なお陸海軍及び民兵団の編成権・軍律制定権・戦争宣言の権限は連邦議会が有している<ref>[[アメリカ合衆国憲法|憲法]]第1章第8条</ref>。
=== 軍種 ===
アメリカ軍は次の6つの軍種からなる<ref name="USC10-101"/>。そのうち[[アメリカ合衆国国土安全保障省|国土安全保障省]]に属する沿岸警備隊を除く5軍は[[アメリカ国防総省|国防総省]]の管轄下に属し、アメリカ合衆国大統領の指揮統制下にある。
各軍は部隊の編成・維持・訓練が中心となっており、各統合軍に部隊を拠出する責任を負っている。陸軍は[[アメリカ合衆国陸軍省|陸軍省]]<ref name="USC10-3013-3014">{{合衆国法典|10|3013|3014}}</ref>、海軍・海兵隊は[[アメリカ合衆国海軍省|海軍省]]<ref name="USC10-5013-5014">{{合衆国法典|10|5013|5014}}</ref>、空軍・宇宙軍は[[アメリカ合衆国空軍省|空軍省]]<ref name="USC10-8013-8014">{{合衆国法典|10|8013|8014}}</ref>が[[軍政]]を司る。指揮命令系統において、海軍と海兵隊の間・空軍と宇宙軍の間に上下関係は無い。有事においては沿岸警備隊も海軍省の管轄となり、海軍に準じた扱いがなされる<ref name="USC10-5013a">{{合衆国法典|10|5013a}}{{合衆国法典|14|3}}</ref>。なお5軍の部隊の作戦指揮は統合軍が管轄する。
* [[File:Flag of the United States Army.svg|border|25x20px]] [[アメリカ陸軍|アメリカ合衆国陸軍]](United States Army)
* [[File:Flag of the United States Navy.svg|border|25x20px]] [[アメリカ海軍|アメリカ合衆国海軍]](United States Navy)
* [[File:Flag of the United States Air Force.svg|border|25x20px]] [[アメリカ空軍|アメリカ合衆国空軍]](United States Air Force)
* [[File:Flag of the United States Space Force.svg|border|25x20px]] [[アメリカ宇宙軍|アメリカ合衆国宇宙軍]] (United States Space Force)
* [[File:Flag of the United States Marine Corps.svg|border|25x20px]] [[アメリカ海兵隊|アメリカ合衆国海兵隊]](United States Marine Corps)
* [[File:Flag of the United States Coast Guard.svg|border|25x20px]] [[アメリカ沿岸警備隊|アメリカ合衆国沿岸警備隊]](United States Coast Guard)
=== 統合軍 ===
{{main|統合軍 (アメリカ軍)}}
[[ファイル:Unified Combatant Commands map.svg|right|300px|統合軍の地域管轄地図]]
米軍の運用は、軍種ごとではなく、軍種横断的に編成された[[統合軍]](Unified Combatant Command)の指揮のもとで行われており、統合軍は、地域によって編成された7つの地域統合軍と、機能によって編成された4つの機能統合軍から構成されている<ref>{{Cite web |url=http://www.clearing.mod.go.jp/hakusho_data/2023/html/n130102000.html |title=令和5年版防衛白書 |access-date=2023年11月5日 |publisher=防衛省・自衛隊}}</ref>。
それぞれの統合軍に属する陸海空軍及び海兵隊部隊を1人の統合軍司令官が運用するという編制は[[統合作戦]]の円滑な遂行と[[軍事学]]的な指揮統一の原則を同時に達成するためである。
; 地域別
* [[File:Seal of the United States Northern Command.png|border|25x20px]] [[アメリカ北方軍]](USNORTHCOM)- [[アングロアメリカ|北米]]担当
* [[File:Seal of the United States Central Command.png|border|25x20px]] [[アメリカ中央軍]](USCENTCOM)- [[中東]]担当
* [[ファイル:Seal of the United States Africa Command.svg|border|25x20px]] [[アメリカアフリカ軍]](USAFRICOM)- [[アフリカ]]担当
* [[File:USEUCOM.svg|border|25x20px]] [[アメリカ欧州軍]](USEUCOM)- [[ヨーロッパ|欧州]]担当
* [[File:US Indo-Pacific Command Seal.svg|border|25x20px]] [[アメリカインド太平洋軍]](USPACOM)- [[アジア]]・[[太平洋]]地域担当
* [[ファイル:Seal of the United States Southern Command.svg|border|25x20px]] [[アメリカ南方軍]](USSOUTHCOM)- [[ラテンアメリカ|中南米]]担当
* [[ファイル:United States Space Command emblem 2019.svg|border|25x20px]] [[アメリカ宇宙コマンド]](USSPACECOM)- 宇宙空間([[軍事衛星]]の運用など)を担当
; 機能別
* [[ファイル:United States Special Operations Command Insignia.svg|border|25x20px]] [[アメリカ特殊作戦軍]](USSOCOM)- [[特殊作戦]]を担当
* [[ファイル:Seal of the United States Strategic Command.svg|border|25x20px]] [[アメリカ戦略軍]](USSTRATCOM)- [[核兵器]]の運用を統括
* [[ファイル:US-TRANSCOM-Emblem.svg|border|25x20px]] [[アメリカ輸送軍]](USTRANSCOM)- [[兵站]]・輸送([[戦略]]輸送・戦術輸送)を担当
* [[ファイル:Seal of the United States Cyber Command.svg|border|25x20px]] [[アメリカサイバー軍]](USCYBERCOM)- [[サイバー戦争|サイバー戦]]を担当
== 駐留国 ==
{{更新|date=2023年11月|駐留人数}}{{See also|アメリカ合衆国による軍事展開}}
[[File:US military bases in the world 2007.svg|350px|thumb|right|アメリカ軍の駐留兵力 (2007年){{legend|#0000ff|1000以上の部隊}}{{legend|#9ccbe1|100以上の部隊}}{{legend|#f7931d|施設の使用}}]]
アメリカは米ソ[[冷戦]]における安全保障政策を受けて、多くの国家(国防総省が公表しているだけで170か国以上<ref>{{Cite web|和書|title=アメリカが世界170ヶ国に米軍基地を保有 |url=https://parstoday.com/ja/news/world-i39175 |website=Pars Today |date=2018-01-24 |access-date=2022-04-25 |language=ja}}</ref>、内大規模基地を置くのは約60か国)に現在も軍部隊を駐留させている。防衛条約並びに協定によってアメリカ軍が常時駐留している国家は以下の通り(2022年3月31日現在)。〔〕内数値は駐留兵力<ref>『The Military Balance 2003』</ref>を示す。
あくまでも施設の維持や連絡要員・駐在武官として常駐している人数である為、特殊部隊や作戦行動中の数を含むと実数はこれよりも多い可能性がある。近年は大規模な恒久基地ではなく特殊任務に特化した小規模基地を中心に展開している為、駐留人数は少数(数十~数百人、一桁の場合も)傾向にある(通称:リリー・パッド戦略)。
基地の兵士が地元商店街の客層となり、また地元住民が基地の従業員として雇用されるなど、経済的に重要な存在になっている場合も多い。
===ヨーロッパ・北アメリカ===
[[File:US_Global_Military_Presence.svg|350px|thumb|right|アメリカの同盟関係{{legend|black|[[UKUSA協定|UKUSA]]([[:w:AUSCANNZUKUS|AUSCANNZUKUS]]、ABCA)}}{{legend|blue|同盟国}}]]
; [[北大西洋条約機構]](NATO)加盟国
* '''{{GBR}}'''〔'''9,704人'''〕({{IOT}}〔216人〕):[[アメリカ・イギリス相互防衛協定|相互防衛協定]]、通信傍受協定([[エシュロン]])、軍事情報包括保全協定([[GSOMIA]])、サイバー攻撃対処に関する覚書(MOU)
*: 英国と米国は[[第二次世界大戦]]以来、政治軍事両面で強いつながりを持っており、冷戦期の英国の外交や政治には米国の意向が強く反映されていた。
*:このような特殊な関係から、特に'''英米同盟'''(UKUSA、米英同盟)と呼ばれる。また、1990年代には多数の米軍基地が存在していた。現在でも例えば[[レイクンヒース空軍基地]]などは基地内に[[イギリス空軍]]は一切存在していなく、アメリカ軍専用駐留基地になっている。国内では不平等であるなどと、アメリカ軍の存在が問題になっている。[[ファイル:USAFUKbases.PNG|サムネイル|[[在英アメリカ空軍]]の基地の一覧]]
* {{DEU}}〔'''36,039人'''〕:[[相互防衛援助条約 (ドイツ)|相互防衛援助条約]]。
*: [[第二次世界大戦|第二次大戦]]後の[[連合軍軍政期 (ドイツ)|分割占領軍]]から駐留している。大半が陸空軍。冷戦時代は20万人以上が駐留する、西欧防衛の最前線だったが、冷戦終結で大幅に削減された。中東での作戦時には重要な輸送基地となっている。
*: 2020年には、配置規模を24,000人へ削減する計画を発表した<ref>{{Cite web|和書|date=2020-07-29
|url=https://www.yomiuri.co.jp/world/20200729-OYT1T50343/ |title=独駐留米軍、1万2000人削減…米長官「NATO強化し露への抑止力高める」 |publisher=読売新聞 |accessdate=2020-07-20}}</ref>。2021年現在、'''米軍基地は世界最多'''の数を誇る。[[ファイル:US_military_bases_in_Germany.png|サムネイル|ドイツの米軍一覧]]
* {{ITA}}〔'''12,643人'''〕:[[ガエータ]]に海軍第6艦隊が駐留する。
* {{TUR}}〔1,709人〕
* {{SPA}}〔3,107人〕
* {{BEL}}〔1,130人〕:NATO軍最高司令部要員及び空軍基地を維持。
* {{ROM}}〔137人〕
* {{GRE}}〔376人〕
* {{NLD}}〔429人〕
* {{HUN}}〔78人〕
* {{POR}}〔242人〕
* {{DNK}}〔18人〕({{GRL}}〔146人〕):世界で唯一の[[アメリカ宇宙軍]]が駐留している。
* '''{{CAN}}'''〔146人〕:相互防衛委員会設立協定、通信傍受協定、GSOMIA、MOU
*: 防空任務について、[[北アメリカ航空宇宙防衛司令部]]を通じ、アメリカと共同で行っている。
* {{NOR}}〔2,592人〕:NATO軍北方司令部要員
* {{POL}}〔172人〕
* {{BUL}}〔20人〕:国内4か所に駐留
* {{EST}}〔17人〕、{{LAT}}〔17人〕、{{LIT}}〔19人〕:ローテーション形式で駐留
* {{ISL}}〔2人〕:NATO軍による航空監視任務。
* {{FRA}}〔80人〕:相互防衛援助条約、GSOMIA、施設の使用([[イストル]]、[[エヴルー=フォヴィル空軍基地]])。
*: 1951年から1966年の間には[[在仏アメリカ空軍]]が駐留していた。その後、NATOの軍事機構からは一時脱退していたが、復帰した。
*: 大規模な軍事基地はない(上記の基地は補給基地)が、米軍はフランス国内の主要基地を使用する権利を持っている。
; その他
* {{SWE}}〔27人〕:MOU、防衛協力協定
* {{CYP}}〔12人〕:施設の使用([[アクロティリおよびデケリア|アクロティリ空軍基地]])
* {{BIH}}〔12人〕:[[加盟のための行動計画]](MAP)、施設の使用([[トゥズラ|トゥズラ空軍基地]])
* {{MKD}}〔15人〕:MAP
* {{AZE}}〔13人〕:IPAP、施設の使用([[ナソスニ空軍基地]])
* {{UKR}}〔23人〕:IPAP
*:ウクライナ軍の訓練を名目に駐留([[:w:Ochakov|オチャコフ]]、[[:w:Yavoriv|ヤーヴォリウ]]、[[フミリヌィーク]]、[[オデッサ]])。
* {{MOL}}〔7人〕、{{GEO}}〔34人〕、{{ARM}}〔12人〕、{{SRB}}〔14人〕:IPAP
===太平洋・アジア===
[[File:Gates meets Ishiba 8 November 2007.jpg|thumb|240px|来日した[[ロバート・ゲーツ]][[アメリカ合衆国国防長官|国防長官]]と握手を交わす[[石破茂]][[防衛大臣]](2007年11月8日)]]
[[File:US sailors japan cleanup 2011.jpg|thumb|240px|[[トモダチ作戦]]で津波による瓦礫を撤去する在日アメリカ海軍の水兵ら(2011年、[[東日本大震災]])]]
; [[日米安全保障条約]]
* {{JPN}}〔'''55,636人'''〕('''[[在日米軍]]'''):相互防衛援助協定、資金提供協定、非NATO主要同盟国([[MNNA]])
*: [[第二次世界大戦]]後の[[連合国軍占領下の日本|GHQ/SCAP時代]]の占領軍([[アメリカ合衆国による沖縄統治]]:[[1945年]] - [[1972年]][[5月15日]]:[[沖縄返還]]まで)から現在まで駐留が続いている。GSOMIA及びMOUは2007年に締結。海軍の第7艦隊をはじめ、空・海兵隊が拠点を設置するが、陸軍は比較的小規模。[[米軍再編]]の一環として、兵力の一部削減・移転が決定している。特殊な関係から、特に'''[[日米同盟]]'''と呼ばれる。
; [[米韓相互防衛条約]]
* {{KOR}}〔'''25,687人'''〕('''[[在韓米軍]]'''):MNNA
: [[日本の降伏|日本の敗戦]]より駐留し、[[連合軍軍政期 (朝鮮史)|占領軍政]]を敷いた。[[朝鮮戦争]]によって大幅に増強される。[[朝鮮民主主義人民共和国]](北朝鮮)と直接対峙するため、兵力の大半が陸軍である。長く[[大韓民国国軍|韓国軍]]の指揮権を有している。特殊な関係から、特に'''[[米韓同盟]]'''と呼ばれる。
; [[米比相互防衛条約]]
* {{PHL}}〔187人〕:MNNA
*: [[フィリピンの歴史 (1898年-1946年)|植民地時代]]より駐留し、空・海軍の一大拠点であったが、[[1994年]]に一度完全撤収した(なお、[[クラーク空軍基地]]は自然災害がきっかけとなり閉鎖となった)。[[2002年]]より[[対テロ戦争]]の一環として、特殊部隊が駐留している。[[南シナ海]]をめぐる紛争により、海空軍の再駐留が合意されている。
; [[太平洋安全保障条約]](ANZUS)
* '''{{AUS}}'''〔783人〕:相互防衛援助協定、通信傍受協定、GSOMIA、MOU、MNNA。新基地建設などが決まっていて今後増員される<ref>{{Cite web|和書|title=豪での米軍駐留拡大へ 原潜建造に次ぎ連携強化―2プラス2:時事ドットコム|url=https://web.archive.org/web/20210917134756/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021091700281&g=int|website=時事ドットコム|accessdate=2021-09-17|language=ja}}</ref>。
; [[自由連合盟約]] - アメリカ軍が国防を担う
* {{MHL}}〔16人〕
* {{PLW}}〔17人〕
;その他
* {{THA}}〔106人〕:MNNA、米陸軍管轄の医科学研究所、タナット=ラスク共同声明([[東南アジア条約機構]]は解散したが、マニラ条約の相互防衛義務は有効と確認)。
* {{SIN}}〔203人〕:シンガポール米軍基地利用協定。
* {{MAL}}〔18人〕:物品役務相互提供協定(ACSA)、施設の使用(ボルネオ島の2つの空軍基地を哨戒基地として使用)。
* {{IDN}}〔31人〕:米陸軍管轄の医科学研究所([[ジャカルタ]])。
* {{IND}}〔47人〕:後方支援・補給支援協定、施設の使用、[[日米豪印戦略対話]]
*: インド政府は非同盟主義を掲げるが、アメリカ政府は事実上の同盟国として扱っている。
* {{TWN}}([[中華民国]])〔30人〕:[[台湾関係法]]
*:[[米華相互防衛条約]]終了後、後継法として制定され、これにより装備供与と軍事支援を行う。
* '''{{NZL}}'''〔16人〕:通信傍受協定、MOU、MNNA
*: [[クライストチャーチ]]のハーウッド空港、[[ティマル]](ウォシュディケ)に駐留。ANZUS同盟から脱退するも事実上継続中。
===中東===
* {{KWT}}〔720人〕:MNNA、[[イスタンブール協力イニシアティブ]](ICI)
* {{IRQ}}〔11人〕:パートナーシップ協定
*: [[イラク戦争]]により駐留。最盛期には15万人以上が配置されたが、終戦により大半が撤収した。
* {{BHR}}〔3,746人〕:MNNA、ICI
*: 海軍の第5艦隊が駐留。
* {{QAT}}〔443人〕:ICI
*: 中央軍の現地司令部が置かれている。
* {{JOR}}〔106人〕:MNNA、[[地中海対話]]
* {{UAE}}〔221人〕:ICI
* {{EGY}}〔264人〕:MNNA、地中海対話、米陸軍管轄の医科学研究所([[カイロ]])
* {{SAU}}〔558人〕
*: [[湾岸戦争]]前後は数十万まで増加したが、現在、主要部隊は周辺湾岸国へ移転。
* {{SYR}}〔非公開〕
* {{PAK}}〔65人〕:MNNA
* {{OMA}}〔25人〕:[[:w:RAFO Masirah|マシーラ空軍基地]]、[[:w:RAFO Thumrait|スムライト空軍基地]]に駐留、海兵隊
* {{ISR}}〔102人〕:相互防衛援助協定、GSOMIA、MNNA、主要戦略的パートナー
* {{KAZ}}〔24人〕:後方支援・補給支援協定、施設の使用([[アクタウ]]、[[:w:Kuryk|クリク]])、[[個別的パートナーシップ行動計画]](IPAP)
*: カザフスタン政府は、「海軍基地ではない」「同盟国へ悪影響がある事はしない」としつつも、施設の提供自体は「補給基地」であるとして認めている。
* {{TKM}}〔11人〕:領空通過、施設の使用([[バルカナバート]]、[[:w:Serhetabat|クシカ]]、[[:w:Mary International Airport|マル空港]]、補給業務監督の為に[[アシガバード]]に米軍派遣部隊が駐留)
*: トルクメニスタンは[[永世中立国]]宣言しているが、「軍事基地」ではなく「支援基地」であり中立違反にはならないと主張
* {{UZB}}〔12人〕
* {{TJK}}〔12人〕
* {{KGZ}}〔11人〕
===中南米===
; [[米州相互援助条約]](Rio Pact、TIAR)加盟国
* {{SLV}}〔62人〕
* {{HON}}〔364人〕
* {{COL}}〔64人〕:コロンビア計画(国内に7か所に駐留。麻薬撲滅)、パートナーシップ協定。MNNA
* {{BAH}}〔59人〕
* {{PER}}〔53人〕:米陸軍管轄の医科学研究所([[リマ]])
* {{BRA}}〔49人〕:MNNA
* {{CHL}}〔35人〕:コンコンに駐留(西半球安全保障協力研究所)
* {{ARG}}〔25人〕:[[ウシュアイア]]に駐留。防衛協力・兵器供給協定、MNNA
*: [[ネウケン州]]と[[ミシオネス州]]、[[ティエラ・デル・フエゴ州]]の4か所に基地建設で合意
* {{PAR}}〔13人〕:マリスカル・エスティガリビアに駐留
* {{CRC}}〔16人〕
* {{PAN}}〔27人〕
*: [[パナマ運河]]防衛のため、長期にわたり駐留した。撤退後も施設を米軍が定期的に使用
; その他
* {{CUB}}〔639人〕([[グァンタナモ米軍基地]])
* {{MEX}}〔79人〕
* {{ECU}}〔27人〕:[[ガラパゴス諸島]]の[[サンクリストバル空港]]を使用。
*: エクアドル政府は「麻薬の密輸や密漁を取り締まる為の監視活動である」と駐留は否定
===アフリカ===
* {{DJI}}〔274人〕(ジブチ共和国には米軍のほかに800名ほど[[フランス軍|仏軍]]、[[自衛隊]]なども駐留)
* {{SOM}}〔53人〕:サングニに駐留([[キスマヨ]]の郊外)
* {{UGA}}〔15人〕:[[エンテベ国際空港|エンテベ空港]]に駐留、ひかる稲妻(ライトニング・サンダー)作戦([[神の抵抗軍|LRA]]対策)
* {{KEN}}〔84人〕:米陸軍管轄の医科学研究所([[ナイロビ]])
* {{CHA}}〔18人〕:[[ンジャメナ]]に駐留、[[ボコ・ハラム]]対策
* {{TUN}}〔22人〕、{{MAR}}〔30人〕:MNNA、地中海対話、施設の使用
* {{SEN}}〔20人〕:軍事協定、施設の使用([[ダカール]])
* {{NER}}〔25人〕:[[アガデズ]]に駐留(基地開設の為の地位協定)、無人航空機基地
* {{BFA}}〔16人〕:[[ワガドゥグー]]に駐留、無人航空機基地
* {{CMR}}〔11人〕:[[ガルア]]に駐留、無人航空機基地
* {{GHA}}〔19人〕:米軍基地設置を許可
* {{ZAF}}〔45人〕
===その他===
* この他に{{NGA}}〔36人〕や{{HKG}}〔13人〕などに(主としてアメリカ製装備の)教官やパイロットとして、あるいは通信要員などとして少数(数十〜数百人)が派遣されている。
=== かつての駐留国 ===
*{{AFG2013}}:MNNA
*: [[アフガニスタン紛争 (2001年-2021年)|アフガニスタン紛争]]から継続。最盛期は約2万人。[[2006年]]に[[北大西洋条約機構|NATO]]に正規軍の指揮権が移譲。[[2021年]]8月、完全に撤退した<ref>{{Cite news|title=アフガニスタンから米軍撤退完了 「最も長い戦争」に終止符|newspaper=NHKニュース|date=2021-08-31|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210831/k10013233751000.html|accessdate=2021-08-31}}</ref>。
*{{VSO}}
*: [[ベトナム戦争]]で[[ベトナム民主共和国|北ベトナム]]及び[[南ベトナム解放民族戦線|ベトコン]]の決定的勝利が確立した[[サイゴン陥落]]以降完全撤退。
== 戦歴 ==
* [[アメリカ独立戦争]]([[1775年]]〜[[1783年]])
* [[米英戦争]]([[1812年]]〜[[1814年]])
* [[セミノール戦争]]([[1816年]]-[[1858年]])
**第一次セミノール戦争(1816年-[[1819年]])
**{{仮リンク|第二次セミノール戦争|en|Second Seminole War}}([[1835年]]-[[1842年]])
**第三次セミノール戦争([[1855年]]-[[1858年]])
* [[米墨戦争]]([[1846年]]〜[[1848年]])
* [[南北戦争]]([[1861年]]〜[[1865年]])
** [[ニューヨーク暴動]]鎮圧([[1863年]])
** 南部諸州[[軍政]]([[1867年]]〜[[1870年]])
* [[インディアン戦争]]([[1876年]]〜[[1890年]])
** [[スー族]]蜂起(1876年〜[[1877年]])
** [[アパッチ族]]蜂起([[1882年]]〜[[1886年]])
* [[米西戦争]]([[1898年]])
* [[キューバ]]介入(1898年〜[[1902年]])
* [[米比戦争]]([[1899年]])
* [[ドミニカ共和国]]介入([[1905年]]保護領化)
* キューバ内戦介入([[1906年]])
* [[ニカラグア]]革命介入([[1912年]]〜[[1933年]])
* [[メキシコ革命]]介入([[1914年]])
* [[ハイチ]]介入([[1915年]]〜[[1934年]][[保護国]]化)
* メキシコ軍事衝突([[1916年]]、[[1917年]])
* [[ドミニカ共和国]]介入(1916年〜[[1924年]])
* [[第一次世界大戦]]参戦(1917年〜[[1918年]])
* [[サンディーノ]]戦争介入([[1927年]]〜[[1933年]])
* [[第二次世界大戦]]参戦([[1939年]]〜[[1945年]]、1941年まで[[宣戦布告]]しないが[[義勇兵]]が参加)
** [[太平洋戦争]]参戦([[1941年]]〜[[1945年]]、以前から[[日中戦争]]に義勇兵が参加)
** [[連合軍軍政期 (ドイツ)|ドイツ分割占領]]・[[軍政 (行政)|軍政]](1945年〜[[1949年]])
** [[連合軍軍政期 (オーストリア)|オーストリア分割占領]]・軍政(1945年〜[[1955年]])
** [[南洋諸島]]占領・軍政(1945年〜1947年)
** [[アメリカ合衆国による沖縄統治|沖縄県占領・軍政]](1945年〜[[1972年]])
** [[連合国軍占領下の日本|日本占領]]・一部軍政(1945年〜[[1952年]]、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ/SCAP]])
** [[連合軍軍政期 (朝鮮史)|朝鮮半島分割南部占領]]・軍政(1945年〜1949年)
** [[奄美群島]]占領・軍政(1946年〜[[1953年]])
** [[小笠原諸島]]占領・軍政(1946年〜[[1968年]])
* [[冷戦]](1946年〜[[1989年]])
* [[朝鮮戦争]]([[1950年]]〜[[1953年]]、[[国連軍 (朝鮮半島)|国連軍]])
* [[グアテマラ革命]]介入([[1954年]])
* キューバ介入([[1961年]])
* [[キューバ危機]]([[1962年]])
* [[トンキン湾事件]]([[1964年]])
* [[アメリカ軍によるドミニカ共和国占領 (1965年-1966年)|ドミニカ共和国介入]]([[1965年]]〜[[1966年]])
* [[ベトナム戦争]](1961年〜[[1973年]])
* [[イランアメリカ大使館人質事件|イラン米大使館人質事件]]([[1980年]])
* [[シドラ湾事件 (1981年)|リビア空軍機撃墜]]([[1981年]])
* [[レバノン内戦]]介入([[1982年]]〜[[1984年]])
* [[グレナダ侵攻]]([[1983年]])
* [[リビア爆撃 (1986年)|リビア爆撃]]([[1986年]])
* [[イラン・イラク戦争]]介入([[1987年]]〜[[1988年]])
* [[シドラ湾事件 (1989年)|リビア空軍戦闘機撃墜]](1989年)
* [[パナマ侵攻]]([[1989年]])
* [[湾岸戦争]]([[1991年]]、[[国際連合|国連]][[多国籍軍]])
* [[ソマリア内戦]]介入([[1992年]]〜[[1994年]]、[[国際連合|国連]][[国際連合平和維持活動|PKO]])
* [[イラク]]攻撃(1993年)
* ハイチ介入(1994年)
* [[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争]]介入([[1995年]]、[[北大西洋条約機構|NATO]]軍)
* イラク攻撃([[1996年]])
* [[台湾海峡危機]]([[1996年]])
* [[アメリカ大使館爆破事件 (1998年)|スーダン・アフガニスタン攻撃]]([[1998年]])
* イラク攻撃(1998年)
* [[コソボ紛争|ユーゴスラビア空爆]]([[1999年]]、NATO軍)
* [[アフガニスタン紛争 (2001年-2021年)|アフガニスタン攻撃]]([[2001年]])
** [[アフガニスタン]]駐留(2001年〜2021年、NATO軍・[[国際治安支援部隊|ISAF]])
* [[イラク戦争]]([[2003年]])
** イラク占領(2003年〜2004年)
** イラク駐留(2004年〜2011年、多国籍軍)
* ハイチ介入([[2004年]])
* [[ワジリスタン紛争|ワジリスタン空爆]](2004年)
* [[ソマリア内戦]]介入([[2007年]])
* [[2011年リビア内戦|リビア内戦]]([[2011年]]、[[NATO軍]])
* [[生来の決意作戦|ISIL掃討作戦]]([[2014年]]~、[[有志連合]]軍)
== 各軍記念日 ==
[[1950年]]以降各軍独自の公式記念日は廃止され、[[5月]]の第3土曜日の[[軍隊記念日]] (Armed Forces Day) に統合された。
* [[アメリカ陸軍]](United States Army)
* [[アメリカ海軍]](United States Navy)
*: 海軍に理解のあった[[セオドア・ルーズベルト]]大統領([[共和党 (アメリカ)|共和党]])の誕生日を記念して、[[1922年]]に[[10月27日]]が制定された。現在は、民間団体により祝賀行事が行われている。
* [[アメリカ空軍]](United States Air Force)
* [[アメリカ海兵隊]](United States Marine Corps)
*: [[1945年]]の[[第二次世界大戦]]末期に[[日本軍]]との[[硫黄島の戦い]]([[太平洋戦争]]/[[大東亜戦争]])で[[摺鉢山 (東京都)|摺鉢山]]に[[アメリカ合衆国の国旗|星条旗]]が掲げられた日、[[2月23日]]に制定された。
== その他==
* 軍人とその家族には[[アメリカ国防厚生管理本部]]が提供する公的[[医療保険]]「TRICARE」が適用される。
* [[退役軍人]]には[[アメリカ合衆国退役軍人省]]から勤務した期間や階級に応じた額の[[恩給]][[年金]]が支給される。また一定期間以上勤務した場合はTRICAREに継続して加入できる。
* 同性愛者ではない(非[[ゲイ]])男性の兵士による下級の男性兵士へのレイプ(性暴力)が最近明るみに出た。[[性行為|性交渉]]が目的ではなく、脅しや支配欲を満たす為に行われている。2009年に、110人以上の男性兵士が男性の同僚から性暴力を受けたと報告した([[ニューズウィーク]]日本版2011年4月20日号)。また、上官の命令は絶対であることを悪用する上官による性的暴行の被害にあった女性将兵が多数存在する。[[強姦|レイプ]]など性的暴行は、2011年だけで3192件が報告されているが、被害が届けられないケースが多いとされ、[[アメリカ国防総省]]では、実態は年間約1万9000件とみている<ref>{{Cite news | url = http://sankei.jp.msn.com/world/news/120704/amr12070411010004-n1.htm | title = 【今、何が問題なのか】「上官の命令は絶対」で沈黙…日常的に性的暴行受ける米軍新兵女性 | newspaper = 産経新聞 | date = 2012-7-4 }}</ref>。
===入隊===
{{seealso|名誉除隊}}
* 志願できるのは[[永住権]]を有する者で、高等学校卒業程度の学力、基準以上の身体能力を有する18歳以上の男女である。なお永住権があれば[[アメリカ合衆国の市民権|市民権]]が無くてもよい{{efn|日本国民で永住権を取得し海兵隊に志願・入隊した[[越前谷儀仁]]がいる}}。また『卒業程度の学力』であるため中退者でも学力を証明できる書類や推薦書{{efn|現役・退役軍人、地元の政治家や名士、学校長などが書いた推薦文。}}などを加味して判断される。従来は[[卒業証明書]]の提出が必要だった。
* 市民権が無い者が志願・入営すると、忠誠を誓ったと看做され最低居住期間条件が免除になり、居住期間に関わらず入隊時(申請時)に市民権申請が可能になる(受理されるだけで認められるかは別)。既に入隊済みで1年以上経過した者も居住期間に関係なく市民権申請資格があるが、入隊後1年未満あるいは除隊後6か月を経過した者は特例条件を満たさず、通常の5年ルールが適用される。
* ベトナム戦争時には数を確保するため、素行不良者や就労が禁止されている観光ビザで入国した外国人への勧誘活動まで行われたが<ref>[https://mainichi.jp/articles/20160101/ddm/041/040/067000c 憲法のある風景:公布70年の今/1 9条に迷い救われ 被爆、渡米、ベトナム戦、脱走 日米の間に生きた] - [[毎日新聞]]</ref>、脱走兵の増加や軍規の乱れを招いたことから戦争終結後に厳格化された。
* 全てのアメリカ合衆国に『居住』する18〜26歳までの男性(米国籍や永住権者に限らず、違法移民や一時就労ビザなども含む。外交官ビザ、特殊ビザ、ビジタービザ、学生ビザなどは除外{{efn| 観光などの滞在は『居住』とはみなされない}})は、有事の際など軍を臨時に増強する必要があると大統領と議会が承認した場合に[[徴兵]]される「[[:en:Selective Service System|Selective Service System]](選抜徴兵登録制度、SSS)」のリストに登録することが義務付けられている。18〜26歳までの男性永住権保持者がSSSに登録しなかった場合は在留期間の条件を満たしても市民権申請を拒否される場合がある。ベトナム戦争以後、SSSによる徴兵は2019年現在まで実施されていない。
* 大学生ではあるが、同時に軍事訓練を積み軍人教育を受ける[[予備役将校訓練課程]]が存在する。卒業後数年間は軍役に就く事を誓約し、大学在学中も非常事態時には召集される可能性がある。在学中は学費全額支給に加え奨学金数百ドルを受け取り、卒業後は最低でも少尉で入隊出来る。アメリカの大学の学費は高額であり学費はローンでまかなっている場合が多い。経済的な理由で進学を断念する者が多い為、軍費補助による学位取得制度への競争率は高い{{efn| 基本的に大卒は士官から高卒は兵からのスタートであるので、ROTC出身者が初任階級上で特に優遇されているわけではない。}}。なお入隊前に学費補助で大学へ通うROTC制度の他に、軍役中に大学(日本で言う二部もしくは基地内にあるサテライトキャンパス)へ通える制度や退役後の大学資金積み立て制度などもある。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Military of the United States}}
* [[アメリカ合衆国退役軍人省]]
* [[州兵]]
* [[アメリカ合衆国の大量破壊兵器]]
* [[AFN]]
* [[多国籍軍]]
* [[有志連合]]
* [[ミニットマン]]
* [[米軍に関する書籍一覧 (英語)]]
* [[特殊部隊一覧]]
* [[都道府県別の全ての米軍施設規模と都道府県別の米軍施設]]
* [[アメリカの戦争と外交政策]]
* [[軍服 (アメリカ合衆国)]]
== 外部リンク ==
* [http://www.defense.gov/ アメリカ合衆国国防総省] (United States Department of Defense - DoD, USDOD, DOD) {{en icon}}
* [https://www.dvidshub.net/ アメリカ合衆国国防総省 国防視覚情報配信サービス] (Defense Visual Information Distribution Service - DVIDS) {{en icon}}
* [https://www.army.mil/ アメリカ合衆国陸軍] (United States Army) {{en icon}}
* [https://www.marines.mil/ アメリカ合衆国海兵隊] (United States Marine Corps) {{en icon}}
* [https://www.navy.mil/ アメリカ合衆国海軍] (United States Navy) {{en icon}}
* [https://www.af.mil/ アメリカ合衆国空軍] (United States Air Force) {{en icon}}
* [https://www.spaceforce.mil/ アメリカ合衆国宇宙軍] (United States Space Force) {{en icon}}
* [https://www.uscg.mil/ アメリカ合衆国沿岸警備隊] (United States Coast Guard) {{en icon}}
{{アメリカ合衆国}}
{{アメリカ軍}}
{{アメリカ軍の統合軍}}
{{アメリカ軍の現在の歩兵用武器・弾薬}}
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{{アメリカの軍隊}}
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[[Category:アメリカ合衆国軍|*]]
[[Category:イランによりテロリスト認定された組織]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E8%BB%8D |
8,387 | XSL Transformations | XSL変換(英: XSL Transformations、XSLT)は、W3Cにより標準化されたXML文書の変換用言語である。3つの仕様から成るXSLのうちの、ひとつの仕様である。XSLT の仕様はジェームズ・クラークを中心とした人々が設計した。XSLT と XSL-FO はDSSSLをもとにして設計された。
XSLT 1.0 は1999年11月23日にW3C勧告となり、2007年には JIS X 4169 としてJIS規格へ翻訳された。XSLT 2.0 は2007年1月23日に、3.0は2017年6月8日にW3C勧告となった。
XSLTはXML形式の文書を変換する。XPath による選択と検索にもとづき、XML文書全体または文書の一部に対して変換を行い、XML として出力する他、XML(整形式)ではないその他任意のテキスト形式としても出力できる。
例としては次のような応用がある。
変換の指定は関数型言語として見ることもでき、実のところチューリング完全であるため、コンピュータ・プログラムを書くようにしてどんな応用も可能である。裏返せば、その機能を十分に発揮させるためには利用者に通常のプログラミングと同様の能力と作業が必要であり、しばしばXMLに対して持たれている「プログラミングが不要」という期待を裏切るものではある。
変換の対象となるXML文書は木構造であり、XSLTによる変換は宣言的に指定される。つまり、XSLTプログラムは、変換をどう行うべきか指定する規則をいくつか集めたものからなり、この規則を再帰的に適用することによって変換を行う。
XSLT処理系はまずどの規則が適用できるかチェックし、優先順にもとづいて該当する変換を行う。
XSLTプログラムは、以下のようにXML文書の形式をとる。
XML 形式のデータを様々な形式のデータに変換できる。ここではその例を示す。
変換前のXML
XSLT はテンプレートの関数を再帰的な形で定義ができる純粋関数型言語でもある。
下記のものはテンプレート関数 String_replaceAllである。これは、パラメーター this で指定した文字列中にある、パラメーター substring で指定した部分文字列をすべて、パラメーター replacement で指定する文字列に置換した文字列を返す関数。これの例から以下の点が分かる。
XSLTのメディア型は、「application/xslt+xml」としてIANAに登録されており、「application/xslt+xml」または「application/xml」が望ましいMIMEタイプである。しかし、Internet Explorerなど一部のユーザーエージェントには、これらのMIMEではXSLTを認識しないものや、「text/xsl」などの独自に定めたMIMEのみを認識するものも多い。 | [
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"text": "変換の対象となるXML文書は木構造であり、XSLTによる変換は宣言的に指定される。つまり、XSLTプログラムは、変換をどう行うべきか指定する規則をいくつか集めたものからなり、この規則を再帰的に適用することによって変換を行う。",
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"text": "XSLT処理系はまずどの規則が適用できるかチェックし、優先順にもとづいて該当する変換を行う。",
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"text": "下記のものはテンプレート関数 String_replaceAllである。これは、パラメーター this で指定した文字列中にある、パラメーター substring で指定した部分文字列をすべて、パラメーター replacement で指定する文字列に置換した文字列を返す関数。これの例から以下の点が分かる。",
"title": "テンプレート関数"
},
{
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"tag": "p",
"text": "XSLTのメディア型は、「application/xslt+xml」としてIANAに登録されており、「application/xslt+xml」または「application/xml」が望ましいMIMEタイプである。しかし、Internet Explorerなど一部のユーザーエージェントには、これらのMIMEではXSLTを認識しないものや、「text/xsl」などの独自に定めたMIMEのみを認識するものも多い。",
"title": "メディア型"
}
] | XSL変換は、W3Cにより標準化されたXML文書の変換用言語である。3つの仕様から成るXSLのうちの、ひとつの仕様である。XSLT の仕様はジェームズ・クラークを中心とした人々が設計した。XSLT と XSL-FO はDSSSLをもとにして設計された。 XSLT 1.0 は1999年11月23日にW3C勧告となり、2007年には JIS X 4169 としてJIS規格へ翻訳された。XSLT 2.0 は2007年1月23日に、3.0は2017年6月8日にW3C勧告となった。 XSLTはXML形式の文書を変換する。XPath による選択と検索にもとづき、XML文書全体または文書の一部に対して変換を行い、XML として出力する他、XML(整形式)ではないその他任意のテキスト形式としても出力できる。 例としては次のような応用がある。 一定フォーマットのHTML用の、文書型宣言・ヘッダ情報の追加
テキストの移動
テキストのソート 変換の指定は関数型言語として見ることもでき、実のところチューリング完全であるため、コンピュータ・プログラムを書くようにしてどんな応用も可能である。裏返せば、その機能を十分に発揮させるためには利用者に通常のプログラミングと同様の能力と作業が必要であり、しばしばXMLに対して持たれている「プログラミングが不要」という期待を裏切るものではある。 変換の対象となるXML文書は木構造であり、XSLTによる変換は宣言的に指定される。つまり、XSLTプログラムは、変換をどう行うべきか指定する規則をいくつか集めたものからなり、この規則を再帰的に適用することによって変換を行う。 XSLT処理系はまずどの規則が適用できるかチェックし、優先順にもとづいて該当する変換を行う。 XSLTプログラムは、以下のようにXML文書の形式をとる。 | {{infobox file format
| name = XSL Transformations
| extension = .xsl, .xslt
| mime = application/xslt+xml{{efn|上記[[#メディア型]]参照。}}<ref>http://www.w3.org/TR/xslt20/#xslt-mime-definition</ref>
| owner = [[World Wide Web Consortium]] (W3C)
| screenshot = [[画像:XSLT.svg|200px]]
| creatorcode =
| genre = [[XML変換言語]]、[[関数型言語]]
| containerfor =
| containedby =
| extendedfrom = [[Extensible Markup Language|XML]]
| extendedto =
| standard = [https://www.w3.org/TR/xslt/all/ 1.0 (Recommendation)], <br />
[https://www.w3.org/TR/xslt20/ 2.0 (Recommendation)], <br />
[https://www.w3.org/TR/xslt-30/ 3.0 (Recommendation)]
}}
[[ファイル:XML languages.svg|thumb|XML変換におけるXSLTの位置付け]]
'''XSL変換'''{{sfn|JISX4169|2007}}({{lang-en-short|XSL Transformations}}、'''XSLT''')は、[[World Wide Web Consortium|W3C]]により標準化された[[Extensible Markup Language|XML]]文書の[[変換言語|変換用言語]]である。3つの仕様から成る[[Extensible Stylesheet Language|XSL]]のうちの、ひとつの仕様である。XSLT の仕様は[[ジェームズ・クラーク (ソフトウェア技術者)|ジェームズ・クラーク]]を中心とした人々が設計した。XSLT と XSL-FO は[[Document Style Semantics and Specification Language|DSSSL]]をもとにして設計された。
XSLT 1.0 は1999年11月23日に[[W3C勧告]]となり、2007年には JIS X 4169 として[[日本工業規格|JIS規格]]へ翻訳された。XSLT 2.0 は2007年1月23日に、3.0は2017年6月8日に[[W3C勧告]]となった。
XSLTはXML形式の文書を変換する。{{lang|en|[[XPath]]}} による選択と検索にもとづき、XML文書全体または文書の一部に対して変換を行い、XML として出力する他、XML(整形式)ではないその他任意のテキスト形式としても出力できる。
例としては次のような応用がある。
*一定フォーマットのHTML用の、文書型宣言・ヘッダ情報の追加
*テキストの移動
*テキストのソート
変換の指定は[[関数型言語]]として見ることもでき、実のところ[[チューリング完全]]であるため、コンピュータ・プログラムを書くようにしてどんな応用も可能である。裏返せば、その機能を十分に発揮させるためには利用者に通常のプログラミングと同様の能力と作業が必要であり、しばしばXMLに対して持たれている「プログラミングが不要」という期待を裏切るものではある。
変換の対象となるXML文書は[[木構造 (データ構造)|木構造]]であり、XSLTによる変換は宣言的に指定される。つまり、XSLTプログラムは、変換をどう行うべきか指定する'''規則'''をいくつか集めたものからなり、この規則を再帰的に適用することによって変換を行う。
XSLT処理系はまずどの規則が適用できるかチェックし、優先順にもとづいて該当する変換を行う。
XSLTプログラムは、以下のようにXML文書の形式をとる。
<syntaxhighlight lang="xslt">
<?xml version="1.0" ?>
<xsl:stylesheet xmlns:xsl="http://www.w3.org/1999/XSL/Transform">
...
</xsl:stylesheet>
</syntaxhighlight>
==データ変換==
XML 形式のデータを様々な形式のデータに変換できる。ここではその例を示す。
変換前のXML
<syntaxhighlight lang="xml">
<?xml version="1.0" ?>
<persons>
<person username="JS1">
<name>John</name>
<family-name>Smith</family-name>
</person>
<person username="MI1">
<name>Morka</name>
<family-name>Ismincius</family-name>
</person>
</persons>
</syntaxhighlight>
{|class=wikitable style="font-size:x-small"
!変換後の形式!!XSLTコード!!変換結果
|-
|XML
|<syntaxhighlight lang="xslt">
<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<xsl:stylesheet xmlns:xsl="http://www.w3.org/1999/XSL/Transform" version="1.0">
<xsl:output method="xml" indent="yes"/>
<xsl:template match="/persons">
<root>
<xsl:apply-templates select="person"/>
</root>
</xsl:template>
<xsl:template match="person">
<name username="{@username}">
<xsl:value-of select="name" />
</name>
</xsl:template>
</xsl:stylesheet>
</syntaxhighlight>
|<syntaxhighlight lang="xml">
<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<root>
<name username="JS1">John</name>
<name username="MI1">Morka</name>
</root>
</syntaxhighlight>
|-
|XHTML
|<syntaxhighlight lang="xslt">
<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<xsl:stylesheet
version="1.0"
xmlns:xsl="http://www.w3.org/1999/XSL/Transform"
xmlns="http://www.w3.org/1999/xhtml">
<xsl:output method="xml" indent="yes" encoding="UTF-8"/>
<xsl:template match="/persons">
<html>
<head> <title>Testing XML Example</title> </head>
<body>
<h1>Persons</h1>
<ul>
<xsl:apply-templates select="person">
<xsl:sort select="family-name" />
</xsl:apply-templates>
</ul>
</body>
</html>
</xsl:template>
<xsl:template match="person">
<li>
<xsl:value-of select="family-name"/><xsl:text>, </xsl:text><xsl:value-of select="name"/>
</li>
</xsl:template>
</xsl:stylesheet>
</syntaxhighlight>
<!-- ホワイトスペースが発生しているのはindent="yes"オプションのため。-->
|<syntaxhighlight lang="html">
<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<html xmlns="http://www.w3.org/1999/xhtml">
<head> <title>Testing XML Example</title> </head>
<body>
<h1>Persons</h1>
<ul>
<li>Ismincius, Morka</li>
<li>Smith, John</li>
</ul>
</body>
</html>
</syntaxhighlight>
|-
|CSV
|<syntaxhighlight lang="xslt">
<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<xsl:stylesheet
version="1.0"
xmlns:xsl="http://www.w3.org/1999/XSL/Transform">
<xsl:output method="text" encoding="UTF-8"/>
<xsl:template match="/persons">
<xsl:apply-templates select="person" />
</xsl:template>
<xsl:template match="person">
<xsl:value-of select="@username" />
<xsl:text>,</xsl:text>
<xsl:apply-templates select="*" />
</xsl:template>
<xsl:template match="name">
<xsl:value-of select="." />
<xsl:text>,</xsl:text>
</xsl:template>
<xsl:template match="family-name">
<xsl:value-of select="." />
<xsl:text> </xsl:text>
</xsl:template>
</xsl:stylesheet>
</syntaxhighlight>
|
JS1,John,Smith
MI1,Morka,Ismincius
|}
==テンプレート関数==
XSLT はテンプレートの関数を再帰的な形で定義ができる純粋関数型言語でもある。
下記のものはテンプレート関数 <code>String_replaceAll</code>である。これは、パラメーター <code>this</code> で指定した文字列中にある、パラメーター <code>substring</code> で指定した部分文字列をすべて、パラメーター <code>replacement</code> で指定する文字列に置換した文字列を返す関数。これの例から以下の点が分かる。
*テンプレート関数の定義の仕方(<code>xsl:template</code>、<code>xsl:param</code>)
*引数の値の参照の仕方(<code>$<i>引数名</i></code>)
*条件分けの仕方(<code>xsl:if</code>、<code>xsl:choose</code>)
*XSLT関数(<code>not</code>、<code>contains</code>、<code>substring-before</code>、<code>substring-after</code>)
*XSLT関数の使い方(<code><xsl:value-of select="<i>XSLT関数 (引数...)</i>" /></code>)
*定義されたテンプレート関数の呼び出し方(<code>xsl:call-template</code>、<code>xsl:with-param</code>:再帰呼び出しの箇所)
<syntaxhighlight lang="xslt">
<?xml version="1.0" encoding="ISO-8859-1" ?>
<xsl:stylesheet version="1.0" xmlns:xsl="http://www.w3.org/1999/XSL/Transform">
<xsl:template name="String_replaceAll">
<!-- 引数 -->
<xsl:param name="this" select="''" />
<xsl:param name="substring" />
<xsl:param name="replacement" />
<xsl:if test="not ($this='')">
<xsl:choose>
<!-- this に substring が含まれる場合の値 -->
<xsl:when test="contains ($this, $substring)">
<xsl:value-of select="substring-before ($this, $substring)" />
<xsl:copy-of select="$replacement" />
<xsl:call-template name="String_replaceAll"> <!-- 再帰呼び出し -->
<xsl:with-param name="this" select="substring-after ($this, $substring)" />
<xsl:with-param name="substring" select="$substring" />
<xsl:with-param name="replacement" select="$replacement" />
</xsl:call-template>
</xsl:when>
<!-- そうでない場合の値 -->
<xsl:otherwise>
<xsl:value-of select="$this" />
</xsl:otherwise>
</xsl:choose>
</xsl:if>
</xsl:template>
</xsl:stylesheet>
</syntaxhighlight>
== メディア型 ==
XSLTの[[メディア型]]は、「<code>application/xslt+xml</code>」として{{lang|en|[[Internet Assigned Numbers Authority|IANA]]}}に登録されており<ref>[https://www.iana.org/assignments/media-types/media-types.xhtml Media Types]</ref>、「<code>application/xslt+xml</code>」または「<code>application/xml</code>」が望ましいMIMEタイプである{{efn|{{IETF RFC|3023}} は「<code>application/xslt+xml</code>」を推奨している。なお、「<code>text/xml</code>」は廃止予定。}}。しかし、[[Internet Explorer]]など一部の[[ユーザーエージェント]]には、これらのMIMEではXSLTを認識しないものや、「<code>text/xsl</code>」などの独自に定めたMIMEのみを認識するものも多い<ref>[http://www.ibm.com/developerworks/jp/xml/library/x-mxd2/ XMLデータの管理: XMLドキュメントの識別]</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist|20cm}}
==関連項目==
*[[コンピュータ言語]]
**[[プログラミング言語]]
***[[宣言型言語]]
****[[関数型言語]]
**[[変換言語]]
== 外部リンク ==
* 実装
** [https://xml.apache.org/xalan-j/ Xalan-Java]
** [https://xml.apache.org/xalan-c/ Xalan-C++]
** [http://xmlsoft.org/XSLT/ libxslt] the XSLT C library for Gnome
** [http://www.gingerall.com/charlie/ga/xml/p_sab.xml Sablotron]
** [http://saxon.sourceforge.net/ SAXON] by Michael Kay
** [http://www.blnz.com/xt/index.html XT] by James Clark
** [https://docs.microsoft.com/en-us/previous-versions/windows/desktop/ms759204(v=vs.85) XSLT for MSXML | Microsoft Docs]
*** [https://docs.microsoft.com/en-us/openspecs/ie_standards/ms-xslt/edf5c768-02cf-4dfd-9322-0516470216fa [MS-XSLT]: Microsoft XSLTransformations (XSLT) Standards Support Document]
** [[Mozilla Application Suite|Mozilla]]は[https://developer.mozilla.org/en-US/docs/Web/XSLT XSLTにネイティブ対応]
** [http://www.xsmiles.org/ X-Smiles]はXSLTにネイティブ対応している
** [http://www.oxygenxml.com/xslt_editor.html <oXygen/> XSLT editor and debugger]
* 仕様書
** [https://www.w3.org/TR/xslt/all/ XSLT 1.0 W3C 勧告]
*** {{cite jis|X|4169|2007|name=XSL変換 (XSLT) 1.0}}
** [https://www.w3.org/TR/xslt20/ XSLT 2.0 W3C 勧告]
** [https://www.w3.org/TR/xslt-30/ XSLT 3.0 W3C 勧告]
** [https://www.data2type.de/xml-xslt-xslfo/xslt/ XSLTチュートリアル] (ドイツ語)
** [https://www.data2type.de/xml-xslt-xslfo/xslt/xslt-referenz/ XSLT 2.0参照] (ドイツ語)
** [https://www.data2type.de/xml-xslt-xslfo/xslt/xsltundxpathreferenz XSLTとXPathリファレンス] (ドイツ語)
{{W3C標準}}
{{Normdaten}}
[[Category:W3C勧告]]
[[Category:XMLベースの技術]]
[[Category:関数型プログラミング言語]]
[[Category:スタイルシート言語]] | 2003-05-16T21:15:38Z | 2023-11-21T04:23:43Z | false | false | false | [
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"Template:脚注ヘルプ",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/XSL_Transformations |
8,388 | 数論 | 数論(すうろん、英語: number theory)は、数、特に整数およびそれから派生する数の体系(代数体、局所体など)の性質について研究する数学の一分野である。整数論とも言う。
フェルマーの最終定理のように、数論のいくつかの問題については、他の数学の分野に比して問題そのものを理解するのは簡単である。しかし、使われる手法は多岐に渡り、また非常に高度であることが多い。
通常代数学の一分野とみなされることが多い。おおむね次の四つに分けられる。
かつて数論は純粋数学であり応用を持たなかったが、コンピュータの発展に伴い、幅広い分野に応用を持つようになった。
ガウスは次のような言葉を残している:
数学は科学の女王であり、数論は数学の女王である
数論はヘレニズム後期(紀元3世紀)のギリシア人数学者らに最も好まれた研究対象で、エジプトのアレクサンドリアで活動したアレクサンドリアのディオファントスは、自らの名が(後に)冠されたディオファントス方程式の様々な特殊ケースを研究したことで知られている。
ディオファントスはまた、線型な不定方程式の整数解を求める方法について考察した。線型不定方程式とは、解の単一の離散集合を得るには情報が不足している方程式を指す。例えば、 x + y = 5 {\displaystyle x+y=5} という方程式は、x と y が整数だとしても解が無数に存在する。ディオファントスは多くの不定方程式について、具体的な解はわからなくとも解のカテゴリがわかっている形式に還元できることに気づいた。
中世インドでも数学者らはディオファントス方程式を深く研究しており、線形ディオファントス方程式の整数解を求める体系的手法を初めて定式化した。アリヤバータは著作『アーリヤバティーヤ』(499年)の中で線型ディオファントス方程式 a y + b x = c {\displaystyle ay+bx=c} の整数解の求め方を初めて明確に記している。これを「クッタカ法」と呼び、ディオファントス方程式の解を連分数を使って表すもので、アリヤバータの純粋数学における最大の貢献とされている。アリヤバータはこの技法を応用し、重要な天文学上の問題に対応する連立線型ディオファントス方程式の整数解を求めるのに使った。彼はまた不定線型方程式の一般的解法も見つけている。
ブラーマグプタは著書『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』(628年)でさらに難しいディオファントス方程式を扱っている。彼が使ったのは、 61 x 2 + 1 = y 2 {\displaystyle 61x^{2}+1=y^{2}} のようなペル方程式に代表される二次のディオファントス方程式を解く「チャクラバーラ法」 (Chakravala method) である。この著書は773年にアラビア語に翻訳され、そこから1126年にラテン語に翻訳された。フランス人数学者ピエール・ド・フェルマーは1657年にこの方程式 61 x 2 + 1 = y 2 {\displaystyle 61x^{2}+1=y^{2}} を問題として提示している。この方程式そのものは70年以上後にレオンハルト・オイラーが解いたが、ペル方程式全般の解法が見つかけたのはジョゼフ=ルイ・ラグランジュで、フェルマーが問題を提示してから100年以上たった1767年のことだった。一方それより何世紀も前の1150年、バースカラ2世がペル方程式の解法を記述している。彼はブラーマグプタのチャクラバーラ法を改良した解法を使っており、同じ技法を応用して不定二次方程式や二次ディオファントス方程式の一般解も見つけている。バースカラ2世のチャクラバーラ法によるペル方程式の解法は、600年後のラグランジュが使った手法より単純だった。バースカラ2世は他にも様々な二次/三次/四次など高次の不定多項方程式の解を求めている。このチャクラバーラ法をさらに発展させたのがナーラーヤナ・パンディトで、他の不定二次多項方程式や高次多項方程式の一般解を求めている。
9世紀以降、アラビア数学は数論を熱心に研究するようになった。先駆者とされる数学者はサービト・イブン=クッラで、友愛数を求めるアルゴリズムを発見したことで知られている。友愛数とは、2つの異なる自然数の組で、自分自身を除いた約数の和が互いに他方と等しい。10世紀にはイブン・タヒル・アル=バグダディがサービト・イブン=クッラの手法を若干変えた手法を見つけている。
10世紀のイブン・アル・ハイサムは偶数の完全数(その数自身を除く約数の和がその数自身と等しいもの)を世界で初めて分類しようと試みたと見られ、 2 k − 1 {\displaystyle 2^{k}-1} が素数のとき、 2 k − 1 ( 2 k − 1 ) {\displaystyle 2^{k-1}(2^{k}-1)} が完全数となることを発見した。またアル・ハイサムはウィルソンの定理を最初に発見した。これは、p が素数ならば 1 + ( p − 1 ) ! {\displaystyle 1+(p-1)!} が p で割り切れるという定理である。彼がこの定理の証明を知っていたかどうかは不明である。ウィルソンの定理という名称は、エドワード・ウェアリングが1770年にジョン・ウィルソンがこの定理に気づいたと記したことに由来する。ウィルソンも証明を知っていた証拠はなく、ウェアリングも確実に証明法を知らなかった。この定理を証明したのはラグランジュで、1773年のことである。
イスラム数学では友愛数が大きな役割を果たした。13世紀のペルシア人数学者アル・ファリシは、因数分解と組合せ数学の新たな重要な方法を導入して、サービト数と友愛数の関係について新たな証明を見出した。彼はまた、17296 と 18416 という友愛数も発見している。通常これらはオイラーが発見したとされているが、アル・ファリシの方が早いし、サービト・イブン・クッラ自身も知っていた可能性がある。17世紀にはムハンマド・バキル・ヤズディが友愛数 9,363,584 と 9,437,056 を発見しており、これもオイラーより先である。
13世紀、レオナルド・フィボナッチは著書の1つとして『平方の書』 (Liber Quadratorum) を書いた。その中でピタゴラス数を扱っている。彼は平方数が奇数の和として記述できると記している。彼は合同数の概念を定義し、ab(a + b)(a - b) という形で表される数は a + b が偶数ならば合同数であり、a + b が奇数ならばそれを4倍したものが合同数だとした。フィボナッチは x 2 + C {\displaystyle x^{2}+C} と x 2 − C {\displaystyle x^{2}-C} が共に平方数ならば C が合同数であることを示した。また、平方数は合同数となりえないことも証明した。フィボナッチの数論への貢献は大きく、「『平方の書』だけでフィボナッチはディオファントスと17世紀のフランス人数学者ピエール・ド・フェルマーの間で最大の貢献者に位置づけられる」とされている。
16世紀から17世紀には、フランソワ・ビエト、クロード=ガスパール・バシェ・ド・メジリアクらが数論の発展に貢献し、特にピエール・ド・フェルマーは無限降下法を用いてディオファントスの問題について初めての一般的証明を与えた。1637年にフェルマーが提示したフェルマーの最終定理については、1994年まで証明できなかった。フェルマーは1657年に 61 x 2 + 1 = y 2 {\displaystyle 61x^{2}+1=y^{2}} という方程式も問題として提示している。
18世紀にはオイラーとラグランジュが数論の分野で重要な貢献をした。オイラーは解析的整数論の研究も行い、方程式 61 x 2 + 1 = y 2 {\displaystyle 61x^{2}+1=y^{2}} の解法を見出した。ラグランジュはさらに一般化したペル方程式の解法を見出した。オイラーやラグランジュのペル方程式の解法は連分数を使うものだが、インドのチャクラバーラ法に比べると複雑である。
18世紀の終わりにルジャンドルの『数の理論に関する試作』(Essai sur la Théorie des Nombres、1798年)が出版される。19世紀に入って出版されたガウスの『算術研究』(Disquisitiones Arithmeticae、1801年)は、近代数論の扉を開いたとされている。
合同についての理論はガウスの著作『算術研究』が始まりである。彼は次のような記法を導入した。
そして、合同算術について広く考察している。1847年にチェビシェフはロシア語で合同算術についての著作を出版し、フランスではジョゼフ・アルフレッド・セレがそれを広めた。
ルジャンドルはそれまでの成果をまとめただけでなく、平方剰余の相互法則についても記している。この法則はオイラーが数値計算に基づき帰納的に発見し発表したもので、ルジャンドルが自著『数の理論に関する試作』(1798年)で証明を試みた。オイラーやルジャンドルとは別にガウスも1795年にこの法則を独力で発見し、1796年4月8日に最初の完全な証明を完成させた。他にその発展に貢献した数学者として、コーシー、数論の古典とされている『整数論講義』で知られるディリクレとデーデキント、ヤコビ記号を導入したヤコビ、リウヴィル、アイゼンシュタイン、クンマー、クロネッカーらがいる。この理論はさらに3次剰余の相互法則、4次剰余の相互法則へと発展した。アイゼンシュタインは最初に3次剰余の相互法則の証明を発表した。
ガウスは数を二元二次形式で表現する理論の創始者でもある。
数論の中でも特によく研究されているテーマが素数の分布である。カール・フリードリヒ・ガウスは10代のころに素数の分布を漸近的に予想した(素数定理)。
ディリクレ(1837年)は、全ての適格な等差数列が素数を無限に含むことを証明した。チェビシェフ(1850年)は、素数の分布に関するチェビシェフの定理を証明した。リーマンはリーマンゼータ関数の理論に複素解析を導入した。これによりゼータ関数の零点と素数の分布の関係が導かれ、ついに1896年、アダマールとド・ラ・ヴァレ・プーサンがそれぞれ独自に素数定理を証明した。後の1949年にはポール・エルデシュとアトル・セルバーグが初等的証明を与えた。ここでいう初等的とは複素解析の技法を使っていないということを意味する。それでもその証明はまだ非常に込み入っていて難しい。素数の分布についてより正確な情報を与えるであろうリーマン予想は、まだ証明されていない。
コーシー、ポアソン(1845年)、そして特にエルミートも数論に貢献している。3次形式の理論についてはアイゼンシュタインが先駆者であり、彼と H. J. S. Smith が形式論全般について注目に値する進展をもたらした。Smithは3元2次形式を完全に分類し、ガウスの実数の2次形式を複素数へと拡張した。4個から8個の平方数の和で表せる数の探求はアイゼンシュタインが進展させ、Smithが理論として完成させた。
ディリクレはこの問題についてドイツの大学で初めて講義を行った。彼は他にもフェルマーの最終定理
の n = 5 と n = 14 の場合の証明に貢献している(オイラーとルジャンドルが n = 3 とn = 4 の場合を既に証明しており、それによって n が3または4の倍数の場合も含意されていた)。19世紀後半から活躍した他のフランス人数学者として、ボレル、貴重な回想録を数多く著しているポアンカレ、スティルチェスらがいる。ドイツでは、レオポルト・クロネッカー、エルンスト・クンマー、デーデキントらがいる。オーストリアではオットー・シュトルツ、イギリスではジェームス・ジョセフ・シルベスターも知られている。
この時代には、アクサル・トゥエがディオファントス方程式の研究に重要な貢献をした。また、ダフィット・ヒルベルトは代数的整数論で貢献し、ウェアリングの問題の証明も行った。ヘルマン・ミンコフスキーは幾何学的数論を創始した。他にも、アドルフ・フルヴィッツ、ヴァツワフ・シェルピニスキといった数学者が数論の発展に貢献している。
20世紀の数論研究の有名人としては、ヘルマン・ワイル、ヘルムート・ハッセ、ポール・エルデシュ、ゲルト・ファルティングス、ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディ、エトムント・ランダウ、イヴァン・ニーベン、シュリニヴァーサ・ラマヌジャン、アンドレ・ヴェイユ、アトル・セルバーグ、カール・ジーゲル、ジョン・テイト、ロバート・ラングランズ、志村五郎、岩澤健吉、ジャン=ピエール・セール、ピエール・ルネ・ドリーニュ、エンリコ・ボンビエリ、アラン・ベイカー、ウラジーミル・ドリンフェルト、ローラン・ラフォルグ、アンドリュー・ワイルズ、リチャード・テイラーといった人物がいる。
20世紀の数論における大きな出来事として次のようなことが挙げられる。
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"text": "フェルマーの最終定理のように、数論のいくつかの問題については、他の数学の分野に比して問題そのものを理解するのは簡単である。しかし、使われる手法は多岐に渡り、また非常に高度であることが多い。",
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"text": "通常代数学の一分野とみなされることが多い。おおむね次の四つに分けられる。",
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"text": "ルジャンドルはそれまでの成果をまとめただけでなく、平方剰余の相互法則についても記している。この法則はオイラーが数値計算に基づき帰納的に発見し発表したもので、ルジャンドルが自著『数の理論に関する試作』(1798年)で証明を試みた。オイラーやルジャンドルとは別にガウスも1795年にこの法則を独力で発見し、1796年4月8日に最初の完全な証明を完成させた。他にその発展に貢献した数学者として、コーシー、数論の古典とされている『整数論講義』で知られるディリクレとデーデキント、ヤコビ記号を導入したヤコビ、リウヴィル、アイゼンシュタイン、クンマー、クロネッカーらがいる。この理論はさらに3次剰余の相互法則、4次剰余の相互法則へと発展した。アイゼンシュタインは最初に3次剰余の相互法則の証明を発表した。",
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"text": "ガウスは数を二元二次形式で表現する理論の創始者でもある。",
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"text": "数論の中でも特によく研究されているテーマが素数の分布である。カール・フリードリヒ・ガウスは10代のころに素数の分布を漸近的に予想した(素数定理)。",
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] | 数論は、数、特に整数およびそれから派生する数の体系(代数体、局所体など)の性質について研究する数学の一分野である。整数論とも言う。 | {{Otheruses|数学の一分野としての「数論」|「数論学派」とも呼ばれる古代インド哲学の学派|サーンキヤ学派}}
{{言葉を濁さない|date=2013年12月16日 (月) 22:27 (UTC)}}
'''数論'''(すうろん、{{lang-en|number theory}})は、[[数]]、特に[[整数]]およびそれから派生する数の体系([[代数体]]、[[局所体]]など)の性質について研究する[[数学]]の一分野である。'''整数論'''とも言う。
== 概要 ==
[[フェルマーの最終定理]]のように、数論のいくつかの問題については、他の数学の分野に比して問題そのものを理解するのは簡単である。しかし、使われる手法は多岐に渡り、また非常に高度であることが多い。
== 分野 ==
通常'''[[代数学]]'''の一分野とみなされることが多い。おおむね次の四つに分けられる。
;初等整数論
:他の分野の数学的手法を使わずに問題に取り組む、数論の中で最も基礎的な土台をなす。[[フェルマーの小定理]]や[[オイラーの定理 (数論)|オイラーの定理]]、[[平方剰余の相互法則]]などはこの分野の成果である。
;代数的整数論
:扱われる対象は整数というよりも[[代数的整数]]である。従って、代数的な整数論と読むよりも代数的整数の論と読む方が正しいと考えられる。ガウスの整数を研究した[[カール・フリードリヒ・ガウス]]がおそらくこの分野の創始者である。体論はこの分野の基礎的根幹であって、[[ガロア理論]]は(他の数学においてもそうだが)基本的な道具である。代数体の[[アーベル拡大]]の統制を記述する[[類体論]]も、この分野の大きな成果である。元来の[[岩澤理論]]もここに分類されよう。
;解析的整数論
:[[微積分]]や[[複素関数論]]等の解析学的手法を用いて問題に取り組む。この分野は初めて解析的な手法を系統的に数論に応用した[[ペーター・グスタフ・ディリクレ|ディリクレ]]に始まるとされる。その弟子である[[ベルンハルト・リーマン]]によってすでにこの分野の(ひいては数論)の最大の未解決問題である[[リーマン予想]](1859年)が提示されたのは興味深い。[[素数定理]]の証明(1896年)はこの分野の一里塚である。[[ゼータ関数]]、[[保型関数]]を研究するのもこの分野であって、[[超越数]]論とも関係が深い。
;数論幾何学
:整数論の問題を、代数幾何の手法で研究する、あるいは代数幾何の主対象である代数多様体(もっと広くスキーム)の整数論的な性質を研究する分野である。ディオファンタスによる研究(初等整数論の範疇)から考えても、その起源は古いが、現代的な意味での数論幾何学の始祖はアンドレ・ヴェイユ(合同ゼータ関数に関する研究、モーデル・ヴェイユの定理の証明のほか、任意の体上での代数幾何学の研究など)といえるだろう。1950年代後半以降の[[アレクサンドル・グロタンディーク]]らによるスキーム論およびそれに関連する各種理論の発展により、爆発的な発展を遂げ、現在では数論の中核に位置しているといえる。
== 応用 ==
かつて数論は[[純粋数学]]であり応用を持たなかったが、[[コンピュータ]]の発展に伴い、幅広い分野に応用を持つようになった。
=== 応用例 ===
*[[公開鍵暗号]] - 暗号化と復号化を異なった鍵(数値)で行う方法。一つの鍵で復号化と暗号化を行う場合と比べ安全性と応用性が高まる。
*[[固定ギア]]自転車のスキッドポイントの分散化 - 前後のギアの関係を[[互いに素]]にすると、スキッドポイントと呼ばれる摩耗点が最も分散化される(タイヤの寿命が向上する)。
== 数論への言及 ==
ガウスは次のような言葉を残している:
{{bquote|数学は科学の女王であり、数論は数学の女王である}}
== 歴史 ==
{{see also|数論の年表}}
=== 古代ギリシア ===
数論は[[ヘレニズム]]後期(紀元3世紀)のギリシア人数学者らに最も好まれた研究対象で、[[エジプト]]の[[アレクサンドリア]]で活動した[[アレクサンドリアのディオファントス]]は、自らの名が(後に)冠された[[ディオファントス方程式]]の様々な特殊ケースを研究したことで知られている。
ディオファントスはまた、[[線型方程式|線型]]な[[不定方程式]]の整数解を求める方法について考察した。線型不定方程式とは、解の単一の離散集合を得るには情報が不足している方程式を指す。例えば、<math>x + y = 5</math> という方程式は、{{mvar|x}} と {{mvar|y}} が整数だとしても解が無数に存在する。ディオファントスは多くの不定方程式について、具体的な解はわからなくとも解のカテゴリがわかっている形式に還元できることに気づいた。
=== インド ===
[[インド数学|中世インド]]でも数学者らは[[ディオファントス方程式]]を深く研究しており、線形ディオファントス方程式の整数解を求める体系的手法を初めて定式化した。[[アリヤバータ]]は著作『アーリヤバティーヤ』(499年)の中で線型ディオファントス方程式 <math>ay + bx = c</math> の整数解の求め方を初めて明確に記している。これを「クッタカ法」と呼び、ディオファントス方程式の解を[[連分数]]を使って表すもので、アリヤバータの[[純粋数学]]における最大の貢献とされている。アリヤバータはこの技法を応用し、重要な天文学上の問題に対応する連立線型ディオファントス方程式の整数解を求めるのに使った。彼はまた不定線型方程式の一般的解法も見つけている。
[[ブラーマグプタ]]は著書『[[ブラーマ・スプタ・シッダーンタ]]』(628年)でさらに難しいディオファントス方程式を扱っている。彼が使ったのは、<math>61x^2 + 1 = y^2</math> のような[[ペル方程式]]に代表される[[二次方程式|二次]]のディオファントス方程式を解く「[[チャクラバーラ法]]」{{Enlink|Chakravala method}}である。この著書は773年に[[アラビア語]]に翻訳され、そこから1126年に[[ラテン語]]に翻訳された。[[フランス]]人数学者[[ピエール・ド・フェルマー]]は1657年にこの方程式 <math>61x^2 + 1 = y^2</math> を問題として提示している。この方程式そのものは70年以上後に[[レオンハルト・オイラー]]が解いたが、ペル方程式全般の解法が見つけたのは[[ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ]]で、フェルマーが問題を提示してから100年以上たった1767年のことだった。一方それより何世紀も前の1150年、[[バースカラ2世]]がペル方程式の解法を記述している。彼はブラーマグプタのチャクラバーラ法を改良した解法を使っており、同じ技法を応用して不定二次方程式や二次ディオファントス方程式の一般解も見つけている。バースカラ2世のチャクラバーラ法によるペル方程式の解法は、600年後のラグランジュが使った手法より単純だった。バースカラ2世は他にも様々な二次/[[三次関数|三次]]/[[四次方程式|四次]]など高次の不定[[多項式|多項]]方程式の解を求めている。このチャクラバーラ法をさらに発展させたのが[[ナーラーヤナ・パンディト]]で、他の不定二次多項方程式や高次多項方程式の一般解を求めている。
=== 中世イスラム ===
9世紀以降、[[アラビア数学]]は数論を熱心に研究するようになった。先駆者とされる数学者は[[サービト・イブン=クッラ]]で、[[友愛数]]を求めるアルゴリズムを発見したことで知られている。友愛数とは、2つの異なる[[自然数]]の組で、自分自身を除いた[[約数]]の和が互いに他方と等しい。10世紀には[[イブン・タヒル・アル=バグダディ]]がサービト・イブン=クッラの手法を若干変えた手法を見つけている。
10世紀の[[イブン・アル・ハイサム]]は偶数の[[完全数]](その数自身を除く約数の和がその数自身と等しいもの)を世界で初めて分類しようと試みたと見られ、<math>2^k - 1</math> が素数のとき、<math>2^{k-1}(2^k - 1)</math> が完全数となることを発見した。またアル・ハイサムは[[ウィルソンの定理]]を最初に発見した。これは、''p'' が素数ならば <math>1+(p-1)!</math> が ''p'' で割り切れるという定理である。彼がこの定理の証明を知っていたかどうかは不明である。ウィルソンの定理という名称は、[[エドワード・ウェアリング]]が1770年に[[ジョン・ウィルソン (数学)|ジョン・ウィルソン]]がこの定理に気づいたと記したことに由来する。ウィルソンも証明を知っていた証拠はなく、ウェアリングも確実に証明法を知らなかった。この定理を証明したのはラグランジュで、1773年のことである。
イスラム数学では友愛数が大きな役割を果たした。13世紀の[[ペルシア人]]数学者[[アル・ファリシ]]は、因数分解と[[組合せ数学]]の新たな重要な方法を導入して、[[サービト数]]と友愛数の関係について新たな証明を見出した。彼はまた、17296 と 18416 という友愛数も発見している。通常これらはオイラーが発見したとされているが、アル・ファリシの方が早いし、サービト・イブン・クッラ自身も知っていた可能性がある。17世紀には[[ムハンマド・バキル・ヤズディ]]が友愛数 9,363,584 と 9,437,056 を発見しており、これもオイラーより先である。
=== ヨーロッパ ===
[[13世紀]]、[[レオナルド・フィボナッチ]]は著書の1つとして『平方の書』 (Liber Quadratorum) を書いた。その中で[[ピタゴラス数]]を扱っている。彼は平方数が奇数の和として記述できると記している。彼は[[合同数]]の概念を定義し、''ab''(''a'' + ''b'')(''a'' - ''b'') という形で表される数は ''a'' + ''b'' が偶数ならば合同数であり、''a'' + ''b'' が奇数ならばそれを4倍したものが合同数だとした。フィボナッチは <math>x^2 + C</math> と <math>x^2 - C</math> が共に平方数ならば ''C'' が合同数であることを示した。また、平方数は合同数となりえないことも証明した<ref>O'Connor, John J.; Robertson, Edmund F, [http://www-history.mcs.st-andrews.ac.uk/Biographies/Fibonacci.html Fibonacci], [[:en:MacTutor History of Mathematics archive|MacTutor History of Mathematics archive]], [[セント・アンドルーズ大学 (スコットランド)|University of St Andrews]]</ref>。フィボナッチの数論への貢献は大きく、「『平方の書』だけでフィボナッチは[[アレクサンドリアのディオファントス|ディオファントス]]と17世紀のフランス人数学者[[ピエール・ド・フェルマー]]の間で最大の貢献者に位置づけられる」とされている<ref>[https://books.google.es/books?id=sIk2_5kLwqIC&pg=PA2&dq=squaring+the+circle.thinking&cd=1#v=onepage&q=Fibonacci&f=false Duthel,Heinz:''Squaring the circle-thinking the unthinkable",p.84'']</ref>。
16世紀から17世紀には、[[フランソワ・ビエト]]、[[クロード=ガスパール・バシェ・ド・メジリアク]]らが数論の発展に貢献し、特に[[ピエール・ド・フェルマー]]は[[無限降下法]]を用いてディオファントスの問題について初めての一般的証明を与えた。1637年にフェルマーが提示した[[フェルマーの最終定理]]については、1994年まで証明できなかった。フェルマーは1657年に <math>61x^2 + 1 = y^2</math> という方程式も問題として提示している。
18世紀にはオイラーとラグランジュが数論の分野で重要な貢献をした。オイラーは解析的整数論の研究も行い、方程式 <math>61x^2 + 1 = y^2</math> の解法を見出した。ラグランジュはさらに一般化した[[ペル方程式]]の解法を見出した。オイラーやラグランジュのペル方程式の解法は[[連分数]]を使うものだが、[[インド]]のチャクラバーラ法に比べると複雑である。
=== 近代数論の始まり ===
18世紀の終わりに[[アドリアン=マリ・ルジャンドル|ルジャンドル]]の『数の理論に関する試作』(''Essai sur la Théorie des Nombres''、1798年)が出版される。19世紀に入って出版された[[カール・フリードリヒ・ガウス|ガウス]]の『算術研究』(''[[Disquisitiones Arithmeticae]]''、1801年)は、近代数論の扉を開いたとされている。
[[合同式|合同]]についての理論はガウスの著作『算術研究』が始まりである。彼は次のような記法を導入した。
:<math>a \equiv b \pmod c</math>
そして、合同算術について広く考察している。1847年に[[パフヌティ・チェビシェフ|チェビシェフ]]はロシア語で合同算術についての著作を出版し、フランスでは[[ジョゼフ・アルフレッド・セレ]]がそれを広めた。
ルジャンドルはそれまでの成果をまとめただけでなく、[[平方剰余の相互法則]]についても記している。この法則はオイラーが数値計算に基づき帰納的に発見し発表したもので、ルジャンドルが自著『数の理論に関する試作』(1798年)で証明を試みた。オイラーやルジャンドルとは別にガウスも[[1795年]]にこの法則を独力で発見し、[[1796年]][[4月8日]]に最初の完全な証明を完成させた。他にその発展に貢献した数学者として、[[オーギュスタン=ルイ・コーシー|コーシー]]、数論の古典とされている『整数論講義』で知られる[[ペーター・グスタフ・ディリクレ|ディリクレ]]と[[リヒャルト・デーデキント|デーデキント]]、[[ヤコビ記号]]を導入した[[カール・グスタフ・ヤコブ・ヤコビ|ヤコビ]]、[[ジョゼフ・リウヴィル|リウヴィル]]、[[フェルディナント・ゴットホルト・マックス・アイゼンシュタイン|アイゼンシュタイン]]、[[エルンスト・クンマー|クンマー]]、[[レオポルト・クロネッカー|クロネッカー]]らがいる。この理論はさらに[[3次剰余の相互法則]]、[[4次剰余の相互法則]]へと発展した。アイゼンシュタインは最初に3次剰余の相互法則の証明を発表した。
ガウスは数を二元[[二次形式]]で表現する理論の創始者でもある。
=== 素数論 ===
数論の中でも特によく研究されているテーマが素数の分布である。[[カール・フリードリヒ・ガウス]]は10代のころに素数の分布を漸近的に予想した([[素数定理]])。
[[ペーター・グスタフ・ディリクレ|ディリクレ]](1837年)は、全ての適格な等差数列が素数を無限に含むことを証明した。[[パフヌティ・チェビシェフ|チェビシェフ]](1850年)は、素数の分布に関する[[ベルトランの仮説|チェビシェフの定理]]を証明した。リーマンは[[リーマンゼータ関数]]の理論に[[複素解析]]を導入した。これによりゼータ関数の[[零点]]と素数の分布の関係が導かれ、ついに1896年、[[ジャック・アダマール|アダマール]]と[[シャルル・ジャン・ド・ラ・ヴァレ・プーサン|ド・ラ・ヴァレ・プーサン]]がそれぞれ独自に[[素数定理]]を証明した。後の1949年には[[ポール・エルデシュ]]と[[アトル・セルバーグ]]が初等的証明を与えた。ここでいう初等的とは複素解析の技法を使っていないということを意味する。それでもその証明はまだ非常に込み入っていて難しい。素数の分布についてより正確な情報を与えるであろう[[リーマン予想]]は、まだ証明されていない。
=== 19世紀 ===
[[オーギュスタン=ルイ・コーシー|コーシー]]、[[ルイ・ポアソン|ポアソン]](1845年)、そして特に[[シャルル・エルミート|エルミート]]も数論に貢献している。3次形式の理論については[[フェルディナント・ゴットホルト・マックス・アイゼンシュタイン|アイゼンシュタイン]]が先駆者であり、彼と [[:en:H. J. S. Smith|H. J. S. Smith]] が形式論全般について注目に値する進展をもたらした。Smithは3元2次形式を完全に分類し、ガウスの実数の[[二次形式|2次形式]]を複素数へと拡張した。4個から8個の平方数の和で表せる数の探求はアイゼンシュタインが進展させ、Smithが理論として完成させた。
[[ペーター・グスタフ・ディリクレ|ディリクレ]]はこの問題についてドイツの大学で初めて講義を行った。彼は他にも[[フェルマーの最終定理]]
:<math>x^n+y^n \neq z^n, (x,y,z \neq 0, n > 2)</math>
の ''n'' = 5 と ''n'' = 14 の場合の証明に貢献している(オイラーとルジャンドルが ''n'' = 3 と''n'' = 4 の場合を既に証明しており、それによって ''n'' が3または4の倍数の場合も含意されていた)。19世紀後半から活躍した他のフランス人数学者として、[[エミール・ボレル|ボレル]]、貴重な回想録を数多く著している[[アンリ・ポアンカレ|ポアンカレ]]、[[トーマス・スティルチェス|スティルチェス]]らがいる。ドイツでは、[[レオポルト・クロネッカー]]、[[エルンスト・クンマー]]、[[リヒャルト・デーデキント|デーデキント]]らがいる。オーストリアでは[[オットー・シュトルツ]]、イギリスでは[[ジェームス・ジョセフ・シルベスター]]も知られている。
=== 19世紀末から20世紀初頭 ===
この時代には、[[アクサル・トゥエ]]が[[ディオファントス方程式]]の研究に重要な貢献をした。また、[[ダフィット・ヒルベルト]]は代数的整数論で貢献し、[[ウェアリングの問題]]の証明も行った。[[ヘルマン・ミンコフスキー]]は幾何学的数論を創始した。他にも、[[アドルフ・フルヴィッツ]]、[[ヴァツワフ・シェルピニスキ]]といった数学者が数論の発展に貢献している。
=== 20世紀 ===
20世紀の数論研究の有名人としては、[[ヘルマン・ワイル]]、[[ヘルムート・ハッセ]]、[[ポール・エルデシュ]]、[[ゲルト・ファルティングス]]、[[ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディ]]、[[エトムント・ランダウ]]、[[イヴァン・ニーベン]]、[[シュリニヴァーサ・ラマヌジャン]]、[[アンドレ・ヴェイユ]]、[[アトル・セルバーグ]]、[[カール・ジーゲル]]、[[ジョン・テイト]]、[[ロバート・ラングランズ]]、[[志村五郎]]、[[岩澤健吉]]、[[ジャン=ピエール・セール]]、[[ピエール・ルネ・ドリーニュ]]、[[エンリコ・ボンビエリ]]、[[アラン・ベイカー]]、[[ウラジーミル・ドリンフェルト]]、[[ローラン・ラフォルグ]]、[[アンドリュー・ワイルズ]]、[[リチャード・テイラー (数学者)|リチャード・テイラー]]といった人物がいる。
20世紀の数論における大きな出来事として次のようなことが挙げられる。
* 1920年代には、[[高木貞治]]、[[エミール・アルティン]]、[[フィリップ・フルトヴェングラー]]らが[[類体論]]を創始し、1930年代に[[ヘルムート・ハッセ]]や[[クロード・シュヴァレー]]が発展させた。
* 1940年代に[[アンドレ・ヴェイユ]]が[[ヴェイユ予想]]を発表し、[[バーナード・ドゥワーク]]、[[アレクサンドル・グロタンディーク]]、[[ピエール・ルネ・ドリーニュ]]らがその証明に取り組んだ。
* 1961年の M. B. Barban の成果に基づき、1965年に[[エンリコ・ボンビエリ]]らが「{{仮リンク|ボンビエリ=ヴィノグラドフの定理|en|Bombieri–Vinogradov theorem}}」を定式化した。
* 1960年代後半に[[ロバート・ラングランズ]]が[[ラングランズ・プログラム]]を提唱し、そこから他の数学者により様々な発展が得られた。
* [[陳景潤の定理]]が1966年に発表され、1973年に証明された。
* [[アンドリュー・ワイルズ]]による[[フェルマーの最終定理]]の証明(1994年)。また、これと密接に関連する[[谷山・志村予想]]は1999年、[[クリストフ・ブレイユ]]、[[ブライアン・コンラッド]]、[[フレッド・ダイアモンド]]、[[リチャード・テイラー (数学者)|リチャード・テイラー]]によって証明された。
== 未解決問題 ==
[[ファイル:Ulam 1.png|250px|right|thumb|ウラムの螺旋。[[自然数]]を螺旋形に順に並べ、[[素数]]にあたる位置だけを強調表示した図。何らかのパターンが見えており、法則が予想されているが、その予想はまだ証明されていない。]]
数多く存在するが、その多くに素数分布予測の難しさが絡んでいると思われる。問題そのものは初等的に記述できても本質的に現代数学の概念を要請するものが多い。
*[[ウラムの螺旋]]
*[[コラッツの問題]]
*[[ゴールドバッハの予想]]
*[[双子素数予想]]
*[[リーマン予想]]
*[[BSD予想]]
== 関連文献 ==
* 本橋洋一, 解析的整数論 I 及び II, [[朝倉書店]], 東京 2009/2011. ISBN 978-4-254-11821-6 / ISBN 978-4-254-11822-3
* {{Citation| last=Apostol| first=Tom M.| author-link=トム・アポストル| title=Introduction to analytic number theory| publisher=[[Springer-Verlag]]| location=New York-Heidelberg| series=Undergraduate Texts in Mathematics| isbn=978-0-387-90163-3| id={{MathSciNet | id = 0434929}}| year=1976}}
* {{cite book | author=Dedekind, Richard | title=Essays on the Theory of Numbers | publisher=[[Cambridge University Press]] | year=1963 | isbn=0-486-21010-3}}
* {{cite book | author=Davenport, Harold | title=The Higher Arithmetic: An Introduction to the Theory of Numbers (7th ed.) | publisher=[[Cambridge University Press]] | year=1999 | isbn=0-521-63446-6}}
* {{cite book | author=Guy, Richard K. | title=Unsolved Problems in Number Theory | publisher=[[Springer-Verlag]] | year=1981 | isbn=0-387-90593-6}}
* {{cite book | author=Hardy, G. H. and Wright, E. M. | title=An Introduction to the Theory of Numbers (5th ed.) | publisher=[[Oxford University Press]] | year=1980 | isbn=0-19-853171-0}}
* {{cite book | author=Niven, Ivan, Zuckerman, Herbert S. and Montgomery, Hugh L. | title=An Introduction to the Theory of Numbers (5th ed.) | publisher=Wiley Text Books | year=1991 | isbn=0-471-62546-9}}
* {{cite book | authorlink= |author=Ore, Oystein | title=Number Theory and Its History | publisher=Dover Publications, Inc. | year=1948 | isbn=0-486-65620-9}}
* Smith, David. [http://www.gutenberg.net/etext05/hsmmt10p.pdf ''History of Modern Mathematics'' (1906)] (adapted public domain text)
* Dutta, Amartya Kumar (2002). 'Diophantine equations: The Kuttaka', ''Resonance - Journal of Science Education''.
* O'Connor, John J. and Robertson, Edmund F. (2004). [http://turnbull.mcs.st-and.ac.uk/~history/Indexes/Arabs.html 'Arabic/Islamic mathematics'], ''[[:en:MacTutor History of Mathematics archive|MacTutor History of Mathematics archive]]''.
* O'Connor, John J. and Robertson, Edmund F. (2004). [http://turnbull.mcs.st-and.ac.uk/~history/Indexes/Indians.html 'Index of Ancient Indian mathematics'], ''MacTutor History of Mathematics archive''.
* O'Connor, John J. and Robertson, Edmund F. (2004). [http://turnbull.mcs.st-and.ac.uk/~history/Indexes/Number_Theory.html 'Numbers and Number Theory Index'], ''MacTutor History of Mathematics archive''.
* Kraeft, Uwe, (2000–2010). 'Studies in Number Theory', 22 vols., last vol. 'Additive Representations of Integers in Number Theory', Shaker Verlag, Aachen, ISBN 978-3-8322-8793-1.
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Number theory}}
{{wikibooks}}
* [http://www.numbertheory.org Number Theory Web]
* [http://www.shoup.net/ntb/ A Computational Introduction to Number Theory and Algebra] by Victor Shoup
* {{Kotobank}}
*『初等整数論講義 第 版』高木貞治著、共立出版、2019年刊(第2版44刷)
{{数学}}
{{Number theory}}
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8,391 | 町田駅 | 町田駅(まちだえき)は、東京都町田市原町田にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・小田急電鉄の駅である。
町田市の中心駅であり、JR横浜線と小田急小田原線が乗り入れる、多摩地域における主要駅の1つである。小田急小田原線の一部の特急「ロマンスカー」を除く全営業列車が停車する。小田急線では2番、横浜線では1番の乗降客数を誇り、2社を合算した1日平均乗降人員は約51万人と多摩地域で最も多い。小田急とJRの駅は徒歩で5分ほど距離が離れており、両駅間を結ぶペデストリアンデッキは乗り換え客や買い物客で人通りが非常に多い。
南多摩地域の拠点駅として機能しており、駅周辺は百貨店や専門店、飲食店などが集積する首都圏屈指の繁華街として発展しているため、市内のみならず神奈川県の県央地域からも多くの買い物客を集める。小田急の駅舎は小田急百貨店町田店と直結している。路線バスの拠点でもあり、多くの神奈中バスが当駅を発着する。神奈川県相模原市との都県境付近に位置しており、南口駅前の一部の住所は相模原市南区上鶴間本町となる。また両鉄道路線とも一旦神奈川県を経由しないと当駅に至ることはできない。
JR東日本の横浜線と、小田急電鉄の小田急小田原線の2路線が乗り入れ、接続駅となっている。また、各路線ごとに駅番号が付与されている。
駅開設当時の「原町田」とは、駅所在地の地名から名付けられた。その後、駅が小田急線町田駅側に移築されたことに伴い、「町田」と改称された。当時横浜線の主力車両だった103系電車が当駅止まりとして運行される場合の方向幕では、当初は「町田」に置き換えられずに「原」の文字だけ消されて「 町田」となったものもあった。
改称に際しては、国鉄は当初既に存在していた宮原線(1937年開業→1984年廃止)「町田駅」と駅名が重複していたことから、難色を示した。しかし、大阪府出身の当時の町田市長、大下勝正が、東北本線福島駅(福島市)と大阪環状線福島駅(大阪市福島区)の事例を取り上げ、「既に重複している例はある」と国鉄を説き、改称にこぎつけている。
「原町田」に新しく設置された駅という意味で「新原町田」として開設された。その後、町田市の玄関口として駅周辺が発展したことに伴い、駅の大規模改良工事完成を半年後に控えた1976年4月に「町田」と改称された。
島式ホーム2面4線を持つ地上駅で、橋上駅舎を有している。
プラットホームは1980年の駅舎移転時に移設し、有効長は10両編成分 (220 m) が確保されている。ただし2021年現在、全列車が8両編成で運行されていることから、横浜方の2両分には転落防止柵が設置されている。また、これまでホームドアは設置されていなかったが、4番線でJR東日本メカトロニクスが開発した「スマートホームドア」と呼ばれる新形式のホームドアを試行導入することが決まり、2016年12月17日始発から車掌側1両分に試行導入された。その後、機器の改良を行った上で、2017年7月29日始発から八王子方2扉分を除く1編成分に、2017年9月23日始発から八王子方最前部2扉分に拡大された。さらに、開口部やバーの収納部などの改良を加えた「スマートホームドア」を設置するため、2020年1月12日に4番線に導入された「スマートホームドア」を一旦撤去し、2020年12月25日から1番線と4番線に改良型を導入した。
改札口は中央改札とターミナル改札口(旧:原町田駅付近)の2か所で、それぞれ2階にある。中央改札は、北側(小田急町田駅西口、バスセンター側)が中央口北口、南側(ヨドバシ側)が中央口南口となっている。南口のヨドバシカメラ側(八王子方)の上りエスカレーターならびにエレベーターは開業に合わせて自費で設置したもので、現地には寄贈プレートが設置されており、現在は相模原市が維持管理を行っている。ペデストリアンデッキ上の屋根設置に伴い、北口の駅名標は以前よりも見えにくくなっている。また、南口の駅名標は2013年に撤去されて以降、再設置されていない。ターミナル改札口はSuica導入後も有人改札のままで、Suicaが使えなかったが、2006年頃に自動改札機を設置したのに合わせて対応した。なお、ターミナル改札口は、2014年2月9日の駅遠隔操作システム(現・お客さまサポートコールシステム)の導入に伴い、遠隔対応のため改札係員は終日不在となっている。中央改札付近にみどりの窓口と指定席券売機が設置されている。
2005年から続いていたバリアフリー対応改装工事は終了し、エレベーターならびにエスカレーター専用通路が設置され、また新設のコンコース脇にはNewDays、BECK'S COFFEE SHOP、ジューサーバー (JEFB) が開業し、同時にトイレの改装と冷暖房取り付け工事も完了した。この改装前から設置されていた八王子方のエレベーターは、ホームと駅事務室を連絡する車椅子使用者専用のものであり、エスカレーターは上りのみであった。改装前に存在したエスカレーター部分は現在階段となっている。
横浜線はすべての定期旅客列車が停車する。土休日に運転されていた臨時列車「はまかいじ」は設定当時からの停車駅だった。
直営駅(駅長配置)であり、管理駅として、成瀬駅・古淵駅を管理下に置いている。
北口側が1番線である。また、外側2線(1番線と4番線)が主本線、内側2線(2番線と3番線)が副本線(待避線)となっている。
(出典:JR東日本:駅構内図)
明治時代に横浜鉄道(現:横浜線)が開業した当初、原町田の中心地は現在の町田市立中央図書館などのある原町田二丁目付近であり、原町田駅もここに近い位置に設置された。大正後期より昭和初期の小田原急行鉄道(現:小田急小田原線)の建設の際、元々本町田(現在の玉川学園前駅の東方)から成瀬、金森方面へ抜ける経路で計画されていた路線を原町田方面経由に変更した際、原町田周辺が多摩丘陵と相模原台地の境界部であり、周囲には深く切り立った渓谷(芹ヶ谷戸、現在の芹ヶ谷公園)や高い丘陵を避けるため北西へ迂回したことになり、路線の開業時に新原町田駅は当時の市街地から離れた場所に設置されることとなった。現在でも玉川学園前駅から相模大野駅にかけては急で長い勾配が存在する。
その後、両路線や原町田が発展するようになり、国鉄横浜線と小田急小田原線が事実上の乗換駅となったものの、2つの駅の距離は離れており、バス停留所もそれぞれ独立した場所にあったため、利用客などから駅を移設して乗り換えを便利にして欲しいという声が高まっていた。大勢の乗り換え客がそれぞれの駅に向かって走るので、経路になった道路は通称『マラソン道路』(または「駆け足通り」)と呼ばれていたほどである。
そこで、町田市などは横浜線の駅を小田原線と横浜線の交差地点近くに移設しようと計画したが、これに対して2つの間にある商店街が猛烈に反対を唱えた。というのも、乗り換え客の中には途中でこのような商店街に立ち寄る人も非常に多く、駅が移設してしまうとこのような客がいなくなる恐れがあったからである。その後も反対運動が続けられ、4千人を超える署名が集められた。その後の交渉で、
の3案が出され、長い交渉を経て2.の案に決定した。
こうして横浜線の駅は移設することになったが、これは商店街の声も一部配慮したものであった。連絡通路による乗り換えには約5分掛かり、ラッシュ時などはそれ以上の時間を要する場合もある。
島式ホーム2面4線を有する高架駅。現駅舎は地上11階地下1階建(表記上地上9階)の駅ビル(小田急百貨店)の2階と3階の間(中3階部分)を鉄道が貫くという珍しいスタイルで建設された駅である。傾斜地にあるため、新宿寄りではホーム(中3階)は地平でコンコース(2階)は地下に当たるが、相模大野寄りではホームは高架で、コンコースも地平より高い位置にある。
利用客の多さに比べホーム幅は狭い。2005年から2006年にかけて行われた駅構内のリニューアル工事で、改札内コンコースの案内表示やエスカレーターの増設やトイレの設置、改札外コンコースのトイレの改装などが行われた。2005年7月に行われた調査により、改札外天井部分にアスベストを含有した吹き付け材が用いられていることが確認されたため、2005年11月から2006年5月にかけて撤去作業を行った。
小田急電鉄の管区長、駅長所在駅。町田管区として登戸駅 - 当駅(小田原線)ならびに新百合ヶ丘駅 - 唐木田駅(多摩線)間、町田管内として柿生駅 - 当駅(小田原線)間を管理している。
改札口は全部で5か所あり、駅ビルの2階(ホームの下の階)のコンコースには、西口(南西)、北口(北西)、東口(北東)、南口(南東)がある(カッコ内は実際の方角)。また、3階(ホームの上の階)には小田急百貨店口があるが、これは百貨店内に直結しているため百貨店の営業時間帯以外は利用できない。
駅が南側から北側に向かっての傾斜地にあるため、JRの駅、バスセンターがある相模大野寄りの南西側(西口側)では、改札口のある2階は地面の高さから上がる必要がある。JR中央口北口と町田バスセンターから西口へはデッキで直接結ばれているが、改札面よりデッキの方が高い位置のため、若干下る。北口出口(2)(百貨店エスカレータ横、西側)は地面と百貨店2階の改札口の間に段差がない。ただし、接続道路は南西側(バスセンター側)へ下り、北東側(北口側)へ上る。新宿寄りの駅のすぐ北東側には玉川学園前8号踏切(通称第一踏切)があり、北側(東口)、西側(南口)から改札へは階段を降りることになる。駅構内改札付近と南口方面への間には段差があり、改札より南口、東口地下道(町田地下歩道)への通路が若干低い。
JR東日本と小田急電鉄で連絡乗車券などを発行できるように検討していたが、2008年3月15日より当駅経由の連絡定期券の購入ができるようになった。
最近まで、JR東日本と小田急電鉄との間で連絡運輸の協定がなされていなかったため、JR横浜線と小田急小田原線を乗り継ぐ場合の連絡乗車券・定期券などの購入はできなかった。そのため、それぞれの乗車券(回数券および磁気・Suica・PASMOの各定期券を含む)は別々に購入する必要があった。このためか、両社においてSuicaやパスネットが導入される以前は乗り換え客による乗車券購入待ちの列により自動券売機付近が非常に混雑し、自由通路を通ることができない状態になっていた。2014年現在でも引き続き連絡定期券以外の連絡乗車券類は購入できないため、ICカード・IC定期券所持者以外の不便な状況は変わっていない。
なお、定期券以外の連絡運輸が設けられていないのは、横浜線と小田急線は開業時から現在まで別駅扱いのためとみられる。その経緯については「#歴史」・「#横浜線の駅の移転について」も参照。
似たような例として、新越谷駅と南越谷駅、秋津駅と新秋津駅などがある。
2社を合算した2020年度の1日平均乗降人員は約35万人である。これは町田市のみならず、多摩地域の鉄道路線全駅で最も多い値である。
各年度の1日平均乗降人員は下表の通りである。
各年度の1日平均乗車人員は下表の通り。
JRの駅北側は東京でも有数の繁華街・歓楽街として発展しており、小田急百貨店やルミネ、マルイといった大型商業施設や飲食店などが小田急とJRの駅を中心に多数集積している。駅周辺は多摩地域有数の商業地として吉祥寺、立川、八王子と合わせて多摩地域の4大商業地に数えられ、南多摩地区の拠点である。南多摩地域のみならず、神奈川県央や横浜市北西部(いわゆる武相地域)の拠点としても栄える。
小田急線と横浜線中央口北口周辺は東京都町田市の原町田、森野、中町で、現在の繁華街は主に原町田4、6丁目付近に広がる。一方、横浜線の町田駅南口周辺は原町田1丁目だが、境川の旧流路が現在での神奈川県との都県境となっているため、境川を渡った相模大野駅側や、町田駅側であっても南口前のデニーズをはじめとした一部の住所は相模原市南区上鶴間本町となる。
鉄道の開業前、現在の駅周辺は鎌倉街道が横切る原野だったが、鎌倉時代より鎌倉街道の宿場として栄えた町田村の一部住民が1580年代にこの地域を開拓し原町田村が出来る。その後江戸時代末期の鎖国解除直後から、絹の道(生糸)の中継地、集散地として栄え、その流れで現在の原町田二丁目付近には多くの商店が建ち並んだ。
明治時代以降に横浜線や小田急線が開業すると駅近隣の発展は急速に進み始める。そして、1960年代から1970年代にかけて、住宅供給公社や当時の日本住宅公団によって市内に多数の大規模集合住宅(いわゆるマンモス団地)が建設されると、大丸(町田大丸に分社後、撤退)、緑屋(撤退)、さいか屋(専門店ビルのジョルナに業態転換)、ダイエー(トポス→メディアバレー→グルメシティ(上層階にダイソーが入居)と業態転換して閉店後、建て替えを行って現在は高層マンションおよびダイエー)などの百貨店、スーパーマーケットが次々に駅前に進出し、商業地としての地位を確実なものとした。今日では小田急百貨店や町田東急ツインズをはじめとして、ルミネ、マルイ、モディ、西友、ヨドバシカメラ、ビックカメラ、ドン・キホーテ、ジョルナ、BOOK・OFF(2館体制)などの大型店が林立し、さらには古くからの庶民的な商店街や若者向けの店も数多くひしめき合う、都民のみならず神奈川県民も多く訪れる日本でも有数の商業地として著しく発達しており、小田急線沿線としては新宿に次ぐ2番目、横浜線沿線では最大規模の商業地となっている。このように当駅周辺は多くの若者向け商業施設が集積していることから、俗に「西の渋谷」と呼ばれることもある。
このような大商業地でありながら、周辺の南町田、橋本、南大沢、新百合ヶ丘、海老名(ビナウォーク)などに開設されたシネマコンプレックスとの競合により、2館あった小規模映画館が閉館したほか、郵政事業民営化に伴うぱ・る・るプラザ町田閉鎖に伴う併設映画館の閉館により、当駅周辺には映画鑑賞施設が存在しない状態となった。
横浜線原町田駅跡地周辺は駅の移転後に合わせて再開発され、1983年にバスターミナル、自転車駐車場、自動車駐車場、商業施設、JR町田駅ターミナル口改札からなる「町田ターミナルプラザ」が開業し、東京急行電鉄(現在の東急)が所有する商業棟にはテナントとして東急ハンズが入居した。その後東急ハンズは東急百貨店まちだ店の再編に際し2007年に百貨店とともに一旦閉店し、同年、百貨店を業態変更した専門店ビルである町田東急ツインズに移転した。東急ハンズ移転後のターミナルプラザ商業棟には、2008年5月23日にファーストリテイリングが経営する商業施設のミーナ町田が入居している。一方、ターミナル棟(2階以下は町田市所有、3階以上は東京急行電鉄所有の「駐車場棟」)の1階は町田ターミナル(バスターミナル)、2階は「ターミナルエイト」と称し、9つの店舗(以前は名の通り8つ)が入れる商用スペースとなっている。ターミナルエイトは一時期、マクドナルドと喫茶店以外営業していない状態だったが、2008年のターミナルプラザ改装と2009年の町田ターミナル停留所への観光バス乗り入れによって、新たに数店舗が入居している。ターミナルエイトと商業棟の間は、「出会いのひろば」と称する子供用遊具が設置されていた広場でつながっている。出会いのひろばの奥には、1983年10月に設置された和田康男作「水のオブジェ」という作品があったが、ミーナ町田の開店に伴い子供用遊具と共に撤去されたが、後に子供用遊具は撤去したオブジェの位置に戻っている。出会いのひろばの北側には「ターミナルデッキ」と称するペデストリアンデッキがあり、JR町田駅ターミナル口から町田市立中央図書館(シティホテルのレンブラントホテル東京町田と同居)まで繋いでいる。このターミナルデッキ上には、1983年10月に設置された黒川紀章作「シティゲート」という作品があり、このモニュメントが真南北を示している。
JR町田駅から小田急町田駅までの間のペデストリアンデッキは往来が激しく、人通りは絶えることがない。JR中央口と小田急西口との間にはペデストリアンデッキが2つあるが、マルイ側のみに屋根があり、東急ツインズ、モディ側には屋根がない。マルイ側は1980年の横浜線町田駅移転とともに開設され、JRと小田急の連絡通路として使われたものだが、やがて常に全体が溢れ返るほど混雑したことから、モディ側(当時は大丸ビーミー)にも1993年に追加でデッキが建設された。なお、どちらも将来はターミナル側のデッキへの延伸接続を計画しており、実際に一部がターミナル方面へ伸ばされているが、1999年にルミネ前の一部が延伸されたのを最後に工事は止まっており、現段階では延伸の目処が立っていない。
JR中央口と町田東急ツインズとの間のペデストリアンデッキ上の広場は「モニュメント広場」と称され、その名の通り、回転する「曲がりくねった棒」でできたモニュメントが存在し、多くの鳩や鳥類が乗ったまま回転している光景もよく見られた。このモニュメントは1980年に設置された伊藤隆道作「動く彫刻 光の舞い」という作品である。この広場にも屋根が無かったため、一時期は傘を貸し出すサービスを行っていたが、2006年末頃にモニュメントを取り囲むような形で布製の屋根が設置された。
町田東急ツインズのEASTとWESTとの間の道路上のJR町田駅北口ペデストリアンデッキ向かいには、多摩都市モノレール町田駅の設置が計画されている。既に導入空間となる原町田大通りの一部は開通し、新道の建設も進められているが、多摩市南野 - 町田市小山田、旭町 - 芹ヶ谷公園付近など、一部区間での用地買収が滞っており、また多摩都市モノレールの財政的な問題もあるため、現時点でモノレールが町田駅まで延伸する目処は立っていない。なお、町田東急ツインズの両館の間を結ぶ連絡橋(クリスタルブリッジ)は、この計画があったために5階という高い位置に作られたとされる。
商業地域からJR町田駅を挟んだ南口側には、駅のすぐ目の前に大型家電量販店のヨドバシカメラがあり賑わってはいるが、その他は北口方面と比べると商業施設などに乏しい。また、JR南口至近の相模原市南区上鶴間本町には、かつて「田んぼ」と称された風俗街が存在し、現在でも性風俗店やラブホテルが数多く並んでおり、一部のマスコミからは北口の歓楽街も含めて「西の歌舞伎町」と呼ばれている。2007年4月にはその風俗店などが並ぶ場所に存在する町田駅南交差点付近で暴力団組員による銃撃事件(町田市立てこもり事件)が発生し、犯人を確保するために多数の警察官や警視庁の特殊捜査班が駆けつけ、近隣地域を管轄警察官が立ち入り禁止にするなど大きな騒動になった。銃撃事件発生後は駅周辺の各所に警察官が配置され、治安が強化されている。なお、後述のように南口側の原町田1丁目では町の賑わいを創出する方向で再開発が検討されている(#駅周辺の再開発計画を参照)。
東京都町田市と神奈川県相模原市(昔の武蔵国と相模国)の境界とされた境川はかつては激しく蛇行しており、河川改修によって流路が直線化された後も両市間では一部区間を除いて都県境が非常に入り組んだまま残されている。そのため、前述のようにJR町田駅南口前のデニーズをはじめとした周辺の一部は境川の北側ではあるが、神奈川県相模原市に属する。
駅からしばらく歩くと、緑や公園が多く存在し、緑が豊かな街としての一面もある。駅周辺にある公園の一つである芹ヶ谷公園には、町田市立国際版画美術館があり、古今東西の多くの版画が常設展示されている。一方、駅周辺の上空は厚木海軍飛行場への空路となっていて、爆音を聞き空を見上げると軍用機の下部を見ることがある。1964年には当時の繁華街(現在のターミナル付近)で軍用機の墜落事故(町田米軍機墜落事故)が発生し、事故現場周辺にいた4名が死亡するという惨事もあった。
小田急線町田駅周辺地区および原町田1丁目地区(JR町田駅南口エリア)の2地区で再開発が検討されている。なお、この2地区は町田市の基本計画『まちだ未来づくりプラン』において、「町田駅周辺の魅力を向上させるプロジェクト」の重点検討地区に位置づけられている。
小田急線町田駅周辺地区(対象地区:約1ha)では建物の老朽化などが目立つため再開発を視野に入れているほか、新たにバスターミナル機能の導入も検討している。また、原町田1丁目地区はJR町田駅南口の玄関口でありながら鉄道により回遊性が遮断され、駅前のヨドバシカメラ以外は賑わいに乏しいことから、老朽化が問題となっている市営駐車場の建て替えを中心として商業施設の導入などにより賑わいの創出を目指し、町田市では2018年3月に「JR町田駅南地区まちづくり整備方針」を策定した。
当駅周辺には、下記の5つのバス停留所があり、時間帯や方面によって発着場所がそれぞれ異なる。
町田駅周辺には、タクシー乗り場が4箇所ある。
上記以外にも深夜帯に限り、小田急線町田駅北口のりそな銀行前にタクシーが待機しており、この場所からも乗車可能。 | [
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"text": "その後、両路線や原町田が発展するようになり、国鉄横浜線と小田急小田原線が事実上の乗換駅となったものの、2つの駅の距離は離れており、バス停留所もそれぞれ独立した場所にあったため、利用客などから駅を移設して乗り換えを便利にして欲しいという声が高まっていた。大勢の乗り換え客がそれぞれの駅に向かって走るので、経路になった道路は通称『マラソン道路』(または「駆け足通り」)と呼ばれていたほどである。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "そこで、町田市などは横浜線の駅を小田原線と横浜線の交差地点近くに移設しようと計画したが、これに対して2つの間にある商店街が猛烈に反対を唱えた。というのも、乗り換え客の中には途中でこのような商店街に立ち寄る人も非常に多く、駅が移設してしまうとこのような客がいなくなる恐れがあったからである。その後も反対運動が続けられ、4千人を超える署名が集められた。その後の交渉で、",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "の3案が出され、長い交渉を経て2.の案に決定した。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "こうして横浜線の駅は移設することになったが、これは商店街の声も一部配慮したものであった。連絡通路による乗り換えには約5分掛かり、ラッシュ時などはそれ以上の時間を要する場合もある。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "島式ホーム2面4線を有する高架駅。現駅舎は地上11階地下1階建(表記上地上9階)の駅ビル(小田急百貨店)の2階と3階の間(中3階部分)を鉄道が貫くという珍しいスタイルで建設された駅である。傾斜地にあるため、新宿寄りではホーム(中3階)は地平でコンコース(2階)は地下に当たるが、相模大野寄りではホームは高架で、コンコースも地平より高い位置にある。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "利用客の多さに比べホーム幅は狭い。2005年から2006年にかけて行われた駅構内のリニューアル工事で、改札内コンコースの案内表示やエスカレーターの増設やトイレの設置、改札外コンコースのトイレの改装などが行われた。2005年7月に行われた調査により、改札外天井部分にアスベストを含有した吹き付け材が用いられていることが確認されたため、2005年11月から2006年5月にかけて撤去作業を行った。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "小田急電鉄の管区長、駅長所在駅。町田管区として登戸駅 - 当駅(小田原線)ならびに新百合ヶ丘駅 - 唐木田駅(多摩線)間、町田管内として柿生駅 - 当駅(小田原線)間を管理している。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "改札口は全部で5か所あり、駅ビルの2階(ホームの下の階)のコンコースには、西口(南西)、北口(北西)、東口(北東)、南口(南東)がある(カッコ内は実際の方角)。また、3階(ホームの上の階)には小田急百貨店口があるが、これは百貨店内に直結しているため百貨店の営業時間帯以外は利用できない。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "駅が南側から北側に向かっての傾斜地にあるため、JRの駅、バスセンターがある相模大野寄りの南西側(西口側)では、改札口のある2階は地面の高さから上がる必要がある。JR中央口北口と町田バスセンターから西口へはデッキで直接結ばれているが、改札面よりデッキの方が高い位置のため、若干下る。北口出口(2)(百貨店エスカレータ横、西側)は地面と百貨店2階の改札口の間に段差がない。ただし、接続道路は南西側(バスセンター側)へ下り、北東側(北口側)へ上る。新宿寄りの駅のすぐ北東側には玉川学園前8号踏切(通称第一踏切)があり、北側(東口)、西側(南口)から改札へは階段を降りることになる。駅構内改札付近と南口方面への間には段差があり、改札より南口、東口地下道(町田地下歩道)への通路が若干低い。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "JR東日本と小田急電鉄で連絡乗車券などを発行できるように検討していたが、2008年3月15日より当駅経由の連絡定期券の購入ができるようになった。",
"title": "連絡乗車について"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "最近まで、JR東日本と小田急電鉄との間で連絡運輸の協定がなされていなかったため、JR横浜線と小田急小田原線を乗り継ぐ場合の連絡乗車券・定期券などの購入はできなかった。そのため、それぞれの乗車券(回数券および磁気・Suica・PASMOの各定期券を含む)は別々に購入する必要があった。このためか、両社においてSuicaやパスネットが導入される以前は乗り換え客による乗車券購入待ちの列により自動券売機付近が非常に混雑し、自由通路を通ることができない状態になっていた。2014年現在でも引き続き連絡定期券以外の連絡乗車券類は購入できないため、ICカード・IC定期券所持者以外の不便な状況は変わっていない。",
"title": "連絡乗車について"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "なお、定期券以外の連絡運輸が設けられていないのは、横浜線と小田急線は開業時から現在まで別駅扱いのためとみられる。その経緯については「#歴史」・「#横浜線の駅の移転について」も参照。",
"title": "連絡乗車について"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "似たような例として、新越谷駅と南越谷駅、秋津駅と新秋津駅などがある。",
"title": "連絡乗車について"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "2社を合算した2020年度の1日平均乗降人員は約35万人である。これは町田市のみならず、多摩地域の鉄道路線全駅で最も多い値である。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "各年度の1日平均乗降人員は下表の通りである。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "各年度の1日平均乗車人員は下表の通り。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "JRの駅北側は東京でも有数の繁華街・歓楽街として発展しており、小田急百貨店やルミネ、マルイといった大型商業施設や飲食店などが小田急とJRの駅を中心に多数集積している。駅周辺は多摩地域有数の商業地として吉祥寺、立川、八王子と合わせて多摩地域の4大商業地に数えられ、南多摩地区の拠点である。南多摩地域のみならず、神奈川県央や横浜市北西部(いわゆる武相地域)の拠点としても栄える。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "小田急線と横浜線中央口北口周辺は東京都町田市の原町田、森野、中町で、現在の繁華街は主に原町田4、6丁目付近に広がる。一方、横浜線の町田駅南口周辺は原町田1丁目だが、境川の旧流路が現在での神奈川県との都県境となっているため、境川を渡った相模大野駅側や、町田駅側であっても南口前のデニーズをはじめとした一部の住所は相模原市南区上鶴間本町となる。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "鉄道の開業前、現在の駅周辺は鎌倉街道が横切る原野だったが、鎌倉時代より鎌倉街道の宿場として栄えた町田村の一部住民が1580年代にこの地域を開拓し原町田村が出来る。その後江戸時代末期の鎖国解除直後から、絹の道(生糸)の中継地、集散地として栄え、その流れで現在の原町田二丁目付近には多くの商店が建ち並んだ。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "明治時代以降に横浜線や小田急線が開業すると駅近隣の発展は急速に進み始める。そして、1960年代から1970年代にかけて、住宅供給公社や当時の日本住宅公団によって市内に多数の大規模集合住宅(いわゆるマンモス団地)が建設されると、大丸(町田大丸に分社後、撤退)、緑屋(撤退)、さいか屋(専門店ビルのジョルナに業態転換)、ダイエー(トポス→メディアバレー→グルメシティ(上層階にダイソーが入居)と業態転換して閉店後、建て替えを行って現在は高層マンションおよびダイエー)などの百貨店、スーパーマーケットが次々に駅前に進出し、商業地としての地位を確実なものとした。今日では小田急百貨店や町田東急ツインズをはじめとして、ルミネ、マルイ、モディ、西友、ヨドバシカメラ、ビックカメラ、ドン・キホーテ、ジョルナ、BOOK・OFF(2館体制)などの大型店が林立し、さらには古くからの庶民的な商店街や若者向けの店も数多くひしめき合う、都民のみならず神奈川県民も多く訪れる日本でも有数の商業地として著しく発達しており、小田急線沿線としては新宿に次ぐ2番目、横浜線沿線では最大規模の商業地となっている。このように当駅周辺は多くの若者向け商業施設が集積していることから、俗に「西の渋谷」と呼ばれることもある。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "このような大商業地でありながら、周辺の南町田、橋本、南大沢、新百合ヶ丘、海老名(ビナウォーク)などに開設されたシネマコンプレックスとの競合により、2館あった小規模映画館が閉館したほか、郵政事業民営化に伴うぱ・る・るプラザ町田閉鎖に伴う併設映画館の閉館により、当駅周辺には映画鑑賞施設が存在しない状態となった。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "横浜線原町田駅跡地周辺は駅の移転後に合わせて再開発され、1983年にバスターミナル、自転車駐車場、自動車駐車場、商業施設、JR町田駅ターミナル口改札からなる「町田ターミナルプラザ」が開業し、東京急行電鉄(現在の東急)が所有する商業棟にはテナントとして東急ハンズが入居した。その後東急ハンズは東急百貨店まちだ店の再編に際し2007年に百貨店とともに一旦閉店し、同年、百貨店を業態変更した専門店ビルである町田東急ツインズに移転した。東急ハンズ移転後のターミナルプラザ商業棟には、2008年5月23日にファーストリテイリングが経営する商業施設のミーナ町田が入居している。一方、ターミナル棟(2階以下は町田市所有、3階以上は東京急行電鉄所有の「駐車場棟」)の1階は町田ターミナル(バスターミナル)、2階は「ターミナルエイト」と称し、9つの店舗(以前は名の通り8つ)が入れる商用スペースとなっている。ターミナルエイトは一時期、マクドナルドと喫茶店以外営業していない状態だったが、2008年のターミナルプラザ改装と2009年の町田ターミナル停留所への観光バス乗り入れによって、新たに数店舗が入居している。ターミナルエイトと商業棟の間は、「出会いのひろば」と称する子供用遊具が設置されていた広場でつながっている。出会いのひろばの奥には、1983年10月に設置された和田康男作「水のオブジェ」という作品があったが、ミーナ町田の開店に伴い子供用遊具と共に撤去されたが、後に子供用遊具は撤去したオブジェの位置に戻っている。出会いのひろばの北側には「ターミナルデッキ」と称するペデストリアンデッキがあり、JR町田駅ターミナル口から町田市立中央図書館(シティホテルのレンブラントホテル東京町田と同居)まで繋いでいる。このターミナルデッキ上には、1983年10月に設置された黒川紀章作「シティゲート」という作品があり、このモニュメントが真南北を示している。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "JR町田駅から小田急町田駅までの間のペデストリアンデッキは往来が激しく、人通りは絶えることがない。JR中央口と小田急西口との間にはペデストリアンデッキが2つあるが、マルイ側のみに屋根があり、東急ツインズ、モディ側には屋根がない。マルイ側は1980年の横浜線町田駅移転とともに開設され、JRと小田急の連絡通路として使われたものだが、やがて常に全体が溢れ返るほど混雑したことから、モディ側(当時は大丸ビーミー)にも1993年に追加でデッキが建設された。なお、どちらも将来はターミナル側のデッキへの延伸接続を計画しており、実際に一部がターミナル方面へ伸ばされているが、1999年にルミネ前の一部が延伸されたのを最後に工事は止まっており、現段階では延伸の目処が立っていない。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "JR中央口と町田東急ツインズとの間のペデストリアンデッキ上の広場は「モニュメント広場」と称され、その名の通り、回転する「曲がりくねった棒」でできたモニュメントが存在し、多くの鳩や鳥類が乗ったまま回転している光景もよく見られた。このモニュメントは1980年に設置された伊藤隆道作「動く彫刻 光の舞い」という作品である。この広場にも屋根が無かったため、一時期は傘を貸し出すサービスを行っていたが、2006年末頃にモニュメントを取り囲むような形で布製の屋根が設置された。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "町田東急ツインズのEASTとWESTとの間の道路上のJR町田駅北口ペデストリアンデッキ向かいには、多摩都市モノレール町田駅の設置が計画されている。既に導入空間となる原町田大通りの一部は開通し、新道の建設も進められているが、多摩市南野 - 町田市小山田、旭町 - 芹ヶ谷公園付近など、一部区間での用地買収が滞っており、また多摩都市モノレールの財政的な問題もあるため、現時点でモノレールが町田駅まで延伸する目処は立っていない。なお、町田東急ツインズの両館の間を結ぶ連絡橋(クリスタルブリッジ)は、この計画があったために5階という高い位置に作られたとされる。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "商業地域からJR町田駅を挟んだ南口側には、駅のすぐ目の前に大型家電量販店のヨドバシカメラがあり賑わってはいるが、その他は北口方面と比べると商業施設などに乏しい。また、JR南口至近の相模原市南区上鶴間本町には、かつて「田んぼ」と称された風俗街が存在し、現在でも性風俗店やラブホテルが数多く並んでおり、一部のマスコミからは北口の歓楽街も含めて「西の歌舞伎町」と呼ばれている。2007年4月にはその風俗店などが並ぶ場所に存在する町田駅南交差点付近で暴力団組員による銃撃事件(町田市立てこもり事件)が発生し、犯人を確保するために多数の警察官や警視庁の特殊捜査班が駆けつけ、近隣地域を管轄警察官が立ち入り禁止にするなど大きな騒動になった。銃撃事件発生後は駅周辺の各所に警察官が配置され、治安が強化されている。なお、後述のように南口側の原町田1丁目では町の賑わいを創出する方向で再開発が検討されている(#駅周辺の再開発計画を参照)。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "東京都町田市と神奈川県相模原市(昔の武蔵国と相模国)の境界とされた境川はかつては激しく蛇行しており、河川改修によって流路が直線化された後も両市間では一部区間を除いて都県境が非常に入り組んだまま残されている。そのため、前述のようにJR町田駅南口前のデニーズをはじめとした周辺の一部は境川の北側ではあるが、神奈川県相模原市に属する。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "駅からしばらく歩くと、緑や公園が多く存在し、緑が豊かな街としての一面もある。駅周辺にある公園の一つである芹ヶ谷公園には、町田市立国際版画美術館があり、古今東西の多くの版画が常設展示されている。一方、駅周辺の上空は厚木海軍飛行場への空路となっていて、爆音を聞き空を見上げると軍用機の下部を見ることがある。1964年には当時の繁華街(現在のターミナル付近)で軍用機の墜落事故(町田米軍機墜落事故)が発生し、事故現場周辺にいた4名が死亡するという惨事もあった。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "小田急線町田駅周辺地区および原町田1丁目地区(JR町田駅南口エリア)の2地区で再開発が検討されている。なお、この2地区は町田市の基本計画『まちだ未来づくりプラン』において、「町田駅周辺の魅力を向上させるプロジェクト」の重点検討地区に位置づけられている。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "小田急線町田駅周辺地区(対象地区:約1ha)では建物の老朽化などが目立つため再開発を視野に入れているほか、新たにバスターミナル機能の導入も検討している。また、原町田1丁目地区はJR町田駅南口の玄関口でありながら鉄道により回遊性が遮断され、駅前のヨドバシカメラ以外は賑わいに乏しいことから、老朽化が問題となっている市営駐車場の建て替えを中心として商業施設の導入などにより賑わいの創出を目指し、町田市では2018年3月に「JR町田駅南地区まちづくり整備方針」を策定した。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "当駅周辺には、下記の5つのバス停留所があり、時間帯や方面によって発着場所がそれぞれ異なる。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "町田駅周辺には、タクシー乗り場が4箇所ある。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "上記以外にも深夜帯に限り、小田急線町田駅北口のりそな銀行前にタクシーが待機しており、この場所からも乗車可能。",
"title": "バス路線"
}
] | 町田駅(まちだえき)は、東京都町田市原町田にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・小田急電鉄の駅である。 | {{Otheruses|東京都町田市にあるJR東日本および小田急電鉄の駅|かつて大分県玖珠郡九重町にあった日本国有鉄道宮原線の駅|町田駅 (大分県)}}
{{出典の明記|date=2018年3月}}
{{駅情報
|駅名 = 町田駅
|よみがな = まちだ
|ローマ字 = Machida
|画像 = JR MachidaSta North Gate.JPG
|pxl = 300
|画像説明 = JR町田駅北口(2009年1月)
|地図 = {{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|type2=point|zoom=15|frame-align=center|frame-width=300
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|所在地 = [[東京都]][[町田市]][[原町田]]
|所属事業者 = {{Plainlist|
* [[東日本旅客鉄道]](JR東日本・[[#JR東日本_3|駅詳細]])
* [[小田急電鉄]]([[#小田急電鉄 3|駅詳細]])}}
}}
{{座標一覧}}
'''町田駅'''(まちだえき)は、[[東京都]][[町田市]][[原町田]]にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[小田急電鉄]]の[[鉄道駅|駅]]である。
== 概要 ==
町田市の中心駅であり、JR[[横浜線]]と[[小田急小田原線]]が乗り入れる、[[多摩地域]]における主要駅の1つである。小田急小田原線の一部の特急「[[小田急ロマンスカー|ロマンスカー]]」を除く全営業列車が停車する。小田急線では2番、横浜線では1番の乗降客数を誇り、2社を合算した1日平均乗降人員は約51万人と多摩地域で最も多い。小田急とJRの駅は徒歩で5分ほど距離が離れており、両駅間を結ぶ[[ペデストリアンデッキ]]は乗り換え客や買い物客で人通りが非常に多い。
[[南多摩郡|南多摩]]地域の拠点駅として機能しており、駅周辺は[[百貨店]]や専門店、飲食店などが集積する[[首都圏 (日本)|首都圏]]屈指の[[繁華街]]として発展しているため<ref>{{Cite web|和書|title=「町田」多摩地区でも有数の繁華エリア - 活動・飲食ニュース|飲食店物件・居抜き物件をお探しなら居抜き店舗.com |url=https://www.i-tenpo.com/news/10355 |website=居抜き店舗.com |accessdate=2021-03-25}}</ref>、市内のみならず[[神奈川県]]の[[県央地域]]からも多くの買い物客を集める。小田急の駅舎は[[小田急百貨店]]町田店と直結している。路線バスの拠点でもあり、多くの[[神奈中バス]]が当駅を発着する。神奈川県[[相模原市]]との都県境付近に位置しており、南口駅前の一部の住所は相模原市[[南区 (相模原市)|南区]][[上鶴間本町]]となる。また両鉄道路線とも一旦神奈川県を経由しないと当駅に至ることはできない<ref group="注釈">玉川学園前駅(小田急)、成瀬駅(JR)を除く</ref>。
=== 乗り入れ路線 ===
JR東日本の[[横浜線]]と、小田急電鉄の[[小田急小田原線]]の2路線が乗り入れ、接続駅となっている。また、各路線ごとに[[駅ナンバリング|駅番号]]が付与されている。
* JR東日本:[[File:JR JH line symbol.svg|15px|JH]] 横浜線 - 駅番号「'''JH 23'''」
* 小田急電鉄:[[File:Odakyu odawara.svg|15px|OH]] 小田原線 - 駅番号「'''OH 27'''」
== 歴史 ==
{{出典の明記|date=2018年3月|section=1}}
[[ファイル:Machida Station.1975.01.jpg|thumb|原町田駅・新原町田駅(当時)周辺の空中写真(1975年1月撮影){{国土航空写真}}]]
[[ファイル:Machida Station.2019.08.jpg|thumb|町田駅周辺の空中写真(2019年8月撮影){{国土航空写真}}]]
=== JR東日本 ===
* [[1908年]]([[明治]]41年)[[9月23日]]:横浜鉄道[[東神奈川駅]] - [[八王子駅]]間の開通時に、'''原町田駅'''(はらまちだえき)として開業<ref name="停車場">{{Cite book|和書|author=石野哲(編)|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|year=1998|isbn=978-4-533-02980-6|pages=77-78}}</ref>({{Coord|35|32|25|N|139|26|55.5|E|region:JP-13_type:railwaystation|name=旧:原町田駅}})。
* [[1910年]](明治43年)[[4月1日]]:横浜鉄道を[[鉄道省#鉄道院|鉄道院]]が借り上げ{{R|停車場}}。
* [[1917年]]([[大正]]6年)[[10月1日]]:国有化され、鉄道院横浜線の駅となる。
* [[1923年]](大正12年)[[9月1日]]:[[関東大震災]]で駅舎が損壊する。
* [[1932年]]([[昭和]]7年)10月1日:東神奈川駅から当駅までの区間が直流電化。当駅構内も電化され、横浜線は当駅で運行系統が分断。
* [[1941年]](昭和16年)[[4月5日]]:当駅から八王子駅までの直流電化が完了し、横浜線全線の直通運転が電車により再開。
* [[1949年]](昭和24年)[[6月1日]]:[[公共企業体]]である[[日本国有鉄道]]が発足。
* [[1972年]](昭和47年)[[3月5日]]:開業時から行われていた貨物取り扱いを廃止{{R|停車場}}。
* [[1979年]](昭和54年)[[9月30日]]:当時の原町田駅北西側にあった谷口踏切が使用終了<ref name="koho-machida19790901">『広報まちだ(第515号、1979年9月1日発行)』</ref>。
* [[1980年]](昭和55年)4月1日:駅前の再開発に伴い、小田急線の町田駅側に移転し、'''町田駅'''に改称{{R|停車場}}<ref name="交通800330">{{Cite news |title=一日 横浜線二駅が新装オープン |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1980-03-30 |page=3 }}</ref>。
* [[1981年]](昭和56年)[[12月24日]]:ホームと駅事務室を結ぶ車椅子専用[[エレベーター]]が使用開始<ref name="koho-machida19820111">『広報まちだ(第600号、1982年1月11日発行)』</ref>。
* [[1983年]](昭和58年)
** [[10月22日]]:南口の上り[[エスカレーター]](横浜方)を使用開始<ref name="koho-machida19831021">『広報まちだ(第657号、1983年10月21日発行)』</ref>。
** [[10月29日]]:まちだターミナルプラザ開業。旧東口改札を同施設内に移設し、ターミナル改札口として使用開始<ref name="koho-machida19831021"/>。
* [[1985年]](昭和60年)[[3月14日]]:[[チッキ|荷物]]扱い廃止{{R|停車場}}。
* [[1987年]](昭和62年)4月1日:[[国鉄分割民営化]]に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる{{R|停車場}}。
* [[1992年]]([[平成]]4年)[[3月26日]]:[[東京都道・神奈川県道51号町田厚木線|原町田橋]]の開通に伴い、町田天満宮前の厚木踏切を使用終了<ref name="koho-machida19920301">『広報まちだ(第959号、1992年3月1日発行)』</ref>。
* [[1994年]](平成6年)[[2月10日]]:中央改札口に[[自動改札機]]を設置<ref>{{Cite book|和書 |date=1994-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '94年版 |chapter=JR年表 |page=187 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-115-5}}</ref>。
* [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="JR東">{{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)]}}</ref>。
* [[2005年]](平成17年)[[9月20日]]:3番線誤乗防止のため上りだけメロディ変更。新しい曲は「スプリングボックス」。
* [[2006年]](平成18年)
** [[2月14日]]:この日までに改札内コンコースの延伸工事完了。エレベーター、エスカレーター専用通路使用開始<ref>[https://www.city.machida.tokyo.jp/shisei/koho/koho/kouhoushi/koho_machida/2006/20060301.files/KHmachida060301_2.pdf JR横浜線町田駅改札内エレベーターが使用開始しました]広報まちだ(2006年3月1日発行)</ref>(店舗は未開業)
** [[3月]]:改札内コンコースにNEWDAYS、Beck's coffee shop等が開業。
* [[2009年]](平成21年)10月:駅構内などに設置されている案内サインの大半が、新しい省エネタイプ(薄型反射透過フィルム型)に更新される。
* [[2013年]](平成25年):横浜線よくするプロジェクトの一環でホーム照明のLED化、中央改札の案内サイン改装を実施。
* [[2014年]](平成26年)[[2月9日]]:ターミナル改札に[[駅集中管理システム|駅遠隔操作システム(現・お客さまサポートコールシステム)]]を導入。
* [[2016年]](平成28年)[[12月17日]]:4番線の車掌側1両分に、新形式の「スマート[[ホームドア]]」を試行導入<ref group="JR東" name="jr-homedoor20161217">{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2016/20161124_y01.pdf スマートホームドアの試行開始日について]}} - JR東日本プレスリリース 2016年11月24日</ref>。
* [[2017年]](平成29年)
** [[7月29日]]:4番線の八王子方2扉除く1編成分に「スマートホームドア」を拡大試行導入<ref group="JR東" name="jr-homedoor20170729">{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2017/yokohama/20170525_y03.pdf 町田駅スマートホームドア新たな試行開始日について]}} - JR東日本プレスリリース 2017年5月25日</ref>。
** [[9月23日]]:4番線の八王子方最前部2扉分に「スマートホームドア」を拡大試行導入<ref group="JR東" name="jr-homedoor20170923">{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2017/yokohama/20170906_y01.pdf 町田駅スマートホームドアの八王子寄り2扉を設置します]}} - JR東日本プレスリリース 2017年9月6日</ref>。
* [[2019年]]([[令和]]元年)[[8月31日]]:この日をもって[[びゅうプラザ]]が営業を終了<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jreu-yokohama1.jp/library/5b8fc5fcb8e028f93a2e85f2/5cb02d8339e5d38b17723321.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200728155228/http://www.jreu-yokohama1.jp/library/5b8fc5fcb8e028f93a2e85f2/5cb02d8339e5d38b17723321.pdf|title=びゅうプラザにおける店舗運営の見直しについて提案を受けました!|archivedate=2020-07-28|date=2019-04-12|accessdate=2020-07-28|publisher=JR東労組横浜地本|format=PDF|language=日本語}}</ref>。
* [[2020年]](令和2年)
** [[1月12日]]:4番線の「スマートホームドア」を改良に伴って撤去<ref group="JR東" name="press/2019/yokohama/20191128_y02">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/yokohama/20191128_y02.pdf|title=町田駅スマートホームドア®︎の改良を行います|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道横浜支社|date=2019-11-28|accessdate=2019-11-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191128060128/https://www.jreast.co.jp/press/2019/yokohama/20191128_y02.pdf|archivedate=2019-11-28}}</ref>。
** [[12月25日]]:4番線に、開口部やバーの収納部の改良を加えた「スマートホームドア」を導入<ref group="JR東" name="pr20200918">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/yokohama/20200918_1_y.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200918053052/https://www.jreast.co.jp/press/2020/yokohama/20200918_1_y.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2020年度ホームドア設置駅について|publisher=東日本旅客鉄道横浜支社|date=2020-09-18|accessdate=2020-09-18|archivedate=2020-09-18}}</ref><ref group="JR東" name="press/2019/yokohama/20191128_y02" />。また、1番線にも同様の「スマートホームドア」を導入<ref group="JR東" name="pr20200918"/><ref group="JR東" name="press/2019/yokohama/20191128_y02" />。
=== 小田急電鉄 ===
* [[1927年]](昭和2年)
** 4月1日:'''新原町田駅'''(しんはらまちだえき)として開業。
** [[10月15日]]:[[小田急小田原線#急行|急行]]が設定され、停車駅となる。
* [[1929年]](昭和4年)[[4月1日]]:[[小田急江ノ島線]]が大野信号所(現:相模大野駅) - 片瀬江ノ島駅間で開業。旅客営業上での小田原線と江ノ島線の乗換駅は新原町田駅となる。
* [[1938年]](昭和13年)4月1日:大野信号所が通信学校前駅として駅に昇格し、旅客営業上での乗換駅も同駅に変更。
* [[1944年]](昭和19年)[[11月]]:[[太平洋戦争]]の戦況悪化に伴い、急行の運行が中止される。
* [[1945年]](昭和20年)[[6月]]:従来、新宿駅 - 稲田登戸駅(現:向ヶ丘遊園駅)間のみの各駅停車が全線で運行されることとなり、各駅停車の停車駅となる。同時に「直通」は廃止される。
* [[1946年]](昭和21年)[[10月1日]]:[[小田急小田原線#準急|準急]]が設定され、停車駅となる。
* [[1949年]](昭和24年)10月1日:急行が復活し、停車駅となる。
* [[1955年]](昭和30年)[[3月25日]]:通勤急行が設定され、停車駅となる。
* [[1957年]](昭和32年)10月:[[有効長#プラットホーム有効長|ホーム有効長]]が6両編成に対応した110mとなる<ref>{{Cite news |和書|title=新宿-大野間 六両完全運転へ 小田急 来月三駅の延長工事完成 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1957-09-26 |page=1 }}</ref>。
* [[1958年]](昭和33年)12月23日:小田急ストア町田店(現:[[小田急OX]])開業<ref name="odakyu50th">{{Cite |title=小田急五十年史 |publisher=[[小田急電鉄]] |year=1980 |page=808 |isbn=}}</ref>。
* [[1960年]](昭和35年)3月25日:通勤準急が設定され、停車駅となる。
* [[1967年]](昭和42年)
** 4月27日:「えのしま」停車開始<ref name="rp405-105">[[#浜武405|『鉄道ピクトリアル』通巻405号 刈田草一「小田急列車運転慨史」 (1982) p.22]]</ref>。
** 8月:「あしがら」停車開始<ref name="rp405-105" />。
* [[1971年]](昭和46年)
** 10月1日:「[[ふじさん|あさぎり]]」停車開始<ref>[[#生方546|『鉄道ピクトリアル』通巻546号 p.162]]</ref>。
** 12月:町田駅ビル建設着工<ref>{{Cite |title=小田急五十年史 |publisher=[[小田急電鉄]] |year=1980 |page=90 |isbn=}}</ref>。
* [[1976年]](昭和51年)
** 4月11日:'''町田駅'''に改称。
** [[9月23日]]:町田駅ビル完成、小田急百貨店町田店開業。
* [[1980年]](昭和55年)12月:ホーム小田原方にホーム連絡跨線橋および小田急百貨店改札口を新設<ref name="odakyu-depart25th">{{Cite |title=小田急百貨店25年のあゆみ |publisher=[[小田急百貨店]] |year=1988 |page=138 |isbn=}}</ref>。
* [[1996年]](平成8年):「はこね」停車開始。
* [[1998年]](平成10年):「えのしま」停車駅変更により全便通過となる。
* [[1999年]](平成11年):特急愛称整理に伴い「サポート」、「ホームウェイ」停車開始。
* [[2001年]](平成13年)[[3月16日]]:改札内コンコースとホームを結ぶエレベーターが使用開始<ref>[http://www.city.machida.tokyo.jp/shisei/koho/koho/kouhoushi/koho_machida/2001/20010411.files/p2.pdf 小田急線町田駅に待望のエレベーターが完成]広報まちだ(2001年4月11日発行)</ref>。
* [[2002年]](平成14年)[[3月22日]]:[[湘南急行]]が設定され、停車駅となる。
* [[2004年]](平成16年)
** [[3月20日]]:改札内にトイレが設置される<ref>[http://www.city.machida.tokyo.jp/shisei/koho/koho/kouhoushi/koho_machida/2004/20040411.files/p2.pdf 小田急線町田駅改札内にトイレが新設されました]広報まちだ(2004年4月11日発行)</ref>。
** [[12月11日]]:「さがみ」停車開始。[[快速急行]]、[[小田急小田原線#区間準急|区間準急]]が設定され、停車駅となる。
* [[2005年]](平成17年)[[3月19日]]:[[小田急50000形電車|50000形「VSE」]]運転開始と同時に定期列車が当駅に停車開始。<ref>[http://www.agui.net/imglog/oer/img-box/img20050214203911.jpg 小田急アルバム 0574 [AGUI NET]</ref>
* [[2006年]](平成18年)
** [[2月]]:駅構内のリニューアル工事が完了。エスカレーターの増設や改札外トイレの改装などが行われる。
** [[2月23日]]:駅構内に[[自動体外式除細動器]] (AED) が設置される。
** 3月:上下ホームに待合室が設置される。
* [[2008年]](平成20年)4月:新[[コーポレートアイデンティティ|CI]]導入に伴い、駅構内などに設置されている案内表示が新デザインに更新される(小田急線全駅も同様)。
* [[2010年]](平成22年)[[9月]]:小田急ツインパル町田が駅高架橋耐震補強工事と同時に、改装のために閉館。
* [[2011年]](平成23年)
** [[12月7日]]:旧:小田急ツインパル町田を改装する形で[[小田急マルシェ]]町田が開館。
* [[2012年]](平成24年)[[3月17日]]:ロマンスカー「あさぎり」停車駅変更により全便通過となる。
* [[2016年]](平成28年)8月下旬:[[発車標|行先案内表示]]装置を、[[フルカラー]]LED式に順次更新し、9月上旬に全機交換が完了した。
* [[2018年]](平成30年)[[3月17日]]:[[小田急ダイヤ改正]]により、新設された通勤準急の停車駅となる。
* [[2019年]]([[令和]]元年)[[10月28日]]:改札外コンコースに個室型コミュニケーションブース「テレキューブ」が設置される。
* [[2022年]](令和4年)6月22日:[[ホームドア|可動式ホーム柵]]の設置準備工事が開始される。
* [[2023年]](令和5年)
** 11月15日:可動式ホーム柵設置工事に伴い、列車の[[停止位置目標]]が変更される。
** 12月16日:東口改札の終日無人化に伴い、自動券売機を北口改札横に移設。
=== 駅名の由来 ===
{{出典の明記|date=2018年3月|section=1}}
==== JR東日本 ====
駅開設当時の「'''原町田'''」とは、駅所在地の地名から名付けられた。その後、駅が小田急線町田駅側に移築されたことに伴い、「'''町田'''」と改称された。当時横浜線の主力車両だった[[国鉄103系電車|103系電車]]が当駅止まりとして運行される場合の[[方向幕]]では、当初は「町田」に置き換えられずに「原」の文字だけ消されて「 町田」となったものもあった。<!--103系の末期には「町田」と表示された-->
改称に際しては、国鉄は当初既に存在していた[[宮原線]](1937年開業→1984年廃止)「[[町田駅 (大分県)|町田駅]]」と[[鉄道駅|駅名]]が重複していたことから、難色を示した。しかし、[[大阪府]]出身の当時の町田市長、[[大下勝正]]が、[[東北本線]][[福島駅 (福島県)|福島駅]]([[福島市]])と[[大阪環状線]][[福島駅 (JR西日本)|福島駅]]([[大阪市]][[福島区]])の事例を取り上げ、「既に重複している例はある」<ref group="注釈">当時の国鉄路線における同名同音駅の事例は、福島駅の他に旭駅([[旭駅 (北海道)|北海道]]・[[旭駅 (千葉県)|千葉県]]・[[旭駅 (高知県)|高知県]])、荒尾駅([[荒尾駅 (岐阜県)|岐阜県]]・[[荒尾駅 (熊本県)|熊本県]])、追分駅([[追分駅 (北海道)|北海道]]・[[追分駅 (秋田県)|秋田県]])、大久保駅([[大久保駅 (秋田県)|秋田県]]・[[大久保駅 (東京都)|東京都]]・[[大久保駅 (兵庫県)|兵庫県]])、大沢駅([[大沢駅 (山形県)|山形県]]・[[大沢駅 (新潟県)|新潟県]])、金山駅([[金山駅 (北海道)|北海道]]・[[金山駅 (愛知県)|愛知県]])、亀山駅([[亀山駅 (三重県)|三重県]]・[[亀山駅 (国鉄)|兵庫県]])、加茂駅([[加茂駅 (新潟県)|新潟県]]・[[加茂駅 (京都府)|京都府]])、川西駅([[川西駅 (北海道)|北海道]]・[[川西駅 (山口県)|山口県]])、黒井駅([[黒井駅 (新潟県)|新潟県]]・[[黒井駅 (兵庫県)|兵庫県]])、郡山駅([[郡山駅 (福島県)|福島県]]・[[郡山駅 (奈良県)|奈良県]])、国分駅([[国分駅 (香川県)|香川県]]・[[国分駅 (鹿児島県)|鹿児島県]])、小林駅([[小林駅 (千葉県)|千葉県]]・[[小林駅 (宮崎県)|宮崎県]])、下田駅([[下田駅|青森県]]・[[香芝駅|奈良県]])、白沢駅([[白沢駅 (秋田県)|秋田県]]・[[白沢駅 (鹿児島県)|鹿児島県]])、白石駅([[白石駅 (JR北海道)|北海道]]・[[白石駅 (宮城県)|宮城県]]・[[白石駅 (熊本県)|熊本県]])、住吉駅([[住吉駅 (JR西日本・神戸新交通)|兵庫県]]・[[住吉駅 (熊本県)|熊本県]])、瀬田駅([[瀬田駅 (滋賀県)|滋賀県]]・[[瀬田駅 (熊本県)|熊本県]])、大正駅([[大正駅 (北海道)|北海道]]・[[大正駅 (大阪府)|大阪府]])、高瀬駅([[高瀬駅 (山形県)|山形県]]・[[高瀬駅 (香川県)|香川県]])、高田駅([[高田駅 (新潟県)|新潟県]]・[[高田駅 (奈良県)|奈良県]])、高松駅([[高松駅 (石川県)|石川県]]・[[高松駅 (香川県)|香川県]])、滝駅([[滝駅 (栃木県)|栃木県]]・[[滝駅 (兵庫県)|兵庫県]])、千歳駅([[千歳駅 (北海道)|北海道]]・[[千歳駅 (千葉県)|千葉県]])、泊駅([[泊駅 (富山県)|富山県]]・[[泊駅 (鳥取県)|鳥取県]])、富浦駅([[富浦駅 (北海道)|北海道]]・[[富浦駅 (千葉県)|千葉県]])、豊野駅([[豊野駅 (北海道)|北海道]]・[[豊野駅|長野県]])、楢原駅([[会津下郷駅|福島県]]・[[楢原駅|岡山県]])、日進駅([[日進駅 (北海道)|北海道]]・[[日進駅 (埼玉県)|埼玉県]])、根岸駅([[根岸駅 (福島県)|福島県]]・[[根岸駅 (神奈川県)|神奈川県]])、野崎駅([[野崎駅 (栃木県)|栃木県]]・[[野崎駅 (大阪府)|大阪府]])、橋本駅([[橋本駅 (神奈川県)|神奈川県]]・[[橋本駅 (和歌山県)|和歌山県]])、広野駅([[広野駅 (福島県)|福島県]]・[[広野駅 (兵庫県)|兵庫県]])、船岡駅([[船岡駅 (宮城県)|宮城県]]・[[船岡駅 (京都府)|京都府]])、柳原駅([[柳原駅 (岩手県)|岩手県]]・[[柳原駅 (愛媛県)|愛媛県]])がある。</ref>と国鉄を説き、改称にこぎつけている。
==== 小田急電鉄 ====
「'''原町田'''」に'''新'''しく設置された駅という意味で「'''新原町田'''」として開設された。その後、町田市の玄関口として駅周辺が発展したことに伴い、駅の大規模改良工事完成を半年後に控えた[[1976年]]4月に「'''町田'''」と改称された。
== 駅構造 ==
=== JR東日本 ===
{{駅情報
|社色 = green
|文字色 =
|駅名 = JR 町田駅{{Refnest|group="*"|[[1980年]]に原町田駅から改称{{R|交通800330}}。}}
|画像 = MachidaStminami.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 南口(2005年11月)
|よみがな = まちだ
|ローマ字 = Machida
|前の駅 = JH 22 [[成瀬駅|成瀬]]
|駅間A = 2.7
|駅間B = 2.8
|次の駅 = [[古淵駅|古淵]] JH 24
|電報略号 = {{Plainlist|
* マチ
* ラチ(改称前)}}
|所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
|所属路線 = {{Color|#7fc342|■}}[[横浜線]]
|駅番号 = {{駅番号r|JH|23|#7fc342|1}}
|キロ程 = 22.9
|起点駅 = [[東神奈川駅|東神奈川]]
|所在地 = [[東京都]][[町田市]][[原町田]]一丁目1-36
|座標 = {{coord|35|32|31|N|139|26|44|E|region:JP-13_type:railwaystation|name=JR 町田駅|display=inline,title}}
|駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]])
|ホーム = 2面4線
|開業年月日 = [[1908年]]([[明治]]41年)[[9月23日]]{{R|停車場}}
|廃止年月日 =
|乗車人員 = <ref group="JR" name="JR2022" />95,015
|統計年度 = 2022年
|備考 = {{Plainlist|
* [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]])
* [[みどりの窓口]] 有
* [[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]導入駅{{Refnest|group="*"|ターミナル改札口に導入<ref name="StationCd=1429_231117" />。}}<ref name="StationCd=1429_231117" />}}
|備考全幅 = {{Reflist|group="*"}}
}}
[[島式ホーム]]2面4線を持つ[[地上駅]]で、[[橋上駅|橋上駅舎]]を有している。
[[プラットホーム]]は1980年の駅舎移転時に移設し、[[有効長]]は10両編成分 (220 m) が確保されている<ref name="koho-machida19800321">『広報まちだ(第527号、1980年3月21日発行)』</ref>。ただし2021年現在、全列車が8両編成で運行されていることから、横浜方の2両分には転落防止柵が設置されている。また、これまで[[ホームドア]]は設置されていなかったが、4番線で[[JR東日本メカトロニクス]]が開発した「スマートホームドア」<!--登録商標マークは省略-->と呼ばれる新形式のホームドアを試行導入することが決まり、2016年12月17日始発から車掌側1両分に試行導入された<ref group="JR東" name="jr-homedoor20161217" />。その後、機器の改良を行った上で、2017年7月29日始発から八王子方2扉分を除く1編成分<ref group="JR東" name="jr-homedoor20170729" />に、2017年9月23日始発から八王子方最前部2扉分に拡大された<ref group="JR東" name="jr-homedoor20170923" />。さらに、開口部やバーの収納部などの改良を加えた「スマートホームドア」を設置するため、2020年1月12日に4番線に導入された「スマートホームドア」を一旦撤去し、2020年12月25日から1番線と4番線に改良型を導入した<ref group="JR東" name="press/2019/yokohama/20191128_y02" />。
[[改札]]口は中央改札とターミナル改札口(旧:原町田駅付近)の2か所で、それぞれ2階にある。中央改札は、北側(小田急町田駅西口、バスセンター側)が中央口北口、南側(ヨドバシ側)が中央口南口となっている。南口のヨドバシカメラ側(八王子方)の上りエスカレーターならびにエレベーターは開業に合わせて自費で設置したもので、現地には寄贈プレートが設置されており、現在は相模原市が維持管理を行っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.sagamihara.kanagawa.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/004/309/10h17246ekisyajiyuutuuroijikannri.pdf |format=PDF |title=平成17年度事務事業評価表(都市部、建築部、土木部)駅舎自由通路等維持管理費 |publisher=相模原市 |date=2005-04-14 |accessdate=2021-02-26}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.sagamihara.kanagawa.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/003/498/r02_167_2_1_34_20201106.pdf |format=PDF |title=地方自治法施行令第167条の2第1項第3号及び第4号以外に係る随意契約の公表調書 |publisher=相模原市 |date=2020-11-06 |accessdate=2021-02-26}}</ref>。[[ペデストリアンデッキ]]上の屋根設置に伴い、北口の駅名標は以前よりも見えにくくなっている。また、南口の駅名標は2013年に撤去されて以降、再設置されていない。ターミナル改札口は[[Suica]]導入後も有人改札のままで、Suicaが使えなかったが、[[2006年]]頃に[[自動改札機]]を設置したのに合わせて対応した。なお、ターミナル改札口は、[[2014年]][[2月9日]]の[[駅集中管理システム|駅遠隔操作システム(現・お客さまサポートコールシステム)]]の導入に伴い、遠隔対応のため改札係員は終日不在となっている<ref name="StationCd=1429_231117">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1429|title=駅の情報(町田駅):JR東日本|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-11-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231117145530/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1429|archivedate=2023-11-17}}</ref><ref group="JR東">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2013/20131215.pdf |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200607143631/https://www.jreast.co.jp/press/2013/20131215.pdf |format=PDF |title=首都圏の一部の駅に駅遠隔操作システムを導入します|publisher=東日本旅客鉄道 |date=2013-12-19 |accessdate=2020-06-11 |archivedate=2020-06-07}}</ref>。中央改札付近に[[みどりの窓口]]と[[指定席券売機]]が設置されている。
[[2005年]]から続いていた[[バリアフリー]]対応改装工事は終了し、エレベーターならびにエスカレーター専用通路が設置され、また新設の[[コンコース]]脇には[[NewDays]]、[[BECK'S COFFEE SHOP]]、[[ジューサーバー]] ([[ジェイアール東日本フードビジネス|JEFB]]) が開業し、同時に[[便所|トイレ]]の改装と[[エア・コンディショナー|冷暖房]]取り付け工事も完了した。この改装前から設置されていた八王子方のエレベーターは、ホームと駅事務室を連絡する車椅子使用者専用のもの<ref name="koho-machida19820111"/>であり、エスカレーターは上りのみであった。改装前に存在したエスカレーター部分は現在[[階段]]となっている。
横浜線はすべての定期旅客列車が停車する。土休日に運転されていた[[臨時列車]]「[[かいじ (列車)|はまかいじ]]」は設定当時からの停車駅だった。
[[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[駅長]]配置)であり、[[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]]として、[[成瀬駅]]・[[古淵駅]]を管理下に置いている。
==== のりば ====
{{出典の明記|section=1|date=2010-10}}
<!-- 実際の案内に基づいています -->
北口側が1番線である。また、外側2線(1番線と4番線)が[[主本線]]、内側2線(2番線と3番線)が[[副本線]](待避線)となっている。
{|class="wikitable"
!番線!!路線!!方向!!行先!!備考
|-
!1・2
|rowspan="2"|[[画像:JR JH line symbol.svg|15px|JH]] 横浜線
|style="text-align:center;"|上り
|[[新横浜駅|新横浜]]・[[東神奈川駅|東神奈川]]・[[桜木町駅|桜木町]]方面
|
|-
!3・4
|style="text-align:center;"|下り
|[[橋本駅 (神奈川県)|橋本]]・[[八王子駅|八王子]]方面
|一部列車は2番線
|}
(出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/1429.html JR東日本:駅構内図])
* 内側の線路(待避線)のうち2番線は上下ともに発着可能、3番線は下りの到着および上下の発車が可能である。
* 当駅の1番線において[[夜間滞泊|夜間停泊]]が行われる。これは、八王子発当駅止まりの終電として1番線に到着した電車が翌朝の東神奈川行き(平日)、磯子行き(土休日)として運用されるものである。そのため、1番線に列車が停車中の早朝時間帯はすべての上り列車が2番線からの発車になる。
==== 駅構内設備 ====
{{columns-list|2|
* 改札口 2か所
** 中央改札
** ターミナル改札口
* 店舗
** [[JR東日本クロスステーション#リテールカンパニー|プレミィ・コロミィ]](中央口改札外)
** さぬき菓匠 松風庵 かねすえ(同上)
** [[NewDays]](中央口改札内)
** [[BECK'S COFFEE SHOP]](同上)
* [[エレベーター]](中央口コンコース - 各ホーム)
* [[エスカレーター]](東神奈川寄り)
* [[便所|トイレ]](中央口改札内)
* ベビー休憩室(中央口改札外)
* [[みどりの窓口]](同上)
* [[VIEW ALTTE]] ATM(同上)
* [[みずほ銀行]] ATM(同上)
* [[きらぼし銀行]] ATM(同上)
|}}
<gallery>
JR Yokohama-Line Machida Station Central Gates.jpg|中央改札(2021年5月)
JR Yokohama-Line Machida Station Terminal Gates.jpg|ターミナル改札口(2021年5月)
JR Yokohama-Line Machida Station Platform 1・2.jpg|1・2番線ホーム(2021年5月)
JR Yokohama-Line Machida Station Platform 3・4.jpg|3・4番線ホーム(2021年5月)
</gallery>
==== 横浜線の駅の移転 ====
{{出典の明記|date=2018-03|section=1}}
明治時代に横浜鉄道(現:横浜線)が開業した当初、原町田の中心地は現在の[[町田市立図書館|町田市立中央図書館]]などのある原町田二丁目付近であり、原町田駅もここに近い位置に設置された。大正後期より昭和初期の小田原急行鉄道(現:小田急小田原線)の建設の際、元々[[本町田]](現在の玉川学園前駅の東方)から[[成瀬 (町田市)|成瀬]]、[[金森 (町田市)|金森]]方面へ抜ける経路で計画されていた路線を原町田方面経由に変更した際、原町田周辺が[[多摩丘陵]]と[[相模原台地]]の境界部であり、周囲には深く切り立った渓谷(芹ヶ谷戸、現在の[[芹ヶ谷公園]])や高い丘陵を避けるため北西へ迂回したことになり、路線の開業時に新原町田駅は当時の市街地から離れた場所に設置されることとなった。現在でも玉川学園前駅から相模大野駅にかけては急で長い勾配が存在する。
その後、両路線や原町田が発展するようになり、国鉄横浜線と小田急小田原線が事実上の乗換駅となったものの、2つの駅の距離は離れており、バス停留所もそれぞれ独立した場所にあったため、利用客などから駅を移設して乗り換えを便利にして欲しいという声が高まっていた。大勢の乗り換え客がそれぞれの駅に向かって走るので、経路になった道路は'''通称『マラソン道路』'''(または「駆け足通り」)と呼ばれていたほどである。
そこで、町田市などは横浜線の駅を小田原線と横浜線の交差地点近くに移設しようと計画したが、これに対して2つの間にある[[商店街]]が猛烈に反対を唱えた。というのも、乗り換え客の中には途中でこのような商店街に立ち寄る人も非常に多く、駅が移設してしまうとこのような客がいなくなる恐れがあったからである。その後も反対運動が続けられ、4千人を超える署名が集められた。その後の交渉で、
# 現状のままにする。
# 横浜線の駅を小田原線の駅に近付ける。
# 横浜線の駅を小田原線の駅に隣接させる。
の3案が出され、長い交渉を経て2.の案に決定した。
こうして横浜線の駅は移設することになったが、これは商店街の声も一部配慮したものであった。連絡通路による乗り換えには約5分掛かり、ラッシュ時などはそれ以上の時間を要する場合もある。
=== 小田急電鉄 ===
{{駅情報
|社色 = #2288CC
|文字色 =
|駅名 = 小田急 町田駅{{Refnest|group="*"|[[1976年]]に新原町田駅から改称。}}
|画像 = Odakyu-machida-station.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 駅外観(2017年5月)
|よみがな = まちだ
|ローマ字 = Machida
|前の駅 = OH 26 [[玉川学園前駅|玉川学園前]]
|駅間A = 2.9
|駅間B = 1.5
|次の駅 = [[相模大野駅|相模大野]] OH 28
|電報略号 =
|所属事業者 = [[小田急電鉄]]
|所属路線 = {{Color|#2288CC|■}}[[小田急小田原線|小田原線]]
|駅番号 = {{駅番号r|OH|27|#2288CC|4||#2288CC}}
|キロ程 = 30.8
|起点駅 = [[新宿駅|新宿]]
|所在地 = [[東京都]][[町田市]][[原町田]]六丁目12-20
|座標 = {{coord|35|32|39|N|139|26|43|E|region:JP-13_type:railwaystation|name=小田急 町田駅}}
|駅構造 = [[高架駅]]
|ホーム = 2面4線
|開業年月日 = [[1927年]]([[昭和]]2年)[[4月1日]]
|廃止年月日 =
|乗降人員 = <ref group="odakyu" name="odakyu2022" />246,459
|統計年度 = 2022年
|備考 =
|備考全幅 = {{Reflist|group="*"}}
}}
島式ホーム2面4線を有する[[高架駅]]。現駅舎は地上11階地下1階建(表記上地上9階)の[[駅ビル]]([[小田急百貨店]])の2階と3階の間(中3階部分)を鉄道が貫くという珍しいスタイルで建設された駅である。傾斜地にあるため、新宿寄りではホーム(中3階)は地平でコンコース(2階)は地下に当たるが、相模大野寄りではホームは高架で、コンコースも地平より高い位置にある。
利用客の多さに比べホーム幅は狭い。2005年から2006年にかけて行われた駅構内のリニューアル工事で、改札内コンコースの案内表示やエスカレーターの増設やトイレの設置、改札外コンコースのトイレの改装などが行われた。2005年7月に行われた調査により、改札外天井部分に[[石綿|アスベスト]]を含有した吹き付け材が用いられていることが確認されたため、2005年11月から2006年5月にかけて撤去作業を行った<ref group="小田急">[http://www.odakyu.jp/release/060601_1/index.html 【お知らせ】町田駅アスベスト撤去工事の完了について] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20060614205624/http://www.odakyu.jp/release/060601_1/index.html |date=2018年7月17日}}小田急電鉄</ref>。
小田急電鉄の管区長、[[駅長]]所在駅。町田管区として[[登戸駅]] - 当駅(小田原線)ならびに[[新百合ヶ丘駅]] - [[唐木田駅]](多摩線)間、町田管内として[[柿生駅]] - 当駅(小田原線)間を管理している<ref name="RP976_13">{{Cite journal|和書 |author=藤田雄介(小田急電鉄CSR・広報部) |title=総説:小田急電鉄 |journal=[[鉄道ピクトリアル]] |date=2020-08-10 |volume=70 |issue=第8号(通巻976号)|page=13 |publisher=[[電気車研究会]] |issn=0040-4047}}</ref>。
改札口は全部で5か所あり、駅ビルの2階(ホームの下の階)のコンコースには、西口(南西)、北口(北西)、東口(北東)、南口(南東)がある(カッコ内は実際の方角)。また、3階(ホームの上の階)には小田急百貨店口があるが、これは百貨店内に直結しているため百貨店の営業時間帯以外は利用できない。
駅が南側から北側に向かっての傾斜地にあるため、JRの駅、バスセンターがある相模大野寄りの南西側(西口側)では、改札口のある2階は地面の高さから'''上がる'''必要がある。JR中央口北口と[[町田バスセンター]]から西口へはデッキで直接結ばれているが、改札面よりデッキの方が高い位置のため、若干'''下る'''。北口出口(2)(百貨店エスカレータ横、西側)は地面と百貨店2階の改札口の間に'''段差がない'''。ただし、接続道路は南西側(バスセンター側)へ下り、北東側(北口側)へ上る。新宿寄りの駅のすぐ北東側には玉川学園前8号[[踏切]](通称'''第一踏切'''<ref>[http://www.city.machida.tokyo.jp/shisei/koho/faxrelease/2010/201102.files/110215.pdf 「町田地下歩道」にエレベーターが設置されました ]町田市</ref>)があり、北側(東口)、西側(南口)から改札へは'''階段を降りる'''ことになる。駅構内改札付近と南口方面への間には段差があり、改札より南口、東口地下道(町田地下歩道)への通路が若干低い。
==== のりば ====
{|class="wikitable"
!ホーム<!-- 事業者側による呼称。小田急は「○番ホーム」と表現 -->!!路線!!方向!!行先<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.odakyu.jp/station/machida/ |title=町田駅のご案内 駅立体図 |publisher=小田急電鉄 |accessdate=2023-06-03}}</ref>
|-
!1・2
|rowspan="2"|[[画像:Odakyu odawara.svg|15px|OH]] 小田原線
|style="text-align:center"|下り
|[[小田原駅|小田原]]・[[片瀬江ノ島駅|片瀬江ノ島]]方面
|-
!3・4
|style="text-align:center"|上り
|[[新宿駅|新宿]]・[[File:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|15px|C]] [[東京メトロ千代田線|千代田線]]方面
|}
* 内側2線(2番線と3番線)が主本線、外側2線(1番線と4番線)が待避線となっている。
* 新宿方に6両編成まで対応の[[引き上げ線]]が1本あり、小田原線からの列車を中心に当駅で折り返す列車がある。2022年3月改正以前は[[小田急江ノ島線|江ノ島線]]からの列車が中心だった。
* 上り列車を2番ホーム着として、折り返し下りとして運転することも可能な構造である。2018年3月17日現在、朝を中心に当駅2番ホーム止まりの折り返し下り列車が存在する(人身事故などでダイヤが乱れた場合は当駅止まりが臨時で2番ホームに到着することもある)。その場合は、1番ホームに特急ロマンスカーを含めた下り列車が発着する。
* 平日の夕方以降、当駅で[[緩急接続]]を行う列車が多い。なお、2016年3月26日改正以降、日中時間帯の上り各駅停車は当駅で優等列車の待ち合わせ・通過待ちを行う。
* 当駅は新宿駅と同様の[[発車ベル]]があるが、各方面最終列車の発車時及び輸送混乱時にのみ使用している。
* [[2011年]][[6月26日]]から、当駅の混雑緩和を図るため、3・4番ホームの8両編成の列車の停車位置が約40m後方([[相模大野駅|相模大野]]寄り)になった。
* [[2016年]][[8月]]下旬から、駅構内の行先案内表示装置が、3色LED式からフルカラーLED式に順次更新され、同年9月上旬に全機交換が完了した。
* [[2018年]]3月改正以降、特急ロマンスカーは当駅と隣の[[相模大野駅]]の両方に停車する列車が設定された。
* [[2022年]]6月22日より、すべてのホームで[[ホームドア|可動式ホーム柵]]の設置準備工事が開始された。
* 土休日の午前中には、当駅始発の急行新宿行きが数本設定されている。
==== 駅構内設備 ====
{{columns-list|2|
* 改札口 5か所
: 西口改札、北口改札、東口改札、南口改札、小田急百貨店改札口 - 小田急百貨店営業時間以外は閉鎖。
* 店舗
** [[セブンイレブン]] -西口改札外、上りホーム、下りホームの計3店舗。
** [[小田急レストランシステム|FORESTY COFFEE]] - 改札内コンコース。
* エレベーター(2階改札内コンコース - 各ホーム)
* エスカレーター(2階改札内コンコース - 各ホーム、各ホーム→小田急百貨店改札口)
* トイレ - 2階改札内コンコース、東口改札外。
* [[待合室]] - 各ホームに1か所ずつの合計2か所。
* [[横浜銀行]][[現金自動預け払い機|ATM]] - 北口出口(3)付近、南口改札外脇。
|}}
<gallery>
Machida Odakyu Department Store.jpg|[[新宿]]側から見た小田急町田駅外観(2007年7月)
小田急町田駅北口1-001.jpg|小田急町田駅北口(2016年8月)
Machida Station of Odakyu Line.jpg|小田急町田駅東口<br />(2006年6月)
Machida-odakyu-concourse.jpg|小田急町田駅改札内コンコース(2023年2月)
小田急町田駅 - panoramio.jpg|小田急町田駅北口改札(2015年9月)
小田急町田駅ホーム.JPG|小田急町田駅ホーム
</gallery>
== 連絡乗車について ==
[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]と[[小田急電鉄]]で[[連絡運輸#連絡乗車券|連絡乗車券]]などを発行できるように検討していたが、[[2008年]][[3月15日]]より当駅経由の[[定期乗車券#連絡定期券・共通定期券|連絡定期券]]の購入ができるようになった<ref>[http://www.jreast.co.jp/renrakuteiki/index.html JR東日本:連絡定期券の発売範囲を拡大します。]</ref><ref>[http://www.odakyu.jp/release/pasmo/teiki.html PASMO定期券について(小田急電鉄)]</ref>。
最近まで{{いつ|date=2021年11月}}、JR東日本と小田急電鉄との間で[[連絡運輸]]の協定がなされていなかったため、JR[[横浜線]]と[[小田急小田原線]]を乗り継ぐ場合の連絡乗車券・定期券などの購入はできなかった。そのため、それぞれの[[乗車券]]([[回数乗車券|回数券]]および[[磁性|磁気]]・[[Suica]]・[[PASMO]]の各[[定期乗車券|定期券]]を含む)は別々に購入する必要があった。このためか、両社においてSuicaや[[パスネット]]が導入される以前は乗り換え客による乗車券購入待ちの列により[[自動券売機]]付近が非常に混雑し、自由通路を通ることができない状態になっていた。2014年現在でも引き続き連絡定期券以外の連絡乗車券類は購入できないため、ICカード・IC定期券所持者以外の不便な状況は変わっていない。
なお、定期券以外の連絡運輸が設けられていないのは、横浜線と小田急線は開業時から現在まで別駅扱いのためとみられる。その経緯については「[[#歴史]]」・「[[#横浜線の駅の移転について]]」も参照。
似たような例として、[[新越谷駅]]と[[南越谷駅]]、[[秋津駅]]と[[新秋津駅]]などがある。
== 利用状況 ==
2社を合算した2020年度の1日平均乗降人員は約35万人である。これは町田市のみならず、[[多摩地域]]の鉄道路線全駅で最も多い値である。
* '''JR東日本''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''95,015人'''である<ref group="JR" name="JR2022" />。
*: 同社の駅では[[藤沢駅]]に次ぐ第29位。横浜線では最も利用客が多い。
* '''小田急電鉄''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''246,459人'''である<ref group="odakyu" name="odakyu2022" />。
*: 同社の駅では[[新宿駅]]に次ぐ第2位である。
=== 年度別1日平均乗降人員 ===
各年度の1日平均'''乗降'''人員は下表の通りである。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗降人員<ref group="乗降データ">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref>
!rowspan=2|年度
!colspan=2|小田急電鉄
|-
!1日平均<br/>乗降人員
!増加率
|-
|1928年(昭和{{0}}3年)
|1,139||
|-
|1930年(昭和{{0}}5年)
|1,333||
|-
|1935年(昭和10年)
|928||
|-
|1940年(昭和15年)
|5,234||
|-
|1946年(昭和21年)
|14,672||
|-
|1950年(昭和25年)
|17,176||
|-
|1955年(昭和30年)
|25,979||
|-
|1960年(昭和35年)
|42,215||
|-
|1965年(昭和40年)
|86,434||
|-
|1970年(昭和45年)
|132,032||
|-
|1975年(昭和50年)
|154,830||
|-
|1980年(昭和55年)
|197,393||
|-
|1985年(昭和60年)
|236,259||
|-
|1989年(平成元年)
|281,813||
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|287,587||2.0%
|-
|<ref group="注釈">当駅の乗降人員最高値</ref>1992年(平成{{0}}4年)
|299,216
|
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|297,703||−0.5%
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|292,456||
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|291,115||−0.5%
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|281,167||−3.4%
|-
|1998年(平成10年)
|279,498||−0.6%
|-
|1999年(平成11年)
|277,587||−0.7%
|-
|2000年(平成12年)
|277,304||−0.1%
|-
|2001年(平成13年)
|279,674||0.9%
|-
|2002年(平成14年)
|279,501||−0.1%
|-
|2003年(平成15年)
|282,772||1.2%
|-
|2004年(平成16年)
|280,786||−0.7%
|-
|2005年(平成17年)
|281,280||0.2%
|-
|2006年(平成18年)
|282,478||0.4%
|-
|2007年(平成19年)
|288,300||2.1%
|-
|2008年(平成20年)
|291,952||1.3%
|-
|2009年(平成21年)
|289,622||−0.8%
|-
|2010年(平成22年)
|290,621||0.3%
|-
|2011年(平成23年)
|288,884||−0.6%
|-
|2012年(平成24年)
|291,678||1.0%
|-
|2013年(平成25年)
|292,779||0.4%
|-
|2014年(平成26年)
|289,013||−1.3%
|-
|2015年(平成27年)
|291,911||1.0%
|-
|2016年(平成28年)
|291,802||0.0%
|-
|2017年(平成29年)
|292,579||0.3%
|-
|2018年(平成30年)
|293,572||0.3%
|-
|2019年(令和元年)
|289,419||−1.4%
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|200,781||−30.6%
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="odakyu" name="odakyu2021">{{Cite web|和書|url=https://www.odakyu.jp/company/railroad/users/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230308034356/https://www.odakyu.jp/company/railroad/users/|title=鉄道部門:駅別乗降人員・輸送人員ほか
|archivedate=2023-03-08|page=|accessdate=2023-10-03|publisher=小田急電鉄|format=|language=日本語|deadlink=2023-08-20}}</ref>221,094
|10.1%
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="odakyu" name="odakyu2022">{{Cite web|和書|url=https://www.odakyu.jp/company/railroad/users/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230701061413/https://www.odakyu.jp/company/railroad/users/|title=鉄道部門:駅別乗降人員・輸送人員ほか
|archivedate=2023-07-01|page=|accessdate=2023-10-03|publisher=小田急電鉄|format=|language=日本語|deadlink=}}</ref>246,459
|11.5%
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(1900年代 - 1930年代) ===
各年度の1日平均'''乗車'''人員は下表の通り。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員
!年度
!横浜鉄道
!小田原<br/>急行鉄道
!出典
|-
|1908年(明治41年)
|<ref group="備考">1908年9月23日開業。</ref>
|rowspan="14" style="text-align:center"|未開業
|
|-
|1911年(明治44年)
|177
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972667/131?viewMode= 明治44年]</ref>
|-
|1912年(大正元年)
|176
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972670/134?viewMode= 大正元年]</ref>
|-
|1913年(大正{{0}}2年)
|180
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972675/127?viewMode= 大正2年]</ref>
|-
|1914年(大正{{0}}3年)
|171
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972677/386?viewMode= 大正3年]</ref>
|-
|1915年(大正{{0}}4年)
|164
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972678/348?viewMode= 大正4年]</ref>
|-
|1916年(大正{{0}}5年)
|191
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972679/383?viewMode= 大正5年]</ref>
|-
|1919年(大正{{0}}8年)
|321
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972680/265?viewMode= 大正8年]</ref>
|-
|1920年(大正{{0}}9年)
|347
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972681/301?viewMode= 大正10年]</ref>
|-
|1922年(大正11年)
|392
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972682/303?viewMode= 大正11年]</ref>
|-
|1923年(大正12年)
|404
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972683/294?viewMode= 大正12年]</ref>
|-
|1924年(大正13年)
|517
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972684/292?viewMode= 大正13年]</ref>
|-
|1925年(大正14年)
|560
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448121/326?viewMode= 大正14年]</ref>
|-
|1926年(昭和元年)
|623
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448138/316?viewMode= 昭和元年]</ref>
|-
|1927年(昭和{{0}}2年)
|600
|<ref group="備考">1927年4月1日開業。</ref>407
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448164/314?viewMode= 昭和2年]</ref>
|-
|1928年(昭和{{0}}3年)
|644
|575
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448188/346?viewMode= 昭和3年]</ref>
|-
|1929年(昭和{{0}}4年)
|648
|639
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448218/334?viewMode= 昭和4年]</ref>
|-
|1930年(昭和{{0}}5年)
|558
|736
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448245/339?viewMode= 昭和5年]</ref>
|-
|1931年(昭和{{0}}6年)
|511
|560
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448278/342?viewMode= 昭和6年]</ref>
|-
|1932年(昭和{{0}}7年)
|504
|411
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448259/315?viewMode= 昭和7年]</ref>
|-
|1933年(昭和{{0}}8年)
|566
|411
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446322/333?viewMode= 昭和8年]</ref>
|-
|1934年(昭和{{0}}9年)
|601
|463
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446161/341?viewMode= 昭和9年]</ref>
|-
|1935年(昭和10年)
|657
|460
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446276/339?viewMode= 昭和10年]</ref>
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(1953年 - 2000年) ===
<!-- 東京都統計年鑑、町田市統計書を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります -->
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="乗降データ" name="machida">[http://www.city.machida.tokyo.jp/shisei/toukei/sogo/toukeisyo/index.html 町田市統計書] - 町田市</ref>
!年度
!国鉄 /<br/>JR東日本
!小田急電鉄
!出典
|-
|1953年(昭和28年)
|10,471
|
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1953/tn53qa0009.pdf 昭和29年]}} - 11ページ</ref>
|-
|1954年(昭和29年)
|10,663
|
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1954/tn54qa0009.pdf 昭和29年]}} - 9ページ</ref>
|-
|1955年(昭和30年)
|10,582
|
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1955/tn55qa0009.pdf 昭和30年]}} - 9ページ</ref>
|-
|1956年(昭和31年)
|10,464
|14,035
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1956/tn56qa0009.pdf 昭和31年]}}</ref>
|-
|1957年(昭和32年)
|11,261
|15,115
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1957/tn57qa0009.pdf 昭和32年]}}</ref>
|-
|1958年(昭和33年)
|11,373
|17,172
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1958/tn58qa0009.pdf 昭和33年]}}</ref>
|-
|1959年(昭和34年)
|12,605
|18,701
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1959/tn59qyti0510u.htm 昭和34年]</ref>
|-
|1960年(昭和35年)
|13,512
|21,244
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1960/tn60qyti0510u.htm 昭和35年]</ref>
|-
|1961年(昭和36年)
|14,313
|24,551
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1961/tn61qyti0510u.htm 昭和36年]</ref>
|-
|1962年(昭和37年)
|16,051
|29,304
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1962/tn62qyti0510u.htm 昭和37年]</ref>
|-
|1963年(昭和38年)
|18,092
|34,165
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1963/tn63qyti0510u.htm 昭和38年]</ref>
|-
|1964年(昭和39年)
|19,524
|38,762
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1964/tn64qyti0510u.htm 昭和39年]</ref>
|-
|1965年(昭和40年)
|20,213
|43,376
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1965/tn65qyti0510u.htm 昭和40年]</ref>
|-
|1966年(昭和41年)
|22,120
|46,722
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1966/tn66qyti0510u.htm 昭和41年]</ref>
|-
|1967年(昭和42年)
|23,123
|50,035
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1967/tn67qyti0510u.htm 昭和42年]</ref>
|-
|1968年(昭和43年)
|23,422
|54,689
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1968/tn68qyti0510u.htm 昭和43年]</ref>
|-
|1969年(昭和44年)
|22,306
|62,363
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1969/tn69qyti0510u.htm 昭和44年]</ref>
|-
|1970年(昭和45年)
|22,282
|67,282
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1970/tn70qyti0510u.htm 昭和45年]</ref>
|-
|1971年(昭和46年)
|23,421
|72,167
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1971/tn71qyti0510u.htm 昭和46年]</ref>
|-
|1972年(昭和47年)
|24,981
|74,414
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1972/tn72qyti0510u.htm 昭和47年]</ref>
|-
|1973年(昭和48年)
|24,953
|75,970
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1973/tn73qyti0510u.htm 昭和48年]</ref>
|-
|1974年(昭和49年)
|26,575
|78,813
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1974/tn74qyti0510u.htm 昭和49年]</ref>
|-
|1975年(昭和50年)
|26,612
|78,940
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1975/tn75qyti0510u.htm 昭和50年]</ref>
|-
|1976年(昭和51年)
|28,110
|82,989
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1976/tn76qyti0510u.htm 昭和51年]</ref>
|-
|1977年(昭和52年)
|28,504
|86,781
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1977/tn77qyti0510u.htm 昭和52年]</ref>
|-
|1978年(昭和53年)
|29,594
|91,043
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1978/tn78qyti0510u.htm 昭和53年]</ref>
|-
|1979年(昭和54年)
|31,287
|93,137
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1979/tn79qyti0510u.htm 昭和54年]</ref>
|-
|1980年(昭和55年)
|37,738
|101,283
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1980/tn80qyti0510u.htm 昭和55年]</ref>
|-
|1981年(昭和56年)
|46,293
|106,762
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1981/tn81qyti0510u.htm 昭和56年]</ref>
|-
|1982年(昭和57年)
|51,074
|110,110
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1982/tn82qyti0510u.htm 昭和57年]</ref>
|-
|1983年(昭和58年)
|55,880
|113,866
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1983/tn83qyti0510u.htm 昭和58年]</ref>
|-
|1984年(昭和59年)
|56,948
|114,397
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1984/tn84qyti0510u.htm 昭和59年]</ref>
|-
|1985年(昭和60年)
|59,910
|118,874
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1985/tn85qyti0510u.htm 昭和60年]</ref>
|-
|1986年(昭和61年)
|65,551
|125,597
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1986/tn86qyti0510u.htm 昭和61年]</ref>
|-
|1987年(昭和62年)
|70,899
|131,546
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1987/tn87qyti0510u.htm 昭和62年]</ref>
|-
|1988年(昭和63年)
|79,951
|138,816
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1988/tn88qyti0510u.htm 昭和63年]</ref>
|-
|1989年(平成元年)
|85,740
|141,784
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm 平成元年]</ref>
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|89,290
|143,805
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 平成2年]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|93,298
|148,423
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 平成3年]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|96,238
|149,605
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 平成4年]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|97,827
|149,499
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 平成5年]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|98,679
|148,458
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 平成6年]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|99,030
|147,071
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 平成7年]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|100,526
|145,649
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 平成8年]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|99,594
|142,225
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 平成9年]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|98,819
|141,562
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 平成10年]}}</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/1999.html 各駅の乗車人員(1999年度)] - JR東日本</ref>99,632
|140,210
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 平成11年]}}</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>100,602
|139,901
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 平成12年]</ref>
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) ===
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="乗降データ" name="machida" />
!年度!!JR東日本!!小田急電鉄!!出典
|-
|2001年(平成13年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>102,234
|141,241
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 平成13年]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>102,890
|140,918
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 平成14年]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>105,932
|142,322
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 平成15年]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>104,832
|141,466
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 平成16年]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>104,452
|141,718
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 平成17年]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>104,576
|142,290
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 平成18年]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>105,682
|144,689
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 平成19年]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>108,214
|146,233
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 平成20年]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>107,799
|145,014
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 平成21年]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>109,077
|145,422
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 平成22年]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>109,042
|144,516
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 平成23年]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>110,543
|145,827
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 平成24年]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>110,940
|146,353
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 平成25年]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>110,223
|144,375
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 平成26年]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>112,161
|145,803
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 平成27年]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>112,447
|145,800
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 平成28年]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>112,710
|146,175
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 平成29年]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>112,540
|146,737
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 平成30年]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>110,899
|144,615
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 平成31年・令和元年]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>77,722
|100,436
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2020/tn20q3i004.htm 令和2年]</ref>
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>86,227
|
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="JR" name="JR2022">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>95,015
|
|
|}
;備考
{{Reflist|group="備考"}}
== 駅周辺 ==
=== 概説 ===
{{複数の問題|section=1|出典の明記=2018-03|雑多な内容の箇条書き=2016年12月}}
{{See also|原町田|森野 (町田市)|中町 (町田市)|上鶴間本町}}
JRの駅北側は東京でも有数の[[繁華街]]・[[歓楽街]]として発展しており、[[小田急百貨店]]や[[ルミネ]]、[[丸井|マルイ]]といった大型商業施設や飲食店などが小田急とJRの駅を中心に多数集積している。駅周辺は[[多摩地域]]有数の商業地として[[吉祥寺駅|吉祥寺]]、[[立川駅|立川]]、[[八王子駅|八王子]]と合わせて[[多摩地域]]の4大商業地に数えられ、[[南多摩郡|南多摩]]地区の拠点である。[[南多摩郡|南多摩]]地域のみならず、神奈川県央や横浜市北西部(いわゆる[[相武|武相地域]])の拠点としても栄える。
小田急線と横浜線中央口北口周辺は東京都[[町田市]]の[[原町田]]、[[森野 (町田市)|森野]]、[[中町 (町田市)|中町]]で、現在の繁華街は主に原町田4、6丁目付近に広がる。一方、横浜線の町田駅南口周辺は原町田1丁目だが、境川の旧流路が現在での[[神奈川県]]との都県境となっているため、境川を渡った相模大野駅側や、町田駅側であっても南口前の[[デニーズ (日本)|デニーズ]]をはじめとした一部の住所は[[相模原市]][[南区 (相模原市)|南区]][[上鶴間本町]]となる。
* JR町田駅[[駅ビル]] - [[ルミネ]]
* 小田急町田駅駅ビル - [[小田急百貨店]]
鉄道の開業前、現在の駅周辺は鎌倉街道が横切る原野だったが、[[鎌倉時代]]より鎌倉街道の宿場として栄えた[[本町田|町田村]]の一部住民が[[1580年代]]にこの地域を開拓し原町田村が出来る。その後[[江戸時代]]末期の[[開国#日本|鎖国解除]]直後から、絹の道([[生糸]])の中継地、集散地として栄え、その流れで現在の原町田二丁目付近には多くの商店が建ち並んだ。
[[明治]]時代以降に横浜線や小田急線が開業すると駅近隣の発展は急速に進み始める。そして、[[1960年代]]から[[1970年代]]にかけて、住宅供給公社や当時の[[日本住宅公団]]によって市内に多数の大規模[[集合住宅]](いわゆるマンモス[[団地]])が建設されると、[[大丸]]([[大丸#過去に存在した店舗|町田大丸]]に分社後、撤退)、[[緑屋]](撤退)、[[さいか屋]](専門店ビルのジョルナに業態転換)、[[ダイエー]]([[トポス (ディスカウントストア)|トポス]]→メディアバレー→[[グルメシティ]](上層階に[[大創産業|ダイソー]]が入居)と業態転換して閉店後、建て替えを行って現在は高層マンションおよびダイエー)などの[[百貨店]]、[[スーパーマーケット]]が次々に駅前に進出し、商業地としての地位を確実なものとした。今日では小田急百貨店や[[町田東急ツインズ]]をはじめとして、ルミネ、[[丸井|マルイ]]、[[モディ]]、[[西友]]、[[ヨドバシカメラ]]、[[ビックカメラ]]、[[ドン・キホーテ (企業)|ドン・キホーテ]]、[[さいか屋|ジョルナ]]、[[ブックオフコーポレーション|BOOK・OFF]](2館体制)などの大型店が林立し、さらには古くからの庶民的な[[商店街]]や若者向けの店も数多くひしめき合う、都民のみならず神奈川県民も多く訪れる日本でも有数の商業地として著しく発達しており、小田急線沿線としては[[新宿]]に次ぐ2番目、横浜線沿線では最大規模の商業地となっている。このように当駅周辺は多くの若者向け商業施設が集積していることから、俗に「'''西の[[渋谷]]'''」と呼ばれることもある<ref>{{Cite web|和書|title=東京人「町田が『西の渋谷』って、ちょっと恥ずかしいよね(笑)」【モヤモヤさまぁ~ず2/東京の視点×大阪の目線】(全文表示)|Jタウンネット |url=https://j-town.net/2015/11/14215293.html |website=Jタウンネット |date=2015-11-14 |access-date=2023-02-21 |language=jp |last=ご当地テレビ視聴隊}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=「西の渋谷」の実態は…「町田」に襲いかかる人口減少の波 |url=https://gentosha-go.com/articles/-/24394 |website=幻冬舎ゴールドオンライン |access-date=2023-02-21 |language=ja}}</ref>。
このような大商業地でありながら、周辺の[[南町田グランベリーパーク駅|南町田]]、[[橋本 (相模原市)|橋本]]、[[南大沢]]、[[イオン新百合ヶ丘店|新百合ヶ丘]]、[[海老名駅|海老名]]([[ビナウォーク]])などに開設された[[シネマコンプレックス]]との競合により、2館あった小規模[[映画館]]が閉館したほか、[[郵政事業民営化]]に伴う[[ぱ・る・るプラザ|<span aria-label="ぱるる">ぱ・る・る</span>プラザ]]町田閉鎖に伴う併設映画館の閉館により、当駅周辺には映画鑑賞施設が存在しない状態となった。
横浜線原町田駅跡地周辺は駅の移転後に合わせて[[都市再開発|再開発]]され、[[1983年]]に[[バスターミナル]]、[[駐輪場|自転車駐車場]]、[[自動車]][[駐車場]]、[[店|商業施設]]、JR町田駅ターミナル口改札からなる「町田ターミナルプラザ」が開業し、[[東急|東京急行電鉄]](現在の東急)が所有する商業棟には[[テナント]]として[[ハンズ (小売業)|東急ハンズ]]が入居した。その後東急ハンズは[[東急百貨店]]まちだ店の再編に際し[[2007年]]に百貨店とともに一旦閉店し、同年、百貨店を業態変更した専門店ビルである町田東急ツインズに移転した。東急ハンズ移転後のターミナルプラザ商業棟には、[[2008年]][[5月23日]]に[[ファーストリテイリング]]が経営する商業施設の[[ミーナ (商業施設)#ミーナ町田(mina machida)|ミーナ町田]]が入居している<ref>[http://www.mina-machida.com ミーナ町田]</ref>。一方、ターミナル棟(2階以下は町田市所有、3階以上は東京急行電鉄所有の「駐車場棟」)の1階は[[町田バスセンター|町田ターミナル]](バスターミナル)、2階は「ターミナルエイト」と称し、9つの店舗(以前は名の通り8つ)が入れる商用スペースとなっている。ターミナルエイトは一時期、[[日本マクドナルド|マクドナルド]]と喫茶店以外営業していない状態だったが、2008年のターミナルプラザ改装と2009年の町田ターミナル停留所への観光バス乗り入れ<ref>[http://www.city.machida.tokyo.jp/shisei/koho/koho/kouhoushi/koho_machida/2009/20090721.files/090721_P7_s.pdf 広報まちだ 2009年7月21日号]町田市</ref>によって、新たに数店舗が入居している。ターミナルエイトと商業棟の間は、「出会いのひろば」と称する子供用遊具が設置されていた広場でつながっている。出会いのひろばの奥には、1983年10月に設置された和田康男作「水のオブジェ」という作品があったが、ミーナ町田の開店に伴い子供用遊具と共に撤去されたが、後に子供用遊具は撤去したオブジェの位置に戻っている。出会いのひろばの北側には「ターミナルデッキ」と称するペデストリアンデッキがあり、JR町田駅ターミナル口から町田市立中央図書館([[シティホテル]]のレンブラントホテル東京町田と同居)まで繋いでいる。このターミナルデッキ上には、1983年10月に設置された[[黒川紀章]]作「シティゲート」という作品があり、このモニュメントが真南北を示している。
JR町田駅から小田急町田駅までの間のペデストリアンデッキは往来が激しく、人通りは絶えることがない。JR中央口と小田急西口との間にはペデストリアンデッキが2つあるが、マルイ側のみに屋根があり、東急ツインズ、モディ側には屋根がない。マルイ側は1980年の横浜線町田駅移転とともに開設され、JRと小田急の連絡通路として使われたものだが、やがて常に全体が溢れ返るほど混雑したことから、モディ側(当時は大丸ビーミー)にも[[1993年]]に追加でデッキが建設された。なお、どちらも将来はターミナル側のデッキへの延伸接続を計画しており、実際に一部がターミナル方面へ伸ばされているが、1999年にルミネ前の一部が延伸されたのを最後に工事は止まっており、現段階では延伸の目処が立っていない。
JR中央口と町田東急ツインズとの間のペデストリアンデッキ上の広場は「モニュメント広場」と称され、その名の通り、回転する「曲がりくねった棒」でできた[[モニュメント]]が存在し、多くの鳩や鳥類が乗ったまま回転している光景もよく見られた。このモニュメントは[[1980年]]に設置された[[伊藤隆道]]作「動く彫刻 光の舞い」という作品である。この広場にも屋根が無かったため、一時期は傘を貸し出すサービスを行っていたが、2006年末頃にモニュメントを取り囲むような形で布製の屋根が設置された。
町田東急ツインズのEASTとWESTとの間の道路上のJR町田駅北口ペデストリアンデッキ向かいには、[[多摩都市モノレール]]町田駅の設置が計画されている。既に導入空間となる原町田大通りの一部は開通し、[[町田街道|新道]]の建設も進められているが、[[多摩市]][[南野 (多摩市)|南野]] - 町田市小山田、[[旭町 (町田市)|旭町]] - [[芹ヶ谷公園]]付近など、一部区間での用地買収が滞っており、また多摩都市モノレールの財政的な問題もあるため、現時点でモノレールが町田駅まで延伸する目処は立っていない。なお、町田東急ツインズの両館の間を結ぶ連絡橋(クリスタルブリッジ)は、この計画があったために5階という高い位置に作られたとされる。
商業地域からJR町田駅を挟んだ南口側には、駅のすぐ目の前に大型[[家電量販店]]の[[ヨドバシカメラ]]があり賑わってはいるが、その他は北口方面と比べると商業施設などに乏しい。また、JR南口至近の相模原市南区上鶴間本町には、かつて「田んぼ」と称された風俗街が存在し、現在でも[[風俗店|性風俗店]]や[[ラブホテル]]が数多く並んでおり、一部の[[マスメディア|マスコミ]]からは北口の歓楽街も含めて「'''西の[[歌舞伎町]]'''」と呼ばれている<ref>[http://www.ashita.or.jp/publish/mm/mm96/mm96-2-2.htm 「まち むら」96号(2007年2月15日発行)]公益財団法人あしたの日本を創る協会</ref>。[[2007年]]4月にはその風俗店などが並ぶ場所に存在する町田駅南交差点付近で[[暴力団]]組員による銃撃事件([[町田市立てこもり事件 (2007年)|町田市立てこもり事件]])が発生し、犯人を確保するために多数の警察官や警視庁の[[特殊捜査班]]が駆けつけ、近隣地域を管轄警察官が立ち入り禁止にするなど大きな騒動になった。銃撃事件発生後は駅周辺の各所に警察官が配置され、治安が強化されている。なお、後述のように南口側の原町田1丁目では町の賑わいを創出する方向で再開発が検討されている([[#駅周辺の再開発計画]]を参照)。
[[東京都]][[町田市]]と[[神奈川県]][[相模原市]](昔の[[武蔵国]]と[[相模国]])の境界とされた[[境川 (東京都・神奈川県)|境川]]はかつては激しく蛇行しており、河川改修によって流路が直線化された後も両市間では一部区間を除いて都県境が非常に入り組んだまま残されている。そのため、前述のようにJR町田駅南口前の[[デニーズ (日本)|デニーズ]]をはじめとした周辺の一部は境川の北側ではあるが、神奈川県相模原市に属する。
<!-- 住所登録などは町田市であることや、詳しい市境ならびに管轄等は不明であるため一旦コメントアウト 事実、ヨドバシカメラは入口部分を除きほとんどが相模原市である(店内での盗難などの犯罪は相模原南警察署の管轄となる)。 -->
駅からしばらく歩くと、緑や[[公園]]が多く存在し、緑が豊かな街としての一面もある。駅周辺にある公園の一つである[[芹ヶ谷公園]]には、[[町田市立国際版画美術館]]があり、古今東西の多くの版画が常設展示されている。一方、駅周辺の上空は[[厚木海軍飛行場]]への空路となっていて、爆音を聞き空を見上げると[[軍用機]]の下部を見ることがある。[[1964年]]には当時の繁華街(現在のターミナル付近)で軍用機の墜落事故([[町田米軍機墜落事故]])が発生し、事故現場周辺にいた4名が死亡するという惨事もあった。
<gallery>
MachidaStkita.jpg|JR町田駅北口と[[駅ビル]]の[[ルミネ]]町田(屋根設置前)
MachidaTokyuTwins.jpg|JR町田駅北口の[[町田東急ツインズ]]
Mina-machida.jpg|JR町田駅ターミナル口の[[ミーナ (商業施設)|ミーナ町田]]とモニュメント「シティゲート」
Mahorodeck.JPG|JR町田駅北口のモニュメント「動く彫刻 光の舞い」
Yodobashi-camera-machida.jpg|JR町田駅南口の[[ヨドバシカメラ]]
JRE Machida Station Kitaguchi.JPG|JR町田駅南口に町田・相模原市報棚を併設<br />(2015年3月)
</gallery>
==== 駅周辺の再開発計画 ====
小田急線町田駅周辺地区および原町田1丁目地区(JR町田駅南口エリア)の2地区で再開発が検討されている。なお、この2地区は町田市の基本計画『まちだ未来づくりプラン』において、「町田駅周辺の魅力を向上させるプロジェクト」の重点検討地区に位置づけられている。
小田急線町田駅周辺地区(対象地区:約1[[ヘクタール|ha]])では建物の[[老朽化]]などが目立つため再開発を視野に入れているほか、新たにバスターミナル機能の導入も検討している。また、原町田1丁目地区はJR町田駅南口の玄関口でありながら鉄道により回遊性が遮断され、駅前のヨドバシカメラ以外は賑わいに乏しいことから、老朽化が問題となっている市営駐車場の建て替えを中心として商業施設の導入などにより賑わいの創出を目指し、町田市では[[2018年]]3月に「JR町田駅南地区まちづくり整備方針」を策定した<ref>[https://www.city.machida.tokyo.jp/kurashi/sumai/toshikei/ekisyuhenmachidukuri/machida/machidkuriseibihoushin.html 「JR町田駅南地区まちづくり整備方針」を策定しました]町田市</ref>。
=== 商業施設 ===
<!-- チェーン店を含む飲食店、コンビニ、個人商店は記載しない -->
{{columns-list|2|
* [[小田急百貨店]]町田店
** [[ノジマ]]
** [[紀伊國屋書店]]
** [[良品計画|無印良品]]
** [[成城石井]]
* [[小田急マルシェ]]町田
* [[町田東急ツインズ]]
** イースト
*** [[ハンズ (小売業)|ハンズ]]
*** [[東急ストア]]
** ウエスト
*** [[ニトリ]]
*** [[ゼビオ|ヴィクトリア]]
* 町田センタービル
* [[ルミネ]]町田
** [[ブックファースト]]
** 無印良品
* [[町田ジョルナ]]
* 町田[[丸井|マルイ]]
* [[モディ#町田モディ|町田モディ]]
** [[ロフト (雑貨店)|ロフト]]
** [[有隣堂]]
** [[タワーレコード]]
* [[西友]]町田店
* 町田パリオ
* [[ヨドバシカメラ]] マルチメディア町田
* [[ビックカメラ]]アウトレット町田店・[[ソフマップ]]町田店
* [[ドン・キホーテ (企業)|ドン・キホーテ]]町田駅前店
* [[ミーナ (商業施設)#ミーナ町田(mina machida)|ミーナ町田]]
** [[ユニクロ]]
** [[ジーユー]]
* [[ダイエー]]町田店
* [[久美堂]](本店、四丁目店)
* [[アニメイト]]町田
* [[らしんばん]]町田店
* [[ブックオフコーポレーション|BOOK・OFF]] SUPER BAZAAR 町田中央通り店
|}}
=== 公共施設 ===
{{columns-list|2|
* [[町田市役所]] - [[2012年]][[7月17日]]に中町一丁目から森野二丁目(町田市民ホール横)に移転<ref>[https://www.city.machida.tokyo.jp/shisei/cyosya/itenbi.html 新庁舎への移転日のお知らせ] {{ja icon}} - 町田市役所</ref>。
* 町田市役所町田駅前連絡所(行政窓口、小田急百貨店内)
* 町田市健康福祉会館
* 町田市保健所
* 町田公証役場
* [[国税庁]][[東京国税局]]町田税務署
* [[町田簡易裁判所]]
* 町田合同庁舎
** [[町田区検察庁]]
** [[東京法務局]]町田出張所
** [[東京労働局]]八王子労働基準監督署町田支署
** 町田公共職業安定所(ハローワーク町田)
* 町田公共職業安定所森野ビル庁舎
* 東京都八王子都税事務所町田都税支所
* 東京都南多摩東部建設事務所
* [[町田消防署|東京消防庁町田消防署]]原町田分駐所
* [[町田警察署]]原町田交番 - JR町田駅中央口(北口)のペデストリアンデッキの下にある。
* 町田警察署町田駅前交番 - 小田急町田駅東口のカリヨン広場前にある。
* 町田警察署中町交番
* セーフティボックスサルビア(民間交番)
* さがみはら安全安心ステーション(民間交番、[[相模原南警察署]] 町田駅南口臨時警備出張所)
|}}
=== 文化施設 ===
{{columns-list|2|
* [[町田市民ホール]]
* まちだ中央公民館
* 町田市生涯学習センター
* 町田市民フォーラム
* 町田市子どもセンターまあち
* [[町田市民文学館ことばらんど]]
* [[町田市立中央図書館]]
* 町田市立さるびあ図書館
* [[まちの駅]]ぽっぽ町田
* PLAZA町田(旧・[[メルパルク#郵便貯金地域文化活動支援施設|<span aria-label="ぱるる">ぱ・る・る</span>プラザ]]町田)
** 町田市文化交流センター
* [[町田市立国際版画美術館]](芹ヶ谷公園内)
* 泰巖歴史美術館
|}}
=== 公園 ===
* [[芹ヶ谷公園|町田市立芹ヶ谷公園]]
* 町田シバヒロ - 旧町田市役所跡地の芝生広場
=== 寺院・神社===
* [[浄運寺 (町田市)|浄運寺]]
* [[勝楽寺 (町田市)|勝楽寺]]
* [[妙延寺 (町田市)|妙延寺]]
* 宗保院
* [[町田天満宮]]
* 母智丘神社
=== 郵便局 ===
* 町田駅前郵便局(旧・<span aria-label="ぱるる">ぱ・る・る</span>プラザ町田内郵便局)
* 原町田六郵便局
* 原町田郵便局
* 町田森野郵便局
=== 金融機関 ===
{{columns-list|2|
* [[三菱UFJ銀行]]
* [[みずほ銀行]]
* [[三井住友銀行]]
* [[りそな銀行]]
* [[SBI新生銀行]]
* [[横浜銀行]]
* [[きらぼし銀行]]
* [[山梨中央銀行]]
* [[三菱UFJ信託銀行]]
* [[みずほ信託銀行]]
* [[三井住友信託銀行]]
* [[中央労働金庫]]
* [[西武信用金庫]]
* [[多摩信用金庫]]
|}}
=== 教育施設 ===
{{columns-list|2|
* [[河合塾]]
* [[駿台予備学校]]
* [[学校法人大原学園|大原簿記医療秘書公務員専門学校]]町田校
* 東京町田情報ITクリエイター専門学校
<!--* 東京町田歯科衛生学院専門学校-->
* [[アルファ医療福祉専門学校]]
* [[町田デザイン&建築専門学校]]
* [[町田調理師専門学校]]
* 町田福祉保育専門学校
* 町田美容専門学校
* 町田製菓専門学校
* 医療ビジネス観光福祉専門学校
* [[東京都立町田高等学校]]
|}}
=== 宿泊施設 ===
* [[レンブラントホールディングス|レンブラントホテル東京町田]]
* ホテル町田ヴィラ
* [[リブマックス|ホテルリブマックス]]町田駅前
* ホテルリソル町田
* ビジネスイン サンホテル
* ホテル新宿屋
* [[アパホテル]]町田駅東
* [[東横イン]] 町田駅小田急線東口
== バス路線 ==
{{See|町田バスセンター}}
当駅周辺には、下記の5つのバス停留所があり、時間帯や方面によって発着場所がそれぞれ異なる。
* '''町田バスセンター''' - 横浜線中央口北口 - 小田急線西口までの高架下付近
* '''町田バスセンター15番線''' - 町田駅前通りを市役所方向に100mほど進んだ路上(町田バスセンターの15番乗り場と同一の場所)
* '''町田ターミナル''' - 横浜線ターミナル口のまちだターミナルプラザ1階。高速バス乗り場としては'''町田ターミナルプラザ'''の名称が用いられる。
* '''町田ターミナル前''' - 横浜線ターミナル口の町田駅前通り路上
* '''町田駅''' - 小田急線東口のPOPビル付近路上(栄通り(旧町田街道))
=== タクシー ===
町田駅周辺には、[[タクシー]]乗り場が4箇所ある。
* 小田急線町田駅西口 - 横浜線町田駅方面通路脇の階段下にある。
* JR横浜線町田駅北口 - 町田マルイ側ペデストリアンデッキ下のパチンコ店「[[浜友観光|楽園]]」前にある。
* JR横浜線町田駅南口 - 南口東寄り階段下にある。町田市内よりも相模原市内や国道16号沿線方面へ向かうのに便利。
* JR横浜線町田駅ターミナル口 - ペデストリアンデッキ北西寄り階段下の[[ファミリーマート]]町田駅前大通り店前にある。
上記以外にも深夜帯に限り、小田急線町田駅北口のりそな銀行前にタクシーが待機しており、この場所からも乗車可能。
== 隣の駅 ==
;東日本旅客鉄道(JR東日本)
:[[画像:JR JH line symbol.svg|15px|JH]] 横浜線
::{{Color|#ff0066|■}}快速
:::[[長津田駅]] (JH 21) - '''町田駅 (JH 23)''' - [[相模原駅]] (JH 27)
::{{Color|#7fc342|■}}各駅停車
::: [[成瀬駅]] (JH 22) - '''町田駅 (JH 23)''' - [[古淵駅]] (JH 24)
;小田急電鉄
:[[画像:Odakyu odawara.svg|15px|OH]] 小田原線
:*{{Color|#f64f4f|'''□'''}}特急ロマンスカー「[[はこね_(列車)|はこね]]」「さがみ」「[[モーニングウェイ・ホームウェイ|モーニングウェイ]]」「メトロはこね」一部停車駅、「[[モーニングウェイ・ホームウェイ|ホームウェイ]]」「メトロモーニングウェイ」「メトロホームウェイ」全列車停車駅
::{{color|#f89c1c|■}}快速急行・{{color|#ef4029|■}}急行
:::[[新百合ヶ丘駅]] (OH 23) - '''町田駅 (OH 27)''' - [[相模大野駅]] (OH 28)
::{{color|#00ab76|□}}通勤準急・{{color|#00ab76|■}}準急・{{color|#18469d|■}}各駅停車(通勤準急は平日朝上りのみ、準急は平日夜下りのみ運転)
:::[[玉川学園前駅]] (OH 26) - '''町田駅 (OH 27)''' - 相模大野駅 (OH 28)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
==== 報道発表資料 ====
; JR東日本
{{Reflist|group="JR東"}}
; 小田急電鉄
{{Reflist|group="小田急"}}
=== 利用状況に関する資料 ===
;小田急電鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="odakyu"|3}}
;JR東日本の1999年度以降の乗車人員
{{Reflist|group="JR"|22em}}
;JR・私鉄の統計データ
{{Reflist|group="乗降データ"}}
;東京府統計書
{{Reflist|group="東京府統計"|16em}}
;東京都統計年鑑
{{Reflist|group="東京都統計"|16em}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Machida Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=1429|name=町田}}
* [https://www.odakyu.jp/station/machida/ 小田急電鉄 町田駅]
{{横浜線}}
{{小田急小田原線}}
{{DEFAULTSORT:まちた}}
[[Category:東京都の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 ま|ちた]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]]
[[Category:横浜線]]
[[Category:横浜鉄道]]
[[Category:小田急電鉄の鉄道駅]]
[[Category:1908年開業の鉄道駅]]
[[Category:町田市の交通]] | 2003-05-16T21:37:14Z | 2023-12-17T16:05:24Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BA%E7%94%B0%E9%A7%85 |
8,394 | アメリカ統合参謀本部議長 | アメリカ統合参謀本部議長 (アメリカとうごうさんぼうほんぶぎちょう、英語: Chairman of the Joint Chiefs of Staff)は、アメリカ統合参謀本部の長。アメリカ軍を統率する軍人(制服組)のトップであり、大統領および国防長官の主たる軍事顧問である。日本の報道では「米軍制服組トップ」と呼称されることがある。
統合参謀本部議長は、大統領および国防長官の主たる軍事顧問であり、国家安全保障会議や国土安全保障会議にも軍事的助言を行う。助言に際しては、統合参謀本部の他のメンバーより大きな権限を有している。なお、各軍種のトップと同様に作戦指揮権は有しておらず、作戦命令は軍の最高司令官(Commander-in-chief)たる大統領から国防長官を経て、各統合軍の司令官を通じて直接発動される。ただし、その制限の下、命令の伝達自体は、議長を通じて行われ、各司令官が任務遂行するにあたっての、大統領および国防長官の補佐を行う。
また、戦略計画の策定や、予算・機材の取得に関する助言、国防における脅威度評価、軍種間統合の推進も議長の責任範囲となっている。
議長は、大統領が指名し、上院の助言と承認(advice and consent)により就任する。任期は奇数年の10月1日よりの2年であり、副議長であった場合の任期と合わせ3期6年まで在職でき、特に大統領の指名があった場合は8年まで在職できる。ただし、戦時にはこの制限は撤廃される。1985年代以降は2期4年務めるケースが多い。階級は大将(general又はadmiral)に補され、アメリカ軍における最高位とされる。
統合参謀本部は1947年に国家安全保障法の成立によって法的な裏付けを得たが、議長職は1949年に設置されている。
1986年のゴールドウォーター=ニコルズ国防総省再編法 (Goldwater-Nichols Department of Defense Reorganization Act of 1986) によれば、議長の就任資格があるのは、現議長の再任を除くと、他の統合参謀本部(JCS)メンバーおよび地域別・機能別統合軍(Unified Combatant Commands)や特定軍(Specified Combatant Command,一軍種からなる戦闘軍)司令官とされる。ただし、大統領が国益に考慮して必要と判断した場合には、特例としてこれ以外のポストから議長を選ぶこともできる。なお、副議長とは別軍種であることが原則とされる。
また本来であれば、JCSメンバーでもある海兵隊総司令官など海兵隊出身者が議長に選ばれる可能性もあるが、初代議長のオマー・ブラッドレー陸軍大将以来、長年にわたって陸軍・海軍・空軍の3軍出身者のみが選ばれるという状態が続いていた。2006年に、ピーター・ペース海兵隊大将が海兵隊出身者では初めて議長に選ばれたことでこの慣習は打破された。2015年にはジョセフ・ダンフォードが、海兵隊総司令官経験者として初めて議長になっている。
在任中に元帥となった初代のオマー・ブラッドレーを除き、階級は大将であるが、軍の統合指揮向上のため、1990年代には元帥職とすることが検討されていた。
ゴールドウォーター=ニコルズ国防総省再編法の施行以前は、統合参謀本部議長は統合参謀本部の意見のまとめ役に過ぎなかった。大統領及び国防長官に提出する軍事的助言は各軍参謀長たちの合意に基づくものでなければならず、実質的権限はあまりなかった。しかし、同法では議長を「主たる軍事顧問」と認めており、従って議長は参謀長たちの合意にかかわらず大統領、国防長官に直接自分自身の意見を助言することができるようになった。統合参謀本部は実働部隊の指揮権限は持っておらず、指令は国防長官から各統合軍司令官に下される。同法の施行後に初めて統合参謀本部議長に就任したのがコリン・L・パウエルである。 | [
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] | アメリカ統合参謀本部議長 は、アメリカ統合参謀本部の長。アメリカ軍を統率する軍人(制服組)のトップであり、大統領および国防長官の主たる軍事顧問である。日本の報道では「米軍制服組トップ」と呼称されることがある。 | {{Infobox Political post
|post = 議長
|body = アメリカ軍統合参謀本部
|native_name = Chairman of the Joint Chiefs of Staff
|flag = Flag of the Chairman of the US Joint Chiefs of Staff.svg{{!}}border
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|flagcaption = 統合参謀本部議長旗
|insignia = Joint Chiefs of Staff seal.svg
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|insigniacaption = 統合参謀本部の紋章
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|incumbent = [[チャールズ・ブラウン・ジュニア|チャールズ・ブラウン]][[空軍大将]]
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|department = [[国防総省]](統合参謀本部)
|member_of = [[アメリカ統合参謀本部]]
|reports_to = アメリカ合衆国大統領<br/>国防長官
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|nominator = 国防総省
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}}
'''アメリカ統合参謀本部議長''' (アメリカとうごうさんぼうほんぶぎちょう、{{lang-en|Chairman of the Joint Chiefs of Staff}})は、[[アメリカ統合参謀本部]]の長。[[アメリカ軍]]を統率する[[軍人]](制服組)のトップであり<ref name="USC 10-152">{{合衆国法典|10|152}}</ref>、[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]および[[アメリカ合衆国国防長官|国防長官]]の主たる[[軍事顧問]]である<ref name="USC 10-151">{{合衆国法典|10|151}}</ref>。日本の報道では「'''米軍制服組トップ'''」と呼称されることがある<ref>{{Cite web |title=冬季反転攻勢を協議=米・ウクライナ軍トップ |url=https://sp.m.jiji.com/article/show/3098059 |website=時事通信ニュース |access-date=2023-12-06 |language=ja}}</ref>。
== 概要 ==
統合参謀本部議長は、大統領および国防長官の主たる軍事顧問であり、[[アメリカ国家安全保障会議|国家安全保障会議]]や[[:en:Homeland Security Council|国土安全保障会議]]にも軍事的助言を行う<ref name="USC 10-151"/>。助言に際しては、統合参謀本部の他のメンバーより大きな権限を有している<ref name="USC 10-151"/>。なお、各軍種のトップと同様に作戦指揮権は有しておらず<ref name="USC 10-152"/>、作戦命令は軍の最高司令官(Commander-in-chief)たる大統領から国防長官を経て、各[[統合軍 (アメリカ軍)|統合軍]]の司令官を通じて直接発動される<ref name="USC 10-162">{{合衆国法典|10|162}}</ref>。ただし、その制限の下、命令の伝達自体は、議長を通じて行われ、各司令官が任務遂行するにあたっての、大統領および国防長官の補佐を行う<ref name="USC 10-163">{{合衆国法典|10|163}}</ref>。
また、戦略計画の策定や、予算・機材の取得に関する助言、国防における脅威度評価、軍種間統合の推進も議長の責任範囲となっている<ref name="USC 10-153">{{合衆国法典|10|153}}</ref>。
議長は、大統領が指名し、上院の助言と承認(advice and consent)により就任する<ref name="USC 10-152"/>。任期は奇数年の10月1日よりの2年であり、副議長であった場合の任期と合わせ3期6年まで在職でき、特に大統領の指名があった場合は8年まで在職できる<ref name="USC 10-152"/>。ただし、戦時にはこの制限は撤廃される<ref name="USC 10-152"/>。1985年代以降は2期4年務めるケースが多い。階級は[[大将]](general又はadmiral)に補され、アメリカ軍における最高位とされる<ref name="USC 10-152"/>。
統合参謀本部は1947年に[[国家安全保障法]]の成立によって法的な裏付けを得たが、議長職は1949年に設置されている。
== 就任資格 ==
[[1986年]]の[[ゴールドウォーター=ニコルズ国防総省再編法]] (Goldwater-Nichols Department of Defense Reorganization Act of 1986) によれば、議長の就任資格があるのは、現議長の再任を除くと、他の[[統合参謀本部]](JCS)メンバーおよび地域別・機能別統合軍(Unified Combatant Commands)や特定軍(Specified Combatant Command,一軍種からなる戦闘軍)司令官とされる<ref name="USC 10-152"/>。ただし、大統領が[[国益]]に考慮して必要と判断した場合には、特例としてこれ以外のポストから議長を選ぶこともできる<ref name="USC 10-152"/>。なお、副議長とは別軍種であることが原則とされる<ref name="USC 10-154">{{合衆国法典|10|154}}</ref>。
* 議長(統合参謀本部メンバー、再任の場合)
* [[アメリカ統合参謀本部副議長|副議長]](統合参謀本部メンバー)
* [[アメリカ陸軍参謀総長]](統合参謀本部メンバー)
* [[アメリカ海軍作戦部長]](統合参謀本部メンバー)
* [[アメリカ空軍参謀総長]](統合参謀本部メンバー)
* [[アメリカ宇宙軍作戦部長]](統合参謀本部メンバー)
* [[アメリカ海兵隊総司令官]](統合参謀本部メンバー)
* 各[[統合軍 (アメリカ軍)|統合軍]]司令官
また本来であれば、JCSメンバーでもある海兵隊総司令官など海兵隊出身者が議長に選ばれる可能性もあるが、初代議長の[[オマー・ブラッドレー]][[陸軍大将]]以来、長年にわたって[[アメリカ陸軍|陸軍]]・[[アメリカ海軍|海軍]]・[[アメリカ空軍|空軍]]の3軍出身者のみが選ばれるという状態が続いていた。[[2006年]]に、[[ピーター・ペース]][[アメリカ海兵隊|海兵隊]]大将が海兵隊出身者では初めて議長に選ばれたことでこの慣習は打破された。[[2015年]]には[[ジョセフ・ダンフォード]]が、海兵隊総司令官経験者として初めて議長になっている。
在任中に元帥となった初代のオマー・ブラッドレーを除き、階級は大将であるが、軍の統合指揮向上のため、1990年代には[[元帥_(アメリカ合衆国)|元帥]]職とすることが検討されていた<ref name=IFA>{{cite conference |url=https://books.google.com/books?ei=dlFjTeSbOYK8lQfVh7SvDA&ct=result&id=HgoJAQAAMAAJ&dq=Chairman+of+the+Joint+Chiefs+of+Staff+five-star+rank&q=%22five+star%22#search_anchor |title=Organizing for National Security: The Role of the Joint Chiefs of Staff |date=January 1986 |publisher=Institute for Foreign Analysis |page=11 |accessdate=February 21, 2011 |quote=There was some discussion of the proposal to grant the Chairman of the Joint Chiefs five-star rank, as a symbol of his status as the most senior officer in the armed forces.}}</ref><ref name=Jones>{{cite journal |last=Jones |first=Logan |date=February 2000 |title=Toward the Valued Idea of Jointness: The Need for Unity of Command in U.S. Armed Forces |page=2 |publisher=Naval War College |format=PDF |id=ADA378445 |accessdate=February 21, 2011 |url=http://handle.dtic.mil/100.2/ADA378445 |laysummary=http://oai.dtic.mil/oai/oai?verb=getRecord&metadataPrefix=html&identifier=ADA378445 |quote=Promoting the Chairman to the five-star rank and ceding to him operational and administrative control of all U.S. Armed Forces would enable him to provide a unifying vision... }}</ref><ref name=Owsley>{{cite journal |last=Owsley |first=Robert Clark |date=June 1997 |title=Goldwater-Nichols Almost Got It Right: A Fifth Star for the Chairman |page=14 |publisher=Naval War College |format=PDF |id=ADA328220 |accessdate=February 21, 2011 |url=http://handle.dtic.mil/100.2/ADA328220 |laysummary=http://oai.dtic.mil/oai/oai?verb=getRecord&metadataPrefix=html&identifier=ADA328220 |quote=...Chairman's title be changed to Commander of the Armed Forces and commensurate with the title and authority he be assigned the grade of five stars.}}</ref>。
== 権限 ==
ゴールドウォーター=ニコルズ国防総省再編法の施行以前は、統合参謀本部議長は統合参謀本部の意見のまとめ役に過ぎなかった。大統領及び国防長官に提出する軍事的助言は各軍参謀長たちの合意に基づくものでなければならず、実質的権限はあまりなかった。しかし、同法では議長を「主たる軍事顧問」と認めており、従って議長は参謀長たちの合意にかかわらず大統領、国防長官に直接自分自身の意見を助言することができるようになった。統合参謀本部は実働部隊の指揮権限は持っておらず、指令は国防長官から各統合軍司令官に下される。同法の施行後に初めて統合参謀本部議長に就任したのが[[コリン・パウエル|コリン・L・パウエル]]である。
== 歴代議長 ==
{| class="wikitable" style="font-size:80%"
|-
! rowspan="2" | 代
! rowspan="2" | 写真
! rowspan="2" | 氏名
! rowspan="2" | 階級
! colspan="2" | 在任期間
! rowspan="2" | 出身校
! rowspan="2" | 前職
! rowspan="2" | 後職
! rowspan="2" | 備考
|-
! 着任
! 退任
|-
| 1
| [[File:General of the Army Omar Bradley.jpg|50px|]]
| [[オマー・ブラッドレー]]
| [[アメリカ陸軍|陸軍]][[大将]](在任中に[[元帥_(アメリカ合衆国)|元帥]]に昇進)
|nowrap| [[1949年]][[8月16日]]
|nowrap| [[1953年]][[8月15日]]
| [[陸軍士官学校 (アメリカ合衆国)|陸軍士官学校]]
| 陸軍参謀総長
|
| [[朝鮮戦争]]時の議長。
|-
| 2
| [[File:ADM Arthur Radford.JPG|50px|]]
| [[アーサー・W・ラドフォード|アーサー・ラドフォード]]
| [[アメリカ海軍|海軍]]大将
| [[1953年]][[8月15日]]
| [[1957年]][[8月15日]]
| [[海軍兵学校 (アメリカ合衆国)|海軍兵学校]]
| 太平洋艦隊司令長官
|
|
|-
| 3
| [[File:Nathan Twining 02.jpg|50px|]]
| [[ネーサン・ファラガット・トワイニング|ネーサン・トワイニング]]
| [[アメリカ空軍|空軍]]大将
| [[1957年]][[8月15日]]
| [[1960年]][[9月30日]]
| 陸軍士官学校
| 空軍参謀総長
|
|
|-
| 4
| [[File:Lyman L. Lemnitzer.jpg|50px|]]
| [[ライマン・レムニッツァー]]
| 陸軍大将
| [[1960年]][[10月1日]]
| [[1962年]][[9月30日]]
| 陸軍士官学校
| 陸軍参謀総長
| [[アメリカ欧州軍|欧州軍]]総司令官兼NATOヨーロッパ連合軍最高司令官
| [[ベトナム戦争]]、[[ピッグス湾事件]]時の議長。
|-
| 5
| [[File:Maxwell D Taylor official portrait.jpg|50px|]]
| [[マクスウェル・D・テイラー|マクスウェル・テイラー]]
| 陸軍大将
| [[1962年]][[10月1日]]
| [[1964年]][[7月1日]]
| 陸軍士官学校
| 陸軍参謀総長
| 駐南ベトナム大使
| [[キューバ危機]]時の議長。
|-
| 6
| [[File:Earle Wheeler official photo.JPEG|50px|]]
| [[アール・ホイーラー]]
| 陸軍大将
| [[1964年]][[7月3日]]
| [[1970年]][[7月2日]]
| 陸軍士官学校
| 陸軍参謀総長
|
| ベトナム戦争時の議長。
|-
| 7
| [[File:ADM Thomas Moorer.JPG|50px|]]
| [[トーマス・モーラー]]
| 海軍大将
| [[1970年]][[7月2日]]
| [[1974年]][[7月1日]]
| 海軍兵学校
| [[アメリカ海軍作戦部長|海軍作戦部長]]
|
|ベトナム戦争時の議長。
|-
| 8
| [[File:GEN George Brown.JPG|50px|]]
| [[ジョージ・ブラウン_(アメリカ空軍軍人)|ジョージ・ブラウン]]
| 空軍大将
| [[1974年]][[7月1日]]
| [[1978年]][[6月20日]]
| 陸軍士官学校
| 空軍参謀総長
|
|
|-
| 9
| [[File:David C Jones official portrait.jpg|50px|]]
| [[デイヴィッド・ジョーンズ_(軍人)|デイヴィッド・ジョーンズ]]
| 空軍大将
| [[1978年]][[6月21日]]
| [[1982年]][[6月18日]]
| ノースダコタ州マイノット州立大学中退
| 空軍参謀総長
|
|
|-
| 10
| [[File:Gen John Vessey Jr.JPG|50px|]]
|nowrap| [[ジョン・ヴェッシー・ジュニア]]
| 陸軍大将
| [[1982年]][[6月18日]]
| [[1985年]][[9月30日]]
| ローズヴェルト高校中退<ref group="注釈">41歳中佐任官時に基地内大学であるメリーランド大学ユニバーシティ・カレッジ校を卒業</ref>
| 陸軍副参謀総長
|
| [[グレナダ侵攻]]時の議長。
|-
| 11
| [[File:Adm William Crowe Jr.JPG|50px|]]
| [[ウィリアム・クロウ・ジュニア]]
| 海軍大将
| [[1985年]][[10月1日]]
| [[1989年]][[9月30日]]
| 海軍兵学校
| 太平洋軍司令官
| [[イギリス駐箚アメリカ合衆国大使|駐イギリス大使]]
|
|-
| 12
| [[File:GEN Colin Powell.JPG|50px|]]
| [[コリン・パウエル]]
| 陸軍大将
| [[1989年]][[10月1日]]
| [[1993年]][[9月30日]]
| [[ニューヨーク市立大学シティカレッジ]][[予備役将校訓練課程]](以下ROTC)
| 陸軍総合戦力集団(現・[[アメリカ陸軍総軍|陸軍総軍]])司令官
| [[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]
| 黒人、[[ジャマイカ]]移民二世。[[パナマ侵攻]]、[[湾岸戦争]]時の議長。
|-
| 代行
| [[File:ADM David E Jeremiah.JPG|50px|]]
| [[デイヴィッド・ジェレマイア]]
| 海軍大将
| [[1993年]][[10月1日]]
| [[1993年]][[10月24日]]
| [[オレゴン大学]]
| [[アメリカ統合参謀本部副議長|統合参謀本部副議長]]
|
|
|-
| 13
| [[File:General John Shalikashvili military portrait, 1993.JPEG|50px|]]
| [[ジョン・シャリカシュヴィリ]]
| 陸軍大将
| [[1993年]][[10月25日]]
| [[1997年]][[9月30日]]
| ブラッドリー大学
| 欧州軍司令官兼NATOヨーロッパ連合軍最高司令官
|
| [[ポーランド]]移民。
|-
| 14
| [[File:General Henry Shelton, official portrait 2.jpg|50px|]]
| [[ヘンリー・シェルトン]]
| 陸軍大将
| [[1997年]][[10月1日]]
| [[2001年]][[9月30日]]
| [[ノースカロライナ州立大学]]ROTC
| [[アメリカ特殊作戦軍|特殊作戦軍]]司令官
|
| [[アメリカ同時多発テロ事件|9・11テロ]]時の議長。
|-
| 15
| [[File:Richard Myers official portrait.jpg|50px|]]
| [[リチャード・マイヤーズ]]
| 空軍大将
| [[2001年]][[10月1日]]
| [[2005年]][[9月30日]]
| [[カンザス州立大学]]ROTC
| 統合参謀本部副議長
|
| [[アフガニスタン紛争 (2001年-)|アフガニスタン侵攻]]、[[イラク戦争]]時の議長。
|-
| 16
| [[File:Peter Pace official portrait.jpg|50px|]]
| [[ピーター・ペース]]
| [[アメリカ海兵隊|海兵隊]]大将
| [[2005年]][[10月1日]]
| [[2007年]][[9月30日]]
| 海軍兵学校
| 統合参謀本部副議長
|
| [[イタリア]]移民二世。史上初の海兵隊出身の議長。
|-
| 17
| [[File:Michael Mullen, CJCS, official photo portrait, 2007.jpg|50px]]
| [[マイケル・マレン]]
| 海軍大将
| [[2007年]][[10月1日]]
| [[2011年]][[9月30日]]
| 海軍兵学校
| 海軍作戦部長
|
| [[ウサーマ・ビン・ラーディンの死|ウサーマ・ビン・ラーディン]]殺害作戦などを指揮。
|-
| 18
| [[File:General Martin E. Dempsey, CJCS, official portrait 2012.jpg|50px]]
| [[マーティン・デンプシー]]
| 陸軍大将
| [[2011年]][[10月1日]]
| [[2015年]][[9月30日]]
| 陸軍士官学校
| 陸軍参謀総長
|
|
|-
| 19
| [[File:Dunford CJCS.JPG|50px]]
| [[ジョセフ・ダンフォード]]
| 海兵隊大将
| [[2015年]][[10月1日]]
| [[2019年]][[9月30日]]
| [[:en:Saint Michael's College|セント・マイケルズ・カレッジ]]
| 海兵隊総司令官
|
| 史上初の海兵隊総司令官経験者。
|-
| 20
| [[File:General Mark A. Milley.jpg|50px]]
| [[マーク・ミリー|マーク・A・ミリー]]
| 陸軍大将
| [[2019年]][[10月1日]]
| [[2023年]][[9月29日]]
| [[プリンストン大学]]
| 陸軍参謀総長
|
|
|-
| 21
| [[File:CQ_Brown_CSAF_2020.jpg|50px]]
| [[チャールズ・ブラウン・ジュニア|チャールズ・ブラウン]]
| 空軍大将
| [[2023年]][[9月29日]]
| (現職)
| [[エンブリー・リドル航空大学]]
| 空軍参謀総長
|
|}
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [http://www.dtic.mil/jcs/core/chairman.html Chairman of the Joint Chiefs of Staff]
* {{Commons&cat-inline}}
{{United States Joint Chiefs of Staff}}
{{DEFAULTSORT:あめりかとうこうさんほうほんふきちよう}}
[[Category:アメリカ統合参謀本部議長|*]]
[[Category:アメリカ合衆国の軍事組織|とうこうさんほんふきちよう]] | 2003-05-16T22:23:16Z | 2023-12-06T07:23:19Z | false | false | false | [
"Template:Notelist",
"Template:Reflist",
"Template:Cite conference",
"Template:Commons&cat-inline",
"Template:Infobox Political post",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Cite web",
"Template:Cite journal",
"Template:United States Joint Chiefs of Staff",
"Template:Lang-en",
"Template:合衆国法典"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E7%B5%B1%E5%90%88%E5%8F%82%E8%AC%80%E6%9C%AC%E9%83%A8%E8%AD%B0%E9%95%B7 |
8,397 | アメリカ統合参謀本部 | 統合参謀本部(とうごうさんぼうほんぶ、英: Joint Chiefs of Staff、略称: JCS)は、アメリカ合衆国軍の最高機関。組織体系的にはアメリカ国防総省、およびそのトップである国防長官(文民)の下にある。軍事戦略の立案を行うとともに、合衆国大統領及び国防長官、国家安全保障会議、国土安全保障会議に対して軍事問題に関する助言を行うことを任務とする。
議長並びに副議長は専任となっており、大将(GeneralまたはAdmiral)が補され、米軍軍人(制服組)のトップと位置付けられる。
統合参謀本部は、専任の議長及び副議長に加え、国防総省の管轄に属するアメリカ軍の5軍(陸軍、海軍、空軍、宇宙軍、海兵隊)の長、さらに州兵を管轄する州兵総局(英語版)のトップである州兵総局長がメンバーであり、加えてそれを補佐するスタッフなどからなる。統合参謀本部は、1947年に空軍新設や国防総省設置などを伴う組織改革に合わせて設置されたものである。初代議長はオマー・ブラッドレー大将(在職中に元帥昇進)であった。
議長は、アメリカ合衆国大統領及び国防長官をはじめ、国家安全保障会議、国土安全保障会議の主たる軍事顧問であって、助言に関し、他メンバーよりも大きい権限を有している。なお、実戦部隊の作戦指揮権 ('operational command') は与えられていない。作戦命令は、軍の最高司令官(Commander-in-chief)たる大統領から国防長官を経て、直接各統合軍司令官を通じて発動される。
JCSの下には、J-1からJ-8と略称される部局が設置されており、人事計画や情報収集、作戦立案、兵站計画の作成などを行っている。
米西戦争において、アメリカ陸海軍はそれぞれ独自に作戦立案を行っており、サンチャゴでの戦いなど協力の必要があったにもかかわらず、協力関係は薄かった。1903年になると、セオドア・ルーズベルト大統領により陸海軍合同会議(Joint Army and Navy Board)が設置された。これは陸軍参謀本部と海軍将官会議(General Board)の代表者および主務担当者で構成され、陸海軍の競合する問題について助言を行うこととされた。しかし、この会議は陸軍長官および海軍長官から提起された問題についてのみ助言を行うこと、会議の決定を実行させる権限を有さなかったこと、立案能力が低かったことにより、有効には機能しなかった。第一次世界大戦に際しても機能しなかった。
1919年に陸海軍両長官は合同会議を再編することにし、構成委員を見直している。両軍の作戦立案実務者が加えられたほか、会議の下に合同計画委員会(Joint Planning Committee)が設けられ、会議自身がイニシアチブを取ることができるようになった。
1941年12月、第二次世界大戦にアメリカ合衆国が参戦すると、1942年にイギリスとの間で連合参謀本部(CCS)が設置された。イギリスには三軍の統合指揮調整機構として参謀長委員会(CSC)が設置されていたが、アメリカの陸海軍合同会議にはそれに相当する権能がなく、カウンターパートには不適であった。
1942年7月にウィリアム・リーヒがアメリカ陸海軍最高司令官付参謀長(Chief of Staff to the Commander in Chief, U.S. Army and Navy)に任命され、ジョージ・マーシャル陸軍参謀総長、アーネスト・キング合衆国艦隊司令長官兼海軍作戦部長、ヘンリー・アーノルド陸軍航空軍司令官を加えて、統合指揮調整機構かつ連合参謀本部のアメリカ側代表である統合参謀本部(Joint Chiefs of Staff)が設置された。最高指揮官たる大統領の補佐も行っていたが、公的な位置付けは曖昧であり、法的な裏付けはなかった。1947年の国家安全保障法により、合同会議は廃止され、統合参謀本部は明確な法的裏付けを得た。
1986年のゴールドウォーター=ニコルズ法により、統合参謀本部が再編され、統合参謀本部議長の権限が強化され、副議長職も設置された。
州兵総局長を統合参謀本部メンバーに昇格させる旨を盛り込んだ2012年国防権限法(National Defense Authorization Act for Fiscal Year 2012)が成立、これにバラク・オバマ大統領が署名したことで、2011年12月31日付でメンバーに加わった。次いで、2020年国防権限法(National Defense Authorization Act for Fiscal Year 2020)に基づき、2019年12月にアメリカ宇宙軍が独立した軍種として編成されると、1年後の2020年12月から宇宙軍作戦部長がメンバーとして追加された。
沿岸警備隊は、アメリカ合衆国法典第14章第101条によってアメリカ軍の一部とされているが、通常は国土安全保障省の管轄下にある。しかし、戦時や国家緊急事態の際には大統領令により海軍省の管轄に入る。そのため、沿岸警備隊総司令官(Commandant of the Coast Guard)は統合参謀本部の正式メンバーではないが、事実上のメンバーとされることも多く、ほかのメンバーと同等の報酬を受け取り、招待に応じて統合参謀本部の会議に出席する権利を有する。沿岸警備隊総司令官は、ほかの統合参謀本部メンバー(参謀総長や作戦部長、総司令官)と異なり、沿岸警備隊に対する作戦と運用の両面にかかる権限を持っている。
統合参謀本部最先任下士官(Senior Enlisted Advisor to the Chairman of the Joint Chiefs of Staff (SEAC))は、アメリカ軍の統合運用における下士官の統合、活用、能力開発に関する全ての問題について統合参謀本部議長に助言し、統合運用による下士官の教育・育成を支援し、統合運用における上級下士官の能力を最大限に活用すること任務とする。そして、その任務に関し統合参謀本部議長をサポートし、責任を負う。陸軍のウィリアム・ゲイニー最上級曹長が、2005年10月1日に初代の統合参謀本部最先任下士官に就任した。2020年8月現在、空軍のラモン・コロン・ロペス最上級曹長がこの地位にある。ロペス最上級曹長は、陸軍のジョン・トラックセル最上級曹長の後任として、2019年12月13日にマーク・ミリー統合参謀総長に就任を宣誓し、この地位についた。
JCSは軍事力の統合運用原則として統合ドクトリン(英: joint doctrine)を発行している。最上位に位置する文章は "Joint Publication 1, Doctrine for the Armed Forces of the United States"、通称 JP1 である。ドクトリン整備を担うのは第7部である。
上記の通り沿岸警備隊は、統合参謀本部の正式メンバーではないものの、10 U.S.C. § 152(a)(1)及び10 U.S.C. § 154(a)(1) により議長及び副議長に任命される法的根拠を持っている。この2つの条文には、議長及び副議長に任命される条件について、それぞれの軍種を列挙しているわけではなく、単に「軍隊」と規定されている。この規定は、統合参謀本部事務局の幹部の地位についても同様である。ただし、現在までに沿岸警備隊の隊員から議長及び副議長に就任した例はない。しかし事務局においても2016年、第6部の部長に沿岸警備隊中将が任命されており、それ以来、JCSには数人の隊員が勤務している。 | [
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"text": "統合参謀本部(とうごうさんぼうほんぶ、英: Joint Chiefs of Staff、略称: JCS)は、アメリカ合衆国軍の最高機関。組織体系的にはアメリカ国防総省、およびそのトップである国防長官(文民)の下にある。軍事戦略の立案を行うとともに、合衆国大統領及び国防長官、国家安全保障会議、国土安全保障会議に対して軍事問題に関する助言を行うことを任務とする。",
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"text": "議長は、アメリカ合衆国大統領及び国防長官をはじめ、国家安全保障会議、国土安全保障会議の主たる軍事顧問であって、助言に関し、他メンバーよりも大きい権限を有している。なお、実戦部隊の作戦指揮権 ('operational command') は与えられていない。作戦命令は、軍の最高司令官(Commander-in-chief)たる大統領から国防長官を経て、直接各統合軍司令官を通じて発動される。",
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"text": "米西戦争において、アメリカ陸海軍はそれぞれ独自に作戦立案を行っており、サンチャゴでの戦いなど協力の必要があったにもかかわらず、協力関係は薄かった。1903年になると、セオドア・ルーズベルト大統領により陸海軍合同会議(Joint Army and Navy Board)が設置された。これは陸軍参謀本部と海軍将官会議(General Board)の代表者および主務担当者で構成され、陸海軍の競合する問題について助言を行うこととされた。しかし、この会議は陸軍長官および海軍長官から提起された問題についてのみ助言を行うこと、会議の決定を実行させる権限を有さなかったこと、立案能力が低かったことにより、有効には機能しなかった。第一次世界大戦に際しても機能しなかった。",
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"text": "1919年に陸海軍両長官は合同会議を再編することにし、構成委員を見直している。両軍の作戦立案実務者が加えられたほか、会議の下に合同計画委員会(Joint Planning Committee)が設けられ、会議自身がイニシアチブを取ることができるようになった。",
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"text": "1941年12月、第二次世界大戦にアメリカ合衆国が参戦すると、1942年にイギリスとの間で連合参謀本部(CCS)が設置された。イギリスには三軍の統合指揮調整機構として参謀長委員会(CSC)が設置されていたが、アメリカの陸海軍合同会議にはそれに相当する権能がなく、カウンターパートには不適であった。",
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"text": "1942年7月にウィリアム・リーヒがアメリカ陸海軍最高司令官付参謀長(Chief of Staff to the Commander in Chief, U.S. Army and Navy)に任命され、ジョージ・マーシャル陸軍参謀総長、アーネスト・キング合衆国艦隊司令長官兼海軍作戦部長、ヘンリー・アーノルド陸軍航空軍司令官を加えて、統合指揮調整機構かつ連合参謀本部のアメリカ側代表である統合参謀本部(Joint Chiefs of Staff)が設置された。最高指揮官たる大統領の補佐も行っていたが、公的な位置付けは曖昧であり、法的な裏付けはなかった。1947年の国家安全保障法により、合同会議は廃止され、統合参謀本部は明確な法的裏付けを得た。",
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"text": "1986年のゴールドウォーター=ニコルズ法により、統合参謀本部が再編され、統合参謀本部議長の権限が強化され、副議長職も設置された。",
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"text": "州兵総局長を統合参謀本部メンバーに昇格させる旨を盛り込んだ2012年国防権限法(National Defense Authorization Act for Fiscal Year 2012)が成立、これにバラク・オバマ大統領が署名したことで、2011年12月31日付でメンバーに加わった。次いで、2020年国防権限法(National Defense Authorization Act for Fiscal Year 2020)に基づき、2019年12月にアメリカ宇宙軍が独立した軍種として編成されると、1年後の2020年12月から宇宙軍作戦部長がメンバーとして追加された。",
"title": "歴史"
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"text": "沿岸警備隊は、アメリカ合衆国法典第14章第101条によってアメリカ軍の一部とされているが、通常は国土安全保障省の管轄下にある。しかし、戦時や国家緊急事態の際には大統領令により海軍省の管轄に入る。そのため、沿岸警備隊総司令官(Commandant of the Coast Guard)は統合参謀本部の正式メンバーではないが、事実上のメンバーとされることも多く、ほかのメンバーと同等の報酬を受け取り、招待に応じて統合参謀本部の会議に出席する権利を有する。沿岸警備隊総司令官は、ほかの統合参謀本部メンバー(参謀総長や作戦部長、総司令官)と異なり、沿岸警備隊に対する作戦と運用の両面にかかる権限を持っている。",
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"text": "統合参謀本部最先任下士官(Senior Enlisted Advisor to the Chairman of the Joint Chiefs of Staff (SEAC))は、アメリカ軍の統合運用における下士官の統合、活用、能力開発に関する全ての問題について統合参謀本部議長に助言し、統合運用による下士官の教育・育成を支援し、統合運用における上級下士官の能力を最大限に活用すること任務とする。そして、その任務に関し統合参謀本部議長をサポートし、責任を負う。陸軍のウィリアム・ゲイニー最上級曹長が、2005年10月1日に初代の統合参謀本部最先任下士官に就任した。2020年8月現在、空軍のラモン・コロン・ロペス最上級曹長がこの地位にある。ロペス最上級曹長は、陸軍のジョン・トラックセル最上級曹長の後任として、2019年12月13日にマーク・ミリー統合参謀総長に就任を宣誓し、この地位についた。",
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"text": "JCSは軍事力の統合運用原則として統合ドクトリン(英: joint doctrine)を発行している。最上位に位置する文章は \"Joint Publication 1, Doctrine for the Armed Forces of the United States\"、通称 JP1 である。ドクトリン整備を担うのは第7部である。",
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"text": "上記の通り沿岸警備隊は、統合参謀本部の正式メンバーではないものの、10 U.S.C. § 152(a)(1)及び10 U.S.C. § 154(a)(1) により議長及び副議長に任命される法的根拠を持っている。この2つの条文には、議長及び副議長に任命される条件について、それぞれの軍種を列挙しているわけではなく、単に「軍隊」と規定されている。この規定は、統合参謀本部事務局の幹部の地位についても同様である。ただし、現在までに沿岸警備隊の隊員から議長及び副議長に就任した例はない。しかし事務局においても2016年、第6部の部長に沿岸警備隊中将が任命されており、それ以来、JCSには数人の隊員が勤務している。",
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] | 統合参謀本部は、アメリカ合衆国軍の最高機関。組織体系的にはアメリカ国防総省、およびそのトップである国防長官(文民)の下にある。軍事戦略の立案を行うとともに、合衆国大統領及び国防長官、国家安全保障会議、国土安全保障会議に対して軍事問題に関する助言を行うことを任務とする。 議長並びに副議長は専任となっており、大将(GeneralまたはAdmiral)が補され、米軍軍人(制服組)のトップと位置付けられる。 | [[ファイル:Joint_Chiefs_of_Staff_seal.svg|right|200px|thumb|[[w:Office of the Joint Chiefs of Staff Identification Badge|統合参謀本部紋章]]]]
[[File:Space Force Leader to Become 8th Member of Joint Chiefs (3).jpg|thumb|[[2020年]]の統合参謀本部]]
'''統合参謀本部'''(とうごうさんぼうほんぶ、英: Joint Chiefs of Staff、略称: '''JCS''')は、[[アメリカ軍|アメリカ合衆国軍]]の最高機関。組織体系的には[[アメリカ国防総省]]、およびそのトップである[[アメリカ合衆国国防長官|国防長官]]([[文民]])の下にある。軍事戦略の立案を行うとともに、[[アメリカ合衆国大統領|合衆国大統領]]及び国防長官、[[アメリカ国家安全保障会議|国家安全保障会議]]、[[:en:United States Homeland Security Council|国土安全保障会議]]に対して軍事問題に関する助言を行うことを任務とする<ref name="USC 10-151">{{合衆国法典|10|151}}</ref>。
[[アメリカ統合参謀本部議長|議長]]並びに[[アメリカ統合参謀本部副議長|副議長]]は専任となっており、[[大将]]([[w:General (United States)|General]]または[[w:Admiral (United States)|Admiral]])が補され、米軍軍人(制服組)のトップと位置付けられる<ref name="USC 10-152">{{合衆国法典|10|152}}</ref>。
== 概要 ==
統合参謀本部は、専任の議長及び[[アメリカ統合参謀本部副議長|副議長]]に加え、[[国防総省]]の管轄に属するアメリカ軍の5軍([[アメリカ陸軍|陸軍]]、[[アメリカ海軍|海軍]]、[[アメリカ空軍|空軍]]、[[アメリカ宇宙軍|宇宙軍]]、[[アメリカ海兵隊|海兵隊]])の長、さらに[[州兵]]を管轄する{{仮リンク|州兵総局|en|National Guard Bureau}}のトップである[[アメリカ州兵総局長|州兵総局長]]がメンバーであり<ref name="USC 10-151"/>、加えてそれを補佐するスタッフなどからなる。統合参謀本部は、[[1947年]]に空軍新設や国防総省設置などを伴う組織改革に合わせて設置されたものである。初代議長は[[オマー・ブラッドレー]]大将(在職中に[[元帥 (アメリカ合衆国)|元帥]]昇進)であった。
議長は、[[アメリカ合衆国大統領]]及び国防長官をはじめ、[[アメリカ国家安全保障会議|国家安全保障会議]]、国土安全保障会議の主たる軍事顧問であって、助言に関し、他メンバーよりも大きい権限を有している<ref name="USC 10-151"/>。なお、実戦部隊の作戦指揮権 ('operational command') は与えられていない<ref name="USC 10-152"/>。作戦命令は、軍の最高司令官(Commander-in-chief)たる大統領から国防長官を経て、直接各[[統合軍 (アメリカ軍)|統合軍]]司令官を通じて発動される<ref name="USC 10-162">{{合衆国法典|10|162}}</ref>。
JCSの下には、J-1からJ-8と略称される部局が設置されており、人事計画や情報収集、作戦立案、兵站計画の作成などを行っている。
== 歴史 ==
[[米西戦争]]において、アメリカ陸海軍はそれぞれ独自に作戦立案を行っており、[[サンチャゴ・デ・キューバ海戦|サンチャゴでの戦い]]など協力の必要があったにもかかわらず、協力関係は薄かった<ref name="origin">{{Cite web|url=https://www.jcs.mil/About/Origin-of-Joint-Concepts/ |title=Origin of Joint Concepts |author= |date= |work= |publisher=Joint Chiefs of Staff |accessdate=2019-06-09 }}</ref>。[[1903年]]になると、[[セオドア・ルーズベルト]]大統領により陸海軍合同会議(Joint Army and Navy Board)が設置された<ref name="origin"/>。これは陸軍参謀本部と[[海軍将官会議 (アメリカ海軍)|海軍将官会議]](General Board)の代表者および主務担当者で構成され、陸海軍の競合する問題について助言を行うこととされた。しかし、この会議は[[アメリカ合衆国陸軍長官|陸軍長官]]および[[アメリカ合衆国海軍長官|海軍長官]]から提起された問題についてのみ助言を行うこと<ref name="origin"/>、会議の決定を実行させる権限を有さなかったこと、立案能力が低かったことにより、有効には機能しなかった。[[第一次世界大戦]]に際しても機能しなかった<ref name="origin"/>。
1919年に陸海軍両長官は合同会議を再編することにし、構成委員を見直している。両軍の作戦立案実務者が加えられたほか、会議の下に合同計画委員会(Joint Planning Committee)が設けられ、会議自身がイニシアチブを取ることができるようになった。
[[1941年]]12月、[[第二次世界大戦]]にアメリカ合衆国が参戦すると、1942年に[[イギリス]]との間で[[連合参謀本部]](CCS)が設置された<ref name="arai">{{Cite journal|和書 |author=荒井弥信 |title=1947年国家安全保障法成立までの核抑止戦略の胎動 : 米国統合参謀本部(JCS)による原爆分析を中心に |journal=国際公共政策研究 |issn=1342-8101 |publisher=大阪大学大学院国際公共政策研究科 |year=2008 |month=mar |volume=12 |issue=2 |pages=211-225 |naid=120004845122 |url=https://hdl.handle.net/11094/10934}}</ref>。イギリスには三軍の統合指揮調整機構として[[参謀長委員会]](CSC)が設置されていたが、アメリカの陸海軍合同会議にはそれに相当する権能がなく、カウンターパートには不適であった。
1942年7月に[[ウィリアム・リーヒ]]がアメリカ陸海軍最高司令官付参謀長(Chief of Staff to the Commander in Chief, U.S. Army and Navy)<ref>ここでいう「陸海軍最高司令官」(Commander in Chief)は大統領のことを指すので、この役職は「大統領付参謀長」と訳すこともできる。</ref>に任命され、[[ジョージ・マーシャル]][[アメリカ陸軍参謀総長|陸軍参謀総長]]、[[アーネスト・キング]][[合衆国艦隊]]司令長官兼[[アメリカ海軍作戦部長|海軍作戦部長]]、[[ヘンリー・アーノルド]][[アメリカ陸軍航空軍|陸軍航空軍]]司令官を加えて、統合指揮調整機構かつ連合参謀本部のアメリカ側代表である統合参謀本部(Joint Chiefs of Staff)が設置された<ref name="arai"/>。最高指揮官たる大統領の補佐も行っていたが、公的な位置付けは曖昧であり、法的な裏付けはなかった<ref name="arai"/>。1947年の国家安全保障法により、合同会議は廃止され<ref name="origin"/><ref>{{Cite web|和書|url=https://rnavi.ndl.go.jp/occupation/jp/RJB.html |title=Records of the Joint Board, 1903-1947 |author= |date= |work= |publisher=国立国会図書館 |accessdate=2019-06-09 }}</ref>、統合参謀本部は明確な法的裏付けを得た。
1986年の[[ゴールドウォーター=ニコルズ法]]により、統合参謀本部が再編され、統合参謀本部議長の権限が強化され、副議長職も設置された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nids.mod.go.jp/publication/briefing/pdf/2005/200507.pdf |title=米国における統合の強化―1986 年ゴールドウォーター・ニコルズ国防省改編法と現在の見直し論議― |author=菊地茂雄 |date= |work=防衛研究所ニュース 2005 年 7 月号 |publisher=防衛研究所 |accessdate=2019-06-09 }}</ref>。
[[アメリカ州兵総局長|州兵総局長]]を統合参謀本部メンバーに昇格させる旨を盛り込んだ[[2012年国防権限法]]([[:en:National Defense Authorization Act for Fiscal Year 2012|National Defense Authorization Act for Fiscal Year 2012]])が成立、これに[[バラク・オバマ]]大統領が署名したことで、2011年12月31日付でメンバーに加わった<ref>[http://www.defense.gov/news/newsarticle.aspx?id=66649 “Guard Bureau Chief Joins Joint Chiefs of Staff”] {{en icon}} アメリカ軍系列の報道機関、AFPSの記事。(2012年1月3日掲載・2012年1月5日閲覧)</ref>。次いで、[[2020年国防権限法]]([[:en:National_Defense_Authorization_Act_for_Fiscal_Year_2020|National Defense Authorization Act for Fiscal Year 2020]])に基づき、2019年12月にアメリカ宇宙軍が独立した軍種として編成されると、1年後の2020年12月から[[アメリカ宇宙軍作戦部長|宇宙軍作戦部長]]がメンバーとして追加された<ref>{{UnitedStatesCode|10|9082}}</ref>。
== 構成メンバー ==
{| class="wikitable"
|-
! 役職 !! 写真 !! 氏名 !! 軍種
|-
|[[file:Flag of the Chairman of the US Joint Chiefs of Staff.svg|23px]] [[アメリカ統合参謀本部議長|統合参謀本部議長]]<br>Chairman of the Joint Chiefs of Staff || [[File:CQ_Brown_CSAF_2020.jpg|border|75px]] || [[チャールズ・ブラウン・ジュニア]]大将<br>Charles Quinton Brown Jr. ||{{Air force|United States|size=23px}}
|-
|[[file:VJCSflag.svg|23px]] [[アメリカ統合参謀本部副議長|統合参謀本部副議長]]<br>Vice Chairman of the Joint Chiefs of Staff || [[File: ADM Christopher W. Grady (2).jpg|border|75px|center]] || [[w:Christopher W. Grady|クリストファー・W・グレィディ]]大将<br>ADM Christopher W. Grady||{{flagcountry2|United States Navy|size=23px}}
|-
|[[file:Flag US Army Chief of Staff.svg|23px]] [[アメリカ陸軍参謀総長|陸軍参謀総長]]<br>Chief of Staff of the United States Army || [[File:GEN Randy A. George (2).jpg|border|75px]] || [[w:Randy George|ランディ・ジョージ]]大将<br>Randy Alan George ||{{Army|United States|size=23px}}
|-
|[[file:US-ChiefOfNavalOperations-Flag.svg|23px]] [[アメリカ海軍作戦部長|海軍作戦部長]]<br>Chief of Naval Operations || [[File:ADM Lisa M. Franchetti (2).jpg|75px]] || [[リサ・M・フランケッティ]]大将<br>ADM Lisa M. Franchetti ||{{flagcountry2|United States Navy|size=23px}}
|-
|[[file:Flag of the Chief of Staff of the United States Air Force.svg|23px]] [[アメリカ空軍参謀総長|空軍参謀総長]]<br>Chief of Staff of the United States Air Force || [[File:Gen David W. Allvin (2).jpg|frameless|75px]] || [[w:David W. Allvin|デビッド・W・アルヴィン]]大将<br>David Wayne Allvin ||{{Air force|United States|size=23px}}
|-
|[[File:Flag of the Chief of Space Operations.svg|23px]] [[アメリカ宇宙軍作戦部長|宇宙軍作戦部長]]<br>Chief of Space Operations||[[File:Gen B. Chance Saltzman.jpg|border|75px]]||[[B・チャンス・サルツマン]]大将<br>Gen B. Chance Saltzman||[[File:Flag of the United States Space Force.svg|border|23px]] [[アメリカ宇宙軍]]
|-
|[[file:Flag of the Commandant of the United States Marine Corps.svg|23px]] [[アメリカ海兵隊総司令官|海兵隊総司令官]]<br>Commandant of the Marine Corps || [[File:Gen._David_H._Berger.jpg|border|75px]] || [[デビッド・H・バーガー]]大将<br>Gen David H. Berger ||{{flagcountry2|United States Marine Corps|size=23px}}
|-
|[[file:Chiefngbureauflag.JPG|23px]] [[アメリカ州兵総局長|州兵総局長]]<br>Chief of the National Guard Bureau || [[File:GEN Daniel R. Hokanson.jpg|border|75px]] ||[[w:Daniel R. Hokanson|ダニエル・R・ホカンソン]]大将<br>Gen Daniel R. Hokanson ||{{Army|United States|size=23px}}
|}
=== 沿岸警備隊総司令官 ===
[[アメリカ沿岸警備隊|沿岸警備隊]]は、アメリカ合衆国法典第14章第101条によってアメリカ軍の一部とされているが、通常は国土安全保障省の管轄下にある。しかし、戦時や国家緊急事態の際には大統領令により海軍省の管轄に入る。そのため、[[アメリカ沿岸警備隊総司令官|沿岸警備隊総司令官]](Commandant of the Coast Guard)は統合参謀本部の正式メンバーではないが、事実上のメンバーとされることも多く、ほかのメンバーと同等の報酬を受け取り、招待に応じて統合参謀本部の会議に出席する権利を有する。<br/>沿岸警備隊総司令官は、ほかの統合参謀本部メンバー(参謀総長や作戦部長、総司令官)と異なり、沿岸警備隊に対する作戦と運用の両面にかかる権限を持っている。
{| class="wikitable"
|-
! 役職 !! 写真 !! 氏名 !! 軍種
|-
|[[file:Flag of the Chairman of the US Joint Chiefs of Staff.svg|23px]] [[アメリカ沿岸警備隊総司令官|沿岸警備隊総司令官]]<br>Commandant of the Coast Guard || [[File:Admiral Linda L. Fagan, Coast Guard Vice Commandant.jpg|border|75px]] || [[リンダ・L・フェイガン]]大将<br>ADM Linda L. Fagan ||[[アメリカ沿岸警備隊]]
|}
=== 統合参謀本部最先任下士官 ===
[[アメリカ統合参謀本部最先任下士官|統合参謀本部最先任下士官]](Senior Enlisted Advisor to the Chairman of the Joint Chiefs of Staff (SEAC))は、アメリカ軍の統合運用における下士官の統合、活用、能力開発に関する全ての問題について[[アメリカ統合参謀本部議長|統合参謀本部議長]]に助言し、統合運用による下士官の教育・育成を支援し、統合運用における上級下士官の能力を最大限に活用すること任務とする。そして、その任務に関し[[アメリカ統合参謀本部議長|統合参謀本部議長]]をサポートし、責任を負う。<br/>陸軍の[[w:William Gainey|ウィリアム・ゲイニー]]最上級曹長が、2005年10月1日に初代の統合参謀本部最先任下士官に就任した。2020年8月現在、空軍の[[w:Ramón Colón-López|ラモン・コロン・ロペス]]最上級曹長がこの地位にある。ロペス最上級曹長は、陸軍の[[w:John W. Troxell|ジョン・トラックセル]]最上級曹長の後任として、2019年12月13日に[[マーク・ミリー]]統合参謀総長に就任を宣誓し、この地位についた。
{| class="wikitable"
|-
! 役職 !! 写真 !! 氏名 !! 軍種
|-
|[[file:Flag of the Senior Enlisted Advisor to the Chairman.svg|23px]] [[アメリカ統合参謀本部最先任下士官|統合参謀本部最先任下士官]]<br>Senior Enlisted Advisor to the Chairman ||[[File:SEAC_Colon_Lopez.jpg|border|75px]] || [[ラモン・コロン・ロペス]]最上級曹長<br>SEAC Ramón Colón-López ||{{Air force|United States|size=23px}}
|}
== 組織 ==
[[File:JSOrg2018v2.png|thumb|upright|right|250px|2018年時点の統合参謀本部組織図]]
; 統合参謀事務局(Directorates of the Joint Staff)
* 統合参謀事務局長(Director of the Joint Staff)
* 統合参謀事務次長(Vice Director of the Joint Staff)
** 管理部(DOM | Directorate of Management)
*:・部長職は事務次長による兼任
*:・各部の専任業務以外の、たとえば[[情報機器]]のメンテナンスや[[サーバ]]管理、資料の保管整理、局員の出張サポートなどのいわゆる総務・庶務的業務全般。JCS関連施設のセキュリティも担当する。
** 第1部(J1 | Directorate for Manpower & Personnel)
*:・要員・人事部門
** 第2部(J2 | Directorate for Intelligence / Joint Staff Intelligence, [[:en:Defense Intelligence Agency|DIA]])
*:・[[ミリタリー・インテリジェンス|情報]]部門/統合参謀情報部
*:・国防総省の外局である[[国防情報局]]が、その一部署の統合参謀情報部をJ2部門として提供している。
*:・[[:en:Joint Intelligence Center|統合情報センター]]([[アメリカ中央軍|中央軍]]/[[アメリカインド太平洋軍|インド太平洋軍]])ならびに[[:en:Joint Analysis Center|統合分析センター]]([[アメリカ欧州軍|欧州軍]])に運用スタッフを提供している。
** 第3部(J3 | Directorate for Operations)
*:・[[作戦]]部門
*:・[[国家軍事指揮センター]]に運用スタッフを提供している。
** 第4部(J4 | Directorate for Logistics)
*:・[[兵站]]部門
** 第5部(J5 | Directorate for Strategy, Plans & Policy)
*:・戦略・計画・施策部門
*:・国家戦略に基づく基本方針の策定、それに沿った全体計画の立案。作戦能力の維持向上、[[戦闘教義]]の構築運用、組織・制度設計、予算要求調整など。つまりは長期的視野に立って遂行すべき諸問題を担当する。
** 第6部(J6 | Directorate for Command, Control, Communications & Computers/Cyber)
*:・[[C4Iシステム|C4]](指揮・統制・通信・電算/サイバー)部門
*:・統合戦力に必要とされるサイバー防衛能力、異なる軍種間での[[相互運用性|相互運用能力]]ならびにC2(指揮・統制)能力。これらを向上させる上で必要な提言をJCS議長に対して行うことを任務とする。<ref>公式サイト(下記外部リンク)、Directorates、J6 | C4 & Cyber、Mission より</ref>
*:・部長は統合参謀事務局における[[最高情報責任者]](Chief Information Officer)を務める。
** 第7部(J7 | Directorate for Joint Force Development)
*:・統合戦力開発部門
*:・[[アメリカ統合参謀本部#%E7%B5%B1%E5%90%88%E3%83%89%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%B3|統合ドクトリン]]の構築、国防総合大学([[:en:National Defense University|National Defense University]])を頂点とする将兵に対する統合専門軍事教育(JPME)、統合装備・システムの開発実験、同盟国軍含む各上級司令部(Combatant commands)に対する訓練・演習、それに戦訓分析を担当する。
** 第8部(J8 | Directorate for Force Structure, Resources & Assessment)
*:・戦力構造・資源・評価部門
*:・上記の国防総省再編(1986年)にともない、統合参謀本部の権限拡大に対応するため設置された比較的新しい部署。
*:・戦争資源、組織・部隊機能の分析・評価(Capability assessment)、それに基づくJCS議長や各上級司令部への提言。それらに加え、各種研究・開発・計画・制度(Program)等の監視、指導、適正性評価を担当する。<ref>民間企業で言うところの事業評価、あるいは会計監査に相当するが、組織内部にこのようなセルフチェック部門を設けるのは、アメリカ企業社会においては広く普通に行われていることである。</ref>
* 統合参謀監察監(Joint Staff Inspector General)
** 監察監室(OIG | Office of Inspector General, JCS)<ref>[[:en:Inspector General Act of 1978|1978年連邦監察官法]]ならびに1988年、2008年各改正法に基づき、ほぼ全ての連邦政府機関に独立権限の監察官室(OIG)が設置されている。</ref>
*:・同監察監のもと、1名の統括監察官(Principal Deputy Inspector General)ならびに4名の監察官(Deputy Inspector General)が配置されており、この4名が会計監査、評価監察、管理施策、捜査をそれぞれ担当している。<ref>監察監、統括監察官、監察官という訳語については、日本の[[防衛監察本部]]の役職名を参考とした。</ref>
*:・職域としては第8部と重なる部分が少なからず存在するが、監察監室の監察対象はあくまで統合参謀本部内に限定される。
== 統合ドクトリン ==
JCSは軍事力の統合運用原則として'''統合ドクトリン'''({{lang-en-short|joint doctrine}})を発行している<ref>"Joint doctrine presents fundamental principles that guide the employment of US military forces in coordinated and integrated action toward a common objective." JCS. ''[https://www.jcs.mil/Doctrine/Joint-Doctine-Pubs/ Joint Doctrine Publications]''. 2021-08-29 viewed.</ref>。最上位に位置する文章は "Joint Publication 1, ''Doctrine for the Armed Forces of the United States''"、通称 '''JP1''' である<ref>"Joint Publication 1 ... is the capstone publication for all joint doctrine, presenting fundamental principles and overarching guidance for the employment of the Armed Forces of the United States." JP1.</ref>。ドクトリン整備を担うのは第7部である。
== 沿岸警備隊 ==
上記の通り[[アメリカ沿岸警備隊|沿岸警備隊]]は、統合参謀本部の正式メンバーではないものの、{{uscsub|10|152|a|1}}及び{{uscsub|10|154|a|1}} により議長及び副議長に任命される法的根拠を持っている。この2つの条文には、議長及び副議長に任命される条件について、それぞれの軍種を列挙しているわけではなく、単に「軍隊」と規定されている。この規定は、統合参謀本部事務局の幹部の地位についても同様である。ただし、現在までに沿岸警備隊の隊員から議長及び副議長に就任した例はない。しかし事務局においても2016年、第6部の部長に沿岸警備隊中将が任命されており、それ以来、JCSには数人の隊員が勤務している。
== 注釈 ==
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[ゴールドウォーター=ニコルズ法]]
* [[統合幕僚監部]](日本)
* [[参謀本部]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Joint Chiefs of Staff}}
* [https://www.jcs.mil/ JCS Link]
{{United States Joint Chiefs of Staff}}
{{アメリカ軍}}
{{アメリカ合衆国の行政組織}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:とうこうさんほうほんふ}}
[[Category:アメリカ国防総省]]
[[Category:アメリカ合衆国の軍事組織]]
[[Category:1942年設立の政府機関]]
[[Category:参謀本部]] | 2003-05-16T22:56:14Z | 2023-12-21T04:58:41Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E7%B5%B1%E5%90%88%E5%8F%82%E8%AC%80%E6%9C%AC%E9%83%A8 |
8,398 | JCS | JCS | [
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] | JCS アメリカ統合参謀本部 - アメリカ軍の最高機関。
Japan Coma Scale - 意識障害の深度分類。
ジーザス・クライスト・スーパースター - ミュージカル。1971年初演。
日本対がん協会
日本電線工業会規格 - 日本電線工業会が定める主として電線などについて定めた規格
十六コンピュータサービス - 十六銀行系情報サービス会社。 | '''JCS'''
* [[アメリカ統合参謀本部]] (Joint Chiefs of Staff) - [[アメリカ軍]]の最高機関。
* [[Japan Coma Scale]] - [[意識障害]]の深度分類。
* [[ジーザス・クライスト・スーパースター]] (Jesus Christ Superstar) - [[ミュージカル]]。[[1971年]]初演。
* [[日本対がん協会]][http://www.jcancer.jp/](Japan Cancer Society[http://www.jcancer.jp/english/])
* 日本電線工業会規格 - [[日本電線工業会]]が定める主として[[電線]]などについて定めた[[規格]]
* 十六コンピュータサービス - [[十六銀行]]系情報サービス会社。
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/JCS |
8,400 | 女子テニス選手一覧 | 女子テニス選手一覧は、女子テニス選手をアルファベット順に並べたものである。 | [
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] | 女子テニス選手一覧は、女子テニス選手をアルファベット順に並べたものである。 | {{Pathnav|テニス選手一覧|frame=1}}
'''女子テニス選手一覧'''は、女子[[テニス]]選手をアルファベット順に並べたものである。
{{TOC}}
== A ==
* [[ネリー・アダムソン・ランドリー]] (Nelly Adamson Landry) (ベルギー → フランス)
* [[ダフネ・アクハースト]] (Daphne Akhurst) (オーストラリア)
* [[エカテリーナ・アレクサンドロワ]] (Ekaterina Alexandrova) (ロシア)
* [[リリ・デ・アルバレス]] (Lili de Alvarez) (スペイン)
* [[アクグル・アマンムラドワ]] (Akgul Amanmuradova) (ウズベキスタン)
* [[ビアンカ・アンドレースク]] (Bianca Andreescu) (カナダ)
* [[マレット・アニ]] (Maret Ani) (エストニア)
* [[アマンダ・アニシモバ]] (Amanda Anisimova) (アメリカ)
* [[サンヤ・アンチッチ]] (Sanja Ančić) (クロアチア)
* [[青山修子]] (Shuko Aoyama) (日本)
* [[サビーネ・アペルマンス]] (Sabine Appelmans) (ベルギー)
* [[新井麻葵]] (Maki Arai) (日本)
* [[ニコル・アレント]] (Nicole Arendt) (アメリカ)
* [[ララ・アルアバレナ]] (Lara Arruabarrena) (スペイン)
* [[ソフィア・アルビドソン]] (Sofia Arvidsson) (スウェーデン)
* [[浅越しのぶ]] (Shinobu Asagoe) (日本)
* [[ジュリエット・アトキンソン]] (Juliette Atkinson) (アメリカ)
* [[キャスリーン・アトキンソン]] (Kathleen Atkinson) (アメリカ)
* [[シリー・アウセム]] (Cilly Aussem) (ドイツ)
* [[トレーシー・オースチン]] (Tracy Austin) (アメリカ)
* [[ビクトリア・アザレンカ]] (Victoria Azarenka) (ベラルーシ)
== B ==
* [[ティメア・バボシュ]] (Tímea Babos) (ハンガリー)
* [[ティメア・バシンスキー]] (Timea Bacsinszky) (スイス)
* [[パウラ・バドサ]] (Paula Badosa) (スペイン)
* [[エレナ・バルタチャ]] (Elena Baltacha) (イギリス)
* [[シビル・バンマー]] (Sybille Bammer) (オーストリア)
* [[モード・バーガー=ウォラック]] (Maud Barger-Wallach) (アメリカ)
* [[スー・バーカー]] (Sue Barker) (イギリス)
* [[モナ・バルテル]] (Mona Barthel) (ドイツ)
* [[マリオン・バルトリ]] (Marion Bartoli) (フランス)
* [[アシュリー・バーティ]] (Ashleigh Barty) (オーストラリア)
* [[カーリン・バセット=セグソ]] (Carling Bassett-Seguso) (カナダ)
* [[ヤユク・バスキ]] (Yayuk Basuki) (インドネシア)
* [[アニカ・ベック]] (Annika Beck) (ドイツ)
* [[ダヤ・ベダノワ]] (Dája Bedáňová) (チェコ)
* [[イリーナ=カメリア・ベグ]] (Irina-Camelia Begu) (ルーマニア)
* [[ジェラルディン・ビーミッシュ]] (Geraldine Beamish) (イングランド)
* [[キャサリン・ベリス]] (Catherine Bellis) (アメリカ)
* [[ベリンダ・ベンチッチ]] (Belinda Bencic) (スイス)
* [[イベタ・ベネソバ]] (Iveta Benešová) (チェコ)
* [[キキ・ベルテンス]] (Kiki Bertens) (オランダ)
* [[ポーリーン・ベッツ]] (Pauline Betz) (アメリカ)
* [[メアリー・ベヴィス・ホートン]] (Mary Bevis Hawton) (オーストラリア)
* [[ブランチ・ビングリー]] (Blanche Bingley) (イングランド)
* [[カーラ・ブラック]] (Cara Black) (ジンバブエ)
* [[シャーリー・ブルーマー]] (Shirley Bloomer) (イギリス)
* [[アリョーナ・ボンダレンコ]] (Alona Bondarenko) (ウクライナ)
* [[マノン・ボーラグラフ]] (Manon Bollegraf) (オランダ)
* [[アリオナ・ボルソバ]] (Aliona Bolsova) (モルドバ → スペイン)
* [[カテリナ・ボンダレンコ]] (Kateryna Bondarenko) (ウクライナ)
* [[リサ・ボンダー]] (Lisa Bonder) (アメリカ)
* [[フィオレラ・ボニセジ]] (Fiorella Bonicelli) (ウルグアイ)
* [[クリスティ・ボーグルト]] (Kristie Boogert) (オランダ)
* [[ドラ・ブースビー]] (Dora Boothby) (イングランド)
* [[ウージニー・ブシャール]] (Eugenie Bouchard) (カナダ)
* [[コルネリア・ボウマン]] (Kornelia Bouman) (オランダ)
* [[エレーナ・ボビナ]] (Elena Bovina) (ロシア)
* [[エスナ・ボイド]] (Esna Boyd) (オーストラリア)
* [[マディソン・ブレングル]] (Madison Brengle) (アメリカ)
* [[マルグリット・ブロクディス]] (Marguerite Broquedis) (フランス)
* [[ルイーズ・ブラフ]] (Louise Brough) (アメリカ)
* [[メアリー・ブラウン]] (Mary Browne) (アメリカ)
* [[マリア・ブエノ]] (Maria Bueno) (ブラジル)
* [[ドロシー・バンディ]] (Dorothy Bundy) (アメリカ)
* [[ベッティーナ・バンジ]] (Bettina Bunge) (ドイツ)
* [[コラル・バッツワース]] (Coral Buttsworth) (オーストラリア)
* [[アンジェラ・バクストン]] (Angela Buxton) (イギリス)
* [[ミハエラ・ブザルネスク]] (Mihaela Buzărnescu) (ルーマニア)
* [[パトリシア・ヒー=ブーレ]] (Patricia Hy-Boulais) (カナダ)
== C ==
* [[マーベル・カーヒル]] (Mabel Cahill) (アイルランド)
* [[エルス・カレンズ]] (Els Callens) (ベルギー)
* [[マリア・エレナ・カメリン]] (Maria Elena Camerin) (イタリア)
* [[パトリシア・カニング・トッド]] (Patricia Canning Todd) (アメリカ)
* [[ジェニファー・カプリアティ]] (Jennifer Capriati) (アメリカ)
* [[メアリー・カリロ]] (Mary Carillo) (アメリカ)
* [[メアリー・カーター・レイタノ]] (Mary Carter Reitano) (オーストラリア)
* [[ロージー・カザルス]] (Rosie Casals) (アメリカ)
* [[ペトラ・チェトコフスカ]] (Petra Cetkovská) (チェコ)
* [[ベロニカ・セペデ・ロイグ]] (Verónica Cepede Royg) (パラグアイ)
* [[ヤナ・チェペロバ]] (Jana Čepelová) (スロバキア)
* [[アンナ・チャクベタゼ]] (Anna Chakvetadze) (ロシア)
* [[詹皓晴]] (Chan Hao-ching) (台湾)
* [[詹詠然]] (Chan Yung-Jan) (台湾)
* [[趙倫貞]] (Cho Yoon-Jeong) (韓国)
* [[荘佳容]] (Chuang Chia-Jung) (台湾)
* [[ドミニカ・チブルコバ]] (Dominika Cibulková) (スロバキア)
* [[ソラナ・チルステア]] (Sorana Cîrstea) (ルーマニア)
* [[キム・クライシュテルス]] (Kim Clijsters) (ベルギー)
* [[アマンダ・クッツァー]] (Amanda Coetzer) (南アフリカ)
* [[ジュリー・クワン]] (Julie Coin) (フランス)
* [[ダニエル・コリンズ]] (Danielle Collins) (アメリカ)
* [[イブリン・コリヤー]] (Evelyn Colyer) (イングランド)
* [[モーリーン・コノリー]] (Maureen Connolly) (アメリカ)- 女子初の[[グランドスラム (テニス)|年間グランドスラム]]達成者
* [[シャーロット・クーパー]] (Charlotte Cooper) (イングランド)
* [[ベリンダ・コードウェル]] (Belinda Cordwell) (ニュージーランド)
* [[アリーゼ・コルネ]] (Alizé Cornet) (フランス)
* [[マーガレット・スミス・コート]] (Margaret Smith Court) (オーストラリア)- 同上2人目、4大大会優勝女子歴代1位
* [[フィリス・コベル]] (Phyllis Covell) (イングランド)
* [[マージョリー・コックス・クロフォード]] (Marjorie Cox Crawford) (オーストラリア)
* [[テルマ・コイン・ロング]] (Thelma Coyne Long) (オーストラリア)
* [[ジル・クレイバス]] (Jill Craybas) (アメリカ)
* [[メリンダ・ツィンク]] (Melinda Czink) (ハンガリー)
== D ==
* [[ガブリエラ・ダブロウスキー]] (Gabriela Dabrowski) (カナダ)
* [[エレニ・ダニリドゥ]] (Eleni Daniilidou) (ギリシャ)
* [[伊達公子]] (Kimiko Date) (日本)
* [[リンゼイ・ダベンポート]] (Lindsay Davenport) (アメリカ)
* [[ローレン・デービス]] (Lauren Davis) (アメリカ)
* [[ナタリー・ドシー]] (Nathalie Dechy) (フランス)
* [[ケーシー・デラクア]] (Casey Dellacqua) (オーストラリア)
* [[ロザンナ・デ・ロス・リオス]] (Rossana de los Ríos) (パラグアイ)
* [[エレーナ・デメンチェワ]] (Elena Dementieva) (ロシア)
* [[ザリナ・ディアス]] (Zarina Diyas) (カザフスタン)
* [[ロッティ・ドッド]] (Lottie Dod) (イングランド)- [[ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]最年少優勝者
* [[オセアヌ・ドダン]] (Océane Dodin) (フランス)
* [[土居美咲]] (Misaki Doi) (日本)
* [[エレナ・ドキッチ]] (Jelena Dokić) (オーストラリア ←→ セルビア・モンテネグロ)
* [[マルタ・ドマホフスカ]] (Marta Domachowska) (ポーランド)
* [[ドロテア・ダグラス・チェンバース]] (Dorothea Douglass Chambers) (イングランド)
* [[ルクサンドラ・ドラゴミル]] (Ruxandra Dragomir) (ルーマニア)
* [[アレクサンドラ・ドゥルゲル]] (Alexandra Dulgheru) (ルーマニア)
* [[ヒセラ・ドゥルコ]] (Gisela Dulko) (アルゼンチン)
* [[ジョー・デュリー]] (Jo Durie) (イギリス)
* [[フランソワーズ・デュール]] (Françoise Durr) (フランス)
* [[ベラ・ドゥシェビナ]] (Vera Dushevina) (ロシア)
== E ==
* [[江口実沙]] (Misa Eguchi) (日本)
* [[遠藤愛]] (Mana Endo) (日本)
* [[マリーナ・エラコビッチ]] (Marina Erakovic) (ニュージーランド)
* [[サラ・エラニ]] (Sara Errani) (イタリア)
* [[クリス・エバート]] (Chris Evert) (アメリカ)
== F ==
* [[ロザリン・フェアバンク]] (Rosalyn Fairbank) (南アフリカ)
* [[シルビア・ファリナ・エリア]] (Silvia Farina Elia) (イタリア)
* [[パティ・フェンディック]] (Patty Fendick) (アメリカ)
* [[ジジ・フェルナンデス]] (Gigi Fernández) (アメリカ)
* [[メアリー・ジョー・フェルナンデス]] (Mary Joe Fernández) (アメリカ)
* [[キルステン・フリプケンス]] (Kirsten Flipkens) (ベルギー)
* [[エミー・フレージャー]] (Amy Frazier) (アメリカ)
* [[シャーリー・フライ]] (Shirley Fry) (アメリカ)
* [[不田涼子]] (Ryoko Fuda) (日本)
* [[藤原里華]] (Rika Fujiwara) (日本)
== G ==
* [[ボニー・ガドゥセク]] (Bonnie Gadusek) (アメリカ)
* [[ヤルミラ・ガイドソバ]] (Jarmila Gajdošová) (スロバキア → オーストラリア)
* [[タチアナ・ガルビン]] (Tathiana Garbin) (イタリア)
* [[キャロリン・ガルシア]] (Caroline Garcia) (フランス)
* [[ジーナ・ガリソン]] (Zina Garrison) (アメリカ)
* [[コリ・ガウフ]] (Cori Gauff) (アメリカ)
* [[アンジェリカ・ガバルドン]] (Angelica Gavaldon) (メキシコ)
* [[ダリア・ガブリロワ]] (Daria Gavrilova) (ロシア → オーストラリア)
* [[アリシア・ギブソン]] (Althea Gibson) (アメリカ)- 黒人の先駆者
* [[カミラ・ジョルジ]] (Camila Giorgi) (イタリア)
* [[タチアナ・ゴロビン]] (Tatiana Golovin) (フランス)
* [[イボンヌ・グーラゴング]] (Evonne Goolagong) (オーストラリア)
* [[イネス・ゴロチャテギ]] (Inés Gorrochategui) (アルゼンチン)
* [[ヘレン・グーレイ]] (Helen Gourlay) (オーストラリア)
* [[オリガ・ゴボツォワ]] (Olga Govortsova) (ベラルーシ)
* [[シュテフィ・グラフ]] (Steffi Graf) (ドイツ)
* [[リタ・グランデ]] (Rita Grande) (イタリア)
* [[アンナ=レナ・グローネフェルト]] (Anna-Lena Grönefeld) (ドイツ)
* [[カーリー・ガリクソン]] (Carly Gullickson) (アメリカ)
* [[ユリア・ゲルゲス]] (Julia Görges) (ドイツ)
== H ==
* [[カリナ・ハブスドバ]] (Karina Habšudová) (スロバキア)
* [[ジュリー・アラール=デキュジス]] (Julie Halard-Decugis) (フランス)
* [[シモナ・ハレプ]] (Simona Halep) (ルーマニア)
* [[ジェイミー・ハンプトン]] (Jamie Hampton) (アメリカ)
* [[シルビア・ハニカ]] (Sylvia Hanika) (ドイツ)
* [[エディット・ハンナム]] (Edith Hannam) (イギリス)
* [[エレン・ハンセル]] (Ellen Hansell) (アメリカ)- [[全米オープン (テニス)|全米オープン]]第1回女子シングルス優勝者
* [[ダニエラ・ハンチュコバ]] (Daniela Hantuchová) (スロバキア)
* [[ダーリーン・ハード]] (Darlene Hard) (アメリカ)
* [[ドリス・ハート]] (Doris Hart) (アメリカ)
* [[ジョーン・ハーティガン]] (Joan Hartigan) (オーストラリア)
* [[アン・ヘイドン=ジョーンズ]] (Ann Haydon-Jones) (イギリス)
* [[ジュリー・ヘルドマン]] (Julie Heldman) (アメリカ)
* [[ヘレン・ヘルウィッグ]] (Helen Hellwig) (アメリカ)
* [[ジュスティーヌ・エナン]] (Justine Henin) (ベルギー)
* [[ポロナ・ヘルツォグ]] (Polona Hercog) (スロベニア)
* [[ジル・ヘザリントン]] (Jill Hetherington) (カナダ)
* [[日比万葉]] (Mayo Hibi) (日本)
* [[日比野菜緒]] (Nao Hibino) (日本)
* [[マルチナ・ヒンギス]] (Martina Hingis) (スイス)
* [[平木理化]] (Rika Hiraki) (日本)
* [[久松志保]] (Shiho Hisamatsu) (日本)
* [[アンドレア・フラバーチコバ]] (Andrea Hlaváčková) (チェコ)
* [[ドロシー・ホルマン]] (Dorothy Holman) (イングランド)
* [[コリー・ホーマン]] (Korie Homan) (オランダ)
* [[ヘレン・ホーマンズ]] (Helen Homans) (アメリカ)
* [[本玉真唯]] (Mai Hontama) (日本)
* [[エミリー・フッド・ウェスタコット]] (Emily Hood Westacott) (オーストラリア)
* [[ネル・ホール・ホップマン]] (Nell Hall Hopman) (オーストラリア)
* [[ヘイゼル・ホッチキス・ワイトマン]] (Hazel Hotchkiss Wightman) (アメリカ)
* [[穂積絵莉]] (Eri Hozumi) (日本)
* [[ルーシー・ハラデツカ]] (Lucie Hradecká) (チェコ)
* [[謝淑薇]] (Hsieh Su-Wei) (台湾)
* [[アンケ・フーバー]] (Anke Huber) (ドイツ)
* [[リーゼル・フーバー]] (Liezel Huber) (南アフリカ → アメリカ)
* [[ヤネッテ・フサロバ]] (Janette Husárová) (スロバキア)
== I ==
* [[今西美晴]] (Miharu Imanishi) (日本)
* [[井上悦子]] (Etsuko Inoue) (日本)
* [[井上早苗]] (Sanae Inoue) (日本)
* [[石津幸恵]] (Sachie Ishizu) (日本)
* [[アナ・イバノビッチ]] (Ana Ivanović) (セルビア)
== J ==
* [[オンス・ジャバー]] (Ons Jabeur) (チュニジア)
* [[ヘレン・ジェイコブス]] (Helen Jacobs) (アメリカ)
* [[アンドレア・イエガー]] (Andrea Jaeger) (アメリカ)
* [[エレナ・ヤンコビッチ]] (Jelena Janković) (セルビア)
* [[ミマ・ヤウソベッツ]] (Mima Jaušovec) (ユーゴスラビア → スロベニア)
* [[ヤドヴィガ・イェンジェヨフスカ]] (Jadwiga Jędrzejowska) (ポーランド)
* [[マリオン・ジョーンズ (テニス選手)|マリオン・ジョーンズ]] (Marion Jones) (アメリカ)
* [[バーバラ・ジョーダン (テニス選手)|バーバラ・ジョーダン]] (Barbara Jordan) (アメリカ)
* [[キャシー・ジョーダン]] (Kathy Jordan) (アメリカ)
* [[ボヤナ・ヨバノフスキ]] (Bojana Jovanovski) (セルビア)
== K ==
* [[上地結衣]] (Yui Kamiji) (日本)
* [[神尾米]] (Yone Kamio) (日本)
* [[加茂幸子]] (Sachiko Kamo) (日本)
* [[カイア・カネピ]] (Kaia Kanepi) (エストニア)
* [[アニコ・カプロス]] (Anikó Kapros) (ハンガリー)
* [[セシル・カラタンチェワ]] (Sesil Karatantcheva) (ブルガリア ←→ カザフスタン)
* [[ダリア・カサトキナ]] (Daria Kasatkina) (ロシア)
* [[加藤未唯]] (Miyu Kato) (日本)
* [[ヘレン・ケレシ]] (Helen Kelesi) (カナダ)
* [[ソフィア・ケニン]] (Sofia Kenin) (アメリカ)
* [[アンゲリク・ケルバー]] (Angelique Kerber) (ドイツ)
* [[マディソン・キーズ]] (Madison Keys) (アメリカ)
* [[木戸脇真也]] (Maya Kidowaki) (日本)
* [[雉子牟田明子]] (Akiko Kijimuta) (日本)
* [[雉子牟田直子]] (Naoko Kijimuta) (日本)
* [[ビリー・ジーン・キング]] (Billie Jean King) (アメリカ)
* [[フィリス・キング]] (Phyllis King) (イングランド)
* [[バニア・キング]] (Vania King) (アメリカ)
* [[マリア・キリレンコ]] (Maria Kirilenko) (ロシア)
* [[アン清村]] (Ann Kiyomura) (アメリカ)
* [[アリサ・クレイバノワ]] (Alisa Kleybanova) (ロシア)
* [[イラナ・クロス]] (Ilana Kloss) (南アフリカ)
* [[カリン・クナップ]] (Karin Knapp) (イタリア)
* [[クラウディア・コーデ=キルシュ]] (Claudia Kohde-Kilsch) (ドイツ)
* [[アナ・コニュ]] (Ana Konjuh) (クロアチア)
* [[ジョアンナ・コンタ]] (Johanna Konta) (オーストラリア → イギリス)
* [[アネット・コンタベイト]] (Anett Kontaveit) (エストニア)
* [[ドロテア・ケーリング]] (Dorothea Köring) (ドイツ)
* [[ジュジャ・ケルメツィ]] (Zsuzsa Körmöczy) (ハンガリー)
* [[エレナ・コスタニッチ・トシッチ]] (Jelena Kostanić Tošić) (クロアチア)
* [[クララ・クーカロバ]] (Klára Koukalová) (チェコ)
* [[アンナ・クルニコワ]] (Anna Kournikova) (ロシア)
* [[ダンカ・コビニッチ]] (Danka Kovinić) (モンテネグロ)
* [[ミハエラ・クライチェク]] (Michaëlla Krajicek) (オランダ)
* [[リナ・クラスノルツカヤ]] (Lina Krasnoroutskaya) (ロシア)
* [[バルボラ・クレイチコバ]] (Barbora Krejčíková) (チェコ)
* [[アンネ・クレマー]] (Anne Kremer) (ルクセンブルク)
* [[アレクサンドラ・クルニッチ]] (Aleksandra Krunić) (セルビア)
* [[アーラ・クドゥリャフツェワ]] (Alla Kudryavtseva) (ロシア)
* [[桑田寛子]] (Hiroko Kuwata) (日本)
* [[スベトラーナ・クズネツォワ]] (Svetlana Kuznetsova) (ロシア)
* [[ビクトリア・クズモバ]] (Viktória Kužmová) (スロバキア)
* [[ペトラ・クビトバ]] (Petra Kvitová) (チェコ)
== L ==
* [[シルビア・ランス・ハーパー]] (Sylvia Lance Harper) (オーストラリア)
* [[ヨハンナ・ラーション]] (Johanna Larsson) (スウェーデン)
* [[ジャン・レヘイン]] (Jan Lehane) (オーストラリア)
* [[ヴァルヴァラ・レプチェンコ]] (Varvara Lepchenko) (ウズベキスタン → アメリカ)
* [[スザンヌ・ランラン]] (Suzanne Lenglen) (フランス)- 競技テニスの先駆者
* [[李娜]] (Li Na) (中国)
* [[李婷 (1980年生のテニス選手)|李婷]] (Li Ting) (中国)
* [[カタリナ・リンドクイスト]] (Catarina Lindqvist) (スウェーデン)
* [[エレーナ・リホフツェワ]] (Elena Likhovtseva) (ロシア)
* [[マグダ・リネッテ]] (Magda Linette) (ポーランド)
* [[ザビーネ・リシキ]] (Sabine Lisicki) (ドイツ)
* [[アニタ・リザナ]] (Anita Lizana) (チリ)
* [[ヌリア・リャゴステラ・ビベス]] (Nuria Llagostera Vives) (スペイン)
* [[エミリー・ロワ]] (Émilie Loit) (フランス)
* [[ミリヤナ・ルチッチ=バロニ]] (Mirjana Lučić-Baroni) (クロアチア)
== M ==
* [[イバ・マヨリ]] (Iva Majoli) (クロアチア)
* [[エカテリーナ・マカロワ]] (Ekaterina Makarova) (ロシア)
* [[カテリナ・マレーバ]] (Katerina Maleeva) (ブルガリア)
* [[マグダレナ・マレーバ]] (Magdalena Maleeva) (ブルガリア)
* [[マニュエラ・マレーバ]] (Manuela Maleeva) (ブルガリア → スイス)
* [[モーラ・マロリー]] (Molla Mallory) (ノルウェー)
* [[ハナ・マンドリコワ]] (Hana Mandlíková) (チェコスロバキア)
* [[ペトラ・マンデュラ]] (Petra Mandula) (ハンガリー)
* [[アリス・マーブル]] (Alice Marble) (アメリカ)
* [[レジナ・マルシコワ]] (Regina Maršíková) (チェコスロバキア)
* [[ペトラ・マルティッチ]] (Petra Martić) (クロアチア)
* [[コンチタ・マルティネス]] (Conchita Martínez) (スペイン)
* [[マリア・ホセ・マルティネス・サンチェス]] (María José Martínez Sánchez) (スペイン)
* [[ヘルガ・マストホフ]] (Helga Masthoff) (ドイツ)
* [[シモーヌ・マチュー]] (Simone Mathieu) (フランス)
* [[ベサニー・マテック=サンズ]] (Bethanie Mattek-Sands) (アメリカ)
* [[アメリ・モレスモ]] (Amélie Mauresmo) (フランス)
* [[マートル・マカティアー]] (Myrtle McAteer) (アメリカ)
* [[クリスティナ・マクヘール]] (Christina McHale) (アメリカ)
* [[キャスリーン・マッケイン・ゴッドフリー]] (Kathleen McKane Godfree) (イギリス)
* [[ウィニフレッド・マクネアー]] (Winifred McNair) (イギリス)
* [[キャティ・マクナリー]] (Caty McNally) (アメリカ)
* [[ロリ・マクニール]] (Lori McNeil) (アメリカ)
* [[レイチェル・マッキラン]] (Rachel McQuillan) (オーストラリア)
* [[アナベル・メディナ・ガリゲス]] (Anabel Medina Garrigues) (スペイン)
* [[エリーズ・メルテンス]] (Elise Mertens) (ベルギー)
* [[フロレンツァ・ミハイ]] (Florenţa Mihai) (ルーマニア)
* [[サニア・ミルザ]] (Sania Mirza) (インド)
* [[宮内美澄]] (Misumi Miyauchi) (日本)
* [[宮城ナナ]] (Nana Miyagi) (日本)
* [[宮城黎子]] (Reiko Miyagi) (日本)
* [[クリスティナ・ムラデノビッチ]] (Kristina Mladenovic) (フランス)
* [[マーガレット・モールズワース]] (Margaret Molesworth) (オーストラリア)- [[全豪オープン]]第1回女子シングルス優勝者
* [[アリシア・モリク]] (Alicia Molik) (オーストラリア)
* [[ドミニク・モナミ]] (Dominique Monami) (ベルギー)
* [[エリザベス・ムーア]] (Elisabeth Moore) (アメリカ)
* [[コリーナ・モラリュー]] (Corina Morariu) (アメリカ)
* [[森上亜希子]] (Akiko Morigami) (日本)
* [[森田あゆみ]] (Ayumi Morita) (日本)
* [[オルガ・モロゾワ]] (Olga Morozova) (ソビエト連邦)
* [[アンジェラ・モーティマー]] (Angela Mortimer) (イギリス)
* [[アグネス・モートン]] (Agnes Morton) (イングランド)
* [[カロリナ・ムホバ]] (Karolína Muchován) (チェコ)
* [[ガルビネ・ムグルサ]] (Garbiñe Muguruza) (スペイン)
* [[アナスタシア・ミスキナ]] (Anastasia Myskina) (ロシア)
== N ==
* [[長塚京子]] (Kyoko Nagatsuka) (日本)
* [[ベッツィ・ナゲルセン]] (Betsy Nagelsen) (アメリカ)
* [[ヘンリエッタ・ナギョワ]] (Henrieta Nagyová) (スロバキア)
* [[中村藍子]] (Aiko Nakamura) (日本)
* [[波形純理]] (Junri Namigata) (日本)
* [[奈良くるみ]] (Kurumi Nara) (日本)
* [[マルチナ・ナブラチロワ]] (Martina Navrátilová) (チェコスロバキア → アメリカ)
* [[ラリサ・ネーランド]] (Larisa Neiland) (ソビエト連邦 → ラトビア)
* [[モニカ・ニクレスク]] (Monica Niculescu) (ルーマニア)
* [[二宮真琴]] (Makoto Ninomiya) (日本)
* [[カタジナ・ノバク]] (Katarzyna Nowak) (ポーランド)
* [[ヤナ・ノボトナ]] (Jana Novotná) (チェコ)
* [[ベティ・ナットール]] (Betty Nuthall) (イギリス)
== O ==
* [[小畑沙織]] (Saori Obata) (日本)
* [[ツィポラ・オブジラー]] (Tzipora Obziler) (イスラエル)
* [[岡川恵美子]] (Emiko Okagawa) (日本)
* [[岡本久美子]] (Kumiko Okamoto) (日本)
* [[岡本聖子]] (Seiko Okamoto) (日本)
* [[大前綾希子]] (Akiko Omae) (日本)
* [[大前千代子]] (Chiyoko Omae) (日本)
* [[クリス・オニール]] (Chris O'Neill) (オーストラリア)
* [[ロミナ・オプランディ]] (Romina Oprandi) (イタリア → スイス)
* [[ミリアム・オレマンス]] (Miriam Oremans) (オランダ)
* [[大坂まり]] (Mari Osaka) (日本)
* [[大坂なおみ]] (Naomi Osaka) (日本)
* [[マーガレット・オズボーン・デュポン]] (Margaret Osborne duPont) (アメリカ)
* [[エレナ・オスタペンコ]] (Jeļena Ostapenko) (ラトビア)
* [[メラニー・ウダン]] (Melanie Oudin) (アメリカ)
* [[尾崎里紗 (テニス選手)|尾﨑里紗]] (Risa Ozaki) (日本)
== P ==
* [[サラ・ポールフリー]] (Sarah Palfrey) (アメリカ)
* [[エレナ・パンポロバ]] (Elena Pampoulova) (ブルガリア → ドイツ)
* [[タミラ・パシェク]] (Tamira Paszek) (オーストリア)
* [[バルバラ・パウルス]] (Barbara Paulus) (オーストリア)
* [[アナスタシア・パブリュチェンコワ]] (Anastasia Pavlyuchenkova) (ロシア)
* [[メルセデス・パス]] (Mercedes Paz) (アルゼンチン)
* [[彭帥]] (Peng Shuai) (中国)
* [[フラビア・ペンネッタ]] (Flavia Pennetta) (イタリア)
* [[ベリル・ペンローズ]] (Beryl Penrose) (オーストラリア)
* [[タチアナ・ペレビニス]] (Tatiana Perebiynis) (ウクライナ)
* [[クセーニャ・ペルバク]] (Ksenia Pervak) (ロシア ←→ カザフスタン)
* [[アンドレア・ペトコビッチ]] (Andrea Petkovic) (ドイツ)
* [[クベタ・ペシュケ]] (Květa Peschke) (チェコ)
* [[ナディア・ペトロワ]] (Nadia Petrova) (ロシア)
* [[シャハー・ピアー]] (Shahar Pe'er) (イスラエル)
* [[マリー・ピエルス]] (Mary Pierce) (フランス)
* [[ツベタナ・ピロンコバ]] (Tsvetana Pironkova) (ブルガリア)
* [[カロリナ・プリスコバ]] (Karolína Plíšková) (チェコ)
* [[クリスティナ・プリスコバ]] (Kristýna Plíšková) (チェコ)
* [[キンバリー・ポー]] (Kimberly Po) (アメリカ)
* [[ポーリーン・パルマンティエ]] (Pauline Parmentier) (フランス)
* [[バーバラ・ポッター]] (Barbara Potter) (アメリカ)
* [[エレーヌ・プレボー]] (Hélène Prévost) (フランス)
* [[ニコル・プロビス]] (Nicole Provis) (オーストラリア)
* [[モニカ・プイグ]] (Mónica Puig) (プエルトリコ)
* [[ユリア・プチンツェワ]] (Yulia Putintseva) (ロシア → カザフスタン)
== Q ==
== R ==
* [[アグニエシュカ・ラドワンスカ]] (Agnieszka Radwańska) (ポーランド)
* [[ウルシュラ・ラドワンスカ]] (Urszula Radwańska) (ポーランド)
* [[ヨラ・ラミレス]] (Yola Ramírez) (メキシコ)
* [[ダリー・ランドリアンテフィー]] (Dally Randriantefy) (マダガスカル)
* [[リサ・レイモンド]] (Lisa Raymond) (アメリカ)
* [[ビルジニ・ラザノ]] (Virginie Razzano) (フランス)
* [[ラファエラ・レジ]] (Raffaella Reggi) (イタリア)
* [[ステファニー・レイヒ]] (Stephanie Rehe) (アメリカ)
* [[ケリー・レイド]] (Kerry Reid) (オーストラリア)
* [[キャンディ・レイノルズ]] (Candy Reynolds) (アメリカ)
* [[サンドラ・レイノルズ]] (Sandra Reynolds) (南アフリカ)
* [[アラバン・レザイ]] (Aravane Rezaï) (フランス)
* [[レナ・ライス]] (Lena Rice) (アイルランド)
* [[ナンシー・リッチー]] (Nancy Richey) (アメリカ)
* [[キャシー・リナルディ]] (Kathy Rinaldi) (アメリカ)
* [[アリソン・リスク]] (Alison Riske) (アメリカ)
* [[ミュリエル・ロブ]] (Muriel Robb) (イングランド)
* [[ローラ・ロブソン]] (Laura Robson) (イギリス)
* [[アナスタシア・ロディオノワ]] (Anastasia Rodionova) (ロシア → オーストラリア)
* [[シェルビー・ロジャース]] (Shelby Rogers) (アメリカ)
* [[エレン・ルーズベルト]] (Ellen Roosevelt) (アメリカ)
* [[グレース・ルーズベルト]] (Grace Roosevelt) (アメリカ)
* [[ドロシー・ラウンド]] (Dorothy Round) (イギリス)
* [[ビルヒニア・ルアノ・パスクアル]] (Virginia Ruano Pascual) (スペイン)
* [[チャンダ・ルビン]] (Chanda Rubin) (アメリカ)
* [[アランツァ・ルス]] (Arantxa Rus) (オランダ)
* [[バージニア・ルジッチ]] (Virginia Ruzici) (ルーマニア)
* [[ヘドヴィガ・ローゼンバウモワ]] (Hedwiga Rosenbaumová) (ボヘミア)
* [[エリザベス・ライアン]] (Elizabeth Ryan) (アメリカ)
* [[エレーナ・リバキナ]] (Elena Rybakina) (ロシア → カザフスタン)
* [[マグダレナ・リバリコバ]] (Magdaléna Rybáriková) (スロバキア)
== S ==
* [[アリーナ・サバレンカ]] (Aryna Sabalenka) (ベラルーシ)
* [[ガブリエラ・サバティーニ]] (Gabriela Sabatini) (アルゼンチン)
* [[佐伯美穂]] (Miho Saeki) (日本)
* [[ルーシー・サファロバ]] (Lucie Šafářová) (チェコ)
* [[ディナラ・サフィナ]] (Dinara Safina) (ロシア)
* [[マリア・サッカリ]] (Maria Sakkari) (ギリシャ)
* [[アランチャ・サンチェス・ビカリオ]] (Arantxa Sánchez Vicario) (スペイン)
* [[マラ・サンタンジェロ]] (Mara Santangelo) (イタリア)
* [[アリャクサンドラ・サスノビッチ]] (Aliaksandra Sasnovich) (ベラルーシ)
* [[佐藤直子]] (Naoko Sato) (日本)
* [[沢松順子]] (Junko Sawamatsu) (日本)
* [[沢松和子]] (Kazuko Sawamatsu) (日本)
* [[沢松奈生子]] (Naoko Sawamatsu) (日本)
* [[澤柳璃子]] (Riko Sawayanagi) (日本)
* [[シャネル・シェパーズ]] (Chanelle Scheepers) (南アフリカ)
* [[バルバラ・シェット]] (Barbara Schett) (オーストリア)
* [[フランチェスカ・スキアボーネ]] (Francesca Schiavone) (イタリア)
* [[アンナ・カロリナ・シュミエドロバ]] (Anna Karolína Schmiedlová) (スロバキア)
* [[パティ・シュナイダー]] (Patty Schnyder) (スイス)
* [[ブレンダ・シュルツ=マッカーシー]] (Brenda Schultz-McCarthy) (オランダ)
* [[マーガレット・スクリブン]] (Margaret Scriven) (イングランド)
* [[エレオノラ・シアーズ]] (Eleonora Sears) (アメリカ)
* [[イブリン・シアーズ]] (Evelyn Sears) (アメリカ)
* [[モニカ・セレシュ]] (Monica Seles) (ユーゴスラビア → アメリカ)
* [[瀬間詠里花]] (Erika Sema) (日本)
* [[瀬間友里加]] (Yurika Sema) (日本)
* [[イペク・セノグル]] (İpek Şenoğlu) (トルコ)
* [[ミラグロス・セケラ]] (Milagros Sequera) (ベネズエラ)
* [[マギ・セルナ]] (Magüi Serna) (スペイン)
* [[アナスタシヤ・セバストワ]] (Anastasija Sevastova) (ラトビア)
* [[セリマ・スファー]] (Selima Sfar) (チュニジア)
* [[マリア・シャラポワ]] (Maria Sharapova) (ロシア)
* [[メガン・ショーネシー]] (Meghann Shaughnessy) (アメリカ)
* [[ドロシー・シェパード=バロン]] (Dorothy Shepherd-Barron) (イングランド)
* [[柴原瑛菜]] (Ena Shibahara) (アメリカ → 日本)
* [[清水綾乃 (テニス選手)|清水綾乃]] (Ayano Shimizu) (日本)
* [[パム・シュライバー]] (Pam Shriver) (アメリカ)
* [[ヤロスラワ・シュウェドワ]] (Yaroslava Shvedova) (ロシア → カザフスタン)
* [[ラウラ・シグムント]] (Laura Siegemund) (ドイツ)
* [[カテリナ・シニアコバ]] (Kateřina Siniaková) (チェコ)
* [[アンナ・スマシュノワ]] (Anna Smashnova) (イスラエル)
* [[アン・スミス]] (Anne Smith) (アメリカ)
* [[エリザベス・スマイリー]] (Elizabeth Smylie) (オーストラリア)
* [[シルビア・ソレル=エスピノサ]] (Sílvia Soler-Espinosa) (スペイン)
* [[サラ・ソリベス・トルモ]] (Sara Sorribes Tormo) (スペイン)
* [[ヒルデ・スパーリング]] (Hilde Sperling) (ドイツ)
* [[イリナ・スピールリア]] (Irina Spîrlea) (ルーマニア)
* [[カタリナ・スレボトニク]] (Katarina Srebotnik) (スロベニア)
* [[ケイ・スタマーズ]] (Kay Stammers) (イングランド)
* [[スローン・スティーブンス]] (Sloane Stephens) (アメリカ)
* [[アレクサンドラ・スティーブンソン]] (Alexandra Stevenson) (アメリカ)
* [[サマンサ・ストーサー]] (Samantha Stosur) (オーストラリア)
* [[ベティ・ストーブ]] (Betty Stöve) (オランダ)
* [[バルボラ・ストリコバ]] (Barbora Strýcová) (チェコ)
* [[レネ・スタブス]] (Rennae Stubbs) (オーストラリア)
* [[パオラ・スアレス]] (Paola Suárez) (アルゼンチン)
* [[マルチナ・スーハ]] (Martina Suchá) (スロバキア)
* [[カルラ・スアレス・ナバロ]] (Carla Suárez Navarro) (スペイン)
* [[杉山愛]] (Ai Sugiyama) (日本)
* [[ヘレナ・スコバ]] (Helena Suková) (チェコスロバキア)
* [[ベラ・スコバ]] (Věra Suková) (チェコスロバキア)
* [[孫甜甜]] (Sun TianTian) (中国)
* [[カレン・サスマン]] (Karen Susman) (アメリカ)
* [[メイ・サットン]] (May Sutton) (アメリカ)
* [[エリナ・スビトリナ]] (Elina Svitolina) (ウクライナ)
* [[イガ・シフィオンテク]] (Iga Świątek) (ポーランド)
* [[アグネシュ・サバイ]] (Ágnes Szávay) (ハンガリー)
* [[カロリナ・スプレム]] (Karolina Šprem) (クロアチア)
== T ==
* [[高岸知代]] (Tomoyo Takagishi) (日本)
* [[高雄恵利加]] (Erika Takao) (日本)
* [[タマリネ・タナスガーン]] (Tamarine Tanasugarn) (タイ)
* [[カトリーヌ・タンビエ]] (Catherine Tanvier) (フランス)
* [[パトリシア・タラビーニ]] (Patricia Tarabini) (アルゼンチン)
* [[エレナ・タタルコワ]] (Elena Tatarkova) (ウクライナ)
* [[アンナ・タチシビリ]] (Anna Tatishvili) (ジョージア → アメリカ)
* [[辻佳奈美]] (Kanami Tuji) (日本)
* [[ナタリー・トージア]] (Nathalie Tauziat) (フランス)
* [[パム・ティーガーデン]] (Pam Teeguarden) (アメリカ)
* [[ジュディ・テガート]] (Judy Tegart) (オーストラリア)
* [[アンドレア・テメシュバリ]] (Andrea Temesvari) (ハンガリー)
* [[アリーン・テリー]] (Aline Terry) (アメリカ)
* [[サンドリーヌ・テスチュ]] (Sandrine Testud) (フランス)
* [[エセル・トムソン・ラーコム]] (Ethel Thomson Larcombe) (イングランド)
* [[レナータ・トマノワ]] (Renata Tomanová) (チェコスロバキア)
* [[アイラ・トムリャノビッチ]] (Ajla Tomljanović) (クロアチア → オーストラリア)
* [[バーサ・タウンゼント]] (Bertha Townsend) (アメリカ)
* [[クリスティン・トルーマン]] (Christine Truman) (イギリス)
* [[レシア・ツレンコ]] (Lesia Tsurenko) (ウクライナ)
* [[アグネス・タッキー]] (Agnes Tuckey) (イングランド)
* [[イロダ・ツルヤガノワ]] (Iroda Tulyaganova) (ウズベキスタン)
* [[ウェンディ・ターンブル]] (Wendy Turnbull) (オーストラリア)
* [[レスリー・ターナー]] (Lesley Turner) (オーストラリア)
== U ==
* [[内島萌夏]] (Moyuka Uchijima) (日本)
== V ==
* [[アリソン・バン・アイトバンク]] (Alison Van Uytvanck) (ベルギー)
* [[ミロスラヴァ・ヴァヴリネック]] (Miroslava Vavrinec) (スイス)
* [[ニコル・バイディソバ]] (Nicole Vaidišová) (チェコ)
* [[ユリア・バクレンコ]] (Julia Vakulenko) (ウクライナ → スペイン)
* [[ルチア・バレリオ]] (Lucia Valerio) (イタリア)
* [[ココ・バンダウェイ]] (Coco Vandeweghe) (アメリカ)
* [[ドナ・ベキッチ]] (Donna Vekić) (クロアチア)
* [[マリア・ベント=カブチ]] (Maria Vento-Kabchi) (ベネズエラ)
* [[エステル・フェルヘール]] (Esther Vergeer) (オランダ)
* [[エレーナ・ベスニナ]] (Elena Vesnina) (ロシア)
* [[ナタリア・ビクリャンチェワ]] (Natalia Vikhlyantseva) (ロシア)
* [[ロベルタ・ビンチ]] (Roberta Vinci) (イタリア)
* [[ジュリー・ブラスト]] (Julie Vlasto) (フランス)
* [[シュテファニー・フェーゲレ]] (Stefanie Vögele) (スイス)
* [[マルケタ・ボンドロウソバ]] (Markéta Vondroušová) (チェコ)
* [[ガリナ・ボスコボワ]] (Galina Voskoboeva) (ロシア → カザフスタン)
== W ==
* [[バージニア・ウェード]] (Virginia Wade) (イギリス)
* [[マリー・ワーグナー]] (Marie Wagner) (アメリカ)
* [[シャロン・ウォルシュ]] (Sharon Walsh) (アメリカ)
* [[王薔]] (Wang Qiang) (中国)
* [[王雅繁]] (Wang Yafan) (中国)
* [[ヘザー・ワトソン]] (Heather Watson) (イギリス)
* [[リリアン・ワトソン]] (Lillian Watson) (イングランド)
* [[モード・ワトソン]] (Maud Watson) (イングランド)- [[ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]第1回女子シングルス優勝者
* [[ロビン・ホワイト (テニス選手)|ロビン・ホワイト]] (Robin White) (アメリカ)
* [[パム・ホワイトクロス]] (Pam Whytcross) (オーストラリア)
* [[ヤニナ・ウィックマイヤー]] (Yanina Wickmayer) (ベルギー)
* [[アンジェリク・ウィジャヤ]] (Angelique Widjaja) (インドネシア)
* [[セリーナ・ウィリアムズ]] (Serena Williams) (アメリカ)
* [[ビーナス・ウィリアムズ]] (Venus Williams) (アメリカ)
* [[ヘレン・ウィルス・ムーディ]] (Helen Wills Moody) (アメリカ)
* [[カリナ・ビットヘフト]] (Carina Witthöft) (ドイツ)
* [[キャロライン・ウォズニアッキ]] (Caroline Wozniacki) (デンマーク)
* [[アレクサンドラ・ウォズニアク]] (Aleksandra Wozniak) (カナダ)
* [[ナンシー・ウィン・ボルトン]] (Nancye Wynne Bolton) (オーストラリア)
== X ==
== Y ==
* [[晏紫]] (Yan Zi) (中国)
* [[八筬美恵]] (Mie Yaosa) (日本)
* [[ダヤナ・ヤストレムスカ]] (Dayana Yastremska) (ウクライナ)
* [[米村知子]] (Tomoko Yonemura) (日本)
* [[吉田友佳]] (Yuka Yoshida) (日本)
== Z ==
* [[張帥]] (Zhang Shuai) (中国)
* [[鄭賽賽]] (Zheng Saisai) (中国)
* [[鄭潔]] (Zheng Jie) (中国)
* [[ファビオラ・スルアガ]] (Fabiola Zuluaga) (コロンビア)
* [[ナターシャ・ズベレワ]] (Natasha Zvereva) (ソビエト連邦 → ベラルーシ)
* [[ベラ・ズボナレワ]] (Vera Zvonareva) (ロシア)
== 関連項目 ==
* [[男子テニス選手一覧]]
== 外部リンク ==
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8,401 | 男子テニス選手一覧 | 男子テニス選手一覧は、男子テニス選手をアルファベット順に並べたものである。 | [
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'''男子テニス選手一覧'''は、男子[[テニス]]選手をアルファベット順に並べたものである。
{{TOC}}
== A ==
* [[ホセ・アカスソ]] (José Acasuso) (アルゼンチン)
* [[デビッド・アダムズ]] (David Adams) (南アフリカ)
* [[アンドレ・アガシ]] (Andre Agassi) (アメリカ)
* [[ロナルド・アジェノール]] (Ronald Agenor) (ハイチ)
* [[カリム・アラミ]] (Karim Alami) (モロッコ)
* [[ラドゥ・アルボット]] (Radu Albot) (モルドバ)
* [[カルロス・アルカラス]] (Carlos Alcaraz) (スペイン)
* [[フレッド・アレクサンダー]] (Fred Alexander) (アメリカ)
* [[ジョン・アレクサンダー (テニス選手)|ジョン・アレクサンダー]] (John Alexander) (オーストラリア)
* [[ウィルマー・アリソン]] (Wilmer Allison) (アメリカ)
* [[ニコラス・アルマグロ]] (Nicolás Almagro) (スペイン)
* [[ホセ・マリア・アロンソ]] (José María Alonso) (スペイン)
* [[マニュエル・アロンソ]] (Manuel Alonso) (スペイン)
* [[ロビン・アマラーン]] (Robin Ammerlaan) (オランダ)
* [[ビジャイ・アムリトラジ]] (Vijay Amritraj) (インド)
* [[マリオ・アンチッチ]] (Mario Ančić) (クロアチア)
* [[ジェームズ・アンダーソン (テニス選手)|ジェームズ・アンダーソン]] (James Anderson) (オーストラリア)
* [[ケビン・アンダーソン]] (Kevin Anderson) (南アフリカ)
* [[マルコム・アンダーソン]] (Malcolm Anderson) (オーストラリア)
* [[イーゴリ・アンドレエフ]] (Igor Andreev) (ロシア)
* [[パブロ・アンドゥハール]] (Pablo Andújar) (スペイン)
* [[ポール・アナコーン]] (Paul Annacone) (アメリカ)
* [[青木岩雄]] (Iwao Aoki) (日本)
* [[ヒシャム・アラジ]] (Hicham Arazi) (モロッコ)
* [[ホルディ・アレッセ]] (Jordi Arrese) (スペイン)
* [[ヨージェフ・アシュボード]] (József Asbóth) (ハンガリー)
* [[アーサー・アッシュ]] (Arthur Ashe) (アメリカ)- 黒人の先駆者
* [[シーモン・アスペリン]] (Simon Aspelin) (スウェーデン)
* [[フェリックス・オジェ=アリアシム]] (Félix Auger-Aliassime) (カナダ)
* [[ヘンリー・オースチン]] (Henry Austin) (イングランド)
* [[ルイス・アヤラ]] (Luis Ayala) (チリ)
== B ==
* [[ハーバート・バデリー]] (Herbert Baddeley) (イングランド)
* [[ウィルフレッド・バデリー]] (Wilfred Baddeley) (イングランド)
* [[セバスティアン・バエス]](Sebastian Baez)(アルゼンチン)
* [[マルコス・バグダティス]] (Marcos Baghdatis) (キプロス)
* [[ファクンド・バグニス]] (Facundo Bagnis) (アルゼンチン)
* [[マンスール・バーラミ]] (Mansour Bahrami) (イラン)
* [[ピエール・バルト]] (Pierre Barthès) (フランス)
* [[ミルジャ・バシッチ]] (Mirza Bašić) (ボスニア・ヘルツェゴビナ)
* [[ニコロズ・バシラシビリ]] (Nikoloz Basilashvili) (ジョージア)
* [[ロベルト・バウティスタ・アグート]] (Roberto Bautista Agut) (スペイン)
* [[カロル・ベック]] (Karol Beck) (スロバキア)
* [[ベンヤミン・ベッカー]] (Benjamin Becker) (ドイツ)
* [[ボリス・ベッカー]] (Boris Becker) (ドイツ)
* [[アルヤジ・ベデネ]] (Aljaž Bedene) (スロベニア ←→ イギリス)
* [[カール・ベア]] (Karl Behr) (アメリカ)
* [[トマス・ベルッシ]] (Thomaz Bellucci) (ブラジル)
* [[ジュリアン・ベネトー]] (Julien Benneteau) (フランス)
* [[リカルダス・ベランキス]] (Ričardas Berankis) (リトアニア)
* [[アルベルト・ベラサテギ]] (Alberto Berasategui) (スペイン)
* [[トマーシュ・ベルディハ]] (Tomáš Berdych) (チェコ)
* [[レナート・ベルゲリン]] (Lennart Bergelin) (スウェーデン)
* [[カルロス・ベルロク]] (Carlos Berlocq) (アルゼンチン)
* [[マルセル・ベルナール]] (Marcel Bernard) (フランス)
* [[ミヒャエル・ベラー]] (Michael Berrer) (ドイツ)
* [[マッテオ・ベレッティーニ]] (Matteo Berrettini) (イタリア)
* [[マヘシュ・ブパシ]] (Mahesh Bhupathi) (インド)
* [[ヨナス・ビョルクマン]] (Jonas Björkman) (スウェーデン)
* [[バイロン・ブラック]] (Byron Black) (ジンバブエ)
* [[ウェイン・ブラック]] (Wayne Black) (ジンバブエ)
* [[ジェームズ・ブレーク (テニス選手)|ジェームズ・ブレーク]] (James Blake) (アメリカ)
* [[アレックス・ボゴモロフ・ジュニア]] (Alex Bogomolov Jr.) (アメリカ → ロシア)
* [[ジョン・ピウス・ボーランド]] (John Pius Boland) (アイルランド)
* [[シモーネ・ボレッリ]] (Simone Bolelli) (イタリア)
* [[ロハン・ボパンナ]] (Rohan Bopanna) (インド)
* [[ビョルン・ボルグ]] (Björn Borg) (スウェーデン)
* [[ジャン・ボロトラ]] (Jean Borotra) (フランス)
* [[ビル・ボウリー]] (Bill Bowrey) (オーストラリア)
* [[ジョン・ブロムウィッチ]] (John Bromwich) (オーストラリア)
* [[ノーマン・ブルックス]] (Norman Brookes) (オーストラリア)
* [[ジェンソン・ブルックスビー]](Jenson Brooksby)(アメリカ)
* [[ダスティン・ブラウン]] (Dustin Brown) (ジャマイカ → ドイツ)
* [[トム・ブラウン (テニス選手)|トム・ブラウン]] (Tom Brown) (アメリカ)
* [[ジャック・ブルニョン]] (Jacques Brugnon) (フランス)
* [[セルジ・ブルゲラ]] (Sergi Bruguera) (スペイン)
* [[ボブ・ブライアン]] (Bob Bryan) (アメリカ)
* [[マイク・ブライアン]] (Mike Bryan) (アメリカ)
* [[ドン・バッジ]] (Don Budge) (アメリカ)- テニス史上初の[[グランドスラム (テニス)|年間グランドスラム]]達成者
* [[ウィルヘルム・ブンゲルト]] (Wilhelm Bungert) (ドイツ)
* [[エリック・ブトラック]] (Eric Butorac) (アメリカ)
== C ==
* [[フアン・セバスティアン・カバル]] (Juan Sebastián Cabal) (コロンビア)
* [[ダレン・ケーヒル]] (Darren Cahill) (オーストラリア)
* [[アグスティン・カレリ]] (Agustín Calleri) (アルゼンチン)
* [[オリバー・キャンベル]] (Oliver Campbell) (アメリカ)
* [[ギリェルモ・カナス]] (Guillermo Cañas) (アルゼンチン)
* [[ロベルト・カルバリェス・バエナ]] (Roberto Carballés Baena) (スペイン)
* [[ケネス・カールセン]] (Kenneth Carlsen) (デンマーク)
* [[セルヒオ・カサル]] (Sergio Casal) (スペイン)
* [[パット・キャッシュ]] (Pat Cash) (オーストラリア)
* [[パブロ・カレーニョ・ブスタ]] (Pablo Carreño Busta) (スペイン)
* [[マルコ・チェッキナート]] (Marco Cecchinato) (イタリア)
* [[フランティシェク・チェルマク]] (František Čermák) (チェコ)
* [[フランシスコ・セルンドロ]] (Francisco Cerúndolo) (アルゼンチン)
* [[フアン・マヌエル・セルンドロ]] (Juan Manuel Cerúndolo) (アルゼンチン)
* [[マルコム・チェイス]] (Malcolm Chace) (アメリカ)
* [[マイケル・チャン]] (Michael Chang) (アメリカ)
* [[ジェレミー・シャルディー]] (Jérémy Chardy) (フランス)
* [[フアン・イグナシオ・チェラ]] (Juan Ignacio Chela) (アルゼンチン)
* [[アンドレイ・チェルカソフ]] (Andrei Cherkasov) (ソビエト連邦)
* [[アンドレイ・チェスノコフ]] (Andrei Chesnokov) (ソビエト連邦)
* [[マルコ・チウディネリ]] (Marco Chiudinelli) (スイス)
* [[鄭現]] (Hyeon Chung) (韓国)
* [[マリン・チリッチ]] (Marin Čilić) (クロアチア)
* [[クラレンス・クラーク]] (Clarence Clark) (アメリカ)
* [[ジョセフ・クラーク]] (Joseph Clark) (アメリカ)
* [[アルノー・クレマン]] (Arnaud Clément) (フランス)
* [[ホセ・ルイス・クレルク]] (José Luis Clerc) (アルゼンチン)
* [[ウィリアム・クローシャー]] (William Clothier) (アメリカ)
* [[アンリ・コシェ]] (Henri Cochet) (フランス)
* [[ジミー・コナーズ]] (Jimmy Connors) (アメリカ)
* [[エルウッド・クック]] (Elwood Cooke) (アメリカ)
* [[アシュレー・クーパー]] (Ashley Cooper) (オーストラリア)
* [[マリウス・コピル]] (Marius Copil) (ルーマニア)
* [[ギリェルモ・コリア]] (Guillermo Coria) (アルゼンチン)
* [[ボルナ・チョリッチ]] (Borna Ćorić) (クロアチア)
* [[アレックス・コレチャ]] (Álex Corretja) (スペイン)
* [[アルベルト・コスタ]] (Albert Costa) (スペイン)
* [[ジム・クーリエ]] (Jim Courier) (アメリカ)
* [[ゴットフリート・フォン・クラム]] (Gottfried von Cramm) (ドイツ)
* [[ジャック・クロフォード]] (Jack Crawford) (オーストラリア)
* [[パブロ・クエバス]] (Pablo Cuevas) (ウルグアイ)
* [[ケビン・カレン]] (Kevin Curren) (南アフリカ → アメリカ)
== D ==
* [[マルティン・ダム]] (Martin Damm) (チェコ)
* [[ダニエル太郎]] (Taro Daniel) (日本)
* [[スティーブ・ダルシス]] (Steve Darcis) (ベルギー)
* [[ピエール・ダーモン]] (Pierre Darmon) (フランス)
* [[オーウェン・デビッドソン]] (Owen Davidson) (オーストラリア)
* [[スベン・デビッドソン]] (Sven Davidson) (スウェーデン)
* [[アレハンドロ・ダビドビッチ・フォキナ]](Alejandro Davidvich Fokina)(スペイン)
* [[ドワイト・フィリー・デービス]] (Dwight Filley Davis) (アメリカ)- [[デビスカップ]]創設者
* [[スコット・デービス]] (Scott Davis) (アメリカ)
* [[ニコライ・ダビデンコ]] (Nikolay Davydenko) (ロシア)
* [[ティエモ・デ・バッカー]] (Thiemo de Bakker) (オランダ)
* [[マックス・デキュジス]] (Max Décugis) (フランス)
* [[フェデリコ・デルボニス]] (Federico Delbonis) (アルゼンチン)
* [[アメア・ディリック]] (Amer Delic) (アメリカ → ボスニア・ヘルツェゴビナ)
* [[フアン・マルティン・デル・ポトロ]] (Juan Martín del Potro) (アルゼンチン)
* [[アレックス・デミノー]] (Alex de Minaur) (オーストラリア)
* [[フィル・デント]] (Phil Dent) (オーストラリア)
* [[テーラー・デント]] (Taylor Dent) (アメリカ)
* [[スティーブ・デントン]] (Steve Denton) (アメリカ)
* [[ラスロ・ジェレ]] (Laslo Đere) (セルビア)
* [[ソムデブ・デブバルマン]] (Somdev Devvarman) (インド)
* [[アルノー・ディ・パスカル]] (Arnaud Di Pasquale) (フランス)
* [[グリゴール・ディミトロフ]] (Grigor Dimitrov) (ブルガリア)
* [[ルーカス・ドロウヒー]] (Lukáš Dlouhý) (チェコ)
* [[ジョン・ドエグ]] (John Doeg) (アメリカ)
* [[イワン・ドディグ]] (Ivan Dodig) (ボスニア・ヘルツェゴビナ → クロアチア)
* [[ローレンス・ドハティー]] (Laurence Doherty) (イングランド)
* [[レジナルド・ドハティー]] (Reginald Doherty) (イングランド)
* [[ノバク・ジョコビッチ]] (Novak Đoković) (セルビア)
* [[アレクサンドル・ドルゴポロフ]] (Alexandr Dolgopolov) (ウクライナ)
* [[ヤヒヤ・ドゥンビア]] (Yahiya Doumbia) (セネガル)
* [[ヤロスラフ・ドロブニー]] (Jaroslav Drobný) (チェコスロバキア)
* [[クリフ・ドリスデール]] (Cliff Drysdale) (南アフリカ)
* [[ジェームズ・ドワイト]] (James Dwight) (アメリカ)
* [[ダミル・ジュムール]] (Damir Džumhur) (ボスニアヘルツェゴビナ)
== E ==
* [[マシュー・エブデン]] (Matthew Ebden) (オーストラリア)
* [[ステファン・エドベリ]] (Stefan Edberg) (スウェーデン)
* [[マーク・エドモンドソン]] (Mark Edmondson) (オーストラリア)
* [[カイル・エドマンド]] (Kyle Edmund) (イギリス)
* [[江原弘泰]] (Hiroyasu Ehara) (日本)
* [[ユーネス・エル・アイナウイ]] (Younes El Aynaoui) (モロッコ)
* [[ヤッコ・エルティン]] (Jacco Eltingh) (オランダ)
* [[ロイ・エマーソン]] (Roy Emerson) (オーストラリア)
* [[トーマス・エンクビスト]] (Thomas Enqvist) (スウェーデン)
* [[ジョナサン・エルリック]] (Jonathan Erlich) (イスラエル)
* [[ニコラ・エスクード]] (Nicolas Escudé) (フランス)
* [[ビクトル・エステラ・ブルゴス]] (Víctor Estrella Burgos) (ドミニカ共和国)
* [[ピエール・エチュバステール]] (Pierre Etchebaster) (フランス)
* [[ダニエル・エバンス]] (Daniel Evans) (イギリス)
== F ==
* [[ボブ・ファルケンバーグ]] (Bob Falkenburg) (アメリカ → ブラジル)
* [[アレハンドロ・ファジャ]] (Alejandro Falla) (コロンビア)
* [[ロベルト・ファラ]] (Robert Farah) (コロンビア)
* [[ロジャー・フェデラー]] (Roger Federer) (スイス)
* [[ウェイン・フェレイラ]] (Wayne Ferreira) (南アフリカ)
* [[ダビド・フェレール]] (David Ferrer) (スペイン)
* [[フアン・カルロス・フェレーロ]] (Juan Carlos Ferrero) (スペイン)
* [[ヴォイチェフ・フィバク]] (Wojciech Fibak) (ポーランド)
* [[マルセロ・フィリピーニ]] (Marcelo Filippini) (ウルグアイ)
* [[アルトゥール・フィス]] (Arthur Fils) (フランス)
* [[マーディ・フィッシュ]] (Mardy Fish) (アメリカ)
* [[ジョン・フィッツジェラルド (テニス選手)|ジョン・フィッツジェラルド]] (John Fitzgerald) (オーストラリア)
* [[ケン・フラック]] (Ken Flach) (アメリカ)
* [[エドウィン・フラック]] (Edwin Flack) (オーストリア)
* [[ハーバート・フラム]] (Herbert Flam) (アメリカ)
* [[ピーター・フレミング]] (Peter Fleming) (アメリカ)
* [[ケン・フレッチャー]] (Ken Fletcher) (オーストラリア)
* [[ファビオ・フォニーニ]] (Fabio Fognini) (イタリア)
* [[ギー・フォルジェ]] (Guy Forget) (フランス)
* [[ハビエル・フラナ]] (Javier Frana) (アルゼンチン)
* [[ニール・フレーザー]] (Neale Fraser) (オーストラリア)
* [[テイラー・フリッツ]] (Taylor Fritz) (アメリカ)
* [[オットー・フロイツハイム]] (Otto Froitzheim) (ドイツ)
* [[マートン・フチョビッチ]] (Márton Fucsovics) (ハンガリー)
* [[福田雅之助]] (Masanosuke Fukuda) (日本)
* [[福井烈]] (Tsuyoshi Fukui) (日本)
* [[マリウシュ・フィルステンベルク]] (Mariusz Fyrstenberg) (ポーランド)
== G ==
* [[ティムラズ・ガバシュビリ]] (Teymuraz Gabashvili) (ロシア)
* [[ジャン=マイケル・ギャンビル]] (Jan-Michael Gambill) (アメリカ)
* [[ギリェルモ・ガルシア=ロペス]] (Guillermo García-López) (スペイン)
* [[チャールズ・ガーランド]] (Charles Garland) (アメリカ)
* [[リシャール・ガスケ]] (Richard Gasquet) (フランス)
* [[ユーゴ・ガストン]] (Hugo Gaston) (フランス)
* [[ガストン・ガウディオ]] (Gastón Gaudio) (アルゼンチン)
* [[リス・ゲメル]] (Rhys Gemmell) (オーストラリア)
* [[クリスチャン・ガリン]] (Cristian Garín) (チリ)
* [[モーリス・ジェルモー]] (Maurice Germot) (フランス)
* [[ビタス・ゲルレイティス]] (Vitas Gerulaitis) (アメリカ)
* [[サミー・ジアマルバ・ジュニア]] (Sammy Giammalva Jr.) (アメリカ)
* [[マルク・ジケル]] (Marc Gicquel) (フランス)
* [[ブラッド・ギルバート]] (Brad Gilbert) (アメリカ)
* [[アンドレス・ヒメノ]] (Andrés Gimeno) (スペイン)
* [[ロビー・ジネプリ]] (Robby Ginepri) (アメリカ)
* [[サンティアゴ・ヒラルド]] (Santiago Giraldo) (コロンビア)
* [[フアン・ヒスベルト]] (Juan Gisbert) (スペイン)
* [[キース・グレッドヒル]] (Keith Gledhill) (アメリカ)
* [[シュロモ・グリックスタイン]] (Shlomo Glickstein) (イスラエル)
* [[アンドレ・ゴベール]] (André Gobert) (フランス)
* [[マルク=ケビン・ゲルナー]] (Marc-Kevin Goellner) (ドイツ)
* [[ダビド・ゴファン]] (David Goffin) (ベルギー)
* [[ボルナ・ゴヨ]] (Borna Gojo) (クロアチア)
* [[ペーター・ゴヨフチク]] (Peter Gojowczyk) (ドイツ)
* [[アンドレイ・ゴルベフ]] (Andrey Golubev) (ロシア → カザフスタン)
* [[アンドレス・ゴメス]] (Andrés Gómez) (エクアドル)
* [[フェルナンド・ゴンサレス]] (Fernando González) (チリ)
* [[パンチョ・ゴンザレス]] (Pancho Gonzales) (アメリカ)
* [[サンティアゴ・ゴンサレス]] (Santiago González) (メキシコ)
* [[アーサー・ゴア]] (Arthur Gore) (イングランド)
* [[スペンサー・ゴア]] (Spencer Gore) (イングランド)- 第1回[[ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]優勝者
* [[ブライアン・ゴットフリート]] (Brian Gottfried) (アメリカ)
* [[ジェイ・グールド2世]] (Jay Gould II) (アメリカ)
* [[ジム・グラブ]] (Jim Grabb) (アメリカ)
* [[クラーク・グレーブナー]] (Clark Graebner) (アメリカ)
* [[マルセル・グラノリェルス]] (Marcel Granollers) (スペイン)
* [[ブライアン・グラント]] (Bryan Grant) (アメリカ)
* [[コリン・グレゴリー]] (Colin Gregory) (イングランド)
* [[タロン・フリークスポール]] (Tallon Griekspoor) (オランダ)
* [[クラレンス・グリフィン]] (Clarence Griffin) (アメリカ)
* [[セバスチャン・グロジャン]] (Sébastien Grosjean) (フランス)
* [[エルネスツ・ガルビス]] (Ernests Gulbis) (ラトビア)
* [[ティム・ガリクソン]] (Tim Gullikson) (アメリカ)
* [[トム・ガリクソン]] (Tom Gullikson) (アメリカ)
* [[ハインツ・ギュンタード]] (Heinz Günthardt) (スイス)
== H ==
* [[ポール・ハーフース]] (Paul Haarhuis) (オランダ)
* [[トミー・ハース]] (Tommy Haas) (ドイツ)
* [[ロビン・ハーセ]] (Robin Haase) (オランダ)
* [[ハロルド・ハケット]] (Harold Hackett) (アメリカ)
* [[フランク・ハドー]] (Frank Hadow) (イングランド)
* [[ヤン・ハジェク]] (Jan Hájek) (チェコ)
* [[デビッド・ホール (テニス選手)|デビッド・ホール]] (David Hall) (オーストラリア)
* [[ウィロビー・ハミルトン]] (Willoughby Hamilton) (アイルランド)
* [[ビクトル・ハネスク]] (Victor Hănescu) (ルーマニア)
* [[ポール・ハンリー]] (Paul Hanley) (オーストラリア)
* [[原田夏希 (テニス選手)|原田夏希]] (Natsuki Harada) (日本)
* [[原田武一]] (Takeichi Harada) (日本)
* [[針重敬喜]] (Keiki Harisige) (日本)
* [[ライアン・ハリソン]] (Ryan Harrison) (アメリカ)
* [[ジョン・ハートリー]] (John Hartley) (イングランド)
* [[ジョン・ホークス (テニス選手)|ジョン・ホークス]] (John Hawkes) (オーストラリア)
* [[ロドニー・ヒース]] (Rodney Heath) (オーストラリア)- 第1回[[全豪オープン]]優勝者
* [[ヘンナー・ヘンケル]] (Henner Henkel) (ドイツ)
* [[ティム・ヘンマン]] (Tim Henman) (イギリス)
* [[ピエール=ユーグ・エルベール]] (Pierre-Hugues Herbert) (フランス)
* [[ヤン・ヘルニチ]] (Jan Hernych) (チェコ)
* [[ボブ・ヒューイット]] (Bob Hewitt) (オーストラリア → 南アフリカ)
* [[レイトン・ヒューイット]] (Lleyton Hewitt) (オーストラリア)
* [[ホセ・ヒゲラス]] (José Higueras) (スペイン)
* [[ヤコブ・ラセク]] (Jakob Hlasek) (スイス)
* [[ルー・ホード]] (Lew Hoad) (オーストラリア)
* [[ハリー・ホップマン]] (Harry Hopman) (オーストラリア)
* [[ルイス・オルナ]] (Luis Horna) (ペルー)
* [[ステファン・ウデ]] (Stéphane Houdet) (フランス)
* [[フレッド・ホビー]] (Fred Hovey) (アメリカ)
* [[ドミニク・フルバティ]] (Dominik Hrbatý) (スロバキア)
* [[トレト・ユーイ]] (Treat Huey) (フィリピン)
* [[ジョー・ハント]] (Joe Hunt) (アメリカ)
* [[フランシス・ハンター]] (Francis Hunter) (アメリカ)
* [[フベルト・フルカチュ]] (Hubert Hurkacz) (ポーランド)
* [[ステファン・フース]] (Stephen Huss) (オーストラリア)
== I ==
* [[マルセル・イルハン]] (Marsel İlhan) (トルコ)
* [[石黒修]] (Osamu Ishiguro) (日本)
* [[ジョン・イスナー]] (John Isner) (アメリカ)
* [[デニス・イストミン]] (Denis Istomin) (ウズベキスタン)
* [[伊藤竜馬]] (Tatsuma Ito) (日本)
* [[ゴラン・イワニセビッチ]] (Goran Ivanišević) (クロアチア)
* [[岩渕聡]] (Satoshi Iwabuchi) (日本)
== J ==
* [[イェジ・ヤノヴィッツ]] (Jerzy Janowicz) (ポーランド)
* [[ニコラス・ジャリー]] (Nicolás Jarry) (チリ)
* [[アンダース・ヤリード]] (Anders Järryd) (スウェーデン)
* [[マレク・ジャジリ]] (Malek Jaziri) (チュニジア)
* [[ミカエル・ジェレミアス]] (Michaël Jérémiasz) (フランス)
* [[ヨアキム・ヨハンソン]] (Joachim Johansson) (スウェーデン)
* [[トーマス・ヨハンソン]] (Thomas Johansson) (スウェーデン)
* [[スティーブ・ジョンソン (テニス選手)|スティーブ・ジョンソン]] (Steve Johnson) (アメリカ)
* [[ビル・ジョンストン]] (Bill Johnston) (アメリカ)
== K ==
* [[エフゲニー・カフェルニコフ]] (Yevgeny Kafelnikov) (ロシア)
* [[カレン・ハチャノフ]] (Karen Khachanov) (ロシア)
* [[神和住純]] (Jun Kamiwazumi) (日本)
* [[加茂公成]] (Kosei Kamo) (日本)
* [[金子英樹 (テニス選手)|金子英樹]] (Hideki Kaneko) (日本)
* [[イボ・カロビッチ]] (Ivo Karlović) (クロアチア)
* [[ディオニシオス・カスダリス]] (Dionysios Kasdaglis) (エジプト・ギリシャ)<!--各言語版共に両国併記だったのでそれに倣う-->
* [[柏尾誠一郎]] (Seiichiro Kashio) (日本)
* [[ミオミル・ケツマノビッチ]] (Miomir Kecmanović) (セルビア)
* [[ニコラス・キッカー]] (Nicolás Kicker) (アルゼンチン)
* [[ニコラス・キーファー]] (Nicolas Kiefer) (ドイツ)
* [[金奉洙]] (Kim Bong-soo) (韓国)
* [[アルガーノン・キングスコート]] (Algernon Kingscote) (イングランド)
* [[ハワード・キンゼイ]] (Howard Kinsey) (アメリカ)
* [[アレクサンダー・キティノフ]] (Aleksandar Kitinov) (マケドニア)
* [[ハロルド・キトソン]] (Harold Kitson) (南アフリカ)
* [[レイベン・クラーセン]] (Raven Klaasen) (南アフリカ)
* [[マルティン・クリザン]] (Martin Kližan) (スロバキア)
* [[ユリアン・ノール]] (Julian Knowle) (オーストリア)
* [[マーク・ノールズ]] (Mark Knowles) (バハマ)
* [[ヤン・コデシュ]] (Jan Kodeš) (チェコスロバキア)
* [[フィリップ・コールシュライバー]] (Philipp Kohlschreiber) (ドイツ)
* [[タナシ・コッキナキス]] (Thanashi Kokkinakis) (オーストラリア)
* [[ヘンリ・コンティネン]] (Henri Kontinen) (フィンランド)
* [[ペトル・コルダ]] (Petr Korda) (チェコ)
* [[セバスチャン・コルダ]] (Sebastian Korda) (アメリカ)
* [[エフゲニー・コロレフ]] (Evgeny Korolev) (ロシア → カザフスタン)
* [[リカルト・クライチェク]] (Richard Krajicek) (オランダ)
* [[ボアズ・クレーメル]] (Boaz Kremer) (イスラエル)
* [[フィリプ・クライノビッチ]] (Filip Krajinović) (セルビア)
* [[ジャック・クレーマー]] (Jack Kramer) (アメリカ)
* [[オスカー・クロイツァー]] (Oscar Kreuzer) (ドイツ)
* [[アーロン・クリックステイン]] (Aaron Krickstein) (アメリカ)
* [[ヨハン・クリーク]] (Johan Kriek) (南アフリカ → アメリカ)
* [[ラメシュ・クリシュナン]] (Ramesh Krishnan) (インド)
* [[タデウス・クルシェルニツキ]] (Tadeusz Kruszelnicki) (ポーランド)
* [[ルカシュ・クボット]] (Łukasz Kubot) (ポーランド)
* [[カロル・クチェラ]] (Karol Kučera) (スロバキア)
* [[デニス・クドラ]] (Denis Kudla) (アメリカ)
* [[グスタボ・クエルテン]] (Gustavo Kuerten) (ブラジル)
* [[九鬼潤]] (Jun Kuki) (日本)
* [[ミハイル・ククシュキン]] (Mikhail Kukushkin) (ロシア → カザフスタン)
* [[ニクラス・クルティ]] (Nicklas Kulti) (スウェーデン)
* [[熊谷一弥]] (Ichiya Kumagae) (日本)
* [[隈丸次郎]] (Jiro Kumamaru) (日本)
* [[国枝慎吾]] (Shingo Kunieda) (日本)
* [[イーゴリ・クニツィン]] (Igor Kunitsyn) (ロシア)
* [[アンドレイ・クズネツォフ]] (Andrey Kuznetsov) (ロシア)
* [[權順宇]] (Soonwoo Kwon) (韓国)
* [[ニック・キリオス]] (Nick Kyrgios) (オーストラリア)
== L ==
* [[イラクリ・ラバーゼ]] (Irakli Labadze) (ジョージア)
* [[ルネ・ラコステ]] (René Lacoste) (フランス)
* [[ルカシュ・ラツコ]] (Lukáš Lacko) (スロバキア)
* [[ドゥシャン・ラヨビッチ]] (Dušan Lajović) (セルビア)
* [[ニコラス・ラペンティ]] (Nicolás Lapentti) (エクアドル)
* [[セバスチャン・ラルー]] (Sébastien Lareau) (カナダ)
* [[ウィリアム・ラーンド]] (William Larned) (アメリカ)
* [[アーサー・ラーセン]] (Arthur Larsen) (アメリカ)
* [[ロッド・レーバー]] (Rod Laver) (オーストラリア)- 男子テニス史上2人目の[[グランドスラム (テニス)|年間グランドスラム]]達成者
* [[ハーバート・ローフォード]] (Herbert Lawford) (イングランド)
* [[リック・リーチ]] (Rick Leach) (アメリカ)
* [[アンリ・ルコント]] (Henri Leconte) (フランス)
* [[李亨澤]] (Lee Hyung-taik) (韓国)
* [[イジー・レヘチカ]] (Jiří Lehečka) (チェコ)
* [[イワン・レンドル]] (Ivan Lendl) (チェコスロバキア → アメリカ)
* [[エドガー・レナード]] (Edgar Leonard) (アメリカ)
* [[ロバート・ルロイ]] (Robert LeRoy) (アメリカ)
* [[クリス・ルイス]] (Chris Lewis) (ニュージーランド)
* [[ヤロスラフ・レビンスキー]] (Jaroslav Levinský) (チェコ)
* [[ロベルト・リンドステット]] (Robert Lindstedt) (スウェーデン)
* [[スコット・リプスキー]] (Scott Lipsky) (アメリカ)
* [[ジャン=ルネ・リスナール]] (Jean-René Lisnard) (フランス → モナコ)
* [[イワン・リュビチッチ]] (Ivan Ljubičić) (クロアチア)
* [[ミカエル・ロドラ]] (Michaël Llodra) (フランス)
* [[ジョン・ロイド]] (John Lloyd) (イギリス)
* [[フアン・イグナシオ・ロンデロ]] (Juan Ignacio Lóndero) (アルゼンチン)
* [[パオロ・ロレンツィ]] (Paolo Lorenzi) (イタリア)
* [[フェリシアーノ・ロペス]] (Feliciano López) (スペイン)
* [[マルク・ロペス]] (Marc López) (スペイン)
* [[ジョージ・ロット]] (George Lott) (アメリカ)
* [[ゴードン・ロウ]] (Gordon Lowe) (イングランド)
* [[盧彦勳]] (Yen-Hsun Lu) (台湾)
* [[林宝華]] (Lum Pao-Hua) (中国)
* [[ピーター・ルクザック]] (Peter Luczak) (オーストラリア)
* [[ピーター・ルンドグレン]] (Peter Lundgren) (スウェーデン)
* [[ランドルフ・ライセット]] (Randolph Lycett) (イギリス)
== M ==
* [[トマーシュ・マハーチ|トマス・マハチュ]] (Tomáš Macháč) (チェコ)
* [[ハロルド・マホニー]] (Harold Mahony) (アイルランド)
* [[ニコラ・マユ]] (Nicolas Mahut) (フランス)
* [[ジーン・マコ]] (Gene Mako) (アメリカ)
* [[グザビエ・マリス]] (Xavier Malisse) (ベルギー)
* [[セシル・マミート]] (Cecil Mamiit) (フィリピン)
* [[アドリアン・マナリノ]] (Adrian Mannarino) (フランス)
* [[アモス・マンスドルフ]] (Amos Mansdorf) (イスラエル)
* [[フェリックス・マンティーリャ]] (Félix Mantilla) (スペイン)
* [[オリバー・マラチ]] (Oliver Marach) (オーストリア)
* [[フアン・アントニオ・マリン]] (Juan Antonio Marín) (コスタリカ)
* [[ジョン・マークス]] (John Marks) (オーストラリア)
* [[マクシミリアン・マーテラー]] (Maximilian Marterer) (ドイツ)
* [[アラステア・マーティン]] (Alastair Martin) (アメリカ)
* [[アルベルト・マルティン]] (Alberto Martín) (スペイン)
* [[トッド・マーティン]] (Todd Martin) (アメリカ)
* [[ニコラス・マスー]] (Nicolás Massú) (チリ)
* [[増田健太郎]] (Kentaro Masuda) (日本)
* [[ポール=アンリ・マチュー]] (Paul-Henri Mathieu) (フランス)
* [[マルチン・マトコフスキ]] (Marcin Matkowski) (ポーランド)
* [[マリンコ・マトセビッチ]] (Marinko Matosevic) (オーストラリア)
* [[松井俊英]] (Toshihide Matsui) (日本)
* [[松本武雄]] (Takeo Matsumoto) (日本)
* [[松岡修造]] (Shuzo Matsuoka) (日本)
* [[フロリアン・マイヤー]] (Florian Mayer) (ドイツ)
* [[レオナルド・マイエル]] (Leonardo Mayer) (アルゼンチン)
* [[ティム・メイヨット]] (Tim Mayotte) (アメリカ)
* [[マッケンジー・マクドナルド]] (Mackenzie McDonald) (アメリカ)
* [[ジョン・マッケンロー]] (John McEnroe) (アメリカ)
* [[パトリック・マッケンロー]] (Patrick McEnroe) (アメリカ)
* [[ビビアン・マグラス]] (Vivian McGrath) (オーストラリア)
* [[ケン・マグレガー]] (Ken McGregor) (オーストラリア)
* [[チャック・マッキンリー]] (Chuck McKinley) (アメリカ)
* [[マクラクラン勉]] (Ben McLachlan) (ニュージーランド → 日本)
* [[モーリス・マクローリン]] (Maurice McLoughlin) (アメリカ)
* [[フルー・マクミラン]] (Frew McMillan) (南アフリカ)
* [[ピーター・マクナマラ]] (Peter McNamara) (オーストラリア)
* [[ポール・マクナミー]] (Paul McNamee) (オーストラリア)
* [[ドン・マクニール]] (Don McNeill) (アメリカ)
* [[ミロスラフ・メチージュ]] (Miloslav Mečíř) (チェコスロバキア)
* [[アンドレイ・メドベデフ]] (Andrei Medvedev) (ウクライナ)
* [[ダニール・メドベージェフ]] (Daniil Medvedev) (ロシア)
* [[フロリン・メルジェ]] (Florin Mergea) (ルーマニア)
* [[フェルナンド・メリジェニ]] (Fernando Meligeni) (ブラジル)
* [[フェリペ・メリジェニ・アウベス]] (Felipe Meligeni Alves) (ブラジル)
* [[マルセロ・メロ]] (Marcelo Melo) (ブラジル)
* [[ユルゲン・メルツァー]] (Jürgen Melzer) (オーストリア)
* [[ロデリク・メンツェル]] (Roderich Menzel) (チェコスロバキア → ドイツ)
* [[アレックス・メトレベリ]] (Alex Metreveli) (ソビエト連邦)
* [[グレン・ミチバタ]] (Glenn Michibata) (カナダ)
* [[ユースタス・マイルズ]] (Eustace Miles) (イギリス)
* [[ジョン・ミルマン]] (John Millman) (オーストラリア)
* [[三神八四郎]] (Hachishiro Mikami) (日本)
* [[三木龍喜]] (Tatsuyoshi Miki) (日本)
* [[イボ・ミナール]] (Ivo Minář) (チェコ)
* [[マックス・ミルヌイ]] (Max Mirnyi) (ベラルーシ)
* [[三橋淳 (テニス選手)|三橋淳]] (Jun Mitsuhashi) (日本)
* [[宮城淳]] (Atsushi Miyagi) (日本)
* [[望月慎太郎]] (Shintaro Mochizuki) (日本)
* [[フアン・モナコ]] (Juan Mónaco) (アルゼンチン)
* [[ガエル・モンフィス]] (Gaël Monfils) (フランス)
* [[アルベルト・モンタニェス]] (Albert Montañés) (スペイン)
* [[ウェスリー・ムーディ]] (Wesley Moodie) (南アフリカ)
* [[エドガー・ムーン]] (Edgar Moon) (オーストラリア)
* [[エンリケ・モレア]] (Enrique Morea) (アルゼンチン)
* [[守屋宏紀]] (Hiroki Moriya) (日本)
* [[ウンベルト・デ・モルプルゴ]] (Umberto de Morpurgo) (イタリア)
* [[本村剛一]] (Gouichi Motomura) (日本)
* [[カルロス・モヤ]] (Carlos Moyá) (スペイン)
* [[ジョバンニ・ペトシ・ペリカール]] (Giovanni Mpetshi Perricard) (フランス)
* [[アレクサンドル・ミュレ]] (Alexandre Müller) (フランス)
* [[ジレ・ミュラー]] (Gilles Müller) (ルクセンブルク)
* [[マーティン・マリガン]] (Martin Mulligan) (オーストラリア)
* [[ガードナー・ムロイ]] (Gardnar Mulloy) (アメリカ)
* [[ハウメ・ムナル]] (Jaume Munar) (スペイン)
* [[村上武資]] (Takeshi Murakami) (日本)
* [[アンディ・マリー]] (Andy Murray) (イギリス)
* [[ジェイミー・マリー]] (Jamie Murray) (イギリス)
* [[リンドレイ・マレー]] (Lindley Murray) (アメリカ)
* [[ロレンツォ・ムゼッティ]](Lorenzo Musetti)(イタリア)
* [[トーマス・ムスター]] (Thomas Muster) (オーストリア)
== N ==
* [[ラファエル・ナダル]] (Rafael Nadal) (スペイン)
* [[中川直樹]] (Naoki Nakagawa) (日本)
* [[中野文照]] (Fumiteru Nakano) (日本)
* [[ダビド・ナルバンディアン]] (David Nalbandian) (アルゼンチン)
* [[イリ・ナスターゼ]] (Ilie Năstase) (ルーマニア)
* [[ダニエル・ネスター]] (Daniel Nestor) (カナダ)
* [[ジョン・ニューカム]] (John Newcombe) (オーストラリア)
* [[フレデリク・ニールセン]] (Frederik Nielsen) (デンマーク)
* [[クルト・ニールセン]] (Kurt Nielsen) (デンマーク)
* [[ヤルコ・ニエミネン]] (Jarkko Nieminen) (フィンランド)
* [[仁木拓人]] (Takuto Niki) (日本)
* [[ナサニエル・ナイルズ]] (Nathaniel Niles) (アメリカ)
* [[西岡良仁]] (Yoshihito Nishioka) (日本)
* [[錦織圭]] (Kei Nishikori) (日本)
* [[ヤニック・ノア]] (Yannick Noah) (フランス)
* [[ディック・ノーマン]] (Dick Norman) (ベルギー)
* [[マグヌス・ノーマン]] (Magnus Norman) (スウェーデン)
* [[キャメロン・ノリー]] (Cameron Norrie) (イギリス)
* [[ブライアン・ノートン]] (Brian Norton) (南アフリカ)
* [[カレル・ノバチェク]] (Karel Nováček) (チェコ)
* [[イジー・ノバク]] (Jiří Novák) (チェコ)
* [[布井良助]] (Ryosuke Nunoi) (日本)
== O ==
* [[アレックス・オブライエン]] (Alex O'Brien) (アメリカ)
* [[ウェイン・オデスニク]] (Wayne Odesnik) (アメリカ)
* [[エンドゥカ・オディゾール]] (Nduka Odizor) (ナイジェリア)
* [[アーサー・オハラウッド]] (Arthur O'Hara Wood) (オーストラリア)
* [[パット・オハラウッド]] (Pat O'Hara Wood) (オーストラリア)
* [[トム・オッカー]] (Tom Okker) (オランダ)
* [[アンドレイ・オルホフスキー]] (Andrei Olhovskiy) (ロシア)
* [[アレックス・オルメド]] (Alex Olmedo) (ペルー)
* [[小ノ澤新]] (Arata Onozawa) (日本)
* [[メノ・オースティング]] (Menno Oosting) (オランダ)
* [[ライリー・オペルカ]] (Reilly Opelka) (アメリカ)
* [[マニュエル・オランテス]] (Manuel Orantes) (スペイン)
* [[ラファエル・オスナ]] (Rafael Osuna) (メキシコ)
== P ==
* [[リーンダー・パエス]] (Leander Paes) (インド)
* [[ディニー・ペイルズ]] (Dinny Pails) (オーストラリア)
* [[ブノワ・ペール]] (Benoît Paire) (フランス)
* [[ジャレッド・パーマー]] (Jared Palmer) (アメリカ)
* [[アドリアーノ・パナッタ]] (Adriano Panatta) (イタリア)
* [[ジェームズ・セシル・パーク]] (James Cecil Parke) (アイルランド)
* [[アーニー・パーカー]] (Ernie Parker) (オーストラリア)
* [[フランク・パーカー]] (Frank Parker) (アメリカ)
* [[ブラッド・パークス]] (Brad Parks) (アメリカ)
* [[トラビス・パロット]] (Travis Parrott) (アメリカ)
* [[オニー・パルン]] (Onny Parun) (ニュージーランド)
* [[チャーリー・パサレル]] (Charlie Pasarell) (プエルトリコ)
* [[ジェラルド・パターソン]] (Gerald Patterson) (オーストラリア)
* [[バッジ・パティー]] (Budge Patty) (アメリカ)
* [[トミー・ポール (テニス選手)|トミー・ポール]](Tommy Paul)(アメリカ)
* [[アンドレイ・パベル]] (Andrei Pavel) (ルーマニア)
* [[マテ・パビッチ]] (Mate Pavić) (クロアチア)
* [[ビクトル・ペッチ]] (Victor Pecci) (パラグアイ)
* [[ジョン・ピアース]] (John Peers) (オーストラリア)
* [[ギド・ペラ]] (Guido Pella) (アルゼンチン)
* [[ミカエル・ペルンフォルス]] (Mikael Pernfors) (スウェーデン)
* [[フレッド・ペリー]] (Fred Perry) (イングランド)
* [[イボン・ペトラ]] (Yvon Petra) (フランス)
* [[トム・ペティット]] (Tom Pettitt) (アメリカ)
* [[フィリップ・ペッシュナー]] (Philipp Petzschner) (ドイツ)
* [[アレクサンダー・ペヤ]] (Alexander Peya) (オーストリア)
* [[マーク・フィリプーシス]] (Mark Philippoussis) (オーストラリア)
* [[ニコラ・ピエトランジェリ]] (Nicola Pietrangeli) (イタリア)
* [[ニコラ・ピリッチ]] (Nikola Pilić) (ユーゴスラビア → 現クロアチア)
* [[ジョシュア・ピム]] (Joshua Pim) (アイルランド)
* [[セドリック・ピオリーン]] (Cédric Pioline) (フランス)
* [[クリスチャン・プレス]] (Kristian Pless) (デンマーク)
* [[アレクセイ・ポピリン]] (Alexei Popyrin) (オーストラリア)
* [[バセク・ポシュピシル]] (Vasek Pospisil) (カナダ)
* [[リュカ・プイユ]] (Lucas Pouille) (フランス)
* [[アンドレ・プレボー]] (André Prévost) (フランス)
* [[デビッド・プリノジル]] (David Prinosil) (ドイツ)
* [[ミハル・プシシェズニ]] (Michał Przysiężny) (ポーランド)
* [[マリアノ・プエルタ]] (Mariano Puerta) (アルゼンチン)
== Q ==
* [[サム・クエリー]] (Sam Querrey) (アメリカ)
* [[エイドリアン・クイスト]] (Adrian Quist) (オーストラリア)
== R ==
* [[パトリック・ラフター]] (Patrick Rafter) (オーストラリア)
* [[ウパーリ・ラジャカルナ]] (Upali Rajakaruna) (スリランカ)
* [[デニス・ラルストン]] (Dennis Ralston) (アメリカ)
* [[アンディ・ラム]] (Andy Ram) (イスラエル)
* [[ラジーブ・ラム]] (Rajeev Ram) (アメリカ)
* [[ラウル・ラミレス]] (Raúl Ramírez) (メキシコ)
* [[ミロシュ・ラオニッチ]] (Milos Raonic) (カナダ)
* [[ルイス・レイモンド]] (Louis Raymond) (南アフリカ)
* [[リッチー・レネバーグ]] (Richey Reneberg) (アメリカ)
* [[アーネスト・レンショー]] (Ernest Renshaw) (イングランド)
* [[ウィリアム・レンショー]] (William Renshaw) (イングランド)
* [[ホーレス・ライス]] (Horace Rice) (オーストラリア)
* [[ハミルトン・リチャードソン]] (Hamilton Richardson) (アメリカ)
* [[マーティー・リーセン]] (Marty Riessen) (アメリカ)
* [[ボビー・リッグス]] (Bobby Riggs) (アメリカ)
* [[ビンセント・リチャーズ]] (Vincent Richards) (アメリカ)
* [[マルセロ・リオス]] (Marcelo Ríos) (チリ)
* [[フランク・ライスリー]] (Frank Riseley) (イングランド)
* [[ジョシア・リッチー]] (Josiah Ritchie) (イングランド)
* [[アンドレイ・ルブレフ]] (Andrey Rublev) (ロシア)
* [[マイケル・ラッセル]] (Michael Russell) (アメリカ)
* [[ステファン・ロベール]] (Stéphane Robert) (フランス)
* [[トミー・ロブレド]] (Tommy Robredo) (スペイン)
* [[トニー・ローチ]] (Tony Roche) (オーストラリア)
* [[オリビエ・ロクス]] (Olivier Rochus) (ベルギー)
* [[アンディ・ロディック]] (Andy Roddick) (アメリカ)
* [[エドゥアール・ロジェ=バセラン]] (Édouard Roger-Vasselin) (フランス)
* [[ジャン=ジュリアン・ロジェ]] (Jean-Julien Rojer) (オランダ領アンティル → オランダ)
* [[メルビン・ローズ]] (Mervyn Rose) (オーストラリア)
* [[ケン・ローズウォール]] (Ken Rosewall) (オーストラリア)
* [[ルカシュ・ロソル]] (Lukáš Rosol) (チェコ)
* [[マルク・ロセ]] (Marc Rosset) (スイス)
* [[ホルガ・ルーネ]](Holger Rune)(デンマーク)
* [[グレグ・ルーゼドスキー]] (Greg Rusedski) (イギリス)
* [[キャスパー・ルード]] (Casper Ruud) (ノルウェー)
== S ==
* [[アンドレ・サ]] (André Sá) (ブラジル)
* [[ジョン・サドリ]] (John Sadri) (アメリカ)
* [[マラト・サフィン]] (Marat Safin) (ロシア)
* [[齋田悟司]] (Satoshi Saida) (日本)
* [[坂井利郎]] (Toshiro Sakai) (日本)
* [[ピート・サンプラス]] (Pete Sampras) (アメリカ)
* [[エミリオ・サンチェス]] (Emilio Sánchez) (スペイン)
* [[ハビエル・サンチェス]] (Javier Sánchez) (スペイン)
* [[テニーズ・サンドグレン]] (Tennys Sandgren) (アメリカ)
* [[マニュエル・サンタナ]] (Manuel Santana) (スペイン)
* [[ファブリス・サントロ]] (Fabrice Santoro) (フランス)
* [[サルギス・サルグシアン]] (Sargis Sargsian) (アルメニア)
* [[佐藤博康]] (Hiroyasu Sato) (日本)
* [[佐藤次郎]] (Jiro Sato) (日本)
* [[ディック・サビット]] (Dick Savitt) (アメリカ)
* [[チャン・シャルケン]] (Sjeng Schalken) (オランダ)
* [[マイケル・シェファース]] (Maikel Scheffers) (オランダ)
* [[ウルフ・シュミット]] (Ulf Schmidt) (スウェーデン)
* [[ハインリヒ・ションブルク]] (Heinrich Schomburgk) (ドイツ)
* [[テッド・シュローダー]] (Ted Schroeder) (アメリカ)
* [[ライナー・シュットラー]] (Rainer Schüttler) (ドイツ)
* [[エドゥアルド・シュワンク]] (Eduardo Schwank) (アルゼンチン)
* [[ディエゴ・シュワルツマン]] (Diego Schwartzman) (アルゼンチン)
* [[ジーン・スコット (テニス選手)|ジーン・スコット]] (Gene Scott) (アメリカ)
* [[リチャード・シアーズ]] (Richard Sears) (アメリカ)- 第1回[[全米オープン (テニス)|全米オープン]]優勝者
* [[フランク・セッジマン]] (Frank Sedgman) (オーストラリア)
* [[ロバート・セグソ]] (Robert Seguso) (アメリカ)
* [[ビック・セイシャス]] (Vic Seixas) (アメリカ)
* [[関口周一]] (Shuichi Sekiguchi) (日本)
* [[ドゥディ・セラ]] (Dudi Sela) (イスラエル)
* [[アンドレアス・セッピ]] (Andreas Seppi) (イタリア)
* [[フローラン・セラ]] (Florent Serra) (フランス)
* [[チアゴ・ザイボチ・ヴィウチ]] (Thiago Seyboth Wild) (ブラジル)
* [[デニス・シャポバロフ]] (Denis Shapovalov) (カナダ)
* [[ベン・シェルトン]] (Ben Shelton) (アメリカ)
* [[フランク・シールズ]] (Frank Shields) (アメリカ)
* [[島袋将]] (Sho Shimabukuro) (日本)
* [[トーマス嶋田]] (Thomas Shimada) (日本)
* [[清水悠太]] (Yuta Shimizu) (日本)
* [[清水善造]] (Zenzo Shimizu) (日本)
* [[白石正三]] (Syouzo Shiraishi) (日本)
* [[イゴル・セイスリンフ]] (Igor Sijsling) (オランダ)
* [[ジル・シモン]] (Gilles Simon) (フランス)
* [[ヤニック・シナー]] (Jannik Sinner) (イタリア)
* [[オーランド・シロラ]] (Orlando Sirola) (イタリア)
* [[ホルスト・スコッフ]] (Horst Skoff) (オーストリア)
* [[ヘンリー・スローカム]] (Henry Slocum) (アメリカ)
* [[パベル・スロジル]] (Pavel Slozil) (チェコスロバキア)
* [[トマシュ・スミッド]] (Tomáš Šmíd) (チェコスロバキア)
* [[シドニー・スミス (テニス選手)|シドニー・スミス]] (Sidney Smith) (イングランド)
* [[スタン・スミス]] (Stan Smith) (アメリカ)
* [[ブルーノ・ソアレス]] (Bruno Soares) (ブラジル)
* [[ジャック・ソック]] (Jack Sock) (アメリカ)
* [[ロビン・セーデリング]] (Robin Söderling) (スウェーデン)
* [[添田豪]] (Go Soeda) (日本)
* [[ハロルド・ソロモン]] (Harold Solomon) (アメリカ)
* [[ジョアン・ソウザ]] (João Sousa) (ポルトガル)
* [[ロレンツォ・ソネゴ]] (Lorenzo Sonego) (イタリア)
* [[ビンセント・スペイディア]] (Vincent Spadea) (アメリカ)
* [[フランコ・スキラーリ]] (Franco Squillari) (アルゼンチン)
* [[パラドーン・スリチャパン]] (Paradorn Srichaphan) (タイ)
* [[セルジー・スタホフスキー]] (Sergiy Stakhovsky) (ウクライナ)
* [[ポティート・スタラーチェ]] (Potito Starace) (イタリア)
* [[ジョナサン・スターク]] (Jonathan Stark) (アメリカ)
* [[ジョルジオ・デ・ステファーニ]] (Giorgio de Stefani) (イタリア)
* [[ラデク・ステパネク]] (Radek Štěpánek) (チェコ)
* [[ミヒャエル・シュティヒ]] (Michael Stich) (ドイツ)
* [[フレッド・ストール]] (Fred Stolle) (オーストラリア)
* [[サンドン・ストール]] (Sandon Stolle) (オーストラリア)
* [[ジェイソン・ストルテンバーグ]] (Jason Stoltenberg) (オーストラリア)
* [[ヤン=レナルト・シュトルフ]] (Jan-Lennard Struff) (ドイツ)
* [[エリック・スタージェス]] (Eric Sturgess) (南アフリカ)
* [[杉田祐一]] (Yuichi Sugita) (日本)
* [[シリル・スーク]] (Cyril Suk) (チェコ)
* [[鈴木貴男]] (Takao Suzuki) (日本)
* [[ライアン・スウィーティング]] (Ryan Sweeting) (バハマ → アメリカ)
== T ==
* [[高田充]] (Mitsuru Takada) (日本)
* [[高橋悠介]] (Yusuke Takahashi) (日本)
* [[ビル・タルバート]] (Bill Talbert) (アメリカ)
* [[谷澤英彦]] (Hidehiko Tanizawa) (日本)
* [[ロスコー・タナー]] (Roscoe Tanner) (アメリカ)
* [[ジェフ・タランゴ]] (Jeff Tarango) (アメリカ)
* [[ブライアン・ティーチャー]] (Brian Teacher) (アメリカ)
* [[ホリア・テカウ]] (Horia Tecău) (ルーマニア)
* [[寺地貴弘]] (Takahiro Terachi) (日本)
* [[ドミニク・ティーム]] (Dominic Thiem) (オーストリア)
* [[ジョーダン・トンプソン]] (Jordan Thompson) (オーストラリア)
* [[フランシス・ティアフォー]] (Frances Tiafoe) (アメリカ)
* [[ビル・チルデン]] (Bill Tilden) (アメリカ)
* [[ヤンコ・ティプサレビッチ]] (Janko Tipsarević) (セルビア)
* [[イオン・ティリアック]] (Ion Ţiriac) (ルーマニア)
* [[ヘンドリク・ティマー]] (Hendrik Timmer) (オランダ)
* [[バーナード・トミック]] (Bernard Tomic) (オーストラリア)
* [[トニー・トラバート]] (Tony Trabert) (アメリカ)
* [[フリードリヒ・トラウン]] (Friedrich Traun) (ドイツ)
* [[ビクトル・トロイツキ]] (Viktor Troicki) (セルビア)
* [[曾俊欣]] (Tseng Chun-hsin) (台湾)
* [[ジョー=ウィルフリード・ツォンガ]] (Jo-Wilfried Tsonga) (フランス)
* [[ステファノス・チチパス]] (Stefanos Tsitsipas) (ギリシャ)
* [[土橋登志久]] (Toshihisa Tsuchihashi) (日本)
* [[辻野隆三]] (Ryuso Tsujino) (日本)
* [[ドミトリー・トゥルスノフ]] (Dmitry Tursunov) (ロシア)
== U ==
* [[内田海智]] (Kaichi Uchida) (日本)
* [[内山靖崇]] (Yasutaka Uchiyama) (日本)
* [[ケビン・ウリエット]] (Kevin Ullyett) (ジンバブエ)
* [[トルベン・ウルリッヒ]] (Torben Ulrich) (デンマーク)
== V ==
* [[ダニエル・バチェク]] (Daniel Vacek) (チェコ)
* [[マリアン・バイダ]] (Marián Vajda) (チェコスロバキア → スロバキア)
* [[ボーティック・ファン・デ・ザンスフルプ|ボーテッィク・ファン・デ・ザンスフルプ]](Botic van de Zandschulp)(オランダ)
* [[ジョン・バン・リン]] (John Van Ryn) (アメリカ)
* [[マイケル・ヴィーナス]] (Michael Venus) (ニュージーランド)
* [[フェルナンド・ベルダスコ]] (Fernando Verdasco) (スペイン)
* [[マルティン・フェルカーク]] (Martin Verkerk) (オランダ)
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* [[アレクサンドル・ボルコフ (テニス選手)|アレクサンドル・ボルコフ]] (Alexander Volkov) (ロシア)
* [[ウラジミール・ボルチコフ]] (Vladimir Voltchkov) (ベラルーシ)
== W ==
* [[ホルコム・ウォード]] (Holcombe Ward) (アメリカ)
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* [[アンソニー・ワイルディング]] (Anthony Wilding) (ニュージーランド)
* [[リチャード・ノリス・ウィリアムズ]] (Richard Norris Williams) (アメリカ)
* [[ウォルター・クロプトン・ウィングフィールド]] (Walter Clopton Wingfield) (ウェールズ)- ローンテニスの考案者
* [[チャールズ・ウィンスロー]] (Charles Winslow) (南アフリカ)
* [[シドニー・ウッド]] (Sidney Wood) (アメリカ)
* [[トッド・ウッドブリッジ]] (Todd Woodbridge) (オーストラリア)
* [[マーク・ウッドフォード]] (Mark Woodforde) (オーストラリア)
* [[マックス・ウーズナム]] (Max Woosnam) (イングランド)
* [[ロバート・レン]] (Robert Wrenn) (アメリカ)
* [[ビールズ・ライト]] (Beals Wright) (アメリカ)
== X ==
== Y ==
* [[山岸二郎]] (Jiro Yamagishi) (日本)
* [[ドナルド・ヤング]] (Donald Young) (アメリカ)
* [[ミハイル・ユージニー]] (Mikhail Youzhny) (ロシア)
* [[ワシウ・ユスフ]] (Wasiu Yusuf) (ペルー)
* [[ハイメ・イサガ]] (Jaime Yzaga) (ペルー)
== Z ==
* [[マリアノ・サバレタ]] (Mariano Zabaleta) (アルゼンチン)
* [[オラシオ・セバジョス]] (Horacio Zeballos) (アルゼンチン)
* [[ネナド・ジモニッチ]] (Nenad Zimonjić) (セルビア)
* [[スロボダン・ジボイノビッチ]] (Slobodan Živojinović) (ユーゴスラビア)
* [[アレクサンダー・ズベレフ]] (Alexander Zverev) (ドイツ)
* [[ミーシャ・ズベレフ]] (Mischa Zverev) (ドイツ)
== 関連項目 ==
* [[女子テニス選手一覧]]
== 外部リンク ==
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8,403 | さくら銀行 | 株式会社さくら銀行(さくらぎんこう、英: The Sakura Bank, Limited)は、かつて存在した三井グループの都市銀行。2001年4月1日に住友グループの住友銀行と合併し、三井住友銀行となった。
1990年4月1日に三井銀行と太陽神戸銀行が合併し、太陽神戸三井銀行(英: The Mitsui Taiyo-Kobe Bank, Limited)として発足。合併発表時に3年以内に新行名とすることが決まっていたため、桜の花びらをモチーフにしたシンボルマークから、1992年4月1日、さくら銀行に行名変更した。
存続会社は三井銀行で、統一金融機関コードも三井銀行の0002が使用されたが、本店は太陽神戸銀行東京営業部(東京堂千代田ビルディング)に置き、三井銀行の末松謙一社長が頭取、太陽神戸銀行の松下康雄頭取が会長に就任した。合併により、預金残高は第一勧業銀行に次ぐ2位、貸出金、店舗数、従業員数はいずれも国内最大となった。
1948年10月1日帝国銀行の2分割により発足した(新)帝国銀行は、1954年1月1日に三井銀行に行名復帰したものの、三井グループの再結集が遅れたことや店舗数の絶対的不足により、大衆化に乗り遅れ、中位行が定位置となっていた。そのため、三井物産に対する十分な融資ができず、富士銀行と並列状態になり、三井グループ内企業からの批判も大きかった。小山五郎社長時代から資金量の拡大は悲願となり、1988年6月に就任した末松謙一社長も「三井銀行は中位行でありながらユニバーサルバンクでしか生きられない。それには何といっても量的規模の拡大しかない」と語り、合併を前提とした将来像を描いていた。合併相手としては、三井銀行と同等か下位行が望ましく、最終的に選んだのが同じ中位行の太陽神戸銀行であった。
発足時に他の上位行より約1万人多い従業員数、当時の日本企業で最多数になる役員数74人(取締数66人、監査役8人)、相談役8人に象徴されるように、合併により人件費や物件費が増加し、収益は伸び悩んだ。本部組織の縮小や店舗の統廃合(1994年4月までに69店)が行われたが、どのポストも旧行を同数にするバランス人事や旧行の取引先区分が残り、他行のような思い切った不良債権処理がやりにくいといった合併行の弊害も指摘された。また、バブル経済の崩壊に伴う株価下落で有価証券の含み益が減少し、1992年3月期決算で都市銀行で唯一、BIS規制基準8%を達成できず、永久劣後債の発行に踏み切った。
1994年6月29日、末松頭取が代表権のある会長に退き、橋本俊作副頭取(旧太陽神戸銀行出身)が頭取に昇格した。松下会長は相談役となり、12月17日付で日本銀行総裁に就任した。この人事は旧行の出身者が交互に頭取に就任する「たすき掛け」で行内の融和が配慮された。しかし、経営環境は依然と厳しく、1995年3月期決算への影響はなかったが、1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災で5支店2出張所が激しい損傷を受けた他、社宅や寮などが多数被害を受けた。アポロリース、タテホ化学工業、フジタ、三井建設などの経営再建問題、店舗の統廃合、旧行の派閥対立など課題が山積する中、1996年3月期決算で、住専向け不良債権処理により赤字となった。
1997年6月1日、末松会長と橋本頭取が退任し、岡田明重専務(旧三井銀行出身)が頭取に、高崎正弘専務(旧太陽神戸銀行出身)が会長に就任、副頭取2名はいずれも旧三井銀行出身者が就任し、旧三井銀行主導の経営を鮮明にした。しかし、同年12月に三井グループの食品商社東食が会社更生法の適用を申請するに至り、経営や財務内容に対して厳しい目が向けられるようになった。このため、内外の資産の圧縮や店舗の統廃合や従業員削減を中心とするリストラ策が計画された。課題であった旧太陽神戸銀行の不採算取引の整理の一環として、あさひ銀行との店舗交換が1997年3月から行われ、旧太陽神戸銀行の不採算店舗12店を譲渡した。
1998年3月31日、金融安定化法に基づく公的資金(永久劣後債1,000億円)を導入した他、8月31日増資構想を記者会見で発表、三井グループ企業や生命保険会社に引受を要請し、第三者割当増資による普通株式発行(1998年12月25日に約862億円)と海外子会社の優先株式発行(1998年12月24日に約2,588億円および1999年3月30日に250億円)を実施した。増資により財務基盤を強化するとともに、重点分野であるリテール事業への取組みを推進するため、エーエム・ピーエム・ジャパンと提携し、am/pmの店舗内へのさくら銀行のATMの出店によるコンビニバンキング(後にコーナー名称を@BANK(アットバンク)と命名)を開始した他、個人ローン事業のさくらローンパートナー、日本初のインターネット専業銀行のジャパンネット銀行(現・PayPay銀行)を設立した。
1999年10月14日 住友銀行との統合を前提とした全面提携を発表。2000年5月22日、合併後の新行名を三井住友銀行とすることが発表された。三井の名前が復活し、さくらの名称は行名から消滅することとなった。本店が置かれていた東京堂千代田ビルディングには引き続き三井住友銀行九段営業部が入居したがその後撤退し、代わって2003年3月にあおぞら銀行(旧日本債券信用銀行)が旧日債銀本店ビルの老朽化や再開発に伴い本店を移転した。2017年に上智大学四谷キャンパス6号館(「ソフィアタワー」)が完成するとあおぞら銀行本店はソフィアタワーに移転し、2023年現在はリニューアル工事を経て、NTTデータ系列の日本電子計算の本社ビルとして使用されている。
さくらの名称は、 旧神戸銀行系のソフトウェア会社であるさくらケーシーエス、旧三井銀行系及び太陽銀行系のソフトウェア会社が合併して発足したさくら情報システムに残されている。
さくらフレンド証券は、2000年4月1日親密証券会社の山種証券と神栄石野証券が合併して発足した。2003年4月1日旧住友銀行の親密証券会社の明光ナショナル証券と合併しSMBCフレンド証券となった。
さくら証券は、2001年4月1日大和証券SBキャピタル・マーケッツに営業譲渡された。
さくら信託銀行は、2001年6月28日全株式を中央三井信託銀行に譲渡した。
さくらカードは、JCBカード事業の存続会社として運営されたが、2016年4月1日セディナと合併した。
1991年1月1日から銀行のテレビCMが解禁される状況を踏まえ、前年秋、マルチタレントとして活躍しているジュリー・ドレフュスをイメージキャラクターに起用。1992年4月の行名変更の際には、同年3月末から4月上旬にかけ、ドレフュスの出演する行名変更を告知するTVCMが関東・関西の民放で集中的に放映された。
1998年2月から広末涼子をイメージキャラクターに起用した。
太陽神戸三井銀行時代のキャラクター通帳等のマスコットキャラクターは、太陽神戸銀が採用していたサンリオによるエディ&エミィ、三井銀が採用していたくまのパディントンがそのまま併用されていたが、2年間の準備期間を経た行名変更に合わせ、マスコットキャラクターは一新された。「パラサ&ディンキーダイノス」という恐竜のオリジナルキャラクターが登場し、通帳やキャッシュカード、ノベルティとして用意された貯金箱等に登場した。1999年2月1日からドラえもんを新キャラクターに起用した。
旧三井銀行
二木会加盟企業、東京電力、ソニー、イトーヨーカ堂、トヨタ自動車、野村證券、鐘紡
旧太陽神戸銀行
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"text": "1994年6月29日、末松頭取が代表権のある会長に退き、橋本俊作副頭取(旧太陽神戸銀行出身)が頭取に昇格した。松下会長は相談役となり、12月17日付で日本銀行総裁に就任した。この人事は旧行の出身者が交互に頭取に就任する「たすき掛け」で行内の融和が配慮された。しかし、経営環境は依然と厳しく、1995年3月期決算への影響はなかったが、1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災で5支店2出張所が激しい損傷を受けた他、社宅や寮などが多数被害を受けた。アポロリース、タテホ化学工業、フジタ、三井建設などの経営再建問題、店舗の統廃合、旧行の派閥対立など課題が山積する中、1996年3月期決算で、住専向け不良債権処理により赤字となった。",
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"text": "1997年6月1日、末松会長と橋本頭取が退任し、岡田明重専務(旧三井銀行出身)が頭取に、高崎正弘専務(旧太陽神戸銀行出身)が会長に就任、副頭取2名はいずれも旧三井銀行出身者が就任し、旧三井銀行主導の経営を鮮明にした。しかし、同年12月に三井グループの食品商社東食が会社更生法の適用を申請するに至り、経営や財務内容に対して厳しい目が向けられるようになった。このため、内外の資産の圧縮や店舗の統廃合や従業員削減を中心とするリストラ策が計画された。課題であった旧太陽神戸銀行の不採算取引の整理の一環として、あさひ銀行との店舗交換が1997年3月から行われ、旧太陽神戸銀行の不採算店舗12店を譲渡した。",
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"text": "1998年3月31日、金融安定化法に基づく公的資金(永久劣後債1,000億円)を導入した他、8月31日増資構想を記者会見で発表、三井グループ企業や生命保険会社に引受を要請し、第三者割当増資による普通株式発行(1998年12月25日に約862億円)と海外子会社の優先株式発行(1998年12月24日に約2,588億円および1999年3月30日に250億円)を実施した。増資により財務基盤を強化するとともに、重点分野であるリテール事業への取組みを推進するため、エーエム・ピーエム・ジャパンと提携し、am/pmの店舗内へのさくら銀行のATMの出店によるコンビニバンキング(後にコーナー名称を@BANK(アットバンク)と命名)を開始した他、個人ローン事業のさくらローンパートナー、日本初のインターネット専業銀行のジャパンネット銀行(現・PayPay銀行)を設立した。",
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"text": "1999年10月14日 住友銀行との統合を前提とした全面提携を発表。2000年5月22日、合併後の新行名を三井住友銀行とすることが発表された。三井の名前が復活し、さくらの名称は行名から消滅することとなった。本店が置かれていた東京堂千代田ビルディングには引き続き三井住友銀行九段営業部が入居したがその後撤退し、代わって2003年3月にあおぞら銀行(旧日本債券信用銀行)が旧日債銀本店ビルの老朽化や再開発に伴い本店を移転した。2017年に上智大学四谷キャンパス6号館(「ソフィアタワー」)が完成するとあおぞら銀行本店はソフィアタワーに移転し、2023年現在はリニューアル工事を経て、NTTデータ系列の日本電子計算の本社ビルとして使用されている。",
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"text": "さくらの名称は、 旧神戸銀行系のソフトウェア会社であるさくらケーシーエス、旧三井銀行系及び太陽銀行系のソフトウェア会社が合併して発足したさくら情報システムに残されている。",
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"text": "さくらフレンド証券は、2000年4月1日親密証券会社の山種証券と神栄石野証券が合併して発足した。2003年4月1日旧住友銀行の親密証券会社の明光ナショナル証券と合併しSMBCフレンド証券となった。",
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"text": "さくら証券は、2001年4月1日大和証券SBキャピタル・マーケッツに営業譲渡された。",
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"text": "さくら信託銀行は、2001年6月28日全株式を中央三井信託銀行に譲渡した。",
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"text": "さくらカードは、JCBカード事業の存続会社として運営されたが、2016年4月1日セディナと合併した。",
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"text": "1991年1月1日から銀行のテレビCMが解禁される状況を踏まえ、前年秋、マルチタレントとして活躍しているジュリー・ドレフュスをイメージキャラクターに起用。1992年4月の行名変更の際には、同年3月末から4月上旬にかけ、ドレフュスの出演する行名変更を告知するTVCMが関東・関西の民放で集中的に放映された。",
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"text": "1998年2月から広末涼子をイメージキャラクターに起用した。",
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"text": "太陽神戸三井銀行時代のキャラクター通帳等のマスコットキャラクターは、太陽神戸銀が採用していたサンリオによるエディ&エミィ、三井銀が採用していたくまのパディントンがそのまま併用されていたが、2年間の準備期間を経た行名変更に合わせ、マスコットキャラクターは一新された。「パラサ&ディンキーダイノス」という恐竜のオリジナルキャラクターが登場し、通帳やキャッシュカード、ノベルティとして用意された貯金箱等に登場した。1999年2月1日からドラえもんを新キャラクターに起用した。",
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"text": "旧三井銀行",
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"text": "二木会加盟企業、東京電力、ソニー、イトーヨーカ堂、トヨタ自動車、野村證券、鐘紡",
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"text": "旧太陽神戸銀行",
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"text": "ダイエー、ミノルタカメラ、アシックス、ミドリ十字、グローリー、ノーリツ、山陽電気鉄道、日本精化",
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] | 株式会社さくら銀行は、かつて存在した三井グループの都市銀行。2001年4月1日に住友グループの住友銀行と合併し、三井住友銀行となった。 | {{Pathnav|三井住友フィナンシャルグループ|三井住友銀行|frame=1}}
{{基礎情報 会社
| 社名 = 株式会社さくら銀行
| 英文社名 = The Sakura Bank, Limited
| ロゴ = [[File:The Sakura Bank Logo.svg|250px]]
| 画像 = [[File:Aozora-bank-kudanshita.jpg|300px]]
| 画像説明 = さくら銀行本店が置かれていた[[東京堂千代田ビルディング]]<br />その後あおぞら銀行本店ビルを経て、現・日本電子計算本社ビル
| 種類 = [[株式会社]]
| 市場情報 = {{上場情報|東証1部|8314|1949年5月16日|2001年3月27日}}{{上場情報|大証1部|8314|1949年5月16日|2001年3月27日}}{{上場情報|札証|8314|1950年4月1日|2001年3月27日}}{{上場情報|京証|8314|1949年12月|2001年3月1日}}
| 略称 = さくら
| 本社所在地 = [[東京都]][[千代田区]]九段南一丁目3番1号
| 国籍 = {{JPN}}
| 本社郵便番号 = 102-0074
| 設立 = [[1948年]]([[昭和]]23年)[[9月23日]]<br />(株式会社[[帝国銀行]])
| 業種 = 7050
| 統一金融機関コード = 0002
| SWIFTコード = MITKJPJT
| 事業内容 = [[普通銀行|普通銀行業務]]
| 代表者 = [[岡田明重]]<br/>(最後の[[代表取締役]][[頭取]])
| 資本金 = 1兆428億6000万円
| 売上高 = 単体:1兆9299億7100万円<br />連結:2兆1474億9500万円<br />(経常収益、2000年3月期)
| 営業利益 = 単体:1599億3200万円<br />連結:1364億9700万円<br />([[経常利益]]、同期)
| 純利益 = 単体:571億1700万円<br />連結:625億8100万円<br />(同期)
| 純資産 = 単体:2兆2522億8900万円<br />連結:2兆2085億5400万円<br />(同期末)
| 総資産 = 単体:46兆5594億8500万円<br />連結:48兆4956億800万円<br />(同)
| 従業員数 = 14,930人(単体、同)
| 支店舗数 = 545店
| 決算期 = [[3月31日]]
| 主要子会社 =
| 外部リンク =
| 特記事項 = {{PDFlink|[https://www.smfg.co.jp/investor/financial/disclosure/archive_m/2000/jp/pdf/part5.pdf さくら銀行業績の概要]}}の96ページに一覧表示 - 後身の[[三井住友フィナンシャルグループ]]のディスクロージャー誌より。いずれも2000年3月期決算<ref>数値はさくら銀行の後身である「三井住友フィナンシャルグループ」のウェブサイトに掲載されている[https://www.smfg.co.jp/investor/financial/disclosure/cy2000annu_discl_sakura.html さくら銀行平成12年(2000年)3月期版ディスクロージャー誌]によった。</ref>。
}}
{{基礎情報 銀行
|銀行 = さくら銀行
|英名 = THE SAKURA BANK, LIMITED
|英項名 =
|統一金融機関コード = '''0002'''
|SWIFTコード = '''MITKJPJT'''
|店舗数 = 国内:'''420'''店<br/>海外:'''26'''店<br/>(※出張所・代理店・駐在員事務所を含む)
|従業員数 =
|資本金 =
|総資産 =
|貸出金残高 = '''31'''兆'''9,399'''億'''5,200'''万円
|預金残高 = '''33'''兆'''3,426'''億'''5,500'''万円<br/>(※譲渡性預金を含む)
|設立日 =
|郵便番号 =
|所在地 =
|外部リンク =
|特記事項 = いずれも2000年3月期決算<ref>数値は、後身である「[[三井住友フィナンシャルグループ]]」のディスクロージャー誌({{PDFlink|[http://www.smfg.co.jp/investor/financial/disclosure/archive_m/2000/jp/pdf/part5.pdf データファイル]}}</ref>。
}}
'''株式会社さくら銀行'''(さくらぎんこう、{{Lang-en-short|The Sakura Bank, Limited}})は、かつて存在した[[三井グループ]]の[[都市銀行]]。[[2001年]][[4月1日]]に[[住友グループ]]の[[住友銀行]]と合併し、[[三井住友銀行]]となった。
== 概説 ==
1990年4月1日に[[三井銀行]]と[[太陽神戸銀行]]が合併し、'''太陽神戸三井銀行'''({{Lang-en-short|The Mitsui Taiyo-Kobe Bank, Limited|links=no}})として発足。合併発表時に3年以内に新行名とすることが決まっていたため、桜の花びらをモチーフにしたシンボルマークから、1992年4月1日、さくら銀行に行名変更した。
存続会社は三井銀行で、統一金融機関コードも三井銀行の0002が使用されたが、本店は[[太陽神戸銀行]]東京営業部(東京堂千代田ビルディング)に置き、[[三井銀行]]の[[末松謙一]]社長が頭取、[[太陽神戸銀行]]の[[松下康雄]]頭取が会長に就任した。合併により、預金残高は[[第一勧業銀行]]に次ぐ2位、貸出金、店舗数、従業員数はいずれも国内最大となった。
== 沿革 ==
* [[1990年]]4月1日 - [[三井銀行]]と[[太陽神戸銀行]]が合併、太陽神戸三井銀行となる。
* [[1992年]]4月1日 - '''さくら銀行'''に商号変更。
* [[1994年]]4月1日 - 第1回優先株式(1,000億円)を日本の金融機関として初めて発行。
* [[1994年]]10月19日 - さくら証券を設立。
* [[1995年]]12月28日 - さくら信託銀行を設立。
* [[1996年]]6月6日 - [[わかしお銀行]]を設立([[太平洋銀行]]の受皿銀行)。
*[[1996年]]10月1日 - 第2回優先株式(1,500億円)を発行。
* [[1998年]]4月13日 - 田辺信用組合から預金および正常債権等を譲り受け。
* [[1999年]]3月1日 - コンビニバンキング@BANKの展開を開始。
* [[1999年]]10月14日 - [[住友銀行]]と統合を前提とした全面提携を発表。
* [[2000年]]6月8日 - さくらローンパートナーを設立。
*[[2000年]]6月9日 - [[みなと銀行]]をグループ化する方針を発表(7月25日にTOBが成立し連結子会社化)
* [[2000年]]9月19日 - ジャパンネット銀行(現・[[PayPay銀行]])を設立。
* [[2001年]]4月1日 - [[住友銀行]]と合併。'''[[三井住友銀行]]'''となる。
== 合併の経緯 ==
[[1948年]]10月1日[[帝国銀行]]の2分割により発足した(新)帝国銀行は、[[1954年]]1月1日に三井銀行に行名復帰したものの、[[三井グループ]]の再結集が遅れたことや店舗数の絶対的不足により、大衆化に乗り遅れ、中位行が定位置となっていた。そのため、[[三井物産]]に対する十分な融資ができず、[[富士銀行]]と並列状態になり、三井グループ内企業からの批判も大きかった。[[小山五郎]]社長時代から資金量の拡大は悲願となり、[[1988年]]6月に就任した[[末松謙一]]社長も「[[三井銀行]]は中位行でありながらユニバーサルバンクでしか生きられない。それには何といっても量的規模の拡大しかない」と語り、合併を前提とした将来像を描いていた。合併相手としては、[[三井銀行]]と同等か下位行が望ましく、最終的に選んだのが同じ中位行の[[太陽神戸銀行]]であった。
== 合併後 ==
発足時に他の上位行より約1万人多い従業員数、当時の日本企業で最多数になる役員数74人(取締数66人、監査役8人)、相談役8人に象徴されるように、合併により人件費や物件費が増加し、収益は伸び悩んだ。本部組織の縮小や店舗の統廃合([[1994年]]4月までに69店)が行われたが、どのポストも旧行を同数にするバランス人事や旧行の取引先区分が残り、他行のような思い切った不良債権処理がやりにくいといった合併行の弊害も指摘された。また、[[バブル経済]]の崩壊に伴う株価下落で有価証券の含み益が減少し、[[1992年]]3月期決算で都市銀行で唯一、[[国際決済銀行|BIS規制]]基準8%を達成できず、永久劣後債の発行に踏み切った。
[[1994年]]6月29日、末松頭取が代表権のある会長に退き、[[橋本俊作]]副頭取(旧[[太陽神戸銀行]]出身)が頭取に昇格した。松下会長は相談役となり、12月17日付で日本銀行総裁に就任した。この人事は旧行の出身者が交互に頭取に就任する「[[たすきがけ人事|たすき掛け]]」で行内の融和が配慮された。しかし、経営環境は依然と厳しく、[[1995年]]3月期決算への影響はなかったが、[[1995年]]1月17日に発生した[[阪神・淡路大震災]]で5支店2出張所が激しい損傷を受けた他、社宅や寮などが多数被害を受けた。アポロリース、[[タテホ化学工業]]、[[フジタ]]、[[三井住友建設|三井建設]]などの経営再建問題、店舗の統廃合、旧行の派閥対立など課題が山積する中、[[1996年]]3月期決算で、住専向け不良債権処理により赤字となった。
[[1997年]]6月1日、末松会長と橋本頭取が退任し、[[岡田明重]]専務(旧[[三井銀行]]出身)が頭取に、高崎正弘専務(旧[[太陽神戸銀行]]出身)が会長に就任、副頭取2名はいずれも旧[[三井銀行]]出身者が就任し、旧[[三井銀行]]主導の経営を鮮明にした。しかし、同年12月に三井グループの食品商社[[東食]]が会社更生法の適用を申請するに至り、経営や財務内容に対して厳しい目が向けられるようになった。このため、内外の資産の圧縮や店舗の統廃合や従業員削減を中心とするリストラ策が計画された。課題であった旧太陽神戸銀行の不採算取引の整理の一環として、[[あさひ銀行]]との店舗交換が[[1997年]]3月から行われ、旧[[太陽神戸銀行]]の不採算店舗12店<ref group="注釈">土浦、青梅、宇都宮、長後、八木、深谷、東松山、久喜、秩父、岩槻、横須賀、三浦支店を譲渡し、高崎、太田、船橋、豊橋、広島、赤羽、川西、吹田、木更津、小金井、長野、静岡支店を譲受した。</ref>を譲渡した。
[[1998年]]3月31日、金融安定化法に基づく公的資金(永久劣後債1,000億円)を導入した他、8月31日増資構想を記者会見で発表、三井グループ企業や生命保険会社に引受を要請し、第三者割当増資による普通株式発行(1998年12月25日に約862億円<ref group="注釈">日本生命保険、三井生命保険、太陽生命保険、三井不動産、三井物産、東京電力、東芝、三井海上火災保険、東レ、王子製紙、三井化学、日本製紙、野村證券、同和火災海上保険、中部電力、太平洋セメント、三越、大阪商船三井船舶、鐘淵化学、トステム、三和シャッター工業が増資を引受けた。当初引受けの姿勢を示していたトヨタ自動車は金融健全化法の成立を理由に出資を見送った。</ref>)と海外子会社の優先株式発行([[1998年]]12月24日に約2,588億円および[[1999年]]3月30日に250億円)を実施した。増資により財務基盤を強化するとともに、重点分野であるリテール事業への取組みを推進するため、エーエム・ピーエム・ジャパンと提携し、[[am/pm]]の店舗内へのさくら銀行のATMの出店によるコンビニバンキング(後にコーナー名称を@BANK(アットバンク)と命名)を開始した他、個人ローン事業の[[アットローン|さくらローンパートナー]]、日本初のインターネット専業銀行のジャパンネット銀行(現・[[PayPay銀行]])を設立した。
[[1999年]]10月14日 [[住友銀行]]との統合を前提とした全面提携を発表。2000年5月22日、合併後の新行名を'''[[三井住友銀行]]'''とすることが発表された。三井の名前が復活し、さくらの名称は行名から消滅することとなった。本店が置かれていた[[東京堂書店#東京堂千代田ビルディング|東京堂千代田ビルディング]]には引き続き三井住友銀行九段営業部が入居したがその後撤退し、代わって[[2003年]]3月に[[あおぞら銀行]](旧[[日本債券信用銀行]])が旧日債銀本店ビルの老朽化や再開発に伴い本店を移転した。2017年に上智大学四谷キャンパス6号館(「ソフィアタワー」)が完成するとあおぞら銀行本店はソフィアタワーに移転し、2023年現在はリニューアル工事を経て、[[NTTデータ]]系列の[[日本電子計算]]の本社ビルとして使用されている。
さくらの名称は、 旧神戸銀行系の[[ソフトウェア]]会社である[[さくらケーシーエス]]、旧三井銀行系及び太陽銀行系のソフトウェア会社が合併して発足した[[さくら情報システム]]に残されている。
さくらフレンド証券は、[[2000年]]4月1日親密証券会社の山種証券と神栄石野証券が合併して発足した。2003年4月1日旧住友銀行の親密証券会社の明光ナショナル証券と合併し[[SMBCフレンド証券]]となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.smbc.co.jp/news/j100093_01.html|title=グループ証券会社の合併について|accessdate=2020.8.5|publisher=}}</ref>。
さくら証券は、[[2001年]]4月1日大和証券SBキャピタル・マーケッツに営業譲渡された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.smbc.co.jp/news/news_back/news_saku/topics/newsrls/010205_syoken.htm|title=大和証券SBキャピタル・マーケッツとさくら証券の統合および商号変更について|accessdate=2020/8/5|publisher=}}</ref>。
さくら信託銀行は、[[2001年]]6月28日全株式を[[中央三井信託銀行]]に譲渡した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.smbc.co.jp/news/j100008_01.html|title=さくら信託銀行株式の中央三井信託銀行への譲渡について|accessdate=2000.8.5|publisher=}}</ref>。
[[さくらカード]]は、JCBカード事業の存続会社として運営されたが、2016年4月1日セディナと合併した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.smbc.co.jp/news/html/j200869/j200869_01.html|title=さくらカードとセディナの合併を通じたクレジットカード事業の再編について|accessdate=2020/8/5|publisher=}}</ref>。
== キャラクター ==
=== イメージキャラクター ===
[[1991年]]1月1日から銀行の[[テレビCM]]が解禁される状況を踏まえ、前年秋、[[マルチタレント]]として活躍している[[ジュリー・ドレフュス]]を[[イメージキャラクター]]に起用。[[1992年]]4月の行名変更の際には、同年3月末から4月上旬にかけ、ドレフュスの出演する行名変更を告知するTVCMが関東・関西の民放で集中的に放映された<ref>「銀行CMにも自由化の波 転居多い4月に照準」『日本経済新聞』夕刊 1992年3月18日</ref>。
[[1998年]]2月から[[広末涼子]]をイメージキャラクターに起用した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.smbc.co.jp/news/news_back/news_saku/topics/imgchara.htm|title=イメージキャラクター起用のお知らせ|accessdate=2020/8/5|publisher=}}</ref>。
=== マスコットキャラクター ===
太陽神戸三井銀行時代のキャラクター通帳等の[[マスコットキャラクター]]は、太陽神戸銀が採用していた[[サンリオ]]によるエディ&エミィ、三井銀が採用していた[[くまのパディントン]]がそのまま併用されていたが、2年間の準備期間を経た行名変更に合わせ、マスコットキャラクターは一新された。「[[パラサ&ディンキーダイノス]]」という恐竜のオリジナルキャラクターが登場し、通帳や[[キャッシュカード]]、ノベルティとして用意された貯金箱等に登場した<ref>「さくら銀、あす "開花" 今晩一斉に表示変更 重要帳票、管理を徹底」『日経金融新聞』1992年3月31日</ref>。[[1999年]]2月1日から[[ドラえもん]]を新キャラクターに起用した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.smbc.co.jp/news/news_back/news_saku/topics/newsrls/newchara.htm|title=新キャラクター起用のお知らせ|accessdate=2020/8/5|publisher=}}</ref>。
== 主な融資系列 ==
'''旧[[三井銀行]]'''
[[二木会]]加盟企業、[[東京電力ホールディングス|東京電力]]、[[ソニー]]、[[イトーヨーカ堂]]、[[トヨタ自動車]]、[[野村證券]]、[[カネボウ (1887-2008)|鐘紡]]
'''旧[[太陽神戸銀行]]'''
[[ダイエー]]、[[ミノルタカメラ]]、[[アシックス]]、[[ミドリ十字]]、[[グローリー (企業)|グローリー]]、[[ノーリツ]]、[[山陽電気鉄道]]、[[日本精化]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
*内海一郎著『太陽神戸三井銀行の期待と不安』エール出版社、1990年。ISBN 4753909328
*三井住友銀行総務部行史編纂室編 『三井住友銀行十年史』 三井住友銀行、2013年。
== 外部リンク ==
* [https://www.smbc.co.jp/ 三井住友銀行 公式サイト]
* {{Wayback |url=http://www.sakura.co.jp/bank/index.htm/ |date=20010202205500}}
* {{Wayback |url=http://www.sakura.co.jp/bank/fmenu/f-wnew.htm |date=19990428091534}}
{{三井住友フィナンシャルグループ}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:さくらきんこう}}
[[Category:三井住友銀行の前身行|*さくら]]
[[Category:かつて存在した都市銀行|さくら]]
[[Category:かつて存在した東京都の企業]]
[[Category:20世紀の日本の設立|廃さくらきんこう]]
[[Category:1948年設立の銀行|廃さくらきんこう]]
[[Category:2001年廃止の企業]]
[[Category:2001年の合併と買収]]
[[Category:三井グループの歴史]]
[[Category:九段]] | 2003-05-17T02:15:26Z | 2023-12-25T09:59:39Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%95%E3%81%8F%E3%82%89%E9%8A%80%E8%A1%8C |
8,404 | 折り紙 | 折り紙(折紙、よみ: おりがみ、英: Origami)とは、紙を折って動植物や生活道具などの形を作る日本伝統の遊びである。また、折り上げられた作品そのものや、折り紙用に作られた正方形の専用紙、千代紙などのことを指す。分類の仕方により、儀式儀礼で使う紙で折った工作物や、室町時代に整えられた上級武家が和紙で物を包むために用いていた折形(折形礼法)も「儀礼折り紙」として折り紙に含む場合があるが、日本では一般的には、戦国時代頃には存在し江戸時代頃に庶民に広まった「遊戯折り紙」のみを指す。
一般的に折り紙と認識されている遊戯折り紙の起源は定かでないが、最古の証拠として1500年代末の戦国時代から1600年代初頭の江戸時代までに装剣金工師の後藤栄乗が作った小柄に折り鶴が描かれているため、この頃までには既に折り紙が存在したことが確認されている。紙を折る文化はヨーロッパなどでも独自に発達しているが、現代では日本語の発音を移した「ORIGAMI」という呼称が海外でも広く使われている。
折り紙の芸術的側面が評価され、過去にはなかった複雑で優れた作品が生み出され、各国に伝承する折り方に加えて、新しい折り方も考案され続けている(各種の折形、折り方は伝承折り紙の一覧を参照)。
また、折り紙の持つ幾何学的な性質から、数学の一分野としても研究されている他、工学分野でも構造物の収納・展開の手段として活用されている。Computational Origamiという、ITを用いて折り紙を設計する分野も存在する。
古くは千代紙(ちよがみ)と呼ばれる彩色豊かな和紙を使用した。この為、折り紙の紙を千代紙という場合もある。また、近年では伝統工芸品としても千代紙が販売されている。
現在の折り紙は、多くの場合、使用する紙は一枚で、はさみや糊などは使用しないが、2枚の紙を使うもの(例:手裏剣)や、はさみで切り込みを入れるものもある。また、複雑な作品や折り目がつきにくい場合などにはヘラを用いることもある。
緻密に、折ったり、折り目の間の空間に折り目の一端を挟み込むなどして、形を作り上げていく。折り続けていくため、折り始める前の紙の大きさに比べ、出来上がった形はかなり小さなものになることもある。
代表的な折り紙には、鶴(折鶴、連鶴)、風船、紙飛行機、手裏剣、兜、奴(やっこ)さんなどがある。ヨーロッパでは、スペイン語でパハリータ、フランス語でココットと呼ばれる小鳥(または鶏)の形をした折り紙が代表的である。また、洋食の時に折られてテーブルに置かれるナプキンも、広義の折り紙の一種である。
「ふせつ せいほうけい いちまいおり」と読む。折り紙のうち、はさみ等による切れ込みを入れず、正方形の紙一枚だけを用いた折り紙をこう呼ぶ。基本的な折り紙であり、この折り紙を好む者もいる。
対象をいくつかの部分に分けて折り、それを組み合わせて作品を作る折り方。伝承的なものでは、「奴さん」と「袴」を組み合わせたもの。紙に切り込みを入れなくても比較的簡単に複雑な形を表現でき、また色違いの紙を使うことでカラフルな作品に仕上げることもできる。組み立てる際に糊や針金などを使う場合がある。
紙に切り込みを入れてカドの数を増やしたり、一部を切り取ったりすることによって、複雑な形を折りやすくする折り方。折り紙愛好者からは邪道扱いされることもあるが、「不切正方形一枚折りにこだわって折り方が複雑になり過ぎるより良い」という意見もある。
『秘傳千羽鶴折形』に見られるような「つなぎ折り鶴」は、はさみを利用して作る。
何枚もの紙を同じ形に折って、それらを組み合わせ、一つの作品を作り上げる折り紙作品をユニット折り紙と呼ぶ。ユニット折り紙の対象には対称性の高い多面体(一般に「くす玉」と呼ばれるものなど)、箱などが多い。枚数としては2枚から数十枚、多いものでは1万枚以上もの紙を組み合わせることがある。ユニットを組み合わせる時には、紙の摩擦のみで全体を支えるものが理想であるが、場合により糊付けや糸で綴じるケースもある。ユニット折り紙作家としては、笠原邦彦、川村みゆき、布施知子などが有名。類似のものに、折り紙細工がある。伝承の「手裏剣」もまたユニット折り紙の一つである。
上記の折り紙に加えて、動かせる玩具として作られたもの。古くは「カメラ」(シャッターが開く)や「羽ばたく鳥」(首としっぽを持って羽根を動かせる)など。近年には神谷哲史の『黒い森の魔女』(魔女⇔ドラゴンに変形する)などの複雑なものもある。
折り紙には、基本形と言われるものがいくつかある。例えば、鶴の基本形は4つのとがった「カド」を持っており、動物を折る場合ならこれらを頭や足に当てることで創作が容易になる。以下に、その代表的なものを記述する。
一般的には折り紙専用の正方形の紙を使う。しかし、作品によっては長方形(主に辺の比が1:√2のもの)その他の形をした紙を使う場合もある。通常は他の用途向けの紙で折られることもある。箸袋(シャツ・鳥・花などに仕上げる) のほか、新聞紙などを用いる作品(帽子、ミット、紙鉄砲など)もある。紙幣を折り紙の素材とし、人物などの図柄を完成作品のデザインの一部に取り込むような試みさえある。五角形や六角形や八角形など多角形の特殊な紙を用いる作品もあるが、こうした場合は自分で必要に応じ正方形の紙から切り出すとよい。
文房具店などで最も普通に売られている折り紙は15cm角であるが、それ以下・それ以上の折り紙(5cm角、7.5cm角、24cm角、35cm角等)も市販されている。また、稀ではあるが円形の折り紙なども存在する。彩色に関しても、両面カラーのもの、透明なもの、グラデーションや水玉など特殊な模様の入ったもの、表面が2等分や4等分に色分けされているものなどがあり、現在1000種以上の折り紙用紙が入手可能といわれている。
複雑な作品を折る場合には、金属箔を利用したホイル紙や、薄い和紙(破れにくい)の裏に金属箔(例えば形が崩れにくくなるアルミ箔)を裏打ちした自作の用紙が用いられることが多い。
展示用の作品には、見栄えの関係で選定した洋紙や和紙を正方形(あるいは作品に応じた形)に裁断して使うことが多い。厚手の紙(洋紙など)を随時、適度に湿らせてから折る「ウェットフォールディング」という技法も使われる。この技法を用いると、厚い紙を簡単に折ったり、皺を大幅に減らしたりすることができる。また、曲がった形を固定したり、紙を"伸ばして"(歪ませて)折ったりすることもできる。
手元に正方形の紙がなくとも、例えば目の前にある不要な書類などを工夫して正方形に整えれば、予め用紙を用意してなくとも折り紙を十分に楽しむことが出来る。
折り紙の折り方を人に伝えるため、その工程を絵(しばしば写真)で示す折り図が存在する。折り図では、慣例的に、切る線を✂︎、山折り線を一点鎖線(「―・―・―・―・―」)、谷折り線を破線(「― ― ― ― ―」)で表すことが多い。また、理解を容易にするため文章が添えられることも多い。
折り紙では、基本的な折り方に以下がある。
その他にも、特別な折り方が多くある。
儀礼折り紙という概念で見ると、平安時代に日本独自の和紙製紙法である「流し漉き」が開発されてより頑丈な紙を作ることができるようになると、折った和紙は神社の御幣・大麻・紙垂として使われるようになり、折った紙で作られた宗教的な装飾や贈答品の包み紙は徐々に儀礼折り紙として確立した。平安時代には朝廷は儀式で使う金品を折った紙で包む方法を定めていた。
室町時代の3代将軍、足利義満が武家独自の礼法を明確に定め、後世に最も由緒正しく記録された文献を残した。礼法の指南役である高家(伊勢家、小笠原家、今川家)のうち、伊勢家は主に内の礼法(殿中の礼法)、小笠原家は主に外の礼法(主に弓馬礼法)、今川家(後の吉良家)は主に書と画の礼法を担当し、それらの礼法は、将軍、大名、旗本に限って口頭で教授するか、または雛形を使って上級武士の間で秘伝として伝承された。
その武家の礼法の一つが折形(おりかた)、折紙礼法(おりがみ れいほう)、または折紙であり、和紙を手づから折り目正しく折り、物に心を込めて包み渡す礼法である。特に8代将軍足利義政の時代の伊勢貞親は殿中における多くの礼法を定め、折形(折紙礼法)が整えられた。現代でも見られる結婚式で酒が入った銚子や提に飾り付ける新郎新婦を表した雄蝶と雌蝶の蝶花形や熨斗は室町時代に誕生した物であり、後世の井原西鶴の「一昼夜独吟四千句」(1680年)にも蝶花形が登場している。この室町時代の折紙礼法が後世の遊戯折り紙の源流である。古文書によれば、室町時代の折紙礼法の原型は鎌倉時代に誕生し、それは平安時代の朝廷の儀礼折り紙の作法を受けていた。
室町時代に成立した折紙礼法を包括的にまとめた確認されている最古の文献は、江戸時代の『貞丈雑記』(ていじょうざっき)や『包結図説』(ほうけつずせつ)である。江戸時代中期の故実家の伊勢貞丈(いせさだたけ)は『貞丈雑記』や『包結図説』において、本来の階級別、用途別の和紙と折り方と使い分けと、その意味や目的を明記し、正しい折紙礼法を後世に残した。江戸時代初期からは寺子屋で折紙礼法が必須項目として教えられていた他、第二次世界大戦まで義務教育として日本人の誰もが習う環境にあった。
1920年頃の昭和初期に礼法学者の山根章弘が、本来、折紙礼法(折形)と呼ばれていた儀礼折り紙が、後世に誕生した遊戯折り紙と混同されて本来の姿を留めなくなってきたため、折紙礼法を遊戯折り紙と明確に分ける為に、「折る方法」と読まれて誤解を招きやすい呼称「おりかた」を「おりがた」と呼び直し、遊戯折り紙との違いをより明確化した。敗戦とともに折形は教科書から消え、遊戯折り紙のみが残ったが、山根章弘が戦後、正しい礼法の折形を復活させて体系化し、正しい折形礼法の普及活動を行うために「山根折形礼法教室」を創設した。
一般的に折り紙と認識されている遊戯折り紙の起源は定かでないが、最古の証拠として1500年代末の戦国時代から1600年代初頭の江戸時代に装剣金工師の後藤栄乗が作った小柄に折り鶴が描かれているため、この頃までには既に折り紙が存在したことが確認されている。折紙遊びが大衆に広く普及したのは和紙が大量に生産されるようになって庶民も和紙を気軽に使用出来るようになった江戸時代とされ、1747年に出版された欄間のデザイン画集である『欄間図式』には、折り鶴を含めた現在知られている様々な種類の折り紙が欄間のデザインとして採用されている。この頃は遊戯折り紙は、「折形(おりかた)」や「折据(おりすえ)」などと呼ばれており、儀礼用折り紙のみを「折形」と呼ぶ現代とは様相が異なっていた。
1797年(寛政9年)に出版された『秘傳千羽鶴折形』は確認されている最古の折り紙の専門技術書で、従来の折り紙より遥かに高度な技術を用いた義道一円が作った49種の折り鶴を紹介しており、彼は生涯にかけて少なくとも158の高度な折り紙を生み出し、この頃には折り紙文化が高度に発達していたことがうかがえる。この『秘傳千羽鶴折形』に掲載された49種の作品は1976年に義道の故郷である桑名市で無形文化遺産に指定され、現在ではYoutubeで作り方が公開されている。文献としては他に『嬉遊笑覧』『折形仮名手本忠臣蔵』などがある。
江戸時代後期から幕末にかけては古今和歌集の六歌仙や忠臣蔵の登場人物を模した折り紙が流行した。
現存する折り紙で最も古いものとしては、森脇家旧蔵の作品群がある。これには折形礼法と遊戯折紙の両方が含まれているが、遊戯折り紙については、江戸時代初期ごろから折られたものと推定されている。
ドイツのゲルマン国立博物館(Germanisches Nationalmuseum)およびザクセンフォークアート美術館(ザクセン民芸博物館、Museum für Sächsische Volkskunst)に、19世紀前半に折られたものと推定されている作品群が所蔵されている。
ヨーロッパの折り紙は、フリードリヒ・フレーベルの幼児教育法に取り入れられ、日本の開国にともない日本にも伝わった。
ヨーロッパの伝承作品として代表的なものに、パハリータ(ココット)、帆掛船(だまし船)、風船、紙飛行機(ダーツ)などが挙げられる。
1950年代には、日本の吉澤章、高濱利恵、イギリスのロバート・ハービン、アメリカのリリアン・オッペンハイマー、サミュエル・ランドレットらを中心とする国際的な折り紙サークルが形成され、折り紙が世界的に普及した。
1983年(昭和58年)に発売となった、『ビバ!おりがみ』(前川淳・笠原邦彦 著、ISBN 4387891165)、および1989年(平成元年)に発売となったFolding the Universe(ピーター・エンゲル著)が皮切りとなり、近年複雑な作品も作られるようになった。前川淳によって創始された「折り紙設計」(これは、目的とする形状から折り方を求めるという、数理的には逆問題を解くことに相当する)の技法は特に大きな影響を与えており、これにより初めて複雑な作品を合理的にデザインできるようになった。
「Perrocaliente Peti peto(ペロカリエンテ メガネ拭き プッチペット)」は、形状を記憶する布で出来ており、手元で転がすなど刺激を与えることで、記憶された折り紙の形へ戻る性質がある。
現在、日本国内では日本折紙協会、日本折紙学会の両団体が存在する他、アメリカ・イギリスなど各国にも折り紙団体が結成されており、愛好者間の交流を深めている。インターネットの普及などにもよって情報伝達の速度はいっそう上昇し、以前では考えられなかった速度で技術開発が進められるようになっている。
折り紙用紙は広く市販されている。日本では、折り上げられた作品を売る自動販売機が日光東照宮(栃木県日光市)近くに設置されている。また来客をもてなす意味で折り鶴などを置く店舗・ホテルもある。
ビー玉に対するビーダマン、けん玉に対する「デジケン」、ベーゴマに対する「キャラコバッチ」等と同様に、伝統玩具を商業玩具とする手法は折り紙に対しても実行された。タカラトミーからは オリガミウォーズ、コナミからは オリグライド が発売されている。『折紙戦士』という漫画作品が台湾で描かれ、これを原作にアニメも製作された。
折り紙の応用、または研究にはいくつもの数学的課題が含まれている。例えば、「展開図を二次元の作品へと平らに折り畳めるかどうか」の問題(flat-foldability)は、そういった数学的課題のうちの一つである。
平らな紙は表面のどの点においてもガウス曲率が0である。よって折り目は本来曲率0の直線である。しかし濡れた紙や指の爪で皺をつけた紙など、平らでなくなった紙においては最早この曲率の条件は当てはまらない。
剛体折り紙の問題(即ち、折り目の位置で蝶番でつないだ板金を用いて、紙と同様に作品を折ることができるかどうか)は重要な実用上の問題である。例えば、ミウラ折りは剛体でも折ることができ、人工衛星の太陽電池パネルを折り畳むために用いられている。
またそれ以外にも、折り紙はエアバッグの折り畳みや医療用のステントグラフト(ステントと人工布を用いた新型の人工血管)の折り畳みにも応用されている。
空気圧を利用した人工筋肉で、人工筋肉の折り曲げを制御、駆動させるのに折り紙の構造を使用する研究が行われている。
折り紙作家は幾人もいるが、プロとして活躍しているものは一握りしかいない。プロの折り紙作家は折り図を収録した本を執筆し、生計を立てているものが多い。 | [
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"text": "折り紙(折紙、よみ: おりがみ、英: Origami)とは、紙を折って動植物や生活道具などの形を作る日本伝統の遊びである。また、折り上げられた作品そのものや、折り紙用に作られた正方形の専用紙、千代紙などのことを指す。分類の仕方により、儀式儀礼で使う紙で折った工作物や、室町時代に整えられた上級武家が和紙で物を包むために用いていた折形(折形礼法)も「儀礼折り紙」として折り紙に含む場合があるが、日本では一般的には、戦国時代頃には存在し江戸時代頃に庶民に広まった「遊戯折り紙」のみを指す。",
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"text": "1950年代には、日本の吉澤章、高濱利恵、イギリスのロバート・ハービン、アメリカのリリアン・オッペンハイマー、サミュエル・ランドレットらを中心とする国際的な折り紙サークルが形成され、折り紙が世界的に普及した。",
"title": "歴史"
},
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"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "1983年(昭和58年)に発売となった、『ビバ!おりがみ』(前川淳・笠原邦彦 著、ISBN 4387891165)、および1989年(平成元年)に発売となったFolding the Universe(ピーター・エンゲル著)が皮切りとなり、近年複雑な作品も作られるようになった。前川淳によって創始された「折り紙設計」(これは、目的とする形状から折り方を求めるという、数理的には逆問題を解くことに相当する)の技法は特に大きな影響を与えており、これにより初めて複雑な作品を合理的にデザインできるようになった。",
"title": "歴史"
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"text": "「Perrocaliente Peti peto(ペロカリエンテ メガネ拭き プッチペット)」は、形状を記憶する布で出来ており、手元で転がすなど刺激を与えることで、記憶された折り紙の形へ戻る性質がある。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "現在、日本国内では日本折紙協会、日本折紙学会の両団体が存在する他、アメリカ・イギリスなど各国にも折り紙団体が結成されており、愛好者間の交流を深めている。インターネットの普及などにもよって情報伝達の速度はいっそう上昇し、以前では考えられなかった速度で技術開発が進められるようになっている。",
"title": "歴史"
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"text": "折り紙用紙は広く市販されている。日本では、折り上げられた作品を売る自動販売機が日光東照宮(栃木県日光市)近くに設置されている。また来客をもてなす意味で折り鶴などを置く店舗・ホテルもある。",
"title": "歴史"
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"text": "ビー玉に対するビーダマン、けん玉に対する「デジケン」、ベーゴマに対する「キャラコバッチ」等と同様に、伝統玩具を商業玩具とする手法は折り紙に対しても実行された。タカラトミーからは オリガミウォーズ、コナミからは オリグライド が発売されている。『折紙戦士』という漫画作品が台湾で描かれ、これを原作にアニメも製作された。",
"title": "歴史"
},
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"paragraph_id": 42,
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"text": "折り紙の応用、または研究にはいくつもの数学的課題が含まれている。例えば、「展開図を二次元の作品へと平らに折り畳めるかどうか」の問題(flat-foldability)は、そういった数学的課題のうちの一つである。",
"title": "折紙の数学と応用"
},
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"text": "平らな紙は表面のどの点においてもガウス曲率が0である。よって折り目は本来曲率0の直線である。しかし濡れた紙や指の爪で皺をつけた紙など、平らでなくなった紙においては最早この曲率の条件は当てはまらない。",
"title": "折紙の数学と応用"
},
{
"paragraph_id": 44,
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"text": "剛体折り紙の問題(即ち、折り目の位置で蝶番でつないだ板金を用いて、紙と同様に作品を折ることができるかどうか)は重要な実用上の問題である。例えば、ミウラ折りは剛体でも折ることができ、人工衛星の太陽電池パネルを折り畳むために用いられている。",
"title": "折紙の数学と応用"
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"text": "またそれ以外にも、折り紙はエアバッグの折り畳みや医療用のステントグラフト(ステントと人工布を用いた新型の人工血管)の折り畳みにも応用されている。",
"title": "折紙の数学と応用"
},
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"text": "空気圧を利用した人工筋肉で、人工筋肉の折り曲げを制御、駆動させるのに折り紙の構造を使用する研究が行われている。",
"title": "折紙の数学と応用"
},
{
"paragraph_id": 47,
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"text": "折り紙作家は幾人もいるが、プロとして活躍しているものは一握りしかいない。プロの折り紙作家は折り図を収録した本を執筆し、生計を立てているものが多い。",
"title": "折り紙に関連する人物一覧"
}
] | 折り紙とは、紙を折って動植物や生活道具などの形を作る日本伝統の遊びである。また、折り上げられた作品そのものや、折り紙用に作られた正方形の専用紙、千代紙などのことを指す。分類の仕方により、儀式儀礼で使う紙で折った工作物や、室町時代に整えられた上級武家が和紙で物を包むために用いていた折形(折形礼法)も「儀礼折り紙」として折り紙に含む場合があるが、日本では一般的には、戦国時代頃には存在し江戸時代頃に庶民に広まった「遊戯折り紙」のみを指す。 一般的に折り紙と認識されている遊戯折り紙の起源は定かでないが、最古の証拠として1500年代末の戦国時代から1600年代初頭の江戸時代までに装剣金工師の後藤栄乗が作った小柄に折り鶴が描かれているため、この頃までには既に折り紙が存在したことが確認されている。紙を折る文化はヨーロッパなどでも独自に発達しているが、現代では日本語の発音を移した「ORIGAMI」という呼称が海外でも広く使われている。 折り紙の芸術的側面が評価され、過去にはなかった複雑で優れた作品が生み出され、各国に伝承する折り方に加えて、新しい折り方も考案され続けている(各種の折形、折り方は伝承折り紙の一覧を参照)。 また、折り紙の持つ幾何学的な性質から、数学の一分野としても研究されている他、工学分野でも構造物の収納・展開の手段として活用されている。Computational Origamiという、ITを用いて折り紙を設計する分野も存在する。 | {{Otheruses|紙を折る遊び|"折紙"、"折り紙"の他の用法|おりがみ}}
[[ファイル:Cranes made by Origami paper.jpg|thumb|250px|right|[[折鶴]] (一辺75mmの和紙の折り紙)]]
[[ファイル:Origami Hyakkaku (One hundred cranes).jpg|thumb|250px|right|百鶴(『[[秘伝千羽鶴折形]]』より)つるバラ]]
[[ファイル:Glybbs Paper Plane.jpg|thumb|250px|right|[[紙飛行機]]]]
'''折り紙'''('''折紙'''、[[読み|よみ]]: おりがみ、[[英語|英]]: Origami)とは、[[紙]]を折って動植物や生活道具などの形を作る[[日本]][[伝統]]の[[遊び]]である。また、折り上げられた作品そのものや、折り紙用に作られた[[正方形]]の専用紙、[[千代紙]]などのことを指す。分類の仕方により、儀式儀礼で使う紙で折った工作物や、[[室町時代]]に整えられた上級武家が[[和紙]]で物を包むために用いていた'''[[折形]]'''(折形礼法)<ref name="yamane">{{Cite web|和書|url=http://www.yamane-origata.com/?page_id=40|archive-url=https://web.archive.org/web/20220413193503/http://www.yamane-origata.com/?page_id=40|title=折形(おりがた)について|publisher=山根折形|archive-date=13 April 2022|access-date=15 November 2022}}</ref>も「'''儀礼折り紙'''」として折り紙に含む場合があるが、日本では一般的には、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]頃には存在し[[江戸時代]]頃に庶民に広まった「'''遊戯折り紙'''」のみを指す<ref name="kyushu1">{{Cite web|和書|url=https://guides.lib.kyushu-u.ac.jp/origami/prologue|archive-url=https://web.archive.org/web/20210507223620/https://guides.lib.kyushu-u.ac.jp/origami/prologue|title=折り紙の歴史と現在: 前史|publisher=[[九州大学]]ライブラリ|archive-date=7 May 2021|access-date=14 November 2022}}</ref>。
一般的に折り紙と認識されている遊戯折り紙の起源は定かでないが、最古の証拠として1500年代末の戦国時代から1600年代初頭の江戸時代までに装剣金工師の後藤栄乗が作った[[小柄]]に[[折り鶴]]が描かれているため、この頃までには既に折り紙が存在したことが確認されている<ref name ="kyushu2">{{Cite web|和書|url=https://guides.lib.kyushu-u.ac.jp/origami/-mid18C|archive-url=https://web.archive.org/web/20210507224948/https://guides.lib.kyushu-u.ac.jp/origami/-mid18C|title=折り紙の歴史と現在: 戦国~江戸中期|publisher=九州大学ライブラリ|archive-date=7 May 2021|access-date=14 November 2022}}</ref>。紙を折る文化はヨーロッパなどでも独自に発達しているが、現代では日本語の発音を移した「[[:en:Origami|ORIGAMI]]」という呼称が海外でも広く使われている<ref>【くらし物語】地図や飲料缶、折り紙の技術生かす/[[折り鶴]]から科学へ 未来をはばたく『[[日本経済新聞]]』朝刊2018年2月17日・別刷りNIKKEI+1(11面)</ref>。
折り紙の芸術的側面が評価され、過去にはなかった複雑で優れた作品が生み出され、各国に伝承する折り方に加えて、新しい折り方も考案され続けている(各種の折形、折り方は[[伝承折り紙の一覧]]を参照)。
また、折り紙の持つ[[幾何学]]的な性質から、[[数学]]の一分野としても研究されている他、[[工学]]分野でも構造物の収納・展開の手段として活用されている。Computational Origamiという、[[情報技術|IT]]を用いて折り紙を設計する分野も存在する。
== 概要 ==
古くは[[千代紙]](ちよがみ)と呼ばれる彩色豊かな[[和紙]]を使用した。この為、折り紙の紙を千代紙という場合もある。また、近年では伝統工芸品としても千代紙が販売されている。
現在の折り紙は、多くの場合、使用する紙は一枚で、[[はさみ]]や[[糊]]などは使用しないが、2枚の紙を使うもの(例:[[手裏剣]])や、はさみで切り込みを入れるものもある。また、複雑な作品や折り目がつきにくい場合などには[[へら|ヘラ]]を用いることもある。
[[file:Orizuru.jpg|thumb|200px|折鶴(下は同じ大きさの紙)]]
緻密に、折ったり、折り目の間の空間に折り目の一端を挟み込むなどして、形を作り上げていく。折り続けていくため、折り始める前の紙の大きさに比べ、出来上がった形はかなり小さなものになることもある。
代表的な折り紙には、鶴([[折鶴]]、[[連鶴]])、[[風船]]、[[紙飛行機]]、手裏剣、[[兜]]、[[奴]](やっこ)さんなどがある。ヨーロッパでは、[[スペイン語]]でパハリータ、[[フランス語]]で[[ココット (折り紙)|ココット]]と呼ばれる小鳥(または鶏)の形をした折り紙が代表的である。また、洋食の時に折られてテーブルに置かれる[[ナプキン]]も、広義の折り紙の一種である。
== 折り紙の種類 ==
=== 不切正方形一枚折り ===
「ふせつ せいほうけい いちまいおり」と読む。折り紙のうち、はさみ等による切れ込みを入れず、[[正方形]]の紙一枚だけを用いた折り紙をこう呼ぶ。基本的な折り紙であり、この折り紙を好む者もいる。
[[ファイル:エンシェントドラゴン.jpg|サムネイル|240x240ピクセル|不切正方形一枚折りで作ったエンシェントドラゴン]]
=== 複合折り紙 ===
対象をいくつかの部分に分けて折り、それを組み合わせて作品を作る折り方。伝承的なものでは、「奴さん」と「[[袴]]」を組み合わせたもの。紙に切り込みを入れなくても比較的簡単に複雑な形を表現でき、また色違いの紙を使うことでカラフルな作品に仕上げることもできる。組み立てる際に[[糊]]や[[針金]]などを使う場合がある。
=== 切り込み折り紙 ===
紙に切り込みを入れてカドの数を増やしたり、一部を切り取ったりすることによって、複雑な形を折りやすくする折り方。折り紙愛好者からは[[邪道]]扱いされることもあるが、「不切正方形一枚折りにこだわって折り方が複雑になり過ぎるより良い」という意見もある。
『[[秘傳千羽鶴折形]]』に見られるような「つなぎ折り鶴」は、はさみを利用して作る。
=== ユニット折り紙 ===
[[ファイル:origami_unit.JPG|thumb|150px|right|ユニット折り紙]]
[[ファイル:Origami ball.jpg|right|thumb|150px|日本人作家によるユニット折り紙の作品(折り紙球)]]
{{Main|ユニット折り紙}}
何枚もの紙を同じ形に折って、それらを組み合わせ、一つの作品を作り上げる折り紙作品を'''ユニット折り紙'''と呼ぶ。ユニット折り紙の対象には対称性の高い[[多面体]](一般に「[[くす玉]]」と呼ばれるものなど)、[[箱]]などが多い。枚数としては2枚から数十枚、多いものでは1万枚以上もの紙を組み合わせることがある。ユニットを組み合わせる時には、紙の[[摩擦]]のみで全体を支えるものが理想であるが、場合により糊付けや[[糸]]で綴じるケースもある。ユニット折り紙作家としては、[[笠原邦彦]]、[[川村みゆき]]、[[布施知子]]などが有名。類似のものに、[[折り紙細工]]がある。伝承の「[[手裏剣]]」もまたユニット折り紙の一つである。
=== 仕掛け折り紙 ===
<!--折り方の分類ではありません-->
上記の折り紙に加えて、動かせる[[玩具]]として作られたもの。古くは「[[カメラ]]」(シャッターが開く)や「羽ばたく鳥」(首としっぽを持って羽根を動かせる)など。近年には[[神谷哲史]]の『黒い森の[[魔女]]』(魔女⇔[[ドラゴン]]に変形する)などの複雑なものもある。
== 基本形 ==
{{Main|基本形}}
折り紙には、'''基本形'''と言われるものがいくつかある。例えば、鶴の基本形は4つのとがった「カド」を持っており、動物を折る場合ならこれらを頭や足に当てることで創作が容易になる。以下に、その代表的なものを記述する。
; 鶴の基本形
: 伝承作品の[[折鶴|折り鶴]]を作る途中までの形で止めたもの。
; あやめの基本形
: 伝承作品の[[あやめ]]<!-- 菖蒲か、あやめか。 -->を作る途中までの形で止めたもの。'''かえるの基本形'''ともいう。
; さかなの基本形
: [[魚|さかな]]を作る途中の形で止めたもの。
; とびらの基本形
: 折り紙を、長方形になるように半分に折ってから、「[[扉|とびら]]」の形にしたもの。[[ユニット折り紙]]のユニットを折る際にも使用される。
== 用紙 ==
一般的には折り紙専用の[[正方形]]の紙を使う。しかし、作品によっては[[長方形]](主に辺の比が1:√2のもの)その他の形をした紙を使う場合もある。通常は他の用途向けの紙で折られることもある。[[箸]]袋([[シャツ]]・[[鳥]]・[[花]]などに仕上げる)<ref>「箸袋折り紙 日本の遊び心/1万5000点収集 展示会や本出版」『読売新聞』朝刊2018年11月25日(くらし・家庭面)。</ref> のほか、[[新聞紙]]などを用いる作品([[帽子]]、[[ミット]]、紙鉄砲など)もある。[[紙幣]]を折り紙の素材とし、人物などの図柄を完成作品のデザインの一部に取り込むような試みさえある。[[五角形]]や[[六角形]]や[[八角形]]など[[多角形]]の特殊な紙を用いる作品もあるが、こうした場合は自分で必要に応じ正方形の紙から切り出すとよい。
[[文房具]]店などで最も普通に売られている折り紙は15cm角であるが、それ以下・それ以上の折り紙(5cm角、7.5cm角、24cm角、35cm角等)も市販されている。また、稀ではあるが円形の折り紙なども存在する。彩色に関しても、両面カラーのもの、透明なもの、グラデーションや水玉など特殊な模様の入ったもの、表面が2等分や4等分に色分けされているものなどがあり、現在1000種以上の折り紙用紙が入手可能といわれている。
複雑な作品を折る場合には、金属箔を利用したホイル紙や、薄い[[和紙]](破れにくい)の裏に金属箔(例えば形が崩れにくくなる[[アルミ箔]])を裏打ちした自作の用紙が用いられることが多い。
展示用の作品には、見栄えの関係で選定した[[洋紙]]や和紙を正方形(あるいは作品に応じた形)に裁断して使うことが多い。厚手の紙(洋紙など)を随時、適度に湿らせてから折る「[[ウェットフォールディング]]」という技法も使われる。この技法を用いると、厚い紙を簡単に折ったり、皺を大幅に減らしたりすることができる。また、曲がった形を固定したり、紙を"伸ばして"(歪ませて)折ったりすることもできる。
手元に正方形の紙がなくとも、例えば目の前にある不要な書類などを工夫して正方形に整えれば、予め用紙を用意してなくとも折り紙を十分に楽しむことが出来る。
== 折り図 ==
折り紙の折り方を人に伝えるため、その工程を絵(しばしば写真)で示す'''折り図'''が存在する。折り図では、慣例的に、切る線を✂︎、山折り線を一点鎖線(「―・―・―・―・―」)、谷折り線を破線(「― ― ― ― ―」)で表すことが多い。また、理解を容易にするため文章が添えられることも多い。
== 主な折り方 ==
{{Main|折りの技法}}
折り紙では、基本的な折り方に以下がある。
* 山折り
* 谷折り
* 中割り折り
* かぶせ折り
その他にも、特別な折り方が多くある。
* [[蛇腹]]折り
* [[ミウラ折り]]
* 平織り
** ぜんまい折り
== 歴史 ==
=== 儀礼折り紙、折紙礼法、折形 ===
[[File:Yamaneorigata.jpg|right|thumb|山根折形礼法教室の折形(おりがた)]]
儀礼折り紙という概念で見ると、[[平安時代]]に日本独自の[[和紙]]製紙法である「流し漉き」が開発されてより頑丈な紙を作ることができるようになると<ref>{{Cite web|和書|url=https://pub.nikkan.co.jp/uploads/book/pdf_file5c91891586da8.pdf|archive-url=https://web.archive.org/web/20221125225800/https://pub.nikkan.co.jp/uploads/book/pdf_file5c91891586da8.pdf|title=第1章 折り紙の姿||publisher=[[日刊工業新聞]]|archive-date=25 November 2022|access-date=25 November 2022}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E6%B5%81%E3%81%97%E6%BC%89%E3%81%8D-587757|archive-url=https://web.archive.org/web/20221125225744/https://kotobank.jp/word/%E6%B5%81%E3%81%97%E6%BC%89%E3%81%8D-587757|title=流し漉き|language=ja|publisher=コトバンク|archive-date=25 November 2022|access-date=25 November 2022}}</ref>、折った和紙は[[神社]]の[[御幣]]・[[大麻 (神道)|大麻]]・[[紙垂]]として使われるようになり、折った紙で作られた宗教的な装飾や贈答品の包み紙は徐々に儀礼折り紙として確立した<ref name="kyushu1"/><ref name="nippon1">{{Cite web|和書|url=https://www.origami-noa.jp/%E3%81%8A%E3%82%8A%E3%81%8C%E3%81%BF%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/%E3%81%8A%E3%82%8A%E3%81%8C%E3%81%BF%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/|archive-url=https://web.archive.org/web/20221114074031/https://www.origami-noa.jp/%E3%81%8A%E3%82%8A%E3%81%8C%E3%81%BF%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/%E3%81%8A%E3%82%8A%E3%81%8C%E3%81%BF%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/|title=おりがみの歴史 (History of origami)|publisher=日本折紙協会|date=|archive-date=14 November 2022|access-date=14 November 2022}}</ref>。平安時代には[[朝廷 (日本)|朝廷]]は儀式で使う金品を折った紙で包む方法を定めていた<ref name="nikkei310317">{{Cite web|和書|url=https://style.nikkei.com/article/DGXMZO14548060X20C17A3000000/|archive-url=https://web.archive.org/web/20221115071147/https://style.nikkei.com/article/DGXMZO14548060X20C17A3000000/|title=喜びの気持ちを自分で包む・結ぶ「折形」の実践入門|language=ja|publisher=[[日本経済新聞]]|date=31 March 2017|archive-date=15 November 2022|access-date=15 November 2022}}</ref>。
[[室町時代]]の3代将軍、[[足利義満]]が武家独自の礼法を明確に定め、後世に最も由緒正しく記録された文献を残した。礼法の指南役である[[高家]]([[伊勢氏|伊勢家]]、[[小笠原氏|小笠原家]]、[[今川氏|今川家]])のうち、伊勢家は主に内の礼法(殿中の礼法)、小笠原家は主に外の礼法(主に弓馬礼法)、今川家(後の[[吉良氏|吉良家]])は主に書と画の礼法を担当し、それらの礼法は、将軍、[[大名]]、[[旗本]]に限って口頭で教授するか、または雛形を使って上級武士の間で秘伝として伝承された。
その武家の礼法の一つが'''[[折形]]'''(おりかた)、'''折紙礼法'''(おりがみ れいほう)、または'''折紙'''であり、和紙を手づから折り目正しく折り、物に心を込めて包み渡す礼法である。特に8代将軍[[足利義政]]の時代の[[伊勢貞親]]は殿中における多くの礼法を定め、折形(折紙礼法)が整えられた。現代でも見られる結婚式で酒が入った銚子や提に飾り付ける新郎新婦を表した雄蝶と雌蝶の蝶花形や[[熨斗]]は室町時代に誕生した物であり、後世の[[井原西鶴]]の「一昼夜独吟四千句」(1680年)にも蝶花形が登場している<ref>{{Cite web|和書|author=石井隆之 |url=http://language-culture.info/download/vol.33-1.pdf |title=「重なり志向」の日本文化 |publisher=言語文化学会 |accessdate=2019-11-03}}</ref>。この室町時代の折紙礼法が後世の遊戯折り紙の源流である<ref name="kyushu1"/><ref name="nippon1"/><ref name="yamane"/>。古文書によれば、室町時代の折紙礼法の原型は[[鎌倉時代]]に誕生し、それは平安時代の朝廷の儀礼折り紙の作法を受けていた。
室町時代に成立した折紙礼法を包括的にまとめた確認されている最古の文献は、[[江戸時代]]の『[[貞丈雑記]]』(ていじょうざっき)や『包結図説』(ほうけつずせつ)である。江戸時代中期の故実家の伊勢貞丈(いせさだたけ)は『貞丈雑記』や『包結図説』において、本来の階級別、用途別の和紙と折り方と使い分けと、その意味や目的を明記し、正しい折紙礼法を後世に残した。江戸時代初期からは[[寺子屋]]で折紙礼法が必須項目として教えられていた他、第二次世界大戦まで義務教育として日本人の誰もが習う環境にあった。
1920年頃の昭和初期に礼法学者の山根章弘が、本来、折紙礼法(折形)と呼ばれていた儀礼折り紙が、後世に誕生した遊戯折り紙と混同されて本来の姿を留めなくなってきたため、折紙礼法を遊戯折り紙と明確に分ける為に、「折る方法」と読まれて誤解を招きやすい呼称「おりかた」を「おりがた」と呼び直し、遊戯折り紙との違いをより明確化した。敗戦とともに折形は[[教科書]]から消え、遊戯折り紙のみが残ったが、山根章弘が戦後、正しい礼法の折形を復活させて体系化し、正しい折形礼法の普及活動を行うために「山根折形礼法教室」を創設した<ref>[http://www.yamane-origata.com/ 山根折形礼法教室](2018年5月5日閲覧)</ref>。
=== 遊戯折り紙 ===
一般的に折り紙と認識されている遊戯折り紙の起源は定かでないが、最古の証拠として1500年代末の戦国時代から1600年代初頭の江戸時代に装剣金工師の後藤栄乗が作った[[小柄]]に[[折り鶴]]が描かれているため、この頃までには既に折り紙が存在したことが確認されている<ref name ="kyushu2"/>。折紙遊びが大衆に広く普及したのは和紙が大量に生産されるようになって庶民も和紙を気軽に使用出来るようになった江戸時代とされ、1747年に出版された[[欄間]]のデザイン画集である『欄間図式』には、折り鶴を含めた現在知られている様々な種類の折り紙が欄間のデザインとして採用されている<ref name ="kyushu2"/>。この頃は遊戯折り紙は、「折形(おりかた)」や「折据(おりすえ)」などと呼ばれており、儀礼用折り紙のみを「折形」と呼ぶ現代とは様相が異なっていた<ref name ="kyushu2"/><ref name="yamane"/>。
[[ファイル:Ehiroi.jpg|thumb|right|180px|義道一円『秘傳千羽鶴折形』より連鶴「拾餌(えひろい)」]]
1797年([[寛政]]9年)に出版された『[[秘傳千羽鶴折形]]』は確認されている最古の折り紙の専門技術書で、従来の折り紙より遥かに高度な技術を用いた[[義道一円]]が作った49種の[[折り鶴]]を紹介しており、彼は生涯にかけて少なくとも158の高度な折り紙を生み出し、この頃には折り紙文化が高度に発達していたことがうかがえる。この『秘傳千羽鶴折形』に掲載された49種の作品は1976年に義道の故郷である[[桑名市]]で無形文化遺産に指定され、現在では[[Youtube]]で作り方が公開されている<ref name="kuwana">{{cite web|url=http://orizuru49.com/|archive-url=https://web.archive.org/web/20221118044336/http://orizuru49.com/|title=Paper Cranes that connect People|publisher=桑名市/MIRAI NEXT Co., Ltd.|archive-date=18 November 2022|access-date=18 November 2022}}</ref>。文献としては他に『[[嬉遊笑覧]]』『折形[[仮名手本忠臣蔵]]』などがある。
江戸時代後期から幕末にかけては[[古今和歌集]]の[[六歌仙]]や[[忠臣蔵]]の登場人物を模した折り紙が流行した<ref name="kyushu3">{{Cite web|和書|url=https://guides.lib.kyushu-u.ac.jp/origami/late18C-mid19C|archive-url=https://web.archive.org/web/20210507220346/https://guides.lib.kyushu-u.ac.jp/origami/late18C-mid19C|title=折り紙の歴史と現在: 江戸後期~幕末|publisher=九州大学ライブラリ|archive-date=7 May 2021|access-date=14 November 2022}}</ref>。
現存する折り紙で最も古いものとしては、森脇家旧蔵の作品群がある。これには折形礼法と遊戯折紙の両方が含まれているが、遊戯折り紙については、江戸時代初期ごろから折られたものと推定されている。
=== ヨーロッパの折り紙 ===
[[ドイツ]]の[[ゲルマン国立博物館]]([[:de:Germanisches Nationalmuseum|Germanisches Nationalmuseum]])およびザクセンフォークアート美術館(ザクセン民芸博物館、[[:de:Museum für Sächsische Volkskunst|Museum für Sächsische Volkskunst]])に、19世紀前半に折られたものと推定されている作品群が所蔵されている。
ヨーロッパの折り紙は、[[フリードリヒ・フレーベル]]の幼児教育法に取り入れられ、日本の[[開国]]にともない日本にも伝わった。
ヨーロッパの伝承作品として代表的なものに、パハリータ([[ココット (折り紙)|ココット]])、帆掛船(だまし船)、[[風船]]、[[紙飛行機]]([[ダーツ]])などが挙げられる。
=== 近代・現代の折り紙 ===
[[ファイル:Kawasaki new rose.jpg|right|thumb|200px|日本人作家[[川崎敏和]]の作品(カワサキ・ニュー・ローズ)]]
[[1950年代]]には、日本の[[吉澤章]]、[[高濱利恵]]、イギリスのロバート・ハービン、アメリカのリリアン・オッペンハイマー、サミュエル・ランドレットらを中心とする国際的な折り紙サークルが形成され、折り紙が世界的に普及した。
[[1983年]]([[昭和]]58年)に発売となった、『ビバ!おりがみ』([[前川淳 (折り紙)|前川淳]]・[[笠原邦彦]] 著、ISBN 4387891165)、および[[1989年]]([[平成]]元年)に発売となった{{Lang|en|''Folding the Universe''}}(ピーター・エンゲル著)が皮切りとなり、近年複雑な作品も作られるようになった。前川淳によって創始された「折り紙設計」(これは、目的とする形状から折り方を求めるという、数理的には[[逆問題]]を解くことに相当する)の技法は特に大きな影響を与えており、これにより初めて複雑な作品を合理的にデザインできるようになった。
「Perrocaliente Peti peto(ペロカリエンテ メガネ拭き プッチペット)」は、形状を記憶する布で出来ており、手元で転がすなど刺激を与えることで、記憶された折り紙の形へ戻る性質がある。
現在、日本国内では[[日本折紙協会]]、[[日本折紙学会]]の両団体が存在する他、アメリカ・イギリスなど各国にも折り紙団体が結成されており、愛好者間の交流を深めている。[[インターネット]]の普及などにもよって情報伝達の速度はいっそう上昇し、以前では考えられなかった速度で技術開発が進められるようになっている。
折り紙用紙は広く市販されている。日本では、折り上げられた作品を売る[[自動販売機]]が[[日光東照宮]](栃木県日光市)近くに設置されている<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO26722590Z00C18A2000000/ 栃木・日光に折り紙自販機 障害者手作り観光客に人気]『日本経済新聞』夕刊2018年2月9日(社会面)</ref>。また来客をもてなす意味で折り鶴などを置く店舗・ホテルもある。
=== 商業玩具化 ===
ビー玉に対する[[ビーダマン]]、[[けん玉]]に対する「[[デジケン]]」、[[ベーゴマ]]に対する「[[キャラコバッチ]]」等と同様に、伝統玩具を商業玩具とする手法は折り紙に対しても実行された。[[タカラトミー]]からは [http://www.takaratomy.co.jp/products/origamiwars/ オリガミウォーズ]、[[コナミ]]からは [http://www.konami.jp/th/ori-glide/index.html オリグライド] が発売されている。『[[折紙戦士]]』という[[漫画作品]]が[[台湾]]で描かれ、これを[[アニメ化|原作にアニメも製作された]]。
== 折紙の数学と応用 ==
[[File:Origami spring.jpg|thumb|200px|''びゅんびゅん[[ばね|バネ]]''(Spring Into Action'') - Jeff Beynon作。一枚の長方形の用紙から折られている。<ref>[http://www1.ttcn.ne.jp/~a-nishi/ The World of Geometric Toy(英語)] , ''[http://www1.ttcn.ne.jp/~a-nishi/spring/z_spring.html Origami Spring(英語)]'', August, 2007.</ref><ref>[[布施知子]]著『らせんを折ろう』(筑摩書房、[[1992年]]([[平成]]4年)1月)ISBN 978-4480872029</ref>'']]
{{Main|折紙の数学}}
折り紙の応用、または研究にはいくつもの[[数学]]的課題が含まれている。例えば、「[[展開図]]を[[二次元]]の作品へと平らに折り畳めるかどうか」の問題(flat-foldability)は、そういった数学的課題のうちの一つである。
平らな紙は表面のどの点においても[[ガウス曲率]]が0である。よって折り目は本来曲率0の直線である。しかし濡れた紙や指の爪で皺をつけた紙など、平らでなくなった紙においては最早この曲率の条件は当てはまらない。
[[剛体折り紙]]の問題(即ち、折り目の位置で[[蝶番]]でつないだ[[板金]]を用いて、紙と同様に作品を折ることができるかどうか)は重要な実用上の問題である。例えば、[[ミウラ折り]]は剛体でも折ることができ、[[人工衛星]]の[[太陽電池]]パネルを折り畳むために用いられている。
またそれ以外にも、折り紙は[[エアバッグ]]の折り畳みや医療用の[[ステントグラフト]]([[ステント]]と人工布を用いた新型の[[血管バイパス術#人工血管|人工血管]]<ref>[http://www.chuobyoin.or.jp/medical/ste.html ステントグラフトとは] - 戸田中央総合病院 血管内治療センター</ref>)の[[折り畳み]]にも応用されている<ref>[https://wired.jp/2008/01/15/%E3%80%8Corigami%E3%80%8D%E3%82%92%E3%80%81%E5%8C%BB%E7%99%82%E5%99%A8%E5%85%B7%E3%82%84%E6%9C%9B%E9%81%A0%E9%8F%A1%E3%81%AE%E6%8A%98%E3%82%8A%E7%95%B3%E3%81%BF%E3%81%AB%E5%BF%9C%E7%94%A8/ 「Origami」を、医療器具や望遠鏡の折り畳みに応用]</ref><ref>[http://www.smbc-consulting.co.jp/company/mcs/basic/pub/memo/view/798.html オンライン版「一口メモ」2013年(平成25年)11月号 折り紙とものづくり] - SMBCコンサルティング</ref>。
空気圧を利用した[[人工筋肉]]で、人工筋肉の折り曲げを制御、駆動させるのに折り紙の構造を使用する研究が行われている。
== 折り紙に関連する人物一覧 ==
折り紙作家は幾人もいるが、プロとして活躍しているものは一握りしかいない。プロの折り紙作家は折り図を収録した本を執筆し、生計を立てているものが多い。
{{See also|Category:折り紙作家}}
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* [[エリック・ジョワゼル]]
* [[岡村昌夫]]
* [[笠原邦彦]]
* [[加瀬三郎]]
* [[神谷哲史]]
* [[河合豊彰]]
* [[川崎敏和]]
* [[川畑文昭]]
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* [[木村良寿]]
* [[ジョセフ・ウー]]
* [[新宮文明]]
* [[ディビッド・ブル]]
* [[中野獨王亭]]
* [[西川誠司]]
* [[布施知子]]
* [[北條高史]]
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* [[西田シャトナー]]
* [[萩原優]]
* [[福井久雄]]
* [[フチモトムネジ]]
* [[前川淳 (折り紙)|前川淳]]
* [[松尾貴史]](折り[[顔]])
* [[桃谷好英]]
* [[山口真 (折り紙作家)|山口真]]
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* [[山田勝久 (折り紙作家)|山田勝久]]
* [[吉澤章]]
* [[吉野一生]]
* [[山根章弘]]
* [[山根一城]]
* [[ロバート・J・ラング]]
* [[COCHAE|COCHAE(コチャエ/武田美貴)]]
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== 折り紙に関連する組織一覧 ==
=== 日本 ===
* [[日本折紙学会]] 元折紙探偵団
* [[日本折紙協会]]
* 国際大学折紙連盟 日本折紙学会の下部組織
* 日本中高生折り紙連盟
* 国際折り紙研究会 [[吉澤章]]氏が創設。
=== 海外 ===
* [[:en:OrigamiUSA|OrigamiUSA]](英語版Wikipedia)
* [[:en:British_Origami_Society|イギリス折紙協会]](英語版Wikipedia)
* スペイン折紙協会
==折り紙を題材にした作品==
===ドラマ===
* '''[[オリガミの魔女と博士の四角い時間]]''' - [[日本放送協会|NHK]]のファミリー向けのファンタジードラマ。主演は[[滝藤賢一]]、共演者[[尾上菊之助 (5代目)|尾上菊之助]]、[[小山晴明]]。
===ゲーム===
* '''[[ペーパーマリオ オリガミキング]]''' - [[任天堂]]より販売されている[[Nintendo Switch]]用[[コンピューターゲーム]]。「折り紙」がモチーフ にされている。
==ギャラリー==
<gallery widths="140px" heights="140px" perrow="4">
File:Origami (made from an American 1-dollar bill) of an elephant.jpg| 1ドル札で折った[[ゾウ]]
File:Wet-folding bull.jpg| [[ウェットフォールディング]]による[[ウシ|雄牛]]
File:Smallcrane.jpg|最小の折り鶴に挑戦
File:Bonsai rosu 1.jpg|[[盆栽]]
File:Servilletas sevillanas.JPG|[[フラメンコ]]・ダンサー
File:Origami-nyúl-2.JPG|[[ウサギ]]
</gallery>
== 関連項目 ==
*[[11月11日]] - おりがみの日。一辺が4つで正方形を表すことから。1980年制定<ref>[http://www.origami-noa.jp/%E3%81%8A%E3%82%8A%E3%81%8C%E3%81%BF%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/%E3%81%8A%E3%82%8A%E3%81%8C%E3%81%BF%E3%81%AE%E6%97%A5/ おりがみの日](日本折紙協会)</ref>。
* [[タオルアニマル]] - タオルの折り方を使った表現技法
* {{仮リンク|デコレイティブ・フォールディング|en|Decorative folding}} - ナプキンやハンカチを使ってホテルなどのテーブルに飾る技法
* [[三角折り]] - 当初はトイレ清掃の証としてトイレットペーパーの先端部を三角に折っていたが、洗練された三角折りも考案された。
=== 折り紙の起源 ===
* [[折形]]おりがた
=== 折り紙の折り方と学術 ===
* [[ミウラ折り]]
* [[伝承折り紙の一覧]]
* [[折紙の数学]] - [[折り紙公理]]
* [[折り紙の科学国際会議]]
=== 折り紙からの派生 ===
* [[手拭]](折り手拭)
* [[紙飛行機]](折り紙飛行機)
* [[折り紙建築]] - 紙を[[建築物]]の形に見立てて切り、折り曲げたときに建築物の[[デザイン]]が出現するタイプの折り紙。
=== 紙を使った工作 ===
* [[ペーパークラフト]]
* [[紙切り]]
* [[くす玉]]
=== その他 ===
* [[:Category:折り紙を題材とした作品]]
== 脚注・出典 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
{{参照方法|section=1|date=2022年12月6日 (火) 15:08 (UTC)}}
* 山口真『たのしい折り紙全集』[[主婦と生活社]]、1997年 ISBN 4-391-12031-3
* 川村みゆき『はじめての多面体おりがみ-考える頭をつくろう』日本ヴォーグ社、2001年 ISBN 4-529-03547-6
* 川村みゆき『多面体のおりがみ-正多面体・準正多面体および双対』[[日本評論社]]、1995年 ISBN 4-535-78224-5
== 外部リンク ==
{{Commons|Origami}}
*[https://origami.jp/archives/Archives/People/OKMR_/history.html 折り紙の歴史] - 日本折紙学会
* [https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000192748 折り紙の歴史を調べている。参考になる本はないか。 | レファレンス協同データベース]
* [https://origamihack.com/ おりがみハック - OrigamiHack -] (動画)
* [http://origaminomori.com/ 折り紙の森] (ニュースサイト)
* [https://www.origamihouse.jp/ ギャラリー おりがみはうす]
* [https://www.oriland.com/ ORILAND - What Origami Can Be!](英語)
* [https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_999353_po_151.pdf?contentNo=1&alternativeNo= 本の中のおりがみ] - 国立国会図書館
* {{Kotobank}}
{{日本の遊戯}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:おりかみ}}
[[Category:折り紙|*]]
[[Category:紙細工]]
[[Category:和紙]]
[[Category:日本の文化]]
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[[Category:レジャー活動]] | 2003-05-17T03:12:34Z | 2023-11-22T12:43:17Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%98%E3%82%8A%E7%B4%99 |
8,406 | ハンガリー | ハンガリー(ハンガリー語: Magyarország)は、中央ヨーロッパの共和制国家。西にオーストリア、スロベニア、北にスロバキア、東にウクライナ、ルーマニア、南にセルビア、南西にクロアチアに囲まれた内陸国。首都はブダペストである。基本的には中欧とされるが、歴史的には東欧に分類されたことがある。
国土の大部分はなだらかな丘陵で、ドナウ川などに潤される東部・南部の平野部には肥沃な農地が広がる。
正式名称はハンガリー語で Magyarország [ˈmɒɟɒrorsaːɡ] ( 音声ファイル)。カタカナの大まかな発音は「マジャロルサーグ」。通称、Magyar [ˈmɒɟɒr] ( 音声ファイル)(マジャル)。
日本語の表記はハンガリーであるが、20世紀中盤まではハンガリアと表記する例も散見した。漢字表記では洪牙利で、洪と略される。中国語では、ハンガリーのフン族語源説が伝えられて以降、フン族と同族といわれる匈奴から、匈牙利と表記するようになった。
ハンガリー語で「ハンガリー」もしくは「ハンガリー人」を指す名詞「Magyar」は、日本の教科書などにおいて「マジャール」と誤ってカタカナ表記されているものが見られるが、どの母音も伸ばさずに「マジャル」と表記・発音するのが正しいカタカナ表記となる。ハンガリー語では長母音の場合は母音字にエーケゼットをつける規則があるため、そうでない場合は長母音ではない(「Magyar」であって「Magyár」でないため、長母音として発音しないのが正しい)。
歴史上、ハンガリー王国は多民族国家であり、今日のハンガリー人のみで構成されていたわけではなかった。そのため、その他の民族とハンガリー民族を特に区別する際に「マジャル人」という表現が用いられることがある。
「ハンガリー」の語源として一般に認められているのは、俗説にある「フン族」ではなく、7世紀のテュルク系のオノグル (Onogur) という語であり、十本の矢(十部族)を意味する。これは初期のハンガリー人がマジャル人7部族とハザール3部族の連合であったことに由来する。「ウンガーン」(独: Ungarn)、「ウンガリア」(希: Ουγγαρία)に見られるように、もともとは語頭のhがなかった。
2012年1月1日より新たな憲法「ハンガリー基本法」が施行され、国名が変更された。
ハンガリーの国土はハンガリー平原といわれる広大な平原を中心としており、古来さまざまな民族が侵入し、定着してきた。
古代にはパンノニアと呼ばれ、パンノニア族・ダキア人などが住んでいた。紀元前1世紀にはローマに占領され、属州イリュリクムに編入。1世紀中ごろ、属州パンノニアに分離された。4世紀後半にはフン族が侵入、西暦433年に西ローマ帝国によりパンノニアの支配を認められ、フン族によってハンガリーを主要領土(一部現在のブルガリア・ルーマニアを含む)とする独立国家が初めて誕生した。
その後、フン族はアッティラの時代に現在のハンガリーだけではなくローマ帝国の一部も支配下に収めたが、アッティラが40歳で死亡したあと、後継者の不在によりフン族は分裂。結果的に6世紀にはアヴァールの侵入を許す。その後、8世紀にはアヴァールを倒したフランク王国の支配下に移るが、フランク王国はほどなく後退し、9世紀にはウラル山脈を起源とするマジャル人が移住してきた。
10世紀末に即位したハンガリー人の君主イシュトヴァーン1世は、西暦1000年にキリスト教に改宗し、西ヨーロッパのカトリック諸王国の一員であるハンガリー王国(アールパード朝)を建国した。ハンガリー王国はやがてトランシルヴァニア、ヴォイヴォディナ、クロアチア、ダルマチアなどを広く支配する大国に発展する。13世紀にはモンゴル帝国軍の襲来(モヒの戦い)を受け大きな被害を受けた。14世紀から15世紀ごろには周辺の諸王国と同君連合を結んで中央ヨーロッパの強国となった。
1396年、オスマン帝国とのニコポリスの戦いで敗北。フス戦争(1419年 - 1439年)。15世紀後半からオスマン帝国の強い圧力を受けるようになった。1526年には、モハーチの戦いに敗れ、国王ラヨシュ2世が戦死した。1541年にブダが陥落し、その結果、東南部と中部の3分の2をオスマン帝国(オスマン帝国領ハンガリー)、北西部の3分の1をハプスブルク家のオーストリアによって分割支配され(王領ハンガリー)、両帝国のぶつかりあう最前線となった。
三十年戦争(1618年 - 1648年)には、プロテスタント側にトランシルヴァニア公国が、カトリック側に王領ハンガリーが分裂して参加した。
1683年の第二次ウィーン包囲に敗北したオスマン帝国が軍事的に後退すると、1699年のカルロヴィッツ条約で、ハンガリーおよびハンガリー王国領のクロアチアやトランシルヴァニアはオーストリアに割譲された。ハンガリーにとっては支配者がハプスブルク家に変わっただけであり、たびたび独立を求める運動が繰り返された。
1848年の3月革命では、コッシュート・ラヨシュが指導した独立運動こそロシア帝国軍の介入により失敗したが、オーストリアに民族独立運動を抑えるための妥協を決断させ、1867年にキエッジェズィーシュ(和協)が結ばれた。これにより、ハプスブルク家はオーストリア帝国とハンガリー王国で二重君主として君臨するが、両国は外交などを除いて別々の政府を持って連合するオーストリア=ハンガリー帝国となった。
オーストリア=ハンガリー二重帝国の体制下で資本主義経済が発展し、ナショナリズムが高揚したが、第一次世界大戦で敗戦国となり、オーストリアと分離された。
1918年10月31日、アスター革命(ハンガリー語版)(ハンガリー語: Őszirózsás forradalom)でハンガリー初の共和制国家であるハンガリー人民共和国が成立し、社会民主党系のカーロイ・ミハーイ(英語版)が初代大統領および首相を務める。
1919年3月、ハンガリー共産党のクン・ベーラによるハンガリー革命(英語版)が勃発し、クン・ベーラを首班とするハンガリー・ソビエト共和国(3月21日 - 8月6日)が一時成立したが、ルーマニアの介入で打倒される(ハンガリー・ルーマニア戦争)。
1920年3月1日、ハプスブルク家に代わる王が選出されないまま、ホルティ・ミクローシュが摂政として統治するハンガリー王国の成立が宣言された。1920年6月4日に結ばれたハンガリーと連合国とのトリアノン条約により、二重帝国時代の王国領のうち、トランシルヴァニアやハンガリー北部(スロバキア)など、面積で72%、人口で64%を失い、ハンガリー人の全人口の半数ほどがハンガリーの国外に取り残された。領土を失った反動、周囲の旧連合国からの孤立などの要因から次第に右傾化した。
1930年代後半からはナチス・ドイツと協調するようになり、1938年のミュンヘン協定、ハンガリーのカルパト・ウクライナへの侵攻(英語版)、1939年のスロバキア・ハンガリー戦争(英語版)、 2度のウィーン裁定などで一部領土を回復した。第二次世界大戦では領域拡大とナチス・ドイツからの圧迫を受けて枢軸国に加わり独ソ戦などで戦ったが、戦局は次第に劣勢となり、1944年にはホルティは枢軸国からの離脱を目指すが、ナチス・ドイツ軍と矢十字党によるクーデター(パンツァーファウスト作戦)で阻止されて失脚した。かわって矢十字党の国民統一政府が成立、1945年5月8日の敗戦まで枢軸国として戦うことになった。一方でソビエト連邦軍の占領区域では、軍の一部や諸政党が参加したハンガリー臨時国民政府が樹立され、戦後ハンガリー政府の前身となった。1945年4月4日には、ハンガリー全土からドイツ軍が駆逐され、ナチス・ドイツの崩壊とともに残存していたハンガリー軍部隊も降伏した。
1946年2月1日には王制が廃止され、ハンガリー共和国(第二共和国)が成立した。しかし、ソ連の占領下に置かれたハンガリーでは1垓ペンゲー紙幣まで発行される史上最悪のハイパーインフレーションが起きるなど政府に統制力はなく、共産化の影響力が次第に高まりつつあった。
1947年2月にはパリ条約によって連合国と講和し、占領体制は一応終結したがソ連軍はそのままハンガリーに駐留し続けることになった。ハンガリー共産党は対立政党の影響力を徐々に削減する戦術で権力を掌握し、1949年にハンガリー人民共和国が成立した。ハンガリー共産党が合同したハンガリー勤労者党による一党独裁国家としてソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)の衛星国となり、冷戦体制の中では東側の共産圏に属した。
共和国成立直後より国民への統制は厳しいものとなり、1949年時点から他の衛星国に先駆けて西側諸国(オーストリア)国境に鉄条網の障壁が築かれた。こうした共産主義体制に対する反発も根強く1956年にはハンガリー動乱が起こったが、ソ連軍に鎮圧された。勤労者党はハンガリー社会主義労働者党に再編され、ソ連の強い影響を受けながらもカーダール・ヤーノシュによるグヤーシュ・コミュニズムと呼ばれる比較的穏健な政策がとられた。
1980年代後半になると、ソ連のペレストロイカとともに東欧における共産党一党独裁の限界が明らかとなった。社会主義労働者党内でも改革派が台頭し、ハンガリー民主化運動が開始され、1989年2月には憲法から党の指導性を定めた条項が削除された。5月には西側のオーストリアとの国境に設けられていた鉄条網(鉄のカーテン)を撤去し、国境を開放した。これにより西ドイツへの亡命を求める東ドイツ市民がハンガリーに殺到、汎ヨーロッパ・ピクニックを引き起こし、冷戦を終結させる大きな引き金となった。また6月には複数政党制を導入し、社会主義労働者党もハンガリー社会党に改組された。
1989年10月23日、ハンガリー共和国憲法施行により、多党制に基づくハンガリー第三共和国が成立した。1990年代、ハンガリーはヨーロッパ社会への復帰を目指して改革開放を進め、1999年に北大西洋条約機構(NATO)に、2004年に欧州連合(EU)に加盟した。
ハンガリー第三共和国の国旗と国章では、ファシズム体制を敷いた矢十字党の「矢印十字」の紋章と、共産党時代の「赤い星」の紋章が消去されている。また、ナチスドイツ、矢十字党、ソビエト連邦、共産党一党独裁による圧制の反動から、「鉤十字」「矢十字」「鎌と槌」「赤い星」の配布・公刊・公の場での使用が、1993年の改正刑法にて禁止された。
1999年3月にNATOに加盟、2004年5月にEUに加盟。さらに 2007年にシェンゲン協定を導入。2011年に新憲法「ハンガリー基本法」への改正が行われた。
しかし、2010年に首相に再登板したオルバーン・ヴィクトルは、次第に親ロシア路線に転換し始めた。2022年のロシアによるウクライナ侵攻の際には、国益に反するとしてウクライナへの軍事支援を拒否。他のNATO諸国と一線を画した。対露制裁とも距離を置いたが、これはロシアへのエネルギー依存度が高いという事情もある。
ハンガリーの大統領は任期5年で議会によって選ばれるが、首相を任命するなど、儀礼的な職務を遂行するのみの象徴的な元首である。大統領官邸はブダ王宮に隣接するシャーンドル宮殿。実権は議院内閣制をとる首相にあり、自ら閣僚を選んで行政を行う。
立法府の国民議会 (Országgyűlés) は一院制、民選で、任期は4年、定員は199人である。国民議会は国家の最高権威機関であり、すべての法は国民議会の承認を経なければ成立しない。
V-Dem研究所は、ハンガリーを欧州連合加盟国で唯一選挙独裁主義と認定しており、フリーダム・ハウスは、「一部自由」とランク付けている。
純粋に司法権を行使する最高裁判所とは別に憲法裁判所が存在し、法律の合憲性を審査している。
与党
閣外協力
野党
EUのメンバーであるが、テュルク諸国機構(旧テュルク評議会)のオブザーバーでもある。
内陸国であるため海軍は持たず、現在の国軍は、陸軍および空軍の2軍からなる。ただし、ハンガリー領内を流れるドナウ川の防衛目的でユーゴスラビア製の掃海艇を3隻保有しており、陸軍の河川警備隊がドナウ川において運用している。1999年に北大西洋条約機構(NATO)に加盟し、西欧諸国と集団安全保障体制をとっている。
軍の歴史は長く、第一次世界大戦時にはオーストリア=ハンガリー二重帝国として中央同盟軍の一角を占めていた。戦後の独立ハンガリーは1920年のトリアノン条約により兵力を制限されていた。その反動もあって第二次世界大戦時には枢軸国として参戦し、東部戦線にも兵力を出している。1945年にはソ連軍に占領され、冷戦時には共産圏国家として、ワルシャワ条約機構に加盟していた。
ハンガリーの国土はカルパティア山脈のふもとに広がるカルパート盆地のうちの平野部をなす。ハンガリー平原またはハンガリー盆地と呼ばれる国土の中心は、中央を流れるドナウ川によってほぼ二分され、東には大きな支流のティサ川も流れている。国土の西部にはヨーロッパでも有数の大湖バラトン湖がある。また各地に温泉が湧き出ており、公衆浴場が古くから建設・利用されてきた。首都ブダペストにもセーチェーニ、ルカーチ、ゲッレールト温泉などの有名な温泉がある。もっとも温度の高い熱水泉ヘーヴィーズ湖を有するヨーロッパ有数の「温泉大国」として知られ、多くの観光客が温泉目当てに押し寄せる。 トランシルヴァニア地方など、ルーマニアとの国境係争地帯を持っている。
大陸性気候に属する気候は比較的穏やかで、四季もある。緯度が比較的高く、冬は冷え込むが、地中海から海洋性気候の影響を受け、冬も湿潤で曇りがちである。年間平均気温は10°C前後。
ハンガリーは40の地方行政区分に区分される。うち19は郡とも県とも訳されるメジェ (megye) で、20はメジェと同格の都市郡という行政単位(megyei város)である。なお首都のブダペスト都はいずれにも属さない、独立した自治体である。
旧ハンガリー王国の領土(大ハンガリー)に含まれた地域については、ハンガリー王国の歴史的地域を参照。
国際通貨基金(IMF)による統計では、2018年現在でGDPは1,612億ドル、一人あたりのGDP(為替レート)は1万6,484ドルであり、EU平均の約45%、世界水準の約1.4倍である。
ハンガリーは1989年の体制転換以来、外国資本を受け入れて積極的に経済の開放を進めた。その結果、1997年以降年間4%以上の高成長を続けるとともに、2004年には経済の民間部門が国内総生産(GDP)の80%以上を占め、「旧東欧の優等生」と呼ばれるほどであった。また2004年の欧州連合加盟は、当時のハンガリー経済にとって追い風になった。
しかしその後、インフレーションと失業率が増加して貧富の差が広がり、社会問題として常態化した。また巨額の財政赤字も重要な課題であり、現政権が目標とするユーロ導入への見通しは立っていない。
伝統的な産業ではアルコールが強い。特にワインは有名で、ブルゲンラント、ショプロン、ヴィッラーニなど著名な産地があるが、中でもトカイのトカイワインはワインの王と言われる。農業ではパプリカが名産品で、ハンガリー料理にもふんだんに使われる。ガチョウの飼育も盛んであり、ドナウ川西岸(ドゥナーントゥール(ハンガリー語版)地方)が主産地である。ハンガリー産のフォアグラもよく輸出されている。
第二次世界大戦前のハンガリーは肥沃な土壌と計画的な灌漑設備により、農業国として成立していた。そのため、食品工業を中心とした軽工業が盛んであった。第二次世界大戦後、社会主義下の計画経済によって重工業化が進められた。特に車両生産、一般機械が優先され、化学工業と薬品工業がそれに次いだ。しかし、有機鉱物資源とボーキサイトを除くと工業原材料には恵まれておらず、輸入原材料を加工し輸出するという形を取った。1970年代には工業を中心とする貿易が国民所得の40%を占めるまで成長した。
共産主義体制から資本主義体制に転換後、1990年代初頭においては、化学工業の比重が次第に大きくなっていく傾向にあった。2003年時点では全産業に占める工業の割合がさらに高まっており、輸出額の86.8%を工業製品が占めるに至った。さらに貿易依存度は輸出54.5%、輸入59.2%まで上がっている。品目別では機械工業が再び盛んになっており、輸出に占める比率は電気機械36.1%、機械類16.2%、自動車8.2%である。世界シェアに占める比率が高い工業製品は、ワイン(1.7%、49万トン)、硝酸(1.5%、31万トン)である。
ハンガリーの鉱業は、燃料に利用できる亜炭とボーキサイトが中核となっている。有機鉱物資源では、世界シェアの1.5%を占める亜炭(1391万トン、2002年)、原油(107万トン)、天然ガス(115千兆ジュール)を採掘する。有力な炭田は南東部ベーチ近郊、首都ブダペストの西方50キロに位置するタタバーニャ近郊の2か所に広がる。油田は中央南部セゲド近郊と、スロベニア、クロアチア国境に接する位置にある。
金属鉱物資源ではボーキサイト(100万トン)が有力。バラトン湖北岸からブダペストに向かって北東に延びる山地沿いで採掘されている。ただし、採掘量は減少傾向にある(1991年には203.7万トンが採掘されていた)。このほか、小規模ながらマンガンとウランの採掘も見られる。
ハンガリーは歴史的に多数の科学者を輩出している。同国出身の科学者は核兵器やコンピュータの開発に貢献したことで世界的に知られており、ナイマン・ヤーノシュ(ジョン・フォン・ノイマン)はコンピュータの開発に貢献した。ケメーニィ・ヤーノシュは米国人計算機科学者のトーマス・E・カーツ(英語版)とともにBASIC を開発した。
傍ら、ハンガリー人にはさまざまな分野で後世に影響を与える発明をしている人物が多い。ハンガリー人の発明にはルビク・エルネーによるルービックキューブやブローディ・イムレによるクリプトン電球などがある。
ハンガリーの国民の86%以上はマジャル人(ハンガリー人)である。マジャル人はフィン・ウゴル語族のハンガリー語(マジャル語)を母語とし、ウラル山脈の方面から移ってきた民族である。マジャル人の人名は、正式に表記した際に姓が名の前につく。
マジャル人は旧ハンガリー王国領に広まって居住していたため、セルビアのヴォイヴォディナ、クロアチア北部、スロバキア南部、ルーマニアのトランシルヴァニアなどにもかなりのマジャル人人口が存在している。また、マジャル人の中にはモルダヴィアのチャーンゴー、トランシルヴァニアのセーケイや、ハンガリー共和国領内のヤース、マチョー、クン、パローツなどの文化を持つサブグループが知られるが、ヤース人がアラン人の末裔、クン人がクマン人の末裔であることが知られるように、これらはさまざまな出自を持ち、ハンガリー王国に移住してハンガリーに部分的に同化されていった人々である。
その他の民族では、有意の人口を有するロマ(ジプシー)とドイツ人が居住する。ハンガリー科学アカデミーの推計では、人口約1,000万人のうち約60万人がロマとされる。また、ドイツ人は東方植民地運動の一環としてハンガリー王国に移り住んできた人々の子孫で、トランシルヴァニアのサース人(ザクセン人)やスロヴァキアのツィプス・ドイツ人のように、ハンガリー王国の中で独自の民族共同体を築いた人々もいる。
その他の民族では、ルテニア人(ウクライナ人)、チェコ人、クロアチア人、ルーマニア人などもいるが、いずれもごく少数である。第二次世界大戦以前には、ユダヤ人人口もかなりの数にのぼったが、第二次世界大戦中の迫害などによってアメリカ合衆国やイスラエルに移住していった人が多い。
近年のDNA分析によるとハンガリー人はコーカソイド(白人)に分類されるが、わずかにモンゴロイド(黄色人種)特有のアセトアルデヒド脱水素酵素D型が検出されることから、モンゴロイドとの混血により遺伝子の流入があったと考えられる。
ファシズムの研究で知られるオックスフォード・ブルックス大学のロジャー・グリフィン(英語版)は、「ハンガリーはアジア系のマジャル人が建国し、独特の言語を持っている。オスマン帝国、オーストリア帝国、旧ソ連の圧力を受けてきた。ハンガリーはEUの中の孤島だ」と述べている。
2010年、フィデス=ハンガリー市民同盟により、国外のハンガリー系住民へハンガリー国籍付与の道を開いたが、隣国のスロバキアはこれに反発し、二重国籍禁止法案を可決している。ルーマニアには、約160万人のハンガリー系少数民族がおり、その多くは、ハンガリーとの領有権問題を抱えるトランシルヴァニア、特にティミショアラに居住している。
言語的にはハンガリー語が優勢で、少数民族のほとんどもハンガリー語を話し、ハンガリー語人口は98%に上る 。国内の少数民族としては、13万人を擁するドイツ人が最大で、このうちおよそ10万人(国内の人口の約1%に相当)が家庭内でドイツ語を使用する。ハンガリーは旧オーストリア=ハンガリー帝国の中核的地域でドイツ人との結びつきが強いうえに、第二次世界大戦時もハンガリーが枢軸国に加担した結果、ハンガリー人によるドイツ人追放がほとんど起こらなかった(ソ連による追放はある程度行われた)ため、ドイツ人の居住人口が今なお多い。
宗教はカトリック(39%)が多数を占め、カルヴァン派もかなりの数にのぼる(12%)。その他、ルター派(5%)やユダヤ教(0.2%)も少数ながら存在する。
婚姻時の姓は、自己の姓(夫婦別姓)、相手の姓、複合姓(順序はいずれでもよい。ハイフンでつなぐ)、自らのフルネームを相手のフルネームにnéを付加したものに変更する(この場合は出生時の姓名はともに失われる)、相手のフルネームにnéを付加したものに自己のフルネームを加えたものを自己のフルネームとする(この場合は、フルネームは4つの名からなる)、自己の姓の前に相手の姓にnéを付加したものを追加する(自己の姓は中間姓となる)、などより選択することが可能である。
伝統的には、妻が相手のフルネームにnéを付加したフルネームに改名し、出生時の名前は失われていた。その後、1895年、1953年、1974年、2004年などの改正を経て、現在では男女の公平性が高められ、選択肢の多い制度となった。なおハンガリーでは、日本と同様に姓が最初にくる。
ハンガリーの教育制度の特徴は、制度的構造と教育プログラムの構造が一致していない点にある。システム自体の制度的構造と早期選択を可能にするプログラムの存在は、中央ヨーロッパおよび元社会主義国との類似性を示している。
同国は優れた数学教育が続いていることから、国際的なレベルの教育において知名度の高い国となっている。ただし優れた数学教育で有名である反面、現今においてフィールズ賞受賞者はいまだ出ていない。有名な数学者にはエルデーシュ・パールやフランクル・ペーテルらがいる。
ハンガリーの治安情勢は全般的に良好で、犯罪認知件数も減少傾向にある。2019年における国内の犯罪認知件数は16万5,648件で、5年前の2014年と比較すると約1/3ほど減少している。しかし、人口比で見ると犯罪発生率は日本よりも高いため、油断をすることは許されない。
全体としては財産犯が多くを占め、その中でも窃盗犯(侵入盗、スリ、置き引きなど)が多く、日本人観光客から寄せられる犯罪被害連絡のほとんどは窃盗被害となっている点が特徴ともなっている。
トルテやクレープに似たパラチンタなど、食文化はオーストリアと共通するものが多いが、ハンガリーの食文化の特色は乾燥させて粉にしたパプリカの多用と種類の豊富なダンプリングにある。パプリカを用いた煮込み料理グヤーシュは世界的に有名である。ドナウ川西岸のドゥナーントゥール地方では、古くからフォアグラの生産が盛んである。
ワインの生産も盛んで、トカイワインなどが有名である。また、伝統的な蒸留酒にパーリンカがある。フランスのオー・ド・ヴィやイタリアのグラッパなどと似た、果実から造られる蒸留酒である。
ハンガリー固有種の豚、マンガリッツァは国宝の指定を受けて保護されているが、保護のために利用を禁じるのではなく、むしろ高品質の食肉として利用することを通じて飼育頭数を増やす方針を採っている。飼育にあたっては伝統的な放牧または半放牧が行われているが、一頭一頭にマイクロチップや標識を取りつけて管理することでトレーサビリティを確保するなど、現代的な手法も取り入れられている。日本にはピック社が伝統的な製法で作られたサラミなどを輸出している。
ハンガリー出身の哲学者として、『歴史と階級意識』でソビエト連邦のマルクス=レーニン主義に対する西欧マルクス主義の基礎を築いたルカーチ・ジェルジの名が特筆される。このほか、社会学者のカール・マンハイムや、経済人類学者のカール・ポランニー(オーストリア=ハンガリー帝国時代)がいる。
ハンガリーは多様な民族性に支えられた豊かな文化を持ち、特にハンガリー人の地域ごとの各民族集団(ロマなど)を担い手とする民族音楽は有名である。
また、リスト・フェレンツ(フランツ・リスト)、フランツ・レハール、コダーイ・ゾルターン、バルトーク・ベーラなど多数の著名なクラシック音楽の作曲家も輩出した。多様な民族音楽にインスピレーションを受けて作曲した音楽家も多い。
指揮者の分野では、ハンス・リヒター(指揮者)、アルトゥル・ニキシュ、ジョージ・セル、ユージン・オーマンディ、フリッツ・ライナー、フェレンツ・フリッチャイ、イシュトヴァン・ケルテス、ゲオルク・ショルティといったビッグネームが並ぶ。
ピアニストでは、リリー・クラウス、ゲーザ・アンダ、ジョルジュ・シフラといった歴史的大家、アンドラーシュ・シフ、ゾルターン・コチシュ、ラーンキ・デジェー、アダム・ジョージといった現役(2019年現在)が挙げられる。これらの中にはドイツ人植民者家系も含まれることもあり、ドイツ人名を名乗ってドイツ楽派やウィーン音楽で指導的な役割を果たした者も少なくない。
ハンガリー全土で伝統的に刺繡が盛んであり、カロチャ刺繡やマチョー刺繡など、地域ごとに特色ある刺繡が分布している。
ハンガリーでは温泉が湧き出し、温泉文化が古くから伝わっている。ブダペストにおける温泉文化は2000年近くある。ブダペストのオーブダ地区にある古代ローマ時代のアクインクム遺跡に、ハンガリー最初の温泉浴場が建設された。当時の浴場跡を今日でも見ることができる。オスマン帝国に支配されていたときに、ドナウ川河畔に発達した。
1937年国際沿療学会議ブダペスト大会でブダペストは国際治療温泉地に認定され、世界的に温泉に恵まれた首都と呼ばれるに至った。オスマン帝国時代の建物をそのまま残すルダシュやキラーイなどの浴場は、今日でも親しまれている。1913年に作られたセーチェーニ温泉は湯量毎分3,700リットルという豊かな湯量と豪奢な建物で知られている。
温水湖であるヘーヴィーズ湖は、自然温水湖である。ハンガリーにおいてもっとも古くから知られており、古代ローマ時代の記録にさかのぼり、2000年の歴史がある。4.4ヘクタール、水深38メートル、泉質は硫黄、ラジウム、カルシウム、マグネシウムなどのミネラルを含む。泉からは大量に湧き出し、48時間で水が入れ替わる。水温は冬は23 - 25°C、夏は33 - 36°Cである。
ハンガリーは建築における歴史が長いことでも知られている。その起源はローマ帝国の属州時代に遡るほど古いが、現在に至るまで様々な建築形式の影響を受けつつも独自の技法を開発している。
ハンガリー国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件存在する。さらにオーストリアにまたがって1件の文化遺産が、スロバキアにまたがって1件の自然遺産が登録されている。
ハンガリー国内で圧倒的に1番人気のスポーツはサッカーとなっており、1901年にプロサッカーリーグの「ネムゼティ・バイノクシャーグI」が創設された。中でも名門クラブのフェレンツヴァーロシュTCはリーグ最多32度の優勝を誇り、UEFAカップの前身大会であるインターシティーズ・フェアーズカップでは1964-65シーズンに優勝している。
サッカーハンガリー代表は古豪として認識されており、FIFAワールドカップにはこれまで9度出場している。1938年大会と1954年大会では準優勝に輝いており、当時マジック・マジャールと呼ばれ世界屈指の強豪国としてその名を轟かせていた。さらにUEFA欧州選手権には4度出場しており、初出場となった1964年大会では3位入賞を果たした。
近年では、リヴァプールFCに所属しているソボスライ・ドミニクが世界的に有名な選手である。
近代オリンピックには、夏季・冬季ともにオーストリア・ハンガリー二重帝国のころからハンガリー王国として第1回大会から参加している(1920年のアントワープ五輪と、1984年のロサンゼルス五輪は不参加)。
2012年ロンドン大会までのハンガリーの獲得メダル数は482個であり、211の歴代参加国・地域のうち獲得総メダル数は8位である。特に水球、陸上競技、フェンシング、競泳、近代五種競技においてもその活躍が見られ、中でも水球は獲得金メダル数が世界最多となっている。特にハンガリー史上初の金メダルをもたらした競泳での獲得メダル数は42個で、これは歴代8位である。
モータースポーツでは、1986年から「F1・ハンガリーグランプリ」がブダペスト郊外のハンガロリンクで開催されており、ルイス・ハミルトンが通算6度の最多勝利を挙げている。ハンガリー国内には雪山が殆ど無いためウインタースポーツは盛んではないが、2018年の平昌五輪ではショートトラックスピードスケートの男子5000メートルリレーで冬季オリンピック初の金メダルを獲得している。 | [
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"text": "ハンガリー(ハンガリー語: Magyarország)は、中央ヨーロッパの共和制国家。西にオーストリア、スロベニア、北にスロバキア、東にウクライナ、ルーマニア、南にセルビア、南西にクロアチアに囲まれた内陸国。首都はブダペストである。基本的には中欧とされるが、歴史的には東欧に分類されたことがある。",
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"text": "国土の大部分はなだらかな丘陵で、ドナウ川などに潤される東部・南部の平野部には肥沃な農地が広がる。",
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"text": "正式名称はハンガリー語で Magyarország [ˈmɒɟɒrorsaːɡ] ( 音声ファイル)。カタカナの大まかな発音は「マジャロルサーグ」。通称、Magyar [ˈmɒɟɒr] ( 音声ファイル)(マジャル)。",
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"text": "日本語の表記はハンガリーであるが、20世紀中盤まではハンガリアと表記する例も散見した。漢字表記では洪牙利で、洪と略される。中国語では、ハンガリーのフン族語源説が伝えられて以降、フン族と同族といわれる匈奴から、匈牙利と表記するようになった。",
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"text": "ハンガリー語で「ハンガリー」もしくは「ハンガリー人」を指す名詞「Magyar」は、日本の教科書などにおいて「マジャール」と誤ってカタカナ表記されているものが見られるが、どの母音も伸ばさずに「マジャル」と表記・発音するのが正しいカタカナ表記となる。ハンガリー語では長母音の場合は母音字にエーケゼットをつける規則があるため、そうでない場合は長母音ではない(「Magyar」であって「Magyár」でないため、長母音として発音しないのが正しい)。",
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"text": "歴史上、ハンガリー王国は多民族国家であり、今日のハンガリー人のみで構成されていたわけではなかった。そのため、その他の民族とハンガリー民族を特に区別する際に「マジャル人」という表現が用いられることがある。",
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"text": "「ハンガリー」の語源として一般に認められているのは、俗説にある「フン族」ではなく、7世紀のテュルク系のオノグル (Onogur) という語であり、十本の矢(十部族)を意味する。これは初期のハンガリー人がマジャル人7部族とハザール3部族の連合であったことに由来する。「ウンガーン」(独: Ungarn)、「ウンガリア」(希: Ουγγαρία)に見られるように、もともとは語頭のhがなかった。",
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"text": "2012年1月1日より新たな憲法「ハンガリー基本法」が施行され、国名が変更された。",
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"text": "ハンガリーの国土はハンガリー平原といわれる広大な平原を中心としており、古来さまざまな民族が侵入し、定着してきた。",
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"text": "古代にはパンノニアと呼ばれ、パンノニア族・ダキア人などが住んでいた。紀元前1世紀にはローマに占領され、属州イリュリクムに編入。1世紀中ごろ、属州パンノニアに分離された。4世紀後半にはフン族が侵入、西暦433年に西ローマ帝国によりパンノニアの支配を認められ、フン族によってハンガリーを主要領土(一部現在のブルガリア・ルーマニアを含む)とする独立国家が初めて誕生した。",
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"text": "その後、フン族はアッティラの時代に現在のハンガリーだけではなくローマ帝国の一部も支配下に収めたが、アッティラが40歳で死亡したあと、後継者の不在によりフン族は分裂。結果的に6世紀にはアヴァールの侵入を許す。その後、8世紀にはアヴァールを倒したフランク王国の支配下に移るが、フランク王国はほどなく後退し、9世紀にはウラル山脈を起源とするマジャル人が移住してきた。",
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"text": "10世紀末に即位したハンガリー人の君主イシュトヴァーン1世は、西暦1000年にキリスト教に改宗し、西ヨーロッパのカトリック諸王国の一員であるハンガリー王国(アールパード朝)を建国した。ハンガリー王国はやがてトランシルヴァニア、ヴォイヴォディナ、クロアチア、ダルマチアなどを広く支配する大国に発展する。13世紀にはモンゴル帝国軍の襲来(モヒの戦い)を受け大きな被害を受けた。14世紀から15世紀ごろには周辺の諸王国と同君連合を結んで中央ヨーロッパの強国となった。",
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"text": "1396年、オスマン帝国とのニコポリスの戦いで敗北。フス戦争(1419年 - 1439年)。15世紀後半からオスマン帝国の強い圧力を受けるようになった。1526年には、モハーチの戦いに敗れ、国王ラヨシュ2世が戦死した。1541年にブダが陥落し、その結果、東南部と中部の3分の2をオスマン帝国(オスマン帝国領ハンガリー)、北西部の3分の1をハプスブルク家のオーストリアによって分割支配され(王領ハンガリー)、両帝国のぶつかりあう最前線となった。",
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"text": "三十年戦争(1618年 - 1648年)には、プロテスタント側にトランシルヴァニア公国が、カトリック側に王領ハンガリーが分裂して参加した。",
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"text": "1683年の第二次ウィーン包囲に敗北したオスマン帝国が軍事的に後退すると、1699年のカルロヴィッツ条約で、ハンガリーおよびハンガリー王国領のクロアチアやトランシルヴァニアはオーストリアに割譲された。ハンガリーにとっては支配者がハプスブルク家に変わっただけであり、たびたび独立を求める運動が繰り返された。",
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"text": "1848年の3月革命では、コッシュート・ラヨシュが指導した独立運動こそロシア帝国軍の介入により失敗したが、オーストリアに民族独立運動を抑えるための妥協を決断させ、1867年にキエッジェズィーシュ(和協)が結ばれた。これにより、ハプスブルク家はオーストリア帝国とハンガリー王国で二重君主として君臨するが、両国は外交などを除いて別々の政府を持って連合するオーストリア=ハンガリー帝国となった。",
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"text": "オーストリア=ハンガリー二重帝国の体制下で資本主義経済が発展し、ナショナリズムが高揚したが、第一次世界大戦で敗戦国となり、オーストリアと分離された。",
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"text": "1918年10月31日、アスター革命(ハンガリー語版)(ハンガリー語: Őszirózsás forradalom)でハンガリー初の共和制国家であるハンガリー人民共和国が成立し、社会民主党系のカーロイ・ミハーイ(英語版)が初代大統領および首相を務める。",
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"text": "1919年3月、ハンガリー共産党のクン・ベーラによるハンガリー革命(英語版)が勃発し、クン・ベーラを首班とするハンガリー・ソビエト共和国(3月21日 - 8月6日)が一時成立したが、ルーマニアの介入で打倒される(ハンガリー・ルーマニア戦争)。",
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"text": "1920年3月1日、ハプスブルク家に代わる王が選出されないまま、ホルティ・ミクローシュが摂政として統治するハンガリー王国の成立が宣言された。1920年6月4日に結ばれたハンガリーと連合国とのトリアノン条約により、二重帝国時代の王国領のうち、トランシルヴァニアやハンガリー北部(スロバキア)など、面積で72%、人口で64%を失い、ハンガリー人の全人口の半数ほどがハンガリーの国外に取り残された。領土を失った反動、周囲の旧連合国からの孤立などの要因から次第に右傾化した。",
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"text": "1930年代後半からはナチス・ドイツと協調するようになり、1938年のミュンヘン協定、ハンガリーのカルパト・ウクライナへの侵攻(英語版)、1939年のスロバキア・ハンガリー戦争(英語版)、 2度のウィーン裁定などで一部領土を回復した。第二次世界大戦では領域拡大とナチス・ドイツからの圧迫を受けて枢軸国に加わり独ソ戦などで戦ったが、戦局は次第に劣勢となり、1944年にはホルティは枢軸国からの離脱を目指すが、ナチス・ドイツ軍と矢十字党によるクーデター(パンツァーファウスト作戦)で阻止されて失脚した。かわって矢十字党の国民統一政府が成立、1945年5月8日の敗戦まで枢軸国として戦うことになった。一方でソビエト連邦軍の占領区域では、軍の一部や諸政党が参加したハンガリー臨時国民政府が樹立され、戦後ハンガリー政府の前身となった。1945年4月4日には、ハンガリー全土からドイツ軍が駆逐され、ナチス・ドイツの崩壊とともに残存していたハンガリー軍部隊も降伏した。",
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"text": "1946年2月1日には王制が廃止され、ハンガリー共和国(第二共和国)が成立した。しかし、ソ連の占領下に置かれたハンガリーでは1垓ペンゲー紙幣まで発行される史上最悪のハイパーインフレーションが起きるなど政府に統制力はなく、共産化の影響力が次第に高まりつつあった。",
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"text": "1947年2月にはパリ条約によって連合国と講和し、占領体制は一応終結したがソ連軍はそのままハンガリーに駐留し続けることになった。ハンガリー共産党は対立政党の影響力を徐々に削減する戦術で権力を掌握し、1949年にハンガリー人民共和国が成立した。ハンガリー共産党が合同したハンガリー勤労者党による一党独裁国家としてソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)の衛星国となり、冷戦体制の中では東側の共産圏に属した。",
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"text": "共和国成立直後より国民への統制は厳しいものとなり、1949年時点から他の衛星国に先駆けて西側諸国(オーストリア)国境に鉄条網の障壁が築かれた。こうした共産主義体制に対する反発も根強く1956年にはハンガリー動乱が起こったが、ソ連軍に鎮圧された。勤労者党はハンガリー社会主義労働者党に再編され、ソ連の強い影響を受けながらもカーダール・ヤーノシュによるグヤーシュ・コミュニズムと呼ばれる比較的穏健な政策がとられた。",
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"text": "1980年代後半になると、ソ連のペレストロイカとともに東欧における共産党一党独裁の限界が明らかとなった。社会主義労働者党内でも改革派が台頭し、ハンガリー民主化運動が開始され、1989年2月には憲法から党の指導性を定めた条項が削除された。5月には西側のオーストリアとの国境に設けられていた鉄条網(鉄のカーテン)を撤去し、国境を開放した。これにより西ドイツへの亡命を求める東ドイツ市民がハンガリーに殺到、汎ヨーロッパ・ピクニックを引き起こし、冷戦を終結させる大きな引き金となった。また6月には複数政党制を導入し、社会主義労働者党もハンガリー社会党に改組された。",
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"text": "1989年10月23日、ハンガリー共和国憲法施行により、多党制に基づくハンガリー第三共和国が成立した。1990年代、ハンガリーはヨーロッパ社会への復帰を目指して改革開放を進め、1999年に北大西洋条約機構(NATO)に、2004年に欧州連合(EU)に加盟した。",
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"text": "ハンガリー第三共和国の国旗と国章では、ファシズム体制を敷いた矢十字党の「矢印十字」の紋章と、共産党時代の「赤い星」の紋章が消去されている。また、ナチスドイツ、矢十字党、ソビエト連邦、共産党一党独裁による圧制の反動から、「鉤十字」「矢十字」「鎌と槌」「赤い星」の配布・公刊・公の場での使用が、1993年の改正刑法にて禁止された。",
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"text": "1999年3月にNATOに加盟、2004年5月にEUに加盟。さらに 2007年にシェンゲン協定を導入。2011年に新憲法「ハンガリー基本法」への改正が行われた。",
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"text": "しかし、2010年に首相に再登板したオルバーン・ヴィクトルは、次第に親ロシア路線に転換し始めた。2022年のロシアによるウクライナ侵攻の際には、国益に反するとしてウクライナへの軍事支援を拒否。他のNATO諸国と一線を画した。対露制裁とも距離を置いたが、これはロシアへのエネルギー依存度が高いという事情もある。",
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"text": "ハンガリーの大統領は任期5年で議会によって選ばれるが、首相を任命するなど、儀礼的な職務を遂行するのみの象徴的な元首である。大統領官邸はブダ王宮に隣接するシャーンドル宮殿。実権は議院内閣制をとる首相にあり、自ら閣僚を選んで行政を行う。",
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"text": "立法府の国民議会 (Országgyűlés) は一院制、民選で、任期は4年、定員は199人である。国民議会は国家の最高権威機関であり、すべての法は国民議会の承認を経なければ成立しない。",
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"text": "V-Dem研究所は、ハンガリーを欧州連合加盟国で唯一選挙独裁主義と認定しており、フリーダム・ハウスは、「一部自由」とランク付けている。",
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"text": "純粋に司法権を行使する最高裁判所とは別に憲法裁判所が存在し、法律の合憲性を審査している。",
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"text": "内陸国であるため海軍は持たず、現在の国軍は、陸軍および空軍の2軍からなる。ただし、ハンガリー領内を流れるドナウ川の防衛目的でユーゴスラビア製の掃海艇を3隻保有しており、陸軍の河川警備隊がドナウ川において運用している。1999年に北大西洋条約機構(NATO)に加盟し、西欧諸国と集団安全保障体制をとっている。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "軍の歴史は長く、第一次世界大戦時にはオーストリア=ハンガリー二重帝国として中央同盟軍の一角を占めていた。戦後の独立ハンガリーは1920年のトリアノン条約により兵力を制限されていた。その反動もあって第二次世界大戦時には枢軸国として参戦し、東部戦線にも兵力を出している。1945年にはソ連軍に占領され、冷戦時には共産圏国家として、ワルシャワ条約機構に加盟していた。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "ハンガリーの国土はカルパティア山脈のふもとに広がるカルパート盆地のうちの平野部をなす。ハンガリー平原またはハンガリー盆地と呼ばれる国土の中心は、中央を流れるドナウ川によってほぼ二分され、東には大きな支流のティサ川も流れている。国土の西部にはヨーロッパでも有数の大湖バラトン湖がある。また各地に温泉が湧き出ており、公衆浴場が古くから建設・利用されてきた。首都ブダペストにもセーチェーニ、ルカーチ、ゲッレールト温泉などの有名な温泉がある。もっとも温度の高い熱水泉ヘーヴィーズ湖を有するヨーロッパ有数の「温泉大国」として知られ、多くの観光客が温泉目当てに押し寄せる。 トランシルヴァニア地方など、ルーマニアとの国境係争地帯を持っている。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "大陸性気候に属する気候は比較的穏やかで、四季もある。緯度が比較的高く、冬は冷え込むが、地中海から海洋性気候の影響を受け、冬も湿潤で曇りがちである。年間平均気温は10°C前後。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "ハンガリーは40の地方行政区分に区分される。うち19は郡とも県とも訳されるメジェ (megye) で、20はメジェと同格の都市郡という行政単位(megyei város)である。なお首都のブダペスト都はいずれにも属さない、独立した自治体である。",
"title": "地方行政区分"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "旧ハンガリー王国の領土(大ハンガリー)に含まれた地域については、ハンガリー王国の歴史的地域を参照。",
"title": "地方行政区分"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "国際通貨基金(IMF)による統計では、2018年現在でGDPは1,612億ドル、一人あたりのGDP(為替レート)は1万6,484ドルであり、EU平均の約45%、世界水準の約1.4倍である。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "ハンガリーは1989年の体制転換以来、外国資本を受け入れて積極的に経済の開放を進めた。その結果、1997年以降年間4%以上の高成長を続けるとともに、2004年には経済の民間部門が国内総生産(GDP)の80%以上を占め、「旧東欧の優等生」と呼ばれるほどであった。また2004年の欧州連合加盟は、当時のハンガリー経済にとって追い風になった。",
"title": "経済"
},
{
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"tag": "p",
"text": "しかしその後、インフレーションと失業率が増加して貧富の差が広がり、社会問題として常態化した。また巨額の財政赤字も重要な課題であり、現政権が目標とするユーロ導入への見通しは立っていない。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "伝統的な産業ではアルコールが強い。特にワインは有名で、ブルゲンラント、ショプロン、ヴィッラーニなど著名な産地があるが、中でもトカイのトカイワインはワインの王と言われる。農業ではパプリカが名産品で、ハンガリー料理にもふんだんに使われる。ガチョウの飼育も盛んであり、ドナウ川西岸(ドゥナーントゥール(ハンガリー語版)地方)が主産地である。ハンガリー産のフォアグラもよく輸出されている。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦前のハンガリーは肥沃な土壌と計画的な灌漑設備により、農業国として成立していた。そのため、食品工業を中心とした軽工業が盛んであった。第二次世界大戦後、社会主義下の計画経済によって重工業化が進められた。特に車両生産、一般機械が優先され、化学工業と薬品工業がそれに次いだ。しかし、有機鉱物資源とボーキサイトを除くと工業原材料には恵まれておらず、輸入原材料を加工し輸出するという形を取った。1970年代には工業を中心とする貿易が国民所得の40%を占めるまで成長した。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "共産主義体制から資本主義体制に転換後、1990年代初頭においては、化学工業の比重が次第に大きくなっていく傾向にあった。2003年時点では全産業に占める工業の割合がさらに高まっており、輸出額の86.8%を工業製品が占めるに至った。さらに貿易依存度は輸出54.5%、輸入59.2%まで上がっている。品目別では機械工業が再び盛んになっており、輸出に占める比率は電気機械36.1%、機械類16.2%、自動車8.2%である。世界シェアに占める比率が高い工業製品は、ワイン(1.7%、49万トン)、硝酸(1.5%、31万トン)である。",
"title": "経済"
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"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "ハンガリーの鉱業は、燃料に利用できる亜炭とボーキサイトが中核となっている。有機鉱物資源では、世界シェアの1.5%を占める亜炭(1391万トン、2002年)、原油(107万トン)、天然ガス(115千兆ジュール)を採掘する。有力な炭田は南東部ベーチ近郊、首都ブダペストの西方50キロに位置するタタバーニャ近郊の2か所に広がる。油田は中央南部セゲド近郊と、スロベニア、クロアチア国境に接する位置にある。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "金属鉱物資源ではボーキサイト(100万トン)が有力。バラトン湖北岸からブダペストに向かって北東に延びる山地沿いで採掘されている。ただし、採掘量は減少傾向にある(1991年には203.7万トンが採掘されていた)。このほか、小規模ながらマンガンとウランの採掘も見られる。",
"title": "経済"
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"text": "",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "ハンガリーは歴史的に多数の科学者を輩出している。同国出身の科学者は核兵器やコンピュータの開発に貢献したことで世界的に知られており、ナイマン・ヤーノシュ(ジョン・フォン・ノイマン)はコンピュータの開発に貢献した。ケメーニィ・ヤーノシュは米国人計算機科学者のトーマス・E・カーツ(英語版)とともにBASIC を開発した。",
"title": "科学技術"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "傍ら、ハンガリー人にはさまざまな分野で後世に影響を与える発明をしている人物が多い。ハンガリー人の発明にはルビク・エルネーによるルービックキューブやブローディ・イムレによるクリプトン電球などがある。",
"title": "科学技術"
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{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "ハンガリーの国民の86%以上はマジャル人(ハンガリー人)である。マジャル人はフィン・ウゴル語族のハンガリー語(マジャル語)を母語とし、ウラル山脈の方面から移ってきた民族である。マジャル人の人名は、正式に表記した際に姓が名の前につく。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 55,
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"text": "マジャル人は旧ハンガリー王国領に広まって居住していたため、セルビアのヴォイヴォディナ、クロアチア北部、スロバキア南部、ルーマニアのトランシルヴァニアなどにもかなりのマジャル人人口が存在している。また、マジャル人の中にはモルダヴィアのチャーンゴー、トランシルヴァニアのセーケイや、ハンガリー共和国領内のヤース、マチョー、クン、パローツなどの文化を持つサブグループが知られるが、ヤース人がアラン人の末裔、クン人がクマン人の末裔であることが知られるように、これらはさまざまな出自を持ち、ハンガリー王国に移住してハンガリーに部分的に同化されていった人々である。",
"title": "国民"
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{
"paragraph_id": 56,
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"text": "その他の民族では、有意の人口を有するロマ(ジプシー)とドイツ人が居住する。ハンガリー科学アカデミーの推計では、人口約1,000万人のうち約60万人がロマとされる。また、ドイツ人は東方植民地運動の一環としてハンガリー王国に移り住んできた人々の子孫で、トランシルヴァニアのサース人(ザクセン人)やスロヴァキアのツィプス・ドイツ人のように、ハンガリー王国の中で独自の民族共同体を築いた人々もいる。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "その他の民族では、ルテニア人(ウクライナ人)、チェコ人、クロアチア人、ルーマニア人などもいるが、いずれもごく少数である。第二次世界大戦以前には、ユダヤ人人口もかなりの数にのぼったが、第二次世界大戦中の迫害などによってアメリカ合衆国やイスラエルに移住していった人が多い。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 58,
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"text": "近年のDNA分析によるとハンガリー人はコーカソイド(白人)に分類されるが、わずかにモンゴロイド(黄色人種)特有のアセトアルデヒド脱水素酵素D型が検出されることから、モンゴロイドとの混血により遺伝子の流入があったと考えられる。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "ファシズムの研究で知られるオックスフォード・ブルックス大学のロジャー・グリフィン(英語版)は、「ハンガリーはアジア系のマジャル人が建国し、独特の言語を持っている。オスマン帝国、オーストリア帝国、旧ソ連の圧力を受けてきた。ハンガリーはEUの中の孤島だ」と述べている。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "2010年、フィデス=ハンガリー市民同盟により、国外のハンガリー系住民へハンガリー国籍付与の道を開いたが、隣国のスロバキアはこれに反発し、二重国籍禁止法案を可決している。ルーマニアには、約160万人のハンガリー系少数民族がおり、その多くは、ハンガリーとの領有権問題を抱えるトランシルヴァニア、特にティミショアラに居住している。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "言語的にはハンガリー語が優勢で、少数民族のほとんどもハンガリー語を話し、ハンガリー語人口は98%に上る 。国内の少数民族としては、13万人を擁するドイツ人が最大で、このうちおよそ10万人(国内の人口の約1%に相当)が家庭内でドイツ語を使用する。ハンガリーは旧オーストリア=ハンガリー帝国の中核的地域でドイツ人との結びつきが強いうえに、第二次世界大戦時もハンガリーが枢軸国に加担した結果、ハンガリー人によるドイツ人追放がほとんど起こらなかった(ソ連による追放はある程度行われた)ため、ドイツ人の居住人口が今なお多い。",
"title": "国民"
},
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"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "宗教はカトリック(39%)が多数を占め、カルヴァン派もかなりの数にのぼる(12%)。その他、ルター派(5%)やユダヤ教(0.2%)も少数ながら存在する。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 63,
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"text": "婚姻時の姓は、自己の姓(夫婦別姓)、相手の姓、複合姓(順序はいずれでもよい。ハイフンでつなぐ)、自らのフルネームを相手のフルネームにnéを付加したものに変更する(この場合は出生時の姓名はともに失われる)、相手のフルネームにnéを付加したものに自己のフルネームを加えたものを自己のフルネームとする(この場合は、フルネームは4つの名からなる)、自己の姓の前に相手の姓にnéを付加したものを追加する(自己の姓は中間姓となる)、などより選択することが可能である。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "伝統的には、妻が相手のフルネームにnéを付加したフルネームに改名し、出生時の名前は失われていた。その後、1895年、1953年、1974年、2004年などの改正を経て、現在では男女の公平性が高められ、選択肢の多い制度となった。なおハンガリーでは、日本と同様に姓が最初にくる。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "ハンガリーの教育制度の特徴は、制度的構造と教育プログラムの構造が一致していない点にある。システム自体の制度的構造と早期選択を可能にするプログラムの存在は、中央ヨーロッパおよび元社会主義国との類似性を示している。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "同国は優れた数学教育が続いていることから、国際的なレベルの教育において知名度の高い国となっている。ただし優れた数学教育で有名である反面、現今においてフィールズ賞受賞者はいまだ出ていない。有名な数学者にはエルデーシュ・パールやフランクル・ペーテルらがいる。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "ハンガリーの治安情勢は全般的に良好で、犯罪認知件数も減少傾向にある。2019年における国内の犯罪認知件数は16万5,648件で、5年前の2014年と比較すると約1/3ほど減少している。しかし、人口比で見ると犯罪発生率は日本よりも高いため、油断をすることは許されない。",
"title": "治安"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "全体としては財産犯が多くを占め、その中でも窃盗犯(侵入盗、スリ、置き引きなど)が多く、日本人観光客から寄せられる犯罪被害連絡のほとんどは窃盗被害となっている点が特徴ともなっている。",
"title": "治安"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "トルテやクレープに似たパラチンタなど、食文化はオーストリアと共通するものが多いが、ハンガリーの食文化の特色は乾燥させて粉にしたパプリカの多用と種類の豊富なダンプリングにある。パプリカを用いた煮込み料理グヤーシュは世界的に有名である。ドナウ川西岸のドゥナーントゥール地方では、古くからフォアグラの生産が盛んである。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "ワインの生産も盛んで、トカイワインなどが有名である。また、伝統的な蒸留酒にパーリンカがある。フランスのオー・ド・ヴィやイタリアのグラッパなどと似た、果実から造られる蒸留酒である。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "ハンガリー固有種の豚、マンガリッツァは国宝の指定を受けて保護されているが、保護のために利用を禁じるのではなく、むしろ高品質の食肉として利用することを通じて飼育頭数を増やす方針を採っている。飼育にあたっては伝統的な放牧または半放牧が行われているが、一頭一頭にマイクロチップや標識を取りつけて管理することでトレーサビリティを確保するなど、現代的な手法も取り入れられている。日本にはピック社が伝統的な製法で作られたサラミなどを輸出している。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "ハンガリー出身の哲学者として、『歴史と階級意識』でソビエト連邦のマルクス=レーニン主義に対する西欧マルクス主義の基礎を築いたルカーチ・ジェルジの名が特筆される。このほか、社会学者のカール・マンハイムや、経済人類学者のカール・ポランニー(オーストリア=ハンガリー帝国時代)がいる。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "ハンガリーは多様な民族性に支えられた豊かな文化を持ち、特にハンガリー人の地域ごとの各民族集団(ロマなど)を担い手とする民族音楽は有名である。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "また、リスト・フェレンツ(フランツ・リスト)、フランツ・レハール、コダーイ・ゾルターン、バルトーク・ベーラなど多数の著名なクラシック音楽の作曲家も輩出した。多様な民族音楽にインスピレーションを受けて作曲した音楽家も多い。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "指揮者の分野では、ハンス・リヒター(指揮者)、アルトゥル・ニキシュ、ジョージ・セル、ユージン・オーマンディ、フリッツ・ライナー、フェレンツ・フリッチャイ、イシュトヴァン・ケルテス、ゲオルク・ショルティといったビッグネームが並ぶ。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "ピアニストでは、リリー・クラウス、ゲーザ・アンダ、ジョルジュ・シフラといった歴史的大家、アンドラーシュ・シフ、ゾルターン・コチシュ、ラーンキ・デジェー、アダム・ジョージといった現役(2019年現在)が挙げられる。これらの中にはドイツ人植民者家系も含まれることもあり、ドイツ人名を名乗ってドイツ楽派やウィーン音楽で指導的な役割を果たした者も少なくない。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "ハンガリー全土で伝統的に刺繡が盛んであり、カロチャ刺繡やマチョー刺繡など、地域ごとに特色ある刺繡が分布している。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "ハンガリーでは温泉が湧き出し、温泉文化が古くから伝わっている。ブダペストにおける温泉文化は2000年近くある。ブダペストのオーブダ地区にある古代ローマ時代のアクインクム遺跡に、ハンガリー最初の温泉浴場が建設された。当時の浴場跡を今日でも見ることができる。オスマン帝国に支配されていたときに、ドナウ川河畔に発達した。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "1937年国際沿療学会議ブダペスト大会でブダペストは国際治療温泉地に認定され、世界的に温泉に恵まれた首都と呼ばれるに至った。オスマン帝国時代の建物をそのまま残すルダシュやキラーイなどの浴場は、今日でも親しまれている。1913年に作られたセーチェーニ温泉は湯量毎分3,700リットルという豊かな湯量と豪奢な建物で知られている。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 80,
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"text": "温水湖であるヘーヴィーズ湖は、自然温水湖である。ハンガリーにおいてもっとも古くから知られており、古代ローマ時代の記録にさかのぼり、2000年の歴史がある。4.4ヘクタール、水深38メートル、泉質は硫黄、ラジウム、カルシウム、マグネシウムなどのミネラルを含む。泉からは大量に湧き出し、48時間で水が入れ替わる。水温は冬は23 - 25°C、夏は33 - 36°Cである。",
"title": "文化"
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{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "ハンガリーは建築における歴史が長いことでも知られている。その起源はローマ帝国の属州時代に遡るほど古いが、現在に至るまで様々な建築形式の影響を受けつつも独自の技法を開発している。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "ハンガリー国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件存在する。さらにオーストリアにまたがって1件の文化遺産が、スロバキアにまたがって1件の自然遺産が登録されている。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 83,
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"text": "ハンガリー国内で圧倒的に1番人気のスポーツはサッカーとなっており、1901年にプロサッカーリーグの「ネムゼティ・バイノクシャーグI」が創設された。中でも名門クラブのフェレンツヴァーロシュTCはリーグ最多32度の優勝を誇り、UEFAカップの前身大会であるインターシティーズ・フェアーズカップでは1964-65シーズンに優勝している。",
"title": "スポーツ"
},
{
"paragraph_id": 84,
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"text": "サッカーハンガリー代表は古豪として認識されており、FIFAワールドカップにはこれまで9度出場している。1938年大会と1954年大会では準優勝に輝いており、当時マジック・マジャールと呼ばれ世界屈指の強豪国としてその名を轟かせていた。さらにUEFA欧州選手権には4度出場しており、初出場となった1964年大会では3位入賞を果たした。",
"title": "スポーツ"
},
{
"paragraph_id": 85,
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"text": "近年では、リヴァプールFCに所属しているソボスライ・ドミニクが世界的に有名な選手である。",
"title": "スポーツ"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "近代オリンピックには、夏季・冬季ともにオーストリア・ハンガリー二重帝国のころからハンガリー王国として第1回大会から参加している(1920年のアントワープ五輪と、1984年のロサンゼルス五輪は不参加)。",
"title": "スポーツ"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "2012年ロンドン大会までのハンガリーの獲得メダル数は482個であり、211の歴代参加国・地域のうち獲得総メダル数は8位である。特に水球、陸上競技、フェンシング、競泳、近代五種競技においてもその活躍が見られ、中でも水球は獲得金メダル数が世界最多となっている。特にハンガリー史上初の金メダルをもたらした競泳での獲得メダル数は42個で、これは歴代8位である。",
"title": "スポーツ"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "モータースポーツでは、1986年から「F1・ハンガリーグランプリ」がブダペスト郊外のハンガロリンクで開催されており、ルイス・ハミルトンが通算6度の最多勝利を挙げている。ハンガリー国内には雪山が殆ど無いためウインタースポーツは盛んではないが、2018年の平昌五輪ではショートトラックスピードスケートの男子5000メートルリレーで冬季オリンピック初の金メダルを獲得している。",
"title": "スポーツ"
}
] | ハンガリーは、中央ヨーロッパの共和制国家。西にオーストリア、スロベニア、北にスロバキア、東にウクライナ、ルーマニア、南にセルビア、南西にクロアチアに囲まれた内陸国。首都はブダペストである。基本的には中欧とされるが、歴史的には東欧に分類されたことがある。 国土の大部分はなだらかな丘陵で、ドナウ川などに潤される東部・南部の平野部には肥沃な農地が広がる。 | {{otheruses||フランツ・リストの交響詩|ハンガリー (リスト)}}
{{Redirect|マジャル|パレスチナに存在する地域名|アシュケロン}}
{{出典の明記|date=2009年7月}}
{{基礎情報 国
|略名 = ハンガリー
|日本語国名 = ハンガリー
|公式国名 = {{lang|hu|'''Magyarország'''}}
|国旗画像 = Flag of Hungary.svg
|国章画像 = [[ファイル:Coat_of_arms_of_Hungary.svg|62px|ハンガリーの国章]]
|国章リンク = ([[ハンガリーの国章|国章]])
|標語 = なし
|国歌 = [[賛称|{{lang|hu|Himnusz}}]]{{hu icon}}<br/>''賛称''<br />{{center|[[File:Hungarian national anthem, performed by the United States Navy Band (May 1997 arrangement).oga]]}}
|位置画像 = EU-Hungary.svg
|公用語 = [[ハンガリー語|ハンガリー語(マジャル語)]]
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|元首等氏名 = [[ノヴァーク・カタリン]]
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|首相等氏名 = [[オルバーン・ヴィクトル]]
|面積順位 = 107
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|人口統計年 = 2020
|人口順位 = 93
|人口大きさ = 1 E7
|人口値 = 966万0000<ref name=population>{{Cite web|url=http://data.un.org/en/iso/hu.html|title=UNData |publisher=[[国連]]|language=英語|date=2021-10|accessdate=2021-11-5}}</ref>
|人口密度値 = 106.7<ref name=population/>
|GDP統計年元 = 2020
|GDP値元 =47兆7434億6500万<ref name="economy">{{cite web|url =https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=944,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LUR,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGSB,GGSB_NPGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDN,GGXWDN_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1 |title=Report for Selected Countries and Subjects: October 2021 |accessdate=2021-11-5}}</ref>
|GDP統計年MER = 2020
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|GDP値MER = 1550億1300万<ref name="economy" />
|GDP MER/人 = 15,866.216<ref name="economy" />
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|GDP順位 = 58
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|GDP/人 = 33,044.637<ref name="economy" />
|建国形態 = [[オーストリア・ハンガリー帝国]]から[[独立]]<br/>[[ハンガリー王国 (1920年-1946年)|ハンガリー王国]]成立<br/>[[ヨーロッパ戦勝記念日|ソビエト連邦による占領]]<br />[[ハンガリー民主化運動|第三共和国成立]]
|建国年月日 = [[1918年]][[10月31日]]<br/>[[1920年]][[3月1日]]<br/>[[1945年]][[5月8日]]<br/>[[1989年]][[10月23日]]
|通貨 = [[フォリント]]
|通貨コード = HUF
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|ISO 3166-1 = HU / HUN
|ccTLD =[[.hu]]
|国際電話番号 =36
|注記 =
|}}
'''ハンガリー'''({{lang-hu|Magyarország}})は、[[中央ヨーロッパ]]の[[共和制]][[国家]]。西に[[オーストリア]]、[[スロベニア]]、北に[[スロバキア]]、東に[[ウクライナ]]、[[ルーマニア]]、南に[[セルビア]]、南西に[[クロアチア]]に囲まれた[[内陸国]]。首都は[[ブダペスト]]である。基本的には[[中央ヨーロッパ|中欧]]とされるが、歴史的には[[東ヨーロッパ|東欧]]に分類されたことがある。
国土の大部分はなだらかな丘陵で、[[ドナウ川]]などに潤される東部・南部の平野部には肥沃な農地が広がる<ref>{{Cite web|和書|author=[[農林水産省]]|url=http://www.maff.go.jp/kaigai/gaikyo/z_hungary.htm|title=ハンガリーの農林水産業概況|format=HTML|accessdate=2008-08-09}}</ref>。<!--首都ブダペストには[[ロンドン]]、[[イスタンブール]]に次いで世界で3番目に[[ブダペスト地下鉄|地下鉄]]が開通した。(国の記事の冒頭部に書くことだろうか)-->
== 国名 ==
正式名称はハンガリー語で {{Lang|hu|Magyarország}} {{IPA-hu|ˈmɒɟɒrorsaːɡ||hu-Magyarország.ogg}}。カタカナの大まかな発音は「マジャロルサーグ」。通称、{{Lang|hu|Magyar}} {{IPA-hu|ˈmɒɟɒr||Hu-magyar.ogg}}(マジャル)。
[[日本語]]の表記は'''ハンガリー'''であるが、20世紀中盤までは'''ハンガリア'''と表記する例も散見した。[[外国地名および国名の漢字表記一覧|漢字表記]]では'''洪牙利'''で、'''洪'''と略される。[[中国語]]では、ハンガリーの[[フン族]]語源説が伝えられて以降、フン族と同族といわれる[[匈奴]]から、'''匈牙利'''と表記するようになった。
ハンガリー語で「ハンガリー」もしくは「[[マジャル人|ハンガリー人]]」を指す名詞「{{Lang|hu|Magyar}}」は、日本の教科書などにおいて「マジャール」と誤ってカタカナ表記されているものが見られるが、どの母音も伸ばさずに「マジャル」と表記・発音するのが正しいカタカナ表記となる。ハンガリー語では長母音の場合は母音字にエーケゼット<ref group="注釈">{{Lang-hu|ékezet}}([[アクセント]])</ref>をつける規則があるため、そうでない場合は長母音ではない(「{{Lang|hu|Magyar}}」であって「{{Lang|hu|Magyár}}」でないため、長母音として発音しないのが正しい)。
歴史上、[[ハンガリー王国]]は[[多民族国家]]であり、今日のハンガリー人のみで構成されていたわけではなかった。そのため、その他の民族とハンガリー民族を特に区別する際に「[[マジャル人]]」という表現が用いられることがある。
「ハンガリー」の語源として一般に認められているのは、俗説にある「[[フン族]]」ではなく、7世紀の[[テュルク系]]の'''[[大ブルガリア (中世)#オノグリアの語源|オノグル]]''' (Onogur) という語であり、十本の矢(十部族)を意味する。これは初期のハンガリー人が[[マジャル人]]7部族と[[ハザール]]3部族の連合であったことに由来する。「ウンガーン」({{lang-de-short|Ungarn}})、「ウンガリア」({{lang-el-short|Ουγγαρία}})に見られるように、もともとは語頭のhがなかった。
[[2012年]][[1月1日]]より新たな[[憲法]]「[[ハンガリー基本法]]」が施行され、国名が変更された<ref>{{Cite web|和書
|author = 在ハンガリー日本国大使館案内
|url = https://www.hu.emb-japan.go.jp/jpn/annai/120112.htm
|title = ハンガリーの国名変更
|format = HTML
|accessdate = 2012-01-15
}}</ref>。
*[[1920年]] - [[1946年]] ハンガリー王国({{lang|hu|Magyar Királyság}} {{IPA|[ˈmɒɟɒr ˈkirɑ̈ːjʃɑ̈ːɡ]}}(マジャル・キラーイシャーグ))
*[[1946年]] - [[1949年]] [[ハンガリー第二共和国|ハンガリー共和国]]({{lang|hu|Magyar Köztársaság}} {{IPA|[ˈmɒɟɒr ˈkøstɑ̈ːrʃɒʃɑ̈ːɡ]}}(マジャル・ケスタールシャシャーグ)
*[[1949年]] - [[1989年]] [[ハンガリー人民共和国]]({{lang|hu|Magyar Népköztársaság}} {{IPA|ˈmɒɟɒr ˌne̝ːpkøstɑ̈ːrʃɒʃɑ̈ːɡ}} (マジャル・ネープケスタールシャシャーグ))
*[[1989年]] - [[2011年]] ハンガリー共和国({{lang|hu|Magyar Köztársaság}} {{IPA|[ˈmɒɟɒr ˈkøstɑ̈ːrʃɒʃɑ̈ːɡ]}}(マジャル・ケスタールシャシャーグ))
*[[2012年]] - ハンガリー({{lang|hu|Magyarország}} {{IPA|[ˈmɒɟɒrorsɑ̈ːɡ]}}(マジャル・オルサーグ))
== 歴史 ==
{{Main|ハンガリーの歴史}}
ハンガリーの国土は[[ハンガリー平原]]といわれる広大な平原を中心としており、古来さまざまな民族が侵入し、定着してきた。
古代には[[パンノニア]]と呼ばれ、パンノニア族・[[ダキア人]]などが住んでいた。紀元前1世紀には[[古代ローマ|ローマ]]に占領され、属州[[イリュリクム]]に編入。1世紀中ごろ、属州パンノニアに分離された。4世紀後半には[[フン族]]が侵入、西暦433年に[[西ローマ帝国]]によりパンノニアの支配を認められ、[[フン族|フン]]族によってハンガリーを主要領土(一部現在のブルガリア・ルーマニアを含む)とする独立国家が初めて誕生した。
その後、フン族は[[アッティラ]]の時代に現在のハンガリーだけではなくローマ帝国の一部も支配下に収めたが、アッティラが40歳で死亡したあと、後継者の不在によりフン族は分裂。結果的に[[6世紀]]には[[アヴァール]]の侵入を許す。その後、[[8世紀]]にはアヴァールを倒した[[フランク王国]]の支配下に移るが、フランク王国はほどなく後退し、[[9世紀]]にはウラル山脈を起源とする[[マジャル人]]が移住してきた。
=== ハンガリー王国時代(1000年 - 1918年) ===
[[File:Europe mediterranean 1190 cropped.jpg|thumb|[[12世紀]]の[[ハンガリー王国]]]]
[[10世紀]]末に即位したハンガリー人の君主[[イシュトヴァーン1世 (ハンガリー王)|イシュトヴァーン1世]]は、西暦[[1000年]]に[[キリスト教]]に改宗し、[[西ヨーロッパ]]の[[カトリック教会|カトリック]]諸王国の一員である[[ハンガリー王国]]([[アールパード朝]])を建国した。ハンガリー王国はやがて[[トランシルヴァニア]]、[[ヴォイヴォディナ]]、[[クロアチア]]、[[ダルマチア]]などを広く支配する大国に発展する。[[13世紀]]には[[モンゴル帝国]]軍の襲来([[モヒの戦い]])を受け大きな被害を受けた。[[14世紀]]から[[15世紀]]ごろには周辺の諸王国と[[同君連合]]を結んで[[中央ヨーロッパ]]の強国となった<ref>{{cite book|title = Kristó Gyula – Barta János – Gergely Jenő: Magyarország története előidőktől 2000-ig (History of Hungary from the prehistory to 2000)|publisher =Pannonica Kiadó, Budapest|year =2002|isbn= 963-9252-56-5|pp= 687, 37, 113 }}</ref>。
[[1396年]]、[[オスマン帝国]]との[[ニコポリスの戦い]]で敗北。[[フス戦争]]([[1419年]] - [[1439年]])。15世紀後半から[[オスマン帝国]]の強い圧力を受けるようになった。[[1526年]]には、[[モハーチの戦い]]に敗れ、国王[[ラヨシュ2世 (ハンガリー王)|ラヨシュ2世]]が戦死した。[[1541年]]に[[ブダ]]が陥落し、その結果、東南部と中部の3分の2をオスマン帝国([[オスマン帝国領ハンガリー]])、北西部の3分の1を[[ハプスブルク家]]の[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]によって分割支配され([[王領ハンガリー]])、両帝国のぶつかりあう最前線となった。
[[三十年戦争]]([[1618年]] - [[1648年]])には、プロテスタント側に[[トランシルヴァニア公国]]が、カトリック側に[[王領ハンガリー]]が分裂して参加した。
[[1683年]]の[[第二次ウィーン包囲]]に敗北したオスマン帝国が軍事的に後退すると、[[1699年]]の[[カルロヴィッツ条約]]で、ハンガリーおよびハンガリー王国領のクロアチアやトランシルヴァニアはオーストリアに割譲された。ハンガリーにとっては支配者がハプスブルク家に変わっただけであり、たびたび独立を求める運動が繰り返された。
[[File:Austro-Hungary 1914.jpg|thumb|[[オーストリア=ハンガリー帝国]]におけるハンガリー(赤、[[1914年]])]]
[[1848年]]の[[1848年革命|3月革命]]では、[[コッシュート・ラヨシュ]]が指導した独立運動こそ[[ロシア帝国]]軍の介入により失敗したが、オーストリアに民族独立運動を抑えるための妥協を決断させ、[[1867年]]に[[アウスグライヒ|キエッジェズィーシュ]](和協)が結ばれた。これにより、ハプスブルク家はオーストリア帝国とハンガリー王国で二重君主として君臨するが、両国は外交などを除いて別々の政府を持って連合する[[オーストリア=ハンガリー帝国]]となった。
オーストリア=ハンガリー二重帝国の体制下で[[資本主義]]経済が発展し、[[ナショナリズム]]が高揚したが、[[第一次世界大戦]]で敗戦国となり、オーストリアと分離された。
=== ハンガリー人民共和国時代(1918年 - 1919年) ===
[[1918年]][[10月31日]]、{{仮リンク|アスター革命|hu|Őszirózsás forradalom}}({{lang-hu|Őszirózsás forradalom}})でハンガリー初の[[共和制]]国家である[[ハンガリー人民共和国 (1918年-1919年)|ハンガリー人民共和国]]が成立し、社会民主党系の{{仮リンク|カーロイ・ミハーイ|en|Mihály Károlyi|date=2016年9月}}が初代大統領および首相を務める。
=== ハンガリー・ソビエト共和国時代(1919年 - 1919年) ===
[[1919年]]3月、[[ハンガリー共産党]]の[[クン・ベーラ]]による{{仮リンク|ハンガリー革命と介入 (1918年-1920年)|en|Revolutions and interventions in Hungary (1918–1920)|label=ハンガリー革命}}が勃発し、[[クン・ベーラ]]を首班とする[[ハンガリー・ソビエト共和国]]([[3月21日]] - [[8月6日]])が一時成立したが、ルーマニアの介入で打倒される([[ハンガリー・ルーマニア戦争]])。
=== ハンガリー王国時代(1920年 - 1945年) ===
[[File:Hungary map.png|thumb|[[ハンガリー王国 (1920年-1946年)]]。黄が[[1920年]]、緑が[[1941年]]の領域]]
[[1920年]][[3月1日]]、ハプスブルク家に代わる王が選出されないまま、[[ホルティ・ミクローシュ]]が[[摂政]]として統治する[[ハンガリー王国 (1920年-1946年)|ハンガリー王国]]の成立が宣言された。[[1920年]][[6月4日]]に結ばれたハンガリーと連合国との[[トリアノン条約]]により、二重帝国時代の王国領のうち、トランシルヴァニアやハンガリー北部(スロバキア)など、面積で72%、人口で64%を失い、ハンガリー人の全人口の半数ほどがハンガリーの国外に取り残された。領土を失った反動、周囲の旧連合国からの孤立などの要因から次第に右傾化した。
1930年代後半からは[[ナチス・ドイツ]]と協調するようになり、[[1938年]]の[[ミュンヘン協定]]、{{仮リンク|ハンガリーのカルパト・ウクライナへの侵攻|en|Carpatho-Ukraine#Hungarian_invasion}}<ref group="注釈">ナチス・ドイツ主導による[[チェコスロバキア第二共和国|チェコスロバキア共和国]]([[:en:Second Czechoslovak Republic|Second Czechoslovak Republic]])解体([[ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体|チェコスロバキア併合]])の課程で[[カルパト・ウクライナ]]は独立し{{仮リンク|カルパトのシーチ|uk|Карпатська Січ}}軍が守っていたが、独立直後にハンガリー王国はカルパト・ウクライナへ侵攻し、併合した。</ref>、[[1939年]]の{{仮リンク|スロバキア・ハンガリー戦争|en|Slovak–Hungarian War}}、 2度の[[ウィーン裁定]]などで一部領土を回復した。[[第二次世界大戦]]では領域拡大とナチス・ドイツからの圧迫を受けて[[枢軸国]]に加わり[[独ソ戦]]などで戦ったが、戦局は次第に劣勢となり、[[1944年]]にはホルティは枢軸国からの離脱を目指すが、ナチス・ドイツ軍と[[矢十字党]]によるクーデター([[パンツァーファウスト作戦]])で阻止されて失脚した。かわって矢十字党の[[国民統一政府 (ハンガリー)|国民統一政府]]が成立、[[1945年]][[5月8日]]の[[欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)|敗戦]]まで枢軸国として戦うことになった。一方で[[ソビエト連邦軍]]の占領区域では、軍の一部や諸政党が参加した[[ハンガリー臨時国民政府]]が樹立され、戦後ハンガリー政府の前身となった。1945年4月4日には、ハンガリー全土からドイツ軍が駆逐され、ナチス・ドイツの崩壊とともに残存していたハンガリー軍部隊も降伏した。
=== 戦後から共産主義政権時代(1946年 - 1989年) ===
[[File:Soviet tank in Budapest 1956.jpg|thumb|首都[[ブダペスト]]を制圧する[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]([[ハンガリー動乱]])]]
[[File:Bundesarchiv_Bild_183-57000-0270,_Berlin,_V._SED-Parteitag,_5.Tag.jpg|thumb|[[ヴィリー・シュトフ]]と[[カーダール・ヤーノシュ]](1958年、東ベルリン)]]
[[1946年]][[2月1日]]には王制が廃止され、[[ハンガリー第二共和国|ハンガリー共和国(第二共和国)]]が成立した。しかし、ソ連の占領下に置かれたハンガリーでは1[[垓]][[ペンゲー]]紙幣まで発行される史上最悪の[[ハイパーインフレーション]]が起きるなど政府に統制力はなく、[[共産主義|共産化]]の影響力が次第に高まりつつあった。
1947年2月には[[パリ条約 (1947年)|パリ条約]]によって[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]と講和し、占領体制は一応終結したがソ連軍はそのままハンガリーに駐留し続けることになった。[[ハンガリー共産党]]は対立政党の影響力を徐々に削減する戦術で権力を掌握し、[[1949年]]に[[ハンガリー人民共和国]]が成立した。ハンガリー共産党が合同した[[ハンガリー勤労者党]]による[[一党独裁]]国家としてソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)の[[衛星国]]となり、[[冷戦]]体制の中では東側の[[共産圏]]に属した。
共和国成立直後より国民への統制は厳しいものとなり、1949年時点から他の衛星国に先駆けて西側諸国(オーストリア)国境に[[鉄条網]]の障壁が築かれた<ref>{{Cite web|和書|date=2020-11-07 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3252564?cx_part=related_yahoo |title=「鉄のカーテン」 撤去までの道のり |publisher=AFP |accessdate=2020-05-12}}</ref>。こうした共産主義体制に対する反発も根強く[[1956年]]には[[ハンガリー動乱]]が起こったが、ソ連軍に鎮圧された。勤労者党は[[ハンガリー社会主義労働者党]]に再編され、ソ連の強い影響を受けながらも[[カーダール・ヤーノシュ]]による[[グヤーシュ・コミュニズム]]と呼ばれる比較的穏健な政策がとられた。
[[1980年代]]後半になると、ソ連の[[ペレストロイカ]]とともに東欧における共産党一党独裁の限界が明らかとなった。社会主義労働者党内でも改革派が台頭し、[[ハンガリー民主化運動]]が開始され、1989年2月には憲法から[[党の指導性]]を定めた条項が削除された。5月には西側のオーストリアとの国境に設けられていた鉄条網([[鉄のカーテン]])を撤去し、国境を開放した。これにより[[西ドイツ]]への亡命を求める[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]市民がハンガリーに殺到、[[汎ヨーロッパ・ピクニック]]を引き起こし、冷戦を終結させる大きな引き金となった。また6月には複数政党制を導入し、社会主義労働者党も[[ハンガリー社会党]]に改組された。
=== 第三共和国(1989年 - 現在) ===
[[1989年]][[10月23日]]、[[ハンガリー共和国憲法]]施行により、多党制に基づくハンガリー第三共和国が成立した。[[1990年代]]、ハンガリーは[[ヨーロッパ]]社会への復帰を目指して改革開放を進め、[[1999年]]に[[北大西洋条約機構]](NATO)に、[[2004年]]に[[欧州連合]](EU)に加盟した。
[[ハンガリーの国旗|ハンガリー第三共和国の国旗]]と[[ハンガリーの国章|国章]]では、[[ファシズム]]体制を敷いた[[矢十字党]]の「矢印十字」の紋章と、[[ハンガリー人民共和国|共産党時代]]の「[[赤い星]]」の紋章が消去されている。また、[[ナチスドイツ]]、矢十字党、[[ソビエト連邦]]、[[共産党]][[一党独裁]]による圧制の反動から、「[[ハーケンクロイツ|鉤十字]]」「[[矢十字]]」「[[鎌と槌]]」「赤い星」の配布・公刊・公の場での使用が、[[1993年]]の改正刑法にて禁止された<ref>[http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/hungary/tips/amulthet080706-12.html 先週のハンガリー 2008年7月6日~12日 (北海道大学ハンガリー文化センター)]リンク切れ</ref>。
1999年3月にNATOに加盟、2004年5月にEUに加盟。さらに
2007年に[[シェンゲン協定]]を導入<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hungary/data.html#section1 外務省 ハンガリー基礎データ]</ref>。2011年に新憲法「[[ハンガリー基本法]]」への改正が行われた。
しかし、2010年に首相に再登板した[[オルバーン・ヴィクトル]]は、次第に[[親露|親ロシア]]路線に転換し始めた。2022年の[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ロシアによるウクライナ侵攻]]の際には、国益に反するとして[[ウクライナ]]への軍事支援を拒否。他のNATO諸国と一線を画した<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20220326013450/https://www.jiji.com/jc/article?k=2022032600160 |title=ウクライナ軍事支援を拒否 ロシアに融和的―ハンガリー首相 |publisher=時事通信 |date=2022-03-26 |accessdate=2022-03-27}}</ref>。対露制裁とも距離を置いたが、これはロシアへのエネルギー依存度が高いという事情もある。
== 政治 ==
[[ファイル:Budapest Parliament 4604.JPG|thumb|[[ブダペスト]]の国会議事堂]]
{{Main|{{仮リンク|ハンガリーの政治|en|Politics of Hungary}}}}
[[ハンガリーの大統領]]は任期5年で[[議会]]によって選ばれるが、首相を任命するなど、儀礼的な職務を遂行するのみの象徴的な[[元首]]である。大統領官邸は[[ブダ城|ブダ王宮]]に隣接するシャーンドル宮殿。実権は[[議院内閣制]]をとる[[ハンガリーの首相|首相]]にあり、自ら[[閣僚]]を選んで行政を行う。
{{See also|ハンガリーの国家元首一覧|ハンガリーの首相一覧}}
[[立法府]]の[[国民議会 (ハンガリー)|国民議会]] (Országgyűlés) は[[一院制]]、民選で、任期は4年、定員は199人である。国民議会は国家の最高権威機関であり、すべての法は国民議会の承認を経なければ成立しない。
[[V-Dem研究所]]は、ハンガリーを欧州連合加盟国で唯一選挙独裁主義と認定しており、[[フリーダム・ハウス]]は、「一部自由」とランク付けている<ref>{{Cite web|和書|url=https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/69813|title=EUなのに親ロ路線?「ハンガリーのプーチン」のしたたかな外交戦略|date=2022年4月22日|accessdate=2022年5月26日|website=JBpress}}</ref>。
純粋に司法権を行使する最高裁判所とは別に[[憲法裁判所 (ハンガリー)|憲法裁判所]]が存在し、法律の合憲性を審査している。
=== おもな政党 ===
{{Main|{{仮リンク|ハンガリーの政党|en|List of political parties in Hungary}}}}
'''与党'''
*[[フィデス=ハンガリー市民同盟]](FIDESZ-MPSZ)- [[中道右派]]・[[保守主義]]・[[キリスト教民主主義]]。議席数116。
*{{仮リンク|キリスト教民主人民党|en|Christian Democratic People's Party (Hungary)}}(KDNP)- 議席数19。
'''閣外協力'''
*{{仮リンク|ハンガリー・ドイツ少数民族自治体|en|National Self-Government of Germans in Hungary}} - ドイツ系少数民族政党。議席数1。
'''野党'''
*[[民主連合 (ハンガリー)|民主連合]] - 議席数15。
*{{仮リンク|モメンタム運動|en|Momentum Movement}} - 議席数10
*[[ハンガリー社会党]](MSZP)- [[中道左派]]・[[社会民主主義]]。[[ハンガリー社会主義労働者党]]の後身。議席数10。
*[[ヨッビク]](よりよいハンガリーのための運動)- [[急進派民族主義]]・[[欧州懐疑主義]]・[[キリスト教民主主義]]。[[:hu:Magyar_Igazság_és_Élet_Pártja|MIÉP – Jobbik a Harmadik Út]]の後身<ref>{{cite web|url=http://archive.adl.org/international/hungary_print.html|title=Hungary:A Growing Tolerance for Anti-Semitism|accessdate=2016-09-20|year=1991|publisher=[[名誉毀損防止同盟]]}}</ref>。議席数8。
*{{仮リンク|我らが祖国|en|Our Homeland Movement}} - 議席数6
*{{仮リンク|ハンガリーのための対話|en|Dialogue for Hungary}} - 議席数6
*[[LMP・ハンガリー緑の党]] - 環境政党。議席数5
=== その他の政党 ===
*[[インターネット民主党]](IDE)- [[直接民主主義]]。
*[[自由民主同盟]](SZDSZ)- [[自由主義|リベラリズム]]・[[社会自由主義]]。2010年総選挙で全議席を失い、事実上消滅。
*[[ハンガリー民主フォーラム]](MDF)- [[中道右派]]・[[保守主義]]・[[キリスト教民主主義]]。2010年総選挙後に事実上消滅。
== 国際関係 ==
{{main|{{仮リンク|ハンガリーの国際関係|en|Foreign relations of Hungary}}}}
{{Main|日本とハンガリーの関係|コソボとハンガリーの関係}}
{{節スタブ}}
[[欧州連合|EU]]のメンバーであるが、[[テュルク評議会|テュルク諸国機構]](旧テュルク評議会)のオブザーバーでもある<ref>{{Cite web |title=ANALYSIS - Hungary in the Organization of Turkic States: A Bridge between East and West |url=https://www.aa.com.tr/en/analysis/analysis-hungary-in-the-organization-of-turkic-states-a-bridge-between-east-and-west/2424575 |website=www.aa.com.tr |access-date=2022-12-22 |date=2021-11-18}}</ref>。
== 軍事 ==
[[File:JAS 39 pair HuAF Kecskemét 2007.JPG|thumb|200px|[[ハンガリー空軍]]の[[サーブ 39 グリペン]]]]
{{main|ハンガリー国防軍}}
内陸国であるため海軍は持たず、現在の[[国軍]]は、[[ハンガリー陸軍|陸軍]]および[[ハンガリー空軍|空軍]]の2軍からなる。ただし、ハンガリー領内を流れるドナウ川の防衛目的でユーゴスラビア製の掃海艇を3隻保有しており、陸軍の河川警備隊がドナウ川において運用している。1999年に[[北大西洋条約機構]](NATO)に加盟し、西欧諸国と集団安全保障体制をとっている。
軍の歴史は長く、第一次世界大戦時には[[オーストリア=ハンガリー二重帝国]]として中央同盟軍の一角を占めていた。戦後の独立ハンガリーは1920年の[[トリアノン条約]]により兵力を制限されていた。その反動もあって第二次世界大戦時には枢軸国として参戦し、[[独ソ戦|東部戦線]]にも兵力を出している。1945年には[[赤軍|ソ連軍]]に占領され、冷戦時には共産圏国家として、[[ワルシャワ条約機構]]に加盟していた。
== 地理 ==
[[ファイル:Hungary topographic map.jpg|thumb|250px|ハンガリーの地形]]
{{Main|{{仮リンク|ハンガリーの地理|en|Geography of Hungary}}}}
ハンガリーの国土は[[カルパティア山脈]]のふもとに広がる[[カルパチア盆地|カルパート盆地]]のうちの平野部をなす。[[ハンガリー平原]]またはハンガリー盆地と呼ばれる国土の中心は、中央を流れる[[ドナウ川]]によってほぼ二分され、東には大きな支流の[[ティサ川]]も流れている。国土の西部には[[ヨーロッパ]]でも有数の大湖[[バラトン湖]]がある。また各地に[[温泉]]が湧き出ており、公衆浴場が古くから建設・利用されてきた。首都ブダペストにも[[セーチェーニ温泉|セーチェーニ]]、ルカーチ、[[ゲッレールト温泉|ゲッレールト]]温泉などの有名な温泉がある。もっとも温度の高い熱水泉[[ヘーヴィーズ湖]]を有するヨーロッパ有数の'''「温泉大国」'''として知られ<ref>{{cite web|url=http://www.iht.com/articles/reuters/2008/11/18/europe/OUKWD-UK-HUNGARY-CAVE.php |title=Search – Global Edition – The New York Times |work=International Herald Tribune |date=29 March 2009 |accessdate=20 September 2009}}</ref>{{リンク切れ|date=2017年12月}}、多くの観光客が温泉目当てに押し寄せる<ref group="注釈">観光客は推計1067.5 万人、観光の経済効果はおよそ5,1億米ドル。 (2013年){{cite web|url=http://www.e-unwto.org/content/r13521/fulltext.pdf|title=UNWTO World Tourism Barometer |publisher=World Tourism Organization |accessdate=2016-09-20}}</ref>。 [[トランシルヴァニア]]地方など、[[ルーマニア]]との国境係争地帯を持っている。
[[大陸性気候]]に属する気候は比較的穏やかで、[[四季]]もある。[[緯度]]が比較的高く、冬は冷え込むが、[[地中海]]から海洋性気候の影響を受け、冬も湿潤で曇りがちである。年間平均気温は10°C前後。
<gallery mode="packed">
ファイル:Tisza-tó1.JPG|[[ティサ川]]
ファイル:Hortobagy-ziehbrunnen.jpg|ヨーロッパ最大の草原のひとつ([[ホルトバージ国立公園]])
ファイル:Kekesteto1.JPG|ハンガリー最高峰の[[ケーケシュ山]]
ファイル:Lake Balaton at Tihany, Hungary.jpg|[[中央ヨーロッパ]]最大のバラトン湖
ファイル:Okt 14.jpg|カルパティア山脈西部に連なる[[カルスト地形|カルスト台地]]
</gallery>
== 地方行政区分 ==
{{Main|ハンガリーの地方行政区画}}
ハンガリーは40の地方行政区分に区分される。うち19は郡とも県とも訳されるメジェ (megye) で、20はメジェと同格の都市郡という行政単位(megyei város)である。なお首都のブダペスト都はいずれにも属さない、独立した自治体である。
[[File:Hu-map-ja.png|thumb|400px|ハンガリーの地理]]
*西部
**{{Flagicon|Vas}} [[ヴァシュ県]]([[ソンバトヘイ]])
**{{Flagicon|Zala}} [[ザラ県]]([[ザラエゲルセグ]])
**{{Flagicon|Somogy}} [[ショモジ県]]([[カポシュヴァール]])
**{{Flagicon|Veszprém}} [[ヴェスプレーム県]]([[ヴェスプレーム]])
**{{Flagicon|Győr-Moson-Sopron}} [[ジェール・モション・ショプロン県]]([[ジェール]])
*中部
[[File:DonauknieVisegrad.jpg|thumb|[[ヴィシェグラード (ハンガリー)|ヴィシェグラード]]から眺める[[ドナウ大曲]](ペシュト県)]]
**{{Flagicon|Komárom-Esztergom}} [[コマーロム・エステルゴム県]]([[タタバーニャ]])
**{{Flagicon|Fejér}} [[フェイェール県]]([[セーケシュフェヘールヴァール]])
**{{Flagicon|Pest}} [[ペシュト県]]([[ブダペスト|ブダペシュト]])
**{{Flagicon|Nógrád}} [[ノーグラード県]]([[シャルゴータールヤーン]])
*南部
**{{Flagicon|Tolna}} [[トルナ県]]([[セクサールド]])
**{{Flagicon|Baranya}} [[バラニャ県]]([[ペーチ]])
**{{Flagicon|Bács-Kiskun}} [[バーチ・キシュクン県]]([[ケチケメート]])
**{{Flagicon|Csongrád}} [[チョングラード県]]([[セゲド]])
[[File:Diosgyorvar.jpg|thumb|[[ディオーシュジュール城]]([[ミシュコルツ]])]]
*東部
**{{Flagicon|Békés}} [[ベーケーシュ県]]([[ベーケーシュチャバ]])
**{{Flagicon|Heves}} [[ヘヴェシュ県]]([[エゲル]])
**{{Flagicon|Hajdú-Bihar}} [[ハイドゥー・ビハール県]]([[デブレツェン]])
**{{Flagicon|Jász-Nagykun-Szolnok}} [[ヤース・ナジクン・ソルノク県]]([[ソルノク]])
**{{Flagicon|Szabolcs-Szatmár-Bereg}} [[サボルチ・サトマール・ベレグ県]]([[ニーレジハーザ]])
**{{Flagicon|Borsod-Abaúj-Zemplén}} [[ボルショド・アバウーイ・ゼンプレーン県]]([[ミシュコルツ]])
旧ハンガリー王国の領土(大ハンガリー)に含まれた地域については、[[ハンガリー王国の歴史的地域]]を参照。
=== 主要都市 ===
{{main|ハンガリーの都市の一覧}}
{|class="wikitable"
! !!都市!!県!!人口(2011年)<ref name=localities2012>{{cite web|url=https://www.ksh.hu/docs/hun/hnk/hnk_2012.pdf |title=Magyarország közigazgatási helynévkönyve, 2012. január 1. |trans-title=Gazetteer of Hungary, 1st January 2012 |publisher=Hungarian Central Statistical Office |access-date=2022-02-22}}</ref>
|-
!1
|[[ブダペスト]]
|style="text-align:center"| —
|style="text-align:right"|1,733,685
|-
!2
|[[デブレツェン]]
|[[ハイドゥー・ビハール県]]
|style="text-align:right"|211,340
|-
!3
|[[セゲド]]
|[[チョングラード県]]
|style="text-align:right"|168,048
|-
!4
|[[ミシュコルツ]]
|[[ボルショド・アバウーイ・ゼムプレーン県]]
|style="text-align:right"|167,754
|-
!5
|[[ペーチ]]
|[[バラニャ県]]
|style="text-align:right"|156,049
|-
!6
|[[ジェール]]
|[[ジェール・モション・ショプロン県]]
|style="text-align:right"|129,527
|-
!7
|[[ニーレジハーザ]]
|[[サボルチ・サトマール・ベレグ県]]
|style="text-align:right"|119,746
|-
!8
|[[ケチケメート]]
|[[バーチ・キシュクン県]]
|style="text-align:right"|111,411
|-
!9
|[[セーケシュフェヘールヴァール]]
|[[フェイェール県]]
|style="text-align:right"|100,570
|-
|}
== 経済 ==
[[File:Budapest 01 (2473196721).jpg|thumb|left|首都[[ブダペスト]]]]
{{Main|{{仮リンク|ハンガリーの経済|en|Economy of Hungary}}}}
[[国際通貨基金]](IMF)による統計では、2018年現在で[[国内総生産|GDP]]は1,612億ドル、[[国の国内総生産順リスト (一人当り為替レート)|一人あたりのGDP(為替レート)]]は1万6,484ドルであり、EU平均の約45%、世界水準の約1.4倍である<ref name="economy" /><ref>{{Cite web|和書|author=独立行政法人日本貿易振興機構|url=https://www.jetro.go.jp/world/europe/eu/stat_01.html|title=EU 基礎的経済指標|date=2019-12-25|format=Excel|accessdate=2020-01-22}}</ref>。
ハンガリーは[[1989年]]の体制転換以来、外国資本を受け入れて積極的に経済の開放を進めた。その結果、[[1997年]]以降年間4%以上の高成長を続けるとともに、2004年には経済の民間部門が[[国内総生産]](GDP)の80%以上を占め、「旧東欧の優等生」と呼ばれるほどであった。また2004年の欧州連合加盟は、当時のハンガリー経済にとって追い風になった。
しかしその後、[[インフレーション]]と[[失業率]]が増加して[[貧富の差]]が広がり<ref>世帯調査からの推計に基づく貧困ライン以下で生活する人口の割合。{{cite web|url=http://data.worldbank.org/country/hungary?view=chart|title=Poverty headcount ratio at national poverty lines (% of population)|publisher=世界銀行|accessdate=2016-09-20}}</ref>、社会問題として常態化した。また巨額の財政赤字も重要な課題であり、現政権が目標とするユーロ導入への見通しは立っていない。
伝統的な産業では[[アルコール (食品)|アルコール]]が強い。特に[[ワイン]]は有名で、[[ブルゲンラント]]、[[ショプロン]]、[[ヴィッラーニ]]など著名な産地があるが<ref>{{Cite web|和書|url=http://jp.gotohungary.com/wine|title=赤と白と緑|publisher=ハンガリー政府観光局|accessdate=2016-09-20}}</ref>、中でも[[トカイ]]の[[トカイワイン]]はワインの王と言われる。農業では[[パプリカ]]が名産品で、ハンガリー料理にもふんだんに使われる。[[ガチョウ]]の飼育も盛んであり、[[ドナウ川]]西岸({{仮リンク|ドゥナーントゥール|hu|Dunántúl}}地方)が主産地である。ハンガリー産の[[フォアグラ]]もよく輸出されている。
{{Clearleft}}
=== 工業 ===
[[File:Esztergom Suzuki plant.JPG|thumb|right|北部の都市[[エステルゴム]]にあるスズキ工場は6,000人の従業員を抱える]]
第二次世界大戦前のハンガリーは肥沃な土壌と計画的な灌漑設備により、農業国として成立していた。そのため、[[食品工業]]を中心とした[[軽工業]]が盛んであった。第二次世界大戦後、社会主義下の計画経済によって重工業化が進められた。特に車両生産、一般機械が優先され、[[化学工業]]と薬品工業がそれに次いだ。しかし、有機鉱物資源とボーキサイトを除くと工業原材料には恵まれておらず、輸入原材料を加工し輸出するという形を取った。1970年代には工業を中心とする貿易が国民所得の40%を占めるまで成長した。
共産主義体制から資本主義体制に転換後、1990年代初頭においては、化学工業の比重が次第に大きくなっていく傾向にあった。2003年時点では全産業に占める工業の割合がさらに高まっており、輸出額の86.8%を工業製品が占めるに至った。さらに貿易依存度は輸出54.5%、輸入59.2%まで上がっている。品目別では[[機械工業]]が再び盛んになっており、輸出に占める比率は電気機械36.1%、機械類16.2%、自動車8.2%である。世界シェアに占める比率が高い工業製品は、ワイン(1.7%、49万トン)、[[硝酸]](1.5%、31万トン)である。
=== 鉱業 ===
ハンガリーの[[鉱業]]は、燃料に利用できる[[亜炭]]と[[ボーキサイト]]が中核となっている。有機鉱物資源では、世界シェアの1.5%を占める亜炭(1391万トン、2002年)、原油(107万トン)、天然ガス(115千兆ジュール)を採掘する。有力な炭田は南東部ベーチ近郊、首都ブダペストの西方50キロに位置する[[タタバーニャ]]近郊の2か所に広がる。油田は中央南部[[セゲド]]近郊と、スロベニア、クロアチア国境に接する位置にある。
金属鉱物資源ではボーキサイト(100万トン)が有力。バラトン湖北岸からブダペストに向かって北東に延びる山地沿いで採掘されている。ただし、採掘量は減少傾向にある(1991年には203.7万トンが採掘されていた)。このほか、小規模ながら[[マンガン]]と[[ウラン]]の採掘も見られる。
=== 通貨単位の変遷 ===
*[[フォリント]] / [[通貨の補助単位|フィッレール]](現行)
*[[ペンゲー]]
*[[フロリン]]
*[[クロイツァー|クライツァール]]
== 交通 ==
{{Main|ハンガリーの交通}}
{{節スタブ}}
== 科学技術 ==
[[ファイル:Rubiks cube by keqs.jpg|thumb|180px|right|[[ルービックキューブ]]]]
{{Main|{{仮リンク|ハンガリーの科学技術|en|Science and technology in Hungary}}}}
ハンガリーは歴史的に多数の[[科学者]]を輩出している。同国出身の科学者は核兵器やコンピュータの開発に貢献したことで世界的に知られており、ナイマン・ヤーノシュ([[ジョン・フォン・ノイマン]])はコンピュータの開発に貢献した。[[ジョン・ジョージ・ケメニー|ケメーニィ・ヤーノシュ]]は米国人[[計算機科学]]者の{{仮リンク|トーマス・E・カーツ|en|Thomas Eugene Kurtz|date=2016年9月}}とともに[[BASIC]] を開発した。
傍ら、ハンガリー人にはさまざまな分野で後世に影響を与える発明をしている人物が多い。ハンガリー人の発明には[[ルビク・エルネー]]による[[ルービックキューブ]]や[[:en:Imre Bródy|ブローディ・イムレ]]による[[クリプトン#用途|クリプトン電球]]などがある。
{{節スタブ}}
{{See also|{{仮リンク|研究開発費別の国の一覧|en|List of countries by research and development spending}}}}
== 国民 ==
{{Main|{{仮リンク|ハンガリーの人口統計|en|Demographics of Hungary}}}}
=== 民族 ===
{{bar box
|title = 民族構成(ハンガリー)
|titlebar = #ddd
|float = right
|bars =
{{bar percent|[[マジャル人]]|orange|86}}
{{bar percent|[[ロマ]]|blue|3.2}}
{{bar percent|[[ドイツ人]]|black|1.9}}
{{bar percent|その他|red|8.9}}<ref name="imf201410">{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hungary/data.html|title=ハンガリー(Hungary)
基礎データ|publisher=[[外務省]]|language=日本語|date=2018-06-01|accessdate=2019-03-10}}</ref>
}}
ハンガリーの国民の86%以上は[[マジャル人]]([[ハンガリー人]])である。マジャル人は[[フィン・ウゴル語族]]の[[ハンガリー語]](マジャル語)を[[母語]]とし、[[ウラル山脈]]の方面から移ってきた民族である。マジャル人の人名は、正式に表記した際に[[姓]]が名の前につく。
マジャル人は旧[[ハンガリー王国]]領に広まって居住していたため、[[セルビア]]の[[ヴォイヴォディナ]]、[[クロアチア]]北部、[[スロバキア]]南部、[[ルーマニア]]の[[トランシルヴァニア]]などにもかなりのマジャル人[[人口]]が存在している。また、マジャル人の中には[[モルダヴィア]]の[[チャーンゴー]]、トランシルヴァニアの[[セーケイ人|セーケイ]]や、ハンガリー共和国領内の[[ヤース]]、[[マチョー]]、[[クマン人|クン]]、[[パローツ]]などの文化を持つサブグループが知られるが、ヤース人が[[アラン人]]の末裔、クン人が[[クマン人]]の末裔であることが知られるように、これらはさまざまな出自を持ち、ハンガリー王国に移住してハンガリーに部分的に同化されていった人々である。
その他の民族では、有意の人口を有する[[ロマ]](ジプシー)と[[ドイツ人]]が居住する。ハンガリー科学アカデミーの推計では、人口約1,000万人のうち約60万人がロマとされる。また、ドイツ人は[[東方植民地運動]]の一環としてハンガリー王国に移り住んできた人々の子孫で、[[トランシルヴァニア]]のサース人([[ザクセン人]])や[[スロヴァキア]]の[[ツィプス・ドイツ人]]のように、ハンガリー王国の中で独自の民族共同体を築いた人々もいる。
その他の民族では、[[ルテニア人]]([[ウクライナ人]])、[[チェコ人]]、[[クロアチア人]]、[[ルーマニア人]]などもいるが、いずれもごく少数である。第二次世界大戦以前には、[[ユダヤ人]]人口もかなりの数にのぼったが、第二次世界大戦中の迫害などによって[[アメリカ合衆国]]や[[イスラエル]]に移住していった人が多い。
近年のDNA分析によるとハンガリー人は[[コーカソイド]](白人)に分類されるが、わずかに[[モンゴロイド]](黄色人種)特有の[[アセトアルデヒド脱水素酵素]]D型が検出されることから、[[モンゴロイド]]との混血により遺伝子の流入があったと考えられる<ref>{{Cite book|和書|author =科学朝日|title=モンゴロイドの道 |others=朝日選書 (523) |year=1995}}より。北方モンゴロイド特有の酒が飲めない下戸遺伝子 日本人: 44%、ハンガリー人: 2%、フィン人: 0%</ref><ref group="注釈">[[下戸]]遺伝子とは、[[アセトアルデヒド脱水素酵素]] (ALDH) の487番目のアミノ酸を決める塩基配列がグアニンからアデニンに変化したもので、モンゴロイド特有の遺伝子であり、[[コーカソイド]](白人)・[[ネグロイド]](黒人)・[[オーストラロイド]](オーストラリア原住民など)には存在しない。よってこの遺伝子を持つということは、黄色人種であるか、黄色人種との混血であることの証明となる{{Cite web|和書|url=http://www.athome-academy.jp/archive/biology/0000000176_01.html|title=北海道・東北・九州・沖縄に酒豪が 中部・近畿に下戸が多いそのわけは…。|author=原田勝二 (筑波大学社会医学系助教授) |publisher = at home|year=2005|accessdate=2016-09-20}}。</ref>。
[[ファシズム]]の研究で知られる[[オックスフォード・ブルックス大学]]の{{仮リンク|ロジャー・グリフィン|en|Roger Griffin}}は、「ハンガリーはアジア系のマジャル人が建国し、独特の言語を持っている。[[オスマン帝国]]、[[オーストリア帝国]]、[[ソビエト連邦|旧ソ連]]の圧力を受けてきた。ハンガリーは[[欧州連合|EU]]の中の[[島|孤島]]だ」と述べている<ref>{{Cite news |author=[[木村正人 (ジャーナリスト)|木村正人]] |url=https://news.yahoo.co.jp/byline/kimuramasato/20150911-00049424 |title=難民の子供を蹴ったハンガリーの女性カメラマンが陥った「恐怖」と「嫌悪」のワナ |newspaper= |date=2015-09-11 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210814161428/https://news.yahoo.co.jp/byline/kimuramasato/20150911-00049424 |archivedate=2021-08-14 }}</ref>。
2010年、[[フィデス=ハンガリー市民同盟]]により、国外のハンガリー系住民へハンガリー国籍付与の道を開いたが、隣国の[[スロバキア]]はこれに反発し、二重国籍禁止法案を可決している<ref>ドナウ挟み国民争奪 ハンガリー、国籍与える新法 スロバキアは二重国籍禁止法案可決 朝日新聞 2010年7月21日朝刊9ページ</ref>。[[ルーマニア]]には、約160万人のハンガリー系少数民族がおり、その多くは、ハンガリーとの領有権問題を抱える[[トランシルヴァニア]]、特に[[ティミショアラ]]に居住している<ref>{{Kotobank|ルーマニア|}}</ref>。
=== 言語 ===
[[ファイル:Dist of hu lang europe.svg|thumb|250px|[[ハンガリー語]]話者の分布]]
{{Clearleft}}
[[言語]]的には[[ハンガリー語]]が優勢で、[[少数民族]]のほとんどもハンガリー語を話し、ハンガリー語人口は98%に上る <ref>ハンガリー語はヨーロッパで最も話者の多い非[[インド・ヨーロッパ語族]]の言語である{{cite book |url=https://books.google.com/books?id=nlWU3CkTAi4C&lpg=PA82&ots=wiY3TdhJ5F&dq=%22largest%20non-indo%20european%22%20europe%20hungarian&pg=PA82#v=onepage&q=%22largest%20non-indo%20european%22%20europe%20hungarian&f=false |title=Globally speaking: motives for adopting English vocabulary in other languages – Google Books |work=Multilingual Matters, 2008 - Language Arts & Disciplines |publisher=Google Books |others =Judith Rosenhouse、Rotem Kowner (編)|page=82|accessdate=2016-09-20}}</ref>。国内の少数民族としては、13万人を擁する[[ドイツ人]]が最大で、このうちおよそ10万人(国内の人口の約1%に相当)が家庭内で[[ドイツ語]]を使用する<ref>[http://www.funkforum.net/print.php?page=ARTICLE&particleid=1846 Doppelt so viele Ungarndeutsche - Endergebnisse der Volkszählung 2011 in Ungarn veröffentlicht] im Funkforum</ref>。ハンガリーは旧[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の中核的地域でドイツ人との結びつきが強いうえに、第二次世界大戦時もハンガリーが[[枢軸国]]に加担した結果、ハンガリー人による[[ドイツ人追放]]がほとんど起こらなかった(ソ連による追放はある程度行われた)ため、ドイツ人の居住人口が今なお多い。
=== 宗教 ===
{{Main|{{仮リンク|ハンガリーの宗教|en|Religion in Hungary}}}}
[[宗教]]は[[カトリック教会|カトリック]](39%)が多数を占め、[[カルヴァン派]]もかなりの数にのぼる(12%)。その他、[[ルター派]](5%)や[[ユダヤ教]](0.2%)も少数ながら存在する。
{{Clearleft}}
=== 婚姻 ===
婚姻時の姓は、自己の姓([[夫婦別姓]])、相手の姓、複合姓(順序はいずれでもよい。ハイフンでつなぐ)、自らのフルネームを相手のフルネームにnéを付加したものに変更する(この場合は出生時の姓名はともに失われる)、相手のフルネームにnéを付加したものに自己のフルネームを加えたものを自己のフルネームとする(この場合は、フルネームは4つの名からなる)、自己の姓の前に相手の姓にnéを付加したものを追加する(自己の姓は中間姓となる)、などより選択することが可能である<ref name=bruno />。
{{See also|ハンガリー人の姓名}}
伝統的には、妻が相手のフルネームにnéを付加したフルネームに改名し、出生時の名前は失われていた。その後、1895年、1953年、1974年、2004年などの改正を経て、現在では男女の公平性が高められ、選択肢の多い制度となった<ref name=bruno>[http://nevtan.arts.unideb.hu/nevtan/informaciok/pisa/fe-a.pdf Fercsik Erzsébet: The Traditional and Modern Forms in the Naming of Hungarian Women., In: Maria Giovanna Arcamone – Donatella Bremer – Davide De Camilli – Bruno Porcelli (eds). Atti del XXII Congresso Internazionale di Scienze Onomastiche Pisa, 28 agosto – 4 settembre 2005. vol. IV. Antroponomastica. Edizioni Ets. Pisa., pp. 131-140].</ref>。なおハンガリーでは、日本と同様に姓が最初にくる<ref name=bruno />。
=== 教育 ===
{{節スタブ}}
{{Main|{{仮リンク|ハンガリーの教育|en|Education in Hungary}}}}
ハンガリーの教育制度の特徴は、制度的構造と教育プログラムの構造が一致していない点にある。システム自体の制度的構造と早期選択を可能にするプログラムの存在は、中央ヨーロッパおよび元社会主義国との類似性を示している。
同国は優れた数学教育が続いていることから、国際的なレベルの教育において知名度の高い国となっている。ただし優れた数学教育で有名である反面、現今において[[フィールズ賞]]受賞者はいまだ出ていない。有名な数学者には[[ポール・エルデシュ|エルデーシュ・パール]]や[[ピーター・フランクル|フランクル・ペーテル]]らがいる。
{{See also|ハンガリーの大学}}
=== 保健 ===
{{Main|{{仮リンク|ハンガリーの保健|en|Health in Hungary}}}}
{{節スタブ}}
==== 医療 ====
{{Main|{{仮リンク|ハンガリーの医療|en|Healthcare in Hungary}}}}
{{節スタブ}}
== 治安 ==
ハンガリーの治安情勢は全般的に良好で、[[犯罪]]認知件数も減少傾向にある。2019年における国内の犯罪認知件数は16万5,648件で、5年前の2014年と比較すると約1/3ほど減少している。しかし、人口比で見ると犯罪発生率は日本よりも高いため、油断をすることは許されない。
全体としては財産犯が多くを占め、その中でも[[窃盗]]犯([[侵入]]盗、[[スリ]]、[[置き引き]]など)が多く、日本人観光客から寄せられる犯罪被害連絡のほとんどは窃盗被害となっている点が特徴ともなっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure_168.html|title=ハンガリー 安全対策基礎データ|accessdate=2021-10-10|publisher=外務省}}</ref>。
{{節スタブ}}
=== 人権 ===
{{節スタブ}}
{{See also|{{仮リンク|ハンガリーにおける人身売買|en|Human trafficking in Hungary}}|{{仮リンク|ハンガリーにおけるLGBTの権利|en|LGBT rights in Hungary}}}}
== マスコミ ==
{{Main|{{仮リンク|ハンガリーのメディア|en|Mass media in Hungary}}}}
{{節スタブ}}
{{See also|{{仮リンク|ハンガリーの通信|en|Telecommunications in Hungary}}}}
== 文化 ==
{{Main|{{仮リンク|ハンガリーの文化|en|Culture of Hungary}}}}
=== 食文化 ===
[[File:Somló-hegy szőlőültetvény.JPG|thumb|ショムローはハンガリー・ワインの認定生産地22か所のひとつ]]
{{main|ハンガリー料理}}
[[トルテ]]や[[クレープ]]に似た[[パラチンタ]]など、食文化は[[オーストリアの食文化|オーストリア]]と共通するものが多いが、ハンガリーの食文化の特色は乾燥させて粉にした[[パプリカ]]の多用と種類の豊富な[[ダンプリング]]にある。パプリカを用いた煮込み料理[[グヤーシュ]]は世界的に有名である。ドナウ川西岸の[[ドゥナーントゥール地方]]では、古くから[[フォアグラ]]の生産が盛んである。
[[ワイン]]の生産も盛んで、[[トカイワイン]]などが有名である。また、伝統的な[[蒸留酒]]に[[パーリンカ]]がある。フランスのオー・ド・ヴィやイタリアの[[グラッパ]]などと似た、[[果実]]から造られる蒸留酒である。
ハンガリー固有種の豚、[[マンガリッツァ]]は[[国宝]]の指定を受けて保護されているが、保護のために利用を禁じるのではなく、むしろ高品質の食肉として利用することを通じて飼育頭数を増やす方針を採っている。飼育にあたっては伝統的な放牧または半放牧が行われているが、一頭一頭に[[マイクロチップ]]や標識を取りつけて管理することで[[トレーサビリティ]]を確保するなど、現代的な手法も取り入れられている。日本には[[ピックセゲド|ピック社]]が伝統的な製法で作られた[[サラミ]]などを輸出している。
{{See also|{{仮リンク|ハンガリー食品安全庁|en|Hungarian Food Safety Office}}}}
=== 文学 ===
{{Main|ハンガリー文学}}
* [[ジプシー男爵]] - 原作が[[ヨーカイ・モール]]の[[オペレッタ]]作品(作曲は[[ヨハン・シュトラウス2世]])。
=== 哲学 ===
ハンガリー出身の哲学者として、『[[歴史と階級意識]]』でソビエト連邦の[[マルクス=レーニン主義]]に対する[[西欧マルクス主義]]の基礎を築いた[[ルカーチ・ジェルジ]]の名が特筆される。このほか、社会学者の[[カール・マンハイム]]や、経済人類学者の[[カール・ポランニー]](オーストリア=ハンガリー帝国時代)がいる。
=== 音楽 ===
{{Main|{{仮リンク|ハンガリーの音楽|en|Music of Hungary}}}}
[[ファイル:Liszt at piano.jpg|thumb|[[フランツ・リスト]]]]
ハンガリーは多様な民族性に支えられた豊かな文化を持ち、特にハンガリー人の地域ごとの各[[民族集団]](ロマなど)を担い手とする[[民族音楽]]は有名である。
また、[[フランツ・リスト|リスト・フェレンツ]](フランツ・リスト)、[[フランツ・レハール]]、[[コダーイ・ゾルターン]]、[[バルトーク・ベーラ]]など多数の著名な[[クラシック音楽]]の[[作曲家]]も輩出した。多様な民族音楽にインスピレーションを受けて作曲した音楽家も多い。
指揮者の分野では、[[ハンス・リヒター (指揮者)|ハンス・リヒター(指揮者)]]、[[アルトゥル・ニキシュ]]、[[ジョージ・セル]]、[[ユージン・オーマンディ]]、[[フリッツ・ライナー]]、[[フェレンツ・フリッチャイ]]、[[イシュトヴァン・ケルテス]]、[[ゲオルク・ショルティ]]といったビッグネームが並ぶ。
ピアニストでは、[[リリー・クラウス]]、[[ゲーザ・アンダ]]、[[ジョルジュ・シフラ]]といった歴史的大家、[[アンドラーシュ・シフ]]、[[ゾルターン・コチシュ]]、[[ラーンキ・デジェー]]、[[:en:Ádám_György|アダム・ジョージ]]といった現役(2019年現在)が挙げられる。これらの中にはドイツ人植民者家系も含まれることもあり、ドイツ人名を名乗ってドイツ楽派やウィーン音楽で指導的な役割を果たした者も少なくない。
=== 映画 ===
{{Main|{{仮リンク|ハンガリーの映画|en|Cinema of Hungary}}}}
{{節スタブ}}
=== 服飾 ===
ハンガリー全土で伝統的に[[刺繡]]が盛んであり、[[カロチャ刺繡]]や[[マチョー刺繡]]など、地域ごとに特色ある刺繡が分布している<ref>{{Cite book|和書|title=ハンガリーのかわいい刺しゅう|date=|year=2011|publisher=産業編集センター|author=チャルカ|page=19}}</ref>。{{Clearleft}}
=== 温泉 ===
ハンガリーでは[[温泉]]が湧き出し、温泉文化が古くから伝わっている。[[ブダペスト]]における温泉文化は2000年近くある。ブダペストの[[オーブダ]]地区にある古代ローマ時代の[[:en:Aquincum|アクインクム遺跡]]に、ハンガリー最初の温泉浴場が建設された<ref name="shiru">{{Cite book|和書|author=田代文雄|title=東欧を知る事典|page=692|publisher=平凡社|year=2001}}</ref>。当時の浴場跡を今日でも見ることができる。オスマン帝国に支配されていたときに、ドナウ川河畔に発達した。
1937年国際沿療学会議ブダペスト大会でブダペストは国際治療温泉地に認定され、世界的に温泉に恵まれた首都と呼ばれるに至った<ref name="shiru"></ref>。オスマン帝国時代の建物をそのまま残すルダシュや[[キラーイ温泉|キラーイ]]などの浴場は、今日でも親しまれている。1913年に作られた[[セーチェーニ温泉]]は湯量毎分3,700リットル<ref name="shiru"></ref>という豊かな湯量と豪奢な建物で知られている。
[[File:Medicinal Bath Hévíz 01.jpg|thumb|right|ハンガリー共和国のヘーヴィーズ湖は、ヨーロッパでもっとも温度の高い熱水泉である]]
温水湖であるヘーヴィーズ湖は、<!--世界中で最も生命多様性の高い-->自然温水湖である。ハンガリーにおいてもっとも古くから知られており、[[古代ローマ]]時代の記録にさかのぼり、2000年の歴史がある。4.4ヘクタール、水深38メートル、泉質は硫黄、[[ラジウム]]、カルシウム、マグネシウムなどのミネラルを含む。泉からは大量に湧き出し、48時間で水が入れ替わる。水温は冬は23 - 25°C、夏は33 - 36°Cである。
{{Clearleft}}
=== 建築 ===
{{Main|{{仮リンク|ハンガリーの建築|en|Architecture of Hungary}}}}
ハンガリーは建築における歴史が長いことでも知られている。その起源はローマ帝国の属州時代に遡るほど古いが、現在に至るまで様々な建築形式の影響を受けつつも独自の技法を開発している。
{{節スタブ}}
{{See also|{{仮リンク|ハンガリーの建築家の一覧|en|List of Hungarian architects}}}}
=== 世界遺産 ===
{{Main|ハンガリーの世界遺産}}
ハンガリー国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が6件存在する。さらにオーストリアにまたがって1件の文化遺産が、スロバキアにまたがって1件の自然遺産が登録されている。
=== 祝祭日 ===
{|class="wikitable"
!日付!!日本語表記!!ハンガリー語表記!!備考
|-
|style="white-space:nowrap"|[[1月1日]]
|[[元日]]
|''Újév''
|
|-
|[[3月15日]]
|1848年の革命と自由戦争記念日
|''Nemzeti ünnep''
|1848年の[[1848年革命|3月革命]]を記念
|-
|移動祝日
|[[イースター]]およびイースター・マンデー
|''Húsvétvasárnap, Húsvéthétfő ''
|
|-
|[[5月1日]]
|[[メーデー]]
|''Munka ünnepe''
|
|-
|移動祝日
|[[ペンテコステ]]
|''Pünkösd''
|復活祭から50日後
|-
|[[8月20日]]
|[[建国記念日]]([[聖イシュトヴァーン]]の祝日)
|''Szent István ünnepe''
|
|-
|[[10月23日]]
|1956年革命、および共和国宣言の記念日
|''Az 1956-os forradalom ünnepe, A 3. magyar köztársaság kikiáltásának napja''
|現在のハンガリーでは1956年の[[ハンガリー動乱|動乱]]は革命と呼ばれている
|-
|[[11月1日]]
|[[諸聖人の日]]
|''Mindenszentek''
|
|-
|[[12月25日]]、[[12月26日|26日]]
|[[クリスマス]]
|''Karácsony''
|
|}
== スポーツ ==
{{main|{{仮リンク|ハンガリーのスポーツ|en|Sport in Hungary}}}}
=== サッカー ===
{{main|{{仮リンク|ハンガリーのサッカー|en|Football in Hungary}}}}
[[File:Real Madrid tegen Feyenoord 0-5, Kuiver met bal vraagt handtekening van Puskas (cropped).jpg|thumb|140px|[[マジック・マジャール]]時代の主将[[フェレンツ・プスカシュ]]。]]
ハンガリー国内で圧倒的に1番人気の[[スポーツ]]は[[サッカー]]となっており、[[1901年]]にプロサッカーリーグの「[[ネムゼティ・バイノクシャーグI]]」が創設された。中でも名門クラブの[[フェレンツヴァーロシュTC]]はリーグ最多32度の優勝を誇り、UEFAカップの前身大会である[[インターシティーズ・フェアーズカップ]]では1964-65シーズンに優勝している。
[[サッカーハンガリー代表]]は[[古豪]]として認識されており、[[FIFAワールドカップ]]にはこれまで9度出場している。[[1938 FIFAワールドカップ|1938年大会]]と[[1954 FIFAワールドカップ|1954年大会]]では[[準優勝]]に輝いており、当時'''[[マジック・マジャール]]'''と呼ばれ世界屈指の強豪国としてその名を轟かせていた。さらに[[UEFA欧州選手権]]には4度出場しており、初出場となった[[1964 欧州ネイションズカップ|1964年大会]]では3位入賞を果たした。
近年では、[[リヴァプールFC]]に所属している[[ソボスライ・ドミニク]]が世界的に有名な選手である。
=== オリンピック ===
{{main|オリンピックのハンガリー選手団}}
[[File:WaterPolo.JPG|thumb|right|[[メルボルンの流血戦]]でも有名な水球ハンガリー代表。]]
[[近代オリンピック]]には、夏季・冬季ともに[[オーストリア・ハンガリー二重帝国]]のころから[[ハンガリー王国]]として[[1896年アテネオリンピック|第1回大会]]から参加している([[1920年]]の[[1920年アントワープオリンピック|アントワープ五輪]]と、[[1984年]]の[[1984年ロサンゼルスオリンピック|ロサンゼルス五輪]]は不参加)。
[[2012年ロンドンオリンピック|2012年ロンドン大会]]までのハンガリーの獲得メダル数は482個であり、211の歴代参加国・地域のうち獲得総メダル数は8位である。特に[[水球]]、[[陸上競技]]、[[フェンシング]]、[[競泳]]、[[近代五種競技]]においてもその活躍が見られ、中でも水球は獲得金メダル数が世界最多となっている。特にハンガリー史上初の金メダルをもたらした競泳での獲得メダル数は42個で、これは歴代8位である。
=== その他の競技 ===
[[モータースポーツ]]では、[[1986年]]から「[[フォーミュラ1|F1]]・[[ハンガリーグランプリ]]」がブダペスト郊外の[[ハンガロリンク]]で開催されており、[[ルイス・ハミルトン]]が通算6度の最多勝利を挙げている。ハンガリー国内には雪山が殆ど無いため[[ウインタースポーツ]]は盛んではないが、[[2018年]]の[[2018年平昌オリンピック|平昌五輪]]では[[ショートトラックスピードスケート]]の男子5000メートルリレーで[[冬季オリンピック]]初の金メダルを獲得している。
== 著名な出身者 ==
{{Main|ハンガリー人の一覧}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
*『[[中央ヨーロッパ|中欧]]・[[東ヨーロッパ|東欧]]文化事典』中欧・東欧文化事典 編集委員会(編)編集代表:[[羽場久美子]]、編集委員:井口壽乃、[[大津留厚]]、桑名映子、[[田口雅弘]]、中澤達哉、長與進、三谷惠子、山崎信一、丸善出版、2021年。ISBN978-4-621-30616-1
*『ハンガリーを知るための60章-ドナウの宝石』(第2版)[[羽場久美子]]編著、明石書店、2018年。ISBN978-4-7503-4614-4
*『ハンガリーを知るための47章ードナウの宝石』[[羽場久美子]]編著、明石書店、2002年。ISBN978-7503-4614-4
*『ハンガリーの歴史』[[南塚信吾]]、河出書房新社、2012年。
*{{Cite book||和書|author1=田代文雄|author2=鹿島正裕|authorlink2=鹿島正裕|others=パムレーニ・エルヴィン (編)|title = ハンガリー史1 (増補版)|publisher=恒文社|oclc=676349406|year=1980}}
*{{Cite book||和書|author1=田代|author2=鹿島|others=パムレーニ・エルヴィン (編)|title = ハンガリー史2 (増補版)|publisher=恒文社|oclc=676226404|year=1980}}
*{{Cite book|和書|author=科学朝日|authorlink=科学朝日|title=モンゴロイドの道 |others=朝日選書 (523) |isbn=978-4-0225-9623-9|year=1995}}
*{{Cite book|和書|author1=伊東孝之|authorlink1=伊東孝之|author2=萩原直|author3=直野敦|authorlink3=直野敦|author4=南塚信吾|authorlink4=南塚信吾|title=東欧を知る事典|publisher=[[平凡社]]|isbn=978-4-5821-2630-3|others=[[柴宜弘]] (監修)|year=2001}}
*{{cite book|title = [[:en:Kristó Gyula|Gyula Kristó]] – Barta János – Gergely Jenő: Magyarország története előidőktől 2000-ig (History of Hungary from the prehistory to 2000)|publisher =Pannonica Kiadó, Budapest|year =2002|oclc=52648163|pp= 687, 37, 113 }}
*{{cite journal |title=Globally speaking: motives for adopting English vocabulary in other languages |journal=World Englishes|editors =Judith Rosenhouse, Rotem Kowner|volume=30|number=1|date=2011-03|pages=158-161 |publisher=School of Modern Languages and Translation Studies, University of Tampere, Finland|issn=0883-2919|doi=10.1111/j.1467-971X.2010.01672.x}}
== 関連項目 ==
*[[ハンガリー人のノーベル賞受賞者]]
*[[ブダペスト]]
*[[ロヴァーシュ文字]]
*[[デュフレックス]]
*[[シェンゲン圏]]
*[[シェンゲン協定]]
<!-- * [[ハンガリーの人権]] -->
; 一覧
*[[ハンガリー関係記事の一覧]]
*[[ハンガリー人の一覧]]
*[[ハンガリー国王一覧]]
* [[音楽都市]]
== 外部リンク ==
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{{Commons&cat|Hungary|Hungary}}
;政府
*[https://magyarorszag.hu/ ハンガリー政府] {{hu icon}}{{en icon}}
*[https://www.keh.hu/index2.php ハンガリー大統領府] {{hu icon}}{{en icon}}
*[http://www.meh.hu/ ハンガリー首相府]{{リンク切れ|date=2022年2月}} {{hu icon}}
*[https://tokio.mfa.gov.hu/jpn 駐日ハンガリー大使館] {{ja icon}}{{hu icon}}{{en icon}}
;日本政府
*[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hungary/ 日本外務省 - ハンガリー] {{ja icon}}
*[https://www.hu.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在ハンガリー日本国大使館] {{ja icon}}
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%BC |
8,407 | サッカー選手 | サッカー選手(サッカーせんしゅ)とは、サッカーにおいて競技を実際に行う者のことである。
全世界では、約2億5000万人のサッカー選手が存在すると推定されている。
ジャン=ピエール・パパンは、サッカーを「世界共通語」と説明している。サッカー選手は一般的に、ユースチームやアマチュアチームでキャリアをスタートし、プロサッカー選手を目指す。
ヨーロッパなどのいくつかのプロトップリーグでは、他の仕事より非常に高い収入を得ることができる。プレミアリーグの選手は、平均で年間約100万ドルもの収入を得ている。その中でも特に裕福なクラブの選手は、平均で年間600万ドルから800万ドル、最高では年間7000万ドルもの収入を得ることができる。
しかし、実際にこのレベルでプレーできるのは、一部のプロサッカー選手のみであり、サッカー選手の多くはセミプロ選手である。上記のような収入の多いリーグ以外のリーグでプレーする選手の収入は、比較的一般的な額である。また、ポジションによって年俸に差がある傾向も見られる。例えば、アメリカの一部リーグに相当するメジャーリーグサッカーの2013年の平均年俸は、148693ドルだったが、そのうちゴールキーパーの平均年俸は85,296ドルに留まったのに対し、フォワードの選手の平均年俸は251,805ドルと、166,509ドルもの差があった。また、女子サッカー選手の平均収入は、男子よりはるかに低い。例えば、アメリカの女子サッカーリーグ、ナショナル・ウィメンズ・サッカーリーグに所属する選手の年俸は、30,000ドルにも満たない。この原因について、経済ニュースプラットフォームNewspicksは、「生で観戦する人が少ないことから、市場が小規模であることに起因している」と述べている
引退後、一部のサッカー選手は、サッカー指導者などとして、サッカー界での仕事を続けることがある。1979年の研究では、より高いレベルのチームの選手の方が、引退後にサッカークラブの幹部の内の多くを占め、また、多くの所得が得られることが分かった。それ以外のキャリアパスとしては、サッカー番組等でのコメンテータをはじめとするメディア業界での仕事、アパレルブランドや飲食業の経営や不動産投資などを引退後の道として選ぶ選手もいる。
サッカー選手のパフォーマンスは、一般的にホームチームよりもアウェーチームの方が低下するとされている。これは、ホームアドバンテージによるものである。 この現象の原因は科学的には解明されていない。また、別の研究では、審判がペナルティーキックのために0.2秒未満の短いホイッスルを吹いた後では、長く吹かれた後よりも、ペナルティーキックを失敗する可能性が高いことが分かっている。
2002年のアイルランドの研究機関の発表では、サッカー選手は「物理的性能の全ての分野で、高いレベルの体力と筋肉を備えている人間」と表現している。
引退したサッカー選手がうつ病などを発症する確率は一般人とほぼ同じである。また、2009年の研究では、サッカーは成長期の睡眠や心理的機能に良い効果をもたらすことがわかった。しかし、プロサッカー選手の平均寿命は、一般人と比較すると短いことが分かっている。2011年のドイツの研究では、サッカードイツ代表の選手の平均寿命は、一般の男性よりも2年程度短いことが分かった。元サッカー選手は、現役時代の心身の負荷(オーバーユーズ)によって、引退後に慢性的な痛みに悩まされることがある。
2000年のサッカーの怪我に関する研究によれば、怪我の原因の81.5%は外傷、18.5%はオーバーユースである。怪我の種類は、捻挫が30%を占め、続いて骨折(16%)、肉離れ(15%)、靭帯損傷(12%)、半月板損傷(8%)となっている。部位別にみると、膝の怪我が最も多くを占め(29%)、足首(19%)、脊椎(9%)と続いている。また、2012年の研究では、全ての怪我の19%は筋肉系の怪我であることが示されている。
ヘディングは、筋萎縮性側索硬化症の発生率の増加につながることが示されている。1987年の元サッカーノルウェー代表の選手を対象とした研究では、三人に一人に外傷性脳損傷や脳挫傷などの脳損傷が発見された。また、スコットランドのスターリング大学の研究チームの発表によれば、ヘディングは脳の機能や記憶力に大きな悪影響を与え、ヘディングをした直後の選手の記憶力は41%から67%低下し、その影響は24時間が経過すると徐々に減少した。こうした経緯から、アメリカでは、アメリカ合衆国サッカー連盟によって10歳以下の子供がヘディングを禁止するという措置が取られており、スコットランドでもスコットランドサッカー協会のゴードン・スミス元会長が、「米国に倣って特定の年齢層にはヘディングを禁止にすべき」と主張するなど、世界的にヘディングの健康への影響に対する懸念は高まっている。
特に脆弱な部分である前十字靭帯は、タックルなどによって前十字靭帯損傷などが引き起こされることがあるほか、引退後の選手の股関節に変形性関節症が見られることも多い。また、太腿の怪我は筋肉系の怪我の54%を占めることが分かっている。FIFAは2012年、これらのサッカー選手の怪我の要因について記したレポートを発表した。 | [
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}
] | サッカー選手(サッカーせんしゅ)とは、サッカーにおいて競技を実際に行う者のことである。 全世界では、約2億5000万人のサッカー選手が存在すると推定されている。 | '''サッカー選手'''(サッカーせんしゅ)とは、[[サッカー]]において競技を実際に行う者のことである。
全世界では、約2億5000万人のサッカー選手が存在すると推定されている<ref>[http://www.britannica.com/EBchecked/topic/550852/football ブリタニカ百科事典] 2018年7月7日閲覧</ref>。
== 概要 ==
[[ジャン=ピエール・パパン]]は、サッカーを「世界共通語」と説明している<ref>{{cite news|author1=アンネ=セシーレ・ジャラッセ|author2=K・ユリア|author3=アンドリュー・ブルジェス|title=ジャン=ピエール・パパン「サッカーは世界共通語だ」|url=http://www.cafebabel.co.uk/article/20539/jean-pierre-papin-football-is-a-universal-language.html|work=cafébabel.com|date=30 March 2007}} 2018年7月7日閲覧{{リンク切れ|date=2021年4月}}</ref>。サッカー選手は一般的に、[[下部組織|ユースチーム]]や[[アマチュア]]チームでキャリアをスタートし、[[プロサッカー選手]]を目指す。
== 収入 ==
[[ヨーロッパ]]のプロリーグでは、非常に高い収入を得ることができる。[[プレミアリーグ]]の選手は、平均で年間約100万ドルもの収入を得ている<ref>{{cite news|author=ニック・ハリス|title=週給£20から£33,868まで:イングランドサッカーと収入の歴史|url=http://www.sportingintelligence.com/2011/01/20/from-20-to-33868-per-week-a-quick-history-of-english-footballs-top-flight-wages-200101/|work=Sporting Intelligence|date=20 January 2011}} 2018年7月7日閲覧</ref>。特に、強豪クラブの選手は、平均で年間600万ドルから800万ドル<ref>[https://soccermommanual.com/soccer-salaries-how-much-do-soccer-players-make/ ヨーロッパの裕福なクラブの収入] - soccermommanual.com 2018年7月7日閲覧</ref>、その中でもトップレベルの選手は7000万ドルもの収入を得ることができる<ref>[http://www.forbes.com/pictures/mlh45egml/no-1-cristiano-ronaldo-real-madrid/ クリスティアーノ・ロナウドの平均収入] - forbes.com 2018年7月7日閲覧</ref>。
しかし、実際にこのレベルでプレーできるのは、一部の選手のみであり、サッカー選手の多くは[[セミプロフェッショナル|セミプロ]]選手である。上記のような収入の多いリーグ以外のリーグでプレーする選手の収入は、比較的一般的な額である。また、ポジションによって年俸に差があり、攻撃的なポジションの選手に比べて守備的なポジションの選手の年俸は低い傾向にある。例えば、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の一部リーグに相当する[[メジャーリーグサッカー]]の[[2013年]]の平均年俸は、148693ドルだったが、そのうち[[ゴールキーパー (サッカー)|ゴールキーパー]]の平均年俸は85,296ドルに留まったのに対し、[[フォワード (サッカー)|フォワード]]の選手の平均年俸は251,805ドルと、166,509ドルもの差があった<ref>[http://everydaylife.globalpost.com/average-amount-money-professional-soccer-player-per-year-35008.html MLSの選手の平均年俸] - everydaylife.globalpost.com 2018年7月7日閲覧</ref>。また、[[女子サッカー選手]]の平均収入は、男子よりはるかに低い<ref>[http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2015/06/post-751_2.php 「なでしこ」だけではない女子サッカー選手の低賃金] - newsweekjapan.jp 2018年7月7日閲覧</ref>。例えば、アメリカの女子サッカーリーグ、[[ナショナル・ウィメンズ・サッカーリーグ]]に所属する選手の年俸は、30,000ドルにも満たない<ref>[http://everydaylife.globalpost.com/average-amount-money-professional-soccer-player-per-year-35008.html アメリカの女子サッカー選手の収入] - oureverydaylife.com 2018年7月7日閲覧</ref>。この原因について、経済ニュースプラットフォームNewspicksは、「観戦する人が少ない上に、市場が小規模であることに起因している」と述べている<ref>[https://newspicks.com/news/1054447/body/ なぜ女子サッカー選手の給料は安いのか] - Newspicks.com 2018年7月7日閲覧</ref>
[[File:Zidane Zizu.jpg|right|150px|thumb|[[ジネディーヌ・ジダン]]は、引退後、古巣[[レアル・マドリード]]の指導者に就任した。]]
引退後、一部のサッカー選手は、[[サッカー指導者]]などとして、サッカー界での仕事を続けることがある。[[1979年]]の研究では、より高いレベルのチームの選手の方が、引退後にサッカークラブの幹部の内の多くを占め、また、多くの所得が得られることが分かった<ref>{{cite journal|author1=アレン・L・サック|author2=ロバート・チール|title=大学サッカーと社会的流動性:ノートルダム大学のサッカー選手の例|journal={{仮リンク|ソーシャルジー・オブ・エデュケーション (雑誌)|label=ソーシャルジー・オブ・エデュケーション|en|Sociology of Education (journal)}}|volume=52|issue=1|pages=60–66|publisher={{仮リンク|SAGE (企業)|label=SAGE|en|SAGE Publications}}|jstor=2112594|date=January 1979|doi=10.2307/2112594}}</ref>。それ以外のキャリアパスとしては、サッカー番組等でのコメンテータをはじめとするメディア業界での仕事、アパレルブランドや飲食業の経営や不動産投資などを引退後の道として選ぶ選手もいる。<ref>{{Cite news|title=What do footballers do when they retire?|url=https://www.telegraph.co.uk/men/active/11028666/What-do-footballers-do-when-they-retire.html#:~:text=Many%20former%20players%20seek%20new,to%20working%20in%20financial%20services.|date=2014-08-15|accessdate=2020-08-31|issn=0307-1235|language=en-GB|first=Mark|last=Bailey}}</ref>
== パフォーマンスの心理的側面 ==
サッカー選手のパフォーマンスは、一般的にホームチームよりもアウェーチームの方が低下するとされている。これは、[[ホームアドバンテージ]]によるものである。 この現象の原因は科学的には解明されていない<ref>{{cite journal|author=リチャード・ポラード|title=サッカーのホームアドバンテージ:未解決のパズルの現在の状況|journal=The Open Sports Sciences Journal|volume=1|pages=12-14|publisher={{仮リンク|ベンサム・サイエンス・パブリッシャーズ|en|Bentham Science Publishers}}|doi=10.2174/1875399X00801010012|date=June 2008|url=https://doi.org/10.2174/1875399X00801010012|ref=harv|postscript=.}}[http://benthamopen.com/contents/pdf/TOSSJ/TOSSJ-1-12.pdf Pdf.]</ref>。また、別の研究では、[[審判員 (サッカー)|審判]]が[[ペナルティーキック]]のために0.2秒未満の短い[[ホイッスル]]を吹いた後では、長く吹かれた後よりも、ペナルティーキックを失敗する可能性が高いことが分かっている<ref>{{cite journal|author1=ゲイル・ジョーデット|author2=エスター・ハートマン|author3=エイナー・サイモンスタッド|title=代表戦におけるPK戦でのプレッシャー|journal=Psychology of Sport and Exercise|volume=10|issue=6|pages=621–627|publisher=[[エルゼビア]]|doi=10.1016/j.psychsport.2009.03.004|date=November 2009|url=https://doi.org/10.1016/j.psychsport.2009.03.004|ref=harv|postscript=.}} [http://bps-research-digest.blogspot.com/2009/09/football-players-who-rush-penalty-kicks.html PKを蹴るのを急ぐ選手は失敗しやすい。2016年10月]</ref>。
== 健康への影響 ==
[[File:Kopfbälle.jpg|right|thumb|150px|ヘディングは、慢性脳損傷の発生率を増加させる。]]
[[2002年]]の[[アイルランド]]の研究機関の発表では、サッカー選手は「物理的性能の全ての分野で、高いレベルの体力と筋肉を備えている人間」と表現している<ref>{{cite journal|author1=A・ストラドウィック|author2=T・レイリー|author3=D・ドラン|title=優れたサッカー選手のフィジカルデータ|journal=The Journal of Sports Medicine and Physical Fitness|volume=42|issue=2|pages=239–242|publisher={{仮リンク|ヨーロッパ・パブメッド・セントラル|en|Europe PubMed Central}}|pmid=12032422|date=June 2002|url=http://europepmc.org/abstract/MED/12032422/reload=0;jsessionid=NPCiMZG7kKrWxI4wXOL0.4|ref=harv|postscript=.}}</ref>。
引退したサッカー選手が[[うつ病]]などを発症する確率は[[一般人]]とほぼ同じである<ref>{{cite journal|author1=T.L.シュベンク|last2=D.W.ゴレンブロ|author2=|author3=R.R.ドップ|last4=E.ヒップル|title=元サッカー選手のうつ病発生率|journal=Medicine and Science in Sports and Exercise|volume=39|issue=4|pages=599–605|pmid=17414796|date=April 2007|url=http://www.medscape.com/viewarticle/555786|ref=harv|postscript=.|doi=10.1249/mss.0b013e31802fa679}}</ref>。また、2009年の研究では、サッカーは成長期の睡眠や心理的機能に良い効果をもたらすことがわかった<ref>{{cite journal|author1=セルジ・ブランド|author2=ヨハネス・ベック|last3=Gerber|first3=Markus|author4=マルティン・ハッツィンガー|last5=ホルスベア=トラッシュスラー。ガーバー、マルクス;|first5=Edith|title=サッカーはあなたの睡眠に良い影響を与える。|journal={{仮リンク|ジャーナル・オブ・ヘルス・サイコロジー|en|Journal of Health Psychology}}|volume=14|issue=8|pages=1144–1155|publisher={{仮リンク|SAGE (企業)|label=SAGE|en|SAGE Publications}}|pmid=19858334|doi=10.1177/1359105309342602|date=November 2009|url=https://doi.org/10.1177/1359105309342602|ref~harv|postscript=.}}</ref>。しかし、プロサッカー選手の[[平均寿命]]は、一般人と比較すると短いことが分かっている。[[2011年]]の[[ドイツ]]の研究では、[[サッカードイツ代表]]の選手の平均寿命は、一般の男性よりも2年程度短いことが分かった<ref>{{cite journal|和書|author1=オリバー・キス|author2=アレクサンダー・クルティグ|author3=カリン・H・グレイザー|title=サッカー選手の寿命|journal =Scandinavian Journal of Medicine & Science in Sports|volume=21|issue=6|pages=e260–e265|publisher={{仮リンク|ワイリー・ブラックウェル|en|Wiley-Blackwell}}|doi=10.1111/j.1600-0838.2010.01269.x|date=December 2011|url=https://doi.org/10.1111/j.1600-0838.2010.01269.x|ref=harv|postscript=.}}[http://www.oliverkuss.de/science/publications/Kuss_Longevity_of_Soccer_Players_An_Investigation_of_all_German_Internationals_from_1908-2006.pdf Pdf.]</ref>。元サッカー選手は、現役時代の心身の負荷([[スポーツ障害|オーバーユーズ]])によって、引退後に慢性的な痛みに悩まされることがある。
[[2000年]]のサッカーの[[怪我]]に関する研究<ref>{{cite journal|author1=イジー・コーマック|author2=アストリッド・ユンゲ|author3=ラース・ペーターソン|author4=イジー・ドヴォルザーク|title=サッカー選手の怪我の要因|journal={{仮リンク|アメリカン・ジャーナル・オブ・スポーツ・メディシン|en|American Journal of Sports Medicine}}|volume=28|issue=s5|pages=s58–s68|publisher={{仮リンク|SAGE (企業)|label=SAGE|en|SAGE Publications}}|doi=10.1177/28.suppl_5.S-58|date=September 2000|url=https://doi.org/10.1177/28.suppl_5.S-58|ref=harv|postscript=.}}</ref>によれば、怪我の原因の81.5%は外傷、18.5%は[[スポーツ障害|オーバーユース]]である。怪我の種類は、[[捻挫]]が30%を占め、続いて[[骨折]](16%)、[[肉離れ]](15%)、[[靭帯損傷]](12%)、[[半月板損傷]](8%)となっている。部位別にみると、[[膝]]の怪我が最も多くを占め(29%)、[[足首]](19%)、[[脊椎]](9%)と続いている。また、[[2012年]]の研究では、全ての怪我の19%は筋肉系の怪我であることが示されている<ref name="Heidelberg">{{cite journal|author=ヤン・エクストランド|doi=10.1007/978-3-642-15630-4_111|title=UEFAによるプロサッカー選手の怪我に関する研究|journal=Sports Injuries prevention, diagnosis, treatment and rehabilitation|pages=871–875|year=2012|isbn=978-3-642-15629-8|publisher=Springer-Verlag Berlin Heidelberg|location=Heidelberg New York}}</ref>。
[[ヘディング]]は、[[筋萎縮性側索硬化症]]の発生率の増加につながることが示されている<ref>{{cite journal||author1=アドリアーノ・キオ|author2=ジャンマルティーノ・ベンジ|author3=マウリジア・ドッセーナ|author4=ロベルト・ムターニ|author5=ガブリエレ・モラ|title=イタリアのプロサッカー選手における筋萎縮性側索硬化症のリスク|journal={{仮リンク|ブレイン (雑誌)|label=ブレイン|en|Brain (journal)}}|volume=128|issue=3|pages=472–476|publisher=[[オックスフォード大学出版局]]|pmid=15634730|doi=10.1093/brain/awh373|date=January 2005|url=https://doi.org/10.1093/brain/awh373|ref=harv|postscript=.}}</ref>。1987年の元[[サッカーノルウェー代表]]の選手を対象とした研究では、三人に一人に[[外傷性脳損傷]]や[[脳挫傷]]などの脳損傷が発見された<ref>{{cite journal|author1=O.ソートランド|author2=A.T.ティッシャー|title=元サッカー代表選手の脳損傷:コンピュータ断層撮影による検査|journal=Neuroradiology|volume=31|issue=1|pages=44–48|publisher=[[シュプリンガー・サイエンス・アンド・ビジネス・メディア|シュプリンガー]]|pmid=2717003|doi=10.1007/BF00342029|date=March 1989|url=https://doi.org/10.1007/BF00342029|ref=harv|postscript=.|doi-broken-date=2016-01-20}}</ref>。また、[[スコットランド]]の[[スターリング大学]]の研究チームの発表によれば、ヘディングは脳の機能や記憶力に大きな悪影響を与え、ヘディングをした直後の選手の記憶力は41%から67%低下し、その影響は24時間が経過すると徐々に減少した<ref name="afpbb">[https://www.afpbb.com/articles/-/3105614 サッカーのヘディング、脳の機能や記憶力に大きく影響] - afpbb.com</ref><ref>[http://www.soccer-king.jp/news/world/eng/20161025/507521.html ヘディングが記憶障害を起こす? 脳への悪影響が英の大学研究で判明] - soccer-king.com</ref>。こうした経緯から、アメリカでは、[[アメリカ合衆国サッカー連盟]]によって10歳以下の子供がヘディングを禁止するという措置が取られており<ref>[http://www.footballchannel.jp/2015/11/25/post122239/ 米で禁止令。ヘディングは害悪か?健康被害だけでなく、競技そのものに影響をもたらす可能性も] - footballchannel.jp</ref><ref>[http://www.cnn.co.jp/showbiz/35073313.html 10歳以下のヘディング禁止、サッカー協会が新規定] - cnn.co.jp</ref><ref>[http://www.news-postseven.com/archives/20151117_364933.html 少年サッカー 米でヘディング禁止] - news-postseven.com</ref>、スコットランドでも[[スコットランドサッカー協会]]のゴードン・スミス元会長が、「米国に倣って特定の年齢層にはヘディングを禁止にすべき」と主張する<ref name="afpbb"/>など、世界的にヘディングの健康への影響に対する懸念は高まっている。
特に脆弱な部分である[[前十字靭帯]]は、[[タックル]]などによって[[前十字靭帯損傷]]などが引き起こされることがあるほか、引退後の選手の[[股関節]]に[[変形性関節症]]が見られることも多い<ref>{{cite journal|author1=クート・B・クリュンダー|author2=ブジャーン・ルダ|last3=イェルゲン・ハンセン|title=元サッカー選手における変形性関節症|journal=Acta Orthopaedica Scandinavica|volume=51|issue=1–6|pages=925–927|publisher=[[テイラー・アンド・フランシス]]|pmid=7211298|doi=10.3109/17453678008990896|date=December 1980|url=https://doi.org/10.3109/17453678008990896|ref=harv|postscript = .}} [http://www.tandfonline.com/doi/pdf/10.3109/17453678008990896 Pdf.]</ref>。また、[[太腿]]の怪我は筋肉系の怪我の54%を占めることが分かっている<ref name="Heidelberg"/>。[[国際サッカー連盟|FIFA]]は2012年、これらのサッカー選手の怪我の要因について記したレポートを発表した<ref>{{cite journal|author1=コリン・W・ファラー|author2=アストリッド・ユンゲ|author3=イジー・ドヴォルザーク|title=サッカー選手の健康を維持するためのFIFAのアプローチ|journal={{仮リンク|ブリティッシュ・ジャーナル・オブ・スポーツ・メディシン|en|British Journal of Sports Medicine}}|volume = 46|issue=1|pages=11–17|publisher={{仮リンク|BMJグループ|label=BMJ|en|BMJ (Company)}}|doi=10.1136/bjsports-2011-090634|date=January 2012|url=https://doi.org/10.1136/bjsports-2011-090634|ref=harv|postscript=.}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 関連項目 ==
*[[サッカー選手一覧]]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:さつかあせんしゆ}}
[[Category:サッカー選手|*]] | 2003-05-17T04:28:14Z | 2023-11-23T20:15:02Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E9%81%B8%E6%89%8B |
8,409 | 縄跳び | 縄跳び(なわとび)は、自らあるいは他人の回す縄が地上付近を通過する際に飛び越していく遊び。また、そのための縄(跳び縄あるいはジャンプロープともいう)。今日ではスポーツ性の高いものもある。縄跳びには、跳んだ回数や一跳びの間に縄を回した回数を競う場合と、跳び方の難易度を競う場合がある。
縄の長さで短縄跳びと長縄跳び(大縄跳び)の2つに分けられる。
近代日本での縄跳びの歴史は1878年に体操伝習所(現在の筑波大学)へドイツから教師を呼び、導入したのが始まりだとも言われる。
短縄跳びは一人、あるいは二人で跳ぶ。跳び方には下記のように様々な種類がある。縄跳びを回す向きは、前回しと後ろ回しがある。ダブルダッチと区別するために単縄跳びと表記することもある(短縄跳びは長縄跳びとの区別)。
また、跳び方の呼称は時代や地域によって異なる場合があるため注意を要する。
サイドクロスの体制での二重跳びの類には、いくつかの解釈がある。
長縄跳びは6mから8m程度のロープを用いて、ロープを振揺・回旋させて地表近くを通過するときにこれを跳ぶもの。大縄跳びとも呼ぶ。
難易度には高低があり長縄跳びには次のようなものがある。
ダブルダッチ(Double Dutch)は、2本の縄を使って跳ぶ縄跳び。向かい合ったターナーと呼ばれる二人の回し手が2本の縄を内側に回し、その中でジャンパーが技を交えながら跳ぶ。
17世紀にニューアムステルダムに入植したオランダ人によってアメリカに伝えられ、1973年に本格的なルールが制定された。競技種目には、「規定」「スピード」「フリースタイル」「フュージョン」の4種類がある。
日本では1996年にNPO法人日本ダブルダッチ協会が発足。愛好者は5万人を数える。2008年の世界ニューヨーク大会において、日本体育大学や日本大学が優勝した。
2007年1月15日には、アメリカの祝日、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアデーを記念し、Googleのホームページのロゴが黒人と白人の子供がダブルダッチをして遊ぶデザインとなった(画像)。
跳ぶ人が8の字のように移動することからその名がついた。飛ぶときは、普通長縄と同じであり、移動するときは、以下の図のようになる。
上から見た図(●...縄を回す人 ┃...縄 ↑↓←→...飛ぶ人の移動方向)
ボクシングや格闘技では、フットワークを養成する為に縄跳びをすることが多い。練習前のアップ、練習後のクールダウンとして使われる。変化をつけるために速く跳んだり、ダッシュすることもある。 ムエタイ、キックボクシングの練習では、「タイロープ」と呼ばれる、タイ王国で一般的な太く重いビニールチューブ製の縄を使用することがある。 | [
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"text": "ボクシングや格闘技では、フットワークを養成する為に縄跳びをすることが多い。練習前のアップ、練習後のクールダウンとして使われる。変化をつけるために速く跳んだり、ダッシュすることもある。 ムエタイ、キックボクシングの練習では、「タイロープ」と呼ばれる、タイ王国で一般的な太く重いビニールチューブ製の縄を使用することがある。",
"title": "スポーツトレーニング"
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] | 縄跳び(なわとび)は、自らあるいは他人の回す縄が地上付近を通過する際に飛び越していく遊び。また、そのための縄(跳び縄あるいはジャンプロープともいう)。今日ではスポーツ性の高いものもある。縄跳びには、跳んだ回数や一跳びの間に縄を回した回数を競う場合と、跳び方の難易度を競う場合がある。 縄の長さで短縄跳びと長縄跳び(大縄跳び)の2つに分けられる。 | [[ファイル:Jump rope for children.JPG|270px|thumb|right|子供用の[[ビニール]]跳び縄]]
[[ファイル:Jumprope23241.jpg|right|200px|thumb|[[ボクシング]]のトレーニングでは手首の鍛錬とリズム感を養うため、短縄跳びをすることがある。]]
'''縄跳び'''(なわとび)は、自らあるいは他人の回す[[ロープ|縄]]が地上付近を通過する際に飛び越していく[[遊び]]<ref name="yuugidaijiten_p544">中島海編『遊戯大事典』p.544 1957年</ref>。また、そのための縄(跳び縄あるいはジャンプロープともいう)。今日では[[スポーツ]]性の高いものもある。縄跳びには、跳んだ回数や一跳びの間に縄を回した回数を競う場合と、跳び方の難易度を競う場合がある。
縄の長さで'''短縄跳び'''と'''長縄跳び'''('''大縄跳び''')の2つに分けられる<ref name="yuugidaijiten_p544"/>。
== 歴史 ==
近代[[日本]]での縄跳びの歴史は1878年に体操伝習所(現在の[[筑波大学]])へ[[ドイツ]]から教師を呼び、導入したのが始まりだとも言われる。
== 短縄跳び ==
短縄跳びは一人、あるいは二人で跳ぶ。跳び方には下記のように様々な種類がある。縄跳びを回す向きは、'''前回し'''と'''後ろ回し'''がある。ダブルダッチと区別するために'''単縄跳び'''と表記することもある(短縄跳びは長縄跳びとの区別)。
また、跳び方の呼称は時代や地域によって異なる場合があるため注意を要する。
;平跳び
:跳び縄を一回転させて跳ぶ。
;駆け足跳び
:駆けながら跳ぶ。
;片足跳び
:片足で跳ぶ。
;交差跳び
:腕を前で交差して跳ぶ。
;背面交差跳び
:腕を後ろで交差して跳ぶ。
;前後交差跳び
:片腕は前、片腕は後ろという具合に、両腕で胴体を前後から挟むようにして飛ぶ。
:続ける場合は左右の腕の方向を変えながら交互に跳ぶことになるが、その際に必ず側振を挟む形になるため、側振前後交差跳びと呼ぶ場合もある。言い換えればサイドクロスに似た技であり、クロス時に片腕を身体の後ろに回したものに相当する。
;綾跳び
:交差跳びと平跳びを交互に繰り返す。
;サイドクロス(側振綾跳び、側振交差跳び)
:回転する縄をいったん体の右や左にスルーさせ(側振)、次の回旋で交差跳びをする。側振の方向を左右に変えながら、これを繰り返す。
;じゃんけん跳び<ref>{{Cite web|和書|url=https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20151204-OYTEW57810/|title=縄跳び 姿勢・リズムにコツ|publisher=YOMIURI ONLINE|accessdate=2017-02-01|}}</ref>
:足をグー、チョキ、パーにしてこの順で繰り返して跳ぶ。
;横ふり跳び
:足を左右に出して跳ぶ。
;ヒール&トゥ(振り足跳び)
:片方の足で2回ずつ跳ぶ。その間にもう一方の足を前後に振るため、歩くような動作となる。
;おしり跳び<ref name="pintoru">{{Cite web|和書|url=https://recreation.pintoru.com/rope-skipping/technique-of-rope-skipping/|title=縄跳びの跳び方の種類・基本技一覧とスゴ技5選|縄跳び専門ページ|ピントル|accessdate=2017-02-01}}</ref>
:縄を折り畳み、腰にかけた状態でおしりで跳ぶ。
;二重跳び
:跳躍中に跳び縄を二回転させる。さらに、回転数を増やして'''三重跳び'''、'''四重跳び'''、'''五重跳び'''とすることができる。なお[[ギネス世界記録]]は'''7重跳び'''で、日本人の森口明利が2017年に達成した<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXKZO54215530Z00C20A1BC8000/ 森口明利「見えた!人類初の8重跳び◇滞空時間や回転速度、チームで磨き◇」]『[[日本経済新聞]]』朝刊2020年1月10日(文化面)2020年1月12日閲覧</ref>。
;はやぶさ(綾二重跳び、速綾(そくあや)跳び)
:綾跳びの体制で二重跳びをする。「交→順」または「順→交」の2種類のバリエーションが存在する。
;つばめ(交差二重跳び)
:交差跳びの体制で二重跳びをする。
;たか跳び<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ne.jp/asahi/hp/chiirohi/nawatobi/nawatobic.pdf|title=なわとびチャレンジカード|author=河野博一|publisher=新TOSSランド|accessdate=2015-04-19}}</ref>
:二重跳びと交差二重跳びを交互に繰り返す。
;トード(Toad)
:駆け足跳びのようにして片足を上げた際に、背中を丸め、上がっている片足の下に片腕を通して跳ぶ。要するに、股の下で腕をクロスさせる交差跳びのような跳び方である。
:国際大会などの本格的な縄跳びにおける最も基本的な跳び方であり、フリースタイル種目で様々な技を繰り出すための重要な起点技となっている。
=== サイドクロスのバリエーション ===
サイドクロスの体制での二重跳びの類には、いくつかの解釈がある。
;速側振綾跳び
:難易度の低いサイドクロス(側振綾跳び)では、側振と交差跳びのそれぞれで跳躍を行うため、1セットで2跳躍(左右で4跳躍)を行う。しかし側振の段階では縄が足に引っ掛かる心配が無いため、側振と交差跳びの、合わせて2回旋を1跳躍(左右で2跳躍)で済ませる跳び方もある。この場合は'''速'''側振綾跳びとも呼称され、縄を回すタイミングとしては二重跳びのカテゴリとなる。
;側振交差二回旋、側振交差二重跳び
:サイドクロスにおける側振で1跳躍し、交差の段階の1跳躍で交差二重跳びを行い、これらを交互に繰り返す。縄を回すタイミングとしては1重跳びと2重跳びを交互に繰り返す形となる。
;速側振交差二回旋、速側振交差二重跳び
:速側振綾跳びにおける交差跳びの段階で交差二重跳びを行うことにより、側振と合わせて3回旋を1跳躍で行う。縄を回すタイミングとしては三重跳びのカテゴリに入るが、側振の段階では縄を足に引っ掛ける心配は無いため二重跳びの類とも解釈できる。
;速側振速綾跳び
:速側振綾跳びにおける側振の後の交差跳びの段階で文字通り(交→順の)はやぶさ(速綾)跳びを行うというもの。縄を回すタイミングとしては三重跳びのカテゴリに入るが、やはり側振の段階では縄を足に引っ掛ける心配は無いため二重跳びの類とも解釈できる。
;両速側振綾跳び
:サイドクロスの左右1セット、すなわち右(左)側振→交差跳び→左(右)側振→交差跳びを、まとめて1跳躍で行う。1跳躍の間に足の下を縄が通過する回数は2回だが、縄を回すタイミングとしては四重跳びのカテゴリに入る高度な技。
== 長縄跳び ==
[[File:Jumprope navy.jpg|thumb|長縄跳び]]
[[File:US Navy 030303-N-9109V-006 Steel Beach picnic aboard USS Saipan.jpg|thumb|ダブルダッチ]]
=== 概要 ===
長縄跳びは6mから8m程度のロープを用いて、ロープを振揺・回旋させて地表近くを通過するときにこれを跳ぶもの<ref name="yuugidaijiten_p539">中島海編『遊戯大事典』p.539 1957年</ref>。大縄跳びとも呼ぶ。
難易度には高低があり長縄跳びには次のようなものがある。
* 地表近くを振揺させてこれを跳ぶもの<ref name="yuugidaijiten_p539"/>
* 回旋するロープの下を潜り抜けるもの<ref name="yuugidaijiten_p539"/>
* 回旋するロープの中で各種の跳び方を行うもの<ref name="yuugidaijiten_p539"/>
: 腕立てや逆立ちをしながら跳ぶ人もいる。
* 長縄の中で短縄と重複して跳ぶもの<ref name="yuugidaijiten_p539"/>
* 長縄2本もしくは3本を回旋させてその中を跳ぶもの<ref name="yuugidaijiten_p539"/>
=== ダブルダッチ ===
{{Seealso|ダブルダッチ}}
'''ダブルダッチ'''('''Double Dutch''')は、2本の縄を使って跳ぶ縄跳び。向かい合ったターナーと呼ばれる二人の回し手が2本の縄を内側に回し、その中でジャンパーが技を交えながら跳ぶ。
[[17世紀]]に[[ニューアムステルダム]]に入植した[[オランダ人]]によって[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に伝えられ、[[1973年]]に本格的なルールが制定された。競技種目には、「規定」「スピード」「フリースタイル」「フュージョン」の4種類がある。
日本では[[1996年]]に[[NPO法人日本ダブルダッチ協会]]が発足。愛好者は5万人を数える。[[2008年]]の世界ニューヨーク大会において、[[日本体育大学]]や[[日本大学]]が優勝した。
[[2007年]][[1月15日]]には、アメリカの[[祝日]]、[[マーティン・ルーサー・キング・ジュニア|マーティン・ルーサー・キング・ジュニアデー]]を記念し、[[Google]]のホームページのロゴが[[黒人]]と[[白人]]の子供がダブルダッチをして遊ぶデザインとなった([https://www.google.com/logos/mlk07.gif 画像])。
=== 8の字 ===
跳ぶ人が[[8]]の字のように移動することからその名がついた。飛ぶときは、普通長縄と同じであり、移動するときは、以下の図のようになる。
上から見た図(●…縄を回す人 ┃…縄 ↑↓←→…飛ぶ人の移動方向)
<pre>
→→→↓
↑ ● ↓
↑ ┃ ↓
←┃←←
↓ ┃ ↑
↓ ● ↑
→→→↑
</pre>
== スポーツトレーニング ==
[[ボクシング]]や[[格闘技]]では、フットワークを養成する為に縄跳びをすることが多い。練習前のアップ、練習後のクールダウンとして使われる。変化をつけるために速く跳んだり、ダッシュすることもある。
[[ムエタイ]]、[[キックボクシング]]の練習では、「タイロープ」と呼ばれる、[[タイ王国]]で一般的な太く重い[[ビニール]][[管|チューブ]]製の縄を使用することがある。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [http://www.irsf.org/ 国際縄跳び連盟(International Rope Skipping Federation)]
* [http://www.jrsf.jp/ 日本ロープスキッピング連盟(JRSF)]
** [http://trick.jrsf.jp/ JRSFトリックシート] - 様々な縄跳びの技名とその難易度が示されている。
* [http://www.nawatobi.jp/ NAWATOBI/なわとび]
{{スポーツ一覧}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:なわとひ}}
[[Category:子供の遊び]]
[[Category:スポーツ競技]]
[[Category:ロープワーク]]
[[Category:エアロビック・エクササイズ]]
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[[Category:冬の季語]] | 2003-05-17T04:34:57Z | 2023-11-30T20:38:32Z | false | false | false | [
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8,411 | 紀元前401年 | 紀元前401年(きげんぜん401ねん)は、ローマ暦の年である。
当時は、「ポティトゥス、コッスス、カミルス、アンブストゥス、マメルキヌス、ルルスが執政武官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元353年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前401年と表記されるのが一般的となった。 | [
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] | 紀元前401年(きげんぜん401ねん)は、ローマ暦の年である。 当時は、「ポティトゥス、コッスス、カミルス、アンブストゥス、マメルキヌス、ルルスが執政武官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元353年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前401年と表記されるのが一般的となった。 | {{Yearbox| 前世紀= {{紀元前/世紀|6}} | 世紀= {{紀元前/世紀|5}} | 次世紀= {{紀元前/世紀|4}} |
前10年紀2= {{紀元前/年代|420}} | 前10年紀1= {{紀元前/年代|410}} | 10年紀= {{紀元前/年代|400}} |
次10年紀1= {{紀元前/年代|390}} | 次10年紀2= {{紀元前/年代|380}} |
3年前= {{紀元前/年|404}} | 2年前= {{紀元前/年|403}} | 1年前= {{紀元前/年|402}} |
1年後= {{紀元前/年|400}} | 2年後= {{紀元前/年|399}} | 3年後= {{紀元前/年|398}} |}}
'''紀元前401年'''(きげんぜん401ねん)は、[[ローマ暦]]の年である。
当時は、「ポティトゥス、コッスス、カミルス、アンブストゥス、マメルキヌス、ルルスが[[執政武官]]に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、[[ローマ建国紀元]]353年)。[[紀年法]]として[[西暦]](キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前401年と表記されるのが一般的となった。
== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[庚辰]]
* [[日本]]
** [[皇紀]]260年
** [[孝昭天皇]]75年
* [[中国]]
** [[周]] - [[安王 (周)|安王]]元年
** [[秦]] - [[簡公 (秦)|簡公]]14年
** [[晋 (春秋)|晋]] - [[烈公 (晋)|烈公]]15年
** [[楚 (春秋)|楚]] - [[悼王 (楚)|悼王]]元年
** [[斉 (春秋)|斉]] - [[康公 (斉)|康公]]4年
** [[燕 (春秋)|燕]] - [[簡公 (戦国燕)|簡公]]14年
** [[趙 (戦国)|趙]] - [[列侯 (趙)|烈侯]]8年
** [[魏 (戦国)|魏]] - [[文侯 (魏)|文侯]]45年
** [[韓 (戦国)|韓]] - [[景侯 (韓)|景侯]]8年
* [[朝鮮]]
** [[檀君紀元|檀紀]]1933年
* [[ベトナム]] :
* [[仏滅紀元]] : 144年
* [[ユダヤ暦]] :
{{Clear}}
== できごと ==
=== ペルシア帝国 ===
* [[小キュロス]]は、[[イオニア]]の諸都市をめぐる[[ティッサフェルネス|ティッサペルネス]]との諍いを口実に軍勢を集め、[[トロス山脈]]中の[[ピシディア]]への遠征を準備しているという偽装をした。[[古代ギリシア|ギリシア]][[傭兵]]1万人を含む、2万人ほどの軍勢を率いて出発したキュロスは、[[タプサコス]] ([[:en:Thapsacus|Thapsacus]]) で[[ユーフラテス川]]に達したところで、進軍の本当の目的が[[アルタクセルクセス2世]]の打倒であることを軍勢に告げた。キュロスの軍勢は、抵抗を受けずに[[バビロニア]]に侵入したが、直前にティッサペルネスから警告を受けていたアルタクセルクセス2世も、大急ぎで手勢を集めていた。両軍は[[バビロン]]の北郊における[[クナクサの戦い]]で[[会戦]]し、キュロスは討ち死にした。
=== ギリシア ===
* キュロスのために戦っていたギリシア傭兵たちは、キュロスの敗北の後、孤立して取り残されてしまった。[[ペルシア帝国]]の[[サトラップ|サトラップ(太守)]]ティッサペルネスが、[[スパルタのクレアルコス]] ([[:en:Clearchus of Sparta|Clearchus of Sparta]]) らギリシア傭兵の士官たちを捕らえ、アルタクセルクセス2世が処刑してしまったので、残された傭兵たちは、新たにリーダーとなった[[クセノポン]]に率いられ、敵対的な[[ペルシア人]]、[[アルメニア人]]、[[クルド人]]たちの領域を通って北へ進み、[[黒海]]沿岸のトラペウス(現代の[[トラブゾン]])へとたどり着いた。
* [[アゲシラオス2世]]が、異母兄[[アギス2世]]の死去後に、[[スパルタ王]]に即位した。
=== 中国 ===
* [[秦]]が[[魏 (戦国)|魏]]を攻撃し、陽狐に到達した。
=== 文学 ===
* [[ソポクレス]]の[[ギリシア悲劇|悲劇]]『[[オイディプス王]]』が、作者の死後に上演された。[[アテナイ]]の[[ディオニューシア祭]]での上演を制作したのはソポクレスの同名の孫であった
== 誕生 ==
{{see also|Category:紀元前401年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
== 死去 ==
{{see also|Category:紀元前401年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[アギス2世]] - エウリュポン朝の[[スパルタ王]]
* [[クレアルコス (スパルタ)|スパルタのクレアルコス]] - [[スパルタ]]の将軍、傭兵
* [[小キュロス]] - [[ペルシア帝国]]の大王[[ダレイオス2世]]の次男
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|401 BC}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=5|年代=400|BC=1}}
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[[Category:紀元前401年|*]] | null | 2022-01-27T23:31:59Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%85%83%E5%89%8D401%E5%B9%B4 |
8,412 | 1世紀 | 1世紀(いっせいき、いちせいき)は、西暦元年(1年)から西暦100年までの100年間を指す世紀。1千年紀における最初の世紀でもある。
天文学以外では通常、西暦0年は存在せず、また0世紀もない。これは、ヨーロッパで西暦ができた6世紀の時点では、まだヨーロッパ人は零の概念を知らなかったためであると言われることもあるが、元年以前を表すために紀元前が導入されたのは零の概念が普及した後の17世紀のことである。
なお、天文学やISO 8601では、紀元1年の前年、すなわち紀元前1年を西暦0年と定めている(詳細は「紀元前1年#西暦0年」または「0年#西暦0年」を参照のこと)。 | [
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{{出典の明記|date=2023年3月}}
{{Centurybox}}
[[ファイル:Jesus-Christ-from-Hagia-Sophia.jpg|right|thumb|200px|[[キリスト教]]の誕生。[[ナザレのイエス|イエス]]の[[十字架]]での死とともにその教えは世界に大きな影響を与えた。画像は[[12世紀]]に制作された[[イスタンブール]]の[[ハギア・ソフィア大聖堂]]の[[モザイク]]壁画「[[全能者ハリストス|全能者キリスト]](ハリストス)」。]]
[[Image:Siemiradski Fackeln.jpg|thumb|right|250px|[[ローマ大火]]。64年に起きたこの大火でローマ皇帝[[ネロ]]はその原因を[[キリスト教徒]]によるものだとして厳しい[[迫害]]を加え、[[殉教|殉教者]]を出した。画像はこの迫害を描いた{{仮リンク|ヘンリク・シェミラツキ|en|Henryk Siemiradzki}}の歴史画。]]
'''1世紀'''(いっせいき、いちせいき)は、[[西暦]][[元年]]([[1年]])から西暦[[100年]]までの100年間を指す[[世紀]]。[[1千年紀]]における最初の世紀でもある。
天文学以外では通常、西暦[[0年]]は存在せず、また0世紀もない。これは、[[ヨーロッパ]]で西暦ができた[[6世紀]]の時点では、まだヨーロッパ人は[[0|零]]の概念を知らなかったためであると言われることもあるが、元年以前を表すために[[紀元前]]が導入されたのは零の概念が普及した後の[[17世紀]]のことである。
なお、[[天文学]]や[[ISO 8601]]では、[[紀元]]1年の前年、すなわち[[紀元前1年]]を西暦0年と定めている(詳細は「[[紀元前1年#西暦0年]]」または「[[0年#西暦0年]]」を参照のこと)。
== できごと ==
[[ファイル:Han Guangwu Di.jpg|right|thumb|200px|[[後漢]]の[[光武帝]]。[[王莽]]によって断絶した漢王朝を復興し賢君と讃えられている。画像は唐の画家[[閻立本]]「歴代帝王図巻」の十三皇帝図の光武帝像([[ボストン美術館]]蔵)。]]
[[File:东汉摇钱树局部2.jpg|thumb|right|260px|{{仮リンク|揺銭樹|zh|搖錢樹 (器具)}}。貨幣経済の流通が促進された後漢初期には副葬品の明器として「揺銭樹(貨幣が実る樹木)」が出現し、特に[[四川省|四川]]で大いに発展した。画像は[[杭州]]にある{{仮リンク|中国財税博物館|zh|中国财税博物馆}}蔵の揺銭樹の部分。]]
[[ファイル:King of Na gold seal.jpg|right|thumb|260px|「[[漢委奴国王印]]」。[[江戸時代]]に[[九州]][[志賀島]]で発見されたもので、後漢の光武帝により下賜されたものとされる。現在は[[福岡市博物館]]が所蔵。]]
[[File:Hai ba trung Dong Ho painting.jpg|thumb|right|260px|[[徴姉妹]](チュン姉妹)の反乱。長らく漢民族の支配下にあったベトナムでは。徴側・徴弐の二人の姉妹による反乱が起きた。[[交趾]]郡から各地に拡がったものの、後漢の光武帝が派遣した[[馬援]]将軍に鎮圧された。しかし彼女たちは今でもベトナムの国民的な英雄である。画像は象に乗って戦う徴姉妹を描いた[[ドンホー版画]]。]]
[[ファイル:MathuraLionCapital.JPG|thumb|right|260px|[[インド・スキタイ王国]]。ギリシア系王国が衰退した後に[[スキタイ]]系[[サカ]]族の王国が[[インド]]各地に成立した。画像はこの時代に作られた「{{仮リンク|マトゥラーの獅子柱頭|en|Mathura lion capital}}」([[大英博物館]]蔵)。]]
[[ファイル:Colosseum-2003-07-09.jpg|right|thumb|260px|[[ローマ]]のコロッセウム([[コロッセオ]])。[[ウェスパシアヌス]]帝の時代に着工され、その息子[[ティトゥス]]帝の時代に完成した[[円形闘技場]](アンフィテアトルム)。]]
[[ファイル:Villa dei Misteri II - 2.jpg|right|thumb|260px|埋没した都市[[ポンペイ]]。紀元79年8月24日に大爆発を起こしたヴェスヴィオ火山によってポンペイ市は埋没した。画像はポンペイ遺跡で発掘された「{{仮リンク|秘儀荘(ヴィラ・デイ・ミステリ)|en|Villa of the Mysteries}}」の壁画で、[[ディオニュソス]]神の[[密儀宗教]]を示しているとされる。]]
[[File:Portland Vase BM Gem4036 n4.jpg|thumb|right|200px|「[[ポートランドの壺]]」。ローマ帝国では繊細な芸術作品が数多く作られたが、ガラスを削って浮き彫りを施す[[カメオ]]ガラスの技術は巧緻極まるものとなった。紀元25年ごろ作られたこの壺はその代表であり、現在は[[大英博物館]]に所蔵されている。]]
[[File:Orasul antic Tomis - Therme.jpg|thumb|250px|right|{{仮リンク|詩人オウィディウスの追放|en|Exile of Ovid}}。皇帝アウグトゥス治世の終わりに皇帝一家にまつわる醜聞が発覚し、その巻き添えでこの詩人は[[黒海]]のほとり[[トミス]](現在の[[ルーマニア]]の[[コンスタンツァ]])に流罪となった。トミスはローマから遠く離れた僻陬の地であり、詩人は哀しみを切々と詠み上げてこの地に没した。画像はローマ時代のトミスの遺構。]]
[[File:Maske Museum Kalkriese 1.jpg|thumb|right|200px|[[トイトブルクの森の戦い]]。無敗を誇ったローマ軍団も紀元9年のこの地での戦いでは[[アルミニウス (ゲルマン人)|アルミニウス]]率いるゲルマン軍に大敗北を喫し、以後ローマ側は[[ライン川]]を挟んで守勢に回った。画像はトイトブルクの古戦場跡から出土したローマ軍騎兵の鉄仮面(ドイツ・[[ニーダーザクセン州]]{{仮リンク|カルクリーゼ博物館|de|Museum und Park Kalkriese}}蔵)。]]
[[File:Boudica-statue-20040918-047.jpg|thumb|right|250px|[[ブーディカ]]の反乱。属州[[ブリタンニア]]でのローマ支配に対し立ち上がったのが[[ケルト]]系[[イケニ族]]の女性指導者ブーディカである。この反乱は鎮圧されたが歴史家[[タキトゥス]]らの記録により、その事績は詳しく伝えられている。画像は[[ロンドン]]の[[ウェストミンスター]]橋西詰にあるブーディカと娘たちの記念像。]]
[[ファイル:Arch of Titus Menorah.png|right|thumb|260px|[[ユダヤ戦争]]。ローマ皇帝[[ティトゥス]]により[[ユダヤ人]]の反乱は鎮圧され[[エルサレム]]の[[第二神殿]]も破壊された。画像は[[ティトゥスの凱旋門]]に刻まれた神殿の宝物(七枝の燭台の[[メノーラー]]ほか)を運ぶローマ兵士たち。]]
[[ファイル:Baalbek002.jpg|thumb|right|260px|[[バールベック]]。この地は属州[[シリア属州|シリア]]の聖地で、元来は[[フェニキア]]系の神[[バアル]](ハダド)が祀られていた。ローマの支配に服してからは[[ユーピテル|ユピテル]]神と習合して祀られるようになり繁栄した。画像はネロ帝時代に完成したユピテル神殿の6本大列柱。]]
[[ファイル:Petra Jordan BW 21.JPG|right|thumb|200px|[[ペトラ]]の[[エル・カズネ]]。[[ナバテア]]王アレタス4世フィロパトリスの最盛期に建造されたもので、「エル・カズネ」は「宝物殿」を意味する。]]
* [[紀元]]前後
** [[倭]]は百余国に分かれており、その一部は[[前漢]]の[[楽浪郡]]に朝献をする(『[[漢書]]』地理志)。
** 南インドの[[パーンディヤ朝]]の都[[マドゥライ]]を中心に[[タミル語]]古典文学([[サンガム文学]])が隆盛し王朝の記録も頻出する({{仮リンク|サンガム時代|en|Sangam period}} - [[3世紀]])。
** [[アフガニスタン]]北部の{{仮リンク|ティリヤ・テペ|en|Tillya Tepe}}に黄金の宝飾をつけた遊牧系[[サカ]]・[[パルティア]]人の[[墳墓]]が作られる。
** [[シベリア]]の[[エニセイ川]]中・上流域[[クラスノヤルスク地方]]に[[タシュティク文化]]が成立( - 4世紀)。
** [[ポーランド]]の[[バルト海]]沿岸の[[ポメラニア]]東部に[[ヴィェルバルク文化]]が成立( - 3世紀)。
** イギリスの[[マンチェスター]]近郊の[[リンドウ・モス]][[泥炭地]]に埋もれていた[[ケルト]]系[[ブリトン]]人の[[リンドウ・マン]]はこの時代の人物。
=== 0年代 ===
{{main|0年代}}
* 6年
** 前漢の平帝が死去、[[劉嬰]](孺子嬰)が皇太子になり、王莽は摂皇帝と名乗る。
** [[マケドニア属州|属州マケドニア]]から属州[[モエシア]]が分離する。
** [[カイサリア・マリティマ]]を首府とする[[ユダヤ属州|属州ユダヤ]]が成立する。
* 8年
** 王莽の簒奪により前漢が滅亡し、[[新]]が建てられる。
** 皇帝に対する陰謀と姦通罪により[[アウグストゥス]]の孫娘[[ユリア (アグリッパの娘)|小ユリア]]が[[アドリア海]]の{{仮リンク|トゥリメルス島|en|Isole Tremiti}}へ追放される。
*** 同年に皇帝の命令で詩人[[オウィディウス]]が黒海沿岸のトミス(現在の[[コンスタンツァ]])へ追放される({{仮リンク|オウィディウスの追放|en|Exile of Ovid}})。
* 9年 - [[トイトブルク森の戦い|トイトブルクの戦い]]で[[ローマ帝国|ローマ]]が[[ゲルマン人|ゲルマニア人]]に敗れる。
=== 10年代 ===
{{main|10年代}}
* 10年 - 王莽が「匈奴」を「降奴」に改名し、攻撃を開始。
* 14年 - ローマでアウグストゥス帝が死去し、[[ティベリウス]]帝が即位。
* 15年 - ローマが[[ラエティア]]に遠征し、属州ラエティアが設置される。
** この時期までに[[ヘルウェティア]]人の住む地域を占領しヘルウェティアと名付ける。
* 17年
** [[琅邪郡]]海曲県の呂母が挙兵する([[新末後漢初]]の反乱の始まり)。
** [[アルケラオス (カッパドキア王)|アルケラオス]]王の死により、ローマ帝国属州[[カッパドキア]]が設置される。
* 18年 - [[新末後漢初#赤眉の乱|赤眉の乱]](- 27年)
=== 20年代 ===
{{main|20年代}}
* 20年頃 - [[パルティア]]人[[ゴンドファルネス]]が[[インド・パルティア王国]]を建てる。
* 23年
** 新の崩壊。
*** 王莽に対する儒者[[劉歆]]の陰謀が失敗。
*** [[昆陽の戦い]]で[[新]]軍が敗北、[[長安]]が陥落。
*** 王莽が殺害されて新が滅亡し、[[緑林軍]]による[[更始帝]]政権が成立。
** ローマの{{仮リンク|カストラ・プレトリア|en|Castra Praetoria}}(近衛軍団兵舎)が建設される。
* 25年
** [[後漢]]の建国。
*** [[赤眉軍]]により更始帝政権崩壊、赤眉軍は[[劉盆子]]を擁立。
*** 漢の一族である劉秀が[[光武帝]]として即位し、[[洛陽]](雒陽)を都とする[[後漢]]が成立(- [[220年]])。
* 25年頃 - 「[[ポートランドの壺]]」が作られる。
* 27年 - ティベリウス帝が[[カプリ]]に隠棲する。
* 29年 - 後漢の光武帝が[[太学]]を洛陽に設置する。
=== 30年代 ===
{{main|30年代}}
* 30年頃 - [[ナザレのイエス|イエス]]が[[ゴルゴダの丘]]で刑死。
** その後イエスの復活を信じる[[十二使徒]]らを中心に[[キリスト教]]が成立する。
* 31年 - ティベリウス帝の寵臣[[ルキウス・アエリウス・セイヤヌス|セイヤヌス]]が処刑される。
* 32年頃 - 最初のキリスト教[[殉教者]][[ステパノ]]が殺害される。
* 34年頃 - サウロ([[パウロ]])が[[ダマスクス]]への途上で回心する。
* 35年 - 後漢の光武帝が「天地之性人為貴」の詔を下す。
* 36年 - 後漢の光武帝が[[蜀]]の[[公孫述]]を滅ぼし[[中国]]を統一する。
* 37年
** ローマでティベリウス帝が死去し、[[カリグラ]]帝が即位。
** [[パルティア]]とローマが和睦する。
=== 40年代 ===
{{main|40年代}}
* 40年
** [[ベトナム]]で[[徴姉妹]]が後漢に対して反乱を起こす(- 43年)。
** [[ナバテア王国]]最盛期の王アレタス4世が死去。
*** この頃までに[[ペトラ]]の[[エル・カズネ]](宝物庫)が建造される。
*** アラビアの[[マダイン・サーレハ]]遺跡や、シリアの[[ボスラ]]遺跡もこの頃のもの。
* 40年頃 - [[ノリクム]]が公式にローマ帝国属州として併合される。
* 40年 - 70年 - エジプト在住のギリシア語著作家により『[[エリュトゥラー海案内記]]』が書かれる。
** この頃までに[[季節風]]「{{仮リンク|ヒッパロスの風|en|Hippalus}}」を利用した{{仮リンク|ローマ・インド間の交易路|en|Indo-Roman trade relations}}が整備されていた。
* 41年 - ローマでカリグラ帝が[[暗殺]]され、[[クラウディウス]]帝が即位。
* 43年 - ローマが[[ブリタンニア]]に遠征し、属州ブリタンニアが設置される。
* 44年 - クラウディウス帝の勅令により、属州[[マウレタニア]]が設置される。
* 46年
** ローマが[[オドリュサイ王国]]を併合し、[[トラキア属州|属州トラキア]]が設置される。
** クラウディウス帝により[[オスティア港]](ポルトゥス・アウグスティ)が開港する。
*** 旧港[[オスティア・アンティカ]]から見て[[テヴェレ川]]の対岸に設置された新港を指す。
** パウロの第1回伝道旅行。
* 48年
** パウロの第2回伝道旅行。
** [[匈奴]]が[[北匈奴]]と[[南匈奴]]に分裂する。
=== 50年代 ===
{{main|50年代}}
* 50年 - コロニア・アグリピネンシス(現[[ケルン]])がローマ植民市に格上げされる。
* 52年
** パウロの第3回伝道旅行。
** 伝承では使徒[[トマス]]がインドの[[ケララ]]地方に上陸してキリスト教を伝えたとされる([[トマス派]])。
* 54年 - ローマでクラウディウス帝が死去し、[[ネロ]]帝が即位。
* 57年 - 倭の[[奴国]]王が後漢に朝献して、[[漢委奴国王印|倭奴国王印]](金印紫綬)を授けられる(後漢・建武中元2、丁巳;『[[後漢書]]』光武帝紀、同東夷伝)。
* 59年 - ネロ帝が母の[[小アグリッピナ]]を殺害する。
=== 60年代 ===
{{main|60年代}}
* 60年 - ブリタンニアのイケニ族女王[[ブーディカ]]がローマ帝国に反乱を起こすも鎮圧される。
* 60年頃 - ローマ帝国属州[[属州シリア|シリア]]の[[バールベック]]の[[ユーピテル|ユピテル]]神殿が建てられる。
* 62年 - キリスト教の[[エルサレム教会]]の初代主教[[ヤコブ (イエスの兄弟)|ヤコブ]]が殉教。
* 63年 - ローマとパルティアの和平、アルサケス家のアルメニア王ティリダテス1世が承認される。
* 64年
** [[ポントス|ポントゥス]]王国がローマ帝国に併合され、属州ポントゥスになる。
** [[ローマ大火]]。[[ネロ]]帝が[[キリスト教徒]]を[[迫害]]し、[[ペテロ]]と[[パウロ]]が殉教。
*** 大火の跡地にネロ帝は黄金宮殿[[ドムス・アウレア]]を建立する。
* 65年 - [[ガイウス・カルプルニウス・ピソ|ピソ]]の陰謀事件で、[[セネカ]]が加担したと疑われネロ帝に自殺を命じられる。
* 66年 - 後漢で現存最古の磨崖碑「[[中国の筆跡一覧#開通褒斜道刻石|開通褒斜道刻石]] 」が建立される。
* 67年 - 伝承では初めて後漢に[[仏教のシルクロード伝播|仏教が伝わり]]、[[洛陽]]に[[白馬寺 (洛陽)|白馬寺]]が建てられる。
* 68年
** [[ローマ内戦 (68年-70年)|内戦]]からローマで四皇帝が乱立(四皇帝の年)。
*** [[ガリア・ルグドゥネンシス]]属州総督[[ガイウス・ユリウス・ウィンデクス]]による反乱が勃発。
*** [[ヒスパニア・タラコネンシス]]属州総督の[[ガルバ]]、[[ルシタニア]]属州総督[[オト]]がこれに同調。
*** ローマ郊外の解放奴隷パオラの別荘でネロ帝が自殺し、[[ユリウス=クラウディウス朝]]が断絶。
*** この内戦を鎮圧した[[ウェスパシアヌス]]帝が即位し[[フラウィウス朝]]が成立。
* 68年頃
** [[メコン川]]下流域に[[扶南]]王国が成立し、[[オケオ]]などの[[港市国家]]が発展する。
=== 70年代 ===
{{main|70年代}}
* 70年 - [[ユダヤ戦争]]で[[エルサレム]]が陥落する。
** この時期までに[[クムラン洞窟|クムラン洞窟遺跡]]に隠匿されたユダヤ教系の文書が「[[死海文書]]」として残る。
* 71年 - 属州ブリタンニアのローマの軍事拠点{{仮リンク|エボラクム(属州ブリタンニア)|en|Eboracum}}(現[[ヨーク]])が建設される。
* 72年 - [[トマス派]]の伝承では[[使徒]][[トマス (使徒)|トマス]]がインドの[[チェンナイ]]([[マドラス]])で殉教したという。
* 73年 - ローマ軍が包囲した[[マサダ]]要塞が陥落。
* 79年
** ウェスパシアヌス帝が死去、息子の[[ティトゥス]]帝が即位。
** [[ヴェスヴィオ|ヴェスヴィオ火山]]の[[大噴火]]により[[ポンペイ]]が埋没。[[ガイウス・プリニウス・セクンドゥス|大プリニウス]]が[[噴煙]]に巻き込まれ死亡。
** 白虎観会議。
=== 80年代 ===
{{main|80年代}}
* 80年 - ローマの[[コロッセウム]]と[[ティトゥス浴場]]が完成する。
* 80年頃 - [[フラウィウス・ヨセフス]]が『[[ユダヤ戦記]]』を完成させる。
* 81年 - ティトゥス帝が死去し、弟の[[ドミティアヌス]]帝が即位。
* 83年
** [[グラウピウス山の戦い]]でローマ軍が[[ピクト人]]([[カレドニア]]人)連合軍に勝利する。
** [[ドミティアヌス]]帝の命で[[ライン川]]から[[ドナウ川]]までの軍事境界線([[リーメス|リーメス・ゲルマニクス]])が[[シュヴァルツヴァルト]]に築かれる。
* 85年頃 - [[鮮卑]]が北[[匈奴]]を破る。
=== 90年代 ===
{{main|90年代}}
* 90年
** [[クシャーナ朝]]の王[[ヴィマ・タクト]]が後漢の班超を攻撃するが撃退される。以後クシャーナ朝は後漢に毎年貢献する。
** 属州[[ゲルマニア]]が再編され、[[ゲルマニア・スペリオル]](上ゲルマニア・州都は[[マインツ]])と[[ゲルマニア・インフェリオル]](下ゲルマニア・州都は[[ケルン]])に分割される。
* 90年代 - [[ヤムニヤ会議]]においてユダヤ教の[[ヘブライ語聖書]]([[タナハ]])が確定される。
* 91年 - 後漢の[[竇憲]]の攻撃により[[北匈奴]]が[[康居]]に西走、後にこの子孫が[[悦般]]を形成。
* 92年 - 後漢の[[和帝]]が外戚で大将軍の竇憲に自殺を命じる。歴史家[[班固]]もこの事件に連座して獄死する。
* 94年 - 後漢の[[班超]]が[[西域]]諸国を制圧。
* 95年頃
** [[ヨハネ (使徒)|使徒ヨハネ]]がドミティアヌス帝の命により[[パトモス島]]に流される。この時期に『[[ヨハネの黙示録]]』が成立。
** フラウィウス・ヨセフスが『[[ユダヤ古代誌]]』を完成させる。
* 96年 - ローマでドミティアヌス帝が暗殺され、[[ネルウァ]]帝が即位。[[五賢帝|五賢帝時代]]始まる( - [[180年]])。
* 97年 - [[甘英]]が班超により[[大秦|大秦国]](ローマ帝国)へ派遣される。
* 98年
** ネルウァ帝が死去し、養嗣子で属州[[ゲルマニア・スペリオル]](上ゲルマニア)[[属州総督|総督]]の[[トラヤヌス]]が皇帝として即位。
** [[タキトゥス]]が『[[ゲルマニア]]』『[[アグリコラ]]』を執筆。
* 1世紀末 - [[弥生文化]]が[[東北地方]]に波及する。
== 伝説・架空のできごと ==
* 26年 - ローマ人司令官メッサーラは属州ユダヤに派遣され旧友のベン・ハーと邂逅するが、やがて二人は反目し合う。無実の罪を着せられたベン・ハーは家族から引き離され、メッサーラへの復讐を誓う([[ルー・ウォーレス]]の小説『[[ベン・ハー]]』及びこれを基にした映画作品)。
* 30年頃 - 刑吏に鞭打たれつつ[[ゴルゴダの丘]]に向かい十字架を担いでいたイエスが休息を求めていたにもかかわらず、靴屋のアハシェロスはそれを手荒くあしらい罵ったため主の呪いを受け、死ぬこともできない身の上となって永遠にさまよい続けることになった(「[[さまよえるユダヤ人]]」伝説)。
* 54年 - 68年 - 享楽と頽廃のローマ帝国で皇帝ネロの悪政が続いていく中、キリスト教の信仰が徐々に広がりを見せていた。スラブ系のキリスト教徒の娘リギアと、ローマの軍人マルクス・ウィニキウスの二人の恋もこの時代の波に翻弄されていく([[ヘンリク・シェンキェヴィチ]]による小説『[[クォ・ヴァディス]]』)。
== 発明 ==
* [[紙]]
* [[コデックス]]
== 人物 ==
=== 地中海世界 ===
{{main|[[:Category:1世紀の古代ローマ人]]}}
* [[オクタヴィアヌス]]([[紀元前63年|前63年]] - [[14年]]) - [[ローマ帝国]]初代皇帝(在位[[紀元前27年|前27年]] - [[14年]])・[[プリンケプス]](第一市民)・[[アウグストゥス]](尊厳者)
* [[ストラボン]]([[紀元前63年|前63年]]頃 - [[23年]]頃) - [[ローマ時代]]のギリシア語著述家・歴史家・哲学者・地理学者として『[[地理誌]]』を著す
* プブリウス・クインクティリウス・ウァルス([[紀元前46年|前46年]] - [[9年]]) - ローマ帝国の司令官・[[トイトブルク森の戦い]]で[[ゲルマン人]]に敗北し自決
* [[オウィディウス]]([[紀元前43年|前43年]] - [[17年]]) - ローマ帝国の[[ラテン文学]]黄金期の詩人・『[[変身物語]]』の著者・晩年は[[黒海]]周辺に追放される
* [[ティベリウス]]([[紀元前42年|前42年]] - [[37年]]) - [[ローマ皇帝]](在位[[14年]] - [[37年]])・[[オクタヴィアヌス]]皇后[[リウィア・ドルシッラ]]の連れ子・帝政を定着させる
* [[アレクサンドリアのフィロン]]([[紀元前30年|前30年]]/[[紀元前20年|前20年]]? - [[40年]]/[[45年]]?) - [[ユダヤ人]]哲学者・[[ギリシア哲学]]を[[ユダヤ教]]解釈に援用
* [[アルミニウス (ゲルマン人)|アルミニウス]]([[紀元前16年|前16年]] - [[21年]]) - [[ゲルマン]]系ケルスキ族の族長・[[トイトブルク森の戦い]]でローマ帝国の軍隊に勝利
* [[クラウディウス]]([[紀元前10年|前10年]] - [[54年]]) - [[ローマ皇帝]](在位[[41年]] - [[54年]])・[[カリグラ]]を継いで[[ブリタンニア]]を制圧・歴史家でもある
* [[ブーディカ|ボウディッカ]](? - [[60年]]/[[61年]]?) - [[ブリタンニア]]の[[ケルト]]系イケニ族の女王・ローマ帝国の侵略対し大反乱を起こす
* [[ルキウス・アンナエウス・セネカ|セネカ]]([[紀元前1年|前1年]]頃 - [[65年]]頃) - ローマ帝国の[[ストア派]]の哲学者・ラテン文学白銀期の文学者・皇帝[[ネロ]]の師として政務に携わる
* [[ウェスパシアヌス]]([[9年]] - [[79年]]) - [[ローマ皇帝]](在位[[69年]] - [[79年]])・[[フラウィウス朝]]の祖・[[コロッセオ|コロッセウム]]の建設に着手
* [[カリグラ]]([[12年]] - [[41年]]) - [[ローマ皇帝]](在位[[37年]] - [[41年]])・狂気のためか暴君となり[[元老院]]との関係が悪化して暗殺される
* [[小アグリッピナ]]([[15年]] - [[59年]]) - [[ローマ帝国]]の皇族・[[クラウディウス]]帝の皇后(後妻)・皇帝[[ネロ]]の実母だが対立して暗殺される
* [[テュアナのアポロニオス]]([[15年]]? - [[100年]]?) - [[ローマ帝国]]の哲学者、奇跡行者。[[ピロストラトス]]『アポロニオス伝』に詳しい
* [[ペトロニウス]]([[20年]]頃 - [[66年]]) - [[ローマ帝国]]の政治家・文筆家・皇帝[[ネロ]]の側近・小説『[[サテュリコン]]』の作者と考えられている
* [[ガイウス・プリニウス・セクンドゥス|大プリニウス]]([[22年]]/[[23年]] - [[79年]]) - [[ローマ帝国]]の政治家・[[ポンペイ]]市の災禍に巻き込まれ死亡・[[博物学|博物学者]]として『[[博物誌]]』を書く
* [[クインティリアヌス]]([[35年]]頃 - [[100年]]頃) - [[ローマ帝国]]の修辞学者・『弁論家の教育』の著者・[[小プリニウス]]や[[ユウェナリス]]の師
* [[ネルウァ]]([[35年]] - [[98年]]) - [[ローマ皇帝]]([[五賢帝]]の1人目)(在位[[96年]] - [[98年]])・もとは元老院議員・養子[[トラヤヌス]]を後継者とする
* [[ネロ]]([[37年]] - [[68年]]) - [[ローマ皇帝]](在位[[54年]] - [[68年]])・師[[セネカ]]らの協力で善政を行うが後に暴君化・キリスト教徒を最初に迫害
* [[フラウィウス・ヨセフス]]([[37年]] - [[100年]]頃) - [[ローマ帝国]]の政治家・著述家・[[ユダヤ戦争]]で戦うが投降・『[[ユダヤ戦記]]』を著す
* [[シモン・バル・ギオラ]](? - [[70年]]頃) - [[ユダヤ戦争]]でのユダヤ人側の指導者の一人で強硬派・[[イェルサレム]]陥落後に処刑される
* エルアザル・ベン・ヤイル(? - [[73年]]) - [[イェルサレム]]陥落後のユダヤ人側の指導者の一人・[[マサダ]]要塞に立てこもるが玉砕
* [[ティトゥス]]([[39年]] - [[81年]]) - [[ローマ皇帝]](在位[[79年]] - [[81年]])・[[ウェスパシアヌス]]帝の子・その治世で[[ポンペイ]]市が被災
* [[マルクス・アンナエウス・ルカヌス]]([[39年]] - [[65年]]) - ローマ帝国の詩人・大セネカの孫・叙事詩『ファルサロス』を書く・ネロ帝に自殺を強いられる
* [[ペダニウス・ディオスコリデス]]([[40年]]頃 - [[90年]]) - 属州[[アシア]]の医者・「薬理学と薬草学の父」・『薬物誌』は後世に大きな影響を残す
* [[ディオン・クリュソストモス]]([[40年]]頃 - [[115年]]頃) - ギリシア人弁論家・歴史家・『王政論』の他に『トロイア陥落せず』などがある
* [[ドミティアヌス]]([[51年]] - [[96年]]) - [[ローマ皇帝]](在位[[81年]] - [[96年]])・[[ティトゥス]]帝の弟・[[元老院]]勢力と対立し暗殺される
* [[ガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス|小プリニウス]]([[61年]] - [[112年]]) - [[ローマ帝国]]の文人・政治家・大プリニウスの甥・「書簡」で[[79年]]の[[ヴェスヴィオ]]火山の記録を残す
* {{仮リンク|コルメラ|en|Columella}}(1世紀) - 属州[[ヒスパニア]]出身の文筆家・農耕・果樹・牧畜・養蜂・造園などについて論じた『農業論』で知られる
=== キリスト教関係 ===
* [[ナザレのイエス|イエス]]([[紀元前4年|前4年]]頃 - [[30年]]頃) - ローマ帝国[[ユダヤ属州|属州ユダヤ]]の宗教家。キリスト教では[[神]]([[神の子]])・[[救世主]]・[[預言者]]とされる。
* [[ポンティウス・ピラトゥス]](生没年不詳) - [[ローマ帝国]][[ユダヤ属州|属州ユダヤ]]総督(在任[[26年]] - [[36年]])・[[イエス・キリスト|イエス]]の処刑に関与した
* [[ヤコブ (イエスの兄弟)|ヤコブ]](? - [[62年]]) - 「[[イエスの兄弟|主の兄弟]]」とされる人物。[[エルサレム教会]]の初代[[主教]]。殉教し[[七十門徒]]の一人とされる。
* [[ペテロ]](? - [[67年]]頃) - [[十二使徒]]の一人。初代の[[教皇|ローマ教皇]]とされる。皇帝ネロの迫害により殉教したか。
* [[パウロ]](? - [[67年]]頃) - イエス没後の[[使徒]]。[[ローマ市民権]]を持ち、各地で異教徒に宣教する。皇帝ネロの迫害により殉教したか。
* [[ヨハネ (使徒)|ヨハネ]]([[6年]]? - [[100年]]頃) - 十二使徒の一人。『[[ヨハネによる福音書]]』あるいは『[[ヨハネの黙示録]]』の著者か。
* [[アンティオキアのイグナティオス]]([[35年]]頃 - [[110年]]) - [[アンティオキア]]の主教。[[ヨハネ (使徒)|ヨハネ]]の弟子で[[使徒教父]]の一人。
* [[クレメンス1世 (ローマ教皇)|クレメンス1世]](? - [[101年]]?) - ローマ教皇(司教、在位[[91年]]? - [[101年]]?)。[[ペテロ]]の弟子で使徒教父の一人。
* [[シモン・マグス]](生没年不詳) - 聖書の登場人物・「魔術師シモン」と呼ばれ[[グノーシス主義]]の先駆とされる。
=== 西アジア ===
* アレタス4世(? - [[40年]]) - [[ナバテア王国]]の国王(在位[[9年]] - [[40年]])・[[ペトラ]]を中心に隊商路を支配し繁栄・[[エル・カズネ]]を建設。
=== インド ===
* [[ゴンドファルネス]](生没年不詳) - [[インド・パルティア王国]]の初代国王(在位[[20年]]頃?)・サカ人などを平定・使徒[[トマス (使徒)|トマス]]と関係があったか。
* [[クジュラ・カドフィセス]](生没年不詳) - [[クシャーナ朝]]の初代国王(在位[[紀元前25年|前25年]]頃 - [[60年]]頃)・[[大月氏]]の支配から独立する。
* [[ヴィマ・タクト]](生没年不詳) - クシャーナ朝の第2代国王(在位[[80年]]頃 - [[90年]]頃)・西域の支配をめぐり後漢の班超と争う。
=== 東アジア ===
* [[揚雄]]([[紀元前53年|前53年]] - [[18年]]) - 前漢末から新の文人。『[[太玄経]]』『[[法言]]』『[[方言 (辞典)|方言]]』の著作を残し「甘泉賦」などの詩文でも有名。
* 呂母(? - [[22年]]頃) - 前漢末から新の女性。冤罪で県役人に殺された息子の仇討ちで[[呂母の乱]]を起こし、動乱時代の幕開けとなる。
* [[劉歆]](? - [[23年]]) - 前漢末から新の儒学者。『[[七略]]』などを編纂。王莽の王朝簒奪に協力し、国師となるが、やがて反目する。
* [[王莽]]([[紀元前45年|前45年]] - [[23年]]) - 新の皇帝(在位[[8年]] - [[23年]])。前漢を簒奪して新王朝を立てるが、更始帝の軍に殺害される。
* [[王匡 (更始)|王匡]](? - [[25年]]) - [[新末後漢初]]に蜂起した[[緑林軍]]の創始者の一人。更始帝を担いで王莽の新王朝を攻め滅ぼす。
* [[更始帝]](? - [[25年]]) - 新末後漢初の漢王室の皇族。緑林軍の支持で皇帝となる(在位[[23年]] - [[25年]])。
* [[樊崇]](? - [[27年]]) - 新末後漢初に蜂起した[[赤眉軍]]の指導者。[[長安]]の更始帝政権を攻め滅ぼす(赤眉の乱)。
* [[劉盆子]]([[10年]] - ?) - 新末後漢初の漢王室の皇族。赤眉軍の支持で皇帝となる(在位[[25年]] - [[27年]])。光武帝に降伏。
* [[隗囂]](? - [[33年]]) - 新末後漢初の武将・政治家。王莽から光武帝まで独自の勢力を保持、後漢に背き困窮の中で死す。
* [[馬援]]([[紀元前14年|前14年]] - [[49年]]) - 新末後漢初の武将。[[隗囂]]に仕えた後に光武帝に臣従し、統一に協力・[[ベトナム]]制圧でも功があった。
* [[徴姉妹]](徴側(? - [[33年]])、徴弐(? - [[33年]])) - 後漢の支配下にあったベトナム([[南越]])の反乱指導者。馬援に制圧される。
* [[光武帝]]([[紀元前6年|前6年]] - [[57年]]) - 後漢の初代皇帝(在位[[25年]] - [[57年]])。王莽没後の混乱から漢王朝を復興。長安から[[洛陽]]に遷都。
* [[鄧禹]]([[2年]] - [[58年]]) - 後漢の武将。赤眉軍と戦った建国の功臣であり「[[雲台二十八将]]」の筆頭に位置づけられる。
* [[費長房 (後漢)|費長房]](生没年不明) - 後漢の方士・汝南の官吏であったが[[仙道|仙術]]を体得したと伝わる・「壺中天」の故事で有名。
* [[王充]]([[27年]] - ?) - 後漢の文人・思想家。儒教に対する厳しい批判者。非合理を排し合理的な思考を追求した『[[論衡]]』を著す。
* [[明帝 (漢)|明帝]]([[28年]] - [[75年]]) - 後漢の皇帝(在位[[57年]] - [[75年]])。王朝の安定を背景に西域に勢力を拡大。この時期に[[仏教]]が伝来。
* 蔡愔(生没年不詳) - 後漢の使者・明帝により西域に派遣され大月氏国の僧侶[[迦葉摩騰]]と竺法蘭を連れ帰る
* [[迦葉摩騰]](生没年不明) - [[インド]](中天竺)出身の仏教の僧侶。竺法蘭とともに渡来し、明帝時代に洛陽[[白馬寺]]を建立したか。
* [[竇憲]](? - [[92年]]) - 後漢の政治家・軍人・[[外戚]]。匈奴の征伐以後は権力をほしいままにするが、[[和帝 (漢)|和帝]]により自殺を命じられる。
* [[班固]]([[32年]] - [[92年]]) - 後漢の歴史家で『[[漢書]]』を編纂。文学者としては「[[両都賦]]」を作る。[[竇憲]]派とみなされ獄死。
* [[鄭衆 (宦官)|鄭衆]](? - [[114年]]) - 後漢の宦官([[大長秋]])・和帝と協力して外戚の竇憲を誅殺し宦官として最初の侯となる。
* [[班超]]([[32年]] - [[102年]]) - 後漢の軍人。班固の弟で[[班昭]]の兄。[[西域都護]]として西域での後漢の勢力を広げた。
* [[甘英]](生没年不詳) - 後漢の使者。班超の命で大秦国(ローマ)に派遣されたが、途中の[[条支国|條支国]](シリア)で断念する。
* [[班昭]]([[45年]]? - [[117年]]?) - 後漢の女性作家。兄の班固が獄死した後に未完成だった『漢書』を完成させる。
<!--
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
* [[年表]]
== 外部リンク ==
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1%E4%B8%96%E7%B4%80 |
8,416 | スクリーン | スクリーン(英: projection screen)は、映写機やプロジェクターから投射される映像(映画など)を映し出す平面またはその装置。映写幕や投射スクリーンともいう。
スクリーンは映写方式によってフロントスクリーン(反射式スクリーン)とリアスクリーン(透過式スクリーン)に大別される。
フロントスクリーン(反射式スクリーン)は一般的なスクリーンで、視聴する人の視線と同じ方向に拡大投影して用いるスクリーンである。フロントスクリーンの観視環境は暗室に限定されるが、高画質の映像投射に適している。また、投射空間が視聴する人の頭上の空間にあるため空間の経済性に優れている。
フロントスクリーンには表面を完全拡散反射面(ランバート面)とすることで、視聴する人からの角度の影響を抑えた無指向性スクリーン(マット・スクリーン)がある。また、フロントスクリーンの指向性スクリーンにはビーズ・スクリーン(beaded screen)やメタリック・スクリーン(シルバー・スクリーン)がある。
リアスクリーン(透過式スクリーン)は特殊なスクリーンで、スクリーンの裏側から投影したものを、スクリーンを通して前側から視聴するものである。リアスクリーンは明室環境での比較的小画面での映像投射に適している。
フロントスクリーン(反射式スクリーン)では完全拡散反射面に近づけることで無指向性スクリーンを製作することができるが、リアスクリーン(透過式スクリーン)の場合は透過光を減衰させずに拡散させる技術が開発されておらず無指向性スクリーンは製作不可能とされている。
リアスクリーンの指向性スクリーンには拡散型リアスクリーン、レンチキュラー・スクリーン、レンズアレイ・スクリーン、フレネルレンズ付スクリーンなどがある。
一方、映画館にある「観客席を備えて、映画を投射できるスクリーンを持つ部屋(講堂)」のことを「スクリーン」と呼ぶ場合もある。また、シネマコンプレックスのような複数のスクリーンを持つ映画館では、スクリーンの数を数える単位としても使われる(「8スクリーン」など)。
かつて映写幕は表面に銀皮膜を塗布していたことから銀幕と呼ぶことがあり、そこから映画作品のことを比喩的に「銀幕」と呼び、映画作品で著名な女優を「銀幕のヒロイン」などと呼び習わすようになった。このほか映像を映し出す平面という意味から、コンピュータの表示画面をスクリーンと呼ぶことある。 | [
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] | スクリーンは、映写機やプロジェクターから投射される映像(映画など)を映し出す平面またはその装置。映写幕や投射スクリーンともいう。 | {{Otheruses|投影用のスクリーン|その他}}
[[File:Airscreen.JPG|thumb|200px|野外映画のスクリーン]]
'''スクリーン'''({{Lang-en-short|projection screen}})は、[[映写機]]や[[プロジェクター]]から投射される映像([[映画]]など)を映し出す[[平面]]またはその装置。'''映写幕'''や'''投射スクリーン'''ともいう。
== 映写方式 ==
スクリーンは映写方式によってフロントスクリーン(反射式スクリーン)とリアスクリーン(透過式スクリーン)に大別される<ref name="yamaguchi80">{{Cite book|和書|author= 山口栄一 |title=視聴覚メディアと教育 |publisher=玉川大学出版部 |year=2004 |page=80}}</ref><ref name="taneda">[https://annex.jsap.or.jp/photonics/kogaku/public/25-06-kaisetsu3.pdf 種田悌一「プロジェクション・スクリーン」] - 光学25巻6号、2022年9月5日閲覧。</ref>。
=== フロントスクリーン ===
フロントスクリーン(反射式スクリーン)は一般的なスクリーンで、視聴する人の視線と同じ方向に拡大投影して用いるスクリーンである<ref name="yamaguchi80" />。フロントスクリーンの観視環境は暗室に限定されるが、高画質の映像投射に適している<ref name="taneda" />。また、投射空間が視聴する人の頭上の空間にあるため空間の経済性に優れている<ref name="taneda" />。
フロントスクリーンには表面を完全拡散反射面([[ランバート反射|ランバート面]])とすることで、視聴する人からの角度の影響を抑えた無指向性スクリーン(マット・スクリーン)がある<ref name="taneda" />。また、フロントスクリーンの指向性スクリーンにはビーズ・スクリーン(beaded screen)やメタリック・スクリーン(シルバー・スクリーン)がある<ref name="taneda" />。
=== リアスクリーン ===
リアスクリーン(透過式スクリーン)は特殊なスクリーンで、スクリーンの裏側から投影したものを、スクリーンを通して前側から視聴するものである<ref name="yamaguchi80" />。リアスクリーンは明室環境での比較的小画面での映像投射に適している<ref name="taneda" />。
フロントスクリーン(反射式スクリーン)では完全拡散反射面に近づけることで無指向性スクリーンを製作することができるが、リアスクリーン(透過式スクリーン)の場合は透過光を減衰させずに拡散させる技術が開発されておらず無指向性スクリーンは製作不可能とされている<ref name="taneda" />。
リアスクリーンの指向性スクリーンには拡散型リアスクリーン、レンチキュラー・スクリーン、レンズアレイ・スクリーン、[[フレネルレンズ]]付スクリーンなどがある<ref name="taneda" />。
== 派生的な用法 ==
一方、[[映画館]]にある「観客席を備えて、映画を投射できるスクリーンを持つ部屋(講堂)」のことを「スクリーン」と呼ぶ場合もある。また、[[シネマコンプレックス]]のような複数のスクリーンを持つ映画館では、スクリーンの数を数える単位としても使われる(「8スクリーン」など)。
かつて映写幕は表面に銀皮膜を塗布していたことから'''銀幕'''と呼ぶことがあり、そこから映画作品のことを比喩的に「銀幕」と呼び、映画作品で著名な[[俳優|女優]]を「銀幕の[[ヒロイン]]」などと呼び習わすようになった。このほか映像を映し出す平面という意味から、[[ディスプレイ (コンピュータ)|コンピュータの表示画面]]をスクリーンと呼ぶことある。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Projection screens}}
* [[プロジェクタ#スクリーン]] - プロジェクター、映写機向けのスクリーンの種類
* [[スクリーン・プロセス]] - 投射スクリーンを使った特殊効果撮影方法 ([[SFX]])
* [[SCREEN (雑誌)]] - 日本の、外国映画専門の映画雑誌。
{{デフォルトソート:すくりん}}
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8,417 | プロ野球選手 | プロ野球選手(プロやきゅうせんしゅ)は、営利を目的とする野球チーム(プロ野球チームまたは、プロ野球球団と呼ばれる)と契約し、年間シーズンの一連の試合に出場して報酬を得ることを本業とする、つまりプロフェッショナルスポーツとして野球をする野球選手のことである。球団としては、セ・リーグ(セントラル・リーグ)には阪神タイガース、広島東洋カープ、横浜DeNAベイスターズ、読売ジャイアンツ、東京ヤクルトスワローズ、中日ドラゴンズ、パ・リーグ(パシフィック・リーグ)にはオリックスバファローズ、千葉ロッテマリーンズ、福岡ソフトバンクホークス、東北楽天ゴールデンイーグルス、西武ライオンズ、北海道日本ハムファイターズの12球団がある。
この節での「プロ野球」は日本野球機構(NPB)のみを指し、独立リーグなどは含まないものとする。
日本では、一般の社会人が選手としてプレーする社会人野球が発達している。「社会人野球」という語は、広義ではプロ野球も含めてあらゆる社会人が行う野球を指すが、一般的にはアマチュアの社会人が行う野球を指す。さらに狭義的意味として、日本野球連盟に属するチームで活動する野球競技を指す。また、企業内で組織されるチームが多く存在するが、あくまで企業内のクラブ活動の一つとして存在しており、興行目的で運営されているわけではない。
基本的に様々な大会の試合で活躍することを期待されて企業に入社する日本の社会人野球の選手も、企業の本業に関わる業務をほとんどせずに実質的に野球のみで報酬を得ることがあるが(かつてのシダックス野球部が該当)、社会人野球のチームは企業名を冠する「野球部」などと呼ばれ、野球を専業とする独立した企業ではない点がプロ野球球団とは大きく異なる。
また、社会人野球の選手は加齢や故障その他の理由によって現役を引退しても即解雇とはならず、その企業で仕事を続けることもできる。逆に社の経営不振などにより廃部、つまり野球部自体が消えてしまった場合はその社の従業員である以上、他社への転職や会社の許可のもとでのクラブチームへの在籍によってしか野球を続ける手段がなくなる。これに対しプロ野球球団に属する選手は戦力外通告された場合は別の球団と自力で選手契約を結ぶ事が出来る。しかしどこの球団も手を挙げない場合はコーチなどの指導者、野球解説者、スポーツキャスター、タレントなどの道がなければ全くの無職となってしまう(#引退後)。日本野球機構(NPB)加盟球団所属のプロ野球選手が本人の意思により任意引退した場合、保有権がある最終所属球団の了解がない場合は他の野球チームと契約を結ぶことができない。
こういった待遇面の違いもプロ野球選手と社会人野球選手の異なる点であり、全くの無報酬というわけではないものの社会人野球をアマチュアとする理由のひとつでもある。逆に、日本プロ野球のチームで、報酬を得ないアマチュア選手として契約することは認められていない。
一日はハードでシーズン中は休みがほとんどなく(火曜~木曜の3日間がチームA、金曜~日曜の3日間が別のチームBとの連戦。一回3日を“対戦カード”と呼ぶ)、拘束時間も長い。一例を挙げると
となっている。デーゲームの場合、時間分だけ繰り上がるので(13時試合開始の場合は5時間)、深夜に試合が終了した場合、朝早く起床し、練習を開始するため、さらにハードになる。月曜日は試合がないだけで、自分達がビジターになる場合には対戦相手の本拠地の所在地に移動する日。
長野久義と結婚した下平さやかによると、プロ野球選手は一年の3分の2は自宅にいないという。
ビジターで試合を行う際は、選手は交通機関を利用して移動する。近距離であればバスもしくは、各自移動、遠距離で移動する際は、新幹線か飛行機を利用し、最寄り駅から試合会場まではバスで移動する。混乱を避けるために、2つの班(例・新幹線と飛行機)に分かれて移動することが多い。従来は飛行機を利用することが多かったが、1985年に発生した日本航空123便墜落事故で阪神タイガース球団社長の中埜肇が死亡したことを契機に本州間の移動はできうる限り新幹線を利用するようになった。長距離の移動は飛行機を利用するが、飛行機嫌いの選手、スタッフもおり、その場合はできるだけ新幹線などの交通機関を利用しているという。また、登板予定のない先発投手は、遠征を免除され、二軍の練習場で調整を行う場合もある。
プロ野球選手は自営業者・個人事業主として球団会社と業務契約を結んでいる。よって、球団会社の契約社員ではない。 NPB所属選手の報酬はメジャーリーグや欧州サッカーなどと同様に日本国内の他のプロスポーツと比べても破格である。支給は年俸制。2016年のNPBに所属するすべての支配下選手登録選手(育成選手をのぞく)の平均年俸は3,712万円である。
1980年代前半までは平均年俸は1,000万円未満であったが、1987年中日に移籍した落合博満が球界で初めて年俸1億円を突破するなど徐々に年俸は上昇し、1993年のFA制度が導入されると年俸の高騰が進んだ。
年俸が1億円以上の選手は1億円プレイヤーと呼ばれ、一流選手のステータスと見なされることもある。NPBにおける1億円プレイヤーの日本人選手は、2014年シーズンでは61人であったが、2017年シーズンでは76人へと増加している。
NPB所属選手は契約更改という形で毎年契約を更新する単年契約が一般的であったが、1993年オフに当時オリックスに在籍していた酒井勉が、3年という日本球界史上初の複数年契約を結んだ。その後、FA宣言による他球団移籍が一般的になり、FAによる移籍、あるいは他球団流出防止のための残留のいずれでも(日本人選手、外国人選手を問わず)複数年契約を結ぶケースが増えるようになった。一例として、
プロ野球選手の報酬は各選手の活躍に応じて大きく変動し、成果主義の典型的なモデルとみなされることもある。報酬の支払いについて定期昇給や賞与の制度は定められていないが、成績に応じた出来高払いの契約を結んでいる選手もいる。ただし年俸の減額に関しては野球協約92条で制限が設けられており、年俸1億円以上の選手の場合40パーセント、1億円未満の選手の場合25パーセントを超える減額は原則行われない(減額制限以上の減俸を行う場合は戦力外通告と同じ期間内に選手の同意を得る必要があり、選手が同意しなかった場合は球団はやはり当該選手を自由契約としなければならない)。
バット、グラブ、シューズなどの用具も選手個人が気に入ったメーカーと契約して使用する。
プロスポーツ選手全般に言えることだが、プロ野球選手が現役でいられる期間はそう長くない。プロ野球選手の平均引退年齢は約29歳とされており、また選手の平均現役年数は約9年である。
現役生活を20年以上続けたり、40歳を超えても現役を続ける選手(フランチャイズ・プレイヤー、ジャーニーマンも参照)もいるが、そのように長期に渡って活躍する選手は全体からすると極僅かである。現役最長在籍記録は山本昌の32年、一軍公式戦出場実働最長記録は工藤公康・中嶋聡・山本昌の29年である。ちなみに、2015年10月7日時点で、選手として公式戦に出場した年齢では、最年長記録は山本昌の50歳1か月、最年少記録は戦前(年少労働者保護規定なし)が西沢道夫の16歳。労働基準法・児童福祉法下における最年少記録は高校を中退してプロ入りした古沢憲司の16歳4か月である。
引退後は、野球監督やコーチなどの指導者、スカウト、スコアラー、打撃投手、ブルペン捕手、球団職員などスタッフとして球界に残ったり、野球解説者・野球評論家として活動する例が挙げられる。
しかし、毎年発生する引退選手に対して野球関連のポストは限りがあるために、野球関連の仕事に就けない者も多数出ることから、野球とは別の分野に就職することになる選手も多い。NPBが2007年から2014年に退団した選手への調査を行ったところ、平均して2割から3割程度の選手が野球関係以外の道を選んでおり、進路不明の者も相当数存在する。野球関連ではない仕事で成功した例としては、親会社のはからいで映画俳優になった八名信夫や板東英二、宮本和知、パンチ佐藤、長嶋一茂、金村義明、岩本勉のようにそのキャラクターを活かしてタレントとして定着した者、江本孟紀、三沢淳、高橋栄一郎、石井浩郎、山本賢寿のように政治家になった者、他のプロスポーツに転向して活躍した尾崎将司(プロゴルファー、尾崎正司)、ジャイアント馬場(プロレスラー、馬場正平)、宮本孝雄(競輪選手、宮本孝男)、早瀬薫平(競艇選手、早瀬猛)、野田昇吾(競艇選手)、龍隆行(プロボウラー)が挙げられる。また、玉葱農家として成功した河野博文、うどん製造の修行をしてうどん店を開業した條辺剛のように実業家として成功する例もある。
しかし、こういった成功例がある一方、現役引退後思うような生活が送れない元選手が自殺したり、犯罪に関わったりする事例もある。
里崎智也は、「プロ野球選手は球団関係者などが身の回りのことを何でもしてくれる」「生活力の無い選手ほど身の回りのことをやってくれる年上の女性と結婚して、益々野球しかしない人間になる」と語っており、それこそ「引退したら何もできない、(野球バカの)元選手が相当数存在する」と指摘している。
こうしたことから、プロ野球OBが自助努力として再就職をお互いに支援していこうという気運が高まりつつある。例として、日本プロ野球OBクラブはパソナと連携したプロ野球OBの就活支援活動を行っている。また、NPB側でも2010年代からは選手のセカンドキャリアに対する支援を強化している。2013年には日本野球機構と日本学生野球協会との合意により、学生野球資格回復研修を受けることによってプロ野球OBによる高校・大学野球の指導が可能となったことで、セカンドキャリアの間口が広くなったと言える。2016年までに、850人以上がこの制度を利用して学生野球資格を回復している。
NPBは2007年以来毎年若手プロ野球選手に対してセカンドキャリアに関する意識調査を行っているが、「引退後に不安を感じている」と答えた選手の割合は概ね7割程度を推移している。また、引退後の希望進路については、高校野球の指導者と回答する選手が多数を占めている。
アメリカ合衆国・カナダのメジャーリーグベースボール(MLB)を、日本では英語でMLBの選手を意味する「メジャーリーガー(Major Leaguer)」といった言葉をそのままカタカナ語として用いて呼称することがある。
メジャーリーグは、その強い競争原理から日本のプロ野球より厳しい環境であるとされ、成績が伴わなければ契約が更新されず直ちに自由契約、またはシーズン途中でもマイナーリーグのチーム行き、故障で成績が上がらない間にトレードで代わりの選手が入れば戦力外通告、などが普通に行われ、選手は常に厳しい立場に立たされる。また、マイナーリーグとメジャーリーグには選手の待遇に大きな差があることも特徴で、両者の給料の格差を指してマイナーリーグを「ハンバーガー・リーグ」、メジャーリーグを「ステーキ・リーグ」と呼ぶ事もある。大谷翔平を説得するために用意された日本ハムの「大谷翔平君 夢への道しるべ〜日本スポーツにおける若年期海外進出の考察〜」では「メジャーリーグは選手を淘汰する仕組み、日本プロ野球は選手を引き上げる仕組み」と説明し、直接渡米して過酷なマイナーリーグで生活するよりも日本で経験を積んだほうが良いと説明し、契約に成功した。
ただし、選手にとって厳しい面ばかりではなく、長年に渡って好成績を残し続けたり、非凡な才能を評価されたりと球団にとって必要不可欠な選手と見なされた場合には年俸は天井知らずとなり、トップ選手となれば高級住宅街に豪邸を構えるなど「アメリカン・ドリーム」とも言うべき成功を収めることができる。そのようなスター選手の移籍に伴う獲得合戦の際には数億ドル(数百億円)という大金が動く。アレックス・ロドリゲスは2007年10月にニューヨーク・ヤンキースと10年総額2億7,500万ドル、出来高も含めると3億ドルの大型契約を結んだ他、ジャンカルロ・スタントンは2014年オフにマイアミ・マーリンズとの間に総額3億2,500万ドル+出来高の13年契約という北米プロスポーツ史上最高総額の超大型契約を結んでいる。選手側も少しでも良い条件を引き出すために、球団と契約交渉を行うためのスポーツエージェントを置く代理人交渉制度が主流となっており、契約に関連するビジネスも発展している。
それまでオリンピックを含む国際野球連盟(IBAF。現世界野球ソフトボール連盟、WBSC)管轄の国際大会はアマチュアのみの出場であったが、他競技でのプロ解禁の流れを受けて1997年にIBAFはそれらの国際大会へのプロ出場を解禁することになった。
最初に適用された大会は翌1998年の第33回IBAFワールドカップ。同年のアジア競技大会では韓国がオールプロで編成して初の金メダルを獲得。2000年シドニーオリンピックは初めてプロ野球選手が参加するオリンピック大会となり、米国が正式種目となって初めて金メダルを獲得した(公開競技時代には1988年ソウルオリンピックで金メダルを獲っているが、キューバのボイコットによる不参加が大きかった)。
日本が初めてプロを派遣したのは1999年のアジア野球選手権大会兼シドニーオリンピックアジア地区最終予選で、この時はプロアマ混合で挑んだ。初のオールプロで編成して出場した大会は2003年のアジア野球選手権大会兼アテネオリンピックアジア地区最終予選であり、8年ぶりとなる優勝を決めている。これ以降オリンピックおよびその予選会についてはオールプロで出場しているが、それ以外の国際大会(IBAFワールドカップ、アジア競技大会など)は開催時期に合わせてプロアマ混合またはオールアマで出場している。
しかし、これらの大会にはメジャーリーガー(40人ロースター枠登録選手)は参加しておらず、米国の場合は3Aクラスの選手で構成されている(ただし米国以外ではシーズンと重ならない大会に限りロースターも含めて招集する場合がある。前出の1998年アジア競技大会の韓国代表には当時ロサンゼルス・ドジャース所属だった朴賛浩が含まれていた)。背景にはこれらの国際大会の多くがMLBシーズン中(それも8月以降のプレーオフ争いも佳境に入った時期)に開かれるためシーズンを中断するか各球団が主力を欠いて消化しなければならず、また、大会において負傷した際の補償など課題も多いため各球団並びに選手会が消極的なのがある。この問題はオリンピック競技からの野球除外に至った要因のひとつともされている。
2006年からはメジャーリーガーも含めたプロ選手が参加するワールド・ベースボール・クラシック(WBC)が行われており、米国を始め、ドミニカ共和国などはメジャーリーガーのみでナショナルチームを結成した上で参戦している他、日本や韓国、ベネズエラなどメジャーリーガー擁する国も国内などの選手を加えたオールプロチームとなっている。この大会はIBAFの協力も受けつつMLB機構が中心となり、(MLBなど北半球主要プロ野球リーグの)シーズン開幕前に開かれている。
2011年にWBCがIBAF公認の世界一決定戦となったのに伴い、アマチュア主体たるワールドカップを発展的解消した上で、WBCの中間年にプロ主体たるプレミア12が創設された。このプレミア12の第1回大会は2015年11月に開かれたが、ワールドシリーズ終了直後という開催時期の問題からMLBは40人ロースターに登録された選手の参加を認めなかった。そのため、MLB選手会による40人ロースター枠発表後に行われた11月21日の決勝戦において、米国代表は3名の選手がこのロースター枠に入ったため出場できず、さらに試合も韓国に0-8で敗れてしまった。 | [
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"text": "それまでオリンピックを含む国際野球連盟(IBAF。現世界野球ソフトボール連盟、WBSC)管轄の国際大会はアマチュアのみの出場であったが、他競技でのプロ解禁の流れを受けて1997年にIBAFはそれらの国際大会へのプロ出場を解禁することになった。",
"title": "国際大会への出場"
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"paragraph_id": 28,
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"text": "最初に適用された大会は翌1998年の第33回IBAFワールドカップ。同年のアジア競技大会では韓国がオールプロで編成して初の金メダルを獲得。2000年シドニーオリンピックは初めてプロ野球選手が参加するオリンピック大会となり、米国が正式種目となって初めて金メダルを獲得した(公開競技時代には1988年ソウルオリンピックで金メダルを獲っているが、キューバのボイコットによる不参加が大きかった)。",
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"text": "日本が初めてプロを派遣したのは1999年のアジア野球選手権大会兼シドニーオリンピックアジア地区最終予選で、この時はプロアマ混合で挑んだ。初のオールプロで編成して出場した大会は2003年のアジア野球選手権大会兼アテネオリンピックアジア地区最終予選であり、8年ぶりとなる優勝を決めている。これ以降オリンピックおよびその予選会についてはオールプロで出場しているが、それ以外の国際大会(IBAFワールドカップ、アジア競技大会など)は開催時期に合わせてプロアマ混合またはオールアマで出場している。",
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"text": "しかし、これらの大会にはメジャーリーガー(40人ロースター枠登録選手)は参加しておらず、米国の場合は3Aクラスの選手で構成されている(ただし米国以外ではシーズンと重ならない大会に限りロースターも含めて招集する場合がある。前出の1998年アジア競技大会の韓国代表には当時ロサンゼルス・ドジャース所属だった朴賛浩が含まれていた)。背景にはこれらの国際大会の多くがMLBシーズン中(それも8月以降のプレーオフ争いも佳境に入った時期)に開かれるためシーズンを中断するか各球団が主力を欠いて消化しなければならず、また、大会において負傷した際の補償など課題も多いため各球団並びに選手会が消極的なのがある。この問題はオリンピック競技からの野球除外に至った要因のひとつともされている。",
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"text": "2006年からはメジャーリーガーも含めたプロ選手が参加するワールド・ベースボール・クラシック(WBC)が行われており、米国を始め、ドミニカ共和国などはメジャーリーガーのみでナショナルチームを結成した上で参戦している他、日本や韓国、ベネズエラなどメジャーリーガー擁する国も国内などの選手を加えたオールプロチームとなっている。この大会はIBAFの協力も受けつつMLB機構が中心となり、(MLBなど北半球主要プロ野球リーグの)シーズン開幕前に開かれている。",
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"text": "2011年にWBCがIBAF公認の世界一決定戦となったのに伴い、アマチュア主体たるワールドカップを発展的解消した上で、WBCの中間年にプロ主体たるプレミア12が創設された。このプレミア12の第1回大会は2015年11月に開かれたが、ワールドシリーズ終了直後という開催時期の問題からMLBは40人ロースターに登録された選手の参加を認めなかった。そのため、MLB選手会による40人ロースター枠発表後に行われた11月21日の決勝戦において、米国代表は3名の選手がこのロースター枠に入ったため出場できず、さらに試合も韓国に0-8で敗れてしまった。",
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] | プロ野球選手(プロやきゅうせんしゅ)は、営利を目的とする野球チーム(プロ野球チームまたは、プロ野球球団と呼ばれる)と契約し、年間シーズンの一連の試合に出場して報酬を得ることを本業とする、つまりプロフェッショナルスポーツとして野球をする野球選手のことである。球団としては、セ・リーグ(セントラル・リーグ)には阪神タイガース、広島東洋カープ、横浜DeNAベイスターズ、読売ジャイアンツ、東京ヤクルトスワローズ、中日ドラゴンズ、パ・リーグ(パシフィック・リーグ)にはオリックスバファローズ、千葉ロッテマリーンズ、福岡ソフトバンクホークス、東北楽天ゴールデンイーグルス、西武ライオンズ、北海道日本ハムファイターズの12球団がある。 |
'''プロ野球選手'''(プロやきゅうせんしゅ)は、営利を目的とする[[野球]]チーム([[プロ野球]]チームまたは、プロ野球球団と呼ばれる)と契約し、年間シーズンの一連の試合に出場して報酬を得ることを本業とする、つまり[[プロフェッショナルスポーツ]]として野球をする[[野球選手]]のことである。球団としては、セ・リーグ(セントラル・リーグ)には阪神タイガース、広島東洋カープ、横浜DeNAベイスターズ、読売ジャイアンツ、東京ヤクルトスワローズ、中日ドラゴンズ、パ・リーグ(パシフィック・リーグ)にはオリックスバファローズ、千葉ロッテマリーンズ、福岡ソフトバンクホークス、東北楽天ゴールデンイーグルス、西武ライオンズ、北海道日本ハムファイターズの12球団がある。
== 日本のプロ野球選手 ==
この節での「プロ野球」は[[日本野球機構]](NPB)のみを指し、[[独立リーグ]]などは含まないものとする。
=== 社会人野球選手との違い ===
[[日本]]では、一般の社会人が選手としてプレーする[[社会人野球]]が発達している。「社会人野球」という語は、広義ではプロ野球も含めてあらゆる社会人が行う野球を指すが、一般的にはアマチュアの社会人が行う野球を指す。さらに狭義的意味として、[[日本野球連盟]]に属するチームで活動する野球競技を指す。また、企業内で組織されるチームが多く存在するが、あくまで企業内のクラブ活動の一つとして存在しており、[[興行]]目的で運営されているわけではない。
基本的に様々な大会の試合で活躍することを期待されて企業に入社する日本の社会人野球の選手も、企業の本業に関わる業務をほとんどせずに実質的に野球のみで報酬を得ることがあるが(かつての[[シダックス野球部]]が該当)、社会人野球のチームは企業名を冠する「野球部」などと呼ばれ、野球を専業とする独立した企業ではない点がプロ野球球団とは大きく異なる。
また、社会人野球の選手は加齢や故障その他の理由によって現役を引退しても即解雇とはならず、その企業で仕事を続けることもできる。逆に社の経営不振などにより廃部、つまり野球部自体が消えてしまった場合はその社の従業員である以上、他社への転職や会社の許可のもとでのクラブチームへの在籍<ref group="注釈">一例として[[サンワード貿易硬式野球部]]など。</ref>によってしか野球を続ける手段がなくなる。これに対しプロ野球球団に属する選手は[[戦力外通告]]された場合は別の球団と自力で選手契約を結ぶ事が出来る。しかしどこの球団も手を挙げない場合は[[プロ野球コーチ|コーチ]]などの指導者、[[野球解説者]]、[[スポーツキャスター]]、[[タレント]]などの道がなければ全くの無職となってしまう([[#引退後]])。[[日本野球機構]](NPB)加盟球団所属のプロ野球選手が本人の意思により[[引退|任意引退]]した場合、保有権がある最終所属球団の了解がない場合は他の野球チームと契約を結ぶことができない。
こういった待遇面の違いもプロ野球選手と社会人野球選手の異なる点であり、全くの無報酬というわけではないものの社会人野球を[[日本のアマチュア野球|アマチュア]]とする理由のひとつでもある。逆に、日本プロ野球のチームで、報酬を得ないアマチュア選手として契約することは認められていない。
=== プロ野球選手の一日 ===
一日はハードでシーズン中は休みがほとんどなく(基本、火曜~木曜の3日間がチームA、金曜~日曜の3日間が別のチームBとの連戦。一回3日を“対戦カード”と呼ぶ)、拘束時間も長い。一例を挙げると
* ナイトゲーム開催時(18時試合開始)のスケジュール
** 10時 - 起床
** 11時 - 朝(昼)食
** 午後 - ホームチーム選手は自宅([[単身赴任]]の場合は[[ホテル]]住まいをする選手もいる)もしくは寮から、試合が行なわれる[[野球場]]へ移動。ビジターチーム選手は、宿舎となっているホテルから移動。ビジターが本拠地から近い場合はホーム同様に各自移動。
** 14時 - ホームチーム全体練習開始(ウォームアップはそれまでに行う。また、自主的に早出練習を行う選手も多い)
** 16時 - ホームチーム全体練習終了・ビジターチーム全体練習開始(ウォームアップ・ミーティング・軽食摂取はそれまでに行う)
** 16時30分ごろ - ホームチームミーティング・軽食
** 17時30分ごろ - ビジターチーム練習終了
** 18時 - プレイボール(先発登板予定のない[[投手]]など、[[出場選手登録#日本プロ野球(NPB)|一軍]]でも一部の選手はこの時点で帰宅する)
** 試合終了後(試合は9[[イニング]]で3時間半程。長い時、また[[延長戦]](12イニングまで)に発展した場合には4時間以上かかる) - ミーティングなどを行い解散し、帰宅。自主的に居残り練習をする選手もいる。また、ビジターチームの選手はホテルに移動。
** 深夜 - 夕食は各自で取り(ビジターチームの場合はホテルのバイキングなど)、その後就寝
となっている<ref>千葉ロッテマリーンズファンクラブ会報「Team26マガジン」2010年第2号「ビジター遠征虎の巻」より</ref>。[[デーゲーム]]の場合、時間分だけ繰り上がるので(13時試合開始の場合は5時間)、深夜に試合が終了した場合、朝早く起床し、練習を開始するため、さらにハードになる。月曜日は試合がないだけで、自分達がビジターになる場合には対戦相手の本拠地の所在地に移動する日。
[[長野久義]]と結婚した[[下平さやか]]によると、プロ野球選手は一年の3分の2は自宅にいないという<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASP3444YXP32UTQP00T.html プロ野球選手を陰で支える? 下平さやかアナ語る「虚像」]朝日新聞「わたしのThink Gender」2021年3月6日</ref>。
=== 遠征 ===
ビジターで試合を行う際は、選手は[[交通機関]]を利用して移動する。近距離であればバスもしくは、各自移動、遠距離で移動する際は、[[新幹線]]か[[飛行機]]を利用し、最寄り駅から試合会場までは[[バス (交通機関)|バス]]で移動する。混乱を避けるために、2つの班(例・新幹線と飛行機)に分かれて移動することが多い。従来は飛行機を利用することが多かったが、[[1985年]]に発生した[[日本航空123便墜落事故]]で[[阪神タイガース]]球団社長の[[中埜肇 (実業家)|中埜肇]]が死亡したこと<ref group="注釈">同事故で墜落したJA8119号機は、事故直前に福岡発羽田行JAL366便で運航しており、同便には[[後楽園球場]]での[[読売ジャイアンツ|巨人]]戦を控えていた阪神の主力選手たちが福岡からの移動のため搭乗していた。</ref>を契機に本州間の移動はできうる限り新幹線を利用するようになった。長距離の移動は飛行機を利用するが、飛行機嫌いの選手、スタッフもおり、その場合はできるだけ新幹線などの交通機関を利用しているという。また、登板予定のない[[先発投手]]は、遠征を免除され、[[二軍]]の練習場で調整を行う場合もある。
=== 契約・報酬 ===
プロ野球選手は[[自営業者]]・[[個人事業主]]として球団会社と業務契約を結んでいる。よって、球団会社の[[契約社員]]ではない<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2005/04/pdf/020-022.pdf?guid=ON|title=特集・スポーツと労働 プロスポーツ選手の労働者性|author=[[永野秀雄]]|work=日本労働研究雑誌|publisher=労働政策研究・研修機構|accessdate=2017-03-10}}</ref>。
NPB所属選手の報酬はメジャーリーグや欧州サッカーなどと同様に日本国内の他の[[プロフェッショナルスポーツ|プロスポーツ]]と比べても破格である。支給は[[年俸制]]。2016年のNPBに所属するすべての[[支配下選手登録]]選手([[育成選手制度 (日本プロ野球)|育成選手]]をのぞく)の平均年俸は3,712万円である<ref name="salary">{{Cite web|和書|url=http://jpbpa.net/research/?id=1461646686-980466|title=2016年シーズンの年俸調査結果の発表|publisher=日本プロ野球選手会|accessdate=2017-03-07}}</ref>。
1980年代前半までは平均年俸は1,000万円未満であったが<ref name="salary" />、1987年中日に移籍した[[落合博満]]が球界で初めて年俸1億円を突破する<ref>{{Cite web|和書|url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2014/12/12/post_485/|title=【プロ野球】日本人最初の「1億円プレイヤー」は誰?|publisher=webスポルティーバ|accessdate=2017-03-07}}</ref>など徐々に年俸は上昇し、1993年の[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA]]制度が導入されると年俸の高騰が進んだ<ref>{{Cite web|和書|url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2013/12/20/post_331/index_2.php|title=FAの歴史を振り返る。最初にFA権を行使したのは誰?|author=津金一郎|publisher=webスポルティーバ|accessdate=2017-03-07}}</ref>。
年俸が1億円以上の選手は'''1億円プレイヤー'''と呼ばれ、一流選手のステータスと見なされることもある<ref>{{Cite web|和書|url=http://baseballking.jp/ns/99526|title=ロッテ・鈴木が1億円でサイン!「ひとつの目標だった」|publisher=ベースボールキング|accessdate=2017-11-27}}</ref>。NPBにおける1億円プレイヤーの日本人選手は、2014年シーズンでは61人<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20131229-1237368.html|title=2014年プロ野球年俸ランキング|publisher=日刊スポーツ|accessdate=2017-11-27}}</ref><ref group="注釈">記事では「60人」になっているが、この後に[[井口資仁]]が、1億8,000万円で契約を更改したため、「61人」になる。</ref>であったが、2017年シーズンでは76人<ref>{{Cite web|和書|url=http://baseballking.jp/ns/97534|title=2017年・プロ野球 新年俸ランキング【1位~100位】|publisher=ベースボールキング|accessdate=2017-11-27}}</ref>へと増加している。
NPB所属選手は[[契約更改]]という形で毎年契約を更新する単年契約が一般的であったが、[[1993年]]オフに当時[[オリックス・バファローズ|オリックス]]に在籍していた[[酒井勉]]が、3年という日本球界史上初の複数年契約を結んだ<ref group="注釈">ただし酒井は[[黄色靭帯骨化症]]という[[特定疾患]](難病)を患ったことから、契約期間中での快復と現役復帰を見込んでの複数年契約であり、現在みられる他球団流出防止のための複数年契約とは意味合いが異なる。</ref>。その後、FA宣言による他球団移籍が一般的になり、FAによる移籍、あるいは他球団流出防止のための残留のいずれでも(日本人選手、外国人選手を問わず)複数年契約を結ぶケースが増えるようになった。一例として、
* [[杉内俊哉]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20111206-873124.html|title=巨人“奥の手”杉内に4年20億+背番18|publisher=日刊スポーツ|accessdate=2017-11-27}}</ref> - 2011年のシーズンオフに、[[福岡ソフトバンクホークス|ソフトバンク]]から[[読売ジャイアンツ|巨人]]へと移籍した際、「4年契約・総額20億円」の契約を結んだ。
* [[中村剛也]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/12/10/kiji/K20131210007173340.html|title=おかわり君「ライオンズ一筋」4年最大20億にニッコリ|publisher=スポニチアネックス|accessdate=2017-11-27}}</ref> - 2013年のシーズンオフに、[[埼玉西武ライオンズ|西武]]との(残留のための)延長契約を結ぶ際、「4年契約・総額20億円」の契約を結んだ。<!-- なお、中村はこの延長契約以前にも、2010年のシーズンオフにおいて、西武と3年の複数年契約を結んでいた。-->
* [[リック・バンデンハーク]]<ref name="nikkansports160621">{{Cite web|和書|date=2016-06-21|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/1666703.html|title=ソフトバンクがバンデンハークと3年12億契約延長|publisher=[[日刊スポーツ]]|accessdate=2018-09-11}}</ref> - 2016年6月に、[[福岡ソフトバンクホークス|ソフトバンク]]との(残留のための)延長契約を結ぶ際、「3年契約・総額12億円」の契約を結んだ。なお、外国人選手の場合は、シーズン中に(残留のための)延長契約を結ぶケースが少なからずある<ref group="注釈">一例として、[[エクトル・ルナ]]([[中日ドラゴンズ|中日]]。2013年の6月に、2年間の延長契約)、[[ブランドン・ディクソン]]([[オリックス・バファローズ|オリックス]]。2016年の9月に、2年間の延長契約)など。</ref>。
プロ野球選手の報酬は各選手の活躍に応じて大きく変動し、[[成果主義]]の典型的なモデルとみなされることもある<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.rikkyo.ne.jp/web/z3000268/journalsd/no3/no3_thesis5.pdf|title=成果主義及びコンピテンシー評価導入に伴うリスクに関する理論的考察|author=福田秀人|page=46|accessdate=2017-03-10}}</ref>。報酬の支払いについて定期昇給や[[賞与]]の制度は定められていないが、成績に応じた[[出来高]]払いの契約を結んでいる選手もいる。ただし年俸の減額に関しては[[野球協約]]92条で制限が設けられており、年俸1億円以上の選手の場合40パーセント、1億円未満の選手の場合25パーセントを超える減額は原則行われない(減額制限以上の減俸を行う場合は[[戦力外通告]]と同じ期間内に選手の同意を得る必要があり、選手が同意しなかった場合は球団はやはり当該選手を[[自由契約]]としなければならない)<ref name="kyouyaku">{{Cite web|和書|url=http://jpbpa.net/up_pdf/1471951971-129176.pdf|title=日本プロフェッショナル野球協約2016|accessdate=2017-03-10}}</ref>。
[[バット (野球)|バット]]、[[グラブ (野球)|グラブ]]、シューズなどの用具も選手個人が気に入ったメーカーと契約して使用する<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=思いのままに進めばいい。~大リーグに挑む小さな会社の話~ {{!}} NHK {{!}} WEB特集 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230421/k10014040741000.html |website=NHKニュース |access-date=2023-04-23 |last=日本放送協会}}</ref>。
=== 現役期間 ===
プロスポーツ選手全般に言えることだが、プロ野球選手が現役でいられる期間はそう長くない。プロ野球選手の平均引退年齢は約29歳とされており<ref name="選手会">{{Cite web|和書|url=http://jpbpa.net/transfer/?id=1285571669-687883|title=移籍の活性化|publisher=日本プロ野球選手会|accessdate=2015-08-18}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/57ae118188a2f9ee039b907b3aa9c8ea02004c7a|title=プロ野球選手って何人いる?|publisher=小中 翔太|accessdate=2015-08-18}}</ref>、また選手の平均現役年数は約9年である<ref name="選手会"/>。
現役生活を20年以上続けたり、40歳を超えても現役を続ける選手([[フランチャイズ・プレイヤー]]、[[ジャーニーマン]]も参照)もいるが、そのように長期に渡って活躍する選手は全体からすると極僅かである。現役最長在籍記録は[[山本昌]]の32年、一軍公式戦出場実働最長記録は[[工藤公康]]・[[中嶋聡]]・山本昌の29年である。ちなみに、2015年10月7日時点で、選手として公式戦に出場した年齢では、最年長記録は山本昌の50歳1か月、最年少記録は戦前(年少労働者保護規定なし)が[[西沢道夫]]の16歳。[[労働基準法]]・[[児童福祉法]]下における最年少記録は高校を中退してプロ入りした[[古沢憲司]]の16歳4か月である。
=== 引退後 ===
[[引退#プロ野球|引退]]後は、[[野球監督]]やコーチなどの指導者、[[スカウト (野球)|スカウト]]、[[スコアラー]]、[[打撃投手]]、[[ブルペン捕手]]、球団職員などスタッフとして球界に残ったり、[[野球解説者]]・[[野球評論家]]として活動する例が挙げられる。
しかし、毎年発生する引退選手に対して野球関連のポストは限りがあるために、野球関連の仕事に就けない者も多数出ることから、野球とは別の分野に就職することになる選手も多い。NPBが2007年から2014年に退団した選手への調査を行ったところ、平均して2割から3割程度の選手が野球関係以外の道を選んでおり、進路不明の者も相当数存在する<ref>{{Cite web|和書|url=http://npb.jp/npb/careersupport2015_3.html|title=戦力外選手/現役引退選手の進路調査結果(2007年~2014年)|publisher=日本野球機構|accessdate=2017-03-07}}</ref><ref group="注釈">またこの調査対象には独立リーグなどで現役を続行する選手も含まれているため、引退者に占める割合はより高いと考えられる。</ref>。野球関連ではない仕事で成功した例としては、[[親会社]]のはからいで[[映画俳優]]になった[[八名信夫]]や[[板東英二]]、[[宮本和知]]、[[パンチ佐藤]]、[[長嶋一茂]]、[[金村義明]]、[[岩本勉]]のようにそのキャラクターを活かして[[タレント]]として定着した者、[[江本孟紀]]、[[三沢淳]]、[[高橋栄一郎]]、[[石井浩郎]]、[[山本賢寿]]のように[[政治家]]になった者、他のプロスポーツに転向して活躍した[[尾崎将司]]([[プロゴルファー]]、尾崎正司)、[[ジャイアント馬場]]([[プロレスラー]]、馬場正平)、[[宮本孝男|宮本孝雄]]([[競輪選手]]、宮本孝男)、[[早瀬薫平]]([[競艇選手]]、早瀬猛)、[[野田昇吾]](競艇選手)、[[龍隆行]]([[ボウリング|プロボウラー]])が挙げられる。また、[[タマネギ|玉葱]][[農家]]として成功した[[河野博文]]、[[うどん]]製造の修行をしてうどん店を開業した[[條辺剛]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hotpepper.jp/mesitsu/entry/1506013|title=元巨人軍の剛腕が“闘魂こめて”打つ本格うどん!『讃岐うどん 條辺(じょうべ)』店主 條辺剛さん【男の野球メシ#01】|publisher=リクルート|date=2015-06-04|accessdate=2018-09-11}}</ref>のように実業家として成功する例もある。
しかし、こういった成功例がある一方、現役引退後思うような生活が送れない元選手が[[自殺]]したり<ref group="注釈">具体例として、[[2000年]]に[[高野光]]が[[精神疾患]]を患い39歳で、[[2011年]]に[[伊良部秀輝]]が精神的に追い詰められて42歳で其々[[自殺]]したことが挙げられる。</ref>、[[犯罪]]に関わったりする事例もある<ref group="注釈">[[小川博]]が2004年に、引退後の勤務先で[[元千葉ロッテマリーンズ投手強盗殺人事件|強盗殺人事件]]を起こして無期懲役刑を受けている。引退後に[[覚醒剤]]に手を染めた[[野村貴仁]]や[[清原和博]]、窃盗を繰り返した[[伊奈龍哉]]や[[小野仁]]のような例もある。</ref>。
[[里崎智也]]は、「プロ野球選手は球団関係者などが身の回りのことを何でもしてくれる」「生活力の無い選手ほど身の回りのことをやってくれる年上の女性と結婚して、益々野球しかしない人間になる」と語っており、それこそ「引退したら何もできない、(野球バカの)元選手が相当数存在する」と指摘している<ref>{{Citation|title=【野球選手はプロ引退したら何も出来ない!】何も出来ない人ほど結婚するの早い?!|url=https://www.youtube.com/watch?v=LhIZkpqgEB0|language=ja-JP|access-date=2023-04-23}}</ref>。
こうしたことから、プロ野球OBが自助努力として再就職をお互いに支援していこうという気運が高まりつつある。例として、[[日本プロ野球OBクラブ]]は[[パソナ]]と連携したプロ野球OBの就活支援活動を行っている<ref>{{Cite web|和書|url=http://search.obclub.or.jp/201206kara/event/2015pasona/pasona_pressrelease.pdf|title=プロ野球OBのセカンドキャリアに新たな就労支援制度を実施|publisher=日本プロ野球OBクラブ|accessdate=2017-03-06}}</ref>。また、NPB側でも2010年代からは選手の[[セカンドキャリア]]に対する支援を強化している。2013年には日本野球機構と[[日本学生野球協会]]との合意により、学生野球資格回復研修を受けることによってプロ野球OBによる高校・大学野球の指導が可能となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.obclub.or.jp/学生野球資格回復/|title=学生野球資格回復|publisher=日本プロ野球OBクラブ|accessdate=2017-03-07}}</ref>ことで、セカンドキャリアの間口が広くなったと言える。2016年までに、850人以上がこの制度を利用して学生野球資格を回復している<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20161221/k00/00e/050/282000c|title=学生野球資格回復研修会:プロ選手引退後、指導者の道へ|author=神保忠弘|publisher=[[毎日新聞]]|accessdate=2017-03-06}}</ref>。
NPBは[[2007年]]以来毎年若手プロ野球選手に対してセカンドキャリアに関する意識調査を行っているが、「引退後に不安を感じている」と答えた選手の割合は概ね7割程度を推移している<ref name="secondcareer">{{Cite web|和書|url=http://npb.jp/npb/careersupport2016enq.pdf|title=2016年 現役若手プロ野球選手「セカンドキャリアに関するアンケート」|publisher=日本野球機構|accessdate=2017-03-06}}</ref>。また、引退後の希望進路については、高校野球の指導者と回答する選手が多数を占めている<ref name="secondcareer" />。
== メジャーリーグの選手 ==
[[ファイル:Alex Rodriguez 2008-04-19.jpg|thumb|200px|メジャーリーグの選手([[アレックス・ロドリゲス]])]]
[[アメリカ合衆国]]・[[カナダ]]の[[メジャーリーグベースボール]](MLB)を、日本では<!--自国内でのプロ野球選手との混同を避けるために、-->[[英語]]でMLBの選手を意味する「'''メジャーリーガー'''(''Major Leaguer'')」といった言葉をそのままカタカナ語として用いて呼称することがある。
メジャーリーグは、その強い競争原理から日本のプロ野球より厳しい環境であるとされ、成績が伴わなければ契約が更新されず直ちに[[自由契約]]、またはシーズン途中でも[[マイナーリーグ]]のチーム行き、故障で成績が上がらない間にトレードで代わりの選手が入れば[[戦力外通告]]、などが普通に行われ、選手は常に厳しい立場に立たされる<ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/14256 なぜ日本野球はメジャーリーグに勝てないか メジャーリーグに最も近かった男、佐々木誠の監督論] 東洋経済オンライン 2013年6月11日</ref>。また、マイナーリーグとメジャーリーグには選手の待遇に大きな差があることも特徴で、両者の給料の格差を指してマイナーリーグを「[[ハンバーガー]]・リーグ」、メジャーリーグを「[[ステーキ]]・リーグ」と呼ぶ事もある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.baseballchannel.jp/mlb/17600/|title=【MLB】ハンバーガーリーグから脱却? フィリーズ、約1億円の投資でマイナーチームの食環境改善へ。|author=Ryo Shinkawa|publisher=ベースボールチャンネル|accessdate=2017-03-07}}</ref>。[[大谷翔平]]を説得するために用意された日本ハムの「大谷翔平君 夢への道しるべ〜日本スポーツにおける若年期海外進出の考察〜」では「メジャーリーグは選手を淘汰する仕組み、日本プロ野球は選手を引き上げる仕組み」と説明し、直接渡米して過酷なマイナーリーグで生活するよりも日本で経験を積んだほうが良いと説明し、契約に成功した<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.livedoor.com/article/detail/20591575/|title=【底流】心を動かすプレゼン|publisher=ライブドアニュース|date=2021-07-26|accessdate=2022-06-28}}</ref>。
ただし、選手にとって厳しい面ばかりではなく、長年に渡って好成績を残し続けたり、非凡な才能を評価されたりと球団にとって必要不可欠な選手と見なされた場合には年俸は天井知らずとなり<ref group="注釈">メジャーリーグでは[[サラリーキャップ]]は導入されていない。ぜいたく税制度(収益分配)は存在する。詳細は[[メジャーリーグベースボール#戦力均衡策]]を参照。</ref>、トップ選手となれば高級住宅街に豪邸を構えるなど「[[アメリカン・ドリーム]]」とも言うべき成功を収めることができる<ref name=":0" />。そのようなスター選手の移籍に伴う獲得合戦の際には数億[[アメリカ合衆国ドル|ドル]](数百億円)という大金が動く<ref>{{Cite web|和書|title=これぞアメリカン・ドリーム!夢にあふれたMLB今オフの大型移籍トップ10 | BASEBALL KING |url=https://baseballking.jp/ns/22091 |website=BASEBALL KING |access-date=2023-04-23 |language=ja}}</ref>。[[アレックス・ロドリゲス]]は[[2007年]]10月に[[ニューヨーク・ヤンキース]]と10年総額2億7,500万ドル、出来高も含めると3億ドルの大型契約を結んだ他、[[ジャンカルロ・スタントン]]は2014年オフに[[マイアミ・マーリンズ]]との間に総額3億2,500万ドル+出来高の13年契約という北米プロスポーツ史上最高総額の超大型契約を結んでいる<ref>{{Cite web|url=https://www.si.com/mlb/2014/11/17/marlins-giancarlo-stanton-13-year-325-million-deal|title=Report: Marlins to sign Giancarlo Stanton to 13-year, $325 million deal|publisher=Sports Illustrated|language=英語|date=2014年11月20日|accessdate=2017年12月12日}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.mlbtraderumors.com/2014/11/marlins-giancarlo-stanton-agree-to-13-year-325mm-contract.html|title=Marlins, Giancarlo Stanton Agree To 13-Year, $325MM Contract|work=MLB Trade Rumors|author=Mark Polishuk|coauthors=Steve Adams|language=英語|date=2014年11月20日|accessdate=2014年12月11日}}</ref>。<!-- やはり2007年に[[松坂大輔]]がメジャーリーグに移籍した際には、[[ボストン・レッドソックス]]が[[ポスティングシステム]]で[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]と約5,100万ドル、本人と約5,200万ドルと合計1億ドルを超える巨額の契約をし、日米ともに話題になった。[[2014年]]には[[田中将大]]がやはりポスティングによってヤンキースと7年・総額1億5,000万ドルの契約を結んだ。-->選手側も少しでも良い条件を引き出すために、球団と契約交渉を行うための[[スポーツエージェント]]を置く[[代理人交渉制度]]が主流となっており、契約に関連するビジネスも発展している。<!-- [[松井秀喜]]が代理人を置いたことで、メジャーリーガーには代理人がつくことが日本でも広く知られることになった。-->
== 国際大会への出場 ==
[[ファイル:Baseball game in Beijing 2008 Japan Vs Holland 02.jpg|thumb|200px|北京オリンピック野球競技]]
[[ファイル:WBC2006 Ichiro Suzuki 1.jpg|thumb|150px|日本野球代表([[イチロー]])]]
それまで[[オリンピックの野球競技|オリンピック]]を含む[[国際野球連盟]](IBAF。現[[世界野球ソフトボール連盟]]、WBSC)管轄の国際大会はアマチュアのみの出場であったが、他競技でのプロ解禁の流れを受けて1997年にIBAFはそれらの国際大会へのプロ出場を解禁することになった。
最初に適用された大会は翌1998年の[[第33回IBAFワールドカップ]]。同年の[[1998年アジア競技大会|アジア競技大会]]では[[大韓民国|韓国]]がオールプロで編成して初の金メダルを獲得。[[2000年シドニーオリンピック]]は初めてプロ野球選手が参加するオリンピック大会となり、米国が正式種目となって初めて金メダルを獲得した(公開競技時代には[[1988年ソウルオリンピック]]で金メダルを獲っているが、[[キューバ]]のボイコットによる不参加が大きかった)。
[[ファイル:Chinese Taipei national baseball team on March 8, 2013.jpg|サムネイル|台湾野球代表]]
日本が初めてプロを派遣したのは1999年の[[第20回アジア野球選手権大会|アジア野球選手権大会]]兼シドニーオリンピックアジア地区最終予選で、この時はプロアマ混合で挑んだ。初のオールプロで編成して出場した大会は2003年の[[第22回アジア野球選手権大会|アジア野球選手権大会]]兼アテネオリンピックアジア地区最終予選であり、8年ぶりとなる優勝を決めている。これ以降オリンピックおよびその予選会についてはオールプロで出場しているが、それ以外の国際大会([[IBAFワールドカップ]]、[[アジア競技大会野球競技|アジア競技大会]]など)は開催時期に合わせてプロアマ混合またはオールアマで出場している。
しかし、これらの大会にはメジャーリーガー(40人ロースター枠登録選手)は参加しておらず、米国の場合は3Aクラスの選手で構成されている(ただし米国以外ではシーズンと重ならない大会に限りロースターも含めて招集する場合がある。前出の1998年アジア競技大会の韓国代表には当時[[ロサンゼルス・ドジャース]]所属だった[[朴賛浩]]が含まれていた)。背景にはこれらの国際大会の多くがMLBシーズン中(それも8月以降のプレーオフ争いも佳境に入った時期)に開かれるためシーズンを中断するか各球団が主力を欠いて消化しなければならず、また、大会において負傷した際の補償など課題も多いため各球団並びに選手会が消極的なのがある。この問題はオリンピック競技からの野球除外に至った要因のひとつともされている。
2006年からはメジャーリーガーも含めたプロ選手が参加する[[ワールド・ベースボール・クラシック]](WBC)が行われており、米国を始め、[[ドミニカ共和国]]などはメジャーリーガーのみでナショナルチームを結成した上で参戦している他、日本や韓国、[[ベネズエラ]]などメジャーリーガー擁する国も国内などの選手を加えたオールプロチームとなっている。この大会はIBAFの協力も受けつつMLB機構が中心となり、(MLBなど北半球主要プロ野球リーグの)シーズン開幕前に開かれている。
2011年にWBCがIBAF公認の世界一決定戦となったのに伴い、アマチュア主体たるワールドカップを発展的解消した上で、WBCの中間年にプロ主体たる[[WBSCプレミア12|プレミア12]]が創設された。このプレミア12の[[2015 WBSCプレミア12|第1回大会]]は2015年11月に開かれたが、[[ワールドシリーズ]]終了直後という開催時期の問題からMLBは40人ロースターに登録された選手の参加を認めなかった。そのため、MLB選手会による40人ロースター枠発表後に行われた11月21日の決勝戦において、[[2015 WBSCプレミア12 アメリカ合衆国代表|米国代表]]は3名の選手がこのロースター枠に入ったため出場できず、さらに試合も韓国に0-8で敗れてしまった。
[[ファイル:KoreaWBC2009.jpg|サムネイル|韓囯野球代表]]
== 関連書籍 ==
* 『プロ野球選手になるには』 - [[柏英樹]]、2009年、[[ぺりかん社]]、ISBN 4831512397
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[日本のプロ野球選手一覧]]
* [[メジャーリーグ選手一覧]]
* [[日本人メジャーリーグ選手一覧]]
* [[支配下選手登録]]
* [[育成選手制度 (日本プロ野球)|育成選手制度]]
* [[日本プロ野球選手会]]
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[[Category:野球選手|*ふろ]]
[[Category:プロ野球|せんしゆ]]
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8,418 | 野球選手 | 野球選手(やきゅうせんしゅ)とは、野球競技において競技を行う者である。
通常、野球チーム(球団)の所属選手を指す。
日本やアメリカ合衆国、大韓民国、台湾ではプロ野球選手を指す場合が多いが、世界各国での高校野球や大学野球、社会人野球、少年野球といったアマチュア野球の選手も、野球選手に属する。 | [
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] | 野球選手(やきゅうせんしゅ)とは、野球競技において競技を行う者である。 通常、野球チーム(球団)の所属選手を指す。 日本やアメリカ合衆国、大韓民国、台湾ではプロ野球選手を指す場合が多いが、世界各国での高校野球や大学野球、社会人野球、少年野球といったアマチュア野球の選手も、野球選手に属する。 | {{出典の明記|date=2012年8月8日 (水) 05:33 (UTC)}}
{{字引|date=2022/09/09}}
[[File:Baseball swing.jpg|thumb|野球の打者([[スイング]]する右打者)]]
{{ウィキプロジェクトリンク|野球選手}}
'''野球選手'''(やきゅうせんしゅ)とは、[[野球]]競技において競技を行う者である。
通常、野球チーム([[球団]])の所属[[アスリート|選手]]を指す。
[[日本]]や[[アメリカ合衆国]]、[[大韓民国]]、[[台湾]]では'''[[プロ野球選手]]'''を指す場合が多いが、世界各国での[[高校野球]]や[[大学野球]]、[[社会人野球]]、[[少年野球]]といった[[日本のアマチュア野球|アマチュア野球]]の選手も、野球選手に属する。
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8,419 | 表意文字 | 表意文字(ひょういもじ、英: ideogram)は、広義では、事物の概念を表わす文字。「意字」とも。「表音文字」と対比される用語。
表意文字とは、「意味」を形(絵)に置き換えて表した文字(象形文字、指事文字など)の集まり。文字の一つ一つに意味があるため、ある文字を一つ見るだけで伝えたいことが理解できる。
アラビア数字、その他の数学記号は、代表的な表意文字である。&は本来はラテン語の "et" の事であるが、英語のand、ドイツ語のundなど、違う言語の同じ意味の言葉を表す文字となっており、現代では表意文字といえる。
表意文字は、ひとつひとつの文字が意味を表すが、必ずしも言語の発音を表してはいない。そのため表意文字で書かれた文章を、異なる言語を用いる者が、それぞれの言語で読む事もできる。前述の数字や数学記号はその典型であって、「1+1=2」は、日本語で「一足す一は二」、英語で「One plus one equals two」と読める。
対義語として、表音文字がある。一つの文字で音素または音節を表す文字体系の事である。表音文字は表意文字から発展し、文字の意味を無視して発音のみを利用したのが、その発祥であったとされる。
漢字も、日本語の書記に使用される場合においては表意文字と呼ばれる。しかし漢字は中国語の書記においては、文字のひとつひとつが意味のみを表すのではなく、言語の語や形態素を表し、その結果、語や形態素の発音も表していることから、表意文字と呼ぶのは必ずしも適切ではない。文字体系の分類では、漢字は中国語の書記において使用されるときには表語文字と呼ばれる。
表意文字のうち、言語との結びつきがないが意味を表す図像を特に絵文字 (英: pictogram) と呼ぶこともあり、顔文字もこの一種である。
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] | 表意文字は、広義では、事物の概念を表わす文字。「意字」とも。「表音文字」と対比される用語。 | {{WStypes}}
'''表意文字'''(ひょういもじ、{{lang-en-short|ideogram}})は、広義では、事物の[[概念]]を表わす[[文字]]<ref name="Britannica_shoukoumoku_hyoui">ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典【表意文字】</ref>。「意字」とも<ref>『精選版 日本国語大辞典』【表意文字】</ref>。「表音文字」と対比される用語<ref name="Seisen">精選版 日本国語大辞典【表意文字】</ref>。
== 概説 ==
'''表意文字'''とは、「意味」を形(絵)に置き換えて表した文字([[象形文字]]、[[指事文字]]など)の集まり。文字の一つ一つに意味があるため、ある文字を一つ見るだけで伝えたいことが理解できる。
[[アラビア数字]]、その他の数学記号は、代表的な表意文字である。[[&]]は本来は[[ラテン語]]の "et" の事であるが、英語のand、ドイツ語のundなど、違う言語の同じ意味の言葉を表す文字となっており、現代では表意文字といえる。
表意文字は、ひとつひとつの文字が意味を表すが、必ずしも[[言語]]の発音を表してはいない。そのため表意文字で書かれた文章を、異なる言語を用いる者が、それぞれの言語で読む事もできる。前述の数字や数学記号はその典型であって、「1+1=2」は、日本語で「一足す一は二」、英語で「One plus one equals two」と読める。
対義語として、[[表音文字]]がある。一つの文字で音素または音節を表す文字体系の事である。表音文字は表意文字から発展し、文字の意味を無視して発音のみを利用したのが、その発祥であったとされる。
[[漢字]]も、日本語の書記に使用される場合においては表意文字と呼ばれる。しかし漢字は中国語の書記においては、文字のひとつひとつが[[意味]]のみを表すのではなく、言語の語や[[形態素]]を表し、その結果、語や形態素の発音も表していることから、表意文字と呼ぶのは必ずしも適切ではない<ref>たとえば Gelb, I. J. ''A Study of Writing'', University of Chicago Press, 1963 参照。</ref>。[[文字|文字体系]]の分類では、漢字は中国語の書記において使用されるときには[[表語文字]]と呼ばれる。
表意文字のうち、言語との結びつきがないが意味を表す図像を特に[[絵文字]] (英: ''pictogram'') と呼ぶこともあり、[[顔文字]]もこの一種である。
また古代アメリカの[[マヤ文字]]([[紋章文字]])も表意文字とされ、漢字と仮名文字から成る日本語と同様、表意と表音の組み合わせ(異なる文字体系)から成立する<ref>『神秘の王朝 マヤ文明展』 2003年 [[TBSテレビ|TBS]] [[国立科学博物館]] p.22</ref>。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{| border="1" cellspacing="0" style="width: 200px; margin: 0em 0em 0.5em 1.5em; float: right; clear: right; border: 1px #a0a0a0 solid; border-collapse: collapse; font-size: 85%; background-color:white"
|+ '''文字体系の類型'''
|-
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| colspan="3" |[[表音文字]]
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|-
<!-- -->
| rowspan="3" style="width: 2em; border-style: hidden none none none;" |
| [[アブジャド]]
|-
<!-- -->
<!-- -->
| [[アブギダ]]
|-
<!-- -->
<!-- -->
| [[アルファベット]]
|-
<!-- -->
| colspan="2" |[[音節文字]]
|-
| colspan="3" |[[表語文字]]([[象形文字]]を含む)
|-
! rowspan="2" style="width: 2em; margin: 0em 0.5em 0em 0.5em; text-align: center;" |その他
| colspan="3" |'''表意文字'''
|-
| colspan="3" |[[ピクトグラム]]([[絵文字]])
|-
|}
* [[象形文字]]
* [[指事文字]]
* [[表音文字]]
** [[音素文字]]
*** [[アブギダ]]
*** [[アブジャド]]
*** [[アルファベット]]
** [[音節文字]]
*** [[仮名 (文字)]]
**** [[平仮名]]
**** [[片仮名]]
* [[表語文字]]
** [[漢字]]
* [[数字]]
* [[絵文字]]
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[[Category:文字]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%A8%E6%84%8F%E6%96%87%E5%AD%97 |
8,420 | ベクトル化率 | ベクトル化率(ベクトルかりつ)は、プログラムの実行において、 ベクトル命令で実行可能な時間/全てスカラー命令で実行した場合の総計算時間のことである。 | [
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] | ベクトル化率(ベクトルかりつ)は、プログラムの実行において、
ベクトル命令で実行可能な時間/全てスカラー命令で実行した場合の総計算時間のことである。 | {{出典の明記| date = 2021年6月}}
'''ベクトル化率'''(ベクトルかりつ)は、[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]の実行において、
[[ベクトル演算|ベクトル命令]]<ref>[https://www.jamstec.go.jp/es/jp/simschool/f90learning/chap7/page2.html 7章:並列化とベクトル化] JAMSTEC</ref>で実行可能な時間/全て[[スカラー計算機|スカラー命令]]で実行した場合の総計算時間のことである。
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 関連項目 ==
* [[ベクトル化]]
* [[アムダールの法則]]
* [[コンピュータ]]
* [[スーパーコンピュータ]]
{{Computer-stub}}
{{デフォルトソート:へくとるかりつ}}
[[Category:スーパーコンピュータ]] | null | 2022-08-27T02:05:22Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%AB%E5%8C%96%E7%8E%87 |
8,421 | 表音文字 | 表音文字(ひょうおんもじ)は、音標文字(おんぴょうもじ)ともいい、一つの文字で音素または音節を表す文字体系のことをいう。前者を音素文字、後者を音節文字という。表音文字に対し、一つ一つの文字が語や形態素を表す文字を表語文字という。
表音文字の多くは象形文字や表語文字に起源を持つ。これらの文字体系から特定の文字を借りて、文字の意味は無視して音価を表すことに使ったのである。そのため、文字同士の形状の違いに規則性がない場合が多いが、後世に作られた文字の中には、規則的な形状を持つものもある (たとえばハングルは、発音するときの口や舌の形を表したものとされる)。表語文字が原則として単独の文字で意味をなすのに対し、表音文字(特に音素文字)は単独では意味を成さず特定の順序につながって初めて意味を成すことが多い。また、仮に一文字で意味を成したとしても、それはたまたまその言語に一音素(または一音節)の語や形態素が存在していたということを意味するに過ぎない。形式的に言い替えると、表音文字は言語の二重分節のうち、2次分節のレベルで言語を表記するものであると言える。ただし、分節の程度はさまざまで、音素の段階まで分節するものや、モーラや音節の段階までしか分節しないものがある。まれに、複数音節を表す文字を持つ表音文字体系もある。
音素文字は、音価を変えうる最小の音の単位(音素)を一文字で表す。言語をまたいで広く用いられている最も代表的な音素文字は、いずれも近東のシナイ文字・フェニキア文字に起源を持つラテン文字およびアラビア文字で、ラテン文字は主にヨーロッパで、アラビア文字は主に中東で使われている。そのほかに、現在使われている代表的な音素文字には、キリル文字、デーヴァナーガリー、エチオピア文字、ギリシア文字がある。中国語の音を示すために補助的に用いられている注音符号も音素文字である。音素文字では、一般に音節を複数の記号で表す。
一方、音節文字はある種の響きのまとまりの単位である1音節や1モーラを1文字で表す。そのため、音節文字は原則として1文字でも1音節あるいは1モーラとしての発音が可能である。かな文字などはこれに当たる。
同じ表音文字の文字体系でも、言語によって用いられる文字の数や種類が異なる。これは、各々の時代の各々の言語の実状にあうよう、各々の言語で文字の種類が独自に拡張され続けたためである。ラテン文字のように多くの言語で用いられている文字体系の場合、ひとつの言語で用いられる文字の数はそれほど多くなくても、その体系に属する文字を全て集めるとかなりの量になる。もっとも後述の通り、各々の言語にあわせての文字種類の拡張が行われない、あるいは不十分な事例もあり、不自由を生じている場合もある。
ある言語で用いられる表記の単位のことを字母という。字母は文字と一致することが多いが、言語や民族によってはより小さな単位を字母とする場合もある。ラテン文字の場合、字母と文字が一致しており、古代ラテン語ならば字母は21文字、現代英語ならば字母は26文字である。また、同じ文字体系の同じ字母がどの言語でも同じ発音を表すとは限らない。例えばJはドイツ語では[j]を、フランス語では[ʒ]を表す。
また、表音文字は、発音と文字の一致が原則だが、例外は多い。これはその言語において、時代によって発音の変化に文字の綴りが対応せず、古い発音をそのまま残存している場合が多々あるためである。現代英語や、日本語の仮名における歴史的仮名遣いなどがこれに該当する。あるいは、文字の数が発音の種類に対して不足しており、ひとつの言語内で同じ文字が複数の発音を持つこともある。例えば現代英語においては、母音の数が14種類存在するが、それに対応するだけの文字の種類が存在しない。またかつての仮名は濁点が存在せず、清音と濁音は表記で区別されず、読者が文脈から判断した。一方で現代ドイツ語のように、正書法を制定し、ウムラウト記号の付加によって文字数の不足を補い、発音と表記の一致に努めている例もある。
表音文字のうち音素文字については、原則として子音のみを文字表記し、母音は読者が文脈で判断する場合もあり、現代ヘブライ語のヘブライ文字表記などが該当する。古代エジプト語の表記も子音のみであり、母音が異なるが表記が同じ場合の区別の方法として、単語の前に品詞名を表す記号(例えば神の名を表す単語なら、神の名である事を表す記号)を付加した。 | [
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"text": "表音文字の多くは象形文字や表語文字に起源を持つ。これらの文字体系から特定の文字を借りて、文字の意味は無視して音価を表すことに使ったのである。そのため、文字同士の形状の違いに規則性がない場合が多いが、後世に作られた文字の中には、規則的な形状を持つものもある (たとえばハングルは、発音するときの口や舌の形を表したものとされる)。表語文字が原則として単独の文字で意味をなすのに対し、表音文字(特に音素文字)は単独では意味を成さず特定の順序につながって初めて意味を成すことが多い。また、仮に一文字で意味を成したとしても、それはたまたまその言語に一音素(または一音節)の語や形態素が存在していたということを意味するに過ぎない。形式的に言い替えると、表音文字は言語の二重分節のうち、2次分節のレベルで言語を表記するものであると言える。ただし、分節の程度はさまざまで、音素の段階まで分節するものや、モーラや音節の段階までしか分節しないものがある。まれに、複数音節を表す文字を持つ表音文字体系もある。",
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"text": "音素文字は、音価を変えうる最小の音の単位(音素)を一文字で表す。言語をまたいで広く用いられている最も代表的な音素文字は、いずれも近東のシナイ文字・フェニキア文字に起源を持つラテン文字およびアラビア文字で、ラテン文字は主にヨーロッパで、アラビア文字は主に中東で使われている。そのほかに、現在使われている代表的な音素文字には、キリル文字、デーヴァナーガリー、エチオピア文字、ギリシア文字がある。中国語の音を示すために補助的に用いられている注音符号も音素文字である。音素文字では、一般に音節を複数の記号で表す。",
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"text": "同じ表音文字の文字体系でも、言語によって用いられる文字の数や種類が異なる。これは、各々の時代の各々の言語の実状にあうよう、各々の言語で文字の種類が独自に拡張され続けたためである。ラテン文字のように多くの言語で用いられている文字体系の場合、ひとつの言語で用いられる文字の数はそれほど多くなくても、その体系に属する文字を全て集めるとかなりの量になる。もっとも後述の通り、各々の言語にあわせての文字種類の拡張が行われない、あるいは不十分な事例もあり、不自由を生じている場合もある。",
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"text": "ある言語で用いられる表記の単位のことを字母という。字母は文字と一致することが多いが、言語や民族によってはより小さな単位を字母とする場合もある。ラテン文字の場合、字母と文字が一致しており、古代ラテン語ならば字母は21文字、現代英語ならば字母は26文字である。また、同じ文字体系の同じ字母がどの言語でも同じ発音を表すとは限らない。例えばJはドイツ語では[j]を、フランス語では[ʒ]を表す。",
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"text": "また、表音文字は、発音と文字の一致が原則だが、例外は多い。これはその言語において、時代によって発音の変化に文字の綴りが対応せず、古い発音をそのまま残存している場合が多々あるためである。現代英語や、日本語の仮名における歴史的仮名遣いなどがこれに該当する。あるいは、文字の数が発音の種類に対して不足しており、ひとつの言語内で同じ文字が複数の発音を持つこともある。例えば現代英語においては、母音の数が14種類存在するが、それに対応するだけの文字の種類が存在しない。またかつての仮名は濁点が存在せず、清音と濁音は表記で区別されず、読者が文脈から判断した。一方で現代ドイツ語のように、正書法を制定し、ウムラウト記号の付加によって文字数の不足を補い、発音と表記の一致に努めている例もある。",
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] | 表音文字(ひょうおんもじ)は、音標文字(おんぴょうもじ)ともいい、一つの文字で音素または音節を表す文字体系のことをいう。前者を音素文字、後者を音節文字という。表音文字に対し、一つ一つの文字が語や形態素を表す文字を表語文字という。 | {{WStypes}}
'''表音文字'''(ひょうおんもじ)は、'''音標文字'''(おんぴょうもじ)ともいい、一つの[[文字]]で[[音素]]または音節を表す[[文字#文字体系と表記体系|文字体系]]のことをいう。前者を'''[[音素文字]]'''、後者を'''[[音節文字]]'''という。表音文字に対し、一つ一つの文字が語や[[形態素]]を表す文字を[[表語文字]]という。
== 解説 ==
{{See also|音素文字|音節文字}}
表音文字の多くは[[象形文字]]や[[表語文字]]に起源を持つ。これらの文字体系から特定の文字を借りて、文字の意味は無視して[[単音|音価]]を表すことに使ったのである。そのため、文字同士の形状の違いに規則性がない場合が多いが、後世に作られた文字の中には、規則的な形状を持つものもある (たとえば[[ハングル]]は、発音するときの口や舌の形を表したものとされる)。表語文字が原則として単独の文字で意味をなすのに対し、表音文字(特に音素文字)は単独では意味を成さず特定の順序につながって初めて意味を成すことが多い。また、仮に一文字で意味を成したとしても、それはたまたまその言語に一音素(または一音節)の語や形態素が存在していたということを意味するに過ぎない。形式的に言い替えると、表音文字は言語の[[言語学#言語学が明らかにした言語の特徴の例|二重分節]]のうち、2次分節のレベルで言語を表記するものであると言える。ただし、分節の程度はさまざまで、[[音素]]の段階まで分節するものや、[[モーラ]]や[[音節]]の段階までしか分節しないものがある。まれに、複数音節を表す文字を持つ表音文字体系もある。
[[音素文字]]は、音価を変えうる最小の音の単位([[音素]])を一文字で表す。[[言語]]をまたいで広く用いられている最も代表的な音素文字は、いずれも[[近東]]の[[シナイ文字]]・[[フェニキア文字]]に起源を持つ[[ラテン文字]]および[[アラビア文字]]で、ラテン文字は主に[[ヨーロッパ]]で、アラビア文字は主に[[中東]]で使われている。そのほかに、現在使われている代表的な音素文字には、[[キリル文字]]、[[デーヴァナーガリー]]、[[ゲエズ文字|エチオピア文字]]、[[ギリシア文字]]がある。[[中国語]]の音を示すために補助的に用いられている[[注音符号]]も音素文字である。音素文字では、一般に音節を複数の記号で表す。
<!--
[以下は意味がわからない。音素文字のうち[[アブジャド]]は、子音のみを表記するので下のような解説はあてはまらないのでは。いっぽう、アルファベットで表記される言語でも[[スラブ語]]ではв, з, к, сなどの前置詞があり、音節を成さなくても一語である。コメントアウト]
音素文字の中にはたとえ発音可能であってもその響きが弱いために単独では音節をなさないものもあり(例えばB、C、Dなどの[[子音]]を表すラテン文字)、そのような文字だけで1語を形成することはまれである。(例外としては「B.B.C」などのような省略語があるが、この場合は「bee bee see」のようにそれぞれの文字の呼称で発音される。)
-->
一方、[[音節文字]]はある種の響きのまとまりの単位である1音節や1モーラを1文字で表す。そのため、音節文字は原則として1文字でも1音節あるいは1モーラとしての発音が可能である。[[仮名 (文字)|かな文字]]などはこれに当たる。
<!-- 削除。[[ノート:音素音節文字]]、[[ノート:文字/改訂の議論 20070115-#「音節文字」にまつわる用語]]参照。
また[[ハングル]]は、子音と母音を区別する音素文字であると同時に、音節ごとに書く[[音節文字]]でもある。
-->
同じ表音文字の文字体系でも、[[言語]]によって用いられる文字の数や種類が異なる。これは、各々の時代の各々の言語の実状にあうよう、各々の言語で文字の種類が独自に拡張され続けたためである。ラテン文字のように多くの言語で用いられている文字体系の場合、ひとつの言語で用いられる文字の数はそれほど多くなくても、その体系に属する文字を全て集めるとかなりの量になる。もっとも後述の通り、各々の言語にあわせての文字種類の拡張が行われない、あるいは不十分な事例もあり、不自由を生じている場合もある。
ある言語で用いられる表記の単位のことを'''字母'''という。字母は文字と一致することが多いが、言語や民族によってはより小さな単位を字母とする場合もある。ラテン文字の場合、字母と文字が一致しており、古代[[ラテン語]]ならば字母は21文字、現代[[英語]]ならば字母は26文字である。また、同じ文字体系の同じ字母がどの言語でも同じ発音を表すとは限らない。例えば[[J]]は[[ドイツ語]]では[[硬口蓋接近音|{{IPA|j}}]]を、[[フランス語]]では[[有声後部歯茎摩擦音|{{IPA|ʒ}}]]を表す。
また、表音文字は、発音と文字の一致が原則だが、例外は多い。これはその言語において、時代によって発音の変化に文字の綴りが対応せず、古い発音をそのまま残存している場合が多々あるためである。現代英語や、日本語の[[仮名]]における歴史的仮名遣いなどがこれに該当する。あるいは、文字の数が発音の種類に対して不足しており、ひとつの言語内で同じ文字が複数の発音を持つこともある。例えば現代英語においては、母音の数が14種類存在するが、それに対応するだけの文字の種類が存在しない。またかつての仮名は濁点が存在せず、清音と濁音は表記で区別されず、読者が文脈から判断した。一方で現代[[ドイツ語]]のように、正書法を制定し、[[ウムラウト]]記号の付加によって文字数の不足を補い、発音と表記の一致に努めている例もある。
表音文字のうち音素文字については、原則として子音のみを文字表記し、母音は読者が文脈で判断する場合もあり、現代[[ヘブライ語]]のヘブライ文字表記などが該当する。古代[[エジプト語]]の表記も子音のみであり、母音が異なるが表記が同じ場合の区別の方法として、単語の前に品詞名を表す記号(例えば神の名を表す単語なら、神の名である事を表す記号)を付加した。
== 関連項目 ==
{| border="1" cellspacing="0" style="width: 200px; margin: 0em 0em 0.5em 1.5em; float: right; clear: right; border: 1px #a0a0a0 solid; border-collapse: collapse; font-size: 85%; background-color:white"
|+ '''文字体系の類型'''
|-
! rowspan="7" style="width: 2em; padding:0.5em; margin: 0em 0.5em 0em 0.5em; text-align: center;" |いわゆる文字
| colspan="3" |'''表音文字'''
|-
| rowspan="5" style="width: 2em; border-style: hidden none none none;" |
| colspan="2" |[[音素文字]]
|-
<!-- -->
| rowspan="3" style="width: 2em; border-style: hidden none none none;" |
| [[アブジャド]]
|-
<!-- -->
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| [[アブギダ]]
|-
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| [[アルファベット]]
|-
<!-- -->
| colspan="2" |[[音節文字]]
|-
| colspan="3" |[[表語文字]]([[象形文字]]を含む)
|-
! rowspan="2" style="width: 2em; margin: 0em 0.5em 0em 0.5em; text-align: center;" |その他
| colspan="3" |[[表意文字]]
|-
| colspan="3" |[[ピクトグラム]]([[絵文字]])
|-
|}
* '''表音文字'''
** [[音素文字]]
*** [[アブギダ]]
*** [[アブジャド]]
*** [[アルファベット]]
** [[音節文字]]
*** [[仮名 (文字)]]
**** [[平仮名]]
**** [[片仮名]]
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** [[数字]]
** [[絵文字]]
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[[Category:文字]]
[[Category:表音文字|*]] | null | 2023-06-23T01:03:02Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%A8%E9%9F%B3%E6%96%87%E5%AD%97 |
8,422 | 仮名 (文字) | 仮名(かな)とは、日本語の表音文字の一種。漢字を基にして日本で作られた文字を指す。古代の万葉仮名に起源を持つ。漢字の字義を捨て表音文字として用いる(借字・仮借)ことからこのように呼ぶ。
現在一般には平仮名(ひらがな)と片仮名(カタカナ)のことを指す。表音文字の一種であり、基本的に1字が1音節を表す音節文字に分類される。漢字(真名)に対して和字(わじ)ともいう。
日本に漢字が伝来する以前、日本語には固有の文字がなかった。しかし、中国大陸から漢字とともに伝来した「漢文」は当然ながら中国語に基づいた書記法であり、音韻や構文の異なる日本語を書き記すものではなかった。この「漢文」を日本語として理解するために生まれたのが「漢文訓読」である。
しかし地名や人名などの日本語の固有名詞は、漢字をそのまま使ってもその音を書き記すことはできない。そこで使われたのが漢字本来の意味を無視してその発音だけを利用し、日本語の音に当てる「借字」(しゃくじ)であった。これはたとえば漢字の「阿」が持つ本来の意味を無視して「ア」という音だけを抽出し、「阿」を日本語の「ア」として読ませるという方法である。この借字によって日本語が漢字で表記されるようになった。この表記法を俗に「万葉仮名」とも呼ぶ。
このような表記法は、仮借(かしゃ)の手法に基づき日本以外の漢字文化圏の地域でも古くから行なわれているもので、中国でも漢字を持たない異民族に由来する文物に関しては、音によって漢字を割り当てていた。邪馬台国の「卑弥呼」という表記などがこれに当たる。
漢字を借字として日本語の表記に用いるのならば、方法の上からはどんな内容でも、どれほど長い文章でも日本語で綴ることは可能であった。しかしそのようにして書かれた文章は見た目には漢字の羅列であり、はじめてそれを読む側にとっては文のどこに意味の区切りがあるのかわからず、非常に読みにくい。したがって借字でもって日本語の文をつづることは、韻文である和歌でもっぱら用いられた。和歌なら五七五七七というように五音や七音に句が分かれており、それがたいてい文や言葉の区切りとなっているので、和歌であることを前もって知っておけばなんとか読むことができたからである。
正倉院所蔵の奈良時代の公文書のなかには、本来「多」と書くところを「夕」、「牟」と書くのを「ム」と書くというように、漢字の一部を使ってその字の代わりとした表記が見られ、また現在の平仮名「つ」に似た文字が記されたりもしている。この「つ」に似た文字は漢字の「州」を字源にしているといわれるが、このように漢字の一部などを使って文字を表すことは、のちの平仮名・片仮名の誕生に繋がるものといえる。
やがて仏典を講読する僧侶の間で、その仏典の行間に漢字の音や和訓を示す借字などを備忘のために書き加える例が見られるようになるが、この借字が漢字の一部や画数の少ない漢字などを使い、本来の漢字の字形とは違う形で記されるようになった。行間という狭い場所に記すためには字形をできるだけ省く必要があり、また漢字で記される経典の本文と区別するためであった。これが現在みられる片仮名の源流である。この片仮名の源流といえるものは、文献上では平安時代初期以降の用例が確認されているが、片仮名はこうした誕生の経緯から、古くは漢字に従属しその意味や音を理解させるための文字として扱われていた。
また漢文訓読以外の場では、借字から現在の平仮名の源流となるものが現れている。これは借字としての漢字を草書よりもさらに崩した書体でもって記したものである。その平仮名を数字分の続け字すなわち連綿にすることによって意味の区切りを作り出し、長い文章でも綴ることが可能となった。これによって『土佐日記』などをはじめとする仮名(平仮名)による文学作品が平安時代以降、発達するようになる。
借字が「かな」と呼ばれるようになったのは、漢字を真名(まな)といったのに対照してのものである。当初は「かりな」と読み、撥音便形「かんな」を経て「かな」の形に定着した。もしくは、梵語のカラナ (करण、Karana、「音字」の意)からの転化という説もある。古くは単に「かな」といえば平仮名のことを指した。「ひらがな」の呼称が現れたのは中世末のことであるが、これは「平易な文字」という意味だといわれる。また片仮名の「かた」とは不完全なことを意味し、漢字に対して省略した字形ということである。
「え」については、万葉仮名では /e/ と /je/ との音を書き分けたが、その後、日本語では両者の音の区別が失われたため、平仮名・片仮名では書き分けされなかった。
「ん」については、平安時代末期に字形が定まった。
平安時代の平仮名の文章和文は、単語は大和言葉であり、平仮名を用いるのが基本であった。しかし「源氏」だとか朝廷の官職名など、大和言葉に置き換える事が不可能で漢語を用いるしかない場合は、漢字のままで記されていた。当時は漢語はあくまで漢字で記すものであり、漢語を平仮名で表記する慣習がなかった(現代も一部の例外はあるが、漢語は漢字で書くのが基本である)。また文章の読み取りを容易とするために、大和言葉も必要に応じて漢字で表記された。ただし和歌の場合は、慣習的に漢語や漢字の表記を避けるように詠まれ書き記されていた。
一方で文章の構文については、漢字が導入された当初は「漢文」の規則に従って読み書きされていたが、その後、漢字で記した言葉を日本語の構文に従って並べる形式が生まれた。さらに、助詞などを借字で語句のあいだに小さく書き添える形式(宣命書き)が行われるようになり、やがてそれら借字で記した助詞が片仮名となった。つまり、漢語や漢字で記された文章に、片仮名が補助的に付加されることがあった。
その両者はやがて統合され、『今昔物語集』に見られるような、日本語の文章の中に漢語を数多く取り入れた和漢混淆文として発展していった。成立当初の『今昔物語集』は、漢字で記された語句のあいだに小さく片仮名を書き添える宣命書きと同じスタイルで書かれていたが、やがて漢字と仮名を同じ大きさで記すようになった。平仮名と片仮名の使い分けは長年に渡って統一されなかったが、第二次世界大戦後あたりから、文章の表記には原則として平仮名を用い、片仮名は外来語など特殊な場合に用いるスタイルとなった。
平仮名は漢字から作られたものであるが、なかには現在の平仮名そのままの文字のほかに、それとは違う漢字を崩して作られたさまざまな異体字がある。現在この異体字の平仮名を変体仮名と称するが、片仮名にも古くは現在とは違った字体のものがあった。平仮名による文は変体仮名も交えて美しく書くことが求められ、それらは高野切などをはじめとする古筆切として残されている。こうした異体字をふくむ平仮名と片仮名は明治時代になると政府によって字体の整理が行われ、その結果学校教育をはじめとする一般社会において平仮名・片仮名と呼ばれるものとなった。このふたつは現代の日本語においてもそれぞれ重要な役割を担っている。
日本語の音節には清音と濁音の別があり、現在濁音をあらわす平仮名・片仮名には濁点が付くのが約束となっている。しかし仮名には、古くは濁点が付かなかった。
仮名が生れる以前の借字の段階では、清音に当てる借字のほかに濁音に当てる借字を区別して使っていた。上で述べたように借字を使った日本語の文は見た目には漢字の羅列であり、それをなるべく間違いの無いように読み取らせるためには、借字の音の清濁についても使い分けをする必要があったことによる。しかし平安時代以降の仮名には清濁の別が無くなった。それは連綿によって仮名の文字列に意味の区切りを作り出し、文の読み取りを以前よりも容易にした結果、仮名の清濁を使い分ける必要がなくなったからである。言い方をかえれば濁音を示す表記を用いなくても、不都合を感じない文を綴れるようになったということである。『古今和歌集』の伝本のひとつである高野切には紀貫之の詠んだ和歌が、
と濁点は付されていない。もしこれに濁点を付けるのならば、
となる。「そて」を「そで」、「かせ」を「かぜ」と読むのは、この和歌の文脈では「そで」「かぜ」としか読めないからであり、ほかの部分の仮名についても同様である。つまり「て」という仮名で書かれていても文脈によっては「で」と読むというように、ひとつの仮名で清音と濁音を兼ねるようにしていた。これは片仮名についても同様で、経典に漢字の読みかたを示した片仮名が書き添えられていた場合、その漢字の置かれている文脈をもって判断すれば、清濁について迷うことはなかったのである。
もちろん単語だけを取り出してしまえば、混乱が生じることになる。前田利益が「大ふへん者」と大書した旗を背負い、それを「大武辺者」と読んだ同僚から僭越を責められた際に、「これは『大不便者』と読むのだ」と返した逸話がある。
ちなみに濁点の起りについては漢字のアクセントを示す声点からきており、本来仮名には必要なかったはずの濁点は、辞書の類や『古今和歌集』などの古典の本文解釈において、言葉の意味を確定させるために使われるようになった。その使われ方や形式は様々な変遷をへて、現在用いられる形に至っている。
また類似の事例は仮名に限った話ではなく、他の文字にも見られる。チェロキー文字は仮名の五十音で言うところのカ行とガ行を区別しないが、チェロキー語の話者は文脈で判断できる。ヘブライ文字では子音のみを用いるのが普通であり、母音は文脈で判断する。母音の付加は新たにヘブライ語を学習する者への便宜、あるいは外来語にしか用いられない。
『古今和歌集』の仮名序には、つぎのような記述がある。
「なにはづのうた」というのは仁徳天皇に渡来人の王仁が、
という歌を奉ったという古事による。また「あさか山のことば」というのは、葛城王すなわち橘諸兄が東国の視察に行った折、その土地にいた采女だった女が、
という歌を作り諸兄に献上したという話である。「てならふ」とは毛筆で文字を書く練習をする事で、いまでも「手習い」という言葉に残っているが、上にあげた和歌2首が、当時仮名(平仮名)の書き方を練習するのに最初の手本とされていたということである。
和歌は文の長さが三十一字と限られており、子供が仮名の手ほどきを受ける教材としては手ごろなものであった。その数ある和歌の中から「なにはづ」と「あさかやま」の歌が「てならふ人の、はじめにもしける」といわれたのは、実際この2首が古い由緒を持った歌らしいこと、また一方では同じ句や同じ仮名が繰り返し出てくることがあげられる。「なにはづ」の歌は「さくやこのはな」という句が二度もあり、「あさかやま」も「やま」や「あさ」という仮名が二度出てくる。同じ言葉や仮名を繰り返すほうが子供にとっては内容を覚えやすく、また同じ文字を繰り返し書き記すことにもなる。
しかし当時の仮名はただ書ければよいというものではない。『源氏物語』の「若紫」の巻には、まだ幼女の紫の上を光源氏が引き取りたいと紫の上の祖母である尼君に申し入れると、「まだ難波津(なにはづ)をだにはかばかしうつゞけ侍らざめれば、かひなくなむ」 という返事をされるくだりがある。まだ「なにはづ」の歌もまともに書けないような幼い娘なので、源氏の君のお相手にはならないでしょうと断られたのであるが、「はかばかしうつゞけ侍らざめれば」とは仮名を連綿としてうまく書きこなせないということである。仮名は文字として覚えるだけではなく、その仮名を連綿で以って綴れるようにするのが当時の仮名文字の習得であった。これは単なる美観上のことだをけではなく、上で触れたように自分の書いたものを人に読み取らせるためには、仮名の連綿は書式の上でも必要なことだったのである。
以下は仮名遣いにも関わることなので詳細は他項に譲るが、仮名における発音と表記の関係について簡略に述べる。
平安時代になると日本語の音韻に変化が起こり、たとえば「こひ」(恋)という仮名に対応する発音は[ko-ɸi]であったが、のちに[ko-wi]と変化している(ハ行転呼の項参照)。[wi]の音をあらわす仮名はワ行の「ゐ」であり、そうなると「こひ」は「こゐ」と記されるようになるかと思われそうだが、文献上「こひ」(恋)を「こゐ」などと書いた例はまず見られない。仮名文字を習得した当時の人々にとっては、恋は「こひ」という仮名で記すというのがそれまでの約束となっており、その発音が変わったからといって「こゐ」と書いたのでは、他者に恋という意味で読み取らせることが出来ないからである。つまり音韻に関わりなくその表記は一定しており、これはほかにも「おもふ」など使用頻度の高い言葉ほどその傾向が見られる。ただし頻度の高い言葉でも、何かのきっかけで変わってしまいそれが定着したものもある。たとえば「ゆゑ」(故)は「ゆへ」、「なほ」(猶)は「なを」と変化し記されていた。とにかく誰かが率先して人々に指導するということがなくても、仮名の表記のありかたすなわち仮名遣いは仮名を使う上で、不都合の無い程度に固定していたということである。
その不都合のなかったはずの仮名遣いとは別に現れたのが、藤原定家の定めた仮名遣い、いわゆる定家仮名遣であった。しかし定家が仮名遣いを定めた目的は、それを多くの人に広めて仮名遣いを改めようとしたなどということではない。
定家は当時すでに古典とされた『古今和歌集』をはじめとする歌集、また『源氏物語』や『伊勢物語』などの物語を頻繁に書写していたが、それは単に書き写すだけではなく、内容を理解し、また自分が写した本を自分の子孫も読んで理解できるようにと心がけた。その手立てのひとつとして仮名遣いを定めたのである。つまりそれまでは多かれ少なかれ表記の揺れがあった仮名遣いを、自分が写した本においてはこの意味ではこう書くのだと規範を定め、それ以外の意味に読まれないようにしたのであった。たとえば当時いずれも[wo]の音となっていた「を」と「お」の仮名はアクセントの違いによって書き分けるよう定めており、これによって「置く」は「をく」、「奥」は「おく」と書いている。その結果定家の定めた仮名遣いは、音韻の変化する以前のものとは異なるものがあったが、定家は自分が写した本の内容が人から見て読みやすい事に腐心したのであって、仮名遣いはその一助として定められたに過ぎない。要するに定家の個人的な事情により、定家仮名遣と呼ばれるものは始まったのである(定家仮名遣の項参照)。
定家の定めた仮名遣いはその後、南北朝時代に行阿によって増補された。それが歌人定家の権威もあって、定家仮名遣と称して教養層のあいだで広く使われたが、明治になると今度は政府によって歴史的仮名遣が定められ、これが広く一般社会において用いられた。
第二次大戦後は現行の現代仮名遣いが用いられている。現代仮名遣いはおおむね1字1音の原則によって定められているとされるが、徹底はしておらず以下のような例が存在する。
以上を見れば現代仮名遣いにもその以前からあった仮名遣いと同様に、発音には拠らずに書きあらわす例が定められているのがわかる。「続く」は「つづく」と書くが、「つずく」と書くように定められてはいない。蝶々は「ちょうちょう」と書くが「ちょおちょお」や「ちょーちょー」は不可とされる。現代仮名遣いとは実際には、歴史的仮名遣を実際の発音に近づけるよう改め、「続く」や「蝶々」のような例を歴史的仮名遣と比べて少なくしただけのものである。
歴史的仮名遣や定家仮名遣に基づかない現在の仮名のありようは、一見古い時代とは関わりがないように見える。しかし仮名は日本語の音韻に変化が起こった結果、それが定家以前に見られた一般的な慣習によるものにせよ、また個人や国家が定めるにせよ、仮名遣いを発音とは違うところに求めなければならなくなった。そういった性質は現在の仮名も、やはり受け継いでいるといえる。 | [
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"text": "漢字を借字として日本語の表記に用いるのならば、方法の上からはどんな内容でも、どれほど長い文章でも日本語で綴ることは可能であった。しかしそのようにして書かれた文章は見た目には漢字の羅列であり、はじめてそれを読む側にとっては文のどこに意味の区切りがあるのかわからず、非常に読みにくい。したがって借字でもって日本語の文をつづることは、韻文である和歌でもっぱら用いられた。和歌なら五七五七七というように五音や七音に句が分かれており、それがたいてい文や言葉の区切りとなっているので、和歌であることを前もって知っておけばなんとか読むことができたからである。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "正倉院所蔵の奈良時代の公文書のなかには、本来「多」と書くところを「夕」、「牟」と書くのを「ム」と書くというように、漢字の一部を使ってその字の代わりとした表記が見られ、また現在の平仮名「つ」に似た文字が記されたりもしている。この「つ」に似た文字は漢字の「州」を字源にしているといわれるが、このように漢字の一部などを使って文字を表すことは、のちの平仮名・片仮名の誕生に繋がるものといえる。",
"title": "概説"
},
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"text": "やがて仏典を講読する僧侶の間で、その仏典の行間に漢字の音や和訓を示す借字などを備忘のために書き加える例が見られるようになるが、この借字が漢字の一部や画数の少ない漢字などを使い、本来の漢字の字形とは違う形で記されるようになった。行間という狭い場所に記すためには字形をできるだけ省く必要があり、また漢字で記される経典の本文と区別するためであった。これが現在みられる片仮名の源流である。この片仮名の源流といえるものは、文献上では平安時代初期以降の用例が確認されているが、片仮名はこうした誕生の経緯から、古くは漢字に従属しその意味や音を理解させるための文字として扱われていた。",
"title": "概説"
},
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"text": "また漢文訓読以外の場では、借字から現在の平仮名の源流となるものが現れている。これは借字としての漢字を草書よりもさらに崩した書体でもって記したものである。その平仮名を数字分の続け字すなわち連綿にすることによって意味の区切りを作り出し、長い文章でも綴ることが可能となった。これによって『土佐日記』などをはじめとする仮名(平仮名)による文学作品が平安時代以降、発達するようになる。",
"title": "概説"
},
{
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"text": "借字が「かな」と呼ばれるようになったのは、漢字を真名(まな)といったのに対照してのものである。当初は「かりな」と読み、撥音便形「かんな」を経て「かな」の形に定着した。もしくは、梵語のカラナ (करण、Karana、「音字」の意)からの転化という説もある。古くは単に「かな」といえば平仮名のことを指した。「ひらがな」の呼称が現れたのは中世末のことであるが、これは「平易な文字」という意味だといわれる。また片仮名の「かた」とは不完全なことを意味し、漢字に対して省略した字形ということである。",
"title": "概説"
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"text": "「え」については、万葉仮名では /e/ と /je/ との音を書き分けたが、その後、日本語では両者の音の区別が失われたため、平仮名・片仮名では書き分けされなかった。",
"title": "概説"
},
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"text": "「ん」については、平安時代末期に字形が定まった。",
"title": "概説"
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"text": "平安時代の平仮名の文章和文は、単語は大和言葉であり、平仮名を用いるのが基本であった。しかし「源氏」だとか朝廷の官職名など、大和言葉に置き換える事が不可能で漢語を用いるしかない場合は、漢字のままで記されていた。当時は漢語はあくまで漢字で記すものであり、漢語を平仮名で表記する慣習がなかった(現代も一部の例外はあるが、漢語は漢字で書くのが基本である)。また文章の読み取りを容易とするために、大和言葉も必要に応じて漢字で表記された。ただし和歌の場合は、慣習的に漢語や漢字の表記を避けるように詠まれ書き記されていた。",
"title": "概説"
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"text": "一方で文章の構文については、漢字が導入された当初は「漢文」の規則に従って読み書きされていたが、その後、漢字で記した言葉を日本語の構文に従って並べる形式が生まれた。さらに、助詞などを借字で語句のあいだに小さく書き添える形式(宣命書き)が行われるようになり、やがてそれら借字で記した助詞が片仮名となった。つまり、漢語や漢字で記された文章に、片仮名が補助的に付加されることがあった。",
"title": "概説"
},
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"text": "その両者はやがて統合され、『今昔物語集』に見られるような、日本語の文章の中に漢語を数多く取り入れた和漢混淆文として発展していった。成立当初の『今昔物語集』は、漢字で記された語句のあいだに小さく片仮名を書き添える宣命書きと同じスタイルで書かれていたが、やがて漢字と仮名を同じ大きさで記すようになった。平仮名と片仮名の使い分けは長年に渡って統一されなかったが、第二次世界大戦後あたりから、文章の表記には原則として平仮名を用い、片仮名は外来語など特殊な場合に用いるスタイルとなった。",
"title": "概説"
},
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"text": "平仮名は漢字から作られたものであるが、なかには現在の平仮名そのままの文字のほかに、それとは違う漢字を崩して作られたさまざまな異体字がある。現在この異体字の平仮名を変体仮名と称するが、片仮名にも古くは現在とは違った字体のものがあった。平仮名による文は変体仮名も交えて美しく書くことが求められ、それらは高野切などをはじめとする古筆切として残されている。こうした異体字をふくむ平仮名と片仮名は明治時代になると政府によって字体の整理が行われ、その結果学校教育をはじめとする一般社会において平仮名・片仮名と呼ばれるものとなった。このふたつは現代の日本語においてもそれぞれ重要な役割を担っている。",
"title": "概説"
},
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"text": "日本語の音節には清音と濁音の別があり、現在濁音をあらわす平仮名・片仮名には濁点が付くのが約束となっている。しかし仮名には、古くは濁点が付かなかった。",
"title": "仮名における清音と濁音"
},
{
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"text": "仮名が生れる以前の借字の段階では、清音に当てる借字のほかに濁音に当てる借字を区別して使っていた。上で述べたように借字を使った日本語の文は見た目には漢字の羅列であり、それをなるべく間違いの無いように読み取らせるためには、借字の音の清濁についても使い分けをする必要があったことによる。しかし平安時代以降の仮名には清濁の別が無くなった。それは連綿によって仮名の文字列に意味の区切りを作り出し、文の読み取りを以前よりも容易にした結果、仮名の清濁を使い分ける必要がなくなったからである。言い方をかえれば濁音を示す表記を用いなくても、不都合を感じない文を綴れるようになったということである。『古今和歌集』の伝本のひとつである高野切には紀貫之の詠んだ和歌が、",
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},
{
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"text": "と濁点は付されていない。もしこれに濁点を付けるのならば、",
"title": "仮名における清音と濁音"
},
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"text": "となる。「そて」を「そで」、「かせ」を「かぜ」と読むのは、この和歌の文脈では「そで」「かぜ」としか読めないからであり、ほかの部分の仮名についても同様である。つまり「て」という仮名で書かれていても文脈によっては「で」と読むというように、ひとつの仮名で清音と濁音を兼ねるようにしていた。これは片仮名についても同様で、経典に漢字の読みかたを示した片仮名が書き添えられていた場合、その漢字の置かれている文脈をもって判断すれば、清濁について迷うことはなかったのである。",
"title": "仮名における清音と濁音"
},
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"text": "もちろん単語だけを取り出してしまえば、混乱が生じることになる。前田利益が「大ふへん者」と大書した旗を背負い、それを「大武辺者」と読んだ同僚から僭越を責められた際に、「これは『大不便者』と読むのだ」と返した逸話がある。",
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},
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"text": "ちなみに濁点の起りについては漢字のアクセントを示す声点からきており、本来仮名には必要なかったはずの濁点は、辞書の類や『古今和歌集』などの古典の本文解釈において、言葉の意味を確定させるために使われるようになった。その使われ方や形式は様々な変遷をへて、現在用いられる形に至っている。",
"title": "仮名における清音と濁音"
},
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"text": "また類似の事例は仮名に限った話ではなく、他の文字にも見られる。チェロキー文字は仮名の五十音で言うところのカ行とガ行を区別しないが、チェロキー語の話者は文脈で判断できる。ヘブライ文字では子音のみを用いるのが普通であり、母音は文脈で判断する。母音の付加は新たにヘブライ語を学習する者への便宜、あるいは外来語にしか用いられない。",
"title": "仮名における清音と濁音"
},
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"text": "『古今和歌集』の仮名序には、つぎのような記述がある。",
"title": "仮名を習得するための和歌"
},
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"text": "「なにはづのうた」というのは仁徳天皇に渡来人の王仁が、",
"title": "仮名を習得するための和歌"
},
{
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"text": "という歌を奉ったという古事による。また「あさか山のことば」というのは、葛城王すなわち橘諸兄が東国の視察に行った折、その土地にいた采女だった女が、",
"title": "仮名を習得するための和歌"
},
{
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"text": "という歌を作り諸兄に献上したという話である。「てならふ」とは毛筆で文字を書く練習をする事で、いまでも「手習い」という言葉に残っているが、上にあげた和歌2首が、当時仮名(平仮名)の書き方を練習するのに最初の手本とされていたということである。",
"title": "仮名を習得するための和歌"
},
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"text": "和歌は文の長さが三十一字と限られており、子供が仮名の手ほどきを受ける教材としては手ごろなものであった。その数ある和歌の中から「なにはづ」と「あさかやま」の歌が「てならふ人の、はじめにもしける」といわれたのは、実際この2首が古い由緒を持った歌らしいこと、また一方では同じ句や同じ仮名が繰り返し出てくることがあげられる。「なにはづ」の歌は「さくやこのはな」という句が二度もあり、「あさかやま」も「やま」や「あさ」という仮名が二度出てくる。同じ言葉や仮名を繰り返すほうが子供にとっては内容を覚えやすく、また同じ文字を繰り返し書き記すことにもなる。",
"title": "仮名を習得するための和歌"
},
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"text": "しかし当時の仮名はただ書ければよいというものではない。『源氏物語』の「若紫」の巻には、まだ幼女の紫の上を光源氏が引き取りたいと紫の上の祖母である尼君に申し入れると、「まだ難波津(なにはづ)をだにはかばかしうつゞけ侍らざめれば、かひなくなむ」 という返事をされるくだりがある。まだ「なにはづ」の歌もまともに書けないような幼い娘なので、源氏の君のお相手にはならないでしょうと断られたのであるが、「はかばかしうつゞけ侍らざめれば」とは仮名を連綿としてうまく書きこなせないということである。仮名は文字として覚えるだけではなく、その仮名を連綿で以って綴れるようにするのが当時の仮名文字の習得であった。これは単なる美観上のことだをけではなく、上で触れたように自分の書いたものを人に読み取らせるためには、仮名の連綿は書式の上でも必要なことだったのである。",
"title": "仮名を習得するための和歌"
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"tag": "p",
"text": "以下は仮名遣いにも関わることなので詳細は他項に譲るが、仮名における発音と表記の関係について簡略に述べる。",
"title": "仮名の発音と表記"
},
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"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "平安時代になると日本語の音韻に変化が起こり、たとえば「こひ」(恋)という仮名に対応する発音は[ko-ɸi]であったが、のちに[ko-wi]と変化している(ハ行転呼の項参照)。[wi]の音をあらわす仮名はワ行の「ゐ」であり、そうなると「こひ」は「こゐ」と記されるようになるかと思われそうだが、文献上「こひ」(恋)を「こゐ」などと書いた例はまず見られない。仮名文字を習得した当時の人々にとっては、恋は「こひ」という仮名で記すというのがそれまでの約束となっており、その発音が変わったからといって「こゐ」と書いたのでは、他者に恋という意味で読み取らせることが出来ないからである。つまり音韻に関わりなくその表記は一定しており、これはほかにも「おもふ」など使用頻度の高い言葉ほどその傾向が見られる。ただし頻度の高い言葉でも、何かのきっかけで変わってしまいそれが定着したものもある。たとえば「ゆゑ」(故)は「ゆへ」、「なほ」(猶)は「なを」と変化し記されていた。とにかく誰かが率先して人々に指導するということがなくても、仮名の表記のありかたすなわち仮名遣いは仮名を使う上で、不都合の無い程度に固定していたということである。",
"title": "仮名の発音と表記"
},
{
"paragraph_id": 31,
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"text": "その不都合のなかったはずの仮名遣いとは別に現れたのが、藤原定家の定めた仮名遣い、いわゆる定家仮名遣であった。しかし定家が仮名遣いを定めた目的は、それを多くの人に広めて仮名遣いを改めようとしたなどということではない。",
"title": "仮名の発音と表記"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "定家は当時すでに古典とされた『古今和歌集』をはじめとする歌集、また『源氏物語』や『伊勢物語』などの物語を頻繁に書写していたが、それは単に書き写すだけではなく、内容を理解し、また自分が写した本を自分の子孫も読んで理解できるようにと心がけた。その手立てのひとつとして仮名遣いを定めたのである。つまりそれまでは多かれ少なかれ表記の揺れがあった仮名遣いを、自分が写した本においてはこの意味ではこう書くのだと規範を定め、それ以外の意味に読まれないようにしたのであった。たとえば当時いずれも[wo]の音となっていた「を」と「お」の仮名はアクセントの違いによって書き分けるよう定めており、これによって「置く」は「をく」、「奥」は「おく」と書いている。その結果定家の定めた仮名遣いは、音韻の変化する以前のものとは異なるものがあったが、定家は自分が写した本の内容が人から見て読みやすい事に腐心したのであって、仮名遣いはその一助として定められたに過ぎない。要するに定家の個人的な事情により、定家仮名遣と呼ばれるものは始まったのである(定家仮名遣の項参照)。",
"title": "仮名の発音と表記"
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{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "定家の定めた仮名遣いはその後、南北朝時代に行阿によって増補された。それが歌人定家の権威もあって、定家仮名遣と称して教養層のあいだで広く使われたが、明治になると今度は政府によって歴史的仮名遣が定められ、これが広く一般社会において用いられた。",
"title": "仮名の発音と表記"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "第二次大戦後は現行の現代仮名遣いが用いられている。現代仮名遣いはおおむね1字1音の原則によって定められているとされるが、徹底はしておらず以下のような例が存在する。",
"title": "仮名の発音と表記"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "以上を見れば現代仮名遣いにもその以前からあった仮名遣いと同様に、発音には拠らずに書きあらわす例が定められているのがわかる。「続く」は「つづく」と書くが、「つずく」と書くように定められてはいない。蝶々は「ちょうちょう」と書くが「ちょおちょお」や「ちょーちょー」は不可とされる。現代仮名遣いとは実際には、歴史的仮名遣を実際の発音に近づけるよう改め、「続く」や「蝶々」のような例を歴史的仮名遣と比べて少なくしただけのものである。",
"title": "仮名の発音と表記"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "歴史的仮名遣や定家仮名遣に基づかない現在の仮名のありようは、一見古い時代とは関わりがないように見える。しかし仮名は日本語の音韻に変化が起こった結果、それが定家以前に見られた一般的な慣習によるものにせよ、また個人や国家が定めるにせよ、仮名遣いを発音とは違うところに求めなければならなくなった。そういった性質は現在の仮名も、やはり受け継いでいるといえる。",
"title": "仮名の発音と表記"
}
] | 仮名(かな)とは、日本語の表音文字の一種。漢字を基にして日本で作られた文字を指す。古代の万葉仮名に起源を持つ。漢字の字義を捨て表音文字として用いる(借字・仮借)ことからこのように呼ぶ。 現在一般には平仮名(ひらがな)と片仮名(カタカナ)のことを指す。表音文字の一種であり、基本的に1字が1音節を表す音節文字に分類される。漢字(真名)に対して和字(わじ)ともいう。 | {{Infobox WS
| name=仮名
| caption =[[平仮名]]と[[片仮名]]
| type=音節文字
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| languages=[[日本語]]、[[琉球語]]、[[アイヌ語]]
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| iso15924=Hrkt
}}
{{仮名}}
'''仮名'''(かな)とは、日本語の表音文字の一種。[[漢字]]を基にして[[日本]]で作られた[[文字]]を指す。古代の[[万葉仮名]]に起源を持つ。漢字の字義を捨て[[表音文字]]として用いる([[借字]]・[[仮借]])ことからこのように呼ぶ<ref>これに対し、漢字を真名と呼び、元来の字義および音を持ち、区別される。</ref>。
現在一般には[[平仮名]](ひらがな)と[[片仮名]](カタカナ)のことを指す。[[表音文字]]の一種であり、基本的に1字が1音節を表す[[音節文字]]に分類される。漢字()に対して'''和字'''(わじ)ともいう<ref>ただし和字は[[和製漢字]]を意味することもある。</ref>。
<!--[[平仮名]]、[[片仮名]]が作られたことにより、[[漢字]]と共に日本語は三色に色分けされた大変読み易い言葉になった。-->
{{see also|日本語の表記体系}}
== 概説 ==
=== 仮名の生まれる以前 ===
日本に[[漢字]]が伝来する以前、[[日本語]]には固有の文字がなかった<ref group="注">江戸時代以降[[国粋主義]]の高まりにより、漢字の伝来以前に「[[神代文字]]」という文字が日本にあったという主張が行われたが、現在では否定されている。</ref>。しかし、[[中国大陸]]から漢字とともに伝来した「[[漢文]]」は当然ながら[[中国語]]に基づいた書記法であり、[[音韻]]や構文の異なる日本語を書き記すものではなかった。この「漢文」を日本語として理解するために生まれたのが「[[漢文訓読]]」である。
しかし地名や人名などの日本語の[[固有名詞]]は、漢字をそのまま使ってもその音を書き記すことはできない。そこで使われたのが漢字本来の意味を無視してその発音だけを利用し、日本語の音に当てる「[[借字]]」(しゃくじ)であった。これはたとえば漢字の「阿」が持つ本来の意味を無視して「ア」という音だけを抽出し、「阿」を日本語の「ア」として読ませるという方法である。この借字によって日本語が漢字で表記されるようになった。この表記法を俗に「[[万葉仮名]]」とも呼ぶ。
このような表記法は、[[仮借]](かしゃ)の手法に基づき日本以外の漢字文化圏の地域でも古くから行なわれているもので、中国でも漢字を持たない異民族に由来する文物に関しては、音によって漢字を割り当てていた。[[邪馬台国]]の「卑弥呼」という表記などがこれに当たる。
漢字を借字として日本語の表記に用いるのならば、方法の上からはどんな内容でも、どれほど長い文章でも日本語で綴ることは可能であった。しかしそのようにして書かれた文章は見た目には漢字の羅列であり、はじめてそれを読む側にとっては文のどこに意味の区切りがあるのかわからず、非常に読みにくい。したがって借字でもって日本語の文をつづることは、[[韻文]]である[[和歌]]でもっぱら用いられた。和歌なら五七五七七というように五音や七音に句が分かれており、それがたいてい文や言葉の区切りとなっているので、和歌であることを前もって知っておけばなんとか読むことができたからである。
=== 仮名の登場 ===
[[正倉院]]所蔵の[[奈良時代]]の公文書のなかには、本来「多」と書くところを「夕」、「牟」と書くのを「ム」と書くというように、漢字の一部を使ってその字の代わりとした表記が見られ、また現在の平仮名「つ」に似た文字が記されたりもしている。この「つ」に似た文字は漢字の「州」を字源にしているといわれるが、このように漢字の一部などを使って文字を表すことは、のちの平仮名・片仮名の誕生に繋がるものといえる。
やがて[[仏典]]を講読する僧侶の間で、その仏典の行間に漢字の音や[[和訓]]を示す借字などを備忘のために書き加える例が見られるようになるが、この借字が漢字の一部や画数の少ない漢字などを使い、本来の漢字の字形とは違う形で記されるようになった。行間という狭い場所に記すためには字形をできるだけ省く必要があり、また漢字で記される経典の本文と区別するためであった。これが現在みられる片仮名の源流である。この片仮名の源流といえるものは、文献上では[[平安時代]]初期以降の用例が確認されているが、片仮名はこうした誕生の経緯から、古くは漢字に従属しその意味や音を理解させるための文字として扱われていた。
また漢文訓読以外の場では、借字から現在の平仮名の源流となるものが現れている。これは借字としての漢字を[[草書]]よりもさらに崩した書体でもって記したものである。その平仮名を数字分の続け字すなわち[[連綿 (書道)|連綿]]にすることによって意味の区切りを作り出し、長い文章でも綴ることが可能となった。これによって『[[土佐日記]]』などをはじめとする仮名(平仮名)による文学作品が平安時代以降、発達するようになる。
[[Image:Tosa nikki copied by Teika.JPG|thumb|200px|『土佐日記』 [[藤原定家]]が[[紀貫之]]自筆本より臨書したものの部分<ref group="注">[[文暦]]2年([[1235年]])、京都[[蓮華王院]]の宝蔵には紀貫之自筆の『土左日記』(その表紙には「土左日記」と記されていたという)が所蔵されていたが、定家はそれを閲覧する機会を得たので、その本文を書き写し写本を作った。画像はその巻末に、写本の本文とは別に書き写した部分である。この臨書の最後には、「為令知手跡之躰、如形写留之。謀詐之輩、以他手跡多称其筆。可謂奇怪」(貫之の手跡がこういうものだと知らしめるために、その通りにここに写しておく。いんちきなことをする連中が、他人の手跡を多く持ち出して貫之のものだと称しているからである。奇っ怪というべき事である)と記されており、当時貫之筆と称するものが多く出まわっていたようである。この臨書がどこまで貫之本人の書風に迫るものなのかは明らかではないが、「乎」(を)や「散」(さ)などの変体仮名は別として、おおむね現在のものに近い字体の仮名が連綿で記されているのが見て取れる。『原典をめざして―古典文学のための書誌―』(橋本不美男 笠間書院、1983年)第二章「古典作品の原典復原」参照。</ref>。]]
借字が「かな」と呼ばれるようになったのは、漢字を[[真名]](まな)といったのに対照してのものである。当初は「かりな」と読み、[[撥音便]]形「かんな」を経て「かな」の形に定着した<ref group="注">なお「仮名」を「かな」と読むのは[[常用漢字]]表付表で認められた[[熟字訓]]である。「か」は「かり」の転訛であり、漢字音ではないので、[[重箱読み]]には該当しない。</ref>。もしくは、[[梵語]]のカラナ (करण、Karana、「音字」の意)からの転化という説もある<ref>[{{NDLDC|993665}} 国語のため 第二] [[上田萬年]] 1903年 P.28</ref><ref>[https://books.google.co.jp/books?id=5Cwg5zfFjL8C&pg=frontcover 増訂教育辞典] [[篠原助市]] 1935年 P.157</ref>。古くは単に「かな」といえば平仮名のことを指した。「ひらがな」の呼称が現れたのは中世末のことであるが、これは「平易な文字」という意味だといわれる。また片仮名の「かた」とは不完全なことを意味し、漢字に対して省略した字形ということである。
「[[え]]」については、万葉仮名では /e/ と /je/ との音を書き分けたが、その後、日本語では両者の音の区別が失われたため、平仮名・片仮名では書き分けされなかった。
「[[ん]]」については、平安時代末期に字形が定まった。
==== 仮名の登場後 ====
平安時代の平仮名の文章[[和文]]は、単語は[[大和言葉]]であり、平仮名を用いるのが基本であった。しかし「源氏」だとか朝廷の官職名など、大和言葉に置き換える事が不可能で[[漢語]]を用いるしかない場合は、漢字のままで記されていた。当時は漢語はあくまで漢字で記すものであり、漢語を平仮名で表記する慣習がなかった(現代も一部の例外はあるが、漢語は漢字で書くのが基本である)。また文章の読み取りを容易とするために、大和言葉も必要に応じて漢字で表記された。ただし和歌の場合は、慣習的に漢語や漢字の表記を避けるように詠まれ書き記されていた。
一方で文章の構文については、漢字が導入された当初は「漢文」の規則に従って読み書きされていたが、その後、漢字で記した言葉を日本語の構文に従って並べる形式が生まれた。さらに、[[助詞]]などを借字で語句のあいだに小さく書き添える形式(宣命書き)が行われるようになり、やがてそれら借字で記した助詞が片仮名となった。つまり、漢語や漢字で記された文章に、片仮名が補助的に付加されることがあった。
その両者はやがて統合され、『[[今昔物語集]]』に見られるような、日本語の文章の中に漢語を数多く取り入れた[[和漢混淆文]]として発展していった。成立当初の『今昔物語集』は、漢字で記された語句のあいだに小さく片仮名を書き添える宣命書きと同じスタイルで書かれていたが、やがて漢字と仮名を同じ大きさで記すようになった。平仮名と片仮名の使い分けは長年に渡って統一されなかったが、[[第二次世界大戦]]後あたりから、文章の表記には原則として平仮名を用い、片仮名は外来語など特殊な場合に用いるスタイルとなった。
[[ファイル:Hell Scroll Nara Measures.jpg|thumb|330px|「[[地獄草紙]]」(部分) 平安時代末に描かれたとみられる[[絵巻物]]。その詞書は、現代とあまり変わらない字体の漢字と仮名で書かれている。]]
平仮名は漢字から作られたものであるが、なかには現在の平仮名そのままの文字のほかに、それとは違う漢字を崩して作られたさまざまな[[異体字]]がある。現在この異体字の平仮名を[[変体仮名]]と称するが、片仮名にも古くは現在とは違った字体のものがあった。平仮名による文は変体仮名も交えて美しく書くことが求められ、それらは[[高野切]]などをはじめとする[[古筆切]]として残されている。こうした異体字をふくむ平仮名と片仮名は[[明治時代]]になると政府によって字体の整理が行われ、その結果学校教育をはじめとする一般社会において平仮名・片仮名と呼ばれるものとなった。このふたつは現代の日本語においてもそれぞれ重要な役割を担っている。
== 仮名における清音と濁音 ==
日本語の音節には[[清音]]と[[濁音]]の別があり、現在濁音をあらわす平仮名・片仮名には[[濁点]]が付くのが約束となっている。しかし仮名には、古くは濁点が付かなかった。
仮名が生れる以前の借字の段階では、清音に当てる借字のほかに濁音に当てる借字を区別して使っていた。上で述べたように借字を使った日本語の文は見た目には漢字の羅列であり、それをなるべく間違いの無いように読み取らせるためには、借字の音の清濁についても使い分けをする必要があったことによる。しかし平安時代以降の仮名には清濁の別が無くなった。それは連綿によって仮名の文字列に意味の区切りを作り出し、文の読み取りを以前よりも容易にした結果、仮名の清濁を使い分ける必要がなくなったからである。言い方をかえれば濁音を示す表記を用いなくても、不都合を感じない文を綴れるようになったということである。『[[古今和歌集]]』の伝本のひとつである高野切には紀貫之の詠んだ和歌が、
[[Image:Koyagire 1stVolume fragment.jpg|thumb|280px|right|高野切 『古今和歌集』巻第一春歌上の巻頭で、現在この部分だけ切り取られ掛軸となっている。[[五島美術館]]蔵。「そでひちて」の和歌は画像左側の部分であるが、それ以外にも濁点を付した所はない。]]
:そてひちて むすひしみつの こほれるを はるかたけふの かせやとくらむ<ref group="注">現在一般に読まれる『古今和歌集』の本文では、この和歌の第四句は「はるたつけふの」となっている。また見ての通り、本文は変体仮名をまじえて記されている。</ref>
と濁点は付されていない。もしこれに濁点を付けるのならば、
:そ'''で'''ひちて むす'''び'''しみ'''づ'''の こほれるを はるかたけふの か'''ぜ'''やとくらむ
となる。「そて」を「そで」、「かせ」を「かぜ」と読むのは、この和歌の文脈では「そで」「かぜ」としか読めないからであり、ほかの部分の仮名についても同様である。つまり「て」という仮名で書かれていても文脈によっては「で」と読むというように、ひとつの仮名で清音と濁音を兼ねるようにしていた。これは片仮名についても同様で、経典に漢字の読みかたを示した片仮名が書き添えられていた場合、その漢字の置かれている文脈をもって判断すれば、清濁について迷うことはなかったのである。
もちろん単語だけを取り出してしまえば、混乱が生じることになる。[[前田利益]]が「大ふへん者」と大書した旗を背負い、それを「大武辺者」と読んだ同僚から僭越を責められた際に、「これは『大不便者』と読むのだ」と返した逸話がある。
ちなみに濁点の起りについては漢字の[[アクセント]]を示す[[声点]]からきており、本来仮名には必要なかったはずの濁点は、辞書の類や『古今和歌集』などの古典の本文解釈において、言葉の意味を確定させるために使われるようになった。その使われ方や形式は様々な変遷をへて、現在用いられる形に至っている。
また類似の事例は仮名に限った話ではなく、他の文字にも見られる。[[チェロキー文字]]は仮名の五十音で言うところのカ行とガ行を区別しないが、[[チェロキー語]]の話者は文脈で判断できる。[[ヘブライ文字]]では子音のみを用いるのが普通であり、母音は文脈で判断する。母音の付加は新たに[[ヘブライ語]]を学習する者への便宜、あるいは外来語にしか用いられない。
== 仮名を習得するための和歌 ==
『古今和歌集』の仮名序には、つぎのような記述がある。
:「…なにはづのうたは、みかどのおほむはじめなり。あさか山のことばは、うねめのたはぶれよりよみて、このふたうたは、うたのちゝはゝのやうにてぞ、てならふ人の、はじめにもしける」<ref>『古今和歌集』(『日本古典文学大系』8 岩波書店、1962年)より。ただし「古注」と呼ばれる部分は略した。</ref>
「なにはづのうた」というのは[[仁徳天皇]]に渡来人の[[王仁]]が、
:なにはづに さくやこのはな ふゆごもり いまははるべと さくやこのはな
という歌を奉ったという古事による。また「あさか山のことば」というのは、葛城王すなわち[[橘諸兄]]が東国の視察に行った折、その土地にいた[[采女]]だった女が、
:あさかやま かげさへみゆる やまのゐの あさきこころを わがおもはなくに
という歌を作り諸兄に献上したという話である。「てならふ」とは毛筆で文字を書く練習をする事で、いまでも「手習い」という言葉に残っているが、上にあげた和歌2首が、当時仮名(平仮名)の書き方を練習するのに最初の手本とされていたということである。
和歌は文の長さが三十一字と限られており、子供が仮名の手ほどきを受ける教材としては手ごろなものであった。その数ある和歌の中から「なにはづ」と「あさかやま」の歌が「てならふ人の、はじめにもしける」といわれたのは、実際この2首が古い由緒を持った歌らしいこと<ref group="注">[[藤原宮]]や[[平城宮]]をはじめとする平安時代以前の各地の遺跡より「なにはづ」や「あさかやま」の歌を記した[[木簡]]が出土している。また[[法隆寺]]五重塔の部材からも「なにはづ」の歌の墨書が見つかっているが、これらは当然ながらいずれも借字で記されている。『紫香楽宮出土の歌木簡について』(『奈良女子大学21世紀COEプログラム 古代日本形成の特質解明の研究教育拠点』、2008年)参照。</ref>、また一方では同じ句や同じ仮名が繰り返し出てくることがあげられる。「なにはづ」の歌は「さくやこのはな」という句が二度もあり、「あさかやま」も「やま」や「あさ」という仮名が二度出てくる。同じ言葉や仮名を繰り返すほうが子供にとっては内容を覚えやすく、また同じ文字を繰り返し書き記すことにもなる。
しかし当時の仮名はただ書ければよいというものではない。『[[源氏物語]]』の「[[若紫]]」の巻には、まだ幼女の紫の上を光源氏が引き取りたいと紫の上の祖母である尼君に申し入れると、「まだ難波津(なにはづ)をだにはかばかしうつゞけ侍らざめれば、かひなくなむ」<ref>『源氏物語 一』(『新日本古典文学大系』19 ま、1993年)より。</ref> という返事をされるくだりがある。まだ「なにはづ」の歌もまともに書けないような幼い娘なので、源氏の君のお相手にはならないでしょうと断られたのであるが、「はかばかしうつゞけ侍らざめれば」とは仮名を連綿としてうまく書きこなせないということである。仮名は文字として覚えるだけではなく、その仮名を[[連綿]]で以って綴れるようにするのが当時の仮名文字の習得であった。これは単なる美観上のことだをけではなく、上で触れたように自分の書いたものを人に読み取らせるためには、仮名の連綿は書式の上でも必要なことだったのである。
== 仮名の発音と表記 ==
以下は[[仮名遣い]]にも関わることなので詳細は他項に譲るが、仮名における発音と表記の関係について簡略に述べる。
平安時代になると日本語の音韻に変化が起こり、たとえば「こひ」(恋)という仮名に対応する発音は{{IPA|ko-ɸi}}であったが、のちに{{IPA|ko-wi}}と変化している([[ハ行転呼]]の項参照)。{{IPA|wi}}の音をあらわす仮名はワ行の「ゐ」であり、そうなると「こひ」は「こゐ」と記されるようになるかと思われそうだが、文献上「こひ」(恋)を「こゐ」などと書いた例はまず見られない。仮名文字を習得した当時の人々にとっては、恋は「こひ」という仮名で記すというのがそれまでの約束となっており、その発音が変わったからといって「こゐ」と書いたのでは、他者に恋という意味で読み取らせることが出来ないからである<ref group="注">ただし「こひ」(恋)については、以下の例外が存在する。
::関白前左大臣家に人々、経年恋<small>(年を経る恋)</small>といふ心をよみ侍りける 左大臣<small>([[源俊房]])</small>
:われが身は とがへるたかと なりにけり としはふれども こゐはわすれず<small>(『[[後拾遺和歌集]]』巻第十一・恋一)</small>
『後拾遺和歌集』(『新日本古典文学大系』8 岩波書店、1994年)より。「こゐ」というのは、鷹を飼うのに止まらせる止まり木のことをいう(「木居」という漢字がふつう当てられている)。飼われている鷹が飼い主のところから逃げ出して年を経ても、その羽を休めた止まり木は忘れることができず、最後には戻ってきてしまう。それと同じように、自分も以前共に暮らしたが別れた人を忘れられず、結局また恋しく思っている…という趣意である。このなかで「こゐ」(木居)を「こひ」(恋)の[[掛詞]]としているが、恋を「こゐ」とすることは当時慣習的に行われていた仮名遣いとも相違する。しかしこの和歌は恋の部に入れられており、詞書にも「経年恋」とあることから、「こゐ」が恋であるとする引き当てが可能であった。「こひ」という表記が圧倒的に優勢な当時の状況で、その文脈から取り出してなんの断りもなしに「こゐ」とだけ書かれたのでは、恋という意味には理解されなかったのであり、「こゐ」を恋とするのはごく特殊な例だったとみてよい。</ref>。つまり音韻に関わりなくその表記は一定しており、これはほかにも「おもふ」など使用頻度の高い言葉ほどその傾向が見られる。ただし頻度の高い言葉でも、何かのきっかけで変わってしまいそれが定着したものもある。たとえば「ゆゑ」(故)は「ゆへ」、「なほ」(猶)は「なを」と変化し記されていた。とにかく誰かが率先して人々に指導するということがなくても、仮名の表記のありかたすなわち仮名遣いは仮名を使う上で、不都合の無い程度に固定していたということである<ref group="注">以上のことは平仮名における事情であって、当時の片仮名の場合には平仮名と比べて仮名遣いにかなりの変則が見られる。しかしこれは片仮名がその当初より、仏典に記された漢字の意味や読み方を備忘として記すために生れ、使われていたことによる。たとえば「恋」という漢字の読みが「コイ」などと書かれていたとしても、「恋」という漢字の意味をあらかじめ知っていれば、その「コイ」がどういう意味なのか理解できる。漢字の意味や読み方を示すためという目的から、その仮名遣いのありかたは平仮名と比べてゆるやかであった。</ref>。
その不都合のなかったはずの仮名遣いとは別に現れたのが、藤原定家の定めた仮名遣い、いわゆる[[定家仮名遣]]であった。しかし定家が仮名遣いを定めた目的は、それを多くの人に広めて仮名遣いを改めようとしたなどということではない。
定家は当時すでに古典とされた『古今和歌集』をはじめとする歌集、また『源氏物語』や『[[伊勢物語]]』などの物語を頻繁に書写していたが、それは単に書き写すだけではなく、内容を理解し、また自分が写した本を自分の子孫も読んで理解できるようにと心がけた。その手立てのひとつとして仮名遣いを定めたのである。つまりそれまでは多かれ少なかれ表記の揺れがあった仮名遣いを、自分が写した本においてはこの意味ではこう書くのだと規範を定め、それ以外の意味に読まれないようにしたのであった。たとえば当時いずれも{{IPA|wo}}の音となっていた「を」と「お」の仮名はアクセントの違いによって書き分けるよう定めており、これによって「置く」は「をく」、「奥」は「おく」と書いている。その結果定家の定めた仮名遣いは、音韻の変化する以前のものとは異なるものがあったが、定家は自分が写した本の内容が人から見て読みやすい事に腐心したのであって、仮名遣いはその一助として定められたに過ぎない。要するに定家の個人的な事情により、定家仮名遣と呼ばれるものは始まったのである(定家仮名遣の項参照)。
定家の定めた仮名遣いはその後、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]に[[行阿]]によって増補された。それが歌人定家の権威もあって、定家仮名遣と称して教養層のあいだで広く使われたが、明治になると今度は政府によって[[歴史的仮名遣]]が定められ、これが広く一般社会において用いられた。
[[第二次世界大戦|第二次大戦]]後は現行の[[現代仮名遣い]]が用いられている。現代仮名遣いはおおむね1字1音の原則によって定められているとされるが、徹底はしておらず以下のような例が存在する。
*'''ひとつの音に対して複数の仮名があるケース'''
**{{ipa|e}}, {{ipa|o}}, {{ipa|wa}} は原則として「え」「お」「わ」と表記するが、例外として格助詞ではそれぞれ「へ」「を」「は」と書く。ちなみに、{{ipa|wa}}と発音する終助詞は原則通り「わ」と表記する。
**{{ipa|zi}}, {{ipa|zu}} は通常「じ」「ず」だが、一部のケースでは「ぢ」「づ」と書く。
**長音符は一般に「ー」だが漢字の音の場合は「う」を用いる(次項参照)。
*'''ひとつの仮名が複数の音をもつケース'''<ref group="注">なお、同一の[[音素]]ではあってもその環境によってさまざまな[[異音]]を生じるのは当然のことであるが、文字論の範疇を外れるのでここではふれない。各行の項目([[あ行]]、[[か行]]、[[さ行]]、[[た行]]、[[な行]]、[[は行]]、[[ま行]]、[[や行]]、[[ら行]]、[[わ行]])などを随意参照されたい。</ref>
**「は」「へ」は通常 {{ipa|ha}}, {{ipa|he}} だが、助詞の場合は「わ」「え」と同様に {{ipa|wa}}, {{ipa|e}} と発音される。
**「う」は {{ipa|u}} の音標であるとともに、ウ段・オ段に添える長音符でもある。たとえば、かなで書けばいずれも「よう」であるが、「酔う」が {{ipa|you}} (「よ」+「う」)であるのに対し、「用」は {{ipa|yo{{smallcaps|h}}}} (「よ」の長音)である。
以上を見れば現代仮名遣いにもその以前からあった仮名遣いと同様に、発音には拠らずに書きあらわす例が定められているのがわかる。「続く」は「つづく」と書くが、「つずく」と書くように定められてはいない。蝶々は「ちょうちょう」と書くが「ちょおちょお」や「ちょーちょー」は不可とされる。現代仮名遣いとは実際には、歴史的仮名遣を実際の発音に近づけるよう改め、「続く」や「蝶々」のような例を歴史的仮名遣と比べて少なくしただけのものである。
歴史的仮名遣や定家仮名遣に基づかない現在の仮名のありようは、一見古い時代とは関わりがないように見える。しかし仮名は日本語の音韻に変化が起こった結果、それが定家以前に見られた一般的な慣習によるものにせよ、また個人や国家が定めるにせよ、仮名遣いを発音とは違うところに求めなければならなくなった。そういった性質は現在の仮名も、やはり受け継いでいるといえる。
== 他言語の表記に用いられる仮名 ==
*'''[[琉球語]]に用いられた仮名'''
*:[[琉球王国]]時代からの仮名使用の伝統があり、仮名表記の[[琉球文学]]が生み出された。 → [[沖縄方言の表記体系]]および[[琉球諸語#文字]]を参照。
*'''[[アイヌ語仮名]]'''
*:2000年1月20日に制定された[[日本産業規格|JIS]] X 0213:2000「7ビット及び8ビットの2バイト情報交換用符号化拡張漢字集合」では[[アイヌ語]]表記用の文字が追加された。Unicodeには3.2から採用されている。
*'''[[台湾語仮名]]'''および'''[[広東語仮名]]'''
*:日本が[[台湾]]を日本の一部として統治していた時代、仮名を用いて、[[台湾語]]、[[客家語|台湾客家語]]、[[高砂族]]の言語を表記する方法が考案され、使用された。[[台湾原住民]]の言語の仮名文字表記については、1980年代に[[ローマ字]]表記が普及するまで存続した。なお、「台湾語仮名」は文字通り台湾語用の仮名表記法の事であるが、「広東語仮名」は[[広東語]]ではなく台湾客家語の仮名表記法の事である<ref group="注">この名称は日本統治時代に[[客家]]が「広東人」と称されたことによるものであり、現代一般に広東語と称される[[粤語]]系の[[広東語|広州語]]および[[香港語]]とは無関係。</ref>。
== 備考・諸説 ==
* 日本において朝鮮半島に先んじて独自の文字文化が形成された一因として、支配層・官僚が地方の文化、すなわち[[方言]]の歌=東歌に関心が高かったことが挙げられる<ref>[[橋本治]] [[橋爪大三郎]] 『だめだし日本語論』 [[太田出版]] 2017年 ISBN 978-4-7783-1578-8 pp.79 - 80.</ref>。漢文体では方言を記録することは難しく、そのため、盛んに仮名文字が用いられた。橋本治は、日本は古来から大衆文化を受け入れる社会性があり、後代の江戸時代においても大衆文化が開花し、現代のサブカルチャーに至るまで受け入れられているのに対し、朝鮮半島では官僚が地方文化に興味を示さず、現代の韓国人大学生ですら、大衆雑誌に関心を示さなかった例を挙げ、社会が大衆文化を受け入れている差が、独自の文字文化形成の差にもつながったとする(同書 p.80)<!-- 日本では1970年代後半にコミックブームが形成され、大学生が片手にコミックを手にする様になった事は、河合隼雄『中空構造日本の深層』でも指摘されている -->。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
<references/>
== 参考文献 ==
*築島裕 『仮名』〈『日本語の世界』5〉 中央公論社、1981年
*小松英雄 『日本語の音韻』〈『日本語の世界』7〉 中央公論社、1981年
*秋山虔ほか編 『日本古典文学大辞典』(第1巻) 岩波書店、1988年 ※「仮名」の項
*小松英雄 『日本語書記史原論』 笠間書院、1998年
== 関連項目 ==
*'''[[日本語の表記体系]]'''
*[[万葉仮名]] - [[平仮名]] - [[変体仮名]] - [[片仮名]]
* [[仮名遣い]] - [[歴史的仮名遣]] - [[定家仮名遣]] - [[現代仮名遣い]]
<!--* [[中古日本語]] - [[中世日本語]] - [[近世日本語]] -->
* [[仮名交じり文]]
* [[振り仮名]]
*[[言語学]] - [[文字]] - [[表音文字]] - [[音節文字]]
*[[合略仮名]]
== 外部リンク ==
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* {{PDFlink|[https://brng.jp/50renshuu-s.pdf 仮名練習帳]}}
* {{Kotobank|仮名}}
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%AE%E5%90%8D_(%E6%96%87%E5%AD%97) |
8,423 | 木村守男 | 木村 守男(きむら もりお、1938年1月24日 - 2023年6月25日)は、日本の政治家。青森県知事(3期)、衆議院議員(4期)、青森県議会議員(3期)などを歴任した。父は衆議院議員を務めた木村文男、長男は元衆議院議員の木村太郎。次男は衆議院議員の木村次郎。
青森県南津軽郡藤崎町出身。東奥義塾高等学校から青森県立浪岡高等学校を経て、1960年、日本大学法学部法律学科を卒業。
1967年から青森県議会議員を3期務め、その間、青森県議会農林常任委員長などを務める。
1980年、新自由クラブ公認で衆議院議員青森2区に立候補、初当選する。木村本人も新自由クラブの青森県連代表を務めていたが、同年12月に新自由クラブを離党し1981年、自由民主党に入党し派閥は田中派に所属する。1983年の田中判決選挙には落選したが、1986年の衆参同日選挙ではトップ当選で返り咲く。経世会から、同派分裂に際しては改革フォーラム21に参加する。羽田派メンバーの中では唯一、宮澤内閣不信任決議案に対して欠席という対応をとる。1993年、新生党に参加する。1994年の新進党結党に参加した。
細川内閣では農林政務次官を務めた際、それまでの選挙ではコメの輸入自由化に反対することを公約で表明してきたが、一転輸入自由化を受け入れる側となった。
1995年の青森県知事選挙に無所属で立候補し、現職の北村正哉を破り、初当選。1999年、再選。
岩手県、秋田県との連携を強化し北東北三県による広域自治体・経済圏を模索していた。また、1998年3月に六ヶ所村のむつ小川原港への高レベル放射性廃棄物の搬入のため寄港しようとした輸送船の入港を拒否。橋本龍太郎首相と会談し廃棄物の搬入を認めた。
2003年1月26日の知事選で、民主党・自由党の推薦を受けた弘前学院大学教授の横山北斗らを破り3期目の当選を果たす。
ところがその直後、『週刊新潮』2月6日号に「横山ノックよりエゲツない!3選を飾った木村守男青森県知事の『セクハラ不倫』騒動」と題した記事が掲載される。記事は、木村が生活の窮状を訴える女性から手紙を受けたことをきっかけに、2001年3月に女性宅を訪問して交際を始め、セクハラ行為などをしたと報じた。
木村は事情の説明を求めた県議会と対立。同年2月27日、『週刊新潮』の記事で名誉を傷つけられたとして、発行元の新潮社と記事掲載に関与したと見なした参議院議員田名部匡省(当時、無所属の会所属)を東京地裁に提訴し、2005年まで裁判が続いた。
同年3月7日、県議会で辞職勧告決議が採決される。与党自民党会派も津島派などの大部分が賛成票を投じ、賛成39票・反対9票と79.59%の賛成を得て可決されたが、辞職を拒否。3月18日の法的拘束力がある知事不信任決議案が採決されたが、前回の辞職勧告決議で反対に回った自民党議員(木村派)が再び反対するだけでなく、賛成に回った自民党議員(大島派)が「辞職勧告と不信任は違う」として反対に回り、賛成35票・反対14票で71.43%と不信任可決に必要な75%に満たず僅差で否決された。
同年4月の統一地方選挙で県議会議員選挙が実施され、不信任決議案に反対した議員が多く落選。選挙後の臨時議会で再び不信任決議案が提出され、可決必至の情勢の中、採決の前日に辞意を表明。不信任決議案は結局採決されなかった。5月16日、県知事を辞職した。
2015年10月19日、自身の政治団体の総会で政界からの引退を表明した。
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] | 木村 守男は、日本の政治家。青森県知事(3期)、衆議院議員(4期)、青森県議会議員(3期)などを歴任した。父は衆議院議員を務めた木村文男、長男は元衆議院議員の木村太郎。次男は衆議院議員の木村次郎。 | {{政治家
| 人名 = 木村 守男
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| 画像説明 =
| 国略称 = {{JPN}}
| 生年月日 = {{生年月日と年齢|1938|1|24|no}}
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| 称号・勲章 = [[正四位]]<br />[[旭日重光章]]
| 子女 = 長男・[[木村太郎 (政治家)|木村太郎]](元衆議院議員)<br/>次男・[[木村次郎]](衆議院議員)
| 親族(政治家) = 父・[[木村文男]](元衆議院議員)
| 国旗 = 青森県
| 職名 = 公選第14-16代 [[青森県知事一覧|青森県知事]]
| 当選回数 = 3回
| 就任日 = [[1995年]][[2月26日]]
| 退任日 = [[2003年]][[5月16日]]
| 国旗2 = JPN
| 職名2 = [[日本の国会議員#衆議院議員|衆議院議員]]
| 選挙区2 = [[青森県第2区 (中選挙区)|旧青森2区]]
| 当選回数2 = 4回
| 就任日2 = [[1980年]] - [[1983年]]<br />[[1986年]]
| 退任日2 =[[1995年]]
| 国旗3 = 青森県
| 職名3 = [[青森県議会|青森県議会議員]]
| 選挙区3 = 南津軽郡選挙区
| 当選回数3 = 3回
}}
'''木村 守男'''(きむら もりお、[[1938年]][[1月24日]] - [[2023年]][[6月25日]])は、[[日本]]の[[政治家]]。[[青森県知事一覧|青森県知事]](3期)、[[衆議院議員]](4期)、[[青森県議会]]議員(3期)などを歴任した。父は衆議院議員を務めた[[木村文男]]、長男は元衆議院議員の[[木村太郎 (政治家)|木村太郎]]。次男は衆議院議員の[[木村次郎]]。
== 来歴・人物 ==
[[青森県]][[南津軽郡]][[藤崎町]]出身。[[東奥義塾高等学校]]から[[青森県立浪岡高等学校]]を経て、[[1960年]]、[[日本大学法学部・大学院法学研究科及び新聞学研究科|日本大学法学部]][[法律学科]]を卒業。
[[1967年]]から[[青森県議会|青森県議会議員]]を3期務め、その間、青森県議会農林常任委員長などを務める。
=== 衆議院議員 ===
[[1980年]]、[[新自由クラブ]]公認で[[衆議院議員]]青森2区に立候補、初当選する<ref>{{Cite web|和書|date= |url=http://kokkai.sugawarataku.net/giin/r01756.html |title=木村守男 |publisher=国会議員白書 |accessdate=2016-03-21}}</ref>。木村本人も新自由クラブの青森県連代表を務めていたが、同年12月に新自由クラブを離党し[[1981年]]、[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]に入党し[[自民党の派閥|派閥]]は[[木曜クラブ|田中派]]に所属する。[[1983年]]の[[第37回衆議院議員総選挙|田中判決選挙]]には落選したが、[[1986年]]の[[第38回衆議院議員総選挙|衆参同日選挙]]ではトップ当選で返り咲く。[[竹下派|経世会]]から、同派分裂に際しては[[改革フォーラム21]]に参加する。羽田派メンバーの中では唯一、[[宮澤内閣 (改造)|宮澤内閣]][[内閣不信任決議案|不信任決議案]]に対して欠席という対応をとる。[[1993年]]、[[新生党]]に参加する。[[1994年]]の[[新進党]]結党に参加した。
[[細川内閣]]では[[農林政務次官]]を務めた際、それまでの選挙ではコメの輸入自由化に反対することを[[公約]]で表明してきたが、一転輸入自由化を受け入れる側となった<ref>{{Cite web|和書|url=http://asp.db-search.com/aomori/dsweb.cgi/documentframe!1!guest02!!19828!0!1!1,-1,1!5077!241942!1,-1,1!5077!241942!9,8,7!107!219!23812!17!48?Template=DocOneFrame |title=平成7年第202回定例会(第6号)本文 |publisher=青森県議会議事録 |author=諏訪益一 |date=1995-06-29 |accessdate=2013-08-24 }}</ref>。
=== 青森県知事 ===
[[1995年]]の青森県知事選挙に無所属で立候補し、現職の[[北村正哉]]を破り、初当選。[[1999年]]、再選。
[[岩手県]]、[[秋田県]]との連携を強化し[[北東北]]三県による広域自治体・経済圏を模索していた。また、[[1998年]]3月に[[六ヶ所村]]の[[むつ小川原港]]への[[高レベル放射性廃棄物]]の搬入のため寄港しようとした輸送船の入港を拒否。[[橋本龍太郎]]首相と会談し廃棄物の搬入を認めた。
=== 不祥事、辞職勧告決議 ===
2003年1月26日の知事選で、民主党・自由党の推薦を受けた[[弘前学院大学]]教授の[[横山北斗]]らを破り3期目の当選を果たす。
ところがその直後、『[[週刊新潮]]』2月6日号に「[[横山ノック]]よりエゲツない!3選を飾った木村守男青森県知事の『セクハラ不倫』騒動」と題した記事が掲載される。記事は、木村が生活の窮状を訴える女性から手紙を受けたことをきっかけに、2001年3月に女性宅を訪問して交際を始め、セクハラ行為などをしたと報じた<ref>{{ cite news | title = 前青森知事のセクハラ問題 | newspaper = 西日本新聞 | date = 2005-08-31 | url = https://www.nishinippon.co.jp/wordbox/5693/ | accessdate = 2021-10-13}}</ref><ref>{{ cite news | title = 田名部参院議員らを提訴/青森県知事が名誉棄損で | newspaper = 四国新聞 | date = 2003-02-27 | url = https://www.shikoku-np.co.jp/national/political/20030227000363 | accessdate = 2021-10-13}}</ref>。
木村は事情の説明を求めた県議会と対立。同年[[2月27日]]、『週刊新潮』の記事で名誉を傷つけられたとして、発行元の[[新潮社]]と記事掲載に関与したと見なした[[参議院議員]][[田名部匡省]](当時、[[無所属の会 (1999)|無所属の会]]所属)を[[東京地方裁判所|東京地裁]]に提訴し、[[2005年]]まで裁判が続いた<ref>{{Cite news | url = https://web.archive.org/web/20131224110012/http://www.47news.jp/CN/200302/CN2003022701000406.html | title = 田名部参院議員らを提訴 青森県知事が名誉棄損で | agency = [[共同通信社]] | publisher = [[47NEWS]] | date = 2003-02-27 | accessdate = 2012-10-05 }}</ref><ref>なお、木村の後任の知事である[[三村申吾]]は新潮社の出身であり、田名部から三村を経由し情報が漏れたと追及している。</ref>。
同年[[3月7日]]、県議会で[[辞職勧告決議]]が採決される。与党自民党会派も[[平成研究会|津島派]]などの大部分が賛成票を投じ、賛成39票・反対9票と79.59%の賛成を得て可決されたが、辞職を拒否。[[3月18日]]の法的拘束力がある知事[[不信任決議]]案が採決されたが、前回の辞職勧告決議で反対に回った自民党議員([[清和政策研究会|木村派]])が再び反対するだけでなく、賛成に回った自民党議員([[番町政策研究所|大島派]])が「辞職勧告と不信任は違う」として反対に回り、賛成35票・反対14票で71.43%と不信任可決に必要な75%に満たず僅差で否決された。
同年4月の[[統一地方選挙]]で県議会議員選挙が実施され、不信任決議案に反対した議員が多く落選。選挙後の臨時議会で再び不信任決議案が提出され、可決必至の情勢の中、採決の前日に辞意を表明。不信任決議案は結局採決されなかった。[[5月16日]]、県知事を辞職した<ref>{{Cite news|url=https://imagelink.kyodonews.jp/web-Sales/web/08_detail.html?id=3517708|title=青森県知事辞職を正式決定|accessdate=2020-02-29}}</ref>。
[[2015年]][[10月19日]]、自身の政治団体の総会で政界からの引退を表明した<ref>{{Cite news |title=元知事・木村守男氏が政界引退を表明 |newspaper=[[陸奥新報]] |date=2015-10-20 |author= |url=http://www.mutusinpou.co.jp/news/2015/10/38526.html |accessdate=2016-03-21}}</ref>。
[[2023年]][[6月25日]]、[[老衰]]のため、藤崎町の病院で死去した<ref>{{Cite news |title=元青森県知事 木村守男さん死去 |newspaper=NHKニュース |date=2023-6-26 |author= |url=https://www3.nhk.or.jp/lnews/aomori/20230626/6080019845.html |accessdate=2023-6-26}}</ref><ref>[https://www.toonippo.co.jp/articles/-/1583243 元青森県知事 木村守男氏が死去] - Web東奥 2023年6月26日</ref>。{{没年齢|1938|1|24|2023|6|25}}。死没日付をもって[[正四位]]に叙され、[[旭日重光章]]を追贈された<ref>『官報』第1030号7-8頁 令和5年7月31日号</ref>。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[津軽選挙]]
* [[八戸戦争]]
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{{s-off}}
{{Succession box
| title = {{Flagicon|青森県}} [[青森県知事一覧|青森県知事]]
| years = 公選第14-16代:1995年 - 2003年
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{{青森県知事|公選第14-16代:1995-2003}}
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[[Category:青森県選出の衆議院議員]]
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[[Category:2023年没]] | 2003-05-17T08:04:57Z | 2023-12-15T15:47:38Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E5%AE%88%E7%94%B7 |
8,424 | 公用語 | 公用語(こうようご)とは、国、州など、ある集団・共同体内の公の場において用いることを公式に規定した言語を指す。その集団が有する公的機関には義務が課され、公的情報を発信する際等には公用語を用いなければならない。「公共言語」というように間違えないよう注意。
ある国において公用語として複数の言語が定められた場合には、その全ての言語を用いて公的情報を国民へ伝えなければならない。従ってこの場合、国家(あるいは集団)の公的機関は、全ての公用語を併記し通訳して伝えることになる。これによって、指定された複数の言語のうちどれか一つの言語だけを理解する国民(や構成員)に対しても不利益を生じさせないという原則が守られる。
一言語集団が大多数を占める国家や圧倒的に強い力を持っている国家の場合、公用語を法律で定めていない場合もある。
公用語は、一つの共同体内で複数の言語が使用されている場合に、公的な分野において意志の疎通を円滑にする目的で、憲法や法律などの法規範によって指定されるのが一般的である。これに対し、方言こそあるものの、一つの言語の話者が圧倒的多数の国である場合、法律で定めるまでもなく、その言語が事実上公用語の役割をしている場合がある。日本における日本語がこれにあたる(ただし、裁判所法第74条は「裁判所では、日本語を用いる。」と定めている)。圧倒的多数の同一言語話者がいる場合でも、法的な定めを置く例もある。
一方、国内に複数の言語の話者がいるにもかかわらず、公用語を正式に指定することなく、政治的、社会的な上層階級の間で話されている言語が事実上の公用語になっている場合もある。アメリカ合衆国における英語がこれにあたる。しかし、州レベルでは、2004年現在、全50州中27州が法律で英語を公用語と定めている。この中には、英語だけを公用語とする州もあれば、英語と他の1つの言語を公用語とする州もある。なお、連邦最高裁は英語だけを公用語と定めていたアリゾナ州の法律について、1998年4月に違憲判決を下している。
国だけでなく国際連合や欧州連合 (EU) などでも公用語は指定されている(国際機関の公用語の一覧)。国連の公用語は英語、フランス語、ロシア語、中国語、スペイン語、アラビア語の6つである。これらは、第二次世界大戦のいわゆる戦勝国であるアメリカ・イギリス・フランス・ソビエト連邦・中国の公用語に、多くの国で話されているスペイン語(スペイン本国に加えて、ブラジルを除くラテンアメリカ諸国における共通言語となっている)とアラビア語(中東と北アフリカにおける共通言語)を加えたものである。
公用語の指定に関しては様々な基準があるが、一般的にその集団内で使用する者の数が最も多い言語や高度な概念を表現しうる言語が選ばれる。しかし、政治的に強い権力をもった民族の言語が多くの国民の意に反し公用語に指定されることもある。民族と言語は密接に結びつき、しばしば深刻な問題を引き起こすので、複数の言語を公用語に定めている国も多い。
ニュージーランドやパプアニューギニア、韓国などでは手話も公用語に定めている。
ヨーロッパには複数の公用語を持つ国がある。国全体で、2つ以上の公用語が認められている場合もあれば、特定の地方で国家全体の公用語以外の言語、つまり地方の公用語が定められている場合もある。
例えば、ベルギーではフランス語・オランダ語(フラマン語)・ドイツ語、スイスではドイツ語・フランス語・イタリア語・ロマンシュ語、アイルランドではアイルランド語・英語、フィンランドではフィンランド語・スウェーデン語を公用語としている。スペインでは、国全体の公用語であるカスティーリャ語(スペイン語)のほかに、自治州憲章によってカタルーニャ語(バレンシア語)、バスク語、ガリシア語がそれぞれの地方公用語に制定されている。カナダでは英語とフランス語を公用語としている。それぞれの国内では全ての公用語で情報が行き渡るようになっている。例えば、国内で生産されるお菓子の内容表示や道路標識なども複数言語による併記となっており、教育やマスコミなどにおいてもその使用が保証されている。
アジア・アフリカなどの旧植民地国家では、実際の母語話者は極めて少数であるにもかかわらず、旧宗主国の言語(英語、フランス語およびポルトガル語)が現在も公用語とされている事が多い。これは主に以下のような理由による。
このような国では、旧宗主国の言語を公用語として使用する場合と、最も使用する者の数が多い部族の言語を公用語としている場合がある。被植民側の言語には文字がない事も多く、アルファベットの発音をあててアルファベット表記することが多い。
ケニアではスワヒリ語と英語、フィリピンではタガログ語を基本とするフィリピン語と英語が公用語になっており、これらはそれぞれ義務教育によって全国で教育されている。また、これらの国には非常に多くの地方言語が存在することから、地方の言語、多数部族言語の公用語、旧宗主国言語の公用語と合わせると、多くの少数民族は3つの言語を使用することになる。ただし公用語化されない地方の言語には文字がないことが多く、公用語の普及と共にそのほとんどが消滅していく傾向にある。
欧州連合では、1958年4月15日に採択された欧州経済共同体理事会規則 No.1 の第1条において欧州連合の公用語を定めている。この規則は幾度も改正されており、2013年7月1日以降、欧州連合の公用語となっているのはブルガリア語、クロアチア語、チェコ語、デンマーク語、オランダ語、英語、エストニア語、フィンランド語、フランス語、ドイツ語、ギリシア語、ハンガリー語、アイルランド語、イタリア語、ラトビア語、リトアニア語、マルタ語、ポーランド語、ポルトガル語、ルーマニア語、スロバキア語、スロベニア語、スペイン語、スウェーデン語の計24の言語である。原則として各加盟国の公用語を欧州連合の公用語としているが、ルクセンブルクの公用語の1つであるルクセンブルク語と、キプロスの公用語の1つであるトルコ語は含まれていない。すべての欧州連合の公式文書はこの24の公用語に翻訳されている。ただし、アイルランド語については、特例に基づき、一部のみ提供されている。具体的にはEU官報で主要立法、および国際条約の一部のみである。なおイギリスがEUを離脱しても、英語はアイルランドとマルタの公用語の一つであるためEU公用語にとどまる。また加盟国が増えると公用語も増えることがある。欧州連合は加盟国の拡大を目指しているものの、それに伴う公用語の増大により相互翻訳作業は級数的に増大し、微妙な翻訳表現の違いも問題化している。
複数の公用語を定める場合には、どちらか一方の言語のみを使用する者に不利益を与えてはならないため、役所を始め、通訳、翻訳および併記の必要性が生じ、また、複数言語に精通した役人を置くなど多大なコストがかかる。
公用語に指定された言語には決まった表記法が存在し会話言語のような方言的誤謬がない。そのためその域内は標準となる言語で統一され情報が末端まで正確に伝わることになる。このことは情報伝達の手段としては大変有効であるが、一方で公用語に指定されない少数話者の言語が人為的に消滅することとなる。 | [
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"text": "欧州連合では、1958年4月15日に採択された欧州経済共同体理事会規則 No.1 の第1条において欧州連合の公用語を定めている。この規則は幾度も改正されており、2013年7月1日以降、欧州連合の公用語となっているのはブルガリア語、クロアチア語、チェコ語、デンマーク語、オランダ語、英語、エストニア語、フィンランド語、フランス語、ドイツ語、ギリシア語、ハンガリー語、アイルランド語、イタリア語、ラトビア語、リトアニア語、マルタ語、ポーランド語、ポルトガル語、ルーマニア語、スロバキア語、スロベニア語、スペイン語、スウェーデン語の計24の言語である。原則として各加盟国の公用語を欧州連合の公用語としているが、ルクセンブルクの公用語の1つであるルクセンブルク語と、キプロスの公用語の1つであるトルコ語は含まれていない。すべての欧州連合の公式文書はこの24の公用語に翻訳されている。ただし、アイルランド語については、特例に基づき、一部のみ提供されている。具体的にはEU官報で主要立法、および国際条約の一部のみである。なおイギリスがEUを離脱しても、英語はアイルランドとマルタの公用語の一つであるためEU公用語にとどまる。また加盟国が増えると公用語も増えることがある。欧州連合は加盟国の拡大を目指しているものの、それに伴う公用語の増大により相互翻訳作業は級数的に増大し、微妙な翻訳表現の違いも問題化している。",
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"text": "複数の公用語を定める場合には、どちらか一方の言語のみを使用する者に不利益を与えてはならないため、役所を始め、通訳、翻訳および併記の必要性が生じ、また、複数言語に精通した役人を置くなど多大なコストがかかる。",
"title": "公用語の役割と重要性"
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"text": "公用語に指定された言語には決まった表記法が存在し会話言語のような方言的誤謬がない。そのためその域内は標準となる言語で統一され情報が末端まで正確に伝わることになる。このことは情報伝達の手段としては大変有効であるが、一方で公用語に指定されない少数話者の言語が人為的に消滅することとなる。",
"title": "公用語の役割と重要性"
}
] | 公用語(こうようご)とは、国、州など、ある集団・共同体内の公の場において用いることを公式に規定した言語を指す。その集団が有する公的機関には義務が課され、公的情報を発信する際等には公用語を用いなければならない。「公共言語」というように間違えないよう注意。 ある国において公用語として複数の言語が定められた場合には、その全ての言語を用いて公的情報を国民へ伝えなければならない。従ってこの場合、国家(あるいは集団)の公的機関は、全ての公用語を併記し通訳して伝えることになる。これによって、指定された複数の言語のうちどれか一つの言語だけを理解する国民(や構成員)に対しても不利益を生じさせないという原則が守られる。 一言語集団が大多数を占める国家や圧倒的に強い力を持っている国家の場合、公用語を法律で定めていない場合もある。 | {{複数の問題
| 出典の明記 = 2008年7月
| 更新 = 2021年3月
| 独自研究 = 2020年9月
| 正確性 = 2021年3月
}}
'''公用語'''(こうようご)とは、[[国]]、[[州]]など、ある[[集団]]・共同体内の公の場において用いることを公式に規定した[[言語]]を指す。その集団が有する公的機関には義務が課され、公的情報を発信する際等には公用語を用いなければならない。「公共言語」というように間違えないよう注意。
ある国において公用語として複数の言語が定められた場合には、その全ての言語を用いて公的情報を国民へ伝えなければならない。従ってこの場合、[[国家]](あるいは集団)の公的機関は、全ての公用語を併記し通訳して伝えることになる。これによって、指定された複数の言語のうちどれか一つの言語だけを理解する国民(や構成員)に対しても不利益を生じさせないという原則が守られる。<!--どれか一つの言語だけを使用する国民(や構成員)に対して不利益を与えないように、-->
一言語集団が大多数を占める国家や圧倒的に強い力を持っている国家の場合、公用語を法律で定めていない場合もある。
== 概要 ==
公用語は、一つの共同体内で複数の言語が使用されている場合に、公的な分野において意志の疎通を円滑にする目的で、憲法や法律などの法規範によって指定されるのが一般的である。これに対し、[[方言]]こそあるものの、一つの言語の話者が圧倒的多数の国である場合、法律で定めるまでもなく、その言語が事実上公用語の役割をしている場合がある。[[日本]]における[[日本語]]がこれにあたる{{efn|日本には日本語の話者の他に、ポルトガル語、スペイン語、英語、中国語、朝鮮語などの話者もいる。}}(ただし、[[裁判所法]]第74条は「裁判所では、日本語を用いる。」と定めている)。圧倒的多数の同一言語話者がいる場合でも、法的な定めを置く例もある。
一方、国内に複数の言語の話者がいるにもかかわらず、公用語を正式に指定することなく、政治的、社会的な上層階級の間で話されている言語が事実上の公用語になっている場合もある。[[アメリカ合衆国]]における[[英語]]がこれにあたる。しかし、州レベルでは、[[2004年]]現在、全50州中27州が法律で英語を公用語と定めている。この中には、英語だけを公用語とする州もあれば、英語と他の1つの言語を公用語とする州もある。なお、[[合衆国最高裁判所|連邦最高裁]]は英語だけを公用語と定めていた[[アリゾナ州]]の法律について、[[1998年]]4月に違憲判決を下している。
国だけでなく[[国際連合]]や[[欧州連合]] (EU) などでも公用語は指定されている([[国際機関の公用語の一覧]])。国連の公用語は[[英語]]、[[フランス語]]、[[ロシア語]]、[[中国語]]、[[スペイン語]]、[[アラビア語]]の6つである。これらは、第二次世界大戦のいわゆる戦勝国であるアメリカ・[[イギリス]]・[[フランス]]・[[ソビエト連邦]]・[[中国]]の公用語に、多くの国で話されているスペイン語([[スペイン]]本国に加えて、[[ブラジル]]を除く[[ラテンアメリカ]]諸国における共通言語となっている)とアラビア語([[中東]]と[[北アフリカ]]における共通言語)を加えたものである。
公用語の指定に関しては様々な基準があるが、一般的にその集団内で使用する者の数が最も多い言語や高度な概念を表現しうる言語が選ばれる。しかし、政治的に強い権力をもった民族の言語が多くの国民の意に反し公用語に指定されることもある。民族と言語は密接に結びつき、しばしば深刻な問題を引き起こすので、複数の言語を公用語に定めている国も多い。
[[ニュージーランド]]や[[パプアニューギニア]]、[[韓国]]などでは[[手話]]も公用語に定めている。
== ヨーロッパ、カナダの公用語 ==
[[File:Bilingualstopsign.jpg|thumb|right|英語・フランス語併記の標識(カナダの首都[[オタワ]])]]
ヨーロッパには複数の公用語を持つ国がある。国全体で、2つ以上の公用語が認められている場合もあれば、特定の地方で国家全体の公用語以外の言語、つまり地方の公用語が定められている場合もある。
例えば、[[ベルギー]]では[[フランス語]]・[[オランダ語]]([[フラマン語]])・[[ドイツ語]]、[[スイス]]ではドイツ語・フランス語・[[イタリア語]]・[[ロマンシュ語]]、[[アイルランド]]では[[アイルランド語]]・[[英語]]、[[フィンランド]]では[[フィンランド語]]・[[スウェーデン語]]を公用語としている。[[スペイン]]では、国全体の公用語である[[スペイン語|カスティーリャ語]](スペイン語)のほかに、自治州憲章によって[[カタルーニャ語]]([[バレンシア語]])、[[バスク語]]、[[ガリシア語]]がそれぞれの地方公用語に制定されている。[[カナダ]]では英語とフランス語を公用語としている。それぞれの国内では全ての公用語で情報が行き渡るようになっている。例えば、国内で生産されるお菓子の内容表示や道路標識なども複数言語による併記となっており、[[教育]]や[[マスメディア|マスコミ]]などにおいてもその使用が保証されている。
== 旧植民地国家の公用語 ==
[[アジア]]・[[アフリカ]]などの旧[[植民地]]国家では、実際の母語話者は極めて少数であるにもかかわらず、旧[[宗主国]]の言語(英語、フランス語および[[ポルトガル語]])が現在も公用語とされている事が多い。これは主に以下のような理由による。
* その地域に多数の言語が存在し、意思疎通が困難である
* 文字言語がなく、文書で記述することができない
* 政治・経済・教育など近代的諸制度を運営していく上で、それら制度の用語が充実した旧宗主国の言語を使用せざるをえない
* 独立運動や国家運営を指導する[[インテリ]]層が、旧宗主国の言語で高等教育を受けている
* 旧宗主国に加え、旧宗主国の言語を使う諸外国とのつながりが今でも強く、[[イギリス連邦]]や[[フランコフォニー国際機関]]、また[[ポルトガル語諸国共同体]]などを通じた国際連携の観点から旧宗主国の言語が必須
このような国では、旧宗主国の言語を公用語として使用する場合と、最も使用する者の数が多い部族の言語を公用語としている場合がある。被植民側の言語には文字がない事も多く、アルファベットの発音をあててアルファベット表記することが多い。
[[ケニア]]では[[スワヒリ語]]と英語、[[フィリピン]]では[[タガログ語]]を基本とする[[フィリピン語]]と英語が公用語になっており、これらはそれぞれ義務教育によって全国で教育されている。また、これらの国には非常に多くの地方言語が存在することから、地方の言語、多数部族言語の公用語、旧宗主国言語の公用語と合わせると、多くの少数民族は3つの言語を使用することになる。ただし公用語化されない地方の言語には文字がないことが多く、公用語の普及と共にそのほとんどが消滅していく傾向にある。
{{main|危機に瀕する言語}}
== 欧州連合の公用語 ==
{{Main|欧州連合の言語}}
[[欧州連合]]では、[[1958年]][[4月15日]]に採択された[[欧州連合理事会|欧州経済共同体理事会]][[規則 (EU)|規則]] No.1 の第1条において欧州連合の公用語を定めている。この規則は幾度も改正されており、[[2013年]][[7月1日]]以降、欧州連合の公用語となっているのは[[ブルガリア語]]、[[クロアチア語]]、[[チェコ語]]、[[デンマーク語]]、[[オランダ語]]、[[英語]]、[[エストニア語]]、[[フィンランド語]]、[[フランス語]]、[[ドイツ語]]、[[ギリシア語]]、[[ハンガリー語]]、[[アイルランド語]]、[[イタリア語]]、[[ラトビア語]]、[[リトアニア語]]、[[マルタ語]]、[[ポーランド語]]、[[ポルトガル語]]、[[ルーマニア語]]、[[スロバキア語]]、[[スロベニア語]]、[[スペイン語]]、[[スウェーデン語]]の計24の言語である。原則として各加盟国の公用語を欧州連合の公用語としているが、[[ルクセンブルク]]の公用語の1つである[[ルクセンブルク語]]と、[[キプロス]]の公用語の1つである[[トルコ語]]は含まれていない。すべての欧州連合の公式文書はこの24の公用語に翻訳されている。ただし、アイルランド語については、特例に基づき、一部のみ提供されている。具体的にはEU官報で主要立法、および国際条約の一部のみである<ref name=EUR-Lex-AboutOJ>{{Cite web |url=https://eur-lex.europa.eu/content/help/oj/intro.html |title=Official Journal |publisher=[[EUR-Lex]] |accessdate=2019-09-21}}</ref>。なおイギリスがEUを離脱しても、英語はアイルランドとマルタの公用語の一つであるためEU公用語にとどまる<ref name=Lang>{{Cite web |url=https://europa.eu/european-union/about-eu/eu-languages_en |title=About the EU > EU languages |trans-title=EUについて > EU公用語 |publisher=[[欧州連合]] |accessdate=2020-01-16 |language=en |quote=The EU has 24 official languages. These are: Bulgarian, Croatian, Czech, Danish, Dutch, English, Estonian, Finnish, French, German, Greek, Hungarian, Irish, Italian, Latvian, Lithuanian, Maltese, Polish, Portuguese, Romanian, Slovak, Slovenian, Spanish, Swedish}}</ref>。また加盟国が増えると公用語も増えることがある。欧州連合は加盟国の拡大を目指しているものの、それに伴う公用語の増大により相互翻訳作業は級数的に増大し、微妙な翻訳表現の違いも問題化している。
== 公用語の役割と重要性 ==
複数の公用語を定める場合には、どちらか一方の言語のみを使用する者に不利益を与えてはならないため、役所を始め、通訳、翻訳および併記の必要性が生じ、また、複数言語に精通した役人を置くなど多大なコストがかかる。
公用語に指定された言語には決まった表記法が存在し会話言語のような方言的誤謬がない。そのためその域内は標準となる言語で統一され情報が末端まで正確に伝わることになる。このことは情報伝達の手段としては大変有効であるが、一方で公用語に指定されない少数話者の言語が人為的に消滅することとなる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 八田洋子「[http://www.bunkyo.ac.jp/faculty/lib/klib/kiyo/lit/l1602/l160205.pdf 日本における英語教育と英語公用語化問題]」[[文教大学]]文学部紀要 16(2), 2003
* 高橋秀彰「[http://w3.kansai-u.ac.jp/fl/publication/pdf_department/01/Takahashi.pdf スイス連邦の公用語と国語 史的背景と憲法上の言語規定」[[関西大学]]外国語学部紀要 [1], 2009
== 関連項目 ==
{{Wiktionary|公用語}}
{{Wikidata property|P37}}
* [[共通語]]
* [[標準語]]
* [[国語]]
* [[多言語国家]]
* [[公用語の一覧]]
* [[国際機関の公用語の一覧]]
* [[各国の公用語の一覧]]
* [[準公用語]]
* [[教授言語]]
* [[言語帝国主義]]
* [[公用文作成の要領]]
* [[ネイティブスピーカーの数が多い言語の一覧]]
* [[少数言語]]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:こうようこ}}
[[Category:言語変種]]
[[Category:言語政策]]
[[Category:語彙]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E7%94%A8%E8%AA%9E |
8,426 | 岡部まり | 岡部 まり(おかべ まり、1960年(昭和35年)1月22日 - )は、日本のタレント・エッセイスト・政治活動家。本名:酒井 芳枝(さかい よしえ)。
長崎県出身。グランディア所属。
長崎県南高来郡加津佐町(現在の南島原市)出身。県立口加高校を経て、福岡女学院短期大学英語科卒業。
テレビ、ラジオ、イベントのパーソナリティー、インタビュー、司会、コーディネーターの他、講演、女優業、執筆業など活動の場を広げる。中でも外国映画についての造詣が深く、映画に関するエッセー集のほかに、女性の視線で感じるエッセー集などを出版。近年では、エンタテインメント以外にも「暮らし」に関する企画のイベントや執筆にも積極的に参加している。朝日放送(現:朝日放送テレビ)制作で全国ネット番組の『探偵!ナイトスクープ』の秘書役を21年間務めた。 | [
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] | 岡部 まりは、日本のタレント・エッセイスト・政治活動家。本名:酒井 芳枝。 長崎県出身。グランディア所属。 | {{ActorActress
| 芸名 = 岡部 まり
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| 画像コメント = 2010年、[[第22回参議院議員通常選挙|参議院選挙]]活動にて
| 本名 = 酒井 芳枝(さかい よしえ)
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| 主な作品 = '''娯楽番組'''<br />『[[探偵!ナイトスクープ]]』
| アカデミー賞 =
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'''岡部 まり'''(おかべ まり、[[1960年]](昭和35年)[[1月22日]]<ref name="djmeikan">{{Cite book|和書|title=DJ名鑑 1987|publisher=[[三才ブックス]]|date=1987-02-15|pages=43|id={{NDLJP|12276264/22}}}}</ref> - )は、[[日本]]の[[タレント]]・[[エッセイスト]]・[[政治活動家]]。本名:'''酒井 芳枝'''(さかい よしえ)<ref name="djmeikan"/><ref>[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/12263/00000000/san1.pdf 参議院議員通常選挙の大要 - 大阪府]</ref>。
[[長崎県]]出身<ref name="grandia">{{Cite web|和書|author= |date= |url=https://www.grandia.ne.jp/artist/okabe_mari.html |title=公式プロフィール |publisher=[[グランディア (モデルエージェンシー)|グランディア]] |accessdate=2014-7-15}}</ref>。[[グランディア (モデルエージェンシー)|グランディア]]所属。
== 略歴 ==
[[長崎県]][[南高来郡]][[加津佐町]](現在の[[南島原市]])出身。[[長崎県立口加高等学校|県立口加高校]]を経て、[[福岡女学院短期大学]]<ref name="grandia" />英語科卒業<ref name="djmeikan"/>。
テレビ、ラジオ、イベントのパーソナリティー、インタビュー、司会、コーディネーターの他、講演、女優業、執筆業など活動の場を広げる。中でも[[外国映画]]についての造詣が深く、映画に関するエッセー集のほかに、女性の視線で感じるエッセー集などを出版。近年では、エンタテインメント以外にも「暮らし」に関する企画のイベントや執筆にも積極的に参加している。[[朝日放送テレビ|朝日放送(現:朝日放送テレビ)]]制作で全国ネット番組の『[[探偵!ナイトスクープ]]』の秘書役を21年間務めた<ref name="grandia" />。
== 出演 ==
=== テレビ ===
<!-- 単発のゲスト出演は不要。レギュラー番組のみ記述をお願いします。「Wikipedia:ウィキプロジェクト 芸能人」参照 -->
* ジパング通信
* [[丸井サウンドロフト]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]) - [[ビデオジョッキー|VJ]](当時は「岡部'''マリ'''」名義)<ref name="djmeikan"/>
* ミッドナイト・アート・シアター(フジテレビ)進行役
* [[月曜ドラマランド]]「白バイ野郎トミーとマツ」(1986年、フジテレビ)
* VIDEO MAGAZINE(1987年頃、フジテレビ)
* [[Ryu's Bar 気ままにいい夜]]([[MBSテレビ|毎日放送]])
* [[オイシーのが好き!]](ドラマ、[[TBSテレビ|TBS]])- 谷麻子 役
* [[なっとくデータマップ]](フジテレビ)司会
* [[ザッツ!好奇心]]([[讀賣テレビ放送|よみうりテレビ]]) 司会
* [[優雅なエゴイズム]](TBS)
* [[探偵!ナイトスクープ]]([[朝日放送テレビ|朝日放送]]) - 2代目秘書(1989年7月1日 - 2010年4月9日、他)<ref>{{Oricon TV|195931}}</ref>
* フォークソング大全集([[日本放送協会|NHK]]) - 司会([[NHK衛星第2テレビジョン|BS2]]で放送)
* [[EXテレビ]] OSAKA([[讀賣テレビ放送|読売テレビ]])
* だから映画が楽しい私(朝日放送)
* 岡部まりの"わからんまち"体験([[旅チャンネル]])
=== ラジオ ===
* [[エフエム東京|FM東京]] :「出光エナジー・ボックス〜マイ・ベスト・セレクション〜」(1985)<ref name="djmeikan"/>
* [[エフエム福岡|FM福岡]] : 「岡部まりの飾らない風景」(1993)
* [[兵庫エフエム放送|KISS-FM]] :「NICOS CINEMA CLUB」(1997)
* [[大阪放送|ラジオ大阪(OBC)]] : [[週末ワイド ラジオ産経|ニューストゥナイトいいおとな]]「まりカフェ」(2011~2018)
=== 映画・舞台 ===
* 映画 :「[[![ai-ou]]](1991年)
* 朗読劇 :「ラヴ・レターズ」共演 PARCO劇場 (1998)
* 舞台 :「忠臣蔵」 大石りく役 松竹座四月公演 (2000)
* 舞台 :「忠臣蔵」 大石りく役 南座六月公演 (1999)
=== CM ===
* [[ライオン (企業)|ライオン]] スマイルL
* [[日立マクセル]] フロッピーディスク([[ピーター・バラカン]]と共演)
* [[日本ペイント]]
* [[スコッチ]] ビデオテープ (1984年)
=== 広告モデル ===
* [[黒崎そごう]] 折込広告
=== 審査員・アドバイザー ===
* 読売映画・演劇広告賞 審査員 (1991 - 1998年)
* [[シネスイッチ銀座]] アドバイザリースタッフ (1987 - 1988年)
* 最優秀外国映画輸入配給協会 審査員 (1989 - 1991年)
== 著書 ==
* 『お氣に召すまま』[[世界文化社]] 1989年 のち[[角川文庫]]
* 『片想いにさようなら』[[講談社]] 1992年2月 のち文庫
* 『親愛なる…』世界文化社 1991年1月 のち角川文庫
* 『愛し方が知りたくて』講談社 1994年1月
* 『女ごころを知りたい貴方へ』講談社 1996年4月
* 『だから、一人が楽しい私』講談社 1997年10月
* 『Media de MARI - 岡部まりの世界』プラネットジアース 2008年1月 ISBN 489340069X
* 『Media de MARI - 岡部まりの世界〈2〉』プラネットジアース 2009年11月 ISBN 4893400967
* 『岡部まりシンプルライフ』[[産経新聞出版]] 2012年1月
===共著===
* 『二人よがりの恋愛論』([[北野誠 (タレント)|北野誠]]共著) 講談社 1998年4月
* 『失敗しないための恋愛ナビゲーション』(北野誠共著)プラザ 1999年4月
* 『Kissing「キス・キス・キス」』([[片岡義男]]共著)[[扶桑社]] 1996年
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [https://www.grandia.ne.jp/artist/okabe_mari.html グランディア] - 所属事務所
* [https://ameblo.jp/mari-okabe/ 岡部まりオフィシャルブログ] - 公式ブログ
* [https://web.archive.org/web/20170824234420/http://www.obc1314.co.jp/blog/mari/ 岡部まりの「まりカフェ」ブログ;OBCラジオ大阪]
* [https://web.archive.org/web/19991103112732/http://www.mari.gr.jp/ Mari Okabe]
* [https://web.archive.org/web/19970625134108/http://www.tvz.com/0088/life/club/vol115/talk.html 0088倶楽部 おしゃべりTime]
{{探偵!ナイトスクープ}}
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{{先代次代|[[探偵!ナイトスクープ]]<br />2代目秘書|'''岡部まり'''<br />[[1989年]][[7月]] - [[2010年]][[4月]]|[[松原千明]]|[[松尾依里佳]]}}
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[[Category:20世紀日本の女性著作家]]
[[Category:21世紀日本の女性著作家]]
[[Category:20世紀日本の女性随筆家]]
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[[Category:探偵!ナイトスクープ]] | 2003-05-17T08:21:33Z | 2023-11-20T12:41:42Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E9%83%A8%E3%81%BE%E3%82%8A |
8,427 | アンテナ (曖昧さ回避) | アンテナ (ラテン語 antenna)。原義は帆桁(帆を張る水平の棒) | [
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] | アンテナ。原義は帆桁(帆を張る水平の棒) 帆桁、またその帆を張る為の棒などに見える物
アンテナ(空中線) - 電波を発信または受信する機器
触角、触角のように見える事の表現・触角のように変化を感知するための人や物
バレーボールで用いる用具のひとつ → バレーボールの用語一覧#アを参照 携帯電話の電波強度を示すインジケーターの単位(アンテナが三本という表現など)
アホ毛や、非常に高い位置でのツインテールなどの髪型
ウェブサイトの更新を自動的にチェックし表示するソフトウェアの総称
絶縁破壊や雷等、触角のような針状からくるもの
LSI製造工程で配線にたまった電荷によって生じる現象。主にMOSトランジスタの絶縁破壊。 ANTENA (バンド) - 日本のロックバンド。2019年までは「アンテナ」名義で活動していた
アンテナ (音楽グループ) - フランスの音楽グループ
アンテナ (ZZトップのアルバム) - ZZトップのアルバム
アンテナ (小説) - 田口ランディの小説、およびそれを原作とした映画化作品
Antenna - 京都市を拠点に活動するアーティストグループ
アンテナ22 - 日本テレビのバラエティ番組
アンテナ (くるりのアルバム) - くるりのアルバム
アンテナ (GO!GO!7188のアルバム) - GO!GO!7188のアルバム
ANTENNA - Mrs. GREEN APPLEのアルバム、及び表題曲
ウェブサイトの更新チェックシステム。朝日奈アンテナ 、なつみかん(NATSU-MICAN)、はてなアンテナなど。 | {{wikt|アンテナ}}
'''アンテナ''' ([[ラテン語]] antenna)。原義は[[帆桁]]([[帆]]を張る水平の[[棒]])
* 帆桁、またその帆を張る為の棒などに見える物
** [[アンテナ]](空中線) - [[電波]]を発信または受信する機器
* [[触角]]、触角のように見える事の表現・触角のように変化を感知するための人や物
** [[バレーボール]]で用いる用具のひとつ → [[バレーボールの用語一覧#ア]]を参照
; 俗称など
* [[携帯電話]]の電波強度を示すインジケーターの単位(アンテナが三本という表現など)
* [[アホ毛]]や、非常に高い位置での[[ツインテール]]などの[[髪型]]
* [[ウェブサイト]]の更新を自動的にチェックし表示する[[ソフトウェア]]の総称
* 絶縁破壊や[[雷]]等、触角のような針状からくるもの
* [[集積回路|LSI]]製造工程で配線にたまった電荷によって生じる現象。主に[[電界効果トランジスタ|MOSトランジスタ]]の[[絶縁破壊]]。
; 固有名詞
* [[ANTENA (バンド)]] - 日本のロックバンド。2019年までは「'''アンテナ'''」名義で活動していた
* [[アンテナ (音楽グループ)]] - フランスの音楽グループ
* [[アンテナ (ZZトップのアルバム)]] - [[ZZトップ]]のアルバム
* [[アンテナ (小説)]] - [[田口ランディ]]の[[小説]]、およびそれを原作とした映画化作品
* [[Antenna]] - 京都市を拠点に活動するアーティストグループ
* [[アンテナ22]] - [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]のバラエティ番組
* [[アンテナ (くるりのアルバム)]] - [[くるり]]のアルバム
* [[アンテナ (GO!GO!7188のアルバム)]] - [[GO!GO!7188]]のアルバム
* [[ANTENNA (Mrs. GREEN APPLEのアルバム)]] - [[Mrs. GREEN APPLE]]のアルバム、及び表題曲
* [[ウェブサイト]]の[[更新]][[チェック]][[システム]]。[[朝日奈アンテナ]] [http://ecol.zool.kyoto-u.ac.jp/~nishi/hina/doc/]、なつみかん(NATSU-MICAN)[http://www.harmonicom.jp/natsu/]、[[はてなアンテナ]]など。
<!--項目無し
** [[アンテナ (ブランド)]] - [[靴]]のブランド
** [[antenna (テレビ番組)]] - [[テレビ大阪]]の番組。-->
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%8A_(%E6%9B%96%E6%98%A7%E3%81%95%E5%9B%9E%E9%81%BF) |
8,428 | 童歌 | 童歌(わらべうた)とは、こどもが遊びながら歌う、昔から伝えられ歌い継がれてきた歌である。伝承童謡(でんしょうどうよう)、自然童謡(しぜんどうよう)ともいう。民謡の一種ととらえられるものもある。
分類すると、絵描き歌、数え歌、遊びの歌などに分けられる。
特に2人組で行う手遊び歌では、代表的な始め方として「せっせっせーのよいよいよい」のフレーズが挙げられる。このフレーズでは、まず自分の右手と相手の左手、自分の左手と相手の右手をつなぐ。そして「せっせっせー」で縦に3度振った後、つないだまま両手を交差させるようにし、「よいよいよい」で再度3度縦に振って手を離す。
子守をするときに歌う歌。子供に聞かせる、という意味で童歌である。例えば母親が赤ん坊をあやしながら歌う。「ねんねんころりよ」などはこれに属する。
しかし、同時にかつて子守が貧乏な子供の働き口として重要であったことから、子守をする子が歌う場合もある。「竹田の子守歌」などに見られる、子守のつらさを唄うものはこれによる。
英語圏の代表的な童歌としてマザー・グースの童歌がある。マザー・グースの童歌は英語文化圏では多くの国で歌われている。
童歌の歌詞には、意味不明のものや、よく考えると恐ろしいものも多い。推理小説の分野では、童歌を元にした殺人と言うのがいわゆる見立て殺人の一つの型としてある。
代表的な作品としてヴァン・ダインの『僧正殺人事件』やアガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』などのいわゆるマザー・グース殺人事件がある。アガサ・クリスティのマザー・グース殺人(見立て殺人)ものとしては、他に『ポケットにライ麦を』がある。日本では横溝正史の『悪魔の手毬唄』や高木彬光の『一、二、三 - 死』があり、これらは上記作品に触発されたものであった。 | [
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] | 童歌(わらべうた)とは、こどもが遊びながら歌う、昔から伝えられ歌い継がれてきた歌である。伝承童謡(でんしょうどうよう)、自然童謡(しぜんどうよう)ともいう。民謡の一種ととらえられるものもある。 | '''童歌'''(わらべうた)とは、こどもが[[遊び]]ながら歌う、昔から伝えられ歌い継がれてきた[[歌]]である。'''伝承童謡'''(でんしょうどうよう)、'''自然童謡'''(しぜんどうよう)ともいう。[[民謡]]の一種ととらえられるものもある。
== 日本に伝わる童歌 ==
分類すると、絵描き歌、数え歌、遊びの歌などに分けられる。
=== 絵描き歌 ===
* たこにゅうどう
* さかな
* かわいいコックさん(コックさん)
* へのへのもへじ
=== 数え歌 ===
* [[京都]]の通り名数え歌
: 南北、東西それぞれの[[京都市内の通り]]を順に言っていく歌。
=== 遊び歌 ===
==== ひとりで遊ぶ手遊び歌 ====
* ちゃつぼ
: にぎったこぶしを茶壺に、空いた片方の手を広げて茶壺の底や蓋に見立て「ちゃちゃつぼちゃつぼ、ちゃつぼにゃ蓋がない。底を取って蓋にしよ」という歌の節にあわせて、開いた手のひらを茶壺に見立てたこぶしの上と下に交互に当てる。このとき開いた手のひらが握りこぶしの上と下に順番に交互に当てた後、右手と左手の茶壺と蓋・底の役割を入れ替える。
==== 2人組で遊ぶ手遊び歌 ====
特に2人組で行う手遊び歌では、代表的な始め方として「せっせっせーのよいよいよい」のフレーズが挙げられる。このフレーズでは、まず自分の右手と相手の左手、自分の左手と相手の右手をつなぐ。そして「せっせっせー」で縦に3度振った後、つないだまま両手を交差させるようにし、「よいよいよい」で再度3度縦に振って手を離す。
* お寺の和尚さん
: 「お寺の和尚さんがカボチャの種を蒔きました」…と続くジャンケンの歌。
* おちゃらかほい
: 「おちゃらかおちゃらかおちゃらかほい」で[[じゃんけん]]をし、以下「おちゃらか勝ったよ(負けたよ・あいこで)おちゃらかほい」で延々とじゃんけんを続ける歌。
* [[茶摘み]]
* [[ヤンキードゥードゥル|アルプス一万尺]](いちまんじゃく)
==== 集団で遊ぶ遊び歌 ====
* [[かごめかごめ]]
: 中央に座った[[鬼]]が、自分の真後ろが誰かを当てるときの遊び歌。
* 京の大仏つぁん
: 京都に伝わる遊び歌。歌詞は「京の京の大仏つぁんは 天火で焼けてな 三十三間堂が 焼け残った ありゃドンドンドン こりゃドンドンドン 後ろの正面どなた (猿キャッキャッキャッ)」。遊び方は[[かごめかごめ]]と同じで、中央に座った[[鬼]]が、自分の真後ろが誰かを当てるというもの。[[寛政]]10年([[1798年]])に京都の[[方広寺]]大仏([[京の大仏]])は落雷で焼失してしまったが、隣りにあった[[三十三間堂]]は奇跡的に類焼を免れたことを歌っている<ref>[[田中緑紅]] 『京の京の大仏っあん』1957年 p.7</ref>。歌の最後に「猿キャッキャッキャッ」と歌われる場合もあるが、それは[[京の大仏]]を発願した[[豊臣秀吉]]を風刺したものとも言われる(秀吉は「猿」とあだ名されていた)。
* [[はないちもんめ]]
: 「勝って嬉しいはないちもんめ」から続く歌。
* [[通りゃんせ]]
: 二人で手をつなぎアーチを作り、歌が続いている間に残りの子がその下を通り抜け、歌が終わった時にアーチの下にいた子を捕まえる遊び歌。
* [[ずいずいずっころばし]]
: 鬼決めや、指遊びに使われる。「お茶壺道中」についての唄だと言われているほか、[[不純異性交遊]]を表す戯歌とも言われている。<!--{ずっころばし}は私娼のことで、茶壷は女性器、井戸はおいど=おしり、お茶碗欠くは行為の意であるとか-->
* [[いろはに金平糖]]
: 「いろはに金平糖」、「金平糖は甘い」、「甘いは砂糖」…と続く歌。
* [[一かけ二かけ]]
: 西郷隆盛が登場する、わらべ歌では新しめの歌。手合わせ、お手玉などで歌われる。
* [[今年の牡丹]]
: 今年の牡丹は良い牡丹と輪になった子供達が歌う。その時鬼は、輪の外にいる。歌が終了すると鬼が輪になった子供達の所にやってきて「輪に入れて」と頼む。
* [[せんべいやけた]]
: 「せんべい、せんべい、やけた。焼けたせんべいひっくり返せ」と歌いながら手の表と裏をつかって遊ぶ歌。
* [[あぶくたった]]
: 「あぶくたった にえたった にえたか どうだか 食べてみよう むしゃ むしゃ むしゃ まだ にえない」と歌って鬼ごっこになる。
=== 手鞠歌 ===
* [[あんたがたどこさ]]
: [[熊本市]]が舞台の手鞠歌。
* 道成寺、道成寺のてまり唄
: [[安珍・清姫伝説]]に取材した[[和歌山県]]の手鞠歌。
* 一匁のい助さん
=== 子守歌 ===
[[子守]]をするときに歌う歌。子供に聞かせる、という意味で童歌である。例えば母親が赤ん坊をあやしながら歌う。「ねんねんころりよ」などはこれに属する。
しかし、同時にかつて子守が貧乏な子供の働き口として重要であったことから、子守をする子が歌う場合もある。「[[竹田の子守歌]]」などに見られる、子守のつらさを唄うものはこれによる。
== 英語圏に伝わる童歌 ==
[[英語|英語圏]]の代表的な童歌として[[マザー・グース]]の童歌がある<ref name="rhythm">服部孝彦『話せる聞ける英語のリズム感』アルク、2008年、42頁</ref>。マザー・グースの童歌は英語文化圏では多くの国で歌われている。
* ジャック・アンド・ジル<ref name="rhythm" />(ジャックとジル)
* ロンドン・ブリッジ<ref name="rhythm" />([[ロンドン橋落ちた]]、''London Bridge'')
* [[ハンプティ・ダンプティ]]<ref name="rhythm" />(''Humpty Dumpty'')
== 推理小説において ==
童歌の歌詞には、意味不明のものや、よく考えると恐ろしいものも多い。推理小説の分野では、童歌を元にした殺人と言うのがいわゆる[[見立て殺人]]の一つの型としてある。
代表的な作品として[[ヴァン・ダイン]]の『[[僧正殺人事件]]』や[[アガサ・クリスティ]]の『[[そして誰もいなくなった]]』などのいわゆる[[見立て殺人#童謡殺人|マザー・グース殺人事件]]がある。アガサ・クリスティのマザー・グース殺人(見立て殺人)ものとしては、他に『[[ポケットにライ麦を]]』がある。日本では[[横溝正史]]の『[[悪魔の手毬唄]]』や[[高木彬光]]の『一、二、三 - 死』があり、これらは上記作品に触発されたものであった。
== 脚注 ==
<references/>
== 関連項目 ==
* [[ヨナ抜き音階]]
* [[こどもの文化]]
* [[にらめっこ]]
* [[子守唄]]
{{日本の音楽}}
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{{DEFAULTSORT:わらへうた}}
[[Category:童歌| わらべうた]]
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[[Category:子供向け楽曲|*わらへうた]]
[[Category:音楽のジャンル]] | null | 2022-08-24T21:28:04Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%A5%E6%AD%8C |
8,429 | 分散 (確率論) | 数学の統計学における分散(ぶんさん、英: variance)とは、データ(母集団、標本)、確率変数(確率分布)の標準偏差の自乗のことである。分散も標準偏差と同様に散らばり具合を表し、標準偏差より分散の方が計算が簡単なため、計算する上で分散を用いることも多い。
分散は具体的には、平均値からの偏差の2乗の平均に等しい。データ x1, x2, ..., xn の分散 s は
分散が 0 であることは、データの値が全て等しいことと同値である。データの分散は二乗平均から平均の2乗を引いた値に等しくなる。
確率変数 X の分散 V[X]は、X の期待値を E[X] で表すと
となる。 確率変数の分散は確率変数の2次の中心化モーメントである。
統計学では、記述統計学においては標本の散らばり具合を表す指標として標本分散(ひょうほんぶんさん、英: sample variance)を、推計統計学においては不偏分散(ふへんぶんさん、英: unbiased variance)・不偏標本分散(ふへんひょうほんぶんさん、英: unbiased sample variance)を用いる。
英語の variance(バリアンス)という語はロナルド・フィッシャーが1918年に導入した。
2乗可積分確率変数 X の分散は期待値を E[X] で表すと
で定義される。これを展開して整理すると
とも書ける。また確率変数 X の特性関数を φX(t) = E[e] とおくと(i は虚数単位)、これは 2階連続的微分可能で
と表示することもできる。
チェビシェフの不等式から、任意の正の数 ε に対して
が成り立つ。これは分散が小さくなるほど確率変数が期待値に近い値をとりやすくなることを示す大まかな評価である。
X, X1, ..., Xn を確率変数、a, b, a1, ..., an を定数とし、共分散を Cov[ · , · ] で表すと
を満たす。したがって、特に X1, ..., Xn が独立ならば、
より
が成り立つ。
推計統計学では、母集団の分散と標本の分散を区別する必要がある。
大きさが n である母集団 x1, x2, ..., xn に対して、平均値を μ で表すとき、偏差の自乗の平均値
を母分散(ぼぶんさん、英: population variance)と言う。
大きさが n である標本 x1, x2, ..., xn に対して、平均値を x で表すとき、偏差の自乗の平均値
で定義される s を標本分散(ひょうほんぶんさん、英: sample variance)と言う。s は標準偏差と呼ばれる。
定義より、
となるから、標本分散は2乗の平均値と平均値の2乗との差に等しい。ただし、この計算では概して二乗平均が巨大になるため、浮動小数点数による近似計算を行う場合には大きな丸め誤差が生じる可能性がある(桁落ち)。このため、浮動小数点数を扱う場合には定義に従って偏差の二乗和を計算することが一般的である(あるいは一般の総和計算と同じくカハンの加算アルゴリズムやpairwise summation(英語版)のような手法により、誤差を小さくする工夫がなされることもある)。
一般に、標本分散の平均値は母分散より少し小さくなる。実際には、平均と分散を持つ同一分布からの無作為標本に対して、標本分散の期待値 E[s] について、
が成り立つ。そこで
を用いると、平均値が母分散に等しくなる推定量が得られる。つまり母分散の不偏推定量となる。これを不偏標本分散(ふへんひょうほんぶんさん、英: unbiased sample variance)や不偏分散(ふへんぶんさん、英: unbiased variance)と呼ぶ。
上記の標本分散は不偏でないことを強調する場合偏りのある標本分散(英: biased sample variance)と言う。
なお、不偏標本分散を単に標本分散と呼ぶ文献もある。
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"text": "定義から明らかに、標本の大きさが大きくなる程につれて偏りのある標本分散は不偏標本分散に近づく。",
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}
] | 数学の統計学における分散とは、データ(母集団、標本)、確率変数(確率分布)の標準偏差の自乗のことである。分散も標準偏差と同様に散らばり具合を表し、標準偏差より分散の方が計算が簡単なため、計算する上で分散を用いることも多い。 分散は具体的には、平均値からの偏差の2乗の平均に等しい。データ x1, x2, …, xn の分散 s2 は 分散が 0 であることは、データの値が全て等しいことと同値である。データの分散は二乗平均から平均の2乗を引いた値に等しくなる。 確率変数 X の分散 V[X]は、X の期待値を E[X] で表すと となる。
確率変数の分散は確率変数の2次の中心化モーメントである。 統計学では、記述統計学においては標本の散らばり具合を表す指標として標本分散を、推計統計学においては不偏分散・不偏標本分散を用いる。 | [[数学]]の[[統計学]]における'''分散'''(ぶんさん、{{lang-en-short|variance}})とは、[[データ]]([[母集団]]、[[標本 (統計学)|標本]])、[[確率変数]]([[確率分布]])の[[標準偏差]]の[[自乗]]のことである。分散も標準偏差と同様に[[統計的ばらつき|散らばり具合]]を表し{{sfn|西岡|2013|loc={{google books quote|id=AUY2AgAAQBAJ|page=16|1.8 分散}}}}、標準偏差より分散の方が計算が簡単なため、計算する上で分散を用いることも多い。
分散は具体的には、[[算術平均|平均値]]からの[[偏差]]の[[自乗|2乗]]の平均に等しい。データ {{math2|''x''{{sub|1}}, ''x''{{sub|2}}, …, ''x{{sub|n}}''}} の分散 {{math|''s''{{sup|2}}}} は
:<math>s^2 = \frac{1}{n} \textstyle\sum\limits_{i=1}^n (x_i - \overline{x})^2</math>
:ここで {{math|{{overline|''x''}}}} は平均値を表す。
分散が {{math|0}} であることは、データの値が全て等しいことと[[同値関係|同値]]である。データの分散は二乗平均から平均の[[自乗|2乗]]を引いた値に等しくなる。
確率変数 {{mvar|X}} の分散 {{math|''V''[''X'']}}{{efn2|分散を {{math|Var[''X'']}} と書く場合もある。}}は、{{mvar|X}} の[[期待値]]を {{math|''E''[''X'']}} で表すと
:{{math2|1=''V''[''X''] = ''E''[(''X'' − ''E''[''X'']){{sup|2}}]}}
となる{{sfn|JIS Z 8101-1 : 1999|loc=1.13 分散}}。
確率変数の分散は[[確率変数]]の2次の[[モーメント (確率論)|中心化モーメント]]である。
[[統計学]]では、[[統計学#記述統計学と推計統計学|記述統計学]]においては標本の散らばり具合を表す[[指標]]として'''標本分散'''(ひょうほんぶんさん、{{lang-en-short|sample variance}})を、[[推計統計学]]においては'''不偏分散'''(ふへんぶんさん、{{lang-en-short|unbiased variance}})・'''不偏標本分散'''(ふへんひょうほんぶんさん、{{lang-en-short|unbiased sample variance}})を用いる。
== 言葉の由来 ==
英語の {{lang|en|variance}}(バリアンス)という語は[[ロナルド・フィッシャー]]が1918年に導入した<ref>{{Cite web
|url = https://jeff560.tripod.com/v.html
|title = Earliest Known Uses of Some of the Words of Mathematics (V)
|accessdate = 2016-01-24
}}</ref>。
== 確率変数の分散 ==
[[自乗可積分函数|2乗可積分]][[確率変数]] {{mvar|X}} の分散は[[期待値]]を {{math|''E''[X]}} で表すと
:<math>V[X]=E\big[(X-E[X])^2\big]</math>
で[[定義]]される。これを展開して整理すると
:<math>\begin{alignat}{5}
V[X]& =E\big[(X-E[X])^2\big] \\
& =E\big[X^2-2XE[X]+(E[X])^2\big] \\
& =E[X^2]-2E\big[XE[X]\big]+E\big[(E[X])^2\big] \\
& =E[X^2]-2E[X]E[X]+(E[X])^2 (\because E[X]=Const) \\
& =E[X^2]-(E[X])^2 \\
\end{alignat}
</math>
とも書ける。また確率変数 {{mvar|X}} の[[特性関数]]を {{math2|1=''φ{{sub|X}}''(''t'') = ''E''[''e{{sup|itX}}'']}} とおくと({{mvar|i}} は[[虚数単位]])、これは 2階[[滑らかな関数|連続的微分可能]]で
:<math>V[X] = -\varphi_X''(0) + (\varphi_X'(0))^2</math>
と表示することもできる。
[[チェビシェフの不等式]]から、任意の[[正の数]] {{mvar|ε}} に対して
:<math>P(|X-E[X]|>\varepsilon) \leq \frac{V(X)}{\varepsilon^2}</math>
が成り立つ。これは分散が小さくなるほど確率変数が期待値に近い値をとりやすくなることを示す大まかな[[不等式#種類と意味|評価]]である。
=== 性質 ===
{{math2|''X'', ''X''{{sub|1}}, …, ''X{{sub|n}}''}} を[[確率変数]]、{{math2|''a'', ''b'', ''a''{{sub|1}}, …, ''a{{sub|n}}''}} を[[定数]]とし、[[共分散]]を {{math|Cov[ · , · ]}} で表すと
*<math>V[X] \ge 0</math>(非負性)
*<math>V[X+b] = V(X)</math>({{仮リンク|位置母数|en|location parameter}}に対する不変性)
*<math>V[aX] = a^2 V(X)</math>([[斉次函数|斉次性]])
*<math>V \bigl[ \textstyle\sum\limits_i a_i X_i \bigr] = \sum\limits_{i,j} a_i a_j \operatorname{Cov} [X_i, X_j]</math>
を満たす。したがって、特に {{math2|''X''{{sub|1}}, …, ''X{{sub|n}}''}} が[[独立 (確率論)|独立]]ならば、
:<math>\operatorname{Cov}[X_i, X_j] = \begin{cases}
V(X_i) &(i=j) \\
0 &(i \neq j)
\end{cases}</math>
より
:<math>V[X_1 + \dotsb + X_n] = V[X_1] + \dotsb + V[X_n]</math>
が成り立つ。
=== 例 ===
* [[確率変数]] {{mvar|X}} が[[一様分布]] {{math|''U''(''a'', ''b'')}} に従うとき、{{math2|1=''V''(''X'') = {{sfrac|(''b'' − ''a''){{sup|2}}|12}}}}
* 確率変数 {{mvar|X}} が[[正規分布]] {{math|''N''(''μ'', ''σ''{{sup|2}})}} に従うとき、{{math2|1=''V''(''X'') = ''σ''{{sup|2}}}}
* 確率変数 {{mvar|X}} が[[二項分布]] {{math|''B''(''n'', ''p'')}} に従うとき、{{math2|1=''V''(''X'') = ''np''(1 − ''p'')}}
* 確率変数 {{mvar|X}} が[[ポアソン分布]] {{math|Po(''λ'')}} に従うとき、{{math|1=''V''(''X'') = ''λ''}}
== データの分散 ==
[[推計統計学]]では、[[母集団]]の分散と[[標本 (統計学)|標本]]の分散を区別する必要がある。
=== 母分散 ===
大きさが {{mvar|n}} である[[母集団]] {{math2|''x''{{sub|1}}, ''x''{{sub|2}}, …, ''x{{sub|n}}''}} に対して、[[算術平均|平均値]]を {{mvar|μ}} で表すとき、[[偏差]]の[[自乗]]の平均値
:<math>\sigma^2 =\frac{1}{n} \textstyle\sum\limits_{i=1}^n (x_i - \mu)^2</math>
を'''母分散'''(ぼぶんさん、{{lang-en-short|population variance}})と言う<ref name="K">{{harvnb|栗原|2011|p={{google books quote|id=r5JIE8QbPbAC|page=47|47}}}}.</ref>。
=== 標本分散・不偏標本分散 ===
大きさが {{mvar|n}} である[[標本 (統計学)|標本]] {{math2|''x''{{sub|1}}, ''x''{{sub|2}}, …, ''x{{sub|n}}''}} に対して、[[算術平均|平均値]]を {{math|{{overline|''x''}}}} で表すとき、[[偏差]]の[[自乗]]の平均値
:<math>s^2 =\frac{1}{n} \textstyle\sum\limits_{i=1}^n (x_i - \bar{x})^2</math>
で定義される {{math|''s''{{sup|2}}}} を'''標本分散'''(ひょうほんぶんさん、{{lang-en-short|sample variance}})と言う。{{mvar|s}} は[[標準偏差]]と呼ばれる<ref name="K" />。
[[定義]]より、
:<math>s^2 =\frac{1}{n} \textstyle\sum\limits_{i=1}^n {x_i}^2 -(\bar{x})^2 =\overline{x^2}-(\bar{x})^2</math>
となるから、標本分散は2乗の[[算術平均|平均値]]と平均値の2乗との差に等しい。ただし、この計算では概して二乗平均が巨大になるため、[[浮動小数点数]]による[[近似]]計算を行う場合には大きな[[誤差#丸め誤差|丸め誤差]]が生じる可能性がある([[誤差#桁落ち|桁落ち]])。このため、浮動小数点数を扱う場合には定義に従って偏差の二乗和を計算することが一般的である(あるいは一般の[[総和]]計算と同じく[[カハンの加算アルゴリズム]]や{{仮リンク|pairwise summation|en|pairwise summation}}のような手法により、誤差を小さくする工夫がなされることもある)。
一般に、標本分散の平均値は[[#母分散|母分散]]より少し小さくなる。実際には、平均と分散を持つ同一分布からの[[無作為標本]]に対して、標本分散の期待値 {{math|''E''[''s''{{sup|2}}]}} について、
:<math>E[s^2] = \left( 1-\frac{1}{n} \right) \sigma^2</math>
が成り立つ。そこで
:<math>\hat{\sigma}^2 =\frac{1}{n-1} \textstyle\sum\limits_{i=1}^n (x_i - \bar{x})^2 =\dfrac{1}{n-1} \sum\limits_{i=1}^n {x_i}^2 - \dfrac{n}{n-1} \bar{x}^2</math>
を用いると、平均値が母分散に等しくなる[[推定量]]が得られる。つまり母分散の[[偏り#推定量の偏り|不偏推定量]]となる。これを'''不偏標本分散'''(ふへんひょうほんぶんさん、{{lang-en-short|unbiased sample variance}})や'''不偏分散'''(ふへんぶんさん、{{lang-en-short|unbiased variance}})と呼ぶ<ref name="K" />。
上記の標本分散は不偏でないことを強調する場合'''偏りのある標本分散'''({{lang-en-short|biased sample variance}})と言う。
{{See also|偏り}}
なお、[[#標本分散・不偏標本分散|不偏標本分散]]を単に標本分散と呼ぶ文献もある。
定義から明らかに、標本の大きさが大きくなる程につれて偏りのある標本分散は不偏標本分散に近づく。
== 注釈 ==
{{Notelist2}}
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書 |author=栗原伸一 |year=2011 |title=入門統計学検定から多変量解析・実験計画法まで |url={{google books|r5JIE8QbPbAC|plainurl=yes}} |publisher=[[オーム社]] |isbn=978-4-274-06855-3 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書 |author=西岡康夫 |year=2013 |title=数学チュートリアル やさしく語る 確率統計 |publisher=[[オーム社]] |url={{google books |AUY2AgAAQBAJ |plainurl=yes |isbn=978-4-274-21407-3 |ref=harv}}}}
* {{Cite book|和書 |author=日本数学会|authorlink=日本数学会 |year=2007 |title=数学辞典 |publisher=[[岩波書店]] |isbn=9784000803090}}
* {{Citation |year=1999 |title=JIS Z 8101-1:1999 統計 − 用語と記号 − 第1部:確率及び一般統計用語 |publisher=[[日本規格協会]] |publisherlink=kikakurui.com |url=http://kikakurui.com/z8/Z8101-1-1999-01.html |ref={{sfnref|JIS Z 8101-1 : 1999}}}}
* {{Cite book|和書 |author=伏見康治|authorlink=伏見康治 |year=1942 |title=確率論及統計論 |publisher=[[河出書房]] |isbn=9784874720127 |url=http://ebsa.ism.ac.jp/ebooks/ebook/204 |ref={{sfnref|伏見}}}}
== 関連項目 ==
* [[標準偏差]]
* [[統計量]]
* [[確率密度関数]]
* {{仮リンク|確率母関数|en|Probability-generating function}}
* [[分散分析]]
* [[推計統計学]]
* [[正規分布]]
* [[中心極限定理]]
* [[ブラウン運動]]
{{統計学}}
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[[Category:統計的偏差と分散|*ふんさん]]
[[Category:確率論]]
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[[Category:初等数学]]
[[Category:データ分析]]
[[Category:数学に関する記事]] | 2003-05-17T08:50:01Z | 2023-11-01T17:20:55Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E6%95%A3_(%E7%A2%BA%E7%8E%87%E8%AB%96) |
8,430 | 信濃川 | 信濃川(しなのがわ)は、新潟県および長野県を流れる一級河川。信濃川水系の本流であり、新潟市で日本海に注ぐ。このうち信濃川と呼ばれているのは新潟県域で、長野県に遡ると千曲川()と呼称が変わる。この項目では千曲川と呼称される上流部を合わせ説明する。
全長367キロメートル (km)のうち、信濃川と呼ばれている部分が153 kmで、千曲川と呼ばれている部分は214 kmと、60 kmほど千曲川の方が長い。ただし、河川法上は千曲川を含めた信濃川水系の本流を信濃川と規定しているため、信濃川は日本で一番長い川となっている。日本三大河川のうちの1つである。
流域面積11,900 kmは日本で第3位、新潟と長野の2県でほとんどを占めるが、信濃川水系の一次支川(いちじしせん)である中津川の源流部が群馬県の野反湖付近にあるため、信濃川水系の流域は群馬を含む3県に及ぶ。
なお、洪水時の分水路(大河津分水)がある大河津分水分派点より下流を信濃川下流と称している。
古くは「大きな川」として「大川」(おおかわ)と呼ばれていたが、のちに下流部では信濃国から流れてくる川として、信濃川と呼ばれるようになった。
長野県内の名称である千曲川の名前の由来については諸説がある。
なお、千曲川の支流である犀川は長野県西部の筑摩(ちくま)地方を流れているが、筑摩は古くは「つかま」と呼ばれたため、直接の関係はないと見られる。
千曲川は『万葉集』の頃から多くの詩歌に歌われ、近代になっても流域の佐久市・小諸市周辺を島崎藤村(『千曲川旅情のうた』『小諸なる古城のほとり』)が、長野市周辺から新潟県境付近の豊田村(現・中野市)周辺を高野辰之(『朧月夜』『故郷』)が歌にしている。
千曲川のことを東信では「ちゅうま」または「ちうま」、北信では「ちょうま」、栄村と新潟県津南町では「ちぐま」と呼ぶことがある。方言学者の馬瀬良雄は、『万葉集』の東歌に「知具麻能河泊(ちぐまのかは)」や「中麻奈尓 宇伎乎流布祢能(ちうまなに うきをるふねの)」という表記があることから、信濃の言葉としては「ちぐま」が最も古く、「ちぐま→ちうま→ちゅーま→ちょーま」と変化したと推定している。なお、上記の東歌(3401番歌)にある「奈(な)」については、都竹通年雄は「今のアイヌ語で川を『ナイ』というから『チグマナ』の『ナ』はアイヌ語の川という意味の語根が残ったものである」とする。それを踏まえて、アイヌ研究家の木村圭一は、「千曲」の語源としてアイヌ語の「chuk-oma」(鮭のいる処)としている。
千曲川は埼玉県・山梨県・長野県の県境に位置する甲武信ヶ岳の長野県側斜面(南佐久郡川上村)を源流とし、八ヶ岳、関東山地などを源流とする諸河川と合流しつつ佐久盆地(佐久平)、上田盆地(上田平)を北流する。長野盆地(善光寺平)の川中島の北端に該当する場所で、飛騨山脈を源流とし松本盆地(松本平)から北流してきた犀川と合流する。
なお合流地点には落合橋(おちあいばし)が架橋されている。この橋はT字型の特殊な形態の橋である。その後、川は北東に流れ、新潟県に入って信濃川と名前を変える。
信濃川は、十日町盆地を通った後、群馬・新潟県境の谷川岳から流れてきた魚野川と合流し、越後平野(新潟平野)に出て、新潟市で日本海に注ぐ。河口は阿賀野川の河口に近く、時代によっては新潟の地で合流して河口を共有していたこともあった。
源流域の川上村から上田市にかけては千曲川構造線に沿うようにして北西に流下し、千曲市付近で北東方向に約90度方向を変え、長野市からは信濃川断層帯を北東に延長した断層帯域の地質的に弱い所を浸食し流下し、日本海へと向かう。河床勾配の変化を見ると、上流部の佐久地域で 7.3 パーミル(‰)、上田地域で、5.5 ‰である。しかし、長野市周辺では、0.93 ‰となるが、西大滝ダム付近を変化点としては再び河床勾配は急になり、長野新潟県境付近から下流の十日町付近までは、3.5 ‰の勾配となる。
こうした勾配の変化をもたらしている原因は第四紀後期完新世の隆起活動と隆起に伴い形成された断層による物である。隆起としては中野市から飯山市付近の高丘丘陵などが影響を与えて、断層としては立ヶ花付近には長野盆地西縁断層の一つである長丘断層が河を横切っている、また西大滝ダム付近には重地原断層、北竜湖断層があり、長野新潟県境付近には津南断層がある。
千曲川流域の洪水で最も古いものは、文献(『日本紀略』)などに仁和4年(888年)が記録されている。歴史上、最大の洪水は1742年(寛保2年)に起き、「戌の満水」と呼ばれている。そして徳川幕府治世の時代を通じて64回の水害が記録されていたとされる。
後述の河川改修・治水工事により、同じ規模の増水では堤防の決壊などは起こらなくなっていることが読み取れる。立ヶ花観測点(1951年観測開始)は旧豊野町(現・長野市)と中野市の境にある国土交通省による水位観測点で、千曲川河床の勾配が緩くなると共に1,000 mを超える川幅が210 mにまで狭窄する部分。これより下流は、第四紀後半から始まる地盤の隆起のため川の流れは蛇行して流速が落ちる。立ヶ花水位観測点の計画高水位は10.75 m、氾濫危険水位は9.2 m。
縄文時代、新潟市を中心とした越後平野の一部は日本海であった。その後、徐々に信濃川や阿賀野川が運搬してきた土砂が越後砂丘を形成して堆積。現在の越後平野を形成したが低湿地で方々に潟が存在し、水捌けの悪い地域であった。又、洪水によって幾度も流路を変えた。
1597年(慶長2年)、越後春日山城主上杉景勝の執政で名将と謳われた直江兼続は燕・三条付近の洪水調節を図る為中ノ口川を開削。これが近世信濃川治水史の端緒となる。
上杉氏転封後の江戸時代、新発田藩主となった溝口氏は中ノ口付近も領していた為に代々の藩主は河川改修を実施していた。
長岡藩第9代藩主の牧野忠精は信濃川の河川改修に特に力を入れた。新川開削の大事業を行って蒲原平野に存在していた3つの潟の悪水を日本海に排水し、蒲原平野の新田開発を成功させた。
信濃国・千曲川でも江戸時代を通じて64回の洪水を記録し、犀川との同時洪水ですら11回を記録するという。この間に福島正則や松代藩主・松平忠輝の家老花井氏親子や、松代藩へ国替えとなった真田氏歴代が築堤や掘割、河道の付替えなどを度々行った。
だが、度重なる治水事業を行っているにも拘らず、信濃川は氾濫を繰り返して為政者の頭を悩ませた。こうした中で浮上して来たのが大河津分水路計画である。
明治に入り工事が始まった大河津分水は、信濃川の流量を減らすべく、江戸時代より計画されていたもので、信濃川を越後平野中央部で分流し、日本海へ流すものである。1909年(明治42年)に本格的な工事が始まり、1922年(大正11年)通水に成功し、2年後の1924年(大正13年)に完成した。
これにより信濃川下流部の川幅が大幅に狭まるなどの影響があった。
1918年(大正7年) - 1941年(昭和16年)には、千曲川第1期補修事業が内務省の手によって進められたが、洪水は容赦なく発生し根本的な解決には至らなかった。
1948年(昭和23年)からは千曲川第二期補修事業が建設省(現・国土交通省北陸地方整備局)の手によって着手され現在も進行中である。
しかし、数年に一度は洪水による被害を流域は受けており、根本的な治水対策としてダムによる洪水調節が図られた。信濃川水系においては建設省直轄事業よりも先に新潟県・長野県による県営ダム事業が推進され、裾花ダム(裾花川)、笠堀ダム(笠堀川)などが建設された。建設省は1960年(昭和35年)に関屋分水路の建設を計画したが、1964年(昭和39年)の新潟地震によって新潟市内が広範囲にわたり浸水したことから鳥屋野潟の排水計画に着手した。
この後、黒川放水路が1969年(昭和44年)に完成。関屋分水路は1972年(昭和47年)に通水し、蒲原大堰・中の口川水門も建設が開始された。
だが1969年8月の集中豪雨は流域に大きな被害をもたらし、対策として建設省は1974年(昭和49年)、「信濃川水系工事実施基本計画」を改定。この中で多目的ダムの建設を計画し、大町ダム(高瀬川)が1986年(昭和61年)に、三国川ダム(三国川)が1993年(平成5年)に完成した。
県営でも大谷ダム(五十嵐川)や破間川ダム(破間川)が新潟県に、奈良井ダム(奈良井川)や奥裾花ダム(裾花川)が長野県に完成した。又、人口が急増している長岡市に上水道を供給するため妙見堰(信濃川)が1990年(平成2年)に完成している。
治水整備は進められている一方、その後も水害は繰り返し起こり、2004年(平成16年)には平成16年7月新潟・福島豪雨(7・13水害)が三条市・見附市等に被害をもたらした。
この様に古来より洪水と治水は「いたちごっこ」の状況で、信濃川の治水の難しさを物語っている。2010年代に入ってもダムの建設は進められ、広神ダム(和田川。2011年竣工)、晒川ダム(晒川。2012年中止)などが挙げられる。
前述の令和元年東日本台風(台風19号)による被害を受けて、2020年代にかけて『信濃川水系緊急治水対策プロジェクト』が進められている。
一方、信濃川は水量が豊富でかつ上流部は関東山地・飛騨山脈・木曽山脈である事から急流であり、水力発電には絶好の適地であった。大正時代には高瀬川の高瀬川発電所が建設されていたが、昭和初期に入ると各地で水路式発電所が建設された。
特に、旧・鉄道省(現・JR東日本)は信濃川に大規模水力発電所を建設。信濃川本川に宮中取水ダムを1938年(昭和13年)に建設、新山本・浅河原調整池や千手・小千谷・新小千谷発電所を建設し首都圏の鉄道運転の為の電力を供給した(詳細は信濃川発電所を参照)。
第二次世界大戦後、大規模な揚水発電所が各所に建設された。特に梓川の安曇・水殿発電所や高瀬川の新高瀬川発電所、南相木川の神流川発電所、清津川の奥清津・奥清津第二発電所は日本有数の規模を誇り、首都圏に電力を供給する上での重要性は大きい。
この様に信濃川は治水・利水の為の施設が多く存在する。だが、1990年代以降公共事業見直しの機運が全国的に高まり、利根川・淀川等全国の主要河川においてダムを始めとする河川施設の建設中止が相次いだ。信濃川水系も例外ではなく2002年(平成12年)に信濃川水系では最大規模の総貯水容量を擁する予定であった清津川ダム(清津川。国土交通省北陸地方整備局)が、2003年(平成13年)には戦前から連綿と続き戦後「只見特定地域総合開発計画」でも取り上げられた『只見川水力発電新潟分水案』に基づく「湯之谷揚水発電計画」、その根幹である佐梨川ダム(佐梨川。新潟県)が上池と共に中止となり長年に亘る新潟分水案はここに潰えた。県営ダムでも三用川ダム(三用川・新潟県)が建設中止となっている。
又、国土交通省北陸地方整備局(当時は建設省北陸地方建設局)は1981年(昭和56年)の信濃川洪水を機に、1954年(昭和29年)より構想のあった「千曲川上流ダム計画」を南佐久郡南牧村に計画した。これは洪水調節・上水道等を目的とした多目的ダムとして、信濃川本川上流に堤高約80.0 m、総貯水容量が約70,000,000 tという本格的なダムを建設しようとしたものである。
「千曲川上流ダム」が完成すると南牧村を中心に250戸が水没する他、JR小海線が水没する。1984年(昭和59年)に実施計画調査の為の予算が付いたが住民の強硬な反対に遭い、その後地元南牧村を始め南佐久郡5町村が建設推進を撤回して反対に回り、計画が凍結した。
その後公共事業見直しの機運の中で計画は再検討され、2002年に「千曲川上流ダム計画」は国土交通省によって白紙撤回となった。こうして日本最長の河川に建設される予定であった唯一の多目的ダムは中止されたが、ダムに代わる治水代替案は確定されていない。
2004年(平成14年)に入ると、長野県知事・田中康夫の『脱ダム宣言』によって長野県内に計画中の信濃川水系のダム計画が纏めて中止となった。浅川ダム(浅川)、角間ダム(角間川)、黒沢ダム(黒沢川)、清川ダム(清川)が対象となり、有無を言わさぬ形での中止であった。この宣言には「先進的な思想」「環境保護を重視した良策」「公共事業と利権の癒着を抉り出す第一歩」と賞賛する声が多い。その一方で「治水対案が根拠薄弱」「住民の安全を無視した愚策」との批判もある。
代替案である「河道内遊水池」が結局は名前を変えたダムであるとの指摘もあり、浅川ダムの様に下流住民の合意を得ずに中止した面もあるため、洪水の多発する信濃川で今後洪水が起こったときに知事がどのような対応を取るのか、注目されていたが、2006年(平成18年)7月の平成18年7月豪雨で天竜川流域が豪雨による被災を受けた。『脱ダム宣言』が直接災害に関係していたわけではないにしろ、治水対策の不備を含め田中県政に対する様々な不満が表面化。県知事選挙に敗北し、田中は野に下った。
田中に代わり村井仁が知事に就任した。『脱ダム宣言』については当初は批判的発言を繰り返していたものの就任後は性急なダム建設回帰には慎重な姿勢を示したが、2007年(平成19年)2月、河道内遊水池(穴あきダム)を是とする判断が出された。
信濃川の利水に関しては、本流と支流で異なった特徴を持つ。信濃川本川には高さ50 mを超えるダム・多目的ダムは存在しないが、その分、放水路が多い。
一つの河川に放水路が2か所も建設されているのは信濃川だけである。それだけ治水に苦労していることをうかがい知ることができる。
また、利根川や木曽川、淀川ほど水資源確保のための系統的利水施設が多く存在しないのも特徴で、主眼はあくまでも治水と灌漑に置かれている。逆に支流には大小数多くの治水・治山・利水ダムが建設されている。
一方、水力発電施設においては全国屈指の発電量・発電施設を誇る。揚水発電所だけでも梓川、相木川、高瀬川、黒又川、清津川の5か所に建設された実績があり、これも全国屈指の数である。また、新潟県内ではJR東日本が首都圏の鉄道網を支える電力供給を信濃川から得ている。その歴史の中でJR東日本信濃川発電所の不正取水問題も起きた。
(注):黄欄は建設中もしくは計画中のダム(2006年時点)。
国土交通省 北陸地方整備局河川事務所の観測点は、下流側より
河口より記載
千曲川・信濃川は共に江戸時代から明治時代にかけて川舟による通船が全盛を迎え、流域の物流を担った。ただし、その後の流域の物流の主役は、陸上交通が担っていった。信濃川の河口部には古代から蒲原津(かんばらのつ)、沼垂津(ぬったりのつ)、新潟津などの港(新潟三ヵ津)が栄え、特に新潟は江戸時代に大きく発展し日米修好通商条約によって他国に開放する港の1つとされた。新潟港は現在においても国際貿易港として機能しており、ロシア、韓国などとの国際便が就航している。
千曲川は内陸県である長野県を流れる川であり、千曲川などで漁獲される淡水魚は重要なタンパク質源の1つとして利用されてきた。例えば、春に産卵のために千曲川を遡上するウグイも、漁獲されてきた魚種の1つである。ウグイの特徴的な漁法としては「つけ場漁」が知られ、これは川の流れの中に人工的に整備した産卵床を整え、そこに集まってくるウグイを捕獲する手法である。また、千曲川は佐久市付近で谷から、そこより上流側と比べて幅の広い谷に流れ出るわけだが、ここの伏流水を取水して、水田や池などでのコイの養殖漁業を19世紀初頭から行っている。なお、漁業者により捕獲が行われてきた、その他の主な魚種として、アユ、フナ、オイカワ、クチボソ、ナマズ、ドジョウなどが挙げられる。ただし、オイカワは1929年に始まったアユの稚魚放流に伴い琵琶湖から人為的に移入された外来種である。この他に、アユ、イワナ、ウナギ、コイ、サケ、ニジマス、ヤマメ、カジカが、主に人為的に放流されている魚種である。これに加えて、かつて千曲川では行政の主導でコクレン、ハクレン、ソウギョ、カムルチーの放流も行われていた。さらに、信濃川・千曲川で人為的に放流された結果、生息が確認されている外来種の魚類として、カムルチー、オオクチバス、コクチバス、ブルーギル、カワマス、ブラウントラウト、カダヤシ、テラピア、タイリクバラタナゴが挙げれられる。ヒトの影響は、これだけに留まらず、かつて流域で漁獲量は1万8千〜4万尾の漁獲量を誇ったサケ(シロザケ)、マス(サクラマス)は、西大滝ダムや宮中取水ダムの完成により、ほとんど信濃川を遡上しなくなり、1940年を境に漁業としては成立しなくなった。サケに関して、長野県では「カムバックサーモン」キャンペーンを1980年から展開し、21年間で1億6000万円かけて899万匹を放流したものの、西大滝ダム下流まで遡上が確認されたのは48匹に過ぎなかった。 | [
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"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "千曲川は埼玉県・山梨県・長野県の県境に位置する甲武信ヶ岳の長野県側斜面(南佐久郡川上村)を源流とし、八ヶ岳、関東山地などを源流とする諸河川と合流しつつ佐久盆地(佐久平)、上田盆地(上田平)を北流する。長野盆地(善光寺平)の川中島の北端に該当する場所で、飛騨山脈を源流とし松本盆地(松本平)から北流してきた犀川と合流する。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "なお合流地点には落合橋(おちあいばし)が架橋されている。この橋はT字型の特殊な形態の橋である。その後、川は北東に流れ、新潟県に入って信濃川と名前を変える。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "信濃川は、十日町盆地を通った後、群馬・新潟県境の谷川岳から流れてきた魚野川と合流し、越後平野(新潟平野)に出て、新潟市で日本海に注ぐ。河口は阿賀野川の河口に近く、時代によっては新潟の地で合流して河口を共有していたこともあった。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "源流域の川上村から上田市にかけては千曲川構造線に沿うようにして北西に流下し、千曲市付近で北東方向に約90度方向を変え、長野市からは信濃川断層帯を北東に延長した断層帯域の地質的に弱い所を浸食し流下し、日本海へと向かう。河床勾配の変化を見ると、上流部の佐久地域で 7.3 パーミル(‰)、上田地域で、5.5 ‰である。しかし、長野市周辺では、0.93 ‰となるが、西大滝ダム付近を変化点としては再び河床勾配は急になり、長野新潟県境付近から下流の十日町付近までは、3.5 ‰の勾配となる。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "こうした勾配の変化をもたらしている原因は第四紀後期完新世の隆起活動と隆起に伴い形成された断層による物である。隆起としては中野市から飯山市付近の高丘丘陵などが影響を与えて、断層としては立ヶ花付近には長野盆地西縁断層の一つである長丘断層が河を横切っている、また西大滝ダム付近には重地原断層、北竜湖断層があり、長野新潟県境付近には津南断層がある。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "千曲川流域の洪水で最も古いものは、文献(『日本紀略』)などに仁和4年(888年)が記録されている。歴史上、最大の洪水は1742年(寛保2年)に起き、「戌の満水」と呼ばれている。そして徳川幕府治世の時代を通じて64回の水害が記録されていたとされる。",
"title": "水害の歴史"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "後述の河川改修・治水工事により、同じ規模の増水では堤防の決壊などは起こらなくなっていることが読み取れる。立ヶ花観測点(1951年観測開始)は旧豊野町(現・長野市)と中野市の境にある国土交通省による水位観測点で、千曲川河床の勾配が緩くなると共に1,000 mを超える川幅が210 mにまで狭窄する部分。これより下流は、第四紀後半から始まる地盤の隆起のため川の流れは蛇行して流速が落ちる。立ヶ花水位観測点の計画高水位は10.75 m、氾濫危険水位は9.2 m。",
"title": "水害の歴史"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "縄文時代、新潟市を中心とした越後平野の一部は日本海であった。その後、徐々に信濃川や阿賀野川が運搬してきた土砂が越後砂丘を形成して堆積。現在の越後平野を形成したが低湿地で方々に潟が存在し、水捌けの悪い地域であった。又、洪水によって幾度も流路を変えた。",
"title": "信濃川水系開発史"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "1597年(慶長2年)、越後春日山城主上杉景勝の執政で名将と謳われた直江兼続は燕・三条付近の洪水調節を図る為中ノ口川を開削。これが近世信濃川治水史の端緒となる。",
"title": "信濃川水系開発史"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "上杉氏転封後の江戸時代、新発田藩主となった溝口氏は中ノ口付近も領していた為に代々の藩主は河川改修を実施していた。",
"title": "信濃川水系開発史"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "長岡藩第9代藩主の牧野忠精は信濃川の河川改修に特に力を入れた。新川開削の大事業を行って蒲原平野に存在していた3つの潟の悪水を日本海に排水し、蒲原平野の新田開発を成功させた。",
"title": "信濃川水系開発史"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "信濃国・千曲川でも江戸時代を通じて64回の洪水を記録し、犀川との同時洪水ですら11回を記録するという。この間に福島正則や松代藩主・松平忠輝の家老花井氏親子や、松代藩へ国替えとなった真田氏歴代が築堤や掘割、河道の付替えなどを度々行った。",
"title": "信濃川水系開発史"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "だが、度重なる治水事業を行っているにも拘らず、信濃川は氾濫を繰り返して為政者の頭を悩ませた。こうした中で浮上して来たのが大河津分水路計画である。",
"title": "信濃川水系開発史"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "明治に入り工事が始まった大河津分水は、信濃川の流量を減らすべく、江戸時代より計画されていたもので、信濃川を越後平野中央部で分流し、日本海へ流すものである。1909年(明治42年)に本格的な工事が始まり、1922年(大正11年)通水に成功し、2年後の1924年(大正13年)に完成した。",
"title": "信濃川水系開発史"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "これにより信濃川下流部の川幅が大幅に狭まるなどの影響があった。",
"title": "信濃川水系開発史"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "1918年(大正7年) - 1941年(昭和16年)には、千曲川第1期補修事業が内務省の手によって進められたが、洪水は容赦なく発生し根本的な解決には至らなかった。",
"title": "信濃川水系開発史"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "1948年(昭和23年)からは千曲川第二期補修事業が建設省(現・国土交通省北陸地方整備局)の手によって着手され現在も進行中である。",
"title": "信濃川水系開発史"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "しかし、数年に一度は洪水による被害を流域は受けており、根本的な治水対策としてダムによる洪水調節が図られた。信濃川水系においては建設省直轄事業よりも先に新潟県・長野県による県営ダム事業が推進され、裾花ダム(裾花川)、笠堀ダム(笠堀川)などが建設された。建設省は1960年(昭和35年)に関屋分水路の建設を計画したが、1964年(昭和39年)の新潟地震によって新潟市内が広範囲にわたり浸水したことから鳥屋野潟の排水計画に着手した。",
"title": "信濃川水系開発史"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "この後、黒川放水路が1969年(昭和44年)に完成。関屋分水路は1972年(昭和47年)に通水し、蒲原大堰・中の口川水門も建設が開始された。",
"title": "信濃川水系開発史"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "だが1969年8月の集中豪雨は流域に大きな被害をもたらし、対策として建設省は1974年(昭和49年)、「信濃川水系工事実施基本計画」を改定。この中で多目的ダムの建設を計画し、大町ダム(高瀬川)が1986年(昭和61年)に、三国川ダム(三国川)が1993年(平成5年)に完成した。",
"title": "信濃川水系開発史"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "県営でも大谷ダム(五十嵐川)や破間川ダム(破間川)が新潟県に、奈良井ダム(奈良井川)や奥裾花ダム(裾花川)が長野県に完成した。又、人口が急増している長岡市に上水道を供給するため妙見堰(信濃川)が1990年(平成2年)に完成している。",
"title": "信濃川水系開発史"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "治水整備は進められている一方、その後も水害は繰り返し起こり、2004年(平成16年)には平成16年7月新潟・福島豪雨(7・13水害)が三条市・見附市等に被害をもたらした。",
"title": "信濃川水系開発史"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "この様に古来より洪水と治水は「いたちごっこ」の状況で、信濃川の治水の難しさを物語っている。2010年代に入ってもダムの建設は進められ、広神ダム(和田川。2011年竣工)、晒川ダム(晒川。2012年中止)などが挙げられる。",
"title": "信濃川水系開発史"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "前述の令和元年東日本台風(台風19号)による被害を受けて、2020年代にかけて『信濃川水系緊急治水対策プロジェクト』が進められている。",
"title": "信濃川水系開発史"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "一方、信濃川は水量が豊富でかつ上流部は関東山地・飛騨山脈・木曽山脈である事から急流であり、水力発電には絶好の適地であった。大正時代には高瀬川の高瀬川発電所が建設されていたが、昭和初期に入ると各地で水路式発電所が建設された。",
"title": "信濃川水系開発史"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "特に、旧・鉄道省(現・JR東日本)は信濃川に大規模水力発電所を建設。信濃川本川に宮中取水ダムを1938年(昭和13年)に建設、新山本・浅河原調整池や千手・小千谷・新小千谷発電所を建設し首都圏の鉄道運転の為の電力を供給した(詳細は信濃川発電所を参照)。",
"title": "信濃川水系開発史"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦後、大規模な揚水発電所が各所に建設された。特に梓川の安曇・水殿発電所や高瀬川の新高瀬川発電所、南相木川の神流川発電所、清津川の奥清津・奥清津第二発電所は日本有数の規模を誇り、首都圏に電力を供給する上での重要性は大きい。",
"title": "信濃川水系開発史"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "この様に信濃川は治水・利水の為の施設が多く存在する。だが、1990年代以降公共事業見直しの機運が全国的に高まり、利根川・淀川等全国の主要河川においてダムを始めとする河川施設の建設中止が相次いだ。信濃川水系も例外ではなく2002年(平成12年)に信濃川水系では最大規模の総貯水容量を擁する予定であった清津川ダム(清津川。国土交通省北陸地方整備局)が、2003年(平成13年)には戦前から連綿と続き戦後「只見特定地域総合開発計画」でも取り上げられた『只見川水力発電新潟分水案』に基づく「湯之谷揚水発電計画」、その根幹である佐梨川ダム(佐梨川。新潟県)が上池と共に中止となり長年に亘る新潟分水案はここに潰えた。県営ダムでも三用川ダム(三用川・新潟県)が建設中止となっている。",
"title": "信濃川水系開発史"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "又、国土交通省北陸地方整備局(当時は建設省北陸地方建設局)は1981年(昭和56年)の信濃川洪水を機に、1954年(昭和29年)より構想のあった「千曲川上流ダム計画」を南佐久郡南牧村に計画した。これは洪水調節・上水道等を目的とした多目的ダムとして、信濃川本川上流に堤高約80.0 m、総貯水容量が約70,000,000 tという本格的なダムを建設しようとしたものである。",
"title": "信濃川水系開発史"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "「千曲川上流ダム」が完成すると南牧村を中心に250戸が水没する他、JR小海線が水没する。1984年(昭和59年)に実施計画調査の為の予算が付いたが住民の強硬な反対に遭い、その後地元南牧村を始め南佐久郡5町村が建設推進を撤回して反対に回り、計画が凍結した。",
"title": "信濃川水系開発史"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "その後公共事業見直しの機運の中で計画は再検討され、2002年に「千曲川上流ダム計画」は国土交通省によって白紙撤回となった。こうして日本最長の河川に建設される予定であった唯一の多目的ダムは中止されたが、ダムに代わる治水代替案は確定されていない。",
"title": "信濃川水系開発史"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "2004年(平成14年)に入ると、長野県知事・田中康夫の『脱ダム宣言』によって長野県内に計画中の信濃川水系のダム計画が纏めて中止となった。浅川ダム(浅川)、角間ダム(角間川)、黒沢ダム(黒沢川)、清川ダム(清川)が対象となり、有無を言わさぬ形での中止であった。この宣言には「先進的な思想」「環境保護を重視した良策」「公共事業と利権の癒着を抉り出す第一歩」と賞賛する声が多い。その一方で「治水対案が根拠薄弱」「住民の安全を無視した愚策」との批判もある。",
"title": "信濃川水系開発史"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "代替案である「河道内遊水池」が結局は名前を変えたダムであるとの指摘もあり、浅川ダムの様に下流住民の合意を得ずに中止した面もあるため、洪水の多発する信濃川で今後洪水が起こったときに知事がどのような対応を取るのか、注目されていたが、2006年(平成18年)7月の平成18年7月豪雨で天竜川流域が豪雨による被災を受けた。『脱ダム宣言』が直接災害に関係していたわけではないにしろ、治水対策の不備を含め田中県政に対する様々な不満が表面化。県知事選挙に敗北し、田中は野に下った。",
"title": "信濃川水系開発史"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "田中に代わり村井仁が知事に就任した。『脱ダム宣言』については当初は批判的発言を繰り返していたものの就任後は性急なダム建設回帰には慎重な姿勢を示したが、2007年(平成19年)2月、河道内遊水池(穴あきダム)を是とする判断が出された。",
"title": "信濃川水系開発史"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "信濃川の利水に関しては、本流と支流で異なった特徴を持つ。信濃川本川には高さ50 mを超えるダム・多目的ダムは存在しないが、その分、放水路が多い。",
"title": "信濃川水系の河川施設"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "一つの河川に放水路が2か所も建設されているのは信濃川だけである。それだけ治水に苦労していることをうかがい知ることができる。",
"title": "信濃川水系の河川施設"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "また、利根川や木曽川、淀川ほど水資源確保のための系統的利水施設が多く存在しないのも特徴で、主眼はあくまでも治水と灌漑に置かれている。逆に支流には大小数多くの治水・治山・利水ダムが建設されている。",
"title": "信濃川水系の河川施設"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "一方、水力発電施設においては全国屈指の発電量・発電施設を誇る。揚水発電所だけでも梓川、相木川、高瀬川、黒又川、清津川の5か所に建設された実績があり、これも全国屈指の数である。また、新潟県内ではJR東日本が首都圏の鉄道網を支える電力供給を信濃川から得ている。その歴史の中でJR東日本信濃川発電所の不正取水問題も起きた。",
"title": "信濃川水系の河川施設"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "(注):黄欄は建設中もしくは計画中のダム(2006年時点)。",
"title": "信濃川水系の河川施設"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "国土交通省 北陸地方整備局河川事務所の観測点は、下流側より",
"title": "信濃川水系の河川施設"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "河口より記載",
"title": "主な橋梁"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "千曲川・信濃川は共に江戸時代から明治時代にかけて川舟による通船が全盛を迎え、流域の物流を担った。ただし、その後の流域の物流の主役は、陸上交通が担っていった。信濃川の河口部には古代から蒲原津(かんばらのつ)、沼垂津(ぬったりのつ)、新潟津などの港(新潟三ヵ津)が栄え、特に新潟は江戸時代に大きく発展し日米修好通商条約によって他国に開放する港の1つとされた。新潟港は現在においても国際貿易港として機能しており、ロシア、韓国などとの国際便が就航している。",
"title": "利用"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "千曲川は内陸県である長野県を流れる川であり、千曲川などで漁獲される淡水魚は重要なタンパク質源の1つとして利用されてきた。例えば、春に産卵のために千曲川を遡上するウグイも、漁獲されてきた魚種の1つである。ウグイの特徴的な漁法としては「つけ場漁」が知られ、これは川の流れの中に人工的に整備した産卵床を整え、そこに集まってくるウグイを捕獲する手法である。また、千曲川は佐久市付近で谷から、そこより上流側と比べて幅の広い谷に流れ出るわけだが、ここの伏流水を取水して、水田や池などでのコイの養殖漁業を19世紀初頭から行っている。なお、漁業者により捕獲が行われてきた、その他の主な魚種として、アユ、フナ、オイカワ、クチボソ、ナマズ、ドジョウなどが挙げられる。ただし、オイカワは1929年に始まったアユの稚魚放流に伴い琵琶湖から人為的に移入された外来種である。この他に、アユ、イワナ、ウナギ、コイ、サケ、ニジマス、ヤマメ、カジカが、主に人為的に放流されている魚種である。これに加えて、かつて千曲川では行政の主導でコクレン、ハクレン、ソウギョ、カムルチーの放流も行われていた。さらに、信濃川・千曲川で人為的に放流された結果、生息が確認されている外来種の魚類として、カムルチー、オオクチバス、コクチバス、ブルーギル、カワマス、ブラウントラウト、カダヤシ、テラピア、タイリクバラタナゴが挙げれられる。ヒトの影響は、これだけに留まらず、かつて流域で漁獲量は1万8千〜4万尾の漁獲量を誇ったサケ(シロザケ)、マス(サクラマス)は、西大滝ダムや宮中取水ダムの完成により、ほとんど信濃川を遡上しなくなり、1940年を境に漁業としては成立しなくなった。サケに関して、長野県では「カムバックサーモン」キャンペーンを1980年から展開し、21年間で1億6000万円かけて899万匹を放流したものの、西大滝ダム下流まで遡上が確認されたのは48匹に過ぎなかった。",
"title": "利用"
}
] | 信濃川(しなのがわ)は、新潟県および長野県を流れる一級河川。信濃川水系の本流であり、新潟市で日本海に注ぐ。このうち信濃川と呼ばれているのは新潟県域で、長野県に遡ると千曲川と呼称が変わる。この項目では千曲川と呼称される上流部を合わせ説明する。 全長367キロメートル (km)のうち、信濃川と呼ばれている部分が153 kmで、千曲川と呼ばれている部分は214 kmと、60 kmほど千曲川の方が長い。ただし、河川法上は千曲川を含めた信濃川水系の本流を信濃川と規定しているため、信濃川は日本で一番長い川となっている。日本三大河川のうちの1つである。 流域面積11,900 km2は日本で第3位、新潟と長野の2県でほとんどを占めるが、信濃川水系の一次支川(いちじしせん)である中津川の源流部が群馬県の野反湖付近にあるため、信濃川水系の流域は群馬を含む3県に及ぶ。 なお、洪水時の分水路(大河津分水)がある大河津分水分派点より下流を信濃川下流と称している。 | {{Otheruses||愛知県の二級河川|信濃川 (愛知県)}}
{{Redirect|千曲川|楽曲|千曲川 (五木ひろしの曲)}}
{{混同|しなの川}}
{{Infobox 河川
|名称 = 信濃川(千曲川)
|画像 = [[File:Find47 Niigata-River (Shinano River, Ojiya City)-m.jpg|300px]]
|画像説明 = 冬の信濃川([[魚野川]]との合流点付近、[[新潟県]])
|水系等級 = [[一級水系]]
|水系 = 信濃川
|種別 = [[一級河川]]
|延長 = 367
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|観測所 = 小千谷観測所1942年 - 2002年
|流域面積 = 11,900
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|河口 = [[日本海]]
|流域 = {{JPN}}<br />[[新潟県]]・[[長野県]]
|脚注 =
|出典 =
}}
{{Maplink2|zoom=8|frame=yes|plain=no|frame-align=right|frame-width=400|frame-height=600|frame-latitude=36.93|frame-longitude=138.48
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|text='''太線.'''信濃川(千曲川)本川、'''左岸.'''(上流より)依田川、奈良井川、犀川(梓川)、高瀬川、裾花川、鳥居川、渋海川、大河津分水、西川、中ノ口川、関屋分水、'''右岸.'''(上流より)湯川、松川、中津川、清津川、魚野川、黒又川、破間川、五十嵐川
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{{osm box|r|2354599}}
'''信濃川'''(しなのがわ)は、[[新潟県]]および[[長野県]]を流れる[[一級河川]]。信濃川[[水系]]の本流であり、[[新潟市]]で[[日本海]]に注ぐ。このうち信濃川と呼ばれているのは新潟県域で、長野県に遡ると{{読み仮名|'''千曲川'''|ちくまがわ}}と呼称が変わる。この項目では千曲川と呼称される上流部を合わせ説明する。
全長367[[キロメートル]] (km)のうち、信濃川と呼ばれている部分が153 kmで、千曲川と呼ばれている部分は214 kmと、60 kmほど千曲川の方が長い。ただし、[[河川法]]上は千曲川を含めた信濃川水系の本流を信濃川と規定しているため、信濃川は[[日本一の一覧|日本で一番]]長い川となっている。[[日本三大一覧#河川|日本三大河川]]のうちの1つである。
[[流域面積]]11,900 [[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]は日本で第3位<ref>[https://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0405_shinano/0405_shinano_00.html 国土交通省サイト]「水系全体の流域面積は新潟県の面積(12,584.18km<sup>2</sup>)とほぼ等しい11,900km<sup>2</sup>で、利根川、石狩川に次いで第3位となっています。」(参考)[https://graphic-data.com/page/geography/016.html 日本の川の流域面積 TOP20]</ref>、新潟と長野の2県でほとんどを占めるが、信濃川水系の一次支川(いちじしせん)である[[中津川 (信濃川水系)|中津川]]の源流部が[[群馬県]]の[[野反ダム|野反湖]]付近にあるため、信濃川水系の流域は群馬を含む3県に及ぶ。
なお、洪水時の分水路([[大河津分水]])がある大河津分水分派点より下流を信濃川下流と称している<ref>{{Cite web|和書|url=https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_8427589_po_17_4_1.pdf?contentNo=13&alternativeNo=|title=信濃川治水の歴史|publisher=国立国会図書館|accessdate=2022-12-09|author=大熊孝}}</ref>。
== 名称 ==
古くは「大きな川」として「大川」(おおかわ)と呼ばれていたが、のちに下流部では[[信濃国]]から流れてくる川として、'''信濃川'''と呼ばれるようになった<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=信濃川のQ&A:信濃川Q&Aミニ知識|国土交通省北陸地方整備局 信濃川河川事務所|url=https://www.hrr.mlit.go.jp/shinano/shinanogawa_info/qamini/qa/index.html|website=www.hrr.mlit.go.jp|accessdate=2019-09-06}}</ref>。
[[File:Taishyobahi Bridge-3.jpg|thumb|長野県[[千曲市]]の大正橋そばの千曲川河川名標識。]]
長野県内の名称である'''千曲川'''の名前の由来については諸説がある<ref name=":0" /><ref>{{Cite web|和書|title=千曲川河川事務所 よくあるお問い合わせ(FAQ)|url=https://www.hrr.mlit.go.jp/chikuma/contact/faq.html|website=www.hrr.mlit.go.jp|accessdate=2019-09-06}}</ref>。
* 字の通り、川が千の数ほど曲がっている様子から名付けられた。
* 旧[[豊田村 (長野県)|豊田村]]から下流の千曲川は狭窄部が連続し、両岸は崖状の地形を呈していることから、「チク(崖)・マ(袋状の湿地)の川」という説がある。
* 水源地域である長野県[[川上村 (長野県)|川上村]]の伝説によれば、大昔に[[高天原]]に住む神々の間で大きな戦いがあり、この時に流された血潮によってできた川とされており、その血潮があたり一面隈なく流れた様子から「血隈川」と言うようになったという伝説もある。
なお、千曲川の支流である[[犀川 (長野県)|犀川]]は長野県西部の[[筑摩野|筑摩]](ちくま)地方を流れているが、筑摩は古くは「つかま」と呼ばれたため、直接の関係はないと見られる。
千曲川は『[[万葉集]]』の頃から多くの詩歌に歌われ、近代になっても流域の[[佐久市]]・[[小諸市]]周辺を[[島崎藤村]](『[[千曲川旅情のうた]]』『[[小諸なる古城のほとり]]』)が、[[長野市]]周辺から新潟[[県境]]付近の[[豊田村 (長野県)|豊田村]](現・[[中野市]])周辺を[[高野辰之]](『[[朧月夜 (歌曲)|朧月夜]]』『[[故郷 (唱歌)|故郷]]』)が歌にしている。
千曲川のことを東信では「ちゅうま」または「ちうま」、北信では「ちょうま」、栄村と新潟県津南町では「ちぐま」と呼ぶことがある<ref name="馬瀬2006">馬瀬良雄「[http://id.nii.ac.jp/1026/00001407/ 方言よもやま話:信州方言とそのおもしろさ]」『文化の諸相:上田女子短期大学総合文化学科公開講座論集』、[[上田女子短期大学]]総合文化学科、2006年。</ref>。方言学者の[[馬瀬良雄]]は、『万葉集』の[[東歌]]に「知具麻能河泊(ちぐまのかは)」や「中麻奈尓 宇伎乎流布祢能(ちうまなに うきをるふねの)」という表記があることから、信濃の言葉としては「ちぐま」が最も古く、「ちぐま→ちうま→ちゅーま→ちょーま」と変化したと推定している<ref name="馬瀬2006"/>。なお、上記の東歌(3401番歌)にある「奈(な)」については、[[都竹通年雄]]は「今のアイヌ語で川を『ナイ』というから『チグマナ』の『ナ』はアイヌ語の川という意味の語根が残ったものである」とする<ref>都竹通年雄「巻十四の「中麻奈」、萬葉学会刊『萬葉』1953年10月</ref>。それを踏まえて、アイヌ研究家の木村圭一<ref>{{Cite journal|和書|author=木村圭一 |year=1954 |url=https://doi.org/10.5190/tga1948.6.78 |title=アイヌ地名から見た古代日本の鮭の分布 |journal=東北地理 |ISSN=0387-2777 |publisher=東北地理学会 |volume=6 |issue=3 |pages=78-85 |doi=10.5190/tga1948.6.78 |naid=130001071781 |CRID=1390001205146700800}}</ref>は、「千曲」の語源としてアイヌ語の「chuk-oma」(鮭のいる処)としている。
== 地理 ==
[[File:Shinanogawa Tokamachi.jpg|thumb|新潟県[[十日町市]]を流れる信濃川。周辺には[[河岸段丘]]が形成されている。]]
'''千曲川'''は[[埼玉県]]・[[山梨県]]・長野県の県境に位置する[[甲武信ヶ岳]]の長野県側斜面([[南佐久郡]][[川上村 (長野県)|川上村]])を源流とし、[[八ヶ岳]]、[[関東山地]]などを源流とする諸河川と合流しつつ[[佐久盆地]](佐久平)、[[上田盆地]](上田平)を北流する。[[長野盆地]](善光寺平)の[[川中島]]の北端に該当する場所で、[[飛騨山脈]]を源流とし[[松本盆地]](松本平)から北流してきた[[犀川 (長野県)|犀川]]と合流する。
なお合流地点には[[落合橋 (長野市)|落合橋]](おちあいばし)が架橋されている。この橋はT字型の特殊な形態の橋である。その後、川は北東に流れ、新潟県に入って'''信濃川'''と名前を変える。
信濃川は、[[十日町盆地]]を通った後、群馬・新潟県境の[[谷川岳]]から流れてきた[[魚野川]]と合流し、[[越後平野]](新潟平野)に出て、[[新潟市]]で[[日本海]]に注ぐ。[[河口]]は[[阿賀野川]]の河口に近く、時代によっては新潟の地で合流して河口を共有していたこともあった。
=== 地学的知見 ===
源流域の川上村から上田市にかけては千曲川構造線に沿うようにして北西に流下し、千曲市付近で北東方向に約90度方向を変え、長野市からは[[信濃川断層帯]]を北東に延長した[[断層]]帯域の地質的に弱い所を浸食し流下し、日本海へと向かう。[[川底|河床]]勾配の変化を見ると、上流部の佐久地域で 7.3 [[パーミル]](‰)、上田地域で、5.5 ‰である。しかし、長野市周辺では、0.93 ‰となるが、[[西大滝ダム]]付近を変化点としては再び河床勾配は急になり、長野新潟県境付近から下流の[[十日町市|十日町]]付近までは、3.5 ‰の勾配となる<ref>{{Cite journal|和書|author=卯田強, 平松由起子, 東 慎治|url=https://hdl.handle.net/10191/1211|title=新潟平野~信濃川構造帯の地震と活断層|journal=新潟県連続災害の検証と復興への視点|date=2005|pages=32-41|publisher=災害復興科学センター}}</ref>。
こうした勾配の変化をもたらしている原因は[[第四紀]]後期[[完新世]]の[[隆起と沈降|隆起活動]]と隆起に伴い形成された[[断層]]による物である。隆起としては中野市から飯山市付近の高丘丘陵などが影響を与えて、断層としては立ヶ花付近には[[長野盆地西縁断層]]の一つである長丘断層が河を横切っている、また西大滝ダム付近には重地原断層、北竜湖断層があり、長野新潟県境付近には津南断層がある。
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YariKamikohchiTagged.jpg|信濃川源流域の一つ、[[飛騨山脈]]。[[日本の山一覧 (高さ順)|日本屈指の標高]]の[[奥穂高岳]](3,190m)、[[槍ヶ岳]](3,180m)を水源に持つ。
Nagaoka from the sky.jpg|[[長岡市]]付近を流れる信濃川。[[大河津分水]]を境に川幅が大きく変化する。
NiigataCityOpenData kuusatsu001.jpg|信濃川(右)と[[中ノ口川]](左)の合流部。広大な[[越後平野]]が広がる。
NiigataCityOpenData kuusatsu002.jpg|[[河口]]部に位置する[[新潟港]]と[[新潟市]]街。
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== 水害の歴史 ==
=== 長野県の水害 ===
[[File:Chikuma-river-FloodSign-obuse.jpg|thumb|長野県[[小布施町]]にある[[洪水]]水位標。地面が水位約6.9 m で、一番上が、[[寛保]]2年の氾濫水位 10.9 mを示す。]]
千曲川流域の[[洪水]]で最も古いものは、文献(『[[日本紀略]]』)などに[[仁和]]4年(888年)が記録されている。歴史上、最大の洪水は[[1742年]]([[寛保]]2年)に起き、「[[戌の満水]]」と呼ばれている。そして[[江戸幕府|徳川幕府]]治世の時代を通じて64回の水害が記録されていたとされる。
* [[888年]]6月20日(仁和4年)[[887年]]に発生した[[仁和地震|仁和南海地震、東海地震]]で[[八ヶ岳]]の山麓が[[山体崩壊|崩壊]]して形成された日本最大規模の[[堰止湖]]([[天然ダム|河道閉塞]])が303日後に決壊し、発生した[[土石流]]が原因と考えられる洪水<ref>[http://homepage3.nifty.com/kamosikamiti/sonota/saizensen/H15spr.html#vol.36 仁和の洪水] 信州発考古学最前線</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.edu.gunma-u.ac.jp/~hayakawa/publication/abstract/10shinano.pdf 平安時代に起こった八ヶ岳崩壊と千曲川洪水]}}『歴史地震』(26), 19-23, 2011</ref><ref name="HE26_106_107">{{PDFlink|[http://www.histeq.jp/kaishi_26/HE26_106_107.pdf 長野県中・北部で形成された巨大天然ダムの事例紹介]}} 歴史地震研究会『歴史地震』第26号</ref>。大月川に出来た河道閉塞の湛水量は5.8億 [[立方メートル|m<sup>3</sup>]]と推定される<ref name="HE26_106_107" />。
* [[1543年]]([[天文 (日本)|天文]]12年)千曲川大洪水で船山郷が流失。
* [[1602年]]([[慶長]]7年)千曲川大洪水で黒彦郷が流消分散。
* [[1742年]]([[寛保]]2年) [[戌の満水]]、'''千曲川で史上最大の大洪水 立ヶ花水位(36[[尺]] 10.9 m)'''。死者 2,800名
* [[1847年]]([[弘化]]4年) [[善光寺地震]]による土砂崩れが犀川をせき止め、崩壊して下流に大きな被害。立ヶ花水位 8.2 m
* [[1859年]]([[安政]]6年) 現在の千曲市の戸倉大西[[堤防]]、千本柳下河原堤防が決壊<ref name="chikuma-his">{{PDFlink|[http://www.city.chikuma.nagano.jp/app/b-soumu/k-syouboubousai/pdf/.svn/text-base/20060630170005957.pdf.svn-base 千曲市及び千曲川の主な水害の被害状況]}} 千曲市</ref>。
* [[1868年]]([[明治元年]]) 千曲川、この年合計7回の出水、4月と5月は甚大な被害。家屋流出102戸。
* [[1885年]]([[明治]]15年) 9月、10月堤防決壊、浸水700戸<ref name="chikuma-his" />。
* [[1896年]](明治29年) 千曲川、寛保以来の大洪水。「[[横田切れ]]」流出、浸水家屋は10,000戸以上。
* [[1897年]](明治30年) 千曲川、犀川ともに洪水、千曲川流域で浸水家屋599戸。
* [[1898年]](明治31年) 現在の千曲市の粟佐堤防決壊、浸水7,300戸以上、死者6名<ref name="chikuma-his" />。
* [[1910年]](明治43年) 千曲川をはじめ、各河川が氾濫。流失259戸、床上・床下浸水12,800戸以上。広く[[関東平野]]にも大洪水をもたらした「[[明治43年の大水害]]」として特筆されている。
* [[1914年]]([[大正]]3年) 死傷者36人、流出家屋30戸、浸水家屋339戸。
* [[1945年]]([[昭和]]20年) [[阿久根台風]]の影響による低気圧による大雨、死者42人、床上浸水2,204戸、床下浸水4,843戸。長野市綱島と[[須坂市]]大倉崎で破堤。
* [[1949年]](昭和24年) [[キティ台風]]による。全壊家屋45戸、半壊家屋187戸、浸水家屋1,478戸。長野市丹波島と須坂市村山で破堤。
* [[1958年]](昭和33年) [[台風]]21号により中小河川が氾濫決壊、死者9名、全壊家屋9戸、半壊家屋62戸、流出家屋19戸、床上浸水564戸、床下浸水2,807戸。
* [[1959年]](昭和34年) 台風7号<ref>[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/data/bosai/report/1959/19590812/19590812.html 台風第7号 昭和34年(1959年)8月12日~8月14日]</ref> による、死者・行方不明者65人、全壊家屋1391戸、半壊家屋4091戸、床上浸水4238戸、床下浸水10959戸。立ヶ花水位10.44m
* [[1961年]](昭和36年) 6月[[梅雨]][[前線 (気象)|前線]]<ref>[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/data/bosai/report/1961/19610624/19610624.html 昭和36年梅雨前線豪雨 昭和36年(1961年)6月24日~7月5日]</ref> による大雨により千曲川流域の死者107人、全壊家屋903戸、半壊家屋621戸、床上浸水3170戸、床下浸水15351戸。
* [[1965年]](昭和40年) 長野県内死者2人、床上浸水265戸、床下浸水2815戸。
* [[1969年]](昭和44年) 犀川支川高瀬川流域に被害が集中。観光客、登山客が高瀬、梓渓谷に約500人取り残され、3日後に救出。
* [[1981年]](昭和56年) 昭和34年以来の大洪水、死者11人、床上浸水4906戸、床下浸水3683戸。
* [[1982年]](昭和57年) 6月、梅雨前線と[[昭和57年台風第10号|台風10号]]による。死者4人、全壊流出家屋23戸、半壊44戸、床上浸水80戸、床下浸水1384戸。立ヶ花で昭和34年に次ぐ戦後第2の水位。9月、台風18号による。千曲川支川の樽川が決壊、死傷者54名、床上浸水3794戸、床下浸水2425戸。
* [[1983年]](昭和58年) 梅雨前線<ref>[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/data/bosai/report/1983/19830720/19830720.html 昭和58年7月豪雨 昭和58年(1983年)7月20日~7月29日]</ref> により[[飯山市]]の千曲川本流が破堤、死者9名、全壊家屋7戸、半壊家屋8戸、床上浸水3891戸、床下浸水2693戸。'''立ヶ花で2019年までの最高水位を記録。(11.13 m)'''
* [[1985年]](昭和60年) 犀川で被害発生、床上浸水171戸、床下浸水1032戸。
* [[1995年]]([[平成]]7年) 梅雨前線<ref>[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/data/bosai/report/1995/19950630fr/19950630.html 梅雨前線 平成7年(1995年)6月30日~7月22日]</ref> による。家屋浸水765戸、JR飯山線に大きな被害。
* [[1998年]](平成10年) 床上浸水8戸、床下浸水110戸。
* [[1999年]](平成11年) [[熱帯低気圧|熱帯性低気圧]]<ref>[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/data/bosai/report/1999/19990813/19990813.html 熱帯低気圧 平成11年(1999年) 8月13日~8月16日]</ref> による、死者1名、浸水家屋779戸、道路寸断、列車運休が多発。
* [[2004年]](平成16年) [[平成16年台風第23号|台風23号]]による。床上浸水31戸、床下浸水432戸立ヶ花において既往第4位の水位を記録、浸水家屋139戸。立ヶ花水位10.32 m
* [[2006年]](平成18年) 7月梅雨前豪雨<ref>[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/data/bosai/report/2006/20060715/20060715.html 平成18年7月豪雨 平成18年(2006年) 7月15日~7月24日]</ref>。床上浸水4戸、床下浸水50戸。立ヶ花及び陸郷において既往第2位の水位を記録、避難勧告4市11地区。'''立ヶ花水位10.68 m'''
* [[2019年]]([[令和]]元年) 10月、[[令和元年東日本台風]](台風19号)による。長野市穂保(左岸)で千曲川本流が約70 m<ref>{{PDFlink|[https://www.hrr.mlit.go.jp/chikuma/bousai/shussui/20191012kouzui/191012%20kisyahapyou08.pdf 千曲川河川事務所の対応について[第8報]]}} 国土交通省 千曲川河川事務所</ref> にわたって決壊<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hrr.mlit.go.jp/press/2019/10/191013press6.pdf|title=【災害情報】国管理河川 信濃川水系千曲川左岸58k付近における堤防の欠損について(第2報)|accessdate=2019-10-13|publisher=国土交通省北陸地方整備局|format=PDF}}</ref>。北陸新幹線[[長野新幹線車両センター]]などに大きな被害<ref>{{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/press/2019/20191013_ho01.pdf 台風19号によるJR東日本管内の設備等の主な被害状況について]}} 東日本旅客鉄道株式会社 2019年10月13日</ref>。上田市諏訪形で[[上田電鉄別所線]]の[[千曲川橋梁 (上田電鉄別所線)|千曲川橋梁]]が崩落した<ref>{{Cite web|和書|title=長野・千曲川、堤防決壊70メートル 新幹線車両も…(写真=共同)|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO50952200T11C19A0000000/|website=[[日本経済新聞]] 電子版|accessdate=2019-10-13|language=ja}}</ref><ref name=東日本台風_国交省資料>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/common/001340439.pdf|date=2020-05-11|format=PDF|title=令和元年台風第19号等による被害状況等について(第54報)|publisher=国土交通省|accessdate=2020-05-11}}</ref>。'''立ヶ花水位 12.44 m、既往最高水位記録を更新'''<ref>{{PDFlink|[https://www.jiban.or.jp/file/saigai/houkoku/ootuka_20191218.pdf 地盤工学会千曲川流域調査団 中間報告]}} 公益社団法人地盤工学会</ref><ref>[https://www.jiban.or.jp/?page_id=11984 令和元年台風19号災害調査団の設置] 公益社団法人地盤工学会</ref>
後述の河川改修・治水工事により、同じ規模の増水では堤防の決壊などは起こらなくなっていることが読み取れる。立ヶ花観測点(1951年観測開始)は旧[[豊野町 (長野県)|豊野町]](現・長野市)と中野市の境にある国土交通省による水位観測点で、千曲川河床の勾配が緩くなると共に1,000 mを超える川幅が210 mにまで狭窄する部分<ref>{{PDFlink|[https://www.hrr.mlit.go.jp/chikuma/shiru/public/R1project_pamphlet.pdf.pdf 令和元年度事業概要 千曲川・犀川]}} 国土交通省 北陸地方整備局 千曲川河川事務所</ref>。これより下流は、[[第四紀]]後半から始まる地盤の隆起のため川の流れは蛇行して流速が落ちる。立ヶ花水位観測点の計画高水位は10.75 m、氾濫危険水位は9.2 m<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hrr.mlit.go.jp/press/2020/8/200827chikuma.pdf |format=PDF |title=氾濫危険水位及び避難判断水位の改訂について |publisher=国土交通省 北陸地方整備局 千曲川河川事務所 |date=2020-08-27 |accessdate=2020-09-01 }}</ref>。
=== 新潟県の水害 ===
* 1620年 ([[元和 (日本)|元和]] 6年) [[長岡市|長岡]]西北地方で氾濫。
* 1868年(明治元年)流出家屋10戸。
* 1896年(明治29年)「[[横田切れ]]」。流出家屋 2500戸、大川津水位 4.4 m。
* 1913年(大正2年) 小阿賀野川北岸の木津池点が破堤(「木津切れ」)、浸水1440戸、死者2名<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kamedagou.jp/kmd/konjaku.html|title=亀田郷を襲った大洪水|publisher=亀田郷土地改良区|accessdate=2017-06-15|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180411175223/http://www.kamedagou.jp/kmd/konjaku.html|archivedate=2018-04-11}}。</ref>。
* 1914年(大正 3年)死者55名、床上浸水7154戸、床下浸水1881戸。
* 1917年(大正 6年)「[[曽川切れ]]」。曽川水門補修箇所で破堤。死者76名、流出家屋19戸。大川津水位 4.5m。
* 1926年(大正15年)死者1名、流出家屋3戸、床上浸水250戸、床下浸水120戸。
* 1935年(昭和10年)家屋浸水425戸。
* 1949年(昭和24年)キティ台風による洪水、家屋全壊1戸、床上浸水45戸、床下浸水307戸。
* 1952年(昭和27年)死者3名、流出家屋1戸、床上浸水156戸、床下浸水1858戸。東台通川で破堤。
* 1956年(昭和31年)死者7名、床上浸水730戸、床下浸水1605戸。
* 1958年(昭和33年)死者9名、流出家屋19戸、床上浸水4429戸、床下浸水7723戸。
* 1959年(昭和34年)死者3名、床上浸水44戸、床下浸水859戸
* 1960年(昭和35年)死者4名、全壊家屋2戸、半壊家屋2戸、床上浸水1474戸、床下浸水4602戸。
* 1961年(昭和36年)8月台風による大雨により、死者3名、全壊家屋2戸、半壊家屋2戸、床上浸水1474戸、床下浸水4602戸。
* 1964年(昭和39年)全壊家屋20戸、半壊・床上浸水2730戸、床下浸水13970戸。
* 1967年(昭和42年)全壊家屋21戸、半壊・床上浸水5072戸、床下浸水12496戸。
* 1969年(昭和44年)高柳川で破堤。死者9名、全壊家屋122戸、半壊・床上浸水839戸、床下浸水7447戸。
* 1978年(昭和53年)全壊家屋21戸、半壊・床上浸水4217戸、床下浸水9035戸。
* 1981年(昭和56年)魚野川([[六日町]])で破堤。死者2名、床上浸水1446戸、床下浸水1502戸。
* 1982年(昭和57年)9月、半壊家屋1戸、床上浸水52戸、床下浸水322戸。
* 1983年(昭和58年)床下浸水12戸。
* 1985年(昭和60年)床上浸水1戸、床下浸水13戸。
* 1998年(平成10年)8月梅雨前線<ref>[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/data/bosai/report/1998/19980803/19980803.html 梅雨前線 平成10年(1998年) 8月3日~8月7日]</ref> により、半壊家屋3戸、床上浸水1422戸、床下浸水8842戸。9月台風により、床上浸水3戸、床下浸水183戸。
* 2004年(平成16年)[[平成16年7月新潟・福島豪雨]](7・13水害)。前線により、[[五十嵐川]]と[[刈谷田川]]で破堤。死者15名、全壊家屋169戸、半壊家屋810戸、床上浸水10712戸、床下浸水6359戸。
* 2011年(平成23年)[[平成23年7月新潟・福島豪雨]]により信濃川水系五十嵐川が破堤[[三条市]]を中心に被害をもたらした。
* 2019年 (令和元年) [[令和元年東日本台風]](台風19号)により信濃川が増水して[[長岡市]]内を流れる浄土川が氾濫し、長岡市今井地区で浸水被害を受けたほか[[小千谷市]]・[[津南町]]でも信濃川の氾濫により浸水被害が発生した<ref name=東日本台風_国交省資料 />。
** [[燕市]]にある[[大河津分水路]]では過去最高水位17.06 mを記録した。
== 生態系 ==
{{節スタブ}}
{{seealso|#漁業}}
== 信濃川水系開発史 ==
=== 為政者達の治水 ===
[[縄文時代]]、新潟市を中心とした[[越後平野]]の一部は日本海であった。その後、徐々に信濃川や[[阿賀野川]]が運搬してきた土砂が[[新潟砂丘|越後砂丘]]を形成して[[堆積]]。現在の越後平野を形成したが[[低湿地]]で方々に[[潟]]が存在し、水捌けの悪い地域であった。又、洪水によって幾度も流路を変えた。
[[1597年]]([[慶長]]2年)、[[越後国|越後]]春日山城主[[上杉景勝]]の執政で名将と謳われた[[直江兼続]]は[[燕市|燕]]・[[三条市|三条]]付近の洪水調節を図る為[[中ノ口川]]を開削。これが近世信濃川[[治水]]史の端緒となる。
上杉氏転封後の[[江戸時代]]、[[新発田藩]]主となった[[溝口氏]]は中ノ口付近も領していた為に代々の藩主は河川改修を実施していた。
[[越後長岡藩|長岡藩]]第9代藩主の[[牧野忠精]]は信濃川の河川改修に特に力を入れた。[[新川 (新潟県)|新川]]開削の大事業を行って蒲原平野に存在していた3つの潟の悪水を日本海に排水し、蒲原平野の[[新田開発]]を成功させた。
信濃国・千曲川でも江戸時代を通じて64回の洪水を記録し、犀川との同時洪水ですら11回を記録するという。この間に[[福島正則]]や[[松代藩]]主・[[松平忠輝]]の[[家老]][[花井氏]]親子や、松代藩へ国替えとなった[[真田氏]]歴代が築堤や掘割、河道の付替えなどを度々行った。
だが、度重なる治水事業を行っているにも拘らず、信濃川は氾濫を繰り返して為政者の頭を悩ませた。こうした中で浮上して来たのが[[大河津分水路]]計画である。
=== 近代の治水 ===
[[File:20090321大河津分水.jpg|thumb|[[大河津分水]]。流路は人工の幾何学的曲線を描く。]]
[[File:Niigata map circa 1930.PNG|thumb|[[1930年]]頃([[昭和]]初頭)に発行された[[新潟市]]の地図。[[大河津分水]]によって流量が減った河口部では川幅縮小工事が行われ、[[萬代橋]]を短縮して架け替えたり、中州の[[万代島]]まで右岸を埋め立てたりしている。]]
{{main2|近代の越後平野部における治水|大河津分水}}
明治に入り工事が始まった大河津分水は、信濃川の流量を減らすべく、江戸時代より計画されていたもので、信濃川を越後平野中央部で分流し、日本海へ流すものである。[[1909年]](明治42年)に本格的な工事が始まり、[[1922年]](大正11年)通水に成功し、2年後の[[1924年]](大正13年)に完成した<ref>[https://www.hrr.mlit.go.jp/shinano/bunsui/about/history.html 大河津分水路の歴史 - 国土交通省北陸地方整備局]</ref>。
これにより信濃川下流部の川幅が大幅に狭まるなどの影響があった。
[[1918年]](大正7年) - [[1941年]](昭和16年)には、千曲川第1期補修事業が[[内務省 (日本)|内務省]]の手によって進められたが、洪水は容赦なく発生し根本的な解決には至らなかった。
=== 戦後の治水〜ダムと放水路〜 ===
[[File:NiigataCity AerialPhoto.jpg|thumb|[[新潟市]]の[[河口]]部(写真左(西)は[[日本海]])<br>写真上(北)から、[[阿賀野川]]、信濃川、[[関屋分水]]。]]
[[1948年]](昭和23年)からは千曲川第二期補修事業が[[建設省]](現・[[国土交通省]]北陸[[地方整備局]])の手によって着手され現在も進行中である。
しかし、数年に一度は洪水による被害を流域は受けており、根本的な治水対策として[[ダム]]による洪水調節が図られた。信濃川水系においては建設省直轄事業よりも先に新潟県・長野県による[[都道府県営ダム|県営ダム事業]]が推進され、[[裾花ダム]]([[裾花川]])、[[笠堀ダム]](笠堀川)などが建設された。建設省は[[1960年]](昭和35年)に[[関屋分水路]]の建設を計画したが、[[1964年]](昭和39年)の[[新潟地震]]によって新潟市内が広範囲にわたり浸水したことから[[鳥屋野潟]]の排水計画に着手した。
この後、[[黒川放水路]]が[[1969年]](昭和44年)に完成。関屋分水路は[[1972年]](昭和47年)に通水し、[[蒲原大堰]]・中の口川水門も建設が開始された。
だが1969年8月の[[集中豪雨]]は流域に大きな被害をもたらし、対策として建設省は[[1974年]](昭和49年)、「'''信濃川水系工事実施基本計画'''」を改定。この中で[[多目的ダム]]の建設を計画し、[[大町ダム]]([[高瀬川 (長野県)|高瀬川]])が[[1986年]](昭和61年)に、[[三国川ダム]](三国川)が[[1993年]]([[平成]]5年)に完成した。
県営でも[[大谷ダム (新潟県)|大谷ダム]](五十嵐川)や[[破間川ダム]]([[破間川]])が新潟県に、[[奈良井ダム]]([[奈良井川]])や[[奥裾花ダム]](裾花川)が長野県に完成した。又、人口が急増している[[長岡市]]に上水道を供給するため[[妙見堰]](信濃川)が[[1990年]](平成2年)に完成している。
治水整備は進められている一方、その後も水害は繰り返し起こり、[[2004年]](平成16年)には[[平成16年7月新潟・福島豪雨]](7・13水害)が[[三条市]]・[[見附市]]等に被害をもたらした。
この様に古来より洪水と治水は「[[いたちごっこ]]」の状況で、信濃川の治水の難しさを物語っている。2010年代に入ってもダムの建設は進められ、[[広神ダム]](和田川。2011年竣工)、[[中止したダム事業#北陸|晒川ダム]](晒川。2012年中止)などが挙げられる。
前述の[[令和元年東日本台風]](台風19号)による被害を受けて、2020年代にかけて『信濃川水系緊急治水対策プロジェクト』が進められている<ref>[https://www.hrr.mlit.go.jp/river/sinanogawakinkyutisuitaisaku/sinanogawakinkyutisuitaisaku_top.htm 信濃川水系緊急治水対策プロジェクト] 国土交通省北陸地方整備局 河川部 河川計画課・水災害対策センター(2020年6月16日閲覧)</ref>。
=== 日本屈指の水力発電地帯 ===
[[File:ShinanoGawaArroundOjiya.jpg|thumb|新潟県[[小千谷市]]付近を蛇行する信濃川。この蛇行部近くに[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]の[[水力発電所]]があり、写真中央に調整池が見える。<br />([[:画像:20070322信濃川魚野川合流点拡大.jpg|蛇行部拡大画像はこちら]])]]
[[File:Takase&Nanakura.jpg|thumb|[[槍ヶ岳]]を水源に持つ支流[[高瀬川 (長野県)|高瀬川]]の[[高瀬ダム]]湖、[[七倉ダム]]湖]]
一方、信濃川は水量が豊富でかつ上流部は[[関東山地]]・[[飛騨山脈]]・[[木曽山脈]]である事から急流であり、[[水力発電]]には絶好の適地であった。大正時代には高瀬川の高瀬川発電所が建設されていたが、昭和初期に入ると各地で水路式発電所が建設された。
特に、旧・[[日本国有鉄道|鉄道省]](現・[[東日本旅客鉄道|JR東日本]])は信濃川に大規模水力発電所を建設。信濃川本川に[[宮中取水ダム]]を[[1938年]](昭和13年)に建設、新山本・浅河原調整池や千手・小千谷・新小千谷発電所を建設し[[首都圏 (日本)|首都圏]]の鉄道運転の為の電力を供給した(詳細は[[信濃川発電所]]を参照)。
[[第二次世界大戦]]後、大規模な[[揚水発電]]所が各所に建設された。特に梓川の[[奈川渡ダム|安曇]]・[[水殿ダム|水殿発電所]]や高瀬川の[[高瀬ダム|新高瀬川発電所]]、南相木川の[[神流川発電所]]、清津川の[[二居ダム|奥清津・奥清津第二発電所]]は日本有数の規模を誇り、首都圏に電力を供給する上での重要性は大きい。
=== 公共事業見直しと「脱ダム宣言」 ===
この様に信濃川は治水・利水の為の施設が多く存在する。だが、1990年代以降[[公共事業]]見直しの機運が全国的に高まり、[[利根川]]・[[淀川]]等全国の主要河川においてダムを始めとする河川施設の建設中止が相次いだ。信濃川水系も例外ではなく[[2002年]](平成12年)に信濃川水系では最大規模の総貯水容量を擁する予定であった[[清津川#清津川ダム建設計画|清津川ダム]](清津川。国土交通省北陸地方整備局)が、[[2003年]](平成13年)には戦前から連綿と続き戦後「[[只見特定地域総合開発計画]]」でも取り上げられた『只見川水力発電新潟分水案』に基づく「湯之谷揚水発電計画」、その根幹である佐梨川ダム([[佐梨川]]。新潟県)が上池と共に中止となり長年に亘る新潟分水案はここに潰えた。県営ダムでも三用川ダム(三用川・新潟県)が建設中止となっている。
又、国土交通省北陸地方整備局(当時は建設省北陸地方建設局)は[[1981年]](昭和56年)の信濃川洪水を機に、[[1954年]](昭和29年)より構想のあった「'''千曲川上流ダム計画'''」を[[南佐久郡]][[南牧村 (長野県)|南牧村]]に計画した。これは洪水調節・上水道等を目的とした多目的ダムとして、信濃川本川上流に堤高約80.0 m、総貯水容量が約70,000,000 tという本格的なダムを建設しようとしたものである。
「千曲川上流ダム」が完成すると南牧村を中心に250戸が水没する他、JR[[小海線]]が水没する。[[1984年]](昭和59年)に実施計画調査の為の予算が付いたが住民の強硬な反対に遭い、その後地元南牧村を始め南佐久郡5町村が建設推進を撤回して反対に回り、計画が凍結した。
その後公共事業見直しの機運の中で計画は再検討され、2002年に「千曲川上流ダム計画」は国土交通省によって白紙撤回となった。こうして日本最長の河川に建設される予定であった唯一の多目的ダムは中止されたが、ダムに代わる治水代替案は確定されていない。
[[2004年]](平成14年)に入ると、長野県知事・[[田中康夫]]の『[[中止したダム事業#脱ダム宣言によるもの|脱ダム宣言]]』によって長野県内に計画中の信濃川水系のダム計画が纏めて中止となった。[[浅川ダム]]([[浅川 (長野県)|浅川]])、角間ダム(角間川)、黒沢ダム(黒沢川)、清川ダム(清川)が対象となり、有無を言わさぬ形での中止であった。この宣言には「先進的な思想」「環境保護を重視した良策」「公共事業と利権の癒着を抉り出す第一歩」と賞賛する声が多い。その一方で「治水対案が根拠薄弱」「住民の安全を無視した愚策」との批判もある。
代替案である「河道内[[遊水池]]」が結局は名前を変えたダムであるとの指摘もあり、浅川ダムの様に下流住民の合意を得ずに中止した面もあるため、洪水の多発する信濃川で今後洪水が起こったときに知事がどのような対応を取るのか、注目されていたが、[[2006年]](平成18年)7月の[[平成18年7月豪雨]]で天竜川流域が豪雨による被災を受けた。『脱ダム宣言』が直接災害に関係していたわけではないにしろ、治水対策の不備を含め田中県政に対する様々な不満が表面化。県知事選挙に敗北し、田中は野に下った。
田中に代わり[[村井仁]]が知事に就任した。『脱ダム宣言』については当初は批判的発言を繰り返していたものの就任後は性急なダム建設回帰には慎重な姿勢を示したが、2007年(平成19年)2月、河道内遊水池(穴あきダム)を是とする判断が出された。
== 信濃川水系の主要河川 ==
[[File:MatsumotoBonchiTagged.jpg|thumb|[[松本盆地]]の犀川とその支流<br />[[:画像:MatsumotoBonchi.jpg|解説無し画像はこちら]]]]
[[File:NaganoBonchiTagged.jpg|thumb|[[長野盆地]]千曲川、犀川合流部付近<br />[[:画像:NaganoBonchi.jpg|解説無し画像はこちら]]]]
[[File:20081207魚沼地方の山Tagged.jpg|thumb|支流・[[魚野川]]上流域と[[越後三山]]]]
* [[群馬県]]
** [[中津川 (信濃川水系)|中津川]]
* [[長野県]](千曲川)
** [[湯川 (南牧村)]]
** [[相木川]]
** [[抜井川]]
** [[滑津川 (長野県)|滑津川]]
** [[湯川 (北佐久郡)]]
*** [[泥川]]
**** [[矢ケ崎川]]
***** [[精進場川]]
** [[鹿曲川]]
** [[依田川]]
*** [[大門川 (長和町)|大門川]]
*** [[武石川]]
*** [[内村川]]
** [[神川 (長野県)|神川]]
** [[浦野川]]
*** [[沓掛川]]
**** [[湯川 (青木村)]]
*** [[産川]]
**** [[湯川 (上田市)]]
** [[聖川]]
** [[岡田川 (長野県)|岡田川]]
** [[蛭川 (長野県)|蛭川]]
** [[保科川]]
** [[犀川 (長野県)|犀川]]([[梓川]])
*** [[小大野川]]
*** [[島々谷川]]
*** [[奈良井川]]
**** [[鎖川]]
**** [[田川 (長野県)|田川]]
***** [[薄川]]
***** [[女鳥羽川]]
*** [[穂高川]]
*** [[高瀬川 (長野県)|高瀬川]]
**** [[農具川]]
**** [[鹿島川 (長野県)|鹿島川]]
*** [[会田川]]
*** [[金熊川]]
*** [[麻績川]]
*** [[土尻川]]
*** [[裾花川]]
** [[百々川]]
** [[松川 (上高井郡)|松川]]
** [[浅川 (長野県)|浅川]]
** [[鳥居川]]
** [[夜間瀬川]]
** [[樽川 (長野県)|樽川]]
** [[中津川 (信濃川水系)|中津川]]
*** [[雑魚川]]
* [[新潟県]](信濃川) ※位置関係は[[#外部リンク]]の県の管内図を参照。
** [[中津川 (信濃川水系)|中津川]]
** [[清津川]]
** [[魚野川]]
*** [[登川]]
**** [[西谷後川]]
**** [[二子沢川]]
**** [[神字川]]
**** [[姥沢川]]
**** [[一之沢川]]
**** [[小松沢川]]
*** [[高棚川]]
**** [[北ノ入川]]
*** [[三国川]]
*** [[水無川 (南魚沼市)|水無川]]
*** [[佐梨川]]
*** [[破間川]]
**** 末沢川
**** [[黒又川]]
**** [[西川 (魚沼市)|西川]]
**** [[和田川 (長岡市・魚沼市)|和田川]]
**** [[羽根川 (魚沼市)|羽根川]]
*** [[芋川 (信濃川水系・魚野川支流)|芋川]]
** [[渋海川]]
*** [[越道川]]
** [[太田川 (長岡市)|太田川]]
** [[栖吉川]]
** [[黒川 (新潟県)|黒川]]
** [[大河津分水]](新信濃川)
** [[西川 (越後平野)|西川]]
** [[猿橋川]]
** [[刈谷田川]]
** [[中ノ口川]]
** [[五十嵐川]]
** [[加茂川 (新潟県)|加茂川]]
** [[関屋分水路]]
** [[小阿賀野川]]
*** [[能代川 (新潟県)|能代川]]
** [[鷲ノ木大通川]]
** [[通船川]]
** [[栗ノ木川]]
== 信濃川水系の河川施設 ==
{{出典の明記|date=2018年1月|section=1}}
信濃川の利水に関しては、本流と支流で異なった特徴を持つ。信濃川本川には高さ50 mを超える[[ダム]]・[[多目的ダム]]は存在しないが、その分、[[放水路]]が多い。
一つの河川に放水路が2か所も建設されているのは信濃川だけである。それだけ治水に苦労していることをうかがい知ることができる。
また、[[利根川]]や[[木曽川]]、[[淀川]]ほど水資源確保のための系統的利水施設が多く存在しないのも特徴で、主眼はあくまでも治水と[[灌漑]]に置かれている。逆に支流には大小数多くの治水・治山・利水ダムが建設されている。
一方、水力発電施設においては全国屈指の発電量・発電施設を誇る。[[揚水発電]]所だけでも梓川、相木川、高瀬川、黒又川、清津川の5か所に建設された実績があり、これも全国屈指の数である。また、新潟県内では[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]が首都圏の鉄道網を支える電力供給を信濃川から得ている。その歴史の中で[[JR東日本信濃川発電所の不正取水問題]]も起きた。
=== 河川施設一覧 ===
; ダム
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small;"
|-
!一次<br />支川名<br />(本川)
!二次<br />支川名
!三次<br />支川名
!ダム名
!堤高<br />(m)
!総貯水<br />容量<br />(千m<sup>3</sup>)
!型式
!事業者
!備考
|-
|千曲川
|-
|-
|[[西浦ダム]]
|14.2
| align="right"|335
|[[重力式コンクリートダム|重力式]]
|[[東京電力ホールディングス]]
|小堰堤
|-
|千曲川
|-
|-
|[[西大滝ダム]]
|14.2
| align="right"|770
|重力式
|東京電力ホールディングス
|小堰堤
|-
|信濃川
|-
|-
|[[宮中取水ダム]]
|16.4
| align="right"|970
|重力式
|[[東日本旅客鉄道]]
|
|-
|信濃川
|-
|-
|[[妙見堰]]
|-
| align="right"|-
|[[可動堰]]
|[[国土交通省]]<br />東日本旅客鉄道
|
|-
|信濃川
|-
|-
|[[大河津分水]]
|-
| align="right"|-
|[[放水路]]
|国土交通省
|
|-
|信濃川
|-
|-
|[[蒲原大堰]]
|-
| align="right"|-
|可動堰
|国土交通省
|
|-
|信濃川
|-
|-
|[[関屋分水]]
|-
| align="right"|-
|放水路
|国土交通省
|
|-
|信濃川
|-
|-
|信濃川水門
|-
| align="right"|-
|[[水門]]
|国土交通省
|
|-
|(河道外)
|-
|-
|浅河原調整池
|37.0
| align="right"|1,065
|[[アースダム|アース]]
|東日本旅客鉄道
|土木遺産
|-
|(河道外)
|-
|-
|新山本調整池
|42.4
| align="right"|3,640
|[[ロックフィルダム|ロックフィル]]
|東日本旅客鉄道
|
|-
|相木川
|南相木川
|-
|[[南相木ダム]]
|136.0
| align="right"|19,170
|ロックフィル
|東京電力ホールディングス
|
|-
|抜井川
|-
|-
|[[古谷ダム]]
|48.5
| align="right"|2,200
|重力式
|[[長野県庁|長野県]]
|
|-
|抜井川
|余地川
|-
|[[余地ダム]]
|42.0
| align="right"|523
|重力式
|長野県
|
|-
|湯川
|-
|-
|[[湯川ダム]]
|50.0
| align="right"|3,400
|重力式
|長野県
|
|-
|金原川
|-
|-
|[[金原ダム#金原ダム (長野県)|金原ダム]]
|36.5
| align="right"|388
|ロックフィル
|長野県
|
|-
|依田川
|[[内村川]]
|-
|[[内村ダム]]
|51.3
| align="right"|2,000
|重力式
|長野県
|
|-
|神川
|-
|-
|[[菅平ダム]]
|41.8
| align="right"|3,451
|重力式
|長野県
|
|-
|[[犀川 (長野県)|犀川]]
|-
|-
|[[大正池 (松本市)|大正池]]
|-
| align="right"|-
|[[ゴム引布製起伏堰|ラバーダム]]
|東京電力ホールディングス
|小堰堤
|-
|犀川
|-
|-
|[[釜ヶ渕堰堤]]
|29.0
| align="right"|-
|[[アーチ式コンクリートダム|アーチ式]]
|国土交通省
|[[砂防堰堤]]<br />[[登録有形文化財]]
|-
|犀川
|-
|-
|[[奈川渡ダム]]
|155.0
| align="right"|123,000
|アーチ式
|東京電力ホールディングス
|
|-
|犀川
|-
|-
|[[水殿ダム]]
|95.5
| align="right"|15,100
|アーチ式
|東京電力ホールディングス
|
|-
|犀川
|-
|-
|[[稲核ダム]]
|60.0
| align="right"|10,700
|アーチ式
|東京電力ホールディングス
|
|-
|犀川
|-
|-
|[[犀川白鳥湖]]
|5.8
| align="right"|-
|可動堰
|[[中部電力]]
|小堰堤
|-
|犀川
|-
|-
|[[生坂ダム]]
|19.5
| align="right"|3,100
|重力式
|東京電力ホールディングス
|
|-
|犀川
|-
|-
|[[平ダム]]
|20.0
| align="right"|3,033
|重力式
|東京電力ホールディングス
|
|-
|犀川
|-
|-
|[[水内ダム]]
|25.3
| align="right"|4,248
|重力式
|東京電力ホールディングス
|
|-
|犀川
|-
|-
|[[笹平ダム]]
|19.3
| align="right"|2,755
|重力式
|東京電力ホールディングス
|
|-
|犀川
|-
|-
|[[小田切ダム]]
|21.3
| align="right"|2,546
|重力式
|東京電力ホールディングス
|
|-
|犀川
|セバ川
|-
|[[セバ谷ダム]]
|22.7
| align="right"|46
|重力式
|東京電力ホールディングス
|
|-
|犀川
|[[奈良井川]]
|-
|[[奈良井ダム]]
|60.0
| align="right"|8,000
|ロックフィル
|長野県
|
|-
|犀川
|[[高瀬川 (長野県)|高瀬川]]
|-
|[[高瀬ダム]]
|176.0
| align="right"|76,200
|ロックフィル
|東京電力ホールディングス
|
|-
|犀川
|高瀬川
|-
|[[七倉ダム]]
|125.0
| align="right"|32,500
|ロックフィル
|東京電力ホールディングス
|
|-
|犀川
|高瀬川
|-
|[[大町ダム]]
|107.0
| align="right"|33,900
|重力式
|国土交通省
|
|-
|犀川
|会田川
|水上沢川
|[[水上ダム]]
|38.0
| align="right"|276
|重力式
|長野県
|
|-
|犀川
|麻績川
|宮川
|[[北山ダム (長野県)|北山ダム]]
|43.0
| align="right"|213
|重力式
|長野県
|
|-
|犀川
|麻績川
|別所川
|[[小仁熊ダム]]
|36.5
| align="right"|1,930
|重力式
|長野県
|
|-
|犀川
|[[裾花川]]
|-
|[[奥裾花ダム]]
|59.0
| align="right"|5,400
|重力式
|長野県
|
|-
|犀川
|裾花川
|-
|[[裾花ダム]]
|83.0
| align="right"|15,000
|アーチ式
|長野県
|
|-
|犀川
|裾花川
|-
|[[湯の瀬ダム]]
|18.0
| align="right"|330
|重力式
|[[長野県企業局]]
|
|-
|百々川
|灰野川
|-
|[[豊丘ダム]]
|81.0
| align="right"|2,580
|重力式
|長野県
|
|-
|[[中津川 (信濃川水系)|中津川]]
|-
|-
|[[野反ダム]]
|44.0
| align="right"|28,700
|ロックフィル
|東京電力ホールディングス
|
|-
|中津川
|-
|-
|[[渋沢ダム]]
|20.7
| align="right"|220
|重力式
|東京電力ホールディングス
|
|-
|中津川
|-
|-
|[[高野山ダム|穴藤ダム]]
|55.3
| align="right"|630
|重力式
|東京電力ホールディングス
|
|-
|中津川
|(河道外)
|-
|[[高野山ダム]]
|33.0
| align="right"|560
|ロックフィル
|東京電力ホールディングス
|
|-
|清津川
|-
|-
|[[二居ダム]]
|87.0
| align="right"|18,300
|ロックフィル
|[[電源開発]]
|
|-
|清津川
|カッサ川
|-
|[[カッサダム]]
|90.0
| align="right"|13,500
|ロックフィル
|電源開発
|
|-
|清津川
|カッサ川
|-
|[[カッサダム#カッサ川ダム|カッサ川ダム]]
|20.5
| align="right"|104
|アーチ式
|東京電力ホールディングス
|
|-
|清津川
|釜川
|-
|大谷内ダム
|23.2
| align="right"|1,206
|アース
|[[北陸農政局]]
|
|-
|[[魚野川]]
|三国川
|-
|[[三国川ダム]]
|119.5
| align="right"|27,500
|ロックフィル
|国土交通省
|
|-
|魚野川
|[[破間川]]
|-
|[[破間川ダム]]
|93.5
| align="right"|15,800
|重力式
|[[新潟県庁|新潟県]]
|
|-
|魚野川
|破間川
|-
|薮神ダム
|23.0
| align="right"|1,857
|重力式
|[[東北電力]]
|土木遺産
|-
|魚野川
|破間川
|黒又川
|[[黒又川第二ダム]]
|82.5
| align="right"|60,000
|アーチ式
|電源開発
|
|-
|魚野川
|破間川
|黒又川
|[[黒又川第一ダム]]
|91.0
| align="right"|42,850
|重力式
|電源開発
|
|-
|魚野川
|破間川
|黒又川
|[[黒又ダム]]
|24.5
| align="right"|1,454
|重力式
|東北電力
|土木遺産
|-
|魚野川
|破間川
|和田川
|[[広神ダム]]
|80.5
| align="right"|12,400
|重力式
|新潟県
|
|-
|大河津分水
|-
|-
|[[大河津可動堰]]
|-
| align="right"|-
|可動堰
|国土交通省
|
|-
|中ノ口川
|-
|-
|中ノ口川水門
|-
| align="right"|-
|水門
|国土交通省
|
|-
|刈谷田川
|-
|-
|[[刈谷田川ダム]]
|83.5
| align="right"|4,450
|重力式
|新潟県
|
|-
|[[五十嵐川]]
|-
|-
|[[大谷ダム (新潟県)|大谷ダム]]
|75.5
| align="right"|20,000
|ロックフィル
|新潟県
|
|-
|五十嵐川
|笠堀川
|-
|[[笠堀ダム]]
|74.5
| align="right"|15,400
|重力式
|新潟県
|
|-
|下条川
|-
|-
|下条川ダム
|31.0
| align="right"|1,530
|重力式
|新潟県
|
|-
|関屋分水
|-
|-
|[[関屋分水|新潟大堰]]
|-
| align="right"|-
|可動堰
|国土交通省
|
|}
(注):黄欄は建設中もしくは計画中のダム(2006年時点)。
; 頭首工・取水堰
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small;"
|-
!一次支川<br />(本川)
!所在地
!堰名
!管理主体
!備考
|-
|千曲川
|長野県[[上田市]]
|上田農水頭首工
|土地改良区
|-
|-
|千曲川
|長野県埴科郡[[坂城町]]
|埴科頭首工
|土地改良区
|-
|-
|信濃川<ref name="rikusei">{{Cite web|和書|url=https://www.maff.go.jp/hokuriku/kokuei/dogi/sisetu_niigata.html#oosima|title=新潟県の主な土地改良施設(大島頭首工と白根排水機場ほか2排水機場)|publisher=[[農林水産省]][[北陸農政局]] |accessdate=2014-11-07 }}</ref>
|新潟県[[三条市]]<ref name="rikusei"/>
|大島頭首工<ref name="rikusei"/>
|新潟県<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.niigata.lg.jp/nochikensetsu/1286485335743.html|title=施設管理係のホームページ|publisher=[[新潟県]]農地部農地建設課施設管理係 |accessdate=2014-11-07 }}</ref>
|-
|}
=== 水位観測点 ===
国土交通省 [[北陸地方整備局]]河川事務所の観測点は、下流側より
; 新潟県
* 西港 新潟市[[中央区 (新潟市)|中央区]]入船町
* 帝石橋 新潟市[[西区 (新潟市)|西区]]山田
* 新酒屋 新潟市[[江南区 (新潟市)|江南区]]花ノ牧
* 臼井橋 新潟市[[南区 (新潟市)|南区]]堀掛
* 保明新田 [[南蒲原郡]][[田上町]][[大字]]保明新田
* 荒町 三条市荒町
* 尾崎 三条市栄町尾崎
* 大河津 燕市大川津
* 長岡 長岡市信濃1丁目
* 小千谷 小千谷市元町433-2
* 岩沢 小千谷市真人町
* 十日町所在地 [[十日町市]]新宮乙
* 宮野原 [[中魚沼郡]]津南町上郷寺石
; 長野県
* 立ヶ花 中野市立ヶ花52-1
* 大倉崎 飯山市常盤
* 殿橋 中野市大字江部632-1
* 杭瀬下 [[千曲市]]杭瀬下
* 生田 上田市生田[[小字|字]]下梨平
* 塩名田 佐久市御馬寄1538
== 主な橋梁 ==
{{出典の明記|date=2018年1月|section=1}}
<!--?は名前の確認が出来なかったものです。ご存知の方お願いします。-->
''河口より記載''
* 信濃川
** ([[日本海]]) - ([[新潟みなとトンネル]]) - [[柳都大橋]] - [[萬代橋]]([[重要文化財]]) - [[八千代橋]] - [[昭和大橋 (新潟市)|昭和大橋]] - 信濃川橋梁([[越後線]]) - [[千歳大橋]] - [[本川大橋]] - [[平成大橋 (新潟市)|平成大橋]] - [[新潟大橋]] - 第二信濃川橋梁([[上越新幹線]]) - [[ときめき橋]]([[北陸自動車道]]) - [[信濃川大橋]] - [[大郷橋]] - [[臼井橋]] - [[小須戸橋]] - [[庄瀬橋]] - [[五反田橋]] - [[加茂大橋]] - [[景雲橋]] - [[石上大橋]] - 信濃川橋梁([[弥彦線]]) - [[瑞雲橋]] -[[三条大橋 (三条市)|三条大橋]] - 第一信濃川橋梁(上越新幹線) - [[栄橋 (北陸自動車道)|栄橋]](北陸自動車道) - [[蒲原大堰|蒲原大橋]] - [[萬盛橋]] - [[本川橋 (新潟県)|本川橋]] - [[与板橋]] - [[信濃川橋 (長岡市)|信濃川橋]] (北陸自動車道) - [[蔵王橋 (長岡市)|蔵王橋]] - [[長岡大橋]] - [[大手大橋]] - [[長生橋]] - [[フェニックス大橋]] - [[信濃川橋梁 (信越本線)|信濃川橋梁]]([[信越本線]]) - [[越路橋]] - [[越の大橋]] - [[小千谷大橋]] - [[旭橋 (小千谷市)|旭橋]] - [[山本山大橋]] - [[牛ケ島大橋]] - [[西倉橋]] - [[越後川口橋]]([[関越自動車道]]) - [[川井大橋]] - [[魚沼橋]] - [[栄橋 (十日町市)|栄橋]] - [[妻有大橋]] - [[十日町橋]] - 信濃川橋梁([[北越急行ほくほく線]]) - [[姿大橋]] - [[宮中橋]] - 信濃川橋梁([[飯山線]]) - [[豊船橋]] - [[信濃川橋 (津南町)|信濃川橋]] - [[田中橋 (津南町)|田中橋]] - [[上郷橋]] - [[宮野原橋]]
* 千曲川
** [[百合居橋]] - [[箕作平滝大橋]] - [[明石大橋 (千曲川)|明石大橋]] - [[東大滝橋]] - [[市川橋 (千曲川)|市川橋]] - [[湯滝橋]] - [[柏尾橋]] - [[常盤大橋]] - [[大関橋]] - [[中央橋 (飯山市)|中央橋]] - [[綱切橋]] - [[第五千曲川橋梁 (北陸新幹線)|第五千曲川橋梁]]([[北陸新幹線]]) - [[古牧橋]] - [[上今井橋]] - [[北千曲川橋]]([[上信越自動車道]]) - [[立ヶ花橋]] - [[第四千曲川橋梁 (北陸新幹線)|第四千曲川橋梁]](北陸新幹線) - [[小布施橋]] - [[村山橋]]([[国道406号]]と[[長野電鉄長野線]]の併用橋) - [[屋島橋]] - [[落合橋 (長野市)|落合橋]] - [[関崎橋]] - [[更埴橋]] - [[松代大橋]] - [[赤坂橋]] - [[岩野橋]] - [[篠ノ井橋]] - [[千曲川橋梁 (しなの鉄道線)|千曲川橋梁]]([[しなの鉄道線]]) - [[第三千曲川橋梁 (北陸新幹線)|第三千曲川橋梁]](北陸新幹線) - [[千曲川橋 (長野自動車道)|千曲川橋]]([[長野自動車道]]) - [[粟佐橋]] - [[千曲橋]] - [[平和橋 (長野県)|平和橋]] - [[冠着橋]] - [[大正橋 (千曲市)|大正橋]] - [[万葉橋]] - [[笄橋|笄橋(こうがいばし)]] - [[昭和橋 (千曲川)|昭和橋]] - [[坂城大橋]] - [[大望橋]] - [[鼠橋]] - [[上田大橋]] - [[古舟橋]] - [[上田橋]] - [[千曲川橋梁 (上田電鉄別所線)|千曲川橋梁]]([[上田電鉄別所線]]) - [[常田新橋]] - [[小牧橋]] - [[第二千曲川橋梁 (北陸新幹線)|第二千曲川橋梁]](北陸新幹線) - [[大石橋]] - [[大屋橋]] - 田中橋 - 羽毛山橋 - 境橋 - 布引大橋 - 大久保橋 - 戻り橋 - 小諸大橋 - 大杭橋 - 宮沢橋 - 浅科大橋 - [[第一千曲川橋梁 (北陸新幹線)|第一千曲川橋梁]](北陸新幹線) - [[中津橋]] - 琵琶島橋 - 佐久橋 - 千曲川橋([[中部横断自動車道]]) - 御影橋 - 浅蓼大橋([[国道141号]]) - 佐久大橋 - [[野沢橋]] - 住吉橋 - 臼田橋 - 三条大橋 - 八十巖橋 - [[栄橋 (佐久穂町)|栄橋]] - 栄海橋 - 南佐久大橋([[国道299号]]) - 下畑橋 - 宮前橋 - 天神橋 - ちくま橋 - 高岩橋 - 東馬流橋 - 馬流橋 - 清流ふれあい橋 - 小海大橋 - 第七千曲川橋梁([[小海線]]) - 箕輪橋 - 第六千曲川橋梁(小海線) - 海尻橋 - 第五千曲川橋梁(小海線) - 大芝橋 - 海ノ口大橋 - 第四千曲川橋梁(小海線) - 古屋敷橋 - 第三千曲川橋梁(小海線) - 向橋 - 第二千曲川橋梁(小海線) - 広瀬橋 - 第一千曲川橋梁(小海線) - 樋沢新田橋 - 男橋 - 本郷橋 - 赤顔橋 - 大深山橋 - 横沢橋 - 金山橋 - 小坂橋 - 下木戸橋 - 居倉橋 - 秋山3号橋 - 秋山2号橋 - 秋山1号橋 - 室屋橋 - 黒巌橋 - 日本基橋 - 蓬1号橋 - 蓬2号橋 <!--これより先、規模が小さく名前の確認が出来ません--> - ([[甲武信ヶ岳]])
{{信濃川の橋}}
== 利用 ==
=== 水運 ===
千曲川・信濃川は共に江戸時代から明治時代にかけて[[河川舟運|川舟による通船]]が全盛を迎え、流域の物流を担った。ただし、その後の流域の物流の主役は、陸上交通が担っていった。信濃川の河口部には古代から[[蒲原津]](かんばらのつ)、[[沼垂湊|沼垂津]](ぬったりのつ)、[[新潟津]]などの港(新潟三ヵ津)が栄え、特に新潟は江戸時代に大きく発展し[[日米修好通商条約]]によって他国に開放する港の1つとされた。[[新潟港]]は現在においても国際貿易港として機能しており、[[ロシア]]、[[大韓民国|韓国]]などとの国際便が就航している。
=== 漁業 ===
千曲川は内陸県である長野県を流れる川であり、千曲川などで漁獲される淡水魚は重要なタンパク質源の1つとして利用されてきた。例えば、春に産卵のために千曲川を遡上する[[ウグイ]]も、漁獲されてきた魚種の1つである<ref>成瀬 宇平 『47都道府県・伝統食百科』 本文の<!--注釈と区別するために、念のために「本文の」と断りを入れてあります。-->p.156 丸善出版 2009年1月30日発行 ISBN 978-4-621-08065-8</ref>。ウグイの特徴的な漁法としては「つけ場漁」が知られ、これは川の流れの中に人工的に整備した産卵床を整え、そこに集まってくるウグイを捕獲する手法である。また、千曲川は[[佐久市]]付近で谷から、そこより上流側と比べて幅の広い谷に流れ出るわけだが、ここの伏流水を取水して、水田や池などでの[[コイ]]の養殖漁業を19世紀初頭から行っている<ref>成瀬 宇平 『47都道府県・伝統食百科』 本文の<!--注釈と区別するために、念のために「本文の」と断りを入れてあります。-->p.158 丸善出版 2009年1月30日発行 ISBN 978-4-621-08065-8</ref>。なお、漁業者により捕獲が行われてきた、その他の主な魚種として、[[アユ]]、[[フナ]]、[[オイカワ]]、[[クチボソ]]、[[ナマズ]]、[[ドジョウ]]などが挙げられる。ただし、オイカワは1929年に始まったアユの稚魚放流に伴い[[琵琶湖]]から人為的に移入された[[外来種]]である<ref>{{Cite journal|和書|author=片野修 |author2=中村智幸 |author3=山本祥一郎 |author4=阿部信一郎 |title=長野県浦野川における魚類の種組成と食物関係 |date=2004-11-15 |publisher=公益社団法人日本水産学会 |journal=日本水産学会誌 |volume=70 |number=6 |naid=110003161507 |doi=10.2331/suisan.70.902 |pages=902-909 |ref=harv}}</ref>。この他に、アユ、[[イワナ]]、[[ウナギ]]、コイ、サケ、[[ニジマス]]、[[ヤマメ]]、[[カジカ (魚)|カジカ]]が、主に人為的に放流されている魚種である。これに加えて、かつて千曲川では行政の主導で[[コクレン]]、[[ハクレン]]、[[ソウギョ]]、[[カムルチー]]の放流も行われていた。さらに、信濃川・千曲川で人為的に放流された結果、生息が確認されている外来種の魚類として、カムルチー、[[オオクチバス]]、[[コクチバス]]、[[ブルーギル]]、[[カワマス]]、[[ブラウントラウト]]、[[カダヤシ]]、[[テラピア]]、[[タイリクバラタナゴ]]が挙げれられる。ヒトの影響は、これだけに留まらず、かつて流域で漁獲量は1万8千〜4万尾の漁獲量を誇った[[サケ]](シロザケ)、マス(サクラマス)は、[[西大滝ダム]]や[[宮中取水ダム]]の完成により、ほとんど信濃川を遡上しなくなり、[[1940年]]を境に漁業としては成立しなくなった。サケに関して、長野県では「カムバックサーモン」キャンペーンを1980年から展開し、21年間で1億6000万円かけて899万匹を放流したものの、西大滝ダム下流まで遡上が確認されたのは48匹に過ぎなかった<ref>[http://www.hrr.mlit.go.jp/chikuma/news/juku/data/juku14g/index.html 千曲塾 第14回議事録] 国土交通省千曲川河川事務所</ref>。
{{節スタブ}}
; 長野県内の信濃川水系河川の[[漁業協同組合]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.naganoken-gyoren.or.jp/n-gyoren_data1.html |title=長野県漁連会員紹介 |publisher=長野県 漁業協同組合連合会 |accessdate=2020-07-18}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.nagano.lg.jp/enchiku/sangyo/nogyo/engei-suisan/suisan/menkyo.html |title=漁業権の免許の内容等/長野県 |publisher=長野県庁 |accessdate=2020-07-18}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.nagano.lg.jp/enchiku/sangyo/nogyo/engei-suisan/suisan/yugyokisoku.html |title=遊漁規則/長野県 |publisher=長野県庁 |accessdate=2020-07-18}}</ref>
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
!漁業組合名
!主な漁場
|-
|南佐久南部久
|南佐久郡[[佐久穂町]]の旧[[八千穂村]]から上流の千曲川本支流<ref>{{Cite web|和書|url=http://minamisaku-gyokyou.jp/ |title=南佐久南部漁業協同組合(公式ホームページ)|accessdate=2020-07-18 |publisher=南佐久南部漁業協同組合}}</ref>
|-
|佐久
|[[小諸市]]から南佐久郡佐久穂町の旧[[佐久町]]までの千曲川本支流<ref>{{Cite web|和書|url=https://sakugyo.com/ |title=佐久漁業協同組合 |accessdate=2020-07-18 |publisher=佐久漁業協同組合 }}</ref>
|-
|上小
|[[上田市]]から[[東御市]]までの千曲川本支流([[依田川]]、[[神川 (長野県)|神川]]を含む)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www6.ueda.ne.jp/~josyogyokyo/ |title=上小漁業協同組合 |accessdate=2020-07-18 |publisher=上小漁業協同組合 }}</ref>
|-
|更埴
|長野市[[松代町 (長野県)|松代町]]から[[埴科郡]][[坂城町]]までの千曲川本支流<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.valley.ne.jp/~k-gyokyo/ |title=更埴漁業協同組合 |accessdate=2020-07-18 |publisher=更埴漁業協同組合 }}</ref>
|-
|千曲川
|小布施町から長野市松代町までの千曲川本支流。 [[篠井川]]・[[浅川 (長野県)|浅川]](北信漁協と共同管理)
|-
|北信
|中野市から小布施町までの千曲川本支流([[鳥居川]]を含む)・[[夜間瀬川]](千曲川合流部は高水漁協と共同管理)。 篠井川・浅川(千曲川漁協と共同管理)
|-
|高水
|中野市から下流の千曲川本支流。[[渋沢ダム|切明発電所]]より下流の中津川。<ref>{{Cite web|和書|url=https://ja-jp.facebook.com/kousuigyokyou/ |title=高水漁業協同組合 - ホーム |accessdate=2020-07-18 |publisher=高水漁業協同組合 }}</ref>
|-
|奈良井川
|[[奈良井川]](塩尻市・松本市島立橋上、犀川合流地点より上流)・[[鎖川]] (朝日村、松本市)・[[田川 (長野県)|田川]](塩尻市・松本市並柳橋より上流)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.naraigawa.jp/ |title=奈良井川漁業協同組合 - 奈良井川漁業協同組合へようこそ |accessdate=2020-07-18 |publisher=奈良井川漁業協同組合 }}</ref>
|-
|波田
|[[黒川 (松本市・梓川支流)|黒川]]合流点~梓橋([[長野県道316号梓橋田沢停車場線|県道316号]])までの島々谷川を除く梓川本支流(※ 一部安曇漁協と共同管理)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.mhata-sci.jp/gyogyou/ |title=波田漁業協同組合公式サイト |accessdate=2020-07-18 |publisher=波田漁業協同組合 }}</ref>
|-
|安曇
|松本市[[安曇村|安曇]]、[[奈川村|奈川]]の区域の梓川本支流(※ 一部波田漁協と共同管理)
|-
|犀川
|[[犀川 (長野県)|犀川]](東筑摩郡生坂村・長野市大岡から松本市の区域の本支流)。[[高瀬川]]・[[乳川]](北安曇郡松川村から下流)。梓川・奈良井川・田川の各下流域(松本市の区域)
|-
|北安中部
|高瀬川・乳川(大町市の区域)。[[農具川]]。
|-
|犀川殖産
|犀川(長野市の区域から[[大町市]]八坂・東筑摩郡[[生坂村]]の本支流)。[[金熊川]](大町市[[八坂村 (長野県)|八坂村]]から上流)。[[柳久保池]]。
|-
|裾花川水系
|[[裾花川]]。
|-
|志賀高原
|切明発電所より上流の中津川の本支流。([[雑魚川]]・[[魚野川 (志賀高原)]]を含む)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kiddy.co.jp/ayunip/nagano/siga_new.html |title=志賀高原漁業協同組合 |accessdate=2020-07-18 |publisher=志賀高原漁業協同組合 }}</ref>
|}
; 長野県内の信濃川水系湖沼の漁業協同組合
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
!漁業組合名
!主な漁場
|-
|松原湖
|[[松原湖]](猪名湖・長湖)
|-
|青木湖
|[[青木湖]]。[[中綱湖]]。農具川。
|-
|木崎湖
|[[木崎湖]]。農具川。
|}
;新潟県内の信濃川水系の漁業協同組合<ref>{{Cite web|和書|date= |url=https://www.pref.niigata.lg.jp/sec/suisan/gyokyou.html |title=漁業協同組合について - 新潟県ホームページ |publisher=新潟県庁 |accessdate=2020-06-29}}</ref>
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
!漁業組合名
!流域
|-
|信濃川
|新潟市中央区・昭和大橋上流端から同市秋葉区・小須戸橋下流端に至る信濃川本支流
|-
|加茂川
|
|-
|五十嵐川
|五十嵐川本支川など<ref>{{Cite web|和書|date= |url=http://www.ikarashigawa.com/ |title=五十嵐川漁業協同組合 |publisher=五十嵐川漁業協同組合 |accessdate=2020-06-29}}</ref>
|-
|刈谷田川
|
|-
|魚沼
|信濃川中流部、魚野川本支川、清津川上流など<ref>{{Cite web|和書|date= |url=http://www.uonuma-gyokyou.or.jp/gyoumu |title=業務案内 | 魚沼漁業協同組合|publisher=魚沼漁業協同組合 |accessdate=2020-06-24}}</ref>
|-
|中魚沼
|
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|30em}}
== 参考文献 ==
* 寒川典昭、山下伊千造、南志郎「[https://doi.org/10.2208/journalhs1990.12.251 千曲川下流の歴史洪水の復元と考察]」『土木史研究』1992年 12巻 p. 251-262, {{doi|10.2208/journalhs1990.12.251}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
* [[信濃川逃亡労働者殺害事件]](大正期の怪事件)
* [[戌の満水]]
* [[新潟島]]
* [[千曲川 (五木ひろしの曲)|千曲川]] - [[演歌歌手]]・[[五木ひろし]]の代表曲。「[[NHK紅白歌合戦]]」では1975年末の「[[第26回NHK紅白歌合戦|第26回]]」と、[[長野オリンピック]]の前年に控えた1997年末の「[[第48回NHK紅白歌合戦|第48回]]」と、2回歌唱披露された。
* [[筑摩 (防護巡洋艦)|筑摩(防護巡洋艦)]]‐[[大日本帝国海軍|旧日本海軍]]の[[防護巡洋艦]]。[[筑摩型防護巡洋艦]]の1番艦。艦名は'''筑摩川'''(千曲川、信濃川の上流部)に由来する。
* [[筑摩 (重巡洋艦)|筑摩(重巡洋艦)]]‐旧日本海軍の[[重巡洋艦]]。[[利根型重巡洋艦]]の2番艦。
* [[ちくま (護衛艦)|ちくま(護衛艦)]]‐[[海上自衛隊]]の[[護衛艦]]。[[あぶくま型護衛艦]]の5番艦。
== 外部リンク ==
; 国の機関及び自治体
* [https://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0405_shinano/0405_shinano_00.html 日本の川:信濃川] - 国土交通省水管理・国土保全局
** [https://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0404_shinano_karyu/0404_shinano_karyu_00.html 信濃川下流]
* [https://www.hrr.mlit.go.jp/shinage/ 国土交通省北陸地方整備局 信濃川下流河川事務所]
** [https://www.hrr.mlit.go.jp/shinage/shinano-plan/ 信濃川水系河川整備計画]
* [https://www.hrr.mlit.go.jp/shinano/ 国土交通省北陸地方整備局 信濃川河川事務所]
** [https://www.hrr.mlit.go.jp/shinano/live/index.html 信濃川ライブカメラ]
** [https://www.hrr.mlit.go.jp/shinano/ohkouzu/ 大河津資料館へようこそ]
** [https://www.hrr.mlit.go.jp/shinano/367/chisui/nenpyo_meiji.html 治水事業の歴史]
** [https://www.hrr.mlit.go.jp/shinano/367/disaster/index.html 主要な水害]
* [https://www.hrr.mlit.go.jp/chikuma/ 国土交通省北陸地方整備局 千曲川河川事務所]
** [https://www.hrr.mlit.go.jp/chikuma/tikumaga/index.html ちくまが]
** {{PDFlink|[https://www.hrr.mlit.go.jp/chikuma/shiru/public/chishitu.pdf 千曲川・犀川の地形と地質]|7.5{{nbsp}}[[メビバイト|MiB]]}} 2002年3月 監修:赤羽貞幸(信州大学教育学部) 発行:北陸建設弘済会 長野支所
* [https://www.pref.niigata.lg.jp/site/kasenkanri/ 新潟県土木部 河川管理課]
** [https://www.pref.niigata.lg.jp/sec/kasenkanri/1233086526002.html 新潟県内の洪水浸水想定区域図]
** [https://www.pref.niigata.lg.jp/sec/kasenkanri/1233691298080.html 県内市町村の洪水ハザードマップ]
** [https://www.pref.niigata.lg.jp/sec/kasenkanri/1356804549078.html 河川整備計画]
** [https://www.pref.niigata.lg.jp/sec/kasenkanri/1202317242294.html 新潟県の河川一覧・管内図(河川及び海岸)]
* [https://disaportal.gsi.go.jp/ ハザードマップポータルサイト] 国土地理院
* [https://www.mlit.go.jp/river/pamphlet_jirei/kasen/jiten/yougo/01.htm 河川用語集:河川・本川・支川(かせん・ほんせん・しせん)] - 国土交通省
; その他
* [https://maps.gsi.go.jp/?ll=35.895833333333336,138.71875&z=15#15/35.895833/138.718750/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1 国土地理院 2万5千分1地形図名:金峰山]:千曲川源流
* [http://www.japanriver.or.jp/river_law/kasenzu/kasenzu_gaiyou/hokuriku_r/035sinano.htm 一級水系信濃川水系の主要諸元](日本河川協会)
* [http://www.naganoken-gyoren.or.jp/ 長野県漁業協同組合連合会ホームページ]
* [https://niinaisuimen.jimdo.com/ 新潟県内水面漁業協同組合連合会]
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8,432 | オットマール・アンシュッツ | オットマール・アンシュッツ(Ottomar Anschütz, 1846年5月16日 - 1907年5月30日)は、帝国時代のドイツの写真家。プロイセン王国・ポーゼン州(英語版)リッサ(現在のポーランド領レシュノ)生まれ。
動物園を私設して持っていたオットマール・アンシュッツは動物の生態撮影のために従前からあったローラーブラインドシャッターを大幅に改良、1882年シャッター幕を先幕後幕の2枚にしてその間隔を任意に変更できるようにし、また幕の速度調節はバネの張力を加減することで変更できるようにし、この組み合わせにより1/10秒から1/1000秒のシャッター速度調整が可能なセルフキャッピング式フォーカルプレーンシャッターを発明、1882年ドイツ特許を取得した。
アンシュッツはこのカメラを方錐型の試作カメラに組み込み、このカメラの原型は1891年に作成された。これを元にゲルツがアンシュッツ・クラップカメラ(後アンシュッツとゲルツの頭を取ってアンゴーと改名した)を市販した。
1889年、ゾートロープを改良発展させ電気式シュネルゼーアーを考案した。 | [
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[[File:Cap 2 Ottomar Anschütz.jpg|thumb|鳥の写真]]
'''オットマール・アンシュッツ'''(Ottomar Anschütz, [[1846年]][[5月16日]] - [[1907年]][[5月30日]])は、[[ドイツ帝国|帝国時代]]の[[ドイツ]]の[[写真家]]。プロイセン王国・{{仮リンク|ポーゼン州|en|Privince of Posen}}リッサ(現在のポーランド領[[レシュノ]])生まれ。
動物園を私設して持っていた'''オットマール・アンシュッツ'''は動物の生態撮影のために従前からあった[[ローラーブラインドシャッター]]を大幅に改良<ref name="historyofinventioncamera-4-4">『発明の歴史カメラ』pp.46-50「ジュメユタイプと高速シャッター」。</ref>、[[1882年]]<ref name="zeissikonstory-56">『ツァイス・イコン物語』p.56。</ref>シャッター幕を先幕後幕の2枚にしてその間隔を任意に変更できるようにし<ref name="historyofinventioncamera-4-4"/><ref name="historyofinventioncamera-4-6">『発明の歴史カメラ』pp.53-57「高級機に変貌する一眼レフジュメユタイプと高速シャッター」。</ref>、また幕の速度調節はバネの張力を加減することで変更できるようにし<ref name="historyofinventioncamera-4-4"/><ref name="historyofinventioncamera-4-6"/>、この組み合わせにより1/10秒<ref name="clacamesenka2-125">『クラシックカメラ専科No.2、名機105の使い方』p.125。</ref>から1/1000秒<ref name="clacamesenka2-125"/><ref name="historyofinventioncamera-4-4"/><ref name="historyofinventioncamera-4-6"/>のシャッター速度調整が可能なセルフキャッピング式[[フォーカルプレーンシャッター]]を発明、[[1882年]]<ref name="zeissikonstory-56">『ツァイス・イコン物語』p.56。</ref>[[ドイツ]]特許を取得した。
アンシュッツはこのカメラを方錐型<ref name="clacamesenka2-125"/>の試作カメラに組み込み、このカメラの原型は[[1891年]]に作成<ref name="historyofinventioncamera-4-4"/>された。これを元に[[ゲルツ]]が'''アンシュッツ・クラップカメラ'''(後アンシュッツとゲルツの頭を取って[[アンゴー]]と改名した)を市販<ref name="historyofinventioncamera-4-4"/>した。
[[1889年]]、[[回転のぞき絵|ゾートロープ]]を改良発展させ[[電気式シュネルゼーアー]]を考案した。
== 関連項目 ==
* [[映画史]]
{{Commonscat|Ottomar Anschütz}}
== 脚注 ==
<references />
== 参考文献 ==
*竹田正一郎『ツァイス・イコン物語』[[潮書房光人社|光人社]] ISBN 978-4-7698-1455-9
*[[鈴木八郎]]『発明の歴史カメラ』[[発明協会]]
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[[Category:19世紀ドイツの写真家]]
[[Category:20世紀ドイツの写真家]]
[[Category:ドイツの発明家]]
[[Category:ドイツの光学技術者]]
[[Category:カール・ツァイスの人物]]<!-- 子会社ツァイス・イコンの前身ゲルツと協力関係にあった -->
[[Category:ドイツ帝国の人物]]
[[Category:ポーゼン州出身の人物]]
[[Category:レシュノ出身の人物]]
[[Category:1846年生]]
[[Category:1907年没]] | null | 2020-02-03T21:53:34Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%83%E3%83%84 |
8,433 | エティエンヌ=ジュール・マレー | エティエンヌ=ジュール・マレー(Etienne-Jules Marey、1830年3月5日、ボーヌ - 1904年5月16日、パリ)はフランスの生理学者、医師。1867年からコレージュ・ド・フランスで教鞭を執った。
1882年、ライフル銃の形をした連続写真撮影機である写真銃を発明し、映画撮影機の原型となった。鳥の飛翔や人物の動きの連続写真を撮り、その動きを解析することで自らの研究に役立てた。 | [
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] | エティエンヌ=ジュール・マレーはフランスの生理学者、医師。1867年からコレージュ・ド・フランスで教鞭を執った。 1882年、ライフル銃の形をした連続写真撮影機である写真銃を発明し、映画撮影機の原型となった。鳥の飛翔や人物の動きの連続写真を撮り、その動きを解析することで自らの研究に役立てた。 | {{出典の明記|date=2021年2月}}
[[Image:Étienne-Jules Marey (c. 1850).jpg|right|200px]]
[[Image:Fusil de Marey p1040353.jpg|right|250px|thumb|写真銃]]
'''エティエンヌ=ジュール・マレー'''(Etienne-Jules Marey、[[1830年]][[3月5日]]、[[ボーヌ]] - [[1904年]][[5月16日]]、[[パリ]])は[[フランス]]の[[生理学]]者、医師。1867年から[[コレージュ・ド・フランス]]で教鞭を執った。
[[1882年]]、ライフル銃の形をした連続写真撮影機である'''写真銃'''を発明し、[[映画]]撮影機の原型となった。鳥の飛翔や人物の動きの連続写真を撮り、その動きを解析することで自らの研究に役立てた。
[[image:Marey - birds.jpg|thumb|400px|1882年頃マレーが捉えた飛翔する[[ペリカン]]。彼は動作のいくつもの段階を一枚の写真に記録する方法を発見した]]
==脚注==
<references/>
==関連項目==
*[[映画史]]
*[[松浦寿輝]] - 『表象と倒錯』で、マレーをとりあげた。
*[[エドワード・マイブリッジ]] - マレー同様に独自の連続写真撮影機を開発して人物や動物の動きを研究し、映画の原型となった
*[[猫の落下]]
== 外部リンク ==
{{commons category|Étienne-Jules Marey}}
* {{IMDb name|4620889}}
* [http://canopycanopycanopy.com/15/bodies_against_time "Bodies Against Time,"] an essay by Zoe Beloff in online magazine [[Triple Canopy (online magazine)|Triple Canopy]].
{{Normdaten}}
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[[Category:19世紀フランスの写真家]]
[[Category:20世紀フランスの写真家]]
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8,434 | 線型代数学 | 線型代数学(せんけいだいすうがく、英: linear algebra)とは、線形空間と線形変換を中心とした理論を研究する代数学の一分野である。現代数学において基礎的な役割を果たし、幅広い分野に応用されている。また、これは特に行列・行列式・連立一次方程式に関する理論を含む。線形などの用字・表記の揺れについては線型性を参照。
日本の大学においては、多くの理系学部学科(特に理学部・工学部)で解析学(微分積分学)とともに初学年から履修する。高校教育においては平成27年度からの新課程では数学Cの廃止に伴い行列の分野が除外されている。但し、2022年(令和4年度)からは数学Cが復活しベクトルと共に行列の分野が高校教育に再導入される。
行列は多変数の一次の関係式で表される関係を簡潔に記述するために用いられ、連立一次方程式の解法の研究の過程で見出された。行列の記法は、ケイリー、シルヴェスター、フロベニウス、アイゼンシュタイン、エルミートがそれぞれ同時期に提唱した。最も早くこの理論を提唱したのはアイゼンシュタインであるが、学会からはなかなか注目されず、ケイリーが取り組んでいたものが30年後にシルヴェスターによって再発見されたことで評価され始めるようになった(シルヴェスターが個別に発見したのか、ケイリーの理論を知っていたのかは詳しくは分かっていない)。
連立方程式を一次変換と捉える立場からは、線型代数学は、高次元の真っ直ぐな空間(現代的にいえばベクトル空間)の幾何について研究する学問であると言うことができる。このようにベクトル空間とその変換の理論として見るとき、線型代数学は高々有限次元のベクトル空間の理論である。これを無限次元のベクトル空間で対象とするためには、多分に空間の位相とそれに基づく解析学が必要となる。無限次元の線型代数学は関数解析学と呼ばれる。これは、無限次元のベクトル空間がある空間上の関数全体の集合として典型的に現れるからである。応用は多岐に渡るが、経済学に登場する産業連関表や、量子力学において物理量を行列として表現する手法など、20世紀以降の社会科学、自然科学において、行列が果たす役割は大きい。
和算家の関孝和も現代でいう行列式に当たるもの(関孝和 1683)を独自に開発・研究していた。
線型代数学においては、連立1次方程式の各式は空間内に張られた平面を表しており、その平面同士の交わる領域が連立方程式の解であると説明される。各平面の交わる領域が1点となる場合のみ解が一意に定まり、交わる領域が線の場合に解は無数に存在し、交わる領域が無い場合(例:全ての平面が平行である場合)には解は存在しない。どのように解が存在するかは線型独立な生成元の数を示す拡大係数行列の階数で判定可能である。
線型代数の歴史は線型方程式系を行列式を用いて解くという研究からはじまった。歴史的には行列式は行列より以前に現れている。西洋の数学史において、行列式はライプニッツが1693年により用いられたのが最初であり、その後、ガブリエル・クラメルがいわゆる「クラメルの公式」で線型方程式系を解く方法を1750年に編み出した。更に後年になってガウスが測地学の研究から「ガウスの消去法」を用いて線型方程式系を解く方法を開発した。おそらく1860年代には行列式の公理的な定義がワイエルシュトラスとクロネッカーによって与えられていた。
最初に行列代数(matrix algebra)の研究が現れたのは1800年代半ばのイングランドであるとされる。1844年、グラスマンは著書「Theory of Extension(拡大の理論)」を出版し、この本には今日の線型代数学の基本概念に相当する(当時としては)新しい内容が含まれていた。1848年、シルベスターがラテン語で子宮を意味するmatrix(行列)という用語を導入した。線型変換の構成に関する研究全体で、ケイリーは行列の積と逆行列の概念定義した。重要なのは、ケイリーが一つの文字で行列を表記する方法を使ったため、行列が文字を縦横に並べた集合体として扱われたことである。ケイリーはまた行列と行列式との関係を認識しており、「行列の理論はいろいろあるが、私に言わせれば、行列式の理論よりも重要である」と述べている。 1882年、トルコのフセイン・テフフィグ・パシャは "Linear Algebra"(線型代数)と名付けられた本を出版した。公理的な(実数体上の)線型空間の定義や線型変換の定義はペアノによって1888年に与えられ、1900年までには有限次元ベクトル空間の理論が現れた。線型代数が最初に現代化されるのは20世紀の初めの四半世紀であり、ここで多くのアイデアと前世紀に誕生した抽象代数学の概念が導入されていくこととなる。量子力学における行列の使用、特殊相対論、統計学における利用の広がりなど、純粋数学を超えて応用されていった。コンピュータの登場でガウスの消去法の効率的アルゴリズムの研究や、モデルの定式化やシミュレーションなどにも線型代数は必須の道具となっている。
これらの概念の起源に関する議論については en:determinants (「行列式」英語版)、及びen:Gaussian elimination(「ガウスの消去法」英語版)を参照のこと。
なお、日本の和算においては、上述のライプニッツより10年早い時期に同様の研究が(関孝和 1683)によって行われている。 | [
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] | 線型代数学とは、線形空間と線形変換を中心とした理論を研究する代数学の一分野である。現代数学において基礎的な役割を果たし、幅広い分野に応用されている。また、これは特に行列・行列式・連立一次方程式に関する理論を含む。線形などの用字・表記の揺れについては線型性を参照。 日本の大学においては、多くの理系学部学科(特に理学部・工学部)で解析学(微分積分学)とともに初学年から履修する。高校教育においては平成27年度からの新課程では数学Cの廃止に伴い行列の分野が除外されている。但し、2022年(令和4年度)からは数学Cが復活しベクトルと共に行列の分野が高校教育に再導入される。 | {{Wikibooks|線形代数学|線形代数学}}
[[ファイル:Linear_subspaces_with_shading.svg|サムネイル|3次元[[ユークリッド空間]]のモデル。3つの平面は一次方程式の解を表し、その交点は共通解の集合(この場合は一意点)を表す。青い線は、これらの方程式のうちの2つの共通解を表す。]]
'''線型代数学'''(せんけいだいすうがく、{{lang-en-short|''linear algebra''}})とは、[[線形空間]]と[[線形変換]]を中心とした理論を研究する[[代数学]]の一分野である。現代数学において基礎的な役割を果たし、幅広い分野に応用されている。また、これは特に[[行列 (数学)|行列]]・[[行列式]]・[[連立一次方程式]]に関する理論を含む。'''線形'''などの用字・表記の揺れについては[[線型性]]を参照<ref group="注釈">{{Harv|長岡亮介|2003|p=9}}によれば、線形とすると線の形を扱う数学と誤解される危険性があるとのことである。</ref>。
日本の大学においては、多くの理系学部学科(特に[[理学部]]・[[工学部]])で[[解析学]]([[微分積分学]])とともに初学年から履修する。[[高等学校|高校教育]]においては平成27年度からの新課程では[[数学C]]の廃止に伴い行列の分野が除外されている<ref>{{Cite web |url = https://web.archive.org/web/20221224115133/https://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2011/03/30/1304427_002.pdf |title = 1304427_002|website = www.mext.go.jp|publisher = www.mext.go.jp|date = |accessdate = 2023-06-04}}</ref>。但し、2022年(令和4年度)からは数学Cが復活しベクトルと共に行列の分野が高校教育に再導入される<ref group="注釈">あくまでも部分的な導入であって教科書に詳細が載せられることはない。共通テストIIBCからもその単元は除外される。しかし、かつての旧課程で教えられていた内容をそのままそっくり教えることは可能になったため、文部科学省は「高等学校数学科教材(行列入門)」を公式に配布している。</ref>。
== 概要 ==
行列は多変数の[[一次関数|一次の関係式]]で表される関係を簡潔に記述するために用いられ、[[線型方程式系|連立一次方程式]]の解法の研究の過程で見出された。行列の記法は、[[アーサー・ケイリー|ケイリー]]、[[ジェームス・ジョセフ・シルベスター|シルヴェスター]]、[[フェルディナント・ゲオルク・フロベニウス|フロベニウス]]、[[フェルディナント・ゴットホルト・マックス・アイゼンシュタイン|アイゼンシュタイン]]、[[シャルル・エルミート|エルミート]]がそれぞれ同時期に提唱した。最も早くこの理論を提唱したのはアイゼンシュタインであるが、学会からはなかなか注目されず、ケイリーが取り組んでいたものが30年後にシルヴェスターによって再発見されたことで評価され始めるようになった(シルヴェスターが個別に発見したのか、ケイリーの理論を知っていたのかは詳しくは分かっていない)。
連立方程式を一次変換と捉える立場からは、線型代数学は、高次元の真っ直ぐな空間(現代的にいえば[[ベクトル空間]])の幾何について研究する学問であると言うことができる。このようにベクトル空間とその変換の理論として見るとき、線型代数学は[[高々 (数学)|高々]]有限次元のベクトル空間の理論である。これを無限次元のベクトル空間で対象とするためには、多分に空間の[[位相空間|位相]]とそれに基づく[[解析学]]が必要となる。無限次元の線型代数学は[[関数解析学]]と呼ばれる。これは、無限次元のベクトル空間がある空間上の関数全体の集合として典型的に現れるからである。応用は多岐に渡るが、[[経済学]]に登場する[[産業連関表]]や、[[量子力学]]において物理量を行列として表現する手法など、[[20世紀]]以降の社会科学、自然科学において、行列が果たす役割は大きい。
和算家の[[関孝和]]も現代でいう行列式に当たるもの{{Harv|関孝和|1683}}を独自に開発・研究していた{{Sfn|佐藤|小松|2004}}。
線型代数学においては、連立1次方程式の各式は空間内に張られた平面を表しており、その平面同士の交わる領域が連立方程式の解であると説明される。各平面の交わる領域が1点となる場合のみ解が一意に定まり、交わる領域が線の場合に解は無数に存在し、交わる領域が無い場合(例:全ての平面が平行である場合)には解は存在しない。どのように解が存在するかは[[線型独立]]な生成元の数を示す拡大係数行列の[[行列の階数|階数]]で判定可能である。
==歴史==
線型代数の歴史は線型方程式系を[[行列式]]を用いて解くという研究からはじまった。歴史的には行列式は行列より以前に現れている。西洋の数学史において、行列式は[[ゴットフリート・ライプニッツ|ライプニッツ]]が[[1693年]]により用いられたのが最初であり、その後、ガブリエル・クラメルがいわゆる「[[クラメルの公式]]」で線型方程式系を解く方法を[[1750年]]に編み出した。更に後年になって[[カール・フリードリヒ・ガウス|ガウス]]が測地学の研究から「[[ガウスの消去法]]」を用いて線型方程式系を解く方法を開発した<ref name="Vitulli">
{{cite web
|last=Vitulli
|first=Marie
|title=A Brief History of Linear Algebra and Matrix Theory
|url=http://macs.citadel.edu/chenm/240.dir/12fal.dir/history2.pdf|accessdate=2015-07-29}}
</ref>。おそらく[[1860年代]]には行列式の公理的な定義が[[ワイエルシュトラス]]と[[クロネッカー]]によって与えられていた{{sfn|Kleiner|2007|page=81}}。
最初に行列代数(matrix algebra)の研究が現れたのは[[1800年代]]半ばの[[イングランド]]であるとされる。[[1844年]]、[[ヘルマン・グラスマン|グラスマン]]は著書「Theory of Extension(拡大の理論)」を出版し、この本には今日の線型代数学の基本概念に相当する(当時としては)新しい内容が含まれていた。[[1848年]]、[[ジェームス・ジョセフ・シルベスター|シルベスター]]が[[ラテン語]]で子宮を意味するmatrix(行列)という用語を導入した。線型変換の構成に関する研究全体で、ケイリーは行列の積と逆行列の概念定義した{{sfn|Kleiner|2007|page=82}}。重要なのは、ケイリーが一つの文字で行列を表記する方法を使ったため、行列が文字を縦横に並べた集合体として扱われたことである。ケイリーはまた行列と行列式との関係を認識しており、「行列の理論はいろいろあるが、私に言わせれば、行列式の理論よりも重要である」と述べている<ref name="Vitulli" />。
1882年、トルコの[[:en:Hüseyin Tevfik Pasha|フセイン・テフフィグ・パシャ]]は "Linear Algebra"(線型代数)と名付けられた本を出版した<ref>{{Cite web |url = https://archive.org/details/linearalgebra00tevfgoog |title = Linear Algebra by Hussein Tevfik|website = archive.org|publisher = archive.org|date = |accessdate = 2023-06-04}}</ref>。公理的な(実数体上の)線型空間の定義や線型変換の定義は[[ジュゼッペ・ペアノ|ペアノ]]によって[[1888年]]に与えられ{{sfn|Broubaki|1994|page=66}}、[[1900年]]までには有限次元ベクトル空間の理論が現れた。線型代数が最初に現代化されるのは20世紀の初めの四半世紀であり、ここで多くのアイデアと前世紀に誕生した[[抽象代数学]]の概念が導入されていくこととなる。[[量子力学]]における行列の使用、[[特殊相対論]]、[[統計学]]における利用の広がりなど、純粋数学を超えて応用されていった。[[コンピュータ]]の登場で[[ガウスの消去法]]の効率的アルゴリズムの研究や、モデルの定式化やシミュレーションなどにも線型代数は必須の道具となっている<ref name="Vitulli" />。
これらの概念の起源に関する議論については [[:en:determinants]] (「[[行列式]]」英語版)、及び[[:en:Gaussian elimination]](「[[ガウスの消去法]]」英語版)を参照のこと。
なお、日本の[[和算]]においては、上述のライプニッツより10年早い時期に同様の研究が{{Harv|関孝和|1683}}によって行われている{{Sfn|佐藤|小松|2004}}。
<!--英語版からの翻訳なので、日本の和算関係のは入ってません-->
== 用語 ==
;[[ベクトル空間]](線型空間)- ベクトル - [[線型部分空間]]
;[[数ベクトル空間]]
:[[ユークリッド空間]] - [[アファイン空間|アフィン空間]]
;[[内積空間]]
:[[内積]] - [[エルミート内積]] - [[直交補空間]] - [[直交射影]]
;[[線型結合]](一次結合)
:[[線型従属]](一次従属)- [[線型独立]](一次独立)
:[[基底 (線型代数学)|基底]] - [[標準基底]] - [[次元 (線型代数学)|次元]] - [[グラム・シュミットの正規直交化法]]
;[[行列 (数学)|行列]]
:[[実行列]] - [[複素行列]]
:[[正方行列]] - [[正則行列]] ({{math|''GL''(''n'', '''R'''), ''GL''(''n'', '''C''')}}) - [[逆行列]] - [[単位行列]]([[スカラー行列]]) - [[零行列]] - [[冪零行列]]
:[[対角行列]] - [[三角行列]](上三角行列、下三角行列)
:[[対称群|転置行列]] - [[随伴行列]]
:[[直交行列]] ({{math|''O''(''n'')}}) - [[特殊直交行列]] ({{math|''SO''(''n'')}}) - [[ユニタリ行列]] ({{math|''U''(''n'')}}) - [[特殊ユニタリー行列]] ({{math|''SU''(''n'')}}) - [[シンプレクティック行列]] ({{math|''Sp''(''n'')}}) - [[行列指数関数]]
:[[対称行列]] - [[反対称行列]](歪対称行列) - [[エルミート行列]] - [[歪エルミート行列]](反エルミート行列) - [[正規行列]]
:[[対称群|置換行列]] - [[隣接行列]]
;[[行列式]]
:[[置換 (数学)|置換]] - [[小行列式]] - [[行列式#余因子展開|余因子展開]] - [[ヤコビアン]] - [[関数行列]]
;[[線型方程式系]](連立一次方程式)
:[[行列の基本変形]] - [[クラメールの公式]] - [[シルベスター行列]]
;線型変換(一次変換)
:[[線型写像]](線型変換) - [[行列の相似|相似]] - [[成分行列]]
:[[行列の階数|階数]] - [[像 (数学)|像]] - [[核 (代数学)|核]]([[核空間]])
:[[対角化]] - [[スペクトル分解]] - [[ジョルダン標準形]] - [[特異値分解]]
;[[固有空間]]
: [[固有値]] - [[固有値|固有ベクトル]] - [[ペロン=フロベニウスの定理|フロベニウスの定理]] - [[固有多項式]]([[固有方程式]]) - [[最小多項式 (線型代数学)|最小多項式]] - [[ケイリー・ハミルトンの定理]] - [[縮退]]
;[[テンソル]]
:[[双対空間]] - [[双線型形式]] - [[対称双線型形式|対称形式]] - [[エルミート形式]] - [[テンソル代数]] - [[外積代数|グラスマン代数]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注釈}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
{{Refbegin|40em}}
* [https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/senseiouen/1394142_00001.html 高等学校数学科教材(行列入門)]
* {{Cite book |和書|author=関孝和 |title=解伏題之法 |origyear=1683 |year=1937 |publisher=古典数学書院 |edition=復刻版 |id={{NDLJP|1144574}} |ref=CITEREF関孝和1683 }}
* {{Cite book |first=Hussein Tevfik |last=Pacha |title=Linear algebra |edition=2nd |location= İstanbul |publisher=A. H. Boyajian |date=1892 |language=en }}
* {{Cite book |和書|author=佐武一郎|authorlink=佐武一郎 |title=線型代数学 |publisher=[[裳華房]] |date=1982 |isbn= 4-7853-1301-3 }}
* 齋藤正彦:「線型代数入門」、東京大学出版会、ISBN 978-4-13-062001-7、(1966)。
* {{cite book
|last = Bourbaki
|first = N.
|authorlink = ニコラ・ブルバキ
|year = 1994
|title = Elements of the History of Mathematics
|url = {{google books|4JprCQAAQBAJ|Elements of the History of Mathematics|page=57|plainurl=yes}}
|publisher = Springer
|isbn = 978-3-540-64767-6
|ref = harv
}}
* {{Cite book |和書|author=長岡亮介 |title=線型代数入門 |publisher=放送大学教育振興会 |date=2003 |isbn=4-595-23669-7 }}
* {{cite book
|last = Kleiner
|first = I.
|year = 2007
|title = A History of Abstract Algebra
|url = {{google books|udj-1UuaOiIC|A History of Abstract Algebra|page=79|plainurl=yes}}
|publisher = Birkhäuser
|isbn = 978-0-8176-4684-4
|ref = harv
}}
*{{Cite journal |和書| last=佐藤 |first=賢一 |authorlink=佐藤賢一 (数学) |last2=小松 |first2=彦三郎 |authorlink2=小松彦三郎 |title=関孝和の行列式の再検討 |journal=数理解析研究所講究録 |volume=1392 |year=2004 |pages=214-224 |naid=110006471628 |ref=harv}}
{{Refend}}
== 関連項目 ==
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* [[代数学]]
* [[抽象代数学]]
* [[環 (数学)]]
* [[可換体]]
* [[加群]]
* [[リー群]]
* [[リー代数]]
* [[関数解析学]]
* [[線型微分方程式]]
* [[解析幾何学]]
* [[幾何ベクトル]]
* [[ベクトル解析]]
* [[数値線形代数]]
* [[BLAS]] (線型代数の計算を行うための[[数値解析]][[ライブラリ]]の規格)
* [[行列値関数]]
* [[行列解析]]
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== 外部リンク ==
{{Wikibooks}}
* {{MathWorld|title=Linear Algebra|urlname=LinearAlgebra}}
* {{Kotobank|線形代数学}}
{{Linear algebra}}
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[[Category:線型代数学|*]]
[[Category:数学に関する記事]] | null | 2023-07-02T22:41:44Z | false | false | false | [
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8,435 | ウクライナ | ウクライナ(ウクライナ語: Украї́на、[ʊkrɐˈjinɐ] ( 音声ファイル)、英語: Ukraine)は、東ヨーロッパに位置する共和制国家。首都はキーウ。東はロシア連邦、北はベラルーシ、西はポーランド、スロバキア、ハンガリー、西南はルーマニア、モルドバと国境を接しており、南は黒海に面し、トルコなどと向かい合う。
人口は、2021年時点で約4159万人(ロシア支配下のクリミア半島を除く)で、ヨーロッパで7番目に人口の多い国である。
現在、ウクライナが位置している地域には紀元前3万2千年から人が住んでいたとされる。中世にはキエフ大公国(キエフ・ルーシ)によって統治され、東スラブ文化の中心地としてウクライナおよびロシアのアイデンティティの基礎が形成された。
12世紀以降、モンゴルのルーシ侵攻により領土が破壊され、ポーランド・リトアニア共和国、オーストリア゠ハンガリー帝国、オスマン帝国、モスクワ大公国などに分離した(キエフ大公国の分裂)。キエフ大公国の故地のうち、現在のウクライナにあたる地域の一部は14世紀以後、小ロシアと呼ばれるようになる。
1649年、現在のウクライナにヘーチマン国家が成立し、1654年以後はモスクワ大公国(ロシア帝国)の保護を受ける。1667年、ロシア・ポーランド戦争の結果ポーランドに割譲されたドニプロ川右岸地域では1699年にコサック隊は廃止される。ドニプロ川左岸地域のヘーチマン国家はロシアの防衛に貢献するコサック国家として繁栄したが、1764年にロシアのエカチェリーナ2世がヘーチマン制を廃止、翌1765年に国土はロシアの小ロシア県に編成され、1786年にコサック連隊制が廃止となった。
第一次世界大戦では中央同盟国(ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国など)とロシア帝国の戦場になった(東部戦線 (第一次世界大戦))。大戦中のロシア革命でロシア帝国が崩壊するとウクライナの民族自決運動が起こった。1917年6月23日、国際的に認められたウクライナ人民共和国が宣言されたが、ロシア内戦などを経て、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国はソビエト連邦の一部となった。第二次世界大戦では独ソ戦の激戦地となった。第二次世界大戦後、ソ連は占領したポーランド東部を併合する代わりにポーランドとドイツの国境をオーデル・ナイセ線へ移動させた。旧ポーランド東部はソ連へ併合され、ウクライナ人が多く住むガリツィア地方はウクライナ西部となった。
その後、ソビエト連邦の崩壊に伴い、1991年にウクライナは独立国となった。
独立後、ウクライナは中立国を宣言し、旧ソ連のロシアや他の独立国家共同体(CIS)諸国と限定的な軍事提携を結びつつ、1994年には北大西洋条約機構(NATO)とも平和のためのパートナーシップを結んだ。
2013年、ヤヌコビッチ政権がウクライナ・EU連合協定の停止とロシアとの経済関係の緊密化を決定した後、ユーロマイダンと呼ばれる数か月にわたるデモや抗議運動が始まり、後に尊厳革命に発展し、ヤヌコビッチの打倒と新政府の樹立につながった。これらの出来事を受け、旧ソ連圏への影響力回復を目指すロシアのウラジーミル・プーチン政権はウクライナ国内の親ロシア派を通じた内政干渉や領土蚕食を進め、2014年3月のロシアによるクリミアの併合、2014年4月からのドンバス戦争の背景となった。
2016年1月1日、ウクライナは欧州連合(EU)との深層・包括的自由貿易圏の経済コンポーネントを申請した。
2021年3月からロシアとの間で緊張が高まり、2022年2月24日、ロシアのウクライナ侵攻が開始された。
ウクライナは、人間開発指数で74位の発展途上国である。加えて、ヨーロッパで2番目に貧しい国であり、非常に高い貧困率と深刻な汚職に悩まされている。一方、肥沃な農地が広がっているため、ウクライナは世界有数の穀物輸出国である。
また、ロシア、フランスに次いで兵員数ではヨーロッパで3番目に大きな軍隊を保有している。国連、欧州評議会、欧州安全保障協力機構、GUAM、ルブリントライアングルに加盟しており、独立国家共同体の創設国の一つであるが、独立国家共同体に加盟することはなかった。
国際指標である「腐敗認識指数」の国別ランキングでは、2021年度の時点において122位と、政治、軍事組織による長年の汚職と腐敗問題が続いている(腐敗認識指数は順位が低いほど腐敗認識される)。
ウクライナの最高法規であるウクライナ憲法によると、当国の正式国号は「Україна」である。公式の英語表記は「Ukraine」(ユークレイン)であり、非公式には「the Ukraine」も使用される。ドイツ語では「Ukraine」(ウクライネ)とよばれている。
日本語の表記は「ウクライナ」となっているが、2019年7月に在日ウクライナ大使館はウクライナ語を基にした「ウクライーナ」と表記すべきであるという意見を表明した。しかし、その後の2019年9月、同大使館や日本国外務省の代表者や国会議員、ウクライナ語専門家の参加を得て開催されたウクライナ研究会主催の「ウクライナの地名のカタカナ表記に関する有識者会議」において「国号について、ウクライナの変更はしない」という結論が出され、同大使館案は採用されなかった。漢字表記は現在の日本では滅多にされないが、「宇克蘭」、または「烏克蘭」と表記される。
「ウクライナ」というスラヴ語の地名の初出は、『原初年代記』イパチー写本の「キエフ年代記」にある1187年の条である。この地名は、キエフ公国・チェルニーヒウ公国と並んでルーシ大公国の歴史的中枢地に含まれるペレヤースラウ公国の範囲を示している。また、この地名は他のルーシ年代記の1189年の条、1213年の条、1280年の条にも「ウクライナ」あるいは「ヴクライナ」という形で登場し、ガリツィア地方、ヴォルィーニ地方、ポリーシャ地方を指す用語として用いられている。
13世紀にルーシ大公国が滅び、その中部・南部の地域がリトアニア大公国とポーランド王国に併合されると、「ウクライナ」は併合地の領域を表す地名としてリトアニア・ポーランドの年代記や公式文書などに使用されるようになる。14世紀から17世紀にかけて広義の「ウクライナ」はルーシ人が居住するガリツィア地方、ヴォルィーニ地方、ポジーリャ地方、ブラーツラウ地方とキエフ地方の範囲を示し、狭義の「ウクライナ」はキエフを中心としたドニプロ川の中流域を示している。
「ウクライナ」の地名の両義性は、ウクライナ・コサックのヘーチマン国家が誕生する17世紀半ば以後にも東欧の古文書にみられる。狭義の「ウクライナ」は当国家の支配圏を指しているが、広義の「ウクライナ」は当国家の支配圏外のルーシ人の居住地を意味している。しかし、ヘーチマン国家がロシアの保護国になることにより、「ウクライナ」はドニプロ川の中流域だけを意味するようになり、17世紀以降はルーシの本土を意味する小ロシア(小ルーシ)という地名の同義語となった。
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ルーシ系の知識人による民族運動が発展していくにつれて、「ウクライナ」はルーシ人が居住する民族領域を意味する名称となり、「ルーシ人」は「ウクライナ人」という民族名に取って代わられた。1917年に成立したウクライナ人民共和国において初めて、「ウクライナ」という名称が正式な国号の中で用いられることとなった。
「ウクライナ」の語源については、「国」といった意味であるという説と、「辺境」といった意味であるという説がある。前者は「内地」を意味する中世ルーシ語の「ウクライナ (ѹкраина)」・「ヴクライナ (вкраина)」という単語に基づいており、後者は「僻地」を意味する近世のポーランド語の「オクライナ (okrajna)」や、ロシア語の「オクライナ (окраина)」という単語に基づいている。
「ウクライナ」/「ヴクライナ」に関連する単語の中で、最も基本的で、現在でも使用されている一音節の「クラーイ (край)」という単語には「地域」「隅」「境」「端」などの複数の意味がある。これから派生したウクライナ語の「クライーナ (країна)」という名詞は「国」を意味する。ウクライナ語では「ウ〜 (у-)」と「ヴ〜 (в-)」は「内〜」「〜の中で」を意味する前置格を支配する前置詞であることから、「ウクライナ」や「ヴクライナ」は「境界の内側」「内地」を意味する。一方、ロシア語では「クラーイ」から派生した「オクライナ (окраина)」という単語が「場末」「辺境」「はずれ」という意味をもっている。ロシア語では「オ〜 (о-)」と「ウ〜 (у-)」は「〜の側に」「〜の端に」を意味する前置詞なので、ロシア語話者は「ウクライナ」を「辺境地」と解釈しがちである。
紀元前10世紀頃より現在のウクライナの地には様々な遊牧民族が到来した。紀元前8世紀頃、黒海北岸に至った騎馬民族のスキタイ人は、紀元前6世紀頃にキンメル人を追い払って自らの国家を立て、紀元前4世紀にかけて繁栄した。黒海沿岸には古代ギリシアの植民都市が建設され、地中海世界やメソポタミア方面との交易を通じてペルシャ、古代ギリシア、ローマ帝国の文化的影響を受けた。紀元前3世紀頃、中央アジアより来たサルマティア人の圧力を受けてスキタイは衰退した。
2世紀頃に東ゴート族が王国を建て、3世紀中頃にクリミア半島に存続していたスキタイ人の国家を滅ぼした。これらの民族は交易や植民を盛んに行い、彼らが建設した多くの交易拠点はのちに都市国家へと発展した。4世紀から5世紀にかけて民族大移動の発端となるフン族がこの地を通り抜けた。6世紀にはアヴァール族が侵入し、同じ頃に移住してきたと考えられている東スラヴ人を支配した。スラヴ民族はウクライナ中央部と東部に居住し、キエフの建設と発展に重要な役割を担った。7世紀から8世紀にかけてはハザール可汗国の支配下にあった。
8世紀頃、ウクライナではルーシという国が誕生し、東スラヴ人のポリャーネ族の町キエフはその首都となった。882年にオレグ公(882年 - 912年)が率いる北欧のヴァイキングがキエフを陥落させると、ルーシはヴァイキング系のリューリク大公朝のものとなった。研究史上では、朝廷の中心がキエフに置かれていたことから、当時のルーシをキエフ・ルーシ、あるいはキエフ大公国と呼ぶ。オリハ大公女(945年 - 965年)、その子息スヴャトスラウ大公(965年 - 972年)、孫ヴォロディーミル大公(980年 - 1015年)、および曾孫ヤロスラウ大公(1019年 - 1054年)の治世はルーシの全盛期となった。キエフの大公朝は、周辺の東スラヴ人をはじめ、北西のバルト人と、北東のフィン・ウゴル人を征服し、支配領域を拡大させた。その結果、11世紀におけるルーシは約150万平方キロメートルの面積を誇る、欧州の最大の国家となった。ルーシは、北方のバルト海とフィンランド湾から南方のウクライナ草原まで、そして西方のカルパティア山脈から東方のヴォルガ川まで広がっていた。周辺の諸政権が滅ぼされ、全ての国土はリューリク朝の諸侯の間に分けられた。988年にヴォロディーミル大公のころ、ルーシ人は東ローマ帝国からキリスト教(のちの正教会)を受けて国教とした。この出来事はウクライナの運命を決し、ウクライナはキリスト教文化圏に属することとなった。12世紀にルーシは領土をめぐる諸侯の争いによりいくつかのリューリク系の諸公国に分裂し、キエフ大公の権威が衰退した。名目上でキエフはルーシの首都の役割を果たしていたが、諸公国は事実上の独立国となった。13世紀にルーシの国体は完全に退勢し、1240年代にモンゴル帝国の軍による侵攻(モンゴルのルーシ侵攻)で滅ぼされた。
キエフの衰退後、ルーシの政治・経済・文化の中心は、西ウクライナにあったハーリチ・ヴォルィーニ大公国へ移された。当国には、ヴォルィーニ地方、ハーリチ地方、ホールム地方、ベルズ地方、ザカルパッチャ地方、ポリーシャ地方、キエフ地方からなっていた。大公国の基礎は、1199年にリューリク朝の嫡流の血を引くロマン大公によって築かれた。1245年にロマンの子息ダヌィーロ大公は、モンゴル帝国のジョチ・ウルスに朝貢して従属したが、カトリックのヨーロッパの支援を期待してポーランド、マゾヴィア、ハンガリー、ドイツ騎士団と密約を交わし、独立戦争を計画した。1253年にローマ教皇インノケンティウス4世から王冠を受けてルーシの初王(ルーシ王)となり、ジョチ・ウルスとの戦いに挑んだ。1256年頃、モンゴルのクレムサ軍に勝利したダヌィーロ王は、20年後にルーシの首都となるリヴィウを創建した。しかし、1259年に欧州が約束した援軍がなかったため、ダヌィーロは再びジョチ・ウルスに服属せざるを得なかった。その後、ダヌィーロの息子レーヴ1世はモンゴル軍に従ってポーランドとリトアニアへの遠征に参加した。1308年にダヌィーロの曾孫アンドリーとレーヴ2世はマゾヴィアとドイツ騎士団と手を組んで独立戦争を再開したが、彼らの後継者ユーリー2世は無益な戦争をやめてジョチ・ウルスに従属した。
1340年にユーリー2世の暗殺により王朝が断絶すると、隣国のポーランド王国とリトアニア大公国が王国の相続権を主張し、ハールィチ・ヴォルィーニの領土継承をめぐる戦争を開始した。1392年にポーランドはハーリチ地方、ホールム地方、ベルズ地方を併合し、そのほかの領土はリトアニア大公国のものとなった。リトアニアはルーシ語を公用語とし、正教を国教にするなど、ルーシ人に対して宥和政策をとって次第にルーシ化したが、ポーランドは新たな領土のポーランド化を進めた。
その結果、14世紀末におけるウクライナの地域は他国の支配を受け独立国としての地位を失った。リトアニアはキエフ地方、チェルニーヒウ地方、ヴォルィーニ地方を中心とする北部・中部を確保した。ポーランドはハーリチ地方とポジーリャ地方からなる西部を統治した。南部は、1447年にジョチ・ウルスから独立したクリミア汗国が支配するようになった。無人だった東部は次第にモスクワ大公国(のちのロシア)の領域に入った。1569年にポーランドとリトアニアがポーランド・リトアニア共和国という連合国家を形成したことにより、ウクライナの北部と中部はポーランド領となった。ウクライナではルーシ県、ポジーリャ県、ヴォルィーニ県、ブラーツラウ県、ベールズ県、キエフ県というポーランドの行政単位に設置され、1598年にブレスト合同により正教会は禁じられた。
15世紀後半、リトアニア・ロシア・クリミアが接する地域、「荒野」と呼ばれるウクライナの草原において、コサックという武人の共同体が成立した。16世紀にコサックは、ザポロージャのシーチという要塞を築き、それを根拠地とし、共同体を「サポロージャ・コサック軍」と称した。16世紀から17世紀前半にかけてのコサックは、ポーランド・リトアニアの国王の臣下であったが、国王の支配が及ばない地域に住み、軍人の特権と自治制を有した。コサックは、ポーランド・リトアニアの援軍として働き、リヴォニア戦争(1558年 - 1583年)、ロシア・ポーランド戦争(1605年 - 1618年)、ポーランド・オスマン戦争(英語版)(1620年 - 1621年)、スモレンスク戦争(1632年 - 1634年)などに参加した。それと同時に、彼らは独断で隣国のモルドヴァ、クリミア、ロシアなどへ遠征したり、水軍としてオスマン帝国が支配する黒海沿岸部を攻撃したりした。さらに、コサックの一部は傭兵として全ヨーロッパで活躍したこともあり、三十年戦争にカトリック側のために戦った。軍人でありながら、貴族権を持たないコサックは、貴族の国家であるポーランド・リトアニアにおいて社会・宗教・民族的迫害を受け、しばしば反乱を起こした。その反乱の中で特に大きかったのは、コスィーンシキーの乱(1591年 - 1593年)、ナルィヴァーイコの乱(1594年 - 1596年)、ジュマイロの乱(1625年)、フェドロヴィチの乱(1630年)、スリーマの乱(1635年)、パウリュークの乱(1637年)とオストリャニンの乱(1638年)であった。
1648年、ボフダン・フメリニツキー将軍が率いるコサック軍は、ポーランド・リトアニアにおいてフメリニツキーの乱を起こした。反乱は次第にポーランドからウクライナの独立戦争に変容し、ウクライナの中部にコサック国家が誕生した。1654年に、ポーランドと戦い続けるために、コサックのウクライナはペラヤースラウ会議 (1654年)でロシアのツァーリの保護を受けたが、1656年にロシア人がポーランド人とヴィリニュス条約を結び単独和議したため、スウェーデン、トランシルヴァニアと同盟を締結した。1657年、コサックの将軍にイヴァン・ヴィホウシキーが選ばれると、ウクライナ国内で反頭領の反乱が勃発してウクライナ・ロシア戦争へ展開した。ヴィホウシキーは、1659年にコノトプの戦いで勝利を収めたが、ポーランドとの連合条約(ハヂャチ条約)を結んだためにコサック長老の支持を失った。荒廃時代と呼ばれるウクライナ内戦が始まり、その結果、コサック国家がドニプロ川を軸にして右岸ウクライナ、左岸ウクライナ、ザポロージャという地域に分かれた。右岸ウクライナのコサックはポーランド・リトアニアの支配下に置かれ、左岸ウクライナとザポロージャはロシアの保護下に置かれた。1667年にこのような分割はアンドルソヴォ条約によって公認された。1672年に新たな将軍ペトロ・ドロシェンコは、オスマン帝国の援助を受けてウクライナの統一を実行しようとした(トルコ・ポーランド戦争(1672-1676)、露土戦争 (1676年-1681年))が失敗し、バフチサライ条約 (1681年)がロシアとオスマン帝国の間で結ばれた。1689年にロシアとポーランド・リトアニアは永遠和平条約により最終的にウクライナを分割した。17世紀後半にポーランド人は右岸ウクライナにおいてコサックの自治制を廃止したが、ロシア人は左岸ウクライナにおいてコサック国家を保護国として存続させた。1709年に、大北方戦争の際、イヴァン・マゼーパ将軍が引率したコサックはスウェーデンと同盟を結び、ロシアの支配から離脱しようと図ったが、ポルタヴァの戦いに惨敗した。マゼーパの蜂起はロシアに口実を与え、ロシア政府はウクライナにおけるコサックの自治制を廃止する政策に乗り出した。1754年にロシアはロシア・ウクライナの関税国境を廃止し、1764年にコサック将軍の位(ヘーチマン)を廃止した。廃位させられた最後の将軍キリロ・ロズモウシキーはロシアの元帥に任じられた。1775年にロシア軍はザポロージャのシーチを破壊し、1781年にウクライナにおけるコサック自治制は廃止された。1783年、ロシア国内にならってウクライナで農奴制が敷かれた。また、1783年には、ロシアは15世紀から続いていたクリミア・タタール人を中心とするイスラム国家クリミア汗国を滅ぼし、クリミア半島を併合した。
18世紀から19世紀にかけて、ロシア帝国とオーストリア帝国によるウクライナの抑圧政策と全ヨーロッパで流行したロマン主義・民族主義の高まりにより、ウクライナ人の民族運動も盛んになった。1798年に、イヴァン・コトリャレーウシキーによるコサック国家の再建を謳う叙事詩『エネイーダ』が出版された。この作品は、現代ウクライナ語の口語で書かれた初めての作品であった一方、ウクライナの民族的ルネサンスの序幕でもあった。1806年にハルキウ大学が設立されると、ウクライナの知識人によるウクライナの歴史・文化・民俗に関する研究が活発的に行われるようになった。1825年頃、近世のコサック軍記の編集物として『ルーシ人の歴史』が著され、ウクライナの文化人、歴史学者、作家などに大きな影響を与えた。ウクライナ語の完成が急がれたのもこの時期で、ロシア語正書法、ポーランド語正書法、そして独自の正書法など様々なものが生み出されたが、最終的にはタラス・シェウチェンコのまとめたウクライナ語文法が現代ウクライナ語の基礎となった。
露土戦争におけるキュチュク・カイナルジ条約でロシア帝国のウクライナ統治が行われるようになる。ロシア帝国は常にウクライナにおけるロシア化政策を実行しており、ウクライナ語は当時はロシア語の一方言「小ロシア語」として扱われ、独自の言語としては公認されていなかった。1863年に文学作品を除きウクライナ語の書物の出版・流通を禁止するヴァルーエフ指令が出され、1873年にウクライナ語の書物の出版・流通・輸入を禁止するエムス法が定められた。
第一次世界大戦が勃発すると、ウクライナ西部を巻き込んで東部戦線が形成された。
1917年に2月革命によりロシア帝政が崩壊し、ペトログラードでロシア臨時政府が成立した。それに伴い、同年3月14日にキーウでウクライナ政府としてフルシェーウシキー教授が指導するウクライナ中央議会が成立した。十月革命によってロシアの臨時政府が倒され、ロシア共産党のソビエト政権が誕生すると、11月7日に中央議会はキエフを首都とするウクライナ人民共和国の樹立を宣言したが、ウクライナ・ソビエト戦争が勃発したあと、1918年1月9日にウクライナ人民共和国(赤軍政権)の独立を宣言した。同年2月8日にロシアの赤軍はキエフを占領したが、2月9日にブレストでウクライナとドイツ、オーストリアの同盟が完結し、中央議会は同盟国の軍事力を借りてウクライナを解放し、3月に首都を奪い返した。4月29日にウクライナの保守階級によるクーデターの結果、中央議会に代わってスコロパードシキー大将の政権が成立した。
国号はウクライナ国に改められ、元首はヘーチマンとなった。当国は安定した発展を見せたが、ドイツの連合国への降伏により事態は一転し、1918年12月19日にスコロパードシキー政権が倒され、新たな執政内閣の政権が成立した。国号は再びウクライナ人民共和国となった。しかし、ドイツ軍の撤退によりウクライナ・ソビエト戦争が再開した。1919年1月6日、ソビエトのロシアは傀儡政権として首都をハルキウとするウクライナ・ソビエト社会主義共和国を樹立した。同年2月5日にソビエト軍はキエフを占領し、ウクライナ人民共和国の政府を亡命させた。1919年から1920年にかけてロシア内戦及びポーランド・ソヴィエト戦争が発生し、ウクライナの支配をめぐりウクライナ人民共和国軍、ソビエトの赤軍、ロシア帝政派の白軍、白軍を支援するフランス軍・イギリス軍・ポーランド軍、ネストル・マフノ率いる無政府主義者の黒軍、ウクライナのゲリラを中心とする緑軍などが争った。1920年冬に戦争がソビエトの赤軍の勝利で終結し、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国は西ウクライナを除きウクライナ全域を確保した。
一方、オーストリア゠ハンガリー帝国の解体に伴い、1918年10月19日に西ウクライナのガリツィア・ブコビナ地方に住んでいたウクライナ人はリヴィウを首都とする西ウクライナ人民共和国の独立を宣言した。しかし、11月1日にポーランドが当共和国へ侵入し、ウクライナ・ポーランド戦争が始まった。ポーランド側はフランス、イギリス、ルーマニア、ハンガリーなどによって後援されたが、西ウクライナ側は国際的に孤立していた。1919年1月22日に西ウクライナはウクライナ人民共和国に援助を求め、キエフでウクライナ人民共和国と合同したが、ウクライナ人民共和国の政府はソビエトの赤軍と戦ったため、援軍を派遣することができなかった。こうした中で、右岸ウクライナの併合を目論むポーランドが7月18日に西ウクライナ全地域を占領し、西ウクライナ人民共和国は滅亡した。その後、1920年4月に西ウクライナをめぐってポーランド・ソビエト戦争が勃発したが、1921年3月18日のリガ条約によって西ウクライナのポーランド支配が確定した。
またクリミアにおいては、1917年、クリミア・タタール人を中心とし、ノーマン・チェレビジハンを初代大統領とする多民族・世俗国家クリミア人民共和国の建国が宣言されたが、1918年にモスクワのソビエト政府により占領され、滅亡した。
1922年12月30日にウクライナ社会主義共和国は、ロシア、ベラルーシ、ザカフカースとともに同盟条約によってソビエト連邦を結成した。諸共和国は平等の立場で新しい国家連合を形成したが、その国家連合はソ連憲法制定によってロシアを中心とする中央集権的なシステムに変遷し、その他の独立共和国はロシアの自治共和国となった。
1923年から1933年にかけて、ウクライナでのソビエト政権を磐石なものにするために、ソ連政府・共産党はウクライナ化政策を実行した。ウクライナ語教育の普及や政府諸機関へのウクライナ人の採用などにより、政権とウクライナ人の間に存在した敵意をなくそうという試みであった。しかし、1930年以降、党内からこの政策を厳しく批判する声が上がり、1933年にウクライナ化は「ウクライナ民族主義的偏向」として中止された。ウクライナ化を指導した政治家、知識人、文化人は逮捕・粛清され、ロシア化の時代が再開した。
ソビエト連邦下のウクライナは拙速な農業の集団化政策などにより2度の大飢饉(1921年 - 1922年、1932年 - 1933年、後者はホロドモールと呼ばれ2006年にウクライナ政府によってウクライナ人に対するジェノサイドと認定された。アメリカ、カナダ、イタリアなどの欧米諸国では正式にジェノサイドであると認定されているが、国際連合や欧州議会では人道に対する罪として認定している)に見舞われ、推定で400万から1000万人が命を落とした。この「拙速な集団化政策」は意図してなされたものであるという説も有力である。
この背景には、レーニンやスターリンらによる農民への敵視政策があった。共産党政府のとった土地の共有化を農民は拒むため、多くの住民が農民であったウクライナの統治は共産党政府にとって大きな障壁となっていた。そのため、一説によるとレーニン、スターリンらにとってはウクライナの農民の根絶が理想であったともされている。スターリンは、農民問題の解決は至急の課題であると明言している。また、この時期に前後し、ウクライナでは農民、すなわちウクライナ人への懐柔政策と弾圧政策が交互にとられた結果、ウクライナ共産党幹部全員をはじめ多くの人間が粛清された。最終的には、ウクライナ語使用の制限など弾圧政策が長くとられることになった。
大粛清はウクライナから始められ、1937年には首相のパナース・リューブチェンコが自殺した。この年、ウクライナ社会主義ソビエト共和国は国号を「ウクライナ・ソビエト社会主義共和国」へと変更した。
一方、西ウクライナはポーランド、ルーマニア、チェコスロバキアによって分割された。1921年から1939年にかけてポーランドはヴォルィーニ・ハルィチナー地方、ルーマニアはブコビナ地方、チェコスロバキアはザカルパッチャを支配した。
1939年8月23日にソ連とナチス・ドイツは不可侵条約を締結し、東欧における独ソの勢力範囲を定めた。同年9月1日に始まったドイツのポーランド侵攻で第二次世界大戦が勃発。続いて9月17日にソビエト連邦のポーランド侵攻が行われた。その結果ポーランドは分割され、ウクライナ人が多数派だった西ヴォルィーニ地方とガリツィア地方はウクライナ・ソビエト社会主義共和国(SSR)に併合された。ドイツがフランスを占領したあと、1940年6月28日にソ連はルーマニアにベッサラビアと北ブゴヴィナの割譲を要求した。ルーマニアはこの要求を呑み、北ブゴヴィナとベッサラビアはウクライナSSRに併合された。その後、北ブゴヴィナと南ベッサラビアを除く地域にはモルドバSSRが設置された。1940年7月14日にソ連軍はバルト三国を占領し、1941年6月1日までにドイツ軍はバルカン半島を支配下に置いた(バルカン戦線 (第二次世界大戦))。独ソ両国は共通の国境と、征服された地域を「解放」するために互いに攻め入る口実を得た。
1940年12月18日、ナチス・ドイツはバルバロッサ作戦を秘密裏に決定し、1941年6月22日にソ連へ侵略した。それに呼応してイタリア、ルーマニア、ハンガリーなどはドイツ側に与して派兵など軍事的支援を行った。独ソ戦は約4年間続き、ウクライナを中心とした地域に行われた。当初、ウクライナ人はソビエト連邦共産党の支配からウクライナを解放してくれたドイツを支援したが、ドイツはウクライナの独立を承認せず、ソ連と同様の支配体制を敷いたため、ウクライナ人の反感を買った。1941年9月19日にドイツ軍はキエフと右岸ウクライナを占領し、10月24日にハルキウと左岸ウクライナを奪い取り、1942年7月までにクリミア半島とクバーニ地方を支配下に置いた。1943年2月、ソ連軍はスターリングラード攻防戦においてドイツ軍の侵攻を食い止め、同年8月にクルスクの戦いでドイツ軍から独ソ戦の主導権を奪った。1943年11月6日にソ連はキエフを奪還し、1944年5月にかけて右岸ウクライナとクリミアを奪還した。同年8月にソ連軍は西ウクライナを完全に支配下に置き、ドイツが占領するか、枢軸国に参加していた東欧・中欧諸国への侵攻を開始した。1945年5月2日にソ連はドイツの首都ベルリンを陥落させ、5月8日にドイツ側の無条件降伏により独ソ戦が終結した。ソ連側の勝利によってウクライナにおける共産党の支配が強化され、国際社会におけるソ連の役割が大きくなった。ソ連軍が占領した東中欧諸国ではソ連の衛星国が樹立された。
第二次世界大戦においてウクライナはハリコフ攻防戦など激戦地となり、莫大な損害を蒙った。戦争の犠牲者は800万人から1,400万人とされている。ウクライナ人の間では5人に1人が戦死した。バビ・ヤール大虐殺などナチス・ドイツによるホロコーストも行われ、ウクライナ系のユダヤ人やロマ人などの共同体は完全に破壊された。ソ連政府はウクライナ在住のドイツ人やクリミア・タタール人などの追放を行った。独ソ両軍の進退によってウクライナの地は荒れ果てた。700の市町と、約2万800の村が全滅した。独ソ戦中にウクライナ人はソ連側の赤軍にも、ドイツ側の武装親衛隊(第14SS武装擲弾兵師団)にも加わった。また、ウクライナ人の一部は反ソ反独のウクライナ蜂起軍に入隊し、独立したウクライナのために戦った。
白ロシア共和国(現・ベラルーシ)とともに、ソ連とは別に国際連合加盟国として国連総会に議席を持った。1948年から2年間と1984年から2年間は非常任理事国も務めている。しかし現実は、ウクライナは相変わらず「ソ連の一部」止まりであり、「ロシア化」が進められた。1956年のハンガリー動乱や1968年のプラハの春の際は、ウクライナで威嚇のための大軍事演習が行われたり、ウクライナを経由して東欧の衛星国へ戦車が出撃したりしている。1953年のスターリンの死後、大粛清の犠牲になった多くのウクライナ人の名誉回復がなされ、また徐々にウクライナ文化の再興が水面下で活発化した。
1954年、ニキータ・フルシチョフ政権により、クリミア半島(クリム半島)がロシアからウクライナに移管された。これは、ポーランド・リトアニア共和国に対抗するためにロシアとウクライナ・コサックの間で結ばれたペレヤスラフ条約締結300周年記念を祝うためであった。
1960年代には体制に批判的な、または「ウクライナ的な」文学も登場した。フルシチョフの非スターリン化の時代には、ウクライナ・ソビエト政府もこのような動きを少なからず容認した。しかしレオニード・ブレジネフ政権の「停滞の時代」になると、1972年にウクライナ人知識階級が大量に逮捕されるという事件が起こる。冷戦で対立していた東西ヨーロッパ諸国が人権尊重などを謳ったヘルシンキ宣言(1975年)を受けて、1976年には人権擁護団体「ウクライナ・ヘルシンキ・グループ」が結成されるが、それも弾圧された。
ソ連支配下のウクライナにおいて大部分のウクライナ農民は、1970年代まで国家の社会保障を受けることもできないでいた。収穫の大部分は相変わらず国家によって搾取され、スターリンの大粛清の恐怖がなくなった今、共産党の幹部たちは自らの特権階級(ノーメンクラトゥーラ)としての地位を不動のものとする。非効率な計画経済、冷戦下における膨大な軍事費・科学技術費は、ウクライナの近代化を進めたとはいえ、人々の生活は一向に改善する気配がなかった。政治の腐敗、経済的矛盾は深刻化していったにもかかわらず、隠蔽され続けた。
1986年4月26日、チェルノブイリ原子力発電所事故が発生し、国内外に大きな被害が及んだ。ウクライナ国内にあたる地域には220万人ほどが住んでいた。事故後、汚染地域の外にスラブチッチという街が作られ、かつて原発で働いていた者たちなどを住まわせた。国際原子力機関(IAEA)と世界保健機関(WHO)によって行われた調査によって明らかにされたことによると、この事故により直接的に56名が亡くなり、それ以外にもこの事故を原因とする癌によって4,000名ほどが亡くなったといわれる。
1990年に一度原発を全廃したが、1993年より原発を再び稼働させた。
ソ連はミハイル・ゴルバチョフ政権下で「ペレストロイカ」の時代を迎えており、ウクライナでは「ペレブドーヴァ」と呼ばれる改革・開放を求める運動が起きた。1960年代頃から民族文化運動を続けてきたウクライナ人文学者たちは、ウクライナ語の解放・普及を訴えた。ソビエト政府によってその存在を否定され、弾圧され続けてきたウクライナ・カトリックは水面下で根強く活動を続け、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の強い励ましを受けた。そしてついに1989年、ウクライナ語の公用化(10月)、ユニエイトの公認化が実現した。東欧における民主革命の成功も受けて、ウクライナ民族運動は最高潮に達していく。
1989年9月、作家連盟などを中心に民族主義大衆組織「ペレストロイカのための人民運動」(通称「ルフ」)が結成される。1990年1月22日(1918年の中央議会によるウクライナ独立宣言の日)にルフの呼びかけで、大勢のウクライナ人は手と手をつないで長い「人間の鎖」を作り上げた。3月にはウクライナにおいて民主的な最高会議(国会)議員選挙が実現し、ルフを中心とする民主勢力が大きな勢力を占めた。7月、最高会議は「主権宣言」を採択。国家の様々な権利をソ連から取り戻すことを宣言し、非核三原則も採択した。学生や炭鉱労働者によるストライキやデモは、民主勢力をさらに後押しする。ウクライナ共産党は分裂・衰退し、民主勢力へ走る者も出た。
崩れ行くソ連を完全に見限り、1991年8月24日(後に独立記念日となる)に最高会議はウクライナの独立を宣言、国名から「ソビエト社会主義共和国」を削除した。12月の国民投票によっても、圧倒的に独立が支持され(ウクライナ国内の多くのロシア人も支持した)、レオニード・クラフチュクがウクライナ初代大統領に選ばれた。1917年の独立革命の挫折以来、幾多の試練を乗り越えて、ついにウクライナの独立は達成されたのである。
1991年、ソビエト連邦の崩壊に伴いソビエト最高会議の元から独立して新たな国家ウクライナとなり、ベロヴェーシ合意の後独立国家共同体(ウクライナ語 СНД ;CIS)の創立メンバーの一員となった。独立ウクライナは旧ウクライナ人民共和国の中枢機関であったウクライナ中央議会の正当な後継者であることを意識し、国旗や国章の「トルィズーブ」(三叉の鉾)などは同共和国時代のものが採用された。この独立をもって、ウクライナはキエフ・ルーシ崩壊以降ウクライナ史上最大の領土を手に入れた。
2004年、大統領選挙の混乱からオレンジ革命が起き、第3回投票で勝利したユシチェンコが2005年1月、大統領に就任した。
2005年3月、ロシア側より天然ガスの料金を国際的な市場価格に合わせてそれまでの優遇価格より倍以上に引き上げる要求があり両国が対立、2006年にかけて欧州各国を巻き込んだ騒動となった(「ロシア・ウクライナガス紛争」参照)。その後、野党勢力により内閣不信任案が可決される。
2006年6月22日、ウクライナ最高議会選においてユシチェンコ大統領派の与党「われらのウクライナ」が惨敗。これを受けてティモシェンコ率いる「ティモシェンコ連合」と「われらのウクライナ」およびウクライナ社会党の3政党は議会多数派を組む合意が成立した。しかし、その後は人事をめぐり議論は紛糾、3政党間の亀裂は深まっていた。議会選挙で最大勢力となった地域党が議場を封鎖する間に社会党は連合を離脱した。地域党、ウクライナ共産党の支持を受け、社会党党首モロスが最高会議議長に就任した。その後、この3党は議会多数派の合意書に調印し、大統領に対し、地域党党首ヤヌコーヴィチの首相指名を提案。この結果、8月にヤヌコーヴィチ内閣が成立した。しかし、大統領との権限争いで議会も分裂し、両派の妥協の産物として最高会議は解散し、2007年9月30日に臨時最高会議選挙が行われた。12月、ティモシェンコ連合とわれらのウクライナが連合する形でティモシェンコ内閣が発足した。
2010年、大統領選挙にてヤヌコーヴィチとティモシェンコが激突。決選投票の結果、ヤヌコーヴィチが勝利し、ウクライナは再び親露派に率いられることとなった。
2013年11月にヤヌコーヴィチ政権が欧州連合(EU)との政治・貿易協定の調印を見送ったことで、親欧米派や民族主義政党全ウクライナ連合「自由」などの野党勢力などによる反政府運動が勃発した。2014年1月後半より、抗議者の中に右派セクターなどの武力抵抗を辞さないとする立場のグループが現れ、これを制圧しようとする治安部隊との衝突が発生、双方に死者が発生した。2月22日にヤヌコーヴィチ大統領が行方をくらませたことを受け、ヴェルホーヴナ・ラーダ(最高議会)にて、親露派政党の地域党と共産党を含む議会内全会派がヤヌコーヴィチの大統領解任(賛成328票中地域党36票、共産党30票)と大統領選挙の繰り上げ実施を決議し、オレクサンドル・トゥルチノフ大統領代行とアルセニー・ヤツェニュク首相がヴェルホーヴナ・ラーダにおいて承認され、新政権が発足した(2014年ウクライナ騒乱)。
親露派のヤヌコーヴィッチ政権が崩壊したことを理由とし、3月1日にロシア上院がクリミアへの軍事介入を承認。ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は、ウクライナの極右民族主義勢力からクリミア半島内のロシア語話者およびロシア系住民を保護するとの名目で本格的に軍事介入を開始した。ロシアは当初否定していたが、2月後半の時点から「現地クリミア住民による自警団」に偽装させたロシア軍部隊をクリミア全土に進軍させており、西側メディアは国章をつけていない軍服を着てバラクラバで覆面した兵士たちを「ロシア軍部隊とみられる謎の武装集団」として報道していた(ロシアのクリミア侵攻)。このロシアの侵攻に対して、ウクライナ新政権と親欧米派の住民は侵略であるとして強く反発した一方、クリミア自治共和国およびセヴァストポリ特別市のロシア系住民の中にはこれを歓迎するものも少なくなく、ウクライナ国内法を無視する形で、クリミア自治共和国最高会議(議会)とセヴァストポリ市議会は3月11日にクリミア独立宣言を採択し、3月16日にウクライナからの独立とロシアへの編入を問う住民投票をウクライナ国内法に違反する形で実施した。そもそも他国軍が展開する中という状況下に加え、様々な違法行為、投票率と投票結果への改竄が指摘されるも、同結果を根拠に、翌17日にウクライナからの「クリミア共和国」の独立とロシアへの編入を求める決議を採択した。ロシアのプーチン大統領は同日中にクリミア共和国の主権を承認したうえで、翌18日中にクリミアのロシアへの編入要請受諾を表明し、クリミアのアクショーノフ首相とともに編入に関する国家間条約に署名した(ロシアによるクリミアの併合)。5月12日にはドネツィク州、ルガンスク州において、同地の独立を宣言する勢力が現れた。
欧米諸国や日本はこれらロシアの動きが国際法違反の侵略で、ウクライナからのクリミアの独立とロシアへの編入は無効であるとして、ロシアへの制裁を実施した(2014年クリミア危機)。
2014年3月以降、ウクライナ東部・南部、特にドネツィク州、ハリコフ州、ルガンスク州、オデッサ州において、反政府派と政府側との間で衝突が発生し、親露的な分離独立派の武装勢力が州庁舎や警察機関などを占領した。その際、イーゴリ・ギルキンなどロシアの特殊部隊の兵の参加が複数確認されていることから、これらの衝突は一般のウクライナ国民による自発的反乱とみなすのは難しく、実際に2014年4月以降、政府側がこのようなロシアの支援を受ける武装勢力をテロリストと見なし、軍事行動を伴う「反テロ作戦」を開始することとなった。以降、分離武装勢力もロシアから流入したと見なされている兵器を用いて、政府側軍用機を撃墜するなど事実上の戦争状態が続いている。なお、日本を含む欧米諸国およびウクライナは、衛星写真や各報道などを根拠に武装勢力にロシアからの兵の投入、戦闘員と兵器等武器供与の支援があるとして非難を続けているが、一方でロシアは、自国民があくまで自発的に戦闘に参加しているだけであるとしてロシア連邦軍の直接侵攻は否定し続け、両者間の意見の対立が続いていた。
2014年6月に大統領選挙によって選ばれたペトロ・ポロシェンコが大統領に就任。以降も引き続き東ウクライナでは親欧米の政権側と親露の分離独立派(ノヴォロシア人民共和国連邦)による戦闘(ドンバス戦争)が続いており、一時的にウクライナ政権側と分離独立派、ロシア、ドイツ、フランスによる一時停戦案が結ばれるも、すぐに政府軍による反テロ作戦が再開され、各地で市街戦を含む戦闘が行われ、多数の民間人が犠牲となっている。9月5日にはベラルーシのミンスクで、ロシア、ウクライナ、OSCE、分離独立派の代表者によって、停戦と政治解決を目指すミンスク・プロトコルに調印され(ミンスク議定書)、追って9月19日には治安面解決の詳細を記したミンスク・メモランダムが調印された。以降、欧州安全保障協力機構のウクライナ特別監視ミッションが、2014年9月のミンスク合意の執行を監督することとなった。2014年10月26日のウクライナ最高議会選挙では、事実上、親欧米派が勝利したが、ミンスク合意のあとも戦闘は続き、結果として一般市民を含む死者数が2014年7月17日に発生したマレーシア航空17便撃墜事件(クラボボ村)なども含めれば5,000人以上に上るなど、欧州では旧ユーゴスラビア内戦以来の死者数を出した。
2015年2月11日、ウクライナ、ロシア、フランス、ドイツは再びミンスクでサミットを開催し、ウクライナ東部の紛争終結に向けた体制の枠組みについて再度の合意が行われた(ミンスク合意2)。
2019年にウクライナの大統領に就任したウォロディミル・ゼレンスキーは2021年3月、クリミア半島の占領解除とウクライナへの再統合をめざす国家戦略を承認し、国際的な枠組み「クリミア・プラットフォーム」を発足させてクリミア奪還をめざす計画を進めていた。
ウクライナのNATO加盟をめぐってロシアとウクライナの緊張が高まり、アメリカのバイデン大統領がプーチン大統領と無侵略を条件に会談をしたが、「親ロシア派が支配するところに軍を送る」と発言し、その会談は白紙となった。日本時間2022年2月24日、ロシアのプーチン大統領が「特別な軍事作戦を実施する」とロシア国民へ向けテレビ演説を行った後、ウクライナ全土へ空襲やミサイル攻撃を仕掛けたことにより侵攻が始まった。
ウクライナの政体は、司法・立法・行政の三権が分立する議会制民主主義(共和制)であり、大統領制と議院内閣制を並立した形の半大統領制を採用している。国家元首である大統領は、5年任期で国民投票によって選出され、首相や政府の閣僚を任命する権限を持つが、それには議会の承認を得なければならない。
国際指標である「腐敗認識指数」の国別ランキングでは、2021年度の時点において122位の状況であり、政治、軍事組織による長年の汚職と腐敗問題が続いている(腐敗認識指数は順位が低いほど腐敗認識される)。
ウクライナの国会は、最高議会であり、一院制で450議席である。全議席は全国区の比例代表制によって選出されるが、政党もしくは選挙ブロックは全投票の3%以上を獲得しなければ議席を得ることができない。議員の任期は5年。議会は立法、国際協定の批准、予算の裁可および首相の承認・罷免、閣僚の承認・罷免を行う。
2012年の選挙で議席を獲得した政党は5党。それは、親露派で東部・南部を地盤とする地域党および社会主義派のウクライナ共産党(与党)、ならびに親欧米派で中部や西部を地盤とする全ウクライナ連合「祖国」、ウダール、さらに、西部のガリツィア地方を地盤とする民族主義派の全ウクライナ連合「自由」(野党)である。
2004年、レオニード・クチマ大統領の任期満了に伴い大統領選挙が行われた。
クチマ大統領の後継ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ首相と、野党指導者ヴィクトル・ユシチェンコ元首相の一騎討ちという形になった。10月31日の第1回投票ではユシチェンコが首位に立つが、わずか15万票差であった。
11月21日の決選投票の開票の結果、ヤヌコーヴィチの当選が発表される。しかし、ユシチェンコ陣営は11月22日夜、決選投票において全国で1万1000件の不正が行われ、第一回投票の5倍に膨らんだと、政権側の選挙違反を糾弾した。これにより首都キエフを中心に、ストライキなどの大規模な政治運動が起こった(オレンジ革命)。
欧米諸国の圧力もあって再選挙が行われることとなり、12月26日に実施された再決選投票の結果、ユシチェンコが52.12%、ヤヌコーヴィチが44.09%の得票となり、ユシチェンコ元首相の当選が確実になった。ヤヌコーヴィチ陣営はユシチェンコ陣営に不正があったとして最高裁に提訴したが野党による政府施設の封鎖が起こり、30日には提訴が却下された。翌2005年1月23日にユシチェンコ元首相は正式に大統領に就任し、この争いは一応の決着を見た。
なお、この選挙期間中、欧米のマスメディアはロシア人とウクライナ人の間で民族的対立が激化してウクライナ国民に分裂が生じているように報じた。この選挙ではアメリカ合衆国のウクライナ系政治団体の資金援助やオープン・ソサエティ財団の公然の介入が行われており、ウクライナ自身の革命というよりは外国勢力の干渉の結果だったという分析もある。一方、干渉があったとはいえ、それだけでなし得たものではなく実際に国民の間に従来の政権に対する不満があったことは大きな要素の一つであった。また、アメリカが反露派を支援した背景には、ロシア帝国時代やソ連時代にロシア勢力から弾圧を受けた非常に多くのウクライナ人がアメリカに亡命を余儀なくされたという歴史上の経緯も関係しているという分析もある。
つまり、アメリカに亡命したウクライナ人の作った組織がアメリカ政府や関係者に働きかけ、反露的な勢力を支援させるということは不自然ではないというのである。しかし、このようなロビー活動が表沙汰になることは少なく、こうしたもっともらしい分析もこれまでの経緯から類推した憶測の域を出ない。いずれにせよ「アメリカ側の都合だけで革命が推進された」「オレンジ革命は悪しき旧共産主義的な独裁体制からの民主化を達成した」というように単純化できる問題ではない。その後、ウクライナではしばしば「革命」が叫ばれることが習慣化しており、2007年にも反ユシチェンコ派の議員が「革命」を実行している。
大統領選挙が2010年1月から2月にかけて行われ、ヴィクトル・ヤヌコーヴィチが大統領に当選した。
大統領選挙が2014年5月25日に行われ、ペトロ・ポロシェンコが大統領に当選した。
ポロシェンコ-ヤツェニュク政権は総選挙後の内閣組閣において、財務相に在ウクライナ米国大使館での勤務経験があり、未公開株投資ファンドの代表を務めるアメリカ人のナタリヤ・ヤレスコ、経済発展・貿易相に投資銀行に勤務するリトアニア人のアイバラス・アブロマビチュス、保健相にグルジア人のサーカシビリ政権の元閣僚で米ニューヨークを拠点としているアレクサンドレ・クヴィタシヴィリの3人の外国人も入閣した。いずれも、任命の数日前にウクライナ国籍を取得している。顧問にはジョージアの前大統領で強権的な独裁者としての振る舞いからジョージアでの地位を失ったミハエル・サーカシビリが就任した。その他、エカ・ズグラゼやアデイシヴィリなど、サーカシビリの盟友が多く要職についていた。しかし、その後ポロシェンコ大統領との確執から相次いで辞任し、サーカシビリ自身もウクライナ国籍を剥奪されて国外追放された。
大統領選挙が2019年3月から4月にかけて行われて決選投票の末に、ウォロディミル・ゼレンスキーが現職のペトロ・ポロシェンコを破ってウクライナの第6代大統領に当選した。
ウクライナとロシアは歴史上複雑な関係を持つが、ソ連崩壊後から現在に至るまで緊張が続いている。
ユシチェンコ大統領の就任当初は、ロシアよりもEU諸国との関係を強化することを目指していた。同様の立場を取るグルジア、アゼルバイジャン、モルドバとともにGUAM(4か国の頭文字)と呼ばれる連合を結成。同国自身が将来のEU加盟を希望し、2017年時点でもそのための外交努力を続けている(後述)。
一方で、ウクライナ経済はロシアとの関係を悪化させたことなどを理由に急速に悪化した。大統領はロシアとの関係に対する見解の相違などからティモシェンコ首相を解任。その後は頻繁にロシアを訪問し、ロシアとの政治的・経済的関係を強化させようとするなど、ロシアとの関係修復も模索してきた。2010年の大統領選挙で当選したヴィクトル・ヤヌコーヴィチ大統領の誕生により、ロシアとの関係改善がより一層進展するものと見られていた。
ヤヌコーヴィチ政権時、ウクライナは北大西洋条約機構(NATO)やロシア主導の集団安全保障条約(CSTO)のような軍事同盟加盟を目指さない中立主義を法律で制定した。
しかし、2013年末から生じたウクライナ騒乱に続き、ロシアによるクリミア併合・東部不安定化以降、ロシアとの関係は再度悪化した。新政権は、一方でアメリカ合衆国やEUを中心とした欧米諸国との関係を重視している。ポロシェンコ-ヤツェニュク政権は、在ウクライナ米国大使館勤務経験のあるアメリカ人やグルジアのサーカシビリ政権の側近らを要職に就かせるなど、親欧米・反露路線を鮮明にしている。
なお、2015年末時点でウクライナはロシアに対し30億ドルの負債を負っており、今後、国際裁判所で争われることとなっている。
また、司法分野においては、ロシアに対し、2014年6月頃にルハーンシク州内の戦闘中に拘束され、ロシアに連れ出され勾留されたウクライナ人女性のナジーヤ・サウチェンコ(英語版)の即時釈放を訴えている。ロシア当局は、同女性がウクライナ西部においてロシア人ジャーナリスト2名を殺害した嫌疑があると主張していたが、ウクライナをはじめアメリカ、ドイツ、フランスなどの各国政府、欧州議会などがロシアによるサウチェンコの拘束には根拠がないとして、ミンスク合意に従ってロシアはサウチェンコを解放すべきとした。
ウクライナとロシアの旅客流動は最大であったが、2015年10月以降、ウクライナとロシアを結ぶ航空旅客便は全便の運行が停止している。
また、2017年にはポロシェンコ大統領の大統領令を通じて、対露制裁の一環で、VKontakte、Odnoklassnikiなどのロシア系SMSサービス、Yandex、Mail.ruなどのロシア系のウェブサイトへのアクセスを禁止した。
ウクライナ政府はロシアからの天然ガス輸入を2016年は打ち切り、2017年も再開しない見通しであると表明している。
さらに2018年9月、1997年にロシアと締結した友好協力条約を延長しないとロシア政府に通告した。
2021年秋からロシア陸軍が兵力を大幅に増強しており、2022年初頭にはウクライナ侵攻の可能性もあると報じられた。
また、2022年2月には東部の親露派支配地域であるドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国をロシアが承認した(ドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国の独立承認に関するウラジーミル・プーチンの演説)。両国関係は非常に緊迫し、ロシアのプーチン政権は同月24日、『特別軍事作戦の実施について』演説に続いてウクライナへの侵攻を開始し、ゼレンスキー大統領はロシアとの断交を発表した。
ポロシェンコ政権はEU加盟を希望していた。具体的な加盟交渉に至ってはいないが、東欧諸国を対象とするEU安定化・連合プロセスの要となる連合協定について、EU加盟国で唯一未批准だったオランダの上院が2017年5月に批准を承認した。同年6月11日からは、イギリスとアイルランドを除くEU加盟国へウクライナ国民が90日の査証(ビザ)なし渡航が可能になった。
2021年5月17日のモルドバ、ジョージアとの三国外相会談で、将来的なEU加盟の期待を明確にし、共同の覚書に署名した。この会談以降、三国をいわゆる'Associated Trio'(もしくは'Association Trio(英語版)'とも。和訳で「共同三国」など)と呼称するようになった。
ロシアによるクリミア編入宣言や東部ウクライナ紛争への関与疑惑に対して、欧米諸国は対露制裁でウクライナを支援。アメリカ軍はウクライナ軍へ兵器供給と訓練を実施し、こうした軍事支援はロシアによる侵攻後に本格化した。
ロシアによる侵攻が始まった直後の2022年2月28日、ウクライナはEUへの緊急加盟を要請した。
トルコ企業600社がウクライナに進出してインフラ建設や再生可能エネルギー事業を手掛けているほか、トルコは軍事用無人航空機「バイラクタル TB2」を輸出し、ウクライナ軍が東部紛争の偵察に投入している。ウクライナはトルコの無人攻撃機「アキンチ」にエンジンやプロペラを供与している。ゼレンスキー大統領は2021年4月にトルコを訪問し、軍事産業での協力関係を強調した。こうした両国の接近は、クリミア・ウクライナ東部紛争でロシアと対立するウクライナと、シリア内戦やリビア内戦でロシアと別の勢力を支援するトルコの利害が一致していることが背景と指摘されている。
日本はユシチェンコ大統領期の2005年3月に同国とのODA円借款契約を初めて締結しているが(190億9200万円、償還期間30年)、ヤヌコーヴィチ大統領およびティモシェンコ首相の時期は契約を行っておらず、2014年6月7日にポロシェンコが大統領となり9年ぶりに契約の締結を再開した。2014年7月には100億円(償還期間20年間)、2015年6月に1081億9300万円(同40年間)、12月に369億6900万円(同20年間)と、巨額の資金貸付けが行われた。
2005年8月1日より日本国民がウクライナに入国する際のビザ(査証)を短期90日までの滞在(ただし、就労を伴わない活動に限る)に限って、その取得を必要としない制度が開始された。しかしながら、2014年7月時点、ウクライナ国民の日本への入国には依然としてビザが必要である。
2022年3月1日、ウクライナ日本大使館がロシアと戦う日本人を「義勇兵」としてTwitter上にて募集。約70人の日本人が志願した。
2022年3月16日、ウクライナのゼレンスキー大統領がアメリカ合衆国連邦議会で行った演説で、「真珠湾攻撃を思い出して欲しい。あのおぞましい朝のことを」と訴え、ロシアのウクライナ侵攻を、1941年の太平洋戦争劈頭に日本がハワイの真珠湾を奇襲したことになぞらえ、日本のネットユーザーから批判を受けた。
同年4月1日、ウクライナ政府公式Twitterにて『現代ロシアのイデオロギー』と題した動画を投稿。ユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)を行ったナチス・ドイツの独裁者ヒトラーやイタリアのファシズム指導者ムソリーニと共に昭和天皇の顔写真を並べ、「ファシズムとナチズムは1945年に敗北した」と記した。同年同月の24日、「昭和天皇をヒトラーと同一視した」となど批判が高まった事態を受け、動画から昭和天皇の顔写真を削除、Twitterで謝罪した。
同年4月12日、日本の公安調査庁は「アゾフ大隊はネオナチ」と長年にわたり掲載していた記事を削除(404error-記事にアクセスできません)。公調は「8日にHPで示した以上の見解はない」とした。
同年10月7日、ウクライナ最高議会は「北方領土をロシアに占領された日本固有の領土と確認する」決議を採択した。ロシアの侵略に対する日本との協力関係を期待したものと見られる。
2013年に、ヤヌコヴィッチ政権は中国と「中国ウクライナ友好協力条約」を締結している。
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とは関係が深く、長年にわたりICBMなどの兵器技術提供も行っていた。2022年7月13日、北朝鮮がドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国の国家承認をした事を理由に、ウクライナは北朝鮮との国交を絶った。
ウクライナ大統領府が、ロシアへの抗戦中の2022年9月13日に公表した国家安全保障の基本計画は、「自衛のための軍事力」保有を国防の根幹と定めるとともに、欧米諸国やトルコに支援を求め、ロシアが要求した「非軍事化」を否定した。
ウクライナは欧州連合(EU)だけでなく欧米諸国の軍事同盟である北大西洋条約機構(NATO)への加盟を希望しており、NATOは、ロシアの侵略に対する防戦を支援する「NATOウクライナ理事会」を設置している。NATOは将来の加盟に向けて、ウクライナに汚職対策や人権尊重といった改革を求めている。
ウクライナ軍は、陸軍、海軍、空軍、空中機動軍(空挺部隊)、特殊作戦軍(特殊部隊)の5軍種からなる。2005年末の時点で、総員24万5000人(うち、軍人18万人)。
ウクライナには、ウクライナ正規軍以外に、以下の準軍事組織が存在する。
2022年ロシアのウクライナ侵攻に抵抗するパルチザン活動も行なわれている。
このほか、ウクライナ国内の政治運動の過程で創設された武装組織が複数あり、一部は後にウクライナ政府の統制下に入った。
また親ロシア派も実効支配している地域で武装組織を有している。
大統領附属の合議制機関として国家安全保障・国防会議が存在する。
また、国家保安庁が、サイバー攻撃への防衛など防諜・情報機関や治安組織としての活動を行っている。
ウクライナはユーラシア・ステップ西部に位置し、国土のほとんどは、肥沃な平原、ステップ(草原)、高原で占められている。ドニエプル川、ドネツ川、ドニエステル川が横切っており、南のブーフ川とともに、黒海、アゾフ海に注ぎ込んでいる。黒海北岸にはクリミア半島が突き出しており、ペレコープ地峡でウクライナ本土とつながっている。南西部にあるドナウ・デルタはルーマニアとの国境になっている。
山岳地帯は、ウクライナの最南端のクリミア山脈と西部のカルパティア山脈だけである。最高峰はカルパト山脈にあるホヴェールラ山(Говерла, Hoverla)で、標高2,061メートル。これ以外の地域も平坦というわけではなく、東ヨーロッパの中では比較的起伏の多い地形をしている。
気候は温暖な大陸性気候であるが、クリミア半島の南岸は地中海性気候により近い。降雨量は局所的に偏っており、北部や西部は多く、南部や東部は少ない。夏はほとんどの地域で暖かいが、当然南に行くほど暑い。冬は黒海沿岸は涼しいが、内陸に行くにしたがって寒くなる。
ウクライナは、24の州と、クリミアにある1つの自治共和国、そして2つの特別市から構成される。ただし、クリミア自治共和国とセヴァストポリはロシア連邦の実効支配下にある。また、親ロシア分離独立派が支配するドネツィク州(ドネツク人民共和国)とルハンスク州(ルガンスク人民共和国)のドンバス地域の一部、およそ推定人口300万人程度の地域に対する管轄も及んでいない(「クリミア危機・ウクライナ東部紛争」参照)。ロシアは2022年に始めた侵攻でウクライナ東南部を自国に編入すると宣言したが(ロシアによるウクライナ4州の併合宣言)、ウクライナと国際社会は承認しておらず、ウクライナは奪回作戦を進めている。
ウクライナの交通は、鉄道、バス、船舶、航空機、自動車などによっている。鉄道は、ウクライナ鉄道によって一元化されている。一方、ウクライナの航空会社はソ連時代のアエロフロート一括管理型から多くの中小の航空会社が競合する状態になっている。
都市間輸送は国営鉄道のウクライナ鉄道が運行されている。主要都市には地下鉄及び市電、またエレクトリーチカが運行されている。
フラッグ・キャリアのウクライナ国際航空が国内国際線ともに運行している。ハブ空港としてボルィースピリ国際空港がキーウ近郊にある。
2022年に始まったロシアによる侵攻に伴い、最初の1年間で経済的損害は3490億ドル(世界銀行などの推計)にも達したが、ウクライナ経済研究所の調査では同国企業の85%が西部への疎開などにより操業を継続している。
国際通貨基金(IMF)の統計によると、2013年のウクライナの国内総生産(GDP)は1783億ドルである。1人あたりGDPは3,930ドルであり、西隣にあるポーランド(1万3393ドル)の約30%、北隣にあるベラルーシ(7,577ドル)の約半分、世界平均の約40%程度の水準にとどまり、ジョージア(3,604ドル)、アルメニア(3,208ドル)、モルドバ(2,229ドル)と並ぶ欧州最貧国の一つである。2015年の推計によると、1人あたりGDPは2,001ドルまでに低下し、旧ソ連の最貧国レベルとなっている。タタール人のリナト・アフメトフ、イスラエル国籍も持つユダヤ人のイーホル・コロモイスキーなどの一部のオリガルヒによる寡頭制資本主義体制が続いている。
ソ連時代は連邦内の重要な農業および産業地帯であったが、現在は天然ガスを中心とするエネルギー供給のほとんどをロシアに依存しており、経済の構造改革の遅滞と相まって他国の影響を受けやすいものになっている。さらに国家腐敗が進行しているため、事態は深刻さを極めるものとなっている。
工業では、ソ連時代以来の有力な軍事産業が存在する。中華人民共和国が企業買収などによりウクライナの軍事技術取得を図り、アメリカ合衆国の意向もあってウクライナ政府が阻止する事例もある。
1991年、政府はほとんどの物資の価格を自由化し、国有企業を民営化するための法制度を整備した。しかし、政府や議会内の強い抵抗により改革は停止され、多くの国有企業が民営化プロセスから除外された。1993年の末頃には、通貨政策の失敗によりハイパーインフレーションにまで至った。
1994年に大統領に就任したレオニード・クチマは、国際通貨基金(IMF)の支援を受けながら経済改革を推進し、1996年8月には10万分の1のデノミを実施し、新通貨フリヴニャを導入した。現在の政府は、経済への介入を極力減らし、調整方法を合理化することに努めるとともに、企業家を支援する法環境を整備し、包括的な税制の改革を行った。ただし構造改革の政治的な問題に関わる分野や農地の民営化に関する改革は遅れている。1999年の生産高は、1991年の40%にまで落ち込んだ。しかし、同年には貿易収支が初めて黒字を記録。その後もフリヴニャ安や鉄鋼業を中心とした重工業により、2000年の国内総生産は、輸出の伸びに支えられて6%という経済成長率を見せ、工業生産高の成長率も12.9%だった。これは独立以来初めての上方成長であった。2001年から2004年までの間も、中国への鉄鋼輸出の急増などに起因して高度成長が続いた。
ところが2005年、ユシチェンコ政権の成立後暗転し始める。それまでの好調なウクライナ経済は、ロシアからの安価なエネルギー資源および原料の供給、経済発展を続けるロシアや中国への輸出などによって支えられていた。しかしユシチェンコ大統領は就任直後、ロシアとは距離を置き、EUやアメリカ合衆国などとの関係を強化する姿勢を示した。大統領はアメリカなど西欧諸国からの投資拡大を見込んでいたが、実際にはそれほど投資は増えず、逆にロシアからの安価なエネルギー資源供給が受けられなくなった(「ロシア・ウクライナガス紛争」参照)。またロシアに並ぶ輸出相手国であった中国の需要が減少するなど経済環境が悪化。
2008年以降は世界金融危機の影響を受けてウクライナ経済は再び落ち込み、債務不履行(デフォルト)の瀬戸際まで追い込まれた。経済安定化のため2008年10月にはIMFより総額165億ドルに及ぶ緊急融資を受けた。2010年7月にはIMFより新たに152億ドルの融資を受けることで合意した。
2014年クリミア危機とその後現在まで継続しているウクライナ東部での戦闘により、ロシアとの関係が極度に悪化した。それにより深刻な経済危機に陥り、2015年の経済成長率は-11.6% となっている。1人あたり国内総生産(GDP)も2,109ドルにまで落ち込むなど欧州最貧国となっている。
2015年12月31日、ロシアに対する30億ドルの債務を返済しなかったことを根拠に、ロシア財務省はウクライナはデフォルト状態であると指摘した。
通貨単位はソ連ルーブリ=100コペイカが使われてきて、独立後1992年からはカルボーヴァネツィが使われたが、2003年から現在はフリヴニャ=100コピーカを使っている。
銀行関係では、ウクライナ国立銀行が中央銀行で、商業銀行のプリヴァトバンク(オリガルヒ経営であったが、乱脈経営のため2016年に国有化)、ウクライナ国立貯蓄銀行などが全国に支店を持っている。
ウクライナは小麦、ジャガイモ、ヒマワリなどを産する農業大国であり、また農産物の輸出面でもMHPなどが活躍している。
鉱工業では、石油・天然ガス面ではナフトガス・ウクライナ が全土をカバーし、豊富な石炭・鉄鉱石も参して、ウクライナ中部および南東部で製鉄業が盛んで、クリヴォリジュスタリ製鉄所、アゾフスタリ製鉄所、イリイチ製鉄所、インターパイプなどがある。
1990年代以降、フォジーグループなどウクライナ資本の小売業店の展開などが顕著である。
通信分野では、固定電話を引き継いだウクルテレコムがあり、ウクライナにおける携帯電話では、キーウスター、ボーダフォン・ウクライナ、ライフセルなどが活躍している。
1990年代には賃金の低さと開発能力の高さから西側諸国を相手にするITアウトソーシング企業が誕生し、「東欧のシリコンバレー」と呼ばれるほどIT産業が成長した。開発能力の高さはITの基礎となる数学教育に力を入れた結果であるとされる。
ITインフラの整備も進んでおり、公共サービスの多くはデジタル化されスマートフォンの操作で完結するという。
ウクライナの科学技術はヨーロッパにおける科学の歴史上、非常に重要な位置付けをされているものの一つに数えられる。同国は前身のソビエト・ウクライナ時代、ソビエト連邦の宇宙開発に多大な貢献を果たしており、数多くの科学者を輩出している。
民族(ウクライナ) 2001
ウクライナは多民族国家である。主要民族はウクライナ人で、全人口の約8割を占める。ロシア人は約2割を占める。ほかに少数民族としてクリミア・タタール人、モルドヴァ人、ブルガリア人、ハンガリー人、ルーマニア人、ユダヤ人がいる。高麗人も約1万人ほどいる。
国内最大の少数民族であるロシア人の割合が高い州は、ロシアが実効支配しているクリミア自治共和国とセヴァストポリを除くとルハーンシク州(39.2%)、ドネツィク州(38.2%)、ハルキウ州(25.6%)、ザポリージャ州(24.7%)、オデッサ州(20.7%)、ドニプロペトロウシク州(17.6%)の順となっており、東部以外ではキーウ市(13.1%)が高くなっている。また、西部のザカルパッチャ州ではハンガリー人が12.1%を、チェルニウツィー州ではルーマニア人が12.5%を占めている。
ウクライナは2021年に「先住民法」を制定し、ゼレンスキー大統領が7月21日に署名して成立した。先住民族としてクリミア・タタール人、クリミア・カライム人、クリムチャク人の3民族を認定した。これに対してロシア検察は翌日、欧州人権裁判所への提訴を発表した。ロシア連邦大統領ウラジーミル・プーチンは先立つ7月12日、『ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性について』という論文を発表していた。
人口が集中しているのはキーウ、ドネツィク州、ハルキウ州、リヴィウ州、ドニプロペトロウシク州で、全人口の69%が都市部に住んでいる。
人口密度の高い州はドネツィク州、リヴィウ州、チェルニウツィー州、ドニプロペトロウシク州である。
ウクライナの国家語は憲法第10条により定められたウクライナ語のみであるが、憲法第10条にはロシア語を含む多言語使用・発展も保証すると記載されている。実態としてはウクライナ社会はウクライナ語とロシア語の二言語社会と呼びうる。
2001年の国勢調査によれば、全体の67.5%がウクライナ語を母語とし、ロシア語は29.6%となっていた。東部、南部と首都キーウではロシア語の割合が比較的高い。他方、2006年に行われた民間調査統計によれば、ウクライナ語を母語とする国民は5割強となっているなど、統計によるばらつきがみられる。同じ調査統計の結果で、母語ではなく日常的に使用する言語を問う設問では、家庭内でウクライナ語のみを使用するのは全国民の38.2%、ロシア語のみが40.5%、両言語が16.2%となっており、ウクライナはウクライナ語とロシア語の2言語国家であることがよく示されている。
ウクライナはロシア帝国およびソ連時代にロシア語化が進み、西ウクライナを除いて共通語としてロシア語が広く普及し、圧倒的に優勢となった。また、当時はウクライナ語はロシア語の方言や農村部の方言に過ぎないという認識さえあり、使用は衰退していった。特に都市部に住むインテリ層の間ではロシア語の使用が広まり、農村部ではウクライナ語、都市部ではロシア語という色分けができていた。しかしながら、ソ連からの独立時にウクライナ語を唯一の公用語として指定し、国民統一の象徴の言語として広く普及させ、復活させる国策を採った。一方、ロシア語は公用語に制定せず、ウクライナ語の復権を重要課題に掲げて重視した。これは、同じくロシア語が最も使われてきた隣国ベラルーシが独立後もロシア語を引き続き最重要視する政策とは対照的な路線をとった。
ウクライナでは政府機関ではウクライナ語のみが使われ、憲法・法律をはじめ、公的文書は全てウクライナ語で記述され、学校教育は大半がウクライナ語で行われる。また、街中の広告もウクライナ語に限定され、地下鉄のアナウンスや街中の案内表記もウクライナ語とされるが、ロシア語も言語法の手続きを通じた地方公用語として認定されている場合には地方レベルで使用可能である。この背景には、国家としてウクライナ語の普及を進める一方で、西ウクライナを除く地域の都市部住民の中には民族的にウクライナ人であっても日常生活ではロシア語を主に使用している人が少なくなく、ウクライナ語を運用することはできるが、ビジネスや娯楽、家庭での言語はロシア語が優勢となっている。さらに、東部や南部では、ウクライナ語が不得手とする人も少なくない。このように、独立以降ウクライナ語のみを国家語にしてきたウクライナであるが、生活の現場でのロシア語の使用頻度は低下しておらず、西部を除いた地域においてはロシア語は引き続き重要な言語となっている。
特徴的な点として、ウクライナ西部にあるリヴィウ州、ヴォルィーニ州、テルノーピリ州、イヴァーノ=フランキーウシク州のガリツィア地域はソ連時代を通じてもロシア語化が進まなかったことからウクライナ語が圧倒的に優勢で、日常的にロシア語が使われることは一般的でない。この3州ではロシア語の第2国家語化への反対者が多い。一方、東部の住民にはロシア語の公的地位向上を求める世論もあり、しばしば政治の場における敏感な論点となる。しかし、ウクライナ語が不得手な東部出身のウクライナ民族主義者も珍しくなく、使用母語と親露・反露感情は必ずしも一致しない点は留意を要する。2014年の政変以降も欧州安全保障協力機構(OSCE)などの国際機関は、社会においてロシア語話者が差別を受けている事実を報告していない。
その他の言語として、クリミア・タタール語(クリミア自治共和国)、ハンガリー語(ザカルパッチャ州)、ルーマニア語(チェルニウツィー州)なども使われている。
婚姻時には改姓せず夫婦別姓とすることも、いずれかの姓に統一し同姓とすることも、複合姓とすることも、いずれも選択可能である。
現在ウクライナの国民は多くキリスト教徒のアイデンティティを持っているが、大半は特定の宗教団体に属していない。伝統的な宗教は、正教会の一員であるウクライナ正教会である。ルーシの洗礼以来、ウクライナの正教会はコンスタンディヌーポリ総主教庁に属していたが、1686年にモスクワ総主教庁に移され、20世紀末までモスクワ総主教庁に属していた。この移管は教会法に違反していたと指摘されるが、モスクワ総主教庁側はこの移管を「教会法違反」とは捉えていない。1990年には、ウクライナの独立運動の興隆に呼応して、モスクワ総主教庁から分離独立したキエフ総主教庁が設立された。
キエフ総主教庁・ウクライナ正教会の教会法上の合法性を認めている他国の正教会は長らく存在していなかったが、キエフ総主教庁は教会法解釈・歴史認識につき主張をしつつ、自らの合法性の承認を得るべく様々な活動を行い、信徒数の上でもウクライナにおける最大の教会となった。なお、懸案だったロシア正教会からの独立問題については、2014年にロシアがクリミア半島を併合したことによる反ロ感情の高まりを受け、2018年10月11日にコンスタンティノープル総主教庁から独立の承認を得ることに成功した。
この承認に基づいて、2018年12月15日、首都キーウにある聖ソフィア大聖堂で開かれた統一宗教会議で、ロシア正教会から独立したウクライナ正教会の創設が宣言された(「ウクライナ正教会 (2018年設立)」参照)。オブザーバーとして出席したポロシェンコ大統領は「ロシアからの最終的な独立の日だ」と群衆に述べた。
これに次ぐ正教会として、モスクワ総主教庁の下に留まりつつ事実上の自治を行っているウクライナ正教会(「ウクライナ正教会 (モスクワ総主教庁系)」参照)もあるが、ウクライナ国内での信者数は減少している。2022年ロシアのウクライナ侵攻をキリル1世 (モスクワ総主教)が支持したことでこの傾向は加速し、キーウ国際社会学研究所が同年7月に実施した世論調査では、帰属意識を持つ教会としてウクライナ独自の正教会を挙げた人が54%と最多で、モスクワ系ウクライナ正教会は2021年の18%から4%に減った。したがって、2020年代における宗派別信者数は、右のグラフや下記のデータから大きく変化している。
他にもウクライナ独立正教会と独立合法ウクライナ正教会の教会組織が存在する。また、ロシア正教古儀式派教会の教区やポモーリエ派の会衆など、正教古儀式派の信徒も伝統的に存在している。
東方典礼カトリック教会たるウクライナ東方カトリック教会が正教に次いで勢力を有する。西方典礼のカトリック教会およびプロテスタント、さらにイスラム教徒、ユダヤ教徒、仏教徒も少数存在する。
朝鮮出身の開祖である文鮮明による「愛天、愛人、愛国」の教えを説く統一教会はウクライナを活動拠点の一つとしている。
1995年から6歳から17歳までの11年間が義務教育である。小学校・中学校に相当する9年間は同じ学校に通い、10年目以降は普通学校と専門学校のいずれかを選択することになる。このため11年間同じ学校に通う生徒も存在する。
必須科目はウクライナ語のほか、情報学、経済学などで、英語は1年生からの必須科目である。2000年から2001年の調査によると全体の7割がウクライナ語で教育を受け、残りの3割弱がロシア語となっている。そのほか、クリミア・タタール語、ハンガリー語、ルーマニア語でも教育が行われている。
ウクライナの学校は、3月末に1週間の春休み、6 - 8月に3か月間の夏休み、12月末 - 1月に約2週間の冬休みがある。
幼少期から数学教育が重視されており、IT産業の発達に寄与したとされる。
WAP(世界動物保護協会)の2020年の評価によると、ウクライナの動物福祉評価は総合評価でE(AからGの7段階評価。Aが最も評価が高い)。分野ごとの評価では「動物の虐待行為への法規制」はC、「畜産動物の福祉(アニマルウェルフェア)」はE、「コンパニオンアニマル(ペット)の保護」はF、「実験動物の保護」はD、などとなっている。
強制給餌への批判があるフォアグラについては、2019年9月に最後の強制給餌農場を閉鎖。法律で明示的に禁止されていないが、強制給餌の慣行は国内で中止となった。ウクライナ最大の家禽企業であるMHPもフォアグラの生産を中止している。
同国検事総局発表による2017年時における犯罪登録件数は約52万件と依然高い水準である。また、クレジットカードやキャッシュカードのスキミング被害事例が散見されており、「財布落とし」と呼ばれる人間の親切さを逆手に取った犯罪の被害も依然として複数寄せられているなど金銭絡みの事件が多発している為、同国の滞在には常に注意が求められる。
米国務省からテロ組織と指定されている極右ネオナチ組織「C14」が存在し、彼らはこれまで数々の治安犯罪を犯してきたが、国や地方行政と癒着し活動を行っている。
ウクライナの警察は、ウクライナ内務省所属のウクライナ国家警察が担っている。
ウクライナの警察は、ソ連時代から民警(ミリーツィヤ)と呼ばれており、ソ連崩壊以降も2015年に国家警察に再編されるまでは民警と呼ばれていた。
米国務省からテロ組織と指定されている極右ネオナチ組織「C14」は、警察と協力してキーウの自警組織をつくっている。
主要メディアは以下が挙げられる。
ウクライナ料理は、東欧を代表するウクライナ人の伝統的な食文化である。その歴史はキエフ大公国時代に遡る。ウクライナ料理は、ポーランド料理、リトアニア料理、ルーマニア料理、ロシア料理、ユダヤ料理などの食文化にも大きな影響を与えた。一方、他国の料理の影響が見られる。
主食はパンであり、パンに類する食品も多い。その中で、ヴァレーヌィク(ウクライナ風餃子)、ハムーシュカ、フレチャーヌィク(団子)、コールジュ、コロヴァーイ(ケーキの一種)、パスカ(復活祭のパン)、クチャー(小麦か米の甘い粥)などがある。魚・肉の料理が比較的少なく、スープや野菜の煮物などの料理が圧倒的に多い。世界的にも有名なウクライナ料理ボルシチは、大まかに50種類以上のレシピがあるが、ウクライナでは豚肉、ロシアでは牛肉が主流である。肉料理は豚肉料理、魚料理は鯉類料理が一般的である。さらに、肉料理としてサーロ(豚の脂身の塩漬け)が頻繁に利用される。飲み物は甘い、もしくは甘辛いものが多い。メドウーハ(蜂蜜酒)、ホリールカ(唐辛子入りのお酒)、ナスチーイカ(果実酒)、クヴァース(液体のパン)などがある。
おもな調理法は軽く炒めて茹でること、また軽く炒めて煮ることである。揚げ物などは少ない。調味料としては、サーロ、向日葵油、スメターナ、酢、塩、蜂蜜などが用いられる。
ウクライナでは、ウクライナ料理のほかに、クリミア・タタール料理が存在する。
同国における建築はキエフ大公国が起源となるものが多く、12世紀のハールィチ・ヴォルィーニ大公国時代からリトアニア大公国ならびウクライナ・コサックが存在した15世紀後半の時代にポーランド・リトアニア共和国の影響下でウクライナ独自の建築技法が開発されて行った。その技法は形を変えつつも途絶えることなく以降の現代へ続いている。
有名な歴史的建造物には以下が挙げられる。
ウクライナの民族衣装は、ソロチカ、ヴィシヴァンカなどがある。これらは刺繍が施され、飾りだけではなく、魔よけの意味がある。地方ごとに独自の刺繍法があり、約200種類の技法、数千種類のモチーフがあるといわれている。伝統の布として、美しい刺繍のされたルシュニキ(ルシェニク、ルシニークとも)があり、儀式にも使われる。伝統的な花の冠はヴィノクと呼ばれる。
ウクライナ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件、自然遺産が1件存在する。
ウクライナではその歴史やキリスト教に由来する祝祭日が多いが、2014年に始まったロシアによる侵略以降、日取りや位置づけに変化が起きている。伝統的にロシアと同じ1月7日(ユリウス暦)に祝われていたクリスマスは他の欧州諸国と同じ12月25日(修正ユリウス暦)に変更する法律が2023年7月28日、ゼレンスキー大統領により署名された。クリスマスの非ロシア化は2022年ロシアのウクライナ侵攻で加速し、ウクライナ正教会は同年12月24日、ウクライナのカトリック教会や他の正教会とのトップ会談で、 クリスマスや復活祭を決める教会暦の改革に向けた作業部会設置で合意していた。独ソ戦の勝利記念日である5月9日は2022年から祝日ではなくなった。他国におけるヨーロッパ戦勝記念日である5月8日は、ウクライナでは「追悼と和解の日」に定められている。
ウクライナ国内でも他のヨーロッパ諸国同様、サッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっており、2012年にはポーランドとの共催でUEFA EURO 2012が開催されている。サッカー以外の球技ではテニスやバスケットボールが、格闘技ではボクシング、柔道、総合格闘技が非常に人気となっている。
1991年にサッカーリーグのウクライナ・プレミアリーグが創設され、リーグ優勝はディナモ・キーウ(16回)とシャフタール・ドネツク(14回)の2クラブによって殆ど支配されている(他はタフリヤ・シンフェロポリの1回のみ)。ウクライナサッカー連盟によって構成されるサッカーウクライナ代表は、FIFAワールドカップには2006年大会で初出場しベスト8の成績を収めた。UEFA欧州選手権には3度出場しており、2021年大会では過去最高位のベスト8に進出している。
ウクライナ人のサッカー選手の象徴的な存在として、現役時代は「ウクライナの矢」と呼ばれたアンドリー・シェフチェンコがおり、主にACミランで活躍しセリエA・得点王を2度獲得、2004年にはバロンドールも受賞している。さらにシェフチェンコが引退して以降は、マンチェスター・シティで活躍したオレクサンドル・ジンチェンコ(現在はアーセナル所属)が、同国では非常に人気の選手となっている。
2021-22シーズンはロシアのウクライナ侵攻により、国内リーグ戦の全試合が無期限中止となり、その後打ち切り「優勝チームなし」と決定した。さらにロシアとの戦争が継続中の2022年8月23日、シャフタール・ドネツクとメタリスト1925・ハルキウの試合を2022-23シーズン(英語版)の開幕戦として、255日ぶりに国内でのサッカーリーグが開催された。なお、ロシア軍の標的になるのを避けるため「全試合が無観客開催」となる。 | [
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"text": "ウクライナ(ウクライナ語: Украї́на、[ʊkrɐˈjinɐ] ( 音声ファイル)、英語: Ukraine)は、東ヨーロッパに位置する共和制国家。首都はキーウ。東はロシア連邦、北はベラルーシ、西はポーランド、スロバキア、ハンガリー、西南はルーマニア、モルドバと国境を接しており、南は黒海に面し、トルコなどと向かい合う。",
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"text": "人口は、2021年時点で約4159万人(ロシア支配下のクリミア半島を除く)で、ヨーロッパで7番目に人口の多い国である。",
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"text": "現在、ウクライナが位置している地域には紀元前3万2千年から人が住んでいたとされる。中世にはキエフ大公国(キエフ・ルーシ)によって統治され、東スラブ文化の中心地としてウクライナおよびロシアのアイデンティティの基礎が形成された。",
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"text": "12世紀以降、モンゴルのルーシ侵攻により領土が破壊され、ポーランド・リトアニア共和国、オーストリア゠ハンガリー帝国、オスマン帝国、モスクワ大公国などに分離した(キエフ大公国の分裂)。キエフ大公国の故地のうち、現在のウクライナにあたる地域の一部は14世紀以後、小ロシアと呼ばれるようになる。",
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"text": "1649年、現在のウクライナにヘーチマン国家が成立し、1654年以後はモスクワ大公国(ロシア帝国)の保護を受ける。1667年、ロシア・ポーランド戦争の結果ポーランドに割譲されたドニプロ川右岸地域では1699年にコサック隊は廃止される。ドニプロ川左岸地域のヘーチマン国家はロシアの防衛に貢献するコサック国家として繁栄したが、1764年にロシアのエカチェリーナ2世がヘーチマン制を廃止、翌1765年に国土はロシアの小ロシア県に編成され、1786年にコサック連隊制が廃止となった。",
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"text": "第一次世界大戦では中央同盟国(ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国など)とロシア帝国の戦場になった(東部戦線 (第一次世界大戦))。大戦中のロシア革命でロシア帝国が崩壊するとウクライナの民族自決運動が起こった。1917年6月23日、国際的に認められたウクライナ人民共和国が宣言されたが、ロシア内戦などを経て、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国はソビエト連邦の一部となった。第二次世界大戦では独ソ戦の激戦地となった。第二次世界大戦後、ソ連は占領したポーランド東部を併合する代わりにポーランドとドイツの国境をオーデル・ナイセ線へ移動させた。旧ポーランド東部はソ連へ併合され、ウクライナ人が多く住むガリツィア地方はウクライナ西部となった。",
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"text": "独立後、ウクライナは中立国を宣言し、旧ソ連のロシアや他の独立国家共同体(CIS)諸国と限定的な軍事提携を結びつつ、1994年には北大西洋条約機構(NATO)とも平和のためのパートナーシップを結んだ。",
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"text": "2013年、ヤヌコビッチ政権がウクライナ・EU連合協定の停止とロシアとの経済関係の緊密化を決定した後、ユーロマイダンと呼ばれる数か月にわたるデモや抗議運動が始まり、後に尊厳革命に発展し、ヤヌコビッチの打倒と新政府の樹立につながった。これらの出来事を受け、旧ソ連圏への影響力回復を目指すロシアのウラジーミル・プーチン政権はウクライナ国内の親ロシア派を通じた内政干渉や領土蚕食を進め、2014年3月のロシアによるクリミアの併合、2014年4月からのドンバス戦争の背景となった。",
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"text": "2016年1月1日、ウクライナは欧州連合(EU)との深層・包括的自由貿易圏の経済コンポーネントを申請した。",
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"text": "2021年3月からロシアとの間で緊張が高まり、2022年2月24日、ロシアのウクライナ侵攻が開始された。",
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"text": "ウクライナは、人間開発指数で74位の発展途上国である。加えて、ヨーロッパで2番目に貧しい国であり、非常に高い貧困率と深刻な汚職に悩まされている。一方、肥沃な農地が広がっているため、ウクライナは世界有数の穀物輸出国である。",
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"text": "また、ロシア、フランスに次いで兵員数ではヨーロッパで3番目に大きな軍隊を保有している。国連、欧州評議会、欧州安全保障協力機構、GUAM、ルブリントライアングルに加盟しており、独立国家共同体の創設国の一つであるが、独立国家共同体に加盟することはなかった。",
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"text": "国際指標である「腐敗認識指数」の国別ランキングでは、2021年度の時点において122位と、政治、軍事組織による長年の汚職と腐敗問題が続いている(腐敗認識指数は順位が低いほど腐敗認識される)。",
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"text": "ウクライナの最高法規であるウクライナ憲法によると、当国の正式国号は「Україна」である。公式の英語表記は「Ukraine」(ユークレイン)であり、非公式には「the Ukraine」も使用される。ドイツ語では「Ukraine」(ウクライネ)とよばれている。",
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"text": "日本語の表記は「ウクライナ」となっているが、2019年7月に在日ウクライナ大使館はウクライナ語を基にした「ウクライーナ」と表記すべきであるという意見を表明した。しかし、その後の2019年9月、同大使館や日本国外務省の代表者や国会議員、ウクライナ語専門家の参加を得て開催されたウクライナ研究会主催の「ウクライナの地名のカタカナ表記に関する有識者会議」において「国号について、ウクライナの変更はしない」という結論が出され、同大使館案は採用されなかった。漢字表記は現在の日本では滅多にされないが、「宇克蘭」、または「烏克蘭」と表記される。",
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"text": "「ウクライナ」というスラヴ語の地名の初出は、『原初年代記』イパチー写本の「キエフ年代記」にある1187年の条である。この地名は、キエフ公国・チェルニーヒウ公国と並んでルーシ大公国の歴史的中枢地に含まれるペレヤースラウ公国の範囲を示している。また、この地名は他のルーシ年代記の1189年の条、1213年の条、1280年の条にも「ウクライナ」あるいは「ヴクライナ」という形で登場し、ガリツィア地方、ヴォルィーニ地方、ポリーシャ地方を指す用語として用いられている。",
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"text": "13世紀にルーシ大公国が滅び、その中部・南部の地域がリトアニア大公国とポーランド王国に併合されると、「ウクライナ」は併合地の領域を表す地名としてリトアニア・ポーランドの年代記や公式文書などに使用されるようになる。14世紀から17世紀にかけて広義の「ウクライナ」はルーシ人が居住するガリツィア地方、ヴォルィーニ地方、ポジーリャ地方、ブラーツラウ地方とキエフ地方の範囲を示し、狭義の「ウクライナ」はキエフを中心としたドニプロ川の中流域を示している。",
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"text": "「ウクライナ」の地名の両義性は、ウクライナ・コサックのヘーチマン国家が誕生する17世紀半ば以後にも東欧の古文書にみられる。狭義の「ウクライナ」は当国家の支配圏を指しているが、広義の「ウクライナ」は当国家の支配圏外のルーシ人の居住地を意味している。しかし、ヘーチマン国家がロシアの保護国になることにより、「ウクライナ」はドニプロ川の中流域だけを意味するようになり、17世紀以降はルーシの本土を意味する小ロシア(小ルーシ)という地名の同義語となった。",
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"text": "19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ルーシ系の知識人による民族運動が発展していくにつれて、「ウクライナ」はルーシ人が居住する民族領域を意味する名称となり、「ルーシ人」は「ウクライナ人」という民族名に取って代わられた。1917年に成立したウクライナ人民共和国において初めて、「ウクライナ」という名称が正式な国号の中で用いられることとなった。",
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"text": "「ウクライナ」の語源については、「国」といった意味であるという説と、「辺境」といった意味であるという説がある。前者は「内地」を意味する中世ルーシ語の「ウクライナ (ѹкраина)」・「ヴクライナ (вкраина)」という単語に基づいており、後者は「僻地」を意味する近世のポーランド語の「オクライナ (okrajna)」や、ロシア語の「オクライナ (окраина)」という単語に基づいている。",
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"text": "「ウクライナ」/「ヴクライナ」に関連する単語の中で、最も基本的で、現在でも使用されている一音節の「クラーイ (край)」という単語には「地域」「隅」「境」「端」などの複数の意味がある。これから派生したウクライナ語の「クライーナ (країна)」という名詞は「国」を意味する。ウクライナ語では「ウ〜 (у-)」と「ヴ〜 (в-)」は「内〜」「〜の中で」を意味する前置格を支配する前置詞であることから、「ウクライナ」や「ヴクライナ」は「境界の内側」「内地」を意味する。一方、ロシア語では「クラーイ」から派生した「オクライナ (окраина)」という単語が「場末」「辺境」「はずれ」という意味をもっている。ロシア語では「オ〜 (о-)」と「ウ〜 (у-)」は「〜の側に」「〜の端に」を意味する前置詞なので、ロシア語話者は「ウクライナ」を「辺境地」と解釈しがちである。",
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"text": "紀元前10世紀頃より現在のウクライナの地には様々な遊牧民族が到来した。紀元前8世紀頃、黒海北岸に至った騎馬民族のスキタイ人は、紀元前6世紀頃にキンメル人を追い払って自らの国家を立て、紀元前4世紀にかけて繁栄した。黒海沿岸には古代ギリシアの植民都市が建設され、地中海世界やメソポタミア方面との交易を通じてペルシャ、古代ギリシア、ローマ帝国の文化的影響を受けた。紀元前3世紀頃、中央アジアより来たサルマティア人の圧力を受けてスキタイは衰退した。",
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"text": "2世紀頃に東ゴート族が王国を建て、3世紀中頃にクリミア半島に存続していたスキタイ人の国家を滅ぼした。これらの民族は交易や植民を盛んに行い、彼らが建設した多くの交易拠点はのちに都市国家へと発展した。4世紀から5世紀にかけて民族大移動の発端となるフン族がこの地を通り抜けた。6世紀にはアヴァール族が侵入し、同じ頃に移住してきたと考えられている東スラヴ人を支配した。スラヴ民族はウクライナ中央部と東部に居住し、キエフの建設と発展に重要な役割を担った。7世紀から8世紀にかけてはハザール可汗国の支配下にあった。",
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"text": "8世紀頃、ウクライナではルーシという国が誕生し、東スラヴ人のポリャーネ族の町キエフはその首都となった。882年にオレグ公(882年 - 912年)が率いる北欧のヴァイキングがキエフを陥落させると、ルーシはヴァイキング系のリューリク大公朝のものとなった。研究史上では、朝廷の中心がキエフに置かれていたことから、当時のルーシをキエフ・ルーシ、あるいはキエフ大公国と呼ぶ。オリハ大公女(945年 - 965年)、その子息スヴャトスラウ大公(965年 - 972年)、孫ヴォロディーミル大公(980年 - 1015年)、および曾孫ヤロスラウ大公(1019年 - 1054年)の治世はルーシの全盛期となった。キエフの大公朝は、周辺の東スラヴ人をはじめ、北西のバルト人と、北東のフィン・ウゴル人を征服し、支配領域を拡大させた。その結果、11世紀におけるルーシは約150万平方キロメートルの面積を誇る、欧州の最大の国家となった。ルーシは、北方のバルト海とフィンランド湾から南方のウクライナ草原まで、そして西方のカルパティア山脈から東方のヴォルガ川まで広がっていた。周辺の諸政権が滅ぼされ、全ての国土はリューリク朝の諸侯の間に分けられた。988年にヴォロディーミル大公のころ、ルーシ人は東ローマ帝国からキリスト教(のちの正教会)を受けて国教とした。この出来事はウクライナの運命を決し、ウクライナはキリスト教文化圏に属することとなった。12世紀にルーシは領土をめぐる諸侯の争いによりいくつかのリューリク系の諸公国に分裂し、キエフ大公の権威が衰退した。名目上でキエフはルーシの首都の役割を果たしていたが、諸公国は事実上の独立国となった。13世紀にルーシの国体は完全に退勢し、1240年代にモンゴル帝国の軍による侵攻(モンゴルのルーシ侵攻)で滅ぼされた。",
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"text": "キエフの衰退後、ルーシの政治・経済・文化の中心は、西ウクライナにあったハーリチ・ヴォルィーニ大公国へ移された。当国には、ヴォルィーニ地方、ハーリチ地方、ホールム地方、ベルズ地方、ザカルパッチャ地方、ポリーシャ地方、キエフ地方からなっていた。大公国の基礎は、1199年にリューリク朝の嫡流の血を引くロマン大公によって築かれた。1245年にロマンの子息ダヌィーロ大公は、モンゴル帝国のジョチ・ウルスに朝貢して従属したが、カトリックのヨーロッパの支援を期待してポーランド、マゾヴィア、ハンガリー、ドイツ騎士団と密約を交わし、独立戦争を計画した。1253年にローマ教皇インノケンティウス4世から王冠を受けてルーシの初王(ルーシ王)となり、ジョチ・ウルスとの戦いに挑んだ。1256年頃、モンゴルのクレムサ軍に勝利したダヌィーロ王は、20年後にルーシの首都となるリヴィウを創建した。しかし、1259年に欧州が約束した援軍がなかったため、ダヌィーロは再びジョチ・ウルスに服属せざるを得なかった。その後、ダヌィーロの息子レーヴ1世はモンゴル軍に従ってポーランドとリトアニアへの遠征に参加した。1308年にダヌィーロの曾孫アンドリーとレーヴ2世はマゾヴィアとドイツ騎士団と手を組んで独立戦争を再開したが、彼らの後継者ユーリー2世は無益な戦争をやめてジョチ・ウルスに従属した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 26,
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"text": "1340年にユーリー2世の暗殺により王朝が断絶すると、隣国のポーランド王国とリトアニア大公国が王国の相続権を主張し、ハールィチ・ヴォルィーニの領土継承をめぐる戦争を開始した。1392年にポーランドはハーリチ地方、ホールム地方、ベルズ地方を併合し、そのほかの領土はリトアニア大公国のものとなった。リトアニアはルーシ語を公用語とし、正教を国教にするなど、ルーシ人に対して宥和政策をとって次第にルーシ化したが、ポーランドは新たな領土のポーランド化を進めた。",
"title": "歴史"
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"text": "その結果、14世紀末におけるウクライナの地域は他国の支配を受け独立国としての地位を失った。リトアニアはキエフ地方、チェルニーヒウ地方、ヴォルィーニ地方を中心とする北部・中部を確保した。ポーランドはハーリチ地方とポジーリャ地方からなる西部を統治した。南部は、1447年にジョチ・ウルスから独立したクリミア汗国が支配するようになった。無人だった東部は次第にモスクワ大公国(のちのロシア)の領域に入った。1569年にポーランドとリトアニアがポーランド・リトアニア共和国という連合国家を形成したことにより、ウクライナの北部と中部はポーランド領となった。ウクライナではルーシ県、ポジーリャ県、ヴォルィーニ県、ブラーツラウ県、ベールズ県、キエフ県というポーランドの行政単位に設置され、1598年にブレスト合同により正教会は禁じられた。",
"title": "歴史"
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"text": "15世紀後半、リトアニア・ロシア・クリミアが接する地域、「荒野」と呼ばれるウクライナの草原において、コサックという武人の共同体が成立した。16世紀にコサックは、ザポロージャのシーチという要塞を築き、それを根拠地とし、共同体を「サポロージャ・コサック軍」と称した。16世紀から17世紀前半にかけてのコサックは、ポーランド・リトアニアの国王の臣下であったが、国王の支配が及ばない地域に住み、軍人の特権と自治制を有した。コサックは、ポーランド・リトアニアの援軍として働き、リヴォニア戦争(1558年 - 1583年)、ロシア・ポーランド戦争(1605年 - 1618年)、ポーランド・オスマン戦争(英語版)(1620年 - 1621年)、スモレンスク戦争(1632年 - 1634年)などに参加した。それと同時に、彼らは独断で隣国のモルドヴァ、クリミア、ロシアなどへ遠征したり、水軍としてオスマン帝国が支配する黒海沿岸部を攻撃したりした。さらに、コサックの一部は傭兵として全ヨーロッパで活躍したこともあり、三十年戦争にカトリック側のために戦った。軍人でありながら、貴族権を持たないコサックは、貴族の国家であるポーランド・リトアニアにおいて社会・宗教・民族的迫害を受け、しばしば反乱を起こした。その反乱の中で特に大きかったのは、コスィーンシキーの乱(1591年 - 1593年)、ナルィヴァーイコの乱(1594年 - 1596年)、ジュマイロの乱(1625年)、フェドロヴィチの乱(1630年)、スリーマの乱(1635年)、パウリュークの乱(1637年)とオストリャニンの乱(1638年)であった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 29,
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"text": "1648年、ボフダン・フメリニツキー将軍が率いるコサック軍は、ポーランド・リトアニアにおいてフメリニツキーの乱を起こした。反乱は次第にポーランドからウクライナの独立戦争に変容し、ウクライナの中部にコサック国家が誕生した。1654年に、ポーランドと戦い続けるために、コサックのウクライナはペラヤースラウ会議 (1654年)でロシアのツァーリの保護を受けたが、1656年にロシア人がポーランド人とヴィリニュス条約を結び単独和議したため、スウェーデン、トランシルヴァニアと同盟を締結した。1657年、コサックの将軍にイヴァン・ヴィホウシキーが選ばれると、ウクライナ国内で反頭領の反乱が勃発してウクライナ・ロシア戦争へ展開した。ヴィホウシキーは、1659年にコノトプの戦いで勝利を収めたが、ポーランドとの連合条約(ハヂャチ条約)を結んだためにコサック長老の支持を失った。荒廃時代と呼ばれるウクライナ内戦が始まり、その結果、コサック国家がドニプロ川を軸にして右岸ウクライナ、左岸ウクライナ、ザポロージャという地域に分かれた。右岸ウクライナのコサックはポーランド・リトアニアの支配下に置かれ、左岸ウクライナとザポロージャはロシアの保護下に置かれた。1667年にこのような分割はアンドルソヴォ条約によって公認された。1672年に新たな将軍ペトロ・ドロシェンコは、オスマン帝国の援助を受けてウクライナの統一を実行しようとした(トルコ・ポーランド戦争(1672-1676)、露土戦争 (1676年-1681年))が失敗し、バフチサライ条約 (1681年)がロシアとオスマン帝国の間で結ばれた。1689年にロシアとポーランド・リトアニアは永遠和平条約により最終的にウクライナを分割した。17世紀後半にポーランド人は右岸ウクライナにおいてコサックの自治制を廃止したが、ロシア人は左岸ウクライナにおいてコサック国家を保護国として存続させた。1709年に、大北方戦争の際、イヴァン・マゼーパ将軍が引率したコサックはスウェーデンと同盟を結び、ロシアの支配から離脱しようと図ったが、ポルタヴァの戦いに惨敗した。マゼーパの蜂起はロシアに口実を与え、ロシア政府はウクライナにおけるコサックの自治制を廃止する政策に乗り出した。1754年にロシアはロシア・ウクライナの関税国境を廃止し、1764年にコサック将軍の位(ヘーチマン)を廃止した。廃位させられた最後の将軍キリロ・ロズモウシキーはロシアの元帥に任じられた。1775年にロシア軍はザポロージャのシーチを破壊し、1781年にウクライナにおけるコサック自治制は廃止された。1783年、ロシア国内にならってウクライナで農奴制が敷かれた。また、1783年には、ロシアは15世紀から続いていたクリミア・タタール人を中心とするイスラム国家クリミア汗国を滅ぼし、クリミア半島を併合した。",
"title": "歴史"
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"text": "18世紀から19世紀にかけて、ロシア帝国とオーストリア帝国によるウクライナの抑圧政策と全ヨーロッパで流行したロマン主義・民族主義の高まりにより、ウクライナ人の民族運動も盛んになった。1798年に、イヴァン・コトリャレーウシキーによるコサック国家の再建を謳う叙事詩『エネイーダ』が出版された。この作品は、現代ウクライナ語の口語で書かれた初めての作品であった一方、ウクライナの民族的ルネサンスの序幕でもあった。1806年にハルキウ大学が設立されると、ウクライナの知識人によるウクライナの歴史・文化・民俗に関する研究が活発的に行われるようになった。1825年頃、近世のコサック軍記の編集物として『ルーシ人の歴史』が著され、ウクライナの文化人、歴史学者、作家などに大きな影響を与えた。ウクライナ語の完成が急がれたのもこの時期で、ロシア語正書法、ポーランド語正書法、そして独自の正書法など様々なものが生み出されたが、最終的にはタラス・シェウチェンコのまとめたウクライナ語文法が現代ウクライナ語の基礎となった。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "露土戦争におけるキュチュク・カイナルジ条約でロシア帝国のウクライナ統治が行われるようになる。ロシア帝国は常にウクライナにおけるロシア化政策を実行しており、ウクライナ語は当時はロシア語の一方言「小ロシア語」として扱われ、独自の言語としては公認されていなかった。1863年に文学作品を除きウクライナ語の書物の出版・流通を禁止するヴァルーエフ指令が出され、1873年にウクライナ語の書物の出版・流通・輸入を禁止するエムス法が定められた。",
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"text": "第一次世界大戦が勃発すると、ウクライナ西部を巻き込んで東部戦線が形成された。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 33,
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"text": "1917年に2月革命によりロシア帝政が崩壊し、ペトログラードでロシア臨時政府が成立した。それに伴い、同年3月14日にキーウでウクライナ政府としてフルシェーウシキー教授が指導するウクライナ中央議会が成立した。十月革命によってロシアの臨時政府が倒され、ロシア共産党のソビエト政権が誕生すると、11月7日に中央議会はキエフを首都とするウクライナ人民共和国の樹立を宣言したが、ウクライナ・ソビエト戦争が勃発したあと、1918年1月9日にウクライナ人民共和国(赤軍政権)の独立を宣言した。同年2月8日にロシアの赤軍はキエフを占領したが、2月9日にブレストでウクライナとドイツ、オーストリアの同盟が完結し、中央議会は同盟国の軍事力を借りてウクライナを解放し、3月に首都を奪い返した。4月29日にウクライナの保守階級によるクーデターの結果、中央議会に代わってスコロパードシキー大将の政権が成立した。",
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"text": "国号はウクライナ国に改められ、元首はヘーチマンとなった。当国は安定した発展を見せたが、ドイツの連合国への降伏により事態は一転し、1918年12月19日にスコロパードシキー政権が倒され、新たな執政内閣の政権が成立した。国号は再びウクライナ人民共和国となった。しかし、ドイツ軍の撤退によりウクライナ・ソビエト戦争が再開した。1919年1月6日、ソビエトのロシアは傀儡政権として首都をハルキウとするウクライナ・ソビエト社会主義共和国を樹立した。同年2月5日にソビエト軍はキエフを占領し、ウクライナ人民共和国の政府を亡命させた。1919年から1920年にかけてロシア内戦及びポーランド・ソヴィエト戦争が発生し、ウクライナの支配をめぐりウクライナ人民共和国軍、ソビエトの赤軍、ロシア帝政派の白軍、白軍を支援するフランス軍・イギリス軍・ポーランド軍、ネストル・マフノ率いる無政府主義者の黒軍、ウクライナのゲリラを中心とする緑軍などが争った。1920年冬に戦争がソビエトの赤軍の勝利で終結し、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国は西ウクライナを除きウクライナ全域を確保した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 35,
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"text": "一方、オーストリア゠ハンガリー帝国の解体に伴い、1918年10月19日に西ウクライナのガリツィア・ブコビナ地方に住んでいたウクライナ人はリヴィウを首都とする西ウクライナ人民共和国の独立を宣言した。しかし、11月1日にポーランドが当共和国へ侵入し、ウクライナ・ポーランド戦争が始まった。ポーランド側はフランス、イギリス、ルーマニア、ハンガリーなどによって後援されたが、西ウクライナ側は国際的に孤立していた。1919年1月22日に西ウクライナはウクライナ人民共和国に援助を求め、キエフでウクライナ人民共和国と合同したが、ウクライナ人民共和国の政府はソビエトの赤軍と戦ったため、援軍を派遣することができなかった。こうした中で、右岸ウクライナの併合を目論むポーランドが7月18日に西ウクライナ全地域を占領し、西ウクライナ人民共和国は滅亡した。その後、1920年4月に西ウクライナをめぐってポーランド・ソビエト戦争が勃発したが、1921年3月18日のリガ条約によって西ウクライナのポーランド支配が確定した。",
"title": "歴史"
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"text": "またクリミアにおいては、1917年、クリミア・タタール人を中心とし、ノーマン・チェレビジハンを初代大統領とする多民族・世俗国家クリミア人民共和国の建国が宣言されたが、1918年にモスクワのソビエト政府により占領され、滅亡した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 37,
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"text": "1922年12月30日にウクライナ社会主義共和国は、ロシア、ベラルーシ、ザカフカースとともに同盟条約によってソビエト連邦を結成した。諸共和国は平等の立場で新しい国家連合を形成したが、その国家連合はソ連憲法制定によってロシアを中心とする中央集権的なシステムに変遷し、その他の独立共和国はロシアの自治共和国となった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 38,
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"text": "1923年から1933年にかけて、ウクライナでのソビエト政権を磐石なものにするために、ソ連政府・共産党はウクライナ化政策を実行した。ウクライナ語教育の普及や政府諸機関へのウクライナ人の採用などにより、政権とウクライナ人の間に存在した敵意をなくそうという試みであった。しかし、1930年以降、党内からこの政策を厳しく批判する声が上がり、1933年にウクライナ化は「ウクライナ民族主義的偏向」として中止された。ウクライナ化を指導した政治家、知識人、文化人は逮捕・粛清され、ロシア化の時代が再開した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "ソビエト連邦下のウクライナは拙速な農業の集団化政策などにより2度の大飢饉(1921年 - 1922年、1932年 - 1933年、後者はホロドモールと呼ばれ2006年にウクライナ政府によってウクライナ人に対するジェノサイドと認定された。アメリカ、カナダ、イタリアなどの欧米諸国では正式にジェノサイドであると認定されているが、国際連合や欧州議会では人道に対する罪として認定している)に見舞われ、推定で400万から1000万人が命を落とした。この「拙速な集団化政策」は意図してなされたものであるという説も有力である。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "この背景には、レーニンやスターリンらによる農民への敵視政策があった。共産党政府のとった土地の共有化を農民は拒むため、多くの住民が農民であったウクライナの統治は共産党政府にとって大きな障壁となっていた。そのため、一説によるとレーニン、スターリンらにとってはウクライナの農民の根絶が理想であったともされている。スターリンは、農民問題の解決は至急の課題であると明言している。また、この時期に前後し、ウクライナでは農民、すなわちウクライナ人への懐柔政策と弾圧政策が交互にとられた結果、ウクライナ共産党幹部全員をはじめ多くの人間が粛清された。最終的には、ウクライナ語使用の制限など弾圧政策が長くとられることになった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "大粛清はウクライナから始められ、1937年には首相のパナース・リューブチェンコが自殺した。この年、ウクライナ社会主義ソビエト共和国は国号を「ウクライナ・ソビエト社会主義共和国」へと変更した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "一方、西ウクライナはポーランド、ルーマニア、チェコスロバキアによって分割された。1921年から1939年にかけてポーランドはヴォルィーニ・ハルィチナー地方、ルーマニアはブコビナ地方、チェコスロバキアはザカルパッチャを支配した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "1939年8月23日にソ連とナチス・ドイツは不可侵条約を締結し、東欧における独ソの勢力範囲を定めた。同年9月1日に始まったドイツのポーランド侵攻で第二次世界大戦が勃発。続いて9月17日にソビエト連邦のポーランド侵攻が行われた。その結果ポーランドは分割され、ウクライナ人が多数派だった西ヴォルィーニ地方とガリツィア地方はウクライナ・ソビエト社会主義共和国(SSR)に併合された。ドイツがフランスを占領したあと、1940年6月28日にソ連はルーマニアにベッサラビアと北ブゴヴィナの割譲を要求した。ルーマニアはこの要求を呑み、北ブゴヴィナとベッサラビアはウクライナSSRに併合された。その後、北ブゴヴィナと南ベッサラビアを除く地域にはモルドバSSRが設置された。1940年7月14日にソ連軍はバルト三国を占領し、1941年6月1日までにドイツ軍はバルカン半島を支配下に置いた(バルカン戦線 (第二次世界大戦))。独ソ両国は共通の国境と、征服された地域を「解放」するために互いに攻め入る口実を得た。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "1940年12月18日、ナチス・ドイツはバルバロッサ作戦を秘密裏に決定し、1941年6月22日にソ連へ侵略した。それに呼応してイタリア、ルーマニア、ハンガリーなどはドイツ側に与して派兵など軍事的支援を行った。独ソ戦は約4年間続き、ウクライナを中心とした地域に行われた。当初、ウクライナ人はソビエト連邦共産党の支配からウクライナを解放してくれたドイツを支援したが、ドイツはウクライナの独立を承認せず、ソ連と同様の支配体制を敷いたため、ウクライナ人の反感を買った。1941年9月19日にドイツ軍はキエフと右岸ウクライナを占領し、10月24日にハルキウと左岸ウクライナを奪い取り、1942年7月までにクリミア半島とクバーニ地方を支配下に置いた。1943年2月、ソ連軍はスターリングラード攻防戦においてドイツ軍の侵攻を食い止め、同年8月にクルスクの戦いでドイツ軍から独ソ戦の主導権を奪った。1943年11月6日にソ連はキエフを奪還し、1944年5月にかけて右岸ウクライナとクリミアを奪還した。同年8月にソ連軍は西ウクライナを完全に支配下に置き、ドイツが占領するか、枢軸国に参加していた東欧・中欧諸国への侵攻を開始した。1945年5月2日にソ連はドイツの首都ベルリンを陥落させ、5月8日にドイツ側の無条件降伏により独ソ戦が終結した。ソ連側の勝利によってウクライナにおける共産党の支配が強化され、国際社会におけるソ連の役割が大きくなった。ソ連軍が占領した東中欧諸国ではソ連の衛星国が樹立された。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦においてウクライナはハリコフ攻防戦など激戦地となり、莫大な損害を蒙った。戦争の犠牲者は800万人から1,400万人とされている。ウクライナ人の間では5人に1人が戦死した。バビ・ヤール大虐殺などナチス・ドイツによるホロコーストも行われ、ウクライナ系のユダヤ人やロマ人などの共同体は完全に破壊された。ソ連政府はウクライナ在住のドイツ人やクリミア・タタール人などの追放を行った。独ソ両軍の進退によってウクライナの地は荒れ果てた。700の市町と、約2万800の村が全滅した。独ソ戦中にウクライナ人はソ連側の赤軍にも、ドイツ側の武装親衛隊(第14SS武装擲弾兵師団)にも加わった。また、ウクライナ人の一部は反ソ反独のウクライナ蜂起軍に入隊し、独立したウクライナのために戦った。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "白ロシア共和国(現・ベラルーシ)とともに、ソ連とは別に国際連合加盟国として国連総会に議席を持った。1948年から2年間と1984年から2年間は非常任理事国も務めている。しかし現実は、ウクライナは相変わらず「ソ連の一部」止まりであり、「ロシア化」が進められた。1956年のハンガリー動乱や1968年のプラハの春の際は、ウクライナで威嚇のための大軍事演習が行われたり、ウクライナを経由して東欧の衛星国へ戦車が出撃したりしている。1953年のスターリンの死後、大粛清の犠牲になった多くのウクライナ人の名誉回復がなされ、また徐々にウクライナ文化の再興が水面下で活発化した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 47,
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"text": "1954年、ニキータ・フルシチョフ政権により、クリミア半島(クリム半島)がロシアからウクライナに移管された。これは、ポーランド・リトアニア共和国に対抗するためにロシアとウクライナ・コサックの間で結ばれたペレヤスラフ条約締結300周年記念を祝うためであった。",
"title": "歴史"
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"text": "1960年代には体制に批判的な、または「ウクライナ的な」文学も登場した。フルシチョフの非スターリン化の時代には、ウクライナ・ソビエト政府もこのような動きを少なからず容認した。しかしレオニード・ブレジネフ政権の「停滞の時代」になると、1972年にウクライナ人知識階級が大量に逮捕されるという事件が起こる。冷戦で対立していた東西ヨーロッパ諸国が人権尊重などを謳ったヘルシンキ宣言(1975年)を受けて、1976年には人権擁護団体「ウクライナ・ヘルシンキ・グループ」が結成されるが、それも弾圧された。",
"title": "歴史"
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"text": "ソ連支配下のウクライナにおいて大部分のウクライナ農民は、1970年代まで国家の社会保障を受けることもできないでいた。収穫の大部分は相変わらず国家によって搾取され、スターリンの大粛清の恐怖がなくなった今、共産党の幹部たちは自らの特権階級(ノーメンクラトゥーラ)としての地位を不動のものとする。非効率な計画経済、冷戦下における膨大な軍事費・科学技術費は、ウクライナの近代化を進めたとはいえ、人々の生活は一向に改善する気配がなかった。政治の腐敗、経済的矛盾は深刻化していったにもかかわらず、隠蔽され続けた。",
"title": "歴史"
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{
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"tag": "p",
"text": "1986年4月26日、チェルノブイリ原子力発電所事故が発生し、国内外に大きな被害が及んだ。ウクライナ国内にあたる地域には220万人ほどが住んでいた。事故後、汚染地域の外にスラブチッチという街が作られ、かつて原発で働いていた者たちなどを住まわせた。国際原子力機関(IAEA)と世界保健機関(WHO)によって行われた調査によって明らかにされたことによると、この事故により直接的に56名が亡くなり、それ以外にもこの事故を原因とする癌によって4,000名ほどが亡くなったといわれる。",
"title": "歴史"
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"text": "1990年に一度原発を全廃したが、1993年より原発を再び稼働させた。",
"title": "歴史"
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"text": "ソ連はミハイル・ゴルバチョフ政権下で「ペレストロイカ」の時代を迎えており、ウクライナでは「ペレブドーヴァ」と呼ばれる改革・開放を求める運動が起きた。1960年代頃から民族文化運動を続けてきたウクライナ人文学者たちは、ウクライナ語の解放・普及を訴えた。ソビエト政府によってその存在を否定され、弾圧され続けてきたウクライナ・カトリックは水面下で根強く活動を続け、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の強い励ましを受けた。そしてついに1989年、ウクライナ語の公用化(10月)、ユニエイトの公認化が実現した。東欧における民主革命の成功も受けて、ウクライナ民族運動は最高潮に達していく。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "1989年9月、作家連盟などを中心に民族主義大衆組織「ペレストロイカのための人民運動」(通称「ルフ」)が結成される。1990年1月22日(1918年の中央議会によるウクライナ独立宣言の日)にルフの呼びかけで、大勢のウクライナ人は手と手をつないで長い「人間の鎖」を作り上げた。3月にはウクライナにおいて民主的な最高会議(国会)議員選挙が実現し、ルフを中心とする民主勢力が大きな勢力を占めた。7月、最高会議は「主権宣言」を採択。国家の様々な権利をソ連から取り戻すことを宣言し、非核三原則も採択した。学生や炭鉱労働者によるストライキやデモは、民主勢力をさらに後押しする。ウクライナ共産党は分裂・衰退し、民主勢力へ走る者も出た。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "崩れ行くソ連を完全に見限り、1991年8月24日(後に独立記念日となる)に最高会議はウクライナの独立を宣言、国名から「ソビエト社会主義共和国」を削除した。12月の国民投票によっても、圧倒的に独立が支持され(ウクライナ国内の多くのロシア人も支持した)、レオニード・クラフチュクがウクライナ初代大統領に選ばれた。1917年の独立革命の挫折以来、幾多の試練を乗り越えて、ついにウクライナの独立は達成されたのである。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "1991年、ソビエト連邦の崩壊に伴いソビエト最高会議の元から独立して新たな国家ウクライナとなり、ベロヴェーシ合意の後独立国家共同体(ウクライナ語 СНД ;CIS)の創立メンバーの一員となった。独立ウクライナは旧ウクライナ人民共和国の中枢機関であったウクライナ中央議会の正当な後継者であることを意識し、国旗や国章の「トルィズーブ」(三叉の鉾)などは同共和国時代のものが採用された。この独立をもって、ウクライナはキエフ・ルーシ崩壊以降ウクライナ史上最大の領土を手に入れた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "2004年、大統領選挙の混乱からオレンジ革命が起き、第3回投票で勝利したユシチェンコが2005年1月、大統領に就任した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "2005年3月、ロシア側より天然ガスの料金を国際的な市場価格に合わせてそれまでの優遇価格より倍以上に引き上げる要求があり両国が対立、2006年にかけて欧州各国を巻き込んだ騒動となった(「ロシア・ウクライナガス紛争」参照)。その後、野党勢力により内閣不信任案が可決される。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "2006年6月22日、ウクライナ最高議会選においてユシチェンコ大統領派の与党「われらのウクライナ」が惨敗。これを受けてティモシェンコ率いる「ティモシェンコ連合」と「われらのウクライナ」およびウクライナ社会党の3政党は議会多数派を組む合意が成立した。しかし、その後は人事をめぐり議論は紛糾、3政党間の亀裂は深まっていた。議会選挙で最大勢力となった地域党が議場を封鎖する間に社会党は連合を離脱した。地域党、ウクライナ共産党の支持を受け、社会党党首モロスが最高会議議長に就任した。その後、この3党は議会多数派の合意書に調印し、大統領に対し、地域党党首ヤヌコーヴィチの首相指名を提案。この結果、8月にヤヌコーヴィチ内閣が成立した。しかし、大統領との権限争いで議会も分裂し、両派の妥協の産物として最高会議は解散し、2007年9月30日に臨時最高会議選挙が行われた。12月、ティモシェンコ連合とわれらのウクライナが連合する形でティモシェンコ内閣が発足した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "2010年、大統領選挙にてヤヌコーヴィチとティモシェンコが激突。決選投票の結果、ヤヌコーヴィチが勝利し、ウクライナは再び親露派に率いられることとなった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "2013年11月にヤヌコーヴィチ政権が欧州連合(EU)との政治・貿易協定の調印を見送ったことで、親欧米派や民族主義政党全ウクライナ連合「自由」などの野党勢力などによる反政府運動が勃発した。2014年1月後半より、抗議者の中に右派セクターなどの武力抵抗を辞さないとする立場のグループが現れ、これを制圧しようとする治安部隊との衝突が発生、双方に死者が発生した。2月22日にヤヌコーヴィチ大統領が行方をくらませたことを受け、ヴェルホーヴナ・ラーダ(最高議会)にて、親露派政党の地域党と共産党を含む議会内全会派がヤヌコーヴィチの大統領解任(賛成328票中地域党36票、共産党30票)と大統領選挙の繰り上げ実施を決議し、オレクサンドル・トゥルチノフ大統領代行とアルセニー・ヤツェニュク首相がヴェルホーヴナ・ラーダにおいて承認され、新政権が発足した(2014年ウクライナ騒乱)。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "親露派のヤヌコーヴィッチ政権が崩壊したことを理由とし、3月1日にロシア上院がクリミアへの軍事介入を承認。ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は、ウクライナの極右民族主義勢力からクリミア半島内のロシア語話者およびロシア系住民を保護するとの名目で本格的に軍事介入を開始した。ロシアは当初否定していたが、2月後半の時点から「現地クリミア住民による自警団」に偽装させたロシア軍部隊をクリミア全土に進軍させており、西側メディアは国章をつけていない軍服を着てバラクラバで覆面した兵士たちを「ロシア軍部隊とみられる謎の武装集団」として報道していた(ロシアのクリミア侵攻)。このロシアの侵攻に対して、ウクライナ新政権と親欧米派の住民は侵略であるとして強く反発した一方、クリミア自治共和国およびセヴァストポリ特別市のロシア系住民の中にはこれを歓迎するものも少なくなく、ウクライナ国内法を無視する形で、クリミア自治共和国最高会議(議会)とセヴァストポリ市議会は3月11日にクリミア独立宣言を採択し、3月16日にウクライナからの独立とロシアへの編入を問う住民投票をウクライナ国内法に違反する形で実施した。そもそも他国軍が展開する中という状況下に加え、様々な違法行為、投票率と投票結果への改竄が指摘されるも、同結果を根拠に、翌17日にウクライナからの「クリミア共和国」の独立とロシアへの編入を求める決議を採択した。ロシアのプーチン大統領は同日中にクリミア共和国の主権を承認したうえで、翌18日中にクリミアのロシアへの編入要請受諾を表明し、クリミアのアクショーノフ首相とともに編入に関する国家間条約に署名した(ロシアによるクリミアの併合)。5月12日にはドネツィク州、ルガンスク州において、同地の独立を宣言する勢力が現れた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "欧米諸国や日本はこれらロシアの動きが国際法違反の侵略で、ウクライナからのクリミアの独立とロシアへの編入は無効であるとして、ロシアへの制裁を実施した(2014年クリミア危機)。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "2014年3月以降、ウクライナ東部・南部、特にドネツィク州、ハリコフ州、ルガンスク州、オデッサ州において、反政府派と政府側との間で衝突が発生し、親露的な分離独立派の武装勢力が州庁舎や警察機関などを占領した。その際、イーゴリ・ギルキンなどロシアの特殊部隊の兵の参加が複数確認されていることから、これらの衝突は一般のウクライナ国民による自発的反乱とみなすのは難しく、実際に2014年4月以降、政府側がこのようなロシアの支援を受ける武装勢力をテロリストと見なし、軍事行動を伴う「反テロ作戦」を開始することとなった。以降、分離武装勢力もロシアから流入したと見なされている兵器を用いて、政府側軍用機を撃墜するなど事実上の戦争状態が続いている。なお、日本を含む欧米諸国およびウクライナは、衛星写真や各報道などを根拠に武装勢力にロシアからの兵の投入、戦闘員と兵器等武器供与の支援があるとして非難を続けているが、一方でロシアは、自国民があくまで自発的に戦闘に参加しているだけであるとしてロシア連邦軍の直接侵攻は否定し続け、両者間の意見の対立が続いていた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "2014年6月に大統領選挙によって選ばれたペトロ・ポロシェンコが大統領に就任。以降も引き続き東ウクライナでは親欧米の政権側と親露の分離独立派(ノヴォロシア人民共和国連邦)による戦闘(ドンバス戦争)が続いており、一時的にウクライナ政権側と分離独立派、ロシア、ドイツ、フランスによる一時停戦案が結ばれるも、すぐに政府軍による反テロ作戦が再開され、各地で市街戦を含む戦闘が行われ、多数の民間人が犠牲となっている。9月5日にはベラルーシのミンスクで、ロシア、ウクライナ、OSCE、分離独立派の代表者によって、停戦と政治解決を目指すミンスク・プロトコルに調印され(ミンスク議定書)、追って9月19日には治安面解決の詳細を記したミンスク・メモランダムが調印された。以降、欧州安全保障協力機構のウクライナ特別監視ミッションが、2014年9月のミンスク合意の執行を監督することとなった。2014年10月26日のウクライナ最高議会選挙では、事実上、親欧米派が勝利したが、ミンスク合意のあとも戦闘は続き、結果として一般市民を含む死者数が2014年7月17日に発生したマレーシア航空17便撃墜事件(クラボボ村)なども含めれば5,000人以上に上るなど、欧州では旧ユーゴスラビア内戦以来の死者数を出した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "2015年2月11日、ウクライナ、ロシア、フランス、ドイツは再びミンスクでサミットを開催し、ウクライナ東部の紛争終結に向けた体制の枠組みについて再度の合意が行われた(ミンスク合意2)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 66,
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"text": "2019年にウクライナの大統領に就任したウォロディミル・ゼレンスキーは2021年3月、クリミア半島の占領解除とウクライナへの再統合をめざす国家戦略を承認し、国際的な枠組み「クリミア・プラットフォーム」を発足させてクリミア奪還をめざす計画を進めていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "ウクライナのNATO加盟をめぐってロシアとウクライナの緊張が高まり、アメリカのバイデン大統領がプーチン大統領と無侵略を条件に会談をしたが、「親ロシア派が支配するところに軍を送る」と発言し、その会談は白紙となった。日本時間2022年2月24日、ロシアのプーチン大統領が「特別な軍事作戦を実施する」とロシア国民へ向けテレビ演説を行った後、ウクライナ全土へ空襲やミサイル攻撃を仕掛けたことにより侵攻が始まった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "ウクライナの政体は、司法・立法・行政の三権が分立する議会制民主主義(共和制)であり、大統領制と議院内閣制を並立した形の半大統領制を採用している。国家元首である大統領は、5年任期で国民投票によって選出され、首相や政府の閣僚を任命する権限を持つが、それには議会の承認を得なければならない。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "国際指標である「腐敗認識指数」の国別ランキングでは、2021年度の時点において122位の状況であり、政治、軍事組織による長年の汚職と腐敗問題が続いている(腐敗認識指数は順位が低いほど腐敗認識される)。",
"title": "政治"
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{
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"tag": "p",
"text": "ウクライナの国会は、最高議会であり、一院制で450議席である。全議席は全国区の比例代表制によって選出されるが、政党もしくは選挙ブロックは全投票の3%以上を獲得しなければ議席を得ることができない。議員の任期は5年。議会は立法、国際協定の批准、予算の裁可および首相の承認・罷免、閣僚の承認・罷免を行う。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "2012年の選挙で議席を獲得した政党は5党。それは、親露派で東部・南部を地盤とする地域党および社会主義派のウクライナ共産党(与党)、ならびに親欧米派で中部や西部を地盤とする全ウクライナ連合「祖国」、ウダール、さらに、西部のガリツィア地方を地盤とする民族主義派の全ウクライナ連合「自由」(野党)である。",
"title": "政治"
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"paragraph_id": 72,
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"text": "2004年、レオニード・クチマ大統領の任期満了に伴い大統領選挙が行われた。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "クチマ大統領の後継ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ首相と、野党指導者ヴィクトル・ユシチェンコ元首相の一騎討ちという形になった。10月31日の第1回投票ではユシチェンコが首位に立つが、わずか15万票差であった。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "11月21日の決選投票の開票の結果、ヤヌコーヴィチの当選が発表される。しかし、ユシチェンコ陣営は11月22日夜、決選投票において全国で1万1000件の不正が行われ、第一回投票の5倍に膨らんだと、政権側の選挙違反を糾弾した。これにより首都キエフを中心に、ストライキなどの大規模な政治運動が起こった(オレンジ革命)。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "欧米諸国の圧力もあって再選挙が行われることとなり、12月26日に実施された再決選投票の結果、ユシチェンコが52.12%、ヤヌコーヴィチが44.09%の得票となり、ユシチェンコ元首相の当選が確実になった。ヤヌコーヴィチ陣営はユシチェンコ陣営に不正があったとして最高裁に提訴したが野党による政府施設の封鎖が起こり、30日には提訴が却下された。翌2005年1月23日にユシチェンコ元首相は正式に大統領に就任し、この争いは一応の決着を見た。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "なお、この選挙期間中、欧米のマスメディアはロシア人とウクライナ人の間で民族的対立が激化してウクライナ国民に分裂が生じているように報じた。この選挙ではアメリカ合衆国のウクライナ系政治団体の資金援助やオープン・ソサエティ財団の公然の介入が行われており、ウクライナ自身の革命というよりは外国勢力の干渉の結果だったという分析もある。一方、干渉があったとはいえ、それだけでなし得たものではなく実際に国民の間に従来の政権に対する不満があったことは大きな要素の一つであった。また、アメリカが反露派を支援した背景には、ロシア帝国時代やソ連時代にロシア勢力から弾圧を受けた非常に多くのウクライナ人がアメリカに亡命を余儀なくされたという歴史上の経緯も関係しているという分析もある。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "つまり、アメリカに亡命したウクライナ人の作った組織がアメリカ政府や関係者に働きかけ、反露的な勢力を支援させるということは不自然ではないというのである。しかし、このようなロビー活動が表沙汰になることは少なく、こうしたもっともらしい分析もこれまでの経緯から類推した憶測の域を出ない。いずれにせよ「アメリカ側の都合だけで革命が推進された」「オレンジ革命は悪しき旧共産主義的な独裁体制からの民主化を達成した」というように単純化できる問題ではない。その後、ウクライナではしばしば「革命」が叫ばれることが習慣化しており、2007年にも反ユシチェンコ派の議員が「革命」を実行している。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 78,
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"text": "大統領選挙が2010年1月から2月にかけて行われ、ヴィクトル・ヤヌコーヴィチが大統領に当選した。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "大統領選挙が2014年5月25日に行われ、ペトロ・ポロシェンコが大統領に当選した。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "ポロシェンコ-ヤツェニュク政権は総選挙後の内閣組閣において、財務相に在ウクライナ米国大使館での勤務経験があり、未公開株投資ファンドの代表を務めるアメリカ人のナタリヤ・ヤレスコ、経済発展・貿易相に投資銀行に勤務するリトアニア人のアイバラス・アブロマビチュス、保健相にグルジア人のサーカシビリ政権の元閣僚で米ニューヨークを拠点としているアレクサンドレ・クヴィタシヴィリの3人の外国人も入閣した。いずれも、任命の数日前にウクライナ国籍を取得している。顧問にはジョージアの前大統領で強権的な独裁者としての振る舞いからジョージアでの地位を失ったミハエル・サーカシビリが就任した。その他、エカ・ズグラゼやアデイシヴィリなど、サーカシビリの盟友が多く要職についていた。しかし、その後ポロシェンコ大統領との確執から相次いで辞任し、サーカシビリ自身もウクライナ国籍を剥奪されて国外追放された。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "大統領選挙が2019年3月から4月にかけて行われて決選投票の末に、ウォロディミル・ゼレンスキーが現職のペトロ・ポロシェンコを破ってウクライナの第6代大統領に当選した。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "ウクライナとロシアは歴史上複雑な関係を持つが、ソ連崩壊後から現在に至るまで緊張が続いている。",
"title": "国際関係・外交"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "ユシチェンコ大統領の就任当初は、ロシアよりもEU諸国との関係を強化することを目指していた。同様の立場を取るグルジア、アゼルバイジャン、モルドバとともにGUAM(4か国の頭文字)と呼ばれる連合を結成。同国自身が将来のEU加盟を希望し、2017年時点でもそのための外交努力を続けている(後述)。",
"title": "国際関係・外交"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "一方で、ウクライナ経済はロシアとの関係を悪化させたことなどを理由に急速に悪化した。大統領はロシアとの関係に対する見解の相違などからティモシェンコ首相を解任。その後は頻繁にロシアを訪問し、ロシアとの政治的・経済的関係を強化させようとするなど、ロシアとの関係修復も模索してきた。2010年の大統領選挙で当選したヴィクトル・ヤヌコーヴィチ大統領の誕生により、ロシアとの関係改善がより一層進展するものと見られていた。",
"title": "国際関係・外交"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "ヤヌコーヴィチ政権時、ウクライナは北大西洋条約機構(NATO)やロシア主導の集団安全保障条約(CSTO)のような軍事同盟加盟を目指さない中立主義を法律で制定した。",
"title": "国際関係・外交"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "しかし、2013年末から生じたウクライナ騒乱に続き、ロシアによるクリミア併合・東部不安定化以降、ロシアとの関係は再度悪化した。新政権は、一方でアメリカ合衆国やEUを中心とした欧米諸国との関係を重視している。ポロシェンコ-ヤツェニュク政権は、在ウクライナ米国大使館勤務経験のあるアメリカ人やグルジアのサーカシビリ政権の側近らを要職に就かせるなど、親欧米・反露路線を鮮明にしている。",
"title": "国際関係・外交"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "なお、2015年末時点でウクライナはロシアに対し30億ドルの負債を負っており、今後、国際裁判所で争われることとなっている。",
"title": "国際関係・外交"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "また、司法分野においては、ロシアに対し、2014年6月頃にルハーンシク州内の戦闘中に拘束され、ロシアに連れ出され勾留されたウクライナ人女性のナジーヤ・サウチェンコ(英語版)の即時釈放を訴えている。ロシア当局は、同女性がウクライナ西部においてロシア人ジャーナリスト2名を殺害した嫌疑があると主張していたが、ウクライナをはじめアメリカ、ドイツ、フランスなどの各国政府、欧州議会などがロシアによるサウチェンコの拘束には根拠がないとして、ミンスク合意に従ってロシアはサウチェンコを解放すべきとした。",
"title": "国際関係・外交"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "ウクライナとロシアの旅客流動は最大であったが、2015年10月以降、ウクライナとロシアを結ぶ航空旅客便は全便の運行が停止している。",
"title": "国際関係・外交"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "また、2017年にはポロシェンコ大統領の大統領令を通じて、対露制裁の一環で、VKontakte、Odnoklassnikiなどのロシア系SMSサービス、Yandex、Mail.ruなどのロシア系のウェブサイトへのアクセスを禁止した。",
"title": "国際関係・外交"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "ウクライナ政府はロシアからの天然ガス輸入を2016年は打ち切り、2017年も再開しない見通しであると表明している。",
"title": "国際関係・外交"
},
{
"paragraph_id": 92,
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"text": "さらに2018年9月、1997年にロシアと締結した友好協力条約を延長しないとロシア政府に通告した。",
"title": "国際関係・外交"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "2021年秋からロシア陸軍が兵力を大幅に増強しており、2022年初頭にはウクライナ侵攻の可能性もあると報じられた。",
"title": "国際関係・外交"
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{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "また、2022年2月には東部の親露派支配地域であるドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国をロシアが承認した(ドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国の独立承認に関するウラジーミル・プーチンの演説)。両国関係は非常に緊迫し、ロシアのプーチン政権は同月24日、『特別軍事作戦の実施について』演説に続いてウクライナへの侵攻を開始し、ゼレンスキー大統領はロシアとの断交を発表した。",
"title": "国際関係・外交"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "ポロシェンコ政権はEU加盟を希望していた。具体的な加盟交渉に至ってはいないが、東欧諸国を対象とするEU安定化・連合プロセスの要となる連合協定について、EU加盟国で唯一未批准だったオランダの上院が2017年5月に批准を承認した。同年6月11日からは、イギリスとアイルランドを除くEU加盟国へウクライナ国民が90日の査証(ビザ)なし渡航が可能になった。",
"title": "国際関係・外交"
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{
"paragraph_id": 96,
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"text": "2021年5月17日のモルドバ、ジョージアとの三国外相会談で、将来的なEU加盟の期待を明確にし、共同の覚書に署名した。この会談以降、三国をいわゆる'Associated Trio'(もしくは'Association Trio(英語版)'とも。和訳で「共同三国」など)と呼称するようになった。",
"title": "国際関係・外交"
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"paragraph_id": 97,
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"text": "ロシアによるクリミア編入宣言や東部ウクライナ紛争への関与疑惑に対して、欧米諸国は対露制裁でウクライナを支援。アメリカ軍はウクライナ軍へ兵器供給と訓練を実施し、こうした軍事支援はロシアによる侵攻後に本格化した。",
"title": "国際関係・外交"
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{
"paragraph_id": 98,
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"text": "ロシアによる侵攻が始まった直後の2022年2月28日、ウクライナはEUへの緊急加盟を要請した。",
"title": "国際関係・外交"
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"paragraph_id": 99,
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"text": "トルコ企業600社がウクライナに進出してインフラ建設や再生可能エネルギー事業を手掛けているほか、トルコは軍事用無人航空機「バイラクタル TB2」を輸出し、ウクライナ軍が東部紛争の偵察に投入している。ウクライナはトルコの無人攻撃機「アキンチ」にエンジンやプロペラを供与している。ゼレンスキー大統領は2021年4月にトルコを訪問し、軍事産業での協力関係を強調した。こうした両国の接近は、クリミア・ウクライナ東部紛争でロシアと対立するウクライナと、シリア内戦やリビア内戦でロシアと別の勢力を支援するトルコの利害が一致していることが背景と指摘されている。",
"title": "国際関係・外交"
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"paragraph_id": 100,
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"text": "日本はユシチェンコ大統領期の2005年3月に同国とのODA円借款契約を初めて締結しているが(190億9200万円、償還期間30年)、ヤヌコーヴィチ大統領およびティモシェンコ首相の時期は契約を行っておらず、2014年6月7日にポロシェンコが大統領となり9年ぶりに契約の締結を再開した。2014年7月には100億円(償還期間20年間)、2015年6月に1081億9300万円(同40年間)、12月に369億6900万円(同20年間)と、巨額の資金貸付けが行われた。",
"title": "国際関係・外交"
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"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "2005年8月1日より日本国民がウクライナに入国する際のビザ(査証)を短期90日までの滞在(ただし、就労を伴わない活動に限る)に限って、その取得を必要としない制度が開始された。しかしながら、2014年7月時点、ウクライナ国民の日本への入国には依然としてビザが必要である。",
"title": "国際関係・外交"
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"paragraph_id": 102,
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"text": "2022年3月1日、ウクライナ日本大使館がロシアと戦う日本人を「義勇兵」としてTwitter上にて募集。約70人の日本人が志願した。",
"title": "国際関係・外交"
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"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "2022年3月16日、ウクライナのゼレンスキー大統領がアメリカ合衆国連邦議会で行った演説で、「真珠湾攻撃を思い出して欲しい。あのおぞましい朝のことを」と訴え、ロシアのウクライナ侵攻を、1941年の太平洋戦争劈頭に日本がハワイの真珠湾を奇襲したことになぞらえ、日本のネットユーザーから批判を受けた。",
"title": "国際関係・外交"
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"paragraph_id": 104,
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"text": "同年4月1日、ウクライナ政府公式Twitterにて『現代ロシアのイデオロギー』と題した動画を投稿。ユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)を行ったナチス・ドイツの独裁者ヒトラーやイタリアのファシズム指導者ムソリーニと共に昭和天皇の顔写真を並べ、「ファシズムとナチズムは1945年に敗北した」と記した。同年同月の24日、「昭和天皇をヒトラーと同一視した」となど批判が高まった事態を受け、動画から昭和天皇の顔写真を削除、Twitterで謝罪した。",
"title": "国際関係・外交"
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"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "同年4月12日、日本の公安調査庁は「アゾフ大隊はネオナチ」と長年にわたり掲載していた記事を削除(404error-記事にアクセスできません)。公調は「8日にHPで示した以上の見解はない」とした。",
"title": "国際関係・外交"
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{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "同年10月7日、ウクライナ最高議会は「北方領土をロシアに占領された日本固有の領土と確認する」決議を採択した。ロシアの侵略に対する日本との協力関係を期待したものと見られる。",
"title": "国際関係・外交"
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"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "2013年に、ヤヌコヴィッチ政権は中国と「中国ウクライナ友好協力条約」を締結している。",
"title": "国際関係・外交"
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{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とは関係が深く、長年にわたりICBMなどの兵器技術提供も行っていた。2022年7月13日、北朝鮮がドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国の国家承認をした事を理由に、ウクライナは北朝鮮との国交を絶った。",
"title": "国際関係・外交"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "ウクライナ大統領府が、ロシアへの抗戦中の2022年9月13日に公表した国家安全保障の基本計画は、「自衛のための軍事力」保有を国防の根幹と定めるとともに、欧米諸国やトルコに支援を求め、ロシアが要求した「非軍事化」を否定した。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "ウクライナは欧州連合(EU)だけでなく欧米諸国の軍事同盟である北大西洋条約機構(NATO)への加盟を希望しており、NATOは、ロシアの侵略に対する防戦を支援する「NATOウクライナ理事会」を設置している。NATOは将来の加盟に向けて、ウクライナに汚職対策や人権尊重といった改革を求めている。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "ウクライナ軍は、陸軍、海軍、空軍、空中機動軍(空挺部隊)、特殊作戦軍(特殊部隊)の5軍種からなる。2005年末の時点で、総員24万5000人(うち、軍人18万人)。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "ウクライナには、ウクライナ正規軍以外に、以下の準軍事組織が存在する。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "2022年ロシアのウクライナ侵攻に抵抗するパルチザン活動も行なわれている。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "このほか、ウクライナ国内の政治運動の過程で創設された武装組織が複数あり、一部は後にウクライナ政府の統制下に入った。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "また親ロシア派も実効支配している地域で武装組織を有している。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "大統領附属の合議制機関として国家安全保障・国防会議が存在する。",
"title": "国防会議・情報機関"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "また、国家保安庁が、サイバー攻撃への防衛など防諜・情報機関や治安組織としての活動を行っている。",
"title": "国防会議・情報機関"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "ウクライナはユーラシア・ステップ西部に位置し、国土のほとんどは、肥沃な平原、ステップ(草原)、高原で占められている。ドニエプル川、ドネツ川、ドニエステル川が横切っており、南のブーフ川とともに、黒海、アゾフ海に注ぎ込んでいる。黒海北岸にはクリミア半島が突き出しており、ペレコープ地峡でウクライナ本土とつながっている。南西部にあるドナウ・デルタはルーマニアとの国境になっている。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "山岳地帯は、ウクライナの最南端のクリミア山脈と西部のカルパティア山脈だけである。最高峰はカルパト山脈にあるホヴェールラ山(Говерла, Hoverla)で、標高2,061メートル。これ以外の地域も平坦というわけではなく、東ヨーロッパの中では比較的起伏の多い地形をしている。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "気候は温暖な大陸性気候であるが、クリミア半島の南岸は地中海性気候により近い。降雨量は局所的に偏っており、北部や西部は多く、南部や東部は少ない。夏はほとんどの地域で暖かいが、当然南に行くほど暑い。冬は黒海沿岸は涼しいが、内陸に行くにしたがって寒くなる。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "ウクライナは、24の州と、クリミアにある1つの自治共和国、そして2つの特別市から構成される。ただし、クリミア自治共和国とセヴァストポリはロシア連邦の実効支配下にある。また、親ロシア分離独立派が支配するドネツィク州(ドネツク人民共和国)とルハンスク州(ルガンスク人民共和国)のドンバス地域の一部、およそ推定人口300万人程度の地域に対する管轄も及んでいない(「クリミア危機・ウクライナ東部紛争」参照)。ロシアは2022年に始めた侵攻でウクライナ東南部を自国に編入すると宣言したが(ロシアによるウクライナ4州の併合宣言)、ウクライナと国際社会は承認しておらず、ウクライナは奪回作戦を進めている。",
"title": "地方行政区分と都市"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "ウクライナの交通は、鉄道、バス、船舶、航空機、自動車などによっている。鉄道は、ウクライナ鉄道によって一元化されている。一方、ウクライナの航空会社はソ連時代のアエロフロート一括管理型から多くの中小の航空会社が競合する状態になっている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "都市間輸送は国営鉄道のウクライナ鉄道が運行されている。主要都市には地下鉄及び市電、またエレクトリーチカが運行されている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "フラッグ・キャリアのウクライナ国際航空が国内国際線ともに運行している。ハブ空港としてボルィースピリ国際空港がキーウ近郊にある。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "2022年に始まったロシアによる侵攻に伴い、最初の1年間で経済的損害は3490億ドル(世界銀行などの推計)にも達したが、ウクライナ経済研究所の調査では同国企業の85%が西部への疎開などにより操業を継続している。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "国際通貨基金(IMF)の統計によると、2013年のウクライナの国内総生産(GDP)は1783億ドルである。1人あたりGDPは3,930ドルであり、西隣にあるポーランド(1万3393ドル)の約30%、北隣にあるベラルーシ(7,577ドル)の約半分、世界平均の約40%程度の水準にとどまり、ジョージア(3,604ドル)、アルメニア(3,208ドル)、モルドバ(2,229ドル)と並ぶ欧州最貧国の一つである。2015年の推計によると、1人あたりGDPは2,001ドルまでに低下し、旧ソ連の最貧国レベルとなっている。タタール人のリナト・アフメトフ、イスラエル国籍も持つユダヤ人のイーホル・コロモイスキーなどの一部のオリガルヒによる寡頭制資本主義体制が続いている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "ソ連時代は連邦内の重要な農業および産業地帯であったが、現在は天然ガスを中心とするエネルギー供給のほとんどをロシアに依存しており、経済の構造改革の遅滞と相まって他国の影響を受けやすいものになっている。さらに国家腐敗が進行しているため、事態は深刻さを極めるものとなっている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "工業では、ソ連時代以来の有力な軍事産業が存在する。中華人民共和国が企業買収などによりウクライナの軍事技術取得を図り、アメリカ合衆国の意向もあってウクライナ政府が阻止する事例もある。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "1991年、政府はほとんどの物資の価格を自由化し、国有企業を民営化するための法制度を整備した。しかし、政府や議会内の強い抵抗により改革は停止され、多くの国有企業が民営化プロセスから除外された。1993年の末頃には、通貨政策の失敗によりハイパーインフレーションにまで至った。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "1994年に大統領に就任したレオニード・クチマは、国際通貨基金(IMF)の支援を受けながら経済改革を推進し、1996年8月には10万分の1のデノミを実施し、新通貨フリヴニャを導入した。現在の政府は、経済への介入を極力減らし、調整方法を合理化することに努めるとともに、企業家を支援する法環境を整備し、包括的な税制の改革を行った。ただし構造改革の政治的な問題に関わる分野や農地の民営化に関する改革は遅れている。1999年の生産高は、1991年の40%にまで落ち込んだ。しかし、同年には貿易収支が初めて黒字を記録。その後もフリヴニャ安や鉄鋼業を中心とした重工業により、2000年の国内総生産は、輸出の伸びに支えられて6%という経済成長率を見せ、工業生産高の成長率も12.9%だった。これは独立以来初めての上方成長であった。2001年から2004年までの間も、中国への鉄鋼輸出の急増などに起因して高度成長が続いた。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "ところが2005年、ユシチェンコ政権の成立後暗転し始める。それまでの好調なウクライナ経済は、ロシアからの安価なエネルギー資源および原料の供給、経済発展を続けるロシアや中国への輸出などによって支えられていた。しかしユシチェンコ大統領は就任直後、ロシアとは距離を置き、EUやアメリカ合衆国などとの関係を強化する姿勢を示した。大統領はアメリカなど西欧諸国からの投資拡大を見込んでいたが、実際にはそれほど投資は増えず、逆にロシアからの安価なエネルギー資源供給が受けられなくなった(「ロシア・ウクライナガス紛争」参照)。またロシアに並ぶ輸出相手国であった中国の需要が減少するなど経済環境が悪化。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "2008年以降は世界金融危機の影響を受けてウクライナ経済は再び落ち込み、債務不履行(デフォルト)の瀬戸際まで追い込まれた。経済安定化のため2008年10月にはIMFより総額165億ドルに及ぶ緊急融資を受けた。2010年7月にはIMFより新たに152億ドルの融資を受けることで合意した。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 133,
"tag": "p",
"text": "2014年クリミア危機とその後現在まで継続しているウクライナ東部での戦闘により、ロシアとの関係が極度に悪化した。それにより深刻な経済危機に陥り、2015年の経済成長率は-11.6% となっている。1人あたり国内総生産(GDP)も2,109ドルにまで落ち込むなど欧州最貧国となっている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 134,
"tag": "p",
"text": "2015年12月31日、ロシアに対する30億ドルの債務を返済しなかったことを根拠に、ロシア財務省はウクライナはデフォルト状態であると指摘した。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 135,
"tag": "p",
"text": "通貨単位はソ連ルーブリ=100コペイカが使われてきて、独立後1992年からはカルボーヴァネツィが使われたが、2003年から現在はフリヴニャ=100コピーカを使っている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 136,
"tag": "p",
"text": "銀行関係では、ウクライナ国立銀行が中央銀行で、商業銀行のプリヴァトバンク(オリガルヒ経営であったが、乱脈経営のため2016年に国有化)、ウクライナ国立貯蓄銀行などが全国に支店を持っている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 137,
"tag": "p",
"text": "ウクライナは小麦、ジャガイモ、ヒマワリなどを産する農業大国であり、また農産物の輸出面でもMHPなどが活躍している。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 138,
"tag": "p",
"text": "鉱工業では、石油・天然ガス面ではナフトガス・ウクライナ が全土をカバーし、豊富な石炭・鉄鉱石も参して、ウクライナ中部および南東部で製鉄業が盛んで、クリヴォリジュスタリ製鉄所、アゾフスタリ製鉄所、イリイチ製鉄所、インターパイプなどがある。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 139,
"tag": "p",
"text": "1990年代以降、フォジーグループなどウクライナ資本の小売業店の展開などが顕著である。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 140,
"tag": "p",
"text": "通信分野では、固定電話を引き継いだウクルテレコムがあり、ウクライナにおける携帯電話では、キーウスター、ボーダフォン・ウクライナ、ライフセルなどが活躍している。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 141,
"tag": "p",
"text": "1990年代には賃金の低さと開発能力の高さから西側諸国を相手にするITアウトソーシング企業が誕生し、「東欧のシリコンバレー」と呼ばれるほどIT産業が成長した。開発能力の高さはITの基礎となる数学教育に力を入れた結果であるとされる。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 142,
"tag": "p",
"text": "ITインフラの整備も進んでおり、公共サービスの多くはデジタル化されスマートフォンの操作で完結するという。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 143,
"tag": "p",
"text": "ウクライナの科学技術はヨーロッパにおける科学の歴史上、非常に重要な位置付けをされているものの一つに数えられる。同国は前身のソビエト・ウクライナ時代、ソビエト連邦の宇宙開発に多大な貢献を果たしており、数多くの科学者を輩出している。",
"title": "科学技術"
},
{
"paragraph_id": 144,
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"text": "民族(ウクライナ) 2001",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 145,
"tag": "p",
"text": "ウクライナは多民族国家である。主要民族はウクライナ人で、全人口の約8割を占める。ロシア人は約2割を占める。ほかに少数民族としてクリミア・タタール人、モルドヴァ人、ブルガリア人、ハンガリー人、ルーマニア人、ユダヤ人がいる。高麗人も約1万人ほどいる。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 146,
"tag": "p",
"text": "国内最大の少数民族であるロシア人の割合が高い州は、ロシアが実効支配しているクリミア自治共和国とセヴァストポリを除くとルハーンシク州(39.2%)、ドネツィク州(38.2%)、ハルキウ州(25.6%)、ザポリージャ州(24.7%)、オデッサ州(20.7%)、ドニプロペトロウシク州(17.6%)の順となっており、東部以外ではキーウ市(13.1%)が高くなっている。また、西部のザカルパッチャ州ではハンガリー人が12.1%を、チェルニウツィー州ではルーマニア人が12.5%を占めている。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 147,
"tag": "p",
"text": "ウクライナは2021年に「先住民法」を制定し、ゼレンスキー大統領が7月21日に署名して成立した。先住民族としてクリミア・タタール人、クリミア・カライム人、クリムチャク人の3民族を認定した。これに対してロシア検察は翌日、欧州人権裁判所への提訴を発表した。ロシア連邦大統領ウラジーミル・プーチンは先立つ7月12日、『ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性について』という論文を発表していた。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 148,
"tag": "p",
"text": "人口が集中しているのはキーウ、ドネツィク州、ハルキウ州、リヴィウ州、ドニプロペトロウシク州で、全人口の69%が都市部に住んでいる。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 149,
"tag": "p",
"text": "人口密度の高い州はドネツィク州、リヴィウ州、チェルニウツィー州、ドニプロペトロウシク州である。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 150,
"tag": "p",
"text": "ウクライナの国家語は憲法第10条により定められたウクライナ語のみであるが、憲法第10条にはロシア語を含む多言語使用・発展も保証すると記載されている。実態としてはウクライナ社会はウクライナ語とロシア語の二言語社会と呼びうる。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 151,
"tag": "p",
"text": "2001年の国勢調査によれば、全体の67.5%がウクライナ語を母語とし、ロシア語は29.6%となっていた。東部、南部と首都キーウではロシア語の割合が比較的高い。他方、2006年に行われた民間調査統計によれば、ウクライナ語を母語とする国民は5割強となっているなど、統計によるばらつきがみられる。同じ調査統計の結果で、母語ではなく日常的に使用する言語を問う設問では、家庭内でウクライナ語のみを使用するのは全国民の38.2%、ロシア語のみが40.5%、両言語が16.2%となっており、ウクライナはウクライナ語とロシア語の2言語国家であることがよく示されている。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 152,
"tag": "p",
"text": "ウクライナはロシア帝国およびソ連時代にロシア語化が進み、西ウクライナを除いて共通語としてロシア語が広く普及し、圧倒的に優勢となった。また、当時はウクライナ語はロシア語の方言や農村部の方言に過ぎないという認識さえあり、使用は衰退していった。特に都市部に住むインテリ層の間ではロシア語の使用が広まり、農村部ではウクライナ語、都市部ではロシア語という色分けができていた。しかしながら、ソ連からの独立時にウクライナ語を唯一の公用語として指定し、国民統一の象徴の言語として広く普及させ、復活させる国策を採った。一方、ロシア語は公用語に制定せず、ウクライナ語の復権を重要課題に掲げて重視した。これは、同じくロシア語が最も使われてきた隣国ベラルーシが独立後もロシア語を引き続き最重要視する政策とは対照的な路線をとった。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 153,
"tag": "p",
"text": "ウクライナでは政府機関ではウクライナ語のみが使われ、憲法・法律をはじめ、公的文書は全てウクライナ語で記述され、学校教育は大半がウクライナ語で行われる。また、街中の広告もウクライナ語に限定され、地下鉄のアナウンスや街中の案内表記もウクライナ語とされるが、ロシア語も言語法の手続きを通じた地方公用語として認定されている場合には地方レベルで使用可能である。この背景には、国家としてウクライナ語の普及を進める一方で、西ウクライナを除く地域の都市部住民の中には民族的にウクライナ人であっても日常生活ではロシア語を主に使用している人が少なくなく、ウクライナ語を運用することはできるが、ビジネスや娯楽、家庭での言語はロシア語が優勢となっている。さらに、東部や南部では、ウクライナ語が不得手とする人も少なくない。このように、独立以降ウクライナ語のみを国家語にしてきたウクライナであるが、生活の現場でのロシア語の使用頻度は低下しておらず、西部を除いた地域においてはロシア語は引き続き重要な言語となっている。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 154,
"tag": "p",
"text": "特徴的な点として、ウクライナ西部にあるリヴィウ州、ヴォルィーニ州、テルノーピリ州、イヴァーノ=フランキーウシク州のガリツィア地域はソ連時代を通じてもロシア語化が進まなかったことからウクライナ語が圧倒的に優勢で、日常的にロシア語が使われることは一般的でない。この3州ではロシア語の第2国家語化への反対者が多い。一方、東部の住民にはロシア語の公的地位向上を求める世論もあり、しばしば政治の場における敏感な論点となる。しかし、ウクライナ語が不得手な東部出身のウクライナ民族主義者も珍しくなく、使用母語と親露・反露感情は必ずしも一致しない点は留意を要する。2014年の政変以降も欧州安全保障協力機構(OSCE)などの国際機関は、社会においてロシア語話者が差別を受けている事実を報告していない。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 155,
"tag": "p",
"text": "その他の言語として、クリミア・タタール語(クリミア自治共和国)、ハンガリー語(ザカルパッチャ州)、ルーマニア語(チェルニウツィー州)なども使われている。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 156,
"tag": "p",
"text": "婚姻時には改姓せず夫婦別姓とすることも、いずれかの姓に統一し同姓とすることも、複合姓とすることも、いずれも選択可能である。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 157,
"tag": "p",
"text": "現在ウクライナの国民は多くキリスト教徒のアイデンティティを持っているが、大半は特定の宗教団体に属していない。伝統的な宗教は、正教会の一員であるウクライナ正教会である。ルーシの洗礼以来、ウクライナの正教会はコンスタンディヌーポリ総主教庁に属していたが、1686年にモスクワ総主教庁に移され、20世紀末までモスクワ総主教庁に属していた。この移管は教会法に違反していたと指摘されるが、モスクワ総主教庁側はこの移管を「教会法違反」とは捉えていない。1990年には、ウクライナの独立運動の興隆に呼応して、モスクワ総主教庁から分離独立したキエフ総主教庁が設立された。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 158,
"tag": "p",
"text": "キエフ総主教庁・ウクライナ正教会の教会法上の合法性を認めている他国の正教会は長らく存在していなかったが、キエフ総主教庁は教会法解釈・歴史認識につき主張をしつつ、自らの合法性の承認を得るべく様々な活動を行い、信徒数の上でもウクライナにおける最大の教会となった。なお、懸案だったロシア正教会からの独立問題については、2014年にロシアがクリミア半島を併合したことによる反ロ感情の高まりを受け、2018年10月11日にコンスタンティノープル総主教庁から独立の承認を得ることに成功した。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 159,
"tag": "p",
"text": "この承認に基づいて、2018年12月15日、首都キーウにある聖ソフィア大聖堂で開かれた統一宗教会議で、ロシア正教会から独立したウクライナ正教会の創設が宣言された(「ウクライナ正教会 (2018年設立)」参照)。オブザーバーとして出席したポロシェンコ大統領は「ロシアからの最終的な独立の日だ」と群衆に述べた。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 160,
"tag": "p",
"text": "これに次ぐ正教会として、モスクワ総主教庁の下に留まりつつ事実上の自治を行っているウクライナ正教会(「ウクライナ正教会 (モスクワ総主教庁系)」参照)もあるが、ウクライナ国内での信者数は減少している。2022年ロシアのウクライナ侵攻をキリル1世 (モスクワ総主教)が支持したことでこの傾向は加速し、キーウ国際社会学研究所が同年7月に実施した世論調査では、帰属意識を持つ教会としてウクライナ独自の正教会を挙げた人が54%と最多で、モスクワ系ウクライナ正教会は2021年の18%から4%に減った。したがって、2020年代における宗派別信者数は、右のグラフや下記のデータから大きく変化している。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 161,
"tag": "p",
"text": "他にもウクライナ独立正教会と独立合法ウクライナ正教会の教会組織が存在する。また、ロシア正教古儀式派教会の教区やポモーリエ派の会衆など、正教古儀式派の信徒も伝統的に存在している。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 162,
"tag": "p",
"text": "東方典礼カトリック教会たるウクライナ東方カトリック教会が正教に次いで勢力を有する。西方典礼のカトリック教会およびプロテスタント、さらにイスラム教徒、ユダヤ教徒、仏教徒も少数存在する。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 163,
"tag": "p",
"text": "朝鮮出身の開祖である文鮮明による「愛天、愛人、愛国」の教えを説く統一教会はウクライナを活動拠点の一つとしている。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 164,
"tag": "p",
"text": "1995年から6歳から17歳までの11年間が義務教育である。小学校・中学校に相当する9年間は同じ学校に通い、10年目以降は普通学校と専門学校のいずれかを選択することになる。このため11年間同じ学校に通う生徒も存在する。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 165,
"tag": "p",
"text": "必須科目はウクライナ語のほか、情報学、経済学などで、英語は1年生からの必須科目である。2000年から2001年の調査によると全体の7割がウクライナ語で教育を受け、残りの3割弱がロシア語となっている。そのほか、クリミア・タタール語、ハンガリー語、ルーマニア語でも教育が行われている。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 166,
"tag": "p",
"text": "ウクライナの学校は、3月末に1週間の春休み、6 - 8月に3か月間の夏休み、12月末 - 1月に約2週間の冬休みがある。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 167,
"tag": "p",
"text": "幼少期から数学教育が重視されており、IT産業の発達に寄与したとされる。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 168,
"tag": "p",
"text": "WAP(世界動物保護協会)の2020年の評価によると、ウクライナの動物福祉評価は総合評価でE(AからGの7段階評価。Aが最も評価が高い)。分野ごとの評価では「動物の虐待行為への法規制」はC、「畜産動物の福祉(アニマルウェルフェア)」はE、「コンパニオンアニマル(ペット)の保護」はF、「実験動物の保護」はD、などとなっている。",
"title": "社会"
},
{
"paragraph_id": 169,
"tag": "p",
"text": "強制給餌への批判があるフォアグラについては、2019年9月に最後の強制給餌農場を閉鎖。法律で明示的に禁止されていないが、強制給餌の慣行は国内で中止となった。ウクライナ最大の家禽企業であるMHPもフォアグラの生産を中止している。",
"title": "社会"
},
{
"paragraph_id": 170,
"tag": "p",
"text": "同国検事総局発表による2017年時における犯罪登録件数は約52万件と依然高い水準である。また、クレジットカードやキャッシュカードのスキミング被害事例が散見されており、「財布落とし」と呼ばれる人間の親切さを逆手に取った犯罪の被害も依然として複数寄せられているなど金銭絡みの事件が多発している為、同国の滞在には常に注意が求められる。",
"title": "治安"
},
{
"paragraph_id": 171,
"tag": "p",
"text": "米国務省からテロ組織と指定されている極右ネオナチ組織「C14」が存在し、彼らはこれまで数々の治安犯罪を犯してきたが、国や地方行政と癒着し活動を行っている。",
"title": "治安"
},
{
"paragraph_id": 172,
"tag": "p",
"text": "ウクライナの警察は、ウクライナ内務省所属のウクライナ国家警察が担っている。",
"title": "治安"
},
{
"paragraph_id": 173,
"tag": "p",
"text": "ウクライナの警察は、ソ連時代から民警(ミリーツィヤ)と呼ばれており、ソ連崩壊以降も2015年に国家警察に再編されるまでは民警と呼ばれていた。",
"title": "治安"
},
{
"paragraph_id": 174,
"tag": "p",
"text": "米国務省からテロ組織と指定されている極右ネオナチ組織「C14」は、警察と協力してキーウの自警組織をつくっている。",
"title": "治安"
},
{
"paragraph_id": 175,
"tag": "p",
"text": "主要メディアは以下が挙げられる。",
"title": "マスコミ"
},
{
"paragraph_id": 176,
"tag": "p",
"text": "ウクライナ料理は、東欧を代表するウクライナ人の伝統的な食文化である。その歴史はキエフ大公国時代に遡る。ウクライナ料理は、ポーランド料理、リトアニア料理、ルーマニア料理、ロシア料理、ユダヤ料理などの食文化にも大きな影響を与えた。一方、他国の料理の影響が見られる。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 177,
"tag": "p",
"text": "主食はパンであり、パンに類する食品も多い。その中で、ヴァレーヌィク(ウクライナ風餃子)、ハムーシュカ、フレチャーヌィク(団子)、コールジュ、コロヴァーイ(ケーキの一種)、パスカ(復活祭のパン)、クチャー(小麦か米の甘い粥)などがある。魚・肉の料理が比較的少なく、スープや野菜の煮物などの料理が圧倒的に多い。世界的にも有名なウクライナ料理ボルシチは、大まかに50種類以上のレシピがあるが、ウクライナでは豚肉、ロシアでは牛肉が主流である。肉料理は豚肉料理、魚料理は鯉類料理が一般的である。さらに、肉料理としてサーロ(豚の脂身の塩漬け)が頻繁に利用される。飲み物は甘い、もしくは甘辛いものが多い。メドウーハ(蜂蜜酒)、ホリールカ(唐辛子入りのお酒)、ナスチーイカ(果実酒)、クヴァース(液体のパン)などがある。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 178,
"tag": "p",
"text": "おもな調理法は軽く炒めて茹でること、また軽く炒めて煮ることである。揚げ物などは少ない。調味料としては、サーロ、向日葵油、スメターナ、酢、塩、蜂蜜などが用いられる。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 179,
"tag": "p",
"text": "ウクライナでは、ウクライナ料理のほかに、クリミア・タタール料理が存在する。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 180,
"tag": "p",
"text": "同国における建築はキエフ大公国が起源となるものが多く、12世紀のハールィチ・ヴォルィーニ大公国時代からリトアニア大公国ならびウクライナ・コサックが存在した15世紀後半の時代にポーランド・リトアニア共和国の影響下でウクライナ独自の建築技法が開発されて行った。その技法は形を変えつつも途絶えることなく以降の現代へ続いている。",
"title": "文化"
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"paragraph_id": 181,
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"text": "有名な歴史的建造物には以下が挙げられる。",
"title": "文化"
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"paragraph_id": 182,
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"text": "ウクライナの民族衣装は、ソロチカ、ヴィシヴァンカなどがある。これらは刺繍が施され、飾りだけではなく、魔よけの意味がある。地方ごとに独自の刺繍法があり、約200種類の技法、数千種類のモチーフがあるといわれている。伝統の布として、美しい刺繍のされたルシュニキ(ルシェニク、ルシニークとも)があり、儀式にも使われる。伝統的な花の冠はヴィノクと呼ばれる。",
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"text": "ウクライナ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件、自然遺産が1件存在する。",
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"paragraph_id": 184,
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"text": "ウクライナではその歴史やキリスト教に由来する祝祭日が多いが、2014年に始まったロシアによる侵略以降、日取りや位置づけに変化が起きている。伝統的にロシアと同じ1月7日(ユリウス暦)に祝われていたクリスマスは他の欧州諸国と同じ12月25日(修正ユリウス暦)に変更する法律が2023年7月28日、ゼレンスキー大統領により署名された。クリスマスの非ロシア化は2022年ロシアのウクライナ侵攻で加速し、ウクライナ正教会は同年12月24日、ウクライナのカトリック教会や他の正教会とのトップ会談で、 クリスマスや復活祭を決める教会暦の改革に向けた作業部会設置で合意していた。独ソ戦の勝利記念日である5月9日は2022年から祝日ではなくなった。他国におけるヨーロッパ戦勝記念日である5月8日は、ウクライナでは「追悼と和解の日」に定められている。",
"title": "文化"
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"text": "ウクライナ国内でも他のヨーロッパ諸国同様、サッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっており、2012年にはポーランドとの共催でUEFA EURO 2012が開催されている。サッカー以外の球技ではテニスやバスケットボールが、格闘技ではボクシング、柔道、総合格闘技が非常に人気となっている。",
"title": "スポーツ"
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"text": "1991年にサッカーリーグのウクライナ・プレミアリーグが創設され、リーグ優勝はディナモ・キーウ(16回)とシャフタール・ドネツク(14回)の2クラブによって殆ど支配されている(他はタフリヤ・シンフェロポリの1回のみ)。ウクライナサッカー連盟によって構成されるサッカーウクライナ代表は、FIFAワールドカップには2006年大会で初出場しベスト8の成績を収めた。UEFA欧州選手権には3度出場しており、2021年大会では過去最高位のベスト8に進出している。",
"title": "スポーツ"
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"paragraph_id": 187,
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"text": "ウクライナ人のサッカー選手の象徴的な存在として、現役時代は「ウクライナの矢」と呼ばれたアンドリー・シェフチェンコがおり、主にACミランで活躍しセリエA・得点王を2度獲得、2004年にはバロンドールも受賞している。さらにシェフチェンコが引退して以降は、マンチェスター・シティで活躍したオレクサンドル・ジンチェンコ(現在はアーセナル所属)が、同国では非常に人気の選手となっている。",
"title": "スポーツ"
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{
"paragraph_id": 188,
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"text": "2021-22シーズンはロシアのウクライナ侵攻により、国内リーグ戦の全試合が無期限中止となり、その後打ち切り「優勝チームなし」と決定した。さらにロシアとの戦争が継続中の2022年8月23日、シャフタール・ドネツクとメタリスト1925・ハルキウの試合を2022-23シーズン(英語版)の開幕戦として、255日ぶりに国内でのサッカーリーグが開催された。なお、ロシア軍の標的になるのを避けるため「全試合が無観客開催」となる。",
"title": "スポーツ"
}
] | ウクライナは、東ヨーロッパに位置する共和制国家。首都はキーウ。東はロシア連邦、北はベラルーシ、西はポーランド、スロバキア、ハンガリー、西南はルーマニア、モルドバと国境を接しており、南は黒海に面し、トルコなどと向かい合う。 人口は、2021年時点で約4159万人(ロシア支配下のクリミア半島を除く)で、ヨーロッパで7番目に人口の多い国である。 | {{Otheruses|現代のウクライナ|その他|ウクライナ (曖昧さ回避)}}
{{最新の出来事の関連|2022年ロシアのウクライナ侵攻|date=2022年2月}}
{{基礎情報 国
| 略名 = ウクライナ
| 日本語国名 = ウクライナ
| 公式国名 = '''{{lang|uk|Украї́на}}'''
| 国旗画像 = Flag_of_Ukraine.svg
| 国章画像 = [[File:Lesser Coat of Arms of Ukraine.svg|75px|ウクライナの国章]]
| 国章リンク =
| 標語 = <small>([[ウクライナ語]])ヴォーリャ、ズラホーダ、ドブロ</small><br />''{{lang|uk|Воля, злагода, добро}}''<br />(訳: 自由、調和、善良)
| 位置画像 = Ukraine - disputed (orthographic projection).svg
| 公用語 = [[ウクライナ語]]{{refnest|group="注釈"|ウクライナでは[[1989年]]以降、[[ウクライナ語]]が唯一の[[公用語]]とされている<ref name=":8">{{Cite web |title=MINELRES - Minority related national legislation - Ukraine - language |url=https://minelres.lv/NationalLegislation/Ukraine/Ukraine_Language_English.htm |website=minelres.lv |access-date=2022-06-25}}</ref><ref name=":9">{{Cite web |title=Ukrainians and their language. The Act on the State Language of Ukraine |url=https://www.osw.waw.pl/en/publikacje/osw-commentary/2019-06-11/ukrainians-and-their-language-act-state-language-ukraine |website=OSW Centre for Eastern Studies |date=2019-06-11 |access-date=2022-06-25 |language=en}}</ref><ref>「[https://jp.reuters.com/article/ukraine-crisis-government-english-idJPKBN2NO05Y ウクライナ、英語をビジネス言語に指定する可能性=首相]」[[ロイター]](2022年6月7日)2023年2月24日閲覧</ref>。}}
| 首都 = [[キーウ]]
| 最大都市 = キーウ
| 元首等肩書 = [[ウクライナの大統領|大統領]]
| 元首等氏名 = [[ウォロディミル・ゼレンスキー]]
| 首相等肩書 = [[ウクライナの首相|首相]]
| 首相等氏名 = [[デニス・シュミハリ]]
| 他元首等肩書1 = [[ヴェルホーヴナ・ラーダ|最高議会]]議長
| 他元首等氏名1 = {{仮リンク|ルスラン・ステファンチュク|en|Ruslan Stefanchuk}}
| 面積順位 =45
| 面積大きさ = 1 E11
| 面積値 = 603,700<ref name="MOFA"/>
| 水面積率 = 7%
| 人口統計年 = 2020
| 人口順位 = 33
| 人口大きさ = 1 E7
| 人口値 = 43,734,000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/ua.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-10-10 }}</ref>
| 人口追記 = (クリミア含む)
| 人口密度値 = 75.5<ref name=population/>
| GDP統計年元 = 2020
| GDP値元 = 4兆1918億6400万<ref name="imf2020">{{Cite web|url=https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=926,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LUR,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGSB,GGSB_NPGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1|title=World Economic Outlook Database|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|accessdate=2021-10-25}}</ref>
| GDP元追記 = (クリミアとセヴァストポリは除く)
| GDP統計年MER = 2020
| GDP順位MER = 57
| GDP値MER = 1553億<ref name="imf2020" />
| GDP MER/人 = 3741.06<ref name="imf2020" />
| GDPMER追記 = (クリミアとセヴァストポリは除く)
| GDP統計年 = 2020
| GDP順位 = 48
| GDP値 = 5450億300万<ref name="imf2020" />
| GDP/人 = 1万3128.73<ref name="imf2020" />
| GDP追記 = (クリミアとセヴァストポリは除く)
| 建国形態 = [[国家の独立|独立]]<br /> - 日付
| 建国年月日 = [[ソビエト連邦]]より<br />[[1991年]][[8月24日]]
| 通貨 = [[フリヴニャ]]
| 通貨コード = UAH
| 時間帯 = +2
| 夏時間 = +3
| 国歌 = [[ウクライナの国歌|{{lang|uk|Ще не вмерла Україна}}]]{{uk icon}}<br>''ウクライナは滅びず''<br>{{center| }}
| ISO 3166-1 = UA / UKR
| ccTLD = [[.ua]]
| 国際電話番号 = 380
}}
'''ウクライナ'''({{lang-uk|Украї́на}}、{{IPA-uk|ʊkrɐˈjinɐ||Uk-Україна (2).oga}}、{{lang-en|Ukraine}}<ref name="MOFA">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/ukraine/data.html#section1 ウクライナ(Ukraine)基礎データ] [[日本国外務省]](2022年5月16日閲覧)</ref>)は、[[東ヨーロッパ]]に位置する[[共和国|共和制国家]]。[[首都]]は[[キーウ]]。東は[[ロシア|ロシア連邦]]、北は[[ベラルーシ]]、西は[[ポーランド]]、[[スロバキア]]、[[ハンガリー]]、西南は[[ルーマニア]]、[[モルドバ]]と[[国境]]を接しており、南は[[黒海]]に面し、[[トルコ]]などと向かい合う。
人口は、[[2021年]]時点で約4159万人([[ロシアによるクリミアの併合|ロシア支配下]]の[[クリミア半島]]を除く)<ref name="MOFA"/>で、[[ヨーロッパ]]で7番目に人口の多い国である。
2022年2月のロシアによる侵攻後は、徴兵のため18~60歳の男性の出国を原則禁止している<ref>{{Cite web |url=https://www.yomiuri.co.jp/world/20231110-OYT1T50075/ |title=ウクライナ、戒厳令と総動員令を来年2月まで延長…男性出国禁止も維持 |publisher = |accessdate=2023-12-27}}</ref>。
== 概要 ==
現在、ウクライナが位置している地域には紀元前3万2千年から人が住んでいたとされる。[[中世ヨーロッパ|中世]]には[[キエフ大公国]]([[ルーシ|キエフ・ルーシ]])によって統治され、[[東スラヴ人|東スラブ]]文化の中心地としてウクライナおよびロシアのアイデンティティの基礎が形成された。
12世紀以降、[[モンゴルのルーシ侵攻]]により領土が破壊され、[[ポーランド・リトアニア共和国]]、[[オーストリア゠ハンガリー帝国]]、[[オスマン帝国]]、[[モスクワ大公国]]などに分離した([[キエフ大公国の分裂]])。キエフ大公国の故地のうち、現在のウクライナにあたる地域の一部は14世紀以後、[[小ロシア]]と呼ばれるようになる。
1649年、現在のウクライナに[[ヘーチマン国家]]が成立し、1654年以後はモスクワ大公国([[ロシア帝国]])の保護を受ける。[[1667年]]、[[ロシア・ポーランド戦争 (1654年-1667年)|ロシア・ポーランド戦争]]の結果ポーランドに割譲された[[ドニエプル川|ドニプロ川]]右岸地域では1699年に[[コサック]]隊は廃止される。ドニプロ川左岸地域のヘーチマン国家はロシアの防衛に貢献するコサック国家として繁栄したが、[[1764年]]にロシアの[[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]]がヘーチマン制を廃止、翌[[1765年]]に国土はロシアの[[小ロシア県]]に編成され、[[1786年]]に[[ポールク|コサック連隊制]]が廃止となった。
[[第一次世界大戦]]では[[中央同盟国]]([[ドイツ帝国]]、オーストリア=ハンガリー帝国など)とロシア帝国の戦場になった([[東部戦線 (第一次世界大戦)]])。大戦中の[[十月革命|ロシア革命]]でロシア帝国が崩壊するとウクライナの[[民族自決]]運動が起こった。1917年6月23日、国際的に認められた[[ウクライナ人民共和国]]が宣言されたが、[[ロシア内戦]]などを経て、[[ウクライナ・ソビエト社会主義共和国]]は[[ソビエト連邦]]の一部となった。[[第二次世界大戦]]では[[独ソ戦]]の激戦地となった。第二次世界大戦後、ソ連は占領したポーランド東部を併合する代わりにポーランドとドイツの国境を[[オーデル・ナイセ線]]へ移動させた。旧ポーランド東部はソ連へ併合され、ウクライナ人が多く住む[[ガリツィア]]地方はウクライナ西部となった。
その後、[[ソビエト連邦の崩壊]]に伴い、1991年にウクライナは[[国家の独立|独立]]国となった<ref>{{Cite web|和書|title=2分でおさらい!「ウクライナはどんな国?」盛んな鉱工業と世界的な穀倉地帯 |url=https://diamond.jp/articles/-/299651 |website=[[週刊ダイヤモンド|ダイヤモンド・オンライン]] |date=2022-04-03 |access-date=2022-04-17 |language=ja}}</ref>。
独立後、ウクライナは[[中立国]]を宣言し<ref name="gska2.rada.gov.ua">{{Cite web |url=http://gska2.rada.gov.ua:7777/site/postanova_eng/Declaration_of_State_Sovereignty_of_Ukraine_rev1.htm |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070927224650/http://gska2.rada.gov.ua:7777/site/postanova_eng/Declaration_of_State_Sovereignty_of_Ukraine_rev1.htm |archivedate=27 September 2007 |title=Declaration of State Sovereignty of Ukraine |accessdate=24 December 2007 |website=[[Verkhovna Rada]] of Ukraine}}</ref>、旧ソ連のロシアや他の[[独立国家共同体]](CIS)諸国と限定的な軍事提携を結びつつ、1994年には[[北大西洋条約機構]](NATO)とも[[平和のためのパートナーシップ]]を結んだ。
2013年、[[ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ|ヤヌコビッチ]]政権がウクライナ・[[欧州連合|EU]]連合協定の停止とロシアとの経済関係の緊密化を決定した後、[[ユーロマイダン]]と呼ばれる数か月にわたるデモや抗議運動が始まり、後に[[2014年ウクライナ騒乱|尊厳革命]]に発展し、ヤヌコビッチの打倒と新政府の樹立につながった。これらの出来事を受け、旧ソ連圏への影響力回復を目指すロシアの[[ウラジーミル・プーチン]]政権はウクライナ国内の親ロシア派を通じた[[内政干渉]]や領土蚕食を進め、2014年3月の[[ロシアによるクリミアの併合]]、2014年4月からの[[ドンバス戦争]]の背景となった。
2016年1月1日、ウクライナは欧州連合(EU)との深層・包括的自由貿易圏の経済コンポーネントを申請した。
2021年3月からロシアとの間で[[ロシア・ウクライナ危機 (2021年-2022年)|緊張]]が高まり、2022年2月24日、[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ロシアのウクライナ侵攻]]が開始された<ref>{{Cite news|url= https://www.yomiuri.co.jp/world/20220224-OYT1T50100/ |title= ロシア軍、ウクライナに侵攻…プーチン大統領「東部で特殊作戦を開始」 |newspaper= 読売新聞オンライン |publisher= [[読売新聞]] |date= 2022-02-24 |accessdate= 2022-02-26 }}</ref>。
ウクライナは、[[人間開発指数]]で74位の[[発展途上国]]である。加えて、ヨーロッパで2番目に貧しい国であり、非常に高い[[貧困]]率と深刻な[[汚職]]に悩まされている<ref name="transparency">{{Cite web |title=Next to Kyrgyzstan and Djibouti — Ukraine's Results in Corruption Perceptions Index 2019 |url=https://ti-ukraine.org/en/news/next-to-kyrgyzstan-and-djibouti-ukraine-s-results-in-corruption-perceptions-index-2019/ |publisher=Transparency International |accessdate=18 February 2020 |date=23 January 2020}}</ref><ref name="poor">{{Cite web |url=https://voxukraine.org/en/why-is-ukraine-poor-look-to-the-culture-of-poverty/ |title=Why Is Ukraine Poor? Look To The Culture Of Poverty |website=VoxUkraine |author=Bohdan Ben |date=25 September 2020 |accessdate=4 March 2021}}</ref>。一方、肥沃な農地が広がっているため、ウクライナは世界有数の[[穀物]]輸出国である<ref name="grain1">{{Cite press release|title=Ukraine becomes world's third biggest grain exporter in 2011 – minister|publisher=Black Sea Grain|date=20 January 2012|url=http://www.blackseagrain.net/data/news/ukraine-becomes-worlds-third-biggest-grain-exporter-in-2011-minister|accessdate=31 December 2013|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131231235707/http://www.blackseagrain.net/data/news/ukraine-becomes-worlds-third-biggest-grain-exporter-in-2011-minister|archivedate=31 December 2013}}</ref><ref name="grain2">{{Cite web |url=https://www.wto.org/english/res_e/publications_e/wtr13_e.htm |title=World Trade Report 2013 |publisher=World Trade Organization |date=2013 |accessdate=26 January 2014}}</ref>。
また、ロシア、[[フランス]]に次いで兵員数ではヨーロッパで[[ウクライナ軍|3番目に大きな軍隊]]を保有している<ref>{{Cite web |url=https://www.globalfirepower.com/country-military-strength-detail.asp?country_id=ukraine |publisher=Global Firepower |title=Ukraine Military Strength (2020) |accessdate=25 July 2020}}</ref>。[[国際連合|国連]]、[[欧州評議会]]、[[欧州安全保障協力機構]]、[[GUAM]]、[[ルブリントライアングル]]に加盟しており、[[独立国家共同体]]の創設国の一つであるが、独立国家共同体に加盟することはなかった。
国際指標である「[[腐敗認識指数]]」の国別ランキングでは、2021年度の時点において122位と、政治、軍事組織による長年の汚職と[[腐敗#言葉の用法|腐敗]]問題が続いている(腐敗認識指数は順位が低いほど腐敗認識される)<ref name=":3">{{Cite web|和書|title=腐敗認識指数 国別ランキング・推移 – Global Note |url=https://www.globalnote.jp/post-3913.html |website=GLOBAL NOTE グローバルノート – 国際統計データ専門サイト |access-date=2022-06-17 |language=ja}}</ref><ref name="#12">{{Cite web|和書|title=ウクライナには「ネオナチ」という象がいる~プーチンの「非ナチ化」プロパガンダのなかの実像【中】 - 清義明|論座 - 朝日新聞社の言論サイト |url=https://webronza.asahi.com/national/articles/2022032200002.html |website=論座(RONZA) |access-date=2022-05-24 |language=ja |first=The Asahi Shimbun |last=Company}}</ref>。
{{main|ウクライナの政治| ウクライナにおける「ネオナチ問題」 }}
== 国名 ==
{{main|{{仮リンク|ウクライナの国名|uk|Україна (назва)|en|Name of Ukraine}}}}
{| class="floatright" cellspacing="0" cellpadding="2" style="float: right; text-align:center; border: solid 1px grey; margin-left: 16px"
|-
| style="font-size: smaller" colspan="2"|{{ウクライナの位置}}
|-
|}
ウクライナの最高法規である[[ウクライナ憲法]]によると、当国の正式[[国号]]は「{{lang|uk|Україна}}」である<ref>{{uk icon}} [http://www.rada.gov.ua/konst/CONST1.HTM ウクライナ憲法] ウクライナ最高議会公式サイト</ref>。公式の[[英語]]表記は「{{lang|en|Ukraine}}」(ユークレイン)であり、非公式には「the Ukraine」も使用される。[[ドイツ語]]では「{{lang|de|Ukraine}}」(ウクライネ)とよばれている。
[[日本語]]の表記は「ウクライナ」となっている<ref name="MOFA"/><ref group="注釈">日本語文献では「ウクライナ共和国」という表記もしばしば見られるが、間違いである。</ref><ref group="注釈">[[ウクライナ語]]の「{{lang|uk|Україна}}」については、日本語には「{{lang|uk|[[ї]]}}」に近い発音がないため表記が困難であるが、便宜的に「ウクライィーナ」と表現される。[[ラテン文字化|ラテン文字表記]]としては「{{lang|uk-Latn|Ukrayina}}」や「{{lang|uk-Latn|Ukraina}}」が用いられる。</ref>が、2019年7月に[[在日ウクライナ大使館]]は[[ウクライナ語]]を基にした「ウクライーナ」と表記すべきであるという意見を表明した<ref>{{Cite web|和書|date=2019-07-17 |url=https://japan.mfa.gov.ua/ja/press-center/news/73898-official-guidance-on-the-correct-spelling-and-usage-of-ukrainian-place-names |title=ウクライーナの地名の正しいスペルと使用法に関する公式ガイド |publisher=在日ウクライーナ大使館 |accessdate=2019-08-24}}</ref>。しかし、その後の2019年9月、同大使館や[[日本国外務省]]の代表者や国会議員、ウクライナ語専門家の参加を得て開催された[[ウクライナ研究会]]主催の「ウクライナの地名のカタカナ表記に関する有識者会議」において「国号について、ウクライナの変更はしない」という結論が出され、同大使館案は採用されなかった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=2410182339250341&id=1644149082520341|title=「ウクライナの地名のカタカナ表記に関する有識者会議」議事抄録|publisher=ウクライナ研究会|accessdate=2019-10-29}}</ref>。[[外国地名および国名の漢字表記一覧|漢字表記]]は現在の日本では滅多にされないが、'''「宇克蘭」'''、または「烏克蘭」<ref>{{Cite web|和書|author=|date=|url=http://www.weblio.jp/content/ウクライナ |title=weblio辞書「ウクライナ」 |work=[[三省堂]] [[大辞林]] |publisher=三省堂 |accessdate=2011-12-15}}</ref>と表記される<ref group="注釈">以前は「烏克蘭」が用いられていたが、[[天江喜七郎]]が駐ウクライナ特命全権大使在任時にウクライナ日本語教師の大会で「宇克蘭」を使用するよう確認。以降、外務省、及び在ウクライナ大使館では「宇克蘭」、略称「宇」を用いている(例:{{Cite news|url=https://www.ua.emb-japan.go.jp/jpn/sidebar/info/photo/kievinfo.pdf|title=キエフ案内
|publisher=[[在ウクライナ日本国大使館]]|accessdate=2014-07-12|format=PDF}})。[http://lcorp.ulif.org.ua/dictua/ ウクライナ語オンライン大辞典] も参照。また、[[中澤英彦]]著『ニューエクスプレス ウクライナ語』([[白水社]]、2009年)や[[小泉悠]]著『「帝国」ロシアの地政学 「勢力圏」で読むユーラシア戦略』([[東京堂出版]]、2019年)にも「宇」との省略形が使用されている。その一方、「烏克蘭」の使用は現在も散見される。中国語圏では「烏克蘭」とその省略形「烏」表記が現在でも一般的である。</ref>。
「ウクライナ」という[[スラヴ語派|スラヴ語]]の地名の初出は、『[[原初年代記]]』[[イパチー写本]]の「[[キエフ年代記]]」にある[[1187年]]の条である<ref>{{lang|sla|Полное собрание русских летописей (ПСРЛ). — Т. 2. Ипатьевская летопись. — [[サンクトペテルブルク|СПб.]], 1908. — c. 652.}}</ref>。この地名は、[[キエフ公国]]・[[チェルニーヒウ公国]]と並んで[[キエフ大公国|ルーシ大公国]]の歴史的中枢地に含まれる[[ペレヤースラウ公国]]の範囲を示している。また、この地名は他のルーシ年代記の[[1189年]]の条<ref>{{lang|sla|Полное собрание русских летописей (ПСРЛ). — Т. 2. Ипатьевская летопись. — СПб., 1908. — c. 663.}}</ref>、[[1213年]]の条<ref>{{lang|sla|Полное собрание русских летописей (ПСРЛ). — Т. 2. Ипатьевская летопись. — СПб., 1908. — c. 732.}}</ref>、[[1280年]]の条<ref>{{lang|sla|Полное собрание русских летописей (ПСРЛ). — Т. 2. Ипатьевская летопись. — СПб., 1908. — c. 881.}}</ref>にも「ウクライナ」あるいは「ヴクライナ」という形で登場し、ガリツィア地方、[[ヴォルィーニ]]地方、[[ポリーシャ]]地方を指す用語として用いられている。
13世紀にルーシ大公国が滅び、その中部・南部の地域が[[リトアニア大公国]]と[[ポーランド王国]]に併合されると、「ウクライナ」は併合地の領域を表す地名としてリトアニア・ポーランドの年代記や公式文書などに使用されるようになる。[[14世紀]]から[[17世紀]]にかけて広義の「ウクライナ」は[[ルーシ人]]が居住するガリツィア地方、[[ヴォルィーニ]]地方、[[ポジーリャ]]地方、[[ブラーツラウ]]地方とキエフ地方の範囲を示し、狭義の「ウクライナ」はキエフを中心とした[[ドニプロ川]]の中流域を示している<ref name="history.franko.lviv.ua">{{uk icon}} [http://history.franko.lviv.ua/yak_intro.htm {{lang|sla|Яковенко, Н. Нарис Історії України з найдавніших часів до кінця XVII. — К., 1997}}]</ref>。
「ウクライナ」の地名の両義性は、[[ウクライナ・コサック]]の[[ヘーチマン国家]]が誕生する17世紀半ば以後にも東欧の古文書にみられる。狭義の「ウクライナ」は当国家の支配圏を指しているが、広義の「ウクライナ」は当国家の支配圏外のルーシ人の居住地を意味している{{refnest|group="注釈"|[[1657年]]に[[スウェーデン|スウェーデン王国]]との交渉においてコサックの棟梁[[イヴァン・ヴィホーウシクィイ]]は、「[[正教会|ギリシアの信仰]]と[[ウクライナ語|ルーシの言葉]]が広まっている地域、[[ヴィスワ川]]までの古のウクライナ、あるいはルーシ」の所有権の承認を主張していた<ref>{{uk icon}}[http://history.franko.lviv.ua/yak_intro.htm {{lang|sla|Яковенко, Н. Нарис Історії України з найдавніших часів до кінця XVII. — К., 1997}}]</ref>。}}。しかし、ヘーチマン国家がロシアの[[保護国]]になることにより、「ウクライナ」はドニプロ川の中流域だけを意味するようになり、17世紀以降はルーシの本土を意味する小ロシア(小ルーシ)という地名の[[同義語]]となった。
[[19世紀]]後半から[[20世紀]]初頭にかけて、ルーシ系の知識人による民族運動が発展していくにつれて、「ウクライナ」はルーシ人が居住する民族領域を意味する名称となり、「[[ルーシ人]]」は「[[ウクライナ人]]」という民族名に取って代わられた<ref name="history.franko.lviv.ua"/>。[[1917年]]に成立した[[ウクライナ人民共和国]]において初めて、「ウクライナ」という名称が正式な国号の中で用いられることとなった。
=== 語源 ===
[[ファイル:Vkraina-Cosaques-Okraina small.png|thumb|right|250px|{{仮リンク|ヴィンチェンツォ・コロネリ|en|Vincenzo Coronelli|label=V・コロネリ}}による東欧地図([[1690年]])。キエフを中心とした地域は「{{lang|la|VKRAINE ou PAYS DES COSAQUES}}(ウクライナあるいは[[コサック]]の国)」と記されている。隣の「{{lang|la|OKRAINA}}(辺境)」はロシア南部の国境地帯を指す。]]
「ウクライナ」の語源については、「国」といった意味であるという説と、「辺境」といった意味であるという説がある。前者は「内地」を意味する中世[[ルーシ語]]の「ウクライナ ({{lang|uk|ѹкраина}})」・「ヴクライナ ({{lang|uk|вкраина}})」という単語に基づいており、後者は「僻地」を意味する近世の[[ポーランド語]]の「オクライナ ({{lang|pl|okrajna}})」や、[[ロシア語]]の「オクライナ ({{lang|ru|окраина}})」という単語に基づいている<ref>{{uk icon}} {{lang|uk|Півторак, Г. П., ''Походження українців, росіян, білорусів та їхніх мов : Міфи і правда про трьох братів слов'янських зі «спільної колиски»''(G・P・ピウトラーク『ウクライナ人、ロシア人、ベラルーシ人とそれらの言語の起源』). — Київ : Академія, 1998.}}</ref>。
「ウクライナ」/「ヴクライナ」に関連する単語の中で、最も基本的で、現在でも使用されている一[[音節]]の「クラーイ ({{lang|uk|край}})」という単語には「地域」「隅」「境」「端」などの複数の意味がある<ref>{{uk icon}} [http://www.slovnyk.net/index.php?swrd=%EA%F0%E0%E9 {{lang|uk|КРАЙ}} 。ウクライナ語オンライン大辞典]。例えば、<br />
{{lang|uk|Рідний край}} [リードヌィイ・クラーイ]、故郷。<br />
{{lang|uk|Передній край}} [ペレードニイ・クラーイ]、前線。<br />
{{lang|uk|Східний край}} [スヒードヌィイ・クラーイ]、東端。</ref>。これから派生した[[ウクライナ語]]の「クライーナ ({{lang|uk|країна}})」という[[名詞]]は「国」を意味する<ref>{{uk icon}} [http://www.slovnyk.net/?swrd=%EA%F0%E0%BF%ED%E0&x=66&y=21 {{lang|uk|КРАЇНА}} 。ウクライナ語オンライン大辞典]</ref>。ウクライナ語では「ウ〜 ({{lang|uk|у-}})」<ref>{{uk icon}} [http://www.slovnyk.net/index.php?swrd=%F3&x=44&y=11 {{lang|uk|у}} 。ウクライナ語オンライン大辞典]</ref>と「ヴ〜 ({{lang|uk|в-}})」<ref>{{uk icon}} [http://www.slovnyk.net/index.php?swrd=%E2&x=43&y=8 {{lang|uk|в}} 。ウクライナ語オンライン大辞典]</ref>は「内〜」「〜の中で」を意味する[[処格|前置格]]を支配する[[前置詞]]であることから、「ウクライナ」や「ヴクライナ」は「境界の内側」「内地」を意味する。一方、ロシア語では「クラーイ」から派生した「オクライナ ({{lang|ru|окраина}})」という単語が「場末」「辺境」「はずれ」という意味をもっている。ロシア語では「オ〜 ({{lang|ru|о-}})」<ref>{{ru icon}} [http://www.vedu.ru/ExpDic/enc_searchresult.asp?S=18806 {{lang|ru|о}} 。ロシア語オンライン大辞典]</ref>と「ウ〜 ({{lang|uk|у-}})」<ref>{{ru icon}} [http://www.vedu.ru/ExpDic/enc_searchresult.asp?S=36073 {{lang|ru|у}} 。ロシア語オンライン大辞典]</ref>は「〜の側に」「〜の端に」を意味する前置詞なので、ロシア語話者は「ウクライナ」を「辺境地」と解釈しがちである。
== 歴史 ==
{{main|ウクライナの歴史}}
=== 古代 ===
{{Main|スキタイ|サルマティア人}}
[[紀元前10世紀]]頃より現在のウクライナの地には様々な[[遊牧民族]]が到来した。[[紀元前8世紀]]頃、黒海北岸に至った[[騎馬民族]]の[[スキタイ]]人は、[[紀元前6世紀]]頃に[[キンメリア|キンメル人]]を追い払って自らの国家を立て、[[紀元前4世紀]]にかけて繁栄した。黒海沿岸には[[古代ギリシア]]の[[古代の植民都市|植民都市]]が建設され、[[地中海世界]]や[[メソポタミア]]方面との交易を通じて[[ペルシア|ペルシャ]]、古代ギリシア、[[ローマ帝国]]の文化的影響を受けた。[[紀元前3世紀]]頃、[[中央アジア]]より来た[[サルマティア人]]の圧力を受けてスキタイは衰退した。
[[2世紀]]頃に[[東ゴート族]]が王国を建て、[[3世紀]]中頃にクリミア半島に存続していたスキタイ人の国家を滅ぼした。これらの民族は交易や植民を盛んに行い、彼らが建設した多くの交易拠点はのちに[[都市国家]]へと発展した。[[4世紀]]から[[5世紀]]にかけて[[民族大移動]]の発端となる[[フン族]]がこの地を通り抜けた。[[6世紀]]には[[アヴァール族]]が侵入し、同じ頃に移住してきたと考えられている[[東スラヴ人]]を支配した。スラヴ民族はウクライナ中央部と東部に居住し、[[キエフ]]の建設と発展に重要な役割を担った。[[7世紀]]から[[8世紀]]にかけては[[ハザール|ハザール可汗国]]の支配下にあった。
=== 中世 ===
{{Main|キエフ大公国|ハールィチ・ヴォルィーニ大公国|モンゴルのルーシ侵攻}}
[[ファイル:Vasnetsov Bapt Vladimir.jpg|200px|thumb|ヴォロディーミル聖公の洗礼]]
8世紀頃、ウクライナでは[[ルーシ (地名)|ルーシ]]という国が誕生し、東スラヴ人の[[ポリャーネ族]]の町キエフはその首都となった<ref name="ЕІУ-Толочко">{{lang|uk|Толочко П. П. Київська Русь // ''Енциклопедія історії України''. — Київ : Наукова думка, 2007. — Т. 4. — С. 230–242.}}</ref>。[[882年]]に[[オレグ (キエフ大公)|オレグ]]公([[882年]] - [[912年]])が率いる[[北ヨーロッパ|北欧]]の[[ヴァイキング]]がキエフを陥落させると、ルーシはヴァイキング系の[[リューリク朝|リューリク]][[大公]]朝のものとなった<ref name="ЕІУ-Толочко" />。研究史上では、朝廷の中心がキエフに置かれていたことから、当時のルーシを[[キエフ・ルーシ]]、あるいは[[キエフ大公国]]と呼ぶ<ref name="ЕІУ-Толочко" />。[[オリガ (キエフ大公妃)|オリハ大公女]]([[945年]] - [[965年]])、その子息[[スヴャトスラフ1世|スヴャトスラウ大公]]([[965年]] - [[972年]])、孫[[ウラジーミル1世|ヴォロディーミル大公]]([[980年]] - [[1015年]])、および曾孫[[ヤロスラフ1世|ヤロスラウ大公]](1019年 - 1054年)の治世はルーシの全盛期となった<ref name="ЕІУ-Толочко" />。キエフの大公朝は、周辺の東スラヴ人をはじめ、北西の[[バルト人]]と、北東の[[フィン・ウゴル語派|フィン・ウゴル人]]を征服し、支配領域を拡大させた。その結果、[[11世紀]]におけるルーシは約150万平方キロメートルの面積を誇る、欧州の最大の国家となった<ref name="ЕІУ-Толочко" />。ルーシは、北方の[[バルト海]]と[[フィンランド湾]]から南方のウクライナ草原まで、そして西方のカルパティア山脈から東方の[[ヴォルガ川]]まで広がっていた<ref name="ЕІУ-Толочко" />。周辺の諸政権が滅ぼされ、全ての国土はリューリク朝の諸侯の間に分けられた。[[988年]]にヴォロディーミル大公のころ、[[ルーシ人]]は[[東ローマ帝国]]から[[キリスト教]](のちの[[正教会]])を受けて[[国教]]とした<ref name="ЕІУ-Толочко" />。この出来事はウクライナの運命を決し、ウクライナはキリスト教[[文化圏]]に属することとなった。[[12世紀]]にルーシは領土をめぐる諸侯の争いによりいくつかのリューリク系の諸公国に分裂し、キエフ大公の権威が衰退した。名目上でキエフはルーシの首都の役割を果たしていたが、諸公国は事実上の独立国となった。13世紀にルーシの国体は完全に退勢し、[[1240年代]]に[[モンゴル帝国]]の軍による侵攻([[モンゴルのルーシ侵攻]])で滅ぼされた<ref name="ЕІУ-Толочко" />。
キエフの衰退後、ルーシの政治・経済・文化の中心は、西ウクライナにあった[[ハーリチ・ヴォルィーニ大公国]]へ移された。当国には、[[ヴォルィーニ]]地方、[[ハーリチ]]地方、[[ヘウム|ホールム]]地方、[[ベルズ]]地方、[[ザカルパッチャ]]地方、[[ポリーシャ]]地方、キエフ地方からなっていた<ref>{{lang|uk|Крип'якевич І. ''Галицько-волинське князівство''. Київ, 1984 . — С.21-37.}}</ref>。大公国の基礎は、[[1199年]]にリューリク朝の嫡流の血を引く[[ロマン・ムスティスラーヴィチ|ロマン]]大公によって築かれた<ref>{{lang|uk|Крип'якевич І. ''Галицько-волинське князівство''. Київ, 1984 . — С.84-87.}}</ref>。[[1245年]]にロマンの子息[[ダヌィーロ・ロマーノヴィチ|ダヌィーロ]]大公は、モンゴル帝国の[[ジョチ・ウルス]]に[[朝貢]]して従属したが、[[カトリック教会|カトリック]]のヨーロッパの支援を期待してポーランド、[[マゾフシェ県|マゾヴィア]]、ハンガリー、[[ドイツ騎士団]]と密約を交わし、独立戦争を計画した。[[1253年]]に[[教皇|ローマ教皇]][[インノケンティウス4世]]から[[西洋の冠|王冠]]を受けてルーシの初王([[ルーシ王]])となり、ジョチ・ウルスとの戦いに挑んだ<ref>{{lang|uk|Крип'якевич І. ''Галицько-волинське князівство''. Київ, 1984 . — С.93-105 .}}</ref>。[[1256年]]頃、モンゴルの[[クルムシ (ジョチ・ウルス)|クレムサ]]軍に勝利したダヌィーロ王は、20年後にルーシの首都となる[[リヴィウ]]を創建した。しかし、[[1259年]]に欧州が約束した援軍がなかったため、ダヌィーロは再びジョチ・ウルスに服属せざるを得なかった。その後、ダヌィーロの息子[[レーヴ・ダヌィーロヴィチ|レーヴ1世]]はモンゴル軍に従ってポーランドと[[リトアニア]]への遠征に参加した。[[1308年]]にダヌィーロの曾孫[[アンドリー]]と[[レーヴ2世]]はマゾヴィアとドイツ騎士団と手を組んで独立戦争を再開したが、彼らの後継者[[ボレスワフ・ユーリー2世|ユーリー2世]]は無益な戦争をやめてジョチ・ウルスに従属した。
1340年にユーリー2世の[[暗殺]]により王朝が断絶すると、隣国のポーランド王国とリトアニア大公国が王国の相続権を主張し、[[ハールィチ・ヴォルィーニ戦争|ハールィチ・ヴォルィーニの領土継承をめぐる戦争]]を開始した。[[1392年]]にポーランドはハーリチ地方、ホールム地方、ベルズ地方を併合し、そのほかの領土はリトアニア大公国のものとなった<ref>{{lang|uk|Крип'якевич І. ''Галицько-волинське князівство''. Київ, 1984 . — С.106-115 .}}</ref>。リトアニアは[[ルーシ語]]を公用語とし、正教を国教にするなど、[[ルーシ人]]に対して宥和政策をとって次第にルーシ化したが、ポーランドは新たな領土の[[ポーランド化]]を進めた。
その結果、14世紀末におけるウクライナの地域は他国の支配を受け独立国としての地位を失った。リトアニアはキエフ地方、チェルニーヒウ地方、ヴォルィーニ地方を中心とする北部・中部を確保した。ポーランドはハーリチ地方とポジーリャ地方からなる西部を統治した。南部は、[[1447年]]にジョチ・ウルスから独立した[[クリミア汗国]]が支配するようになった。無人だった東部は次第に[[モスクワ大公国]](のちのロシア)の領域に入った。[[1569年]]にポーランドとリトアニアが[[ポーランド・リトアニア共和国]]という連合国家を形成したことにより、ウクライナの北部と中部はポーランド領となった。ウクライナでは[[ルーシ県]]、[[ポジーリャ県]]、[[ヴォルィーニ県 (ポーランド)|ヴォルィーニ県]]、[[ブラーツラウ県]]、[[ベールズ県]]、[[キエフ県 (1471年-1793年)|キエフ県]]というポーランドの行政単位に設置され、1598年に[[ブレスト合同]]により正教会は禁じられた。
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File:Пантократор (20210903).jpg|{{left|キーウの[[聖ソフィア大聖堂 (キエフ)|ソフィア大聖堂]]}}
File:Alex K Kievan Rus..svg|{{left|ヴォロディーミルの紋}}
File:Alex K Halych-Volhynia.svg|{{left|ルーシ王国の国章}}
File:Костянтин Іванович Острозький.jpg|{{left|16世紀の[[コンスタンティ・オストログスキ|ルーシ系貴族]]}}
</gallery>
=== 近世 ===
<!--[[File:Cossack Mamay 1st half of 19th c (2).jpg|thumb|200px|民話的な存在[[コサック・ママーイ]]。ウクライナのコサックのシンボル、「ウクライナの守護神」とも言われる。コサックは西洋人のキリスト教徒であったが、東洋の戦術・文化を受容していた。]]-->
==== コサック時代 ====
[[ファイル:Chmelnicki with map of Ukraine.jpg|250px|thumb|コサックのウクライナを背景にしたフメリニツキー将軍(18世紀初頭)。右上の隅にコサック国家の国章「銃士」と、足元にコサック国家の簡単な地図が描かれている。]]
{{main|コサック|コサック国家|ロシア・ポーランド戦争 (1654年-1667年)}}
[[15世紀]]後半、[[リトアニア大公国|リトアニア]]・[[ロシア・ツァーリ国|ロシア]]・[[クリミア・ハン国|クリミア]]が接する地域、「[[荒野 (ウクライナ)|荒野]]」と呼ばれる[[ウクライナの草原]]において、[[コサック]]という武人の共同体が成立した。[[16世紀]]にコサックは、[[ザポロージャ]]の[[シーチ]]という[[要塞]]を築き、それを根拠地とし、共同体を「サポロージャ・コサック軍」と称した<ref>{{lang|uk|Розділ ІІІ. Несхожі пагони руського стовбура (кн.ХІV–сер.ХVІст.). § 3. Перші сто літ козаччини // Яковенко Н. ''Нарис історії України з найдавніших часів до кінця ХVІІІ ст.'' — Київ, 1997.}}</ref>。16世紀から17世紀前半にかけてのコサックは、[[ポーランド・リトアニア]]の国王の[[臣下]]であったが、国王の支配が及ばない地域に住み、軍人の特権と自治制を有した。コサックは、ポーランド・リトアニアの援軍として働き、[[リヴォニア戦争]]([[1558年]] - [[1583年]])、[[ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)|ロシア・ポーランド戦争]]([[1605年]] - [[1618年]])、{{仮リンク|ポーランド・オスマン戦争 (1620年-1621年)|en|Polish–Ottoman War (1620–21)|label=ポーランド・オスマン戦争}}([[1620年]] - [[1621年]])、[[スモレンスク戦争]]([[1632年]] - [[1634年]])などに参加した。それと同時に、彼らは独断で隣国の[[モルドヴァ]]、[[クリミア・ハン国|クリミア]]、ロシアなどへ遠征したり、[[水軍]]としてオスマン帝国が支配する黒海沿岸部を攻撃したりした。さらに、コサックの一部は[[傭兵]]として全ヨーロッパで活躍したこともあり、[[三十年戦争]]に[[カトリック教会|カトリック]]側のために戦った。軍人でありながら、[[シュラフタ|貴族]]権を持たないコサックは、貴族の国家であるポーランド・リトアニアにおいて社会・宗教・民族的[[迫害]]を受け、しばしば[[反乱]]を起こした。その反乱の中で特に大きかったのは、[[コスィーンシキーの乱]]([[1591年]] - [[1593年]])、[[ナルィヴァーイコの乱]]([[1594年]] - [[1596年]])、[[ジュマイロの乱]]([[1625年]])、[[フェドロヴィチの乱]]([[1630年]])、[[スリーマの乱]]([[1635年]])、[[パウリュークの乱]]([[1637年]])と[[オストリャニンの乱]]([[1638年]])であった<ref name="Козацька ера">{{lang|uk|Субтельний О. [http://ukrainica.org.ua/ukr/istoriya_ukraini/istoriya_ukraini_all/1655 Козацька ера] // Україна: Історія. — Київ: Либідь, 1993.}}</ref><ref>{{lang|uk|Розділ ІІІ. Україна-Русь — третій зайвий у Речі Посполитій «Двох Народів» (1569-1648). § 3. Шляхта, простолюд, козаки – вузол взаємопов’язань і протиріч // Яковенко Н. ''Нарис історії України з найдавніших часів до кінця ХVІІІ ст.'' — Київ, 1997.}}</ref>。
[[1648年]]、[[ボフダン・フメリニツキー]][[ヘーチマン|将軍]]が率いるコサック軍は、ポーランド・リトアニアにおいて[[フメリニツキーの乱]]を起こした。反乱は次第にポーランドからウクライナの[[独立戦争]]に変容し、ウクライナの中部に[[コサック国家]]が誕生した<ref name="Козацька ера"/><ref>{{lang|uk|В. Греченко О. Ярмиш Історія України Торсінг 2005 ст. 39-47}}</ref>。[[1654年]]に、ポーランドと戦い続けるために、コサックのウクライナは[[ペラヤースラウ会議 (1654年)]]でロシアの[[ツァーリ]]の保護を受けたが、[[1656年]]にロシア人がポーランド人と[[ヴィリニュス条約]]を結び単独和議したため、スウェーデン、[[トランシルヴァニア]]と同盟を締結した<ref name="Яковенко-Хмель">{{lang|uk|Розділ V. Козацька ера. § 1. Козацька революція 1648-1657 рр. // Яковенко Н. ''Нарис історії України з найдавніших часів до кінця ХVІІІ ст.'' — Київ, 1997.}}</ref>。[[1657年]]、コサックの将軍に[[イヴァン・ヴィホウシキー]]が選ばれると、ウクライナ国内で[[バラバシュの乱|反頭領の反乱]]が勃発して[[ウクライナ・ロシア戦争 (1658年-1659年)|ウクライナ・ロシア戦争]]へ展開した。ヴィホウシキーは、[[1659年]]に[[コノトプの戦い]]で勝利を収めたが、ポーランドとの連合条約([[ハヂャチ条約]])を結んだためにコサック長老の支持を失った<ref name="Козацька ера" />。[[荒廃時代]]と呼ばれるウクライナ内戦が始まり、その結果、コサック国家が[[ドニプロ川]]を軸にして[[右岸ウクライナ]]、[[左岸ウクライナ]]、[[ザポロージャ]]という地域に分かれた。右岸ウクライナのコサックはポーランド・リトアニアの支配下に置かれ、左岸ウクライナとザポロージャはロシアの保護下に置かれた。[[1667年]]にこのような分割は[[アンドルソヴォ条約]]によって公認された。[[1672年]]に新たな将軍[[ペトロ・ドロシェンコ]]は、オスマン帝国の援助を受けてウクライナの統一を実行しようとした([[トルコ・ポーランド戦争 1672-1676|トルコ・ポーランド戦争(1672-1676)]]、[[露土戦争 (1676年-1681年)]])が失敗し、[[バフチサライ条約 (1681年)]]がロシアとオスマン帝国の間で結ばれた<ref name="Яковенко-Руїна">{{lang|uk|Розділ V. Козацька ера. § 2. Руїна (1658—1686) // Яковенко Н. Нарис історії України з найдавніших часів до кінця ХVІІІ ст. — Київ, 1997.}}</ref>。[[1689年]]にロシアとポーランド・リトアニアは[[永遠和平条約]]により最終的にウクライナを分割した。17世紀後半にポーランド人は右岸ウクライナにおいてコサックの自治制を廃止したが、ロシア人は左岸ウクライナにおいてコサック国家を保護国として存続させた。[[1709年]]に、[[大北方戦争]]の際、[[イヴァン・マゼーパ]]将軍が引率したコサックは[[スウェーデン]]と同盟を結び、ロシアの支配から離脱しようと図ったが、[[ポルタヴァの戦い]]に惨敗した<ref name="Яковенко-Мазепа">{{lang|uk|Розділ V. Козацька ера. §3. Мазепа і мазепинці // Яковенко Н. Нарис історії України з найдавніших часів до кінця ХVІІІ ст. — Київ, 1997.}}</ref>。マゼーパの蜂起はロシアに口実を与え、ロシア政府はウクライナにおけるコサックの自治制を[[小ロシア省|廃止する政策]]に乗り出した。[[1754年]]にロシアはロシア・ウクライナの[[関税]]国境を廃止し、[[1764年]]にコサック将軍の位([[ヘーチマン]])を廃止した。廃位させられた最後の将軍[[キリロ・ロズモウシキー]]はロシアの[[元帥]]に任じられた。[[1775年]]にロシア軍はザポロージャの[[シーチの破壊|シーチを破壊]]し、[[1781年]]にウクライナにおけるコサック自治制は廃止された。[[1783年]]、ロシア国内にならってウクライナで[[農奴]]制が敷かれた<ref name="Козацька ера"/><ref>{{lang|uk|Розділ VІ. Україна ХVІІІ ст. між Річчю Посполитою і Російською імперією. § 2. Згасання козацьких автономій у підросійській Україні // Яковенко Н. Нарис історії України з найдавніших часів до кінця ХVІІІ ст. — Київ, 1997.}}</ref>。また、[[1783年]]には、ロシアは15世紀から続いていたクリミア・タタール人を中心とする[[イスラム国家]][[クリミア・ハン国|クリミア汗国]]を滅ぼし、クリミア半島を併合した。
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File:Józef Brandt - Wesele kozackie.jpg|{{center|コサックの結婚式}}
File:Herb Viyska Zaporozkoho.svg|{{center|コサック国の国章}}
File:Józef Brandt - Potyczka Kozaków z Tatarami.jpg|{{left|タタールとの小競り合い}}
File:Portret Mazepa.jpg|{{center|マゼーパ将軍}}
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=== 近代 ===
[[ファイル:Narbut Eneida.jpg|thumb|200px|コサック軍を率いるエネーイ棟梁を描いた『エネイーダ』の表紙]]
<!--[[ファイル:Image-Shevchenko Kateryna Olia 1842 large.jpg|thumb|200px|「カテルィーナ」([[1842年]]、[[タラス・シェウチェンコ]]作)ロシア人将校に捨てられたウクライナの娘。]]-->
[[18世紀]]から19世紀にかけて、ロシア帝国とオーストリア帝国によるウクライナの抑圧政策と全ヨーロッパで流行した[[ロマン主義]]・[[民族主義]]の高まりにより、ウクライナ人の民族運動も盛んになった。[[1798年]]に、[[イヴァン・コトリャレーウシキー]]によるコサック国家の再建を謳う[[叙事詩]]『[[エネイーダ]]』が出版された。この作品は、現代ウクライナ語の[[口語]]で書かれた初めての作品であった一方、ウクライナの民族的ルネサンスの序幕でもあった{{sfn|中井和夫|1998|p=233}}。[[1806年]]に[[ハルキウ大学]]が設立されると、ウクライナの[[知識人]]によるウクライナの歴史・文化・民俗に関する研究が活発的に行われるようになった{{sfn|中井和夫|1998|p=234}}。[[1825年]]頃、近世のコサック軍記の編集物として『ルーシ人の歴史』が著され、ウクライナの文化人、歴史学者、作家などに大きな影響を与えた{{sfn|中井和夫|1998|p=234}}。[[ウクライナ語]]の完成が急がれたのもこの時期で、ロシア語[[正書法]]、ポーランド語正書法、そして独自の正書法など様々なものが生み出されたが、最終的には[[タラス・シェウチェンコ]]のまとめたウクライナ語文法が現代ウクライナ語の基礎となった{{sfn|中井和夫|1998|pp=234–235}}。
露土戦争における[[キュチュク・カイナルジ条約]]でロシア帝国のウクライナ統治が行われるようになる。ロシア帝国は常にウクライナにおける[[ロシア化]]政策を実行しており、ウクライナ語は当時はロシア語の一[[方言]]「小ロシア語」として扱われ、独自の言語としては公認されていなかった。[[1863年]]に文学作品を除きウクライナ語の書物の出版・流通を禁止する[[ヴァルーエフ指令]]が出され、[[1873年]]にウクライナ語の書物の出版・流通・輸入を禁止する[[エムス法]]が定められた{{sfn|中井和夫|1998|pp=237–242}}。
=== 近代 ===
==== ウクライナ独立戦争 ====
{{Main|ウクライナ人民共和国|ウクライナ国|西ウクライナ人民共和国|ウクライナ・ソビエト戦争|ウクライナ・ポーランド戦争 (1918年‐1919年)|1919年ソビエト・ロシアによるウクライナ侵攻}}
[[File:Propaganda UPR3.jpg|thumb|200px|ウクライナの反露ポスター。「他国のものは要らないが、自国のものは渡さぬ!」。ロシアの双頭の鷲から子供を守っているウクライナ人の婦人。]]
[[第一次世界大戦]]が勃発すると、ウクライナ西部を巻き込んで[[東部戦線 (第一次世界大戦)|東部戦線]]が形成された。
[[1917年]]に[[2月革命 (1917年)|2月革命]]により[[ロシア帝国|ロシア帝政]]が崩壊し、[[ペトログラード]]で[[ロシア臨時政府]]が成立した。それに伴い、同年[[3月14日]]にキーウでウクライナ政府として[[ムィハーイロ・フルシェーウシクィイ|フルシェーウシキー]]教授が指導する[[ウクライナ中央ラーダ|ウクライナ中央議会]]が成立した。[[十月革命]]によってロシアの臨時政府が倒され、[[ロシア共産党]]の[[ボリシェヴィキ|ソビエト]]政権が誕生すると、[[11月7日]]に中央議会はキエフを首都とする[[ウクライナ人民共和国]]の樹立を宣言したが、[[ウクライナ・ソビエト戦争]]が勃発したあと、[[1918年]][[1月9日]]に[[ウクライナ人民共和国 (ソビエト派)|ウクライナ人民共和国(赤軍政権)]]の独立を宣言した{{sfn|中井和夫|1998|pp=303–306}}。同年2月8日にロシアの[[赤軍]]はキエフを占領したが、2月9日に[[ブレスト (ベラルーシ)|ブレスト]]でウクライナとドイツ、オーストリアの同盟が完結し、中央議会は同盟国の軍事力を借りてウクライナを解放し、3月に首都を奪い返した{{sfn|中井和夫|1998|pp=307–308}}。[[4月29日]]にウクライナの[[保守]]階級による[[ヘーチマンの政変|クーデター]]の結果、中央議会に代わって[[パウロー・スコロパードシクィイ|スコロパードシキー]]大将の政権が成立した。
国号はウクライナ国に改められ、元首は[[ヘーチマン]]となった。当国は安定した発展を見せたが、ドイツの[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]への降伏により事態は一転し、1918年[[12月19日]]にスコロパードシキー政権が倒され、新たな[[ディレクトーリヤ|執政内閣]]の政権が成立した{{sfn|中井和夫|1998|pp=308–309}}。国号は再びウクライナ人民共和国となった。しかし、ドイツ軍の撤退によりウクライナ・ソビエト戦争が再開した。[[1919年]][[1月6日]]、ソビエトのロシアは[[傀儡政権]]として首都を[[ハルキウ]]とする[[ウクライナ・ソビエト社会主義共和国]]を樹立した。同年[[2月5日]]にソビエト軍はキエフを占領し、ウクライナ人民共和国の政府を亡命させた。1919年から[[1920年]]にかけて[[ロシア内戦]]及び[[ポーランド・ソヴィエト戦争]]が発生し、ウクライナの支配をめぐりウクライナ人民共和国軍、ソビエトの赤軍、ロシア帝政派の[[白軍]]、白軍を支援する[[フランス軍]]・[[イギリス軍]]・[[ポーランド軍]]、[[ネストル・マフノ]]率いる[[アナキズム|無政府主義者]]の[[ウクライナ革命反乱軍|黒軍]]、ウクライナの[[ゲリラ]]を中心とする[[緑軍]]などが争った。1920年冬に戦争がソビエトの赤軍の勝利で終結し、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国は西ウクライナを除きウクライナ全域を確保した{{sfn|中井和夫|1998|pp=310–311}}{{efn|ポーランドは[[レーニン]]が率いた[[ボリシェヴィキ]]軍に敗退したが、1922年には[[日波通商航海条約]]締結により[[日本]]からの手厚い支援を受けた。}}。
一方、[[オーストリア゠ハンガリー帝国]]の解体に伴い、[[1918年]][[10月19日]]に西ウクライナの[[ガリツィア]]・[[ブコビナ]]地方に住んでいたウクライナ人は[[リヴィウ]]を首都とする[[西ウクライナ人民共和国]]の独立を宣言した。しかし、11月1日に[[ポーランド第二共和国|ポーランド]]が当共和国へ侵入し、[[ウクライナ・ポーランド戦争 (1918年‐1919年)|ウクライナ・ポーランド戦争]]が始まった。ポーランド側は[[フランス第三共和政|フランス]]、[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]、ルーマニア、ハンガリーなどによって後援されたが、西ウクライナ側は国際的に孤立していた。1919年[[1月22日]]に西ウクライナはウクライナ人民共和国に援助を求め、キエフでウクライナ人民共和国と合同したが、ウクライナ人民共和国の政府はソビエトの赤軍と戦ったため、援軍を派遣することができなかった。こうした中で、[[右岸ウクライナ]]の併合を目論むポーランドが[[7月18日]]に西ウクライナ全地域を占領し、西ウクライナ人民共和国は滅亡した。その後、[[1920年]]4月に西ウクライナをめぐって[[ポーランド・ソビエト戦争]]が勃発したが、[[1921年]][[3月18日]]の[[ポーランド・ソビエト・リガ平和条約|リガ条約]]によって西ウクライナのポーランド支配が確定した{{sfn|中井和夫|1998|pp=311–313}}。
またクリミアにおいては、1917年、クリミア・タタール人を中心とし、[[ノーマン・チェレビジハン]]を初代大統領とする多民族・世俗国家[[クリミア人民共和国]]の建国が宣言されたが、1918年に[[モスクワ]]のソビエト政府により占領され、滅亡した。
<gallery>
File:Pedagogical Museum in Kyiv.jpg|{{center|中央議会の議会堂}}
File:Alex K Ukrainska Derzhava.svg|{{center|ウクライナ国の国章}}
File:Skoropadsky - before 1917.jpg|{{center|ヘトマン・スコロパードシキー}}
File:ZUNR coa.svg|{{center|西ウクライナの国章}}
</gallery>
==== 社会主義時代 ====
{{Main|ウクライナ・ソビエト社会主義共和国|ホロドモール|カルパト・ウクライナ|ウクライナ民族主義者組織|ウクライナ蜂起軍|キエフの戦い (1941年)}}
[[1922年]][[12月30日]]に[[ウクライナ社会主義共和国]]は、[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国|ロシア]]、[[白ロシア・ソビエト社会主義共和国|ベラルーシ]]、[[ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国|ザカフカース]]とともに同盟条約によって[[ソビエト連邦]]を結成した{{sfn|中井和夫|1998|p=313}}。諸共和国は平等の立場で新しい[[国家連合]]を形成したが、その国家連合は[[ソビエト社会主義共和国連邦憲法 (1924年)|ソ連憲法]]制定によってロシアを中心とする[[中央集権]]的なシステムに変遷し、その他の独立共和国はロシアの自治共和国となった{{sfn|中井和夫|1998|p=314}}。
[[1923年]]から[[1933年]]にかけて、ウクライナでのソビエト政権を磐石なものにするために、ソ連政府・共産党は[[ウクライナ化]]政策を実行した。[[ウクライナ語]]教育の普及や政府諸機関へのウクライナ人の採用などにより、政権とウクライナ人の間に存在した敵意をなくそうという試みであった{{sfn|中井和夫|1998|p=315}}。しかし、[[1930年]]以降、党内からこの政策を厳しく批判する声が上がり、[[1933年]]にウクライナ化は「ウクライナ民族主義的偏向」として中止された。ウクライナ化を指導した[[政治家]]、[[知識人]]、[[文化人]]は逮捕・[[粛清]]され、ロシア化の時代が再開した{{sfn|中井和夫|1998|p=316}}。
ソビエト連邦下のウクライナは拙速な農業の集団化政策などにより2度の大[[飢饉]]([[1921年]] - [[1922年]]、[[1932年]] - [[1933年]]、後者は[[ホロドモール]]と呼ばれ[[2006年]]にウクライナ政府によって[[ウクライナ人]]に対する[[ジェノサイド]]と認定された。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[カナダ]]、[[イタリア]]などの欧米諸国では正式にジェノサイドであると認定されている<ref>http://www.president.gov.ua/content/golodomor_75_30.html</ref>が、[[国際連合]]や[[欧州議会]]では[[人道に対する罪]]として認定している)に見舞われ、推定で400万から1000万人が命を落とした。この「拙速な集団化政策」は意図してなされたものであるという説も有力である。
この背景には、[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]や[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]らによる農民への敵視政策があった。共産党政府のとった土地の共有化を農民は拒むため、多くの住民が農民であったウクライナの統治は共産党政府にとって大きな障壁となっていた。そのため、一説によるとレーニン、スターリンらにとってはウクライナの農民の根絶が理想であったともされている。スターリンは、農民問題の解決は至急の課題であると明言している。また、この時期に前後し、ウクライナでは農民、すなわちウクライナ人への懐柔政策と[[弾圧]]政策が交互にとられた結果、ウクライナ共産党幹部全員をはじめ多くの人間が粛清された。最終的には、ウクライナ語使用の制限など弾圧政策が長くとられることになった<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=xQRwhPlT_kQC&dq=Subtelny+History+of+Ukraine&printsec=frontcover&source=bn&hl=ja&ei=Shu2SZ_vOJjC6gPF3_GfCQ&sa=X&oi=book_result&resnum=4&ct=result Orest Subtelny. ''Ukraine: A History''. Univ of Toronto Pr; 3rd ed. 2000. pp. 413-424.]</ref>。
[[大粛清]]はウクライナから始められ、[[1937年]]には首相の[[パナース・リューブチェンコ]]が自殺した。この年、ウクライナ社会主義ソビエト共和国は国号を「ウクライナ・ソビエト社会主義共和国」へと変更した。
一方、西ウクライナは[[ポーランド第二共和国|ポーランド]]、[[ルーマニア王国|ルーマニア]]、[[チェコスロバキア]]によって分割された。[[1921年]]から[[1939年]]にかけてポーランドは[[ヴォルィーニ]]・[[ガリツィア|ハルィチナー]]地方、ルーマニアは[[ブコビナ]]地方、チェコスロバキアは[[ザカルパッチャ]]を支配した。
==== 第二次世界大戦 ====
{{main|第二次世界大戦|独ソ戦|ウクライナ蜂起軍|ドイツによるヨーロッパ占領|東部占領地域|ナチス・ドイツ占領下のウクライナ}}
[[1939年]][[8月23日]]にソ連と[[ナチス・ドイツ]]は[[独ソ不可侵条約|不可侵条約]]を締結し、東欧における独ソの勢力範囲を定めた。同年[[9月1日]]に始まったドイツの[[ポーランド侵攻]]で[[第二次世界大戦]]が勃発。続いて[[9月17日]]に[[ソビエト連邦のポーランド侵攻]]が行われた。その結果ポーランドは分割され、ウクライナ人が多数派だった西[[ヴォルィーニ]]地方と[[ガリツィア]]地方はウクライナ・ソビエト社会主義共和国(SSR)に併合された<ref>[http://uris.org.ua/istoriya-gosudarstva-i-prava-ukrainy/priednannya-zahidnoyi-volini-ta-shidnoyi-galichini-do-skladu-ursr ウクライナ・ソビエト社会主義共和国へ西ヴォルィーニ地方とガリツィア地方の併合(ウクライナ語)]</ref>。ドイツが[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|フランスを占領]]したあと、[[1940年]][[6月28日]]にソ連はルーマニアに[[ベッサラビア]]と北[[ブゴヴィナ]]の割譲を要求した。ルーマニアはこの要求を呑み、北ブゴヴィナとベッサラビアはウクライナSSRに併合された。その後、北ブゴヴィナと南ベッサラビアを除く地域にはモルドバSSRが設置された。[[1940年]][[7月14日]]にソ連軍は[[バルト諸国占領|バルト三国を占領]]し、[[1941年]][[6月1日]]までにドイツ軍は[[バルカン半島]]を支配下に置いた([[バルカン戦線 (第二次世界大戦)]])。独ソ両国は共通の国境と、征服された地域を「解放」するために互いに攻め入る口実を得た。
1940年[[12月18日]]、[[ナチス・ドイツ]]は[[バルバロッサ作戦]]を秘密裏に決定し、1941年[[6月22日]]にソ連へ侵略した。それに呼応してイタリア、ルーマニア、[[ハンガリー]]などはドイツ側に与して派兵など軍事的支援を行った。[[独ソ戦]]は約4年間続き、ウクライナを中心とした地域に行われた。当初、ウクライナ人は[[ソビエト連邦共産党]]の支配からウクライナを解放してくれたドイツを支援したが、ドイツはウクライナの独立を承認せず、ソ連と同様の支配体制を敷いたため、ウクライナ人の反感を買った。1941年[[9月19日]]に[[ドイツ軍]]は[[キエフの戦い (1941年)|キエフ]]と[[右岸ウクライナ]]を占領し、[[10月24日]]に[[ハリコフ攻防戦|ハルキウ]]と[[左岸ウクライナ]]を奪い取り、[[1942年]]7月までにクリミア半島と[[クバーニ]]地方を支配下に置いた。[[1943年]]2月、ソ連軍は[[スターリングラード攻防戦]]においてドイツ軍の侵攻を食い止め、同年8月に[[クルスクの戦い]]でドイツ軍から独ソ戦の主導権を奪った。[[1943年]][[11月6日]]にソ連は[[ドニエプル川の戦い|キエフを奪還]]し、[[1944年]]5月にかけて[[カメネツ=ポドリスキー包囲戦|右岸ウクライナ]]とクリミアを奪還した。同年8月にソ連軍は[[リヴィウ=サンドミェシュ攻勢|西ウクライナを完全に支配下]]に置き、ドイツが占領するか、[[枢軸国]]に参加していた東欧・[[中央ヨーロッパ|中欧]]諸国への侵攻を開始した。[[1945年]][[5月2日]]にソ連はドイツの首都[[ベルリンの戦い|ベルリンを陥落]]させ、[[5月8日]]にドイツ側の[[無条件降伏]]により独ソ戦が終結した。ソ連側の勝利によってウクライナにおける共産党の支配が強化され、国際社会におけるソ連の役割が大きくなった。ソ連軍が占領した東中欧諸国では[[ワルシャワ条約機構|ソ連の衛星国]]が樹立された。
[[第二次世界大戦]]においてウクライナは[[ハリコフ攻防戦]]など激戦地となり、莫大な損害を蒙った。戦争の犠牲者は800万人から1,400万人とされている<ref name="loss">[http://www.history.vn.ua/book/ukrzno/141.html 第二次世界大戦におけるウクライナの損害(ウクライナ語)];[http://www.pravda.com.ua/articles/2010/05/7/5017138/ 「第二次世界大戦におけるウクライナの損害」『ウクライーンシカ・プラーウダ』(ウクライナ語)、2010年5月7日]</ref>。ウクライナ人の間では5人に1人が戦死した<ref name="loss" />。[[バビ・ヤール]]大虐殺など[[ナチス・ドイツ]]による[[ホロコースト]]も行われ、ウクライナ系の[[ユダヤ人]]や[[ロマ|ロマ人]]などの共同体は完全に破壊された<ref name="loss" />。ソ連政府はウクライナ在住の[[ドイツ人]]や[[クリミア・タタール人追放|クリミア・タタール人]]などの追放を行った。独ソ両軍の進退によってウクライナの地は荒れ果てた。700の市町と、約2万800の村が全滅した<ref name="loss" />。独ソ戦中にウクライナ人はソ連側の[[赤軍]]にも、ドイツ側の[[武装親衛隊]]([[第14SS武装擲弾兵師団]])にも加わった。また、ウクライナ人の一部は反ソ反独の[[ウクライナ蜂起軍]]に入隊し、独立したウクライナのために戦った<ref>„Ukrainian Insurgent Army“: [http://www.encyclopediaofukraine.com/display.asp?linkPath=pages\U\K\UkrainianInsurgentArmy.htm] ''Encyclopedia of Ukraine''.</ref>。
<gallery>
File:Spotkanie Sojuszników.jpg|{{center|[[ポーランド侵攻|ポーランド分割]]}}
File:Dayosh Kiev.jpg|{{center|[[ドニエプル川の戦い|ドニプロ川の戦いにおいて、渡河のためにいかだを作る赤軍兵士たち。立札には「キエフへ!」と記されている]]}}
File:Dyvizia Galychyna-rukav.svg|{{center|[[第14SS武装擲弾兵師団|ウクライナ系親衛隊]]の徽章}}
File:Пам'ятний знак «Менора».jpg|{{center|[[バビ・ヤール]]}}
</gallery>
==== 戦後 ====
[[白ロシア・ソビエト社会主義共和国|白ロシア共和国]](現・[[ベラルーシ]])とともに、ソ連とは別に[[国際連合加盟国]]として[[国際連合総会|国連総会]]に議席を持った。[[1948年]]から2年間と[[1984年]]から2年間は[[国際連合安全保障理事会非常任理事国|非常任理事国]]も務めている。しかし現実は、ウクライナは相変わらず「ソ連の一部」止まりであり、「ロシア化」が進められた。[[1956年]]の[[ハンガリー動乱]]や[[1968年]]の[[プラハの春]]の際は、ウクライナで威嚇のための大軍事演習が行われたり、ウクライナを経由して東欧の衛星国へ戦車が出撃したりしている。[[1953年]]の[[ヨシフ・スターリンの死と国葬|スターリンの死]]後、大粛清の犠牲になった多くのウクライナ人の名誉回復がなされ、また徐々にウクライナ文化の再興が水面下で活発化した。
[[1954年]]、[[ニキータ・フルシチョフ]]政権により、クリミア半島(クリム半島)がロシアからウクライナに移管された。これは、[[ポーランド・リトアニア共和国]]に対抗するためにロシアとウクライナ・コサックの間で結ばれた[[ペラヤースラウ会議 (1654年)|ペレヤスラフ条約]]締結300周年記念を祝うためであった。
1960年代には体制に批判的な、または「ウクライナ的な」文学も登場した。フルシチョフの[[非スターリン化]]の時代には、ウクライナ・ソビエト政府もこのような動きを少なからず容認した。しかし[[レオニード・ブレジネフ]]政権の「停滞の時代」になると、[[1972年]]にウクライナ人知識階級が大量に逮捕されるという事件が起こる。[[冷戦]]で対立していた東西ヨーロッパ諸国が人権尊重などを謳った[[ヘルシンキ宣言 (全欧安全保障協力会議)|ヘルシンキ宣言]]([[1975年]])を受けて、[[1976年]]には人権擁護団体「ウクライナ・ヘルシンキ・グループ」が結成されるが、それも弾圧された。
ソ連支配下のウクライナにおいて大部分のウクライナ農民は、1970年代まで国家の[[社会保障]]を受けることもできないでいた。収穫の大部分は相変わらず国家によって搾取され、スターリンの[[大粛清]]の恐怖がなくなった今、共産党の幹部たちは自らの特権階級([[ノーメンクラトゥーラ]])としての地位を不動のものとする。非効率な[[計画経済]]、[[冷戦]]下における膨大な軍事費・科学技術費は、ウクライナの近代化を進めたとはいえ、人々の生活は一向に改善する気配がなかった。政治の腐敗、経済的矛盾は深刻化していったにもかかわらず、隠蔽され続けた。
[[1986年]][[4月26日]]、[[チェルノブイリ原子力発電所事故]]が発生し、国内外に大きな被害が及んだ。ウクライナ国内にあたる地域には220万人ほどが住んでいた<ref>[https://web.archive.org/web/20070630071332/http://www.chernobyl.info/index.php?navID=2#Sources Chernobyl - Tschernobyl - Information]</ref>。事故後、汚染地域の外に[[スラブチッチ]]という街が作られ、かつて原発で働いていた者たちなどを住まわせた。[[国際原子力機関]](IAEA)と[[世界保健機関]](WHO)によって行われた調査によって明らかにされたことによると、この事故により直接的に56名が亡くなり、それ以外にもこの事故を原因とする[[悪性腫瘍|癌]]によって4,000名ほどが亡くなったといわれる<ref>[http://www.iaea.org/newscenter/focus/chernobyl/ In Focus CHERNOBYL]</ref>。
{{Seealso|チェルノブイリ原子力発電所事故|チェルノブイリ原子力発電所}}
[[1990年]]に一度原発を全廃したが、[[1993年]]より原発を再び稼働させた<ref>{{Cite news|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/news/131104/plc13110403190001-n1.htm|title=【櫻井よしこ 美しき勁き国へ】原発恐れず議論の時
|publisher=[[産経新聞]]|date=2013-11-04|accessdate=2013-11-04}}</ref>。
ソ連は[[ミハイル・ゴルバチョフ]]政権下で「[[ペレストロイカ]]」の時代を迎えており、ウクライナでは「ペレブドーヴァ」と呼ばれる改革・開放を求める運動が起きた。1960年代頃から民族文化運動を続けてきたウクライナ人文学者たちは、ウクライナ語の解放・普及を訴えた。ソビエト政府によってその存在を否定され、弾圧され続けてきたウクライナ・カトリックは水面下で根強く活動を続け、[[教皇|ローマ教皇]][[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]の強い励ましを受けた。そしてついに[[1989年]]、ウクライナ語の公用化(10月<ref>[https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_14-06-02-01.html ウクライナの国情およびエネルギー事情 (14-06-02-01)] - ATOMICA</ref>)、[[東方典礼カトリック教会|ユニエイト]]の公認化が実現した。[[東欧革命|東欧における民主革命]]の成功も受けて、ウクライナ民族運動は最高潮に達していく。
1989年9月、作家連盟などを中心に民族主義大衆組織「ペレストロイカのための人民運動」(通称「ルフ」)が結成される。[[1990年]]1月22日([[1918年]]の中央議会によるウクライナ独立宣言の日)にルフの呼びかけで、大勢のウクライナ人は手と手をつないで長い「人間の鎖」を作り上げた。3月にはウクライナにおいて民主的な最高会議(国会)議員選挙が実現し、ルフを中心とする民主勢力が大きな勢力を占めた。7月、最高会議は「[[主権]]宣言」を採択。国家の様々な権利をソ連から取り戻すことを宣言し、[[非核三原則#ウクライナの非核三原則|非核三原則]]も採択した。学生や炭鉱労働者によるストライキやデモは、民主勢力をさらに後押しする。ウクライナ共産党は分裂・衰退し、民主勢力へ走る者も出た。
崩れ行くソ連を完全に見限り、[[1991年]]8月24日(後に独立記念日となる)に最高会議はウクライナの独立を宣言、国名から「ソビエト社会主義共和国」を削除した。12月の[[1991年ウクライナ独立住民投票|国民投票]]によっても、圧倒的に独立が支持され(ウクライナ国内の多くのロシア人も支持した)、[[レオニード・クラフチュク]]がウクライナ初代大統領に選ばれた。1917年の独立革命の挫折以来、幾多の試練を乗り越えて、ついにウクライナの独立は達成されたのである。
==== 独立 ====
{| class="wikitable" style="float:right; text-align:right"
|+ 民族別等のウクライナ独立賛成者の割合{{sfn|中井和夫|1993|p=108}}
! colspan=2 |
! 賛成
! 棄権
! 反対
|-
! rowspan=3 | 民族別
! [[ウクライナ人]]
| 68% || 26% || 6%
|-
! [[ロシア人]]
| 55% || 28% || 17%
|-
! その他
| 46% || 40% || 14%
|-
! rowspan=3 | 母語別
! [[ウクライナ語]]
| 68% || 26% || 5%
|-
! [[ロシア語]]
| 57% || 28% || 15%
|-
! その他
| 40% || 44% || 16%
|-
! rowspan=2 | ウクライナ語<br />使用能力別
! あり
| 67% || 26% || 7%
|-
! なし
| 48% || 33% || 19%
|-
! rowspan=3 | 出生地別
! '''ウクライナ'''
| 66% || 27% || 7%
|-
! [[ロシア]]
| 52% || 30% || 18%
|-
! その他
| 65% || 27% || 8%
|}
[[1991年]]、[[ソビエト連邦の崩壊]]に伴いソビエト[[最高会議]]の元から独立して新たな国家ウクライナとなり、[[ベロヴェーシ合意]]の後[[独立国家共同体]]([[ウクライナ語]] {{lang|uk|СНД}} ;CIS)の創立メンバーの一員となった。独立ウクライナは旧ウクライナ人民共和国の中枢機関であった[[ウクライナ中央ラーダ|ウクライナ中央議会]]の正当な後継者であることを意識し、国旗や国章の「[[ウクライナの国章|トルィズーブ]]」([[三叉の鉾]])などは同共和国時代のものが採用された。この独立をもって、ウクライナはキエフ・ルーシ崩壊以降ウクライナ史上最大の領土を手に入れた。
[[2004年]]、大統領選挙の混乱から[[オレンジ革命]]が起き、第3回投票で勝利した[[ヴィクトル・ユシチェンコ|ユシチェンコ]]が[[2005年]]1月、[[ウクライナの大統領|大統領]]に就任した。
[[2005年]]3月、ロシア側より[[天然ガス]]の料金を国際的な市場価格に合わせてそれまでの優遇価格より倍以上に引き上げる要求があり両国が対立、[[2006年]]にかけて欧州各国を巻き込んだ騒動となった(「[[ロシア・ウクライナガス紛争]]」参照)。その後、[[野党]]勢力により内閣不信任案が可決される。
[[2006年]][[6月22日]]、ウクライナ最高議会選においてユシチェンコ大統領派の[[与党]]「われらのウクライナ」が惨敗。これを受けて[[ユーリヤ・ティモシェンコ|ティモシェンコ]]率いる「ティモシェンコ連合」と「われらのウクライナ」および[[ウクライナ社会党]]の3政党は議会多数派を組む合意が成立した。しかし、その後は人事をめぐり議論は紛糾、3政党間の亀裂は深まっていた。[[ヴェルホーヴナ・ラーダ|議会]]選挙で最大勢力となった[[地域党]]が議場を封鎖する間に社会党は連合を離脱した。地域党、ウクライナ共産党の支持を受け、社会党党首[[オレクサンドル・モロス|モロス]]が最高会議議長に就任した。その後、この3党は議会多数派の合意書に調印し、大統領に対し、地域党党首[[ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ|ヤヌコーヴィチ]]の首相指名を提案。この結果、8月にヤヌコーヴィチ内閣が成立した。しかし、大統領との権限争いで議会も分裂し、両派の妥協の産物として最高会議は解散し、[[2007年]]9月30日に臨時最高会議選挙が行われた。12月、ティモシェンコ連合とわれらのウクライナが連合する形でティモシェンコ内閣が発足した。
[[2010年]]、大統領選挙にてヤヌコーヴィチとティモシェンコが激突。決選投票の結果、ヤヌコーヴィチが勝利し、ウクライナは再び親露派に率いられることとなった。
==== クリミア・東部紛争 ====
{{see also|ウクライナ紛争 (2014年-)|ロシアによるクリミアの併合}}
;2014年ウクライナ騒乱とロシアによるクリミア自治共和国の併合
[[ファイル:John McCain speaking in Kiev.jpg|thumb|220px|[[2013年]]12月、キエフで反政府デモ隊の前で演説する[[アメリカ合衆国]]の[[ジョン・マケイン]][[アメリカ合衆国上院|上院議員]]。]]{{Main|尊厳の革命}}
[[2013年]]11月にヤヌコーヴィチ政権が[[欧州連合]](EU)との政治・貿易協定の調印を見送ったことで、親欧米派や[[民族主義]]政党[[全ウクライナ連合「自由」]]などの野党勢力などによる反政府運動が勃発した。[[2014年]]1月後半より、抗議者の中に[[右派セクター]]などの武力抵抗を辞さないとする立場のグループが現れ、これを制圧しようとする治安部隊との衝突が発生、双方に死者が発生した。2月22日にヤヌコーヴィチ大統領が行方をくらませたことを受け、[[ヴェルホーヴナ・ラーダ]](最高議会)にて、[[親露]]派政党の地域党と共産党を含む議会内全会派がヤヌコーヴィチの大統領解任(賛成328票中地域党36票、共産党30票)<ref>{{uk icon}}[http://w1.c1.rada.gov.ua/pls/radan_gs09/ns_golos?g_id=3863 「ウクライナ大統領の憲法権限履行の放棄に関する決議」に対する投票結果 ウクライナ最高議会 平成26年2月22日]</ref>と大統領選挙の繰り上げ実施を決議し、[[オレクサンドル・トゥルチノフ]]大統領代行とアルセニー・ヤツェニュク首相がヴェルホーヴナ・ラーダにおいて承認され、新政権が発足した([[2014年ウクライナ騒乱]])<ref>{{Cite news
|url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/140222/erp14022222070008-n2.htm
|title=デモ隊が大統領府封鎖 ウクライナ騒乱 ティモシェンコ元首相釈放の情報
|work=MSN産経ニュース
|newspaper=産経新聞
|date=2014-02-22
|accessdate=2014-02-23
}}</ref><ref>{{Cite news
|url=http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2014022300017
|title=ウクライナ議会、大統領解任=ヤヌコビッチ氏は辞任拒否-東西分裂の恐れも
|work=時事ドットコム
|newspaper=[[時事通信]]
|date=2014-02-22
|accessdate=2014-02-23
}}</ref>。
親露派のヤヌコーヴィッチ政権が崩壊したことを理由とし、3月1日にロシア上院がクリミアへの軍事介入を承認。ロシアの[[ウラジーミル・プーチン]][[ロシア連邦大統領|大統領]]は、ウクライナの[[極右]]民族主義勢力から[[クリミア半島]]内のロシア語話者およびロシア系住民を保護するとの名目で本格的に軍事介入を開始した。ロシアは当初否定していたが、2月後半の時点から「現地クリミア住民による自警団」に偽装させたロシア軍部隊をクリミア全土に進軍させており、西側メディアは国章をつけていない軍服を着て[[目出し帽|バラクラバ]]で覆面した兵士たちを「ロシア軍部隊とみられる謎の武装集団」として報道していた([[ロシアのクリミア侵攻]]){{refnest|group="注釈"|クリミア併合後にロシア政権より功労者に贈られたメダルには「クリミア回帰 2014年2月20日?3月18日」と書かれており、ロシアによる併合計画がヤヌコーヴィチ政権崩壊直前から開始されていた可能性が見て取れる<ref>{{ru icon}}[http://ru.krymr.com/content/article/25365996.html {{lang|ru|"Единый до Крыма" Крым.Реалии}} 2014年4月29日]</ref>。}}。このロシアの侵攻に対して、ウクライナ新政権と親欧米派の住民は侵略であるとして強く反発した一方、[[クリミア自治共和国]]および[[セヴァストポリ]]特別市のロシア系住民の中にはこれを歓迎するものも少なくなく、ウクライナ国内法を無視する形で、クリミア自治共和国最高会議(議会)とセヴァストポリ市議会は3月11日に[[クリミア独立宣言]]を採択し、3月16日にウクライナからの独立とロシアへの編入を問う[[2014年クリミア住民投票|住民投票]]をウクライナ国内法に違反する形で実施した。そもそも他国軍が展開する中という状況下に加え、様々な違法行為、投票率と投票結果への改竄が指摘されるも{{refnest|group="注釈"|ロシア大統領直轄市民社会・人権発展評議会は、実際の投票率は30-50%であり、そのうちクリミアのロシア編入に賛成したのは50-60%と報告している<ref>{{ru icon}}[http://www.president-sovet.ru/structure/gruppa_po_migratsionnoy_politike/materialy/problemy_zhiteley_kryma.php {{lang|ru|"Проблемы жителей Крыма" Совета при Президенте РФ по развитию гражданского общества и правам человека}} 2014年4月21日]</ref>。}}{{refnest|group="注釈"|クリミア・タタール人指導者であるムスタファ・ジェミレフは、国連安全保障理事会において、住民投票の投票率は32.4%であったと報告<ref>{{ru icon}}[http://www.golos-ameriki.ru/content/crimea-tatars-on-latest-evens-in-ukraine/1883359.html {{lang|ru|"Мустафа Джемилев выступил в Совете Безопасности ООН" Голос Америки}} 2014年3月31日]</ref>。}}、同結果を根拠に、翌17日にウクライナからの「[[クリミア共和国]]」の独立とロシアへの編入を求める決議を採択した。ロシアのプーチン大統領は同日中にクリミア共和国の主権を承認したうえで、翌18日中にクリミアのロシアへの編入要請受諾を表明し、クリミアの[[セルゲイ・アクショーノフ|アクショーノフ]]首相とともに編入に関する国家間条約に署名した([[ロシアによるクリミアの併合]])。5月12日には[[ドネツィク州]]、[[ルガンスク州]]において、同地の独立を宣言する勢力が現れた。
欧米諸国や日本はこれらロシアの動きが[[国際法]]違反の侵略で、ウクライナからのクリミアの独立とロシアへの編入は無効であるとして、ロシアへの制裁を実施した([[2014年クリミア危機]])。
2014年3月以降、ウクライナ東部・南部、特にドネツィク州、[[ハルキウ州|ハリコフ州]]、[[ルハーンシク州|ルガンスク州]]、[[オデッサ州]]において、反政府派と政府側との間で衝突が発生し、親露的な分離独立派の武装勢力が州庁舎や警察機関などを占領した。その際、[[イーゴリ・ギルキン]]などロシアの[[特殊部隊]]の兵の参加が複数確認されていることから、これらの衝突は一般のウクライナ[[国民]]による自発的反乱とみなすのは難しく、実際に2014年4月以降、政府側がこのようなロシアの支援を受ける武装勢力をテロリストと見なし、軍事行動を伴う「反テロ作戦」を開始することとなった。以降、分離武装勢力もロシアから流入したと見なされている兵器を用いて、政府側軍用機を撃墜するなど事実上の戦争状態が続いている。なお、日本を含む<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/page4_000701.html ウクライナ情勢をめぐる対露追加措置について(外務大臣談話)外務省 平成26年9月25日]</ref>欧米諸国およびウクライナは、衛星写真<ref>[http://mainichi.jp/select/news/20140829k0000e030177000c.html 「NATO:衛星写真を公開 露軍1000人がウクライナに」]『[[毎日新聞]]』2014年8月29日</ref>や各報道などを根拠に武装勢力にロシアからの兵の投入、戦闘員と兵器等武器供与の支援があるとして非難を続けているが、一方でロシアは、自国民があくまで自発的に戦闘に参加しているだけであるとして[[ロシア連邦軍]]の直接侵攻は否定し続け、両者間の意見の対立が続いていた。
;ポロシェンコ政権・ミンスク合意
[[ファイル:Senator McCain Visits Batumi 2010.jpg|thumb|220px|諮問機関の最高顧問に就任した[[ミヘイル・サアカシュヴィリ|ミハエル・サーカシビリ]](左) 右は[[ジョン・マケイン|マケイン]]米上院議員。サーカシビリはのちに国外追放された。]]
2014年6月に大統領選挙によって選ばれた[[ペトロ・ポロシェンコ]]が大統領に就任。以降も引き続き東ウクライナでは親欧米の政権側と親露の分離独立派([[ノヴォロシア人民共和国連邦]])による戦闘{{refnest|group="注釈"|ロシア政府は同戦闘を「内戦」と呼び、自らの関与を否定するが、現地世論調査によると、ウクライナ国民の57%が「ロシアとウクライナの戦争」だと感じており、「内戦」(13%)だと見なす国民より圧倒的に多い<ref>{{ru icon}}[http://zn.ua/UKRAINE/bolshinstvo-ukraincev-schitayut-situaciyu-v-donbasse-voynoy-s-rossiey-155195_.html {{lang|ru|Большинство украинцев считают ситуацию в Донбассе войной с Россией}} 2014年10月6日]</ref>。}}([[ドンバス戦争]])が続いており、一時的にウクライナ政権側と分離独立派、ロシア、ドイツ、フランスによる一時停戦案が結ばれるも、すぐに政府軍による反テロ作戦が再開<ref>[http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPKBN0F52PN20140630 「ウクライナ大統領、親ロシア派との停戦終了を表明」] ロイター通信(2014年7月1日)</ref>され、各地で市街戦を含む戦闘が行われ、多数の民間人が犠牲となっている。9月5日には[[ベラルーシ]]の[[ミンスク]]で、ロシア、ウクライナ、OSCE、分離独立派の代表者によって、停戦と政治解決を目指すミンスク・プロトコルに調印され([[ミンスク議定書]])、追って9月19日には治安面解決の詳細を記したミンスク・メモランダムが調印された。以降、[[欧州安全保障協力機構]]のウクライナ特別監視ミッションが、2014年9月のミンスク合意の執行を監督することとなった。2014年10月26日のウクライナ最高議会選挙では、事実上、親欧米派が勝利したが<ref>[http://toyokeizai.net/articles/-/53061 ウクライナが「ロシアの運命」を決める:親欧米派が勝利、欧州にも影響は波及] [[東洋経済オンライン]](2014年11月16日)</ref>、ミンスク合意のあとも戦闘は続き、結果として一般市民を含む死者数が2014年7月17日に発生した[[マレーシア航空17便撃墜事件]]([[クラボボ村]])なども含めれば5,000人以上に上るなど<ref>{{Cite news |author=モスクワ真野森作|date=2015-01-24 |url=http://mainichi.jp/select/news/20150124k0000e030258000c.html |title=ウクライナ:紛争死者5000人超える 最悪の増加ペース |publisher=毎日新聞社 |newspaper=[[毎日新聞]]|accessdate=2016-12-03|archiveurl=https://archive.is/2015.02.26-061606/http://mainichi.jp/select/news/20150124k0000e030258000c.html |archivedate=2015-02-26}}</ref>、欧州では旧[[ユーゴスラビア内戦]]以来の死者数を出した。
[[2015年]]2月11日、ウクライナ、ロシア、フランス、ドイツは再びミンスクでサミットを開催し、ウクライナ東部の紛争終結に向けた体制の枠組みについて再度の合意が行われた([[ミンスク2|ミンスク合意2]])。
2019年に[[ウクライナの大統領]]に就任した[[ウォロディミル・ゼレンスキー]]は2021年3月、クリミア半島の占領解除とウクライナへの再統合をめざす国家戦略を承認し、国際的な枠組み「[[クリミア・プラットフォーム]]」を発足させてクリミア奪還をめざす計画を進めていた<ref>「クリミア編入7年 ウクライナ、奪還へ新戦略/国際的枠組み提唱米の協力期待」『[[北海道新聞]]』朝刊2021年4月2日(国際・総合面)</ref>。
;ロシアによる全面侵攻
{{Main|ロシア・ウクライナ危機 (2021年-2022年)|ウクライナ危機|ロシアによるクリミアの併合|ロシアによるドネツク州占領|2022年ロシアのウクライナ侵攻|ブチャの虐殺|ロシアによるウクライナ4州の併合宣言|ウクライナ非常事態庁ヘリ墜落事故|2022年ロシアのウクライナ侵攻におけるウクライナ児童の拉致の申し立て|カホフカダム破壊事件}}
ウクライナのNATO加盟をめぐってロシアとウクライナの緊張が高まり、アメリカの[[ジョー・バイデン|バイデン]]大統領がプーチン大統領と無侵略を条件に会談をしたが、「親ロシア派が支配するところに軍を送る」と発言し、その会談は白紙となった。[[日本標準時|日本時間]][[2022年]][[2月24日]]、ロシアのプーチン大統領が「特別な軍事作戦を実施する」とロシア国民へ向けテレビ演説を行った後、ウクライナ全土へ[[空襲]]や[[ミサイル]]攻撃を仕掛けたことにより[[侵攻]]が始まった<ref>{{Cite web|和書|title=プーチン大統領 軍事作戦実施表明 “ウクライナ東部住民保護” |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220224/k10013498841000.html |website=NHKニュース |accessdate=2022-02-25}}</ref>。
== 政治 ==
[[ファイル:Petro Poroshenko on Day of Constitution of Ukraine 2016-06-28 16.jpg|サムネイル|[[ヴェルホーヴナ・ラーダ]]<br>(ウクライナの国会)]]
[[ファイル:Volodymyr Zelensky Official portrait.jpg|thumb|[[ウォロディミル・ゼレンスキー]]第6代大統領<br>([[2019年]][[5月20日]]就任)]]
[[ファイル:Денис Шмигаль 2020 3.jpg|thumb|[[デニス・シュミハリ|シュミハリ]]首相]]
ウクライナの政体は、[[司法]]・[[立法]]・[[行政]]の三権が分立する[[間接民主主義|議会制民主主義]]([[共和制]])であり、[[大統領制]]と[[議院内閣制]]を並立した形の[[半大統領制]]を採用している。国家元首である[[ウクライナの大統領|大統領]]は、5年任期で[[国民投票]]によって選出され、[[ウクライナの首相|首相]]や政府の[[閣僚]]を任命する権限を持つが、それには議会の承認を得なければならない。
国際指標である「[[腐敗認識指数]]」の国別ランキングでは、2021年度の時点において122位の状況であり、政治、軍事組織による長年の汚職と腐敗問題が続いている(腐敗認識指数は順位が低いほど腐敗認識される)<ref name=":3" /><ref name="#12" />。{{main|[[ウクライナの政治]]|[[ウクライナにおける「ネオナチ問題」]]}}
=== 議会 ===
ウクライナの国会は、[[ヴェルホーヴナ・ラーダ|最高議会]]であり、[[一院制]]で450議席である。全議席は全国区の[[比例代表制]]によって選出されるが、[[政党]]もしくは選挙ブロックは全投票の3%以上を獲得しなければ議席を得ることができない。議員の任期は5年。議会は立法、国際協定の批准、予算の裁可および首相の承認・罷免、閣僚の承認・罷免を行う。
[[2012年ウクライナ最高議会選挙|2012年の選挙]]で議席を獲得した政党は5党。それは、親露派で東部・南部を地盤とする[[地域党]]および[[社会主義]]派の[[ウクライナ共産党]]([[与党]])、ならびに親欧米派で中部や西部を地盤とする[[全ウクライナ連合「祖国」]]、[[ウダール]]、さらに、西部の[[ガリツィア|ガリツィア地方]]を地盤とする[[民族主義]]派の[[全ウクライナ連合「自由」]]([[野党]])である<ref>[http://www.cvk.gov.ua/pls/vnd2012/]</ref>。
=== 2004年大統領選挙 ===
{{Main|2004年ウクライナ大統領選挙}}
{{Vertical_images_list
|寄せ =
|幅 = 220px
|枠幅 =
|1 = Vladimir Putin in Ukraine 23-24 August 2001-9.jpg
|2 = [[レオニード・クチマ|クチマ]]と[[ウラジーミル・プーチン|プーチン]]
|3 = Yushchenko2.jpg
|4 = [[ヴィクトル・ユシチェンコ|ユシチェンコ]]と[[ジョージ・W・ブッシュ|ブッシュ]]
}}
[[2004年]]、[[レオニード・クチマ]]大統領の任期満了に伴い大統領選挙が行われた。
クチマ大統領の後継[[ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ]]首相と、野党指導者[[ヴィクトル・ユシチェンコ]]元首相の[[一騎討ち]]という形になった。[[10月31日]]の第1回投票ではユシチェンコが首位に立つが、わずか15万票差であった。
[[11月21日]]の決選投票の開票の結果、[[ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ|ヤヌコーヴィチ]]の当選が発表される。しかし、[[ヴィクトル・ユシチェンコ|ユシチェンコ]]陣営は11月22日夜、決選投票において全国で1万1000件の不正が行われ、第一回投票の5倍に膨らんだと、政権側の選挙違反を糾弾した。これにより首都キエフを中心に、ストライキなどの大規模な政治運動が起こった([[オレンジ革命]])。
欧米諸国の圧力もあって再選挙が行われることとなり、[[12月26日]]に実施された再決選投票の結果、[[ヴィクトル・ユシチェンコ|ユシチェンコ]]が52.12%、[[ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ|ヤヌコーヴィチ]]が44.09%の得票となり、ユシチェンコ元首相の当選が確実になった。ヤヌコーヴィチ陣営はユシチェンコ陣営に不正があったとして最高裁に提訴したが野党による政府施設の封鎖が起こり、[[12月30日|30日]]には提訴が却下された。翌[[2005年]][[1月23日]]にユシチェンコ元首相は正式に大統領に就任し、この争いは一応の決着を見た。
なお、この選挙期間中、欧米のマスメディアはロシア人とウクライナ人の間で民族的対立が激化してウクライナ国民に分裂が生じているように報じた。この選挙では[[アメリカ合衆国]]のウクライナ系政治団体の資金援助や[[オープン・ソサエティ財団]]の公然の介入が行われており、ウクライナ自身の革命というよりは外国勢力の干渉の結果だったという分析もある。一方、干渉があったとはいえ、それだけでなし得たものではなく実際に国民の間に従来の政権に対する不満があったことは大きな要素の一つであった。また、アメリカが[[反露]]派を支援した背景には、ロシア帝国時代やソ連時代にロシア勢力から弾圧を受けた非常に多くのウクライナ人がアメリカに[[亡命]]を余儀なくされたという歴史上の経緯も関係しているという分析もある。
つまり、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に亡命したウクライナ人の作った組織が[[アメリカ合衆国連邦政府|アメリカ政府]]や関係者に働きかけ、反露的な勢力を支援させるということは不自然ではないというのである。しかし、このような[[ロビー活動]]が表沙汰になることは少なく、こうしたもっともらしい分析もこれまでの経緯から類推した憶測の域を出ない。いずれにせよ「アメリカ側の都合だけで革命が推進された」「オレンジ革命は悪しき旧[[共産主義]]的な[[独裁政治|独裁体制]]からの[[民主化]]を達成した」というように単純化できる問題ではない。その後、ウクライナではしばしば「革命」が叫ばれることが習慣化しており、[[2007年]]にも反ユシチェンコ派の議員が「革命」を実行している。
=== 2010年大統領選挙 ===
{{Main|2010年ウクライナ大統領選挙}}
{{Double image aside|right|Viktor Yanukovych 2011.jpg|150|Julia Tymoshenko 2008.png|150|[[ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ]]|[[ユーリヤ・ティモシェンコ]]}}
大統領選挙が2010年1月から2月にかけて行われ、[[ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ]]が大統領に当選した。
=== 2014年大統領選挙 ===
[[ファイル:Shevchenko National Prize award ceremony 2016 Petro Poroshenko 1.jpg|サムネイル|[[ペトロ・ポロシェンコ]]]]
{{Main|2014年ウクライナ大統領選挙}}
大統領選挙が2014年5月25日に行われ、[[ペトロ・ポロシェンコ]]が大統領に当選した。
ポロシェンコ-ヤツェニュク政権は総選挙後の[[:en:Government of Ukraine|内閣]]組閣において、財務相に在ウクライナ米国大使館での勤務経験があり、[[未公開株]]投資ファンドの代表を務める[[アメリカ人]]の[[:en:Natalie Jaresko|ナタリヤ・ヤレスコ]]、経済発展・貿易相に投資銀行に勤務する[[リトアニア人]]の[[:en:Aivaras Abromavi?ius|アイバラス・アブロマビチュス]]、保健相に[[グルジア人]]のサーカシビリ政権の元閣僚で米[[ニューヨーク]]を拠点としている[[アレクサンドレ・クヴィタシヴィリ]]の3人の外国人も入閣した<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3033250 ウクライナ新内閣、主要ポストに外国人起用 AFP通信 2014年12月03日]</ref>。いずれも、任命の数日前にウクライナ国籍を取得している。顧問には[[ジョージア (国)|ジョージア]]の前大統領で強権的な[[独裁者]]としての振る舞いからジョージアでの地位を失った[[ミヘイル・サアカシュヴィリ|ミハエル・サーカシビリ]]が就任した<ref>[http://mainichi.jp/select/news/20150214k0000e030164000c.html ウクライナ:「反ロシア」のグルジア前大統領を顧問に任命]『毎日新聞』2015年2月14日</ref>。その他、エカ・ズグラゼや[[ズラブ・アデイシヴィリ|アデイシヴィリ]]など、サーカシビリの盟友が多く要職についていた。しかし、その後ポロシェンコ大統領との確執から相次いで辞任し、サーカシビリ自身もウクライナ国籍を剥奪されて国外追放された。
=== 2019年大統領選挙 ===
[[File:Візит Зеленського до інституцій ЄС і НАТО у Брюсселі, 2019, 16.jpg|サムネイル|[[ウォロディミル・ゼレンスキー]]]]
{{Main|2019年ウクライナ大統領選挙}}
大統領選挙が2019年3月から4月にかけて行われて決選投票の末に、[[ウォロディミル・ゼレンスキー]]が現職のペトロ・ポロシェンコを破って[[ウクライナの大統領|ウクライナの第6代大統領]]に当選した。
== 国際関係・外交 ==
{{main|{{仮リンク|ウクライナの国際関係|en|Foreign relations of Ukraine}}}}
[[ファイル:Ministry of Foreign Affairs of Ukraine.JPG|thumb|ウクライナの外務省]]
[[ファイル:Diplomatic relations of Ukraine.PNG|thumb|ウクライナの国際関係]]
[[File:Diplomatic relations of Ukraine.svg|thumb|ウクライナ(赤)と[[国交]]を有する国(青)]]
=== ロシア ===
{{Main|ウクライナとロシアの関係}}
ウクライナとロシアは歴史上複雑な関係を持つが、ソ連崩壊後から現在に至るまで緊張が続いている。
ユシチェンコ大統領の就任当初は、ロシアよりもEU諸国との関係を強化することを目指していた。同様の立場を取るグルジア、[[アゼルバイジャン]]、モルドバとともに[[GUAM]](4か国の頭文字)と呼ばれる連合を結成。同国自身が将来のEU加盟を希望し、2017年時点でもそのための外交努力を続けている([[#欧米|後述]])。
一方で、ウクライナ経済はロシアとの関係を悪化させたことなどを理由に急速に悪化した。大統領はロシアとの関係に対する見解の相違などからティモシェンコ首相を解任。その後は頻繁にロシアを訪問し、ロシアとの政治的・経済的関係を強化させようとするなど、ロシアとの関係修復も模索してきた。2010年の大統領選挙で当選した[[ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ]]大統領の誕生により、ロシアとの関係改善がより一層進展するものと見られていた。
ヤヌコーヴィチ政権時、ウクライナは[[北大西洋条約機構]](NATO)やロシア主導の[[集団安全保障条約]](CSTO)のような軍事同盟加盟を目指さない[[中立主義]]を法律で制定した。
しかし、2013年末から生じた[[2014年ウクライナ騒乱|ウクライナ騒乱]]に続き、ロシアによるクリミア併合・東部不安定化以降、ロシアとの関係は再度悪化した。新政権は、一方でアメリカ合衆国やEUを中心とした欧米諸国との関係を重視している。ポロシェンコ-ヤツェニュク政権は、在ウクライナ米国大使館勤務経験のあるアメリカ人やグルジアの[[ミヘイル・サアカシュヴィリ|サーカシビリ]]政権の側近らを要職に就かせるなど、親欧米・[[反露]]路線を鮮明にしている。
なお、2015年末時点でウクライナはロシアに対し30億ドルの負債を負っており<ref>{{cite news|url=https://jp.reuters.com/article/ukraine-crisis-debt-russia-idJPKBN0U402Z20151221|title=ウクライナ、対ロ債務30億ドル返済せず 法廷闘争ほぼ確実に|publisher=ロイター|date=2015-12-21|accessdate=2023-02-27}}</ref>、今後、国際裁判所で争われることとなっている。
また、司法分野においては、ロシアに対し、2014年6月頃にルハーンシク州内の戦闘中に拘束され、ロシアに連れ出され勾留されたウクライナ人女性の{{仮リンク|ナジーヤ・サウチェンコ|en|Nadiya Savchenko|preserve=1}}の即時釈放を訴えている。ロシア当局は、同女性がウクライナ西部においてロシア人ジャーナリスト2名を殺害した嫌疑があると主張していたが、ウクライナをはじめアメリカ、ドイツ、フランスなどの各国政府、[[欧州議会]]などがロシアによるサウチェンコの拘束には根拠がないとして、ミンスク合意に従ってロシアはサウチェンコを解放すべきとした<ref>Radio Free Europe ''" [http://www.rferl.org/content/ukraine-savchenko-trial-letter-russia/27589461.html 'I Will Return To Ukraine, Dead Or Alive' -- Savchenko's Unspoken Last Words In Russian Court] "''、(2016年3月6日)</ref>。
ウクライナとロシアの旅客流動は最大であったが、2015年10月以降、ウクライナとロシアを結ぶ航空旅客便は全便の運行が停止している<ref>{{cite news|url=https://www.theguardian.com/world/2015/oct/25/russia-and-ukraine-suspend-direct-flights-between-countries|title=Russia and Ukraine suspend direct flights between countries|publisher=[[ガーディアン]]|agency=[[フランス通信社]]|date=2015-10-25|accessdate=2023-02-27|language=English}}</ref>。
また、2017年にはポロシェンコ大統領の[[大統領令]]を通じて、対露制裁の一環で、[[VK (SNS)|VKontakte]]、[[Odnoklassniki]]などのロシア系SMSサービス、[[Yandex]]、[[Mail.ru]]などのロシア系のウェブサイトへのアクセスを禁止した<ref>{{Cite web|url=https://hromadske.ua/posts/prezydent-ukrainy-petro-poroshenko-pidpysav-ukaz-pro-novi-sanktsii |title=Порошенко підписав указ про заборону «ВКонтакте» і Mail.ru в Україні|date=2017年5月17日|accessdate=2017年5月22日}}</ref>。
ウクライナ政府はロシアからの天然ガス輸入を2016年は打ち切り、2017年も再開しない見通しであると表明している<ref name="mainichi20170720">ウクライナ大統領府ドミトロ・シムキフ副長官(寄稿)「政権3年 改革進んだ」『毎日新聞』朝刊2017年7月23日(国際面)</ref>。
さらに2018年9月、1997年にロシアと締結した友好協力条約を延長しないとロシア政府に通告した<ref>[https://www.sankei.com/article/20180921-5ODZTC5MORODDPIONXMOL3JWZE/ 「露・ウ友好協力条約」失効へ ウクライナ、ロシアに通告] [[産経デジタル|産経ニュース]](2018年9月21日)2018年10月2日閲覧</ref>。
2021年秋からロシア陸軍が兵力を大幅に増強しており<ref>{{Cite web|和書|title=ウクライナ軍、ロシアが国境地帯の兵力を12万人に増強と報告|url=https://www.cnn.co.jp/world/35180629.html|website=CNN.co.jp|accessdate=2021-12-12|language=ja}}</ref>、2022年初頭にはウクライナ侵攻の可能性もあると報じられた<ref>{{Cite web|和書|title=ロシアがウクライナ侵攻計画 22年早々にも 米紙報道|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM043E10U1A201C2000000/|website=日本経済新聞|date=2021-12-04|accessdate=2021-12-12|language=ja}}</ref>。
また、2022年2月には東部の親露派支配地域である[[ドネツク人民共和国]]と[[ルガンスク人民共和国]]をロシアが[[国家の承認|承認]]した([[ドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国の独立承認に関するウラジーミル・プーチンの演説]])<ref>{{Cite web|和書|url = https://web.archive.org/web/20220222001004/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220222/k10013495691000.html|title = ウクライナ親ロシア派地域 “国家として承認” プーチン大統領|website = www3.nhk.or.jp|publisher = NHK NEWS WEB|date = 2022-02-22|accessdate = 2022-02-22}}</ref>。両国関係は非常に緊迫し、ロシアのプーチン政権は同月24日、『[[特別軍事作戦の実施について]]』演説に続いてウクライナへの侵攻を開始し、ゼレンスキー大統領はロシアとの[[断交]]を発表した<ref>「[https://www.sankei.com/article/20220224-TJRNGK4A3NM7HCW2STPFTDWMBY/ ウクライナ、ロシアと断交 ゼレンスキー大統領が発表]」産経ニュース(2022年2月24日)</ref>。
{{main|ロシア・ウクライナ危機 (2021年-2022年)|2022年ロシアのウクライナ侵攻}}
=== 欧米 ===
{{Seealso|ポーランドとウクライナの関係}}
ポロシェンコ政権はEU加盟を希望していた。具体的な加盟交渉に至ってはいないが、東欧諸国を対象とするEU[[安定化・連合プロセス]]の要となる連合協定について、EU加盟国で唯一未[[批准]]だった[[オランダ]]の上院が2017年5月に批准を承認した。同年6月11日からは、[[イギリス]]と[[アイルランド]]を除くEU加盟国へウクライナ国民が90日の[[査証]](ビザ)なし渡航が可能になった。
[[2021年]][[5月17日]]のモルドバ、[[ジョージア (国)|ジョージア]]との三国外相会談で、将来的なEU加盟の期待を明確にし、共同の覚書に署名した。この会談以降、三国をいわゆる'Associated Trio'(もしくは'{{仮リンク|Association Trio|en|Association Trio}}'とも。和訳で「共同三国」など)と呼称するようになった<ref>{{Cite web |title=Georgia, Moldova, Ukraine formalise their higher EU ambition |url=https://www.euractiv.com/section/eastern-europe/news/georgia-moldova-ukraine-formalise-their-higher-eu-ambition/ |website=www.euractiv.com |date=2021-05-18 |access-date=2022-05-08 |language=en-GB |first=Vlad |last=Makszimov}}</ref>。
ロシアによるクリミア編入宣言や東部ウクライナ紛争への関与疑惑に対して、欧米諸国は対露制裁でウクライナを支援。[[アメリカ軍]]はウクライナ軍へ兵器供給と訓練を実施し<ref name="mainichi20170720"/>、こうした軍事支援はロシアによる侵攻後に本格化した。
ロシアによる侵攻が始まった直後の2022年2月28日、ウクライナはEUへの緊急加盟を要請した<ref>{{Cite news|title=ゼレンスキー氏「夢はすべての欧州人と一緒になること」|newspaper=朝日新聞|date=2022-3-1|language=日本語}}</ref>。
=== トルコ ===
[[トルコ]]企業600社がウクライナに進出してインフラ建設や再生可能エネルギー事業を手掛けているほか、トルコは軍事用[[無人航空機]]「[[バイラクタル TB2]]」を輸出し、ウクライナ軍が東部紛争の偵察に投入している。ウクライナはトルコの無人攻撃機「アキンチ」にエンジンや[[プロペラ]]を供与している。ゼレンスキー大統領は2021年4月にトルコを訪問し、軍事産業での協力関係を強調した。こうした両国の接近は、クリミア・ウクライナ東部紛争でロシアと対立するウクライナと、[[シリア内戦]]や[[リビア内戦]]でロシアと別の勢力を支援するトルコの利害が一致していることが背景と指摘されている<ref>「トルコ・ウクライナ接近/黒海で覇権 露に対抗/経済・軍事協力拡大」『読売新聞』朝刊2021年5月31日(国際面)</ref>。
=== 日本 ===
[[ファイル:Музейний пров 4 201910.jpg|サムネイル|[[在ウクライナ日本国大使館]]]]
{{Main|日本とウクライナの関係}}
日本は[[ヴィクトル・ユシチェンコ|ユシチェンコ]]大統領期の2005年3月に同国とのODA[[円借款]]契約を初めて締結しているが(190億9200万円、償還期間30年)、[[ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ|ヤヌコーヴィチ]]大統領および[[ユーリヤ・ティモシェンコ|ティモシェンコ]]首相の時期は契約を行っておらず、2014年6月7日に[[ペトロ・ポロシェンコ|ポロシェンコ]]が大統領となり9年ぶりに契約の締結を再開した。2014年7月には100億円(償還期間20年間)、2015年6月に1081億9300万円(同40年間)、12月に369億6900万円(同20年間)と、巨額の資金貸付けが行われた<ref>独立行政法人[[国際協力機構]]「[http://www2.jica.go.jp/ja/yen_loan/index.php 円借款案件検索]」</ref>。
[[2005年]]8月1日より日本国民がウクライナに入国する際のビザ([[査証]])を短期90日までの滞在(ただし、就労を伴わない活動に限る)に限って、その取得を必要としない制度が開始された。しかしながら、[[2014年]]7月時点、ウクライナ国民の日本への入国には依然としてビザが必要である。
2022年3月1日、ウクライナ日本大使館がロシアと戦う日本人を「[[義勇兵]]」としてTwitter上にて募集<ref>{{Cite web|和書|title=ウクライナ「義勇兵」に日本人70人が志願 50人が元自衛官 |url=https://mainichi.jp/articles/20220301/k00/00m/030/165000c |website=毎日新聞 |access-date=2022-04-25 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=日本人も志願したウクライナ義勇兵 「ひとごとでない」 |url=https://www.sankei.com/article/20220311-J2E6WKGZHBN2RGJASEK27VCTPQ/ |website=産経ニュース |date=2022-03-11 |access-date=2022-04-25 |language=ja |first=藤木 |last=祥平}}</ref>。約70人の日本人が志願した<ref>{{Cite web|和書|title=ウクライナ「義勇兵」に日本人70人が志願 50人が元自衛官 |url=https://mainichi.jp/articles/20220301/k00/00m/030/165000c |website=毎日新聞 |access-date=2022-04-25 |language=ja}}</ref>。
2022年3月16日、ウクライナのゼレンスキー大統領が[[アメリカ合衆国連邦議会]]で行った演説で、「[[真珠湾攻撃]]を思い出して欲しい。あのおぞましい朝のことを」と訴え、ロシアの[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ウクライナ侵攻]]を、1941年の[[太平洋戦争]]劈頭に日本が[[ハワイ州|ハワイ]]の[[真珠湾]]を[[奇襲]]したことになぞらえ、日本のネットユーザーから批判を受けた<ref>{{Cite web|和書|title=ゼレンスキー「真珠湾発言」に怒る日本人は、プーチン支持のロシア国民と瓜二つ |url=https://diamond.jp/articles/-/299877?page=3 |website=ダイヤモンド・オンライン |date=2022-03-24 |access-date=2022-04-25 |language=ja}}</ref>。
同年4月1日、ウクライナ政府公式[[Twitter]]にて『現代ロシアのイデオロギー』と題した動画を投稿<ref name="天皇">{{Cite web|和書|title=ヒトラーと一緒に昭和天皇の写真 ウクライナ政府が動画から削除、謝罪 |url=https://mainichi.jp/articles/20220425/k00/00m/030/013000c |website=毎日新聞 |access-date=2022-04-25 |language=ja}}</ref>。[[ユダヤ人]]大量虐殺([[ホロコースト]])を行った[[国民社会主義ドイツ労働者党|ナチス・ドイツ]]の独裁者[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]やイタリアの[[ファシズム]]指導者[[ベニート・ムッソリーニ|ムソリーニ]]と共に[[昭和天皇]]の顔写真を並べ、「ファシズムと[[ナチズム]]は1945年に敗北した」と記した<ref name="天皇"/>。同年同月の24日、「昭和天皇をヒトラーと同一視した」となど批判が高まった事態を受け、動画から昭和天皇の顔写真を削除、Twitterで謝罪した<ref name="天皇"/>。
同年4月12日、日本の[[公安調査庁]]は「[[アゾフ大隊]]は[[ネオナチ]]」と長年にわたり掲載していた記事を削除(404error-記事にアクセスできません)<ref name="公安調査庁">{{Cite web|和書|title=日本の公安調査庁「アゾフ大隊はネオナチ」記載削除の赤っ恥 “鵜呑み誤報”にロシア猛批判 |url=https://web.archive.org/web/20220510010214/https://nordot.app/889015447697227776?c=388701204576175201 |website=[[日刊ゲンダイ]]DIGITAL |date=2022-04-19 |access-date=2022-05-10 |language=ja-JP |last=日刊ゲンダイDIGITAL}}</ref>。公調は「8日にHPで示した以上の見解はない」とした<ref name="公安調査庁"/>。
同年10月7日、ウクライナ最高議会は「'''[[北方地域|北方領土]]をロシアに占領された日本固有の領土と確認する'''」決議を採択した。ロシアの侵略に対する日本との協力関係を期待したものと見られる<ref>{{Cite web|和書|title=ウクライナ議会 “北方領土は日本の領土と確認する決議”採択|publisher=NHKNEWSWEB|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221008/k10013852651000.html|website=NHKニュース|access-date=2022-10-08|last=日本放送協会}}</ref>。
{{main|北方領土問題#ウクライナ}}
=== 中国 ===
{{see also|{{仮リンク|ウクライナと中国の関係|en|China–Ukraine relations}}}}
[[2013年]]に、[[ヤヌコヴィッチ]]政権は中国と「中国ウクライナ友好協力条約」を締結している<ref>{{cite news|title= ウクライナ問題で発言力増す習近平、最終的には「中国が漁夫の利を得るかもしれない」と言えるワケ【実業之日本フォーラム】|url=https://mobile.reuters.com/article/amp/idJP00093300_20220307_00520220307|publisher=REUTERS|date=2022-03-07}}</ref><ref>{{cite news|title= 旧ソ連圏の主導権めぐり中ロに不協和音 ウクライナ攻撃抑止「影の主役」は習主席?【解説委員室から】|url= https://www.jiji.com/sp/v8?id=202201kaisetsuiin012|date=2022-01-25|author= 名越健郎|publisher=時事通信社}}</ref><ref>{{cite journal|title= クリミア併合後の中露関係|url=http://id.nii.ac.jp/1648/00013622/|author= 斎藤 元秀 |year= 2017|journal= 法学新報|volume=123|issue=7}}</ref>。
=== 北朝鮮 ===
[[朝鮮民主主義人民共和国|朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)]]とは関係が深く、長年にわたり[[大陸間弾道ミサイル|ICBM]]などの兵器技術提供も行っていた<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=ウクライナと北朝鮮、長年の「闇の関係」 ロシアの侵攻で、核放棄はさらに困難に|url=https://globe.asahi.com/article/14561754 |website=[[朝日新聞グローブ|朝日新聞GLOBE+]] |access-date=2022-07-12 |language=ja-JP}}</ref><ref name=":2">{{Cite news|title=North Korea’s Missile Success Is Linked to Ukrainian Plant, Investigators Say|url=https://www.nytimes.com/2017/08/14/world/asia/north-korea-missiles-ukraine-factory.html|work=The New York Times|date=2017-08-14|access-date=2022-07-12|issn=0362-4331|language=en-US|first=William J.|last=Broad|first2=David E.|last2=Sanger}}</ref>。2022年7月13日、北朝鮮がドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国の国家承認をした事を理由に、ウクライナは北朝鮮との国交を絶った<ref name="NKSankei">{{Cite web|和書|title=ウクライナ、北朝鮮と断交、親露派国家承認に反発 |url=https://www.sankei.com/article/20220714-NYLCPTT4SRLE5ATUJKYJ2W5VGM/ |website=産経新聞 |access-date=2022-07-14 |language=ja-JP}}</ref>。
== 軍事 ==
=== 国防政策 ===
ウクライナ大統領府が、ロシアへの抗戦中の2022年9月13日に公表した国家安全保障の基本計画は、「自衛のための軍事力」保有を国防の根幹と定めるとともに、欧米諸国やトルコに支援を求め、ロシアが要求した「非軍事化」を否定した<ref>[https://www.tokyo-np.co.jp/article/202207 ウクライナ「軍事力必要」安保計画で抗戦明示]『[[東京新聞]]』朝刊2022年9月15日(国際面)同日閲覧</ref>。
==== NATOとの協力 ====
ウクライナは欧州連合(EU)だけでなく欧米諸国の[[軍事同盟]]である[[北大西洋条約機構]](NATO)への加盟を希望しており、NATOは、ロシアの侵略に対する防戦を支援する「NATOウクライナ理事会」を設置している。NATOは将来の加盟に向けて、ウクライナに汚職対策や人権尊重といった改革を求めている<ref>「[https://equity.jiji.com/oversea_economies/2023112900971 ウクライナ加盟支援で一致=外相会合が閉幕―NATO]」[[時事通信]](2023年11月29日)同日閲覧</ref>。
=== 正規軍 ===
{{Main|ウクライナ軍}}
{{Vertical_images_list
|寄せ =
|幅 = 150px
|枠幅 =
|1 = Ensign of the Ukrainian Armed Forces.svg
|2 = 軍の[[軍旗]]
|3 = Ensign of the Ukrainian Ground Forces.svg
|4 = 陸軍の軍旗
|5 = Naval_Ensign_of_Ukraine.svg
|6 = 海軍の[[軍艦旗]]
|7 = Ensign of the Ukrainian Air Force.svg
|8 = 空軍の軍旗
|9 = Sea_Guard_Ensign_of_Ukraine_(dress).svg
|10 = 海上警備隊の軍艦旗
}}
ウクライナ軍は、[[陸軍]]、[[海軍]]、[[空軍]]、空中機動軍([[エアボーン|空挺部隊]])、特殊作戦軍([[特殊部隊]])の5[[軍種]]からなる。[[2005年]]末の時点で、総員24万5000人(うち、軍人18万人)。
*[[ウクライナ陸軍]]
** [[ウクライナ陸軍航空隊]]
**[[ウクライナ領土防衛隊]]([[ウクライナ領土防衛部隊外国人軍団|外国人部隊]]を含む[[義勇兵]]・[[民兵]])
* [[ウクライナ海軍]]
** [[ウクライナ海軍航空隊]]
* [[ウクライナ空軍]](ウクライナ語:{{lang|uk|Повітряні Сили України}})
** 2004年に[[ウクライナ防空軍]]と従来のウクライナ空軍({{lang|uk|Військово-Повітряні Сили України}})が合併して誕生した。
* [[ウクライナ空中機動軍]]
* [[ウクライナ特殊作戦軍]]
** 2016年に陸軍・海軍の特殊部隊を統合して編成された。
* [[ウクライナ海兵隊]]
** 2023年に海軍歩兵部隊が海軍から独立して編成。
=== 準軍事組織 ===
ウクライナには、ウクライナ正規軍以外に、以下の[[準軍事組織]]が存在する。
* [[ウクライナ内務省]]
**[[ウクライナ国家親衛隊]](旧[[ウクライナ国内軍]]+[[ユーロマイダン]]の活動家からなる部隊)
* [[ウクライナ国家国境庁]]
** {{仮リンク|ウクライナ国家国境庁海上警備隊|uk|Морська охорона України|en|Ukrainian Sea Guard}}
{{See also|{{仮リンク|ウクライナ海上警備隊の艦艇とボートの一覧|uk|Перелік кораблів і катерів морської охорони України}}}}
[[2022年ロシアのウクライナ侵攻]]に抵抗する[[パルチザン]]活動も行なわれている<ref>[https://www.sankei.com/article/20220825-73P5LIQKLNKHDNOPMYE7U4AI3Y/ 【ウクライナと共に 長期化する戦争】③南部でパルチザン始動] [[産経デジタル|産経新聞 THE SANKEI NEWS]](2022年8月25日)2022年9月15日閲覧</ref>。
このほか、ウクライナ国内の政治運動の過程で創設された武装組織が複数あり、一部は後にウクライナ政府の統制下に入った。
{{see|右派セクター#武装組織|ウクライナ民族会議 ― ウクライナ人民の自己防衛|アゾフ連隊}}
また親ロシア派も実効支配している地域で武装組織を有している。
{{see|ルガンスク人民共和国#軍事|ドネツク人民共和国#軍事}}
== 国防会議・情報機関 ==
大統領附属の合議制機関として[[ウクライナ国家安全保障・国防会議|国家安全保障・国防会議]]が存在する。
また、[[ウクライナ保安庁|国家保安庁]]が、サイバー攻撃への防衛など[[防諜]]・[[情報機関]]や治安組織としての活動を行っている<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO43091960Z20C19A3FF8000/ 「混戦ウクライナ大統領選 最多の39人が立候補 ロシア、サイバー攻撃も」]『[[日本経済新聞]]』朝刊2019年3月30日(国際面)2019年4月5日閲覧</ref>。
== 地理 ==
{{main|ウクライナの地理|ウクライナの国境}}
{| class="wikitable floatright"
|-
|{{ウクライナの地図}}
|}
ウクライナは[[ユーラシア・ステップ]]西部に位置し、国土のほとんどは、肥沃な平原、[[ステップ (地形)|ステップ]]([[草原]])、高原で占められている。[[ドニエプル川]]、[[ドネツ川]]、[[ドニエステル川]]が横切っており、南の[[ブーフ川]]とともに、[[黒海]]、[[アゾフ海]]に注ぎ込んでいる。黒海北岸には[[クリミア半島]]が突き出しており、[[ペレコープ地峡]]でウクライナ本土とつながっている。南西部にある[[ドナウ・デルタ]]は[[ルーマニア]]との国境になっている。
山岳地帯は、ウクライナの最南端の[[クリミア山脈]]と西部の[[カルパティア山脈]]だけである。最高峰はカルパト山脈にある[[ホヴェールラ山]]({{lang|uk|Говерла}}, Hoverla)で、[[標高]]2,061メートル。これ以外の地域も平坦というわけではなく、東ヨーロッパの中では比較的起伏の多い地形をしている。
気候は温暖な[[大陸性気候]]であるが、クリミア半島の南岸は[[地中海性気候]]により近い。降雨量は局所的に偏っており、北部や西部は多く、南部や東部は少ない。夏はほとんどの地域で暖かいが、当然南に行くほど暑い。冬は黒海沿岸は涼しいが、内陸に行くにしたがって寒くなる。
== 地方行政区分と都市 ==
{{main|ウクライナの地方行政区画|ウクライナの都市の一覧}}
{| class="wikitable floatright"
|-
|{{ウクライナの行政区分}}
|}
ウクライナは、24の州と、クリミアにある1つの[[自治共和国]]、そして2つの特別市から構成される。ただし、[[クリミア自治共和国]]と[[セヴァストポリ]]はロシア連邦の実効支配下にある。また、親ロシア分離独立派が支配する[[ドネツィク州]]([[ドネツク人民共和国]])と[[ルハンスク州]]([[ルガンスク人民共和国]])の[[ドンバス]]地域の一部、およそ推定人口300万人程度の地域に対する管轄も及んでいない(「[[クリミア危機・ウクライナ東部紛争]]」参照)。ロシアは2022年に始めた侵攻でウクライナ東南部を自国に編入すると宣言したが([[ロシアによるウクライナ4州の併合宣言]])、ウクライナと国際社会は承認しておらず、ウクライナは奪回作戦を進めている。
{|class="wikitable" style="text-align:center; width:97%; margin-right:10px; font-size:80%"
|- align="center" bgcolor="#DADADA"
| width="4%" |<span style="color: #OOOO00">'''No.'''</span>|| width="23%" |<span style="color: #OOOO00">'''州'''</span> || width="23%" | <span style="color: #OOOO00">'''州庁所在地'''</span>|| width="4%" |<span style="color: #OOOO00">'''No.'''</span>|| width="23%" | <span style="color: #OOOO00">'''州'''</span> || width="23%" | <span style="color: #OOOO00">'''州庁所在地'''</span>
|-
|align=center style="background:#f0f0f0;" | 1 || align=left |{{Flagicon|Ivano-Frankivsk}} [[イヴァーノ=フランキーウシク州]] || align=left |[[イヴァーノ=フランキーウシク]] ||align=center style="background:#f0f0f0;" | 13 || align=left |{{Flagicon|Chernivtsi}} [[チェルニウツィー州]] || align=left |[[チェルニウツィー]]
|-
|align=center style="background:#f0f0f0;" | 2 || align=left |{{Flagicon|Vinnytsia}} [[ヴィーンヌィツャ州]] || align=left |[[ヴィーンヌィツャ]] ||align=center style="background:#f0f0f0;" | 14 || align=left |{{Flagicon|Ternopil}} [[テルノーピリ州]] || align=left |[[テルノーピリ]]
|-
|align=center style="background:#f0f0f0;" | 3 || align=left |{{Flagicon|Volyn}} [[ヴォルィーニ州]] || align=left |[[ルーツィク]] ||align=center style="background:#f0f0f0;" | 15 || align=left |{{Flagicon|Dnipropetrovsk}} [[ドニプロペトロウシク州]] || align=left | [[ドニプロ]]
|-
|align=center style="background:#f0f0f0;" | 4 || align=left |{{Flagicon|Odessa}} [[オデッサ州]] || align=left |[[オデッサ]] ||align=center style="background:#f0f0f0;" | 16 || align=left |{{Flagicon|Donetsk}} [[ドネツィク州]] || align=left | [[ドネツィク]]
|-
|align=center style="background:#f0f0f0;" | 5 || align=left |{{Flagicon|Kiev}} [[キーウ州]]|| align="left" | [[キエフ|キーウ]]|| align="center" style="background:#f0f0f0;" | 17 || align=left |{{Flagicon|Kharkiv}} [[ハルキウ州]] || align=left |[[ハルキウ]]
|-
|align=center style="background:#f0f0f0;" | 6 || align=left |{{Flagicon|Kirovohrad}} [[キロヴォフラード州]] || align=left |[[クロピヴニツキー]] ||align=center style="background:#f0f0f0;" | 18 || align=left |{{Flagicon|Khmelnytskyi}} [[フメリニツキー州]] || align=left |[[フメリニツキー]]
|-
|align=center style="background:#f0f0f0;" | 7 || align=left |{{Flagicon|Zakarpattia}} [[ザカルパッチャ州]] || align=left |[[ウージュホロド]] ||align=center style="background:#f0f0f0;" | 19 || align=left |{{Flagicon|Kherson}} [[ヘルソン州]] || align=left |[[ヘルソン]]
|-
|align=center style="background:#f0f0f0;" | 8 || align=left |{{Flagicon|Zaporizhia}} [[ザポリージャ州]] || align=left |[[ザポリージャ]] ||align=center style="background:#f0f0f0;" | 20 || align=left |{{Flagicon|Poltava}} [[ポルタヴァ州]] || align=left |[[ポルタヴァ]]
|-
|align=center style="background:#f0f0f0;" | 9 || align=left |{{Flagicon|Zhytomyr}} [[ジトーミル州]] || align=left |[[ジトーミル]] ||align=center style="background:#f0f0f0;" | 21 || align=left |{{Flagicon|Mykolaiv}} [[ムィコラーイウ州]] || align=left |[[ムィコラーイウ]]
|-
|align=center style="background:#f0f0f0;" | 10 || align=left |{{Flagicon|Sumy}} [[スームィ州]] || align=left |[[スームィ]] ||align=center style="background:#f0f0f0;" | 22 || align=left |{{Flagicon|Lviv}} [[リヴィウ州]] || align=left |[[リヴィウ]]
|-
|align=center style="background:#f0f0f0;" | 11 ||align=left |{{Flagicon|Cherkasy}} [[チェルカースィ州]] || align=left |[[チェルカースィ]] ||align=center style="background:#f0f0f0;" | 23 || align=left |{{Flagicon|Rivne}} [[リウネ州]] || align=left |[[リウネ]]
|-
|align=center style="background:#f0f0f0;" | 12 || align=left |{{Flagicon|Chernihiv}} [[チェルニーヒウ州]] || align=left |[[チェルニーヒウ]] ||align=center style="background:#f0f0f0;" | 24 || align=left |{{Flagicon|Luhansk}} [[ルハーンシク州]] || align=left |[[ルハーンシク]]
|- align="center" bgcolor="#DADADA"
| - || colspan="2"| <span style="color: #OOOO00">'''特別市'''</span> || width="4%" |<span style="color: #OOOO00">'''No.'''</span>||<span style="color: #OOOO00">'''自治共和国'''</span> ||<span style="color: #OOOO00">'''自治共和国の首都'''</span>
|-
|align=center style="background:#f0f0f0;" | - || align=left |{{Flagicon|Kiev City}} [[キーウ]] (首都)|| align=left |{{Flagicon|Sevastopol}} [[セヴァストポリ]] ||align=center style="background:#f0f0f0;" | 25 || align=left |{{Flagicon|Crimea}} [[クリミア自治共和国]] || align=left |[[シンフェロポリ]]
|}
{{ウクライナの最大都市}}
== 交通 ==
[[ファイル:DPKr3-001 at Kiev-Passenger station (1).jpg|サムネイル|[[ウクライナ鉄道]]]]
{{main|{{仮リンク|ウクライナの交通|en|Transport in Ukraine}}}}
ウクライナの交通は、[[鉄道]]、[[バス (交通機関)|バス]]、[[船舶]]、[[航空機]]、[[自動車]]などによっている。鉄道は、[[ウクライナ鉄道]]によって一元化されている。一方、[[ウクライナの航空会社]]はソ連時代の[[アエロフロート・ロシア航空|アエロフロート]]一括管理型から多くの中小の[[航空会社]]が競合する状態になっている。
=== 鉄道 ===
{{main|ウクライナの鉄道}}
都市間輸送は国営鉄道の[[ウクライナ鉄道]]が運行されている。主要都市には[[地下鉄]]及び[[市電]]、また[[エレクトリーチカ]]が運行されている。
=== 航空 ===
{{main|ウクライナの航空会社}}
[[フラッグ・キャリア]]の[[ウクライナ国際航空]]が国内国際線ともに運行している。ハブ空港として[[ボルィースピリ国際空港]]がキーウ近郊にある。
== 経済 ==
[[File:Ihor Kolomoyskyi2.jpg|thumb|right|150px|[[イーホル・コロモイスキー]]]]
{{main|{{仮リンク|ウクライナの経済|en|Economy of Ukraine}}}}
2022年に始まったロシアによる侵攻に伴い、最初の1年間で経済的損害は3490億ドル([[世界銀行]]などの推計)にも達したが、ウクライナ経済研究所の調査では同国企業の85%が西部への疎開などにより操業を継続している<ref>「[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO68716450T20C23A2FF8000/ ウクライナ、企業85%操業:工場新設、追加雇用も 空襲警報・停電下で活動]」『日本経済新聞』朝刊2023年2月24日(国際面)同日閲覧</ref>。
[[国際通貨基金]](IMF)の統計によると、[[2013年]]のウクライナの[[国内総生産]](GDP)は1783億ドルである。1人あたりGDPは3,930ドルであり、西隣にあるポーランド(1万3393ドル)の約30%、北隣にあるベラルーシ(7,577ドル)の約半分、世界平均の約40%程度の水準にとどまり、ジョージア(3,604ドル)、[[アルメニア]](3,208ドル)、モルドバ(2,229ドル)と並ぶ欧州最貧国の一つである。2015年の推計によると、1人あたりGDPは2,001ドルまでに低下し<ref>{{cite web|url=http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2015/01/weodata/weorept.aspx?sy=2015&ey=2020&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&pr1.x=55&pr1.y=7&c=926&s=NGDPD%2CNGDPDPC%2CPPPGDP%2CPPPPC&grp=0&a=|title=World Economic Outlook Database|accessdate=2015-05-14|work=[[国際通貨基金|IMF]]}}</ref>、旧ソ連の最貧国レベルとなっている。[[タタール人]]の[[リナト・アフメトフ]]、[[イスラエル]]国籍も持つ[[ユダヤ人]]の[[イーホル・コロモイスキー]]などの一部の[[オリガルヒ]]による[[寡頭制]]資本主義体制が続いている。
ソ連時代は連邦内の重要な農業および産業地帯であったが、現在は天然ガスを中心とするエネルギー供給のほとんどをロシアに依存しており、経済の構造改革の遅滞と相まって他国の影響を受けやすいものになっている。さらに国家腐敗が進行しているため、事態は深刻さを極めるものとなっている<ref>[http://markethack.net/archives/51912813.html 「ウクライナはマフィア帝国」]</ref>。
工業では、ソ連時代以来の有力な[[軍事産業]]が存在する。[[中華人民共和国]]が企業買収などによりウクライナの軍事技術取得を図り、アメリカ合衆国の意向もあってウクライナ政府が阻止する事例もある<ref>[https://mainichi.jp/articles/20210405/ddm/007/030/096000c 「ウクライナ、軍需企業国有化 米の圧力反映か、中国側買収阻止 技術流出を懸念」]『毎日新聞』朝刊2021年4月5日(国際面)2021年8月7日閲覧</ref>。
[[1991年]]、政府はほとんどの物資の価格を自由化し、国有企業を民営化するための法制度を整備した。しかし、政府や議会内の強い抵抗により改革は停止され、多くの国有企業が民営化プロセスから除外された。[[1993年]]の末頃には、通貨政策の失敗により[[インフレーション|ハイパーインフレーション]]にまで至った。
[[ファイル:200-uah-2020-1.png|サムネイル|right|200px|[[フリヴニャ]]]]
[[1994年]]に大統領に就任した[[レオニード・クチマ]]は、[[国際通貨基金]](IMF)の支援を受けながら経済改革を推進し、[[1996年]]8月には10万分の1の[[デノミネーション|デノミ]]を実施し、新通貨[[フリヴニャ]]を導入した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ua.emb-japan.go.jp/jpn/info_ua/overview/4economy.html|title=ウクライナ概観|accessdate=2011-12-07|work=[[在ウクライナ日本国大使館|在ウクライナ日本大使館]]}}</ref>。現在の政府は、経済への介入を極力減らし、調整方法を合理化することに努めるとともに、企業家を支援する法環境を整備し、包括的な税制の改革を行った。ただし構造改革の政治的な問題に関わる分野や農地の民営化に関する改革は遅れている。[[1999年]]の生産高は、1991年の40%にまで落ち込んだ<ref>{{cite web|url=http://www.faqs.org/docs/factbook/print/up.html|title=CIA World Factbook – Ukraine. 2002 edition|accessdate=2008-07-05|work=CIA}}</ref>。しかし、同年には貿易収支が初めて黒字を記録<ref>前掲 在ウクライナ日本大使館</ref>。その後もフリヴニャ安や鉄鋼業を中心とした重工業により、[[2000年]]の[[国内総生産]]は、[[輸出]]の伸びに支えられて6%という経済成長率を見せ、工業生産高の成長率も12.9%だった。これは独立以来初めての上方成長であった。[[2001年]]から[[2004年]]までの間も、中国への鉄鋼輸出の急増などに起因して高度成長が続いた。
ところが[[2005年]]、ユシチェンコ政権の成立後暗転し始める。それまでの好調なウクライナ経済は、ロシアからの安価なエネルギー資源および原料の供給、[[経済発展]]を続けるロシアや中国への輸出などによって支えられていた。しかしユシチェンコ大統領は就任直後、ロシアとは距離を置き、EUやアメリカ合衆国などとの関係を強化する姿勢を示した。大統領はアメリカなど西欧諸国からの投資拡大を見込んでいたが、実際にはそれほど投資は増えず、逆にロシアからの安価なエネルギー資源供給が受けられなくなった(「[[ロシア・ウクライナガス紛争]]」参照)。またロシアに並ぶ輸出相手国であった中国の需要が減少するなど経済環境が悪化。
2008年以降は[[世界金融危機 (2007年-2010年)|世界金融危機]]の影響を受けてウクライナ経済は再び落ち込み、[[債務不履行]](デフォルト)の瀬戸際まで追い込まれた。経済安定化のため2008年10月にはIMFより総額165億ドルに及ぶ緊急融資を受けた<ref>{{Cite web|和書|url=http://jp.reuters.com/article/worldNews/idJPJAPAN-34527520081026|title=IMFとウクライナ、165億ドルの融資で原則合意|accessdate=2011-12-07|work=ロイター}}</ref>。2010年7月にはIMFより新たに152億ドルの融資を受けることで合意した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.bloomberg.co.jp/news/123-L6AI8P6LUTXF01.html|title=IMF理事会:ウクライナへの総額152億ドルの融資承認 |accessdate=2011-12-07|work=[[ブルームバーグ (企業)|Bloomberg]]}}</ref>。
[[2014年クリミア危機]]とその後現在まで継続しているウクライナ東部での戦闘により、ロシアとの関係が極度に悪化した。それにより深刻な経済危機に陥り、2015年の[[経済成長]]率は-11.6% となっている。1人あたり[[国内総生産]](GDP)も2,109ドルにまで落ち込むなど欧州最貧国となっている。
2015年12月31日、ロシアに対する30億ドルの債務を返済しなかったことを根拠に、ロシア財務省はウクライナはデフォルト状態であると指摘した<ref>[http://www.morningstar.co.jp/msnews/news?rncNo=1706026 <新興国eye>ロシア財務省、ウクライナをデフォルト宣言] [[モーニングスター (企業)|モーニングスター]](2016年1月4日)</ref>。
===金融===
{{See|en:List of banks in Ukraine#15 largest commercial banks}}
[[通貨単位]]は[[ロシア・ルーブル|ソ連ルーブリ]]=100コペイカが使われてきて、独立後1992年からはカルボーヴァネツィが使われたが、2003年から現在は[[フリヴニャ]]=100コピーカを使っている。
[[銀行]]関係では、[[ウクライナ国立銀行]]が[[中央銀行]]で、[[商業銀行]]の[[プリヴァトバンク]]([[オリガルヒ]]経営であったが、乱脈経営のため2016年に[[国有化]])、[[ウクライナ国立貯蓄銀行]]などが全国に支店を持っている。
===農業===
ウクライナは[[小麦]]、[[ジャガイモ]]、[[ヒマワリ]]などを産する農業大国であり<ref>[https://www.keidanren.or.jp/journal/times/2016/0303_06.html ウクライナ農業の現状と今後の展望を聞く-ウクライナ部会(経団連タイムス、2016年)]</ref>、また農産物の輸出面でも[[MHP (会社)|MHP]]などが活躍している。
===鉱工業===
[[鉱工業]]では、[[石油]]・[[天然ガス]]面では[[ナフトガス・ウクライナ]] が全土をカバーし、豊富な[[石炭]]・[[鉄鉱石]]も参して、ウクライナ中部および南東部で[[製鉄業]]が盛んで、[[クリヴォリジュスタリ製鉄所]]、[[アゾフスタリ製鉄所]]、[[イリイチ製鉄所]]、[[インターパイプ]]などがある。
===商業===
1990年代以降、[[フォジーグループ]]などウクライナ資本の[[小売業]]店の展開などが顕著である。
===通信===
通信分野では、[[固定電話]]を引き継いだ[[ウクルテレコム]]があり、[[ウクライナにおける携帯電話]]では、[[キーウスター]]、[[ボーダフォン・ウクライナ]]、[[ライフセル]]などが活躍している<ref>[https://blog.telegeography.com/ukraines-telecom-market-explained Ukraine’s Telecom Market, Explained (2022)]</ref>。
=== IT ===
1990年代には賃金の低さと開発能力の高さから西側諸国を相手にするIT[[アウトソーシング]]企業が誕生し、「東欧の[[シリコンバレー]]」と呼ばれるほどIT産業が成長した<ref>{{cite news|url=https://www.newsweekjapan.jp/worldvoice/shibata/2020/12/post.php|title=東欧のシリコンバレー:ウクライナが何故今世界のIT産業の注目を集めるのか? 柴田裕史|newspaper=|publisher=[[ニューズウィーク]]日本版|date=2020-12-02|accessdate=2022-02-22}}</ref>。開発能力の高さはITの基礎となる数学教育に力を入れた結果であるとされる<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=駐日ウクライナ大使 セルギー・コルスンスキー/伊藤羊一|IT大国ウクライナの強さと現状【前編】 |url=https://sogyotecho.jp/ukraine_korsunsky_ito/ |website=起業・創業・資金調達の創業手帳 |access-date=2022-05-25 |language=ja |last=創業手帳編集部}}</ref>。
ITインフラの整備も進んでおり、公共サービスの多くはデジタル化されスマートフォンの操作で完結するという<ref name=":0" />。
== 科学技術 ==
{{main|{{仮リンク|ウクライナの科学技術|uk|Наука в Україні|en|Science and technology in Ukraine}}}}
ウクライナの科学技術はヨーロッパにおける科学の歴史上、非常に重要な位置付けをされているものの一つに数えられる。同国は前身のソビエト・ウクライナ時代、[[ソビエト連邦の宇宙開発]]に多大な貢献を果たしており、数多くの科学者を輩出している。
{{節スタブ}}
{{See also|{{仮リンク|ウクライナ科学技術センター|uk|Український науково-технологічний центр|en|Science and Technology Center in Ukraine}}}}
== 国民 ==
{{Main|ウクライナの人口|2001年ウクライナ国勢調査}}
<gallery>
ファイル:Populat8910.PNG|<div style='text-align: center;'>人口変動(1989年‐2012年)</div>
ファイル:UkraineDensity10.PNG|<div style='text-align: center;'>人口密度(2013年)</div>
ファイル:UkraineUrbanization2010.PNG|<div style='text-align: center;'>都市人口(2010年)</div>
ファイル:Ukraine City's Population Dynamics.PNG|<div style='text-align: center;'>都市人口動態(1989年‐2010年)</div>
ファイル:BirthRate2010ua.PNG|<div style='text-align: center;'>出産率(2010年)</div>
ファイル:DeathRate2010ua.PNG|<div style='text-align: center;'>死亡率(2010年)</div>
ファイル:UaAging2010.png|<div style='text-align: center;'>年齢構成(2010年){{Efn|65歳以上人口に対する 0-14 歳人口の割合 (2013年1月1日時点)。}}</div>
</gallery>
=== 民族 ===
{{Pie chart
| caption = 民族(ウクライナ) 2001
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| label1 =[[ウクライナ人]]
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}}
[[File:Ethnicukrainian2001.PNG|thumb|200px|ウクライナにおけるウクライナ人の割合([[2001年]]度全ウクライナ[[国勢調査]]より)]]
{{main|ウクライナ人}}
ウクライナは[[多民族国家]]である。主要民族は[[ウクライナ人]]で、全人口の約8割を占める。[[ロシア人]]は約2割を占める。ほかに少数民族として[[クリミア・タタール人]]、[[モルドバ人|モルドヴァ人]]、[[ブルガリア人]]、[[ハンガリー人]]、[[ルーマニア人]]、[[ユダヤ人]]がいる。[[高麗人]]も約1万人ほどいる<ref>기광서, 「구 소련 한인사회의 역사적 변천과 현실」, 《Proceedings of 2002 Conference of the Association for the Study of Overseas Koreans (ASOK)》, Association for the Study of Overseas Koreans, 2002.12.15</ref>。
国内最大の少数民族であるロシア人の割合が高い州は、ロシアが実効支配している[[クリミア自治共和国]]と[[セヴァストポリ]]を除くと[[ルハーンシク州]](39.2%)、[[ドネツィク州]](38.2%)、[[ハルキウ州]](25.6%)、[[ザポリージャ州]](24.7%)、[[オデッサ州]](20.7%)、[[ドニプロペトロウシク州]](17.6%)の順となっており、東部以外では[[キーウ|キーウ市]](13.1%)が高くなっている。また、西部の[[ザカルパッチャ州]]ではハンガリー人が12.1%を、[[チェルニウツィー州]]ではルーマニア人が12.5%を占めている。
ウクライナは2021年に「先住民法」を制定し、ゼレンスキー大統領が7月21日に署名して成立した。[[先住民族]]としてクリミア・タタール人、[[クリミア・カライム人]]、[[クリムチャク人]]の3民族を認定した<ref>Ukraine’s parliament adopts law on indigenous peoples, [https://www.aa.com.tr/en/europe/ukraine-s-parliament-adopts-law-on-indigenous-peoples/2291885](2022年4月10日閲覧)</ref>。これに対してロシア検察は翌日、[[欧州人権裁判所]]への提訴を発表した<ref>「ロシア系 先住民に含めず/ウクライナ プーチン氏猛反発」『[[読売新聞]]』朝刊2021年7月30日(国際面)</ref>。[[ロシア連邦大統領]][[ウラジーミル・プーチン]]は先立つ7月12日、『[[ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性について]]』という論文を発表していた<ref>ロシア人とウクライナ人「歴史的に一体」プーチン氏が論文 親露世論喚起狙う『読売新聞』朝刊2021年7月16日(国際面)</ref>。
人口が集中しているのはキーウ、ドネツィク州、ハルキウ州、[[リヴィウ州]]、ドニプロペトロウシク州で、全人口の69%が都市部に住んでいる。
[[人口密度]]の高い州はドネツィク州、リヴィウ州、チェルニウツィー州、ドニプロペトロウシク州である<ref name="nas2010">[http://ukrstat.org/uk/druk/katalog/kat_u/2012/07_2012/zb_chnas_2011.rar {{lang|uk|Чисельність наявного населення України на 1 січня 2012 року, Київ-2012 (rar) — Державний комітет статистики України}}]</ref>。
<gallery>
File:Ukraine census 2001 Ethnic groups.svg|<div style='text-align: center;'>諸民族の割合(2001年)黄色はウクライナ系</div>
File:Nonukrainian2001.PNG|<div style='text-align: center;'>非ウクライナ系人口(2001年)</div>
File:UaFirstNationality2001.PNG|<div style='text-align: center;'>多数民族(2001年)肌色はウクライナ系、青色はロシア系</div>
</gallery>
=== 言語 ===
{{main|ウクライナ語|ウクライナにおけるロシア語|ロシア化|ウクライナにおける言語政策}}
{{bar box
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|title=ウクライナにおける母語統計<br />(2001年)
|titlebar=#ddd
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{{bar percent|[[ウクライナ語]]|yellow|67.5}}
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}}
{{bar box
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|title=ウクライナの家庭で話される言語の使用率統計(2006年)<ref>"{{lang|uk|Мовна політика та мовна ситуація в Україні. Аналіз і рекомендація.}}" キエフ, ジム出版社、{{lang|uk|Києво-Могилянська академія}}</ref>
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{{bar percent|ウクライナ語|yellow|38.2}}
{{bar percent|ロシア語|#8dd3c7|40.5}}
{{bar percent|上記言語の両方|#bebada|16.2}}
}}
[[ファイル:Map12 b.png|250px|サムネイル|ウクライナ語話者(緑)とロシア語話者(黄)の分布(2001年)。棒グラフはウクライナ語は紫、ロシア語は水色、1989年は淡色、2001年は濃色]]
[[ファイル:Official Russian language support in Ukraine.PNG|thumb|250px|ロシア語の第二公用語化に賛成する割合(2005年)。西部の[[リヴィウ州]]、[[ヴォルィーニ州]]、[[テルノーピリ州]]の3州は賛成の割合が低い(黄緑)。]]
ウクライナの[[国家語]]は憲法第10条により定められた[[ウクライナ語]]のみであるが、憲法第10条には[[ロシア語]]を含む多言語使用・発展も保証すると記載されている。実態としてはウクライナ社会はウクライナ語とロシア語の二言語社会と呼びうる。
2001年の国勢調査によれば、全体の67.5%がウクライナ語を母語とし、ロシア語は29.6%となっていた。東部、南部と首都キーウではロシア語の割合が比較的高い<ref>[https://web.archive.org/web/20080105092304/http://www.ukrcensus.gov.ua/eng/results/general/language/ All-Ukrainian population census, 2001.]</ref>。他方、2006年に行われた民間調査統計によれば、ウクライナ語を[[母語]]とする国民は5割強となっている<ref>"{{lang|uk|Мовна політика та мовна ситуація в Україні. Аналіз і рекомендація.}}" キエフ, ジム出版社、{{lang|uk|Києво-Могилянська академія}}、2010(調査年は2006年)</ref>など、統計によるばらつきがみられる。同じ調査統計の結果で、母語ではなく日常的に使用する言語を問う設問では、家庭内でウクライナ語のみを使用するのは全国民の38.2%、ロシア語のみが40.5%、両言語が16.2%となっており<ref>「{{lang|uk|Мовна політика та мовна ситуація в Україні. Аналіз і рекомендація.}}" キエフ, ジム出版社、{{lang|uk|Ки?во-Могилянська академія}}、2010。</ref>、ウクライナはウクライナ語とロシア語の2言語国家であることがよく示されている。
ウクライナはロシア帝国およびソ連時代にロシア語化が進み、西ウクライナを除いて[[共通語]]としてロシア語が広く普及し、圧倒的に優勢となった。また、当時はウクライナ語はロシア語の[[方言]]や農村部の方言に過ぎないという認識さえあり、使用は衰退していった。特に都市部に住むインテリ層の間ではロシア語の使用が広まり、農村部ではウクライナ語、都市部ではロシア語という色分けができていた。しかしながら、ソ連からの独立時にウクライナ語を唯一の公用語として指定し、国民統一の象徴の言語として広く普及させ、復活させる国策を採った。一方、ロシア語は公用語に制定せず、ウクライナ語の復権を重要課題に掲げて重視した。これは、同じくロシア語が最も使われてきた隣国[[ベラルーシ]]が独立後もロシア語を引き続き最重要視する政策とは対照的な路線をとった。
ウクライナでは政府機関ではウクライナ語のみが使われ、憲法・法律をはじめ、公的文書は全てウクライナ語で記述され、学校教育は大半がウクライナ語で行われる。また、街中の広告もウクライナ語に限定され、[[地下鉄]]のアナウンスや街中の案内表記もウクライナ語とされるが、ロシア語も言語法の手続きを通じた地方公用語として認定されている場合には地方レベルで使用可能である。この背景には、国家としてウクライナ語の普及を進める一方で、西ウクライナを除く地域の都市部住民の中には民族的に[[ウクライナ人]]であっても日常生活ではロシア語を主に使用している人が少なくなく、ウクライナ語を運用することはできるが、ビジネスや娯楽、家庭での言語はロシア語が優勢となっている。さらに、東部や南部では、ウクライナ語が不得手とする人も少なくない。このように、独立以降ウクライナ語のみを国家語にしてきたウクライナであるが、生活の現場でのロシア語の使用頻度は低下しておらず、西部を除いた地域においてはロシア語は引き続き重要な言語となっている。
特徴的な点として、ウクライナ西部にあるリヴィウ州、ヴォルィーニ州、テルノーピリ州、[[イヴァーノ=フランキーウシク州]]のガリツィア地域はソ連時代を通じてもロシア語化が進まなかったことからウクライナ語が圧倒的に優勢で、日常的にロシア語が使われることは一般的でない。この3州ではロシア語の第2国家語化への反対者が多い。一方、東部の住民にはロシア語の公的地位向上を求める世論もあり、しばしば政治の場における敏感な論点となる。しかし、ウクライナ語が不得手な東部出身のウクライナ民族主義者も珍しくなく、使用母語と親露・反露感情は必ずしも一致しない点は留意を要する。2014年の政変以降も[[欧州安全保障協力機構]](OSCE)などの国際機関は、社会においてロシア語話者が差別を受けている事実を報告していない{{要出典|date=2022年5月}}。
その他の言語として、[[クリミア・タタール語]]([[クリミア自治共和国]])、[[ハンガリー語]]([[ザカルパッチャ州]])、[[ルーマニア語]]([[チェルニウツィー州]])なども使われている。
<gallery>
File:Ukrainianlang2001ua.PNG|{{center|ウクライナ語使用地域}}
File:Russianlang2001ua.PNG|{{center|ロシア語使用地域}}
File:Crimtatarlang2001ua.PNG|{{center|クリミア・タタール語使用地域}}
</gallery>
=== 婚姻 ===
婚姻時には改姓せず[[夫婦別姓]]とすることも、いずれかの姓に統一し同姓とすることも、複合姓とすることも、いずれも選択可能である<ref>L.E. Guz and A. V. Guz, [https://juristoff.com/7963 Судебно-практический комментарий к семейному кодексу Украины], 2011, p.576.</ref>。
=== 宗教 ===
[[File:Kijów - Sobór Mądrości Bożej 01.jpg|thumb|230px|首都[[キーウ]]にある[[聖ソフィア大聖堂 (キエフ)|聖ソフィア大聖堂]]([[世界遺産]])]]
[[File:Ukraine religion 2006 Razumkov center.svg|thumb|230px|宗教団体所属(ラズムコーウ・センターによる世論調査、2006年)
{{legend|#FFFFFF|border=1px solid #999999|無宗教ないし宗教団体に属していない}}
{{legend|#FFCC00|ウクライナ正教会・キエフ総主教庁}}
{{legend|#CCCCCC|ウクライナ正教会 (モスクワ総主教庁系)}}
{{legend|#FF9900|ウクライナ東方カトリック教会}}
{{legend|#FF0000|西方カトリック教会 }}
]]
{{Main|ウクライナの宗教}}
現在ウクライナの国民は多く[[キリスト教徒]]の[[アイデンティティ]]を持っているが、大半は特定の宗教団体に属していない<ref>{{uk icon}} [http://razumkov.org.ua/ukr/socpolls.php?cat_id=93 ウクライナ世論調査:宗教 // ラズムコーウ・センター(2000年‐2009年)]2009年6月3日閲覧</ref>。伝統的な宗教は、[[正教会]]の一員である[[ウクライナ正教会]]である。[[ルーシ]]の[[洗礼]]以来、ウクライナの正教会は[[コンスタンディヌーポリ総主教庁]]に属していたが、[[1686年]]に[[モスクワ総主教]]庁に移され、20世紀末までモスクワ総主教庁に属していた。この移管は[[教会法]]に違反していたと指摘されるが<ref>{{uk icon}} [http://litopys.org.ua/ohienko/oh12.htm {{lang|uk|Огієнко І. І. Українська церква: ''Нариси з історії Української Православної Церкви'': У 2 т.: Т. l-2. — К.: Україна, 1993. — 284 с. — XII. Обмосковлення Української Церкви}}] ISBN 5-319-01166-0<br />
{{en icon}} [https://books.google.co.jp/books?id=xQRwhPlT_kQC&dq=Subtelny+History+of+Ukraine&printsec=frontcover&source=bn&hl=ja&ei=Shu2SZ_vOJjC6gPF3_GfCQ&sa=X&oi=book_result&resnum=4&ct=result#PPA193,M1 Orest Subtelny.'' Ukraine: A History''. Univ of Toronto Pr; 3rd ed. 2000. - Society, Economics, and Culture. pp. 193-194.]</ref>、モスクワ総主教庁側はこの移管を「教会法違反」とは捉えていない。[[1990年]]には、ウクライナの独立運動の興隆に呼応して、モスクワ総主教庁から分離独立した[[ウクライナ正教会・キエフ総主教庁|キエフ総主教庁]]が設立された。
キエフ総主教庁・ウクライナ正教会の教会法上の合法性を認めている他国の正教会は長らく存在していなかったが、キエフ総主教庁は教会法解釈・歴史認識につき主張をしつつ、自らの合法性の承認を得るべく様々な活動を行い、信徒数の上でもウクライナにおける最大の教会となった。なお、懸案だったロシア正教会からの独立問題については、2014年にロシアが[[ロシアによるクリミア・セヴァストポリの編入|クリミア半島を併合]]したことによる反ロ感情の高まりを受け<ref name=nikkei20181012>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO36402830S8A011C1EAF000/ 「ウクライナの独立教会を承認、コンスタンティノープル ロシア反発」]日本経済新聞(2018年10月12日配信)2021年6月8日閲覧</ref>、2018年10月11日に[[コンスタンディヌーポリ総主教庁|コンスタンティノープル総主教庁]]から独立の承認を得ることに成功した<ref name=nikkei20181012/>。
この承認に基づいて、2018年12月15日、首都キーウにある[[聖ソフィア大聖堂 (キエフ)|聖ソフィア大聖堂]]で開かれた統一宗教会議で、ロシア正教会から独立したウクライナ正教会の創設が宣言された(「[[ウクライナ正教会 (2018年設立)]]」参照)。オブザーバーとして出席したポロシェンコ大統領は「ロシアからの最終的な独立の日だ」と群衆に述べた<ref>[https://www.sankei.com/article/20181216-N7JYYZZJ4BINNIVAFN4ECGDKV4/ 「ウクライナが新正教会 露から独立、指導者を選任」]『[[産経新聞]]』朝刊2018年12月17日(総合面)2018年12月19日閲覧</ref>。
これに次ぐ正教会として、モスクワ総主教庁の下に留まりつつ事実上の自治を行っているウクライナ正教会(「[[ウクライナ正教会 (モスクワ総主教庁系)]]」参照)もあるが、ウクライナ国内での信者数は減少している。[[2022年ロシアのウクライナ侵攻]]を[[キリル1世 (モスクワ総主教)]]が支持したことでこの傾向は加速し、キーウ国際社会学研究所が同年7月に実施した世論調査では、帰属意識を持つ教会としてウクライナ独自の正教会を挙げた人が54%と最多で、モスクワ系ウクライナ正教会は2021年の18%から4%に減った<ref name=読売20221226/>。したがって、2020年代における宗派別信者数は、右のグラフや下記のデータから大きく変化している。
他にも[[ウクライナ独立正教会]]と[[独立合法ウクライナ正教会]]の教会組織が存在する。また、[[ロシア正教古儀式派教会]]の教区や[[ポモーリエ派]]の[[会衆]]など、正教[[古儀式派]]の信徒も伝統的に存在している。
{{see|ウクライナのカトリック}}
[[東方典礼カトリック教会]]たる[[ウクライナ東方カトリック教会]]が正教に次いで勢力を有する。[[カトリック教会|西方典礼のカトリック教会]]および[[プロテスタント]]、さらに[[ムスリム|イスラム教徒]]、[[ユダヤ教|ユダヤ教徒]]、[[仏教|仏教徒]]も少数存在する。
[[朝鮮]]出身の開祖である[[文鮮明]]による「愛天、愛人、愛国」の教えを説く[[世界平和統一家庭連合|統一教会]]はウクライナを活動拠点の一つとしている<ref>{{Citation|title=ウクライナ家庭連合 アーニャ・カルマツカヤ会長メッセージ|url=https://www.youtube.com/watch?v=W_TXmL_QGuY|language=ja-JP|access-date=2022-07-12}}</ref>。
* 米国[[中央情報局|CIA]]『[[ザ・ワールド・ファクトブック]]』による2006年度のデータ:<ref>本節全体の出典:{{en icon}} [https://web.archive.org/web/20090513074157/https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/up.html ウクライナ] ザ・ワールド・ファクトブック(2009年5月13日時点の[[インターネットアーカイブ]])</ref>
** [[ウクライナ正教会・キエフ総主教庁]] - 50.4%
** [[ウクライナ正教会 (モスクワ総主教庁系)]] - 26.1%
** [[ウクライナ東方カトリック教会]] - 8%
** [[ウクライナ独立正教会]] - 7.2%
** [[カトリック教会|(西方典礼の)カトリック教会]] - 2.2%
** [[プロテスタント]] - 2.2%
** [[ユダヤ教]] - 0.6%
** その他 - 3.2%
{{See also|{{仮リンク|ウクライナにおける信教の自由|en|Freedom of religion in Ukraine}}}}
=== 教育 ===
[[File:Universidad Roja de Kiev.jpg|thumb|キーウ大学]]
[[File:Бандери 3179.jpg|thumb|リヴィウシカ・ポリテフニカ大学]]
{{main|{{仮リンク|ウクライナの教育|en|Education in Ukraine}}}}
1995年から6歳から17歳までの11年間が義務教育である。小学校・中学校に相当する9年間は同じ学校に通い、10年目以降は普通学校と専門学校のいずれかを選択することになる。このため11年間同じ学校に通う生徒も存在する。
必須科目はウクライナ語のほか、情報学、経済学などで、英語は1年生からの必須科目である。2000年から2001年の調査によると全体の7割がウクライナ語で教育を受け、残りの3割弱がロシア語となっている。そのほか、クリミア・タタール語、ハンガリー語、ルーマニア語でも教育が行われている。
ウクライナの学校は、3月末に1週間の春休み、6 - 8月に3か月間の夏休み、12月末 - 1月に約2週間の冬休みがある。
幼少期から[[数学]]教育が重視されており、IT産業の発達に寄与したとされる<ref name=":0" />。
[[ファイル:Владимирская 54 Киев 2010 01.JPG|サムネイル|ウクライナ国立学士院]]
==== 高等教育機関 ====
* [[キエフ大学]]
* [[キエフ・モヒーラ・アカデミー国立大学]]
* [[キエフ技術大学]]
* [[リヴィウシカ・ポリテフニカ国立大学]]
* [[リヴィウ大学]]
* [[東ウクライナ国立大学]]
* [[ウクライナ自由大学]]
* [[ウクライナ経済大学]]
* [[ウクライナ教育大学]]
* [[キエフ音楽院]]
* [[グリエール音楽大学]]
* [[国立リヴィウ銀行大学]]
*[[キエフ国立貿易経済大学]]
==== 研究所 ====
*[[ウクライナ国立学士院]]
=== 保健 ===
{{main|{{仮リンク|ウクライナの保健|en|Health in Ukraine}}}}
{{節スタブ}}
==== 医療 ====
{{main|{{仮リンク|ウクライナの医療|en|Healthcare in Ukraine}}}}
{{節スタブ}}
== 社会 ==
{{節スタブ}}
=== 動物保護 ===
WAP(世界動物保護協会)の2020年の評価<ref>{{Cite web |url=https://api.worldanimalprotection.org/country/ukraine |title=ANIMAL PROTECTION INDEX Main menu |accessdate=20220203}}</ref>によると、ウクライナの動物福祉評価は総合評価でE(AからGの7段階評価。Aが最も評価が高い)。分野ごとの評価では「動物の虐待行為への法規制」はC、「畜産動物の福祉([[動物福祉|アニマルウェルフェア]])」はE、「コンパニオンアニマル(ペット)の保護」はF、「実験動物の保護」はD、などとなっている。
強制給餌への批判がある[[フォアグラ]]については、2019年9月に最後の強制給餌農場を閉鎖。法律で明示的に禁止されていないが、強制給餌の慣行は国内で中止となった<ref>{{Cite web |url=https://www.l214.com/stop-foie-gras/le-gavage-interdit-a-travers-le-monde/ |title=LE GAVAGE INTERDIT À TRAVERS LE MONDE |accessdate=20220203}}</ref>。ウクライナ最大の家禽企業であるMHPもフォアグラの生産を中止している<ref>{{Cite web |url=https://www.poultryworld.net/Specials/Articles/2020/10/Russia-embraces-new-trends-658899E/ |title=Russia embraces new trends |accessdate=20220203}}</ref>。
== 治安 ==
同国検事総局発表による2017年時における[[犯罪]]登録件数は約52万件と依然高い水準である。また、[[クレジットカード]]や[[キャッシュカード]]の[[スキミング]]被害事例が散見されており、「財布落とし」と呼ばれる人間の親切さを逆手に取った犯罪の被害も依然として複数寄せられているなど金銭絡みの事件が多発している為、同国の滞在には常に注意が求められる<ref>[https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure_182.html ウクライナ安全対策基礎データ] [[日本外務省]]海外安全ホームページ</ref>。
[[アメリカ合衆国国務省|米国務省]]からテロ組織と指定されている極右[[ネオナチ]]組織「[[S14 (ウクライナの組織)|C14]]」が存在し、彼らはこれまで数々の治安犯罪を犯してきたが、国や地方行政と癒着し活動を行っている<ref name=":93">{{Cite web|和書|title=ウクライナには「ネオナチ」という象がいる~プーチンの「非ナチ化」プロパガンダのなかの実像【上】 - 清義明|論座 - 朝日新聞社の言論サイト |url=https://webronza.asahi.com/national/articles/2022032200001.html |website=論座(RONZA) |access-date=2022-05-20 |language=ja |first=The Asahi Shimbun |last=Company}}</ref><ref name="Cohen 2018">{{Cite web |last=Cohen |first=Josh |date=20 June 2018 |url=https://www.atlanticcouncil.org/blogs/ukrainealert/ukraine-s-got-a-real-problem-with-far-right-violence-and-no-rt-didn-t-write-this-headline/ |title=Ukraine's Got a Real Problem with Far-Right Violence (And No, RT Didn't Write This Headline) |publisher=Atlantic Council |access-date=26 February 2022}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.bellingcat.com/news/uk-and-europe/2019/08/09/yes-its-still-ok-to-call-ukraines-c14-neo-nazi/ |title=Yes, It's (Still) OK To Call Ukraine's C14 'Neo-Nazi' |publisher=Bellingcat |date=9 August 2019 |access-date=26 February 2022 |quote=The Kharkiv Human Rights Protection Group, in an article published the day after the ruling, points out that C14 is 'considered by most experts to be neo-Nazi.' The Group points out that a number of experts and observers of the far-right in Ukraine frequently have referred to C14 as 'neo-Nazi.' These experts and observers include Vyacheslav Likhachev, the author of a 2018 Freedom House report on the far-right in Ukraine, as well as academics Anton Shekhovtsov and Andreas Umland.}}</ref><ref>{{Cite web |last=Coynash |first=Halya |date=25 October 2018 |url=https://khpg.org//en/1540419843 |title=Neo-Nazi C14 vigilantes appear to work with Kyiv police in latest 'purge' of Roma |publisher=Kharkiv Human Rights Protection Group |access-date=5 March 2022 |quote=C14 members object to being called 'neo-Nazi', however researchers following far-right groups, like Anna Hrytsenko, Anton Shekhovtsov and Vyacheslav Likhachev are clear that the group fits this description because of their hate crimes and the neo-Nazi symbols they use.}}</ref><ref name="TRAC 2017">{{Cite web |url=https://trackingterrorism.org/group/%d1%8114-or-sich-ukraine/ |title=C14 aka Sich – Ukraine |publisher=Terrorism Research & Analysis Consortium |date=November 2017 |access-date=4 March 2022}}</ref>。
{{節スタブ}}
{{See also|{{仮リンク|ウクライナにおける犯罪|en|Crime in Ukraine}}|ウクライナにおける「ネオナチ問題」}}
=== 警察 ===
[[ファイル:Kyiv Patrol Police Oath Ceremony, July 4, 2015 (19219273378).jpg|サムネイル|ウクライナ国家警察]]
{{Main|[[ウクライナ国家警察]]}}
{{節スタブ}}
ウクライナの警察は、[[ウクライナ内務省]]所属のウクライナ国家警察が担っている。
ウクライナの警察は、ソ連時代から民警(ミリーツィヤ)と呼ばれており、ソ連崩壊以降も2015年に国家警察に再編されるまでは民警と呼ばれていた。
[[アメリカ合衆国国務省|米国務省]]からテロ組織と指定されている極右ネオナチ組織「[[S14 (ウクライナの組織)|C14]]」は、警察と協力してキーウの自警組織をつくっている<ref name=":93">{{Cite web|和書|title=ウクライナには「ネオナチ」という象がいる~プーチンの「非ナチ化」プロパガンダのなかの実像【上】 - 清義明|論座 - 朝日新聞社の言論サイト |url=https://webronza.asahi.com/national/articles/2022032200001.html |website=論座(RONZA) |access-date=2022-05-20 |language=ja |first=The Asahi Shimbun |last=Company}}</ref>。
{{seealso|{{仮リンク|民警 (ウクライナ)|uk|Міліція України|ru|Милиция Украины|en|Militsiya (Ukraine)}}}}
=== 人権 ===
{{Main|{{仮リンク|ウクライナの人権|en|Human rights in Ukraine}}}}
{{節スタブ}}
{{See also|{{仮リンク|ウクライナにおける人身売買|en|Human trafficking in Ukraine}}}}
== マスコミ ==
{{Main|{{仮リンク|ウクライナのメディア|en|Mass media in Ukraine}}}}
主要メディアは以下が挙げられる。
* {{仮リンク|ススピーリネ|en|Suspilne|uk|Національна суспільна телерадіокомпанія України}}(ウクライナ[[公共放送]])<ref>[https://www.asahi.com/articles/DA3S15649271.html ウクライナ公共放送会長が来日「ロシアは災害」ネットで対抗]『朝日新聞』朝刊2023年2023年5月30日(国際面)同日閲覧</ref>
* [[ウクルインフォルム]]:ウクライナの国営[[通信社]]
* [[ウクライナ独立通信社]]:ウクライナ最大の民営通信社
* [[ウクラインシカ・プラウダ通信]]
* [[デーニ通信]]
* [[オストロフ通信]]:ドンバス地域発のロシア語ニュースを発信する民営通信社
* [[UNN通信]]
* [[ゼールカロ・ティージニャ]](週の鏡)
* [[グラフコム通信]]
* [[キーウ・ポスト|キエフ・ポスト]]:英字ニュースを発信する通信社
{{See also|{{仮リンク|ウクライナにおける報道の自由|en|Freedom of the press in Ukraine}}}}
== 文化 ==
{{main|{{仮リンク|ウクライナの文化|uk|Українська культура|en|Ukrainian culture}}}}
=== 食文化 ===
[[ファイル:Borscht with bread.jpg|thumb|200px|ウクライナ発祥地の[[ボルシチ]]は国内で最も一般的なスープである]]
{{Main|ウクライナ料理}}
ウクライナ料理は、東欧を代表する[[ウクライナ人]]の伝統的な[[食文化]]である。その歴史は[[キエフ大公国]]時代に遡る。ウクライナ料理は、[[ポーランド料理]]、[[リトアニア料理]]、[[ルーマニア料理]]、[[ロシア料理]]、[[ユダヤ料理]]などの食文化にも大きな影響を与えた。一方、他国の料理の影響が見られる<ref name="Stechishin">Stechishin, Savella. [http://www.encyclopediaofukraine.com/pages/T/R/Traditionalfoods.htm Traditional Foods]. Encyclopedia of Ukraine. Retrieved 2007-08-10.</ref>。
[[主食]]は[[パン]]であり、パンに類する食品も多い。その中で、[[ヴァレーヌィク]](ウクライナ風[[餃子]])、[[ハムーシュカ]]、[[フレチャーヌィク]]([[団子]])、[[コールジュ]]、[[コロヴァーイ]]([[ケーキ]]の一種)、[[パスカ]]([[復活祭]]のパン)、[[クチャー]]([[小麦]]か[[米]]の甘い[[粥]])などがある。[[魚]]・[[食肉|肉]]の料理が比較的少なく、[[スープ]]や[[野菜]]の[[煮物]]などの料理が圧倒的に多い。世界的にも有名なウクライナ料理[[ボルシチ]]は、大まかに50種類以上の[[レシピ]]があるが、ウクライナでは豚肉、ロシアでは牛肉が主流である。肉料理は[[豚]]肉料理、魚料理は[[鯉]]類料理が一般的である。さらに、肉料理として[[サーロ]]([[豚]]の[[脂身]]の[[塩漬け]])が頻繁に利用される。飲み物は甘い、もしくは甘辛いものが多い。[[メドウーハ]]([[蜂蜜酒]])、[[ホリールカ]]([[唐辛子]]入りのお[[酒]])、[[ナスチーイカ]]([[果実酒]])、[[クヴァース]](液体のパン)などがある<ref name="Stechishin" />。
おもな[[調理法]]は軽く炒めて茹でること、また軽く炒めて煮ることである。[[揚げ物]]などは少ない。調味料としては、サーロ、[[ひまわり油|向日葵油]]、[[スメターナ]]、[[酢]]、[[塩]]、[[蜂蜜]]などが用いられる<ref name="Stechishin" />。
ウクライナでは、ウクライナ料理のほかに、[[クリミア・タタール料理]]が存在する。
<gallery>
ファイル:Soljanka with olives.jpg|<div style="text-align: center;">[[ソリャンカ]]</div>
ファイル:Sushi Made from Salo.jpg|<div style="text-align: center;">[[サーロ]]の巻き寿司</div>
ファイル:Cossack roasted meat in Zaporizhia.JPG|<div style="text-align: center;">コサック風[[シチュー]]</div>
ファイル:Kapersy 027.jpg|<div style="text-align: center;">[[ヴァレーヌィク]]</div>
ファイル:Kiev cake slice.JPG|<div style="text-align: center;">[[キエフケーキ]]</div>
</gallery>
=== 文学 ===
{{main|ウクライナの文学}}
==== 神話・昔話 ====
*{{ill2|ウクライナの民話|uk|Українські народні казки}}
** [[コティホローシュコ]]
**[[てぶくろ]]
**[[かものむすめ]]([[鶴の恩返し]]に似た民話)
=== 音楽・舞踊 ===
{{main|{{仮リンク|ウクライナの音楽|uk|Українська музика|en|Music of Ukraine}}}}
* [[ホパーク]](コサック・ダンス)
* {{仮リンク|ウクライナの民族楽器|uk|Українські народні інструменти}}
**[[バンドゥーラ]] (弦楽器)
*{{仮リンク|ウクライナの民謡|uk|Українська народна музика}}
**「[[ああ野の赤いガマズミよ]]」
**[[マルーシャ・チュラーイ]]
=== 美術 ===
[[File:Pysanky2011.JPG|thumb|right|ウクライナのプィーサンカ]]
{{Main|ウクライナの芸術}}
* [[コサック・ママーイ]]
* [[プィーサンカ]]
* [[ヴィチナンキ]]
* [[ペトリキウカ塗り]]
=== 映画 ===
{{Main|[[ウクライナの映画]]}}
{{節スタブ}}
=== アニメーション ===
*{{ill2|ウクライナアニメーションの歴史|en|History of Ukrainian animation}}
*[[コサック (アニメ)]]
*「[[ストールンプリンセス:キーウの王女とルスラン]]」
*「[[マフカ 森の歌]]」
*[[クセニア・シモノヴァ]] - [[サンドアート]]アニメーション作家
=== 建築 ===
[[File:Golden Gate Kiev 2018 G1.jpg|thumb|[[黄金の門 (キエフ)|黄金の門]] <br> 11世紀のキエフに存在した要塞の正門で、現存するのは1982年にソビエト当局によって再建ならび復元された[[レプリカ]]である]]
{{Main|{{仮リンク|ウクライナの建築|uk|Українська архітектура|en|Ukrainian architecture}}}}
同国における建築はキエフ大公国が起源となるものが多く、12世紀のハールィチ・ヴォルィーニ大公国時代からリトアニア大公国ならび[[ウクライナ・コサック]]が存在した15世紀後半の時代にポーランド・リトアニア共和国の影響下でウクライナ独自の建築技法が開発されて行った。その技法は形を変えつつも途絶えることなく以降の現代へ続いている。
有名な歴史的建造物には以下が挙げられる。
* [[聖ソフィア大聖堂 (キエフ)|聖ソフィア大聖堂]]
* [[キエフ洞窟大修道院]]
* [[聖ムィハイール黄金ドーム修道院]]
* [[聖ムィコラーイ教会 (アスコルドの墓)|聖ムィコラーイ教会]]
* [[救世主顕栄教会 (ヴェルィーキ・ソローチンツィ)|救世主顕栄教会]]
* [[リヴァディア宮殿]]
* [[怪物屋敷]]
{{See also|ウクライナ・バロック|{{仮リンク|ウクライナの建築様式|uk|Український архітектурний стиль}}}}
=== 服飾・衣装 ===
{{Main|{{仮リンク|ウクライナ刺繡|en|Ukrainian embroidery}}|{{仮リンク|ウクライナの民族衣装|uk|Українське національне вбрання|ru|Украинский национальный костюм}}}}
[[ファイル:Luhansqkyj_muzej_narodnij_odqah_2.JPG|サムネイル|女性の民族衣装(ルハンシク郷土史博物館)]]
{{節スタブ}}
ウクライナの民族衣装は、ソロチカ、[[ヴィシヴァンカ]]などがある。これらは[[刺繍]]が施され、飾りだけではなく、魔よけの意味がある<ref>『ポプラディアプラス3 ヨーロッパ州』ポプラ社,2019 p.53</ref><ref name="isyou">{{Cite web|和書|url=https://www.kraiany.org/ukraine-info/b2_costume.html |title=ウクライナの民族衣装 |publisher=NPO法人日本ウクライナ友好協会KRAIANY |accessdate=2022/02/27}}</ref>。地方ごとに独自の刺繍法があり<ref name="some">『ロシアの染織』学習研究社,1984 p.188</ref>、約200種類の技法、数千種類のモチーフがあるといわれている<ref name="shishu">『東欧で見つけた可愛い刺繍』河出書房新社,2013 p.79-83</ref>。伝統の布として、美しい刺繍のされたルシュニキ(ルシェニク<ref>『朝倉世界地理講座10 東ヨーロッパ・ロシア』朝倉書店,2007 p.386</ref>、ルシニーク<ref name="some"/>とも)があり、儀式にも使われる<ref name="shishu"/>。伝統的な花の冠は[[ヴィノク]]と呼ばれる<ref name="isyou"/><ref>{{Cite web|和書|url=https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/070800408/ |title=ウクライナの伝統 豪華な花の冠の人気が復活した理由 |publisher=日経ナショナルジオグラフィック |accessdate=2022/02/27}}</ref>。
=== 世界遺産 ===
ウクライナ国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が6件、[[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]が1件存在する。
{{Main|[[ウクライナの世界遺産]]}}
<gallery>
ファイル:Києво-Печерська лавра, вид з мосту Патона.jpg|[[キエフの聖ソフィア大聖堂と関連する修道院群及びキエフ・ペチェールシク大修道院]](1990年、文化遺産)
ファイル:Cables Lviv.jpg|[[リヴィウ|リヴィウ歴史地区]](1998年、文化遺産)
ファイル:Південний пункт Дуга Струве.jpg|[[シュトルーヴェの測地弧]](2005年、文化遺産)
ファイル:Резиденція митрополитів Буковини і Далмації 5.jpg|[[ブコビナ・ダルマチア府主教の邸宅]](2011年、文化遺産)
ファイル:Grib skov.jpg|[[カルパティア山脈のブナ原生林|カルパティア山脈のブナ原生林とドイツのブナ古林群]](2007年、自然遺産)
</gallery>
=== 祝祭日 ===
{{main|{{仮リンク|ウクライナの祝祭日|en|Public holidays in Ukraine}}}}
ウクライナではその歴史やキリスト教に由来する祝祭日が多いが、[[ウクライナ紛争 (2014年-)|2014年に始まったロシアによる侵略]]以降、日取りや位置づけに変化が起きている。伝統的にロシアと同じ[[1月7日]]([[ユリウス暦]])に祝われていた[[クリスマス]]は他の欧州諸国と同じ[[12月25日]]([[修正ユリウス暦]])に変更する法律が2023年7月28日、ゼレンスキー大統領により署名された<ref>「[https://mainichi.jp/articles/20230730/k00/00m/030/075000c クリスマス 1月→12月/ウクライナが法改正 欧米同様に]」『毎日新聞』朝刊2023年7月31日国際面掲載の[[共同通信]]記事(同日閲覧)</ref>。クリスマスの非ロシア化は[[2022年ロシアのウクライナ侵攻]]で加速し<ref>「[https://www.asahi.com/articles/DA3S15507662.html クリスマスも脱ロシア ウクライナ 旧暦使わぬ動き]」『朝日新聞』夕刊2022年12月20日(社会・総合面)2022年12月24日閲覧</ref>、[[ウクライナ正教会 (2018年設立)|ウクライナ正教会]]は同年12月24日、[[ウクライナのカトリック]]教会や他の正教会とのトップ会談で、 クリスマスや[[復活大祭|復活祭]]を決める[[教会暦]]の改革に向けた作業部会設置で合意していた<ref name=読売20221226>[https://www.yomiuri.co.jp/world/20221225-OYT1T50196/ クリスマスも「脱ロシア」ウクライナ正教会12月25日祝祭容認]『読売新聞』朝刊2022年12月26日(国際面)同日閲覧</ref>。[[独ソ戦]]の[[戦勝記念日 (5月9日)|勝利記念日である5月9日]]は2022年から祝日ではなくなった<ref name=朝日20220509/>。他国における[[ヨーロッパ戦勝記念日]]である5月8日は、ウクライナでは「追悼と和解の日」に定められている<ref name=朝日20220509/>。
{|align="center" class="wikitable"
|-
| align="center" colspan=5 style="background:#DADADA" | <span style="color: #000000">'''祝祭日'''</span>
|- align="center" bgcolor="#F0F0F0"
|<span style="color: #000000">'''日付'''</span>
|<span style="color: #000000">'''日本語表記'''</span>
|<span style="color: #000000">'''ウクライナ語表記'''</span>
|<span style="color: #000000">'''画像'''</span>
|-
||[[1月1日]]||[[元日]]||{{lang|uk|Новий рік}}||[[File:Bratislava New Year Fireworks.jpg|70px]]
|-
||[[3月8日]]||[[国際女性デー]]||{{lang|uk|Міжнародний жіночий День}}||[[File:Acacia dealbata Garden 060407w.jpg|70px]]
|-
||[[5月1日]]||[[労働の日]]||{{lang|uk|День міжнародної солідарності трудящих}}||[[File:Bartnelke.jpg|70px]]
|-
||[[移動祝日]]||復活祭||{{lang|uk|Великдень}}||[[File:EMBROIDERED EGGS BY I FOROSTYUK.jpg|70px]]
|-
||5月9日<ref name=朝日20220509>[https://www.asahi.com/articles/ASQ595QGMQ58UHBI03Z.html ロシアより1日早い「戦勝記念日」花を供えたウクライナ人の願いは] 朝日新聞デジタル(2022年5月9日)2022年12月26日閲覧</ref>||[[戦勝記念日 (5月9日)|勝利記念日]]||{{lang|uk|День Перемоги}}||[[File:Ніколи Знову 01.svg|70px]]
|-
||復活祭の第8日曜日||[[三位一体の日]]||{{lang|uk|Трійця}}||[[File:Koronacja NMP.jpg|70px]]
|-
||[[6月28日]]||[[憲法記念日]]||{{lang|uk|День Конституції}}||[[File:Ukrflagblue.jpg|70px]]
|-
||[[8月24日]]||[[独立記念日]]||{{lang|uk|День Незалежності}}||[[File:210824100558 Independence Day parade, Kyiv 2021, 09.jpg|70px]]
|-
||12月25日||クリスマス||{{lang|uk|Різдво}}||[[File:Twelve-dish Christmas Eve supper.jpg|70px]]
|}
== スポーツ ==
[[File:Andriy Shevchenko100.jpeg|thumb|upright|right|ウクライナの英雄である[[アンドリー・シェフチェンコ]] (2010年)]]
{{main|{{仮リンク|ウクライナのスポーツ|en|Sport in Ukraine}}}}
ウクライナ国内でも他の[[ヨーロッパ]]諸国同様、[[サッカー]]が圧倒的に1番人気の[[スポーツ]]となっており、[[2012年]]には[[ポーランド]]との共催で'''[[UEFA EURO 2012]]'''が開催されている。サッカー以外の[[球技]]では[[テニス]]や[[バスケットボール]]が、[[格闘技]]では[[ボクシング]]、[[柔道]]、[[総合格闘技]]が非常に人気となっている。
=== サッカー ===
{{Main|{{仮リンク|ウクライナのサッカー|en|Football in Ukraine}}}}
[[1991年]]にサッカーリーグの[[ウクライナ・プレミアリーグ]]が創設され、リーグ優勝は[[FCディナモ・キエフ|ディナモ・キーウ]](16回)と[[FCシャフタール・ドネツク|シャフタール・ドネツク]](14回)の2クラブによって殆ど支配されている(他は[[SCタフリヤ・シンフェロポリ|タフリヤ・シンフェロポリ]]の1回のみ)。[[ウクライナサッカー連盟]]によって構成される[[サッカーウクライナ代表]]は、[[FIFAワールドカップ]]には[[2006 FIFAワールドカップ|2006年大会]]で初出場しベスト8の成績を収めた。[[UEFA欧州選手権]]には3度出場しており、[[UEFA EURO 2020|2021年大会]]では過去最高位のベスト8に進出している。
[[ウクライナ人]]の[[プロサッカー選手|サッカー選手]]の象徴的な存在として、現役時代は「'''ウクライナの矢'''」と呼ばれた[[アンドリー・シェフチェンコ]]がおり、主に[[ACミラン]]で活躍し[[カポカンノニエーレ|セリエA・得点王]]を2度獲得、2004年には[[バロンドール]]も受賞している。さらにシェフチェンコが引退して以降は、[[マンチェスター・シティFC|マンチェスター・シティ]]で活躍した[[オレクサンドル・ジンチェンコ]](現在は[[アーセナルFC|アーセナル]]所属)が、同国では非常に人気の選手となっている。
2021-22シーズンは[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ロシアのウクライナ侵攻]]により、国内リーグ戦の全試合が無期限中止となり、その後打ち切り「優勝チームなし」と決定した<ref>[https://upl.ua/ua/news/view/6224 Чемпіонат України призупинено] (in Ukrainian)</ref>。さらにロシアとの戦争が継続中の2022年8月23日、シャフタール・ドネツクとメタリスト1925・ハルキウの試合を{{仮リンク|ウクライナ・プレミアリーグ2022-2023|label=2022-23シーズン|en|2022–23 Ukrainian Premier League}}の開幕戦として、255日ぶりに国内でのサッカーリーグが開催された<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.reuters.com/article/ukraine-crisis-soccer-idJPKBN2PS1V1?feedType=RSS&feedName=special20|title=サッカー=ウクライナ国内リーグ、23日再開へ 侵攻開始から半年|accessdate=2022-08-23|date=2018-3-27|website=ロイター通信|publisher=|language=}}</ref>。なお、[[ロシア軍]]の標的になるのを避けるため「全試合が無観客開催」となる。
{{See also|ウクライナダービー}}
== 著名な出身者 ==
{{Main|ウクライナ人の一覧}}
{{colbegin|2}}
; 政治家
{{See also|Category:ウクライナの政治家}}
* [[ウラジーミル1世|ヴォロディーメル1世]]:[[キエフ大公国|ルーシ]]の大公
* [[ヤロスラフ1世]]:[[キエフ大公国|ルーシ]]の大公
* [[ダヌィーロ・ロマーノヴィチ|ダヌィーロ1世]]:[[キエフ大公国|ルーシ]]の王
* [[ボフダン・フメリニツキー]]:[[コサック]]の[[ヘーチマン|棟梁]]
* [[イヴァン・マゼーパ]]:コサックの棟梁
; 文化人
{{See also|Category:ウクライナの作家}}
* [[フルィホーリイ・スコヴォロダ]]:詩人、哲学者
* [[タラス・シェフチェンコ]]:詩人、画家
* [[レーシャ・ウクラインカ]]:作家、詩人
* [[イヴァン・フランコ]]:作家、詩人
* [[ウラジミール・ベルナドスキー|ヴォロディームィル・ベルナドシクィイ]]:鉱物学者、地球化学者
* [[ウラジーミル・ドリンフェルト]]:[[数学者]]、[[フィールズ賞]]受賞者
* [[イズライル・ゲルファント]]:数学者
* [[ムィハイロ・フルシェヴシクィイ]]:歴史学者
* [[セルゲイ・コロリョフ|セルヒーイ・コロリョフ]]:ロケット開発者
* [[オレクサンドル・ドヴジェンコ]]:[[映画監督]]
* [[セルゲイ・ボンダルチュク]]:[[映画監督]]
* [[ミラ・ジョヴォヴィッチ]]:[[俳優|女優]]
* [[オルガ・キュリレンコ]]:[[俳優|女優]]
; スポーツ選手
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* [[アンドリー・シェフチェンコ]]:元[[サッカー選手]]
* [[オレグ・ブロヒン]]:元サッカー選手
* [[アナトリー・ティモシュチュク]]:元サッカー選手
* [[オレクサンドル・ジンチェンコ]]:[[プロサッカー選手|サッカー選手]]
* [[アンドリー・ヤルモレンコ]]:サッカー選手
* [[アンドレイ・メドベデフ|アンドリー・メドヴェージェウ]]:[[テニス]]選手
* [[イゴール・ボブチャンチン]]:[[総合格闘家]]
* [[ウラジミール・クリチコ]]:[[プロボクサー]]
* [[オクサナ・バイウル]]:元フィギュアスケート選手。[[1994年リレハンメルオリンピックのフィギュアスケート競技|リレハンメルオリンピック]]女子シングル金メダリスト
* [[セルゲイ・ブブカ]]:[[陸上競技|陸上]]選手。[[1988年ソウルオリンピック]]男子棒高跳び金メダリスト
* [[ドミトリ・オフチャロフ]]:[[卓球]]選手
* [[大鵬幸喜]]:[[大相撲]][[力士]]。父親がウクライナ出身。のち[[北海道]]に移る<ref>{{Cite web|和書|title=大相撲力士、大鵬幸喜の運命 |url=https://japan.mfa.gov.ua/ja/news/taiho |website=在日ウクライナ大使館 |accessdate=2022-03-12 |date=2021-10-25}}</ref>。
* [[ビタリ・クリチコ]]:プロボクサー
* [[ヤナ・クロチコワ]]:[[競泳]]選手。[[2000年シドニーオリンピック]]女子400m個人メドレー金メダリスト
* [[オレグ・ベルニャエフ]]:[[体操競技|体操]]選手。[[2016年リオデジャネイロオリンピック]]男子種目別平行棒金メダリスト
* [[マリヤ・スタドニク]]:女子[[レスリング]]選手。[[リヴィウ州]][[リヴィウ]]([[ウクライナ・ソビエト社会主義共和国]]時代)出身<ref group="注釈">現在の[[国籍]]は'''ウクライナ'''から[[アゼルバイジャン]]へ変更。</ref><ref>[[:en:List of nationality transfers in sport|List of nationality transfers in sport]]</ref><ref>[http://at1ce.org/themenreihe.p?c=Azerbaijani%20people%20by%20ethnic%20or%20national%20origin Azerbaijani people by ethnic or national origin]</ref>
* [[獅司大]]:大相撲力士<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2022/03/14/kiji/20220314s00005000327000c.html |title=母国に届け!ウクライナ初の大相撲力士、春場所白星発進 館内で大きな拍手 |accessdate=2022-03-14 |date=2022-03-14 |website=スポーツニッポン}}</ref>
; 音楽家
{{See also|Category:ウクライナの作曲家}}
* [[ドムィトロー・ボルトニャーンスィクィイ]]:[[作曲家]]
* [[ミコラ・リセンコ]]:作曲家
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* [[セルゲイ・ポルーニン]]:バレエダンサー
* [[フリスティナ・ソロヴィ]]:フォークシンガー
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
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=== 著作 ===
* {{ja icon}} {{Cite book |和書 |author=中井和夫 |authorlink=中井和夫 |year=1993 |chapter=東スラヴのアイデンティティー――ロシアとウクライナ |title=ヨーロッパのアイデンティティ |editor=[[樺山紘一]]、[[長尾龍一]]編 |publisher=[[新世社]] |pages=95〜111頁 |ref=harv }}
* {{ja icon}} {{Cite book |和書 |author=中井和夫 |authorlink=中井和夫 |year=1998 |title=ウクライナ・ナショナリズム |publisher=[[東京大学出版会]] |ref=harv }}
* {{ja icon}} 新興国ウクライナ / ウイルヘルム・キスキー[他]. 世界思潮研究会、1921.
* {{ja icon}} ウクライナ、白ロシア、モルダビアの民話 / 伊集院俊隆. 新読書社、1985.
* {{ja icon}} シベリア、ウクライナ私の捕虜記 / 後藤敏雄. [[国書刊行会]]、1985.
* {{ja icon}} ウクライナ語入門 / 中井和夫. [[大学書林]]、1991.
* {{ja icon}} とどけウクライナへ / 坂東弘美. 八月書館、1991.
* {{ja icon}} ウクライナとモルドバ / 秋山秀一. 芦書房、1992.
* {{ja icon}} スキタイ黄金美術展図録 / 江上波夫、加藤九祚. [[日本放送協会]]、1992. *{{ja icon}} うくらいな / 島田文彦. 日本図書刊行会、1993.
* {{ja icon}} ウクライナ / 早坂真理. リブロポート、1994.
* {{ja icon}} グルジア、ウクライナの歌 / 二見淑子. 近代文芸社、1995.
* {{ja icon}} ウクライナ語基礎1500語 / 黒田竜之助. 大学書林、1995.
* {{ja icon}} てぶくろ:ウクライナ民話 / 田中かな子[他]. メイト、1995.
* {{ja icon}} 日本とウクライナの国境をこえて / 長田久文. 長田久文、1996.
* {{ja icon}} かものむすめ:ウクライナ民話 / 松谷さやか[他]. [[福音館書店]], 1997.
* {{ja icon}} 黄金のシルクロード展 / 加藤九祚. 黄金のシルクロード展実行委員会、1998.
* {{ja icon}} ポーランド・ウクライナ・バルト史 / 伊東孝之、井内敏夫、中井和夫. [[山川出版社]]、1998.
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* {{ja icon}} ブラジル、インド、中国、タイ及びウクライナの砂糖産業. 農畜産業振興事業団、2000.
* {{ja icon}} 国境・領土紛争の比較研究‐ロシアとウクライナ、中国、日本 / [[木村汎]]、[[国際日本文化研究センター]]. 2000-2001.
* {{ja icon}} 物語ウクライナの歴史 / 黒川祐次. 中央公論新社, 2002.
* {{ja icon}} 帝政ロシアのウクライナ諸県における農業史と家族史・歴史人口統計学的研究 / 佐藤芳行、[[新潟大学]]. 2002-2003. *{{ja icon}} マフノ運動史 / ピョートル・アルシノフ[他]. -- [[社会評論社]]、2003.
* {{ja icon}} ネイションとステートの形成プロセスにおけるウクライナ・アイデンティティーの確立 / 末澤恵美、[[平成国際大学]]. 2003-2005.
* {{ja icon}} ウクライナ100の素顔 / 東京農大ウクライナ100の素顔編集委員会. [[東京農業大学]]出版会、2005.
* {{ja icon}} 現代ウクライナ短編集 / 藤井悦子、オリガ・ホメンコ. 群像社、2005.
* {{ja icon}} ウクライナ丸かじり / 小野元裕. ドニエプル出版、2006.
* {{ja icon}} 日本語-ウクライナ語・ウクライナ語-日本語単語集 / [[阿部昇吉]][他]. 国際語学社、2007.
* {{ja icon}} 大地の肖像 / 藤井讓治、杉山正明、金田章裕. [[京都大学]]学術出版会、2007.
* {{ja icon}} ウクライナ語会話 / ユーラシアセンター. ベスト社、2007.4
* {{ja icon}} 北方の資源をめぐる先住者と移住者の近現代史 / [[北海道開拓記念館]]. 北海道開拓記念館、2008.
* {{ja icon}} 地域間の歴史世界 / 鈴木健夫. [[早稲田大学]]出版部、2008.
* {{ja icon}} ウラン投資環境調査:ウクライナ. [[石油天然ガス・金属鉱物資源機構]]金属資源開発本部企画調査部、2008.
* {{ja icon}} ウクライナ・国鉄機関車修理工場の近代化調査報告書. [[経済産業省]]、2008.
* {{ja icon}} ニューエクスプレス ウクライナ語 / 中澤英彦. 白水社、2009.
=== 論文 ===
* {{ja icon}} ウクライナの登録コサック制度—ウクライナ=コサックの集団意識によせて / 栗原 典子. スラヴ文化研究. 1. 2001.
* {{ja icon}} プーチン時代のロシア=ウクライナ関係 (特集2 プーチンの外交) / 末澤 恵美. ユーラシア研究. (27). 2002.11.
* {{ja icon}} NATO・ウクライナ関係について / 北住 英樹. 鵬友. 29(2). 2003.7.
* {{ja icon}}「ウクライナ民族主義者組織(OUN)」と「ウクライナ蜂起軍(UPA)」のウクライナ独立国家構想とその戦略 - 対ソ政策と対ポーランド政策を中心に / 柳沢 秀一. 現代史研究. (通号 50). 2004.
* {{ja icon}} 検証 ウクライナでの"オレンジ革命"--革命成功の原因と新政権の課題 / 井沢 正忠. 海外事情研究所報告. (通号 39). 2005.
* {{ja icon}} ウクライナ大統領選挙に関する一考察 / 粟田 聡. ユーラシア研究. (32). 2005.5.
* {{ja icon}} ウクライナにおける日本語教育の現状と問題点 / 立間 智子. [[国際交流基金]]日本語教育紀要. (2). 2006.
* {{ja icon}} 特別寄稿 ロシア天然ガス供給停止の波紋 - ウクライナ問題と日本への示唆 / 村木 茂. エネルギーレビュー. 26(3) (通号 302). 2006.3.
* {{ja icon}} ウクライナとロシア原油—供給源・ルート多元化をめぐる戦い / 藤森 信吉. 比較経済研究. 43(2). 2006.8.
* {{ja icon}} 世界史Q&A ベラルーシ人・ウクライナ人とロシア人の違いについて教えてください (世界史の研究(209)) / 中井 和夫. 歴史と地理. (通号 599). 2006.11.
* {{ja icon}} イヴァン・フランコの『狐ミキータ』- ウクライナにおけるゲーテ受容の一例 / 小粥 良. Goethe-Jahrbuch. 49. 2007.
* {{ja icon}} レーシャ・ウクラインカ再読—ウクライナ文学におけるナショナル・アイデンティティ / 原田 義也. スラヴ研究. (54). 2007.
* {{ja icon}} ウクライナ語《ridna mova》が意味するもの / 〆木 裕子. [[大阪大学]]言語文化学. 17. 2008.
* {{ja icon}} ウクライナの現代言語状況と言語問題 / 芳之内 雄二. [[北九州市立大学]]文学部紀要. (74). 2008.
* {{ja icon}} ウクライナ系カナダ人のエスニシティと社会統合 - ウクライナ・ヴィレッジ設立とその公営化までを中心に / 浦田 葉子. 経営研究. 21(1) (通号 50). 2008.1.
* {{ja icon}} ウクライナのWTO加盟 / 関 嘉勝. JMC journal. 56(5) (通号 686). 2008.5.
* {{ja icon}} 日本の鏡ウクライナ—日本への熱い期待 / 馬渕 睦夫. [[外交フォーラム]]. 21(8) (通号 241). 2008.8.
* {{ja icon}} 世界の潮 ロシアとウクライナの「ガス戦争」 / 塩原 俊彦. [[世界 (雑誌)|世界]]. (788). 2009.3.
== 関連項目 ==
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* [[ウクライナ関係記事の一覧]]
* [[かつてのウクライナの国家の一覧]]
* [[ウクライナの世界遺産]]
* [[ウクライナの国旗]]
* [[ウクライナ人]]
* [[ウクライナ軍]]
* [[ウクライナ憲法]]
* [[ウクライナ正教会]]
* [[ウクライナ (小惑星)]]
* [[ウクライナの芸術]]
* [[ウクライナの七名所]]
* [[2022年ロシアのウクライナ侵攻]]
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== 外部リンク ==
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; ウクライナ政府
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%8A |
8,436 | エドワード・マイブリッジ | エドワード・マイブリッジ(Eadweard Muybridge、1830年4月9日 - 1904年5月8日)は、イギリス生まれの写真家。本名はエドワード・ジェームズ・マガーリッジ(Edward James Muggeridge)。
イングランド、現在のキングストン・アポン・テムズ区キングストン・アポン・テムズ (en) で生まれた。1855年にアメリカに移住し、カリフォルニア州サンフランシスコで出版業界に身を置くようになった。
1872年、カリフォルニア州元知事リーランド・スタンフォードは、当時一般に議論されていた、ギャロップする馬の脚運びについて、4本全ての脚が地面から離れる瞬間があるという立場をとっていた。彼は友人との間でこれについて賭けをしており、最高で25,000ドルの勝負であったという話もあるが、確たる証拠はない。スタンフォードはマイブリッジに2,000ドルで写真の撮影を依頼した。
1秒で約17m移動する馬の一瞬を撮影するためには、シャッタースピードは高速でなくてはならず、大口径レンズと高感度の感光材料が要求される。写真用レンズについては1843年にはフォクトレンダー父子商会からペッツヴァールタイプF3.7が販売されていたが、感光材料であるコロジオン湿板は感度が低く、晴天の日でも秒単位の露出時間を要した。
彼は写真感度向上のための化学研究を行い、電気技師のジョン・D・アイザクスと協力して写真装置を制作、結局5年と5,000ドルを費やし、1877年の7月1日に一枚の写真を撮影、議論に決着をつけた。
さらに翌年の1878年6月15日にはこの装置を等間隔に12台並べ、疾走する馬の連続撮影を成功させた。
シャッターは当初ゴムやスプリングを用いたものであったが、後には安定して高速度を得るために電気式のものに改良された。 これにより露出時間は1/1,000秒~1/6,000秒が得られた。
レンズはダルメイヤー製、焦点距離90mm、レンズ口径32mmが用いられた。
この馬の撮影はそれまでヨーロッパの絵画表現において支配的であった、前足は前方に、後ろ足は後方にそれぞれ伸ばして走るというのが事実とは異なっていることを示しただけでなく、得られた連続写真を用いて動的錯覚をもたらしたことで衝撃を与え、喝采を浴びた。
まずゾエトロープと組み合わされ、次に幻燈機のように投影するための装置が作られた。図像がディナー皿程度の大きさのガラスの円盤の縁に沿って並んでいるもので、「ゾープラクシスコープ」と呼ばれた。投影されたのは実のところ写真ではなく、写真をもとに描かれた絵であった。1879年にスタンフォードと友人らを相手に上映され、サンフランシスコで一般にも公開された。スタンフォードの出資により、パリとロンドンでの講演旅行も行われた。
この連続写真を見たトーマス・エジソンは大いに触発され、後に映写機キネトスコープを発明することになる。これがシネマトグラフにつながり、映画が誕生することになる。
スタンフォードの依頼から成果を挙げるまでの5年という期間は、技術的課題への取り組みのみならず、殺人事件によっても費やされた。
1874年10月17日、マイブリッジは妻の愛人であるハリー・ラーキンス少佐を嫉妬にかられ、射殺した。 殺意が明らかであったにもかかわらず、裁判では正当防衛として無罪となった。 この殺人は、周囲からはフロンティア的な正義として黙認されたが、彼は判決後、中央アメリカへ去った。
この一件は108年後の1982年、作曲家フィリップ・グラスによって「写真家」という室内オペラにされた。
1882年に出版された本をめぐって争いが生じた。
この本はスタンフォードの友人で医師のJ・D・B・スティルマンによって書かれたもので、馬の脚運びに関する発見についてまとめたものだった。 しかし、この本にはマイブリッジの写真は掲載されておらず、タイトルページにも名前はなく、スタンフォードに雇用された者という位置づけであった。 マイブリッジは名誉棄損でスタンフォードを訴えたが、マイブリッジが自分の功績を強調し、馬が走るときに4本の脚が全て地面から離れるということも自分が最初に言い出したことであるとまで主張したため、裁判所は訴えを退けた。
裁判所が訴えを却下する頃には、マイブリッジは既に別の後援を得ていた。 ペンシルベニア大学からの支援で2年間に渡り研究を行い、750種類、10,000枚に及ぶ写真を残した。
彼は1894年にイングランドに戻り、自身の仕事に関する2冊の通俗書を出版した。
1904年、生活していたキングストン・アポン・テムズのいとこの家で死去。74歳没。 この家の外壁には英国映画協会による記念プレートが掲げられている。
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] | エドワード・マイブリッジは、イギリス生まれの写真家。本名はエドワード・ジェームズ・マガーリッジ。 イングランド、現在のキングストン・アポン・テムズ区キングストン・アポン・テムズ (en) で生まれた。1855年にアメリカに移住し、カリフォルニア州サンフランシスコで出版業界に身を置くようになった。 | [[ファイル:Muybridge-2.jpg|right|250px|thumb|エドワード・マイブリッジ]]
[[ファイル:The Horse in Motion.jpg|right|250px|thumb|[[動く馬|疾走中の馬の連続写真]]]]
[[ファイル:Muybridge race horse animated 184px.gif|thumb|right|200px|上記連続写真をアニメーションにしたもの]]
'''エドワード・マイブリッジ'''(Eadweard Muybridge、[[1830年]][[4月9日]] - [[1904年]][[5月8日]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Eadweard-Muybridge Eadweard Muybridge British photographer] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>)は、[[イギリス]]生まれの[[写真家]]。本名は'''エドワード・ジェームズ・マガーリッジ'''(Edward James Muggeridge)。
[[イングランド]]、現在の[[キングストン・アポン・テムズ区]]キングストン・アポン・テムズ ([[:en:Kingston upon Thames|en]]) で生まれた。[[1855年]]に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に移住し、[[カリフォルニア州]][[サンフランシスコ]]で出版業界に身を置くようになった。
== 高速度撮影 ==
{{main|動く馬}}
[[1872年]]、カリフォルニア州元知事[[リーランド・スタンフォード]]は、当時一般に議論されていた、[[歩法 (馬術)#襲歩|ギャロップ]]する馬の脚運びについて、4本全ての脚が地面から離れる瞬間があるという立場をとっていた。彼は友人との間でこれについて賭けをしており、最高で25,000ドルの勝負であったという話もあるが、確たる証拠はない。スタンフォードはマイブリッジに2,000ドルで写真の撮影を依頼した。
1秒で約17m移動する馬の一瞬を撮影するためには、シャッタースピードは高速でなくてはならず、大口径[[レンズ]]と高感度の感光材料が要求される。写真用レンズについては[[1843年]]には[[フォクトレンダー]]父子商会から[[ジョセフ・マキシミリアン・ペッツヴァール|ペッツヴァール]]タイプF3.7が販売されていたが、感光材料である[[コロジオン]]湿板は感度が低く、晴天の日でも秒単位の露出時間を要した。
彼は写真感度向上のための化学研究を行い、電気技師のジョン・D・アイザクスと協力して写真装置を制作、結局5年と5,000ドルを費やし、[[1877年]]の[[7月1日]]に一枚の写真を撮影、議論に決着をつけた。
== 連続写真 ==
さらに翌年の[[1878年]][[6月15日]]にはこの装置を等間隔に12台並べ、疾走する馬の連続撮影を成功させた。
シャッターは当初ゴムやスプリングを用いたものであったが、後には安定して高速度を得るために電気式のものに改良された。
これにより露出時間は1/1,000秒~1/6,000秒が得られた。
レンズは[[ダルメイヤー]]製、[[焦点距離]]90mm、レンズ口径32mmが用いられた。
この馬の撮影はそれまでヨーロッパの絵画表現において支配的であった、前足は前方に、後ろ足は後方にそれぞれ伸ばして走るというのが事実とは異なっていることを示しただけでなく、得られた連続写真を用いて動的錯覚をもたらしたことで衝撃を与え、喝采を浴びた。
まず[[ゾエトロープ]]と組み合わされ、次に[[幻燈機]]のように投影するための装置が作られた。図像がディナー皿程度の大きさの[[ガラス]]の円盤の縁に沿って並んでいるもので、「[[:en:Zoopraxiscope|ゾープラクシスコープ]]」と呼ばれた。投影されたのは実のところ写真ではなく、写真をもとに描かれた絵であった。[[1879年]]にスタンフォードと友人らを相手に上映され、サンフランシスコで一般にも公開された。スタンフォードの出資により、[[パリ]]と[[ロンドン]]での講演旅行も行われた。
この連続写真を見た[[トーマス・エジソン]]は大いに触発され、後に映写機[[キネトスコープ]]を発明することになる。これが[[シネマトグラフ]]につながり、[[映画]]が誕生することになる。
== 殺人事件 ==
スタンフォードの依頼から成果を挙げるまでの5年という期間は、技術的課題への取り組みのみならず、殺人事件によっても費やされた。
[[1874年]][[10月17日]]、マイブリッジは妻の[[愛人]]であるハリー・ラーキンス[[少佐]]を嫉妬にかられ、射殺した。
殺意が明らかであったにもかかわらず、裁判では[[正当防衛]]として無罪となった。
この殺人は、周囲からはフロンティア的な正義として黙認されたが、彼は判決後、[[中央アメリカ]]へ去った。
この一件は108年後の[[1982年]]、作曲家[[フィリップ・グラス]]によって「写真家」という室内オペラにされた。
== 発見をめぐる裁判 ==
[[1882年]]に出版された本をめぐって争いが生じた。
この本はスタンフォードの友人で医師のJ・D・B・スティルマンによって書かれたもので、馬の脚運びに関する発見についてまとめたものだった。
しかし、この本にはマイブリッジの写真は掲載されておらず、タイトルページにも名前はなく、スタンフォードに雇用された者という位置づけであった。
マイブリッジは名誉棄損でスタンフォードを訴えたが、マイブリッジが自分の功績を強調し、馬が走るときに4本の脚が全て地面から離れるということも自分が最初に言い出したことであるとまで主張したため、裁判所は訴えを退けた。
== その後の業績 ==
裁判所が訴えを却下する頃には、マイブリッジは既に別の後援を得ていた。
[[ペンシルベニア大学]]からの支援で2年間に渡り研究を行い、750種類、10,000枚に及ぶ写真を残した。
彼は[[1894年]]にイングランドに戻り、自身の仕事に関する2冊の通俗書を出版した。
== 死 ==
[[1904年]]、生活していたキングストン・アポン・テムズのいとこの家で死去。74歳没。
この家の外壁には[[英国映画協会]]による記念プレートが掲げられている。
遺体は[[火葬]]され、遺骨はウォーキングに葬られた。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[映画史]]
* [[写真史]]
{{commons|Eadweard Muybridge}}
==外部リンク==
*{{IMDb name|1155956}}
*[http://www.blogs.sfweekly.com/exhibitionist/2012/04/sf_fire_department_museum_find article on discovered Muybridge photos, March 2012]
*[http://museum.stanford.edu/news_room/archived_exhibitions_2003_time_stands_still.html ''Time Stands Still''], exhibit on Eadward Muybridge and contemporaries, February-May 2003, Cantor Center, Stanford University
*[http://www.flickr.com/photos/boston_public_library/collections/72157623334568494/ Eadweard Muybridge's Animal Locomotion], via Boston Public Library's Flickr collections
*[http://www.victorian-cinema.net/muybridge.htm Eadweard James Muybridge] - Who' who of Victorian Cinema
*[http://www.muybridge.org/ The Eadweard Muybridge Online Archive], access to most of Muybridge's motion studies, at printable resolutions, along with a growing number of animations.
*[http://tesseractfilm.com/ "Tesseract"], 20-Min experimental film expressing Eadweard Muybridge's obsession with time and its images at the turn of the century.
*{{OAC|tf2779p2bj|''Valley of the Yosemite, Sierra Nevada Mountains, and Mariposa Grove of Mammoth Trees''}}, 1872, finding aid and online photo collection, [[Bancroft Library]], University of California, Berkeley
*{{OAC|tf329008p8|''Stereographic Views of San Francisco Bay Area Locations''}}, ca. 1865-ca. 1879, finding aid and online photo collection, [[Bancroft Library]], University of California, Berkeley
*[http://thehive.modbee.com/?q=node/1620 Muybridge, ''1872, Yosemite American Indian Life''], The Hive
*[http://www.kingston.gov.uk/browse/leisure/museum/museum_exhibitions/muybridge.htm "The Muybridge Collection"], [[Kingston Museum]], Kingston upon Thames, Surrey
*[http://www.lib.usf.edu/ Muybridge's 11-volume ''Animal Locomotion Studies'' and similar publications by E.-J. Marey], The University of South Florida Tampa Library's Special Collections Department
*[http://www.freezingtime.net/ ''Freezing Time''], Film Website, the life of Muybridge, directed by [[Andy Serkis]] and written by [[Keith Stern]]
*{{cite web
|publisher= [[Victoria and Albert Museum]]
|url= http://www.vam.ac.uk/vastatic/microsites/photography/photographerframe.php?photographerid=ph043
|title= Eadweard Muybridge
|work=Photography
|accessdate=11 November 2007}}
*[http://www.calisphere.universityofcalifornia.edu/browse/azBrowse/Modoc+War Eadweard Muybridge stereoscopic photographs of the Modoc War], via Calisphere, California Digital Library, University of California, Berkeley
*[http://digitallibrary.usc.edu/search/controller/collection/rbm-m36.html/ ''Human and Animal Locomotion''], via SC Digital Library, [[University of Southern California]].
*[http://www.andover.edu/Museums/Addison/Education/Prek12/Pages/CurriculumPackets.aspx Teacher's Guide: Eadweard Muybridge, Harold Edgerton, and Beyond: A Study of Motion and Time], 2-part introduction to the work of Muybridge and Edgerton, for high school level, Addison Museum
*{{Internet Archive2|gov.dod.dimoc.25029|It Started With Muybridge (1965)}}
*[http://early-american-cinema.com/articles/muybridge.html David Levy, "Muybridge and the Movies"], Early American Cinema
*[http://rhizome.org/object.rhiz?36949 Carola Unterberger-Probst, Animation of the first moving pictures in film history], Rhizome
*Burns, Paul. [http://www.precinemahistory.net/1870.htm ''The History of the Discovery of Cinematography: An Illustrated Chronology''], Pre-cinema history
*[http://www.stephenherbert.co.uk/muy%20links.htm The Compleat Eadweard Muybridge], extensive illustrated bibliography and links
*{{Find a Grave|33685408}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:まいふりつち えとわあと}}
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%B8 |
8,437 | 北マケドニア | 北マケドニア共和国(きたマケドニアきょうわこく、マケドニア語: Република Северна Македонија、アルバニア語: Republika e Maqedonisë së Veriut)、通称北マケドニア(マケドニア語: Северна Македонија、アルバニア語: Maqedonia e Veriut)は、東南ヨーロッパのバルカン半島南部に1991年に建国された共和国。前身はユーゴスラビア連邦の構成国であった。南はギリシャ、東はブルガリア、西はアルバニア、北はセルビアおよびコソボと、四方を他国に囲まれた内陸国である。
北マケドニア共和国は、地理的にはマケドニアと呼ばれてきた地域の内の北西部にあり、現在ではマケドニア地域全体の約4割を占めている。残りの約5割はギリシャに、約1割はブルガリアに属している。また歴史上、北マケドニア共和国の多数民族はマケドニア人と自称・他称されるが、彼らはスラヴ語の話し手で南スラヴ人の一派であり、ギリシャ系の言語を話していたと考えられる古代マケドニア王国の人々と直接の連続性はない。これらの理由から、1991年の独立当初の国名(マケドニア共和国)をめぐり、ギリシャとの間で後述するような国名論争(マケドニア呼称問題)が生じた。
憲法上の正式名称は、Република Северна Македонија (マケドニア語。ラテン文字転写は、Republika Severna Makedonija。通称は、Северна Македонија(Severna Makedonija)。準公用語のアルバニア語での表記はRepublika e Maqedonisë së Veriut、通称Maqedonia e Veriutである。
公式の英語表記名は、Republic of North Macedonia。略称、North Macedonia。
日本語での表記は、北マケドニアもしくは北マケドニア共和国。2019年2月まではマケドニア、もしくはマケドニア共和国であったが、前者では地域としてのマケドニアと区別がつかない。また日本は国連と同様にマケドニア旧ユーゴスラビア共和国で国家承認を行っており、行政公文書などにおける日本語の表記は「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」となっていたが、2020年4月1日に「北マケドニア」に変更された。かつて、日本国外務省では単に「マケドニア」あるいは「マケドニア共和国」と簡略化して表記する部分も部分的に見られた。この他に日本語でのリリースを発表する機関として欧州連合(在日欧州委員会代表部)があるが、欧州連合(EU)の加盟国であるギリシャがマケドニア共和国の正式呼称を認めていないため、通常「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」で言及された。
アレクサンドロス大王で有名な古代マケドニア王国の領地が自国にあったギリシャは、「本来のマケドニアはギリシャである」と主張している。実際、マケドニアとは北マケドニア共和国のほかにギリシャ(ギリシャ領マケドニア)やブルガリア(ピリン・マケドニア)、アルバニア(マラ・プレスパおよびゴロ・ブルド)のそれぞれ一部にもまたがる地域の名称である。特にギリシャ領はマケドニア地方の5割ほどを占めており、北マケドニア共和国の領土は全体の4割に満たない事に加え、アイガイ(現ヴェルギナ)やペラ、テッサロニキなどの古代マケドニア王国当時の主要都市の多くも現ギリシャ領である。このように、歴史的な古代マケドニアとの継承性、および地理的にマケドニア地方全体の4割に満たない北マケドニア共和国が「マケドニア(共和国)」と名乗ることへの警戒感から、この国をマケドニアの名称で呼ぶことを嫌い、ヴァルダル、スコピエなどと地名を使って呼んだ。同時に、1990年代よりマケドニア共和国の国号を改めるよう要求した。これに対してマケドニア共和国の側は、共和国にはギリシャ領マケドニアへの領土的野心がないことを説明し、国名を自国で決める権利は認められるべきであると主張した。
北マケドニアがマケドニアという国名で独立した1991年以降、ギリシャはマケドニアに経済制裁を科し、マケドニアという国号、古代マケドニアと類似したヴェルギナの星を用いた国旗、「周辺国に住むマケドニア人の権利を擁護する」という内政干渉的な憲法条項の3つを改めるよう圧力を加えた。このため、マケドニアは国際的な暫定呼称を変え、国旗をヴェルギナの星とは無関係のものに改め、ギリシャ領マケドニアへの領土的野心を明確に否定する憲法改正を行い、1995年に経済制裁を解除された。この当時のマケドニアは、ユーゴスラビア崩壊によってかつてのユーゴスラビアという市場を失い、またユーゴスラビア紛争に伴って北に隣接するセルビアの経済も混迷し、また国際的な経済制裁下に置かれていた。また、冷戦終結によって東西に隣接するアルバニアおよびブルガリアの経済は混乱状態にある中、海を持たないマケドニアにとって、南に隣接するギリシャの経済制裁の威力は絶大であった。
マケドニアは1993年に「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」(英語表記:The Former Yugoslav Republic of Macedonia、略称「FYROM」または「FYR Macedonia」) を国際社会における暫定的呼称として国際連合へ加盟した。これ以後、多くの国々や国際的組織は、この暫定名称でマケドニアとの関係を持った。しかし、2008年11月の時点で、アメリカ合衆国やロシア連邦など約125カ国の国々は、暫定名称の「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」ではなく、憲法上の国名である「マケドニア共和国」の名でこの国と外交関係を結んでいる。
2008年、マケドニアとアルバニア、クロアチアの北大西洋条約機構(NATO)加盟についてルーマニアの首都ブカレストにてNATO加盟国の間で議論が持たれた。この時、クロアチアおよびアルバニアの加盟が承認された一方、マケドニアの加盟はギリシャの拒否によって否認された。このことはマケドニア国内で激しい怒りを生み、「ブカレスト」は「ひどい仕打ち」の同義語とみなされるようになった。マケドニア側は国名に関して一定の譲歩をする代わりに、国民や国を表す形容詞として単に「マケドニアの」または「マケドニア人」と呼ばれることを望んだが、ギリシャ側はこれらを否定し、全て統一的に変更されなければならないとして譲歩を示さなかった。マケドニア側は、国名の問題に関して国際司法裁判所に提訴した。
しかし2017年に発足したゾラン・ザエフ政権はNATOやEU加盟を目指すため従来の強硬姿勢を改め、これをギリシャ側も好感。呼称問題を解決する機運が高まり、2018年1月には両国の外相会談で作業部会の設置が決定され、国連による仲介も再開される見通しとなった。2018年2月、ゾラン・ザエフ首相は新しい国名の案として「北マケドニア共和国(Republic of North Macedonia)」「上マケドニア共和国(Republic of Upper Macedonia)」「ヴァルダル・マケドニア共和国(Republic of Vardar Macedonia)」および「マケドニア・スコピエ共和国(Republic of Macedonia (Skopje))」の4つが挙がっていることを明らかにした。
2018年6月12日にマケドニアは国名を北マケドニア共和国とすることでギリシャとの政府間合意(プレスパ合意(英語版))が成立、17日には両国の外相が暫定的な合意文書に署名した。正式決定には両国議会で了承されることが必要となったが、両国国内には改名に反対する世論も存在した。マケドニアでは議会の最大野党が合意を非難し、またイヴァノフ大統領は承認を拒否する方針を表明した。ギリシャでも議会の最大野党が合意に対する不支持を表明、またアテネの国会前、および署名式典が開かれた両国の国境に近いサラデス(英語版)の周辺において、抗議デモに対し警察が催涙弾などで鎮圧にあたる事態となった。
マケドニアでの国民投票は同年9月30日に実施されたが、野党側がボイコットを呼び掛けたこともあり、投票率は約37%にとどまり成立条件の50%を下回ったため無効となった。今回の投票結果が法的拘束力を持たないことから、ザエフ首相は引き続き改名の手続きを進め、野党が同意しなければ総選挙を早期に実施する意向を表明した。議会の承認プロセスでは両国内で野党勢力の切り崩しなどが行われ、まず2019年1月11日にマケドニア議会が国名変更のために必要な憲法改正案を承認し、同年1月25日にはギリシャ議会で改名合意が承認され、呼称問題はマケドニアの国名変更で決着した。2月12日に改名が発効し、翌13日には国名変更を国際連合に通知した。
マケドニア地域には、古くから人が居住しており、イリュリア人やトラキア人などの部族が割拠していた。紀元前4世紀から紀元前3世紀にかけて、現在の北マケドニア共和国に相当するマケドニア地域北部はマケドニア王国の支配下となっていった。マケドニア王国はアレクサンドロス3世(いわゆる「アレキサンダー大王」)の時代に、アジアやエジプトに及ぶ最大版図となるが、その死後、国は分裂。紀元前2世紀には西から勢力を拡大したローマ帝国の支配下となっていった。紀元前146年、この地域は正式にローマ帝国のマケドニア属州の一部とされた。ローマ帝国が東西に分かれると、マケドニアは東ローマ帝国の一部となった。
マケドニア地域には北から西ゴート族、フン族、アヴァールそしてスラヴ人などが侵入を繰り返した。7世紀初頭には、この地域の多くはスラヴ人の居住地域となっていた。スラヴ人たちは、それぞれ異なる時期に段階的にこの地域に入ってきた。スラヴ人の居住地域は、現ギリシャ領のテッサロニキなどを含む、マケドニア地域のほぼ全域に拡大していった。680年ごろ、クベル(英語版)に率いられたブルガール人の一派がマケドニアに流入した。
9世紀後半、テッサロニキ出身のキュリロスとメトディオスの兄弟によってキリスト教の聖書がスラヴ語に翻訳された。9世紀に北方から侵入して東ローマ帝国と衝突しながら勢力を拡大していった第一次ブルガリア帝国は、9世紀末のシメオン1世の時に最盛期を迎え、マケドニア地方もその版図に収められた。キュリロスとメトディオスの弟子たちにはスラヴ語の聖書を用い、ブルガリア帝国の支援の下、スラヴ人たちにキリスト教を布教していった。シメオンの死後、ブルガリア帝国は次第に衰退し、マケドニア地方は再び東ローマ帝国の支配下となった。
978年、マケドニア出身のサムイルはこの地で東ローマに対する反乱を起こした。サムイルはこの地方のオフリドを首都としてブルガリア帝国を再建し、彼の下で再度ブルガリア帝国は急速な拡大を迎えた。しかし、1014年にサムイルが死去するとブルガリア帝国はその力を失い、1018年には完全に滅亡し、再び東ローマの支配下に帰した。
その後、この地方は北で起こったセルビア人の地方国家の乱立やその他の地方領主の群雄割拠の状態を経て、12世紀末ごろには新興勢力の第二次ブルガリア帝国とセルビア王国、そしてラテン帝国やニカイア帝国といった十字軍国家の間で勢力争いが繰り広げられる。
十字軍を退けて復活した東ローマ帝国やブルガリア帝国は、東から伸張してきたオスマン帝国によって国力を落とた。その間隙を衝いてセルビア王国はステファン・ウロシュ3世デチャンスキの下、大幅な領土拡大に成功し、マケドニア地方全域を支配下に収めた。その息子ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンの下でセルビアは絶頂を迎え、ウロシュ4世はスコピエを首都として同地にて1345年、「セルビア人とローマ人の皇帝」として戴冠を受け皇帝に即位する。しかし、ウロシュ4世の死後はセルビアは地方領主の割拠する状態となり、1371年のマリツァ川の戦いなどを経てマケドニアはオスマン帝国の支配下となった。
オスマン帝国は支配下の人々の分類を言語や民族ではなく宗教の所属に置いていた。これらの人々の帰属意識もキリスト教の正教会信仰に置かれ、マケドニア人という民族意識も民族名称も存在しなかった。教会の管轄はコンスタンディヌーポリ総主教庁(コンスタンティノープル総主教庁)であった。長いオスマン帝国の支配下で多様な民族の混在化が進み、マケドニア地域にはスラヴ人、アルーマニア人、トルコ人、アルバニア人、ギリシャ人、ロマ、ユダヤ人などが居住していた。この地域のスラヴ人の話す言語はブルガリア語に近く、マケドニア地方のスラヴ人はブルガリア人とみなされていた。
19世紀、セルビア王国やギリシャ王国がオスマン帝国から独立を果たすと、この地域の非トルコ人、特に正教徒の間ではオスマン帝国からの分離の動きが加速した。1878年にブルガリア公国が成立すると、一度はマケドニア全域がブルガリア公国の領土とされたものの、ブルガリアの独立を支援したロシア帝国の影響力拡大を恐れた列強諸国によってブルガリアの領土は3分割され、マケドニア地方はオスマン帝国領に復した。マケドニアで最大の人口を持っていたスラヴ人の間では、マケドニアの分離とブルガリアへの併合を求める動きが強まり、内部マケドニア・アドリアノープル革命組織などの反オスマン帝国組織が形成された。このころ、マケドニア地域のスラヴ人の多くはブルガリア人を自認していたが、ブルガリア人とは異なる独自のマケドニア人としての民族自認も芽生え始めていた。
内部マケドニア革命組織はゴツェ・デルチェフらの指導の下で武装蜂起を進め、1903年8月にイリンデン蜂起(英語版)を起こした(この年のグレゴリオ暦の8月2日は、ユリウス暦では7月20日の聖エリヤの日であり、イリンデンとは聖エリヤの日を意味する)。イリンデン蜂起は失敗に終わったものの、この地域のスラヴ人による反オスマン帝国の闘争は続き、また、比較的オスマン帝国への親和性の高かったアルバニア人の間でもプリズレン連盟を中心にオスマン帝国からの自立を求める動きが高まった。また、マケドニアを自国領へと組み込むことを狙っていたギリシャ、セルビア、ブルガリアからも複数の組織がマケドニア地方に浸透していった。1912年の第一次バルカン戦争の時、内部マケドニア革命組織はブルガリア軍の側についてオスマン帝国と戦った。第一次バルカン戦争によって、オスマン帝国はマケドニア地域を手放すこととなったが、マケドニア地方全域を自国領とすることを求めたブルガリアと、マケドニアの分割支配を求めたセルビア、ギリシャの間で対立が起こり、翌1913年の第二次バルカン戦争へと発展した。
第二次バルカン戦争ではマケドニア地域の南部5割はギリシャ、西北部4割はセルビア(後にユーゴスラビア王国)が奪取し、ブルガリアは1割を確保するに留まった。この時のセルビア領マケドニアが、のちの北マケドニア共和国の領土となった。ギリシャ領、セルビア領のマケドニアでは、ブルガリアの支援を受けた抵抗運動が活発に起こったが、第一次世界大戦で中央同盟側についたブルガリアが敗北すると、ヌイイ条約によりギリシャ領マケドニアのスラヴ人は住民交換の対象となった。この時、全てのスラヴ人の母国はブルガリアとされ、自身をギリシャ人と宣誓した者以外は全てブルガリアへと追放された。他方、ユーゴスラビアとなったセルビア領マケドニアではその後も内部マケドニア革命組織による抵抗運動が続き、1934年にはユーゴスラビア王アレクサンダル1世を暗殺した。
第二次世界大戦時、枢軸国はユーゴスラビアに侵攻した。枢軸側についたブルガリアはユーゴスラビア領マケドニアの大部分を支配下に収め、マケドニア併合の夢を実現する。マケドニアのブルガリアへの統合を歓迎する内部マケドニア革命組織の右派はブルガリアによる占領統治に協力するが、ブルガリアから独立した統一マケドニアの実現を志向した左派の勢力は、ヨシップ・ブロズ・ティトー率いる共産主義者のパルチザンとして枢軸国に抵抗した。1944年には枢軸国に対する抵抗勢力はマケドニア人民解放反ファシスト会議の下に統一された。
第二次世界大戦でブルガリアが敗退し、ユーゴスラビアがマケドニア北西部の支配を回復すると、ユーゴスラビアはティトーの指導の下、共産主義体制をとる連邦国家となった。マケドニア人民解放反ファシスト会議の決定に従って、ユーゴスラビア領マケドニアはマケドニア人民共和国(1963年よりマケドニア社会主義共和国)となった。ユーゴスラビア連邦の下では、ブルガリア人とは異なるマケドニア人意識が涵養され、またスコピエ方言を基礎としたマケドニア語の正書法も確立された。
1963年にはスコピエで大震災(マケドニア語版)が発生し、死者1,100人を出した。ユーゴ時代は、北マケドニア、セルビア、クロアチア他の地域は、チトーの統治のもと、分裂せずに統合を保った。またユーゴとは別に独立国であったアルバニアは、親中国の国として知られ、国連にアルバニア決議案を提出するなどした。
1990年、冷戦終結の影響を受け、ユーゴスラビアでは戦後初めての複数政党制による民主選挙が行われた。マケドニアでも国名から「社会主義」の語を外し、マケドニア共和国と改称された。マケドニア同様にユーゴスラビアの構成国であったスロベニア、クロアチアでは独立を志向する勢力が圧倒的勝利を収め、ユーゴスラビアからの独立を宣言した。
これを受けてマケドニアでも独立の準備が進められ、1991年9月8日、マケドニア大統領キロ・グリゴロフの下、マケドニアは独立を宣言した。
独立国となったマケドニアは、古代マケドニア王朝のシンボルであるヴェルギナの星(「ヴェルギナの太陽」ともいう)を描いた国旗を制定した。ユーゴスラビア連邦軍が保有する兵器をマケドニア側に分け与えず、全てセルビア側が持ち去ることを条件に、1992年3月にはユーゴスラビア連邦軍の撤退が実現された。
1993年1月に国連に加盟申請するが、ギリシャとの間で「国名論争」が勃発し、4月に暫定国名「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」で国連加盟が承認された。しかしギリシャは納得せず、1994年2月に経済封鎖された。この時、国旗を変更し、憲法の一部を改正した。1995年にはギリシャの経済封鎖が解除された。
1998年、総選挙の結果、共産主義時代の政権党であったマケドニア共産主義者同盟の流れを汲むマケドニア社会民主同盟に代わり、中道右派政党に転向した内部マケドニア革命組織・マケドニア国家統一民主党を中心とする連立政権が成立。1999年の大統領選挙では同党のボリス・トライコフスキが首相となった。
前述のように、マケドニアからは大きな衝突なしにセルビア人勢力(ユーゴスラビア軍)が撤退し、ユーゴスラビア紛争の前半で激戦地となったクロアチアやボスニア・ヘルツェゴビナに比べて平穏に独立を達成した。しかし、1990年代後半、隣接するセルビア領のコソボ自治州で発生したコソボ紛争によって、セルビア側の勢力の迫害を恐れたアルバニア人の難民が大量にマケドニア共和国に流れ込んだ。セルビアがコソボ自治州から撤退した後、彼らの多くはコソボへと帰還していった。
2001年、マケドニア国内で人口の2割強を占めるアルバニア人に対する待遇に不満を持つ者らによって、武装勢力「民族解放軍」が結成された。民族解放軍はコソボ解放軍と深いつながりが指摘される武装勢力で、コソボ紛争が終わって自由になったコソボ解放軍の武器や人員が多く含まれている。2月の民族解放軍の蜂起によって起こったマケドニア紛争は、8月にアルバニア人との権力分有や、アルバニア語での高等教育などを含む、アルバニア人の民族的権利の拡大を認める和平合意文書(オフリド合意)が調印されて終結した。和平監視のためにNATO軍が駐留を開始した。同年11月には、オフリド合意に基づいて議会で憲法の改正が可決された。
2002年9月の総選挙では、マケドニア社会民主同盟が政権を奪還し、民族解放軍が改組したアルバニア人政党「民主統合連合」と連立政権を組んだ。その後もアルバニア系武装勢力によるテロ事件や、警察との衝突は散発的に起こったが、治安は回復し、平穏な推移をみせている。2006年、2008年の総選挙では内部マケドニア革命組織が勝利を収めたが、常にアルバニア人政党との連立政権を組んでおり、アルバニア人政党とマケドニア人政党による権力の分有は定着しつつある。アルバニア語教育をはじめとするアルバニア人の民族的権利は守られており、国内のマケドニア人とアルバニア人の関係は比較的良好である。
2008年2月には、隣接するコソボが独立を宣言した。マケドニアのアルバニア人を中心にコソボの独立を承認する動きが強まった結果、同年10月にマケドニア共和国はコソボの独立を承認し、2009年に正式な外交関係が樹立された。
2019年1月には国名を北マケドニア共和国とすることが決定。2月12日に改名が発効した。2020年3月27日、NATOに加盟した。
北マケドニアは共和制、議院内閣制を採用する立憲国家である。現行憲法は1991年11月17日に制定され、同月20日に施行されたものである(その後、数度の改正を経ている)。
国家元首である大統領は国民の直接選挙で選出され、任期は5年、3選は禁止されている。大統領は元首として北マケドニアを代表し、形式的に国軍最高司令官および治安評議会議長を務める。しかし、その権限は、儀礼的なものに限られている。実際の政治は行政府たる内閣が率いる。総選挙後初の議会で首相が選出され、その後、議会により閣僚の選出が行なわれる。
北マケドニア議会は一院制で、定数は123である。議員は比例代表制により選出され、任期は4年である。
北マケドニアでは複数政党制が機能している。主な政党には中道右派の内部マケドニア革命組織・マケドニア国家統一民主党(VMRO-DPMNE)と中道左派のマケドニア社会民主同盟(SDSM)の2党がある。北マケドニアのアルバニア人を代表する政党は、アルバニア人民主党と、民族解放軍から改組した民主統合連合の2党がある。
2009年の大統領選挙では、決選投票にもつれ込んだ末に与党(当時)VMRO-DPMNEのジョルゲ・イヴァノフが65%前後の得票率で野党(当時)SDSMのリュボミル・フルチュコスキを破り当選した。2014年の大統領選挙でもイヴァノフが再選を果たしたが、2019年にはSDSMのステボ・ペンダロフスキがVMRO-DPMNEの候補を抑え、当選した。
司法権は裁判所によって行使され、裁判所制度は司法最高裁判所、憲法裁判所 および共和党司法評議会が主導している。
議会は裁判官を31人任命することが出来る。うち22人は最高裁判所、9人は憲法裁判所に配属されている。最高裁判所の裁判官は、7人の法律専門家から構成される司法評議会によって指名された上で、議会によって任命される。憲法裁判所の裁判官は9年の任期となっており、議会によって任命される。ただし任期の更新は不可とされている。
マケドニアは、1990年代前半のユーゴスラビア崩壊に伴うユーゴスラビア連邦からの独立に際して、戦禍に巻き込まれることなく平和的な独立を果たした唯一の国家である。そのため、連邦解体に反対の立場にあったセルビアや、その他の旧ユーゴスラビア諸国に対する国民感情は、他の旧ユーゴスラビア諸国の国民に比べると穏やかである。
2008年10月にセルビアが自国領と考えるコソボを、マケドニアは国家として承認した。セルビア共和国はこれを受け入れられないとし、マケドニアに駐在する大使を召還するとともに、セルビアに駐在するマケドニアの大使をペルソナ・ノン・グラータとして国外追放した。その後マケドニアは新しい大使をセルビアに着任させた。
北マケドニアには、人口の2割から3割程度のアルバニア人が居住しており、アルバニアおよびコソボを巻き込んでの大アルバニア主義の伸張は国土の統一を脅かす問題として警戒されている。1997年の暴動で混乱状態に陥ったアルバニアでは、コソボ独立を求めるアルバニア人武装勢力「コソボ解放軍」が拠点を設け、人員を集め、また軍施設から略奪された武器を集めていたと考えられている。コソボ紛争が終わると、その武器と人員の一部がマケドニアのアルバニア人武装勢力「民族解放軍」にもたらされたと考えられている。このようなことから、アルバニアおよびコソボの安定は北マケドニアにとって死活的な問題となっている。
マケドニアは、2008年2月にコソボが独立すると、10月に同国を国家承認した。2009年には両国間に外交関係が樹立された。
マケドニアの独立を最初に承認したのは東の隣国ブルガリアであった。歴史的にブルガリアは、マケドニア人はブルガリア人、マケドニア語はブルガリア語の一部であるとみなし、マケドニアを含むマケドニア地域全体への領土的な執着を持ち続けてきた。ブルガリアはマケドニアの独立を認める立場をとりつつ、その民族や言語の独自性には否定的な見解を繰り返し表明している。そのため、マケドニアでは、ブルガリアはマケドニアの存在そのものを脅かしかねないものとして警戒されている。しかし一方で、周辺地域の緊張関係に悩まされるマケドニアにとってブルガリアは最大の擁護者でもあり、両国の関係は複雑である。北マケドニアのNATO加盟は実現したが、欧州連合(EU)加盟は前述の言語問題を理由としたブルガリアの反対を受けている。これに対して、ザエフ首相は「EUの価値観に反している」と反論している。
南のギリシャとは先述したマケドニア呼称問題を抱えていたほか、スラヴ系の「マケドニア人」という民族自認や、「マケドニア語」という言語呼称も問題となっている。ギリシャには、第一次世界大戦後のヌイイ条約の定める住民交換によってギリシャからブルガリアに追放されるのを逃れるために、自身をギリシャ人と宣誓してギリシャ領マケドニアに留まった少数のスラヴ人が住んでいる。このスラヴ人の中でも、1991年のマケドニア共和国独立以降、自身を「マケドニア人」と考える人々が現れている。ギリシャでは公式にはスラヴ系「マケドニア人」という少数民族の存在は認められておらず、彼らの民族的・文化的権利の追求が両国間の問題となっている。
また、マケドニア国内ではギリシャ領やブルガリア領も含めた統一マケドニアに関する議論が多く見られ、右派政党内部マケドニア革命組織・マケドニア国家統一民主党もかつてはこれを党是に含めていた。ギリシャは、マケドニアが独立後しばらくその国名を諦めないことと併せて、マケドニアが潜在的にギリシャ領マケドニアに対する領土的野心を持つことを警戒した。
ギリシャは国名や言語・民族呼称などに関する問題を抱えている一方で、これらの問題が解決されれば地域の安定と繁栄のために、マケドニア共和国のNATOおよび欧州連合加盟が望ましいとしている。ギリシャはドイツとならんでマケドニアの最大の貿易相手国であり、両国の経済は深い結びつきを持っている。マケドニアとギリシャを結ぶ幹線道路の建設も進められ、マケドニアはギリシャから多数の投資を呼び込んでいる。北マケドニア共和国はギリシャと比べると物価も賃金も安く、ギリシャ向けの生産拠点、あるいはギリシャからショッピング・観光の場ともなっている。
北マケドニアは中欧自由貿易協定や南東欧協力プロセスに加盟しており、ユーゴスラビア崩壊後の新しいバルカン諸国の地域協力体制の枠組みに加わっている。2021年7月末には、人やモノ、金の自由な移動を保障する経済圏構想「オープンバルカン・イニシアチブ」の立ち上げをセルビアおよびアルバニアとともに提唱した。またNATOおよび欧州連合(EU)加盟を目指してきた。
2019年2月の北マケドニア共和国への国号変更で、NATOとEUの加盟国であるギリシャによる反対が解消したため、NATO加盟国とマケドニアは2019年2月6日、マケドニアを30番目のNATO加盟国とする議定書に署名し、2020年3月27日に正式に加盟した。一方で、EUへの加盟については国名変更後の2019年10月のEU首脳会議でフランスに加盟を拒まれたが、2020年3月には加盟交渉に入ることで合意している。
2005年、マケドニアは「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」の名で、正式に欧州連合加盟候補国となった。ニコラ・グルエフスキ首相は2014年ごろの加盟を目指すとしていたが、2008年後半の欧州連合議長国となったフランスのニコラ・サルコジ大統領は、マケドニアの欧州連合への参加には国名問題の解決が前提となると繰り返し表明し、マケドニアの国民や政府関係者を失望させた。国名問題は2019年に解決したが、バルカン半島諸国がEUに加盟することで移民が西欧諸国に流入しやすくなり、移民反対を掲げる政党が増長しかねないと懸念するフランスやオランダ、デンマークなどはその後も加盟交渉入りに反対し続けた。2020年2月には加盟候補国の改革が遅れれば交渉を止められるといった加盟手続きの改革案を欧州委員会が提示し、フランスなどが評価。3月24日に加盟交渉入りすることが決定した。
2008年、NATOはアルバニアおよびクロアチアの加盟を認める一方、マケドニアの加盟はギリシャの拒否権行使によって否定された。マケドニアはクロアチア、アルバニアと同時のNATO加盟が勧告されており、マケドニアに対する加盟拒否は国内で激しい怒りを生んだ。アメリカは「マケドニア共和国」の呼称を認めており、この時のアメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領はアフガニスタンやイラクにも軍を派兵している同盟国マケドニアのNATO加盟を強く支持している。
一方、ロシアはバルカン半島でのNATO加盟国増加を妨害するため、マケドニア国内に対して、ギリシャとの和解および米国やNATO、EUに対する反感を高める政治・世論工作を展開していると報道されている(ロシアは否定)。
2020年3月27日、30番目の加盟国としてNATOに加盟した。
北マケドニアは国土の大部分が山地の内陸国である。北にコソボおよびセルビア、東にブルガリア、南にギリシャ、西にアルバニアと国境を接し、いずれも高い山脈が連なる高山地帯である。最高地点はアルバニア国境のコラブ山(標高2764m)。国土の中央には北西から南東にヴァルダル川が流れ、ギリシャ領へと続いている。ヴァルダル川の周りには急峻な渓谷が刻まれ、この渓谷には北からの冷たい風が流れ込み、ギリシャ領へと吹き付ける。この強い北風はヴァルダリスと呼ばれている。南西部のアルバニアおよびギリシャとの国境地帯にはオフリド湖とプレスパ湖という2つの湖がある。
北マケドニアは、地中海性気候と高山性気候の中間にある。ヴァルダル川の渓谷部は標高が低く、地中海性気候に近い。ここでは夏季には最高気温が40度に達することもある。一方で高山地帯は冷涼であり、冬季は深い雪に閉ざされる。
北マケドニアには、州や県に相当するような中間の地方自治体は設置されていない。北マケドニアはオプシュティナ(општина)と呼ばれる基礎自治体に分割され、その数は2013年以降、80自治体となっている。首都のスコピエは単独の自治体ではなく、10の独立したオプシュティナによって構成されている。これとは別に8つの地方(регион)が存在するが、こちらには行政権がなく統計上の使用にとどまっている。
北マケドニアの主要都市
北マケドニアは、ユーゴスラビア時代は低開発地域として、連邦から受け取る開発資金の恩恵を受けていた。ユーゴスラビアが解体されると、連邦からの援助が得られなくなったことに加えて、ユーゴスラビアという市場を失ったことや体制の転換をめぐる混乱によって、経済は大きく落ち込んだ。北に隣接するセルビアは紛争当事国となって国際的な制裁下に置かれた。西の隣国アルバニアは冷戦期に独自の鎖国政策を採ったことからヨーロッパの最貧国となっており、また独立時は社会主義・冷戦体制崩壊によって東のブルガリアも経済的な混乱の最中にあった。海を持たないマケドニアの南の隣国であるギリシャは、呼称問題を理由にマケドニアに対して経済制裁を行い、国内経済は壊滅的な影響を受けた。マケドニアの国内総生産(GDP)は1996年までマイナス成長となった。2003年ごろからは周辺諸国の経済混乱も一段落し、また一連のユーゴスラビア紛争が終結、ギリシャとの関係改善の努力も進められた結果、マケドニア経済は毎年平均して4%程度の成長を続けた。しかし、政治的不安によって2017年の成長率は0%と落ち込んでいる。2003年には世界貿易機関(WTO)への加盟も果たした。また、北マケドニアはオフリド湖などの観光資源に恵まれており、観光開発にも力を入れている。
2007年の推計では、雇用者の19.6%は農業を中心とした第一次産業、30.4%は第二次産業、50%は第三次産業に従事している。対GDP比では、第一次産業は11.9%、第二次産業は28.2%、第三次産業は59.9%となっており、第三次産業が大きな比率を占めている。2007年の失業率は34.9%となっているが、これに含まれていない闇経済はGDPの20%ほどを占めていると考えられる。主要な輸出品目は食品、飲料(ワインなど)、繊維、鉄鋼、鉄などである。輸入品目は機械、自動車、化学製品、燃料、食品などである。主要な貿易相手国はドイツ、ブルガリア、セルビアである。
2016年アメリカ合衆国大統領選挙以降、マケドニアはインターネットにおけるフェイクニュースの一大作成・発信源として知られるようになった。きっかけはヴェレスで30歳代の兄弟が銀行に高級車で乗り付けて数千ドルを引き出し、「健康食品のサイトで稼いだ」という噂が広まって、追随する者が増えたためであるという。フェイクニュースの作成・流布が行われている背景には、ユーゴスラビア解体以来、経済低迷に苦しむマケドニア国民が「どうすれば稼げるかを考え続け」るようになり、モラルが崩壊したためと指摘されている。
基本となる交通システムは道路は右側通行、免許証の取得可能年齢は18歳、レンタカーの利用可能年齢は24歳からとなっている
住民はマケドニア人が64.2%、アルバニア人が25.2%、トルコ人が3.8%、ロマ人が2.7%、セルビア人が1.8%、その他が2.3%である(2002年時点)。世界銀行による推計では、人口に占めるロマ人の割合は約9%から約11%に達するとみられている。
マケドニア人は5世紀から7世紀ごろにこの地に移り住んだスラヴ人の子孫であり、スラヴ系のマケドニア語を話す。マケドニア語はブルガリア語と極めて類似しており、ブルガリア人からはマケドニア人・マケドニア語はブルガリア人・ブルガリア語の一部であるとみなされている。マケドニア人の多くは自らをブルガリア人とは異なる独自の言語を持った独自の民族であると考えている。
アルバニア人は主にアルバニア語を話し、多くはイスラム教徒である。アルバニア語はインド・ヨーロッパ語族に属するものの、アルバニア語のみで一つの語派を形成しており、周囲の言語との類似性は低い。アルバニア語は古代のイリュリア語と関連があると考えられており、アルバニア人は自らを、古来よりこの地に住んでいたイリュリア人の末裔であると考えている。アルバニア人は一般に、マケドニア人と比べて出生率が高く、マケドニアにおけるアルバニア人の人口比率は増大を続けている。またアルバニア人はアルバニアおよびコソボで人口の多数を占めており、彼らが大アルバニア主義の担い手となることが警戒されている。現代の北マケドニア共和国のアルバニア人の有力な政治家らは、いずれも大アルバニア主義は明確に否定している。
トルコ人は14世紀にオスマン帝国がこの地に進出した後に移り住んできた人々の子孫である。彼らの多くはトルコ語を話すムスリムである。ただし、かつてのオスマン帝国では人々を宗教によって区別していたため、時代によっては、トルコ語を話さず、トルコ人の血を引いていない者もイスラム教徒であれば「トルコ人」とみなされることがある。近代以降でもこのようなイスラム教徒が自らの民族自認を「トルコ人」としていることもある。またスラヴ語を話すイスラム教徒の一部は、自らを「トルベシュ」「ポマク」「ゴーラ人」「ムスリム人」あるいは「ボシュニャク人」と規定している。また、「イスラムの信仰を持つが、民族的にはマケドニア人」と考える者もいる。
ロマは9世紀ごろから、西アジア・南アジアよりバルカン半島に移り住んだ民族である。彼らは職人や大道芸人、演奏家などの職業を主体とする独特の移住型の生活を送っていた。ロマの多くは正教会かイスラムの信仰を持っているものの、独自の民間信仰も併せ持っていることが多い。スコピエのシュト・オリザリ地区はロマが人口の多数を占め、ロマ語が公用語に指定されている。
アルーマニア人は北マケドニア共和国やギリシャ領マケドニアに多く住む民族である。彼らの話すアルーマニア語はインド・ヨーロッパ語族のロマンス語派に属し、特にルーマニア語との類似性が高い。彼らには第二次世界大戦前までルーマニアの支援を受け、アルーマニア語の学校が運営されていた。彼らはルーマニア人と近縁の民族と考えられており、その起源はこの地方がローマ帝国の支配下にあった時にラテン化した人々であると考えられている。
住民が母語としている言語はマケドニア語(公用語)が68%、アルバニア語が25%、トルコ語が3%、セルビア・クロアチア語が2%、その他が2%である。マケドニア語は憲法により公用語とされている一方で、地方自治体(オプシュティナ)において話者人口が2割を超える言語は、マケドニア語とともにその自治体の公用語とされる。この規定により、自治体によってはアルバニア語、トルコ語、ロマ語、アルーマニア語、セルビア語がマケドニア語とともに公用語に指定されているほか、2019年以降アルバニア語も国家レベルの準公用語となっている。マケドニア語のほか、少数言語話者が母語で教育を受ける機会が保障されており、アルバニア語やトルコ語による教育も行われている。
宗教は正教会が70%、イスラム教が29%、その他が1%である。
マケドニアの領域がバルカン戦争以降セルビアの領土に組み込まれると、国や地域ごとに教会組織を置く原則となっている正教会の慣習に従い、この地域はセルビア正教会の管轄となった。第二次世界大戦以降、共産主義者によるユーゴスラビア連邦政府によって、マケドニアの脱セルビア化が進められ、共産主義者の政府の指導の下、1958年にマケドニア地域の正教会組織はマケドニア正教会として分離され、セルビア正教会の下位に属する自治教会となった。1967年、マケドニア正教会はセルビア正教会からの完全な独立を宣言した。マケドニアがユーゴスラビアから分離すると、両教会の対立が表面化し、セルビア正教会はマケドニア正教会の独立を認めず、自治教会の地位に復するよう求めている。マケドニア正教会はこれに反発してセルビア正教会との交流を絶ち、セルビア正教会を非難している。マケドニア側でセルビア正教会の自治教会に復することに同意した主教らはマケドニア正教会を去り、独自にセルビア正教会の自治教会として正統オフリド大主教区を組織し、マケドニア正教会と対立している。
婚姻時、伝統的には女性は婚姻時に夫の姓の女性形に改姓するが、夫の姓に改姓することも、改姓しないことも(夫婦別姓)、複合姓を用いることもできる。
義務教育は9年間となっている。北マケドニアは欧州連合(EU)に加盟していないが、加盟国の教育制度や関連システムの均質化を伴う目的でボローニャ・プロセスを順守する立場となっている。
北マケドニアの治安は安定しているとは言い難い状況となっている。社会が荒廃している影響もあり、スリ、引ったくり、窃盗などの一般犯罪が多発しており、特に子供による集団スリの被害が相次いでいることから注意や警戒が叫ばれている。
テレビ放送や新聞ならび雑誌は国営企業と営利企業の両方によって運営されている。同国の憲法においては報道の自由と表現の自由を保証するものとなっているが、それに反して北マケドニアのほとんどのジャーナリストは社会的地位や経済的地位がかなり低く、その影響から彼らの労働と社会的権利は限られたものとなってしまっている。
北マケドニア単独での世界遺産条約承継は1997年であり、世界遺産センターでの当初の国名表記は、マケドニア旧ユーゴスラビア共和国だった。
北マケドニアでも他のヨーロッパ諸国同様に、サッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっており、1992年にプロサッカーリーグのプルヴァ・リーガが創設された。リーグ優勝クラブは、UEFAチャンピオンズリーグの予選に参加出来る。マケドニアサッカー連盟(FFM)によって構成されるサッカー北マケドニア代表は、これまでFIFAワールドカップには未出場である。しかし、UEFA欧州選手権には2021年大会で悲願の初出場を果たした。
代表チームのエースであり主将でもあったゴラン・パンデフは国の英雄として絶大な人気を誇り、インテル・ミラノ時代には2009-10シーズンにトレブルを達成したチームの主力であった。パンデフの他にも、フリーキックの名手として名高いエニス・バルディも同国代表である。 | [
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"text": "北マケドニア共和国(きたマケドニアきょうわこく、マケドニア語: Република Северна Македонија、アルバニア語: Republika e Maqedonisë së Veriut)、通称北マケドニア(マケドニア語: Северна Македонија、アルバニア語: Maqedonia e Veriut)は、東南ヨーロッパのバルカン半島南部に1991年に建国された共和国。前身はユーゴスラビア連邦の構成国であった。南はギリシャ、東はブルガリア、西はアルバニア、北はセルビアおよびコソボと、四方を他国に囲まれた内陸国である。",
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"text": "北マケドニア共和国は、地理的にはマケドニアと呼ばれてきた地域の内の北西部にあり、現在ではマケドニア地域全体の約4割を占めている。残りの約5割はギリシャに、約1割はブルガリアに属している。また歴史上、北マケドニア共和国の多数民族はマケドニア人と自称・他称されるが、彼らはスラヴ語の話し手で南スラヴ人の一派であり、ギリシャ系の言語を話していたと考えられる古代マケドニア王国の人々と直接の連続性はない。これらの理由から、1991年の独立当初の国名(マケドニア共和国)をめぐり、ギリシャとの間で後述するような国名論争(マケドニア呼称問題)が生じた。",
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"text": "憲法上の正式名称は、Република Северна Македонија (マケドニア語。ラテン文字転写は、Republika Severna Makedonija。通称は、Северна Македонија(Severna Makedonija)。準公用語のアルバニア語での表記はRepublika e Maqedonisë së Veriut、通称Maqedonia e Veriutである。",
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"text": "公式の英語表記名は、Republic of North Macedonia。略称、North Macedonia。",
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"text": "日本語での表記は、北マケドニアもしくは北マケドニア共和国。2019年2月まではマケドニア、もしくはマケドニア共和国であったが、前者では地域としてのマケドニアと区別がつかない。また日本は国連と同様にマケドニア旧ユーゴスラビア共和国で国家承認を行っており、行政公文書などにおける日本語の表記は「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」となっていたが、2020年4月1日に「北マケドニア」に変更された。かつて、日本国外務省では単に「マケドニア」あるいは「マケドニア共和国」と簡略化して表記する部分も部分的に見られた。この他に日本語でのリリースを発表する機関として欧州連合(在日欧州委員会代表部)があるが、欧州連合(EU)の加盟国であるギリシャがマケドニア共和国の正式呼称を認めていないため、通常「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」で言及された。",
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"text": "アレクサンドロス大王で有名な古代マケドニア王国の領地が自国にあったギリシャは、「本来のマケドニアはギリシャである」と主張している。実際、マケドニアとは北マケドニア共和国のほかにギリシャ(ギリシャ領マケドニア)やブルガリア(ピリン・マケドニア)、アルバニア(マラ・プレスパおよびゴロ・ブルド)のそれぞれ一部にもまたがる地域の名称である。特にギリシャ領はマケドニア地方の5割ほどを占めており、北マケドニア共和国の領土は全体の4割に満たない事に加え、アイガイ(現ヴェルギナ)やペラ、テッサロニキなどの古代マケドニア王国当時の主要都市の多くも現ギリシャ領である。このように、歴史的な古代マケドニアとの継承性、および地理的にマケドニア地方全体の4割に満たない北マケドニア共和国が「マケドニア(共和国)」と名乗ることへの警戒感から、この国をマケドニアの名称で呼ぶことを嫌い、ヴァルダル、スコピエなどと地名を使って呼んだ。同時に、1990年代よりマケドニア共和国の国号を改めるよう要求した。これに対してマケドニア共和国の側は、共和国にはギリシャ領マケドニアへの領土的野心がないことを説明し、国名を自国で決める権利は認められるべきであると主張した。",
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"text": "北マケドニアがマケドニアという国名で独立した1991年以降、ギリシャはマケドニアに経済制裁を科し、マケドニアという国号、古代マケドニアと類似したヴェルギナの星を用いた国旗、「周辺国に住むマケドニア人の権利を擁護する」という内政干渉的な憲法条項の3つを改めるよう圧力を加えた。このため、マケドニアは国際的な暫定呼称を変え、国旗をヴェルギナの星とは無関係のものに改め、ギリシャ領マケドニアへの領土的野心を明確に否定する憲法改正を行い、1995年に経済制裁を解除された。この当時のマケドニアは、ユーゴスラビア崩壊によってかつてのユーゴスラビアという市場を失い、またユーゴスラビア紛争に伴って北に隣接するセルビアの経済も混迷し、また国際的な経済制裁下に置かれていた。また、冷戦終結によって東西に隣接するアルバニアおよびブルガリアの経済は混乱状態にある中、海を持たないマケドニアにとって、南に隣接するギリシャの経済制裁の威力は絶大であった。",
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"text": "マケドニアは1993年に「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」(英語表記:The Former Yugoslav Republic of Macedonia、略称「FYROM」または「FYR Macedonia」) を国際社会における暫定的呼称として国際連合へ加盟した。これ以後、多くの国々や国際的組織は、この暫定名称でマケドニアとの関係を持った。しかし、2008年11月の時点で、アメリカ合衆国やロシア連邦など約125カ国の国々は、暫定名称の「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」ではなく、憲法上の国名である「マケドニア共和国」の名でこの国と外交関係を結んでいる。",
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"text": "2008年、マケドニアとアルバニア、クロアチアの北大西洋条約機構(NATO)加盟についてルーマニアの首都ブカレストにてNATO加盟国の間で議論が持たれた。この時、クロアチアおよびアルバニアの加盟が承認された一方、マケドニアの加盟はギリシャの拒否によって否認された。このことはマケドニア国内で激しい怒りを生み、「ブカレスト」は「ひどい仕打ち」の同義語とみなされるようになった。マケドニア側は国名に関して一定の譲歩をする代わりに、国民や国を表す形容詞として単に「マケドニアの」または「マケドニア人」と呼ばれることを望んだが、ギリシャ側はこれらを否定し、全て統一的に変更されなければならないとして譲歩を示さなかった。マケドニア側は、国名の問題に関して国際司法裁判所に提訴した。",
"title": "国名"
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{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "しかし2017年に発足したゾラン・ザエフ政権はNATOやEU加盟を目指すため従来の強硬姿勢を改め、これをギリシャ側も好感。呼称問題を解決する機運が高まり、2018年1月には両国の外相会談で作業部会の設置が決定され、国連による仲介も再開される見通しとなった。2018年2月、ゾラン・ザエフ首相は新しい国名の案として「北マケドニア共和国(Republic of North Macedonia)」「上マケドニア共和国(Republic of Upper Macedonia)」「ヴァルダル・マケドニア共和国(Republic of Vardar Macedonia)」および「マケドニア・スコピエ共和国(Republic of Macedonia (Skopje))」の4つが挙がっていることを明らかにした。",
"title": "国名"
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{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "2018年6月12日にマケドニアは国名を北マケドニア共和国とすることでギリシャとの政府間合意(プレスパ合意(英語版))が成立、17日には両国の外相が暫定的な合意文書に署名した。正式決定には両国議会で了承されることが必要となったが、両国国内には改名に反対する世論も存在した。マケドニアでは議会の最大野党が合意を非難し、またイヴァノフ大統領は承認を拒否する方針を表明した。ギリシャでも議会の最大野党が合意に対する不支持を表明、またアテネの国会前、および署名式典が開かれた両国の国境に近いサラデス(英語版)の周辺において、抗議デモに対し警察が催涙弾などで鎮圧にあたる事態となった。",
"title": "国名"
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"paragraph_id": 11,
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"text": "マケドニアでの国民投票は同年9月30日に実施されたが、野党側がボイコットを呼び掛けたこともあり、投票率は約37%にとどまり成立条件の50%を下回ったため無効となった。今回の投票結果が法的拘束力を持たないことから、ザエフ首相は引き続き改名の手続きを進め、野党が同意しなければ総選挙を早期に実施する意向を表明した。議会の承認プロセスでは両国内で野党勢力の切り崩しなどが行われ、まず2019年1月11日にマケドニア議会が国名変更のために必要な憲法改正案を承認し、同年1月25日にはギリシャ議会で改名合意が承認され、呼称問題はマケドニアの国名変更で決着した。2月12日に改名が発効し、翌13日には国名変更を国際連合に通知した。",
"title": "国名"
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"text": "マケドニア地域には、古くから人が居住しており、イリュリア人やトラキア人などの部族が割拠していた。紀元前4世紀から紀元前3世紀にかけて、現在の北マケドニア共和国に相当するマケドニア地域北部はマケドニア王国の支配下となっていった。マケドニア王国はアレクサンドロス3世(いわゆる「アレキサンダー大王」)の時代に、アジアやエジプトに及ぶ最大版図となるが、その死後、国は分裂。紀元前2世紀には西から勢力を拡大したローマ帝国の支配下となっていった。紀元前146年、この地域は正式にローマ帝国のマケドニア属州の一部とされた。ローマ帝国が東西に分かれると、マケドニアは東ローマ帝国の一部となった。",
"title": "歴史"
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{
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"tag": "p",
"text": "マケドニア地域には北から西ゴート族、フン族、アヴァールそしてスラヴ人などが侵入を繰り返した。7世紀初頭には、この地域の多くはスラヴ人の居住地域となっていた。スラヴ人たちは、それぞれ異なる時期に段階的にこの地域に入ってきた。スラヴ人の居住地域は、現ギリシャ領のテッサロニキなどを含む、マケドニア地域のほぼ全域に拡大していった。680年ごろ、クベル(英語版)に率いられたブルガール人の一派がマケドニアに流入した。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "9世紀後半、テッサロニキ出身のキュリロスとメトディオスの兄弟によってキリスト教の聖書がスラヴ語に翻訳された。9世紀に北方から侵入して東ローマ帝国と衝突しながら勢力を拡大していった第一次ブルガリア帝国は、9世紀末のシメオン1世の時に最盛期を迎え、マケドニア地方もその版図に収められた。キュリロスとメトディオスの弟子たちにはスラヴ語の聖書を用い、ブルガリア帝国の支援の下、スラヴ人たちにキリスト教を布教していった。シメオンの死後、ブルガリア帝国は次第に衰退し、マケドニア地方は再び東ローマ帝国の支配下となった。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "978年、マケドニア出身のサムイルはこの地で東ローマに対する反乱を起こした。サムイルはこの地方のオフリドを首都としてブルガリア帝国を再建し、彼の下で再度ブルガリア帝国は急速な拡大を迎えた。しかし、1014年にサムイルが死去するとブルガリア帝国はその力を失い、1018年には完全に滅亡し、再び東ローマの支配下に帰した。",
"title": "歴史"
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"text": "その後、この地方は北で起こったセルビア人の地方国家の乱立やその他の地方領主の群雄割拠の状態を経て、12世紀末ごろには新興勢力の第二次ブルガリア帝国とセルビア王国、そしてラテン帝国やニカイア帝国といった十字軍国家の間で勢力争いが繰り広げられる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "十字軍を退けて復活した東ローマ帝国やブルガリア帝国は、東から伸張してきたオスマン帝国によって国力を落とた。その間隙を衝いてセルビア王国はステファン・ウロシュ3世デチャンスキの下、大幅な領土拡大に成功し、マケドニア地方全域を支配下に収めた。その息子ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンの下でセルビアは絶頂を迎え、ウロシュ4世はスコピエを首都として同地にて1345年、「セルビア人とローマ人の皇帝」として戴冠を受け皇帝に即位する。しかし、ウロシュ4世の死後はセルビアは地方領主の割拠する状態となり、1371年のマリツァ川の戦いなどを経てマケドニアはオスマン帝国の支配下となった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "オスマン帝国は支配下の人々の分類を言語や民族ではなく宗教の所属に置いていた。これらの人々の帰属意識もキリスト教の正教会信仰に置かれ、マケドニア人という民族意識も民族名称も存在しなかった。教会の管轄はコンスタンディヌーポリ総主教庁(コンスタンティノープル総主教庁)であった。長いオスマン帝国の支配下で多様な民族の混在化が進み、マケドニア地域にはスラヴ人、アルーマニア人、トルコ人、アルバニア人、ギリシャ人、ロマ、ユダヤ人などが居住していた。この地域のスラヴ人の話す言語はブルガリア語に近く、マケドニア地方のスラヴ人はブルガリア人とみなされていた。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "19世紀、セルビア王国やギリシャ王国がオスマン帝国から独立を果たすと、この地域の非トルコ人、特に正教徒の間ではオスマン帝国からの分離の動きが加速した。1878年にブルガリア公国が成立すると、一度はマケドニア全域がブルガリア公国の領土とされたものの、ブルガリアの独立を支援したロシア帝国の影響力拡大を恐れた列強諸国によってブルガリアの領土は3分割され、マケドニア地方はオスマン帝国領に復した。マケドニアで最大の人口を持っていたスラヴ人の間では、マケドニアの分離とブルガリアへの併合を求める動きが強まり、内部マケドニア・アドリアノープル革命組織などの反オスマン帝国組織が形成された。このころ、マケドニア地域のスラヴ人の多くはブルガリア人を自認していたが、ブルガリア人とは異なる独自のマケドニア人としての民族自認も芽生え始めていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "内部マケドニア革命組織はゴツェ・デルチェフらの指導の下で武装蜂起を進め、1903年8月にイリンデン蜂起(英語版)を起こした(この年のグレゴリオ暦の8月2日は、ユリウス暦では7月20日の聖エリヤの日であり、イリンデンとは聖エリヤの日を意味する)。イリンデン蜂起は失敗に終わったものの、この地域のスラヴ人による反オスマン帝国の闘争は続き、また、比較的オスマン帝国への親和性の高かったアルバニア人の間でもプリズレン連盟を中心にオスマン帝国からの自立を求める動きが高まった。また、マケドニアを自国領へと組み込むことを狙っていたギリシャ、セルビア、ブルガリアからも複数の組織がマケドニア地方に浸透していった。1912年の第一次バルカン戦争の時、内部マケドニア革命組織はブルガリア軍の側についてオスマン帝国と戦った。第一次バルカン戦争によって、オスマン帝国はマケドニア地域を手放すこととなったが、マケドニア地方全域を自国領とすることを求めたブルガリアと、マケドニアの分割支配を求めたセルビア、ギリシャの間で対立が起こり、翌1913年の第二次バルカン戦争へと発展した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "第二次バルカン戦争ではマケドニア地域の南部5割はギリシャ、西北部4割はセルビア(後にユーゴスラビア王国)が奪取し、ブルガリアは1割を確保するに留まった。この時のセルビア領マケドニアが、のちの北マケドニア共和国の領土となった。ギリシャ領、セルビア領のマケドニアでは、ブルガリアの支援を受けた抵抗運動が活発に起こったが、第一次世界大戦で中央同盟側についたブルガリアが敗北すると、ヌイイ条約によりギリシャ領マケドニアのスラヴ人は住民交換の対象となった。この時、全てのスラヴ人の母国はブルガリアとされ、自身をギリシャ人と宣誓した者以外は全てブルガリアへと追放された。他方、ユーゴスラビアとなったセルビア領マケドニアではその後も内部マケドニア革命組織による抵抗運動が続き、1934年にはユーゴスラビア王アレクサンダル1世を暗殺した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦時、枢軸国はユーゴスラビアに侵攻した。枢軸側についたブルガリアはユーゴスラビア領マケドニアの大部分を支配下に収め、マケドニア併合の夢を実現する。マケドニアのブルガリアへの統合を歓迎する内部マケドニア革命組織の右派はブルガリアによる占領統治に協力するが、ブルガリアから独立した統一マケドニアの実現を志向した左派の勢力は、ヨシップ・ブロズ・ティトー率いる共産主義者のパルチザンとして枢軸国に抵抗した。1944年には枢軸国に対する抵抗勢力はマケドニア人民解放反ファシスト会議の下に統一された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦でブルガリアが敗退し、ユーゴスラビアがマケドニア北西部の支配を回復すると、ユーゴスラビアはティトーの指導の下、共産主義体制をとる連邦国家となった。マケドニア人民解放反ファシスト会議の決定に従って、ユーゴスラビア領マケドニアはマケドニア人民共和国(1963年よりマケドニア社会主義共和国)となった。ユーゴスラビア連邦の下では、ブルガリア人とは異なるマケドニア人意識が涵養され、またスコピエ方言を基礎としたマケドニア語の正書法も確立された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "1963年にはスコピエで大震災(マケドニア語版)が発生し、死者1,100人を出した。ユーゴ時代は、北マケドニア、セルビア、クロアチア他の地域は、チトーの統治のもと、分裂せずに統合を保った。またユーゴとは別に独立国であったアルバニアは、親中国の国として知られ、国連にアルバニア決議案を提出するなどした。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "1990年、冷戦終結の影響を受け、ユーゴスラビアでは戦後初めての複数政党制による民主選挙が行われた。マケドニアでも国名から「社会主義」の語を外し、マケドニア共和国と改称された。マケドニア同様にユーゴスラビアの構成国であったスロベニア、クロアチアでは独立を志向する勢力が圧倒的勝利を収め、ユーゴスラビアからの独立を宣言した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "これを受けてマケドニアでも独立の準備が進められ、1991年9月8日、マケドニア大統領キロ・グリゴロフの下、マケドニアは独立を宣言した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "独立国となったマケドニアは、古代マケドニア王朝のシンボルであるヴェルギナの星(「ヴェルギナの太陽」ともいう)を描いた国旗を制定した。ユーゴスラビア連邦軍が保有する兵器をマケドニア側に分け与えず、全てセルビア側が持ち去ることを条件に、1992年3月にはユーゴスラビア連邦軍の撤退が実現された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "1993年1月に国連に加盟申請するが、ギリシャとの間で「国名論争」が勃発し、4月に暫定国名「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」で国連加盟が承認された。しかしギリシャは納得せず、1994年2月に経済封鎖された。この時、国旗を変更し、憲法の一部を改正した。1995年にはギリシャの経済封鎖が解除された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "1998年、総選挙の結果、共産主義時代の政権党であったマケドニア共産主義者同盟の流れを汲むマケドニア社会民主同盟に代わり、中道右派政党に転向した内部マケドニア革命組織・マケドニア国家統一民主党を中心とする連立政権が成立。1999年の大統領選挙では同党のボリス・トライコフスキが首相となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "前述のように、マケドニアからは大きな衝突なしにセルビア人勢力(ユーゴスラビア軍)が撤退し、ユーゴスラビア紛争の前半で激戦地となったクロアチアやボスニア・ヘルツェゴビナに比べて平穏に独立を達成した。しかし、1990年代後半、隣接するセルビア領のコソボ自治州で発生したコソボ紛争によって、セルビア側の勢力の迫害を恐れたアルバニア人の難民が大量にマケドニア共和国に流れ込んだ。セルビアがコソボ自治州から撤退した後、彼らの多くはコソボへと帰還していった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "2001年、マケドニア国内で人口の2割強を占めるアルバニア人に対する待遇に不満を持つ者らによって、武装勢力「民族解放軍」が結成された。民族解放軍はコソボ解放軍と深いつながりが指摘される武装勢力で、コソボ紛争が終わって自由になったコソボ解放軍の武器や人員が多く含まれている。2月の民族解放軍の蜂起によって起こったマケドニア紛争は、8月にアルバニア人との権力分有や、アルバニア語での高等教育などを含む、アルバニア人の民族的権利の拡大を認める和平合意文書(オフリド合意)が調印されて終結した。和平監視のためにNATO軍が駐留を開始した。同年11月には、オフリド合意に基づいて議会で憲法の改正が可決された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "2002年9月の総選挙では、マケドニア社会民主同盟が政権を奪還し、民族解放軍が改組したアルバニア人政党「民主統合連合」と連立政権を組んだ。その後もアルバニア系武装勢力によるテロ事件や、警察との衝突は散発的に起こったが、治安は回復し、平穏な推移をみせている。2006年、2008年の総選挙では内部マケドニア革命組織が勝利を収めたが、常にアルバニア人政党との連立政権を組んでおり、アルバニア人政党とマケドニア人政党による権力の分有は定着しつつある。アルバニア語教育をはじめとするアルバニア人の民族的権利は守られており、国内のマケドニア人とアルバニア人の関係は比較的良好である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "2008年2月には、隣接するコソボが独立を宣言した。マケドニアのアルバニア人を中心にコソボの独立を承認する動きが強まった結果、同年10月にマケドニア共和国はコソボの独立を承認し、2009年に正式な外交関係が樹立された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "2019年1月には国名を北マケドニア共和国とすることが決定。2月12日に改名が発効した。2020年3月27日、NATOに加盟した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "北マケドニアは共和制、議院内閣制を採用する立憲国家である。現行憲法は1991年11月17日に制定され、同月20日に施行されたものである(その後、数度の改正を経ている)。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "国家元首である大統領は国民の直接選挙で選出され、任期は5年、3選は禁止されている。大統領は元首として北マケドニアを代表し、形式的に国軍最高司令官および治安評議会議長を務める。しかし、その権限は、儀礼的なものに限られている。実際の政治は行政府たる内閣が率いる。総選挙後初の議会で首相が選出され、その後、議会により閣僚の選出が行なわれる。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "北マケドニア議会は一院制で、定数は123である。議員は比例代表制により選出され、任期は4年である。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "北マケドニアでは複数政党制が機能している。主な政党には中道右派の内部マケドニア革命組織・マケドニア国家統一民主党(VMRO-DPMNE)と中道左派のマケドニア社会民主同盟(SDSM)の2党がある。北マケドニアのアルバニア人を代表する政党は、アルバニア人民主党と、民族解放軍から改組した民主統合連合の2党がある。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "2009年の大統領選挙では、決選投票にもつれ込んだ末に与党(当時)VMRO-DPMNEのジョルゲ・イヴァノフが65%前後の得票率で野党(当時)SDSMのリュボミル・フルチュコスキを破り当選した。2014年の大統領選挙でもイヴァノフが再選を果たしたが、2019年にはSDSMのステボ・ペンダロフスキがVMRO-DPMNEの候補を抑え、当選した。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "司法権は裁判所によって行使され、裁判所制度は司法最高裁判所、憲法裁判所 および共和党司法評議会が主導している。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "議会は裁判官を31人任命することが出来る。うち22人は最高裁判所、9人は憲法裁判所に配属されている。最高裁判所の裁判官は、7人の法律専門家から構成される司法評議会によって指名された上で、議会によって任命される。憲法裁判所の裁判官は9年の任期となっており、議会によって任命される。ただし任期の更新は不可とされている。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "マケドニアは、1990年代前半のユーゴスラビア崩壊に伴うユーゴスラビア連邦からの独立に際して、戦禍に巻き込まれることなく平和的な独立を果たした唯一の国家である。そのため、連邦解体に反対の立場にあったセルビアや、その他の旧ユーゴスラビア諸国に対する国民感情は、他の旧ユーゴスラビア諸国の国民に比べると穏やかである。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "2008年10月にセルビアが自国領と考えるコソボを、マケドニアは国家として承認した。セルビア共和国はこれを受け入れられないとし、マケドニアに駐在する大使を召還するとともに、セルビアに駐在するマケドニアの大使をペルソナ・ノン・グラータとして国外追放した。その後マケドニアは新しい大使をセルビアに着任させた。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "北マケドニアには、人口の2割から3割程度のアルバニア人が居住しており、アルバニアおよびコソボを巻き込んでの大アルバニア主義の伸張は国土の統一を脅かす問題として警戒されている。1997年の暴動で混乱状態に陥ったアルバニアでは、コソボ独立を求めるアルバニア人武装勢力「コソボ解放軍」が拠点を設け、人員を集め、また軍施設から略奪された武器を集めていたと考えられている。コソボ紛争が終わると、その武器と人員の一部がマケドニアのアルバニア人武装勢力「民族解放軍」にもたらされたと考えられている。このようなことから、アルバニアおよびコソボの安定は北マケドニアにとって死活的な問題となっている。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "マケドニアは、2008年2月にコソボが独立すると、10月に同国を国家承認した。2009年には両国間に外交関係が樹立された。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "マケドニアの独立を最初に承認したのは東の隣国ブルガリアであった。歴史的にブルガリアは、マケドニア人はブルガリア人、マケドニア語はブルガリア語の一部であるとみなし、マケドニアを含むマケドニア地域全体への領土的な執着を持ち続けてきた。ブルガリアはマケドニアの独立を認める立場をとりつつ、その民族や言語の独自性には否定的な見解を繰り返し表明している。そのため、マケドニアでは、ブルガリアはマケドニアの存在そのものを脅かしかねないものとして警戒されている。しかし一方で、周辺地域の緊張関係に悩まされるマケドニアにとってブルガリアは最大の擁護者でもあり、両国の関係は複雑である。北マケドニアのNATO加盟は実現したが、欧州連合(EU)加盟は前述の言語問題を理由としたブルガリアの反対を受けている。これに対して、ザエフ首相は「EUの価値観に反している」と反論している。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "南のギリシャとは先述したマケドニア呼称問題を抱えていたほか、スラヴ系の「マケドニア人」という民族自認や、「マケドニア語」という言語呼称も問題となっている。ギリシャには、第一次世界大戦後のヌイイ条約の定める住民交換によってギリシャからブルガリアに追放されるのを逃れるために、自身をギリシャ人と宣誓してギリシャ領マケドニアに留まった少数のスラヴ人が住んでいる。このスラヴ人の中でも、1991年のマケドニア共和国独立以降、自身を「マケドニア人」と考える人々が現れている。ギリシャでは公式にはスラヴ系「マケドニア人」という少数民族の存在は認められておらず、彼らの民族的・文化的権利の追求が両国間の問題となっている。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "また、マケドニア国内ではギリシャ領やブルガリア領も含めた統一マケドニアに関する議論が多く見られ、右派政党内部マケドニア革命組織・マケドニア国家統一民主党もかつてはこれを党是に含めていた。ギリシャは、マケドニアが独立後しばらくその国名を諦めないことと併せて、マケドニアが潜在的にギリシャ領マケドニアに対する領土的野心を持つことを警戒した。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "ギリシャは国名や言語・民族呼称などに関する問題を抱えている一方で、これらの問題が解決されれば地域の安定と繁栄のために、マケドニア共和国のNATOおよび欧州連合加盟が望ましいとしている。ギリシャはドイツとならんでマケドニアの最大の貿易相手国であり、両国の経済は深い結びつきを持っている。マケドニアとギリシャを結ぶ幹線道路の建設も進められ、マケドニアはギリシャから多数の投資を呼び込んでいる。北マケドニア共和国はギリシャと比べると物価も賃金も安く、ギリシャ向けの生産拠点、あるいはギリシャからショッピング・観光の場ともなっている。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "北マケドニアは中欧自由貿易協定や南東欧協力プロセスに加盟しており、ユーゴスラビア崩壊後の新しいバルカン諸国の地域協力体制の枠組みに加わっている。2021年7月末には、人やモノ、金の自由な移動を保障する経済圏構想「オープンバルカン・イニシアチブ」の立ち上げをセルビアおよびアルバニアとともに提唱した。またNATOおよび欧州連合(EU)加盟を目指してきた。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "2019年2月の北マケドニア共和国への国号変更で、NATOとEUの加盟国であるギリシャによる反対が解消したため、NATO加盟国とマケドニアは2019年2月6日、マケドニアを30番目のNATO加盟国とする議定書に署名し、2020年3月27日に正式に加盟した。一方で、EUへの加盟については国名変更後の2019年10月のEU首脳会議でフランスに加盟を拒まれたが、2020年3月には加盟交渉に入ることで合意している。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "2005年、マケドニアは「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」の名で、正式に欧州連合加盟候補国となった。ニコラ・グルエフスキ首相は2014年ごろの加盟を目指すとしていたが、2008年後半の欧州連合議長国となったフランスのニコラ・サルコジ大統領は、マケドニアの欧州連合への参加には国名問題の解決が前提となると繰り返し表明し、マケドニアの国民や政府関係者を失望させた。国名問題は2019年に解決したが、バルカン半島諸国がEUに加盟することで移民が西欧諸国に流入しやすくなり、移民反対を掲げる政党が増長しかねないと懸念するフランスやオランダ、デンマークなどはその後も加盟交渉入りに反対し続けた。2020年2月には加盟候補国の改革が遅れれば交渉を止められるといった加盟手続きの改革案を欧州委員会が提示し、フランスなどが評価。3月24日に加盟交渉入りすることが決定した。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "2008年、NATOはアルバニアおよびクロアチアの加盟を認める一方、マケドニアの加盟はギリシャの拒否権行使によって否定された。マケドニアはクロアチア、アルバニアと同時のNATO加盟が勧告されており、マケドニアに対する加盟拒否は国内で激しい怒りを生んだ。アメリカは「マケドニア共和国」の呼称を認めており、この時のアメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領はアフガニスタンやイラクにも軍を派兵している同盟国マケドニアのNATO加盟を強く支持している。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "一方、ロシアはバルカン半島でのNATO加盟国増加を妨害するため、マケドニア国内に対して、ギリシャとの和解および米国やNATO、EUに対する反感を高める政治・世論工作を展開していると報道されている(ロシアは否定)。",
"title": "国際関係"
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"paragraph_id": 55,
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"text": "2020年3月27日、30番目の加盟国としてNATOに加盟した。",
"title": "国際関係"
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"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "北マケドニアは国土の大部分が山地の内陸国である。北にコソボおよびセルビア、東にブルガリア、南にギリシャ、西にアルバニアと国境を接し、いずれも高い山脈が連なる高山地帯である。最高地点はアルバニア国境のコラブ山(標高2764m)。国土の中央には北西から南東にヴァルダル川が流れ、ギリシャ領へと続いている。ヴァルダル川の周りには急峻な渓谷が刻まれ、この渓谷には北からの冷たい風が流れ込み、ギリシャ領へと吹き付ける。この強い北風はヴァルダリスと呼ばれている。南西部のアルバニアおよびギリシャとの国境地帯にはオフリド湖とプレスパ湖という2つの湖がある。",
"title": "地理"
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"text": "北マケドニアは、地中海性気候と高山性気候の中間にある。ヴァルダル川の渓谷部は標高が低く、地中海性気候に近い。ここでは夏季には最高気温が40度に達することもある。一方で高山地帯は冷涼であり、冬季は深い雪に閉ざされる。",
"title": "地理"
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"text": "北マケドニアには、州や県に相当するような中間の地方自治体は設置されていない。北マケドニアはオプシュティナ(општина)と呼ばれる基礎自治体に分割され、その数は2013年以降、80自治体となっている。首都のスコピエは単独の自治体ではなく、10の独立したオプシュティナによって構成されている。これとは別に8つの地方(регион)が存在するが、こちらには行政権がなく統計上の使用にとどまっている。",
"title": "地方行政区分"
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"text": "北マケドニアの主要都市",
"title": "地方行政区分"
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"text": "北マケドニアは、ユーゴスラビア時代は低開発地域として、連邦から受け取る開発資金の恩恵を受けていた。ユーゴスラビアが解体されると、連邦からの援助が得られなくなったことに加えて、ユーゴスラビアという市場を失ったことや体制の転換をめぐる混乱によって、経済は大きく落ち込んだ。北に隣接するセルビアは紛争当事国となって国際的な制裁下に置かれた。西の隣国アルバニアは冷戦期に独自の鎖国政策を採ったことからヨーロッパの最貧国となっており、また独立時は社会主義・冷戦体制崩壊によって東のブルガリアも経済的な混乱の最中にあった。海を持たないマケドニアの南の隣国であるギリシャは、呼称問題を理由にマケドニアに対して経済制裁を行い、国内経済は壊滅的な影響を受けた。マケドニアの国内総生産(GDP)は1996年までマイナス成長となった。2003年ごろからは周辺諸国の経済混乱も一段落し、また一連のユーゴスラビア紛争が終結、ギリシャとの関係改善の努力も進められた結果、マケドニア経済は毎年平均して4%程度の成長を続けた。しかし、政治的不安によって2017年の成長率は0%と落ち込んでいる。2003年には世界貿易機関(WTO)への加盟も果たした。また、北マケドニアはオフリド湖などの観光資源に恵まれており、観光開発にも力を入れている。",
"title": "経済"
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"text": "2007年の推計では、雇用者の19.6%は農業を中心とした第一次産業、30.4%は第二次産業、50%は第三次産業に従事している。対GDP比では、第一次産業は11.9%、第二次産業は28.2%、第三次産業は59.9%となっており、第三次産業が大きな比率を占めている。2007年の失業率は34.9%となっているが、これに含まれていない闇経済はGDPの20%ほどを占めていると考えられる。主要な輸出品目は食品、飲料(ワインなど)、繊維、鉄鋼、鉄などである。輸入品目は機械、自動車、化学製品、燃料、食品などである。主要な貿易相手国はドイツ、ブルガリア、セルビアである。",
"title": "経済"
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{
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"text": "2016年アメリカ合衆国大統領選挙以降、マケドニアはインターネットにおけるフェイクニュースの一大作成・発信源として知られるようになった。きっかけはヴェレスで30歳代の兄弟が銀行に高級車で乗り付けて数千ドルを引き出し、「健康食品のサイトで稼いだ」という噂が広まって、追随する者が増えたためであるという。フェイクニュースの作成・流布が行われている背景には、ユーゴスラビア解体以来、経済低迷に苦しむマケドニア国民が「どうすれば稼げるかを考え続け」るようになり、モラルが崩壊したためと指摘されている。",
"title": "経済"
},
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"text": "基本となる交通システムは道路は右側通行、免許証の取得可能年齢は18歳、レンタカーの利用可能年齢は24歳からとなっている",
"title": "交通"
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{
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"text": "住民はマケドニア人が64.2%、アルバニア人が25.2%、トルコ人が3.8%、ロマ人が2.7%、セルビア人が1.8%、その他が2.3%である(2002年時点)。世界銀行による推計では、人口に占めるロマ人の割合は約9%から約11%に達するとみられている。",
"title": "国民"
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{
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"text": "マケドニア人は5世紀から7世紀ごろにこの地に移り住んだスラヴ人の子孫であり、スラヴ系のマケドニア語を話す。マケドニア語はブルガリア語と極めて類似しており、ブルガリア人からはマケドニア人・マケドニア語はブルガリア人・ブルガリア語の一部であるとみなされている。マケドニア人の多くは自らをブルガリア人とは異なる独自の言語を持った独自の民族であると考えている。",
"title": "国民"
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{
"paragraph_id": 66,
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"text": "アルバニア人は主にアルバニア語を話し、多くはイスラム教徒である。アルバニア語はインド・ヨーロッパ語族に属するものの、アルバニア語のみで一つの語派を形成しており、周囲の言語との類似性は低い。アルバニア語は古代のイリュリア語と関連があると考えられており、アルバニア人は自らを、古来よりこの地に住んでいたイリュリア人の末裔であると考えている。アルバニア人は一般に、マケドニア人と比べて出生率が高く、マケドニアにおけるアルバニア人の人口比率は増大を続けている。またアルバニア人はアルバニアおよびコソボで人口の多数を占めており、彼らが大アルバニア主義の担い手となることが警戒されている。現代の北マケドニア共和国のアルバニア人の有力な政治家らは、いずれも大アルバニア主義は明確に否定している。",
"title": "国民"
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{
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"text": "トルコ人は14世紀にオスマン帝国がこの地に進出した後に移り住んできた人々の子孫である。彼らの多くはトルコ語を話すムスリムである。ただし、かつてのオスマン帝国では人々を宗教によって区別していたため、時代によっては、トルコ語を話さず、トルコ人の血を引いていない者もイスラム教徒であれば「トルコ人」とみなされることがある。近代以降でもこのようなイスラム教徒が自らの民族自認を「トルコ人」としていることもある。またスラヴ語を話すイスラム教徒の一部は、自らを「トルベシュ」「ポマク」「ゴーラ人」「ムスリム人」あるいは「ボシュニャク人」と規定している。また、「イスラムの信仰を持つが、民族的にはマケドニア人」と考える者もいる。",
"title": "国民"
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"paragraph_id": 68,
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"text": "ロマは9世紀ごろから、西アジア・南アジアよりバルカン半島に移り住んだ民族である。彼らは職人や大道芸人、演奏家などの職業を主体とする独特の移住型の生活を送っていた。ロマの多くは正教会かイスラムの信仰を持っているものの、独自の民間信仰も併せ持っていることが多い。スコピエのシュト・オリザリ地区はロマが人口の多数を占め、ロマ語が公用語に指定されている。",
"title": "国民"
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"text": "アルーマニア人は北マケドニア共和国やギリシャ領マケドニアに多く住む民族である。彼らの話すアルーマニア語はインド・ヨーロッパ語族のロマンス語派に属し、特にルーマニア語との類似性が高い。彼らには第二次世界大戦前までルーマニアの支援を受け、アルーマニア語の学校が運営されていた。彼らはルーマニア人と近縁の民族と考えられており、その起源はこの地方がローマ帝国の支配下にあった時にラテン化した人々であると考えられている。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 70,
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"text": "住民が母語としている言語はマケドニア語(公用語)が68%、アルバニア語が25%、トルコ語が3%、セルビア・クロアチア語が2%、その他が2%である。マケドニア語は憲法により公用語とされている一方で、地方自治体(オプシュティナ)において話者人口が2割を超える言語は、マケドニア語とともにその自治体の公用語とされる。この規定により、自治体によってはアルバニア語、トルコ語、ロマ語、アルーマニア語、セルビア語がマケドニア語とともに公用語に指定されているほか、2019年以降アルバニア語も国家レベルの準公用語となっている。マケドニア語のほか、少数言語話者が母語で教育を受ける機会が保障されており、アルバニア語やトルコ語による教育も行われている。",
"title": "国民"
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"text": "宗教は正教会が70%、イスラム教が29%、その他が1%である。",
"title": "国民"
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{
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"text": "マケドニアの領域がバルカン戦争以降セルビアの領土に組み込まれると、国や地域ごとに教会組織を置く原則となっている正教会の慣習に従い、この地域はセルビア正教会の管轄となった。第二次世界大戦以降、共産主義者によるユーゴスラビア連邦政府によって、マケドニアの脱セルビア化が進められ、共産主義者の政府の指導の下、1958年にマケドニア地域の正教会組織はマケドニア正教会として分離され、セルビア正教会の下位に属する自治教会となった。1967年、マケドニア正教会はセルビア正教会からの完全な独立を宣言した。マケドニアがユーゴスラビアから分離すると、両教会の対立が表面化し、セルビア正教会はマケドニア正教会の独立を認めず、自治教会の地位に復するよう求めている。マケドニア正教会はこれに反発してセルビア正教会との交流を絶ち、セルビア正教会を非難している。マケドニア側でセルビア正教会の自治教会に復することに同意した主教らはマケドニア正教会を去り、独自にセルビア正教会の自治教会として正統オフリド大主教区を組織し、マケドニア正教会と対立している。",
"title": "国民"
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"paragraph_id": 73,
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"text": "婚姻時、伝統的には女性は婚姻時に夫の姓の女性形に改姓するが、夫の姓に改姓することも、改姓しないことも(夫婦別姓)、複合姓を用いることもできる。",
"title": "国民"
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{
"paragraph_id": 74,
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"text": "義務教育は9年間となっている。北マケドニアは欧州連合(EU)に加盟していないが、加盟国の教育制度や関連システムの均質化を伴う目的でボローニャ・プロセスを順守する立場となっている。",
"title": "国民"
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{
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"text": "北マケドニアの治安は安定しているとは言い難い状況となっている。社会が荒廃している影響もあり、スリ、引ったくり、窃盗などの一般犯罪が多発しており、特に子供による集団スリの被害が相次いでいることから注意や警戒が叫ばれている。",
"title": "治安"
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{
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"text": "テレビ放送や新聞ならび雑誌は国営企業と営利企業の両方によって運営されている。同国の憲法においては報道の自由と表現の自由を保証するものとなっているが、それに反して北マケドニアのほとんどのジャーナリストは社会的地位や経済的地位がかなり低く、その影響から彼らの労働と社会的権利は限られたものとなってしまっている。",
"title": "マスコミ"
},
{
"paragraph_id": 77,
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"text": "北マケドニア単独での世界遺産条約承継は1997年であり、世界遺産センターでの当初の国名表記は、マケドニア旧ユーゴスラビア共和国だった。",
"title": "文化"
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{
"paragraph_id": 78,
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"text": "北マケドニアでも他のヨーロッパ諸国同様に、サッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっており、1992年にプロサッカーリーグのプルヴァ・リーガが創設された。リーグ優勝クラブは、UEFAチャンピオンズリーグの予選に参加出来る。マケドニアサッカー連盟(FFM)によって構成されるサッカー北マケドニア代表は、これまでFIFAワールドカップには未出場である。しかし、UEFA欧州選手権には2021年大会で悲願の初出場を果たした。",
"title": "スポーツ"
},
{
"paragraph_id": 79,
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"text": "代表チームのエースであり主将でもあったゴラン・パンデフは国の英雄として絶大な人気を誇り、インテル・ミラノ時代には2009-10シーズンにトレブルを達成したチームの主力であった。パンデフの他にも、フリーキックの名手として名高いエニス・バルディも同国代表である。",
"title": "スポーツ"
}
] | 北マケドニア共和国、通称北マケドニアは、東南ヨーロッパのバルカン半島南部に1991年に建国された共和国。前身はユーゴスラビア連邦の構成国であった。南はギリシャ、東はブルガリア、西はアルバニア、北はセルビアおよびコソボと、四方を他国に囲まれた内陸国である。 | {{redirect|ヴァルダル・マケドニア|ヴァルダル・マケドニアの歴史など|:en:Vardar Macedonia}}
{{脚注の不足|date=2020-12}}
{{基礎情報 国
| 日本語国名 = 北マケドニア共和国
| 公式国名 ={{Lang|mk|Република Северна Македонија}}{{mk icon}}<br/>{{Lang|sq|Republika e Maqedonisë së Veriut}}{{sq icon}}
| 国旗画像 =Flag of North Macedonia.svg
| 国章画像 =[[ファイル:Coat of arms of North Macedonia.svg|100px|北マケドニアの国章]]
| 国章リンク =([[北マケドニアの国章|国章]])
| 略名 = 北マケドニア
| 標語 =なし
| 位置画像 =Locator map of the Republic of Macedonia.svg
| 公用語 =[[マケドニア語]]、[[アルバニア語]]<br/><span style="※">他に使われる言語としては主に、[[トルコ語]]、[[ロマ語]]、[[アルーマニア語]]、[[セルビア語]]</span><ref group="※">憲法に規定される公用語はマケドニア語のみであるが、地方自治体においては、少数言語の話者が人口の2割を超える場合、その言語は自治体においてマケドニア語とともに公用語の地位を認められる。これによって、自治体によってはマケドニア語以外の言語が公用語となっている。また、このうちアルバニア語は、国家レベルの準公用語ともされている。</ref>
| 首都 =[[スコピエ]]
| 最大都市 =スコピエ
| 元首等肩書 =[[北マケドニアの大統領|大統領]]
| 元首等氏名 =[[ステボ・ペンダロフスキ]]<ref name="cia fact">{{Cite web|author=アメリカ中央情報局|authorlink=アメリカ中央情報局|date=2018-10-01|url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/mk.html|title=CIA - The World Factbook -- Macedonia|language=[[英語]]|accessdate=2018-10-13}}</ref>
| 首相等肩書 =[[北マケドニアの首相|首相]]
| 首相等氏名 =[[ディミタル・コバチェフスキ]]
| 面積順位 =148
| 面積大きさ =1 E10
| 面積値 =25,333
| 水面積率 =1.9%<ref name="cia fact" />
| 人口統計年 =2017
| 人口順位 =145
| 人口大きさ =1 E6
| 人口値 =208万3000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/bg.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-11-5}}</ref>
| 人口密度値 =82.6<ref name=population/>
| GDP統計年元 =2020
| GDP値元 =6640億900万<ref name="economy">IMF Data and Statistics 2021年11月8日閲覧([https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=962,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LUR,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDN,GGXWDN_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1])</ref>
| GDP統計年MER =2020
| GDP値MER =122億8800万<ref name="economy" />
| GDP順位MER =131
| GDP MER/人 =5,939.413<ref name="economy" />
| GDP統計年 =2020
| GDP順位 =125
| GDP値 =346億9300万<ref name="economy" />
| GDP/人 =16,769.632<ref name="economy" />
| 建国形態 =[[独立]]<br>([[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]より)
| 確立形態1 = 宣言
| 確立年月日1 = [[1991年]][[9月8日]]
| 確立形態2 = [[国家の承認|承認]]<br>([[国際連合]]加盟)
| 確立年月日2 = [[1993年]][[4月8日]]
| 確立形態3 = 現国号への改称
| 確立年月日3 = [[2019年]][[2月12日]]
| 通貨 =[[マケドニア・デナール]]
| 通貨コード =MKD
| 時間帯 =+1
| 夏時間 =+2
| 国歌 = [[今日、マケドニアの上に]]
|ISO 3166-1 = MK / MKD
| ccTLD =[[.mk]]
| 国際電話番号 =389
| 注記 =<references group="※" />
}}
'''北マケドニア共和国'''(きたマケドニアきょうわこく、{{lang-mk|Република Северна Македонија}}、{{lang-sq|Republika e Maqedonisë së Veriut}})、通称'''北マケドニア'''({{lang-mk|Северна Македонија}}、{{lang-sq|Maqedonia e Veriut}})は、[[東南ヨーロッパ]]の[[バルカン半島]]南部に1991年に建国された[[共和国]]。前身は[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア連邦]]の構成国であった。南は[[ギリシャ]]、東は[[ブルガリア]]、西は[[アルバニア]]、北は[[セルビア]]および[[コソボ]]と、四方を他国に囲まれた[[内陸国]]である。
== 北マケドニア共和国と国名 ==
{{出典の明記| date = 2021年4月| section = 1}}
北マケドニア共和国は、地理的には[[マケドニア]]と呼ばれてきた地域の内の北西部にあり、現在ではマケドニア地域全体の約4割を占めている。残りの約5割はギリシャに、約1割はブルガリアに属している。また歴史上、北マケドニア共和国の多数民族は[[マケドニア人]]と自称・他称されるが、彼らは[[スラヴ語派|スラヴ語]]の話し手で[[南スラヴ人]]の一派であり、ギリシャ系の言語を話していたと考えられる古代[[マケドニア王国]]の人々と直接の連続性はない。これらの理由から、1991年の独立当初の国名(マケドニア共和国)をめぐり、ギリシャとの間で後述するような[[#マケドニア呼称問題|国名論争(マケドニア呼称問題)]]が生じた。
[[憲法]]上の正式名称は、'''{{Lang|mk|Република Северна Македонија }}'''([[マケドニア語]]。[[ラテン文字]]転写は、Republika Severna Makedonija。通称は、'''{{Lang|mk|Северна Македонија}}'''(Severna Makedonija)。準[[公用語]]の[[アルバニア語]]での表記は'''{{Lang|sq|Republika e Maqedonisë së Veriut}}'''、通称'''{{Lang|sq|Maqedonia e Veriut}}'''である。
公式の英語表記名は、''{{Lang|en|Republic of North Macedonia}}''。略称、''{{lang|en|North Macedonia}}''。
日本語での表記は、'''北マケドニア'''もしくは'''北マケドニア共和国'''。2019年2月まではマケドニア、もしくはマケドニア共和国であったが、前者では地域としてのマケドニアと区別がつかない。また日本は国連と同様に'''マケドニア旧ユーゴスラビア共和国'''で[[国家の承認|国家承認]]を行っており、行政公文書などにおける日本語の表記は「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」となっていたが、2020年4月1日に「北マケドニア」に変更された<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/macedonia/index.html 北マケドニア] 外務省(2020年4月2日閲覧)。</ref>。かつて、日本国[[外務省]]では単に「マケドニア」あるいは「マケドニア共和国」と簡略化して表記する部分も部分的に見られた。この他に日本語でのリリースを発表する機関として[[欧州連合]](在日[[欧州委員会]]代表部)があるが、欧州連合(EU)の加盟国であるギリシャがマケドニア共和国の正式呼称を認めていないため、通常「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」で言及された。
=== マケドニア呼称問題 ===
{{seealso|マケドニア名称論争|統一マケドニア}}
[[ファイル:Macedonia overview.svg|thumb|left|280px|[[マケドニア]]と呼ばれる地域
{{legend|#D2DE84|[[マケドニア (ギリシャ)|エーゲ・マケドニア]]}}
{{legend|#FFC2A0|北マケドニア共和国}}
灰色線内:[[マケドニア|地理上のマケドニア地方]]<br />
赤色線内:[[マケドニア王国|古代マケドニア王国]](大凡)]]
[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]で有名な[[マケドニア王国|古代マケドニア王国]]の領地が自国にあったギリシャは、「本来のマケドニアはギリシャである」と主張している<ref name="kokumei">{{Cite news|url=<!-- http://mainichi.jp/select/world/europe/news/20080324k0000e030017000c.html -->|title=マケドニア:ギリシャと再び国名論争 国連、米国が仲裁へ|newspaper=[[毎日新聞]]|date=2008-03-24}}</ref>。実際、マケドニアとは北マケドニア共和国のほかにギリシャ([[マケドニア (ギリシャ)|ギリシャ領マケドニア]])やブルガリア([[ブラゴエヴグラト州|ピリン・マケドニア]])、アルバニア([[マラ・プレスパおよびゴロ・ブルド]])のそれぞれ一部にもまたがる地域の名称である。特にギリシャ領はマケドニア地方の5割ほどを占めており、北マケドニア共和国の領土は全体の4割に満たない事に加え、アイガイ(現[[ヴェルギナ]])や[[ペラ]]、[[テッサロニキ]]などの古代マケドニア王国当時の主要都市の多くも現ギリシャ領である。このように、歴史的な古代マケドニアとの継承性、および地理的にマケドニア地方全体の4割に満たない北マケドニア共和国が「マケドニア(共和国)」と名乗ることへの警戒感から、この国をマケドニアの名称で呼ぶことを嫌い、[[ヴァルダル川|ヴァルダル]]、[[スコピエ]]などと地名を使って呼んだ。同時に、1990年代よりマケドニア共和国の国号を改めるよう要求した。これに対してマケドニア共和国の側は、共和国にはギリシャ領マケドニアへの領土的野心がないことを説明し、国名を自国で決める権利は認められるべきであると主張した。
北マケドニアがマケドニアという国名で独立した[[1991年]]以降、ギリシャはマケドニアに[[経済制裁]]を科し、マケドニアという国号、古代マケドニアと類似した[[ヴェルギナの星]]を用いた[[国旗]]、「周辺国に住むマケドニア人の権利を擁護する」という[[内政干渉]]的な憲法条項の3つを改めるよう圧力を加えた。このため、マケドニアは国際的な暫定呼称を変え、国旗をヴェルギナの星とは無関係のものに改め、ギリシャ領マケドニアへの領土的野心を明確に否定する憲法改正を行い、[[1995年]]に経済制裁を解除された。この当時のマケドニアは、ユーゴスラビア崩壊によってかつての[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア]]という市場を失い、また[[ユーゴスラビア紛争]]に伴って北に隣接する[[ユーゴスラビア連邦共和国|セルビア]]の経済も混迷し、また国際的な経済制裁下に置かれていた。また、[[冷戦]]終結によって東西に隣接する[[アルバニア]]および[[ブルガリア]]の経済は混乱状態にある中、海を持たないマケドニアにとって、南に隣接するギリシャの経済制裁の威力は絶大であった。
マケドニアは1993年に「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」(英語表記:The Former Yugoslav Republic of Macedonia、略称「'''FYROM'''」または「FYR Macedonia」) <ref>[[Igor Janev]], Legal Aspects of the Use of a Provisional Name for Macedonia in the United Nations System, AJIL, Vol. 93. no 1. 1999.</ref>を国際社会における暫定的呼称として[[国際連合]]へ加盟した。これ以後、多くの国々や国際的組織は、この暫定名称でマケドニアとの関係を持った。しかし、[[2008年]]11月の時点で、[[アメリカ合衆国]]<ref name="cia fact" />や[[ロシア|ロシア連邦]]など約125カ国の国々は、暫定名称の「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」ではなく、憲法上の国名である「マケドニア共和国」の名でこの国と外交関係を結んでいる。
[[2008年]]、マケドニアとアルバニア、[[クロアチア]]の[[北大西洋条約機構]](NATO)加盟について[[ルーマニア]]の首都[[ブカレスト]]にてNATO加盟国の間で議論が持たれた。この時、クロアチアおよびアルバニアの加盟が承認された一方、マケドニアの加盟はギリシャの拒否によって否認された。このことはマケドニア国内で激しい怒りを生み、「ブカレスト」は「ひどい仕打ち」の同義語とみなされるようになった。マケドニア側は国名に関して一定の譲歩をする代わりに、国民や国を表す形容詞として単に「マケドニアの」または「マケドニア人」と呼ばれることを望んだが、ギリシャ側はこれらを否定し、全て統一的に変更されなければならないとして譲歩を示さなかった。マケドニア側は、国名の問題に関して[[国際司法裁判所]]に提訴した<ref>{{Cite news|url=<!--http://sankei.jp.msn.com/world/europe/081209/erp0812091811006-n2.htm -->|title=「マケドニア」…ギリシャと激しい“国名論争"|newspaper=[[産経新聞]]|date=2008-12-09}}</ref>。
しかし2017年に発足した[[ゾラン・ザエフ]]政権はNATOやEU加盟を目指すため従来の強硬姿勢を改め、これをギリシャ側も好感。呼称問題を解決する機運が高まり、2018年1月には両国の外相会談で作業部会の設置が決定され、国連による仲介も再開される見通しとなった<ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20180116-QHPXQLYFGJJ7NGHI7LCSJQFFKY/|title=マケドニア国名論争にピリオド? ギリシャと作業部会、国連も仲介再開|work=産経ニュース|newspaper=[[産経新聞]]|date=2018-01-16|accessdate=2018-01-17}}</ref>。2018年2月、ゾラン・ザエフ[[マケドニア共和国の首相|首相]]は新しい国名の案として「北マケドニア共和国(Republic of North Macedonia)」「上マケドニア共和国(Republic of Upper Macedonia)」「ヴァルダル・マケドニア共和国(Republic of Vardar Macedonia)」および「マケドニア・スコピエ共和国(Republic of Macedonia (Skopje))」の4つが挙がっていることを明らかにした<ref>[https://www.theguardian.com/world/2018/feb/27/macedonia-puts-forward-four-options-to-resolve-name-dispute Macedonia puts four options forward to resolve name dispute]『[[ガーディアン]]』2018年2月27日</ref>。
2018年6月12日にマケドニアは国名を'''北マケドニア共和国'''とすることでギリシャとの政府間合意({{仮リンク|プレスパ合意|en|Prespa agreement}})が成立<ref name=afpbb3178291>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3178291|title=マケドニア、国名変更でギリシャと合意 「北マケドニア」に|work=AFPBB News|agency=[[フランス通信社]]|date=2018-06-13|accessdate=2019-01-27}}</ref>、17日には両国の外相が暫定的な合意文書に署名した<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3178852|title=マケドニアの国名変更、同国とギリシャが合意文書に署名|work=AFPBB News|agency=[[フランス通信社]]|date=2018-06-17|accessdate=2018-06-18}}</ref><ref name=cnn35121009>{{Cite news|url=https://www.cnn.co.jp/world/35121009.html|title=ギリシャとマケドニア、国名変更の合意に調印|newspaper=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]].co.jp|date=2018-06-18|accessdate=2018-06-18}}</ref>。正式決定には両国議会で了承されることが必要となった<ref name=afpbb3178291 />が、両国国内には改名に反対する世論も存在した<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO31695900T10C18A6EAF000/|title=「北マケドニア共和国」に改名で合意 ギリシャとの対立解消へ|work=日経電子版|newspaper=[[日本経済新聞]]|date=2018-06-13|accessdate=2018-06-13}}</ref>。マケドニアでは議会の最大野党が合意を非難し<ref name=cnn35121009 />、またイヴァノフ大統領は承認を拒否する方針を表明した<ref>{{Cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/world/20180614-OYT1T50098.html|title=マケドニア大統領「憲法違反」新国名を拒否方針|newspaper=[[読売新聞]]|date=2018-06-14|accessdate=2018-06-18}}</ref>。ギリシャでも議会の最大野党が合意に対する不支持を表明<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3178397|title=マケドニアの国名変更合意、ギリシャでは賛否分かれる|work=AFPBB News|agency=フランス通信社|date=2018-06-13|accessdate=2018-06-20}}</ref>、また[[アテネ]]の国会前<ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20180617-EKHMMXLBWBI4VAOPYDI3E2TUDA/|title=「マケドニア」国名論争なお火種 ギリシャで反対デモ、根強い異論|newspaper=産経新聞|date=2018-06-17|accessdate=2018-06-18}}</ref>、および署名式典が開かれた両国の国境に近い{{仮リンク|サラデス|en|Psarades}}の周辺<ref name=cnn35121009 />において、抗議デモに対し警察が[[催涙弾]]などで鎮圧にあたる事態となった。
マケドニアでの国民投票は同年9月30日に実施されたが、野党側がボイコットを呼び掛けたこともあり、投票率は約37%にとどまり成立条件の50%を下回ったため無効となった<ref>{{Cite news|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2018100100208&g=int|title=投票率低く無効に=国名改称の是非、支持圧倒も-マケドニア|work=時事ドットコム|publisher=[[時事通信]]|date=2018-10-01|accessdate=2018-10-02}}</ref>。今回の投票結果が法的拘束力を持たないことから、ザエフ首相は引き続き改名の手続きを進め、野党が同意しなければ総選挙を早期に実施する意向を表明した<ref>{{Cite news|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2018100101042&g=use|title=総選挙で民意問い直しも=マケドニア、改称の行方不透明|work=時事ドットコム|publisher=時事通信|date=2018-10-01|accessdate=2018-10-02}}</ref>。議会の承認プロセスでは両国内で野党勢力の切り崩しなどが行われ、まず2019年1月11日にマケドニア議会が国名変更のために必要な憲法改正案を承認し<ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20190112-XUMCOHJRP5OQJKM3LZZGJQBVS4/|title=「北マケドニア」へ国名変更、憲法改正を承認 野党切り崩しで解決へ前進|work=産経ニュース|newspaper=産経新聞|date=2019-01-12|accessdate=2019-01-27}}</ref>、同年1月25日にはギリシャ議会で改名合意が承認され、呼称問題はマケドニアの国名変更で決着した<ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/world/news/190125/wor1901250027-n1.html|title=「北マケドニア」ギリシャ国会も承認 国名論争に終止符|work=産経ニュース|newspaper=産経新聞|date=2019-01-25|accessdate=2019-01-27}}</ref>。2月12日に改名が発効し、翌13日には国名変更を国際連合に通知した<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3211064|title=「北マケドニア」への国名変更、国連に通知|work=AFPBB News|agency=フランス通信社|date=2019-02-14|accessdate=2019-02-14}}</ref>。
== 歴史 ==
{{Main|北マケドニアの歴史}}
{{単一の出典|date=2021年4月|section=1}}
古代のマケドニア地域には、古くから人が居住しており、[[イリュリア人]]や[[トラキア人]]などの[[部族]]が割拠していた。[[紀元前4世紀]]から[[紀元前3世紀]]にかけて、現在の北マケドニア共和国に相当するマケドニア地域北部は[[マケドニア王国]]の支配下となっていった。マケドニア王国は[[アレクサンドロス3世]](いわゆる「アレキサンダー大王」)の時代に、[[アジア]]や[[エジプト]]に及ぶ最大版図となるが、その死後、国は分裂。[[紀元前2世紀]]には西から勢力を拡大した[[ローマ帝国]]の支配下となっていった。紀元前146年、この地域は正式にローマ帝国の[[マケドニア属州]]の一部とされた。ローマ帝国が東西に分かれると、マケドニアは[[東ローマ帝国]]の一部となった{{Sfn|エドガー・ヘッシュ|1995}}。
[[ファイル:Agios Ahilleios Mikri Prespa 200704.JPG|left|thumb|250px|[[サムイル (ブルガリア皇帝)|サムイル]]によって[[プレスパ湖]]に立てられた聖堂跡。ここにはサムイルの墓がある。]]
中世のマケドニア地域には、北から[[西ゴート族]]、[[フン族]]、[[アヴァール]]そして[[スラヴ人]]などが侵入を繰り返した。[[7世紀]]初頭には、この地域の多くはスラヴ人の居住地域となっていた。スラヴ人たちは、それぞれ異なる時期に段階的にこの地域に入ってきた。スラヴ人の居住地域は、現ギリシャ領の[[テッサロニキ]]などを含む、マケドニア地域のほぼ全域に拡大していった{{Sfn|エドガー・ヘッシュ|1995}}。[[680年]]ごろ、{{仮リンク|クベル|en|Kuber|label=クベル}}に率いられた[[ブルガール人]]の一派がマケドニアに流入した。
[[9世紀]]後半、テッサロニキ出身の[[キュリロス (スラヴの(亜)使徒)|キュリロス]]と[[メトディオス (スラヴの(亜)使徒)|メトディオス]]の兄弟によって[[キリスト教]]の[[聖書]]がスラヴ語に翻訳された。[[9世紀]]に北方から侵入して東ローマ帝国と衝突しながら勢力を拡大していった[[第一次ブルガリア帝国]]は、9世紀末の[[シメオン1世]]の時に最盛期を迎え、マケドニア地方もその版図に収められた。キュリロスとメトディオスの弟子たちには[[スラヴ語派|スラヴ語]]の聖書を用い、ブルガリア帝国の支援の下、スラヴ人たちにキリスト教を布教していった。シメオンの死後、ブルガリア帝国は次第に衰退し、マケドニア地方は再び東ローマ帝国の支配下となった{{Sfn|エドガー・ヘッシュ |1995}}。
[[978年]]、マケドニア出身の[[サムイル (ブルガリア皇帝)|サムイル]]はこの地で東ローマに対する反乱を起こした。サムイルはこの地方の[[オフリド]]を首都としてブルガリア帝国を再建し、彼の下で再度ブルガリア帝国は急速な拡大を迎えた。しかし、[[1014年]]にサムイルが死去するとブルガリア帝国はその力を失い、[[1018年]]には完全に滅亡し、再び東ローマの支配下に帰した{{Sfn|エドガー・ヘッシュ|1995}}。その後、この地方は北で起こった[[セルビア人]]の地方国家の乱立やその他の地方領主の群雄割拠の状態を経て、[[12世紀]]末ごろには新興勢力の[[第二次ブルガリア帝国]]と[[セルビア王国 (中世)|セルビア王国]]、そして[[ラテン帝国]]や[[ニカイア帝国]]といった[[十字軍国家]]の間で勢力争いが繰り広げられる{{Sfn|エドガー・ヘッシュ|1995}}。
十字軍を退けて復活した東ローマ帝国やブルガリア帝国は、東から伸張してきた[[オスマン帝国]]によって国力を落とた。その間隙を衝いてセルビア王国は[[ステファン・ウロシュ3世デチャンスキ (セルビア王)|ステファン・ウロシュ3世デチャンスキ]]の下、大幅な領土拡大に成功し、マケドニア地方全域を支配下に収めた。その息子[[ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン (セルビア皇帝)|ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン]]の下でセルビアは絶頂を迎え、ウロシュ4世は[[スコピエ]]を首都として同地にて[[1345年]]、「セルビア人とローマ人の皇帝」として戴冠を受け皇帝に即位する。しかし、ウロシュ4世の死後はセルビアは地方領主の割拠する状態となり、[[1371年]]の[[マリツァの戦い (1371年)|マリツァ川の戦い]]などを経てマケドニアはオスマン帝国の支配下となった{{Sfn|エドガー・ヘッシュ|1995}}。
オスマン帝国統治時代には、支配下の人々の分類を言語や民族ではなく、宗教の所属に置いていた。これらの人々の帰属意識もキリスト教の[[正教会]]信仰に置かれ、マケドニア人という民族意識も民族名称も存在しなかった。教会の管轄は[[コンスタンディヌーポリ総主教庁]](コンスタンティノープル総主教庁)であった。長いオスマン帝国の支配下で多様な民族の混在化が進み、マケドニア地域には[[スラヴ人]]、[[アルーマニア人]]、[[トルコ人]]、[[アルバニア人]]、[[ギリシャ人]]、[[ロマ]]、[[ユダヤ人]]などが居住していた。この地域のスラヴ人の話す言語は[[ブルガリア語]]に近く、マケドニア地方のスラヴ人はブルガリア人とみなされていた。
[[19世紀]]、[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]や[[ギリシャ王国]]がオスマン帝国から独立を果たすと、この地域の非トルコ人、特に[[正教会|正教徒]]の間ではオスマン帝国からの分離の動きが加速した。[[1878年]]に[[ブルガリア公国]]が成立すると、一度はマケドニア全域がブルガリア公国の領土とされたものの、ブルガリアの独立を支援した[[ロシア帝国]]の影響力拡大を恐れた[[列強]]諸国によってブルガリアの領土は3分割され、マケドニア地方はオスマン帝国領に復した。マケドニアで最大の人口を持っていたスラヴ人の間では、マケドニアの分離とブルガリアへの併合を求める動きが強まり、[[内部マケドニア革命組織|内部マケドニア・アドリアノープル革命組織]]などの反オスマン帝国組織が形成された。このころ、マケドニア地域のスラヴ人の多くはブルガリア人を自認していたが、[[ブルガリア人]]とは異なる独自の[[マケドニア人]]としての民族自認も芽生え始めていた。
[[内部マケドニア革命組織]]は[[ゴツェ・デルチェフ]]らの指導の下で武装蜂起を進め、[[1903年]]8月に{{仮リンク|イリンデン蜂起|en|Ilinden–Preobrazhenie Uprising}}を起こした(この年の[[グレゴリオ暦]]の[[8月2日]]は、[[ユリウス暦]]では[[7月20日]]の聖[[エリヤ]]の日であり、イリンデンとは聖エリヤの日を意味する)。イリンデン蜂起は失敗に終わったものの、この地域のスラヴ人による反オスマン帝国の闘争は続き、また、比較的オスマン帝国への親和性の高かったアルバニア人の間でも[[プリズレン連盟]]を中心にオスマン帝国からの自立を求める動きが高まった。また、マケドニアを自国領へと組み込むことを狙っていたギリシャ、セルビア、ブルガリアからも複数の組織がマケドニア地方に浸透していった。[[1912年]]の[[第一次バルカン戦争]]の時、内部マケドニア革命組織はブルガリア軍の側についてオスマン帝国と戦った。第一次バルカン戦争によって、オスマン帝国はマケドニア地域を手放すこととなったが、マケドニア地方全域を自国領とすることを求めたブルガリアと、マケドニアの分割支配を求めたセルビア、ギリシャの間で対立が起こり、翌[[1913年]]の[[第二次バルカン戦争]]へと発展した。
[[ファイル:The Balkan boundaries after 1913.jpg|right|thumb|250px|マケドニア分割。色が濃く塗られているのが、オスマン帝国が放棄した領土。このうち北西側の緑色の部分は北に隣接するセルビアの領土となった。]]
セルビアおよびユーゴスラビア統治時代について記述する。第二次バルカン戦争ではマケドニア地域の南部5割はギリシャ、西北部4割はセルビア(後に[[ユーゴスラビア王国]])が奪取し、ブルガリアは1割を確保するに留まった。この時のセルビア領マケドニアが、のちの北マケドニア共和国の領土となった。ギリシャ領、セルビア領のマケドニアでは、ブルガリアの支援を受けた抵抗運動が活発に起こったが、[[第一次世界大戦]]で[[中央同盟国|中央同盟]]側についたブルガリアが敗北すると、[[ヌイイ条約]]によりギリシャ領マケドニアのスラヴ人は[[住民交換]]の対象となった。この時、全てのスラヴ人の母国はブルガリアとされ、自身をギリシャ人と宣誓した者以外は全てブルガリアへと追放された。他方、ユーゴスラビアとなったセルビア領マケドニアではその後も内部マケドニア革命組織による抵抗運動が続き、[[1934年]]にはユーゴスラビア王[[アレクサンダル1世 (ユーゴスラビア王)|アレクサンダル1世]]を暗殺した。
[[第二次世界大戦]]時、[[枢軸国]]は[[ユーゴスラビア侵攻|ユーゴスラビアに侵攻]]した。枢軸側についたブルガリアはユーゴスラビア領マケドニアの大部分を支配下に収め、マケドニア併合の夢を実現する。マケドニアのブルガリアへの統合を歓迎する内部マケドニア革命組織の右派はブルガリアによる占領統治に協力するが、ブルガリアから独立した[[統一マケドニア]]の実現を志向した左派の勢力は、[[ヨシップ・ブロズ・チトー|ヨシップ・ブロズ・ティトー]]率いる共産主義者の[[パルチザン (ユーゴスラビア)|パルチザン]]として枢軸国に抵抗した。[[1944年]]には枢軸国に対する抵抗勢力は[[マケドニア人民解放反ファシスト会議]]の下に統一された。
[[ファイル:Locator map Macedonia in Yugoslavia.svg|left|thumb|250px|ユーゴスラビア連邦の構成国として成立した[[マケドニア社会主義共和国]]。]]
第二次世界大戦でブルガリアが敗退し、ユーゴスラビアがマケドニア北西部の支配を回復すると、ユーゴスラビアはティトーの指導の下、共産主義体制をとる連邦国家となった。マケドニア人民解放反ファシスト会議の決定に従って、ユーゴスラビア領マケドニアはマケドニア人民共和国([[1963年]]より[[マケドニア社会主義共和国]])となった。[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア連邦]]の下では、ブルガリア人とは異なるマケドニア人意識が涵養され、また[[スコピエ]][[方言]]を基礎とした[[マケドニア語]]の正書法も確立された。
[[1963年]]には[[スコピエ]]で{{仮リンク|スコピエ地震 (1963年)|mk|Скопски земјотрес 1963|label=大震災}}が発生し、死者1,100人を出した。ユーゴ時代は、北マケドニア、セルビア、クロアチア他の地域は、チトー{{efn|チトー(1892-1980)は、1948年にスターリンと絶縁したため、コミンフォルムを追放された。また、東欧ではチトー主義者狩りが実行された}}の統治のもと、分裂せずに統合を保った。またユーゴとは別に独立国であったアルバニアは、親中国の国として知られ、国連にアルバニア決議案を提出するなどした。
[[ファイル:Flag of Macedonia (1992–1995).svg|thumb|right|1991年-1995年の国旗]]
[[1990年]]、[[冷戦]]終結の影響を受け、ユーゴスラビアでは戦後初めての複数政党制による民主選挙が行われた{{Sfn|久保慶一|2003}}。マケドニアでも国名から「社会主義」の語を外し、[[マケドニア共和国 (1991年)|マケドニア共和国]]と改称された。マケドニア同様にユーゴスラビアの構成国であった[[スロベニア]]、[[クロアチア]]では独立を志向する勢力が圧倒的勝利を収め、ユーゴスラビアからの独立を宣言した。
これを受けてマケドニアでも独立の準備が進められ、[[1991年]][[9月8日]]、マケドニア大統領[[キロ・グリゴロフ]]の下、マケドニアは独立を宣言した。
独立国となったマケドニアは、古代マケドニア王朝のシンボルである[[ヴェルギナの星]](「ヴェルギナの太陽」ともいう)を描いた[[マケドニア共和国の国旗|国旗]]を制定した。ユーゴスラビア連邦軍が保有する兵器をマケドニア側に分け与えず、全てセルビア側が持ち去ることを条件に、[[1992年]]3月にはユーゴスラビア連邦軍の撤退が実現された{{Sfn|千田善|2002|}}。
[[1993年]]1月に国連に加盟申請するが、ギリシャとの間で「[[マケドニア呼称問題|国名論争]]」が勃発し、4月に暫定国名「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」で国連加盟が承認された。しかしギリシャは納得せず、[[1994年]]2月に経済封鎖された。この時、国旗を変更し、憲法の一部を改正した。[[1995年]]にはギリシャの経済封鎖が解除された。
[[1998年]]、総選挙の結果、共産主義時代の政権党であった[[マケドニア共産主義者同盟]]の流れを汲む[[マケドニア社会民主同盟]]に代わり、中道右派政党に転向した[[内部マケドニア革命組織・マケドニア国家統一民主党]]を中心とする連立政権が成立。[[1999年]]の大統領選挙では同党の[[ボリス・トライコフスキ]]が首相となった。
前述のように、マケドニアからは大きな衝突なしにセルビア人勢力(ユーゴスラビア軍)が撤退し、[[ユーゴスラビア紛争]]の前半で激戦地となったクロアチアや[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]に比べて平穏に独立を達成した。しかし、1990年代後半、隣接するセルビア領の[[コソボ・メトヒヤ自治州 (1990年-1999年)|コソボ自治州]]で発生した[[コソボ紛争]]によって、セルビア側の勢力の迫害を恐れた[[アルバニア人]]の[[難民]]が大量にマケドニア共和国に流れ込んだ。セルビアがコソボ自治州から撤退した後、彼らの多くはコソボへと帰還していった。
[[2001年]]、マケドニア国内で人口の2割強を占めるアルバニア人に対する待遇に不満を持つ者らによって、武装勢力「[[民族解放軍 (マケドニア共和国)|民族解放軍]]」が結成された。民族解放軍は[[コソボ解放軍]]と深いつながりが指摘される武装勢力で、コソボ紛争が終わって自由になったコソボ解放軍の武器や人員が多く含まれている。2月の民族解放軍の蜂起によって起こった[[マケドニア紛争]]は、8月にアルバニア人との権力分有や、アルバニア語での高等教育などを含む、アルバニア人の民族的権利の拡大を認める和平合意文書([[オフリド合意]])が調印されて終結した。和平監視のためにNATO軍が駐留を開始した。同年11月には、オフリド合意に基づいて議会で憲法の改正が可決された{{Sfn|久保慶一|2003}}。
[[2002年]]9月の総選挙では、[[マケドニア社会民主同盟]]が政権を奪還し、民族解放軍が改組したアルバニア人政党「[[民主統合連合]]」と連立政権を組んだ。その後もアルバニア系武装勢力によるテロ事件や、警察との衝突は散発的に起こったが、治安は回復し、平穏な推移をみせている。[[2006年]]、[[2008年]]の総選挙では内部マケドニア革命組織が勝利を収めたが、常にアルバニア人政党との連立政権を組んでおり、アルバニア人政党とマケドニア人政党による権力の分有は定着しつつある。アルバニア語教育をはじめとするアルバニア人の民族的権利は守られており、国内のマケドニア人とアルバニア人の関係は比較的良好である{{Sfn|久保慶一|2003}}。
[[2008年]]2月には、隣接する[[コソボ]]が独立を宣言した。マケドニアのアルバニア人を中心にコソボの独立を承認する動きが強まった結果、同年10月にマケドニア共和国はコソボの独立を承認し、2009年に正式な外交関係が樹立された。
[[2019年]]1月には国名を'''北マケドニア共和国'''とすることが決定。2月12日に改名が発効した。[[2020年]]3月27日、[[北大西洋条約機構|NATO]]に加盟した。
== 政治 ==
{{出典の明記| date = 2021年4月| section = 1}}
{{Wikinews|アルバニア系政党間の対立による、マケドニア共和国の議会選挙中の暴力で死者1名・負傷者多数}}
[[ファイル:Republic-of-Macedonia-Parliament.jpg|left|thumb|[[北マケドニア議会]]議事堂]]
{{main|{{仮リンク|北マケドニア共和国の政治|en|Politics of North Macedonia}}}}
北マケドニアは[[共和制]]、[[議院内閣制]]を採用する立憲国家である。現行憲法は1991年11月17日に制定され、同月20日に施行されたものである(その後、数度の改正を経ている)。
[[元首|国家元首]]である[[大統領]]は国民の直接選挙で選出され、任期は5年、3選は禁止されている。大統領は元首として北マケドニアを代表し、形式的に国軍最高司令官および治安評議会議長を務める。しかし、その権限は、儀礼的なものに限られている。実際の政治は[[行政府]]たる[[内閣]]が率いる。総選挙後初の議会で[[首相]]が選出され、その後、議会により[[閣僚]]の選出が行なわれる。
[[北マケドニア議会]]は[[一院制]]で、定数は123である。議員は[[比例代表制]]により選出され、任期は4年である。北マケドニアでは[[複数政党制]]が機能している。主な政党には[[中道右派]]の[[内部マケドニア革命組織・マケドニア国家統一民主党]](VMRO-DPMNE)と[[中道左派]]の[[マケドニア社会民主同盟]](SDSM)の2党がある{{Sfn|久保慶一|2003}}。北マケドニアのアルバニア人を代表する政党は、[[アルバニア人民主党]]と、民族解放軍から改組した[[民主統合連合]]の2党がある。{{See also|[[北マケドニアの政党一覧]]}}
[[2009年]]の大統領選挙では、決選投票にもつれ込んだ末に与党(当時)VMRO-DPMNEの[[ジョルゲ・イヴァノフ]]が65%前後の得票率で野党(当時)SDSMの[[リュボミル・フルチュコスキ]]を破り当選した。2014年の大統領選挙でもイヴァノフが再選を果たしたが、[[2019年]]にはSDSMの[[ステボ・ペンダロフスキ]]がVMRO-DPMNEの候補を抑え、当選した。
司法権は裁判所によって行使され、裁判所制度は司法最高裁判所、憲法裁判所<ref>Restricted Judicial Activism of the Constitutional Court of Republic of Macedonia Regarding Protection of Human Rights and Freedoms. Acta Universitatis Danubius. Juridica;Galati Vol.15, Fasc.1, (2019).</ref> および共和党司法評議会が主導している。
議会は裁判官を31人任命することが出来る。うち22人は最高裁判所、9人は憲法裁判所に配属されている。最高裁判所の裁判官は、7人の法律専門家から構成される司法評議会によって指名された上で、議会によって任命される。憲法裁判所の裁判官は9年の任期となっており、議会によって任命される。ただし任期の更新は不可とされている。
== 国際関係 ==
{{main|{{仮リンク|北マケドニアの国際関係|en|Foreign relations of North Macedonia}}}}
[[ファイル:Adriatc group with Bush.jpg|right|thumb|250px|(左から)クロアチア首相[[イーヴォ・サナデル]]、アメリカ大統領[[ジョージ・W・ブッシュ]]、アルバニア首相[[サリ・ベリシャ]]、マケドニア首相[[ニコラ・グルエフスキ]]。クロアチア、アルバニア、マケドニアの3国はアドリア・グループとして協力して[[北大西洋条約機構|NATO]]入りを目指したが、マケドニアのNATO加盟はギリシャの拒絶に遭った。]]
=== 対ブルガリア関係 ===
マケドニアの独立を最初に承認したのは東の隣国ブルガリアであった。歴史的にブルガリアは、マケドニア人はブルガリア人、マケドニア語は[[ブルガリア語]]の一部であるとみなし、マケドニアを含むマケドニア地域全体への領土的な執着を持ち続けてきた{{Sfn|久保慶一|2003}}。ブルガリアはマケドニアの独立を認める立場をとりつつ、その民族や言語の独自性には否定的な見解を繰り返し表明している{{Sfn|久保慶一|2003}}。そのため、マケドニアでは、ブルガリアはマケドニアの存在そのものを脅かしかねないものとして警戒されている。しかし一方で、周辺地域の緊張関係に悩まされるマケドニアにとってブルガリアは最大の擁護者でもあり、両国の関係は複雑である。北マケドニアの[[北大西洋条約機構|NATO]]加盟は実現したが、[[欧州連合]](EU)加盟は前述の言語問題を理由としたブルガリアの反対を受けている。これに対して、ザエフ首相は「EUの価値観に反している」と反論している<ref>「[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO67588630S0A221C2FF8000/ 北マケドニアEU加盟に暗雲 言語問題で隣国と対立]」『日本経済新聞』朝刊2020年12月23日(国際面)2020年12月27日閲覧</ref>。
=== 旧ユーゴ・アルバニア・ギリシャとの関係 ===
{{出典の明記| date = 2021年4月| section = 1}}
マケドニアは、[[1990年代]]前半の[[ユーゴスラビア崩壊]]に伴うユーゴスラビア連邦からの独立に際して、戦禍に巻き込まれることなく平和的な独立を果たした唯一の国家である{{efn|早期に独立を達成した[[スロベニア]]でも、[[十日間戦争]]と呼ばれる武力衝突があり、死傷者が出ている。}}。そのため、連邦解体に反対の立場にあったセルビアや、その他の旧ユーゴスラビア諸国に対する国民感情は、他の旧ユーゴスラビア諸国の国民に比べると穏やかである。
[[2008年]]10月にセルビアが自国領と考える[[コソボ]]を、マケドニアは国家として承認した。セルビア共和国はこれを受け入れられないとし、マケドニアに駐在する大使を召還するとともに、セルビアに駐在するマケドニアの大使を[[ペルソナ・ノン・グラータ]]として国外追放した。その後マケドニアは新しい大使をセルビアに着任させた。
北マケドニアには、人口の2割から3割程度のアルバニア人が居住しており、アルバニアおよびコソボを巻き込んでの[[大アルバニア]]主義の伸張は国土の統一を脅かす問題として警戒されている。[[1997年]]の[[1997年アルバニア暴動|暴動]]で混乱状態に陥ったアルバニアでは、コソボ独立を求めるアルバニア人武装勢力「[[コソボ解放軍]]」が拠点を設け、人員を集め、また軍施設から略奪された武器を集めていたと考えられている。コソボ紛争が終わると、その武器と人員の一部がマケドニアのアルバニア人武装勢力「[[民族解放軍 (マケドニア共和国)|民族解放軍]]」にもたらされたと考えられている。このようなことから、アルバニアおよびコソボの安定は北マケドニアにとって死活的な問題となっている。マケドニアは、2008年2月にコソボが独立すると、10月に同国を国家承認した。2009年には両国間に外交関係が樹立された。
南のギリシャとは先述した[[マケドニア呼称問題]]を抱えていたほか、スラヴ系の「マケドニア人」という民族自認や、「マケドニア語」という言語呼称も問題となっている。ギリシャには、第一次世界大戦後の[[ヌイイ条約]]の定める住民交換によってギリシャからブルガリアに追放されるのを逃れるために、自身をギリシャ人と宣誓して[[マケドニア (ギリシャ)|ギリシャ領マケドニア]]に留まった少数のスラヴ人が住んでいる。このスラヴ人の中でも、1991年のマケドニア共和国独立以降、自身を「マケドニア人」と考える人々が現れている。ギリシャでは公式にはスラヴ系「マケドニア人」という少数民族の存在は認められておらず、彼らの民族的・文化的権利の追求が両国間の問題となっている。
また、マケドニア国内ではギリシャ領やブルガリア領も含めた[[統一マケドニア]]に関する議論が多く見られ、右派政党[[内部マケドニア革命組織・マケドニア国家統一民主党]]もかつてはこれを党是に含めていた。ギリシャは、マケドニアが独立後しばらくその国名を諦めないことと併せて、マケドニアが潜在的にギリシャ領マケドニアに対する領土的野心を持つことを警戒した。
ギリシャは国名や言語・民族呼称などに関する問題を抱えている一方で、これらの問題が解決されれば地域の安定と繁栄のために、マケドニア共和国のNATOおよび欧州連合加盟が望ましいとしている。ギリシャは[[ドイツ]]とならんでマケドニアの最大の貿易相手国であり、両国の経済は深い結びつきを持っている。マケドニアとギリシャを結ぶ幹線道路の建設も進められ、マケドニアはギリシャから多数の投資を呼び込んでいる。北マケドニア共和国はギリシャと比べると物価も賃金も安く、ギリシャ向けの生産拠点、あるいはギリシャからショッピング・観光の場ともなっている。
=== 地域統合 ===
北マケドニアは[[中欧自由貿易協定]]や[[南東欧協力プロセス]]に加盟しており、ユーゴスラビア崩壊後の新しいバルカン諸国の地域協力体制の枠組みに加わっている。2021年7月末には、人やモノ、金の自由な移動を保障する[[経済圏]]構想「オープンバルカン・イニシアチブ」の立ち上げをセルビアおよびアルバニアとともに提唱した<ref>【新興国ABC】域内連携進む「西バルカン」諸国 EU見据え製造拠点化『[[日経産業新聞]]』2021年12月15日グローバル面</ref>。またNATOおよび欧州連合(EU)加盟を目指してきた。
2019年2月の北マケドニア共和国への国号変更で、NATOとEUの加盟国であるギリシャによる反対が解消したため、NATO加盟国とマケドニアは2019年2月6日、マケドニアを30番目のNATO加盟国とする議定書に署名し<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO4099243006022019FF1000/ NATO、30カ国体制に「マケドニア」の加盟承認]『日本経済新聞』朝刊2019年2月7日(国際1面)2019年2月8日閲覧</ref>、2020年3月27日に正式に加盟した<ref>{{Cite news|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200328/k10012355141000.html|title=NATOに北マケドニアが加盟 30か国の体制に|work=NHK NEWSWEB|agency=[[日本放送協会|NHK]]|date=2020-03-28|accessdate=2020-03-29}}</ref>。一方で、EUへの加盟については国名変更後の2019年10月のEU首脳会議でフランスに加盟を拒まれた<ref>{{Cite news|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2020010400140&g=int|title=北マケドニア首相辞任 EUの拒否受け4月総選挙|work=時事ドットコム|agency=時事通信社|date=2020-01-04|accessdate=2020-01-04}}</ref>が、2020年3月には加盟交渉に入ることで合意している<ref name=nikkei20200326>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO57194850V20C20A3FF8000/|title=EU、英抜きで再拡大へ バルカン諸国の加盟交渉で合意|work=日経電子版|newspaper=日本経済新聞|date=2020-03-26|accessdate=2020-03-26}}</ref>。
==== EU ====
2005年、マケドニアは「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」の名で、正式に[[欧州連合の拡大#加盟候補国|欧州連合加盟候補国]]となった。[[ニコラ・グルエフスキ]]首相は2014年ごろの加盟を目指すとしていたが、2008年後半の欧州連合議長国となったフランスの[[ニコラ・サルコジ]]大統領は、マケドニアの欧州連合への参加には国名問題の解決が前提となると繰り返し表明し、マケドニアの国民や政府関係者を失望させた。国名問題は2019年に解決したが、バルカン半島諸国がEUに加盟することで移民が西欧諸国に流入しやすくなり、移民反対を掲げる政党が増長しかねないと懸念するフランスや[[オランダ]]、[[デンマーク]]などはその後も加盟交渉入りに反対し続けた。2020年2月には加盟候補国の改革が遅れれば交渉を止められるといった加盟手続きの改革案を[[欧州委員会]]が提示し、フランスなどが評価。3月24日に加盟交渉入りすることが決定した<ref name=nikkei20200326 />。
==== NATO ====
2008年、NATOはアルバニアおよびクロアチアの加盟を認める一方、マケドニアの加盟はギリシャの拒否権行使によって否定された。マケドニアはクロアチア、アルバニアと同時のNATO加盟が勧告されており、マケドニアに対する加盟拒否は国内で激しい怒りを生んだ。アメリカは「マケドニア共和国」の呼称を認めており、この時のアメリカの[[ジョージ・W・ブッシュ]]大統領は[[アフガニスタン]]や[[イラク]]にも軍を派兵している同盟国マケドニアのNATO加盟を強く支持している。
一方、[[ロシア]]はバルカン半島でのNATO加盟国増加を妨害するため、マケドニア国内に対して、ギリシャとの和解および米国やNATO、EUに対する反感を高める政治・世論工作を展開していると報道されている(ロシアは否定)<ref>{{Cite news|title=国名変更綱引き マケドニアきょう国民投票 与党…米欧/野党…露|newspaper=毎日新聞|date=2018年9月30日|url=https://mainichi.jp/articles/20180929/mog/00m/030/010000c|publisher=毎日新聞社|accessdate=2018年10月3日}}</ref>。
2020年3月27日、30番目の加盟国としてNATOに加盟した<ref>{{Cite web|和書|title=NATOに北マケドニアが加盟 30か国の体制に|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200328/k10012355141000.html|website=NHKニュース|accessdate=2020-03-29|last=日本放送協会}}</ref>。
=== 対日関係 ===
{{Main|日本と北マケドニアの関係}}
{{See also|駐日北マケドニア大使館}}
; 駐日北マケドニア大使館
:* 住所: [[東京都]][[品川区]][[東五反田]]五丁目16-17
:* アクセス: [[東日本旅客鉄道|JR]][[山手線]][[五反田駅]]東口、もしくは[[都営浅草線]]A4
:
<gallery>
北マケドニア全景.jpg|北マケドニア大使館全景
北マケドニア大使館正門.jpg|北マケドニア大使館正門
北マケドニア大使館表札.jpg|北マケドニア大使館表札
</gallery>
== 地理 ==
{{出典の明記| date = 2021年4月| section = 1}}
[[ファイル:Macedonia Map.png|right|400px|マケドニアの地図]]
{{main|{{仮リンク|北マケドニア共和国の地理|en|Geography of the Republic of Macedonia}}}}
[[File:Mount Korab, Republic of Macedonia.jpg|thumb|Korab山]]
北マケドニアは国土の大部分が[[山地]]の内陸国である。北に[[コソボ]]および[[セルビア]]、東に[[ブルガリア]]、南に[[ギリシャ]]、西に[[アルバニア]]と国境を接し、いずれも高い[[山脈]]が連なる[[高山]]地帯である。最高地点はアルバニア国境の[[コラブ山]]([[標高]]2764m)。国土の中央には北西から南東に[[ヴァルダル川]]が流れ、ギリシャ領へと続いている。ヴァルダル川の周りには急峻な[[渓谷]]が刻まれ、この渓谷には北からの冷たい風が流れ込み、ギリシャ領へと吹き付ける。この強い北風は[[ヴァルダリス]]と呼ばれている。南西部のアルバニアおよびギリシャとの国境地帯には[[オフリド湖]]と[[プレスパ湖]]という2つの湖がある。
北マケドニアは、[[地中海性気候]]と高山性気候の中間にある。ヴァルダル川の渓谷部は標高が低く、地中海性気候に近い。ここでは夏季には最高気温が40[[セルシウス度|度]]に達することもある。一方で高山地帯は冷涼であり、冬季は深い雪に閉ざされる。
{{Main|北マケドニアの基礎自治体}}
北マケドニアには、州や県に相当するような中間の[[地方政府|地方自治体]]は設置されていない。北マケドニアは[[オプシュティナ]]({{lang|mk|општина}})と呼ばれる[[基礎自治体]]に分割され、その数は[[2013年]]以降、80自治体となっている。首都の[[スコピエ]]は単独の自治体ではなく、10の独立したオプシュティナによって構成されている。これとは別に8つの地方({{lang|mk|регион}})が存在するが、こちらには行政権がなく統計上の使用にとどまっている。
=== 主要都市 ===
{{main|北マケドニアの都市の一覧}}
北マケドニアの主要都市
{| border=0 style="text-align: right;" cellpadding=0 cellspacing=0 style="margin: 0 0 1em 1em; background: #f9f9f9; border: 0px #aaaaaa solid; border-collapse: collapse; font-size: 95%;"
|<div style="position: relative">[[ファイル:MIHPM(MG).png|top]]
<div style="position: absolute;font-size:165%;left:179px;top:75px">[[スコピエ|<span style=color:mistyrose;>スコピエ</span>]]</div>
<div style="position: absolute;font-size:140%;left:130px;top:254px">[[ビトラ|<span style=color:mistyrose;>ビトラ</span>]]</div>
<div style="position: absolute;font-size:140%;left:155px;top:125px">[[ヴェレス|<span style=color:mistyrose;>ヴェレス</span>]]</div>
<div style="position: absolute;font-size:140%;left:215px;top:110px">[[シュティプ|<span style=color:mistyrose;>シュティプ</span>]]</div>
<div style="position: absolute;font-size:140%;left:274px;top:200px">[[ストルミツァ|<span style=color:mistyrose;>ストルミツァ</span>]]</div>
<div style="position: absolute;font-size:140%;left:85px;top:90px">[[テトヴォ|<span style=color:mistyrose;>テトヴォ</span>]]</div>
<div style="position: absolute;font-size:140%;left:220px;top:45px">[[クマノヴォ|<span style=color:mistyrose;>クマノヴォ</span>]]</div>
<div style="position: absolute;font-size:140%;left:168px;top:190px">[[プリレプ|<span style=color:mistyrose;>プリレプ</span>]]</div>
<div style="position: absolute;font-size:130%;left:20px;top:140px">[[ゴスティヴァル|<span style=color:mistyrose;>ゴスティヴァル</span>]]</div>
<div style="position: absolute;font-size:140%;left:68px;top:239px">[[オフリド|<span style=color:mistyrose;>オフリド</span>]]</div>
<div style="position: absolute;font-size:140%;left:33px;top:220px">[[ストルガ|<span style=color:mistyrose;>ストルガ</span>]]</div>
<div style="position: absolute;font-size:140%;left:310px;top:110px">[[コチャニ|<span style=color:mistyrose;>コチャニ</span>]]</div>
<div style="position: absolute;font-size:140%;left:300px;top:170px">[[ラドヴィシュ|<span style=color:mistyrose;>ラドヴィシュ</span>]]</div>
<div style="position: absolute;font-size:140%;left:70px;top:10px">'''[[コソボ]]'''</div>
<div style="position: absolute;font-size:140%;left:200px;top:-10px">'''[[セルビア]]'''</div>
<div style="position: absolute;font-size:140%;left:328px;top:25px">'''[[ブルガリア]]'''</div>
<div style="position: absolute;font-size:140%;left:254px;top:300px">'''[[ギリシャ]]'''</div>
<div style="position: absolute;font-size:140%;left:-20px;top:200px">'''[[アルバニア|ア<br/>ル<br/>バ<br/>ニ<br/>ア]]'''</div>
</div>
|}
{| class="wikitable"
|-
!colspan="5" style="text-align: center;"| '''北マケドニアの主な都市と自治体'''
|-
!style="text-align: center;" |都市|| style="text-align: center;" | 都市<br/>人口 || style="text-align: center;" | 市章 || style="text-align: center;" | 自治体<br/>人口
|-
|[[スコピエ]] || style="text-align: right;"| 444,000 || style="text-align: center;" | [[ファイル:Coat_of_arms_of_Skopje.svg|25px]] || style="text-align: right;"|506,926
|-
|[[ビトラ]] || style="text-align: right;"| 80,000 || style="text-align: center;" | [[ファイル:Coat of arms of Bitola Municipality.svg|25px]]|| style="text-align: right;"| 95,385
|-
| [[クマノヴォ]] || style="text-align: right;"| 71,000 || style="text-align: center;" | [[ファイル:Coat of arms of Kumanovo Municipality.svg|20px]]|| style="text-align: right;"| 105,484
|-
| [[プリレプ]] || style="text-align: right;"| 68,000 || style="text-align: center;" | [[File:Coat of arms of Prilep Municipality.svg|20px]] || style="text-align: right;"| 76,768
|-
| [[テトヴォ]] || style="text-align: right;"| 60,000 || style="text-align: center;" | [[ファイル:Coat_of_arms_of_Tetovo_Municipality.png|25px]] || style="text-align: right;"| 86,580
|-
| [[オフリド]] || style="text-align: right;"| 51,000 || style="text-align: center;" | [[File:Coat of arms of Ohrid Municipality.svg|20px]] || style="text-align: right;"| 55,749
|-
| [[ヴェレス]] || style="text-align: right;"| 48,000 || style="text-align: center;" | [[ファイル:Grb Veles.png|20px]]|| style="text-align: right;"| 55,108
|-
| [[ゴスティヴァル]] || style="text-align: right;"| 46,000 ||style="text-align: center;" | || style="text-align: right;"| 81,042
|-
| [[シュティプ]] || style="text-align: right;"| 42,000 ||style="text-align: center;" | [[ファイル:Coat of arms of Štip Municipality.svg|25px]] || style="text-align: right;"| 47,796
|-
| [[ストルミツァ]] || style="text-align: right;"| 40,000 ||style="text-align: center;" |[[File:Coat of arms of Strumica Municipality.svg|20px]] || style="text-align: right;"| 54,676
|-
| [[コチャニ]] || style="text-align: right;"| 27,000 ||style="text-align: center;" | [[ファイル:Coat of arms of Kočani Municipality.svg|25px]] || style="text-align: right;"| 38,092
|-
| {{仮リンク|ラドヴィシュ|en|Radoviš}} || style="text-align: right;"| 16,223 ||style="text-align: center;" | [[ファイル:Coat of arms of Radoviš Municipality.svg|25px]] || style="text-align: right;"| 28,244
|}
== 経済 ==
{{main|{{仮リンク|北マケドニアの経済|en|Economy Republic of Macedonia}}}}
[[File:Skopje X129.JPG|thumb|left|首都[[スコピエ]]]]
北マケドニアは、ユーゴスラビア時代は低開発地域として、連邦から受け取る開発資金の恩恵を受けていた。ユーゴスラビアが解体されると、連邦からの援助が得られなくなったことに加えて、ユーゴスラビアという市場を失ったことや体制の転換をめぐる混乱によって、経済は大きく落ち込んだ。北に隣接するセルビアは紛争当事国となって国際的な制裁下に置かれた。西の隣国アルバニアは[[冷戦]]期に独自の鎖国政策を採ったことからヨーロッパの最貧国となっており、また独立時は[[社会主義]]・[[冷戦]]体制崩壊によって東のブルガリアも経済的な混乱の最中にあった。海を持たないマケドニアの南の隣国であるギリシャは、呼称問題を理由にマケドニアに対して経済制裁を行い、国内経済は壊滅的な影響を受けた。マケドニアの[[国内総生産]](GDP)は1996年までマイナス成長となった。[[2003年]]ごろからは周辺諸国の経済混乱も一段落し、また一連のユーゴスラビア紛争が終結、ギリシャとの関係改善の努力も進められた結果、マケドニア経済は毎年平均して4%程度の成長を続けた。しかし、政治的不安によって2017年の成長率は0%と落ち込んでいる<ref name="cia fact" />。2003年には[[世界貿易機関]](WTO)への加盟も果たした。また、北マケドニアは[[オフリド湖]]などの観光資源に恵まれており、観光開発にも力を入れている。
2007年の推計では、雇用者の19.6%は農業を中心とした[[第一次産業]]、30.4%は[[第二次産業]]、50%は[[第三次産業]]に従事している。対GDP比では、第一次産業は11.9%、第二次産業は28.2%、第三次産業は59.9%となっており、第三次産業が大きな比率を占めている。[[2007年]]の失業率は34.9%となっているが、これに含まれていない[[闇経済]]はGDPの20%ほどを占めていると考えられる。主要な輸出品目は食品、飲料(ワインなど)、繊維、鉄鋼、鉄などである。輸入品目は機械、自動車、化学製品、燃料、食品などである。主要な貿易相手国はドイツ、ブルガリア、セルビアである<ref name="cia fact" />。
[[2016年アメリカ合衆国大統領選挙]]以降、マケドニアは[[インターネット]]における[[虚偽報道|フェイクニュース]]の一大作成・発信源として知られるようになった。きっかけは[[ヴェレス]]で30歳代の兄弟が[[銀行]]に高級車で乗り付けて数千ドルを引き出し、「[[健康食品]]のサイトで稼いだ」という噂が広まって、追随する者が増えたためであるという<ref>【世界深層in-depth】マケドニア・偽ニュース量産の小国/情報切り貼り憶測で加工/男子学生は言い放った。「簡単なのにやらない方がおかしい」『[[読売新聞]]』朝刊2017年7月22日(国際面)</ref>。フェイクニュースの作成・流布が行われている背景には、ユーゴスラビア解体以来、経済低迷に苦しむマケドニア国民が「どうすれば稼げるかを考え続け」るようになり、モラルが崩壊したためと指摘されている<ref>【世界深層in-depth】マケドニア・偽報道 教師も人稼ぎ/地元記者は言い切った。「良心の呵責なんてない」/ユーゴ解体後 産業育たず『読売新聞』朝刊2017年7月24日(国際面)</ref>。
== 交通 ==
{{main|{{仮リンク|北マケドニアの交通|en|Transport in North Macedonia}}}}
基本となる交通システムは道路は右側通行、免許証の取得可能年齢は18歳、レンタカーの利用可能年齢は24歳からとなっている<ref>[https://www.rhinocarhire.com/Drive-Smart-Blog/Drive-Smart-Macedonia.aspx Drive-Smart-Macedonia] rhinocarhire.com 2023年12月21日閲覧</ref>
=== 道路 ===
{{See also|{{仮リンク|北マケドニアの高速道路|en|Motorways in North Macedonia}}}}
=== 鉄道 ===
{{main|{{仮リンク|北マケドニア国鉄|label=北マケドニアの鉄道|en|Makedonski Železnici}}}}
=== 航空 ===
{{main|北マケドニアの空港の一覧}}
== 民族と宗教 ==
{{main|{{仮リンク|北マケドニアの人口統計|en|Demographics of North Macedonia}}}}
{{単一の出典|date=2021年4月|section=1}}
住民は[[マケドニア人]]が58%、[[アルバニア人]]が24.2%、[[トルコ人]]が3.8%、[[ロマ|ロマ人]]が2.7%、[[セルビア人]]が1.8%、その他が2.3%である<ref>[https://eurydice.eacea.ec.europa.eu/national-education-systems/republic-north-macedonia/population-demographic-situation-languages-and North Macedonia population demographic] 2023年12月23日閲覧</ref>。[[世界銀行]]による推計では、人口に占める[[ロマ|ロマ人]]の割合は約9%から約11%に達するとみられている<ref>{{Cite news |author=|url=http://web.worldbank.org/WBSITE/EXTERNAL/COUNTRIES/ECAEXT/EXTROMA/0,,contentMDK:20333806~menuPK:615999~pagePK:64168445~piPK:64168309~theSitePK:615987,00.html |title=About the Roma |newspaper= |publisher=[[世界銀行]] |date= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20060824055025/http://web.worldbank.org/WBSITE/EXTERNAL/COUNTRIES/ECAEXT/EXTROMA/0,,contentMDK:20333806~menuPK:615999~pagePK:64168445~piPK:64168309~theSitePK:615987,00.html |archivedate=2006-08-24 }}</ref>。
{{bar box
|title=民族構成(北マケドニア)
|titlebar=#ddd
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{{bar percent|[[マケドニア人]]|blue|64}}
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}}
マケドニア人は5世紀から7世紀ごろにこの地に移り住んだ[[スラヴ人]]の子孫であり、スラヴ系のマケドニア語を話す。[[マケドニア語]]は[[ブルガリア語]]と極めて類似しており、ブルガリア人からはマケドニア人・マケドニア語はブルガリア人・ブルガリア語の一部であるとみなされている。マケドニア人の多くは自らをブルガリア人とは異なる独自の言語を持った独自の民族であると考えている。
[[File:Makedonija - Etnicki sastav po naseljima 2002.gif|thumb|left|280px|マケドニアの民族分布]]
アルバニア人は主に[[アルバニア語]]を話し、多くは[[ムスリム|イスラム教徒]]である。アルバニア語は[[インド・ヨーロッパ語族]]に属するものの、アルバニア語のみで一つの語派を形成しており、周囲の言語との類似性は低い。アルバニア語は古代の[[イリュリア語]]と関連があると考えられており、アルバニア人は自らを、古来よりこの地に住んでいた[[イリュリア人]]の末裔であると考えている。アルバニア人は一般に、マケドニア人と比べて出生率が高く{{Sfn|久保慶一|2003}}、マケドニアにおけるアルバニア人の人口比率は増大を続けている。またアルバニア人はアルバニアおよびコソボで人口の多数を占めており、彼らが大アルバニア主義の担い手となることが警戒されている。現代の北マケドニア共和国のアルバニア人の有力な政治家らは、いずれも大アルバニア主義は明確に否定している{{Sfn|久保慶一|2003}}。
トルコ人は[[14世紀]]に[[オスマン帝国]]がこの地に進出した後に移り住んできた人々の子孫である。彼らの多くは[[トルコ語]]を話すムスリムである。ただし、かつてのオスマン帝国では人々を宗教によって区別していたため、時代によっては、トルコ語を話さず、トルコ人の血を引いていない者もイスラム教徒であれば「トルコ人」とみなされることがある。近代以降でもこのようなイスラム教徒が自らの民族自認を「トルコ人」としていることもある。またスラヴ語を話すイスラム教徒の一部は、自らを「[[トルベシュ]]」「[[ポマク]]」「[[ゴーラ人]]」「[[ムスリム人]]」あるいは「[[ボシュニャク人]]」と規定している。また、「イスラムの信仰を持つが、民族的にはマケドニア人」と考える者もいる。
ロマは9世紀ごろから、[[西アジア]]・[[南アジア]]よりバルカン半島に移り住んだ民族である。彼らは職人や[[大道芸]]人、演奏家などの職業を主体とする独特の移住型の生活を送っていた。ロマの多くは正教会かイスラムの信仰を持っているものの、独自の民間信仰も併せ持っていることが多い。スコピエの[[シュト・オリザリ]]地区はロマが人口の多数を占め、[[ロマ語]]が公用語に指定されている。
[[アルーマニア人]]は北マケドニア共和国やギリシャ領マケドニアに多く住む民族である。彼らの話す[[アルーマニア語]]はインド・ヨーロッパ語族の[[ロマンス語派]]に属し、特に[[ルーマニア語]]との類似性が高い。彼らには第二次世界大戦前まで[[ルーマニア]]の支援を受け、アルーマニア語の学校が運営されていた。彼らはルーマニア人と近縁の民族と考えられており、その起源はこの地方がローマ帝国の支配下にあった時にラテン化した人々であると考えられている。
住民が母語としている言語は[[マケドニア語]](公用語)が68%、[[アルバニア語]]が25%、[[トルコ語]]が3%、[[セルビア・クロアチア語]]が2%、その他が2%である。マケドニア語は憲法により公用語とされている一方で、地方自治体(オプシュティナ)において話者人口が2割を超える言語は、マケドニア語とともにその自治体の公用語とされる。この規定により、自治体によっては[[アルバニア語]]、[[トルコ語]]、[[ロマ語]]、[[アルーマニア語]]、[[セルビア語]]がマケドニア語とともに公用語に指定されているほか、2019年以降アルバニア語も国家レベルの準公用語となっている<ref>[https://www.rferl.org/a/macedonia-s-albanian-language-bill-becomes-law/29711502.html Macedonia's Albanian-Language Bill Becomes Law. Radio Free Europe/Radio Liberty. January 15, 2019.]</ref><ref>[https://www.apnews.com/4d9b35e58ca84eeb9ce5b8d00ae98518 Associated Press: Albanian designated Macedonia’s 2nd official language. January 15, 2019.]</ref>。マケドニア語のほか、少数言語話者が母語で教育を受ける機会が保障されており、アルバニア語やトルコ語による教育も行われている。
[[File:St.-Panteleymon-Ohrid.JPG|thumb|[[聖パンテレイモン]][[修道院]]([[オフリド]])]]
{{main|{{仮リンク|北マケドニアの宗教|en|Religion in North Macedonia}}}}
宗教は[[正教会]]が70%、[[イスラム教]]が29%、その他が1%である。
マケドニアの領域が[[バルカン戦争]]以降セルビアの領土に組み込まれると、国や地域ごとに教会組織を置く原則となっている[[正教会]]の慣習に従い、この地域は[[セルビア正教会]]の管轄となった。第二次世界大戦以降、共産主義者によるユーゴスラビア連邦政府によって、マケドニアの脱セルビア化が進められ、共産主義者の政府の指導の下、[[1958年]]にマケドニア地域の正教会組織は[[マケドニア正教会]]として分離され、セルビア正教会の下位に属する[[自治教会]]となった。[[1967年]]、マケドニア正教会はセルビア正教会からの完全な独立を宣言した。マケドニアがユーゴスラビアから分離すると、両教会の対立が表面化し、セルビア正教会はマケドニア正教会の独立を認めず、自治教会の地位に復するよう求めている。マケドニア正教会はこれに反発してセルビア正教会との交流を絶ち、セルビア正教会を非難している。マケドニア側でセルビア正教会の自治教会に復することに同意した主教らはマケドニア正教会を去り、独自にセルビア正教会の自治教会として[[正統オフリド大主教区]]を組織し、マケドニア正教会と対立している。
{{See also|{{仮リンク|北マケドニアにおける信教の自由|en|Freedom of religion in North Macedonia}}}}
=== 婚姻 ===
婚姻時、伝統的には女性は婚姻時に夫の姓の女性形に改姓するが、夫の姓に改姓することも、改姓しないことも([[夫婦別姓]])、複合姓を用いることもできる<ref name=guide2006>[https://www.fbiic.gov/public/2008/nov/Naming_practice_guide_UK_2006.pdf A Guide to Name and Naming Practices], March 2006.</ref>。
=== 教育 ===
{{main|{{仮リンク|北マケドニアの教育|en|Education in North Macedonia}}}}
[[義務教育]]は9年間となっている。北マケドニアは[[欧州連合]](EU)に加盟していないが、加盟国の教育制度や関連システムの均質化を伴う目的で[[ボローニャ・プロセス]]を順守する立場となっている。
=== 保健 ===
{{main|{{仮リンク|北マケドニアの保健|en|Health in North Macedonia}}}}
== 治安 ==
北マケドニアの治安は安定しているとは言い難い状況となっている。社会が荒廃している影響もあり、[[スリ]]、[[引ったくり]]、[[窃盗]]などの一般[[犯罪]]が多発しており、特に子供による集団スリの被害が相次いでいることから注意や警戒が叫ばれている<ref>[https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure_205.html 北マケドニア共和国安全対策基礎データ] [[日本外務省]]海外安全ホームページ</ref>。
=== 人権 ===
{{main|{{仮リンク|北マケドニアにおける人権|en|Human rights in North Macedonia}}}}
== マスコミ ==
{{main|{{仮リンク|北マケドニアのメディア|en|Mass media in North Macedonia}}}}
[[テレビ放送]]や[[新聞]]ならび[[雑誌]]は国営企業と営利企業の両方によって運営されている。同国の憲法においては[[報道の自由]]と[[表現の自由]]を保証するものとなっているが、それに反して北マケドニアのほとんどの[[ジャーナリスト]]は社会的地位や経済的地位がかなり低く、その影響から彼らの労働と社会的権利は限られたものとなってしまっている。
{{See also|{{仮リンク|北マケドニア憲法|en|Constitution of North Macedonia}}}}
=== 通信 ===
{{main|{{仮リンク|北マケドニアの通信|en|Telecommunications in North Macedonia}}}}
== 文化 ==
{{main|{{仮リンク|北マケドニアの文化|en|Macedonian culture}}}}
=== 世界遺産 ===
{{main|北マケドニアの世界遺産}}
北マケドニア単独での世界遺産条約承継は1997年であり、[[世界遺産センター]]での当初の国名表記は、マケドニア旧ユーゴスラビア共和国だった<ref>[http://whc.unesco.org/en/statesparties/mk North Macedonia - World Heritage Centre] 2023年12月21日閲覧</ref>。
=== 食文化 ===
{{main|{{仮リンク|北マケドニア料理|en|North Macedonian cuisine}}}}
=== 文学 ===
{{main|{{仮リンク|マケドニア文学|en|Macedonian literature}}}}
=== 音楽 ===
{{main|{{仮リンク|北マケドニアの音楽|en|Music of North Macedonia}}}}
{{See also|{{仮リンク|マケドニアにおけるヒップホップ|en|Macedonian hip hop}}}}
=== 映画 ===
{{main|{{仮リンク|北マケドニアの映画|en|Cinema of North Macedonia}}}}
== 祝祭日 ==
{{main|{{仮リンク|北マケドニアの祝日|en|Public holidays in North Macedonia}}}}
{| class="wikitable"
|+ 祝祭日
!日付!!日本語表記!!現地語表記!!備考
|-
|[[1月1日]]||[[元日]]|| ||
|-
|[[1月6日]]||[[クリスマスイブ]]|| ||マケドニア正教([[ユリウス暦]]による)
|-
|[[1月7日]]||[[クリスマス]]|| ||マケドニア正教(ユリウス暦による)
|-
|移動祝祭日||[[犠牲祭]]|| ||イスラム教徒のみ
|-
|[[3月8日]]||女性の日|| ||
|-
|移動祝祭日||[[聖大金曜日]]|| ||マケドニア正教(復活祭の直前の金曜日)
|-
|移動祝祭日||[[復活大祭|復活祭]]|| ||マケドニア正教
|-
|移動祝祭日||光明月曜日|| ||マケドニア正教(復活祭の翌日)
|-
|[[5月1日]]||[[メーデー]]|| ||
|-
|[[8月2日]]||革命記念日|| ||
|-
|[[9月8日]]||独立記念日|| ||
|-
|[[10月11日]]||パルチザンの日|| ||
|-
|移動祝祭日||[[ラマダーン|ラマダン]]|| ||イスラム教徒のみ
|}
== スポーツ ==
{{Main|北マケドニアのスポーツ}}
{{See also|オリンピックの北マケドニア選手団}}
=== サッカー ===
{{Main|{{仮リンク|北マケドニアのサッカー|en|Football in North Macedonia}}}}
北マケドニアでも他の[[ヨーロッパ]]諸国同様に、[[サッカー]]が圧倒的に1番人気の[[スポーツ]]となっており、[[1992年]]にプロサッカーリーグの[[プルヴァ・マケドンスカ・フドバルスカ・リーガ|プルヴァ・リーガ]]が創設された。リーグ優勝クラブは、[[UEFAチャンピオンズリーグ]]の予選に参加出来る。[[マケドニアサッカー連盟]](FFM)によって構成される[[サッカー北マケドニア代表]]は、これまで[[FIFAワールドカップ]]には未出場である。しかし、[[UEFA欧州選手権]]には[[UEFA EURO 2020|2021年大会]]で悲願の初出場を果たした<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.soccer-king.jp/news/world/euro/20201113/1141292.html|title=北マケドニア代表、史上初のEURO出場決定!…主将の37歳FWパンデフが値千金の決勝弾|accessdate=12 んovember 2020|work=www.soccer-king}}</ref>。
代表チームのエースであり主将でもあった'''[[ゴラン・パンデフ]]'''は国の英雄として絶大な人気を誇り、[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル・ミラノ]]時代には[[セリエA (サッカー) 2009-2010|2009-10シーズン]]に[[トレブル (サッカー)|トレブル]]を達成したチームの主力であった<ref>[http://www.daily.co.jp/soccer/2010/05/24/0003015114.shtml インテル45季ぶりV!イタリア勢初3冠]</ref>。パンデフの他にも、[[フリーキック (サッカー)|フリーキック]]の名手として名高い[[エニス・バルディ]]も同国代表である。
== 著名な出身者 ==
{{Main|北マケドニア人の一覧}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|25em}}
== 参考文献 ==
*「[https://globalnewsview.org/archives/16212 歴史を引きずる北マケドニア]」、Yosif Ayanski、Global News View(GNV)
* {{Cite book
|和書
|author=エドガー・ヘッシュ
|authorlink=エドガー・ヘッシュ
|others=[[佐久間穆]](訳)
|date=1995年5月
|title=バルカン半島
|publisher=[[みすず書房]]
|location=日本、東京
|isbn=978-4-622-03367-7
|ref=harv
}}
* {{Cite book
|和書
|author=千田善
|authorlink=千田善
|date=2002年11月21日
|title=なぜ戦争は終わらないか ユーゴ問題で民族・紛争・国際政治を考える
|publisher=みすず書房
|location=日本
|isbn=4-622-07014-6
|ref=harv
}}
* {{Cite book
|和書
|author=久保慶一
|authorlink=久保慶一
|date=2003年10月
|title=引き裂かれた国家―旧ユーゴ地域の民主化と民族問題
|publisher=有信堂高文社
|location=日本、東京
|isbn=978-4-8420-5551-0
|ref=harv
}}
<!--
|和書
|author=柴宜弘
|authorlink=柴宜弘
|date=1998年10月
|title=バルカン史 - 世界各国史
|publisher=[[山川出版社]]
|location=日本、東京
|isbn=978-4-634-41480-8
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}}
* {{Cite book
|和書
|author=リチャード・クラプトン
|authorlink=リチャード・クラプトン
|others=[[高田有現]](訳)、[[久原寛子]](訳)
|date=2004年3月
-->
== 関連項目 ==
{{Commons&cat}}
* [[北マケドニア関係記事の一覧]]
* [[北マケドニア共和国軍]]
* [[統一マケドニア]]
* [[セルビア]]
* [[クロアチア]]
* [[大アルバニア]]
* [[北マケドニアのユーロビジョン・ソング・コンテスト]]
== 外部リンク ==
; 政府
* [https://www.vlada.mk/ 北マケドニア政府] {{mk icon}}{{sq icon}}{{en icon}}
; 日本政府
* [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/macedonia/ 日本外務省 - 北マケドニア共和国] {{ja icon}}
* [https://www.at.emb-japan.go.jp/mk/jp/index.html 在北マケドニア日本国大使館] {{ja icon}}
; 観光
* [http://www.exploringmacedonia.com/ マケドニア政府観光局] {{en icon}}
* [https://www.macedonia-timeless.com/eng Macedonia Timeless] {{en icon}}
; EU関連
* {{PDFlink|[http://www.jetro.be/jp/business/euen/EN92-1.pdf ギリシャがマケドニアのEU加盟に拒否権発動も、国名問題の再燃で]}}
; その他
* {{Kotobank}}
{{ヨーロッパ}}
{{CEFTA}}
{{OIF}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:きたまけとにあ}}
[[Category:北マケドニア|*]]
[[Category:ヨーロッパの国]]
[[Category:内陸国]]
[[Category:共和国]]
[[Category:フランコフォニー加盟国]]
[[Category:国際連合加盟国]]
[[Category:NATO加盟国]] | 2003-05-17T09:59:30Z | 2023-12-23T00:08:44Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E3%83%9E%E3%82%B1%E3%83%89%E3%83%8B%E3%82%A2 |
8,438 | マレー | 日本語でマレー、マレ、マレイ、マーレー、ムラユなどと表記される語はMalay、Mallet(仏)、Marais(仏)、Marey(仏)、Murray、Melayu(英)などである。
マレイ、マライ(馬来)とも。
英語圏の人名、地名。マリ、マリー、マレイ、マーレイ、マーレーなどとも表記されるが、 英語の発音は「マリー」が近い。 | [
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] | 日本語でマレー、マレ、マレイ、マーレー、ムラユなどと表記される語はMalay、Mallet(仏)、Marais(仏)、Marey(仏)、Murray、Melayu(英)などである。 | 日本語で'''マレー'''、'''マレ'''、'''マレイ'''、'''マーレー'''、'''ムラユ'''などと表記される語は'''Malay'''、'''Mallet'''(仏)、'''Marais'''(仏)、'''Marey'''(仏)、'''Murray'''、'''Melayu'''(英)などである。
<!--見出しアルファベット順-->
== Malay ==
マレイ、マライ(馬来)とも。
* [[マレー半島]] - 東南アジアの半島。
* [[マレー諸島]] - 東南アジアの諸島。
* [[マレー人]] - マレー地域の主要民族。
* [[マレー語]] - マレー地域の主要言語。
* [[マライ (アクラン州)]] - フィリピン・アクラン州にある自治体。
== Melayu ==
* [[ムラユ王国]] - 東南アジアにあった古典仏教王国。
== Mallet ==
* [[アナトール・マレー]] (Anatole Mallet) - スイスの技術者。
** [[マレー式機関車]] - 蒸気機関車の一種。
== Marais ==
* {{仮リンク|ル・マレー (パリ地区)|fr|Le Marais (quartier parisien)}} (Le Marais) - [[パリ]][[パリ3区|3区]]・[[パリ4区|4区]]の地名。
* {{仮リンク|ル・マレー (ランス=サン=レミ)|fr|Le Marais (Lens-Saint-Remy)}} - ベルギー[[リエージュ]]近くの{{仮リンク|ランス=サン=レミ|fr|Lens-Saint-Remy}}の集落。
<!-- これ以上追加する際は[[マレー (姓)]]の項目を立項してください。 -->
* [[ジャン・マレー]] (Jean Marais) - [[フランス]]の俳優。
* [[マラン・マレー]] (Marin Marais) - フランスの作曲家、指揮者、バス・ヴィオール奏者。
* [[マレー・フィリューン]] (Marais Viljoen) - [[南アフリカ共和国]]の政治家。
== Mare ==
* ポルトガル語で[[月の海]]。
== Maree ==
* [[シドニー・マレー]](Sydney Maree) - 南アフリカ共和国出身のアメリカの元陸上競技選手。
== Marey ==
* [[エティエンヌ=ジュール・マレー]] (Etienne-Jules Marey) - フランスの生理学者、発明家。
== Moray ==
* [[マレー (スコットランド)]]
** {{仮リンク|マレーカウンシル|gd|Comhairle Mhoireibh}} - [[スコットランドの地方行政区画]]の一つ。
** {{仮リンク|マレーカウンティ|en|County of Moray}} - かつてあったカウンティ。
** {{仮リンク|マレー (英国議会選挙区)|en|Moray (UK Parliament constituency)}} - [[イギリスの議会]]の[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]の選挙区。
** {{仮リンク|マレー (スコットランド議会選挙区)|en|Moray (Scottish Parliament constituency)}} - 上記の[[スコットランド議会]]の選挙区。
== Murray ==
英語圏の人名、地名。マリ、マリー、マレイ、マーレイ、マーレーなどとも表記されるが、{{Audio|Murray.ogg|英語の発音}}は「マリー」が近い。
=== 姓 ===
<!-- これ以上追加する際は[[マレー (姓)]]の項目を立項してください。 -->
* [[アン・マレー]](Anne Murray) - [[カナダ]]出身の歌手。
* [[アンディ・マリー]](Andy Murray) - スコットランド出身のプロテニス選手
* [[アンドリュー・マーレー]](Andrew Murray) - 南アフリカ共和国の牧師
* [[イボンヌ・マーレー]](Yvonne Murray) - [[イギリス]]の陸上競技選手
* [[ウィリアムソン・マーレー]](Williamson Murray) - [[アメリカ合衆国]]の[[歴史学者]]
* [[エディ・マレー]](Eddie Clarence Murray) - アメリカ合衆国の野球選手
* [[ゴードン・マレー]] (Gordon Murray) - 南アフリカ共和国出身の自動車デザイナー
* [[ジェイミー・マリー]](Jamie Murray) - スコットランド出身のプロテニス選手
* [[ジェームズ・マレー (俳優)]](James Murray) - イングランド出身の俳優
* [[ジョージ・マレー]] (George Gilbert Aimé Murray) - イギリスの古典学者
* [[ジョン・マーレー]] - 曖昧さ回避
** [[ジョン・マレー]] (John Murray) - イギリスの海洋学者
* [[カイラー・マレー]] (Kyler Murray) - アメリカ合衆国のアメリカンフットボール選手
* [[ダビッド・モルレー|デイビッド・マレー]] (David Murray) - アメリカ合衆国の教育家
* [[チャールズ・マーレー]](Charles Murray) - アメリカ合衆国のボクサー
* [[チャールズ・フェアファックス・マレー]](Charles Fairfax Murray) - イギリスの画家、画商
* [[デヴィッド・マレイ]](David Murray) - アメリカ合衆国のジャズ・ミュージシャン
* [[デイヴ・マーレイ]] (Dave Murray) - イギリスのヘヴィメタル・ミュージシャン
* [[トレーシー・マレー]] (Tracy Lamonte Murray) - アメリカ合衆国のバスケットボール選手
* [[ビル・マーレイ]] (Bill Murray) - アメリカ合衆国のコメディアン、俳優、映画監督、脚本家
* [[フィリップ・マレー]] (Philip Murray) - アメリカ合衆国の労働運動家
* [[ユーニス・マレー]] (Eunice Murray) - [[マリリン・モンロー]]の[[家政婦]]
* [[ラモンド・マレー]] (Lamond Murray) - アメリカ合衆国の[[バスケットボール]]選手
=== 名 ===
<!-- これ以上追加する際は[[マレー (個人名)]]の項目を立項してください。 -->
* [[マレイ・アダスキン]](Murray Adaskin) - カナダの作曲家。
* [[マレー・ゲルマン]](Murray Gell-Mann) - アメリカ合衆国の物理学者。
* [[マレー・ハンフリーズ]](Murray Humphreys) - アメリカ合衆国のギャング。
* [[マレイ・ペライア]](Murray Perahia) - アメリカ合衆国のピアニスト、指揮者。
* [[マレイ・ラインスター]](Murray Leinster) - アメリカ合衆国のSF作家。
* [[マレー・ローズ]](Murray Rose) - [[オーストラリア]]の競泳選手。
=== 地名・地形名 ===
* {{仮リンク|マレー湖 (パプアニューギニア)|en|Lake Murray (Papua New Guinea)}} - [[パプアニューギニア]]の湖。
* {{仮リンク|マレー湖 (サウスカロライナ州)|en|Lake Murray (South Carolina)}} - [[サウスカロライナ州]]の湖。
* {{仮リンク|マレー湖 (オクラホマ州)|en|Lake Murray (Oklahoma)}} - [[オクラホマ州]]の湖。
* {{仮リンク|マレー湖 (カリフォルニア州)|en|Lake Murray (California)}} - [[サンディエゴ]]の湖。
* [[マレー川]] - オーストラリアの川。
* [[マレー (ニューサウスウェールズ州)]]
* マレー市 - アメリカ合衆国[[ユタ州]]・[[アイオワ州]]・[[ケンタッキー州]]・[[ニューヨーク州]]・[[オハイオ州]]にある、同名の都市。[[:en:Murray]] を参照。
** [[マレー (ケンタッキー州)]]
** [[マリ (ユタ州)]]
=== その他 ===
* [[マレー (出版社)]] - イギリスの出版社。また同社の刊行した旅行ガイドブックのシリーズ。
* [[マレー (小惑星)]]
== 関連項目 ==
* [[マレ (曖昧さ回避)]]
* [[モーレー (曖昧さ回避)]]
* {{仮リンク|マレー (姓)|fr|Marais (patronyme)|en|Murray (surname)}}
* {{仮リンク|マレー (個人名)|en|Murray (given name)}}
* [[マラヤ (曖昧さ回避)|マラヤ]](Malaya)
* [[マリ (曖昧さ回避)|マリ]]
* [[マリー]]
* [[マーリー]]
* [[モーリー]]
{{aimai}}
{{DEFAULTSORT:まれえ}}
[[Category:英語の男性名]]
[[Category:英語の姓]]
[[Category:フランス語の姓]]
[[Category:英語の地名]]
[[Category:同名の地名]] | 2003-05-17T10:15:17Z | 2023-09-22T05:31:43Z | true | false | false | [
"Template:仮リンク",
"Template:Audio",
"Template:Aimai"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AC%E3%83%BC |
8,441 | バルク | バルク(Bulk)の語義は 「大きさ、容量、かさ」のこと。まとまった状態を指す。用例は様々。
バルク(Baruch)
バルク(VLC) | [
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}
] | バルク(Bulk)の語義は 「大きさ、容量、かさ」のこと。まとまった状態を指す。用例は様々。 バルク (界面化学) - 界面を扱う化学や物理の領域において、界面と接しない物質本体をさす。
医薬品原料や中間体をさす。
かさ(嵩)密度 bulk density: JIS R 1628:1997 ファインセラミックス粉末のかさ密度測定方法 物流用語で、粉体や粒体など、包装されないまま積載される貨物のこと。いわゆるばらものを意味する。→ばら積み貨物
ワインなどで樽に詰められたままのもの。日本ではワインをバルクで輸入し、日本国内で瓶詰めすることが多い。
バルク品 - 在庫品や工業用品などまとめて仕入れられた商品やパーツをばら売りしたもの。裸であったり簡易包装のみ施されて売られる商品。コンピュータの周辺機器や、自作パソコン向けのハードウェアによく見られる販売形態。 バルクセール- 金融機関が保有する債権や資産を、第三者に対して譲渡(まとめ売り)をすること。 ボディビル用語では筋肉の質感、量を指して用いられる。 電界効果トランジスタの端子の一つ。→電界効果トランジスタ#端子
CMOS LSIの高速性・低消費電力化を向上させる技術であるSOIに用いられるSOI結晶を従来のものと区別してバルク(バルクシリコン)と呼ばれることがある。 バルク(Baruch) バルク書 - 旧約聖書の一部、もしくは外典とされる書物。 バルク(VLC) バルクホールディングス - マーケティング調査やコンサルティングをしている企業。 | '''バルク'''(Bulk)の語義は 「大きさ、容量、かさ」のこと。まとまった状態を指す。用例は様々。
;化学・物理
* [[バルク (界面化学)]] - [[界面]]を扱う[[化学]]や[[物理]]の領域において、[[界面]]と接しない[[物質]]本体をさす。
* [[医薬品]]原料や[[中間体]]をさす。
* かさ(嵩)密度 bulk density: JIS R 1628:1997 ファインセラミックス粉末のかさ密度測定方法
;物流
* [[物流]]用語で、粉体や粒体など、包装されないまま積載される貨物のこと。いわゆるばらものを意味する。→[[ばら積み貨物]]
* [[ワイン]]などで[[樽]]に詰められたままのもの。日本ではワインをバルクで輸入し、日本国内で瓶詰めすることが多い。
* [[バルク品]] - 在庫品や工業用品などまとめて仕入れられた商品やパーツをばら売りしたもの。裸であったり簡易包装のみ施されて売られる商品。[[コンピュータ]]の[[周辺機器]]や、[[自作パソコン]]向けの[[パーソナルコンピュータのハードウェア|ハードウェア]]によく見られる販売形態。
;金融
*[[バルクセール]](bulk sale)- 金融機関が保有する債権や資産を、第三者に対して譲渡(まとめ売り)をすること。
;ボディビル
* [[ボディビル]]用語では[[筋肉]]の質感、量を指して用いられる。
; 半導体
* [[電界効果トランジスタ]]の端子の一つ。→[[電界効果トランジスタ#端子]]
* CMOS LSIの高速性・低消費電力化を向上させる技術である[[SOI]]に用いられるSOI結晶を従来のものと区別してバルク(バルクシリコン)と呼ばれることがある。
'''バルク'''(Baruch)
;聖書
*[[バルク書]](Book of Baruch) - [[旧約聖書]]の一部、もしくは[[外典]]とされる書物。
'''バルク'''(VLC)
;組織
*[[バルクホールディングス]] - マーケティング調査やコンサルティングをしている企業。
== 関連項目 ==
* タイトル前方一致ページ一覧(「{{Prefix|バルク|バルク}}」)
* タイトル部分一致ページ一覧(「{{Intitle|バルク|バルク}}」)
* [[Wikipedia:索引 はる#はるく]]
{{aimai}}
{{デフォルトソート:はるく}} | null | 2022-10-07T05:33:33Z | true | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%82%AF |
8,442 | 物体 | 物体()は、ものとして認知しうる対象物である。すなわち、実物または実体として宇宙空間において存在するものが物体である。物理学および哲学の主要な研究対象の一つである。
物体と物質は次のように区別される。
物理学において、物体とは一体にまとまった質量の集合である。例えば、野球のボールは物体と見なせるが、このボールも多数の粒子(物質の要素)から構成されている。次元としては、主に一次元の時間軸を伴う三次元の物体を扱うことが多い。
哲学、特に形而上学の分野の存在について考察する存在論において、物体とは特定の時間内に空間の特定の軌道に存在する対象である。それに対して、どんな特定の時間や場所にも存在しない数学的対象のような抽象的対象がある。
一般的概念では、物体は物理世界においてエクステンションを持つ(空間を占有する)が、これに挑戦する量子力学および宇宙論などの理論もある。
物体は、古典力学、量子力学の理論によって記述され物理機器による実験を行うことができるような対象である。この理論や実験の作業は、ある時間の範囲で空間中における物体の位置(座標)の軌道を決定することや、物体に力を及ぼすことによってその軌道を操作することも含む。物理学における物体を物理的対象 (physical object) とも言う。
古典力学において、物体はエネルギーだけでなく質量を持ち、3次元の空間を占有し(エクステンションを持つ)、空間内の位置の軌道を持ち、ある期間に存在し続けるものである。それは実験における研究の対象であり物理法則または物理理論によって記述される対象である。それは全体として一つのまとまったものとみなされるが、より小さい物体の集合によって構成されているであろう(ただし、素粒子はそれ以上小さい要素には分割できない)。例えば、重りやボール、陽子および惑星などは物体である。
例えば、重力は物体を加速する。もし支えがなければ、物体は引力により自由落下し、位置の変化が生じる。ただし、力は物体の位置の変化ではなく、物体の位置の変化率すなわち速度の変化に影響を与える。
しかし、量子力学および宇宙論においては、いくつかの素粒子は物体ではなく、時空の中の物理的空間を占有しない(エクステンションのない)単なる点であるか、もしくは弦理論またはM理論における素粒子のように少なくとも空間の一次元を占める(エクステンションを持つ)ものであるいう議論がある。
物体は、時間の特定の期間にわたって特定の空間の軌道に持続して存在し、世界の物理空間を占有する(エクステンションを持つ)ものである。例えば、物理学によって研究されているように。物体の例として、雲、人体、重り、ビリヤードの球、テーブル、または陽子がある。これは精神世界や数学的対象に存在する精神的対象のような抽象的対象とは対照的である。他にも物体ではない例として、感情、"正義"の概念、嫌悪の感覚または数の"3"がある。ジョージ・バークリーの観念論のようないくつかの哲学では、物体は精神的対象 (mental object) であるが、依然視野の空間を占有する(エクステンションを持つ)ものである。
心理学のいくつかの分野では、物体は物理的性質を持った物理的対象であり、精神的対象と対比される。ただし、物体の解釈は学派(英語版)に依存する。(還元主義的)行動主義心理学においては、物体およびその物性は(単に)研究の意味がある対象のことである。近年の行動心理療法(英語版)においては、物体とは目的指向行動療法のための意味というだけのものである。一方、身体心理療法(英語版)においては、それは研究の意味があるだけのものを指すのではないが、物体に生じる感覚が物体自身の目的であるとする。認知心理学においては、機能主義学派と同様に、物体は、おそらく物体ではないであろう心を理解するための研究対象である。すなわち、物体に対する生物学的な考察を行う。 | [
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"title": "心理学における物体"
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] | 物体は、ものとして認知しうる対象物である。すなわち、実物または実体として宇宙空間において存在するものが物体である。物理学および哲学の主要な研究対象の一つである。 物体と物質は次のように区別される。 物体 - その物の大きさ・形など、外見に着目した時に言う。
物質 - その物の構造・構成元素など、性質に着目した時に言う。 | {{出典の明記|date=2012年8月15日 (水) 14:02 (UTC)}}
{{読み仮名|'''物体'''|ぶったい}}は、ものとして[[認知]]しうる対象物である。すなわち、実物または[[実体]]として[[宇宙空間]]において存在するものが物体である。[[物理学]]および[[哲学]]の主要な研究対象の一つである。
物体と[[物質]]は次のように区別される。
* 物体 - その物の[[大きさ]]・[[形]]など、[[外見]]に着目した時に言う。
* 物質 - その物の[[構造]]・構成[[元素]]など、[[性質]]に着目した時に言う。
== 概要 ==
物理学において、物体とは一体にまとまった[[質量]]の集合である。例えば、[[野球]]のボールは物体と見なせるが、このボールも多数の[[粒子]]([[物質]]の要素)から構成されている。次元としては、主に一次元の時間軸を伴う三次元の物体を扱うことが多い。
哲学、特に[[形而上学]]の分野の[[存在]]について考察する[[存在論]]において、物体とは特定の[[時間]]内に[[空間]]の特定の[[弾道|軌道]]に存在する[[対象#哲学における対象|対象]]である。それに対して、どんな特定の時間や場所にも存在しない[[数学的対象]]のような[[抽象的対象]]がある。
一般的概念では、物体は[[宇宙|物理世界]]において[[エクステンション]]を持つ(空間を占有する)が、これに挑戦する[[量子力学]]および[[宇宙論]]などの[[理論]]もある。
== 物理学における物体 ==
{{See|物理学|古典力学|弦理論}}
物体は、[[古典力学]]、[[量子力学]]の[[理論]]によって記述され物理[[計測機器|機器]]による[[実験]]を行うことができるような対象である。この理論や実験の作業は、ある[[時間]]の範囲で[[空間]]中における物体の[[位置]]([[座標]])の[[弾道|軌道]]を決定することや、物体に[[力 (物理学)|力]]を及ぼすことによってその軌道を操作することも含む。物理学における物体を'''物理的対象''' (physical object) とも言う。
[[古典力学]]において、物体は[[エネルギー]]だけでなく[[質量]]を持ち、[[3次元]]の空間を占有し(エクステンションを持つ)、空間内の位置の軌道を持ち、ある期間に存在し続けるものである。それは[[実験]]における研究の対象であり[[物理法則]]または[[理論物理学|物理理論]]によって記述される対象である。それは全体として一つのまとまったものとみなされるが、より小さい物体の集合によって構成されているであろう(ただし、[[素粒子]]はそれ以上小さい要素には分割できない)。例えば、重りやボール、[[陽子]]および[[惑星]]などは物体である。
例えば、[[重力]]は物体を[[加速]]する。もし支えがなければ、物体は引力により自由落下し、位置の変化が生じる。ただし、[[力 (物理学)|力]]は物体の位置の変化ではなく、物体の位置の変化率すなわち速度の変化に影響を与える。
しかし、[[量子力学]]および[[宇宙論]]においては、いくつかの素粒子は物体ではなく、[[時空]]の中の[[空間|物理的空間]]を占有しない([[エクステンション]]のない)単なる[[点 (数学)|点]]であるか、もしくは[[弦理論]]または[[M理論]]における素粒子のように少なくとも空間の一次元を占める(エクステンションを持つ)ものであるいう議論がある。
== 哲学における物体 ==
{{See|存在論|形而上学}}
物体は、時間の特定の期間にわたって特定の空間の軌道に持続して存在し、世界の物理空間を占有する(エクステンションを持つ)ものである。例えば、物理学によって研究されているように。物体の例として、[[雲]]、[[人体]]、重り、ビリヤードの球、テーブル、または[[陽子]]がある。これは[[精神世界]]や[[数学的対象]]に存在する[[精神的対象]]のような[[抽象的対象]]とは対照的である。他にも物体では'''''ない'''''例として、[[感情]]、"[[正義]]"の概念、嫌悪の感覚または[[数]]の"3"がある。[[ジョージ・バークリー]]の[[観念論]]のようないくつかの哲学では、物体は[[精神的対象]]{{enlink|mental object}}で'''''ある'''''が、依然[[視野]]の空間を占有する(エクステンションを持つ)ものである。
== 心理学における物体 ==
[[心理学]]のいくつかの分野では、物体は[[物性|物理的性質]]を持った物理的対象であり、[[精神的対象]]と対比される。ただし、物体の解釈は{{仮リンク|学派|en|school of thought}}に依存する。([[還元主義]]的)[[行動主義心理学]]においては、物体およびその物性は(単に)研究の[[意味]]がある対象のことである。近年の{{仮リンク|行動心理療法|en|behavioral psychotherapy}}においては、物体とは目的指向[[行動療法]]のための意味というだけのものである。一方、{{仮リンク|身体心理療法|en|Body Psychotherapy}}においては、それは研究の意味があるだけのものを指すのではないが、物体に生じる感覚が物体自身の目的であるとする。[[認知心理学]]においては、[[機能主義 (心の哲学)|機能主義]]学派と同様に、物体は、おそらく物体ではないであろう[[心]]を理解するための研究対象である。すなわち、物体に対する[[生物学]]的な考察を行う。
<!-- == 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}} -->
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Wiktionary}}
<!-- {{Commonscat|Physical body}} -->
* [[変形体]]
* [[剛体]]
* [[人体]]
* [[天体]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{物質構造}}
{{Physics-stub}}
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[[Category:物体|*]]
[[Category:物理学の概念]]
[[Category:力学]] | null | 2023-07-21T11:17:34Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E4%BD%93 |
8,446 | 1581年 | 1581年(1581 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。日曜日から始まる。
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] | 1581年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。日曜日から始まる。 | {{年代ナビ|1581}}
{{year-definition|1581}}日曜日から始まる。
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[辛巳]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[天正]]9年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2241年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]] : [[万暦]]9年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[宣祖]]14年
** [[檀君紀元|檀紀]]3914年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[莫朝]] : [[延成]]4年
** [[黎朝|後黎朝]] : [[光興 (黎朝)|光興]]4年
* [[仏滅紀元]] : 2123年 - 2124年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 988年 - 989年
* [[ユダヤ暦]] : 5341年 - 5342年
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1581|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[7月26日]] - [[オランダ]][[独立宣言]]。
* [[第二次高天神城の戦い]]([[徳川家康]]により[[武田勝頼]]の高天神城が落城。城主の[[岡部元信]]ら城兵は玉砕する)。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1581年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[10月21日]] - [[ドメニキーノ]]、[[イタリア]]の画家(+ [[1641年]])
* [[偽ドミトリー1世]]、[[モスクワ国家]]の[[ツァーリ]](+ [[1606年]])
* [[ヘンドリック・ブラウエル]]、[[オランダ]]の[[探検家]]、[[カピタン|オランダ商館長]](+ [[1643年]])
* [[マサソイト]]、[[アメリカ州の先住民族|アメリカ先住民]][[ワンパノアグ|ワンパノアグ族]]の酋長(+ [[1661年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1581年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月12日]]([[天正]]8年[[12月29日 (旧暦)|12月29日]]) - [[万里小路房子]]、[[正親町天皇]]の[[典侍]](* 生年未詳)
* [[8月10日]](天正9年[[7月11日 (旧暦)|7月11日]]) - [[林宗二]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[商人]]、[[学者]](* [[1498年]])
* [[10月6日]](天正9年[[9月9日 (旧暦)|9月9日]]) - [[山崎秀仙]]、戦国時代の[[儒学者]](* [[1498年]])
* [[11月21日]](天正9年[[10月25日 (旧暦)|10月25日]]) - [[吉川経家]]、戦国時代の[[武将]](* [[1547年]])
* [[12月11日]] - [[マリア・フォン・エスターライヒ (ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公妃)|マリア・フォン・エスターライヒ]]、[[ユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国|ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公]][[ヴィルヘルム5世 (ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公)|ヴィルヘルム5世]]の2度目の妃(* [[1531年]])
* [[12月27日]](天正9年[[12月2日 (旧暦)|12月2日]]) - [[相良義陽]]、[[肥後国]]の[[戦国大名]](* [[1544年]])
* [[バインナウン]]、[[ビルマ人]]の王朝、[[タウングー王朝]]の王(* [[1517年]])
* [[百地丹波]]、戦国時代の[[伊賀流|伊賀忍術]]の祖とされる[[忍者]](* [[1512年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1581}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=16|年代=1500}}
{{デフォルトソート:1581ねん}}
[[Category:1581年|*]] | null | 2023-07-03T09:55:52Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1581%E5%B9%B4 |
8,447 | 1675年 | 1675年(1675 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。
| [
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"title": "死去"
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] | 1675年は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。 | {{年代ナビ|1675}}
{{year-definition|1675}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[乙卯]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[延宝]]3年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2335年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[康熙]]14年
*** [[鄭氏政権 (台湾)|鄭氏政権]]{{Sup|*}} : [[永暦 (南明)|永暦]]29年
*** [[楊起隆]] : [[広徳 (楊起隆)|広徳]]3年
*** [[呉三桂]] : [[昭武|周王]]2年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[粛宗 (朝鮮王)|粛宗]]元年
** [[檀君紀元|檀紀]]4008年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[徳元]]2年
* [[仏滅紀元]] : 2217年 - 2218年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1085年 - 1086年
* [[ユダヤ暦]] : 5435年 - 5436年
* [[ユリウス暦]] : 1674年12月22日 - 1675年12月21日
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1675}}
== できごと ==
* [[日本]]:[[江戸幕府]]、伊奈忠易(いな ただやす)が無人島(ぶにんじま、現在の[[小笠原諸島]])を調査。
* [[スウェーデン]]([[バルト帝国]]):[[スコーネ戦争]](-[[1679年]])。
* [[イギリス]]:[[グリニッジ天文台]]完成。
* [[パリ]]に世界で最初の[[カフェ]]ができる。
* [[ジョヴァンニ・カッシーニ]]が[[土星]]の[[環 (天体)|環]]が複数の輪で構成されていることを発見。
* [[ゴットフリート・ライプニッツ]]が初めて積分の記号に長いs(∫)を使用する。
* [[バールーフ・デ・スピノザ]]の『エチカ』完成(出版は没後)
== 誕生 ==
{{see also|Category:1675年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月28日]] - [[ギヨーム・ドリール]]([[w:Guillaume Delisle|Guillaume Delisle]])、[[地図学]]者(+ [[1726年]])
* [[3月21日]] - [[ジェイムズ・ダグラス (医師)|ジェイムズ・ダグラス]]([[w:James Douglas (physician)|James Douglas]])、[[医師]]、[[解剖学者]](+ [[1742年]])
* [[3月27日]]([[延宝]]3年[[3月2日 (旧暦)|3月2日]]) - [[大久保常春]]、[[老中]](+ [[1728年]])
* [[3月31日]] - [[ベネディクトゥス14世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス14世]]、[[ローマ教皇]](+ [[1758年]])
* [[7月12日]] - [[エヴァリスト・ダッラーバコ]]、[[作曲家]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1742年]])
* [[7月14日]] - [[クロード・アレクサンドル・ド・ボンヌヴァル]]、[[軍人]](+ [[1747年]])
* [[7月25日]] - [[ジェイムズ・ソーンヒル]]、[[画家]](+ [[1734年]])
* [[10月7日]] - [[ロザルバ・カリエーラ]]([[w:Rosalba Carriera|Rosalba Carriera]])、画家(+ [[1757年]])
* [[10月11日]] - [[サミュエル・クラーク]]([[w:Samuel Clarke|Samuel Clarke]])、[[哲学者]](+ [[1729年]])
* [[10月21日]](延宝3年[[9月3日 (旧暦)|9月3日]]) - [[東山天皇]]、第113代[[天皇]](+ [[1710年]])
* [[萱野重実|萱野三平]]、[[赤穂藩|赤穂藩士]](+ [[1702年]])
* [[売茶翁|高遊外(売茶翁)]]、[[僧]]、[[茶道|茶人]](+ [[1763年]])
* [[エドマンド・カール]]([[w:Edmund Curll|Edmund Curll]])、書籍出版者(+ [[1747年]])
* [[ウィリアム・ジョーンズ (数学者)|ウィリアム・ジョーンズ]]、[[数学者]](+ [[1749年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1675年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月5日]] - [[羽地朝秀]]、[[琉球王国]]の[[政治家]](* [[1617年]])
* [[2月9日]] - [[ヘラルト・ドウ]]、[[画家]](* [[1613年]])
* [[5月18日]] - [[ジャック・マルケット]]、[[宣教師]](* [[1637年]])
* [[6月12日]] - [[カルロ・エマヌエーレ2世]]、[[サヴォイア公国|サヴォイア公]](* [[1634年]])
* [[6月25日]](延宝3年[[5月3日 (旧暦)|5月3日]]) - [[阿部忠秋]]、老中(* [[1602年]])
* [[7月27日]] - [[テュレンヌ子爵アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ]]、[[フランス大元帥]](* [[1611年]])
* [[9月23日]] - [[ヴァレンティーヌ・コンラール]]([[w:Valentin Conrart|Valentin Conrart]])、[[詩人]]、[[文法学]]者、[[アカデミー・フランセーズ]]創設者(* [[1603年]])
* [[10月27日]] - [[ジル・ペルソン・ド・ロベルヴァル]]、数学者(* [[1602年]])
* [[10月29日]] - [[アンドレーアス・ハンマーシュミット]]、作曲家、[[オルガニスト]](* [[1611年]]または[[1612年]])
* [[10月]] - [[ジェームス・グレゴリー]]、数学者、[[天文学者]](* [[1638年]])
* [[11月8日]]以前 - [[アラールト・ファン・エーフェルディンヘン]]、画家、[[版画家]](* [[1621年]])
* [[11月16日]](延宝3年[[9月29日 (旧暦)|9月29日]]) - [[柳生宗冬]]、[[徳川家綱]]の[[剣術]]の師、[[柳生三厳]](十兵衛)の弟(* [[1613年]]?)
* [[12月15日]]埋葬 - [[ヨハネス・フェルメール]]、画家(* [[1632年]])
* [[12月24日]](延宝3年[[11月8日 (旧暦)|11月8日]]) - [[井上正利]]、[[寺社奉行]](* [[1606年]])
* [[ブリュニョールヴル・スヴェインスソン]]、[[聖職者]](* [[1605年]])
* [[ルカ・ドゥベス]]([[w:Lucas Debes|Lucas Debes]])、[[地形学]]者(* [[1623年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1675}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}}
{{デフォルトソート:1675ねん}}
[[Category:1675年|*]] | null | 2022-03-16T05:07:28Z | false | false | false | [
"Template:Year-definition",
"Template:他の紀年法",
"Template:年間カレンダー",
"Template:年代ナビ",
"Template:Sup",
"Template:Clear",
"Template:See also",
"Template:Commonscat",
"Template:十年紀と各年"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1675%E5%B9%B4 |
8,448 | 1713年 | 1713年(1713 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。 | [
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== 他の紀年法 ==
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* [[干支]] : [[癸巳]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[正徳 (日本)|正徳]]3年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2373年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[康熙]]52年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[粛宗 (朝鮮王)|粛宗]]39年
** [[檀君紀元|檀紀]]4046年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[永盛 (黎朝)|永盛]]9年
* [[仏滅紀元]] : 2255年 - 2256年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1124年 - 1125年
* [[ユダヤ暦]] : 5473年 - 5474年
* [[ユリウス暦]] : 1712年12月21日 - 1713年12月20日
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== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1713}}
== できごと ==
* [[8月22日]]-11月12日 - イギリスで[[1713年イギリス総選挙|総選挙]]。与党[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]の勝利{{要出典|date=2021-03}}。
* [[スペイン継承戦争]]が終結し、[[ユトレヒト条約]]が締結される
== 誕生 ==
{{see also|Category:1713年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[4月10日]] - [[ジョン・ホワイトハースト]]、時計職人・[[科学者]](+ [[1788年]])
* [[5月25日]] - 第3代[[ビュート伯爵]][[ジョン・ステュアート (第3代ビュート伯)|ジョン・ステュアート]](+ [[1792年]])
* [[10月5日]] - [[ドゥニ・ディドロ]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Denis-Diderot Philip Denis Diderot French philosopher] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[啓蒙思想家]]・[[作家]](+ [[1784年]])
* [[11月24日]] - [[ローレンス・スターン]]、[[小説家]](+ [[1768年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1713年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月8日]] - [[アルカンジェロ・コレッリ]]、[[作曲家]]・[[ヴァイオリニスト]](* [[1653年]])
* [[11月13日]](正徳3年[[9月26日 (旧暦)|9月26日]]) - [[荻原重秀]]、勘定頭(* [[1658年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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8,449 | 関西 | 関西(かんさい)は、日本の本州西部に位置する地方である。関東との対で生じた名称であり、元は三関(のち逢坂関)以西を指すが、現在では通常中国地方・四国・九州は含まない場合が多い。
学校教育(文部科学省教育指導要項)や各種辞書などで2府5県(大阪府・京都府・兵庫県・奈良県・和歌山県・滋賀県・三重県)と、明確に定義されている「近畿」と異なり、「関西」が指す範囲は時代や場面によってまちまちであり、最も広義では西日本、最も狭義では京阪神を指す。一般的には大阪市と文化・交通・経済的な繋がりが深いエリア(京阪神大都市圏)とされ、近畿地方の中では名古屋市との繋がりが大きい三重県を除いた関西2府4県(近畿2府4県とも言う)を指すことが多い。
『広辞苑』では「関西」の語義として「逢坂関以西」「三関以西(鎌倉時代以降)」「箱根関以西」「京阪神地方(現今)」の四つを挙げている。「関西」と「近畿」の違いについては「近畿地方#名称」も参照。
平安時代初期の『続日本紀』で使用が確認できる「関東」に対して、「関西」という名称の使用が確認できる最初期の史料は平安時代後期の漢詩集『本朝無題詩』や鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』であり、その後も「関東」に比べると「関西」の使用はあまり多くなかった。これは現在「関西」と呼ばれる地域は日本の中心地だった時期が長く、「畿内」「五畿(内)」「上方」などの名称が用いられたためである。
現在の「関西」という概念は、明治維新による東京奠都以後(特に大正末期・昭和初期以降)になって「畿内」や「上方」に代わる用語として醸成された。学会では、皇居の東京移転によって皇居所在地を意味する「上方」に語弊が生じたため、上方方面を意味する用語として、明治政府が積極的に普及させたとの歴史が研究発表されている。なお、「近畿」という用語およびその範囲が定着するのも明治以降であり、1903年に地理の第一期国定教科書内で使用されたことを契機とする。国際化が進展した平成以降、「近畿」が「ねじれた」「変態の」といった意味がある英語の "kinky" に発音が似ていることから、「関西」の使用に拍車がかかった。その背景にある歴史変遷は後述のとおりである。
古代律令制期、畿内を防御する目的で鈴鹿関(東海道伊勢国、現在の三重県亀山市)、不破関(東山道美濃国、現在の岐阜県関ケ原町)、愛発関(北陸道越前国、現在の福井県敦賀市)の三関が設置され、その東に位置する諸国が「関東」と呼ばれるようになったが、「関西」という概念は発生しなかった。朝廷の存在する畿内とその周辺は日本の中心であり、東も西もなかったためである。
平安時代に愛発関が廃止され、代わりに逢坂関(東山道近江国、現在の滋賀県大津市)が置かれると、逢坂関が「関東」と「関西」の境界となったが、「関西」という概念は依然として強く意識されることはなかった。
朝廷と権力を二分する鎌倉幕府が成立すると、幕府を中心とする三河国・信濃国・越後国以東が「関東」と意識されるようになり、対して朝廷を中心とする西日本諸国が「関西」として意識されるようになった。ただし「関西」が指す範囲は一定ではなく、朝廷が直接統治権を及ぼす尾張国以西を指すこともあれば、従前どおり逢坂関以西を指すこともあった。
江戸幕府が成立すると、幕府所在地の江戸を中心とする坂東8か国(関八州)が「関東」と認識されるようになり、それとともに「関西」は大坂・京都を中心とする上方諸国と認識されるようになった。しかし、「関西」の指す範囲はやはり大まかなものであり、場面によって上方諸国、畿内諸国、逢坂関以西、鈴鹿関以西、箱根関以西などと使い分けられた。なお、「上方」が指す範囲も同様に一定ではなかった(詳細は上方を参照)。
明治以降は、江戸時代以前と比べて「関西」が指す範囲は固定化され、京阪神とその周辺地域を指すことがほとんどとなった。もっとも、東海・北陸で刊行された医学雑誌『関西医界時報』(1912年-43年,1946年-64年)のように、京阪神を含まない地域を指して「関西」を用いた例も稀にある。現在「関西」と「近畿」はほとんど同義のように扱われることもあり、例えば大阪市に所在する経済産業省の出先機関は「近畿経済産業局」であるが、英語名は "The Kansai Bureau of Economy, Trade and Industry (METI-KANSAI) " としている。
「関西」で始まるページの一覧を参照。 | [
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] | 関西(かんさい)は、日本の本州西部に位置する地方である。関東との対で生じた名称であり、元は三関(のち逢坂関)以西を指すが、現在では通常中国地方・四国・九州は含まない場合が多い。 学校教育(文部科学省教育指導要項)や各種辞書などで2府5県(大阪府・京都府・兵庫県・奈良県・和歌山県・滋賀県・三重県)と、明確に定義されている「近畿」と異なり、「関西」が指す範囲は時代や場面によってまちまちであり、最も広義では西日本、最も狭義では京阪神を指す。一般的には大阪市と文化・交通・経済的な繋がりが深いエリア(京阪神大都市圏)とされ、近畿地方の中では名古屋市との繋がりが大きい三重県を除いた関西2府4県(近畿2府4県とも言う)を指すことが多い。 『広辞苑』では「関西」の語義として「逢坂関以西」「三関以西(鎌倉時代以降)」「箱根関以西」「京阪神地方(現今)」の四つを挙げている。「関西」と「近畿」の違いについては「近畿地方#名称」も参照。 | {{Otheruses|日本における概念的地域|現代日本の地方区分|近畿地方|その他}}
{{複数の問題
| 出典の明記=2019-09-03
| 独自研究=2019-09-03
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'''関西'''(かんさい)は、[[日本]]の[[本州]]西部に位置する[[地方]]である。[[関東]]との対で生じた名称であり、元は[[三関]](のち[[逢坂関]])以西を指すが<ref name="sankei2014">{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/premium/news/140920/prm1409200007-n1.html|title=三重県は、関西? 近畿? それとも…?|publisher=産経新聞|date=2014-9-20|accessdate=2023-3-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210412153450/https://www.sankei.com/premium/news/140920/prm1409200007-n1.html|archivedate=2021-4-12}}</ref><ref name="kokudo">{{Cite web|和書|url=https://www.kkr.mlit.go.jp/kokudokeikaku/program/data/2008/manage_20080228/6.pdf|title=「近畿」と「関西」の取り扱いについて(幹部会合意事項)|publisher=国土交通省|year=2008|accessdate=2023-03-08}}</ref>、現在では通常[[中国地方]]・[[四国]]・[[九州]]は含まない場合が多い。
学校教育(文部科学省教育指導要項)や各種辞書などで2府5県([[大阪府]]・[[京都府]]・[[兵庫県]]・[[奈良県]]・[[和歌山県]]・[[滋賀県]]・[[三重県]])と、明確に定義されている「'''[[近畿地方|近畿]]'''」と異なり<ref name="mie">{{Cite web|和書|url=https://www.pref.mie.lg.jp/KIKAKUK/HP/renkei/09519011959.htm|title=三重県・三重県は中部地方?近畿地方?|publisher=三重県|accessdate=2019-10-28}}</ref>、「関西」が指す範囲は時代や場面によってまちまちであり、最も広義では[[西日本]]、最も狭義では[[京阪神]]を指す<ref name="kokudo" />。一般的には[[大阪市]]と文化・交通・経済的な繋がりが深いエリア(京阪神大都市圏)とされ、近畿地方の中では[[名古屋市]]との繋がりが大きい三重県を除いた'''関西2府4県'''(近畿2府4県とも言う)を指すことが多い<ref>{{Cite book |title=大阪・京都・兵庫・奈良・滋賀・和歌山 関西2府4県 キャラも違えば常識もバラバラ。 |url=https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E3%83%BB%E4%BA%AC%E9%83%BD%E3%83%BB%E5%85%B5%E5%BA%AB%E3%83%BB%E5%A5%88%E8%89%AF%E3%83%BB%E6%BB%8B%E8%B3%80%E3%83%BB%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1-%E9%96%A2%E8%A5%BF%EF%BC%92%E5%BA%9C%EF%BC%94%E7%9C%8C-%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%A9%E3%82%82%E9%81%95%E3%81%88%E3%81%B0%E5%B8%B8%E8%AD%98%E3%82%82%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%90%E3%83%A9%E3%80%82-KAWADE%E5%A4%A2%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%8D%9A%E5%AD%A6%E3%81%93%E3%81%A0%E3%82%8F%E3%82%8A%E5%80%B6%E6%A5%BD%E9%83%A8/dp/4309485995 |publisher=河出書房新社 |date=2023-07-11 |isbn=978-4-309-48599-7 |first=部 |last=博学こだわり倶楽}}</ref>。
『[[広辞苑]]』では「関西」の語義として「[[逢坂関]]以西」「[[三関]]以西(鎌倉時代以降)」「[[箱根関]]以西」「京阪神地方(現今)」の四つを挙げている<ref>広辞苑無料検索</ref>。「関西」と「近畿」の違いについては「[[近畿地方#名称]]」も参照。
== 概要 ==
[[平安時代]]初期の『[[続日本紀]]』で使用が確認できる「関東」に対して、「関西」という名称の使用が確認できる最初期の史料は[[平安時代]]後期の漢詩集『本朝無題詩』<ref>『精選版[[日本国語大辞典]]』小学館、2006年</ref>や[[鎌倉時代]]の歴史書『[[吾妻鏡]]』<ref name="kokudo"/>であり、その後も「関東」に比べると「関西」の使用はあまり多くなかった。これは現在「関西」と呼ばれる地域は日本の中心地だった時期が長く、「'''[[畿内]]'''」「'''五畿(内)'''」「'''[[上方]]'''」などの名称が用いられたためである。
現在の「関西」という概念は、[[明治維新]]による東京奠都以後(特に[[大正]]末期・[[昭和]]初期以降)になって「畿内」や「上方」に代わる用語として醸成された。{{要出典|date=2023-03-04|学会では、皇居の東京移転によって皇居所在地を意味する「上方」に語弊が生じたため、上方方面を意味する用語として、明治政府が積極的に普及させたとの歴史が研究発表されている|title=具体的な発表事例を出典として挙げていただけるとありがたいです。}}。なお、「近畿」という用語およびその範囲が定着するのも明治以降であり、1903年に地理の第一期国定教科書内で使用されたことを契機とする<ref name="kokudo"/>。国際化が進展した[[平成]]以降、「近畿」が「ねじれた」「変態の」といった意味がある[[英語]]の "kinky" に発音が似ていることから、「関西」の使用に拍車がかかった。その背景にある歴史変遷は後述のとおりである。
== 時代による概念の変遷 ==
=== 古代 ===
古代[[律令制]]期、畿内を防御する目的で[[鈴鹿関]]([[東海道]][[伊勢国]]、現在の[[三重県]][[亀山市]])、[[不破関]]([[東山道]][[美濃国]]、現在の[[岐阜県]][[関ケ原町]])、[[愛発関]]([[北陸道]][[越前国]]、現在の[[福井県]][[敦賀市]])の'''[[三関]]'''が設置され、その東に位置する諸国が「関東」と呼ばれるようになったが<ref name="sankei2014"/>、「関西」という概念は発生しなかった。朝廷の存在する畿内とその周辺は日本の中心であり、東も西もなかったためである。
[[平安時代]]に愛発関が廃止され、代わりに[[逢坂関]](東山道[[近江国]]、現在の[[滋賀県]][[大津市]])が置かれると、逢坂関が「関東」と「関西」の境界となったが<ref name="sankei2014"/>、「関西」という概念は依然として強く意識されることはなかった。
=== 中世 ===
朝廷と権力を二分する[[鎌倉幕府]]が成立すると、幕府を中心とする[[三河国]]・[[信濃国]]・[[越後国]]以東が「関東」と意識されるようになり、対して朝廷を中心とする西日本諸国が「関西」として意識されるようになった。ただし「関西」が指す範囲は一定ではなく、朝廷が直接統治権を及ぼす[[尾張国]]以西を指すこともあれば、従前どおり逢坂関以西を指すこともあった。
=== 近世 ===
[[江戸幕府]]が成立すると、幕府所在地の[[江戸]]を中心とする坂東8か国([[関八州]])が「関東」と認識されるようになり、それとともに「関西」は[[大阪|大坂]]・[[京都]]を中心とする上方諸国と認識されるようになった。しかし、「関西」の指す範囲はやはり大まかなものであり、場面によって上方諸国、畿内諸国、逢坂関以西、鈴鹿関以西、箱根関以西などと使い分けられた。なお、「上方」が指す範囲も同様に一定ではなかった(詳細は[[上方]]を参照)。
=== 近代・現代 ===
明治以降は、江戸時代以前と比べて「関西」が指す範囲は固定化され、[[京阪神]]とその周辺地域を指すことがほとんどとなった。もっとも、東海・北陸で刊行された医学雑誌『関西医界時報』(1912年-43年,1946年-64年)のように、京阪神を含まない地域を指して「関西」を用いた例も稀にある<ref>[https://www.med.nagoya-u.ac.jp/medlib/history/archive/print/1912kansaiikai.html 1912-1914年 『関西醫界時報』] - [[名古屋大学]]医学部史料室</ref>。現在「関西」と「近畿」はほとんど同義のように扱われることもあり、例えば大阪市に所在する[[経済産業省]]の出先機関は「近畿経済産業局」であるが、英語名は "The Kansai Bureau of Economy, Trade and Industry (METI-KANSAI) " としている<ref>[http://www.kansai.meti.go.jp/english/what_is_metikansai.html 近畿経済産業局の英文ページ]</ref>。
== 「関西」を冠する組織など ==
{{prefix}}を参照。
* [[関西経済連合会]] - 関西を代表する大企業の代表者が歴代会長を務める。
* [[関西電力]] - 大阪府大阪市に本店を置く大手電力事業者。
* [[関西国際空港]](関空) - 大阪府[[泉佐野市]]に所在する[[国際空港]]。
* [[関西テレビ放送]](カンテレ) - 大阪府大阪市に本社を置く[[準キー局]]。[[広域放送#テレビジョン放送|近畿広域圏]]を[[放送対象地域]]として[[テレビジョン放送]]を行う。
* [[ラジオ関西]] - 兵庫県を対象エリアとする独立系ラジオ放送。
* [[関西文化学術研究都市]](けいはんな学研都市) - [[大阪府]]、[[京都府]]、[[奈良県]]にまたがる[[京阪奈|京阪奈丘陵]]に位置する広域[[学園都市|学研都市]]。
* [[国立国会図書館関西館]] - [[京都府]][[相楽郡]][[精華町]]にある[[国立国会図書館]]。
* 関西大学(関大) - 大阪府[[吹田市]]に本部を置く[[私立大学]]。[[関関同立]]の一角。
* [[関西学院大学]](関学) - [[兵庫県]][[西宮市]]に本部を置く私立大学。関関同立の一角。「かんせい(くゎんせい)」と読む。
* [[関西外国語大学]] - 大阪府枚方市に本部を置く私立大学。
* [[関西医科大学]] - 大阪府[[枚方市]]に本部を置く医療系の私立大学。
* [[関西鉄道]] - 明治時代に三重県[[四日市市]]で設立された鉄道会社。現在の[[関西本線]]([[JR難波駅]] - [[名古屋駅]])などの前身。読みは「かんせい」と「かんさい」が混在していた。
* 関西電気 - 名古屋市に本店を置いた第二次世界大戦前の大手電力会社。のちに本店を東京に移転するとともに[[東邦電力]]に商号変更した。
* [[関西広域連合]] - 行政機構。三重県を除く近畿2府4県に[[鳥取県]]と[[徳島県]]を加えた8府県が参加<ref>{{Cite web|和書|title=ホーム{{!}}関西広域連合 |url=https://www.kouiki-kansai.jp/index.html |website=www.kouiki-kansai.jp |access-date=2023-02-03 |language=ja}}</ref>。なお、[[近畿ブロック知事会]]には三重県と[[福井県]]を含む10府県の知事が参加している。
* [[関西ラグビーフットボール協会]] - [[中部地方]]から西全体を統括している。
* [[学校法人関西学園]] [[関西高等学校]] - [[岡山県]][[岡山市]]に所在。「かんぜい」と読む。
* 関西書芸院、関西書道専門学校 - 岡山県[[早島町]]に所在。「かんさい」と読む。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[関東]]
* [[東国]]
* [[西国]]
* [[畿内]]
* [[上方]]
* [[近畿地方]]
* [[京阪神]]
* [[中部地方]]
== 参考文献 ==
* 網野善彦、『「日本」とは何か』 日本の歴史00、講談社、2000、ISBN 4062689006
== 外部リンク ==
* [https://www.kouiki-kansai.jp/ 関西広域連合](2府8県)
{{japanese-history-stub}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:かんさい}}
[[Category:近畿地方]]
[[Category:日本の地域]] | 2003-05-17T12:11:15Z | 2023-12-04T07:10:39Z | false | false | false | [
"Template:Prefix",
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"Template:Cite web",
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"Template:Otheruses",
"Template:複数の問題",
"Template:要出典",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Japanese-history-stub",
"Template:Normdaten"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E8%A5%BF |
8,450 | 学会 | 学会(がっかい、英語: learned society、scholarly society、academic associationなど)は、学問や研究の従事者らが、自己の研究成果を公開発表し、その科学的妥当性をオープンな場で検討論議する場である。また同時に、査読、研究発表会、講演会、学会誌、学術論文誌などの研究成果の発表の場を提供する業務や、研究者同士の交流、文化団体として学者の利益を代表するなどの役目も果たす機関でもある。
日本において国が公的学会に指定しているのは、政府の諮問機関である日本学術会議の「日本学術会議協力学術研究団体」である。そのため、大学・研究機関によっては、公費出張による学会参加を日本学術会議協力学術研究団体の学会に限定する場合がある。
日本学術会議は、学会の申請を受けて審査し、下記の3つの要件を満たす学会を日本学術会議協力学術研究団体として認定する。
なお、要件における「研究者」とは、人文・社会科学から自然科学までを包含するすべての学術分野において、新たな知識を生み出す活動、あるいは科学的な知識の利用及び活用に従事する者と定義されている。
学会には、社団法人化しているものも多い(しかし法人格を持つ学会の全部について国の公的認知があるとは限らない)。また法人化、法人化後ともに事務手続きが煩瑣になるので、中規模以下の学会では任意団体にとどまっているものも少なくない。
学会活動は原則として研究者のボランティアであり、学会役員に就任してもほとんどの学会では役員手当の類は支給されない。
学会は一般には全国の研究者を対象とするが、地域単位や大学単位で、その地域内の研究者や大学内の教員・学生・卒業生の研究・交流組織として学会が存在することがある。この種の学会は、○○(地名)××学会、△△大学□□学会と頭に地名、大学名をつけることが多い。
近年、課程博士取得が増加するにつれて、博士号授与資格のある大学では、全国学会での最低一回の口頭発表を学位論文提出資格の一つとしているところもある。
学会の会員は一般に学会員(がっかいいん)と呼ぶ。
学会では、一般に会費を徴収し、会員としての権利を付与する。学会員の種別として正会員、名誉会員、賛助会員、団体会員、準会員、学生会員といった区別を設ける場合もあり、各種特典を区別する場合もある。
入会に当たっての条件は各学会により様々であり、特定の資格や専門性を有する者のみに限る学会がある一方で、当該分野に関心を持つ者であれば誰でも入会できる学会もある。
学会に類似するものに研究会がある。研究会は学会に比べ規模が小さく流動性も大きいが自由度も高い。学会は発表時間が厳しく制限されるが、研究会は発表時間・討論時間ともかなり自由であることが多い。学会はその存在を公開しているが、小規模な研究会の中には、その存在を公開せず少人数の研究者の自己研鑽の場としているものもある。一般に、学会での成果発表の方が研究会よりも「業績」として高く評価される。一方で、大規模な研究会のなかには学会化するものもある。社団法人現代風俗研究会のごとく、「研究会」の名称のまま著名になり法人格を得た例もある。
学会発表は、学問や研究の従事者が、方法論を明らかにし、それを用いた成果の事実およびその進歩性を、学会の全国大会などで口頭発表する形をとる。事前に査読を実施するものもある。
発表時間は学会によって異なるが、概して20分-30分程度と短く、発表者は内容を整理して発表することが求められる。発表後には質問時間が設けられ、聴衆の会員から発表内容に関する質問を受け付けるのが普通である。学会発表は研究業績として認められ、大学・研究機関の採用・昇格人事などの判定資料の一つとなる。(ただし論文のほうが業績として高く評価される。)また、発表定員の関係などで、大会会場内の教室・掲示板に研究内容を掲示し、指定時間に発表者がそこで質問等を受け付けることもある。これをポスター発表といい、学会発表と同格に扱われる。
方法論の新規性について特許権を得たい場合には、その公開前に出願手続きを済ませるなどする必要がある。発表論文の著作権は学会に譲渡する場合が多い。これらは学会誌投稿論文でも同様である。
会員の研究成果発表のために学会誌を発行することは、学会の主要な機能の一つである。学会誌は学術雑誌とみなされる。学会誌は学術刊行物として、政府機関から学術助成金が出ている場合もある。学会誌は、投稿論文を主な内容とする場合が多い。投稿資格はその学会会員に限定されるのが普通である。投稿原稿は、投稿者氏名を削除して複数の匿名の研究者によって掲載に値するかどうか審査される。これを査読という。査読により、掲載可、書き直し、掲載不可などの判定がなされる。学会誌によっては、論文よりランクが低い研究ノートを設け、論文としては掲載できない投稿を研究ノートとして掲載する場合もある。学会誌掲載論文、特に全国学会誌掲載論文は、一般に研究業績として高く評価される。
学会の起源は、中世 - ルネサンス期のヨーロッパで、保守的な大学に反発した知識人が各々で集まって行った情報交換の場である。17世紀の研究者たちは、自然に関する新しい事実を見つけるための実験を行ない、新しい理論を構築することを目指した。しかしそれは単独では困難であり、可能な限り多く人がを結集して互いが協力して行動することが不可欠だった 。そのためフランシス・ベーコンの考えを引き継いで、個人では行いにくい実験や観測を協力して行ったり情報交換したりすることが始まった。そして近代的な観測は、定量的な計測とその記録から始まった。
当時の自然研究者たちや実験家たちは、上記のように互いに協力して実験したり、情報を交換したりするためにグループを結成した。それには17世紀にヨーロッパに広く整備され発展した郵便制度が、大きく貢献した。そのようなグループは次第に組織化されて学会(アカデミーやソサエティ)となっていった。さらにそうしたいう学会は、会員による発見などを発表する場や会報などの定期刊行物の仕組みを整備していった。これは会報などを通して批評、批判、反論を行う公開の機会を提供し、訂正や情報提供の依頼、研究計画の告知などにも使われた。こういった公開の議論や告知は発見の剽窃を防止し、発見を秘匿するための研究者の孤立化を防いでヨーロッパの知的研究の向上に寄与した 。
15世紀頃から学問が盛んになると、教育機関となってしまった大学に代わって学会やアカデミーが研究機関の原型として整い始めた 。1474年にイタリアのフィレンツェにおいて、メディチ家によって「プラトン学院(Accademica Platonica)」が創設された。これが学術的な情報交換を目的とした集まりの始まりとされており、主に古典文献研究が目的だった。その後自然科学研究の隆盛とともに、その情報交換を目的として1603年にモンティチェリ公フェデリコ・チェージ(Federico Cesi)が、山猫の目のような鋭い具眼の持ち主を目標にするという趣旨で、ガリレイなどの自然科学の研究者や愛好家を集めてローマに「山猫アカデミー(Accademia dei Lincei)」を設立した 。
イタリアでは、1657年にトスカーナ大公フェルディナンド2世・デ・メディチ(Ferdinando II de' Medici)とその弟レオポルド(Leopoldo de' Medici)が、ガリレイの精神を継承していくためにトリチェリなどを擁した「実験アカデミー(Accademia del Cimento)」を作った。
フランスのパリでは1630年代から、数学や音楽の研究を趣味とする司祭メルセンヌ(Marin Mersenne)が多くの研究者を集めて、自然科学について自発的に研究集会を開くようになった。これは「メルセンヌ学会(L'Académie de Mersenne)」と呼ばれた。フランスの大臣コルベールは、イギリスの王立学会に刺激を受けて公式の科学学会を組織すべきと国王ルイ14世に進言した。その結果、1666年にパリに「王立科学アカデミー( l'Acadmie Royale Des Sciences )」が誕生した 。
ロンドンでは、1645年頃から数学者ウォリスらが中心となって新しい科学に興味を持つ人々がグループを作って、新しい知識を集めて議論、考察する活動を始めた。このグループの一部は清教徒革命などの政争の影響でオックスフォードに移り、1649年頃からオクスフォードグループと称された。1660年に国王チャールズ2世の復帰によって王政が再開されると、オックスフォードグループはロンドンのグループと合流して、ロンドンのグレシャム・カレッジで会合を持つようになった。このグループは1662年に国王による勅許を得て王立学会(Royal Society)を設立した。国王は名称の利用を認めただけで学会の運営は国王とは独立していた。
王立学会の活動の特徴は、1665年以降「哲学紀要(The Philosophical Transactions of the Royal Society)」を定期的に出版したことである。王立学会は勅許があるため、このような出版物も国の検閲を受けずに発行することができた。この紀要はイギリスだけでなくヨーロッパ中からの報告を掲載し、また発見の告知、先取権の確立、論争の展開を通して、今日の学術論文の元となった。19世紀の生物学者トマス・ハクスリー(Thomas Huxley)は、この紀要の役割についてこう述べている。"もし哲学紀要を除く全世界のすべての本が破壊されたとしても、物理科学の基盤は揺るがず、過去200年間の膨大な知的進展についての記録は、完全とは言えないまでも、ほとんどが手元に残ると言って差し支えない" 。
このような学会は自ら企画して実験や観測を行った。その例として、気象測器を作成しての気象観測網の構築がある。イタリアの実験アカデミーは活動の一つとして、温度計、気圧計、湿度計をつくらせ、7地点からなる初めての気象観測網を作って温度、気圧、湿度、風、空の状態を観測した。フランスの王立科学アカデミーはパリで気象観測を行い、1688年からアカデミーの紀要(memoirs)に気圧、気温、降水量を掲載した。イギリスの王立学会のロバート・フックは1663年にその気象観測網に「気象誌の作成方法(A method for making the history of the weather)」を提案して、気象測器を開発するとともに観測法の統一を図った 。王立学会の気象観測網は18世紀に入ると北ヨーロッパ、インド、北アメリカに広がり真の意味で初めての国際的な気象観測網となった。
しかし、18世紀に科学が発展して学会の活動分野が広がってくると気象観測網の維持は困難となった。そのため、18世紀末になるとパラティナ気象学会など気象専門の学会や活動組織が整備されるようになった。
複数の学会で学術連合体を構成することもある。
学会としての機能を持っていない団体・集団が「...学会」と自称している場合もある。そう名乗ることがふさわしいと信じている場合、単に権威付けを狙っている場合など、その理由は様々であると考えられる。中には「と学会」のように単なる冗談やコミュニティーで名付けている例もある。(少なくとも日本では)「学会」と名乗ることに対して規制や資格は存在しない。
また、日本では宗教法人の創価学会を単に「学会」と呼ぶこともある。同会では構成員(信者)を「学会員」と呼ぶ。 | [
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"text": "また、日本では宗教法人の創価学会を単に「学会」と呼ぶこともある。同会では構成員(信者)を「学会員」と呼ぶ。",
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] | 学会は、学問や研究の従事者らが、自己の研究成果を公開発表し、その科学的妥当性をオープンな場で検討論議する場である。また同時に、査読、研究発表会、講演会、学会誌、学術論文誌などの研究成果の発表の場を提供する業務や、研究者同士の交流、文化団体として学者の利益を代表するなどの役目も果たす機関でもある。 | {{Otheruses|学術機関|学術会議|学会 (会議)|その他}}
{{出典の明記|date=2013年6月}}
[[File:200 y Anniversary of Berlin Academy 1900.jpg|thumb|200周年記念を迎えたベルリン・アカデミー|250px|right]]
'''学会'''(がっかい、英語: learned society、scholarly society、academic associationなど)は、[[学問]]や[[研究]]の従事者らが、自己の研究成果を公開発表し、その[[科学]]的妥当性をオープンな場で検討論議する場である。また同時に、[[査読]]、研究発表会、講演会、学会誌、[[学術論文]]誌などの研究成果の発表の場を提供する業務や、[[学者|研究者]]同士の交流、[[文化団体]]として学者の[[利益団体|利益を代表]]するなどの役目も果たす[[機関]]でもある。
== 概要 ==
[[日本]]において国が'''[[日本の学会一覧|公的学会]]'''に指定しているのは、[[政府]]の諮問機関である[[日本学術会議]]の「'''[[日本学術会議協力学術研究団体]]'''」である。そのため、[[大学]]・[[研究機関]]によっては、公費出張による学会参加を日本学術会議協力学術研究団体の学会に限定する場合がある。
日本学術会議は、学会の申請を受けて審査し、下記の3つの要件を満たす学会を日本学術会議協力学術研究団体として認定する<ref name="scj10">{{Cite web|和書|author=日本学術会議|date=2010|url=https://www.scj.go.jp/ja/group/dantai/|title=日本学術会議協力学術研究団体一覧|accessdate=2010-04-16}}</ref>。
# 学術研究の向上発達を図ることを主たる目的とし、かつその目的とする分野における「学術研究団体」として活動しているものであること
# 研究者の自主的な集まりで、研究者自身の運営によるものであること
# 構成員(個人会員)の数が100人以上であること
#* 「学術研究団体の連合体」の場合は、3つ以上の「協力学術研究団体」を含むものであること。ただし、連合体に「協力学術研究団体以外の団体」が含まれている場合は、各団体が上記3. 以外の1. および2. の要件を満たしていることが求められる
なお、要件における「研究者」とは、[[人文科学|人文]]・[[社会科学]]から[[自然科学]]までを包含するすべての学術分野において、新たな知識を生み出す活動、あるいは科学的な知識の利用及び活用に従事する者と定義されている<ref name="scj10"/>。
学会には、[[社団法人]]化しているものも多い(しかし法人格を持つ学会の全部について国の公的認知があるとは限らない)。また法人化、法人化後ともに事務手続きが煩瑣になるので、中規模以下の学会では[[任意団体]]にとどまっているものも少なくない。
学会活動は原則として研究者の[[ボランティア]]であり、学会役員に就任してもほとんどの学会では役員手当の類は支給されない。
学会は一般には全国の[[研究者]]を対象とするが、地域単位や大学単位で、その地域内の研究者や大学内の[[教員]]・[[学生]]・[[卒業生]]の研究・交流組織として学会が存在することがある。この種の学会は、○○(地名)××学会、△△大学□□学会と頭に地名、大学名をつけることが多い。
近年、[[課程博士]]取得が増加するにつれて、[[博士号]]授与資格のある大学では、全国学会での最低一回の口頭発表を学位論文提出資格の一つとしているところもある。
=== 学会員 ===
学会の[[会員]]は一般に'''学会員'''(がっかいいん)と呼ぶ。
学会では、一般に会費を徴収し、会員としての権利を付与する。学会員の種別として正会員、名誉会員、賛助会員、団体会員、準会員、学生会員といった区別を設ける場合もあり、各種特典を区別する場合もある。
入会に当たっての条件は各学会により様々であり、特定の[[資格]]や専門性を有する者のみに限る学会がある一方で、当該分野に関心を持つ者であれば誰でも入会できる学会もある。
=== 研究会 ===
{{Main|研究会}}学会に類似するものに[[研究会]]がある。研究会は学会に比べ規模が小さく流動性も大きいが自由度も高い。学会は発表時間が厳しく制限されるが、研究会は発表時間・討論時間ともかなり自由であることが多い。学会はその存在を公開しているが、小規模な研究会の中には、その存在を公開せず少人数の研究者の自己研鑽の場としているものもある。一般に、学会での成果発表の方が研究会よりも「業績」として高く評価される。一方で、大規模な研究会のなかには学会化するものもある。社団法人[[現代風俗研究会]]のごとく、「研究会」の名称のまま著名になり法人格を得た例もある。
==学会発表==
[[学会 (会議)|学会発表]]は、学問や研究の従事者が、方法論を明らかにし、それを用いた成果の事実およびその進歩性を<ref group="注釈">既発表の内容の再度の発表は進歩性は認められない。ただし招待発表はそれは問われない。</ref>、学会の全国大会などで口頭発表する形をとる。事前に[[査読]]を実施するものもある。
発表時間は学会によって異なるが、概して20分-30分程度と短く、発表者は内容を整理して発表することが求められる。発表後には質問時間が設けられ、聴衆の会員から発表内容に関する質問を受け付けるのが普通である。学会発表は研究業績として認められ、大学・研究機関の採用・昇格人事などの判定資料の一つとなる。(ただし論文のほうが業績として高く評価される。)また、発表定員の関係などで、大会会場内の教室・掲示板に研究内容を掲示し、指定時間に発表者がそこで質問等を受け付けることもある。これをポスター発表といい、学会発表と同格に扱われる。
方法論の新規性について特許権を得たい場合には、その公開前に出願手続きを済ませるなどする必要がある。発表論文の著作権は学会に譲渡する場合が多い。これらは学会誌投稿論文でも同様である。
==学会誌==
会員の研究成果発表のために学会誌を発行することは、学会の主要な機能の一つである。学会誌は[[学術雑誌]]とみなされる。学会誌は学術刊行物として、政府機関から学術助成金が出ている場合もある。学会誌は、投稿論文を主な内容とする場合が多い。投稿資格はその学会会員に限定されるのが普通である。投稿原稿は、投稿者氏名を削除して複数の匿名の研究者によって掲載に値するかどうか審査される。これを[[査読]]という。査読により、掲載可、書き直し、掲載不可などの判定がなされる。学会誌によっては、論文よりランクが低い研究ノートを設け、論文としては掲載できない投稿を研究ノートとして掲載する場合もある。学会誌掲載論文、特に全国学会誌掲載論文は、一般に研究業績として高く評価される。
== 歴史 ==
=== 背景 ===
学会の起源は、[[中世]] - [[ルネサンス]]期の[[ヨーロッパ]]で、[[保守的]]な大学に反発した知識人が各々で集まって行った情報交換の場である。17世紀の研究者たちは、自然に関する新しい事実を見つけるための実験を行ない、新しい理論を構築することを目指した。しかしそれは単独では困難であり、可能な限り多く人がを結集して互いが協力して行動することが不可欠だった<ref name=":0">{{Cite book|title=歴史のなかの科学コミュニケーション|url=http://worldcat.org/oclc/54657006|publisher=勁草書房|date=2002|isbn=4-326-00028-7|oclc=54657006|last=ヴィッカリー C.B (訳)村主朋英|year=}}</ref> 。そのため[[フランシス・ベーコン (哲学者)|フランシス・ベーコン]]の考えを引き継いで、個人では行いにくい実験や観測を協力して行ったり情報交換したりすることが始まった。そして近代的な観測は、定量的な計測とその記録から始まった<ref name=":1">{{Cite book|title=気象学と気象予報の発達史 学会の誕生と気象観測|url=https://www.maruzen-publishing.co.jp/item/?book_no=302957|publisher=丸善出版|date=2018|isbn=978-4-621-30335-1|oclc=1061226259|last=堤 之智.|year=}}</ref>。
当時の自然研究者たちや実験家たちは、上記のように互いに協力して実験したり、情報を交換したりするためにグループを結成した。それには17世紀にヨーロッパに広く整備され発展した郵便制度が、大きく貢献した。そのようなグループは次第に組織化されて学会(アカデミーやソサエティ)となっていった。さらにそうしたいう学会は、会員による発見などを発表する場や会報などの定期刊行物の仕組みを整備していった。これは会報などを通して批評、批判、反論を行う公開の機会を提供し、訂正や情報提供の依頼、研究計画の告知などにも使われた。こういった公開の議論や告知は発見の剽窃を防止し、発見を秘匿するための研究者の孤立化を防いでヨーロッパの知的研究の向上に寄与した<ref name=":0" /> 。
=== ヨーロッパ大陸の学会 ===
15世紀頃から学問が盛んになると、教育機関となってしまった大学に代わって学会やアカデミーが研究機関の原型として整い始めた<ref>{{Cite book|title=一七世紀科学革命 (ヨーロッパ史入門)|url=https://www.worldcat.org/oclc/675070521|publisher=岩波書店|date=2005|location=|isbn=4-00-027095-8|oclc=675070521|others=Henry, John, (訳)東 慎一郎|year=}}</ref> 。1474年にイタリアのフィレンツェにおいて、メディチ家によって「プラトン学院(Accademica Platonica)」が創設された。これが学術的な情報交換を目的とした集まりの始まりとされており、主に古典文献研究が目的だった。その後自然科学研究の隆盛とともに、その情報交換を目的として1603年にモンティチェリ公[[フェデリコ・チェージ]](Federico Cesi)が、山猫の目のような鋭い具眼の持ち主を目標にするという趣旨で、ガリレイなどの自然科学の研究者や愛好家を集めてローマに「[[山猫アカデミア|山猫アカデミー]](Accademia dei Lincei)」を設立した<ref name=":0" /> 。
イタリアでは、1657年にトスカーナ大公[[フェルディナンド2世・デ・メディチ]](Ferdinando II de' Medici)とその弟レオポルド(Leopoldo de' Medici)が、ガリレイの精神を継承していくためにトリチェリなどを擁した「[[アカデミア・デル・チメント|実験アカデミー]](Accademia del Cimento)」を作った。
フランスのパリでは1630年代から、数学や音楽の研究を趣味とする司祭[[マラン・メルセンヌ|メルセンヌ]](Marin Mersenne)が多くの研究者を集めて、自然科学について自発的に研究集会を開くようになった。これは「メルセンヌ学会(L'Académie de Mersenne)」と呼ばれた。フランスの大臣コルベールは、イギリスの王立学会に刺激を受けて公式の科学学会を組織すべきと国王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]に進言した。その結果、1666年にパリに「[[科学アカデミー (フランス)|王立科学アカデミー]]( l'Acadmie Royale Des Sciences )」が誕生した<ref name=":0" /> 。
=== イギリスの王立学会 ===
ロンドンでは、1645年頃から数学者ウォリスらが中心となって新しい科学に興味を持つ人々がグループを作って、新しい知識を集めて議論、考察する活動を始めた。このグループの一部は清教徒革命などの政争の影響でオックスフォードに移り、1649年頃からオクスフォードグループと称された。1660年に国王[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]の復帰によって王政が再開されると、オックスフォードグループはロンドンのグループと合流して、ロンドンのグレシャム・カレッジで会合を持つようになった。このグループは1662年に国王による勅許を得て[[王立学会]](Royal Society)を設立した。国王は名称の利用を認めただけで学会の運営は国王とは独立していた。
王立学会の活動の特徴は、1665年以降「[[フィロソフィカル・トランザクションズ|哲学紀要]](The Philosophical Transactions of the Royal Society)」を定期的に出版したことである。王立学会は勅許があるため、このような出版物も国の検閲を受けずに発行することができた。この紀要はイギリスだけでなくヨーロッパ中からの報告を掲載し、また発見の告知、先取権の確立、論争の展開を通して、今日の学術論文の元となった。19世紀の生物学者[[トマス・ヘンリー・ハクスリー|トマス・ハクスリー]](Thomas Huxley)は、この紀要の役割についてこう述べている。"''もし哲学紀要を除く全世界のすべての本が破壊されたとしても、物理科学の基盤は揺るがず、過去200年間の膨大な知的進展についての記録は、完全とは言えないまでも、ほとんどが手元に残ると言って差し支えない''"<ref name=":0" /> 。
=== 学会の活動例 ===
このような学会は自ら企画して実験や観測を行った。その例として、気象測器を作成しての気象観測網の構築がある。イタリアの実験アカデミーは活動の一つとして、温度計、気圧計、湿度計をつくらせ、7地点からなる初めての気象観測網を作って温度、気圧、湿度、風、空の状態を観測した。フランスの王立科学アカデミーはパリで気象観測を行い、1688年からアカデミーの紀要(memoirs)に気圧、気温、降水量を掲載した<ref name=":1" />。イギリスの王立学会の[[ロバート・フック]]は1663年にその気象観測網に「気象誌の作成方法(A method for making the history of the weather)」を提案して、気象測器を開発するとともに観測法の統一を図った <ref>{{Cite book|title=天気図の歴史 : ストームモデルの発展史|url=http://worldcat.org/oclc/834377423|publisher=東京堂出版|date=1982|oclc=834377423|last=斎藤直輔|year=}}</ref>。王立学会の気象観測網は18世紀に入ると北ヨーロッパ、インド、北アメリカに広がり真の意味で初めての国際的な気象観測網となった<ref>{{Cite journal|author=Fleming Rodger James|year=1997|title=Meteorological Observing Systems Before 1870 in England, France, Germany, Russia and the USA: A Review and Comparison|journal=World Meteorological Organisation Bulletin|volume=46|page=249-258}}</ref>。
しかし、18世紀に科学が発展して学会の活動分野が広がってくると気象観測網の維持は困難となった。そのため、18世紀末になるとパラティナ気象学会など気象専門の学会や活動組織が整備されるようになった<ref name=":1" />。
== 分野別の学会 ==
複数の学会で学術連合体を構成することもある。
* [[:Category:医学系学会|医学系学会]]:[[日本医学会]]
* [[:Category:歯学系学会|歯学系学会]]:[[日本歯科医学会]]
* [[:Category:心理学系学会|心理学系学会]]
* [[:Category:数学系学会|数学系学会]]
* [[:Category:生物学系学会|生物学系学会]]
* [[:Category:物理学系学会|物理学系学会]]
* [[:Category:化学系学会|化学系学会]]
* [[:Category:地理学系学会|地理学系学会]]
* [[:Category:地球科学系学会|地球科学系学会]]
* [[:Category:天文学系学会|天文学系学会]]
== 学会ではない「学会」 ==
学会としての機能を持っていない団体・集団が「...学会」と[[自称]]している場合もある。そう名乗ることがふさわしいと信じている場合、単に[[権威]]付けを狙っている場合など、その理由は様々であると考えられる。中には「[[と学会]]」のように単なる[[ジョーク|冗談]]や[[コミュニティー]]で名付けている例もある。(少なくとも日本では)「学会」と名乗ることに対して[[規制]]や[[資格]]は存在しない。
また、日本では[[宗教法人]]の[[創価学会]]を単に「学会」と呼ぶこともある。同会では構成員([[信者]])を「学会員」と呼ぶ。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
{{Wiktionary}}
* [[日本の学会一覧]]
* [[日本学術会議]] - [[日本学術会議協力学術研究団体]]
* [[研究会]]
* [[学会 (会議)]]
* [[査読]]
* [[フランス学士院]]
* [[アカデミー]]
== 外部リンク ==
* [https://www.scj.go.jp/ 日本学術会議]
* [https://royalsociety.org/ The Royal Society - the UK's national academy of science] {{En icon}}
* {{Kotobank}}
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[[Category:学会|*]]
[[Category:学術団体|*]] | 2003-05-17T12:11:45Z | 2023-11-18T14:26:26Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E4%BC%9A |
8,451 | ユーカリ | ユーカリ(有加利)はフトモモ科ユーカリ属(Eucalyptus)の樹木の総称。常緑高木となるものが多い。2020年の時点では900種近くの種類が存在すると推定されている。
和名のユーカリは、属名の英語読み「ユーカリプタス」を短縮したもの。学名の語源は eu-(真に・強く・良く)+ kalyptós(...で覆った)、つまり「良い蓋」を意味するギリシア語をラテン語化したもの。蕾のがくと花弁が合着して蓋状となること、あるいは乾燥地でもよく育って大地を緑で被うことに由来して命名されたとされる。漢語では「桉樹」と書く。
なお、Corymbia、Angophora 等の近縁の数属もユーカリと共に扱われることがある。
世界各地で移植・栽培されている(参照: 利用)。コアラの食物としてもよく知られている(参照: #コアラの食料)。
2000年までの段階では400-500種が知られており、そのほとんどがタスマニア州含めオーストラリア全域に分布するものとされたが、すぐ北のニューギニアやマレー群島区系に生育するものもわずかながら存在し、カメレレ(Eucalyptus deglupta)のようにむしろオーストラリアでは一切自然分布が確認されていない種も存在する。成長がとても早く、材木として注目される。70メートルを超える高さになるものから、5メートル程で枝分かれする種類もある。
オーストラリアという隔離された地域において著しい数の種()に分化しているが、属としては非常にまとまっており、次のような共通した特徴を持つ。
ユーカリは、根を非常に深くまで伸ばし地下水を吸い上げる力が強いので、成長が早い。インド北部のパンジャーブ地方の砂漠化した地域の緑化に使われて、成功した。旱魃()に苦しんでいた地方が5年程で甦った例がある(参照:杉山龍丸)。また東南アジアでは熱帯林を伐採した跡の緑化樹として用いられている。
オーストラリアでは自然発火による山火事が多いが、ユーカリがその一因である。ユーカリの葉はテルペンを放出するが、気温が高いとその量が多くなるので、夏期にはユーカリ林のテルペン濃度はかなり上昇する。テルペンは引火性であるため、何かの原因で発火した場合、燃え広がり山火事になるのである。樹皮が非常に燃えやすく、火がつくと幹から剥がれ落ちるので、幹の内側は燃えずに守られる。根に栄養をたくわえており、火事の後も成長し続けることができ、新しい芽をつけることもできる。
樹幹上にキノ(英語版)と呼ばれる赤褐色の樹脂状物質を出すことが多い。
オーストラリアに見られるユーカリ類の林は、雨量と気温の観点から次の3つの型に分けることが可能である。
オーストラリアの気候は乾燥しており、山火事が頻繁に起こる。ユーカリの種は、山火事を経験した後の降雨により発芽すると言われている。人工的にこの条件を満たすには、フライパンで種をさっと煎ったり、熱湯をかけたり、用土を燻煙処理したりする。ただし特別な処理を行なわなくても発芽する種類がほとんどである。
ユーカリがヨーロッパ人に知られたのは16世紀前半に東ティモールがポルトガルの植民地とされた頃と考えられる。東ティモールに分布しているユーカリは少なくともポプラガム(Eucalyptus alba)とウロフィラユーカリ(Eucalyptus urophylla)の2種であるが、フランスのシャルル・ルイ・レリティエ・ド・ブリュテルが史上初めてユーカリ属の種として新種記載したのはオーストラリア南東部の湿潤地域産のメスメート・ストリンギーバルクこと Eucalyptus obliqua で、記載に用いられた標本はジェームズ・クックの3度目の航海(1777年)に同行したデイヴィッド・ネルソンが現タスマニア州ブルニー島のアドベンチャー湾で採取したものである。
ユーカリ属はオーストラリアに様々な種が分布するという関係上、その公用語である英語の呼称がついた種がいくつも見られるが、複数の種に特定の共通した呼称が使用されている例も見られる。こうした呼称からはある程度その種の特徴を窺い知ることが可能である。数例を以下に挙げることとする。
また#分布と特徴で触れたように樹幹に樹脂の滲出が見られることからユーカリ属の木は gum あるいは gum-tree と総称されることがある。
ここでは日本語文献において言及例が存在するもののみを取り上げる。それ以外のものに関してはユーカリ属の一覧(英語版)を参照。和名は特に断りがない限り「米倉浩司・梶田忠 (2003-). 「BG Plants 和名-学名インデックス」(YList)、英名、属と種の間の細分化、分布情報は特に断りがない限り Slee et al. (2020) による。
また、以下はユーカリ属に分類されていた段階で「...ユーカリ」という和名がつけられたものの、1995年にCorymbia属に組み替えられたものである。こちらも分布情報は Slee et al. (2020) による。
オーストラリア先住民(アボリジニ)は傷を癒すのに葉を利用した。葉から取れる精油は殺菌作用や抗炎症作用、鎮痛・鎮静作用があるとされ、医薬品やアロマテラピーなどに用いられる。また、健康茶等としても利用される。ただし、ハーブや精油としての利用は、サプリメントや薬物との相互作用の懸念があると考えられている。
日本でも鑑賞用などとして栽培・出荷する農家が増えている。ユーカリの近くに植えた他の農作物で鳥獣の食害が減る効果もあり、ユーカリが放つ独特の香りが作用している可能性もある。ユーカリは用土の乾燥を好む品種が多く、日本で良く見かける品種のほとんどが湿地帯に生息する湿潤を好む品種である。
初期成長が早いことが注目され、人工林の樹種として利用されてきた。ブラジルでは、植栽してから6年-7年で製紙用のパルプとして収穫が生産が可能であり、ユーカリの大規模な植林地が造られている。
ユーカリはオーストラリアの原産で、森の木の4分の3がユーカリと言われる。近年、ローズガム (Eucalyptus grandis) を中心に製紙パルプ用のチップ生産に使われ輸出もされているが、これによってユーカリの森林破壊が進み、有袋類の生息環境が危機にさらされている。
中華人民共和国の広東省、広西チワン族自治区、海南省などでも、製紙用原料として広く植樹が行われている。ブラジルでは、ミナスジェライス州に本社を持つパルプ製造会社セニブラ社が10万ha以上の自社林にユーカリを植栽し、7年サイクルで伐採を行い自社製品の原料としている。
サウザンブルーガムことユーカリプタス・グロブルス(英語版)から抽出されたユーカリ油(英語版)は、イギリスで医薬品として認証されており、気道のカタル性炎症(内服、外用)やリウマチの諸症状(外用)に利用される。分泌腺の機能亢進、去痰、おだやかな鎮痙効果・局所的充血作用などの効能があり、のど飴や吸入剤、塗布剤、軟膏、消毒薬などに用いられる。咳を静め痰を減らす効果があるとして、気管支炎、咳、インフルエンザなどの時に、吸入などの方法で利用されることもある。
香料としても歯磨きや菓子などに調合されている。また、防腐効果が見られる。
ユーカリ油に含まれる成分はシネオール、ピネン、シトロネラール、など。市販されるユーカリプタス・グロブルス、ユーカリプタス・ラディアータ(英語版)の精油は非常に安価であるため、合成成分の添加などの偽和はほとんど行われない。ユーカリプタス・グロブルス、ユーカリプタス・ラディアータ以外のユーカリ属の精油は、毒物学的な試験は行われていない。
ヒトに外用に用いた場合、一般に毒性・感作性・光毒性はないとされるが、外用した場合に精油成分が呼吸器から吸収される可能性がある。内服や蒸気発生装置などでの利用で中毒が見られ、内服で複数の致死例が報告されている。喘息患者の気管支炎を悪化させる可能性がある。特に乳幼児への使用は危険であり、近くでの使用も避けるべきである。アメリカのメリーランド大学のMedical Centerは、6歳未満の幼児に精油を含むのど飴を与えたり、吸入させたり、顔の近くで精油を含む製品を使うこと、また大人が精油を内服するなどは、行うべきでないとして注意を促している。ユーカリは精油・ハーブ共に医師の指導の下で使用すべきであり、特に喘息、脳卒中、肝臓病、腎臓病、低血圧、妊娠中、授乳中の人、抗がん剤のフルオロウラシルを使用中の人は、医師や植物医学分野の有資格者に相談することなく使用しないよう警告している。
アルカリ性土壌でも強く育つため、土壌がアルカリ性になっている乾燥地帯の緑化に使われることが多い。また、土壌をアルカリ性から酸性へと移行する。そのため、酸性の土壌に育てた場合、土壌の酸性が強くなりすぎる場合がある。
ユーカリはコアラの食料として知られる。コアラが食べるユーカリの種類は限られており、新芽のみをエサとする。600種類以上あるユーカリのうち、コアラが食べるのは40種類ほど。それぞれのコアラが食べるのは、生育する地方に生える14種類ほどである(参照: コアラ#コアラが好むユーカリの種類について)。
ユーカリのなかには木材としての利用価値のあるものが存在する。オーストラリアでは主要な材木であるという関係上、既に述べたパルプのほか建築用から燃料用に至るまで様々な用途に用いられている。材質は樹種により軽軟-重硬、淡色-濃色と多様であるが、気乾比重0.65-1.10程度で重さが中庸-重硬のものが多い。用いられる樹種の例としてはカリー(Eucalyptus diversicolor; 心材: 帯赤褐色、気乾比重: 0.88)、ジャラ(Eucalyptus marginata; 心材: 暗赤褐色、平均気乾比重: 0.82)、セイタカユーカリ(Eucalyptus regnans; 気乾比重: 0.62)といったものが挙げられる。 | [
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"text": "オーストラリアでは自然発火による山火事が多いが、ユーカリがその一因である。ユーカリの葉はテルペンを放出するが、気温が高いとその量が多くなるので、夏期にはユーカリ林のテルペン濃度はかなり上昇する。テルペンは引火性であるため、何かの原因で発火した場合、燃え広がり山火事になるのである。樹皮が非常に燃えやすく、火がつくと幹から剥がれ落ちるので、幹の内側は燃えずに守られる。根に栄養をたくわえており、火事の後も成長し続けることができ、新しい芽をつけることもできる。",
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"title": "発芽方法"
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"text": "ここでは日本語文献において言及例が存在するもののみを取り上げる。それ以外のものに関してはユーカリ属の一覧(英語版)を参照。和名は特に断りがない限り「米倉浩司・梶田忠 (2003-). 「BG Plants 和名-学名インデックス」(YList)、英名、属と種の間の細分化、分布情報は特に断りがない限り Slee et al. (2020) による。",
"title": "主な種"
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"text": "オーストラリア先住民(アボリジニ)は傷を癒すのに葉を利用した。葉から取れる精油は殺菌作用や抗炎症作用、鎮痛・鎮静作用があるとされ、医薬品やアロマテラピーなどに用いられる。また、健康茶等としても利用される。ただし、ハーブや精油としての利用は、サプリメントや薬物との相互作用の懸念があると考えられている。",
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"text": "ユーカリ油に含まれる成分はシネオール、ピネン、シトロネラール、など。市販されるユーカリプタス・グロブルス、ユーカリプタス・ラディアータ(英語版)の精油は非常に安価であるため、合成成分の添加などの偽和はほとんど行われない。ユーカリプタス・グロブルス、ユーカリプタス・ラディアータ以外のユーカリ属の精油は、毒物学的な試験は行われていない。",
"title": "利用"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "ヒトに外用に用いた場合、一般に毒性・感作性・光毒性はないとされるが、外用した場合に精油成分が呼吸器から吸収される可能性がある。内服や蒸気発生装置などでの利用で中毒が見られ、内服で複数の致死例が報告されている。喘息患者の気管支炎を悪化させる可能性がある。特に乳幼児への使用は危険であり、近くでの使用も避けるべきである。アメリカのメリーランド大学のMedical Centerは、6歳未満の幼児に精油を含むのど飴を与えたり、吸入させたり、顔の近くで精油を含む製品を使うこと、また大人が精油を内服するなどは、行うべきでないとして注意を促している。ユーカリは精油・ハーブ共に医師の指導の下で使用すべきであり、特に喘息、脳卒中、肝臓病、腎臓病、低血圧、妊娠中、授乳中の人、抗がん剤のフルオロウラシルを使用中の人は、医師や植物医学分野の有資格者に相談することなく使用しないよう警告している。",
"title": "利用"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "アルカリ性土壌でも強く育つため、土壌がアルカリ性になっている乾燥地帯の緑化に使われることが多い。また、土壌をアルカリ性から酸性へと移行する。そのため、酸性の土壌に育てた場合、土壌の酸性が強くなりすぎる場合がある。",
"title": "利用"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "ユーカリはコアラの食料として知られる。コアラが食べるユーカリの種類は限られており、新芽のみをエサとする。600種類以上あるユーカリのうち、コアラが食べるのは40種類ほど。それぞれのコアラが食べるのは、生育する地方に生える14種類ほどである(参照: コアラ#コアラが好むユーカリの種類について)。",
"title": "利用"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "ユーカリのなかには木材としての利用価値のあるものが存在する。オーストラリアでは主要な材木であるという関係上、既に述べたパルプのほか建築用から燃料用に至るまで様々な用途に用いられている。材質は樹種により軽軟-重硬、淡色-濃色と多様であるが、気乾比重0.65-1.10程度で重さが中庸-重硬のものが多い。用いられる樹種の例としてはカリー(Eucalyptus diversicolor; 心材: 帯赤褐色、気乾比重: 0.88)、ジャラ(Eucalyptus marginata; 心材: 暗赤褐色、平均気乾比重: 0.82)、セイタカユーカリ(Eucalyptus regnans; 気乾比重: 0.62)といったものが挙げられる。",
"title": "利用"
}
] | ユーカリ(有加利)はフトモモ科ユーカリ属(Eucalyptus)の樹木の総称。常緑高木となるものが多い。2020年の時点では900種近くの種類が存在すると推定されている。 和名のユーカリは、属名の英語読み「ユーカリプタス」を短縮したもの。学名の語源は eu-(真に・強く・良く)+ kalyptós(…で覆った)、つまり「良い蓋」を意味するギリシア語をラテン語化したもの。蕾のがくと花弁が合着して蓋状となること、あるいは乾燥地でもよく育って大地を緑で被うことに由来して命名されたとされる。漢語では「桉樹」と書く。 なお、Corymbia、Angophora 等の近縁の数属もユーカリと共に扱われることがある。 世界各地で移植・栽培されている。コアラの食物としてもよく知られている。 | {{生物分類表
|名称 = ユーカリ属
|色 = lightgreen
|画像= [[ファイル:Starr 031214-0076 Eucalyptus globulus.jpg|230px]]
|画像キャプション = ユーカリ({{Snamei||Eucalyptus globulus}})
|分類体系 = [[APG IV]]
|界 = [[植物|植物界]] {{Sname||Plantae}}
|門階級なし = [[被子植物]] {{Sname||Angiosperms}}
|綱階級なし = [[真正双子葉類]] {{Sname||eudicots}}
|亜綱階級なし = [[コア真正双子葉類]] {{Sname||core eudicots}}
|下綱階級なし = [[バラ上群]] {{Sname||superrosids}}
|団階級なし = [[バラ類]] {{Sname||rosids}}
|上目階級なし = {{Sname||rosid II}} / {{Sname||Malvidae}}
|目 = [[フトモモ目]] {{Sname||Myrtales}}
|科 = [[フトモモ科]] {{Sname||Myrtaceae}}
|属 = '''ユーカリ属 {{Snamei||Eucalyptus}}'''
|タイプ種 = {{Snamei||Eucalyptus obliqua}} <ref name=a>[http://www.tropicos.org/Name/40006486 Eucalyptus] Tropicos</ref>
|学名 = {{Snamei||Eucalyptus}} {{AU|L'Hér.}} <ref name=a />
|下位分類名 = 種
|下位分類 = * 本文参照
|生息図 = [[ファイル:Distribution.eucalyptus.png|200px]]
|生息図キャプション = 自生地
}}
'''ユーカリ'''(有加利<ref>{{Citation | 和書 | author=松山亮蔵 | year=1926 | contribution=ゆーかり | title=植物界之智嚢 | publisher=中興館書店 | series=新国民理学叢書 ; 第1編 | pages=223 | id={{NDLJP |979066}} }}</ref>)は[[フトモモ科]]'''ユーカリ属'''(''Eucalyptus'')の[[木|樹木]]の総称。常緑高木となるものが多い。2020年の時点では900種近くの種類が存在すると推定されている<ref name="EUCLID_learn">{{Cite book|url=https://apps.lucidcentral.org/euclid/text/intro/learn.htm|chapter=Lean about eucalypts|last=Slee|first=A.V.|authorlink=species:Andrew Vernon Slee|last2=Brooker|first2=M.I.H.|authorlink2=:en:Ian Brooker|last3=Duffy|first3=S.M.|last4=West|first4=J.G.|authorlink4=:en:Judith Gay West|title=EUCLID: Eucalypts of Australia|edition=4th|date=2020|accessdate=2022-10-11}}</ref>。
[[和名]]のユーカリは、属名の英語読み「ユーカリプタス」を短縮したもの。学名の語源は eu-(真に・強く・良く)+ kalyptós(…で覆った)、つまり「良い蓋」を意味する[[ギリシア語]]を[[ラテン語]]化したもの。[[蕾]]のがくと花弁が合着して蓋状となること、あるいは乾燥地でもよく育って大地を緑で被うことに由来して命名されたとされる。漢語では「桉樹」と書く。
なお、{{Snamei||Corymbia}}、{{Snamei||Angophora}} 等の近縁の数属もユーカリと共に扱われることがある<ref name="EUCLID_learn" />。
世界各地で移植・栽培されている(参照: [[利用]])。[[コアラ]]の食物としてもよく知られている(参照: [[#コアラの食料]])。
==特徴と分布==
[[File:Eucalyptus deglupta-base.jpg|thumb|カメレレの木の根本。]]
2000年までの段階では400-500[[種 (分類学)|種]]が知られており、そのほとんどが[[タスマニア州]]含め[[オーストラリア]]全域に分布するものとされたが、すぐ北の[[ニューギニア]]や[[マレー群島区系]]に生育するものもわずかながら存在し、[[カメレレ]]({{Snamei|Eucalyptus deglupta}})のようにむしろオーストラリアでは一切自然分布が確認されていない種も存在する<ref name="Ogata2000">{{Harvcoltxt|緒方|2000}}.</ref>。成長がとても早く、材木として注目される。70メートルを超える高さになるものから、5メートル程で枝分かれする種類もある。
オーストラリアという隔離された地域において著しい数の{{読み仮名|種|しゅ}}に分化しているが、[[属 (分類学)|属]]としては非常にまとまっており、次のような共通した特徴を持つ<ref name="Ogata2000" />。
* 葉は幼木の時は幅が広く、しばしば無柄で[[対生]]であるが、成木になると細長くなることが多く、有柄かつ[[互生]]に変化する。表面も裏面も青灰色で、精油分を含んでいるため透かすと油点の散在が見られ、揉むと芳香がする。
* 花の{{読み仮名|[[蕾]]|つぼみ}}は[[萼筒]]が倒円錐形か[[鐘]]形であり、萼片と[[花弁]]の合着した蓋({{lang-en-short|[[:en:operculum|operculum]]}})が存在するが、この蓋は開花の際に脱落する。{{読み仮名|雄蕊|おしべ}}は多数存在する。
* 果実は[[蒴果]]で多数の小さな種子が含まれる。
ユーカリは、[[根]]を非常に深くまで伸ばし[[地下水]]を吸い上げる力が強いので、成長が早い。[[インド]]北部の[[パンジャーブ]]地方の[[砂漠]]化した地域の[[緑化]]に使われて、成功した。{{読み仮名|[[旱魃]]|かんばつ}}に苦しんでいた地方が5年程で甦った例がある(参照:[[杉山龍丸]])。また[[東南アジア]]では熱帯林を伐採した跡の緑化樹として用いられている。
オーストラリアでは[[自然発火]]による[[山火事]]が多いが、ユーカリがその一因である。ユーカリの葉は[[テルペン]]を放出するが、気温が高いとその量が多くなるので、夏期にはユーカリ林のテルペン濃度はかなり上昇する。テルペンは引火性であるため、何かの原因で発火した場合、燃え広がり山火事になるのである<ref name="日本植物生理学会">[https://jspp.org/hiroba/q_and_a/detail.html?id=1920 自然発火の仕組み | みんなのひろば | 日本植物生理学会]</ref>。樹皮が非常に燃えやすく、火がつくと幹から剥がれ落ちるので、幹の内側は燃えずに守られる<ref name="ネイチャーテック研究会">[http://nature-sr.com/index.php?Page=11&Item=93 すごい自然のショールーム 火事と共に生きるユーカリ] ネイチャーテック研究会, 東北大学大学院 環境科学研究科</ref>。根に栄養をたくわえており、火事の後も成長し続けることができ、新しい芽をつけることもできる<ref name="ネイチャーテック研究会"></ref>。
樹幹上に{{仮リンク|キノ (植物学)|label=キノ|en|Kino (botany)}}と呼ばれる赤褐色の[[天然樹脂|樹脂]]状物質を出すことが多い<ref name="Ogata2000" />。
オーストラリアに見られるユーカリ類の林は、[[雨量]]と[[気温]]の観点から次の3つの型に分けることが可能である<ref name="Ogata2000" />。
# 湿潤ユーカリ林 …… 南東部および南西端部の年間雨量750-1000ミリメートルの地域に発達し、密生した[[高木]]性のユーカリ林を形成する。この型の林では樹高が数10メートルにまで及ぶ種も多く、特に[[セイタカユーカリ]]({{Snamei||Eucalyptus regnans}})は広葉樹としては世界最高の樹高97メートル、直径7.5メートルのものが記録されている。
# 乾燥ユーカリ林 …… 年間雨量500-750ミリメートル(南部)あるいは750-1500ミリメートルの地域に成立し、高木のユーカリ類を主体とするまばらな林(疎林)を形成する。
# [[マリ (植生)|マリ]]([[:en:Mallee (habit)|mallee]])…… 南部の年間雨量250-500ミリメートルの範囲に成立し、低木のユーカリ類がやや散生的に生育する{{読み仮名|叢林|そうりん}}を形成する。
== 発芽方法 ==
オーストラリアの気候は乾燥しており、[[山火事]]が頻繁に起こる。ユーカリの種は、山火事を経験した後の降雨により[[発芽]]すると言われている。人工的にこの条件を満たすには、[[フライパン]]で種をさっと煎ったり、熱湯をかけたり、用土を[[燻煙]]処理したりする。ただし特別な処理を行なわなくても発芽する種類がほとんどである。
== 歴史 ==
[[File:Eucalyptus obliqua L'Hér. (BM000081839).png|thumb|{{Snamei|Eucalyptus obliqua}} の[[ホロタイプ]](正基準標本)。この標本が今日知られている全てのユーカリ属の種の基準となっている。]]
ユーカリがヨーロッパ人に知られたのは16世紀前半に[[東ティモール]]が[[ポルトガル]]の植民地とされた頃と考えられる<ref name="EUCLID_learn" />。東ティモールに分布しているユーカリは少なくとも[[ポプラガム]]({{Snamei||Eucalyptus alba}})と[[ウロフィラユーカリ]]({{Snamei||Eucalyptus urophylla}})の2種であるが、フランスの[[シャルル=ルイ・レリティエ・ドゥ・ブリュテル|シャルル・ルイ・レリティエ・ド・ブリュテル]]が史上初めてユーカリ属の種として新種[[記載]]したのはオーストラリア南東部の湿潤地域産の[[メスメート・ストリンギーバルク]]こと {{Snamei||Eucalyptus obliqua}} で、記載に用いられた[[標本]]は[[ジェームズ・クック]]の3度目の航海(1777年)に同行した[[デイヴィッド・ネルソン (植物学者)|デイヴィッド・ネルソン]]が現[[タスマニア州]][[ブルニー島]]の[[アドベンチャー湾]]で採取したものである<ref name="EUCLID_learn" /><ref group="注">その標本は[[ロンドン自然史博物館]]に所蔵されている([https://data.nhm.ac.uk/object/364dbcfb-2a23-4547-af8e-4f3d4c67bc52 BM000081839])。</ref>。
{{-}}
== 英名 ==
[[File:Eucalyptus siderophloia bark.JPG|thumb|アイアンバークの例、{{Snamei|Eucalyptus siderophloia}}([[シドニー王立植物園]]にて)]]
[[File:Eucalyptus obliqua 1.jpg|thumb|ストリンギーバークの例、[[メスメート・ストリンギーバルク]]([[メルボルン]]郊外{{仮リンク|ブラックバーン・レイク・サンクチュアリ|label=ブラックバーン・レイク|en|Blackburn Lake Sanctuary}}にて)]]
ユーカリ属はオーストラリアに様々な種が分布するという関係上、その[[公用語]]である[[英語]]の呼称がついた種がいくつも見られるが、複数の種に特定の共通した呼称が使用されている例も見られる。こうした呼称からはある程度その種の特徴を窺い知ることが可能である。数例を以下に挙げることとする。
* [[:en:ironbark|ironbark]] (tree) {{small|[[アイアンバーク]]}} …… iron〈[[鉄]]〉 + bark〈樹皮〉で、樹皮が簡単には剥離しない(難剥性)ものを指す<ref name="Kishima_et_al._1977">{{Harvcoltxt|貴島|岡本|林|1977}}.</ref>(例: {{Snamei||Eucalyptus siderophloia}}、[[アカゴムノキ]] (red) ironbark こと {{Snamei||Eucalyptus sideroxylon}})。
* [[:en:mallee|mallee]] {{small|マリ}} …… 複数の茎が単一の{{仮リンク|木質塊茎|en|Lignotuber}}から生えるタイプを指す<ref>''Flora of Australia'' 19: 511 (1988)</ref>(例: [[ミドリユーカリ]] green mallee こと {{Snamei||Eucalyptus viridis}})
* [[:en:Peppermint (disambiguation)|peppermint]] {{small|ペパーミント}} …… この呼称がついたグループには[[精油]]が得られるものが多い<ref name="Ogata2000" />(例: broad-leaved peppermint こと[[ユーカリ・ディベス]] {{Snamei||Eucalyptus dives}}、narrow-leaved peppermint こと[[ユーカリ・ラジアータ]] {{Snamei||Eucalyptus radiata}})。
* [[:en:stringybark|stringybark]] (tree) {{small|[[ストリンギーバーク]]}} …… stringy〈糸のような〉+ bark〈樹皮〉で、樹皮が容易に剥離する(易剥性)ものを指す<ref name="Kishima_et_al._1977" />(例: [[ホワイトストリンギイバーク]]こと {{Snamei||Eucalyptus eugenioides}}、[[メスメート・ストリンギーバルク]]こと {{Snamei||Eucalyptus obliqua}})。
また[[#分布と特徴]]で触れたように樹幹に樹脂の滲出が見られることからユーカリ属の木は gum あるいは gum-tree と総称されることがある<ref name="Ogata2000" />。
{{-}}
== 主な種 ==
[[File:Eucalyptus camaldulensis CapsulasFlorales 2010-6-17 DehesaBoyaldePuertollano.jpg|thumb|セキザイユーカリの花と蕾]]
[[File:Eucalyptus tereticornis - buds.jpg|thumb|クーパーユーカリの花と蕾]]
ここでは日本語文献において言及例が存在するもののみを取り上げる。それ以外のものに関しては{{仮リンク|ユーカリ属の一覧|en|List of Eucalyptus species}}を参照。和名は特に断りがない限り「[[米倉浩司]]・[[species:Tadashi Kajita|梶田忠]] (2003-). 「[http://ylist.info BG Plants 和名-学名インデックス]」(YList)、英名、属と種の間の細分化、分布情報は特に断りがない限り {{Harvcoltxt|Slee|Brooker|Duffy|West|2020}} による。
{| class="wikitable"
! 学名
! 和名
! 英名
! 細分化
! 分布
! 備考
|-
! {{Snamei||Eucalyptus acmenoides}} {{small|{{AU|Schauer}}}}
| [[ホワイトマホガニー]]<ref name="Kishima_et_al._1977" /><ref name="NSY" />(別名: [[シロマホガニー]]<ref name="Kishima_et_al._1977" />)
| white mahogany
| {{Snamei|Eucalyptus}}亜属、{{Snamei|Amentum}}
| オーストラリアの[[クイーンズランド州]]から[[ニューサウスウェールズ州]]にかけて
| {{Harvcoltxt|熱帯植物研究会|1996}} では {{Snamei|Eucalyptus triantha}} {{small|{{AU|Link}}}} のシノニム扱いとされているが、この {{Snamei|E. triantha}} は[[記載]]時にタイプの引用が行われなかったこともあって、後に素性が疑わしい学名として扱われている<ref>{{Harvcoltxt|Chippendale|1988|p=447}}.</ref>。
|-
! {{Snamei||Eucalyptus alba}} {{small|{{AU|Reinw.}} ex {{AU|Blume}}}}
| [[ポプラガム]]<ref name="NSY" />
| white gum, mottled gum
| {{Snamei|Symphyomyrtus}}亜属{{Snamei|Exsertaria}}節{{Snamei|Subexsertae}}列{{Snamei|Applanatae}}亜列
| [[東ティモール]]、[[ニューギニア]]、[[西オーストラリア州]]、[[ノーザンテリトリー]]北部
|
* {{Harvcoltxt|Slee|Brooker|Duffy|West|2020}} はオーストラリア産のものを {{Sname|[[変種|var.]] ''australasica''}} {{small|{{AU|Blakely}} & {{AU|Jacobs}}}} として区別し、基本変種は東ティモールにしか分布しないものとしている。
* {{Harvcoltxt|Chippendale|1988|p=313}} は poplar gum の名を別種 {{Snamei||Eucalyptus platyphylla}} {{small|F.Muell.}} にあてている。
* {{Harvcoltxt|Chippendale|1988|p=312}} はクイーンズランド州も分布域に含めていたが、その時引用された標本 [[:en:Stanley Thatcher Blake|S.T. Blake]] 19944 および [[:en:Ian Brooker|M.I.H. Brooker]] 4103 はいずれも後に {{Snamei|E. platyphylla}} と再同定されている<ref>[https://avh.ala.org.au/occurrences/70c2aec9-1146-495f-afc2-b081d74fb343 Record: BRI AQ0117784 {{!}} Occurrence record] (The Australian Virtual Herbarium). {{Accessdate|2022-10-05}}</ref><ref>[https://avh.ala.org.au/occurrences/2ecf4bf2-d483-4fa3-b9b1-ac8f7e6de65b Record: CANB 265201.1 {{!}} Occurrence record] (The Australian Virtual Herbarium). {{Accessdate|2022-10-05}}</ref><ref>[https://avh.ala.org.au/occurrences/efb5849d-5398-491b-b486-58e7cf494fa6 Record: CANB 411643.1 {{!}} Occurrence record] (The Australian Virtual Herbarium). {{Accessdate|2022-10-05}}</ref><ref>[https://avh.ala.org.au/occurrences/29467ccf-39b9-4e6f-808a-0be297429b93 Record: BRI AQ0095474 {{!}} Occurrence record] (The Australian Virtual Herbarium). {{Accessdate|2022-10-05}}</ref><ref>[https://avh.ala.org.au/occurrences/d8adff7a-865c-4abb-bcbc-613966cc967c Record: CANB 411646.1 {{!}} Occurrence record] (The Australian Virtual Herbarium). {{Accessdate|2022-10-05}}</ref><ref>[https://avh.ala.org.au/occurrences/d75b96e8-ef06-49fe-b54f-777e7ae80348 Record: MEL 1607060A {{!}} Occurrence record] (The Australian Virtual Herbarium). {{Accessdate|2022-10-05}}</ref>。
|-
! {{Snamei||Eucalyptus amygdalina}} {{small|{{AU|Labill.}}}}
| [[ナガバユーカリ]]
| black peppermint
| {{Snamei|Eucalyptus}}亜属{{Snamei|Aromatica}}節{{Snamei|Insulanae}}列
| オーストラリアの[[タスマニア州]]固有
| {{Harvcoltxt|初島|1976}} では[[セイタカユーカリ]]として紹介。
|-
! {{Snamei||Eucalyptus blakelyi}} {{small|{{AU|Maiden}}}}
| [[ユーカリプタス・ブレークリー]]<ref name="reference2004">{{Cite book|editor=日外アソシエーツ編集部|year=2004|title=植物レファレンス事典|publisher=日外アソシエーツ|isbn=4-8169-1821-3}}</ref>
| Blakely's redgum
| {{Snamei|Symphyomyrtus}}亜属{{Snamei|Exsertaria}}節{{Snamei|Erythroxylon}}列
| ニューサウスウェールズ州<!--東部-->、クイーンズランド州南東部、ヴィクトリア州<!--北東部-->
|
|-
! {{Snamei||Eucalyptus botryoides}} {{small|{{AU|Sm.}}}}
| [[ヒロハユーカリ]]<ref name="Hatus.1976" />(別名: [[サウザンマホガニー]]<ref name="NSY">{{Cite book|editor=熱帯植物研究会|chapter=フトモモ科 MYRTACEAE|title=熱帯植物要覧|edition=第4版|publisher=養賢堂|year=1996|pages=336–342|isbn=4-924395-03-X|ref=harv}}</ref>)
| <!--bangalay, -->southern mahogany
| {{Snamei|Symphyomyrtus}}亜属{{Snamei|Latoangulatae}}節{{Snamei|Annulares}}列
| ニューサウスウェールズ州(南海岸)、ヴィクトリア州東部
|
|-
! {{Snamei||Eucalyptus brassiana}} {{small|{{AU|S.T.Blake}}}}
| [[ケープヨーク・レッドガム]]<ref name="r-w-u">{{Wikicite|reference={{仮リンク|コリン・リズデイル|es|Colin Ernest Ridsdale}}、ジョン・ホワイト、キャロル・アッシャー 著、杉山明子、清水晶子 訳『知の遊びコレクション 樹木』新樹社、2007年。{{ISBN2|978-4-7875-8556-1}}|ref={{SfnRef|リズデイルら|2007}}}}(原書: [https://books.google.co.jp/books?id=vl4jAtACVQsC&dq=Eyewitness+companions:+trees&hl=ja&source=gbs_navlinks_s ''Eyewitness Companions: Trees''], Dorling Kindersley, London, 2005.)</ref>
| Cape York red gum, gum-topped peppermint
| {{Snamei|Symphyomyrtus}}亜属{{Snamei|Exsertaria}}節{{Snamei|Phaeoxylon}}列
| [[パプアニューギニア]]南部; クイーンズランド州([[ヨーク岬半島]])
|
|-
! {{Snamei||Eucalyptus caesia}} {{small|{{AU|Benth.}}}}
| [[ケショウユーカリ]]<ref name="Hatus.1976">{{Cite book|last=初島|first=住彦|authorlink=初島住彦|year=1976|title=日本の樹木: 日本に見られる木本類の外部形態に基づく総検索誌|publisher=講談社|pages=438-441|ref=harv}}</ref>
| caesia<!--, gungurru-->
| {{Snamei|Symphyomyrtus}}亜属{{Snamei|Bisectae}}節{{Snamei|Destitutae}}亜節{{Snamei|Caesiae}}列
| 西オーストラリア州南西部
|
|-
! {{Snamei|Eucalyptus camaldulensis}} {{small|{{AU|Dehnh.}}}}
| [[セキザイユーカリ]](別名: リバー・レッドガム<ref name="r-w-u" />など)
| river red gum
| {{Snamei|Symphyomyrtus}}亜属{{Snamei|Exsertaria}}節{{Snamei|Rostratae}}列
| タスマニア州<u>を除く</u>オーストラリア全土
|
* 2020年時点でオーストラリア産ユーカリ属の中で最も分布域が広い種とされている<ref>{{Cite book|url=https://apps.lucidcentral.org/euclid/text/entities/eucalyptus_camaldulensis_subsp._camaldulensis.htm|chapter=''Eucalyptus camaldulensis'' subsp. ''camaldulensis''|last=Slee|first=A.V.|authorlink=species:Andrew Vernon Slee|last2=Brooker|first2=M.I.H.|authorlink2=:en:Ian Brooker|last3=Duffy|first3=S.M.|last4=West|first4=J.G.|authorlink4=:en:Judith Gay West|title=EUCLID: Eucalypts of Australia|edition=4th|date=2020|accessdate=2022-10-11}}</ref>。
* オーストラリア北部の[[コアラ]]の好物<ref name="Osawa1993">{{Cite journal|last=Osawa|first=Ro|authorlink=大澤朗|year=1993|title=Dietary preferences of Koalas, ''Phascolarctos cinereus'' (Marsupiala: Phascolarctidae) for ''Eucalyptus'' spp. with a specific reference to their simple sugar contents|journal=Australian Mammalogy|volume=16|issue=1|pages=85–88|doi=10.1071/AM93020|url=https://books.google.co.jp/books?id=RF-PjvKUo3AC&pg=PA85&dq=%22Dietary+preferences+of+Koalas,+Phascolarctos+cinereus+(Marsupiala:+Phascolarctidae)+for+Eucalyptus+spp.+with+a+specific+reference+to+their+simple+sugar+contents&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwj674-t_OD5AhWEEKYKHchDD9YQ6AF6BAgCEAI#v=onepage&q=%22Dietary%20preferences%20of%20Koalas%2C%20Phascolarctos%20cinereus%20(Marsupiala%3A%20Phascolarctidae)%20for%20Eucalyptus%20spp.%20with%20a%20specific%20reference%20to%20their%20simple%20sugar%20contents&f=false}}</ref><ref name="ADW">{{Cite web|url=https://animaldiversity.org/accounts/Phascolarctos_cinereus/|title=''Phascolarctos cinereus''|author=J. Dubuc & D. Eckroad|date=1999|work=Animal Diversity Web|publisher=Museum of Zoology, University of Michigan [[[ミシガン大学]]動物学博物館]|accessdate=2022-10-07}}</ref>。
* 用途は多岐にわたる。詳細は個別記事を参照。
|-
! {{Snamei||Eucalyptus cinerea}} {{small|{{AU|F.Muell.}} ex Benth.}}
| [[ギンマルバユーカリ]]<ref name="Hatus.1976" />(別名: [[スパイラルユーカリ]]<ref name="NSY" />)
| Argyle apple, mealy stringybark
| {{Snamei|Symphyomyrtus}}亜属{{Snamei|Maidenaria}}節{{Snamei|Euryotae}}亜節{{Snamei|Argyrophyllae}}列
| ニューサウスウェールズ州、ヴィクトリア州北東部
|
|-
! {{Snamei||Eucalyptus cladocalyx}} {{small|F.Muell.}}
| [[ボウガクユーカリ]]<ref name="Hatus.1976" />
| sugar gum
| {{Snamei|Symphyomyrtus}}亜属{{Snamei|Sejunctae}}節
| [[南オーストラリア州]]固有
|
|-
! {{Snamei||Eucalyptus coccifera}} {{small|{{AU|Hook.f.}}}}
| [[タスマニアシロユーカリ]]<ref name="Coombes1994">[[species:Allen J. Coombes|アレン・コーンビス]]<!--Coombes, Allen J.--> 著、濱谷稔夫 翻訳・監修『木の写真図鑑 完璧版』日本ヴォーグ社、1994年。{{ISBN2|4-529-02356-7}}</ref>
| Tasmanian snow gum
| {{Snamei|Eucalyptus}}亜属{{Snamei|Aromatica}}節{{Snamei|Insulanae}}列
| タスマニア州
|
|-
! {{Snamei||Eucalyptus coolabah}} {{small|{{AU|Blakely}} & {{AU|Jacobs}}}}
|
| coolabah, coolibah
| {{Snamei|Symphyomyrtus}}亜属{{Snamei|Adnataria}}節{{Snamei|Apicales}}亜節{{Snamei|Aquilonares}}列{{Snamei|Protrusae}}亜列
| 西オーストラリア州、ノーザンテリトリー、クイーンズランド州、ニューサウスウェールズ州、南オーストラリア州
| かつては {{Harvcoltxt|Chippendale|1988|p=379}} 等のように {{Snamei|E. microtheca}} のシノニム扱いとする学者がいた。
|-
! {{Snamei||Eucalyptus cordata}} {{small|Labill.}}
| [[ギンイロユーカリ]]<ref name="Coombes1994" />(別名: [[エンシンユーカリ]]<ref name="Hatus.1976" />)
| heart-leaved silver gum
| {{Snamei|Symphyomyrtus}}亜属{{Snamei|Maidenaria}}節{{Snamei|Euryotae}}亜節{{Snamei|Orbiculares}}列
| タスマニア州固有
|
|-
! {{Snamei||Eucalyptus cornuta}} {{small|Labill.}}
| [[ユーカリプタス・コルヌータ]]<ref>[[林弥栄]]、[[古里和夫]] 監修 (1986) 原色世界植物大圖鑑, 北隆館, p. 647.</ref>
| yate
| {{Snamei|Symphyomyrtus}}亜属{{Snamei|Bisectae}}節{{Snamei|Hadrotes}}亜節{{Snamei|Cornutae}}列
| 西オーストラリア州固有
|
|-
! {{Snamei||Eucalyptus dalrympleana}} {{small|Maiden}}
| [[ダルリンプルユーカリ]]<ref name="Coombes1994" />
| mountain (white) gum, white gum, broad-leaved ribbon gum
| {{Snamei|Symphyomyrtus}}亜属{{Snamei|Maidenaria}}節{{Snamei|Euryotae}}亜節{{Snamei|Viminales}}列{{Snamei|Circulares}}亜列
| ニューサウスウェールズ州、ヴィクトリア州、タスマニア州
|
|-
! {{Snamei||Eucalyptus deglupta}} {{small|Blume}}
| [[カメレレ]]<ref name="NSY" />(別名: [[カマレレ]]、[[レインボーガム]]<ref name="r-w-u" />)
| kamarere, rainbow gum<ref name="r-w-u" />
|
| [[フィリピン]]、[[インドネシア]]([[スラウェシ]]、[[モルッカ諸島]]、[[イリアンジャヤ]])、パプアニューギニア(ニューギニア、[[ビスマルク諸島]])
| 樹皮が虹色; オーストラリアに分布しないユーカリの一つ。
|-
! {{Snamei||Eucalyptus delegatensis}} {{small|{{AU|R.T.Baker}}}}
| [[アルパインアッシュ]]<ref name="Walker2006" /><ref name="r-w-u" />
| alpine ash, gum-topped stringybark, white-top
| {{Snamei|Eucalyptus}}亜属{{Snamei|Cineraceae}}節{{Snamei|Fraxinales}}列
| ニューサウスウェールズ州南部、ヴィクトリア州東部、タスマニア州
| 木材が利用<ref name="Walker2006" />。
|-
! {{Snamei||Eucalyptus diversicolor}} {{small|F.Muell.}}
| [[カリーガム]]<ref name="YL" />(別名: [[カリー (植物)|カリー]]<ref name="NSY" /><ref name="Walker2006">{{Harvcoltxt|ウォーカー|2006}}.</ref><ref name="r-w-u" />)
| karri
| {{Snamei|Symphyomyrtus}}亜属{{Snamei|Inclusae}}節
| [[西オーストラリア州]]固有
| 木材が利用<ref name="NSY" /><ref name="Walker2006" />。
|-
! {{Snamei||Eucalyptus dives}} {{small|Schauer}}
| [[ユーカリ・ディベス]]<ref name="Wada2008">{{Cite book|last=和田|first=文緒|year=2008|title=アロマテラピーの教科書|publisher=新星出版社|url=https://www.google.co.jp/books/edition/%E3%82%A2%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%86%E3%83%A9%E3%83%94%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%95%99%E7%A7%91%E6%9B%B8/AKM0DwAAQBAJ?hl=ja&gbpv=0}}</ref>
| broad-leaved peppermint, blue peppermint
| {{Snamei|Eucalyptus}}亜属{{Snamei|Aromatica}}節{{Snamei|Radiatae}}列
| ニューサウスウェールズ州、ヴィクトリア州南部
| [[アロマセラピー]]用の[[精油]]の原料<ref name="Wada2008" />。
|-
! {{Snamei||Eucalyptus eugenioides}} {{small|{{AU|Sieber}} ex {{AU|Spreng.}}}}
| [[ホワイトストリンギイバーク]]<ref name="NSY" />
| thin-leaved stringybark, white stringybark
| {{Snamei|Eucalyptus}}亜属、{{Snamei|Capillulus}}、{{Snamei|Pachyphloius}}
| クイーンズランド州南東部からニューサウスウェールズ州南部<!--の台地や海岸部にかけて-->
|
|-
! {{Snamei||Eucalyptus globulus}} {{small|Labill.}}
| ユーカリ<ref name="YL">[[米倉浩司]]・[[species:Tadashi Kajita|梶田忠]] (2003-).「BG Plants 和名-学名インデックス」(YList),http://ylist.info (2022年8月25日).</ref>(別名: ユーカリノキ<ref name="YL" /><ref name="r-w-u" />、[[サウザンブルーガム]]<ref name="NSY" />)
| Tasmanian blue gum
| {{Snamei|Symphyomyrtus}}亜属{{Snamei|Maidenaria}}節{{Snamei|Euryotae}}亜節{{Snamei|Globulares}}列{{Snamei|Euglobulares}}亜列
| ニューサウスウェールズ州(東部)、ヴィクトリア州(中央部、南部)、タスマニア州
|
|-
! {{Snamei||Eucalyptus gomphocephala}} {{small|{{AU|A.Cunn.}} ex {{AU|DC.}}}}
| [[ツワート]]<ref name="NSY" />
| tuart, tewart<ref name="NSY" />
| {{Snamei|Symphyomyrtus}}亜属{{Snamei|Bolites}}節
| 西オーストラリア州固有
| 木材が利用<ref name="NSY" />。
|-
! {{Snamei||Eucalyptus grandis}} {{small|{{AU|W.Hill}} ex Maiden}}
| [[ローズガム]]<ref name="NSY" />
| flooded gum, rose gum
| {{Snamei|Symphyomyrtus}}亜属{{Snamei|Latoangulatae}}節{{Snamei|Transversae}}列
| ニューサウスウェールズ州、クイーンズランド州北部
|
|-
! {{Snamei||Eucalyptus gunnii}} {{small|Hook.f.}}
| [[グングヌユーカリ]]<ref name="Hatus.1976" />(別名: [[ハッカゴムノキ]]<ref name="Coombes1994" />、[[ヒメユーカリ]]<ref name="Hatus.1976" />)
| cider gum
| {{Snamei|Symphyomyrtus}}亜属{{Snamei|Maidenaria}}節{{Snamei|Euryotae}}亜節{{Snamei|Orbiculares}}列
| タスマニア州固有
| {{Harvcoltxt|リズデイルら|2007}} は「[[コマルバユーカリ]]」の名で紹介。
|-
! {{Snamei||Eucalyptus haemastoma}} {{small|Sm.}}
| [[ホワイトガム]]<ref name="NSY" />
| scribbly gum
| {{Snamei|Eucalyptus}}亜属{{Snamei|Cineraceae}}節{{Snamei|Psathyroxylon}}列{{Snamei|Haemastomae}}亜列
| ニューサウスウェールズ州固有
| {{Harvcoltxt|Chippendale|1988}} は white gum の名は {{Snamei|E. alba}} にあてている。
|-
! {{Snamei||Eucalyptus leucoxylon}} {{small|F.Muell.}}
| [[ヤナギユーカリ]]<ref name="Hatus.1976" />(別名: [[イエローガム]]<ref name="NSY" />)
| yellow gum, blue-gum, white ironbark
| {{Snamei|Symphyomyrtus}}亜属{{Snamei|Adnataria}}節{{Snamei|Terminales}}亜節{{Snamei|Melliodorae}}列{{Snamei|Leucoxylon}}亜列
| 南オーストラリア州南東部、ヴィクトリア州(西部、中央部)、ニューサウスウェールズ州
|
|-
! {{Snamei||Eucalyptus longifolia}} {{small|{{AU|Link}}}}
| [[ウーリイバット]]<ref name="NSY" />
| woollybutt
| {{Snamei|Symphyomyrtus}}亜属{{Snamei|Similares}}節
| ニューサウスウェールズ州海岸部(ヴィクトリア州との境界にまで肉薄)
|
|-
! {{Snamei||Eucalyptus macrocarpa}} {{small|{{AU|Hook.}}}}
| [[オオミユーカリ]]<ref name="Hatus.1976" />
| mottlecah
| {{Snamei|Symphyomyrtus}}亜属{{Snamei|Bisectae}}節{{Snamei|Destitutae}}亜節{{Snamei|Curviptera}}列{{Snamei|Xylocarpae}}亜列
| 西オーストラリア州固有
|
|-
! {{Snamei||Eucalyptus marginata}} {{small|{{AU|Donn}} ex Sm.}}
| [[ジャラ]]<ref name="Walker2006" /><ref name="r-w-u" />
| jarrah
| {{Snamei|Eucalyptus}}亜属{{Snamei|Longistylus}}節、{{Snamei|Arboreae}}、{{Snamei|Occidentales}}
| 西オーストラリア州
| 木材が利用<ref name="Walker2006" />。
|-
! {{Snamei||Eucalyptus melliodora}} {{small|A.Cunn. ex {{AU|Schauer}}}}
| [[シダレユーカリ]]<ref name="Hatus.1976" />(別名: [[イエローボックス]]<ref name="NSY" />、[[ミツノカユーカリ]]<ref name="Hatus.1976" />)
| yellow (iron)box, honey box
| {{Snamei|Symphyomyrtus}}亜属{{Snamei|Adnataria}}節{{Snamei|Terminales}}亜節{{Snamei|Melliodorae}}列{{Snamei|Leucoxylon}}亜列
| クイーンズランド州<!--南東部-->、ニューサウスウェールズ州<!--東部-->、ヴィクトリア州
|
|-
! {{Snamei||Eucalyptus microcorys}} {{small|F.Muell.}}
| [[タローウッド]]<ref name="NSY" /><ref name="r-w-u" />
| tallow(-)wood
| {{Snamei|Alveolata}}亜属
| ニューサウスウェールズ州北東部、クイーンズランド州<!--南東部-->
|
|-
! {{Snamei||Eucalyptus microtheca}} {{small|F.Muell.}}
| [[ビヤクユーカリ]](別名: [[フラッデッドボックス]]<ref name="NSY"/>、[[クーリバー]]<ref name="r-w-u" />)
| 備考欄参照
| {{Snamei|Symphyomyrtus}}亜属{{Snamei|Adnataria}}節{{Snamei|Apicales}}亜節{{Snamei|Aquilonares}}列{{Snamei|Protrusae}}亜列
| 西オーストラリア州、ノーザンテリトリー、クイーンズランド州
| {{Harvcoltxt|Chippendale|1988|p=379}} は {{Snamei|E. coolabah}} をシノニムとして含めており、英名として coolibah をあてていた。
|-
! {{Snamei||Eucalyptus nicholii}} {{small|Maiden & Blakely}}
| [[ユーカリプタス・ニコリー]]<ref name="reference2004" />
| narrow-leaved black peppermint
| {{Snamei|Symphyomyrtus}}亜属{{Snamei|Maidenaria}}節{{Snamei|Triangulares}}亜節{{Snamei|Acaciiformes}}列
| ニューサウスウェールズ州固有
|
|-
! {{Snamei||Eucalyptus obliqua}} {{small|L'Hér.}}
| [[メスメート・ストリンギーバルク]]<ref name="Walker2006" />
| messmate stringybark
| {{Snamei|Eucalyptus}}亜属{{Snamei|Eucalyptus}}節{{Snamei|Eucalyptus}}列
| 南オーストラリア州、ヴィクトリア州南部、タスマニア州、ニューサウスウェールズ州東部、クイーンズランド州南東部
|
* ユーカリ属のタイプ種。(参照: [[#歴史]])
* 木材が利用<ref name="Walker2006" />。
|-
! {{Snamei||Eucalyptus pauciflora}} {{small|{{AU|Sieber}} ex {{AU|Spreng.}}}}
| [[ミヤマユーカリ]]<ref name="Coombes1994" />(別名: [[スノーガム]]<ref name="r-w-u" />)
| snow gum, cabbage gum, white sally
| {{Snamei|Eucalyptus}}亜属{{Snamei|Cineraceae}}節{{Snamei|Pauciflorae}}列
| クイーンズランド州南東端、ニューサウスウェールズ州、ヴィクトリア州南部、タスマニア州(中央部、北東部)、南オーストラリア州南東部
|
|-
! {{Snamei||Eucalyptus perriniana}} {{small|F.Muell. ex {{AU|Rodway}}}}
| [[ツキヌキユーカリ]]<ref name="Hatus.1976" />
| spinning gum
| {{Snamei|Symphyomyrtus}}亜属{{Snamei|Maidenaria}}節{{Snamei|Euryotae}}亜節{{Snamei|Orbiculares}}列
| ニューサウスウェールズ州南東部、ヴィクトリア州東部、タスマニア州
|
|-
! {{Snamei||Eucalyptus pilularis}} {{small|Sm.}}
| [[ブラックバット (植物)|ブラックバット]]<ref name="NSY" /><ref name="r-w-u" />
| blackbutt
| {{Snamei|Eucalyptus}}亜属{{Snamei|Pseudophloius}}節
| ニューサウスウェールズ州南東端からクイーンズランド州南東部にかけて
|
|-
! {{Snamei||Eucalyptus piperita}} {{small|{{AU|J.White}}}}
| [[シドニーペパーミント]](別名: [[ペパーミントユーカリ]])<ref name="Inoue2009">{{Cite book|last=井上|first=重治|year=2009|title=ハーブウォーターの世界 サイエンスで見る 芳香蒸留水|publisher=フレグランスジャーナル社|page=277|url=https://www.google.co.jp/books/edition/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%96%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C_%E3%82%B5%E3%82%A4/HRUuDwAAQBAJ?hl=ja&gbpv=1&dq=%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%82%BF&pg=PA277}}</ref>
| Sydney peppermint
| {{Snamei|Eucalyptus}}亜属{{Snamei|Cineraceae}}節{{Snamei|Piperitales}}列
| ニューサウスウェールズ州固有
|
|-
! {{Snamei||Eucalyptus polyanthemos}} {{small|Schauer}}
| [[シラカネユーカリ]]<ref name="Hatus.1976" />(別名: [[ツゲユーカリ]])<ref name="Hatus.1976" />
| red box
| {{Snamei|Symphyomyrtus}}亜属{{Snamei|Adnataria}}節{{Snamei|Terminales}}亜節{{Snamei|Heterophloiae}}列
| ニューサウスウェールズ州、ヴィクトリア州(中央部、東部)
|
|-
! {{Snamei||Eucalyptus populnea}} {{small|F.Muell.}}([[シノニム]]: {{Snamei|E. populifolia}} {{small|Hook., nom. illeg.}})
| [[ベンビルボックス]]<ref name="NSY" />
| poplar box, bimbil box
| {{Snamei|Symphyomyrtus}}亜属{{Snamei|Adnataria}}節{{Snamei|Apicales}}亜節{{Snamei|Buxeales}}列{{Snamei|Amissae}}亜列
| ニューサウスウェールズ州(西部)、クイーンズランド州(中央部、南東部)
|
|-
! {{Snamei||Eucalyptus propinqua}} {{small|{{AU|H.Deane}} & Maiden}}
| [[グレイガム]]<ref name="NSY" />
| (small-fruited) grey gum
| {{Snamei|Symphyomyrtus}}亜属{{Snamei|Latoangulatae}}節{{Snamei|Lepidotae-Fimbriatae}}列
| ニューサウスウェールズ州からクイーンズランド州南東部にかけて
|
|-
! {{Snamei||Eucalyptus pulverulenta}} {{small|{{AU|Sims}}}}
| [[マルバユーカリ]]<ref name="Hatus.1976" />
| silver-leaved mountain gum
| {{Snamei|Symphyomyrtus}}亜属{{Snamei|Maidenaria}}節{{Snamei|Euryotae}}亜節{{Snamei|Orbiculares}}列
| ニューサウスウェールズ州固有
| {{Harvcoltxt|初島|1976}} は別名として「[[コマルバユーカリ]]」を併記。
|-
! {{Snamei||Eucalyptus punctata}} {{small|DC.}}
| [[グレイアイアンガム]]<ref name="NSY" />
| grey gum
| {{Snamei|Symphyomyrtus}}亜属{{Snamei|Latoangulatae}}節{{Snamei|Lepidotae-Fimbriatae}}列
| ニューサウスウェールズ州南海岸からクイーンズランド州南東部にかけて
| オーストラリア北部のコアラの好物<ref name="ADW" />。
|-
! {{Snamei||Eucalyptus radiata}} {{small|Sieber ex DC.}}
| [[ユーカリ・ラジアータ]]<ref name="Wada2008" />、[[ユーカリ・ラディアタ]]<ref name="Inoue2009" />
| narrow-leaved peppermint
| {{Snamei|Eucalyptus}}亜属{{Snamei|Aromatica}}節{{Snamei|Radiatae}}列
| ヴィクトリア州中央部、ニューサウスウェールズ州、クイーンズランド州南東部、タスマニア州北部
| アロマセラピー用の精油の原料<ref name="Wada2008" />。
|-
! {{Snamei||Eucalyptus regnans}} {{small|F.Muell.}}
| [[セイタカユーカリ]](別名: [[マウンテンアッシュ]]<ref name="Walker2006" />)
| mountain ash, swamp gum, stringy gum
| {{Snamei|Eucalyptus}}亜属{{Snamei|Regnantes}}節
| ヴィクトリア州<!--南部-->東部高地、タスマニア州(北東部や北部など)
|
* 命名者であるミュラー自身の手により {{Sname|''E. amygdalina'' var. ''regnans''}} と分類されたことがある<ref>{{Harvcoltxt|Chippendale|1988|p=158}}.</ref>。
* 木材が利用<ref name="Walker2006" />。
|-
! {{Snamei||Eucalyptus resinifera}} {{small|{{AU|J.White}}}}
| [[レッドマホガニー]]<ref name="NSY" />
| red mahogany, red messmate
| {{Snamei|Symphyomyrtus}}亜属{{Snamei|Latoangulatae}}節{{Snamei|Annulares}}列
| ニューサウスウェールズ州南海岸からクイーンズランド州にかけて
|
|-
! {{Snamei||Eucalyptus robusta}} {{small|Sm.}}
| [[オオバユーカリ]]<ref name="Hatus.1976" />(別名: [[ロブスタユーカリ]]<ref name="YL" />、[[テリハユーカリ]]<ref name="Hatus.1976" /><ref name="NSY" />)
| swamp mahogany, swamp messmate
| {{Snamei|Symphyomyrtus}}亜属{{Snamei|Latoangulatae}}節{{Snamei|Annulares}}列
| ニューサウスウェールズ州からクイーンズランド州南東部にかけて
|
|-
! {{Snamei||Eucalyptus rubida}} {{small|H.Deane & Maiden}}
| [[ユーカリプタス・ルビダ]]<ref name="reference2004" />
| candlebark, ribbon gum, white gum
| {{Snamei|Symphyomyrtus}}亜属{{Snamei|Maidenaria}}節{{Snamei|Euryotae}}亜節{{Snamei|Viminales}}列{{Snamei|Circulares}}亜列
| タスマニア州東部、ヴィクトリア州、ニューサウスウェールズ州
| {{Harvcoltxt|Chippendale|1988|p=365}} に見られるようにかつては南オーストラリア州にも分布すると考えられていたが、チッペンデールが引用した標本 [[:ru:Айзинг, Эрнест Хорас|E.H. Ising]] s.n. は後にダルリンプルユーカリ(の基本亜種)と再同定されている<ref>[https://avh.ala.org.au/occurrences/fd4bad11-f045-44b5-a967-7c141e4b7e1c Record: AD 96804072 {{!}} Occurrence record] (The Australian Virtual Herbarium). {{Accessdate|2022-10-07}}</ref><ref>[https://avh.ala.org.au/occurrences/d950f241-db45-42af-997d-f6d641fda812 Record: AD 966100633 {{!}} Occurrence record] (The Australian Virtual Herbarium). {{Accessdate|2022-10-07}}</ref><ref>[https://avh.ala.org.au/occurrences/537daabd-c496-482d-a1c3-6dc8a015e53c Record: CANB 426093.1 {{!}} Occurrence record] (The Australian Virtual Herbarium). {{Accessdate|2022-10-07}}</ref>。
|-
! {{Snamei||Eucalyptus saligna}} {{small|Sm.}}
| [[シドニーブルーガム]]<ref name="NSY" />
| (Sydney) blue gum
| {{Snamei|Symphyomyrtus}}亜属{{Snamei|Latoangulatae}}節{{Snamei|Transversae}}列
| ニューサウスウェールズ州南海岸部からクイーンズランド州南東部にかけて
|
|-
! {{Snamei||Eucalyptus siderophloia}} {{small|Benth.}}
| [[ブロードリーブドアイアンバーク]]<ref name="NSY" />
| <!--northern grey -->ironbark
| {{Snamei|Symphyomyrtus}}亜属{{Snamei|Adnataria}}節{{Snamei|Apicales}}亜節{{Snamei|Siderophloiae}}列{{Snamei|Subglaucae}}亜列
| クイーンズランド州南部、ニューサウスウェールズ州
| {{Harvcoltxt|Chippendale|1988|p=404}} は broad-leaved ironbark の名は別種 {{Snamei||Eucalyptus fibrosa}} {{small|F.Muell.}} {{sname|subsp. ''fibrosa''}}(シノニム: {{Sname|''E. siderophloia'' var. ''rostrata''}})にあてている。
|-
! {{Snamei||Eucalyptus sideroxylon}} {{small|A.Cunn. ex {{AU|Woolls}}}}
| [[アカゴムノキ]]<ref name="YL" />(別名: [[レッドアイアンバーク]]<ref name="NSY" />)
| (red) ironbark, mugga
| {{Snamei|Symphyomyrtus}}亜属{{Snamei|Adnataria}}節{{Snamei|Terminales}}亜節{{Snamei|Melliodorae}}列{{Snamei|Solidae}}亜列
| クイーンズランド州南東部、ニューサウスウェールズ州<!--東部-->、ヴィクトリア州北部
|
|-
! {{Snamei||Eucalyptus tereticornis}} {{small|Sm.}}
| [[クーパーユーカリ]]<ref name="Hatus.1976" />(別名: [[フォーレストレッドガム]]<ref name="NSY" />、[[モリユーカリ]]<ref name="Hatus.1976" />)
| forest red gum, blue gum, red irongum
| {{Snamei|Symphyomyrtus}}亜属{{Snamei|Exsertaria}}節{{Snamei|Erythroxylon}}列
| ニューギニア南部、オーストラリア東部3州(クイーンズランド州、ニューサウスウェールズ州、ヴィクトリア州)の東部
| オーストラリア北部のコアラの好物<ref name="Osawa1993" /><ref name="ADW" />。
|-
! {{Snamei||Eucalyptus urophylla}} {{small|S.T.Blake}}
| [[ウロフィラユーカリ]]<ref name="NSY" />
|
|
| 東ティモール<ref name="EUCLID_learn" />
| オーストラリアに分布しないユーカリの一つ。
|-
! {{Snamei||Eucalyptus urnigera}} {{small|Hook.f.}}
| [[ツボミユーカリ]]<ref name="Coombes1994" />
| urn gum
| {{Snamei|Symphyomyrtus}}亜属{{Snamei|Maidenaria}}節{{Snamei|Euryotae}}亜節{{Snamei|Orbiculares}}列
| タスマニア州南東部に固有
|
|-
! {{Snamei||Eucalyptus viminalis}} {{small|Labill.}}
| [[リボンガム]]<ref name="NSY" />
| manna gum, ribbon gum, white gum
| {{Snamei|Symphyomyrtus}}亜属{{Snamei|Maidenaria}}節{{Snamei|Euryotae}}亜節{{Snamei|Viminales}}列{{Snamei|Lanceolatae}}亜列
| 南オーストラリア州南東部、ヴィクトリア州、ニューサウスウェールズ州、タスマニア州
|
* オーストラリア南部のコアラの好物<ref name="ADW" />。
* {{Harvcoltxt|Chippendale|1988|p=358}} はクイーンズランド州南東部も分布域に含めていたが、その時引用された標本 [[:en:Leslie Pedley|L. Pedley]] 7407 は後に別種 {{Snamei||Eucalyptus nobilis}} {{small|{{AU|L.A.S.Johnson}} & {{AU|K.D.Hill}}}} と再同定されている<ref>[https://avh.ala.org.au/occurrences/a369fa53-d9fb-4f8a-aee5-e497f8002823 Record: NSW319259 {{!}} Occurrence record] (The Australian Virtual Herbarium). {{Accessdate|2022-10-05}}</ref>。
|-
! {{Snamei||Eucalyptus viridis}} {{small|R.T.Baker}}
| [[ミドリユーカリ]]<ref name="Hatus.1976" />
| green mallee
| {{Snamei|Symphyomyrtus}}亜属{{Snamei|Adnataria}}節{{Snamei|Apicales}}亜節{{Snamei|Buxeales}}列{{Snamei|Continentes}}亜列
| 南オーストラリア州南東部、ヴィクトリア州、ニューサウスウェールズ州中西部、クイーンズランド州
|
|}
また、以下はユーカリ属に分類されていた段階で「…ユーカリ」という和名がつけられたものの、1995年に{{Snamei||Corymbia}}属に組み替えられたものである<ref>{{Cite book|last=Hill|first=K.D.|authorlink=:en:Ken Hill (botanist)|last2=Johnson|first2=L.A.S.|authorlink2=:en:Lawrence Alexander Sidney Johnson|year=1995|title=Systematic studies in the eucalypts. 7. A revision of the bloodwoods, genus ''Corymbia'' (Myrtaceae)|journal=Telopea|volume=6|issue=2–3|pages=185–504|url=https://biodiversitylibrary.org/page/57836798}}</ref>。こちらも分布情報は {{Harvcoltxt|Slee|Brooker|Duffy|West|2020}} による。
{| class="wikitable"
|+ 「…ユーカリ」の名を持つ{{Snamei|Corymbia}}属の種
! 学名
! [[シノニム]]
! 和名
! 英名
! 分布
! 備考
|-
! {{Snamei||Corymbia citriodora}} {{small|({{AU|Hook.}}) {{AU|K.D.Hill}} & {{AU|L.A.S.Johnson}}}}
| {{Snamei|Eucalyptus citriodora}} {{small|Hook.}}
| [[レモンユーカリ]]<ref name="Hatus.1976" /><ref name="NSY" />
| lemon-scented gum, spotted gum
| オーストラリアの[[ニューサウスウェールズ州]]から[[クイーンズランド州]]にかけて
| [[アロマセラピー]]用の[[精油]]の原料<ref name="Wada2008" />。
|-
! {{Snamei||Corymbia ficifolia}} {{small|({{AU|F.Muell.}}) K.D.Hill & L.A.S.Johnson}}
| {{Snamei|Eucalyptus ficifolia}} {{small|F.Muell.}}
| [[ベニバナユーカリ]]<ref name="Hatus.1976" /><ref name="NSY" />(別名: [[アカバナユーカリ]]<ref name="Hatus.1976" />、[[レッドフラワリング・ガム]]<ref name="r-w-u" />)
| red-flowering gum
| [[西オーストラリア州]]固有
|
|-
! {{Snamei||Corymbia gummifera}} {{small|({{AU|Gaertn.}}) K.D.Hill & L.A.S.Johnson}}
| {{Snamei|Eucalyptus corymbosa}} {{small|{{AU|Sm.}}}}
| [[タマザキユーカリ]]<ref>{{Cite book|authorlink=:en:E. J. H. Corner|first=E. J. H.|last=コーナー|authorlink2=渡辺清彦 (植物学者)|last2=渡辺|first2=清彦|year=1969|title=図説熱帯植物集成|publisher=廣川書店|page=539}}</ref>(別名: [[レッドブラッドウッド]]<ref name="NSY" />)
| red [[ブラッドウッド|bloodwood]]
| クイーンズランド州南東部、ニューサウスウェールズ州<!--東部-->、[[ビクトリア州|ヴィクトリア州]]東端
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|}
== 利用 ==
[[オーストラリア先住民]]([[アボリジニ]])は傷を癒すのに葉を利用した。葉から取れる[[精油]]は殺菌作用や抗炎症作用、鎮痛・鎮静作用があるとされ、医薬品や[[アロマテラピー]]などに用いられる。また、健康[[茶]]等としても利用される。ただし、[[ハーブ]]や精油としての利用は、[[サプリメント]]や[[薬物]]との相互作用の懸念があると考えられている<ref name="Maryland">[http://umm.edu/health/medical/altmed/herb/eucalyptus Eucalyptus] University of Maryland Medical Center</ref>。
日本でも鑑賞用などとして栽培・出荷する農家が増えている。ユーカリの近くに植えた他の農作物で鳥獣の食害が減る効果もあり、ユーカリが放つ独特の香りが作用している可能性もある<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO25785840X10C18A1CR0000/ ユーカリ栽培広がる/色・形 鑑賞用で人気]『日本経済新聞』夕刊2018年1月17日(社会面)</ref>。ユーカリは用土の乾燥を好む品種が多く、日本で良く見かける品種のほとんどが[[湿地帯]]に生息する湿潤を好む品種である。
初期成長が早いことが注目され、[[人工林]]の樹種として利用されてきた。[[ブラジル]]では、植栽してから6年-7年で[[製紙]]用の[[パルプ]]として収穫が生産が可能であり、ユーカリの大規模な植林地が造られている<ref>[http://nipo-brasil.org/archives/1227/ アマゾンで植林・チップ生産輸出事業に取り組む] 日本ブラジル中央協会 2017年12月16日閲覧</ref>。
=== パルプ原料 ===
[[File:Eucalyptus_grandis_Kerewong_State_Forest_55_metres_tall.jpg|thumb|180px|ローズガム(ユーカリプタス・グランディス)]]
ユーカリはオーストラリアの原産で、森の木の4分の3がユーカリと言われる。近年、[[ローズガム]] ({{Snamei||Eucalyptus grandis}}) を中心に[[製紙]][[パルプ]]用のチップ生産に使われ輸出もされているが、これによってユーカリの森林破壊が進み、[[有袋類]]の生息環境が危機にさらされている。
[[中華人民共和国]]の[[広東省]]、[[広西チワン族自治区]]、[[海南省]]などでも、製紙用原料として広く植樹が行われている。[[ブラジル]]では、[[ミナスジェライス州]]に本社を持つパルプ製造会社[[セニブラ]]社が10万ha以上の自社林にユーカリを植栽し、7年サイクルで伐採を行い自社製品の原料としている。
=== 精油 ===
[[File:Eucalyptus_radiata.jpg|thumb|180px|ユーカリプタス・ラディアータ]]
サウザンブルーガムこと{{仮リンク|ユーカリプタス・グロブルス|en|Eucalyptus globulus}}から抽出された{{仮リンク|ユーカリ油|en|Eucalyptus oil}}は、イギリスで医薬品として認証されており、気道の[[カタル]]性炎症(内服、外用)や[[リウマチ]]の諸症状(外用)に利用される<ref name="バルチン">マリア・リス・バルチン 著 『アロマセラピーサイエンス』 田邉和子 松村康生 監訳、フレグランスジャーナル社、2011年</ref>。分泌腺の機能亢進、去痰、おだやかな鎮痙効果・局所的充血作用などの効能があり、のど飴や吸入剤、塗布剤、[[軟膏]]、消毒薬などに用いられる。咳を静め痰を減らす効果があるとして、[[気管支炎]]、[[咳]]、[[インフルエンザ]]などの時に、[[吸入]]などの方法で利用されることもある。
香料としても歯磨きや菓子などに調合されている。また、防腐効果が見られる。
ユーカリ油に含まれる成分は[[シネオール]]、[[ピネン]]、[[シトロネラール]]、など。市販されるユーカリプタス・グロブルス、{{仮リンク|ユーカリプタス・ラディアータ|en|Eucalyptus radiata}}の[[精油]]は非常に安価であるため、合成成分の添加などの偽和はほとんど行われない<ref name="バルチン"></ref>。ユーカリプタス・グロブルス、ユーカリプタス・ラディアータ以外のユーカリ属の精油は、毒物学的な試験は行われていない<ref name="バルチン"></ref>。
==== 禁忌・中毒 ====
ヒトに外用に用いた場合、一般に毒性・感作性・光毒性はないとされるが、外用した場合に[[精油]]成分が呼吸器から吸収される可能性がある。内服や蒸気発生装置などでの利用で中毒が見られ、内服で複数の致死例が報告されている<ref name="バルチン"></ref>。[[喘息]]患者の[[気管支炎]]を悪化させる可能性がある。特に乳幼児への使用は危険であり、近くでの使用も避けるべきである。アメリカの[[メリーランド大学]]のMedical Centerは、6歳未満の幼児に精油を含むのど飴を与えたり、吸入させたり、顔の近くで精油を含む製品を使うこと、また大人が精油を内服するなどは、行うべきでないとして注意を促している<ref name="Maryland"></ref>。ユーカリは精油・ハーブ共に医師の指導の下で使用すべきであり、特に[[喘息]]、[[脳卒中]]、[[肝臓病]]、[[腎臓病]]、[[低血圧]]、妊娠中、授乳中の人、[[抗がん剤]]の[[フルオロウラシル]]を使用中の人は、医師や植物医学分野の有資格者に相談することなく使用しないよう警告している<ref name="Maryland"></ref>。
=== 緑化 ===
[[アルカリ性]][[土壌]]でも強く育つため、土壌がアルカリ性になっている乾燥地帯の緑化に使われることが多い。また、土壌をアルカリ性から[[酸性]]へと移行する。そのため、酸性の土壌に育てた場合、土壌の酸性が強くなりすぎる場合がある。
=== コアラの食料 ===
[[ファイル:Koala-ag1.jpg|thumb|180px|ユーカリを食べる[[コアラ]]]]
ユーカリは[[コアラ]]の食料として知られる。コアラが食べるユーカリの種類は限られており<ref>母親コアラの食性に準ずる</ref>、新芽のみをエサとする。600種類以上あるユーカリのうち、コアラが食べるのは40種類ほど。それぞれのコアラが食べるのは、生育する地方に生える14種類ほどである<ref>[https://megalodon.jp/2009-1024-1807-28/mainichi.jp/area/tokyo/news/20091021ddlk13040253000c.html ユーカリのうた:コアラ来日25周年] 毎日新聞 2009年10月21日 地方版</ref><ref>[http://www.jazga.or.jp/tennoji/nakigoe/2007/07/report02.html コアラの飼育 油家謙二] 天王寺動物園</ref>(参照: [[コアラ#コアラが好むユーカリの種類について]])。
=== 木材 ===
ユーカリのなかには木材としての利用価値のあるものが存在する。オーストラリアでは主要な材木であるという関係上、既に述べたパルプのほか建築用から燃料用に至るまで様々な用途に用いられている<ref name="Ogata2000" />。材質は樹種により軽軟-重硬、淡色-濃色と多様であるが、[[気乾比重]]0.65-1.10程度で重さが中庸-重硬のものが多い<ref name="Ogata2000" />。用いられる樹種の例としては[[カリーガム|カリー]]({{Snamei||Eucalyptus diversicolor}}; [[心材]]: 帯赤褐色、気乾比重: 0.88)、[[ジャラ]]({{Snamei||Eucalyptus marginata}}; 心材: 暗赤褐色、平均気乾比重: 0.82)、[[セイタカユーカリ]]({{Snamei||Eucalyptus regnans}}; 気乾比重: 0.62)といったものが挙げられる<ref name="Walker2006" />。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注" />
=== 出典 ===
<references />
== 参考文献 ==
日本語:
* {{Cite book|last=貴島|first=恒夫|last2=岡本|first2=省吾|last3=林|first3=昭三|year=1977|title=原色木材大図鑑|edition=改訂|publisher=保育社|page=109|ref=harv}}
* {{Cite book|last=緒方|first=健|authorlink=species:Ken Ogata|chapter=ユーカリ|title=世界大百科事典|edition=第2版 (CD-ROM版)|publisher=平凡社|year=2000|url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%AA%E5%B1%9E-1431351|ref=harv}}
* {{Wikicite|reference=エイダン・ウォーカー<!--Walker, Aidan--> 総編集、ニック・ギブス<!--Nick Gibbs-->、ルシンダ・リーチ<!--Lucinda Leech-->、ビル・リンカーン<!--Bill Lincoln-->、ジェーン・マーシャル<!--Jane Marshall-->、エイダン・ウォーカー 共著 (2006) 『世界木材図鑑』乙須敏紀 訳、産調出版、95-97頁。{{ISBN2|4-88282-470-1}}|ref={{SfnRef|ウォーカー|2006}}}}(原書: ''The Encyclopedia of Wood'', Quarto, [https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA07614059 1989] & 2005.)
英語:
* {{Cite book|last=Chippendale|first=G.M.|authorlink=:en:George Chippendale|year=1988|chapter=''Eucalyptus''|title=Flora of Australia|volume=19|publisher=Australian Government Publishing Service Canberra|pages=1–448|url=https://www.dcceew.gov.au/science-research/abrs/publications/flora-of-australia/vol19|ref=harv}}
* {{Cite book|url=https://apps.lucidcentral.org/euclid/text/intro/index.html|last=Slee|first=A.V.|authorlink=species:Andrew Vernon Slee|last2=Brooker|first2=M.I.H.|authorlink2=:en:Ian Brooker|last3=Duffy|first3=S.M.|last4=West|first4=J.G.|authorlink4=:en:Judith Gay West|title=EUCLID: Eucalypts of Australia|edition=4th|date=2020|accessdate=2022-10-07|ref=harv}} - ユーカリの分類に携わった[[アンドリュー・ヴァーノン・スリー]](1950-2022)や[[イアン・ブルッカー]](1934-2016)などの監修によるオーストラリア産ユーカリ属やその関連属についてのデータベース。
== 関連項目 ==
* [[木の一覧]]
* [[アデレード・ブルー・ガム]]
* [[ユーカリが丘駅]] - [[千葉県]]
* [[パイロファイト]] - 火に適応した植物群
== 外部リンク ==
{{wikispecies|Eucalyptus|ユーカリ属}}
{{commonscat|Eucalyptus|ユーカリ属}}
* [https://web.archive.org/web/20160307224924/http://bizpoint.com.br/jp/reports/sakurai/sk11_00.htm ユーカリ植林と環境問題]
* [http://www.engei.net/guide/guide.asp?frame=popup&ID=150 栽培ガイド ユーカリ]
* [https://web.archive.org/web/20100523061730/http://members.westnet.com.au/petitcommerce/eucalyptus.htm オーストラリアでよく見られるユーカリについて]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ゆうかり}}
[[Category:ユーカリ属|*]]
[[Category:精油]]
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[[Category:紙の原料]]
[[Category:緑化]] | 2003-05-17T12:16:02Z | 2023-10-30T04:19:13Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%AA |
8,452 | 中山競馬場 | 中山競馬場(なかやまけいばじょう、英:Nakayama Racecourse)は、千葉県船橋市(一部市川市)にある中央競馬の競馬場。施行者ならびに管理者は日本中央競馬会である。日本の4大競馬主場(中山競馬場、東京競馬場、阪神競馬場、京都競馬場)の一つ。競馬ファンの間では単に中山でも通用する。
有馬記念(GI)が有名で国際セリ名簿基準書においては平地競走の最上位であるパートI。国際競馬統括機関連盟(IFHA)が公表した「世界のトップ100GIレース」では2020年世界第10位、日本国内第4位に位置付けられている(ジャパンカップが世界第3位、日本第1位)。
1レースの売上過去最高額は1996年の有馬記念で約875億円となりギネス世界記録に登録されている。GI競走は有馬記念のほか皐月賞やスプリンターズステークス、ホープフルステークスが開催される。
中山競馬の起源は1907年(明治40年=開催年)に千葉県東葛飾郡明村大字岩瀬(現在の松戸市大字岩瀬)に作られた松戸競馬場(運営は総武競馬会から松戸競馬会倶楽部)が前々身にあたる。松戸競馬会倶楽部は1919年(大正8年)8月10日に陸軍省からの競馬場地の買収申し込みを受け入れ、東葛飾郡中山村大字若宮(現:市川市若宮)へ移転した。
中山村に移転した1920年(大正9年)には中山競馬倶楽部と名称が改められ、1927年(昭和2年)に少し北東側の東葛飾郡葛飾村大字古作(現:船橋市古作)に馬場が移された。その後、1937年(昭和12年)に日本競馬会(現在の日本中央競馬会)へ統合、中山競馬場として発足し現在へ至る。移転後の初開催は1920年(大正9年)3月12日である。
中山競馬は千葉県における観光事業の1つとなっており、1930年(昭和5年)には図-1のような観光地図も作られた。
1940年(昭和15年)に開催される予定であった東京オリンピックでは馬事公苑や東京競馬場とともに馬術競技で使用されることとなっていたが、日中戦争の影響で中止となった。
歴史的には、東京競馬場の東京優駿(日本ダービー)に対抗する競走を設けることが長い間中山競馬の念願であった。周辺の地形が起伏に富んだ地形であり、それを生かして障害コースが設けられ、そこを舞台に中山大障害が開催された。さらに、第2代理事長有馬頼寧によって中山グランプリ(現在の有馬記念)が創設された。今では年末の風物詩となっている。
アメリカのローレルパーク競馬場と提携を結んでおり、ローレル競馬場賞中山牝馬ステークスが施行されている。
2018年(平成30年)には、90周年を記念しスタンド施設を中心とした大規模リニューアル改装を実施している。同年12月1日より、駅連絡地下通路(ナッキー・モール)がリニューアルオープンするとともにグランプリガーデンが新規オープンした。スタンド1階にはチャイルドコーナー・ベビーコーナーが設けられており、プレイマットスペースや授乳室、おむつ替えベッドなどを備えている。また、65歳以上の方が入場できるシニアサロンも用意されている。
年末にはクリスマスのイルミネーションやプロジェクションマッピングなどが施される。特に高さ20メートルのヒマラヤスギを使ったクリスマスツリーは、生きた樹木のクリスマスツリーとしては日本国内最大級である。他の見所としてはパドック近くに建てられたハイセイコーの像がある。ベンジャミンプラザ(地下1階)には、インフォメーションをはじめ、カフェやショップが併設している。
「中山」の名称の由来は、移転当初、施設の大部分が千葉県東葛飾郡中山村(後に中山町となり1934年(昭和9年)11月3日に市川市へ編入、残りは葛飾村に属し1937年(昭和12年)4月1日に船橋市へ編入)に属していたことに由来する。現在地には1927年(昭和2年)10月に建設が決定され、1930年(昭和5年)に開設された。
主要4場の中では最も直線が短く小回りなコースで、主要4場以外と比較した場合でも、内回りコースの1周距離は札幌競馬場 (1640.9メートル)とほぼ同じ。コース全体の高低差は芝コースで5.3メートルあり、これはJRAの競馬場の中では最大となる。ダートコースも全体の高低差が4.5メートルとなっている。ゴール前では残り180メートルから70メートルの地点に高さ2.2メートルの上り勾配がある。JRAではこれを「急坂」と称しており、ゴール前の逆転劇につながるとしている。
芝コースは内回りと外回りがあり、内回りはコーナーの半径が小さい小回りコースとなっている。外回りは内回りの第2コーナーから分岐し、第3コーナーで再び内回りに合流する。外回りコース全体でみると3コーナー側がやや潰れたおむすび状のコースとなっている。
2016年までコース図に芝1000m, 芝1400mの設定もあったが、長らく実施されず、2017年にコース図から削除された。
2021年までは1月から3月までの期間(2015年以降は重賞競走を除く)出走可能頭数を下記の通り制限していた。
ダートコースは芝・内回りコースの内側に設けられている。急坂はあるものの、芝・内回りと同様に、コーナーの半径が小さい小回りコースとなっている。
障害コースはダートコースの内側から芝・外回りコースの内側に設けられている。途中でダートコース・芝内回りコースを横切る形態となっており、中央部の襷コースは大竹柵と大生垣を備えた「大障害コース」となっている。大障害コースは年に2回、中山グランドジャンプと中山大障害しか使用されない。また、地形を生かした深い谷を上り下りするバンケットも、特徴のひとつとなっている。
各障害の概要は下表の通り。
10個の飛越障害と、3箇所の谷(バンケット)で構成されている。
※なお皐月賞、有馬記念当日は、多くの競馬ファンが入場し、スタンド席だけでは収容しきれない場合がある時、大障害コースをファンに開放する場合もある。2020年の新型コロナウィルス発生以後は、一般入場券も含め全席完全前売り制だったが、段階を追って当日券の発売(競馬場共通回数券も使用可能)を再開しており、2023年現在では、上記2競走当日についてのみが完全前売り制。他はGI級を含め、前売り券(指定席は全席前売りのみ)と一般入場券のみ当日券を併売している。
インターネット予約による事前予約による販売が行われている。全席禁煙、別途入場料200円が必要となる。
(廃止された指定席)
場内ではミニFM放送で各放送局の音声を送信している。周波数は以下のとおり。
2001年末まではメディアホールでJRAオリジナルのミニFM放送を行っていた(1992年から2000年末までTurf Sound Station ターフ・サウンドステーション・2001年はGreen WAVE・周波数は87.0MHz)。
2020年第5回開催から上記ミニFM放送サービスが廃止された。
競馬場周辺にはJRA直営及び民間運営の有料駐車場が多数あるが、駐車場に面した道路(県道180号線)の道幅が片側1車線と狭く、競馬開催日に限らず交通渋滞の名所となっているため、競馬場では「ストップ・マイカー」キャンペーンを通年実施し、公共交通機関、特に鉄道での来場を推奨している。
GI
GII
GIII
J・GI
出典:JRA公式サイト 中央競馬レコードタイム 中山競馬場
1985年11月にナッキーと呼ばれる、ピンク色の蝶ネクタイを身に付けた、白馬をモチーフにしたマスコットキャラクターが制定された。場内の案内看板やゴミ箱などにプリントされている他、船橋法典駅から競馬場を結ぶ専用通路「ナッキー・モール」、4人掛け専用指定席「ナッキーボックス」の名前の由来にもなっている。また、他の競馬場や場外発売所、BS放送のグリーンチャンネルに配信される中継映像では、ナッキーの顔とレース番号を表示して中山競馬場のレースであることを示している(ただし、有馬記念開催週は有馬記念のロゴマークが使用される)。なお、1999年と2000年には、このマスコットの名前を冠したナッキージャンプステークスが施行された。
2018年1月より中山競馬場のシンボルの一つとして親しまれている「ヒマラヤ杉」をモチーフとした競走馬のシルエットを組み合わせたデザインに変更された。ただし、新デザインも有馬記念開催週は有馬記念のロゴマークが使用される。
2005年11月に有馬記念50回を記念して、中山競馬場のイメージソングが制定され、開催日の開門時や場内イベントなどで使用されている。
「喝采~この道の先に」作詞・作曲:今井千尋 歌:松本英子
なお、以前は開門時には「キング・オブ・ターフ」(作曲:すぎやまこういち)が使用されていた。
1978年に美浦トレーニングセンターが開設されるまでは競馬場や白井分場で調教が行われていた。 | [
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"text": "※なお皐月賞、有馬記念当日は、多くの競馬ファンが入場し、スタンド席だけでは収容しきれない場合がある時、大障害コースをファンに開放する場合もある。2020年の新型コロナウィルス発生以後は、一般入場券も含め全席完全前売り制だったが、段階を追って当日券の発売(競馬場共通回数券も使用可能)を再開しており、2023年現在では、上記2競走当日についてのみが完全前売り制。他はGI級を含め、前売り券(指定席は全席前売りのみ)と一般入場券のみ当日券を併売している。",
"title": "主な設備"
},
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"text": "インターネット予約による事前予約による販売が行われている。全席禁煙、別途入場料200円が必要となる。",
"title": "主な設備"
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"text": "(廃止された指定席)",
"title": "主な設備"
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"text": "場内ではミニFM放送で各放送局の音声を送信している。周波数は以下のとおり。",
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"text": "2001年末まではメディアホールでJRAオリジナルのミニFM放送を行っていた(1992年から2000年末までTurf Sound Station ターフ・サウンドステーション・2001年はGreen WAVE・周波数は87.0MHz)。",
"title": "主な設備"
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"text": "2020年第5回開催から上記ミニFM放送サービスが廃止された。",
"title": "主な設備"
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"text": "競馬場周辺にはJRA直営及び民間運営の有料駐車場が多数あるが、駐車場に面した道路(県道180号線)の道幅が片側1車線と狭く、競馬開催日に限らず交通渋滞の名所となっているため、競馬場では「ストップ・マイカー」キャンペーンを通年実施し、公共交通機関、特に鉄道での来場を推奨している。",
"title": "アクセス"
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"text": "GI",
"title": "重賞競走"
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"text": "GII",
"title": "重賞競走"
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"text": "GIII",
"title": "重賞競走"
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"text": "J・GI",
"title": "重賞競走"
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"text": "出典:JRA公式サイト 中央競馬レコードタイム 中山競馬場",
"title": "レコードタイム"
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"text": "1985年11月にナッキーと呼ばれる、ピンク色の蝶ネクタイを身に付けた、白馬をモチーフにしたマスコットキャラクターが制定された。場内の案内看板やゴミ箱などにプリントされている他、船橋法典駅から競馬場を結ぶ専用通路「ナッキー・モール」、4人掛け専用指定席「ナッキーボックス」の名前の由来にもなっている。また、他の競馬場や場外発売所、BS放送のグリーンチャンネルに配信される中継映像では、ナッキーの顔とレース番号を表示して中山競馬場のレースであることを示している(ただし、有馬記念開催週は有馬記念のロゴマークが使用される)。なお、1999年と2000年には、このマスコットの名前を冠したナッキージャンプステークスが施行された。",
"title": "マスコットキャラクター・イメージソング"
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"text": "2018年1月より中山競馬場のシンボルの一つとして親しまれている「ヒマラヤ杉」をモチーフとした競走馬のシルエットを組み合わせたデザインに変更された。ただし、新デザインも有馬記念開催週は有馬記念のロゴマークが使用される。",
"title": "マスコットキャラクター・イメージソング"
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"text": "2005年11月に有馬記念50回を記念して、中山競馬場のイメージソングが制定され、開催日の開門時や場内イベントなどで使用されている。",
"title": "マスコットキャラクター・イメージソング"
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"text": "「喝采~この道の先に」作詞・作曲:今井千尋 歌:松本英子",
"title": "マスコットキャラクター・イメージソング"
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{
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"text": "なお、以前は開門時には「キング・オブ・ターフ」(作曲:すぎやまこういち)が使用されていた。",
"title": "マスコットキャラクター・イメージソング"
},
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"text": "1978年に美浦トレーニングセンターが開設されるまでは競馬場や白井分場で調教が行われていた。",
"title": "主な元所属調教師"
}
] | 中山競馬場は、千葉県船橋市(一部市川市)にある中央競馬の競馬場。施行者ならびに管理者は日本中央競馬会である。日本の4大競馬主場(中山競馬場、東京競馬場、阪神競馬場、京都競馬場)の一つ。競馬ファンの間では単に中山でも通用する。 有馬記念(GI)が有名で国際セリ名簿基準書においては平地競走の最上位であるパートI。国際競馬統括機関連盟(IFHA)が公表した「世界のトップ100GIレース」では2020年世界第10位、日本国内第4位に位置付けられている(ジャパンカップが世界第3位、日本第1位)。 1レースの売上過去最高額は1996年の有馬記念で約875億円となりギネス世界記録に登録されている。GI競走は有馬記念のほか皐月賞やスプリンターズステークス、ホープフルステークスが開催される。 | {{出典の明記|date=2015年6月}}
{{競馬場
|競馬場名 = 中山競馬場
|通称・愛称 =
|画像 = [[File:中山競馬場.jpg|300px|中山競馬場]]<br/>中山競馬場{{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|zoom=13|frame-align=center|frame-width=280}}
|所在地 = 千葉県船橋市古作一丁目1番1号
|緯度度 = 35 | 緯度分 = 43 | 緯度秒 = 33.3 | N(北緯)及びS(南緯) = N
|経度度 = 139 |経度分 = 57 | 経度秒 = 44.7 | E(東経)及びW(西経) = E
|地図国コード = JP
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|開場 = [[1907年]]
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|取り壊し =
|所有者 = [[日本中央競馬会]]
|管理・運用者 = 日本中央競馬会
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|馬場 = 芝・ダート
}}
{{External media
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|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=lOWO4bxRNp4 中山競馬場 芝2500m360度ムービー]JRA
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{{External media
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|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=SJsuDNSW1Sw 中山競馬場 パドック360度ムービー]JRA
}}
'''中山競馬場'''(なかやまけいばじょう、[[英語|英]]:Nakayama Racecourse)は、[[千葉県]][[船橋市]](一部[[市川市]])にある[[中央競馬]]の[[競馬場]]。施行者ならびに管理者は[[日本中央競馬会]]である。日本の4大競馬主場(中山競馬場、[[東京競馬場]]、[[阪神競馬場]]、[[京都競馬場]])の一つ<ref>{{Cite web|title=中山競馬場-OPTOTECH|url=http://www.opto.com.tw/jp/portfolios_view_2.aspx?ID=85|website=www.opto.com.tw|accessdate=2019-05-07}}</ref>。競馬ファンの間では単に'''中山'''でも通用する。
[[有馬記念]]([[競馬の競走格付け|GI]])が有名で[[国際セリ名簿基準書]]においては平地競走の最上位であるパートI<ref name="partI" />。[[国際競馬統括機関連盟]](IFHA)が公表した「世界のトップ100GIレース」では2020年世界第10位、日本国内第4位に位置付けられている(ジャパンカップが世界第3位、日本第1位)<ref name="TOP100GI" />。
1レースの売上過去最高額は[[1996年]]の有馬記念で約875億円となり[[ギネス世界記録]]に登録されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://p.nikkansports.com/goku-uma/member/news/news.zpl?topic_id=10096&id=201812170000112&year=2018&month=12&day=17|title=ギネス登録の96年売り上げ875億円/有馬記念 {{!}} 極ウマ・プレミアム|website=p.nikkansports.com|accessdate=2021年11月28日}}</ref>。GI競走は有馬記念のほか[[皐月賞]]や[[スプリンターズステークス]]、[[ホープフルステークス (中央競馬)|ホープフルステークス]]が開催される<ref>{{Cite web|和書|title=中山競馬場へ行こう! {{!}} Umabi - 今度の休みは、うまびより。|url=https://umabi.jp/turf/nakayama/guide|website=umabi.jp|accessdate=2019-05-07|language=ja}}</ref>。
[[ファイル:Nakayama Racecourse01.jpg|サムネイル|300x300ピクセル|中山競馬場スタンド]]
== 概要 ==
中山競馬の起源は[[1907年]](明治40年=開催年)に[[千葉県]][[東葛飾郡]][[明村 (千葉県)|明村]]大字[[岩瀬 (松戸市)|岩瀬]](現在の[[松戸市]]大字岩瀬)に作られた[[松戸競馬場]](運営は総武競馬会から松戸競馬会倶楽部)が前々身にあたる。松戸競馬会倶楽部は[[1919年]](大正8年)[[8月10日]]に[[陸軍省]]からの競馬場地の買収申し込みを受け入れ、東葛飾郡[[中山町 (千葉県)|中山村]]大字[[若宮 (市川市)|若宮]](現:[[市川市]]若宮)へ移転した。
中山村に移転した[[1920年]](大正9年)には[[中山競馬倶楽部]]と名称が改められ、1927年(昭和2年)に少し北東側の東葛飾郡[[葛飾村]]大字[[古作]](現:[[船橋市]]古作)に馬場が移された。その後、[[1937年]](昭和12年)に[[日本競馬会]](現在の日本中央競馬会)へ統合、中山競馬場として発足し現在へ至る。移転後の初開催は[[1920年]](大正9年)[[3月12日]]である。
[[ファイル:Nakayama KankoChizu.jpg|230px|right|thumb|昭和5年(1930年)発行 中山競馬・千葉県観光案内地図(図-1)]]
中山競馬は千葉県における[[観光]]事業の1つとなっており、[[1930年]](昭和5年)には図-1のような観光地図も作られた。
[[1940年]](昭和15年)に開催される予定であった[[1940年東京オリンピック|東京オリンピック]]では[[馬事公苑]]や[[東京競馬場]]とともに[[馬術]]競技で使用されることとなっていたが、[[日中戦争]]の影響で中止となった。
歴史的には、東京競馬場の[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]に対抗する競走を設けることが長い間中山競馬の念願であった。周辺の地形が起伏に富んだ地形であり、それを生かして障害コースが設けられ、そこを舞台に[[中山大障害]]が開催された。さらに、第2代理事長[[有馬頼寧]]によって中山グランプリ(現在の[[有馬記念]])が創設された。今では年末の風物詩となっている。
[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ローレルパーク競馬場]]と提携を結んでおり、[[中山牝馬ステークス|ローレル競馬場賞中山牝馬ステークス]]が施行されている。
2018年(平成30年)には、90周年を記念しスタンド施設を中心とした大規模リニューアル改装を実施している。同年12月1日より、駅連絡地下通路(ナッキー・モール)がリニューアルオープンするとともにグランプリガーデンが新規オープンした<ref>{{Cite web|和書|title=[中山競馬場 リニューアル情報 第二弾]JRA 中山競馬場 開設90周年を迎えた今年、リニューアルオープン 船橋法典駅連絡地下通路がウマれかわり、グランプリガーデン...|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000005.000037215.html|website=プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES|accessdate=2019-05-07}}</ref>。スタンド1階にはチャイルドコーナー・ベビーコーナーが設けられており、プレイマットスペースや授乳室、おむつ替えベッドなどを備えている。また、65歳以上の方が入場できるシニアサロンも用意されている。
年末にはクリスマスの[[イルミネーション]]や[[プロジェクションマッピング]]などが施される。特に高さ20メートルのヒマラヤスギを使った[[クリスマスツリー]]は、生きた樹木のクリスマスツリーとしては日本国内最大級である。他の見所としてはパドック近くに建てられた[[ハイセイコー]]の像がある。ベンジャミンプラザ(地下1階)には、インフォメーションをはじめ、カフェやショップが併設している。
<gallery widths="200">
ファイル:Xmas tree at Nakayama Racecourse.jpg|ヒマラヤスギ
ファイル:中山競馬場クリスマスイルミネーション - panoramio (2).jpg|クリスマスツリー
ファイル:中山競馬場 - panoramio (20).jpg|クリスマスイルミネーション
ファイル:中山競馬場 - panoramio (7).jpg|ハイセイコーの像
File:Nakayama Racecourse 20221002a18.jpg|さざれ石
</gallery>
== 沿革 ==
「中山」の名称の由来は、移転当初、施設の大部分が[[千葉県]]東葛飾郡中山村(後に中山町となり[[1934年]]([[昭和]]9年)[[11月3日]]に市川市へ編入、残りは葛飾村に属し[[1937年]](昭和12年)[[4月1日]]に船橋市へ編入)に属していたことに由来する。現在地には[[1927年]](昭和2年)10月に建設が決定され、[[1930年]](昭和5年)に開設された。
[[ファイル:Nakayama Racecourse04.jpg|230px|right|thumb|大正時代の中山競馬場]]
* 1906年(明治39年)- 松戸競馬倶楽部が松戸競馬場を開設(開催は翌年の1907年)。
* 1918年(大正{{0}}7年)- [[陸軍工兵学校]]の開校に伴い、船橋移転、中山競馬倶楽部と改正。[[行徳]]海岸に競馬場を整備し始める。
* 1923年(大正12年)- [[関東大震災]]の大津波で、完成間際の競馬場が壊滅的な打撃を受け、現在の[[船橋市]][[古作]]へ移転。
* 1928年(昭和{{0}}3年)- 現在の中山競馬場にて移転後、最初のレースが行われる。
* 1942年(昭和17年)- 競馬開催中に[[ドーリットル空襲|ドーリットル隊]]による日本本土初空襲が行われる。
* 1943年(昭和18年)- 閣議決定で、競馬開催の一時停止が実施される。
* 1944年(昭和19年)- 中山競馬場が閉鎖、陸軍に接収され[[陸軍軍医学校]]中山出張所(血清ワクチンの製造工場[http://blog.livedoor.jp/vivit2007/archives/54374391.html 参考])、[[立川航空機中山分遣所|立川航空隊]](軍需品集積所)、東部第5部隊駐留地、軍管轄の自耕農場などとして活用される。
* 1945年(昭和20年)- 戦時中の食糧難のためほぼ全面が畑になり麦やカボチャ、その他様々な野菜などが植えられていた<ref>日本中央競馬会編集『日本競馬史』第7巻、1975年、日本中央競馬会、pp.20-21</ref>
* 1946年(昭和21年)- 陸軍軍医学校中山出張所の血清製造工場が千葉県に貸与され、千葉県血清研究所となったが、[[進駐軍]]の農場として接収されたため、移転。
* 1947年(昭和22年)- 米軍から返還、中山競馬場として再開する。
* 1954年(昭和29年)- [[日本中央競馬会]]中山競馬場となる。
* 1956年(昭和31年)- 観覧スタンド改築第一期完成<ref name="nikkenren">[https://www.nikkenren.com/kenchiku/pdf/26/0026.pdf 中山競馬場観覧スタンド] - 日本建設業連合会</ref>。国内の競馬場では初めて観客席側に柱を付けない大屋根構造を採用した<ref name="ahstand">[https://www.ad-hzm.co.jp/recruit/special/project2.html 新卒採用情報プロジェクトストーリー 培われた技術力の結晶 JRA中山競馬場観覧スタンド] - 安藤ハザマ</ref>。
* 1960年(昭和35年)- 観覧スタンド改築第二期完成<ref name="nikkenren"/>。
* 1966年(昭和41年)- ダートコースが新設<ref>{{Cite|和書|title=日本中央競馬会50年史|date=2005|pages=70,528|publisher=日本中央競馬会}}</ref>。
* 1974年(昭和49年)中山競馬場の厩舎数や在籍馬数は徐々に増え、この年には馬房を貸し付けられている調教師の人数は中山競馬場と白井分場を合わせて46人(JRA全体で162人。またこの人数とは別に馬房貸付されていない調教師がJRA合計で23人いる。)馬房数は定期貸し付け馬房と出張馬房の合計で中山が885馬房・白井が232馬房の計1117馬房、預託契約頭数はサラ系が中山白井合計で1030頭、アラブ系が26頭の合計1056頭。中山競馬場と白井分場の合計総馬房数1117に対し38馬房貸し付けられている調教師がいるのに対し8馬房しか貸付されていない調教師もいるなど厩舎ごとの規模の差は現在より大きかった。この年までに[[栗東トレーニングセンター]]はすでに開業していたが[[美浦トレーニングセンター]]は造成中である<ref>日本中央競馬会編集『日本中央競馬会二十年史』1978年、日本中央競馬会、pp.136-152</ref>。
*[[1976年]] (昭和51年) 6月、28端末の複合投票券(ユニット馬券)システムを導入<ref>コンピュートピア万才(5)コンピュータが綴る競馬哀歌 - コンピュートピア1978年8月号(コンピュータ・エージ社)</ref>。
*[[1978年]] (昭和53年) 3-4月、中山競馬場内にあった厩舎は新設された[[美浦トレーニングセンター]]に移動した。中山競馬場所属の調教師や厩務員なども移転した<ref>[http://jra.jp/miho/intro/index.html#1 JRA美浦トレーニングセンター沿革]</ref>。1977年、中山競馬場には885の馬房があったが常駐していた馬はすべて美浦に移動。1982年には馬房の数は270に減り、それは出張馬房として使われた<ref>日本中央競馬会『日本中央競馬会30年史』1985年、日本中央競馬会、p.164,170</ref>。
* 1985年(昭和60年)- 新スタンド「クリスタルコーナー」が増築される。
* 1988年(昭和63年) - 現メインスタンド改築着工<ref name="ahstand"/>。
* 1990年(平成2年)- 現メインスタンド竣工<ref name="ahstand"/>。
* 2011年(平成23年)
** [[東日本大震災]]により、3月12日から4月17日までの開催を中止<ref>[http://www.jra.go.jp/news/201103/031501.html 3月27日(日)までの中山競馬の開催中止について] JRAホームページ 2011年3月15日</ref><ref>[http://www.jra.go.jp/news/201103/032202.html 第3回中山競馬および第1回福島競馬の開催中止について] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20111112050056/http://www.jra.go.jp/news/201103/032202.html |date=2011年11月12日 }} 日本中央競馬会 2011年3月22日</ref>。これに伴い、[[皐月賞]]が4月24日に[[東京競馬場]]での開催となった。
** なおこれに付随して中山競馬場で当初予定されていた重賞競走のうち、[[日経賞]]、[[スプリングステークス]]、[[ニュージーランドトロフィー]]は[[阪神競馬場]]に移設。更に出走馬のローテーション間隔の確保の観点から、当初[[3月20日]]で終える予定だった[[小倉競馬場]]の開催を[[4月17日]]まで延長する処置を取った<ref group="注">このうち、[[3月26日]]・[[3月27日]]は、[[3月12日]]・[[3月13日]]開催予定分の代替延期分。[[4月2日]]以後の分は中山中止に伴う代替処置としてのものであった</ref>。
** 第2回福島競馬開催期間にあたる6月18日(土)から7月10日(日)を、第3回中山競馬として施行した<ref>[http://www.jra.go.jp/news/201105/051001.html 6月18日(土){{~}}7月10日(日)に中山競馬を開催] JRAホームページ 2011年5月10日</ref>。
* 2014年(平成26年) メインスタンドなどの改修工事を1年間かけて行う。そのうち、9月には検量室付近の工事が行われるため、例年の4回中山開催は中止し、[[新潟競馬場]]へ振替開催するほか、競走馬を身近に感じられる環境を提供するため、[[パドック]]と競走トラックコースを結ぶ「馬のハナミチ」を整備、さらにそれに付随したウィナーズサークルや検量室エリアの拡充工事をするため、これまで観客に開放してきた「クリスタルコーナー」のファンエリアについては1月に行われる2014年度第1回中山競馬の開催終了をもって閉鎖し、以後同コーナーの建物は業務エリアとして利用する<ref>[http://www.jra.go.jp/news/201302/021503.html 中山競馬場スタンド等整備工事について] JRAホームページ 2013年2月15日</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jra.go.jp/news/201311/112004.html|title=中山競馬場スタンド等整備工事の概要について|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2013-11-22}}</ref>。
* 2020年(令和2年) - 第2・3・4回開催の全日は[[COVID-19]]の感染拡大防止のため「[[無観客試合#競馬|無観客競馬]]」として実施。
* 2021年(令和3年) - 第1回開催の2~8日、第2回開催の全日、第3回開催の1・2日は[[COVID-19]]の感染拡大防止のため「[[無観客試合#競馬|無観客競馬]]」として実施<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jra.go.jp/news/202101/010503.html|title=無観客競馬(中山競馬場)の実施と首都圏ウインズ等の発売取りやめ(1月9日(土曜)・10日(日曜)・11日(祝日・月曜))|accessdate=2021-01-09|date=2021-01-05|publisher=日本中央競馬会}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jra.go.jp/news/202101/010903.html|title=1月16日(土曜)からの首都圏の競馬場とウインズ等の営業|accessdate=2021-01-09|date=2021-01-09|publisher=日本中央競馬会}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jra.go.jp/news/202102/020403.html|title=2月13日(土曜)からの競馬場・ウインズ等の営業(無観客競馬・発売取りやめ)|accessdate=2021-02-05|date=2021-02-04|publisher=日本中央競馬会}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jra.go.jp/news/202103/032108.html|title=3月27日(土曜)からの競馬場・ウインズ等の営業(関東地区の発売再開・中山競馬の指定席ネット予約)|accessdate=2021-03-21|date=2021-03-21|publisher=日本中央競馬会}}</ref>。
== コース概要 ==
[[ファイル:Nakayama-Racecourse03.jpg|thumb|ゴール前の坂]]
[[ファイル:Nakayama-Racecourse aerial 2019.jpg|thumb|中山競馬場付近の航空写真(2019年撮影){{国土航空写真}}]]
[[ファイル:Nakayama-Racecourse aerial 1989.jpg|thumb|航空写真に見る中山競馬場付近。写真上部が北。1989年撮影。{{国土航空写真}}]]
[[ファイル:Nakayama Racecourse1940.jpg|thumb|1940年の走路図]]
主要4場の中では最も直線が短く小回りなコース<ref name="course_nakayama" />で、主要4場以外と比較した場合でも、内回りコースの1周距離は[[札幌競馬場]] (1640.9メートル)とほぼ同じ<ref name="course_nakayama" />。コース全体の高低差は芝コースで5.3メートルあり、これはJRAの競馬場の中では最大となる{{refnest|group="注"|イギリスやアイルランド、フランスなどの競馬場では、高低差が数十メートルあるような競馬場が珍しくない。[[ダービーステークス|イギリスダービー]]を行う[[エプソム競馬場]]は高低差が約45mあり、10階建てのビルの高さに相当する<ref>[http://www.j-horseman.com/foreign_2/entry/post-10.html 東京サラブレッドクラブ J-horseman 海の向こうの競馬2]2015年1月6日閲覧。</ref>。[[凱旋門賞]]を行うフランスの[[パリロンシャン競馬場]]は高低差約10m<ref>[http://jra-van.jp/deep/kotoshi/09_tokutyo.html JRA-VAN ロンシャン競馬場の特徴]2015年1月6日閲覧。</ref>。日本国内では[[盛岡競馬場]]が最大高低差4.6mを有し、直線ゴール前の坂も2.8mの高さがある<ref>[http://www.iwatekeiba.or.jp/hp/g/oro/oro_index.html 岩手競馬 盛岡競馬場ガイド]2015年1月6日閲覧。</ref><ref>[http://www.iwatekeiba.or.jp/hp/pdf/FunBook2008.pdf 岩手競馬 ファンブック2008]2015年1月6日閲覧。</ref>。なお、1995年に移転する以前の盛岡競馬場には高低差約9メートルの坂があった<ref>[http://www.oddspark.com/keiba/oddsparkclub/pdf/vol27.pdf オッズパーククラブ vol27 盛岡競馬場今昔物語]2015年1月6日閲覧。</ref>。}}。ダートコースも全体の高低差が4.5メートルとなっている<ref name="course_nakayama" />。ゴール前では残り180メートルから70メートルの地点に高さ2.2メートルの上り勾配がある<ref name="course_nakayama"/>。JRAではこれを「急坂」と称しており<ref name="course_nakayama"/>、ゴール前の逆転劇につながるとしている<ref name="course_nakayama" />。
=== 芝コース ===
[[芝]]コースは内回りと外回りがあり、内回りはコーナーの半径が小さい小回りコースとなっている。外回りは内回りの第2コーナーから分岐し、第3コーナーで再び内回りに合流する。外回りコース全体でみると3コーナー側がやや潰れたおむすび状のコースとなっている。
* 1周距離<ref name="course_nakayama" />
** Aコース: 内回り1667.1m, 外回り1839.7m
** Bコース: 内回り1686m, 外回り1858.5m
** Cコース: 内回り1704.8m, 外回り1877.3m
* 直線: 310m(全コース共通)<ref name="course_nakayama" />
* 出走可能頭数(フルゲート)<ref name="2022bangumi_ippan" />
** Aコース
*** (内回り)2000mは18頭, その他16頭
*** (外回り)2200mは18頭, その他16頭
** Bコース
*** (内回り)2500mは14頭, 1800m・3200mは15頭, 3600mは16頭, 2000mは18頭
*** (外回り)2600mは13頭, 2200mは18頭, その他は16頭
** Cコース
*** (内回り)2500mは12頭, 1800m・3200mは14頭, 3600mは16頭, 2000mは17頭
*** (外回り)2600mは10頭, 2200mは17頭, その他は16頭
* 距離設定<ref name="course_nakayama" />
** 内回り: 1800m, 2000m, 2500m, 3600m
** 外回り: 1200m, 1600m, 2200m, 2600m<ref group="注">[[1996年]][[11月30日]]の南総特別が最後で以降実施されず</ref>, 4000m<ref group="注">1975年に行われた[[日本最長距離ステークス]]が最後で以降実施されず</ref>
** 外→内: 3200m
2016年までコース図に芝1000m, 芝1400m<ref group="注"> 競走体系の充実を図るため1986年に新設されたが、フルゲートが10頭と少なく、[[1992年]][[12月5日]]の3歳未勝利戦を最後で以降実施されなかった</ref>の設定もあった<ref>{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/keiba/program/2016/pdf/bangumi_ippan.pdf#page=12 |title=2016年度競馬番組一般事項|page=12|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年5月5日}}</ref>が、長らく実施されず、2017年にコース図から削除された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO22685130V21C17A0000000/ |title=コース図から消えた中山競馬場芝1400メートル|author=[[小塚歩]]|publisher=日本経済新聞|date=2017年10月28日|accessdate=2020年12月8日}}</ref>。
2021年までは1月から3月までの期間(2015年以降は重賞競走を除く<ref name="2014bangumi_ippan" /><ref name="2015bangumi_ippan" />)出走可能頭数を下記の通り制限していた<ref name="2022bangumi" /><ref name="2021bangumi_ippan" /><ref name="2022bangumi_ippan"/>。
* Aコース
** (内回り)一律16頭
** (外回り)一律16頭
* Bコース
** (内回り)2500mは14頭, 1800m・3200mは15頭, 2000m・3600mは16頭
** (外回り)2600mは13頭, その他16頭
* Cコース
** (内回り)2500mは12頭, 1800m・3200mは14頭, 2000m・3600mは16頭
** (外回り)2600mは10頭, その他16頭
=== ダートコース ===
[[ダート]]コースは芝・内回りコースの内側に設けられている。急坂はあるものの、芝・内回りと同様に、コーナーの半径が小さい小回りコースとなっている。
* 1周距離: 1493m<ref name="course_nakayama" />
* 直線: 308m<ref name="course_nakayama" />
* 出走可能頭数(フルゲート): 1700mは12頭, 1000mは14頭, その他16頭<ref name="2022bangumi_ippan" />
* 距離設定: 1000m, 1200m, 1700m, 1800m, 2400m, 2500m<ref name="course_nakayama" />
=== 障害コース ===
障害コースはダートコースの内側から芝・外回りコースの内側に設けられている。途中でダートコース・芝内回りコースを横切る形態となっており、中央部の襷コースは大竹柵と大生垣を備えた「大障害コース」となっている<ref name="course_nakayama" />。大障害コースは年に2回、[[中山グランドジャンプ]]と[[中山大障害]]しか使用されない<ref name="course_nakayama" />。また、地形を生かした深い谷を上り下りするバンケットも、特徴のひとつとなっている<ref name="course_nakayama" />。
* 1周距離: 1456.4m<ref name="course_nakayama" />
* 襷コース: 447.5m, 424.3m<ref name="course_nakayama" />
* 出走可能頭数(フルゲート)
** 直線芝: 3570m・4100m・4250m・4260mは16頭, その他14頭<ref name="2021bangumi_ippan" />
** 直線ダート: 一律14頭<ref name="2021bangumi_ippan" />
* 距離設定
** 芝: 2710m, 3030m(外), 3210m, 3350m(外), 3370m(外), 3570m, 4100m (大障害), 4250m (外・大障害), 4260m (外・大障害)<ref name="course_nakayama" /><ref name="2021bangumi_ippan" />
***(外)は2周目の2コーナーから芝・外回りコースに入る。
** ダート: 2700m, 2880m, 3200m, 3550m<ref name="course_nakayama" />
==== 障害の概要 ====
[[ファイル:Grand Brush005.JPG|thumb|大竹柵|代替文=]]
[[ファイル:Grand Hedge004.JPG|thumb|大生垣|代替文=]]
各障害の概要は下表の通り<ref name="course_nakayama" />。
10個の飛越障害と、3箇所の谷(バンケット)で構成されている。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!呼称!!形態!!サイズ・高低差!!位置
|-
|1号障害||水壕||高さ1.2m<br />幅3.7m<br />(生垣0.7m、, 水壕2.7m)||障害コース<br />正面スタンド前
|-
|2号障害||生垣<br />片面飛越||高さ1.4m<br />幅2.4m<br />(生垣1.4m)||障害コース<br />正面スタンド前
|-
|3号障害||生垣<br />片面飛越||高さ1.4m<br />幅2.3m<br />(生垣1.3m)||障害コース<br />1 - 2コーナー中間
|-
|4号障害||竹柵<br />片面飛越<br />(上下動式)||高さ1.2m - 1.3m<br />幅1.6m<br />(竹柵0.95m)||障害コース<br />バックストレッチ
|-
|5号障害||生垣<br />両面飛越||高さ1.4m<br />幅2.4m<br />(生垣1.4m)||障害コース<br />3 - 4コーナー中間
|-
|6号障害||大竹柵<br />片面飛越||高さ1.6m<br />幅2.05m<br />(竹柵1.4m)||襷コース<br />(大障害コース)
|-
|7号障害||大生垣<br />片面飛越||高さ1.6m<br />幅2.4m<br />(生垣1.4m)||襷コース<br />(大障害コース)
|-
|8号障害<br />9号障害||ハードル<br />片面飛越||高さ1.3m<br />幅1.5m<br />(竹柵0.4m)||芝コース<br />8号障害: バックストレッチ<br />9号障害: 3 - 4コーナー中間
|-
|10号障害||ハードル<br />片面飛越||高さ1.2m<br />幅1.15m<br />(竹柵0.5m)||芝コース<br />ホームストレッチ
|-
|1号坂路||谷<br />(バンケット)||下り1/8 上り1/19<br />長さ78m, 高さ3.57m||障害コース<br />第2コーナー
|-
|2号坂路||谷<br />(バンケット)||下り1/12 上り1/11<br />長さ113m, 高さ5.30m||襷コース<br />(大障害コース)
|-
|3号坂路||谷<br />(バンケット)||下り1/12 上り1/8<br />長さ92m, 高さ4.74m||障害コース<br />第3コーナー
|}
== 主な設備 ==
{{Vertical_images_list|幅=220px|枠幅=220px|画像1=Nakayama-Racecourse08.jpg|説明1=正門|画像2=中山競馬場中央門.jpg|説明2=中央門|画像3=Nakayama-Racecourse09.jpg|説明3=中央門のゲート|画像4=|説明4=|画像5=|説明5=|画像6=|説明6=|画像7=|説明7=|画像8=|説明8=|画像9=|説明9=}}
===入場門===
*正門
*中央門(以前は開門時刻前より開いており、スタンドB1階エリアに入場可能であった)
*法典門
*南門
※なお皐月賞、[[有馬記念]]当日は、多くの競馬ファンが入場し、スタンド席だけでは収容しきれない場合がある時、大障害コースをファンに開放する場合もある。[[2020年]]の[[新型コロナウィルス]]発生以後は、一般入場券も含め全席完全前売り制だったが、段階を追って当日券の発売(競馬場共通回数券も使用可能)を再開しており、2023年現在では、上記2競走当日<ref>[https://www.jra.go.jp/facilities/race/nakayama/news/nyujou.html 中山競馬開催日のご入場方法]</ref>についてのみが完全前売り制。他はGⅠ級を含め、前売り券(指定席は全席前売りのみ)と一般入場券のみ当日券を併売している。
===指定席===
インターネット予約による事前予約による販売が行われている。全席禁煙、別途入場料200円が必要となる。
*G-Seat(5階・6階) 456席/3,300円
*A-Seat(3階) 1,024席/2,800円
*V-Seat(4階) 852席/2,800円
*B-Seat(3階) 272席/2,000円
** 2012年第4回開催より。以前のA指定席の一部をリニューアルして設定された。座席にモニターは設置されていない。
*K-Seat(3階) 424席/ 2,800円
*UMACAシート(3階) 188席/3,000円
** 2006年第5回開催より。以前のB指定席からリニューアルされた。2012年第4回開催より席数が拡大されている。
*ボックスシート(4階)48テーブル192席 4名1組で発売される。
** 2006年第5回開催より。以前のB指定席からリニューアルされた。
*車椅子席 (4階)4席 同伴者は、1名まで無料になる。
*[[シルバーシート|シルバー席]] (2階<屋外>/274席/当日先着順)
*シニアサロン (地下1階/150席/シニアサロンメンバー限定)
*シニアサロン (3階/112席/ 4階/74席/ いずれもシニアサロンメンバー限定, 当日先着順)
(廃止された指定席)
*レディースペア席 (4階/44席<22組>/禁煙/当日先着順)は、2008年末にて廃止された。
*i-Seat (クリスタルコーナー3階/202席/禁煙/2,800円/JRAカードによるインターネット予約)2014年1回開催をもって閉鎖された。
=== 場内ミニFM ===
場内では[[ミニFM|ミニFM放送]]で各放送局の音声を送信している。[[周波数]]は以下のとおり。
*87.0MHz…[[グリーンチャンネル]]「[[中央競馬中継|中央競馬全レース中継]]」
*87.5MHz…[[日経ラジオ社|ラジオNIKKEI]]第1放送
*88.0MHz…[[ニッポン放送]]
*88.5MHz…[[アール・エフ・ラジオ日本|ラジオ日本]]
2001年末まではメディアホールでJRAオリジナルのミニFM放送を行っていた(1992年から2000年末までTurf Sound Station ターフ・サウンドステーション・2001年はGreen WAVE・周波数は87.0MHz)。
2020年第5回開催から上記ミニFM放送サービスが廃止された。
===その他設備===
*[[コインロッカー]](G・3 - 1階)
*食堂(4 - 2階・B1階)
*メディアホール(3 - 1階)
*ホースレースiスポット(2階)
*ファーストフードプラザ・レストランプラザ・ベンジャミンプラザ・ターフィーショップ・ドラッグコーナー・[[現金自動預け払い機|ATM]](B1階)
== ギャラリー ==
<gallery widths="200">
ファイル:Nakayama Racecourse 20221002a14.jpg|パドック
ファイル:Nakayama-Racecourse02.jpg|ターフビジョン
ファイル:Nakayama-Racecourse14.jpg|ウイナーズサークル
ファイル:中山競馬場 - panoramio (12).jpg|広場
</gallery>
== アクセス ==
[[File:Nakayama-Racecourse10.jpg|有馬記念後の混雑状況告知|thumb|代替文=]]
* [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[武蔵野線]]「[[船橋法典駅]]」から来場者専用の場内直通地下道(2017年までの名称はナッキー・モール)もしくは屋外一般道([[千葉県道59号市川印西線|千葉県道59号線]]・木下街道)で正門まで徒歩10-15分。地下道の通行可能時間は原則的に午前8時から午後5時30分までのため、指定席購入や開門待ちなどで早朝に現地入りする場合や、レース終了後の場内イベント観賞などで遅い時間に退場する場合は、正門から一般道を利用する必要がある。2005年の[[第50回有馬記念]]<ref>この年の[[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]]人気からこの日は16万人強が来場していた。</ref>など、大きなレースの日は改札前で混雑することもある。
* JR他各線([[中央・総武緩行線|総武線]]各駅停車・武蔵野線・[[京葉線]]・[[東京メトロ東西線]]・[[東葉高速鉄道]])「[[西船橋駅]]」・[[京成本線]]「[[東中山駅]]」(以上は「白井駅」行・「白井車庫」行)、[[北総鉄道北総線|北総線]]「[[白井駅]]」・[[新京成電鉄新京成線|新京成線]]「[[鎌ヶ谷大仏駅]]」・[[東武野田線]]「[[馬込沢駅]]」(以上は「西船橋駅」行き)から[[路線バス]]([[ちばレインボーバス]])で「北方十字路」(正門)または「競馬場南門」で下車。
* 競馬開催日・場外発売日には東中山駅・西船橋駅から競馬場(中央門)直通の臨時バス([[京成バス]])が運行される。運賃は大人片道220円(現金)。また、重賞レース開催時には東中山駅に特急の臨時停車<ref group="注">1991年3月のダイヤ改正までは特急停車駅。</ref>を行うことがある。
* 西船橋駅・船橋法典駅には競馬場行き専用の乗合[[タクシー]]が待機している。
* 京成東中山駅・[[京成西船駅]]・[[京成中山駅]]、西船橋駅・[[下総中山駅]]からの徒歩も可能であり、[[1978年]]の武蔵野線の西船橋延伸開業以前の鉄道での来訪はこちらが主流だった。ただし、最も近い京成東中山駅でも南門まで徒歩20分程度要し、京成中山駅・下総中山駅・西船橋駅へはかなりの距離がある。東中山駅から約2km・下総中山駅から約2.5km・西船橋駅から約3kmほどの距離である。
競馬場周辺にはJRA直営及び民間運営の有料駐車場が多数あるが、駐車場に面した道路([[千葉県道180号松戸原木線|県道180号線]])の道幅が片側1車線と狭く、競馬開催日に限らず交通[[渋滞]]の名所となっているため、競馬場では「ストップ・マイカー」キャンペーンを通年実施し、公共交通機関、特に鉄道での来場を推奨している。
== 重賞競走 ==
'''GI'''
* [[皐月賞]]
* [[スプリンターズステークス]]
* [[有馬記念|有馬記念(グランプリ)]]
* [[ホープフルステークス (中央競馬)|ホープフルステークス]]
'''GII'''
{{columns-list|colwidth=30em|
* [[アメリカジョッキークラブカップ]]
* [[中山記念]]
* [[弥生賞|弥生賞ディープインパクト記念]]([[皐月賞]]トライアル)
* [[スプリングステークス]](皐月賞トライアル)
* [[日経賞]]
* [[ニュージーランドトロフィー]]([[NHKマイルカップ]]トライアル)
* [[紫苑ステークス]]([[秋華賞]]トライアル)
* [[セントライト記念]]([[菊花賞]]トライアル)
* [[オールカマー]]
* [[ステイヤーズステークス]]
}}
'''GIII'''
{{columns-list|colwidth=30em|
* [[中山金杯]]
* [[フェアリーステークス]]
* [[京成杯]]
* [[オーシャンステークス]]
* [[中山牝馬ステークス]]
* [[フラワーカップ]]
* [[マーチステークス]]
* [[ダービー卿チャレンジトロフィー]]
* [[京成杯オータムハンデキャップ]] ([[サマーシリーズ#サマーマイルシリーズ|サマーマイルシリーズ]]第4戦)
* [[カペラステークス]]
* [[ターコイズステークス]]
}}
'''J・GI'''
* [[中山グランドジャンプ]]
* [[中山大障害]]
== レコードタイム ==
出典:[http://www.jra.go.jp/datafile/record/nakayama.html JRA公式サイト 中央競馬レコードタイム 中山競馬場]
*†は基準タイム。
*2023年12月2日現在
=== 芝コース(2歳) ===
{| class="wikitable" style="text-align: center;"
|-
!距離!!タイム!!競走馬!!性別!!斤量!!騎手!!記録年月日
|-
|1200m||1:07.8||[[サーガノヴェル]]||牝||54kg||[[横山典弘]]||[[フェアリーステークス|2001年12月16日]]
|-
|1400m||1:23.4||ヒサノマーヤ||牝||53kg||[[増沢末夫]]||1991年11月30日
|-
|1600m||1:33.1||キャットファイト||牝||55kg||[[大野拓弥]]||2023年9月9日
|-
|1800m||1:46.4||ミヤジタイガ||牡||54kg||[[和田竜二]]||2012年9月8日
|-
|2000m||1:58.9||グランデマーレ||牡||55kg||[[藤岡佑介]]||2019年11月30日
|}
=== 芝コース(3歳以上) ===
{| class="wikitable" style="text-align: center;"
|-
!距離!!タイム!!競走馬!!性齢!!斤量!!騎手!!記録年月日
|-
|1200m||1:06.7||[[ロードカナロア]]||牡4||57kg||[[岩田康誠]]||[[スプリンターズステークス|2012年9月30日]]
|-
|1400m||1:23.2||リンドユウホウ||牡3||55kg||増沢末夫||1987年4月11日
|-
|1600m||1:30.3||[[トロワゼトワル]]||牝4||52kg||横山典弘||[[京成杯オータムハンデキャップ|2019年9月8日]]
|-
| rowspan="2" |1800m|| rowspan="2" |1:44.9||[[サクラプレジデント]]||牡4||57kg||[[武豊]]||[[中山記念|2004年2月29日]]
|-
|[[ヒシイグアス]]||牡5||56kg||[[松山弘平]]||[[中山記念|2021年2月28日]]
|-
|2000m||1:57.8||[[ラブリーデイ]]||牡5||57kg||[[フランシス・ベリー|F.ベリー]]||[[中山金杯|2015年1月4日]]
|-
|2200m||2:10.1||[[コスモバルク]]||牡3||56kg||[[五十嵐冬樹]]||[[セントライト記念|2004年9月19日]]
|-
|2500m||2:29.5||[[ゼンノロブロイ]]||牡4||57kg||[[オリビエ・ペリエ|O.ペリエ]]||[[有馬記念|2004年12月26日]]
|-
|2600m||2:40.3||キクノフラッシュ||牡4||56kg||[[田村正光]]||1984年12月2日
|-
|3200m||3:19.3||キリスパート||牝5||54kg||[[岡部幸雄]]||1993年4月3日
|-
|3600m||3:41.6||[[エアダブリン]]||牡3||57.5kg||岡部幸雄||[[ステイヤーズステークス|1994年12月10日]]
|}
=== ダートコース(2歳) ===
{| class="wikitable" style="text-align: center;"
|-
!距離!!タイム!!競走馬!!性別!!斤量!!騎手!!記録年月日
|-
|1000m||0:59.4||サニーシェーバー||牡||53kg||[[大西直宏]]||1998年9月26日
|-
|1200m||1:10.2||アイアムルビー||牝||54kg||[[松岡正海]]||2009年12月6日
|-
|1800m||1:51.9||トレド||牡||54kg||[[石川裕紀人]]||2022年9月24日
|}
=== ダートコース(3歳以上) ===
{| class="wikitable" style="text-align: center;"
|-
!距離!!タイム!!競走馬!!性齢!!斤量!!騎手!!記録年月日
|-
|1000m||0:58.4||ニシノグリーン||牝3||52kg||[[森安重勝]]||1978年7月1日
|-
|1200m||1:08.4||ハコダテブショウ||牡4||56kg||[[石川裕紀人]]|||2022年9月24日
|-
|1700m||1:43.1||エルフォルク||牡4||53kg||[[飯島和美]]||1976年6月27日
|-
|1800m||1:48.5||[[キヨヒダカ]]||牡5||57kg||[[郷原洋行]]||1983年1月6日
|-
|2400m||2:28.8||ピーチシャダイ||牡6||56kg||[[安田富男]]||1983年1月6日
|-
|2500m||2:38.6||[[サトノトップガン]]||牡3||55kg||[[内田博幸]]||2009年12月12日
|}
=== 障害 ===
{| class="wikitable" style="text-align: center;"
|-
!距離!!タイム!!競走馬!!性齢!!斤量!!騎手!!記録年月日
|-
|芝2710m||3:02.2†||マイネルタスク||牡6||60kg||[[栗原洋一]]||1999年4月4日
|-
|芝3030m||3:20.3†||リンデンバウム||牡7||59kg||[[横山義行]]||1999年9月19日
|-
|芝3210m||3:32.3||[[トウカイポリシー]]||牡6||60kg||[[浜野谷憲尚]]||2009年9月27日
|-
|芝3350m||3:40.8||メジロオーモンド||牡6||60kg||[[林満明]]||[[イルミネーションジャンプステークス|2004年12月4日]]
|-
|芝3370m||3:45.4†||[[ギルデッドエージ]]||牡5||60kg||[[ロシェル・ロケット|R.ロケット]]||[[イルミネーションジャンプステークス|2002年11月30日]]
|-
|芝3570m||3:57.9||ロックユー||騙5||60kg||[[西谷誠]]||[[イルミネーションジャンプステークス|2023年12月2日]]
|-
|芝4100m||4:36.1||[[オジュウチョウサン]]||牡6||63kg||[[石神深一]]||[[中山大障害|2017年12月23日]]
|-
|芝4250m||4:43.0||オジュウチョウサン||牡7||63kg||石神深一||[[中山グランドジャンプ|2018年4月14日]]
|-
|芝4260m<ref group="注">第13回中山グランドジャンプが[[東日本大震災]]の影響で7月2日に順延となり、当日は芝Cコースで行われたため、通常とレース距離が変更された。</ref>||4:51.6†||[[マイネルネオス]]||牡8||63.5kg||[[柴田大知]]||[[中山グランドジャンプ|2011年7月2日]]
|-
|ダ2700m||2:56.8||パワークリント||牡5||59kg||[[大江原隆]]||1996年6月16日
|-
|ダ2880m||3:10.2||マイネルホライズン||牡6||60kg||[[柴田未崎]]||2006年4月2日
|-
|ダ3200m||3:31.0||キャニオンストーム||牡7||59kg||[[田中剛]]||1997年3月1日
|-
|ダ3550m||3:58.1||ネイティブボーイ||牡4||58kg||[[佐藤吉勝]]||1984年1月15日
|}
==マスコットキャラクター・イメージソング==
===マスコットキャラクター===
1985年11月に'''ナッキー'''と呼ばれる、ピンク色の蝶ネクタイを身に付けた、白馬をモチーフにしたマスコットキャラクターが制定された。場内の案内看板やゴミ箱などにプリントされている他、船橋法典駅から競馬場を結ぶ専用通路「ナッキー・モール」、4人掛け専用指定席「ナッキーボックス」の名前の由来にもなっている。また、他の競馬場や場外発売所、BS放送の[[グリーンチャンネル]]に配信される中継映像では、ナッキーの顔とレース番号を表示して中山競馬場のレースであることを示している(ただし、[[有馬記念]]開催週は有馬記念のロゴマークが使用される)。なお、1999年と2000年には、このマスコットの名前を冠した'''ナッキージャンプステークス'''が施行された。
2018年1月より中山競馬場のシンボルの一つとして親しまれている「ヒマラヤ杉」をモチーフとした競走馬のシルエットを組み合わせたデザインに変更された<ref>[http://jra.jp/news/201712/122804.html 中山競馬場シンボルマーク(レース映像ロゴマーク)が変わります!]日本中央競馬会、2017年12月29日閲覧</ref>。ただし、新デザインも有馬記念開催週は有馬記念のロゴマークが使用される。
===イメージソング===
2005年11月に[[有馬記念]]50回を記念して、中山競馬場のイメージソングが制定され、開催日の開門時や場内イベントなどで使用されている。
「'''喝采~この道の先に'''」作詞・作曲:今井千尋 歌:[[松本英子 (歌手)|松本英子]]
なお、以前は開門時には「キング・オブ・ターフ」(作曲:[[すぎやまこういち]])が使用されていた。
== その他 ==
*昭和の終わりから平成の始めにかけて、[[武豊]]や[[オグリキャップ]]などの人気による空前の競馬ブームが起こり、[[1990年]][[12月23日]]の[[有馬記念|第35回有馬記念]]当日には同競馬場最高の入場者177,779名を集めた。これがきっかけになって、主要な[[競馬の競走格付け|GI級]][[競馬の競走|競走]]開催日には入場制限(前売入場券を購入したファンのみが入場できる。若しくは当日券・回数券も発売されるが、前売券購入者を優先入場させる)処置が取られた。2005年の[[第50回有馬記念|有馬記念]]では6年ぶりの完全入場制限が行われ、19万枚の前売入場券が全国で発売された。開催当日は一部の例外(指定席当選者など)を除き、この前売入場券を持参しないと入場することが出来なかった(ただし、正門前などで職員を介した余り入場券の売買が行われた)。
*[[東京競馬場]]が[[2002年]]に実施した全面改修工事の実施、特に2002年夏から2003年4月にかけて行われたコース全面改修工事実施に伴って、通常の東京競馬開催の期間に当たる2002年10月-11月と、2003年2月の開催を当競馬場で振り替え開催したため、2002年10月から2003年4月までの7ヶ月間に渡って連続開催され、通常、東京で施行されるGI級競走の[[天皇賞(秋)]]、[[チャンピオンズカップ (中央競馬)|ジャパンカップダート]]、[[ジャパンカップ]]、[[フェブラリーステークス]]の4競走は、中山競馬場で代替開催された。しかし、異例の長期開催に配慮し9月の中山開催が新潟開催に振り替えられたため、通常中山競馬場で開催される[[スプリンターズステークス]]は[[新潟競馬場]]で開催された。<!-- これは現在、通常GI級競走が開催される東京競馬場・中山競馬場・[[京都競馬場]]・[[阪神競馬場]]・[[中京競馬場]]以外で行われた唯一のGI級競走となっている。← 2014年の同競走も中山スタンド改修工事により新潟開催。2002年は11頭、14年は中山では設定できない18頭であった。-->
*2010年まで毎年8月に本馬場を使って花火大会が開催されていた。但し、建前上は周辺地域住民向けのイベントであり、あまり大きな告知は行われない。2011年は東日本大震災の影響を理由に中止され、2012年以降も予算の都合で廃止が決定された<ref>[http://www.chibanippo.co.jp/c/news/local/89586 中山競馬場の花火大会廃止 夏の風物詩 船橋市が継続要望へ][[千葉日報]]ウェブ 2012年7月6日</ref>。
**2004年までは8月第1水曜日の開催が通例となっていたが、2005年から2010年までは8月第1日曜日の場外発売終了後に開催されるようになった。
*2001年7月まで、中山競馬場では夏期ローカル開催([[福島競馬場]]・新潟競馬場)の場外発売を行わなかった。ただし[[宝塚記念]]の開催される週は、当日の福島競馬場の後半6競走と、宝塚記念(前日発売を含む)のみ発売を行っていた。また、競馬場改装などに伴う代替開催のため夏期に東京競馬場の開催が組み込まれた際には、その期間中は通常通り場外発売を行った。
**これは同じ船橋市内にある[[船橋競馬場]]や、中山競馬場周辺住民への配慮のためとされていた。
**2001年7月14日の新潟競馬初日より、通年の場外発売が行われるようになった。
*毎年中山のGI開催日前後の週には、各種のチャリティイベントが行われる。その中心となるのが'''「ファンと騎手との集い」'''であり、チャリティオークションや、事前に抽選で選ばれたファン代表と共にゲームやクイズで盛り上がる。このイベントの収益金は、各種団体に寄付される。なお、2010年4月18日に行われたファンと騎手との集いが第20回(20周年記念)となった。
**2015年までは3回中山(3月下旬{{~}}4月中旬)がこのイベントに充てられており、皐月賞当日に「ファンと騎手との集い」が行われていた(2011年は東日本大震災の影響により、通常の3回中山が開催されなかったため行われていない)。2016年からは、4回中山(9月中旬{{~}}10月上旬)に変更され、オールカマー当日(フリーパスの日)に「ファンと騎手との集い」が行われる<ref>[http://www.jra.go.jp/news/201604nakayama/ 『ファンと騎手との集い』ジョッキーバトルロイヤル 超人 2016チャリティーイベント] JRAホームページ 2016年9月3日</ref>。
**寄付される団体は、かつては中山競馬場周辺の福祉団体が多く、[[世界の子どもにワクチンを日本委員会]]へ寄付されたこともある。東日本大震災以降は、震災遺児支援の観点から[[あしなが育英会]]に寄付されている<ref>[http://www.jra.go.jp/news/201610/100204.html 開催競馬場・今日の出来事 第4回中山第8日(10月2日(日))] JRAホームページ 2016年10月2日</ref>。
**「ファンと騎手との集い」では、かつては[[後藤浩輝]]騎手(故人)などが盛り上げ役として活躍していた。
**2015年までは皐月賞当日に行われていたが、当日は例年福島開催(1回福島)が行われており、多くの若手騎手が[[若手騎手限定競走]]参戦のため福島で騎乗しており、若手騎手やローカルでの騎乗を中心と決めている騎手(例: [[中舘英二]]騎手(現: 調教師))が参加できない問題点があった。このイベントの運営に強く関わっている騎手が福島で騎乗する場合も、午前中で福島での騎乗を切り上げて参加せざるを得ないケースがあった。前述のとおり2016年からは、2012年以降第3場開催がない4回中山(オールカマー当日)での開催になるため、[[神戸新聞杯]]や[[障害競走]](通常午前中に実施)などで阪神への参戦がない限りは、少なくとも関東所属の若手騎手やローカルで活躍する騎手も参加可能になった。このため、障害競走に騎乗する騎手の一部は、同様に午前中の障害競走が終了した時点で阪神での騎乗を切り上げて参加せざるを得ないケースがある。
**皐月賞当日に開催していた当時は、例年同時間帯に「中山グランドジャンプツアー」として、事前に抽選で選ばれたファンが障害コースを見学するイベントを行っていた。障害を主戦場とする騎手はこちらに参加するため、基本的に「ファンと騎手との集い」には参加できなかった。4回中山への変更後は「Nakayamaジャンプツアー」として、「ファンと騎手との集い」の1週前(セントライト記念当日)の開催になるため、この問題も解消される。ただし、前述のとおり「ファンと騎手との集い」当日に阪神で障害競走が編成されると、障害を主戦場とする騎手の参加が困難になる。
*2009年9月12日の第4回開催より、ハイビジョン対応の2面マルチターフビジョンにて映像提供が行われるようになった<ref>[http://jra.jp/news/200903/030901.html 中山競馬場に新ターフビジョン!]JRAホームページ 2009年3月9日</ref><ref>[http://www.mitsubishielectric.co.jp/news/2009/0831.html マルチ画面ターフビジョン(オーロラビジョン)設置完了のお知らせ][[三菱電機]] ニュースリリース 2009年8月31日</ref>。
*2010年1月11日の第4競走新馬戦で16頭中9頭落馬(9頭の落馬は史上最多)。半数以上が落馬したことになる。<!-- 1着の10号馬は失格、鞍上は三浦皇成であった。-->
{{詳細記事|9頭落馬事故}}
*2011年{{~}}2012年まで放送されていた『[[LIVE&REPORT 中央競馬中継]]』([[千葉テレビ放送]]制作)では、中山開催の有無に関わらず年間を通して、中山競馬場内にスタジオが設けられていた。2010年まで放送されていた『[[中央競馬ワイド中継]]』(千葉テレビ放送・[[テレビ埼玉]]・[[テレビ神奈川]]共同制作)では、中山開催時(千葉テレビ放送制作)のみ中山競馬場から放送されていた。
*2022年以降、競馬場内での馬場照明増設工事が実施され<ref>[https://www.nikoukei.co.jp/bid_result/detail/012035129]</ref>、2023年の第5回中山競馬場の開催から有馬記念・ホープフルステークスの発走時刻を15時40分に繰り下げ、皐月賞・スプリンターズステークスと同じ体制にする<ref>[https://www.jra.go.jp/keiba/program/2023/pdf/gai03.pdf 令和5年度秋季競馬番組の概要について] 令和5年7月30日 JRA日本中央競馬会</ref><ref>[https://www.jra.go.jp/keiba/program/2023/pdf/bangumi/nakayama5.pdf]</ref>。同時に前年阪神競馬場で実施されていた「2022[[ファイナルステークス]]」と、本場で実施されていた「カウントダウンステークス」を入れ替え、2023年12月28日の阪神競馬場最終第12競走を「カウントダウンステークス」(3歳以上3勝クラス定量戦、芝1200m)に、中山競馬場の最終第12競走を「2023ファイナルステークス」(3歳以上3勝クラス定量戦、芝・外回り1600m)として実施する。
== 主な元所属調教師 ==
1978年に[[美浦トレーニングセンター]]が開設されるまでは競馬場や白井分場で調教が行われていた。
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*[[飯塚好次]]
*[[伊藤竹男]]
*[[石毛善衛]]
*[[大久保勝之]]
*[[加藤修甫]](白井分場)
*[[黒坂洋基]]
*[[小西登]]
*[[佐藤征助]]
*[[柴田欣也]](白井分場)
*[[鈴木清 (競馬)|鈴木清]]
*[[高松三太]]
*[[田村駿仁]]
*[[中尾銑治]]
*[[成宮明光]]
*[[二本柳一馬]](白井分場)
*[[野平祐二]]
*[[久恒久夫]](白井分場)
*[[前田禎]]
*[[松永勇]]
*[[元石孝昭]]
*[[矢倉玉男]]
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist|3|refs=
<ref name="course_nakayama">{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/facilities/race/nakayama/course/index.html |title=コース紹介:中山競馬場|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年11月28日}}</ref>
<ref name="2022bangumi">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2022/pdf/bangumi.pdf |title=令和4年度競馬番組等について|publisher=日本中央競馬会|date=2021年11月18日|accessdate=2021年11月27日}}</ref>
<ref name="2014bangumi_ippan">{{Cite web|和書|format=PDF|url=http://www.jra.go.jp/keiba/program/pdf/h26-bangumi_ippan.pdf |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140211161638/http://www.jra.go.jp/keiba/program/pdf/h26-bangumi_ippan.pdf|archivedate=2014年2月11日|title=一般事項(III: 出走可能頭数 - 中山競馬場)|year=2014|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年11月28日}}</ref>
<ref name="2015bangumi_ippan">{{Cite web|和書|format=PDF|url=http://www.jra.go.jp/keiba/program/pdf/h27-bangumi_ippan.pdf |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150105132352/http://www.jra.go.jp/keiba/program/pdf/h27-bangumi_ippan.pdf|archivedate=2015年1月5日|title=一般事項(III: 出走可能頭数 - 中山競馬場)|year=2015|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年11月28日}}</ref>
<ref name="2021bangumi_ippan">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.jra.go.jp/keiba/program/2021/pdf/bangumi_ippan.pdf#page=11 |title=競馬番組一般事項(III: 出走可能頭数 - 中山競馬場|page=11|publisher=日本中央競馬会|year=2021|accessdate=2021年11月28日}}</ref>
<ref name="2022bangumi_ippan">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.jra.go.jp/keiba/program/2022/pdf/bangumi_ippan.pdf#page=11 |title=競馬番組一般事項(III: 出走可能頭数 - 中山競馬場|page=11|publisher=日本中央競馬会|year=2022|accessdate=2021年11月28日}}</ref>
<ref name="TOP100GI">{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/news/202101/012703.html|title=2020年 世界のトップ100 GIレースがIFHAから発表!|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年11月28日}}</ref>
<ref name="partI">{{Cite web|format=PDF|url=http://www.tjcis.com/pdf/icsc21/2021_EntireBook.pdf#page=85 |title=INTERNATIONAL GRADING AND RACE PLANNING ADVISORY COMMITTEE "INTERNATIONAL CATALOGUING STANDARDS and INTERNATIONAL STATISTICS 2021"|publisher=The Jockey Club Information Systems, Inc|page=1-53|accessdate=2021年11月28日}}</ref>
}}
== 関連項目 ==
* [[競馬]]・[[競馬場]]・[[中央競馬]]
* [[競馬場の一覧|競馬場一覧]]
* [[船橋競馬場]](同市の[[地方競馬]]場)
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Nakayama Racecourse}}
*[https://jra.jp/facilities/race/nakayama/ 中山競馬場-JRA公式]
*[https://www.hissyou-tenki.net/nakayama-keiba/ 中山競馬場-天気]
{{日本の競馬場}}
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[[Category:日本の競馬場 (中央競馬)]]
[[Category:船橋市のスポーツ施設]]
[[Category:船橋市の地理]]
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[[Category:1930年開設のスポーツ施設]]<!--現在地での開設-->
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E7%AB%B6%E9%A6%AC%E5%A0%B4 |
8,453 | 日暮里駅 | 日暮里駅(にっぽりえき)は、東京都荒川区西日暮里二丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・京成電鉄・東京都交通局の駅である。
荒川区最南端の駅で、一部は台東区にまたがる。
JR東日本の各線(後述)、京成電鉄の本線、東京都交通局の日暮里・舎人ライナーの3社局の路線が乗り入れ、接続駅となっている。また、JR東日本の駅には「NPR」のスリーレターコードが付与されている。
JR東日本の駅に乗り入れている路線は、線路名称上は東北本線と常磐線の2路線であり(詳細は路線記事および鉄道路線の名称参照)、東北本線を所属線としている。東北本線は田端駅経由の本線と尾久駅経由の支線との分岐駅となっているが、支線を経由する列車線にはホームがなく、列車線で運行される宇都宮線・高崎線列車は停車しない。本線経由の電車線で運行される京浜東北線電車および山手線電車のみが停車し、旅客案内では「東北(本)線」は使用されていない。一方、常磐線に関しては中距離電車および常磐線快速電車が停車する。
当駅は、特定都区市内における「東京都区内」および「東京山手線内」に属する。
また当駅からの京成電鉄の列車の一部は、芝山鉄道芝山鉄道線との直通運転を行っている。
日暮里駅の事務管コードは、▲441005となっている。
JR東日本3面6線、京成電鉄3面2線、日暮里・舎人ライナー1面2線の計7面10線のホームを持つ。京成下りホームおよび日暮里・舎人ライナーのホームが高架ホームのほかはすべて地上ホームである。橋上駅舎を有している。改札は北改札口と南改札口の2か所で、北改札口は「東口」と「西口」の2つの出口がある。なお、南改札口にはお客さまサポートコールシステムが導入されており、終日インターホンによる案内となる。
また、当駅を起点として日暮里・舎人ライナーが開通し、北口の駅前広場上空に既存駅に対して直角に駅舎が設置されるとともに先のコンコースを介して3社局の駅が連結された。これと並行してJR・京成とも駅改良工事を施工したが、特に京成側は国土交通省の鉄道駅総合改善事業として日暮里駅整備株式会社を事業主体とし駅の構造を変えてしまうほどの大規模な工事となり、その進捗によって駅出入口、通路、階段、改札口などの変更が頻繁に行われ、駅構内では係員が常駐し、肉声や拡声器を使って利用客の案内・誘導を行っていた。
東口では、2007年6月頃からガムテープを使った案内表示がコンコース内外で展開されるようになった。これに伴い案内員も減り、スムーズに人が流れるようになった。なお、案内表示は手作業で製作した独自の書体を使用している。この書体は、以前の新宿駅改良工事で乗り換え案内テープを製作した際にも話題となったもので、考案者で当駅の警備担当者でもあった佐藤修悦の名前を取って「修悦体」と呼ばれている。
3面6線の島式ホームと線路、また4本の通過線を持つ地上駅で、橋上駅舎を有する。
駅改良工事によって北口コンコース周辺の駅上部に人工地盤が建設され、コンコースが大幅に拡幅された。これにより改札口や通路が広げられ、エスカレーターやエレベーターなどのバリアフリー設備も完備した。当初予定していた改良工事はこれで終了となるはずであったが、一つ上野寄りにある中央連絡通路までコンコースを広げることが決定し、今後、新たな人工地盤の建設工事が開始される予定である。一時、2014年のJRのファクトシートで日暮里駅開発の記載がなくなったものの、再び2016年6月に発表された「駅改良工事計画について」にて駅改良を計画中の駅として日暮里駅が記載された。
当駅は利用者数に対してホーム幅が狭いため、特に朝夕のラッシュ時は大変な混雑となる。出口や乗り換えのための通路が4本もあり、そこにつながる階段およびエスカレーターの数は、ホーム1本当たりで考えると東京・上野・池袋・新宿などの他の主要駅より多い。2013年10月に京成線下りホーム高架化により発生した空きスペースを利用して常磐線ホームの拡幅工事を実施した。
(出典:JR東日本:駅構内図)
3面2線のホームを持ち、1階が地上にある上りホーム(1面1線)、2階がコンコース、3階が高架にある下りホーム(2面1線)の三層構造である。橋上駅舎を有している、駅長配置駅。改札口は北口と南口がある。そのほか、京成とJRの間には中間改札があり、構内乗り換えが可能である。
京成本線における都心のターミナル駅となっていて、「スカイライナー」を含むすべての列車が停車する。京成本線の本来のターミナルは隣の京成上野駅だが、その位置がJR・東京地下鉄(東京メトロ)上野駅より南西に離れており、当駅を利用する旅客は京成上野駅より多い。そのため、京成電鉄は当駅を京成上野駅と並ぶターミナル駅と位置付けている。なお、当駅は京成電鉄最西端の駅でもある。
2010年の成田スカイアクセスの開業に合わせてJR側と同時進行で駅全体の改良工事も行われ、従来は上り線・下り線で共有していた1階ホームを上り線専用ホームとし、下り線は新設の3階専用ホームへ移設して3層構造の駅となり、同時に南側にも改札口が新設された。さらに下り線(京成成田方面)は線路を挟んで左右に「スカイライナー」「シティライナー」「イブニングライナー」用ホーム(1番線)と一般列車用ホーム(2番線)を有する相対式2面1線ホームとし、ライナー客と一般客が分離された。1階の上り線専用ホームは0番線となり、2階コンコースなども改装された。
2018年2月には、始発より1・2番線(成田空港方面)でホームドアが使用開始された。0番線(京成上野方面)においても、2018年12月にホームドアが使用開始されている。以前はホームドアと列車の扉の開閉が連動せず、車掌がホームにある開閉ボタンを押してホームドアの開閉を操作していたが、現在は列車のドアに連動して自動開閉するシステムになっている。
昭和40年代までは当駅折り返しの列車も設定され、引き上げ線もあったが、京成上野駅の改良工事竣工に伴い全列車が同駅発着になり、設備は撤去された。
(出典:京成電鉄:駅構内図)
頭端式ホーム1面2線を有する高架駅。日暮里・舎人ライナーのほとんどの駅は尾久橋通り上にあるが、当駅は駅前広場に隣接して他線のホームとは直角に配置されている。また当駅には、ホーム外側に住宅などへのプライバシーを保護するための白い壁が設置されていない。
駅を出てすぐの場所に半径30 mの急カーブがある。
日暮里・舎人ライナーでは唯一の定期券売り場が2階に設置されている。改札口は2階と3階に各1か所ある。
各年度の1日平均乗降人員は下表の通りである(JRを除く)。
各年度の1日平均乗車人員は下表の通りである。
駅の西側には昔ながらの商店街「谷中銀座」や谷中霊園がある。反対に駅の東側では駅前再開発が行われている。南東側には繊維問屋街がある。
駅東口付近のバスターミナルには、太田道灌の騎馬姿の銅像がある。
かつては駅前に駄菓子問屋が集まった一角があったが、日暮里・舎人ライナーの乗り入れに伴う駅前再開発で建設されたサンマークシティ日暮里があり、山手線日暮里駅直結の3棟の高層マンションおよび付属施設で構成され、3棟ともに居住・商業施設が一体となっている。
駄菓子屋が「ステーションガーデンタワー」に入店したほか、日暮里に本部を置くエドウインも入店した。
駅北側は短い区間ながらJR線の6複線と京成線の上り線の計13線がほぼ同一平面で併走し、日本最多の併走区間となっている。この区間では1日当たり約2500本もの列車が通過する。併走の様子は北口の跨線橋である下御隠殿橋(しもごいんでんばし)から見ることができ、鉄道ファンや観光客に人気がある。橋にある見学用スペースを、荒川区役所などは「トレインミュージアム」と呼んでいる。北改札口の西口駅舎には当駅を走るJR車両のイラストが展示されていて、下御隠殿橋には列車を模したレリーフが飾られている。
南口側は新幹線が地下に潜り、京成線がJR線を跨ぎ越すため、5複線になる。
東側駅前にあるロータリーに都営バスの路線が乗り入れている。停留所名は「日暮里駅前」である。
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"text": "3面2線のホームを持ち、1階が地上にある上りホーム(1面1線)、2階がコンコース、3階が高架にある下りホーム(2面1線)の三層構造である。橋上駅舎を有している、駅長配置駅。改札口は北口と南口がある。そのほか、京成とJRの間には中間改札があり、構内乗り換えが可能である。",
"title": "駅構造"
},
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"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "京成本線における都心のターミナル駅となっていて、「スカイライナー」を含むすべての列車が停車する。京成本線の本来のターミナルは隣の京成上野駅だが、その位置がJR・東京地下鉄(東京メトロ)上野駅より南西に離れており、当駅を利用する旅客は京成上野駅より多い。そのため、京成電鉄は当駅を京成上野駅と並ぶターミナル駅と位置付けている。なお、当駅は京成電鉄最西端の駅でもある。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "2010年の成田スカイアクセスの開業に合わせてJR側と同時進行で駅全体の改良工事も行われ、従来は上り線・下り線で共有していた1階ホームを上り線専用ホームとし、下り線は新設の3階専用ホームへ移設して3層構造の駅となり、同時に南側にも改札口が新設された。さらに下り線(京成成田方面)は線路を挟んで左右に「スカイライナー」「シティライナー」「イブニングライナー」用ホーム(1番線)と一般列車用ホーム(2番線)を有する相対式2面1線ホームとし、ライナー客と一般客が分離された。1階の上り線専用ホームは0番線となり、2階コンコースなども改装された。",
"title": "駅構造"
},
{
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"tag": "p",
"text": "2018年2月には、始発より1・2番線(成田空港方面)でホームドアが使用開始された。0番線(京成上野方面)においても、2018年12月にホームドアが使用開始されている。以前はホームドアと列車の扉の開閉が連動せず、車掌がホームにある開閉ボタンを押してホームドアの開閉を操作していたが、現在は列車のドアに連動して自動開閉するシステムになっている。",
"title": "駅構造"
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"text": "昭和40年代までは当駅折り返しの列車も設定され、引き上げ線もあったが、京成上野駅の改良工事竣工に伴い全列車が同駅発着になり、設備は撤去された。",
"title": "駅構造"
},
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"text": "(出典:京成電鉄:駅構内図)",
"title": "駅構造"
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"text": "頭端式ホーム1面2線を有する高架駅。日暮里・舎人ライナーのほとんどの駅は尾久橋通り上にあるが、当駅は駅前広場に隣接して他線のホームとは直角に配置されている。また当駅には、ホーム外側に住宅などへのプライバシーを保護するための白い壁が設置されていない。",
"title": "駅構造"
},
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"text": "駅を出てすぐの場所に半径30 mの急カーブがある。",
"title": "駅構造"
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"text": "日暮里・舎人ライナーでは唯一の定期券売り場が2階に設置されている。改札口は2階と3階に各1か所ある。",
"title": "駅構造"
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"text": "各年度の1日平均乗降人員は下表の通りである(JRを除く)。",
"title": "利用状況"
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"text": "各年度の1日平均乗車人員は下表の通りである。",
"title": "利用状況"
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"text": "駅の西側には昔ながらの商店街「谷中銀座」や谷中霊園がある。反対に駅の東側では駅前再開発が行われている。南東側には繊維問屋街がある。",
"title": "駅周辺"
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"text": "駅東口付近のバスターミナルには、太田道灌の騎馬姿の銅像がある。",
"title": "駅周辺"
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"text": "かつては駅前に駄菓子問屋が集まった一角があったが、日暮里・舎人ライナーの乗り入れに伴う駅前再開発で建設されたサンマークシティ日暮里があり、山手線日暮里駅直結の3棟の高層マンションおよび付属施設で構成され、3棟ともに居住・商業施設が一体となっている。",
"title": "駅周辺"
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"text": "駄菓子屋が「ステーションガーデンタワー」に入店したほか、日暮里に本部を置くエドウインも入店した。",
"title": "駅周辺"
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"text": "駅北側は短い区間ながらJR線の6複線と京成線の上り線の計13線がほぼ同一平面で併走し、日本最多の併走区間となっている。この区間では1日当たり約2500本もの列車が通過する。併走の様子は北口の跨線橋である下御隠殿橋(しもごいんでんばし)から見ることができ、鉄道ファンや観光客に人気がある。橋にある見学用スペースを、荒川区役所などは「トレインミュージアム」と呼んでいる。北改札口の西口駅舎には当駅を走るJR車両のイラストが展示されていて、下御隠殿橋には列車を模したレリーフが飾られている。",
"title": "駅周辺"
},
{
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"tag": "p",
"text": "南口側は新幹線が地下に潜り、京成線がJR線を跨ぎ越すため、5複線になる。",
"title": "駅周辺"
},
{
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"text": "東側駅前にあるロータリーに都営バスの路線が乗り入れている。停留所名は「日暮里駅前」である。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "日暮里駅周辺には、いくつか運賃計算の特例が設定されている。なお、はみ出して折り返せる区間での途中下車はできない。",
"title": "その他"
}
] | 日暮里駅(にっぽりえき)は、東京都荒川区西日暮里二丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・京成電鉄・東京都交通局の駅である。 荒川区最南端の駅で、一部は台東区にまたがる。 | {{駅情報
|社色 =
|駅名 = 日暮里駅
|よみがな = にっぽり
|ローマ字 = Nippori
|所在地 = [[東京都]][[荒川区]][[西日暮里]]二丁目
|所属事業者 = {{Plainlist|
* [[東日本旅客鉄道]](JR東日本・[[#JR東日本|駅詳細]])
* [[京成電鉄]]([[#京成電鉄|駅詳細]])
* [[東京都交通局]]([[#東京都交通局|駅詳細]])}}
|画像 = Nippori Station.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 駅全景(2009年9月)
|地図 = {{maplink2|frame=yes|zoom=15|frame-width=300|plain=yes|frame-align=center
|type=point|type2=point|type3=point
|marker=rail|marker2=rail|marker3=rail
|coord={{coord|35|43|40|N|139|46|15.5|E}}|marker-color=008000|title=JR 日暮里駅
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}}
}}
{{座標一覧}}
'''日暮里駅'''(にっぽりえき)は、[[東京都]][[荒川区]][[西日暮里]]二丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[京成電鉄]]・[[東京都交通局]]の[[鉄道駅|駅]]である。
荒川区最南端の駅で、一部は[[台東区]]にまたがる。
== 乗り入れ路線 ==
JR東日本の各線(後述)、京成電鉄の[[京成本線|本線]]、東京都交通局の[[東京都交通局日暮里・舎人ライナー|日暮里・舎人ライナー]]の3社局の路線が乗り入れ、接続駅となっている。また、JR東日本の駅には「{{駅番号|#000000|white|NPR}}」のスリーレターコードが付与されている<ref group="報道" name="JRE-numbering" />。
* JR東日本:各線(後述)
* 京成電鉄:[[File:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] 本線 - [[駅ナンバリング|駅番号]]「'''KS02'''」<ref group="報道" name="keisei/20100625">{{Cite press release|和書|url=https://www.keisei.co.jp/keisei/kouhou/news/22-034.pdf|title=成田スカイアクセス開業に合わせ、ユニバーサルデザインを強化 京成線各駅で「駅ナンバリング」を導入いたします 平成22年7月17日(土)から京成線各駅を英文字2文字と番号の組み合わせでナンバリング|format=PDF|publisher=京成電鉄|language=日本語|date=2010-06-25|accessdate=2021-03-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200727211937/https://www.keisei.co.jp/keisei/kouhou/news/22-034.pdf|archivedate=2020-07-27}}</ref>
* 東京都交通局 : [[File:Nippori-Toneri Liner symbol.svg|15px|NT]] 日暮里・舎人ライナー - 駅番号「'''NT 01'''」<ref group="報道" name="NT-numbering">{{Cite press release|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/pdf/2017/tdn_p_20171116_h_01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190119174432/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/pdf/2017/tdn_p_20171116_h_01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東京さくらトラム(都電荒川線)及び日暮里・舎人ライナーに「駅ナンバリング」を導入いたします|publisher=東京都交通局|date=2017-11-16|accessdate=2020-05-02|archivedate=2019-01-19}}</ref>
JR東日本の駅に乗り入れている路線は、線路名称上は[[東北本線]]と[[常磐線]]の2路線であり(詳細は路線記事および[[鉄道路線の名称]]参照)、東北本線を[[日本の鉄道駅#所属線|所属線]]としている{{sfn|石野|1998|p=389}}。東北本線は[[田端駅]]経由の本線と[[尾久駅]]経由の支線との分岐駅となっているが、支線を経由する[[電車線・列車線|列車線]]にはホームがなく、列車線で運行される[[宇都宮線]]・[[高崎線]]列車は停車しない。本線経由の電車線で運行される[[京浜東北線]]電車および[[山手線]]電車のみが停車し、旅客案内では「東北(本)線」は使用されていない。一方、常磐線に関しては[[中距離電車]]および[[常磐快速線|常磐線快速電車]]が停車する{{Refnest|group="注釈"|常磐線の特別快速は中距離電車に含まれる。また[[常磐緩行線|常磐線各駅停車]]は[[綾瀬駅]]から[[東京メトロ千代田線]]に直通しているため、当駅には乗り入れない。}}。
* [[File:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] [[京浜東北線]]:電車線を走行する東海道本線・[[東北本線]]の近距離電車。[[横浜駅]]から根岸線への[[直通運転]]も実施している。 - 駅番号「'''JK 32'''」<ref group="報道" name="JRE-numbering">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2016/20160402.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200211041325/https://www.jreast.co.jp/press/2016/20160402.pdf|format=PDF|language=日本語|title=首都圏エリアへ「駅ナンバリング」を導入します 〜2020年東京オリンピック・パラリンピックを見据え、よりわかりやすくご利用いただける駅を目指します〜|publisher=東日本旅客鉄道|date=2016-04-06|accessdate=2021-03-05|archivedate=2020-02-11}}</ref>
* [[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] [[山手線]]:電車線を走行する[[環状線|環状路線]] - [[駅ナンバリング#JR東日本・東京モノレール・東京臨海高速鉄道|駅番号]]「'''JY 07'''」<ref group="報道" name="JRE-numbering" />
* [[File:JR JJ line symbol.svg|15px|JJ]] [[常磐線]]([[常磐快速線|快速]]){{Refnest|group="注釈"|[[常磐緩行線|常磐線(各駅停車)]]は[[北千住駅]]での乗り換えを必要とする。}}({{color|blue|■}}[[中距離電車|中距離列車]]も含む):同線は線路名称上は当駅を起点としているが、列車はすべて東北本線上の専用線路を介して[[上野駅]]まで乗り入れているほか、2015年3月14日より、上野東京ラインの開通に伴い、一部列車が[[品川駅]]まで運転される。 - 駅番号「'''JJ 02'''」<ref group="報道" name="JRE-numbering" />
当駅は、[[特定都区市内]]における「[[特定都区市内#設定区域一覧|東京都区内]]」および「[[東京山手線内]]」に属する。
また当駅からの京成電鉄の列車の一部は、[[芝山鉄道]][[芝山鉄道線]]との直通運転を行っている。
日暮里駅の[[事務管理コード|事務管コード]]は、▲441005となっている<ref>日本国有鉄道旅客局(1984)『鉄道・航路旅客運賃・料金算出表 昭和59年4月20日現行』。</ref>{{Refnest|group="注釈"|一部では▲451005の事務管コードを使った補充券等も見られる}}。
== 歴史 ==
[[File:Nippori Station.19630626.jpg|thumb|日暮里駅周辺の白黒空中写真(1963年6月26日撮影)<br />{{国土航空写真}}]]
* [[1905年]]([[明治]]38年)[[4月1日]]:[[日本鉄道]]の三河島 - 日暮里間が開通し、現在のルートが完成時に開業{{sfn|石野|1998|p=424}}。
* [[1906年]](明治39年)[[11月1日]]:日本鉄道の[[鉄道国有法|国有化]]に伴い、当駅も国有とされる{{sfn|石野|1998|p=424}}。
* [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|線路名称]]制定により東北本線の所属となる。
* [[1928年]]([[昭和]]3年)頃:現在地より北寄りにあった駅を現在地に移転。
* [[1931年]](昭和6年)[[12月19日]]:京成電気軌道(現・京成電鉄)の駅が開業。
* [[1952年]](昭和27年)[[6月18日]]:[[日本の鉄道事故_(1950年から1999年)#日暮里駅構内乗客転落事故|日暮里駅構内乗客転落事故]]。国鉄の南側跨線橋(1928年建設)<ref>『毎日新聞』1952年6月18日夕刊3面に「問題の跨線橋は昭和三年同駅とともに改築され」とある。</ref>の10番線に面した羽目板が破れて乗客が落下したところに電車が進入し、8人が死亡。
* [[1954年]](昭和29年)[[8月13日]]:乗客転落事故を受け、国鉄が混雑解消のため[[谷中霊園|谷中墓地]]下の崖を削り取り、11・12番線ホームの新設工事を開始<ref>『朝日新聞』1954年3月23日朝刊8面、『朝日新聞』1954年8月14日朝刊8面(東京版)</ref>。
* [[1955年]](昭和30年)[[5月5日]]:国鉄が11・12番線ホームの使用を開始<ref group="新聞">{{Cite news |title=五月から新ホーム使用 浜松町、日暮里両駅の京浜東北線分離工事進む |newspaper=交通新聞 |publisher=交通協力会 |date=1955-04-09 |page=1 }}</ref>。
* [[1956年]](昭和31年)[[9月11日]]:国鉄が中央連絡通路の使用を開始<ref group="新聞">{{Cite news |title=日暮里駅に新跨線橋 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通協力会 |date=1956-09-11 |page=2 }}</ref><ref group="新聞">{{Cite news |title=事故よサヨナラ 日暮里駅新跨線橋 きのう使用を開始 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通協力会 |date=1956-09-12 |page=2 }}</ref>。
* [[1969年]](昭和44年)[[12月27日]]:翌1月1日の間、常磐線通勤列車の上野駅乗り入れを中止し、日暮里駅で折り返し運転を行う。上野駅の長距離列車発着ホームを行き先別に整理するための措置<ref>チョッピリ帰省が楽に 長距離列車、方向別に統一『朝日新聞』1969年(昭和44年)12月23日朝刊 12版 15面</ref>。
* [[1974年]](昭和49年):<!--新幹線上野乗り入れ等とはいっさい公言されないままでの-->「日暮里駅改良工事」を開始。最初に始まったのは、東北本線・高崎線の在来線ホーム2本を撤去して新幹線の路線を構内に確保するための在来線軌道移設切り替え工事。
* [[1977年]](昭和52年):東北本線・高崎線の在来線ホーム2本が撤去される。5 - 8番線が欠番となる。
* [[1979年]](昭和54年)12月:新幹線の上野乗り入れが発表され、構内工事が始まる。また南側に各ホームを連絡する狭隘な地下通路があったが廃止された。
* [[1985年]](昭和60年)[[3月14日]]:国鉄の[[チッキ|荷物]]扱い廃止{{sfn|石野|1998|p=389}}。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、国鉄の駅は東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる{{sfn|石野|1998|p=424}}。
* [[1988年]](昭和63年)[[3月13日]]:京浜東北線の快速運転開始に伴い、日中は京浜東北線が通過するようになる<ref name="RP562_44-45">{{Cite journal|和書|author=坂本孝喜(東日本旅客鉄道東京地域本社運輸車両部)|title=近年の京浜東北線 運転・車両の動向|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=1992-07-01|volume=42|issue=第7号(通巻第562号)|pages=44 - 45|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。
* [[1989年]]([[平成]]元年)[[7月7日]]:JR東日本の駅に南口および南改札口を開設<ref group="新聞">{{Cite news|title=JR日暮里 あす8日待望の「南口」開業|newspaper=[[読売新聞]]|date=1989-07-07|publisher=[[読売新聞社]]|page=25 朝刊}}</ref>。
* [[1990年]](平成2年)
** [[11月2日]]:JR東日本の南口に自動改札機を設置し、供用開始<ref name=JRR1991>{{Cite book|和書 |date=1991-08-01 |title=JR気動車客車編成表 '91年版 |chapter=JR年表 |pages=191-192 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-112-0}}</ref>。
** [[12月22日]]:JR東日本の北口に自動改札機を設置し、供用開始{{R|JRR1991}}。
* [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:JR東日本で[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-23|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。
* [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:京成電鉄でICカード「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-02|archivedate=2020-05-01}}</ref>。
* [[2008年]](平成20年)[[3月30日]]:日暮里・舎人ライナー開通に伴い東京都交通局の駅が開業<ref name="100th_588">[[#100th|東京都交通局100年史]]、p.588。</ref><ref group="報道" name="pr20071001">{{Cite press release|和書|url=http://www.kotsu.metro.tokyo.jp/newsevent/news/others/2007/otr_p_200710011_h.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20071009053820/http://www.kotsu.metro.tokyo.jp/newsevent/news/others/2007/otr_p_200710011_h.html|language=日本語|title=日暮里・舎人ライナー開業予定日決定! 〜平成20年3月30日(日)〜|publisher=東京都建設局/東京都都市整備局/東京都地下鉄建設/東京都交通局|date=2007-10-01|accessdate=2020-05-02|archivedate=2007-10-09}}</ref>。
* [[2009年]](平成21年)
** [[6月20日]]:駅ナカ「[[エキュート]]日暮里」が一部オープン<ref group="報道" name="press/20090504">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2009/20090504.pdf|title=変わる日暮里駅、進化するエキナカ「エキュート日暮里」 ~2009年6月20日(土)OPEN~|language=日本語|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道/JR東日本ステーションリテイリング|date=2009-05-12|accessdate=2020-06-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130627054758/http://www.jreast.co.jp/press/2009/20090504.pdf|archivedate=2020-06-27}}</ref>。
** [[10月3日]]:京成線の下り線が高架化される<ref group="報道" name="pr20091002">{{Cite press release|和書|url=http://www.keisei.co.jp/keisei/kouhou/news/21-063.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20091007040457/http://www.keisei.co.jp/keisei/kouhou/news/21-063.pdf|format=PDF|language=日本語|title=成田新高速鉄道開業に合わせ、新たな都心のターミナル駅に生まれ変わります! 日暮里駅下り線新ホームの使用を開始します 10月3日(土)日暮里駅3階のスカイライナー・イブニングライナー専用ホーム並びに一般列車専用ホームが営業開始|publisher=京成電鉄|date=2009-10-02|accessdate=2020-05-04|archivedate=2009-10-07}}</ref><ref group="新聞" name="news20091003">{{Cite news|url=https://www.chibanippo.co.jp/news/local/66015|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200721000042/https://www.chibanippo.co.jp/news/local/66015|title=新ホーム使用開始 京成電鉄・日暮里駅|newspaper=千葉日報|date=2009-10-03|accessdate=2020-07-21|archivedate=2020-07-21}}</ref>。
* [[2013年]](平成25年)[[10月20日]]:隣接していた旧京成線下りホームの跡地を利用して常磐線ホームの拡幅工事が行われる。
* [[2018年]](平成30年)
** [[2月24日]]:京成線1・2番線にて[[ホームドア]]の使用を開始<ref group="報道" name="pr20180226">{{Cite press release|和書|title=さらなる輸送の安全確保のために日暮里駅ホームドアを使用開始しました 2月24日(土)始発時〜|publisher=京成電鉄|date=2018-2-26|url=http://www.keisei.co.jp/information/files/info/20180226_174736616573.pdf|format=PDF|language=日本語|accessdate=2020-05-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180302040124/http://www.keisei.co.jp/information/files/info/20180226_174736616573.pdf|archivedate=2018-03-02}}</ref>。
** [[12月23日]]:京成線0番線にてホームドアの使用を開始<ref group="報道" name="press20181101">{{Cite press release|和書|url=https://www.keisei.co.jp/information/files/info/20181225_153855514291.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210501024534/https://www.keisei.co.jp/information/files/info/20181225_153855514291.pdf|format=PDF|language=日本語|title=より安全にご利用いただくために 日暮里駅上りホームにおいて ホームドアの使用を開始しました 12月23日(日)〜|publisher=京成電鉄|date=2018-12-25|accessdate=2021-05-01|archivedate=2021-05-01}}</ref><ref group="報道" name="pr20181101">{{Cite press release|和書|url=http://www.keisei.co.jp/information/files/info/20181101_180810710345.pdf|title=お客様の安全性向上のために 日暮里駅上りホームにホームドアを設置します 12月23日(日)〜使用開始|language=日本語|date=2018-11-01|accessdate=2018-11-01|publisher=京成電鉄|format=PDF|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181101175801/http://www.keisei.co.jp/information/files/info/20181101_180810710345.pdf|archivedate=2018-11-01}}</ref>。
* [[2019年]]([[令和]]元年)[[9月1日]]:駅ナカ「エキュート日暮里」が全面改装のため、同日より一時休業<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.ecute.jp/resouces/news/348/pdf/2f50d78e898dc3374319d3b34847cc29.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200604025552/https://www.ecute.jp/resouces/news/348/pdf/2f50d78e898dc3374319d3b34847cc29.pdf|title=エキュート日暮里 リニューアル工事のお知らせ|archivedate=2020-06-04|accessdate=2020-06-12|publisher=JR東日本リテールネット|format=PDF|language=日本語}}</ref>。
* [[2020年]](令和2年)[[7月15日]]:駅ナカ「エキュート日暮里」が全面リニューアルされ、営業再開<ref group="報道" name="press/200612_ecutenews25">{{Cite press release|和書|url=https://corp.j-retail.jp/lib/pdf/press_release/9-61-957/200612_ecutenews25.pdf|title=首都圏エリアの新規開業エキナカ商業空間 開業日・出店ショップ決定のお知らせ|format=PDF|publisher=JR東日本リテールネット|date=2020-06-12|accessdate=2020-06-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200612065109/https://corp.j-retail.jp/lib/pdf/press_release/9-61-957/200612_ecutenews25.pdf|archivedate=2020-06-12}}</ref>。
* [[2022年]](令和4年)[[2月26日]]:JR東日本の南改札口に「[[駅集中管理システム|お客様サポートコールシステム]]」導入により業務委託を解除<ref name="outsourcing">{{Cite web|和書|url=https://f06cf697-85c0-41a8-ab3d-c23ef021a7cb.filesusr.com/ugd/57fa70_2f55c1cbc89b49a19c251756274ebc20.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211028150954/https://f06cf697-85c0-41a8-ab3d-c23ef021a7cb.filesusr.com/ugd/57fa70_2f55c1cbc89b49a19c251756274ebc20.pdf|title=「2021年度営業関係施策(その2)」について提案を受ける!!|date=2021-10-26|archivedate=2021-10-28|accessdate=2021-10-28|publisher=輸送サービス労組 東京地本|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。
* [[2023年]](令和5年)[[3月22日]]:京浜東北線(9・12番線)ホームにてホームドアの使用を開始<ref group="報道" name="jreast/press/20221018_to01">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2022/tokyo/20221018_to01.pdf|title=日暮里駅 京浜東北線ホームのホームドア使用開始について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道首都圏本部/東京建設プロジェクトマネジメントオフィス/電気システムインテグレーションオフィス|date=2022-10-18|accessdate=2023-03-08|archiveurl=https://web.archive.org/web/20221018054537/https://www.jreast.co.jp/press/2022/tokyo/20221018_to01.pdf|archivedate=2022-10-18}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|当初は2023年夏頃の使用開始を予定していたが<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/tokyo/20200629_to01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200629051047/https://www.jreast.co.jp/press/2020/tokyo/20200629_to01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=日暮里駅 京浜東北線ホームへのホームドア導入について|publisher=東日本旅客鉄道東京支社|date=2020-06-29|accessdate=2020-06-29|archivedate=2020-06-29}}</ref>、設計・施工方法の見直しに伴い、使用開始予定時期が前倒しされた<ref group="報道" name="jreast/press/20221018_to01" />。}}。
<gallery>
Kanto Great Earth Quake Nippori Station another version.jpg|[[1923年]][[9月1日]]に発生した[[関東大震災]]の避難列車。日暮里駅(移転前)にて。
JR Nippori Station in 1939.jpg|1939年撮影。7・8番線ホームから京成電車のりばが見える
Buying train at Nippori Station.jpg|日暮里駅4番線での終戦後の買い出し列車(1946年、[[影山光洋]]撮影)
JNR Nippori Station accident site1.jpg|日暮里駅構内乗客転落事故の現場(1952年6月18日)
</gallery>
== 駅構造 ==
[[File: Nippori-station112.jpg|thumb|ガムテープ製の書体を使用した日暮里駅乗り換え案内図(2008年2月)]]
JR東日本3面6線、京成電鉄3面2線、日暮里・舎人ライナー1面2線の計7面10線の[[プラットホーム|ホーム]]を持つ。京成下りホームおよび日暮里・舎人ライナーのホームが高架ホームのほかはすべて地上ホームである。[[橋上駅|橋上駅舎]]を有している。[[改札]]は北改札口と南改札口の2か所で、北改札口は「東口」と「西口」の2つの出口がある。なお、南改札口には[[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]が導入されており、終日インターホンによる案内となる<ref name="StationCd=1184_230911">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1184|title=駅の情報(日暮里駅):JR東日本|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-09-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230911121430/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1184|archivedate=2023-09-11}}</ref>。
また、当駅を起点として日暮里・舎人ライナーが開通し、北口の駅前広場上空に既存駅に対して直角に駅舎が設置されるとともに先の[[コンコース]]を介して3社局の駅が連結された。これと並行してJR・京成とも駅改良工事を施工したが、特に京成側は[[国土交通省]]の鉄道駅総合改善事業として[[日暮里駅整備|日暮里駅整備株式会社]]を事業主体とし駅の構造を変えてしまうほどの大規模な工事となり、その進捗によって駅出入口、通路、[[階段]]、改札口などの変更が頻繁に行われ、駅構内では係員が常駐し、肉声や拡声器を使って利用客の案内・誘導を行っていた。
東口では、2007年6月頃から[[ガムテープ]]を使った案内表示がコンコース内外で展開されるようになった。これに伴い案内員も減り、スムーズに人が流れるようになった。なお、案内表示は手作業で製作した独自の[[書体]]を使用している。この書体は、以前の[[新宿駅]]改良工事で乗り換え案内テープを製作した際にも話題となったもので、考案者で当駅の警備担当者でもあった[[佐藤修悦]]の名前を取って「修悦体」と呼ばれている。
=== JR東日本 ===
{{駅情報
|社色 = green
|文字色 =
|駅名 = JR 日暮里駅
|画像 = JR-Nippori-Sta-S-201105.JPG
|pxl = 300
|画像説明 = 南改札口(2011年5月)
|よみがな = にっぽり
|ローマ字 = Nippori<br /> {{駅番号s|black|#ffffff|NPR}}<!--スリーレターコード-->
|電報略号 = ニツ
|所在地 = [[東京都]][[荒川区]][[西日暮里]]二丁目19-1
|座標 = {{coord|35|43|40|N|139|46|15.5|E|region:JP-14_type:railwaystation|display=inline,title|name=JR 日暮里駅}}
|所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
|駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]])
|ホーム = 3面6線<ref>{{Cite book|和書 |title =週刊 JR全駅・全車両基地 |publisher = [[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume =05号 上野駅・日光駅・下館駅ほか92駅 |date =2012-09-09 |page =21 }}</ref>
|開業年月日 = [[1905年]]([[明治]]38年)[[4月1日]]
|廃止年月日 =
|乗車人員 = <ref group="JR" name="JR2022" />92,784
|統計年度 = 2022年
|乗入路線数 = 4
|所属路線1 = {{color|#00b2e5|■}}[[京浜東北線]]{{Refnest|group="*"|name="tohoku-joban"|線路名称上は、常磐線(快速)三河島方は[[常磐線]]、それ以外は東北本線。}}
|前の駅1 = JK 31 [[鶯谷駅|鶯谷]]
|駅間A1 = 1.1
|駅間B1 = 0.5
|次の駅1 = [[西日暮里駅|西日暮里]] JK 33
|駅番号1 = {{駅番号r|JK|32|#00b2e5|1}}<ref group="報道" name="JRE-numbering" />
|キロ程1 = 5.8 km([[東京駅|東京]]起点)<br />[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]から24.5
|所属路線2 = {{color|#9acd32|■}}[[山手線]]<ref group="*" name="tohoku-joban" />
|前の駅2 = JY 06 鶯谷
|駅間A2 = 1.1
|駅間B2 = 0.5
|次の駅2 = 西日暮里 JY 08
|駅番号2 = {{駅番号r|JY|07|#9acd32|1}}<ref group="報道" name="JRE-numbering" />
|キロ程2 = 5.8
|起点駅2 = 東京
|所属路線3 = [[東北本線]]尾久支線<ref group="*" name="tohoku-joban" />{{Refnest|group="*"|[[宇都宮線]]・[[高崎線]]が走行(ただし、ホームがないため停車しない)。}}
|前の駅3 = JU 02 {{Refnest|group="*"|name="ueno"|全列車が上野方面に乗り入れ。}}[[上野駅|上野]]
|駅間A3 = 2.2
|駅間B3 = 2.6
|次の駅3 = [[尾久駅|尾久]] JU 03
|キロ程3 = 0.0 km(日暮里起点)<br />東京から5.8
|起点駅3 =
|所属路線4 = {{color|#00b261|■}}{{color|#3333ff|■}}[[常磐快速線|常磐線(快速)]]<ref group="*" name="tohoku-joban" />
|前の駅4 = JJ 01 <ref group="*" name="ueno" />上野
|駅間A4 = 2.2
|駅間B4 = 1.2
|次の駅4 = [[三河島駅|三河島]] JJ 03
|駅番号4 = {{駅番号r|JJ|02|#00b261|1}}<ref group="報道" name="JRE-numbering" />
|キロ程4 = 0.0 km(日暮里起点)<br />上野から2.2
|起点駅4 =
|乗換 =
|備考 = {{Plainlist|
* [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]])
* [[みどりの窓口]] 有
* [[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]導入駅{{Refnest|group="*"|南改札口に導入<ref name="StationCd=1184_230911" />。}}<ref name="StationCd=1184_230911" />
* [[File:JR area YAMA.svg|15px|山]][[File:JR area KU.svg|15px|区]] [[東京山手線内]]・[[特定都区市内|東京都区内]]駅}}
|備考全幅 = {{Reflist|group="*"}}
}}
3面6線の[[島式ホーム]]と線路、また4本の通過線を持つ地上駅で、[[橋上駅|橋上駅舎]]を有する。
駅改良工事によって北口コンコース周辺の駅上部に人工地盤が建設され、コンコースが大幅に拡幅された。これにより改札口や通路が広げられ、エスカレーターやエレベーターなどのバリアフリー設備も完備した。当初予定していた改良工事はこれで終了となるはずであったが、一つ上野寄りにある中央連絡通路までコンコースを広げることが決定し、今後、新たな人工地盤の建設工事が開始される予定である。一時、2014年のJRのファクトシートで日暮里駅開発の記載がなくなったものの、再び2016年6月に発表された「駅改良工事計画について」にて駅改良を計画中の駅として日暮里駅が記載された。
* 2008年[[3月30日]]、「[[エキュート]]」としては4箇所目の駅ナカ施設「'''エキュート日暮里'''」が一部でオープンし、「[[リブロ|ブックセンターリブロ]]」が開店(現在は閉店)、また同年[[7月22日]]にはベーカリー&スイーツショップ「東京バックハウス」が開店(同)した。その後、新設した人工地盤上にも店舗を展開する計画であったが、コンコースのさらなる拡張が決定したため、まずは工事に干渉しない範囲に規模を縮小した上で2009年[[6月20日]]にスイーツ、惣菜、フラワーショップなど新規に15店舗が暫定的に開店した<ref group="報道" name="press/20090504" />。約10ヶ月にわたる改装工事を経て2020年7月15日に再オープンした<ref group="報道" name="press/200612_ecutenews25" />。今後、コンコースの拡張にあわせてエキュートも拡大する予定である。なお、駅改良工事以前は構内に中華料理・カフェ・花屋などの店舗があった。
* バリアフリー関連では各ホームにつながるエスカレーターとエレベーターを設置。2007年6月から12月にかけては改札口周辺を改良するため、[[自動改札機]]・[[自動券売機]]・[[自動精算機]]および[[みどりの窓口]]を暫定的に南(従来のコンコース内)へ移動させた。この場所は従来の北口通路を塞ぐ位置だったため、工事期間中はコンコース内の[[動線]]が[[迷路]]状に無理矢理つながっている状態で複雑になり、さらにコンコース全体の床面も20 [[センチメートル|cm]]ほど嵩上げしたため段差やスロープがあちこちにある状態になっていた。
* 旧来は北側連絡通路と中央連絡通路にそれぞれJRと京成の乗り換え改札口があったが、同年[[7月14日]]に新しい人工地盤の上に乗り換え改札が新設されたことに伴い、北口通路と中央通路がつながった。これにより出口がなかった中央連絡通路から北口改札へ抜けることが可能となった。
当駅は利用者数に対してホーム幅が狭いため、特に朝夕の[[ラッシュ時]]は大変な混雑となる。出口や乗り換えのための通路が4本もあり、そこにつながる階段およびエスカレーターの数は、ホーム1本当たりで考えると[[東京駅|東京]]・[[上野駅|上野]]・[[池袋駅|池袋]]・[[新宿駅|新宿]]などの他の主要駅より多い。2013年10月に京成線下りホーム高架化により発生した空きスペースを利用して常磐線ホームの拡幅工事を実施した。
==== のりば ====
<!--方面表記はJR東日本の「駅構内図」の記載に準拠-->
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先
|-
!rowspan="2"|3
|[[File:JR JJ line symbol.svg|15px|JJ]] 常磐線(快速)
|rowspan="2" style="text-align:center;"|上り
|rowspan="2"|[[上野駅|上野]]・[[東京駅|東京]]・[[品川駅|品川]]方面
|-
|[[File:JR JJ line symbol.svg|15px|JJ]] 上野東京ライン
|-
!rowspan="2"|4
|[[File:JR JJ line symbol.svg|15px|JJ]] 常磐線(快速)
|rowspan="2" style="text-align:center;"|下り
|rowspan="2"|[[北千住駅|北千住]]・[[松戸駅|松戸]]・[[取手駅|取手]]・[[土浦駅|土浦]]・[[水戸駅|水戸]]・[[成田駅|成田]]方面
|-
|{{Color|#00b261|■}} [[成田線]]
|-
!9
|[[File:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] 京浜東北線
|style="text-align:center;"|南行
|上野・東京・品川・[[横浜駅|横浜]]方面
|-
!10
|rowspan="2"|[[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] 山手線
|style="text-align:center;"|外回り
|上野・東京・品川・[[目黒駅|目黒]]方面
|-
!11
|style="text-align:center;"|内回り
|[[池袋駅|池袋]]・[[新宿駅|新宿]]・[[渋谷駅|渋谷]]方面
|-
!12
|[[File:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] 京浜東北線
|style="text-align:center;"|北行
|[[田端駅|田端]]・[[赤羽駅|赤羽]]・[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]方面
|}
(出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/1184.html JR東日本:駅構内図])
* 5 - 8番線は常磐線ホームと山手線・京浜東北線ホームの間を通過する東北本線(宇都宮線・高崎線)<!--線路名称を優先する-->の線路に振られる形で欠番となっている。
*: かつては東北本線にもホームがあったが、[[太平洋戦争]]前の時点で停車する列車はほとんどなく、太平洋戦争後には全列車が通過となった。屋根もあったが、太平洋戦争中に金属回収の為撤去された。
*: その後も、列車ダイヤの乱れや多客時の[[臨時列車]]運転時には当駅に臨時停車して客扱いすることもあったが、[[東北新幹線]]の建設が決まると、[[1977年]]に当駅付近で地下入口の線路用地確保のためホーム撤去を行い、線路を常磐線寄りに詰めて移動した結果、5 - 8番線が欠番(通過線)になった。
*: なお、ホーム現存時代から現在まで、5番線は上野駅発着基準で高架ホーム(5 - 9番線)着の上り列車、6番線は地平ホーム(13 - 17番線)着の上り列車、7番線は地平ホーム発の下り列車、8番線は高架ホーム発の下り列車が使用しており、この[[複々線]]は上野駅から[[尾久駅]]手前まで続いている。
*: [[1975年]]頃までは主に[[秋葉原駅|秋葉原貨物駅]]との連絡用に、常磐線ホームの[[三河島駅]]寄りから分岐して[[田端信号場駅|田端操駅]]に至る単線の連絡線があった<ref>{{Cite_journal|和書||title=昨日・今日・明日 東京 - 上野回送線|author=吉江一雄|date=1973-05|publisher=交友社|journal=鉄道ファン|issue=145|page=29}} - 当時の東京都心国鉄線の配線図が掲載されている。</ref>。
* 日中の京浜東北線は全電車が快速となり、当駅を通過する。
* 線路間に古[[軌条|レール]]を利用した昭和初期以来の構造物が一部残っている。
==== バリアフリー設備 ====
* [[エスカレーター]]:南口・北口 - 山手線・京浜東北線、常磐線ホーム
* [[エレベーター]]:北口 - 山手線・京浜東北線、常磐線ホーム
* [[多機能トイレ]]
<gallery>
JR Nippori Station North Gates.jpg|北改札口(2019年6月)
JR Nippori Station South Gates.jpg|南改札口(2019年6月)
Nippori-STA North.jpg|北口(2021年7月)
Nippori-STA West.jpg|西口(2021年7月)
Nippori-Sta-JR-Concourse.JPG|北改札口付近<br />(2016年6月)
JR Nippori Station Platform 3・4.jpg|3・4番線(常磐線)ホーム<br />(2019年6月)
Nippori Station 01.jpg|5 - 8番線は全列車が通過となる<br />(2009年11月)
JR Nippori Station Platform 9・10.jpg|9・10番線(山手・京浜東北線)ホーム<br />(2019年6月)
JR Nippori Station Platform 11・12.jpg|11・12番線(山手・京浜東北線)ホーム<br />(2019年6月)
</gallery>
{{-}}
=== 京成電鉄 ===
{{出典の明記|section=1|date=2018年3月}}
{{駅情報
|社色 = #1155cc
|文字色 =
|駅名 = 京成 日暮里駅
|画像 = Nippori-STA Keisei-Transfer.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = JR側から見た乗り換え改札口<br />(2021年7月)
|よみがな = にっぽり
|ローマ字 = Nippori
|副駅名 =
|前の駅 = KS01 [[京成上野駅|京成上野]]
|駅間A= 2.1
|駅間B = 1.3
|次の駅 = [[新三河島駅|新三河島]] KS03
|電報略号 =
|駅番号 = {{駅番号r|KS|02|#005aaa|4||#005aaa}}<ref group="報道" name="keisei/20100625" />
|所在地 = [[東京都]][[荒川区]][[西日暮里]]二丁目19-1
|座標 = {{coord|35|43|41.2|N|139|46|16.5|E|region:JP-14_type:railwaystation|name=京成 日暮里駅}}
|所属事業者 = [[京成電鉄]]
|所属路線 = {{color|#005aaa|●}}[[京成本線|本線]]
|キロ程 = 2.1
|起点駅 = [[京成上野駅|京成上野]]
|駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]])・[[高架駅]]
|ホーム = {{Plainlist|
* 1面1線(地上)
* 2面1線(高架)}}
|開業年月日 = [[1931年]]([[昭和]]6年)[[12月19日]]
|廃止年月日 =
|乗降人員 = <ref group="京成" name="keisei2022" />83,830
|統計年度 = 2022年
|乗換 =
|備考 =
}}
3面2線のホームを持ち、1階が[[地上駅|地上]]にある上りホーム(1面1線)、2階がコンコース、3階が[[高架駅|高架]]にある下りホーム(2面1線)の三層構造である。[[橋上駅|橋上駅舎]]を有している、駅長配置駅。改札口は北口と南口がある。そのほか、京成とJRの間には中間改札があり、構内乗り換えが可能である。
京成本線における都心のターミナル駅となっていて、「[[スカイライナー]]」を含むすべての列車が停車する。京成本線の本来のターミナルは隣の京成上野駅だが、その位置がJR・[[東京地下鉄]](東京メトロ)上野駅より南西に離れており、当駅を利用する旅客は京成上野駅より多い。そのため、京成電鉄は当駅を京成上野駅と並ぶターミナル駅と位置付けている。なお、当駅は京成電鉄最西端の駅でもある。
[[2010年]]の成田スカイアクセスの開業に合わせてJR側と同時進行で駅全体の改良工事も行われ、従来は上り線・下り線で共有していた1階ホームを上り線専用ホームとし、下り線は新設の3階専用ホームへ移設して3層構造の駅となり、同時に南側にも改札口が新設された<ref group="報道" name="pr20091002"/><ref group="新聞" name="news20091003"/>。さらに下り線(京成成田方面)は線路を挟んで左右に「スカイライナー」「シティライナー」「イブニングライナー」用ホーム(1番線)と一般列車用ホーム(2番線)を有する相対式2面1線ホームとし、ライナー客と一般客が分離された<ref group="報道" name="pr20091002"/><ref group="新聞" name="news20091003"/>。1階の上り線専用ホームは0番線となり、2階コンコースなども改装された。
2018年2月には、始発より1・2番線(成田空港方面)で[[ホームドア]]が使用開始された<ref group="報道" name="pr20180226"/>。0番線(京成上野方面)においても、2018年12月にホームドアが使用開始されている<ref group="報道" name="press20181101" /><ref group="報道" name="pr20181101"/><ref group="報道">{{Cite press release|和書|title=日暮里駅上りホーム(1階ホーム)にホームドアを設置します |publisher=京成電鉄 |date=2018年3月29日 |url=http://www.keisei.co.jp/information/files/info/20180329_174120766604.pdf |format=PDF |language=日本語 |accessdate=2018年4月1日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180401135506/http://www.keisei.co.jp/information/files/info/20180329_174120766604.pdf |archivedate=2018年4月1日}}</ref>。以前はホームドアと列車の扉の開閉が連動せず、車掌がホームにある開閉ボタンを押してホームドアの開閉を操作していたが、現在は列車のドアに連動して自動開閉するシステムになっている。
昭和40年代までは当駅折り返しの列車も設定され、[[引き上げ線]]もあったが、京成上野駅の改良工事竣工に伴い全列車が同駅発着になり、設備は撤去された。
==== のりば ====
<!--方面表記は、京成電鉄の「駅構内図」の記載に準拠-->
{| class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!! nowrap="nowrap"|方向!!種別!!行先!!備考
|-
! 0
|[[File:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] 京成本線
|style="text-align:center;"|上り
|
|[[京成上野駅|京成上野]]方面
|
|-
!rowspan="2"| 1
|[[File:Number prefix SkyAccess.svg|15px|KS]] 成田スカイアクセス線
|rowspan="4" style="text-align:center;"|下り
|「[[スカイライナー]]」
|[[成田空港駅|成田空港]]方面
|rowspan="4"|線路を共有
|-
|[[File:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] 京成本線
|「[[スカイライナー|シティライナー]]」(不定期)<br />「[[イブニングライナー]]」
|[[青砥駅|青砥]]・[[京成船橋駅|京成船橋]]・[[京成成田駅|京成成田]]・成田空港方面
|-
!rowspan="2"|2
|[[File:Number prefix SkyAccess.svg|15px|KS]] 成田スカイアクセス線
|アクセス特急
|成田空港方面
|-
|[[File:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] 京成本線
|一般電車
|青砥・[[京成高砂駅|京成高砂]]・京成船橋・京成成田・成田空港・[[京成千葉駅|京成千葉]]方面
|}
(出典:[https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/accessj/nippori.php 京成電鉄:駅構内図])
* 当駅 - 京成上野駅間の乗車に関して「スカイライナー」「臨時ライナー」「シティライナー」「モーニングライナー」の利用はできない。また、下りスカイライナーについては青砥駅での降車はできない。
==== バリアフリー設備 ====
* エスカレーター、エレベーター:北口・中央連絡口コンコース - ホーム
*: 0番線(1階)とコンコース(2階)の間のエスカレーターは1階→2階のものしかなく、階段は京成上野方に1つ存在するのみであるため、当駅から京成上野方面に向かう場合は、その階段を使用するかエレベーターを使用する必要がある。
* 多機能トイレ
*: 2007年7月までは北口コンコース - ホーム間のエレベーターもあった。
<gallery>
ファイル:Keisei-Nippori-STA Home-0.jpg|0番線ホーム(2021年7月)
ファイル:Keisei-Nippori-STA Home-2.jpg|1・2番線ホーム(2021年7月)
ファイル:Keisei-Nippori-STA North-Gate.jpg|北改札口(2021年7月)
</gallery>
=== 東京都交通局 ===
{{駅情報
|社色 = #009f40
|文字色 =
|駅名 = 東京都交通局 日暮里駅
|画像 = Nippori Station of Nippori-Toneri Liner 1.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 駅舎(2009年2月)
|よみがな = にっぽり
|ローマ字 = Nippori
|副駅名 =
|隣の駅 =
|前の駅 =
|駅間A =
|駅間B = 0.7
|次の駅 = [[西日暮里駅|西日暮里]] NT 02
|電報略号 = 里(駅名略称)
|駅番号 = {{駅番号r|NT|01|#69b444|7|#d53a77}}
|所在地 = [[東京都]][[荒川区]][[西日暮里]]二丁目19-2
|座標 = {{coord|35|43|44|N|139|46|16.7|E|region:JP-14_type:railwaystation|name=東京都交通局 日暮里駅}}
|所属事業者 = [[東京都交通局]]
|所属路線 = [[東京都交通局日暮里・舎人ライナー|日暮里・舎人ライナー]]
|キロ程 = 0.0
|起点駅 = 日暮里
|駅構造 = [[高架駅]]<ref name="100th_586" />
|ホーム = 1面2線<ref name="100th_586" />
|開業年月日 = [[2008年]]([[平成]]20年)[[3月30日]]<ref name="100th_588" /><ref group="報道" name="pr20071001"/>
|廃止年月日 =
|乗降人員 = <ref group="都交" name="toei2022" />48,252
|統計年度 = 2022年
|乗換 =
|備考 =
}}
[[頭端式ホーム]]1面2線を有する高架駅<ref name="100th_586">[[#100th|東京都交通局100年史]]、p.586。</ref>。日暮里・舎人ライナーのほとんどの駅は[[東京都道・埼玉県道58号台東川口線|尾久橋通り]]上にあるが、当駅は駅前広場に隣接して他線のホームとは直角に配置されている。また当駅には、ホーム外側に住宅などへのプライバシーを保護するための白い壁が設置されていない。
駅を出てすぐの場所に半径30 mの急カーブがある。
日暮里・舎人ライナーでは唯一の[[定期乗車券|定期券]]売り場が2階に設置されている。改札口は2階と3階に各1か所ある。
==== のりば ====
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/nippori_toneri/timetable/N01DD.html |title=日暮里 時刻表 |publisher=東京都交通局 |accessdate=2023-06-07}}</ref>
|-
!1・2
|[[File:Nippori-Toneri Liner symbol.svg|15px|NT]] 日暮里・舎人ライナー
|[[見沼代親水公園駅|見沼代親水公園]]方面
|}
==== バリアフリー設備 ====
* エスカレーター
* 多機能トイレ
* エレベーター
<gallery>
NTL-Nippori-STA Gate.jpg|3階改札口(2021年7月)
NTL-Nippori-STA Home.jpg|ホーム(2021年7月)
</gallery>
{{-}}
== 利用状況 ==
* '''JR東日本''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''92,784人'''である<ref group="JR" name="JR2022" />。
*: 同社の駅の中では[[戸塚駅]]に次ぐ第33位。2007年度までは8万人程度で推移していたが、日暮里・舎人ライナーの開業を機に増加に転じ、2013年度に10万人を上回った。
* '''京成電鉄''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''83,830人'''である<ref group="京成" name="keisei2022" />。
*: 京成線全69駅中[[押上駅]]、[[京成高砂駅]]に次いで第3位であるが、押上駅および京成高砂駅は連絡人員を含む値であり実際の利用客数より多く計上されるため、京成電鉄の駅として最も利用客の多い駅ともいえる。
* '''東京都交通局''' - 2021年度の1日平均'''乗降'''人員は'''48,252人'''(乗車人員:24,192人、降車人員:24,060人)である<ref group="都交" name="toei2022" />。
*: 日暮里・舎人ライナーの駅では第1位。
=== 年度別1日平均乗降人員 ===
各年度の1日平均'''乗降'''人員は下表の通りである(JRを除く)。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗降人員<ref group="乗降データ" name="arakawa">[https://www.city.arakawa.tokyo.jp/kusei/gaiyo/suji.html 数字で表す荒川区(区勢概要)] - 荒川区</ref><ref group="乗降データ" name="train-media">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref>
!rowspan=2|年度
!colspan=2|京成電鉄
!colspan=2|東京都交通局
|-
!1日平均<br />乗降人員!!増加率
!1日平均<br />乗降人員!!増加率
|-
|2002年(平成14年)
|85,188||
|rowspan=5 colspan=2 style="text-align:center;"|未開業
|-
|2003年(平成15年)
|84,222||−1.1%
|-
|2004年(平成16年)
|85,880||2.0%
|-
|2005年(平成17年)
|85,457||−0.5%
|-
|2006年(平成18年)
|84,802||−0.8%
|-
|2007年(平成19年)
|87,756||3.5%
|<ref group="備考" name="toei">2008年3月30日開業。</ref>||
|-
|2008年(平成20年)
|89,404||1.9%
|29,568||
|-
|2009年(平成21年)
|90,211||0.9%
|33,183||12.2%
|-
|2010年(平成22年)
|92,563||2.6%
|35,855||8.1%
|-
|2011年(平成23年)
|92,006||−0.6%
|37,137||3.6%
|-
|2012年(平成24年)
|94,853||3.1%
|38,347||3.3%
|-
|2013年(平成25年)
|96,428||1.7%
|40,840||6.5%
|-
|2014年(平成26年)
|95,301||−1.2%
|42,710||4.6%
|-
|2015年(平成27年)
|98,125||3.0%
|45,496||6.5%
|-
|2016年(平成28年)
|101,154||3.1%
|48,091||5.7%
|-
|2017年(平成29年)
|103,528||2.3%
|51,496||7.1%
|-
|2018年(平成30年)
|105,128||1.5%
|53,093||3.1%
|-
|2019年(令和元年)
|103,670||−1.4%
|54,253||2.2%
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|65,160||−37.1%
|42,113||−22.4%
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|71,278||9.4%
|44,135||4.8%
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="京成" name="keisei2022" />83,830
|17.6%
|<ref group="都交" name="toei2022" />48,252
|9.3%
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(1900年代 - 1930年代) ===
各年度の1日平均'''乗車'''人員は下表の通りである。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員
!年度
!日本鉄道 /<br />国鉄
!出典
|-
|1905年(明治38年)
|<ref group="備考">1905年4月1日開業。</ref>202
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806585/196?viewMode= 明治38年]</ref>
|-
|1907年(明治40年)
|737
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806587/191?viewMode= 明治40年]</ref>
|-
|1908年(明治41年)
|915
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806589/103?viewMode= 明治41年]</ref>
|-
|1909年(明治42年)
|991
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806591/106?viewMode= 明治42年]</ref>
|-
|1911年(明治44年)
|1,945
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972667/131?viewMode= 明治44年]</ref>
|-
|1912年(大正元年)
|2,317
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972670/134?viewMode= 大正元年]</ref>
|-
|1913年(大正{{0}}2年)
|2,401
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972675/127?viewMode= 大正2年]</ref>
|-
|1914年(大正{{0}}3年)
|2,645
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972677/386?viewMode= 大正3年]</ref>
|-
|1915年(大正{{0}}4年)
|2,664
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972678/348?viewMode= 大正4年]</ref>
|-
|1916年(大正{{0}}5年)
|3,234
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972679/383?viewMode= 大正5年]</ref>
|-
|1919年(大正{{0}}8年)
|3,947
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972680/266?viewMode= 大正8年]</ref>
|-
|1920年(大正{{0}}9年)
|4,734
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972681/302?viewMode= 大正10年]</ref>
|-
|1922年(大正11年)
|6,521
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972682/303?viewMode= 大正11年]</ref>
|-
|1923年(大正12年)
|9,161
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972683/294?viewMode= 大正12年]</ref>
|-
|1924年(大正13年)
|9,222
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972684/292?viewMode= 大正13年]</ref>
|-
|1925年(大正14年)
|9,295
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448121/326?viewMode= 大正14年]</ref>
|-
|1926年(昭和元年)
|12,056
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448138/316?viewMode= 昭和元年]</ref>
|-
|1927年(昭和{{0}}2年)
|13,635
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448164/314?viewMode= 昭和2年]</ref>
|-
|1928年(昭和{{0}}3年)
|15,543
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448188/346?viewMode= 昭和3年]</ref>
|-
|1929年(昭和{{0}}4年)
|15,180
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448218/334?viewMode= 昭和4年]</ref>
|-
|1930年(昭和{{0}}5年)
|13,650
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448245/340?viewMode= 昭和5年]</ref>
|-
|1931年(昭和{{0}}6年)
|13,658
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448278/343?viewMode= 昭和6年]</ref>
|-
|1932年(昭和{{0}}7年)
|17,629
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448259/316?viewMode= 昭和7年]</ref>
|-
|1933年(昭和{{0}}8年)
|15,014
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446322/334?viewMode= 昭和8年]</ref>
|-
|1934年(昭和{{0}}9年)
|15,102
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446161/342?viewMode= 昭和9年]</ref>
|-
|1935年(昭和10年)
|15,552
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446276/340?viewMode= 昭和10年]</ref>
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(1953年 - 2000年) ===
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員
!年度
!国鉄 /<br />JR東日本
!京成電鉄
!出典
|-
|1953年(昭和28年)
|24,785
|
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1953/tn53qa0009.pdf 昭和28年]}} - 13ページ</ref>
|-
|1954年(昭和29年)
|25,010
|
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1954/tn54qa0009.pdf 昭和29年]}} - 10ページ</ref>
|-
|1955年(昭和30年)
|26,340
|
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1955/tn55qa0009.pdf 昭和30年]}} - 10ページ</ref>
|-
|1956年(昭和31年)
|28,652
|32,529
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1956/tn56qa0009.pdf 昭和31年]}}</ref>
|-
|1957年(昭和32年)
|30,466
|36,719
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1957/tn57qa0009.pdf 昭和32年]}}</ref>
|-
|1958年(昭和33年)
|32,881
|40,322
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1958/tn58qa0009.pdf 昭和33年]}}</ref>
|-
|1959年(昭和34年)
|35,043
|42,163
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1959/tn59qyti0510u.htm 昭和34年]</ref>
|-
|1960年(昭和35年)
|36,951
|45,109
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1960/tn60qyti0510u.htm 昭和35年]</ref>
|-
|1961年(昭和36年)
|37,960
|48,169
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1961/tn61qyti0510u.htm 昭和36年]</ref>
|-
|1962年(昭和37年)
|40,719
|52,605
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1962/tn62qyti0510u.htm 昭和37年]</ref>
|-
|1963年(昭和38年)
|43,381
|53,928
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1963/tn63qyti0510u.htm 昭和38年]</ref>
|-
|1964年(昭和39年)
|43,073
|55,444
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1964/tn64qyti0510u.htm 昭和39年]</ref>
|-
|1965年(昭和40年)
|45,182
|56,479
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1965/tn65qyti0510u.htm 昭和40年]</ref>
|-
|1966年(昭和41年)
|45,246
|54,988
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1966/tn66qyti0510u.htm 昭和41年]</ref>
|-
|1967年(昭和42年)
|45,800
|56,652
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1967/tn67qyti0510u.htm 昭和42年]</ref>
|-
|1968年(昭和43年)
|46,131
|56,247
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1968/tn68qyti0510u.htm 昭和43年]</ref>
|-
|1969年(昭和44年)
|43,419
|54,057
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1969/tn69qyti0510u.htm 昭和44年]</ref>
|-
|1970年(昭和45年)
|38,647
|50,863
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1970/tn70qyti0510u.htm 昭和45年]</ref>
|-
|1971年(昭和46年)
|79,989
|45,984
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1971/tn71qyti0510u.htm 昭和46年]</ref>
|-
|1972年(昭和47年)
|74,449
|43,855
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1972/tn72qyti0510u.htm 昭和47年]</ref>
|-
|1973年(昭和48年)
|75,290
|47,652
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1973/tn73qyti0510u.htm 昭和48年]</ref>
|-
|1974年(昭和49年)
|73,803
|43,126
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1974/tn74qyti0510u.htm 昭和49年]</ref>
|-
|1975年(昭和50年)
|69,044
|41,303
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1975/tn75qyti0510u.htm 昭和50年]</ref>
|-
|1976年(昭和51年)
|66,205
|38,597
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1976/tn76qyti0510u.htm 昭和51年]</ref>
|-
|1977年(昭和52年)
|59,858
|37,153
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1977/tn77qyti0510u.htm 昭和52年]</ref>
|-
|1978年(昭和53年)
|59,638
|37,710
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1978/tn78qyti0510u.htm 昭和53年]</ref>
|-
|1979年(昭和54年)
|57,383
|36,314
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1979/tn79qyti0510u.htm 昭和54年]</ref>
|-
|1980年(昭和55年)
|55,896
|35,658
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1980/tn80qyti0510u.htm 昭和55年]</ref>
|-
|1981年(昭和56年)
|55,189
|34,923
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1981/tn81qyti0510u.htm 昭和56年]</ref>
|-
|1982年(昭和57年)
|53,767
|34,274
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1982/tn82qyti0510u.htm 昭和57年]</ref>
|-
|1983年(昭和58年)
|54,183
|33,631
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1983/tn83qyti0510u.htm 昭和58年]</ref>
|-
|1984年(昭和59年)
|54,162
|33,033
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1984/tn84qyti0510u.htm 昭和59年]</ref>
|-
|1985年(昭和60年)
|55,129
|33,995
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1985/tn85qyti0510u.htm 昭和60年]</ref>
|-
|1986年(昭和61年)
|57,219
|34,975
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1986/tn86qyti0510u.htm 昭和61年]</ref>
|-
|1987年(昭和62年)
|58,893
|35,784
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1987/tn87qyti0510u.htm 昭和62年]</ref>
|-
|1988年(昭和63年)
|65,381
|36,932
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1988/tn88qyti0510u.htm 昭和63年]</ref>
|-
|1989年(平成元年)
|67,085
|37,172
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm 平成元年]</ref>
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|69,619
|37,814
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 平成2年]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|73,123
|41,000
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 平成3年]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|74,973
|42,652
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 平成4年]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|76,726
|43,362
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 平成5年]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|77,260
|43,400
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 平成6年]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|77,806
|44,260
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 平成7年]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|78,627
|44,595
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 平成8年]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|77,510
|44,542
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 平成9年]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|76,811
|43,636
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 平成10年]}}</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/1999.html 各駅の乗車人員(1999年度)] - JR東日本</ref>76,998
|43,358
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 平成11年]}}</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>77,469
|43,375
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 平成12年]</ref>
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) ===
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="乗降データ" name="arakawa" />
!年度!!JR東日本!!京成電鉄!!東京都交通局!!出典
|-
|2001年(平成13年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>77,823
|42,584
|rowspan=6 style="text-align:center"|未開業
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 平成13年]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>79,852
|42,521
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 平成14年]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>79,694
|41,552
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 平成15年]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>79,000
|41,795
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 平成16年]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005.html 各駅の乗車人員(2005年度)]- JR東日本</ref>78,921
|41,611
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 平成17年]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>78,653
|41,222
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 平成18年]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>81,444
|42,585
|{{Refnest|group="備考"|2008年3月30日開業。開業日から同年3月31日までの計2日間を集計したデータ<ref name="100th_722">[[#100th|東京都交通局100年史]]、p.722。</ref>。}}23,531<!--東京都交通局100年史のp.722から記載の数値-->
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 平成19年]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>90,637
|43,468
|15,010
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 平成20年]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>94,429
|43,964
|16,580
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 平成21年]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>96,633
|43,953
|17,920
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 平成22年]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>96,747
|44,675
|18,576
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 平成23年]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>99,875
|46,088
|19,175
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 平成24年]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>102,817
|46,983
|20,421
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 平成25年]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>103,809
|46,507
|21,365
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 平成26年]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>107,399
|47,661
|22,758
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 平成27年]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>110,529
|49,096
|24,048
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 平成28年]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>113,468
|50,252
|25,745
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 平成29年]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>115,092
|51,010
|26,569
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 平成30年]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>114,420
|50,138
|27,147
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 平成31年・令和元年]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>77,308
|32,131
|21,062
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>82,115
|35,151
|22,122
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="JR" name="JR2022">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>92,784
|<ref group="京成" name="keisei2022">{{Cite report |url=https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2022_ks_joukou.pdf |title=2022年度 駅別1日平均乗降人員 |website= |publisher=京成電鉄 |format=pdf |accessdate=2023-11-05 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230618165518/https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2022_ks_joukou.pdf |archivedate=2023-06-18 }}</ref>40,819
|<ref group="都交" name="toei2022">{{Cite report |url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/statistics/pdf/statistics_2022_06.pdf |title=令和4年度 運輸統計年報 |website= |publisher=東京都交通局 |format=pdf |accessdate=2023-11-05 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20231104233538/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/statistics/pdf/statistics_2022_06.pdf |archivedate=2023-11-05 }}</ref>24,192
|
|}
;備考
{{Reflist|group="備考"}}
== 駅周辺 ==
[[File:Ota Doukan statue in front of Nippori Station.jpg|thumb|東口にある太田道灌の銅像(2008年5月)]]
{{See also|西日暮里|東日暮里|谷中 (台東区)|根岸 (台東区)}}
駅の西側には昔ながらの[[商店街]]「[[谷中銀座商店街|谷中銀座]]」や[[谷中霊園]]がある。反対に駅の東側では駅前[[都市再開発|再開発]]が行われている。南東側には[[繊維]][[問屋街]]がある。
駅東口付近の[[バスターミナル]]には、[[太田道灌]]の騎馬姿の[[銅像]]がある。
かつては駅前に[[駄菓子]]問屋が集まった一角があったが、日暮里・舎人ライナーの乗り入れに伴う駅前再開発で建設された[[サンマークシティ日暮里]]があり、山手線日暮里駅直結の3棟の高層マンションおよび付属施設で構成され、3棟ともに居住・商業施設が一体となっている。
[[駄菓子屋]]が「ステーションガーデンタワー」に入店したほか、日暮里に本部を置く[[エドウイン]]も入店した。
駅北側は短い区間ながらJR線の6複線と京成線の上り線の計13線がほぼ同一平面で併走し、日本最多の併走区間となっている{{Refnest|group="注釈"|2009年10月3日以前は京成線の下り線も同一平面にあったため、14線(7複線)の併走が見られた。}}。この区間では1日当たり約2500本もの列車が通過する。併走の様子は北口の跨線橋である下御隠殿橋(しもごいんでんばし)から見ることができ、鉄道ファンや観光客に人気がある。橋にある見学用スペースを、荒川区役所などは「トレインミュージアム」と呼んでいる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.arakawa.tokyo.jp/a022/shisetsuannai/kankouspot/nippori006.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210808030451/https://www.city.arakawa.tokyo.jp/a022/shisetsuannai/kankouspot/nippori006.html|title=下御隠殿橋(しもごいんでんばし)・トレインミュージアム|archivedate=2021-08-08|accessdate=2021-08-08|publisher=荒川区|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref><ref group="新聞">{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20170528/ddl/k13/100/002000c|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170825070407/https://mainichi.jp/articles/20170528/ddl/k13/100/002000c|title=東京・荒川 トレインミュージアム 1日に列車2500本通過/東京|newspaper=毎日新聞|date=2017-05-28|accessdate=2020-06-20|archivedate=2017-08-25}}</ref>。北改札口の西口駅舎には当駅を走るJR車両のイラストが展示されていて、下御隠殿橋には列車を模したレリーフが飾られている。
南口側は新幹線が地下に潜り、京成線がJR線を跨ぎ越すため、5複線になる。
=== 西口 ===
* [[谷中銀座商店街|谷中銀座]]
* [[夕やけだんだん]]
* [[朝倉彫塑館]]
* [[富士見坂]]
* [[岡倉天心]]記念公園
* 台東区谷中コミュニティセンター
* 荒川区諏訪台ひろば館
* [[東京芸術大学]]
* [[東京都立上野高等学校]]
* [[東京芸術大学音楽学部附属音楽高等学校]]
=== 東口 ===
* [[サンマークシティ日暮里]] - 3棟のビルからなる
* 荒川区立日暮里図書館
* [[荒川区役所]]日暮里区民事務所
** 荒川区日暮里区民事務所ひろば館
* 日暮里駅前郵便局
* ホテルラングウッド
** 日暮里サニーホール
* [[大藤 (菓子)|大藤]]
== バス路線 ==
<!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。-->
東側駅前にあるロータリーに[[都営バス]]の路線が乗り入れている。停留所名は「'''日暮里駅前'''」である。
* [[都営バス南千住営業所#都08系統(グリーンリバー)|都08(T08)]]:[[錦糸町駅|錦糸町駅前]]行・下谷警察署前行
* [[都営バス南千住営業所#里22系統|里22]]:[[亀戸駅|亀戸駅前]]行・南千住車庫前行
* [[都営バス巣鴨営業所#里48系統|里48]]:[[見沼代親水公園駅|見沼代親水公園駅前]]行・[[西新井大師西駅|江北六丁目団地前]]行
* 里48-2:加賀団地(循環)・加賀行
== その他 ==
* JR日暮里駅のイメージキャラクターは、当時当駅に在籍していたJR社員が谷中のネコをイメージして考案した「にゃっぽり」<ref name="recommendation" />。駅スタンプに用いられ、またエキュート日暮里でグッズも販売されている<ref name="recommendation">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1184|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210427095445/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1184|title=駅の情報(日暮里駅)> 駅長のおすすめ情報|archivedate=2021-04-27|accessdate=2021-04-27|publisher=東日本旅客鉄道|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。
* 常磐線の起点、上野駅の一歩手前ということもあり、戦後はヤミ米の取締りが行われた。[[1951年]]には[[7月10日]]、[[7月11日]]と日暮里駅で2日連続で摘発された[[石岡町]]の女性が新聞記事となっており、摘発の頻度が伺われる<ref group="新聞">青鉛筆『朝日新聞』昭和26年7月12日3面</ref>ほか、[[1955年]]には日暮里駅に到着した長距離列車に[[上野警察署]]員、[[鉄道公安職員|上野鉄道公安室]]署員が乗り込み、上野駅で担ぎ屋を一網打尽にする集中取り締まりも行われていた<ref group="新聞">{{Cite news|title=ヤミ米六百俵押収|newspaper=日本経済新聞|date=1955-01-21|page=3}}</ref>。
=== 運賃計算の特例 ===
日暮里駅周辺には、いくつか運賃計算の特例が設定されている。なお、[[区間外乗車|はみ出して折り返せる]]区間での[[途中下車]]はできない。
# 日暮里駅 - [[赤羽駅]]間については、[[経路特定区間]]となっており、[[尾久駅]]経由(宇都宮線・高崎線)で乗車する場合にも[[王子駅]]経由(京浜東北線)で運賃計算を行う<ref>[https://www.jreast.co.jp/kippu/1101.html 特定区間の運賃計算] 東日本旅客鉄道、2018年7月1日閲覧。</ref>。
# [[三河島駅]] - 日暮里駅 - 西日暮里駅を含むような形で乗車する場合(上記の特例により尾久経由で赤羽以遠を利用する場合、さらには[[東北新幹線]]の上野 - 大宮間を利用する場合も含まれる)には、日暮里駅 - [[東京駅]]間を折り返し乗車できる(グリーン定期券では不可、グリーン定期券以外の定期券では日暮里 - 上野の在来線のみ可)<ref name="特定分岐">[https://www.jreast.co.jp/kippu/1106.html 特定の分岐区間に対する区間外乗車の特例] 東日本旅客鉄道、2018年7月1日閲覧。</ref>。
# 尾久駅と日暮里駅・[[鶯谷駅]]・三河島駅以遠・西日暮里駅以遠を行き来する場合、グリーン定期券以外では日暮里(鶯谷) - 上野間を折り返して乗車できる<ref name="特定分岐" />。
== 隣の駅 ==
; 東日本旅客鉄道(JR東日本)
: [[File:JR JJ line symbol.svg|15px|JJ]] 常磐線(快速)
:* 特急「[[ひたち (列車)|ときわ]]」一部停車駅
:: {{Color|#ff0066|■}}特別快速
::: [[上野駅]] (JJ 01) - '''日暮里駅 (JJ 02)''' - [[北千住駅]] (JJ 05)
:: {{Color|#3333ff|■}}{{Color|#33dd22|■}}快速
::: 上野駅 (JJ 01) - '''日暮里駅 (JJ 02)''' - [[三河島駅]] (JJ 03)
: [[File:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] 京浜東北線
:: {{Color|#ff0066|■}}快速
:::; 通過
:: {{Color|#00b2e5|■}}各駅停車
::: [[鶯谷駅]] (JK 31) - '''日暮里駅 (JK 32)''' - [[西日暮里駅]] (JK 33)
: [[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] 山手線
::: 鶯谷駅 (JY 06) - '''日暮里駅 (JY 07)''' - 西日暮里駅 (JY 08)
; 京成電鉄
: [[File:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] 本線
:* [[スカイライナー|{{Color|#092d67|■}}「スカイライナー」・{{Color|#af3e92|■}}「シティライナー」・{{Color|#5362a8|■}}「モーニングライナー」・{{Color|#5362a8|■}}「イブニングライナー」]]停車駅
:: {{Color|#049c5e|■}}快速特急・{{Color|#ef7a00|■}}アクセス特急・{{Color|#e8334a|■}}特急・{{Color|#21ade5|■}}通勤特急
::: [[京成上野駅]] (KS01) - '''日暮里駅 (KS02)''' - [[青砥駅]] (KS09)
:: {{Color|#ee86a1|■}}快速
::: 京成上野駅 (KS01) - '''日暮里駅 (KS02)''' - [[千住大橋駅]] (KS05)
:: {{Color|#595757|■}}普通
::: 京成上野駅 (KS01) - '''日暮里駅 (KS02)''' - [[新三河島駅]] (KS03)
:* 京成上野方面の次駅は[[1953年]]までは[[寛永寺坂駅]]、[[2004年]]までは[[博物館動物園駅]]。新三河島方面は[[1947年]]までは[[道灌山通駅]]であった。
; 東京都交通局
: [[File:Nippori-Toneri Liner symbol.svg|15px|NT]] 日暮里・舎人ライナー
::: '''日暮里駅 (NT 01)''' - [[西日暮里駅]] (NT 02)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
==== 報道発表資料 ====
{{Reflist|group="報道"|3}}
==== 新聞記事 ====
{{Reflist|group="新聞"}}
==== 利用状況に関する出典 ====
; JR東日本の1999年度以降の乗車人員
{{Reflist|group="JR"|22em}}
; 京成電鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="京成"|3}}
; 東京都交通局の1日平均利用客数
{{Reflist|group="都交"|3}}
; JR・私鉄の統計データ
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; 東京府統計書
{{Reflist|group="東京府統計"|17em}}
; 東京都統計年鑑
{{Reflist|group="東京都統計"|17em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|title=東京都交通局100年史|publisher=[[東京都交通局]]|date=2012-10|ref=100th}}
* {{Cite book|和書|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|author=石野哲(編)|publisher=[[JTB]]|date=1998-10-01|edition=初版|isbn=978-4-533-02980-6|ref = {{sfnref|石野|1998}} }}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Nippori Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[日暮里町|日暮里]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=1184|name=日暮里}}
** [https://www.ecute.jp/nippori/ エキュート日暮里]
* [https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/nippori_toneri/stations/nippori/ 日暮里駅 | 日暮里・舎人ライナー | 東京都交通局]
* [https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/accessj/nippori.php 日暮里駅|電車と駅の情報|京成電鉄]
* [https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/skyliner/jp/traffic/nippori.php 日暮里/駅構内マップ | 成田空港アクセスガイド | スカイライナー/成田空港アクセス | 京成電鉄]
* {{PDFlink|[https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/stationmap/pdf/jp/103.pdf 京成電鉄 日暮里駅]}}
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[[Category:日本の鉄道駅 に|つほり]]
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[[Category:日暮里|につほりえき]]
[[Category:1905年開業の鉄道駅]] | 2003-05-17T12:39:05Z | 2023-12-20T14:04:10Z | false | false | false | [
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8,454 | 鶯谷駅 | 鶯谷駅(うぐいすだにえき)は、東京都台東区根岸一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。東北本線において、東京駅から起算して乗り換えのない(品川駅 - 田端駅間停車駅が同一である山手線・京浜東北線間を除く)最初の単独駅でもある。
乗り入れている路線は、線路名称上は東北本線1路線のみである(詳細は路線記事および鉄道路線の名称参照)が、当駅には電車線を走る京浜東北線電車および山手線電車のみが停車し、旅客案内では「東北(本)線」とは案内されていない。また当駅は、特定都区市内における「東京都区内」および「東京山手線内」に属する。
駅番号は京浜東北線がJK 31、山手線がJY 06である。
JR東日本ステーションサービスが駅業務を受託している上野営業統括センター管理の業務委託駅。島式ホーム2面4線の地上駅である。北側市街地と上野公園を結ぶ陸橋がこれらを跨いでいる。出口は北口と南口の2ヶ所がある。北口は地上駅舎のようになっているが、南口は橋上駅舎になっている。南口の駅舎は1927年に造られた。なお、北口はお客さまサポートコールシステムが導入されており、終日インターホンによる案内となる。
自動券売機、多機能券売機、指定席券売機(南口のみ)が設置されている。
駅名の「うぐいす」にあやかって、朝の時間帯にはプラットホーム上のスピーカーから、鶯の鳴き声を流している。
(出典:JR東日本:駅構内図)
京浜東北線快速運転時間帯(10時 - 15時の間)は全列車が当駅を通過するため、この時間帯に乗り降りできるのは2・3番線の山手線のみである。
中距離電車(宇都宮線・高崎線・常磐線)はホームがないため全列車が通過する。そのため、当駅を含む上野駅 - 日暮里駅間に特定の分岐区間に対する区間外乗車(東北本線内折り返し乗車)の特例が設けられている。
2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は21,112人である。山手線の駅の中では高輪ゲートウェイ駅に次いで少なく、京浜東北線の駅の中でも上中里駅・高輪ゲートウェイ駅・新子安駅に次いで4番目に少ない。高輪ゲートウェイ駅の開業前は、長らく山手線の駅で最少であった。
近年の1日平均乗車人員の推移は下記の通り。
駅の西側は上野恩賜公園(上野の山)の北側に位置し、高級住宅街の上野桜木や東京芸術大学の最寄り駅である(以前は上野桜木にも京成線の駅があった)。その他は寛永寺・東京国立博物館・国際子ども図書館・大名時計博物館・東京文化財研究所が近い。例年、七夕の前後3日間に下谷七福神と当駅近郊の商店街で、入谷朝顔市が開かれ、下町の夏の風物詩として賑わう。
東側はラブホテルが集積しており、ホテル街を形成している。その他は屋台や居酒屋が点在し、小さな路地が多い。駅正面にラブホテルが密集しているものの、風俗店舗そのものはない。
警視庁の犯罪情報マップによると、山手線の他駅と比べても治安は悪くない。上野駅入谷口 - 鶯谷駅 - 入谷駅のエリアは警察のパトロールと監視カメラが強化されている。鶯谷駅構内でのキャッチセールスなども固く禁じられている。
近年古い建物は次第に姿を消し、新築マンションが竣工されている。東京芸大や専門学校の学生、マンション購入者の家族が多く、北口は上野桜木(高級住宅街)の住民も多い。
最寄りの停留所は、言問通りにある都営バスの「鶯谷駅前」と「下谷二丁目」、および台東区循環バス「めぐりん」の「下谷二丁目(鶯谷駅南)」「鶯谷駅北」「鶯谷駅南」「根岸三丁目」となる。 | [
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"text": "警視庁の犯罪情報マップによると、山手線の他駅と比べても治安は悪くない。上野駅入谷口 - 鶯谷駅 - 入谷駅のエリアは警察のパトロールと監視カメラが強化されている。鶯谷駅構内でのキャッチセールスなども固く禁じられている。",
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"text": "最寄りの停留所は、言問通りにある都営バスの「鶯谷駅前」と「下谷二丁目」、および台東区循環バス「めぐりん」の「下谷二丁目(鶯谷駅南)」「鶯谷駅北」「鶯谷駅南」「根岸三丁目」となる。",
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] | 鶯谷駅(うぐいすだにえき)は、東京都台東区根岸一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。東北本線において、東京駅から起算して乗り換えのない最初の単独駅でもある。 | {{駅情報
|社色 = green
|文字色 =
|駅名 = 鶯谷駅
|画像 = Uguisudan-stn.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 南口(2009年7月)
|地図= {{Infobox mapframe|zoom=15|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|35|43|16.68|N|139|46|41.88|E}}}}
|よみがな = うぐいすだに
|ローマ字 = Uguisudani
|副駅名 =
|電報略号 = ウス
|所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
|所在地 = [[東京都]][[台東区]][[根岸 (台東区)|根岸]]一丁目4-1
|座標 = {{coord|35|43|16.68|N|139|46|41.88|E|region:JP-14_type:railwaystation|display=inline,title}}
|駅構造 = [[地上駅]](一部[[橋上駅]])
|ホーム = 2面4線(通過線6線)<ref name="zeneki">{{Cite journal|和書 |date = 2012-08-05 |journal = 週刊JR全駅・全車両基地 |issue = 01 |page = 35 |publisher = 朝日新聞出版 }}</ref>
|開業年月日 = [[1912年]]([[明治]]45年)[[7月11日]]<ref name="zeneki"/>
|廃止年月日 =
|乗車人員 = 21,112
|乗降人員 =
|統計年度 = 2022年
|乗入路線数 = 2
|所属路線1 = {{color|#00b2e5|■}}[[京浜東北線]]{{Refnest|group="*"|name="tohoku"|いずれも線路名称上は[[東北本線]]。}}
|前の駅1 = JK 30 [[上野駅|上野]]
|駅間A1 = 1.1
|駅間B1 = 1.1
|次の駅1 = [[日暮里駅|日暮里]] JK 32
|駅番号1 = {{駅番号r|JK|31|#00b2e5|1}}
|キロ程1 = 4.7 km([[東京駅|東京]]起点)<br />[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]から25.6
|所属路線2 = {{color|#9acd32|■}}[[山手線]]<ref group="*" name="tohoku" />
|前の駅2 = JY 05 上野
|駅間A2 = 1.1
|駅間B2 = 1.1
|次の駅2 = 日暮里 JY 07
|駅番号2 = {{駅番号r|JY|06|#9acd32|1}}
|キロ程2 = 4.7
|起点駅2 = 東京
|乗換 =
|備考 = {{Plainlist|
* [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]<ref name="2019-11-15" />
* [[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]導入駅{{Refnest|group="*"|北口に導入<ref name="StationCd=209_230911" />。}}<ref name="StationCd=209_230911" />
* [[File:JR area YAMA.svg|15px|山]][[File:JR area KU.svg|15px|区]] [[東京山手線内]]・[[特定都区市内|東京都区内]]駅}}
|備考全幅= {{Reflist|group="*"}}
}}
[[File:Uguisudanistation-northexit-alt-nov15-2014.jpg|thumb|北口(2014年11月)]]
'''鶯谷駅'''(うぐいすだにえき)は、[[東京都]][[台東区]][[根岸 (台東区)|根岸]]一丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[鉄道駅|駅]]である<ref name="zeneki"/>。[[東北本線]]において、東京駅から起算して乗り換えのない(品川駅 - 田端駅間停車駅が同一である山手線・京浜東北線間を除く)最初の単独駅でもある。
== 乗り入れ路線 ==
乗り入れている路線は、線路名称上は[[東北本線]]1路線のみである(詳細は路線記事および[[鉄道路線の名称]]参照)が、当駅には[[電車線・列車線|電車線]]を走る[[京浜東北線]]電車および[[山手線]]電車のみが停車し、旅客案内では「東北(本)線」とは案内されていない。また当駅は、[[特定都区市内]]における「[[特定都区市内#設定区域一覧|東京都区内]]」および「[[東京山手線内]]」に属する。
[[駅ナンバリング#JR東日本・東京モノレール・東京臨海高速鉄道|駅番号]]は京浜東北線が'''JK 31'''、山手線が'''JY 06'''である。
== 歴史 ==
[[File:Uguisudani Station.19630626.jpg|thumb|鶯谷駅周辺の白黒空中写真(1963年6月26日撮影)<br />{{国土航空写真}}]]
* [[1912年]]([[明治]]45年)[[7月11日]]:[[鉄道省|鉄道院]]東北本線の駅として開業<ref name="停車場">{{Cite book|和書|author=石野哲(編)|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|date=1998-10-01|edition=初版|isbn=978-4-533-02980-6|page=389}}</ref>。ホームは既に電車運転を開始していた運転系統としての[[山手線]]のみに設置された。このため実際上は上野駅 - 田端駅 -池袋駅 - 新宿駅 - 品川駅 - 烏森駅間に運転された山手線の駅としての開業であった。
* [[1925年]]([[大正]]14年)[[11月1日]]:山手線の線路を利用し京浜線の運転が田端まで延長され、乗入路線数が2路線となる<ref name="rf100220">{{Cite journal|和書|author=祖田圭介|year=|date=2010-02-01|title=特集:山手線電車100周年|journal=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]|volume=50|issue=第2号(通巻586号)|page=20|pages=|publisher=[[交友社]]|oclc=61102288}}</ref>。
* [[1956年]]([[昭和]]31年)[[11月19日]]:それまで山手線と京浜東北線で共用していた複線が複々線され、ホーム2面となる。
* [[1964年]](昭和39年)[[10月1日]]:[[チッキ|荷物]]扱い廃止{{R|停車場}}。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の駅となる{{R|停車場}}。
* [[1988年]](昭和63年)[[3月13日]]:京浜東北線の快速運転開始に伴い、日中は京浜東北線が通過するようになる。
* [[1990年]]([[平成]]2年)
** [[11月2日]]:北口に自動改札機を設置し、供用開始<ref name=JRR1991>{{Cite book|和書 |date=1991-08-01 |title=JR気動車客車編成表 '91年版 |chapter=JR年表 |page=191 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-112-0}}</ref>。
** [[12月15日]]:南口に自動改札機を設置し、供用開始{{R|JRR1991}}。
* [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-23|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。
* [[2004年]](平成16年)2月:[[みどりの窓口]]を廃止し、[[指定席券売機]]を設置<ref>{{Cite news|title=みどりの窓口 リストラ JR東 昨年〜今年63駅で廃止 後釜は券売機、客イライラ|newspaper=[[朝日新聞]]|publisher=[[朝日新聞社]]|date=2006-07-11|page=23 夕刊}}</ref>。
* [[2017年]](平成29年)[[4月10日]]:業務委託化<ref name="2019-11-15">{{Cite web|和書|url=http://jrtu-tokyo.sakura.ne.jp/job/jobfiles/h28eigyou_no4.html|title=「平成28年度営業関係施策(その4)について」提案を受ける|accessdate=2019-11-15|publisher=東日本ユニオン東京地本|archivedate=2019-11-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191114163228/http://jrtu-tokyo.sakura.ne.jp/job/jobfiles/h28eigyou_no4.html}}</ref>。
* [[2019年]](平成31年)[[3月20日]]:北口が[[駅集中管理システム|駅遠隔操作システム(現・お客さまサポートコールシステム)]]導入に伴い終日無人化<ref name="2019-03-01">{{Cite web|和書|url=http://jrtu-tokyo.sakura.ne.jp/job/jobfiles/h30eigyou_no1.html|title=「平成30年度営業関係施策(その1)について」提案を受ける|accessdate=2019-11-15|publisher=東日本ユニオン東京地本|archivedate=2019-11-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191114154228/http://jrtu-tokyo.sakura.ne.jp/job/jobfiles/h30eigyou_no1.html}}</ref>。
== 駅構造 ==
[[JR東日本ステーションサービス]]が駅業務を受託している[[上野駅|上野営業統括センター]]管理の[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]<ref name="2019-11-15"/>。[[島式ホーム]]2面4線の[[地上駅]]である。北側[[市街地]]と上野公園を結ぶ[[陸橋]]がこれらを跨いでいる<ref name="zeneki"/>。出口は北口と南口の2ヶ所がある。北口は地上駅舎のようになっているが、南口は[[橋上駅|橋上駅舎]]になっている。南口の駅舎は[[1927年]]に造られた。なお、北口は[[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]が導入されており、終日インターホンによる案内となる<ref name="StationCd=209_230911">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=209|title=駅の情報(鶯谷駅):JR東日本|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-09-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230911120503/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=209|archivedate=2023-09-11}}</ref>。
[[自動券売機]]、多機能券売機、[[指定席券売機]](南口のみ)が設置されている<ref name="StationCd=209_230911" />。
駅名の「うぐいす」にあやかって、朝の時間帯には[[プラットホーム]]上の[[スピーカー]]から、[[ウグイス|鶯]]の鳴き声を流している<ref name="ekimei">{{Cite book|和書|author=浅井建爾|title=駅名・地名 不一致の事典|publisher=[[東京堂出版]]|date=2016-08-30|pages=46 - 47|edition=初版|isbn=978-4490108804}}</ref>。
=== のりば ===
{|class="wikitable"
|+
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先
|-
!1
|[[File:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] 京浜東北線
|style="text-align:center"|北行
|[[田端駅|田端]]・[[赤羽駅|赤羽]]・[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]方面
|-
!2
|rowspan="2"|[[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] 山手線
|style="text-align:center"|内回り
|[[池袋駅|池袋]]・[[新宿駅|新宿]]・[[渋谷駅|渋谷]]方面
|-
!3
|style="text-align:center"|外回り
|[[東京駅|東京]]・[[品川駅|品川]]・[[目黒駅|目黒]]方面
|-
!4
|[[File:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] 京浜東北線
|style="text-align:center"|南行
|東京・品川・[[横浜駅|横浜]]方面
|}
(出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/209.html JR東日本:駅構内図])
京浜東北線快速運転時間帯(10時 - 15時の間)は全列車が当駅を通過するため、この時間帯に乗り降りできるのは2・3番線の山手線のみである。
[[中距離電車]]([[宇都宮線]]・[[高崎線]]・[[常磐線]])はホームがないため全列車が通過する。そのため、当駅を含む上野駅 - 日暮里駅間に特定の分岐区間に対する[[区間外乗車]](東北本線内折り返し乗車)の特例が設けられている。
=== バリアフリー設備 ===
* [[エスカレーター]]:南口 - ホーム
* [[エレベーター]]:南口 - ホーム
* 多機能[[便所|トイレ]]
=== 発車メロディ ===
{|border="1" cellspacing="0" cellpadding="3" frame="hsides" rules="rows"
|-
!1
|[[File:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] 春NewVer
|-
!2
|[[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] 春(トレモロVer)
|-
!3
|[[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] せせらぎ
|-
!4
|[[File:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] 教会の見える駅
|}
<gallery>
ファイル:JR Uguisudani Station North Gates.jpg|北口改札(2019年6月)
ファイル:JR Uguisudani Station South Gates.jpg|南口改札(2019年6月)
ファイル:JR Uguisudani Station Platform 1・2.jpg|1・2番線ホーム(2019年6月)
ファイル:JR Uguisudani Station Platform 3・4.jpg|3・4番線ホーム(2019年6月)
</gallery>
== 利用状況 ==
[[2022年]](令和4年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''21,112人'''である。山手線の駅の中では[[高輪ゲートウェイ駅]]に次いで少なく、京浜東北線の駅の中でも[[上中里駅]]・高輪ゲートウェイ駅・[[新子安駅]]に次いで4番目に少ない。高輪ゲートウェイ駅の開業前は、長らく山手線の駅で最少であった。
近年の1日平均'''乗車'''人員の推移は下記の通り。
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref>
!年度
!1日平均<br />乗車人員
!出典
|-
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|2004年(平成16年)
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|2007年(平成19年)
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|2008年(平成20年)
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|2009年(平成21年)
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|2010年(平成22年)
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|2011年(平成23年)
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|2013年(平成25年)
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|2014年(平成26年)
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|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成26年)]</ref>
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|2015年(平成27年)
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|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成27年)]</ref>
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|2016年(平成28年)
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|2017年(平成29年)
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|2018年(平成30年)
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|2019年(令和元年)
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|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)]</ref>
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|2020年(令和{{0}}2年)
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|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
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|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_01.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>21,112
|
|}
== 駅周辺 ==
{{See also|鶯谷}}
駅の西側は[[上野恩賜公園]](上野の山)の北側に位置し、[[高級住宅街]]の[[上野桜木]]や[[東京芸術大学]]の最寄り駅である(以前は上野桜木にも京成線の駅があった)。その他は[[寛永寺]]・[[東京国立博物館]]・[[国際子ども図書館]]・[[大名時計博物館]]・[[東京文化財研究所]]が近い。例年、七夕の前後3日間に[[下谷七福神]]と当駅近郊の[[商店街]]で、[[入谷 (台東区)|入谷]]朝顔市が開かれ、[[下町]]の夏の風物詩として賑わう。
東側は[[ラブホテル]]が集積しており、ホテル街を形成している。その他は[[屋台]]や[[居酒屋]]が点在し、小さな路地が多い。駅正面にラブホテルが密集しているものの、[[風俗店]]舗そのものはない。
[[警視庁]]の犯罪情報マップによると、山手線の他駅と比べても[[治安]]は悪くない。上野駅入谷口 - 鶯谷駅 - 入谷駅のエリアは[[日本の警察|警察]]のパトロールと[[監視カメラ]]が強化されている。鶯谷駅構内での[[キャッチセールス]]なども固く禁じられている。
近年古い建物は次第に姿を消し、新築[[マンション]]が竣工されている。東京芸大や[[専門学校]]の学生、マンション購入者の家族が多く、北口は[[上野桜木]]([[高級住宅街]])の住民も多い。
{{columns-list|2|
* [[真源寺|入谷鬼子母神]]
* 下谷七福神
* 下谷病院
* 寛永寺霊園
* [[徳川氏|徳川家]]霊廟
* 東京文化財研究所
* 東京国立博物館
* [[下町風俗資料館]]
* 台東区立江戸下町伝統工芸館
* [[上野の森美術館]]
* 大名時計博物館
* [[日本美術院]]
* [[台東区立書道博物館]]
* [[正岡子規|子規庵]]
* [[黒田清輝]]記念館
* [[朝倉彫塑館]]
* [[横山大観]]記念館
* [[一葉記念館]]
* [[台東区立忍岡中学校]]
* [[上野郵便局 (東京都)|上野郵便局]]
* [[入谷駅 (東京都)|入谷駅]]([[東京メトロ日比谷線|東京地下鉄日比谷線]])
* [[根津駅]]([[東京メトロ千代田線|東京地下鉄千代田線]])
* 業務スーパー河内屋
* [[いなげや]]
* [[ゲオ]]
* [[東横イン]]鶯谷駅前
* [[台東区立根岸小学校]]
* [[東京芸術大学]]
* [[東京都立上野高等学校]]
* [[東京芸術大学音楽学部附属音楽高等学校]]
* [[東京キネマ倶楽部]]
|}}
== バス路線 ==
<!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。-->
最寄りの停留所は、言問通りにある[[都営バス]]の「'''鶯谷駅前'''」<!--(北口)-->と「'''下谷二丁目'''」<!--(南口)-->、および[[めぐりん (台東区)|台東区循環バス「めぐりん」]]の「'''下谷二丁目(鶯谷駅南)'''」「'''鶯谷駅北'''」「'''鶯谷駅南'''」「'''根岸三丁目'''」となる。
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!運行事業者!!停留所名!!系統・行先
|-
|rowspan="2" style="text-align:center;"|都営バス
|style="text-align:center;"|'''鶯谷駅前'''
|[[都営バス千住営業所#草41系統|'''草41''']]:足立梅田町 / 浅草寿町
|-
|style="text-align:center;"|'''下谷二丁目'''
|{{Unbulleted list|[[都営バス青戸支所#上26系統|'''上26''']]:上野公園(循環) / [[亀戸駅|亀戸駅前]]・隅田公園|'''草41''':足立梅田町 / 浅草寿町}}
|-
|rowspan="4" style="text-align:center;"|めぐりん
|style="text-align:center;"|'''下谷二丁目(鶯谷駅南)'''
|[[めぐりん (台東区)#東西めぐりん|'''東西めぐりん(鶯谷駅経由・日医大回りルート)''']]:上野桜木・谷中・[[千駄木駅]]・[[根津駅]]・[[京成上野駅]]・台東区役所・浅草駅方面
|-
|style="text-align:center;"|'''鶯谷駅南'''
|[[めぐりん (台東区)#北めぐりん|'''北めぐりん(根岸回り)''']]:生涯学習センター北・台東病院方面
|-
|style="text-align:center;"|'''鶯谷駅北'''
|'''北めぐりん(根岸回り)''':生涯学習センター北・台東病院方面
|-
|style="text-align:center;"|'''根岸三丁目'''
|[[めぐりん (台東区)#ぐるーりめぐりん|'''ぐるーりめぐりん''']]:[[三ノ輪駅]]・吉原大門・清川一丁目・[[浅草駅]]・[[鳥越神社]]・[[新御徒町駅]]方面
|}
== 隣の駅 ==
; 東日本旅客鉄道(JR東日本)
: [[File:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] 京浜東北線
:: {{Color|#ff0066|■}}快速
:::; 通過
:: {{Color|#00b2e5|■}}各駅停車
::: [[上野駅]] (JK 30) - '''鶯谷駅 (JK 31)''' - [[日暮里駅]] (JK 32)
: [[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] 山手線
::: 上野駅 (JY 05) - '''鶯谷駅 (JY 06)''' - 日暮里駅 (JY 07)
== 脚注 ==
=== 記事本文 ===
<!--==== 注釈 ====
{{Reflist|group="注"}}
-->
==== 出典 ====
{{Reflist}}
===== 広報資料・プレスリリースなど一次資料 =====
{{Reflist|group="広報"}}
=== 利用状況 ===
{{Reflist|group="統計"}}
;JR東日本の2000年度以降の乗車人員
{{Reflist|group="JR"|22em}}
;東京都統計年鑑
{{Reflist|group="*"|22em}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Uguisudani Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[鶯谷]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=209|name=鶯谷}}
* [http://www.viva-ugu.com/ 下町鶯谷周辺情報サイト VIVA!うぐいす]
{{京浜東北・根岸線}}
{{山手線}}
{{DEFAULTSORT:うくいすたに}}
[[Category:台東区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 う|くいすたに]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]]
[[Category:1912年開業の鉄道駅]]
[[Category:山手線]]
[[Category:京浜東北・根岸線]]
[[Category:根岸 (台東区)]] | 2003-05-17T12:40:43Z | 2023-12-20T12:38:18Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%AF%E8%B0%B7%E9%A7%85 |
8,455 | 江戸幕府 | 江戸幕府(えどばくふ)は、江戸時代における日本の武家政権。1603年(慶長8年)に徳川家康が征夷大将軍に補任し、江戸を本拠として創立した。その終末は、諸説あるが大政奉還が行われた1867年(慶応3年)までの約264年間とされる。
徳川家が将軍職を世襲したことから徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。
江戸時代初期に行われた大御所政治(駿府政権)に関してもここで述べる。
徳川家の当主、徳川家康が従一位右大臣に叙任され、征夷大将軍に補されて260余りの武家大名と主従関係を結び、彼らを統制するという制度は、1600年代後半までに確立された。その将軍の政府を「幕府」、臣従している大名家を「藩」、さらに両者が複合した権力の体制を「幕藩体制」と一般に呼んでいる。ただし、「幕府」及び「藩」の語は幕末期に広く使用され、現在も歴史用語として定着しているものの、江戸時代を通じて使用されていたわけではない。それまでは、将軍の政府は「公儀」・「公辺」などと漠然と呼ばれていた。
幕府の始期及び終期については諸説あるが、征夷大将軍の任官時期に着目する場合には、家康がはじめて将軍職に任じられた1603年3月24日(慶長8年2月12日)から、いわゆる王政復古の大号令によって15代将軍徳川慶喜の将軍職辞任が勅許され、併せて幕府の廃止が宣言された1868年1月3日(慶応3年12月9日)までとなる。終期には他にも1867年11月9日(慶応3年10月14日)に慶喜が大政奉還を行った時、1868年5月3日(慶応4年/明治元年4月11日)の江戸開城とする説もある。
徳川将軍家が実質的に日本を支配した、この260年あまりの期間を一般に「江戸時代」と呼ぶ。江戸幕府は日本の歴史上、鎌倉幕府及び室町幕府に続く武家政権である。
幕府の支配体制は幕藩体制と呼ばれ、将軍の政府である幕府と、将軍と主従関係を結んだ大名の政府である藩で構成されていた。将軍は大名に対して朱印状を与えてその知行を保障し、大名は当該知行内において独自に統治を行う権限を一定程度有した。幕府は「公儀」として国内全体の統治を行うとともに、自らも1大名として領分(天領・御領)を支配し、京都所司代、大坂城代、遠国奉行、郡代・代官などの地方官を設置した。
江戸幕府の支配では、将軍と大名の主従関係を確認するための軍役として、各藩大名に対して参勤交代や、築城・治水工事などの手伝普請が課せられた。
なお、「藩」の語が公称として用いられるようになったのは明治時代のことで、公文書では「領」「領分」、あるいは「領知」などが使用された。公称としての藩は、1868年(明治元年)に公布された政体書によって設けられ、1871年(明治4年)の廃藩置県によって廃止された。
江戸幕府では権力の集中を避けるため主要な役職は複数名が配置され、一か月交代で政務を担当する月番制を導入し、重要な決定は合議を原則とした。常置の最高職である老中及び臨時に置かれる大老、その補佐役である若年寄は譜代大名から選任され、大目付・三奉行(寺社奉行・町奉行・勘定奉行)等の要職には譜代あるいは旗本が充てられて実務を担った。幕府組織は後期にはその全貌の把握が困難であるほど巨大化・複雑化し、幕末の慶応の改革では老中の月番制を廃止して、国内事務・会計・外国・陸軍・海軍の各総裁を専務する等の改革が行われた。
幕府の政策決定は、将軍・幕閣(老中・若年寄)・実務吏僚(大目付・三奉行等)、取次・補佐を行う将軍の側近である御側用人や御側衆、幕閣のサービススタッフである奥右筆や同朋衆により運営された。
基本的な流れとしては実務吏僚から挙げられた議案を幕閣が審議した上で、側近を介して将軍が決裁を行った。また親政や側用人政治の場合は、幕閣を経ずに直接議案が側近に持ち込まれ、将軍が決裁するため幕閣の役割は形骸化した。これとは別に将軍が直接意見を聞くため、実務吏僚を呼び出して直接諮問する事もあった。
家康の時期に、勘定奉行が取り仕切る勘定方が設置されたが財政は安定しておらず、赤字などによりしばしば幕政改革が行われた。
幕末の1866年(慶応2年)には既にイギリスのオリエンタル・バンクの支店が横浜に設立されていたと言われ、幕府は長州征伐のため、同年同銀行と600万ドルの借款契約を締結した。
大名は以下のように分類された。
この分類は、政権内の権力において大きな差となっていた。特に、幕府の要職に全て譜代大名をもって充てた事は、鎌倉幕府、室町幕府からの大きな転換であった。鎌倉・室町幕府においては、時によっては将軍家・執権すらしのぐほどの有力御家人・守護大名が要職に就いていた。また、豊臣政権末期の五大老制は、有力大名による集団指導体制であり、外様大名である徳川家康の政権簒奪を防ぐことができなかった。これに対して、江戸幕府では譜代大名が幕府の要職を独占していた。元々は豊臣政権時代に一大名に過ぎなかった家康のさらに臣下であった譜代大名は、さほど有力ではない小大名が中心であり、徳川家以外の他の有力大名は、地方を統治する外様大名として中央政権の要職に就くことが無くなった。つまり、将軍個人の独裁体制ではないものの、徳川家という枠組において独裁体制を敷いていたのである。またこのことにより、あまり政治に関与しなかった将軍であっても、幕閣の完全な傀儡になることはなく、政権の簒奪も未然に防止することが可能となった。
しかしながらこれは、親藩や有力外様大名が幕閣よりも「目上の立場」になる事を意味し(例えば井伊家は譜代大名筆頭であるが、外様大名筆頭の前田家や、御三家・御三卿よりは下の席次であった)、幕末期において問題点として噴出する事となった。当時の大老である井伊直弼は強権をもって反対者を弾圧したが、その報復である桜田門外の変に倒れ、以降の江戸幕府は諸大名の統制が困難になり、大政奉還及び江戸開城を迎える事となった。
御側御用取次はもともと高級旗本の役職だったが、拝命後ある程度の時を経てから大名に取り立てられる場合が多かった。
以上が幕政の首脳。このうち「幕閣」と呼ばれたのは大老・大老格と老中・老中格で、側用人・御側御用取次は時代や個人によってその権限に大きな差があった。
諸太夫役と布衣役を『天保年間諸役大概順』に拠って列記、これに支配関係と伺候席を参考として添えた。なお『諸役大概』に記載があるものの、それが役職であるか世襲職であるかが不明瞭なもの (林家が代々勤めた大学頭など)についてはこれを省いた。
江戸幕府を開府した初代将軍・徳川家康は、1605年(慶長10年)に将軍職を子の徳川秀忠に譲り大御所となり、駿府城に隠居城を構えた。
大御所となった後も家康は現役将軍の権威に配慮しつつも政治を主導し大御所政治を行った。
主に西国政策(朝廷や豊臣家、西国大名との対応)を中心に、外交・内政への指示、法令起草など江戸幕府と連携した政策が行われた。
1616年(元和2年)の家康の死去により政権は江戸(将軍 秀忠)に統一された。
駿府政権下では、豊臣家との大坂の陣、以心崇伝による武家諸法度、禁中並公家諸法度起草など江戸幕府の支配体制が築き上げられた。
幕府御金改役の後藤庄三郎光次が著した駿府政事録が残されている。
秀忠の居る江戸では主に東国に対する政策を行った。秀忠が政治を実際に取り仕切るようになったのは家康の死後からである。一方で、幕府内の軍権は秀忠により増強・統制され、財政も段階的に駿府から江戸へ移管された。
幕閣では主に譜代が登用された。
以下に述べる内容は跡部信が提唱した初期の幕府が大坂へ移転する計画があったする論だが、当時の幕府がこのような移転を正式に表明した史料は無く、また2022年の段階では定説でもない。
結果的に徳川幕府は武蔵国の江戸に本拠を置くことになったが、徳川家にとってこれは不本意なものであった。大坂夏の陣終了直後の元和元年(1615年)6月、徳川家康は大坂を将軍・秀忠の居城とし政権の本拠地とする考えを示した。天正18年(1590年)、徳川氏は豊臣秀吉の命令により関東・奥羽経営のため東国に転封されていたが、豊臣氏の滅亡によって東国を本拠地とする理由を喪失していた。
大坂は太田牛一が『信長公記』巻13で「そもそも大坂は日本一の境地」であり、堺・奈良・京都に近く四方を山に囲まれ要塞堅固なうえ、明・朝鮮・南蛮から貿易船が来航し、五畿七道の産物が集まり経済力の秀でた都市、と記すように近世初頭の日本において最重要の地であった。永禄13年/元亀元年(1570年)、織田信長は西国攻略の拠点として大坂本願寺に土地の明け渡しを求め、これを拒否した本願寺と10年間にわたって戦争が行われ、信長の後継者の豊臣秀吉は政治・経済・対外交流・軍事の要衝である大坂を本拠として天下統一を成し遂げていた。また秀吉は大坂・京都・伏見の3都市によって、中世の荘園制に立脚した市場構造とは異なる新たな中央市場圏を確立しており、その重要性はさらに増していた。だが、この最初の大坂幕府構想は翌元和2年(1616年)の家康の死没により中絶することになった。
一度は断念した幕府の大坂移転構想だったが、公武合体政権の樹立を念願とする秀忠によって再び動き出した。
元和5年(1619年)、大坂城代を務めていた松平忠明が大和国郡山藩に国替され、幕府は大坂を直轄地とした。その後藤堂高虎、小堀遠州の主導のもと大坂城を幕府の新たな拠点とすべく再築が進められ、長期に及ぶ天下普請の末寛永5年(1628年)に新たな大坂城が完成した。
一方で朝廷と幕府による公武合体構想は迷走していた。幕府による公武合体構想は既に家康の時代から秀忠と江の女、和子を後水尾天皇に入内させる計画が進んでいた。家康は後水尾天皇と和子の間に生まれるであろう皇子に皇位継承させ、徳川家が天皇の外戚になろうと目論んでおり、慶長19年(1614年)には和子の入内が決定した。しかし元和2年の家康の死没に続いて元和3年(1617年)の後陽成上皇の薨去で和子の入内は一旦延期されることになった。
その後、和子の入内が元和5年(1619年)に行われることが改めて決定したが、元和4年(1618年)後水尾天皇と四辻与津子の間に後継者となる第一皇子・賀茂宮が誕生していた事実は徳川家に打撃を与え、再び入内が延期された。
元和6年(1620年)、ようやく和子の入内が実施され寛永3年(1626年)11月には第二皇子・高仁親王が誕生した。既に第一皇子の賀茂宮は元和8年(1622年)に夭折しており、徳川家が天皇の外戚の地位を得る可能性が高まった。
寛永4年(1627年)4月、後水尾天皇は高仁皇子が4歳になれば譲位する考えを明らかにした。更に高仁親王の天皇即位とセットで秀忠・家光父子の大坂城の入城が寛永6年(1629年)に予定され、公武合体政権構想の実現は目前に迫っていた。
しかし寛永5年(1628年)6月、高仁親王が3歳で夭折。和子がこの年に出産していた皇子も9月に亡くなった。寛永6年(1629年)11月、後水尾天皇は和子との間に誕生していた明正天皇に譲位したが、女性天皇であったため徳川家の天皇家外戚の地位は一代で終わることが確定し、さらに公武合体構想の推進者である秀忠が大坂城再築後3年で亡くなってしまった。結果、家康・秀忠が2代にわたっての念願であった公武合体政権構想は頓挫し、徳川幕府は先進地の畿内を本拠地とすることを断念し、後進地域に本拠を据えざるを得なくなった。 | [
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"text": "江戸幕府(えどばくふ)は、江戸時代における日本の武家政権。1603年(慶長8年)に徳川家康が征夷大将軍に補任し、江戸を本拠として創立した。その終末は、諸説あるが大政奉還が行われた1867年(慶応3年)までの約264年間とされる。",
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"text": "徳川家が将軍職を世襲したことから徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。",
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"text": "江戸時代初期に行われた大御所政治(駿府政権)に関してもここで述べる。",
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"text": "徳川家の当主、徳川家康が従一位右大臣に叙任され、征夷大将軍に補されて260余りの武家大名と主従関係を結び、彼らを統制するという制度は、1600年代後半までに確立された。その将軍の政府を「幕府」、臣従している大名家を「藩」、さらに両者が複合した権力の体制を「幕藩体制」と一般に呼んでいる。ただし、「幕府」及び「藩」の語は幕末期に広く使用され、現在も歴史用語として定着しているものの、江戸時代を通じて使用されていたわけではない。それまでは、将軍の政府は「公儀」・「公辺」などと漠然と呼ばれていた。",
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"text": "幕府の始期及び終期については諸説あるが、征夷大将軍の任官時期に着目する場合には、家康がはじめて将軍職に任じられた1603年3月24日(慶長8年2月12日)から、いわゆる王政復古の大号令によって15代将軍徳川慶喜の将軍職辞任が勅許され、併せて幕府の廃止が宣言された1868年1月3日(慶応3年12月9日)までとなる。終期には他にも1867年11月9日(慶応3年10月14日)に慶喜が大政奉還を行った時、1868年5月3日(慶応4年/明治元年4月11日)の江戸開城とする説もある。",
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"text": "徳川将軍家が実質的に日本を支配した、この260年あまりの期間を一般に「江戸時代」と呼ぶ。江戸幕府は日本の歴史上、鎌倉幕府及び室町幕府に続く武家政権である。",
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"text": "幕府の支配体制は幕藩体制と呼ばれ、将軍の政府である幕府と、将軍と主従関係を結んだ大名の政府である藩で構成されていた。将軍は大名に対して朱印状を与えてその知行を保障し、大名は当該知行内において独自に統治を行う権限を一定程度有した。幕府は「公儀」として国内全体の統治を行うとともに、自らも1大名として領分(天領・御領)を支配し、京都所司代、大坂城代、遠国奉行、郡代・代官などの地方官を設置した。",
"title": "幕藩体制"
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"text": "江戸幕府の支配では、将軍と大名の主従関係を確認するための軍役として、各藩大名に対して参勤交代や、築城・治水工事などの手伝普請が課せられた。",
"title": "幕藩体制"
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"text": "なお、「藩」の語が公称として用いられるようになったのは明治時代のことで、公文書では「領」「領分」、あるいは「領知」などが使用された。公称としての藩は、1868年(明治元年)に公布された政体書によって設けられ、1871年(明治4年)の廃藩置県によって廃止された。",
"title": "幕藩体制"
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"text": "江戸幕府では権力の集中を避けるため主要な役職は複数名が配置され、一か月交代で政務を担当する月番制を導入し、重要な決定は合議を原則とした。常置の最高職である老中及び臨時に置かれる大老、その補佐役である若年寄は譜代大名から選任され、大目付・三奉行(寺社奉行・町奉行・勘定奉行)等の要職には譜代あるいは旗本が充てられて実務を担った。幕府組織は後期にはその全貌の把握が困難であるほど巨大化・複雑化し、幕末の慶応の改革では老中の月番制を廃止して、国内事務・会計・外国・陸軍・海軍の各総裁を専務する等の改革が行われた。",
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"text": "幕府の政策決定は、将軍・幕閣(老中・若年寄)・実務吏僚(大目付・三奉行等)、取次・補佐を行う将軍の側近である御側用人や御側衆、幕閣のサービススタッフである奥右筆や同朋衆により運営された。",
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"text": "基本的な流れとしては実務吏僚から挙げられた議案を幕閣が審議した上で、側近を介して将軍が決裁を行った。また親政や側用人政治の場合は、幕閣を経ずに直接議案が側近に持ち込まれ、将軍が決裁するため幕閣の役割は形骸化した。これとは別に将軍が直接意見を聞くため、実務吏僚を呼び出して直接諮問する事もあった。",
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"text": "家康の時期に、勘定奉行が取り仕切る勘定方が設置されたが財政は安定しておらず、赤字などによりしばしば幕政改革が行われた。",
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"text": "幕末の1866年(慶応2年)には既にイギリスのオリエンタル・バンクの支店が横浜に設立されていたと言われ、幕府は長州征伐のため、同年同銀行と600万ドルの借款契約を締結した。",
"title": "財政"
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"text": "大名は以下のように分類された。",
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"text": "この分類は、政権内の権力において大きな差となっていた。特に、幕府の要職に全て譜代大名をもって充てた事は、鎌倉幕府、室町幕府からの大きな転換であった。鎌倉・室町幕府においては、時によっては将軍家・執権すらしのぐほどの有力御家人・守護大名が要職に就いていた。また、豊臣政権末期の五大老制は、有力大名による集団指導体制であり、外様大名である徳川家康の政権簒奪を防ぐことができなかった。これに対して、江戸幕府では譜代大名が幕府の要職を独占していた。元々は豊臣政権時代に一大名に過ぎなかった家康のさらに臣下であった譜代大名は、さほど有力ではない小大名が中心であり、徳川家以外の他の有力大名は、地方を統治する外様大名として中央政権の要職に就くことが無くなった。つまり、将軍個人の独裁体制ではないものの、徳川家という枠組において独裁体制を敷いていたのである。またこのことにより、あまり政治に関与しなかった将軍であっても、幕閣の完全な傀儡になることはなく、政権の簒奪も未然に防止することが可能となった。",
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"text": "しかしながらこれは、親藩や有力外様大名が幕閣よりも「目上の立場」になる事を意味し(例えば井伊家は譜代大名筆頭であるが、外様大名筆頭の前田家や、御三家・御三卿よりは下の席次であった)、幕末期において問題点として噴出する事となった。当時の大老である井伊直弼は強権をもって反対者を弾圧したが、その報復である桜田門外の変に倒れ、以降の江戸幕府は諸大名の統制が困難になり、大政奉還及び江戸開城を迎える事となった。",
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"text": "御側御用取次はもともと高級旗本の役職だったが、拝命後ある程度の時を経てから大名に取り立てられる場合が多かった。",
"title": "江戸幕府の役職"
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"text": "以上が幕政の首脳。このうち「幕閣」と呼ばれたのは大老・大老格と老中・老中格で、側用人・御側御用取次は時代や個人によってその権限に大きな差があった。",
"title": "江戸幕府の役職"
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"text": "諸太夫役と布衣役を『天保年間諸役大概順』に拠って列記、これに支配関係と伺候席を参考として添えた。なお『諸役大概』に記載があるものの、それが役職であるか世襲職であるかが不明瞭なもの (林家が代々勤めた大学頭など)についてはこれを省いた。",
"title": "江戸幕府の役職"
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"text": "江戸幕府を開府した初代将軍・徳川家康は、1605年(慶長10年)に将軍職を子の徳川秀忠に譲り大御所となり、駿府城に隠居城を構えた。",
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"text": "大御所となった後も家康は現役将軍の権威に配慮しつつも政治を主導し大御所政治を行った。",
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"text": "主に西国政策(朝廷や豊臣家、西国大名との対応)を中心に、外交・内政への指示、法令起草など江戸幕府と連携した政策が行われた。",
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"text": "1616年(元和2年)の家康の死去により政権は江戸(将軍 秀忠)に統一された。",
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"text": "駿府政権下では、豊臣家との大坂の陣、以心崇伝による武家諸法度、禁中並公家諸法度起草など江戸幕府の支配体制が築き上げられた。",
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"text": "幕府御金改役の後藤庄三郎光次が著した駿府政事録が残されている。",
"title": "駿府政権"
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"text": "秀忠の居る江戸では主に東国に対する政策を行った。秀忠が政治を実際に取り仕切るようになったのは家康の死後からである。一方で、幕府内の軍権は秀忠により増強・統制され、財政も段階的に駿府から江戸へ移管された。",
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"text": "幕閣では主に譜代が登用された。",
"title": "駿府政権"
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"text": "以下に述べる内容は跡部信が提唱した初期の幕府が大坂へ移転する計画があったする論だが、当時の幕府がこのような移転を正式に表明した史料は無く、また2022年の段階では定説でもない。",
"title": "大坂幕府構想"
},
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"text": "結果的に徳川幕府は武蔵国の江戸に本拠を置くことになったが、徳川家にとってこれは不本意なものであった。大坂夏の陣終了直後の元和元年(1615年)6月、徳川家康は大坂を将軍・秀忠の居城とし政権の本拠地とする考えを示した。天正18年(1590年)、徳川氏は豊臣秀吉の命令により関東・奥羽経営のため東国に転封されていたが、豊臣氏の滅亡によって東国を本拠地とする理由を喪失していた。",
"title": "大坂幕府構想"
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"text": "大坂は太田牛一が『信長公記』巻13で「そもそも大坂は日本一の境地」であり、堺・奈良・京都に近く四方を山に囲まれ要塞堅固なうえ、明・朝鮮・南蛮から貿易船が来航し、五畿七道の産物が集まり経済力の秀でた都市、と記すように近世初頭の日本において最重要の地であった。永禄13年/元亀元年(1570年)、織田信長は西国攻略の拠点として大坂本願寺に土地の明け渡しを求め、これを拒否した本願寺と10年間にわたって戦争が行われ、信長の後継者の豊臣秀吉は政治・経済・対外交流・軍事の要衝である大坂を本拠として天下統一を成し遂げていた。また秀吉は大坂・京都・伏見の3都市によって、中世の荘園制に立脚した市場構造とは異なる新たな中央市場圏を確立しており、その重要性はさらに増していた。だが、この最初の大坂幕府構想は翌元和2年(1616年)の家康の死没により中絶することになった。",
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"text": "一度は断念した幕府の大坂移転構想だったが、公武合体政権の樹立を念願とする秀忠によって再び動き出した。",
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},
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"text": "元和5年(1619年)、大坂城代を務めていた松平忠明が大和国郡山藩に国替され、幕府は大坂を直轄地とした。その後藤堂高虎、小堀遠州の主導のもと大坂城を幕府の新たな拠点とすべく再築が進められ、長期に及ぶ天下普請の末寛永5年(1628年)に新たな大坂城が完成した。",
"title": "大坂幕府構想"
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"text": "一方で朝廷と幕府による公武合体構想は迷走していた。幕府による公武合体構想は既に家康の時代から秀忠と江の女、和子を後水尾天皇に入内させる計画が進んでいた。家康は後水尾天皇と和子の間に生まれるであろう皇子に皇位継承させ、徳川家が天皇の外戚になろうと目論んでおり、慶長19年(1614年)には和子の入内が決定した。しかし元和2年の家康の死没に続いて元和3年(1617年)の後陽成上皇の薨去で和子の入内は一旦延期されることになった。",
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"text": "その後、和子の入内が元和5年(1619年)に行われることが改めて決定したが、元和4年(1618年)後水尾天皇と四辻与津子の間に後継者となる第一皇子・賀茂宮が誕生していた事実は徳川家に打撃を与え、再び入内が延期された。",
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"text": "寛永4年(1627年)4月、後水尾天皇は高仁皇子が4歳になれば譲位する考えを明らかにした。更に高仁親王の天皇即位とセットで秀忠・家光父子の大坂城の入城が寛永6年(1629年)に予定され、公武合体政権構想の実現は目前に迫っていた。",
"title": "大坂幕府構想"
},
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"text": "しかし寛永5年(1628年)6月、高仁親王が3歳で夭折。和子がこの年に出産していた皇子も9月に亡くなった。寛永6年(1629年)11月、後水尾天皇は和子との間に誕生していた明正天皇に譲位したが、女性天皇であったため徳川家の天皇家外戚の地位は一代で終わることが確定し、さらに公武合体構想の推進者である秀忠が大坂城再築後3年で亡くなってしまった。結果、家康・秀忠が2代にわたっての念願であった公武合体政権構想は頓挫し、徳川幕府は先進地の畿内を本拠地とすることを断念し、後進地域に本拠を据えざるを得なくなった。",
"title": "大坂幕府構想"
}
] | 江戸幕府(えどばくふ)は、江戸時代における日本の武家政権。1603年(慶長8年)に徳川家康が征夷大将軍に補任し、江戸を本拠として創立した。その終末は、諸説あるが大政奉還が行われた1867年(慶応3年)までの約264年間とされる。 徳川家が将軍職を世襲したことから徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。 江戸時代初期に行われた大御所政治(駿府政権)に関してもここで述べる。 | {{政府
|政府名 = 江戸幕府
|背景色 = #006400
|境界 = 中央
|各国語表記 = {{lang|en|Tokugawa Shogunate}}
|画像 = Mitsubaaoi.svg
|画像の説明 = [[徳川家]][[家紋]]・[[三つ葉葵|徳川葵]]
|創設年 = [[慶長]]8年([[1603年]])
|解散年 = [[慶応]]3年([[1867年]])
|代表 = [[征夷大将軍]]<br/>([[徳川将軍一覧|徳川氏]]が世襲)<br/>[[大御所 (江戸時代)|大御所]]<br/>(前将軍の尊称)
|対象国 = {{JPN}}
|地域 =
|政庁所在地 = [[武蔵国]][[豊島郡 (武蔵国)|豊島郡]][[江戸]]([[江戸城]])<br/>(現 : [[東京都]][[千代田区]])
|前政府 = {{JPN1590}}
|後政府 = {{JPN701}}
|空欄表題1 = 大名役
|空欄記載1 = [[大老]](臨時)<br/>[[老中]]<br/>[[側用人]]<br/>[[寺社奉行]]<br/>[[若年寄]]<br/>[[奏者番]]<br/>[[京都所司代]]<br/>[[大坂城代]]
|空欄表題2 = 老中支配
|空欄記載2 = [[側衆]]<br/>[[高家 (江戸時代)|高家]]<br/>[[留守居]]<br/>[[大目付]]<br/>[[町奉行]]<br/>[[勘定奉行]]<br/>[[城代]]<br/>[[奉行]]([[遠国奉行]])等
|空欄表題3 = 若年寄支配
|空欄記載3 = [[書院番]]<br/>[[小姓組]]<br/>[[大番]](御侍衆)<br/>[[小十人]]<br/>[[新番]](新侍衆また若侍衆)<br/>[[目付]](幕府および全ての諸藩の[[監査役]]、[[監察官]]) 等
|備考 = [[1868年]]の[[王政復古の大号令]]により[[幕府]]が廃されたため、江戸幕府は日本最後の武家政権となった。
}}
'''江戸幕府'''(えどばくふ)は、[[江戸時代]]における[[日本]]の[[武家政権]]。[[1603年]]([[慶長]]8年)に[[徳川家康]]が[[征夷大将軍]]に補任し、[[江戸]]を本拠として創立した。その終末は、諸説あるが[[大政奉還]]が行われた[[1867年]]([[慶応]]3年)までの約264年間とされる。
[[徳川氏|徳川家]]が[[征夷大将軍|将軍職]]を[[世襲]]したことから'''徳川幕府'''(とくがわばくふ)ともいう。[[安土桃山時代]]とともに後期[[封建主義|封建社会]]にあたる。
江戸時代初期に行われた[[大御所政治]]('''駿府政権''')に関してもここで述べる。
== 概要 ==
徳川家の当主、徳川家康が[[従一位]][[右大臣]]に叙任され、[[征夷大将軍]]に補されて260余りの武家[[大名]]と主従関係を結び、彼らを統制するという制度は、[[1600年代]]後半までに確立された。その将軍の[[政府]]を「[[幕府]]」、臣従している大名家を「[[藩]]」、さらに両者が複合した[[権力]]の体制を「[[幕藩体制]]」と一般に呼んでいる。ただし、「幕府」及び「藩」の語は[[幕末]]期に広く使用され、現在も歴史用語として定着しているものの、江戸時代を通じて使用されていたわけではない。それまでは、将軍の政府は「[[公儀]]」・「公辺」などと漠然と呼ばれていた{{Sfn|明治維新史学会|2011|pp=3-5}}。
幕府の始期及び終期については諸説あるが、征夷大将軍の任官時期に着目する場合には、家康がはじめて将軍職に任じられた1603年[[3月24日]](慶長8年[[2月12日 (旧暦)|2月12日]])から、いわゆる[[王政復古の大号令]]によって15代将軍[[徳川慶喜]]の将軍職辞任が勅許され、併せて幕府の廃止が宣言された1868年[[1月3日]](慶応3年[[12月9日 (旧暦)|12月9日]])までとなる。終期には他にも[[1867年]][[11月9日]](慶応3年[[10月14日 (旧暦)|10月14日]])に慶喜が[[大政奉還]]を行った時、1868年[[5月3日]](慶応4年/[[明治]]元年[[4月11日 (旧暦)|4月11日]])の[[江戸開城]]とする説もある。
[[徳川将軍家]]が実質的に日本を支配した、この260年あまりの期間を一般に「江戸時代」と呼ぶ。江戸幕府は日本の歴史上、[[鎌倉幕府]]及び[[室町幕府]]に続く武家政権である<ref name="hirano">{{Cite web|和書|title=幕府(ばくふ)/ 時代劇用語指南(2008年5月29日)|url=https://imidas.jp/jidaigeki/detail/L-57-033-08-04-G252.html|website=[[山本博文]] (解説) / 情報・知識&オピニオン imidas - [[イミダス]]|accessdate=2021-11-15|language=ja}}</ref>。
== 幕藩体制 ==
[[ファイル:Tokugawa_Ieyasu2.JPG|thumb|200px|left|初代将軍・徳川家康]]
幕府の支配体制は幕藩体制と呼ばれ、将軍の政府である幕府と、将軍と主従関係を結んだ大名の政府である[[藩]]で構成されていた。将軍は大名に対して[[朱印状]]を与えてその[[知行]]を保障し、大名は当該知行内において独自に統治を行う権限を一定程度有した。幕府は「公儀」として国内全体の統治を行うとともに、自らも1大名として領分([[天領]]・御領)を支配し、[[京都所司代]]、[[大坂城代]]、[[遠国奉行]]、[[郡代]]・[[代官]]などの地方官を設置した。
江戸幕府の支配では、将軍と大名の主従関係を確認するための[[軍役]]として、各藩大名に対して[[参勤交代]]や、築城・[[治水工事]]などの[[手伝普請]]が課せられた。
なお、「藩」の語が公称として用いられるようになったのは明治時代のことで、公文書では「領」「領分」、あるいは「領知」などが使用された。公称としての藩は、1868年(明治元年)に公布された[[政体書]]によって設けられ、[[1871年]](明治4年)の[[廃藩置県]]によって廃止された。
== 統治機構 ==
[[ファイル:Edo l122.jpg|thumb|250px|[[江戸城]]天守]]
江戸幕府では権力の集中を避けるため主要な役職は複数名が配置され、一か月交代で政務を担当する月番制を導入し、重要な決定は合議を原則とした。常置の最高職である老中及び臨時に置かれる[[大老]]、その補佐役である[[若年寄]]は[[譜代大名]]から選任され、[[大目付]]・三奉行([[寺社奉行]]・[[町奉行]]・[[勘定奉行]])等の要職には譜代あるいは[[旗本]]が充てられて実務を担った。幕府組織は後期にはその全貌の把握が困難であるほど巨大化・複雑化し、幕末の[[慶応の改革]]では老中の月番制を廃止して、国内事務・会計・外国・[[陸軍総裁|陸軍]]・[[海軍総裁|海軍]]の各総裁を専務する等の改革が行われた。
幕府の政策決定は、将軍・幕閣(老中・若年寄)・実務吏僚(大目付・三奉行等)、[[取次 (歴史学)|取次]]・補佐を行う将軍の側近である[[側用人|御側用人]]や[[御側御用取次|御側衆]]、幕閣のサービススタッフである[[奥右筆]]や[[同朋衆]]により運営された。
基本的な流れとしては実務吏僚から挙げられた議案を幕閣が審議した上で、側近を介して将軍が決裁を行った。また親政や側用人政治の場合は、幕閣を経ずに直接議案が側近に持ち込まれ、将軍が決裁するため幕閣の役割は形骸化した。これとは別に将軍が直接意見を聞くため、実務吏僚を呼び出して直接諮問する事もあった。
== 財政 ==
家康の時期に、[[勘定奉行]]が取り仕切る[[勘定方]]が設置されたが財政は安定しておらず、[[財政赤字|赤字]]などによりしばしば[[幕政改革]]が行われた。
幕末の[[1866年]](慶応2年)には既に[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]の[[オリエンタル・バンク]]の支店が[[横浜市|横浜]]に設立されていたと言われ、幕府は[[長州征伐]]のため、同年同銀行と600万[[ドル]]の借款契約を締結した{{Sfn|関山|1943|pp=63}}。
== 大名 ==
{{See also|近世大名}}
大名は以下のように分類された。
* [[親藩]]:徳川家の一族
* [[譜代大名]]:[[関ヶ原の戦い]]以前から徳川家に仕えていた大名家
* [[外様大名]]:関ヶ原の戦い以降から徳川家に仕え始めた大名家(関ヶ原の戦いで西軍として戦った[[豊臣氏|豊臣]]系大名も含む)
この分類は、政権内の権力において大きな差となっていた。特に、幕府の要職に全て譜代大名をもって充てた事は、鎌倉幕府、室町幕府からの大きな転換であった。鎌倉・室町幕府においては、時によっては将軍家・[[執権]]すらしのぐほどの有力[[御家人]]・[[守護大名]]が要職に就いていた。また、[[豊臣政権]]末期の[[五大老]]制は、有力大名による集団指導体制であり、外様大名である徳川家康の政権簒奪を防ぐことができなかった。これに対して、江戸幕府では譜代大名が幕府の要職を独占していた。元々は豊臣政権時代に一大名に過ぎなかった家康のさらに臣下であった譜代大名は、さほど有力ではない小大名が中心であり、徳川家以外の他の有力大名は、地方を統治する外様大名として中央政権の要職に就くことが無くなった。つまり、将軍個人の独裁体制ではないものの、徳川家という枠組において独裁体制を敷いていたのである。またこのことにより、あまり政治に関与しなかった将軍であっても、幕閣の完全な傀儡になることはなく、政権の簒奪も未然に防止することが可能となった。
しかしながらこれは、親藩や有力外様大名が幕閣よりも「目上の立場」になる事を意味し(例えば[[井伊氏|井伊家]]は譜代大名筆頭であるが、外様大名筆頭の[[前田家]]や、[[徳川御三家|御三家]]・[[御三卿]]よりは下の席次であった)、幕末期において問題点として噴出する事となった。当時の大老である[[井伊直弼]]は強権をもって[[安政の大獄|反対者を弾圧した]]が、その報復である[[桜田門外の変]]に倒れ、以降の江戸幕府は諸大名の統制が困難になり、大政奉還及び江戸開城を迎える事となった。
== 江戸幕府の役職 ==
<!-- * [[征夷大将軍]] --><!-- 将軍は幕府の職制ではなく朝廷の職制、また役職ではなく世襲職 -->
=== 大名役 ===
御側御用取次はもともと高級旗本の役職だったが、拝命後ある程度の時を経てから大名に取り立てられる場合が多かった。
* [[大老|大老・大老格]](幕府成立当初は[[大政参与]]も置かれたが後に大老と統一)
* [[老中]]・[[老中格]]
* [[側用人]]・[[御側御用取次]]
以上が幕政の首脳。このうち'''「幕閣」'''と呼ばれたのは'''大老・大老格と老中・老中格'''で、側用人・御側御用取次は時代や個人によってその権限に大きな差があった。
* [[京都所司代]]
* [[大坂城代]]
* [[寺社奉行]]
* [[若年寄]]
* [[奏者番]]
=== 旗本役 ===
{{See also|旗本#江戸幕府の旗本}}
諸太夫役と布衣役を『天保年間諸役大概順』に拠って列記、これに支配関係と[[伺候席]]を参考として添えた。なお『諸役大概』に記載があるものの、それが役職であるか世襲職であるかが不明瞭なもの ([[林家 (儒学者)|林家]]が代々勤めた[[大学頭]]など)についてはこれを省いた。
{{colbegin}}
* [[側衆]] (老中支配)
* [[高家 (江戸時代)|高家]] (老中支配、雁間詰)
* [[駿府城#駿府城代|駿府城代]] (老中支配、雁間詰)
* [[遠国奉行#遠国奉行の一覧|伏見奉行]] (老中支配、芙蓉間詰)
* [[留守居#幕府の留守居|留守居]] (老中支配)
* [[番頭#近世武家の番頭|大番頭]] (老中支配、菊間詰)
* [[書院番頭]] (若年寄支配、菊間詰)
* [[小姓組|小姓組番頭]] (若年寄支配、菊間詰)
* [[御三卿]]家老 (老中支配、芙蓉間詰)
* [[大目付]] (老中支配、芙蓉間詰)
* [[町奉行]] (老中支配、芙蓉間詰)
* [[勘定奉行]] (老中支配、芙蓉間詰)
* [[旗奉行]] (老中支配、菊間詰)
* [[作事奉行]] (老中支配、芙蓉間詰)
* [[普請奉行]] (老中支配、芙蓉間詰)
* [[小普請奉行]] (若年寄支配、中之間詰) <!---->
* [[甲府勤番]]支配 (老中支配、芙蓉間詰)
* [[長崎奉行]] (老中支配、芙蓉間詰)
* [[遠国奉行#下田奉行・浦賀奉行|浦賀奉行]] (老中支配、芙蓉間詰)
* [[京都町奉行]] (老中支配、芙蓉間詰)
* [[大坂町奉行]] (老中支配、芙蓉間詰)
* [[駿府城#駿府城代|駿府定番]] (老中支配、芙蓉間詰)
* [[禁裏付]] (老中支配、芙蓉間詰)
* 仙洞付 (老中支配、芙蓉間詰)
* [[山田奉行]] (老中支配、芙蓉間詰)
* [[遠国奉行#日光奉行|日光奉行]] (老中支配、芙蓉間詰)
* [[遠国奉行#奈良奉行|奈良奉行]] (老中支配、芙蓉間詰)
* [[堺奉行]] (老中支配、芙蓉間詰)
* [[遠国奉行#駿府町奉行|駿府町奉行]] (老中支配、芙蓉間詰)
* [[佐渡奉行]] (老中支配、芙蓉間詰)
* [[遠国奉行#新潟奉行|新潟奉行]] (老中支配、芙蓉間詰)
* [[羽田奉行]] (老中支配、芙蓉間詰)
* 西丸留守居 (若年寄支配、中之間詰)
* [[鉄砲百人組頭]] (若年寄支配、菊間詰)
* [[鑓奉行]] (老中支配、菊間詰)
* [[小普請組]]支配 (老中支配、中之間詰)
* [[新番|新番頭]] (若年寄支配、中之間詰)
* [[持弓頭]]・[[持筒頭]] (若年寄支配、菊間詰)
* [[火消|定火消役]] (若年寄支配、菊間詰)
* [[小姓]] (若年寄支配)
* [[中奥小姓]] (若年寄支配、山吹間詰)
* 大坂船手 (老中支配、躑躅間詰)
* [[留守居番]] (老中支配、中之間詰)
* [[先手頭|先手頭・弓頭・鉄砲頭]] (若年寄支配、躑躅間詰)
* [[目付]] (若年寄支配、中之間詰)
* [[使番]] (若年寄支配、菊間詰)
* [[書院番頭|書院番組頭]] (若年寄支配、菊間詰)
* [[小姓組|小姓組組頭]] (若年寄支配、菊間詰)
* [[駿府城#駿府城代|駿府勤番組頭]] (駿府城代支配)
* [[鉄砲方]] (若年寄支配、躑躅間詰)
* 西丸裏門番之頭 (若年寄支配、躑躅間詰)
* [[徒頭]] (若年寄支配、躑躅間詰)
* [[小十人|小十人頭]] (若年寄支配、躑躅間詰)
* [[小納戸]] (若年寄支配)
* [[船手]] (若年寄支配、躑躅間詰)
* 二丸留守居 (若年寄支配、焚火間詰)
* [[納戸頭]] (若年寄支配、焚火間詰)
* [[腰物奉行]] (若年寄支配、焚火間詰)
* [[鷹匠]]頭 (若年寄支配、焚火間詰)
* [[勘定吟味役]] (老中支配、中之間詰)
* [[奥右筆]]組頭 (若年寄支配)
* [[郡代]] (勘定奉行支配、躑躅間詰)
{{colend}}
=== 幕末に新設された主な役職 ===
* [[将軍後見職]]
* [[政事総裁職]]
** [[神奈川奉行]]
** [[遠国奉行#兵庫奉行|兵庫奉行]]
** [[山陵奉行]]
* 国内事務総裁職
* 外国事務総裁職
** [[外国惣奉行]]
*** [[外国奉行]]
* 会計総裁職
* [[京都守護職]]
** [[京都見廻役]]
* 軍事総裁職
** [[幕府海軍]]
*** [[海軍総裁|海軍総裁職]]
**** [[海軍奉行]]
***** [[軍艦奉行]]
** [[幕府陸軍]]
*** [[陸軍総裁|陸軍総裁職]]
**** 陸軍奉行
***** 騎兵奉行
***** 歩兵奉行
***** 撤兵奉行
***** 銃隊奉行
== 江戸幕府の組織図 ==
<div style="font-size:80%;">
<pre style="line-height:1em;">
将軍━┳━大老
┃
┣━老中━━━━┳━御側衆
┃ ┃
┣━御側用人 ┣━留守居━━━━━━━━━━┳━留守居公用人
┃ ┃ ┃
┣━御側御用取次┃ ┣━留守居祐筆
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┗━御庭番┃ ┣━留守居与力
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━留守居同心
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━具足奉行━━━━━┳━具足奉行組頭
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┗━具足奉行同心
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━鉄砲玉薬奉行━━━┳━鉄砲玉薬組頭
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━鉄砲玉薬同心
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┗━掃除の者
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━鉄砲箪笥奉行━━━┳━大箪笥方鉄砲箪笥奉行組頭
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━大箪笥方鉄砲箪笥奉行同心
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━小箪笥方鉄砲箪笥奉行組頭
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┗━小箪笥方鉄砲箪笥奉行同心
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━弓矢槍奉行━━━━┳━弓矢槍奉行組頭
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┗━弓矢槍奉行同心
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━幕奉行━━━━━━┳━幕奉行同心
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┗━幕奉行中間
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━富士見宝蔵番頭━━┳━富士見宝蔵番組頭
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┗━富士見宝蔵番衆
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━天主番頭━━━━━┳━天主番組頭
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┗━天主番衆
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━裏門切手番頭━━━━━━裏門切手同心
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━御台様広敷番頭━━━━御台様広敷番衆━━━━┳━御台様広敷伊賀者
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┗━御台様広敷進上番
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━御簾中様広敷番頭━━━御簾中様広敷番衆━━━┳━御簾中様広敷伊賀者
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┗━御簾中様広敷進上番
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━進物取次番頭━━━━━進物取次番━━━━━━━━進物取次下番
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━伊賀衆組頭━━━━┳━広敷添番
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┗━伊賀衆
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━明屋敷番伊賀者組頭━━明屋敷番伊賀者
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━明屋敷番調役
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━明屋敷番勘定役
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━奥火之番
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┗━中間頭━━━━━━━━中間組頭━━━━━━━━━中間
┃ ┃
┃ ┣━高家━━━━━━━━━━━┳━高家肝煎
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┗━表高家
┃ ┃
┃ ┣━御三卿家老
┃ ┃
┃ ┣━大番頭━━━━━━━━━━┳━大番組頭━━━━━━━大番衆
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┗━大番頭与力━━━━━━大番頭同心
┃ ┃
┃ ┣━江戸町奉行━━━━━━━━┳━町奉行所与力━━━┳━内与力━━━━━━━━━━用部屋手付同心
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━年番方与力━━━━━━┳━年番方同心
┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┗━年番方物書同心
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━本所方与力━━━━━━┳━本所方同心
┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┗━本所方水主
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━養生所見廻り与力━━━━━養生所見廻り同心
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━牢屋見廻り与力━━━━━━牢屋見廻り同心
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━吟味方与力(吟味与力)━━吟味方同心
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━赦帳撰要方人別帳掛与力━━赦帳撰要方人別帳掛同心
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━高積見廻り与力━━━━━━高積見廻り同心
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━町火消人足改与力━━━━━町火消人足改同心
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━風烈廻り昼夜廻り与力━━━風烈廻り昼夜廻り同心
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━例繰方与力━━━━━━━━例繰方同心
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━町会所掛与力━━━━━━━町会所掛同心
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━定橋掛与力━━━━━━━━定橋掛同心
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━古銅吹所見廻り与力━━━━古銅吹所見廻り同心
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━市中取締諸色調掛与力━━━市中取締諸色調掛同心
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━猿屋町会所見廻り与力━━━猿屋町会所見廻り同心
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━御肴青物御鷹餌耳掛与力
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━諸問屋組合再興掛与力━━━諸問屋組合再興掛同心
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━非常取締掛与力━━━━━━非常取締掛同心
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━人足寄場定掛与力━━━━━人足寄場定掛同心
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━硝石会所見廻り与力━━━━硝石会所見廻り同心
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━外国掛与力━━━━━━━━外国掛同心
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━開港掛与力━━━━━━━━開港掛同心
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━町兵掛与力━━━━━━━━町兵掛同心
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━当番方与力━━━━━━━━当番方同心
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━御国益御仕法度掛与力━━━御国益御仕法度掛同心
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━諸色潤沢掛与力━━━━━━諸色潤沢掛同心
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━諸色値下掛与力━━━━━━諸色値下掛同心
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━外国人居留地掛与力━━━━外国人居留地掛同心
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┗━町奉行所同心━━━━━┳━隠密廻り同心━━━━━┳━目明し
┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┗━岡引━━━━━下引
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━定町廻り同心━━━━━┳━目明し
┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┗━岡引━━━━━下引
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━臨時廻り同心
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━下馬廻り同心
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━門前廻り同心
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━御出座御帳掛同心
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━定触役同心
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━引纏役同心
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━定中役同心
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┗━両組姓名掛同心
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━中間━━━━━小者
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━牢屋奉行━━━━━┳━牢屋同心━━━━━━━┳━鍵役
┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┣━数役
┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┣━打役
┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┣━小頭
┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┣━世話役
┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┣━書役━━━━━━━━━┳━本牢当番
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┗━百姓牢当番
┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┗━━━━━━━━━━━━━━牢屋下男
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┗━牢屋医師
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━本所道役
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━小石川養生所
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━江戸町年寄━━━━━━江戸町名主━━━━━━━━自身番
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━江戸町地割役
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━江戸町火消
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┗━穢多頭━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━穢多
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┗━非人頭━━━━━━━━━━非人
┃ ┃
┃ ┣━大坂定番━━━━━━━━━┳━大坂破損並材木奉行━━大坂破損並材木奉行手代
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━大坂具足奉行━━━━━大坂具足奉行同心
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━大坂鉄砲方━━━━━━大坂鉄砲方同心
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━大坂弓矢奉行━━━━━大坂弓矢奉行同心
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┗━大坂鉄砲奉行━━━━━大坂鉄砲奉行同心
┃ ┃
┃ ┣━大坂加番
┃ ┃
┃ ┣━大坂城目付
┃ ┃
┃ ┣━大坂船手━━━━━━━━━┳━大坂船手与力
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┗━大坂船手水主
┃ ┃
┃ ┣━大坂町奉行━━━━━━━━━━大坂町奉行所与力━┳━同心支配与力
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━寺社役与力
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━地方役与力
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━川役与力
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━石役与力
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━金役与力
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━酒改方与力
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━御蔵目付与力
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━普請役与力
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━小買物役与力
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━塩噌役与力
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━糸割符与力
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━極印役与力
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━火消役与力
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━盗賊改与力
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━闕所役与力
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━遠国役与力
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━定町廻与力
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━唐物方与力
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━流人役与力
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━目安証文役与力
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━牢扶持改与力
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┗━大坂町奉行所同心━━━┳━加役銅座俵物掛同
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━諸御用調役同心
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━加役箱館会所掛同心
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━加役箱館産物会所掛同心
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━兵庫西宮上ヶ知方同心
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━物書役同心
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━盗賊所御役所定詰方同心
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┗━盗賊捕方同心
┃ ┃
┃ ┣━勘定奉行━━━━━━━━━┳━勘定組頭
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━━━━━━━━━━━━鷹野方組頭
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━━━━━━━━━━━━本所牢屋敷取締役
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━留役勘定組頭
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━評定所番
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━評定所留守居
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━金奉行
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━切手手形改
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━蔵奉行
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━林奉行
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━油漆奉行
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━川船改役
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━大坂金奉行
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━大坂蔵奉行
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━二条蔵奉行
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━禁裡入用取調役
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━金座
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━銀座
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━銅座
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━鉄座
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━真鍮座
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━朱座
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━銭座
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━郡代
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┗━代官
┃ ┃
┃ ┣━勘定吟味役━━━━━━━━━━勘定吟味役改役━━━━勘定吟味役改役並━━━━━勘定吟味役下役━━━━━━当分出役
┃ ┃
┃ ┣━作事奉行━━━━━━━━━┳━京都大工頭━━━━━━京都大工棟梁━━━━━━━京都大工
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━大工頭━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━大工役の者
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━作事下奉行━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━作事下奉行手代
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┗━作事下奉行書役
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━畳奉行━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━畳奉行手代
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┗━畳蔵門番人
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━細工所頭━━━━━┳━細工所組頭━━━━━━━━細工所同心
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━細工所勘定役頭取━━━━━細工所勘定役
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━細工所勘定改役
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┗━細工方改役━━━━━━━━細工方抱入
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━作事方被官━━━━┳━作事方勘定役
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━作事方小役
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━作事方手代
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━作事方書役
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━作事方定普請同心組頭━━━作事方定普請同心
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━作事方手大工組頭━━━━━作事方手大工世話役
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━作事方定小屋門番人
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━餝棟梁
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━作事方大棟梁
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━大鋸棟梁
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┗━小細工奉行━━━━━━━━小細工奉行手代
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━瓦奉行
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━植木奉行━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━植木奉行手代
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┗━植木奉行同心
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┗━作事方庭作
┃ ┃
┃ ┣━普請奉行
┃ ┃
┃ ┣━小普請支配
┃ ┃
┃ ┣━旗奉行
┃ ┃
┃ ┣━槍奉行━━━━━━━━━━━━八王子千人頭━千人同心組頭━千人同心
┃ ┃
┃ ┣━留守居番
┃ ┃
┃ ┣━大目付━━━━━━━━━━┳━闕所物奉行
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━肝煎坊主
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━宗門改加役人別帳改
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━道中奉行
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━服忌令分限帳改
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━日記帳改
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┗━十里四方鉄砲改
┃ ┣━交替寄合
┃ ┃
┃ ┣━駿府城代━━━━━━━━━┳━駿府武具奉行
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━駿府定番
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━駿府城定番目付
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━久能山総門番
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┗━久能山総門番目代
┃ ┃
┃ ┣━駿府加番
┃ ┃
┃ ┣━駿府町奉行
┃ ┃
┃ ┣━禁裡付
┃ ┃
┃ ┣━仙洞付
┃ ┃
┃ ┣━京都町奉行━━━━━━━━┳━京都町奉行所与力
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━雑色
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━穢多年寄
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━悲田院年寄
┃ ┃
┃ ┣━伏見奉行
┃ ┃
┃ ┣━長崎奉行
┃ ┃
┃ ┣━奈良奉行
┃ ┃
┃ ┣━伊勢山田奉行
┃ ┃
┃ ┣━日光奉行━━━━━━━━━━━東叡山目代
┃ ┃
┃ ┣━堺奉行
┃ ┃
┃ ┣━浦賀奉行
┃ ┃
┃ ┣━新潟奉行
┃ ┃
┃ ┣━佐渡奉行
┃ ┃
┃ ┣━箱館奉行
┃ ┃
┃ ┣━羽田奉行
┃ ┃
┃ ┣━甲府勤番支配
┃ ┃
┃ ┣━表絵師
┃ ┃
┃ ┗━奥絵師
┃
┣━若年寄━━━┳━御広敷用人
┃ ┃
┃ ┣━数奇屋坊主頭
┃ ┃
┃ ┣━同朋頭━━━━━━━━━━━━奥坊主頭
┃ ┃
┃ ┣━馬医方
┃ ┃
┃ ┣━召馬預
┃ ┃
┃ ┣━馬預━━━━━━━━━━━┳━馬方
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━馬飼小頭
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┗━野馬奉行
┃ ┃
┃ ┣━書物奉行
┃ ┃
┃ ┣━駒場薬園預
┃ ┃
┃ ┣━小石川薬園奉行
┃ ┃
┃ ┣━吹上奉行━━━━━━━━━━━吹上添奉行
┃ ┃
┃ ┣━浜御殿奉行━━━━━━━━━━浜御殿添奉行
┃ ┃
┃ ┣━膳奉行
┃ ┃
┃ ┣━賄頭
┃ ┃
┃ ┣━膳所台所頭
┃ ┃
┃ ┣━奥膳所台所頭
┃ ┃
┃ ┣━表台所頭
┃ ┃
┃ ┣━西の丸膳所台所頭
┃ ┃
┃ ┣━西の丸表台所頭
┃ ┃
┃ ┣━歌学者
┃ ┃
┃ ┣━典薬頭
┃ ┃
┃ ┣━表番外科
┃ ┃
┃ ┣━表番医師
┃ ┃
┃ ┣━奥外科
┃ ┃
┃ ┣━奥鍼治
┃ ┃
┃ ┣━奥医師
┃ ┃
┃ ┣━奥口科医師
┃ ┃
┃ ┣━奥眼科医師
┃ ┃
┃ ┣━寄合医師
┃ ┃
┃ ┣━御目見医師
┃ ┃
┃ ┣━小石川養生所医師
┃ ┃
┃ ┣━天文方
┃ ┃
┃ ┣━林大学頭
┃ ┃
┃ ┣━学問所奉行━━━━━━━━━━学問所詰儒者
┃ ┃
┃ ┣━蕃書調所頭取
┃ ┃
┃ ┣━奥儒者
┃ ┃
┃ ┣━表祐筆組頭
┃ ┃
┃ ┣━奥祐筆組頭
┃ ┃
┃ ┣━進物番
┃ ┃
┃ ┣━腰物奉行
┃ ┃
┃ ┣━納戸頭
┃ ┃
┃ ┣━西の丸諸役━━━━━━━━┳━西の丸留守居
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┗━西の丸裏門番頭
┃ ┃
┃ ┣━御三卿付諸役
┃ ┃
┃ ┣━屋敷改並新地改(新地奉行)
┃ ┃
┃ ┣━二の丸留守居
┃ ┃
┃ ┣━船手頭
┃ ┃
┃ ┣━召船役
┃ ┃
┃ ┣━中川番
┃ ┃
┃ ┣━火付盗賊改
┃ ┃
┃ ┣━徒頭
┃ ┃
┃ ┣━小十人頭
┃ ┃
┃ ┣━鳥見組頭
┃ ┃
┃ ┣━鷹匠支配
┃ ┃
┃ ┣━出火之節見廻役
┃ ┃
┃ ┣━本所深川出火之節見廻役
┃ ┃
┃ ┣━使番
┃ ┃
┃ ┣━目付━━━━━━━━━━━┳━徒目付組頭
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━小十人目付組頭
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━中間目付
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━貝役
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━押太鼓役
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━━━━━━━━━━━━掃除頭
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━━━━━━━━━━━━提灯奉行
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━━━━━━━━━━━━中間頭
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━━━━━━━━━━━━駕籠頭
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━━━━━━━━━━━━黒鍬頭
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━━━━━━━━━━━━小人頭
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━表火之番組頭
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━━━━━━━━━━━━玄関番
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━━━━━━━━━━━━中の口番
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━━━━━━━━━━━━伝奏屋敷番
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━浜吟味役
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━小普請方改役
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━━━━━━━━━━━━二の丸火之番
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━台所番
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┗━━━━━━━━━━━━目付支配無役世話役
┃ ┃
┃ ┣━定火消役
┃ ┃
┃ ┣━先手弓頭
┃ ┃
┃ ┣━先手鉄砲頭
┃ ┃
┃ ┣━鉄砲方
┃ ┃
┃ ┣━持筒頭
┃ ┃
┃ ┣━持弓頭
┃ ┃
┃ ┣━鉄砲百人組頭
┃ ┃
┃ ┣━小納戸頭取
┃ ┃
┃ ┣━小姓頭取
┃ ┃
┃ ┣━中奥番
┃ ┃
┃ ┣━中奥小姓
┃ ┃
┃ ┣━小姓組番頭
┃ ┃
┃ ┣━書院番頭
┃ ┃
┃ ┣━新番頭
┃ ┃
┃ ┣━小普請奉行
┃ ┃
┃ ┣━奥詰衆
┃ ┃
┃ ┣━講武所奉行
┃ ┃
┃ ┣━材木石奉行
┃ ┃
┃ ┗━軍艦操練所頭取
┃
┣━奏者番
┃
┣━寺社奉行━━┳━吟味物調役
┃ ┃
┃ ┣━紅葉山火之番
┃ ┃
┃ ┣━紅葉山御宮御霊屋付坊主
┃ ┃
┃ ┣━紅葉山高盛坊主
┃ ┃
┃ ┣━紅葉山掃除之者組頭
┃ ┃
┃ ┣━神道方
┃ ┃
┃ ┣━楽人方
┃ ┃
┃ ┣━連歌師
┃ ┃
┃ ┣━碁所
┃ ┃
┃ ┣━将棋所
┃ ┃
┃ ┗━大西慶梧役
┃
┣━京都所司代━┳━京都郡代
┃ ┃
┃ ┣━二条城門番之頭
┃ ┃
┃ ┣━二条城御殿預
┃ ┃
┃ ┗━二条城鉄砲奉行
┃
┗━大坂城代
</pre>
</div>
== 駿府政権 ==
{{政府
|政府名 = 駿府政権
|背景色 = #006400
|境界 =
|各国語表記 =
|画像 = Mitsubaaoi.svg
|画像の説明 = [[徳川家]][[家紋]]・[[三つ葉葵|徳川葵]]
|創設年 = [[1605年]]
|解散年 = [[1616年]]
|代表 = [[徳川家康]]([[大御所 (江戸時代)|大御所]])
|対象国 = {{JPN}}
|地域 =
|政庁所在地 = [[駿河国]] [[駿府]]<br/>(現 : [[静岡県]][[静岡市]])
|前政府 =
|後政府 = {{JPN1603}}
|備考 = 江戸幕府との二元政治<br/>[[駿府城]]は1609年以降は名目上、[[徳川頼宣]]の[[駿府藩]]50万石の政庁。
}}
[[ファイル:Castle Gate - 駿府城跡 東御門 - panoramio.jpg|サムネイル|240x240ピクセル|[[駿府城]]]]
[[ファイル:久能山東照宮楼門.png|サムネイル|240x240ピクセル|[[久能山東照宮]]]]
江戸幕府を開府した初代将軍・徳川家康は、[[1605年]](慶長10年)に将軍職を子の[[徳川秀忠]]に譲り[[大御所 (江戸時代)|大御所]]となり、[[駿府城]]に隠居城を構えた。
大御所となった後も家康は現役将軍の権威に配慮しつつも政治を主導し'''[[大御所政治]]'''を行った。
主に西国政策([[朝廷 (日本)|朝廷]]や豊臣家、[[西国]]大名との対応)を中心に、外交・内政への指示、法令起草など江戸幕府と連携した政策が行われた<ref>{{Cite web|和書|title=家康公の生涯 - 隠居でなかった家康の晩年|url=https://www.visit-shizuoka.com/t/oogosho400/study/02_07.htm|website=www.visit-shizuoka.com|accessdate=2020-11-03}}</ref>。
[[1616年]]([[元和 (日本)|元和]]2年)の家康の死去により政権は江戸(将軍 秀忠)に統一された。
;主な幕閣<ref name=":1">藤野保『徳川幕閣』1990年、中央公論社</ref>
*新参譜代
**[[本多正純]]、[[成瀬正成]]、[[安藤直次]]、[[竹腰正信]]、[[長谷川藤広]]
*[[近習出頭人]]
**[[松平正綱]]、[[板倉重昌]]、[[秋元泰朝]]
*僧侶
**[[以心崇伝|以心崇伝(金地院崇伝)]]、[[天海]]
*学者
**[[林羅山]]
*豪商
**[[茶屋四郎次郎]]、[[後藤庄三郎]]、[[角倉了以]]、[[湯浅作兵衛]]
*外国人顧問
**[[ウィリアム・アダムス|三浦按針]]、[[ヤン・ヨーステン]]
駿府政権下では、豊臣家との[[大坂の陣]]、以心崇伝による[[武家諸法度]]、[[禁中並公家諸法度]]起草など江戸幕府の支配体制が築き上げられた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/data/open/cnt/3/50/1/ssr3-26.pdf|title=駿府から発信された幕府政治|accessdate=2020/11/03|publisher=静岡県立中央図書館}}</ref>。
幕府[[御金改役]]の[[後藤光次|後藤庄三郎光次]]が著した[[駿府政事録]]が残されている。
;江戸政権(江戸幕府)
秀忠の居る江戸では主に[[東国]]に対する政策を行った<ref>鎌田、1992年、50頁。</ref>。秀忠が政治を実際に取り仕切るようになったのは家康の死後からである。一方で、幕府内の軍権は秀忠により増強・統制され、財政も段階的に駿府から江戸へ移管された。
幕閣では主に譜代が登用された。
*江戸政権下での幕閣<ref name=":1" />
**[[本多正信]]、[[青山忠成]]、[[内藤清成]](関東総奉行)
**[[大久保忠隣]]、[[酒井忠世]]、[[土井利勝]]、[[安藤重信]](江戸年寄)
**[[酒井忠利]]([[留守居]])
**[[水野忠元]]、[[井上正就]](江戸老中)
**[[米津田政]]、[[島田利正]]([[江戸町奉行]])
{{-}}
== 大坂幕府構想 ==
{{混同|大阪都構想}}
以下に述べる内容は[[跡部信]]が提唱した初期の幕府が大坂へ移転する計画があったする論だが、当時の幕府がこのような移転を正式に表明した史料は無く、また2022年の段階では定説でもない。
結果的に徳川幕府は[[武蔵国]]の[[江戸]]に本拠を置くことになったが、徳川家にとってこれは不本意なものであった。[[大坂の陣|大坂夏の陣]]終了直後の[[元和 (日本)|元和]]元年(1615年)6月、徳川家康は[[大坂]]を将軍・[[徳川秀忠|秀忠]]の居城とし政権の本拠地とする考えを示した{{Sfn|跡部|2019|p=81}}{{Sfn|藤田|2019|p=115}}。[[天正]]18年(1590年)、徳川氏は[[豊臣秀吉]]の命令により[[関東]]・[[奥羽]]経営のため[[東国]]に転封されていたが、豊臣氏の滅亡によって東国を本拠地とする理由を喪失していた{{Sfn|藤田|2019|p=120}}。
大坂は[[太田牛一]]が『[[信長公記]]』巻13で「そもそも大坂は日本一の境地」であり、[[堺]]・[[奈良]]・[[京都]]に近く四方を山に囲まれ要塞堅固なうえ、[[明]]・[[朝鮮]]・[[南蛮]]から貿易船が来航し、[[五畿七道]]の産物が集まり経済力の秀でた都市、と記すように近世初頭の日本において最重要の地であった<ref>{{Cite |和書 | author = 太田牛一 | title = 信長公記 }}</ref>。[[永禄]]13年/[[元亀]]元年(1570年)、[[織田信長]]は[[西国]]攻略の拠点として[[大坂本願寺]]に土地の明け渡しを求め、これを拒否した本願寺と10年間にわたって[[石山合戦|戦争]]が行われ<ref>{{Cite |和書 | author = 谷口克広 | title = 織田信長合戦全録 | date = 2002-1 | page = 146 | publisher = 中央公論社 | isbn = 978-4121016256 | ref = harv }}</ref>、信長の後継者の豊臣秀吉は政治・経済・対外交流・軍事の要衝である大坂を本拠として[[天下]]統一を成し遂げていた<ref>{{Cite journal |和書 |author= 佐藤大規|year= 2011|month= 02|title= 豊臣大坂城天守の復元的研究|journal= 史學研究|volume= 270|page= 35|publisher= 広島史学研究会|issn= 03869342|url= https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00032196}}</ref>。また秀吉は大坂・京都・[[伏見]]の3都市によって、中世の荘園制に立脚した市場構造とは異なる新たな中央市場圏を確立しており、その重要性はさらに増していた<ref>{{Cite |和書 | author = 本多博之 | title = 天下統一とシルバーラッシュ |date = 2015‐06 | page = 114 | publisher = 吉川弘文館 | isbn = 9784642058049 }}</ref>。だが、この最初の大坂幕府構想は翌元和2年(1616年)の家康の死没により中絶することになった{{Sfn|跡部|2019|p=81}}。
一度は断念した幕府の大坂移転構想だったが、公武合体政権の樹立を念願とする秀忠によって再び動き出した{{Sfn|藤田|2019|p=115}}。
[[File:Osaka Castle 04s5s4272.jpg|thumb|290px|left|豪壮華麗、石積みの芸術と評される徳川期大坂城の石垣<ref>{{Cite journal |和書 |author1= 玉野 富雄|author2= 金岡 正信|year= 2015|month= 3|title= 大阪城石垣の技術史|journal= 大阪産業大学論集. 自然科学編|volume= 125|page= 10|publisher= 大阪産業大学|issn= 02871394|naid= 110009900716}}</ref>。近世城郭石垣の技術的頂点に位置する<ref>{{Cite journal |和書 |author= 天野 光三他|date= 2000|title= 徳川期大坂城城郭石垣構造の土木史的研究|journal= 土木学会論文集|volume= 2000|issue= 660|page= 102|publisher= 土木学会|issn= 18827187|naid= 130003801661}}</ref>。]]
元和5年(1619年)、大坂城代を務めていた[[松平忠明]]が[[大和国]][[郡山藩]]に国替され、幕府は大坂を[[天領|直轄地]]とした{{Sfn|藤田|2019|p=117}}。その後[[藤堂高虎]]、[[小堀遠州]]の主導のもと大坂城を幕府の新たな拠点とすべく再築が進められ{{Sfn|跡部|2019|pp=78‐79}}{{Sfn|藤田|2019|pp=116-117}}、長期に及ぶ[[天下普請]]の末寛永5年(1628年)に新たな大坂城が完成した<ref>{{Cite journal |和書|author= 中村 博司|date= 2006-04|title= 徳川時代の大阪城再築工事をめぐって : 甲山石切丁場と城内巨石の紹介を中心に|journal= 時計台|volume= 76 |page= 19|publisher= 関西学院大学図書館|issn= 09183639}}</ref>。
一方で朝廷と幕府による公武合体構想は迷走していた。幕府による公武合体構想は既に家康の時代から秀忠と[[崇源院|江]]の女、[[徳川和子|和子]]を後水尾天皇に入内させる計画が進んでいた。家康は後水尾天皇と和子の間に生まれるであろう皇子に皇位継承させ、徳川家が天皇の外戚になろうと目論んでおり、慶長19年(1614年)には和子の入内が決定した。しかし元和2年の家康の死没に続いて元和3年(1617年)の[[後陽成天皇|後陽成上皇]]の薨去で和子の入内は一旦延期されることになった{{Sfn|藤田|2019|p=116}}。
その後、和子の入内が元和5年(1619年)に行われることが改めて決定したが{{Sfn|藤田|2019|p=116}}、元和4年(1618年)後水尾天皇と[[四辻与津子]]の間に後継者となる第一皇子・[[賀茂宮]]が誕生していた事実は徳川家に打撃を与え{{Sfn|久保|1988|p=30}}、再び入内が延期された{{Sfn|藤田|2019|p=116}}。
[[File:Tokugawa Masako.jpg|thumb|200px|right|徳川和子]]
元和6年(1620年)、ようやく和子の入内が実施され寛永3年(1626年)11月には第二皇子・[[高仁親王]]が誕生した。既に第一皇子の賀茂宮は元和8年(1622年)に夭折しており、徳川家が天皇の外戚の地位を得る可能性が高まった{{Sfn|藤田|2019|p=113}}。
寛永4年(1627年)4月、後水尾天皇は高仁皇子が4歳になれば譲位する考えを明らかにした{{Sfn|藤田|2019|p=114}}。更に高仁親王の天皇即位とセットで秀忠・家光父子の大坂城の入城が寛永6年(1629年)に予定され、公武合体政権構想の実現は目前に迫っていた{{Sfn|藤田|2019|p=117}}。
しかし寛永5年(1628年)6月、高仁親王が3歳で夭折。和子がこの年に出産していた皇子も9月に亡くなった。寛永6年(1629年)11月、後水尾天皇は和子との間に誕生していた[[明正天皇]]に譲位したが、[[女性天皇]]であったため徳川家の天皇家外戚の地位は一代で終わることが確定し、さらに公武合体構想の推進者である秀忠が大坂城再築後3年で亡くなってしまった{{Sfn|跡部|2019|p=82}}。結果、家康・秀忠が2代にわたっての念願であった公武合体政権構想は頓挫し{{Sfn|藤田|2019|p=117}}、徳川幕府は先進地の[[畿内]]を本拠地とすることを断念し、後進地域に本拠を据えざるを得なくなった<ref>{{Cite journal |和書 |last= |first= |author= 鎌田道隆|authorlink= |year= 1992|month= 12|title= 初期幕政における二元政治論序説|journal= 奈良史学|volume= 10|pages= 53-54|publisher= 奈良大学史学会|location= |issn= 02894874|naid= 120002677113|}}</ref>{{Efn|この東国の後進性の問題はなかなか解消されず、江戸中期になっても依然として幕府財政は上方経済に依存していたことが指摘されている<ref>。{{Cite journal |和書 |author= 鶴岡実枝子 |year= 1978|month= 3|title= 享保改革期の米価政策からみた江戸の位置|journal= 史料館研究紀要|volume= 10|pages= 121‐122|publisher= 史料館|location= |issn= 03869377|id= {{NCID|AN00119099}} }}</ref>。}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注釈"/>
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
{{脚注の不足|date=2019年9月4日|section=1}}
; 書籍
* {{Cite book |和書 |author=北島正元|authorlink=北島正元|date=1964 |year= |title=江戸幕府の権力構造 |publisher=[[岩波書店]] |asin=B000JAESEU |ref={{SfnRef|北島|1964}} }}
*{{Cite journal |和書 |author= 久保文武|year= 1988|month= 12|title= 徳川和子の入内と藤堂高虎|journal= 奈良史学|volume= 6|page= |publisher= 奈良大学史学会|location= |issn= 02894874|naid= 120002662297}}
* {{Cite book |和書 |author=笹間良彦|authorlink=笹間良彦|date=1999-11 |title=江戸幕府役職集成 |edition=新装版 |publisher=[[雄山閣出版]] |isbn=978-4-639-00058-7 |ref={{SfnRef||1999}} }}
* {{Cite book |和書 |author=関山直太郎 |date=1943 |title=日本貨幣金融史研究 |url={{NDLDC|1276489/40}} |publisher=新経済社 |doi=10.11501/1276489 |ref={{SfnRef|関山|1943}} }}
* {{Citation|和書|editor-last=竹内|editor-first=誠|editor-link=竹内誠 (歴史学者)|date=2003-07-01 |title=徳川幕府事典 |publisher=[[東京堂出版]] |isbn=978-4-490-10621-3}}
* {{Citation|和書|last=藤井|first=譲治|authorlink=藤井譲治|chapter=家綱政権論|editor1=松本四郎|editor1-link=松本四郎|editor2=山田忠雄|editor2-link=山田忠雄|date=1980-01 |title=講座日本近世史4 元禄・享保期の政治と社会 |publisher=[[有斐閣]] |isbn=978-4-6410-7094-3}}
* {{Citation|和書|last=藤井|first=譲治|date=1990-01-01 |title=江戸幕府老中制形成過程の研究 |publisher=[[校倉書房]] |series=歴史科学叢書 |isbn=978-4-7517-2020-2}}
* {{Citation|和書|last=藤井|first=譲治|date=2002-10-30 |title=幕藩領主の権力構造 |publisher=岩波書店 |isbn=978-4-0002-4414-5}}
* {{Citation|和書|last=藤野|first=保|authorlink=藤野保|date=1961 |title=幕藩体制史の研究―権力構造の確立と展開 |publisher=[[吉川弘文館]] |asin=B000J9FGD8}}
* {{Citation|和書|editor-last=藤野|editor-first=保|date=1987-12 |title=徳川幕閣のすべて |publisher=[[新人物往来社]] |isbn=978-4-40401-469-6}}
* {{Citation|和書|last=村川|first=浩平|authorlink=村川浩平|date=2000-06 |title=日本近世武家政権論 |publisher=日本図書刊行会、近代文芸社 |isbn=978-4-8231-0528-9}}
* {{Citation |和書 |editor=明治維新史学会|editor2=[[青山忠正]]|date=2011-05-21 |title=講座明治維新2 幕末政治と社会変動 |publisher=[[有志舎]] |isbn=978-4-9034-2642-6 |ref={{SfnRef|明治維新史学会|2011}} }}
* {{Cite book |和書 |author=松平太郎|authorlink=松平太郎|date=1919 |title=江戸時代制度の研究 |publisher=武家制度研究会 }}
*{{Cite journal |和書 |last= |first= |author= 跡部信|authorlink= 跡部信|date= 2019-2|title= 新発見の書状が語る「大坂幕府構想」|journal= 歴史街道 |publisher= PHP研究所|asin= B07MHQ59GP}}
*{{Cite journal |和書|author= 藤田達生|authorlink= 藤田達生|year= 2019|month= 10|title= 徳川公儀の形成と挫折|journal= 織豊期研究|volume= 21 |publisher= 織豊期研究会|issn= 13459813|naid= 40022055862}}
<!--* [[塚本学]]「綱吉政権論」|※所収文献名不明につき、現状では無効。-->
; 雑誌
* {{Cite book |和書 |date=1995 |title=徳川幕閣のすべて |publisher=[[新人物往来社]] |series=別冊[[歴史読本]]歴史ロマンシリーズ |asin=B015FCCRY4 |ref={{SfnRef|徳川幕閣のすべて|1995}} }}
== 関連項目 ==
* [[江戸時代]]
* [[幕藩体制]]
* [[松平状]]
* [[江戸城]]
* [[大奥]]
* [[徳川将軍一覧]]
* [[徳川御三家]]
* [[御三卿]]
== 外部リンク ==
*{{Kotobank}}
*{{ジャパンナレッジ|2194}}
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{{日本の幕府}}
{{江戸幕府将軍}}
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{{江戸幕府老中首座}}
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[[Category:江戸幕府|*]]
[[Category:江戸]]
[[Category:徳川家康]]
[[Category:徳川氏|*]]
[[Category:17世紀の日本の設立]]
[[Category:1603年設立]]
[[Category:1867年廃止]] | 2003-05-17T12:42:37Z | 2023-12-06T13:26:53Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%B9%95%E5%BA%9C |
8,456 | 御徒町駅 | 御徒町駅(おかちまちえき)は、東京都台東区上野五丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。
乗り入れている路線は、線路名称上は東北本線1路線のみである(詳細は路線記事および鉄道路線の名称参照)が、当駅には電車線を走行する京浜東北線電車および山手線電車の2系統が停車し、旅客案内では「東北(本)線」とは案内されていない。また当駅は、特定都区市内制度における「東京都区内」および「東京山手線内」に属している。
駅番号は、京浜東北線がJK 29、山手線がJY 04である。
開業当時の町名(御徒町、仲御徒町)から。御徒町の由来については、御徒町を参照のこと。
JR東日本ステーションサービスが駅業務を受託している上野駅管理の業務委託駅。島式ホーム2面4線を有する高架駅である。出口は北口と南口の2か所がある。南口にはお客さまサポートコールシステムが導入されており、一部の時間帯はインターホンによる対応となる。
1番線の東側には、中距離電車が上野東京ラインおよび回送に使用する3本の線路があり、当駅付近で進行目的の線路に転線するポイントが設置されているため、上野東京ラインは当駅には停車しないものの低速で走行する。
(出典:JR東日本:駅構内図)
2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は55,871人である。JR東日本管内の駅では橋本駅に次いで第67位。1993年度をピークに減少傾向にある。
近年の1日平均乗車人員の推移は下記の通り。
駅のすぐ北側を春日通りが東西に通っている。
当駅至近にA6・A7出入口があり、以下の路線への乗り換えが可能である。ただし、車内での放送・表示では都営大江戸線のみ案内されている(銀座線・日比谷線とも上野駅での乗り換えが至近のため)。
南口の松坂屋パークプレイス24正面には、2012年(平成24年)秋から「パンダ広場」という駅前広場があり、待ち合わせスポットの他、季節により音楽などのイベントも催される。その地下には自転車駐輪場がある。秋葉原駅までのガード下には「2k540 AKI-OKA ARTISAN」(ジェイアール東日本都市開発が運営する高架下商業施設)が2010年12月より開業している。
駅周辺には宝石・貴金属店が多く見られるが、1955年(昭和30年)頃まではむしろ東上野一丁目に多く集まっていた。当駅前は戦災で焼けて空き地が多く、上野駅にも近いという立地を活かして、同年11月21日に時計関係の問屋有志12社で「仲御徒町問屋連盟」が結成された。1975年(昭和50年)以降、クオーツ時計が広まるにつれ、駅の南側近辺において時計バンド卸商や時計の修理店がそれまで副業的に取り扱っていたジュエリーに業種転換を図るようになる。宝石の消費の増大と、それに対応する供給サイドの増大がうまくかみ合って、業者数も増えていった。
街作りと共同セールの開催を目的として、1987年(昭和62年)9月、上野五丁目と三丁目のジュエリー業者159社が集まって「ジュエリータウンおかちまち」(略称・JTO)が設立された。1989年(平成元年)頃には御徒町地区だけで1,000社以上もあるといわれていたが、過当競争と景気低迷で数が次第に減り、2000年代に入ってからは半分程度になったと言われ、インド人業者の進出が目覚ましい。
その他、かつて御徒町周辺に多く見られた業者に自転車組み立て業があったが、2000年代ではほとんど存在していない。その代わりにゴルフ道具、スニーカー、化粧品、そしてメガネなどを取り扱う業種の進出がアメ横商店街を中心に目立つようになった。また、ガード下や駅周辺に居酒屋が増え、昭和通り沿いには飲食店が増えている。 | [
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] | 御徒町駅(おかちまちえき)は、東京都台東区上野五丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。 | {{Otheruseslist|東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅|東京都交通局(都営地下鉄)大江戸線の駅|上野御徒町駅|東京地下鉄(東京メトロ)日比谷線の駅|仲御徒町駅|首都圏新都市鉄道つくばエクスプレスおよび東京都交通局(都営地下鉄)大江戸線の駅|新御徒町駅}}
{{駅情報
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|駅名 = 御徒町駅
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|画像説明 = 北口(2019年3月)<br />左奥は[[アメ横]](アメリカ横丁・アメヤ横丁)
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}}左から上野御徒町駅、御徒町駅
|よみがな = おかちまち
|ローマ字 = Okachimachi
|電報略号 = オチ←ヲチ
|所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
|所在地 = [[東京都]][[台東区]][[上野]]五丁目27
|座標 = {{coord|35|42|26.7|N|139|46|28.7|E|region:JP-13_type:railwaystation|display=inline,title}}
|駅構造 = [[高架駅]]
|ホーム = 2面4線
|開業年月日 = [[1925年]]([[大正]]14年)[[11月1日]]
|廃止年月日 =
|乗車人員 = 55,871
|乗降人員 =
|統計年度 = 2022年
|乗入路線数 = 2
|所属路線1 = {{color|#00b2e5|■}}[[京浜東北線]]{{Refnest|group="*"|name="tohoku-line"|いずれも線路名称上は[[東北本線]]。}}
|前の駅1 = JK 28 [[秋葉原駅|秋葉原]]
|駅間A1 = 1.0
|駅間B1 = 0.6
|次の駅1 = [[上野駅|上野]] JK 30
|駅番号1 = {{駅番号r|JK|29|#00b2e5|1}}
|キロ程1 = 3.0 km([[東京駅|東京]]起点)<br />[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]から27.3
|所属路線2 = {{color|#9acd32|■}}[[山手線]]<ref group="*" name="tohoku-line" />
|前の駅2 = JY 03 秋葉原
|駅間A2 = 1.0
|駅間B2 = 0.6
|次の駅2 = 上野 JY 05
|駅番号2 = {{駅番号r|JY|04|#9acd32|1}}
|キロ程2 = 3.0
|起点駅2 = 東京
|乗換 = {{Plainlist|
* [[上野御徒町駅]]([[都営地下鉄]][[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]])}}
|備考 = {{Plainlist|
* [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]<ref name="outsourcing" />
* [[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]導入駅{{Refnest|group="*"|南口に導入<ref name="StationCd=355_230909" />。}}<ref name="StationCd=355_230909" />
* [[画像:JR area YAMA.svg|15px|山]][[画像:JR area KU.svg|15px|区]] [[東京山手線内]]・[[特定都区市内|東京都区内]]駅}}
|備考全幅 = {{Reflist|group="*"}}
}}
[[File:Okachimachi-sta-S.JPG|thumb|南口(2017年6月)]]
'''御徒町駅'''(おかちまちえき)は、[[東京都]][[台東区]][[上野]]五丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[鉄道駅|駅]]である。
== 乗り入れ路線 ==
乗り入れている路線は、線路名称上は[[東北本線]]1路線のみである(詳細は路線記事および[[鉄道路線の名称]]参照)が、当駅には[[電車線・列車線|電車線]]を走行する[[京浜東北線]]電車および[[山手線]]電車の2系統が停車し、旅客案内では「東北(本)線」とは案内されていない。また当駅は、[[特定都区市内]]制度における「[[特定都区市内#設定区域一覧|東京都区内]]」および「[[東京山手線内]]」に属している。
[[駅ナンバリング#JR東日本・東京モノレール・東京臨海高速鉄道|駅番号]]は、京浜東北線が'''JK 29'''、山手線が'''JY 04'''である。
== 歴史 ==
[[File:Okachimachi Station.19630626.jpg|thumb|御徒町駅周辺の白黒空中写真(1963年6月26日撮影)<br />{{国土航空写真}}]]
* [[1925年]]([[大正]]14年)[[11月1日]]:[[鉄道省]][[東北本線]]([[京浜東北線|電車線]])の駅として開業<ref name="停車場">{{Cite book|和書|author=石野哲(編)|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|date=1998-10-01|edition=初版|isbn=978-4-533-02980-6|page=388}}</ref>。
* [[1949年]]([[昭和]]24年)[[6月1日]]:[[日本国有鉄道]]が発足。
* [[1958年]](昭和33年)[[4月10日]]:[[チッキ|荷物]]扱い廃止{{R|停車場}}。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の駅となる{{R|停車場}}。
* [[1988年]](昭和63年)[[3月13日]]:京浜東北線の快速運転開始に伴い、日中は京浜東北線が通過するようになる(繁忙期となる年末年始には快速運転中止・全列車各駅停車となる特別ダイヤが設定され、当駅にも全列車が停車する)。
* [[1990年]]([[平成]]2年)
** [[1月22日]]:駅北側高架下の春日通りの路面が陥没する事故が発生。[[東北新幹線]]の[[第1上野トンネル]]工事の際、[[シールドトンネル#シールド工法|シールド工法]]の地盤硬化剤の意図的な削減(手抜き)によるものとされる。陥没でできた穴に自動車が転落するなど、17名が負傷した。
** [[12月8日]]:北口に自動改札機を設置<ref name=JRR1991>{{Cite book|和書 |date=1991-08-01 |title=JR気動車客車編成表 '91年版 |chapter=JR年表 |page=192 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-112-0}}</ref>。
** [[12月22日]]:南口に自動改札機を設置{{R|JRR1991}}。
* [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-23|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。
* [[2014年]](平成26年)[[5月10日]]:2・3番線(山手線ホーム)で[[ホームドア]]の使用を開始。
* [[2015年]](平成27年)[[3月14日]]:この日のダイヤ改正に伴い、土曜・休日ダイヤに限り京浜東北線の快速が停車するようになる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2014/20141222.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200306131751/https://www.jreast.co.jp/press/2014/20141222.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2015年3月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道|page=10|date=2014-12-19|accessdate=2020-04-22|archivedate=2020-03-06}}</ref>。
* [[2018年]](平成30年)[[12月12日]]:1・4番線(京浜東北線ホーム)でホームドアの使用を開始<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2017/tokyo/20180327_t01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190605233618/https://www.jreast.co.jp/press/2017/tokyo/20180327_t01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2018年度中に稼働予定のホームドア設置駅について|publisher=東日本旅客鉄道東京支社|date=2018-03-27|accessdate=2020-04-22|archivedate=2019-06-05}}</ref>。
* [[2020年]]([[令和]]2年)[[3月1日]]:業務委託化<ref name="outsourcing">{{Cite web|和書|url=http://jrtu-tokyo.sakura.ne.jp/job/jobfiles/2019eigyou_no2.html |title=2019年度営業関係施策(その2)|accessdate=2020-01-20|publisher=東日本ユニオン東京地本|archivedate=2019-11-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191101011144/http://jrtu-tokyo.sakura.ne.jp/job/jobfiles/2019eigyou_no2.html}}</ref>。
* [[2021年]](令和3年)[[10月31日]]:[[みどりの窓口]]の営業を終了<ref name="StationCd_355">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=355|title=駅の情報(御徒町駅):JR東日本|language=日本語|accessdate=2021-10-02|publisher=東日本旅客鉄道|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211002094713/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=355|archivedate=2021-10-02}}</ref><ref name="jtsu20210609">{{Cite web|和書|url=https://f06cf697-85c0-41a8-ab3d-c23ef021a7cb.filesusr.com/ugd/57fa70_3142be9834c145138bc3314ec42a3029.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210609124510/https://f06cf697-85c0-41a8-ab3d-c23ef021a7cb.filesusr.com/ugd/57fa70_3142be9834c145138bc3314ec42a3029.pdf|title=「2021年度営業関係施策(その1)」について提案を受ける!!|date=2021-06-09|archivedate=2021-06-09|accessdate=2021-06-09|publisher=JTSU-E 東京地本|format=PDF|language=日本語}}</ref>。
=== 駅名の由来 ===
開業当時の町名(御徒町、仲御徒町)から<ref name="ekimei">{{Cite book|和書|author=浅井建爾|title=駅名・地名 不一致の事典|publisher=[[東京堂出版]]|date=2016-08-30|page=47|edition=初版|isbn=978-4490108804}}</ref>。[[1964年]](昭和39年)の[[住居表示]]実施により、現行の町名としては存在していない。由来については「[[御徒町]]」を参照のこと。
== 駅構造 ==
[[JR東日本ステーションサービス]]が駅業務を受託している[[上野駅]]管理の[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]<ref name="outsourcing"/>。[[島式ホーム]]2面4線を有する[[高架駅]]である<ref>{{Cite book|和書 |title =週刊 JR全駅・全車両基地 |publisher = [[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume =05号 上野駅・日光駅・下館駅ほか92駅 |date =2012-09-09 |page =21 }}</ref>。出口は北口と南口の2か所がある。南口には[[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]が導入されており、一部の時間帯はインターホンによる対応となる<ref name="StationCd=355_230909">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=355|title=駅の情報(御徒町駅):JR東日本|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-09-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230909081706/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=355|archivedate=2023-09-09}}</ref>。
1番線の東側には、中距離電車が[[上野東京ライン]]および回送に使用する3本の線路があり、当駅付近で進行目的の線路<ref group="注">北側は1番線側から順に上野駅5番線・6番線・7-9番線にそれぞれつながっている。南側は東京駅方面からの下り線・上り線・秋葉原駅付近にある留置線にそれぞれつながっている。</ref>に転線するポイントが設置されているため、上野東京ラインは当駅には停車しないものの低速で走行する。
=== のりば ===
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先
|-
!1
|[[File:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] 京浜東北線
|style="text-align:center"|南行
|[[秋葉原駅|秋葉原]]・[[東京駅|東京]]・[[品川駅|品川]]・[[横浜駅|横浜]]方面
|-
!2
|rowspan="2"|[[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] 山手線
|style="text-align:center"|外回り
|秋葉原・東京・品川・[[目黒駅|目黒]]方面
|-
!3
|style="text-align:center"|内回り
|[[上野駅|上野]]・[[田端駅|田端]]・[[池袋駅|池袋]]方面
|-
!4
|[[File:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] 京浜東北線
|style="text-align:center"|北行
|上野・田端・[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]方面
|}
(出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/355.html JR東日本:駅構内図])
=== バリアフリー設備 ===
* [[エスカレーター]]:北口 - ホーム間(車椅子対応3枚板あり)
* [[エレベーター]]:北口・南口 - ホーム間<!--、南口 - ホーム間-->
* [[ベビーベッド]]付き[[便所|トイレ]] - 北口・南口(女子トイレ内)
<gallery widths="200" style="font-size:90%">
JR Okachimachi Station North Gates.jpg|北口改札(2019年3月)
JRE-Okachimachi-Series South-Gate.jpg|南口改札(2021年6月)
JRE-Okachimachi-STA Home-1-2.jpg|1・2番線ホーム(2021年6月)
JRE-Okachimachi-STA Home-3-4.jpg|3・4番線ホーム(2021年6月)
</gallery>
== 利用状況 ==
[[2022年]](令和4年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''55,871人'''である。JR東日本管内の駅では[[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]]に次いで第67位。1993年度をピークに減少傾向にある。
近年の1日平均'''乗車'''人員の推移は下記の通り。
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;""
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref>
!年度
!1日平均<br />乗車人員
!出典
|-
|1989年(平成元年)
|88,547
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成元年)]</ref>
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|91,104
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成2年)]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|93,424
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成3年)]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|93,995
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|94,271
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 東京都統計年鑑(平成5年)]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|90,375
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 東京都統計年鑑(平成6年)]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|88,634
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|87,553
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|83,792
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|81,616
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/1999.html 各駅の乗車人員(1999年度)] - JR東日本</ref>80,752
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>79,539
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>80,822
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>80,253
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>79,824
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>78,208
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>77,011
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>76,294
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>75,733
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>74,094
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>71,934
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>69,565
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>68,402
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成23年)]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>67,737
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成24年)]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>67,593
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成25年)]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>67,502
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成26年)]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>66,804
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成27年)]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>66,975
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成28年)]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>68,750
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成29年)]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>70,537
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成30年)]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>69,666
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>48,245
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>49,721
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>55,871
|
|}
== 駅周辺 ==
[[File:Okachimachi town.JPG|thumb|春日通り(御徒町駅西側を望む)(2016年2月)]]
{{maplink2|frame=yes|zoom=15|frame-width=250
|type=point|type2=point|type3=point|type4=point
|marker=rail|marker2=rail|marker3=rail|marker4=rail
|coord={{coord|35|42|26.7|N|139|46|28.7|E}}|marker-color=008000|title=御徒町駅
|coord2={{coord|35|42|27.5|N|139|46|22.7|E}}|marker-color2=ff9500|title2=上野広小路駅
|coord3={{coord|35|42|23.6|N|139|46|34.3|E}}|marker-color3=b5b5ac|title3=仲御徒町駅
|coord4={{coord|35|42|28.4|N|139|46|27.6|E}}|marker-color4=ce045b|title4=上野御徒町駅
|frame-latitude=35.707784|frame-longitude=139.774577|text=当駅(中下)、仲御徒町駅(右)、上野御徒町駅(中上)、上野広小路駅(左)の位置関係}}
駅のすぐ北側を[[春日通り]]が東西に通っている。
* 北口 - [[下谷摩利支天]]、[[湯島天満宮]]、台東区役所上野地区センター、[[上野恩賜公園]]、[[不忍池]]、[[下町風俗資料館]]、[[旧岩崎邸庭園]]、[[鈴本演芸場]]、[[松坂屋]]上野店、[[吉池]]、[[多慶屋]]、[[アメヤ横丁]]、[[サツドラ]]上野御徒町店
* 南口 - 松坂屋上野店、上野三[[郵便局]]、仲御徒町郵便局、上野黒門郵便局
** 松坂屋上野店は、北口を出て湯島天満宮方面に向かって左側にメインの出入口がある。
** アメヤ横丁は、北口を出て上野方向すぐ。
* [[昭和通り (東京都)|昭和通り]]を挟んで駅から東側は[[貴金属]]、[[宝石]][[問屋街]]となっている(ジュエリータウンおかちまち)。
* [[末広町駅 (東京都)|末広町駅]](東京メトロ銀座線)まで徒歩10分で行けるため、秋葉原北端地域への最寄り駅の一つである。
当駅至近にA6・A7出入口があり、以下の路線への乗り換えが可能である。ただし、車内での放送・表示では都営大江戸線のみ案内されている(銀座線・日比谷線とも上野駅での乗り換えが至近のため)。
* [[東京メトロ日比谷線]] - [[仲御徒町駅]](昭和通り地下)
* [[都営地下鉄大江戸線]] - [[上野御徒町駅]](台東四丁目交差点)
* [[東京メトロ銀座線]] - [[上野広小路駅]](松坂屋上野店付近の[[中央通り (東京都)|中央通り]]<ref group="注">愛称が「上野広小路」。江戸時代は「[[下谷広小路]]」と呼ばれていた。</ref> 地下)
南口の松坂屋パークプレイス24正面には、[[2012年]](平成24年)秋から「パンダ広場」という駅前広場があり、待ち合わせスポットの他、季節により音楽などのイベントも催される。その地下には自転車駐輪場がある。秋葉原駅までのガード下には「[[2k540 AKI-OKA ARTISAN]]」([[ジェイアール東日本都市開発]]が運営する高架下[[商業施設]])が2010年12月より開業している。
=== 御徒町の沿革 ===
駅周辺には宝石・貴金属店が多く見られるが、[[1955年]](昭和30年)頃まではむしろ[[東上野]]一丁目に多く集まっていた。当駅前は[[戦災]]で焼けて[[空地|空き地]]が多く、[[上野駅]]にも近いという立地を活かして、同年[[11月21日]]に[[時計]]関係の[[問屋]]有志12社で「仲御徒町問屋連盟」が結成された。[[1975年]](昭和50年)以降、[[クオーツ時計]]が広まるにつれ、駅の南側近辺において時計バンド卸商や時計の修理店がそれまで[[副業]]的に取り扱っていた[[装身具|ジュエリー]]に業種転換を図るようになる。宝石の消費の増大と、それに対応する供給サイドの増大がうまくかみ合って、業者数も増えていった。
街作りと共同セールの開催を目的として、[[1987年]](昭和62年)9月、上野五丁目と三丁目のジュエリー業者159社が集まって「ジュエリータウンおかちまち」(略称・JTO)が設立された。[[1989年]](平成元年)頃には御徒町地区だけで1,000社以上もあるといわれていたが、過当競争と景気低迷で数が次第に減り、[[2000年代]]に入ってからは半分程度になったと言われ、[[インド#人種・民族|インド人]]業者の進出が目覚ましい。
その他、かつて御徒町周辺に多く見られた業者に[[自転車]]組み立て業があったが、2000年代ではほとんど存在していない。その代わりに[[ゴルフ#用具|ゴルフ道具]]、[[スニーカー]]、[[化粧品]]、そして[[眼鏡|メガネ]]などを取り扱う業種の進出がアメ横商店街を中心に目立つようになった。また、ガード下や駅周辺に[[居酒屋]]が増え、昭和通り沿いには[[飲食店]]が増えている。
== バス路線 ==
<!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。-->
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!運行事業者!!系統・行先!!備考
|-
!colspan="3"|御徒町駅前
|-
|style="text-align:center;"|[[都営バス]]
|[[都営バス巣鴨営業所#都02系統(グリーンライナー)|'''都02''']]:[[大塚駅 (東京都)|大塚駅前]]・[[文京区立窪町小学校|窪町小学校]] / [[錦糸町駅|錦糸町駅前]]
|
|-
!colspan="3"|上野広小路(上野御徒町駅前)
|-
|style="text-align:center;"|都営バス
|{{Unbulleted list|[[都営バス巣鴨営業所#上01・茶07系統|'''上01''']]:上野公園山下(循環)|[[都営バス青戸支所#上26系統|'''上26''']]:[[亀戸駅|亀戸駅前]]・隅田公園|[[都営バス巣鴨営業所#上60系統|'''上60''']]:大塚駅前 / [[池袋駅|池袋駅東口]]|[[都営バス小滝橋営業所#上69系統|'''上69''']]:小滝橋車庫前<!--本来は循環ルート上のため「上野公園(循環)」だが、案内に揃えた-->|'''都02''':大塚駅前・窪町小学校 / 錦糸町駅前}}
|「上69」は中央通り上、それ以外の系統は春日通り上にバス停が設置
|-
!colspan="3"|上野松坂屋前(上野御徒町駅前)
|-
|style="text-align:center;"|都営バス
|{{Unbulleted list|'''上01''':[[東京大学本郷地区キャンパス#本郷キャンパス|東大構内]]|[[都営バス青戸支所#上23系統|'''上23''']]:[[平井駅 (東京都)|平井駅前]]・東墨田二丁目|[[都営バス南千住営業所#上46系統|'''上46''']]:[[南千住駅|南千住駅東口]]・南千住車庫前|[[都営バス早稲田営業所#上58系統|'''上58''']]:早稲田|[[都営バス青戸支所#草39系統|'''草39''']]:[[金町駅|金町駅前]]}}
|{{Unbulleted list|「草39」は平日日中のみ運行|「上01」は春日通り上、それ以外の系統は中央通り上にバス停が設置}}
|-
|style="text-align:center;"|[[日の丸自動車興業]]
|'''スカイホップ(レッドコース)ルート周遊観光バス''':秋葉原・日本橋・東京丸の内方面
|中央通り上にバス停が設置
|-
|style="text-align:center;"|文京区コミュニティバス<br />「[[Bーぐる]]」
|[[Bーぐる#本郷・湯島ルート|'''本郷・湯島ルート''']]:菊坂通り・春日一丁目
|ローソン上野一丁目店前にバス停が設置
|}
== 隣の駅 ==
; 東日本旅客鉄道(JR東日本)
: [[File:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] 京浜東北線
:: {{Color|#ff0066|■}}快速(平日)
:::; 通過
:: {{Color|#ff0066|■}}快速(土休日<ref group="注">年末年始期間中([[12月30日]] - [[1月3日]]間)も含む。</ref>)・{{Color|#00b2e5|■}}各駅停車
::: [[秋葉原駅]] (JK 28) - '''御徒町駅 (JK 29)''' - [[上野駅]] (JK 30)
: [[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] 山手線
::: 秋葉原駅 (JY 03) - '''御徒町駅 (JY 04)''' - 上野駅 (JY 05)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 記事本文 ===
==== 注釈 ====
{{Reflist|group="注"}}
==== 出典 ====
{{Reflist|2}}
===== 広報資料・プレスリリースなど一次資料 =====
{{Reflist|group="広報"}}
=== 利用状況 ===
{{Reflist|group="統計"}}
; JR東日本の2000年度以降の乗車人員
{{Reflist|group="JR"|22em}}
; 東京都統計年鑑
{{Reflist|group="*"|22em}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[御徒町]]
* [[上野・浅草副都心]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=355|name=御徒町}}
* [http://jto-net.com/ ジュエリータウンおかちまち]
* {{NDLDC|978553/11|東京市街高架線東京上野間建設概要 : 東京市街高架線路平面図付|format=EXTERNAL}}
{{京浜東北・根岸線}}
{{山手線}}
{{DEFAULTSORT:おかちまち}}
[[Category:台東区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 お|かちまち]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]]
[[Category:山手線]]
[[Category:京浜東北・根岸線]]
[[Category:上野|おかちまちえき]]
[[Category:1925年開業の鉄道駅]] | 2003-05-17T12:51:14Z | 2023-12-20T19:51:48Z | false | false | false | [
"Template:Maplink2",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Cite book",
"Template:Cite press release",
"Template:PDFlink",
"Template:外部リンク/JR東日本駅",
"Template:NDLDC",
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"Template:駅情報",
"Template:R",
"Template:Color",
"Template:山手線",
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"Template:Unbulleted list",
"Template:Reflist",
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"Template:国土航空写真",
"Template:Cite web",
"Template:Commonscat"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%BE%92%E7%94%BA%E9%A7%85 |
8,458 | 神田駅 (東京都) |
神田駅(かんだえき)は、東京都千代田区にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京地下鉄(東京メトロ)の駅である。
所在地は、JR東日本が鍛冶町二丁目、東京メトロが神田須田町一丁目である。
JR東日本の各線(後述)と、東京メトロの銀座線が乗り入れ、接続駅となっている。
JR東日本の駅に乗り入れている路線は、線路名称上は中央本線と東北本線の2路線である(詳細は路線記事および「鉄道路線の名称」参照)。このうち中央本線は当駅が起点であり、当駅の所属線ともなっている。
中央本線は、旅客案内上は「中央線」と呼ばれ、当駅より東北本線上の中央線専用線路を介して東京駅まで乗り入れている。当駅には中央線電車のほか、東北本線の電車線を走行する京浜東北線電車と山手線電車が停車するが、「東北(本)線」の名称は旅客案内では使用されていない。また、上野東京ラインや、東京駅発着の中央本線特急あずさ・かいじは当駅を通過する。そのため、東京駅 - 当駅間に区間外乗車の特例が設定されている。
島式ホーム3面6線を有する高架駅で、京浜東北線南行の線路の東側に東北新幹線が、上層に上野東京ラインの高架が並行する。エスカレーターはホームと北改札との間を連絡するが、ホームと南改札との間には設置されていない。3・4番線に通じるエスカレーターは1階コンコースからそのままホームへと通じている。
改札口は南北に2か所。北改札(秋葉原・御茶ノ水寄り)から東口と北口が、南改札(東京寄り)から西口と南口が利用できる。銀座線への乗り換えは北改札の北口側からとなる。指定席券売機が設置されており、東口にはVIEW ALTTEが存在する。
上野東京ラインの工事に合わせ、ホームと改札を連絡するエスカレーターの大幅増設とエレベーターの新設工事、および南口コンコースと出入口を連絡するエレベーターの新設工事が行われた。
直営駅(駅長配置)であり、管理駅として総武快速線の新日本橋駅、馬喰町駅を管理している。
(出典:JR東日本:駅構内図)
1番線ではサウンドファクトリー、2・3番線では「モンダミン」のCMソング、4番線ではサウンドフォーラム、5・6番線ではテイチク制作のメロディを使用している。 2・3番線では2023年10月1日まで日本電音の「せせらぎ」が使用されていた。
島式ホーム1面2線を有する地下駅で、扇形の形状をしている。1932年4月29日に銀座線が三越前駅まで開業すると途中駅となったため、線路は途中まで南口の地下通路を挟んでいる。なお、南口地下通路に直結する2番出口はビルと直結している。
改札口はホームの前後にあり、浅草寄りにある須田町方面改札口は階段上、渋谷寄りにある内神田方面改札口は同一階に設置されている。エスカレーターは設置されていない。JR線への乗り換え通路は渋谷寄りにある。地下通路とJRコンコースを連絡する階段は天井高さが非常に低い。
須田町方面改札口を出た先には、かつて東京地下鉄道が経営していた神田須田町地下鉄ストアに通ずる地下商店街が設けられていた。これらがある地下通路をそのまままっすぐ進んだ先の出口は6番出口で、付近は須田町交差点があり、秋葉原電気街の南端に近い。須田町交差点はかつて都電最大級の要衝であり、都電からの乗り換え客の利便および地下鉄ストアへの利用客誘致のために長い地下通路が設けられた。
(出典:東京メトロ:構内図)
2015年(平成30年)6月20日から、美空ひばりの「お祭りマンボ」をアレンジしたものを発車メロディ(発車サイン音)として使用している。メロディはスタマックの制作で、編曲は永田太郎が手掛けた。
近年の1日平均乗降人員推移は下表の通り(JRを除く)。
近年の1日平均乗車人員推移は下表の通り。
中小のビルが立ち並ぶオフィス街。西口側には神田駅西口商店街があり、昔ながらの商店街が現在も残っているほか、サラリーマンの街として知名度が高く、居酒屋も多い。また西口周辺には、東京都内で最初に建設された下水道である神田下水の一部が現在も機能している。東口から中央通り沿いに南下すると新日本橋駅(横須賀・総武快速線)・三越前駅(半蔵門線・銀座線)に到着する。
東京メトロの浅草寄り出口は中央通り・靖国通りが交わる須田町交差点に面し、秋葉原電気街の南端に近い。
神田古書店街は当駅ではなく神保町駅が最寄りである。また、JR東日本のホームにある出口・乗り換え案内には「神田明神へは、御茶ノ水駅下車が便利です。」といった案内表記がなされている。
最寄りの停留所は北口に位置する神田駅前と東京メトロ6番出口前の須田町となる。都営バスの以下の路線が平日に限り乗り入れる。 | [
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"text": "JR東日本の各線(後述)と、東京メトロの銀座線が乗り入れ、接続駅となっている。",
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"text": "JR東日本の駅に乗り入れている路線は、線路名称上は中央本線と東北本線の2路線である(詳細は路線記事および「鉄道路線の名称」参照)。このうち中央本線は当駅が起点であり、当駅の所属線ともなっている。",
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"text": "中央本線は、旅客案内上は「中央線」と呼ばれ、当駅より東北本線上の中央線専用線路を介して東京駅まで乗り入れている。当駅には中央線電車のほか、東北本線の電車線を走行する京浜東北線電車と山手線電車が停車するが、「東北(本)線」の名称は旅客案内では使用されていない。また、上野東京ラインや、東京駅発着の中央本線特急あずさ・かいじは当駅を通過する。そのため、東京駅 - 当駅間に区間外乗車の特例が設定されている。",
"title": "乗り入れ路線"
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"text": "島式ホーム3面6線を有する高架駅で、京浜東北線南行の線路の東側に東北新幹線が、上層に上野東京ラインの高架が並行する。エスカレーターはホームと北改札との間を連絡するが、ホームと南改札との間には設置されていない。3・4番線に通じるエスカレーターは1階コンコースからそのままホームへと通じている。",
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"text": "改札口は南北に2か所。北改札(秋葉原・御茶ノ水寄り)から東口と北口が、南改札(東京寄り)から西口と南口が利用できる。銀座線への乗り換えは北改札の北口側からとなる。指定席券売機が設置されており、東口にはVIEW ALTTEが存在する。",
"title": "駅構造"
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"text": "上野東京ラインの工事に合わせ、ホームと改札を連絡するエスカレーターの大幅増設とエレベーターの新設工事、および南口コンコースと出入口を連絡するエレベーターの新設工事が行われた。",
"title": "駅構造"
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"text": "直営駅(駅長配置)であり、管理駅として総武快速線の新日本橋駅、馬喰町駅を管理している。",
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"text": "(出典:JR東日本:駅構内図)",
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"text": "1番線ではサウンドファクトリー、2・3番線では「モンダミン」のCMソング、4番線ではサウンドフォーラム、5・6番線ではテイチク制作のメロディを使用している。 2・3番線では2023年10月1日まで日本電音の「せせらぎ」が使用されていた。",
"title": "駅構造"
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"text": "島式ホーム1面2線を有する地下駅で、扇形の形状をしている。1932年4月29日に銀座線が三越前駅まで開業すると途中駅となったため、線路は途中まで南口の地下通路を挟んでいる。なお、南口地下通路に直結する2番出口はビルと直結している。",
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"text": "改札口はホームの前後にあり、浅草寄りにある須田町方面改札口は階段上、渋谷寄りにある内神田方面改札口は同一階に設置されている。エスカレーターは設置されていない。JR線への乗り換え通路は渋谷寄りにある。地下通路とJRコンコースを連絡する階段は天井高さが非常に低い。",
"title": "駅構造"
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"text": "須田町方面改札口を出た先には、かつて東京地下鉄道が経営していた神田須田町地下鉄ストアに通ずる地下商店街が設けられていた。これらがある地下通路をそのまままっすぐ進んだ先の出口は6番出口で、付近は須田町交差点があり、秋葉原電気街の南端に近い。須田町交差点はかつて都電最大級の要衝であり、都電からの乗り換え客の利便および地下鉄ストアへの利用客誘致のために長い地下通路が設けられた。",
"title": "駅構造"
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"text": "(出典:東京メトロ:構内図)",
"title": "駅構造"
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"text": "2015年(平成30年)6月20日から、美空ひばりの「お祭りマンボ」をアレンジしたものを発車メロディ(発車サイン音)として使用している。メロディはスタマックの制作で、編曲は永田太郎が手掛けた。",
"title": "駅構造"
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"text": "近年の1日平均乗降人員推移は下表の通り(JRを除く)。",
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"text": "近年の1日平均乗車人員推移は下表の通り。",
"title": "利用状況"
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"text": "中小のビルが立ち並ぶオフィス街。西口側には神田駅西口商店街があり、昔ながらの商店街が現在も残っているほか、サラリーマンの街として知名度が高く、居酒屋も多い。また西口周辺には、東京都内で最初に建設された下水道である神田下水の一部が現在も機能している。東口から中央通り沿いに南下すると新日本橋駅(横須賀・総武快速線)・三越前駅(半蔵門線・銀座線)に到着する。",
"title": "駅周辺"
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"text": "東京メトロの浅草寄り出口は中央通り・靖国通りが交わる須田町交差点に面し、秋葉原電気街の南端に近い。",
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"text": "神田古書店街は当駅ではなく神保町駅が最寄りである。また、JR東日本のホームにある出口・乗り換え案内には「神田明神へは、御茶ノ水駅下車が便利です。」といった案内表記がなされている。",
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"text": "最寄りの停留所は北口に位置する神田駅前と東京メトロ6番出口前の須田町となる。都営バスの以下の路線が平日に限り乗り入れる。",
"title": "バス路線"
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] | 神田駅(かんだえき)は、東京都千代田区にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京地下鉄(東京メトロ)の駅である。 所在地は、JR東日本が鍛冶町二丁目、東京メトロが神田須田町一丁目である。 | {{pp-vandalism|small=yes}}
{{駅情報
|駅名 = 神田駅
|画像 = JR Kanda Station - North exit - May 30 2021 various 18 27 16 704000.jpeg
|pxl = 300
|画像説明 = 北口(2021年5月)
|地図 = {{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|type2=point|zoom=15|frame-align=center|frame-width=300|marker=rail|marker2=rail-metro|coord={{coord|35|41|30|N|139|46|15|E}}|title=JR 神田駅|coord2={{coord|35|41|37.5|N|139|46|15.2|E}}|title2=東京メトロ神田駅|marker-color=008000|marker-color2=ff9500|frame-latitude=35.692966|frame-longitude=139.770868}}
|よみがな = かんだ
|ローマ字 = Kanda
|所在地 = [[東京都]][[千代田区]]
|電報略号 = カタ(両社とも)
|所属事業者 = {{Plainlist|
* [[東日本旅客鉄道]](JR東日本・[[#JR東日本|駅詳細]])
* [[東京地下鉄]](東京メトロ・[[#東京メトロ|駅詳細]])}}
}}
{{座標一覧}}
'''神田駅'''(かんだえき)は、[[東京都]][[千代田区]]にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[東京地下鉄]](東京メトロ)の[[鉄道駅|駅]]である。
所在地は、JR東日本が[[鍛冶町 (千代田区)|鍛冶町]]二丁目、東京メトロが[[神田須田町]]一丁目である。
== 乗り入れ路線 ==
JR東日本の各線(後述)と、東京メトロの[[東京メトロ銀座線|銀座線]]が乗り入れ、接続駅となっている。
* JR東日本:各線(後述)- [[特定都区市内]]における「[[特定都区市内#設定区域一覧|東京都区内]]」および「[[東京山手線内]]」に属する。[[駅ナンバリング#スリーレターコード|スリーレターコード]]「'''KND'''」が付与されている。
* 東京メトロ:[[File:Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg|15px|G]] [[東京メトロ銀座線|銀座線]] - [[駅ナンバリング|駅番号]]は'''G 13'''。
JR東日本の駅に乗り入れている路線は、線路名称上は[[中央本線]]と[[東北本線]]の2路線である(詳細は路線記事および「[[鉄道路線の名称]]」参照)。このうち中央本線は当駅が起点であり、当駅の[[日本の鉄道駅#所属線|所属線]]ともなっている。
中央本線は、旅客案内上は「[[中央線快速|中央線]]」と呼ばれ、当駅より東北本線上の中央線専用線路を介して[[東京駅]]まで乗り入れている{{Refnest|group="注釈"|かつては東京駅が起点であったため、当駅起点に変更後も起点を表す0[[距離標|キロポスト]]は東京駅に設置されている。}}。当駅には中央線電車のほか、東北本線の[[電車線・列車線|電車線]]を走行する[[京浜東北線]]電車と[[山手線]]電車が停車するが、「東北(本)線」の名称は旅客案内では使用されていない。また、[[上野東京ライン]]や、東京駅発着の中央本線特急[[あずさ (列車)|あずさ]]・[[かいじ (列車)|かいじ]]は当駅を通過する。そのため、東京駅 - 当駅間に[[区間外乗車#分岐駅通過列車に対する区間外乗車の取扱いの特例|区間外乗車]]の特例が設定されている。
* [[File:JR JC line symbol.svg|15px|JC]] [[中央線快速|中央線]]:八王子駅・高尾駅方面の列車と、[[立川駅]]から[[青梅線]]へ直通する列車も運行 - 駅番号は'''JC 02'''。
* [[File:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] [[京浜東北線]]:電車線を走行する東海道本線・[[東北本線]]の近距離電車。[[駅ナンバリング#JR東日本・東京モノレール・東京臨海高速鉄道|駅番号]]は'''JK 27'''。
* [[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] [[山手線]]:電車線を走行する[[環状線|環状路線]]。駅番号は'''JY 02'''。
== 歴史 ==
[[File:Kanda Station.19630626.jpg|thumb|right|神田駅周辺の白黒空中写真(1963年6月26日撮影)<br />{{国土航空写真}}]]
[[File:Earth Chemical Honshamae Station by Kanda Station sub name naming rights 01.jpeg|thumb|180px|アース製薬本社前の副駅名とアースジェット口の表示(2023年10月)]]
* [[1919年]]([[大正]]8年)[[3月1日]]:[[鉄道省|鉄道院]]中央本線[[万世橋駅]] - 東京駅延伸開業に伴い、中央本線の途中駅として開業<ref name="sone05-23">[[#sone05|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 5号]]、23頁。</ref>。
* [[1925年]](大正14年)[[11月1日]]:東北本線秋葉原駅 - 神田駅延伸開業に伴い、東北本線の駅として開業。乗り換え駅となる<ref name="zeneki05">{{Cite book|和書|title=週刊 JR全駅・全車両基地|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=週刊朝日百科|volume=05号 上野駅・日光駅・下館駅ほか92駅|date=2012-09-09|page=21}}</ref>。
* [[1931年]]([[昭和]]6年)[[11月21日]]:[[東京地下鉄道]](現在の東京メトロ銀座線)の駅が開業。
* [[1941年]](昭和16年)[[9月1日]]:[[陸上交通事業調整法]]により東京地下鉄道が路線を[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)に譲渡。
* [[1949年]](昭和24年)[[6月1日]]:[[日本国有鉄道]]が発足<ref>[[#sone05|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 5号]]、25頁。</ref>。
* [[1956年]](昭和31年)[[9月17日]]:ホームを1面増設し、山手線と京浜東北線の乗り場を分離<ref>{{Cite news |和書 |title=神田駅新ホーム完成 23日から山手、京浜線分離運転 |newspaper=[[読売新聞]] |date=1956-09-17 |edition=中央版 |publisher=[[読売新聞東京本社]] |page=8 }}</ref>。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、国鉄の駅は東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる<ref>[[#sone05|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 5号]]、27頁。</ref>。
* [[1988年]](昭和63年)[[3月13日]]:京浜東北線の快速運転開始に伴い、日中は京浜東北線が通過するようになる。
* [[1990年]]([[平成]]2年)
** [[12月1日]]:JR東日本の南口・西口改札口に自動改札機を設置<ref>{{Cite book|和書|date=1991-08-01|title=JR気動車客車編成表 '91年版|chapter=JR年表|page=192|publisher=ジェー・アール・アール|isbn=4-88283-112-0}}</ref>。
** [[12月8日]]:JR東日本の北口・東口改札口に自動改札機を設置。
* [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:JR東日本で[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-23|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。
* [[2004年]](平成16年)4月1日:営団地下鉄の民営化に伴い、銀座線の駅が東京地下鉄(東京メトロ)に継承される<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060708164650/https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|language=日本語|title=「営団地下鉄」から「東京メトロ」へ|publisher=営団地下鉄|date=2004-01-27|accessdate=2020-03-25|archivedate=2006-07-08}}</ref>。
* [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:東京メトロでICカード「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-05|archivedate=2020-05-01}}</ref>。
* [[2015年]](平成27年)
** [[3月14日]]:京浜東北線の快速が停車するようになる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2014/20141222.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200203125122/https://www.jreast.co.jp/press/2014/20141222.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2015年3月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道|page=10|date=2014-12-19|accessdate=2020-03-25|archivedate=2020-02-03}}</ref>。
** [[6月20日]]:銀座線ホームに[[発車メロディ]]を導入<ref group="報道" name="Train-melody">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2015/article_pdf/metroNews2015014_g47.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180630134624/http://www.tokyometro.jp/news/2015/article_pdf/metroNews2015014_g47.pdf|format=PDF|language=日本語|title=神田駅「お祭りマンボ」採用 銀座線の発車メロディを拡大します。|publisher=東京地下鉄|date=2015-05-14|accessdate=2020-03-07|archivedate=2018-06-30}}</ref>。
* [[2016年]](平成28年)[[2月13日]]:山手線(2・3番線)ホームで[[ホームドア]]の使用を開始。
* [[2019年]]([[令和]]元年)[[10月23日]]:京浜東北線(1・4番線)ホームでホームドアの使用を開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20190402.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190406170648/https://www.jreast.co.jp/press/2019/20190402.pdf|format=PDF|language=日本語|title=より安全な駅ホーム・踏切の実現に向けた取組みについて|publisher=東日本旅客鉄道|page=2|date=2019-04-03|accessdate=2020-04-22|archivedate=2019-04-06}}</ref>。
* [[2020年]](令和2年)
** [[3月14日]]:東京駅発着の中央線電車が快速運転に統一され、当駅に乗り入れる中央線各駅停車がなくなる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20191213_ho01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191213080612/https://www.jreast.co.jp/press/2019/20191213_ho01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2020年3月ダイヤ改正について|page=6|publisher=東日本旅客鉄道|date=2019-12-13|accessdate=2020-02-29|archivedate=2019-12-13}}</ref>。
** 秋:JR東日本で、駅ナカシェアオフィス「STATION BOOTH」が開業<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200903_ho04.pdf|title=シェアオフィス事業の拡大で働き方改革を加速します ~「STATION WORK」の1,000カ所展開を目指すとともに、ワーケーションの推進を行います~|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-09-03|accessdate=2020-12-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200905155129/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200903_ho04.pdf|archivedate=2020-09-05}}</ref>。
* [[2021年]](令和3年)[[10月31日]]:[[みどりの窓口]]の営業を終了<ref name="StationCd_538">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=538|title=駅の情報(神田駅):JR東日本|language=日本語|accessdate=2021-10-01|publisher=東日本旅客鉄道|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211001121324/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=538|archivedate=2021-10-01}}</ref><ref name="jtsu20210609">{{Cite web|和書|url=https://f06cf697-85c0-41a8-ab3d-c23ef021a7cb.filesusr.com/ugd/57fa70_3142be9834c145138bc3314ec42a3029.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210609124510/https://f06cf697-85c0-41a8-ab3d-c23ef021a7cb.filesusr.com/ugd/57fa70_3142be9834c145138bc3314ec42a3029.pdf|title=「2021年度営業関係施策(その1)」について提案を受ける!!|date=2021-06-09|archivedate=2021-06-09|accessdate=2021-06-09|publisher=JTSU-E 東京地本|format=PDF|language=日本語}}</ref>。
* [[2023年]](令和5年)[[10月2日]]:JR東日本の駅名称に「[[アース製薬]]本社前」の[[副駅名]]を追加。併せて、山手線(2・3番線)ホームの発車メロディがアース製薬の[[口|口腔]][[衛生]]ブランド「[[モンダミン]]」のCMソングに変更。各出口の改札口入口標などにアース製薬の商品の名称を追加{{Refnest|group="注釈"|北口は「モンダミン口」、南口は「アースジェット口」、東口は「サラテクト口」、西口は「バスロマン口」。全部カタカナではなく、最後の文字の口は出入口を示す漢字である。}}。いずれも[[2028年]](令和10年)[[9月30日]]までの5年間の予定<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2296813/full/ |title=JR神田駅、駅名標が「神田駅(アース製薬本社前)」に 発車メロディは「モンダミン」で南口は「南口(アースジェット口)」 |publisher=ORICON NEWS |accessdate=2023-10-02}}</ref>。
== 駅構造 ==
=== JR東日本 ===
{{駅情報
|社色 = green
|文字色 =
|駅名 = JR 神田駅
|画像 = Kanda-Station-South-Exit-2019.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 南口(2019年9月)
|よみがな = かんだ
|ローマ字 = Kanda<br />{{駅番号s|black|#ffffff|KND}}
|副駅名 = アース製薬本社前
|電報略号 =
|所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
|所在地 = [[東京都]][[千代田区]][[鍛冶町 (千代田区)|鍛冶町]]二丁目13-1
|座標 = {{coord|35|41|30|N|139|46|15|E|region:JP-13_type:railwaystation|display=inline,title|name=JR 神田駅}}
|開業年月日= [[1919年]]([[大正]]8年)[[3月1日]]{{R|sone05-23}}
|駅構造 = [[高架駅]]
|ホーム = 3面6線{{R|zeneki05}}
|乗車人員 = 81,046
|統計年度 = 2022年
|乗入路線数 = 3
|所属路線1 = {{color|#f15a22|■}}[[中央線快速|中央線]]<ref group="*" name="0:"/>
|前の駅1 =JC 01 [[東京駅|東京]]
|駅間A1 = 1.3
|駅間B1 = 1.3
|次の駅1 = [[御茶ノ水駅|御茶ノ水]] JC 03
|駅番号1 = {{駅番号r|JC|02|#f15a22|1}}
|キロ程1 = 0.0 km(神田起点)<br />東京から1.3
|起点駅1 =
|所属路線2 = {{color|#00b2e5|■}}[[京浜東北線]]<ref group="*" name="0:">線路名称上は、中央線御茶ノ水方面は[[中央本線]]、それ以外は[[東北本線]]。</ref>
|前の駅2 = JK 26 東京
|駅間A2 = 1.3
|駅間B2 = 0.7
|次の駅2 = [[秋葉原駅|秋葉原]] JK 28
|駅番号2 = {{駅番号r|JK|27|#00b2e5|1}}
|キロ程2 = 1.3 km([[東京駅|東京]]起点)<br />[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]から29.0
|所属路線3 = {{color|#9acd32|■}}[[山手線]]<ref group="*" name="0:"/>
|前の駅3 = JY 01 東京
|駅間A3 = 1.3
|駅間B3 = 0.7
|次の駅3 = 秋葉原 JY 03
|駅番号3 = {{駅番号r|JY|02|#9acd32|1}}
|キロ程3 = 1.3
|起点駅3 = 東京
|乗換 =
|備考 = {{Plainlist|
* [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]](管理駅)
* [[File:JR area YAMA.svg|15px|山]][[File:JR area KU.svg|15px|区]] [[東京山手線内]]・[[特定都区市内|東京都区内]]駅}}
|備考全幅 = {{Reflist|group="*"}}
}}
[[島式ホーム]]3面6線を有する[[高架駅]]で、京浜東北線南行の線路の東側に[[東北新幹線]]が、上層に[[上野東京ライン]]の高架が並行する。[[エスカレーター]]はホームと北改札との間を連絡するが、ホームと南改札との間には設置されていない。3・4番線に通じるエスカレーターは1階[[コンコース]]からそのままホームへと通じている。
[[改札|改札口]]は南北に2か所。北改札(秋葉原・御茶ノ水寄り)から東口と北口が、南改札(東京寄り)から西口と南口が利用できる。銀座線への乗り換えは北改札の北口側からとなる。[[指定席券売機]]が設置されており、東口には[[VIEW ALTTE]]が存在する。
上野東京ラインの工事に合わせ、ホームと改札を連絡するエスカレーターの大幅増設とエレベーターの新設工事、および南口コンコースと出入口を連絡するエレベーターの新設工事が行われた。
直営駅(駅長配置)であり、管理駅として[[横須賀・総武快速線|総武快速線]]の[[新日本橋駅]]、[[馬喰町駅]]を管理している。
==== のりば ====
<!--方面表記は、JR東日本の駅の情報の「駅構内図」の記載に準拠-->
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先
|-
!1
|[[File:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] 京浜東北線
|style="text-align:center"|南行
|[[東京駅|東京]]・[[品川駅|品川]]・[[横浜駅|横浜]]方面
|-
!2
|rowspan="2"|[[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] 山手線
|style="text-align:center"|外回り
|東京・品川・[[渋谷駅|渋谷]]方面
|-
!3
|style="text-align:center"|内回り
|[[上野駅|上野]]・[[田端駅|田端]]・[[池袋駅|池袋]]方面
|-
!4
|[[File:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] 京浜東北線
|style="text-align:center"|北行
|上野・[[赤羽駅|赤羽]]・[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]方面
|-
!5
|rowspan=2|[[File:JR JC line symbol.svg|15px|JC]] 中央線
|style="text-align:center"|上り
|東京方面
|-
!6
|style="text-align:center"|下り
|[[御茶ノ水駅|御茶ノ水]]・[[新宿駅|新宿]]・[[高尾駅 (東京都)|高尾]]方面
|}
(出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/538.html JR東日本:駅構内図])
* 当駅に停車する中央線電車(橙色帯の電車)はすべて快速または特別快速・通勤快速であり、各駅停車(黄色帯の電車)は乗り入れない。
* 中央線などで運用されている[[JR東日本E233系電車|E233系]]車内のLCD案内では京浜東北線の表示がされているものの、自動放送による乗換案内はされていない。
* JR中央線は、[[2020年代]]前半(2021年度以降の向こう5年以内)を目処に快速電車に2階建てグリーン車を2両連結させ12両編成運転を行う。そのため中央線の電車が停車する5・6番線は、ホームの12両編成対応の改築工事が行われる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2014/20150203.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190924030537/https://www.jreast.co.jp/press/2014/20150203.pdf|format=PDF|language=日本語|title=中央快速線等へのグリーン車サービスの導入について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2015-02-04|accessdate=2020-04-21|archivedate=2019-09-24}}</ref><ref group="新聞">{{Cite news|url=https://www.sankei.com/smp/economy/news/170324/ecn1703240001-s1.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170324011255/https://www.sankei.com/smp/economy/news/170324/ecn1703240001-s1.html|title=JR東日本、中央線のグリーン車計画を延期|newspaper=産経新聞|date=2017-03-24|accessdate=2020-11-29|archivedate=2017-03-24}}</ref>。
* 中央線では隣の東京駅が京浜東北・山手線等よりも高い3階にあり、なおかつ新幹線をはじめとした各方面から利用者数も多い関係で当駅よりも乗り換えに多少の時間を要することが多いため、朝ラッシュ時を中心に中央線東京行から山手線外回り(東京・品川方面行)または京浜東北線南行に乗り換える乗客が多く見られる。
<gallery>
JR Kanda Station - Tokyo - Oct 10 2021 - various 16 41 19 383000.jpeg|東口(2021年10月)
JRE Kanda-STA North-Gate.jpg|北改札(2023年7月)
JRE Kanda-STA Platform1-2.jpg|1・2番線ホーム(2023年7月)
JRE Kanda-STA Platform3-4.jpg|3・4番線ホーム(2023年7月)
JRE Kanda-STA Platform5-6.jpg|5・6番線ホーム(2023年7月)
</gallery>
==== 発車メロディ ====
1番線では[[サウンドファクトリー]]<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=カテゴリから探す|鉄道モバイル|url=https://www.te2do.jp/contents/category-n4/?attr=1&cid1=1&cid2=4&cid3=48&xid=|website=www.te2do.jp|accessdate=2020-03-11|language=ja}}</ref>、2・3番線では「モンダミン」のCMソング{{Refnest|group="注釈"|番線ごとにアレンジが異なる。}}、4番線ではサウンドフォーラム<ref name=":0" />、5・6番線では[[テイチクエンタテインメント|テイチク]]制作のメロディを使用している。
2・3番線では2023年10月1日まで[[日本電音]]<ref>{{Cite web|和書|title=カテゴリから探す|鉄道モバイル|url=https://www.te2do.jp/contents/category-n4/?attr=1&cid1=1&cid2=9&cid3=88&xid=|website=www.te2do.jp|accessdate=2020-03-11|language=ja}}</ref>の「せせらぎ」が使用されていた。
{|border="1" cellspacing="0" cellpadding="3" frame="hsides" rules="rows"
!1
|[[File:JR JK line symbol.svg|15px|JK]]
|SF-3(教会の見える駅)
|-
!2・3
|[[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]]
|モンダミン CMソング
|-
!4
|[[File:JR JK line symbol.svg|15px|JK]]
|春 New Ver.
|-
!5
|[[File:JR JC line symbol.svg|15px|JC]]
|Sunny Islands
|-
!6
|[[File:JR JC line symbol.svg|15px|JC]]
|ホリデイ V1
|}
{{-}}
=== 東京メトロ ===
{{駅情報
|社色 = #109ed4
|文字色 =
|駅名 = 東京メトロ 神田駅
|画像 = Tokyometro-kanda-station5gou.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 5番出入口(2018年8月)
|よみがな = かんだ
|ローマ字 = Kanda
|前の駅 = G 12 [[三越前駅|三越前]]
|駅間A = 0.7
|駅間B = 1.1
|次の駅 = [[末広町駅 (東京都)|末広町]] G 14
|駅番号 = {{駅番号r|G|13|#ff9500|4}}
|所属事業者 = [[東京地下鉄]](東京メトロ)
|所属路線 = {{color|#ff9500|●}}[[東京メトロ銀座線|銀座線]]
|キロ程 = 4.4
|電報略号 =
|起点駅 = [[浅草駅|浅草]]
|所在地幅 = long
|所在地 = [[東京都]][[千代田区]][[神田須田町]]一丁目16
|座標 = {{coord|35|41|37.5|N|139|46|15.2|E|region:JP-13_type:railwaystation|name=東京メトロ 神田駅}}
|駅構造 = [[地下駅]]
|ホーム = 1面2線
|開業年月日 = [[1931年]]([[昭和]]6年)[[11月21日]]
|乗降人員 = <ref group="メトロ" name="me2022" />47,348
|統計年度 = 2022年
|乗換 =
|備考 =
}}
島式ホーム1面2線を有する[[地下駅]]で、扇形の形状をしている。[[1932年]][[4月29日]]に銀座線が[[三越前駅]]まで開業すると途中駅となったため、線路は途中まで南口の地下通路を挟んでいる。なお、南口地下通路に直結する2番出口はビルと直結している。
改札口はホームの前後にあり、浅草寄りにある須田町方面改札口は[[階段]]上、渋谷寄りにある内神田方面改札口は同一階に設置されている。エスカレーターは設置されていない。JR線への乗り換え通路は渋谷寄りにある。地下通路とJRコンコースを連絡する階段は天井高さが非常に低い。
須田町方面改札口を出た先には、かつて[[東京地下鉄道]]が経営していた[[神田須田町地下鉄ストア]]に通ずる[[地下街|地下商店街]]が設けられていた。これらがある地下通路をそのまままっすぐ進んだ先の出口は6番出口で、付近は須田町交差点があり、[[秋葉原電気街]]の南端に近い。須田町交差点はかつて[[東京都電車|都電]]最大級の要衝であり、都電からの乗り換え客の利便および地下鉄ストアへの利用客誘致のために長い地下通路が設けられた<ref>{{Cite web|和書|url=https://dot.asahi.com/aera/photoarticle/2019061300089.html?page=3|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201114095308/https://dot.asahi.com/aera/photoarticle/2019061300089.html?page=3|title=新宿でも渋谷でもない! 都電時代の55年前、最大のターミナルだった意外すぎる場所とは?|date=2019-06-15|page=3|publisher=[[朝日新聞出版]]|work=[[AERA dot.]]|accessdate=2020-11-14|archivedate=2020-11-14}}</ref>。
==== のりば ====
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先
|-
!1
|rowspan="2"|[[File:Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg|15px|G]] 銀座線
|[[渋谷駅|渋谷]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/kanda/timetable/ginza/a/index.html |title=神田駅時刻表 渋谷方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-02}}</ref>
|-
!2
|[[浅草駅|浅草]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/kanda/timetable/ginza/b/index.html |title=神田駅時刻表 浅草方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-02}}</ref>
|}
(出典:[https://www.tokyometro.jp/station/kanda/index.html 東京メトロ:構内図])
<gallery>
Tokyo-Metro-Kanda-STA Ginza-Line-Gate.jpg|内神田方面改札口(2021年6月)
Tokyometro-kanda-sugate.jpg|須田町方面改札口(2018年8月)
Tokyo-Metro-Kanda-STA Ginza-Line-Home.jpg|ホーム(2021年6月)
</gallery>
==== 発車メロディ ====
[[2015年]]([[平成]]30年)[[6月20日]]から、[[美空ひばり]]の「[[お祭りマンボ]]」をアレンジしたものを発車メロディ(発車サイン音)として使用している{{Refnest|group="注釈"|歌詞中に「神田の生まれで チャキチャキ江戸っ子」というフレーズがあることにちなんでいる。}}。メロディはスタマックの制作で、編曲は[[永田太郎]]が手掛けた<ref group="報道" name="Train-melody"/><ref>{{Cite web|title=【 artists 】永田太郎|url=http://www.manuera.com/?menu=artists&name=%E6%B0%B8%E7%94%B0%E5%A4%AA%E9%83%8E|website=Manual of Errors Artists|accessdate=2019-08-22|publisher=有限会社マニュアル・オブ・エラーズ・アーティスツ}}</ref>。
{{-}}
== 利用状況 ==
* '''JR東日本''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''81,046人'''である<ref group="利用客数">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員] - JR東日本</ref>。
*: JR東日本管内の駅の中では[[目黒駅]]に次いで第42位。2016年度は6年ぶりに10万人を上回った。
* '''東京メトロ''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''47,348人'''である<ref group="メトロ" name="me2022" />。
*: 東京メトロ全130駅中71位<!--他鉄道との直結連絡駅及び共用している駅の乗降人員は順位から除いております-->。銀座線で乗り換え路線のない[[外苑前駅]]よりも少ない。
=== 年度別1日平均乗降人員 ===
近年の1日平均乗降人員推移は下表の通り(JRを除く)。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗降人員<ref group="乗降データ">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref>
!rowspan=2|年度
!colspan=2|営団 / 東京メトロ
|-
!1日平均<br />乗降人員
!増加率
|-
|2002年(平成14年)
|<ref name="RJ759_31" />53,442
|
|-
|2003年(平成15年)
|<ref name="RJ759_31">{{Cite book|和書|author=瀬ノ上清二|title=[[鉄道ピクトリアル]]|chapter=輸送と運転 近年の動向|volume=55|issue=3|page=31|publisher=[[電気車研究会]]|date=2005-03-10|issn=0040-4047}}</ref>52,453
|−1.9%
|-
|2004年(平成16年)
|50,981
|−2.8%
|-
|2005年(平成17年)
|50,987
|0.0%
|-
|2006年(平成18年)
|51,864
|1.7%
|-
|2007年(平成19年)
|52,596
|1.4%
|-
|2008年(平成20年)
|52,050
|−1.0%
|-
|2009年(平成21年)
|50,524
|−2.9%
|-
|2010年(平成22年)
|49,866
|−1.3%
|-
|2011年(平成23年)
|49,410
|−0.9%
|-
|2012年(平成24年)
|52,247
|5.7%
|-
|2013年(平成25年)
|52,612
|0.7%
|-
|2014年(平成26年)
|53,098
|0.9%
|-
|2015年(平成27年)
|56,761
|6.9%
|-
|2016年(平成28年)
|59,201
|4.3%
|-
|2017年(平成29年)
|60,720
|2.6%
|-
|2018年(平成30年)
|62,029
|2.2%
|-
|2019年(令和元年)
|62,320
|0.5%
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="メトロ" name="me2020">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2020.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2020年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>37,802
|−39.3%
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="メトロ" name="me2021">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2021.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2021年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>39,958
|5.7%
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="メトロ" name="me2022">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/index.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>47,348
|18.5%
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(1910年代 - 1930年代) ===
近年の1日平均'''乗車'''人員推移は下表の通り。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員
!年度!!国鉄!!東京地下鉄道!!出典
|-
|1919年(大正{{0}}8年)
|4,548
|rowspan=11 style="text-align:center;"|未開業
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972680/265?viewMode= 大正8年]</ref>
|-
|1920年(大正{{0}}9年)
|7,353
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972681/301?viewMode= 大正10年]</ref>
|-
|1922年(大正11年)
|14,949
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972682/303?viewMode= 大正11年]</ref>
|-
|1923年(大正12年)
|9,940
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972683/294?viewMode= 大正12年]</ref>
|-
|1924年(大正13年)
|10,165
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972684/292?viewMode= 大正13年]</ref>
|-
|1925年(大正14年)
|14,575
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448121/326?viewMode= 大正14年]</ref>
|-
|1926年(昭和元年)
|23,955
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448138/316?viewMode= 昭和元年]</ref>
|-
|1927年(昭和{{0}}2年)
|27,727
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448164/314?viewMode= 昭和2年]</ref>
|-
|1928年(昭和{{0}}3年)
|31,320
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448188/346?viewMode= 昭和3年]</ref>
|-
|1929年(昭和{{0}}4年)
|32,539
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448218/334?viewMode= 昭和4年]</ref>
|-
|1930年(昭和{{0}}5年)
|33,926
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448245/339?viewMode= 昭和5年]</ref>
|-
|1931年(昭和{{0}}6年)
|32,977
|<ref group="備考">開業日(1931年11月21日)から1932年3月31日までの計132日間を集計したデータ。</ref> 3,859
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448278/342?viewMode= 昭和6年]</ref>
|-
|1932年(昭和{{0}}7年)
|32,644
|5,718
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448259/315?viewMode= 昭和7年]</ref>
|-
|1933年(昭和{{0}}8年)
|33,609
|5,655
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446322/333?viewMode= 昭和8年]</ref>
|-
|1934年(昭和{{0}}9年)
|34,751
|6,557
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446161/341?viewMode= 昭和9年]</ref>
|-
|1935年(昭和10年)
|36,323
|7,011
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446276/339?viewMode= 昭和10年]</ref>
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(1953年 - 2000年) ===
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員
!年度
!国鉄 /<br />JR東日本
!営団
!出典
|-
|1953年(昭和28年)
|92,203
|
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1953/tn53qa0009.pdf 昭和28年]}} - 11ページ</ref>
|-
|1954年(昭和29年)
|94,309
|
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1954/tn54qa0009.pdf 昭和29年]}} - 9ページ</ref>
|-
|1955年(昭和30年)
|92,126
|
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1955/tn55qa0009.pdf 昭和30年]}} - 9ページ</ref>
|-
|1956年(昭和31年)
|96,198
|20,607
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1956/tn56qa0009.pdf 昭和31年]}}</ref>
|-
|1957年(昭和32年)
|101,146
|21,337
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1957/tn57qa0009.pdf 昭和32年]}}</ref>
|-
|1958年(昭和33年)
|108,528
|20,398
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1958/tn58qa0009.pdf 昭和33年]}}</ref>
|-
|1959年(昭和34年)
|111,637
|21,126
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1959/tn59qyti0510u.htm 昭和34年]</ref>
|-
|1960年(昭和35年)
|118,420
|20,720
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1960/tn60qyti0510u.htm 昭和35年]</ref>
|-
|1961年(昭和36年)
|123,882
|25,287
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1961/tn61qyti0510u.htm 昭和36年]</ref>
|-
|1962年(昭和37年)
|134,836
|27,300
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1962/tn62qyti0510u.htm 昭和37年]</ref>
|-
|1963年(昭和38年)
|144,418
|30,403
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1963/tn63qyti0510u.htm 昭和38年]</ref>
|-
|1964年(昭和39年)
|149,719
|31,378
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1964/tn64qyti0510u.htm 昭和39年]</ref>
|-
|1965年(昭和40年)
|152,350
|30,544
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1965/tn65qyti0510u.htm 昭和40年]</ref>
|-
|1966年(昭和41年)
|151,146
|30,184
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1966/tn66qyti0510u.htm 昭和41年]</ref>
|-
|1967年(昭和42年)
|151,947
|30,068
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1967/tn67qyti0510u.htm 昭和42年]</ref>
|-
|1968年(昭和43年)
|154,570
|32,461
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1968/tn68qyti0510u.htm 昭和43年]</ref>
|-
|1969年(昭和44年)
|138,871
|34,268
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1969/tn69qyti0510u.htm 昭和44年]</ref>
|-
|1970年(昭和45年)
|136,605
|37,046
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1970/tn70qyti0510u.htm 昭和45年]</ref>
|-
|1971年(昭和46年)
|136,366
|38,202
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1971/tn71qyti0510u.htm 昭和46年]</ref>
|-
|1972年(昭和47年)
|134,129
|38,403
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1972/tn72qyti0510u.htm 昭和47年]</ref>
|-
|1973年(昭和48年)
|130,684
|35,736
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1973/tn73qyti0510u.htm 昭和48年]</ref>
|-
|1974年(昭和49年)
|140,397
|35,019
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1974/tn74qyti0510u.htm 昭和49年]</ref>
|-
|1975年(昭和50年)
|135,639
|35,566
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1975/tn75qyti0510u.htm 昭和50年]</ref>
|-
|1976年(昭和51年)
|135,088
|34,932
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1976/tn76qyti0510u.htm 昭和51年]</ref>
|-
|1977年(昭和52年)
|131,432
|34,947
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1977/tn77qyti0510u.htm 昭和52年]</ref>
|-
|1978年(昭和53年)
|131,452
|34,142
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1978/tn78qyti0510u.htm 昭和53年]</ref>
|-
|1979年(昭和54年)
|125,139
|34,975
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1979/tn79qyti0510u.htm 昭和54年]</ref>
|-
|1980年(昭和55年)
|118,918
|35,855
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1980/tn80qyti0510u.htm 昭和55年]</ref>
|-
|1981年(昭和56年)
|115,408
|36,706
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1981/tn81qyti0510u.htm 昭和56年]</ref>
|-
|1982年(昭和57年)
|114,287
|36,956
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1982/tn82qyti0510u.htm 昭和57年]</ref>
|-
|1983年(昭和58年)
|113,027
|37,596
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1983/tn83qyti0510u.htm 昭和58年]</ref>
|-
|1984年(昭和59年)
|115,351
|37,151
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1984/tn84qyti0510u.htm 昭和59年]</ref>
|-
|1985年(昭和60年)
|114,208
|36,616
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1985/tn85qyti0510u.htm 昭和60年]</ref>
|-
|1986年(昭和61年)
|117,586
|37,591
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1986/tn86qyti0510u.htm 昭和61年]</ref>
|-
|1987年(昭和62年)
|118,388
|38,178
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1987/tn87qyti0510u.htm 昭和62年]</ref>
|-
|1988年(昭和63年)
|127,107
|37,956
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1988/tn88qyti0510u.htm 昭和63年]</ref>
|-
|1989年(平成元年)
|124,071
|36,394
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm 平成元年]</ref>
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|126,778
|36,369
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 平成2年]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|129,249
|35,667
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 平成3年]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|130,455
|35,244
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 平成4年]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|126,562
|34,490
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 平成5年]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|121,441
|33,230
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 平成6年]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|120,954
|32,213
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 平成7年]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|118,997
|31,384
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 平成8年]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|117,090
|30,422
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 平成9年]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|115,518
|29,847
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 平成10年]}}</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/1999.html 各駅の乗車人員(1999年度)] - JR東日本</ref>113,286
|28,710
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 平成11年]}}</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>111,311
|28,186
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 平成12年]</ref>
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) ===
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="乗降データ">[https://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/kuse/toke/kisotoke/index.html 行政基礎資料集] - 千代田区</ref>
!年度
!JR東日本
!営団 /<br />東京メトロ
!出典
|-
|2001年(平成13年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>109,831
|27,510
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 平成13年]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>108,754
|26,649
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 平成14年]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>107,156
|26,126
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 平成15年]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>105,728
|25,693
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 平成16年]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>105,782
|25,707
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 平成17年]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>106,834
|26,145
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 平成18年]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>106,766
|26,571
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 平成19年]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>105,753
|26,485
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 平成20年]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>103,605
|25,619
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 平成21年]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>101,075
|25,219
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 平成22年]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>99,307
|24,981
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 平成23年]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>97,779
|26,334
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 平成24年]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>97,589
|26,306
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 平成25年]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>97,251
|26,673
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 平成26年]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>98,917
|28,615
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 平成27年]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>101,340
|29,825
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 平成28年]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>103,940
|30,551
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 平成29年]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>106,091
|31,189
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 平成30年]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>106,658
|31,508
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 平成31年・令和元年]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>71,872
|
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>71,824
|
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>81,046
|
|
|}
;備考
{{Reflist|group="備考"}}
== 駅周辺 ==
{{See also|鍛冶町 (千代田区)|神田須田町|内神田|神田司町|神田多町|日本橋本石町|日本橋室町}}
中小のビルが立ち並ぶオフィス街。西口側には神田駅西口[[商店街]]があり、昔ながらの商店街が現在も残っているほか、[[サラリーマン]]の街として知名度が高く、[[居酒屋]]も多い。また西口周辺には、東京都内で最初に建設された[[下水道]]である[[神田下水]]の一部が現在も機能している。東口から中央通り沿いに南下すると[[新日本橋駅]]([[横須賀・総武快速線]])・[[三越前駅]]([[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]]・銀座線)に到着する。
東京メトロの浅草寄り出口は[[中央通り (東京都)|中央通り]]・[[東京都道302号新宿両国線|靖国通り]]が交わる須田町交差点に面し、秋葉原電気街の南端に近い。
[[神田古書店街]]は当駅ではなく[[神保町駅]]が最寄りである。また、JR東日本のホームにある出口・乗り換え案内には「[[神田明神]]へは、[[御茶ノ水駅]]下車が便利です。」といった案内表記がなされている。
== バス路線 ==
最寄りの[[バス停留所|停留所]]は、北口に位置する'''神田駅前'''と、東京メトロ6番出口前の'''須田町'''となる。[[都営バス]]の以下の路線が平日・土曜に限り乗り入れる(休日ダイヤでは経由しない)。
* [[都営バス臨海支所#秋26系統|秋26]]:[[葛西駅|葛西駅前]]行き / [[秋葉原駅|秋葉原駅前]]行き
== 隣の駅 ==
; 東日本旅客鉄道(JR東日本)
: [[File:JR JC line symbol.svg|15px|JC]] 中央線
:: {{Color|#0099ff|■}}特別快速「[[ホリデー快速おくたま]]」<!-- おくたまは定期列車扱い -->(土休日上りのみ)・{{Color|#ff0066|■}}通勤特快(平日上りのみ)・{{Color|#0033ff|■}}中央特快・{{Color|#339966|■}}青梅特快・{{Color|#990099|■}}通勤快速(平日下りのみ)・{{Color|#f15a22|■}}快速
::: [[東京駅]] (JC 01) - '''神田駅 (JC 02)''' - *<s>[[万世橋駅]]</s> - [[御茶ノ水駅]] (JC 03)
:: *<s>打消線</s>は廃駅
: [[File:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] 京浜東北線
:: {{Color|#ff0066|■}}快速・{{Color|#00b2e5|■}}各駅停車
::: 東京駅 (JK 26) - '''神田駅 (JK 27)''' - [[秋葉原駅]] (JK 28)
: [[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] 山手線
::: 東京駅 (JY 01) - '''神田駅 (JY 02)''' - 秋葉原駅 (JY 03)
; 東京地下鉄(東京メトロ)
: [[File:Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg|15px|G]] 銀座線
::: [[三越前駅]] (G 12) - '''神田駅 (G 13)''' - [[末広町駅 (東京都)|末広町駅]] (G 14)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 記事本文 ===
==== 注釈 ====
{{Reflist|group="注釈"}}
==== 出典 ====
{{Reflist}}
===== 報道発表資料 =====
{{Reflist|group="報道"|2}}
===== 新聞記事 =====
{{Reflist|group="新聞"}}
=== 利用状況 ===
; JR・地下鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="利用客数"}}
; JR東日本の1999年度以降の乗車人員
{{Reflist|group="JR"|22em}}
; 東京地下鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="メトロ"|22em}}
; JR・地下鉄の統計データ
{{Reflist|group="乗降データ"}}
; 東京府統計書
{{Reflist|group="東京府統計"|17em}}
; 東京都統計年鑑
{{Reflist|group="東京都統計"|17em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=曽根悟|authorlink=曽根悟|title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR|editor=朝日新聞出版分冊百科編集部|publisher=[[朝日新聞出版]]|issue=5|chapter=中央本線|date=2009-08-09|ref=sone05}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[上野東京ライン]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=538|name=神田}}
* [https://www.tokyometro.jp/station/kanda/index.html 神田駅/G13 | 路線・駅の情報 | 東京メトロ]
* {{NDLDC|960387/169|市街高架線東京万世橋間建設紀要|format=EXTERNAL}}
* {{NDLDC|966253/25|東京万世橋両駅間高架鉄道開通祝賀会『歴史写真. 大正8年4月號』|format=EXTERNAL}}
* {{Wayback|url=www.koken-archi.co.jp|title=交建設計「東京メトロ銀座線神田駅」|date=20190609024109/}}
{{鉄道路線ヘッダー}}
{{中央線快速}}
{{京浜東北・根岸線}}
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{{東京メトロ銀座線}}
{{鉄道路線フッター}}
{{DEFAULTSORT:かんた}}
[[Category:日本の鉄道駅 か|んた]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]]
[[Category:中央線快速]]
[[Category:山手線]]
[[Category:京浜東北・根岸線]]
[[Category:東京地下鉄の鉄道駅]]
[[Category:千代田区の鉄道駅]]
[[Category:神田|かんたえき]]
[[Category:1919年開業の鉄道駅]] | 2003-05-17T13:04:08Z | 2023-12-20T12:27:56Z | false | false | false | [
"Template:Refnest",
"Template:国土航空写真",
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"Template:東京メトロ銀座線",
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"Template:Pp-vandalism"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%94%B0%E9%A7%85_(%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD) |
8,459 | 小田急小田原線 | 小田原線(おだわらせん)は、東京都新宿区の新宿駅から神奈川県小田原市の小田原駅を結ぶ、小田急電鉄(小田急)の鉄道路線である。当路線単体、または小田急電鉄の全路線を指して小田急線とも呼称される。
駅ナンバリングで使われる路線記号はOHで、番号は当路線の新宿駅から直通運転先の箱根登山鉄道線(箱根登山電車)、さらに箱根登山ケーブルカー、箱根ロープウェイを経て、芦ノ湖にある箱根観光船(箱根海賊船)の元箱根港までを一体とする連番で振られており、小田原線は青色()、小田急箱根ホールディングス傘下の箱根登山電車・箱根登山ケーブルカー・箱根ロープウェイ・箱根海賊船は赤茶色()で描かれている。
小田原線は、「小田原急行鉄道」として創業した小田急電鉄の基幹路線で、ターミナルである新宿駅から、東京都南多摩地域の町田市や神奈川県央地域の厚木市などを経由して神奈川県西部地域の小田原駅を結ぶ路線である。
小田原駅からは箱根登山鉄道線に直通し、新宿駅 - 箱根湯本駅間を結ぶ有料特急「ロマンスカー」も頻繁に運転されている。また、支線の江ノ島線や多摩線に直通する列車も多く、東京地下鉄(東京メトロ)千代田線・東日本旅客鉄道(JR東日本)常磐緩行線とも相互直通運転する一方で、一部の特急列車が東海旅客鉄道(JR東海)御殿場線と直通運転を行っている。東京都心への通勤・通学路線と箱根・湘南江の島などへの観光路線という2つの顔を持つ路線で、新宿寄りの代々木上原駅 - 登戸駅間 (11.7 km) は複々線化されている。
新宿駅 - 小田原駅及び新宿駅 - 江ノ島線藤沢駅間は途中経路は異なるものの、JR東日本の湘南新宿ラインと競合関係にある。運賃は本路線の方が安く、快速急行を設定するなど速達性を高めてJRに対抗している。
路線は武蔵野台地から出て多摩川を渡り、多摩丘陵を津久井道に沿った谷で貫き、境川を越えて相模野台地に入る。台地を下ると相模平野に入り、相模川を越えてもしばらく平野と台地が続く。丹沢山地の麓が近づくと勾配と曲線がきつくなり、登り切ると秦野盆地に入る。トンネルを通過して酒匂川支流の四十八瀬川沿いの渓谷を走り、急カーブが多く速度は低下する。新松田駅からは酒匂川の本流沿いの足柄平野を走り、再び速度を上げて一路小田原駅を目指す。線形は台地や平地では直線区間が多く、丘陵地帯では曲線が多くなるが、全線に渡って半径は緩めにとってある場合が多い。急行は直線部では100 km/hで走行し、曲線部では80 - 90 km/h程度で通過する。
本厚木駅から新松田駅まで国道246号(大山街道・矢倉沢往還)が並行する。
小田急百貨店新宿店の1階、地上4面3線・地下3面2線の新宿駅を発車すると、すぐに地上線と地下線が合流して渋谷区に入る。合流地点には東京都道414号四谷角筈線の踏切がある。この踏切までの区間の上空には人工地盤が構築され、その上部は新宿サザンテラスとなっている。踏切を通過すると間もなく南新宿駅へ到着する。この付近は副都心の新宿から1 km程度しか離れていないにも関わらず大変閑静な住宅街であり、そのせいか同駅はターミナル駅の隣とは思えないほど利用客が少ない。明治神宮への参道がある参宮橋駅を発車すると、しばらく直線区間を走り、代々木八幡駅へ。この駅は急カーブ(同線で最も急な半径200メートル)上にあり、制限速度45 km/hで徐行しながら、西へと向きを変える。直後に東京都道317号環状六号線(山手通り)の跨線橋を潜り、さらに東京メトロ千代田線が上下線の間から地上に出てきて合流、そのまま27‰の急勾配で高架へ上り、2面4線の代々木上原駅に到着する。
代々木上原駅から先は複々線区間となり、東京メトロ千代田線の引き上げ線を横目に高架から35‰の急勾配で地下に潜り、世田谷区に入って、東北沢駅へ到着。ここまでは外側2線が急行線、内側2線が緩行線の形態だが、急行線は駅の小田原寄りから下り勾配となり、緩行線の直下を走行する2層式形態となる。次の京王井の頭線と交差・接続する下北沢駅では、地下1階のホームが緩行線、地下2階のホームが急行線と、乗り場が分かれている。
下北沢駅を発車すると緩行線は世田谷代田駅へ至るが、急行線は駅直下を通過するためホームを視認できない。東京都道318号環状七号線(環七通り)の下をくぐり、35‰の急勾配で地上へ出ると緩行線と急行線が横並びとなり、高架区間となって梅ヶ丘駅へ。梅ヶ丘 - 登戸間の複々線は、内側2線が急行線、外側2線が緩行線である。同駅の近くに羽根木公園があり、梅のシーズンには大変賑わっている。その後、東急世田谷線と交差して豪徳寺駅に到着する。上り急行線に通過線を持つ2面5線の経堂駅には、小田原線開業時には車庫があった。次の千歳船橋駅、その先で東京都道311号環状八号線(環八通り)・東京都道428号高円寺砧浄水場線(荒玉水道道路)と交差して祖師ヶ谷大蔵駅に至る。環八通り乗越え部分の下り急行線・下り緩行線部分は1971年に先行し完成していた高架橋を耐震補強のうえ流用しており、また上下線とも4線全体を跨ぐ往時のトラス架線柱に揃えてある。その後仙川を渡ると高架から一気に地下(掘割)に潜り、2面4線の成城学園前駅に到着する。この駅の真上には、2006年9月29日に駅ビル成城コルティが完成した。
成城学園前駅を発車すると再び地上へ戻り、喜多見検車区への引き込み線を右へ分岐しながら高架を上り、野川を渡るとすぐに喜多見駅に到着。ここで東京23区を抜け狛江市に入り、狛江駅へ。やや左へカーブし、和泉多摩川駅を発車すると間もなく多摩川を渡る。橋を渡り終えると神奈川県(川崎市多摩区)に入り、JR南武線と交差し2面4線の登戸駅に到着する。登戸駅を発車するとすぐに下り緩行線が下り急行線に合流し、ここから先は3線となる。
登戸駅を発車すると右へカーブしながら高架を下り、2面4線の向ヶ丘遊園駅に到着する。常磐線各駅停車・千代田線からの直通電車の多くは同駅発着となる。登戸 - 向ヶ丘遊園間の駅間距離は小田急全線で最短の0.6 km。向ヶ丘遊園駅は2002年まで存在した向ヶ丘遊園の最寄り駅で、2000年までは駅前から向ヶ丘遊園まで向ヶ丘遊園モノレールが運行されていた。ここで3線区間も終わり、以西は終点の小田原駅まで複線区間となる。
向ヶ丘遊園駅を発車すると東京都道・神奈川県道9号川崎府中線(府中街道)と交差し、さらに二ヶ領用水・五反田川を渡り右へカーブし再び西へと向きを変える。ここから町田までは多摩丘陵の谷を縫うように走り、それまで密集した市街地が続いていた車窓はぐっと緑が増えた印象となって、しばらくの間畑と住宅が混在した区間を走る。その後神奈川県道13号横浜生田線と交差する。この神奈川県道13号の陸橋は東京都道・神奈川県道3号世田谷町田線(津久井道)と交差しているが、交差する津久井道の側道は本線を挟む構造ではなく、本線に挟まれる構造になっている。その後は津久井道・五反田川と並行し左には明治大学生田キャンパスが見えてくる。住宅が込んでくると間もなく生田駅へ、その先で地下を走る武蔵野線(貨物線)と交差し、読売ランド前駅に到着。この先百合ヶ丘駅手前まで津久井道と歩道一つを挟んで完全に並行する。その後左へ急カーブ南西を向き、川崎市麻生区に入って切通しに入り百合ヶ丘駅へ、その先でS字カーブを描きながら勾配を下り、引き上げ線2線を上下本線で抱き込みながら、3面6線の新百合ヶ丘駅に到着する。
新百合ヶ丘駅を発車すると多摩線を分岐して勾配を下り、右手に小田急電鉄の保線施設を見ながら左へカーブし南に向きを変える。この付近で、地下を通過する建設中の中央新幹線(第一首都圏トンネル)と交差する。畑も少し残る住宅地を抜けると柿生駅へ到着。その先で再び東京都(町田市)に入るとしばらくの間町田市と川崎市麻生区(飛地)の市境を直線で抜け、2面3線の鶴川駅へ到着。ここで津久井道を分け、その先少し走ると左手から住宅は消え森林となり、完全に町田市に入る。さらに和光大学が見えると東京都内では唯一(地下区間を除く)の境塚トンネル(231.4 m)を通る。トンネルを出ると玉川学園に挟まれながら左へカーブを切り、玉川学園前駅に到着。そこからしばらくの間住宅地を走り、しばらくすると一旦市街地が途切れて恩田川を渡り、築堤上を走りながらカーブを切り東京都道47号八王子町田線(町田街道)と交差し、市街地へ入っていく。切り通しを抜けると小田急百貨店町田店の中3階、小田急第2の規模を持つ2面4線の町田駅に到着する。
町田駅を発車するとJR横浜線と交差し、カーブを切りながら境川を渡る。ここで再び神奈川県(相模原市)に入り、切り通しを抜ける。切り通しを抜けるときれいな装飾が施されたコンクリート壁を見ながら通過線を含む2面6線の相模大野駅に至る。
相模大野駅を発車すると江ノ島線を分岐し、しばらくの間左手に大野総合車両所を見る。その後は住宅地を直線で抜け、小田急相模原駅へ。その先で座間市に入り、勾配を下っていく。その後今度は勾配を上っていき、2面4線の相武台前駅へ到着。かつて大野総合車両所に移転するまで工場があり、駅構内東側に広がる留置線はその名残である。その先しばらくは直線で抜ける。座間谷戸山公園が見えて森林が増えてくると左へカーブし南を向き、右に神奈川県道51号町田厚木線のバイパスが見えてくる。左手から森林が消えて市街地が見えてくると間もなく座間駅へ。その先は住宅街を直線で抜け、海老名市に入る。国道246号(大和厚木バイパス)と交差すると南西に向きを変え、相鉄厚木線(貨物線)と交差し、相鉄本線とも並行し海老名検車区が併設された2面4線の海老名駅に到着する。
海老名駅を発車し、神奈川県道40号横浜厚木線の陸橋の下をくぐると高架の上り坂になり、しばらく直線を進むと右にカーブしてJR相模線と交差し厚木駅へ。その先で圏央道を潜り、相模川を渡って厚木市に入る。橋を渡り終えると高架で市街地へ入り、左へカーブしながら2面4線の本厚木駅に到着する。
本厚木駅を発車するとそのまま市街地を通る。高架を降り右手の国道246号線と並走する区間になると水田が混在するが、すぐに住宅地になり勾配を登ると愛甲石田駅に着く。駅構内に厚木市と伊勢原市の市境がある。
愛甲石田駅を発車すると並行していた国道246号と別れる。しばらくは住宅地を走るが、高架区間に入ると水田地帯に入り、右手には大山が、左手には平塚市街や湘南平まで見渡せるほど視野が開ける。新東名高速道路を潜り、伊勢原台地へ向かう登り勾配になると住宅地に入り、登りきったところが2面4線の伊勢原駅となる。同駅は大山への玄関口として、大山ケーブルカーへ接続する路線バスが発着している。常磐線各駅停車・千代田線からの直通電車は最長で伊勢原駅まで運行される。
伊勢原駅を発車するとしばらくは住宅地のままだが、右手に見える工業団地を抜けると水田が一面に広がり、線路の周囲には人家がほとんどなくなる。善波川橋梁を通過すると秦野市に入り、再び住宅地が見えると鶴巻温泉駅に着く。
鶴巻温泉駅を発車すると畑が混在する住宅地を通りながら東海大学前駅へ到着する。両駅間は1.1 kmと私鉄の駅間距離としては標準的だが、伊勢原駅 - 鶴巻温泉駅、東海大学前駅 - 秦野駅間の駅間距離が約4-5 kmあるので特に短く感じる。
東海大学前駅を発車すると右手に弘法山を見ながら走る。しばらく住宅地のままだが、2 kmほど進んだところにある秦野トンネル(351 m)を抜けると秦野盆地へ入る。急勾配と急カーブで盆地の中心部へと進んでいく。畑と雑木林の風景のすき間から右手には丹沢と秦野市街地が見える。
2面4線の秦野駅を発車すると右から水無川が別れ、畑が混在する住宅地をきつめの登り勾配で小田原線の駅で最も標高の高い渋沢駅まで駆け上がる。ここから愛甲石田駅付近から山を挟んで北側を走っていた国道246号と再び並行することになる。
渋沢駅を発車すると、下北沢駅前後の地下区間を除いて小田急最長の第一菖蒲トンネル(492.9 m)を抜け、うねりながら流れる四十八瀬川(酒匂川水系)の谷に沿って線路も敷設されているため、25‰の急勾配と半径400 mの急カーブの連続で降りて盆地を抜け出す。さらに短い第二菖蒲トンネル(60.3 m)を抜け谷間を進む。このあたりも周囲には人家がないが、秦野市と松田町の市町境付近には孤島のような形で湯の沢団地が存在する。東名高速道路・国道255号を相次いで潜ると、並行していた国道246号から別れ、左手の神奈川県立足柄上病院を過ぎたところで右手方向に特急「ふじさん」の運行や新車の搬入などで使われる連絡線がJR御殿場線へ向かって分岐する。御殿場線をくぐると2面4線の新松田駅に到着する。渋沢駅 - 新松田駅間の駅間距離は小田急全線で最長の6.2 kmである。
新松田 - 小田原間は水田が広がる足柄平野を通るため利用客が比較的少なく、栢山・富水・螢田・足柄の4駅はホーム有効長が最大6両分と短く設定されており、日中は6両編成の区間列車(各駅停車)が往復している。開成駅手前から螢田駅の先までは足柄平野の水田地帯を抜けるが、線形も良く高速運転向きで、優等列車は最高速度で走ることも多い。
新松田駅を発車すると酒匂川を渡り、橋を渡り切ると大きく左にカーブして開成町へ入る。開成駅は2面2線の急行停車駅で、周辺はマンションが並ぶなど住宅地としての開発が著しい。駅の東側(進行左手)には電留線と駅前に保存されている3100形NSE車の先頭車も見える。開成駅から400 m程南下すると小田原市に入る。栢山駅、富水駅、螢田駅はともに駅周辺に商店や住宅がコンパクトにまとまっているが、駅を離れるとすぐに水田地帯となる。このあたりはかつて酒匂川が洪水を頻繁に起こしていたためもとから人口が少ない。足柄平野一帯では小田原線沿線よりも御殿場線や伊豆箱根鉄道大雄山線沿線の方に人口が集まっている。
螢田駅を過ぎると小田原市中心部へ進路をとるため右カーブとなり、小田原厚木道路を潜った後狩川を渡る。伊豆箱根鉄道大雄山線をオーバークロスし、切通しを抜けて2面3線の足柄駅となる。付近にかつてはJT小田原工場があり、足柄駅から専用線が延び、小田原駅経由で貨物輸送が行われていた名残りで、右手ヤードの奥には電留線がある。東海道新幹線をくぐり、JR東海道本線に右カーブで合流すると2面3線の小田原駅に到着する。ここから先は箱根登山線が延び「はこね」などの特急ロマンスカーが箱根登山線の箱根湯本駅(箱根町)まで直通する。
2023年3月18日ダイヤ改正時点の日中の各区間の1時間あたりの運行本数は下表のとおりである。かつては箱根登山鉄道鉄道線箱根湯本駅まで直通運転をする列車も多くみられたが、2022年1月時点で直通運転を行う列車は特急のほか、平日・土休日共に夜間に箱根湯本発の各駅停車本厚木行きが1本設定されているのみである。
下りの東北沢 - 登戸間、上りの向ヶ丘遊園 - 東北沢間の急行線・緩行線は原則として以下の通り使い分けられている。
基本種別色が設定されているが、車両や駅により、異なる色を使っている場合もある。
有料・全席指定の特急列車で、「ロマンスカー」の愛称があり、新宿駅から次の各方面に運転されている。単に「特急」と表現されることもあるが「特急ロマンスカー」が正式な種別名である。
なお、新宿駅発17時以降の下り列車は行先にかかわらず(江ノ島線直通を含め)すべて「ホームウェイ」となる。また、9時30分までに新宿駅および東京メトロ千代田線大手町駅に到着する上り列車はすべて「モーニングウェイ」となる。
また、毎年12月31日の深夜から翌年1月1日の早朝にかけて、終夜運転として臨時列車の「ニューイヤーエクスプレス」(略称:NYE、旧名称:初詣号)が新宿駅 - 片瀬江ノ島駅間などで運行される。
2008年3月15日より、東京メトロ千代田線北千住駅・大手町駅に直通する列車を60000形「MSE」で運転している。列車の愛称は頭に「メトロ」が付く。また、2011年9月までは一部の土曜・休日に臨時で東京地下鉄有楽町線新木場駅にも直通する「ベイリゾート」も運転されていた。「小田急ロマンスカー#地下鉄直通」も参照。
停車駅は列車によって異なるので、それぞれの列車の項目を参照。
2004年12月11日のダイヤ改正で定期列車として初めて登場した速達種別である。種別色はオレンジ色。全列車全区間を10両編成で運転する。
現行ダイヤにおいて、日中は新宿駅 - 小田原駅間の列車と新宿駅 - 江ノ島線藤沢駅間の列車がそれぞれ1時間に3本運転されており、新宿駅 - 相模大野駅間では両者を合わせて1時間に6本となる。多摩線発着の列車も設定されており、平日朝夕に下り、土休日朝に上り列車が運転される。新宿駅 - 小田原駅間は新宿発また小田原発のすべての列車が新松田駅 - 小田原駅で急行に種別変更して運転する。なお平日朝上りに、江ノ島線内を急行で運転し、相模大野駅から快速急行に種別変更する列車が、藤沢駅・大和駅発として設定されている。
小田急電鉄によると、快速急行は、速達列車利用旅客を長距離と近距離に分離することによる長距離旅客の速達性向上と近郊区間における急行の混雑緩和を目的に設定したとしている。
代々木上原駅 - 登戸駅間の複々線区間を活用し、この区間を含む下北沢駅 - 登戸駅間をノンストップで運行することが最大の特徴となっている。日中帯について、小田原駅発着列車は、下りは代々木上原駅で東京メトロ千代田線からの急行向ヶ丘遊園駅行きに、上りは新百合ヶ丘駅で多摩線唐木田駅発の急行新宿駅行きに接続する。江ノ島線藤沢発着の列車は、相模大野駅で町田駅・相模大野駅 - 小田原駅間(新松田駅 - 小田原駅間各停)で運行する急行に接続し、登戸駅で向ヶ丘遊園駅発の東京メトロ千代田線方面に直通する急行に接続する。これらによって、快速急行の停車しない急行停車駅などへの利便性が確保されている。
快速急行の登場当時からしばらくの間、日中に乗り換えなしで新宿駅から藤沢駅へ行ける列車は湘南新宿ライン・快速急行ともに1時間に2本運行されており、それぞれ所要時間(昼間)はJRが48 - 50分(当時の現金運賃で970円)、小田急の快速急行が53 - 54分(当時の現金運賃で590円)と伯仲していた。2016年3月26日のダイヤ改正で、小田急側は快速急行の本数が1時間に3本に増加し、利便性は向上した一方で、所要時間はJRが49 - 51分、小田急の快速急行が56 - 58分と、少々延びている。
後述の急行と同様、本厚木駅 - 新松田駅間では各駅に停車し、日中時間帯に同区間での設定がない各駅停車の役割を果たしている。
2016年3月26日のダイヤ改正より、小田原線内で下りは伊勢原駅(日中3本に2本程度)、上りは海老名駅(一部相模大野駅・秦野駅)で特急ロマンスカーの待ち合わせや通過待ちを行うようになったが、登場時は江ノ島線系統も併せて原則下り1本(夜の小田原駅行き)を除き特急ロマンスカーの待ち合わせや通過待ちをしなかった。2019年3月16日以降、土曜・休日ダイヤの片瀬江ノ島行きについては、2本が大和駅で特急「メトロえのしま」号に追い抜かれる。
列車番号は、小田原線内の列車には3000番台、江ノ島線直通列車には3500番台、多摩線直通列車には3700番台がそれぞれ割り当てられている。
2018年3月17日のダイヤ改正より、以下のように運行形態が変化した。
2019年3月16日のダイヤ改正より、新松田駅 - 小田原駅間を急行として運転し、同改正で再び急行停車駅となった開成駅に停車する列車が設定された。また、夜の本厚木行きが廃止された。
2021年3月のダイヤ改正より、海老名駅5時7分発の快速急行小田原行きが毎日運転として設定された。この列車は新松田駅で同駅5時41発の各駅停車小田原行きに乗り換えられる。
2022年3月12日のダイヤ変更より、江ノ島線の藤沢駅での運用分割により藤沢駅 - 片瀬江ノ島駅間の運転がなくなった。また、前述の海老名始発の列車を除き、新松田駅 - 小田原駅間は全ての列車が急行として運転するようになる。
2018年3月17日のダイヤ改正で設定された種別(運転開始は3月19日)。平日朝ラッシュ時間帯に多摩線発新宿行きのみ運転される。唐木田駅 - 新宿駅間の途中停車駅は小田急多摩センター駅・小田急永山駅・栗平駅・新百合ヶ丘駅・向ヶ丘遊園駅・成城学園前駅・下北沢駅・代々木上原駅。快速急行の停車しない向ヶ丘遊園駅・成城学園前駅に停車するが、登戸駅は通過するという千鳥停車の形をとる。6本が小田急多摩センター駅始発、3本が唐木田駅始発となる。
設定当初は8両編成での運転が1本のみ存在したが、2019年3月16日のダイヤ改正より、全列車が10両編成で運転されている。
列車番号は3800番台が割り当てられている。
1927年10月15日の小田原線全線複線化により登場した。1944年11月には太平洋戦争の戦況悪化に伴い運行が中止されたが、1949年10月1日に運行が再開され、現在に至っている。種別色は赤色。
現行ダイヤでは小田急内系統とJR東日本常磐線・東京メトロ千代田線直通系統の2つが存在する。それぞれの概要を2つに分けて記す。
2004年12月13日から2022年3月11日まで、平日の一部時間帯で経堂駅を通過していた(一部通過扱い)。2018年3月16日までは、常磐線・千代田線直通の列車は平日朝上り列車のみ通過とされていた。2022年3月12日のダイヤ変更から平日・土休日ともに全ての急行が終日経堂駅に停車するようになった。
日中は経堂駅(下りのみ)・成城学園前駅・登戸駅・新百合ヶ丘駅(下りのみ)・町田駅(上りのみ)・海老名駅(下りのみ)で各駅停車に接続する。ラッシュ時は相武台前駅と鶴川駅(上りのみ)で各駅停車を追い抜く列車が多い。特急ロマンスカーの待避は相模大野駅で行われることが多いが、向ヶ丘遊園駅・町田駅・海老名駅(主に上り)・本厚木駅・秦野駅などで行われることもある。常磐線・千代田線直通系統の下り列車のうち、平日夜の唐木田行きは向ヶ丘遊園駅で快速急行を待避するが、それ以外の下り列車は快速急行に抜かれることなく相模大野駅まで先着する。
途中駅から(まで)の種別を各駅停車に変更する列車は俗に「化け急」と呼ばれ、上りは途中駅まで各駅停車で、下りは途中駅から各駅停車で運転される。2018年3月17日のダイヤ改正以降、種別変更を行う駅は新百合ヶ丘駅・相模大野駅・新松田駅の3つである。新百合ヶ丘駅から種別変更する列車は新宿駅 - 本厚木・海老名駅・相模大野駅・多摩線唐木田駅間、相模大野駅から種別変更する列車は新宿駅 - 本厚木駅間、新松田駅から種別変更する列車は相模大野駅・町田駅 - 小田原駅間にそれぞれ設定されている。2018年3月16日までは種別変更を行う駅は相模大野駅のみで、新宿駅から相模大野駅までは「急行相模大野行」、相模大野駅から全車両「各停○○行」と種別と行先の両方を変更していた。かつては江ノ島線にも設定されていたが現在は全廃されている。
運行トラブルなどでダイヤが大きく乱れた場合、新宿駅 - 経堂駅間のみ急行運転を行う場合や、柿生駅 - 玉川学園前駅間および小田急相模原駅 - 厚木駅間の各駅に臨時停車することがある。
列車番号は、小田原線内の列車には1000番台(新宿駅発着の急行は1200番台)、江ノ島線直通列車には1500番台(新宿駅発着の急行は1700番台)、千代田線直通列車には2000番台(経堂駅停車列車は2200番台)、多摩線直通列車には2700番台がそれぞれ割り当てられているが、2018年3月16日までは6両編成の「赤丸急行」(後述)にも2000番台が割り当てられていた。
2018年3月16日まで、6両編成で運行される急行については、開成駅 - 足柄駅間の各駅に停車していた。該当する列車は駅に掲示されている時刻表や新松田駅・小田原駅の発車標で「赤い丸」が付けられ区別されていた。2008年3月15日のダイヤ改正以降、6両編成の急行はほぼ日中の町田駅・相模大野駅 - 小田原駅間を運転する列車に限定され、2012年3月17日のダイヤ改正よりすべて町田駅以西での運転となった。この改正で新宿駅発着の急行に関しては、すべて開成駅 - 足柄駅間の各駅が通過となった。さらに2016年3月26日のダイヤ改正で、日中の町田駅・相模大野駅 - 小田原駅間運転の急行が全廃され、「赤丸急行」の本数は平日下り3本、平日上り6本、土休日下り1本、土休日上り3本と大幅に本数削減された。そして2018年3月17日のダイヤ改正で、開成駅 - 足柄駅間の各駅に停車する6両編成の急行はいったん全廃された。2022年3月12日のダイヤ変更で、日中に新松田駅 - 小田原駅間で各駅停車に種別変更する町田駅・相模大野駅発着列車が設定され、開成駅 - 足柄駅間の各駅に停車していた急行と同様の運行形態となった。
なお、開成駅についてはホームの10両編成対応工事が完了したことから、2019年3月16日のダイヤ改正より急行の全列車停車駅となっている。
かつて、ラッシュ時を中心に相模大野駅・海老名駅・新松田駅・小田原駅で分割・併合を行い、分割・併合駅 - 小田原駅・箱根湯本駅間を6両編成で運転していた。また、新宿駅寄りの4両(7 - 10号車)を各駅停車に種別変更して運転するものもあった。そのため向ヶ丘遊園駅を除く新宿駅 - 新松田駅間の急行停車駅および小田原駅に「分割案内板A」が設置されている。2002年3月23日のダイヤ改正以降は新松田駅での分割・併合列車が増えた。かつては小田原方より4両+6両という組み合わせ(通称「逆10両」)などがあり、「分割案内板B」などが設置されていたが、その後そのような分割・併合は行われなくなった(そのため6両編成の小田原方先頭車の電気連結器は撤去された)。一部の駅では、分割案内板をホーム番号表示と兼用していた事例もあるが、現存しない。なお、18 m車(2400形を含む)および旧4000形(吊り掛け駆動車)が運用されていた当時は新宿駅の分割案内板はA(新宿寄りが18 m車4連)、B(20 m車4連:現在の「A」に相当)、C(20 m車5連:旧4000形)、D(18 m車6連)、E(20 m車6連:後の「B」に相当)の5種類が用意されており、18 m車の廃車および旧4000形の高性能化が完了後もしばらくはそのまま残っていた。
相模大野駅で分割・併合を行っていた時期には、小田原線・江ノ島線とも急行として運転する列車(1 - 6号車が箱根湯本駅発着、7 - 10号車が片瀬江ノ島駅発着)や、1 - 6号車が箱根湯本駅発着の急行で7 - 10号車が藤沢駅・片瀬江ノ島駅発着の各駅停車(相模大野駅で種別変更、ただし下り列車の種別・行先は全車急行箱根湯本駅行き)が多く設定されていた。他にも、夕ラッシュ時の江ノ島線の輸送力を確保するために1 - 6号車が急行片瀬江ノ島駅行き、7 - 10号車が各駅停車の藤沢駅・片瀬江ノ島駅行き(相模大野駅で種別変更)という列車の設定もあった。さらに遡ると、1980年代までは、新宿駅 - 相模大野駅間を急行、1 - 6号車は相模大野駅 - 本厚木駅間を各駅停車、7 - 10号車は相模大野駅 - 片瀬江ノ島駅間を各駅停車として運転する列車が日中の大多数を占めていた。
2008年3月15日のダイヤ改正で、箱根登山鉄道線風祭駅の新駅舎と小田原駅箱根登山鉄道用折り返し線の使用が開始されたのに伴い小田原駅 - 箱根湯本駅間で4両編成の列車が折り返し運転を行うことから、箱根湯本駅発着として運転していた列車はすべて小田原駅発着となった。そのため、基本的に新宿駅 - 小田原駅間は10両編成となり、分割・併合を行う列車は大幅に減少した。このダイヤ改正から箱根登山鉄道線への定期列車としての急行の直通運転は行われていない。 2012年3月のダイヤ改正でロマンスカー以外の分割・併合がすべて廃止されたため、急行の箱根登山鉄道線直通は完全に廃止となった。
2018年3月17日のダイヤ改正で設定された種別(運転開始は3月19日)。この改正で準急は千歳船橋駅・祖師ヶ谷大蔵駅・狛江駅が停車駅に追加されたが、平日朝ラッシュ時間帯上りにこれらの駅には停車しない(経堂駅には停車する)列車が残ることから、区別のため種別を変更した。平日朝ラッシュ時間帯かつ上り方向のみの運行で、全列車が東京メトロ千代田線直通となる。停車駅は伊勢原駅 - 登戸駅の各駅と、成城学園前駅・経堂駅・下北沢駅・代々木上原駅からの各駅。 一部を除いて登戸駅 - 成城学園前駅間は緩行線、成城学園前駅 - 経堂駅間は急行線、経堂駅 - 代々木上原駅間は再び緩行線を使用し、登戸駅と成城学園前駅でそれぞれ新宿方面の快速急行と各駅停車に、経堂駅で千代田線方面の各駅停車に接続する。現状で唯一全列車が急行線と緩行線を両方使う種別である。
「通勤準急」の名は過去にも存在しており(後節参照)、実に53年ぶりの復活となる。最長運行区間は海老名駅→我孫子駅。設定当初は本厚木駅始発が5本、海老名駅始発が1本だったが、2019年3月16日ダイヤ改正で伊勢原駅始発が新設され、伊勢原駅始発が1本、本厚木駅始発が4本、海老名駅始発が1本となった。
1946年10月1日に登場。前年6月まで運転されていた「直通」(後述)の運転パターンに近い列車として設定された。種別色は緑色。なお緑色は1978年3月31日の営団地下鉄千代田線代々木公園駅 - 代々木上原駅間延伸開通に伴う相互直通運転開始を機に採用されたもので、それ以前は黄色であった。
上り平日朝ラッシュ時を除く朝夕を中心に運転され、現行ダイヤでは全列車が代々木上原駅以東常磐線・東京メトロ千代田線に直通する。2022年3月12日のダイヤ改正以前は日中にも常磐線・千代田線内 - 向ヶ丘遊園駅間の列車が1時間に3本運転されていたが、2022年3月12日のダイヤ改正で種別が急行に変更された(一部列車のみ準急のまま残っている)。代々木上原駅 - 登戸駅間の複々線区間では緩行線を走行する(向ヶ丘遊園駅の引き上げ線の構造上、上りは向ヶ丘遊園駅 - 登戸駅間のみ急行線を走行)種別として運転され、基本的に先行する各駅停車は追い抜かないが、土休日の朝の下り列車は登戸駅で各駅停車を追い抜く(登戸駅のみ急行線ホームに入線、向ヶ丘遊園駅のみ当種別が先着)ほか、向ヶ丘遊園駅で本厚木発の各駅停車から始発の準急に接続する列車が存在する。全列車が地下鉄対応車の10両編成で運転されるが、大幅なダイヤ乱れがあった場合新宿駅、代々木上原駅発着の地上車の準急も運転されることがある(新宿 - 代々木上原駅間は途中無停車)。そのため地上車専用の1000形・3000形・8000形などにも、「準急」の字幕またはLED種別表示が用意されている。
現在のダイヤでは、本厚木駅・伊勢原駅着は平日夕ラッシュ時間帯の一部のみで、大多数が向ヶ丘遊園駅・成城学園前駅発着となっており、向ヶ丘遊園以西は平日下りのみの運転となっている。
経堂駅の高架化以前は、ホーム長の関係で10両編成である千代田線直通と朝ラッシュ時および深夜の新宿発着はすべて経堂駅を通過していたが、2000年に上りホームが、2001年に下りホームがそれぞれ高架となり、10両編成対応になったため、2000年より上りの準急が、2001年よりすべての準急がそれぞれ朝ラッシュ時の上りを除き停車するようになり、2018年3月17日のダイヤ改正で全列車が停車するようになった。
列車番号は4000番台が割り当てられているが、2018年3月16日までは経堂駅に停車する列車の番号には4200番台以降が割り当てられていた。
2018年3月16日までの停車駅は新宿駅 - 登戸駅間は急行と同一、登戸駅以西は各駅停車で、平日朝ラッシュ時の上り列車は経堂駅を通過していた。2018年3月17日のダイヤ改正で、経堂駅に全列車が停車するようになったほか、新たに千歳船橋駅、祖師ヶ谷大蔵駅、狛江駅に停車するようになった。平日朝ラッシュ時間帯の上り列車は改正前の停車駅と経堂駅のみに停車し、通勤準急として区別された。1978年3月31日から1990年3月27日までは、朝ラッシュ時に経堂駅に加えて百合ヶ丘駅・読売ランド前駅・生田駅を通過する準急(通称・スキップ準急)もあった。これは1978年3月30日まであった前述の新百合ヶ丘駅以西が各駅停車となる急行を千代田線直通としたための措置で、小田原線内は停車駅が同一であった。前述の通り、2018年3月17日改正より早朝に新百合ヶ丘駅で急行に種別変更する上り各駅停車、深夜に同駅で各駅停車に種別変更する下り急行が設定されたため、事実上復活(経堂駅停車有無については考慮せず)したともいえる。
かつては常磐線・千代田線に直通せず小田急内のみで運転される列車も設定されていたが、2000年12月2日のダイヤ改正で大半が常磐線・千代田線内 - 相模大野駅間の運転となってから徐々に減少していった。2002年3月23日のダイヤ改正で多摩急行が登場し、ほとんどの常磐線・千代田線内 - 相模大野駅間の準急が多摩急行に変更となり日中の準急は消滅した。2008年3月15日のダイヤ改正から新松田駅以西の運転が廃止され、箱根登山鉄道線への定期列車としての準急の直通運転も廃止された。2014年3月15日のダイヤ改正では平日朝に1本のみ多摩線に直通する列車が設定された(新宿駅発唐木田駅行き)。2015年3月14日のダイヤ改正で、夕方ラッシュ時の下り準急は急行に振り替えられる形で一旦消滅したが、2016年3月26日のダイヤ改正で再度設定され復活した。そして、2018年3月17日のダイヤ改正で全列車が常磐線・千代田線直通となり小田急内のみで運転する列車が全廃され、多摩線に直通する列車も廃止となった。またこの改正で平日に設定されていた成城学園前駅発新松田駅行きも廃止され、伊勢原駅以西の運転も廃止された。
2018年3月16日までは経堂駅まで各停、経堂駅から準急新宿駅行きとなる列車が存在していた。2012年3月17日のダイヤ改正で、このような列車が平日は本厚木駅発19時台、土休日は新松田駅発22時台に各1本設定されていた。2015年3月13日までは、平日は町田発で運転されていた。2016年3月26日ダイヤ改正では一部変更となり、朝方にも平日は本厚木駅発、土休日は向ヶ丘遊園駅発の各1本が追加設定された一方、夜間については平日のみ運転区間が短縮され向ヶ丘遊園駅発のみになった(改正前の本厚木駅 - 向ヶ丘遊園駅間は時刻変更のうえ我孫子駅行きに振り替えられた)。
開業と同時に登場した。当初は新宿駅 - 稲田登戸駅(現・向ヶ丘遊園駅)間のみ運行され、小田原駅までの運行は行われなかったが、終戦前の1945年6月に実施されたダイヤ改正以後は全線にわたって運行されている。種別色は青色 で、1994年頃に通過表示灯の点灯を中止するまでは各停のみ種別を表示しておらず、1994年頃から2018年3月17日の白紙ダイヤ改正までは基本的に「各停」と表記されていた。
現行ダイヤでは小田急内系統と常磐線・東京メトロ千代田線直通系統の2つが存在する。それぞれの概要を2つに分けて記す。
ホームの長さの関係で、8・10両編成の列車は新宿駅 - 新松田駅・多摩線唐木田駅間で運転されており、栢山駅 - 足柄駅間の各駅に停車する列車と江ノ島線直通列車は6両編成以下となっている。また箱根登山鉄道線箱根湯本駅発着の各駅停車は4両編成となっている。また、かつては平日のみ箱根湯本発本厚木行きの各駅停車の1本(6両編成)が新松田駅で4両を増結して10両編成となるものも存在した。
代々木上原駅 - 登戸駅間は複々線区間であり、ほとんどの列車が特急ロマンスカー・快速急行、急行、通勤急行、通勤準急に抜かれる(経堂駅・成城学園前駅・登戸駅で乗り継ぐこともある)。朝夕を中心に鶴川駅(上りのみ)や相武台前駅などで特急ロマンスカー・快速急行・急行の通過待ちをすることがある。向ヶ丘遊園駅・新百合ヶ丘駅・町田駅・相模大野駅・海老名駅・本厚木駅・新松田駅などで快速急行・急行の待ち合わせをすることが多い(一部通過待ちとなる駅もある)。
列車番号は、江ノ島線内のみ運転の列車には5100番台もしくは5700番台、江ノ島線直通列車には5500番台、小田原線内完結列車のうち千代田線直通列車には6000番台、向ヶ丘遊園駅まで運転の列車には6200番台、相模大野駅まで運転の列車には6400番台、相模大野駅以西も運転される列車には6500番台、種別変更を行う列車には6750番台、箱根登山鉄道鉄道線直通列車には本厚木駅着が6800番台、新松田駅着が7000番台、多摩線内のみ運転の列車には7600番台、多摩線直通列車には7900番台がそれぞれ割り当てられている。
2008年3月15日のダイヤ改正より、急行の新松田駅での連結・切り離し作業が基本的にはなくなり新松田駅 - 小田原駅・箱根湯本駅間は4両編成での折り返し運転が実施され、日中の新松田駅 - 小田原駅間の途中駅各駅に停車する列車は、新松田駅発着の各駅停車(4両編成)と町田駅・相模大野駅発着で本厚木駅 - 小田原駅間各駅停車の急行(6両編成)との交互運転になった。新松田駅 - 小田原駅・箱根湯本駅間の区間運転列車については1000形の箱根登山鉄道塗装(レーティッシュカラー)の車両が優先的に充当されていた。
2012年3月17日のダイヤ改正より箱根登山鉄道鉄道線への直通列車は早朝・夜間のごく一部を除き廃止され、新松田駅 - 小田原駅間の区間列車は6両編成での運転となった。
2016年3月26日のダイヤ改正より日中の都心側は新宿駅 - 新百合ヶ丘駅間において1時間に6本(10分間隔)の運転(同時に梅ヶ丘駅 - 百合ヶ丘駅間では、区間準急の全廃も伴って実質減便)となり、加えて急行との接続駅が成城学園前駅に統一された(このほか下りは新百合ヶ丘駅と海老名駅、上りは町田駅で急行または快速急行と接続)。また新宿駅 - 本厚木駅(一部は準急が運転される時間帯があるため、向ヶ丘遊園駅)間の運転が基本となり、多摩線との直通は朝夕のみ(土休日は朝夕併せて1.5往復のみ)、江ノ島線への直通運転は平日の新宿駅発と成城学園前駅発のそれぞれ1本に減らされた。このほか、快速急行の増発に伴い本厚木駅以遠各駅に停車する急行がごく少数の運転本数となったため、それを補完する新松田駅 - 小田原駅間の区間運転が増加した。
2018年3月17日のダイヤ改正より千代田線直通列車が朝夕を中心に設定された。新松田駅 - 小田原駅間の日中の運行本数は1時間3本に削減された。
2019年3月16日のダイヤ改正で新宿駅 - 代々木上原駅での10両編成の列車の運転が開始された。また、6両編成の新宿駅 - 成城学園前駅間への乗り入れがなくなり、小田原線全線(新宿駅 - 小田原駅間)を通しで運転する各駅停車が全廃となった。
開業時に登場した種別である。開業当初は新宿駅 - 稲田登戸駅(現・向ヶ丘遊園駅)間のみの運行であった「各駅停車」に対し、直通は全線で運転した。新宿駅 - 稲田登戸駅間は経堂駅のみに停車し、稲田登戸駅 - 小田原駅間は各駅に停車した。
多客時に特急を補完する形で運行されていた。1953年から1959年までは「サービス特急」、同年から特急運用を外れた2300形が投入された際に100円の座席指定券を発行することになったのに伴い「準特急」に改められ、1963年まで名乗っていた。1963年に3100形「NSE」の登場により廃止された。停車駅は当時の特急と同様に新宿駅 - 小田原駅間は無停車だった。特急との違いは接客設備の格差によるものであり、特急が全席指定(これは現在も同じ)だったのに対し、準特急はセミクロスシート車で無料の列車指定券を発行しての座席定員制であった。
なお、「準特急」の名称は廃止後、京王電鉄が2001年3月27日の京王線ダイヤ改定で採用するまで、日本では使用されなかった。
1948年9月 - 1950年2月という短期間の間だけ存在していた種別であった。運行区間は新宿駅 - 新原町田駅(現・町田駅)間だった。
1960年3月25日から1964年11月4日まで運用された種別であった。停車駅は現在の急行停車駅から経堂駅を抜いたものであった。当時は準急が喜多見駅 - 和泉多摩川駅間の各駅にも停車していた。同年11月5日のダイヤ改正で快速準急が新設され、準急は朝ラッシュ時のみの運転となり、通勤準急そのものが準急となった。
1964年から1972年まで昼間時に急行と準急の間の「快速準急」という列車が運転されていた。同年に急行に統合され消滅した。停車駅は向ケ丘遊園駅以北は当時の準急停車駅、同駅以南は当時の急行停車駅であった。
休日には行楽地へのアクセスのために読売ランド前(よみうりランド最寄り)と鶴川(こどもの国最寄り)の両駅にも停車していた。通勤急行が廃止され、成城学園前駅に急行が停車するようになると、停車駅が急行とほぼ変わらなくなるため、1972年3月のダイヤ改正で廃止され、急行に統合された。
2004年12月11日ダイヤ改正で快速急行とともに新設された種別である。種別色は水色。
代々木上原駅 - 梅ヶ丘駅間の複々線化に伴う東北沢駅の地下化工事の過程における待避設備の撤去によりすでに下り緩行線が完成している複々線区間の東端である梅ヶ丘駅まで速達列車の待避ができなくなったことから、新宿駅 - 梅ヶ丘駅間で優等列車より先行して一列車あたりの線路占有時間拡大を抑え、梅ヶ丘駅以西の各停本数を維持する目的で設定された。 そのため各停を追い抜くことはなかった。
元々は、東北沢駅で急行・多摩急行の待避を行っていた各停の時刻で、日中の列車における新宿駅 - 代々木上原駅間の時刻は、かつて1時間に2本運転されていた新宿駅発着の準急(2000年12月ダイヤ改正で千代田線直通となり、2002年3月ダイヤ改正で多摩急行に格上げ)から転用している。このため、代々木上原駅で新宿駅には直通しない多摩急行と連絡することで、多摩線方面から新宿方面への需要を確保するとともに快速急行の新設に伴い新宿駅 - 新百合ヶ丘駅間で減便となった急行の需要をカバーする役割も担っていた。主に新宿駅 - 唐木田駅間での運行だったが、一部は成城学園前駅・向ヶ丘遊園駅・本厚木駅・伊勢原駅・新松田駅発着の列車も存在した。なお、元々が各停の時刻であり停車駅も急行より各停に近い性格だったこともあってほとんどの列車が各停用の8両編成での運転であり、新宿駅では各停が使用する地下ホームからの発着であった。
2016年3月26日のダイヤ改正にて全廃となった。
1955年のダイヤ改正で登場した種別であった。当初の停車駅は小田原線内では当時の急行の停車駅に稲田多摩川駅(現・登戸駅)が追加されたもので、江ノ島線内では現在の急行停車駅からまだ東急田園都市線が開通していなかった中央林間駅と当時はまだ開業していなかった湘南台駅を除いた設定となっていた。その後、1960年のダイヤ改正で朝の上りのみ成城学園前駅に停車するようになり、1964年をもって完全に停車駅化される。1970年に登戸駅に急行が停車し、翌1971年に成城学園前駅にも急行が停車するようになると、上記の快速準急と同じように急行に統合される形で廃止となった。
1970年代に運用された種別であった。土曜急行の名の通り、土曜の半ドン帰宅の足として設定されていた。昼過ぎから夕方の間に何本か通常の急行を増発する形として、さらには相武台前に停車するという停車パターンで運用されていた。
2002年3月23日から2004年12月10日まで運用された種別で、新宿駅 - 江ノ島線藤沢駅間で運転し、小田原線内では急行と同じ停車駅となっていた。2004年12月11日のダイヤ改正で快速急行に格上げされた。
特急ロマンスカー「あさぎり」および「ふじさん」の前身の種別である。詳細は「ふじさん」を参照。
その他、多摩線向けに「快速」の種別が準備されていたが結局使用は中止され、方向幕には湘南急行・多摩急行の登場前まで存在していた。
朝および夕方以降に多摩線唐木田駅から小田原線を経由してJR常磐緩行線我孫子駅(一部は取手駅まで)運転していた。種別色は桃色。
急行とは小田原線内の停車駅が異なり、向ヶ丘遊園駅を通過し、経堂駅に停車していた。上り列車は経堂駅で特急ロマンスカーの通過待ちを行うことがあった。ダイヤ乱れ時は運休あるいは新宿駅発着となる場合もあった。小田急の地下鉄直通対応車である4000形やJR東日本E233系2000番台も使用された。
2016年3月26日のダイヤ改正で、日中は急行(経堂駅・向ヶ丘遊園駅共に停車)に置き換わり、実質朝夕ラッシュ時の千鳥運転のための種別となった(ラッシュ時の急行・朝ラッシュ時の上り準急は向ヶ丘遊園駅停車、経堂駅通過)。
2018年3月17日のダイヤ改正で廃止された。
江ノ島線直通の臨時列車は「小田急江ノ島線#臨時列車」も参照。
下記の臨時列車は、特記なければ1000形で運転。2007年以降は4000形(分割・併合がない場合に限る)も使用されている。
2019年度の小田原線の最混雑区間は世田谷代田 → 下北沢間で、最混雑時間帯1時間の平均混雑率は158%である。
複々線化完了前の2017年度の同区間混雑率は194%であり、東京メトロ東西線(木場 → 門前仲町間、199%)に次ぎ、首都圏の大手私鉄では2番目に高い数字となっていたが、2018年3月3日に登戸 - 代々木上原間の複々線が完成し、同年3月17日のダイヤ改正で朝ラッシュ時の運転本数が1時間当たり36本に増加したため、混雑率は速報値で151%、翌年度も157%と大幅に改善している。
朝ラッシュ時で最も混雑する列車は快速急行であり、特に10号車から8号車にかけて混雑が集中する。多摩線から直通する通勤急行は新百合ヶ丘で快速急行と接続して後追いとなるため、快速急行と比較すると混雑率が低い。通勤準急は成城学園前と経堂で各駅停車と接続するが、登戸で快速急行と接続するため通勤急行よりも混雑率が低い。朝ラッシュ時で最も空いている列車は向ヶ丘遊園始発の各駅停車である。
梅ヶ丘 - 東北沢間の複々線が完成する前の朝ラッシュピーク1時間は、同区間で上り方向1時間当たり28本(平均2分10秒間隔)が運転されていた。このうち10両編成で運転される快速急行・急行・準急が計19本、8両編成で運転される各駅停車が9本だった。なお、代々木上原 - 新宿間は東京メトロ千代田線直通電車の分が抜けるため、運転間隔は若干ではあるが開く。急行や準急に限らず、各駅停車も1日平均乗降人員が5万人を超える経堂(当時の朝ラッシュ時は各駅停車のみ停車)や千歳船橋など世田谷区内の各駅から多くの乗客が乗り込むため、激しく混雑していた。1993年度まで混雑率は200%を超えていたが、その後は輸送量の減少により2003年度に188%まで緩和された。しかし、それ以降は2016年度まで混雑率の横ばいが続いていた。
近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
代々木上原 - 向ヶ丘遊園間 (12.3 km) では小田急電鉄が複々線化、東京都が連続立体交差化の各事業を実施しており(建設主体は鉄道建設・運輸施設整備支援機構)、ラッシュ時間帯の所要時間短縮と混雑緩和を目指している。2018年3月3日に全区間が完成したが、登戸 - 向ヶ丘遊園間は沿線の土地区画整理事業との兼ね合いにより、暫定的に上り2線・下り1線で整備される。
また、向ヶ丘遊園駅 - 新百合ヶ丘駅間 (5.7 km) の複々線化計画もあり、運輸政策審議会の答申第7号(1985年)や答申第18号(2000年)、交通政策審議会の答申第198号(2016年)にもこの区間の複々線化が盛り込まれているが、小田急電鉄は「当社単独による整備は事業採算上極めて厳しい」としている。
なお、運輸政策審議会答申第7号では上記複々線化完成ののち、新百合ヶ丘駅 - 相模大野駅間の複々線化も行うこととされているが、答申第18号では除かれており、小田急電鉄も計画はないとしている。
梅ヶ丘 - 喜多見間については、周辺住民などによって騒音、振動、日照などによって著しい健康被害を及ぼすおそれがあるとして、建設大臣(当時)による連続立体交差とそれに付属する街路事業の事業認可の取り消しを求める訴訟が1994年に提起された。これに対して第一審の東京地方裁判所(藤山雅行裁判長)は事業認可の前提となる1993年の都市計画決定を違法とし、事業認可を取り消す判決を出した(2001年10月3日判決)。控訴審の東京高等裁判所は、従来の最高裁判所の判例(1999年11月25日第一小法廷判決・民集195号387頁)を根拠に原告すべての原告適格を否定して、一審判決を一部破棄、訴え却下(原告全面敗訴)の判決を出した(2003年12月18日)。原告側は上告。最高裁判所大法廷は従来の判例を変更、原告の一部については原告適格を認める中間判決を出した。この中間判決は、住民などによる行政機関の活動のチェックなどをより重視する近時の行政事件訴訟法改正(同法9条2項の新設)に拠るもので、一般新聞各紙が紙面で大きく取り上げるなど注目を集めた。そのため、却下とはならず本案判決に進んだが、最高裁第一小法廷判決(2006年11月2日) により原告の敗訴が確定した。
また、上記とは別の住民グループが騒音抑制と損害賠償を求めた訴訟を起こしており、2004年8月2日に東京地方裁判所で小田急電鉄が原告に和解金4200万円を支払うとともに防音壁等を設置することによって騒音を65デシベル以下に抑制することで和解が成立している。
10両編成の列車の一部は3000形6両編成と1000形または8000形の4両編成を連結して運転される。
全て10両編成である。通常は代々木上原駅 - 伊勢原駅間で運用されるが、ダイヤ乱れなどの場合は新宿駅に入線することもある。
以下の時間帯・区間にて女性専用車が設定されている。
2018年3月16日までは、各駅停車での女性専用車は設定されていなかったが、2018年3月19日からは千代田線直通の各駅停車にも女性専用車が新たに設定された。
ロマンスカーや新宿発着の各駅停車、新宿・千代田線へ到着しない途中駅止まりの列車には設定されていない。 | [
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"text": "小田原線(おだわらせん)は、東京都新宿区の新宿駅から神奈川県小田原市の小田原駅を結ぶ、小田急電鉄(小田急)の鉄道路線である。当路線単体、または小田急電鉄の全路線を指して小田急線とも呼称される。",
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"text": "駅ナンバリングで使われる路線記号はOHで、番号は当路線の新宿駅から直通運転先の箱根登山鉄道線(箱根登山電車)、さらに箱根登山ケーブルカー、箱根ロープウェイを経て、芦ノ湖にある箱根観光船(箱根海賊船)の元箱根港までを一体とする連番で振られており、小田原線は青色()、小田急箱根ホールディングス傘下の箱根登山電車・箱根登山ケーブルカー・箱根ロープウェイ・箱根海賊船は赤茶色()で描かれている。",
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"text": "小田原線は、「小田原急行鉄道」として創業した小田急電鉄の基幹路線で、ターミナルである新宿駅から、東京都南多摩地域の町田市や神奈川県央地域の厚木市などを経由して神奈川県西部地域の小田原駅を結ぶ路線である。",
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"text": "小田原駅からは箱根登山鉄道線に直通し、新宿駅 - 箱根湯本駅間を結ぶ有料特急「ロマンスカー」も頻繁に運転されている。また、支線の江ノ島線や多摩線に直通する列車も多く、東京地下鉄(東京メトロ)千代田線・東日本旅客鉄道(JR東日本)常磐緩行線とも相互直通運転する一方で、一部の特急列車が東海旅客鉄道(JR東海)御殿場線と直通運転を行っている。東京都心への通勤・通学路線と箱根・湘南江の島などへの観光路線という2つの顔を持つ路線で、新宿寄りの代々木上原駅 - 登戸駅間 (11.7 km) は複々線化されている。",
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"text": "新宿駅 - 小田原駅及び新宿駅 - 江ノ島線藤沢駅間は途中経路は異なるものの、JR東日本の湘南新宿ラインと競合関係にある。運賃は本路線の方が安く、快速急行を設定するなど速達性を高めてJRに対抗している。",
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"text": "路線は武蔵野台地から出て多摩川を渡り、多摩丘陵を津久井道に沿った谷で貫き、境川を越えて相模野台地に入る。台地を下ると相模平野に入り、相模川を越えてもしばらく平野と台地が続く。丹沢山地の麓が近づくと勾配と曲線がきつくなり、登り切ると秦野盆地に入る。トンネルを通過して酒匂川支流の四十八瀬川沿いの渓谷を走り、急カーブが多く速度は低下する。新松田駅からは酒匂川の本流沿いの足柄平野を走り、再び速度を上げて一路小田原駅を目指す。線形は台地や平地では直線区間が多く、丘陵地帯では曲線が多くなるが、全線に渡って半径は緩めにとってある場合が多い。急行は直線部では100 km/hで走行し、曲線部では80 - 90 km/h程度で通過する。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "本厚木駅から新松田駅まで国道246号(大山街道・矢倉沢往還)が並行する。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "小田急百貨店新宿店の1階、地上4面3線・地下3面2線の新宿駅を発車すると、すぐに地上線と地下線が合流して渋谷区に入る。合流地点には東京都道414号四谷角筈線の踏切がある。この踏切までの区間の上空には人工地盤が構築され、その上部は新宿サザンテラスとなっている。踏切を通過すると間もなく南新宿駅へ到着する。この付近は副都心の新宿から1 km程度しか離れていないにも関わらず大変閑静な住宅街であり、そのせいか同駅はターミナル駅の隣とは思えないほど利用客が少ない。明治神宮への参道がある参宮橋駅を発車すると、しばらく直線区間を走り、代々木八幡駅へ。この駅は急カーブ(同線で最も急な半径200メートル)上にあり、制限速度45 km/hで徐行しながら、西へと向きを変える。直後に東京都道317号環状六号線(山手通り)の跨線橋を潜り、さらに東京メトロ千代田線が上下線の間から地上に出てきて合流、そのまま27‰の急勾配で高架へ上り、2面4線の代々木上原駅に到着する。",
"title": "路線概要"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "代々木上原駅から先は複々線区間となり、東京メトロ千代田線の引き上げ線を横目に高架から35‰の急勾配で地下に潜り、世田谷区に入って、東北沢駅へ到着。ここまでは外側2線が急行線、内側2線が緩行線の形態だが、急行線は駅の小田原寄りから下り勾配となり、緩行線の直下を走行する2層式形態となる。次の京王井の頭線と交差・接続する下北沢駅では、地下1階のホームが緩行線、地下2階のホームが急行線と、乗り場が分かれている。",
"title": "路線概要"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "下北沢駅を発車すると緩行線は世田谷代田駅へ至るが、急行線は駅直下を通過するためホームを視認できない。東京都道318号環状七号線(環七通り)の下をくぐり、35‰の急勾配で地上へ出ると緩行線と急行線が横並びとなり、高架区間となって梅ヶ丘駅へ。梅ヶ丘 - 登戸間の複々線は、内側2線が急行線、外側2線が緩行線である。同駅の近くに羽根木公園があり、梅のシーズンには大変賑わっている。その後、東急世田谷線と交差して豪徳寺駅に到着する。上り急行線に通過線を持つ2面5線の経堂駅には、小田原線開業時には車庫があった。次の千歳船橋駅、その先で東京都道311号環状八号線(環八通り)・東京都道428号高円寺砧浄水場線(荒玉水道道路)と交差して祖師ヶ谷大蔵駅に至る。環八通り乗越え部分の下り急行線・下り緩行線部分は1971年に先行し完成していた高架橋を耐震補強のうえ流用しており、また上下線とも4線全体を跨ぐ往時のトラス架線柱に揃えてある。その後仙川を渡ると高架から一気に地下(掘割)に潜り、2面4線の成城学園前駅に到着する。この駅の真上には、2006年9月29日に駅ビル成城コルティが完成した。",
"title": "路線概要"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "成城学園前駅を発車すると再び地上へ戻り、喜多見検車区への引き込み線を右へ分岐しながら高架を上り、野川を渡るとすぐに喜多見駅に到着。ここで東京23区を抜け狛江市に入り、狛江駅へ。やや左へカーブし、和泉多摩川駅を発車すると間もなく多摩川を渡る。橋を渡り終えると神奈川県(川崎市多摩区)に入り、JR南武線と交差し2面4線の登戸駅に到着する。登戸駅を発車するとすぐに下り緩行線が下り急行線に合流し、ここから先は3線となる。",
"title": "路線概要"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "登戸駅を発車すると右へカーブしながら高架を下り、2面4線の向ヶ丘遊園駅に到着する。常磐線各駅停車・千代田線からの直通電車の多くは同駅発着となる。登戸 - 向ヶ丘遊園間の駅間距離は小田急全線で最短の0.6 km。向ヶ丘遊園駅は2002年まで存在した向ヶ丘遊園の最寄り駅で、2000年までは駅前から向ヶ丘遊園まで向ヶ丘遊園モノレールが運行されていた。ここで3線区間も終わり、以西は終点の小田原駅まで複線区間となる。",
"title": "路線概要"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "向ヶ丘遊園駅を発車すると東京都道・神奈川県道9号川崎府中線(府中街道)と交差し、さらに二ヶ領用水・五反田川を渡り右へカーブし再び西へと向きを変える。ここから町田までは多摩丘陵の谷を縫うように走り、それまで密集した市街地が続いていた車窓はぐっと緑が増えた印象となって、しばらくの間畑と住宅が混在した区間を走る。その後神奈川県道13号横浜生田線と交差する。この神奈川県道13号の陸橋は東京都道・神奈川県道3号世田谷町田線(津久井道)と交差しているが、交差する津久井道の側道は本線を挟む構造ではなく、本線に挟まれる構造になっている。その後は津久井道・五反田川と並行し左には明治大学生田キャンパスが見えてくる。住宅が込んでくると間もなく生田駅へ、その先で地下を走る武蔵野線(貨物線)と交差し、読売ランド前駅に到着。この先百合ヶ丘駅手前まで津久井道と歩道一つを挟んで完全に並行する。その後左へ急カーブ南西を向き、川崎市麻生区に入って切通しに入り百合ヶ丘駅へ、その先でS字カーブを描きながら勾配を下り、引き上げ線2線を上下本線で抱き込みながら、3面6線の新百合ヶ丘駅に到着する。",
"title": "路線概要"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "新百合ヶ丘駅を発車すると多摩線を分岐して勾配を下り、右手に小田急電鉄の保線施設を見ながら左へカーブし南に向きを変える。この付近で、地下を通過する建設中の中央新幹線(第一首都圏トンネル)と交差する。畑も少し残る住宅地を抜けると柿生駅へ到着。その先で再び東京都(町田市)に入るとしばらくの間町田市と川崎市麻生区(飛地)の市境を直線で抜け、2面3線の鶴川駅へ到着。ここで津久井道を分け、その先少し走ると左手から住宅は消え森林となり、完全に町田市に入る。さらに和光大学が見えると東京都内では唯一(地下区間を除く)の境塚トンネル(231.4 m)を通る。トンネルを出ると玉川学園に挟まれながら左へカーブを切り、玉川学園前駅に到着。そこからしばらくの間住宅地を走り、しばらくすると一旦市街地が途切れて恩田川を渡り、築堤上を走りながらカーブを切り東京都道47号八王子町田線(町田街道)と交差し、市街地へ入っていく。切り通しを抜けると小田急百貨店町田店の中3階、小田急第2の規模を持つ2面4線の町田駅に到着する。",
"title": "路線概要"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "町田駅を発車するとJR横浜線と交差し、カーブを切りながら境川を渡る。ここで再び神奈川県(相模原市)に入り、切り通しを抜ける。切り通しを抜けるときれいな装飾が施されたコンクリート壁を見ながら通過線を含む2面6線の相模大野駅に至る。",
"title": "路線概要"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "相模大野駅を発車すると江ノ島線を分岐し、しばらくの間左手に大野総合車両所を見る。その後は住宅地を直線で抜け、小田急相模原駅へ。その先で座間市に入り、勾配を下っていく。その後今度は勾配を上っていき、2面4線の相武台前駅へ到着。かつて大野総合車両所に移転するまで工場があり、駅構内東側に広がる留置線はその名残である。その先しばらくは直線で抜ける。座間谷戸山公園が見えて森林が増えてくると左へカーブし南を向き、右に神奈川県道51号町田厚木線のバイパスが見えてくる。左手から森林が消えて市街地が見えてくると間もなく座間駅へ。その先は住宅街を直線で抜け、海老名市に入る。国道246号(大和厚木バイパス)と交差すると南西に向きを変え、相鉄厚木線(貨物線)と交差し、相鉄本線とも並行し海老名検車区が併設された2面4線の海老名駅に到着する。",
"title": "路線概要"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "海老名駅を発車し、神奈川県道40号横浜厚木線の陸橋の下をくぐると高架の上り坂になり、しばらく直線を進むと右にカーブしてJR相模線と交差し厚木駅へ。その先で圏央道を潜り、相模川を渡って厚木市に入る。橋を渡り終えると高架で市街地へ入り、左へカーブしながら2面4線の本厚木駅に到着する。",
"title": "路線概要"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "本厚木駅を発車するとそのまま市街地を通る。高架を降り右手の国道246号線と並走する区間になると水田が混在するが、すぐに住宅地になり勾配を登ると愛甲石田駅に着く。駅構内に厚木市と伊勢原市の市境がある。",
"title": "路線概要"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "愛甲石田駅を発車すると並行していた国道246号と別れる。しばらくは住宅地を走るが、高架区間に入ると水田地帯に入り、右手には大山が、左手には平塚市街や湘南平まで見渡せるほど視野が開ける。新東名高速道路を潜り、伊勢原台地へ向かう登り勾配になると住宅地に入り、登りきったところが2面4線の伊勢原駅となる。同駅は大山への玄関口として、大山ケーブルカーへ接続する路線バスが発着している。常磐線各駅停車・千代田線からの直通電車は最長で伊勢原駅まで運行される。",
"title": "路線概要"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "伊勢原駅を発車するとしばらくは住宅地のままだが、右手に見える工業団地を抜けると水田が一面に広がり、線路の周囲には人家がほとんどなくなる。善波川橋梁を通過すると秦野市に入り、再び住宅地が見えると鶴巻温泉駅に着く。",
"title": "路線概要"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "鶴巻温泉駅を発車すると畑が混在する住宅地を通りながら東海大学前駅へ到着する。両駅間は1.1 kmと私鉄の駅間距離としては標準的だが、伊勢原駅 - 鶴巻温泉駅、東海大学前駅 - 秦野駅間の駅間距離が約4-5 kmあるので特に短く感じる。",
"title": "路線概要"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "東海大学前駅を発車すると右手に弘法山を見ながら走る。しばらく住宅地のままだが、2 kmほど進んだところにある秦野トンネル(351 m)を抜けると秦野盆地へ入る。急勾配と急カーブで盆地の中心部へと進んでいく。畑と雑木林の風景のすき間から右手には丹沢と秦野市街地が見える。",
"title": "路線概要"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "2面4線の秦野駅を発車すると右から水無川が別れ、畑が混在する住宅地をきつめの登り勾配で小田原線の駅で最も標高の高い渋沢駅まで駆け上がる。ここから愛甲石田駅付近から山を挟んで北側を走っていた国道246号と再び並行することになる。",
"title": "路線概要"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "渋沢駅を発車すると、下北沢駅前後の地下区間を除いて小田急最長の第一菖蒲トンネル(492.9 m)を抜け、うねりながら流れる四十八瀬川(酒匂川水系)の谷に沿って線路も敷設されているため、25‰の急勾配と半径400 mの急カーブの連続で降りて盆地を抜け出す。さらに短い第二菖蒲トンネル(60.3 m)を抜け谷間を進む。このあたりも周囲には人家がないが、秦野市と松田町の市町境付近には孤島のような形で湯の沢団地が存在する。東名高速道路・国道255号を相次いで潜ると、並行していた国道246号から別れ、左手の神奈川県立足柄上病院を過ぎたところで右手方向に特急「ふじさん」の運行や新車の搬入などで使われる連絡線がJR御殿場線へ向かって分岐する。御殿場線をくぐると2面4線の新松田駅に到着する。渋沢駅 - 新松田駅間の駅間距離は小田急全線で最長の6.2 kmである。",
"title": "路線概要"
},
{
"paragraph_id": 24,
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"text": "新松田 - 小田原間は水田が広がる足柄平野を通るため利用客が比較的少なく、栢山・富水・螢田・足柄の4駅はホーム有効長が最大6両分と短く設定されており、日中は6両編成の区間列車(各駅停車)が往復している。開成駅手前から螢田駅の先までは足柄平野の水田地帯を抜けるが、線形も良く高速運転向きで、優等列車は最高速度で走ることも多い。",
"title": "路線概要"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "新松田駅を発車すると酒匂川を渡り、橋を渡り切ると大きく左にカーブして開成町へ入る。開成駅は2面2線の急行停車駅で、周辺はマンションが並ぶなど住宅地としての開発が著しい。駅の東側(進行左手)には電留線と駅前に保存されている3100形NSE車の先頭車も見える。開成駅から400 m程南下すると小田原市に入る。栢山駅、富水駅、螢田駅はともに駅周辺に商店や住宅がコンパクトにまとまっているが、駅を離れるとすぐに水田地帯となる。このあたりはかつて酒匂川が洪水を頻繁に起こしていたためもとから人口が少ない。足柄平野一帯では小田原線沿線よりも御殿場線や伊豆箱根鉄道大雄山線沿線の方に人口が集まっている。",
"title": "路線概要"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "螢田駅を過ぎると小田原市中心部へ進路をとるため右カーブとなり、小田原厚木道路を潜った後狩川を渡る。伊豆箱根鉄道大雄山線をオーバークロスし、切通しを抜けて2面3線の足柄駅となる。付近にかつてはJT小田原工場があり、足柄駅から専用線が延び、小田原駅経由で貨物輸送が行われていた名残りで、右手ヤードの奥には電留線がある。東海道新幹線をくぐり、JR東海道本線に右カーブで合流すると2面3線の小田原駅に到着する。ここから先は箱根登山線が延び「はこね」などの特急ロマンスカーが箱根登山線の箱根湯本駅(箱根町)まで直通する。",
"title": "路線概要"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "2023年3月18日ダイヤ改正時点の日中の各区間の1時間あたりの運行本数は下表のとおりである。かつては箱根登山鉄道鉄道線箱根湯本駅まで直通運転をする列車も多くみられたが、2022年1月時点で直通運転を行う列車は特急のほか、平日・土休日共に夜間に箱根湯本発の各駅停車本厚木行きが1本設定されているのみである。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "下りの東北沢 - 登戸間、上りの向ヶ丘遊園 - 東北沢間の急行線・緩行線は原則として以下の通り使い分けられている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "基本種別色が設定されているが、車両や駅により、異なる色を使っている場合もある。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "有料・全席指定の特急列車で、「ロマンスカー」の愛称があり、新宿駅から次の各方面に運転されている。単に「特急」と表現されることもあるが「特急ロマンスカー」が正式な種別名である。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "なお、新宿駅発17時以降の下り列車は行先にかかわらず(江ノ島線直通を含め)すべて「ホームウェイ」となる。また、9時30分までに新宿駅および東京メトロ千代田線大手町駅に到着する上り列車はすべて「モーニングウェイ」となる。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "また、毎年12月31日の深夜から翌年1月1日の早朝にかけて、終夜運転として臨時列車の「ニューイヤーエクスプレス」(略称:NYE、旧名称:初詣号)が新宿駅 - 片瀬江ノ島駅間などで運行される。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "2008年3月15日より、東京メトロ千代田線北千住駅・大手町駅に直通する列車を60000形「MSE」で運転している。列車の愛称は頭に「メトロ」が付く。また、2011年9月までは一部の土曜・休日に臨時で東京地下鉄有楽町線新木場駅にも直通する「ベイリゾート」も運転されていた。「小田急ロマンスカー#地下鉄直通」も参照。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "停車駅は列車によって異なるので、それぞれの列車の項目を参照。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "2004年12月11日のダイヤ改正で定期列車として初めて登場した速達種別である。種別色はオレンジ色。全列車全区間を10両編成で運転する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "現行ダイヤにおいて、日中は新宿駅 - 小田原駅間の列車と新宿駅 - 江ノ島線藤沢駅間の列車がそれぞれ1時間に3本運転されており、新宿駅 - 相模大野駅間では両者を合わせて1時間に6本となる。多摩線発着の列車も設定されており、平日朝夕に下り、土休日朝に上り列車が運転される。新宿駅 - 小田原駅間は新宿発また小田原発のすべての列車が新松田駅 - 小田原駅で急行に種別変更して運転する。なお平日朝上りに、江ノ島線内を急行で運転し、相模大野駅から快速急行に種別変更する列車が、藤沢駅・大和駅発として設定されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "小田急電鉄によると、快速急行は、速達列車利用旅客を長距離と近距離に分離することによる長距離旅客の速達性向上と近郊区間における急行の混雑緩和を目的に設定したとしている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "代々木上原駅 - 登戸駅間の複々線区間を活用し、この区間を含む下北沢駅 - 登戸駅間をノンストップで運行することが最大の特徴となっている。日中帯について、小田原駅発着列車は、下りは代々木上原駅で東京メトロ千代田線からの急行向ヶ丘遊園駅行きに、上りは新百合ヶ丘駅で多摩線唐木田駅発の急行新宿駅行きに接続する。江ノ島線藤沢発着の列車は、相模大野駅で町田駅・相模大野駅 - 小田原駅間(新松田駅 - 小田原駅間各停)で運行する急行に接続し、登戸駅で向ヶ丘遊園駅発の東京メトロ千代田線方面に直通する急行に接続する。これらによって、快速急行の停車しない急行停車駅などへの利便性が確保されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "快速急行の登場当時からしばらくの間、日中に乗り換えなしで新宿駅から藤沢駅へ行ける列車は湘南新宿ライン・快速急行ともに1時間に2本運行されており、それぞれ所要時間(昼間)はJRが48 - 50分(当時の現金運賃で970円)、小田急の快速急行が53 - 54分(当時の現金運賃で590円)と伯仲していた。2016年3月26日のダイヤ改正で、小田急側は快速急行の本数が1時間に3本に増加し、利便性は向上した一方で、所要時間はJRが49 - 51分、小田急の快速急行が56 - 58分と、少々延びている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "後述の急行と同様、本厚木駅 - 新松田駅間では各駅に停車し、日中時間帯に同区間での設定がない各駅停車の役割を果たしている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "2016年3月26日のダイヤ改正より、小田原線内で下りは伊勢原駅(日中3本に2本程度)、上りは海老名駅(一部相模大野駅・秦野駅)で特急ロマンスカーの待ち合わせや通過待ちを行うようになったが、登場時は江ノ島線系統も併せて原則下り1本(夜の小田原駅行き)を除き特急ロマンスカーの待ち合わせや通過待ちをしなかった。2019年3月16日以降、土曜・休日ダイヤの片瀬江ノ島行きについては、2本が大和駅で特急「メトロえのしま」号に追い抜かれる。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "列車番号は、小田原線内の列車には3000番台、江ノ島線直通列車には3500番台、多摩線直通列車には3700番台がそれぞれ割り当てられている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "2018年3月17日のダイヤ改正より、以下のように運行形態が変化した。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "2019年3月16日のダイヤ改正より、新松田駅 - 小田原駅間を急行として運転し、同改正で再び急行停車駅となった開成駅に停車する列車が設定された。また、夜の本厚木行きが廃止された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "2021年3月のダイヤ改正より、海老名駅5時7分発の快速急行小田原行きが毎日運転として設定された。この列車は新松田駅で同駅5時41発の各駅停車小田原行きに乗り換えられる。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "2022年3月12日のダイヤ変更より、江ノ島線の藤沢駅での運用分割により藤沢駅 - 片瀬江ノ島駅間の運転がなくなった。また、前述の海老名始発の列車を除き、新松田駅 - 小田原駅間は全ての列車が急行として運転するようになる。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2018年3月17日のダイヤ改正で設定された種別(運転開始は3月19日)。平日朝ラッシュ時間帯に多摩線発新宿行きのみ運転される。唐木田駅 - 新宿駅間の途中停車駅は小田急多摩センター駅・小田急永山駅・栗平駅・新百合ヶ丘駅・向ヶ丘遊園駅・成城学園前駅・下北沢駅・代々木上原駅。快速急行の停車しない向ヶ丘遊園駅・成城学園前駅に停車するが、登戸駅は通過するという千鳥停車の形をとる。6本が小田急多摩センター駅始発、3本が唐木田駅始発となる。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "設定当初は8両編成での運転が1本のみ存在したが、2019年3月16日のダイヤ改正より、全列車が10両編成で運転されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "列車番号は3800番台が割り当てられている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "1927年10月15日の小田原線全線複線化により登場した。1944年11月には太平洋戦争の戦況悪化に伴い運行が中止されたが、1949年10月1日に運行が再開され、現在に至っている。種別色は赤色。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "現行ダイヤでは小田急内系統とJR東日本常磐線・東京メトロ千代田線直通系統の2つが存在する。それぞれの概要を2つに分けて記す。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "2004年12月13日から2022年3月11日まで、平日の一部時間帯で経堂駅を通過していた(一部通過扱い)。2018年3月16日までは、常磐線・千代田線直通の列車は平日朝上り列車のみ通過とされていた。2022年3月12日のダイヤ変更から平日・土休日ともに全ての急行が終日経堂駅に停車するようになった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "日中は経堂駅(下りのみ)・成城学園前駅・登戸駅・新百合ヶ丘駅(下りのみ)・町田駅(上りのみ)・海老名駅(下りのみ)で各駅停車に接続する。ラッシュ時は相武台前駅と鶴川駅(上りのみ)で各駅停車を追い抜く列車が多い。特急ロマンスカーの待避は相模大野駅で行われることが多いが、向ヶ丘遊園駅・町田駅・海老名駅(主に上り)・本厚木駅・秦野駅などで行われることもある。常磐線・千代田線直通系統の下り列車のうち、平日夜の唐木田行きは向ヶ丘遊園駅で快速急行を待避するが、それ以外の下り列車は快速急行に抜かれることなく相模大野駅まで先着する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "途中駅から(まで)の種別を各駅停車に変更する列車は俗に「化け急」と呼ばれ、上りは途中駅まで各駅停車で、下りは途中駅から各駅停車で運転される。2018年3月17日のダイヤ改正以降、種別変更を行う駅は新百合ヶ丘駅・相模大野駅・新松田駅の3つである。新百合ヶ丘駅から種別変更する列車は新宿駅 - 本厚木・海老名駅・相模大野駅・多摩線唐木田駅間、相模大野駅から種別変更する列車は新宿駅 - 本厚木駅間、新松田駅から種別変更する列車は相模大野駅・町田駅 - 小田原駅間にそれぞれ設定されている。2018年3月16日までは種別変更を行う駅は相模大野駅のみで、新宿駅から相模大野駅までは「急行相模大野行」、相模大野駅から全車両「各停○○行」と種別と行先の両方を変更していた。かつては江ノ島線にも設定されていたが現在は全廃されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "運行トラブルなどでダイヤが大きく乱れた場合、新宿駅 - 経堂駅間のみ急行運転を行う場合や、柿生駅 - 玉川学園前駅間および小田急相模原駅 - 厚木駅間の各駅に臨時停車することがある。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "列車番号は、小田原線内の列車には1000番台(新宿駅発着の急行は1200番台)、江ノ島線直通列車には1500番台(新宿駅発着の急行は1700番台)、千代田線直通列車には2000番台(経堂駅停車列車は2200番台)、多摩線直通列車には2700番台がそれぞれ割り当てられているが、2018年3月16日までは6両編成の「赤丸急行」(後述)にも2000番台が割り当てられていた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "2018年3月16日まで、6両編成で運行される急行については、開成駅 - 足柄駅間の各駅に停車していた。該当する列車は駅に掲示されている時刻表や新松田駅・小田原駅の発車標で「赤い丸」が付けられ区別されていた。2008年3月15日のダイヤ改正以降、6両編成の急行はほぼ日中の町田駅・相模大野駅 - 小田原駅間を運転する列車に限定され、2012年3月17日のダイヤ改正よりすべて町田駅以西での運転となった。この改正で新宿駅発着の急行に関しては、すべて開成駅 - 足柄駅間の各駅が通過となった。さらに2016年3月26日のダイヤ改正で、日中の町田駅・相模大野駅 - 小田原駅間運転の急行が全廃され、「赤丸急行」の本数は平日下り3本、平日上り6本、土休日下り1本、土休日上り3本と大幅に本数削減された。そして2018年3月17日のダイヤ改正で、開成駅 - 足柄駅間の各駅に停車する6両編成の急行はいったん全廃された。2022年3月12日のダイヤ変更で、日中に新松田駅 - 小田原駅間で各駅停車に種別変更する町田駅・相模大野駅発着列車が設定され、開成駅 - 足柄駅間の各駅に停車していた急行と同様の運行形態となった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "なお、開成駅についてはホームの10両編成対応工事が完了したことから、2019年3月16日のダイヤ改正より急行の全列車停車駅となっている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "かつて、ラッシュ時を中心に相模大野駅・海老名駅・新松田駅・小田原駅で分割・併合を行い、分割・併合駅 - 小田原駅・箱根湯本駅間を6両編成で運転していた。また、新宿駅寄りの4両(7 - 10号車)を各駅停車に種別変更して運転するものもあった。そのため向ヶ丘遊園駅を除く新宿駅 - 新松田駅間の急行停車駅および小田原駅に「分割案内板A」が設置されている。2002年3月23日のダイヤ改正以降は新松田駅での分割・併合列車が増えた。かつては小田原方より4両+6両という組み合わせ(通称「逆10両」)などがあり、「分割案内板B」などが設置されていたが、その後そのような分割・併合は行われなくなった(そのため6両編成の小田原方先頭車の電気連結器は撤去された)。一部の駅では、分割案内板をホーム番号表示と兼用していた事例もあるが、現存しない。なお、18 m車(2400形を含む)および旧4000形(吊り掛け駆動車)が運用されていた当時は新宿駅の分割案内板はA(新宿寄りが18 m車4連)、B(20 m車4連:現在の「A」に相当)、C(20 m車5連:旧4000形)、D(18 m車6連)、E(20 m車6連:後の「B」に相当)の5種類が用意されており、18 m車の廃車および旧4000形の高性能化が完了後もしばらくはそのまま残っていた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "相模大野駅で分割・併合を行っていた時期には、小田原線・江ノ島線とも急行として運転する列車(1 - 6号車が箱根湯本駅発着、7 - 10号車が片瀬江ノ島駅発着)や、1 - 6号車が箱根湯本駅発着の急行で7 - 10号車が藤沢駅・片瀬江ノ島駅発着の各駅停車(相模大野駅で種別変更、ただし下り列車の種別・行先は全車急行箱根湯本駅行き)が多く設定されていた。他にも、夕ラッシュ時の江ノ島線の輸送力を確保するために1 - 6号車が急行片瀬江ノ島駅行き、7 - 10号車が各駅停車の藤沢駅・片瀬江ノ島駅行き(相模大野駅で種別変更)という列車の設定もあった。さらに遡ると、1980年代までは、新宿駅 - 相模大野駅間を急行、1 - 6号車は相模大野駅 - 本厚木駅間を各駅停車、7 - 10号車は相模大野駅 - 片瀬江ノ島駅間を各駅停車として運転する列車が日中の大多数を占めていた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "2008年3月15日のダイヤ改正で、箱根登山鉄道線風祭駅の新駅舎と小田原駅箱根登山鉄道用折り返し線の使用が開始されたのに伴い小田原駅 - 箱根湯本駅間で4両編成の列車が折り返し運転を行うことから、箱根湯本駅発着として運転していた列車はすべて小田原駅発着となった。そのため、基本的に新宿駅 - 小田原駅間は10両編成となり、分割・併合を行う列車は大幅に減少した。このダイヤ改正から箱根登山鉄道線への定期列車としての急行の直通運転は行われていない。 2012年3月のダイヤ改正でロマンスカー以外の分割・併合がすべて廃止されたため、急行の箱根登山鉄道線直通は完全に廃止となった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "2018年3月17日のダイヤ改正で設定された種別(運転開始は3月19日)。この改正で準急は千歳船橋駅・祖師ヶ谷大蔵駅・狛江駅が停車駅に追加されたが、平日朝ラッシュ時間帯上りにこれらの駅には停車しない(経堂駅には停車する)列車が残ることから、区別のため種別を変更した。平日朝ラッシュ時間帯かつ上り方向のみの運行で、全列車が東京メトロ千代田線直通となる。停車駅は伊勢原駅 - 登戸駅の各駅と、成城学園前駅・経堂駅・下北沢駅・代々木上原駅からの各駅。 一部を除いて登戸駅 - 成城学園前駅間は緩行線、成城学園前駅 - 経堂駅間は急行線、経堂駅 - 代々木上原駅間は再び緩行線を使用し、登戸駅と成城学園前駅でそれぞれ新宿方面の快速急行と各駅停車に、経堂駅で千代田線方面の各駅停車に接続する。現状で唯一全列車が急行線と緩行線を両方使う種別である。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "「通勤準急」の名は過去にも存在しており(後節参照)、実に53年ぶりの復活となる。最長運行区間は海老名駅→我孫子駅。設定当初は本厚木駅始発が5本、海老名駅始発が1本だったが、2019年3月16日ダイヤ改正で伊勢原駅始発が新設され、伊勢原駅始発が1本、本厚木駅始発が4本、海老名駅始発が1本となった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "1946年10月1日に登場。前年6月まで運転されていた「直通」(後述)の運転パターンに近い列車として設定された。種別色は緑色。なお緑色は1978年3月31日の営団地下鉄千代田線代々木公園駅 - 代々木上原駅間延伸開通に伴う相互直通運転開始を機に採用されたもので、それ以前は黄色であった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "上り平日朝ラッシュ時を除く朝夕を中心に運転され、現行ダイヤでは全列車が代々木上原駅以東常磐線・東京メトロ千代田線に直通する。2022年3月12日のダイヤ改正以前は日中にも常磐線・千代田線内 - 向ヶ丘遊園駅間の列車が1時間に3本運転されていたが、2022年3月12日のダイヤ改正で種別が急行に変更された(一部列車のみ準急のまま残っている)。代々木上原駅 - 登戸駅間の複々線区間では緩行線を走行する(向ヶ丘遊園駅の引き上げ線の構造上、上りは向ヶ丘遊園駅 - 登戸駅間のみ急行線を走行)種別として運転され、基本的に先行する各駅停車は追い抜かないが、土休日の朝の下り列車は登戸駅で各駅停車を追い抜く(登戸駅のみ急行線ホームに入線、向ヶ丘遊園駅のみ当種別が先着)ほか、向ヶ丘遊園駅で本厚木発の各駅停車から始発の準急に接続する列車が存在する。全列車が地下鉄対応車の10両編成で運転されるが、大幅なダイヤ乱れがあった場合新宿駅、代々木上原駅発着の地上車の準急も運転されることがある(新宿 - 代々木上原駅間は途中無停車)。そのため地上車専用の1000形・3000形・8000形などにも、「準急」の字幕またはLED種別表示が用意されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "現在のダイヤでは、本厚木駅・伊勢原駅着は平日夕ラッシュ時間帯の一部のみで、大多数が向ヶ丘遊園駅・成城学園前駅発着となっており、向ヶ丘遊園以西は平日下りのみの運転となっている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "経堂駅の高架化以前は、ホーム長の関係で10両編成である千代田線直通と朝ラッシュ時および深夜の新宿発着はすべて経堂駅を通過していたが、2000年に上りホームが、2001年に下りホームがそれぞれ高架となり、10両編成対応になったため、2000年より上りの準急が、2001年よりすべての準急がそれぞれ朝ラッシュ時の上りを除き停車するようになり、2018年3月17日のダイヤ改正で全列車が停車するようになった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "列車番号は4000番台が割り当てられているが、2018年3月16日までは経堂駅に停車する列車の番号には4200番台以降が割り当てられていた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "2018年3月16日までの停車駅は新宿駅 - 登戸駅間は急行と同一、登戸駅以西は各駅停車で、平日朝ラッシュ時の上り列車は経堂駅を通過していた。2018年3月17日のダイヤ改正で、経堂駅に全列車が停車するようになったほか、新たに千歳船橋駅、祖師ヶ谷大蔵駅、狛江駅に停車するようになった。平日朝ラッシュ時間帯の上り列車は改正前の停車駅と経堂駅のみに停車し、通勤準急として区別された。1978年3月31日から1990年3月27日までは、朝ラッシュ時に経堂駅に加えて百合ヶ丘駅・読売ランド前駅・生田駅を通過する準急(通称・スキップ準急)もあった。これは1978年3月30日まであった前述の新百合ヶ丘駅以西が各駅停車となる急行を千代田線直通としたための措置で、小田原線内は停車駅が同一であった。前述の通り、2018年3月17日改正より早朝に新百合ヶ丘駅で急行に種別変更する上り各駅停車、深夜に同駅で各駅停車に種別変更する下り急行が設定されたため、事実上復活(経堂駅停車有無については考慮せず)したともいえる。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "かつては常磐線・千代田線に直通せず小田急内のみで運転される列車も設定されていたが、2000年12月2日のダイヤ改正で大半が常磐線・千代田線内 - 相模大野駅間の運転となってから徐々に減少していった。2002年3月23日のダイヤ改正で多摩急行が登場し、ほとんどの常磐線・千代田線内 - 相模大野駅間の準急が多摩急行に変更となり日中の準急は消滅した。2008年3月15日のダイヤ改正から新松田駅以西の運転が廃止され、箱根登山鉄道線への定期列車としての準急の直通運転も廃止された。2014年3月15日のダイヤ改正では平日朝に1本のみ多摩線に直通する列車が設定された(新宿駅発唐木田駅行き)。2015年3月14日のダイヤ改正で、夕方ラッシュ時の下り準急は急行に振り替えられる形で一旦消滅したが、2016年3月26日のダイヤ改正で再度設定され復活した。そして、2018年3月17日のダイヤ改正で全列車が常磐線・千代田線直通となり小田急内のみで運転する列車が全廃され、多摩線に直通する列車も廃止となった。またこの改正で平日に設定されていた成城学園前駅発新松田駅行きも廃止され、伊勢原駅以西の運転も廃止された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "2018年3月16日までは経堂駅まで各停、経堂駅から準急新宿駅行きとなる列車が存在していた。2012年3月17日のダイヤ改正で、このような列車が平日は本厚木駅発19時台、土休日は新松田駅発22時台に各1本設定されていた。2015年3月13日までは、平日は町田発で運転されていた。2016年3月26日ダイヤ改正では一部変更となり、朝方にも平日は本厚木駅発、土休日は向ヶ丘遊園駅発の各1本が追加設定された一方、夜間については平日のみ運転区間が短縮され向ヶ丘遊園駅発のみになった(改正前の本厚木駅 - 向ヶ丘遊園駅間は時刻変更のうえ我孫子駅行きに振り替えられた)。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "開業と同時に登場した。当初は新宿駅 - 稲田登戸駅(現・向ヶ丘遊園駅)間のみ運行され、小田原駅までの運行は行われなかったが、終戦前の1945年6月に実施されたダイヤ改正以後は全線にわたって運行されている。種別色は青色 で、1994年頃に通過表示灯の点灯を中止するまでは各停のみ種別を表示しておらず、1994年頃から2018年3月17日の白紙ダイヤ改正までは基本的に「各停」と表記されていた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "現行ダイヤでは小田急内系統と常磐線・東京メトロ千代田線直通系統の2つが存在する。それぞれの概要を2つに分けて記す。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "ホームの長さの関係で、8・10両編成の列車は新宿駅 - 新松田駅・多摩線唐木田駅間で運転されており、栢山駅 - 足柄駅間の各駅に停車する列車と江ノ島線直通列車は6両編成以下となっている。また箱根登山鉄道線箱根湯本駅発着の各駅停車は4両編成となっている。また、かつては平日のみ箱根湯本発本厚木行きの各駅停車の1本(6両編成)が新松田駅で4両を増結して10両編成となるものも存在した。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "代々木上原駅 - 登戸駅間は複々線区間であり、ほとんどの列車が特急ロマンスカー・快速急行、急行、通勤急行、通勤準急に抜かれる(経堂駅・成城学園前駅・登戸駅で乗り継ぐこともある)。朝夕を中心に鶴川駅(上りのみ)や相武台前駅などで特急ロマンスカー・快速急行・急行の通過待ちをすることがある。向ヶ丘遊園駅・新百合ヶ丘駅・町田駅・相模大野駅・海老名駅・本厚木駅・新松田駅などで快速急行・急行の待ち合わせをすることが多い(一部通過待ちとなる駅もある)。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "列車番号は、江ノ島線内のみ運転の列車には5100番台もしくは5700番台、江ノ島線直通列車には5500番台、小田原線内完結列車のうち千代田線直通列車には6000番台、向ヶ丘遊園駅まで運転の列車には6200番台、相模大野駅まで運転の列車には6400番台、相模大野駅以西も運転される列車には6500番台、種別変更を行う列車には6750番台、箱根登山鉄道鉄道線直通列車には本厚木駅着が6800番台、新松田駅着が7000番台、多摩線内のみ運転の列車には7600番台、多摩線直通列車には7900番台がそれぞれ割り当てられている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "2008年3月15日のダイヤ改正より、急行の新松田駅での連結・切り離し作業が基本的にはなくなり新松田駅 - 小田原駅・箱根湯本駅間は4両編成での折り返し運転が実施され、日中の新松田駅 - 小田原駅間の途中駅各駅に停車する列車は、新松田駅発着の各駅停車(4両編成)と町田駅・相模大野駅発着で本厚木駅 - 小田原駅間各駅停車の急行(6両編成)との交互運転になった。新松田駅 - 小田原駅・箱根湯本駅間の区間運転列車については1000形の箱根登山鉄道塗装(レーティッシュカラー)の車両が優先的に充当されていた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "2012年3月17日のダイヤ改正より箱根登山鉄道鉄道線への直通列車は早朝・夜間のごく一部を除き廃止され、新松田駅 - 小田原駅間の区間列車は6両編成での運転となった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "2016年3月26日のダイヤ改正より日中の都心側は新宿駅 - 新百合ヶ丘駅間において1時間に6本(10分間隔)の運転(同時に梅ヶ丘駅 - 百合ヶ丘駅間では、区間準急の全廃も伴って実質減便)となり、加えて急行との接続駅が成城学園前駅に統一された(このほか下りは新百合ヶ丘駅と海老名駅、上りは町田駅で急行または快速急行と接続)。また新宿駅 - 本厚木駅(一部は準急が運転される時間帯があるため、向ヶ丘遊園駅)間の運転が基本となり、多摩線との直通は朝夕のみ(土休日は朝夕併せて1.5往復のみ)、江ノ島線への直通運転は平日の新宿駅発と成城学園前駅発のそれぞれ1本に減らされた。このほか、快速急行の増発に伴い本厚木駅以遠各駅に停車する急行がごく少数の運転本数となったため、それを補完する新松田駅 - 小田原駅間の区間運転が増加した。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "2018年3月17日のダイヤ改正より千代田線直通列車が朝夕を中心に設定された。新松田駅 - 小田原駅間の日中の運行本数は1時間3本に削減された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "2019年3月16日のダイヤ改正で新宿駅 - 代々木上原駅での10両編成の列車の運転が開始された。また、6両編成の新宿駅 - 成城学園前駅間への乗り入れがなくなり、小田原線全線(新宿駅 - 小田原駅間)を通しで運転する各駅停車が全廃となった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "開業時に登場した種別である。開業当初は新宿駅 - 稲田登戸駅(現・向ヶ丘遊園駅)間のみの運行であった「各駅停車」に対し、直通は全線で運転した。新宿駅 - 稲田登戸駅間は経堂駅のみに停車し、稲田登戸駅 - 小田原駅間は各駅に停車した。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "多客時に特急を補完する形で運行されていた。1953年から1959年までは「サービス特急」、同年から特急運用を外れた2300形が投入された際に100円の座席指定券を発行することになったのに伴い「準特急」に改められ、1963年まで名乗っていた。1963年に3100形「NSE」の登場により廃止された。停車駅は当時の特急と同様に新宿駅 - 小田原駅間は無停車だった。特急との違いは接客設備の格差によるものであり、特急が全席指定(これは現在も同じ)だったのに対し、準特急はセミクロスシート車で無料の列車指定券を発行しての座席定員制であった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "なお、「準特急」の名称は廃止後、京王電鉄が2001年3月27日の京王線ダイヤ改定で採用するまで、日本では使用されなかった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "1948年9月 - 1950年2月という短期間の間だけ存在していた種別であった。運行区間は新宿駅 - 新原町田駅(現・町田駅)間だった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "1960年3月25日から1964年11月4日まで運用された種別であった。停車駅は現在の急行停車駅から経堂駅を抜いたものであった。当時は準急が喜多見駅 - 和泉多摩川駅間の各駅にも停車していた。同年11月5日のダイヤ改正で快速準急が新設され、準急は朝ラッシュ時のみの運転となり、通勤準急そのものが準急となった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "1964年から1972年まで昼間時に急行と準急の間の「快速準急」という列車が運転されていた。同年に急行に統合され消滅した。停車駅は向ケ丘遊園駅以北は当時の準急停車駅、同駅以南は当時の急行停車駅であった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "休日には行楽地へのアクセスのために読売ランド前(よみうりランド最寄り)と鶴川(こどもの国最寄り)の両駅にも停車していた。通勤急行が廃止され、成城学園前駅に急行が停車するようになると、停車駅が急行とほぼ変わらなくなるため、1972年3月のダイヤ改正で廃止され、急行に統合された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "2004年12月11日ダイヤ改正で快速急行とともに新設された種別である。種別色は水色。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "代々木上原駅 - 梅ヶ丘駅間の複々線化に伴う東北沢駅の地下化工事の過程における待避設備の撤去によりすでに下り緩行線が完成している複々線区間の東端である梅ヶ丘駅まで速達列車の待避ができなくなったことから、新宿駅 - 梅ヶ丘駅間で優等列車より先行して一列車あたりの線路占有時間拡大を抑え、梅ヶ丘駅以西の各停本数を維持する目的で設定された。 そのため各停を追い抜くことはなかった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "元々は、東北沢駅で急行・多摩急行の待避を行っていた各停の時刻で、日中の列車における新宿駅 - 代々木上原駅間の時刻は、かつて1時間に2本運転されていた新宿駅発着の準急(2000年12月ダイヤ改正で千代田線直通となり、2002年3月ダイヤ改正で多摩急行に格上げ)から転用している。このため、代々木上原駅で新宿駅には直通しない多摩急行と連絡することで、多摩線方面から新宿方面への需要を確保するとともに快速急行の新設に伴い新宿駅 - 新百合ヶ丘駅間で減便となった急行の需要をカバーする役割も担っていた。主に新宿駅 - 唐木田駅間での運行だったが、一部は成城学園前駅・向ヶ丘遊園駅・本厚木駅・伊勢原駅・新松田駅発着の列車も存在した。なお、元々が各停の時刻であり停車駅も急行より各停に近い性格だったこともあってほとんどの列車が各停用の8両編成での運転であり、新宿駅では各停が使用する地下ホームからの発着であった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "2016年3月26日のダイヤ改正にて全廃となった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "1955年のダイヤ改正で登場した種別であった。当初の停車駅は小田原線内では当時の急行の停車駅に稲田多摩川駅(現・登戸駅)が追加されたもので、江ノ島線内では現在の急行停車駅からまだ東急田園都市線が開通していなかった中央林間駅と当時はまだ開業していなかった湘南台駅を除いた設定となっていた。その後、1960年のダイヤ改正で朝の上りのみ成城学園前駅に停車するようになり、1964年をもって完全に停車駅化される。1970年に登戸駅に急行が停車し、翌1971年に成城学園前駅にも急行が停車するようになると、上記の快速準急と同じように急行に統合される形で廃止となった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "1970年代に運用された種別であった。土曜急行の名の通り、土曜の半ドン帰宅の足として設定されていた。昼過ぎから夕方の間に何本か通常の急行を増発する形として、さらには相武台前に停車するという停車パターンで運用されていた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "2002年3月23日から2004年12月10日まで運用された種別で、新宿駅 - 江ノ島線藤沢駅間で運転し、小田原線内では急行と同じ停車駅となっていた。2004年12月11日のダイヤ改正で快速急行に格上げされた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "特急ロマンスカー「あさぎり」および「ふじさん」の前身の種別である。詳細は「ふじさん」を参照。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "その他、多摩線向けに「快速」の種別が準備されていたが結局使用は中止され、方向幕には湘南急行・多摩急行の登場前まで存在していた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "朝および夕方以降に多摩線唐木田駅から小田原線を経由してJR常磐緩行線我孫子駅(一部は取手駅まで)運転していた。種別色は桃色。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "急行とは小田原線内の停車駅が異なり、向ヶ丘遊園駅を通過し、経堂駅に停車していた。上り列車は経堂駅で特急ロマンスカーの通過待ちを行うことがあった。ダイヤ乱れ時は運休あるいは新宿駅発着となる場合もあった。小田急の地下鉄直通対応車である4000形やJR東日本E233系2000番台も使用された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "2016年3月26日のダイヤ改正で、日中は急行(経堂駅・向ヶ丘遊園駅共に停車)に置き換わり、実質朝夕ラッシュ時の千鳥運転のための種別となった(ラッシュ時の急行・朝ラッシュ時の上り準急は向ヶ丘遊園駅停車、経堂駅通過)。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "2018年3月17日のダイヤ改正で廃止された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "江ノ島線直通の臨時列車は「小田急江ノ島線#臨時列車」も参照。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "下記の臨時列車は、特記なければ1000形で運転。2007年以降は4000形(分割・併合がない場合に限る)も使用されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "2019年度の小田原線の最混雑区間は世田谷代田 → 下北沢間で、最混雑時間帯1時間の平均混雑率は158%である。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "複々線化完了前の2017年度の同区間混雑率は194%であり、東京メトロ東西線(木場 → 門前仲町間、199%)に次ぎ、首都圏の大手私鉄では2番目に高い数字となっていたが、2018年3月3日に登戸 - 代々木上原間の複々線が完成し、同年3月17日のダイヤ改正で朝ラッシュ時の運転本数が1時間当たり36本に増加したため、混雑率は速報値で151%、翌年度も157%と大幅に改善している。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "朝ラッシュ時で最も混雑する列車は快速急行であり、特に10号車から8号車にかけて混雑が集中する。多摩線から直通する通勤急行は新百合ヶ丘で快速急行と接続して後追いとなるため、快速急行と比較すると混雑率が低い。通勤準急は成城学園前と経堂で各駅停車と接続するが、登戸で快速急行と接続するため通勤急行よりも混雑率が低い。朝ラッシュ時で最も空いている列車は向ヶ丘遊園始発の各駅停車である。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "梅ヶ丘 - 東北沢間の複々線が完成する前の朝ラッシュピーク1時間は、同区間で上り方向1時間当たり28本(平均2分10秒間隔)が運転されていた。このうち10両編成で運転される快速急行・急行・準急が計19本、8両編成で運転される各駅停車が9本だった。なお、代々木上原 - 新宿間は東京メトロ千代田線直通電車の分が抜けるため、運転間隔は若干ではあるが開く。急行や準急に限らず、各駅停車も1日平均乗降人員が5万人を超える経堂(当時の朝ラッシュ時は各駅停車のみ停車)や千歳船橋など世田谷区内の各駅から多くの乗客が乗り込むため、激しく混雑していた。1993年度まで混雑率は200%を超えていたが、その後は輸送量の減少により2003年度に188%まで緩和された。しかし、それ以降は2016年度まで混雑率の横ばいが続いていた。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "代々木上原 - 向ヶ丘遊園間 (12.3 km) では小田急電鉄が複々線化、東京都が連続立体交差化の各事業を実施しており(建設主体は鉄道建設・運輸施設整備支援機構)、ラッシュ時間帯の所要時間短縮と混雑緩和を目指している。2018年3月3日に全区間が完成したが、登戸 - 向ヶ丘遊園間は沿線の土地区画整理事業との兼ね合いにより、暫定的に上り2線・下り1線で整備される。",
"title": "連続立体交差化・複々線化事業"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "また、向ヶ丘遊園駅 - 新百合ヶ丘駅間 (5.7 km) の複々線化計画もあり、運輸政策審議会の答申第7号(1985年)や答申第18号(2000年)、交通政策審議会の答申第198号(2016年)にもこの区間の複々線化が盛り込まれているが、小田急電鉄は「当社単独による整備は事業採算上極めて厳しい」としている。",
"title": "連続立体交差化・複々線化事業"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "なお、運輸政策審議会答申第7号では上記複々線化完成ののち、新百合ヶ丘駅 - 相模大野駅間の複々線化も行うこととされているが、答申第18号では除かれており、小田急電鉄も計画はないとしている。",
"title": "連続立体交差化・複々線化事業"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "梅ヶ丘 - 喜多見間については、周辺住民などによって騒音、振動、日照などによって著しい健康被害を及ぼすおそれがあるとして、建設大臣(当時)による連続立体交差とそれに付属する街路事業の事業認可の取り消しを求める訴訟が1994年に提起された。これに対して第一審の東京地方裁判所(藤山雅行裁判長)は事業認可の前提となる1993年の都市計画決定を違法とし、事業認可を取り消す判決を出した(2001年10月3日判決)。控訴審の東京高等裁判所は、従来の最高裁判所の判例(1999年11月25日第一小法廷判決・民集195号387頁)を根拠に原告すべての原告適格を否定して、一審判決を一部破棄、訴え却下(原告全面敗訴)の判決を出した(2003年12月18日)。原告側は上告。最高裁判所大法廷は従来の判例を変更、原告の一部については原告適格を認める中間判決を出した。この中間判決は、住民などによる行政機関の活動のチェックなどをより重視する近時の行政事件訴訟法改正(同法9条2項の新設)に拠るもので、一般新聞各紙が紙面で大きく取り上げるなど注目を集めた。そのため、却下とはならず本案判決に進んだが、最高裁第一小法廷判決(2006年11月2日) により原告の敗訴が確定した。",
"title": "連続立体交差化・複々線化事業"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "また、上記とは別の住民グループが騒音抑制と損害賠償を求めた訴訟を起こしており、2004年8月2日に東京地方裁判所で小田急電鉄が原告に和解金4200万円を支払うとともに防音壁等を設置することによって騒音を65デシベル以下に抑制することで和解が成立している。",
"title": "連続立体交差化・複々線化事業"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "10両編成の列車の一部は3000形6両編成と1000形または8000形の4両編成を連結して運転される。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "全て10両編成である。通常は代々木上原駅 - 伊勢原駅間で運用されるが、ダイヤ乱れなどの場合は新宿駅に入線することもある。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "以下の時間帯・区間にて女性専用車が設定されている。",
"title": "女性専用車"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "2018年3月16日までは、各駅停車での女性専用車は設定されていなかったが、2018年3月19日からは千代田線直通の各駅停車にも女性専用車が新たに設定された。",
"title": "女性専用車"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "ロマンスカーや新宿発着の各駅停車、新宿・千代田線へ到着しない途中駅止まりの列車には設定されていない。",
"title": "女性専用車"
}
] | 小田原線(おだわらせん)は、東京都新宿区の新宿駅から神奈川県小田原市の小田原駅を結ぶ、小田急電鉄(小田急)の鉄道路線である。当路線単体、または小田急電鉄の全路線を指して小田急線とも呼称される。 駅ナンバリングで使われる路線記号はOHで、番号は当路線の新宿駅から直通運転先の箱根登山鉄道線(箱根登山電車)、さらに箱根登山ケーブルカー、箱根ロープウェイを経て、芦ノ湖にある箱根観光船(箱根海賊船)の元箱根港までを一体とする連番で振られており、小田原線は青色()、小田急箱根ホールディングス傘下の箱根登山電車・箱根登山ケーブルカー・箱根ロープウェイ・箱根海賊船は赤茶色()で描かれている。 | {{雑多な内容の箇条書き|date=2018年10月}}
{{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[File:Odakyu electric railway company logos.svg|60px|小田急電鉄|link=小田急電鉄]] 小田原線
|路線色=#2288CC
|ロゴ=File:Odakyu odawara logo.svg
|ロゴサイズ=40px
|画像=Odakyu.type4000-3000.jpg
|画像サイズ=300px
|画像説明=[[富水駅]]付近を走行する<br>[[小田急3000形電車 (2代)|3000形]](左)と[[小田急4000形電車 (2代)|4000形]](右)<br>(2020年8月21日)
|国={{JPN}}
|所在地=[[東京都]]、[[神奈川県]]
|起点=[[新宿駅]]
|終点=[[小田原駅]]
|駅数=47駅
|路線記号=OH
|開業=[[1927年]][[4月1日]]
|休止=
|廃止=
|所有者=[[小田急電鉄]]
|運営者=小田急電鉄
|車両基地=[[小田急電鉄の車両検修施設]]を参照
|使用車両=[[小田急電鉄#車両]]を参照
|路線距離=82.5 [[キロメートル|km]]
|軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]]([[狭軌]])
|線路数=[[複々線]](代々木上原 - 登戸間)<br />[[複々線#三線|三線]](登戸 - 向ヶ丘遊園間、暫定)<br />[[複線]](上記以外の区間)
|電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]<br>[[架空電車線方式]]
|最大勾配=
|最小曲線半径=
|閉塞方式=自動閉塞式
|保安装置=[[自動列車停止装置#D-ATS-P(デジタルATS-P)形|D-ATS-P]]
|最高速度=110 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="yamanote">杉崎行恭『山手線 ウグイス色の電車今昔50年』JTBパブリッシング、2013年 p.163</ref>
|路線図=[[File:Odakyu Electric Railway Linemap.svg|300px]]
}}
{{小田急小田原線路線図}}
'''小田原線'''(おだわらせん)は、[[東京都]][[新宿区]]の[[新宿駅]]から[[神奈川県]][[小田原市]]の[[小田原駅]]を結ぶ、[[小田急電鉄]](小田急)の[[鉄道路線]]である。当路線単体、または小田急電鉄の全路線を指して'''小田急線'''とも呼称される<ref>{{Cite web|和書|title=小田急線・経堂駅で人身事故、新宿―成城学園前間で一時運転見合わせ |url=https://www.yomiuri.co.jp/national/20230131-OYT1T50155/ |website=読売新聞オンライン |date=2023-01-31 |access-date=2023-02-04 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=選択の課題 市複合施設計画 停滞感打破へ問われる手腕 厚木市長選2023 |url=https://www.kanaloco.jp/news/government/electiondata/article-966659.html |website=カナロコ by 神奈川新聞 |access-date=2023-02-04 |language=ja}}</ref><ref name=":0">{{Cite web|和書|title=林家たい平が小田急線でぶらり途中下車の旅 |url=https://www.ntv.co.jp/burari/articles/227g8boww9qijgetfd5.html |publisher=日本テレビ放送網 |access-date=2023-02-04 |language=ja }}</ref>。
[[駅ナンバリング]]で使われる路線記号は'''OH'''<ref group="注釈">'''O'''dakyu '''H'''akone</ref>で、番号は当路線の新宿駅から[[直通運転]]先の[[箱根登山鉄道鉄道線|箱根登山鉄道線]](箱根登山電車)、さらに[[箱根登山鉄道鋼索線|箱根登山ケーブルカー]]、[[箱根ロープウェイ]]を経て、[[芦ノ湖]]にある[[箱根観光船]](箱根海賊船)の[[元箱根港]]までを一体とする連番で振られており、小田原線は青色([[File:Odakyu odawara logo.svg|20px|OH]])、[[小田急箱根ホールディングス]]傘下の箱根登山電車・箱根登山ケーブルカー・箱根ロープウェイ・箱根海賊船は赤茶色([[File:Odakyu Hakone StaNo.svg|20px|OH]])で描かれている。
== 概要 ==
小田原線は、「小田原急行鉄道」として創業した小田急電鉄の基幹路線で、[[ターミナル駅|ターミナル]]である[[新宿駅]]から、東京都[[南多摩郡|南多摩]]地域の[[町田市]]や[[神奈川県#地域|神奈川県央地域]]の[[厚木市]]などを経由して[[西湘|神奈川県西部地域]]の[[小田原駅]]<!--観光地と付けるなら[[小田原市|小田原]]の方がよいかと-->を結ぶ路線である。
小田原駅からは[[箱根登山鉄道鉄道線|箱根登山鉄道線]]に直通し、新宿駅 - [[箱根湯本駅]]間を結ぶ有料[[特別急行列車|特急]]「[[小田急ロマンスカー|ロマンスカー]]」も頻繁に運転されている。また、支線の[[小田急江ノ島線|江ノ島線]]や[[小田急多摩線|多摩線]]に直通する列車も多く、[[東京地下鉄]](東京メトロ)[[東京メトロ千代田線|千代田線]]・[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[常磐緩行線]]とも[[直通運転|相互直通運転]]する一方で、一部の特急列車が[[東海旅客鉄道]](JR東海)[[御殿場線]]と直通運転を行っている。東京[[都心]]への通勤・通学路線と[[箱根]]・[[湘南]][[江の島]]などへの観光路線という2つの顔を持つ路線で、新宿寄りの[[代々木上原駅]] - [[登戸駅]]間 (11.7 km) は[[複々線]]化されている。
新宿駅 - 小田原駅及び新宿駅 - 江ノ島線[[藤沢駅]]間は途中経路は異なるものの、JR東日本の[[湘南新宿ライン]]と競合関係にある。運賃は本路線の方が安く、[[快速急行]]を設定するなど速達性を高めてJRに対抗している。
路線は[[武蔵野台地]]から出て[[多摩川]]を渡り、[[多摩丘陵]]を[[東京都道・神奈川県道3号世田谷町田線|津久井道]]に沿った谷で貫き、[[境川 (東京都・神奈川県)|境川]]を越えて[[相模野台地]]に入る。台地を下ると[[相模平野]]に入り、[[相模川]]を越えてもしばらく平野と台地が続く。[[丹沢山地]]の麓が近づくと勾配と曲線がきつくなり、登り切ると[[秦野盆地]]に入る。トンネルを通過して[[酒匂川]]支流の[[四十八瀬川]]沿いの渓谷を走り、急カーブが多く速度は低下する。[[新松田駅]]からは酒匂川の本流沿いの[[足柄平野]]を走り、再び速度を上げて一路小田原駅を目指す。[[線形 (路線)|線形]]は[[台地]]や[[平地]]では直線区間が多く、[[丘陵]]地帯では曲線が多くなるが、全線に渡って半径は緩めにとってある場合が多い。[[急行列車|急行]]は直線部では100 km/hで走行し、曲線部では80 - 90 km/h程度で通過する。
[[本厚木駅]]から新松田駅まで[[国道246号]]([[大山道|大山街道]]・[[矢倉沢往還]])が並行する。
{{Main2|詳細な路線の概要については「[[#路線概要]]」の節を}}
=== 路線データ ===
* 路線距離:82.5 km
* [[軌間]]:1067 mm
* 駅数:47駅(起終点駅含む)
* [[複線]]区間:全線
** [[複々線#三線|三線]]区間:登戸 - 向ヶ丘遊園間(0.6 km、上り2線・下り1線、暫定)
** [[複々線]]区間:代々木上原 - 登戸間(11.7 km、後述の[[小田急小田原線#連続立体交差化・複々線化事業|複々線化事業]]も参照)
* [[鉄道の電化|電化]]区間:全線(直流1500 V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
* 保安装置:[[自動列車停止装置#D-ATS-P(デジタルATS-P)形|D-ATS-P]]
* 最高速度:110 km/h<ref name="yamanote" />
== 路線概要 ==
{{独自研究|date=2016年6月29日 (水) 07:05 (UTC)|section=1}}
<!-- 沿線風景を説明している章なのですから、画像の説明文から沿線の説明を除去しない(車両についてだけの説明にしない)こと。また、路線記事ではどんな車両・列車が走っているかだけではなく、どんな場所を走っているかも重要です。遠景だからとか、車両が古い、写っていないからといって除去しないでください(新しいものに差し替えてください)。-->
=== 新宿 - 新百合ヶ丘 ===
[[小田急百貨店]]新宿店の1階、地上4面3線・地下3面2線の[[新宿駅]]を発車すると、すぐに地上線と地下線が合流して[[渋谷区]]に入る。合流地点には[[東京都道414号四谷角筈線]]の踏切がある。この踏切までの区間の上空には[[地盤#人工地盤|人工地盤]]が構築され、その上部は[[新宿サザンテラス]]となっている。踏切を通過すると間もなく[[南新宿駅]]へ到着する。この付近は[[都心#東京の副都心|副都心]]の新宿から1 km程度しか離れていないにも関わらず大変閑静な住宅街であり、そのせいか同駅はターミナル駅の隣とは思えないほど利用客が少ない。[[明治神宮]]への参道がある[[参宮橋駅]]を発車すると、しばらく直線区間を走り、[[代々木八幡駅]]へ。この駅は急カーブ(同線で最も急な半径200メートル)上にあり、制限速度45 km/hで徐行しながら、西へと向きを変える。直後に[[東京都道317号環状六号線]](山手通り)の跨線橋を潜り、さらに[[東京メトロ千代田線]]が上下線の間から地上に出てきて合流、そのまま27[[パーミル|‰]]の急勾配で高架へ上り、2面4線の[[代々木上原駅]]に到着する。
<gallery widths="180px">
File:Shinjuku, Tokyo, Japón - panoramio.jpg|新宿駅 - 南新宿駅間の東京都道414号の踏切
File:OER Odawara Line & Tokyo Metro Chiyoda Line.jpg|代々木上原駅手前の小田原線と千代田線の併走区間。内側2線が千代田線の線路、外側が小田原線の線路
</gallery>
代々木上原駅から先は複々線区間となり、東京メトロ千代田線の[[引き上げ線]]を横目に高架から35‰の急勾配で地下に潜り、[[世田谷区]]に入って、[[東北沢駅]]へ到着。ここまでは外側2線が[[急行線]]、内側2線が[[緩行線]]の形態だが、急行線は駅の小田原寄りから下り勾配となり、緩行線の直下を走行する2層式形態となる。次の[[京王井の頭線]]と交差・接続する[[下北沢駅]]では、地下1階のホームが緩行線、地下2階のホームが急行線と、乗り場が分かれている。
下北沢駅を発車すると緩行線は[[世田谷代田駅]]へ至るが、急行線は駅直下を通過するためホームを視認できない。[[東京都道318号環状七号線]](環七通り)の下をくぐり、35‰の急勾配で地上へ出ると緩行線と急行線が横並びとなり、高架区間となって[[梅ヶ丘駅]]へ。梅ヶ丘 - 登戸間の複々線は、内側2線が急行線、外側2線が緩行線である。同駅の近くに[[羽根木公園]]があり、梅のシーズンには大変賑わっている。その後、[[東急世田谷線]]と交差して[[豪徳寺駅]]に到着する。上り急行線に通過線を持つ2面5線の[[経堂駅]]には、小田原線開業時には車庫があった。次の[[千歳船橋駅]]、その先で[[東京都道311号環状八号線]](環八通り)・[[東京都道428号高円寺砧浄水場線]]([[荒玉水道]]道路)と交差して[[祖師ヶ谷大蔵駅]]に至る。環八通り乗越え部分の下り急行線・下り緩行線部分は[[1971年]]に先行し完成していた高架橋を耐震補強のうえ流用しており、また上下線とも4線全体を跨ぐ往時のトラス架線柱に揃えてある。その後[[仙川]]を渡ると高架から一気に地下([[切土|掘割]])に潜り、2面4線の[[成城学園前駅]]に到着する。この駅の真上には、[[2006年]][[9月29日]]に駅ビル[[成城コルティ]]が完成した。
成城学園前駅を発車すると再び地上へ戻り、[[小田急電鉄の車両検修施設|喜多見検車区]]への引き込み線を右へ分岐しながら高架を上り、[[野川 (東京都)|野川]]を渡るとすぐに[[喜多見駅]]に到着。ここで[[特別区|東京23区]]を抜け[[狛江市]]に入り、[[狛江駅]]へ。やや左へカーブし、[[和泉多摩川駅]]を発車すると間もなく[[多摩川]]を渡る。橋を渡り終えると[[神奈川県]]([[川崎市]][[多摩区]])に入り、JR[[南武線]]と交差し2面4線の[[登戸駅]]に到着する。登戸駅を発車するとすぐに下り緩行線が下り急行線に合流し、ここから先は3線となる。
<gallery widths="180px">
File:OER Odawara Line Seijōgakuen-mae.jpg|成城学園前付近の複々線区間(2009年6月13日)
File:Odakyu Tama River Bridge.jpg|多摩川橋梁を渡る[[小田急30000形電車|30000形「EXE」]]と2000形(2009年6月13日)
</gallery>
登戸駅を発車すると右へカーブしながら高架を下り、2面4線の[[向ヶ丘遊園駅]]に到着する。[[常磐緩行線|常磐線各駅停車]]・千代田線からの直通電車の多くは同駅発着となる。登戸 - 向ヶ丘遊園間の駅間距離は小田急全線で最短の0.6 km。向ヶ丘遊園駅は[[2002年]]まで存在した[[向ヶ丘遊園]]の最寄り駅で、[[2000年]]までは駅前から向ヶ丘遊園まで[[小田急向ヶ丘遊園モノレール線|向ヶ丘遊園モノレール]]が運行されていた。ここで3線区間も終わり、以西は終点の小田原駅まで複線区間となる。
向ヶ丘遊園駅を発車すると[[神奈川県道・東京都道9号川崎府中線|東京都道・神奈川県道9号川崎府中線]](府中街道)と交差し、さらに[[二ヶ領用水]]・[[五反田川 (神奈川県)|五反田川]]を渡り右へカーブし再び西へと向きを変える。ここから町田までは[[多摩丘陵]]の谷を縫うように走り、それまで密集した市街地が続いていた車窓はぐっと緑が増えた印象となって、しばらくの間畑と住宅が混在した区間を走る。その後[[神奈川県道13号横浜生田線]]と交差する。この神奈川県道13号の陸橋は[[東京都道・神奈川県道3号世田谷町田線]](津久井道)と交差しているが、交差する津久井道の側道は本線を挟む構造ではなく、本線に挟まれる構造になっている。その後は津久井道・五反田川と並行し左には[[明治大学#生田キャンパス|明治大学生田キャンパス]]が見えてくる。住宅が込んでくると間もなく[[生田駅 (神奈川県)|生田駅]]へ、その先で地下を走る[[武蔵野線]](貨物線)と交差し、[[読売ランド前駅]]に到着。この先[[百合ヶ丘駅]]手前まで津久井道と歩道一つを挟んで完全に並行する。その後左へ急カーブ南西を向き、川崎市[[麻生区]]に入って切通しに入り百合ヶ丘駅へ、その先でS字カーブを描きながら勾配を下り、引き上げ線2線を上下本線で抱き込みながら、3面6線の[[新百合ヶ丘駅]]に到着する。
=== 新百合ヶ丘 - 相模大野 ===
新百合ヶ丘駅を発車すると[[小田急多摩線|多摩線]]を分岐して勾配を下り、右手に小田急電鉄の保線施設を見ながら左へカーブし南に向きを変える。この付近で、地下を通過する建設中の[[中央新幹線]](第一首都圏トンネル)と交差する。畑も少し残る住宅地を抜けると[[柿生駅]]へ到着。その先で再び東京都([[町田市]])に入るとしばらくの間町田市と川崎市麻生区([[飛地]])の市境を直線で抜け、2面3線の[[鶴川駅]]へ到着。ここで津久井道を分け、その先少し走ると左手から住宅は消え森林となり、完全に町田市に入る。さらに[[和光大学]]が見えると東京都内では唯一(地下区間を除く)の境塚トンネル(231.4 m)を通る。トンネルを出ると[[学校法人玉川学園|玉川学園]]に挟まれながら左へカーブを切り、[[玉川学園前駅]]に到着。そこからしばらくの間住宅地を走り、しばらくすると一旦市街地が途切れて[[恩田川]]を渡り、築堤上を走りながらカーブを切り[[東京都道47号八王子町田線]]([[町田街道]])と交差し、市街地へ入っていく。切り通しを抜けると小田急百貨店町田店の中3階、小田急第2の規模を持つ2面4線の[[町田駅]]に到着する。
町田駅を発車するとJR[[横浜線]]と交差し、カーブを切りながら[[境川 (東京都・神奈川県)|境川]]を渡る。ここで再び神奈川県([[相模原市]])に入り、切り通しを抜ける。切り通しを抜けるときれいな装飾が施されたコンクリート壁を見ながら通過線を含む2面6線の[[相模大野駅]]に至る。
<gallery widths="180px">
File:OER Odawara Line Shin Yurigaoka.jpg|新百合ヶ丘間 - 柿生間の多摩線分岐付近。内側2線が多摩線、外側2線が小田原線の線路(2009年7月7日)
File:OER Odawara Line Yaguchi Footbridge.jpg|町田 - 相模大野間の切り通しを走る30000形「EXE」(2009年6月19日)
</gallery>
=== 相模大野 - 本厚木 ===
相模大野駅を発車すると[[小田急江ノ島線|江ノ島線]]を分岐し、しばらくの間左手に[[小田急電鉄の車両検修施設#大野総合車両所|大野総合車両所]]を見る。その後は住宅地を直線で抜け、[[小田急相模原駅]]へ。その先で[[座間市]]に入り、勾配を下っていく。その後今度は勾配を上っていき、2面4線の[[相武台前駅]]へ到着。かつて大野総合車両所に移転するまで工場があり、駅構内東側に広がる留置線はその名残である。その先しばらくは直線で抜ける。[[座間谷戸山公園]]が見えて森林が増えてくると左へカーブし南を向き、右に[[神奈川県道51号町田厚木線]]のバイパスが見えてくる。左手から森林が消えて市街地が見えてくると間もなく[[座間駅]]へ。その先は住宅街を直線で抜け、[[海老名市]]に入る。[[国道246号]](大和厚木バイパス)と交差すると南西に向きを変え、[[相鉄厚木線]](貨物線)と交差し、[[相鉄本線]]とも並行し[[小田急電鉄の車両検修施設|海老名検車区]]が併設された2面4線の[[海老名駅]]に到着する。
海老名駅を発車し、[[神奈川県道40号横浜厚木線]]の陸橋の下をくぐると高架の上り坂になり、しばらく直線を進むと右にカーブしてJR[[相模線]]と交差し[[厚木駅]]へ。その先で[[首都圏中央連絡自動車道|圏央道]]を潜り、[[相模川]]を渡って[[厚木市]]に入る。[[相模川橋梁 (小田急小田原線)|橋]]を渡り終えると高架で市街地へ入り、左へカーブしながら2面4線の[[本厚木駅]]に到着する。
<gallery widths="180px">
File:Odakyu-Sagamigawa-Bridge.jpg|厚木 - 本厚木間の相模川橋梁を渡る[[小田急1000形電車|1000形]](2007年3月2日)
</gallery>
=== 本厚木 - 小田原 ===
本厚木駅を発車するとそのまま市街地を通る。高架を降り右手の国道246号線と並走する区間になると水田が混在するが、すぐに住宅地になり勾配を登ると[[愛甲石田駅]]に着く。駅構内に厚木市と[[伊勢原市]]の市境がある。
愛甲石田駅を発車すると並行していた国道246号と別れる。しばらくは[[住宅地]]を走るが、高架区間に入ると水田地帯に入り、右手には[[大山 (神奈川県)|大山]]が、左手には[[平塚市]]街や[[湘南平]]まで見渡せるほど視野が開ける。[[新東名高速道路]]を潜り、伊勢原台地へ向かう登り勾配になると住宅地に入り、登りきったところが2面4線の[[伊勢原駅]]となる。同駅は大山への玄関口として、[[大山観光電鉄大山鋼索線|大山ケーブルカー]]へ接続する路線バスが発着している。常磐線各駅停車・千代田線からの直通電車は最長で伊勢原駅まで運行される。
伊勢原駅を発車するとしばらくは住宅地のままだが、右手に見える[[工業団地]]を抜けると水田が一面に広がり、線路の周囲には人家がほとんどなくなる。[[善波川]]橋梁を通過すると[[秦野市]]に入り、再び住宅地が見えると[[鶴巻温泉駅]]に着く。
鶴巻温泉駅を発車すると畑が混在する住宅地を通りながら[[東海大学前駅]]へ到着する。両駅間は1.1 kmと私鉄の駅間距離としては標準的だが、伊勢原駅 - 鶴巻温泉駅、東海大学前駅 - [[秦野駅]]間の駅間距離が約4-5 kmあるので特に短く感じる。
東海大学前駅を発車すると右手に[[弘法山]]を見ながら走る。しばらく住宅地のままだが、2 kmほど進んだところにある秦野トンネル(351 m)を抜けると[[秦野盆地]]へ入る。急勾配と急カーブで盆地の中心部へと進んでいく。畑と雑木林の風景のすき間から右手には[[丹沢山地|丹沢]]と秦野市街地が見える。
2面4線の秦野駅を発車すると右から[[水無川 (神奈川県)|水無川]]が別れ、畑が混在する住宅地をきつめの登り勾配で小田原線の駅で最も標高の高い[[渋沢駅]]まで駆け上がる。ここから愛甲石田駅付近から山を挟んで北側を走っていた国道246号と再び並行することになる。
渋沢駅を発車すると、下北沢駅前後の地下区間を除いて小田急最長の第一菖蒲トンネル(492.9 m)を抜け、うねりながら流れる[[四十八瀬川]](酒匂川水系)の谷に沿って線路も敷設されているため、25‰の急勾配と半径400 mの急カーブの連続で降りて盆地を抜け出す。さらに短い第二菖蒲トンネル(60.3 m)を抜け谷間を進む。このあたりも周囲には人家がないが、秦野市と[[松田町]]の市町境付近には孤島のような形で湯の沢団地が存在する。[[東名高速道路]]・[[国道255号]]を相次いで潜ると、並行していた国道246号から別れ、左手の[[神奈川県立足柄上病院]]を過ぎたところで右手方向に特急「[[ふじさん]]」の運行や新車の搬入などで使われる連絡線がJR[[御殿場線]]へ向かって分岐する。御殿場線をくぐると2面4線の[[新松田駅]]に到着する。渋沢駅 - 新松田駅間の駅間距離は小田急全線で最長の6.2 kmである。
新松田 - 小田原間は水田が広がる[[足柄平野]]を通るため利用客が比較的少なく、栢山・富水・螢田・足柄の4駅はホーム有効長が最大6両分と短く設定されており、日中は6両編成の区間列車(各駅停車)が往復している。[[開成駅]]手前から[[螢田駅]]の先までは足柄平野の水田地帯を抜けるが、線形も良く高速運転向きで、優等列車は最高速度で走ることも多い。
新松田駅を発車すると[[酒匂川]]を渡り、[[酒匂川橋梁 (小田急小田原線)|橋]]を渡り切ると大きく左にカーブして[[開成町]]へ入る。開成駅は2面2線の急行停車駅で、周辺はマンションが並ぶなど住宅地としての開発が著しい。駅の東側(進行左手)には[[車両基地|電留線]]と駅前に保存されている[[小田急3100形電車|3100形NSE車]]の先頭車も見える。開成駅から400 m程南下すると[[小田原市]]に入る。[[栢山駅]]、[[富水駅]]、螢田駅はともに駅周辺に商店や住宅がコンパクトにまとまっているが、駅を離れるとすぐに水田地帯となる。このあたりはかつて酒匂川が洪水を頻繁に起こしていたためもとから人口が少ない。足柄平野一帯では小田原線沿線よりも御殿場線や[[伊豆箱根鉄道]][[伊豆箱根鉄道大雄山線|大雄山線]]沿線の方に人口が集まっている。
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File:Odakyu-Sakawagawa-Bridge.jpg|新松田 - 開成間の酒匂川橋梁を渡る30000形「EXE」(2007年3月9日)
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螢田駅を過ぎると小田原市中心部へ進路をとるため右カーブとなり、[[小田原厚木道路]]を潜った後[[狩川]]を渡る。伊豆箱根鉄道大雄山線をオーバークロスし、切通しを抜けて2面3線の[[足柄駅 (神奈川県)|足柄駅]]となる。付近にかつては[[日本たばこ産業|JT]]小田原工場があり、足柄駅から[[日本専売公社小田原工場専用線|専用線]]が延び、[[小田原駅]]経由で貨物輸送が行われていた名残りで、右手ヤードの奥には電留線がある。[[東海道新幹線]]をくぐり、JR[[東海道本線]]に右カーブで合流すると2面3線の小田原駅に到着する。ここから先は[[箱根登山鉄道鉄道線|箱根登山線]]が延び「はこね」などの特急ロマンスカーが箱根登山線の[[箱根湯本駅]]([[箱根町]])まで直通する。
== 歴史 ==
{{Main2|代々木上原 - 向ヶ丘遊園間の立体交差化・複々線化の進捗については「[[#進捗年表|連続立体交差化・複々線化事業]]」の節を、営団地下鉄(東京地下鉄)千代田線との直通運転の歴史についての詳細は「[[多摩急行#千代田線・小田急線直通列車について]]」を、ダイヤ(設定種別・停車駅)の変遷については「[[#列車種別|列車種別]]」の各節および「[[小田急電鉄のダイヤ改正]]」を}}
* [[1922年]]([[大正]]11年)[[5月29日]]:鉄道免許状下付(東京市四谷区新宿三丁目-神奈川県足柄下郡小田原町)<ref>[{{NDLDC|2955065/10}} 「鉄道免許状下付」『官報』1922年6月1日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1927年]]([[昭和]]2年)
** [[4月1日]]:[[小田急電鉄|小田原急行鉄道]]の手により全線を一度に開業<ref name="odakyu-history" /><ref group="注釈">この時点では、梅ヶ丘、狛江、百合ヶ丘、新百合ヶ丘、玉川学園前、相模大野、小田急相模原、座間、海老名、開成、螢田の11駅が未開業。一方、山谷駅と海老名国分駅はその後に廃止。</ref>。当日、信号系統トラブルにより初日からダイヤが大幅に混乱。駅数38、所要時間2時間20分<ref>新宿-小田原間開通、二時間二十分『東京朝日新聞』昭和2年4月1日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p39 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。
** [[4月29日]]:[[秩父宮雍仁親王]]と[[高松宮宣仁親王]]が新宿 - 小田原間に乗車。皇族が小田急に乗車したのはこの日が初めて。
** [[5月27日]]:狛江駅開業<ref name="odakyu-history" />。
** [[7月28日]]:新座間駅(現在の座間駅)開業<ref name="odakyu-history" />。
** [[10月15日]]:開業時は単線だった稲田登戸(現在の向ヶ丘遊園) - 小田原間が複線化され、全線複線化完成<ref name="odakyu-history" />。急行の運転を開始。
* [[1929年]](昭和4年)4月1日:玉川学園前駅開業<ref name="odakyu-history" />。江ノ島線が大野信号所(現在の相模大野駅) - 片瀬江ノ島間で開業し、小田原線との直通運転を実施。
* [[1930年]](昭和5年)
** [[11月14日]]:相模厚木(現在の本厚木) - 東北沢間にて砂利輸送開始。
** [[9月15日]]:鶴巻駅を鶴巻温泉駅に改称。
* [[1934年]](昭和9年)4月1日:梅ヶ丘駅開業<ref name="odakyu-history" />。
* [[1937年]](昭和12年)
** [[1月1日]]:座間駅(現在の相武台前駅)を士官学校前駅に改称<ref>鉄道省監督局「[{{NDLDC|2363881/67}} 地方鉄道、軌道事業の現況並に異動]」『電気協会雑誌』第182号、日本電気協会、1937年2月、105頁。(国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** [[7月1日]]:千駄ヶ谷新田駅(現在の南新宿駅)を小田急本社前駅に、新座間駅を座間遊園駅に改称。
** [[7月16日]]:[[四十八瀬川]]築堤流失に伴い上下線が不通(11月29日に完全復旧)。
* [[1938年]](昭和13年)
** [[3月1日]]:相模原駅(現在の小田急相模原駅)開業<ref name="odakyu-history" />。
** 4月1日:大野信号所を駅に格上げし、通信学校駅(現在の相模大野駅)開業<ref name="odakyu-history" />。旅客営業上での江ノ島線との分岐点が同駅に変更。
* [[1940年]](昭和15年)[[12月15日]]:通信学校駅を相模大野駅に<ref name="denkikyokai194103">鉄道省監督局「[{{NDLDC|2364375/69}} 地方鉄道・軌道異動並に現況表]」『電気協会雑誌』第231号、日本電気協会、1941年3月、附録2頁。(国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>、士官学校前駅を相武台前駅に改称<ref name="denkikyokai194103" />。
* [[1941年]](昭和16年)
** [[4月5日]]:[[相模原駅|国鉄相模原駅]]の開業に伴い、相模原駅を小田急相模原駅に改称。
** 10月15日:代々幡上原駅を代々木上原駅に、座間遊園駅を座間駅に改称。
** [[11月25日]]:海老名駅が神中鉄道(現在の[[相模鉄道]])の駅として開業<ref name="odakyu-history" />。同駅から相模厚木駅(現在の本厚木駅)まで神中鉄道が直通運転開始。
* [[1942年]](昭和17年)[[5月1日]]:[[東京急行電鉄]]に合併、「小田原線」の呼称が生まれる(「[[大東急]]」の一部に)<ref name="odakyu-history" />。
** この時期には[[東海道本線]]被災時の代替ルートとして小田原線が重要視され、国鉄の電気機関車や電車による試運転が行われた。
* [[1943年]](昭和18年)4月1日:海老名駅が小田原線の駅として開業、海老名国分駅廃止。神中鉄道の本厚木駅直通運転中止。
* [[1944年]](昭和19年)
** 6月1日:河原口駅を厚木駅に、相模厚木駅を本厚木駅に改称。
** [[10月20日]]:鶴巻温泉駅を鶴巻駅に改称。
* [[1945年]](昭和20年)
** [[5月26日]]:前日からの[[東京大空襲|山の手大空襲]]の影響により新宿 - 南新宿間不通。数日間全列車を南新宿駅折り返しで運行。
** 6月1日:代々木上原駅営業休止。
** 7月1日:山谷駅および世田ヶ谷中原駅営業休止。
** [[12月1日]]:代々木上原駅営業再開。
* [[1946年]](昭和21年)
** 2月:相模鉄道からの海老名 - 本厚木間直通運転再開。
** [[1月28日]]:大秦野駅付近でブレーキ故障を起こした小田原行の電車が勾配を逆走して鶴巻駅で脱線転覆、30名死亡([[日本の鉄道事故 (1949年以前)#東急小田原線列車脱線転覆事故|東急小田原線列車脱線転覆事故]])。
** 6月1日:営業休止中の山谷駅廃止<ref name="odakyu-history" />。
** [[6月15日]]:世田ヶ谷中原駅営業再開。
** [[8月20日]]:世田ヶ谷中原駅を世田谷代田駅に改称。
* [[1948年]](昭和23年)6月1日:東京急行電鉄からの分離(大東急の解体)により小田急電鉄が発足し、小田原線を同社に移管<ref name="odakyu-history" />。
* [[1950年]](昭和25年)[[8月1日]]:[[箱根登山鉄道]][[箱根登山鉄道鉄道線|鉄道線]][[箱根湯本駅]]まで直通運転を開始<ref name="odakyu-history" />。
* [[1952年]](昭和27年)4月1日:螢田駅開業。
* [[1955年]](昭和30年)
** 4月1日:稲田多摩川駅(現在の登戸駅)を登戸多摩川駅に、稲田登戸駅を向ヶ丘遊園駅に改称。
** [[10月1日]]:新松田 - [[松田駅|松田]]間の[[連絡線]]が完成し、国鉄(現・[[東海旅客鉄道|JR東海]])[[御殿場線]]への直通運転を開始<ref name="odakyu-history" />。
* [[1957年]](昭和32年)[[7月6日]]:[[小田急3000形電車 (初代)|3000形(SE車)]]が運行開始<ref name="odakyu-history" />。
* [[1958年]](昭和33年)4月1日:登戸多摩川駅を登戸駅に、鶴巻駅を鶴巻温泉駅に改称。
* [[1960年]](昭和35年)[[3月25日]]:百合ヶ丘駅開業<ref name="odakyu-history" />。
* [[1964年]](昭和39年)
** [[2月17日]]:新宿駅1次大改良工事が完成<ref name="odakyu-history">{{Cite web|和書|url=https://www.odakyu.jp/company/history/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210430015003/https://www.odakyu.jp/company/history/|title=会社小史・略年表|archivedate=2021-04-30|accessdate=2021-05-09|publisher=小田急電鉄|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。地上3線・地下2線の立体式ターミナルとなる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.odakyu.jp/company/history80/03.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160301213132/http://www.odakyu.jp/company/history80/03.html|title=小田急80年史 > 多角化と鉄道の近代化(1961 - 1976)|archivedate=2016-03-01|accessdate=2021-05-09|publisher=小田急電鉄|language=日本語|deadlinkdate=2021年5月}}</ref>。
** 3月1日:東生田駅を生田駅に、西生田駅を読売ランド前駅に改称。
** [[11月5日]]:相模鉄道からの海老名 - 本厚木間直通運転廃止。
* [[1971年]](昭和46年)
** [[4月27日]]:千歳船橋駅 - 祖師ヶ谷大蔵駅間の環八通り付近の下り線が高架化<ref>{{Cite news |和書|title=下り線から使用開始 小田急千歳船橋-祖師ヶ谷大蔵間の高架化 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1971-05-01 |page=1 }}</ref>。
** [[7月17日]]:千歳船橋駅 - 祖師ヶ谷大蔵駅間の環八通り付近の上り線が高架化<ref>{{Cite news |和書|title=千歳船橋-祖師ヶ谷大蔵間 高架化が完成 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1971-07-15 |page=1 }}</ref>。
* [[1974年]](昭和49年)6月1日:同日開業の多摩線分岐駅として新百合ヶ丘駅開業。朝方ラッシュ時の一部上り列車のみ、多摩線から小田原線への直通運転を実施。
* [[1976年]](昭和51年)
** [[4月11日]]:新原町田駅を町田駅に改称。
** [[7月13日]]:代々木上原駅付近連続立体交差化<ref name="odakyu-history" />。
* [[1977年]](昭和52年)
** [[3月29日]]:本厚木駅付近連続立体交差化<ref name="odakyu-history" />。
** 7月1日:新宿 - 本厚木間にて[[急行列車|急行]]の10両編成運転を開始。
* [[1978年]](昭和53年)[[3月31日]]:営団地下鉄(現・[[東京地下鉄]])[[東京メトロ千代田線|千代田線]]と相互直通運転を開始(当初は平日の朝夕のみ)<ref name="odakyu-history" />。
* [[1982年]](昭和57年)
** 4月1日:新宿駅2次大改良工事が完成。地上・地下5線を10両・210 mホームとする<ref name="odakyu-history" />。
** [[7月12日]]:箱根登山鉄道鉄道線に大型(20 m車)6両編成乗り入れ開始。
* [[1985年]](昭和60年)[[3月14日]]:開成駅開業<ref name="odakyu-history" />。
* [[1987年]](昭和62年)[[3月9日]]:大根駅を東海大学前駅に、大秦野駅を秦野駅に改称。
* [[1991年]]([[平成]]3年)[[3月16日]]:土曜・休日ダイヤ導入。JR東海と新宿 - [[沼津駅|沼津]]間で相互直通運転開始、「[[ふじさん|あさぎり]]」を連絡急行から[[特別急行列車|特急]]に格上げ。千代田線との相互直通運転を休日にも拡大。
* [[1997年]](平成9年)[[12月28日]]:運賃改定に伴い相模大野駅が営業キロ上で新宿側に0.2 km移転(実際の移転・新駅舎の供用は1996年)。江ノ島線分岐位置である旧駅位置は相模大野分岐点となる。
* [[2000年]](平成12年)[[10月8日]]:愛甲石田駅 - 伊勢原駅間の歌川橋梁付近を高架化<ref name="odakyu-history" />。
* [[2002年]](平成14年)[[3月23日]]:[[湘南急行]]と[[多摩急行]]を新設<ref name="press20020214">{{Cite press release|和書|url=http://www.d-cue.com/cgi-bin/info/pg02348.pl?key=401&info_kubun=d-cue&mode=online|archiveurl=https://web.archive.org/web/20041205102942/http://www.d-cue.com/cgi-bin/info/pg02348.pl?key=401&info_kubun=d-cue&mode=online|language=日本語|title=平成14年3月23日(土)にダイヤ改正を実施します 江ノ島線沿線から新宿への「湘南急行」、多摩線沿線から千代田線直通の「多摩急行」が登場|publisher=小田急電鉄|date=2002-02-14|accessdate=2021-05-04|archivedate=2004-12-05}}</ref>。小田原線と多摩線との直通運転を大幅に拡大<ref name="press20020214" />。
* [[2004年]](平成16年)[[12月11日]]:湘南急行を廃止、快速急行と区間準急を新設<ref name="press20041006">{{Cite press release|和書|url=http://www.d-cue.com/cgi-bin/info/pg02348.pl?key=869&info_kubun=d-cue&mode=online|archiveurl=https://web.archive.org/web/20050308101903/http://www.d-cue.com/cgi-bin/info/pg02348.pl?key=869&info_kubun=d-cue&mode=online|language=日本語|title=12月11日(土)、小田急線のダイヤ改正を実施 -複々線化区間の延伸、新種別の導入で所要時間が短縮します-|publisher=小田急電鉄|date=2004-10-06|accessdate=2021-05-09|archivedate=2005-03-08}}</ref>。
* [[2008年]](平成20年)[[3月15日]]:[[小田急60000形電車|60000形「MSE」]]によるロマンスカーの千代田線への直通運転を開始<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/3276_7621683_.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120312203207/http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/3276_7621683_.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2008年3月15日(土)から ロマンスカー・MSEによる東京メトロ線への直通運転を開始します|publisher=小田急電鉄/東京地下鉄|date=2007-12-20|accessdate=2021-05-09|archivedate=2012-03-12}}</ref>。急行・準急の箱根登山鉄道鉄道線への乗り入れを廃止<ref group="注釈" name="oertt2009" />。
* [[2010年]](平成22年)[[3月13日]]:小田原線を介した小田急電鉄とJR東日本との[[連絡運輸|通過連絡運輸]]が、普通乗車券においては廃止<ref group="注釈">同日、JR東日本が[[横須賀線]]・[[湘南新宿ライン]][[武蔵小杉駅]]を開業したため。定期券については通過連絡運輸の取扱いを継続。</ref>。
* [[2011年]](平成23年)
** 3月14日:同月11日に発生した[[東北地方太平洋沖地震]]による発電所の停止に伴う電力供給逼迫のため、[[東京電力]]が[[輪番停電|輪番停電(計画停電)]]を実施。これに伴い、この日から千代田線との相互直通運転および特急ロマンスカーの運転が休止。
** 4月1日:千代田線との相互直通運転が平日の朝・夕ラッシュ時のみ再開。
** 4月29日:特急ロマンスカーの運転が再開。
** [[7月2日]]:土休日の千代田線との相互直通運転が再開。
** [[9月12日]]:平日全日の千代田線との相互直通運転が再開<ref name="press20110905">{{Cite press release|和書|url=http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/6533_8534634_.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110929063323/http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/6533_8534634_.pdf|format=PDF|language=日本語|title=9月12日(月)から、小田急線は通常ダイヤに戻ります。-早朝時間帯の増発、特急ロマンスカーを含む平日日中の一部運休等を終了します-|publisher=小田急電鉄|date=2011-09-05|accessdate=2021-05-09|archivedate=2011-09-29}}</ref>。
* [[2012年]](平成24年)[[3月17日]]:特急「あさぎり」の御殿場線への直通運転区間が御殿場までに短縮、車両が60000形「MSE」に置き換えられてJR東海の車両の乗り入れがなくなり、小田急からの片方向直通運転に戻る<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/6813_2421858_.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210505082557/http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/6813_2421858_.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2012年3月17日(土)ダイヤ改正を実施します。「メトロはこね」を毎日運転、朝方と夕夜間のロマンスカーを増発|publisher=小田急電鉄|date=2011-12-16|accessdate=2021-05-09|archivedate=2021-05-05}}</ref>。
* [[2016年]](平成28年)[[3月26日]]:東京メトロ千代田線直通用4000形のJR東日本[[常磐緩行線]]への乗り入れ開始。常磐緩行線[[JR東日本E233系電車|E233系2000番台]]の小田急への乗り入れ開始(209系1000番台は小田急には乗り入れない)。区間準急を廃止<ref name="press20151218">{{Cite press release|和書|url=http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8360_8351253_.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201127044703/http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8360_8351253_.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2016年3月26日(土) 小田急線ダイヤ改正を実施します ロマンスカー停車駅の新設および東京メトロ千代田線直通列車の増発|publisher=小田急電鉄|date=2015-12-18|accessdate=2021-05-05|archivedate=2020-11-27}}</ref>。
* [[2018年]](平成30年)
** [[3月3日]]:代々木上原 - 梅ヶ丘間が複々線化され、代々木上原 - 登戸間の複々線化完成<ref name="odakyu20171215-2" />。
** [[3月17日]]:ダイヤ改正で、千代田線との相互直通運転区間を[[伊勢原駅]]まで延長。平日朝の通勤時間帯の上りに通勤急行と通勤準急を新設。多摩急行を廃止<ref name="odakyu20171101" /><ref name="odakyu20171215" />。
* [[2019年]](平成31年)[[3月16日]]:ダイヤ改正で、新宿 - 代々木上原間での各駅停車の10両編成運転を開始<ref name="odakyu20181214">{{Cite press release|和書|url=https://www.odakyu.jp/news/o5oaa1000001eqdu-att/o5oaa1000001eqe1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210504155202/https://www.odakyu.jp/news/o5oaa1000001eqdu-att/o5oaa1000001eqe1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2019年3月16日(土)小田急線ダイヤ改正を実施します 〜輸送力をさらにアップさせ、一層快適な輸送サービスを目指します〜|publisher=小田急電鉄|date=2018-12-14|accessdate=2021-05-09|archivedate=2021-05-04}}</ref>。また、[[開成駅]]に急行が停車開始<ref name="odakyu20181214" />。
* [[2021年]](令和3年)[[8月6日]]:成城学園前 - 祖師ヶ谷大蔵間を走行中の列車内で[[小田急線刺傷事件|刺傷事件]]が発生。
* [[2023年]](令和5年)[[2月24日]]:伊勢原 - 鶴巻温泉間に新駅の建設と[[小田急電鉄の車両検修施設#大野総合車両所|大野総合車両所]]の移転の計画を検討していることが判明する。実現すれば2004年(平成16年)の多摩線はるひ野駅以来の小田急電鉄の新駅となる<ref>{{Cite web|和書|url= https://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20230224/1000090084.html |title= 小田急電鉄 神奈川 伊勢原に小田原線の新駅建設を検討 |publisher=NHK NEWSWEB |date=2023-02-24 |accessdate=2023-02-24}}</ref>。
== 運行形態 ==
2023年3月18日ダイヤ改正時点の日中の各区間の1時間あたりの運行本数は下表のとおりである。かつては[[箱根登山鉄道鉄道線]][[箱根湯本駅]]まで直通運転をする列車も多くみられたが、2022年1月時点で直通運転を行う列車は特急のほか、平日・土休日共に夜間に箱根湯本発の各駅停車本厚木行きが1本設定されているのみである。
{| class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:center;"
|+日中の運行パターンと運転本数<br />(2023年3月18日改正時点)
|-style="line-height:1.1;"
! colspan="2"|種別\駅名
! style="width:1em;"|{{縦書き|新宿}}
!…
! colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|代々木上原}}
!…
! colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|向ヶ丘遊園}}
!…
! colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|新百合ヶ丘}}
!…
! colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|町田}}
!…
! colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|相模大野}}
!…
! colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|本厚木}}
!…
! colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|伊勢原}}
!…
! colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|秦野}}
!…
! colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|新松田}}
!…
! colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|小田原}}
!…
! style="width:1em;" |{{縦書き|箱根湯本}}
! colspan="2"|備考
|-
! rowspan="17" style="width:1em;"|運行本数
|-
| style="background-color:#f78;"rowspan="3"|特急
| colspan="33" style="background-color:#f78;" |平日2本<br>土休日2-3本 ||rowspan="2"|一部、東京メトロ千代田線直通||一部、本厚木・小田原止まり
|-
| colspan="15" style="background-color:#f78;" |土休日0-1本 ||colspan="18"| ||江ノ島線片瀬江ノ島駅まで直通
|-
| colspan="26" style="background-color:#f78;" |0-1本 ||colspan="7"| ||colspan="2"|渋沢 - 新松田間で分岐する連絡線経由でJR御殿場駅直通
|-
| style="background:#fdb;"rowspan="2"|快速急行
| rowspan="1" colspan="27" style="background:#fdb;" |3本
| colspan="3" style="background:pink;" |3本
| colspan="3"|
| colspan="2"|新松田駅 - 小田原駅間は急行として運転
|-
| colspan="15" style="background:#fdb;" |3本|| colspan="18" | ||colspan="2"|江ノ島線藤沢駅まで直通
|-
| style="background:pink;" rowspan="4" |急行
| colspan="3" | || colspan="3" style="background:pink" |3本
| colspan="27" | || colspan="2" |東京メトロ千代田線直通
|-
| colspan="12" | || colspan="4" style="background:pink" |1-3本
| colspan="11" style="background:pink;" |3本
| colspan="3" style="background:#bdf;" |3本
| rowspan="1" colspan="3"|
| colspan="2"|新松田駅 - 小田原駅間は各駅停車として6両編成で運転
|-
| colspan="9" style="background:pink;" |3本|| colspan="24" | ||colspan="2"|多摩線唐木田駅まで直通<br/>一部列車は多摩線内各駅停車として運転
|-
| colspan="15" style="background:pink;" |3本 ||colspan="18"| ||colspan="2"|上りは町田始発新宿行き<br/>下りは新宿始発相模大野行き(日中運転は土休日のみ)
|-
| style="background:#bdf;" rowspan="5" |各駅停車|| rowspan="3" colspan="18" style="background:#bdf;" |6本||colspan="15"| ||colspan="2"|
|-
| colspan="3" style="background:#bdf;" |0-2本
| colspan="12"| ||colspan="2"|
|-
| colspan="6" style="background:#bdf;" |0-2本
| colspan="9"| ||colspan="2"|
|-
| colspan="12" | || colspan="4" style="background:#bdf;" |0-2本
| colspan="17" | || colspan="2"|江ノ島線藤沢駅まで直通(日中運転は土休日のみ)
|-
| colspan="30" | || colspan="3" style="background:#bdf;" |3本 || colspan="2"|
|}
下りの[[東北沢駅|東北沢]] - [[登戸駅|登戸]]間、上りの[[向ヶ丘遊園駅|向ヶ丘遊園]] - 東北沢間の[[急行線|急行線・緩行線]]は原則として以下の通り使い分けられている。
; 急行線
: 特急ロマンスカー・快速急行・通勤急行・急行が使用する。[[成城学園前駅]] - [[経堂駅]]間のみ通勤準急も使用する。
; 緩行線
: 準急・各駅停車が使用する。通勤準急も上記以外の区間で使用する。
:ただし、[[東京メトロ千代田線|千代田線]]直通の上り急行は、経堂駅以東で緩行線を使用する。
=== 列車種別 ===
基本種別色が設定されているが、車両や駅により、異なる色を使っている場合もある。
==== 特急ロマンスカー ====
有料・全席指定の[[特別急行列車|特急列車]]で、'''「[[小田急ロマンスカー|ロマンスカー]]」'''の愛称があり、新宿駅から次の各方面に運転されている。単に「特急」と表現されることもあるが「特急ロマンスカー」が正式な種別名である。
* [[小田原市|小田原]]・[[箱根町|箱根]]方面:[[はこね (列車)|'''「スーパーはこね」・「はこね」'''(箱根登山鉄道鉄道線箱根湯本駅発着)・'''「さがみ」'''(小田原線内発着)]]
* [[湘南]]([[藤沢市|藤沢]]・[[江の島]])方面:[[小田急江ノ島線|江ノ島線]][[直通運転|直通]]の'''[[えのしま (列車)|「えのしま」]]'''
* [[御殿場市|御殿場]]方面:'''[[ふじさん|「ふじさん」]]'''([[東海旅客鉄道]]〈JR東海〉[[御殿場線]]直通)
なお、新宿駅発17時以降の下り列車は行先にかかわらず(江ノ島線直通を含め)すべて'''[[モーニングウェイ・ホームウェイ|「ホームウェイ」]]'''となる<ref group="注釈">運行開始当初から2022年3月11日までは、18時以降の下り列車が行き先にかかわらず全列車「(メトロ)ホームウェイ」となっていた。</ref>。また、9時30分までに新宿駅および[[東京メトロ千代田線]][[大手町駅 (東京都)|大手町駅]]に到着する上り列車はすべて'''[[モーニングウェイ|「モーニングウェイ」]]'''となる。
<!--2004年12月11日のダイヤ改正前までは「さがみ」が存在せず、「サポート」という列車があった。「はこね (列車)」を参照してください。-->
また、毎年[[12月31日]]の深夜から翌年[[1月1日]]の早朝にかけて、[[終夜運転]]として[[臨時列車]]の「[[ニューイヤーエクスプレス]]」(略称:NYE、旧名称:初詣号)が新宿駅 - [[片瀬江ノ島駅]]間などで運行される。
[[2008年]][[3月15日]]より、東京メトロ千代田線[[北千住駅]]・[[大手町駅 (東京都)|大手町駅]]に直通する列車を[[小田急60000形電車|60000形「MSE」]]で運転している。列車の愛称は頭に「メトロ」が付く。また、2011年9月までは一部の土曜・休日に臨時で[[東京メトロ有楽町線|東京地下鉄有楽町線]][[新木場駅]]にも直通する「[[はこね (列車)#ベイリゾート|ベイリゾート]]」も運転されていた。「[[小田急ロマンスカー#地下鉄直通]]」も参照。
停車駅は列車によって異なるので、それぞれの列車の項目を参照。
==== 快速急行 ====
[[File:Rapid Express of Odakyu Electric Railway.JPG|thumb|right|250px|1000形による新宿行き快速急行]]
[[2004年]][[12月11日]]のダイヤ改正で定期列車として初めて登場した速達種別である。種別色はオレンジ色。全列車全区間を10両編成で運転する。
現行ダイヤにおいて、日中は新宿駅 - [[小田原駅]]間の列車と新宿駅 - 江ノ島線[[藤沢駅]]間の列車がそれぞれ1時間に3本運転されており、新宿駅 - 相模大野駅間では両者を合わせて1時間に6本となる。多摩線発着の列車も設定されており、平日朝夕に下り、土休日朝に上り列車が運転される。新宿駅 - 小田原駅間は新宿発また小田原発のすべての列車が新松田駅 - 小田原駅で急行に種別変更して運転する。なお平日朝上りに、江ノ島線内を急行で運転し、相模大野駅から快速急行に種別変更する列車が、藤沢駅・大和駅発として設定されている。
小田急電鉄によると、快速急行は、速達列車利用旅客を長距離と近距離に分離することによる長距離旅客の速達性向上と近郊区間における急行の混雑緩和を目的に設定したとしている<ref>[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/760711.pdf 神奈川県鉄道輸送力増強促進会議/平成26年度の要望及び鉄道事業者からの回答/小田急電鉄]</ref>。
[[代々木上原駅]] - [[登戸駅]]間の複々線区間を活用し、この区間を含む[[下北沢駅]] - 登戸駅間をノンストップで運行することが最大の特徴となっている。日中帯について、小田原駅発着列車は、下りは代々木上原駅で東京メトロ千代田線からの急行向ヶ丘遊園駅行きに、上りは新百合ヶ丘駅で多摩線唐木田駅発の急行新宿駅行きに接続する。江ノ島線藤沢発着の列車は、相模大野駅で町田駅・相模大野駅 - 小田原駅間(新松田駅 - 小田原駅間各停)で運行する急行に接続し、登戸駅で向ヶ丘遊園駅発の東京メトロ千代田線方面に直通する急行に接続する。これらによって、快速急行の停車しない急行停車駅などへの利便性が確保されている。
快速急行の登場当時からしばらくの間、日中に乗り換えなしで新宿駅から藤沢駅へ行ける列車は湘南新宿ライン・快速急行ともに1時間に2本運行されており、それぞれ所要時間(昼間)はJRが48 - 50分(当時の現金運賃で970円)、小田急の快速急行が53 - 54分(当時の現金運賃で590円)と伯仲していた。[[2016年]][[3月26日]]のダイヤ改正で、小田急側は快速急行の本数が1時間に3本に増加し、利便性は向上した一方で、所要時間はJRが49 - 51分、小田急の快速急行が56 - 58分と、少々延びている。
後述の急行と同様、本厚木駅 - 新松田駅間では各駅に停車し、日中時間帯に同区間での設定がない各駅停車の役割を果たしている。
2016年3月26日のダイヤ改正より、小田原線内で下りは[[伊勢原駅]](日中3本に2本程度)、上りは[[海老名駅]](一部[[相模大野駅]]・[[秦野駅]])で特急ロマンスカーの待ち合わせや通過待ちを行うようになったが、登場時は江ノ島線系統も併せて原則下り1本(夜の小田原駅行き)を除き特急ロマンスカーの待ち合わせや通過待ちをしなかった。2019年3月16日以降、土曜・休日ダイヤの片瀬江ノ島行きについては、2本が大和駅で特急「メトロえのしま」号に追い抜かれる。
[[列車番号]]は、小田原線内の列車には3000番台、江ノ島線直通列車には3500番台、多摩線直通列車には3700番台がそれぞれ割り当てられている<ref name="小田急時刻表2018">{{Cite|title=小田急時刻表2018|publisher=交通新聞社|date=2018-3-13|url=http://shop.kotsu.co.jp/shopdetail/000000002313/025/O/page1/order/}}</ref>。
[[2018年]][[3月17日]]のダイヤ改正より、以下のように運行形態が変化した<ref name="odakyu20171101">{{Cite press release|和書|url=http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8701_5820170_.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190415221739/http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8701_5820170_.pdf|format=PDF|language=日本語|title=代々木上原〜登戸間の「複々線化」により小田急の通勤が変わる! 2018年3月、新ダイヤでの運行開始 〜ラッシュピーク混雑率150%、町田〜新宿間の最大12分短縮を実現〜 〜快速急行の登戸停車や列車種別の新設で、都心へのアクセス向上〜|publisher=小田急電鉄|date=2017-11-01|accessdate=2020-05-10|archivedate=2019-04-15}}</ref><ref name="odakyu20171215">{{Cite press release|和書|title=代々木上原~登戸間の「複々線化」により小田急が変わります! 新ダイヤでの運行開始日を決定!|publisher=小田急電鉄|date=2017-12-15|url=https://www.odakyu.jp/news/o5oaa10000005scq-att/8731_0522542_.pdf|format=PDF|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210509091338/https://www.odakyu.jp/news/o5oaa10000005scq-att/8731_0522542_.pdf|archivedate=2021-05-09|accessdate=2021-05-09}}</ref>。
*登戸駅が停車駅に追加。
*平日の朝夕ラッシュ時間帯に増発。
*多摩線への乗り入れを開始。
*平日のみ、新松田駅行きと江ノ島線片瀬江ノ島駅行きが廃止。
*日中時間帯の新松田行きが小田原行きに変更。
*土休日における日中時間帯の江ノ島線直通列車が、藤沢駅発着から片瀬江ノ島駅発着に変更。
*平日の片瀬江ノ島駅発と、平日夜下りに2本設定されていた相模大野駅行きが廃止。
*平日夜下りに本厚木駅行きが1本設定。
*平日朝上りにおいて江ノ島線を急行として運転し、相模大野駅で快速急行に種別変更する列車を設定。
2019年3月16日のダイヤ改正より、新松田駅 - 小田原駅間を急行として運転し、同改正で再び急行停車駅となった[[開成駅]]に停車する列車が設定された<ref name="odakyu20181214"/>。また、夜の本厚木行きが廃止された。
2021年3月のダイヤ改正より、海老名駅5時7分発の快速急行小田原行きが毎日運転として設定された。この列車は新松田駅で同駅5時41発の各駅停車小田原行きに乗り換えられる<ref group="注釈">また終点小田原駅から、[[東海道新幹線]]の下り[[新横浜駅]]始発の「[[ひかり (列車)|ひかり]]533号」[[広島駅|広島]]行きにも余裕を持った乗り換えができる。</ref>。
2022年3月12日のダイヤ変更より、江ノ島線の藤沢駅での運用分割により藤沢駅 - 片瀬江ノ島駅間の運転がなくなった。また、前述の海老名始発の列車を除き、新松田駅 - 小田原駅間は全ての列車が急行として運転するようになる。
===== 停車駅の変遷 =====
* 2004年12月11日(快速急行の運行開始時):新宿駅・代々木上原駅・下北沢駅・新百合ヶ丘駅・町田駅・相模大野駅・海老名駅・本厚木駅 - 新松田駅間の各駅・小田原駅。
* [[2018年]][[3月17日]]:登戸駅が停車駅に追加される<ref name="odakyu20171101"/><ref name="odakyu20171215"/>。江ノ島線の片瀬江ノ島駅は土休日ダイヤのみ停車となる(平日は藤沢駅止まり)。
* [[2022年]][[3月12日]]:藤沢駅で運用分割をすることから藤沢駅 - 片瀬江ノ島駅間での運転がなくなり、片瀬江ノ島駅の停車がなくなる。
==== 通勤急行(2代) ====
[[2018年]][[3月17日]]のダイヤ改正で設定された種別(運転開始は3月19日)<ref name="odakyu20171101" /><ref name="odakyu20171215" />。平日朝ラッシュ時間帯に多摩線発新宿行きのみ運転される。唐木田駅 - 新宿駅間の途中停車駅は小田急多摩センター駅・小田急永山駅・栗平駅・新百合ヶ丘駅・向ヶ丘遊園駅・成城学園前駅・下北沢駅・代々木上原駅。快速急行の停車しない向ヶ丘遊園駅・成城学園前駅に停車するが、登戸駅は通過するという[[停車 (鉄道)#千鳥停車|千鳥停車]]の形をとる。6本が小田急多摩センター駅始発、3本が唐木田駅始発となる。
設定当初は8両編成での運転が1本のみ存在したが、[[2019年]][[3月16日]]のダイヤ改正より、全列車が10両編成で運転されている<ref name="odakyu20181214"/>。
列車番号は3800番台が割り当てられている<ref name="小田急時刻表2018" />。
==== 急行 ====
[[1927年]][[10月15日]]の小田原線全線複線化により登場した。[[1944年]][[11月]]には[[太平洋戦争]]の戦況悪化に伴い運行が中止されたが、[[1949年]][[10月1日]]に運行が再開され、現在に至っている。種別色は赤色。
現行ダイヤでは小田急内系統とJR東日本常磐線・東京メトロ千代田線直通系統の2つが存在する。それぞれの概要を2つに分けて記す。
; 小田急内列車
: 日中は新宿駅 - 多摩線唐木田駅間の列車と町田駅・相模大野駅 - 小田原駅間の列車がそれぞれ1時間に3本運転されており、前者は新百合ヶ丘駅 - 唐木田駅間、後者は新松田駅 - 小田原駅間で各駅停車に種別変更する。平日朝ラッシュ時の上りの相模大野駅 - 新宿駅間は通勤急行及び快速急行に置き換えられたため、数本を除き設定がない。区間運転として毎日朝に海老名駅発小田原駅行き、平日朝に登戸駅発多摩線唐木田駅行き、土休日に小田原駅発本厚木駅・本厚木駅発小田原駅行き、町田駅発新宿駅行き、新宿駅発相模大野駅行きがそれぞれ設定されている。基本的に10両編成で運転されるが、新松田駅で種別変更をする列車及び新松田駅発の一部の相模大野駅・町田駅行きは6両編成で運転される。また、平日朝の新松田駅 - 相模大野駅間の1往復は、8両編成で運転されている<ref name="odakyu20171101" /><ref name="odakyu20171215" /><ref>[https://railf.jp/news/2018/03/25/194000.html 小田急、小田原線系統に8両編成の急行が登場] - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2018年3月25日</ref>。
: 2022年3月12日のダイヤ改正からは、海老名発の1本を除いた全ての快速急行が、新松田駅 - 小田原駅間で急行に種別変更されるようになった。
; 常磐線・東京メトロ千代田線直通列車
: 早朝、深夜、平日朝・夕ラッシュ時を除く全時間帯で運転される。常磐線・千代田線の発着駅は我孫子駅・柏駅・北綾瀬駅(発のみ)・綾瀬駅が、小田急の発着駅は成城学園前駅・向ヶ丘遊園駅・相模大野駅(着のみ・休日のみ)・海老名駅(発のみ)・本厚木駅・伊勢原駅(着のみ・夕方以降)が設定されている。千代田線方面行きの列車は、一部列車を除いて新百合ヶ丘駅で江ノ島線または多摩線発の快速急行の待ち合わせをする。2022年3月12日のダイヤ改正以前は朝夕のみの運転だったが、ダイヤ改正後は今まであった準急を置き換える形で向ヶ丘遊園駅 - 我孫子駅間の列車が一部を除いて20分おきで運転されている。
2004年12月13日から2022年3月11日まで、平日の一部時間帯で[[経堂駅]]を通過していた(一部通過扱い)。2018年3月16日までは、常磐線・千代田線直通の列車は平日朝上り列車のみ通過とされていた。2022年3月12日のダイヤ変更から平日・土休日ともに全ての急行が終日経堂駅に停車するようになった。
日中は経堂駅(下りのみ)・成城学園前駅・登戸駅・新百合ヶ丘駅(下りのみ)・町田駅(上りのみ)・海老名駅(下りのみ)で各駅停車に接続する。<!--また過去に区間準急が運転されていた際、経堂駅で[[緩急接続]]を行う列車は上りは登戸駅で、下りは向ヶ丘遊園駅で接続していた。-->ラッシュ時は相武台前駅と鶴川駅(上りのみ)で各駅停車を追い抜く列車が多い。特急ロマンスカーの待避は相模大野駅で行われることが多いが、向ヶ丘遊園駅・町田駅・海老名駅(主に上り)・本厚木駅・秦野駅などで行われることもある。常磐線・千代田線直通系統の下り列車のうち、平日夜の唐木田行きは向ヶ丘遊園駅で快速急行を待避するが、それ以外の下り列車は快速急行に抜かれることなく相模大野駅まで先着する。
途中駅から(まで)の種別を各駅停車に変更する列車は俗に「化け急」と呼ばれ<ref name="RP829_159">{{Cite journal|和書|author=寺西知幸|title=沿線に住んで20年 江ノ島線の変化を振り返る|journal=鉄道ピクトリアル|date=2010-01-10|volume=60|issue=第1号(通巻829号)|page=159|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref>、上りは途中駅まで各駅停車で、下りは途中駅から各駅停車で運転される。2018年3月17日のダイヤ改正以降、種別変更を行う駅は新百合ヶ丘駅・相模大野駅・新松田駅の3つである。新百合ヶ丘駅から種別変更する列車は新宿駅 - 本厚木・海老名駅・相模大野駅・多摩線唐木田駅間、相模大野駅から種別変更する列車は新宿駅 - 本厚木駅間、新松田駅から種別変更する列車は相模大野駅・町田駅 - 小田原駅間にそれぞれ設定されている。2018年3月16日までは種別変更を行う駅は相模大野駅のみで、新宿駅から相模大野駅までは「急行相模大野行」、相模大野駅から全車両「各停○○行」と種別と行先の両方を変更していた。かつては江ノ島線にも設定されていたが現在は全廃されている。
運行トラブルなどでダイヤが大きく乱れた場合、新宿駅 - 経堂駅間のみ急行運転を行う場合や、柿生駅 - 玉川学園前駅間および小田急相模原駅 - 厚木駅間の各駅に臨時停車することがある。
列車番号は、小田原線内の列車には1000番台(新宿駅発着の急行は1200番台)、江ノ島線直通列車には1500番台(新宿駅発着の急行は1700番台)、千代田線直通列車には2000番台(経堂駅停車列車は2200番台)、多摩線直通列車には2700番台がそれぞれ割り当てられているが、2018年3月16日までは6両編成の「赤丸急行」(後述)にも2000番台が割り当てられていた<ref name="小田急時刻表2018" />。
[[ファイル:OER_AKAMARU-Express.JPG|右|サムネイル|200x200ピクセル|小田原駅発車案内板における「赤い丸」が付いた「急行」の表示例(1・4列目)]]
2018年3月16日まで、6両編成で運行される急行については、開成駅 - 足柄駅間の各駅に停車していた。{{要出典範囲|date=2021年10月23日 (土) 17:11 (UTC)|該当する列車は駅に掲示されている時刻表や新松田駅・小田原駅の[[発車標]]で「赤い丸」が付けられ区別されていた}}。2008年3月15日のダイヤ改正以降、6両編成の急行はほぼ日中の町田駅・相模大野駅 - 小田原駅間を運転する列車に限定され、2012年3月17日のダイヤ改正よりすべて町田駅以西での運転となった。この改正で新宿駅発着の急行に関しては、すべて開成駅 - 足柄駅間の各駅が通過となった。さらに2016年3月26日のダイヤ改正で、日中の町田駅・相模大野駅 - 小田原駅間運転の急行が全廃され、「赤丸急行」の本数は平日下り3本、平日上り6本、土休日下り1本、土休日上り3本と大幅に本数削減された。そして2018年3月17日のダイヤ改正で、開成駅 - 足柄駅間の各駅に停車する6両編成の急行はいったん全廃された<ref group="注釈">ただしこの改正で、新松田駅から急行に種別変更する各駅停車の小田原発相模大野行きが設定されたため、改正前の当該列車を実質維持する形となっている。</ref>。2022年3月12日のダイヤ変更で、日中に新松田駅 - 小田原駅間で各駅停車に種別変更する町田駅・相模大野駅発着列車が設定され、開成駅 - 足柄駅間の各駅に停車していた急行と同様の運行形態となった<ref>{{Cite press release|和書|title=2022年3月12日(土) 小田急線のダイヤを変更します 〜ご利用動向を踏まえ、平日朝の都心への増発、日中・夜間を中心とした運転本数の見直しを実施〜|publisher=小田急電鉄|date=2021-12-17|url=https://www.odakyu.jp/news/o5oaa100000214sd-att/o5oaa100000214sk.pdf|format=PDF|language=日本語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211217050619/https://www.odakyu.jp/news/o5oaa100000214sd-att/o5oaa100000214sk.pdf|archivedate=2021-12-17}}</ref>。
なお、開成駅についてはホームの10両編成対応工事が完了したことから、2019年3月16日のダイヤ改正より急行の全列車停車駅となっている<ref name="odakyu20181214"/>。
===== 途中駅での分割・併合 =====
{{Double image aside|right|OER 5065 destination board.jpg|210|OER Division Signboard A.JPG|210|分割のある列車の方向幕の例(箱根湯本駅行きと片瀬江ノ島駅行きを連結)|「分割案内板A」の例(2006年12月14日、下北沢駅<!-- にて撮影 -->)}}
{{Triple image|right|OER Machida Platform Number and Division Signboard 1.jpg|140|OER Machida Platform Number and Division Signboard 2.jpg|140|OER Machida Platform Number and Division Signboard 3.jpg|140|分割案内板をホーム番号表示と兼用していた事例(1994年頃の町田駅)}}
かつて、ラッシュ時を中心に相模大野駅・[[海老名駅]]・新松田駅・小田原駅で[[増解結|分割・併合]]を行い、分割・併合駅 - 小田原駅・箱根湯本駅間を6両編成で運転していた。また、新宿駅寄りの4両(7 - 10号車)を各駅停車に種別変更して運転するものもあった。そのため向ヶ丘遊園駅を除く新宿駅 - 新松田駅間の急行停車駅および小田原駅に「分割案内板A」が設置されている。2002年3月23日のダイヤ改正以降は新松田駅での分割・併合列車が増えた。かつては小田原方より4両+6両という組み合わせ(通称「逆10両」)などがあり、「分割案内板B」などが設置されていたが、その後そのような分割・併合は行われなくなった(そのため6両編成の小田原方先頭車の電気連結器は撤去された)。一部の駅では、分割案内板をホーム番号表示と兼用していた事例もあるが、現存しない。なお、18 m車([[小田急2400形電車|2400形]]を含む)および[[小田急4000形電車 (初代)|旧4000形]](吊り掛け駆動車)が運用されていた当時は新宿駅の分割案内板はA(新宿寄りが18 m車4連)、B(20 m車4連:現在の「A」に相当)、C(20 m車5連:旧4000形)、D(18 m車6連)、E(20 m車6連:後の「B」に相当)の5種類が用意されており、18 m車の廃車および旧4000形の高性能化が完了後もしばらくはそのまま残っていた。
相模大野駅で分割・併合を行っていた時期には、小田原線・江ノ島線とも急行として運転する列車(1 - 6号車が箱根湯本駅発着、7 - 10号車が片瀬江ノ島駅発着)や、1 - 6号車が箱根湯本駅発着の急行で7 - 10号車が藤沢駅・片瀬江ノ島駅発着の各駅停車(相模大野駅で種別変更、ただし下り列車の種別・行先は全車急行箱根湯本駅行き)が多く設定されていた。他にも、夕ラッシュ時の江ノ島線の輸送力を確保するために1 - 6号車が急行片瀬江ノ島駅行き、7 - 10号車が各駅停車の藤沢駅・片瀬江ノ島駅行き(相模大野駅で種別変更)という列車の設定もあった。さらに遡ると、1980年代までは、新宿駅 - 相模大野駅間を急行、1 - 6号車は相模大野駅 - 本厚木駅間を各駅停車、7 - 10号車は相模大野駅 - 片瀬江ノ島駅間を各駅停車として運転する列車が日中の大多数を占めていた。
2008年3月15日のダイヤ改正で、箱根登山鉄道線[[風祭駅]]の新駅舎と小田原駅箱根登山鉄道用折り返し線の使用が開始されたのに伴い小田原駅 - 箱根湯本駅間で4両編成の列車が折り返し運転を行うことから、箱根湯本駅発着として運転していた列車はすべて小田原駅発着となった。そのため、基本的に新宿駅 - 小田原駅間は10両編成となり、分割・併合を行う列車は大幅に減少した。このダイヤ改正から箱根登山鉄道線への定期列車としての急行の直通運転は行われていない<ref group="注釈" name="oertt2009">ただし、小田原駅発着の急行が途中駅で分割・併合を行い、編成の一部が新松田駅以西を各駅停車として運行することで、箱根湯本駅と新宿駅の間を直通する列車は存在した。
小田急時刻表2009年ダイヤ改正号 (ISBN 978-4-330-05309-7) で確認できるのは以下の列車。以下に記した急行はすべて開成駅 - 足柄駅間の各駅を通過した。
* 平日
** 新宿駅7:49発の急行小田原駅行きの後4両が新松田駅から各停箱根湯本駅行き(小田急時刻表2009年ダイヤ改正号 p.23・p.78)
** 箱根湯本駅発6:36発の各停新松田駅行きは、新松田駅で小田原駅7:08発の急行新宿駅行きと連結(小田急時刻表2009年ダイヤ改正号 p.51・p.80)
** 箱根湯本駅発7:08発の各停新松田駅行きは、新松田駅で小田原駅7:35発の急行新宿駅行きと連結(小田急時刻表2009年ダイヤ改正号 p.52・p.80)
* 休日
** 箱根湯本駅発5:26発の各停新松田駅行きは、新松田駅で小田原駅6:01発の急行新宿駅行きと連結(小田急時刻表2009年ダイヤ改正号 p.125・p.154)
</ref>。
2012年3月のダイヤ改正でロマンスカー以外の分割・併合がすべて廃止されたため、急行の箱根登山鉄道線直通は完全に廃止となった。
===== 停車駅の変遷 =====
* [[1927年]][[10月15日]](急行の運行開始時):新宿駅・経堂駅・稲田登戸駅(現・向ヶ丘遊園駅)・新原町田駅(現・町田駅)・相模厚木駅(現・本厚木駅)・伊勢原駅・大秦野駅(現・秦野駅)・新松田駅・小田原駅。
* [[1934年]][[4月]]:経堂駅が通過駅となる。
* [[1937年]][[9月1日]]:士官学校前駅(現・相武台前駅)と鶴巻温泉駅が停車駅に追加。
* [[1938年]][[4月1日]]:通信学校駅(現・相模大野駅)と相模原駅(現・[[小田急相模原駅]])が停車駅に追加。
* [[1944年]][[11月]]:[[太平洋戦争]]の戦況悪化に伴い運転休止。
* [[1949年]][[10月1日]](急行運転の復活):新宿駅・下北沢駅・稲田多摩川駅(現・登戸駅)・新原町田駅(現・町田駅)・本厚木駅・伊勢原駅・鶴巻駅(現・鶴巻温泉駅)・大秦野駅(現・秦野駅)・渋沢駅・新松田駅・小田原駅。
* [[1951年]]4月1日:相模大野駅が停車駅に追加。
* [[1952年]][[12月]]:稲田多摩川駅(現・登戸駅)の停車を中止し、稲田登戸駅(現・向ヶ丘遊園駅)が停車駅に追加。
* [[1960年]][[3月25日]]:一部列車に限り相武台前駅が停車駅に追加。時刻表では該当列車に「'''ソ停'''」という注記が付記された。
* [[1970年]]11月:登戸駅が停車駅に追加。
* [[1971年]]4月:成城学園前駅が停車駅に追加(通勤急行の廃止)。
* [[1972年]]
** [[3月14日]]:夕方ラッシュ時の下り列車に限り海老名駅が停車駅に追加。
** [[12月18日]]:愛甲石田駅と大根駅(現・東海大学前駅)が停車駅に追加され、同時に海老名駅に全列車が停車。
* [[1974年]][[6月1日]]:新百合ヶ丘駅が開設され、停車駅に追加。
* [[1978年]][[3月31日]]:代々木上原駅が停車駅に追加。
* [[1983年]][[3月22日]]:一部列車に限り栢山駅・富水駅・螢田駅・足柄駅が停車駅に追加。
* [[1985年]]3月14日:開成駅開業により、一部の列車に限り停車駅に追加。
* [[1999年]][[7月16日]]:相武台前駅の一部列車の停車を中止。
* [[2004年]][[12月11日]]:平日の10:00 - 17:30と土曜・休日の終日に限り経堂駅が停車駅に追加。
* [[2008年]][[3月15日]]:箱根登山鉄道鉄道線への直通運転を廃止<ref group="注釈" name="oertt2009" />。
* [[2016年]][[3月26日]]:日中の運転系統を大幅に変更し、開成駅・栢山駅・富水駅・螢田駅・足柄駅への停車が大幅に減少。平日日中の経堂駅に停車する時間帯が拡大(平日の10:00 - 18:00頃までに変更)。
* [[2018年]][[3月17日]]:開成駅・栢山駅・富水駅・螢田駅・足柄駅への停車を廃止。経堂駅に停車する時間帯が拡大(平日18:00以降のみ、下り通過)。
* [[2019年]][[3月16日]]:開成駅に全列車が停車。経堂駅に停車する時間帯が拡大(平日18:00 - 22:00のみ、下り通過)。
* [[2020年]][[3月14日]]:経堂駅に停車する時間帯が拡大(平日18:00 - 21:00のみ、下り通過)。
* [[2022年]][[3月12日]]:経堂駅に全列車が停車。
==== 通勤準急(2代) ====
[[2018年]][[3月17日]]のダイヤ改正で設定された種別(運転開始は3月19日)<ref name="odakyu20171101" /><ref name="odakyu20171215" />。この改正で準急は千歳船橋駅・祖師ヶ谷大蔵駅・狛江駅が停車駅に追加されたが、平日朝ラッシュ時間帯上りにこれらの駅には停車しない(経堂駅には停車する)列車が残ることから、区別のため種別を変更した。平日朝ラッシュ時間帯かつ上り方向のみの運行で、全列車が東京メトロ千代田線直通となる。停車駅は伊勢原駅 - 登戸駅の各駅と、成城学園前駅・経堂駅・下北沢駅・代々木上原駅からの各駅。
一部を除いて登戸駅 - 成城学園前駅間は緩行線、成城学園前駅 - 経堂駅間は急行線、経堂駅 - 代々木上原駅間は再び緩行線を使用し、登戸駅と成城学園前駅でそれぞれ新宿方面の快速急行と各駅停車に、経堂駅で千代田線方面の各駅停車に接続する。現状で唯一全列車が急行線と緩行線を両方使う種別である<ref group="注釈">なお、千代田線方面の上り急行も、経堂駅までは急行線を使用し、経堂駅から代々木上原駅までは緩行線を使用する。また、千代田線直通の成城学園前駅発着の急行は、経堂駅 - 成城学園前駅間は緩行線を走行する。</ref>。
「通勤準急」の名は過去にも存在しており(後節参照)、実に53年ぶりの復活となる<ref group="注釈">なお後述のとおり先代の「通勤準急」はその後「準急」に名称変更して現代に至っており、2018年3月17日のダイヤ改正でその「準急」が53年ぶりに元の種別名に戻った。</ref>。最長運行区間は海老名駅→我孫子駅<ref name="小田急時刻表2019">{{Cite|title=小田急時刻表2019|publisher=交通新聞社|date=2019-3-21|url=http://shop.kotsu.co.jp/shopdetail/000000002547/025/O/page1/order/}}</ref>。設定当初は本厚木駅始発が5本、海老名駅始発が1本だったが、2019年3月16日ダイヤ改正で伊勢原駅始発が新設され<ref>[https://www.odakyu.jp/rail/new/ 2019年3月16日(土)以降の路線図]</ref>、伊勢原駅始発が1本、本厚木駅始発が4本、海老名駅始発が1本となった。
===== 停車駅の変遷 =====
* [[2018年]][[3月17日]](運転開始日は3月19日):本厚木駅 - 登戸駅・成城学園前駅・経堂駅・下北沢駅・代々木上原駅からの各駅。
* [[2019年]][[3月16日]](運転開始日は3月18日):伊勢原駅発設定に伴い、伊勢原駅・愛甲石田駅が停車駅となる。
==== 準急 ====
[[1946年]][[10月1日]]に登場。前年6月まで運転されていた「[[小田急小田原線#直通|直通]]」(後述)の運転パターンに近い列車として設定された。種別色は緑色。なお緑色は[[1978年]][[3月31日]]の営団地下鉄千代田線[[代々木公園駅]] - [[代々木上原駅]]間延伸開通に伴う相互直通運転開始を機に採用されたもので、それ以前は黄色であった<ref group="注釈">ただし[[2004年]][[12月11日]]ダイヤ改正に伴う種別幕更新まで、幕車の種別幕における表示色は黄色のままであった(3色LED車はオレンジ色、当時フルカラーLED車は存在せず)。</ref>。
上り平日朝ラッシュ時を除く朝夕を中心に運転され、現行ダイヤでは全列車が代々木上原駅以東常磐線・東京メトロ千代田線に直通する。2022年3月12日のダイヤ改正以前は日中にも常磐線・千代田線内 - 向ヶ丘遊園駅間の列車が1時間に3本運転されていたが<ref name="odakyu20171101" /><ref name="odakyu20171215" />、2022年3月12日のダイヤ改正で種別が急行に変更された(一部列車のみ準急のまま残っている)。代々木上原駅 - 登戸駅間の複々線区間では緩行線を走行する(向ヶ丘遊園駅の引き上げ線の構造上、上りは向ヶ丘遊園駅 - 登戸駅間のみ急行線を走行)種別として運転され、基本的に先行する各駅停車は追い抜かないが、土休日の朝の下り列車は登戸駅で各駅停車を追い抜く(登戸駅のみ急行線ホームに入線、向ヶ丘遊園駅のみ当種別が先着)ほか、向ヶ丘遊園駅で本厚木発の各駅停車から始発の準急に接続する列車が存在する。全列車が地下鉄対応車の10両編成で運転されるが、大幅なダイヤ乱れがあった場合新宿駅、代々木上原駅発着の地上車の準急も運転されることがある(新宿 - 代々木上原駅間は途中無停車)。そのため地上車専用の1000形・3000形・8000形などにも、「準急」の字幕またはLED種別表示が用意されている。
現在のダイヤでは、本厚木駅・伊勢原駅着は平日夕ラッシュ時間帯の一部のみで、大多数が向ヶ丘遊園駅・成城学園前駅発着となっており、向ヶ丘遊園以西は平日下りのみの運転となっている。
経堂駅の高架化以前は、ホーム長の関係で10両編成である千代田線直通と朝ラッシュ時および深夜の新宿発着はすべて経堂駅を通過していたが、2000年に上りホームが、2001年に下りホームがそれぞれ高架となり、10両編成対応になったため、2000年より上りの準急が、2001年よりすべての準急がそれぞれ朝ラッシュ時の上りを除き停車するようになり、2018年3月17日のダイヤ改正で全列車が停車するようになった<ref name="odakyu20171101" /><ref name="odakyu20171215" />。
列車番号は4000番台が割り当てられているが、2018年3月16日までは経堂駅に停車する列車の番号には4200番台以降が割り当てられていた<ref name="小田急時刻表2018" />。
2018年3月16日までの停車駅は新宿駅 - [[登戸駅]]間は急行と同一、登戸駅以西は各駅停車で、平日朝ラッシュ時の上り列車は経堂駅を通過していた。2018年3月17日のダイヤ改正で、経堂駅に全列車が停車するようになったほか、新たに[[千歳船橋駅]]、[[祖師ヶ谷大蔵駅]]、[[狛江駅]]に停車するようになった。平日朝ラッシュ時間帯の上り列車は改正前の停車駅と経堂駅のみに停車し、'''通勤準急'''として区別された。1978年3月31日から[[1990年]][[3月27日]]までは、朝ラッシュ時に経堂駅に加えて[[百合ヶ丘駅]]・[[読売ランド前駅]]・[[生田駅 (神奈川県)|生田駅]]を通過する準急(通称・スキップ準急)もあった。これは1978年3月30日まであった前述の新百合ヶ丘駅以西が各駅停車となる急行を千代田線直通としたための措置で、小田原線内は停車駅が同一であった。前述の通り、2018年3月17日改正より早朝に新百合ヶ丘駅で急行に種別変更する上り各駅停車、深夜に同駅で各駅停車に種別変更する下り急行が設定されたため、事実上復活(経堂駅停車有無については考慮せず)したともいえる。
かつては常磐線・千代田線に直通せず小田急内のみで運転される列車も設定されていたが、[[2000年]][[12月2日]]のダイヤ改正で大半が常磐線・千代田線内 - 相模大野駅間の運転となってから徐々に減少していった。2002年3月23日のダイヤ改正で多摩急行が登場し、ほとんどの常磐線・千代田線内 - 相模大野駅間の準急が多摩急行に変更となり日中の準急は消滅した。2008年3月15日のダイヤ改正から新松田駅以西の運転が廃止され、箱根登山鉄道線への定期列車としての準急の直通運転も廃止された。2014年3月15日のダイヤ改正では平日朝に1本のみ多摩線に直通する列車が設定された(新宿駅発唐木田駅行き)。2015年3月14日のダイヤ改正で、夕方ラッシュ時の下り準急は急行に振り替えられる形で一旦消滅したが、2016年3月26日のダイヤ改正で再度設定され復活した。そして、2018年3月17日のダイヤ改正で全列車が常磐線・千代田線直通となり小田急内のみで運転する列車が全廃され、多摩線に直通する列車も廃止となった。またこの改正で平日に設定されていた成城学園前駅発新松田駅行きも廃止され、伊勢原駅以西の運転も廃止された<ref name="odakyu20171101" /><ref name="odakyu20171215" />。
2018年3月16日までは経堂駅まで各停、経堂駅から準急新宿駅行きとなる列車が存在していた。[[2012年]][[3月17日]]のダイヤ改正で、このような列車が平日は本厚木駅発19時台、土休日は新松田駅発22時台に各1本設定されていた。2015年3月13日までは、平日は町田発で運転されていた。[[2016年]][[3月26日]]ダイヤ改正では一部変更となり、朝方にも平日は本厚木駅発、土休日は向ヶ丘遊園駅発の各1本が追加設定された一方、夜間については平日のみ運転区間が短縮され向ヶ丘遊園駅発のみになった(改正前の本厚木駅 - 向ヶ丘遊園駅間は時刻変更のうえ我孫子駅行きに振り替えられた)。
===== 停車駅の変遷 =====
* [[1946年]][[10月1日]](準急の運行開始時):新宿駅・下北沢駅・経堂駅・成城学園前駅・稲田多摩川駅(現・登戸駅) - 小田原駅間の各駅。
* [[1951年]][[4月1日]]:喜多見駅 - 和泉多摩川駅間の各駅が停車駅に追加(これにより成城学園前駅 - 小田原駅間は各駅停車化)。
* [[1964年]][[11月5日]]:喜多見駅 - 和泉多摩川駅間の各駅が通過駅化(これにより登戸駅 - 小田原駅間の各駅に停車となる)。
* [[1972年]][[3月14日]]:平日の朝ラッシュ時に限り経堂駅が通過駅化。
* [[1974年]][[6月1日]]:平日の朝ラッシュ時の上りに限り[[代々木八幡駅]]が停車駅に追加(営団地下鉄千代田線[[代々木公園駅]]への乗り換え客向けのサービス)。
* [[1978年]][[3月31日]]:営団地下鉄千代田線との相互直通運転開始に伴い代々木上原駅が停車駅に追加、代々木八幡駅への停車終了。同時に同線乗り入れ列車の運用の都合から朝の一部に限り生田駅 - 百合ヶ丘駅間の各駅を通過する列車、通称「スキップ準急」が登場する。
* [[1990年]][[3月28日]]:「スキップ準急」が廃止され、全列車が生田駅 - 百合ヶ丘駅間の各駅に停車するようになる。
* [[2002年]][[3月23日]]:江ノ島線直通準急の廃止。
* [[2008年]][[3月15日]]:新松田駅以西と箱根登山鉄道鉄道線への定期列車としての直通運転廃止。これに伴い、運行区間は常磐線・東京メトロ千代田線内および新宿駅 - 新松田駅間のみとなる。
* [[2018年]][[3月17日]]:[[千歳船橋駅]]・[[祖師ヶ谷大蔵駅]]・[[狛江駅]]が停車駅に追加されたほか、経堂駅の全列車停車が復活。代々木上原駅以東と伊勢原駅以西への定期列車としての直通運転廃止。これに伴い、運行区間は常磐線・千代田線内 - 伊勢原駅(土休日は向ヶ丘遊園駅)間のみとなる。
==== 各駅停車 ====
[[ファイル:小田急電鉄1000形.jpg| サムネイル|250x250ピクセル|1000形による小田原行きの各駅停車]]
開業と同時に登場した。当初は新宿駅 - 稲田登戸駅(現・向ヶ丘遊園駅)間のみ運行され、小田原駅までの運行は行われなかったが、終戦前の[[1945年]][[6月]]に実施されたダイヤ改正以後は全線にわたって運行されている。種別色は青色<ref group="注釈">3色LED車は[[2004年]][[12月11日]]ダイヤ改正までは緑色だったが、同改正より準急が緑色を使用することとなったためオレンジ色に変更された。</ref> で、1994年頃に通過表示灯の点灯を中止するまでは各停のみ種別を表示しておらず、1994年頃から2018年3月17日の白紙ダイヤ改正までは基本的に「各停」と表記されていた。
現行ダイヤでは小田急内系統と常磐線・東京メトロ千代田線直通系統の2つが存在する。それぞれの概要を2つに分けて記す。
; 小田急内列車
: 日中は新宿駅 - 本厚木駅間の列車が1時間に6本、新松田駅 - 小田原駅間の列車が1時間に3本設定されている。途中駅で種別変更する列車については「[[小田急小田原線#急行|急行]]」を参照。それ以外の区間の運転も朝夜中心に多数運転されており、新宿駅 - 経堂駅・新百合ヶ丘駅・相模大野駅、本厚木駅、伊勢原駅、秦野駅、多摩線唐木田駅、海老名駅発伊勢原駅行き、登戸駅発本厚木駅行き、向ヶ丘遊園駅・海老名駅・本厚木駅・伊勢原駅発小田原駅行き、町田発伊勢原駅・小田原駅・江ノ島線大和駅・藤沢駅行き、本厚木駅発相模大野駅・新百合ヶ丘駅・向ヶ丘遊園駅・成城学園前駅・経堂駅行き、本厚木駅発新松田駅行き、箱根湯本駅発新松田駅行きが設定されている。
:車両は、新百合ヶ丘駅・相模大野駅で急行に種別変更する列車は全て10両編成、新宿発着の列車は10両編成と8両編成が混在、新松田駅で急行に種別変更する列車及び江ノ島線発着の列車は全て6両編成、新宿発着以外の小田原線内完結の列車(一部)及び新松田駅以西発着の列車が6両編成、夜の本厚木駅発(土休日は伊勢原駅発)小田原駅行き(それぞれ1本)、小田原駅発新松田駅行きの1本、箱根湯本発新松田駅行きの1本は4両編成で運転されている。
;常磐線・東京メトロ千代田線直通列車
: 日中及び土休日朝下りを除き常磐線・千代田線発着の列車が設定され、多くが成城学園前駅か向ヶ丘遊園駅発着列車だが、一部相模大野駅・本厚木駅(発も設定)・伊勢原駅着の列車もある。2019年3月16日改正では、北綾瀬発着が新設され、また、本厚木発着の列車が平日夜下りに1本と土休日朝上りに2本が新たに設定された。2022年3月12日のダイヤ改正で土休日の千代田線直通の本数が上りは向ヶ丘遊園発9時32分我孫子行きと下りは北綾瀬発18時54分発成城学園前行きの各1本のみとなっている。また、平日の夜間に走っていた本厚木発着千代田線直通の列車は全て廃止となった。2022年3月12日のダイヤ改正で本厚木発の千代田線直通の列車は上り平日の朝5時16分発の我孫子行き1本のみとなった。
ホームの長さの関係で、8・10両編成の列車は新宿駅 - 新松田駅・多摩線唐木田駅間で運転されており、[[栢山駅]] - [[足柄駅 (神奈川県)|足柄駅]]間の各駅に停車する列車と江ノ島線直通列車は6両編成以下となっている。また箱根登山鉄道線箱根湯本駅発着の各駅停車は4両編成となっている。また、かつては平日のみ箱根湯本発本厚木行きの各駅停車の1本(6両編成)が新松田駅で4両を増結して10両編成となるものも存在した。
代々木上原駅 - 登戸駅間は複々線区間であり、ほとんどの列車が特急ロマンスカー・快速急行、急行、通勤急行、通勤準急に抜かれる(経堂駅・成城学園前駅・登戸駅で乗り継ぐこともある)。朝夕を中心に鶴川駅(上りのみ)や相武台前駅などで特急ロマンスカー・快速急行・急行の通過待ちをすることがある。向ヶ丘遊園駅・新百合ヶ丘駅・町田駅・相模大野駅・海老名駅・本厚木駅・新松田駅などで快速急行・急行の待ち合わせをすることが多い(一部通過待ちとなる駅もある)。
列車番号は、江ノ島線内のみ運転の列車には5100番台もしくは5700番台<ref group="注釈">5700番台は[[藤沢駅]] - [[片瀬江ノ島駅]]間のみ運転の列車に使用。</ref>、江ノ島線直通列車には5500番台、小田原線内完結列車のうち千代田線直通列車には6000番台、向ヶ丘遊園駅まで運転の列車には6200番台、相模大野駅まで運転の列車には6400番台、相模大野駅以西も運転される列車には6500番台、種別変更を行う列車には6750番台、箱根登山鉄道鉄道線直通列車には本厚木駅着が6800番台、新松田駅着が7000番台、多摩線内のみ運転の列車には7600番台、多摩線直通列車には7900番台がそれぞれ割り当てられている<ref name="小田急時刻表2018" />。
2008年3月15日のダイヤ改正より、急行の新松田駅での連結・切り離し作業が基本的にはなくなり新松田駅 - 小田原駅・箱根湯本駅間は4両編成での折り返し運転が実施され、日中の新松田駅 - 小田原駅間の途中駅各駅に停車する列車は、新松田駅発着の各駅停車(4両編成)と町田駅・相模大野駅発着で本厚木駅 - 小田原駅間各駅停車の急行(6両編成)との交互運転になった。新松田駅 - 小田原駅・箱根湯本駅間の区間運転列車については[[小田急1000形電車|1000形]]の[[箱根登山鉄道]]塗装([[レーティッシュ鉄道|レーティッシュ]]カラー)の車両が優先的に充当されていた。
2012年3月17日のダイヤ改正より箱根登山鉄道鉄道線への直通列車は早朝・夜間のごく一部を除き廃止され、新松田駅 - 小田原駅間の区間列車は6両編成での運転となった。
[[2016年]][[3月26日]]のダイヤ改正より日中の都心側は新宿駅 - 新百合ヶ丘駅間において1時間に6本(10分間隔)の運転(同時に梅ヶ丘駅 - 百合ヶ丘駅間では、区間準急の全廃も伴って実質減便)となり、加えて急行との接続駅が成城学園前駅に統一された(このほか下りは新百合ヶ丘駅と海老名駅、上りは町田駅で急行または快速急行と接続)。また新宿駅 - 本厚木駅(一部は準急が運転される時間帯があるため、向ヶ丘遊園駅)間の運転が基本となり、多摩線との直通は朝夕のみ(土休日は朝夕併せて1.5往復のみ)、江ノ島線への直通運転は平日の新宿駅発と成城学園前駅発のそれぞれ1本に減らされた。このほか、快速急行の増発に伴い本厚木駅以遠各駅に停車する急行がごく少数の運転本数となったため、それを補完する新松田駅 - 小田原駅間の区間運転が増加した。
2018年3月17日のダイヤ改正より千代田線直通列車が朝夕を中心に設定された。新松田駅 - 小田原駅間の日中の運行本数は1時間3本に削減された。
2019年3月16日のダイヤ改正で新宿駅 - 代々木上原駅での10両編成の列車の運転が開始された<ref name="odakyu20181214" />。また、6両編成の新宿駅 - 成城学園前駅間への乗り入れがなくなり、小田原線全線(新宿駅 - 小田原駅間)を通しで運転する各駅停車が全廃となった。
=== 過去の列車種別 ===
==== 直通 ====
開業時に登場した種別である。開業当初は新宿駅 - 稲田登戸駅(現・向ヶ丘遊園駅)間のみの運行であった「各駅停車」に対し、直通は全線で運転した。新宿駅 - 稲田登戸駅間は経堂駅のみに停車し、稲田登戸駅 - 小田原駅間は各駅に停車した。
* 登場時の停車駅
** 新宿駅・経堂駅・稲田登戸駅(現・向ヶ丘遊園駅) - 小田原駅間の各駅
** [[1929年]][[4月1日]]に江ノ島線が開業すると、次のようになる。
** 小田原線内のみ運行の「直通」の停車駅(愛称「小田原直通」)
*** 新宿駅・下北沢駅・経堂駅・稲田多摩川駅(現・登戸駅) - 小田原間の各駅
** 江ノ島線に乗り入れる「直通」の停車駅(愛称「江ノ島直通」)
*** 新宿駅・下北沢駅・経堂駅 - 稲田登戸駅(現・向ヶ丘遊園駅)間の各駅・[[玉川学園前駅]] - 片瀬江ノ島駅間の各駅
* 1945年6月のダイヤ改正で「各駅停車」に統合され、廃止された。
* 1946年10月には「小田原直通」の停車駅に成城学園前駅を加えた「準急」が新設され、実質的な後継列車となった。
==== 準特急(サービス特急) ====
多客時に特急を補完する形で運行されていた。[[1953年]]から[[1959年]]までは「サービス特急」、同年から特急運用を外れた[[小田急2300形電車|2300形]]が投入された際に100円の座席指定券を発行することになったのに伴い「[[準特急]]」に改められ、[[1963年]]まで名乗っていた。1963年に[[小田急3100形電車|3100形「NSE」]]の登場により廃止された。停車駅は当時の特急と同様に新宿駅 - 小田原駅間は無停車だった。特急との違いは接客設備の格差によるものであり、特急が全席指定(これは現在も同じ)だったのに対し、準特急はセミクロスシート車で無料の列車指定券を発行しての座席定員制であった。
なお、「準特急」の名称は廃止後、[[京王電鉄]]が[[2001年]][[3月27日]]の[[京王線]]ダイヤ改定で採用するまで、日本では使用されなかった<ref group="注釈">京王電鉄においても、2022年3月のダイヤ改正で廃止され、日本から「準特急」の名称が再度消滅したものの、2022年12月の[[阪急電鉄]]のダイヤ改正で「準特急」が設定される予定となっており、およそ9ヶ月で復活することになる。</ref>。
==== 桜準急 ====
[[1948年]][[9月]] - [[1950年]][[2月]]という短期間の間だけ存在していた種別であった。運行区間は新宿駅 - 新原町田駅(現・町田駅)間だった。
* 停車駅
** 新宿駅・下北沢駅・[[豪徳寺駅]] - 新原町田駅間の各駅
** パターンとしては後述の区間準急に近いものだった。
==== 通勤準急(初代) ====
[[1960年]][[3月25日]]から[[1964年]][[11月4日]]まで運用された種別であった。停車駅は現在の急行停車駅から経堂駅を抜いたものであった。当時は準急が喜多見駅 - 和泉多摩川駅間の各駅にも停車していた。同年[[11月5日]]のダイヤ改正で快速準急が新設され、準急は朝ラッシュ時のみの運転となり、通勤準急そのものが準急となった。
==== 快速準急 ====
[[1964年]]から[[1972年]]まで昼間時に急行と準急の間の「快速準急」という列車が運転されていた。同年に急行に統合され消滅した。停車駅は向ケ丘遊園駅以北は当時の準急停車駅、同駅以南は当時の急行停車駅であった。
休日には行楽地へのアクセスのために読売ランド前([[よみうりランド]]最寄り)と鶴川([[こどもの国 (横浜市)|こどもの国]]最寄り)の両駅にも停車していた。通勤急行が廃止され、成城学園前駅に急行が停車するようになると、停車駅が急行とほぼ変わらなくなるため、1972年3月のダイヤ改正で廃止され、急行に統合された。
* 停車駅
** 新宿駅・下北沢駅・経堂駅・成城学園前駅・登戸駅・向ヶ丘遊園駅・新原町田駅(現・町田駅)・相模大野駅・本厚木駅・伊勢原駅・鶴巻駅(現・鶴巻温泉駅)・大秦野駅(現・秦野駅)・渋沢駅・新松田駅・小田原駅
==== 区間準急 ====
[[2004年]][[12月11日]]ダイヤ改正で快速急行とともに新設された種別である。種別色は水色。
代々木上原駅 - [[梅ヶ丘駅]]間の複々線化に伴う[[東北沢駅]]の地下化工事の過程における待避設備の撤去によりすでに下り緩行線が完成している複々線区間の東端である梅ヶ丘駅まで速達列車の待避ができなくなったことから、新宿駅 - 梅ヶ丘駅間で優等列車より先行して一列車あたりの線路占有時間拡大を抑え、梅ヶ丘駅以西の各停本数を維持する目的で設定された。
そのため各停を追い抜くことはなかった。
元々は、東北沢駅で急行・多摩急行の待避を行っていた各停の時刻で、日中の列車における新宿駅 - 代々木上原駅間の時刻は、かつて1時間に2本運転されていた新宿駅発着の準急(2000年12月ダイヤ改正で千代田線直通となり、2002年3月ダイヤ改正で多摩急行に格上げ)から転用している。このため、代々木上原駅で新宿駅には直通しない多摩急行と連絡することで、多摩線方面から新宿方面への需要を確保するとともに快速急行の新設に伴い新宿駅 - 新百合ヶ丘駅間で減便となった急行の需要をカバーする役割も担っていた。主に新宿駅 - 唐木田駅間での運行だったが、一部は成城学園前駅・向ヶ丘遊園駅・本厚木駅・伊勢原駅・新松田駅発着の列車も存在した。なお、元々が各停の時刻であり停車駅も急行より各停に近い性格だったこともあってほとんどの列車が各停用の8両編成での運転であり、新宿駅では各停が使用する地下ホームからの発着であった。
2016年3月26日のダイヤ改正にて全廃となった。
* 停車駅
** 新宿駅・代々木上原駅・下北沢駅・梅ヶ丘駅以遠の各駅
==== 通勤急行(初代) ====
[[1955年]]のダイヤ改正で登場した種別であった。当初の停車駅は小田原線内では当時の急行の停車駅に稲田多摩川駅(現・登戸駅)が追加されたもので、江ノ島線内では現在の急行停車駅からまだ[[東急田園都市線]]が開通していなかった[[中央林間駅]]と当時はまだ開業していなかった[[湘南台駅]]を除いた設定となっていた。その後、[[1960年]]のダイヤ改正で朝の上りのみ成城学園前駅に停車するようになり、1964年をもって完全に停車駅化される。[[1970年]]に登戸駅に急行が停車し、翌[[1971年]]に成城学園前駅にも急行が停車するようになると、上記の快速準急と同じように急行に統合される形で廃止となった。
==== 土曜急行 ====
[[1970年代]]に運用された種別であった。土曜急行の名の通り、土曜の[[半ドン]]帰宅の足として設定されていた。昼過ぎから夕方の間に何本か通常の急行を増発する形として、さらには相武台前に停車するという停車パターンで運用されていた。
==== 湘南急行 ====
{{Main|湘南急行}}
[[2002年]]3月23日から[[2004年]]12月10日まで運用された種別で、新宿駅 - 江ノ島線藤沢駅間で運転し、小田原線内では急行と同じ停車駅となっていた。2004年12月11日のダイヤ改正で[[快速急行]]に格上げされた。
* 停車駅
** 新宿駅・代々木上原駅・下北沢駅・成城学園前駅・登戸駅・向ヶ丘遊園駅・新百合ヶ丘駅・町田駅・相模大野駅・江ノ島線へ
==== 特別準急・連絡急行 ====
特急ロマンスカー「あさぎり」および「ふじさん」の前身の種別である。詳細は「[[ふじさん]]」を参照。
その他、多摩線向けに「快速」の種別が準備されていたが結局使用は中止され、方向幕には湘南急行・多摩急行の登場前まで存在していた<ref group="注釈">種別表示は、黒地に緑文字で「{{Colors|#99cc33|#000000|'''快速'''}}」だった。</ref>。
==== 多摩急行 ====
[[ファイル:Infomation_board_Tama-Express_for_Shinjuku.jpg|サムネイル|250x250ピクセル|ダイヤが乱れた場合、多摩急行は新宿駅行となることがあった。]]
{{Main|多摩急行}}
朝および夕方以降に多摩線唐木田駅から小田原線を経由してJR常磐緩行線我孫子駅(一部は取手駅まで)運転していた。種別色は桃色。
急行とは小田原線内の停車駅が異なり、向ヶ丘遊園駅を通過し、経堂駅に停車していた。上り列車は経堂駅で特急ロマンスカーの通過待ちを行うことがあった。ダイヤ乱れ時は運休あるいは新宿駅発着となる場合もあった。小田急の地下鉄直通対応車である4000形やJR東日本[[JR東日本E233系電車|E233系2000番台]]も使用された。
[[2016年]][[3月26日]]のダイヤ改正で、日中は急行(経堂駅・向ヶ丘遊園駅共に停車)に置き換わり、実質朝夕ラッシュ時の千鳥運転のための種別となった(ラッシュ時の急行・朝ラッシュ時の上り準急は向ヶ丘遊園駅停車、経堂駅通過)。
[[2018年]][[3月17日]]のダイヤ改正で廃止された<ref name="odakyu20171101" /><ref name="odakyu20171215" />。
=== 臨時列車 ===
江ノ島線直通の臨時列車は「[[小田急江ノ島線#臨時列車]]」も参照。
==== 特急ロマンスカー ====
; 白銀号
: [[1963年]][[3月3日]]にスケート特急として運行。[[小田急3000形電車 (初代)|3000形「SE」]]を使用。
; 初詣号
: [[1969年]][[1月1日]]に新宿 - 新原町田(現・町田)間で初詣客向けに運行。以後、年末年始に毎年運行。詳細は「[[ニューイヤーエクスプレス]]」の項を参照。
; ORANGE EXPRESS
: [[1981年]][[6月15日]]に[[エフエム東京|FM東京]]主催・[[資生堂]]提供のイベント[[臨時列車]]として運行。[[小田急7000形電車|7000形「LSE」]]を使用。
; 你好つかさ号
: [[1982年]][[7月25日]]、[[向ヶ丘遊園]]でのイベントに合わせ新宿駅 - 向ヶ丘遊園駅間で運行。アイドルの[[伊藤つかさ]]が[[車掌]]を務めた。3000形「SSE」を使用。
; め組エクスプレス
: [[1983年]][[7月]]、新宿駅 - 片瀬江ノ島駅間で運行。3000形「SSE」を使用。
; 小田急箱根クイズラリー号
: [[1984年]][[3月25日]]に運行。
; 江ノ島・鎌倉エクスプレス
: [[1990年]][[4月]] - [[5月]]に唐木田駅 - 片瀬江ノ島駅間で運行。
; 湘南マリンエクスプレス
: 1990年7月 - [[8月]]に江ノ島・鎌倉エクスプレスと同じ区間で運行。
; ビア・エクスプレス納涼号
: [[1991年]]7月に運行。
; サンリオピューロランド号
: [[1992年]]3月25日に運行。
; あじさい号
: 1992年[[6月]]に運行。
; グリーンウェーブ相模原号
: 1992年[[10月3日]]に第9回全国緑化かながわフェアの開催を記念して運行。7000形「LSE」を使用。
; フラワー号
: 向ヶ丘遊園への遠足列車として運行。
; 秦野たばこ祭号
: 神奈川県[[秦野市]]での[[秦野たばこ祭]]開催に合わせ運行。
; 湘南マリン号
: 2008年[[7月22日]] - [[8月22日]]の平日に江ノ島・鎌倉エクスプレスと同じ区間で運行。[[小田急60000形電車|60000形「MSE」]]を江ノ島線特急に初充当(ただし7月25日「RSE」)。2009年からは成城学園前駅 - 片瀬江ノ島駅間の運転となり、新百合ヶ丘駅 - 片瀬江ノ島駅間はえのしま号と同じ停車駅となる。
; メトロ湘南マリン号
: 東京メトロ千代田線から片瀬江ノ島駅に直通する臨時特急として、2010年7月24日・31日・8月7日・14日の各土曜日に運行。上記の湘南マリン号とは停車駅が若干異なり、町田に停車し、新百合ヶ丘、相模大野、大和を通過。この停車駅は旧えのしま号の停車駅に類似。
; B-1グランプリ号
: 2010年9月18日・19日厚木市での[[B-1グランプリ]]開催に合わせ、新宿駅 - 本厚木駅間で運行。途中停車駅は成城学園前駅。
; あしがら61号
:[[2018年]][[5月3日]] - 5日の早朝に新宿駅 → 箱根湯本駅間で運行。あしがら号自体は、1950年から1999年7月まで運行されていた(詳細は[[はこね (列車)]]を参照)。[[小田急70000形電車|70000形「GSE」]]を使用<ref name="odakyu20180402">{{Cite press release|和書|url=https://www.odakyu.jp/news/o5oaa100000188is-att/o5oaa100000188iz.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210509093011/https://www.odakyu.jp/news/o5oaa100000188is-att/o5oaa100000188iz.pdf|format=PDF|language=日本語|title=5月3日(木・祝)、4日(金・祝)、5日(土・祝)は早起きして箱根へ 特急ロマンスカー・GSE(70000形)臨時列車を運転します 〜ロマンスカー「あしがら号」の愛称で限定復活!!〜|publisher=小田急電鉄|date=2018-04-02|accessdate=2021-05-09|archivedate=2021-05-09}}</ref>。
; 明星92号
:2018年[[8月16日]]に箱根湯本駅 → 新宿駅間で運行(小田原駅 → 新宿駅間はさがみ92号の行路を利用)。明星号自体は、1952年9月から1963年3月まで運行されていた。70000形「GSE」を使用<ref name="odakyu20180712">{{Cite press release|和書|url=https://www.odakyu.jp/news/o5oaa1000001azys-att/o5oaa1000001azyz.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210509073640/https://www.odakyu.jp/news/o5oaa1000001azys-att/o5oaa1000001azyz.pdf|format=PDF|language=日本語|title=GSE(70000形)で一夜限りの復活! 特急ロマンスカー「明星号」限定運転について 〜「箱根強羅夏まつり大文字焼き」後のお帰りに便利〜|publisher=小田急電鉄|date=2018-07-02|accessdate=2021-05-09|archivedate=2021-05-09}}</ref>。
==== 通勤車両 ====
; あゆ電
: 毎年[[6月1日]]に行われる[[アユ|鮎]]漁の解禁に合わせて前日の[[5月31日]]の深夜に運転された列車で、[[1949年]]から[[1980年代]]後半まで新宿駅発小田原駅行き(年により箱根湯本駅行き)のみ運転された。
; 丹沢号
[[ファイル:OER-5254-Tanzawa-go.jpg|サムネイル|丹沢号(1989年頃、新松田駅<!-- にて撮影 -->)]]
: [[丹沢山地|丹沢]]への登山客向けの列車で、[[1956年]]秋から[[1984年]]まで新宿駅発新松田駅行きとして下りのみ運転された。その後、[[1987年]]から休日の新宿駅発7時11分発の定期急行を「丹沢号」として運行したことがある。
; 猪電・猪鍋号
: [[1955年]][[1月]]に[[七沢温泉]]および[[広沢寺温泉]]の「猪鍋と日帰り入浴会」の[[団体専用列車]]として運行したのが始まりで、後年に一般利用者も乗れる[[臨時列車]]となった。運転区間は新宿駅 - 伊勢原駅間で、この列車は往復とも設定されていたが、1980年代後半に廃止された。
==== 東京メトロ千代田線直通 ====
下記の臨時列車は、特記なければ[[小田急1000形電車|1000形]]で運転。2007年以降は[[小田急4000形電車 (2代)|4000形]](分割・併合がない場合に限る)も使用されている。
; 秋のレジャートレイン 箱根・江の島号
: 2004年秋に綾瀬 - 箱根湯本間で運転された[[臨時列車]]である。綾瀬駅 - 相模大野駅間は「秋のレジャートレイン 江の島号」(綾瀬 - 片瀬江ノ島間)と[[多層建て列車|併結運転]]された。なお、相模大野駅 - 箱根湯本駅間では「秋のレジャートレイン 箱根号」と称した。
: 2004年は[[10月10日]]と[[10月30日|30日]] - [[11月21日]]の土・日曜に運転された(祝日は運転されなかった)。
:* 2004年の「秋のレジャートレイン 箱根・(江の島)号」の停車駅
:** 代々木上原駅・成城学園前駅・向ヶ丘遊園駅・新百合ヶ丘駅・相模大野駅・相武台前駅・海老名駅・伊勢原駅・秦野駅・小田原駅
: [[2005年]]は[[10月29日]] - [[11月23日]]の土休日に「秋のレジャートレイン号」として綾瀬駅 - 秦野駅間を運転した。
:* 2005年の「秋のレジャートレイン」の停車駅
:** 代々木上原駅・下北沢駅・新百合ヶ丘駅・町田駅・相模大野駅・海老名駅・本厚木駅・伊勢原駅・秦野駅
:
; 箱根湯〜ゆう号
: 相互直通運転25周年を記念して、[[2003年]]と2004年の夏に綾瀬駅 - 箱根湯本駅間で運転された臨時列車である<ref name="JRC612">{{Cite journal|和書|date=2003-10-01|journal=RAIL FAN|volume=50|issue=10|page=20|publisher=鉄道友の会}}</ref>。綾瀬駅 - 相模大野駅間は「江の島マリン号」(綾瀬駅 - 片瀬江ノ島駅間)と併結運転された<ref name="JRC612" />。
: 2003年は[[7月26日]] - [[8月16日]]の土曜に、2004年は[[7月24日]] - [[8月22日]]の土・日曜に運転された。
:* 2003年の「箱根湯〜ゆう号」の停車駅
:** 代々木上原駅・相模大野駅・海老名駅・秦野駅・小田原駅
:* 2004年の「箱根湯〜ゆう号」の停車駅
:** 代々木上原駅・成城学園前駅・向ヶ丘遊園駅・新百合ヶ丘駅・相模大野駅・相武台前駅・海老名駅・秦野駅・小田原駅
:
; 箱根・湘南あじさい号
: 2004年[[6月19日]] - [[6月27日|27日]]の土・日曜に「箱根湯〜ゆう号」と同じルートで「箱根・湘南あじさい号」が運転された。
: 綾瀬駅 - 相模大野駅間は片瀬江ノ島駅行きと併結運転された。
: 2005年は6月11-26日の土・日曜に「湘南・鎌倉あじさい号」として運転された。この場合は相模大野で接続する新宿発箱根湯本行の急行が「あじさいリレー号」として運転されていた。
:* 2004年6月19-27日の土・日曜に運転された「箱根あじさい号」の停車駅
:** 代々木上原駅・成城学園前駅・向ヶ丘遊園駅・新百合ヶ丘駅・相模大野駅・相武台前駅・海老名駅・秦野駅・開成駅(6月19・20日のみ)・小田原駅
:* 2005年6月11-26日の土・日曜に運転された「湘南・鎌倉あじさい号」の停車駅(東京メトロ千代田線を含む)
:** 綾瀬駅・[[北千住駅]]・[[西日暮里駅]]・[[大手町駅 (東京都)|大手町駅]]・[[霞ケ関駅 (東京都)|霞ケ関駅]]・[[表参道駅]]・代々木上原駅・下北沢駅・新百合ヶ丘駅・町田駅・相模大野駅
:
; 箱根駅伝応援号
[[ファイル:OER_1256_Hakone-Ekiden_2004.jpg|右|サムネイル|箱根駅伝応援号(2004年)]]
: [[東京箱根間往復大学駅伝競走|箱根駅伝]]の開催に合わせて2004年から2007年まで、[[1月2日]]と[[1月3日|3日]]に東京メトロ(2004年は営団地下鉄)千代田線 - 箱根湯本駅・藤沢駅間で運転された臨時列車である。2日は[[大手町駅 (東京都)|大手町駅]]→箱根湯本駅・藤沢駅間、3日は箱根湯本駅→綾瀬駅間で運転された。また、箱根湯本駅で2日は箱根町行、3日は箱根町発の連絡バスと接続していた。
: 往路は大手町から相模大野まで藤沢行と併結運転された(2004年は復路でも併結運転)。
: 往路は8時丁度に[[読売新聞東京本社]]前をスタートした各大学の走者を見送った後に本列車と連絡バスを乗り継いでゴールの[[芦ノ湖]]へ先回りするように組まれていた。復路も同様に芦ノ湖のスタート後にゴールの読売新聞東京本社前へ先回りできた。つまり、スタートとゴールが両方観戦できた。
:* 2004年1月2日・3日に運転された「箱根駅伝応援号」の停車駅
:** 往路:代々木上原駅・新百合ヶ丘駅・町田駅・相模大野駅・相武台前駅・伊勢原駅・秦野駅・小田原駅
:** 復路:小田原駅・秦野駅・相武台前駅・相模大野駅・代々木上原駅
:* 2005年1月2日・3日以降に運転された「箱根駅伝応援号」の停車駅(東京メトロ千代田線・箱根登山鉄道鉄道線を含む)
:** 往路
:*** 箱根湯本行:大手町駅 ・[[二重橋前駅]]・[[日比谷駅]]・表参道駅・代々木上原駅・経堂駅・成城学園前駅・新百合ヶ丘駅・相模大野駅・相武台前駅・海老名駅・伊勢原駅・秦野駅・新松田駅 - 箱根湯本駅の各駅
:*** 藤沢行:(相模大野までは箱根湯本行と併結)・中央林間駅・大和駅・湘南台駅・藤沢本町駅・藤沢駅
:** 復路:箱根湯本駅 - 本厚木駅の各駅・海老名駅・相模大野駅・成城学園前駅・代々木上原駅・表参道駅・霞ケ関駅・大手町駅・西日暮里駅・北千住駅・綾瀬駅
:
; 丹沢もみじ号 [[ファイル:Tanzawa_Momiji_2007_of_OER_4000.jpg|右|サムネイル|丹沢もみじ号(2007年)]]
: [[2006年]][[11月11日]]・[[11月18日|18日]]・[[11月19日|19日]]・23日・[[11月25日|25日]]に綾瀬駅 - 秦野駅間で運転された臨時列車である。
:* 停車駅(東京メトロ千代田線を含む)
:** 綾瀬駅・北千住駅・西日暮里駅・大手町駅・霞ケ関駅・表参道駅・代々木上原駅・下北沢駅・新百合ヶ丘駅・町田駅・相模大野駅・海老名駅・本厚木駅 - 秦野駅間の各駅
: 2007年11月23-25日と[[12月1日]]・[[12月2日|2日]]にも運転された。停車駅は2006年と同じであるが、車両は4000形が充当された。
: 2008年[[11月22日]] - [[11月24日|24日]]にも運転されたが、東京メトロ千代田線内の停車駅は各駅停車となった。車両は1000形に戻っている。
== 利用状況 ==
2022年度の小田原線の最混雑区間は[[世田谷代田駅|世田谷代田]] → [[下北沢駅|下北沢]]間であり、ピーク時(7:35 - 8:35)の最混雑時間帯1時間の平均混雑率は'''128%'''である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001619625.pdf|title=最混雑区間における混雑率(令和4年度)|date=2023-07-14|accessdate=2023-08-02|publisher=国土交通省|page=4|format=PDF}}</ref>。
複々線化完了前の2017年度の同区間混雑率は194%であり、[[東京メトロ東西線]]([[木場駅|木場]] → [[門前仲町駅|門前仲町]]間、199%)に次ぎ、[[首都圏 (日本)|首都圏]]の[[大手私鉄]]では2番目に高い数字となっていたが、2018年3月3日に[[登戸駅|登戸]] - [[代々木上原駅|代々木上原]]間の[[複々線]]が完成し、同年3月17日のダイヤ改正で朝ラッシュ時の運転本数が1時間当たり36本に増加したため、混雑率は速報値で151%、翌年度も157%と大幅に改善している。
朝ラッシュ時で最も混雑する列車は快速急行であり、特に10号車から8号車にかけて混雑が集中する。多摩線から直通する通勤急行は新百合ヶ丘で快速急行と接続して後追いとなるため、快速急行と比較すると混雑率が低い。通勤準急は成城学園前と経堂で各駅停車と接続するが、登戸で快速急行と接続するため通勤急行よりも混雑率が低い。朝ラッシュ時で最も空いている列車は向ヶ丘遊園始発の各駅停車である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.odakyu.jp/support/o5oaa1000001pndy-att/o5oaa1000001pnej.pdf|title=相模大野駅→下北沢駅間における朝方ラッシュ時間帯の混雑状況について |publisher=小田急電鉄株式会社 |page= 1|format=PDF |date=2020-03-27|accessdate=2020-03-27}}</ref>。
[[梅ヶ丘駅|梅ヶ丘]] - [[東北沢駅|東北沢]]間の複々線が完成する前の朝ラッシュピーク1時間は、同区間で上り方向1時間当たり28本(平均2分10秒間隔)が運転されていた。このうち10両編成で運転される快速急行・急行・準急が計19本、8両編成で運転される各駅停車が9本だった。なお、代々木上原 - [[新宿駅|新宿]]間は[[東京メトロ千代田線]]直通電車の分が抜けるため、運転間隔は若干ではあるが開く。急行や準急に限らず、各駅停車も1日平均[[乗降人員]]が5万人を超える[[経堂駅|経堂]](当時の朝ラッシュ時は各駅停車のみ停車)や[[千歳船橋駅|千歳船橋]]など[[世田谷区]]内の各駅から多くの乗客が乗り込むため、激しく混雑していた。1993年度まで混雑率は200%を超えていたが、その後は輸送量の減少により2003年度に188%まで緩和された。しかし、それ以降は2016年度まで混雑率の横ばいが続いていた。
近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:80%; text-align:center;"
! rowspan="2" |年度
! colspan="5" |最混雑区間(世田谷代田 → 下北沢間)輸送実績<ref>「都市交通年報」各年度版</ref><ref>[http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f160429/ 神奈川県交通関係資料集] - 神奈川県</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/373047.pdf|title=地域の復権―東京一極集中を越えて(昭和62年9月)|accessdate=2015-05-10|date=1987-09|publisher=神奈川県|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150113231849/http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/373047.pdf|archivedate=2015-01-13}}</ref>
! rowspan="2" |特記事項
|-
! 路線状況
! 運転本数:本
! 輸送力:人
! 輸送量:人
! 混雑率:%
|-
|1955年<br>(昭和30年)
|rowspan="51"|複線
| 19
| style="background-color: #ccffcc;" |7,320
| style="background-color: #ccffcc;" |14,664
|'''200'''
| style="text-align:left;" |最混雑区間は参宮橋 → 南新宿間
|-
|1960年<br>(昭和35年)
| 26
| 15,246
| 27,701
| '''182'''
|
|-
|1965年<br>(昭和40年)
| 30
| 21,137
| 48,743
| '''231'''
| style="text-align:left;" |最混雑区間を世田谷代田 → 下北沢間に変更
|-
|1970年<br>(昭和45年)
| 28
| 26,600
| 61,707
| style="background-color: #ffcccc;" |'''232'''
|
|-
|1971年<br>(昭和46年)
| 28
| 27,606
| 63,607
| '''230'''
|
|-
|1972年<br>(昭和47年)
| 29
| 29,156
| 64,001
| '''220'''
|
|-
|1973年<br>(昭和48年)
| 29
| 29,542
| 65,595
| '''222'''
|
|-
|1974年<br>(昭和49年)
| 29
| 29,542
| 66,990
| '''227'''
|
|-
|1975年<br>(昭和50年)
| 29
| 29,596
| 67,887
| '''229'''
|
|-
|1976年<br>(昭和51年)
| 29
|
| 69,116
| '''212'''
|
|-
|1977年<br>(昭和52年)
| 29
| 33,754
| 69,442
| '''206'''
| style="text-align:left;" |1977年7月1日、本厚木 - 新宿間で急行の10両運転開始
|-
|1978年<br>(昭和53年)
| 29
| 34,320
| 70,700
| '''206'''
|
|-
|1979年<br>(昭和54年)
| 29
| 34,720
| 71,303
| '''205'''
|
|-
|1980年<br>(昭和55年)
| 29
| 35,286
| 72,255
| '''205'''
|
|-
|1981年<br>(昭和56年)
| 29
| 35,562
| 72,476
| '''204'''
|
|-
|1982年<br>(昭和57年)
| 29
| 35,562
| 73,755
| '''207'''
|
|-
|1983年<br>(昭和58年)
| 29
| 35,948
| 75,009
| '''209'''
|
|-
|1984年<br>(昭和59年)
| 29
| 35,948
| 73,335
| '''207'''
| style="text-align:left;" |1984年4月9日、東急田園都市線中央林間まで延伸
|-
|1985年<br>(昭和60年)
| 29
| 35,948
| 74,100
| '''206'''
|
|-
|1986年<br>(昭和61年)
| 29
| 35,948
| 74,940
| '''208'''
|
|-
|1987年<br>(昭和62年)
| 29
| 35,948
| 75,663
| '''210'''
|
|-
|1988年<br>(昭和63年)
| 29
| 37,036
| 76,805
| '''207'''
|
|-
|1989年<br>(平成元年)
| 29
| 37,036
| 77,151
| '''208'''
|
|-
|1990年<br>(平成{{0}}2年)
| 29
| 38,396
| 77,230
| '''201'''
|
|-
|1991年<br>(平成{{0}}3年)
| 29
| 38,336
| style="background-color: #ffcccc;" |77,926
| '''203'''
| style="text-align:left;" |1991年4月1日、1000形ワイドドア車運転開始
|-
|1992年<br>(平成{{0}}4年)
| 29
| 38,414
| 77,765
| '''202'''
|
|-
|1993年<br>(平成{{0}}5年)
| 29
| 38,486
| 76,987
| '''200'''
|
|-
|1994年<br>(平成{{0}}6年)
| 29
| 38,540
| 76,603
| '''199'''
|
|-
|1995年<br>(平成{{0}}7年)
| 29
| 38,612
| 76,261
| '''198'''
|
|-
|1996年<br>(平成{{0}}8年)
| 29
| 38,612
| 74,330
| '''193'''
|
|-
|1997年<br>(平成{{0}}9年)
| 29
| 38,576
| 74,139
| '''192'''
| style="text-align:left;" |1997年6月23日、喜多見 - 和泉多摩川間複々線化
|-
|1998年<br>(平成10年)
| 29
| 38,612
| 73,758
| '''191'''
|
|-
|1999年<br>(平成11年)
| 29
| 38,612
| 73,315
| '''190'''
|
|-
|2000年<br>(平成12年)
| 29
| 38,576
| 73,435
| '''190'''
|
|-
|2001年<br>(平成13年)
| 29
|
|
| '''190'''
|
|-
|2002年<br>(平成14年)
| 29
| 38,566
| 72,995
| '''189'''
|
|-
|2003年<br>(平成15年)
| 29
| 38,566
| 72,579
| '''188'''
|
|-
|2004年<br>(平成16年)
| 29
| 38,614
|
| '''188'''
| style="text-align:left;" |2004年9月26日、経堂 - 喜多見間複々線化・11月21日、梅ヶ丘 - 経堂間複々線化
|-
|2005年<br>(平成17年)
| 29
| 38,614
| 72,519
| '''188'''
|
|-
|2006年<br>(平成18年)
| 29
| 38,582
| 73,317
| '''190'''
|
|-
|2007年<br>(平成19年)
| 29
| 38,582
| 74,065
| '''192'''
|
|-
|2008年<br>(平成20年)
| 29
| 38,494
| 73,608
| '''191'''
|
|-
|2009年<br>(平成21年)
| 29
| 38,230
| 71,445
| '''187'''
|
|-
|2010年<br>(平成22年)
| 29
| 38,230
| 72,052
| '''188'''
|
|-
|2011年<br>(平成23年)
| 29
| 38,230
| 71,195
| '''186'''
|
|-
|2012年<br>(平成24年)
| 29
| 38,407
| 72,124
| '''188'''
|
|-
|2013年<br>(平成25年)
| 29
| 38,407
| 72,312
| '''188'''
|
|-
|2014年<br>(平成26年)
| 29
| 38,395
| 72,529
| '''189'''
|
|-
|2015年<br>(平成27年)
| 29
| 38,428
| 73,573
| '''191'''
|
|-
|2016年<br>(平成28年)
| 29
| 38,347
| 73,816
| '''192'''
|
|-
|rowspan="2"|2017年<br>(平成29年)
| 29
| 38,347
| 74,554
| '''194'''
| style="text-align:left;" rowspan="2"|2018年3月3日、代々木上原 - 梅ヶ丘間および和泉多摩川 - 登戸間複々線化
|-
|rowspan="6"|複々線
| 36
| 49,416
| 74,554
| '''151'''
|-
|2018年<br>(平成30年)
| 36
| 48,300
| 75,842
| '''157'''
|
|-
|2019年<br>(令和元年)
| 36
| 48,858
| 77,216
| '''158'''
|
|-
|2020年<br>(令和{{0}}2年)
| 36
| 49,646
| 58,765
| '''118'''
|
|-
|2021年<br>(令和{{0}}3年)
| 36
| 50,278
| style="background-color: #ccffff;"|58,585
| style="background-color: #ccffff;"|'''117'''
|
|-
|2022年<br>(令和{{0}}4年)
| 37
| 48,878
| 62,589
| '''128'''
|
|}
== 連続立体交差化・複々線化事業 ==
[[代々木上原駅|代々木上原]] - [[向ヶ丘遊園駅|向ヶ丘遊園]]間 (12.3 km) では小田急電鉄が[[複々線]]化、[[東京都]]が[[連続立体交差事業|連続立体交差]]化の各事業を実施しており(建設主体は[[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]])、ラッシュ時間帯の所要時間短縮と混雑緩和を目指している。2018年3月3日に全区間が完成したが、[[登戸駅|登戸]] - 向ヶ丘遊園間は沿線の[[土地区画整理事業]]との兼ね合いにより、暫定的に上り2線・下り1線で整備される。
また、向ヶ丘遊園駅 - [[新百合ヶ丘駅]]間 (5.7 km) の複々線化計画もあり<ref>[https://web.archive.org/web/20070115080536/http://www.yomiuri.co.jp/tabi/news/20051031tb10.htm 首都圏私鉄 乗客数伸びず…「魅力ある沿線」作戦] (Internet Archive) - 読売新聞、2005年10月31日</ref>、[[運輸政策審議会]]の[[運輸政策審議会答申第7号|答申第7号]](1985年)や[[運輸政策審議会答申第18号|答申第18号]](2000年)、[[交通政策審議会]]の[[交通政策審議会答申第198号|答申第198号]](2016年)にもこの区間の複々線化が盛り込まれているが、小田急電鉄は「当社単独による整備は事業採算上極めて厳しい」としている<ref name="kanagawa-odakyu">{{Cite web|和書|url=http://www.pref.kanagawa.jp/docs/gd6/cnt/f7140/kentesu-youboukaitou-2017.html |title=平成29年度の要望及び鉄道事業者からの回答 |publisher=[[神奈川県]] |accessdate=2019-04-04}}</ref>。
なお、運輸政策審議会答申第7号では上記複々線化完成ののち、新百合ヶ丘駅 - [[相模大野駅]]間の複々線化も行うこととされているが<!--「東京地下鉄道半蔵門線建設史(渋谷-水天宮前)」p843に付された資料で確認可能-->、答申第18号では除かれており、小田急電鉄も計画はないとしている<ref name="kanagawa-odakyu" />。
<!--詳細は[http://www.odakyu.jp/company/business/railways/four-track-line/index.html 小田急電鉄・複々線化工事のページ]および[http://www.shimochika-navi.com シモチカ ナビ]を参照のこと。--><!-- ←両ページとも2020年5月末でリンク切れ -->
<gallery>
ファイル:小田急 複々線工事.jpg|複々線工事中の小田原線(2004年6月)
</gallery>
=== 区間別概要 ===
* 代々木上原 - [[東北沢駅|東北沢]]間(詳細は「[[代々木上原駅]]」を参照)
** [[1978年]]に複々線化されていた区間であるが、次述の東北沢 - 梅ヶ丘間の複々線化工事中は、工事用地の関係から工事の進捗に応じて並行する[[東京メトロ千代田線]]の引き上げ線共々線路配置が複雑に変遷した。同じ理由で、この区間は暫定的に複線となっていた。
* 東北沢 - 梅ヶ丘間
** [[2004年]][[9月7日]]に着工した。当初は高架方式が予定されていたが、[[下北沢駅]]で[[京王井の頭線]]がオーバークロスしていること、地価の高い[[商店街]]を通るので用地買収費が嵩むこと、駅前広場整備の必要性も考慮し、用地買収が少なく早期完成が見込める地下化による方法を採用した。下北沢付近は用地取得の関係などから2層式で緩急分離の線路別複々線となり、東北沢駅は緩行線が内側の島式ホーム、[[世田谷代田駅]]のやや先からは急行線が内側となる。この区間の複線による地下化(将来の急行線を使用)は2013年3月23日に完成した<ref name="odakyu20130131" />。複々線化は2018年3月3日に完成し<ref name="odakyu20171215-2" />、同月17日にダイヤ改正が実施された(複々線化事業全体の完成は2018年度)<ref name="odakyu20171215" /><ref name="oer160428" />。
** 下北沢駅の地下化当初は、この区間の複々線化工事の状況や概要を紹介するギャラリーが設置されていた(その後工事の進捗に伴い撤去、世田谷代田駅のコンコースに2017年に設置された「小田急環境ルーム」<ref>[https://www.odakyu.jp/csr/environment_room/ 小田急環境ルームのご案内] - 小田急電鉄</ref> に一部が移設された)。
** 地下化後の線路跡地利用について、世田谷区が[[2012年]][[7月]]に独自案を示したが、小田急と都は[[2011年]]に合意した内容と異なるとして反発しており、跡地利用の目処が立たない状況となっていたが<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNASFB13075_U2A810C1L72000/ 小田急と都、世田谷区と対立 地下化の跡地巡り 下北沢周辺] 日経電子版 2012年8月14日</ref>、2022年(令和4年)5月に[[下北線路街]]として全面開業した<ref>[https://www.tokyo-np.co.jp/article/179322 反対派の声生かし「シモキタ」感を表現 下北沢駅周辺で「線路街」が完成] 東京新聞 2022年5月25日</ref>。
* 梅ヶ丘 - 喜多見間
** 沿線地権者や後援者などによる反対運動が起き、工事は非常に遅れた(下記参照)。特に梅ヶ丘駅周辺では根強い反対があり、着工が最も遅れた地域である。この反対運動の一環として[[1992年]][[5月7日]]に[[公害等調整委員会]]に対する責任裁定申請がなされ、[[1998年]]に小田急が申請者に解決金を支払うことなどを内容とした調停が一部成立して終結した。この区間では特に騒音対策を強化した軌道や防音壁を採用している。
=== 小田急訴訟 ===
{{最高裁判例|事件名=小田急線連続立体交差事業認可処分取消,事業認可処分取消請求事件|事件番号=平成16(行ヒ)114|裁判年月日=2005年(平成17年)12月7日|判例集=民集 第59巻10号2645頁|裁判要旨=1 都市計画事業の事業地の周辺に居住する住民のうち同事業が実施されることにより騒音,振動等による健康又は生活環境に係る著しい被害を直接的に受けるおそれのある者は,都市計画法(平成11年法律第160号による改正前のもの)59条2項に基づいてされた同事業の認可の取消訴訟の原告適格を有する。<br />
2 鉄道の連続立体交差化を内容とする都市計画事業の事業地の周辺に居住する住民のうち同事業に係る東京都環境影響評価条例(昭和55年東京都条例第96号。平成10年東京都条例第107号による改正前のもの)2条5号所定の関係地域内に居住する者は,その住所地が同事業の事業地に近接していること,上記の関係地域が同事業を実施しようとする地域及びその周辺地域で同事業の実施が環境に著しい影響を及ぼすおそれがある地域として同条例13条1項に基づいて定められたことなど判示の事情の下においては,都市計画法(平成11年法律第160号による改正前のもの)59条2項に基づいてされた同事業の認可の取消訴訟の原告適格を有する。<br />
3 鉄道の連続立体交差化に当たり付属街路を設置することを内容とする都市計画事業が鉄道の連続立体交差化を内容とする都市計画事業と別個の独立したものであること,上記付属街路が鉄道の連続立体交差化に当たり環境に配慮して日照への影響を軽減することを主たる目的として設置されるものであることなど判示の事情の下においては,付属街路の設置を内容とする上記事業の事業地の周辺に居住する住民は,都市計画法(平成11年法律第160号による改正前のもの)59条2項に基づいてされた同事業の認可の取消訴訟の原告適格を有しない。|法廷名=大法廷|裁判長=[[町田顯]]|陪席裁判官=[[濱田邦夫]]、[[横尾和子]]、[[上田豊三]]、[[滝井繁男]]、[[藤田宙靖]]、[[甲斐中辰夫]]、[[泉徳治]]、[[島田仁郎]]、[[津野修]]、[[今井功 (裁判官)|今井功]]、[[中川了滋]]、[[堀籠幸男]]、[[古田佑紀]]|多数意見=裁判要旨3を除き全員一致|意見=藤田宙靖、町田顯、今井功|反対意見=横尾和子、滝井繁男、泉徳治、島田仁郎|参照法条=行政事件訴訟法9条、都市計画法、公害対策基本法19条、環境基本法17条、東京都環境影響評価条例|url=https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=52414}}
梅ヶ丘 - 喜多見間については、周辺住民などによって騒音、振動、日照などによって著しい健康被害を及ぼすおそれがあるとして、[[建設大臣]](当時)による連続立体交差とそれに付属する街路事業の事業認可の取り消しを求める[[訴訟]]が[[1994年]]に提起された<ref name="朝日20031214">{{Cite news|title=隣は地下式 怒る住民/小田急高架訴訟 18日に控訴審判決|newspaper=[[朝日新聞]]|date=2003-12-14(朝刊)|publisher=[[朝日新聞社]]|page=38(第2社会)}}</ref>。これに対して[[審級|第一審]]の[[東京地方裁判所]]([[藤山雅行]]裁判長)は事業認可の前提となる[[1993年]]の都市計画決定を違法とし、事業認可を取り消す判決を出した<ref name="朝日20031214" />(2001年10月3日判決)。[[控訴審]]の[[東京高等裁判所]]は、従来の[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]の判例(1999年11月25日第一[[小法廷]]判決・[[民集#最高裁判所民事判例集|民集]]195号387頁)を根拠に原告すべての[[当事者適格|原告適格]]を否定して、一審判決を一部破棄、訴え却下(原告全面敗訴)の判決を出した(2003年12月18日)<ref>{{Cite news|title=小田急線高架訴訟/住民側が逆転敗訴/東京高裁「事業認可は適法」|newspaper=[[日本経済新聞]]|date=2003-12-18(夕刊)|publisher=[[日本経済新聞社]]|page=1}}</ref>。原告側は上告。最高裁判所[[大法廷]]は従来の判例を変更、原告の一部については原告適格を認める[[中間判決]]を出した<ref>最高裁判所大法廷判決平成17年12月7日。民集59巻10号2645頁。[https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=52414 判例検索システム]、2014年8月30日閲覧。</ref>。この中間判決は、住民などによる[[行政機関]]の活動のチェックなどをより重視する近時の[[行政事件訴訟法]]改正(同法9条2項の新設)に拠るもので、一般[[新聞]]各紙が紙面で大きく取り上げるなど注目を集めた。そのため、却下とはならず[[本案判決]]に進んだが、最高裁第一小法廷判決(2006年11月2日)<ref>最高裁判所第一小法廷判決平成18年11月2日。民集60巻9号3249頁。[https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=33756 判例検索システム]、2014年8月30日閲覧。</ref> により原告の敗訴が確定した。
また、上記とは別の住民グループが騒音抑制と損害賠償を求めた訴訟を起こしており、2004年8月2日に東京地方裁判所で小田急電鉄が原告に和解金4200万円を支払うとともに防音壁等を設置することによって騒音を65デシベル以下に抑制することで和解が成立している<ref>{{Cite news|title=騒音訴訟 小田急と住民側和解|newspaper=[[日本経済新聞]]|date=2004-08-03|location=[[東京都]]|publisher=[[日本経済新聞社]]|page=34(社会)}}</ref>。
=== 進捗年表 ===
* [[1978年]](昭和53年)[[3月31日]]:代々木上原 - 東北沢間複々線化。
* [[1989年]](平成元年)[[7月20日]]:喜多見 - 和泉多摩川間複々線化工事着工。
* [[1994年]](平成6年)[[12月20日]]:世田谷代田 - 喜多見間複々線化工事着工。
* [[1995年]](平成7年)[[3月26日]]:喜多見 - 和泉多摩川間上下線高架化完成<ref>{{Cite news |title=小田急・喜多見 - 和泉多摩川間 26日から複線高架に |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1995-03-15 |page=1 }}</ref>。
* [[1997年]](平成9年)[[6月23日]]:喜多見 - 和泉多摩川間 (2.4 km) 複々線化。
* [[1998年]](平成10年)[[11月1日]]:経堂駅付近の上り線高架化。
* [[1999年]](平成11年)
** [[3月21日]]:祖師ヶ谷大蔵駅付近の下り線高架化。
** [[10月1日]]:和泉多摩川 - 向ヶ丘遊園間改良工事着工。
* [[2000年]](平成12年)
** [[4月23日]]:祖師ヶ谷大蔵駅付近上り線高架化。
** [[6月11日]]:経堂駅付近下り線高架化。
* [[2001年]](平成13年)[[10月28日]]:千歳船橋駅付近下り線高架化。
* [[2002年]](平成14年)
** [[3月10日]]:世田谷代田駅付近 - 経堂間下り線高架化。
** 3月31日:成城学園前 - 喜多見間下り線掘割化。
** [[6月16日]]:成城学園前駅付近上り線掘割化<ref>{{Cite journal|和書|date=2002年9月号|title=鉄道記録帳|journal=RAIL FAN|volume=49|issue=9|page=22|publisher=鉄道友の会}}</ref>。
** [[7月28日]]:千歳船橋駅付近上り線高架化<ref>{{Cite journal|和書|date=2002年10月号|title=鉄道記録帳|journal=RAIL FAN|volume=49|issue=10|page=22|publisher=鉄道友の会}}</ref>。
** [[12月15日]]:梅ヶ丘 - 豪徳寺付近上り線高架化<ref name="JRC605">{{Cite journal|和書|date=2003-03-01|title=鉄道記録帳2002年12月|journal=RAIL FAN|volume=50|issue=2|page=24|publisher=鉄道友の会}}</ref>。これにより梅ヶ丘 - 和泉多摩川間の立体化が完了<ref name="JRC605" />。
* [[2003年]](平成15年)[[1月26日]]:和泉多摩川 - 向ヶ丘遊園間上り線の一部を切り替え。
* [[2004年]](平成16年)
** [[5月23日]]:経堂 - 喜多見間上り2線化。
** [[9月7日]]:代々木上原 - 梅ヶ丘間複々線化工事着工。
** [[9月26日]]:経堂 - 喜多見間下り2線化(経堂 - 和泉多摩川間複々線開通)<ref>{{Cite journal|和書|date=2004年12月号|title=鉄道記録帳|journal=RAIL FAN|volume=51|issue=12|page=28|publisher=鉄道友の会}}</ref>。
** [[10月24日]]:梅ヶ丘 - 経堂間上り2線化(上りのみ梅ヶ丘 - 和泉多摩川間複々線開通)。
** [[11月21日]]:梅ヶ丘 - 経堂間複々線化(梅ヶ丘 - 和泉多摩川間複々線開通、同年12月11日に使用開始に伴うダイヤ改正を行った)。
* [[2005年]](平成17年)10月1日:代々木上原 - 東北沢間の複々線を工事用地捻出のため一旦複線化。
* [[2009年]](平成21年)3月8日:和泉多摩川 - 向ヶ丘遊園間改良工事が完成(和泉多摩川 - 登戸間多摩川橋梁の複々線化、登戸 - 向ヶ丘遊園は上り2線・下り1線の3線化)。
* [[2013年]](平成25年)3月23日<ref name="odakyu20130131">{{PDFlink|[http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/7896_5372651_.pdf 2013年3月23日初電から東北沢、下北沢、世田谷代田3駅を地下化します]}} - 小田急電鉄、2013年1月31日。</ref>:代々木上原 - 梅ヶ丘間連続立体交差化完成。
* [[2018年]](平成30年)3月3日:東北沢 - 梅ヶ丘間複々線化、代々木上原 - 東北沢間再複々線化および登戸駅構内の完全複々線化(代々木上原 - 登戸間上下線立体複々線開通)が完成<ref name="odakyu20171215-2">{{PDFlink|[http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8732_1784221_.pdf 複々線での運転を開始します]}} - 小田急電鉄、2017年12月15日</ref>。これに伴い、同月17日にダイヤ改正を実施<ref name="odakyu20171215" /><ref name="oer160428">{{PDFlink|[http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8421_5315021_.pdf 混雑緩和・所要時間短縮により通勤・通学が快適に!複々線完成による効果について]}} - 小田急ニュースリリース(2016年4月28日)</ref>。
* [[2019年]](平成31年)3月:連立・複々線化事業全体が完了<ref>[https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/jigyo/road/kensetsu/gaiyo/odakyuu.html 小田急電鉄小田原線(代々木上原駅 - 梅ヶ丘駅間)連続立体交差事業および複々線化事業] - 東京都建設局、2020年5月7日閲覧。</ref>。
== 車両 ==
{{Main2|過去の車両|小田急電鉄#除籍車両}}
=== 自社車両 ===
==== 通勤型 ====
10両編成の列車の一部は3000形6両編成と1000形または8000形の4両編成を連結して運転される。
* [[小田急5000形電車 (2代)|5000形(2代)]] - 単独10両編成の列車で運用。
* [[小田急4000形電車 (2代)|4000形(2代)]] - 単独10両編成の列車で運用。地下鉄千代田線・JR常磐線直通運転対応。
* [[小田急3000形電車 (2代)|3000形(2代)]] - 単独6両編成、単独8両編成、10両編成の列車で運用。
* [[小田急2000形電車|2000形]] - 単独8両編成の列車で運用。
* [[小田急1000形電車|1000形]] - 4両編成は[[箱根登山鉄道]]への直通列車や、連結して8両編成や10両編成での運用、その他の編成は単独10両編成の列車で運用。
* [[小田急8000形電車|8000形]] - 6両編成、10両編成の列車で運用。
<gallery perrow="4" widths="180" style="font-size:90%;">
ファイル:OER-Series5000-5451.jpg|5000形
ファイル:Odakyu-Series4000 4551.jpg|4000形
ファイル:Odakyu-Series3000 3481.jpg|3000形
ファイル:Odakyu2000express.jpg|2000形
ファイル:Odakyu_1000Seris_Express.JPG|1000形
ファイル:Odakyu-Series8000 8563.jpg|8000形
</gallery>
==== 特急型 ====
* [[小田急70000形電車|70000形「GSE」]]
* [[小田急60000形電車|60000形「MSE」]] - 地下鉄千代田線・JR御殿場線直通運転対応。
* [[小田急30000形電車|30000形「EXE」・「EXEα」]]
<gallery perrow="4" widths="180" style="font-size:90%;">
ファイル:Odakyu-Series70000_GSE.jpg|70000形「GSE」
ファイル:Odakyu MSE60000kei asagiri and enoshima.jpg|60000形「MSE」
ファイル:Odakyu-Series30000R EXEa.jpg|30000形「EXE」・「EXEα」
</gallery>
=== 乗り入れ車両 ===
全て10両編成である。通常は代々木上原駅 - 伊勢原駅間で運用されるが、ダイヤ乱れなどの場合は新宿駅に入線することもある。
==== 東京地下鉄 ====
* [[東京メトロ16000系電車|16000系]]
==== 東日本旅客鉄道 ====
* [[JR東日本E233系電車#2000番台|E233系2000番台]]
<gallery>
ファイル:Tokyo metro 16000.JPG|小田原線に乗り入れる[[東京地下鉄]]の[[東京メトロ16000系電車|16000系]]
File:E233-2000_series_set_14_20160803.jpg|2016年3月26日改正から小田急への乗り入れ運用を開始した[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]の[[JR東日本E233系電車|E233系2000番台]]
</gallery>
== 女性専用車 ==
以下の時間帯・区間にて[[日本の女性専用車両|女性専用車]]が設定されている。
* 平日7:30 - 9:30に新宿駅に到着する上り快速急行・通勤急行・急行10両編成の進行方向最後尾1号車
* 平日7:10 - 9:30に代々木上原駅に到着する上り東京メトロ千代田線直通の通勤準急・準急・各駅停車の全列車の進行方向最後尾1号車(千代田線内は綾瀬駅・北綾瀬駅到着または9:30で終了する)
2018年3月16日までは、各駅停車での女性専用車は設定されていなかったが、2018年3月19日からは千代田線直通の各駅停車にも女性専用車が新たに設定された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.odakyu.jp/voice-station/operation_start.html|title=新ダイヤ運行開始後のご案内|accessdate=2021-04-17|publisher=小田急電鉄|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180224114042/https://www.odakyu.jp/voice-station/operation_start.html|archivedate=2018-02-24|deadlinkdate=2021-04-17}}</ref>。
ロマンスカーや新宿発着の各駅停車、新宿・千代田線へ到着しない途中駅止まりの列車には設定されていない。
== 駅一覧 ==
* [[駅ナンバリング|駅番号]]は、2014年1月より順次導入<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8052_1284200_.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210509093516/http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8052_1284200_.pdf|format=PDF|language=日本語|title=小田急線・箱根登山線・箱根ロープウェイ・箱根海賊船にて 2014年1月から駅ナンバリングを順次導入します! 新宿駅から箱根・芦ノ湖まで通しのナンバリングにより、わかりやすくご利用いただけます|publisher=小田急電鉄/箱根登山鉄道|date=2013-12-24|accessdate=2021-05-09|archivedate=2021-05-09}}</ref>。
* 各駅停車は各駅に停車するため省略([[相模大野分岐点]]は通過)。
* [[小田急ロマンスカー]]の停車駅は当該項目を参照のこと。
* 江ノ島線との運賃計算は相模大野分岐点経由で行う。小田原方面と江ノ島線方面の運賃は相模大野駅 - 相模大野分岐点間のキロ程を含めずに計算する。
* 複々線および三線区間の代々木上原 - 登戸間(下り)・向ヶ丘遊園 - 代々木上原間(上り)では原則として、通勤準急(成城学園前 - 経堂間を除く)・準急・各駅停車の全列車は[[緩行線]]を<ref group="注釈">向ヶ丘遊園駅始発列車は向ヶ丘遊園 - 登戸間のみ急行線を走行する。</ref>、その他は[[急行線]]を走行する<ref group="注釈">東京メトロ千代田線直通の上り急行は経堂 - 代々木上原間で緩行線を走行する。<br>上りの急行には特急の待避を行う関係で向ヶ丘遊園 - 登戸間のみ緩行線を走行する列車も一部存在する。</ref><ref name="odakyu20180317">{{Cite web|和書|title=駅・ホームが変わります |url=https://www.odakyu.jp/voice-station/station.html |publisher=小田急電鉄 |accessdate=2018-03-17}}</ref>(一部例外あり)。また当該区間では下北沢・経堂・成城学園前・登戸・向ヶ丘遊園の各駅には急行線・緩行線の両方に、その他は緩行線のみにホームがある。
; 凡例
: 停車駅 - ●:当該種別の全列車が停車、|:全列車通過、↑:全列車通過(上り方向のみ運転)、↓:全列車通過(下り方向のみ運転)、○:平日夜下り列車のみ停車(土休日は運転無し)
: [[待避駅|待避設備]] - ◇:あり、△:上りのみあり、▽:下りのみあり、空欄:なし
: 接続路線の括弧内は接続路線の駅番号や補足説明などである。
{| class="wikitable" rules="all" style="font-size:88%;"
!style="width:3.5em; border-bottom:3px solid #2288CC;"|駅番号
!style="width:9.5em; border-bottom:3px solid #2288CC;"|駅名
!style="width:3.5em; border-bottom:3px solid #2288CC;"|改札鋏<br /><ref>{{Cite book|和書|ref=生方2009|author=生方良雄|authorlink=生方良雄|title=小田急の駅 今昔・昭和の面影|year=2009|publisher=JTBパブリッシング|isbn=9784533075629|coauthors=|id=}}に掲載の改札鋏と照合。</ref>
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #2288CC;"|駅間<br />キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #2288CC;"|累計<br />キロ
!style="width:1em; background:#cfc; border-bottom:3px solid #2288CC;line-height:1.1;"|{{縦書き|準急}}
!style="width:1em; background:#afa; border-bottom:3px solid #2288CC;line-height:1.1;"|{{縦書き|通勤準急}}
!style="width:1em; background:#fcc; border-bottom:3px solid #2288CC;line-height:1.1;"|{{縦書き|急行}}
!style="width:1em; background:#faf; border-bottom:3px solid #2288CC;line-height:1.1;"|{{縦書き|通勤急行}}
!style="width:1em; background:#fdb; border-bottom:3px solid #2288CC;line-height:1.1;"|{{縦書き|快速急行}}
!style="border-bottom:3px solid #2288CC;"|接続路線・備考
!style="width:1em; border-bottom:3px solid #2288CC;"|{{縦書き|待避設備}}
!colspan="3" style="border-bottom:3px solid #2288CC;"|所在地
|-
!OH01
|[[新宿駅]]
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Shinjuku.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:center;" | -
| style="text-align:right;" |0.0
| colspan="2" rowspan="4" style="width:1em; text-align:center; vertical-align:bottom;" |{{縦書き|[[東京メトロ千代田線]]直通|height=13em}}
| style="text-align:center; background:#fcc;" |●
| style="text-align:center; background:#faf;" |●
| style="text-align:center; background:#fdb;" |●
|[[東日本旅客鉄道]]:[[ファイル:JR_JA_line_symbol.svg|18px|JA]] [[埼京線]] (JA 11)・[[ファイル:JR_JS_line_symbol.svg|18px|JS]] [[湘南新宿ライン]] (JS 20)・[[ファイル:JR_JC_line_symbol.svg|18px|JC]] [[中央線快速|中央線(快速)]](JC 05)・[[ファイル:JR_JB_line_symbol.svg|18px|JB]] [[中央・総武緩行線|中央・総武線(各駅停車)]](JB 10)・[[ファイル:JR_JY_line_symbol.svg|18px|JY]] [[山手線]] (JY 17)<br />[[京王電鉄]] (KO01):[[ファイル:Number_prefix_Keio-line.svg|18px|KO]] [[京王線]]・[[ファイル:Number_prefix_Keio-line.svg|18px|KO]] [[京王新線]]<br />[[東京地下鉄]]:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|18px|M]] [[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]] (M-08)<br />[[都営地下鉄]]:[[ファイル:Toei Shinjuku line symbol.svg|18px|S]] [[都営地下鉄新宿線|新宿線]] (S-01)、[[ファイル:Toei Oedo line symbol.svg|18px|E]] [[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]](新宿駅:E-27、[[新宿西口駅]]:E-01)<br />[[西武鉄道]]:[[ファイル:SeibuShinjuku.svg|18px|SS]] [[西武新宿線|新宿線]]([[西武新宿駅]]:SS01)
|
| rowspan="17" style="width:1em; text-align:center; line-height:3; letter-spacing:0.5em;" |{{縦書き|[[東京都]]|height=8em}}
| colspan="2"|[[新宿区]]
|-
!OH02
|[[南新宿駅]]
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Minamishinjuku.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:right;" |0.8
| style="text-align:right;" |0.8
<!--|準急 区間外-->
<!--|通勤準急 区間外-->
| style="text-align:center; background:#fcc;" ||
| style="text-align:center; background:#faf;" |↑
| style="text-align:center; background:#fdb;" ||
|
|
| colspan="2" rowspan="4" |[[渋谷区]]
|-
!OH03
|[[参宮橋駅]]
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Sangubashi.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:right;" |0.7
| style="text-align:right;" |1.5
<!--|準急 区間外-->
<!--|通勤準急 区間外-->
| style="text-align:center; background:#fcc;" ||
| style="text-align:center; background:#faf;" |↑
| style="text-align:center; background:#fdb;" ||
|
|
|-
!OH04
|[[代々木八幡駅]]
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Yoyogihachiman.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:right;" |1.2
| style="text-align:right;" |2.7
<!--|準急 区間外-->
<!--|通勤準急 区間外-->
| style="text-align:center; background:#fcc;" ||
| style="text-align:center; background:#faf;" |↑
| style="text-align:center; background:#fdb;" ||
|
|
|-
!OH05
|[[代々木上原駅]]
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Yoyogiuehara.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:right;" |0.8
| style="text-align:right;" |3.5
| style="text-align:center; background:#cfc;" |●
| style="text-align:center; background:#afa;" |●
| style="text-align:center; background:#fcc;" |●
| style="text-align:center; background:#faf;" |●
| style="text-align:center; background:#fdb;" |●
|東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|18px|C]] [[東京メトロ千代田線|千代田線]] (C-01)(小田原方面から[[北綾瀬駅]]及び [[ファイル:JR_JL_line_symbol.svg|18px|JL]] [[常磐緩行線|JR常磐線(各駅停車)]] [[我孫子駅 (千葉県)|我孫子駅]]・[[取手駅]](平日のみ)まで直通運転)
|
|-
!OH06
|[[東北沢駅]]
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Higashikitazawa.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:right;" |0.7
| style="text-align:right;" |4.2
| style="text-align:center; background:#cfc;" ||
| style="text-align:center; background:#afa;" |↑
| style="text-align:center; background:#fcc;" ||
| style="text-align:center; background:#faf;" |↑
| style="text-align:center; background:#fdb;" ||
|
|
| colspan="2" rowspan="10" style="white-space:nowrap;" |[[世田谷区]]
|-
!OH07
|[[下北沢駅]]
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Shimokitazawa.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:right;" |0.7
| style="text-align:right;" |4.9
| style="text-align:center; background:#cfc;" |●
| style="text-align:center; background:#afa;" |●
| style="text-align:center; background:#fcc;" |●
| style="text-align:center; background:#faf;" |●
| style="text-align:center; background:#fdb;" |●
|京王電鉄:[[ファイル:Number_prefix_Keio-Inokashira-line.svg|18px|IN]] [[京王井の頭線|井の頭線]] (IN05)
|
|-
!OH08
|[[世田谷代田駅]]
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Setagayadaita.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:right;" |0.7
| style="text-align:right;" |5.6
| style="text-align:center; background:#cfc;" ||
| style="text-align:center; background:#afa;" |↑
| style="text-align:center; background:#fcc;" ||
| style="text-align:center; background:#faf;" |↑
| style="text-align:center; background:#fdb;" ||
|
|
|-
!OH09
|[[梅ヶ丘駅]]
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Umegaoka.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:right;" |0.7
| style="text-align:right;" |6.3
| style="text-align:center; background:#cfc;" ||
| style="text-align:center; background:#afa;" |↑
| style="text-align:center; background:#fcc;" ||
| style="text-align:center; background:#faf;" |↑
| style="text-align:center; background:#fdb;" ||
|
|
|-
!OH10
|[[豪徳寺駅]]
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Gotokuji.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:right;" |0.7
| style="text-align:right;" |7.0
| style="text-align:center; background:#cfc;" ||
| style="text-align:center; background:#afa;" |↑
| style="text-align:center; background:#fcc;" ||
| style="text-align:center; background:#faf;" |↑
| style="text-align:center; background:#fdb;" ||
|[[東急電鉄]]:[[ファイル:Tokyu_SG_line_symbol.svg|18px|SG]] [[東急世田谷線|世田谷線]]([[山下駅 (東京都)|山下駅]]:SG08)
|
|-
!OH11
|[[経堂駅]]<br>{{smaller|([[東京農業大学]] 最寄駅)}}
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Kyodo.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:right;" |1.0
| style="text-align:right;" |8.0
| style="text-align:center; background:#cfc;" |●
| style="text-align:center; background:#afa;" |●
| style="text-align:center; background:#fcc;" |●
| style="text-align:center; background:#faf;" |↑
| style="text-align:center; background:#fdb;" ||
|
|△
|-
!OH12
|[[千歳船橋駅]]
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Chitose-funabashi.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:right;" |1.2
| style="text-align:right;" |9.2
| style="text-align:center; background:#cfc;" |●
| style="text-align:center; background:#afa;" |↑
| style="text-align:center; background:#fcc;" ||
| style="text-align:center; background:#faf;" |↑
| style="text-align:center; background:#fdb;" ||
|
|
|-
!OH13
|[[祖師ヶ谷大蔵駅]]
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Soshigaya-okura.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:right;" |1.4
| style="text-align:right;" |10.6
| style="text-align:center; background:#cfc;" |●
| style="text-align:center; background:#afa;" |↑
| style="text-align:center; background:#fcc;" ||
| style="text-align:center; background:#faf;" |↑
| style="text-align:center; background:#fdb;" ||
|
|
|-
!OH14
|[[成城学園前駅]]
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Seijo-gakuen-mae.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:right;" |1.0
| style="text-align:right;" |11.6
| style="text-align:center; background:#cfc;" |●
| style="text-align:center; background:#afa;" |●
| style="text-align:center; background:#fcc;" |●
| style="text-align:center; background:#faf;" |●
| style="text-align:center; background:#fdb;" ||
|
|
|-
!OH15
|[[喜多見駅]]
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Kitami.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:right;" |1.1
| style="text-align:right;" |12.7
| style="text-align:center; background:#cfc;" ||
| style="text-align:center; background:#afa;" |↑
| style="text-align:center; background:#fcc;" ||
| style="text-align:center; background:#faf;" |↑
| style="text-align:center; background:#fdb;" ||
|
|
|-
!OH16
|[[狛江駅]]
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Komae.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:right;" |1.1
| style="text-align:right;" |13.8
| style="text-align:center; background:#cfc;" |●
| style="text-align:center; background:#afa;" |↑
| style="text-align:center; background:#fcc;" ||
| style="text-align:center; background:#faf;" |↑
| style="text-align:center; background:#fdb;" ||
|
|
|colspan="2" rowspan="2"|[[狛江市]]
|-
!OH17
|[[和泉多摩川駅]]
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Izumitamagawa.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:right;" |0.6
| style="text-align:right;" |14.4
| style="text-align:center; background:#cfc;" ||
| style="text-align:center; background:#afa;" |↑
| style="text-align:center; background:#fcc;" ||
| style="text-align:center; background:#faf;" |↑
| style="text-align:center; background:#fdb;" ||
|
|
|-
!OH18
|[[登戸駅]]
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Noborito.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:right;" |0.8
| style="text-align:right;" |15.2
| style="text-align:center; background:#cfc;" |●
| style="text-align:center; background:#afa;" |●
| style="text-align:center; background:#fcc;" |●
| style="text-align:center; background:#faf;" |↑
| style="text-align:center; background:#fdb;" |●
|東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR_JN_line_symbol.svg|18px|JN]] [[南武線]] (JN 14)
|▽
|colspan="2" rowspan="7" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[神奈川県]][[川崎市]]|height=8em}}
|rowspan="4" style="white-space:nowrap;"|[[多摩区]]
|-
!OH19
|[[向ヶ丘遊園駅]]
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Mukogaokayuen.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:right;" |0.6
| style="text-align:right;" |15.8
| style="text-align:center; background:#cfc;" |●
| style="text-align:center; background:#afa;" |●
| style="text-align:center; background:#fcc;" |●
| style="text-align:center; background:#faf;" |●
| style="text-align:center; background:#fdb;" ||
|
|▽
|-
!OH20
|[[生田駅 (神奈川県)|生田駅]]
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Ikuta.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:right;" |2.1
| style="text-align:right;" |17.9
| style="text-align:center; background:#cfc;" |○
| style="text-align:center; background:#afa;" |●
| style="text-align:center; background:#fcc;" ||
| style="text-align:center; background:#faf;" |↑
| style="text-align:center; background:#fdb;" ||
|
|
|-
!OH21
|[[読売ランド前駅]]
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Yomiuri-land.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:right;" |1.3
| style="text-align:right;" |19.2
| style="text-align:center; background:#cfc;" |○
| style="text-align:center; background:#afa;" |●
| style="text-align:center; background:#fcc;" ||
| style="text-align:center; background:#faf;" |↑
| style="text-align:center; background:#fdb;" ||
|
|
|-
!OH22
|[[百合ヶ丘駅]]
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Yurigaoka.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:right;" |1.3
| style="text-align:right;" |20.5
| style="text-align:center; background:#cfc;" |○
| style="text-align:center; background:#afa;" |●
| style="text-align:center; background:#fcc;" ||
| style="text-align:center; background:#faf;" |↑
| style="text-align:center; background:#fdb;" ||
|
|
|rowspan="3"|[[麻生区]]
|-
!OH23
|[[新百合ヶ丘駅]]
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Shin-Yurigaoka.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:right;" |1.0
| style="text-align:right;" |21.5
| style="text-align:center; background:#cfc;" |○
| style="text-align:center; background:#afa;" |●
| style="text-align:center; background:#fcc;" |●
| style="text-align:center; background:#faf;" |●
| style="text-align:center; background:#fdb;" |●
|[[小田急電鉄]]:[[ファイル:Odakyu_tama.svg|18px|OT]] [[小田急多摩線|多摩線]](新宿方面から[[唐木田駅]]まで直通運転)
|◇
|-
!OH24
|[[柿生駅]]
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Kakio.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:right;" |1.9
| style="text-align:right;" |23.4
| style="text-align:center; background:#cfc;" |○
| style="text-align:center; background:#afa;" |●
| style="text-align:center; background:#fcc;" ||
| rowspan="5" style="width:1em; text-align:center; vertical-align:top;" |{{縦書き|多摩線直通}}
| style="text-align:center; background:#fdb;" ||
|
|
|-
!OH25
|[[鶴川駅]]<br>{{smaller|([[和光大学]] 最寄駅)}}
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Tsurukawa.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:right;" |1.7
| style="text-align:right;" |25.1
| style="text-align:center; background:#cfc;" |○
| style="text-align:center; background:#afa;" |●
| style="text-align:center; background:#fcc;" ||
| style="text-align:center; background:#fdb;" ||
|
|△
|rowspan="3" colspan="3"|東京都<br />[[町田市]]
|-
!OH26
|[[玉川学園前駅]]
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Tamagawagakuen-mae.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:right;" |2.8
| style="text-align:right;" |27.9
| style="text-align:center; background:#cfc;" |○
| style="text-align:center; background:#afa;" |●
| style="text-align:center; background:#fcc;" ||
| style="text-align:center; background:#fdb;" ||
|
|
|-
!OH27
|[[町田駅]]
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Machida.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:right;" |2.9
| style="text-align:right;" |30.8
| style="text-align:center; background:#cfc;" |○
| style="text-align:center; background:#afa;" |●
| style="text-align:center; background:#fcc;" |●
| style="text-align:center; background:#fdb;" |●
|東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR_JH_line_symbol.svg|18px|JH]] [[横浜線]] (JH 23)
|◇
|-
!OH28
|[[相模大野駅]]<br>{{smaller|([[相模女子大学]] 最寄駅)}}
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Sagami-ono.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:right;" |1.5
| style="text-align:right;" |32.3
| style="text-align:center; background:#cfc;" |○
| style="text-align:center; background:#afa;" |●
| style="text-align:center; background:#fcc;" |●
| style="text-align:center; background:#fdb;" |●
|小田急電鉄:[[ファイル:Odakyu_enoshima.svg|18px|OE]] [[小田急江ノ島線|江ノ島線]](新宿方面から[[片瀬江ノ島駅]]まで直通運転)
|◇
| rowspan="21" style="width:1em; text-align:center; line-height:3; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|神奈川県|height=10em}}
| rowspan="3" colspan="2"|[[相模原市]]<br />[[南区 (相模原市)|南区]]
|-
!-
|[[相模大野分岐点]]
|
| style="text-align:center;" | -
| style="text-align:right;" |(32.5)
| style="text-align:center; background:#cfc;" |↓
| style="text-align:center; background:#afa;" |↑
| style="text-align:center; background:#fcc;" ||
|
| style="text-align:center; background:#fdb;" ||
|''実際の江ノ島線との分岐位置''
|
|-
!OH29
|[[小田急相模原駅]]
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Sagamihara.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:right;" |2.4
| style="text-align:right;" |34.7
| style="text-align:center; background:#cfc;" |○
| style="text-align:center; background:#afa;" |●
| style="text-align:center; background:#fcc;" ||
|
| style="text-align:center; background:#fdb;" ||
|
|
|-
!OH30
|[[相武台前駅]]
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Sobudaimae.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:right;" |2.2
| style="text-align:right;" |36.9
| style="text-align:center; background:#cfc;" |○
| style="text-align:center; background:#afa;" |●
| style="text-align:center; background:#fcc;" ||
|
| style="text-align:center; background:#fdb;" ||
|
|◇
| colspan="2" rowspan="2" |[[座間市]]
|-
!OH31
|[[座間駅]]
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Zama.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:right;" |2.3
| style="text-align:right;" |39.2
| style="text-align:center; background:#cfc;" |○
| style="text-align:center; background:#afa;" |●
| style="text-align:center; background:#fcc;" ||
|
| style="text-align:center; background:#fdb;" ||
|
|
|-
!OH32
|[[海老名駅]]
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Ebina.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:right;" |3.3
| style="text-align:right;" |42.5
| style="text-align:center; background:#cfc;" |○
| style="text-align:center; background:#afa;" |●
| style="text-align:center; background:#fcc;" |●
|
| style="text-align:center; background:#fdb;" |●
|東日本旅客鉄道:{{color|#009793|■}}[[相模線]]<br />[[相模鉄道]]:[[ファイル:Sotetsu_line_symbol.svg|18px|SO]] [[相鉄本線|本線]] (SO18)
|◇
| colspan="2" rowspan="2" |[[海老名市]]
|-
!OH33
|[[厚木駅]]
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Atsugi.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:right;" |1.6
| style="text-align:right;" |44.1
| style="text-align:center; background:#cfc;" |○
| style="text-align:center; background:#afa;" |●
| style="text-align:center; background:#fcc;" ||
|
| style="text-align:center; background:#fdb;" ||
|東日本旅客鉄道:{{color|#009793|■}}相模線
|
|-
!OH34
|[[本厚木駅]]<br>{{smaller|(東京農業大学 厚木キャンパス 最寄駅)}}
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Hon-atsugi.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:right;" |1.3
| style="text-align:right;" |45.4
| style="text-align:center; background:#cfc;" |○
| style="text-align:center; background:#afa;" |●
| style="text-align:center; background:#fcc;" |●
|
| style="text-align:center; background:#fdb;" |●
|
|◇
| colspan="2" rowspan="2" |[[厚木市]]
|-
!OH35
|[[愛甲石田駅]]
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Aikoishida.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:right;" |3.1
| style="text-align:right;" |48.5
| style="text-align:center; background:#cfc;" |○
| style="text-align:center; background:#afa;" |●
| style="text-align:center; background:#fcc;" |●
|
| style="text-align:center; background:#fdb;" |●
|
|
|-
!OH36
|[[伊勢原駅]]
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Isehara.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:right;" |3.7
| style="text-align:right;" |52.2
| style="text-align:center; background:#cfc;" |○
| style="text-align:center; background:#afa;" |●
| style="text-align:center; background:#fcc;" |●
|
| style="text-align:center; background:#fdb;" |●
|
|◇
| colspan="2" |[[伊勢原市]]
|-
!OH37
|[[鶴巻温泉駅]]
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Tsurumaki-onsen.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:right;" |3.7
| style="text-align:right;" |55.9
|
|
| style="text-align:center; background:#fcc;" |●
|
| style="text-align:center; background:#fdb;" |●
|
|
| colspan="2" rowspan="4" |[[秦野市]]
|-
!OH38
|[[東海大学前駅]]
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Tokaidaigaku-mae.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:right;" |1.1
| style="text-align:right;" |57.0
|
|
| style="text-align:center; background:#fcc;" |●
|
| style="text-align:center; background:#fdb;" |●
|
|
|-
!OH39
|[[秦野駅]]<br>{{smaller|([[出雲大社相模分祠]] 最寄駅)}}
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Hadano.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:right;" |4.7
| style="text-align:right;" |61.7
|
|
| style="text-align:center; background:#fcc;" |●
|
| style="text-align:center; background:#fdb;" |●
|
|◇
|-
!OH40
|[[渋沢駅]]
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Shibusawa.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:right;" |3.9
| style="text-align:right;" |65.6
|
|
| style="text-align:center; background:#fcc;" |●
|
| style="text-align:center; background:#fdb;" |●
|
|
|-
!OH41
|[[新松田駅]]
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Shin-Matsuda.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:right;" |6.2
| style="text-align:right;" |71.8
|
|
| style="text-align:center; background:#fcc;" |●
|
| style="text-align:center; background:#fdb;" |●
|[[東海旅客鉄道]]:{{JR海駅番号|CB}} [[御殿場線]]([[松田駅]]:CB04)(特急「[[ふじさん]]」のみ、新宿方面から[[御殿場駅]]まで直通運転)
|◇
| rowspan="2" style="width:1em; text-align:center; line-height:1;"|{{縦書き|[[足柄上郡]]|height=5em}}
|[[松田町]]
|-
!OH42
|[[開成駅]]
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Kaisei.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:right;" |2.5
| style="text-align:right;" |74.3
|
|
| style="text-align:center; background:#fcc;" |●
|
| style="text-align:center; background:#fdb;" |↓
|
|
|[[開成町]]
|-
!OH43
|[[栢山駅]]
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Kayama.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:right;" |1.9
| style="text-align:right;" |76.2
|
|
| style="text-align:center; background:#fcc;" ||
|
| style="text-align:center; background:#fdb;" |↓
|
|
| colspan="2" rowspan="5" |[[小田原市]]
|-
!OH44
|[[富水駅]]
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Tomizu.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:right;" |1.6
| style="text-align:right;" |77.8
|
|
| style="text-align:center; background:#fcc;" ||
|
| style="text-align:center; background:#fdb;" |↓
|
|
|-
!OH45
|[[螢田駅]]
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Hotaruda.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:right;" |1.4
| style="text-align:right;" |79.2
|
|
| style="text-align:center; background:#fcc;" ||
|
| style="text-align:center; background:#fdb;" |↓
|
|
|-
!OH46
|[[足柄駅 (神奈川県)|足柄駅]]
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Ashigara.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:right;" |1.6
| style="text-align:right;" |80.8
|
|
| style="text-align:center; background:#fcc;" ||
|
| style="text-align:center; background:#fdb;" |↓
|
|△
|-
!OH47
|[[小田原駅]]
| style="text-align:center;" |[[ファイル:Signs_of_Ticket_puncher_Odakyu_Odawara.jpg|25x25ピクセル]]
| style="text-align:right;" |1.7
| style="text-align:right;" |82.5
|
|
| style="text-align:center; background:#fcc;" |●
|
| style="text-align:center; background:#fdb;" |●
|[[箱根登山鉄道]]:[[ファイル:Odakyu_Hakone_StaNo.svg|18px|OH]] [[箱根登山鉄道鉄道線|鉄道線]] (OH47)([[箱根湯本駅]]まで直通運転)<br />東海旅客鉄道:[[ファイル:Shinkansen_jrc.svg|18px]] [[東海道新幹線]]<br />東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR_JT_line_symbol.svg|18px|JT]] [[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]([[上野東京ライン]]・湘南新宿ライン)(JT 16)<br />[[伊豆箱根鉄道]]:[[ファイル:Number prefix Daiyuzan.svg|18px|ID]] [[伊豆箱根鉄道大雄山線|大雄山線]] (ID01)
|
|}
{{Reflist|group="*"}}
=== 廃止駅 ===
* [[山谷駅 (東京都)|山谷駅]](南新宿 - 参宮橋間、[[1946年]][[6月1日]]廃止)
* [[海老名国分駅]](座間 - 海老名間、海老名駅設置(相模鉄道接続)のため[[1943年]][[4月1日]]廃止)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|ref=imao|author=今尾恵介(監修)|title=[[日本鉄道旅行地図帳]] - 全線・全駅・全廃線|year=2008|publisher=[[新潮社]]|volume=4 関東2|id=ISBN 978-4-10-790022-7}}
* {{Cite book|和書|ref=oertt2009|author=小田急電鉄(監修)|title=小田急時刻表 2009年ダイヤ改正号|year=2009|publisher=[[交通新聞社]]|id=ISBN 978-4-330-05309-7}}
* [https://www.jcca.or.jp/infra70/wp-content/uploads/2021/03/NO_10.pdf 小田急線の連続立体交差及び複々線化事業と沿線まちづくり] インフラ整備70年 戦後の代表的な100プロジェクト ~Vol.2~、第10回、pp.28-35、2019年6月13日講演、建設コンサルタンツ協会
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Odakyu Odawara Line}}
* [[小田急電鉄]]
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[日本の鉄道]]
== 外部リンク ==
* [https://www.odakyu.jp/ 小田急電鉄]
* {{YouTube|YoE6wmLicqk|各駅停話 小田急小田原線の空撮・前編(小田原駅~伊勢原駅)}}(朝日新聞社提供、2015年2月20日公開)
* {{YouTube|w7NB4weFrCY|各駅停話 小田急小田原線の空撮・中編(愛甲石田駅~町田駅)}}(朝日新聞社提供、2015年2月20日公開)
* {{YouTube|TmJhe3A1XXI|各駅停話 小田急小田原線の空撮・後編(玉川学園前駅~新宿駅)}}(朝日新聞社提供、2015年2月20日公開)
{{小田急電鉄の路線}}
{{DEFAULTSORT:おたきゆうおたわらせん}}
[[Category:小田急電鉄の鉄道路線|おたわら]]
[[Category:関東地方の鉄道路線|おたわらせん]]
[[Category:東京都の交通]]
[[Category:神奈川県の交通]] | 2003-05-17T13:16:37Z | 2023-12-27T13:34:34Z | false | false | false | [
"Template:脚注ヘルプ",
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"Template:Infobox 鉄道路線",
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"Template:小田急電鉄の路線",
"Template:小田急小田原線路線図",
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"Template:Cite news"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E6%80%A5%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%8E%9F%E7%B7%9A |
8,460 | 1469年 | 1469年(1469 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
| [
{
"paragraph_id": 0,
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"text": "1469年(1469 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "死去"
}
] | 1469年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。 | {{年代ナビ|1469}}
{{year-definition|1469}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[己丑]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[応仁]]3年、[[文明 (日本)|文明]]元年[[4月28日 (旧暦)|4月28日]]([[ユリウス暦]][[6月8日]]) -
*** [[古河公方]] : [[享徳]]18年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2129年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]] : [[成化]]5年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[睿宗 (朝鮮王)|睿宗]]元年
** [[檀君紀元|檀紀]]3802年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[光順]]10年
* [[仏滅紀元]] : 2011年 - 2012年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 873年 - 874年
* [[ユダヤ暦]] : 5229年 - 5230年
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1469|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[6月8日]](応仁3年[[4月28日 (旧暦)|4月28日]]) - 日本、[[改元]]して[[文明 (日本)|文明]]元年
* [[7月26日]] - [[薔薇戦争]]における[[エッジコート・ムーアの戦い]]
* [[10月19日]] - アラゴン王太子:[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド]]とカスティーリャ王女:[[イサベル1世 (カスティーリャ女王)|イサベル]]が結婚
== 誕生 ==
{{see also|Category:1469年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[4月15日]] - [[グル・ナーナク]]、[[シク教]]の[[教祖]](+ [[1539年]])
* [[4月29日]] - [[ヴィルヘルム2世 (ヘッセン方伯)|ヴィルヘルム2世]]、[[ヘッセン方伯]](+ [[1509年]])
* [[5月3日]] - [[ニッコロ・マキャヴェッリ]]、[[イタリア]]の[[ルネサンス]]期の[[思想家]]、[[フィレンツェ共和国]]の外交官(+ [[1527年]])
* [[5月31日]] - [[マヌエル1世 (ポルトガル王)|マヌエル1世]]、[[ポルトガル王国|ポルトガル]]王(+ [[1521年]])
* [[6月20日]] - [[ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァ]]、[[ミラノ公国|ミラノ]]公(+ [[1494年]])
* [[7月13日]] (文明元年[[6月5日 (旧暦)|6月5日]]) - [[存牛]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[浄土宗]]の[[僧]] (+ [[1550年]])
* [[8月26日]] - [[フェルディナンド2世 (ナポリ王)|フェルディナンド2世]]、[[ナポリ王国|ナポリ]]王(+ [[1496年]])
* [[フアン・デル・エンシーナ]]、[[スペイン]]のルネサンス期の[[作曲家]]、[[詩人]]、[[劇作家]](+ [[1533年]])
* [[葛西晴重]]、戦国時代の[[戦国大名]]、[[陸奥国|陸奥]][[葛西氏]]の第14代当主(+ [[1534年]])
* [[相良長毎]]、戦国時代の戦国大名、[[相良氏]]の第13代当主(+ [[1518年]])
* [[三条実香]]、戦国時代の[[公卿]](+ [[1559年]])
* [[敷地藤安]]、戦国時代の武将(+ [[1540年]])
* [[長尾景長]]、戦国時代の武将(+ [[1528年]])
* [[日鎮]]、戦国時代の僧、[[日蓮正宗]]総本山[[大石寺]]第12世法主(+ [[1527年]])
* [[畠山義豊]]、戦国時代の守護大名、戦国大名(+ [[1499年]])
* [[フアン3世 (ナバラ王)|フアン3世]]、[[ナバラ王国|ナバラ]]王、[[アルブレ]]伯(+ [[1516年]])
* [[ジョン・フィッシャー]]、[[イングランド]]の聖職者、[[カトリック教会]]、[[聖公会]]の聖人(+ [[1535年]])
* [[明宗 (僧)|明宗]]、戦国時代の[[浄土真宗]]の僧(+ [[1540年]])
* [[ヤドヴィガ・チェシンスカ]]、[[ハンガリー]]の貴族、[[サポヤイ・イシュトヴァーン]]の妻(+ [[1521年]])
* [[矢部宗春]]、[[室町時代]]の武将(+ 1489年?)
== 死去 ==
{{see also|Category:1469年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月18日]](応仁2年[[12月6日 (旧暦)|12月6日]]) - [[少弐教頼]]、室町時代の守護大名、[[少弐氏]]の第14代当主(* 1426年?)
* [[2月19日]](応仁3年[[1月8日 (旧暦)|1月8日]]) - [[伊達持宗]]、室町時代の守護大名、[[伊達氏]]の第11代当主(* [[1393年]])
* [[3月1日]](応仁3年[[1月18日 (旧暦)|1月18日]]) - [[大森頼春]]、室町時代の武将(* 生年不詳)
* [[6月1日]](応仁3年[[4月21日 (旧暦)|4月21日]]) - [[快元 (臨済宗)|快元]]、室町時代の[[臨済宗]]の僧(* 生年不詳)
* [[9月16日]](文明元年[[8月11日 (旧暦)|8月11日]]) - [[季瓊真蘂]]、室町時代の臨済宗の僧(* [[1401年]])
* [[10月6日]](文明元年[[9月1日 (旧暦)|9月1日]]) - [[長尾頼景]]、室町時代の[[守護代]](* 1390年/1400年)
* [[10月8日]] - [[フィリッポ・リッピ]]、イタリアのルネサンス期の[[画家]](* [[1406年]])
* [[11月20日]](文明元年[[10月17日 (旧暦)|10月17日]]) - [[一条政房]]、室町時代の公卿(* [[1443年]])
* [[12月2日]] - [[ピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチ]]、[[メディチ家]]の当主(* [[1416年]])
* [[12月15日]](文明元年[[11月12日 (旧暦)|11月12日]]) - [[町藤光]]、室町時代の公卿(* [[1390年]])
* [[12月31日]]([[成化]]5年[[11月28日 (旧暦)|11月28日]]) - [[睿宗 (朝鮮王)|睿宗]]、[[李氏朝鮮]]の第8代国王(* [[1450年]])
* [[アブー・サイード (ティムール朝)|アブー・サイード]]、[[ティムール朝]]の第7代君主(* [[1424年]])
* [[ベネデット・コトルリ]]、[[クロアチア]]出身の[[商人]]、[[人文主義者]]、[[科学者]]、[[アラゴン王国]][[外交官]]、[[ナポリ王国]][[裁判所]][[裁判官]](* [[1416年]])
* [[尚徳王]]、[[琉球王国]]の[[第一尚氏王統]]の第7代国王(* [[1441年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1469}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=15|年代=1400}}
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== 他の紀年法 ==
* [[干支]]:[[丙辰]]
* [[日本]]
** [[承保]]3年
** [[皇紀]]1736年
* [[中国]]
** [[北宋]] : [[熙寧]]9年
** [[遼]] : [[太康 (遼)|太康]]2年
** [[西夏]] : [[大安 (西夏)|大安]]2年
** [[大理国]] : [[上徳]]元年
* [[朝鮮]]
* [[ベトナム]]
** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[太寧 (李朝)|太寧]]5年・[[英武昭勝]]元年
* [[仏滅紀元]] :
* [[ユダヤ暦]] :
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1076|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[中国]][[広東省]]に巨大[[津波]]<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3205074?cx_part=outbrain 中国、西暦1076年に大津波被災か 将来の襲来リスク指摘する声も][[フランス通信社|AFP]]、2019年1月4日</ref>。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1076年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[5月10日]] (承保3年[[4月5日 (旧暦)|4月5日]]) - [[媞子内親王]]、[[平安時代]]の[[皇族]] (+ [[1096年]])
* [[6月1日]] - [[ムスチスラフ1世]]、[[キエフ大公国|キエフ大公]] (+ [[1132年]])
* [[哲宗 (宋)|哲宗]]、[[中国]]・[[北宋]]の第7代皇帝(+ [[1100年]])
* [[藤原苡子]]、[[堀河天皇]]の[[女御]] (+ [[1103年]])
* [[藤原重隆]]、平安時代の[[公家]] (+ [[1118年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1076年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[3月21日]] - [[ロベール1世 (ブルゴーニュ公)|ロベール1世]]、[[ブルゴーニュ公一覧|ブルゴーニュ公]] (* [[1011年]])
* [[4月7日]] (承保3年[[3月2日 (旧暦)|3月2日]]) - [[藤原師兼]]、[[平安時代]]の[[公卿]] (* [[1048年]])
* [[7月6日]] (承保3年[[6月3日 (旧暦)|6月3日]]) - [[平常将]]、平安時代の[[武将]] (* [[1010年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1076}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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] | 1240年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。 | {{年代ナビ|1240}}
{{year-definition|1240}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[庚子]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[延応]]2年、[[仁治]]元年[[7月16日 (旧暦)|7月16日]] -
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]1900年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[南宋]] : [[嘉熙]]4年
* 中国周辺
** [[モンゴル帝国]]{{Sup|*}} : 太宗([[オゴデイ]])12年
** [[大理国]] : [[道隆]]2年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[高麗]] : [[高宗 (高麗王)|高宗]]27年
** [[檀君紀元|檀紀]]3573年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[陳朝]] : [[天応政平]]9年
* [[仏滅紀元]] : 1782年 - 1783年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 637年 - 638年
* [[ユダヤ暦]] : 5000年 - 5001年
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1240|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[モンゴルのルーシ侵攻]]における[[キエフの戦い (1240年)|キエフの戦い]]で[[モンゴル帝国]]が勝利を収め、[[キエフ大公国]]は事実上崩壊した。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1240年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[3月30日]](仁治元年[[3月6日 (旧暦)|3月6日]]) - [[凝然]]、[[鎌倉時代]]の[[東大寺]]の[[僧]](+ [[1321年]])
* [[9月29日]] - [[マーガレット・オブ・イングランド]]、[[スコットランド王国|スコットランド]]王[[アレグザンダー3世 (スコットランド王)|アレグザンダー3世]]の王妃(+ [[1275年]])
* [[足利頼氏]]、鎌倉時代の[[御家人]](+ [[1297年]]?)
* [[アルブレヒト2世 (マイセン辺境伯)|アルブレヒト2世]]、[[テューリンゲンの君主一覧|テューリンゲン方伯]]、[[マイセン辺境伯]](+ [[1314年]])
* [[久我通基]]、鎌倉時代の[[公卿]](+ [[1309年]])
* [[度宗]]、[[南宋]]の第6代[[皇帝]](+ [[1274年]])
* [[チマブーエ]]、[[イタリア]]の[[ゴシック期]]の[[画家]](+ [[1302年]])
* [[陳聖宗]]、[[大越]][[陳朝]]の第2代皇帝(+ [[1291年]])
* [[ニケフォロス1世 (エピロス専制公)|ニケフォロス1世]]、[[エピロス専制侯国]]の[[専制公]](+ [[1296年]])
* [[ベネディクトゥス11世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス11世]]、第194代[[教皇|ローマ教皇]](+ [[1304年]])
* [[北条時茂]]、鎌倉時代の[[武将]](+ [[1270年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1240年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月18日]](仁治元年[[1月24日 (旧暦)|1月24日]]) - [[北条時房]]、[[鎌倉時代]]の[[武将]]、[[鎌倉幕府]][[連署]]、初代[[六波羅探題]]南方(* [[1175年]])
* [[4月10日]](延応2年[[3月17日 (旧暦)|3月17日]]) - [[九条良平]]、鎌倉時代の[[公卿]](* [[1184年]])
* [[6月19日]](延応2年[[5月21日 (旧暦)|5月21日]]) - [[藤原秀能]]、鎌倉時代の[[武士]]、[[歌人]](* [[1184年]])
* [[7月24日]] - [[コンラート・フォン・テューリンゲン]]、[[ヘッセン州|ヘッセン]]=グーデンスベルク伯、[[ドイツ騎士団]]総長(* [[1206年]])
* [[11月10日]] - [[イブン・アラビー]]<ref>{{cite web |url = http://www.wdl.org/en/item/7437/ |title = The Meccan Revelations |website = [[World Digital Library]] |date = 1900-1999 |accessdate = 2021-03-16 }}</ref>、[[スーフィズム|イスラム神秘主義]]の[[思想家]](* [[1165年]])
* 11月10日(仁治元年[[10月25日 (旧暦)|10月25日]]) - [[二階堂基行]]、鎌倉幕府の[[評定衆]](* [[1198年]])
* [[12月6日]] - [[コンスタンツィエ・ウヘルスカー]]、[[ボヘミア王国|ボヘミア]]王[[オタカル1世 (ボヘミア王)|オタカル1世]]の2度目の王妃(* [[1181年]]?)
* [[ラズィーヤ]]、[[奴隷王朝]]の第4代[[君主]](* [[1205年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1240}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=13|年代=1200}}
{{デフォルトソート:1240ねん}}
[[Category:1240年|*]] | null | 2022-05-14T14:26:33Z | false | false | false | [
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"Template:Clear",
"Template:See also"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1240%E5%B9%B4 |
8,463 | 1506年 | 1506年(1506 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。 | [
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] | 1506年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。 | {{年代ナビ|1506}}
{{year-definition|1506}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[丙寅]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[永正]]3年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2166年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]] : [[正徳 (明)|正徳]]元年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[燕山君]]12年、[[中宗 (朝鮮王)|中宗]]元年
** [[檀君紀元|檀紀]]3839年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[端慶]]2年
* [[仏滅紀元]] : 2048年 - 2049年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 911年 - 912年
* [[ユダヤ暦]] : 5266年 - 5267年
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1506|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[12月8日]] - [[ジグムント1世 (ポーランド王)|ジグムント1世スタルィ]]が[[セイム (ポーランド・リトアニア共和国)|セイム]]で[[ポーランド国王|ポーランド王]]に選出される
* [[トリスタン・ダ・クーニャ (探検家)|トリスタン・ダ・クーニャ]]が島を発見し、[[トリスタンダクーニャ]]と命名する
* [[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]と彼の友人でもあり、共同研究者でもある{{仮リンク|トマス・マシニ|label=トマス・マシニ|en|Tommaso Masini}}が[[フィレンツェ共和国]]の[[チェチェリ山]]で飛行実験を行う
== 誕生 ==
{{see also|Category:1506年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月15日]] - [[ユリアーナ・ツー・シュトルベルク]]、[[ハーナウ=ミュンツェンベルク]]伯[[フィリップ2世 (ハーナウ=ミュンツェンベルク伯)|フィリップ2世]]の妻。オラニエ公[[ウィレム1世 (オラニエ公)|ウィレム1世]]の母親(+ [[1580年]])
* [[3月3日]] - [[ルイス (ベージャ公)|ルイス]]、[[ポルトガル王国|ポルトガル]]の王子(+ [[1555年]])
* [[4月7日]] - [[フランシスコ・ザビエル]]、[[スペイン]]の[[宣教師]]、[[日本]]に初めて[[キリスト教]]を伝えた(+ [[1552年]])
* [[4月13日]] - [[ピエール・ファーヴル]]、フランスの[[カトリック教会|カトリック]][[司祭]]、[[イエズス会]]創立者の一人(+ [[1546年]])
* [[7月1日]] - [[ラヨシュ2世 (ハンガリー王)|ラヨシュ2世]]、[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王、[[ボヘミア王国|ボヘミア]]王(+ [[1526年]])
* [[穴山信友]]、戦国時代の武将(+ [[1560年]])
* [[井伊直盛]]、戦国時代の武将(+ [[1560年]])
* [[飯田興秀]]、戦国時代の武将(+ [[1557年]])
* [[今出川公彦]]、戦国時代の公卿、[[菊亭家|今出川家]]の当主(+ [[1578年]])
* [[城井長房]]、戦国時代の戦国大名、[[城井氏]]の第15代当主(+ [[1588年]])
* [[グン・ビリク・メルゲン晋王]]、[[オルドス部]]・トゥメンの晋王(+ [[1542年]])
* [[桑折景長]]、戦国時代の武将(+ [[1577年]])
* [[児玉就忠]]、戦国時代の武将(+ [[1562年]])
* [[杉興運]]、戦国時代の武将(+ [[1551年]])
* [[ソコルル・メフメト・パシャ]]、[[オスマン帝国]]の[[大宰相]](+ [[1579年]])
* [[広橋兼秀]]、戦国時代の公卿、[[広橋家]]の第15代当主(+ [[1567年]])
* [[由良成繁]]、戦国時代の武将(+ [[1578年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1506年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月13日]](永正3年[[1月21日 (旧暦)|1月21日]]) - [[毛利弘元]]、室町時代、戦国時代の武将(* [[1466年]])
* [[5月4日]] - [[フサイン・バイカラ]]、[[ティムール朝]]ヘラート政権の君主(* [[1438年]])
* [[5月20日]] - [[クリストファー・コロンブス]]、[[ジェノヴァ]]出身の[[探検家]]、[[航海者]]、商人(* 1451年頃)
* [[5月23日]](永正3年[[5月1日 (旧暦)|5月1日]]) - [[葛西政信]]、室町時代、戦国時代の戦国大名、[[陸奥国|奥州]][[葛西氏]]の第13代当主(* [[1433年]])
* [[7月26日]] - [[アンヌ・ド・フォワ]]、[[ハンガリー王国|ハンガリー]]と[[ボヘミア王国|ボヘミア]]の王[[ウラースロー2世 (ハンガリー王)|ウラースロー2世]]の3番目の妃(* [[1484年]])
* 8月 - [[アレクサンダー・アグリコラ]]、[[フランドル楽派]]の[[作曲家]](* 1445年/1446年)
* [[8月19日]] - [[アレクサンデル (ポーランド王)|アレクサンデル]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Alexander-king-of-Poland Alexander king of Poland] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[リトアニア大公国|リトアニア大公]]、[[ポーランド王国|ポーランド王]](* [[1461年]])
* [[9月13日]] - [[アンドレア・マンテーニャ]]、イタリアの[[画家]](* [[1431年]])
* [[9月25日]] - [[フェリペ1世 (カスティーリャ王)|フェリペ1世]]、[[カスティーリャ君主一覧|カスティーリャ王]]、[[ブルゴーニュ公]](* [[1478年]])
* [[10月5日]](永正3年[[9月19日 (旧暦)|9月19日]]) - [[長尾能景]]、室町時代、戦国時代の戦国大名、守護代。[[長尾氏|越後長尾家]]第6代当主(* [[1464年]])
* [[11月20日]] - [[燕山君]]、[[李氏朝鮮]]の第10代国王(* [[1476年]])
* [[ジョアン1世 (コンゴ王)|ジョアン1世]]、[[コンゴ王国]]の国王(* 生年不詳)
* [[雪舟]]、室町時代、戦国時代の水墨画家・[[禅僧]](* [[1420年]])
* [[張緑水]]、李氏朝鮮国王、燕山君の[[後宮]](* 生年不詳)
* [[天然浄祐]]、室町時代、戦国時代の[[浄土宗]]・[[浄土真宗]]の僧(* [[1442年]])
* [[ベアトリス・デ・ポルトゥガル (1430-1506)|ベアトリス・デ・ポルトゥガル]]、ヴィゼウ公[[フェルナンド (ヴィゼウ公)|フェルナンド]]の妻(* [[1430年]])
* [[牧野古白]](成時)、戦国時代の[[武将]](* 生年不詳)
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1506}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=16|年代=1500}}
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[[Category:1506年|*]] | null | 2021-08-15T03:01:27Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1506%E5%B9%B4 |
8,464 | 1454年 | 1454年(1454 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。 | [
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] | 1454年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。 | {{年代ナビ|1454}}
{{year-definition|1454}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[甲戌]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[享徳]]3年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2114年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]] : [[景泰]]5年
*** [[エセン・ハーン]] : [[添元]]2年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[端宗 (朝鮮王)|端宗]]2年
** [[檀君紀元|檀紀]]3787年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[延寧]]元年
* [[仏滅紀元]] : 1996年 - 1997年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 858年 - 859年
* [[ユダヤ暦]] : 5214年 - 5215年
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1454|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[3月27日]] - [[イングランド]]で[[リチャード・プランタジネット (第3代ヨーク公)|ヨーク公爵リチャード]]が[[護国卿]]に就任。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1454年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[3月9日]] - [[アメリゴ・ヴェスプッチ]]、[[イタリア]]の[[フィレンツェ共和国]]の[[探検家]]・[[商人]](+ [[1512年]])
* [[7月14日]] - [[アンジェロ・ポリツィアーノ]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Poliziano Poliziano Italian poet and humanist] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、イタリアの[[ルネサンス]]期の[[人文主義者]]、[[詩人]](+ [[1494年]])
* [[9月4日]] - [[ヘンリー・スタッフォード (第2代バッキンガム公爵)|ヘンリー・スタッフォード]]、イングランドの[[貴族]]、[[バッキンガム公]](+ [[1483年]])
* [[上杉顕定]]、[[室町時代]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[関東管領]]、[[守護]](+ [[1510年]])
* [[大舘尚氏]]、室町時代、戦国時代の[[室町幕府]][[奉公衆]](+ 1546年以後)
* [[金春禅鳳]]、室町時代、戦国時代の[[能楽師]](+ [[1532年]]?)
* [[ドメニコ・マリア・ノヴァーラ]]、イタリアの[[天文学者]](+ [[1504年]])
* [[ピントゥリッキオ]]、イタリアのルネサンス期の[[画家]](+ [[1513年]])
* [[龍造寺家兼]]、室町時代、戦国時代の[[戦国大名]](+ [[1546年]])
* [[ルネ (アランソン公)|ルネ]]、[[フランス]]の貴族、[[ヴァロワ=アランソン家|アランソン公]](+ [[1492年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1454年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[7月2日]](享徳3年[[5月27日 (旧暦)|5月27日]]) - [[伊勢貞国]]、室町時代の幕府[[政所]][[執事]](* [[1398年]])
* [[7月18日]](享徳3年[[6月23日 (旧暦)|6月23日]])? - [[千葉胤将]]、室町時代の[[守護大名]]、[[千葉氏]]当主(* 生年不詳)
* [[7月20日]] - [[フアン2世 (カスティーリャ王)|フアン2世]]、[[カスティーリャ王国]]の国王(* [[1405年]])
* [[エセン・ハーン]]、[[オイラト]]の首長(* 生年不詳)
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1454}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=15|年代=1400}}
{{デフォルトソート:1454ねん}}
[[Category:1454年|*]] | null | 2021-12-20T13:21:51Z | false | false | false | [
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"Template:十年紀と各年",
"Template:他の紀年法",
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"Template:Commonscat"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1454%E5%B9%B4 |
8,465 | 1467年 | 1467年(1467 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
| [
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"text": "1467年(1467 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。",
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"title": "死去"
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] | 1467年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。 | {{年代ナビ|1467}}
{{year-definition|1467}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[丁亥]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[文正]]2年、[[応仁]]元年[[3月5日 (旧暦)|3月5日]]([[ユリウス暦]][[4月9日]]) -
*** [[古河公方]] : [[享徳]]16年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2127年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]] : [[成化]]3年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[世祖 (朝鮮王)|世祖]]13年
** [[檀君紀元|檀紀]]3800年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[光順]]8年
* [[仏滅紀元]] : 2009年 - 2010年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 871年 - 872年
* [[ユダヤ暦]] : 5227年 - 5228年
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== カレンダー ==
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== できごと ==
* [[応仁の乱]](-[[1477年]])。
* 李氏朝鮮、[[建州女直]]を攻撃。
== 誕生 ==
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* [[1月1日]] - [[ジグムント1世 (ポーランド王)|ジグムント1世]]、[[ポーランド国王|ポーランド王]]、[[リトアニアの統治者の一覧|リトアニア大公]](+ [[1548年]])
* [[7月2日]](応仁元年[[6月1日 (旧暦)|6月1日]]) - [[大石定重]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]、[[守護代]](+ [[1527年]])
* [[10月21日]] - [[ジョヴァンニ・デ・メディチ・イル・ポポラーノ]]、[[イタリア]]の貴族(+ [[1498年]])
* [[上杉憲房 (戦国時代)|上杉憲房]]、戦国時代の[[守護大名]]、[[戦国大名]]、[[関東管領]](+ [[1525年]])
* [[志道広良]]、戦国時代の武将、[[志道氏]]の当主(+ [[1557年]])
* [[島津善久]]、戦国時代の武将(+ [[1494年]])
* [[武田元繁]]、戦国時代の武将、[[武田氏#安芸武田氏|安芸武田氏]]の当主(+ [[1517年]])
* [[ペドロ・アルヴァレス・カブラル]]、[[ポルトガル]]の探検家(+ [[1520年]])
* [[山中勝重]]、戦国時代の武将(+ [[1538年]])
== 死去 ==
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* [[2月6日]](文正2年[[1月2日 (旧暦)|1月2日]]) - [[音阿弥]]、[[室町時代]]の[[猿楽]][[能]]役者(* [[1398年]])
* [[2月11日]](文正2年[[1月7日 (旧暦)|1月7日]]) - [[花山院持忠]]、室町時代の[[公卿]](* [[1405年]])
* [[4月30日]] - [[ジャン・ドルレアン (アングレーム伯)|ジャン・ドルレアン]]、[[フランス王国|フランス]]の王族、[[アングレーム]]伯(* [[1400年]])
* [[6月15日]] - [[フィリップ3世 (ブルゴーニュ公)|フィリップ3世]]、[[ヴァロワ=ブルゴーニュ家]]の第3代[[ブルゴーニュ公一覧|ブルゴーニュ公]](* [[1396年]])
* [[9月3日]] - [[エレオノーレ・フォン・ポルトゥガル]]、[[神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ3世]]の皇后(* [[1436年]])
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* [[11月8日]](応仁元年[[10月3日 (旧暦)|10月3日]]) - [[安富元綱]]、室町時代の武将(* 生年不詳)
* [[吉良義尚]]、室町時代の武将(* [[1414年]])
* [[マリヤ・ボリソヴナ]]、[[モスクワ大公]][[イヴァン3世]]の最初の妃(* 1442年頃)
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== 関連項目 ==
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8,466 | 鎌倉幕府 | 鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、源頼朝が創設した日本の武家政権。この時代を鎌倉時代という。
頼朝の死後、幕府に仕えた坂東武士(御家人)の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は北条氏による執権、やがて北条義時の嫡流である得宗が鎌倉幕府の実質的な支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。
『吾妻鏡』によれば1180年(治承4年)12月12日に鎌倉の大倉郷に頼朝の邸となる大倉御所が置かれ、また幕府の統治機構の原型ともいうべき侍所が設置されて武家政権の実態が形成された。朝廷は寿永二年十月宣旨(1183年)で頼朝に対し、東国における荘園・公領からの官物・年貢納入を保証させると同時に、頼朝による東国支配権を公認した。壇ノ浦の戦い(元暦2年/寿永4年(1185年))で平氏を滅ぼし、同年、文治の勅許(文治元年(1185年))では頼朝へ与えられた諸国への守護・地頭職の設置・任免を許可した。そして建久元年(1190年)頼朝が権大納言兼右近衛大将に任じられ、公卿に列し荘園領主の家政機関たる公文所(のちの政所)開設の権を得たことで、いわば統治機構としての合法性を帯びるようになり、建久3年(1192年)には征夷大将軍の宣下がなされた。こうして、名実ともに武家政権として成立することとなった。守護の設置で幕府は諸国の治安維持を担当したものの、当初は特に西日本では朝廷およびその出先機関である国府との二重支配状態だったが、次第に範囲を拡大。承久の乱や元寇を経て、全国的な支配権を確立するに至った。
当初の鎌倉幕府は鎌倉殿を主宰者とする武士を首班とした地方政権で、支配は東国を中心としており、承久の乱後に全国政権へと飛躍し、権力を拡大させたものであるが、そもそも当初から全国政権を志向したわけでなく、あくまで朝廷権力を前提とした地方政権であった。その大きな理由のひとつが、鎌倉幕府は荘園公領制を前提とした政権であることである。したがって中央の権門の領地(荘園・公領)の権利を冒さず、彼らへ年貢を滞りなく納めることを保証することが、幕府の重要な任務・意義としていた。
地方で土地を私有する武士団の起源は、天平15年(743年)、朝廷が効果的に収税を行うべく発布した墾田永年私財法の施行により土地私有が公認されたことに由来し、古来の豪族や有力農民などが土地を私有するようになったが、国司による厳しい徴税を回避すべく有力地主たちは公卿に土地の一部を寄進し、荘園の荘官(開発領主)としての地位を得たことが契機であった。寄進した貴族の保護は受けるとはいえ、今度は寄進した荘園領主からの取り立てや国司との摩擦、近隣豪族の侵略も絶えず、有力農民たちはいつしか武装するようになり、武士が誕生する。
やがて有力農民たちに由来する武士は、武士団の起源となり、都から派遣された下級貴族(官人)、さらに源朝臣や平朝臣など堂上家や地下家を上位の軍事貴族を棟梁として仰ぎ、主従関係を結ぶことによって本領安堵(郡領惣村、宿場(駅家)や港(水駅)の経営など、また盗賊(落ち武者狩り)や海賊(水軍)参照)を確実なものとした。棟梁の戦に従軍し、新たな領地を与えられることで繁栄の糸口を得たのである。
源頼朝はそうした各地の武士団を統べる貴族の名門中の名門であり、頼朝の鎌倉幕府とは、御家人となった武士に地頭職を授けることで本領安堵を行い、武功により新たな領地を与える新恩給与を行う、まさに荘園公領制を媒介とした、御恩と奉公により武士の利害を代表する政権であったといえる。そして、鎌倉幕府の政治的基盤および軍事的・経済的基盤は、頼朝が平氏追討の恩賞などとして獲得した関東知行国、関東御領であった。
そして、鎌倉幕府が朝廷権力を前提とした政権であるという二つ目の理由が、鎌倉幕府は律令法制上、様々な存立根拠を満たして成立しているという点である。
もともと伊豆で蛭ヶ小島の流人であった頼朝が平氏追討の兵を挙げる前提となった出来事は、以仁王のいわゆる「令旨」(厳密には御教書)であった。大庭景親をはじめとする関東の平家方武士団を破った頼朝は、治承4年(1180年)、鎌倉に拠点を置き統治を開始するが、この時点ではまだ平将門と変わらない、ごく私的な政権に過ぎなかった。しかし、寿永2年(1183年)に入り、朝廷は頼朝を平家に敗れて流人となる前の従五位下に復し、頼朝の要望に従い平氏が東国で行った荘園や公領の横領を廃止し、元の国司や荘園領主に帰属させる権限を承認する、いわゆる東国沙汰権を付与した。そしてこの権限の履行のために東国の地方官である国衙を指揮する権能も認められたのである。いわゆる寿永二年十月宣旨である。
元暦2年(1185年)3月24日には、壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼすことに成功した頼朝は朝敵追討の功労者として平家の所有していた荘園、いわゆる平家没官領の支配権を要求して承認され、後に鎌倉殿直轄の荘園、関東御領と呼ばれる所領を獲得した。また平家滅亡後、頼朝に叛旗を翻した弟・源義経と叔父・源行家が後白河法皇から頼朝追討の院宣を下されると、頼朝はこれに抗議し、朝廷を頼朝の推薦した公卿を議奏として、議奏をもって朝廷の政治を担当させること、義経・行家追討の院宣を発すること、加えてその追討のために東国および畿内に守護及び地頭を置くことを認可し、さらに荘園公領を問わず、反別五升の兵粮米の徴収権を頼朝に与えることを求めた。いわゆる、文治の勅許である。
その後、頼朝は東北に強大な独立勢力を築いていた奥州藤原氏を滅ぼし、建久元年(1190年)11月、権大納言兼右近衛大将に任ぜられた(位階は既に元暦二年(1185年)に従二位に叙され、文治5年(1189年)に正二位に昇叙されていた)。
これによって、三位以上の公卿に認められる、家政機関政所の設置が公に認められ、それまで頼朝が独自に設置してきた公文所を政所と改め、官職・右近衛大将の略称である右大将にちなみ、右大将家政所と称した。それまで頼朝個人としての官職復帰や、東国沙汰権を拠り所としていた鎌倉の東国政権は、朝廷公認の家政機関としての位置付けを得て、統治機構としての正当性を獲得したのである。建久2年(1191年)1月15日、鎌倉に帰還した頼朝は年頭行事や祝い事など画期に行われる吉書始を行い、右大将家政所を司る四等官として政所別当に大江広元、令に二階堂行政、案主に藤井俊長、知家事に中原光家をそれぞれ任じ、問注所執事に三善善信、侍所別当に和田義盛、侍所所司に梶原景時、公事奉行人に藤原親能他6名、京都守護に外戚で公卿でもある一条能保、鎮西奉行人に天野遠景を任じ、鎌倉幕府の陣容を固めた。
建久3年(1192年)7月12日、頼朝は朝廷から征夷大将軍を宣下された。『山槐記』建久3年(1192年)7月9日条および12日条によると、頼朝が望んだのは「大将軍」であり、それを受けた朝廷で「惣官」「征東大将軍」「征夷大将軍」「上将軍」の4つの候補が提案されて検討された結果、平宗盛の任官した「惣官」や源義仲の任官した「征東大将軍」は凶例であるとして斥けられ、また「上将軍」も日本では先例がないとして、坂上田村麻呂の任官した「征夷大将軍」が吉例として選ばれたという。この時代においては名誉職化していた征夷大将軍に、左大臣にも相当する正二位という高位で就いたことは、軍権に基づく政権担当者という意味合いが加わり、これが幕府の主宰者に世襲されたことによって、鎌倉幕府は朝廷に代わる政権として名実ともに確立された。また、戦時において全国の兵馬を動員できる征夷大将軍への任命は、頼朝に非常大権を付与せしめることを意味した。後に源頼朝は武家政権の始祖として武士に神聖視されることとなる。
このように、鎌倉幕府は朝廷の公的制度である荘園公領制を前提とし、朝廷から幾重もの権限承認、委譲を受け、成立した政権であるということができる。鎌倉殿自身が得た大規模な荘園所領も、将軍の高い官位に伴う職権として、朝廷から世襲が制度上も認められた。
平安時代末期、平清盛を中心とする平氏政権が成立していたが、旧勢力や対抗勢力には強い反感・抵抗感があった。1180年、後白河法皇の皇子以仁王が平氏追討の兵を挙げ、すぐ討ち取られたものの、これを契機に全国的に反平氏を標榜する勢力が立ち上がっていった。
そうした状況の中で、伊豆に流罪となっていた源頼朝は8月に挙兵し、石橋山の戦いで敗れたものの、安房から上総国・下総国にかけての平氏系の武士団(坂東平氏)らの支持を獲得し、同年10月、先祖ゆかりの地である鎌倉へ入り本拠地とした。頼朝は、関東武士団を統率するための侍所を置き、鎌倉殿と称されるようになった。その直後の富士川の戦いで平氏軍に勝利した。
1183年7月、源義仲が平氏を京から追放したが、乱暴な行動を重ねた。これを憂慮した後白河法皇は、頼朝へ上洛を求めたが、頼朝は逆に東海道・東山道・北陸道の荘園・公領を元のように国司・本所に返還させる内容の宣旨(寿永二年十月宣旨)の発給を要求した。朝廷は、義仲に配慮して北陸道は除いたものの、頼朝の要求をほぼ認めた。これにより、頼朝は東海・東山両道の支配権を間接的ではあるが獲得した。
こうして、名実ともに東国の支配権を確立していった頼朝は、1184年、行政を担当する公文所(後の政所)と司法を担当する問注所を置いて、政権の実態を形成していった。同時に、頼朝は弟の源範頼・源義経を派遣し、平氏追討に当たらせ、1185年、壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡させた。
同年、源義経・源行家が頼朝に無断で官位を得るなどしたため、頼朝は両者追討の院宣を後白河法皇から獲得するとともに、両者の追捕を名目に、守護・地頭の任免権を承認させた。これを文治の勅許という。これにより頼朝政権は、全国の軍事権・警察権を掌握したため、この時期をもって幕府成立とする説が有力とされている。守護・地頭には、兵糧米の徴収権、在庁官人の支配権などが与えられ、これは頼朝政権が全国的に在地支配を拡げる契機となった。この時の頼朝政権の在地支配は、まだ従来の権門勢家による支配に優越した訳ではなく、地頭の設置も平氏の旧領(平家没官領)などに限定されていた。
1189年、頼朝政権は、義経を匿ったことを口実として奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼし、対抗しうる武家勢力はいなくなった。頼朝政権は治承の乱から義経追捕、そして奥州合戦へと続く一連の内乱の流れの中で幕府のその基礎を固めることに成功した。このため、「内乱に勝利したから幕府ができたのではなく、幕府ができたので内乱に勝利した」とする評価もある。
1190年、頼朝は常設武官の最高職である右近衛大将に補任されたが、同職には様々な政治的制約も付随していたため、すぐに辞している。1192年、頼朝は征夷大将軍に任命される。これにより、鎌倉幕府の形成がひとまず完了することとなる。ただし、1221年の承久の乱での勝利をもって幕府の成立とする見解もある。
以上のように、鎌倉幕府は元々、源頼朝の私的政権に発している。この私的政権は、朝廷から承認されることによって、支配権の正統性を獲得していった。そのため、幕府の支配権の及ぶ範囲は守護の設置などで諸国の軍事・警察権を得たものの、支配は主として頼朝傘下の御家人に限られ、少なくとも承久の乱までは朝廷側勢力(権門勢家)の支配権を侵害しないことを原則としていた。また、幕府機構を見ると、朝廷のそれと大きく異なり、鎌倉殿の家政機関としての性格を色濃く残していた。
鎌倉幕府の確立を成し遂げた源頼朝は、正治元年(1199年)1月に突然死去した。跡を継いで鎌倉殿となったのは、頼朝の嫡子で当時18歳の源頼家だった。しかし、幕府の有力者たちは若年の頼家に政務を任せることに不安を抱き、有力御家人が頼家に代わって裁判と政務を執行する十三人の合議制と呼ばれる政治体制を築いた。この合議制の中心にいたのは頼家の外戚にあたる北条氏であり、北条時政・北条義時父子は他の有力御家人を次々と滅ぼしていった(1200年:梶原景時の変、1203年:比企能員の変)。
1203年、重病に陥った頼家は、外祖父時政の手により伊豆の修禅寺へ幽閉され、弟の源実朝が次の鎌倉殿・将軍位に就くと、翌1204年に頼家は死亡した。時政ら北条氏の手勢により暗殺されたと伝えられている。時政は、3代将軍実朝を補佐して執権と呼ばれる地位に就き、政治の実権を握っていった。翌1205年、時政は娘婿の平賀朝雅を将軍にしようと画策、朝雅と対立する畠山重忠を殺害し、実朝を廃そうとした(畠山重忠の乱)。しかし、時政の子の義時と北条政子はこの動きに反発し、有力御家人と連帯して、時政を引退させるとともに、平賀朝雅を抹殺した(牧氏事件)。
この後、北条義時が執権となり、北条氏権力の確立に努めたが、侍所別当の和田義盛が対抗勢力として現れた。義時は計略をめぐらし、1213年、和田一族を滅ぼした(和田合戦)。このように、武力紛争が絶えない幕府の状況は、承久元年(1219年)1月の将軍・源実朝の暗殺という最悪の事態に至る。頼朝の直系が断絶し、困惑した幕府は、朝廷へ親王将軍を要望したが、治天の君・後鳥羽上皇はこれを拒否し、曲折の末、頼朝の遠縁に当たる摂関家の幼児藤原頼経が新将軍=鎌倉殿として迎え入れられた。この後の2代の鎌倉殿は摂家将軍と呼ばれる。こうして幕府の実権は、執権の北条氏が掌握することとなった。
後鳥羽上皇は、治天として専制的な政治を指向し、幕府の存在を疎ましく感じていた。実朝の暗殺を幕府の混乱・弱体化と見た後鳥羽上皇は、政権を朝廷に取り戻そうと考えた。そして、承久3年(1221年)5月、後鳥羽上皇は北条義時追討の院宣を発した(ただし、幕府の存続を前提に義時を討ち取って自己に都合のよい体制に作り変えようとしたものか、幕府そのものを倒す意図があったのかについては意見が分かれている)。それまでの歴史から後鳥羽上皇は、ほどなく義時が討ち取られ、関東武士たちも帰順すると見込んでいたが、幕府側は頼朝以来の御恩を訴え、御家人の大多数を味方につけた。そして、短期決戦策を採り、2か月も経たないうちに朝廷軍を打ち破った。
幕府側の主導で戦後処理が進められ、主謀者の後鳥羽上皇、そして後鳥羽上皇の系譜の上皇・皇子が流罪に処せられ、仲恭天皇は廃位、朝廷側の貴族・武士も多くが死罪とされた。当時の人々は、治天の君をはじめとする朝廷側の上皇・天皇・諸臣が処罰される事態に大きな衝撃を受けた。当時の社会における価値観は正反対に転換した。朝廷の威信は文字どおり地に落ち、幕府は朝廷監視のために六波羅探題を置き、朝廷に対する支配力を強めることとなる。
乱後、朝廷は次代の天皇を誰にするかを幕府へ諮った。これ以降、朝廷は治天・天皇を決定する際は必ず幕府の意向を確認するようになり、幕府と朝廷の立場が逆転したことを物語る。
1224年(元仁元年)に北条義時、1225年(嘉禄元年)に北条政子や大江広元といった幕府創業世代が死去し、義時の子北条泰時が執権となった。泰時は、世代交代期の混乱を防ぐため、叔父の北条時房を執権の補佐役といえる連署に当てる(ただし、時房は本来は泰時と同役の執権であったとする見方もある)とともに、政治意思決定の合議機関である評定衆を設置し、集団指導体制を布いた。これには、基本的に鎌倉幕府は、鎌倉殿(将軍)と個々の御家人の主従関係によって成り立っているという事情がある。北条氏も鎌倉殿の家来のひとりに過ぎず、数ある御家人の第一人者であっても主君ではなかったのである。
承久の乱後、急増した訴訟事件を公平に処理するため、泰時は明確な裁判基準を定めることとした。これが御成敗式目と呼ばれる法典(武家法)であり、平易で実際的な法令と評価されている。後の室町幕府も、この法令を原則として継承している。また、泰時は、式目制定に当たって、朝廷の司法権を侵害するものでないことを強調している。
こうした泰時の一連の施策は、執権政治の確立と捉えられている。鎌倉幕府は、頼朝以来、鎌倉殿の個人的な資質に依拠するところが大きく、その組織も鎌倉殿の家政機関を発展させただけのものだった。しかし、泰時が確立した集団指導体制・明確な法令による司法体制は、個人的な資質などの不安定な要素に左右されることはなく、安定した政治結果を生み出すものだった。
泰時の孫北条時頼は、泰時の執権政治を継承していった。時頼は、司法制度の充実に力を注ぎ、1249年、裁判の公平化のため、引付衆を設置した。一方で、執権権力の強化にも努めた。1246年、時頼排除を企てた前将軍・藤原頼経と名越光時一派を幕府から追放する(宮騒動)と、1247年には有力御家人である三浦泰村の一族を討滅した(宝治合戦)。1252年、幕府への謀叛に荷担した将軍藤原頼嗣が廃され、代わりに宗尊親王を新将軍として迎えることに成功した。これ以後、親王将軍(宮将軍)が代々迎えられ、親王将軍は幕府の政治に参与しないことが通例となった。こうして、親王将軍の下で専制を強めていった北条氏は、権力を北条宗家へ集中させていった。時頼は、病のため執権職を北条長時に譲ったが、実権を握り続けた。これにより政治の実権は執権の地位と乖離していく。北条宗家を当時、得宗(徳宗)と呼んだことから、上記の政治体制を得宗専制という。
時頼の死後、得宗の地位を継いだのは子の北条時宗だった。時宗が得宗となった前後の1268年、モンゴル帝国第5代大ハーンのクビライが高麗を通して朝貢を要求してきた。朝廷は対応を幕府へ一任し、幕府は回答しないことを決定、西国の防御を固めることとした。1269年と1271年にもモンゴルから国書が届き、朝廷は返書送付を提案したが、幕府は当初の方針どおり黙殺を選んだ(外交権も幕府が握っていたことを表す)。
モンゴルから国号を改めた元は、文永11年(1274年)10月に九州北部を襲撃したが、鎌倉武士の頑強な抵抗に遭ったため(赤坂の戦い・鳥飼潟の戦い)、元軍は夜間に強行撤退し、帰還途中に暴風雨を受けて大損害を被った。これを文永の役という。幕府は朝廷と一体になって、国家鎮護に当たることとし、西国の警固を再強化するとともに、それまで幕府の支配の及ばなかった朝廷側の支配地、本所一円地からの人員・兵粮の調達が認められるようになった。これは幕府権力が全国的に展開する一つの契機となる。さらに幕府は、警固を強化する一方で、逆に大陸に侵攻する計画をたてたが、この計画は途中で頓挫した(第一次高麗征伐計画)。
元は弘安4年(1281年)、九州北部を中心に再び日本へ侵攻した。この時は2か月近くにわたる日本軍の頑強な抵抗に遭い(志賀島の戦い・壱岐島の戦い・鷹島沖海戦)、侵攻が停滞していたところに台風により大被害を受ける。さらに日本軍による総攻撃を受けて元軍は壊滅した(御厨海上合戦・鷹島掃蕩戦)。これを弘安の役という。前回の襲来と併せて元寇と呼ぶ。幕府は大陸に出兵して、反撃する計画を再びたてたが、この計画も実行はされなかった(第二次高麗征伐計画)。
この間、時宗は非常事態への迅速な対処を名目として、時間のかかる合議ではなく、一門や側近(御内人という)らと専断で政策決定していった。こうした中で、御内人のトップである内管領が次第に権力を持ち始め、弘安期には内管領の平頼綱と有力御家人の安達泰盛が拮抗していた。泰盛は、時宗の理解も得て、幕府の経済基盤の充実を図るとともに、御家人の地位を保証する政策を実現しようとした。しかし、時宗が1284年に急死すると、翌1285年、平頼綱は泰盛を突如襲撃・殺害し、泰盛派の御家人らを討伐した(霜月騒動)。この事件により、得宗専制が完成したとされる。
この頃、朝廷においては、後嵯峨天皇以後の皇位を巡って大覚寺統と持明院統の2系統に分立して幕府に皇位継承の調整を求めた。幕府は両統迭立原則を示して仲裁にあたるとともに内外の危機に対応するために幕府は朝廷に対しても「徳政」と呼ばれる政治改革を要求した。これを受けて亀山上皇は弘安9年(1286年)12月に院評定を徳政沙汰と雑訴沙汰に分割、続いて伏見天皇は正応6年(1293年)6月に記録所組織の改革を行って、政治組織の刷新を行って円滑な政務遂行を図った。だが、皇位継承と徳政実施の過程において幕府との対立が表面化するようになり、朝廷内に再び反幕府の動きを潜在化させる遠因となった。
平頼綱は、時宗を継いだ年少の北条貞時を補佐し、得宗専制の強化に尽力した。元寇防衛に働いた九州御家人の恩賞・訴訟を判定するため、安達泰盛は九州に合議制の奉行(鎮西談議所)を置いていたが、頼綱はそれに代えて、得宗派で固めた新機関(鎮西探題)を設置した。頼綱政権は、この機関を通じて西国の荘園・公領への支配を強めていった。その反面、さらなる元寇の可能性を根拠として、御家人らへの恩賞給与は僅かにとどまった。正応6年(1293年)、成人した北条貞時は、平頼綱一族を討滅した(平禅門の乱)。貞時は、政治の実権を内管領から取り戻し、実質的な得宗専制を一層強化していった。まず、頼綱政権下で停滞していた訴訟の迅速な処理のため、合議制の引付衆を廃止し、判決を全て貞時が下すこととした。当初、御家人らは訴訟の進行を歓迎したが、ほどなく独裁的な判決への反発が高まった。そして、永仁5年(1297年)、大彗星が現れると世相に不安が拡がり、当時の徳政観念に従って、貞時は、財物を元の持ち主へ無償で帰属させる永仁の徳政令を発布した。この徳政令は、当時、普及しつつあった貨幣経済に深刻な影響を与えるとともに、社会に大きな動揺をもたらした。
その後、執権職は貞時に代わって北条氏支流の4人が次々に受け継いだが、貞時は得宗として幕府を実質的に支配し続けた。貞時の時代には、北条一門の知行国が著しく増加した。その一方、一般の御家人層では、異国警固番役や長門警固番役などの新たな負担を抱えるとともに、貨幣経済の普及に十分対応しきれず、分割相続による所領の細分化などもあり、急速に階層分化が進んでいった。中には所領を増加させる御家人もいたが、没落傾向にある御家人も少なくなく、所領を売却したり、質入するなどして失い、幕府への勤仕ができない無足御家人も増加していった。一方で彼らから所領を買収・取得する事でのし上がる者もおり、その中には非御家人も数多く含まれる。こうした無足御家人と、力をつけた非御家人は、悪党化し、社会変動を一層進展させた。そのような中で嘉元3年(1305年)、貞時は北条氏庶家の重臣である連署・北条時村を誅殺し、得宗家の権力をさらに強化しようと図ったが北条氏一門の抵抗を受けて失敗(嘉元の乱)した。乱の後貞時は酒浸りとなって政務を放棄し、北条庶家や御内人らによる寄合衆が幕府を主導し、得宗の地位も将軍同様の形式的なものとなっていった。
応長元年10月26日(1311年12月6日)、貞時が死去すると、子の北条高時が北条得宗家の跡を継いだ。貞時の遺言により、9歳の高時の補佐役に、平頼綱の一族の長崎高綱(長崎円喜)と、安達一族の生き残りの安達時顕が就いた(『保暦間記』)。正和5年(1316年)7月、高時は14歳で執権となり、前年から連署となっていた金沢貞顕がその補佐に就いた。
軍記物『太平記』(1370年頃)の語る物語では、北条高時は政治を顧みず闘犬や田楽などの遊びにふける暴君であり、その側近も無能で腐敗しており、相次ぐ暴動を強権的な支配で抑え込んだために幕府は急速に権威・権力を失墜して滅びた展開が描かれる。しかし、『増鏡』や『保暦間記』といった他の文献、および北条氏の私設図書館である金沢文庫に残る史料などから、『太平記』の表現は大幅な誇張であることが明かにされている。
一方、時宗が朝廷へ介入したことによって分裂した皇室の持明院統・大覚寺統は、さらに大覚寺統内で嫡流の邦良親王(後二条天皇の嫡男)派ともうひとつの後醍醐天皇派に分かれて対立していた。そして、朝廷の各派はこれらの争いの調停を幕府に求めたため、幕府は朝廷内の争いに巻き込まれていくことになった。
文保2年(1318年)、後醍醐天皇が即位し、元亨元年12月9日(1321年12月28日)に後宇多上皇から政務の移譲を受け、親政を開始する。
元亨4年9月19日(1324年10月7日)、後醍醐天皇は倒幕計画を疑われ、関係者として土岐頼有(土岐頼兼の子)と多治見国長らが討たれた(正中の変)。また、腹心の公家である日野資朝と日野俊基が捕らえられた。公式判決では天皇と俊基は冤罪となったが、資朝は有罪とも無罪とも言えないので佐渡島に流刑となった。天皇は実際は倒幕を企んでいたが、幕府が処分に及び腰になったので処分されなかったのだという。この天皇と幕府が対立に至る過程には諸説あり一定しない。詳細は正中の変を参照。
いずれにしても元弘元年(1331年)、後醍醐天皇は倒幕を企てた。これは吉田定房の密告によって事前に発覚し、翌年に天皇は隠岐島へ流された(元弘の乱)。しかし、これを契機に幕府・得宗に不満を持つ楠木正成、赤松則村(円心)など各地の悪党と呼ばれる武士が各地で反幕府の兵を挙げるようになる。
元弘3/正慶2年(1333年)4月、反幕府勢力の討伐のために京都へ派遣された有力御家人の足利高氏(尊氏)は名越高家が久我畷の戦いで戦死したのを見て、一転して後醍醐天皇側へつき、5月7日に六波羅探題を落とした。
六波羅陥落の翌日、新田義貞が上野国で挙兵し、150騎だった軍勢は関東御家人の支持を得て数日のうちに大軍となった。これに対し、幕府は桜田貞国・長崎高重らを将に討伐軍を組織し、大軍で以てこれを迎撃させたが、彼らは小手指原の戦い、久米川の戦いで敗れた。北条泰家の援軍が加わったのちも、分倍河原の戦い、関戸の戦いで敗れ、幕府軍は鎌倉へと敗走し、新田勢は鎌倉へと迫った。
5月18日、新田義貞は大軍(軍記物語では誇張表現で数十万ともいわれる)で鎌倉に対し攻撃を開始し、防戦する幕府軍との間で激しい攻防戦が繰り広げられた(鎌倉の戦い)。当日、追い詰められた執権の赤橋守時が自害するなどしたが、地形を利用した幕府軍の激しい抵抗に新田軍は甚大な損害を被った。
5月21日、新田義貞率いる軍勢が干潮を利用して稲村ヶ崎を突破し、鎌倉市内になだれ込んだ。両軍は市中において激戦を繰り広げたが、22日までに赤橋守時、大仏貞直、金沢貞将、普恩寺基時など幕府軍の有力武将が相次いで戦死・自害した。もはや幕府の命運が尽きたのを感じとっての行動か、北条高時・金沢貞顕、長崎円喜・長崎高資・安達時顕ら一族・家臣283人は菩提寺の東勝寺に集合し、寺に火を放って自害し果てた(東勝寺合戦)。同日、守邦親王は将軍職を退いて出家した。さらに3日後の5月25日には、九州の鎮西探題も反幕府勢力に転じた少弐貞経や大友貞宗、島津貞久らによって陥落した。
幕府を倒して建武の新政を開始した後醍醐天皇は、自身と死闘を演じた北条高時の菩提を弔うため、足利尊氏に命じて、鎌倉の高時屋敷跡への宝戒寺建立を企画した。続く戦乱で造営は中断されていたものの、観応の擾乱(1350-1352年)を制して幕府の実権を握った尊氏によって再開され、正平9年/文和3年(1354年)ごろに完成している。
建武政権下、得宗北条高時の遺児である北条時行(中先代)は、中先代の乱(建武2年(1335年))を起こして、尊氏の弟の足利直義を破って鎌倉を占拠し、鎌倉幕府を一時的に再興したが、征東将軍足利尊氏に攻められて20日で滅んだ。南北朝の内乱では後醍醐天皇から朝敵を赦免されて南朝方として戦い、武蔵野の戦いでは再び鎌倉を奪還したが、今回も尊氏に敗北し、その後は処刑もしくは行方不明となった。
鎌倉入りと都市造営は、それまで京都の公家たちに従属していた武士の歴史として画期的な意味を持つ。まず、頼朝は居館の建築と、鶴岡八幡宮の整備を行う。鶴岡宮は地勢的にも精神的な位置においても都市鎌倉の中心を占めるものであり、京都における内裏に匹敵するもので、中央から下向した天台宗・真言宗の僧が、供僧として運営の主導権を握っていた。そこでは放生会といった年中行事が整備される一方、それに際し奉納される流鏑馬や笠懸は武家社会を代表する重要行事となった。
新造の武家の都を飾る建設は続き、源義朝の菩提勝長寿院や、平泉は中尊寺の二階大堂を模した奥州合戦や数多の戦を供養し源義経・藤原泰衡をはじめとする数万の怨霊・英霊をしずめ、冥福を祈るための寺院永福寺、13世紀に入ると寿福寺・東勝寺といった禅宗の寺が次々に建立された。禅宗は特に保護されて、北鎌倉には渡来僧を開山とする建長寺や円覚寺などの巨刹が偉容を示す。
鎌倉幕府の存立は、武士、特に関東武士団を基盤としていた。これらの武士は、「鎌倉殿」( = 将軍)の家人となることで、鎌倉幕府の構成員となった。鎌倉殿の家人になった武士は御家人と呼ばれた。鎌倉殿と御家人の主従関係は、御恩と奉公と呼ばれる互恵関係によって保持された、この制度を御家人制度と呼ぶ。
以上のように、相互に利益を享受することで、両者は結ばれていた。主従の契約は、御家人が鎌倉殿へ見参した際の名簿差出(みょうぶさしだし)によって行われ、幕府は御家人名簿により御家人を管理した。
鎌倉幕府は、以下のような独自の経済基盤を有していた。
当時、武家政権を「幕府」と呼んでいたわけではなく、朝廷・公家は関東と呼び、武士からは鎌倉殿、一般からは武家と称されていた。「吾妻鏡」に征夷大将軍の館を「幕府」と称している例が見られるように、もともと幕府とは将軍の陣所、居館を指す概念である。武家政権を幕府と称したのは江戸時代後半、幕末になってからのことであり、鎌倉幕府という概念が登場したのは、1887年(明治20年)以降とされる。以上の理由から、鎌倉幕府の統治機構としての概念、あるいは成立時期というのも後世の、近代歴史学上のとらえ方の問題であり、一応の通説があるとはいえ、統一された見解がないのが現状である。歴史学者の林屋辰三郎は「そもそも幕府というものの本質をいずれに置くのか、歴史学上未確定である」と述べている。また、同じ歴史学者の岩田慎平は鎌倉幕府は全国の武士は統率できても、全国の統治は完成できなかったことを指摘し、特に皇位継承への関与が受動的(朝廷からの軍事的挑戦を受けた結果、もしくは朝廷からの要請に基づく結果)であることを指摘し、「政権」としては平氏政権よりも後退して、かつ軍事・警察面以外の多くの分野でいまだに朝廷が国政の主導権を握っている以上、鎌倉幕府を本当に武家「政権」と呼べるのか再検討すべきではないか?と提言している。
現在、鎌倉幕府の成立年については、頼朝が東国支配権を樹立した治承4年(1180年)、事実上、東国の支配権を承認する寿永二年の宣旨が下された寿永2年(1183年)、公文所および問注所を開設した元暦元年(1184年)、守護・地頭の任命を許可する文治の勅許が下された文治元年(1185年)、日本国総守護地頭に任命された建久元年(1190年)、征夷大将軍に任命された建久3年(1192年)など様々な意見が存在する。
21世紀に入って学校教育の場で、鎌倉幕府の成立年が建久3年(1192年)から文治元年(1185年)に変更されるようになったが、第二次世界大戦前に通説扱いされていたのは文治元年(1185年)説であり、『大日本史料』や『史料綜覧』も同年以降が「鎌倉幕府の成立=鎌倉時代の始まり」とみなされ、『平安遺文』と『鎌倉遺文』の区切りも同年が採用されている。その一方で、文治の勅許が守護・地頭の任命を許可したものとする見方を否定する研究者もおり、その立場からは同勅許を前提とした文治元年(1185年)説は成立しないとされている。同様に他の説に関しても異論が出されている(日本国総守護地頭の実在性など)。歴史学者の川合康は、鎌倉幕府は東国における反乱軍勢力から、朝廷に承認されて平家一門や同族との内乱に勝利して日本全国に勢力を広げ、やがて鎌倉殿を頂点とした独自の権力機構を確立するまで少なくても3段階の過程を経て成立したもので、それを特定の1つの時点を切り取って「鎌倉幕府の成立」として論じることは困難であると指摘している。これらの議論を踏まえ、帝国書院などの検定教科書においては、鎌倉幕府の成立は段階を踏んで整えられ、成立年についても1192年に「名実ともに『完成した』」という表記を採用している。
近代以降の歴史研究において、中世の武家時代は王朝文化が衰退した暗黒時代とする理解がなされていた。しかし、原勝郎や石母田正らの研究により、中世は日本に封建制が成立した時代とされ、東国武士団はその改革の推進力と評価されるようになっていった。
1960年代には2つの中世国家論が登場した。佐藤進一は鎌倉幕府を朝廷と並ぶ中世におけるもう一つの国家とする東国独立国家論を提唱。一方、黒田俊雄は中世の政治権力を朝廷・寺社・武家といった権門による共同統治体制とする権門体制論を明らかにした。しかし学界での評価は好対照で、1970年代には既に「権門体制論一色」といった状況であり、佐藤自身も少なくとも承久の乱までの鎌倉幕府は「朝廷の番犬として仕える権門体制的な状況」にあると認めざるを得なくなっていた。佐藤は1983年に『日本の中世国家』で鎌倉幕府を「中世国家の第2の型」として改めて東国独立国家論を提起するが、その要諦である両主制について研究者間での評価を得るには至らず、権門体制論との類似を指摘される結果に終わっている。こうして東国武家政権を中世社会の変革の推進力とする見解は淘汰され、権門体制論は21世紀においても有力な学説として重視されている。もっとも、佐藤も黒田も「仮説」として東国国家や権門体制を唱えた筈なのにその「仮説」に対する検証が成されていないまま両説共に学説として一人歩きしているとする批判もある。
本郷和人によると、鎌倉幕府は、関東の在地領主たちが土地所有を保証するために源頼朝を祀り上げてつくった政権が実態であるとしている。つまり、政権が安定してくると在地領主にとって源氏は必要でなくなり、排除され、頼朝の嫡流は断絶したとする。
金沢文庫の史料や鎌倉時代末期の政治動向を調査した永井晋によれば、北条高時は政治を顧みなかったのではなく、病弱のために中々政治の場に出られず、側近たちは改革よりも安定性を重視して高時の補佐に力点を置いたため、ゆるやかに政権が衰退していったというのが真相ではないかという。永井は高時政権が崩壊した理由として、以下の4つを挙げている。
永井は、「この首脳部が鎌倉幕府の実力が充実した中期に政権運営を行っていれば、高時は平和なよい時代を築いた政治家と評価されたであろう」「しかし、社会が求めていたのは新しい社会構造への移行であった。この意識のズレが、蹉跌の大きな原因となる」と述べている。
2007年に河内祥輔によって、新説の「冤罪説」が唱えられた。河内によれば、後醍醐は父である後宇多天皇の意志を継ぐ堅実な天皇であり、少なくとも元亨4年(1324年)時点ではまだ討幕を考えておらず、鎌倉幕府との融和路線を堅持していた。後醍醐派逮捕は、後醍醐の朝廷での政敵である、大覚寺統嫡流・邦良親王派もしくは持明院統側から仕掛けられた罠であったという。なぜ日野資朝が流罪になったかと言えば、後醍醐派を完全に無罪にしてしまうと、幕府側の捜査失態の責任が問われる上に、邦良派・持明院統まで新たに捜査せざるを得ず、国家的非常事態になってしまうので、事件をうやむやにしたかったのではないかという。すなわち後醍醐派が被害者であり、取り立てた失態もないのに自派だけ損害を受けた形になったという。2010年代後半以降、河内の冤罪説を支持する研究者も複数現れている。 | [
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"text": "鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、源頼朝が創設した日本の武家政権。この時代を鎌倉時代という。",
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"text": "頼朝の死後、幕府に仕えた坂東武士(御家人)の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は北条氏による執権、やがて北条義時の嫡流である得宗が鎌倉幕府の実質的な支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。",
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"text": "『吾妻鏡』によれば1180年(治承4年)12月12日に鎌倉の大倉郷に頼朝の邸となる大倉御所が置かれ、また幕府の統治機構の原型ともいうべき侍所が設置されて武家政権の実態が形成された。朝廷は寿永二年十月宣旨(1183年)で頼朝に対し、東国における荘園・公領からの官物・年貢納入を保証させると同時に、頼朝による東国支配権を公認した。壇ノ浦の戦い(元暦2年/寿永4年(1185年))で平氏を滅ぼし、同年、文治の勅許(文治元年(1185年))では頼朝へ与えられた諸国への守護・地頭職の設置・任免を許可した。そして建久元年(1190年)頼朝が権大納言兼右近衛大将に任じられ、公卿に列し荘園領主の家政機関たる公文所(のちの政所)開設の権を得たことで、いわば統治機構としての合法性を帯びるようになり、建久3年(1192年)には征夷大将軍の宣下がなされた。こうして、名実ともに武家政権として成立することとなった。守護の設置で幕府は諸国の治安維持を担当したものの、当初は特に西日本では朝廷およびその出先機関である国府との二重支配状態だったが、次第に範囲を拡大。承久の乱や元寇を経て、全国的な支配権を確立するに至った。",
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"text": "当初の鎌倉幕府は鎌倉殿を主宰者とする武士を首班とした地方政権で、支配は東国を中心としており、承久の乱後に全国政権へと飛躍し、権力を拡大させたものであるが、そもそも当初から全国政権を志向したわけでなく、あくまで朝廷権力を前提とした地方政権であった。その大きな理由のひとつが、鎌倉幕府は荘園公領制を前提とした政権であることである。したがって中央の権門の領地(荘園・公領)の権利を冒さず、彼らへ年貢を滞りなく納めることを保証することが、幕府の重要な任務・意義としていた。",
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"text": "地方で土地を私有する武士団の起源は、天平15年(743年)、朝廷が効果的に収税を行うべく発布した墾田永年私財法の施行により土地私有が公認されたことに由来し、古来の豪族や有力農民などが土地を私有するようになったが、国司による厳しい徴税を回避すべく有力地主たちは公卿に土地の一部を寄進し、荘園の荘官(開発領主)としての地位を得たことが契機であった。寄進した貴族の保護は受けるとはいえ、今度は寄進した荘園領主からの取り立てや国司との摩擦、近隣豪族の侵略も絶えず、有力農民たちはいつしか武装するようになり、武士が誕生する。",
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"text": "やがて有力農民たちに由来する武士は、武士団の起源となり、都から派遣された下級貴族(官人)、さらに源朝臣や平朝臣など堂上家や地下家を上位の軍事貴族を棟梁として仰ぎ、主従関係を結ぶことによって本領安堵(郡領惣村、宿場(駅家)や港(水駅)の経営など、また盗賊(落ち武者狩り)や海賊(水軍)参照)を確実なものとした。棟梁の戦に従軍し、新たな領地を与えられることで繁栄の糸口を得たのである。",
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"text": "源頼朝はそうした各地の武士団を統べる貴族の名門中の名門であり、頼朝の鎌倉幕府とは、御家人となった武士に地頭職を授けることで本領安堵を行い、武功により新たな領地を与える新恩給与を行う、まさに荘園公領制を媒介とした、御恩と奉公により武士の利害を代表する政権であったといえる。そして、鎌倉幕府の政治的基盤および軍事的・経済的基盤は、頼朝が平氏追討の恩賞などとして獲得した関東知行国、関東御領であった。",
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"text": "そして、鎌倉幕府が朝廷権力を前提とした政権であるという二つ目の理由が、鎌倉幕府は律令法制上、様々な存立根拠を満たして成立しているという点である。",
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"text": "もともと伊豆で蛭ヶ小島の流人であった頼朝が平氏追討の兵を挙げる前提となった出来事は、以仁王のいわゆる「令旨」(厳密には御教書)であった。大庭景親をはじめとする関東の平家方武士団を破った頼朝は、治承4年(1180年)、鎌倉に拠点を置き統治を開始するが、この時点ではまだ平将門と変わらない、ごく私的な政権に過ぎなかった。しかし、寿永2年(1183年)に入り、朝廷は頼朝を平家に敗れて流人となる前の従五位下に復し、頼朝の要望に従い平氏が東国で行った荘園や公領の横領を廃止し、元の国司や荘園領主に帰属させる権限を承認する、いわゆる東国沙汰権を付与した。そしてこの権限の履行のために東国の地方官である国衙を指揮する権能も認められたのである。いわゆる寿永二年十月宣旨である。",
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"text": "元暦2年(1185年)3月24日には、壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼすことに成功した頼朝は朝敵追討の功労者として平家の所有していた荘園、いわゆる平家没官領の支配権を要求して承認され、後に鎌倉殿直轄の荘園、関東御領と呼ばれる所領を獲得した。また平家滅亡後、頼朝に叛旗を翻した弟・源義経と叔父・源行家が後白河法皇から頼朝追討の院宣を下されると、頼朝はこれに抗議し、朝廷を頼朝の推薦した公卿を議奏として、議奏をもって朝廷の政治を担当させること、義経・行家追討の院宣を発すること、加えてその追討のために東国および畿内に守護及び地頭を置くことを認可し、さらに荘園公領を問わず、反別五升の兵粮米の徴収権を頼朝に与えることを求めた。いわゆる、文治の勅許である。",
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"text": "その後、頼朝は東北に強大な独立勢力を築いていた奥州藤原氏を滅ぼし、建久元年(1190年)11月、権大納言兼右近衛大将に任ぜられた(位階は既に元暦二年(1185年)に従二位に叙され、文治5年(1189年)に正二位に昇叙されていた)。",
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"text": "これによって、三位以上の公卿に認められる、家政機関政所の設置が公に認められ、それまで頼朝が独自に設置してきた公文所を政所と改め、官職・右近衛大将の略称である右大将にちなみ、右大将家政所と称した。それまで頼朝個人としての官職復帰や、東国沙汰権を拠り所としていた鎌倉の東国政権は、朝廷公認の家政機関としての位置付けを得て、統治機構としての正当性を獲得したのである。建久2年(1191年)1月15日、鎌倉に帰還した頼朝は年頭行事や祝い事など画期に行われる吉書始を行い、右大将家政所を司る四等官として政所別当に大江広元、令に二階堂行政、案主に藤井俊長、知家事に中原光家をそれぞれ任じ、問注所執事に三善善信、侍所別当に和田義盛、侍所所司に梶原景時、公事奉行人に藤原親能他6名、京都守護に外戚で公卿でもある一条能保、鎮西奉行人に天野遠景を任じ、鎌倉幕府の陣容を固めた。",
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"text": "建久3年(1192年)7月12日、頼朝は朝廷から征夷大将軍を宣下された。『山槐記』建久3年(1192年)7月9日条および12日条によると、頼朝が望んだのは「大将軍」であり、それを受けた朝廷で「惣官」「征東大将軍」「征夷大将軍」「上将軍」の4つの候補が提案されて検討された結果、平宗盛の任官した「惣官」や源義仲の任官した「征東大将軍」は凶例であるとして斥けられ、また「上将軍」も日本では先例がないとして、坂上田村麻呂の任官した「征夷大将軍」が吉例として選ばれたという。この時代においては名誉職化していた征夷大将軍に、左大臣にも相当する正二位という高位で就いたことは、軍権に基づく政権担当者という意味合いが加わり、これが幕府の主宰者に世襲されたことによって、鎌倉幕府は朝廷に代わる政権として名実ともに確立された。また、戦時において全国の兵馬を動員できる征夷大将軍への任命は、頼朝に非常大権を付与せしめることを意味した。後に源頼朝は武家政権の始祖として武士に神聖視されることとなる。",
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"text": "このように、鎌倉幕府は朝廷の公的制度である荘園公領制を前提とし、朝廷から幾重もの権限承認、委譲を受け、成立した政権であるということができる。鎌倉殿自身が得た大規模な荘園所領も、将軍の高い官位に伴う職権として、朝廷から世襲が制度上も認められた。",
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"text": "1183年7月、源義仲が平氏を京から追放したが、乱暴な行動を重ねた。これを憂慮した後白河法皇は、頼朝へ上洛を求めたが、頼朝は逆に東海道・東山道・北陸道の荘園・公領を元のように国司・本所に返還させる内容の宣旨(寿永二年十月宣旨)の発給を要求した。朝廷は、義仲に配慮して北陸道は除いたものの、頼朝の要求をほぼ認めた。これにより、頼朝は東海・東山両道の支配権を間接的ではあるが獲得した。",
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"text": "同年、源義経・源行家が頼朝に無断で官位を得るなどしたため、頼朝は両者追討の院宣を後白河法皇から獲得するとともに、両者の追捕を名目に、守護・地頭の任免権を承認させた。これを文治の勅許という。これにより頼朝政権は、全国の軍事権・警察権を掌握したため、この時期をもって幕府成立とする説が有力とされている。守護・地頭には、兵糧米の徴収権、在庁官人の支配権などが与えられ、これは頼朝政権が全国的に在地支配を拡げる契機となった。この時の頼朝政権の在地支配は、まだ従来の権門勢家による支配に優越した訳ではなく、地頭の設置も平氏の旧領(平家没官領)などに限定されていた。",
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"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "1189年、頼朝政権は、義経を匿ったことを口実として奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼし、対抗しうる武家勢力はいなくなった。頼朝政権は治承の乱から義経追捕、そして奥州合戦へと続く一連の内乱の流れの中で幕府のその基礎を固めることに成功した。このため、「内乱に勝利したから幕府ができたのではなく、幕府ができたので内乱に勝利した」とする評価もある。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "1190年、頼朝は常設武官の最高職である右近衛大将に補任されたが、同職には様々な政治的制約も付随していたため、すぐに辞している。1192年、頼朝は征夷大将軍に任命される。これにより、鎌倉幕府の形成がひとまず完了することとなる。ただし、1221年の承久の乱での勝利をもって幕府の成立とする見解もある。",
"title": "歴史"
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{
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"tag": "p",
"text": "以上のように、鎌倉幕府は元々、源頼朝の私的政権に発している。この私的政権は、朝廷から承認されることによって、支配権の正統性を獲得していった。そのため、幕府の支配権の及ぶ範囲は守護の設置などで諸国の軍事・警察権を得たものの、支配は主として頼朝傘下の御家人に限られ、少なくとも承久の乱までは朝廷側勢力(権門勢家)の支配権を侵害しないことを原則としていた。また、幕府機構を見ると、朝廷のそれと大きく異なり、鎌倉殿の家政機関としての性格を色濃く残していた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "鎌倉幕府の確立を成し遂げた源頼朝は、正治元年(1199年)1月に突然死去した。跡を継いで鎌倉殿となったのは、頼朝の嫡子で当時18歳の源頼家だった。しかし、幕府の有力者たちは若年の頼家に政務を任せることに不安を抱き、有力御家人が頼家に代わって裁判と政務を執行する十三人の合議制と呼ばれる政治体制を築いた。この合議制の中心にいたのは頼家の外戚にあたる北条氏であり、北条時政・北条義時父子は他の有力御家人を次々と滅ぼしていった(1200年:梶原景時の変、1203年:比企能員の変)。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "1203年、重病に陥った頼家は、外祖父時政の手により伊豆の修禅寺へ幽閉され、弟の源実朝が次の鎌倉殿・将軍位に就くと、翌1204年に頼家は死亡した。時政ら北条氏の手勢により暗殺されたと伝えられている。時政は、3代将軍実朝を補佐して執権と呼ばれる地位に就き、政治の実権を握っていった。翌1205年、時政は娘婿の平賀朝雅を将軍にしようと画策、朝雅と対立する畠山重忠を殺害し、実朝を廃そうとした(畠山重忠の乱)。しかし、時政の子の義時と北条政子はこの動きに反発し、有力御家人と連帯して、時政を引退させるとともに、平賀朝雅を抹殺した(牧氏事件)。",
"title": "歴史"
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{
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"tag": "p",
"text": "この後、北条義時が執権となり、北条氏権力の確立に努めたが、侍所別当の和田義盛が対抗勢力として現れた。義時は計略をめぐらし、1213年、和田一族を滅ぼした(和田合戦)。このように、武力紛争が絶えない幕府の状況は、承久元年(1219年)1月の将軍・源実朝の暗殺という最悪の事態に至る。頼朝の直系が断絶し、困惑した幕府は、朝廷へ親王将軍を要望したが、治天の君・後鳥羽上皇はこれを拒否し、曲折の末、頼朝の遠縁に当たる摂関家の幼児藤原頼経が新将軍=鎌倉殿として迎え入れられた。この後の2代の鎌倉殿は摂家将軍と呼ばれる。こうして幕府の実権は、執権の北条氏が掌握することとなった。",
"title": "歴史"
},
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"tag": "p",
"text": "後鳥羽上皇は、治天として専制的な政治を指向し、幕府の存在を疎ましく感じていた。実朝の暗殺を幕府の混乱・弱体化と見た後鳥羽上皇は、政権を朝廷に取り戻そうと考えた。そして、承久3年(1221年)5月、後鳥羽上皇は北条義時追討の院宣を発した(ただし、幕府の存続を前提に義時を討ち取って自己に都合のよい体制に作り変えようとしたものか、幕府そのものを倒す意図があったのかについては意見が分かれている)。それまでの歴史から後鳥羽上皇は、ほどなく義時が討ち取られ、関東武士たちも帰順すると見込んでいたが、幕府側は頼朝以来の御恩を訴え、御家人の大多数を味方につけた。そして、短期決戦策を採り、2か月も経たないうちに朝廷軍を打ち破った。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 26,
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"text": "幕府側の主導で戦後処理が進められ、主謀者の後鳥羽上皇、そして後鳥羽上皇の系譜の上皇・皇子が流罪に処せられ、仲恭天皇は廃位、朝廷側の貴族・武士も多くが死罪とされた。当時の人々は、治天の君をはじめとする朝廷側の上皇・天皇・諸臣が処罰される事態に大きな衝撃を受けた。当時の社会における価値観は正反対に転換した。朝廷の威信は文字どおり地に落ち、幕府は朝廷監視のために六波羅探題を置き、朝廷に対する支配力を強めることとなる。",
"title": "歴史"
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"tag": "p",
"text": "乱後、朝廷は次代の天皇を誰にするかを幕府へ諮った。これ以降、朝廷は治天・天皇を決定する際は必ず幕府の意向を確認するようになり、幕府と朝廷の立場が逆転したことを物語る。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "1224年(元仁元年)に北条義時、1225年(嘉禄元年)に北条政子や大江広元といった幕府創業世代が死去し、義時の子北条泰時が執権となった。泰時は、世代交代期の混乱を防ぐため、叔父の北条時房を執権の補佐役といえる連署に当てる(ただし、時房は本来は泰時と同役の執権であったとする見方もある)とともに、政治意思決定の合議機関である評定衆を設置し、集団指導体制を布いた。これには、基本的に鎌倉幕府は、鎌倉殿(将軍)と個々の御家人の主従関係によって成り立っているという事情がある。北条氏も鎌倉殿の家来のひとりに過ぎず、数ある御家人の第一人者であっても主君ではなかったのである。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "承久の乱後、急増した訴訟事件を公平に処理するため、泰時は明確な裁判基準を定めることとした。これが御成敗式目と呼ばれる法典(武家法)であり、平易で実際的な法令と評価されている。後の室町幕府も、この法令を原則として継承している。また、泰時は、式目制定に当たって、朝廷の司法権を侵害するものでないことを強調している。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "こうした泰時の一連の施策は、執権政治の確立と捉えられている。鎌倉幕府は、頼朝以来、鎌倉殿の個人的な資質に依拠するところが大きく、その組織も鎌倉殿の家政機関を発展させただけのものだった。しかし、泰時が確立した集団指導体制・明確な法令による司法体制は、個人的な資質などの不安定な要素に左右されることはなく、安定した政治結果を生み出すものだった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "泰時の孫北条時頼は、泰時の執権政治を継承していった。時頼は、司法制度の充実に力を注ぎ、1249年、裁判の公平化のため、引付衆を設置した。一方で、執権権力の強化にも努めた。1246年、時頼排除を企てた前将軍・藤原頼経と名越光時一派を幕府から追放する(宮騒動)と、1247年には有力御家人である三浦泰村の一族を討滅した(宝治合戦)。1252年、幕府への謀叛に荷担した将軍藤原頼嗣が廃され、代わりに宗尊親王を新将軍として迎えることに成功した。これ以後、親王将軍(宮将軍)が代々迎えられ、親王将軍は幕府の政治に参与しないことが通例となった。こうして、親王将軍の下で専制を強めていった北条氏は、権力を北条宗家へ集中させていった。時頼は、病のため執権職を北条長時に譲ったが、実権を握り続けた。これにより政治の実権は執権の地位と乖離していく。北条宗家を当時、得宗(徳宗)と呼んだことから、上記の政治体制を得宗専制という。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "時頼の死後、得宗の地位を継いだのは子の北条時宗だった。時宗が得宗となった前後の1268年、モンゴル帝国第5代大ハーンのクビライが高麗を通して朝貢を要求してきた。朝廷は対応を幕府へ一任し、幕府は回答しないことを決定、西国の防御を固めることとした。1269年と1271年にもモンゴルから国書が届き、朝廷は返書送付を提案したが、幕府は当初の方針どおり黙殺を選んだ(外交権も幕府が握っていたことを表す)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "モンゴルから国号を改めた元は、文永11年(1274年)10月に九州北部を襲撃したが、鎌倉武士の頑強な抵抗に遭ったため(赤坂の戦い・鳥飼潟の戦い)、元軍は夜間に強行撤退し、帰還途中に暴風雨を受けて大損害を被った。これを文永の役という。幕府は朝廷と一体になって、国家鎮護に当たることとし、西国の警固を再強化するとともに、それまで幕府の支配の及ばなかった朝廷側の支配地、本所一円地からの人員・兵粮の調達が認められるようになった。これは幕府権力が全国的に展開する一つの契機となる。さらに幕府は、警固を強化する一方で、逆に大陸に侵攻する計画をたてたが、この計画は途中で頓挫した(第一次高麗征伐計画)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "元は弘安4年(1281年)、九州北部を中心に再び日本へ侵攻した。この時は2か月近くにわたる日本軍の頑強な抵抗に遭い(志賀島の戦い・壱岐島の戦い・鷹島沖海戦)、侵攻が停滞していたところに台風により大被害を受ける。さらに日本軍による総攻撃を受けて元軍は壊滅した(御厨海上合戦・鷹島掃蕩戦)。これを弘安の役という。前回の襲来と併せて元寇と呼ぶ。幕府は大陸に出兵して、反撃する計画を再びたてたが、この計画も実行はされなかった(第二次高麗征伐計画)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "この間、時宗は非常事態への迅速な対処を名目として、時間のかかる合議ではなく、一門や側近(御内人という)らと専断で政策決定していった。こうした中で、御内人のトップである内管領が次第に権力を持ち始め、弘安期には内管領の平頼綱と有力御家人の安達泰盛が拮抗していた。泰盛は、時宗の理解も得て、幕府の経済基盤の充実を図るとともに、御家人の地位を保証する政策を実現しようとした。しかし、時宗が1284年に急死すると、翌1285年、平頼綱は泰盛を突如襲撃・殺害し、泰盛派の御家人らを討伐した(霜月騒動)。この事件により、得宗専制が完成したとされる。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "この頃、朝廷においては、後嵯峨天皇以後の皇位を巡って大覚寺統と持明院統の2系統に分立して幕府に皇位継承の調整を求めた。幕府は両統迭立原則を示して仲裁にあたるとともに内外の危機に対応するために幕府は朝廷に対しても「徳政」と呼ばれる政治改革を要求した。これを受けて亀山上皇は弘安9年(1286年)12月に院評定を徳政沙汰と雑訴沙汰に分割、続いて伏見天皇は正応6年(1293年)6月に記録所組織の改革を行って、政治組織の刷新を行って円滑な政務遂行を図った。だが、皇位継承と徳政実施の過程において幕府との対立が表面化するようになり、朝廷内に再び反幕府の動きを潜在化させる遠因となった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "平頼綱は、時宗を継いだ年少の北条貞時を補佐し、得宗専制の強化に尽力した。元寇防衛に働いた九州御家人の恩賞・訴訟を判定するため、安達泰盛は九州に合議制の奉行(鎮西談議所)を置いていたが、頼綱はそれに代えて、得宗派で固めた新機関(鎮西探題)を設置した。頼綱政権は、この機関を通じて西国の荘園・公領への支配を強めていった。その反面、さらなる元寇の可能性を根拠として、御家人らへの恩賞給与は僅かにとどまった。正応6年(1293年)、成人した北条貞時は、平頼綱一族を討滅した(平禅門の乱)。貞時は、政治の実権を内管領から取り戻し、実質的な得宗専制を一層強化していった。まず、頼綱政権下で停滞していた訴訟の迅速な処理のため、合議制の引付衆を廃止し、判決を全て貞時が下すこととした。当初、御家人らは訴訟の進行を歓迎したが、ほどなく独裁的な判決への反発が高まった。そして、永仁5年(1297年)、大彗星が現れると世相に不安が拡がり、当時の徳政観念に従って、貞時は、財物を元の持ち主へ無償で帰属させる永仁の徳政令を発布した。この徳政令は、当時、普及しつつあった貨幣経済に深刻な影響を与えるとともに、社会に大きな動揺をもたらした。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "その後、執権職は貞時に代わって北条氏支流の4人が次々に受け継いだが、貞時は得宗として幕府を実質的に支配し続けた。貞時の時代には、北条一門の知行国が著しく増加した。その一方、一般の御家人層では、異国警固番役や長門警固番役などの新たな負担を抱えるとともに、貨幣経済の普及に十分対応しきれず、分割相続による所領の細分化などもあり、急速に階層分化が進んでいった。中には所領を増加させる御家人もいたが、没落傾向にある御家人も少なくなく、所領を売却したり、質入するなどして失い、幕府への勤仕ができない無足御家人も増加していった。一方で彼らから所領を買収・取得する事でのし上がる者もおり、その中には非御家人も数多く含まれる。こうした無足御家人と、力をつけた非御家人は、悪党化し、社会変動を一層進展させた。そのような中で嘉元3年(1305年)、貞時は北条氏庶家の重臣である連署・北条時村を誅殺し、得宗家の権力をさらに強化しようと図ったが北条氏一門の抵抗を受けて失敗(嘉元の乱)した。乱の後貞時は酒浸りとなって政務を放棄し、北条庶家や御内人らによる寄合衆が幕府を主導し、得宗の地位も将軍同様の形式的なものとなっていった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "応長元年10月26日(1311年12月6日)、貞時が死去すると、子の北条高時が北条得宗家の跡を継いだ。貞時の遺言により、9歳の高時の補佐役に、平頼綱の一族の長崎高綱(長崎円喜)と、安達一族の生き残りの安達時顕が就いた(『保暦間記』)。正和5年(1316年)7月、高時は14歳で執権となり、前年から連署となっていた金沢貞顕がその補佐に就いた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "軍記物『太平記』(1370年頃)の語る物語では、北条高時は政治を顧みず闘犬や田楽などの遊びにふける暴君であり、その側近も無能で腐敗しており、相次ぐ暴動を強権的な支配で抑え込んだために幕府は急速に権威・権力を失墜して滅びた展開が描かれる。しかし、『増鏡』や『保暦間記』といった他の文献、および北条氏の私設図書館である金沢文庫に残る史料などから、『太平記』の表現は大幅な誇張であることが明かにされている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "一方、時宗が朝廷へ介入したことによって分裂した皇室の持明院統・大覚寺統は、さらに大覚寺統内で嫡流の邦良親王(後二条天皇の嫡男)派ともうひとつの後醍醐天皇派に分かれて対立していた。そして、朝廷の各派はこれらの争いの調停を幕府に求めたため、幕府は朝廷内の争いに巻き込まれていくことになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "文保2年(1318年)、後醍醐天皇が即位し、元亨元年12月9日(1321年12月28日)に後宇多上皇から政務の移譲を受け、親政を開始する。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "元亨4年9月19日(1324年10月7日)、後醍醐天皇は倒幕計画を疑われ、関係者として土岐頼有(土岐頼兼の子)と多治見国長らが討たれた(正中の変)。また、腹心の公家である日野資朝と日野俊基が捕らえられた。公式判決では天皇と俊基は冤罪となったが、資朝は有罪とも無罪とも言えないので佐渡島に流刑となった。天皇は実際は倒幕を企んでいたが、幕府が処分に及び腰になったので処分されなかったのだという。この天皇と幕府が対立に至る過程には諸説あり一定しない。詳細は正中の変を参照。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "いずれにしても元弘元年(1331年)、後醍醐天皇は倒幕を企てた。これは吉田定房の密告によって事前に発覚し、翌年に天皇は隠岐島へ流された(元弘の乱)。しかし、これを契機に幕府・得宗に不満を持つ楠木正成、赤松則村(円心)など各地の悪党と呼ばれる武士が各地で反幕府の兵を挙げるようになる。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "元弘3/正慶2年(1333年)4月、反幕府勢力の討伐のために京都へ派遣された有力御家人の足利高氏(尊氏)は名越高家が久我畷の戦いで戦死したのを見て、一転して後醍醐天皇側へつき、5月7日に六波羅探題を落とした。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "六波羅陥落の翌日、新田義貞が上野国で挙兵し、150騎だった軍勢は関東御家人の支持を得て数日のうちに大軍となった。これに対し、幕府は桜田貞国・長崎高重らを将に討伐軍を組織し、大軍で以てこれを迎撃させたが、彼らは小手指原の戦い、久米川の戦いで敗れた。北条泰家の援軍が加わったのちも、分倍河原の戦い、関戸の戦いで敗れ、幕府軍は鎌倉へと敗走し、新田勢は鎌倉へと迫った。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "5月18日、新田義貞は大軍(軍記物語では誇張表現で数十万ともいわれる)で鎌倉に対し攻撃を開始し、防戦する幕府軍との間で激しい攻防戦が繰り広げられた(鎌倉の戦い)。当日、追い詰められた執権の赤橋守時が自害するなどしたが、地形を利用した幕府軍の激しい抵抗に新田軍は甚大な損害を被った。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "5月21日、新田義貞率いる軍勢が干潮を利用して稲村ヶ崎を突破し、鎌倉市内になだれ込んだ。両軍は市中において激戦を繰り広げたが、22日までに赤橋守時、大仏貞直、金沢貞将、普恩寺基時など幕府軍の有力武将が相次いで戦死・自害した。もはや幕府の命運が尽きたのを感じとっての行動か、北条高時・金沢貞顕、長崎円喜・長崎高資・安達時顕ら一族・家臣283人は菩提寺の東勝寺に集合し、寺に火を放って自害し果てた(東勝寺合戦)。同日、守邦親王は将軍職を退いて出家した。さらに3日後の5月25日には、九州の鎮西探題も反幕府勢力に転じた少弐貞経や大友貞宗、島津貞久らによって陥落した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "幕府を倒して建武の新政を開始した後醍醐天皇は、自身と死闘を演じた北条高時の菩提を弔うため、足利尊氏に命じて、鎌倉の高時屋敷跡への宝戒寺建立を企画した。続く戦乱で造営は中断されていたものの、観応の擾乱(1350-1352年)を制して幕府の実権を握った尊氏によって再開され、正平9年/文和3年(1354年)ごろに完成している。",
"title": "歴史"
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"tag": "p",
"text": "建武政権下、得宗北条高時の遺児である北条時行(中先代)は、中先代の乱(建武2年(1335年))を起こして、尊氏の弟の足利直義を破って鎌倉を占拠し、鎌倉幕府を一時的に再興したが、征東将軍足利尊氏に攻められて20日で滅んだ。南北朝の内乱では後醍醐天皇から朝敵を赦免されて南朝方として戦い、武蔵野の戦いでは再び鎌倉を奪還したが、今回も尊氏に敗北し、その後は処刑もしくは行方不明となった。",
"title": "歴史"
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"text": "鎌倉入りと都市造営は、それまで京都の公家たちに従属していた武士の歴史として画期的な意味を持つ。まず、頼朝は居館の建築と、鶴岡八幡宮の整備を行う。鶴岡宮は地勢的にも精神的な位置においても都市鎌倉の中心を占めるものであり、京都における内裏に匹敵するもので、中央から下向した天台宗・真言宗の僧が、供僧として運営の主導権を握っていた。そこでは放生会といった年中行事が整備される一方、それに際し奉納される流鏑馬や笠懸は武家社会を代表する重要行事となった。",
"title": "都市造営"
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{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "新造の武家の都を飾る建設は続き、源義朝の菩提勝長寿院や、平泉は中尊寺の二階大堂を模した奥州合戦や数多の戦を供養し源義経・藤原泰衡をはじめとする数万の怨霊・英霊をしずめ、冥福を祈るための寺院永福寺、13世紀に入ると寿福寺・東勝寺といった禅宗の寺が次々に建立された。禅宗は特に保護されて、北鎌倉には渡来僧を開山とする建長寺や円覚寺などの巨刹が偉容を示す。",
"title": "都市造営"
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{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "鎌倉幕府の存立は、武士、特に関東武士団を基盤としていた。これらの武士は、「鎌倉殿」( = 将軍)の家人となることで、鎌倉幕府の構成員となった。鎌倉殿の家人になった武士は御家人と呼ばれた。鎌倉殿と御家人の主従関係は、御恩と奉公と呼ばれる互恵関係によって保持された、この制度を御家人制度と呼ぶ。",
"title": "存立原理と幕府機構"
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{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "以上のように、相互に利益を享受することで、両者は結ばれていた。主従の契約は、御家人が鎌倉殿へ見参した際の名簿差出(みょうぶさしだし)によって行われ、幕府は御家人名簿により御家人を管理した。",
"title": "存立原理と幕府機構"
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{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "鎌倉幕府は、以下のような独自の経済基盤を有していた。",
"title": "存立原理と幕府機構"
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{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "存立原理と幕府機構"
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{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "当時、武家政権を「幕府」と呼んでいたわけではなく、朝廷・公家は関東と呼び、武士からは鎌倉殿、一般からは武家と称されていた。「吾妻鏡」に征夷大将軍の館を「幕府」と称している例が見られるように、もともと幕府とは将軍の陣所、居館を指す概念である。武家政権を幕府と称したのは江戸時代後半、幕末になってからのことであり、鎌倉幕府という概念が登場したのは、1887年(明治20年)以降とされる。以上の理由から、鎌倉幕府の統治機構としての概念、あるいは成立時期というのも後世の、近代歴史学上のとらえ方の問題であり、一応の通説があるとはいえ、統一された見解がないのが現状である。歴史学者の林屋辰三郎は「そもそも幕府というものの本質をいずれに置くのか、歴史学上未確定である」と述べている。また、同じ歴史学者の岩田慎平は鎌倉幕府は全国の武士は統率できても、全国の統治は完成できなかったことを指摘し、特に皇位継承への関与が受動的(朝廷からの軍事的挑戦を受けた結果、もしくは朝廷からの要請に基づく結果)であることを指摘し、「政権」としては平氏政権よりも後退して、かつ軍事・警察面以外の多くの分野でいまだに朝廷が国政の主導権を握っている以上、鎌倉幕府を本当に武家「政権」と呼べるのか再検討すべきではないか?と提言している。",
"title": "幕府についての議論"
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{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "現在、鎌倉幕府の成立年については、頼朝が東国支配権を樹立した治承4年(1180年)、事実上、東国の支配権を承認する寿永二年の宣旨が下された寿永2年(1183年)、公文所および問注所を開設した元暦元年(1184年)、守護・地頭の任命を許可する文治の勅許が下された文治元年(1185年)、日本国総守護地頭に任命された建久元年(1190年)、征夷大将軍に任命された建久3年(1192年)など様々な意見が存在する。",
"title": "幕府についての議論"
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{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "21世紀に入って学校教育の場で、鎌倉幕府の成立年が建久3年(1192年)から文治元年(1185年)に変更されるようになったが、第二次世界大戦前に通説扱いされていたのは文治元年(1185年)説であり、『大日本史料』や『史料綜覧』も同年以降が「鎌倉幕府の成立=鎌倉時代の始まり」とみなされ、『平安遺文』と『鎌倉遺文』の区切りも同年が採用されている。その一方で、文治の勅許が守護・地頭の任命を許可したものとする見方を否定する研究者もおり、その立場からは同勅許を前提とした文治元年(1185年)説は成立しないとされている。同様に他の説に関しても異論が出されている(日本国総守護地頭の実在性など)。歴史学者の川合康は、鎌倉幕府は東国における反乱軍勢力から、朝廷に承認されて平家一門や同族との内乱に勝利して日本全国に勢力を広げ、やがて鎌倉殿を頂点とした独自の権力機構を確立するまで少なくても3段階の過程を経て成立したもので、それを特定の1つの時点を切り取って「鎌倉幕府の成立」として論じることは困難であると指摘している。これらの議論を踏まえ、帝国書院などの検定教科書においては、鎌倉幕府の成立は段階を踏んで整えられ、成立年についても1192年に「名実ともに『完成した』」という表記を採用している。",
"title": "幕府についての議論"
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"paragraph_id": 60,
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"text": "近代以降の歴史研究において、中世の武家時代は王朝文化が衰退した暗黒時代とする理解がなされていた。しかし、原勝郎や石母田正らの研究により、中世は日本に封建制が成立した時代とされ、東国武士団はその改革の推進力と評価されるようになっていった。",
"title": "近代以降の研究"
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"paragraph_id": 61,
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"text": "1960年代には2つの中世国家論が登場した。佐藤進一は鎌倉幕府を朝廷と並ぶ中世におけるもう一つの国家とする東国独立国家論を提唱。一方、黒田俊雄は中世の政治権力を朝廷・寺社・武家といった権門による共同統治体制とする権門体制論を明らかにした。しかし学界での評価は好対照で、1970年代には既に「権門体制論一色」といった状況であり、佐藤自身も少なくとも承久の乱までの鎌倉幕府は「朝廷の番犬として仕える権門体制的な状況」にあると認めざるを得なくなっていた。佐藤は1983年に『日本の中世国家』で鎌倉幕府を「中世国家の第2の型」として改めて東国独立国家論を提起するが、その要諦である両主制について研究者間での評価を得るには至らず、権門体制論との類似を指摘される結果に終わっている。こうして東国武家政権を中世社会の変革の推進力とする見解は淘汰され、権門体制論は21世紀においても有力な学説として重視されている。もっとも、佐藤も黒田も「仮説」として東国国家や権門体制を唱えた筈なのにその「仮説」に対する検証が成されていないまま両説共に学説として一人歩きしているとする批判もある。",
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"text": "本郷和人によると、鎌倉幕府は、関東の在地領主たちが土地所有を保証するために源頼朝を祀り上げてつくった政権が実態であるとしている。つまり、政権が安定してくると在地領主にとって源氏は必要でなくなり、排除され、頼朝の嫡流は断絶したとする。",
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"text": "金沢文庫の史料や鎌倉時代末期の政治動向を調査した永井晋によれば、北条高時は政治を顧みなかったのではなく、病弱のために中々政治の場に出られず、側近たちは改革よりも安定性を重視して高時の補佐に力点を置いたため、ゆるやかに政権が衰退していったというのが真相ではないかという。永井は高時政権が崩壊した理由として、以下の4つを挙げている。",
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"text": "永井は、「この首脳部が鎌倉幕府の実力が充実した中期に政権運営を行っていれば、高時は平和なよい時代を築いた政治家と評価されたであろう」「しかし、社会が求めていたのは新しい社会構造への移行であった。この意識のズレが、蹉跌の大きな原因となる」と述べている。",
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"text": "2007年に河内祥輔によって、新説の「冤罪説」が唱えられた。河内によれば、後醍醐は父である後宇多天皇の意志を継ぐ堅実な天皇であり、少なくとも元亨4年(1324年)時点ではまだ討幕を考えておらず、鎌倉幕府との融和路線を堅持していた。後醍醐派逮捕は、後醍醐の朝廷での政敵である、大覚寺統嫡流・邦良親王派もしくは持明院統側から仕掛けられた罠であったという。なぜ日野資朝が流罪になったかと言えば、後醍醐派を完全に無罪にしてしまうと、幕府側の捜査失態の責任が問われる上に、邦良派・持明院統まで新たに捜査せざるを得ず、国家的非常事態になってしまうので、事件をうやむやにしたかったのではないかという。すなわち後醍醐派が被害者であり、取り立てた失態もないのに自派だけ損害を受けた形になったという。2010年代後半以降、河内の冤罪説を支持する研究者も複数現れている。",
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] | 鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、源頼朝が創設した日本の武家政権。この時代を鎌倉時代という。 頼朝の死後、幕府に仕えた坂東武士(御家人)の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は北条氏による執権、やがて北条義時の嫡流である得宗が鎌倉幕府の実質的な支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。 | {{政府
|政府名 = 鎌倉幕府
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|画像の説明 = [[源氏]][[家紋|紋]]・[[笹]][[リンドウ|竜胆]]
|創設年 = [[1185年]]、[[1192年]]等('''諸説あり'''※備考参照。)
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|備考 = ※ [[幕府]]創設年について、治承4年([[1180年]])、治承7年([[1183年]])、文治元年([[1185年]])、建久元年([[1190年]])、建久3年([[1192年]])など様々な[[意見]]が[[存在]]する。
}}
'''鎌倉幕府'''(かまくらばくふ)は、[[源頼朝]]が創設した[[日本]]の[[武家政権]]。この時代を[[鎌倉時代]]という。
頼朝の死後、幕府に仕えた坂東[[武士]]([[御家人]])の権力闘争によって頼朝の[[嫡流]]は断絶し、その後は[[北条氏]]による[[執権]]、やがて[[北条義時]]の嫡流である[[得宗]]が鎌倉幕府の実質的な支配者となった。[[元弘]]3年(1333年)閏2月に[[船上山]]で後醍醐天皇が挙兵すると、幕府は[[北条高家]]と[[足利高氏]]を鎌倉方の総大将として派遣するが、同年4月27日に北条高家が戦死し、4月29日に足利高氏が反幕府側に寝返ると、5月8日に関東で[[新田貞義]]が寝返って鎌倉に攻め入り、短期間のうちに形勢が変わり、同年5月22日に鎌倉幕府は滅亡した。武家政権は[[室町幕府]]・[[江戸幕府]]へと継承された。
== 概要 ==
=== 成立過程の概略 ===
『[[吾妻鏡]]』によれば[[1180年]]([[治承]]4年)12月12日に鎌倉の大倉郷に頼朝の邸となる[[大倉御所]]が置かれ、また[[幕府]]の統治機構の原型ともいうべき[[侍所]]が設置されて武家政権の実態が形成された。[[朝廷 (日本)|朝廷]]は[[寿永二年十月宣旨]]([[1183年]])で頼朝に対し、[[東国]]における[[荘園 (日本)|荘園]]・[[国衙領|公領]]からの[[官物]]・[[年貢]]納入を保証させると同時に、頼朝による東国支配権を公認した。[[壇ノ浦の戦い]](元暦2年/[[寿永]]4年([[1185年]]))で[[平氏]]を滅ぼし、同年、[[文治の勅許]](文治元年(1185年))では頼朝へ与えられた諸国への守護・地頭職の設置・任免を許可した。そして[[建久]]元年([[1190年]])頼朝が[[権官|権]][[大納言]]兼[[近衛大将|右近衛大将]]に[[任官|任じられ]]、[[公卿]]に列し[[荘園領主]]の[[家政機関]]たる[[公文所]](のちの[[政所]])開設の権を得たことで、いわば統治機構としての合法性を帯びるようになり、建久3年(1192年)には[[征夷大将軍]]の[[将軍宣下|宣下]]がなされた。こうして、名実ともに武家政権として成立することとなった。[[守護]]の設置で幕府は諸国の治安維持を担当したものの、当初は特に西日本では朝廷およびその出先機関である国府との二重支配状態だったが、次第に範囲を拡大。[[承久の乱]]や[[元寇]]を経て、全国的な支配権を確立するに至った。
== 統治構造 ==
当初の鎌倉幕府は[[鎌倉殿]]を主宰者とする武士を首班とした地方政権で、支配は東国を中心としており、[[承久の乱]]後に全国政権へと飛躍し、権力を拡大させたものであるが、そもそも当初から全国政権を志向したわけでなく、あくまで朝廷権力を前提とした地方政権であった。その大きな理由のひとつが、鎌倉幕府は[[荘園公領制]]を前提とした政権であることである。したがって中央の[[権門]]の領地(荘園・公領)の権利を冒さず、彼らへ年貢を滞りなく納めることを保証することが、幕府の重要な任務・意義としていた。
地方で土地を私有する武士団の起源は、天平15年([[743年]])、朝廷が効果的に収税を行うべく発布した[[墾田永年私財法]]の施行により土地私有が公認されたことに由来し、古来の豪族や有力農民などが土地を私有するようになったが、[[国司]]による厳しい徴税を回避すべく有力地主たちは公卿に土地の一部を寄進し、荘園の荘官(開発領主)としての地位を得たことが契機であった。寄進した貴族の保護は受けるとはいえ、今度は寄進した荘園領主からの取り立てや国司との摩擦、近隣豪族の侵略も絶えず、有力農民たちはいつしか武装するようになり、[[武士]]が誕生する。
やがて有力農民たちに由来する武士は、[[武士団]]の起源となり、[[平安京|都]]から派遣された下級貴族([[官人]])、さらに[[源氏|源朝臣]]や[[平氏|平朝臣]]など[[堂上家]]や[[地下家]]を上位の[[軍事貴族]]を[[武家の棟梁|棟梁]]として仰ぎ、主従関係を結ぶことによって本領安堵([[郡領]][[惣村]]、[[宿場]]([[駅家]])や港([[水駅]])の経営など、また盗賊([[落ち武者狩り]])や[[海賊]]([[水軍]])参照)を確実なものとした。棟梁の戦に従軍し、新たな領地を与えられることで繁栄の糸口を得たのである{{efn|ただし近年では逆に、武士の起源を有力農民ではなくて貴族の側とする見解が主流となった。詳細は『[[軍事貴族]]』『[[武士#「職能」武士の起源]]』の項目を参照。}}。
[[源頼朝]]はそうした各地の武士団を統べる貴族の名門中の名門であり、頼朝の鎌倉幕府とは、御家人となった武士に地頭職を授けることで本領安堵を行い、武功により新たな領地を与える新恩給与を行う、まさに荘園公領制を媒介とした、御恩と奉公により武士の利害を代表する政権であったといえる。そして、鎌倉幕府の政治的基盤および軍事的・経済的基盤は、頼朝が平氏追討の恩賞などとして獲得した[[関東知行国]]、[[関東御領]]であった<ref>{{Citation|和書|editor1=[[阿部猛]]|editor2=[[佐藤和彦]]|title=人物でたどる日本荘園史|publisher=[[東京堂出版]]|year=1990}}</ref>。
そして、鎌倉幕府が朝廷権力を前提とした政権であるという二つ目の理由が、鎌倉幕府は律令法制上、様々な存立根拠を満たして成立しているという点である。
もともと伊豆で[[蛭ヶ小島]]の[[流罪|流人]]であった頼朝が平氏追討の兵を挙げる前提となった出来事は、[[以仁王]]のいわゆる「令旨」(厳密には御教書)であった。[[大庭景親]]をはじめとする関東の平家方武士団を破った頼朝は、治承4年(1180年)、鎌倉に拠点を置き統治を開始するが、この時点ではまだ[[平将門]]と変わらない、ごく私的な政権に過ぎなかった。しかし、寿永2年(1183年)に入り、朝廷は頼朝を平家に敗れて流人となる前の[[従五位|従五位下]]に復し、頼朝の要望に従い平氏が東国で行った荘園や公領の横領を廃止し、元の国司や荘園領主に帰属させる権限を承認する、いわゆる東国沙汰権を付与した。そしてこの権限の履行のために東国の地方官である[[国衙]]を指揮する権能も認められたのである。いわゆる[[寿永二年十月宣旨]]である{{efn|『百錬抄』寿永二年十月二十二日条によれば「十月十四日、(中略)東海・東山諸国の年貢、神社仏寺ならびに王臣家領の庄園、元の如く領家に随うべきの由、宣旨を下さる。頼朝の申し行いに依るところ也。」と記されている。『百錬抄』寿永二年十月二十日条参照。}}。
元暦2年(1185年)3月24日には、[[壇ノ浦の戦い]]で平氏を滅ぼすことに成功した頼朝は朝敵追討の功労者として平家の所有していた荘園、いわゆる[[平家没官領]]の支配権を要求して承認され、後に鎌倉殿直轄の荘園、関東御領と呼ばれる所領を獲得した。また平家滅亡後、頼朝に叛旗を翻した弟・[[源義経]]と叔父・[[源行家]]が[[後白河天皇|後白河法皇]]から頼朝追討の院宣を下されると、頼朝はこれに抗議し、朝廷を頼朝の推薦した公卿を議奏として、議奏をもって朝廷の政治を担当させること、義経・行家追討の院宣を発すること、加えてその追討のために東国および畿内に守護及び地頭を置くことを認可し、さらに荘園公領を問わず、反別五升の[[兵粮米]]の徴収権を頼朝に与えることを求めた。いわゆる、[[文治の勅許]]である{{efn|『吾妻鏡』には文治元年(1185年)10月18日以降の記述によれば「廿八、丁未、補任諸国平均守護地頭、不論権門勢家庄公、可充 課兵粮米段別五升之由、今夜、北条殿謁申藤中納言経房卿云々」とあるように、数度に渡り北条時政を通じて荘園公領を問わず反別五升の兵粮米の徴収権を与えられることを奏請した。さらに、[[九条兼実]]の日記『[[玉葉]]』によれば「二十九日、戊申、北条殿申さるるところの諸国守護地頭兵粮米の事、早く申請に任せて御沙汰あるべきの由、仰せ下さるるの間、帥中納言勅を北条殿に伝えらると云々」と記されている。『吾妻鏡』文治元年十二月六日条、『玉葉』『吉記』文治元年十二月二十七日条。参照。}}。
その後、頼朝は東北に強大な独立勢力を築いていた[[奥州藤原氏]]を滅ぼし、建久元年(1190年)11月、[[権官|権]][[大納言]]兼[[近衛府|右近衛大将]]に任ぜられた(位階は既に[[元暦]]二年(1185年)に[[従二位]]に叙され、[[文治]]5年(1189年)に[[正二位]]に昇叙されていた)。
これによって、三位以上の[[公卿]]に認められる、家政機関[[政所]]の設置が公に認められ、それまで頼朝が独自に設置してきた[[公文所]]を政所と改め、官職・[[近衛大将|右近衛大将]]の略称である右大将にちなみ、右大将家政所と称した。それまで頼朝個人としての官職復帰や、東国沙汰権を拠り所としていた鎌倉の東国政権は、朝廷公認の家政機関としての位置付けを得て、統治機構としての正当性を獲得したのである。[[建久]]2年([[1191年]])[[1月15日 (旧暦)|1月15日]]、鎌倉に帰還した頼朝は年頭行事や祝い事など画期に行われる[[吉書始]]を行い、右大将家政所を司る四等官として[[政所]][[別当]]に[[大江広元]]、令に[[二階堂行政]]、案主に[[藤井俊長]]、知家事に[[中原光家]]をそれぞれ任じ、[[問注所]][[執事]]に[[三善善信]]、[[侍所]]別当に[[和田義盛]]、侍所所司に[[梶原景時]]、公事奉行人に[[藤原親能]]他6名、[[京都守護]]に[[外戚]]で公卿でもある[[一条能保]]、鎮西奉行人に[[天野遠景]]を任じ、鎌倉幕府の陣容を固めた。
建久3年([[1192年]])[[7月12日 (旧暦)|7月12日]]、頼朝は朝廷から[[征夷大将軍]]を宣下された。『[[山槐記]]』建久3年(1192年)7月9日条および12日条によると、頼朝が望んだのは「[[大将軍]]」であり、それを受けた朝廷で「惣官」「[[征東大将軍]]」「征夷大将軍」「[[上将軍]]」の4つの候補が提案されて検討された結果、[[平宗盛]]の任官した「惣官」や[[源義仲]]の任官した「征東大将軍」は凶例であるとして斥けられ、また「上将軍」も日本では先例がないとして、[[坂上田村麻呂]]の任官した「征夷大将軍」が吉例として選ばれたという。この時代においては名誉職化していた征夷大将軍に、[[左大臣]]にも相当する[[正二位]]という高位で就いたことは、軍権に基づく政権担当者という意味合いが加わり、これが幕府の主宰者に[[世襲]]されたことによって、鎌倉幕府は朝廷に代わる政権として名実ともに確立された。また、戦時において全国の兵馬を動員できる征夷大将軍への任命は、頼朝に非常大権を付与せしめることを意味した<ref>{{Cite book|和書|author=高橋富雄|authorlink=高橋富雄|title=征夷大将軍 もう一つの国家主権|publisher=[[中央公論社]]|year=1987|pages=73-74}}</ref>{{efn|もっとも、{{Citation|和書|author=[[北村拓]]|chapter=鎌倉幕府征夷大将軍の補任について|editor=[[今江廣道]]|title=中世の史料と制度|publisher=続群書類従完成会|year=2005|pages=137 - 194}}のように、征夷大将軍はこの時代には完全に名誉職化しており、何らかの権限を付与されたものではないとする説もある。}}。後に源頼朝は武家政権の始祖として武士に神聖視されることとなる。
このように、鎌倉幕府は朝廷の公的制度である荘園公領制を前提とし、朝廷から幾重もの権限承認、委譲を受け、成立した政権であるということができる。鎌倉殿自身が得た大規模な荘園所領も、将軍の高い官位に伴う職権として、朝廷から世襲が制度上も認められた。
== 歴史 ==
[[File:Procession-of-Minamoto-no-Yoritomo-visits-Kyoto-1190-Utagawa-Sadahide.png|thumb|380px|「建久元年源頼朝公上京行粧之図」、[[1190年]]頃]]
=== 成立 ===
{{Main|治承・寿永の乱}}
[[平安時代]]末期、[[平清盛]]を中心とする[[平氏政権]]が成立していたが、旧勢力や対抗勢力には強い反感・抵抗感があった。[[1180年]]、[[後白河天皇|後白河法皇]]の皇子[[以仁王]]が平氏追討の兵を挙げ、すぐ討ち取られたものの、これを契機に全国的に反平氏を標榜する勢力が立ち上がっていった。
そうした状況の中で、[[伊豆国|伊豆]]に[[流罪]]となっていた源頼朝は8月に挙兵し、[[石橋山の戦い]]で敗れたものの、[[安房国|安房]]から[[上総国]]・[[下総国]]にかけての平氏系の[[武士団]]([[坂東平氏]])らの支持を獲得し、同年10月、先祖ゆかりの地である鎌倉へ入り本拠地とした。頼朝は、関東武士団を統率するための[[侍所]]を置き、[[鎌倉殿]]と称されるようになった。その直後の[[富士川の戦い]]で平氏軍に勝利した。
[[1183年]]7月、[[源義仲]]が平氏を[[平安京|京]]から追放したが、乱暴な行動を重ねた。これを憂慮した[[後白河天皇|後白河法皇]]は、頼朝へ上洛を求めたが、頼朝は逆に[[東海道]]・[[東山道]]・[[北陸道]]の荘園・[[国衙領|公領]]を元のように[[国司]]・[[本所]]に返還させる内容の宣旨(寿永二年十月宣旨)の発給を要求した。朝廷は、義仲に配慮して北陸道は除いたものの、頼朝の要求をほぼ認めた。これにより、頼朝は東海・東山両道の支配権を間接的ではあるが獲得した。
こうして、名実ともに東国の支配権を確立していった頼朝は、[[1184年]]、行政を担当する[[公文所]](後の[[政所]])と司法を担当する[[問注所]]を置いて、政権の実態を形成していった。同時に、頼朝は弟の[[源範頼]]・[[源義経]]を派遣し、平氏追討に当たらせ、[[1185年]]、[[壇ノ浦の戦い]]で平氏を滅亡させた。
同年、源義経・[[源行家]]が頼朝に無断で官位を得るなどしたため、頼朝は両者追討の[[院宣]]を後白河法皇から獲得するとともに、両者の追捕を名目に、[[守護]]・[[地頭]]の任免権を承認させた。これを文治の勅許という。これにより頼朝政権は、全国の軍事権・警察権を掌握したため、この時期をもって幕府成立とする説が有力とされている。守護・地頭には、兵糧米の徴収権、[[在庁官人]]の支配権などが与えられ、これは頼朝政権が全国的に在地支配を拡げる契機となった。この時の頼朝政権の在地支配は、まだ従来の[[権門勢家]]による支配に優越した訳ではなく、地頭の設置も平氏の旧領([[平家没官領]])などに限定されていた。
[[1189年]]、頼朝政権は、義経を匿ったことを口実として[[奥州合戦]]で[[奥州藤原氏]]を滅ぼし、対抗しうる武家勢力はいなくなった。頼朝政権は治承の乱から義経追捕、そして奥州合戦へと続く一連の内乱の流れの中で幕府のその基礎を固めることに成功した。このため、「内乱に勝利したから幕府ができたのではなく、幕府ができたので内乱に勝利した」とする評価もある<ref>{{Cite book|和書|author=菱沼一憲|authorlink=菱沼一憲|title=中世地域社会と将軍権力|publisher=[[汲古書院]]|year=2011|page=161}}</ref>。
[[1190年]]、頼朝は常設武官の最高職である右近衛大将に補任されたが、同職には様々な政治的制約も付随していたため、すぐに辞している。[[1192年]]、頼朝は征夷大将軍に任命される。これにより、鎌倉幕府の形成がひとまず完了することとなる。ただし、[[1221年]]の[[承久の乱]]での勝利をもって幕府の成立とする見解もある。
以上のように、鎌倉幕府は元々、源頼朝の私的政権に発している。この私的政権は、朝廷から承認されることによって、支配権の正統性を獲得していった。そのため、幕府の支配権の及ぶ範囲は[[守護]]の設置などで諸国の軍事・警察権を得たものの、支配は主として頼朝傘下の[[御家人]]に限られ、少なくとも承久の乱までは朝廷側勢力(権門勢家)の支配権を侵害しないことを原則としていた。また、幕府機構を見ると、朝廷のそれと大きく異なり、鎌倉殿の家政機関としての性格を色濃く残していた。
==== 年表 ====
* [[1180年]]([[治承]]4年) - 頼朝が[[平家]]追討のため配流先の[[伊豆国]]で挙兵する(頼朝と在地武士との主従関係の成立)。
** 同年、頼朝が鎌倉入りし、[[大倉御所]]に居を構える(鎌倉における拠点設置)。
** 同年、頼朝が[[侍所]]を設置する(武士支配機構の成立)。
* [[1183年]]([[寿永]]2年) - 朝廷から頼朝に東国における荘園・公領からの官物・年貢納入を保証([[寿永二年十月宣旨]]:朝廷から間接的に土地支配権が認定)。
* [[1184年]]([[寿永]]3年) - 頼朝が[[公文所]](後に[[政所]]と改称)、[[問注所]]を設置する(行政・裁判機構の成立)。
* [[1185年]]([[文治]]元年) - [[平家]]が滅亡する(敵対武家勢力の消滅)。
** 同年、頼朝が[[朝廷 (日本)|朝廷]]から[[守護]]・[[地頭]]の設置を認められる([[文治の勅許]]:軍事・警察・土地支配権を公認される)。
* [[1189年]]([[文治]]5年) - 頼朝が[[源義経]]とこれを匿った[[奥州藤原氏]]を滅ぼす(全国の武士を動員し、対抗しうる武家勢力を排除)。
* [[1190年]]([[建久]]元年) - 頼朝が[[近衛大将|右近衛大将]]([[律令制]]における武官の最高位)に任じられ治安維持に関する17か条に及ぶ命を受ける([[大犯三ヶ条]]:軍事・警察・土地支配権の確立)。
* [[1192年]]([[建久]]3年) - 頼朝が[[征夷大将軍]]に任命される。
* [[1221年]]([[承久]]3年) - [[北条氏]]を中心とする軍勢が[[承久の乱]]で[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]方を破る(全国特に西国掌握の完了、[[朝廷 (日本)|朝廷]]の掌握)。
=== 北条氏の台頭 ===
[[Image: Hōjō Tokimasa.jpg|thumb|[[北条時政]]]]
鎌倉幕府の確立を成し遂げた源頼朝は、[[正治]]元年([[1199年]])1月に突然死去した。跡を継いで鎌倉殿となったのは、頼朝の嫡子で当時18歳の[[源頼家]]だった。しかし、幕府の有力者たちは若年の頼家に政務を任せることに不安を抱き、有力御家人が頼家に代わって裁判と政務を執行する[[十三人の合議制]]と呼ばれる政治体制を築いた。この合議制の中心にいたのは頼家の外戚にあたる[[北条氏]]であり、[[北条時政]]・[[北条義時]]父子は他の有力御家人を次々と滅ぼしていった([[1200年]]:[[梶原景時の変]]、[[1203年]]:[[比企能員の変]])。
[[1203年]]、重病に陥った頼家は、外祖父時政の手により[[伊豆国|伊豆]]の[[修禅寺]]へ幽閉され、弟の[[源実朝]]が次の鎌倉殿・将軍位に就くと、翌[[1204年]]に頼家は死亡した。時政ら北条氏の手勢により暗殺されたと伝えられている。時政は、3代将軍実朝を補佐して[[執権]]と呼ばれる地位に就き、政治の実権を握っていった。翌1205年、時政は娘婿の[[平賀朝雅]]を将軍にしようと画策、朝雅と対立する[[畠山重忠]]を殺害し、実朝を廃そうとした([[畠山重忠の乱]])。しかし、時政の子の義時と[[北条政子]]はこの動きに反発し、有力御家人と連帯して、時政を引退させるとともに、平賀朝雅を抹殺した([[牧氏事件]])。
この後、北条義時が執権となり、北条氏権力の確立に努めたが、侍所別当の[[和田義盛]]が対抗勢力として現れた。義時は計略をめぐらし、[[1213年]]、和田一族を滅ぼした([[和田合戦]])。このように、武力紛争が絶えない幕府の状況は、[[承久]]元年([[1219年]])1月の将軍・源実朝の暗殺という最悪の事態に至る。頼朝の直系が断絶し、困惑した幕府は、朝廷へ親王将軍を要望したが、[[治天の君]]・[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]はこれを拒否し、曲折の末、頼朝の遠縁に当たる摂関家の幼児[[藤原頼経]]が新将軍=鎌倉殿として迎え入れられた。この後の2代の鎌倉殿は[[摂家将軍]]と呼ばれる。こうして幕府の実権は、執権の北条氏が掌握することとなった。
=== 承久の乱 ===
{{main|承久の乱}}
[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]は、治天として専制的な政治を指向し、幕府の存在を疎ましく感じていた。実朝の暗殺を幕府の混乱・弱体化と見た後鳥羽上皇は、政権を朝廷に取り戻そうと考えた。そして、承久3年([[1221年]])5月、後鳥羽上皇は北条義時追討の[[院宣]]を発した(ただし、幕府の存続を前提に義時を討ち取って自己に都合のよい体制に作り変えようとしたものか、幕府そのものを倒す意図があったのかについては意見が分かれている)。それまでの歴史から後鳥羽上皇は、ほどなく義時が討ち取られ、関東武士たちも帰順すると見込んでいたが、幕府側は頼朝以来の御恩を訴え、御家人の大多数を味方につけた。そして、短期決戦策を採り、2か月も経たないうちに朝廷軍を打ち破った。
幕府側の主導で戦後処理が進められ、主謀者の後鳥羽上皇、そして後鳥羽上皇の系譜の[[太上天皇|上皇]]・[[皇子]]が[[流罪]]に処せられ、[[仲恭天皇]]は[[廃位]]、朝廷側の貴族・武士も多くが[[死刑|死罪]]とされた。当時の人々は、[[治天の君]]をはじめとする朝廷側の上皇・[[天皇]]・諸臣が処罰される事態に大きな衝撃を受けた。当時の社会における価値観は正反対に転換した。朝廷の威信は文字どおり地に落ち、幕府は朝廷監視のために[[六波羅探題]]を置き、朝廷に対する支配力を強めることとなる。
乱後、朝廷は次代の天皇を誰にするかを幕府へ諮った。これ以降、朝廷は治天・天皇を決定する際は必ず幕府の意向を確認するようになり、幕府と朝廷の立場が逆転したことを物語る。
=== 執権政治の確立 ===
[[Image: Hōjō Yasutoki.jpg|thumb|[[北条泰時]]]]
{{Wikisource|御成敗式目}}
[[1224年]]([[元仁]]元年)に北条義時、[[1225年]]([[嘉禄]]元年)に北条政子や[[大江広元]]といった幕府創業世代が死去し、義時の子[[北条泰時]]が執権となった。泰時は、世代交代期の混乱を防ぐため、叔父の[[北条時房]]を執権の補佐役といえる[[連署]]に当てる(ただし、時房は本来は泰時と同役の執権であったとする見方もある)とともに、政治意思決定の合議機関である[[評定衆]]を設置し、集団指導体制を布いた。これには、基本的に鎌倉幕府は、鎌倉殿(将軍)と個々の御家人の主従関係によって成り立っているという事情がある。北条氏も鎌倉殿の家来のひとりに過ぎず、数ある御家人の第一人者であっても主君ではなかったのである。
承久の乱後、急増した訴訟事件を公平に処理するため、泰時は明確な裁判基準を定めることとした。これが[[御成敗式目]]と呼ばれる法典([[武家法]])であり、平易で実際的な法令と評価されている。後の[[室町幕府]]も、この法令を原則として継承している。また、泰時は、式目制定に当たって、朝廷の司法権を侵害するものでないことを強調している。
こうした泰時の一連の施策は、執権政治の確立と捉えられている。鎌倉幕府は、頼朝以来、鎌倉殿の個人的な資質に依拠するところが大きく、その組織も鎌倉殿の家政機関を発展させただけのものだった。しかし、泰時が確立した集団指導体制・明確な法令による司法体制は、個人的な資質などの不安定な要素に左右されることはなく、安定した政治結果を生み出すものだった。
泰時の孫[[北条時頼]]は、泰時の執権政治を継承していった。時頼は、司法制度の充実に力を注ぎ、[[1249年]]、裁判の公平化のため、[[引付衆]]を設置した。一方で、執権権力の強化にも努めた。[[1246年]]、時頼排除を企てた前将軍・藤原頼経と[[北条光時|名越光時]]一派を幕府から追放する([[宮騒動]])と、[[1247年]]には有力御家人である[[三浦泰村]]の一族を討滅した([[宝治合戦]])。[[1252年]]、幕府への謀叛に荷担した将軍[[藤原頼嗣]]が廃され、代わりに[[宗尊親王]]を新将軍として迎えることに成功した。これ以後、親王将軍([[宮将軍]])が代々迎えられ、親王将軍は幕府の政治に参与しないことが通例となった。こうして、親王将軍の下で専制を強めていった北条氏は、権力を北条宗家へ集中させていった。時頼は、病のため執権職を[[北条長時]]に譲ったが、実権を握り続けた。これにより政治の実権は執権の地位と乖離していく。北条宗家を当時、[[得宗]](徳宗)と呼んだことから、上記の政治体制を'''[[得宗専制]]'''という。
=== 元寇 ===
{{main|元寇}}
[[File:Hōjō Tokimune.jpg|thumb|200px|[[北条時宗]]]]
時頼の死後、得宗の地位を継いだのは子の[[北条時宗]]だった。時宗が得宗となった前後の[[1268年]]、[[モンゴル帝国]]第5代[[大ハーン]]の[[クビライ]]が[[高麗]]を通して朝貢を要求してきた。朝廷は対応を幕府へ一任し、幕府は回答しないことを決定、西国の防御を固めることとした。[[1269年]]と[[1271年]]にもモンゴルから国書が届き、朝廷は返書送付を提案したが、幕府は当初の方針どおり黙殺を選んだ(外交権も幕府が握っていたことを表す)。
モンゴルから国号を改めた[[元 (王朝)|元]]は、[[文永]]11年([[1274年]])10月に九州北部を襲撃したが、鎌倉武士の頑強な抵抗に遭ったため([[元寇|赤坂の戦い]]・[[元寇|鳥飼潟の戦い]])、元軍は夜間に強行撤退し、帰還途中に暴風雨を受けて大損害を被った。これを[[文永の役]]という。幕府は朝廷と一体になって、国家鎮護に当たることとし、西国の警固を再強化するとともに、それまで幕府の支配の及ばなかった朝廷側の支配地、本所一円地からの人員・兵粮の調達が認められるようになった。これは幕府権力が全国的に展開する一つの契機となる。さらに幕府は、警固を強化する一方で、逆に大陸に侵攻する計画をたてたが、この計画は途中で頓挫した([[元寇|第一次高麗征伐計画]])。
元は[[弘安]]4年([[1281年]])、九州北部を中心に再び日本へ侵攻した。この時は2か月近くにわたる日本軍の頑強な抵抗に遭い([[元寇|志賀島の戦い]]・[[元寇|壱岐島の戦い]]・[[元寇|鷹島沖海戦]])、侵攻が停滞していたところに[[元寇|台風]]により大被害を受ける。さらに日本軍による総攻撃を受けて元軍は壊滅した([[元寇|御厨海上合戦]]・[[元寇|鷹島掃蕩戦]])。これを[[弘安の役]]という。前回の襲来と併せて[[元寇]]と呼ぶ。幕府は大陸に出兵して、反撃する計画を再びたてたが、この計画も実行はされなかった([[元寇|第二次高麗征伐計画]])。
この間、時宗は非常事態への迅速な対処を名目として、時間のかかる合議ではなく、一門や側近([[御内人]]という)らと専断で政策決定していった。こうした中で、御内人のトップである[[内管領]]が次第に権力を持ち始め、弘安期には内管領の[[平頼綱]]と有力御家人の[[安達泰盛]]が拮抗していた。泰盛は、時宗の理解も得て、幕府の経済基盤の充実を図るとともに、御家人の地位を保証する政策を実現しようとした。しかし、時宗が[[1284年]]に急死すると、翌[[1285年]]、平頼綱は泰盛を突如襲撃・殺害し、泰盛派の御家人らを討伐した([[霜月騒動]])。この事件により、得宗専制が完成したとされる。
この頃、朝廷においては、[[後嵯峨天皇]]以後の皇位を巡って[[大覚寺統]]と[[持明院統]]の2系統に分立して幕府に[[皇位継承]]の調整を求めた。幕府は[[両統迭立]]原則を示して仲裁にあたるとともに内外の危機に対応するために幕府は朝廷に対しても「[[徳政]]」と呼ばれる政治改革を要求した。これを受けて[[亀山天皇|亀山上皇]]は弘安9年([[1286年]])12月に院評定を徳政沙汰と[[雑訴決断所|雑訴沙汰]]に分割、続いて[[伏見天皇]]は[[正応]]6年([[1293年]])6月に[[記録所]]組織の改革を行って、政治組織の刷新を行って円滑な政務遂行を図った。だが、皇位継承と徳政実施の過程において幕府との対立が表面化するようになり、朝廷内に再び反幕府の動きを潜在化させる遠因となった。
=== 得宗専制の全盛と衰退 ===
[[File:Hōjō Sadatoki.jpg|thumb|[[北条貞時]]]]
平頼綱は、時宗を継いだ年少の[[北条貞時]]を補佐し、得宗専制の強化に尽力した。元寇防衛に働いた九州御家人の恩賞・訴訟を判定するため、安達泰盛は九州に合議制の奉行(鎮西談議所)を置いていたが、頼綱はそれに代えて、得宗派で固めた新機関([[鎮西探題]])を設置した。頼綱政権は、この機関を通じて西国の荘園・公領への支配を強めていった。その反面、さらなる元寇の可能性を根拠として、御家人らへの恩賞給与は僅かにとどまった。正応6年(1293年)、成人した[[北条貞時]]は、[[平頼綱]]一族を討滅した([[平禅門の乱]])。貞時は、政治の実権を内管領から取り戻し、実質的な得宗専制を一層強化していった。まず、頼綱政権下で停滞していた訴訟の迅速な処理のため、合議制の引付衆を廃止し、判決を全て貞時が下すこととした。当初、御家人らは訴訟の進行を歓迎したが、ほどなく独裁的な判決への反発が高まった。そして、[[永仁]]5年([[1297年]])、大彗星が現れると世相に不安が拡がり、当時の[[徳政]]観念に従って、貞時は、財物を元の持ち主へ無償で帰属させる[[永仁の徳政令]]を発布した。この徳政令は、当時、普及しつつあった貨幣経済に深刻な影響を与えるとともに、社会に大きな動揺をもたらした。
その後、執権職は貞時に代わって北条氏支流の4人が次々に受け継いだが、貞時は得宗として幕府を実質的に支配し続けた。貞時の時代には、北条一門の知行国が著しく増加した。その一方、一般の御家人層では、異国警固番役や長門警固番役などの新たな負担を抱えるとともに、貨幣経済の普及に十分対応しきれず、分割相続による所領の細分化などもあり、急速に階層分化が進んでいった。中には所領を増加させる御家人もいたが、没落傾向にある御家人も少なくなく、所領を売却したり、質入するなどして失い、幕府への勤仕ができない無足御家人も増加していった。一方で彼らから所領を買収・取得する事でのし上がる者もおり、その中には[[非御家人]]も数多く含まれる。こうした無足御家人と、力をつけた非御家人は、[[悪党]]化し、社会変動を一層進展させた。そのような中で嘉元3年(1305年)、貞時は北条氏庶家の重臣である連署・[[北条時村]]を誅殺し、得宗家の権力をさらに強化しようと図ったが北条氏一門の抵抗を受けて失敗([[嘉元の乱]])した。乱の後貞時は酒浸りとなって政務を放棄し、北条庶家や[[御内人]]らによる[[寄合衆]]が幕府を主導し、得宗の地位も将軍同様の形式的なものとなっていった<ref>{{Cite book|和書|author=細川重男|authorlink=細川重男|title=鎌倉幕府の滅亡|publisher=[[吉川弘文館]]|year=2011|pages=132-133}}</ref>。
[[応長]]元年[[10月26日 (旧暦)|10月26日]]([[1311年]][[12月6日]])、貞時が死去すると、子の[[北条高時]]が北条得宗家の跡を継いだ。貞時の遺言により、9歳の高時の補佐役に、平頼綱の一族の[[長崎円喜|長崎高綱(長崎円喜)]]と、安達一族の生き残りの[[安達時顕]]が就いた(『[[保暦間記]]』){{sfn|永井|2009|p=53}}。正和5年([[1316年]])7月、高時は14歳で執権となり、前年から[[連署]]となっていた[[北条貞顕|金沢貞顕]]がその補佐に就いた。
[[軍記物]]『[[太平記]]』(1370年頃)の語る物語では、北条高時は政治を顧みず[[闘犬]]や[[田楽]]などの遊びにふける暴君であり、その側近も無能で腐敗しており、相次ぐ暴動を強権的な支配で抑え込んだために幕府は急速に権威・権力を失墜して滅びた展開が描かれる。しかし、『[[増鏡]]』や『[[保暦間記]]』といった他の文献、および北条氏の私設図書館である[[金沢文庫]]に残る史料などから、『太平記』の表現は大幅な誇張であることが明かにされている{{sfn|永井|2009|pp=3-24}}。
=== 後醍醐天皇の倒幕運動 ===
{{main|正中の変|元弘の乱}}
[[File:Emperor Godaigo.jpg|thumb|230px|[[文観|文観房弘真]][[開眼]]『[[絹本著色後醍醐天皇御像]]』([[延元]]4年/[[暦応]]2年([[1339年]])、[[重要文化財]]、[[神奈川県]][[藤沢市]][[清浄光寺]]蔵)]]
一方、時宗が朝廷へ介入したことによって分裂した[[皇室]]の[[持明院統]]・[[大覚寺統]]は、さらに大覚寺統内で[[嫡流]]の[[邦良親王]]([[後二条天皇]]の[[嫡子|嫡男]])派ともうひとつの[[後醍醐天皇]]派に分かれて対立していた。そして、朝廷の各派はこれらの争いの調停を幕府に求めたため、幕府は朝廷内の争いに巻き込まれていくことになった。
[[文保]]2年([[1318年]])、[[後醍醐天皇]]が即位し、[[元亨]]元年[[12月9日 (旧暦)|12月9日]]([[1321年]][[12月28日]])に[[後宇多天皇|後宇多上皇]]から政務の移譲を受け、親政を開始する。
[[元亨]]4年[[9月19日 (旧暦)|9月19日]]([[1324年]][[10月7日]])、後醍醐天皇は倒幕計画を疑われ、関係者として[[土岐頼有]]([[土岐頼兼]]の子)と[[多治見国長]]らが討たれた([[正中の変]]){{sfn|河内|2007|pp=304-347}}。また、腹心の公家である[[日野資朝]]と[[日野俊基]]が捕らえられた。公式判決では天皇と俊基は冤罪となったが、資朝は有罪とも無罪とも言えないので[[佐渡島]]に流刑となった{{sfn|河内|2007|pp=304-347}}。天皇は実際は倒幕を企んでいたが、幕府が処分に及び腰になったので処分されなかったのだという{{sfn|河内|2007|pp=304-347}}。この天皇と幕府が対立に至る過程には諸説あり一定しない。詳細は[[正中の変]]を参照。
いずれにしても[[元弘]]元年([[1331年]])、後醍醐天皇は倒幕を企てた。これは[[吉田定房]]の密告によって事前に発覚し、翌年に天皇は[[隠岐島]]へ流された([[元弘の乱]])。しかし、これを契機に幕府・得宗に不満を持つ[[楠木正成]]、[[赤松則村]](円心)など各地の悪党と呼ばれる武士が各地で反幕府の兵を挙げるようになる。
元弘3/[[正慶]]2年([[1333年]])4月、反幕府勢力の討伐のために京都へ派遣された有力御家人の[[足利尊氏|足利高氏(尊氏)]]は[[北条高家|名越高家]]が[[久我畷の戦い]]で戦死したのを見て、一転して後醍醐天皇側へつき、5月7日に[[六波羅探題]]を落とした。
=== 滅亡 ===
[[画像:Toushouji.jpg|230px|thumb|right|北条高時ら一族・家臣が自害した東勝寺址]]
六波羅陥落の翌日、[[新田義貞]]が[[上野国]]で挙兵し、150騎だった軍勢は関東[[御家人]]の支持を得て数日のうちに大軍となった{{Sfn|峰岸|2005|pp=37 - 38}}。これに対し、幕府は[[北条貞国|桜田貞国]]・[[長崎高重]]らを将に討伐軍を組織し、大軍で以てこれを迎撃させたが、彼らは[[小手指原の戦い]]、[[久米川の戦い]]で敗れた{{Sfn|峰岸|2005|p=57}}。[[北条泰家]]の援軍が加わったのちも、[[分倍河原の戦い]]、[[関戸の戦い]]で敗れ、幕府軍は鎌倉へと敗走し、新田勢は鎌倉へと迫った。
5月18日、新田義貞は大軍(軍記物語では誇張表現で数十万ともいわれる)で鎌倉に対し攻撃を開始し、防戦する幕府軍との間で激しい攻防戦が繰り広げられた([[鎌倉の戦い]]){{Sfn|峰岸|2005|p=62}}。当日、追い詰められた執権の[[北条守時|赤橋守時]]が自害するなどしたが{{Sfn|峰岸|2005|p=63}}、地形を利用した幕府軍の激しい抵抗に新田軍は甚大な損害を被った。
5月21日、新田義貞率いる軍勢が干潮を利用して[[稲村ヶ崎]]を突破し、鎌倉市内になだれ込んだ。両軍は市中において激戦を繰り広げたが、22日までに[[北条守時|赤橋守時]]、[[北条貞直|大仏貞直]]、[[北条貞将|金沢貞将]]、[[北条基時|普恩寺基時]]など幕府軍の有力武将が相次いで戦死・自害した{{Sfn|永井|2003|pp=148・150}}<ref>『太平記』巻十「大仏貞直並金沢貞将討死事」</ref><ref>『太平記』巻十「信忍自害事」</ref>。もはや幕府の命運が尽きたのを感じとっての行動か、[[北条高時]]・[[北条貞顕|金沢貞顕]]、長崎円喜・[[長崎高資]]・安達時顕ら一族・家臣283人は菩提寺の[[東勝寺 (鎌倉市)|東勝寺]]に集合し、寺に火を放って自害し果てた([[東勝寺合戦]])<ref>『太平記』巻十「高時並一門以下於東勝寺自害事」</ref>。同日、[[守邦親王]]は将軍職を退いて出家した。さらに3日後の5月25日には、[[九州]]の鎮西探題も反幕府勢力に転じた[[少弐貞経]]や[[大友貞宗]]、[[島津貞久]]らによって陥落した。
=== その後 ===
幕府を倒して[[建武の新政]]を開始した[[後醍醐天皇]]は、自身と死闘を演じた[[北条高時]]の菩提を弔うため、[[足利尊氏]]に命じて、[[鎌倉]]の高時屋敷跡への[[宝戒寺]]建立を企画した<ref name="hokaiji">{{ Citation | 和書 | title=日本歴史地名大系 | publisher=[[平凡社]] | date=2006 | contribution = 神奈川県:鎌倉市 > 小町村 > 宝戒寺 }}</ref>{{efn|足利尊氏寄進状[[建武 (日本)|建武]]2年([[1335年]])[[3月28日 (旧暦)|3月28日]]付(『神奈川県史』資料編3所収)<ref name="hokaiji"/>}}。続く戦乱で造営は中断されていたものの、[[観応の擾乱]](1350-1352年)を制して幕府の実権を握った尊氏によって再開され、[[正平 (日本)|正平]]9年/[[文和]]3年([[1354年]])ごろに完成している<ref name="hokaiji"/>{{efn|「将軍足利尊氏寄進状案」「将軍足利尊氏御教書案」(『神奈川県史』資料編3所収)、「惟賢灌頂授与記」(『鎌倉市史』史料編1所収)<ref name="hokaiji"/>}}。
建武政権下、得宗北条高時の遺児である[[北条時行]](中先代)は、[[中先代の乱]]([[建武 (日本)|建武]]2年([[1335年]]))を起こして、尊氏の弟の[[足利直義]]を破って鎌倉を占拠し、鎌倉幕府を一時的に再興したが、[[征東将軍]]足利尊氏に攻められて20日で滅んだ。[[南北朝の内乱]]では後醍醐天皇から朝敵を赦免されて[[南朝 (日本)|南朝]]方として戦い、[[武蔵野の戦い]]では再び鎌倉を奪還したが、今回も尊氏に敗北し、その後は処刑もしくは行方不明となった。
== 都市造営 ==
鎌倉入りと都市造営は、それまで京都の公家たちに従属していた武士の歴史として画期的な意味を持つ。まず、頼朝は居館の建築と、[[鶴岡八幡宮]]の整備を行う。鶴岡宮は地勢的にも精神的な位置においても都市鎌倉の中心を占めるものであり、京都における[[内裏]]に匹敵するもので、中央から下向した[[天台宗]]・[[真言宗]]の僧が、[[供僧]]として運営の主導権を握っていた。そこでは[[放生会]]といった[[年中行事]]が整備される一方、それに際し奉納される[[流鏑馬]]や[[笠懸]]は武家社会を代表する重要行事となった。
新造の武家の都を飾る建設は続き、[[源義朝]]の[[菩提]][[勝長寿院]]や、[[平泉]]は[[中尊寺]]の二階大堂を模した[[奥州合戦]]や数多の戦を[[供養]]し[[源義経]]・[[藤原泰衡]]をはじめとする数万の[[怨霊]]・[[英霊]]をしずめ、[[冥福]]を祈るための寺院[[永福寺跡|永福寺]]、13世紀に入ると[[寿福寺]]・[[東勝寺]]といった[[禅宗]]の寺が次々に建立された。禅宗は特に保護されて、[[北鎌倉]]には渡来僧を[[開山 (仏教)|開山]]とする[[建長寺]]や[[円覚寺]]などの巨刹が偉容を示す<ref>{{Citation|和書|editor=[[佐藤弘夫]]|title=概説 日本思想史|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|year=2005}}</ref>。
== 存立原理と幕府機構 ==
=== 御恩と奉公 ===
鎌倉幕府の存立は、武士、特に関東武士団を基盤としていた。これらの武士は、「鎌倉殿」( = 将軍)の家人となることで、鎌倉幕府の構成員となった。鎌倉殿の家人になった武士は[[御家人]]と呼ばれた。鎌倉殿と御家人の主従関係は、[[御恩と奉公]]と呼ばれる互恵関係によって保持された、この制度を御家人制度と呼ぶ。
; [[御恩]]:鎌倉殿が御家人の所領支配を保障し、又は新たな土地給与を行うことを言う。「御恩」には所領支配を保障する本領安堵(ほんりょうあんど)と新たな土地給与である新恩給与(しんおんきゅうよ)の2種類があった。いずれも御家人を[[地頭]]へ任命するという形で行われた。
; [[奉公]]:御家人が鎌倉殿に対して負担する軍役・経済負担などを言う。具体的には、「いざ鎌倉」などに代表される緊急時の軍役、内裏の警護である[[大番役|京都大番役]]、幕府の警護である[[大番役|鎌倉番役]]、後の元寇の頃には[[異国警固番役]]や[[長門警固番役]]という形で行われ、また[[関東御公事]]と言われる経済負担もあった。
以上のように、相互に利益を享受することで、両者は結ばれていた。主従の契約は、御家人が鎌倉殿へ見参した際の名簿差出(みょうぶさしだし)によって行われ、幕府は御家人名簿により御家人を管理した。
=== 経済基盤 ===
鎌倉幕府は、以下のような独自の経済基盤を有していた。
* [[関東御成敗地]] - 将軍家が地頭任免権を持つ国・荘園・国衙領
* [[関東御領]] - 将軍が本所である荘園
* [[関東御分国]] - 将軍に与えられた知行国
* [[関東進止所領]] - 将軍が地頭を任免できる荘園・国衙領
* [[関東御口入地]] - 将軍が地頭職を推薦、斡旋できる荘園、国衙領
=== 職制 ===
; [[征夷大将軍]]([[鎌倉殿]])
: 鎌倉幕府の長。初代頼朝の時代は武家の棟梁と見なされていたが、源氏将軍が3代で途絶えると、朝廷から摂関家(2代)および皇族(4代)を迎え入れるようになり形骸化していく。
; [[執権]]
: 鎌倉幕府の将軍(鎌倉殿)の補佐役。次第に将軍の権限を吸収していき、事実上の鎌倉幕府のトップとなる。[[北条氏]]が世襲したが、後に北条得宗家の当主が執権職を一族の人物に譲った後も得宗家当主が実権を掌握し続けるようになった。
; [[連署]]
: 執権に次ぐ、もしくは執権に並ぶ役職。
; [[評定衆]]
: 幕府の政策意思決定の最高合議機関。頼朝死後の重臣合議の幕府運営体制である「[[十三人の合議制]]」が発展して成立。得宗専制が進むと軽視されるようになる。
; [[寄合衆]]
: 元々は得宗家当主の私的な会議であったが、得宗専制が進むと実質的に評定衆に代わる最高意思決定機関となった。
; [[引付衆]]
: 幕府へ提訴された訴訟の審理を担当した。審理結果は評定衆へ上申され、評定衆が裁定した。
; [[侍所]]
: 御家人の統率を所管した。
; [[政所]]
: 頼朝の家政機関に端を発し、幕府の一般政務・財政を所管した。
; [[問注所]]
: 幕府へ提訴される訴訟に関する実務を担当した。
; [[守護]]
; [[地頭]]
; [[京都守護]] → [[六波羅探題]]
: 元は朝廷との連絡調整が任務だったが、承久の乱以後の六波羅探題は、朝廷の監視・西国御家人の統率が任務となった。
; [[鎮西奉行]] → [[鎮西探題]]
: 詳細は鎮西奉行、鎮西探題を参照。
; [[奥州総奉行]]
; [[蝦夷管領|蝦夷沙汰職・蝦夷代官]]
=== 幕府(御所)所在地の変遷 ===
{| class="wikitable"
! 名称 !! 期間 !! 開設・移設者
|-
| [[大倉御所|大蔵幕府]] || [[1180年]](治承4年) ~ [[1225年]]|| 源頼朝
|-
| [[宇都宮辻子|宇都(津)宮辻子]]幕府 || [[1225年]](嘉禄元年) ~ [[1236年]]|| 執権北条泰時<br>連署北条時房
|-
| [[若宮大路幕府]] || [[1236年]](嘉禎2年) ~ [[1333年]]|| 執権北条泰時
|}<ref>{{Cite web|和書
|author=鎌倉市
|url=http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kids/jh/kjh_a12.htm
|title=鎌倉市のみどころ「大倉幕府」 かまくら GreenNet
|language=[[日本語]]
|accessdate=2009年10月6日
}} {{リンク切れ|date= 2021年2月}}</ref>
== 幕府についての議論 ==
当時、[[武家政権]]を「[[幕府]]」と呼んでいたわけではなく、[[朝廷 (日本)|朝廷]]・[[公家]]は[[関東地方|関東]]と呼び、武士からは[[鎌倉殿]]、一般からは[[武家]]と称されていた。「[[吾妻鏡]]」に征夷大将軍の館を「幕府」と称している例が見られるように、もともと幕府とは将軍の陣所、居館を指す概念である。武家政権を幕府と称したのは[[江戸時代]]後半、[[幕末]]になってからのことであり、鎌倉幕府という概念が登場したのは、[[1887年]]([[明治]]20年)以降とされる<ref>{{Citation|和書|editor=国史大辞典編集委員会編|title=国史大辞典 3|publisher=吉川弘文館|year=1983|page=549}}</ref>。以上の理由から、鎌倉幕府の統治機構としての概念、あるいは成立時期というのも後世の、近代歴史学上のとらえ方の問題であり、一応の通説があるとはいえ、統一された見解がないのが現状である。歴史学者の[[林屋辰三郎]]は「そもそも幕府というものの本質をいずれに置くのか、歴史学上未確定である」と述べている。また、同じ歴史学者の[[岩田慎平]]は鎌倉幕府は全国の武士は統率できても、全国の統治は完成できなかったことを指摘し、特に皇位継承への関与が受動的(朝廷からの軍事的挑戦を受けた結果、もしくは朝廷からの要請に基づく結果)であることを指摘し、「政権」としては平氏政権よりも後退して、かつ軍事・警察面以外の多くの分野でいまだに朝廷が国政の主導権を握っている以上、鎌倉幕府を本当に武家「政権」と呼べるのか再検討すべきではないか?と提言している<ref>{{Citation|和書|author=岩田慎平|authorlink=岩田慎平|chapter=武家政権について|editor=元木泰雄|editor-link=元木泰雄|title=日本中世の政治と制度|publisher=[[吉川弘文館]]|year=2020|pages=316-330|isbn=978-4-642-02966-7}}</ref>。
現在、鎌倉幕府の成立年については、頼朝が東国支配権を樹立した治承4年(1180年)、事実上、[[東国]]の支配権を承認する寿永二年の宣旨が下された寿永2年(1183年)、公文所および問注所を開設した元暦元年(1184年)、守護・地頭の任命を許可する[[文治の勅許]]が下された文治元年(1185年)、日本国総守護地頭に任命された建久元年(1190年)、[[征夷大将軍]]に任命された建久3年(1192年)など様々な意見が存在する{{efn|これら学説については井上光貞前掲書、国史大辞典編集委員会編前掲『国史大辞典 3』などに詳しい。}}。
[[21世紀]]に入って学校教育の場で、鎌倉幕府の成立年が建久3年(1192年)から文治元年(1185年)に変更されるようになったが、[[第二次世界大戦]]前に通説扱いされていたのは文治元年(1185年)説であり、『[[大日本史料]]』や『[[史料綜覧]]』も同年以降が「鎌倉幕府の成立=鎌倉時代の始まり」とみなされ、『[[平安遺文]]』と『[[鎌倉遺文]]』の区切りも同年が採用されている。その一方で、文治の勅許が守護・地頭の任命を許可したものとする見方を否定する研究者もおり、その立場からは同勅許を前提とした文治元年(1185年)説は成立しないとされている。同様に他の説に関しても異論が出されている(日本国総守護地頭の実在性など)。歴史学者の[[川合康]]は、鎌倉幕府は東国における反乱軍勢力から、朝廷に承認されて平家一門や同族との内乱に勝利して日本全国に勢力を広げ、やがて鎌倉殿を頂点とした独自の権力機構を確立するまで少なくても3段階の過程を経て成立したもので、それを特定の1つの時点を切り取って「鎌倉幕府の成立」として論じることは困難であると指摘している<ref>[[川合康]]「鎌倉幕府の成立時期を再検討する」『じっきょう地歴・公民科資料』76号、2013年。/所収:川合康『院政期武士社会と鎌倉幕府』吉川弘文館、2019年、276-288頁。</ref>。これらの議論を踏まえ、帝国書院などの検定教科書においては、鎌倉幕府の成立は段階を踏んで整えられ、成立年についても1192年に「名実ともに『完成した』」という表記を採用している<ref>{{Cite web|和書| title = 社会科Q & A — 歴史 | url = https://www.teikokushoin.co.jp/q_and_a/history/#q5 | website = 帝国書院 | archiveurl = https://web.archive.org/web/20220123115857/https://www.teikokushoin.co.jp/q_and_a/history/#5 | archive-date = 2022-1-23 | accessdate = 2023-6-17}}</ref>。
== 近代以降の研究 ==
=== 封建制としての中世 ===
近代以降の歴史研究において、[[中世]]の武家時代は王朝文化が衰退した暗黒時代とする理解がなされていた。しかし、[[原勝郎 (歴史家)|原勝郎]]や[[石母田正]]らの研究により、中世は日本に[[封建制]]が成立した時代とされ、東国武士団はその改革の推進力と評価されるようになっていった{{sfn|稲葉継陽|2012|p=54}}。
=== 東国国家論と権門体制論 ===
[[1960年代]]には2つの中世国家論が登場した。[[佐藤進一]]は鎌倉幕府を朝廷と並ぶ中世におけるもう一つの国家とする[[東国国家論|東国独立国家論]]を提唱。一方、[[黒田俊雄]]は中世の政治権力を朝廷・寺社・武家といった権門による共同統治体制とする[[権門体制|権門体制論]]を明らかにした。しかし学界での評価は好対照で、[[1970年代]]には既に「権門体制論一色」といった状況であり{{sfn|佐藤|1976|P=1}}、佐藤自身も少なくとも[[承久の乱]]までの鎌倉幕府は「朝廷の番犬として仕える権門体制的な状況」にあると認めざるを得なくなっていた{{sfn|佐藤|1976|p=5}}。佐藤は1983年に『日本の中世国家』で鎌倉幕府を「中世国家の第2の型」として改めて東国独立国家論を提起するが<ref>佐藤進一 『日本の中世国家』 岩波現代文庫、2007年3月、66頁。</ref>、その要諦である両主制について研究者間での評価を得るには至らず<ref>{{Cite journal|和書|author=村井章介 |title=佐藤進一著『日本の中世国家』 |journal=史学雑誌 |issn=0018-2478 |publisher=史学会 |year=1984 |volume=93 |issue=4 |pages=95-96(p.510-521) |naid=110002368296 |doi=10.24471/shigaku.93.4_510 |url=https://doi.org/10.24471/shigaku.93.4_510 |ref={{村井|1984}}}}</ref><ref>吉田孝、上横手雅敬 「[https://doi.org/10.5955/jalha.1984.168 (書評)佐藤進一著「日本の中世国家」]」『法制史研究』1984巻34号 1984年、177頁。</ref>、権門体制論との類似を指摘される結果に終わっている。こうして東国武家政権を中世社会の変革の推進力とする見解は淘汰され<ref>奥山研司 「[https://doi.org/10.20799/jerasskenkyu.38.0_93 高校日本史における中世史像の変革 : 地頭制の取り扱いを通じて]」『社会科研究』38巻 全国社会科教育学会、1990年、93頁。</ref><ref>平雅行 「[https://www.jikkyo.co.jp/download/detail/29/2093579218 中世史像の変革と鎌倉仏教(1)]」『じっきょう 地歴・公民科資料』No.65 実教出版、2007年10月、3-4頁。(2020年1月10日閲覧)</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=安藤豊 |title=歴史学習「鎌倉時代」に関する内容構成フレームの検討 : 中学校における中世史(「鎌倉時代」)学習内容再構築のための基礎的考察(その1) |journal=北海道教育大学紀要 教育科学編 |issn=13442554 |publisher=北海道教育大学 |year=2008 |month=aug |volume=59 |issue=1 |pages=40(p.39-42) |naid=110006825912 |url=http://id.nii.ac.jp/1807/00005728/ |doi=10.32150/00005728}}</ref>、権門体制論は21世紀においても有力な学説として重視されている{{sfn|稲葉継陽|2012|p=56}}。もっとも、佐藤も黒田も「仮説」として東国国家や権門体制を唱えた筈なのにその「仮説」に対する検証が成されていないまま両説共に学説として一人歩きしているとする批判もある<ref>佐々木宗雄『日本中世国制史論』(吉川弘文館、2018年) {{ISBN2|978-4-642-02946-9}}, p.13・150-151・182.</ref>。
=== 政権の実態 ===
[[本郷和人]]によると、鎌倉幕府は、関東の在地領主たちが土地所有を保証するために源頼朝を祀り上げてつくった政権<ref>{{Cite book|和書|title=本郷和人 日本史の法則 kindle版 位置NO.2898/3041|year=2021|publisher=河出書房新社}}</ref>が実態であるとしている。つまり、政権が安定してくると在地領主にとって源氏は必要でなくなり、排除され、頼朝の[[嫡流]]は断絶した<ref>{{Cite book|和書|title=本郷和人 日本史の法則 kindle版 位置NO.2761/3041|year=2021|publisher=河出書房新社}}</ref>とする。
=== 北条高時政権 ===
金沢文庫の史料や鎌倉時代末期の政治動向を調査した[[永井晋]]によれば、北条高時は政治を顧みなかったのではなく、病弱のために中々政治の場に出られず、側近たちは改革よりも安定性を重視して高時の補佐に力点を置いたため、ゆるやかに政権が衰退していったというのが真相ではないかという{{sfn|永井|2009|pp=3-24}}。永井は高時政権が崩壊した理由として、以下の4つを挙げている{{sfn|永井|2009|pp=40-42}}。
* [[13世紀]]末から、地球の気候は[[中世温暖期]]から[[小氷期]]へと変動しており、朝廷への優越性を確立した後の[[室町幕府]]や[[江戸幕府]]とは違い、鎌倉幕府はこの寒冷化に対処する政治権限を持たなかった{{sfn|永井|2009|pp=40-42}}。軍事担当の[[権門]]としては、可能な政策には限りがあり、その中で対策することしか出来なかった{{sfn|永井|2009|pp=40-42}}。
* 前述した[[両統迭立]]という天皇家の内部矛盾に否が応でも巻き込まれてしまった{{sfn|永井|2009|pp=40-42}}。
* [[貨幣経済]]の浸透により、[[御家人]]制が破綻しつつあり、御家人制をその根幹とする鎌倉幕府も崩壊しつつあった{{sfn|永井|2009|pp=40-42}}。無論、この問題については前2つと違い、鎌倉幕府自身が対処すべき問題であった{{sfn|永井|2009|pp=40-42}}。また、当時、[[悪党]]と呼ばれる新興勢力が現れ、寺社の強訴が相次いでいたが、これに対する問題も後手後手だった{{sfn|永井|2009|pp=48-52}}。
* 前項とも関連するが、幕府中枢部が改革に消極的だった{{sfn|永井|2009|pp=40-42}}。[[霜月騒動]](弘安8年(1285年))・[[平禅門の乱]](正応6年(1293年))・[[嘉元の乱]](嘉元3年(1305年))など相次ぐ内紛で疲弊した幕府は、この教訓から、連署金沢貞顕を中心にして調整型の能吏によって構成されるようになった{{sfn|永井|2009|pp=40-42}}。高時が病弱だったこともあって、協調路線が基本指針とされた{{sfn|永井|2009|pp=40-42}}。高時政権は、漸進主義・安定志向の官僚集団としては優秀だった{{sfn|永井|2009|pp=53-56}}。
永井は、「この首脳部が鎌倉幕府の実力が充実した中期に政権運営を行っていれば、高時は平和なよい時代を築いた政治家と評価されたであろう」{{sfn|永井|2009|p=42}}「しかし、社会が求めていたのは新しい社会構造への移行であった。この意識のズレが、蹉跌の大きな原因となる」{{sfn|永井|2009|p=42}}と述べている。
=== 後醍醐天皇の倒幕にいたる過程 ===
[[2007年]]に[[河内祥輔]]によって、新説の「冤罪説」が唱えられた。河内によれば、後醍醐は父である後宇多天皇の意志を継ぐ堅実な天皇であり、少なくとも元亨4年(1324年)時点ではまだ討幕を考えておらず、鎌倉幕府との融和路線を堅持していた。後醍醐派逮捕は、後醍醐の朝廷での政敵である、大覚寺統嫡流・邦良親王派もしくは持明院統側から仕掛けられた罠であったという。なぜ日野資朝が流罪になったかと言えば、後醍醐派を完全に無罪にしてしまうと、幕府側の捜査失態の責任が問われる上に、邦良派・持明院統まで新たに捜査せざるを得ず、国家的非常事態になってしまうので、事件をうやむやにしたかったのではないかという。すなわち後醍醐派が被害者であり、取り立てた失態もないのに自派だけ損害を受けた形になったという。2010年代後半以降、河内の冤罪説を支持する研究者も複数現れている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* {{Citation |和書|last=河内 |first=祥輔 |author-link=河内祥輔 |title=日本中世の朝廷・幕府体制 |publisher=[[吉川弘文館]] |date=2007 |isbn=978-4642028639 |ncid=BA81895706 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=永井晋|authorlink=永井晋|title=金沢貞顕|publisher=[[吉川弘文館]]|series=人物叢書|isbn=4-642-05228-3|year=2003 |ncid=BA62517494 |ref={{SfnRef|永井|2003}}}}
* {{ Citation |和書|last=永井 |first=晋 |author-link=永井晋 |title=北条高時と金沢貞顕 <small>やさしさがもたらした鎌倉幕府滅亡</small> |publisher=[[山川出版社]] |series=日本史リブレット人 035 |date=2009 |isbn = 978-4634548350 |ncid=BA91905034}}
* {{Cite book|和書|author=峰岸純夫|authorlink=峰岸純夫|title=新田義貞|publisher=吉川弘文館|series=人物叢書|isbn=4642052321|date=2005-5-10|ref={{SfnRef|峰岸|2005}}}}
* {{Cite journal|和書|author=近藤剛 |title=<書評>南基鶴『鎌倉幕府政治史の研究』 |journal=日本研究 |issn=0915-0900 |publisher=国際日本文化研究センター |year=2020 |month=mar |volume=60 |pages=275-280 |naid=120006813814 |doi=10.15055/00007467 |url=https://doi.org/10.15055/00007467 |ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=稲葉継陽 |title=中世の社会体制と国家 (特集 国家の形成を捉え返す) |journal=日本史研究 |issn=0386-8850 |publisher=日本史研究会 |year=2012 |month=aug |issue=600 |pages=54-81 |naid=40019382778 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I023885397-00 |ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=佐藤進一 |title=武家政権について |journal=弘前大学國史研究 |issn=0287-4318 |publisher=弘前大学國史研究会 |year=1976 |month=mar |issue=64/65 |pages=1-7 |naid=120001885754 |url=https://hdl.handle.net/10129/2929 |ref={{harvid|佐藤|1976}}}}
== 関連史料 ==
* 『[[吾妻鏡]]』
* 『鎌倉年代記』
* 『北条九代記』
* 『太平記』
== 関連文献 ==
*{{Cite book|和書|editor=田中大喜|editor-link=田中大喜|title=図説 鎌倉幕府|date=2021年5月|publisher=戎光祥出版|isbn=978-4-86403-387-9}}
== 関連項目 ==
* [[鎌倉将軍一覧]]
* [[鎌倉幕府の執権一覧]]
* [[鎌倉幕府の執権連署評定衆時系列一覧]]
* [[源氏将軍]]
* [[執権政治]]
* [[得宗専制]]
* [[武臣政権]](高麗)
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
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== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[己酉]]
* [[日本]]
** [[崇峻天皇]]2年
** [[皇紀]]1249年
* [[中国]]
** [[陳 (南朝)|陳]] : [[禎明]]3年
** [[隋]] : [[開皇]]9年
* [[朝鮮]]
** [[高句麗]]:[[平原王]]31年
** [[百済]]:[[威徳王 (百済)|威徳王]]36年
** [[新羅]]:(王)[[真平王]]11年、(元号)[[建福 (新羅)|建福]]6年
** [[檀紀]]2922年
* [[仏滅紀元]] : 1132年 - 1133年
* [[ユダヤ暦]] : 4349年 - 4350年
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== カレンダー ==
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== できごと ==
* [[2月2日]](禎明3年/開皇9年[[1月12日 (旧暦)|1月12日]]) - [[隋]]が[[陳 (南朝)|陳]]を滅ぼし、[[中国]]を統一。
== 誕生 ==
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== 死去 ==
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== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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== 他の紀年法 ==
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* [[干支]] : [[戊戌]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[天文 (元号)|天文]]7年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2198年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]] : [[嘉靖]]17年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[中宗 (朝鮮王)|中宗]]33年
** [[檀君紀元|檀紀]]3871年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[莫朝]] : [[大正 (莫朝)|大正]]9年
** [[黎朝|後黎朝]] : [[元和 (黎朝)|元和]]6年
* [[仏滅紀元]] : 2080年 - 2081年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 944年 - 945年
* [[ユダヤ暦]] : 5298年 - 5299年
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== カレンダー ==
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== できごと ==
* 新大陸初の大学・[[聖トマス・アキナス大学]]が創立。{{要出典|date=2021-03}}
* [[ゴンサロ・ヒメネス・デ・ケサーダ]]が[[ボゴタ]]を建設{{要出典|date=2021-04}}。
* [[プレヴェザの海戦]]
* [[第一次国府台合戦]]
== 誕生 ==
{{see also|Category:1538年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[3月25日]] - [[クリストファー・クラヴィウス]]、[[ドイツ]]の[[数学者]]、[[天文学者]](+ [[1612年]])
* [[4月12日]](天文7年[[3月13日 (旧暦)|3月13日]]) - [[鍋島直茂]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]・[[安土桃山時代]]の[[武将]]、[[肥前国|肥前]][[佐賀藩]]の藩祖(+ [[1618年]])
* [[4月24日]] - [[グリエルモ・ゴンザーガ]]、[[マントヴァ公国|マントヴァ公]]、[[モンフェッラート侯の一覧|モンフェッラート侯]](+ [[1587年]])
* [[10月31日]] - [[カエサル・バロニウス]]、[[イタリア]]の[[枢機卿]]、[[歴史家]](+ [[1607年]])
* [[12月10日]] - [[ジョヴァンニ・バッティスタ・グァリーニ]]、イタリアの[[詩人]]、[[劇作家]]、[[外交官]](+ [[1612年]])
* [[今川氏真]]、[[駿河国|駿河]]の[[戦国大名]](+ [[1615年]])
* [[ディアーヌ・ド・フランス]]、[[フランス王国|フランス]]王[[アンリ2世 (フランス王)|アンリ2世]]の[[庶子]](+ [[1619年]])
* [[北条氏政]]、[[相模国|相模]]の戦国大名、[[後北条氏|北条氏]]の第4代当主(+ [[1590年]])
* [[ジャンバッティスタ・デッラ・ポルタ]]、イタリアの[[ナポリ]]出身の[[博学者]](+ [[1615年]])
* [[本多正信]]、[[江戸幕府]]の[[老中]]、[[相模国|相模]][[玉縄藩]]主(+ [[1616年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1538年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月12日]] - [[アルブレヒト・アルトドルファー]]、[[ドイツ]]の[[画家]](* [[1480年]]?)
* [[7月8日]] - [[ディエゴ・デ・アルマグロ]]、[[スペイン]]の[[コンキスタドール]](* [[1479年]])
* [[10月18日]] - [[ジェルメーヌ・ド・フォワ]]、[[アラゴン王国|アラゴン]]王[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド2世]]の2度目の王妃(* [[1488年]])
* [[10月20日]] - [[フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ]]、[[イタリア]]の[[軍人]]、[[コンドッティエーレ]]、[[ウルビーノ公国|ウルビーノ公]](* [[1490年]])
* [[織田信定]]、戦国時代初期の武将、[[尾張国]][[勝幡城]]城主(* 生年未詳)
* [[アンドレア・グリッティ]]、[[ヴェネツィア共和国]]の[[ドージェ|元首]](* [[1455年]])
* [[エステバン・ゴメス]]、[[ポルトガル人]]の[[地図学|地図製作家]]、[[探検家]](* [[1483年]])
<!--== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1538}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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8,469 | 1465年 | 1465年(1465 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。 | [
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[乙酉]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[寛正]]6年
*** [[古河公方]] : [[享徳]]14年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2125年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]] : [[成化]]元年
*** [[劉通]] : [[徳勝]]元年旧3月 -
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[世祖 (朝鮮王)|世祖]]11年
** [[檀君紀元|檀紀]]3798年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[光順]]6年
* [[仏滅紀元]] : 2007年 - 2008年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 869年 - 870年
* [[ユダヤ暦]] : 5225年 - 5226年
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1465|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[ボスニア]]がオスマン帝国の支配下に入る
* 9月13日
* 9月13日 天狗流星 - 夜、亥の刻(午後10時頃)に、南西から北東の方角に光り物が飛んだ。天地は鳴動して天地も裂けるかと思われた[http://muromachi.movie.coocan.jp/ouninki/ouninki02.html 応仁記2- 乱前の晴儀の事・その2]。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1465年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月6日]] - [[シピオーネ・デル・フェッロ]]、[[イタリア]]の[[数学者]](+ [[1526年]])
* [[3月16日]] - [[クニグンデ・フォン・エスターライヒ]]、[[バイエルン大公|バイエルン公]][[アルブレヒト4世 (バイエルン公)|アルブレヒト4世]]の妃(+ [[1520年]])
* [[5月3日]](寛正6年[[4月8日 (旧暦)|4月8日]]) - [[田代三喜]]、[[室町時代]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[医師]](+ [[1544年]])
* [[8月7日]] - [[フィリベルト1世・ディ・サヴォイア]]、第4代[[サヴォイア公国|サヴォイア公]]、[[ピエモンテ公]]、[[アオスタ]]伯、[[モーリエンヌ]]伯、[[ニース]]伯(+ [[1482年]])
* [[10月10日]] - [[セリム1世]]、[[オスマン帝国]]の第9代[[皇帝]](+ [[1520年]])
* [[12月11日]](寛正6年[[11月23日 (旧暦)|11月23日]]) - [[足利義尚]]<ref>{{Kotobank|足利義尚}}</ref>、[[室町幕府]]第9代[[征夷大将軍|将軍]](+ [[1489年]])
* [[ジル・ヴィセンテ (劇作家)|ジル・ヴィセンテ]]、[[ポルトガル]]の[[劇作家]]、[[詩人]](+ [[1537年]])
* [[パウロ・ダ・ガマ]]、ポルトガルの航海者、[[探検家]](+ [[1499年]])
* [[ピエトロ・クリニート]]、イタリアのルネサンス期の[[人文主義者]]、詩人(+ [[1507年]])
* [[ウィリアム・コーニッシュ]]、[[イングランド]]の[[ルネサンス音楽]]の[[作曲家]]、劇作家、舞台[[俳優]]、詩人(+ [[1523年]])
* [[ジャンヌ・ド・ブルボン=ヴァンドーム]]、[[ブルボン公]][[ジャン2世 (ブルボン公)|ジャン2世]]、後に[[オーヴェルニュ]]伯[[ジャン3世 (オーヴェルニュ伯)|ジャン3世]]の妻(+ [[1511年]])
* [[尚真王]]、[[琉球|琉球王国]][[第二尚氏]]王朝の第3代国王(+ [[1527年]])
* [[畠山家俊]]、室町時代、戦国時代の武将(+ [[1531年]])
* [[ディエゴ・ベラスケス・デ・クエリャル]]、[[スペイン]]の[[コンキスタドール]](+ [[1524年]])
* [[山崎宗鑑]]、室町時代、戦国時代の[[連歌]]師、[[俳諧]]作者(+ [[1554年]])
* [[ピーリー・レイース]]、オスマン帝国の[[軍人]](+ 1554年)
== 死去 ==
{{see also|Category:1465年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月29日]] - [[ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア]]、[[サヴォイア公国|サヴォイア公]]、[[ピエモンテ公]]、[[アオスタ]]伯、[[モリアーナ]]伯、[[ニース]]伯(* [[1413年]])
* [[5月12日]] - [[ソマス・パレオロゴス]]、[[モレアス専制公領|モレアス専制公]](* [[1409年]])
* [[5月27日]](寛正6年[[5月3日 (旧暦)|5月3日]]) - [[江戸通房]]、室町時代の武将(* [[1410年]])
* [[7月12日]](寛正6年[[6月19日 (旧暦)|6月19日]]) - [[多賀谷氏家]]、室町時代の武将(* [[1408年]])
* [[9月23日]](寛正6年[[9月3日 (旧暦)|9月3日]]) - [[大内教弘]]、室町時代の[[守護大名]]、[[大内氏]]の第13代当主(* [[1420年]])
* [[11月24日]] - [[シャルル・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|シャルル・ド・ヴァロワ]]、[[フランス王国|フランス]]の王族、[[オルレアン公]](+ [[1394年]])
* [[11月28日]](寛正6年[[11月1日 (旧暦)|11月1日]]) - [[武田信繁 (安芸武田氏)|武田信繁]]、室町時代の武将(* [[1390年]])
* [[アブド・アル=ハック2世]]、[[マリーン朝]]の第28代君主(* 生年未詳)
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1465}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=15|年代=1400}}
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[[Category:1465年|*]] | null | 2021-05-22T07:11:39Z | false | false | false | [
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"Template:Clear"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1465%E5%B9%B4 |
8,471 | 1299年 | 1299年(1299 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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] | 1299年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。 | {{年代ナビ|1299}}
{{year-definition|1299}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[己亥]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[永仁]]7年、[[正安]]元年[[4月25日 (旧暦)|4月25日]] -
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]1959年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[元 (王朝)|元]] : [[大徳 (元)|大徳]]3年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[高麗]] : [[忠烈王]]25年
** [[檀君紀元|檀紀]]3632年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[陳朝]] : [[興隆]]7年
* [[仏滅紀元]] : 1841年 - 1842年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 698年 - 699年
* [[ユダヤ暦]] : 5059年 - 5060年
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1299|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[オスマン帝国]]成立。
* 5月25日、'''正安'''を改元。(日本)
* 元使、[[一山一寧]]、[[成宗]]の国書を持ち来日
== 誕生 ==
{{see also|Category:1299年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[明石覚一]]、[[鎌倉時代]]、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[僧]]、[[琵琶]]奏者(+ [[1371年]])
* [[アルフォンソ4世 (アラゴン王)|アルフォンソ4世]]、[[アラゴン王国|アラゴン王]]、[[バレンシア王国|バレンシア王]]、[[バルセロナ伯]](+ [[1336年]])
* [[賢俊]]、鎌倉時代、南北朝時代の[[真言宗]]の僧(+ [[1357年]])
* [[ドミトリー・ミハイロヴィチ]]、[[トヴェリ大公]](+ [[1326年]])
* [[仁木頼章]]、鎌倉時代、南北朝時代の[[武将]](+ [[1359年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1299年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月16日]] - [[マンスール・ラージーン]]、[[エジプト]]の[[マムルーク朝|バフリー・マムルーク朝]]の第12代[[スルタン|スルターン]](* 生年未詳)
* [[4月21日]](永仁7年[[3月20日 (旧暦)|3月20日]]) - [[富木常忍]]、[[鎌倉時代]]の[[武将]]、[[日蓮宗]]の[[僧]](* [[1216年]])
* [[8月31日]](大徳3年8月5日) - [[英祖 (琉球国王)|英祖]]、[[琉球国王]]、[[英祖王統]]初代王。[[陵墓]]は[[浦添ようどれ]]。(* [[1229年]])
* [[10月8日]](正安元年[[9月13日 (旧暦)|9月13日]]) - [[寂円]]、鎌倉時代の[[南宋]]の[[曹洞宗]]の渡来僧(* [[1207年]])
* [[12月31日]] - [[マルグリット・ダンジュー]]、[[シャルル (ヴァロワ伯)|ヴァロワ伯シャルル]]の最初の妃(* [[1273年]])
* [[エイリーク2世 (ノルウェー王)|エイリーク2世]]、[[ノルウェー君主一覧|ノルウェー王]](* [[1268年]])
* [[チョウスワー]]、[[パガン朝]]の第12代国王(* 生年未詳)
* [[ノガイ]]、[[ジョチ・ウルス]]の王族(* 生年未詳)
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1299}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=13|年代=1200}}
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[[Category:1299年|*]] | null | 2020-09-13T03:04:31Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1299%E5%B9%B4 |
8,472 | 1396年 | 1396年(1396 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。 | [
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] | 1396年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。 | {{年代ナビ|1396}}
{{year-definition|1396}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[丙子]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[応永]]3年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2056年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]] : [[洪武]]29年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[李成桂|太祖]]5年
** [[檀君紀元|檀紀]]3729年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[陳朝]] : [[光泰]]9年
* [[仏滅紀元]] : 1938年 - 1939年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 798年 - 799年
* [[ユダヤ暦]] : 5156年 - 5157年
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1396|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[ニコポリスの戦い]]で[[オスマン帝国]]がキリスト諸国連合軍を破る。
* [[11月23日]] - 地球上からの[[金星の太陽面通過]]が起こる<ref>{{Cite web
|url=http://astro.ukho.gov.uk/nao/transit/V_1396/index.html
|title=1396 November 23rd Transit of Venus
|publisher=HM Nautical Almanac Office
|accessdate=2017-09-16}}</ref>。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1396年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[7月31日]] - [[フィリップ3世 (ブルゴーニュ公)|フィリップ3世]]、[[ヴァロワ=ブルゴーニュ家]]の第3代[[ブルゴーニュ公一覧|ブルゴーニュ公]](+ [[1467年]])
* [[8月13日]](応永3年[[7月10日 (旧暦)|7月10日]]) - [[存如]]、[[室町時代]]の[[浄土真宗]]の[[僧]]、[[本願寺]]第7世(+ [[1457年]])
* [[10月16日]] - [[ウィリアム・ド・ラ・ポール (初代サフォーク公)|ウィリアム・ド・ラ・ポール]]、[[サフォーク伯|サフォーク公]](+ [[1450年]])
* [[アルフォンソ5世 (アラゴン王)|アルフォンソ5世]]、[[アラゴン王国|アラゴン王]]、[[ナポリ王国|ナポリ王]](+ [[1458年]])
* [[今出川公富]]、室町時代の[[公卿]](+ [[1421年]])
* [[宇都宮持綱]]、室町時代の[[武将]]、[[下野国]][[宇都宮氏]]第13代当主(+ [[1423年]])
* [[勧修寺経興]]、室町時代の公卿、[[勧修寺家]]の第5代当主(+ [[1437年]])
* [[吉川経信]]、室町時代の武将、[[吉川氏]]の当主(+ [[1456年]])
* [[ミケロッツォ・ディ・バルトロメオ]]、[[フィレンツェ]]出身の[[ルネサンス]]期の[[彫刻家]]、[[建築家]](+ [[1472年]])
* [[マリア・デ・アラゴン (カスティーリャ王妃)|マリア・デ・アラゴン]]、[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]王[[フアン2世 (カスティーリャ王)|フアン2世]]の最初の妃(+ [[1445年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1396年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[5月19日]] - [[フアン1世 (アラゴン王)|フアン1世]]、[[アラゴン王国|アラゴン王]](* [[1350年]])
* [[6月21日]](応永3年[[5月15日 (旧暦)|5月15日]]) - [[今出川実直]]、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]、[[室町時代]]の[[公卿]](* [[1342年]])
* [[今出川公直]]、南北朝時代、室町時代の公卿(* [[1335年]])
* [[アーニョロ・ガッディ]]、[[イタリア]]の[[画家]](* [[1350年]]?)
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1396}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=14|年代=1300}}
{{デフォルトソート:1396ねん}}
[[Category:1396年|*]] | null | 2021-06-12T10:10:10Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1396%E5%B9%B4 |
8,473 | 1453年 | 1453年(1453 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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"title": "死去"
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] | 1453年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。 | {{年代ナビ|1453}}
{{year-definition|1453}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[癸酉]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
**[[享徳]]2年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]] : [[景泰]]4年
*** [[エセン・ハーン]] : [[添元]]元年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[端宗 (朝鮮王)|端宗]]元年
** [[檀君紀元|檀紀]]3786年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[大和 (黎朝)|大和]]11年
* [[仏滅紀元]] : 1995年 - 1996年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 856年 - 857年
* [[ユダヤ暦]] : 5213年 - 5214年
* [[ローマ建国紀元]] : 2206年
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1453|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[5月29日]] - [[コンスタンティノープルの陥落|コンスタンティノープル陥落]]。[[東ローマ帝国]]滅亡。
* [[7月17日]] - [[カスティリョンの闘争]]。
* 8月 - [[イングランド]]国王[[ヘンリー6世_(イングランド王)|ヘンリー6世]]が精神疾患に陥る。
* [[10月10日]] - [[李氏朝鮮]]の[[世祖 (朝鮮王)|世祖]]による[[癸酉靖難]]
* [[10月19日]] - [[フランス]]軍、[[ボルドー]]をイングランドから奪還。フランス国内におけるイングランド王の領地は[[カレー (フランス)|カレー]]のみとなり[[百年戦争]]終わる。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1453年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[9月1日]] - [[ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバ]]、[[スペイン]]の[[将軍]](+ [[1515年]])
* [[10月13日]] - [[エドワード・オブ・ウェストミンスター]]、[[イングランド王国|イングランド]]の[[プリンス・オブ・ウェールズ|王太子]](+ [[1471年]])
* [[11月17日]] - [[アルフォンソ・デ・カスティーリャ]]、[[アストゥリアス公]](+ [[1468年]])
* [[アフォンソ・デ・アルブケルケ]]、[[ポルトガル]]の貴族、インド総督(+ [[1515年]])
* [[上杉定昌]]、[[室町時代]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]](+ [[1488年]])
* [[浦上則景]]、室町時代、戦国時代の武将(+ [[1485年]])
* [[京極政経]]、室町時代、戦国時代の[[守護大名]]、[[京極氏]]の当主(+ [[1502年]])
* [[シモネッタ・ヴェスプッチ]]、[[ジュリアーノ・デ・メディチ]]の[[愛人]](+ [[1476年]])
* [[伊達尚宗]]、室町時代、戦国時代の[[戦国大名]]、[[伊達氏]]の第13代当主(+ [[1514年]])
* [[ジュリアーノ・デ・メディチ]]、[[フィレンツェ共和国]]の[[政治家]](+ [[1478年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1453年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月28日]] - [[イザベル・ド・ロレーヌ]]、[[フランス王国|フランス]]の貴族、[[ロレーヌ公|ロレーヌ女公]](* [[1400年]])
* [[5月29日]] - [[コンスタンティノス11世パレオロゴス]]、[[東ローマ帝国]]の最後の[[皇帝]](* [[1405年]])
* [[7月17日]] - [[ジョン・タルボット (初代シュルーズベリー伯)|ジョン・タルボット]]、[[イングランド]]の貴族、[[フランス大元帥]](* 1384年/1390年)
* [[8月8日]](享徳2年[[6月24日 (旧暦)|6月24日]]) - [[古市胤仙]]、[[室町時代]]の武将(* 生年不詳)
* [[10月7日]](享徳2年[[9月5日 (旧暦)|9月5日]]) - [[久我清通]]、室町時代の[[公卿]](* [[1393年]])
* [[安藤義季]]、室町時代の武将、[[安東氏|檜山系安藤氏]]の第3代当主(* 生年不詳)
* [[安平大君]]、[[李氏朝鮮]]の王族(* [[1418年]])
* [[ザーヒル・ジャクマク]]、[[マムルーク朝|ブルジー・マムルーク朝]]の第10代、第12代[[スルターン|スルタン]](* [[1378年]])
* [[ジョヴァンニ・ジュスティニアーニ]]、[[ジェノヴァ共和国]]の傭兵隊長(* 生年不詳)
* [[尚金福王]]、[[琉球王国]]の[[第一尚氏王統]]の第5代国王(* [[1398年]])
* [[マンスール・ウスマーン]]、ブルジー・マムルーク朝の第13代スルタン(* 生年不詳)
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1453}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=15|年代=1400}}
{{デフォルトソート:1453ねん}}
[[Category:1453年|*]] | null | 2021-05-05T14:32:21Z | false | false | false | [
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"Template:他の紀年法"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1453%E5%B9%B4 |
8,474 | 1402年 | 1402年(1402 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
| [
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] | 1402年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。 | {{年代ナビ|1402}}
{{year-definition|1402}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[壬午]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[応永]]9年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2062年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]] : [[建文]]4年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[太宗 (朝鮮王)|太宗]]2年
** [[檀君紀元|檀紀]]3735年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[胡朝]] : [[紹成]]2年
* [[仏滅紀元]] : 1944年 - 1945年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 804年 - 805年
* [[ユダヤ暦]] : 5162年 - 5163年
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1402|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
=== 世界 ===
* [[靖難の変]]が終わる。[[明]]首都の[[南京]]が陥落。燕王朱棣が[[永楽帝]]として即位。
* [[クン・テムル]]、[[モンゴル帝国]]第21代皇帝([[ハーン]])。[[1399年]]に父([[エルベク・ハーン]])が殺害されると跡を継いだ。[[オルク・テムル]]と対立し、1402年に殺害された、[[北元]]が滅亡する。
* [[8月]] - [[アンカラの戦い]]、[[ティムール]]側の勝利。[[オスマン帝国]]側が大敗し、[[オスマン帝国の君主|スルタン]]の[[バヤズィト1世]]が捕虜となる。
=== 日本 ===
* [[1月 (旧暦)|1月]] - 土御門新造内裏諸門が建立される。
* [[2月 (旧暦)|2月]] - [[今川貞世|今川了俊]]が『[[難太平記]]』を著す。
* [[5月 (旧暦)|5月]] - [[伊達政宗 (大膳大夫)]]が[[奥州探題]]の[[足利満貞]]に反乱を起こし、[[関東管領]]の[[上杉氏憲]]が追討に向かう。
* [[8月20日]](応永9年[[9月5日 (旧暦)|9月5日]]) - [[足利義満]]が中国の明朝より[[日本国王]]として[[冊封]]を授かり、王を名乗る事を正式に認められる。
* [[9月 (旧暦)|9月]] - 足利義満が明使を引見して明の国書を受け取り、[[永楽帝]]より日本国王に封じられる。伊達政宗の反乱が鎮圧される。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1402年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[5月18日]](応永9年[[4月16日 (旧暦)|4月16日]]) - [[日有 (大石寺)|日有]]、[[室町時代]]の[[僧]]、[[大石寺]]第9世法主(+ [[1482年]])
* [[6月7日]](応永9年[[5月7日 (旧暦)|5月7日]]) - [[一条兼良]]、室町時代の[[公卿]]、[[学者]](+ [[1481年]])
* [[9月29日]] - [[フェルナンド聖王子]]、[[ポルトガル王国|ポルトガル]][[アヴィス王朝]]の王子(+ [[1443年]])
* [[11月23日]] - [[ジャン・ド・デュノワ]]、[[オルレアン公]][[ルイ・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|ルイ・ド・ヴァロワ]]の庶子、デュノワ伯(+ [[1468年]])
* [[朝倉家景]]、室町時代の[[武将]]、[[朝倉氏]]第6代当主(+ [[1451年]])
* [[上杉持定]]、室町時代の武将、[[扇谷上杉家]]当主(+ [[1419年]])
* [[小田持家]]、室町時代の武将、[[常陸国|常陸]][[小田氏]]当主(+ [[1481年]])
* [[ハンフリー・スタッフォード (初代バッキンガム公爵)|ハンフリー・スタッフォード]]、[[バッキンガム公]]、[[大司馬 (イングランド)|大司馬]](+ [[1460年]])
* [[ネサワルコヨトル]]、[[テツココ]]の王(+ [[1472年]])
* [[結城氏朝]]、室町時代の武将、[[下総国|下総]][[結城氏]]第11代当主(+ [[1441年]])
* [[レオノール・デ・アラゴン (ポルトガル王妃)|レオノール・デ・アラゴン]]、ポルトガル王[[ドゥアルテ1世 (ポルトガル王)|ドゥアルテ1世]]の王妃(+ [[1445年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1402年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月1日]](応永8年[[12月29日 (旧暦)|12月29日]]) - [[大内弘茂]]、[[室町時代]]の[[武将]](* 生年未詳)
* [[2月9日]](応永9年[[1月7日 (旧暦)|1月7日]]) - [[小早川春平]]、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の武将、[[小早川氏|沼田小早川氏]]当主(* 生年未詳)
* [[6月3日]](応永9年[[5月3日 (旧暦)|5月3日]]) - [[吉田兼煕]]、南北朝時代の公卿、[[神祇官]](* [[1348年]])
* [[8月1日]] - [[エドマンド・オブ・ラングリー (初代ヨーク公)|エドマンド・オブ・ラングリー]]、[[イングランド王国|イングランド]]国王[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]]の第5子、[[ヨーク公]](* [[1341年]])
* [[9月3日]] - [[ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ]]、[[ミラノ公国|ミラノ公]](* [[1351年]])
* [[9月29日]](応永9年[[9月3日 (旧暦)|9月3日]]) - [[四辻善成]]、南北朝時代、室町時代の[[皇族]]、[[公卿]]、[[学者]]、[[歌人]](* [[1326年]])
* [[元天錫]]、[[高麗]]、[[李氏朝鮮]]の学者(* [[1330年]])
* [[方孝孺]]、明の[[儒学者]](* [[1357年]])
* [[建文帝]]、[[明]]の第2代[[皇帝]](* [[1377年]])
* [[クン・テムル]]、[[モンゴル帝国]]第21代皇帝(大[[ハーン]])(* [[1377年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1402}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[乙未]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[仁徳天皇]]83年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]1055年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[東晋]] : [[太元 (東晋)|太元]]20年
** [[後燕]] : [[建興 (後燕)|建興]]10年
** [[後秦]] : [[皇初]]2年
** [[西秦]] : [[太初 (西秦)|太初]]8年
** [[北魏]] : [[登国]]10年
** [[後涼]] : [[麟嘉 (後涼)|麟嘉]]7年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[高句麗]] : [[好太王|広開土王]]4年([[永楽 (高句麗)|永楽]]5年)
** [[百済]] : [[阿莘王]]4年
** [[新羅]] : [[奈勿尼師今|奈勿王]]40年
** [[檀君紀元|檀紀]]2728年
* [[仏滅紀元]] : 938年
* [[ユダヤ暦]] : 4155年 - 4156年
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=395|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
=== ローマ ===
[[File:Theodosius I's empire.png|right|thumb|250px|[[ローマ帝国]]が[[東ローマ帝国]]と[[西ローマ帝国]]に分裂。{{legend|#B53637|西ローマ帝国}}
{{legend|#8F36B5|東ローマ帝国}}]]
* 1月17日、[[テオドシウス1世]]が崩御。テオドシウスは死に際して帝国を東西に分け、長男[[アルカディウス]]に東方を、次男[[ホノリウス]]に西方を分割統治させる。それまでも広大な[[ローマ帝国]]の領土をいくつかに分けて統治したことはありテオドシウスの考えも同様であったが、この年以降、帝国は[[東ローマ帝国]]と[[西ローマ帝国]]とに完全に分裂し、二度と統一されることは無かった。
=== 中国 ===
* [[参合陂の戦い]]
== 誕生 ==
{{see also|Category:395年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
== 死去 ==
{{see also|Category:395年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月17日]] - [[テオドシウス1世]]、[[ローマ皇帝]](* [[347年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|395}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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8,476 | 212年 | 212年(212 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
張松(*生年不詳) | [
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[壬辰]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[神功皇后]]摂政12年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]872年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[後漢]] : [[建安 (漢)|建安]]17年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[高句麗]] : [[山上王]]16年
** [[新羅]] : [[奈解尼師今|奈解王]]17年
** [[百済]] : [[肖古王]]47年
** [[檀君紀元|檀紀]]2545年
* [[仏滅紀元]] : 755年
* [[ユダヤ暦]] : 3972年 - 3973年
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== カレンダー ==
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== できごと ==
* [[ローマ皇帝]][[カラカラ]]が「[[アントニヌス勅令]]」発布
== 誕生 ==
{{see also|Category:212年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
== 死去 ==
{{see also|Category:212年没}}
[[張松]](*生年不詳)
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|212}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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8,477 | 476年 | 476年(476 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。 | [
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] | 476年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。 | {{年代ナビ|476}}
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[丙辰]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
**[[雄略天皇]]20年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[宋 (南朝)|宋]] : [[元徽 (南朝宋)|元徽]]4年
** [[北魏]] : [[延興 (北魏)|延興]]6年、[[承明]]元年
* 中国周辺
** [[柔然]] : [[永康 (柔然)|永康]]13年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[高句麗]] : [[長寿王]]64年
** [[百済]] : [[文周王]]2年
** [[新羅]] : [[慈悲麻立干|慈悲王]]19年
** [[檀君紀元|檀紀]]2809年
* [[仏滅紀元]] : 1019年 - 1020年
* [[ユダヤ暦]] : 4236年 - 4237年
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=476|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[9月4日]] - [[ローマ帝国#西ローマ帝国|西ローマ帝国]]最後の皇帝[[ロムルス・アウグストゥルス]]が[[オドアケル]]によって退位させられ、[[ローマ帝国#西ローマ帝国|西ローマ帝国]]が滅ぶ。
== 誕生 ==
{{see also|Category:476年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[アリヤバータ]]、[[インド]]の[[数学者]]、[[天文学者]](* [[550年]]頃)
* [[曇鸞]]、[[中国]][[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]の[[僧侶]](* [[542年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:476年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[献文帝]]、[[北魏]]の第6代皇帝(* [[454年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|476}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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8,478 | 1529年 | 1529年(1529 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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] | 1529年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。 | {{年代ナビ|1529}}
{{year-definition|1529}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[己丑]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[享禄]]2年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2189年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]] : [[嘉靖]]8年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[中宗 (朝鮮王)|中宗]]24年
** [[檀君紀元|檀紀]]3862年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[莫朝]] : [[明徳 (莫朝)|明徳]]3年
* [[仏滅紀元]] : 2071年 - 2072年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 935年 - 936年
* [[ユダヤ暦]] : 5289年 - 5290年
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1529|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[4月22日]] - [[サラゴサ条約]]批准。[[マルク諸島]]を[[ポルトガル]]領と認知。
* [[8月3日]] - [[貴婦人の和約]](カンブレーの和約)。
* [[オスマン帝国軍]]による第一次ウィーン包囲がはじまる。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1529年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月8日]] - [[ヨハン・フリードリヒ2世 (ザクセン公)|ヨハン・フリードリヒ2世]]、[[ザクセン公]](+ [[1595年]])
* [[3月24日]](享禄2年[[2月15日 (旧暦)|2月15日]]) - [[龍造寺隆信]]、[[肥前国|肥前]]の[[大名]](+ [[1584年]])
* [[6月14日]] - [[フェルディナント2世 (オーストリア大公)|フェルディナント2世]]、[[オーストリア君主一覧|オーストリア大公]](+ [[1595年]])
* [[9月1日]] - [[タッデオ・ツッカリ]]、[[イタリア]]の[[画家]](+ [[1566年]])
* [[宇喜多直家]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の大名、[[武将]](+ [[1582年]])
* [[王圻]]、[[明]]の学者、[[漢詩]]人(+ [[1612年]])
* [[玄宥]]、戦国時代、[[江戸時代]]の[[真言宗]]の[[僧]](+ [[1605年]])
* [[佐野昌綱]]、戦国時代の武将(+ [[1574年]])
* [[下条信氏]]、戦国時代の武将(+ [[1582年]])
* [[春屋宗園]]、[[安土桃山時代]]、江戸時代の[[臨済宗]]の僧(+ [[1611年]])
* [[相馬盛胤 (十五代当主)|相馬盛胤]]、戦国時代の武将、[[陸奥国|陸奥]][[相馬氏]]第15代当主(+ [[1601年]])
* [[ギヨーム・デ・ゾーテル]]、[[フランス]]の[[詩人]](+ [[1581年]]?)
* [[ヤコブス・ファート]]、[[ベルギー]]の[[フランドル楽派]]の[[作曲家]](+ [[1567年]])
* [[別所重宗]]、戦国時代、安土桃山時代の大名、武将(+ [[1591年]])
* [[本多重次]]、戦国時代、安土桃山時代の武将、[[徳川氏]]の家臣(+ [[1596年]])
* [[益田藤兼]]、戦国時代、安土桃山時代の武将、[[石見国|石見]][[益田氏]]当主(+ [[1597年]])
* [[松浦隆信]]、肥前国の[[戦国大名]]、[[嵯峨源氏]]一流[[松浦氏]]25代当主(+ [[1599年]])
* [[山県昌景]]、戦国時代の武将、甲斐[[武田氏]]の家臣、[[武田四名臣]]の一人(+ [[1575年]])
* [[ジャン・バスチエ・ド・ラ・ペリューズ]]、フランスの詩人、[[劇作家]](+ [[1554年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1529年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月29日]](享禄元年[[12月20日 (旧暦)|12月20日]]) - [[大内義興]]、[[周防国]]の[[戦国大名]]、[[大内氏]]の第30代当主(* [[1477年]])
* [[2月2日]] - [[バルダッサーレ・カスティリオーネ]]、[[イタリア]][[ルネサンス期]]の外交官、作家(* [[1478年]])
* [[12月21日]](享禄2年[[11月21日 (旧暦)|11月21日]]) - [[高橋興光]]、[[安芸国|安芸]]・[[石見国|石見]]国人[[高橋氏]]の当主(* [[1503年]])
* [[大崎義兼]]、[[陸奥国|陸奥]][[大崎氏]]の第9代当主(* 生年未詳)
* [[クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ]]、[[ヴィジャヤナガル王国]]の王(* 生年未詳)
* [[高橋弘厚]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]、石見[[高橋氏]](* [[1481年]])
* [[馬場虎貞]]、戦国時代の武将(* [[1490年]])
* [[ラーマーティボーディー2世]]、[[アユタヤ王朝]]の第11代目の王(* [[1472年]])
<!--== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
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== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1529}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=16|年代=1500}}
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[[Category:1529年|*]] | null | 2021-05-07T13:26:24Z | false | false | false | [
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