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8,636 | コアラ | コアラ(Koala、学名:Phascolarctos cinereus)は、哺乳綱双前歯目コアラ科コアラ属に分類される有袋類。現生種では本種のみでコアラ科コアラ属を構成する。
日本語の別名はコモリグマ(子守熊)またはフクログマ(袋熊)であり、オーストラリア大陸東部の森林地帯(ユーカリ林など)に生息している。
体色は背面が灰色で、腹面が白色、体長は約65 - 82センチメートル、体重は約4 - 15キログラムである。オーストラリア北部に生息するコアラよりも(後述の理由により)南部に生息するコアラの方が体が大きく体毛の長さも長い。タンニンや油分を多く含むユーカリの葉や、アカシア、ティーツリーの葉や芽を食べる。稀に歩くこともあり、4足歩行である。
オーストラリア(クイーンズランド州南東部、ニューサウスウェールズ州東部、ビクトリア州、南オーストラリア州南東部)に分布している。
西オーストラリア州、タスマニア州には分布していない。分布域内では熱帯雨林、温帯のユーカリ林、疎林などに生息する。特に川沿いや海岸地帯に近い、肥沃な場所でユーカリ類に含まれるタンニンや油分が少ない場所を好む。通常は単独性で、群れを作らない。
ヨーロッパ人到来によって分布域を急激に減少させ、1930年代までには、ヨーロッパ人入植前の50%にまでに分布域は減少した。南オーストラリア州の個体群の一部には、州内外の個体群を再導入された個体群も含まれる。
体長はクイーンズランド州に生息するコアラのオスで体長674 - 736ミリメートル、体重4.2 - 9.1キログラム、メスで体長648 - 723ミリメートル、体重4.1 - 7.3キログラム、オーストラリア南部に生息するコアラはオスで体長750 - 820ミリメートル、体重9.5 - 14.9キログラム、メスは体長680 - 730ミリメートル、体重7 - 11キログラムである。尾は外部から見えない。オスはメスよりも体重が最大で50%重く、体長も大きい。また、北部の亜種より、南部の亜種の方が25 - 35%ほど大きい。なお、尻尾は退化しており存在しない。体色は、背面が北部の亜種は灰色であり、南部の亜種は茶褐色になることがある。稀ではあるが、2017年8月にオーストラリア動物園で白色の赤ちゃんが誕生した。腹面は白色から乳白色である。体毛は厚くごわごわしている。北部の亜種に比べ南部の亜種はふさふさとしており、冬の寒さに耐えられるようになっている。オスの胸には茶色の縦線-胸腺があり、ここからにおいを発する。オスはこの腺から出るにおいや、尿のにおいにより、縄張りを主張する。外耳は小さいが周囲の体毛が長いため、特に南部亜種では大きく見える。
メスは育児嚢を持ち、この中に乳首を2つ持っている。育児嚢はウォンバットと同じく後ろ向き、つまりコアラが座っている状態の場合、下向きについている。オスの交尾器は有袋類の独特な形状をしており、途中から二股に分かれてY字型をしていて亀頭が2つある。これはメスの膣内がY字に分かれていて、真ん中を産道が通っているためである。樹上生活に適応しており、脂肪は少なく筋肉質である。特に四肢の筋肉が発達しており、樹上を素早く移動できる。手足には鋭い爪のついた5本の指を持つ。前足は第1指と第2指とほかの3指が向かい合っており、木の枝などをつかむことができる。また、後肢の第2指と第3指は癒合しており、第1指とほかの4指が向かい合っていて、前足と同様に木の枝をつかめるようになっている。また後足の癒合した第2指、第3指の爪が他の爪よりも少し長く、これを使い毛繕いを行う。歯式はI3/1(門歯)、C1/0(犬歯)、P1/1(小臼歯)、M4/4(大臼歯)。コアラの犬歯は、肉食獣ではないため大きくはないが、臼歯はよく発達しており年齢とともにすり減っていく。
3亜種に分かれるとされていたが、南部個体群ほど大型で長毛・濃色になること(連続的な地理変異)から亜種の有効性を疑問視する説もあった。例としてMSW3では本種に亜種を認めていない。
コアラはコアラ科コアラ属で現生する唯一の種である。化石種では他に同じ科の属、同じ属の種があり、西オーストラリア州南西部やオーストラリア中央部や北部において化石が発見されている。ヨーロッパ人による最初のコアラ目撃記録は、1798年1月26日にジョン・ハンターの使用人であったジョン・プライスがシドニー西部の高地を探検しているときであり、「先住民がCullawineと呼ぶ、アメリカのナマケモノのような生き物がいた」と記録している。その後、1802年に、探検家のフランシス・バラリアーが、先住民が “colo” と呼ぶ、サルのような生き物がいることを記録している。1816年にフランスの動物学者ブランヴィルが、コアラの属名そしてPhascolarctosを与えた。これはギリシア語の phaskolos および arktos からきており、それぞれ「皮の袋」「熊」という意味である。また1817年にドイツ人動物学者Goldfussが、種小名としてコアラに cinereus という名を与えた。この言葉はラテン語由来で、「灰色の」という意味である。19世紀に一時、同じ有袋類のウォンバットに近縁であるとされたが、1921年まではコアラは完全な樹上性であり、一方のウォンバットは地面に穴を掘る半地中性の生活を送ることから、議論の的となっていた。現在は同じウォンバット型亜目(Vombatiformes)に分類されている。
近年まで次の3亜種に分けられていたが、1999年のホールデンなどの分析により、遺伝子レベルでの違いは亜種に分けるほどに大きくはないことが確認された。
それぞれの名に含まれている州名がおよその分布域を示している。これら3亜種に分けない場合、ニューサウスウェールズ州北部以北に生息する個体群、ニューサウスウェールズ州中部以南からビクトリア州にかけて生息する個体群に分けられる場合もある。
体の大きさ、体毛の長さとも、寒冷域に行くほど大きく長くなる傾向がある。クイーンズランド州に生息するコアラが最も小さく体毛も短く、ビクトリア州に生息するコアラが最も大きく体毛も長く、ニューサウスウェールズ州に生息するコアラは大きさも体毛の長さも両者の中間程度である。
通常は単独性で、2頭以上でいることは稀である。繁殖期にのみ、オスとメスが一緒にいたり、またメスと子供が一緒にいたりする。樹上で生活するが、木の葉を集めたものや、樹洞を利用するというようなことはせず、特定の巣は持たない。休むときは通常、葉がよく生い茂り、太陽光や雨などがしのげる樹上で休息し、たいてい木の上方3分の1くらいのところまでにいる。地上に降りることは稀だが、木から移動する際に地上に降りたり、ときには数メートルほどであれば樹間を飛び移ることもできる。一日のうち18 - 20時間以上を眠るか休んで過ごし、最も活動的になる時間は早朝および夕方で、薄明薄暮性である。この生態はナマケモノに似るが、ナマケモノは体温が一定しない変温動物であるが、コアラは36°Cほぼ一定の体温をもつ恒温動物であり、基礎代謝量もナマケモノの30倍近い 。
天敵は大きな猛禽類のほか、稀に地上を歩いたときに、ディンゴ、野生化したイヌ、キツネなどに襲われる可能性がある。
食性は草食性でユーカリやアカシア、ティーツリーの葉や芽を、一日に500グラムから1キログラム以上を食べる。オーストラリアにはユーカリは600 - 700種以上あるとされるが、食用になるユーカリはこの中で約35 - 120種である。さらに、各地域に生息するコアラは、その地域にあるすべてのユーカリを食べるのではなく、多くのユーカリの種の中から数種類のユーカリやその他の植物を好んで食べる(参照: #コアラが好むユーカリの種類について)。ユーカリの葉は、昆虫や野生動物に食べられるのを防ぐためにタンニンや油分が含まれており、消化が悪く、一般に動物の餌として適さない。コアラはユーカリを食べる前ににおいをかぎ、葉を選別してから食べる。さらに盲腸で発酵させることでユーカリの毒素を分解し、消化吸収する。コアラの盲腸の長さは2メートルある。コアラが常食する食物は栄養に乏しく、活発な行動をするためのエネルギーを得ることができないため、一日のうち18 - 20時間を眠って過ごすことで、エネルギーを節約している。通常、水分はユーカリ(種類にもよるが50 - 70%の水分を含む)などの食物からのみ摂取し、直接水を飲むことは稀であるが、野火などでユーカリの葉が焼けたり猛暑で脱水症状に陥ったりしたコアラが水を飲む姿が度々目撃されている。
通常、木の上で糞をする。糞の形状は円筒形をしており、成獣の場合で長さは約2センチ前後で、排出されたばかりの糞はユーカリ特有の匂いがし、表面は乾燥するとざらざらとしている。色は食べたものによるが、褐色、茶褐色から青みもしくは緑みがかった褐色をしている。
1970年代にクラミジアに感染している個体が確認され、1982年までにブリスベン森林公園やフィリップ島などで、クラミジアへの感染率が80 - 90%になっているのが確認された。クラミジアは今なお、コアラの間で流行しており、これにより目が見えなくなったり、またメスの場合は不妊などを引き起こしている。クラミジアが確認されなかったフレンチ島のコアラの繁殖率は約80%に達していたのに対し、ブリスベン森林公園でのコアラの繁殖率は40 - 50%、フィリップ島では10 - 15%であった。現在、生息しているコアラの大部分はクラミジアを保有しているとされ、生息地の環境破壊などストレスの増加により症状が発症するとされ、このことは人間の活動の結果による生息地の破壊や、交通事故などによるコアラの生息頭数の減少数などと同様に問題となっている。また、クラミジアに対するワクチンを開発し野生個体に注射することで、これらの生息地の開発・破壊を防ぎ、コアラがストレスなく生息できる環境を作ることが有効とされる。
繁殖様式は胎生。繁殖期は地域によるが、通常初春の9月から夏の2月までである。ほとんど鳴くことはないが、繁殖期になるとオスが縄張りを誇示するために鳴くことがある。通常、餌の状況や気候など生息時の状況がよければ、一年に一度1子を出産し、双子は稀である。妊娠期間は34 - 36日。新生児は体重約0.5グラム、体長2センチメートル程度。体毛は生えておらず、体色はピンク色をしている。また目が開いておらず、歯も生えていない。メスの腹部にある育児嚢で約6 - 7か月間育てられる。約22週で目が開き、約24週で歯が生え始める。母親は盲腸内でユーカリを半消化状態にすることで緑色のパップという離乳食を作る。生後約22週を過ぎたあたりから、子供は育児嚢から顔を出し始め、母親の肛門からパップを直接食べる。パップを食べる行動はその後約6 - 8週間続き、子供はパップによってユーカリの葉を消化するための微生物を得て、一生涯にわたり、母親と同じ数種の葉を食べるようになる。この時期の母親の糞はペースト状の無味無臭で、他の動物でも糞を食べることはあるが、主食を食べられるようになるために糞を摂取するのはコアラだけである。育児嚢から完全に出始めるのは、26 - 27週目くらいからであり、この時期は母親に抱かれたり、育児嚢に入ったりしながら過ごす。36週目くらいになると体重が1キロになり、育児嚢にはもう戻らない。体重が約2キログラムほどになるまでは母親に背負われて過ごし、12か月までに乳離れをする。この期間は猛禽類やニシキヘビに捕食される可能性が高まる。親離れしたオスは約18か月までに数キロメートル離れた新しい生息地へと分散していくが、メスは通常は母親の生息域に留まる。オスは生後2年で性成熟するが、生後4年に達してから繁殖に参加することが多い。オスは2、3年で成熟するが、通常は縄張りを持つまでは繁殖に参加せず、5年ほど経つと繁殖するようになる。メスは生後2年で性成熟する。メスは2年で繁殖可能となり、条件がよければ毎年子を産み、12-15歳まで繁殖を行う。寿命は野生下でメスで18年以下であり、オスはメスよりも寿命が数年短い。
先述の通りコアラが食べるユーカリの種類は限られているが、オーストラリア南部の個体群はリボンガム(Eucalyptus viminalis)や Eucalyptus ovata を、同国北部の個体群はグレイアイアンガム(Eucalyptus punctata)・セキザイユーカリ(Eucalyptus camaldulensis)・クーパーユーカリ(Eucalyptus tereticornis)を好むという傾向が見られる(Macdonald (1984))。
また、コアラのユーカリの好みに関しての調査例も存在する。調査対象とされたのは日本の埼玉県こども動物自然公園で飼育されていたオーストラリア東部ブリズベンのローンパイン・コアラ・サンクチュアリ出身のコアラたちであり、同動物園の野外施設で栽培、1989年5月15日および30日に収穫された16種のユーカリが用意され、日ごとにそのうち7-8種がコアラたちに与えられた。その結果、16種のユーカリは3つのグループに大別されるということが浮かび上がった。1つは喜んで食べられ、コアラたちの食事の平均して20パーセントを超える割合を占めたグループ(計3種)、2つ目は時々食べられ、全体でコアラたちの食事の20パーセント未満をなすグループ(計6種)、そしてほとんど食べられず全体でコアラたちの食事の1パーセントにも満たなかったグループ(計7種)である。16種の詳細な内訳は次の表の通りである。なお各種の日本語名はYList、YList にないものは『熱帯植物要覧 第4版』に拠り、分類情報はキュー植物園系データベース World Checklist of Selected Plant Families に従った。
“koala” の名前はダルク語の gula に由来するものである。元来、母音の /u/ はアルファベットで oo と綴られ、スペルは coola、koolah と表記されたが、表記ミスにより oa と変わった 。この言葉は、"doesn't drink"(水を飲まない)を意味すると誤って言われている。
コアラはクマの一種ではないが、18世紀後半にやってきた英語を話すヨーロッパ人入植者により、クマに似ていることから koala bear(コアラグマ)と呼ばれた。分類学的には不適切であるが、koala bear の名前は現在でもオーストラリア以外で使われているが、この名称は不正確であるため、使うことは推奨されていない。
他の英語表記には、クマを意味する “bear” をもとに、monkey bear(猿クマ)、native bear(固有のクマ)、tree-bear(木のクマ)などと呼ばれることがある。また日本語ではコモリグマなどと呼ばれることがある。
森林伐採や山火事による生息地の破壊、毛皮用の狩猟、交通事故、イヌによる捕食などにより生息数は減少している。オーストラリアコアラ基金は2021年9月20日、大規模な山火事や旱魃などにより過去3年でコアラの生息数は最大で5万8000匹、最少で3万2000匹へ減少し、128あった生息地のうち47で野生の個体がいなくなったと発表した。
ヨーロッパ人の入植以前から、オーストラリア先住民が食糧としていた。しかし、ヨーロッパ人到達の植民地化以降、特に1860年代から1920年代後半にかけてコアラの毛皮をとるために狩猟が行われており、イギリスのロンドンだけで毎年1 - 3万頭分もの毛皮が販売されていた。たとえば1889年には30万頭分の毛皮がイギリスへ輸出され、また1920年代にはアメリカ合衆国への輸出がされていた。一時的にではあるが1898年にはビクトリア州で、1906年にはクイーンズランド州でコアラの狩猟が禁止されたが、この間も狩猟が行われ、「ウォンバットの毛皮」として輸出されていた。また、最盛期にあたる1919年にはクイーンズランド州では100万頭以上が、1924年にはニューサウスウェールズ州で100万頭以上ものコアラが毛皮のために捕獲され、また1927年には狩猟が許可された期間である約1か月間で58万5,000頭弱分ものコアラが捕獲され、毛皮がとられた。このように捕獲がしやすかったコアラは次々と毛皮のために狩猟されていき、1930年代後半までには南オーストラリア州では絶滅の危機に瀕し、その他の州では急激に減少していた。このような乱獲や開発による生息地の分断などにより、クイーンズランド州北部、南オーストラリア州、またニューサウスウェールズ州とビクトリア州の州境付近などで個体群が孤立した。
その後、保護活動がなされ、ビクトリア州フィリップ島やフレンチ島などから、本土のビクトリア州、南オーストラリア州などに再導入されている。特に南オーストラリア州には1920年代から1960年代にかけて、数度の再導入が試みられてきた。
現在、コアラの個体数は、オーストラリア政府は判断をしていないが、オーストラリアコアラ財団により10万頭以下であると予想されている。資料によっては4万3,000頭とされることもある。しかし、全ての地域で個体数を減らし続けているわけではなく、グレートディバイディング山脈西部のいくつかの個体群などでは個体数が増加し、分布域を広げている。また南オーストラリア州においては、再導入の結果、ヨーロッパ人入植時よりも多くの個体数がより広範囲に分布している。
一方で、再導入された島嶼部や自然分布以外の地域、分断された生息地などにおいて、コアラによるユーカリの食害が報告されており、問題となっている。
オーストラリア政府の法律では、サウス・イースト・クイーンズランド地域の個体群を除き保護対象になっておらず、2010年9月30日までに再評価を行うとしている。また、オーストラリア政府はコアラの保護政策を各州政府に任せている。クイーンズランド州ではサウス・イースト・クイーンズランド地域の個体群を危急種(Vulnerable)に、その他の地域のコアラを軽度懸念(Least Concern)に指定している。ニューサウスウェールズ州はワリンガのピットウォーター地区と、グレート・レークスのティー・ガーデン地区およびホークス・ネスト地区のコアラを絶滅危惧(Endangered)に、その他を危急種(Vulnerable)に指定している。ビクトリア州では野生動物全般を扱う法(Wildlife Act 1975)の下に野生動物の取引などを制限しているが、保全状態の評価はしていない。南オーストラリア州もビクトリア州と同じように野生動物全般を扱う法(National Parks and Wildlife Act 1972)で野生動物や生息地の保護、取引や狩猟などの行為を制限している。近年まで希少種(Rare)とされていたが、2008年に指定から外された。2022年2月11日にはニューサウスウェールズ、クイーンズに生息するコアラについて、近年の大規模森林火災などで絶滅の危険が増大したとして「絶滅危惧種」に指定したと発表。傍らで保護において全力を挙げる姿勢を鮮明にしている。
アメリカ合衆国では絶滅の危機に瀕する種の保存に関する法律により、絶滅危惧種(Threatened)に指定された。
コアラは動物の中でも非常に神経質で、人工施設内で飼育する場合は環境変化によってコアラ・ストレス・シンドロームを発症しやすく、飼育には細心の注意が必要とされる。 日本では1984年に初めて輸入され、鹿児島市平川動物公園、多摩動物公園、東山動植物園で各2頭ずつ計6頭のオスの飼育が開始された。このうち鹿児島市平川動物公園では、1986年に日本では初めて飼育下繁殖に成功した。
1980年までオーストラリア以外でコアラを見ることができたのは、1915年にコアラの飼育を始めたアメリカ合衆国のサンディエゴ動物園だけであり、コアラの生息数が減少してからはオーストラリア政府は海外へ輸出することを禁止していた。1980年にオーストラリアの法律が改正され、1984年および1985年にオーストラリアのタロンガ動物園から日本の多摩動物公園、東山動植物園、平川動物公園の3園に贈られた。
このときにユーカリが日本で育てられるかも調べられたほか、コアラが到着する3週間前には餌となるユーカリが輸入され、またそれと同時にコアラが一日にどのような葉が適しているのか、どのくらいの食糧なのかなど、様々な飼育方法などの情報が提供された。このとき、日本では「コアラ・ブーム」が沸き上がることとなった。オーストラリアからコアラが贈られた際、日本からはそのお返しにオオサンショウウオを贈っている。
さらに翌年1986年に埼玉県こども動物自然公園、横浜市立金沢動物園(コアラ騒動)、1987年に淡路ファームパーク イングランドの丘、1989年に大阪市天王寺動物園、1991年に神戸市立王子動物園、1996年に沖縄こどもの国と増えている。または1998年に草津熱帯圏で期間限定でコアラ展を開催してコアラを展示していた。草津熱帯圏で飼育していたコアラは金沢動物園から借りたコアラである。2010年に沖縄こどもの国で飼育されていたコアラが死亡し、2019年には、大阪市天王寺動物園のコアラがイギリスの動物園ロングリートサファリパークへ譲渡されたため、2020年2月現在、日本国内でコアラを飼育している動物園は7園である。
しかし、近年コアラの飼育数が減少しているため、全国のコアラを飼育する動物園が協同繁殖に取り組んでいる。最も問題となるのがコアラの餌で、前述のようにコアラはユーカリなど決まった植物の中からさらに特定の種類、しかも若い木の葉ではいけないなどの嗜好があり、大量に食べるため、合理的にコアラを飼育するには餌用のユーカリを専門に栽培する農家の存在と、ユーカリを年中安定して供給できる環境が必要である。また、初来日時のコアラ・ブームが去ってコアラの動物園などへの集客力がジャイアントパンダなどに比べて大幅に落ちている。
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"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "食性は草食性でユーカリやアカシア、ティーツリーの葉や芽を、一日に500グラムから1キログラム以上を食べる。オーストラリアにはユーカリは600 - 700種以上あるとされるが、食用になるユーカリはこの中で約35 - 120種である。さらに、各地域に生息するコアラは、その地域にあるすべてのユーカリを食べるのではなく、多くのユーカリの種の中から数種類のユーカリやその他の植物を好んで食べる(参照: #コアラが好むユーカリの種類について)。ユーカリの葉は、昆虫や野生動物に食べられるのを防ぐためにタンニンや油分が含まれており、消化が悪く、一般に動物の餌として適さない。コアラはユーカリを食べる前ににおいをかぎ、葉を選別してから食べる。さらに盲腸で発酵させることでユーカリの毒素を分解し、消化吸収する。コアラの盲腸の長さは2メートルある。コアラが常食する食物は栄養に乏しく、活発な行動をするためのエネルギーを得ることができないため、一日のうち18 - 20時間を眠って過ごすことで、エネルギーを節約している。通常、水分はユーカリ(種類にもよるが50 - 70%の水分を含む)などの食物からのみ摂取し、直接水を飲むことは稀であるが、野火などでユーカリの葉が焼けたり猛暑で脱水症状に陥ったりしたコアラが水を飲む姿が度々目撃されている。",
"title": "生態"
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"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "通常、木の上で糞をする。糞の形状は円筒形をしており、成獣の場合で長さは約2センチ前後で、排出されたばかりの糞はユーカリ特有の匂いがし、表面は乾燥するとざらざらとしている。色は食べたものによるが、褐色、茶褐色から青みもしくは緑みがかった褐色をしている。",
"title": "生態"
},
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"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "1970年代にクラミジアに感染している個体が確認され、1982年までにブリスベン森林公園やフィリップ島などで、クラミジアへの感染率が80 - 90%になっているのが確認された。クラミジアは今なお、コアラの間で流行しており、これにより目が見えなくなったり、またメスの場合は不妊などを引き起こしている。クラミジアが確認されなかったフレンチ島のコアラの繁殖率は約80%に達していたのに対し、ブリスベン森林公園でのコアラの繁殖率は40 - 50%、フィリップ島では10 - 15%であった。現在、生息しているコアラの大部分はクラミジアを保有しているとされ、生息地の環境破壊などストレスの増加により症状が発症するとされ、このことは人間の活動の結果による生息地の破壊や、交通事故などによるコアラの生息頭数の減少数などと同様に問題となっている。また、クラミジアに対するワクチンを開発し野生個体に注射することで、これらの生息地の開発・破壊を防ぎ、コアラがストレスなく生息できる環境を作ることが有効とされる。",
"title": "生態"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "繁殖様式は胎生。繁殖期は地域によるが、通常初春の9月から夏の2月までである。ほとんど鳴くことはないが、繁殖期になるとオスが縄張りを誇示するために鳴くことがある。通常、餌の状況や気候など生息時の状況がよければ、一年に一度1子を出産し、双子は稀である。妊娠期間は34 - 36日。新生児は体重約0.5グラム、体長2センチメートル程度。体毛は生えておらず、体色はピンク色をしている。また目が開いておらず、歯も生えていない。メスの腹部にある育児嚢で約6 - 7か月間育てられる。約22週で目が開き、約24週で歯が生え始める。母親は盲腸内でユーカリを半消化状態にすることで緑色のパップという離乳食を作る。生後約22週を過ぎたあたりから、子供は育児嚢から顔を出し始め、母親の肛門からパップを直接食べる。パップを食べる行動はその後約6 - 8週間続き、子供はパップによってユーカリの葉を消化するための微生物を得て、一生涯にわたり、母親と同じ数種の葉を食べるようになる。この時期の母親の糞はペースト状の無味無臭で、他の動物でも糞を食べることはあるが、主食を食べられるようになるために糞を摂取するのはコアラだけである。育児嚢から完全に出始めるのは、26 - 27週目くらいからであり、この時期は母親に抱かれたり、育児嚢に入ったりしながら過ごす。36週目くらいになると体重が1キロになり、育児嚢にはもう戻らない。体重が約2キログラムほどになるまでは母親に背負われて過ごし、12か月までに乳離れをする。この期間は猛禽類やニシキヘビに捕食される可能性が高まる。親離れしたオスは約18か月までに数キロメートル離れた新しい生息地へと分散していくが、メスは通常は母親の生息域に留まる。オスは生後2年で性成熟するが、生後4年に達してから繁殖に参加することが多い。オスは2、3年で成熟するが、通常は縄張りを持つまでは繁殖に参加せず、5年ほど経つと繁殖するようになる。メスは生後2年で性成熟する。メスは2年で繁殖可能となり、条件がよければ毎年子を産み、12-15歳まで繁殖を行う。寿命は野生下でメスで18年以下であり、オスはメスよりも寿命が数年短い。",
"title": "生態"
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"text": "先述の通りコアラが食べるユーカリの種類は限られているが、オーストラリア南部の個体群はリボンガム(Eucalyptus viminalis)や Eucalyptus ovata を、同国北部の個体群はグレイアイアンガム(Eucalyptus punctata)・セキザイユーカリ(Eucalyptus camaldulensis)・クーパーユーカリ(Eucalyptus tereticornis)を好むという傾向が見られる(Macdonald (1984))。",
"title": "生態"
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"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "また、コアラのユーカリの好みに関しての調査例も存在する。調査対象とされたのは日本の埼玉県こども動物自然公園で飼育されていたオーストラリア東部ブリズベンのローンパイン・コアラ・サンクチュアリ出身のコアラたちであり、同動物園の野外施設で栽培、1989年5月15日および30日に収穫された16種のユーカリが用意され、日ごとにそのうち7-8種がコアラたちに与えられた。その結果、16種のユーカリは3つのグループに大別されるということが浮かび上がった。1つは喜んで食べられ、コアラたちの食事の平均して20パーセントを超える割合を占めたグループ(計3種)、2つ目は時々食べられ、全体でコアラたちの食事の20パーセント未満をなすグループ(計6種)、そしてほとんど食べられず全体でコアラたちの食事の1パーセントにも満たなかったグループ(計7種)である。16種の詳細な内訳は次の表の通りである。なお各種の日本語名はYList、YList にないものは『熱帯植物要覧 第4版』に拠り、分類情報はキュー植物園系データベース World Checklist of Selected Plant Families に従った。",
"title": "生態"
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{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "“koala” の名前はダルク語の gula に由来するものである。元来、母音の /u/ はアルファベットで oo と綴られ、スペルは coola、koolah と表記されたが、表記ミスにより oa と変わった 。この言葉は、\"doesn't drink\"(水を飲まない)を意味すると誤って言われている。",
"title": "人間との関係"
},
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"paragraph_id": 22,
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"text": "コアラはクマの一種ではないが、18世紀後半にやってきた英語を話すヨーロッパ人入植者により、クマに似ていることから koala bear(コアラグマ)と呼ばれた。分類学的には不適切であるが、koala bear の名前は現在でもオーストラリア以外で使われているが、この名称は不正確であるため、使うことは推奨されていない。",
"title": "人間との関係"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "他の英語表記には、クマを意味する “bear” をもとに、monkey bear(猿クマ)、native bear(固有のクマ)、tree-bear(木のクマ)などと呼ばれることがある。また日本語ではコモリグマなどと呼ばれることがある。",
"title": "人間との関係"
},
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"text": "森林伐採や山火事による生息地の破壊、毛皮用の狩猟、交通事故、イヌによる捕食などにより生息数は減少している。オーストラリアコアラ基金は2021年9月20日、大規模な山火事や旱魃などにより過去3年でコアラの生息数は最大で5万8000匹、最少で3万2000匹へ減少し、128あった生息地のうち47で野生の個体がいなくなったと発表した。",
"title": "人間との関係"
},
{
"paragraph_id": 25,
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"text": "ヨーロッパ人の入植以前から、オーストラリア先住民が食糧としていた。しかし、ヨーロッパ人到達の植民地化以降、特に1860年代から1920年代後半にかけてコアラの毛皮をとるために狩猟が行われており、イギリスのロンドンだけで毎年1 - 3万頭分もの毛皮が販売されていた。たとえば1889年には30万頭分の毛皮がイギリスへ輸出され、また1920年代にはアメリカ合衆国への輸出がされていた。一時的にではあるが1898年にはビクトリア州で、1906年にはクイーンズランド州でコアラの狩猟が禁止されたが、この間も狩猟が行われ、「ウォンバットの毛皮」として輸出されていた。また、最盛期にあたる1919年にはクイーンズランド州では100万頭以上が、1924年にはニューサウスウェールズ州で100万頭以上ものコアラが毛皮のために捕獲され、また1927年には狩猟が許可された期間である約1か月間で58万5,000頭弱分ものコアラが捕獲され、毛皮がとられた。このように捕獲がしやすかったコアラは次々と毛皮のために狩猟されていき、1930年代後半までには南オーストラリア州では絶滅の危機に瀕し、その他の州では急激に減少していた。このような乱獲や開発による生息地の分断などにより、クイーンズランド州北部、南オーストラリア州、またニューサウスウェールズ州とビクトリア州の州境付近などで個体群が孤立した。",
"title": "人間との関係"
},
{
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"text": "その後、保護活動がなされ、ビクトリア州フィリップ島やフレンチ島などから、本土のビクトリア州、南オーストラリア州などに再導入されている。特に南オーストラリア州には1920年代から1960年代にかけて、数度の再導入が試みられてきた。",
"title": "人間との関係"
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{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "現在、コアラの個体数は、オーストラリア政府は判断をしていないが、オーストラリアコアラ財団により10万頭以下であると予想されている。資料によっては4万3,000頭とされることもある。しかし、全ての地域で個体数を減らし続けているわけではなく、グレートディバイディング山脈西部のいくつかの個体群などでは個体数が増加し、分布域を広げている。また南オーストラリア州においては、再導入の結果、ヨーロッパ人入植時よりも多くの個体数がより広範囲に分布している。",
"title": "人間との関係"
},
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"text": "一方で、再導入された島嶼部や自然分布以外の地域、分断された生息地などにおいて、コアラによるユーカリの食害が報告されており、問題となっている。",
"title": "人間との関係"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "オーストラリア政府の法律では、サウス・イースト・クイーンズランド地域の個体群を除き保護対象になっておらず、2010年9月30日までに再評価を行うとしている。また、オーストラリア政府はコアラの保護政策を各州政府に任せている。クイーンズランド州ではサウス・イースト・クイーンズランド地域の個体群を危急種(Vulnerable)に、その他の地域のコアラを軽度懸念(Least Concern)に指定している。ニューサウスウェールズ州はワリンガのピットウォーター地区と、グレート・レークスのティー・ガーデン地区およびホークス・ネスト地区のコアラを絶滅危惧(Endangered)に、その他を危急種(Vulnerable)に指定している。ビクトリア州では野生動物全般を扱う法(Wildlife Act 1975)の下に野生動物の取引などを制限しているが、保全状態の評価はしていない。南オーストラリア州もビクトリア州と同じように野生動物全般を扱う法(National Parks and Wildlife Act 1972)で野生動物や生息地の保護、取引や狩猟などの行為を制限している。近年まで希少種(Rare)とされていたが、2008年に指定から外された。2022年2月11日にはニューサウスウェールズ、クイーンズに生息するコアラについて、近年の大規模森林火災などで絶滅の危険が増大したとして「絶滅危惧種」に指定したと発表。傍らで保護において全力を挙げる姿勢を鮮明にしている。",
"title": "人間との関係"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "アメリカ合衆国では絶滅の危機に瀕する種の保存に関する法律により、絶滅危惧種(Threatened)に指定された。",
"title": "人間との関係"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "コアラは動物の中でも非常に神経質で、人工施設内で飼育する場合は環境変化によってコアラ・ストレス・シンドロームを発症しやすく、飼育には細心の注意が必要とされる。 日本では1984年に初めて輸入され、鹿児島市平川動物公園、多摩動物公園、東山動植物園で各2頭ずつ計6頭のオスの飼育が開始された。このうち鹿児島市平川動物公園では、1986年に日本では初めて飼育下繁殖に成功した。",
"title": "人間との関係"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "1980年までオーストラリア以外でコアラを見ることができたのは、1915年にコアラの飼育を始めたアメリカ合衆国のサンディエゴ動物園だけであり、コアラの生息数が減少してからはオーストラリア政府は海外へ輸出することを禁止していた。1980年にオーストラリアの法律が改正され、1984年および1985年にオーストラリアのタロンガ動物園から日本の多摩動物公園、東山動植物園、平川動物公園の3園に贈られた。",
"title": "人間との関係"
},
{
"paragraph_id": 33,
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"text": "このときにユーカリが日本で育てられるかも調べられたほか、コアラが到着する3週間前には餌となるユーカリが輸入され、またそれと同時にコアラが一日にどのような葉が適しているのか、どのくらいの食糧なのかなど、様々な飼育方法などの情報が提供された。このとき、日本では「コアラ・ブーム」が沸き上がることとなった。オーストラリアからコアラが贈られた際、日本からはそのお返しにオオサンショウウオを贈っている。",
"title": "人間との関係"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "さらに翌年1986年に埼玉県こども動物自然公園、横浜市立金沢動物園(コアラ騒動)、1987年に淡路ファームパーク イングランドの丘、1989年に大阪市天王寺動物園、1991年に神戸市立王子動物園、1996年に沖縄こどもの国と増えている。または1998年に草津熱帯圏で期間限定でコアラ展を開催してコアラを展示していた。草津熱帯圏で飼育していたコアラは金沢動物園から借りたコアラである。2010年に沖縄こどもの国で飼育されていたコアラが死亡し、2019年には、大阪市天王寺動物園のコアラがイギリスの動物園ロングリートサファリパークへ譲渡されたため、2020年2月現在、日本国内でコアラを飼育している動物園は7園である。",
"title": "人間との関係"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "しかし、近年コアラの飼育数が減少しているため、全国のコアラを飼育する動物園が協同繁殖に取り組んでいる。最も問題となるのがコアラの餌で、前述のようにコアラはユーカリなど決まった植物の中からさらに特定の種類、しかも若い木の葉ではいけないなどの嗜好があり、大量に食べるため、合理的にコアラを飼育するには餌用のユーカリを専門に栽培する農家の存在と、ユーカリを年中安定して供給できる環境が必要である。また、初来日時のコアラ・ブームが去ってコアラの動物園などへの集客力がジャイアントパンダなどに比べて大幅に落ちている。",
"title": "人間との関係"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "英語:",
"title": "関連文献"
}
] | コアラは、哺乳綱双前歯目コアラ科コアラ属に分類される有袋類。現生種では本種のみでコアラ科コアラ属を構成する。 日本語の別名はコモリグマ(子守熊)またはフクログマ(袋熊)であり、オーストラリア大陸東部の森林地帯(ユーカリ林など)に生息している。 体色は背面が灰色で、腹面が白色、体長は約65 - 82センチメートル、体重は約4 - 15キログラムである。オーストラリア北部に生息するコアラよりも(後述の理由により)南部に生息するコアラの方が体が大きく体毛の長さも長い。タンニンや油分を多く含むユーカリの葉や、アカシア、ティーツリーの葉や芽を食べる。稀に歩くこともあり、4足歩行である。 | {{otheruses|動物のコアラ}}
{{出典の明記|date=2018年8月}}
{{生物分類表
|省略 = 哺乳綱
|名称 = コアラ
|画像=[[ファイル:Friendly Female Koala.JPG|250px]]
|画像キャプション = '''コアラ''' ''Phascolarctos cinereus''
|status = VU
|status_ref = <ref name="iucn">Woinarski, J. & Burbidge, A.A. 2016. ''Phascolarctos cinereus''. The IUCN Red List of Threatened Species 2016: e.T16892A21960344. {{doi|10.2305/IUCN.UK.2016-1.RLTS.T16892A21960344.en}} Downloaded on 24 August 2018.</ref>
|目 = [[双前歯目]] [[w:Diprotodontia|Diprotodontia]]
|亜目 = [[ウォンバット型亜目]] [[w:Vombatiformes|Vombatiformes]]
|科 = [[コアラ科]]<br />[[w:Phascolarctidae|Phascolarctidae]] [[リチャード・オーウェン|Owen]], [[1839年|1839]]<ref name="groves">[[コリン・グローヴズ|Colin P. Groves]], "[http://www.departments.bucknell.edu/biology/resources/msw3/browse.asp?id=11000003 Order Diprotodontia]," ''Mammal Species of the World'', (3rd ed.), Volume 1, Don E. Wilson & DeeAnn M. Reeder (ed.), Johns Hopkins University Press, 2005, Pages 43-70<!-- p. 43 -->.</ref>
|属 = [[コアラ属]] [[w:Phascolarctos|''Phascolarctos'']]<br />[[アンリ・ブランヴィル|de Blainville]], [[1816年|1816]]<ref name="groves" /><!-- MSWでは記載は1816年とされているのに発行は1817年と注釈が加えられているので、分冊で1816年にシリーズが発刊したが本種について触れたものが発行されたのが1817年か? -->
|種 = '''コアラ''' ''P. cinereus''
|学名 = ''Phascolarctos cinereus''<br />(Goldfuss, [[1817年|1817]])<ref name="iucn" /><ref name="groves" />
|シノニム = ''Lipurus cinereus'' Goldfuss, 1817<ref name="groves" />
|和名 = コアラ<ref name="martin">Roger Martin 「コアラ」白石哲訳『動物大百科 6 有袋類ほか』今泉吉典監修 D.W.マクドナルド編、[[平凡社]]、[[1986年]]、148-151頁。</ref><ref name="nagase">長瀬健二郎 「『人気者』の意外な実像 コアラ」『動物たちの地球 哺乳類I 2 カンガルー・コアラほか』第8巻 38号、[[朝日新聞社]]、[[1992年]]、56-59頁。</ref>
|英名 = [[:en:Koala|Koala]]<ref name="iucn" /><ref name="groves" />
|生息図=[[ファイル:Koala_dist_map.png|250px|分布域]]
|亜綱=[[獣亜綱]]|下綱=[[後獣下綱]]}}
'''コアラ'''(Koala<ref>[https://www.wwf.org.au/what-we-do/species/koala Koala] [[世界自然保護基金|WWF Australia]](2022年1月2日閲覧)</ref>、[[学名]]:''Phascolarctos cinereus'')は、[[哺乳類|哺乳綱]][[双前歯目]]コアラ科コアラ属に分類される[[有袋類]]。現生種では本種のみで[[コアラ科]][[コアラ属]]を構成する。
[[日本語]]の別名は'''コモリグマ'''(子守熊)または'''フクログマ'''(袋熊)であり、[[オーストラリア大陸]]東部の森林地帯([[ユーカリ]]林など)に生息している。
[[体色]]は背面が灰色で、腹面が白色、体長は約65 - 82センチメートル、体重は約4 - 15キログラムである。オーストラリア北部に生息するコアラよりも(後述の理由により)南部に生息するコアラの方が体が大きく体毛の長さも長い。[[タンニン]]や油分を多く含むユーカリの[[葉]]や、'''アカシア、ティーツリーの葉や芽を'''食べる。稀に歩くこともあり、4足歩行である。
== 分布 ==
[[オーストラリア]]([[クイーンズランド州]]南東部、[[ニューサウスウェールズ州]]東部、[[ビクトリア州]]、[[南オーストラリア州]]南東部)に分布している。
[[西オーストラリア州]]、[[タスマニア州]]には分布していない。分布域内では[[熱帯雨林]]、[[温帯]]のユーカリ林、[[疎林]]などに生息する。特に川沿いや海岸地帯に近い、肥沃な場所でユーカリ類に含まれるタンニンや油分が少ない場所を好む<ref name="e40">Egerton, L. ed. 2005. Encyclopedia of Australian wildlife. Reader's Digest ISBN 9780864491183</ref>。通常は単独性で、群れを作らない。
[[オーストラリアの歴史#植民地支配の本格化|ヨーロッパ人到来]]によって分布域を急激に減少させ、1930年代までには、ヨーロッパ人入植前の50%にまでに分布域は減少した<ref name=strategy>{{Cite web|url=http://www.environment.gov.au/biodiversity/publications/koala-strategy/pubs/koala-strategy.pdf|title=National Koala Conservation and Management Strategy 2009–2014|accessdate=2010-07-06|author=the Natural Resource Management Ministerial Council}}</ref>。南オーストラリア州の[[個体群]]の一部には、州内外の個体群を再導入された個体群も含まれる<ref name=strategy />。
== 形態 ==
{{右|<gallery>
ファイル:Koala_and_joey.jpg|メスと子供
ファイル:Koala skeleton1.jpg|骨格
</gallery>}}
[[体長]]はクイーンズランド州に生息するコアラのオスで体長674 - 736ミリメートル、体重4.2 - 9.1キログラム、メスで体長648 - 723ミリメートル、体重4.1 - 7.3キログラム、オーストラリア南部に生息するコアラはオスで体長750 - 820ミリメートル、体重9.5 - 14.9キログラム、メスは体長680 - 730ミリメートル、体重7 - 11キログラムである<ref name="guide">Cath Jones and Steve Parish, Field Guide to Australian Mammals, P64-69, Steve Parish Publishing, ISBN 174021743-8</ref>。尾は外部から見えない。オスはメスよりも体重が最大で50%重く、体長も大きい。また、北部の[[亜種]]より、南部の亜種の方が25 - 35%ほど大きい。なお、[[尻尾]]は[[退化]]しており存在しない。体色は、背面が北部の亜種は灰色であり、南部の亜種は茶褐色になることがある。稀ではあるが、2017年8月にオーストラリア動物園で白色の赤ちゃんが誕生した。腹面は白色から乳白色である。体毛は厚くごわごわしている。北部の亜種に比べ南部の亜種はふさふさとしており、冬の寒さに耐えられるようになっている。オスの胸には茶色の縦線-[[胸腺]]があり、ここからにおいを発する<ref name=guide />。オスはこの腺から出るにおいや、[[尿]]のにおいにより、[[縄張り]]を主張する<ref name=e40 /><ref name=guide />。外耳は小さいが周囲の体毛が長いため、特に南部亜種では大きく見える。
<gallery>
ファイル:Koala.jpg|コアラのオス<br />胸に茶色の縦線がある
ファイル:Friendly_Female_Koala.JPG|コアラのメス<br />胸は白色
</gallery>
<!---オスの写真はより分かりやすいのがよいかも--->
[[ファイル:Koala_with_young.JPG|thumb|200px|ユーカリを食べるメスと育児嚢の中の子供]]
メスは[[育児嚢]]を持ち、この中に[[乳首]]を2つ持っている<ref name="martin" /><ref name=guide />。育児嚢は[[ウォンバット]]と同じく後ろ向き、つまりコアラが座っている状態の場合、下向きについている<ref name=e40 />。オスの[[クラスパー|交尾器]]は有袋類の独特な形状をしており、途中から二股に分かれてY字型をしていて[[亀頭]]が2つある。これはメスの[[膣]]内がY字に分かれていて、真ん中を[[産道]]が通っているためである。樹上生活に適応しており、脂肪は少なく筋肉質である。特に四肢の筋肉が発達しており、樹上を素早く移動できる。手足には鋭い[[爪]]のついた5本の指を持つ。前足は第1指と第2指とほかの3指が向かい合っており、木の枝などをつかむことができる。また、後肢の第2指と第3指は癒合しており、第1指とほかの4指が向かい合っていて、前足と同様に木の枝をつかめるようになっている。また後足の癒合した第2指、第3指の爪が他の爪よりも少し長く、これを使い[[グルーミング|毛繕い]]を行う<ref name=guide /><ref name=ag91>Tony Lee, Koalas, ''Australian Geographic'', Vol. 23, Telley Hills:The Journal of The Australian Geographic Society,1991, pp. 50-67</ref>。[[歯式]]はI3/1([[門歯]])、C1/0([[犬歯]])、P1/1([[小臼歯]])、M4/4([[大臼歯]])<ref name="scat">Barbara Triggs, TRACKS, SCATS AND OTHER TRACES, Oxford, ISBN 019555099-4</ref>。コアラの犬歯は、[[肉食獣]]ではないため大きくはないが、[[臼歯]]はよく発達しており年齢とともにすり減っていく<ref name="scat" />。
== 分類 ==
3亜種に分かれるとされていたが、南部個体群ほど大型で長毛・濃色になること(連続的な地理変異)から亜種の有効性を疑問視する説もあった<ref name="martin" />。例としてMSW3では本種に亜種を認めていない<ref name="groves" />。
コアラはコアラ科コアラ属で現生する唯一の種である。[[化石]]種では他に同じ科の属、同じ属の種があり、西オーストラリア州南西部やオーストラリア中央部や北部において化石が発見されている<ref name=e40 /><ref>Stephen Jackson, "Koala: Origins of an Icon", Allen & Unwin, 2008, ISBN 1741750318, p9-11</ref>。ヨーロッパ人による最初のコアラ目撃記録は、1798年1月26日に[[ジョン・ハンター (海軍軍人)|ジョン・ハンター]]の使用人であったジョン・プライスが[[シドニー]]西部の高地を探検しているときであり、「[[オーストラリア先住民|先住民]]がCullawineと呼ぶ、[[アメリカ大陸|アメリカ]]の[[ナマケモノ]]のような生き物がいた」と記録している<ref name="handbook">Simon HUNTER, KOALA HANDBOOK, CHATTO & WINDUS, ISBN 0-7011-3213-2</ref>。その後、1802年に、探検家のフランシス・バラリアー<!---Barrallier--->が、先住民が “colo” と呼ぶ、[[サル]]のような生き物がいることを記録している<ref name=handbook />。1816年に[[フランス]]の動物学者[[アンリ・ブランヴィル|ブランヴィル]]が、コアラの属名そして''Phascolarctos''を与えた<ref name=handbook /><ref name=Kidd>{{cite book |author= Kidd, D.A.|year=1973 |title= Collins Latin Gem Dictionary|publisher= Collins|location=London|page= 53|isbn= 0-00-458641-7}}</ref>。これは[[ギリシア語]]の ''phaskolos'' および ''arktos'' からきており、それぞれ「皮の袋」「熊」という意味である<ref name=handbook /><ref name=Kidd />。また1817年に[[ドイツ人]]動物学者{{AUY|{{Taxonomist|Goldfuss}}}}が、種小名としてコアラに ''cinereus'' という名を与えた<ref name=handbook /><ref name=Kidd />。この言葉は[[ラテン語]]由来で、「灰色の」という意味である<ref name=Kidd />。19世紀に一時、同じ有袋類の[[ウォンバット]]に近縁であるとされたが、1921年まではコアラは完全な樹上性であり、一方のウォンバットは地面に穴を掘る半地中性の生活を送ることから、議論の的となっていた<ref name=handbook />。現在は同じウォンバット型亜目([[:en:Vombatiformes|Vombatiformes]])に分類されている。
近年まで次の3亜種に分けられていたが、1999年のホールデンなどの分析により、[[遺伝子]]レベルでの違いは亜種に分けるほどに大きくはないことが確認された<ref name=strategy />。
* ''Phascolarctos cinereus cinereus''(Goldfuss, 1817):ニューサウスウェールズコアラ:ニューサウスウェールズ州に分布する亜種。
* ''Phascolarctos cinereus victor'' Troughton [[1935年|1935]]: ビクトリアコアラ:ビクトリア州に分布する亜種。
* ''Phascolarctos cinereus adustus'' Thomas [[1923年|1923]]:クイーンズランドコアラ:クイーンズランド州に分布する亜種。
それぞれの名に含まれている州名がおよその分布域を示している。これら3亜種に分けない場合、ニューサウスウェールズ州北部以北に生息する個体群、ニューサウスウェールズ州中部以南からビクトリア州にかけて生息する個体群に分けられる場合もある<ref name=e40 /><ref name="guide">Cath Jones and Steve Parish, Field Guide to Australian Mammals, P64-69, Steve Parish Publishing, ISBN 174021743-8</ref>。
体の大きさ、[[体毛]]の長さとも、寒冷域に行くほど大きく長くなる傾向がある。クイーンズランド州に生息するコアラが最も小さく体毛も短く、ビクトリア州に生息するコアラが最も大きく体毛も長く、ニューサウスウェールズ州に生息するコアラは大きさも体毛の長さも両者の中間程度である。
<gallery>
ファイル:Koala climbing tree.jpg|ビクトリア州に生息するコアラ
ファイル:Australia Cairns Koala.jpg|クイーンズランド州に生息するコアラ
</gallery>
== 生態 ==
[[ファイル:Koala_Jump.jpg|thumb|right|200px|枝に飛び移るコアラ]]
通常は単独性で、2頭以上でいることは稀である。[[繁殖期]]にのみ、オスとメスが一緒にいたり、またメスと子供が一緒にいたりする。樹上で生活するが、木の葉を集めたものや、樹洞を利用するというようなことはせず、特定の巣は持たない<ref name=e40 /><ref name=scat />。休むときは通常、葉がよく生い茂り、太陽光や雨などがしのげる樹上で休息し、たいてい木の上方3分の1くらいのところまでにいる<ref name=e40 /><ref name=scat />。地上に降りることは稀だが、木から移動する際に地上に降りたり、ときには数メートルほどであれば樹間を飛び移ることもできる<ref name=guide />。一日のうち18 - 20時間以上を眠るか休んで過ごし、最も活動的になる時間は早朝および夕方で、[[薄明薄暮性]]である<ref name=handbook /><ref name=guide />。この生態は[[ナマケモノ]]に似るが、ナマケモノは体温が一定しない[[変温動物]]であるが、コアラは36[[セルシウス度|℃]]ほぼ一定の体温をもつ[[恒温動物]]であり、[[基礎代謝]]量もナマケモノの30倍近い<ref>K. A. Nagy and R. W. Martin 1985. Field Metabolic Rate, Water Flux, Food Consumption and Time Budget of Koalas, Phascolarctos Cinereus (Marsupialia: Phascolarctidae. Australian Journal of Zoology 33:655-665) in Victoria.</ref> 。
[[天敵]]は大きな[[猛禽類]]のほか、稀に地上を歩いたときに、[[ディンゴ]]、[[野犬|野生化したイヌ]]、[[キツネ]]などに襲われる可能性がある<ref name="animal">Burnie David, Animal, 2001, DK, ISBN 978-1-7403-3578-2</ref>。
[[画像:Koala_with_young.ogv|thumb|thumbtime=1|right|食事をするコアラ(動画)]]
食性は草食性で[[ユーカリ]]や[[アカシア]]、[[ティーツリー]]の葉や[[芽]]を、一日に500グラム<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO02367740W6A510C1000000/|title=「寒さ」と「暑さ」 人間が弱いのはどっち |newspaper=[[日本経済新聞]]|date=2016-06-20|accessdate=2020-12-03}}</ref>から1キログラム以上を食べる<ref name=guide /><ref name=animal />。オーストラリアにはユーカリは600 - 700種以上あるとされるが、食用になるユーカリはこの中で約35 - 120種である<ref name=e40 /><ref name=guide />。さらに、各地域に生息するコアラは、その地域にあるすべてのユーカリを食べるのではなく、多くのユーカリの種の中から数種類のユーカリやその他の植物を好んで食べる<ref name=guide /><ref name=great>Stephen Pool and others, Wild Place of Greater Brisbane, Queensland Museum, P59</ref>(参照: [[#コアラが好むユーカリの種類について]])。ユーカリの葉は、昆虫や野生動物に食べられるのを防ぐために[[タンニン]]や油分が含まれており、消化が悪く、一般に動物の餌として適さない<ref name=e40 /><ref name=guide />。コアラはユーカリを食べる前ににおいをかぎ、葉を選別してから食べる<ref name=guide />。さらに[[盲腸]]で[[発酵]]させることでユーカリの毒素を分解し、消化吸収する。コアラの[[盲腸]]の長さは2メートルある<ref name=guide />。コアラが常食する食物は栄養に乏しく、活発な行動をするためのエネルギーを得ることができないため、一日のうち18 - 20時間を眠って過ごすことで、エネルギーを節約している<ref name=handbook /><ref name=guide />。通常、水分はユーカリ(種類にもよるが50 - 70%の水分を含む)などの食物からのみ摂取し、直接水を飲むことは稀であるが<ref name=handbook /><ref name=guide />、[[野火]]などでユーカリの葉が焼けたり猛暑で[[脱水症状]]に陥ったりしたコアラが水を飲む姿が度々目撃されている<ref name=handbook /><ref>[http://www.youtube.com/watch?v=-XSPx7S4jr4 YouTube:Thirsty Koala - A Firefighter Gives Koala A Drink (2009 Australian Bushfires)]{{出典無効|date=2018年8月}}</ref>。
通常、木の上で糞をする。糞の形状は円筒形をしており、成獣の場合で長さは約2センチ前後で、排出されたばかりの糞はユーカリ特有の匂いがし、表面は乾燥するとざらざらとしている<ref name=scat />。色は食べたものによるが、褐色、茶褐色から青みもしくは緑みがかった褐色をしている<ref name=scat />。
1970年代に[[クラミジア]]に感染している個体が確認され、1982年までに[[ブリスベン]]森林公園や[[フィリップ島 (ビクトリア州)|フィリップ島]]などで、クラミジアへの感染率が80 - 90%になっているのが確認された<ref name=ag91 />。クラミジアは今なお、コアラの間で流行しており、これにより目が見えなくなったり、またメスの場合は不妊などを引き起こしている<ref name=e40 />。クラミジアが確認されなかったフレンチ島のコアラの繁殖率は約80%に達していたのに対し、ブリスベン森林公園でのコアラの繁殖率は40 - 50%、フィリップ島では10 - 15%であった<ref name=ag91 />。現在、生息しているコアラの大部分はクラミジアを保有しているとされ、生息地の環境破壊などストレスの増加により症状が発症するとされ、このことは人間の活動の結果による生息地の破壊や、交通事故などによるコアラの生息頭数の減少数などと同様に問題となっている<ref name=e40 />。また、クラミジアに対する[[ワクチン]]を開発し野生個体に注射することで、これらの生息地の開発・破壊を防ぎ、コアラがストレスなく生息できる環境を作ることが有効とされる<ref name=e40 />。
[[ファイル:Koala_Foetus_Almost_At_Birth.jpg|thumb|200px|子供]]
繁殖様式は[[胎生]]。繁殖期は地域によるが、通常初春の9月から夏の2月までである<ref name=guide />。ほとんど鳴くことはないが、繁殖期になるとオスが縄張りを誇示するために鳴くことがある<ref name=guide />。通常、餌の状況や気候など生息時の状況がよければ、一年に一度1子を出産し、双子は稀である<ref name=e40 /><ref name=guide />。妊娠期間は34 - 36日<ref name="martin" /><ref name="nagase" /><ref name=guide />。新生児は体重約0.5グラム、体長2センチメートル程度<ref name="nagase" />。体毛は生えておらず、体色はピンク色をしている。また目が開いておらず、歯も生えていない。メスの腹部にある[[育児嚢]]で約6 - 7か月間育てられる<ref name=guide />。約22週で目が開き、約24週で歯が生え始める<ref name=guide />。母親は盲腸内でユーカリを半消化状態にすることで緑色の'''パップ'''という[[離乳食]]を作る<ref name="nagase" /><ref name=guide />。生後約22週を過ぎたあたりから、子供は育児嚢から顔を出し始め、母親の[[肛門]]からパップを直接食べる<ref name=guide /><ref name=ag91 />。パップを食べる行動はその後約6 - 8週間続き、子供はパップによってユーカリの葉を消化するための[[微生物]]を得て、一生涯にわたり、母親と同じ数種の葉を食べるようになる<ref name=guide /><ref name=ag91 />。この時期の母親の糞はペースト状の無味無臭で、他の動物でも糞を食べることはあるが、主食を食べられるようになるために糞を摂取するのはコアラだけである<ref>{{Cite book |和書 |author=フジテレビトリビア普及委員会 |year=2003 |title=[[トリビアの泉]]〜へぇの本〜 3 |publisher=[[講談社]] }}</ref>。育児嚢から完全に出始めるのは、26 - 27週目くらいからであり、この時期は母親に抱かれたり、育児嚢に入ったりしながら過ごす<ref name=ag91 />。36週目くらいになると体重が1キロになり、育児嚢にはもう戻らない<ref name=ag91 />。体重が約2キログラムほどになるまでは母親に背負われて過ごし、12か月までに乳離れをする<ref name=e40 /><ref name=guide /><ref name=ag91 />。この期間は猛禽類や[[ニシキヘビ]]に捕食される可能性が高まる<ref name=guide />。親離れしたオスは約18か月までに数キロメートル離れた新しい生息地へと分散していくが、メスは通常は母親の生息域に留まる<ref name=ag91 />。オスは生後2年で[[性成熟]]するが、生後4年に達してから繁殖に参加することが多い。オスは2、3年で成熟するが、通常は縄張りを持つまでは繁殖に参加せず、5年ほど経つと繁殖するようになる<ref name=guide /><ref name=ag91 />。メスは生後2年で性成熟する<ref name="nagase" />。メスは2年で繁殖可能となり、条件がよければ毎年子を産み、12-15歳まで繁殖を行う<ref name=guide /><ref name=ag91 />。寿命は野生下でメスで18年以下であり、オスはメスよりも寿命が数年短い<ref name=guide />。
=== コアラが好むユーカリの種類について ===
先述の通りコアラが食べるユーカリの種類は限られているが、オーストラリア南部の個体群は[[リボンガム]]({{Snamei||Eucalyptus viminalis}})や {{Snamei||Eucalyptus ovata}} を、同国北部の個体群は[[グレイアイアンガム]]({{Snamei||Eucalyptus punctata}})・[[セキザイユーカリ]]({{Snamei||Eucalyptus camaldulensis}})・[[クーパーユーカリ]]({{Snamei||Eucalyptus tereticornis}})を好むという傾向が見られる({{Harvcoltxt|Macdonald|1984}})<ref>{{Cite web|url=https://animaldiversity.org/accounts/Phascolarctos_cinereus/|title=''Phascolarctos cinereus''|author=J. Dubuc & D. Eckroad|date=1999|work=Animal Diversity Web|publisher=Museum of Zoology, University of Michigan [[[ミシガン大学]]動物学博物館]|accessdate=2022-08-25}}</ref>。
また、コアラのユーカリの好みに関しての調査例も存在する。調査対象とされたのは日本の[[埼玉県こども動物自然公園]]で飼育されていたオーストラリア東部[[ブリズベン]]の[[ローンパイン・コアラ・サンクチュアリ]]出身のコアラたちであり、同動物園の野外施設で栽培、1989年5月15日および30日に収穫された16種のユーカリが用意され、日ごとにそのうち7-8種がコアラたちに与えられた<ref name="RO1993">{{Cite journal|last=Osawa|first=Ro|authorlink=大澤朗|year=1993|title=Dietary preferences of Koalas, ''Phascolarctos cinereus'' (Marsupiala: Phascolarctidae) for ''Eucalyptus'' spp. with a specific reference to their simple sugar contents|journal=Australian Mammalogy|volume=16|issue=1|pages=85–88|doi=10.1071/AM93020|url=https://books.google.co.jp/books?id=RF-PjvKUo3AC&pg=PA85&dq=%22Dietary+preferences+of+Koalas,+Phascolarctos+cinereus+(Marsupiala:+Phascolarctidae)+for+Eucalyptus+spp.+with+a+specific+reference+to+their+simple+sugar+contents&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwj674-t_OD5AhWEEKYKHchDD9YQ6AF6BAgCEAI#v=onepage&q=%22Dietary%20preferences%20of%20Koalas%2C%20Phascolarctos%20cinereus%20(Marsupiala%3A%20Phascolarctidae)%20for%20Eucalyptus%20spp.%20with%20a%20specific%20reference%20to%20their%20simple%20sugar%20contents&f=false|ref=harv}}</ref>。その結果、16種のユーカリは3つのグループに大別されるということが浮かび上がった。1つは喜んで食べられ、コアラたちの食事の平均して20パーセントを超える割合を占めたグループ(計3種)、2つ目は時々食べられ、全体でコアラたちの食事の20パーセント未満をなすグループ(計6種)、そしてほとんど食べられず全体でコアラたちの食事の1パーセントにも満たなかったグループ(計7種)である<ref name="RO1993" />。16種の詳細な内訳は次の表の通りである<ref name="RO1993" />。なお各種の日本語名はYList<ref>[[米倉浩司]]・[[species:Tadashi Kajita|梶田忠]] (2007-). 「植物和名ー学名インデックスYList」(YList),http://ylist.info/ylist_simple_search.php?any_field=Eucalyptus&capital=0&family_order=2&family_disp_type=1&family_header=0&spec_order=0&list_type=0&search=%E6%A4%9C%E7%B4%A2 ( 2022年8月25日)</ref>、YList にないものは『熱帯植物要覧 第4版』<ref>{{Cite book|和書|editor=熱帯植物研究会|chapter=フトモモ科 MYRTACEAE|title=熱帯植物要覧|edition=第4版|publisher=養賢堂|year=1996|pages=336-342|isbn=4-924395-03-X}}</ref>に拠り、分類情報は[[キュー植物園]]系データベース [[:en:World Checklist of Selected Plant Families|World Checklist of Selected Plant Families]] に従った<ref>{{Wikicite|reference=[[:es:Rafaël Herman Anna Govaerts|Govaerts, R.]] ''et al.'' (2022). World Checklist of Myrtaceae. Facilitated by the Royal Botanic Gardens, Kew. Published on the Internet; https://wcsp.science.kew.org/qsearch.do?page=quickSearch&plantName=Eucalyptus Retrieved 25 August 2022}}</ref>。
{| class="wikitable"
|+ 動物園飼育下のコアラたちに与えられたユーカリ16種の内訳({{Harvcoltxt|Osawa|1993}})
! style="background:#FF0000;" | 高頻度(平均20パーセント超え)
! style="background:#FF8800;" | 中頻度(合計でも20パーセント未満)
! style="background:#CCCCCC;" | ほぼ不食(合計でも1パーセント未満)
|-
|
*[[タローウッド]]({{Snamei||Eucalyptus microcorys}})
* クーパーユーカリ({{Snamei|Eucalyptus tereticornis}})
* セキザイユーカリ({{Snamei|Eucalyptus camaldulensis}})
|
* グレイアイアンガム({{Snamei|Eucalyptus punctata}})
* [[グレイガム]]({{Snamei||Eucalyptus propinqua}})
* [[オオバユーカリ]]({{Snamei||Eucalyptus robusta}})
* [[シドニーブルーガム]]({{Snamei||Eucalyptus saligna}})
* {{Snamei||Eucalyptus racemosa}}<!-- {{sname|subsp. ''racemosa''}}--> (シノニム: {{Snamei|E. signata}})
* リボンガム({{Snamei|Eucalyptus viminalis}})
|
* [[ホワイトガム]]({{Snamei||Eucalyptus haemastoma}})
* <!--[[ユーカリ・ラディアータ]] -->{{Snamei||Eucalyptus radiata}}
* {{Snamei||Eucalyptus crebra}}
* {{Snamei||Eucalyptus rudis}}
* {{Snamei||Eucalyptus goniocalyx}}
* [[ユーカリプタス・ルビダ]]({{Snamei||Eucalyptus rubida}})
* ユーカリプタス・ビコスタタ({{Snamei||Eucalyptus globulus}} {{sname|subsp. ''bicostata''}}; シノニム: {{Snamei|E. bicostata}})
|}
== 人間との関係 ==
“koala” の名前は[[ダルク語]]の ''gula'' に由来するものである。元来、母音の {{IPA|/u/}} はアルファベットで ''oo'' と綴られ、スペルは ''coola''、''koolah'' と表記されたが、表記ミスにより ''oa'' と変わった<ref name=Dixon>{{cite book |author=Dixon, R.M.W.; Moore, Bruce; Ramson, W. S.; Thomas, Mandy |year=2006 |title=Australian Aboriginal Words in English: Their Origin and Meaning |edition=2nd |location=South Melbourne |publisher=Oxford University Press |isbn=0-19-554073-5}}</ref> 。この言葉は、"doesn't drink"(水を飲まない)を意味すると誤って言われている<ref name=Dixon/>。
{{要出典範囲|コアラはクマの一種ではないが、18世紀後半にやってきた[[英語]]を話すヨーロッパ人入植者により、クマに似ていることから ''koala bear''(コアラグマ)と呼ばれた。分類学的には不適切であるが、''koala bear'' の名前は現在でもオーストラリア以外で使われている<ref name="Leitner 1998">{{cite journal | author = Leitner, Gerhard; Sieloff, Inke | year = 1998 | title = Aboriginal words and concepts in Australian English | journal = World Englishes | volume = 17 | issue = 2 | pages = 153–169 | doi = 10.1111/1467-971X.00089}}{{リンク切れ|date=2018年8月}}</ref>が、この名称は不正確であるため、使うことは推奨されていない<ref>{{cite web|author=www.ferngallery.com |url=http://www.savethekoala.com/koalasfacts.html |title=Australian Koala Foundation |publisher=Savethekoala.com |date= |accessdate=2009-03-09}}{{リンク切れ|date=2018年8月}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.australianfauna.com/koala.php |title=Australian Fauna |publisher=Australian Fauna |date= |accessdate=2009-03-09}}{{リンク切れ|date=2018年8月}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.arazpa.org.au/Koala/default.aspx |title=Australasian Regional Association of Zoological Parks and Aquaria |publisher=Arazpa.org.au |date= |accessdate=2009-03-09}}{{リンク切れ|date=2018年8月}}</ref><ref>{{cite web|author=Australian Koala Foundation|title=Frequently asked questions (FAQs)|url=https://www.savethekoala.com/koalasfaqs.html|accessdate=2010-05-16}}{{リンク切れ|date=2018年8月}}</ref><ref>{{cite web|author=Australian Koala Foundation|title=Interesting facts about koalas|url=https://www.savethekoala.com/koalasfacts.html|accessdate=2010-05-16}}{{リンク切れ|date=2018年8月}}</ref>|date=2018年8月}}。
他の英語表記には、クマを意味する “bear” をもとに、''monkey bear''(猿クマ)、''native bear''(固有のクマ)、''tree-bear''(木のクマ)などと呼ばれることがある<ref name=Dixon/>。また日本語では'''コモリグマ'''などと呼ばれることがある。
[[森林伐採]]や[[山火事]]による生息地の破壊、[[毛皮]]用の狩猟、交通事故、イヌによる捕食などにより生息数は減少している<ref name="iucn" />。オーストラリアコアラ基金は2021年9月20日、大規模な山火事や[[旱魃]]などにより過去3年でコアラの生息数は最大で5万8000匹、最少で3万2000匹へ減少し、128あった生息地のうち47で野生の個体がいなくなったと発表した<ref>[https://web.archive.org/web/20210921084645/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021092000317&g=int 「コアラの生息、3年で3割減 最少3万匹強に―豪動物団体」][[時事通信]](2021年9月20日配信)2022年1月2日閲覧、『[[北海道新聞]]』朝刊2021年9月21日(社会面)などに掲載。</ref>。
[[File:Phascolarctos cinereus peau de koala.jpg|thumb|コアラの毛皮]]
ヨーロッパ人の入植以前から、[[オーストラリア先住民]]が食糧としていた<ref name=ag91 />。しかし、ヨーロッパ人到達の植民地化以降、特に1860年代から1920年代後半にかけてコアラの毛皮をとるために狩猟が行われており、[[イギリス]]の[[ロンドン]]だけで毎年1 - 3万頭分もの毛皮が販売されていた<ref name=handbook />。たとえば1889年には30万頭分の毛皮がイギリスへ輸出され、また1920年代には[[アメリカ合衆国]]への輸出がされていた<ref name=guide />。一時的にではあるが1898年にはビクトリア州で、1906年にはクイーンズランド州でコアラの狩猟が禁止されたが、この間も狩猟が行われ、「ウォンバットの毛皮」として輸出されていた<ref name=handbook />。また、最盛期にあたる1919年にはクイーンズランド州では100万頭以上が、1924年にはニューサウスウェールズ州で100万頭以上ものコアラが毛皮のために捕獲され、また1927年には狩猟が許可された期間である約1か月間で58万5,000頭弱分ものコアラが捕獲され、毛皮がとられた<ref name=handbook /><ref name=guide /><ref name=ag91 />。このように捕獲がしやすかったコアラは次々と毛皮のために狩猟されていき、[[1930年代]]後半までには南オーストラリア州では絶滅の危機に瀕し、その他の州では急激に減少していた<ref name=strategy /><ref name=handbook /><ref name=guide />。このような乱獲や開発による生息地の分断などにより、クイーンズランド州北部、南オーストラリア州、またニューサウスウェールズ州とビクトリア州の州境付近などで個体群が孤立した<ref name=ag91 />。
その後、保護活動がなされ、ビクトリア州フィリップ島やフレンチ島などから、本土のビクトリア州、南オーストラリア州などに再導入されている<ref name=strategy />。特に南オーストラリア州には1920年代から1960年代にかけて、数度の再導入が試みられてきた<ref name=strategy />。
現在、コアラの個体数は、オーストラリア政府は判断をしていないが<ref name=strategy />、オーストラリアコアラ財団により10万頭以下であると予想されている<ref>[https://web.archive.org/web/20110926073615/https://www.savethekoala.com/kc/sadfacts.html Save the Koala](2011年9月26日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])2010年2月2日閲覧</ref>。資料によっては4万3,000頭とされることもある<ref>{{Cite web|和書|title=コアラ350匹以上、山火事で死亡か オーストラリア|url=https://www.cnn.co.jp/fringe/35144712.html|website=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]].co.jp|accessdate=2019-11-06|language=ja}}</ref>。しかし、全ての地域で個体数を減らし続けているわけではなく、[[グレートディバイディング山脈]]西部のいくつかの個体群などでは個体数が増加し、分布域を広げている<ref name=strategy />。また南オーストラリア州においては、再導入の結果、ヨーロッパ人入植時よりも多くの個体数がより広範囲に分布している<ref name=strategy />。
一方で、再導入された島嶼部や自然分布以外の地域、分断された生息地などにおいて、コアラによるユーカリの食害が報告されており、問題となっている<ref name=strategy />。
=== 保全状態の評価 ===
オーストラリア政府の法律では、[[サウス・イースト・クイーンズランド]]地域の個体群を除き保護対象になっておらず、2010年9月30日までに再評価を行うとしている<ref name=strategy />。また、オーストラリア政府はコアラの保護政策を各州政府に任せている。クイーンズランド州ではサウス・イースト・クイーンズランド地域の個体群を危急種(Vulnerable)に、その他の地域のコアラを軽度懸念(Least Concern)に指定している<ref name=strategy />。ニューサウスウェールズ州はワリンガのピットウォーター地区と、グレート・レークスのティー・ガーデン地区およびホークス・ネスト地区のコアラを絶滅危惧(Endangered)に、その他を危急種(Vulnerable)に指定している<ref name=strategy />。ビクトリア州では野生動物全般を扱う法(Wildlife Act 1975)の下に野生動物の取引などを制限しているが、保全状態の評価はしていない<ref name=strategy />。南オーストラリア州もビクトリア州と同じように野生動物全般を扱う法(National Parks and Wildlife Act 1972)で野生動物や生息地の保護、取引や狩猟などの行為を制限している。近年まで希少種(Rare)とされていたが、2008年に指定から外された<ref name=strategy />。2022年2月11日にはニューサウスウェールズ、クイーンズに生息するコアラについて、近年の大規模森林火災などで絶滅の危険が増大したとして「絶滅危惧種」に指定したと発表。傍らで保護において全力を挙げる姿勢を鮮明にしている<ref>{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20220211000031/https://www.jiji.com/jc/article?k=2022021100309&g=int|title=コアラ「絶滅危惧種」に 森林火災などで危険増大―豪|newspaper=時事通信|date=2022-02-11|accessdate=2022-02-11}}</ref>。
[[アメリカ合衆国]]では[[絶滅の危機に瀕する種の保存に関する法律]]により、絶滅危惧種(Threatened)に指定された<ref name=strategy />。
=== コアラの飼育施設 ===
コアラは動物の中でも非常に神経質で、人工施設内で飼育する場合は環境変化によってコアラ・ストレス・シンドロームを発症しやすく、飼育には細心の注意が必要とされる<ref>[https://www.kobe-ojizoo.jp/habataki/pdf/habataki31.pdf コアラ奮戦記]神戸市立王子動物園「はばたき」31号、1992.3</ref><ref>『我、自殺者の名において : 戦後昭和の一〇四人』若一光司 徳間書店 1990 p250</ref>。
[[日本]]では1984年に初めて輸入され、[[鹿児島市平川動物公園]]、[[多摩動物公園]]、[[東山動植物園]]で各2頭ずつ計6頭のオスの飼育が開始された<ref name="nagase" />。このうち鹿児島市平川動物公園では、1986年に日本では初めて飼育下繁殖に成功した<ref name="nagase" />。
[[File:191109 Koalas at Higashiyama Zoo.jpg|thumb|東山動植物園のコアラ]]
{{出典の明記|section=1|date=2010年5月}}
[[File:Koala_grooming.ogv|thumb|thumbtime=1|right|木の上のコアラ(動画)]]
[[File:Ojizoo-koara.jpg|thumb|神戸市立王子動物園のコアラ]]
1980年までオーストラリア以外でコアラを見ることができたのは、1915年にコアラの飼育を始めたアメリカ合衆国の[[サンディエゴ動物園]]だけであり、コアラの生息数が減少してからはオーストラリア政府は海外へ輸出することを禁止していた<ref name=handbook />。1980年にオーストラリアの法律が改正され、1984年および1985年にオーストラリアの[[タロンガ動物園]]から日本の多摩動物公園、東山動植物園、平川動物公園の3園に贈られた<ref name=handbook /><ref name=higashi>{{Cite web|和書|url=http://www.higashiyama.city.nagoya.jp/01_annai/01_04gaiyo/01_04-01history/01_04-01_01/01_04-01_01_06.html|title=園の概要:動物園の歴史:6. 昭和50年代|publisher=[[東山動植物園]]|accessdate=2010-07-20 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20111121052134/http://www.higashiyama.city.nagoya.jp/01_annai/01_04gaiyo/01_04-01history/01_04-01_01/01_04-01_01_06.html |archivedate=2011-11-21}}</ref>。
このときにユーカリが日本で育てられるかも調べられたほか、コアラが到着する3週間前には餌となるユーカリが輸入され、またそれと同時にコアラが一日にどのような葉が適しているのか、どのくらいの食糧なのかなど、様々な飼育方法などの情報が提供された<ref name=handbook />。このとき、日本では「コアラ・ブーム」が沸き上がることとなった<ref name=handbook />。オーストラリアからコアラが贈られた際、日本からはそのお返しに[[オオサンショウウオ]]を贈っている{{要出典|date=2010年5月}}。
さらに翌年[[1986年]]に[[埼玉県こども動物自然公園]]、[[横浜市立金沢動物園]]([[横浜市立金沢動物園#コアラ騒動|コアラ騒動]])、[[1987年]]に[[淡路ファームパーク イングランドの丘]]、[[1989年]]に[[大阪市天王寺動物園]]、[[1991年]]に[[神戸市立王子動物園]]、[[1996年]]に[[沖縄こどもの国]]と増えている。または[[1998年]]に[[草津熱帯圏]]で期間限定でコアラ展を開催してコアラを展示していた。草津熱帯圏で飼育していたコアラは金沢動物園から借りたコアラである。[[2010年]]に沖縄こどもの国で飼育されていたコアラが死亡し<ref>{{Cite web|和書|author=沖縄観光・沖縄情報IMA|url=http://vd06092908.mv.ymc.ne.jp/kodomonokuni.htm|title=沖縄こどもの国|date=2017-05-18|accessdate=2019-11-26}}</ref>、[[2019年]]には、大阪市天王寺動物園のコアラがイギリスの動物園[[ロングリート]][[サファリパーク]]へ譲渡された<ref>{{Cite news|title=大阪唯一のコアラ、10日英国へ 天王寺動物園、観覧は9日まで|newspaper=[[沖縄タイムス]]|language=日本語|date=2019-10-05|url=https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/480277|accessdate=2019-12-09}}</ref><ref name="アークお別れ">{{Cite press release|和書|title=天王寺動物園でコアラの「アーク」のお別れイベントを開催します【令和元年9月28日(土曜日)】|publisher=大阪市 建設局公園緑化部天王寺動物公園事務所管理課|date=2019-09-20|url=https://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000480975.html|accessdate=2019-11-26}}</ref><ref>{{Cite video|title=天王寺動物園のコアラ「アーク」最終日 最後の「アーク父ちゃんお迎えタイム」|medium=Youtube|publisher=あべの経済新聞 & OSAKA STYLE|location=[[大阪市]]|date=2019-10-09|url=https://www.youtube.com/watch?v=UQ6gS5k95w4}}</ref><ref>{{Cite video|title=天王寺動物園のコアラ「アーク」が英国に向けて出園|medium=Youtube|publisher=[[みんなの経済新聞ネットワーク|あべの経済新聞]] & OSAKA STYLE|location=[[大阪市]]|date=2019-10-09|url=https://www.youtube.com/watch?v=xVzVp1bxW5M}}</ref><ref>{{Cite video|title=【天王寺動物園】アーク父ちゃんのイギリス生活|medium=Youtube|publisher=大阪市天王寺動物園(Osaka Tennoji Zoo) |location=大阪市|date=2019-10-17|url=https://www.youtube.com/watch?v=Z8t0HjhabUI}}</ref>ため、2020年2月現在、日本国内でコアラを飼育している動物園は7園である<ref>{{Cite web|和書|author=日本動物園水族館協会|authorlink=日本動物園水族館協会|url=https://www.jaza.jp/animal/search?_keyword=%E3%82%B3%E3%82%A2%E3%83%A9&_method=true|title=HOME>飼育動物検索>動物を探す>コアラ|website=日本動物園水族館協会HP|accessdate=2019-11-26}}</ref>。
しかし、近年コアラの飼育数が減少しているため、全国のコアラを飼育する動物園が協同繁殖に取り組んでいる。最も問題となるのがコアラの餌で、前述のようにコアラはユーカリなど決まった植物の中からさらに特定の種類、しかも若い木の葉ではいけないなどの嗜好があり、大量に食べるため、合理的にコアラを飼育するには餌用のユーカリを専門に栽培する農家の存在と、ユーカリを年中安定して供給できる環境が必要である。また、初来日時のコアラ・ブームが去ってコアラの動物園などへの集客力が[[ジャイアントパンダ]]などに比べて大幅に落ちている。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
{{Commons|Phascolarctos_cinereus}}
{{Wikispecies|Phascolarctos_cinereus}}
* Egerton, L. ed. 2005. ''Encyclopedia of Australian wildlife''., Reader's Digest {{ISBN2|9780864491183}}
* Cath Jones and Steve Parish, ''Field Guide to Australian Mammals'', P64-69, Steve Parish Publishing, {{ISBN2|174021743-8}}
* Simon HUNTER, ''KOALA HANDBOOK'', CHATTO & WINDOWS, {{ISBN2|0-7011-3213-2}}
== 関連文献 ==
英語:
* {{Cite book|last=Macdonald|first=David|authorlink=:en:David Macdonald (biologist)|year=1984|title=Encyclopedia of Mammals|location=NY|publisher=Facts on File|ncid=BA47105709|ref=harv}}
== 外部リンク ==
* [https://www.japankoala.com 全日本コアラ協会]
== 関連項目 ==
* [[コアラのマーチ]](モチーフとした日本の菓子)
* [[ドアラ]]([[中日ドラゴンズ]]のマスコット)
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:こあら}}
[[Category:有袋類]]
[[Category:双前歯目]] | 2003-05-19T10:34:15Z | 2023-12-13T09:06:01Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%A2%E3%83%A9 |
8,637 | 海峡線 | 海峡線(かいきょうせん)は、津軽海峡の海底下に掘削された青函トンネルを介して、本州の青森県東津軽郡外ヶ浜町の中小国駅と北海道上磯郡木古内町の木古内駅とを結ぶ北海道旅客鉄道(JR北海道)が運営する鉄道路線(地方交通線)である。
北海道新幹線開業以前は、すべての列車が直通する東日本旅客鉄道(JR東日本)津軽線およびJR北海道江差線(北海道新幹線開業後の道南いさりび鉄道線)・函館本線のそれぞれ一部区間と合わせて「津軽海峡線」という愛称が付けられていた。交通新聞社の『JR時刻表』やJTBパブリッシングの『JTB時刻表』などの市販時刻表でも「津軽海峡線」として案内され、「海峡線」として案内されることはほとんどなかった。2016年3月26日の北海道新幹線開業以降は、在来線としての「海峡線」は貨物列車・団体臨時列車のみの走行となり、『JR時刻表』・『JTB時刻表』では2016年4月号から路線図・本文とも非掲載となった。
海峡線は、国鉄分割民営化後の1988年(昭和63年)3月13日、従来青森駅 - 函館駅間で運航されていた青函航路(青函連絡船)に代わって本州と北海道を連絡するJR線として開業した。
本州と北海道を結ぶ列車が多く運転されている。北海道新幹線との将来的な共用を考慮して新幹線規格で建設されたため、事実上のスーパー特急方式となっていた。開業時は狭軌の在来線用の線路のみが敷設されたが、2016年(平成28年)3月26日の北海道新幹線の開業に向けて、標準軌の新幹線用のレールを併設して三線軌条化された。新幹線開業後は、新幹線列車と在来線の貨物列車とが線路を共用して運行される、共用走行区間となっている。北海道新幹線と在来線の分岐点は青森側が新中小国信号場の北側(北海道寄り)、北海道側が木古内駅の西側(本州寄り)に設けられ、開業時からそれに対応した線形となっている。
保安装置は自動列車制御装置 (ATC) が採用され、開業当時東北新幹線の全線(東京駅 - 盛岡駅間)で使用されていたアナログATC(ATC-2型)との互換性を持つATC-L型が導入されていた。ただし、JR各社はその後新幹線のATCシステムのデジタル化を進め、東北新幹線では2007年(平成19年)7月22日から全線がデジタルATC (DS-ATC) へ移行したため、新幹線との互換性保持は意味を持たなくなった。このため、北海道新幹線開業にあわせて海峡線もデジタルATC (DS-ATC) を導入している。
開業当初、青函トンネル内には竜飛海底駅・吉岡海底駅が設置されていた。これらは同トンネルの避難施設を活用した見学施設であり、見学者以外の一般旅客が利用することはできない特殊な駅であった。吉岡海底駅は北海道新幹線工事の資材基地として使用されるため、2006年(平成18年)3月18日に定期列車の停車を終了し、同年8月28日から見学コースが中止されて全列車通過となった。竜飛海底駅も2013年(平成25年)11月11日から見学コースが終了して全列車通過となった。
2014年(平成26年)3月15日に竜飛海底駅・吉岡海底駅・知内駅が廃止された後、当路線の津軽今別駅(2016年3月26日からは奥津軽いまべつ駅) - 木古内駅間は、JRの全路線で最も駅間距離が長い区間となった(営業キロ:74.8 km)。当路線の中間駅は津軽今別駅のみとなったが、津軽今別駅も2015年(平成27年)8月10日から全列車通過となり、2016年3月26日付で正式に廃止され、北海道新幹線の奥津軽いまべつ駅として再開業した。
北海道新幹線開業に合わせ、DS-ATCの導入や電圧の引き上げといった設備更新がされたため、特急や寝台列車といった従来の電車・電気機関車は海峡線を走行できなくなった。その後木古内駅に残されていた海峡線の旅客ホームも2017年に撤去され、在来線としては事実上貨物専用線となっている。現在海峡線を走行可能な在来線旅客列車は「TRAIN SUITE 四季島」のような団体臨時列車のみとなっている。
在来線としての海峡線の運賃区分は地方交通線である。線路を共用する北海道新幹線については幹線運賃が適用されており、同じ線路に対して2種類の運賃が設定された状態になっている。
海峡線全線が北海道旅客鉄道函館支社の管轄である。ただし、中小国駅 - 新中小国信号場(構内除く)間の施設は東日本旅客鉄道盛岡支社の管理下に置かれている。
旅客輸送密度は以下の通り。
※2016年度以降は、臨時列車のみ輸送密度に計上されている。
収支(営業収益、営業費用、営業損益)と営業係数は以下の通り。いずれも管理費を含めた金額である。▲はマイナスを意味する。
北海道新幹線開業後は、基本的に貨物輸送のみで、在来線としての旅客列車は団体臨時列車を除き運行されていない。海峡線単独の列車はなく、すべての列車が青森駅および五稜郭駅以遠から発着する。なお、起点の中小国駅は海峡線の全列車が通過する。
旅客列車は、1988年(昭和63年)3月13日の海峡線開業時から、寝台特急「日本海」「北斗星」や特急「はつかり」、急行「はまなす」のほか、快速「海峡」が青森駅 - 函館駅間で運転されていたが、2002年(平成14年)12月1日の東北新幹線八戸駅延伸に伴うダイヤ改正で八戸駅 - 青森駅 - 函館駅間の輸送体系が見直され、「はつかり」「海峡」は廃止され、代わって特急「スーパー白鳥」「白鳥」が青森駅 - 函館駅間に設定された。これ以降、海峡線には本州側の青森駅方面から北海道側の函館駅方面へ直通する特急列車・急行列車のみが設定され、普通列車(快速含む)の設定がない区間となっていた。
そのため、津軽線蟹田駅 - 木古内駅間の各駅相互間には、乗車券のみで特急列車の普通車自由席に乗車できる特例が設けられた。これは、同じJR北海道の石勝線新夕張駅 - 新得駅間が、日本国有鉄道(国鉄)時代の1981年(昭和56年)10月1日の同線開通と同時に適用になって以来2例目である。なお、2016年(平成28年)3月21日に海峡線を経由する在来線の定期旅客列車が運行を終了したため、この特例も事実上終了した。
本州と北海道を結ぶ物流の動脈として、日本貨物鉄道(JR貨物)による貨物列車が多数設定されている。津軽海峡を越える道路はなく、航空機や船舶と比較して天候に左右されにくい貨物の安定輸送は本路線の大きな存在意義である。
なお、1994年(平成6年)3月1日改正時より海峡線を通る貨物列車の完全コンテナ化を完了し、車扱輸送は甲種輸送を残してほぼ消滅した。現在はコンテナ列車が中心で、危険物など一部の貨物は安全対策のため青函トンネル経由の輸送が制限される(青函トンネル#走行車両も参照)。
1998年から、藤子・F・不二雄の漫画・アニメ『ドラえもん』とのタイアップが開始された。この当時運行されていた快速「海峡」の客車や機関車に同作品のキャラクターをペイントした「ドラえもん海底列車」の運転が行われ、吉岡海底駅では「ドラえもん海底ワールド」と銘打つ同作品の展示スペースが設けられるなどした。「海峡」廃止後の2003年夏からは、吉岡海底駅見学専用の全車座席指定列車として函館駅 - 吉岡海底駅間で特急「ドラえもん海底列車」が運転された。
吉岡海底駅の見学コース中止に伴い、2006年(平成18年)8月27日の「ドラえもん海底列車」の運転を最後に、このタイアップ企画は終了した。
海峡線は、2016年(平成28年)3月26日の北海道新幹線開業に向けて、夜間の1時から3時30分頃まで、新函館北斗駅 - 新青森駅間を1日3往復程度、H5系を使用した訓練運転を兼ねた試運転を週に4回実施していた。試運転が行われる時間帯では、架線電圧を20,000Vから25,000Vに、信号保安設備を在来線用のATC-Lから新幹線用のDS-ATCにそれぞれ切替え、この区間における在来線用の運行管理システムを停止させた後に北海道新幹線総合システム (CYGNUS) を立ち上げてJR東日本の新幹線総合システム (COSMOS) と接続することで、全線において新幹線の運行を可能な状態にして行われていた。
試運転終了後にはその都度架線電圧・信号保安設備・運行管理システムを在来線用に戻していたが、これでは開業後に運行される在来線 - 共用走行区間(海峡線) - 在来線を走行するEH800形牽引による貨物列車の試運転ができない。そこで、海峡線を通過する在来線の列車を丸々1日以上にわたって運休させ、架線電圧と信号保安設備を25,000VとDS-ATCに切替え、運行管理システムは在来線用とCYGNUSを接続させることで、すべてを開業後の形態に切替えて、貨物列車が在来線から共用走行区間に直通できることと共に、共用走行区間(海峡線)で新幹線と貨物列車の双方を走らせた状態で、開業後の運行システムが24時間安定して稼動することを確認する地上設備最終切替えの事前確認が、2016年(平成28年)1月1日に実施された。
また、北海道新幹線開業の直前にあたる同年3月21日から25日にかけて、架線電圧・信号保安設備・運行管理システムを、開業後の形態にすべて切替える地上設備最終切替えが実施され、数日間にわたって海峡線を通過する在来線列車は運休となったが、貨物列車は切換え後の架線電圧・信号保安設備・運行管理システムに対応しているため、この期間も運行していた。
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"text": "海峡線は、2016年(平成28年)3月26日の北海道新幹線開業に向けて、夜間の1時から3時30分頃まで、新函館北斗駅 - 新青森駅間を1日3往復程度、H5系を使用した訓練運転を兼ねた試運転を週に4回実施していた。試運転が行われる時間帯では、架線電圧を20,000Vから25,000Vに、信号保安設備を在来線用のATC-Lから新幹線用のDS-ATCにそれぞれ切替え、この区間における在来線用の運行管理システムを停止させた後に北海道新幹線総合システム (CYGNUS) を立ち上げてJR東日本の新幹線総合システム (COSMOS) と接続することで、全線において新幹線の運行を可能な状態にして行われていた。",
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"title": "北海道新幹線開業前の試運転と地上設備の事前確認と最終切替"
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"text": "また、北海道新幹線開業の直前にあたる同年3月21日から25日にかけて、架線電圧・信号保安設備・運行管理システムを、開業後の形態にすべて切替える地上設備最終切替えが実施され、数日間にわたって海峡線を通過する在来線列車は運休となったが、貨物列車は切換え後の架線電圧・信号保安設備・運行管理システムに対応しているため、この期間も運行していた。",
"title": "北海道新幹線開業前の試運転と地上設備の事前確認と最終切替"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "有人駅は奥津軽いまべつ駅と木古内駅で、中小国駅は無人駅である。",
"title": "駅一覧"
},
{
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"text": "現在も新幹線駅・信号場として使用されているものも含む。",
"title": "駅一覧"
}
] | 海峡線(かいきょうせん)は、津軽海峡の海底下に掘削された青函トンネルを介して、本州の青森県東津軽郡外ヶ浜町の中小国駅と北海道上磯郡木古内町の木古内駅とを結ぶ北海道旅客鉄道(JR北海道)が運営する鉄道路線(地方交通線)である。 北海道新幹線開業以前は、すべての列車が直通する東日本旅客鉄道(JR東日本)津軽線およびJR北海道江差線(北海道新幹線開業後の道南いさりび鉄道線)・函館本線のそれぞれ一部区間と合わせて「津軽海峡線」という愛称が付けられていた。交通新聞社の『JR時刻表』やJTBパブリッシングの『JTB時刻表』などの市販時刻表でも「津軽海峡線」として案内され、「海峡線」として案内されることはほとんどなかった。2016年3月26日の北海道新幹線開業以降は、在来線としての「海峡線」は貨物列車・団体臨時列車のみの走行となり、『JR時刻表』・『JTB時刻表』では2016年4月号から路線図・本文とも非掲載となった。 | {{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[File:JR logo (hokkaido).svg|35px|link=北海道旅客鉄道]] 海峡線
|路線色=#2cb431
|画像=Inside seikan tunnel.JPG
|画像サイズ=300px
|画像説明=[[青函トンネル]]内<br />([[竜飛定点|竜飛海底駅]]、2008年7月29日)
|国={{JPN}}
|所在地=[[青森県]]、[[北海道]]
|種類=[[日本の鉄道|普通鉄道]]([[在来線]]・[[地方交通線]])
|起点=[[中小国駅]]
|終点=[[木古内駅]]
|駅数=[[鉄道駅#旅客駅|旅客駅]]:3駅<br />[[貨物駅]]:0駅<br />[[信号場]]:2か所
|開業=[[1988年]][[3月13日]]
|休止=
|廃止=
|所有者=[[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]]
|運営者=北海道旅客鉄道(JR北海道)<br />([[鉄道事業者#第一種鉄道事業|第一種鉄道事業者]])<br />[[日本貨物鉄道]](JR貨物)<br />([[鉄道事業者#第二種鉄道事業|第二種鉄道事業者]])
|車両基地=JR貨物[[五稜郭機関区]]
|使用車両=[[#運行形態|運行形態]]を参照
|路線距離=87.8 [[キロメートル|km]]
|軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]](中小国駅 - 新中小国信号場間)<br />1,067 mmと1,435 mmの[[三線軌条]](新中小国信号場 - 木古内駅間)
|線路数=[[単線]](中小国駅 - 新中小国信号場間)<br />[[複線]](新中小国信号場 - 木古内駅間)
|電化区間=全線
|電化方式=[[交流電化|交流]]20,000 [[ボルト (単位)|V]]・50 [[ヘルツ (単位)|Hz]](中小国駅 - 新中小国信号場間)<br />交流25,000 V・50 Hz(新中小国信号場 - 木古内駅間)<br />[[架空電車線方式]]
|最大勾配=
|最小曲線半径=
|閉塞方式=[[閉塞 (鉄道)#自動閉塞式|自動閉塞式]](中小国駅 - 新中小国信号場間)<br />[[閉塞 (鉄道)#車内信号閉塞式|車内信号閉塞式]](新中小国信号場 - 木古内駅間)
|保安装置=[[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-S<small>N</small>]](中小国駅 - 新中小国信号場間)<br />[[自動列車制御装置#DS-ATC|DS-ATC]](新中小国信号場 - 木古内駅間)
|最高速度=100 [[キロメートル毎時|km/h]](中小国駅 - 新中小国信号場間)<br />140 km/h(新中小国信号場 - 木古内駅間)<ref name="milt000193032" />
|路線図=[[File:JR Kaikyo Line linemap.svg|300px]]<br /><small>青線の区間は[[津軽線]](下・青森県側)および<br />[[道南いさりび鉄道線]](上・北海道側)への乗り入れ区間</small>
}}
{| {{Railway line header|collapse=yes}}
{{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#2cb431}}
{{BS-table}}
{{BS2|STR||||↑[[東日本旅客鉄道|JR東]]:[[津軽線]]([[青森駅|青森]]方面) 1951-|}}
{{BS2|HST||4.4||[[蟹田駅]] 1951-|}}
{{BS2|BHF||0.0|[[中小国駅]]|1958-|}}
{{BS2|DST|O1=HUBa||2.3|[[新中小国信号場]]|1988-|}}
{{BS2|ABZgl|O1=HUB|STR+r||||}}
{{BS2|ABZg+l|KRZu|O1=HUBe|||→[[北海道新幹線]]([[新青森駅|新青森]]方面) 2016-|}}
{{BS2|STR|HST|||JR東:[[大平駅]] 1958-|}}
{{BS2|TUNNEL1|LSTR||大平T|1,510m<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20150115-4" />|}}
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{{BS2|STR|LSTR||||}}
{{BS2|BHF|O1=HUBaq|STR|O2=HUBlg|13.0|([[奥津軽いまべつ駅]]<ref group="*" name="奥津軽いまべつ" />)|2016-|}}
{{BS2|STR|HST|O2=HUBe|||JR東:[[津軽二股駅]] 1958-|}}
{{BS2|KRZo|STRr|||←JR東:津軽線([[三厩駅|三厩]]方面) 1958-|}}
{{BS2|TUNNEL1|||大川平T|1,337m|}}
{{BS2|TUNNEL2|||第1今別T|160m|}}
{{BS2|TUNNEL2|||第2今別T|690m|}}
{{BS2|TUNNEL2|||第1浜名T|440m|}}
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{{BS2|tSTRe|||第3浜名T|170m|}}
{{BS2|TUNNEL2|||第4浜名T|140m|}}
{{BS2|tSTRa|||[[青函トンネル|青函T]]|53,850m<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20150115-4" />|}}
{{BS2|tSTR||||下り坂||}}
{{BS2|tSTR||||||}}
{{BS2|tDST|FUNI|32.5|[[竜飛定点]]<ref group="*" name="竜飛" />|1988-|}}
{{BS2|tSTR|tKHSTaq|||[[青函トンネル竜飛斜坑線]] 1988-|}}
{{BS2|WDOCKSm|O1=tSTR|WDOCKSm||||}}
{{BS2|WDOCKSm|O1=tSTR|WDOCKSm|||[[津軽海峡]]|}}
{{BS2|WDOCKSm|O1=tSTR+GRZq|WDOCKSm|||↑[[青森県]]/[[北海道]]↓|}}
{{BS2|WDOCKSm|O1=tSTR|WDOCKSm|||上り坂|}}
{{BS2|WDOCKSm|O1=tSTR|WDOCKSm||||}}
{{BS2|tDST||55.5|[[吉岡定点]]<ref group="*" name="吉岡" />|1988-|}}
{{BS2|tSTR||||||}}
{{BS2|tSTRe@f|||||}}
{{BS2|tSTR||||(実際にはシェルターで繋がっている)||}}
{{BS2|TUNNEL1|||第1湯の里T|1,167m|}}
{{BS2|DST||76.0|[[湯の里知内信号場]]<ref group="*" name="湯の里知内" />|1988-|}}
{{BS2|hKRZWae||||[[知内川_(北海道)|知内川]]|}}
{{BS2|TUNNEL1|||第2湯の里T|1,638m|}}
{{BS2|hKRZWae||||重内川|}}
{{BS2|TUNNEL1|||第1重内T|813m|}}
{{BS2|TUNNEL1|||第2重内T|1,128m|}}
{{BS2|hKRZWae||||森越川|}}
{{BS2|TUNNEL1|||第1森越T|1,634m|}}
{{BS2|TUNNEL1|||第2森越T|166m|}}
{{BS2|TUNNEL1|||第3森越T|322m|}}
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{{BS2|hKRZWae||||建有川|}}
{{BS2|ABZgl|STR+r||||}}
{{BS2|eABZg+l|eKRZo|||→''[[江差線]]([[江差駅|江差]]方面)'' 1935-2014|}}
{{BS2|hKRZWae|hKRZWae|||[[木古内川]]|}}
{{BS2|BHF|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBeq|87.8|[[木古内駅]]|1930-|}}
{{BS2|STR|STRl|||→北海道新幹線([[新函館北斗駅|新函館北斗]]方面) 2016-|}}
{{BS2|STR||||↓[[道南いさりび鉄道線]] 1930-|}}
{{BS-colspan|HI=style="font-size:90%;"}}
----
* T…トンネル
* 河川・トンネルは主要なものを掲載
{{Reflist|group="*"|refs=
<ref group="*" name="奥津軽いまべつ">[[1988年]][[3月13日]] - [[2016年]][[3月25日]]は津軽今別駅。<br />[[2015年]][[8月10日]] - 2016年3月25日は全列車通過。</ref>
<ref group="*" name="竜飛">1988年3月13日 - [[2014年]][[3月14日]]は竜飛海底駅。<br />[[2013年]][[11月11日]] - 2014年3月14日は[[休止駅]]。</ref>
<ref group="*" name="吉岡">1988年3月13日 - 2014年3月14日は吉岡海底駅。<br />[[2006年]][[8月28日]] - 2014年3月14日は[[臨時駅]]。</ref>
<ref group="*" name="湯の里知内">[[1990年]][[7月1日]] - 2014年3月14日は知内駅。</ref>
}}
|}
|}
'''海峡線'''(かいきょうせん)は、[[津軽海峡]]の海底下に掘削された[[青函トンネル]]を介して、[[本州]]の[[青森県]][[東津軽郡]][[外ヶ浜町]]の[[中小国駅]]と[[北海道]][[上磯郡]][[木古内町]]の[[木古内駅]]とを結ぶ[[北海道旅客鉄道]](JR北海道)が運営する[[鉄道路線]]([[地方交通線]])である。
[[北海道新幹線]]開業以前は、すべての列車が直通する[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[津軽線]]およびJR北海道[[江差線]](北海道新幹線開業後の[[道南いさりび鉄道線]])・[[函館本線]]のそれぞれ一部区間と合わせて「'''[[津軽海峡線]]'''」<ref name="tanaka 164-165" />という[[鉄道路線の名称#路線の系統名称・愛称|愛称]]が付けられていた。[[交通新聞社]]の『JR時刻表』や[[JTBパブリッシング]]の『JTB時刻表』<ref group="注釈">本文は「津軽海峡線」表記であるが、路線図では「海峡線」と表記</ref>などの市販時刻表でも「津軽海峡線」として案内され、「海峡線」として案内されることはほとんどなかった。[[2016年]][[3月26日]]の北海道新幹線開業以降は、[[在来線]]としての「海峡線」は[[貨物列車]]・[[団体専用列車|団体臨時列車]]<ref group="注釈">2017年5月以降は「[[TRAIN SUITE 四季島]]」が運行されている。</ref>のみの走行となり、『JR時刻表』・『JTB時刻表』では2016年4月号から路線図・本文とも非掲載となった。
== 概要 ==
海峡線は、[[国鉄分割民営化]]後の[[1988年]]([[昭和]]63年)[[3月13日]]、従来[[青森駅]] - [[函館駅]]間で運航されていた[[青函航路]]([[青函連絡船]])に代わって本州と北海道を連絡するJR線として開業した。
本州と北海道を結ぶ列車が多く運転されている。[[北海道新幹線]]との将来的な共用を考慮して[[新幹線]]規格で建設されたため、事実上の[[新幹線鉄道規格新線|スーパー特急方式]]となっていた。開業時は[[狭軌]]の在来線用の線路のみが敷設されたが、[[2016年]](平成28年)[[3月26日]]の北海道新幹線の開業に向けて<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20150916-3" /><ref group="報道" name="jreast-press-20150914" />、[[標準軌]]の新幹線用のレールを併設して[[三線軌条]]化された。新幹線開業後は、新幹線列車と在来線の貨物列車とが線路を共用して運行される、共用走行区間となっている。北海道新幹線と在来線の分岐点は青森側が[[新中小国信号場]]の北側(北海道寄り)、北海道側が木古内駅の西側(本州寄り)に設けられ、開業時からそれに対応した[[線形 (路線)|線形]]となっている。
保安装置は[[自動列車制御装置]] (ATC) が採用され、開業当時[[東北新幹線]]の全線([[東京駅]] - [[盛岡駅]]間)で使用されていたアナログATC([[自動列車制御装置#ATC-2型(東北・上越型)(消滅)|ATC-2型]])との互換性を持つ[[自動列車制御装置#ATC-L型|ATC-L型]]が導入されていた。ただし、JR各社はその後新幹線のATCシステムのデジタル化を進め、東北新幹線では[[2007年]](平成19年)[[7月22日]]から全線がデジタルATC ([[自動列車制御装置#DS-ATC|DS-ATC]]) へ移行したため<ref group="注釈">[[整備新幹線]]区間である盛岡駅 - [[新青森駅]]間は、開業当初からDS-ATCが採用されている。</ref>、新幹線との互換性保持は意味を持たなくなった。このため、北海道新幹線開業にあわせて海峡線もデジタルATC (DS-ATC) を導入している。
開業当初、[[青函トンネル]]内には[[竜飛定点|竜飛海底駅]]・[[吉岡定点|吉岡海底駅]]が設置されていた。これらは同トンネルの避難施設を活用した見学施設であり、見学者以外の一般旅客が利用することはできない特殊な駅であった。吉岡海底駅は北海道新幹線工事の資材基地として使用されるため、[[2006年]](平成18年)[[3月18日]]に定期列車の停車を終了<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20051222" />し、同年[[8月28日]]から見学コースが中止されて全列車通過となった<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20060614-3" /><ref group="新聞" name="sankei-enak-2006-02doraemon" />。竜飛海底駅も[[2013年]](平成25年)[[11月11日]]から見学コースが終了して全列車通過となった<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20130913-1" />。
[[2014年]](平成26年)[[3月15日]]に竜飛海底駅・吉岡海底駅・[[湯の里知内信号場|知内駅]]が廃止された後<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20131220-1" /><ref group="新聞" name="47news-CN2013080201001545" /><ref group="新聞" name="mainichi-news-20130803k0000m020036000c" />、当路線の津軽今別駅(2016年3月26日からは奥津軽いまべつ駅) - [[木古内駅]]間は、JRの全路線で最も駅間距離が長い区間となった(営業キロ:74.8 km)<ref group="注釈">それ以前の最も駅間距離が長い区間は[[東海道新幹線]]の[[米原駅]] - [[京都駅]]間(営業キロ:67.7 km、実キロ:68.1 km)、在来線では[[石勝線]]の[[新夕張駅]] - [[占冠駅]]間(営業キロ:34.3 km)であった。</ref>。当路線の中間駅は津軽今別駅のみとなったが<ref group="新聞" name="mainichi-news-20130803k0000m020036000c" />、津軽今別駅も[[2015年]](平成27年)[[8月10日]]から全列車通過となり<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20150403-1" /><ref group="新聞" name="mynavi-news-2015-04-03-448" /><ref group="新聞" name="dd.hokkaido-np-economy-1-0166630" />、2016年3月26日付で正式に廃止され、北海道新幹線の[[奥津軽いまべつ駅]]として再開業した<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20160219-4" /><ref group="新聞" name="toonippo-nto20131003084515" />。
北海道新幹線開業に合わせ、DS-ATCの導入や電圧の引き上げといった設備更新がされたため、特急や[[寝台列車]]といった従来の電車・電気機関車は海峡線を走行できなくなった。その後木古内駅に残されていた海峡線の旅客ホームも2017年に撤去され、在来線としては事実上貨物専用線となっている。現在海峡線を走行可能な在来線旅客列車は「[[TRAIN SUITE 四季島]]」のような団体臨時列車のみとなっている。
在来線としての海峡線の運賃区分は[[地方交通線]]である。線路を共用する北海道新幹線については幹線運賃が適用されており、同じ線路に対して2種類の運賃が設定された状態になっている。
<gallery widths="200">
ファイル:Jr kaikyoline triplegagerail.jpg|2007年時点では、一部区間が三線軌条化されていた。<br />特急「スーパー白鳥」車内より(2007年11月撮影)<ref group="注釈">[[日本の鉄道事故 (2000年以降)#函館本線踏切事故|2010年の特急「スーパーカムイ」の踏切事故]]を受けて、同年JR北海道が特急の先頭車運転台側の貫通路への立ち入りを禁じたため、以後は、このアングルでの撮影はできない。</ref>。
ファイル:Kaikyou line kikonai direction.JPG|北海道側から見た海峡線、上下線ともに全線が三線軌条化されている(2016年3月撮影)
ファイル:Kaikyou line kikonai station direction.JPG|海峡線の木古内駅方面を見る。奥には北海道新幹線の木古内駅の駅舎、手前のシェルターで覆われている所が北海道新幹線と在来線との分岐点である。在来線は新幹線の高架橋の両脇をスロープで下りS字カーブにより右に曲がりその後に左に曲がって木古内駅に繋がる。
ファイル:Kaikyo Line near Kikonai Station.JPG|地上側から見た北海道新幹線と在来線との分岐点、左側から右側にかけて斜めに上がる高架橋が在来線用のスロープ
</gallery>
=== 路線データ ===
* 路線距離([[営業キロ]]):中小国駅 - 木古内駅間 87.8 [[キロメートル|km]]
* 所有者:[[独立行政法人]] [[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]]
* 運営者(事業種別):北海道旅客鉄道(JR北海道・[[鉄道事業者#第一種鉄道事業|第一種鉄道事業者]])・[[日本貨物鉄道]](JR貨物・[[鉄道事業者#第二種鉄道事業|第二種鉄道事業者]])
** 書類上では[[中小国駅]]が起点であるが、実際にJR東日本津軽線から線路が分岐しているのは[[新中小国信号場]]であり、中小国駅 - 新中小国信号場間 (2.3 km) は津軽線との重複区間である。
* 建設主体:[[日本鉄道建設公団]](現 [[独立行政法人]] [[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]])
* [[軌間]]:
** 1,067 [[ミリメートル|mm]](中小国駅 - 新中小国信号場間)
** 1,067 mm と 1,435 mm の[[三線軌条]](新中小国信号場 - 木古内駅間)
* 駅数:3駅(起終点駅含む)
** [[鉄道駅#旅客駅|旅客駅]]:3駅
*** ただし、奥津軽いまべつ駅では駅構内の待避線を通過するのみで、海峡線の旅客ホームは存在しない。木古内駅の海峡線ホームも、津軽海峡線の在来線定期列車運行終了に伴い2017年に撤去された。
** [[貨物駅]]:0駅
** [[信号場]]:2か所
*** 津軽今別駅の廃止以降、海峡線には所属駅が存在しない。中小国駅は当初から[[津軽線]]所属である<ref name="teisya" />。2016年(平成28年)3月25日までは江差線所属であった終点の木古内駅も、翌日から江差線が道南いさりび鉄道へ移管され、JRとしての定期旅客営業も新幹線のみとなるため、新設の奥津軽いまべつ駅とともに北海道新幹線の所属駅として計上されるようになった<ref name="JRR 2019s 13">『JR気動車客車編成表2019』ジェー・アール・アール 交通新聞社 2019年</ref>。新中小国信号場は設置当初から海峡線所属であるが<ref name="teisya" />、新幹線開業後の湯の里知内信号場の所属線は不明。
* [[複線]]区間:新中小国信号場 - 木古内駅間
** 2014年5月12日に江差線木古内駅 - [[江差駅]]間が廃止されるまで、下り線は江差方面からの合流点と木古内駅までの区間のみ江差線(上下単線)と線路を共用していた。
* [[鉄道の電化|電化]]区間:
** 中小国駅 - 新中小国信号場間([[交流電化|交流]]20,000 [[ボルト (単位)|V]]・50 [[ヘルツ (単位)|Hz]])
** 新中小国信号場 - 木古内駅間(交流25,000 V・50 Hz<ref group="新聞" name="mainichi-articles/20160322/k00/00e/040/137000c" />)
*** 交流20,000 V・50 Hz 電化の当線中小国駅 - 新中小国信号場間(および津軽線)・道南いさりび鉄道線とのき電区分所([[デッドセクション|交交セクション]])はそれぞれ、新中小国信号場の青森方(中小国駅三厩方)、木古内駅の函館方にある。北海道新幹線開業前の2016年3月21日までは、新中小国信号場 - 木古内駅間も交流20,000 V・50 Hz 電化だった。
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:
** [[閉塞 (鉄道)#自動閉塞式|自動閉塞式]](中小国駅 - 新中小国信号場間)
** [[閉塞 (鉄道)#車内信号閉塞式|車内信号閉塞式]](新中小国信号場 - 木古内駅間)
* 保安装置:
** [[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-S<small>N</small>]](中小国駅 - 新中小国信号場間)
** [[自動列車制御装置#DS-ATC|DS-ATC]](新中小国信号場 - 木古内駅間)
* 最高速度:
** 100 [[キロメートル毎時|km/h]](中小国駅 - 新中小国信号場間)
** 140 km/h(新中小国信号場 - 木古内駅間)<ref name="milt000193032" />
* [[運転指令所]]:函館指令センター
* [[踏切]]:1か所(木古内道々踏切。木古内駅構内扱い)<ref group="注釈">公道と交差するものを計上。また、新中小国信号場 - 中小国駅間の津軽線との営業上の重複戸籍区間に存在するものは含んでいない。木古内道々踏切は2014年5月11日までは江差線所属の踏切かつ、海峡線との分岐点だったが、翌12日付で江差線木古内駅 - 江差駅間廃止に伴い海峡線所属に変更された。</ref>
海峡線全線が[[北海道旅客鉄道函館支社]]の管轄である。ただし、中小国駅 - 新中小国信号場(構内除く)間の施設は[[東日本旅客鉄道盛岡支社]]の管理下に置かれている。
=== 区間別の利用状況 ===
==== 輸送密度 ====
旅客[[輸送密度]]は以下の通り。
{| class="wikitable" border="1" style="font-size:90%;"
|+中小国駅 - 木古内駅間
!rowspan="1"|年度
!colspan="1"|輸送密度<br />(人/日)
|-
!style="text-align:left;"|2014年(平成26年)度<ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/160210-1" />
|style="text-align:right;"|3,851
|-
!style="text-align:left;"|2015年(平成27年)度<ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/160509-3" />
|style="text-align:right;"|3,706
|-
!style="text-align:left;"|2016年(平成28年)度<ref>[https://www.mlit.go.jp/common/001306394.xlsx (24) JR旅客会社運輸成績表(延日キロ,人キロ,平均数)] - 国土交通省 鉄道統計年報 平成28年度</ref>
|style="text-align:right;"|4
|-
!style="text-align:left;"|2017年(平成29年)度<ref>[https://www.mlit.go.jp/common/001342161.pdf (24)JR旅客会社運輸成績表(延日キロ、人キロ、平均数) (その 1)] - 国土交通省 鉄道統計年報 平成29年度</ref>
|style="text-align:right;"|5
|-
!style="text-align:left;"|2018年(平成30年)度<ref>[https://www.mlit.go.jp/common/001384063.pdf (24)JR旅客会社運輸成績表(延日キロ、人キロ、平均数) (その 1)] - 国土交通省 鉄道統計年報 平成30年度</ref>
|style="text-align:right;"|5
|-
|}
※2016年度以降は、臨時列車のみ輸送密度に計上されている。
==== 収支・営業係数 ====
[[収支]](営業収益、営業費用、営業損益)と[[営業係数]]は以下の通り。いずれも管理費を含めた金額である<ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/160210-1" />。▲はマイナスを意味する。
{| class="wikitable" border="1" style="font-size:90%;"
|+中小国駅 - 木古内駅間
!rowspan="2"|年度
!colspan="3"|収支(百万円)
!rowspan="2"|営業係数<br />(円)
|-
!営業収益
!営業費用
!営業損益
|-
!style="text-align:left;"|2014年(平成26年)度<ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/160210-1" />
|style="text-align:right;"|3,333
|style="text-align:right;"|4,216
|style="text-align:right;"|▲883
|style="text-align:right;"|126
|-
|}
== 運行形態 ==
北海道新幹線開業後は、基本的に貨物輸送のみで、在来線としての旅客列車は団体臨時列車を除き運行されていない。海峡線単独の列車はなく、すべての列車が青森駅および五稜郭駅以遠から発着する。なお、起点の中小国駅は海峡線の全列車が通過する。
旅客列車は、[[1988年]](昭和63年)[[3月13日]]の海峡線開業時から、[[寝台列車|寝台特急]]「[[日本海_(列車)|日本海]]」「[[北斗星 (列車)|北斗星]]」や[[特別急行列車|特急]]「[[はつかり (列車)|はつかり]]」、[[急行列車|急行]]「[[はまなす (列車)|はまなす]]」のほか、[[快速列車|快速]]「[[海峡 (列車)|海峡]]」が青森駅 - [[函館駅]]間で運転されていたが、[[2002年]](平成14年)[[12月1日]]の[[東北新幹線]][[八戸駅]]延伸に伴う[[ダイヤ改正]]で八戸駅 - 青森駅 - 函館駅間の輸送体系が見直され、「はつかり」「海峡」は廃止され<ref name="rail fan2003-02" />、代わって特急[[スーパー白鳥|「スーパー白鳥」「白鳥」]]が青森駅 - 函館駅間に設定された<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-2002-1412daiya" />。これ以降、海峡線には本州側の青森駅方面から北海道側の函館駅方面へ直通する特急列車・急行列車のみが設定され、[[普通列車]](快速含む)の設定がない区間となっていた。
そのため、津軽線蟹田駅 - 木古内駅間の各駅相互間には、[[特別急行券#特急料金不要の特例区間|乗車券のみで特急列車の普通車自由席に乗車できる特例]]が設けられた。これは、同じJR北海道の[[石勝線]][[新夕張駅]] - [[新得駅]]間が、[[日本国有鉄道]](国鉄)時代の[[1981年]](昭和56年)[[10月1日]]の同線開通と同時に適用になって以来2例目である。なお、2016年(平成28年)[[3月21日]]に海峡線を経由する在来線の定期旅客列車が運行を終了したため、この特例も事実上終了した。
=== 貨物列車 ===
本州と北海道を結ぶ物流の動脈として、[[日本貨物鉄道]](JR貨物)による[[貨物列車]]が多数設定されている。津軽海峡を越える道路はなく、航空機や船舶と比較して天候に左右されにくい貨物の安定輸送は本路線の大きな存在意義である。
なお、[[1994年]](平成6年)[[3月1日]]改正時より海峡線を通る貨物列車の完全[[コンテナ化]]を完了し、[[車扱貨物|車扱輸送]]は[[車両輸送#甲種輸送|甲種輸送]]を残してほぼ消滅した。現在は[[コンテナ車|コンテナ列車]]が中心で、[[危険物]]など一部の貨物は安全対策のため青函トンネル経由の輸送が制限される<ref>[http://www.jrfreight.co.jp/common/pdf/other/risk_transport.pdf 危険品託送方法のご案内(コンテナ列車)] - 日本貨物鉄道(2009年10月版/2016年12月9日閲覧)</ref>([[青函トンネル#走行車両]]も参照)。
=== かつて運転されていた列車 ===
* 快速「[[海峡 (列車)|海峡]]」(ED79形電気機関車 + [[国鉄50系客車|50系・51系客車]]または[[国鉄14系客車|14系客車]]、青森駅 - 函館駅間)
*: 1988年(昭和63年)3月13日に運行開始。2002年(平成14年)12月1日に特急「白鳥」・「スーパー白鳥」に置き換え<ref name="rail fan2003-02" /><ref group="報道" name="jrhokkaido-press-2002-1412daiya" />。
* 特急「[[はつかり (列車)|はつかり]]」([[国鉄485系電車|485系電車]]、[[盛岡駅]] - 函館駅間)
*: 1988年(昭和63年)3月13日に運行開始。2002年(平成14年)12月1日に特急「白鳥」・「スーパー白鳥」に置き換え<ref name="rail fan2003-02"/><ref group="報道" name="jrhokkaido-press-2002-1412daiya" />。
* 寝台特急「[[日本海 (列車)|日本海]]」1・4号(ED79形電気機関車 + 24系客車、大阪駅 - 函館駅間)
*: 1988年(昭和63年)3月13日に運行開始<ref name="tanaka 164-165" />。2006年(平成18年)3月18日に青森駅 - 函館駅間廃止<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20051222" />。
* 寝台特急「[[北斗星 (列車)|北斗星]]」(ED79形電気機関車 + [[国鉄24系客車|24系客車]]、上野駅 - 札幌駅間)
*: 1988年(昭和63年)3月13日に運行開始<ref name="tanaka 164-165" />。[[2015年]](平成27年)[[3月14日]]に定期運行終了<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20141219-1" />。同年8月22日(上野発)・23日(札幌発)に臨時運行終了・廃止<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20150522-2" /><ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20150626-1" />。
* 臨時特急「[[スーパー白鳥#ドラえもん海底列車|ドラえもん海底列車]]」([[国鉄781系電車|781系電車]]、吉岡海底駅 - 函館駅間)
*: [[2003年]](平成15年)7月19日に運行開始<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20030516" />。2006年(平成18年)8月27日に運行終了<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20060614-3" /><ref group="新聞" name="sankei-enak-2006-02doraemon" />。
* 臨時寝台特急「[[トワイライトエクスプレス]]」(ED79形電気機関車 + 24系客車、大阪駅 - 札幌駅間)
*: [[1989年]](平成元年)[[12月2日]]に運行開始<!-- 出典資料は年月まで明記。 --><ref group="報道" name="westjr-press-2014-05-page-5700" />。2015年(平成27年)3月13日に運行終了<ref group="報道" name="westjr-press-2014-12-page-6590" />。
* 臨時寝台特急「[[カシオペア (列車)|カシオペア]]」([[国鉄ED79形電気機関車|ED79形電気機関車]] + [[JR東日本E26系客車|E26系客車]]、上野駅 - 札幌駅間)
*: [[1999年]](平成11年)[[7月16日]]に運行開始<ref name="tanaka 164-165" />。2016年(平成28年)3月19日(上野発)・20日(札幌発)に運行終了<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20151218-1" /><ref group="報道" name="jreast-press-20151212" /><ref group="新聞" name="mynavi-news-2015-12-18-517" />。同年3月26日に廃止<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20150916-3" /><ref group="報道" name="jreast-press-20150914" /><ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20151218-3" /><ref group="報道" name="jreast-press-20151211" />。
* 特急[[スーパー白鳥|「スーパー白鳥」・「白鳥」]]([[JR北海道789系電車|789系]]・[[JR北海道785系電車|785系]]・485系電車、新青森駅 - 函館駅間)
*: 2002年(平成14年)12月1日に八戸駅 - 函館駅間で運行開始<ref name="rail fan2003-02"/><ref group="報道" name="jrhokkaido-press-2002-1412daiya" />。2010年(平成22年)12月4日に新青森駅 - 函館駅間の運行に変更<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20100511-1" /><ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20100924-1" /><ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20100928-1" /><ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20101116-1" /><ref group="報道" name="jreast-press-20100916" />。2016年(平成28年)3月21日に運行終了<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20151218-1" /><ref group="報道" name="jreast-press-20151212" />。同年3月26日に廃止<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20150916-3" /><ref group="報道" name="jreast-press-20150914" /><ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20151218-3" /><ref group="報道" name="jreast-press-20151211" />。
* 急行「[[はまなす (列車)|はまなす]]」(ED79形電気機関車 + [[国鉄14系客車|14系客車]]、青森駅 - 札幌駅間)
*: 1988年(昭和63年)3月13日に運行開始。2016年(平成28年)3月20日(札幌発)・21日(青森発)に運行終了<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20151218-1" /><ref group="報道" name="jreast-press-20151212" /><ref group="新聞" name="mynavi-news-2015-12-18-517" />。同年3月26日に廃止<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20150916-3" /><ref group="報道" name="jreast-press-20150914" /><ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20151218-3" /><ref group="報道" name="jreast-press-20151211" />。
== タイアップ企画 ==
[[ファイル:Seikan tonneru aomori.JPG|200px|thumb|right|快速「海峡」時代の「ドラえもん海底列車」。車体にキャラクターが描かれている]]
{{Main|海峡 (列車)#ドラえもん海底列車|スーパー白鳥#ドラえもん海底列車}}
[[1998年]]から、[[藤子・F・不二雄]]の漫画・[[ドラえもん (1979年のテレビアニメ)|アニメ]]『[[ドラえもん]]』との[[タイアップ]]が開始された。この当時運行されていた快速「海峡」の客車や機関車に同作品のキャラクターをペイントした「[[海峡 (列車)#ドラえもん海底列車|ドラえもん海底列車]]」の運転が行われ、吉岡海底駅では「ドラえもん海底ワールド」と銘打つ同作品の展示スペースが設けられるなどした。「海峡」廃止後の2003年夏からは、吉岡海底駅見学専用の全車座席指定列車として函館駅 - 吉岡海底駅間で特急「[[スーパー白鳥#ドラえもん海底列車|ドラえもん海底列車]]」が運転された。
吉岡海底駅の見学コース中止<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20051222" />に伴い、2006年(平成18年)8月27日の「ドラえもん海底列車」の運転を最後に、このタイアップ企画は終了した<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20060614-3" /><ref group="新聞" name="sankei-enak-2006-02doraemon" />。
== 北海道新幹線開業前の試運転と地上設備の事前確認と最終切替 ==
{{Anchors|北海道新幹線開業に向けた試運転とその後の予定}}
海峡線は、2016年(平成28年)3月26日の北海道新幹線開業に向けて、夜間の1時から3時30分頃まで、[[新函館北斗駅]] - [[新青森駅]]間を1日3往復程度、[[新幹線E5系電車|H5系]]を使用した[[習熟運転|訓練運転]]を兼ねた[[試運転]]を週に4回実施していた。試運転が行われる時間帯では、架線電圧を20,000Vから25,000Vに、信号保安設備を在来線用のATC-Lから新幹線用のDS-ATCにそれぞれ切替え、この区間における在来線用の運行管理システムを停止させた後に[[北海道新幹線総合システム]] (CYGNUS) を立ち上げてJR東日本の[[新幹線総合システム]] (COSMOS) と接続することで<ref group="注釈">北海道新幹線のCYGNUSはすでにCOSMOSとの接続を完了しているが、当時は日中の間、この区間でのCYGNUSによる制御を停止していた。</ref>、全線において新幹線の運行を可能な状態にして行われていた。
試運転終了後にはその都度架線電圧・信号保安設備・運行管理システムを在来線用に戻していたが、これでは開業後に運行される在来線 - 共用走行区間(海峡線) - 在来線を走行する[[JR貨物EH800形電気機関車|EH800形]]牽引による貨物列車の試運転ができない。そこで、海峡線を通過する在来線の列車を丸々1日以上にわたって運休させ、架線電圧と信号保安設備を25,000VとDS-ATCに切替え、運行管理システムは在来線用とCYGNUSを接続させることで、すべてを開業後の形態に切替えて、貨物列車が在来線から共用走行区間に直通できることと共に、共用走行区間(海峡線)で新幹線と貨物列車の双方を走らせた状態で、開業後の運行システムが24時間安定して稼動することを確認する'''地上設備最終切替えの事前確認'''が、2016年(平成28年)1月1日に実施された<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20150717-3" /><ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20150916-4" /><ref group="報道" name="jreast-press-20150913" />。
また、北海道新幹線開業の直前にあたる同年3月21日から25日にかけて、架線電圧・信号保安設備・運行管理システムを、開業後の形態にすべて切替える'''地上設備最終切替え'''が実施され、数日間にわたって海峡線を通過する在来線列車は運休となったが<ref name="RF655 12-14" /><ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20151218-1" /><ref group="報道" name="jreast-press-20151212" />、貨物列車は切換え後の架線電圧・信号保安設備・運行管理システムに対応しているため、この期間も運行していた<ref group="報道" name="jrfreight-info-20150918-01" />。
== 歴史 ==
* [[1988年]]([[昭和]]63年)[[3月13日]]:海峡線中小国駅 - 木古内駅間 (87.8 km) 開業<ref name="tanaka 164-165" />。同区間に新中小国信号場・津軽今別駅(現・奥津軽いまべつ駅)<ref name="tanaka 164-165" /><ref name="tanaka 311" />・竜飛海底駅<ref name="tanaka 164-165" /><ref name="tanaka 311" />・吉岡海底駅<ref name="tanaka 164-165" /><ref name="tanaka 311" />・新湯の里信号場を新設。線内の最高速度は開業当初120 km/hであった<ref name="teigen83" />。
* [[1990年]]([[平成]]2年)
** [[7月1日]]:新湯の里信号場が旅客駅化され、知内駅として開業<ref name="tanaka 164-165" /><ref name="tanaka 311" />。
** [[9月12日]]:[[津軽海峡線]]の営業最高速度140 km/h運転に向けた速度試験を線内で実施し、485系電車を使用して160 km/hを達成した<ref>{{Cite book |和書 |title=JR特急10年の歩み |publisher=[[弘済出版社]] |date=1997-05-15 |isbn=4-330-45697-4 |pages=56,204}}</ref>。
* [[1991年]](平成3年)[[3月16日]]:中小国駅(中小国信号所) - 木古内駅間{{Efn|青函トンネル内に限定して140 km/h運転を実施と記されているソースもある<ref name="teigen83" />。}}の最高速度を従来の120 km/hから140 km/hに引き上げ、これにより青森駅 - 函館駅間の特急の所要時間が7分程度短縮された<ref>{{Cite book |和書 |title=JR特急10年の歩み |publisher=[[弘済出版社]] |date=1997-05-15 |isbn=4-330-45697-4 |pages=61,204}}</ref>。
* [[2002年]](平成14年)[[12月1日]]:快速「[[海峡 (列車)|海峡]]」が廃止され、津軽海峡線の[[普通列車]]が消滅したことに伴い、同線を通過する旅客列車が急行・[[特別急行列車|特急列車]]のみとなる<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-2002-1412daiya" />。
* [[2006年]](平成18年)
** [[3月18日]]:吉岡海底駅への定期列車の停車を終了<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20051222" />。
** [[8月28日]]:吉岡海底駅が全列車通過となり、臨時駅となる<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20060614-3" /><ref group="新聞" name="sankei-enak-2006-02doraemon" />。
* [[2013年]](平成25年)[[11月11日]]:竜飛海底駅の見学コース終了に伴い、竜飛海底駅が全列車通過となる<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20130913-1" />。
* [[2014年]](平成26年)[[3月15日]]:竜飛海底駅・吉岡海底駅・知内駅が廃止<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20131220-1" />。竜飛海底駅、吉岡海底駅はそれぞれ竜飛定点、吉岡定点となり、知内駅は知内信号場となる。
* [[2015年]](平成27年)
** [[4月3日]]:青函トンネル内を走行していた特急「スーパー白鳥34号」の車両下で発煙する事故が発生し、青函トンネル開業後初めて、乗客・乗員が竜飛定点を経由して地上へ避難する事態になった<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20150404-1" /><ref group="新聞" name="dd.hokkaido-np-society-1-0119424" /><ref group="新聞" name="asahi-2015-04-05-ASH44536PH44IIPE00W" />。同月10日にはこの事故を受け、避難誘導マニュアルの改訂がなされる記者会見がなされた。また、7日に社内委員会を設置したと発表された<ref group="新聞" name="yomiuri-otona-news-hokkaido-20150409-OYT8T5010" />。
** [[8月10日]]:北海道新幹線関連工事に伴い、同日限りで津軽今別駅が全列車通過となる<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20150403-1" /><ref group="新聞" name="mynavi-news-2015-04-03-448" /><ref group="新聞" name="dd.hokkaido-np-economy-1-0166630" />。
** [[8月21日]]:[[JR貨物EH800形電気機関車|EH800形電気機関車]]の故障が発生。[[札幌貨物ターミナル駅]]行きの貨物列車運行において[[知内町]]側の出口まで約5 km地点のトンネル内で緊急停車し、電圧の変換装置を電流停止の応急処置後に運転再開、木古内駅へ到着後にJR貨物社員が故障を確認した。JR北海道の発表では、この故障の障害の影響で特急列車4本が最大53分遅延した<ref group="新聞" name="dd.hokkaido-np-society-1-0204421" />。
** [[12月31日]]:同日深夜から2016年(平成28年)[[1月2日]]早朝にかけて、北海道新幹線開業に備えた地上設備最終切り替えの事前確認実施に伴い全面封鎖。そのため、2016年(平成28年)[[1月1日]]は貨物列車含めて終日運休<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20150717-3" /><ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20150916-4" /><ref group="報道" name="jreast-press-20150913" />。
* [[2016年]](平成28年)
** [[3月21日]]:この日をもって特急「白鳥」・「スーパー白鳥」、急行「はまなす」の運行が終了<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20151218-1" /><ref group="報道" name="jreast-press-20151212" />。
** [[3月22日]]:架線電圧を交流20,000 V・50 Hzから交流25,000 V・50 Hzに昇圧<ref group="新聞" name="mainichi-articles/20160322/k00/00e/040/137000c" />。
** 3月22日 - [[3月25日|25日]]:北海道新幹線の開業準備に伴い、特急「白鳥」・「スーパー白鳥」、急行「はまなす」を全区間運休<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20151218-1" /><ref group="報道" name="jreast-press-20151212" />。貨物列車については平常通り運行<ref group="報道" name="jrfreight-info-20150918-01" />。
** [[3月26日]]:北海道新幹線の[[新青森駅]] - [[新函館北斗駅]]間開業に伴い、新中小国信号場 - 木古内駅間が[[三線軌条]]による新幹線・在来線の共用区間となる<ref name="jrhokkaido-hokkaido-shinkansen/outline/approach" />。津軽今別駅を廃止し<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20160219-4" />、津軽今別駅の位置に奥津軽いまべつ駅が開業<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20151218-3" /><ref group="報道" name="jreast-press-20151211" />。特急「白鳥」・「スーパー白鳥」、急行「はまなす」が廃止され、同線を運行する在来線定期旅客列車が消滅<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20151218-3" /><ref group="報道" name="jreast-press-20151211" />。また、臨時寝台特急「カシオペア」も廃止<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20150916-3" /><ref group="報道" name="jreast-press-20150914" /><ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20151218-3" /><ref group="報道" name="jreast-press-20151211" />。
** [[6月4日]]:[[カシオペア (列車)#団体専用列車「カシオペアクルーズ」「カシオペア紀行」|「カシオペアクルーズ」]]より[[団体専用列車|団体臨時列車]]という形で在来線の旅客列車が運行再開<ref group="報道" name="jreast/press/2016/20160403" /><ref group="報道" name="jreast/press/2016/20160407" /><ref group="新聞" name="mainichi/2016-06-04/articles/20160604/k00/00e/040/220000c" /><ref name="railf.jp/news/2016/06/05/202000" />。
== 駅一覧 ==
* 海峡線では、在来線での定期旅客列車の運行は行われておらず、旅客列車は団体臨時列車のみの運行である。
{| class="wikitable" rules="all" style="font-size:95%;"
|-
!rowspan="2" style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #2cb431;"|架線<br />電圧
!rowspan="2" style="width:9em; border-bottom:solid 3px #2cb431;"|駅名
!colspan="2"|営業キロ
!rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #2cb431;"|接続路線・備考
!rowspan="2" colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #2cb431;"|所在地
|-
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #2cb431;"|駅間
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #2cb431;"|累計
|-
|style="text-align:center; width:2.5em; height:1em; background:#fbc;"|'''20[[キロ|k]][[ボルト (単位)|V]]'''
|[[中小国駅]]
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|0.0
|[[東日本旅客鉄道]]:{{Color|#15a2c4|■}}[[津軽線]]<ref group="*">海峡線の列車はすべて通過するため、中小国駅での列車の乗り換えはできず、実質的な乗換駅は[[蟹田駅]]となっていた。</ref>
|rowspan="5" colspan="2" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[青森県]][[東津軽郡]]|height=8em}}
|rowspan="3" style="white-space:nowrap;"|[[外ヶ浜町]]
|-
|rowspan="8" style="text-align:center; width:2.5em; height:9em; background:#fee;"|'''25kV'''
|[[新中小国信号場]]
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|2.3
|JR東日本津軽線とJR北海道海峡線・北海道新幹線の実際の分岐点
|-
|([[新中小国信号場#新幹線側(大平分岐部)|大平分岐部]])
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|3.9
|新中小国信号場構内扱い。北海道新幹線との共用区間始点
|-
|-
|[[奥津軽いまべつ駅]]
|style="text-align:right;"|13.0
|style="text-align:right;"|13.0
|旅客用のホームは北海道新幹線(標準軌)にのみ存在。<br />海峡線(狭軌)は待避線のみ使用。津軽今別駅跡
|[[今別町]]
|-
|([[竜飛定点]])
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|32.5
|緊急時の避難施設として使用。旧・竜飛海底駅
|外ヶ浜町
|-
|([[吉岡定点]])
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|55.5
|緊急時の避難施設として使用。旧・吉岡海底駅
|rowspan="4" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[北海道]]|height=4em}}<br/><ref group="*">すべて[[渡島総合振興局|渡島管内]]に所在。</ref>
|colspan="2"|[[松前郡]]<br />[[福島町]]
|-
|[[湯の里知内信号場]]
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|76.0
|海峡線(狭軌)の待避施設として使用。旧・知内信号場(←知内駅<ref name="jrhokkaido-press-20131220-1" group="報道" />←新湯の里信号場)
|rowspan="3" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[上磯郡]]}}
|[[知内町]]
|-
|([[木古内駅#木古内分岐部(新在共用区間終点)|木古内分岐部]])
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|85.9
|木古内駅構内扱い。北海道新幹線との共用区間終点。
|rowspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[木古内町]]
|-
|[[木古内駅]]
|style="text-align:right;"|74.8
|style="text-align:right;"|87.8
|[[北海道旅客鉄道]]:[[File:Shinkansen jrh.svg|15px|■]][[北海道新幹線]]<br />[[道南いさりび鉄道]]:{{color|#246dac|■}}[[道南いさりび鉄道線]] (sh01)<br />海峡線の旅客用ホームは撤去され存在しない。
|}
{{Reflist|group="*"}}
有人駅は奥津軽いまべつ駅と木古内駅で、中小国駅は無人駅である。
=== 廃止駅 ===
現在も新幹線駅・信号場として使用されているものも含む。
* [[奥津軽いまべつ駅|津軽今別駅]](新中小国信号場 - 竜飛海底駅間) - 奥津軽いまべつ駅と同一地点。2016年3月25日廃止<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20160219-4" /><ref group="新聞" name="toonippo-nto20131003084515" />。
* [[竜飛定点|竜飛海底駅]](津軽今別駅 - 吉岡海底駅間) - 2014年3月15日廃止<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20131220-1" />。廃止後は「[[竜飛定点]]」となり、本来用途である避難所としてのみ使用される。[[道の駅みんまや#青函トンネル記念館|青函トンネル記念館]] [[青函トンネル竜飛斜坑線]]接続。
* [[吉岡定点|吉岡海底駅]](竜飛海底駅 - 知内駅間) - 2014年3月15日廃止<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20131220-1" />。廃止後は「[[吉岡定点]]」となり、本来用途の避難所としてのみ使用される。
* [[湯の里知内信号場|知内駅]](吉岡海底駅 - 木古内駅間) - 2014年3月15日廃止。現・湯の里知内信号場。
=== 過去の接続路線 ===
* 木古内駅:[[江差線]]([[江差駅|江差]]方面) - 2014年(平成26年)5月12日廃止。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|refs=
<ref name="teisya">[[#teisya|『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』]]</ref>
<ref name="tanaka 164-165">[[#tanaka|『写真で見る北海道の鉄道』 上巻 国鉄・JR線 164-165頁]]</ref>
<ref name="tanaka 311">[[#tanaka|『写真で見る北海道の鉄道』 上巻 国鉄・JR線 311頁]]</ref>
<ref name="rail fan2003-02">[[#railfan-50-2|鉄道友の会『会報 RAIL FAN』第50巻第2号 20頁]]</ref>
<ref name="RF655 12-14">[[#RF655|『鉄道ファン』通巻655号 12-14頁]]</ref>
<ref name="milt000193032">{{Cite web|和書|url=http://www.mlit.go.jp/common/000193032.pdf|format=PDF|title=JR貨物 整備新幹線小委員会ヒアリング資料|publisher=[[国土交通省]]|date=2012-02-27|accessdate=2016-01-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130326024825/http://www.mlit.go.jp/common/000193032.pdf|archivedate=2013-03-26}}</ref>
<ref name="jrhokkaido-hokkaido-shinkansen/outline/approach">{{Cite web|和書|url=http://hokkaido-shinkansen.com/outline/approach/|title=開業に向けた取り組み(北海道新幹線スペシャルサイト)|publisher=[[北海道旅客鉄道]]|date= |accessdate=2016-01-02|archiveurl= |archivedate= }}</ref>
<ref name="railf.jp/news/2016/06/05/202000">{{Cite news|author=railf.jp(鉄道ニュース)|date=2016-06-05|url=http://railf.jp/news/2016/06/05/202000.html|title=「カシオペアクルーズ」運転|newspaper=鉄道ファン|publisher=交友社|accessdate=2016-06-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160605200535/http://railf.jp/news/2016/06/05/202000.html|archivedate=2016-06-05}}</ref>
<ref name="teigen83">[[#特急列車「高速化」への提言|『特急列車「高速化」への提言』]] 83 - 89頁</ref>
}}
=== 報道発表資料 ===
{{Reflist|group="報道"|2|refs=
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<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20030516">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2003/030516.pdf|format=PDF|title=夏の臨時列車のお知らせ|publisher=北海道旅客鉄道|date=2003-05-16|accessdate=2014-09-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20030917135157/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2003/030516.pdf|archivedate=2003年9月17日}}</ref>
<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20051222">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2005/051222.pdf|format=PDF|title=平成18年3月ダイヤ改正について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2005-12-22|accessdate=2005-12-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20051230090557/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2005/051222.pdf|archivedate=2005年12月30日}}</ref>
<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20060614-3">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2006/060614-3.pdf|format=PDF|publisher=北海道旅客鉄道|title=吉岡海底駅「ドラえもん海底ワールド」は8月27日でファイナルを迎えます!|date=2006-06-14|accessdate=2006-07-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060706190916/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2006/060614-3.pdf|archivedate=2006年7月6日}}</ref>
<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20100511-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2010/100511-1.pdf|format=PDF|title=東北新幹線新青森開業に伴う特急「スーパー白鳥・白鳥」の運転区間について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2010-05-11|accessdate=2011-12-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111219090105/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2010/100511-1.pdf|archivedate=2011年12月19日}}</ref>
<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20100924-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2010/100924-1.pdf|format=PDF|title=平成22年12月ダイヤ改正について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2010-09-24|accessdate=2010-10-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20101011150851/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2010/100924-1.pdf|archivedate=2010年10月11日}}</ref>
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<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20150403-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/150403-1.pdf|format=PDF|title=海峡線 津軽今別駅の列車通過について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2015-04-03|accessdate=2015-04-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150408153842/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/150403-1.pdf|archivedate=2015年4月8日}}</ref>
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<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20150522-2">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/150522-2.pdf|format=PDF|title=夏の臨時列車のお知らせ|publisher=北海道旅客鉄道|date=2015-05-22|accessdate=2015-06-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150624035435/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/150522-2.pdf|archivedate=2015年6月24日}}</ref>
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<ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20160219-4">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160219-4.pdf|format=PDF|title=津軽今別駅(在来線)について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2016-02-19|accessdate=2016-02-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160220074105/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160219-4.pdf|archivedate=2016年2月20日}}</ref>
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<ref group="報道" name="jreast-press-20151211">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2015/20151211.pdf|format=PDF|title=2016年3月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2015-12-18|accessdate=2015-12-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151218065052/http://www.jreast.co.jp/press/2015/20151211.pdf|archivedate=2015年12月18日}}</ref>
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<ref group="報道" name="westjr-press-2014-05-page-5700">{{Cite press release|和書|url=http://www.westjr.co.jp/press/article/2014/05/page_5700.html|title=寝台特急「トワイライトエクスプレス」の運行終了について|publisher=[[西日本旅客鉄道]]|date=2014-05-28|accessdate=2015-03-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150322135616/http://www.westjr.co.jp/press/article/2014/05/page_5700.html|archivedate=2015年3月22日}}</ref>
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<ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/160509-3">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160509-3.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成27年度決算について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2016-05-09|accessdate=2016-05-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160519034311/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160509-3.pdf|archivedate=2016年5月19日}}</ref>
<ref group="報道" name="jreast/press/2016/20160403">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2016/20160403.pdf|format=PDF|language=日本語|title=E26系「カシオペア」車両を使用した臨時列車を運転します|publisher=東日本旅客鉄道|date=2016-04-06|accessdate=2016-04-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160406100520/http://www.jreast.co.jp/press/2016/20160403.pdf|archivedate=2016年4月10日}}</ref>
<ref group="報道" name="jreast/press/2016/20160407">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2016/20160407.pdf|format=PDF|language=日本語|title=カシオペアクルーズ・カシオペア紀行を発売致します|publisher=東日本旅客鉄道|date=2016-04-21|accessdate=2016-04-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160422082904/http://www.jreast.co.jp/press/2016/20160407.pdf|archivedate=2016年4月22日}}</ref>
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=== 新聞記事 ===
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=== 雑誌 ===
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== 関連項目 ==
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* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[青函トンネル]]
* [[青函連絡船]]
* [[北海道新幹線]]
* [[一本列島]]
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8,638 | 教育 | 教育(きょういく、英語: education)という語は多義的に使用されており、以下のような意味がありうる。
漢語としての「教育」は、『孟子』に「得天下英才、而教育之、三楽也」(天下の英才を得て、而して之を教育するは、三の楽しみなり)とあるのが初めである。
語源・語義からの定義の例を挙げると、「英語: education」や「フランス語: éducation」は、ラテン語: ducere(連れ出す・外に導き出す)という語に由来することから、「教育とは、人の持つ諸能力を引き出すこと」とする。
リチャード・ピーターズ(en:Richard Stanley Peters)は、「教育を受けた者」という概念の内在的な意味を探求し、自由教育(教養教育)の立場から「教育」を次の3つの基準を満たす活動として限定的に定義した。
高等動物では教育またはしつけに近い行動が見られる例があり、猫などの肉食獣では子供に狩りの練習をさせるために弱らせた獲物をあてがう。以下では、人間社会における教育について述べる。
教育に関する歴史を教育史と呼ぶ。家庭教育や社会教育も念頭に置けば、教育は人類の有史以来存在してきたものと考えることができる。
制度化された教育について、西洋では古代ギリシアまで遡ることが一般的である。高等教育機関は古代より世界各地に存在してきたが、現代の大学につながる高等教育機関が成立したのはヨーロッパの中世においてであって、11世紀末にはイタリアのボローニャでボローニャ大学が成立していたという。近代教育につながる教育学の祖形は、17世紀にコメニウスによって作られた。18世紀に入るとジャン=ジャック・ルソーが「エミール」を著し、この影響を受けたヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチによって学校教育の方法論が確立された。またペスタロッチは主に初等教育分野に貢献したのに対し、彼の影響を受けたフリードリヒ・フレーベルは幼児教育に、ヨハン・フリードリヒ・ヘルバルトは高等教育に大きな足跡を残した。19世紀に入ると産業革命以降の労働者の必要性から、民衆に対する教育の必要性が強く叫ばれるようになり、多くの国で公教育が導入され、初等教育については義務化される国が現れ始めた。この義務教育化の流れは産業化された国々を中心に広がっていったものの、多くの国で国民に対する一般教育が公教育として施行されるようになったのは、20世紀に入ってからである。また、特にヨーロッパや南アメリカのカトリック圏諸国においては、初等教育を国家ではなく教会が担うべきとの意見が根強く、19世紀における主要な政治の争点のひとつとなった。この論争は20世紀に入るころにはほとんど国家側の勝利となり、ほとんどの国で初等教育は基本的に国家が担うものとなっていった。第二次世界大戦後に独立したアジアやアフリカの新独立国においても教育は重視され、各国政府は積極的に学校を建設し、教育を行っていった。これにより、世界の識字率は20世紀を通じて上昇を続け、より多くの人々に公教育が与えられるようになっていった。
文献上で確認できる日本で初めて作られた教育制度は、701年の大宝律令である。その後も貴族や武士を教育する場が存在し、江戸時代に入ると一般庶民が学ぶ寺子屋が設けられるようになった。初等教育から高等教育までの近代的な学校制度が確立するのは明治時代である。第二次世界大戦後の教育は、日本国憲法と教育基本法に基づいている。
教育を研究の対象とする学問を教育学と言う。教育学は、哲学・心理学・社会学・歴史学などの研究方法を利用して、教育とそれに関連する種々の事物・理念を研究する。教育哲学・教育社会学・教育心理学・教育史学などの基礎的な分野のほか、教育方法論・臨床教育学・教科教育学などの実践的分野がある。各国における教育学のあり方は、その国の教員養成のあり方とも密接に関わっている場合が多い。
教育の目的(教育目的又は教育目標)をどうとらえるかで2つの立場が存在してきた。
道徳主義の教育目的では、伝統的に、個人の発達・幸福のためとするか、社会の維持・発展のためとするかで論争がある。前者は教養教育・自由教育の立場で、人が一人の人間として豊かで幅広い教養を身につけることで、人が人間らしく生きることができるという考えである。こうした考え方は、一部の中等教育・高等教育でリベラルアート教育として実現している。他方、教育の目的を社会的な必要という観点から捉え、実学を重視する立場もある。専門学校・専門職大学院などはこの現れである。
教育を行う理由のことを、教育の正当性と呼ぶことがある。これには、教育の必要性と教育の可能性の二面から論じられることが多い。
なぜ教育が欠けてはならないのかという問題について、イマヌエル・カントは「人は教育によって人間になる」と述べ、人間らしく生きるために教育が必要であると論じた。学びの意欲を喪失した若者が多いといわれる現代において、なぜ教育が必要かが改めて問われる状況にある。
しかし教育が必要であるとしても、それが人間にとって可能なものでなければ、教育はやはり正当性を失うことになる。例えば、プラトンは「徳は教えうるか」と問い、哲人統治者としての自然的素養を重視した。現在において教育可能性が問題となるのは、「教育がいかに可能か」という教育方法の問題や、「教育がどこまで可能か」という教育の限界の問題としてである場合が多い。
教育の分類方法はいくつもある。 一般に教育は、行われる場に応じて学校教育 / 社会教育 / 家庭教育の3つに大きく分けて把握されている。
年齢による分類もあり、乳児教育(あるいは「保育」とも) /幼児教育 / 児童教育 / 成人教育、に分類する方法もある。
上記の3分類以外にも、企業が従業員(社員)の職業人としての資質を高めるために行う教育・訓練や、(従業員の)人間性を高めたり市民性 en:citizenship(自分が社会・共同体の一員だとの自覚を持ちそれに貢献すること)を育てるために行っている教育は「企業内教育」と呼ばれている。
ひとりの子供が、家庭教育と学校教育の両方を受けている。
従来は、学校教育と社会教育は、行政上の制度としても別になっており、また教育を受ける人も教育を行う人も異なっていたため、それぞれ独自の方針を持つものとして機能したので上記のような概念枠で理解しても特には問題は無かったが、近年では社会が生涯学習社会へと方針を転換してきているため(つまり一旦学校を卒業した人々もその後に本格的に学習を行うようになってきたため)状況が変化してきている。生涯学習が広まってきたことにより、学校が(例えば大学や大学院が)ある程度以上の年齢の人々の生涯学習の場として活用されることが増え、それに伴い、学校側も従来のような(20代までの)若い人だけを念頭に置いた教育では学び手の要求にこたえられなくなってきており、変わりつつあるためである。
なお、離れた場所に居る者に対して行われる教育は、遠隔教育(遠隔地教育)・通信教育という。最近では、世界の一流大学の一流の教授の講義がインターネット経由で公開され、国境を越え各地で受けることができるようになってきている。(MOOK)
学校教育は、特定の集団に対して、一定の様式の学習内容をあらかじめ用意しておいて、組織化され体系化された教育活動を指す。一般的には、フォーマル教育は、生徒(学生)の集団に対して、その分野の教員資格を保持する者によって、授業を施すことを明確に目的とした環境(学校の施設。教室、体育館など)において、行われる。多くの学校制度はすべての教育選択肢、たとえばカリキュラム、物理的な教室設計、教師と生徒の相互作用、評価方法、クラスのサイズ、教育活動、その他多くの点について、理想の値・アイディアを中心に支配的に設定されている。
教育機関などの組織化され構造化された環境で科目など明示的に指定され行われる学習をフォーマル(正式な)学習(Formal learning )、明示的に学習として指定されているわけではないが、学習サポートの観点から学校教育に組み込まれている学習をノンフォーマル学習、さらに、仕事、家族、余暇に関連する日常の活動から生じる学習を非公式の学習(Informal learning)という。こうした教員資格は、大学の教育学部や師範学校などで教師となるための専門教育を受けたものに与えられるが、教員資格を持たないものを教員として雇用することも、公教育の立ち上げ時や急拡大時など、有資格者の不足する場合においては行われることがある。こうした教員は代用教員と呼ばれ、戦前の日本や独立直後のアフリカ諸国などにおいて、初等教育においては広く行われた。なお、大学の教員になるには、教員資格は必要ない。
学校教育において、その実践上の目的・内容・方法等をまとめたものを教育課程又はカリキュラムと呼ぶ。教育課程は、通例では初等教育・中等教育・高等教育の3段階に分け、この前に保育や幼児教育を位置づけることもある。
職業教育とは、直接的に特定の商業・工業に結び付く訓練志向の教育である。職業教育は職業高等学校や職業大学、専門学校といった学校教育に加え、徒弟制度やインターンシップの体系も取り、大工、農業、工学者、医師、建築家、芸術家などの分野がある。
特別支援教育(Special education)は、障害のために公教育を受ける能力がない者に対しての教育である。
オルタナティブ教育とは、「オルタナティブ」つまり「代わりに用いられる」教育のことで、フォーマルな教育以外の教育のことを指し、フリースクール、サポート校、ホームスクーリング(自宅ベース教育)、シュタイナー教育、などがこれに含まれる。
社会教育とは、家庭教育と学校教育以外の、広く社会において行われる教育のことである。学校や家庭以外の社会のさまざまな場において行われている多様な教育活動が該当する。例えば、公民館(=文部科学省所管の国民のための生涯教育のための施設)、図書館、博物館、「文化センター」などの場である。
家庭教育とは、家庭において行われる教育のこと。家庭というのは家族という社会集団が生活をする場であるが、多機能であるので、教育も行われ得る。学校という制度ができてからは、その教育機能の一部が学校へと分離することになったが、家庭は学校と連携を持ちつつその教育機能を持ちつづけている。「家庭教育」と言っても、家庭という場とともに、ひとりひとりの家族との人間関係が重要な意味をもっていると言える。基礎的な価値観・徳をこどもに示すことはしつけと呼ばれている。
教育の対象は他者であるとは限らず、自分自身であることもあり、その場合には自己教育(英: self-education, autodidacticism)と言うことがある。
離れた場所に居る者に対して行われる教育は、遠隔教育(遠隔地教育)・通信教育という。最近では、世界の一流大学の一流の教授の講義がインターネット経由で公開され、国境を越え各地で受けることができるようになってきている。(MOOC)
教育に関する制度を教育制度といい、主に学校教育が中心となるが、社会教育など学校外の制度もある。教育制度は、学校制度や義務教育の年限など、国によって異なっている。日本においては初等教育(小学校)ならびに前期中等教育(中学校)が義務教育となっているが、この年限は国によってまちまちで、後期中等教育(日本における高等学校にあたる)までを義務教育としている国家もあれば、初等教育のみを義務教育としている国家もある。しかし総じていえば、義務教育の規定のない国家は非常に少なく、ほとんどの国家においてはなんらかの形で義務教育期間が存在している。
教育に関する行政を教育行政、教育に関する政策を教育政策と呼ぶ。日本の教育政策については、日本の教育政策と教育制度を参照。教育政策の課題は国によって大きく異なっているが、先進国においてはおおむね社会的格差の解消や国際的な経済競争・知識社会化への対応などが、発展途上国の多くでは識字率・就学率の向上が、求められている。
教育に関する法律を教育法と言う。条例等も含める場合には、教育法令と呼ぶ。
教育の行われる施設を教育施設又は教育機関と呼ぶ。学校のみならず、図書館・博物館・美術館、公園、劇場、映画館のような娯楽施設も、広く社会において教育的な機能を果す施設を含めて考えられる。基本的な生活態度の養成という観点からは、家庭や地域社会での教育も含まれる。
教育施設の中でももっぱら教育のために設立される施設を学校と呼ぶ。学校において行われる教育を学校教育と呼び、その就業年数や義務の有無など学校に関する制度を学校制度と言う。
教育のために用いられる素材は、教材と呼ばれる。伝統的な教科書や黒板や従来から語学学習などで用いられてきた音声教材に加えて、近年では科学技術の発達に伴い、コンピュータ、マルチメディア、インターネットなどを積極的に活用する動きが高まっている。また、電子黒板やインターラクティブ・ホワイトボードなどの最新機器も用いられ始めている。
知育・徳育・体育の分野がある。正確な知識という共通基盤がなければ正しいコミュニケーションや共同生活すら図れないし、またそうした知識をいかに活用していくかという、思考力・コミュニケーション能力・創造力等の技能も不可欠である。さらに、知識や技能のみならず、社会生活を営む上での基本的な道徳を教育することに価値を置く見解や、社会で生き抜く体力を重視する見解もある。教育の内容について詳しくは、「教科」を参照。また、新しい教育内容として、人権教育、環境教育、国際理解教育、性教育がある。
教育方法に関しては大きく二つの立場が対立している。
一つは、学問の体系的な構造に従って系統的に教育を行うべきだという、系統学習の立場である。これは特に教育段階が上がるにつれて教育内容が学問の体系に近づく。
その一方で、特に幼児・児童への教育を中心として、こどもの自発的な学びを尊重すべきだとする問題解決学習(進歩主義・児童中心主義・経験主義)の考えも強い。日本の小学校における生活科や小中学校の総合的な学習の時間は、この考えに影響を受けたものであると言われている。 なお、現段階の学校教育では成績や課題の提出の有無などを物差しで生徒を測る事で成績を測定するため、個性を伸ばす力がかけている。
教育を受けた個人に起こる変化を「教育効果」と呼ぶ。一般的には学力の向上が思い浮かべられることがある。現在の日本では、学校教育に関わる学力を紙面の試験で測定できるもの、とりわけ偏差値で計る傾向が強く、このことに対して強い批判が長年存在しつつも、受験現場では不可欠となっている実態がある。
教育効果に関する議論は、教育内容や教育方法などを改善する上で欠かせない一方、教育目的を測定可能なもののみに置き換えがちな点には注意が必要である。
教育に関わる問題、とりわけ教育が社会に関わる問題のことを教育問題という。特にその深刻さを強調する場合には、教育病理または教育危機とも呼ぶ。教育活動は複数の人間が集まって行われる以上、そこに必然的に社会が生まれる。学校や学級などはその例である。そこにおいて何らかの問題が生じることがあり、いじめ・不登校・学級崩壊、教員と児童・生徒・学生との権力関係などがここに含まれる。
政治・経済・地域社会・文化などは教育活動に大きな影響を与えているが、こうした影響が問題を生じさせることがある。例えば、国の諸政策やマスコミによる報道などは、学校教育はもちろん家庭教育や社会教育にも大きな影響を与えている。
学校教育を含む教育活動は、社会一般に対しても大きな影響を与える。狭義で教育問題とは、この局面で生じる問題を指すことがある。学歴・管理教育・偏差値・非行・少年犯罪・学力低下など学習者、特にこどもを通じて結果として社会に与える影響の他にも、教師のあり方や学校・大学のあり方、学閥などの問題として、教育問題は広く社会病理の一領域をなしている。
教育社会学では、教育が社会に及ぼす効果として、経済・政治・社会などに与えるものが議論されている。
教育を行った結果としてどのようなことが起こるかについては、個人に与える影響と社会に与える影響の両面がある。エミール・デュルケームは、近代における教育の機能を「方法的社会化」であると捉え、政治社会と個々人の双方が必要とする能力・態度の形成であるとした。なお、教育が適切な効果・機能を果していない場合には、「教育の機能不全」、教育がむしろ否定的な効果・機能を果している場合には「教育の逆機能」と呼ばれることがある。
学校を軍隊・病院・監獄などと同様の近代特有の権力装置であるとしたミシェル・フーコー 、学校教育が近代社会に支配的な国家のイデオロギー装置であると論じたルイ・アルチュセール、教育が文化的・階級的・社会的な不平等や格差を再生産または固定化する機能を果しているピエール・ブルデュー、バジル・バーンスタイン、サミュエル・ボールズとハーバート・ギンタス、教育は家父長制を再生産しているとのフェミニズムからの議論、教育は社会の多数派の文化を押し付けているという多文化主義からの議論、などが有名である。
また、政治面では、開発学においては識字率の上昇が民主化に寄与すると考えられることが多いが、識字率と民主化との間の相関は一般に考えられている程には高くなくむしろその反例も見つかることから、この考えは「西欧市民社会の誤謬である可能性」を指摘する見解がある。そのほか社会的な面においては、教育の普及が男女や階級の平等に寄与するといった主張や、教育水準の上昇が幼児死亡率や衛生状態の改善に寄与するといった主張などがある。
人間の幸福になれる、幸福になれないというのは、知能指数(IQ)ではなく、他の人々の気持ちが分かる、などといった感情指数(EQ)のほうが、影響が大きいということが、近年の研究で明らかになってきている。それどころか、卒業後の人生を追跡調査してみると、IQばかりが高い人は、EQが高い人と比べてその後の人生では、職業や家族などの点で恵まれず、当人も幸福を感じる割合が低かった。端的に言えば、知能ばかりを上げることを目標とした教育を受けても、教育は幸福の役に立つどころか、かえって人を不幸にしてしまう。
政治面では、各国において教育年数が長いほどおおむね個人主義的・革新的価値観を持つ者が増えることが明らかになっている。
アメリカ合衆国の教育機関における教員の政治的傾向の調査によれば、リベラルは保守より優勢であり、特に大学でこの傾向が強く、大学の人文学専攻での割合は共和党支持者1人に対して民主党支持者5人、社会科学系では共和党支持者1人に対して民主党支持者8人にのぼった。アメリカの四年制大学の教授を対象とした調査では、50%が民主党、39%が支持政党なし、11%が共和党支持で、二年制大学を含む全大学教授を対象とした調査では、51%が民主党、35%が支持政党なし、14%が共和党だった。リベラル優勢の傾向は、エリート校になるにつれ高まり、四年制のリベラルアーツ系大学と博士課程を持つエリート大学の方が、コミュニティカレッジよりも、リベラルの割合が高い。また、K-12(幼稚園から高校)の教育でも同様で、K-12の公立校の先生の支持政党は、45%が民主党、30%が共和党、25%が支持政党なしという結果だった。
前節で説明した通り、アメリカの大学教員における政治的傾向では民主党支持者(左派リベラル)が50%で共和党支持者(保守)が11%と、リベラルが優勢である。
これに対して、日本では自民党は学歴問わず最も支持される政党である。ただし、学歴が高いほど自公支持率は低くなる傾向が見られ、支持政党なしが選択される傾向にある。明るい選挙推進協会による2017年(平成29年)10月22日の第48回衆議院選挙の調査、および令和元年(2019年)の第25回参議院議員通常選挙調査でも概ね同傾向にあった。
経済面においては、進学率の上昇による労働者の質的向上が経済成長を押し上げる効果があることが指摘されている(教育の経済効果)。
教育がもたらすこれらの肯定的な機能に対しては疑問の声も一部で上がっている。例えば、発展途上国においては、基礎的な教育の実施で期待される所得・生産性の向上や市場経済への移行などといった経済効果や、政治における民主化の前進、社会における人口の抑制などといった効果が、必ずしも顕著には現れていないことが指摘されている。
国際人権規約は教育を受ける権利を定めている。
フランスでは、教育を受ける権利の理念にもとづいた制度が徹底しており、国・公立の教育施設においては、幼児教育から大学教育まで授業料が一切無料で、教育を受けたい人は、親の経済状態などにかかわらず教育を受けることができる。誰が教育費を捻出するかは、《教育を受ける権利》と大いに関係してくる。教育費を子供が負担するとすると、収入が無い子供は捻出できず。また、親が全て出すとすると、富裕層が教育を受け、貧困層は教育が受けられず、教育を受ける権利が守られず、教育格差が生まれる。子供は親を選んで生まれてくることができない。親の状態によって教育が受けられる/受けられないなどという差が生まれてしまうようでは、本人の素質や努力によってどうにもならない「生まれ」によって人間が根本的に差別されてしまう、ということで、基本的に人道に反した状態であるということになる。つまり、《教育を受ける権利》を守るためには、教育費は公的に捻出されなければならない。すなわち、国家や地方政府が出すということにしなければ、子供が《教育を受ける権利》が守られないことになってしまい、非人道的な状態になってしまうわけである。
フランスでは公共機関が行う教育(国立や公立の 幼稚園から大学まで)の授業料が全て無料である。ドイツも小学校から、大学、大学院に至るまで、公立校ならば学費が無料である。
一方、イギリスではインデペンデント・スクールが運営財源を国に頼らず、授業料、寄付、寄付の投資の利子で補っていおり、政府・国家からの独立・自立を実践している。また、ボーディングスクールはスイス、ドイツ、イギリス、アメリカ、カナダ、香港、中国、日本にもあり、世界の富裕層に支持されている。スイスのル・ロゼは年間学費は1200万円を超える。元英国首相のウィンストン・チャーチルや、インドの首相ジャワハルラール・ネルーらを輩出したイギリスのハロウスクールなどもある。
日本では、教育費のうちで国や自治体が費用を出している比率が(世界の先進諸国の中で比較しても)低く、さらに少子化および少子高齢化が進んでいる。また、日本での教育格差も厳然と存在しており、東京大学生徒の親の収入は平均約1000万円で、東京大学合格者は学費の高額な中高一貫校出身者が多くを占めている。
アメリカの公共経済学教授ブライアン・カプランは、学校教育は教育内容よりも学歴(シグナリング)が重視されるが、その点からいえば、学校教育のほとんどは無駄なシグナリングであり、政府も教育支出を削減すべきであるとする。カプランは、歴史、社会、美術、音楽、外国語などは、社会に出ても役に立つことはなく、学生もすぐに忘れるほどで、単に時間の無駄となっており、必須科目から選択制にしたり、または授業の水準をあげて成績下位の生徒を落第にすれば無駄はなくなるともいえるが、しかし、「税金を使って非実用的な教科を教える授業の廃止」が最も有効であると主張する。カプランは、「なぜ美術を勉強するという選択肢に公費をかけて納税者が負担しなければならないのか。それより、公立大学の非実用的な学部は閉鎖し、政府の助成金やローンを受けられない私立大学に非実用的な専攻の学科を創設すればいい」と提案し、現在問題になっている高額授業料にしても、無益な進学を抑制しているだけでなく、専攻の最適化にも役立っていると述べる。
収入面での効果が、比較的多くの人々の関心を集めている。各国においては、学歴が上がるほど生涯賃金も上がる傾向にある。
しかし日本においては、実際のデータを見てみると学歴による生涯賃金の差は比較的小さいという見解もある。単年度の見かけの給与はともかくとして、学校に通うことで働いて収入を得る年数が減る分、生涯賃金があまり増えない。特に大学院などは、(全日制で)大学院まで進むと、統計的に見て大卒よりもかえって生涯賃金は下がる場合が多い、とのデータもある。一般論として言えば日本の企業は大学院修了者をあまり歓迎していない。日本においては、教育を投資と考える傾向は低い。また、2005年現在の日本の社会では、「勉強して良い大学に入れば、良い企業に入れる」という仕組みはすでに崩れてきたことが幾人かの論者によって指摘されている。例えば関東圏で例を挙げると、東京大学や他の六大学などを卒業していてもフリーターになってしまう可能性もある。
教育の商業化、教育の市場化なども問題とされている。
1950年代からマネタリスト経済学者ミルトン・フリードマンが教育の市場化を目指し、教育バウチャーを提唱した。近年は、元ハーバード大学学長のデレック・ボックが大学の商業化を批判している。ほか、市場原理の大学への導入を「アカデミック・キャピタリズム」として批判されることもある
日本でも高等教育の市場化が問題とされている。 大学改革において、2004年に国立大学が独立行政法人の国立大学法人に移行したが、有馬朗人元東京大学学長らが失敗であったと批判している
近年、OECD生徒の学習到達度調査(PISA)事業において、成績の高い先進国がグローバル教育政策市場を開拓し、自国の教育モデルを海外に売る「教育の輸出」現象が生起していると指摘されている。 | [
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"text": "教育(きょういく、英語: education)という語は多義的に使用されており、以下のような意味がありうる。",
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"text": "漢語としての「教育」は、『孟子』に「得天下英才、而教育之、三楽也」(天下の英才を得て、而して之を教育するは、三の楽しみなり)とあるのが初めである。",
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"text": "語源・語義からの定義の例を挙げると、「英語: education」や「フランス語: éducation」は、ラテン語: ducere(連れ出す・外に導き出す)という語に由来することから、「教育とは、人の持つ諸能力を引き出すこと」とする。",
"title": "定義"
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"text": "リチャード・ピーターズ(en:Richard Stanley Peters)は、「教育を受けた者」という概念の内在的な意味を探求し、自由教育(教養教育)の立場から「教育」を次の3つの基準を満たす活動として限定的に定義した。",
"title": "定義"
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"text": "高等動物では教育またはしつけに近い行動が見られる例があり、猫などの肉食獣では子供に狩りの練習をさせるために弱らせた獲物をあてがう。以下では、人間社会における教育について述べる。",
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"text": "教育に関する歴史を教育史と呼ぶ。家庭教育や社会教育も念頭に置けば、教育は人類の有史以来存在してきたものと考えることができる。",
"title": "歴史"
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"text": "制度化された教育について、西洋では古代ギリシアまで遡ることが一般的である。高等教育機関は古代より世界各地に存在してきたが、現代の大学につながる高等教育機関が成立したのはヨーロッパの中世においてであって、11世紀末にはイタリアのボローニャでボローニャ大学が成立していたという。近代教育につながる教育学の祖形は、17世紀にコメニウスによって作られた。18世紀に入るとジャン=ジャック・ルソーが「エミール」を著し、この影響を受けたヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチによって学校教育の方法論が確立された。またペスタロッチは主に初等教育分野に貢献したのに対し、彼の影響を受けたフリードリヒ・フレーベルは幼児教育に、ヨハン・フリードリヒ・ヘルバルトは高等教育に大きな足跡を残した。19世紀に入ると産業革命以降の労働者の必要性から、民衆に対する教育の必要性が強く叫ばれるようになり、多くの国で公教育が導入され、初等教育については義務化される国が現れ始めた。この義務教育化の流れは産業化された国々を中心に広がっていったものの、多くの国で国民に対する一般教育が公教育として施行されるようになったのは、20世紀に入ってからである。また、特にヨーロッパや南アメリカのカトリック圏諸国においては、初等教育を国家ではなく教会が担うべきとの意見が根強く、19世紀における主要な政治の争点のひとつとなった。この論争は20世紀に入るころにはほとんど国家側の勝利となり、ほとんどの国で初等教育は基本的に国家が担うものとなっていった。第二次世界大戦後に独立したアジアやアフリカの新独立国においても教育は重視され、各国政府は積極的に学校を建設し、教育を行っていった。これにより、世界の識字率は20世紀を通じて上昇を続け、より多くの人々に公教育が与えられるようになっていった。",
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"text": "文献上で確認できる日本で初めて作られた教育制度は、701年の大宝律令である。その後も貴族や武士を教育する場が存在し、江戸時代に入ると一般庶民が学ぶ寺子屋が設けられるようになった。初等教育から高等教育までの近代的な学校制度が確立するのは明治時代である。第二次世界大戦後の教育は、日本国憲法と教育基本法に基づいている。",
"title": "歴史"
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"text": "教育を研究の対象とする学問を教育学と言う。教育学は、哲学・心理学・社会学・歴史学などの研究方法を利用して、教育とそれに関連する種々の事物・理念を研究する。教育哲学・教育社会学・教育心理学・教育史学などの基礎的な分野のほか、教育方法論・臨床教育学・教科教育学などの実践的分野がある。各国における教育学のあり方は、その国の教員養成のあり方とも密接に関わっている場合が多い。",
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"text": "教育の目的(教育目的又は教育目標)をどうとらえるかで2つの立場が存在してきた。",
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"text": "道徳主義の教育目的では、伝統的に、個人の発達・幸福のためとするか、社会の維持・発展のためとするかで論争がある。前者は教養教育・自由教育の立場で、人が一人の人間として豊かで幅広い教養を身につけることで、人が人間らしく生きることができるという考えである。こうした考え方は、一部の中等教育・高等教育でリベラルアート教育として実現している。他方、教育の目的を社会的な必要という観点から捉え、実学を重視する立場もある。専門学校・専門職大学院などはこの現れである。",
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"text": "教育を行う理由のことを、教育の正当性と呼ぶことがある。これには、教育の必要性と教育の可能性の二面から論じられることが多い。",
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"text": "なぜ教育が欠けてはならないのかという問題について、イマヌエル・カントは「人は教育によって人間になる」と述べ、人間らしく生きるために教育が必要であると論じた。学びの意欲を喪失した若者が多いといわれる現代において、なぜ教育が必要かが改めて問われる状況にある。",
"title": "教育の理論"
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"text": "しかし教育が必要であるとしても、それが人間にとって可能なものでなければ、教育はやはり正当性を失うことになる。例えば、プラトンは「徳は教えうるか」と問い、哲人統治者としての自然的素養を重視した。現在において教育可能性が問題となるのは、「教育がいかに可能か」という教育方法の問題や、「教育がどこまで可能か」という教育の限界の問題としてである場合が多い。",
"title": "教育の理論"
},
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"text": "教育の分類方法はいくつもある。 一般に教育は、行われる場に応じて学校教育 / 社会教育 / 家庭教育の3つに大きく分けて把握されている。",
"title": "教育の分類"
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"text": "年齢による分類もあり、乳児教育(あるいは「保育」とも) /幼児教育 / 児童教育 / 成人教育、に分類する方法もある。",
"title": "教育の分類"
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"text": "上記の3分類以外にも、企業が従業員(社員)の職業人としての資質を高めるために行う教育・訓練や、(従業員の)人間性を高めたり市民性 en:citizenship(自分が社会・共同体の一員だとの自覚を持ちそれに貢献すること)を育てるために行っている教育は「企業内教育」と呼ばれている。",
"title": "教育の分類"
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"text": "ひとりの子供が、家庭教育と学校教育の両方を受けている。",
"title": "教育の分類"
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"paragraph_id": 18,
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"text": "従来は、学校教育と社会教育は、行政上の制度としても別になっており、また教育を受ける人も教育を行う人も異なっていたため、それぞれ独自の方針を持つものとして機能したので上記のような概念枠で理解しても特には問題は無かったが、近年では社会が生涯学習社会へと方針を転換してきているため(つまり一旦学校を卒業した人々もその後に本格的に学習を行うようになってきたため)状況が変化してきている。生涯学習が広まってきたことにより、学校が(例えば大学や大学院が)ある程度以上の年齢の人々の生涯学習の場として活用されることが増え、それに伴い、学校側も従来のような(20代までの)若い人だけを念頭に置いた教育では学び手の要求にこたえられなくなってきており、変わりつつあるためである。",
"title": "教育の分類"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "なお、離れた場所に居る者に対して行われる教育は、遠隔教育(遠隔地教育)・通信教育という。最近では、世界の一流大学の一流の教授の講義がインターネット経由で公開され、国境を越え各地で受けることができるようになってきている。(MOOK)",
"title": "教育の分類"
},
{
"paragraph_id": 20,
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"text": "学校教育は、特定の集団に対して、一定の様式の学習内容をあらかじめ用意しておいて、組織化され体系化された教育活動を指す。一般的には、フォーマル教育は、生徒(学生)の集団に対して、その分野の教員資格を保持する者によって、授業を施すことを明確に目的とした環境(学校の施設。教室、体育館など)において、行われる。多くの学校制度はすべての教育選択肢、たとえばカリキュラム、物理的な教室設計、教師と生徒の相互作用、評価方法、クラスのサイズ、教育活動、その他多くの点について、理想の値・アイディアを中心に支配的に設定されている。",
"title": "教育の分類"
},
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"text": "教育機関などの組織化され構造化された環境で科目など明示的に指定され行われる学習をフォーマル(正式な)学習(Formal learning )、明示的に学習として指定されているわけではないが、学習サポートの観点から学校教育に組み込まれている学習をノンフォーマル学習、さらに、仕事、家族、余暇に関連する日常の活動から生じる学習を非公式の学習(Informal learning)という。こうした教員資格は、大学の教育学部や師範学校などで教師となるための専門教育を受けたものに与えられるが、教員資格を持たないものを教員として雇用することも、公教育の立ち上げ時や急拡大時など、有資格者の不足する場合においては行われることがある。こうした教員は代用教員と呼ばれ、戦前の日本や独立直後のアフリカ諸国などにおいて、初等教育においては広く行われた。なお、大学の教員になるには、教員資格は必要ない。",
"title": "教育の分類"
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"text": "学校教育において、その実践上の目的・内容・方法等をまとめたものを教育課程又はカリキュラムと呼ぶ。教育課程は、通例では初等教育・中等教育・高等教育の3段階に分け、この前に保育や幼児教育を位置づけることもある。",
"title": "教育の分類"
},
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"paragraph_id": 23,
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"text": "職業教育とは、直接的に特定の商業・工業に結び付く訓練志向の教育である。職業教育は職業高等学校や職業大学、専門学校といった学校教育に加え、徒弟制度やインターンシップの体系も取り、大工、農業、工学者、医師、建築家、芸術家などの分野がある。",
"title": "教育の分類"
},
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"text": "特別支援教育(Special education)は、障害のために公教育を受ける能力がない者に対しての教育である。",
"title": "教育の分類"
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"text": "オルタナティブ教育とは、「オルタナティブ」つまり「代わりに用いられる」教育のことで、フォーマルな教育以外の教育のことを指し、フリースクール、サポート校、ホームスクーリング(自宅ベース教育)、シュタイナー教育、などがこれに含まれる。",
"title": "教育の分類"
},
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"text": "社会教育とは、家庭教育と学校教育以外の、広く社会において行われる教育のことである。学校や家庭以外の社会のさまざまな場において行われている多様な教育活動が該当する。例えば、公民館(=文部科学省所管の国民のための生涯教育のための施設)、図書館、博物館、「文化センター」などの場である。",
"title": "教育の分類"
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{
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"text": "家庭教育とは、家庭において行われる教育のこと。家庭というのは家族という社会集団が生活をする場であるが、多機能であるので、教育も行われ得る。学校という制度ができてからは、その教育機能の一部が学校へと分離することになったが、家庭は学校と連携を持ちつつその教育機能を持ちつづけている。「家庭教育」と言っても、家庭という場とともに、ひとりひとりの家族との人間関係が重要な意味をもっていると言える。基礎的な価値観・徳をこどもに示すことはしつけと呼ばれている。",
"title": "教育の分類"
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"text": "教育の対象は他者であるとは限らず、自分自身であることもあり、その場合には自己教育(英: self-education, autodidacticism)と言うことがある。",
"title": "教育の分類"
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"text": "離れた場所に居る者に対して行われる教育は、遠隔教育(遠隔地教育)・通信教育という。最近では、世界の一流大学の一流の教授の講義がインターネット経由で公開され、国境を越え各地で受けることができるようになってきている。(MOOC)",
"title": "教育の分類"
},
{
"paragraph_id": 30,
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"text": "教育に関する制度を教育制度といい、主に学校教育が中心となるが、社会教育など学校外の制度もある。教育制度は、学校制度や義務教育の年限など、国によって異なっている。日本においては初等教育(小学校)ならびに前期中等教育(中学校)が義務教育となっているが、この年限は国によってまちまちで、後期中等教育(日本における高等学校にあたる)までを義務教育としている国家もあれば、初等教育のみを義務教育としている国家もある。しかし総じていえば、義務教育の規定のない国家は非常に少なく、ほとんどの国家においてはなんらかの形で義務教育期間が存在している。",
"title": "教育制度"
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"text": "教育に関する行政を教育行政、教育に関する政策を教育政策と呼ぶ。日本の教育政策については、日本の教育政策と教育制度を参照。教育政策の課題は国によって大きく異なっているが、先進国においてはおおむね社会的格差の解消や国際的な経済競争・知識社会化への対応などが、発展途上国の多くでは識字率・就学率の向上が、求められている。",
"title": "教育制度"
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"paragraph_id": 32,
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"text": "教育に関する法律を教育法と言う。条例等も含める場合には、教育法令と呼ぶ。",
"title": "教育制度"
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"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "教育の行われる施設を教育施設又は教育機関と呼ぶ。学校のみならず、図書館・博物館・美術館、公園、劇場、映画館のような娯楽施設も、広く社会において教育的な機能を果す施設を含めて考えられる。基本的な生活態度の養成という観点からは、家庭や地域社会での教育も含まれる。",
"title": "教育制度"
},
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"paragraph_id": 34,
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"text": "教育施設の中でももっぱら教育のために設立される施設を学校と呼ぶ。学校において行われる教育を学校教育と呼び、その就業年数や義務の有無など学校に関する制度を学校制度と言う。",
"title": "教育制度"
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{
"paragraph_id": 35,
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"text": "教育のために用いられる素材は、教材と呼ばれる。伝統的な教科書や黒板や従来から語学学習などで用いられてきた音声教材に加えて、近年では科学技術の発達に伴い、コンピュータ、マルチメディア、インターネットなどを積極的に活用する動きが高まっている。また、電子黒板やインターラクティブ・ホワイトボードなどの最新機器も用いられ始めている。",
"title": "教育の課程・内容・方法"
},
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"text": "知育・徳育・体育の分野がある。正確な知識という共通基盤がなければ正しいコミュニケーションや共同生活すら図れないし、またそうした知識をいかに活用していくかという、思考力・コミュニケーション能力・創造力等の技能も不可欠である。さらに、知識や技能のみならず、社会生活を営む上での基本的な道徳を教育することに価値を置く見解や、社会で生き抜く体力を重視する見解もある。教育の内容について詳しくは、「教科」を参照。また、新しい教育内容として、人権教育、環境教育、国際理解教育、性教育がある。",
"title": "教育の課程・内容・方法"
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"text": "教育方法に関しては大きく二つの立場が対立している。",
"title": "教育の課程・内容・方法"
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"text": "一つは、学問の体系的な構造に従って系統的に教育を行うべきだという、系統学習の立場である。これは特に教育段階が上がるにつれて教育内容が学問の体系に近づく。",
"title": "教育の課程・内容・方法"
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"paragraph_id": 39,
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"text": "その一方で、特に幼児・児童への教育を中心として、こどもの自発的な学びを尊重すべきだとする問題解決学習(進歩主義・児童中心主義・経験主義)の考えも強い。日本の小学校における生活科や小中学校の総合的な学習の時間は、この考えに影響を受けたものであると言われている。 なお、現段階の学校教育では成績や課題の提出の有無などを物差しで生徒を測る事で成績を測定するため、個性を伸ばす力がかけている。",
"title": "教育の課程・内容・方法"
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"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "教育を受けた個人に起こる変化を「教育効果」と呼ぶ。一般的には学力の向上が思い浮かべられることがある。現在の日本では、学校教育に関わる学力を紙面の試験で測定できるもの、とりわけ偏差値で計る傾向が強く、このことに対して強い批判が長年存在しつつも、受験現場では不可欠となっている実態がある。",
"title": "教育の課程・内容・方法"
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{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "教育効果に関する議論は、教育内容や教育方法などを改善する上で欠かせない一方、教育目的を測定可能なもののみに置き換えがちな点には注意が必要である。",
"title": "教育の課程・内容・方法"
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{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "教育に関わる問題、とりわけ教育が社会に関わる問題のことを教育問題という。特にその深刻さを強調する場合には、教育病理または教育危機とも呼ぶ。教育活動は複数の人間が集まって行われる以上、そこに必然的に社会が生まれる。学校や学級などはその例である。そこにおいて何らかの問題が生じることがあり、いじめ・不登校・学級崩壊、教員と児童・生徒・学生との権力関係などがここに含まれる。",
"title": "教育と社会"
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"text": "政治・経済・地域社会・文化などは教育活動に大きな影響を与えているが、こうした影響が問題を生じさせることがある。例えば、国の諸政策やマスコミによる報道などは、学校教育はもちろん家庭教育や社会教育にも大きな影響を与えている。",
"title": "教育と社会"
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"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "学校教育を含む教育活動は、社会一般に対しても大きな影響を与える。狭義で教育問題とは、この局面で生じる問題を指すことがある。学歴・管理教育・偏差値・非行・少年犯罪・学力低下など学習者、特にこどもを通じて結果として社会に与える影響の他にも、教師のあり方や学校・大学のあり方、学閥などの問題として、教育問題は広く社会病理の一領域をなしている。",
"title": "教育と社会"
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"paragraph_id": 45,
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"text": "教育社会学では、教育が社会に及ぼす効果として、経済・政治・社会などに与えるものが議論されている。",
"title": "教育と社会"
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{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "教育を行った結果としてどのようなことが起こるかについては、個人に与える影響と社会に与える影響の両面がある。エミール・デュルケームは、近代における教育の機能を「方法的社会化」であると捉え、政治社会と個々人の双方が必要とする能力・態度の形成であるとした。なお、教育が適切な効果・機能を果していない場合には、「教育の機能不全」、教育がむしろ否定的な効果・機能を果している場合には「教育の逆機能」と呼ばれることがある。",
"title": "教育と社会"
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{
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"text": "学校を軍隊・病院・監獄などと同様の近代特有の権力装置であるとしたミシェル・フーコー 、学校教育が近代社会に支配的な国家のイデオロギー装置であると論じたルイ・アルチュセール、教育が文化的・階級的・社会的な不平等や格差を再生産または固定化する機能を果しているピエール・ブルデュー、バジル・バーンスタイン、サミュエル・ボールズとハーバート・ギンタス、教育は家父長制を再生産しているとのフェミニズムからの議論、教育は社会の多数派の文化を押し付けているという多文化主義からの議論、などが有名である。",
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"paragraph_id": 48,
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"text": "また、政治面では、開発学においては識字率の上昇が民主化に寄与すると考えられることが多いが、識字率と民主化との間の相関は一般に考えられている程には高くなくむしろその反例も見つかることから、この考えは「西欧市民社会の誤謬である可能性」を指摘する見解がある。そのほか社会的な面においては、教育の普及が男女や階級の平等に寄与するといった主張や、教育水準の上昇が幼児死亡率や衛生状態の改善に寄与するといった主張などがある。",
"title": "教育と社会"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "人間の幸福になれる、幸福になれないというのは、知能指数(IQ)ではなく、他の人々の気持ちが分かる、などといった感情指数(EQ)のほうが、影響が大きいということが、近年の研究で明らかになってきている。それどころか、卒業後の人生を追跡調査してみると、IQばかりが高い人は、EQが高い人と比べてその後の人生では、職業や家族などの点で恵まれず、当人も幸福を感じる割合が低かった。端的に言えば、知能ばかりを上げることを目標とした教育を受けても、教育は幸福の役に立つどころか、かえって人を不幸にしてしまう。",
"title": "教育と社会"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "政治面では、各国において教育年数が長いほどおおむね個人主義的・革新的価値観を持つ者が増えることが明らかになっている。",
"title": "教育と社会"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "アメリカ合衆国の教育機関における教員の政治的傾向の調査によれば、リベラルは保守より優勢であり、特に大学でこの傾向が強く、大学の人文学専攻での割合は共和党支持者1人に対して民主党支持者5人、社会科学系では共和党支持者1人に対して民主党支持者8人にのぼった。アメリカの四年制大学の教授を対象とした調査では、50%が民主党、39%が支持政党なし、11%が共和党支持で、二年制大学を含む全大学教授を対象とした調査では、51%が民主党、35%が支持政党なし、14%が共和党だった。リベラル優勢の傾向は、エリート校になるにつれ高まり、四年制のリベラルアーツ系大学と博士課程を持つエリート大学の方が、コミュニティカレッジよりも、リベラルの割合が高い。また、K-12(幼稚園から高校)の教育でも同様で、K-12の公立校の先生の支持政党は、45%が民主党、30%が共和党、25%が支持政党なしという結果だった。",
"title": "教育と社会"
},
{
"paragraph_id": 52,
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"text": "前節で説明した通り、アメリカの大学教員における政治的傾向では民主党支持者(左派リベラル)が50%で共和党支持者(保守)が11%と、リベラルが優勢である。",
"title": "教育と社会"
},
{
"paragraph_id": 53,
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"text": "これに対して、日本では自民党は学歴問わず最も支持される政党である。ただし、学歴が高いほど自公支持率は低くなる傾向が見られ、支持政党なしが選択される傾向にある。明るい選挙推進協会による2017年(平成29年)10月22日の第48回衆議院選挙の調査、および令和元年(2019年)の第25回参議院議員通常選挙調査でも概ね同傾向にあった。",
"title": "教育と社会"
},
{
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"text": "",
"title": "教育と社会"
},
{
"paragraph_id": 55,
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"text": "経済面においては、進学率の上昇による労働者の質的向上が経済成長を押し上げる効果があることが指摘されている(教育の経済効果)。",
"title": "教育と経済"
},
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"paragraph_id": 56,
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"text": "教育がもたらすこれらの肯定的な機能に対しては疑問の声も一部で上がっている。例えば、発展途上国においては、基礎的な教育の実施で期待される所得・生産性の向上や市場経済への移行などといった経済効果や、政治における民主化の前進、社会における人口の抑制などといった効果が、必ずしも顕著には現れていないことが指摘されている。",
"title": "教育と経済"
},
{
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"text": "国際人権規約は教育を受ける権利を定めている。",
"title": "教育と経済"
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"text": "フランスでは、教育を受ける権利の理念にもとづいた制度が徹底しており、国・公立の教育施設においては、幼児教育から大学教育まで授業料が一切無料で、教育を受けたい人は、親の経済状態などにかかわらず教育を受けることができる。誰が教育費を捻出するかは、《教育を受ける権利》と大いに関係してくる。教育費を子供が負担するとすると、収入が無い子供は捻出できず。また、親が全て出すとすると、富裕層が教育を受け、貧困層は教育が受けられず、教育を受ける権利が守られず、教育格差が生まれる。子供は親を選んで生まれてくることができない。親の状態によって教育が受けられる/受けられないなどという差が生まれてしまうようでは、本人の素質や努力によってどうにもならない「生まれ」によって人間が根本的に差別されてしまう、ということで、基本的に人道に反した状態であるということになる。つまり、《教育を受ける権利》を守るためには、教育費は公的に捻出されなければならない。すなわち、国家や地方政府が出すということにしなければ、子供が《教育を受ける権利》が守られないことになってしまい、非人道的な状態になってしまうわけである。",
"title": "教育と経済"
},
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"tag": "p",
"text": "フランスでは公共機関が行う教育(国立や公立の 幼稚園から大学まで)の授業料が全て無料である。ドイツも小学校から、大学、大学院に至るまで、公立校ならば学費が無料である。",
"title": "教育と経済"
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"text": "一方、イギリスではインデペンデント・スクールが運営財源を国に頼らず、授業料、寄付、寄付の投資の利子で補っていおり、政府・国家からの独立・自立を実践している。また、ボーディングスクールはスイス、ドイツ、イギリス、アメリカ、カナダ、香港、中国、日本にもあり、世界の富裕層に支持されている。スイスのル・ロゼは年間学費は1200万円を超える。元英国首相のウィンストン・チャーチルや、インドの首相ジャワハルラール・ネルーらを輩出したイギリスのハロウスクールなどもある。",
"title": "教育と経済"
},
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"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "日本では、教育費のうちで国や自治体が費用を出している比率が(世界の先進諸国の中で比較しても)低く、さらに少子化および少子高齢化が進んでいる。また、日本での教育格差も厳然と存在しており、東京大学生徒の親の収入は平均約1000万円で、東京大学合格者は学費の高額な中高一貫校出身者が多くを占めている。",
"title": "教育と経済"
},
{
"paragraph_id": 62,
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"text": "アメリカの公共経済学教授ブライアン・カプランは、学校教育は教育内容よりも学歴(シグナリング)が重視されるが、その点からいえば、学校教育のほとんどは無駄なシグナリングであり、政府も教育支出を削減すべきであるとする。カプランは、歴史、社会、美術、音楽、外国語などは、社会に出ても役に立つことはなく、学生もすぐに忘れるほどで、単に時間の無駄となっており、必須科目から選択制にしたり、または授業の水準をあげて成績下位の生徒を落第にすれば無駄はなくなるともいえるが、しかし、「税金を使って非実用的な教科を教える授業の廃止」が最も有効であると主張する。カプランは、「なぜ美術を勉強するという選択肢に公費をかけて納税者が負担しなければならないのか。それより、公立大学の非実用的な学部は閉鎖し、政府の助成金やローンを受けられない私立大学に非実用的な専攻の学科を創設すればいい」と提案し、現在問題になっている高額授業料にしても、無益な進学を抑制しているだけでなく、専攻の最適化にも役立っていると述べる。",
"title": "教育と経済"
},
{
"paragraph_id": 63,
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"text": "収入面での効果が、比較的多くの人々の関心を集めている。各国においては、学歴が上がるほど生涯賃金も上がる傾向にある。",
"title": "教育と経済"
},
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"paragraph_id": 64,
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"text": "しかし日本においては、実際のデータを見てみると学歴による生涯賃金の差は比較的小さいという見解もある。単年度の見かけの給与はともかくとして、学校に通うことで働いて収入を得る年数が減る分、生涯賃金があまり増えない。特に大学院などは、(全日制で)大学院まで進むと、統計的に見て大卒よりもかえって生涯賃金は下がる場合が多い、とのデータもある。一般論として言えば日本の企業は大学院修了者をあまり歓迎していない。日本においては、教育を投資と考える傾向は低い。また、2005年現在の日本の社会では、「勉強して良い大学に入れば、良い企業に入れる」という仕組みはすでに崩れてきたことが幾人かの論者によって指摘されている。例えば関東圏で例を挙げると、東京大学や他の六大学などを卒業していてもフリーターになってしまう可能性もある。",
"title": "教育と経済"
},
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"text": "教育の商業化、教育の市場化なども問題とされている。",
"title": "教育と経済"
},
{
"paragraph_id": 66,
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"text": "1950年代からマネタリスト経済学者ミルトン・フリードマンが教育の市場化を目指し、教育バウチャーを提唱した。近年は、元ハーバード大学学長のデレック・ボックが大学の商業化を批判している。ほか、市場原理の大学への導入を「アカデミック・キャピタリズム」として批判されることもある",
"title": "教育と経済"
},
{
"paragraph_id": 67,
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"text": "日本でも高等教育の市場化が問題とされている。 大学改革において、2004年に国立大学が独立行政法人の国立大学法人に移行したが、有馬朗人元東京大学学長らが失敗であったと批判している",
"title": "教育と経済"
},
{
"paragraph_id": 68,
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"text": "近年、OECD生徒の学習到達度調査(PISA)事業において、成績の高い先進国がグローバル教育政策市場を開拓し、自国の教育モデルを海外に売る「教育の輸出」現象が生起していると指摘されている。",
"title": "教育と経済"
}
] | 教育という語は多義的に使用されており、以下のような意味がありうる。 教え育てること。
知識、技術などを教え授けること。
人を導いて善良な人間とすることl。
人間に内在する素質、能力を発展させ、これを助長する作用。
人間を望ましい姿に変化させ、価値を実現させる活動。 | {{Otheruses|一般的な概念としての教育}}
[[File:Diego Suarez Antsiranana urban public primary school (EPP) Madagascar.jpg|thumb|250px|[[マダガスカル]]での[[初等教育]]の風景]]
[[File:US Navy 100305-N-7676W-182 Cmdr. Jim Grove, from the Office of Naval Research Navy Reserve Program 38, left, helps tudents from McKinley Technology High School make adjustments to their robot.jpg|thumb|right|250px|FIRST Robotics Competitionにおける学生[[徒弟]]]]
'''教育'''(きょういく、{{lang-en|education}})という語は<u>多義的に使用されており</u><ref name="britannica">ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典</ref>、以下のような意味がありうる。
*教え育てること<ref name="britannica" />。
*[[知識]]、[[技術]]などを教え授けること<ref name="britannica" />。
*人を導いて善良な人間とすること<ref name="britannica" />l。
*[[人間]]に内在する素質、能力を発展させ、これを助長する作用<ref name="britannica" />。
*人間を望ましい姿に変化させ、価値を実現させる活動<ref name="britannica" />。
== 定義 ==
;語源・語義からの定義
漢語としての「教育」は、『[[孟子 (書物)|孟子]]』に「得天下英才、而教育之、三楽也」(天下の英才を得て、而して之を教育するは、三の楽しみなり)とあるのが初めである。
語源・語義からの定義の例を挙げると、「{{Lang-en|education}}」や「{{Lang-fr|éducation}}」は、{{lang-la|ducere}}(連れ出す・外に導き出す)という語に由来することから、「教育とは、人の持つ諸能力を引き出すこと」とする。
;リチャード・ピーターズの定義
[[リチャード・ピーターズ]]([[:en:Richard Stanley Peters]])は、「教育を受けた者」という概念の内在的な意味を探求し、[[自由教育]]([[教養課程と専門課程|教養教育]])の立場から「教育」を次の3つの基準を満たす活動として限定的に定義した<ref>[[分析哲学]]の影響を受けた[[リチャード・ピーターズ]]による。Peters, R. S. ''Ethics and Education'' London, Allen and Unwin, 1966.</ref>。
# 教育内容 - 価値あるものの伝達
# 教育効果 - ものの見方が広がる
# 教育方法 - 学習者の理解を伴う
[[高等動物]]では教育または[[しつけ]]に近い行動が見られる例があり、[[ネコ|猫]]などの[[肉食獣]]では子供に狩りの練習をさせるために弱らせた獲物をあてがう。以下では、[[人間]][[社会]]における教育について述べる。
== 歴史 ==
[[File:Laurentius de Voltolina 001.jpg|thumb|right|220px|最古の大学ともされる[[ボローニャ大学]]での講義風景]]
{{Main|教育史|西洋教育史|日本教育史}}
教育に関する[[歴史]]を[[教育史]]と呼ぶ。[[家庭教育]]や[[社会教育]]も念頭に置けば、教育は人類の有史以来存在してきたものと考えることができる<ref group="註">聖書では子を教えるのは親の責任とされている([[s:申命記(口語訳)#6:4|申命記(口語訳)#6:4-7]])</ref>。
制度化された教育について、[[西洋]]では[[古代ギリシア]]まで遡ることが一般的である。高等教育機関は古代より世界各地に存在してきたが、現代の大学につながる高等教育機関が成立したのはヨーロッパの[[中世]]においてであって、11世紀末には[[イタリア]]の[[ボローニャ]]で[[ボローニャ大学]]が成立していたという。近代教育につながる教育学の祖形は、17世紀に[[コメニウス]]によって作られた。18世紀に入ると[[ジャン=ジャック・ルソー]]が「[[エミール]]」を著し、この影響を受けた[[ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ]]によって学校教育の方法論が確立された。またペスタロッチは主に初等教育分野に貢献したのに対し、彼の影響を受けた[[フリードリヒ・フレーベル]]は幼児教育に、[[ヨハン・フリードリヒ・ヘルバルト]]は高等教育に大きな足跡を残した。19世紀に入ると[[産業革命]]以降の[[労働者]]の必要性から、民衆に対する教育の必要性が強く叫ばれるようになり、多くの国で公教育が導入され、初等教育については義務化される国が現れ始めた。この[[義務教育]]化の流れは産業化された国々を中心に広がっていったものの、多くの国で[[国民]]に対する[[一般教育]]が[[公教育]]として施行されるようになったのは、[[20世紀]]に入ってからである。また、特にヨーロッパや[[南アメリカ]]のカトリック圏諸国においては、初等教育を国家ではなく教会が担うべきとの意見が根強く、19世紀における主要な政治の争点のひとつとなった。この論争は20世紀に入るころにはほとんど国家側の勝利となり、ほとんどの国で初等教育は基本的に国家が担うものとなっていった。[[第二次世界大戦後]]に独立した[[アジア]]や[[アフリカ]]の新独立国においても教育は重視され、各国政府は積極的に学校を建設し、教育を行っていった。これにより、世界の[[識字率]]は20世紀を通じて上昇を続け、より多くの人々に公教育が与えられるようになっていった。
文献上で確認できる日本で初めて作られた教育制度は、[[701年]]の[[大宝律令]]である。その後も[[貴族]]や[[武士]]を教育する場が存在し、[[江戸時代]]に入ると一般庶民が学ぶ[[寺子屋]]が設けられるようになった。[[初等教育]]から[[高等教育]]までの近代的な[[学校制度]]が確立するのは[[明治]]時代である。[[第二次世界大戦後]]の教育は、[[日本国憲法]]と[[教育基本法]]に基づいている。
== 教育の理論 ==
=== 教育学 ===
{{Main|教育学}}
教育を[[研究]]の対象とする[[学問]]を[[教育学]]と言う。教育学は、[[哲学]]・[[心理学]]・[[社会学]]・[[歴史学]]などの研究方法を利用して、教育とそれに関連する種々の事物・理念を研究する。[[教育哲学]]・[[教育社会学]]・[[教育心理学]]・[[教育史学]]などの基礎的な分野のほか、[[教育方法論]]・[[臨床教育学]]・[[教科教育学]]などの実践的分野がある。各国における教育学のあり方は、その国の[[教員養成]]のあり方とも密接に関わっている場合が多い。
=== 教育哲学 ===
{{Main|教育哲学}}
教育の目的([[教育目的]]又は[[教育目標]])をどうとらえるかで2つの立場が存在してきた。
# [[道徳主義]] - [[政治]]や[[社会]]、[[道徳]]や[[倫理]]と言った教育の外にあるものから教育目的を定めるもの(例 [[アリストテレス]]の[[徳]]<ref> [[アリストテレス]] 『[[ニコマコス倫理学]]』・『[[政治学 (アリストテレス)|政治学]]』</ref>)
# [[機能主義]] - 教育それ自体が上手くいくように教育目的を定めるもの(例 [[ジョン・デューイ]]の[[プラグマティズム]]<ref>[[ジョン・デューイ|J・デューイ]] 『[[民主主義と教育]]』など</ref>)
道徳主義の教育目的では、伝統的に、[[個人]]の[[発達]]・[[幸福]]のためとするか、[[社会]]の維持・発展のためとするかで論争がある。前者は[[教養課程と専門課程|教養教育]]・[[自由教育]]の立場で、人が一人の人間として豊かで幅広い[[教養]]を身につけることで、人が[[人間]]らしく生きることができるという考えである。こうした考え方は、一部の[[中等教育]]・[[高等教育]]で[[リベラルアート]]教育として実現している。他方、教育の目的を社会的な必要という観点から捉え、[[実学]]を重視する立場もある。[[専門学校]]・[[専門職大学院]]などはこの現れである。
教育を行う理由のことを、教育の[[正当性 (哲学)|正当性]]と呼ぶことがある{{要出典|date=2010年4月}}。これには、教育の必要性と教育の可能性の二面から論じられることが多い。
なぜ教育が欠けてはならないのかという問題について、[[イマヌエル・カント]]は「人は教育によって[[人間]]になる」と述べ、人間らしく生きるために教育が必要であると論じた<ref> [[イマヌエル・カント|I・カント]] 『[[教育学講義]]』</ref>。[[学び]]の[[意欲]]を喪失した[[青年|若者]]が多いといわれる現代において、なぜ教育が必要かが改めて問われる状況にある。
しかし教育が必要であるとしても、それが人間にとって可能なものでなければ、教育はやはり正当性を失うことになる。例えば、[[プラトン]]は「[[徳]]は教えうるか」と問い、哲人統治者としての自然的素養を重視した<ref> [[プラトン]] 『[[国家]]』</ref>。現在において教育可能性が問題となるのは、「教育がいかに可能か」という[[教育方法]]の問題や、「教育がどこまで可能か」という教育の限界の問題としてである場合が多い{{要出典|date=2010年4月}}。
== 教育の分類 ==
教育の分類方法はいくつもある。
一般に教育は、行われる場に応じて[[学校教育]] / [[社会教育]] / [[家庭教育]]の3つに大きく分けて把握されている<ref name="kawamoto">{{Cite book|和書|title=教育原理|author=川本亨二|publisher=日本文化科学社|year=1995}}</ref>。
[[年齢]]による分類もあり、[[乳児教育]](あるいは「[[保育]]」とも) /[[幼児教育]] / [[児童教育]] / [[成人教育]]、に分類する方法もある。
=== 家庭教育・学校教育・社会教育 ===
*「'''[[家庭教育]]'''」とは、[[家庭]]において行われる教育のこと。家庭というのは[[家族]]という社会集団が生活をする場であるが、多機能であるので、教育も行われ得る<ref name="kawamoto" />。学校という制度ができてからは、その教育機能の一部が学校へと分離することになったが、家庭は学校と連携を持ちつつその教育機能を持ちつづけている<ref name="kawamoto" />。「家庭教育」と言っても、家庭という場とともに、ひとりひとりの[[家族]]との[[人間関係]]が重要な意味をもっていると言える<ref name="kawamoto" />。基礎的な[[価値観]]・[[徳]]をこどもに示すことは[[しつけ]]と呼ばれている<ref group="註" name="しつけ">家庭教育のうち人間社会において基礎的な[[価値]]観・[[態度]]・[[徳]]をこどもに示すことは特に[[しつけ]]と呼ばれる。</ref>。
*「'''[[学校教育]]'''」とは、[[学校]]において行われる教育のこと。特にこどもに対して、定められた学校で、教えることを専門とする教職員によって計画的・組織的・継続的に行われる<ref name="kawamoto" />。しばしば「教育」というと、この学校教育が連想されるほどに、学校は教育の場の中核を成している。だが、こうした学校中心の教育観には問題がある<ref name="kawamoto" />。
*「'''[[社会教育]]'''」とは、家庭教育と学校教育以外の<ref name="kawamoto" />、広く[[社会]]において行われる教育のことである。学校や家庭以外の社会のさまざまな場において行われている多様な教育活動が該当する。例えば、[[公民館]](=文部科学省所管の国民のための生涯教育のための施設)、[[図書館]]、[[博物館]]、「[[文化センター]]」などの場である。
上記の3分類以外にも、企業が[[従業員]]([[社員]])の職業人としての資質を高めるために行う教育・訓練や、(従業員の)[[人間性]]を高めたり[[市民性]] [[:en:citizenship]](自分が[[社会]]・[[共同体]]の一員だとの自覚を持ちそれに貢献すること)を育てるために行っている教育は「[[企業内教育]]」と呼ばれている<ref name="kawamoto" />。
ひとりの子供が、家庭教育と学校教育の両方を受けている<ref name="kawamoto" />。
従来は、学校教育と社会教育は、行政上の制度としても別になっており、また教育を受ける人も教育を行う人も異なっていたため、それぞれ独自の方針を持つものとして機能したので上記のような概念枠で理解しても特には問題は無かったが、近年では社会が[[生涯学習]]社会へと方針を転換してきているため(つまり一旦学校を卒業した人々もその後に本格的に学習を行うようになってきたため)状況が変化してきている<ref name="kawamoto" />。生涯学習が広まってきたことにより、学校が(例えば[[大学]]や[[大学院]]が)ある程度以上の年齢の人々の生涯学習の場として活用されることが増え、それに伴い、学校側も従来のような(20代までの)若い人だけを念頭に置いた教育では学び手の要求にこたえられなくなってきており<ref name="kawamoto" />、変わりつつあるためである。
なお、離れた場所に居る者に対して行われる教育は、[[遠隔教育]](遠隔地教育)・[[通信教育]]という。最近では、世界の一流大学の一流の教授の講義がインターネット経由で公開され、国境を越え各地で受けることができるようになってきている。([[MOOK]])
=== 学校教育 ===
[[File:Iraqi schoolgirls.jpg|thumb|right|150px|[[イラク]]で中等教育を受けている女性たち]]
{{See also|学校教育}}
[[学校教育]]は、特定の集団に対して、一定の様式の学習内容をあらかじめ用意しておいて、組織化され体系化された教育活動を指す。一般的には、フォーマル教育は、生徒(学生)の集団に対して、その分野の[[教員資格]]を保持する者によって、授業を施すことを明確に目的とした環境([[学校]]の施設。教室、体育館など)において、行われる。多くの学校制度はすべての教育選択肢、たとえばカリキュラム、物理的な教室設計、教師と生徒の相互作用、評価方法、クラスのサイズ、教育活動、その他多くの点について、理想の値・アイディアを中心に支配的に設定されている<ref>{{Cite web|url = http://enhancinged.wgbh.org/started/what/formal.html|title = Enhancing Education|date = |accessdate = 2016-02-01 }}</ref>。
[[教育機関]]などの組織化され構造化された環境で[[科目]]など明示的に指定され行われる学習をフォーマル(正式な)学習(Formal learning )、明示的に学習として指定されているわけではないが、学習サポートの観点から学校教育に組み込まれている学習をノンフォーマル学習、さらに、仕事、家族、余暇に関連する日常の活動から生じる学習を非公式の学習(Informal learning)という<ref>{{Cite web|url = http://www.competencecentre.eu/index.php/home/74-what-is-the-difference-between-qinformalq-and-qnon-formalq-learning|title = Perspectives Competence Centre, Lifeling Learning Programme|date = |accessdate = 2016-01-01|archiveurl = https://web.archive.org/web/20141015103040/http://www.competencecentre.eu/index.php/home/74-what-is-the-difference-between-qinformalq-and-qnon-formalq-learning|archivedate = 2014年10月15日|deadlinkdate = 2017年10月}}</ref>。こうした教員資格は、大学の[[教育学部]]や[[師範学校]]などで教師となるための専門教育を受けたものに与えられるが、教員資格を持たないものを教員として雇用することも、公教育の立ち上げ時や急拡大時など、有資格者の不足する場合においては行われることがある。こうした教員は[[代用教員]]と呼ばれ、戦前の日本や独立直後のアフリカ諸国などにおいて、初等教育においては広く行われた。なお、[[大学教授|大学の教員]]になるには、教員資格は必要ない。
{{Main2|各国の教育達成段階|国際標準教育分類#統計}}
学校教育において、その実践上の目的・内容・方法等をまとめたものを[[教育課程]]又は[[カリキュラム]]と呼ぶ。教育課程は、通例では[[初等教育]]・[[中等教育]]・[[高等教育]]の3段階に分け、この前に[[保育]]や[[幼児教育]]を位置づけることもある。
{{See also|就学前教育|初等教育|中等教育|高等教育}}
=== 職業教育 ===
[[職業教育]]とは、直接的に特定の商業・工業に結び付く訓練志向の教育である。職業教育は[[職業高等学校]]や[[職業大学]]、[[専門学校]]といった学校教育に加え、[[徒弟制度]]や[[インターンシップ]]の体系も取り、大工、農業、工学者、医師、建築家、芸術家などの分野がある。
=== 特別支援教育 ===
[[特別支援教育]](Special education)は、障害のために公教育を受ける能力がない者に対しての教育である。
=== オルタナティブ教育 ===
[[File:Homeschooler_with_Project.jpg|thumb|right|180px|[[ホームスクーリング]]でタワーの模型を作り、構造物の構成法を学ぶ男の子。]]
{{Main|オルタナティブ教育}}
オルタナティブ教育とは、「オルタナティブ」つまり「代わりに用いられる」教育のことで、フォーマルな教育以外の教育のことを指し、[[フリースクール]]、[[サポート校]]、[[ホームスクーリング]](自宅ベース教育)、[[シュタイナー教育]]、などがこれに含まれる。
=== ノン・フォーマル教育 ===
{{Main|ノンフォーマル教育}}
[[社会教育]]とは、家庭教育と学校教育以外の<ref name="kawamoto" />、広く[[社会]]において行われる教育のことである。学校や家庭以外の社会のさまざまな場において行われている多様な教育活動が該当する。例えば、[[公民館]](=文部科学省所管の国民のための生涯教育のための施設)、[[図書館]]、[[博物館]]、「[[文化センター]]」などの場である。
=== イン・フォーマル教育 ===
{{Main|インフォーマル教育}}
[[家庭教育]]とは、[[家庭]]において行われる教育のこと。家庭というのは[[家族]]という社会集団が生活をする場であるが、多機能であるので、教育も行われ得る<ref name="kawamoto" />。学校という制度ができてからは、その教育機能の一部が学校へと分離することになったが、家庭は学校と連携を持ちつつその教育機能を持ちつづけている<ref name="kawamoto" />。「家庭教育」と言っても、家庭という場とともに、ひとりひとりの[[家族]]との[[人間関係]]が重要な意味をもっていると言える<ref name="kawamoto" />。基礎的な[[価値観]]・[[徳]]をこどもに示すことは[[しつけ]]と呼ばれている<ref group="註" name="しつけ" /><ref name="kawamoto">{{Cite book|和書|title=教育原理|author=川本亨二|publisher=日本文化科学社|year=1995}}</ref>。
=== 自己教育 ===
{{Main|独学}}
教育の対象は他者であるとは限らず、自分自身であることもあり、その場合には[[自己教育]]({{lang-en-short|self-education, autodidacticism}})と言うことがある。
=== オープン教育 ===
離れた場所に居る者に対して行われる教育は、[[遠隔教育]](遠隔地教育)・[[通信教育]]という。最近では、世界の一流大学の一流の教授の講義がインターネット経由で公開され、国境を越え各地で受けることができるようになってきている。([[Massive open online course|MOOC]])
== 教育制度 ==
{{Main|教育制度}}
教育に関する[[制度]]を[[教育制度]]といい、主に[[学校教育]]が中心となるが、社会教育など学校外の制度もある。教育制度は、[[学校制度]]や[[義務教育]]の年限など、国によって異なっている。日本においては初等教育([[小学校]])ならびに前期中等教育([[中学校]])が義務教育となっているが、この年限は国によってまちまちで、後期中等教育(日本における[[高等学校]]にあたる)までを義務教育としている国家もあれば、初等教育のみを義務教育としている国家もある。しかし総じていえば、義務教育の規定のない国家は非常に少なく、ほとんどの国家においてはなんらかの形で義務教育期間が存在している。
=== 教育行政・教育政策 ===
{{Main|教育行政}}
教育に関する[[行政]]を[[教育行政]]、教育に関する[[政策]]を[[教育政策]]と呼ぶ。日本の教育政策については、[[教育#教育制度|日本の教育政策と教育制度]]を参照。教育政策の課題は国によって大きく異なっているが、[[先進国]]においてはおおむね[[格差社会|社会的格差]]の解消や[[国際]]的な[[経済競争]]・[[知識社会]]化への対応などが、[[開発途上国|発展途上国]]の多くでは[[識字率]]・[[就学率]]の向上が、求められている。
教育に関する法律を[[教育法]]と言う。[[条例]]等も含める場合には、[[教育法令]]と呼ぶ。
=== 教育施設 ===
{{Main|教育機関|学校}}
教育の行われる[[施設]]を[[教育施設]]又は[[教育機関]]と呼ぶ。学校のみならず、[[図書館]]・[[博物館]]・[[美術館]]、[[公園]]、[[劇場]]、[[映画館]]のような[[娯楽施設]]も、広く社会において教育的な機能を果す施設を含めて考えられる。基本的な生活態度の養成という観点からは、[[家庭]]や[[地域社会]]での教育も含まれる。
教育施設の中でももっぱら教育のために設立される施設を[[学校]]と呼ぶ。学校において行われる教育を[[学校教育]]と呼び、その就業年数や義務の有無など学校に関する制度を[[学校制度]]と言う。
== 教育の課程・内容・方法 ==
教育のために用いられる素材は、[[教材]]と呼ばれる。伝統的な[[教科書]]や[[黒板]]や従来から[[語学]]学習などで用いられてきた音声教材に加えて、近年では科学技術の発達に伴い、[[コンピュータ]]、[[マルチメディア]]、[[インターネット]]などを積極的に活用する動きが高まっている。また、[[電子黒板]]や[[インターラクティブ・ホワイトボード]]などの最新機器も用いられ始めている。
=== 教育内容 ===
知育・徳育・体育の分野がある。正確な[[知識]]という共通基盤がなければ正しいコミュニケーションや共同生活すら図れないし、またそうした知識をいかに活用していくかという、[[思考力]]・[[コミュニケーション]]能力・[[創造力]]等の技能も不可欠である。さらに、知識や技能のみならず、社会生活を営む上での基本的な道徳を教育することに価値を置く見解や、社会で生き抜く体力を重視する見解もある。教育の内容について詳しくは、「[[教科]]」を参照。また、新しい教育内容として、[[人権教育]]、[[環境教育]]、[[国際理解教育]]、[[性教育]]がある。
=== 教育方法 ===
教育方法に関しては大きく二つの立場が対立している。
一つは、[[学問]]の体系的な構造に従って系統的に教育を行うべきだという、[[系統学習]]の立場である。これは特に教育段階が上がるにつれて教育内容が学問の体系に近づく。
その一方で、特に[[子供|幼児]]・[[児童]]への教育を中心として、こどもの自発的な[[学び]]を尊重すべきだとする[[問題解決学習]]([[進歩主義]]・[[児童中心主義]]・[[経験主義]])の考えも強い。日本の小学校における[[生活科]]や小中学校の[[総合的な学習の時間]]は、この考えに影響を受けたものであると言われている。
なお、現段階の学校教育では成績や課題の提出の有無などを物差しで生徒を測る事で成績を測定するため、個性を伸ばす力がかけている{{要出典|date=2023年3月}}。
=== 教育効果 ===
教育を受けた[[個人]]に起こる変化を「[[教育効果]]」と呼ぶ。一般的には[[学力]]の向上が思い浮かべられることがある。現在の日本では、[[学校教育]]に関わる学力を紙面の[[試験]]で[[測定]]できるもの、とりわけ[[偏差値]]で計る傾向が強く、このことに対して強い批判が長年存在しつつも、[[受験]]現場では不可欠となっている実態がある。
教育効果に関する議論は、[[教育内容]]や[[教育方法]]などを改善する上で欠かせない一方、[[教育目的]]を[[測定]]可能なもののみに置き換えがちな点には注意が必要である{{要出典|date=2023年3月}}。
== 教育と社会 ==
=== 教育問題 ===
{{Main|教育問題}}
教育に関わる問題、とりわけ教育が社会に関わる問題のことを[[教育問題]]という。特にその深刻さを強調する場合には、[[教育病理]]または[[教育危機]]とも呼ぶ。教育活動は複数の人間が集まって行われる以上、そこに必然的に社会が生まれる。学校や[[学級]]などはその例である。そこにおいて何らかの問題が生じることがあり、[[いじめ]]・[[不登校]]・[[学級崩壊]]、[[教員]]と[[児童]]・[[在籍者 (学習者)|生徒]]・[[在籍者 (学習者)|学生]]との[[権力]]関係などがここに含まれる。
政治・経済・地域社会・文化などは教育活動に大きな影響を与えているが、こうした影響が問題を生じさせることがある。例えば、国の諸[[政策]]や[[報道機関|マスコミ]]による[[報道]]などは、[[学校教育]]はもちろん[[家庭教育]]や[[社会教育]]にも大きな影響を与えている。
学校教育を含む教育活動は、社会一般に対しても大きな影響を与える。狭義で教育問題とは、この局面で生じる問題を指すことがある。[[学歴]]・[[管理教育]]・[[偏差値]]・[[非行]]・[[少年犯罪]]・[[学力低下]]など[[学習者]]、特に[[子供|こども]]を通じて結果として社会に与える影響の他にも、[[教員|教師]]のあり方や[[学校]]・[[大学]]のあり方、[[学閥]]などの問題として、教育問題は広く社会病理の一領域をなしている。
=== 教育社会学 ===
{{Main|教育社会学}}
[[教育社会学]]では、教育が社会に及ぼす効果として、経済・政治・社会などに与えるものが議論されている。
教育を行った結果としてどのようなことが起こるかについては、[[個人]]に与える影響と[[社会]]に与える影響の両面がある。[[エミール・デュルケーム]]は、[[近代]]における教育の[[機能]]を「方法的社会化」であると捉え、[[政治|政治社会]]と個々人の双方が必要とする[[能力]]・[[態度]]の形成であるとした<ref> [[エミール・デュルケーム|E・デュルケーム]] 『[[教育と社会学]]』 [[佐々木交賢]]訳 [[誠信書房]] 1922=1976年 (新装版 1982年 ISBN 978-4-414-51703-3) </ref>。なお、教育が適切な効果・機能を果していない場合には、「教育の機能不全」、教育がむしろ否定的な効果・機能を果している場合には「教育の[[逆機能]]」と呼ばれることがある。
[[学校]]を[[軍隊]]・[[病院]]・[[監獄]]などと同様の[[近代]]特有の[[権力]][[装置]]であるとした[[ミシェル・フーコー]] <ref> [[ミシェル・フーコー|M・フーコー]] 『[[監獄の誕生|監獄の誕生――監視と処罰]]』 田村俶訳 1975=1977年</ref>、学校教育が近代社会に支配的な[[国家]]の[[イデオロギー]]装置であると論じた[[ルイ・アルチュセール]]<ref> [[ルイ・アルチュセール|L・アルチュセール]] 『国家とイデオロギー』 </ref>、教育が[[文化的]]・[[階級]]的・[[社会]]的な[[不平等]]や[[格差]]を[[再生産]]または固定化する機能を果している[[ピエール・ブルデュー]]、[[バジル・バーンスタイン]]、[[サミュエル・ボールズ]]と[[ハーバート・ギンタス]]、教育は[[家父長制]]を再生産しているとの[[フェミニズム]]からの議論、教育は社会の多数派の[[文化_(代表的なトピック)|文化]]を押し付けているという[[多文化主義]]からの議論、などが有名である。
また、政治面では、[[開発学]]においては[[識字率]]の上昇が[[民主化]]に寄与すると考えられることが多いが、識字率と民主化との間の相関は一般に考えられている程には高くなくむしろその反例も見つかることから、この考えは「西欧市民社会の誤謬である可能性」を指摘する見解がある<ref> [[藤原郁郎]] 「民主化指標の考察と検証―識字率との相関分析を通じて―」『国際関係論集』([[立命館大学]]) 第4号(2003年度) 2004年4月 pp.67-95. </ref>。そのほか社会的な面においては、教育の普及が[[男女同権|男女]]や[[階級]]の[[平等]]に寄与するといった主張や、教育水準の上昇が[[幼児死亡率]]や衛生状態の改善に寄与するといった主張などがある。
人間の幸福になれる、幸福になれないというのは、知能指数(IQ)ではなく、他の人々の気持ちが分かる、などといった感情指数(EQ)のほうが、影響が大きいということが、近年の研究で明らかになってきている<ref name="daniel">ダニエル・ゴールマン『EQ こころの知能指数』講談社 1996年</ref>。それどころか、卒業後の人生を追跡調査してみると、IQばかりが高い人は、EQが高い人と比べてその後の人生では、職業や家族などの点で恵まれず、当人も幸福を感じる割合が低かった。端的に言えば、知能ばかりを上げることを目標とした教育を受けても、教育は幸福の役に立つどころか、かえって人を不幸にしてしまう<ref name="daniel" />。
=== 教育者の政治的傾向 ===
{{Main|[[:en:Political views of American academics]]}}
政治面では、各国において教育年数が長いほどおおむね[[個人主義]]的・[[革新]]的価値観を持つ者が増えることが明らかになっている<ref> Wiekliem, D. L. 'The effects of education on political opinions: An internationalstudy' ''International Journal of Public Opinion Research'' Vol.14 2002 pp.141-157. </ref>。
==== アメリカ教員の政治的傾向 ====
[[アメリカ合衆国の教育|アメリカ合衆国の教育機関]]における教員の政治的傾向の調査によれば、[[リベラル]]は[[保守]]より優勢であり、特に大学でこの傾向が強く、大学の[[人文学]]専攻での割合は[[共和党 (アメリカ)|共和党]]支持者1人に対して[[民主党 (アメリカ)|民主党]]支持者5人、[[社会科学]]系では共和党支持者1人に対して民主党支持者8人にのぼった<ref>Gross and Simmons 2007,p33,Rothman et al.2005,p6,Klein and Stern2009</ref><ref name="caplan1"/>。アメリカの[[四年制大学]]の教授を対象とした調査では、50%が民主党、39%が支持政党なし、11%が共和党支持で<ref>Rothman et al.2005,pp5-6</ref>、[[二年制大学]]を含む全大学教授を対象とした調査では、51%が民主党、35%が支持政党なし、14%が共和党だった<ref>Gross and Simmons 2007,pp31-32.</ref>。リベラル優勢の傾向は、エリート校になるにつれ高まり、四年制の[[リベラルアーツ]]系大学と博士課程を持つエリート大学の方が、[[コミュニティカレッジ]]よりも、リベラルの割合が高い<ref>Cardiff and Klein,2005,p243,Gross and Simmons 2007</ref>。また、[[K-12]](幼稚園から高校)の教育でも同様で、K-12の公立校の先生の支持政党は、45%が民主党、30%が共和党、25%が支持政党なしという結果だった<ref>Moe,2011,pp84-87.</ref><ref name="caplan1">ブライアン・カプラン、月谷真紀訳 『大学なんか行っても意味はない? 教育反対の経済学』みすず書房、2019,pp.346-350.</ref>。
{| class="wikitable"
|+ 米国教育者の政治的傾向(政党支持率)<ref name="caplan1"/>
! !! 民主党 !! 共和党 !! 支持政党なし
|-
! 四年制大学教員
| 50% || 11% || 39%
|-
! 二年制大学を含む全大学教員
| 51% || 14% || 35%
|-
!K-12(幼稚園から高校)教員
| 45% || 30% || 25%
|}
==== 日本の学歴別政党支持率 ====
前節で説明した通り、アメリカの大学教員における政治的傾向では[[民主党 (アメリカ)|民主党]]支持者([[左派]][[リベラル]])が50%で[[共和党 (アメリカ)|共和党]]支持者([[保守]])が11%と、リベラルが優勢である<ref name="caplan1"/>。
これに対して、日本では[[自由民主党 (日本)|自民党]]は学歴問わず最も支持される政党である<ref name="ak48"/>。ただし、学歴が高いほど自公支持率は低くなる傾向が見られ、支持政党なしが選択される傾向にある<ref name="ak48"/>。[[明るい選挙推進協会]]による[[2017年]](平成29年)[[10月22日]]の[[第48回衆議院議員総選挙|第48回衆議院選挙]]の調査<ref name="ak48">「[http://www.akaruisenkyo.or.jp/060project/066search/ 第48回衆議院議員総選挙 全国意識調査]」財団法人明るい選挙推進協会,平成30年7月,p.53-54</ref>、および令和元年(2019年)の[[第25回参議院議員通常選挙]]調査でも概ね同傾向にあった<ref name="ak25">[http://www.akaruisenkyo.or.jp/060project/066search/1268/ 第 25 回参議院議員通常選挙全国意識調査]令和2年、財団法人明るい選挙推進協会,p.54-55.</ref>。
{| class="wikitable"
|+ 学歴別政党支持率(2017)<ref name="ak48"/>
! !!自民党!![[民進党]]!![[立憲民主党 (日本 2017)|立憲民主党]] !! [[公明党]] !! [[希望の党 (日本 2017)|希望の党]] !! [[共産党]] !! [[維新の会]] !! [[自由党 (日本 2016-2019)|自由党]] !! [[社民党]] !! その他の党 !! 支持政党なし
|-
!中学卒
|43.4 || 3.5||8.2||10.2||1.2||5.5||3.9||0.8||1.6||0.4||16.8
|-
!高校卒
|38||2.1||10.2||4.5||0.9||3.3||2.3||0.2||0.9||0.4||31.1
|-
!短大・高専・専門学校卒
|32.3||2.4||6.3||3.4||0.7||1.9||1.5||0||0.5||0.2||42.7
|-
!大学・大学院卒
|35.9||2.2||9||2.8||0.9||2.1||2.6||0||1.2||0.2||39.2
|}
{| class="wikitable"
|+ 学歴別政党支持率(2019)<ref name="ak25"/>
! !!自民党!!公明党!!立憲民主党 !! [[国民民主党 (日本 2018)|国民民主党]] !! 共産党 !! 維新の会 !! 社民党 !! [[れいわ新選組|れいわ]] !! [[NHK受信料を支払わない国民を守る党|N国党]] !! その他の党!!支持政党なし
|-
!中学卒
|48.8|| 6.1||13.4||0.6||1.2||1.8||1.2||0.6||0||0.6||16.5
|-
!高校卒
|37.9||4.7||9.7||1.5||4.2||4.1||1.7||0.9||0.9||0.2||26.3
|-
!短大・高専・専門学校卒
|29.9||4.1||6.1||0||2.9||4.5||0.3||1||0||1||40.4
|-
!大学・大学院卒
|34.6||3.1||10.4||1.6||2||3.1||0.6||2.2||0.4||0.4||35
|}
== 教育と経済 ==
===教育経済学===
{{Main|教育経済学}}
経済面においては、[[進学率]]の上昇による労働者の質的向上が[[経済成長]]を押し上げる効果があることが指摘されている(教育の経済効果)<ref group="註"> 例えば、昭和50年代の日本の製造業において、教育水準の高まりが1%ポイントほど経済成長の高まりに寄与した。参照、[[労働省]] 『昭和59年 労働経済の分析([[労働白書]])』第II部1(1)1)</ref>。
教育がもたらすこれらの肯定的な機能に対しては疑問の声も一部で上がっている。例えば、[[開発途上国|発展途上国]]においては、基礎的な教育の実施で期待される所得・生産性の向上や市場経済への移行などといった経済効果や、政治における民主化の前進、社会における人口の抑制などといった効果が、必ずしも顕著には現れていないことが指摘されている<ref> [[国際協力開発事業団]] 国際協力総合研修所 『開発課題に対する効果的アプローチ』2002年5月 p.23. </ref>。
=== 教育費・公教育・教育格差 ===
{{Main2|各国の平均教育費|教育費#各国の教育費}}
{{Main|教育を受ける権利|教育格差}}
[[国際人権規約]]は[[教育を受ける権利]]を定めている<ref group="註">[[経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約]]第十三条 1 この規約の締約国は、教育についてのすべての者の権利を認める。締約国は、教育が人格の完成及び人格の尊厳についての意識の十分な発達を指向し並びに人権及び基本的自由の尊重を強化すべきことに同意する。</ref>。
{{要出典範囲|フランスでは、[[教育を受ける権利]]の理念にもとづいた制度が徹底しており、国・公立の教育施設においては、幼児教育から大学教育まで授業料が一切無料で、教育を受けたい人は、親の経済状態などにかかわらず教育を受けることができる。誰が教育費を捻出するかは、《教育を受ける権利》と大いに関係してくる。教育費を子供が負担するとすると、収入が無い子供は捻出できず。また、親が全て出すとすると、富裕層が教育を受け、貧困層は教育が受けられず、[[教育を受ける権利]]が守られず、[[教育格差]]が生まれる。子供は親を選んで生まれてくることができない。親の状態によって教育が受けられる/受けられないなどという差が生まれてしまうようでは、本人の素質や努力によってどうにもならない「生まれ」によって人間が根本的に差別されてしまう、ということで、基本的に人道に反した状態であるということになる。つまり、《教育を受ける権利》を守るためには、教育費は公的に捻出されなければならない。すなわち、国家や地方政府が出すということにしなければ、子供が《教育を受ける権利》が守られないことになってしまい、非人道的な状態になってしまうわけである。|date=2022年2月}}
[[フランス]]では公共機関が行う教育(国立や公立の 幼稚園から大学まで)の授業料が全て無料である<ref name="fr_gouvern">[https://megalodon.jp/2014-1108-0227-26/www.education.gouv.fr/cid162/les-grands-principes.html フランス政府の公式ページ]</ref><ref name="nakajimasaori">中島さおり『なぜフランスでは子どもが増えるのか -フランス女性のライフスタイル』講談社 2010{{要ページ番号|date=2014年10月}}</ref>。ドイツも小学校から、大学、大学院に至るまで、公立校ならば学費が無料である<ref>[https://tripler.asia/german/ ドイツ教育費無料ってほんと?]</ref>。
一方、イギリスでは[[インデペンデント・スクール]]が運営財源を国に頼らず、[[授業料]]、[[寄付]]、寄付の[[投資]]の利子で補っていおり、政府・国家からの独立・自立を実践している。また、[[ボーディングスクール]]は[[スイス]]、ドイツ、イギリス、アメリカ、カナダ、香港、中国、日本にもあり、世界の富裕層に支持されている<ref name="board">[https://news.yahoo.co.jp/articles/a7302f513504f05fcd0fb18b6ca67b0dcba780ad 1年間の授業料「900万円」でも入学希望殺到…超富裕層向け「全寮制スクール」の実態]</ref>。[[スイス]]の[[ル・ロゼ]]は年間学費は1200万円を超える<ref name="board"/>。元英国首相の[[ウィンストン・チャーチル]]や、[[インド]]の首相[[ジャワハルラール・ネルー]]らを輩出したイギリスの[[ハロウスクール]]などもある<ref name="board"/>。
日本では、[[日本の教育#教育への公的支出|教育費のうちで国や自治体が費用を出している比率が(世界の先進諸国の中で比較しても)低く]]、さらに[[少子化]]および[[少子高齢化]]が進んでいる<ref name="nakajimasaori" />。また、日本での[[教育格差]]も厳然と存在しており、[[東京大学]]生徒の親の収入は平均約1000万円で、東京大学合格者は学費の高額な[[中高一貫教育|中高一貫校]]出身者が多くを占めている<ref>[[勝間和代]] 『自分をデフレ化しない方法』 文藝春秋〈文春新書〉、2010年、180頁。</ref>。
アメリカの[[公共経済学]]教授ブライアン・カプランは、[[学校教育]]は教育内容よりも[[学歴]]([[シグナリング]])が重視されるが、その点からいえば、学校教育のほとんどは無駄な[[シグナリング]]であり、政府も教育支出を削減すべきであるとする<ref name="caplan">ブライアン・カプラン、月谷真紀訳 『大学なんか行っても意味はない? 教育反対の経済学』みすず書房、2019,pp.2-10,285-305.</ref>。カプランは、[[歴史]]、[[社会]]、[[美術]]、[[音楽]]、[[外国語]]などは、社会に出ても役に立つことはなく、学生もすぐに忘れるほどで、単に時間の無駄となっており、必須科目から選択制にしたり、または授業の水準をあげて成績下位の生徒を落第にすれば無駄はなくなるともいえるが、しかし、「[[税金]]を使って非実用的な教科を教える授業の廃止」が最も有効であると主張する<ref name="caplan"/>。カプランは、「なぜ美術を勉強するという選択肢に[[公費]]をかけて納税者が負担しなければならないのか。それより、[[公立大学]]の非実用的な学部は閉鎖し、政府の[[助成金]]や[[ローン]]を受けられない[[私立大学]]に非実用的な専攻の学科を創設すればいい」と提案し、現在問題になっている高額授業料にしても、無益な進学を抑制しているだけでなく、専攻の最適化にも役立っていると述べる<ref name="caplan"/>。
=== 教育と収入 ===
{{Main2|各国における学歴と収入|教育経済学#教育段階と収入}}
収入面での効果が、比較的多くの人々の関心を集めている。各国においては、[[学歴]]が上がるほど生涯賃金も上がる傾向にある{{Sfn|OECD|2014|p=103}}。
しかし日本においては、実際のデータを見てみると学歴による生涯賃金の差は比較的小さいという見解もある<ref group="註">例えば、男性標準労働者の生涯賃金(2004年)は、中卒2億2千万円、高卒2億6千万円、大卒・大学院卒2億9千万円。(独立行政法人[[労働政策研究・研修機構]] 『ユースフル労働統計―労働統計加工資料集―2007年版』 2007年 ISBN 978-4-538-49031-1 p. 254)</ref>。単年度の見かけの給与はともかくとして、学校に通うことで働いて収入を得る年数が減る分、生涯賃金があまり増えない。特に[[大学院]]などは、(全日制で)大学院まで進むと、統計的に見て大卒よりもかえって生涯賃金は下がる場合が多い、とのデータもある。一般論として言えば日本の企業は大学院修了者をあまり歓迎していない。日本においては、教育を投資と考える傾向は低い。また、2005年現在の日本の社会では、「勉強して良い大学に入れば、良い企業に入れる」という仕組みはすでに崩れてきたことが幾人かの論者によって指摘されている<ref> 例えば、[[山田昌弘]] 『[[希望格差社会]]』 [[筑摩書房]] 2004年 ISBN 978-4-480-42308-5、[[中野雅至]] 『[[高学歴ノーリターン]]』 [[光文社]] 2005年 ISBN 978-4-334-93370-8 </ref>。例えば関東圏で例を挙げると、東京大学や他の六大学などを卒業していても[[フリーター]]になってしまう可能性もある。
=== 教育の商業化 ===
{{Main|教育バウチャー}}
教育の[[商業化]]、教育の[[市場化]]なども問題とされている<ref>[https://archive.nytimes.com/www.nytimes.com/ref/college/coll-china-education-005.html The Commercialization of Education],The Ney York Times.Commercialization in Education:https://doi.org/10.1093/acrefore/9780190264093.013.180
</ref>。
1950年代から[[マネタリスト]][[経済学者]][[ミルトン・フリードマン]]が教育の[[市場化]]を目指し、[[教育バウチャー]]を提唱した。近年は、元[[ハーバード大学]]学長のデレック・ボックが[[大学]]の商業化を批判している<ref>デレック・ボック、 宮田由紀夫訳 「商業化する大学」 玉川大学出版部2003</ref>。ほか、市場原理の大学への導入を「アカデミック・キャピタリズム」として批判されることもある<ref>上山降大 2010 『アカデミック・キャピタリズムを超えて~アメリカの大学と科学研究の現在~』 NTT出版,Slaughter. S,Leslie. L1997,Academic Capitalism politics,policies, and entrepreneurial university,The Johns Hopkins University Press.</ref>
日本でも高等教育の市場化が問題とされている<ref>大場淳「日本における高等教育の市場化」 日本教育学会『教育学研究』第 76 巻第 2 号(平成 21 年 6 月)185-196,堀谷有史「高等教育における商業化についての考察― アカデミック・キャピタリズムと知識の公共性―」早稲田大学大学院教育学研究科紀要 別冊19号2,2012.</ref>。
大学改革において、2004年に[[国立大学]]が[[独立行政法人]]の[[国立大学法人]]に移行したが、[[有馬朗人]]元[[東京大学]]学長らが失敗であったと批判している<ref>[https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00158/051900003/ 「国立大学法人化は失敗だった」 有馬朗人元東大総長・文相の悔恨]</ref>
=== グローバル教育政策市場 ===
{{Main|OECD生徒の学習到達度調査#グローバル教育政策市場とPISA}}
近年、[[OECD生徒の学習到達度調査|OECD生徒の学習到達度調査(PISA)]]事業において、成績の高い先進国がグローバル教育政策市場を開拓し、自国の教育モデルを海外に売る「教育の輸出」現象が生起していると指摘されている<ref name="hys16">{{Cite journal ja |last=林|first=寛平|year=2016|title=グローバル教育政策市場を通じた「教育のヘゲモニー」の形成 ──教育研究所の対外戦略をめぐる構造的問題の分析─|url=https://doi.org/10.24491/jeas.42.0_147|journal=日本教育行政学会年報|volume=42|pages=147-163}}</ref><ref>{{Cite journal ja|last=林|first=寛平|year=2019|title=比較教育学における「政策移転」を再考する ―Partnership Schools for Liberia を事例に―|url=https://doi.org/10.11555/kyoiku.86.2_213|journal=教育学研究|volume=86|issue=2|pages=213-224}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 註釈 ===
{{Reflist|group="註"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite report|df=ja |author=OECD |title=Education at a Glance 2014 |date=2014 |doi=10.1787/eag-2014-en }}
== 関連項目 ==
{{Wiktionary|教育}}
{{ウィキポータルリンク|教育|[[画像:Nuvola apps edu miscellaneous.svg|34px|Portal:教育]]}}
{{Columns-list|3|
* [[学習]]
* [[発達]]
* [[学び]]
* [[ウィキブックス]]
* [[ウィキバーシティ]]
* [[IEARN]]
* [[コーチング]]
* [[親学]]
* [[合理主義]]
}}
* [[教育関係記事一覧]](分野別)
* [[教育関係人物一覧]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank|2=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典}}
{{Normdaten}}
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[[Category:教育|*]] | 2003-05-19T10:39:42Z | 2023-11-21T04:21:15Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E8%82%B2 |
8,639 | 文字 | 文字(もじ、もんじ、英: writing system)とは、言語を点や線の組合せで単位ごとに記号化するもの。文字と書いて基本的には「もじ」とよむが、「もんじ」ともよむ。
文字というのは、言語を、点や線の組合せで、単位(ひとまとまり)ごとに記号化するものである。言葉・言語を伝達し記録するために線や点を使って形作られた記号のこと。言葉・言語を、視覚的に記録したり伝達したりするために、目に見える線(直線や曲線)や点を使って形作られた記号のことである。
世界にはさまざまな文字があり、またさまざまな分類法がある。基本的な分類として、「音」だけを示している「表音文字」と、基本的に「意味」を示している「表意文字」がある。世界全体を見ると、主に表音文字ばかりが使われている地域と、主に表意文字ばかりが使われている地域と、基本的に両者を混合して使っている地域がある。
たとえばヨーロッパの英語やドイツ語やフランス語のアルファベットは表音文字であり(さらに詳しくいうと音素文字であり)、一文字一文字は音素(音の要素。音の一部分。特定の、舌の動き・唇の動き・口の形などで生じる音)を表しており、アルファベットが2〜3文字(やや例外的な場合も含むなら 1〜6文字ほどが)まとまることで音節(発音の小単位)を示している。表音文字の一文字一文字は、あくまで音を表すためのものであり、原則(※)として、意味が全く無い。たとえば英語の「proceed」という言葉に含まれる「p」の一文字だけでは全く意味を持たない。p,r,oと並べることで「pro」という音節になり、「pro」という組み合せになってようやく「前方へ」という意味を持つ。c,e,e,dの4文字の組み合わせで「ceed シード」という音節を示し「進む」という意味を示し、「proceed」7文字全体で、「前に進める。続行する」という意味になる。それに対して中国で使われるようになった漢字は表意文字であり、表意文字はひとつひとつの文字だけでも何らかの意味を表していることが多い。たとえば「明暗」という語は、2つの漢字「明」と「暗」からなるが、「明」一字だけでも意味がある(そしてこの「明」という文字に対応する音も人々はいくつか記憶している)。また「暗」一字だけでも意味がある(そして「暗」に対応する音も記憶されている)。そして二文字を組み合わせて「明暗」という一語(ひと単語)になっている。中国では主に漢字ばかりが使われる。一方、日本語で使われる文字は、(中国から伝来した)漢字と(漢字から表音文字を作るために部分を抽出し、形を独自に変形させた)ひらがなやカタカナがあり、漢字のほうは中国語同様に原則的に表意文字であるが、ひらがなやカタカナのほうは「表音文字」(詳しくいうと音節文字)であり、つまり現代日本語のありふれた文書に使われる文字は、表音文字と表意文字の両方を並行して使っている。たとえば現代日本語の「太陽、まぶしいね。」という一文に含まれる「太陽」は表意文字を2文字並べており(「太」および「陽」。二文字で一語(ひと単語)になっている)、「まぶしいね」は表音文字(音節文字)を5文字並べている(「ま」「ぶ」「し」「い」「ね」)。「ひらがな」は、通常の文章ではほとんどの場合、(漢字が日本列島に渡来する以前からその列島で人々が日常的に話していた)大和言葉の音を表記するのに用いられている。(残りの「、」や「。」は、意味の区切りや、間合い(ひと呼吸の間、短い無音の状態)を示すための記号である。)
なお英語圏では、アルファベットのような単音文字をレター(英: letter。あえて漢字に訳す場合は「字」)、それ以外をキャラクター(英: character。これをあえて漢字に訳す場合は「文字記号」など)と区別することがある。いっぽう今から二千年ほど前に中国の許慎によって書かれた『説文解字』という書では、象形や指事によって作られる具象的な記号を「文」、形声や会意などによって構成される記号を「字」などと解説し、「両者をあわせたものが文字である」などと解説されていた時代があった。だがこれは二千年前の主張にすぎず、たとえ今でもそれを真に受けてしまっている人が一部にいるとしても、現代の学者はこうは考えていない(許慎の説明は間違っている、と現代の学者は考えており、近年の大学教育を受けしっかりとアカデミックな訓練を受けた人々は通常、許慎の説明は間違っていると判断する)。(#「文字」という単語の語源の解説を参照)。
文字というのは、一旦その発音のしかた、読み方を知る人がこの世にいなくなってしまうと、解読が困難になってしまう。
古代エジプトの碑文を近代ヨーロッパ人は目にしたものの、何世紀にも渡って発音も意味も分からず、何世紀にも渡り解読が全然できなかったが、たまたま、同一の意味の文章をヒエログリフを含む3言語を並べて彫り込んだロゼッタストーンが発見されたことをきっかけにして、丸い線でぐるりと囲んだ部分は「王の名」が書かれているなどということがわかるようになるなどして、少しづつ解読され、やがてフランスのシャンポリオンが完全に解読することに成功した。
古代エジプトのヒエログリフは、実は、基本的にはヨーロッパのアルファベットと同様に「表音文字」である(それに誰も気づかなかったので、解読が非常に難航した)。一見すると、絵が並んでいて表意文字のように見えるが、実は、基本的には表音文字である。(ヒエログリフが基本的に表音文字であることを日本人にも分かるようにざっくりと説明すると、「鳥(とり)」の絵を描いておいて、それを「と」と読ませるようなやりかたで、もともとは具象物を表していた図を表音文字として使っている、のである。)ただしヒエログリフは、文脈によっては、まれにもとの意味を表す表意文字として使われることもある(しかし、表意文字としての使用の頻度は低い)。
マヤ文字も読み方が分からなくなってしまった時代がとても長く、1970年代まで世界の学者の誰にもほとんど読めず(解読しようとしても解読できず、人生をほとんど「棒にふってしまった」学者も多い)、1980年代ころからようやく解読が進んで、かなり分かってきた。
なお、インダス文字など、世界にはまだ読み方が分かっていない文字がいくつも残っている。最近(2020年代)では、人工知能を未解読文字の解読に役立てようとする動きが出始めている。
文字体系(英: script、書記系、用字系、スクリプトとも)とは、同種の表記に使われるひとまとまりの文字の体系のことを言う。特定の文字体系を指すときは、単に「〜文字」と称することも多い。また、同じ系統や同じ類型に属すると考えられる文字体系のグループを「〜文字体系」ないしは「〜文字」と呼ぶこともある。
一般に、言語と文字体系は一対一に対応しない。アラビア文字、漢字、キリル文字、デーヴァナーガリー、ラテン文字のように、複数の言語で表記に使われる文字体系は多い。逆に一つの言語で複数の文字体系が使われている場合もあり、日本語ではひらがな、カタカナ、漢字の 3 つの文字体系が言語の表記に不可欠なものとなっている。セルビア語やボスニア語等にはラテン文字、キリル文字の 2 通りの表記方法が存在し、このように同一言語に複数の文字体系が存在することをダイグラフィアと呼ぶ。
表記体系(英: writing system、文字体系、書記系、書字系、書字システムとも)とは、ある文字体系に加えて、正書法、句読法や、字体、文字、語句の選択基準などの種々の言語的慣習をも含む文字使用の体系のことを指す。同じ文字体系を用いていても、異なる言語では表記体系に違いが見られることもある。現実には、文字体系と表記体系との区別は曖昧であり、両者はしばしば混用される。
コンピュータによる文字情報処理の分野では、複数の言語を同時に扱う際に、文字体系や表記体系に範をとった概念が用いられる。用字系(英: script、スクリプト、または単に用字とも)は、特定の言語(一般に複数)のために用いるためのひとまとまりの文字や記号を指す。書記系(英: writing system)は、ある用字系(一般に複数)を用いて特定の言語を表記するための規則の集合を指す。
文字体系に含まれる記号の最小単位を字母(文字記号とも)と呼ぶ。字母は文字と一致する場合もあるが、文字体系、言語、民族によっては、文字より小さい単位を字母とみなす場合もあるし、補助的な記号(ダイアクリティカルマークやマトラなど)を字母に含めない場合もある。一方、学術的な用語では、ある文字記号を構成する部分のことを書記素(英: grapheme、文字素、図形素とも)と呼ぶ。表音文字では音声の音素(英: phoneme)、表語文字では意味の意義素(英: sememe)あるいは形態素(英: morpheme)に対比される概念である。何を書記素とみなすかは、研究者によって異なることがある。
視覚的なもの、眼に見える要素の少単位というのはさまざまあるが、学術的には、そのなかでもあくまで言語に直接結び付いたものだけを「文字」と分類している。
やや特殊な文字としては次のようなものがある。
字体(じたい)とは、ある図形を文字体系の特定の一文字と認識でき、その他の字ではないと判断しうる範囲のこと。これに対して、文字体系に含まれる特定の文字の、図形としての具体的な形のことを字形(じけい)と言う。
字体の基準は、文字体系や表記体系によって異なる。逆に言うと、異なる文字体系同士でよく似た文字があっても、それらは別の文字と見なされる。一方の文字体系から他方が派生した場合や、双方が共通の祖先を持つ場合には字形・発音ともによく似た文字が現れやすいが、たとえラテン文字の「A」とキリル文字の「А」のように字形・音価ともほとんど同じ場合でも文字としては別の文字である。漢字の「二」と片仮名の「ニ」のように関係があるとも無いとも言い難いものや、片仮名の「ユ」(弓の部分)とハングルの「그」(ᄀ+ᅳ)のように全くの偶然の一致によるものも、別々の文字体系に属する別の文字である。字体の基準は、言語や時代によっても変化することがある。たとえば漢字で、「吉」の3画めを1画めより長めにするか短めにするかという違いは字体の違いとなることがあるが、現代の日本の常用漢字ではこの違いを区別しない。
文字コード(後述)では、個々の符号が表しうると考えられる字形を抽象して特にグリフ(英: glyph)と呼ぶことがある。
書体(しょたい)とは、ある文字体系で、字体を一貫した特徴と様式を備えた字形として表現したものをいう。漢字の手書き文字での篆書、隷書、楷書、行書、草書や、活字やフォントの明朝体、ゴシック体、ローマン体、セリフ、サンセリフなどは書体である。
楔形文字(英: cuneiform)は、現在知られている文字体系で最古のもののひとつである。紀元前3500年頃にメソポタミアで誕生した。粘土板に葦の尖筆を押し当ててできる " くぼみ " を組み合わせて文字とする。尖筆を粘土に押し当てると、ちょうど楔(くさび)のような、長い三角形のくぼみができるので、学術用語の表記言語であるラテン語で(scriptura) cuneiformis(クネイフォルミス) と呼ばれるようになり(ラテン語のcuneus(クネウス)は「くさび」で、formis, forma (フォルマ)は「形、かたち」という意味。つまり「楔形」)、日本語でもそれに倣って楔形文字と呼んでいる。粘土に書いた文字は、粘土が湿って柔らかいうちは簡単に書き直すことができるし、いっぽうで乾かせば書いたものをかなりの期間保存できる。さらに長期の保存が必要な場合や内容の書き換えや改ざんを防止する場合には粘土板を焼いて一種の焼き物にすればよい。現在残っている楔形文字資料の多くは、火災や戦災によって焼かれたものである。
現在までに発見されている楔形文字のうち、初期のものが表記している言語はシュメール語と呼ばれ、シュメール人の言語である。しかし、楔形文字そのものをシュメール人が作ったというたしかな証拠はいまのところ発見されていない。もっとも古いものはウルク文字(古拙文字とも)で、イラク中部のウルク(現ワルカ)遺跡第4層から出土し、紀元前3100-3000年頃のものである。また、少し後の時代のものとしてジャムダド・ナスル(ジェムデド・ナスル)でも同系統の文字を記した粘土板が発見されている。ほとんどは商取引の記録や目録のような経済文書であり、事物や職名、都市名を表す文字とともに数字を記している。また、書記の養成のためと見られる文字リストも発見されている。一方、ジャムダド・ナスルと同時期の文字資料がスーサで出土しているが、これはエラム語の一種を表記したもので、原エラム文字と呼ばれる。
当初の書字方向は上から下の縦書きで、文字はある程度単純化された線画であり、まだ楔形になっていない。紀元前2600年頃から、書字方向が縦書きから横書き(左から右)に変わり、その結果、すべての文字が左に90度回転した。その後、筆画が直線化し、最終的には楔形の組み合わせで文字を表すようになる(#図4を参照)。
ウルク文字は、事物そのものを表す表語文字であるが、紀元前2800年頃から、文字を音節を表すものとしても使うようになる。たとえば、「牛」を表す文字を [gu] の音節を表すのに使う。ところが、「糸」を表す文字でも [gu] を表せる。同じ音の語は複数あるから、ある音節を表せる文字も複数ある。これを同音異字性(英: homophony、ホモフォニーとも)と呼ぶ。また、「口」を表す語は [ka] なので、「口」を表す文字は [ka] の音節を表す。ところが、この文字は「叫ぶ」[gù]、「歯」[zú]、「話す」[du] などの語も表すから、それらの音節を表すのにも使う。これを多音性(英: polyphony。ポリフォニーとも)と呼ぶ。同音異字性や多音性は、シュメールの楔形文字を借用した他の楔形文字にも引き継がれる。
シュメール語の楔形文字は、アッカド語(バビロニア語やアッシリア語を含む)の表記に借用された。しかしシュメール語が膠着語であったのに対し、アッカド語は屈折語のセム系言語であった。セム系言語では語根を3子音(ときに4子音)で表すから、ひとつの語を音声表記するのには複数の文字が必要になる。表記を短縮するためにシュメール語の表語文字を併用することもあった。バビロニア人やアッシリア人の楔形文字は、さらにヒッタイト語、フルリ語(ミタンニ語)、ウラルトゥ語(いずれもインドヨーロッパ語族の言語)などの言語の表記に借用された。
シリアのウガリット(ラス・シャムラ)で発見されたウガリト文字は、紀元前14世紀頃の文字体系である。シュメール起源の楔形文字では文字の数が600あまりに達したのに対し、ウガリト文字は字母がわずか30個のアブジャド(子音文字)になっている。字母の一覧を記した資料では、フェニキア文字やヘブライ文字などの伝統的な順序との一致が見られることから、文字体系の組織は他のアブジャドの影響を受けたと考えられている。
また、古代ペルシア楔形文字は、アケメネス朝ペルシアのダレイオス1世が作らせた楔形文字で、36個の開音節文字(子音-母音の組み合わせを表す文字。ただしうち3個は母音のみの文字)を含む。楔形文字の中では最初に解読された文字体系である。これは紀元前4世紀には使われなくなった。
今日では、楔形文字を表記に使う言語はない。現在までに知られているもっとも新しい楔形文字の資料は、紀元後1世紀のシュメール語表語文字によるものである。
エジプトヒエログリフのうち、発見されている最古の文字資料は紀元前3100年から3000年ころの先王朝時代末期のものである。エジプトヒエログリフでは、古拙期の文字資料というものがほとんど発見されていない。あたかも、整備された文字体系が突然出現したかのようである。研究者の多くは、数世紀先行するメソボタミアの#楔形文字の影響があると考えるが、両者には字母などに明らかな共通点が見られないため、エジプトヒエログリフが借用したのは「文字という着想」(#借用と発展の節を参照)だけで、文字体系の組織は独自に発達したものだと考えている。
初期にはさまざまな媒体に書かれたが、神官書体(後述)が発達すると、もっぱら記念碑や宗教関係の碑文にのみ使われるようになった。ヒエログリフ(英: hieroglyph、聖刻文字とも)という呼び名は、古代ギリシア語のタ・ヒエログリュピカ(神聖な文字)に由来する。文字の多くは表語文字だが、一部の文字を表音文字にも転用しており、表語文字では表しにくい概念や形態素を表記しやすくなっている。
表語文字は時代によって字形が変わったり、新たな事物を表す文字が追加されたりしたので、現在までに同定されているものは6000字以上にのぼるが、各時代に実用された数は700から1000程度である。表音文字は子音のみを表記するので、アブジャドであると言える。一子音の文字が24程度、二子音の文字が100ちかく、三子音の文字が40あまりある。一子音文字はもっぱら表音にのみ使うが、そのほかの表音文字は表語文字として使うこともあるため、複数子音の文字に一子音文字を付加して表音文字として使っていることを明確にすることがある(末尾の子音だけを付加することが多いが、複数の子音を付加することもある)。この手法を音声補充と呼ぶ。日本語の送り仮名や漢字の形声にいくらか似た手法だが、送り仮名の場合とはちがい、品詞に関係なく音声補充できるし、形声とはちがい、表音文字にも音声補充をする(#図5 (a) 参照)。
さらに、語に付加して意味範疇を表す限定符がある。漢字の偏旁に似た働きをするが、独立した文字である。エジプト語はセム系言語と近縁のハム語族に属するため、近縁の概念を表す語は同じ3子音(ときに4子音)からなる語根を共有する。表語文字や表音文字と限定符とを組み合わせて同語根の語を区別し、意味を明確にすることができる。器物の材質のような詳細な意味まで限定符で区別することさえある(#図5 (b) 参照)。
書字方向は比較的自由で、初期には主に縦書き(上から下)、後には主に横書きとなり、ブストロフェドンが行われることも多い。ただし、行内の配列順は審美上の観点から方向を変えることがある。また、王や神などを表す文字はしばしば前のほうに置く。このような現象を字母転移という。
文字はときに、極めて写実的に描かれる(#図6)。ただし、現代の透視図法によるような写実性ではない。たとえば「人」を表す文字では、頭部全体や脚部は横から、眼は正面から描くというように、様々な角度から見た対象の特徴を平面上になるべく忠実に描写しようとする。文字は彩色されることもあるが、色は意味に関係しない。
ヨーロッパでは16世紀から、エジプトヒエログリフの解読の試みが活発になったが、文中の人名などに基づいていくつかの表音文字の音価を決定できたにとどまった。このため、エジプトヒエログリフの大半は象徴的な概念を表現した紋様であり、完全な文字体系ではないとの誤解が生まれた。ヒエログリフが表語文字とともに表音文字としての機能をもち、独自の合理性をもつ文字体系であるということを最初に証明したのは、19世紀のシャンポリオンである。
神官書体(ヒエラティックとも)は、ヒエログリフを簡略化して筆記用にしたものだが、その原型となる文字資料はヒエログリフと同じくらい古い。まとまった文章が表れるのは第4王朝時代頃からである。神官書体はおもに行政文書や商業文書に用いられた。パピルスや、石片や陶片(オストラカ)に、筆とインクを使って書かれた。石に彫られることはまれだった。
文字体系の組織はヒエログリフと一致し、神官書体で書いたものをヒエログリフに翻字することもできる。ヒエログリフの筆記体であると言える。はじめは縦書き(上から下)だったが、後に横書き(おもに右から左)に変化する。しかし、文字の向きが変わることはなかった。
その後簡略化がいっそう進み、紀元前第1千年紀前半に、神官書体から民衆書体(デモティックとも)が分化した。民衆書体では続け書きや略体が多用され、ヒエログリフとの間で文字ごとの対応づけをすることはもはや不可能である。紀元前600年ころから、宗教文書以外では完全に神官書体にとって代わった。民衆書体は日常的な文書にも用いられた。神官書体と民衆書体の名は、古代ギリシア語のヒエラティカ(神官の)とデモティカ(民衆の)に由来する。
民衆書体の書字方向は横書き(右から左)である。やはりパピルスやオストラカにインクで書かれたが、プトレマイオス朝時代には、ギリシアから入った葦のペンで書くことが多くなった。このころから、記念碑などの碑文にも使われるようになる。1799年に発見されたロゼッタ・ストーンは、ヒエログリフ、民衆書体、ギリシア文字のギリシア語の 3 種の文字体系で記されている。
今日では、エジプトヒエログリフやその神官書体、民衆書体を表記に使う言語はない。現在までに知られているもっとも新しい資料は、紀元後5世紀の民衆書体によるものである。この後、エジプト語やそれから派生した言語を表記する文字体系はコプト文字だけとなった。
原シナイ文字は、シナイ地方の神殿遺跡から発見されたのでこの名がある。少なくとも23の字母を持つ。解読はまだ十分に進んでいないが、字母の半数は、その字形から見て、エジプトヒエログリフからの借用である。つまり、エジプトヒエログリフから借用して生まれた表音文字体系である。類型としてはアブジャドである。
字母の多くが表している事物が原カナン文字やフェニキア文字の字母の呼称と一致することから、フェニキア文字は原シナイ文字から派生したという説がある。この説が正しいとすれば、エジプトヒエログリフは、今日のほとんどの音素文字体系、つまり今日使われている多くの文字体系の祖にあたることになる(次節も参照)。
メロエ文字は、紀元前2世紀に生まれた。古代ヌビアのクシュ王国で、メロエ語を表記するのに用いられた。23個の字母からなり、大部分がエジプトヒエログリフからの借用であると考えられている。ヒエログリフと筆記体があり、ヒエログリフは縦書き(上から下)、筆記体は横書き(左から右)であった。アブギダに似て子音字母に特定の母音が伴っているが、それ以外の母音は独立した字母を書くことで表す。また、一部の子音-母音結合は独自の文字で表記する。
このほか、クレタやヒッタイトで発見されている「ヒエログリフ」と呼ばれる文字体系も、エジプトヒエログリフの影響を受けていると考える研究者もいる。
中国では戦国時代までに、文字を意味する語として「書」「文」「名」などが用いられるようになっていたが、これらは文字以外の意味も持っていた。秦の中国統一にともない、秦の語彙「字」が公式に用いられるようになり、漢代に入って文字を表す語として定着した。
いっぽう「文字」という語のたしかな初出は、前漢の司馬遷による『史記』である。これは、紀元前3世紀に始皇帝を顕彰するために建てられた琅邪台刻石碑文の「車同軌、書同文字」(車の軌幅を統一し、書の文字を統一した)を引用したものだが、碑文では韻律を整えるために「文」に「字」字を付加しただけで、当時は「文字」という熟語は使われていなかった。『史記』以降になってはじめて、「文字」という語が「言語を書き記すための記号」の意味で用いられるようになった。
各種の文字体系を分類するために、様々な基準が存在する。つぎのような分類がありうる。
本節では、類型的な分類について解説する。系統による分類については、#系統の節で見る。言語との関係は文字体系別の言語の一覧を、また時代や地域については各文字体系の解説を参照されたい。文字体系の一覧も参照されたい。
#図1に、ウィキペディア日本語版のカテゴリで用いられる文字体系の類型的分類を示す。また#図2に、世界の文字体系の類型別の分布を示す。
ヨーロッパ世界では、伝統的に、文字は音声の補助にすぎないという考え方が根強くあった。ソクラテスは、文字に頼ると記憶力が減退し、文字で書かれたものは弁舌よりも説得力が劣ると考えた。後に地中海沿岸世界ではエジプトヒエログリフが忘れられ、ヨーロッパとその周辺ではアルファベットなどの音素文字だけが使われるようになったため、音声を忠実に再現することこそ文字の本質だという考えはいっそう強まった。さらにルソーは、「事物の描写は未開の民族に、語や文章の記号は野蛮な民族に、アルファベットは政府に統治された民族に一致している」と述べ、使用される文字体系の種類が社会の進歩の度合いを反映しているという考えを示した。この3つはピクトグラムや象形文字、表語文字、表音文字に対応している。
18世紀には、さまざまな言語を客観的に比較する姿勢が強まったが、文字の研究は音声学の一分野として行われるにとどまった。このような思潮から、文字は象形文字から音節文字へ、さらには音素を完全に表記できるアルファベットへと発達していくものだと広く信じられるようになり、一時は主流的な考え方にもなった(#図3参照)。
しかし、今日の言語学では、以上のような説は、完全にとはいえないまでも、ほぼ正しくないことがわかっており、当然のこととして、使用する文字体系の種類が社会の進歩の度合いを表すというような見方は完全に否定されている。
また、中華世界では事情が異なっていた。上古にすでに甲骨文が見られるが、これは卜占による神意を伝えるものであった。封建制が成立した後も、文字使用の独占は権力の源泉となった。周王朝の滅亡によって文字の技術は独占を脱し、文字の使用は広まったが、表語文字(後述)としての漢字の能力は、多くの方言や言語を横断する共通の意志疎通手段として、中華世界の一体性を維持することにつながった。さらに、華夷秩序の拡大に伴い、周縁社会にとっては、漢字は文明の中心地から先進文化を受け入れ、その権威に与るための手段となった。その間、中原にはさまざまな民族が侵入し、多くの王朝が交代したが、漢字は使われ続けた。
中国語は1音節が1形態素に対応する孤立語であり、漢字はその形態素を書き表したので、文字がすなわち言語であった。そのため言語学は発達を見ず、代わりに文字を手がかりに古えの文献を読み解く訓詁の学が発展した。個々の文字は「形音義(字形、発音、意味)」の3要素によって分類考証されるようになった。
20世紀に入ると文化人類学や構造主義言語学が起こり、人間の諸活動のうち文字の使用についても通時的側面とともに共時的側面からも検討する方法論が主流となった。また考古学の発展もあって、文字の発達や分化の理論も修正された。
伝統的によく用いられる文字体系の分類法に、「表音文字 と 表意文字」に大別するものがある。たとえば、フェルディナン・ド・ソシュールの『一般言語学講義』でも表音文字と表意文字に大別している。
表音文字(ひょうおんもじ、英: phonogram)は、意味を示さず、あくまで音(発音)を示している。原則的に、意味を示してはいない。ただし「表音文字は必ず発音をすべて表記しているか?」と問うと、そういうわけではない。また完全に正確に表記しているか?というと、必ずしもそうではない。形態素が連接する際の渡り音は表記に反映しないのが普通だし、音韻の交替を反映しないこともしばしばある。たとえば、現代朝鮮語の正書法ではハングルの表記で形態主義をとり、発音の上では子音の交替が起こっていても語幹の表記を変化させない。このことによって、文中の形態素を識別しやすくしている。それぞれの語の綴りも、発音を忠実に表しているとはかぎらない。現代英語の enough、night、thought の gh のように、異なる発音を表す(あるいは発音しない)場合がある。言語において、その発音は時代を経ると音韻変化によって変わっていくが、文字の表記は変化しにくいためである。タイ語のタンマサート ธรรมศาสตร์ はサンスクリット語のダルマシャーストラ dharmaśāstra に由来するが、原語の発音を綴りの中に保存している。日本語の現代仮名遣いで、助詞の は、へ、を のみにはかつての表記を残しているのも似た現象である。このように発音と一致しない綴りが保持されるのは、形態素同士が発音だけでは区別できなくなる不便を補うためだと考えられている。
表意文字(ひょういもじ、英: ideogram)は、意味(概念)を示している文字である。表意文字の代表例にシュメール文字がある。アラビア数字の1,2,3...なども「1」「2」「3」...という数概念を示しており、表意文字である。なお(各言語の中の)表意文字は、一般的に概念と同時に音(各言語ごと異なった音、ではあるが)も表していることが一般的である。ただし、具体的な言語の種類で対応する「音」が異なってしまっている。たとえば「1」は英語では「one ワン」だが、日本語では「いち」や「ひと」である。その意味で、やはり表意文字の、基本的で一番重要な機能は意味(概念)を示すことであり、その意味でやはり「表意文字」と呼ばれるのが適切だということになる(つまり表意文字は、あくまで意味を示すために使われており、特定の固定された音を示すための文字ではない。人は表意文字を見て「音」を思い出すとしても、実際には母語が異なれば想起する音は異なっているわけであり、各言語の話者が対応するその言語の語彙を想起しているわけである。なお、日本人は表意文字の例としてすぐに漢字を(本当は代表例ではないのに、あたかも代表例のように)挙げてしまうが、中国語の文章の表記に使われる漢字は語や形態素などにも対応しており、その結果ひとつひとつの形態素の発音をも表しているのだから、表意文字に分類するのは適切ではないと指摘されている。したがって近年では学術的には、中国語の文章の表記に使われている状態では「漢字は表語文字」と分類される。漢字はつきつめれば結局、個々の使用例ごとに、細かく分類せざるを得ない。また日本語の文章中の漢字は、また別の話となる。)
表語文字(ひょうごもじ、英: logogram)は、文章中の語や形態素を表すと同時にその発音も表す文字、という分類である。アンドレ・マルティネは、人間の言語が二重分節されている、と説明した。つまり、言語の文はまず一連の単位(形態素)に分節され(第1次分節)、次にそれぞれの単位が一連の音(音節や音素)に分節される(第2次分節)、と説明した。言語が持つこの性質によって、限られた数の音素や音節から無数の語をつくり出すことができ、それらを規則的に組み合わせて無数の事実を表現することが可能になる、と説明したのである。もしこの説明法を採用するなら、表語文字と表音文字は、それぞれ、第1次分節と第2次分節のレベルを文字として、言語を表記するものと言える。
なお「表音性」や「表語性」という性質は、程度の差はあるがどの文字体系にも備わっており、相対的な基準であると論ずる研究者もいる。
本項目では文字体系を、伝統的な分類法である「表音文字と表意文字」という分類法も尊重しつつ、現代の学術的な表語文字という分類法も説明してゆく。表音文字や表意文字については、それぞれのサブカテゴリ(細分化された分類)も紹介してゆく。
表音文字は、さまざまなタイプがある。一方は、表す音素や音節ごとに別の字形になっているタイプである。たとえばヒエログリフは、碑文の普通の文章中で使われている場合、ほとんどが表音文字として使われているが、こうしたヒエログリフは、もともと具象物(たとえば口(くち)、フクロウ、ヘビなど)を示すために使われた象形文字を転用して音素(たとえば「m」「t」など)だけを表すことに用いたものである。ヒエログリフの場合、字形とそれらが表す発音との間には関連がない。しかし他方、文字や字母の字形と、発音との関係に規則的な関連がある表音文字体系もある。このタイプの表音文字は素性文字(英: featural alphabet)とも呼ばれる。こういった文字体系の多くは計画的につくり出されたものである。
ハングルは一見漢字を連想させる字形だが、ひとつひとつの文字は子音と母音の字母(자모、チャモ)を規則的に組み合わせて音節を表す純粋な表音文字である。同じ調音位置の子音字母は似た形をしており、朝鮮語に特有の平音、濃音、激音の対立を字母を変形することによって表している。母音の字母の形も朝鮮語特有の陽母音と陰母音の対立や母音調和法則に即した規則性を持つ(詳細はハングルの項を参照)。
テングワールは、トールキンが架空の中つ国で使われている文字体系として作り出したものだが、やはり子音の字形は調音位置や調音形式に対応した規則性を持つ(詳細はテングワールの項を参照)。
ただし、これらの文字体系のうち、それぞれの文字が音節ごとに表記されるものは、文字の構成要素である字母を単独で書き表すことは原則としてない(たとえばハングルでは、学習などの目的以外に、単独の字母で音素を表記することはない)。したがって、本項目ではこの分類は採らず、ひとつひとつの字母や書記素ではなく文字が音素と音節のどちらを表記するかによって、表音文字を音素文字(英: segmental script)と音節文字(英: syllabary)に区分するにとどめる。
いっぽう、アラビア文字やモンゴル文字のように、語内の字母の位置(独立、語頭、語中、語尾)によって字母の姿形が変化する文字体系もある。字母が連結して書かれる文字体系に見られる特徴であるが、同じ文字体系でも言語や表記体系が異なる場合に連結規則が異なる場合が見られる。このような文字体系の場合、字母が位置によって姿形を変えるとみなされるが、字母の字形の類似と発音の類似に関連性が見られるとはかぎらない。
音素文字(英: segmental script、単音文字とも)とは、表音文字のうち、ひとつひとつの字母でひとつひとつの音素を表す文字体系(例外的に複数の音素を表す文字を持つ場合もある)。アルファベット(英: alphabet)と総称されることもある。
en:Peter T. Daniels は音素文字をさらに細分し、アブジャド、アブギダ、アルファベットに分類した。
かつてアブギダは、音節文字とアルファベットの中間に位置付けられ、しばしば音節文字に分類されたが、今日では、アブギダとアルファベットは、多くの場合アブジャドからそれぞれ別個に発達したものだと考えられている。
音素文字に含まれる字母の数は、表記する言語の音素数に照応しているため、少なくて20程度、多くても50程度までである。
アブジャド(英: abjad)とは、語の子音のみを字母として綴る文字体系である(母音は原則として表記しないが、初学者向けにはダイアクリティカルマークで母音を表記する場合もある)。子音文字または単子音文字(英: consonantary)とも呼ばれる。
アブジャドに属する文字体系には、アラビア文字、アラム文字(消滅)、ヘブライ文字、ペルシア文字などがある。現在までに知られているアブジャドはすべて、セム系言語を表記するために発達したと考えられている。
学術用語としてのアブジャドは、Daniels の創案になるものである。この語はアラビア文字の伝統的な順序の最初の4文字に由来し、平仮名の「いろは」がそうであるように、アラビア文字を意味する語として古くから用いられていた。アラビア文字記数法も参照。
アブギダ(英: abugida)とは、子音の字母に特定の母音(随伴母音と呼ばれる。しばしば a 音だがそうでない場合もある)が結びついているため、単独の子音字母が随伴母音つきの子音をあらわす文字体系のことである。随伴母音以外の母音は、ダイアクリティカルマークを付加するなどのきまった表記規則によって表す。
アブギダは、ブラーフミー系文字に属する数百の文字体系を含むため、現在世界で使用されている文字体系のおよそ半数は、アブギダであることになる。ほかにアブギダに属する文字体系としては、カローシュティー文字(消滅)、現代のエチオピア文字(かつてはアブジャドだったがアブギダに変化した)、カナダ先住民文字の一種のクリー文字(ただし正書法の違いから真正のアブギダとは言えない場合もある)などがある。
アブギダという用語もアブジャドと同様で、Daniels の創作である。エチオピア文字のセム系文字で一般的な順序での、最初の 4 文字の読みからきている。
アルファベット(英: alphabet)とは、すべての母音と子音を、各々独立した字母で表記する文字体系のことである。
アルファベットは、ラテン文字やキリル文字のように多くの言語の表記に用いられる文字体系を含むため、現在世界で使用されている言語のうち文字を持つものの大半は、アルファベットで表記されていることになる。
ほかにアルファベットに属する文字体系としては、アヴェスター文字(消滅)、アルメニア文字、エトルリア文字(消滅)、グラゴル文字(古代教会スラブ語の表記に用いられる)、グルジア文字、イラクのクルド語で使われるアラビア文字(もともとアブジャドだが母音符号を必ず表記するためアルファベットと言える)、ゴート文字(消滅)、コプト文字(現代の使用はまれ)、フレイザー文字、満洲文字、蒙古文字、オル・チキ文字(20世紀に誕生)などがある。
音節文字とは、表音文字のうち、ひとつの文字でひとつの音節を表し、音素に分解して表記しない文字体系のことである。
音節文字に属する文字体系には、彝文字(ロロ文字)の音節文字、ヴァイ文字、キプロス音節文字(消滅)、線文字B(消滅)、チェロキー文字、女書、ハングル、平仮名と片仮名、などがある。
表音文字では多くの場合、文字の字形とそれが表す音との対応に規則性はない。したがって音節文字では、表記する言語で弁別される音節の数だけ異なる文字がある。そのため、文字の数は百から数百程度である。平仮名と片仮名はその下限に近く、基本的な文字の数は48(現代語で使用しないゐ/ヰとゑ/ヱを含む)である。ほぼ上限と考えられるのは涼山規範彝文で、音節の声調の違いも異なる文字で表すため、文字の数は800以上に上る。なおハングルは、#字形の規則性の節で述べたとおり字形と発音の関係に規則性があるため、論理的に可能な文字の数は1万を超える。
ひとつの文字がひとつの語あるいは形態素を表す文字体系のことを表語文字(英: logogram)と呼ぶ。中国語では、ひとつの音節がひとつの形態素を表し、漢字はひとつひとつの文字が形態素を表している(わずかな例外はある)。したがって、漢字は完全な表語文字としては代表的なものである。表意文字とのちがいについては#表音と表意・表語の節を参照。
表語文字に属する文字体系には、アナトリア文字(消滅)、エジプトヒエログリフ(消滅)、漢字、契丹文字の一部(消滅)、楔形文字の一部(消滅)、古彝文字(現代では使われない)、古壮字(現代では使われない)、女真文字(消滅)、西夏文字(消滅)、チュノム(現代語の表記には使われない)、トンパ文字、マヤ文字(滅亡)、などがある。
表語文字体系のなかには、表音用の文字も持っていて、表語用の文字と表音用の文字とを組み合わせて語の意味と発音の両方を表そうとするものもある。また、複数の文字を並べてより複雑な意味を表そうとするものもある。エジプトヒエログリフやトンパ文字などがこれにあたる。いっぽう、漢字やそれに影響を受けた表語文字体系では、この方法を会意や形声といった手法に発展させたため、言語の語や形態素のひとつひとつを文字で表すことができるようになった(詳細は六書およびその関連項目を参照)。後者のように、すべての文字が形態素とその発音の音節を表す文字体系を、特にロゴシラバリー(英: logosyllabary)と呼ぶ研究者もいる。
表語文字の特徴として、文字体系に含まれる文字の総数を確定しがたいということがある。たとえば、漢字はその誕生以来文字数を増やしつづけてきたし、今日でも新しい文字が生まれ続けている(#表1参照)。また近年は、漢字をコンピュータで利用するための文字コード(符号化文字集合)の編纂がたびたび行われ、そのための典拠調査を行うたびに収録漢字数は増加している。
「文字は、当初ピクトグラム(絵文字)から発達した象形文字であった」という仮説が有力である。しかし、ピクトグラムから象形文字への移行を裏付ける証拠はほとんど発見されていない。
一方、デニス・シュマント=ベッセラ(英語版)は、中東一帯の遺跡から発見される粘土製証票(トークン)が文字の起源となったと主張する。商取引の際、商品ごとに形の異なるトークンを用い、トークンの数で取り引き数を表す。取り引きごとのトークンをまとめて中空の粘土の玉(封球)に納めたり、紐で綴って両端を粘土の塊(ブッラ)で封印することで、取り引きの証明とした。後に封球やブッラの表面に、トークンの形と数を印すようになった。つまり、商品をトークンで表し、さらにトークンとその数を記号で象徴するようになった。これが文字の(少なくとも、この地域でその後使われるようになった楔形文字体系の)起源であるとする説である。
しかし、この説への批判も多く、現在の主流の見解では、トークンは文字の誕生の一要因であったが、トークンのみですべてを説明することはできないとされている。
また、文字が単一の起源から発生したのか、それとも地球上の複数の地域で独立に文字が誕生したのかについては、学者らの見解は一致していない。
現在までに発見されている文字体系は、あまり多くないいくつかの系統に分類できる。つまり、現在知られる文字体系のほとんどは、ほかの文字体系を借用し、発展させて成立したことがわかっている。借用はさまざまなレベルで行われるが、それぞれの系統には#分類の節で述べたさまざまな類型に属する文字体系が現れる。また、個々の文字体系の中でも、さまざまな造字手法を発展させてきた。
契丹文字、古壮字、女真文字、西夏文字、チュノムは漢字の影響を受けて生まれたと考えられているが、現在は使われていない。
新たな文字体系が成立するときに、複数の文字体系を取り入れることはしばしばある。また、別の系統に分かれた同時代の文字体系同士が、影響を与えあって発展していくこともある。本節では、複数の文字体系から影響を受けたことが特にはっきりしているものを取り上げて解説する。 | [
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"text": "文字(もじ、もんじ、英: writing system)とは、言語を点や線の組合せで単位ごとに記号化するもの。文字と書いて基本的には「もじ」とよむが、「もんじ」ともよむ。",
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"text": "文字というのは、言語を、点や線の組合せで、単位(ひとまとまり)ごとに記号化するものである。言葉・言語を伝達し記録するために線や点を使って形作られた記号のこと。言葉・言語を、視覚的に記録したり伝達したりするために、目に見える線(直線や曲線)や点を使って形作られた記号のことである。",
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"text": "世界にはさまざまな文字があり、またさまざまな分類法がある。基本的な分類として、「音」だけを示している「表音文字」と、基本的に「意味」を示している「表意文字」がある。世界全体を見ると、主に表音文字ばかりが使われている地域と、主に表意文字ばかりが使われている地域と、基本的に両者を混合して使っている地域がある。",
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"text": "たとえばヨーロッパの英語やドイツ語やフランス語のアルファベットは表音文字であり(さらに詳しくいうと音素文字であり)、一文字一文字は音素(音の要素。音の一部分。特定の、舌の動き・唇の動き・口の形などで生じる音)を表しており、アルファベットが2〜3文字(やや例外的な場合も含むなら 1〜6文字ほどが)まとまることで音節(発音の小単位)を示している。表音文字の一文字一文字は、あくまで音を表すためのものであり、原則(※)として、意味が全く無い。たとえば英語の「proceed」という言葉に含まれる「p」の一文字だけでは全く意味を持たない。p,r,oと並べることで「pro」という音節になり、「pro」という組み合せになってようやく「前方へ」という意味を持つ。c,e,e,dの4文字の組み合わせで「ceed シード」という音節を示し「進む」という意味を示し、「proceed」7文字全体で、「前に進める。続行する」という意味になる。それに対して中国で使われるようになった漢字は表意文字であり、表意文字はひとつひとつの文字だけでも何らかの意味を表していることが多い。たとえば「明暗」という語は、2つの漢字「明」と「暗」からなるが、「明」一字だけでも意味がある(そしてこの「明」という文字に対応する音も人々はいくつか記憶している)。また「暗」一字だけでも意味がある(そして「暗」に対応する音も記憶されている)。そして二文字を組み合わせて「明暗」という一語(ひと単語)になっている。中国では主に漢字ばかりが使われる。一方、日本語で使われる文字は、(中国から伝来した)漢字と(漢字から表音文字を作るために部分を抽出し、形を独自に変形させた)ひらがなやカタカナがあり、漢字のほうは中国語同様に原則的に表意文字であるが、ひらがなやカタカナのほうは「表音文字」(詳しくいうと音節文字)であり、つまり現代日本語のありふれた文書に使われる文字は、表音文字と表意文字の両方を並行して使っている。たとえば現代日本語の「太陽、まぶしいね。」という一文に含まれる「太陽」は表意文字を2文字並べており(「太」および「陽」。二文字で一語(ひと単語)になっている)、「まぶしいね」は表音文字(音節文字)を5文字並べている(「ま」「ぶ」「し」「い」「ね」)。「ひらがな」は、通常の文章ではほとんどの場合、(漢字が日本列島に渡来する以前からその列島で人々が日常的に話していた)大和言葉の音を表記するのに用いられている。(残りの「、」や「。」は、意味の区切りや、間合い(ひと呼吸の間、短い無音の状態)を示すための記号である。)",
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"text": "なお英語圏では、アルファベットのような単音文字をレター(英: letter。あえて漢字に訳す場合は「字」)、それ以外をキャラクター(英: character。これをあえて漢字に訳す場合は「文字記号」など)と区別することがある。いっぽう今から二千年ほど前に中国の許慎によって書かれた『説文解字』という書では、象形や指事によって作られる具象的な記号を「文」、形声や会意などによって構成される記号を「字」などと解説し、「両者をあわせたものが文字である」などと解説されていた時代があった。だがこれは二千年前の主張にすぎず、たとえ今でもそれを真に受けてしまっている人が一部にいるとしても、現代の学者はこうは考えていない(許慎の説明は間違っている、と現代の学者は考えており、近年の大学教育を受けしっかりとアカデミックな訓練を受けた人々は通常、許慎の説明は間違っていると判断する)。(#「文字」という単語の語源の解説を参照)。",
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"text": "文字というのは、一旦その発音のしかた、読み方を知る人がこの世にいなくなってしまうと、解読が困難になってしまう。",
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"text": "古代エジプトの碑文を近代ヨーロッパ人は目にしたものの、何世紀にも渡って発音も意味も分からず、何世紀にも渡り解読が全然できなかったが、たまたま、同一の意味の文章をヒエログリフを含む3言語を並べて彫り込んだロゼッタストーンが発見されたことをきっかけにして、丸い線でぐるりと囲んだ部分は「王の名」が書かれているなどということがわかるようになるなどして、少しづつ解読され、やがてフランスのシャンポリオンが完全に解読することに成功した。",
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"text": "古代エジプトのヒエログリフは、実は、基本的にはヨーロッパのアルファベットと同様に「表音文字」である(それに誰も気づかなかったので、解読が非常に難航した)。一見すると、絵が並んでいて表意文字のように見えるが、実は、基本的には表音文字である。(ヒエログリフが基本的に表音文字であることを日本人にも分かるようにざっくりと説明すると、「鳥(とり)」の絵を描いておいて、それを「と」と読ませるようなやりかたで、もともとは具象物を表していた図を表音文字として使っている、のである。)ただしヒエログリフは、文脈によっては、まれにもとの意味を表す表意文字として使われることもある(しかし、表意文字としての使用の頻度は低い)。",
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"text": "マヤ文字も読み方が分からなくなってしまった時代がとても長く、1970年代まで世界の学者の誰にもほとんど読めず(解読しようとしても解読できず、人生をほとんど「棒にふってしまった」学者も多い)、1980年代ころからようやく解読が進んで、かなり分かってきた。",
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"text": "なお、インダス文字など、世界にはまだ読み方が分かっていない文字がいくつも残っている。最近(2020年代)では、人工知能を未解読文字の解読に役立てようとする動きが出始めている。",
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"text": "文字体系(英: script、書記系、用字系、スクリプトとも)とは、同種の表記に使われるひとまとまりの文字の体系のことを言う。特定の文字体系を指すときは、単に「〜文字」と称することも多い。また、同じ系統や同じ類型に属すると考えられる文字体系のグループを「〜文字体系」ないしは「〜文字」と呼ぶこともある。",
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"text": "一般に、言語と文字体系は一対一に対応しない。アラビア文字、漢字、キリル文字、デーヴァナーガリー、ラテン文字のように、複数の言語で表記に使われる文字体系は多い。逆に一つの言語で複数の文字体系が使われている場合もあり、日本語ではひらがな、カタカナ、漢字の 3 つの文字体系が言語の表記に不可欠なものとなっている。セルビア語やボスニア語等にはラテン文字、キリル文字の 2 通りの表記方法が存在し、このように同一言語に複数の文字体系が存在することをダイグラフィアと呼ぶ。",
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"text": "表記体系(英: writing system、文字体系、書記系、書字系、書字システムとも)とは、ある文字体系に加えて、正書法、句読法や、字体、文字、語句の選択基準などの種々の言語的慣習をも含む文字使用の体系のことを指す。同じ文字体系を用いていても、異なる言語では表記体系に違いが見られることもある。現実には、文字体系と表記体系との区別は曖昧であり、両者はしばしば混用される。",
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"text": "コンピュータによる文字情報処理の分野では、複数の言語を同時に扱う際に、文字体系や表記体系に範をとった概念が用いられる。用字系(英: script、スクリプト、または単に用字とも)は、特定の言語(一般に複数)のために用いるためのひとまとまりの文字や記号を指す。書記系(英: writing system)は、ある用字系(一般に複数)を用いて特定の言語を表記するための規則の集合を指す。",
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"text": "文字体系に含まれる記号の最小単位を字母(文字記号とも)と呼ぶ。字母は文字と一致する場合もあるが、文字体系、言語、民族によっては、文字より小さい単位を字母とみなす場合もあるし、補助的な記号(ダイアクリティカルマークやマトラなど)を字母に含めない場合もある。一方、学術的な用語では、ある文字記号を構成する部分のことを書記素(英: grapheme、文字素、図形素とも)と呼ぶ。表音文字では音声の音素(英: phoneme)、表語文字では意味の意義素(英: sememe)あるいは形態素(英: morpheme)に対比される概念である。何を書記素とみなすかは、研究者によって異なることがある。",
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"text": "視覚的なもの、眼に見える要素の少単位というのはさまざまあるが、学術的には、そのなかでもあくまで言語に直接結び付いたものだけを「文字」と分類している。",
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"text": "やや特殊な文字としては次のようなものがある。",
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"text": "字体(じたい)とは、ある図形を文字体系の特定の一文字と認識でき、その他の字ではないと判断しうる範囲のこと。これに対して、文字体系に含まれる特定の文字の、図形としての具体的な形のことを字形(じけい)と言う。",
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"text": "字体の基準は、文字体系や表記体系によって異なる。逆に言うと、異なる文字体系同士でよく似た文字があっても、それらは別の文字と見なされる。一方の文字体系から他方が派生した場合や、双方が共通の祖先を持つ場合には字形・発音ともによく似た文字が現れやすいが、たとえラテン文字の「A」とキリル文字の「А」のように字形・音価ともほとんど同じ場合でも文字としては別の文字である。漢字の「二」と片仮名の「ニ」のように関係があるとも無いとも言い難いものや、片仮名の「ユ」(弓の部分)とハングルの「그」(ᄀ+ᅳ)のように全くの偶然の一致によるものも、別々の文字体系に属する別の文字である。字体の基準は、言語や時代によっても変化することがある。たとえば漢字で、「吉」の3画めを1画めより長めにするか短めにするかという違いは字体の違いとなることがあるが、現代の日本の常用漢字ではこの違いを区別しない。",
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"text": "文字コード(後述)では、個々の符号が表しうると考えられる字形を抽象して特にグリフ(英: glyph)と呼ぶことがある。",
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"text": "書体(しょたい)とは、ある文字体系で、字体を一貫した特徴と様式を備えた字形として表現したものをいう。漢字の手書き文字での篆書、隷書、楷書、行書、草書や、活字やフォントの明朝体、ゴシック体、ローマン体、セリフ、サンセリフなどは書体である。",
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"text": "楔形文字(英: cuneiform)は、現在知られている文字体系で最古のもののひとつである。紀元前3500年頃にメソポタミアで誕生した。粘土板に葦の尖筆を押し当ててできる \" くぼみ \" を組み合わせて文字とする。尖筆を粘土に押し当てると、ちょうど楔(くさび)のような、長い三角形のくぼみができるので、学術用語の表記言語であるラテン語で(scriptura) cuneiformis(クネイフォルミス) と呼ばれるようになり(ラテン語のcuneus(クネウス)は「くさび」で、formis, forma (フォルマ)は「形、かたち」という意味。つまり「楔形」)、日本語でもそれに倣って楔形文字と呼んでいる。粘土に書いた文字は、粘土が湿って柔らかいうちは簡単に書き直すことができるし、いっぽうで乾かせば書いたものをかなりの期間保存できる。さらに長期の保存が必要な場合や内容の書き換えや改ざんを防止する場合には粘土板を焼いて一種の焼き物にすればよい。現在残っている楔形文字資料の多くは、火災や戦災によって焼かれたものである。",
"title": "歴史"
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"text": "現在までに発見されている楔形文字のうち、初期のものが表記している言語はシュメール語と呼ばれ、シュメール人の言語である。しかし、楔形文字そのものをシュメール人が作ったというたしかな証拠はいまのところ発見されていない。もっとも古いものはウルク文字(古拙文字とも)で、イラク中部のウルク(現ワルカ)遺跡第4層から出土し、紀元前3100-3000年頃のものである。また、少し後の時代のものとしてジャムダド・ナスル(ジェムデド・ナスル)でも同系統の文字を記した粘土板が発見されている。ほとんどは商取引の記録や目録のような経済文書であり、事物や職名、都市名を表す文字とともに数字を記している。また、書記の養成のためと見られる文字リストも発見されている。一方、ジャムダド・ナスルと同時期の文字資料がスーサで出土しているが、これはエラム語の一種を表記したもので、原エラム文字と呼ばれる。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "当初の書字方向は上から下の縦書きで、文字はある程度単純化された線画であり、まだ楔形になっていない。紀元前2600年頃から、書字方向が縦書きから横書き(左から右)に変わり、その結果、すべての文字が左に90度回転した。その後、筆画が直線化し、最終的には楔形の組み合わせで文字を表すようになる(#図4を参照)。",
"title": "歴史"
},
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"paragraph_id": 24,
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"text": "ウルク文字は、事物そのものを表す表語文字であるが、紀元前2800年頃から、文字を音節を表すものとしても使うようになる。たとえば、「牛」を表す文字を [gu] の音節を表すのに使う。ところが、「糸」を表す文字でも [gu] を表せる。同じ音の語は複数あるから、ある音節を表せる文字も複数ある。これを同音異字性(英: homophony、ホモフォニーとも)と呼ぶ。また、「口」を表す語は [ka] なので、「口」を表す文字は [ka] の音節を表す。ところが、この文字は「叫ぶ」[gù]、「歯」[zú]、「話す」[du] などの語も表すから、それらの音節を表すのにも使う。これを多音性(英: polyphony。ポリフォニーとも)と呼ぶ。同音異字性や多音性は、シュメールの楔形文字を借用した他の楔形文字にも引き継がれる。",
"title": "歴史"
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"text": "シュメール語の楔形文字は、アッカド語(バビロニア語やアッシリア語を含む)の表記に借用された。しかしシュメール語が膠着語であったのに対し、アッカド語は屈折語のセム系言語であった。セム系言語では語根を3子音(ときに4子音)で表すから、ひとつの語を音声表記するのには複数の文字が必要になる。表記を短縮するためにシュメール語の表語文字を併用することもあった。バビロニア人やアッシリア人の楔形文字は、さらにヒッタイト語、フルリ語(ミタンニ語)、ウラルトゥ語(いずれもインドヨーロッパ語族の言語)などの言語の表記に借用された。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "シリアのウガリット(ラス・シャムラ)で発見されたウガリト文字は、紀元前14世紀頃の文字体系である。シュメール起源の楔形文字では文字の数が600あまりに達したのに対し、ウガリト文字は字母がわずか30個のアブジャド(子音文字)になっている。字母の一覧を記した資料では、フェニキア文字やヘブライ文字などの伝統的な順序との一致が見られることから、文字体系の組織は他のアブジャドの影響を受けたと考えられている。",
"title": "歴史"
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"text": "また、古代ペルシア楔形文字は、アケメネス朝ペルシアのダレイオス1世が作らせた楔形文字で、36個の開音節文字(子音-母音の組み合わせを表す文字。ただしうち3個は母音のみの文字)を含む。楔形文字の中では最初に解読された文字体系である。これは紀元前4世紀には使われなくなった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 28,
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"text": "今日では、楔形文字を表記に使う言語はない。現在までに知られているもっとも新しい楔形文字の資料は、紀元後1世紀のシュメール語表語文字によるものである。",
"title": "歴史"
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"text": "",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 30,
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"text": "エジプトヒエログリフのうち、発見されている最古の文字資料は紀元前3100年から3000年ころの先王朝時代末期のものである。エジプトヒエログリフでは、古拙期の文字資料というものがほとんど発見されていない。あたかも、整備された文字体系が突然出現したかのようである。研究者の多くは、数世紀先行するメソボタミアの#楔形文字の影響があると考えるが、両者には字母などに明らかな共通点が見られないため、エジプトヒエログリフが借用したのは「文字という着想」(#借用と発展の節を参照)だけで、文字体系の組織は独自に発達したものだと考えている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "初期にはさまざまな媒体に書かれたが、神官書体(後述)が発達すると、もっぱら記念碑や宗教関係の碑文にのみ使われるようになった。ヒエログリフ(英: hieroglyph、聖刻文字とも)という呼び名は、古代ギリシア語のタ・ヒエログリュピカ(神聖な文字)に由来する。文字の多くは表語文字だが、一部の文字を表音文字にも転用しており、表語文字では表しにくい概念や形態素を表記しやすくなっている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 32,
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"text": "表語文字は時代によって字形が変わったり、新たな事物を表す文字が追加されたりしたので、現在までに同定されているものは6000字以上にのぼるが、各時代に実用された数は700から1000程度である。表音文字は子音のみを表記するので、アブジャドであると言える。一子音の文字が24程度、二子音の文字が100ちかく、三子音の文字が40あまりある。一子音文字はもっぱら表音にのみ使うが、そのほかの表音文字は表語文字として使うこともあるため、複数子音の文字に一子音文字を付加して表音文字として使っていることを明確にすることがある(末尾の子音だけを付加することが多いが、複数の子音を付加することもある)。この手法を音声補充と呼ぶ。日本語の送り仮名や漢字の形声にいくらか似た手法だが、送り仮名の場合とはちがい、品詞に関係なく音声補充できるし、形声とはちがい、表音文字にも音声補充をする(#図5 (a) 参照)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "さらに、語に付加して意味範疇を表す限定符がある。漢字の偏旁に似た働きをするが、独立した文字である。エジプト語はセム系言語と近縁のハム語族に属するため、近縁の概念を表す語は同じ3子音(ときに4子音)からなる語根を共有する。表語文字や表音文字と限定符とを組み合わせて同語根の語を区別し、意味を明確にすることができる。器物の材質のような詳細な意味まで限定符で区別することさえある(#図5 (b) 参照)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "書字方向は比較的自由で、初期には主に縦書き(上から下)、後には主に横書きとなり、ブストロフェドンが行われることも多い。ただし、行内の配列順は審美上の観点から方向を変えることがある。また、王や神などを表す文字はしばしば前のほうに置く。このような現象を字母転移という。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "文字はときに、極めて写実的に描かれる(#図6)。ただし、現代の透視図法によるような写実性ではない。たとえば「人」を表す文字では、頭部全体や脚部は横から、眼は正面から描くというように、様々な角度から見た対象の特徴を平面上になるべく忠実に描写しようとする。文字は彩色されることもあるが、色は意味に関係しない。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "ヨーロッパでは16世紀から、エジプトヒエログリフの解読の試みが活発になったが、文中の人名などに基づいていくつかの表音文字の音価を決定できたにとどまった。このため、エジプトヒエログリフの大半は象徴的な概念を表現した紋様であり、完全な文字体系ではないとの誤解が生まれた。ヒエログリフが表語文字とともに表音文字としての機能をもち、独自の合理性をもつ文字体系であるということを最初に証明したのは、19世紀のシャンポリオンである。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "神官書体(ヒエラティックとも)は、ヒエログリフを簡略化して筆記用にしたものだが、その原型となる文字資料はヒエログリフと同じくらい古い。まとまった文章が表れるのは第4王朝時代頃からである。神官書体はおもに行政文書や商業文書に用いられた。パピルスや、石片や陶片(オストラカ)に、筆とインクを使って書かれた。石に彫られることはまれだった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "文字体系の組織はヒエログリフと一致し、神官書体で書いたものをヒエログリフに翻字することもできる。ヒエログリフの筆記体であると言える。はじめは縦書き(上から下)だったが、後に横書き(おもに右から左)に変化する。しかし、文字の向きが変わることはなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "その後簡略化がいっそう進み、紀元前第1千年紀前半に、神官書体から民衆書体(デモティックとも)が分化した。民衆書体では続け書きや略体が多用され、ヒエログリフとの間で文字ごとの対応づけをすることはもはや不可能である。紀元前600年ころから、宗教文書以外では完全に神官書体にとって代わった。民衆書体は日常的な文書にも用いられた。神官書体と民衆書体の名は、古代ギリシア語のヒエラティカ(神官の)とデモティカ(民衆の)に由来する。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "民衆書体の書字方向は横書き(右から左)である。やはりパピルスやオストラカにインクで書かれたが、プトレマイオス朝時代には、ギリシアから入った葦のペンで書くことが多くなった。このころから、記念碑などの碑文にも使われるようになる。1799年に発見されたロゼッタ・ストーンは、ヒエログリフ、民衆書体、ギリシア文字のギリシア語の 3 種の文字体系で記されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "今日では、エジプトヒエログリフやその神官書体、民衆書体を表記に使う言語はない。現在までに知られているもっとも新しい資料は、紀元後5世紀の民衆書体によるものである。この後、エジプト語やそれから派生した言語を表記する文字体系はコプト文字だけとなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "原シナイ文字は、シナイ地方の神殿遺跡から発見されたのでこの名がある。少なくとも23の字母を持つ。解読はまだ十分に進んでいないが、字母の半数は、その字形から見て、エジプトヒエログリフからの借用である。つまり、エジプトヒエログリフから借用して生まれた表音文字体系である。類型としてはアブジャドである。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "字母の多くが表している事物が原カナン文字やフェニキア文字の字母の呼称と一致することから、フェニキア文字は原シナイ文字から派生したという説がある。この説が正しいとすれば、エジプトヒエログリフは、今日のほとんどの音素文字体系、つまり今日使われている多くの文字体系の祖にあたることになる(次節も参照)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "メロエ文字は、紀元前2世紀に生まれた。古代ヌビアのクシュ王国で、メロエ語を表記するのに用いられた。23個の字母からなり、大部分がエジプトヒエログリフからの借用であると考えられている。ヒエログリフと筆記体があり、ヒエログリフは縦書き(上から下)、筆記体は横書き(左から右)であった。アブギダに似て子音字母に特定の母音が伴っているが、それ以外の母音は独立した字母を書くことで表す。また、一部の子音-母音結合は独自の文字で表記する。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "このほか、クレタやヒッタイトで発見されている「ヒエログリフ」と呼ばれる文字体系も、エジプトヒエログリフの影響を受けていると考える研究者もいる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "中国では戦国時代までに、文字を意味する語として「書」「文」「名」などが用いられるようになっていたが、これらは文字以外の意味も持っていた。秦の中国統一にともない、秦の語彙「字」が公式に用いられるようになり、漢代に入って文字を表す語として定着した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "いっぽう「文字」という語のたしかな初出は、前漢の司馬遷による『史記』である。これは、紀元前3世紀に始皇帝を顕彰するために建てられた琅邪台刻石碑文の「車同軌、書同文字」(車の軌幅を統一し、書の文字を統一した)を引用したものだが、碑文では韻律を整えるために「文」に「字」字を付加しただけで、当時は「文字」という熟語は使われていなかった。『史記』以降になってはじめて、「文字」という語が「言語を書き記すための記号」の意味で用いられるようになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "各種の文字体系を分類するために、様々な基準が存在する。つぎのような分類がありうる。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "本節では、類型的な分類について解説する。系統による分類については、#系統の節で見る。言語との関係は文字体系別の言語の一覧を、また時代や地域については各文字体系の解説を参照されたい。文字体系の一覧も参照されたい。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "#図1に、ウィキペディア日本語版のカテゴリで用いられる文字体系の類型的分類を示す。また#図2に、世界の文字体系の類型別の分布を示す。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "ヨーロッパ世界では、伝統的に、文字は音声の補助にすぎないという考え方が根強くあった。ソクラテスは、文字に頼ると記憶力が減退し、文字で書かれたものは弁舌よりも説得力が劣ると考えた。後に地中海沿岸世界ではエジプトヒエログリフが忘れられ、ヨーロッパとその周辺ではアルファベットなどの音素文字だけが使われるようになったため、音声を忠実に再現することこそ文字の本質だという考えはいっそう強まった。さらにルソーは、「事物の描写は未開の民族に、語や文章の記号は野蛮な民族に、アルファベットは政府に統治された民族に一致している」と述べ、使用される文字体系の種類が社会の進歩の度合いを反映しているという考えを示した。この3つはピクトグラムや象形文字、表語文字、表音文字に対応している。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "18世紀には、さまざまな言語を客観的に比較する姿勢が強まったが、文字の研究は音声学の一分野として行われるにとどまった。このような思潮から、文字は象形文字から音節文字へ、さらには音素を完全に表記できるアルファベットへと発達していくものだと広く信じられるようになり、一時は主流的な考え方にもなった(#図3参照)。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "しかし、今日の言語学では、以上のような説は、完全にとはいえないまでも、ほぼ正しくないことがわかっており、当然のこととして、使用する文字体系の種類が社会の進歩の度合いを表すというような見方は完全に否定されている。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "また、中華世界では事情が異なっていた。上古にすでに甲骨文が見られるが、これは卜占による神意を伝えるものであった。封建制が成立した後も、文字使用の独占は権力の源泉となった。周王朝の滅亡によって文字の技術は独占を脱し、文字の使用は広まったが、表語文字(後述)としての漢字の能力は、多くの方言や言語を横断する共通の意志疎通手段として、中華世界の一体性を維持することにつながった。さらに、華夷秩序の拡大に伴い、周縁社会にとっては、漢字は文明の中心地から先進文化を受け入れ、その権威に与るための手段となった。その間、中原にはさまざまな民族が侵入し、多くの王朝が交代したが、漢字は使われ続けた。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "中国語は1音節が1形態素に対応する孤立語であり、漢字はその形態素を書き表したので、文字がすなわち言語であった。そのため言語学は発達を見ず、代わりに文字を手がかりに古えの文献を読み解く訓詁の学が発展した。個々の文字は「形音義(字形、発音、意味)」の3要素によって分類考証されるようになった。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "20世紀に入ると文化人類学や構造主義言語学が起こり、人間の諸活動のうち文字の使用についても通時的側面とともに共時的側面からも検討する方法論が主流となった。また考古学の発展もあって、文字の発達や分化の理論も修正された。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "伝統的によく用いられる文字体系の分類法に、「表音文字 と 表意文字」に大別するものがある。たとえば、フェルディナン・ド・ソシュールの『一般言語学講義』でも表音文字と表意文字に大別している。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "表音文字(ひょうおんもじ、英: phonogram)は、意味を示さず、あくまで音(発音)を示している。原則的に、意味を示してはいない。ただし「表音文字は必ず発音をすべて表記しているか?」と問うと、そういうわけではない。また完全に正確に表記しているか?というと、必ずしもそうではない。形態素が連接する際の渡り音は表記に反映しないのが普通だし、音韻の交替を反映しないこともしばしばある。たとえば、現代朝鮮語の正書法ではハングルの表記で形態主義をとり、発音の上では子音の交替が起こっていても語幹の表記を変化させない。このことによって、文中の形態素を識別しやすくしている。それぞれの語の綴りも、発音を忠実に表しているとはかぎらない。現代英語の enough、night、thought の gh のように、異なる発音を表す(あるいは発音しない)場合がある。言語において、その発音は時代を経ると音韻変化によって変わっていくが、文字の表記は変化しにくいためである。タイ語のタンマサート ธรรมศาสตร์ はサンスクリット語のダルマシャーストラ dharmaśāstra に由来するが、原語の発音を綴りの中に保存している。日本語の現代仮名遣いで、助詞の は、へ、を のみにはかつての表記を残しているのも似た現象である。このように発音と一致しない綴りが保持されるのは、形態素同士が発音だけでは区別できなくなる不便を補うためだと考えられている。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "表意文字(ひょういもじ、英: ideogram)は、意味(概念)を示している文字である。表意文字の代表例にシュメール文字がある。アラビア数字の1,2,3...なども「1」「2」「3」...という数概念を示しており、表意文字である。なお(各言語の中の)表意文字は、一般的に概念と同時に音(各言語ごと異なった音、ではあるが)も表していることが一般的である。ただし、具体的な言語の種類で対応する「音」が異なってしまっている。たとえば「1」は英語では「one ワン」だが、日本語では「いち」や「ひと」である。その意味で、やはり表意文字の、基本的で一番重要な機能は意味(概念)を示すことであり、その意味でやはり「表意文字」と呼ばれるのが適切だということになる(つまり表意文字は、あくまで意味を示すために使われており、特定の固定された音を示すための文字ではない。人は表意文字を見て「音」を思い出すとしても、実際には母語が異なれば想起する音は異なっているわけであり、各言語の話者が対応するその言語の語彙を想起しているわけである。なお、日本人は表意文字の例としてすぐに漢字を(本当は代表例ではないのに、あたかも代表例のように)挙げてしまうが、中国語の文章の表記に使われる漢字は語や形態素などにも対応しており、その結果ひとつひとつの形態素の発音をも表しているのだから、表意文字に分類するのは適切ではないと指摘されている。したがって近年では学術的には、中国語の文章の表記に使われている状態では「漢字は表語文字」と分類される。漢字はつきつめれば結局、個々の使用例ごとに、細かく分類せざるを得ない。また日本語の文章中の漢字は、また別の話となる。)",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "表語文字(ひょうごもじ、英: logogram)は、文章中の語や形態素を表すと同時にその発音も表す文字、という分類である。アンドレ・マルティネは、人間の言語が二重分節されている、と説明した。つまり、言語の文はまず一連の単位(形態素)に分節され(第1次分節)、次にそれぞれの単位が一連の音(音節や音素)に分節される(第2次分節)、と説明した。言語が持つこの性質によって、限られた数の音素や音節から無数の語をつくり出すことができ、それらを規則的に組み合わせて無数の事実を表現することが可能になる、と説明したのである。もしこの説明法を採用するなら、表語文字と表音文字は、それぞれ、第1次分節と第2次分節のレベルを文字として、言語を表記するものと言える。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "なお「表音性」や「表語性」という性質は、程度の差はあるがどの文字体系にも備わっており、相対的な基準であると論ずる研究者もいる。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "本項目では文字体系を、伝統的な分類法である「表音文字と表意文字」という分類法も尊重しつつ、現代の学術的な表語文字という分類法も説明してゆく。表音文字や表意文字については、それぞれのサブカテゴリ(細分化された分類)も紹介してゆく。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "表音文字は、さまざまなタイプがある。一方は、表す音素や音節ごとに別の字形になっているタイプである。たとえばヒエログリフは、碑文の普通の文章中で使われている場合、ほとんどが表音文字として使われているが、こうしたヒエログリフは、もともと具象物(たとえば口(くち)、フクロウ、ヘビなど)を示すために使われた象形文字を転用して音素(たとえば「m」「t」など)だけを表すことに用いたものである。ヒエログリフの場合、字形とそれらが表す発音との間には関連がない。しかし他方、文字や字母の字形と、発音との関係に規則的な関連がある表音文字体系もある。このタイプの表音文字は素性文字(英: featural alphabet)とも呼ばれる。こういった文字体系の多くは計画的につくり出されたものである。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "ハングルは一見漢字を連想させる字形だが、ひとつひとつの文字は子音と母音の字母(자모、チャモ)を規則的に組み合わせて音節を表す純粋な表音文字である。同じ調音位置の子音字母は似た形をしており、朝鮮語に特有の平音、濃音、激音の対立を字母を変形することによって表している。母音の字母の形も朝鮮語特有の陽母音と陰母音の対立や母音調和法則に即した規則性を持つ(詳細はハングルの項を参照)。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "テングワールは、トールキンが架空の中つ国で使われている文字体系として作り出したものだが、やはり子音の字形は調音位置や調音形式に対応した規則性を持つ(詳細はテングワールの項を参照)。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "ただし、これらの文字体系のうち、それぞれの文字が音節ごとに表記されるものは、文字の構成要素である字母を単独で書き表すことは原則としてない(たとえばハングルでは、学習などの目的以外に、単独の字母で音素を表記することはない)。したがって、本項目ではこの分類は採らず、ひとつひとつの字母や書記素ではなく文字が音素と音節のどちらを表記するかによって、表音文字を音素文字(英: segmental script)と音節文字(英: syllabary)に区分するにとどめる。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "いっぽう、アラビア文字やモンゴル文字のように、語内の字母の位置(独立、語頭、語中、語尾)によって字母の姿形が変化する文字体系もある。字母が連結して書かれる文字体系に見られる特徴であるが、同じ文字体系でも言語や表記体系が異なる場合に連結規則が異なる場合が見られる。このような文字体系の場合、字母が位置によって姿形を変えるとみなされるが、字母の字形の類似と発音の類似に関連性が見られるとはかぎらない。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "音素文字(英: segmental script、単音文字とも)とは、表音文字のうち、ひとつひとつの字母でひとつひとつの音素を表す文字体系(例外的に複数の音素を表す文字を持つ場合もある)。アルファベット(英: alphabet)と総称されることもある。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "en:Peter T. Daniels は音素文字をさらに細分し、アブジャド、アブギダ、アルファベットに分類した。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "かつてアブギダは、音節文字とアルファベットの中間に位置付けられ、しばしば音節文字に分類されたが、今日では、アブギダとアルファベットは、多くの場合アブジャドからそれぞれ別個に発達したものだと考えられている。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "音素文字に含まれる字母の数は、表記する言語の音素数に照応しているため、少なくて20程度、多くても50程度までである。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "アブジャド(英: abjad)とは、語の子音のみを字母として綴る文字体系である(母音は原則として表記しないが、初学者向けにはダイアクリティカルマークで母音を表記する場合もある)。子音文字または単子音文字(英: consonantary)とも呼ばれる。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "アブジャドに属する文字体系には、アラビア文字、アラム文字(消滅)、ヘブライ文字、ペルシア文字などがある。現在までに知られているアブジャドはすべて、セム系言語を表記するために発達したと考えられている。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "学術用語としてのアブジャドは、Daniels の創案になるものである。この語はアラビア文字の伝統的な順序の最初の4文字に由来し、平仮名の「いろは」がそうであるように、アラビア文字を意味する語として古くから用いられていた。アラビア文字記数法も参照。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "アブギダ(英: abugida)とは、子音の字母に特定の母音(随伴母音と呼ばれる。しばしば a 音だがそうでない場合もある)が結びついているため、単独の子音字母が随伴母音つきの子音をあらわす文字体系のことである。随伴母音以外の母音は、ダイアクリティカルマークを付加するなどのきまった表記規則によって表す。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "アブギダは、ブラーフミー系文字に属する数百の文字体系を含むため、現在世界で使用されている文字体系のおよそ半数は、アブギダであることになる。ほかにアブギダに属する文字体系としては、カローシュティー文字(消滅)、現代のエチオピア文字(かつてはアブジャドだったがアブギダに変化した)、カナダ先住民文字の一種のクリー文字(ただし正書法の違いから真正のアブギダとは言えない場合もある)などがある。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "アブギダという用語もアブジャドと同様で、Daniels の創作である。エチオピア文字のセム系文字で一般的な順序での、最初の 4 文字の読みからきている。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "アルファベット(英: alphabet)とは、すべての母音と子音を、各々独立した字母で表記する文字体系のことである。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "アルファベットは、ラテン文字やキリル文字のように多くの言語の表記に用いられる文字体系を含むため、現在世界で使用されている言語のうち文字を持つものの大半は、アルファベットで表記されていることになる。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "ほかにアルファベットに属する文字体系としては、アヴェスター文字(消滅)、アルメニア文字、エトルリア文字(消滅)、グラゴル文字(古代教会スラブ語の表記に用いられる)、グルジア文字、イラクのクルド語で使われるアラビア文字(もともとアブジャドだが母音符号を必ず表記するためアルファベットと言える)、ゴート文字(消滅)、コプト文字(現代の使用はまれ)、フレイザー文字、満洲文字、蒙古文字、オル・チキ文字(20世紀に誕生)などがある。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "音節文字とは、表音文字のうち、ひとつの文字でひとつの音節を表し、音素に分解して表記しない文字体系のことである。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "音節文字に属する文字体系には、彝文字(ロロ文字)の音節文字、ヴァイ文字、キプロス音節文字(消滅)、線文字B(消滅)、チェロキー文字、女書、ハングル、平仮名と片仮名、などがある。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "表音文字では多くの場合、文字の字形とそれが表す音との対応に規則性はない。したがって音節文字では、表記する言語で弁別される音節の数だけ異なる文字がある。そのため、文字の数は百から数百程度である。平仮名と片仮名はその下限に近く、基本的な文字の数は48(現代語で使用しないゐ/ヰとゑ/ヱを含む)である。ほぼ上限と考えられるのは涼山規範彝文で、音節の声調の違いも異なる文字で表すため、文字の数は800以上に上る。なおハングルは、#字形の規則性の節で述べたとおり字形と発音の関係に規則性があるため、論理的に可能な文字の数は1万を超える。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "ひとつの文字がひとつの語あるいは形態素を表す文字体系のことを表語文字(英: logogram)と呼ぶ。中国語では、ひとつの音節がひとつの形態素を表し、漢字はひとつひとつの文字が形態素を表している(わずかな例外はある)。したがって、漢字は完全な表語文字としては代表的なものである。表意文字とのちがいについては#表音と表意・表語の節を参照。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "表語文字に属する文字体系には、アナトリア文字(消滅)、エジプトヒエログリフ(消滅)、漢字、契丹文字の一部(消滅)、楔形文字の一部(消滅)、古彝文字(現代では使われない)、古壮字(現代では使われない)、女真文字(消滅)、西夏文字(消滅)、チュノム(現代語の表記には使われない)、トンパ文字、マヤ文字(滅亡)、などがある。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "表語文字体系のなかには、表音用の文字も持っていて、表語用の文字と表音用の文字とを組み合わせて語の意味と発音の両方を表そうとするものもある。また、複数の文字を並べてより複雑な意味を表そうとするものもある。エジプトヒエログリフやトンパ文字などがこれにあたる。いっぽう、漢字やそれに影響を受けた表語文字体系では、この方法を会意や形声といった手法に発展させたため、言語の語や形態素のひとつひとつを文字で表すことができるようになった(詳細は六書およびその関連項目を参照)。後者のように、すべての文字が形態素とその発音の音節を表す文字体系を、特にロゴシラバリー(英: logosyllabary)と呼ぶ研究者もいる。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "表語文字の特徴として、文字体系に含まれる文字の総数を確定しがたいということがある。たとえば、漢字はその誕生以来文字数を増やしつづけてきたし、今日でも新しい文字が生まれ続けている(#表1参照)。また近年は、漢字をコンピュータで利用するための文字コード(符号化文字集合)の編纂がたびたび行われ、そのための典拠調査を行うたびに収録漢字数は増加している。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "「文字は、当初ピクトグラム(絵文字)から発達した象形文字であった」という仮説が有力である。しかし、ピクトグラムから象形文字への移行を裏付ける証拠はほとんど発見されていない。",
"title": "系統"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "一方、デニス・シュマント=ベッセラ(英語版)は、中東一帯の遺跡から発見される粘土製証票(トークン)が文字の起源となったと主張する。商取引の際、商品ごとに形の異なるトークンを用い、トークンの数で取り引き数を表す。取り引きごとのトークンをまとめて中空の粘土の玉(封球)に納めたり、紐で綴って両端を粘土の塊(ブッラ)で封印することで、取り引きの証明とした。後に封球やブッラの表面に、トークンの形と数を印すようになった。つまり、商品をトークンで表し、さらにトークンとその数を記号で象徴するようになった。これが文字の(少なくとも、この地域でその後使われるようになった楔形文字体系の)起源であるとする説である。",
"title": "系統"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "しかし、この説への批判も多く、現在の主流の見解では、トークンは文字の誕生の一要因であったが、トークンのみですべてを説明することはできないとされている。",
"title": "系統"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "また、文字が単一の起源から発生したのか、それとも地球上の複数の地域で独立に文字が誕生したのかについては、学者らの見解は一致していない。",
"title": "系統"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "現在までに発見されている文字体系は、あまり多くないいくつかの系統に分類できる。つまり、現在知られる文字体系のほとんどは、ほかの文字体系を借用し、発展させて成立したことがわかっている。借用はさまざまなレベルで行われるが、それぞれの系統には#分類の節で述べたさまざまな類型に属する文字体系が現れる。また、個々の文字体系の中でも、さまざまな造字手法を発展させてきた。",
"title": "系統"
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"text": "",
"title": "系統"
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{
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"text": "契丹文字、古壮字、女真文字、西夏文字、チュノムは漢字の影響を受けて生まれたと考えられているが、現在は使われていない。",
"title": "系統"
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{
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"text": "新たな文字体系が成立するときに、複数の文字体系を取り入れることはしばしばある。また、別の系統に分かれた同時代の文字体系同士が、影響を与えあって発展していくこともある。本節では、複数の文字体系から影響を受けたことが特にはっきりしているものを取り上げて解説する。",
"title": "系統"
}
] | 文字とは、言語を点や線の組合せで単位ごとに記号化するもの。文字と書いて基本的には「もじ」とよむが、「もんじ」ともよむ。 | {{出典の明記|date=2021年2月}}
{{WStypes}}
{{音素文字}}
{{ブラーフミー系文字}}
'''文字'''(もじ、もんじ、{{lang-en-short|writing system}})とは、[[言語]]を点や線の組合せで単位ごとに記号化するもの<ref name="nihondaihyakka">『日本大百科全書』【文字】</ref>。文字と書いて基本的には「もじ」とよむが、「もんじ」ともよむ<ref name="nihondaihyakka" />。
== 概説 ==
文字というのは、言語を、[[点]]や[[線]]の組合せで、単位(ひとまとまり)ごとに記号化するものである。[[言葉]]・[[言語]]を伝達し[[記録]]するために[[線]]や[[点]]を使って形作られた記号のこと。言葉・言語を、[[視覚]]的に[[記録]]したり伝達したりするために、目に見える[[線]]([[直線]]や[[曲線]])や点を使って形作られた記号のことである。
世界にはさまざまな文字があり、またさまざまな分類法がある。基本的な分類として、「音」だけを示している「[[表音文字]]」と、基本的に「意味」を示している「[[表意文字]]」がある。世界全体を見ると、主に表音文字ばかりが使われている地域と、主に表意文字ばかりが使われている地域と、基本的に両者を混合して使っている地域がある。
たとえばヨーロッパの[[英語]]や[[ドイツ語]]や[[フランス語]]の[[アルファベット]]は[[表音文字]]であり(さらに詳しくいうと[[音素文字]]であり)、一文字一文字は音素(音の要素。音の一部分。特定の、[[舌]]の動き・[[唇]]の動き・[[口]]の形などで生じる音)を表しており、アルファベットが2〜3文字(やや例外的な場合も含むなら 1〜6文字ほどが)まとまることで[[音節]](発音の小単位)を示している。<u>表音文字の一文字一文字は、あくまで音を表すためのものであり、原則(※)として、意味が全く無い</u>。たとえば英語の「proceed」という言葉に含まれる「p」の<u>一文字だけでは全く意味を持たない</u>。p,r,oと並べることで「pro」という音節になり、「pro」という組み合せになってようやく「前方へ」という意味を持つ。c,e,e,dの4文字の組み合わせで「ceed シード」という音節を示し「進む」という意味を示し、「proceed」7文字全体で、「前に進める。続行する」という意味になる。それに対して中国で使われるようになった[[漢字]]は[[表意文字]]であり、<u>表意文字はひとつひとつの文字だけでも何らかの意味を表していることが多い</u>。たとえば「明暗」という語は、2つの漢字「明」と「暗」からなるが、「明」一字だけでも意味がある。また「暗」一字だけでも意味がある。そして二文字を組み合わせて「明暗」という一語になっている。中国では主に漢字ばかりが使われる。一方、日本語で使われる文字は、漢字から形を独自に変形させた[[ひらがな]]や[[カタカナ]]があり、漢字のほうは中国語同様に原則的に表意文字であるが、ひらがなやカタカナのほうは「表音文字」(詳しくいうと[[音節文字]])であり、つまり現代日本語のありふれた文書に使われる文字は、表音文字と表意文字の両方を並行して使っている。たとえば現代日本語の「太陽、まぶしいね。」という一文に含まれる「太陽」は表意文字を2文字並べており(「太」および「陽」。二文字で一語(ひと単語)になっている)、「まぶしいね」は表音文字(音節文字)を5文字並べている(「ま」「ぶ」「し」「い」「ね」)。「ひらがな」は、通常の文章ではほとんどの場合、[[大和言葉]]の音を表記するのに用いられている。(残りの「、」や「。」は、意味の区切りや、間合い(ひと呼吸の間、短い無音の状態)を示すための記号である。)
::(※)なお、漢字もまれに表音文字(純粋な表音文字、あるいは主に音だけを示す文字)として使われることもある。たとえば英語が中国国内に入ってきて、それを外来語として使う場合は、何らかの文字でその発音を表記しなければならない、そして中国では漢字しかないので、漢字を表音文字のように使うことがある。またアルファベットも例外的に一文字で意味を持つことがある。たとえばアルファベットの「a」一文字だけで、英語の文章中では「ひとつの」「一個の」という意味を持ったり、あるいは「れっきとした〜」「まぎれもない〜」という意味になったり、また「A」はアルファベットを列挙する時にはいつも最初(一番目)に挙げられるので、[[象徴]]的な意味を持ち、「一番(の存在)」「トップ」「最上のもの」などという意味を持つこともある。
なお[[英語圏]]では、[[アルファベット]]のような[[単音文字]]をレター({{lang-en-short|letter}})、それ以外をキャラクター(英: ''character'')と区別することがある。いっぽう今から二千年ほど前に[[中国]]の許慎によって書かれた『[[説文解字]]』という書では、[[象形]]や[[指事]]によって作られる具象的な記号を「文」、[[形声]]や[[会意]]などによって構成される記号を「字」などと解説し、「両者をあわせたものが文字である」<ref>{{cite book|和書 | author=[[許慎]] | title=[[説文解字]] | pages=叙 }}</ref>などと解説されていた時代があった。だがこれは二千年前の主張にすぎず、たとえ今でもそれを真に受けてしまっている人が一部にいるとしても、現代の学者はこうは考えていない。([[#「文字」という単語の語源]]の解説を参照)。
;読み方が分からなくなった文字の解読
文字というのは、一旦その発音のしかた、読み方を知る人がこの世にいなくなってしまうと、解読が困難になってしまう。
古代エジプトの碑文を近代ヨーロッパ人は目にしたものの、何世紀にも渡って発音も意味も分からず、何世紀にも渡り解読が全然できなかったが、たまたま、同一の意味の文章をヒエログリフを含む3言語を並べて彫り込んだ[[ロゼッタストーン]]が発見されたことをきっかけにして、丸い線でぐるりと囲んだ部分は「王の名」が書かれているなどということがわかるようになるなどして、少しづつ解読され、やがてフランスの[[シャンポリオン]]が完全に解読することに成功した。
古代エジプトの[[ヒエログリフ]]は、実は、基本的にはヨーロッパのアルファベットと同様に「表音文字」である。一見すると、絵が並んでいて表意文字のように見えるが、実は、基本的には表音文字である。ただしヒエログリフは、文脈によっては、まれにもとの意味を表す表意文字として使われることもある。
[[マヤ文字]]も読み方が分からなくなってしまった時代がとても長く、1970年代まで世界の学者の誰にもほとんど読めず、1980年代ころからようやく解読が進んで、かなり分かってきた。
なお、[[インダス文字]]など、世界にはまだ読み方が分かっていない文字がいくつも残っている。最近(2020年代)では、[[人工知能]]を未解読文字の解読に役立てようとする動きが出始めている。
=== 文字体系と表記体系 ===
{{Anchors|文字体系|表記体系|用字系|書記系|書記体系}}
'''文字体系'''(英: script、'''書記系'''、'''用字系'''、'''スクリプト'''とも)とは、同種の表記に使われるひとまとまりの文字の体系のことを言う。特定の文字体系を指すときは、単に「〜文字」と称することも多い。また、同じ系統や同じ類型に属すると考えられる文字体系のグループを「〜文字体系」ないしは「〜文字」と呼ぶこともある。
一般に、言語と文字体系は一対一に対応しない。[[アラビア文字]]、[[漢字]]、[[キリル文字]]、[[デーヴァナーガリー]]、[[ラテン文字]]のように、複数の言語で表記に使われる文字体系は多い。逆に一つの言語で複数の文字体系が使われている場合もあり、[[日本語]]では[[ひらがな]]、[[カタカナ]]、[[漢字]]の 3 つの文字体系が言語の表記に不可欠なものとなっている。[[セルビア語]]や[[ボスニア語]]等には[[ラテン文字]]、[[キリル文字]]の 2 通りの表記方法が存在し、このように同一言語に複数の文字体系が存在することを[[ダイグラフィア]]と呼ぶ。
'''表記体系'''({{lang-en-short|writing system}}、'''文字体系'''、'''書記系'''、'''書字系'''、'''書字システム'''とも)とは、ある文字体系に加えて、'''[[正書法]]'''、'''[[句読法]]'''や、字体、文字、語句の選択基準などの種々の言語的慣習をも含む文字使用の体系のことを指す。同じ文字体系を用いていても、異なる言語では表記体系に違いが見られることもある。現実には、文字体系と表記体系との区別は曖昧であり、両者はしばしば混用される。
[[コンピュータ]]による文字[[情報処理]]の分野では、複数の言語を同時に扱う際に、文字体系や表記体系に範をとった概念が用いられる。'''用字系'''({{lang-en-short|script}}、'''スクリプト'''、または単に'''用字'''<!-- JIS X 0221-1:2001 「4. 定義」参照 -->とも)は、特定の言語(一般に複数)のために用いるためのひとまとまりの文字や記号を指す。'''書記系'''({{lang-en-short|writing system}})は、ある用字系(一般に複数)を用いて特定の言語を表記するための規則の集合を指す<ref group="注釈">たとえば[[Unicode]]での定義は{{cite book
| title = The Unicode Standard, Version 5.0 | author = The Unicode Consortium
| publisher = Addison-Wesley Professional
| edition = 5th edition
| date = November 3, 2006
| isbn = 0-321-48091-0
| pages = pp.1144, 1151}} を参照。</ref>。
=== {{Visible anchor|字母}}と{{Visible anchor|書記素}} ===
文字体系に含まれる記号の最小単位を'''字母'''('''文字記号'''とも)と呼ぶ。字母は文字と一致する場合もあるが、文字体系、[[言語]]、[[民族]]によっては、文字より小さい単位を字母とみなす場合もあるし、補助的な記号([[ダイアクリティカルマーク]]や[[マトラ]]など)を字母に含めない場合もある。一方、学術的な用語では、ある文字記号を構成する部分のことを'''[[書記素]]'''({{lang-en-short|grapheme}}、'''文字素'''、'''図形素'''とも)と呼ぶ。表音文字では音声の[[音素]]({{lang-en-short|phoneme}})、表語文字では意味の[[意義素]]({{lang-en-short|sememe}})あるいは[[形態素]]({{lang-en-short|morpheme}})に対比される概念である。何を書記素とみなすかは、研究者によって異なることがある。
=== 「文字」と「文字でないもの」の線引き ===
視覚的なもの、眼に見える要素の少単位というのはさまざまあるが、学術的には、そのなかでもあくまで言語に直接結び付いたものだけを「文字」と分類している。
;やや特殊な文字
やや特殊な文字としては次のようなものがある。
*'''句読点''' : 文字の歴史の比較的初期から、語の間に間隔を空けたり線で区切ったりすることが行われていた。文字体系の発展とともに、語や文の意味の区切りを表すさまざま記号、すなわち'''[[句読点]]'''('''[[約物]]'''とも)が使われるようになった。ただし、句読点をほとんど、あるいはまったく使わないで表記する言語もある。句読点は表記体系ごとに特有であるため、それぞれの文字体系の一部であると考えられることが多い。
*'''[[指文字]]'''は、字母を指、手、腕の形で表すものであり、文字体系のひとつである。
*'''[[点字]]'''は、[[視覚障害者]]が言語の読み書きに使うものであり、音、字母、文字などを紙の点状の盛り上がりの配列で表すものである。基本的に指先で感じ取るものであり、視覚で感じる目的のものではないが、あくまで言語表記のためのものであり、[[健常者]]の使う文字と役割が同じなので、文字と分類されている。
;微妙な位置づけのもの
*'''[[絵文字]]'''({{lang-en-short|pictogram}} [[ピクトグラム]])は、[[意味]]を表すために描かれた図像ではあるが、[[言語]]と直接結びついてはいないので、学者からは「厳密には文字ではない」とされる。だが広い意味では文字に入れる場合もある。つまり分類がゆらぐことがある。ピクトグラムは例えば、西部開拓時代以降の[[アメリカ州の先住民族|アメリカ先住民]]で、英語の文章が書けない人が絵文字の手紙をやりとりした例がある。現代では、絵文字は[[Unicode]]に収録され、使いやすくなっているので、人によっては文章の中でまるで単語のように扱っている。たとえば「今日は🚙でピクニックに行きましょう。」のようにである。そして読む際は「今日は車でピクニックに行きましょう」などと声にしている。つまりこの文章中の「🚙」という絵文字は言語の記述に用いられているので、文字に分類したほうがよいだろう、ということにもなり、分類がゆらぐ。
;文字ではないもの
*'''[[絵画]]'''は、[[言語]]の構成要素ではないので、文字ではないと分類されている。絵画も通常「意味」をあらわし、しばしばその「意味」は、説明に数十ページもの文章が必要になるほどの密度になっているが、絵画はいわゆる通常の「言語」の構成要素ではないので、学術的には「文字ではない」と分類するのである。
*'''[[音符]]'''は、楽音(音楽の音)を視覚的に示しているものであり、普通の「言語」と結びついているわけではないので、文字ではないと分類されている。なお音符と[[楽曲]]の関係は、文字と文章の関係に類似している。またアフリカの[[トーキングドラム]]はドラムの音を言葉として使っているので、もしトーキングドラムの音を音符として表現する場合は、その音符の位置づけは曖昧になる。また、言語音楽の教科書や音楽に関する記述では、[[音符]]が文字による文章の中に現れることはある。
*'''[[国際音声記号]]'''は、あくまで、最初から[[音声]]を表すための記号としてつくられた記号であり、通常の「言語」と直接には結びついてはいないので、文字ではないと分類されている。
*'''[[文字コード]]'''('''文字符号'''とも)は、字母や書記素のひとつひとつを[[符号]]に重複なく対応させたもの、またはその対応のさせかたの取り決めのことであり、文字そのものではない。[[文字集合]](符号化文字集合)と呼ぶこともある。
:文字コードによって、電気通信や電子媒体で文字を扱うことができる。符号の順序や組み合わせかたに取り決めを設けることによって、文字体系や表記体系を扱うこともできる。一般に、文字コードは取り決めた文字だけを利用できるようにするもので、あらゆる文字を扱うことはできない。文字コードについては[[#電気通信、コンピュータと文字]]の節で見る。
<!--マヤ文字は、基本的には、あるいは必ずしも、ピクトグラムではないので、ピクトグラムの節で説明してはいけない。誤った印象を与えてはいけない。
[[マヤ文字]]は、現在では、解読がすすんだ結果、これらも言語を表記する文字体系であることがわかっている。-->
<!--誤謬をわざわざ広めるような書き方は、原則として書かない。解読が進むまでは、しばしば誤って「言語的意味を表せないピクトグラム」と考える研究者がいた、また「単なる象徴的な紋様のようなものだ」などと考える研究者さえあった。-->
=== 字体と書体 ===
{{Main|字体|書体}}
'''[[字体]]'''(じたい)とは、ある図形を文字体系の特定の一文字と認識でき、その他の字ではないと判断しうる範囲のこと。これに対して、文字体系に含まれる特定の文字の、図形としての具体的な形のことを'''[[字形]]'''(じけい)と言う。
字体の基準は、文字体系や表記体系によって異なる。逆に言うと、異なる文字体系同士でよく似た文字があっても、それらは別の文字と見なされる。一方の文字体系から他方が派生した場合や、双方が共通の祖先を持つ場合には字形・発音ともによく似た文字が現れやすいが、たとえ[[ラテン文字]]の「[[A]]」と[[キリル文字]]の「[[А]]」のように字形・音価ともほとんど同じ場合でも文字としては別の文字である。[[漢字]]の「[[二]]」と片仮名の「ニ」のように関係があるとも無いとも言い難いものや、[[片仮名]]の「[[ユ]]」(弓の部分)と[[ハングル]]の「{{lang|ko|그}}」({{lang|ko|[[ㄱ]]}}+{{lang|ko|[[ㅡ]]}})のように全くの偶然の一致によるものも、別々の文字体系に属する別の文字である。字体の基準は、言語や時代によっても変化することがある。たとえば漢字で、「吉」の3画めを1画めより長めにするか短めにするかという違いは字体の違いとなることがあるが、現代の[[日本]]の[[常用漢字]]ではこの違いを区別しない。
[[文字コード]](後述)では、個々の符号が表しうると考えられる字形を抽象して特に'''[[グリフ]]'''(英: glyph)と呼ぶことがある。
'''[[書体]]'''(しょたい)とは、ある文字体系で、字体を一貫した特徴と様式を備えた字形として表現したものをいう。[[漢字]]の手書き文字での[[篆書]]、[[隷書]]、[[楷書]]、[[行書]]、[[草書]]や、[[活字]]や[[フォント]]の[[明朝体]]、[[ゴシック体]]、[[ローマン体]]、[[セリフ (文字)|セリフ]]、[[サンセリフ]]などは書体である。
== 歴史 ==
=== 楔形文字 ===
{{Main|楔形文字}}
'''[[楔形文字]]'''(英: cuneiform)は、現在知られている文字体系で最古のもののひとつである。[[紀元前3500年]]頃に[[メソポタミア]]で誕生した。[[粘土板]]に[[ヨシ|葦]]の[[スタイラス|尖筆]]を押し当ててできる " くぼみ " を組み合わせて文字とする。尖筆を粘土に押し当てると、ちょうど[[楔]](くさび)のような、長い三角形のくぼみができるので、学術用語の表記言語である[[ラテン語]]で(scriptura) cuneiformis(クネイフォルミス) と呼ばれるようになり(ラテン語のcuneus(クネウス)は「くさび」で、formis, forma (フォルマ)は「形、かたち」という意味。つまり「楔形」)、日本語でもそれに倣って楔形文字と呼んでいる。粘土に書いた文字は、粘土が湿って柔らかいうちは簡単に書き直すことができるし、いっぽうで乾かせば書いたものをかなりの期間保存できる。さらに長期の保存が必要な場合や内容の書き換えや改ざんを防止する場合には粘土板を焼いて一種の[[陶磁器|焼き物]]にすればよい。現在残っている楔形文字資料の多くは、火災や戦災によって焼かれたものである。
現在までに発見されている楔形文字のうち、初期のものが表記している言語は[[シュメール語]]と呼ばれ、[[シュメール人]]の言語である。しかし、楔形文字そのものをシュメール人が作ったというたしかな証拠はいまのところ発見されていない。もっとも古いものは'''[[ウルク文字]]'''('''古拙文字'''とも)で、[[イラク]]中部の[[ウルク (メソポタミア)|ウルク]](現[[ワルカ]])遺跡第4層から出土し、紀元前3100-3000年頃のものである。また、少し後の時代のものとして[[ジャムダド・ナスル]](ジェムデド・ナスル)でも同系統の文字を記した粘土板が発見されている。ほとんどは商取引の記録や目録のような経済文書であり、事物や職名、都市名を表す文字とともに数字を記している。また、書記の養成のためと見られる文字リストも発見されている。一方、ジャムダド・ナスルと同時期の文字資料が[[スーサ]]で出土しているが、これは[[エラム語]]の一種を表記したもので、'''[[原エラム文字]]'''と呼ばれる。
当初の書字方向は上から下の縦書きで、文字はある程度単純化された線画であり、まだ楔形になっていない。[[紀元前2600年]]頃から、書字方向が縦書きから横書き(左から右)に変わり、その結果、すべての文字が左に90度回転した。その後、筆画が直線化し、最終的には楔形の組み合わせで文字を表すようになる([[#図4]]を参照)。
{| border="0" style="text-align:center; border-style: hidden; font-size: 85%;"
|+'''{{Visible anchor|図4}} 「頭」{{IPA|SAG}} を表す文字の変化'''
|-
| [[ファイル:Cuneiform sign SAG.svg|center|600px|]]
|-
| 1: 紀元前3000年頃。2: 紀元前2800年頃。左に90度回転。3: 紀元前2600年頃の碑文。筆画の単純化。4: 粘土板。楔形の特徴が現れる。5: 紀元前第3千年紀後半。6: 紀元前第2千年紀前半。7: 紀元前第1千年紀前半。出典は画像の説明を参照。
|-
|}
ウルク文字は、事物そのものを表す[[表語文字]]であるが、[[紀元前2800年]]頃から、文字を音節を表すものとしても使うようになる。たとえば、「牛」を表す文字を {{IPA|gu}} の音節を表すのに使う。ところが、「糸」を表す文字でも {{IPA|gu}} を表せる。同じ音の語は複数あるから、ある音節を表せる文字も複数ある。これを'''[[同音異字]]性'''(英: homophony、'''ホモフォニー'''とも)と呼ぶ。また、「口」を表す語は {{IPA|ka}} なので、「口」を表す文字は {{IPA|ka}} の音節を表す。ところが、この文字は「叫ぶ」{{IPA|gù}}、「歯」{{IPA|zú}}、「話す」{{IPA|du}} などの語も表すから、それらの音節を表すのにも使う。これを'''多音性'''(英: polyphony。'''ポリフォニー'''とも)と呼ぶ。同音異字性や多音性は、シュメールの楔形文字を借用した他の楔形文字にも引き継がれる。
[[シュメール語]]の楔形文字は、[[アッカド語]]([[バビロニア語]]や[[アッシリア語]]を含む)の表記に借用された。しかしシュメール語が[[膠着語]]であったのに対し、[[アッカド語]]は[[屈折語]]<!-- 正しいか? -->の[[セム語|セム系言語]]であった。セム系言語では[[語根]]を3子音(ときに4子音)で表すから、ひとつの語を音声表記するのには複数の文字が必要になる。表記を短縮するためにシュメール語の表語文字を併用することもあった。バビロニア人やアッシリア人の楔形文字は、さらに[[ヒッタイト語]]、[[フルリ語]](ミタンニ語)、[[ウラルトゥ語]](いずれも[[インドヨーロッパ語族]]の言語)などの言語の表記に借用された。
<!-- 1924年に -->[[シリア]]のウガリット([[ラス・シャムラ]])で発見された'''[[ウガリト文字]]'''は、[[紀元前14世紀]]頃の文字体系である。シュメール起源の楔形文字では文字の数が600あまりに達したのに対し、ウガリト文字は字母がわずか30個の[[アブジャド]](子音文字)になっている。字母の一覧を記した資料では、[[フェニキア文字]]や[[ヘブライ文字]]などの伝統的な順序との一致が見られることから、文字体系の組織は他のアブジャドの影響を受けたと考えられている。
また、'''[[古代ペルシア楔形文字]]'''は、[[アケメネス朝]]ペルシアの[[ダレイオス1世]]<!-- B.C.521-B.C.486 -->が作らせた楔形文字で、36個の開音節文字(子音-母音の組み合わせを表す文字。ただしうち3個は母音のみの文字)を含む。楔形文字の中では最初に解読された文字体系である。これは[[紀元前4世紀]]には使われなくなった。
今日では、楔形文字を表記に使う言語はない。現在までに知られているもっとも新しい楔形文字の資料は、紀元後[[1世紀]]のシュメール語表語文字によるものである。
=== エジプトヒエログリフ系文字 ===
{{Main|ヒエログリフ|メロエ文字}}
'''[[ヒエログリフ|エジプトヒエログリフ]]'''のうち、発見されている最古の文字資料は[[紀元前3100年]]から[[紀元前3000年|3000年]]ころの[[先王朝時代]]末期のものである。エジプトヒエログリフでは、古拙期の文字資料というものがほとんど発見されていない。あたかも、整備された文字体系が突然出現したかのようである。研究者の多くは、数世紀先行するメソボタミアの[[#楔形文字]]の影響があると考えるが、両者には字母などに明らかな共通点が見られないため、エジプトヒエログリフが借用したのは「文字という着想」([[#借用と発展]]の節を参照)だけで、文字体系の組織は独自に発達したものだと考えている。
==== 概要 ====
初期にはさまざまな媒体に書かれたが、神官書体(後述)が発達すると、もっぱら記念碑や宗教関係の碑文にのみ使われるようになった。'''ヒエログリフ'''(英: hieroglyph、'''聖刻文字'''とも)という呼び名は、古代ギリシア語のタ・ヒエログリュピカ(神聖な文字)に由来する。文字の多くは[[表語文字]]だが、一部の文字を[[表音文字]]にも転用しており、表語文字では表しにくい概念や形態素を表記しやすくなっている。
表語文字は時代によって字形が変わったり、新たな事物を表す文字が追加されたりしたので、現在までに同定されているものは6000字以上にのぼるが、各時代に実用された数は700から1000程度である。表音文字は子音のみを表記するので、[[アブジャド]]であると言える。一子音の文字が24程度、二子音の文字が100ちかく、三子音の文字が40あまりある。一子音文字はもっぱら表音にのみ使うが、そのほかの表音文字は表語文字として使うこともあるため、複数子音の文字に一子音文字を付加して表音文字として使っていることを明確にすることがある(末尾の子音だけを付加することが多いが、複数の子音を付加することもある)。この手法を'''音声補充'''と呼ぶ。[[日本語]]の[[送り仮名]]や[[漢字]]の[[形声]]にいくらか似た手法だが、送り仮名の場合とはちがい、[[品詞]]に関係なく音声補充できるし、形声とはちがい、表音文字にも音声補充をする([[#図5]] (a) 参照)。
さらに、語に付加して意味範疇を表す'''[[限定符]]'''がある。漢字の[[偏旁]]に似た働きをするが、独立した文字である。[[エジプト語]]は[[セム語|セム系言語]]と近縁の[[ハム語族]]に属するため、近縁の概念を表す語は同じ3子音(ときに4子音)からなる[[語根]]を共有する。表語文字や表音文字と限定符とを組み合わせて同語根の語を区別し、意味を明確にすることができる。器物の材質のような詳細な意味まで限定符で区別することさえある([[#図5]] (b) 参照)。
書字方向は比較的自由で、初期には主に縦書き(上から下)、後には主に横書きとなり、ブストロフェドンが行われることも多い。ただし、行内の配列順は審美上の観点から方向を変えることがある。また、王や神などを表す文字はしばしば前のほうに置く。このような現象を'''字母転移'''という。
{| border="0" cellspacing="0" style="width: 600px; margin: 0em 0em 0.5em 1.5em; align: center; border: hidden; font-size: 85%; background-color:white"
|+ '''{{Visible anchor|図5}} エジプトヒエログリフの運用例'''
|-
! !! 表記 !! !! 翻字 !! 意味
|-
| rowspan="5" style="vertical-align: top;" | (a) || <hiero>nfr</hiero> || {{IPA|nfr}} || {{IPA|nfr}} || 「良い」
|-
| <hiero>nfr-r</hiero> || {{IPA|nfr}} {{IPA|r}} || 〃 || 〃
|-
| <hiero>nfr-f:r</hiero> || {{IPA|nfr}} {{IPA|f}} {{IPA|r}} || 〃 || 〃
|-
| <hiero>xpr:r</hiero> || {{IPA|ḫpr}} {{IPA|r}} || {{IPA|ḫpr}} || 「生まれる」、「〜になる」
|-
| <hiero>Aa1:p-xpr-r</hiero> || {{IPA|ḫ}} {{IPA|p}} {{IPA|ḫpr}} {{IPA|r}} || 〃 || 〃
|-
| rowspan="7" style="vertical-align: top;" | (b) || <hiero>Y3-A1</hiero> || 書く 人 ||{{IPA|sš}}|| 「書記」
|-
| <hiero>Y3-M40</hiero> || 書く 巻物 || 〃 || 「書物」
|-
| <hiero>Y5:n-M40</hiero> || {{IPA|mn}} {{IPA|n}} 巻物 || {{IPA|mn}} || 「残る」
|-
| <hiero>Y5:n-G37</hiero> || {{IPA|mn}} {{IPA|n}} 小鳥 || 〃 || 「弱い」
|-
| <hiero>pr:r-t:N5</hiero> || {{IPA|pr}} {{IPA|r}} {{IPA|t}} 太陽 || {{IPA|prt}} || 「冬」
|-
| <hiero>S43-d-w-A2</hiero> || {{IPA|md}} {{IPA|d}} {{IPA|w}} 食べる || {{IPA|mdw}} || 「話す」
|-
| <hiero>b-h-A-W:D54-A1:Z2</hiero> || {{IPA|b}} {{IPA|h}} {{IPA|ʒ}} {{IPA|w}} 脚 人 複数 || {{IPA|bhʒw}} || 「逃亡者たち」
|-
| colspan="5" | 書字方向はいずれも横書き(左から右)。<br />
(a) 音声補充の例。最初の例は音声補充がないものだが、3番めまでは同じ意味を表す。論理的には、同じ発音を表すものには多くのバリエーションがあり得るが、実際に使われる表記は限られたものだけである。3番め以降の例には字母転移が見られる。<br />
(b) 限定符の例。<hiero>M40</hiero>は書物や文字に関わるものごとや抽象的な観念、<hiero>G37</hiero>は「弱い」「小さい」「悪い」などの意味範疇、<hiero>N5</hiero>は太陽や太陽の運行に関わるものごと、<hiero>A2</hiero>は「食べる」「飲む」「話す」などに関わる意味範疇を表す。
|-
|}
[[ファイル:AncientEgyptianRelief-BeeHieroglyph-ROM.png|thumb|200px|{{Visible anchor|'''図6}}''' '''写実的な文字の例'''<br /><hiero>sw:t-L2:t</hiero> {{IPA|nswt-bỉty}}「上下エジプトの王」という句の一部。図の書字方向は右から左の横書き。出典は画像の説明を参照。]]
文字はときに、極めて写実的に描かれる([[#図6]])。ただし、現代の[[透視図法]]によるような写実性ではない。たとえば「人」を表す文字では、頭部全体や脚部は横から、眼は正面から描くというように、様々な角度から見た対象の特徴を平面上になるべく忠実に描写しようとする。文字は彩色されることもあるが、色は意味に関係しない。
ヨーロッパでは[[16世紀]]から、[[古代エジプト文字の解読|エジプトヒエログリフの解読の試み]]が活発になったが、文中の人名などに基づいていくつかの表音文字の[[単音|音価]]を決定できたにとどまった。このため、エジプトヒエログリフの大半は象徴的な概念を表現した紋様であり、完全な文字体系ではないとの誤解が生まれた。ヒエログリフが表語文字とともに表音文字としての機能をもち、独自の合理性をもつ文字体系であるということを最初に証明したのは、[[19世紀]]の[[ジャン=フランソワ・シャンポリオン|シャンポリオン]]である<ref>{{cite book |last=Champollion |first=Jean-François |title=Précis du système hiéroglyphique |year=1824}}<!-- 読んでません。 --></ref>。
==== 神官書体と民衆書体 ====
'''神官書体'''('''[[ヒエラティック]]'''とも)は、ヒエログリフを簡略化して筆記用にしたものだが、その原型となる文字資料はヒエログリフと同じくらい古い。まとまった文章が表れるのは[[エジプト第4王朝|第4王朝時代]]頃からである。神官書体はおもに行政文書や商業文書に用いられた。[[パピルス]]や、石片や陶片([[オストラコン|オストラカ]])に、筆とインクを使って書かれた。石に彫られることはまれだった。
文字体系の組織はヒエログリフと一致し、神官書体で書いたものをヒエログリフに翻字することもできる。ヒエログリフの筆記体であると言える。はじめは縦書き(上から下)だったが、後に横書き(おもに右から左)に変化する。しかし、文字の向きが変わることはなかった。
その後簡略化がいっそう進み、紀元前第1千年紀前半に、神官書体から'''民衆書体'''('''[[デモティック]]'''とも)が分化した。民衆書体では続け書きや略体が多用され、ヒエログリフとの間で文字ごとの対応づけをすることはもはや不可能である。[[紀元前600年]]ころから、宗教文書以外では完全に神官書体にとって代わった。民衆書体は日常的な文書にも用いられた。神官書体と民衆書体の名は、古代[[ギリシア語]]のヒエラティカ(神官の)とデモティカ(民衆の)に由来する。
民衆書体の書字方向は横書き(右から左)である。やはりパピルスやオストラカにインクで書かれたが、[[プトレマイオス朝]]時代には、[[ギリシア]]から入った[[ヨシ|葦]]のペンで書くことが多くなった。このころから、記念碑などの碑文にも使われるようになる。[[1799年]]に発見された[[ロゼッタ・ストーン]]は、ヒエログリフ、民衆書体、[[ギリシア文字]]の[[ギリシア語]]の 3 種の文字体系で記されている。
今日では、エジプトヒエログリフやその神官書体、民衆書体を表記に使う言語はない。現在までに知られているもっとも新しい資料は、紀元後[[5世紀]]の民衆書体によるものである。この後、エジプト語やそれから派生した言語を表記する文字体系は[[コプト文字]]だけとなった。
==== 影響を受けた文字体系 ====
'''[[原シナイ文字]]'''は、[[シナイ]]地方の神殿遺跡から発見されたのでこの名がある。少なくとも23の字母を持つ。解読はまだ十分に進んでいないが、字母の半数は、その字形から見て、エジプトヒエログリフからの借用である。つまり、エジプトヒエログリフから借用して生まれた表音文字体系である。類型としては[[アブジャド]]である。
字母の多くが表している事物が[[原カナン文字]]や[[フェニキア文字]]の字母の呼称と一致することから、フェニキア文字は原シナイ文字から派生したという説がある。この説が正しいとすれば、エジプトヒエログリフは、今日のほとんどの音素文字体系、つまり今日使われている多くの文字体系の祖にあたることになる([[#原シナイ文字から派生した文字体系|次節]]も参照)。
'''[[メロエ文字]]'''は、[[紀元前2世紀]]に生まれた。古代[[ヌビア]]の[[クシュ王国]]で、[[メロエ語]]を表記するのに用いられた。23個の字母からなり、大部分がエジプトヒエログリフからの借用であると考えられている。ヒエログリフと筆記体があり、ヒエログリフは縦書き(上から下)、筆記体は横書き(左から右)であった。[[アブギダ]]に似て子音字母に特定の母音が伴っているが、それ以外の母音は独立した字母を書くことで表す。また、一部の子音-母音結合は独自の文字で表記する。
このほか、[[クレタ]]や[[ヒッタイト]]で発見されている「ヒエログリフ」と呼ばれる文字体系も、エジプトヒエログリフの影響を受けていると考える研究者もいる。
<!--「{{要出典|文字の起源は、多くの場合、ものごとを簡略化して描いた[[絵文字]](ピクトグラム)である|date=2022年6月}}」。「{{要出典範囲|ピクトグラムが転用されたり変形、簡略化されたりして文字となった|date=2022年6月}}」-->
;「文字」の呼び方変遷やの初出
中国では[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]までに、文字を意味する語として「書」「文」「名」などが用いられるようになっていたが、これらは文字以外の意味も持っていた。[[秦]]の中国統一にともない、秦の語彙「'''字'''」が公式に用いられるようになり、[[漢]]代に入って文字を表す語として定着した<ref>山田崇仁「「書同文」考」『史林』91巻4号、史学研究会、2008年7月、pp. 681ff。</ref>。
いっぽう「'''文字'''」という語のたしかな初出は、[[前漢]]の[[司馬遷]]による『[[史記]]』である<ref>司馬遷『史記』秦始皇本紀第六、始皇帝二十六年条。</ref>。これは、[[紀元前3世紀]]に[[始皇帝]]を顕彰するために建てられた[[瑯琊台刻石|琅邪台刻石]]碑文の「車同軌、書同文字」(車の軌幅を統一し、書の文字を統一した)を引用したものだが、碑文では韻律を整えるために「文」に「字」字を付加しただけで、当時は「文字」という熟語は使われていなかった。『史記』以降になってはじめて、「文字」という語が「言語を書き記すための記号」の意味で用いられるようになった<ref>山田崇仁「「文字」なる表記の誕生」『中国古代史論叢』第5集、立命館東洋史学会、2008年3月、73-109。</ref>。
== 分類 ==
{{節スタブ}}
{{文字/図 Wikipedia日本語版での文字体系の類型|1}}
各種の[[文字体系]]を分類するために、様々な基準が存在する。つぎのような分類がありうる。
* 類型的な分類。
* 文字体系の系統による分類。
* 表記する言語による分類。
* 使われた時代や、使われる地域による分類。
本節では、類型的な分類について解説する。系統による分類については、[[#系統]]の節で見る。言語との関係は[[文字体系別の言語の一覧]]を、また時代や地域については各文字体系の解説を参照されたい。[[文字体系の一覧]]も参照されたい。
'''[[#図1]]'''に、[[ウィキペディア日本語版]]のカテゴリで用いられる文字体系の類型的分類を示す。また'''[[#図2]]'''に、世界の文字体系の類型別の分布を示す。
{{clear}}
[[ファイル:WritingSystemsoftheWorld.png|600px|thumb|left|'''{{Visible anchor|図2}} 現代の世界における文字体系の分布'''
<br />
[[アブジャド]]:
<span style="background-color: #99FF99;">アラビア文字</span>,
<span style="background-color: #389738;">その他のアブジャド</span>
<br />
[[アブギダ]]:
<span style="background-color: #FB9A02;">デーヴァナーガリー</span>,
<span style="background-color: #FFCE01;">その他のアブギダ</span>
<br />
[[アルファベット]]:
<span style="background-color: #99CCCC;">ラテン文字</span>,
<span style="background-color: #CCCCFF;">キリル文字</span>,
<span style="background-color: #3166CE;">その他のアルファベット</span>
<br />
[[素性文字]]:
<span style="background-color: #9C00FF;">ハングル</span>
<br />
[[音節文字]]:
<span style="background-color: #FE0906;">音節文字</span>
<br />
[[表語文字]]:
<span style="background-color: #FFFF65;">漢字</span>
]]
{{clear}}
=== 総説 ===
==== 研究小史 ====
{{文字/図 かつて主流だった文字体系の類型|3|文字の発達段階に基づく(とかつて考えられていた)文字体系の類型}}
[[ヨーロッパ]]世界では、伝統的に、文字は音声の補助にすぎないという考え方が根強くあった。[[ソクラテス]]は、文字に頼ると記憶力が減退し、文字で書かれたものは弁舌よりも説得力が劣ると考えた<ref>{{cite book|和書 | author=プラトン | title=パイドロス | pages=274A-278C }}</ref>。後に地中海沿岸世界では[[ヒエログリフ|エジプトヒエログリフ]]が忘れられ、ヨーロッパとその周辺では[[アルファベット]]などの[[音素文字]]だけが使われるようになったため、音声を忠実に再現することこそ文字の本質だという考えはいっそう強まった。さらに[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]は、「事物の描写は未開の民族に、語や文章の記号は野蛮な民族に、アルファベットは政府に統治された民族に一致している」<ref>{{cite book|和書 | last=ルソー | first=ジャン-ジャック | title=言語起源論 - 旋律及び音楽的模倣を論ず | translator=小林善彦 | publisher=現代思潮社 | year=1970 | pages=p.36 }}(原著 {{cite book | last=Rousseau | first=Jean-Jacques | title=Essai sur l'origine des langues ou il est parlé de la mélodie et de l'imitation musicale | year=1781}})もっともルソーはこの後で、古代の有力な文明が必ずしもアルファベットを使っていたわけではないことを断っている。</ref>と述べ、使用される文字体系の種類が社会の進歩の度合いを反映しているという考えを示した。この3つはピクトグラムや象形文字、表語文字、表音文字に対応している。<!-- ルソーが挙げているのはそれぞれ、「メキシコ人」と「かつてのエジプト人」、「シナの文字表記」、「われわれの方法」で、当項目での分類とは整合しない。 -->
[[18世紀]]には、さまざまな言語を客観的に比較する姿勢が強まったが、文字の研究は[[音声学]]の一分野として行われるにとどまった。このような思潮から、文字は象形文字から音節文字へ、さらには音素を完全に表記できるアルファベットへと発達していくものだと広く信じられるようになり、一時は主流的な考え方にもなった([[#図3]]参照)。
しかし、今日の[[言語学]]では、以上のような説は、完全にとはいえないまでも、ほぼ正しくないことがわかっており、当然のこととして、使用する文字体系の種類が社会の進歩の度合いを表すというような見方は完全に否定されている。
また、中華世界では事情が異なっていた。上古にすでに[[甲骨文]]が見られるが、これは[[卜占]]による神意を伝えるものであった。[[封建制]]が成立した後も、文字使用の独占は権力の源泉となった<ref>{{cite book|和書 | author=平㔟隆郎<!-- 「隆」は「生」の上に「一」がある(JIS X 0208:1997 および/または JIS X 0213 の包摂規準133によって包摂)。 --> | title=よみがえる文字と呪術の帝国 - 古代殷周王朝の素顔 | publisher=中央公論新社 | date=2001年6月 | year=2001 | isbn= 4-12-101593-2 }}</ref>。周王朝の滅亡によって文字の技術は独占を脱し、文字の使用は広まったが、表語文字(後述)としての漢字の能力は、多くの方言や言語を横断する共通の意志疎通手段として、中華世界の一体性を維持することにつながった。さらに、[[華夷秩序]]の拡大に伴い、周縁社会にとっては、[[漢字]]は文明の中心地から先進文化を受け入れ、その権威に与るための手段となった。その間、[[中原]]にはさまざまな民族が侵入し、多くの王朝が交代したが、漢字は使われ続けた。
[[中国語]]は1音節が1形態素に対応する[[孤立語]]であり、漢字はその形態素を書き表したので、文字がすなわち言語であった。そのため言語学は発達を見ず、代わりに文字を手がかりに古えの文献を読み解く[[訓詁学|訓詁]]の学が発展した。個々の文字は「形音義(字形、発音、意味)」の3要素によって分類考証されるようになった。
20世紀に入ると[[文化人類学]]や[[構造主義|構造主義言語学]]が起こり、人間の諸活動のうち文字の使用についても通時的側面とともに共時的側面からも検討する方法論が主流となった。また[[考古学]]の発展もあって、文字の発達や分化の理論も修正された。
{{clear}}
==== 表音と表意・表語 ====
伝統的によく用いられる文字体系の分類法に、「表音文字 と 表意文字」に大別するものがある。たとえば、フェルディナン・ド・ソシュールの『一般言語学講義』でも表音文字と表意文字に大別している<ref>{{cite book|和書 |author =[[フェルディナン・ド・ソシュール]]| title=[[一般言語学講義]] | translator=[[小林英夫 (言語学者)|小林英夫]] | publisher=岩波書店 | year=1972 | isbn= 4-00-000089-6 | pages=p.47}}(原著 {{cite book | last=Saussure | first=Ferdinand de | title=Cours de linguistique générale }})</ref>。
'''[[表音文字]]'''(ひょうおんもじ、英: phonogram)は、意味を示さず、あくまで音(発音)を示している。原則的に、意味を示してはいない。ただし「表音文字は必ず発音をすべて表記しているか?」と問うと、そういうわけではない。また完全に正確に表記しているか?というと、必ずしもそうではない。形態素が連接する際の[[連音|渡り音]]は表記に反映しないのが普通だし、音韻の[[交替 (言語学)|交替]]を反映しないこともしばしばある。たとえば、現代[[朝鮮語]]の[[正書法]]では[[ハングル]]の表記で[[朝鮮語の正書法#形態主義|形態主義]]をとり、発音の上では子音の交替が起こっていても[[語幹]]の表記を変化させない。このことによって、文中の形態素を識別しやすくしている。それぞれの語の綴りも、発音を忠実に表しているとはかぎらない。現代[[英語]]の enough、night、thought の gh のように、異なる発音を表す(あるいは発音しない)場合がある。言語において、その発音は時代を経ると[[音韻]]変化によって変わっていくが、文字の表記は変化しにくいためである<ref>{{cite book|和書 | author=中尾俊夫 | title=英語の歴史 | publisher=講談社 | date=1989年7月 | year=1989 | pages=pp.18-27 | isbn= 4-06-148958-5 }}</ref>。[[タイ語]]のタンマサート {{lang|th|ธรรมศาสตร์}} はサンスクリット語の[[ダルマシャーストラ]] dharmaśāstra に由来するが、原語の発音を綴りの中に保存している。[[日本語]]の[[現代仮名遣い]]で、[[助詞]]の は、へ、を のみにはかつての表記を残しているのも似た現象である。このように発音と一致しない綴りが保持されるのは、形態素同士が発音だけでは区別できなくなる不便を補うためだと考えられている。
'''[[表意文字]]'''(ひょういもじ、英: ideogram)は、意味(概念)を示している文字である。表意文字の代表例に[[シュメール文字]]がある。[[アラビア数字]]の1,2,3...なども「1」「2」「3」...という[[数]]概念を示しており、表意文字である。なお(各言語の中の)表意文字は、一般的に概念と同時に音(各言語ごと異なった音、ではあるが)も表していることが一般的である。ただし、具体的な言語の種類で対応する「音」が異なってしまっている。たとえば「1」は英語では「one ワン」だが、日本語では「いち」や「ひと」である。その意味で、やはり表意文字の、基本的で一番重要な機能は意味(概念)を示すことであり、その意味でやはり「表意文字」と呼ばれるのが適切だということになる(つまり表意文字は、あくまで意味を示すために使われており、特定の固定された音を示すための文字ではない。人は表意文字を見て「音」を思い出すとしても、実際には母語が異なれば想起する音は異なっているわけであり、各言語の話者が対応するその言語の語彙を想起しているわけである。なお、日本人は表意文字の例としてすぐに漢字を(本当は代表例ではないのに、あたかも代表例のように)挙げてしまうが、中国語の文章の表記に使われる[[漢字]]は[[語]]や[[形態素]]などにも対応しており、その結果ひとつひとつの形態素の発音をも表しているのだから、表意文字に分類するのは適切ではないと指摘されている<ref>たとえば {{cite book | last=Gelb | first=I. J. | title=A Study of Writing | publisher=University of Chicago Press | year=1963 }} 参照。</ref>。したがって近年では学術的には、中国語の文章の表記に使われている状態では「漢字は[[表語文字]]」と分類される。漢字はつきつめれば結局、個々の使用例ごとに、細かく分類せざるを得ない。また日本語の文章中の漢字は、また別の話となる。)
'''[[表語文字]]'''(ひょうごもじ、英: logogram)は、文章中の語や形態素を表すと同時にその発音も表す文字、という分類である。[[アンドレ・マルティネ]]は、人間の言語が[[言語学#言語学が明らかにした言語の特徴の例|二重分節]]されている、と説明した。つまり、言語の[[文]]はまず一連の単位([[形態素]])に分節され(第1次分節)、次にそれぞれの単位が一連の音([[音節]]や[[音素]])に分節される(第2次分節)、と説明した。言語が持つこの性質によって、限られた数の音素や音節から無数の語をつくり出すことができ、それらを規則的に組み合わせて無数の事実を表現することが可能になる、と説明したのである<ref>{{cite book|和書 | last=マルティネ | first=アンドレ | title=一般言語学要理 | translator=三宅徳嘉 | publisher=岩波書店 | year=1972 | pages=pp.12-15 }}(原著 {{cite book | last=Martinet | first=André | title=Éléments de linguistique générale | year=1970 }})</ref>。もしこの説明法を採用するなら、表語文字と表音文字は、それぞれ、第1次分節と第2次分節のレベルを文字として、言語を表記するものと言える。
なお「表音性」や「表語性」という性質は、程度の差はあるがどの文字体系にも備わっており、[[相対性|相対的]]な基準であると論ずる研究者もいる<ref>たとえば {{cite book | last=Sproat | first=Richard William | title=A Computational Theory of Writing Systems - Studies in Natural Language Processing | publisher=Cambridge University Prress | year=2000 | isbn= 0-521-66340-7 }} 参照。</ref>。
本項目では文字体系を、伝統的な分類法である「'''[[表音文字]]'''と'''[[表意文字]]'''」という分類法も尊重しつつ、現代の学術的な'''[[表語文字]]'''という分類法も説明してゆく。表音文字や表意文字については、それぞれのサブカテゴリ(細分化された分類)も紹介してゆく。
==== 表音文字と字形の間の関係性の有無 ====
'''[[表音文字]]'''は、さまざまなタイプがある。一方は、表す音素や音節ごとに別の字形になっているタイプである。たとえば[[ヒエログリフ]]は、碑文の普通の文章中で使われている場合、ほとんどが表音文字として使われているが、こうしたヒエログリフは、もともと具象物(たとえば口(くち)、フクロウ、ヘビなど)を示すために使われた[[象形文字]]を転用して音素(たとえば「m」「t」など)だけを表すことに用いたものである。ヒエログリフの場合、字形とそれらが表す発音との間には関連がない。しかし他方、文字や字母の字形と、発音との関係に規則的な関連がある表音文字体系もある。このタイプの表音文字は'''[[素性文字]]'''(英: featural alphabet<ref group="注釈">朝: ''{{lang|ko|[[:ko:자질 문자|자질 문자]]}}''</ref>)とも呼ばれる。こういった文字体系の多くは計画的につくり出されたものである。
'''[[ハングル]]'''は一見[[漢字]]を連想させる字形だが、ひとつひとつの文字は子音と母音の字母({{lang|ko|자모}}、チャモ)を規則的に組み合わせて[[音節]]を表す純粋な表音文字である。同じ[[調音]]位置の子音字母は似た形をしており、朝鮮語に特有の平音、濃音、激音の対立を字母を変形することによって表している。[[母音]]の字母の形も朝鮮語特有の陽母音と陰母音の対立や[[母音調和]]法則に即した規則性を持つ(詳細は[[ハングル]]の項を参照)。
'''[[テングワール]]'''は、[[J.R.R.トールキン|トールキン]]が架空の[[中つ国 (トールキン)|中つ国]]で使われている文字体系として作り出したもの<ref group="注釈">作中では、中つ国[[第一紀 (トールキン)|第一紀]]の[[エルフ (トールキン)|エルフ]]、[[フェアノール]]が、[[サラティ]]を改良して作ったとされる。</ref>だが、やはり子音の字形は[[調音]]位置や調音形式に対応した規則性を持つ(詳細は[[テングワール]]の項を参照)。
ただし、これらの文字体系のうち、それぞれの文字が音節ごとに表記されるものは、文字の構成要素である字母を単独で書き表すことは原則としてない(たとえばハングルでは、学習などの目的以外に、単独の字母で音素を表記することはない)。したがって、本項目ではこの分類は採らず、ひとつひとつの字母や書記素ではなく文字が音素と音節のどちらを表記するかによって、表音文字を'''[[音素文字]]'''(英: segmental script)と'''[[音節文字]]'''(英: syllabary)に区分するにとどめる<ref group="注釈">表音文字を、音素文字、音節文字、素性文字の3類型に分類する研究者もいる。{{cite book | last=Sampson | first=Geoffrey | title=Writing systems: a linguistic introduction | publisher=Stanford University Press | year=1985 | isbn= 0-8047-1756-7 | pages=pp.38-42}}などを参照。</ref>。
いっぽう、'''[[アラビア文字]]'''や'''[[モンゴル文字]]'''のように、[[語]]内の字母の位置(独立、語頭、語中、語尾)によって字母の姿形が変化する文字体系もある。字母が連結して書かれる文字体系に見られる特徴であるが、同じ文字体系でも言語や表記体系が異なる場合に連結規則が異なる場合が見られる。このような文字体系の場合、字母が位置によって姿形を変えるとみなされるが、字母の字形の類似と発音の類似に関連性が見られるとはかぎらない。
=== 音素文字 ===
'''[[音素文字]]'''(英: segmental script、'''単音文字'''とも)とは、[[表音文字]]のうち、ひとつひとつの字母でひとつひとつの[[音素]]を表す文字体系(例外的に複数の音素を表す文字を持つ場合もある)。[[アルファベット]](英: alphabet)と総称されることもある。
[[:en:Peter T. Daniels]] は音素文字をさらに細分し、'''[[アブジャド]]'''、'''[[アブギダ]]'''、'''[[アルファベット]]'''に分類した<ref>Daniels and Bright (eds.), 参考文献. pp.4-5.</ref>。
かつて[[アブギダ]]は、[[音節文字]]と[[アルファベット]]の中間に位置付けられ、しばしば音節文字に分類されたが、今日では、[[アブギダ]]と[[アルファベット]]は、多くの場合[[アブジャド]]からそれぞれ別個に発達したものだと考えられている。
音素文字に含まれる字母の数は、表記する言語の音素数に照応しているため、少なくて20程度、多くても50程度までである。
==== アブジャド ====
{{Main|アブジャド}}
'''[[アブジャド]]'''(英: abjad)とは、語の子音のみを字母として綴る文字体系である(母音は原則として表記しないが、初学者向けには[[ダイアクリティカルマーク]]で母音を表記する場合もある)。'''子音文字'''または'''単子音文字'''(英: consonantary)とも呼ばれる。
アブジャドに属する文字体系には、[[アラビア文字]]、[[アラム文字]](消滅)、[[ヘブライ文字]]、[[ペルシア文字]]などがある。現在までに知られているアブジャドはすべて、[[セム語|セム系言語]]を表記するために発達したと考えられている。
学術用語としてのアブジャドは、Daniels の創案になるものである。この語はアラビア文字の伝統的な順序の最初の4文字に由来し、平仮名の「いろは」がそうであるように、アラビア文字を意味する語として古くから用いられていた。[[アラビア文字記数法]]も参照。
==== アブギダ ====
{{Main|アブギダ}}
'''[[アブギダ]]'''(英: abugida)とは、子音の字母に特定の母音([[随伴母音]]と呼ばれる。しばしば ''a'' 音だがそうでない場合もある)が結びついているため、単独の子音字母が随伴母音つきの子音をあらわす文字体系のことである。随伴母音以外の母音は、[[ダイアクリティカルマーク]]を付加するなどのきまった表記規則によって表す。
アブギダは、[[ブラーフミー系文字]]に属する数百の文字体系を含むため、現在世界で使用されている文字体系のおよそ半数は、アブギダであることになる。ほかにアブギダに属する文字体系としては、[[カローシュティー文字]](消滅)、現代の[[エチオピア文字]](かつてはアブジャドだったがアブギダに変化した)、[[カナダ先住民文字]]の一種の[[クリー文字]](ただし正書法の違いから真正のアブギダとは言えない場合もある)などがある。
アブギダという用語もアブジャドと同様で、Daniels の創作である。[[エチオピア文字]]の[[セム系文字]]で一般的な順序での、最初の 4 文字の読みからきている。
==== アルファベット ====
{{Main|アルファベット}}
'''[[アルファベット]]'''(英: alphabet)とは、すべての母音と子音を、各々独立した字母で表記する文字体系のことである。
アルファベットは、[[ラテン文字]]や[[キリル文字]]のように多くの言語の表記に用いられる文字体系を含むため、現在世界で使用されている言語のうち文字を持つものの大半は、アルファベットで表記されていることになる。
ほかにアルファベットに属する文字体系としては、[[アヴェスター文字]](消滅)、[[アルメニア文字]]、[[エトルリア文字]](消滅)、[[グラゴル文字]]([[古代教会スラブ語]]の表記に用いられる)、[[グルジア文字]]、[[イラク]]の[[クルド語]]で使われる[[アラビア文字]](もともとアブジャドだが母音符号を必ず表記するためアルファベットと言える)、[[ゴート文字]](消滅)、[[コプト文字]](現代の使用はまれ)、[[フレイザー文字]]、[[満洲文字]]、[[蒙古文字]]、[[オル・チキ文字]]([[20世紀]]に誕生)などがある。
=== 音節文字 ===
{{Main|音節文字}}
'''[[音節文字]]'''とは、[[表音文字]]のうち、ひとつの文字でひとつの音節を表し、音素に分解して表記しない文字体系のことである。
音節文字に属する文字体系には、[[彝文字]](ロロ文字)の音節文字、[[ヴァイ文字]]、[[キプロス音節文字]](消滅)、[[線文字B]](消滅)、[[チェロキー文字]]、[[女書]]、[[ハングル]]、[[平仮名]]と[[片仮名]]、などがある。
表音文字では多くの場合、文字の[[字形]]とそれが表す音との対応に規則性はない。したがって音節文字では、表記する言語で弁別される音節の数だけ異なる文字がある。そのため、文字の数は百から数百程度である。[[平仮名]]と[[片仮名]]はその下限に近く、基本的な文字の数は48(現代語で使用しないゐ/ヰとゑ/ヱを含む)である。ほぼ上限と考えられるのは[[涼山規範彝文]]で、音節の[[声調]]の違いも異なる文字で表すため、文字の数は800以上に上る。なお[[ハングル]]は、[[#字形の規則性]]の節で述べたとおり字形と発音の関係に規則性があるため、論理的に可能な文字の数は1万を超える。
=== 表語文字 ===
{{文字/表 主な漢字辞典の収録文字数|1}}
ひとつの文字がひとつの[[語]]あるいは[[形態素]]を表す文字体系のことを'''[[表語文字]]'''(英: logogram)と呼ぶ。[[中国語]]では、ひとつの[[音節]]がひとつの[[形態素]]を表し、[[漢字]]はひとつひとつの文字が形態素を表している(わずかな例外はある)。したがって、漢字は完全な表語文字としては代表的なものである。[[表意文字]]とのちがいについては[[#表音と表意・表語]]の節を参照。
表語文字に属する文字体系には、[[アナトリア文字]](消滅)、[[ヒエログリフ|エジプトヒエログリフ]](消滅)、[[漢字]]、[[契丹文字]]の一部(消滅)、[[楔形文字]]の一部(消滅)、古[[彝文字]](現代では使われない)、[[古壮字]](現代では使われない)、[[女真文字]](消滅)、[[西夏文字]](消滅)、[[チュノム]](現代語の表記には使われない)、[[トンパ文字]]、[[マヤ文字]](滅亡)、などがある。
表語文字体系のなかには、表音用の文字も持っていて、表語用の文字と表音用の文字とを組み合わせて語の意味と発音の両方を表そうとするものもある。また、複数の文字を並べてより複雑な意味を表そうとするものもある。[[ヒエログリフ|エジプトヒエログリフ]]や[[トンパ文字]]などがこれにあたる。いっぽう、漢字やそれに影響を受けた表語文字体系では、この方法を'''[[会意]]'''や'''[[形声]]'''といった手法に発展させたため、言語の語や[[形態素]]のひとつひとつを文字で表すことができるようになった(詳細は[[六書]]およびその関連項目を参照)。後者のように、すべての文字が形態素とその発音の音節を表す文字体系を、特に'''[[ロゴシラバリー]]'''(英: logosyllabary)と呼ぶ研究者もいる<ref>Daniels and Bright (eds.), 参考文献, p.4, 24. などを参照。</ref>。
表語文字の特徴として、文字体系に含まれる文字の総数を確定しがたいということがある。たとえば、漢字はその誕生以来文字数を増やしつづけてきたし、今日でも新しい文字が生まれ続けている('''[[#表1]]'''参照)。また近年は、漢字をコンピュータで利用するための文字コード([[符号化文字集合]])の編纂がたびたび行われ、そのための典拠調査を行うたびに収録漢字数は増加している。
{{clear}}
== 系統 ==
=== 総説 ===
==== 淵源 ====
「{{要出典範囲|文字は、当初ピクトグラム(絵文字)から発達した象形文字であった|date=2023年7月}}」という仮説が有力である{{要出典|date=2023年7月}}。しかし、ピクトグラムから象形文字への移行を裏付ける証拠はほとんど発見されていない。
一方、{{仮リンク|デニス・シュマント=ベッセラ|en|Denise Schmandt-Besserat}}は、中東一帯の遺跡から発見される粘土製証票(トークン)が文字の起源となったと主張する<ref>シュマント=ベッセラ、参考文献。および{{cite journal | last=Schmandt-Besserat | first=Denise | title=Signs of Life | journal=Archaeology Odyssey | issue=January/February | volume=2002 | pages=pp.6-7,63 | url=https://webspace.utexas.edu/dsbay/Docs/SignsofLife.pdf |format=PDF |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080528050603/https://webspace.utexas.edu/dsbay/Docs/SignsofLife.pdf |archivedate=2008年5月28日}}</ref>。商取引の際、商品ごとに形の異なるトークンを用い、トークンの数で取り引き数を表す。取り引きごとのトークンをまとめて中空の粘土の玉(封球)に納めたり、紐で綴って両端を粘土の塊(ブッラ)で封印することで、取り引きの証明とした。後に封球やブッラの表面に、トークンの形と数を印すようになった。つまり、商品をトークンで表し、さらにトークンとその数を記号で象徴するようになった。これが文字の(少なくとも、この地域でその後使われるようになった楔形文字体系の)起源であるとする説である。
しかし、この説への批判も多く、現在の主流の見解では、トークンは文字の誕生の一要因であったが、トークンのみですべてを説明することはできないとされている{{要出典|date=2023年7月}}。
また、文字が単一の起源から発生したのか、それとも地球上の複数の地域で独立に文字が誕生したのかについては、学者らの見解は一致していない{{要出典|date=2023年7月}}。
==== 借用と発展 ====
現在までに発見されている文字体系は、あまり多くないいくつかの系統に分類できる。つまり、現在知られる文字体系のほとんどは、ほかの文字体系を[[借用]]し、発展させて成立したことがわかっている。借用はさまざまなレベルで行われるが、それぞれの系統には[[#分類]]の節で述べたさまざまな類型に属する文字体系が現れる。また、個々の文字体系の中でも、さまざまな造字手法を発展させてきた。
;文字という着想
: 事実や意志の伝達を目的とし、耐久性のある媒体に記され、言語と関係した記号の体系、という着想。これには、一定の種類の記号だけを使うことも含まれる。この着想は単一の起源を持つと考える研究者もいるが、作業仮説の域を出ない。現在でも、この着想に基づいて計画的に文字体系をつくり出そうとする試みは多い。
;書記媒体
: 書記媒体([[粘土]]に楔形の記号を記す、[[布]]や[[紙]]に[[墨]]と[[筆]]で書く、など)を借用して、異なる文字体系を表記するのに用いた例は歴史上多い。
;線条性
: '''線条的'''に書くという方式の発展。初期の表語文字には記号の順序からは読む順序が判然としないものがあるが、後の文字体系では、区切り記号を導入して文を語に分析して順番に表記したり、文字や字母を単位として線条的に表記することが一般化した。
;書字方向
: かつては、ある行から次の行へ移ると'''[[縦書きと横書き|書字方向]]'''を反転させて書き進めることがしばしば行われた。これを'''[[ブストロフェドン]]'''(希: {{lang|el|βουστροφηδόν}}、'''牛耕式'''とも)と呼ぶ。文字の需要が増大してより速く大量に書くことが求められるようになるにつれ、各行を一定方向に書くことが増えるが、右から左へ、左から右へ、上から下へなどのどの書字方向を選ぶかは、文字体系によって異なる。借用の際に書字方向を変更したため、文字の図形を反転(左右の変更の場合)したり、90度回転(左右と上下の変更の場合)した例もある。
;会意と形声
: [[表語文字]]では、複数の記号を組み合わせてより複雑な意味を表す手法が発展した。たとえば[[ヒエログリフ|エジプトヒエログリフ]]で、「書く」を意味する文字と「人」を意味する文字を組み合わせて
:{| style="display: inline; margin: 0; border: hidden"
|-
|<hiero>Y3 A1</hiero>
|-
|}(書記)を表す。「人」の文字はこの語の発音とは何の関係もない。このように、意味範疇を限定するための記号を'''限定符'''(英: determinitive、'''決定詞'''、漢字では'''義符'''とも)と呼ぶ。また、限定符に発音を表す文字('''音符'''、漢字では'''声符'''とも)を付加して表したい語を特定することもある。エジプトヒエログリフの場合、明確さを向上させるために複数の限定符や音符を付加することもある。[[漢字]]ではこの手法はより体系化されており、それぞれ'''[[会意]]'''および'''[[形声]]'''と呼ばれている。
;音の借用
: 表語文字から特定の文字をいくつか借用して、その文字の表す意味から類推される発音を表すものとして使う。つまり、表語文字を借用して表音文字として使うのである。たいてい、元の語は1音節ないしは複数の音節で発音されるので、借用の際には語頭の子音や音節だけを表すものとみなす。これを[[頭音法]](英: acrophony。'''頭字法'''とも)と呼ぶ。たとえば、[[ヒエログリフ|エジプトヒエログリフ]]では、「脚」を表す文字
:{| style="display: inline; margin: 0; border: hidden"
|-
| <hiero>b</hiero>
|-
|}(発音は b)を[b]の音を表すのにも使うし、[[万葉仮名]]や[[平仮名]]では、漢字の「安」を「あ」の音を表す文字に転用している。
: すでにある言語で使われている表音文字を借用して、別の言語を表記するものとする例は非常に多い。この場合、元の文字体系では表せない発音があったり、借用先の言語にはない発音を表す文字があったりする。そこで、似た発音の字母を変形したり、識別記号([[ダイアクリティカルマーク]]など)を付加したりして文字体系を拡張する。たとえば、ラテン文字のCは当初[k]と[g]の音両方を表したが、後に2つの音が区別されるようになったため、Cに鈎を付けてGとした。場合によっては、必要ない字母をまったく別の音の表記に転用することもある。[[フェニキア文字]]は子音のみを表記する[[アブジャド]]だったが、[[ギリシア語]]表記に借用された際にギリシア語表記に必要のない字母が[[母音]]の表記に転用され、[[アルファベット]]となった。このような事情から、文字体系の字形が似通っていても個々の文字の表す発音は大きく異なることがある。
;意味の借用
: 表語文字の文字はひとつひとつが言語の[[語]]に対応しているので、文字を借用して自分たちの言語の語を表すものとする。つまり、文字を書いてその意味を固有語の発音で読むことにする。[[日本語]]の[[訓読み]]はこの代表的な例である。かつて[[朝鮮語]]でもこの方法が行われたことがある。ごくまれに、表音文字でもこのような借用が見られる。
=== 漢字圏の文字体系 ===
{{節スタブ}}
*[[亀甲獣骨文字]]{{Main|亀甲獣骨文字}}
*[[巴蜀文字]]([[:zh:巴蜀图语|巴蜀図形文字]])
**[[インダス文字]]との関連も指摘されている。
==== 影響を受けた文字体系 ====
[[契丹文字]]、[[古壮字]]、[[女真文字]]、[[西夏文字]]、[[チュノム]]は漢字の影響を受けて生まれたと考えられているが、現在は使われていない。
* [[契丹文字]]
* [[古壮字]]
* [[女真文字]]
* [[西夏文字]]
* [[チュノム]]と[[チュニョ|チュハン]]
* [[万葉仮名]]、[[平仮名]]と[[片仮名]]
==== 漢字を取り入れた表記体系 ====
<!-- 日本語: 乎古止点、漢字仮名混じり表記、ルビ。朝鮮語: 郷札、吏讀、口訣、吐。 -->
{{節スタブ}}
=== メソアメリカの文字体系 ===
{{main|メソアメリカの文字}}
* [[カスカハルの石塊]]
* [[サポテカ文字]]
* [[ラ・モハラの文字]](エピ・オルメカ文字、地峡文字)
* [[アバフ・タカリク]]、[[カミナルフユ]]の文字 --- [[イサパ]]
* [[マヤ文字]]
* [[アステカ文字]]
* [[ミシュテカ文字]]
=== 複数の文字体系から影響を受けた文字体系 ===
{{節スタブ}}
新たな文字体系が成立するときに、複数の文字体系を取り入れることはしばしばある。また、別の系統に分かれた同時代の文字体系同士が、影響を与えあって発展していくこともある。本節では、複数の文字体系から影響を受けたことが特にはっきりしているものを取り上げて解説する。
* [[ターナ文字]]
* [[ハングル]]
* [[ロヴァーシュ文字]]
=== 近代以降に創出された文字体系 ===
{{節スタブ}}
* [[チェロキー文字]]
* [[ヴァイ文字]]
* [[カナダ先住民文字]]<!-- 異説あり -->
* [[ポラード文字]]
* [[ンコ文字]]
* [[オルチキ文字]]
<!-- などいろいろ。 -->
=== 未解読または系統未詳の文字体系 ===
{{節スタブ}}
{{See also|未解読文字}}
; [[彝文字]]
:
; [[インダス文字]]
:
; [[トンパ文字]]
: [[中国]]の[[少数民族]]である[[ナシ族]]の間に伝わる文字体系で、経典などの表記に用いられる。抽象化の進んだ表語文字に属する文字と、絵画的でピクトグラムから[[象形文字]]の段階に入ったばかりと思われる文字の両方を持つが、その起源についてはまだ十分な研究がない<ref>{{cite journal | author=彭飛 | title=トンパ文字を訪ねて - 納西(ナシ)族居住地での現地調査から - | journal=言語 | year=1992 | volume=1992年 | issue=4月号-5月号 | publisher=大修館 | url=http://homepage2.nifty.com/ponfei/tonpa/tonpa.htm | curly=yes}}</ref>。
; [[ファイストスの円盤]]の文字
:
; ラパヌイ文字([[ロンゴロンゴ文字]])
: [[イースター島]](ラパヌイ島)に伝わる石板に見られる、文字体系の可能性がある記号の体系である。一部の研究者は、決まり文句を記すためだけに使用されたピクトグラムの一種で、文字体系ではないと主張している。1722年のヨーロッパ人との接触以降に、当地の住民がヨーロッパ人の文字使用に触発されてつくり出したとする説が有力である。基本的な字母の数が120個ほどであることから、音素文字である可能性は低い。現在残る文字資料から知られている書字方向は、下から上へ行が進む横書きのブストロフェドンという特異なものである<ref>{{cite book|和書 | author=柴田紀男 | chapter=ラパヌイ文字 | pages=pp.1102-1104 | editor=河野六郎・千野栄一・西田龍雄 編著 | title=言語学大辞典 別巻 世界文字辞典 | publisher=三省堂 | date=2001年7月 | year=2001 | isbn= 4-385-15177-6 }}</ref>。
<!-- などいろいろ。 -->
== 電気通信、コンピュータと文字 ==
{{main|キャラクタ (コンピュータ)}}
<!-- まだ書いてませんが、参考文献だけ先に挙げておきました。 -->
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
執筆にあたって以下のものを参考にした。なお、特定の文字体系に関する記述で参考にしたものについては[[#注]]も参照。
用語の選択は以下のものに倣った。これらに見えないものは原則として原語の片仮名書きとした。
* {{cite book|和書 | author=亀井孝・河野六郎・千野栄一編著 | title=言語学大辞典 第6巻 術語編 | publisher=三省堂 | date=1996年1月 | year=1996 | isbn= 4-385-15218-7 }}
* {{cite book|和書 | author=河野六郎・千野栄一・西田龍雄 編著 | title=言語学大辞典 別巻 世界文字辞典 | publisher=三省堂 | date=2001年7月 | year=2001 | isbn= 4-385-15177-6 }}
全般、'''[[#基本的な概念]]'''、'''[[#分類]]'''
* {{cite book|和書 | last=カルヴェ | first=ルイ=ジャン | title=文字の世界史 | translator=矢島文夫(監訳)・会津洋・前島和也 | publisher=河出書房新社 | date=1998年6月 | year=1998 | isbn= 4-309-22327-3 }}(原著 {{cite book | last=Calvet | first=Louis-Jean | title=HISTOIRE DE L'ECRITURE | publisher=Plon | year=1996 }})
* {{cite book | author=Daniels, Peter T. and Bright, William (eds.) | title=The World's Writing Systems | publisher=Oxford University Press | month=February | year=1996 | isbn= 978-0-19-507993-7 }}
* {{cite book|和書 | last=フィッシャー | first=スティーヴン・ロジャー | title=文字の歴史 | translator=鈴木晶 | publisher=研究社 | date=2005年10月 | year=2005 | isbn= 4-327-40141-2 }}(原著 {{cite book | last=Fischer | first=Steven Roger | title=A History of Writing | publisher=Reaktion Books Ltd. | year=2001 }})
* {{cite book|和書 | author=河野六郎 | title=文字論 | publisher=三省堂 | date=1994年9月 | year=1994 | isbn= 4-385-35587-8 }}
* {{cite book|和書 | author=河野六郎・千野栄一・西田龍雄編著 | title=言語学大辞典 別巻 世界文字辞典 | publisher=三省堂 | date=2001年7月 | year=2001 | isbn= 4-385-15177-6 }}
'''[[#系統]]'''
* {{cite book|和書 | last = シュマント=ベッセラ | first = デニス | title = 文字はこうして生まれた | others = 小口好昭・中田一郎訳 | publisher = 岩波書店 | year = 2008 | month = May | origyear = 1996 | isbn = 978-4-00-025303-1}}(原著 {{cite book | last = Schmandt-Besserat | first = Denise | title = How Writing Came About | year = 1996 | publisher = University of Texas Press | location = Austin}})
* {{cite book|和書 | last=デイヴィズ | first=ヴィヴィアン | title=エジプト聖刻文字 | series=大英博物館双書 失われた文字を読む 2 | others=矢島文夫監修 | translator=塚本明廣 | publisher=學藝書林 | date=1996年10月 | year=1996 | edition=初版 | isbn= 4-87517-012-2 }}(原著 {{cite book | last=Davies | first=W.V. | title=Reading The Past: EGYPTIAN HIEROGLYPHS | publisher=British Museum Press | year=1987 }})
* {{cite book|和書 | author=村田雄二郎・C. ラマール編 | title=漢字圏の近代 - ことばと国家 | date=2005年9月 | year=2005 | publisher=東京大学出版会 | isbn= 4-13-083042-2 }}
* {{cite book|和書 | last=ナヴェー | first=ヨセフ | title=初期アルファベットの歴史 | series=りぶらりあ選書 | date=2000年7月 | year=2000 | translator=津村俊男・竹内茂夫・稲垣緋紗子 | publisher=法政大学出版局 | isbn= 4-588-02203-2 }}(原著 {{cite book | last=Naveh | first=Joseph | title=Early History of the Alphabet: An Introduction to West Semitic Epigraphy and Palaeography | edition=Second revised edition | location=Jerusarem/Leiden | publisher=Magnes Press/E.J.Brill | year=1987 }})
* {{cite book|和書 | last=ウォーカー | first=クリストファー | title=楔形文字 | series=大英博物館双書 失われた文字を読む 1 | others=矢島文夫監修 | translator=大城光正 | publisher=學藝書林 | date=1995年11月 | year=1995 | edition=初版 | isbn= 4-87517-011-4 }}(原著 {{cite book | last=Walker | first=C.B.F. | title=Reading The Past: CUNEIFORM | publisher=British Museum Press | year=1987 }})
'''[[#電気通信、コンピュータと文字]]'''
* {{cite book|和書 | author=三上喜貴 | title=文字符号の歴史 - アジア編 - | publisher=共立出版 | date=2002年3月 | year=2002 | isbn= 4-320-12040-X }} (<cite>A History of Character Codes in Asia</cite>)
* {{cite book|和書 | author=安岡孝一・安岡素子 | title=文字符号の歴史 - 欧米と日本編 - | 共立出版 | date=2006年2月 | year=2006 | isbn= 4-320-12102-3 }} (<cite>A History of Character Codes in Japan, America and Europe</cite>)
== 関連項目 ==
{{Project 文字}}
{{wiktionary}}
* [[文字体系の一覧]]
* [[文字体系別の言語の一覧]]
* [[文字の歴史]]
* [[ISO 15924]]
* [[中西亮]] - 世界の文字資料の収集家、研究者。
* [[結縄]] - 文字が発明される以前に、紐の結び方、ビーズなどで情報の伝達、条約などの保管を行った。
== 外部リンク ==
* [[愛知県立大学]](吉池孝一、中村雅之) 「[http://kodaimoji.her.jp/ 古代文字資料館]」- 古代を中心としたさまざまな文字体系の資料と解説。
* {{en icon}}Simon Ager, [https://www.omniglot.com/ Omniglot - a guide to written language] - 世界の文字体系の紹介と解説。
* {{kotobank|文字-9331|[[日本大百科全書]](ニッポニカ)|文字}}
{{文字}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:もし}}
[[Category:文字|*]]
[[Category:媒体]] | 2003-05-19T10:44:03Z | 2023-11-20T22:19:07Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%AD%97 |
8,640 | 2典Plus | 2典Plus(にてんプラス)は、かつて存在した2ちゃんねる用語のオンライン辞書である。2001年開設の2典(にてん)を前身として2003年に開設され、2014年頃まで公開されていた。3000以上の用語が登録されていた。書籍版も存在した。
2典Plusの前身となる2典は、インターネット掲示板2ちゃんねるラウンジ板で2001年6月30日に作成がスタートした。
まず「編集長」というハンドルネームの人物が、2001年6月19日にNHKで放送された『プロジェクトX第57回 父と息子 執念燃ゆ 大辞典』(岩波書店の広辞苑の製作過程を扱った回)に感動し、「2chにもこのような辞典があれば面白いのに」と考えたとして、翌6月20日に2ちゃんねるのラウンジ板でスレッド『みんなで「2ちゃん辞典(仮)」を作ろう!』を新たに作成した。この「編集長」という人物が中心となり、スレッド上で言葉を募ってデータを編集し始めた。
上記スレッドの332番目の書き込みで「編集長」がサイトのURLを公開した。「2典」という名称は上記スレッドの427番目の書き込みで匿名投稿者により提案され、同428番目の書き込みで「編集長」に採用された。
2001年12月に「編集長」が後任に編集権を譲って退任したいとの意向を示し、「ヘルプ化の人」というハンドルネームで書き込んでいた人物が編集権を譲り受けて「2代目編集長」となった。
後述する「2典Plus」に辞書データが引き継がれてからも「2典」のサイトはしばらく残っていたが、2004年頃に閉鎖された。
2003年に2典のサイト管理者「2代目編集長」の2ちゃんねるスレッドへの登場が途絶え、サイト更新が滞ったことを受けて、2003年2月27日、KENこと高橋賢が2典のデータを引き継ぐ形で2典Plusを開設した。2典Plusの開設後に「2代目編集長」がスレッドに登場し、KENへの引き継ぎを承認した。
2典Plusは、不特定多数によるスレッドへの書き込みに編集を加えたものを管理者のKENがサイトに追加するという更新形式を取っていたが、2006年頃から2典Plusの用語登録数は増えなくなった。2014年頃にサイトが閉鎖された。
2002年から2005年にかけて三度出版された。
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{{Infobox オンライン情報源
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| 運営=ライクローズ<ref group="注" name="Like">[https://web.archive.org/web/20070410074739/http://www.media-k.co.jp/jiten/ 2典Plusトップページ(2007年4月10日時点でのアーカイブ)]のページ最下部に"運営:ライクローズ"という表記が見られた。</ref>
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| 設立者=KEN(高橋賢)<ref name="Start-a" /><ref name="Ken">{{Cite web|和書|url=http://www.media-k.co.jp/jiten/prof/index.html|title=管理人プロフィール|publisher=2典Plus|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140328095235/http://www.media-k.co.jp/jiten/prof/index.html|archivedate=2014-03-28|accessdate=2018-01-24}}</ref>
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| 項目数=約1000語(2002年時点)<ref group="†" name="J-CAST20180202" />
| 閲覧=無料
| 登録=不要
| 著作権=不明、著作権に関する記載なし
| 運営=不明、レンタルサーバ上で運営
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| 設立=2001年6月30日<ref name="2ten-opened" />
| 設立者=「編集長」(匿名)<ref name="2ten-opened" /><ref group="注" name="editor-2ten">[https://web.archive.org/web/20011004022215/http://freezone.kakiko.com/jiten/ 2典(2001年10月4日時点のアーカイブ)]に「編集(コピペ)/編集長」との記載がある。</ref>
| 管理人=「編集長」(匿名)<ref group="注" name="editor-2ten" />、「2代目編集長」(匿名)<ref name="editor-2ten-2nd" />
| 作業者=「編集長」(匿名)<ref group="注" name="editor-2ten" />、「2代目編集長」(匿名)<ref name="editor-2ten-2nd" />
| 執筆者=不特定多数、2ちゃんねらー
| 編集委員=
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| 現状=2003年2月27日に後継の2典Plusへ移行、2典のサイトは2004年頃に閉鎖<ref group="注" name="Closed-date-2ten">[[インターネット・アーカイブ]]に記録されている2典サイトトップページのアーカイブは、[https://web.archive.org/web/20040402095105/http://freezone.kakiko.com/jiten/ 2004年4月2日付のもの]が最後となっている。</ref>
}}
'''2典Plus'''(にてんプラス)は、かつて存在した[[2ちゃんねる用語]]のオンライン[[辞書]]である<ref group="†" name="AERA">{{Cite journal|和書|author=浜田奈美|title=2ちゃん語と女子高生語 IT時代の常識?解読法|journal=[[AERA]]|publisher=[[朝日新聞社]]|volume=18 |issue=14号(通巻915号)|pages=78-80|date=2005年3月14日}}</ref><ref group="†" name="女性セブン">{{Cite journal|和書|title=いますぐ使える『電⾞男』語FA(ファイナルアンサー) 現代用語を解説しますた |journal=[[女性セブン]] |publisher=[[小学館]] |volume=43 |issue=32号(通巻2025号)|pages=68-69 |date=2005年8月25日}}</ref><ref group="†" name="J-CAST20180202">{{Cite web|和書|title=2ちゃんねる用語「20年目」の今 消えた「逝ってよし」「オマエモナー」、定着した「神」|url=https://www.j-cast.com/2018/02/02320202.html?p=all|website=[[ジェイ・キャスト#J-CASTニュース|J-CASTニュース]]|publisher=[[ジェイ・キャスト|株式会社ジェイ・キャスト]]|date=2018-02-02|accessdate=2018-05-21}}</ref>。2001年開設の'''2典'''(にてん)<ref group="†" name="J-CAST20180202" /><ref name="2ten-opened" />を前身として2003年に開設され<ref name="Start-a" /><ref group="注" name="Start-b" />、2014年頃まで公開されていた<ref group="†" name="J-CAST20180202" /><ref group="注" name="Closed-date" />。3000以上の用語<ref group="†" name="AERA" /><ref group="†" name="女性セブン" /><ref group="†" name="J-CAST20180202" /><ref group="注" name="Article" />が登録されていた。書籍版も存在した<ref group="†" name="J-CAST20180202" />。
== 歴史 ==
{{一次資料|section=1|date=2018年1月}}
=== 『2典』時代 ===
2典Plusの前身となる2典は、インターネット掲示板[[2ちゃんねる]][[ラウンジ板]]で[[2001年]][[6月30日]]に作成がスタートした。
まず「編集長」という[[ハンドルネーム]]の人物が、2001年6月19日にNHKで放送された『[[プロジェクトX〜挑戦者たち〜|プロジェクトX]]第57回 父と息子 執念燃ゆ 大辞典』([[岩波書店]]の[[広辞苑]]の製作過程を扱った回)に感動し、「2chにもこのような辞典があれば面白いのに」<ref>{{Cite web|和書|url=http://corn.5ch.net/test/read.cgi/entrance/993039464/1|title=みんなで「2ちゃん辞典(仮)」を作ろう!(1番目、「編集長」による書き込み)|date=2001/06/20(水) 21:17|website=2ちゃんねる掲示板|accessdate=2018-05-22}}</ref>と考えたとして、翌6月20日に[[2ちゃんねる]]の[[案内 (2ちゃんねるカテゴリ)#ラウンジ板|ラウンジ板]]でスレッド『みんなで「2ちゃん辞典(仮)」を作ろう!』<ref>{{Cite web|和書|url=http://corn.5ch.net/test/read.cgi/entrance/993039464/|title=みんなで「2ちゃん辞典(仮)」を作ろう!|date=2001年6月20日作成|website=2ちゃんねる掲示板|accessdate=2018-05-22}}</ref>を新たに作成した。この「編集長」という人物が中心となり、スレッド上で言葉を募ってデータを編集し始めた。
上記スレッドの332番目の書き込み<ref name="2ten-opened">{{Cite web|和書|url=http://corn.5ch.net/test/read.cgi/entrance/993039464/332|title=みんなで「2ちゃん辞典(仮)」を作ろう!(332番目、「編集長」による書き込み)|date=2001/06/30(土) 23:18|website=2ちゃんねる掲示板|accessdate=2018-05-22}}</ref>で「編集長」がサイトの[[Uniform Resource Locator|URL]]を公開した<ref group="注" name="editor-2ten" />。「2典」という名称は上記スレッドの427番目の書き込み<ref>{{Cite web|和書|url=http://corn.5ch.net/test/read.cgi/entrance/993039464/427|title=みんなで「2ちゃん辞典(仮)」を作ろう!(427番目の書き込み)|date=2001/07/07(土) 13:46|website=2ちゃんねる掲示板|accessdate=2018-05-22}}</ref>で匿名投稿者により提案され、同428番目の書き込み<ref>{{Cite web|和書|url=http://corn.5ch.net/test/read.cgi/entrance/993039464/428|title=みんなで「2ちゃん辞典(仮)」を作ろう!(428番目、「編集長」による書き込み)|date=2001/07/07(土) 13:49|website=2ちゃんねる掲示板|accessdate=2018-05-22}}</ref>で「編集長」に採用された。
2001年12月に「編集長」が後任に編集権を譲って退任したいとの意向を示し<ref>{{Cite web|和書|url=http://ton.5ch.net/test/read.cgi/gline/1006427767/351|title=みんなで2ちゃんねる用語辞典をつくろう!その4(351番目、「編集長」による書き込み)|date=2001/12/06(木) 19:40|website=2ちゃんねる掲示板|accessdate=2018-06-06}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://ton.5ch.net/test/read.cgi/gline/1006427767/472|title=みんなで2ちゃんねる用語辞典をつくろう!その4(472番目、「編集長 ◆K8ei9DKI」による書き込み)|date=2001/12/15(土) 00:54|website=2ちゃんねる掲示板|accessdate=2018-06-06}}</ref>、「ヘルプ化の人」というハンドルネームで書き込んでいた人物が編集権を譲り受けて「2代目編集長」となった<ref>{{Cite web|和書|url=http://ton.5ch.net/test/read.cgi/gline/1006427767/654|title=みんなで2ちゃんねる用語辞典をつくろう!その4(654番目、「編集長 ◆K8ei9DKI」による書き込み)|date=2002/01/10(木) 18:44|website=2ちゃんねる掲示板|accessdate=2018-06-06}}</ref><ref name="editor-2ten-2nd">{{Cite web|和書|url=http://ton.5ch.net/test/read.cgi/gline/1006427767/656|title=みんなで2ちゃんねる用語辞典をつくろう!その4(656番目、「ヘルプ化の人→新編集長 ◆bukocgQ6」による書き込み)|date=2002/01/11(金) 00:05|website=2ちゃんねる掲示板|accessdate=2018-06-06}}</ref>。
後述する「2典Plus」に辞書データが引き継がれてからも「2典」のサイトはしばらく残っていたが、2004年頃に閉鎖された<ref group="注" name="Closed-date-2ten" />。
=== 『2典Plus』時代 ===
[[2003年]]に2典のサイト管理者「2代目編集長」の2ちゃんねるスレッドへの登場が途絶え、サイト更新が滞った<ref>{{Cite web|和書|url=https://that.5ch.net/test/read.cgi/gline/1041947998/290|title=みんなで2ch用語辞典「2典」をつくろう!第7版(290番目、「初代編集長 ◆kIK8ei9DKI」による書き込み)|date=2003/03/08(土) 23:31|website=2ちゃんねる掲示板|accessdate=2018-10-13}}</ref><ref name="2代目辞任">{{Cite web|和書|url=https://that.5ch.net/test/read.cgi/gline/1041947998/293|title=みんなで2ch用語辞典「2典」をつくろう!第7版(293番目、「自称2代目 ◆0tbukocgQ6」による書き込み)|date=2003/03/09(日) 00:53|website=2ちゃんねる掲示板|accessdate=2018-10-13}}</ref>ことを受けて、2003年[[2月27日]]、KENこと高橋賢<ref name="Ken" />が2典のデータを引き継ぐ形で2典Plusを開設した<ref name="Start-a" /><ref group="注" name="Start-b" />。2典Plusの開設後に「2代目編集長」がスレッドに登場し、KENへの引き継ぎを承認した<ref name="2代目辞任" />。
2典Plusは、不特定多数によるスレッドへの書き込みに編集を加えたものを管理者のKENがサイトに追加するという更新形式を取っていた<ref name="2tenplus-editor">{{Cite web|和書|url=http://that4.5ch.net/test/read.cgi/dataroom/1125866492/509|title=みんなで2ch用語辞典「2典Plus」を作ろう 第15版(509番目、「KEN ◆2TENtgJUkY」による書き込み)|date=2005/12/13(火) 01:25:27|website=2ちゃんねる掲示板|accessdate=2018-06-06}}</ref>が、2006年頃から2典Plusの用語登録数は増えなくなった<ref group="注">[https://web.archive.org/web/20060616041850/http://www.media-k.co.jp/jiten/index.html 2典Plusトップページの2006年6月16日のインターネット・アーカイブ]によれば、その時点での用語登録数は3173語となっており、これはサイト閉鎖直前の[https://web.archive.org/web/20140702164350/http://www.media-k.co.jp/jiten/ 2014年7月2日のトップページのアーカイブ]で確認できる用語登録数と一致する。</ref>。2014年頃にサイトが閉鎖された<ref group="†" name="J-CAST20180202" /><ref group="注" name="Closed-date" />。
== 書籍化 ==
[[2002年]]から[[2005年]]にかけて三度出版された<ref group="†" name="J-CAST20180202" />。
* 2典 -2ちゃんねる辞典-([[ブッキング]]、2002年5月、ISBN 4-8354-4033-1)
* 続2典 -続2ちゃんねる辞典-(ブッキング、2003年10月、ISBN 4-8354-4062-5)
* 2典 第3版([[宝島社]]、2005年7月、ISBN 4-7966-4754-6)
また[[2006年]]には、2ちゃんねる用語を掲載した[[2007年]]用[[カレンダー#形態|日めくりカレンダー]]の『2典日ちぎり』が発売された。
*2典日ちぎり(ハゴロモ、2006年11月、{{ASIN|B000HXE0H4}})
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
{{Reflist|group=†}}
=== 自主公表された情報源 ===
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* {{Wayback |url=http://www.media-k.co.jp/jiten/ |title=2ch用語辞典「2典plus」 |date=20140702164350}}
* {{Wayback |url=http://freezone.kakiko.com/jiten/ |title=2典 |date=20030401195726}}
* [https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/dataroom/1145209936/l50 みんなで2ch用語辞典「2典Plus」を作ろう 第16版] - [[案内_(2ちゃんねるカテゴリ)#資料室板|5ちゃんねる資料室板]]
{{2ちゃんねる}}
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[[Category:2ちゃんねる]]
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[[Category:2003年開設のウェブサイト]]
[[Category:2014年廃止のウェブサイト]] | 2003-05-19T10:49:20Z | 2023-09-21T16:07:15Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/2%E5%85%B8Plus |
8,641 | 三鷹駅 | 三鷹駅(みたかえき)は、東京都三鷹市下連雀三丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。
当駅に乗り入れている路線は、線路名称上は中央本線のみであるが、一般列車の運転系統としては、当駅以東(新宿駅方面)で急行線を走る特急列車と中央線快速電車、および緩行線を走る中央・総武線各駅停車(地下鉄東西線直通列車を含む)が停車する。また、成田空港駅方面から直通する特急「成田エクスプレス」も停車する。
中央・総武線各駅停車は当駅を運転系統の起点および終点としており、御茶ノ水駅からの中央本線の複々線区間は当駅までとなっている。当駅以西(立川駅方面)の複線区間には特急列車および中央線快速電車のみが乗り入れる。
大月・甲府方面まで運転される普通列車(中距離電車)は1993年11月30日までは新宿駅・当駅・立川駅に停車していたが、同年12月1日のダイヤ改正以降、定期列車として当駅に停車し新宿駅まで運転するものはホリデー快速など臨時快速列車を除きなくなり、中距離電車は立川駅・八王子駅・高尾駅発着となった。
駅番号は中央線快速電車がJC 12、中央・総武線各駅停車がJB 01である。
島式ホーム3面6線を有する地上駅であり、橋上駅舎を有している。直営駅(駅長配置)であり、三鷹営業統括センター所在駅である。当センターは吉祥寺駅 - 国分寺駅を統括管理し、当駅の駅長が三鷹営業統括センターの所長を兼任する。
ホーム中央または東京寄りに、すべての改札につながる階段・エスカレーター・エレベーターがある。
ホームは1・2番線が緩行線、3 - 6番線が急行線に使用されている。急行線ホームでは、中央特快・青梅特快・通勤快速と快速との緩急接続および特急・通勤特快の通過待ちが行われる。
西側に三鷹車両センターが併設されている。
(出典:JR東日本:駅構内図)
開業80周年を迎えた2010年6月26日より、終戦直後から1951年まで三鷹市で暮らしていた作曲家の中田喜直の代表作である「めだかの学校」をアレンジしたものを発車メロディとして使用している。メロディはスイッチの制作で、編曲は塩塚博が手掛けた。アレンジはホームごとに異なっている。
出入口からコンコースまでエスカレーターとエレベーターが通じている。南口のエスカレーターとエレベーターはアトレヴィ三鷹およびペデストリアンデッキにある。駅の下に玉川上水が流れる。
2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は79,415人であり、JR東日本の駅の中では四ツ谷駅に次いで第45位。中央特快通過駅の吉祥寺駅の方が利用者数は多い。
他線との接続がないJRの駅の中で赤羽駅に次いで第2位である。
近年の1日平均乗車人員の推移は下記の通り。
駅の真下には玉川上水が流れており、ほぼこの川に沿って三鷹市と武蔵野市の市境が走っている。北側は武蔵野市中町一丁目および三鷹市上連雀一丁目、南側は三鷹市下連雀三丁目・上連雀二丁目および武蔵野市御殿山二丁目となる。
駅前にロータリーがあり、北方面に伸びる中央大通りに並木が続く。この通りは三鷹通りと合流し、沿道には武蔵野警察署や武蔵野郵便局など官公庁関係の施設が多い。また、駅前ロータリーには彫刻家・北村西望の作による『武蔵野市世界連邦平和像』が1969年に建立され、設置されている。
駅前にはロータリーの2階部分に駅南口から続くペデストリアンデッキが広がり、駅正面には再開発ビル「ネオシティ三鷹(三鷹コラル)」がある。ロータリーに面した位置は銀行3行とパチンコ店2軒が占めている。ロータリーの南側に向かって三鷹中央通りが伸び、この通りを挟んで比較的小規模な商店が広がり、駅前商店街を形成している。なお、2006年3月に三鷹駅南口駅前広場第2期整備事業が完了した。
また、毎年8月には恒例の「三鷹阿波踊り」が行われる。
関東バス(特記なき全路線)・西武バス・小田急バス(ムーバス境・三鷹循環のみ)が発着する。2011年4月より駅前の改良により乗場(番号・位置)の変更が行われた。
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] | 三鷹駅(みたかえき)は、東京都三鷹市下連雀三丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。 | {{出典の明記|date=2012年2月}}
{{駅情報
|社色 = #008000
|文字色 =
|駅名 = 三鷹駅
|画像 = JR Chuo-Main-Line Mitaka Station North Exit.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 北口(2019年9月)
|地図 = {{Infobox mapframe|zoom=15|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|35|42|9.7|N|139|33|39|E}}}}
|よみがな = みたか
|ローマ字 = Mitaka
|電報略号 = ミツ
|所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
|所在地 = [[東京都]][[三鷹市]][[下連雀]]三丁目46番1号{{Refnest|group="*"|正式な所在地。東側は[[武蔵野市]]中町一丁目にまたがる。}}
|座標 = {{coord|35|42|9.7|N|139|33|39|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}}
|開業年月日 = [[1930年]]([[昭和]]5年)[[6月25日]]
|駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]])
|ホーム = 3面6線
|廃止年月日 =
|乗車人員 = 79,415
|統計年度 = 2022年
|乗入路線数 = 2
|所属路線1 = {{color|#f15a22|■}}[[中央線快速|中央線(快速)]]<br />(線路名称上は[[中央本線]])
|前の駅1 = JC 11 [[吉祥寺駅|吉祥寺]]
|駅間A1 = 1.6
|駅間B1 = 1.6
|次の駅1 = [[武蔵境駅|武蔵境]] JC 13
|駅番号1 = {{駅番号r|JC|12|#f15a22|1}}
|キロ程1 = 13.8 km([[新宿駅|新宿]]起点)<br />[[東京駅|東京]]から24.1
|起点駅1 =
|所属路線2 = {{color|#ffd400|■}}[[中央・総武緩行線|中央・総武線(各駅停車)]]{{Refnest|group="*"|中央本線の複々線区間は当駅まで。武蔵境方は複線。緩行線は1面2線、快速線は2面4線。}}<br />(線路名称上は中央本線)<!-- 東西線(各駅停車) -->
|前の駅2 = JB 02 [[吉祥寺駅|吉祥寺]]
|駅間A2 = 1.6
|駅間B2 =
|次の駅2 =
|駅番号2 = {{駅番号r|JB|01|#ffd400|1}}
|キロ程2 = 中央線(快速)に同じ<br />[[千葉駅|千葉]]から60.2
|起点駅2 =
|備考 = {{Plainlist|
* [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]])
* [[みどりの窓口]] 有}}
|備考全幅 = {{Reflist|group="*"}}
}}
'''三鷹駅'''(みたかえき)は、[[東京都]][[三鷹市]][[下連雀]]三丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[鉄道駅|駅]]である。
== 乗り入れ路線 ==
当駅に乗り入れている路線は、線路名称上は[[中央本線]]のみであるが、一般列車の運転系統としては、当駅以東([[新宿駅]]方面)で[[急行線]]を走る特急列車と[[中央線快速|中央線快速電車]]、および[[急行線|緩行線]]を走る[[中央・総武緩行線|中央・総武線各駅停車]]([[東京メトロ東西線|地下鉄東西線]]直通列車を含む)が停車する。また、[[成田空港駅]]方面から直通する特急「[[成田エクスプレス]]」も停車する。
中央・総武線各駅停車は当駅を運転系統の起点および終点としており、[[御茶ノ水駅]]からの中央本線の複々線区間は当駅までとなっている。当駅以西([[立川駅]]方面)の複線区間には特急列車および中央線快速電車のみが乗り入れる。
[[大月駅|大月]]・甲府方面まで運転される[[普通列車]]([[中距離電車]])は[[1993年]]11月30日までは[[新宿駅]]・当駅・立川駅に停車していたが、同年[[12月1日]]のダイヤ改正以降、定期列車として当駅に停車し新宿駅まで運転するものは[[ホリデー快速]]など臨時快速列車を除きなくなり、中距離電車は立川駅・[[八王子駅]]・[[高尾駅 (東京都)|高尾駅]]発着となった。
[[駅ナンバリング|駅番号]]は中央線快速電車が'''JC 12'''、中央・総武線各駅停車が'''JB 01'''である。
== 歴史 ==
* [[1929年]]([[昭和]]4年)[[9月1日]]:[[鉄道省]]の'''三鷹[[信号場]]'''として開設。
** 6月に、現在の三鷹電車区の前身となる「中野電車庫三鷹派出所」が開設され、9月には「三鷹電車庫」として独立した。
* [[1930年]](昭和5年)[[6月25日]]:駅に昇格し、'''三鷹駅'''となる。
* [[1949年]](昭和24年)
** [[6月1日]]:[[日本国有鉄道]]発足<ref name="sone05-25">[[#sone05|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 5号]]、25頁</ref>。
** [[7月15日]]:[[三鷹事件]]が発生{{R|sone05-25}}。無人列車が暴走し、死者6人を出した{{R|sone05-25}}。
* [[1951年]](昭和26年)[[4月14日]]:当駅 - [[武蔵野競技場前駅]]間が開通<ref>[{{NDLDC|2963826/7}} 「日本国有鉄道公示第104号」『官報』第7277号](国立国会図書館デジタルコレクション)、1951年4月14日。2021年2月9日閲覧</ref>。
* [[1959年]](昭和34年)[[11月1日]]:当駅 - 武蔵野競技場前駅間が廃止<ref>1959年(昭和34年)10月26日日本国有鉄道公示第386号「中央本線三鷹・武蔵野競技場前間の運輸営業は廃止する件」</ref>。
** [[武蔵野競技場線]]([[中央本線]]支線)は、実質的には開業から1年しか運用されておらず、長らく休止状態にあった。廃止後は跡地の一部が遊歩道に利用されている。三鷹駅近くの玉川上水には橋台跡のコンクリートが現在も残されている。
* [[1969年]](昭和44年)
** [[4月6日]]:橋上駅舎化。
** [[4月]]:朝の通勤ラッシュ緩和のための複々線化工事により中央・総武線(各駅停車)および営団地下鉄東西線直通電車が荻窪から三鷹まで延長。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる<ref>[[#sone05|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 5号]]、27頁</ref>。
* [[1992年]]([[平成]]4年)[[7月7日]]:自動改札機を設置し、使用を開始する<ref name=JRR1993>{{Cite book|和書 |date=1993-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '93年版 |chapter=JR年表 |page=183 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-114-7}}</ref>。
* [[1993年]](平成5年):三鷹駅南口広場第1期工事(前年着工)および三鷹駅南口駅前再開発地区第六ブロック協同ビル(ネオシティ三鷹・1991年着工)竣工。
* [[1999年]](平成11年):三鷹駅南口駅前再開発地区第七ブロック協同ビル(クレッセント三鷹・1997年着工)および三鷹ロンロン(前年着工<ref group="新聞">{{Cite news |title=JR三鷹駅ビル起工 八王子支社 最初の大プロジェクト |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1998-12-01 |page=1 }}</ref>、現・アトレヴィ三鷹)竣工。
* [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-27|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。
* [[2006年]](平成18年):三鷹駅南口広場第2期工事竣工。
* [[2007年]](平成19年)[[12月16日]]:駅ナカ商業施設「[[Dila|ディラ三鷹]]」(第Ⅰ期)開業<ref group="報道" name="20071025/mitaka_press">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/071025/mitaka_press.pdf|title=2007年12月16日(日)、JR三鷹駅にエキナカ商業空間「Dila(ディラ)三鷹」(Ⅰ期)が開業します。|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道八王子支社|date=2007-10-25|accessdate=2012-02-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190414150611/http://www.jreast.co.jp/hachioji/info/071025/mitaka_press.pdf|archivedate=2019-04-15}}</ref><ref group="新聞" name="asahi-2007-12-16"> {{Cite news|title=エキナカ「ディラ三鷹」きょう開業 「寄り道」も期待地元店は不安 JR三鷹駅 商店会連は連携模索へ|newspaper=[[朝日新聞]]|publisher=[[朝日新聞社]]|date=2007-12-16}}</ref>。
* [[2008年]](平成20年)[[3月29日]]:駅ナカ商業施設「ディラ三鷹」(第Ⅱ期)開業<ref group="報道" name="press/20090624/dila_mitaka">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/090624/dila_mitaka.pdf|title=2009年6月25日(木)エキナカ商業空間「Dila(ディラ)三鷹」がグランドオープン! ~デイリーに便利な4ショップが新登場~|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道八王子支社|date=2009-06-24|accessdate=2020-04-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200413043143/https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/090624/dila_mitaka.pdf|archivedate=2020-04-13}}</ref>。
* [[2009年]](平成21年)
** 3月29日:駅ナカ商業施設「ディラ三鷹」(第Ⅲ期)開業<ref group="報道" name="press/20090624/dila_mitaka" />。
** [[6月25日]]:駅ナカ商業施設「ディラ三鷹」(第Ⅳ期)開業し、グランドオープン<ref group="報道" name="press/20090624/dila_mitaka" />。
* [[2010年]](平成22年)[[6月26日]]:[[発車メロディ]]を「[[めだかの学校]]」に変更<ref group="報道" name="melody">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/20100526/20100526_info01.pdf|title=「三鷹駅開業80周年記念イベント」の開催について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道八王子支社|date=2010-05-26|accessdate=2012-02-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190414150613/http://www.jreast.co.jp/hachioji/info/20100526/20100526_info01.pdf|archivedate=2019-04-15}}</ref><ref group="新聞" name="yomiuri20100625">{{Cite news|title=三鷹駅メロ「めだかの学校」あすから 開業80周年で採用|newspaper=[[読売新聞]]|publisher=[[読売新聞社]]|date=2010-06-25|page=32 東京朝刊}}</ref>。
* [[2014年]](平成26年)[[9月11日]]:駅ナカ商業施設「ディラ三鷹」が「アトレヴィ三鷹」に統合され、リニューアル<ref group="報道" name="press/20140912_info_01">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/20140912/20140912_info_01.pdf|title=三鷹駅が変わります|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道八王子支社/アトレ|date=2014-09-11|accessdate=2020-04-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160427091047/http://www.jreast.co.jp/hachioji/info/20140912/20140912_info_01.pdf|archivedate=2016-04-27}}</ref>。
* [[2019年]](平成31年)[[3月16日]]:ダイヤ改正により特急「[[あずさ (列車)|あずさ]]」「[[かいじ (列車)|かいじ]]」の全列車が通過となり、当駅に停車する特急は「成田エクスプレス」のみとなる<ref group="報道" name="jr-east-2018-12-14">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/20181214/20181214_info01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191014155005/https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/20181214/20181214_info01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=(多摩版)2019年3月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道八王子支社|date=2018-12-14|accessdate=2020-03-29|archivedate=2019-10-14}}</ref>。
* [[2020年]]([[令和]]2年)[[3月14日]]:ダイヤ改正により当駅停車で東京駅乗り入れの中央線はすべて快速系統になり、中央線各駅停車はすべて総武線[[御茶ノ水駅]]経由で[[千葉駅]]までの直通列車を終日運行するようになる<ref group="報道" name="2019-12-13">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20191213_ho01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191213080612/https://www.jreast.co.jp/press/2019/20191213_ho01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2020年3月ダイヤ改正について|page=6|publisher=東日本旅客鉄道|date=2019-12-13|accessdate=2020-03-29|archivedate=2019-12-13}}</ref><ref group="報道" name="2019-12-13-chiba">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre1912_daikai.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191213072558/https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre1912_daikai.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2020年3月ダイヤ改正について|page=2|publisher=東日本旅客鉄道千葉支社|date=2019-12-13|accessdate=2020-03-29|archivedate=2019-12-13}}</ref>。
* [[2021年]](令和3年)[[3月25日]]:快速線ホーム上に駅ナカシェアオフィス「STATION WORK」のコワーキング型「STATION DESK」が開設<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.stationwork.jp/user/notices-before|title=お知らせ一覧 > 3/25(木)三鷹駅(上りホーム/下りホーム)にSTATION DESKが開業します!|publisher=STATION WORK|date=2021-03-24|accessdate=2021-03-30|archiveurl=|archivedate=}}</ref><ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20210218_ho03.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210218051108/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20210218_ho03.pdf|format=PDF|language=日本語|title=日本初!! ホーム上シェアオフィス3カ所OPEN 〜WEB会議対応の完全個室の快適環境、衛生対策にも配慮〜|publisher=東日本旅客鉄道|date=2021-02-18|accessdate=2021-02-18|archivedate=2021-02-18}}</ref><ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20210208_ho04.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210208053136/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20210208_ho04.pdf|format=PDF|language=日本語|title=STATION WORKは2020年度100カ所ネットワークへ 〜東日本エリア全域へ一挙拡大。ホテルワーク・ジムワークなどの新たなワークスタイルを提案します〜|publisher=東日本旅客鉄道|date=2021-02-08|accessdate=2021-02-08|archivedate=2021-02-08}}</ref>。
* [[2024年]](令和6年)[[3月16日]]:ダイヤ改正により特急「[[成田エクスプレス]]」の中央快速線直通系統が廃止となり、当駅に停車する特急列車が全廃される(予定)<ref group="報道">{{Cite press release |和書|title=2024年3月ダイヤ改正について |publisher=東日本旅客鉄道八王子支社 |date=2023-12-15 |url=https://www.jreast.co.jp/press/2023/hachioji/20231215_hc01.pdf |format=PDF |language=日本語 |accessdate=2023-12-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20231215063303/https://www.jreast.co.jp/press/2023/hachioji/20231215_hc01.pdf |archivedate=2023-12-15}}</ref>。
<gallery>
Mitaka Incident at Mitaka Station.jpg|[[三鷹事件]]の現場を三鷹駅ホームから見る人々(1949年7月)
Mitaka Station north.jpg|改装前の北口駅舎(2008年8月)
</gallery>
== 駅構造 ==
[[島式ホーム]]3面6線を有する[[地上駅]]であり、[[橋上駅|橋上駅舎]]を有している。[[直営駅]]([[駅長]]配置)であり、三鷹営業統括センター所在駅である。当センターは[[吉祥寺駅]] - [[国分寺駅]]を統括管理し、当駅の駅長が三鷹営業統括センターの所長を兼任する<ref>{{Cite news |title=輸送サービス労組 八王子地本No.046号 |date=2021-10-26|url= https://www.jtsu-e-hachioji.org/_files/ugd/7466df_9c8645a1b7bc4744979bfbb1574e8b18.pdf |accessdate=2023-02-13|format=PDF |publisher=JR 東日本労働組合八王子地方本部}}</ref>。
ホーム中央または東京寄りに、すべての[[改札]]につながる[[階段]]・エスカレーター・エレベーターがある。
ホームは1・2番線が緩行線、3 - 6番線が急行線に使用されている。急行線ホームでは、中央特快・青梅特快・通勤快速と快速との緩急接続および特急・通勤特快の通過待ちが行われる。
西側に[[三鷹車両センター]]が併設されている。
=== のりば ===
<!-- 方面表記は、JR東日本の「駅構内図」の表記に準拠 -->
{| class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先
|-
!1・2
|[[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 中央・総武線(各駅停車)
|style="text-align:center"|東行
|[[中野駅 (東京都)|中野]]・[[新宿駅|新宿]]・[[西船橋駅|西船橋]]・[[千葉駅|千葉]]方面<br />[[File:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|15px|T]] [[東京メトロ東西線]]方面
|-
!3・4
|rowspan=2|[[File:JR JC line symbol.svg|15px|JC]] 中央線(快速)
|style="text-align:center"|下り
|[[立川駅|立川]]・[[八王子駅|八王子]]・[[高尾駅 (東京都)|高尾]]方面
|-
!5・6
|style="text-align:center"|上り
|中野・新宿・[[東京駅|東京]]方面
|}
(出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/1463.html JR東日本:駅構内図])
<!--列車運用に関する記述は削除しました。これらは中央線で記述して下さい。-->
* 各駅停車は当駅で中野・新宿方面へ折り返す。当駅より[[武蔵小金井駅|武蔵小金井]]・立川・八王子・高尾方面は快速が各駅に停車する。
** [[2020年]][[3月13日]]までは当駅より西方面に運転する各駅停車が存在していた<ref group="報道" name="2019-12-13"/><ref group="報道" name="2019-12-13-chiba"/>。
* 上りの快速電車は、基本的に当駅が特別快速・特急との緩急接続を行う最後の駅であり、当駅を先に出発した列車が終点の東京駅まで先着する。ただし、平日朝ラッシュ時や深夜に、中野駅でライナーや通勤特快・特急を通過待ちする快速電車が一部存在する。
* 特急列車は、八王子駅発着の[[成田エクスプレス]]が停車する。
* JR中央線は、[[2020年代]]前半(2021年度以降の向こう5年以内)を目途に快速電車に2階建てグリーン車を2両連結させ12両編成運転を行う。当駅の快速線(3 - 6番線)は、線路は三鷹車両センターへE351系夜間留置のため12両編成に対応しているが、ホームの有効長は最大11両分である。そのため、ホームの12両編成対応の改築工事などが実施される<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2014/20150203.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190924030537/https://www.jreast.co.jp/press/2014/20150203.pdf|format=PDF|language=日本語|title=中央快速線等へのグリーン車サービスの導入について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2015-02-04|accessdate=2020-04-21|archivedate=2019-09-24}}</ref><ref group="新聞">{{Cite news|url=https://www.sankei.com/smp/economy/news/170324/ecn1703240001-s1.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170324011255/https://www.sankei.com/smp/economy/news/170324/ecn1703240001-s1.html|title=JR東日本、中央線のグリーン車計画を延期|newspaper=産経新聞|date=2017-03-24|accessdate=2020-11-29|archivedate=2017-03-24}}</ref>。
<gallery>
JR Chuo-Main-Line Mitaka Station Platform 1・2.jpg|1・2番線(中央・総武線)ホーム(2019年9月)
JR Chuo-Main-Line Mitaka Station Platform 3・4.jpg|3・4番線(中央線快速下り)ホーム(2019年9月)
JR Chuo-Main-Line Mitaka Station Platform 5・6.jpg|5・6番線(中央線快速上り)ホーム(2019年9月)
</gallery>
=== 発車メロディ ===
開業80周年を迎えた2010年6月26日より、終戦直後から1951年まで三鷹市で暮らしていた[[作曲家]]の[[中田喜直]]の代表作である「[[めだかの学校]]」をアレンジしたものを発車メロディとして使用している<ref group="報道" name="melody" />。メロディは[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]の制作で、編曲は[[塩塚博]]が手掛けた<ref>{{Cite web|和書|title=皆さんへ、お願い。|url=https://blog.goo.ne.jp/tetsunomusician/e/314ca8f82d2d1961573d9713d97d62f5|website=☆♪☆ 鉄のみゅーじしゃん ☆♪☆|accessdate=2019-10-20|language=ja|author=塩塚博}}</ref>。アレンジはホームごとに異なっている。
{|border="1" cellspacing="0" cellpadding="3" frame="hsides" rules="rows"
!1
|[[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]]
|めだかの学校C
|-
!2
|[[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]]
|めだかの学校D
|-
!3
|[[File:JR JC line symbol.svg|15px|JC]]
|めだかの学校B
|-
!4
|[[File:JR JC line symbol.svg|15px|JC]]
|めだかの学校F
|-
!5
|[[File:JR JC line symbol.svg|15px|JC]]
|めだかの学校A
|-
!6
|[[File:JR JC line symbol.svg|15px|JC]]
|めだかの学校E
|}
=== 駅構内設備 ===
出入口から[[コンコース]]まで[[エスカレーター]]と[[エレベーター]]が通じている。<!--北口の上りエスカレータは駅舎内の階段の一部を取り壊しての設置、下りエスカレータとエレベーターは東側に駅舎を拡幅しての設置である。-->南口のエスカレーターとエレベーターは[[アトレ#アトレヴィ|アトレヴィ三鷹]]および[[ペデストリアンデッキ]]にある。駅の下に玉川上水が流れる。
;改札
:改札は全部で2か所あり、共にホーム中央から登った橋上にある。正面に北口・南口につながるコンコースへ通じる大きな改札が、また1・2番線ホームへ続く階段の脇に[[アトレ#アトレヴィ|アトレヴィ三鷹]]の[[駅ビル]]部分に入る小さな改札がある。後者は駅ビル営業日の10:00 - 22:30のみ利用可能で、[[2020年]][[11月6日]]以降はICカード専用である。
;出札
:コンコース(南北自由通路)の改札口向かい側に[[自動券売機]]と[[みどりの窓口]]がある。また、かつてはアトレヴィ側改札口脇にも自動券売機があったが、ICカード専用となったため撤去されている。
;トイレ
:[[便所|トイレ]]は改札内コンコースの3階北側と4階南側に1か所ずつあり、多機能トイレも設置されている。また、北口・南口共にロータリーに面して地元自治体が設置した公衆トイレがある。
;駅ナカ
:[[駅ナカ]]商業施設として、『アトレヴィ三鷹』がある。歴史的には、1999年に『[[吉祥寺ロンロン#三鷹ロンロン|三鷹ロンロン]]』として開業した駅ビル部分と、2007年に『[[Dila#Dila三鷹|Dila三鷹]]』として開業したコンコースを中心とした部分に分かれる。
: 旧『三鷹ロンロン』は1999年10月29日に株式会社吉祥寺ロンロン直営の支店として開業。運営会社が株式会社アトレになった事に伴い、2010年4月1日に『アトレヴィ三鷹』に名称を変更した。
: 旧『Dila三鷹』は、株式会社アトレが[[2007年]][[12月16日]](第Ⅰ期)にオープンした<ref group="報道" name="20071025/mitaka_press" />。既存の3階コンコース部分を拡張した他、4階を新造した。総面積は1360平方メートル。店舗は第Ⅰ期に15店舗、[[2008年]][[3月29日]](第Ⅱ期)に4店舗、[[2009年]]3月29日(第Ⅲ期)に3店舗がオープンした<ref group="報道" name="press/20090624/dila_mitaka" />。同年[[6月25日]]に全25店舗が揃い、グランドオープンした<ref group="報道" name="press/20090624/dila_mitaka" />。店内には[[クイーンズ伊勢丹]]や[[キヨスク|KIOSK]]が出店している他、[[アンテナショップ]]や[[ワゴンセール]]コーナーを設けている。
: [[2014年]][[10月10日]]、『Dila三鷹』だった部分も『アトレヴィ三鷹』に名称変更および統合し、両者は一体の施設ということになった<ref group="報道" name="press/20140912_info_01" />。
<gallery>
Dila Mitaka.jpg|Dila三鷹(駅南口より撮影)
JR Chuo-Main-Line Mitaka Station Front Gates.jpg|正面改札(2019年9月)
JR Chuo-Main-Line Mitaka Station atrevie Gates.jpg|アトレヴィ改札(2019年9月)
</gallery>
== 利用状況 ==
[[2022年]](令和4年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''79,415人'''であり、JR東日本の駅の中では[[四ツ谷駅]]に次いで第45位。[[特別快速|中央特快]]通過駅の[[吉祥寺駅]]の方が利用者数は多い。
他線との接続がないJRの駅の中で[[赤羽駅]]に次いで第2位である。
近年の1日平均'''乗車'''人員の推移は下記の通り。
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref><ref group="統計">[https://www.city.mitaka.lg.jp/c_service/071/071142.html みたかの統計] - 三鷹市</ref><ref group="統計">[http://www.city.musashino.lg.jp/shisei_joho/musashino_profile/1003659/index.html 統計でみる武蔵野市] - 武蔵野市</ref>
!年度
!1日平均<br />乗車人員
!出典
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|80,584
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成2年)]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|82,344
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成3年)]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|83,145
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|82,825
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 東京都統計年鑑(平成5年)]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|83,485
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 東京都統計年鑑(平成6年)]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|83,314
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|84,003
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|82,928
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|82,663
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/1999.html 各駅の乗車人員(1999年度)] - JR東日本</ref>82,023
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>82,335
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>82,856
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>83,955
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>83,410
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>84,838
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>85,602
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>87,037
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>89,545
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>90,335
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>89,671
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>90,214
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>89,295
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成23年)]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>90,253
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成24年)]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>92,724
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成25年)]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>92,836
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成26年)]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>94,805
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成27年)]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>95,968
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成28年)]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>97,413
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成29年)]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>98,707
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成30年)]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>98,796
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>71,399
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>73,648
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>79,415
|
|}
== 駅周辺 ==
駅の真下には[[玉川上水]]が流れており、ほぼこの川に沿って三鷹市と武蔵野市の市境が走っている。北側は武蔵野市中町一丁目および三鷹市上連雀一丁目、南側は三鷹市下連雀三丁目・[[上連雀]]二丁目および武蔵野市[[御殿山 (武蔵野市)|御殿山]]二丁目となる。
=== 北側 ===
駅前にロータリーがあり、北方面に伸びる中央大通りに並木が続く。この通りは三鷹通りと合流し、沿道には武蔵野警察署や武蔵野郵便局など[[官公庁]]関係の施設が多い。また、駅前ロータリーには彫刻家・[[北村西望]]の作による『武蔵野市世界連邦平和像』が[[1969年]]に建立され、設置されている。
{{columns-list|2|
* [[国木田独歩]]の碑<ref>[http://www.mitakanavi.com/spot/street/kunikidadm_monument.html 国木田独歩の碑|みたかナビ]</ref>
* [[武蔵野警察署|警視庁武蔵野警察署]]
** 三鷹駅北口交番
* [[警視庁]]刑事部第三機動捜査隊 武蔵野分駐所
* [[日本年金機構]]武蔵野年金事務所
* [[武蔵野郵便局]]
** [[ゆうちょ銀行]]武蔵野店
* 三鷹武蔵野保健所
* 武蔵野税務署
* [[武蔵野市民文化会館]]
* [[武蔵野芸能劇場]]
* [[平沼園]]
* [[武蔵野中央図書館]]
* [[武蔵野市立武蔵野陸上競技場]]
* [[武蔵野総合体育館]]
* 武蔵野[[軟式野球|軟式]][[野球場]]・[[庭球場]]
* [[武蔵野中央公園]]
* [[武蔵野市民公園]]
* [[井ノ頭通り]]
* [[関東バス武蔵野営業所]]
* 武蔵野市役所
* 武蔵野市中央市政センター
* 武蔵野三鷹障害者総合センター
* [[武蔵野市クリーンセンター|武蔵野クリーンセンター]]
* 武蔵野第一[[浄水場]]
* [[武蔵野陽和会病院]]
* [[武蔵野市立第五小学校]]
* [[武蔵野市立井之頭小学校]]
* [[武蔵野市立大野田小学校]]
* [[武蔵野市立第一中学校]]
* [[武蔵野市立第四中学校]]
* [[学校法人武蔵野東学園]]
* [[東京都立武蔵野北高等学校]]
* [[横河電機]]本社
** 横河グラウンド([[東京武蔵野シティFC]]および[[横河武蔵野アトラスターズ]]練習拠点)
* [[松屋フーズ]]本社
* [[モンテローザ (企業)|モンテローザ]]本社
* [[すかいらーく]]本社
* 武蔵野タワーズ
* 武蔵野[[日本生命保険|ニッセイ]]プラザ
* [[東京電力]]武蔵野支店
* [[東急ストア]] 三鷹店
* [[武蔵野緑町団地|武蔵野緑町パークタウン]]
* [[オーケー]] 三鷹北口店
* [[リッチモンドホテル]] 東京武蔵野
|}}
<gallery widths="180" heights="120">
Mushashino tyuo koen.jpg|武蔵野中央公園
Musashino city Office1.jpg|武蔵野市役所
Musashino Athretic Stadium.JPG|武蔵野陸上競技場
Musashino Sogotaiikukan.jpg|武蔵野総合体育館<br/>(競技場側から)
Musashino citizen Cultural Center.JPG|武蔵野市民文化会館
Inokashira Primary school Musashino.jpg|井之頭小学校
Musashino 1st Junior High-School.jpg|武蔵野市立第一中学校
Musashinohigashi gakuen.jpg|武蔵野東学園<br/>(武蔵野東小学校)
Musashino postoffice.jpg|武蔵野郵便局
Musashino policestation.jpg|武蔵野警察署
Yokogawa office.JPG|横河電機本社
Matsuyafoods company.jpg|松屋フーズ本社
Monteroza.JPG|モンテローザ本社
Skylark office 2006-9-28 01.JPG|すかいらーく本社
Kunikida-Doppo-Mitaka.JPG|国木田独歩の碑
Mitaka-Sta-Musashino-City-Monument.JPG|武蔵野市世界連邦平和像<br/>([[北村西望]]作)
</gallery>
=== 南側 ===
駅前にはロータリーの2階部分に駅南口から続く[[ペデストリアンデッキ]]が広がり、駅正面には再開発ビル「ネオシティ三鷹(三鷹コラル)」がある。ロータリーに面した位置は銀行3行とパチンコ店2軒が占めている。ロータリーの南側に向かって三鷹中央通りが伸び、この通りを挟んで比較的小規模な商店が広がり、駅前[[商店街]]を形成している。なお、2006年3月に三鷹駅南口駅前広場第2期整備事業が完了した。
また、毎年8月には恒例の「[[三鷹阿波踊り]]」が行われる。
{{columns-list|2|
* [[三鷹警察署|警視庁三鷹警察署]]
** 三鷹駅前交番
* [[アトレ#アトレヴィ|アトレヴィ三鷹]]
* [[ネオシティ三鷹]]
** 三鷹CORAL
*** [[啓文堂書店]]
** 三鷹市[[ギャラリー (美術)|美術ギャラリー]]
** 三鷹市消費者活動センター
** 三鷹市三鷹駅前市政窓口
** [[ハローワーク]]三鷹
** [[八十二銀行]]三鷹支店
* 三鷹市役所
* [[法専寺]]
* [[禅林寺 (三鷹市)|禅林寺]]
* [[三鷹八幡神社]]
* [[三鷹市山本有三記念館]]
* [[三鷹の森ジブリ美術館]]
* 東急ストア 三鷹センター店
* [[風の散歩道]] - 駅の真下を流れる[[玉川上水]]沿いの道。[[太宰治]]が入水自殺した場所として徒歩10分程の所に記念碑がある。
* <small>三鷹市</small> 太宰治文学サロン
* [[三鷹郵便局]]
* [[日商簿記三鷹福祉専門学校]]
* 天文・科学情報スペース
|}}
<gallery widths="180" heights="120">
Atrevie Mitaka.jpg|ペデストリアンデッキに面した南口とアトレヴィ三鷹
Mitaka CORAL bdg.jpg|ネオシティ三鷹(CORAL)
</gallery>
== バス路線 ==
[[File:MooBus Mitakakichijoji 0805.jpg|thumb|right|[[ムーバス]](三鷹・吉祥寺循環)]]
=== 北口 ===
<!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。-->
[[関東バス]](特記なき全路線)・[[西武バス]]・[[小田急バス]]([[ムーバス]]境・三鷹循環のみ)が発着する。2011年4月より駅前の改良により乗場(番号・位置)の変更が行われた。
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!のりば!!運行事業者!!系統・行先!!備考
|-
!0
|style="text-align:center;"|ムーバス
|{{Unbulleted list|[[ムーバス#三鷹駅北西循環(4号線)(関東バス)|'''三鷹駅北西循環''']]|[[ムーバス#三鷹・吉祥寺循環(6号線)(関東バス)|'''三鷹・吉祥寺循環''']]|[[ムーバス#境・三鷹循環(7号線)(小田急バス)|'''境・三鷹循環''']]}}
|
|-
!1
|rowspan="5" style="text-align:center;"|関東バス
|{{Unbulleted list|[[関東バス武蔵野営業所#三鷹線|'''鷹01''']]:北裏|'''鷹02''':[[武蔵関駅]]|'''鷹03''':田無橋場|'''鷹04''':[[多摩六都科学館]]|[[関東バス武蔵野営業所#東伏見線|'''鷹10''']]:[[関東バス武蔵野営業所|武蔵野営業所]]|'''鷹40''':[[日本電信電話|NTT]]武蔵野研究開発センタ}}
|{{Unbulleted list|「鷹04」は期間限定運行|「鷹10」は平日21時以降と土休日は当停留所より運行|「鷹40」は平日のみ運行。また、16時以降当停留所より運行}}
|-
!2
|{{Unbulleted list|'''鷹11''':[[武蔵野中央公園]]|'''鷹13''':[[西武柳沢駅|柳沢駅]]|'''鷹15''':[[東伏見駅]]北口}}
|{{Unbulleted list|「鷹11」は平日「鷹13」の最終バス発車後の1便のみ運行|「鷹15」は平日日中のみ運行}}
|-
!3
|{{Unbulleted list|[[関東バス武蔵野営業所#柳橋線|'''鷹30''']]:[[武蔵境駅]]|'''鷹33''':[[武蔵小金井駅]]|'''鷹34''':(直行)[[武蔵野大学]]}}
|「鷹34」は平日・土曜のみ運行。学休ダイヤ中は運休
|-
!4
|{{Unbulleted list|'''鷹10''':武蔵野営業所|'''鷹25''':電通裏|'''鷹40''':NTT武蔵野研究開発センタ}}
|{{Unbulleted list|「鷹10」は平日20時代まで当停留所より運行|「鷹40」は平日のみ運行。また、15時代まで当停留所より運行(朝は直行、昼以降は各停)}}
|-
!rowspan="3"|5
|'''鷹11''':関前三丁目
|平日朝のみ運行
|-
|style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|西武バス|関東バス}}
|[[西武バス上石神井営業所#保谷三鷹線|'''鷹21''']]:天神山
|
|-
|style="text-align:center;"|西武バス
|[[西武バス滝山営業所#三鷹線・ひばり滝山線|'''鷹22''']]:[[ひばりヶ丘駅]]
|当系統のみ後乗り整理券方式
|-
!北口出て北東側
|colspan="3"|[[明治大学付属明治高等学校・中学校]][[スクールバス]]([[京王電鉄バス|京王バス]]に運行委託)
|-
!降車のみ
|style="text-align:center;"|関東バス
|{{Unbulleted list|'''鷹36''':関前西公園発|'''鷹37''':武蔵野大学発|[[関東バス武蔵野営業所#銀座線(深夜急行)|'''深夜急行''']]:銀座発}}
|{{Unbulleted list|「鷹36」は平日・土曜の早朝1便のみ運行|「鷹37」は平日・土曜のみ運行。学休ダイヤ中は運休}}
|}
=== 南口 ===
<!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。-->
小田急バス(特記なき全路線)<ref>[https://www.odakyubus.co.jp/regular/map/doc/mapA.pdf 路線図A] - 小田急バス、2019年11月26日閲覧</ref>と[[京王電鉄バス|京王バス]]<ref>[https://www.keio-bus.com/bus/3_keio_rosenzu.pdf 路線図C] - [[京王電鉄バス]]、2019年11月26日閲覧</ref>が発着する。
[[2016年]]10月17日に乗り場の変更があった<ref group="報道">[https://www.odakyubus.co.jp/news/detail/160929_70100.html 10月17日(月)三鷹駅バスのりば変更のお知らせ]、2019年11月26日閲覧</ref>。
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!のりば!!運行事業者!!系統・行先!!備考
|-
!1
|style="text-align:center;"|京王バス
|[[京王バス永福町営業所#三鷹線|'''鷹64''']]:[[久我山駅]]
|
|-
!2
|rowspan="2" style="text-align:center;"|小田急バス
|{{Unbulleted list|[[小田急バス武蔵境営業所#調布・新小金井線|入庫系統]]:[[小田急バス武蔵野営業所|武蔵境営業所]]|'''鷹53''':[[新小金井駅]]|'''鷹56''':[[神代植物公園]]前 / [[調布駅]]北口}}
|
|-
!rowspan="2"|3
|{{Unbulleted list|[[小田急バス武蔵境営業所#多磨・連雀線|'''鷹65''']]:[[深大寺]] / 神代植物公園前|'''鷹57''':武蔵境駅南口 / 武蔵境営業所}}
|
|-
|style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|京王バス|小田急バス}}
|[[小田急バス武蔵境営業所#三鷹・布田線|'''鷹66''']]:調布駅北口
| 小田急バス運行便は休日は国道20号を経由する。
|-
!5
|rowspan="4" style="text-align:center;"|小田急バス
|{{Unbulleted list|[[小田急バス武蔵境営業所#西野線|'''鷹51A''']]:[[国際基督教大学]]|'''鷹51B''':調布駅北口|'''鷹51D''':[[調布飛行場]]|'''鷹51''':[[大沢 (三鷹市)|大沢]]}}
|
|-
!6
|{{Unbulleted list|'''鷹52A''':[[榊原記念病院]]|'''鷹52B''':[[朝日町 (東京都府中市)|朝日町三丁目]]|'''鷹52C''':車返団地|'''鷹52''':[[多磨駅]]|[[小田急バス武蔵境営業所#牟礼・北浦線|鷹60]]:三鷹市役所循環}}
| 東京五輪開催時の交通規制時は大沢行きが臨時に運行された
|-
!7
|[[小田急バス武蔵境営業所#三鷹・仙川線|'''鷹54''']]:[[仙川駅|仙川]] / [[学校法人晃華学園|晃華学園]]東 / 新川団地中央
|
|-
!8
|{{Unbulleted list|'''鷹55''':野ヶ谷|'''鷹58''':[[調布飛行場]]|'''鷹59''':三鷹警察署循環|'''鷹63''':[[牟礼団地]]・三鷹イースト前 / [[杏林大学]]井の頭キャンパス}}
|
|-
!rowspan="2"|9
|colspan="2"|{{Unbulleted list|[[三鷹の森ジブリ美術館]]循環|[[明星学園]]前}}
|のりば付近に、往復割引乗車券の自動券売機が設置されている。
|-
|style="text-align:center;"|[[みたかシティバス]]
|[[みたかシティバス#北野ルート|'''北野ルート''']]:北野
|
|}
== 隣の駅 ==
<!--テンプレートは不評意見が多いようです。もしご意見があれば [[Wikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト 鉄道/駅/各路線の駅一覧のテンプレート・隣りの駅]]で議論されています。-->
; 東日本旅客鉄道(JR東日本)
: [[File:JR JC line symbol.svg|15px|JC]] 中央線(快速)
:* 特急「[[成田エクスプレス]]」停車駅
:: {{Color|#ff0066|■}}通勤特快
:::; 通過
:: {{Color|#0099ff|■}}特別快速「[[ホリデー快速おくたま]]」<!-- おくたまは定期列車扱い -->・{{Color|#0033ff|■}}中央特快・{{Color|#339966|■}}青梅特快 <!-- おくたま・あきがわ以外のホリデー快速は臨時列車であるため表記しない -->
::: [[中野駅 (東京都)|中野駅]] (JC 06) - '''三鷹駅 (JC 12)''' - [[国分寺駅]] (JC 16)
:: {{Color|#990099|■}}通勤快速(平日下りのみ運転)
:::[[吉祥寺駅]] (JC 11) → '''三鷹駅 (JC 12)''' → 国分寺駅 (JC 16)
:: {{Color|#f15a22|■}}快速(高尾方面から当駅発着の「各駅停車」を含む)
::: 吉祥寺駅 (JC 11) - '''三鷹駅 (JC 12)''' - [[武蔵境駅]] (JC 13)
: [[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 中央・総武線(各駅停車)・[[File:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|15px|T]] 東西線直通
::: 吉祥寺駅 (JB 02) - '''三鷹駅 (JB 01)'''
=== かつて存在した路線 ===
; 日本国有鉄道
: 中央本線(武蔵野競技場支線)
:: '''三鷹駅''' - [[武蔵野競技場前駅]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 記事本文 ===
<!--==== 注釈 ====
{{Reflist|group="注釈"}}
-->
==== 出典 ====
{{Reflist}}
===== 報道発表資料 =====
{{Reflist|group="報道"|2}}
===== 新聞記事 =====
{{Reflist|group="新聞"}}
=== 利用状況 ===
{{Reflist|group="統計"}}
'''JR東日本の1999年度以降の乗車人員'''
{{Reflist|group="JR"|22em}}
'''東京都統計年鑑'''
{{Reflist|group="*"|22em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite journal |和書|author=[[曽根悟]](監修) |journal=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部(編集) |publisher=[[朝日新聞出版]] |issue=5
|title=中央本線 |date=2009-08-09 |ref=sone05 }}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[三鷹事件]]
* [[武蔵野グリーンパーク野球場]]
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8,642 | カルシウム | カルシウム(新ラテン語: calcium、英: calcium [ˈkælsiəm])は、原子番号20番の元素である。元素記号はCa。原子量は40.08。第2族元素、アルカリ土類金属、金属元素のひとつ。
calcium の名は、石を意味するラテン語の calx から転じ石灰を意味した calcsis に由来する。
酸化数はわずかな例外を除き、常に+IIとなる。比重1.55の非常に柔らかい金属で、融点は840–850 °C、沸点は1480–1490 °C(異なる実験値あり)。結晶構造は、温度条件により3つ存在し、250 °C以下では、立方最密充填構造が、250–450 °Cの間では六方最密充填構造、450–839 °Cの間では体心立方格子がそれぞれ最も安定となる。
単体を空気中で放置すると酸素・水・二酸化炭素と反応して腐食するため、不活性ガスを充填した状態で販売される。鉱油中で保存することもある。
単体金属を空気中で加熱すると炎をあげて燃焼する。
水に加えると容易に反応して水素を発生する。生成した水酸化カルシウム水溶液は石灰水と呼ぶ。
石灰水に二酸化炭素を通すと炭酸カルシウムの白い沈殿を生じる。
この状態から過剰に二酸化炭素を加えると沈殿は溶けて溶液となる。この反応は可逆的であり、加熱すると再び炭酸カルシウムの沈殿を生じる。
また炭酸カルシウムを1170 °C以上で加熱することで酸化カルシウム(生石灰)が得られる。
この酸化物を高温の炎で熱すると明るい白色光を発するので電灯が導入される前に主に劇場のスポットライトとして用いられた。また酸化カルシウムは水と反応して水酸化カルシウム(消石灰)を生成する。
ハロゲンとは気相中で直接反応し、ハロゲン化物を生成する。
アルコールに溶解してカルシウムアルコキシド((C2H5O)2Ca)、液体アンモニアに溶解して青色溶液となり、アンモニアを蒸発させるとヘキサアンミンカルシウム([Ca(NH3)6])となる。
水と容易に反応して水素を発生するため、日本の消防法ではアルカリ土類金属として、危険物第3類(禁水性物質)に指定されている。
カルシウムは古代ローマ時代からカルックス(calx)という名前で知られ、化学的な性質を化合物の形で利用されていた。ラボアジエの33元素にもライム(酸化カルシウム)が含まれている。calxはギリシャ語のchalix(カリクス,「小石」)に由来し「石灰」の他「小石」の意味も持っていた。派生したcalculus(カルクルス)は「計算用の小石」、更に「計算」の意味を持つようになり、英語のcalculateやcalculus等の語の由来とされている。
石灰(炭酸カルシウム)を主成分とする石灰岩や大理石は耐久性と加工性のバランスがよく、ピラミッドやパルテノン神殿などで石材として利用されている。しかし、カルシウムの化学的性質を活用した最初の例としてはセメントの発明をあげるべきだろう。
人類最初のセメントとして9000年前のイスラエルで使われていた「気硬性セメント」が知られている。これは、砕いた石灰岩を熱して酸化カルシウムを生成させ、施工後にこれが空気中の水分や炭酸ガスと反応して炭酸カルシウムとなることを利用して硬化させる。
現在に近い水を加え水酸化カルシウムを生成させる「水硬性セメント」は、5000年前の中国や4000年前の古代ローマで利用され、同じころにピラミッド建設には焼石膏(硫酸カルシウム)の水和反応を利用する漆喰が用いられた。
この様にカルシウムは広く利用され身近な物質だったが、金属として単離するには電気分解の登場を待つ必要があった。1808年、ハンフリー・デービーが生石灰を酸化水銀とともに溶融電解し、金属カルシウムを得ることに成功した。
セメント・モルタルなど、建設・建築用資材として多用され、現在でも使用量の大部分をコンクリート製品が占める。日本の生コン生産量は、ピーク時(1990年)には約2億立方メートルに達している。 多くの用途があるが、金属元素としての需要はマグネシウムに劣る。
また、空気中の窒素とも反応しシアナミドイオンを作りメラミンプラスチックの主要な材料である。
カルシウムの原子番号20番は陽子の魔法数であり、安定同位体が4種と多い。さらに、中性子も魔法数である二重魔法数の同位体を2つ(Ca、Ca)持っている。Caは安定核種の列から外れた位置にあるにもかかわらず、天然存在率が約97 %と著しく高い。一方のCaも周囲を短寿命核種に囲まれながら、半減期430京年と極端に安定しており、存在率もCaの数十倍である。
カルシウムは古典的なクラーク数で、第5位に位置し、地殻中の存在率は3.39 %とされていた。現在は地球温暖化の主要因となる二酸化炭素を、炭酸カルシウムとして封じ込める役を持つとして関心が高まっている。カルシウムは主に炭酸カルシウムとして世界中の白亜、石灰岩、大理石の塊状鉱床として存在する。
石灰岩の成因は、海水中で炭酸カルシウムの溶解度を超えた水域で沈殿し生成される。
またそのほか、サンゴ虫が形成する外骨格に由来するサンゴ礁の寄与が大きいと考えられている。石灰岩中の二酸化炭素は、自然界では火山による熱変成作用や鍾乳洞でみられるような溶出により大気中に放出されるが、炭酸水素イオンとして水系に取り込まれやすいため、短期間でカルシウムやマグネシウムなどと難溶性塩を生成し、再び固定される。
大理石や石灰岩は建築物の素材としてよく用いられてきたが、酸による腐食作用に弱い性質を持つ
天然に存在する炭酸カルシウムの結晶状態として方解石、アラゴナイト、バテライトがある。特に方解石の結晶形は2つの異なる屈折率を持ち、2つの像を結ぶため偏光顕微鏡の機能に欠かせないものとなっている。
ドロマイト(白雲石)CaMg(CO3)2は堆積物中に広く分布しており、ヨーロッパのドロミテ山塊全体にも含まれる。構造は炭酸イオンに対してマグネシウムイオンとカルシウムイオンが交互に配列しており、原油の成分である炭化水素の堆積物の多くがドロマイト岩中に存在する。この物質を実験室的に合成するには150 °C以上で行う必要があり、地表上の環境条件と異なるため、どうしてドロマイトが生成するのかは謎であった。主流である説としては石灰岩の地表が生成された後地中深くに埋められ、マグネシウムイオンを豊富に含む水が地層中を流れることでカルシウムイオンとマグネシウムイオンとで置換が行われたとする説である。
ヒトを含む動物や植物の代表的なミネラル(必須元素)である。カルシウムは真核細胞生物にとって必須元素であり、植物にとっても肥料として必要である。
人体の構成成分としてのカルシウムは、成人男性の場合で約1キロを占める。おもに骨や歯としてヒドロキシアパタイト(Ca5(PO4)3(OH))の形で存在する。
生体内のカルシウムは、遊離型・タンパク質結合型・沈着型で存在する。ヒトをはじめとする脊椎動物では、おもに骨質として大量の沈着型がストックされているが、細胞内のカルシウムイオンは外より極端に濃度が低く、その差は3桁に達する。同様の濃度差はカリウムとナトリウムでも見られるが、カルシウムでは細胞内濃度が厳密に保たれている。これは、真核細胞内の情報伝達を担うカルシウムシグナリングのためと考えられており、細胞膜にカルシウムイオンを排出するカルシウムチャネルが備えられている。
筋肉細胞では、収縮に関わるタンパク質(トロポニン)に結合することが不可欠である。カルシウムイオンは細胞内液にはほとんど存在せず、細胞外からのカルシウムイオンの流入や、細胞内の小胞体に蓄えられたカルシウムイオンの放出は、さまざまなシグナルとしての生理的機能がある。
筋肉細胞以外においても、カルシウムイオンは細胞収縮運動に重要な役割を果たす。その一つの例が、カルモジュリンである。これは平滑筋や非筋細胞におけるミオシンとアクチン繊維による収縮運動においてトロポニンの代わりの役割を果たす。カリモジュリンは4つのCa結合部位を持つ。Caイオンが結合することで高次構造が変化して活性型のカルモジュリン複合体を形成する。この4つの結合部位というのがミソで、これらの部位に対するリガンド(つまりカルシウムイオン)の結合親和性が巧みに制御されている。(これをアロステリック調節という。) 一つ部位にカルシウムが結合するごとに、他の部位に対するリガンドの結合親和性が漸次変化することで、リガンドの濃度変化に対して非常に敏感な調節が可能となるわけだ。
植物細胞では、乾燥重あたり1.8 %程度のカルシウムを含む。植物においてカルシウムはイオンとして存在し、おもに細胞壁、細胞膜外、液胞、小胞体に多く分布する一方、サイトゾル内の濃度は低く保たれている。植物細胞におけるカルシウムの生理作用は以下の4点である。
植物はカルシウム不足になると、若葉が黄白色になったり、芯が腐ることがある。一方、カルシウム過多になると微量要素欠乏症になることがある。
カルシウムは便や尿として体外に排泄されるため、これを補う最低必要摂取量として、日本の厚生労働省は1日に700 mg(骨粗鬆症予防には800 mgを推奨)をあげている。
いくつかの症状に対し、医薬品として処方されることがある。定番となっている胃の制酸薬以外にも、カルシウム欠乏による筋肉の痙攣、くる病、骨軟化症、低カルシウム血症、骨粗鬆症の治療に、おもに経口摂取で用いるほか、血液中のリン酸濃度を抑制したい場合に用いる。また、栄養補助食品も広く販売されており、病気治療で食事制限中の場合や、重度の骨粗鬆症で大量摂取したいとき、食事量が落ちた高齢者などで効果が期待できる。
カルシウムの血中濃度が正常範囲を外れていると、骨からの出し入れ量を調節する副甲状腺機能の異常などが疑われる。健常者では体液内濃度は平衡に保たれ、妊娠期の女性も食物からの吸収能力が自然に増すため、偏った食生活でなければ追加摂取は必要ない。過剰摂取は高カルシウム血症やミルク・アルカリ症候群の原因となるため、一日摂取許容量上限として2300 mgが示されている。一方で、尿路結石の構成成分にシュウ酸カルシウムがあるため、カルシウムの摂取は結石形成に促進的に働くと考えられていたが、近年では一定量のカルシウム摂取はむしろ結石予防に有効であると指導するようになってきている。摂取されたカルシウムが腸管内でシュウ酸と結合し難溶性のシュウ酸カルシウムとして糞便で排泄されることで、尿路へと排泄されるシュウ酸量が減少するためである。
推奨摂取量はさまざまに推定されているが長い期間での観察研究が不足しており、牛乳には健康上の懸念があるため、健康的で安全なカルシウムの源はまだ確立されていない。1000 mgを推奨するような大量のカルシウムの摂取は疑問視されており、それは骨折リスクが減少しないという証拠が集まっていることによる。
2002年の世界保健機関の報告書では、動物性タンパク質の摂取量が60 gから20 gへと40 g減少すると、カルシウム必要量が240 mg減少し、同様にナトリウムが2.3 g減少すると必要量は240 mg減少するという推定がある。
カルシウムは必須元素として以上の効果を期待され、いくつもの疫学調査が行われている。
骨粗鬆症診療ガイドラインでは、カルシウムのサプリメントの摂取は骨密度を2 %増やすが骨折率には変化がないため、すすめられる根拠がない(グレードC)に分類される。2015年のシステマティックレビューでは、ほとんどの研究がカルシウムと骨折との間に関連性を見出していないため、食事からのカルシウム摂取の増加が骨折を予防するという証拠はなく、カルシウムのサプリメントでは弱い証拠しかないがその結果に矛盾があった。
ハーバード大学の公衆衛生大学院によれば、カルシウム摂取のために乳製品がもっともよい選択かは明らかではないとする。乳製品以外のカルシウムの摂取源として コラード、チンゲンサイ、豆乳、ベイクドビーンズ が挙げられている。
ビタミンDは、小腸の腸細胞の柔もうを通じてカルシウムを吸収する際に、カルシウム結合タンパクの量を増加させるカルシウム吸収の要因として重要である。ビタミンDは、腎臓において尿からカルシウムが損失することを抑制する。
2つの無作為化比較試験の国際コクラン共同計画によるメタ分析によると、カルシウムは大腸腺腫性ポリープをある程度抑制しうる可能性があることが発見された。
最近の研究結果は矛盾したものであるが、1つはビタミンDの抗癌効果について肯定的なものであり(Lappeほか)、癌のリスクに対してカルシウムのみから独立した肯定的作用を行っているとしたものである(以下の2番目の研究を参照のこと)。
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"text": "2002年の世界保健機関の報告書では、動物性タンパク質の摂取量が60 gから20 gへと40 g減少すると、カルシウム必要量が240 mg減少し、同様にナトリウムが2.3 g減少すると必要量は240 mg減少するという推定がある。",
"title": "生化学"
},
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"tag": "p",
"text": "カルシウムは必須元素として以上の効果を期待され、いくつもの疫学調査が行われている。",
"title": "生化学"
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"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "骨粗鬆症診療ガイドラインでは、カルシウムのサプリメントの摂取は骨密度を2 %増やすが骨折率には変化がないため、すすめられる根拠がない(グレードC)に分類される。2015年のシステマティックレビューでは、ほとんどの研究がカルシウムと骨折との間に関連性を見出していないため、食事からのカルシウム摂取の増加が骨折を予防するという証拠はなく、カルシウムのサプリメントでは弱い証拠しかないがその結果に矛盾があった。",
"title": "生化学"
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"text": "ハーバード大学の公衆衛生大学院によれば、カルシウム摂取のために乳製品がもっともよい選択かは明らかではないとする。乳製品以外のカルシウムの摂取源として コラード、チンゲンサイ、豆乳、ベイクドビーンズ が挙げられている。",
"title": "生化学"
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"text": "ビタミンDは、小腸の腸細胞の柔もうを通じてカルシウムを吸収する際に、カルシウム結合タンパクの量を増加させるカルシウム吸収の要因として重要である。ビタミンDは、腎臓において尿からカルシウムが損失することを抑制する。",
"title": "生化学"
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"text": "2つの無作為化比較試験の国際コクラン共同計画によるメタ分析によると、カルシウムは大腸腺腫性ポリープをある程度抑制しうる可能性があることが発見された。",
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"text": "最近の研究結果は矛盾したものであるが、1つはビタミンDの抗癌効果について肯定的なものであり(Lappeほか)、癌のリスクに対してカルシウムのみから独立した肯定的作用を行っているとしたものである(以下の2番目の研究を参照のこと)。",
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{
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"tag": "p",
"text": "ある無作為化比較試験は、1000 mgのカルシウム成分と400IUのビタミンD3は大腸癌に何も効果を示さなかった。",
"title": "生化学"
}
] | カルシウムは、原子番号20番の元素である。元素記号はCa。原子量は40.08。第2族元素、アルカリ土類金属、金属元素のひとつ。 | {{Redirect|Ca|その他の用法|CA}}
{{Elementbox
|name=calcium
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|symbol=Ca
|pronounce={{IPAc-en|icon|ˈ|k|æ|l|s|i|əm}}, {{respell|KAL|see-əm}}
|left= [[カリウム]]
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|image name 2 comment= カルシウムのスペクトル線
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|oxidation states comment= [[強塩基性酸化物]]
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|isotopes=
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=40 | sym=Ca | na=96.941%
| hl= >5.9×10<sup>21</sup> 年 | dm=[[二重ベータ崩壊|β{{sup|+}}β{{sup|+}}]] | de=0.194 | pn=40 | ps=Ar}}
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{{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=48 | sym=Ca | na=0.187%
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|isotopes comment=
}}
'''カルシウム'''({{lang-lan-short|calcium}}<ref>http://www.encyclo.co.uk/webster/C/7</ref>、{{lang-en-short|calcium}} {{IPA-en|ˈkælsiəm|}})は、[[原子番号]]20番の[[元素]]である。[[元素記号]]は'''Ca'''。[[原子量]]は40.08。[[第2族元素]]、[[第2族元素#アルカリ土類金属|アルカリ土類金属]]、[[金属元素]]のひとつ。
== 名称 ==
{{en|calcium}} の名は、石を意味する[[ラテン語]]の {{la|calx}} から転じ石灰を意味した {{la|calcsis}} に由来する<ref name="名前なし-1">村上雅人 編著『元素を知る事典~先端材料への入門』</ref>。
== 性質 ==
[[酸化数]]はわずかな例外を除き、常に+IIとなる。[[比重]]1.55の非常に柔らかい[[金属]]で、[[融点]]は{{val|840|-|850|u=degC}}、[[沸点]]は{{val|1480|-|1490|u=degC}}(異なる実験値あり)。結晶構造は、温度条件により3つ存在し、{{val|250|u=degC}}以下では、立方最密充填構造が、{{val|250|-|450|u=degC}}の間では六方最密充填構造、{{val|450|-|839|u=degC}}の間では体心立方格子がそれぞれ最も安定となる。
[[単体]]を[[空気]]中で放置すると[[酸素]]・[[水]]・[[二酸化炭素]]と反応して腐食するため、不活性ガスを充填した状態で販売される。[[アルカン|鉱油]]中で保存することもある。
単体金属を空気中で加熱すると[[炎]]をあげて[[燃焼]]する。
: <chem>2Ca + O2 -> 2CaO</chem>
水に加えると容易に反応して[[水素]]を発生する。生成した[[水酸化カルシウム]]水溶液は石灰水と呼ぶ。
: <chem>Ca + 2H2O -> Ca(OH)2 + H2 (^)</chem>
石灰水に二酸化炭素を通すと[[炭酸カルシウム]]の白い沈殿を生じる。
: <chem>Ca(OH)2 + CO2 -> CaCO3 (v) + H2O</chem>
この状態から過剰に二酸化炭素を加えると沈殿は溶けて溶液となる。この反応は可逆的であり、加熱すると再び炭酸カルシウムの沈殿を生じる。
: <chem>CaCO3 + CO2 + H2O -> Ca(HCO3)2</chem>
また炭酸カルシウムを1170 °C以上で加熱することで[[酸化カルシウム]]([[生石灰]])が得られる。
: <chem>CaCO3(s) -> CaO(s) + CO2(g)</chem>
この酸化物を高温の炎で熱すると明るい白色光を発するので電灯が導入される前に主に劇場のスポットライトとして用いられた。また酸化カルシウムは水と反応して水酸化カルシウム(消石灰)を生成する。
: <chem>CaO(s) + H2O(l) -> Ca(OH)2(s)</chem>
[[ハロゲン]]とは気相中で直接反応し、ハロゲン化物を生成する。
[[アルコール]]に溶解してカルシウム[[アルコキシド]]({{math|(C{{sub|2}}H{{sub|5}}O){{sub|2}}Ca}})、液体[[アンモニア]]に溶解して青色溶液となり、アンモニアを蒸発させるとヘキサアンミンカルシウム({{math|[Ca(NH{{sub|3}}){{sub|6}}}}])となる。
水と容易に反応して水素を発生するため、日本の[[消防法]]では[[アルカリ土類金属]]として、[[危険物]]第3類(禁水性物質)に指定されている。
== 歴史 ==
カルシウムは古代ローマ時代からカルックス(calx)という名前で知られ、化学的な性質を化合物の形で利用されていた<ref>{{Cite |和書 |author =[[桜井弘|桜井 弘]]|||title = 元素111の新知識|date = 1998| pages = 118|publisher =[[講談社]]| series = |isbn=4-06-257192-7 |ref = harv }}</ref>。[[アントワーヌ・ラヴォアジエ|ラボアジエ]]の33元素にもライム([[酸化カルシウム]])が含まれている。calxはギリシャ語のchalix(カリクス,「小石」)に由来し「石灰」の他「小石」の意味も持っていた。派生したcalculus(カルクルス)は「計算用の小石」、更に「計算」の意味を持つようになり、英語のcalculateやcalculus等の語の由来とされている。
[[石灰]]([[炭酸カルシウム]])を主成分とする[[石灰岩]]や[[大理石]]は耐久性と加工性のバランスがよく、[[ピラミッド]]や[[パルテノン神殿]]などで[[石材]]として利用されている。しかし、カルシウムの化学的性質を活用した最初の例としては[[セメント]]の発明をあげるべきだろう。
人類最初のセメントとして9000年前の[[イスラエル]]で使われていた「気硬性セメント」が知られている<ref>[https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000108291 コンクリート(セメント)の歴史について知りたい。] 国立国会図書館 レファレンス事例詳細</ref>。これは、砕いた石灰岩を熱して酸化カルシウムを生成させ、施工後にこれが空気中の水分や[[炭酸ガス]]と反応して炭酸カルシウムとなることを利用して硬化させる。
現在に近い水を加え水酸化カルシウムを生成させる「水硬性セメント」は、5000年前の中国や4000年前の古代ローマで利用され、同じころにピラミッド建設には焼[[石膏]]([[硫酸カルシウム]])の[[水和反応]]を利用する[[w:en:Plaster|漆喰]]{{efn|日本の[[漆喰]]とは異なる。}}が用いられた。
この様にカルシウムは広く利用され身近な物質だったが、[[金属]]として[[単離]]するには[[電気分解]]の登場を待つ必要があった。[[1808年]]、[[ハンフリー・デービー]]が[[生石灰]]を[[酸化水銀]]とともに[[溶融]]電解し、金属カルシウムを得ることに成功した<ref name="名前なし-1"/>。
== 用途 ==
セメント・[[モルタル]]など、[[建設]]・[[建築]]用資材として多用され、現在でも使用量の大部分を[[コンクリート]]製品が占める。日本の[[生コン]]生産量は、ピーク時(1990年)には約2億[[立方メートル]]に達している。 多くの用途があるが、金属元素としての需要は[[マグネシウム]]に劣る。<!-- 要出典? -->
=== 建設・建築 ===
; セメント:日本は石灰岩資源が豊かで、自給自足し輸出もしてきたが、近年は減少傾向で2009年度生産量は5800万トンと、ピーク時の半分程度となっている。生産量の4分の3を[[ポルトランドセメント]]が占め、残りの大部分は[[高炉セメント]]である。
; [[石材]]、窓材、[[彫刻]]:白い大理石や、透明度の高い石膏が好んで利用される。しかし大理石や石灰岩は酸性雨により分解されてしまうため建築物の腐食による劣化が懸念される。
; 漆喰:消石灰や[[苦灰石]]を固化剤とする。
; モルタル:おもに細[[骨材]]セメントが用いられる。
; [[断熱材]]、保温材:[[ケイ酸カルシウム]]を発泡させたもので耐火性を持ち、[[アスベスト]]代替品として用いられる。
;石膏ボード:石膏は不燃性でありなおかつ熱伝導性が低い。そして、石膏は熱を加えられると焼石膏になる。
: <chem>CaSO4\cdot 2 H2O(s) -> CaSO4\cdot \frac{1}{2} H2O(s)\ + \frac{3}{2} H2O(g)</chem>
:この反応は吸熱過程(+117 kJ/mol)でありなおかつ、生じた液体の水が蒸発するときに気化熱を奪う。最終的に水蒸気は不活性ガスとして働き、炎への酸素の供給を減少させる。
:これらの理由から、家やオフィスの内壁として用いられる耐火性壁板としても使われている。
=== 工業 ===
; [[精錬]]:酸素と結びつきやすい性質から、古より[[蛍石]]([[フッ化カルシウム]])が[[融剤]]として[[銅]]の精錬に用いられた。
; [[製鉄]]、[[製鋼]]:日本の生石灰生産量の半分を消費する。[[高炉]]の不純物除去剤として、鉄鉱石や[[コークス]]とともに投入され、[[シリカ]]、[[アルミナ]]と[[スラグ]](ケイ酸カルシウムアルミニウム)を作り[[銑鉄]]から分離する。また、造粒強化、熱効率改善、[[窒素酸化物]]削減効果を持つ。[[転炉]]ではおもにリン、硫黄の除去と温度調整効果を持つほか、高級鋼の炉外精錬に用いる<ref>[http://www.jplime.com/katuyou/katuyou01.html 鋼を作る]日本石灰協会・日本石灰工業組合</ref>。
; 非鉄金属鉱業:[[還元]]剤として[[チタン]]<ref>[http://www.eng.hokudai.ac.jp/labo/ecopro/rosuzuki/gakkai/99gakkai/onoTi.html チタン精錬反応の物理化学的評価]</ref>や[[希土類]](還元拡散法)<ref>[http://kaken.nii.ac.jp/d/p/62550483 還元拡散法による希土類機能性材料の製造に関する基礎的研究]科学研究費補助金データベース</ref>、[[ウラン]]<ref>小川芳樹, 「[https://doi.org/10.2109/jcersj1950.64.725_C303 原子炉用材料特集]」『窯業協會誌』 1956年 64巻 725号 p.C303-C306, {{doi|10.2109/jcersj1950.64.725_C303}}。</ref>や[[プルトニウム]]<ref>奥田茂, 「緻密なウラニウム精錬用弗化カルシウム容器」『窯業協會誌』 75(857), 9a, 1967-01-01, {{naid|110002304124}}, 日本セラミックス協会</ref>。
; 酸化物[[陰極]]:[[仕事関数]]が小さい熱陰極([[真空管]]、[[ブラウン管]]、[[蛍光ランプ]]など)材料として、[[バリウム]]、[[ストロンチウム]]とともに三元酸化物として1950年ごろに用いられた<ref>[http://www.ekouhou.net/disp-ipc-H01J1,14.html 酸化物陰極を備えた真空管]ekouhou.net</ref>。
; [[合金]]添加剤:[[マグネシウム合金]]に0.25 %添加すると、耐熱性が200–300 °C高い難燃性合金となる。
; [[るつぼ]]、耐火材:多孔質のカルシア(酸化カルシウム)は2000 °Cまで使用でき、触媒作用・吸収・汚染が少ない。
; [[化学工業]]:安価で安全なアルカリ剤として欠かせない。おもに消石灰(水酸化カルシウム)の石灰乳(水で[[スラリー]]状にしたもの)が用いられる。
; マグネシア([[酸化マグネシウム]])製造:消石灰により[[海水]]中の[[塩化マグネシウム]]を[[複分解]]回収する(おもに日本)。
; ソーダ灰([[炭酸ナトリウム]])製造:循環[[アンモニア]]の回収剤および[[塩化物イオン]]の吸収剤として使用する。
; [[エポキシ樹脂]]製造:原料の[[プロピレンオキサイド]]や[[エピクロルヒドリン]]の製造で、[[ケン化]]、中和、加熱を同時に進行させる。
; カルシウムカーバイド([[炭化カルシウム]]):[[アセチレン]]製造に必要で、高温電気炉で石灰とコークスを強熱して製造される。カーバイドの主要な用途はアセチレンの生成である。
:<chem>CaC2(s) + 2H2O(l) -> Ca(OH)2(s) + C2H2(g) </chem>
また、空気中の窒素とも反応し[[シアナミドイオン]]を作りメラミンプラスチックの主要な材料である。
:<chem>CaC2(s) + N2(g) -> CaCN2(s) + C(s) </chem>
; [[さらし粉]]([[次亜塩素酸カルシウム]]):生石灰に塩素を吸収させ、比較的安定で安価な消毒剤として広く使われている。
; [[パルプ]]工業:蒸解に使用した[[苛性ソーダ]]廃液([[リグニン]]を含む黒液)を、燃焼分解して炭酸ナトリウム溶液とし、生石灰で再生する。
; ガラス製造:[[ソーダ石灰ガラス]]の原料として、ナトリウム、ケイ素、カルシウムの酸化物が用いられる。
; 排水処理:無機酸性排水の中和に多用されるほか、[[フッ素]]、[[リン]]、[[重金属]]の除去に使用される。
; 排ガス処理:火力発電所で[[硫黄酸化物]]吸収剤として排煙脱硫に利用され、副生する硫酸カルシウムは原料石膏となる。
; ゴミ[[焼却炉]]:炉などを腐食する[[塩化水素]]が大量に発生するため、生石灰、消石灰の粉末を吸収剤として煙道へ吹き込む。
=== 食品工業、家庭用品ほか ===
; [[製糖]]:消石灰を[[粗糖]]溶液に加え炭酸ガスを吹き込み、炭酸カルシウムの吸着・凝集沈殿効果で精製する。
; [[食品添加物]]:[[コンニャク]]の凝固剤、[[豆腐]]の凝固剤、[[栄養強化剤]]として用いられる。
; [[乾燥剤]]:無水物の水和反応を利用し、酸化カルシウムや塩化カルシウムが用いられた。能力はシリカゲルに劣るが、[[押入れ]]の湿気取りなどで利用される。
; 発熱剤:酸化カルシウムの[[水和]]([[発熱反応]])を、携帯食品(弁当や飲み物など)を加熱する手段として用いる。
; [[融雪剤]]:塩カル(塩化カルシウム)による溶解熱、[[凝固点降下]]を利用している。
; 学校用品:セッコウあるいは炭酸カルシウムは[[チョーク]]に使われている。:炭酸カルシウム(かつては消石灰)はグラウンドの白線用[[ラインパウダー|ライン材]]などにも利用されている。
; [[入浴剤]]:湯を白濁させたりアルカリ性にして肌触りを変化させるため、炭酸カルシウムが利用される。
; [[研磨剤]]:炭酸カルシウムが[[歯磨き粉]]や[[消しゴム]]などに用いられる。
=== 農業畜産 ===
; [[農薬]]:[[ボルドー液]]、[[石灰硫黄合剤]]、石灰[[防除]]などに使われる。
; 無機肥料:苦土石灰、[[過リン酸石灰]]、硝酸カルシウムなどのほか、[[連作障害]]対策の[[土壌]]中和・殺菌兼用で生石灰、消石灰が使用される。
; [[飼料]]:家畜の栄養保健剤。
== カルシウムの化合物 ==
=== 無機塩 ===
{{div col}}
* [[酸化カルシウム]](CaO) - 生石灰
* [[過酸化カルシウム]](CaO<sub>2</sub>)
* [[水酸化カルシウム]](Ca(OH)<sub>2</sub>) - 消石灰
* [[フッ化カルシウム]](CaF<sub>2</sub>) - [[蛍石]]
* [[塩化カルシウム]](CaCl<sub>2</sub>⋅2H<sub>2</sub>O) - 塩カル
* [[臭化カルシウム]](CaBr<sub>2</sub>⋅2H<sub>2</sub>O)
* [[ヨウ化カルシウム]](CaI<sub>2</sub>⋅3H<sub>2</sub>O)
* [[水素化カルシウム]](CaH<sub>2</sub>)
* [[炭化カルシウム]](CaC<sub>2</sub>) - カルシウム[[カーバイド]]
* [[リン化カルシウム]](Ca<sub>3</sub>P<sub>2</sub>など)
{{div col end}}
==== オキソ酸塩 ====
{{div col}}
* [[炭酸カルシウム]]({{chem|CaCO|3|}}) - [[石灰石]]
* [[炭酸水素カルシウム]]({{chem|Ca(HCO|3|)|2|}}) - 水溶液中にのみ存在
* [[硝酸カルシウム]]({{chem|Ca(NO|3|)|2}}⋅{{chem|4H|2|O}})
* [[硫酸カルシウム]]({{chem|CaSO|4}}⋅{{chem|2H|2|O}}) - [[石膏]]、すまし粉
* [[亜硫酸カルシウム]]({{chem|CaSO|3|}})
* [[ケイ酸カルシウム]]({{chem|CaSiO|3}}または{{chem|Ca|2|SiO|4|}})
* [[リン酸カルシウム]]({{chem|Ca|3|(PO|4|)|2|}})
* [[ピロリン酸カルシウム]]({{chem|Ca|2|O|7|P|2|}})
* [[次亜塩素酸カルシウム]]({{chem|Ca[ClO]|2|}}) - さらし粉
* [[塩素酸カルシウム]]({{chem|Ca(ClO|3|)|2|}})
* {{link-zh|過塩素酸カルシウム|高氯酸钙}}({{chem|Ca(ClO|4|)|2|}})
* [[臭素酸カルシウム]]({{chem|Ca(BrO|3|)|2|}})
* [[ヨウ素酸カルシウム]]({{chem|Ca(IO|3|)|2}}⋅{{chem|H|2|O}})
* [[亜ヒ酸カルシウム]]({{chem|Ca|3|(AsO|4|)|2|}})
* [[クロム酸カルシウム]]({{chem|CaCrO|4|}})
* [[タングステン酸カルシウム]]({{chem|CaWO|4|}}) - [[灰重石]]
* [[モリブデン酸カルシウム]]({{chem|CaMoO|4|}}) - パウエル石
* 炭酸カルシウムマグネシウム({{chem|CaMg(CO|3|)|2|}}) - [[苦灰石]]
* [[ハイドロキシアパタイト]]({{chem|Ca|5|(PO|4|)|3|(OH)}}または{{chem|Ca|10|(PO|4|)|6|(OH)|2|}}) - 水酸[[燐灰石]]
{{div col end}}
=== 有機塩 ===
{{div col}}
* [[酢酸カルシウム]]({{chem|Ca(CH|3|COO)|2|}})
* [[グルコン酸カルシウム]]({{chem|C|12|H|22|CaO|14|}})
* [[クエン酸カルシウム]]({{chem|Ca|3|(C|6|H|5|O|7|)|2}})
* [[リンゴ酸カルシウム]]({{chem|Ca(|C|2|H|4|O(COO)|2}})
* [[乳酸カルシウム]]({{chem|C|6|H|10|CaO|6|}})
* [[安息香酸カルシウム]]({{chem|C|14|H|10|CaO|4|}})
* [[ステアリン酸カルシウム]]({{chem|Ca(C|17|H|35|COO)|2|}})
* [[アスパラギン酸カルシウム]]({{chem|Ca(|C|4|H|6|N|O|4|)|2}})
{{div col end}}
== 同位体 ==
{{main|カルシウムの同位体}}
カルシウムの原子番号20番は[[陽子]]の[[魔法数]]であり、安定[[同位体]]が4種と多い。さらに、中性子も魔法数である二重魔法数の同位体を2つ(<sup>40</sup>Ca、<sup>48</sup>Ca)持っている。<sup>40</sup>Caは安定[[核種]]の列から外れた位置にあるにもかかわらず、天然存在率が約97 %と著しく高い。一方の<sup>48</sup>Caも周囲を短寿命核種に囲まれながら、[[半減期]]430[[京 (数)|京]]年と極端に安定しており、存在率も<sup>46</sup>Caの数十倍である。
== 地球化学 ==
カルシウムは古典的な[[クラーク数]]で、第5位に位置し、[[地殻]]中の存在率は3.39 %とされていた。現在は[[地球温暖化]]の主要因となる二酸化炭素を、炭酸カルシウムとして封じ込める役を持つとして関心が高まっている。カルシウムは主に炭酸カルシウムとして世界中の白亜、石灰岩、大理石の塊状鉱床として存在する。
石灰岩の成因は、海水中で炭酸カルシウムの[[溶解度]]を超えた水域で沈殿し生成される。
:<chem>Ca^2+(aq) + CO3^{2-}(aq) <-> CaCO3(s) </chem>
またそのほか、[[サンゴ虫]]が形成する外骨格に由来する[[サンゴ礁]]の寄与が大きいと考えられている。石灰岩中の二酸化炭素は、自然界では[[火山]]による熱変成作用や[[鍾乳洞]]でみられるような溶出により大気中に放出されるが、[[炭酸水素イオン]]として水系に取り込まれやすいため、短期間でカルシウムやマグネシウムなどと難溶性塩を生成し、再び固定される。
:<chem>Ca(HCO3)2(aq) ->CaCO3(s) +CO2(g) +H2O(l)</chem>
大理石や石灰岩は建築物の素材としてよく用いられてきたが、酸による腐食作用に弱い性質を持つ
:<chem>CaCO3(s) + 2H+(aq) -> Ca^{2+}(aq) + CO2(g) + H2O(l) </chem>
天然に存在する炭酸カルシウムの結晶状態として[[方解石]]、[[アラゴナイト]]、[[バテライト]]がある。特に[[方解石]]の結晶形は2つの異なる屈折率を持ち、2つの像を結ぶため偏光顕微鏡の機能に欠かせないものとなっている。
[[ドロマイト]](白雲石){{chem|CaMg(CO|3|)|2|}}は堆積物中に広く分布しており、ヨーロッパのドロミテ山塊全体にも含まれる。構造は炭酸イオンに対してマグネシウムイオンとカルシウムイオンが交互に配列しており、原油の成分である炭化水素の堆積物の多くがドロマイト岩中に存在する。この物質を実験室的に合成するには150 °C以上で行う必要があり、地表上の環境条件と異なるため、どうしてドロマイトが生成するのかは謎であった。主流である説としては石灰岩の地表が生成された後地中深くに埋められ、マグネシウムイオンを豊富に含む水が地層中を流れることでカルシウムイオンとマグネシウムイオンとで置換が行われたとする説である。
== 生化学 ==
[[ヒト]]を含む[[動物]]や[[植物]]の代表的な[[ミネラル]]([[必須元素]])である。カルシウムは[[真核細胞]]生物にとって必須元素であり、植物にとっても[[肥料]]として必要である。
=== 生理作用 ===
人体の構成成分としてのカルシウムは、成人男性の場合で約1キロを占める。おもに骨や歯として[[ヒドロキシアパタイト]]({{chem|Ca|5|(PO|4|)|3|(OH)}})の形で存在する。
生体内のカルシウムは、遊離型・[[カルシウム結合タンパク質|タンパク質結合型]]・[[リン酸カルシウム|沈着型]]で存在する。ヒトをはじめとする[[脊椎動物]]では、おもに[[骨質]]として大量の沈着型がストックされているが、[[細胞]]内のカルシウムイオンは外より極端に濃度が低く、その差は3桁に達する。同様の濃度差は[[カリウム]]と[[ナトリウム]]でも見られるが、カルシウムでは細胞内濃度が厳密に保たれている。これは、真核細胞内の情報伝達を担う[[カルシウムシグナリング]]のためと考えられており、[[細胞膜]]にカルシウムイオンを排出する[[カルシウムチャネル]]が備えられている。
[[筋肉]]細胞では、収縮に関わるタンパク質([[トロポニン]])に結合することが不可欠である<ref>[https://www.jst.go.jp/pr/announce/20030703/yougo.html 筋収縮を調節する分子メカニズムの一端を解明] 科学技術振興機構</ref>。カルシウムイオンは[[細胞内液]]にはほとんど存在せず、細胞外からのカルシウムイオンの流入や、細胞内の小胞体に蓄えられたカルシウムイオンの放出は、さまざまなシグナルとしての生理的機能がある。
筋肉細胞以外においても、カルシウムイオンは細胞収縮運動に重要な役割を果たす。その一つの例が、[[カルモジュリン]]である。これは平滑筋や非筋細胞におけるミオシンとアクチン繊維による収縮運動において[[トロポニン]]の代わりの役割を果たす。カリモジュリンは4つのCa結合部位を持つ。Caイオンが結合することで高次構造が変化して活性型のカルモジュリン複合体を形成する。この4つの結合部位というのがミソで、これらの部位に対するリガンド(つまりカルシウムイオン)の結合親和性が巧みに制御されている。(これを[[アロステリック調節]]という。) 一つ部位にカルシウムが結合するごとに、他の部位に対するリガンドの結合親和性が漸次変化することで、リガンドの濃度変化に対して非常に敏感な調節が可能となるわけだ。
植物細胞では、乾燥重あたり1.8 %程度のカルシウムを含む。植物においてカルシウムはイオンとして存在し、おもに[[細胞壁]]、[[細胞膜]]外、[[液胞]]、[[小胞体]]に多く分布する一方、[[サイトゾル]]内の濃度は低く保たれている。植物細胞におけるカルシウムの生理作用は以下の4点である<ref>間藤徹、馬建鋒、藤原徹 編『植物栄養学 第2版』, 文永堂、2010</ref>。
* 細胞壁の安定化
* 細胞膜の安定化
* 染色体の構造維持
* 二次メッセンジャーとして細胞内の情報伝達
植物はカルシウム不足になると、若葉が黄白色になったり、芯が腐ることがある<ref name="gifu">[https://www.gifu.crcr.or.jp/media/chousakenkyu/kenkyu/environment_01.pdf 岐阜県街路樹等整備・管理の手引き] 岐阜県建設研究センター、岐阜県造園緑化協会、2022年4月23日閲覧。</ref>。一方、カルシウム過多になると微量要素欠乏症になることがある<ref name="gifu" />。
=== 薬理作用 ===
カルシウムは便や尿として体外に排泄されるため、これを補う最低必要摂取量として、日本の[[厚生労働省]]は1日に700 mg(骨粗鬆症予防には800 mgを推奨)をあげている<ref>[https://nishisaitamachuo.hosp.go.jp/section/cnt0_000060.html 骨粗鬆症TOP] 国立病院機構 西埼玉中央病院</ref>。
いくつかの症状に対し、[[医薬品]]として処方されることがある。定番となっている胃の[[制酸薬]]以外にも、カルシウム欠乏による筋肉の痙攣、[[くる病]]、[[骨軟化症]]、[[低カルシウム血症]]、[[骨粗鬆症]]の治療に、おもに経口摂取で用いるほか、血液中のリン酸濃度を抑制したい場合に用いる。また、[[栄養補助食品]]も広く販売されており、病気治療で[[食事制限]]中の場合や、重度の骨粗鬆症で大量摂取したいとき、食事量が落ちた高齢者などで効果が期待できる。
カルシウムの血中濃度が正常範囲を外れていると、骨からの出し入れ量を調節する[[副甲状腺]]機能の異常などが疑われる<ref>[http://www.jaclap.org/labo/labo-285.html 影岡武士、カルシウムが高い時] 日本臨床検査専門医会 記事:2002.10.01</ref><ref>斎藤 公司, 友常 靖子, 山本 邦宏 ほか、「[https://doi.org/10.2169/naika.68.1466 著明な白血球増加と高カルシウム血症とを合併した甲状腺原発扁平上皮癌の1例]」 『日本内科学会雑誌』 1979年 68巻 11号 p.1466-1472, {{doi|10.2169/naika.68.1466}}</ref>。健常者では体液内濃度は平衡に保たれ、[[妊娠]]期の女性も食物からの吸収能力が自然に増すため、偏った食生活でなければ追加摂取は必要ない<ref>[https://www.mhlw.go.jp/houdou/2006/02/h0201-3a.html 妊産婦のための食生活指針 -「健やか親子21」推進検討会報告書-] 厚生労働省 平成18年2月 食を通じた妊産婦の健康支援方策研究会</ref>。過剰摂取は[[高カルシウム血症]]や[[ミルク・アルカリ症候群]]の原因となるため、[[一日摂取許容量]]上限として2300 mgが示されている。一方で、[[尿路結石]]の構成成分にシュウ酸カルシウムがあるため、カルシウムの摂取は結石形成に促進的に働くと考えられていたが、近年では一定量のカルシウム摂取はむしろ結石予防に有効であると指導するようになってきている<ref>{{cite book|和書|author=日本泌尿器科学会、日本泌尿器内視鏡学会、日本尿路結石症学会|title=尿路結石症診療ガイドライン 第2版|publisher=金原出版|year=2013|isbn=978-4307430531}}</ref>。摂取されたカルシウムが腸管内でシュウ酸と結合し難溶性のシュウ酸カルシウムとして糞便で排泄されることで、尿路へと排泄されるシュウ酸量が減少するためである<ref>{{cite journal|last=Tiselius|first=H. G.|date=2001|title=Possibilities for preventing recurrent calcium stone formation: principles for the metabolic evaluation of patients with calcium stone disease|journal=BJU Int.|volume=88|page=158}}</ref>。
=== 栄養所要量 ===
推奨摂取量はさまざまに推定されているが長い期間での観察研究が不足しており、牛乳には健康上の懸念があるため、健康的で安全なカルシウムの源はまだ確立されていない<ref name="hsph_calcium">{{cite web |title=Calcium: What’s Best for Your Bones and Health? |url=https://www.hsph.harvard.edu/nutritionsource/calcium-full-story/ |date= |publisher=Harvard T.H. Chan School of Public Health (ハーバード公衆衛生大学院)|accessdate=2017-8-11}}</ref>。1000 mgを推奨するような大量のカルシウムの摂取は疑問視されており、それは骨折リスクが減少しないという証拠が集まっていることによる<ref name="hsph_calcium"/>。
2002年の世界保健機関の報告書では、動物性タンパク質の摂取量が60 gから20 gへと40 g減少すると、カルシウム必要量が240 mg減少し、同様にナトリウムが2.3 g減少すると必要量は240 mg減少するという推定がある<ref name="who2002">joint FAO/WHO expert consultation. "[http://www.fao.org/docrep/004/Y2809E/y2809e0h.htm#bmbm17.9 Chapter 11 Calcium]", ''[http://www.fao.org/DOCREP/004/Y2809E/y2809e00.htm Human Vitamin and Mineral Requirements]'', 2002.</ref>。
=== 疫学 ===
カルシウムは必須元素として以上の効果を期待され、いくつもの疫学調査が行われている。
* 有効性ありと判定された例<ref>{{Hfnet|39|カルシウム}}</ref>
** 低カルシウム血症
** くる病・骨軟化症
** 制酸剤
* おそらく効果ありと判定された例
** 閉経前後の骨量減少
** 胎児の骨成長・骨密度増加(註:リバウンドを含め、出生後の追跡調査例見つからず)
** 上皮小体亢進症(慢性腎機能障害患者)
* 可能性ありと判定された例
** 骨粗鬆症、骨密度減少(ステロイドの長期間服用者でビタミンD併用時)
** 高齢者における歯の損失
** 歯へのフッ素の過剰沈着(小児でビタミンC・D併用)
** 虚血性発作
** 血圧減少(腎疾患末期)
** 高血圧、子癇前症での血圧減少(カルシウム摂取不足の妊婦)
** 直腸上皮の異常増殖、下痢(腸管バイパス手術を受けた人)
** 妊娠中の[[こむら返り|腓(こむら)返り]]
骨粗鬆症[[診療ガイドライン]]では、カルシウムの[[サプリメント]]の摂取は骨密度を2 %増やすが骨折率には変化がないため、すすめられる根拠がない(グレードC)に分類される<ref>『骨粗鬆症の予防と治療ガイドライン2006年版』骨粗鬆症の予防と治療ガイドライン作成委員会、ライフサイエンス出版。2006年10月。ISBN 978-4-89775-228-0。34-35、77頁。</ref>。2015年の[[システマティックレビュー]]では、ほとんどの研究がカルシウムと骨折との間に関連性を見出していないため、食事からのカルシウム摂取の増加が骨折を予防するという証拠はなく、カルシウムのサプリメントでは弱い証拠しかないがその結果に矛盾があった<ref name="pmid26420387">{{cite journal |authors=Bolland MJ, Leung W, Tai V, Bastin S, Gamble GD, Grey A, Reid IR |title=Calcium intake and risk of fracture: systematic review |journal=BMJ |volume=351 |issue= |pages=h4580 |date=September 2015 |pmid=26420387 |pmc=4784799 |doi=10.1136/bmj.h4580 |url=}}</ref>。
ハーバード大学の公衆衛生大学院によれば、カルシウム摂取のために乳製品がもっともよい選択かは明らかではないとする。<!--乳製品は骨粗鬆症と大腸癌を防ぐ一方で前立腺癌と卵巣癌のリスクを上げ得る。(乳製品の項目に書くべき文章)-->乳製品以外のカルシウムの摂取源として [[コラード]]、[[チンゲンサイ]]、[[豆乳]]、[[ベイクドビーンズ]] が挙げられている<ref>[http://www.hsph.harvard.edu/nutritionsource/what-should-you-eat/calcium-and-milk/index.html The Nutrition Source Calcium and Milk: What's Best for Your Bones?] (Harvard School of Public Health)</ref>。
[[ビタミンD]]は、[[小腸]]の腸細胞の柔もうを通じてカルシウムを吸収する際に、カルシウム結合[[タンパク]]の量を増加させるカルシウム吸収の要因として重要である。ビタミンDは、[[腎臓]]において尿からカルシウムが損失することを抑制する。
=== 癌との関わり ===
2つの無作為化比較試験<ref name="pmid9887161">{{cite journal | author = Baron JA, Beach M, Mandel JS | title = Calcium supplements for the prevention of colorectal adenomas. Calcium Polyp Prevention Study Group | journal = N. Engl. J. Med. | volume = 340 | issue = 2 | pages = 101–7 | year = 1999 | pmid = 9887161 | doi = 10.1056/NEJM199901143400204}}</ref><ref name="pmid11073017">{{cite journal | author = Bonithon-Kopp C, Kronborg O, Giacosa A, Räth U, Faivre J | title = Calcium and fibre supplementation in prevention of colorectal adenoma recurrence: a randomised intervention trial. European Cancer Prevention Organisation Study Group | journal = Lancet | volume = 356 | issue = 9238 | pages = 1300–6 | year = 2000 | pmid = 11073017 | doi = 10.1016/S0140-6736(00)02813-0}}</ref>の国際[[コクラン共同計画]]による[[メタ分析]]<ref name="pmid16034903">{{cite journal | author = Weingarten MA, Zalmanovici A, Yaphe J | title = Dietary calcium supplementation for preventing colorectal cancer, adenomatous polyps and calcium metabolisism disorder. | journal = Cochrane database of systematic reviews (Online) | issue = 3 | pages = CD003548 | year = 2005 | pmid = 16034903 | doi = 10.1002/14651858.CD003548.pub3}}</ref>によると、カルシウムは[[大腸]]腺腫性[[ポリープ]]をある程度抑制しうる可能性があることが発見された。
最近の研究結果は矛盾したものであるが、1つは[[ビタミンD]]の抗癌効果について肯定的なものであり(Lappeほか)、癌のリスクに対してカルシウムのみから独立した肯定的作用を行っているとしたものである(以下の2番目の研究を参照のこと)<ref>{{cite journal | pmid = 17556697 | year = 2007 | author = Lappe, Jm; Travers-Gustafson, D; Davies, Km; Recker, Rr; Heaney, Rp | title = Vitamin D and calcium supplementation reduces cancer risk: results of a randomized trial | volume = 85 | issue = 6 | pages = 1586–91 | journal = The American journal of clinical nutrition | format = Free full text}}</ref>。
ある無作為化比較試験は、1000 mgのカルシウム成分と400IUのビタミンD3は[[大腸癌]]に何も効果を示さなかった<ref name="pmid16481636">{{cite journal | author = Wactawski-Wende J, Kotchen JM, Anderson GL | title = Calcium plus vitamin D supplementation and the risk of colorectal cancer | journal = N. Engl. J. Med. | volume = 354 | issue = 7 | pages = 684–96 | year = 2006 | pmid = 16481636 |doi = 10.1056/NEJMoa055222}}</ref>。
* ある無作為化比較試験は、1400–1500 mgのカルシウムサプリメントと1100IUのビタミンD3が塊状の癌の相対的リスクを0.402まで低下させることを示した<ref name="pmid17556697">{{cite journal | author = Lappe JM, Travers-Gustafson D, Davies KM, Recker RR, Heaney RP | title = Vitamin D and calcium supplementation reduces cancer risk: results of a randomized trial | journal = Am. J. Clin. Nutr. | volume = 85 | issue = 6 | pages = 1586–91 | year = 2007 | pmid = 17556697}}</ref>。ある疫学的研究では、高容量のカルシウムとビタミンDの摂取は[[更年期]]前の[[乳癌]]の発生リスクを低めていることが発見された<ref name="pmid17533208">{{cite journal | author = Lin J, [[:en:JoAnn E. Manson|Manson JE]], Lee IM, Cook NR, Buring JE, Zhang SM | title = Intakes of calcium and vitamin d and breast cancer risk in women | journal = Arch. Intern. Med. | volume = 167 | issue = 10 | pages = 1050–9 | year = 2007 | pmid = 17533208 | doi = 10.1001/archinte.167.10.1050}}</ref>。
*日本の[[国立がん研究センター]]が4万3000人を追跡した大規模調査では、[[乳製品]]の摂取が前立腺癌の発症率を上げることを示し、カルシウムや[[飽和脂肪酸]]の摂取が前立腺癌のリスクをやや上げることを示した<ref>[http://epi.ncc.go.jp/jphc/outcome/317.html 乳製品、飽和脂肪酸、カルシウム摂取量と前立腺がんとの関連について―概要―] {{PMID|18398033}}</ref>。
== 危険性 ==
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}}
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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==関連項目==
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{{Wiktionary|カルシウム|calcium|kalsium|Kalzium}}
* [[カルシウム結合タンパク質]]
* [[カルシウム感知受容体]]
== 外部リンク ==
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* {{PaulingInstitute|jp/mic/minerals/calcium}}
* {{Hfnet|660|カルシウム解説}}
* {{脳科学辞典|記事名=カルシウム}}
* {{Kotobank}}
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[[Category:アルカリ土類金属]]
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8,643 | 律修司祭 | 律修司祭(英語: Canon) とはカトリック教会における聖職者の位階で、特に大聖堂に附属し、その運営のある側面で責任を負う司祭職を指す。 | [
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== 脚注 ==
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8,644 | 銅酸化物 | 銅酸化物(どうさんかぶつ、copper oxide)は銅の酸化物のこと。高温超伝導物質の中に銅酸化物が多い。
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] | 銅酸化物(どうさんかぶつ、copper oxide)は銅の酸化物のこと。高温超伝導物質の中に銅酸化物が多い。 銅酸化物の例として以下のものが挙げられる。 CuO - 酸化銅(II) (酸化第二銅)
黒銅鉱として天然に産出する。
Cu2O - 酸化銅(I) (酸化第一銅)
赤銅鉱として天然に産出する。
La2CuO4
YBa2Cu3O7 | {{重複|date=2022年11月1日 (火) 03:57 (UTC)|dupe=酸化銅}}
'''銅酸化物'''(どうさんかぶつ、copper oxide)は[[銅]]の[[酸化物]]のこと。[[高温超伝導]]物質の中に銅酸化物が多い。
銅酸化物の例として以下のものが挙げられる。
* CuO - [[酸化銅(II)]] (酸化第二銅)
*: [[黒銅鉱]]として天然に産出する。
* Cu<SUB>2</SUB>O - [[酸化銅(I)]] (酸化第一銅)
*: [[赤銅鉱]]として天然に産出する。
* La<SUB>2</SUB>CuO<SUB>4</SUB>
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== 関連項目 ==
* [[酸化銅]]
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8,645 | テルアビブ | テルアビブ・ヤフォ(ヘブライ語: תֵּל־אָבִיב-יָפוֹ, 英語: Tel Aviv-Yafo))、通称テルアビブ(ヘブライ語: תֵּל־אָבִיב, [tel aˈviv]; 英語: Tel Aviv)は、イスラエルの人口第2位の都市である(第1位はエルサレム)。テル・アヴィヴ とも表記される。
「テルアビブ」はヘブライ語で「春(アヴィヴ)の丘(テル)」という意味である。「ヤフォ/ヤーファー」とは1950年にテルアビブと合併した市である。
イスラエルの経済・文化の中心地かつ中東有数の世界都市。イスラエル政府はエルサレムが「首都」であると宣言しているが、国際社会はこれを認めておらず、各国がテルアビブに大使館を置くなど、テルアビブを政治・文化・経済の中心たる事実上の首都とみなしている。
イスラエルの西側地中海に面する地域に位置するテルアビブ都市圏(グッシュ・ダン)はイスラエル最大の都市圏である。2010年の都市圏人口は268万人であり、同国の人口(約700万人)のおよそ40%が集中している。行政管轄面積は50.6平方キロメートル、人口密度は1平方キロメートルあたり7,445人、イスラエル中央統計局による国勢調査によると、2006年現在で総人口は38万人であり、人口増加率は0.9%である。
アズリエリセンターなどの超高層ビル、国際級のホテルも立ち並び、「中東のヨーロッパ」として、政治や経済の中心地として発展を続けている。高級宝石類などショッピングも充実した都市で、観光や経済の中心地であり、治安は良い。
世界でも有数の「ゲイに優しい街」として同性愛者に人気がある。
テルアビブの地名は、旧約聖書のエゼキエル書3:15に登場し、捕囚のイスラエル人が共同居住地として住まわされた新バビロニア帝国の町の名に由来する。テルとはヘブライ語で「遺跡・廃墟」の意(現在ニップルの東半径8~16キロにテルが多数点在し、イスラエル人の土器も発見されている)。また、アヴィヴとはヘブライ語で「穀物の耳」(=穀物の穂)の意で、転じて春のこと(古代ユダヤ暦では、ニサンの月という月名にもなっていた)。ちなみに、現在の地名についている「ヤッファ」は、聖書時代のこの地の地名を受け継いでおり、ヘブライ語で「美しい」という意味がある。
20世紀初頭までは、古代港湾都市ヤーファーに隣接する海沿いの砂丘にすぎなかったが、ヤーファーの港と街に対抗する、入植したシオニストユダヤ人自らの港と街を建設すべく、テルアヴィヴの建設は戦略的に進められた。この町は正に「(無知蒙昧な)東方に抗する白色の砦」であり、イスラエル人建築家ロトバードはこの町の歴史は、「いかにしてユダヤ人が白人となったか」を明確に説明してくれると述べている。
1948年5月14日、テルアビブにおいてイスラエル国家樹立が宣言された。この国家樹立宣言が第一次中東戦争に発展した。イスラエル建国初期は首都機能をテルアビブにおいていたが、イスラエルは西エルサレムを占領して1950年に首都機能を西エルサレムに移転。1967年にイスラエルは東エルサレムを占領・併合し、1980年に統一エルサレムはイスラエルの永遠の首都と宣言した。
しかし、イスラエルのエルサレム首都宣言は国際的には承認されておらず、国際連合(国連)などではテルアビブを事実上の首都とみなしており、2017年現在、国連加盟各国は大使館等をテルアビブに置いたままである。2016年のアメリカ合衆国大統領選挙では選挙戦で大使館のエルサレム移転を公約したドナルド・トランプが勝利、2017年12月6日にはエルサレムをイスラエルの首都と認定することを正式に表明した。
市中心部には、放送局や巨大ショッピングモールなどのほか、ハビマー劇場、ヘレナ・レビンシュタイン博物館、イスラエル国防軍本部、リクード、労働党本部や情報機関のモサッドやシャバック本部などの他に報道・商業・政治などの主要機能が集中する。
ハ・メディナ広場周辺の地域は、白亜建造物が並ぶ計画都市で、「白い都市」として世界遺産に登録されている。
ハ・ヤルコン川より北側の地域には国内線用のスデ・ドブ空港、イスラエル博物館や、学問の中心、テルアビブ大学があり、ラマト・アビブと呼ばれる高級住宅地もある。
地中海性気候 (Csa) に分類される。夏の最高気温は30°C前後。
イスラエル経済の中心であり、2014年にアメリカのシンクタンクが公表したビジネス・人材・文化・政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第54位の都市と評価されており、西アジアの都市ではドバイに次ぐ第2位であった。
2019年には金融センターとして競争力は世界22位と評価された。
ハイテク産業が発展している都市としても有名である。
2021年、イギリスのエコノミスト紙の調査部門が発表した世界の都市における「生活費ランキング2021年版」において、テルアビブが初めて世界首位となった。
テルアビブを中心とする、ラマトガン、バトヤム、ブネイ・バラク、ヘルツリアからなる首都圏(通称 グッシュ・ダン)地域やベン・グリオン国際空港との間には、アヤロン・ハイウェイが結んでいる。また、ハイファ、アシュケロン、エルサレムなどを結ぶ高速道路も整備されている。自動車交通網は概して非常によく整備されており、朝夕を除いて渋滞は深刻ではない。
市南部には、巨大なバスターミナル(テルアビブ・セントラル・バスステーション)があり、ここを中心としてエルサレムやハイファ行きなどの近郊路線バス、エイラット、ベエルシェバやゴラン高原行きの長距離バス。市街地中心の路線バスが発着している。また、このバスターミナルは世界最大であり、総敷地面積は延べ44,000平方メートルにもなる。ショッピングモールも兼ね備えており、6階建ての立体構造で種類別にバスが発着している。
鉄道網はイスラエル鉄道によりテルアビブ・サヴィドール中央駅(英語版)、テルアビブ大学駅、シャローム駅、ハガナ駅の4つの駅を中心としてハイファ、リション・レジオン、ベエルシェバ、エルサレム、クフェル・サバなどを結んでいる他、市内や近郊を結ぶ交通機関として頻繁に走っている。地中海沿いの路線は高速化が施され、快速でハイファまで1時間、ベン・グリオン国際空港までは30分弱である。2018年にはベン・グリオンからエルサレムのエルサレム・イツハク・ナヴォン駅(英語版)まで高速新線の新テルアビブ・エルサレム線(英語版)が開通し、従来のテルアビブ=エルサレム線から置き換えられた。2023年にはテルアビブ・ライトレール(英語版)が。さらに、近年中の開通を目指して、テルアビブ地下鉄(英語版)網が計画されている。
市内中心部から南東に位置するロードにある国内最大のベン・グリオン国際空港がある。日本からのエル・アル航空の直行便や、香港、北京、バンコクの各都市を経由していくことが出来る。
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"text": "テルアビブ・ヤフォ(ヘブライ語: תֵּל־אָבִיב-יָפוֹ, 英語: Tel Aviv-Yafo))、通称テルアビブ(ヘブライ語: תֵּל־אָבִיב, [tel aˈviv]; 英語: Tel Aviv)は、イスラエルの人口第2位の都市である(第1位はエルサレム)。テル・アヴィヴ とも表記される。",
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"text": "イスラエルの経済・文化の中心地かつ中東有数の世界都市。イスラエル政府はエルサレムが「首都」であると宣言しているが、国際社会はこれを認めておらず、各国がテルアビブに大使館を置くなど、テルアビブを政治・文化・経済の中心たる事実上の首都とみなしている。",
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"text": "イスラエルの西側地中海に面する地域に位置するテルアビブ都市圏(グッシュ・ダン)はイスラエル最大の都市圏である。2010年の都市圏人口は268万人であり、同国の人口(約700万人)のおよそ40%が集中している。行政管轄面積は50.6平方キロメートル、人口密度は1平方キロメートルあたり7,445人、イスラエル中央統計局による国勢調査によると、2006年現在で総人口は38万人であり、人口増加率は0.9%である。",
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"text": "アズリエリセンターなどの超高層ビル、国際級のホテルも立ち並び、「中東のヨーロッパ」として、政治や経済の中心地として発展を続けている。高級宝石類などショッピングも充実した都市で、観光や経済の中心地であり、治安は良い。",
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"text": "テルアビブの地名は、旧約聖書のエゼキエル書3:15に登場し、捕囚のイスラエル人が共同居住地として住まわされた新バビロニア帝国の町の名に由来する。テルとはヘブライ語で「遺跡・廃墟」の意(現在ニップルの東半径8~16キロにテルが多数点在し、イスラエル人の土器も発見されている)。また、アヴィヴとはヘブライ語で「穀物の耳」(=穀物の穂)の意で、転じて春のこと(古代ユダヤ暦では、ニサンの月という月名にもなっていた)。ちなみに、現在の地名についている「ヤッファ」は、聖書時代のこの地の地名を受け継いでおり、ヘブライ語で「美しい」という意味がある。",
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"text": "20世紀初頭までは、古代港湾都市ヤーファーに隣接する海沿いの砂丘にすぎなかったが、ヤーファーの港と街に対抗する、入植したシオニストユダヤ人自らの港と街を建設すべく、テルアヴィヴの建設は戦略的に進められた。この町は正に「(無知蒙昧な)東方に抗する白色の砦」であり、イスラエル人建築家ロトバードはこの町の歴史は、「いかにしてユダヤ人が白人となったか」を明確に説明してくれると述べている。",
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"text": "1948年5月14日、テルアビブにおいてイスラエル国家樹立が宣言された。この国家樹立宣言が第一次中東戦争に発展した。イスラエル建国初期は首都機能をテルアビブにおいていたが、イスラエルは西エルサレムを占領して1950年に首都機能を西エルサレムに移転。1967年にイスラエルは東エルサレムを占領・併合し、1980年に統一エルサレムはイスラエルの永遠の首都と宣言した。",
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"text": "市中心部には、放送局や巨大ショッピングモールなどのほか、ハビマー劇場、ヘレナ・レビンシュタイン博物館、イスラエル国防軍本部、リクード、労働党本部や情報機関のモサッドやシャバック本部などの他に報道・商業・政治などの主要機能が集中する。",
"title": "地理"
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"text": "ハ・メディナ広場周辺の地域は、白亜建造物が並ぶ計画都市で、「白い都市」として世界遺産に登録されている。",
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"text": "ハ・ヤルコン川より北側の地域には国内線用のスデ・ドブ空港、イスラエル博物館や、学問の中心、テルアビブ大学があり、ラマト・アビブと呼ばれる高級住宅地もある。",
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"text": "地中海性気候 (Csa) に分類される。夏の最高気温は30°C前後。",
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"text": "イスラエル経済の中心であり、2014年にアメリカのシンクタンクが公表したビジネス・人材・文化・政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第54位の都市と評価されており、西アジアの都市ではドバイに次ぐ第2位であった。",
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"text": "2019年には金融センターとして競争力は世界22位と評価された。",
"title": "経済"
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"text": "2021年、イギリスのエコノミスト紙の調査部門が発表した世界の都市における「生活費ランキング2021年版」において、テルアビブが初めて世界首位となった。",
"title": "経済"
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"text": "テルアビブを中心とする、ラマトガン、バトヤム、ブネイ・バラク、ヘルツリアからなる首都圏(通称 グッシュ・ダン)地域やベン・グリオン国際空港との間には、アヤロン・ハイウェイが結んでいる。また、ハイファ、アシュケロン、エルサレムなどを結ぶ高速道路も整備されている。自動車交通網は概して非常によく整備されており、朝夕を除いて渋滞は深刻ではない。",
"title": "交通"
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"text": "市南部には、巨大なバスターミナル(テルアビブ・セントラル・バスステーション)があり、ここを中心としてエルサレムやハイファ行きなどの近郊路線バス、エイラット、ベエルシェバやゴラン高原行きの長距離バス。市街地中心の路線バスが発着している。また、このバスターミナルは世界最大であり、総敷地面積は延べ44,000平方メートルにもなる。ショッピングモールも兼ね備えており、6階建ての立体構造で種類別にバスが発着している。",
"title": "交通"
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"text": "鉄道網はイスラエル鉄道によりテルアビブ・サヴィドール中央駅(英語版)、テルアビブ大学駅、シャローム駅、ハガナ駅の4つの駅を中心としてハイファ、リション・レジオン、ベエルシェバ、エルサレム、クフェル・サバなどを結んでいる他、市内や近郊を結ぶ交通機関として頻繁に走っている。地中海沿いの路線は高速化が施され、快速でハイファまで1時間、ベン・グリオン国際空港までは30分弱である。2018年にはベン・グリオンからエルサレムのエルサレム・イツハク・ナヴォン駅(英語版)まで高速新線の新テルアビブ・エルサレム線(英語版)が開通し、従来のテルアビブ=エルサレム線から置き換えられた。2023年にはテルアビブ・ライトレール(英語版)が。さらに、近年中の開通を目指して、テルアビブ地下鉄(英語版)網が計画されている。",
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"text": "市内中心部から南東に位置するロードにある国内最大のベン・グリオン国際空港がある。日本からのエル・アル航空の直行便や、香港、北京、バンコクの各都市を経由していくことが出来る。",
"title": "交通"
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] | テルアビブ・ヤフォ、通称テルアビブは、イスラエルの人口第2位の都市である(第1位はエルサレム)。テル・アヴィヴ とも表記される。 「テルアビブ」はヘブライ語で「春(アヴィヴ)の丘(テル)」という意味である。「ヤフォ/ヤーファー」とは1950年にテルアビブと合併した市である。 イスラエルの経済・文化の中心地かつ中東有数の世界都市。イスラエル政府はエルサレムが「首都」であると宣言しているが、国際社会はこれを認めておらず、各国がテルアビブに大使館を置くなど、テルアビブを政治・文化・経済の中心たる事実上の首都とみなしている。 | {{基礎情報 イスラエルの自治体
|正式名称 = テルアビブ・ヤフォ
|[[ヘブライ語]]表記 = {{lang|he|תֵּל־אָבִיב-יָפוֹ}}
|アラビア語表記 = תֵּל־אָבִיב-יָפוֹ<br/>{{flagicon|Israel}}
|画像 ={{Photomontage
| photo1a = Hashalom interchange.jpg
| photo2a = Azriely Sarona5.jpg
| photo2b = ISR-2015-Jaffa-Clock tower-cropped.jpg
| photo3a = Tel Aviv Promenade panoramics.jpg
| photo4a = Panorama of Tel Aviv (cropped).jpg
| size = 280
| color = transparent
| border = 0
}}
|画像サイズ = 250px
|画像説明 = '''左上から''':ハシャロムインターチェンジ、アズリエリサロナタワー、ヤッファ時計塔、テルアビブビーチ、都市のパノラマ
|自治体旗 = Flag of Tel Aviv.svg
|自治体章 = TelAvivEmblem.svg
|愛称 =
|標語 =
|名称の由来 =
|位置図 = Is-map.PNG
|位置図サイズ指定 = 150px
|位置図説明 = テルアビブ (Tel Aviv-Yafo) の位置
|位置図2 = Location telaviv.png
|位置図サイズ指定2 = 150px
|位置図説明2 = テルアビブの位置(テルアビブ地区)
|緯度度 = 32|緯度分 = 5|緯度秒 = 0|N(北緯)及びS(南緯) = N
|経度度 = 34|経度分 = 48|経度秒 = 0|E(東経)及びW(西経) = E
|成立区分 = 建設
|成立日 = 1909年
|成立区分1 =
|成立日1 =
|成立区分2 =
|成立日2 =
|創設者 =
|地区 = [[テルアビブ地区]]
|郡 =
|自治体区分 = 市
|首長氏名 = [[ロン・フルダイ]]
|首長所属党派 = [[労働党 (イスラエル)|労働党]]
|議長氏名 =
|議長所属党派 =
|総面積(平方キロ) = 51.79
|総面積(平方マイル) = 20.0
|陸上面積(平方キロ) =
|陸上面積(平方マイル) =
|水面面積(平方キロ) =
|水面面積(平方マイル) =
|水面面積比率 =
|市街地面積(平方キロ) =
|市街地面積(平方マイル) =
|都市圏面積(平方キロ) =
|都市圏面積(平方マイル) =
|標高(メートル) =
|標高(フィート) =
|人口の時点 = 2019年<ref>{{Cite web |url=https://www.citypopulation.de/en/israel/cities/ |title=Israel |publisher=Citypopulation.de |date=2020-09-22 |accessdate=2022-11-22}}</ref>
|人口に関する備考 = [[イスラエルの都市人口の順位|全国第2位]]
|総人口 = 460,613
|人口密度(平方キロ当たり) = 8,894
|人口密度(平方マイル当たり) =
|市街地人口 =
|市街地人口密度(平方キロ当たり) =
|市街地人口密度(平方マイル当たり) =
|都市圏人口 = 2,689,911
|都市圏人口密度(平方キロ当たり) =
|都市圏人口密度(平方マイル当たり) =
|郵便番号区分 =
|郵便番号 =
|市外局番 =
|ナンバープレート =
|ISOコード =
|備考 =
|公式サイト = [http://www.tel-aviv.gov.il/ www.tel-aviv.gov.il]
}}
'''テルアビブ・ヤフォ'''({{lang-he|תֵּל־אָבִיב-יָפוֹ}}, {{lang-en|Tel Aviv-Yafo}})、通称'''テルアビブ'''({{lang-he|תֵּל־אָבִיב}}, {{IPA|tel aˈviv}}; {{lang-en|Tel Aviv}})は、[[イスラエル]]の人口第2位の都市である(第1位は[[エルサレム]])<ref name=web1>{{Cite web|和書|url=http://www.recruit.jp/meet_recruit/2015/12/gl08.html|title=世界から「スタートアップ国家」として注目を集めるイスラエル、その隆盛の理由とは?|work=Meet Recruit リクルートホールディングス|publisher=Recruit Holdings|date=2015-12-02|accessdate=2016-01-01}}</ref><ref name=news1/>。'''テル・アヴィヴ'''<ref>使用例:『イスラエル』臼杵陽著. 岩波新書, 2009</ref> とも表記される。
「テルアビブ」はヘブライ語で「春(アヴィヴ)の丘(テル)」という意味である<ref>{{Cite web|和書|title=著作紹介 臼杵陽著『「ユダヤ」の世界史 : 一神教の誕生から民族国家の建設まで』 |url=https://lib.jwu.ac.jp/lib/kanpo170.pdf |website=日本女子大学図書館 |access-date=2023-07-02 |language=ja |publisher=[[日本女子大学]] |author=[[臼杵陽]] |date=2021.3.5 |work=図書館だより No. 170}}</ref>。「[[ヤッファ|ヤフォ/ヤーファー]]」とは[[1950年]]にテルアビブと[[市町村合併|合併]]した市である。
イスラエルの[[経済]]・[[文化_(代表的なトピック)|文化]]の中心地かつ[[中東]]有数の[[世界都市]]。イスラエル政府は[[エルサレム]]が「[[首都]]」であると宣言しているが<ref name=news1/><ref name=news2>{{cite news|url=http://www.cnn.co.jp/world/35094909.html|title=米大使館のエルサレム移転、5月にも発表か 国際社会は警告|newspaper=CNN日本語版公式ホームページ|publisher=Cable News Network|date=2017-1-12|accessdate=2017-1-27}}</ref>、国際社会はこれを認めておらず<ref name=news1/><ref name=news2/>、各国がテルアビブに大使館を置くなど<ref name=news1>{{cite news|url=http://www.jiji.com/jc/article?k=2017012600552&g=use|title=米大使館、エルサレムに移るの?-ニュースを探るQ&A|newspaper=時事通信|date=2017-1-27|accessdate=2017-1-27}}</ref><ref name=news2/>、テルアビブを政治・文化・経済の中心たる事実上の首都とみなしている<ref name=news1/><ref name=news2/>。
== 概要 ==
[[ファイル:Azrieli Towers Sept.2007.JPG|thumb|left|150px|アズリエリセンター]]
[[イスラエル]]の西側[[地中海]]に面する地域に位置するテルアビブ都市圏([[グッシュ・ダン]])は[[イスラエル]]最大の都市圏である。[[2010年]]の[[世界の都市的地域の人口順位|都市圏人口]]は268万人であり<ref>[http://www.demographia.com/db-worldua.pdf Demographia: World Urban Areas & Population Projections]</ref>、同国の人口(約700万人)のおよそ40%が集中している。行政管轄面積は50.6平方キロメートル、人口密度は1平方キロメートルあたり7,445人、イスラエル中央統計局による[[国勢調査]]によると、2006年現在で総人口は38万人であり、[[人口増加率]]は0.9%である。
[[アズリエリセンター]]などの[[超高層ビル]]、国際級の[[ホテル]]も立ち並び、「[[中東]]の[[ヨーロッパ]]」として、[[政治]]や[[経済]]の中心地として発展を続けている。高級宝石類などショッピングも充実した都市で、[[観光]]や経済の中心地であり、[[治安]]は良い。
世界でも有数の「[[ゲイ]]に優しい街」として[[同性愛]]者に人気がある<ref>{{cite news |language = | author =| url =http://www.asahi.com/international/update/0608/TKY201206080511.html| title =「ゲイに優しい街」でパレード イスラエル・テルアビブ| publisher =| date= 2012-6-11| accessdate =2013-2-15}}</ref>。
{{Clearleft}}
== 歴史 ==
[[File:Geddes Plan for Tel Aviv 1925.jpg|thumb|left|200px|[[パトリック・ゲデス]]によるテルアビブの最初のマスタープラン([[1925年]])]]
テルアビブの地名は、[[旧約聖書]]の[[エゼキエル書]]3:15に登場し、捕囚の[[イスラエル人]]が共同居住地として住まわされた[[新バビロニア|新バビロニア帝国]]の町の名に由来する。[[テル]]とはヘブライ語で「遺跡・廃墟」の意(現在[[ニップル]]の東半径8~16キロに[[遺丘|テル]]が多数点在し、イスラエル人の[[土器]]も発見されている)。また、[[アヴィヴ]]とはヘブライ語で「[[穀物]]の[[耳]]」(=穀物の穂)の意で、転じて[[春]]のこと(古代ユダヤ暦では、ニサンの月という[[月]]名にもなっていた)。ちなみに、現在の地名についている「ヤッファ」は、聖書時代のこの地の地名を受け継いでおり、ヘブライ語で「美しい」という意味がある。
[[20世紀]]初頭までは、古代港湾都市[[ヤッファ|ヤーファー]]に隣接する海沿いの砂丘にすぎなかったが、ヤーファーの港と街に対抗する、入植したシオニストユダヤ人自らの港と街を建設すべく、テルアヴィヴの建設は戦略的に進められた。この町は正に「(無知蒙昧な)東方に抗する白色の砦」であり、イスラエル人建築家ロトバードはこの町の歴史は、「いかにしてユダヤ人が白人となったか」を明確に説明してくれると述べている。<ref>{{cite journal |洋書|author=Sharon Rotbird| title=White City Black City: Architecture and War in Tel Aviv and Jaffa|pages=1-52 |publisher=The MIT Press|date=2015}}</ref>
[[1948年]]5月14日、テルアビブにおいてイスラエル国家樹立が宣言された。この[[イスラエル独立宣言|国家樹立宣言]]が[[第一次中東戦争]]に発展した。イスラエル建国初期は首都機能をテルアビブにおいていたが、イスラエルは[[西エルサレム]]を占領して1950年に首都機能を西エルサレムに移転。1967年にイスラエルは東エルサレムを占領・併合し、1980年に統一エルサレムはイスラエルの永遠の首都と宣言した。
しかし、イスラエルのエルサレム首都宣言は国際的には承認されておらず<ref name=news1/><ref name=news2/>、[[国際連合]](国連)などではテルアビブを事実上の首都とみなしており<ref name=news1/><ref name=news2/>、2017年現在、国連加盟各国は[[大使館]]等をテルアビブに置いたままである<ref name=news1/><ref name=news2/>。2016年の[[2016年アメリカ合衆国大統領選挙|アメリカ合衆国大統領選挙]]では選挙戦で大使館のエルサレム移転を公約した[[ドナルド・トランプ]]が勝利<ref name=news1/><ref name=news2/>、2017年12月6日にはエルサレムをイスラエルの首都と認定することを正式に表明した<ref>{{Cite news|url=https://jp.reuters.com/article/trump-jerusalem-1206-idJPKBN1E02Z5?il|title=トランプ米大統領、エルサレムをイスラエル首都と正式認定|agency=[[ロイター]]|date=2017-12-07|accessdate=2017-12-07}}</ref>。
{{clearleft}}
== 地理 ==
[[ファイル:TA1011.jpg|thumb|left|300px|テルアビブの街並み]]
市中心部には、[[放送局]]や巨大[[ショッピングモール]]などのほか、[[ハビマー|ハビマー劇場]]、[[ヘレナ・レビンシュタイン博物館]]、[[イスラエル国防軍]]本部、[[リクード]]、[[労働党 (イスラエル)|労働党]]本部や[[情報機関]]の[[イスラエル諜報特務庁|モサッド]]や[[イスラエル総保安庁|シャバック]]本部などの他に報道・商業・政治などの主要機能が集中する。
ハ・メディナ広場周辺の地域は、白亜建造物が並ぶ計画都市で、「[[テルアビブの白い都市|白い都市]]」として[[世界遺産]]に登録されている。
ハ・ヤルコン川より北側の地域には国内線用の[[スデ・ドブ空港]]、イスラエル博物館や、学問の中心、[[テルアビブ大学]]があり、ラマト・アビブと呼ばれる高級住宅地もある。
{{Clearleft}}
== 気候 ==
[[地中海性気候]] (Csa) に分類される。夏の最高気温は30℃前後。
<center><!--Infobox begins-->
{{Infobox Weather
|metric_first=yes <!--Entering Yes will swap unit order to metric first. Leave blank for Imperial-->
|single_line=yes <!--Entering Yes will compact the infobox vertically by placing some units on same line.-->
|location=テルアビブ
|Jan_Hi_°F =63.5 |Jan_Hi_°C =17.5 |Jan_REC_Hi_°F = |Jan_REC_Lo_°F= <!--REC temps are optional; use sparely-->
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</center>
== 歴代市長 ==
[[File:RabinSquare.jpg|thumb|ラビン広場(市庁舎)]]
[[File:Skoras building.jpg|thumb|旧市庁舎]]
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!1
|[[ファイル:Meir Dizengoff.jpg|40px]]||[[w:Meir Dizengoff|メイア・ディゼンゴフ]]||1921年||1925年||
|-
!2
|[[ファイル:TelAvivEmblem.svg|40px]]||[[w:David Bloch-Blumenfeld|ダビド・ブロフ]]||1925年||1927年||
|-
!3
|[[ファイル:Meir Dizengoff.jpg|40px]]||[[w:Meir Dizengoff|メイア・ディゼンゴフ]]||1928年||1936年||
|-
!4
|[[ファイル:Israel Rokach 1950.jpg|40px]]||[[w:Israel Rokach|イスラエル・ロカフ]]||1936年||1952年||
|-
!5
|[[ファイル:Chaim Levanon president Ben Zvi.jpg|40px]]||[[w:Chaim Levanon|ハイム・レバノン]]||1953年||1959年||
|-
!6
|[[ファイル:Mordechai Namir 1947.jpg|40px]]||[[w:Mordechai Namir|モルデハイ・ナミール]]||1959年||1969年||マパイ
|-
!7
|[[ファイル:TelAvivEmblem.svg|40px]]||[[w:Yehoshua Rabinovitz|イェホシュハ・ラヴィノビッツ]]||1969年||1974年||[[w:Alignment (political party)|連合]]
|-
!8
|[[ファイル:Shlomo Lahat.JPG|40px]]||[[w:Shlomo Lahat|ショロモ・ラハット]]||1974年||1993年||[[リクード]]
|-
!9
|[[ファイル:TelAvivEmblem.svg|40px]]||[[w:Roni Milo|ロニー・ミロ]]||1993年||1998年||[[リクード]]
|-
!10
|[[ファイル:Ron Huldai.jpg|40px]]||[[ロン・フルダイ]]||1998年||現在||[[労働党 (イスラエル)|労働党]]
|}
== 人口動態 ==
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|-
|+ 年齢別人口統計
|-
!年齢(歳)
|width="50px"|0-4||width="50px"|5-9||width="50px"|10-14||width="50px"|15-19||width="50px"|20-29||width="50px"|30-44||width="50px"|45-59||width="50px"|60-64||width="50px"|65-
|-
!人口統計(%)
|6.8||5.3||5.0||5.5||19.6||21.4||15.9||3.8||16.6
|-
|colspan="10" style="text-align:right"|<small>※ 2001年</small>
|}
== 経済 ==
イスラエル経済の中心であり<ref name=web1/>、[[2014年]]にアメリカの[[シンクタンク]]が公表した[[ビジネス]]・[[人材]]・[[文化_(代表的なトピック)|文化]]・[[政治]]などを対象とした総合的な[[世界都市#研究調査|世界都市ランキング]]において、世界第54位の都市と評価されており、[[西アジア]]の都市では[[ドバイ]]に次ぐ第2位であった<ref>[http://www.atkearney.com/documents/10192/4461492/Global+Cities+Present+and+Future-GCI+2014.pdf/3628fd7d-70be-41bf-99d6-4c8eaf984cd5 2014 Global Cities Index and Emerging Cities Outlook] (2014年4月公表)</ref>。
2019年には[[金融センター]]として競争力は世界22位と評価された<ref>{{Cite web|title=The Global Financial Centres Index - Long Finance|url=https://www.longfinance.net/programmes/financial-centre-futures/global-financial-centres-index/|website=www.longfinance.net|accessdate=2020-02-05}}</ref>。
ハイテク産業が発展している都市としても有名である。
{{Seealso|シリコン・ワディ}}
2021年、イギリスの[[エコノミスト]]紙の調査部門が発表した世界の都市における「生活費ランキング2021年版」において、テルアビブが初めて世界首位となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cnn.co.jp/photo/35180197.html |title=写真特集:生活費が高い都市ランキング、テルアビブ首位 |publisher=CNN |date=2021-12-01 |accessdate=2021-12-24}}</ref>。
== 交通 ==
[[ファイル:Littleuni 13.jpg|thumb|200px|アヤロン・ハイウェイ]]
[[ファイル:Moshe2006 0605 110114.JPG|thumb|200px|中央バスセンター]]
[[ファイル:Tel Aviv Shalom Railway Station 01.jpg|thumb|200px|ハシャローム駅]]
=== 道路 ===
テルアビブを中心とする、[[ラマトガン]]、[[バトヤム]]、[[ブネイ・バラク]]、[[ヘルツリア]]からなる首都圏(通称 [[グッシュ・ダン]])地域や[[ベン・グリオン国際空港]]との間には、アヤロン・ハイウェイが結んでいる。また、[[ハイファ]]、[[アシュケロン]]、[[エルサレム]]などを結ぶ[[高速道路]]も整備されている。自動車交通網は概して非常によく整備されており、朝夕を除いて渋滞は深刻ではない。
市南部には、巨大な[[バスターミナル]]([[テルアビブ・セントラル・バスステーション]])があり、ここを中心として[[エルサレム]]や[[ハイファ]]行きなどの近郊路線バス、[[エイラット]]、[[ベエルシェバ]]や[[ゴラン高原]]行きの長距離バス。市街地中心の路線バスが発着している。また、このバスターミナルは世界最大であり、総敷地面積は延べ44,000平方メートルにもなる。ショッピングモールも兼ね備えており、6階建ての立体構造で種類別にバスが発着している。
=== 鉄道 ===
鉄道網は[[イスラエル鉄道]]により{{仮リンク|テルアビブ・サヴィドール中央駅|en|Tel Aviv Savidor Central railway station}}、[[:en:Tel Aviv University railway station|テルアビブ大学駅]]、[[:en:Tel Aviv HaShalom railway station|シャローム駅]]、[[:en:Tel Aviv HaHagana railway station|ハガナ駅]]の4つの駅を中心として[[ハイファ]]、[[リション・レジオン]]、[[ベエルシェバ]]、[[エルサレム]]、[[クフェル・サバ]]などを結んでいる他、市内や近郊を結ぶ交通機関として頻繁に走っている。地中海沿いの路線は高速化が施され、快速で[[ハイファ]]まで1時間、[[ベン・グリオン国際空港]]までは30分弱である。2018年にはベン・グリオンからエルサレムの{{仮リンク|エルサレム・イツハク・ナヴォン駅|en|Jerusalem–Yitzhak Navon railway station}}まで高速新線の{{仮リンク|新テルアビブ・エルサレム線|en|Tel Aviv–Jerusalem railway}}が開通し、従来の[[テルアビブ=エルサレム線]]から置き換えられた。2023年には{{仮リンク|テルアビブ・ライトレール|en|Tel Aviv Light Rail}}が。さらに、近年中の開通を目指して、{{仮リンク|テルアビブ地下鉄|en|Tel Aviv Metro}}網が計画されている。
* {{仮リンク|テルアビブ・ライトレール|en|Tel Aviv Light Rail}}
* {{仮リンク|テルアビブ地下鉄|en|Tel Aviv Metro}}
=== 空港 ===
市内中心部から南東に位置する[[ロード (イスラエル)|ロード]]にある国内最大の[[ベン・グリオン国際空港]]がある。[[日本]]からの[[エル・アル航空]]の直行便や、香港、北京、[[バンコク]]の各都市を経由していくことが出来る。
== 観光 ==
* [[ヤッファ|ヤーファー旧市街]]
* [[カルメル市場]]
* 「[[テルアビブの白い都市|白い街]]」 - [[バウハウス]][[建築]]群
* [[アルバフル・モスク]] ヤーファー地区の旧港にある、16世紀のモスク
* [[マフムーディーヤ・モスク]] ヤーファー地区最大のモスク。18世紀から建築が始まった。
* [[ハッサン・ベク・モスク]] ヤーファー北端のオスマン様式のモスク。
== 大学 ==
[[ファイル:Naftali Building. Tel Aviv University.jpg|thumb|200px|[[テルアビブ大学]]]]
* [[テルアビブ大学]]
== スポーツ ==
=== チーム ===
==== サッカー ====
* [[ハポエル・テルアビブFC]]
* [[マッカビ・テルアビブFC]]
* [[ブネイ・イェフダ・テルアビブFC]]
* [[ベイタル・シムシェーン・テルアビブFC]]
==== バスケットボール ====
* {{仮リンク|ハポエル・テルアビブBC|en|Hapoel Tel Aviv B.C.}}
* [[マッカビ・テルアビブBC]]
=== 競技場 ===
* {{仮リンク|ブルーム・フィールド・スタジアム|en|Bloomfield Stadium}}
* [[ノキア・アリーナ]]
== 友好都市 ==
{{Col-begin}}{{Col-3}}
* {{flagicon|KAZ}} [[アルマトイ]]([[カザフスタン]])
* {{flagicon|TUR}} [[イズミル]]([[トルコ]])
* {{flagicon|AUT}} [[ウィーン]]([[オーストリア]])
* {{flagicon|POL}} [[ウッチ]]([[ポーランド]])
* {{flagicon|GER}} [[エッセン]]([[ドイツ]])
* {{flagicon|PLE}} [[ガザ]]([[パレスチナ]])
* {{flagicon|FRA}} [[カンヌ]]([[フランス]])
* {{flagicon|MDA}} [[キシナウ]]([[モルドバ]])
{{Col-3}}
* {{flagicon|GER}} [[ケルン]](ドイツ)
* {{flagicon|BUL}} [[ソフィア (ブルガリア)|ソフィア]]([[ブルガリア]])
* {{flagicon|GRE}} [[テッサロニキ]]([[ギリシャ]])
* {{flagicon|FRA}} [[トゥールーズ]](フランス)
* {{flagicon|USA}} [[ニューヨーク]]([[アメリカ合衆国]])
* {{flagicon|ESP}} [[バルセロナ]]([[スペイン]])
* {{flagicon|USA}} [[フィラデルフィア]](アメリカ合衆国)
* {{flagicon|ARG}} [[ブエノスアイレス]]([[アルゼンチン]])
{{Col-3}}
* {{flagicon|HUN}} [[ブダペスト]]([[ハンガリー]])
* {{flagicon|GER}} [[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]](ドイツ)
* {{flagicon|CHN}} [[北京市|北京]]([[中華人民共和国]])
* {{flagicon|SRB}} [[ベオグラード]]([[セルビア]])
* {{flagicon|GER}} [[ボン]](ドイツ)
* {{flagicon|ITA}} [[ミラノ]]([[イタリア]])
* {{flagicon|RUS}} [[モスクワ]]([[ロシア]])
* {{flagicon|POL}} [[ワルシャワ]]([[ポーランド]])
{{Col-end}}
== ゆかりの人物 ==
=== テルアビブ生まれの人物 ===
* [[ベンヤミン・ネタニヤフ]]、第13代、17代、20代[[イスラエルの首相|イスラエル首相]]
* [[エフード・オルメルト]]、第16代イスラエル首相、元[[エルサレム]]市長
* [[エゼル・ヴァイツマン]]、第7代[[イスラエルの大統領|イスラエル大統領]]
* [[イツハク・ヘルツォグ]]、第11代イスラエル大統領
* [[イツァーク・パールマン]]、バイオリニスト
* [[ツィッピー・リヴニ]]、[[ハトヌア]]党首
* [[アイェレット・ゾラー]]、女優
* [[ダニエル・シェヒトマン]]、[[2011年]]度[[ノーベル化学賞]]受賞者
* [[ヤキール・アハラノフ]]、物理学者
* [[T・J・リーフ]]、バスケットボール選手
=== テルアビブで亡くなった人物 ===
*[[イシュトヴァン・ケルテス]] (この地で溺死)
== 画像 ==
{{Wide image|Tel Aviv and Ramat Gan, looking from Tel Aviv University.jpg|1550px}}
{{Wide image|GushDanPano1.jpg|1400px}}
{{wide image|View of Tel Aviv from the Azrieli Center (Panorama).jpg|900px|テルアビブ中心部のパノラマ}}
<gallery>
ファイル:Hadmo2006 0603 164431.JPG|[[スデ・ドブ空港]]
ファイル:Ehad Haam stock exchange.JPG|[[テルアビブ証券取引所]]
ファイル:Anakondacoaster.JPG|テルアビブルナパーク
ファイル:Doron Cinema Center in Tel Aviv.jpg|テルアビブシネマテーク
ファイル:The exhibition centre area.jpg|イスラエルの見本市&コンベンションセンター
ファイル:Tel-o-fun.jpg|自転車レンタル
ファイル:Centar narodni sport.jpg|国立スポーツセンター - テルアビブ
ファイル:Yarkon park wide view.jpg|パークンハヤルコン
ファイル:Dizengof.jpg|ディゼンゴフ・センター
ファイル:Yad Eliyahu Stadium.JPG|[[ノキア・アリーナ]]
</gallery>
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|Tel Aviv-Yafo|Tel Aviv-Yafo}}
* [[エルサレム]]
* [[ヤッファ]]
* [[在イスラエル日本国大使館]]
== 参考文献 ==
* {{Cite book|first=Sharon|last=Rotbird|title=White City Black City: Architecture and War in Tel Aviv and Jaffa|publisher=The MIT Press|location=Cambridge|year=2015|page=1-52}}
== 外部リンク ==
* [https://www.tel-aviv.gov.il/Pages/HomePage.aspx Tel Aviv official website](公式サイト){{en icon}}{{he icon}}
* [https://www.tau.ac.il/ Tel Aviv University]
* [https://timeout.co.il/ TimeOut Tel Aviv (Hebrew)]
* [http://www.iaa.gov.il/Rashat/en-US/Airports/BenGurion/ Ben Gurion International Airport]
* [http://www.iaa.gov.il/Rashat/en-US/Airports/SdeDov/ Dov Hoz Airport (Sde Dov)]
* [https://www.telaviv-marina.co.il/ Tel Aviv Marina]
* [http://www.telavivinf.com/maineng.asp/ Tel Aviv in Focus]{{リンク切れ|date=2021年12月}}
{{古代イスラエルの町}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:てるあういう}}
[[Category:テルアビブ|*]]
[[Category:テルアビブ地区]]
[[Category:イスラエルの都市]]
[[Category:聖書に登場する地名]]
[[Category:イスラエルの古都]] | 2003-05-19T11:27:53Z | 2023-12-14T06:55:24Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AB%E3%82%A2%E3%83%93%E3%83%96 |
8,646 | 相 | 相(そう、しょう、あい、さが)
木と目をあわせた会意文字。目が木に向かい合う事から、よく見て調べる事を意味する。また向かい合う事から、「互いに」「助ける」という意味を生じた。→相手 | [
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] | 相(そう、しょう、あい、さが) 木と目をあわせた会意文字。目が木に向かい合う事から、よく見て調べる事を意味する。また向かい合う事から、「互いに」「助ける」という意味を生じた。→相手 | {{Wiktionary}}
'''相'''(そう、しょう、あい、さが)
木と目をあわせた会意文字。目が木に向かい合う事から、よく見て調べる事を意味する。また向かい合う事から、「互いに」「助ける」という意味を生じた。→[[相手]]
==一覧==
* 見た目、姿、様子(そう)→[[容貌]]
** 上記を見ること。特に[[人相]]。他に[[手相]]、[[家相]]など。
** 月の相。→[[月相]]
* 特定環境下の生物の総体。[[生物相]]、[[動物相]]、[[植物相]]など。
* [[宰相]]、相公、[[相国]]の意。(しょう)
** [[大臣]](Minister, Secretary)のこと。各政府省庁内における、最上位の行政官。現在では、接尾辞的に使われることが多い([[首相]]、[[外相]]など)。
** [[諸侯相]]のこと。前漢・後漢に置かれた諸侯王に付けられた役人の最高位。皇帝の[[丞相]]に相当する役職であったが、後には諸侯王の権限削減や廃絶などによって郡の[[太守]]とほぼ同格となった。
* シャンチーの駒の一種。→[[象 (シャンチー)]]
* 夏の5代目の帝。→[[相 (夏)]]
* [[相模国]]の略(そう)。相国。
* 漢姓。→{{仮リンク|相 (姓)|zh|相姓|zh-yue|相氏}}
;'''フェーズ''' ([[w:Phase|phase]]) の訳語。(そう)
* 物質や概念(もの)の状態を表す。(概念の状態の例:モデル計算でのモデルの状態など)
** 波形などを特徴付ける量。物理学における用語。→[[位相]]
** 物理的状態や化学的組成が一様な形態のもの。→[[相 (物質)]]
* 考古学における時期区分概念。→[[相 (考古学)]]
;'''アスペクト''' ([[w:Aspect|aspect]]) の訳語。(そう)
* 言語学における動詞のアスペクト。→[[相 (言語学)]]
* 座相 - 天体の黄経差。→[[アスペクト (占星術)]]
;さが
* [[傾向]]、[[素質]]、素因。たち。→{{仮リンク|性分|en|Disposition}}
* さだめ (否定的な意味)。→[[宿命]]
== 関連項目 ==
* [[フェーズ]]
* [[アスペクト]]
* [[相公]]
* [[性]]・[[サガ (曖昧さ回避)]]
* [[ドゥーム]]・[[フェイト (曖昧さ回避)]]
* [[相棒 (曖昧さ回避)]]
*[[湘南 (曖昧さ回避)]]
*{{Prefix}}
*{{intitle}}
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8 |
8,647 | 相模大野駅 | 相模大野駅(さがみおおのえき)は、神奈川県相模原市南区相模大野にある、小田急電鉄の駅である。駅番号はOH 28。副駅名は「相模女子大学 最寄駅」。
小田原線と江ノ島線が営業上分岐する駅である(施設上の分岐点は当駅より200メートル下り方にある相模大野分岐点)。また、大野電車区と大野車掌区が併設されており(相模大野八丁目18番1号)、当駅で乗務員の交代が行われることがあるほか、大野総合車両所が隣接しており、当駅を始発・終着とする列車が設定されている。
管区長および駅長所在駅であり、相模大野管区として当駅 - 伊勢原駅間と東林間駅の計10駅を、相模大野管内として当駅、小田急相模原駅と東林間駅を管理している。
駅事務室を含めた駅施設やホームなど、当駅の設備のほぼすべては相模大野八丁目にあるが、住居表示実施区域のため、住所表記は主たる出入口とされている北口が所在する相模大野三丁目8番街区内となる。
駅開業当時の「通信学校」は陸軍通信学校が駅の近くにあったことから名づけられた。「相模大野」は、駅所在地が「高座郡大野村」であったことによる。福島県にある既存の大野駅との区別を図るため旧国名の相模を附した。相模原町(相模原市)となって以降も大野地域とされていたことから、相模原市近辺の住民および利用者からは「相模」を付けずに大野と呼称されることが多い。
島式ホーム2面4線および通過線2線を有する地上駅で、橋上駅舎を備える。
駅舎は相模大野ステーションスクエアという駅ビルで、Odakyu OX、ビックカメラなどの各種専門店、小田急ホテルセンチュリー相模大野がテナントとして入居している。以前は、小田急百貨店がテナントとして入っていた。
近年の1日平均乗降人員の推移は下表の通りである。
近年の1日平均乗車人員の推移は下表の通りである。
相模大野は相模原市南部の交通・商業の拠点地域として、市北部の中心地域である橋本(緑区)とともに中心市街地に位置付けられている。しかしながら、商業面においては隣接駅の町田駅周辺の方が既に大規模な商圏が形成されていたことから、規模としては中程度とされる。
駅東側には国道16号(東京環状)が、北側には神奈川県道51号町田厚木線(行幸道路)が通る。
1980年代初頭まで行幸道路北側と相模女子大学の間に相模原米軍医療施設が存在したが、日本へ返還後、跡地利用として住宅施設(ロビーシティ相模大野五番街)、商業施設(伊勢丹相模原店、2019年9月閉店、2021年解体)、文化施設(相模女子大学グリーンホール)、娯楽施設(相模大野中央公園)、教育施設(旧・神奈川県立相模大野高等学校)等のほか駅周辺のアンダーパス、歩道橋の設置を行い、踏切の廃止、再開発等を行った。その後、北口駅前広場および駅ビル(相模大野ステーションスクエア)新築を含めた駅舎の改良工事が行われ、近年の急激なベッドタウン化に伴う人口増加も相まって著しい変化を遂げた。
相模大野の冠を拝する地域は北口であり、北口に商業施設や商店街が集積されており、非常に活気にあふれている。
北口と南口に乗り場がある。1990年頃まではバスターミナルは北口のみであったが、再開発と駅舎改築の際に、南口にもバス乗り場が設置された。また、北口近くのグリーンホール相模大野にグリーンホール前停留所があり、北口発着の一部の系統が経由するほか、朝方は一部の系統が北口の代わりに始発停留所としている。
2015年3月1日には相模大野駅北口付近に「バス運行情報案内表示機」が設置された。
一般路線は神奈川中央交通東が担当している。発着路線の詳細については、神奈川中央交通東・相模原営業所および神奈川中央交通東・橋本営業所を参照。空港連絡バスは上記の神奈川中央交通東・神奈川中央交通西のほかに、京浜急行バス・京成バスが担当している。
ペデストリアンデッキの下に2つの島からなるのりばがある。のりばでは1 - 4・7・8番、5・6番と分かれ、進行方向前から番号が付与されている。再開発前から駅と行幸道路の間では、駅行と駅発のバスが別の道路を通る。 | [
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"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "1980年代初頭まで行幸道路北側と相模女子大学の間に相模原米軍医療施設が存在したが、日本へ返還後、跡地利用として住宅施設(ロビーシティ相模大野五番街)、商業施設(伊勢丹相模原店、2019年9月閉店、2021年解体)、文化施設(相模女子大学グリーンホール)、娯楽施設(相模大野中央公園)、教育施設(旧・神奈川県立相模大野高等学校)等のほか駅周辺のアンダーパス、歩道橋の設置を行い、踏切の廃止、再開発等を行った。その後、北口駅前広場および駅ビル(相模大野ステーションスクエア)新築を含めた駅舎の改良工事が行われ、近年の急激なベッドタウン化に伴う人口増加も相まって著しい変化を遂げた。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "相模大野の冠を拝する地域は北口であり、北口に商業施設や商店街が集積されており、非常に活気にあふれている。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "北口と南口に乗り場がある。1990年頃まではバスターミナルは北口のみであったが、再開発と駅舎改築の際に、南口にもバス乗り場が設置された。また、北口近くのグリーンホール相模大野にグリーンホール前停留所があり、北口発着の一部の系統が経由するほか、朝方は一部の系統が北口の代わりに始発停留所としている。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "2015年3月1日には相模大野駅北口付近に「バス運行情報案内表示機」が設置された。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "一般路線は神奈川中央交通東が担当している。発着路線の詳細については、神奈川中央交通東・相模原営業所および神奈川中央交通東・橋本営業所を参照。空港連絡バスは上記の神奈川中央交通東・神奈川中央交通西のほかに、京浜急行バス・京成バスが担当している。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "ペデストリアンデッキの下に2つの島からなるのりばがある。のりばでは1 - 4・7・8番、5・6番と分かれ、進行方向前から番号が付与されている。再開発前から駅と行幸道路の間では、駅行と駅発のバスが別の道路を通る。",
"title": "バス路線"
}
] | 相模大野駅(さがみおおのえき)は、神奈川県相模原市南区相模大野にある、小田急電鉄の駅である。駅番号はOH 28。副駅名は「相模女子大学 最寄駅」。 | {{駅情報
|社色 = #2288CC
|文字色 =
|駅名 = 相模大野駅*
|画像 = File:Sagami-Ono Station North 201610.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 北口(2016年10月)
|地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|type=point|frame-width=300|marker=rail}}
|よみがな = さがみおおの
|ローマ字 = Sagami-Ono
|副駅名 = 相模女子大学 最寄駅
|電報略号 =
|駅番号 = {{駅番号r|OH|28|#2288CC|4||#2288CC}}
|所属事業者 = [[小田急電鉄]]
|乗入路線数 = 2
|所属路線1 = {{Color|#2288CC|■}}[[小田急小田原線|小田原線]]
|前の駅1 = OH 27 [[町田駅|町田]]
|駅間A1 = 1.5
|駅間B1 = 2.4
|次の駅1 = [[小田急相模原駅|小田急相模原]] OH 29
|キロ程1 = 32.3
|起点駅1 = [[新宿駅|新宿]]
|所属路線2 = {{Color|#2288CC|■}}[[小田急江ノ島線|江ノ島線]]
|隣の駅2 =
|前の駅2 =
|駅間A2 =
|駅間B2 = 1.5
|次の駅2 = [[東林間駅|東林間]] OE 01
|キロ程2 = 0.0
|起点駅2 = 相模大野
|所在地 = [[相模原市]][[南区 (相模原市)|南区]][[相模大野]]三丁目8番1号
|座標 = {{coord|35|31|55|N|139|26|16|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}}
|駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]])
|ホーム = 2面4線(他に通過線2線あり)
|開業年月日 = [[1938年]]([[昭和]]13年)[[4月1日]]<ref name="kotsu19961203">{{Cite news |title=私鉄沿線・いま 小田急電鉄相模大野駅 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1996-12-03 |page=2 }}</ref>
|廃止年月日 =
|乗降人員 = <ref group="小田急" name="odakyu2022" />110,249
|統計年度 = 2022年<!--リンク不要-->
|備考 = * [[1940年]](昭和16年)に通信学校駅から改称。}}
'''相模大野駅'''(さがみおおのえき)は、[[神奈川県]][[相模原市]][[南区 (相模原市)|南区]][[相模大野]]にある、[[小田急電鉄]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''OH 28'''。[[副駅名]]は「'''[[相模女子大学]] 最寄駅'''」<ref name="news20220607">[https://www.sagami-wu.ac.jp/info/20220607_11/ 小田急線相模大野駅に、本学が副駅名看板を掲出します]相模女子大学</ref>。
== 概要 ==
[[小田急小田原線|小田原線]]と[[小田急江ノ島線|江ノ島線]]が営業上分岐する駅である(施設上の分岐点は当駅より200メートル下り方にある[[相模大野分岐点]])。また、大野電車区と大野車掌区が併設されており(相模大野八丁目18番1号)、当駅で[[乗務員交代|乗務員の交代]]が行われることがあるほか、[[小田急電鉄の車両検修施設#大野総合車両所|大野総合車両所]]が隣接しており、当駅を始発・終着とする列車が設定されている。
管区長および[[駅長]]所在駅であり、相模大野管区として当駅 - [[伊勢原駅]]間と[[東林間駅]]の計10駅を、相模大野管内として当駅、[[小田急相模原駅]]と東林間駅を管理している<!-- (鉄道ピクトリアル2010年1月臨時増刊号参照) -->。
駅事務室を含めた駅施設やホームなど、当駅の設備のほぼすべては相模大野八丁目にあるが、[[住居表示]]実施区域のため、住所表記は主たる出入口とされている北口が所在する相模大野三丁目8番街区内となる。
=== 乗り入れ路線 ===
* 小田急電鉄 - 駅番号「'''OH 28'''」
** [[File:Odakyu odawara.svg|15px|OH]] [[小田急小田原線|小田原線]]
** [[File:Odakyu enoshima.svg|15px|OE]] [[小田急江ノ島線|江ノ島線]]
== 歴史 ==
[[File:Sagami-Ono Station.1975.01.jpg|thumb|right|250px|相模大野駅周辺の空中写真(1975年1月撮影){{国土航空写真}}]]
[[File:Sagami-Ono Station.2019.08.jpg|thumb|right|250px|相模大野駅周辺の空中写真(2019年8月撮影){{国土航空写真}}]]
* [[1929年]]([[昭和]]4年)[[4月1日]] - 現在地より0.2km小田原寄りに'''大野信号所'''開設。
* [[1938年]](昭和13年)4月1日 - 当地に移転してきた[[陸軍通信学校]]の最寄り駅として、大野信号所が駅に昇格する形で'''通信学校駅'''として開業<ref name="kotsu19961203"/>。「直通」と[[小田急小田原線#急行|急行]]の停車駅となる。なお、[[小田急小田原線#各駅停車|各駅停車]]は、新宿駅 - 稲田登戸駅(現・向ヶ丘遊園駅)間のみの運行であり、当駅までの運行はなかった。
* [[1940年]](昭和15年)[[12月15日]] - 陸軍施設の秘匿化に伴い'''相模大野駅'''に改称<ref>鉄道省監督局「[{{NDLDC|2364375/69}} 地方鉄道・軌道異動並に現況表]」『電気協会雑誌』第231号、日本電気協会、1941年3月、附録2頁。(国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1944年]](昭和19年)11月 - 戦況悪化に伴い、急行の運行が中止される。
* [[1945年]](昭和20年)6月 - 従来、新宿駅 - 稲田登戸駅間のみの運行の各駅停車が全線で運行されることとなり、各駅停車の停車駅となる。同時に、「直通」は廃止される。
* [[1946年]](昭和21年)[[10月1日]] - [[小田急小田原線#準急|準急]]が設定され、停車駅となる。
* [[1951年]](昭和26年)4月1日 - 急行の停車駅となる。
* [[1955年]](昭和30年)[[3月25日]] - [[小田急小田原線#通勤急行(2代)|通勤急行]]が設定され、停車駅となる。
* [[1957年]](昭和32年) - 夏季のみ運行の[[臨時列車]]が設定され、停車駅となる。
* [[1960年]](昭和35年)3月25日 - [[小田急小田原線#通勤準急(2代)|通勤準急]]が設定され、停車駅となる。
* [[1962年]](昭和37年)[[10月19日]] - 大野工場(現・大野総合車両所)開設。
* [[1964年]](昭和39年)[[11月5日]] - 「[[小田急小田原線#快速準急|快速準急]]」が設定され、停車駅となる。
* [[1996年]]([[平成]]8年)
** [[9月1日]] - 現在地に移転。新駅舎と南北を結ぶ自由通路が供用開始<ref>{{Cite journal|和書 |date = 1996-12 |journal = [[鉄道ジャーナル]] |volume = 30 |issue = 12 |page = 87 |publisher = [[鉄道ジャーナル社]] }}</ref><ref name="kotsu19960903">{{Cite news |title=中央口駅舎が先行開業 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1996-09-03 |page=3 }}</ref>。
** [[11月1日]] - 小田急相模大野ステーションスクエア(相模大野ミロード)開業<ref name="kotsu19960903"/>。
* [[1997年]](平成9年)[[12月28日]] - [[営業キロ]]を新宿寄りに0.2 km(現在地と同じ位置)移転、旧駅地点は[[相模大野分岐点]]となる。
* [[1998年]](平成10年)[[8月22日]] - 相模大野駅改良工事完成<ref name="交通980810">{{Cite news |title=全線で急行10両化 小田急電鉄 設備改良工事で 22日から |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1998-08-10 |page=3 }}</ref>。特急ロマンスカーの停車開始<ref>[https://web.archive.org/web/19980614135233/http://www.odakyu-group.co.jp:80/topics/98romance-stop.htm 平成10年8月22日(土)に予定しているダイヤ改正時から「相模大野駅」と「秦野駅」に一部のロマンスカーが停車します](小田急電鉄ニュースリリース・インターネットア―カイブ・1998年時点の版)。</ref>{{R|交通980810}}。
* [[2000年]](平成12年)[[10月14日]] - [[関東の駅百選]]に選出される<ref>[https://web.archive.org/web/20031006102215/http://www.d-cue.com/program/info/PG02348.pl?key=39&info_kubun=co&mode=online “鉄道の日”記念イベント第4回“関東の駅百選”に「相模大野駅」が選定されました](小田急電鉄ニュースリリース・インターネットア―カイブ・2003年時点の版)。</ref>。
* [[2002年]](平成14年)[[3月22日]] - [[湘南急行]]が設定され、停車駅となる。
* [[2004年]](平成16年)[[12月11日]] - [[小田急小田原線#快速急行|快速急行]]、[[小田急小田原線#区間準急|区間準急]]が設定され、停車駅となる。湘南急行は廃止となる。
* [[2009年]](平成21年)12月 - 駅構内コンコース、ホームに設置されている発車標案内が[[フルカラー]][[発光ダイオード|LED]]式に更新される。
* [[2012年]](平成24年)[[3月17日]] - [[東海旅客鉄道|JR]][[御殿場線]]の[[御殿場駅]]まで直通する特急ロマンスカー「[[ふじさん|あさぎり]]」号の停車を開始。
* [[2014年]](平成26年)[[1月]]:[[駅ナンバリング]]が導入され、使用を開始<ref>{{Cite press release|和書|title=小田急線・箱根登山線・箱根ロープウェイ・箱根海賊船にて 2014年1月から駅ナンバリングを順次導入します! 新宿駅から箱根・芦ノ湖まで通しのナンバリングにより、わかりやすくご利用いただけます|publisher=小田急電鉄/箱根登山鉄道|date=2013-12-24|url=http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8052_1284200_.pdf|format=PDF|language=日本語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210509093516/http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8052_1284200_.pdf|accessdate=2021-05-09|archivedate=2021-05-09}}</ref>。
* [[2014年]](平成26年)[[6月19日]] - 車両基地に向かう回送電車が[[鉄道事故|脱線]]する事故が発生<ref>[http://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000029146.html 小田急線相模大野駅で脱線 回送電車、けが人なし]</ref>。
* [[2016年]](平成28年)[[3月26日]] - 区間準急が廃止される。
* [[2018年]](平成30年)[[3月17日]] - ダイヤ改正により、新設された通勤準急の停車駅となる。
* [[2022年]]([[令和]]4年)[[6月8日]] - 副駅名「'''相模女子大学 最寄駅'''」を導入<ref name="news20220607"/>。
=== 駅名の由来 ===
駅開業当時の「'''通信学校'''」は[[陸軍通信学校]]が駅の近くにあったことから名づけられた。「'''相模大野'''」は、駅所在地が「[[高座郡]][[大野村 (神奈川県)|大野村]]」であったことによる。[[福島県]]にある既存の[[大野駅]]との区別を図るため旧国名の[[相模国|相模]]を附した。相模原町(相模原市)となって以降も大野地域とされていたことから、相模原市近辺の住民および利用者からは「相模」を付けずに'''大野'''と呼称されることが多い。
== 駅構造 ==
{|{{Railway line header}}
{{UKrail-header2|<br/>相模大野駅<br/>配線図|#2288CC}}
{{BS-table|配線}}
{{BS-colspan}}↑ [[町田駅]]
{{BS6text|4|3|||2|1|||}}
{{BS4|STRg|ENDEa|STRf|||}}
{{BS4|STR|STR|STR||||}}
{{BS4|STR|STR|STR||||}}
{{BS4|KRWgl|KRWgl+r|KRWg+r|||}}
{{BS6||KRWg+l|KRWgr|ABZg2|O5=STRc3|||}}
{{BS6||O1=STRc2|ABZg3|STR|ABZg2|O5=STRc3|STR2+4|O4=STRc1|STRc3|||}}
{{BS6|STR+1|O2=STRc4|KRWg+l|KRWgr|STR|O4=STRc1|STR+4|O5=STRc1|STR+4|||}}
{{BS6|STR+BSl|STR+BSr|STR|STR|STR+BSl|STR+BSr|||}}
{{BS6|STR+BSl|O1=BUILDINGl|STR+BSr|STR|STR|STR+BSl|STR+BSr|O6=BUILDINGr|||}}
{{BS6|STR+BSl|STR+BSr|STR|STR|STR+BSl|STR+BSr|||}}
{{BS6|STR|KRWgl|KRWg+r|KRWg+l|KRWgr|STR|||}}
{{BS6|KRWgl+l|KRWgr+r|KRWgl|KRWg+r|KRWgl+l|KRWgr+r|||}}
{{BS6|STR|KRWgl|KRWg+r|KRWgl+l|KRWgr+r|STR|||}}
{{BS6|STR|STR|KRWgl|KRWg+r|STR|STR|||}}
{{BS6|STR|STR|O2=STRc2|STR3|O3=STRc2|ABZg3|STR|STR||}}
{{BS6|STR|O3=STRc4|ABZg+1|O4=STRc4|STR+1|STR|STR|STR||}}
{{BS6|STRg|STRg|STRf|STR|STR|STRf||}}
{{BS6text|F|E|D|C|B|A|||}}
{{BS-colspan}}↓A・F [[東林間駅]]/B・C [[大野総合車両所]]/D・E [[小田急相模原駅]]
|}
|}
[[島式ホーム]]2面4線および通過線2線を有する[[地上駅]]で、[[橋上駅|橋上駅舎]]を備える。
駅舎は[[ミロード#相模大野ステーションスクエア|相模大野ステーションスクエア]]という[[駅ビル]]で、[[小田急商事#都市型スーパーマーケット事業「Odakyu OX」|Odakyu OX]]、[[ビックカメラ]]などの各種専門店、[[小田急ホテルセンチュリー相模大野]]がテナントとして入居している。以前は、[[小田急百貨店]]がテナントとして入っていた。
=== のりば ===
{|class="wikitable"
!ホーム!!路線!!方向!!行先<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.odakyu.jp/station/sagami_ono/ |title=相模大野駅のご案内 駅立体図 |publisher=小田急電鉄 |accessdate=2023-06-03}}</ref>!!備考
|-
!1
|[[File:Odakyu enoshima.svg|15px|OE]] 江ノ島線
|rowspan="2" style="text-align:center"|下り
|[[片瀬江ノ島駅|片瀬江ノ島]]方面
|{{small|一部の特急は2番ホーム}}
|-
!2
|[[File:Odakyu odawara.svg|15px|OH]] 小田原線
|[[小田原駅|小田原]]方面
|{{small|一部の特急は1番ホーム}}
|-
!rowspan="2"|{{color|gray|通過線}}
|rowspan="2" style="background:beige"|{{color|gray|□小田原線}}
|style="background:beige;text-align:center"|{{color|gray|下り}}
|style="background:beige"|{{color|gray|(下り特急・回送列車の通過)}}
|style="background:beige"|
|-
|style="background:beige;text-align:center"|{{color|gray|上り}}
|style="background:beige"|{{color|gray|(上り特急・回送列車の通過)}}
|style="background:beige"|
|-
!3・4
|[[File:Odakyu odawara.svg|15px|OH]] 小田原線
|style="text-align:center"|上り
|[[新宿駅|新宿]]・[[File:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|15px|C]] [[東京メトロ千代田線|千代田線]]方面
|
|}
* 原則として外側ホーム(1・4番ホーム)を江ノ島線が、内側ホーム(2・3番ホーム)を小田原線が使用する。
** 1番ホームは小田原線(下り/小田原・箱根湯本方面)の待避線であるが、通常待避線として利用されることはなく、江ノ島線ホームとして使用されている。ホームの乗り場案内でも江ノ島線のみが案内されている。ただし特急ロマンスカーや臨時電車などには1番ホーム発の小田原線・2番ホーム発の江ノ島線が存在する。
** 同様に4番ホームの小田原線(上り待避線)も通常待避線として利用されず、江ノ島線からの電車が4番ホームを、小田原線からの電車が3番ホームを主に利用する。ただし当駅で接続する電車はこの限りではない。また特急ロマンスカー「はこね」「さがみ」と併結する4両編成「えのしま」の一部は3番ホームを利用する。
* 江ノ島線の列車は構造上、通過線を経由することができない。
**かつては小田原もしくは箱根湯本行きと片瀬江ノ島行きを当駅まで併結して走っていた急行<ref group="注釈">着工当時は急行自体は各方面単独運転となっていたものの、当駅で切り離して江ノ島線各停となる編成を当駅までつないでの分割併合運転は行われていた。</ref> が存在し、当該の列車が当駅で分割併合の作業を行っている間に後続の特急が追い抜きできるよう現在の配線構造が採用された。なお現在の急行・快速急行は各方面に単独運転することが原則になっている。なお、通過線については、下りが速度制限を受けないものの、上りはポイントを通過するため60km/hの速度制限を受ける<ref group="注釈">但し、3番ホームから発車する列車は、当駅発車後の速度制限を受けない。</ref>。
* 当駅で種別変更する列車が存在する。新宿発○○行急行で、相模大野から全車両各停○○行の列車(町田 - 相模大野間は連続停車のため、事実上町田から各停)は、町田 - 相模大野間走行中に種別のみを変更し当駅到着後に各停○○行と表示して、一部の電車を除いて後続の列車よりも終点まで先着する。逆に小田原線○○発新宿行各停で、相模大野から急行新宿行の列車(事実上町田まで各停)は、小田急相模原 - 相模大野間走行中に種別のみを変更して当駅到着後に急行新宿行と表示し、江ノ島線○○発新宿行急行で、相模大野から快速急行新宿行の列車(中央林間 - 相模大野間は急行・快速急行は同じ停車駅であるため、事実上中央林間から快速急行)は、東林間 - 相模大野間走行中に種別のみを変更して当駅到着後に快速急行新宿行と表示する。
* [[2016年]][[3月26日]]のダイヤ改正で、[[新松田駅]] - [[小田原駅]]が各駅停車の急行(通称:赤丸急行)は減便の上、当駅または町田駅発着に変更になった。2018年3月改正で江ノ島線の一部本鵠沼・鵠沼海岸駅停車となるパターンの急行とともに設定廃止となったが、新松田駅 - 小田原駅間各駅停車となる急行は'''新松田駅で種別を変更して運転継続'''する形で引き継がれる<ref group="注釈">該当する列車には、相模大野方向からの急行小田原行き→新松田から各駅停車小田原行き、小田原発各駅停車相模大野方面行き→新松田から急行相模大野方面行きというパターンになる。</ref>。なお2022年3月改正以降、日中時間帯の新宿 - 新松田駅間の急行は、6両編成の町田・相模大野 - 小田原駅間の急行(前述の通称:赤丸急行)に変更され、[[新松田駅]]を境に急行及び各駅停車へ変更する形態となった他、江ノ島線は一部の特急ロマンスカーと一般列車を除いて藤沢駅での系統分断を行ない、[[本鵠沼駅]]・[[鵠沼海岸駅]]・[[片瀬江ノ島駅]]へは藤沢駅での乗り継ぎが必要である。
* 1番ホームに6両編成、4番ホームに10両編成の夜間滞泊がある。
* 2018年3月改正以降、一部の特急ロマンスカーは、1つ隣の[[町田駅]]と当駅に両方停車する列車も設定された。
<gallery>
相模大野駅南口駅前.jpg|南口
Sagami-OnoStationEastNorth.jpg|東口(北出口)
Sagami-OnoStationConcourse.jpg|コンコース
相模大野0001.jpg|ホーム
Sagami-ono Station Square 2020-09-26.jpg|「小田急相模大野ステーションスクエア」内観
</gallery>
=== 駅構内設備 ===
* 改札口 2か所
** 中央改札口
** 東口改札口
* 改札内コンコース
** [[セブンイレブン]](コンビニ)
** [[小田急レストランシステム|フォレスティコーヒー]](カフェ)
** ピザオリーブ(持ち帰りピザ店)
** [[メガネスーパー|メガネスーパーコンタクト]]([[コンタクトレンズ]]専門店)
<!--改札外のマクドナルド等は、ステーションスクエア内のテナントなので除外-->
* [[プラットホーム|ホーム]]
** [[箱根そば]](下りホーム小田原寄り)
* [[便所|トイレ]]は、改札内山側(北側)と改札外のステーションスクエア西側にある。
* [[エレベーター]]は、改札階と各ホーム階を連絡する1台ずつ。
* [[エスカレーター]]は、各ホームにホーム階→改札階が2本ずつ(改札階→ホーム階はない)。
=== 構内配線・信号設備等 ===
{|class="wikitable"
!運転番線!!営業番線!!ホーム!!小田原線新宿方面着発!!小田原線小田原方面着発!!江ノ島線藤沢方面着発!!備考
|-
| style="text-align:center" colspan="2" |1|| style="text-align:right" rowspan="2" |10両分||rowspan="3"|到着可||rowspan="3"|出発可||rowspan="2"|出発可||
|-
| style="text-align:center" colspan="2" |2||
|-
|style="text-align:center"|3||rowspan="2" style="text-align:center"| ||rowspan="2" style="text-align:right"|ホームなし||rowspan="2"|不可||
|-
|style="text-align:center"|4||rowspan="3"|出発可||rowspan="3"|到着可||
|-
|style="text-align:center"|5||style="text-align:center"|3||rowspan="2" style="text-align:right"|10両分||rowspan="2"|到着可||
|-
|style="text-align:center"|6||style="text-align:center"|4||
|}
{{-}}
=== その他の特徴 ===
* 当駅での営業列車の[[多層建て列車|分割併合]]は、一部の特急を除いて2008年(平成20年)3月改正で消滅した。
* ホームには終日立哨の駅員がいる。
== 利用状況 ==
* '''小田急電鉄''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員]]は'''110,249人'''である<ref group="小田急" name="odakyu2022" />。
*: 小田急線全70駅の中では第9位。
=== 年度別1日平均乗降人員 ===
近年の1日平均'''乗降'''人員の推移は下表の通りである。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗降人員<ref group="乗降データ">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref><ref group="乗降データ">[http://www.city.sagamihara.kanagawa.jp/toukei/toukeisho/index.html 相模原市統計書] - 相模原市</ref>
!rowspan=2|年度
!colspan=2|小田急電鉄
|-
!1日平均<br/>乗降人員
!増加率
|-
|<ref group="備考">駅開業年</ref> 1935年(昭和10年)
|806
|
|-
|1940年(昭和15年)
|1,770
|
|-
|1946年(昭和21年)
|2,975
|
|-
|1950年(昭和25年)
|3,807
|
|-
|1955年(昭和30年)
|6,239
|
|-
|1960年(昭和35年)
|15,682
|
|-
|1965年(昭和40年)
|44,689
|
|-
|1970年(昭和45年)
|71,024
|
|-
|1975年(昭和50年)
|83,267
|
|-
|1980年(昭和55年)
|84,879
|
|-
|1985年(昭和60年)
|87,864
|
|-
|1989年(平成元年)
|95,594
|
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|100,976
|5.6%
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|106,006
|
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|105,312
|
|-
|1998年(平成10年)
|109,717
|
|-
|2000年(平成12年)
|106,000
|
|-
|2002年(平成14年)
|106,671
|
|-
|2003年(平成15年)
|108,602
|1.8%
|-
|2004年(平成16年)
|111,203
|2.4%
|-
|2005年(平成17年)
|113,093
|1.7%
|-
|2006年(平成18年)
|114,979
|1.7%
|-
|2007年(平成19年)
|120,241
|4.6%
|-
|2008年(平成20年)
|121,338
|0.9%
|-
|2009年(平成21年)
|119,240
|−1.7%
|-
|2010年(平成22年)
|119,166
|−0.1%
|-
|2011年(平成23年)
|120,113
|0.8%
|-
|2012年(平成24年)
|122,453
|1.9%
|-
|2013年(平成25年)
|128,006
|4.5%
|-
|2014年(平成26年)
|126,479
|−1.2%
|-
|2015年(平成27年)
|129,015
|2.0%
|-
|2016年(平成28年)
|129,096
|0.1%
|-
|2017年(平成29年)
|130,161
|0.8%
|-
|2018年(平成30年)
|130,078
|−0.1%
|-
|2019年(令和元年)
|127,169
|−2.2%
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|87,835
|−30.9%
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="小田急" name="odakyu2021">{{Cite web|和書|url=https://www.odakyu.jp/company/railroad/users/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230308034356/https://www.odakyu.jp/company/railroad/users/|title=鉄道部門:駅別乗降人員・輸送人員ほか
|archivedate=2023-03-08|page=|accessdate=2023-10-03|publisher=小田急電鉄|format=|language=日本語|deadlink=2023-08-20}}</ref>98,843
|12.5%
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="小田急" name="odakyu2022">{{Cite web|和書|url=https://www.odakyu.jp/company/railroad/users/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230701061413/https://www.odakyu.jp/company/railroad/users/|title=鉄道部門:駅別乗降人員・輸送人員ほか
|archivedate=2023-07-01|page=|accessdate=2023-10-03|publisher=小田急電鉄|format=|language=日本語|deadlink=}}</ref>110,249
|11.5%
|}
=== 年度別1日平均乗車人員 ===
近年の1日平均'''乗車'''人員の推移は下表の通りである。
<!--小田原線・江ノ島線の値は、神奈川県県勢要覧を参照-->
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員
|-
!年度!!小田原線!!江ノ島線!!出典
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|42,445
|11,176
|<ref group="乗降データ">[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/life/1128766_3967261_misc.pdf#search=%27%E7%B7%9A%E5%8C%BA%E5%88%A5%E9%A7%85%E5%88%A5%E4%B9%97%E8%BB%8A%E4%BA%BA%E5%93%A1%EF%BC%881%E6%97%A5%E5%B9%B3%E5%9D%87%EF%BC%89%E3%81%AE%E6%8E%A8%E7%A7%BB%27 線区別駅別乗車人員(1日平均)の推移]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|43,407
|
|<ref group="神奈川県統計">平成12年</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|42,007
|12,386
|<ref group="神奈川県統計" name="toukei2001">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369557.pdf 平成13年]}}</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|41,901
|12,528
|<ref group="神奈川県統計" name="toukei2001" />
|-
|2001年(平成13年)
|41,642
|12,690
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369552.pdf 平成14年]}}</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|41,692
|12,786
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369547.pdf 平成15年]}}</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|42,174
|13,354
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369542.pdf 平成16年]}}</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|42,024
|13,581
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369533.pdf 平成17年]}}</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|42,529
|14,038
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369528.pdf 平成18年]}}</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|43,169
|14,380
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369523.pdf 平成19年]}}</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|45,034
|15,206
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/35540.pdf 平成20年]}}</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|45,381
|15,350
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/773803.pdf 平成21年]}}</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|44,618
|15,091
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/161682.pdf 平成22年]}}</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|44,394
|15,345
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/427362.pdf 平成23年]}}</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|44,743
|15,538
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/706868.pdf 平成24年]}}</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|45,338
|16,097
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/707631.pdf 平成25年]}}</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|47,083
|17,128
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/resource/org_0101/pol_20150926_003_17.pdf 平成26年]}}</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|46,457
|16,899
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/resource/org_0101/pol_20160609_001_15.pdf 平成27年]}}</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|47,393
|17,222
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/877254.pdf 平成28年]}}</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|47,480
|17,180
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/docs/x6z/tc10/documents/15.pdf 平成29年]}}</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|47,858
|17,318
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/3406/15-30.pdf 平成30年]}}</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|48,035
|17,093
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/73942/15_2.pdf 令和元年]}}</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|46,882
|16,773
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/85489/202015.pdf 令和2年]}}</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|32,079
|11,879
|<ref group="神奈川県統計">{{XLSXlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/96367/2021_3.xlsx 小田原線 令和3年]}}</ref>
<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/96367/15.pdf 江ノ島線 令和3年]}}</ref>
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|35,915
|13,531
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/46041/202215.pdf 令和4年]}}</ref>
|}
;備考
{{Reflist|group="備考"}}
== 駅周辺 ==
{{See also|相模大野}}
相模大野は相模原市南部の交通・商業の拠点地域として、市北部の中心地域である[[橋本 (相模原市)|橋本]]([[緑区 (相模原市)|緑区]])とともに[[中心市街地]]に位置付けられている。しかしながら、商業面においては隣接駅の[[町田駅]]周辺の方が既に大規模な[[商圏]]が形成されていたことから、規模としては中程度とされる。
駅東側には[[国道16号]](東京環状)が、北側には[[東京都道・神奈川県道51号町田厚木線|神奈川県道51号町田厚木線]](行幸道路)が通る。
[[1980年代]]初頭まで行幸道路北側と[[相模女子大学]]の間に相模原米軍医療施設が存在したが、日本へ返還後、跡地利用として住宅施設(ロビーシティ相模大野五番街)、商業施設([[伊勢丹相模原店]]、2019年9月閉店、2021年解体)、文化施設([[相模原市立文化会館|相模女子大学グリーンホール]])、娯楽施設(相模大野中央公園)、教育施設(旧・[[神奈川県立相模大野高等学校]])等のほか駅周辺のアンダーパス、[[人道橋|歩道橋]]の設置を行い、[[踏切]]の廃止、[[都市再開発|再開発]]等を行った。その後、北口[[広場#交通広場と駅前広場|駅前広場]]および駅ビル([[相模大野ステーションスクエア]])新築を含めた駅舎の改良工事が行われ、近年の急激な[[ベッドタウン]]化に伴う人口増加も相まって著しい変化を遂げた。
=== 相模大野ステーションスクエア ===
{{main|相模大野ステーションスクエア}}
=== 北口 ===
相模大野の冠を拝する地域は北口であり、北口に商業施設や商店街が集積されており、非常に活気にあふれている。
<gallery>
Isetan sagamihara.JPG|[[伊勢丹相模原店]](2019年9月30日閉店、2021年解体)
Sagami-Ono Okadaya-MORE'S 001.JPG|相模大野岡田屋モアーズ
Bono-sagamiono.jpg|bono相模大野
</gallery>
;商業施設
* [[横浜岡田屋|岡田屋モアーズ]]
* [[bono相模大野]]
;金融機関
* [[三井住友銀行]]相模大野支店・相模原支店
** ※[[2021年]][[1月18日]]より、相模原支店が移転し共同店舗となる。
* [[三井住友信託銀行]]相模大野支店
* [[みずほ銀行]]相模大野支店
** [[みずほ証券]]プラネットブース相模大野(みずほ銀行相模大野支店内2F)
* [[りそな銀行]]相模大野支店
* [[きらぼし銀行]]相模大野支店
* [[横浜銀行]]相模大野支店・東林間支店
* [[静岡銀行]]相模大野支店
;郵便局
* 相模大野郵便局
* 相模大野五郵便局
;教育機関
* [[相模女子大学]]
* [[神奈川県立相模原中等教育学校]](旧・神奈川県立相模大野高等学校)
* [[神奈川県立神奈川総合産業高等学校]]
* [[北里大学]]相模原キャンパス
* [[女子美術大学]]相模原キャンパス
;公共施設・その他
* 相模大野中央公園
* [[相模女子大学グリーンホール]]
* [[相模原市立図書館#相模原市立相模大野図書館|相模原市立相模大野図書館]]
* [[外務省]]研修所
* 相模原市南区合同庁舎
** 相模原市南区役所
** 相模原南市民ホール
** 大野南公民館
* 神奈川県高相合同庁舎
** 相模原県税事務所
** 相模原南水道営業所
* [[日本年金機構]]相模原年金事務所
* 相模原市南保健福祉センター
* [[相模原南警察署|神奈川県相模原南警察署]]
* 相模原市南消防署
* [[北里大学病院]]
* [[相模原公園|神奈川県立相模原公園]]
* [[相模原麻溝公園|相模原市立相模原麻溝公園]]
** [[相模原麻溝公園競技場]](相模原ギオンスタジアム)
* [[小田急ホテルセンチュリー相模大野]]
=== 南口 ===
* [[三和|スーパー三和]]相模大野店
* [[ウエルシア]]相模大野店
* 日本年金機構相模大野年金相談センター
* 相模大野病院
* 南新町商店街
=== 東口(北出口) ===
* 北里大学スクールバス乗り場
* 相模大野駅北口公園
=== 東口(南出口) ===
* 相模大野駅前郵便局
* [[相模原市農業協同組合|JA相模原市]]相模大野支店
* [[相模原市立谷口中学校]]
== バス路線 ==
北口と南口に乗り場がある。[[1990年]]頃までは[[バスターミナル]]は北口のみであったが、再開発と駅舎改築の際に、南口にもバス乗り場が設置された。また、北口近くのグリーンホール相模大野に'''グリーンホール前'''停留所があり、北口発着の一部の系統が経由するほか、朝方は一部の系統が北口の代わりに始発停留所としている。
[[2015年]][[3月1日]]には相模大野駅北口付近に「バス運行情報案内表示機」が設置された<ref>[http://www.kanachu.co.jp/news/pdf01/2015/pdf_201502/2.13hyojiki.pdf バス運行情報案内表示機の運用を開始(町田バスセンター・町田ターミナル・相模大野駅)] 神奈川中央交通</ref>。
一般路線は[[神奈川中央交通|神奈川中央交通東]]が担当している。発着路線の詳細については、[[神奈川中央交通東・相模原営業所]]および[[神奈川中央交通東・橋本営業所]]を参照。[[リムジンバス|空港連絡バス]]は上記の神奈川中央交通東・神奈川中央交通西のほかに、[[京浜急行バス]]・[[京成バス]]が担当している。<!--[[南町田グランベリーパーク駅]]行き直行バスは[[神奈中観光]]が担当。-->
=== 相模大野駅北口 ===
ペデストリアンデッキの下に2つの島からなるのりばがある。のりばでは1 - 4・7・8番、5・6番と分かれ、進行方向前から番号が付与されている。再開発前から駅と行幸道路の間では、駅行と駅発のバスが別の道路を通る。
<!--北口のりばの方面は停留所に記載されている物--><!--詳細は前述しており不要-->
{|border="1" cellspacing="0" cellpadding="3" frame="hsides" rules="rows" style="border-top:solid 3px #999;border-bottom:solid 3px #999; font-size:80%;"
|colspan="3" style="background-color:#eee;border-top:solid 3px #999"|'''1番のりば''' (GH3) - 大沼・北里大学病院・北里大学・[[相模原駅|JR相模原駅]]・[[原当麻駅]]・[[上溝駅|上溝]]方面
|-
|大15
|style="font-size:80%"|北里大学病院・北里大学・原当麻駅・古山三谷
|'''上溝''' 行
|-
|大53
|style="font-size:80%"|
|'''北里大学病院・北里大学''' 行
|-
|大68
| style="font-size:80%" rowspan="2" |北里大学病院・北里大学
|'''麻溝車庫''' 行
|-
|相25
|'''相模原駅南口''' 行
|-
|colspan="3" style="background-color:#eee; border-top:solid 3px #999"|'''2番のりば''' (GH3) - 大野台・[[淵野辺公園]]・JR相模原駅方面
|-
|相05
|style="font-size:80%"|大野台・淵野辺公園
|'''相模原駅南口''' 行
|-
|colspan="3" style="background-color:#eee;border-top:solid 3px #999"|'''3番のりば''' (GH4*) - みゆき台団地・[[女子美術大学]]・[[北里大学病院]]・[[北里大学]]・麻溝車庫方面
|-
|大54
|style="font-size:80%"|上原団地
|'''みゆき台団地''' 行
|-
|大55
| style="font-size:80%" rowspan="4" |麻溝台
|'''麻溝車庫''' 行 {{small|(夜間のみ)}}
|-
|大58
|'''さがみ緑風園前''' 行 {{small|(平日・土曜夜間のみ)}}
|-
|大59
|'''北里大学病院・北里大学''' 行
|-
|大60
|'''女子美術大学''' 行
|-
|colspan="3" style="background-color:#eee;border-top:solid 3px #999"|'''4番のりば''' - 小田急相模原駅方面
|-
|小06
|style="font-size:80%"|豊町
|'''小田急相模原駅''' 行
|-
|colspan="3" style="background-color:#eee;border-top:solid 3px #999"|'''5番のりば''' (GH2) - 淵野辺十字路・JR[[相模原駅]]方面
|-
|相02
|style="font-size:80%"|[[国道16号]]
|'''相模原駅南口''' 行
|-
|colspan="3" style="background-color:#eee;border-top:solid 3px #999"|'''6番のりば''' (GH1) - 空港連絡バス・高速バス
|-
| rowspan="2" |空港
|style="font-size:80%"|神奈中東・[[京浜急行バス|京急]]([[京浜急行バス新子安営業所|新子安営業所]])
|'''[[東京国際空港|羽田空港]]''' 行
|-
|style="font-size:80%"|神奈中東・[[神奈川中央交通西・平塚営業所|神奈中西]]・[[京成バス|京成]]([[京成バス千葉営業所|千葉営業所]])
|'''[[成田国際空港|成田空港]]''' 行
|-
|昼行
|style="font-size:80%;"|神奈中東・京成(千葉営業所)
|'''[[東京ディズニーリゾート]]''' 行
|-
|昼行
|style="font-size:80%"|神奈中東
|'''[[御殿場プレミアム・アウトレット]]''' 行
|-
|colspan="3" style="background-color:#eee;border-top:solid 3px #999"|'''7番のりば''' 降車場
|-
|colspan="3" style="background-color:#eee; border-top:solid 3px #999"|'''8番のりば''' 降車場
|}
* [[東京駅のバス乗り場|東京駅八重洲南口]]・[[バスタ新宿]]・[[新宿駅のバス乗り場|新宿駅西口]]からの深夜急行バスも北口に到着(神奈中西)
: 再開発中にはのりばが4つの時期があり、大沼方面は1つののりばにまとめられていた。
: のりばの後にある括弧内のGHに続く数字は、駅発の場合のグリーンホール前の乗り場番号である。
:: 但し、相模大野駅を10:00より前に発車する便はグリーンホール前を経由しない。
:: *の付いた数字は、グリーンホール前始発となる系統(大60系統)の乗り場番号である。駅発は経由しない。
:: 大61系統(直行・女子美術大学行き)は通常時はグリーンホール前始発。但し、催事時による臨時便は相模大野駅北口発となる場合がある。
:: 空港リムジンバス・昼行高速バスの場合は、グリーンホール前の箇所にあるバス停を相模大野立体駐車場と称して、空港・各地方行きの始発停留所(橋本駅発は[[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]]と相模大野駅の間の停留所)としている。但し、東京ディズニーリゾート線は相模大野駅北口始発のため、立体駐車場には発着しない。
:: グリーンホール前の停留所の乗り場番号は、入口寄りから1番・2番となり、出口近くが4番となる。
=== 相模大野駅南口 ===
* [[神奈川中央交通東・相模原営業所#中和田循環|大13]] - 中和田循環(相模大野駅南口行)
== 将来の計画 ==
* 本駅から[[原当麻駅]]までの専用レーンを使用した新バス交通システム([[バス・ラピッド・トランジット|BRT]])の導入が検討されている<ref>[https://www.townnews.co.jp/0302/2017/01/01/363599.html 新交通計画の整備始まる 区内拠点間の連携強化] - タウンニュース(さがみはら南区版)2017年1月1日版</ref>が、[[相模原市]]は2021年に公表した「行財政構造改革プラン案」で2027年度までに債務超過に陥る可能性を示したことから、歳出削減策の一環として同システムの導入計画の廃止が検討されている<ref>[https://machida.keizai.biz/headline/3219/ 相模原市、銀河アリーナ・BRT計画など「廃止」検討へ 816億円の歳出超過で] - 相模原町田経済新聞 2021年1月15日</ref>。
== その他 ==
*[[海老名市]]・[[厚木市]]出身の[[バンド (音楽)|音楽バンド]]「[[いきものがかり]]」が結成当初の[[水野良樹]]と[[山下穂尊]]の2人組で活動していた時期に当駅前で[[路上ライブ]]を行っていた<ref>[http://www.hotexpress.co.jp/interview/ikimonogakari_080213/ いきものがかり インタビュー 音楽の目覚め〜相模大野時代]</ref>。その後、[[ボーカル]]の[[吉岡聖恵]]の加入を機に[[本厚木駅]]前に活動拠点を移した<ref>[http://www.hotexpress.co.jp/interview/ikimonogakari_080213/ikimonogakari_article02.html いきものがかり インタビュー 地元・本厚木時代]</ref>。
*平成30年度以降、終電後は駅構内に残れない旨のアナウンスとともに音楽が流れる。
== 隣の駅 ==
;小田急電鉄
:[[File:Odakyu odawara.svg|15px|OH]] 小田原線
:*{{Color|#f64f4f|'''□'''}}特急ロマンスカー「はこね」「さがみ」「モーニングウェイ」「メトロはこね」一部停車駅<ref group="注釈">「えのしま」との分割・併合列車も有。「[[はこね (列車)|スーパーはこね]]」[[モーニングウェイ・ホームウェイ|「メトロモーニングウェイ」「メトロホームウェイ」]]はすべて当駅を通過する。</ref>、「[[ふじさん]]」全列車停車駅
::{{color|#f89c1c|■}}快速急行・{{color|#ef4029|■}}急行
:::[[町田駅]] (OH 27) - '''相模大野駅 (OH 28)''' - [[海老名駅]] (OH 32)
::{{color|#00ab76|□}}通勤準急・{{color|#00ab76|■}}準急・{{color|#18469d|■}}各駅停車(通勤準急は平日朝上りのみ、準急は平日夜下りのみ運転)
:::町田駅 (OH 27) - '''相模大野駅 (OH 28)''' - ([[相模大野分岐点]]) - [[小田急相模原駅]] (OH 29)
:[[File:Odakyu enoshima.svg|15px|OE]] 江ノ島線
:*{{Color|#f64f4f|'''□'''}}特急ロマンスカー[[えのしま (列車)|「えのしま」「メトロえのしま」]][[モーニングウェイ・ホームウェイ|「モーニングウェイ」「ホームウェイ」]]全列車停車駅
::{{color|#f89c1c|■}}快速急行・{{color|#ef4029|■}}急行
:::町田駅 (OH 27)(小田原線) - '''相模大野駅 (OH 28)''' - [[中央林間駅]] (OE 02)
::{{Color|#18469d|■}}各駅停車
:::町田駅 (OH 27)(小田原線) - '''相模大野駅 (OH 28)''' - (相模大野分岐点) - [[東林間駅]] (OE 01)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
;小田急電鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="小田急"|3}}
;小田急電鉄の統計データ
{{Reflist|group="乗降データ"}}
;神奈川県県勢要覧
{{Reflist|group="神奈川県統計"|16em}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Sagami-Ōno Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
{{-}}
== 外部リンク ==
{{osm box|n|264240113}}
* [https://www.odakyu.jp/station/sagami_ono/ 小田急電鉄 相模大野駅]
{{小田急小田原線}}
{{小田急江ノ島線}}
{{関東の駅百選}}
{{DEFAULTSORT:さかみおおの}}
[[Category:日本の鉄道駅 さ|かみおおの]]
[[Category:相模原市の鉄道駅]]
[[Category:小田急電鉄の鉄道駅]]
[[Category:1938年開業の鉄道駅]]
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[[Category:相模原市南区の建築物]] | 2003-05-19T11:45:15Z | 2023-12-28T20:49:16Z | false | false | false | [
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8,648 | 濃度 (数学) | 数学、特に集合論において、濃度(のうど、英: cardinality カーディナリティ)とは、有限集合における「元の個数」を一般の集合に拡張したものである。集合の濃度は基数 (cardinal number) と呼ばれる数によって表される。歴史的には、カントールにより初めて無限集合のサイズが一つではないことが見出された。
シュレーダー=ベルンシュタインの定理により、X ≾ Y かつ Y ≾ X なら、X ≈ Y が成り立つ。さらに、選択公理を仮定すれば、任意の集合 X と Y に対して、X ≾ Y または Y ≾ X が成り立つ。
| X | = | Y | ⇔ X ≈ Y が常に成り立つ集合への数学的対象の割り当てを濃度といい、濃度として割り当てられる数学的対象を基数という(濃度 | X | は card(X), #X などとも表記される)。
(カントールによって暗に、フレーゲやプリンキピア・マテマティカにおいて明確に示されていた)集合 X の濃度の最も古い定義は、X と一対一対応のつくすべての集合からなるクラス [X] としての定義である。これは、ZFCや関連する集合論の公理系ではうまく機能しない。それは、X が空でないならば、一対一対応のつくすべての集合を集めたものは集合にしては大きすぎるからである。実際、X を空でない集合としたとき、集合 S に {S} × X を対応させる写像を考えることによって、宇宙から [X] への単射が存在し、サイズの限界(英語版)より、[X] は真のクラスである。
有限集合の濃度は自然数を使って表せられる。濃度がn である集合をn 点集合という。
自然数全体からなる集合の濃度を可算無限濃度または単に可算濃度という(古くは可付番濃度とも呼ばれた)。通常、 א 0 {\displaystyle \aleph _{0}} (アレフ・ゼロ)あるいは a {\displaystyle {\mathfrak {a}}} と表記される。 א {\displaystyle \aleph } はヘブライ文字のアレフである。濃度が可算無限になる集合を可算無限集合または単に可算集合(英: countable set)という。たとえば、整数全体からなる集合、有理数全体からなる集合はいずれも可算無限集合である。可算無限以下である濃度を高々可算な濃度または単に可算濃度という。
可算無限濃度には以下の性質がある。
連続体濃度とは実数全体からなる集合の濃度である。 א {\displaystyle \aleph } あるいは c {\displaystyle {\mathfrak {c}}} と表記される(ベート数を使って ב 1 {\displaystyle \beth _{1}} と書くこともできる)。カントールの対角線論法によって א 0 < א {\displaystyle \aleph _{0}<\aleph } が成り立つことが証明される。ユークリッド空間をはじめとする多くの有限次元の空間が連続体濃度を持つ。さらにはユークリッド空間の上の連続関数全体や可分なヒルベルト空間全体もこの濃度である。
連続体濃度の冪濃度は ב 2 {\displaystyle \beth _{2}} あるいは 2 c {\displaystyle 2^{\mathfrak {c}}} などと表記される。ユークリッド空間上の関数全体などはこの濃度を持つ。
濃度の間に以下の演算が定義される(詳しくは基数#基数演算を参照)。
を | X | と | Y | の和という。
を | X | と | Y | の積という。
を | X | を底、| Y | を指数とする冪という。
このとき以下が成立。 | [
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] | 数学、特に集合論において、濃度とは、有限集合における「元の個数」を一般の集合に拡張したものである。集合の濃度は基数 と呼ばれる数によって表される。歴史的には、カントールにより初めて無限集合のサイズが一つではないことが見出された。 | [[数学]]、特に[[集合論]]において、'''濃度'''(のうど、{{lang-en-short|cardinality}} '''カーディナリティ''')とは、有限集合における「元の個数」を一般の集合に拡張したものである<ref name="matsuzaka_2010_6567">{{harvnb|松坂|1968|pp=65–67}}</ref>。集合の濃度は'''[[基数]]''' (cardinal number) と呼ばれる数によって表される。歴史的には、[[ゲオルク・カントール|カントール]]により初めて[[無限]]集合のサイズが一つではないことが見出された<ref>{{Cite journal |last=Cantor|last2=Cantor |date=1874-01-01 |title=Ueber eine Eigenschaft des Inbegriffs aller reellen algebraischen Zahlen. |url=https://www.degruyter.com/document/doi/10.1515/crll.1874.77.258/html |volume=1874 |issue=77 |pages=258-262 |language=de |doi=10.1515/crll.1874.77.258 |issn=1435-5345}}</ref><ref>{{Cite journal |author=Cantor, Georg|year=1891 |title=Ueber eine elementare Frage der Mannigfaltigketislehre|url=http://resolver.sub.uni-goettingen.de/purl?PPN37721857X_0001 |journal=Jahresbericht der Deutschen Mathematiker-Vereinigung |volume=1 |pages=72-78 |issn=0012-0456}}</ref>。
== 濃度の関係 ==
:集合 {{mvar|X}} と {{mvar|Y}} の間に全単射が存在するとき {{math2|''X'' ≈ ''Y'' }} と書き、{{mvar|X}} と {{mvar|Y}} は濃度が等しいという。
:集合 {{mvar|X}} から集合 {{math|''Y''}} のへの単射が存在するとき {{math|''X'' ≾ ''Y''}} と書き、{{mvar|X}} の濃度は {{mvar|Y}} の濃度以下であるという。
:集合 {{mvar|X}} と {{mvar|Y}} について、{{math2|''X'' ≾ ''Y''}} だが {{math2|''X'' ≈ ''Y''}} でないとき、{{math2|''X'' ≺ ''Y''}} と書き、{{mvar|X}} の濃度は {{mvar|Y}} の濃度より小さいという。
シュレーダー=[[ベルンシュタインの定理]]により、{{math2|''X'' ≾ ''Y''}} かつ {{math2|''Y'' ≾ ''X''}} なら、{{math2|''X'' ≈ ''Y'' }} が成り立つ。さらに、[[選択公理]]を仮定すれば、任意の集合 {{mvar|X}} と {{mvar|Y}} に対して、{{math2|''X'' ≾ ''Y''}} または {{math2|''Y'' ≾ ''X''}} が成り立つ。
{{math2|| ''X'' | = | ''Y'' | ⇔ ''X'' ≈ ''Y'' }} が常に成り立つ集合への数学的対象の割り当てを濃度といい、濃度として割り当てられる数学的対象を[[基数]]という(濃度 {{math2|| ''X'' |}} は {{math2|card(''X''), #''X''}} などとも表記される)。
== 厳密な定義 ==
(カントールによって暗に、[[フレーゲ]]や[[プリンキピア・マテマティカ]]において明確に示されていた)集合 {{mvar|X}} の濃度の最も古い定義は、{{mvar|X}} と[[一対一対応]]のつくすべての集合からなる[[クラス (集合論)|クラス]] {{math|[''X'']}} としての定義である。これは、'''ZFC'''や関連する集合論の公理系ではうまく機能しない。それは、{{mvar|X}} が空でないならば、[[一対一対応]]のつくすべての集合を集めたものは集合にしては大きすぎるからである。実際、{{mvar|X}} を空でない集合としたとき、集合 {{mvar|S}} に {{math2|{''S''} × ''X''}} を対応させる写像を考えることによって、[[宇宙 (数学)|宇宙]]から {{math|[''X'']}} への単射が存在し、{{ill2|サイズの限界|en|Limitation of size}}より、{{math|[''X'']}} は真のクラスである。
; フォン・ノイマンの割り当て
: 選択公理を仮定すると集合 {{mvar|X}} に対し濃度 {{math2|| ''X'' |}} を {{math2|| ''X'' | := min{α ∈ '''ON''' : |α| = | ''X'' | }}} と定義できる 。
: これをフォン・ノイマンの割り当てという。
; スコットのトリック
: [[正則性公理]]の元、任意のクラスに対し画一的に(そのクラスの部分クラスとなる)集合を割り当てる方法である[[スコットのトリック]]を使うと、 整列可能とは限らない集合 {{mvar|X}} に濃度 {{math2|| ''X'' |}} を以下のように割り当てることができる(詳しくは[[スコットのトリック]]を参照)。
: {{math|| ''X'' | := {''A'' : | ''A'' | = | ''X'' |}} かつ、任意の集合 {{mvar|B}} に対し「{{math|| ''B'' | = | ''X'' | → rank( ''A'') ≤ rank( ''B'')}}} 」
: どのような定義を採用するにしろ集合の濃度が等しいのは、それらの間に全単射が構成できるちょうどそのときである。
== 様々な集合の濃度 ==
=== 有限集合 ===
有限集合の濃度は自然数を使って表せられる。濃度が''n'' である集合を''n'' 点集合という。
=== 可算集合 ===
{{main|可算集合}}
自然数全体からなる集合の濃度を'''可算無限濃度'''または単に'''可算濃度'''という(古くは'''可付番濃度'''とも呼ばれた)<ref name="matsuzaka_2010_6567" />。通常、<math>\aleph_0</math>([[アレフ・ゼロ]])あるいは <math>\mathfrak{a}</math> と表記される。[[א|<math>\aleph</math>]]は[[ヘブライ文字]]のアレフである。濃度が可算無限になる集合を'''[[可算集合|可算無限集合]]'''または単に'''可算集合'''({{lang-en-short|countable set}})という<ref name="matsuzaka_2010_7072">{{harvnb|松坂|1968|pp=70–72}}</ref>。たとえば、[[整数]]全体からなる集合、[[有理数]]全体からなる集合はいずれも可算無限集合である<ref>{{harvnb|松坂|1968|pp=72–74}}</ref>。可算無限以下である濃度を'''[[高々可算]]'''な濃度または単に'''可算濃度'''という<ref name="matsuzaka_2010_7072" />。
可算無限濃度には以下の性質がある。
* <math>\aleph_0</math> は極小な無限濃度である。すなわち、<math>\kappa</math> が <math>\aleph_0</math> より小さい濃度ならば、<math>\kappa</math> は有限濃度(すなわち自然数)である。
* 選択公理を仮定すると、<math>\aleph_0</math> は最小な無限濃度である。すなわち、全ての無限濃度 <math>\kappa</math> に対して、<math>\aleph_0\leq\kappa</math> が成り立つ。
=== 非可算集合 ===
{{main|連続体濃度|非可算集合}}
'''[[連続体濃度]]'''とは[[実数]]全体からなる集合の濃度である。<math>\aleph</math> あるいは <math>\mathfrak{c}</math> と表記される([[ベート数]]を使って <math>\beth_1</math> と書くこともできる)。[[カントールの対角線論法]]によって <math>\aleph_0 < \aleph</math> が成り立つことが証明される。[[ユークリッド空間]]をはじめとする多くの有限次元の空間が連続体濃度を持つ。さらにはユークリッド空間の上の連続関数全体や可分なヒルベルト空間全体もこの濃度である。
連続体濃度の冪濃度は <math>\beth_2</math> あるいは <math>2^\mathfrak{c}</math> などと表記される。ユークリッド空間上の関数全体などはこの濃度を持つ。
== 集合演算と濃度 ==
濃度の間に以下の演算が定義される(詳しくは[[基数#基数演算]]を参照)。
:{{math|| ''X'' |+| ''Y'' | := | ''X'' ⊔ ''Y'' |}}(ただし {{math2|''X'' ⊔ ''Y''}} は {{mvar|X}} と {{mvar|Y}} の直和 {{math|(''X'' × {0})∪(''Y'' × {1})}} のこと)
を {{math2|| ''X'' |}} と {{math2|| ''Y'' |}} の和という。
:{{math2|| ''X'' |·| ''Y'' | := | ''X'' × ''Y'' |}}(ただし {{math2|''X'' × ''Y''}} は {{mvar|X}} と {{mvar|Y}} の直積。)
を {{math|| ''X'' |}} と {{math|| ''Y'' |}} の積という。
:{{math|| ''X'' |{{sup|| ''Y'' |}} := | ''X''{{sup|''Y''}}|}}(ただし {{mvar|X{{sup|Y}}}} は {{mvar|Y}} から {{mvar|X}} への写像全体。)
を {{math2|| ''X'' |}} を底、{{math2|| ''Y'' |}} を指数とする冪という。
このとき以下が成立。
:{{math2|| ''X'' ∪ ''Y'' |+| ''X'' ∩ ''Y'' | = | ''X'' |+| ''Y'' |}}
:{{math2|| '''P'''(''X'' ) | = 2{{sup|| ''X'' |}}}}
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書 |author=松坂和夫 |year=1968<!-- |date=2010-05-14 --> |title=集合・位相入門 |publisher=岩波書店 |isbn=4-00-005424-4 |ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[基数]]
* [[連続体仮説]]
* [[連続体濃度]]
== 外部リンク ==
* {{高校数学の美しい物語|925|集合の濃度と可算無限・非可算無限}}
{{集合論}}
{{DEFAULTSORT:のうと}}
[[Category:集合論]]
[[Category:基数|*]]
[[Category:無限]]
[[Category:数学に関する記事]] | 2003-05-19T11:48:52Z | 2023-12-10T08:36:28Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BF%83%E5%BA%A6_(%E6%95%B0%E5%AD%A6) |
8,649 | ヘブライ語 | ヘブライ語(ヘブライご、ヘブライ語: עִבְרִית ʿĪvrīt, ラテン語: Lingua Hebraea)は、アフロ・アジア語族のセム語派に属する北西セム諸語の一つ。ヘブル語、ヒブル語とも呼ばれる。
言語の名を日本語で「ヘブライ語」と呼ぶのはギリシア語(εβραϊκή γλώσσα)やラテン語(Lingua Hebraica)からの習慣であり、ドイツ語(Hebräische Sprache)やイタリア語(Lingua ebraica)においても「ヘブライ語」に準じた名で呼ばれる。他方、英語(Hebrew language)やフランス語(Hébreu)での言語名はヘブライ語自体における呼称(עברית)に由来し、日本語でも「ヘブル語」や「ヒブル語」と呼ぶのを好む場合もある。なお、東京外国語大学はじめ日本のほとんどの大学は語学講義名をヘブライ語としている。
古代にイスラエルに住んでいたヘブライ人が母語として用いていた言語古代ヘブライ語(または聖書ヘブライ語)は西暦200年ごろに口語として滅亡し、その後は学者の著述や典礼言語として使われてきた。現在イスラエル国で話される現代ヘブライ語は、約1700-1800年の断絶を経て近代ヨーロッパで復興された言語である。現代ヘブライ語には2つの時期があり、ひとつは18世紀後半のハスカーラー運動におけるユダヤ文化復興の中で使われるようになった書き言葉であり、もうひとつは19世紀末に復興された話し言葉としてのヘブライ語である。一度日常語として使われなくなった古代語が復活し、再び実際に話されるようになったのは、歴史上このヘブライ語だけである。
ヘブライ語(עברית イヴリート)の名は紀元前2世紀ごろから使われている。聖書自身の中では「カナンの言葉」(שְׂפַת כְּנַעַן セファト・ケナアン)または「ユダヤ語」(יהודית イェフディート)と呼ばれている。ミシュナーでは「聖なる言語」(לָשׁוֹן הַקֹּדֶשׁ レション・ハコデシュ、英語版)とも呼ばれる。
古代ヘブライ語または聖書ヘブライ語はフェニキア語などと同じくカナン諸語のひとつであり、最も古いヘブライ語で書かれた碑文は紀元前10世紀に書かれたゲゼル・カレンダーとされるが、この碑文が本当にヘブライ語かどうかについては疑いも持たれている。西暦132-135年のバル・コクバの手紙まで、数百の古代ヘブライ語碑文が残っている。
旧約聖書はこの言語で書かれているが、異なる時代の言語が混じっている。引用された韻文の言語にはきわめて古い時代のものがあり、イスラエル王国の成立(紀元前1000年ごろ)以前の士師の時代にさかのぼる。紀元前10-6世紀の言語は古典ヘブライ語または(標準)聖書ヘブライ語と呼ばれる。紀元前6-2世紀の言語は後期古典ヘブライ語、または後期聖書ヘブライ語と呼ばれる。このほかにサマリア五書(紀元前2世紀後半)も重要な資料である。
イスラエル王国やユダ王国ではこの言語が日常語として使用されていたが、紀元前6世紀にユダ王国が滅亡しバビロン捕囚が起きると、バビロンに連行されたものたちを中心にアラム語の強い影響を受けるようになり、紀元前537年にアケメネス朝のキュロス2世によって解放されエルサレムに帰還したのちもこの影響は続いた。ヘレニズム時代に入るとギリシア語も使用されるようになり、3言語併用の状況が続く中でヘブライ語の日常使用は減少していった。
聖書より新しい時代のヘブライ語としては死海文書の言語がある。また、ミシュナーやタルムードなどのラビ文献に使用される言語は後期聖書ヘブライ語から直接発達したものではなく、かつては学者によって人工的に造られた言語と考えられていたが、現在では西暦紀元後数世紀にわたって話されていた口語のヘブライ語を反映したものと考えられている。
おそらく135年のバル・コクバの乱の結果、多くのユダヤ人はアラム語地域であったガリラヤ地方へ逃れ、口語としてのヘブライ語は西暦200年ごろ滅亡したと考えられている。その後のユダヤ人の第一言語はアラム語やギリシア語になり、ヘブライ語は学者の使用する言語に過ぎなくなった。
ヘブライ文字は原則として子音のみを表したが、6世紀ごろからマソラ本文に点(ニクダー)を加えて正確な読みを注記することが行われた。当時は地域によって異なる伝統が行われ、東部(バビロニア)と西部(パレスチナ)では読みが異なっていた。現在使用されているニクダーはこのうちのティベリア式発音に基づくものであるが、その後のヘブライ語の変化によって現代の発音と表記の間にはずれが生じている。
その後さらにヘブライ語は変化していき、中世ヘブライ語(英語版)と呼ばれる一時期を迎えた。10世紀末にはイベリア半島のコルドバでイェフーダー・ベン=ダーウィード・ハイユージュが初のヘブライ語文法書を完成させている。一方各地に離散したユダヤ人は現地語を話すか、あるいはセファルディムが話すスペイン語に属するラディーノ語や、アシュケナジムが話すドイツ語に属するイディッシュ語、アラビア語圏で話されるユダヤ・アラビア語群といった、ある程度のヘブライ語の痕跡を残す現地語の変種を話すようになっており、一般的な話し言葉としては完全に使われなくなっていた。また典礼用のヘブライ語の発音方式そのものも地域によって違いが生ずるようになり、セファルディムは子音の多いセファルディム式ヘブライ語を、アシュケナジムは母音の多いアシュケナジム式ヘブライ語を使用するようになっていた。
中世に入って文献学者のヨハネス・ロイヒリンは、非ユダヤ人にして初めて大学で聖書ヘブライ語を教授しカバラについての著書 (De Arte Cabalistica) を残し、ラビとしての教育を受けたバルーフ・デ・スピノザは死後に遺稿集とした出版された『ヘブライ語文法総記』で文献学的聖書解釈の観点からより言語語学的なヘブライ語の説明を行った。その冒頭部で、母音を表す文字がヘブライ文字には存在しないにもかかわらず「母音のない文字は『魂のない身体』(corpora sine anima) である」と記した。18世紀に入るとユダヤ人の間でハスカーラーと呼ばれる啓蒙運動が起こり、聖書ヘブライ語での文芸活動が始まった。この動きは、のちの19世紀におけるヘブライ語の復活に大きな役割を果たした。
ヘブライ語が話し言葉としてはほぼ消滅していた時代でも、ヘブライ語による著述活動は約1800年間、途切れることなく続き、全くの死語となっていたわけではなく、文章言語としては存続していた。さらにハスカーラー期において、聖書ヘブライ語から独立した書記言語としての文体が確立した。
こうした動きを元として、19世紀後半にユダヤ人の間でシオニズムが勃興しパレスチナに入植地を建設する構想が動き出すと、現地での使用言語を決定することが必要となり、ヘブライ語の日常語としての復活が決定された。こうして再興されることとなったヘブライ語であったが、知識人の間では文章言語として使用され続けていたものの、長い年月の間にヨーロッパ圏とアラブ圏に伝わっていたヘブライ語には発音のずれが生じており、また語彙が決定的に少ないなど、生活言語として使用するには問題が山積している状態だった。この状態を解消するために発音や語順などの整備が行われ、日常言語としての基盤が作られていった。またこの時、セファルディム系の少ない母音とアシュケナジム系の少ない子音の体系が混合され、発音の単純化がなされた。
1880年代にユダヤ人移民の第一波がパレスチナに到着するようになると、現地在住の移民の間でヘブライ語が共通語として少しずつ使われはじめた。初期入植者は東欧からの移民が多く、このため彼らの話すイディッシュ語やロシア語、ポーランド語などの中東欧諸言語の影響がヘブライ語に見られるようになった。19世紀にロシアからパレスチナに移り住んだエリエゼル・ベン・イェフダー(1858年 - 1922年)は、ヘブライ語を日常語として用いることを実践した人物であり、ヘブライ語復活に大きな役割を果たした。彼の息子は生まれてから数年間はヘブライ語のみで教育され、約二千年ぶりにヘブライ語を母語として話した人物となった。しかし、彼が聖書を基に一から現代ヘブライ語を作ったわけではない。彼の貢献は主に語彙の面におけるものであり、使われなくなっていた単語を文献から探し出したり、新語を作ったりして、現代的な概念を表すことができるようにした。そのために全16巻からなる『ヘブライ語大辞典』を編纂したが、完成間近で没し、死後に出版された。またベン・イェフダーを中心として1890年にヘブライ語委員会が設立され、語彙の拡大などを中心としたヘブライ語の復活はさらに進められた。このため、現代ヘブライ語は半人工言語に分類することができる。このヘブライ語委員会はヘブライ語の統制機関として機能し続け、1953年にヘブライ語アカデミーへと改組された。
こうしたユダヤ人の努力によってヘブライ語は話し言葉として再生され、1920年代にはすでに現地のユダヤ人の間で広く使用されるようになった記録が残っている。1922年には英語やアラビア語とともにイギリス委任統治領パレスチナの公用語に指定され、1948年にイスラエルが建国されるとその公用語のひとつとなり、2018年には、憲法に準じる基本法「ユダヤ国民国家基本法」で、ヘブライ語のみを公用語とした。イスラエル政府はヘブライ語の共通語化と使用を強く推進している。世界各地からユダヤ教徒がイスラエルへ移民しているため、イスラエルにおいてはイスラエルへの移民であるか否かを問わず、またイスラエルへ定住する意思の有無を問わず、誰でもヘブライ語を学習することができる成人を対象としたヘブライ語の教育機関としてウルパンが設立されている。
現代ヘブライ語は、イスラエル国内に多数のアラブ人が居住していることやもともと同系の言語であることなどからアラビア語の影響を受けており、「ファラフェル」(ヘブライ語: פָלָאפֶל)などアラビア語起源の単語がそのままヘブライ文字で記載されることが少なくない。さらに、経済のグローバル化や情報技術の発達などにより、「インターネット(ヘブライ語: אִינְטֶרְנֶט)」など英単語をヘブライ語に「翻訳」することなく、そのままヘブライ単語となることも少なくなく、さらにコンピュータ関連の文書などにおいてヘブライ文字で記載されているヘブライ語のなかに、英字で記載されてある英単語がそのまま挿入されていることもある。また、この場合、英単語は右から左へではなくそのまま左から右へと記述され挿入される。
現代ヘブライ語において用いられる数字は、数学で用いられているアラビア数字である。そして、右から左へ記載するヘブライ語の中に、左から右へ記載するアラビア数字を挿入して記載している。そして、マイクロソフト社のMicrosoft Wordを用いてヘブライ語の文書を作成する際にも、ヘブライ文字は右から左へ記載されるが、数字だけは左から右へ記載されるようになっている。
2013年時点で、ヘブライ語話者は全世界に約900万人存在し、そのうち700万人は流暢にヘブライ語を話すことができる。
2013年時点では、イスラエルにいるユダヤ人のうち90%はヘブライ語に堪能であり、70%は非常に堪能である。イスラエルに住むアラブ人のうち約60%もヘブライ語に堪能であり、30%はアラビア語よりもヘブライ語の方を流暢に操ることができる。イスラエルの人口のうち53%がヘブライ語を母語としており、残りのほとんどの人々も流暢に話すことができる。ただし20歳以上のイスラエル人に限るとヘブライ語を母語とするものは49%にすぎず、そのほかの人々はロシア語、アラビア語、フランス語、英語、イディッシュ語、およびラディーノ語などを母語としていた。イスラエル内アラブ人のうち12%、および旧ソヴィエト連邦からイスラエルへ移民してきたユダヤ人のうち26%はヘブライ語をほとんどあるいはまったく話すことができない。
21世紀初頭において、ヘブライ語話者が多数を占める国家はイスラエル一国のみである。イスラエルにおいてヘブライ語はアラビア語とともに公用語の地位にあるが、同国内におけるユダヤ人とアラブ人の人口及び政治的・経済的影響力の差によって、ヘブライ語の影響力の方が強く、事実上唯一の公用語の地位を占めている状況にある。さらにベンヤミン・ネタニヤフ政権は2017年5月7日にアラビア語を公用語から外して「特別な位置付けが与えられた言語」に格下げし、ヘブライ語のみを「国語」とする閣議決定を行った。このヘブライ語単独公用語化を含むユダヤ人国家法は2018年7月にイスラエル国会で可決され、アラブ系国会議員の抗議と辞任やアラブ系市民の抗議デモを引き起こした。
現代のヘブライ語事情に関しては、イスラエル国内のアラブ人、すなわちアラブ系イスラエル人、ならびに占領地におけるパレスチナ人は、ヘブライ語を非常に流暢に話している。彼らのほうが、成人になってからウルパンというヘブライ語教室においてヘブライ語を少しだけ学ぶユダヤ系米国人たちよりもヘブライ語に堪能であると思われる。その背景として、ヘブライ語とアラビア語は、文字は異なるが、共にセム語派の言語であり、文法や語彙などにおいてかなり類似点があるからである。また、現代のパレスチナだけではなくイスラエル国内においても多数のアラブ系イスラエル人が居住し、イスラエル建国以前はアラブ人の都市や村落も多数あるため、アラビア語起源の人名や地名など固有名詞のヘブライ文字化も行われている。具体的には、アラビア語で「ようこそ」などを意味するاهلا وسهلا(アハラン・ワ・サハラン)はאהלן וסהלןとヘブライ文字化される。
現代ヘブライ語は近代言語として復活してから100年前後しか経っていないため地域的な分化が進んでいない一方で、世界各地から絶えず移民が流入するため話者の出身国による訛りは多様なものとなっている。
ヘブライ語使用はイスラエル国内において定着しており、同国内の新刊書籍の約9割がヘブライ語書籍によって占められ、またヘブライ語による文学作品も多数発表されるようになり、1966年にはヘブライ語作家であるシュムエル・アグノンがノーベル文学賞を受賞した。
イスラエルにおいては、グローバリゼーションとアメリカ化の風潮の中で、ヘブライ語を主な使用言語に保ち続け、またヘブライ語の語彙に英語の単語が大規模に取り入れられるのを防ぐためのさまざまな措置が取られてきた。ヘブライ大学に設置されているヘブライ語アカデミーは、英単語をヘブライ語の語彙の中に組み込む代わりに、現代の単語の意味を捉え、それに対応するヘブライ語の単語を見つけだすことによって、毎年約2000個の新しいヘブライ語の単語を創造している。ハイファ自治体は職員に対し公文書における英単語の使用を禁止させ、また民間事業においても英語のみの看板を使用することを阻止する動きを見せている。2012年には、イスラエルのクネセト(国会)においてヘブライ語の保存に関する法案が提案された。この法案には、イスラエル政府の公式発表と同様に、イスラエルにおけるすべての看板において、まず第一にヘブライ語を使用しなければならないという規定が含まれている。この法案を作成したMK Akram Hassonは、この法案はヘブライ語の「威信の低下」と、子供たちが多くの英単語を自らの語彙に取り入れたことへの対策として提案されたと述べた。
ヘブライ語の表記には22文字のヘブライ文字を使用する。同じセム語派に属するアラビア語と同様に、ヘブライ語は右から左に右横書きで書く。またヘブライ文字はアブジャドであるため、日本語や英語などと違って、子音を表す表記はあっても、母音を表す表記はないことが多く、言語の習得にはある程度の慣れが必要である。ヘブライ語の点字体系も存在する。
ニクダーと呼ばれる母音記号は存在はするが、通常のヘブライ語力があれば記号なしでも文章を読みこなすことは容易であるため、母音記号が付されているものは聖書や詩のほかは、辞書や教科書、児童書などの初学者向けのものに限られる。またこの母音記号の成立が古く、現代の発音とずれが生じているため、記号を打つのには専門知識が必要とされる。
古代イスラエルにおいては、フェニキア文字から派生した古ヘブライ文字がヘブライ語の表記に使用されていた。しかし紀元前6世紀のバビロン捕囚後、同系統のアラム文字へと表記体系が切り替わった。このアラム文字から派生したものが、現代において使用されるヘブライ文字である。なお、ヘブライ語の一種であるサマリア語を典礼言語としたサマリア人たちはこの時アラム文字への切り替えを行っておらず、その後も古ヘブライ文字から発展したサマリア文字を使用していた。
古代のヘブライ語の正確な音声については不明な点が多い。古ヘブライ文字およびヘブライ文字は22の子音字から構成されるが、実際には1つの文字が複数の音を表していた可能性がある。おそらく紀元前1千年紀のヘブライ語には少なくとも25の子音があって、חは[ħ, x]、עは[ʕ, ɣ]、שは[ʃ, ɬ]の2種類の音を表していた。外来語のpを表すための強勢音のṗがあったと考える学者もある。このうちティベリア式発音で区別が保たれているのはשだけだが、発音は[ʃ, s]の2種類となり、後者はסと同音になる。
6つの破裂音(p b t d k g)は、重子音の場合を除いて母音の後で摩擦音化(p̄ ḇ ṯ ḏ ḵ ḡと翻字される)するが、現代語ではp̄ ḇ ḵがそれぞれ[f v x]と発音されるだけで、他のṯ ḏ ḡはt d gと区別されない。また、3つの摩擦音のうち[v]はו、[x]はחと同音になる。
現代ヘブライ語ではセム語に特有の強勢音が消滅し、ט(ṭ)は[t]、צ(ṣ)は[ts]、ק(q)は[k]と発音される。またע(ʿ)はא(ʾ)と同音の[ʔ]として発音されるか、または無音になる。
借用語のために現代ヘブライ語には新しい音素[tʃ](צ׳)、[dʒ](ג׳)、[ʒ](ז׳)および[w](綴りの上では[v]と区別されず)が存在する。
現代ヘブライ語では重子音は消滅している。また古代ヘブライ語と異なり、音節頭に子音連結が出現することがある。
ティベリア式発音では7つの母音[i e ɛ a ɔ o u]、シュワー[ə]、および3つの超短母音[ĕ ă ŏ]の、全部で11種類の母音を区別する。
現代ヘブライ語は5母音で、ティベリア式発音の[ɛ]は[e]に変化し、また[ɔ]は語源によって[a]または[o]のいずれかに発音される。シュワーは(発音される場合には)[e]と同音であり、超短母音は通常の母音と同様に発音される。二重母音は[aj oj uj]の3種類がある。
ヘブライ語には強勢がある。約7割の語は最終音節に強勢があり、残りは後ろから2番目の音節に強勢がある。外来語についてはこの限りではない。
ヘブライ語の文法は少し分析的言語 (Analytic language) の特徴を持っている。与格や奪格や対格の代わりに、前置詞を使う。しかしまた、動詞と名詞の語形変化が重要である。
他のセム語と同様、ヘブライ語の語根の大部分は三子音から構成されるが、少数は四子音からなる。
名詞は2つの性(男性・女性)、3つの数(単数・双数・複数)を持つが、双数の使用は限定的である。また定冠詞ha-によって定性を示す。格変化はしないが、独立形と連語形の2つの語形があり、名詞がほかの名詞を修飾することによって作られる連結語(スミフート)において、修飾される名詞は連語形を取る。形容詞は名詞と同様に変化し、修飾する名詞と性・数・定性を一致させる。
連結語は現代ヘブライ語でも使われるが、主に複合語として語彙化した場合に使われ、属格は通常はミシュナー・ヘブライ語以来の属格前置詞šelなどによって分析的に表現することを好む。
人称代名詞は3つの人称、性、数(ただし双数形はない)によって異なる。ただし一人称は性による違いがない。また独立した代名詞のほかに接尾辞形を持つ。指示代名詞は近称と遠称があり、それぞれ性・数で変化する。
聖書ヘブライ語の動詞は完了と未完了の2つの形があり、それぞれが代名詞と同様に人称、性、数によって変化する。未完了形からは願望形(一人称のみ)・命令形(二人称のみ)・指示形の3種類の法の動詞形が作られる。また能動と受動の2種類の分詞と不定詞を持つ。
聖書ヘブライ語の風変わりな特徴として、未完了形の前に接続詞va-がつくと完了の意味に変化する。逆に完了形が接続詞və-がつくと未完了の意味になる。これは、ヘブライ語の未完了形yiqtolが歴史的に未完了形*yaqtuluと古い完了形*yaqtulの融合したものであり、va-に後続するときにのみ後者の意味が残存しているものと考えられる。完了形が未完了の意味になるのはおそらく類推による。この特徴はミシュナー・ヘブライ語以降は消滅した。
現代ヘブライ語では能動分詞を現在に、完了形を過去に、未完了形を未来に使う。未来の複数形では性による変化が消滅している。不定詞は変化せず、l-が加えられる。命令形は存在するが、くだけた表現では使われなくなりつつあり、かわりに不定詞や未来形が使われる。
他のセム語と同様、動詞は派生活用形をもち、アラビア語文法にならって語根pʿlをもとにそれぞれパアル(またはカル)・ニフアル・ピエル・プアル・ヒフイル・ホフアル・ヒトパエルと呼ばれる。ヒフイルは使役的、ヒトパエルは再帰的な意味を表すことが多い。ニフアル・プアル・ホフアルはそれぞれカル・ピエル・ヒフイルに対する受動的な意味を表す。
聖書ヘブライ語の語順はVSO型がもっとも普通だが、主語を強調してSVOになったり、目的語を強調してOVSまたはVOSになることがあった。また、代名詞主語は強調する場合以外は省略される。後にSVO型へ移行した。
ヘブライ語は、イスラエルでの日常会話に使われるほか、正しい聖書理解、ユダヤ教、ラビ文献を含むヘブライ語文学(英語版)、ユダヤ音楽(英語版)、セム語学、アフロアジア語学などに必須の言語である。 | [
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"text": "ヘブライ語(ヘブライご、ヘブライ語: עִבְרִית ʿĪvrīt, ラテン語: Lingua Hebraea)は、アフロ・アジア語族のセム語派に属する北西セム諸語の一つ。ヘブル語、ヒブル語とも呼ばれる。",
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"text": "言語の名を日本語で「ヘブライ語」と呼ぶのはギリシア語(εβραϊκή γλώσσα)やラテン語(Lingua Hebraica)からの習慣であり、ドイツ語(Hebräische Sprache)やイタリア語(Lingua ebraica)においても「ヘブライ語」に準じた名で呼ばれる。他方、英語(Hebrew language)やフランス語(Hébreu)での言語名はヘブライ語自体における呼称(עברית)に由来し、日本語でも「ヘブル語」や「ヒブル語」と呼ぶのを好む場合もある。なお、東京外国語大学はじめ日本のほとんどの大学は語学講義名をヘブライ語としている。",
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"text": "古代にイスラエルに住んでいたヘブライ人が母語として用いていた言語古代ヘブライ語(または聖書ヘブライ語)は西暦200年ごろに口語として滅亡し、その後は学者の著述や典礼言語として使われてきた。現在イスラエル国で話される現代ヘブライ語は、約1700-1800年の断絶を経て近代ヨーロッパで復興された言語である。現代ヘブライ語には2つの時期があり、ひとつは18世紀後半のハスカーラー運動におけるユダヤ文化復興の中で使われるようになった書き言葉であり、もうひとつは19世紀末に復興された話し言葉としてのヘブライ語である。一度日常語として使われなくなった古代語が復活し、再び実際に話されるようになったのは、歴史上このヘブライ語だけである。",
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"text": "ヘブライ語(עברית イヴリート)の名は紀元前2世紀ごろから使われている。聖書自身の中では「カナンの言葉」(שְׂפַת כְּנַעַן セファト・ケナアン)または「ユダヤ語」(יהודית イェフディート)と呼ばれている。ミシュナーでは「聖なる言語」(לָשׁוֹן הַקֹּדֶשׁ レション・ハコデシュ、英語版)とも呼ばれる。",
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"text": "古代ヘブライ語または聖書ヘブライ語はフェニキア語などと同じくカナン諸語のひとつであり、最も古いヘブライ語で書かれた碑文は紀元前10世紀に書かれたゲゼル・カレンダーとされるが、この碑文が本当にヘブライ語かどうかについては疑いも持たれている。西暦132-135年のバル・コクバの手紙まで、数百の古代ヘブライ語碑文が残っている。",
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"text": "旧約聖書はこの言語で書かれているが、異なる時代の言語が混じっている。引用された韻文の言語にはきわめて古い時代のものがあり、イスラエル王国の成立(紀元前1000年ごろ)以前の士師の時代にさかのぼる。紀元前10-6世紀の言語は古典ヘブライ語または(標準)聖書ヘブライ語と呼ばれる。紀元前6-2世紀の言語は後期古典ヘブライ語、または後期聖書ヘブライ語と呼ばれる。このほかにサマリア五書(紀元前2世紀後半)も重要な資料である。",
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"text": "聖書より新しい時代のヘブライ語としては死海文書の言語がある。また、ミシュナーやタルムードなどのラビ文献に使用される言語は後期聖書ヘブライ語から直接発達したものではなく、かつては学者によって人工的に造られた言語と考えられていたが、現在では西暦紀元後数世紀にわたって話されていた口語のヘブライ語を反映したものと考えられている。",
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"text": "おそらく135年のバル・コクバの乱の結果、多くのユダヤ人はアラム語地域であったガリラヤ地方へ逃れ、口語としてのヘブライ語は西暦200年ごろ滅亡したと考えられている。その後のユダヤ人の第一言語はアラム語やギリシア語になり、ヘブライ語は学者の使用する言語に過ぎなくなった。",
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"text": "中世に入って文献学者のヨハネス・ロイヒリンは、非ユダヤ人にして初めて大学で聖書ヘブライ語を教授しカバラについての著書 (De Arte Cabalistica) を残し、ラビとしての教育を受けたバルーフ・デ・スピノザは死後に遺稿集とした出版された『ヘブライ語文法総記』で文献学的聖書解釈の観点からより言語語学的なヘブライ語の説明を行った。その冒頭部で、母音を表す文字がヘブライ文字には存在しないにもかかわらず「母音のない文字は『魂のない身体』(corpora sine anima) である」と記した。18世紀に入るとユダヤ人の間でハスカーラーと呼ばれる啓蒙運動が起こり、聖書ヘブライ語での文芸活動が始まった。この動きは、のちの19世紀におけるヘブライ語の復活に大きな役割を果たした。",
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"text": "ヘブライ語が話し言葉としてはほぼ消滅していた時代でも、ヘブライ語による著述活動は約1800年間、途切れることなく続き、全くの死語となっていたわけではなく、文章言語としては存続していた。さらにハスカーラー期において、聖書ヘブライ語から独立した書記言語としての文体が確立した。",
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"text": "21世紀初頭において、ヘブライ語話者が多数を占める国家はイスラエル一国のみである。イスラエルにおいてヘブライ語はアラビア語とともに公用語の地位にあるが、同国内におけるユダヤ人とアラブ人の人口及び政治的・経済的影響力の差によって、ヘブライ語の影響力の方が強く、事実上唯一の公用語の地位を占めている状況にある。さらにベンヤミン・ネタニヤフ政権は2017年5月7日にアラビア語を公用語から外して「特別な位置付けが与えられた言語」に格下げし、ヘブライ語のみを「国語」とする閣議決定を行った。このヘブライ語単独公用語化を含むユダヤ人国家法は2018年7月にイスラエル国会で可決され、アラブ系国会議員の抗議と辞任やアラブ系市民の抗議デモを引き起こした。",
"title": "言語分布"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "現代のヘブライ語事情に関しては、イスラエル国内のアラブ人、すなわちアラブ系イスラエル人、ならびに占領地におけるパレスチナ人は、ヘブライ語を非常に流暢に話している。彼らのほうが、成人になってからウルパンというヘブライ語教室においてヘブライ語を少しだけ学ぶユダヤ系米国人たちよりもヘブライ語に堪能であると思われる。その背景として、ヘブライ語とアラビア語は、文字は異なるが、共にセム語派の言語であり、文法や語彙などにおいてかなり類似点があるからである。また、現代のパレスチナだけではなくイスラエル国内においても多数のアラブ系イスラエル人が居住し、イスラエル建国以前はアラブ人の都市や村落も多数あるため、アラビア語起源の人名や地名など固有名詞のヘブライ文字化も行われている。具体的には、アラビア語で「ようこそ」などを意味するاهلا وسهلا(アハラン・ワ・サハラン)はאהלן וסהלןとヘブライ文字化される。",
"title": "言語分布"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "現代ヘブライ語は近代言語として復活してから100年前後しか経っていないため地域的な分化が進んでいない一方で、世界各地から絶えず移民が流入するため話者の出身国による訛りは多様なものとなっている。",
"title": "言語分布"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "ヘブライ語使用はイスラエル国内において定着しており、同国内の新刊書籍の約9割がヘブライ語書籍によって占められ、またヘブライ語による文学作品も多数発表されるようになり、1966年にはヘブライ語作家であるシュムエル・アグノンがノーベル文学賞を受賞した。",
"title": "言語分布"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "イスラエルにおいては、グローバリゼーションとアメリカ化の風潮の中で、ヘブライ語を主な使用言語に保ち続け、またヘブライ語の語彙に英語の単語が大規模に取り入れられるのを防ぐためのさまざまな措置が取られてきた。ヘブライ大学に設置されているヘブライ語アカデミーは、英単語をヘブライ語の語彙の中に組み込む代わりに、現代の単語の意味を捉え、それに対応するヘブライ語の単語を見つけだすことによって、毎年約2000個の新しいヘブライ語の単語を創造している。ハイファ自治体は職員に対し公文書における英単語の使用を禁止させ、また民間事業においても英語のみの看板を使用することを阻止する動きを見せている。2012年には、イスラエルのクネセト(国会)においてヘブライ語の保存に関する法案が提案された。この法案には、イスラエル政府の公式発表と同様に、イスラエルにおけるすべての看板において、まず第一にヘブライ語を使用しなければならないという規定が含まれている。この法案を作成したMK Akram Hassonは、この法案はヘブライ語の「威信の低下」と、子供たちが多くの英単語を自らの語彙に取り入れたことへの対策として提案されたと述べた。",
"title": "言語分布"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "ヘブライ語の表記には22文字のヘブライ文字を使用する。同じセム語派に属するアラビア語と同様に、ヘブライ語は右から左に右横書きで書く。またヘブライ文字はアブジャドであるため、日本語や英語などと違って、子音を表す表記はあっても、母音を表す表記はないことが多く、言語の習得にはある程度の慣れが必要である。ヘブライ語の点字体系も存在する。",
"title": "文字と記法"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "ニクダーと呼ばれる母音記号は存在はするが、通常のヘブライ語力があれば記号なしでも文章を読みこなすことは容易であるため、母音記号が付されているものは聖書や詩のほかは、辞書や教科書、児童書などの初学者向けのものに限られる。またこの母音記号の成立が古く、現代の発音とずれが生じているため、記号を打つのには専門知識が必要とされる。",
"title": "文字と記法"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "古代イスラエルにおいては、フェニキア文字から派生した古ヘブライ文字がヘブライ語の表記に使用されていた。しかし紀元前6世紀のバビロン捕囚後、同系統のアラム文字へと表記体系が切り替わった。このアラム文字から派生したものが、現代において使用されるヘブライ文字である。なお、ヘブライ語の一種であるサマリア語を典礼言語としたサマリア人たちはこの時アラム文字への切り替えを行っておらず、その後も古ヘブライ文字から発展したサマリア文字を使用していた。",
"title": "文字と記法"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "古代のヘブライ語の正確な音声については不明な点が多い。古ヘブライ文字およびヘブライ文字は22の子音字から構成されるが、実際には1つの文字が複数の音を表していた可能性がある。おそらく紀元前1千年紀のヘブライ語には少なくとも25の子音があって、חは[ħ, x]、עは[ʕ, ɣ]、שは[ʃ, ɬ]の2種類の音を表していた。外来語のpを表すための強勢音のṗがあったと考える学者もある。このうちティベリア式発音で区別が保たれているのはשだけだが、発音は[ʃ, s]の2種類となり、後者はסと同音になる。",
"title": "音声"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "6つの破裂音(p b t d k g)は、重子音の場合を除いて母音の後で摩擦音化(p̄ ḇ ṯ ḏ ḵ ḡと翻字される)するが、現代語ではp̄ ḇ ḵがそれぞれ[f v x]と発音されるだけで、他のṯ ḏ ḡはt d gと区別されない。また、3つの摩擦音のうち[v]はו、[x]はחと同音になる。",
"title": "音声"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "現代ヘブライ語ではセム語に特有の強勢音が消滅し、ט(ṭ)は[t]、צ(ṣ)は[ts]、ק(q)は[k]と発音される。またע(ʿ)はא(ʾ)と同音の[ʔ]として発音されるか、または無音になる。",
"title": "音声"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "借用語のために現代ヘブライ語には新しい音素[tʃ](צ׳)、[dʒ](ג׳)、[ʒ](ז׳)および[w](綴りの上では[v]と区別されず)が存在する。",
"title": "音声"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "現代ヘブライ語では重子音は消滅している。また古代ヘブライ語と異なり、音節頭に子音連結が出現することがある。",
"title": "音声"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "ティベリア式発音では7つの母音[i e ɛ a ɔ o u]、シュワー[ə]、および3つの超短母音[ĕ ă ŏ]の、全部で11種類の母音を区別する。",
"title": "音声"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "現代ヘブライ語は5母音で、ティベリア式発音の[ɛ]は[e]に変化し、また[ɔ]は語源によって[a]または[o]のいずれかに発音される。シュワーは(発音される場合には)[e]と同音であり、超短母音は通常の母音と同様に発音される。二重母音は[aj oj uj]の3種類がある。",
"title": "音声"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "ヘブライ語には強勢がある。約7割の語は最終音節に強勢があり、残りは後ろから2番目の音節に強勢がある。外来語についてはこの限りではない。",
"title": "音声"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "ヘブライ語の文法は少し分析的言語 (Analytic language) の特徴を持っている。与格や奪格や対格の代わりに、前置詞を使う。しかしまた、動詞と名詞の語形変化が重要である。",
"title": "文法"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "他のセム語と同様、ヘブライ語の語根の大部分は三子音から構成されるが、少数は四子音からなる。",
"title": "文法"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "名詞は2つの性(男性・女性)、3つの数(単数・双数・複数)を持つが、双数の使用は限定的である。また定冠詞ha-によって定性を示す。格変化はしないが、独立形と連語形の2つの語形があり、名詞がほかの名詞を修飾することによって作られる連結語(スミフート)において、修飾される名詞は連語形を取る。形容詞は名詞と同様に変化し、修飾する名詞と性・数・定性を一致させる。",
"title": "文法"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "連結語は現代ヘブライ語でも使われるが、主に複合語として語彙化した場合に使われ、属格は通常はミシュナー・ヘブライ語以来の属格前置詞šelなどによって分析的に表現することを好む。",
"title": "文法"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "人称代名詞は3つの人称、性、数(ただし双数形はない)によって異なる。ただし一人称は性による違いがない。また独立した代名詞のほかに接尾辞形を持つ。指示代名詞は近称と遠称があり、それぞれ性・数で変化する。",
"title": "文法"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "聖書ヘブライ語の動詞は完了と未完了の2つの形があり、それぞれが代名詞と同様に人称、性、数によって変化する。未完了形からは願望形(一人称のみ)・命令形(二人称のみ)・指示形の3種類の法の動詞形が作られる。また能動と受動の2種類の分詞と不定詞を持つ。",
"title": "文法"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "聖書ヘブライ語の風変わりな特徴として、未完了形の前に接続詞va-がつくと完了の意味に変化する。逆に完了形が接続詞və-がつくと未完了の意味になる。これは、ヘブライ語の未完了形yiqtolが歴史的に未完了形*yaqtuluと古い完了形*yaqtulの融合したものであり、va-に後続するときにのみ後者の意味が残存しているものと考えられる。完了形が未完了の意味になるのはおそらく類推による。この特徴はミシュナー・ヘブライ語以降は消滅した。",
"title": "文法"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "現代ヘブライ語では能動分詞を現在に、完了形を過去に、未完了形を未来に使う。未来の複数形では性による変化が消滅している。不定詞は変化せず、l-が加えられる。命令形は存在するが、くだけた表現では使われなくなりつつあり、かわりに不定詞や未来形が使われる。",
"title": "文法"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "他のセム語と同様、動詞は派生活用形をもち、アラビア語文法にならって語根pʿlをもとにそれぞれパアル(またはカル)・ニフアル・ピエル・プアル・ヒフイル・ホフアル・ヒトパエルと呼ばれる。ヒフイルは使役的、ヒトパエルは再帰的な意味を表すことが多い。ニフアル・プアル・ホフアルはそれぞれカル・ピエル・ヒフイルに対する受動的な意味を表す。",
"title": "文法"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "聖書ヘブライ語の語順はVSO型がもっとも普通だが、主語を強調してSVOになったり、目的語を強調してOVSまたはVOSになることがあった。また、代名詞主語は強調する場合以外は省略される。後にSVO型へ移行した。",
"title": "文法"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "ヘブライ語は、イスラエルでの日常会話に使われるほか、正しい聖書理解、ユダヤ教、ラビ文献を含むヘブライ語文学(英語版)、ユダヤ音楽(英語版)、セム語学、アフロアジア語学などに必須の言語である。",
"title": "ヘブライ語の単語・文"
}
] | ヘブライ語は、アフロ・アジア語族のセム語派に属する北西セム諸語の一つ。ヘブル語、ヒブル語とも呼ばれる。 言語の名を日本語で「ヘブライ語」と呼ぶのはギリシア語やラテン語からの習慣であり、ドイツ語やイタリア語においても「ヘブライ語」に準じた名で呼ばれる。他方、英語やフランス語(Hébreu)での言語名はヘブライ語自体における呼称(עברית)に由来し、日本語でも「ヘブル語」や「ヒブル語」と呼ぶのを好む場合もある。なお、東京外国語大学はじめ日本のほとんどの大学は語学講義名をヘブライ語としている。 |
{{特殊文字|説明=[[ヘブライ文字]]}}
<!--clarify the nature of the modern language as separate from Hebrew proper and only about 100 years old -->
{{Infobox language
| name = ヘブライ語
| nativename = {{Hebrew|עברית}}'', {{transl|he|Ivrit}}''
| pronunciation = 近代: {{IPA|[ivˈʁit]}} – 古代: {{IPA|[ʕib'rit]}}{{Efn|[[セファルディム式ヘブライ語]] {{IPA|[ʕivˈɾit]}}; Iraqi {{IPA|[ʕibˈriːθ]}}; [[イエメン式ヘブライ語]] {{IPA|[ʕivˈriːθ]}}; [[アシュケナジム式ヘブライ語]]の実際の発音{{IPA|[iv'ʀis]}}または{{IPA|[iv'ris]}}、厳密な発音{{IPA|[ʔiv'ris]}}または{{IPA|[ʔiv'ʀis]}}; [[現代ヘブライ語]] [ivˈʁit]}}
| states = {{ISR}}<br />
および世界中の[[ユダヤ人|ユダヤ系]]居住区
| region = イスラエルとその占領地など
| ethnicity = [[イスラエル (民族)]]; [[ユダヤ人]]および[[サマリア人]]
| speakers = 約900万人
| extinct = [[ミシュナー・ヘブライ語]]は5世紀までには話し言葉として使用されなくなったが、[[ユダヤ教]]の[[ヘブライ語聖書]]の典礼言語としては使用され続けた<ref name=ASB>{{cite book|url=https://books.google.com/books?id=EZCgpaTgLm0C&pg=PA1|title=A History of the Hebrew Language|first=Angel|last=Sáenz-Badillos|translator-first=John|translator-last=Elwolde|publisher=Cambridge University Press|year=1993|orig-year=1988|isbn=9780521556347}}</ref><ref>H. S. Nyberg 1952. ''Hebreisk Grammatik''. s. 2. Reprinted in Sweden by Universitetstryckeriet, Uppsala 2006.</ref>。
| revived = 19世紀末に話し言葉としても再興した。[[現代ヘブライ語]]には900万人の話者が存在し、そのうち500万人はネイティブスピーカーである(2017年)<ref name="eth">{{Cite web | url=https://www.ethnologue.com/language/heb | title=Hebrew |website=Ethnologue}}</ref>
| ref = e19
| familycolor = [[アフロ・アジア語族]]
| fam2 = [[セム語派]]
| fam3 = [[中央セム語]]
| fam4 = [[北西セム語]]
| fam5 = [[カナン語]]
| ancestor = [[聖書ヘブライ語]]
| ancestor2 = [[ミシュナー・ヘブライ語]]
| ancestor3 = [[中世ヘブライ語]]
| stand1 = [[現代ヘブライ語]]
| script = [[ヘブライ文字]]<br />[[ヘブライ語の点字|ヘブライ点字]]<br />[[古ヘブライ文字]] (古代聖書のヘブライ語)<br />[[アラム文字]] (後期聖書のヘブライ語)
| nation = {{ISR}} ([[現代ヘブライ語]])
| agency = [[ヘブライ語アカデミー]] (Academy of the Hebrew Language)<br />{{lang|he|האקדמיה ללשון העברית}} ({{transl|he|''HaAkademia LaLashon HaʿIvrit''}})
| iso1 = he
| iso2 = heb
| iso2b =
| iso2t =
| iso3 =
| iso3comment =
| lc1 = heb
| ld1 = 現代ヘブライ語
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| lingua = 12-AAB-a
| image = File:Temple Scroll.png
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| imagecaption = クムランで発見された最も長い[[死海文書]]のひとつ、Temple Scrollの一部
| imageheader =
| map =
| mapcaption =
| map2 =
| mapcaption2 =
| notice = IPA
| sign = [[Signed Hebrew]] (oral Hebrew accompanied by sign)<ref>{{cite book|first=Irit|last=Meir|first2=Wendy|last2=Sandler|year=2013|title=A Language in Space: The Story of Israeli Sign Language}}</ref>
| glotto = hebr1246
| glottoname =
| glottorefname = Hebrewic
}}
'''ヘブライ語'''(ヘブライご、ヘブライ語: {{Hebrew|עִבְרִית}} {{transl|he|ʿĪvrīt}}, {{lang-la|Lingua Hebraea}})は、[[アフロ・アジア語族]]の[[セム語派]]に属する[[北西セム諸語]]の一つ。'''ヘブル語'''、'''ヒブル語'''とも呼ばれる。
言語の名を日本語で「ヘブライ語」と呼ぶのはギリシア語({{lang|el|εβραϊκή γλώσσα}})やラテン語(Lingua Hebraica)からの習慣であり、ドイツ語(Hebräische Sprache)やイタリア語(Lingua ebraica)においても「ヘブライ語」に準じた名で呼ばれる。他方、英語(Hebrew language)やフランス語(Hébreu)での言語名はヘブライ語自体における呼称({{lang|he|עברית}})に由来し、日本語でも「ヘブル語」や「ヒブル語」と呼ぶのを好む場合もある<ref>名尾耕作(著)『旧約聖書ヘブル語大辞典』3訂版、東京:教文館、2003年など</ref>。なお、東京外国語大学はじめ日本のほとんどの大学は語学講義名をヘブライ語としている<ref>http://www.tufs.ac.jp/common/fs/ilr/contents/lang/hebrew.html ヘブライ語を学習できる学校</ref>。
==概要==
[[古代]]に[[イスラエル]]に住んでいた[[ヘブライ人]]が[[母語]]として用いていた言語'''古代ヘブライ語'''(または[[聖書ヘブライ語]])は西暦200年ごろに口語として滅亡し、その後は学者の著述や[[典礼言語]]として使われてきた。現在[[イスラエル|イスラエル国]]で話される'''現代ヘブライ語'''は、約1700-1800年の断絶を経て近代ヨーロッパで復興された言語である。現代ヘブライ語には2つの時期があり、ひとつは18世紀後半の[[ハスカーラー]]運動におけるユダヤ文化復興の中で使われるようになった書き言葉であり、もうひとつは19世紀末に復興された話し言葉としてのヘブライ語である<ref>Berman (1997) p.312</ref>。一度日常語として使われなくなった古代語が復活し、再び実際に話されるようになったのは、歴史上このヘブライ語だけである<ref>「ヘブライ語文法ハンドブック」p239 池田潤 白水社 2011年8月30日発行</ref>。
ヘブライ語({{lang|he|עברית}} {{smaller|イヴリート}})の名は紀元前2世紀ごろから使われている<ref>『[[シラ書]]』のギリシア語で書かれた序言(1:22)に{{lang|grc|Εβραϊστί}}「ヘブライ語で」が見られる。{{cite book|chapter=Hebrew Language: Biblical Hebrew|author=Joshua Blau|title=[[エンサイクロペディア・ジュダイカ]]|edition=2nd|volume=8|isbn=9780028659282|page=626}}</ref>。聖書自身の中では「カナンの言葉」({{lang|he|{{Hebrew|שְׂפַת כְּנַעַן}}}} {{smaller|セファト・ケナアン}})または「ユダヤ語」({{lang|he|יהודית}} {{smaller|イェフディート}})と呼ばれている<ref>キリスト聖書塾(1985) p.388</ref>。[[ミシュナー]]では「聖なる言語」({{lang|he|{{Hebrew|לָשׁוֹן הַקֹּדֶשׁ}}}} {{smaller|レション・ハコデシュ}}、[[:en:Lashon Hakodesh|英語版]])とも呼ばれる。
== 古代ヘブライ語 ==
{{main|[[聖書ヘブライ語]]}}
古代ヘブライ語または聖書ヘブライ語は[[フェニキア語]]などと同じく[[カナン諸語]]のひとつであり、最も古いヘブライ語で書かれた碑文は紀元前10世紀に書かれた[[ゲゼル・カレンダー]]とされるが<ref name="名前なし-1">「ヘブライ語文法ハンドブック」p241 池田潤 白水社 2011年8月30日発行</ref>、この碑文が本当にヘブライ語かどうかについては疑いも持たれている<ref>{{citation|url=https://www.biblicalarchaeology.org/daily/biblical-artifacts/inscriptions/the-oldest-hebrew-script-and-language/|title=The Oldest Hebrew Script and Language|date=2018-04-01|publisher=Bible History Daily}}</ref>。西暦132-135年の[[バル・コクバ]]の手紙まで、数百の古代ヘブライ語碑文が残っている<ref>Steiner (1997) p.145</ref>。
[[旧約聖書]]はこの言語で書かれているが、異なる時代の言語が混じっている。引用された韻文の言語にはきわめて古い時代のものがあり、[[イスラエル王国]]の成立(紀元前1000年ごろ)以前の[[士師]]の時代にさかのぼる。紀元前10-6世紀の言語は古典ヘブライ語または(標準)聖書ヘブライ語と呼ばれる。紀元前6-2世紀の言語は後期古典ヘブライ語、または後期聖書ヘブライ語と呼ばれる。このほかに[[サマリア五書]](紀元前2世紀後半)も重要な資料である<ref>McCarter (2004) p.319</ref><ref name="s1">Steiner (1997) p.146</ref><ref>キリスト聖書塾(1985) p.389</ref>。
[[イスラエル王国]]や[[ユダ王国]]ではこの言語が日常語として使用されていたが、紀元前6世紀にユダ王国が滅亡し[[バビロン捕囚]]が起きると、[[バビロン]]に連行されたものたちを中心に[[アラム語]]の強い影響を受けるようになり、[[紀元前537年]]に[[アケメネス朝]]の[[キュロス2世]]によって解放され[[エルサレム]]に帰還したのちもこの影響は続いた<ref name="名前なし-1"/>。[[ヘレニズム]]時代に入ると[[ギリシア語]]も使用されるようになり、3言語併用の状況が続く中でヘブライ語の日常使用は減少していった<ref>「ヘブライ語文法ハンドブック」p242-243 池田潤 白水社 2011年8月30日発行</ref>。
== 中期ヘブライ語 ==
{{seealso|ミシュナー・ヘブライ語}}
聖書より新しい時代のヘブライ語としては[[死海文書]]の言語がある。また、[[ミシュナー]]や[[タルムード]]などの[[ラビ文献]]に使用される言語は後期聖書ヘブライ語から直接発達したものではなく、かつては学者によって人工的に造られた言語と考えられていたが、現在では西暦紀元後数世紀にわたって話されていた口語のヘブライ語を反映したものと考えられている<ref>McCarter (2004) p.320</ref><ref name="s1"/>。
おそらく135年の[[バル・コクバの乱]]の結果、多くのユダヤ人は[[アラム語]]地域であった[[ガリラヤ]]地方へ逃れ、口語としてのヘブライ語は西暦200年ごろ滅亡したと考えられている。その後のユダヤ人の第一言語はアラム語や[[ギリシア語]]になり、ヘブライ語は学者の使用する言語に過ぎなくなった<ref>McCarter (2004) p.321</ref><ref name="s1"/>。
[[ヘブライ文字]]は原則として子音のみを表したが、6世紀ごろから[[マソラ本文]]に点([[ニクダー]])を加えて正確な読みを注記することが行われた。当時は地域によって異なる伝統が行われ、東部(バビロニア)と西部(パレスチナ)では読みが異なっていた<ref>McCarter (2004) pp.322-323</ref>。現在使用されているニクダーはこのうちの[[ヘブライ語のティベリア式発音|ティベリア式発音]]に基づくものである<ref>「ヘブライ語文法ハンドブック」p244 池田潤 白水社 2011年8月30日発行</ref>が、その後のヘブライ語の変化によって現代の発音と表記の間にはずれが生じている<ref name="名前なし-2">『図説 世界の文字とことば』 町田和彦編 66頁。河出書房新社 2009年12月30日初版発行 ISBN 978-4309762210</ref>。
その後さらにヘブライ語は変化していき、{{仮リンク|中世ヘブライ語|en|Medieval Hebrew}}と呼ばれる一時期を迎えた。10世紀末には[[イベリア半島]]の[[コルドバ (スペイン)|コルドバ]]で[[イェフーダー・ベン=ダーウィード・ハイユージュ]]が初のヘブライ語文法書を完成させている<ref name="pa.2017.0000012438">タガー・コヘン, アダ(Taggar-Cohen, Ada)、「[[doi:10.14988/pa.2017.0000012438|聖書ヘブライ語と現代ヘブライ語 : アイデンティティーを求めて]]」『基督教研究』 2009年 71巻 1号 p.63-81, 同志社大学 研究紀要論文</ref>。一方各地に離散したユダヤ人は現地語を話すか、あるいは[[セファルディム]]が話す[[スペイン語]]に属する[[ラディーノ語]]や、[[アシュケナジム]]が話す[[ドイツ語]]に属する[[イディッシュ語]]、[[アラビア語]]圏で話される[[ユダヤ・アラビア語群]]といった、ある程度のヘブライ語の痕跡を残す現地語の変種を話すようになっており、一般的な話し言葉としては完全に使われなくなっていた。また典礼用のヘブライ語の発音方式そのものも地域によって違いが生ずるようになり、セファルディムは子音の多い[[セファルディム式ヘブライ語]]を、アシュケナジムは母音の多い[[アシュケナジム式ヘブライ語]]を使用するようになっていた<ref name="名前なし-3">「ヘブライ語文法ハンドブック」p247 池田潤 白水社 2011年8月30日発行</ref>。
中世に入って文献学者の[[ヨハネス・ロイヒリン]]は、非ユダヤ人にして初めて大学で聖書ヘブライ語を教授し[[カバラ]]についての著書 (De Arte Cabalistica) を残し、[[ラビ]]としての教育を受けた[[バルーフ・デ・スピノザ]]は死後に遺稿集とした出版された『ヘブライ語文法総記』で文献学的聖書解釈の観点からより言語語学的なヘブライ語の説明を行った。その冒頭部で、母音を表す文字がヘブライ文字には存在しないにもかかわらず「母音のない文字は『魂のない身体』(corpora sine anima) である」と記した。[[18世紀]]に入るとユダヤ人の間で[[ハスカーラー]]と呼ばれる[[啓蒙]]運動が起こり、聖書ヘブライ語での文芸活動が始まった。この動きは、のちの19世紀におけるヘブライ語の復活に大きな役割を果たした<ref name=pa.2017.0000012438 />。
== 現代ヘブライ語 ==
{{main|en:Modern Hebrew}}
ヘブライ語が話し言葉としてはほぼ消滅していた時代でも、ヘブライ語による著述活動は約1800年間、途切れることなく続き、全くの[[死語 (言語)|死語]]となっていたわけではなく、文章言語としては存続していた<ref>「日常語になった現代ヘブライ語」p116-117 鴨志田聡子(「イスラエルを知るための62章 第2版」所収 立山良司編著 明石書店 2018年6月30日第2版第1刷)</ref>。さらにハスカーラー期において、聖書ヘブライ語から独立した書記言語としての文体が確立した<ref name="名前なし-4">「ヘブライ語文法ハンドブック」p246 池田潤 白水社 2011年8月30日発行</ref>。
こうした動きを元として、19世紀後半にユダヤ人の間で[[シオニズム]]が勃興しパレスチナに入植地を建設する構想が動き出すと、現地での使用言語を決定することが必要となり、ヘブライ語の日常語としての復活が決定された。こうして再興されることとなったヘブライ語であったが、知識人の間では文章言語として使用され続けていたものの、長い年月の間にヨーロッパ圏とアラブ圏に伝わっていたヘブライ語には発音のずれが生じており、また語彙が決定的に少ないなど、生活言語として使用するには問題が山積している状態だった。この状態を解消するために発音や語順などの整備が行われ、日常言語としての基盤が作られていった<ref>「物語 エルサレムの歴史」p165-166 笈川博一 中央公論新社 2010年7月25日発行</ref>。またこの時、セファルディム系の少ない母音とアシュケナジム系の少ない子音の体系が混合され、発音の単純化がなされた<ref name="名前なし-3"/>。
1880年代にユダヤ人移民の第一波がパレスチナに到着するようになると、現地在住の移民の間でヘブライ語が共通語として少しずつ使われはじめた<ref>「日常語になった現代ヘブライ語」p117 鴨志田聡子(「イスラエルを知るための62章 第2版」所収 立山良司編著 明石書店 2018年6月30日第2版第1刷)</ref>。初期入植者は[[東欧]]からの移民が多く、このため彼らの話すイディッシュ語や[[ロシア語]]、[[ポーランド語]]などの中東欧諸言語の影響がヘブライ語に見られるようになった<ref>「事典世界のことば141」p272 梶茂樹・中島由美・林徹編 大修館書店 2009年4月20日初版第1刷</ref>。[[19世紀]]に[[ロシア]]からパレスチナに移り住んだ[[エリエゼル・ベン・イェフダー]](1858年 - 1922年)は、ヘブライ語を日常語として用いることを実践した人物であり、ヘブライ語復活に大きな役割を果たした。彼の息子は生まれてから数年間はヘブライ語のみで教育され、約二千年ぶりにヘブライ語を母語として話した人物となった<ref>「物語 エルサレムの歴史」p167 笈川博一 中央公論新社 2010年7月25日発行</ref><ref name="名前なし-4"/>。しかし、彼が聖書を基に一から現代ヘブライ語を作ったわけではない。彼の貢献は主に語彙の面におけるものであり、使われなくなっていた単語を文献から探し出したり、新語を作ったりして、現代的な概念を表すことができるようにした。そのために全16巻からなる『[[ヘブライ語大辞典]]』を編纂したが、完成間近で没し、死後に出版された<ref>「物語 エルサレムの歴史」p166-167 笈川博一 中央公論新社 2010年7月25日発行</ref>。またベン・イェフダーを中心として1890年にヘブライ語委員会が設立され、語彙の拡大などを中心としたヘブライ語の復活はさらに進められた<ref>「イスラエル文学」p256-257 樋口義彦(「イスラエルを知るための62章 第2版」所収 立山良司編著 明石書店 2018年6月30日第2版第1刷)</ref>。このため、現代ヘブライ語は半[[人工言語]]に分類することができる。このヘブライ語委員会はヘブライ語の統制機関として機能し続け、1953年に[[ヘブライ語アカデミー]]へと改組された。
こうしたユダヤ人の努力によってヘブライ語は話し言葉として再生され、1920年代にはすでに現地のユダヤ人の間で広く使用されるようになった記録が残っている。1922年には英語やアラビア語とともに[[イギリス委任統治領パレスチナ]]の公用語に指定され<ref name="名前なし-4"/>、1948年に[[イスラエル]]が建国されるとその[[公用語]]のひとつとなり<ref>「日常語になった現代ヘブライ語」p118 鴨志田聡子(「イスラエルを知るための62章 第2版」所収 立山良司編著 明石書店 2018年6月30日第2版第1刷)</ref>、2018年には、憲法に準じる基本法「ユダヤ国民国家基本法」で、ヘブライ語のみを公用語とした<ref>[https://www.timesofisrael.com/knesset-votes-contentious-jewish-nation-state-bill-into-law/ Israel passes Jewish state law, enshrining ‘national home of the Jewish people’ 19 July 2018, 2:58 am] - "[[:en:The Times of Israel|The Times of Israel]]" Raoul Wootliff{{en icon}}</ref><ref>[https://www.sankei.com/article/20180719-55DXBQAF6FIOFCWVOHWTYHWIHY/ イスラエル国会で「ユダヤ国民国家法」可決 アラビア語を公用語から除外 2018.7.19 18:36] - 『[[産経新聞]]』 佐藤貴生</ref><ref>[https://www.asahi.com/articles/ASL7N24HVL7NUHBI004.html 「ユダヤ人国家」法、イスラエル国会が可決 批判相次ぐ 2018年7月20日09時15分] - 『朝日新聞』 渡辺丘</ref>。イスラエル政府はヘブライ語の共通語化と使用を強く推進している。世界各地からユダヤ教徒がイスラエルへ移民しているため、イスラエルにおいてはイスラエルへの移民であるか否かを問わず、またイスラエルへ定住する意思の有無を問わず、誰でもヘブライ語を学習することができる成人を対象としたヘブライ語の教育機関として[[ウルパン]]が設立されている<ref>「日常語になった現代ヘブライ語」p118-119 鴨志田聡子(「イスラエルを知るための62章 第2版」所収 立山良司編著 明石書店 2018年6月30日第2版第1刷)</ref>。
現代ヘブライ語は、イスラエル国内に多数の[[アラブ人]]が居住していることやもともと同系の言語であることなどから[[アラビア語]]の影響を受けており、「[[ファラフェル]]」({{lang-he|פָלָאפֶל}})などアラビア語起源の[[単語]]がそのままヘブライ文字で記載されることが少なくない<ref>「日常語になった現代ヘブライ語」p136 鴨志田聡子(「イスラエルを知るための62章 第2版」所収 立山良司編著 明石書店 2018年6月30日第2版第1刷)</ref>。さらに、経済の[[グローバル化]]や[[情報技術]]の発達などにより、「[[インターネット]]({{lang-he|אִינְטֶרְנֶט}})」など英単語をヘブライ語に「[[翻訳]]」することなく、そのままヘブライ単語となることも少なくなく、さらに[[コンピュータ]]関連の文書などにおいてヘブライ文字で記載されているヘブライ語のなかに、英字で記載されてある英単語がそのまま挿入されていることもある。また、この場合、英単語は右から左へではなくそのまま左から右へと記述され挿入される。
現代ヘブライ語において用いられる数字は、[[数学]]で用いられている[[アラビア数字]]である。そして、右から左へ記載するヘブライ語の中に、左から右へ記載するアラビア数字を挿入して記載している。そして、マイクロソフト社の[[Microsoft Word]]を用いてヘブライ語の文書を作成する際にも、ヘブライ文字は右から左へ記載されるが、数字だけは左から右へ記載されるようになっている。
== 言語分布 ==
2013年時点で、ヘブライ語話者は全世界に約900万人存在し<ref name=israel-hayom-hebrew-speakers>{{cite news|last=Klein|first=Zeev|title=A million and a half Israelis struggle with Hebrew|url=http://www.israelhayom.com/site/newsletter_article.php?id=8065|accessdate=2 November 2013|newspaper=[[Israel Hayom]]|date=18 March 2013}}</ref>、そのうち700万人は流暢にヘブライ語を話すことができる<ref name=esl.fis.edu>{{cite web|title=The differences between English and Hebrew|url=http://esl.fis.edu/grammar/langdiff/hebrew.htm|work=[[Frankfurt International School]]|accessdate=2 November 2013}}</ref><ref name=ucl.ac.uk>{{cite web|title=Hebrew – UCL|url=http://www.ucl.ac.uk/clie/learning-resources/sac/hebrew|work=[[University College London]]|accessdate=2 November 2013}}</ref><ref name=studentsabroad>{{cite web|title=Why Learn a Language?|url=http://www.studentsabroad.com/handbook/why-learn-a-language.php?country=Israel|accessdate=2 November 2013}}</ref>。
2013年時点では、イスラエルにいるユダヤ人のうち90%はヘブライ語に堪能であり、70%は非常に堪能である<ref name=CBS>{{cite web|url=http://www.ynetnews.com/articles/0,7340,L-4335235,00.html |title=CBS: 27% of Israelis struggle with Hebrew – Israel News, Ynetnews |publisher=Ynetnews.com |date=21 January 2013 |accessdate=9 November 2013}}</ref>。イスラエルに住むアラブ人のうち約60%もヘブライ語に堪能であり<ref name=CBS/>、30%はアラビア語よりもヘブライ語の方を流暢に操ることができる<ref name="Behadrey-Haredim">{{cite web|first1=Nachman |last1=Gur |first2=Behadrey |last2=Haredim|title='Kometz Aleph – Au': How many Hebrew speakers are there in the world?|url=http://www.bhol.co.il/article_en.aspx?id=52405|accessdate=2 November 2013}}</ref>。イスラエルの人口のうち53%がヘブライ語を母語としており、残りのほとんどの人々も流暢に話すことができる。ただし20歳以上のイスラエル人に限るとヘブライ語を母語とするものは49%にすぎず、そのほかの人々は[[ロシア語]]、[[アラビア語]]、[[フランス語]]、[[英語]]、[[イディッシュ語]]、および[[ラディーノ語]]などを母語としていた。イスラエル内アラブ人のうち12%、および旧[[ソヴィエト連邦]]からイスラエルへ移民してきたユダヤ人のうち26%はヘブライ語をほとんどあるいはまったく話すことができない<ref name=CBS/><ref>{{cite web|url=http://www.israelnationalnews.com/News/News.aspx/131811 |title=Some Arabs Prefer Hebrew – Education – News |publisher=Israel National News |date= |accessdate=25 April 2013}}</ref>。
21世紀初頭において、ヘブライ語話者が多数を占める国家はイスラエル一国のみである。イスラエルにおいてヘブライ語はアラビア語とともに公用語の地位にあったが、同国内におけるユダヤ人と[[アラブ人]]の人口及び政治的・経済的影響力の差によってヘブライ語の影響力の方が強く、[[ベンヤミン・ネタニヤフ]]政権は[[2017年]]5月7日にアラビア語を公用語から外して「特別な位置付けが与えられた言語」に格下げし、ヘブライ語のみを「[[国語]]」とする閣議決定を行った<ref>https://www.afpbb.com/articles/-/3127540 「イスラエル、アラビア語を公用語から外す法案を閣議決定」AFPBB 2017年05月08日 2017年6月21日閲覧</ref>。このヘブライ語単独公用語化を含む[[ユダヤ人国家法]]は2018年7月に[[クネセト|イスラエル国会]]で可決され<ref>https://www.afpbb.com/articles/-/3183010?cx_part=search 「イスラエル議会、「ユダヤ国家法」採択 アラブ系住民排斥への不安高まる」AFPBB 2018年7月19日 2019年6月27日閲覧</ref><ref>https://www.sankei.com/article/20180719-55DXBQAF6FIOFCWVOHWTYHWIHY/ 「イスラエル国会で「ユダヤ国民国家法」可決 アラビア語を公用語から除外」産経新聞 2018年7月19日 2019年6月27日閲覧</ref>、アラブ系国会議員の抗議と辞任<ref>https://www.afpbb.com/articles/-/3184150?cx_part=search 「ユダヤ人国家法」可決に抗議、アラブ系国会議員が辞任 イスラエル」AFPBB 2018年7月29日 2019年6月27日閲覧</ref>やアラブ系市民の抗議デモを引き起こした<ref>https://www.afpbb.com/articles/-/3185808?cx_part=search 「「ユダヤ人国家法」に抗議、アラブ系イスラエル人ら3万人デモ」AFPBB 2018年8月12日 2019年6月27日閲覧</ref>。
現代のヘブライ語事情に関しては、イスラエル国内のアラブ人、すなわち[[イスラエルのアラブ系市民|アラブ系イスラエル人]]、ならびに占領地における[[パレスチナ人]]は、ヘブライ語を非常に流暢に話している<ref>{{cite web
|url=http://www.ilam-center.org/ilam/en/files/userfiles/Publications/Report-Media_Consumption-Published.pdf
|title=The Culture of Media Consumption among National Minorities: The Case of Arab Society in Israel
|author=Amal Jamal
|publisher=I’lam Media Center for Arab Palestinians in Israel
|date=2006-9
|accessdate=2014-06-29}}</ref>。彼らのほうが、成人になってから[[ウルパン]]というヘブライ語教室においてヘブライ語を少しだけ学ぶユダヤ系米国人たちよりもヘブライ語に堪能であると思われる。その背景として、ヘブライ語とアラビア語は、文字は異なるが、共にセム語派の言語であり、文法や語彙などにおいてかなり類似点があるからである。また、現代のパレスチナだけではなくイスラエル国内においても多数のアラブ系イスラエル人が居住し、イスラエル建国以前はアラブ人の都市や村落も多数あるため、アラビア語起源の人名や地名など固有名詞のヘブライ文字化も行われている。具体的には、アラビア語で「ようこそ」などを意味する{{lang|ar|اهلا وسهلا}}(アハラン・ワ・サハラン)は{{lang|he|אהלן וסהלן}}とヘブライ文字化される。
現代ヘブライ語は近代言語として復活してから100年前後しか経っていないため地域的な分化が進んでいない<ref>「ヘブライ語文法ハンドブック」p248 池田潤 白水社 2011年8月30日発行</ref>一方で、世界各地から絶えず移民が流入するため話者の出身国による訛りは多様なものとなっている<ref>「ヘブライ語文法ハンドブック」p252 池田潤 白水社 2011年8月30日発行</ref>。
ヘブライ語使用はイスラエル国内において定着しており、同国内の新刊書籍の約9割がヘブライ語書籍によって占められ、またヘブライ語による文学作品も多数発表されるようになり<ref>「イスラエル文学」p256-260 樋口義彦(「イスラエルを知るための62章 第2版」所収 立山良司編著 明石書店 2018年6月30日第2版第1刷)</ref>、1966年にはヘブライ語作家である[[シュムエル・アグノン]]が[[ノーベル文学賞]]を受賞した<ref>https://www.nobelprize.org/prizes/literature/1966/summary/ 「The Nobel Prize in Literature 1966」[[ノーベル財団]] 2019年8月9日閲覧</ref>。
イスラエルにおいては、[[グローバリゼーション]]と[[アメリカニゼーション|アメリカ化]]の風潮の中で、ヘブライ語を主な使用言語に保ち続け、またヘブライ語の語彙に英語の単語が大規模に取り入れられるのを防ぐためのさまざまな措置が取られてきた。[[ヘブライ大学]]に設置されている[[ヘブライ語アカデミー]]は、英単語をヘブライ語の語彙の中に組み込む代わりに、現代の単語の意味を捉え、それに対応するヘブライ語の単語を見つけだすことによって、毎年約2000個の新しいヘブライ語の単語を創造している。[[ハイファ]]自治体は職員に対し公文書における英単語の使用を禁止させ、また民間事業においても英語のみの看板を使用することを阻止する動きを見せている<ref>{{cite web|url=http://www.ynetnews.com/articles/0,7340,L-4333113,00.html |title=Keeping Hebrew Israel's living language – Israel Culture, Ynetnews |publisher=Ynetnews.com |date= 2013-01-17|accessdate=25 April 2013}}</ref>。2012年には、イスラエルの[[クネセト]]([[国会]])においてヘブライ語の保存に関する法案が提案された。この法案には、イスラエル政府の公式発表と同様に、イスラエルにおけるすべての看板において、まず第一にヘブライ語を使用しなければならないという規定が含まれている。この法案を作成したMK Akram Hassonは、この法案はヘブライ語の「威信の低下」と、子供たちが多くの英単語を自らの語彙に取り入れたことへの対策として提案されたと述べた<ref>{{cite web|last=Danan |first=Deborah |url=http://www.jpost.com/NationalNews/Article.aspx?id=297627 |title=Druse MK wins prize for helping preserve Hebrew | JPost | Israel News |publisher=JPost |date=28 December 2012 |accessdate=25 April 2013}}</ref>。
==文字と記法==
[[File:המילה עברית בכתב ובכתב העברי הקדום.jpg|thumb|ヘブライ文字(上)と古ヘブライ文字(下)]]
{{main|ヘブライ文字}}
ヘブライ語の表記には22文字のヘブライ文字を使用する<ref name="名前なし-2"/>。同じセム語派に属するアラビア語と同様に、ヘブライ語は右から左に[[右横書き]]で書く。またヘブライ文字は[[アブジャド]]であるため、日本語や英語などと違って、子音を表す表記はあっても、母音を表す表記はないことが多く、言語の習得にはある程度の慣れが必要である。[[ヘブライ語の点字]]体系も存在する。
[[ニクダー]]と呼ばれる母音記号は存在はするが、通常のヘブライ語力があれば記号なしでも文章を読みこなすことは容易であるため、母音記号が付されているものは聖書や詩のほかは、辞書や教科書、児童書などの初学者向けのものに限られる。またこの母音記号の成立が古く、現代の発音とずれが生じているため、記号を打つのには専門知識が必要とされる<ref>『図説 世界の文字とことば』 町田和彦編 66-67頁。河出書房新社 2009年12月30日初版発行 ISBN 978-4309762210</ref>。
古代イスラエルにおいては、[[フェニキア文字]]から派生した[[古ヘブライ文字]]がヘブライ語の表記に使用されていた。しかし紀元前6世紀のバビロン捕囚後、同系統の[[アラム文字]]へと表記体系が切り替わった。このアラム文字から派生したものが、現代において使用されるヘブライ文字である<ref name="名前なし-2"/>。なお、ヘブライ語の一種である[[サマリア語]]を典礼言語とした[[サマリア人]]たちはこの時アラム文字への切り替えを行っておらず、その後も古ヘブライ文字から発展した[[サマリア文字]]を使用していた。
==音声==
=== 子音 ===
古代のヘブライ語の正確な音声については不明な点が多い。古ヘブライ文字およびヘブライ文字は22の子音字から構成されるが、実際には1つの文字が複数の音を表していた可能性がある。おそらく[[紀元前1千年紀]]のヘブライ語には少なくとも25の子音があって、{{lang|he|ח}}は{{IPA|ħ, x}}、{{lang|he|ע}}は{{IPA|ʕ, ɣ}}、{{lang|he|ש}}は{{IPA|ʃ, ɬ}}の2種類の音を表していた<ref>Goerwitz (1996) p.487</ref>。外来語のpを表すための強勢音の{{unicode|ṗ}}があったと考える学者もある<ref>Steiner (1997) p.147</ref><ref>{{cite book|author=Steiner, Richard|year=1993|chapter=Emphatic פ in the Massoretic Pronunciation of {{lang|he|אפדנו}} (Dan 11:45)|title=Hebrew and Arabic Studies in Honour of Joshua Blau|editor=Haggai Ben-Shammai|publisher=Hebrew University|pages=551-62}}</ref>。このうちティベリア式発音で区別が保たれているのは{{lang|he|ש}}だけだが、発音は{{IPA|ʃ, s}}の2種類となり、後者は{{lang|he|ס}}と同音になる。
6つの破裂音(p b t d k g)は、[[長子音|重子音]]の場合を除いて母音の後で摩擦音化({{unicode|p̄ ḇ ṯ ḏ ḵ ḡ}}と翻字される)するが、現代語では{{unicode|p̄ ḇ ḵ}}がそれぞれ{{IPA|f v x}}と発音されるだけで、他の{{unicode|ṯ ḏ ḡ}}は{{unicode|t d g}}と区別されない。また、3つの摩擦音のうち{{IPA|v}}は{{lang|he|ו}}、{{IPA|x}}は{{lang|he|ח}}と同音になる<ref name="b1">Berman (1997) p.314</ref><ref>キリスト聖書塾(1985) p.28</ref>。
現代ヘブライ語ではセム語に特有の[[強勢音]]が消滅し、{{lang|he|ט}}({{unicode|ṭ}})は{{IPA|t}}、{{lang|he|צ}}(ṣ)は{{IPA|ts}}、{{lang|he|ק}}(q)は{{IPA|k}}と発音される。また{{lang|he|ע}}({{unicode|ʿ}})は{{lang|he|א}}({{unicode|ʾ}})と同音の{{IPA|ʔ}}として発音されるか、または無音になる<ref name="b1"/>。
借用語のために現代ヘブライ語には新しい音素{{IPA|tʃ}}({{lang|he|צ׳}})、{{IPA|dʒ}}({{lang|he|ג׳}})、{{IPA|ʒ}}({{lang|he|ז׳}})および{{IPA|w}}(綴りの上では{{IPA|v}}と区別されず)が存在する<ref>キリスト聖書塾(1985) p.12,13,14,16</ref>。
現代ヘブライ語では重子音は消滅している。また古代ヘブライ語と異なり、音節頭に[[子音連結]]が出現することがある<ref>Berman (1997) p.316</ref>。
{|class="wikitable"
|+現代ヘブライ語の子音
! !! [[唇音]] !! [[歯茎音]] !! [[後部歯茎音]] !! [[硬口蓋音]] !! [[軟口蓋音]] !! [[口蓋垂音]] !! [[声門音]]
|-
![[破裂音]]
| p b || t d || || || k g || || {{IPA2|ʔ}}
|-
![[鼻音]]
| m || n || || || || ||
|-
![[破擦音]]
| || ts || {{IPA2|(tʃ) (dʒ)}} || || || ||
|-
![[摩擦音]]
| f v || s z || {{IPA2|ʃ (ʒ)}} || || x || {{IPA2|ʁ}}<ref group="注釈">舞台発音では{{IPA|r}}</ref> || h
|-
![[接近音]]
| (w) || || || j || || ||
|-
![[側面接近音]]
| || l || || || || ||
|}
* 括弧内は主に外来語に現れる音
=== 母音 ===
ティベリア式発音では7つの母音{{IPA|i e ɛ a ɔ o u}}、[[シュワー]]{{IPA|ə}}、および3つの超短母音{{IPA|ĕ ă ŏ}}の、全部で11種類の母音を区別する<ref>McCarter (2004) p.326</ref>。
現代ヘブライ語は5母音で、ティベリア式発音の{{IPA|ɛ}}は{{IPA|e}}に変化し、また{{IPA|ɔ}}は語源によって{{IPA|a}}または{{IPA|o}}のいずれかに発音される。シュワーは(発音される場合には){{IPA|e}}と同音であり、超短母音は通常の母音と同様に発音される。二重母音は{{IPA|aj oj uj}}の3種類がある<ref>Berman (1997) p.314</ref>。
=== 強勢 ===
ヘブライ語には[[強勢]]がある。約7割の語は最終音節に強勢があり、残りは後ろから2番目の音節に強勢がある<ref>キリスト聖書塾(1985) p.21</ref>。外来語についてはこの限りではない<ref>キリスト聖書塾(1985) pp.35-36</ref>。
== 文法 ==
ヘブライ語の文法は少し[[分析的言語]] ([[:en:Analytic language|Analytic language]]) の特徴を持っている。[[与格]]や[[奪格]]や[[対格]]の代わりに、[[前置詞]]を使う。しかしまた、動詞と名詞の[[語形変化]]が重要である。
他のセム語と同様、ヘブライ語の語根の大部分は三子音から構成されるが、少数は四子音からなる<ref>McCarter (2004) pp.335-336</ref>。
名詞は2つの[[性 (文法)|性]](男性・女性)、3つの[[数 (文法)|数]](単数・双数・複数)を持つが、双数の使用は限定的である<ref>McCartar (2004) pp.336-337</ref>。また[[定冠詞]]ha-によって[[定性]]を示す。[[格]]変化はしないが、独立形と連語形の2つの語形があり、名詞がほかの名詞を修飾することによって作られる連結語(スミフート)において、修飾される名詞は連語形を取る<ref>キリスト聖書塾(1985) pp.210-212</ref>。形容詞は名詞と同様に変化し、修飾する名詞と性・数・定性を一致させる。
連結語は現代ヘブライ語でも使われるが、主に複合語として語彙化した場合に使われ、属格は通常はミシュナー・ヘブライ語以来の属格前置詞{{unicode|šel}}などによって分析的に表現することを好む<ref>Berman (1997) pp.330-331</ref>。
人称代名詞は3つの[[人称]]、性、数(ただし双数形はない)によって異なる。ただし一人称は性による違いがない。また独立した代名詞のほかに接尾辞形を持つ。指示代名詞は近称と遠称があり、それぞれ性・数で変化する。
聖書ヘブライ語の動詞は完了と未完了の2つの形があり、それぞれが代名詞と同様に人称、性、数によって変化する。未完了形からは願望形(一人称のみ)・命令形(二人称のみ)・指示形の3種類の[[法 (文法)|法]]の動詞形が作られる。また能動と受動の2種類の[[分詞]]と[[不定詞]]を持つ<ref>McCarter (2004) pp.346-349</ref>。
聖書ヘブライ語の風変わりな特徴として、未完了形の前に接続詞va-がつくと完了の意味に変化する。逆に完了形が接続詞və-がつくと未完了の意味になる。これは、ヘブライ語の未完了形yiqtolが歴史的に未完了形*yaqtuluと古い完了形*yaqtulの融合したものであり、va-に後続するときにのみ後者の意味が残存しているものと考えられる。完了形が未完了の意味になるのはおそらく類推による。この特徴はミシュナー・ヘブライ語以降は消滅した<ref>McCarter (2004) pp.547-548</ref>。
現代ヘブライ語では能動分詞を現在に、完了形を過去に、未完了形を未来に使う。未来の複数形では性による変化が消滅している。不定詞は変化せず、l-が加えられる。命令形は存在するが、くだけた表現では使われなくなりつつあり、かわりに不定詞や未来形が使われる<ref>Berman (1997) p.318</ref>。
他のセム語と同様、動詞は派生活用形をもち、アラビア語文法にならって語根pʿlをもとにそれぞれパアル(またはカル)・ニフアル・ピエル・プアル・ヒフイル・ホフアル・ヒトパエルと呼ばれる<ref>McCarter (2004) pp.352-355</ref><ref>Berman (1997) pp.320-322</ref>。ヒフイルは使役的、ヒトパエルは再帰的な意味を表すことが多い。ニフアル・プアル・ホフアルはそれぞれカル・ピエル・ヒフイルに対する受動的な意味を表す。
聖書ヘブライ語の語順は[[VSO型]]がもっとも普通だが、主語を強調してSVOになったり、目的語を強調してOVSまたはVOSになることがあった。また、代名詞主語は強調する場合以外は省略される<ref>McCarter (2004) pp.356-357</ref>。後に[[SVO型]]へ移行した<ref>Berman (1997) p.323</ref><ref>{{cite web|url=http://ancienthebrewgrammar.wordpress.com/2011/05/23/basic-word-order-in-the-biblical-hebrew-verbal-clause-part-6/ |title=Basic Word Order in the Biblical Hebrew Verbal Clause, Part 6 | Ancient Hebrew Grammar |publisher=Ancienthebrewgrammar.wordpress.com |date= |accessdate=2018^11-30}}</ref>。
== ヘブライ語の単語・文 ==
ヘブライ語は、イスラエルでの日常[[会話]]に使われるほか、正しい聖書理解、ユダヤ教、[[ラビ文献]]を含む{{仮リンク|ヘブライ語文学|en|Hebrew literature}}、{{仮リンク|ユダヤ音楽|en|Jewish music}}、セム語学、アフロアジア語学などに必須の言語である。
=== ヘブライ語起源の言葉 ===
{{Wiktionarycat|ヘブライ語由来}}
* 聖書に登場するものやユダヤ教関係の多くの単語は、主に西洋語を介して日本語にはいっている。[[アーメン]]、[[カバラ]]、[[カシュルート|コシェル]]、[[安息日|サバト]]、[[シボレス (文化)|シボレス]]、[[熾天使|セラフ]]、[[ハレルヤ]]、[[ベヒモス]]、[[メシア]]、[[レヴィアタン]]など。
* シェーハール šēkhâr: [[シードル]]、[[サイダー]]の語源。
* [[ハルマゲドン]] < ハル・[[メギッドー]](メギッドー山)
=== ヘブライ語の文例 ===
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!意味!!ヘブライ語<br>(ヘブライ文字表記)!!ヘブライ語<br>(ラテン翻字)
!ヘブライ語
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|トーキヨー||
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* キリスト聖書塾編集部編 『現代ヘブライ語辞典』 キリスト聖書塾 [[1984年]]([[昭和]]59年)1月 ISBN 4-89606-103-9
* {{cite book|和書|year=1985|author=キリスト聖書塾編集部|title=ヘブライ語入門|publisher=キリスト聖書塾|isbn=4896061055}}
* 橋本功著 『聖書の英語とヘブライ語法』 英潮社 [[1988年]](昭和63年)10月 ISBN 4-268-00317-7
* {{cite book|author=Berman, Ruth A.|year=1997|chapter=Modern Hebrew|title=The Semitic Languages|editor=Robert Hetzron|publisher=Routledge|isbn=9780415412667|pages=312-333}}
* {{cite book|author=Goerwitz, Richard L.|year=1996|chapter=The Jewish Scripts|title=The World's Writing Systems|editor=Peter T. Daniels; William Bright|publisher=Oxford Uiversity Press|isbn=0195079930|pages=487-498}}
* {{cite book|author=McCarter, P. Kyle, Jr.|year=2004|chapter=Hebrew|title=The Cambridge Encyclopedia of the World's Ancient Languages|editor=Roger D. Woodard|publisher=Cambridge University Press|isbn=9780521562560|pages=319-364}}
* {{cite book|author=Steiner, Richard C.|year=1997|chapter=Ancient Hebrew|title=The Semitic Languages|editor=Robert Hetzron|publisher=Routledge|isbn=9780415412667|pages=145-173}}
* [[ギラード・ツッカーマン]] {{cite book |last=Zuckermann |first=Ghil'ad |year=2003 |url=http://www.palgrave.com/products/title.aspx?is=140391723X |title=Language Contact and Lexical Enrichment in Israeli Hebrew |publisher=Palgrave Macmillan |isbn=978-1403917232}}
*{{Cite web|和書|url=https://jp.reuters.com/article/pope-and-netanyahu-spar-idJPKBN0E703X20140527|title=キリストが話した言語めぐり異論、ローマ法王がイスラエル首相に|accessdate=24 June, 2018}}
== 関連項目 ==
* [[ヘブライ文字]]
* [[ヘブライ語のティベリア式発音]]
* [[ニクダー]]
* [[ハスカーラー]]
* [[シオニズム]]
* [[エリエゼル・ベン・イェフダー]]
* [[ウルパン]]
* [[ヘブライ語アカデミー]]
* [[サマリア語]]
* [[ユダヤ諸語]]
== 外部リンク ==
{{Wikipedia|he}}
* [https://en.hebrew-academy.org.il/ ヘブライ語アカデミー 公式サイト] {{en icon}} {{he icon}}
* [https://www.myrtos.co.jp/info/hebrew01.php ヘブライ語ってどんな言葉?] 株式会社ミルトスのページ
* [http://arabic.gooside.com/hebrew/ ヘブライ語のページ]
* [https://www.hebrewlanguageguide.com/ ヘブライ語オンラインガイド]
* {{ethnologue|code=heb}}
* {{Kotobank}}
{{Normdaten}}
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[[Category:ヘブライ語|*]]
[[Category:イスラエルの言語]]
[[Category:VSO型言語]]
[[Category:聖書]]
[[Category:カバラ]] | 2003-05-19T11:58:21Z | 2023-12-08T12:44:27Z | false | false | false | [
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8,651 | 西船橋駅 | 西船橋駅(にしふなばしえき)は、千葉県船橋市西船四丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京地下鉄(東京メトロ)・東葉高速鉄道の駅である。
当駅は中核市において最大の人口を擁する船橋市の中心駅である船橋駅と並ぶ交通の要所で、東日本旅客鉄道(JR東日本)の中央・総武緩行線(総武線各駅停車)・武蔵野線・京葉線、東京地下鉄(東京メトロ)の東西線、東葉高速鉄道の東葉高速線の3社5路線が乗り入れている。近傍に京成電鉄本線の京成西船駅・東中山駅・海神駅が位置している。船橋駅と共に日本屈指のターミナル駅として機能し、利用客数は千葉県内で1位である。各路線の乗り換え客が多く混雑する。
古くから交通の要所で宿場町「船橋宿」(間の宿)として、近代は兵站物資の集積地・流通地としてそれぞれで繁栄するなど歴史的要因から、現代も交通要所である。当駅は中山競馬場利用者の交通利便も企図して設置され、後年に北隣で武蔵野線船橋法典駅が開業したが、競馬開催日などに当駅北口から中山競馬場まで臨時シャトルバスを京成バスグループが運行している。武蔵野線で最大の乗り換え駅である。
当駅は「西船(にしふな)」の通称が定着し、1966年から1967年に行われた駅周辺の住居表示実施で町名の「西船」が誕生した。
東京メトロの駅、また都営地下鉄も含めた東京の地下鉄全体、関東地方の地下鉄で、それぞれ最東端に位置する。
JR東日本の各線(後述)、東京メトロの東西線、東葉高速鉄道の東葉高速線の3社の路線が乗り入れている。
JR東日本の駅に乗り入れる路線は総武本線・武蔵野線・京葉線(高谷支線・二俣支線)で、総武本線を当駅の所属線としている。総武本線は緩行線を走る中央・総武線各駅停車のみが停車する。武蔵野線は当駅を終点としているが、京葉線両支線と相互直通運転している。京葉線は当駅が高谷支線の終点、二俣支線の起点となっている。駅番号は総武線と武蔵野線でそれぞれ「JB 30」と「JM 10」が付与されており、京葉線は付与されていない。
東京メトロ・東葉高速鉄道の駅はそれぞれ「T 23」・「TR01」の駅番号が付与されている。地下鉄東西線は当駅が終点だが、当駅を起点とする東葉高速線およびJR総武線各駅停車(平日朝夕ラッシュ時のみ)と相互直通運転している。東西線と総武線を直通する電車は東京メトロの駅に発着する。
JR総武本線快速線(総武快速線)は当駅を通過し、ホームもない。1991年(平成3年)10月の千葉県議会で県側が「総武快速の「西船橋駅」停車は困難」と答弁する一方、2007年(平成19年)第2回船橋市議会定例会で市の企画部長が「千葉県や沿線の市町村がJR側に対して西船橋駅での総武快速線の停車を要望している」と答弁するが快速線ホーム新設の知見は見られない。
JR線は通常各駅停車だけの運行だが、大宮 - 勝浦を武蔵野線経由で運転した臨時特急「かつうらひなまつり号」が停車した。
橋上駅舎を有し、南北を連絡する自由通路が設置されている。北口はエレベーターとエスカレーター、南口はエスカレーターが設置され、2012年9月からエレベーターが設置工事されて2013年3月31日に使用開始された。改札内コンコース - ホーム間もエスカレーターとエレベーターが設置されている。
改札口はJR東日本単独と東京メトロ・東葉高速鉄道で分離されている。東京メトロ・東葉高速鉄道は構内を共有する共同使用駅だが、東京メトロが全面的に駅を管轄している。JR東日本の改札口は自由通路の北口側、東京メトロ・東葉高速鉄道の改札口は南口側にそれぞれ設置されている。他の共用駅で並置が多い自動券売機はJR東日本と、東京メトロ・東葉高速鉄道がそれぞれ異なる場所に設置されている。駅舎は総武本線複々線化工事および東西線延伸の際に新設された。旧駅舎は北口の現快速線直上の売店などがある一角で(改修前写真を参考)、西川口駅などとともに最初期の橋上駅舎である。駅看板は北口をJR東日本、南口を東京メトロがそれぞれ制作している。
1階はJR総武線・東京メトロ東西線・東葉高速線のホーム、2階は改札やコンコースなどの駅設備、3階はJR武蔵野線・京葉線のホームがそれぞれある。
南側のホーム(5 - 8番線)は、東京メトロの社員が配置され、案内サインや発車標も東京メトロ仕様で、売店・自動販売機・トイレも個別にある。トイレ表示・時刻表・乗り換え案内などは国鉄の様式を使用していたが、東京メトロ移行後に順次変更され、他東京メトロ駅と同様の路線図と当駅独自の東西線・東葉高速線の停車駅案内図が設置されている。東京メトロの時刻表は、かつては営団地下鉄が、現在は東京メトロが制作するものが、更新以前から改札外に掲示されている。改札口および精算機の管理、当駅発着の東京メトロ・東葉高速鉄道線の磁気定期券販売はJR東日本が引き続き行っている。(東京メトロの多機能券売機では継続定期券のみ購入可能)
2007年3月17日まで3社共用で1つの改札口を使用し、JR・東京メトロ共用駅の中野駅と同様に自動改札機と自動精算機はJR東日本のものを設置した。3月18日に東京メトロと東葉高速鉄道がSuicaと相互利用可能なPASMOを導入し、東京メトロ・東葉高速鉄道・JR総武線(地下鉄東西線との直通電車のみ)の改札口と、JRと東京メトロ・東葉高速鉄道・JR総武線(地下鉄東西線との直通電車のみ)の連絡改札口・自動精算機(乗り継ぎ用を含む)が設置された。
新設自動改札機は上部表示を東京メトロとした機器で、IC乗車券の読み取り部に「Suicaをふれてください」と記されている。東京メトロ線・東葉高速線の自動券売機も北側へ移転して運賃表も更新された。南側切符売り場上方の運賃表は国鉄とJR東日本が制作していたが移転時に東京メトロが制作し、入口案内板や階段前のホーム誘導表示が新設された。2007年3月は方面サインや駅名標に営団のものが残置していたが、2008年9月に新しい案内表示に更新され、以後トイレ表示、時刻表、乗り換え案内標識がJR東日本様式となるが、2009年初頭に東京メトロ様式に更新された。
2000年代前半に「西船橋駅コスモスプラン」で構内が改良され、2005年に構内の2・3階に開業した駅ナカ『Dila西船橋』は書店・立ち食いそば・喫茶店などがある。東京地下鉄側は『MINiPLA西船橋』が開業した。従前施設と改装施設が併設する駅舎である。駅ナカ「Dila西船橋」は2011年6月26日に改装され、2011年10月11日に北口駅前広場に「Dila西船橋別館」が開業した。
船橋営業統括センター管理の副所長兼駅長配置の直営駅で、当駅以外に下総中山駅(総武線)、新八柱駅 - 船橋法典駅(武蔵野線)の各駅を管理している。総武線は島式2面3線を有する地上ホームで、東京メトロ東西線直通列車は地下鉄ホーム発着である。武蔵野線と京葉線は島式2面4線の高架ホームで、地上ホームとホーム上の総武線船橋駅寄りの位置でほぼ直角に交差する。1 - 4番線を総武線が、9 - 12番線を武蔵野線・京葉線が使用する。2・3番線は線路を共用している。
みどりの窓口と指定席券売機は自由通路北口側に設置されている。
(出典:JR東日本:駅構内図)
東西線・JR総武線(地下鉄東西線直通)と東葉高速線は島式2面4線を有する地上ホームである。5 - 8番線を使用する。
東京メトロと東葉高速鉄道の共同使用駅で東京メトロの管轄駅である。東京メトロ線と東葉高速線の定期券はJRが販売を代行し、当駅発着のみ購入可能であるほか、JR東日本線と連絡定期券でない東京メトロ線・東葉高速線の新規定期券は、磁気券でのみ発券可能である。これは東西線の西端駅でJR東日本と共同使用する中野駅も同様である。東京メトロ側は東京メトロ管理する多機能発売機が設置されているが、新規定期券の購入とTokyo Metro To Me CARDのメトロポイントは利用できない。乗り越し精算機はJR仕様で、乗り越し精算の際に東京メトロの回数券を投入金として使用できない。
かつては現在のJR総武線・東西線・東葉高速線自動改札機の右隣に東葉高速線専用の自動券売機が並び、現金専用の旧式の自動券売機5台と受付窓口があった。現在は東京メトロ寄りへ2台が移転され、すべてがJR東日本と同機種の現金専用でPASMO・Suica対応の自動券売機がない。パスネットも対応していなかった。他の東葉高速線の駅はパスネット(対応終了)・PASMO・Suica対応の自動券売機が設置されている。移転元の切符売り場は撤去され、2008年9月から「そば処めとろ庵」などの店舗が営業している。
(出典:東京メトロ:構内図)
総武線ホームの1 - 4番線では東洋メディアリンクス、武蔵野線・京葉線ホームの9 - 12番線ではテイチク制作の発車メロディを使用している。
東京メトロ管轄の5 - 8番線では向谷実作曲のメロディを使用している(詳細は東京メトロ東西線#発車メロディを参照)。
2007年3月18日にSuicaとPASMOの相互利用が開始されて改札口が分割され、東京メトロ線・東葉高速線も自動改札機を設置し、JR線と東京メトロ線・東葉高速線・JR総武線(東京メトロ東西線直通)の連絡改札口が設置された。下総中山・原木中山寄りと船橋・東海神寄りの乗換用跨線橋も連絡改札口が新設された。当駅から中野方面、中野方面から当駅へそれぞれ向かう場合、JR線経由と東京メトロ線経由の識別が可能となる。下総中山・原木中山寄りの乗換用跨線橋は連絡改札口新設以降、6時 - 10時と16時 - 23時のみ利用可能となっている。
東京メトロ線・東葉高速線・JR総武線(東西線直通)の改札から交通系ICカードのSF利用で入場し、他社と改札内を共有していないJR東日本の駅(船橋駅など)で出場した場合、西船橋からJR東日本線単独で利用した場合と東京メトロ線を経由し中野または北千住で乗り換えた場合の運賃を比較して安価な運賃が出場駅で差し引かれる。
東京メトロ線・東葉高速線・JR総武線(東西線直通)の自動改札は、西船橋から船橋経由津田沼行きなど、JR東日本線単独のきっぷは入場できず、JR総武線(東西線直通)を利用する場合は有人改札を経由する。交通系ICカードやIC・磁気定期券を利用する場合は入場可能である。
* 参考資料:「西船橋駅付近の配線略図」「特集 短絡線ミステリー9 - 東京都心の鉄道複雑エリア、II 列車の走行ルート」、交友社『鉄道ファン』第48巻6号(通巻第566号)2008年6月号* JR東日本公式ウェブサイト 各駅情報(西船橋駅)構内図
* 参考資料:「西船橋駅付近の配線略図」「特集 短絡線ミステリー9 - 東京都心の鉄道複雑エリア、II 列車の走行ルート」、交友社『鉄道ファン』第48巻6号(通巻第566号)2008年6月号* 「西船橋駅配線図」「武蔵野線・京葉線 建設の経緯と線路配線」『鉄道ピクトリアル』第52巻8号(通巻第720号)2002年8月号* JR東日本公式ウェブサイト 各駅情報(西船橋駅) 構内図
近年の1日平均乗降人員の推移(JR、東葉高速鉄道は除く)。
開業以後の1日平均乗車人員の推移は下表の通りである。
北口から徒歩5・6分に京成本線の京成西船駅がある。連絡定期券は発売しておらず、JRと京成の乗り換えは船橋駅(京成船橋駅)および幕張本郷駅(京成幕張本郷駅)の方が多く利用される。
駅ナカ商業施設として「ペリエ西船橋」があり、約30店舗の専門店を有する。
東京地下鉄側は「メトロピア西船橋」がある。
駅前ロータリーと北口高速バスターミナルから以下の路線が京成バス・京成バスシステム・ちばレインボーバス・京成トランジットバス・成田空港交通などにより運行されている。中山競馬場においてレースなどが開催される際は当駅から臨時の競馬場行バスが1番乗り場付近から発車する。
ドコモショップ西船橋店前には原木・二俣新町方面へ向かうJBSバスのバス停もあるが、特定輸送路線のため一般客は利用できない。もともとこの路線は、原木地区に2003年まであった東京エアカーゴシティターミナルへの通勤客用の路線として、ターミナルの関連会社・原木ターミナルサービスが運行していたものである。ちなみに当時は限定乗合路線のため、一般利用者の混乗も認められていた。2003年の同社解散後は、旧ターミナル付近の企業による管理組合がジャパン・ビジネス・サービス (JBS) に運行を委託して路線を継続したが、2005年5月20日をもって一般利用者の混乗取り扱いを終了し、通勤客の送迎専用となって現在に至る。かつてはイオンモール船橋の有料送迎バスが同所に停車していたが、2019年9月20日をもって廃止となった。 | [
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"text": "南側のホーム(5 - 8番線)は、東京メトロの社員が配置され、案内サインや発車標も東京メトロ仕様で、売店・自動販売機・トイレも個別にある。トイレ表示・時刻表・乗り換え案内などは国鉄の様式を使用していたが、東京メトロ移行後に順次変更され、他東京メトロ駅と同様の路線図と当駅独自の東西線・東葉高速線の停車駅案内図が設置されている。東京メトロの時刻表は、かつては営団地下鉄が、現在は東京メトロが制作するものが、更新以前から改札外に掲示されている。改札口および精算機の管理、当駅発着の東京メトロ・東葉高速鉄道線の磁気定期券販売はJR東日本が引き続き行っている。(東京メトロの多機能券売機では継続定期券のみ購入可能)",
"title": "駅構造"
},
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"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "2007年3月17日まで3社共用で1つの改札口を使用し、JR・東京メトロ共用駅の中野駅と同様に自動改札機と自動精算機はJR東日本のものを設置した。3月18日に東京メトロと東葉高速鉄道がSuicaと相互利用可能なPASMOを導入し、東京メトロ・東葉高速鉄道・JR総武線(地下鉄東西線との直通電車のみ)の改札口と、JRと東京メトロ・東葉高速鉄道・JR総武線(地下鉄東西線との直通電車のみ)の連絡改札口・自動精算機(乗り継ぎ用を含む)が設置された。",
"title": "駅構造"
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"paragraph_id": 15,
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"text": "新設自動改札機は上部表示を東京メトロとした機器で、IC乗車券の読み取り部に「Suicaをふれてください」と記されている。東京メトロ線・東葉高速線の自動券売機も北側へ移転して運賃表も更新された。南側切符売り場上方の運賃表は国鉄とJR東日本が制作していたが移転時に東京メトロが制作し、入口案内板や階段前のホーム誘導表示が新設された。2007年3月は方面サインや駅名標に営団のものが残置していたが、2008年9月に新しい案内表示に更新され、以後トイレ表示、時刻表、乗り換え案内標識がJR東日本様式となるが、2009年初頭に東京メトロ様式に更新された。",
"title": "駅構造"
},
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"text": "2000年代前半に「西船橋駅コスモスプラン」で構内が改良され、2005年に構内の2・3階に開業した駅ナカ『Dila西船橋』は書店・立ち食いそば・喫茶店などがある。東京地下鉄側は『MINiPLA西船橋』が開業した。従前施設と改装施設が併設する駅舎である。駅ナカ「Dila西船橋」は2011年6月26日に改装され、2011年10月11日に北口駅前広場に「Dila西船橋別館」が開業した。",
"title": "駅構造"
},
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"text": "船橋営業統括センター管理の副所長兼駅長配置の直営駅で、当駅以外に下総中山駅(総武線)、新八柱駅 - 船橋法典駅(武蔵野線)の各駅を管理している。総武線は島式2面3線を有する地上ホームで、東京メトロ東西線直通列車は地下鉄ホーム発着である。武蔵野線と京葉線は島式2面4線の高架ホームで、地上ホームとホーム上の総武線船橋駅寄りの位置でほぼ直角に交差する。1 - 4番線を総武線が、9 - 12番線を武蔵野線・京葉線が使用する。2・3番線は線路を共用している。",
"title": "駅構造"
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"text": "みどりの窓口と指定席券売機は自由通路北口側に設置されている。",
"title": "駅構造"
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"text": "(出典:JR東日本:駅構内図)",
"title": "駅構造"
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"text": "東西線・JR総武線(地下鉄東西線直通)と東葉高速線は島式2面4線を有する地上ホームである。5 - 8番線を使用する。",
"title": "駅構造"
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"tag": "p",
"text": "東京メトロと東葉高速鉄道の共同使用駅で東京メトロの管轄駅である。東京メトロ線と東葉高速線の定期券はJRが販売を代行し、当駅発着のみ購入可能であるほか、JR東日本線と連絡定期券でない東京メトロ線・東葉高速線の新規定期券は、磁気券でのみ発券可能である。これは東西線の西端駅でJR東日本と共同使用する中野駅も同様である。東京メトロ側は東京メトロ管理する多機能発売機が設置されているが、新規定期券の購入とTokyo Metro To Me CARDのメトロポイントは利用できない。乗り越し精算機はJR仕様で、乗り越し精算の際に東京メトロの回数券を投入金として使用できない。",
"title": "駅構造"
},
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"text": "かつては現在のJR総武線・東西線・東葉高速線自動改札機の右隣に東葉高速線専用の自動券売機が並び、現金専用の旧式の自動券売機5台と受付窓口があった。現在は東京メトロ寄りへ2台が移転され、すべてがJR東日本と同機種の現金専用でPASMO・Suica対応の自動券売機がない。パスネットも対応していなかった。他の東葉高速線の駅はパスネット(対応終了)・PASMO・Suica対応の自動券売機が設置されている。移転元の切符売り場は撤去され、2008年9月から「そば処めとろ庵」などの店舗が営業している。",
"title": "駅構造"
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"text": "(出典:東京メトロ:構内図)",
"title": "駅構造"
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"text": "総武線ホームの1 - 4番線では東洋メディアリンクス、武蔵野線・京葉線ホームの9 - 12番線ではテイチク制作の発車メロディを使用している。",
"title": "駅構造"
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"text": "東京メトロ管轄の5 - 8番線では向谷実作曲のメロディを使用している(詳細は東京メトロ東西線#発車メロディを参照)。",
"title": "駅構造"
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"text": "2007年3月18日にSuicaとPASMOの相互利用が開始されて改札口が分割され、東京メトロ線・東葉高速線も自動改札機を設置し、JR線と東京メトロ線・東葉高速線・JR総武線(東京メトロ東西線直通)の連絡改札口が設置された。下総中山・原木中山寄りと船橋・東海神寄りの乗換用跨線橋も連絡改札口が新設された。当駅から中野方面、中野方面から当駅へそれぞれ向かう場合、JR線経由と東京メトロ線経由の識別が可能となる。下総中山・原木中山寄りの乗換用跨線橋は連絡改札口新設以降、6時 - 10時と16時 - 23時のみ利用可能となっている。",
"title": "駅構造"
},
{
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"text": "東京メトロ線・東葉高速線・JR総武線(東西線直通)の改札から交通系ICカードのSF利用で入場し、他社と改札内を共有していないJR東日本の駅(船橋駅など)で出場した場合、西船橋からJR東日本線単独で利用した場合と東京メトロ線を経由し中野または北千住で乗り換えた場合の運賃を比較して安価な運賃が出場駅で差し引かれる。",
"title": "駅構造"
},
{
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"text": "東京メトロ線・東葉高速線・JR総武線(東西線直通)の自動改札は、西船橋から船橋経由津田沼行きなど、JR東日本線単独のきっぷは入場できず、JR総武線(東西線直通)を利用する場合は有人改札を経由する。交通系ICカードやIC・磁気定期券を利用する場合は入場可能である。",
"title": "駅構造"
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"text": "",
"title": "駅構造"
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"text": "* 参考資料:「西船橋駅付近の配線略図」「特集 短絡線ミステリー9 - 東京都心の鉄道複雑エリア、II 列車の走行ルート」、交友社『鉄道ファン』第48巻6号(通巻第566号)2008年6月号* JR東日本公式ウェブサイト 各駅情報(西船橋駅)構内図",
"title": "駅構造"
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"text": "",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "* 参考資料:「西船橋駅付近の配線略図」「特集 短絡線ミステリー9 - 東京都心の鉄道複雑エリア、II 列車の走行ルート」、交友社『鉄道ファン』第48巻6号(通巻第566号)2008年6月号* 「西船橋駅配線図」「武蔵野線・京葉線 建設の経緯と線路配線」『鉄道ピクトリアル』第52巻8号(通巻第720号)2002年8月号* JR東日本公式ウェブサイト 各駅情報(西船橋駅) 構内図",
"title": "駅構造"
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"text": "近年の1日平均乗降人員の推移(JR、東葉高速鉄道は除く)。",
"title": "利用状況"
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"text": "開業以後の1日平均乗車人員の推移は下表の通りである。",
"title": "利用状況"
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"text": "北口から徒歩5・6分に京成本線の京成西船駅がある。連絡定期券は発売しておらず、JRと京成の乗り換えは船橋駅(京成船橋駅)および幕張本郷駅(京成幕張本郷駅)の方が多く利用される。",
"title": "駅周辺"
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"text": "駅ナカ商業施設として「ペリエ西船橋」があり、約30店舗の専門店を有する。",
"title": "駅周辺"
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"text": "東京地下鉄側は「メトロピア西船橋」がある。",
"title": "駅周辺"
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"text": "駅前ロータリーと北口高速バスターミナルから以下の路線が京成バス・京成バスシステム・ちばレインボーバス・京成トランジットバス・成田空港交通などにより運行されている。中山競馬場においてレースなどが開催される際は当駅から臨時の競馬場行バスが1番乗り場付近から発車する。",
"title": "バス路線"
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"text": "ドコモショップ西船橋店前には原木・二俣新町方面へ向かうJBSバスのバス停もあるが、特定輸送路線のため一般客は利用できない。もともとこの路線は、原木地区に2003年まであった東京エアカーゴシティターミナルへの通勤客用の路線として、ターミナルの関連会社・原木ターミナルサービスが運行していたものである。ちなみに当時は限定乗合路線のため、一般利用者の混乗も認められていた。2003年の同社解散後は、旧ターミナル付近の企業による管理組合がジャパン・ビジネス・サービス (JBS) に運行を委託して路線を継続したが、2005年5月20日をもって一般利用者の混乗取り扱いを終了し、通勤客の送迎専用となって現在に至る。かつてはイオンモール船橋の有料送迎バスが同所に停車していたが、2019年9月20日をもって廃止となった。",
"title": "バス路線"
}
] | 西船橋駅(にしふなばしえき)は、千葉県船橋市西船四丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京地下鉄(東京メトロ)・東葉高速鉄道の駅である。 | {{Otheruses||近隣の[[京成電鉄]]の駅|京成西船駅||}}
{{駅情報
|社色 =
|駅名 = 西船橋駅
|画像 = Nishi-Funabashi Station North Exit(cropped).jpg
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|画像説明 = 北口(2019年9月)
|地図= {{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|type2=point|zoom=15|frame-align=center|frame-width=300
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|coord={{coord|35|42|26.7|N|139|57|32.7|E}}|title=JR 西船橋駅
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}}
|よみがな = にしふなばし
|ローマ字 = Nishi-Funabashi
|所在地 = [[千葉県]][[船橋市]][[西船 (船橋市)|西船]]四丁目
|所属事業者 = {{Plainlist|
* [[東日本旅客鉄道]](JR東日本・[[#JR東日本|駅詳細]])
* [[東京地下鉄]](東京メトロ・[[#東京メトロ・東葉高速鉄道・JR東日本(地下鉄東西線直通)|駅詳細]])
* [[東葉高速鉄道]]([[#東京メトロ・東葉高速鉄道・JR東日本(地下鉄東西線直通)|駅詳細]])}}
|乗換 =
}}
[[ファイル:Nishi-Funabashi Station South Exit.jpg|thumb|南口(2019年9月)]]
'''西船橋駅'''(にしふなばしえき)は、[[千葉県]][[船橋市]][[西船 (船橋市)|西船]]四丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[東京地下鉄]](東京メトロ)・[[東葉高速鉄道]]の[[鉄道駅|駅]]である。
== 概要 ==
当駅は[[中核市]]において最大の人口を擁する[[船橋市]]の中心駅である[[船橋駅]]と並ぶ交通の要所で、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[中央・総武緩行線]](総武線各駅停車)・[[武蔵野線]]・[[京葉線]]、[[東京地下鉄]](東京メトロ)の[[東京メトロ東西線|東西線]]、[[東葉高速鉄道]]の[[東葉高速鉄道東葉高速線|東葉高速線]]の3社5路線が乗り入れている。近傍に[[京成電鉄]][[京成本線|本線]]の[[京成西船駅]]・[[東中山駅]]・[[海神駅]]が位置している<ref group="注釈" name="renraku">連絡定期券は発売していない。</ref>。船橋駅と共に日本屈指の[[ターミナル駅]]として機能し、利用客数は千葉県内で1位である。各路線の乗り換え客が多く混雑する<ref group="新聞" name="chibanippo20021227">{{Cite news|last=|first=|coauthors=|title=房総の駅百景 総武線西船橋駅(船橋市葛飾町ほか) 乗り換え客で雑踏する駅|newspaper=[[千葉日報]]|location=|pages=8|language=|publisher=千葉日報社|date=2002-12-27|url=|accessdate=}}</ref>。
古くから交通の要所で[[宿場]]町「船橋宿」([[間の宿]])として、[[近代]]は[[兵站]]物資の集積地・流通地としてそれぞれで繁栄する<ref>{{Cite web|和書|title=総務省|一般戦災死没者の追悼|船橋市における戦災の状況(千葉県)|url=https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_09.html|website=総務省|accessdate=2019-04-01|language=ja}}</ref>など歴史的要因から、現代も交通要所である<ref group="注釈">[[船橋市]](市史)も参照</ref>。当駅は[[中山競馬場]]利用者の交通利便も企図して設置され、後年に北隣で武蔵野線[[船橋法典駅]]が開業したが、競馬開催日などに当駅北口から中山競馬場まで臨時[[シャトルバス]]を[[京成バス]]グループが運行している。武蔵野線で最大の乗り換え駅である。
当駅は「'''西船'''(にしふな)」の通称が定着し、[[1966年]]から[[1967年]]に行われた駅周辺の[[住居表示]]実施で町名の「西船」が誕生した。
東京メトロの駅、また[[都営地下鉄]]も含めた[[東京の地下鉄]]全体、関東地方の地下鉄で、それぞれ最東端に位置する。
== 乗り入れ路線 ==
JR東日本の各線(後述)、東京メトロの[[東京メトロ東西線|東西線]]、東葉高速鉄道の[[東葉高速鉄道東葉高速線|東葉高速線]]の3社の路線が乗り入れている。
JR東日本の駅に乗り入れる路線は[[総武本線]]・[[武蔵野線]]・[[京葉線]](高谷支線・二俣支線)で、総武本線を当駅の[[日本の鉄道駅#所属線|所属線]]としている。総武本線は[[急行線|緩行線]]を走る[[中央・総武緩行線|中央・総武線各駅停車]]のみが停車する。武蔵野線は当駅を終点としているが、京葉線両支線と相互直通運転している。京葉線は当駅が高谷支線の終点、二俣支線の起点となっている。[[駅ナンバリング|駅番号]]は総武線と武蔵野線でそれぞれ「'''JB 30'''」と「'''JM 10'''」が付与されており、京葉線は付与されていない。
東京メトロ・東葉高速鉄道の駅はそれぞれ「'''T 23'''」・「'''TR01'''」の駅番号が付与されている。地下鉄東西線は当駅が終点だが、当駅を起点とする東葉高速線およびJR総武線各駅停車(平日朝夕ラッシュ時のみ)と相互直通運転している。東西線と総武線を直通する電車は東京メトロの駅に発着する。
JR総武本線快速線([[総武快速線]])は当駅を通過し、ホームもない。[[1991年]]([[平成]]3年)10月の千葉県議会で県側が「総武快速の「西船橋駅」停車は困難」と答弁する一方<ref group="新聞" name="yomiuri1991108">{{Cite news|last=|first=|coauthors=|title=総武快速の「西船」停車は困難 県会で県側答弁|newspaper=[[読売新聞]]|location=|pages=24|language=|publisher=読売新聞社|date=1991-10-08|url=|accessdate=}}</ref>、[[2007年]](平成19年)第2回船橋市議会定例会で市の企画部長が「千葉県や沿線の市町村がJR側に対して西船橋駅での総武快速線の停車を要望している」と答弁するが<ref>[http://www.city.funabashi.chiba.jp/giji/honkaigikiroku/h19/2r/day5/day5_5.html 平成19年第2回船橋市議会定例会会議録]</ref>快速線ホーム新設の知見は見られない。
JR線は通常各駅停車だけの運行だが、大宮 - 勝浦を武蔵野線経由で運転した臨時特急「かつうらひなまつり号」が停車した。
=== 運転停車 ===
* 舞浜・東京ベイエリア号:[[日立駅]] - [[舞浜駅]]・[[東京駅]]間を[[常磐線]]・[[武蔵野線]]・[[京葉線]]を経由して運行する[[臨時列車|臨時]][[急行列車]]である。
* わくわく舞浜号:日立駅 - 舞浜駅・東京駅間を常磐線・武蔵野線・京葉線を経由して運行する臨時急行列車で、[[我孫子駅 (千葉県)|我孫子駅]]は通過駅である<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrmito.com/press/170824/press_01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190403134144/http://www.jrmito.com/press/170824/press_01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=秋の臨時列車のお知らせ|publisher=東日本旅客鉄道水戸支社|date=2017-08-24|accessdate=2020-07-29|archivedate=2019-04-03}}</ref><ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrmito.com/press/180824/press_01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190403134103/http://www.jrmito.com/press/180824/press_01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=秋の臨時列車のお知らせ|publisher=東日本旅客鉄道水戸支社|date=2018-08-24|accessdate=2020-07-29|archivedate=2019-04-03}}</ref>。
== 歴史 ==
[[File:Nishi-Funabashi Station.19660829.jpg|thumb|西船橋駅周辺の白黒空中写真(1966年8月29日撮影)<br />{{国土航空写真}}]]
[[File:Nishi-Funabashi Station.19891020.jpg|thumb|西船橋駅周辺の空中写真(1989年10月20日撮影)<br />{{国土航空写真}}]]
* [[1958年]]([[昭和]]33年)[[11月10日]]:[[日本国有鉄道|国鉄]]総武本線の駅が旧駅舎で開業する<ref name="sone26">{{Cite book|和書 |author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟 |title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部 |publisher=[[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume=26号 総武本線・成田線・鹿島線・東金線 |pages=18-19 |date=2010-01-17}}</ref>。当時は[[旅客]]のみ取り扱った。
** 当時の駅舎は[[プラットホーム#島式ホーム|島式ホーム]]1面2線で、ホームは現在の総武快速線上に位置していたが、複々線化の際に旧ホームを撤去した<ref name="RJ604_66">{{Cite journal|和書|author=佐藤信之|title=国鉄の「東京五方面作戦」|journal=[[鉄道ジャーナル]]|date=2017-02-01|volume=51|issue=第2号(通巻604号)|page=66|publisher=[[成美堂出版]]|issn=0288-2337}}</ref>。
* [[1968年]](昭和43年)[[12月15日]]:総武線[[複々線]]工事で緩行線へ切り替え、新駅舎に移転する(橋上駅舎化)<ref>{{Cite news |和書 |title=橋上駅舎が完成 総武線西船橋駅 15日、待望の店開き |newspaper=[[読売新聞]] |date=1968-12-12 |edition=千葉讀賣C |publisher=[[読売新聞東京本社]] |page=16 }}</ref>。
* [[1969年]](昭和44年)
** [[3月29日]]:[[帝都高速度交通営団|営団地下鉄]]東西線が開業し、国鉄総武線(各駅停車)と相互直通運転を開始する<ref name="sone26"/>。
** [[4月8日]]:[[鉄道貨物|貨物]]扱いを開始する<ref name="停車場">{{Cite book|和書|author=石野哲(編)|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|year=1998|isbn=978-4-533-02980-6|page=605}}</ref>。
* [[1978年]](昭和53年)[[10月2日]]:国鉄武蔵野線が開業。9・10番線(現在の11・12番線)のみで営業開始。
* [[1986年]](昭和61年)
** [[3月3日]]:国鉄京葉線1期区間の西船橋 - [[千葉みなと駅|千葉港]](現:千葉みなと)間が開業し<ref group="新聞">{{Cite news |title=首都圏の2新動脈スタート |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1986-03-04 |page=1 }}</ref>、京葉線は9・10番線を使用する。
** [[3月20日]]:国鉄が[[みどりの窓口]]を開設<ref group="新聞">{{Cite news |title=総武線4駅に「みどりの窓口」新設 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1986-03-20 |page=1 }}</ref>。
** [[11月1日]]:貨物扱いを廃止する{{R|停車場}}。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、国鉄の駅は東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる<ref name="sone26"/>。
* [[1988年]](昭和63年)[[12月1日]]:JR京葉線2期区間の新木場 - 南船橋間、市川塩浜 - 西船橋間、千葉港(現:千葉みなと) - 蘇我間、それぞれが開業し、武蔵野線の直通運転を開始する。
* [[1992年]]([[平成]]4年)[[1月23日]]:一般利用者が使用可能な[[緊急列車停止装置]]を55ヵ所に設置し、使用を開始する<ref group="新聞" name="chibanippo1992122">{{Cite news|last=|first=|coauthors=|title=乗客も扱える列車停止装置 JR西船橋駅であすから使用開始 55ヵ所にスイッチ設置|newspaper=[[千葉日報]]|location=|pages=19|language=|publisher=千葉日報社|date=1992-01-22|url=|accessdate=}}</ref>。
* [[1996年]](平成8年)
** [[3月16日]]:東西線ホーム業務をJR東日本から営団地下鉄に移管する。
** [[4月27日]]:東葉高速鉄道線が開業し、営団地下鉄東西線と相互直通運転を開始する<ref group="新聞" name="chibanippo1996428">{{Cite news|last=|first=|coauthors=|title=21世紀に向け“発進” 東葉高速鉄道 盛大に開業祝う|newspaper=[[千葉日報]]|location=|pages=13|language=|publisher=千葉日報社|date=1996-04-28|url=|accessdate=}}</ref>。
* [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:JR東日本で[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-24|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。
* [[2004年]](平成16年)4月1日:帝都高速度交通営団(営団地下鉄)の民営化に伴い、東西線の駅は東京地下鉄(東京メトロ)に継承される<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060708164650/https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|language=日本語|title=「営団地下鉄」から「東京メトロ」へ|publisher=営団地下鉄|date=2004-01-27|accessdate=2020-03-25|archivedate=2006-07-08}}</ref>。
* [[2005年]](平成17年)[[1月15日]]:[[駅ナカ]]「[[Dila]]西船橋」が開業する<ref group="新聞" name="chibanippo2005114">{{Cite news|last=|first=|coauthors=|title=JR西船橋駅に「エキナカ空間」 県内で最大級 北口に新設飲食店など21店開業へ|newspaper=[[千葉日報]]|location=|pages=4|language=|publisher=千葉日報社|date=2005-01-14|url=|accessdate=}}</ref>。
* [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:改札口分割工事完成。東京メトロ・東葉高速鉄道でICカード「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-05|archivedate=2020-05-01}}</ref>。
* [[2011年]](平成23年)
** [[6月26日]]:駅ナカ「Dila西船橋」が改装を終えて再開業する<ref group="報道" name="20110609Dilanishifunabashi">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/20110609Dilanishifunabashi.pdf|title=2011年、『Dila西船橋』が生まれ変わります|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道千葉支社|language=日本語|date=2011-06-09|accessdate=2020-05-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200519030509/https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/20110609Dilanishifunabashi.pdf|archivedate=2020-05-19}}</ref>。
** [[10月11日]]:北口の「Dila西船橋別館」、駅ナカ「Dila西船橋」がそれぞれ開業する<ref group="報道" name="20110914dilanishifuna">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/20110914dilanishifuna.pdf|title=2011年10月11日、『Dila西船橋別館』がオープンします|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道千葉支社|language=日本語|date=2011-09-14|accessdate=2020-05-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200519031602/https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/20110914dilanishifuna.pdf|archivedate=2020-05-19}}</ref>。
* [[2012年]](平成24年)[[9月29日]]:[[びゅうプラザ]]の営業を終了。
* [[2013年]](平成25年)[[3月31日]]:東京メトロが施工して、南口に[[エレベーター]]を設置する。
* [[2015年]](平成27年)
** [[3月28日]]:「東西線ソーラー発電所」計画の一環で東西線の駅に[[太陽光発電|太陽光発電システム]]が導入される<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2015/article_pdf/metroNews20150327_32-192.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171015083307/http://www.tokyometro.jp/news/2015/article_pdf/metroNews20150327_32-192.pdf|format=PDF|language=日本語|title=「東西線ソーラー発電所」完成 地上駅全体でメガソーラー規模の発電能力を持つ太陽光発電システムが完成しました。|publisher=東京地下鉄|date=2015-03-27|accessdate=2020-12-12|archivedate=2017-10-15}}</ref>。
** [[6月9日]]:東西線ホームに[[発車メロディ]]を導入する<ref group="報道" name=":0">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20150325_T29.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180630161536/http://www.tokyometro.jp/news/2015/article_pdf/metroNews20150325_T29.pdf|format=PDF|language=日本語|title=九段下駅「大きな玉ねぎの下で〜はるかなる想い〜」日本橋駅「お江戸日本橋」採用 東西線に発車メロディを導入します!|publisher=東京地下鉄|date=2015-03-25|accessdate=2020-03-11|archivedate=2018-06-30}}</ref>。
* [[2018年]](平成30年)4月1日:駅ナカ「Dila西船橋」は運営会社が変更されて「[[千葉ステーションビル|ペリエ]]西船橋」となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.perie.co.jp/files/upload/1521529661004871300.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200519072440/https://www.perie.co.jp/files/upload/1521529661004871300.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2018年4月1日(日)8館目のペリエが西船橋に誕生します|publisher=千葉ステーションビル|date=2018-03-22|accessdate=2020-05-19|archivedate=2020-05-19}}</ref>。
* [[2020年]]([[令和]]2年)[[11月27日]]:JR東日本の改札内に駅ナカシェアオフィス「STATION BOOTH」が開業<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre2011_nextere.pdf|title=両国駅3番線にて「N'EX でテレワーク!」を実施します! ~臨時ホームと鉄道車両を活用したシェアオフィス実証実験~|format=PDF|page=3|publisher=東日本旅客鉄道千葉支社|language=日本語|date=2020-11-18|accessdate=2020-11-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201118065844/https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre2011_nextere.pdf|archivedate=2020-11-18}}</ref>。
* [[2021年]](令和3年)[[6月12日]]:総武線(各駅停車)ホームで[[ホームドア]]の使用を開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/20210406_ho01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210406050253/https://www.jreast.co.jp/press/2021/20210406_ho01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2021年度のホームドア整備について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2021-04-06|accessdate=2021-04-06|archivedate=2021-04-06}}</ref>。
* [[2024年]](令和6年)[[2月19日]]:みどりの窓口の営業を終了(予定)<ref name="StationCd=1171_231222" /><ref name="tokyometro-nishifunabashiteihatu_syuryou" />。東京メトロや東葉高速鉄道の定期乗車券のみどりの窓口での取扱を終了(予定)<ref name="StationCd=1171_231222">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1171|title=駅の情報(西船橋駅):JR東日本|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-12-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231222082920/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1171|archivedate=2023-12-22}}</ref><ref name="tokyometro-nishifunabashiteihatu_syuryou">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/info/files/nishifunabashiteihatu_syuryou.pdf|title=東京メトロ東西線 西船橋駅 みどりの窓口営業終了に伴い、東京メトロ線定期乗車券の窓口での取扱を終了いたします。|format=PDF|publisher=東京メトロ|accessdate=2023-12-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231221134427/https://www.tokyometro.jp/info/files/nishifunabashiteihatu_syuryou.pdf|archivedate=2023-12-21}}</ref><ref name="toyokosoku_231222">{{Cite web|和書|url=https://www.toyokosoku.co.jp/information/news/13152.html|title=西船橋駅「みどりの窓口」営業終了について|format=PDF|publisher=東葉高速鉄道|date=2023-12-22|accessdate=2023-12-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231222135851/https://www.toyokosoku.co.jp/information/news/13152.html|archivedate=2023-12-22}}</ref><ref name="toyokosoku_pass">{{Cite web|和書|url=https://www.toyokosoku.co.jp/ticket/pass|title=定期券 {{!}} 東葉高速鉄道|publisher=東葉高速鉄道|accessdate=2023-12-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231222135927/https://www.toyokosoku.co.jp/ticket/pass|archivedate=2023-12-22}}</ref>。
== 駅構造 ==
[[橋上駅|橋上駅舎]]を有し、南北を連絡する自由通路が設置されている。北口は[[エレベーター]]と[[エスカレーター]]、南口はエスカレーターが設置され、[[2012年]]9月からエレベーターが設置工事されて[[2013年]]3月31日に使用開始された。改札内コンコース - ホーム間もエスカレーターとエレベーターが設置されている。
[[改札|改札口]]はJR東日本単独と東京メトロ・東葉高速鉄道で分離されている。東京メトロ・東葉高速鉄道は構内を共有する[[共同使用駅]]だが、東京メトロが全面的に駅を管轄している。JR東日本の改札口は自由通路の北口側、東京メトロ・東葉高速鉄道の改札口は南口側にそれぞれ設置されている。他の共用駅で並置が多い[[自動券売機]]はJR東日本と、東京メトロ・東葉高速鉄道がそれぞれ異なる場所に設置されている。駅舎は総武本線複々線化工事および東西線延伸の際に新設された。旧駅舎は北口の現快速線直上の売店などがある一角で(改修前写真を参考)、[[西川口駅]]などとともに最初期の橋上駅舎である。駅看板は北口をJR東日本、南口を東京メトロがそれぞれ制作している。
1階はJR総武線・東京メトロ東西線・東葉高速線のホーム、2階は改札や[[コンコース]]などの駅設備、3階はJR武蔵野線・京葉線のホームがそれぞれある。
南側のホーム(5 - 8番線)は、東京メトロの社員が配置され、案内サインや[[発車標]]も東京メトロ仕様で、[[売店]]・[[自動販売機]]・トイレも個別にある。トイレ表示・[[時刻表]]・乗り換え案内などは国鉄の様式を使用していたが、東京メトロ移行後に順次変更され、他東京メトロ駅と同様の路線図と当駅独自の東西線・東葉高速線の停車駅案内図が設置されている。東京メトロの時刻表は、かつては営団地下鉄が、現在は東京メトロが制作するものが、更新以前から改札外に掲示されている。改札口および精算機の管理、当駅発着の東京メトロ・東葉高速鉄道線の磁気定期券販売はJR東日本が引き続き行っている。(東京メトロの多機能券売機では継続定期券のみ購入可能)
[[2007年]]3月17日まで3社共用で1つの改札口を使用し、JR・東京メトロ共用駅の[[中野駅 (東京都)|中野駅]]と同様に[[自動改札機]]と[[自動精算機]]はJR東日本のものを設置した。翌3月18日に東京メトロと東葉高速鉄道が[[Suica]]と相互利用可能な[[PASMO]]を導入し、東京メトロ・東葉高速鉄道・JR総武線(地下鉄東西線との直通電車のみ)の改札口と、JRと東京メトロ・東葉高速鉄道・JR総武線(地下鉄東西線との直通電車のみ)の連絡改札口・自動精算機(乗り継ぎ用を含む)が設置された。
新設自動改札機は上部表示を東京メトロとした機器で、IC乗車券の読み取り部に「Suicaをふれてください」と記されている。東京メトロ線・東葉高速線の自動券売機も北側へ移転して運賃表も更新された。南側切符売り場上方の運賃表は国鉄とJR東日本が制作していたが移転時に東京メトロが制作し、入口案内板や階段前のホーム誘導表示が新設された。2007年3月は方面サインや駅名標に営団のものが残置していたが、[[2008年]]9月に新しい案内表示に更新され、以後トイレ表示、時刻表、乗り換え案内標識がJR東日本様式となるが、[[2009年]]初頭に東京メトロ様式に更新された。
[[2000年代]]前半に「西船橋駅コスモスプラン」で構内が改良され、[[2005年]]に構内の2・3階に開業した[[駅ナカ]]「[[Dila|Dila西船橋]]」は[[書店]]・[[立ち食いそば]]・[[喫茶店]]などがある。東京地下鉄側は「[[プラザ (雑貨店)|MINiPLA]]西船橋」が開業した。従前施設と改装施設が併設する駅舎である。駅ナカ「Dila西船橋」は2011年6月26日に改装され<ref group="報道" name="20110609Dilanishifunabashi" />、2011年10月11日に北口駅前広場に「Dila西船橋別館」が開業した<ref group="報道" name="20110914dilanishifuna" />。
=== JR東日本 ===
{{駅情報
|社色 = green
|駅名 = JR 西船橋駅
|画像 = JR Nishifunabashi Station - various - Sep 2 2019 16 00 24 565000.jpeg
|pxl = 300
|画像説明 = JR線改札口(2019年9月)
|よみがな = にしふなばし
|ローマ字 = Nishi-Funabashi
|電報略号 = ニシ
|所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
|所在地 = [[千葉県]][[船橋市]][[西船 (船橋市)|西船]]四丁目27-7
|座標 = {{coord|35|42|26.7|N|139|57|32.7|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}}
|開業年月日 = [[1958年]]([[昭和]]33年)[[11月10日]]<ref name="sone26"/>
|廃止年月日 =
|駅構造 = {{Plainlist|
* [[地上駅]]([[橋上駅]])(総武本線)
* [[高架駅]](武蔵野線・京葉線)}}
|ホーム = {{Plainlist|
* 2面3線(総武本線)
* 2面4線(武蔵野線・京葉線)}}
|乗車人員 = <ref group="JR" name="JR2022" />119,941
|統計年度 = 2022年
|乗入路線数 = 4
|所属路線1 = {{color|#ffd400|■}}[[中央・総武緩行線|総武線(各駅停車)]]{{Refnest|group="*"|東京メトロ東西線との間で[[直通運転|相互直通運転]]実施。}}<br />(線路名称上は[[総武本線]])
|前の駅1 = JB 29 [[下総中山駅|下総中山]]
|駅間A1 = 1.6
|駅間B1 = 2.6
|次の駅1 = [[船橋駅#JR東日本|船橋]] JB 31
|駅番号1 = {{駅番号r|JB|30|#ffd400|1}}
|キロ程1 = 20.6 km([[東京駅|東京]]起点)<br />[[千葉駅|千葉]]から18.6
|起点駅1 =
|所属路線2 = {{color|#f15a22|■}}[[武蔵野線]]{{Refnest|group="*"|name="musashino-keiyo"|武蔵野線と京葉線との間で直通運転実施。}}
|前の駅2 = JM 11 [[船橋法典駅|船橋法典]]
|駅間A2 = 2.9
|駅間B2 =
|次の駅2 =
|駅番号2 = {{駅番号r|JM|10|#f15a22|1}}
|キロ程2 = 100.6 km([[鶴見駅|鶴見]]起点)<br />[[府中本町駅|府中本町]]から71.8
|起点駅2 =
|所属路線3 = {{color|#c9242f|■}}[[京葉線]](高谷支線)<ref group="*" name="musashino-keiyo" />
|前の駅3 = JE 09 [[市川塩浜駅|市川塩浜]]
|駅間A3 = 5.9
|駅間B3 =
|次の駅3 =
|駅番号3 = {{駅番号r|JM|10|#f15a22|1}}{{Refnest|group="*"|name="keiyo-number"|京葉線の駅番号は付与されない。}}
|キロ程3 = 5.9 km([[市川塩浜駅|市川塩浜]]起点)<br />東京から京葉線経由で24.1
|起点駅3 =
|所属路線4 = {{color|#c9242f|■}}[[京葉線]](二俣支線)<ref group="*" name="musashino-keiyo" />
|前の駅4 =
|駅間A4 =
|駅間B4 = 5.4
|次の駅4 = [[南船橋駅|南船橋]] JE 11
|駅番号4 = {{駅番号r|JM|10|#f15a22|1}}<ref group="*" name="keiyo-number" />
|キロ程4 = 0.0
|起点駅4 = 西船橋
|乗換 =
|備考 = [[直営駅]]([[管理駅]])<br />[[みどりの窓口]] 有<!-- ←「みどりの窓口」の記述を除去する場合は、営業終了日時(2024年2月19日18:00)経過後 -->
|備考全幅 = {{Reflist|group="*"}}
}}
船橋営業統括センター管理の副所長兼駅長配置の[[直営駅]]で、当駅以外に[[下総中山駅]](総武線)、[[新八柱駅]] - [[船橋法典駅]](武蔵野線)の各駅を管理している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jreu-chiba.jp/library/5ae7dc3ada3b1e50464226fd/5d78dd06f113d77b495103b5.pdf|title=営業施策について提案を受ける!①|format=PDF|publisher=JR東労組千葉地方本部|date=2019-09-11|accessdate=2020-03-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191128183342/http://www.jreu-chiba.jp/library/5ae7dc3ada3b1e50464226fd/5d78dd06f113d77b495103b5.pdf|archivedate=2019-11-28}}</ref>。総武線は[[島式ホーム|島式]]2面3線を有する[[地上駅|地上ホーム]]で、東京メトロ東西線直通列車は地下鉄ホーム発着である。武蔵野線と京葉線は島式2面4線の[[高架駅|高架ホーム]]で、地上ホームとホーム上の総武線船橋駅寄りの位置でほぼ直角に交差する。1 - 4番線を総武線が、9 - 12番線を武蔵野線・京葉線が使用する。2・3番線は線路を共用している。
[[みどりの窓口]]と<!-- ←「みどりの窓口」の記述を除去する場合は、営業終了日時(2024年2月19日18:00)経過後 -->[[指定席券売機]]は自由通路北口側に設置されている。
==== のりば ====
<!-- 方面表記は、JR東日本の駅の情報の「駅構内図」の記載に準拠 -->
{|class="wikitable" style="font-size:90%"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先!!備考
|-
|colspan="5" style="background-color:#eee;border-top:solid 3px #999"|'''地上ホーム'''
|-
! 1
|rowspan="4"|[[File:JR JB line symbol.svg|20px|JB]] 総武線(各駅停車)
|style="text-align:center" rowspan="2"|東行
| rowspan="2"|[[船橋駅|船橋]]・[[津田沼駅|津田沼]]・[[千葉駅|千葉]]方面
|東行のうち[[File:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|15px|T]] 東西線からの直通列車は5・6番線に発着
|-
! 2
|朝に1本<!-- 820B、9:24発千葉行 -->のみ東行が使用
|-
! 3
|style="text-align:center" rowspan="2"|西行
|rowspan="2"|[[錦糸町駅|錦糸町]]・[[秋葉原駅|秋葉原]]・[[新宿駅|新宿]]方面
|当駅始発と一部の西行列車が使用
|-
! 4
|
|-
|colspan="5" style="background-color:#eee; border-top:solid 3px #999"|'''高架ホーム'''
|-
! 9
|rowspan="4"|[[File:JR JM line symbol.svg|20px|JM]] 武蔵野線<br>[[File:JR JE line symbol.svg|20px|JE]] 京葉線{{Refnest|group="注釈"|9・10番線ホームの[[電光掲示板]]には 「武蔵野線・一部京葉線」 、11・12番線の電光掲示板には 「京葉線・一部武蔵野線」 と表記されている。}}
| rowspan="3" style="text-align:center" |上り
| rowspan="2"|[[新松戸駅|新松戸]]・[[南浦和駅|南浦和]]方面
| rowspan="2"|一部の列車は11・12番線から発車<br />基本的に海浜幕張方面からの列車が9番線、東京方面からの列車が10番線に発着
|-
! 10
|-
!nowrap rowspan="1"| 11
|[[舞浜駅|舞浜]]・[[東京駅|東京]]方面
|rowspan="2"|一部の列車は9・10番線から発車<br />基本的に11番線が東京方面行き、12番線が海浜幕張方面行き
|-
!nowrap rowspan="1"| 12
|style="text-align:center"|下り
|[[南船橋駅|南船橋]]・[[海浜幕張駅|海浜幕張]]方面
|}
(出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/1171.html JR東日本:駅構内図])
<gallery>
JR Nishi-Funabashi Station Platform 1・2 (20210620).jpg|1・2番線(総武線)ホーム(2021年6月)
JR Nishi-Funabashi Station Platform 3・4 (20210620).jpg|3・4番線(総武線)ホーム(2021年6月)
JR Nishi-Funabashi Station Platform 9・10.jpg|9・10番線(武蔵野線・京葉線)ホーム(2019年9月)
JR Nishi-Funabashi Station Platform 11・12.jpg|11・12番線(武蔵野線・京葉線)ホーム(2019年9月)
</gallery>
==== 特記事項 ====
* 総武線は2面3線で、主に1・4番線で扱う。平日朝夕の地下鉄東西線から総武線の直通列車は5番線、朝の1本のみ6番線、逆方向は8番線から発車する。
* 2番線は、平日夕方1本と休日朝1本が使用するほかに発車はなく降車ホームとなる。
* 3番線は、平日の朝夕を中心に設定されている当駅始発の上り24本と一部列車が使用する。土休日は1本の当駅始発と一部の列車のみ使用する。
* 武蔵野線ホームは9・10番線だけが10両に対応しており、京葉線車両が乗り入れる場合は9・10番線を発着する。
* 京葉線や武蔵野線で障害発生時は、当駅でそれぞれ折り返しが多い。線路の配線から発車番線が通常と異なり、9・10番線が京葉線東京方面または南船橋方面、11・12番線が武蔵野線府中本町方面となる。
* 総武線・武蔵野線ともに夜間当駅で外泊する運用がある。
{{Clear}}
=== 東京メトロ・東葉高速鉄道・JR東日本(地下鉄東西線直通)===
{{駅情報
|社色 = #109ed4
|駅名 = 東京メトロ・東葉高速鉄道・JR東日本<br />西船橋駅
|画像 = Tokyo Metro・TOYO Rapid Railway Nishi-Funabashi Station Gates.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 東京メトロ・東葉高速鉄道改札口(2021年6月)
|よみがな = にしふなばし
|ローマ字 = Nishi-funabashi
|電報略号 = ニフ
|所属事業者 = {{Plainlist|
* [[東京地下鉄]](東京メトロ)
* [[東葉高速鉄道]]
* [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)}}
|所在地 = [[千葉県]][[船橋市]][[西船 (船橋市)|西船]]四丁目27-7
|座標 = {{coord|35|42|26.8|N|139|57|31.6|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline|name=東京メトロ・東葉高速鉄道 西船橋駅}}
|開業年月日 = [[1969年]]([[昭和]]44年)[[3月29日]]<br />(東京メトロ)<hr />[[1996年]]([[平成]]8年)[[4月27日]]<br />(東葉高速鉄道)
|廃止年月日 =
|駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]])
|ホーム = 2面4線
|乗車人員 = {{smaller|(東京メトロ)-2020年-}}<br /><ref group="#" name="funabashi-r4" />110,265{{Refnest|group="*"|name="passenger"|直通連絡人員を含む。}}人/日(降車客含まず)<hr />{{smaller|(東葉高速鉄道)-2021年-}}<br /><ref group="#" name="funabashi-r4" />45,803<ref group="*" name="passenger" />
|乗降人員 = {{smaller|(東京メトロ)-2022年-}}<br /><ref group="メトロ" name="me2022" />244,493
|乗入路線数 = 3
|所属路線1 = {{color|#009bbf|●}}<ref name="tokyosubway">[https://www.tokyometro.jp/ 東京地下鉄] 公式サイトから抽出(2019年5月26日閲覧)</ref>[[東京メトロ東西線]]{{Refnest|group="*"|name="direct-operation"|両線で[[直通運転|相互直通運転]]実施}}
|前の駅1 = T 22 [[原木中山駅|原木中山]]
|駅間A1 = 1.9
|駅間B1 =
|次の駅1 =
|駅番号1 = {{駅番号r|T|23|#009bbf|4}}<ref name="tokyosubway"/>
|キロ程1 = 30.8
|起点駅1 = [[中野駅 (東京都)|中野]]
|所属路線2 = {{color|#3fb036|■}}[[東葉高速鉄道東葉高速線]]<ref group="*" name="direct-operation" />
|前の駅2 =
|駅間A2 =
|駅間B2 = 2.1
|次の駅2 = [[東海神駅|東海神]] TR02
|駅番号2 = {{駅番号r|TR|01|#3fb036|4}}
|キロ程2 = 0.0
|起点駅2 = 西船橋
|所属路線3 = {{color|#ffd400|■}}[[中央・総武緩行線|総武線(地下鉄東西線直通)]]{{Refnest|group="*"|name="tozai-subway"|平日朝夕ラッシュ時のみ東西線へ直通運転。}}<br />(正式名称は[[総武本線]])
|前の駅3 = <ref group="*" name="tozai-subway" />(原木中山)
|駅間A3 = -
|駅間B3 = 2.6
|次の駅3 = [[船橋駅#JR東日本|船橋]] JB31
|駅番号3 = {{駅番号r|JB|30|#ffd400|1}}
|キロ程3 =
|起点駅3 =
|乗換 =
|備考 = [[共同使用駅]](東京メトロの管轄駅)
|備考全幅 = {{Reflist|group="*"}}
}}
東西線・JR総武線(地下鉄東西線直通)と東葉高速線は島式2面4線を有する地上ホームである。5 - 8番線を使用する。
東京メトロと東葉高速鉄道の[[共同使用駅]]で東京メトロの管轄駅である。東京メトロ線と東葉高速線の[[定期乗車券|定期券]]はJRが販売を代行し<ref name="tokyometro_pass">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/ticket/pass/counter/index.html|title=定期券うりば {{!}} PASMO・定期・乗車券 {{!}} 東京メトロ|publisher=東京メトロ|accessdate=2023-12-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231222135918/https://www.tokyometro.jp/ticket/pass/counter/index.html|archivedate=2023-12-22}}</ref>、JRのみどりの窓口にて当駅発着のみ購入可能であるほか、JR東日本線と連絡定期券でない東京メトロ線・東葉高速線の新規定期券は、磁気券でのみ発券可能である<ref name="tokyometro-nishifunabashiteihatu_syuryou" /><ref name="tokyometro_nishi-funabashi">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/nishi-funabashi/index.html|title=西船橋駅/T23 {{!}} 路線・駅の情報 {{!}} 東京メトロ|publisher=東京メトロ|accessdate=2023-12-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231222140249/https://www.tokyometro.jp/station/nishi-funabashi/index.html|archivedate=2023-12-22}}</ref><ref name="toyokosoku_pass" />。これは東西線の西端駅でJR東日本と共同使用する中野駅も同様である。東京メトロ側は東京メトロが管理する多機能発売機が設置されているが<ref name="tokyometro_nishi-funabashi" />、新規定期券の購入と[[Tokyo Metro To Me CARD]]のメトロポイントは利用できない。乗り越し精算機はJR仕様で、乗り越し精算の際に東京メトロの回数券を投入金として使用できない。
かつては現在のJR総武線・東西線・東葉高速線自動改札機の右隣に東葉高速線専用の自動券売機が並び、現金専用の旧式の自動券売機5台と受付窓口があった。現在は東京メトロ寄りへ2台が移転され、すべてがJR東日本と同機種の現金専用でPASMO・Suica対応の自動券売機がない。[[パスネット]]も対応していなかった。他の東葉高速線の駅はパスネット(対応終了)・PASMO・Suica対応の自動券売機が設置されている。移転元の切符売り場は撤去され、2008年9月から「そば処めとろ庵」などの店舗が営業している。
==== のりば ====
{|class="wikitable" style="font-size:90%"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先!!備考
|-
!rowspan="2"| 5
|[[File:Number prefix Toyo-Rapid.svg|15px|TR]] 東葉高速線
|[[東葉勝田台駅|東葉勝田台]]方面
|[[File:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|15px|T]] 東西線からの直通列車(一部を除く)が使用
|-
|[[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 総武線(各駅停車)
|[[津田沼駅|津田沼]]方面
|[[File:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|15px|T]] 東西線からの直通列車(東行)が平日朝夕のみ使用
|-
!rowspan="3"| 6
|[[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 総武線(各駅停車)
|津田沼方面
|[[File:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|15px|T]] 東西線からの直通列車(東行)が平日朝のみ使用
|-
|[[File:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|15px|T]] 東西線
|[[中野駅 (東京都)|中野]]・[[三鷹駅|三鷹]]方面<ref name="tozai-b">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/nishi-funabashi/timetable/tozai/b/index.html |title=西船橋駅時刻表 中野・三鷹方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-03}}</ref>
|当駅折り返し列車が使用
|-
|[[File:Number prefix Toyo-Rapid.svg|15px|TR]] 東葉高速線
|東葉勝田台方面
|平日朝夕のみ使用
|-
!rowspan="2"| 7
|[[File:Number prefix Toyo-Rapid.svg|15px|TR]] 東葉高速線
|東葉勝田台方面
|[[File:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|15px|T]] 東西線から直通の早朝2本のみ使用
|-
|[[File:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|15px|T]] 東西線
|中野・三鷹方面<ref name="tozai-b" />
|朝夕の一部を除き、当駅折り返し列車が使用
|-
! 8
|[[File:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|15px|T]] 東西線
|中野・三鷹方面<ref name="tozai-b" />
|[[File:Number prefix Toyo-Rapid.svg|15px|TR]] 東葉高速線・[[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 総武線からの直通列車と<br/>引き込み線からの始発が使用
|}
(出典:[https://www.tokyometro.jp/station/nishi-funabashi/index.html 東京メトロ:構内図])
<gallery>
ファイル:Nishi-Funabashi Station Transfer Gates.jpg|東京メトロ・東葉高速鉄道・JR連絡改札口(2019年9月)
ファイル:西船橋駅5・6番線東西線ホーム 東葉勝田台・中野・三鷹方面.jpg|alt=|5・6番ホーム(2019年5月)
ファイル:Nishifunabashistaform-metro2.jpg|7・8番ホーム、ホームが広く朝ラッシュ時に対応できる構造(2009年2月)
</gallery>
==== 特記事項 ====
* 2016年3月のダイヤ改正で8番線の東葉勝田台行きは廃止された。早朝に7番線発車の東葉勝田台行きが2本ある。
* 平日朝夕のみ運転される東西線から直通の総武線津田沼行は、5・6番線から発車する。
* 夜間留置は6・7番線と、引き上げ線にて行われる。
=== 発車メロディ ===
総武線ホームの1 - 4番線では[[東洋メディアリンクス]]<ref>{{Cite web|和書|title=コンテンツを探す |url=http://www.te2do.jp/cntsearch/station/detail/?line_cd=11313&station_cd=1131330&xid= |website=鉄道モバイル |access-date=2023-01-04 |language=ja |publisher=[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]}}</ref>、武蔵野線・京葉線ホームの9 - 12番線では[[テイチクエンタテインメント|テイチク]]<ref>{{Cite web|和書|title=コンテンツを探す |url=http://www.te2do.jp/cntsearch/station/detail/?line_cd=11305&station_cd=1130524&xid= |website=鉄道モバイル |access-date=2023-01-04 |language=ja |publisher=[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]}}</ref>制作の[[発車メロディ]]を使用している。
東京メトロ管轄の5 - 8番線では[[向谷実]]作曲のメロディを使用している<ref name=":0" group="報道" /><ref>{{Cite web|和書|title=コンテンツを探す |url=http://www.te2do.jp/cntsearch/station/detail/?line_cd=28004&station_cd=2800423&xid= |website=鉄道モバイル |access-date=2023-01-04 |language=ja |publisher=[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]}}</ref>(詳細は[[東京メトロ東西線#発車メロディ]]を参照)。
{| class="wikitable"
!番線
!曲名
|-
!1・2
|Gota del Vient
|-
!3・4
|Verde Rayo
|-
!5
|A Day in the METRO
|-
!6
| rowspan="3" |Beyond the Metropolis<ref group="注釈">番線ごとにメロディは異なっているが、曲名は同一である。</ref>
|-
!7
|-
!8
|-
!9
|スプリングボックス
|-
!10
|雪解け間近
|-
!11
|星空の下
|-
!12
|すすきの高原 V2
|}
=== 連絡改札口設置に伴う取り扱い ===
2007年3月18日にSuicaとPASMOの相互利用が開始されて改札口が分割され、東京メトロ線・東葉高速線も自動改札機を設置し、JR線と東京メトロ線・東葉高速線・JR総武線(東京メトロ東西線直通)の連絡改札口が設置された。[[下総中山駅|下総中山]]・[[原木中山駅|原木中山]]寄りと[[船橋駅|船橋]]・[[東海神駅|東海神]]寄りの乗換用跨線橋も連絡改札口が新設された。当駅から中野方面、中野方面から当駅へそれぞれ向かう場合、JR線経由と東京メトロ線経由の識別が可能となる。下総中山・原木中山寄りの乗換用跨線橋は連絡改札口新設以降、6時 - 10時と16時 - 23時のみ利用可能となっている。
東京メトロ線・東葉高速線・JR総武線(東西線直通)の改札から交通系ICカードのSF利用で入場し、他社と改札内を共有していないJR東日本の駅([[船橋駅]]など)で出場した場合、西船橋からJR東日本線単独で利用した場合と東京メトロ線を経由し中野または北千住で乗り換えた場合の運賃を比較して安価な運賃が出場駅で差し引かれる。
東京メトロ線・東葉高速線・JR総武線(東西線直通)の自動改札は、西船橋から船橋経由津田沼行きなど、JR東日本線単独のきっぷは入場できず、JR総武線(東西線直通)を利用する場合は有人改札を経由する。交通系ICカードやIC・磁気定期券を利用する場合は入場可能である。
=== 配線図 ===
{{駅配線図
|image = Rail Tracks map Nishi-Funabashi Stn GL.svg
|title = 西船橋駅地上ホーム 鉄道配線略図
|width = 400px
|up = [[北習志野駅|北習志野]]・<br />[[東葉勝田台駅|東葉勝田台]]方面
|up-align = right
|left = [[錦糸町駅|錦糸町]]・[[秋葉原駅|秋葉原]]<br />・[[新宿駅|新宿]]・[[中野駅 (東京都)|中野]]・<br />[[三鷹駅|三鷹]] 方面
|left-valign = top
|right = [[船橋駅|船橋]]・[[津田沼駅|津田沼]]<br />・[[千葉駅|千葉]] 方面
|right-valign = middle
|down = [[東陽町駅|東陽町]]・[[大手町駅 (東京都)|大手町]]・中野・三鷹 方面
|down-align = left
|source = 以下を参考に作成。<br />* 祖田圭介、「西船橋駅付近の配線略図」、「特集 短絡線ミステリー9 - 東京都心の鉄道複雑エリア、II 列車の走行ルート」、[[交友社]]『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』第48巻6号(通巻第566号)2008年6月号、38頁 図30。<br />* [http://www.jreast.co.jp/estation/stations/1171.html JR東日本公式ウェブサイト 各駅情報(西船橋駅) 構内図]
|note = {{smaller| ※ 図中{{Color|#00a7db|'''▲'''}}は当駅以西東西線を走行する列車、{{Color|#ffd400|'''▲'''}}は中央総武緩行線を走行する列車を表す。}}}}
* 東葉高速線が開業する前は[[引き上げ線]]が3本あり、現在の東葉高速線の線路の一部が引き上げ線となっていた。
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!運転番線!!営業番線!!ホーム!!御茶ノ水方面着発!!大手町方面着発!!東葉勝田台方面着発!!千葉方面着発!!JR引上げ線着発!!メトロ引上げ線着発!!備考
|-
| style="text-align:center" colspan="2" |1|| style="text-align:right" rowspan="7" |10両分||到着可|| rowspan="3" |不可|| rowspan="3" |不可||出発可||不可|| rowspan="3" |不可||緩行線下り主本線
|-
|style="text-align:center"|2||style="text-align:center"|2,3||到着・出発可||到着・出発可||入出区可||両側にホーム有
|-
|style="text-align:center"|3||style="text-align:center"|4||出発可||到着可||出区可||緩行線上り主本線
|-
|style="text-align:center"|4||style="text-align:center"|5|| rowspan="4" |不可||到着可|| rowspan="2" |出発可|| rowspan="2" |出発可|| rowspan="4" |不可|| rowspan="4" |入出区可||
|-
|style="text-align:center"|5||style="text-align:center"|6|| rowspan="2" |到着・出発可||
|-
|style="text-align:center"|6||style="text-align:center"|7|| rowspan="2" |到着・出発可|| rowspan="2" |到着可||
|-
|style="text-align:center"|7||style="text-align:center"|8||出発可||
|}
* 総武快速線は省略。
{{smaller|* 参考資料:「西船橋駅付近の配線略図」「特集 短絡線ミステリー9 - 東京都心の鉄道複雑エリア、II 列車の走行ルート」、[[交友社]]『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』第48巻6号(通巻第566号)2008年6月号<br />* [http://www.jreast.co.jp/estation/stations/1171.html JR東日本公式ウェブサイト 各駅情報(西船橋駅)構内図]}}
{{駅配線図
|image = Rail Tracks map Nishi-Funabashi Stn VL.svg
|title = 西船橋駅高架ホーム 鉄道配線略図
|width = 400px
|up = [[南船橋駅|南船橋]]・[[海浜幕張駅|海浜幕張]] 方面
|up-align = right
|left = [[新松戸駅|新松戸]]・[[南浦和駅|南浦和]]・[[西国分寺駅|西国分寺]]・<br />[[府中本町駅|府中本町]] 方面
|left-valign = middle
|right =
|right-valign =
|down = [[新木場駅|新木場]]・[[東京駅|東京]] 方面|down-align=right
|source = 以下を参考に作成。<br />* 祖田圭介、「西船橋駅付近の配線略図」、「特集 短絡線ミステリー9 - 東京都心の鉄道複雑エリア、II 列車の走行ルート」、<br />[[交友社]]、『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』第48巻6号(通巻第566号) 2008年6月号、38頁 図30。<br />* 祖田圭介、「西船橋駅配線図」、「武蔵野線・京葉線 建設の経緯と線路配線」、『[[鉄道ピクトリアル]]』、第52巻8号<br />(通巻第720号)2002年8月号、[[電気車研究会]]、2002、55頁、図-8。<br />* [http://www.jreast.co.jp/estation/stations/1171.html JR東日本公式ウェブサイト 各駅情報(西船橋駅) 構内図]
|note =
}}
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!運転番線!!営業番線!!ホーム!!府中本町方面着発!!蘇我方面着発!!東京方面着発!!備考
|-
|style="text-align:center"|京1||style="text-align:center"| ||style="text-align:right"|ホームなし||到着可|| rowspan="3" |出発可||不可||着発は12番線を経由
|-
| style="text-align:center" colspan="2" |12|| style="text-align:right" rowspan="2" |8両分|| rowspan="4" |到着・出発可
| rowspan="2" |出発可
|
|-
| style="text-align:center" colspan="2" |11||
|-
| style="text-align:center" colspan="2" |10|| style="text-align:right" rowspan="2" |10両分|| rowspan="2" colspan="2" |到着・出発可||
|-
| style="text-align:center" colspan="2" |9||
|}
* 京1番線は12番線の[[二俣新町駅|二俣新町]]寄りの、二俣支線下り線と高谷支線上り線のポイントとポイントの間にある。一部の貨物列車が旅客列車を待避している。
* 11番線東京側出発信号、11番線東京側12番線からの合流ポイント、12番線府中本町側出発信号、武蔵野線下り本線シーサスクロッシング府中本町側に入換信号が取り付けられ、11番線への下り到着列車に対する機回しが円滑になった。機回しは過去に事例がある。
{{smaller|* 参考資料:「西船橋駅付近の配線略図」「特集 短絡線ミステリー9 - 東京都心の鉄道複雑エリア、II 列車の走行ルート」、[[交友社]]『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』第48巻6号(通巻第566号)2008年6月号<br />* 「西船橋駅配線図」「武蔵野線・京葉線 建設の経緯と線路配線」『[[鉄道ピクトリアル]]』第52巻8号(通巻第720号)2002年8月号<br />* [http://www.jreast.co.jp/estation/stations/1171.html JR東日本公式ウェブサイト 各駅情報(西船橋駅) 構内図]}}
== 利用状況 ==
* '''JR東日本''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''119,941人'''である<ref group="JR" name="JR2022" />。
*: 同社の駅で[[立川駅]]に次ぎ第15位、千葉県内で第1位、[[東日本旅客鉄道千葉支社|千葉支社]]管内で1位である。2016年度まで千葉県内で船橋駅に次ぎ2位で、2017年からは1位となっている。この数字には東京メトロとの直通列車の利用者も含まれている。
* '''東京メトロ''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''244,493人'''である<ref group="メトロ" name="me2022" />。JR東日本や東葉高速線との直通人員も含まれる。
* '''東葉高速鉄道''' - 2021年度の1日平均'''乗車'''人員は'''45,803人'''である<ref group="#" name="funabashi-r4" />。
*: 同社の駅では第1位である。
=== 年度別1日平均乗降人員 ===
近年の1日平均'''乗降'''人員の推移(JR、東葉高速鉄道は除く)。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗降人員<ref group="*">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref>
!rowspan="2"|年度
!colspan="2"|営団 / 東京メトロ
|-
!1日平均<br />乗降人員
!増加率
|-
|1969年(昭和44年)
|<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/safety/customer/service/pdf/tozai_line_panph.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210310070941/https://www.tokyometro.jp/safety/customer/service/pdf/tozai_line_panph.pdf|title=爽やかな明日をめざして! 青空とメトロ 東西線|archivedate=2021-03-10|accessdate=2021-09-19|publisher=東京地下鉄|format=PDF|language=日本語|pages=3 - 4|deadlinkdate=}}</ref>69,871||
|-
|2000年(平成12年)
|241,994||
|-
|2001年(平成13年)
|243,832||0.8%
|-
|2002年(平成14年)
|242,230||−0.7%
|-
|2003年(平成15年)
|238,618||−1.5%
|-
|2004年(平成16年)
|236,205||−1.0%
|-
|2005年(平成17年)
|234,157||−0.9%
|-
|2006年(平成18年)
|239,410||2.2%
|-
|2007年(平成19年)
|272,588||13.9%
|-
|2008年(平成20年)
|278,117||2.0%
|-
|2009年(平成21年)
|275,515||−0.9%
|-
|2010年(平成22年)
|276,164||0.2%
|-
|2011年(平成23年)
|271,057||−1.8%
|-
|2012年(平成24年)
|274,785||1.4%
|-
|2013年(平成25年)
|279,770||1.8%
|-
|2014年(平成26年)
|280,011||0.1%
|-
|2015年(平成27年)
|285,186||1.8%
|-
|2016年(平成28年)
|289,430||1.5%
|-
|2017年(平成29年)
|293,332||1.3%
|-
|2018年(平成30年)
|295,943||0.9%
|-
|2019年(令和元年)
|291,416||−1.5%
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="メトロ" name="me2020">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2020.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2020年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>212,994||−26.9%
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="メトロ" name="me2021">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2021.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2021年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>221,498||4.0%
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="メトロ" name="me2022">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/index.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>244,493||10.4%
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(1958年 - 2000年) ===
開業以後の1日平均'''乗車'''人員の推移は下表の通りである。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="*" name="toukei">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/ 千葉県統計年鑑] - 千葉県</ref><ref group="*" name="funabashi">[https://www.city.funabashi.lg.jp/shisei/toukei/002/p012851.html 船橋市統計書] - 船橋市</ref>
!年度!!国鉄 / <br />JR東日本!!営団!!東葉高速鉄道!!出典
|-
|1958年(昭和33年)
|<ref group="備考">1958年11月10日開業。開業日から翌年3月31日までの計142日間を集計したデータ。</ref>2,101||rowspan="10" style="text-align:center"|未<br />開<br />業||rowspan="38" style="text-align:center"|未<br />開<br />業
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s34/index.html#13 昭和34年]</ref>
|-
|1959年(昭和34年)
|4,208
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s35/index.html#13 昭和35年]</ref>
|-
|1960年(昭和35年)
|5,610
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s36/index.html#13 昭和36年]</ref>
|-
|1961年(昭和36年)
|6,897
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s37/index.html#13 昭和37年]</ref>
|-
|1962年(昭和37年)
|8,531
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s38/index.html#13 昭和38年]</ref>
|-
|1963年(昭和38年)
|9,792
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s39/index.html#13 昭和39年]</ref>
|-
|1964年(昭和39年)
|11,205
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s40/index.html#13 昭和40年]</ref>
|-
|1965年(昭和40年)
|11,742
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s41/index.html#13 昭和41年]</ref>
|-
|1966年(昭和41年)
|12,502
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s42/index.html#13 昭和42年]</ref>
|-
|1967年(昭和42年)
|14,133
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s43/index.html#13 昭和43年]</ref>
|-
|1968年(昭和43年)
|13,963
|<ref group="備考">1969年3月29日開業。</ref>
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s44/index.html#13 昭和44年]</ref>
|-
|1969年(昭和44年)
|28,690||
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s45/index.html#13 昭和45年]</ref>
|-
|1970年(昭和45年)
|52,952||
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s46/index.html#13 昭和46年]</ref>
|-
|1971年(昭和46年)
|70,756||
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s47/index.html#13 昭和47年]</ref>
|-
|1972年(昭和47年)
|69,965||
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s48/index.html#13 昭和48年]</ref>
|-
|1973年(昭和48年)
|63,415||
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s49/index.html#13 昭和49年]</ref>
|-
|1974年(昭和49年)
|66,200||
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s50/index.html#13 昭和50年]</ref>
|-
|1975年(昭和50年)
|66,769||37,001
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s51/index.html#13 昭和51年]</ref>
|-
|1976年(昭和51年)
|68,911||90,956
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s52/index.html#13 昭和52年]</ref>
|-
|1977年(昭和52年)
|73,074||96,449
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s53/index.html#13 昭和53年]</ref>
|-
|1978年(昭和53年)
|74,236||92,382
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s54/index.html#13 昭和54年]</ref>
|-
|1979年(昭和54年)
|75,929||95,843
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s55/index.html#13 昭和55年]</ref>
|-
|1980年(昭和55年)
|77,972||99,879
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s56/index.html#13 昭和56年]</ref>
|-
|1981年(昭和56年)
|81,445||104,844
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s57/index.html#13 昭和57年]</ref>
|-
|1982年(昭和57年)
|84,545||105,902
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s58/index.html#13 昭和58年]</ref>
|-
|1983年(昭和58年)
|86,559||108,916
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s59/index.html#13 昭和59年]</ref>
|-
|1984年(昭和59年)
|91,161||112,869
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s60/index.html#13 昭和60年]</ref>
|-
|1985年(昭和60年)
|95,317||116,659
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s61/index.html#11 昭和61年]</ref>
|-
|1986年(昭和61年)
|105,377||123,942
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s62/index.html#11 昭和62年]</ref>
|-
|1987年(昭和62年)
|117,751||128,164
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s63/index.html#11 昭和63年]</ref>
|-
|1988年(昭和63年)
|129,775||130,921
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h1/index.html#11 平成元年]</ref>
|-
|1989年(平成元年)
|121,287||120,788
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h02/index.html#11 平成2年]</ref>
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|120,578||116,821
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h03.html#11 平成3年]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|122,275||117,824
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h04.html#11 平成4年]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|124,816||117,013
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h05.html#11 平成5年]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|126,843||117,552
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h06.html#11 平成6年]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|126,085||116,724
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h07.html#11 平成7年]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|124,803||114,021
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h08.html#11 平成8年]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|118,907||<ref group="備考">1996年度から東葉高速鉄道との直通人員を含む値。</ref>123,272||<ref group="備考">1996年4月27日開業。開業日から翌年3月31日までの計339日間を集計したデータ。</ref>26,263
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h09.html#11 平成9年]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|111,751||122,979||35,794
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h10.html#11 平成10年]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|108,943||123,070||39,177
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h11.html#11 平成11年]</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/1999.html 各駅の乗車人員(1999年度)] - JR東日本</ref>106,351
|120,480||40,478
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h12/index.html#11 平成12年]</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>106,048
|121,330||42,782
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h13/index.html#11 平成13年]</ref>
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) ===
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="*" name="toukei"/><ref group="*" name="funabashi"/>
!年度!!JR東日本!!営団 /<br />東京メトロ!!東葉高速鉄道!!出典
|-
|2001年(平成13年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>106,277
|122,314||44,830
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h14/index.html#11 平成14年]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>106,845
|121,675||45,603
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h15/index.html#11 平成15年]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>105,895
|119,657||45,173
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h16/index.html#11 平成16年]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>105,230
|117,559||44,683
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h17/index.html#11 平成17年]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>105,892
|116,808||45,224
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h18.html#11 平成18年]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>108,717
|119,305||46,592
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h19.html#11 平成19年]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>123,619
|137,363||51,701
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h20.html#11 平成20年]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>125,785
|138,461||53,150
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h21/index.html#a11 平成21年]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>125,114
|136,652||52,418
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h22/index.html#a11 平成22年]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>125,855
|137,062||52,450
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h23/index.html#a11 平成23年]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>125,276
|134,620||52,004
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h24/index.html#a11 平成24年]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>126,834
|136,190||52,571
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h25/index.html#a11 平成25年]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>130,814
|138,655||53,887
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h26/index.html#a11 平成26年]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>131,895
|139,275||54,701
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h27/index.html#a11 平成27年]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>134,362
|141,814||56,373
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h28/index.html#a11 平成28年]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>136,067
|143,909||57,689
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h29/index.html#a11 平成29年]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>138,177
|145,674||59,682
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h30/index.html#a11 平成30年]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>139,347
|147,067||60,793
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-r1/index.html#a11 令和元年]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>138,618
|144,871||61,105
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-r02/index.html#unyutuusin 令和2年]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>103,947
|106,071||<ref group="注釈">令和4年版船橋市統計書によると、44,551との記載がある。</ref>44,547
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-r03/index.html#unyutuusin 令和3年]</ref>
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>110,680
|<ref group="#" name="funabashi-r4">{{Cite web|和書|author=船橋市 |authorlink=船橋市 |coauthors= |date=2023-04-28 |title=令和4年版船橋市統計書 |url=https://www.city.funabashi.lg.jp/shisei/toukei/002/p115056_d/fil/25_I.pdf |publisher= |page= |docket= |format=pdf |accessdate=2023-07-08 |quote= |archiveurl= |archivedate= |deadlink= |}}</ref>110,265
||<ref group="#" name="funabashi-r4" />45,803
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="JR" name="JR2022">[https://www.jreast.co.jp/passenger/ 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>119,941
| ||
|
|}
;備考
{{Reflist|group="備考"}}
== 駅周辺 ==
[[ファイル:JR Nishifunabashi Station - various - Sep 2 2019 16 00 38 065000.jpeg|thumb|北口駅前ロータリー(2019年9月)]]
北口から徒歩5・6分に[[京成本線]]の[[京成西船駅]]がある。連絡定期券は発売しておらず、JRと京成の乗り換えは[[船橋駅]]([[京成船橋駅]])および[[幕張本郷駅]](京成幕張本郷駅)の方が多く利用される。
=== 駅周辺施設 ===
==== 駅舎内の施設(駅ナカ・駅ビル) ====
[[駅ナカ]]商業施設として「ペリエ西船橋」があり、約30店舗の[[専門店]]を有する<ref>{{Cite web|和書|title=フロアガイド|ペリエ西船橋|url=https://www.perie.co.jp/nishifunabashi/floorguide/|website=「ペリエ西船橋」公式サイト|accessdate=2019-03-27|language=ja}}</ref>。
東京地下鉄側は「メトロピア西船橋」がある<ref>{{Cite web|和書|title=施設・店舗 {{!}} 西船橋駅/T23 {{!}} 東京メトロ|url=https://www.tokyometro.jp/station/nishi-funabashi/shop/index.html#adjacent|website=www.tokyometro.jp|accessdate=2019-03-28}}</ref>。
{{columns-list|2|
* 改札内
** ペリエ西船橋
*** [[NewDays]]、NewDays[[キヨスク|KIOSK]]、[[Becker's]]、[[スープストックトーキョー]]、[[キャメル珈琲#カルディコーヒーファーム|カルディコーヒーファーム]]、[[メガネスーパー]]コンタクト
*** 西船珈琲研究所、BOOK EXPRESS、[[Zoff]]、リラクゼ
** メトロピア西船橋
*** [[プラザ (雑貨店)|MINiPLA]]、[[めとろ庵]]、[[ビューアルッテ]]
* 改札外
** ペリエ西船橋、VIEW ALTTE、[[スターバックス]]、ココプレス
** [[みどりの窓口]]、<!-- ←「みどりの窓口」の記述を除去する場合は、営業終了日時(2024年2月19日18:00)経過後 -->[[指定席券売機]]
|}}
==== 駅 ====
* [[京成西船駅]] - 北口より徒歩約5分の場所に位置している。各社との連絡運輸業務は取り扱っていない。
==== その他 ====
[[ファイル:Funabashi City Nishi Library Open 10-21-2016(cropped).jpg|thumb|[[船橋市図書館|船橋市西図書館]]]]
==== 北口 ====
{{columns-list|2|
* 西船橋近隣公園
* [[千葉県道179号船橋行徳線]]
* [[船橋市役所]]西船橋出張所
* 西船橋駅前郵便局
* [[船橋市図書館|船橋市西図書館]]
* [[船橋警察署]]西船橋駅前交番
* [[船橋市立葛飾中学校]]
* [[船橋市立葛飾小学校]]
* 西船駅前プラザ
* [[船橋中央病院]]
* [[東京医療保健大学]]
|}}
==== 南口 ====
{{columns-list|2|
* [[京葉道路]]([[原木インターチェンジ]])
* 西船橋駅南口郵便局
* [[東京経営短期大学]]
* [[アパホテル]]西船橋
* スーパー[[九州屋]]西船橋店
* スーパー[[セレクション (スーパーマーケット)|セレクション]]西船橋店
* スーパー[[ベルクス]]西船橋店
* スーパー[[ジェーソン]]西船橋店
* [[国道14号]]
|}}
== バス路線 ==
=== 北口 ===
<!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。-->
駅前ロータリーと北口高速バスターミナルから以下の路線が[[京成バス]]・[[京成バスシステム]]・[[ちばレインボーバス]]・[[京成トランジットバス]]・[[成田空港交通]]などにより運行されている。中山競馬場においてレースなどが開催される際は当駅から臨時の競馬場行バスが1番乗り場付近から発車する。
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!のりば!!運行事業者!!系統・行先!!備考
|-
!colspan="4"|駅前ロータリー
|-
!rowspan="2"|1
|style="text-align:center;"|京成バスシステム
|[[京成バスシステム#柏井線|'''中山01''']]:[[市川市霊園|市営霊園]]
|
|-
|style="text-align:center;"|ちばレインボーバス
|[[中山競馬場|JRA中山競馬場]]
|競馬開催日の土曜・休日に運行
|-
!rowspan="2"|2
|style="text-align:center;"|ちばレインボーバス
|[[ちばレインボーバス#白井線|'''白井線''']]:[[白井駅]] / 白井車庫
|
|-
|style="text-align:center;"|京成トランジットバス
|[[京成トランジットバス#海神線|'''西船21''']]:諏訪神社
|
|-
!rowspan="3"|3
|style="text-align:center;"|京成バス
|{{Unbulleted list|[[京成バス市川営業所#ファイターズタウン線|'''Fs04''']]:[[行田団地]]|'''Fs03''':桐畑|'''Fs05''':前貝塚|'''Fs02''':[[京成バス市川営業所|市川営業所]]|'''Fs01''':[[ファイターズ鎌ケ谷スタジアム|ファイターズタウン鎌ケ谷]]}}
|
|-
|style="text-align:center;"|成田空港交通
|[[成田空港交通#深夜急行バス|'''深夜急行''']]:[[成田国際空港|成田空港]]
|運休中
|-
|style="text-align:center;"|[[船橋新京成バス]]
|[[船橋新京成バス#深夜急行バス|'''深夜急行''']]:鎌ヶ谷大仏
|運休中
|-
!5
|style="text-align:center;"|京成バスシステム
|[[京成バスシステム#市内線|'''西船11'''・'''西船12''']]:[[船橋市役所]] / [[京成船橋駅]]
|
|-
!colspan="4"|北口高速バスターミナル
|-
!rowspan="9"|7
|style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|京成バス|[[京浜急行バス]]}}
|[[京成バス#羽田空港発着便|'''高速''']]:[[東京国際空港|羽田空港]]{{Refnest|group="注釈"|羽田空港行早朝便と羽田空港発深夜便は、[[船橋駅]]発着。}}
|
|-
|style="text-align:center;"|成田空港交通・[[宮城交通]]
|[[成田空港交通#松島仙台線|'''昼行高速 「ザ・サンライナー」''']]:[[仙台駅のバス乗り場|仙台駅西口]]・[[松島海岸駅]]
|2023年7月14日運行開始
|-
|style="text-align:center;"|成田空港交通
|[[成田空港交通#松島仙台線|'''夜行高速''']]:[[仙台駅のバス乗り場|仙台駅]]・[[松島海岸駅]]
|運休中
|-
|style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|京成バス|[[ジェイアール東海バス]]}}
|'''[[ファンタジアなごや号]]''':[[名古屋駅#名古屋駅太閤通口|名古屋駅]]
|
|-
|style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|京成バス|[[奈良交通]]}}
|[[やまと号#奈良 - 横浜・千葉線|'''やまと号''']]:[[天理駅]]・[[奈良駅]]・[[大和西大寺駅]]
|
|-
|style="text-align:center;"|[[千葉中央バス]]
|'''[[きょうと号]]''':[[京都駅#高速バス(八条口)|京都駅]]
|
|-
|style="text-align:center;"|京成バス
|'''高速''':[[大阪駅周辺バスのりば#高速バス|大阪梅田]]・[[三宮駅バスのりば|神戸三宮]]
|
|-
|style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|[[和歌山バス]]|成田空港交通}}
|'''[[サウスウェーブ号]]''':[[堺駅]]・[[和歌山駅]]
|
|-
|style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|京成バス|[[フジエクスプレス]]}}
|{{Unbulleted list|'''高速''':[[富士急ハイランド]]・[[河口湖駅]]|'''高速''':[[御殿場プレミアム・アウトレット]]}}
|
|}
=== 南口 ===
<!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。-->
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!運行事業者!!系統・行先
|-
!colspan="2"|[[NTTドコモ#販売店等|ドコモショップ]]西船橋店前
|-
|style="text-align:center;"|京成トランジットバス
|[[京成トランジットバス#大洲・中山線|'''市川03''']]:[[市川駅]]
|-
|style="text-align:center;"|[[ジャムジャムエクスプレス]]
|'''JAMJAMライナー''':[[津駅|津]]・[[伊勢神宮]] / [[三宮駅|三宮]]・[[姫路駅|姫路]]
|-
!colspan="2"|[[セブンイレブン]]印内町店前
|-
|style="text-align:center;"|[[ツーリストバス]]
|'''Tourist Bus''':梅田・難波
|-
|style="text-align:center;"|[[軽井沢バス]]
|'''流星号''':京都・天王寺・三宮
|-
|style="text-align:center;"|[[丹沢交通]]
|'''コネクトライナー''':富山・金沢
|}
ドコモショップ西船橋店前には原木・二俣新町方面へ向かうJBSバスのバス停もあるが、特定輸送路線のため一般客は利用できない。もともとこの路線は、原木地区に2003年まであった[[原木 (市川市)#通関業務|東京エアカーゴシティターミナル]]への通勤客用の路線として、ターミナルの関連会社・原木ターミナルサービスが運行していたものである。ちなみに当時は限定乗合路線のため、一般利用者の混乗も認められていた。2003年の同社解散後は、旧ターミナル付近の企業による管理組合がジャパン・ビジネス・サービス (JBS) に運行を委託して路線を継続したが、2005年5月20日をもって一般利用者の混乗取り扱いを終了し、通勤客の送迎専用となって現在に至る<ref>[http://www.city.ichikawa.lg.jp/cgi-bin/kaigi.cgi?filename=kaigi_050617.txt&count_c=74 市川市議会一般質問 松永修巳議員](2005年6月17日)</ref>。かつては[[イオンモール船橋]]の有料送迎バスが同所に停車していたが、2019年9月20日をもって廃止となった。
== 隣の駅 ==
; 東日本旅客鉄道(JR東日本)
: [[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 総武線(各駅停車)
::: [[下総中山駅]] (JB 29) - '''西船橋駅 (JB 30)''' - [[船橋駅]] (JB 31)
: [[File:JR JE line symbol.svg|15px|JE]] 京葉線・[[File:JR JM line symbol.svg|15px|JM]] 武蔵野線
:: {{Color|#0099ff|■}}各駅停車(東京方面)
::: [[市川塩浜駅]](京葉線)(JE 09) - '''西船橋駅 (JM 10)''' - [[船橋法典駅]](武蔵野線)(JM 11)
:: {{Color|#0099ff|■}}各駅停車(海浜幕張方面)・{{Color|#ff66cc|■}}[[しもうさ号]]
::: [[南船橋駅]](京葉線)(JE 11) - '''西船橋駅 (JM 10)''' - 船橋法典駅(武蔵野線) (JM 11)
; 東京地下鉄(東京メトロ)
: [[File:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|15px|T]] 東西線<!-- 種別色は15000系のフルカラーLEDの色に準拠 -->
:: {{Color|red|■}}快速・{{Color|#0c6|■}}通勤快速(通勤快速は中野方面のみ運転。どちらも東葉高速線・総武線内は各駅に停車)
::: [[浦安駅 (千葉県)|浦安駅]] (T 18) - '''西船橋駅 (T 23)''' - (東葉高速線 / 総武線船橋方面)
:: {{Color|#18469d|■}}各駅停車
::: [[原木中山駅]] (T 22) - '''西船橋駅 (T 23)''' - (東葉高速線 / 総武線船橋方面)
; 東葉高速鉄道
: [[File:Number prefix Toyo-Rapid.svg|15px|TR]] 東葉高速線(東葉高速線内は全列車各駅に停車)
::: (東西線) - '''西船橋駅 (TR01)''' - [[東海神駅]] (TR02)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 記事本文 ===
==== 注釈 ====
{{Reflist|group="注釈"}}
==== 出典 ====
{{Reflist}}
===== 報道発表資料 =====
{{Reflist|group="報道"|2}}
===== 新聞記事 =====
{{Reflist|group="新聞"}}
=== 利用状況 ===
; JR・地下鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="利用客数"}}
; JR東日本の1999年度以降の乗車人員
{{Reflist|group="JR"|23em}}
; 東京地下鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="メトロ"|22em}}
; JR・私鉄・地下鉄の統計データ
{{Reflist|group="*"}}
; 千葉県統計年鑑
{{Reflist|group="千葉県統計"|16em}}
; 船橋市統計書
{{Reflist|group="#"|16em}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Nishi-Funabashi Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[須田鷹雄]](元当駅職員で現・[[競馬評論家]])
* [[西船橋駅ホーム転落死事件]]
* [[国際空港電鉄]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=1171|name=西船橋}}
* [https://www.tokyometro.jp/station/nishi-funabashi/index.html 西船橋駅/T23 | 路線・駅の情報 | 東京メトロ]
* [https://www.toyokosoku.co.jp/station/nishifunabashi 東葉高速鉄道 西船橋駅]
{{鉄道路線ヘッダー}}
{{中央・総武緩行線}}
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{{東京メトロ東西線}}
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{{鉄道路線フッター}}
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[[Category:船橋市の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 に|しふなはし]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]]
[[Category:中央・総武緩行線]]
[[Category:武蔵野線]]
[[Category:東京地下鉄の鉄道駅]]
[[Category:東葉高速鉄道の鉄道駅]]
[[Category:1958年開業の鉄道駅]]
[[Category:千葉県の駅ビル]] | 2003-05-19T12:11:26Z | 2023-12-22T14:22:55Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E8%88%B9%E6%A9%8B%E9%A7%85 |
8,652 | 中目黒駅 | 中目黒駅(なかめぐろえき)は、東京都目黒区上目黒三丁目にある、東急電鉄・東京地下鉄(東京メトロ)の駅である。目黒区の駅では最も東に位置する。目黒区の行政・商業・交通の中心的な駅として機能している。
東急の東横線と、東京メトロの日比谷線が乗り入れている。両社が駅施設を共用する共同使用駅であり、東急が駅を管轄している。東横線の旅客営業列車が座席指定列車のS-TRAINを除き全て停車し、日比谷線の終着駅でもある。2013年3月15日までは両線で相互直通運転が実施されていた。
東急東横線は上り(渋谷方面)が東京メトロ副都心線を介して東武東上線・西武池袋線に、下り(横浜方面)が横浜高速鉄道みなとみらい線・東急新横浜線・相鉄線にそれぞれ相互直通運転を実施しており、東京メトロ日比谷線は終着駅である北千住駅のさらに先、東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)を経由して日光線南栗橋駅まで相互直通運転を実施している。
東急電鉄の駅長所在駅であり、「中目黒駅管内」として、代官山駅 - 学芸大学駅間の各駅を管理している。なお、東京メトロの駅としては、霞ケ関駅務管区六本木地域の被管理駅である。
駅設置当時の所在地は荏原郡目黒村大字上目黒字諏訪山であり、目黒区となってからも上目黒三丁目であるが、駅名は開業当時より「中目黒」となっている。これは開業当時に駅南東側の山手通りと駒沢通りの交差点に玉川電気鉄道中目黒線(当時。1967年の廃止時点では都電8系統)の中目黒終点があり、その連絡駅として位置付けられたためである。
島式ホーム2面4線を有する高架駅であり、ホームの代官山・恵比寿寄りは目黒川の真上にかかる。外側1・4番線を東横線が、内側2・3番線を日比谷線が使用している。駅管理は東急電鉄が行っており、駅名標等の案内サインも東急の仕様となっている。
改札口は山手通りに面した高架下に1箇所、祐天寺寄りに1箇所の計2箇所がある。開業当初から長らく、改札口は山手通りに面した1箇所であったが、中目黒駅改良工事(後述)の一環として祐天寺駅側に改札口が追加設置された。改札口が2箇所になったことにより、従来の改札口を「正面出口」、祐天寺駅側の改札口を「南出口」と呼ぶことになった。
トイレは1階の改札内コンコース部に設置されている。多目的トイレは以前は設置されていなかったが、後年に追加された。
当駅の日比谷線引き上げ線横(南側)には東京地下鉄の事務所(中目黒詰所)がある。建物は3階建て(一部4階建て)構造、この事務所から引き上げ線に出入りすることができる。東横線の高架橋の北側に出入口等がある。現在は日比谷線の車掌・運転士が所属する中目黒車掌事務室・中目黒運転事務室(他に南千住駅に千住車掌事務室・千住運転事務室)がある)、日比谷線電機区・日比谷線信通区分室・日比谷線工務区中目黒分室・千住検車区出張所が配置されている。
(出典:東京メトロ:構内図)
2013年(平成25年)3月16日から開始された東横線と副都心線との相互直通運転開始に向け、以下の改良工事が実施された。
2013年3月16日以降、当駅よりPASMO・Suica等各種IC乗車券を利用して東急東横線に乗車し、渋谷駅で改札を通らず半蔵門線・副都心線経由で東京メトロ各駅へ乗り継いだ際は、当駅より日比谷線を経由し全線東京メトロを利用した運賃が引き落とされる。
例えば当駅よりIC乗車券で東横線・副都心線直通列車に乗車し東京メトロ池袋駅へ向かう場合、本来は東急東横線中目黒駅→渋谷駅の140円と東京メトロ副都心線渋谷駅→池袋駅の209円を合わせた349円が引き落とされるべきところだが、実際は当駅から東京メトロ線(日比谷線虎ノ門ヒルズ駅・銀座線虎ノ門駅・赤坂見附駅・有楽町線永田町駅・飯田橋駅経由)のみを利用したとみなされ、252円が引き落とされる。これは、IC乗車券では乗車経路に関係なく最安運賃を計算するシステムであるために発生する現象である。
なお、乗車券を券売機で購入する場合や定期券を利用する場合は、購入した経路で乗車する必要がある。同様の事例は北千住駅等でも発生しており、半蔵門線→(押上駅・東武伊勢崎線〈東武スカイツリーライン〉経由)→北千住駅→(日比谷線・千代田線経由)→東京メトロ各駅の経路でIC乗車券で乗車した場合でも適用される。
近年の1日平均乗降人員・乗換人員推移は下表の通りである。
近年の1日平均乗車人員推移は下表の通りである。
駅周辺は目黒区中央部の繁華街。駅及びその周辺地域は住所上は上目黒であるが、 駅周辺は「なかめ」の略称で親しまれている。駅から線路沿いに目黒銀座商店街が伸びていて、飲食店や感度の高いセレクトショップなどが立ち並ぶ。また、目黒川沿いに小規模ながら個性的な飲食店が増加している。目黒川沿いの桜並木は有名であり、桜のシーズンには多くの人が訪れる。2003年1月6日には駅近隣へ目黒区総合庁舎(目黒区役所・目黒区社会保険事務所)が中央町から移転したため、目黒区の中心駅(目黒駅は品川区に所在がある)として機能している。
高架下は2008年から耐震補強工事を行っていたが、2016年11月22日に商業施設「中目黒高架下」として開業した。2017年度グッドデザイン賞受賞。
最寄り停留所は「中目黒駅」である。全て東急バスによる運行である。 | [
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"text": "中目黒駅(なかめぐろえき)は、東京都目黒区上目黒三丁目にある、東急電鉄・東京地下鉄(東京メトロ)の駅である。目黒区の駅では最も東に位置する。目黒区の行政・商業・交通の中心的な駅として機能している。",
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"text": "東急東横線は上り(渋谷方面)が東京メトロ副都心線を介して東武東上線・西武池袋線に、下り(横浜方面)が横浜高速鉄道みなとみらい線・東急新横浜線・相鉄線にそれぞれ相互直通運転を実施しており、東京メトロ日比谷線は終着駅である北千住駅のさらに先、東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)を経由して日光線南栗橋駅まで相互直通運転を実施している。",
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"text": "東急電鉄の駅長所在駅であり、「中目黒駅管内」として、代官山駅 - 学芸大学駅間の各駅を管理している。なお、東京メトロの駅としては、霞ケ関駅務管区六本木地域の被管理駅である。",
"title": "概要"
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"text": "駅設置当時の所在地は荏原郡目黒村大字上目黒字諏訪山であり、目黒区となってからも上目黒三丁目であるが、駅名は開業当時より「中目黒」となっている。これは開業当時に駅南東側の山手通りと駒沢通りの交差点に玉川電気鉄道中目黒線(当時。1967年の廃止時点では都電8系統)の中目黒終点があり、その連絡駅として位置付けられたためである。",
"title": "歴史"
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"text": "島式ホーム2面4線を有する高架駅であり、ホームの代官山・恵比寿寄りは目黒川の真上にかかる。外側1・4番線を東横線が、内側2・3番線を日比谷線が使用している。駅管理は東急電鉄が行っており、駅名標等の案内サインも東急の仕様となっている。",
"title": "駅構造"
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"text": "改札口は山手通りに面した高架下に1箇所、祐天寺寄りに1箇所の計2箇所がある。開業当初から長らく、改札口は山手通りに面した1箇所であったが、中目黒駅改良工事(後述)の一環として祐天寺駅側に改札口が追加設置された。改札口が2箇所になったことにより、従来の改札口を「正面出口」、祐天寺駅側の改札口を「南出口」と呼ぶことになった。",
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"text": "トイレは1階の改札内コンコース部に設置されている。多目的トイレは以前は設置されていなかったが、後年に追加された。",
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"text": "当駅の日比谷線引き上げ線横(南側)には東京地下鉄の事務所(中目黒詰所)がある。建物は3階建て(一部4階建て)構造、この事務所から引き上げ線に出入りすることができる。東横線の高架橋の北側に出入口等がある。現在は日比谷線の車掌・運転士が所属する中目黒車掌事務室・中目黒運転事務室(他に南千住駅に千住車掌事務室・千住運転事務室)がある)、日比谷線電機区・日比谷線信通区分室・日比谷線工務区中目黒分室・千住検車区出張所が配置されている。",
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"text": "(出典:東京メトロ:構内図)",
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"text": "2013年3月16日以降、当駅よりPASMO・Suica等各種IC乗車券を利用して東急東横線に乗車し、渋谷駅で改札を通らず半蔵門線・副都心線経由で東京メトロ各駅へ乗り継いだ際は、当駅より日比谷線を経由し全線東京メトロを利用した運賃が引き落とされる。",
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"text": "例えば当駅よりIC乗車券で東横線・副都心線直通列車に乗車し東京メトロ池袋駅へ向かう場合、本来は東急東横線中目黒駅→渋谷駅の140円と東京メトロ副都心線渋谷駅→池袋駅の209円を合わせた349円が引き落とされるべきところだが、実際は当駅から東京メトロ線(日比谷線虎ノ門ヒルズ駅・銀座線虎ノ門駅・赤坂見附駅・有楽町線永田町駅・飯田橋駅経由)のみを利用したとみなされ、252円が引き落とされる。これは、IC乗車券では乗車経路に関係なく最安運賃を計算するシステムであるために発生する現象である。",
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"text": "なお、乗車券を券売機で購入する場合や定期券を利用する場合は、購入した経路で乗車する必要がある。同様の事例は北千住駅等でも発生しており、半蔵門線→(押上駅・東武伊勢崎線〈東武スカイツリーライン〉経由)→北千住駅→(日比谷線・千代田線経由)→東京メトロ各駅の経路でIC乗車券で乗車した場合でも適用される。",
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"text": "近年の1日平均乗降人員・乗換人員推移は下表の通りである。",
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"text": "近年の1日平均乗車人員推移は下表の通りである。",
"title": "利用状況"
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"text": "駅周辺は目黒区中央部の繁華街。駅及びその周辺地域は住所上は上目黒であるが、 駅周辺は「なかめ」の略称で親しまれている。駅から線路沿いに目黒銀座商店街が伸びていて、飲食店や感度の高いセレクトショップなどが立ち並ぶ。また、目黒川沿いに小規模ながら個性的な飲食店が増加している。目黒川沿いの桜並木は有名であり、桜のシーズンには多くの人が訪れる。2003年1月6日には駅近隣へ目黒区総合庁舎(目黒区役所・目黒区社会保険事務所)が中央町から移転したため、目黒区の中心駅(目黒駅は品川区に所在がある)として機能している。",
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{
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"text": "高架下は2008年から耐震補強工事を行っていたが、2016年11月22日に商業施設「中目黒高架下」として開業した。2017年度グッドデザイン賞受賞。",
"title": "駅周辺"
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{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "最寄り停留所は「中目黒駅」である。全て東急バスによる運行である。",
"title": "バス路線"
}
] | 中目黒駅(なかめぐろえき)は、東京都目黒区上目黒三丁目にある、東急電鉄・東京地下鉄(東京メトロ)の駅である。目黒区の駅では最も東に位置する。目黒区の行政・商業・交通の中心的な駅として機能している。 | {{駅情報
|社色 = #ee0011<!-- 東急電鉄管轄のため、この色を使用いたします。 -->
|文字色 =
|駅名 = 中目黒駅
|画像 = Nakameguro Station.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 山手通りから([[2010年]][[3月20日]])
|よみがな = なかめぐろ
|ローマ字 = Naka-meguro
|地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}}
|電報略号 = ナメ(東京メトロ)<br />(東急では電報略号は非採用)
|所属事業者 = [[東急電鉄]]<br />[[東京地下鉄]](東京メトロ)
|所在地 = [[東京都]][[目黒区]][[上目黒]]三丁目4-1
|座標 = {{coord|35|38|39.5|N|139|41|57|E|region:JP-13_type:railwaystation|display=inline,title}}
|開業年月日 = [[1927年]]([[昭和]]2年)[[8月28日]]
|駅構造 = [[高架駅]]
|ホーム = 2面4線
|乗車人員 =
|乗降人員 = {{Small|(東急電鉄)-2022年-}}<br /><ref group="東急" name="tokyu2022" />155,782<ref group="*">日比谷線との直通人員を含む値。</ref>人/日<hr /> {{Small|(東京メトロ)-2022年-}}<br /><ref group="メトロ" name="me2022" />178,079<ref group="*">東横線との直通人員を含む値。</ref>
|統計年度 = <!--リンク不要-->
|乗入路線数 = 2
|所属路線1 = {{color|#da0442|■}}[[東急東横線]]
|前の駅1 = TY02 [[代官山駅|代官山]]
|駅間A1 = 0.7
|駅間B1 = 1.0
|次の駅1 = [[祐天寺駅|祐天寺]] TY04
|駅番号1 = {{駅番号r|TY|03|#da0442|3}}
|キロ程1 = 2.2
|起点駅1 = [[渋谷駅|渋谷]]
|所属路線2 = {{color|#b5b5ac|●}}<ref name="tokyosubway">[https://www.tokyometro.jp/ 東京地下鉄] 公式サイトから抽出(2019年5月26日閲覧)</ref>[[東京メトロ日比谷線]]
|隣の駅2 =
|
|
|駅間B2 = 1.0
|次の駅2 = [[恵比寿駅|恵比寿]] H 02
|駅番号2 = {{駅番号r|H|01|#b5b5ac|4}}<ref name="tokyosubway"/>
|キロ程2 = 20.3
|起点駅2 = [[北千住駅|北千住]]
|備考 = [[共同使用駅]](東急電鉄の管轄駅)<ref name="RP912" />
|備考全幅 = {{Reflist|group="*"}}
}}
{|{{Railway line header}}
{{UKrail-header2|<br />中目黒駅<br />配線図|red}}
{{BS-table|配線}}
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↑<br />1・4番線 [[代官山駅]]<br />2・3番線 [[恵比寿駅]]
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↓[[祐天寺駅]]
|}
|}
{{Vertical images list
|幅 = 300px
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|1 = Nakameguro Station Gates.jpg
|2 = 正面改札(2010年3月20日)
|3 = Nakameguro Station Platform.jpg
|4 = ホーム(2010年3月20日)
|5 = Naka-Meguro Station Platform 2018.jpg
|6 = ホーム(2018年5月)
}}
'''中目黒駅'''(なかめぐろえき)は、[[東京都]][[目黒区]][[上目黒]]三丁目にある、[[東急電鉄]]・[[東京地下鉄]](東京メトロ)の[[鉄道駅|駅]]である。目黒区の駅では最も東に位置する。目黒区の行政・商業・交通の中心的な駅として機能している。
== 概要 ==
[[東急電鉄|東急]][[東急東横線|東横線]]と、[[東京地下鉄|東京メトロ]][[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]が乗り入れている。両社が駅施設を共用する[[共同使用駅]]で、東急が駅を管轄している。東横線の旅客営業列車は座席指定列車の[[S-TRAIN]]を除き全て停車し、日比谷線の[[終着駅]]でもある。[[2013年]][[3月15日]]までは両線で相互直通運転が実施されていた。
* 東急電鉄:[[File:Tokyu TY line symbol.svg|15px|TY]] 東横線 - 駅番号'''「TY 03」'''
* 東京メトロ:[[File:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|15px|H]] 日比谷線 - 駅番号'''「H 01」'''
東急東横線は上り(渋谷方面)が[[東京メトロ副都心線]]を経由して[[東武東上本線|東武東上線]]・[[西武池袋線]]に、下り(横浜方面)が[[横浜高速鉄道みなとみらい線|みなとみらい線]]・[[東急新横浜線]]・[[相模鉄道|相鉄線]]にそれぞれ[[直通運転|相互直通運転]]を実施しており、東京メトロ日比谷線は終着駅である[[北千住駅]]のさらに先、[[東武伊勢崎線]](東武スカイツリーライン)を経由して[[東武日光線|日光線]][[南栗橋駅]]まで[[直通運転|相互直通運転]]を実施している。
東急電鉄の[[駅長]]所在駅で「中目黒駅管内」として、[[代官山駅]] - [[学芸大学駅]]間の各駅を管理している<ref name="RP912">{{Cite journal|和書|author=佐藤悠歩(東京急行電鉄鉄道事業本部運転車両部保安課)、佐藤宏至(東京急行電鉄鉄道事業本部運輸営業部サービス課)|title=駅務、乗務区のあらまし|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2015-12-10|volume=65|issue=第12号(通巻第912号)|page=47|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。なお、東京メトロの駅としては、[[霞ケ関駅 (東京都)|霞ケ関]]駅務管区[[六本木駅|六本木]]地域の被管理駅<ref name="RP926_17">{{Cite journal|和書|author=関田崇(東京地下鉄経営企画本部経営管理部)|title=総説:東京メトロ|journal=鉄道ピクトリアル|date=2016-12-10|volume=66|issue=第12号(通巻第926号)|page=17|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref>。
== 歴史 ==
[[画像:Nakameguro Station, 1936.jpg|thumb|1936年5月頃に撮影された中目黒駅。駅左側に売店・郵便ポスト。右側に公衆電話ボックスがある(撮影:[[石川光陽]])]]
* [[1927年]]([[昭和]]2年)[[8月28日]]:開業。当初は相対式2面2線の[[高架駅]]であった<ref name="jtb">{{Cite book|和書 |author=宮田道一 |title=東急の駅 今昔・昭和の面影 |publisher=JTBパブリッシング |date=2008-09-01 |isbn=9784533071669 |pages=42-43}}</ref><ref name="tokyu996">[[#50th|50年史]]、pp.996-998。</ref>。
* [[1963年]](昭和38年)[[2月19日]]:[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]の乗り入れに伴う中目黒駅改良工事が着工<ref name="tokyu996"/>。
* [[1964年]](昭和39年)
** [[7月21日]]:中目黒駅改良工事が竣工。これによりホームは2面2線から2面4線に拡張され、[[横浜駅|横浜]]寄りに日比谷線の引き上げ線3線も完成する<ref name="tokyu996"/>。
** [[7月22日]]:[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)日比谷線が当駅まで乗り入れる<ref name="letter"/><ref name="tokyu996"/>。
*** 同年[[3月25日]]に日比谷線の[[霞ケ関駅 (東京都)|霞ケ関駅]] - [[恵比寿駅]]が開通した時点では[[東銀座駅]] - 霞ケ関駅間が未開通であり、また使用する車両は[[千住検車区]]から搬入できないため、当駅まで開通する前に軌道を仮設して車両を地下に搬入したことがある。
** [[8月29日]]:日比谷線の東銀座駅 - 霞ケ関駅間の開通により日比谷線は全線が開通<ref name="letter">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/newsletter/metroNews20200601_l78.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200709092642/https://www.tokyometro.jp/corporate/newsletter/metroNews20200601_l78.pdf|title=東京メトロニュースレター第78号 >「日比谷線の歩み」編|page=2|archivedate=2020-07-09|date=2020-06-02|accessdate=2020-07-09|publisher=東京地下鉄|format=PDF|language=日本語}}</ref>。同時に[[東急東横線|東横線]]の[[日吉駅 (神奈川県)|日吉駅]]まで相互直通運転を開始<ref name="jtb"/>。東横線の[[東急東横線#急行|急行]]停車駅に追加される。
* [[1967年]](昭和42年)[[9月28日]]:当駅の引き上げ線において、車止めに衝突する事故が発生する(詳細は[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#営団地下鉄日比谷線中目黒駅引上線車止め衝突事故|営団地下鉄日比谷線中目黒駅引上線車止め衝突事故]]を参照)。
* [[1988年]](昭和63年)[[8月9日]]:営団地下鉄日比谷線の直通区間が東横線の日吉駅から[[菊名駅]]まで延長される。
* [[1992年]]([[平成]]4年)[[6月16日]]:当駅の引き上げ線において、衝突事故が発生する。(詳細は[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#営団地下鉄日比谷線中目黒駅引上線衝突事故|営団地下鉄日比谷線中目黒駅引上線衝突事故]]を参照)
* [[2000年]](平成12年)[[3月8日]]:当駅構内にある急カーブ・急曲線の地点で、[[列車脱線事故]]・[[列車衝突事故]]が発生(詳細は[[営団日比谷線中目黒駅構内列車脱線衝突事故]]を参照)<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.go.jp/owabi.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20000510094718/http://www.tokyometro.go.jp/owabi.html|language=日本語|title=お詫び|publisher=営団地下鉄|date=2000-03-17|accessdate=2020-05-02|archivedate=2000-05-10}}</ref>。中目黒駅界隈の営団地下鉄絡みの事故は1965年(この事故の現場とほぼ同一箇所)、1967年、1992年(前述)(この2件は引上線で発生)にも発生しており、この事故で4度目(同じ箇所で2度ずつ発生)であった。
* [[2003年]](平成15年)[[3月19日]]:東横線の[[東急東横線#特急(東横特急)|特急]]及び新設された[[東急東横線#通勤特急|通勤特急]]の停車駅となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/030124.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180130204920/http://www.tokyu.co.jp/file/030124.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2003年3月19日(水)、東急線全線のダイヤを改正します。東横線の平日の朝・夕に通勤特急を新設するほか、特急停車駅に中目黒を追加します。|publisher=東京急行電鉄|date=2003-01-24|accessdate=2020-05-01|archivedate=2018-01-30}}</ref>。
* [[2004年]](平成16年)[[4月1日]]:帝都高速度交通営団(営団地下鉄)民営化に伴い、日比谷線の駅は東京地下鉄(東京メトロ)に継承される<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060708164650/https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|language=日本語|title=「営団地下鉄」から「東京メトロ」へ|publisher=営団地下鉄|date=2004-01-27|accessdate=2020-03-25|archivedate=2006-07-08}}</ref>。
* [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:[[ICカード]]「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-01|archivedate=2020-05-01}}</ref>。
* [[2012年]](平成24年)[[12月23日]]:南改札の使用を開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://ii.tokyu.co.jp/hubfs/hot/pdf/2013/201301.pdf?hsLang=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200502162841/https://ii.tokyu.co.jp/hubfs/hot/pdf/2013/201301.pdf?hsLang=ja|title= HOTほっとTOKYU No.394 2013年1月号 > 東横線 中目黒駅の改札口を増設します|archivedate=2017-02-02|date=2012-12-20|accessdate=2020-05-02|publisher=東京急行電鉄|format=PDF|language=日本語}}</ref>。従来の改札口は正面改札となる。
* [[2013年]](平成25年)
** [[3月15日]]:日比谷線と東横線の相互直通運転を終了<ref name="pr20130122">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyu.co.jp/contents_index/guide/pdf/130122.pdf|title=東京メトロ副都心線との相互直通運転開始に伴い3月16日(土)に東横線のダイヤを改正します|publisher=東京急行電鉄|date=2013-01-22|accessdate=2020-07-14|format=PDF|language=日本語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140220185913/http://www.tokyu.co.jp/contents_index/guide/pdf/130122.pdf|archivedate=2014-02-20}}</ref>。
** [[3月16日]]:[[東京メトロ副都心線|副都心線]]と東横線・[[横浜高速鉄道みなとみらい線|みなとみらい線]]の直通運転を開始<ref name="pr20130122"/>。
** [[12月23日]]:1番線で東横線([[渋谷駅]]を除く)では初となる[[ホームドア]]の稼働を開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://ii.tokyu.co.jp/hubfs/hot/pdf/2014/201401.pdf?hsLang=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200503054554/https://ii.tokyu.co.jp/hubfs/hot/pdf/2014/201401.pdf?hsLang=ja|title=HOTほっとTOKYU No.407 2014年1月号 > 東横線 中目黒駅1番線のホームドアを供用開始します|archivedate=2020-05-03|date=2013-12-20|accessdate=2020-05-03|publisher=東京急行電鉄|format=PDF|language=日本語}}</ref>。
* [[2014年]](平成26年)[[3月30日]]:4番線でのホームドアの稼働を開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://ii.tokyu.co.jp/hubfs/hot/pdf/2014/201405.pdf?hsLang=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200503055100/https://ii.tokyu.co.jp/hubfs/hot/pdf/2014/201405.pdf?hsLang=ja|title=HOTほっとTOKYU No.411 2014年5月号 > 東横線 ホームドアの供用を開始しました|archivedate=2020-05-03|date=2014-04-20|accessdate=2020-05-03|publisher=東京急行電鉄|format=PDF|language=日本語}}</ref>。
* [[2016年]](平成28年)[[11月22日]]:「中目黒高架下」が部分開業<ref name="koukashita">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/161101-1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190920060222/https://www.tokyu.co.jp/file/161101-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=〜2016年11月、中目黒の「高架下」エリアが生まれ変わります〜 時間と空間をシェアする“高架下の商店街” 鉄板焼や日本酒、スイーツの名店などが並ぶ「中目黒高架下」、開業日決定!|publisher=東京急行電鉄|date=2016-11-01|accessdate=2020-05-01|archivedate=2019-09-20}}</ref>。
* [[2017年]](平成29年)[[6月28日]]:「中目黒高架下」が全面開業<ref name="交通2017">{{Cite news |title=東京急行電鉄 「中目黒高架下」に2店舗開業で全面開業 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2017-07-07 }}</ref>。
=== 駅名の由来 ===
駅設置当時の所在地は[[荏原郡]]目黒村大字上目黒字諏訪山であり、目黒区となってからも上目黒三丁目であるが、駅名は開業当時より「中目黒」となっている。これは開業当時に駅南東側の山手通りと駒沢通りの交差点に[[東急玉川線|玉川電気鉄道]]中目黒線(当時。[[1967年]]の廃止時点では[[東京都電車|都電]]8系統)の中目黒終点があり、その連絡駅として位置付けられたためである。
== 駅構造 ==
[[島式ホーム]]2面4線を有する高架駅であり、ホームの代官山・恵比寿寄りは[[目黒川]]の真上にかかる。外側1・4番線を東横線が、内側2・3番線を日比谷線が使用している。駅管理は東急電鉄が行っており、[[駅名標]]等の案内サインも東急の仕様となっている。
[[改札|改札口]]は[[東京都道317号環状六号線|山手通り]]に面した高架下に1箇所、祐天寺寄りに1箇所の計2箇所がある<ref name="stamap">[http://www.tokyu.co.jp/railway/railway/train/shisetsu/shisetsu_nakameguro.html 中目黒駅 立体図・平面図] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20131215050446/http://www.tokyu.co.jp/railway/railway/train/shisetsu/shisetsu_nakameguro.html |date=2013年12月15日 }} - 東京急行電鉄</ref>。開業当初から長らく、改札口は山手通りに面した1箇所であったが、中目黒駅改良工事(後述)の一環として祐天寺駅側に改札口が追加設置された。改札口が2箇所になったことにより、従来の改札口を「正面出口」、祐天寺駅側の改札口を「南出口」と呼ぶことになった。
[[便所|トイレ]]は1階の改札内コンコース部に設置されている<ref name="stamap"/>。[[多機能トイレ|多目的トイレ]]は以前は設置されていなかったが、後年に追加された。
当駅の日比谷線引き上げ線横(南側)には東京地下鉄の事務所(中目黒詰所)がある<ref name="Hibiya-Const475">[[#Hibiya-Con|東京地下鉄道日比谷線建設史]]、pp.475 - 477。</ref>。建物は3階建て(一部4階建て)構造、この事務所から引き上げ線に出入りすることができる<ref name="Hibiya-Const475"/>。東横線の高架橋の北側に出入口等がある。現在は日比谷線の[[車掌]]・[[運転士]]が所属する中目黒車掌事務室・中目黒運転事務室(他に[[南千住駅]]に千住車掌事務室・千住運転事務室)がある)、日比谷線電機区・日比谷線信通区分室・日比谷線工務区中目黒分室・千住検車区出張所が配置されている<ref name="RP926_17" />。
=== のりば ===
{|class="wikitable"
!nowrap|番線!!事業者!!路線!!nowrap|方向!!行先
|-
! 1
|東急電鉄
|[[File:Tokyu TY line symbol.svg|15px|TY]] 東横線
|style="text-align:center"|下り
|[[横浜駅|横浜]]・[[元町・中華街駅|元町・中華街]]・[[新横浜駅|新横浜]]・[[二俣川駅|二俣川]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/timetable/pdf/202303_ty03_nakameguro2.pdf|title=東横線標準時刻表 中目黒駅 横浜 元町・中華街 新横浜方面|publisher=東急電鉄|accessdate=2023-03-18|}}</ref>
|-
!2
|rowspan=2|東京メトロ
|rowspan=2|[[File:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|15px|H]] 日比谷線
| rowspan="2" style="text-align:center" | -
|降車専用
|-
! 3
|[[北千住駅|北千住]]・[[南栗橋駅|南栗橋]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/naka-meguro/timetable/hibiya/b/index.html |title=中目黒駅時刻表 北千住・南栗橋方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-02}}</ref>
|-
! 4
|東急電鉄
|[[File:Tokyu TY line symbol.svg|15px|TY]] 東横線
|style="text-align:center"|上り
|[[渋谷駅|渋谷]]・[[池袋駅|池袋]]・[[川越市駅|川越市]]・[[所沢駅|所沢]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/timetable/pdf/202303_ty03_nakameguro.pdf|title=東横線標準時刻表 中目黒駅 渋谷方面|publisher=東急電鉄|accessdate=2023-03-18|}}</ref>
|}
(出典:[https://www.tokyometro.jp/station/naka-meguro/index.html 東京メトロ:構内図])
*日比谷線と東横線の直通運転が廃止された現在も、日比谷線と東横線との渡り線は残されており、[[東京メトロ13000系電車|13000系]]が[[鷺沼車両基地#鷺沼工場|鷺沼工場]]に[[日本の鉄道車両検査|検査]]入場する際に使用されている。ここに通じる線路が引き上げ線が3本存在する。なお、折り返し用の渡り線が引き上げ線側にあるため、ホームで直接北千住方面に折り返すことは不可能であり、中目黒駅に到着した列車は全て回送電車として引き上げ線へ入線して折り返しを行う
* 2番線は2013年3月15日まで日比谷線から東横線への直通列車が発着していたが、現在は日比谷線の降車専用ホームとなっている。なお、2番線の自動放送は東急方式の放送が流れる<ref group="注釈">地下鉄方式でなく直通運転先の会社(駅を管轄する会社)方式の放送が流れるのは、[[北千住駅]](5番線のみ)・[[中野駅 (東京都)|中野駅]](JR[[中央・総武緩行線|中央緩行線]]から[[東京メトロ東西線|東西線]]への直通)・[[代々木上原駅]]・[[和光市駅]]・[[目黒駅]](地下ホーム)や[[押上駅]]([[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]])等でも同様。</ref>。
* 3番線は日比谷線の乗車専用ホームである。自動放送・[[発車標]]および[[ホームドア]]は東京メトロ仕様であり、発車合図も東京メトロ仕様のブザー(営団時代から使用されているため、通称・営団ブザー)が使用されている。なお、改札前にある3番線の発車標は、装置の外装は東急仕様のものになっているが表示内容は東京メトロ仕様のものである。2017年3月24日に新型の発車標が導入された。
* 東横線祐天寺方面から進入する列車を分ける[[分岐器]]は、長らく3番線側が直線、4番線側が左分岐の構造であった。本数としてはるかに多い渋谷方面行列車は減速を行っており、通過の際の揺れもあった。その後分岐器が改良され、減速するのは日比谷線直通列車の方になった。
* 2013年3月16日、東横線と副都心線の直通運転の開始により副都心線を介して直通運転する[[東武東上本線|東武東上線]]系統の列車([[東武9000系電車|9000系(9000型・9050型)]]・[[東武50000系電車#50070型|50000系50070型]])と日比谷線に直通運転する[[東武本線]]系統([[東武伊勢崎線|伊勢崎線]]・[[東武日光線|日光線]])の列車([[東武70000系電車|70000系(70000型・70090型)]])が並ぶ光景が見られるようになった。
* 有料座席指定列車「[[S-TRAIN]]」は当駅に運転停車するが、客扱いは行わない。
=== 中目黒駅改良工事 ===
[[画像:Nakameguro Station Platform, east side stretched area.jpg|thumb|240px|東横線ホームの10両化延長工事が行われた。(2013年5月6日)]]
2013年(平成25年)3月16日から開始された東横線と副都心線との相互直通運転開始に向け、以下の改良工事が実施された<ref>{{Cite web|和書|title=中目黒駅改良工事|url=http://www.tokyu.co.jp/railway/railway/east/pr/sby_ykhm_nkmgr.html|publisher=東京急行電鉄|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120726183923/http://www.tokyu.co.jp/railway/railway/east/pr/sby_ykhm_nkmgr.html|archivedate=2012-07-26|accessdate=2016-12-19}}</ref>。
* 10両編成の列車を停車可能にするために、ホーム延長・拡幅工事、ならびに高架橋耐震補強工事が実施された。
* [[エスカレーター]]が新設される(渋谷方面ホームは[[2012年]][[9月12日]]より使用開始)。
* 駅コンコース内の[[祐天寺駅]]寄りに改札口「南改札」が設置される([[2012年]][[12月23日]]より使用開始)。これに伴い、従来の改札口は「正面改札」となる。
** なお、地元住民の間では、現行の改札口と向かい側([[東京都道317号環状六号線|山手通り]]の横断歩道を渡った[[代官山駅]]寄り)にも改札口を設置するよう要望しているが、これに対し東急では『新たな改札口の設置には用地買収を伴う大工事が必要となるため現時点では難しい』としている。
* 駅改良工事に伴い、2011年1月に東横線下りホームのエレベーター付近へトイレが移設された。
== 当駅より東京メトロ線内への運賃の取り扱い ==
2013年3月16日以降、当駅よりPASMO・Suica等各種IC乗車券を利用して東急東横線に乗車し、渋谷駅で改札を通らず半蔵門線・副都心線経由で東京メトロ各駅へ乗り継いだ際は、当駅より日比谷線を経由し全線東京メトロを利用した運賃が引き落とされる。
例えば当駅よりIC乗車券で東横線・副都心線直通列車に乗車し東京メトロ池袋駅へ向かう場合、本来は東急東横線中目黒駅→渋谷駅の140円と東京メトロ副都心線渋谷駅→池袋駅の209円を合わせた349円が引き落とされるべきところだが、実際は当駅から東京メトロ線(日比谷線虎ノ門ヒルズ駅・銀座線虎ノ門駅・赤坂見附駅・有楽町線永田町駅・飯田橋駅経由)のみを利用したとみなされ、252円が引き落とされる。これは、IC乗車券では乗車経路に関係なく最安運賃を計算するシステムであるために発生する現象である。
なお、乗車券を券売機で購入する場合や定期券を利用する場合は、購入した経路で乗車する必要がある。同様の事例は[[北千住駅]]等でも発生しており、半蔵門線→([[押上駅]]・[[東武伊勢崎線]]〈東武スカイツリーライン〉経由)→北千住駅→(日比谷線・[[東京メトロ千代田線|千代田線]]経由)→東京メトロ各駅の経路でIC乗車券で乗車した場合でも適用される。
== 利用状況 ==
* '''東急電鉄''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''155,782人'''である<ref group="東急" name="tokyu2022" />。
*: 日比谷線との直通人員を含む。2020年度以降は[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症の流行]]の影響により、乗降人員が大きく減少している。
* '''東京メトロ''' - 2022年度の1日平均'''乗降'''人員は'''178,079人'''である<ref group="メトロ" name="me2022" />。
*: 東横線との直通人員を含む。東急電鉄との共用駅のため、駅利用者数の順位掲載から除外されている。
=== 年度別1日平均乗降・乗換人員 ===
近年の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗降'''人員]]・乗換人員推移は下表の通りである。
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right"
|+年度別1日平均乗降人員<ref group="乗降データ">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref><ref group="乗降データ">[http://www.city.meguro.tokyo.jp/gyosei/koho/hakkobutsu/kuseiyoran.html 区勢要覧] - 目黒区</ref>
!rowspan=2|年度
!colspan=2|東京急行電鉄<br />/ 東急電鉄
!rowspan="2"|東横線<br />日比谷線<br />乗換人員
!colspan=2|営団 / 東京メトロ
|-
!1日平均<br />乗降人員!!増加率
!1日平均<br />乗降人員!!増加率
|-
|2000年(平成12年)
| ||
|
|158,437||
|-
|2001年(平成13年)
| ||
|
|157,545||−0.6%
|-
|2002年(平成14年)
|<ref name="RJ749_28">{{Cite journal|和書|author=村上潤(東京急行電鉄鉄道事業本部運転車両部運転課)|title=輸送と運転 近年の動向|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2004-07-10|volume=54|issue=第7号(通巻749号)|page=28|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>159,305||
|108,230
|<ref name="RJ759_31" />157,165||−0.2%
|-
|2003年(平成15年)
|<ref name="RJ749_28" />164,704||3.4%
|111,119
|<ref name="RJ759_31">{{Cite journal|和書|author=瀬ノ上清二(東京地下鉄鉄道本部運輸営業部運転課)|title=輸送と運転 近年の動向|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2005-03-10|volume=55|issue=第3号(通巻759号)|page=31|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>161,104||2.5%
|-
|2004年(平成16年)
|165,983||0.8%
|113,657
|159,995||−0.7%
|-
|2005年(平成17年)
|168,287||1.4%
|115,257
|162,301||1.4%
|-
|2006年(平成18年)
|172,644||2.6%
|118,714
|169,129||4.2%
|-
|2007年(平成19年)
|185,998||7.7%
|128,251
|190,475||12.6%
|-
|2008年(平成20年)
|189,575||1.9%
|130,884
|191,566||0.6%
|-
|2009年(平成21年)
|190,035||0.2%
|130,200
|190,826||−0.4%
|-
|2010年(平成22年)
|186,439||−1.9%
|126,733
|185,535||−2.8%
|-
|2011年(平成23年)
|182,860||−1.9%
|123,785
|180,954||−2.4%
|-
|2012年(平成24年)
|190,774||4.2%
|128,303
|188,879||4.4%
|-
|2013年(平成25年)
|185,929||−2.5%
|130,883
|209,158||10.7%
|-
|2014年(平成26年)
|187,998||1.1%
|130,955
|215,568||3.1%
|-
|2015年(平成27年)
|191,065||1.6%
|133,847
|221,142||2.6%
|-
|2016年(平成28年)
|193,943||1.5%
|134,378
|224,957||1.7%
|-
|2017年(平成29年)
|196,964||1.6%
|134,920
|229,306||1.9%
|-
|2018年(平成30年)
|196,807||−0.1%
|135,830
|230,956||0.7%
|-
|2019年(令和元年)
|<ref group="東急" name="tokyu2019">{{Cite web|和書|author=東急電鉄株式会社|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/data/passengers/2019.html |title=2019年度乗降人員 |東急電鉄|type= |page= |date= |accessdate=2023-06-17}}</ref>196,777||0.0%
|134,270
|230,353||−0.3%
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="東急" name="tokyu2020">{{Cite web|和書|author=東急電鉄株式会社|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/data/passengers/2020.html |title=2020年度乗降人員 |東急電鉄|type= |page= |date= |accessdate=2023-06-17}}</ref>131,668||−33.1%
|88,733
|<ref group="メトロ" name="me2020">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2020.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2020年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>149,844||−35.0%
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="東急" name="tokyu2021">{{Cite web|和書|author=東急電鉄株式会社|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/data/passengers/2021.html |title=2021年度乗降人員 |東急電鉄|type= |page= |date= |accessdate=2023-06-17}}</ref>140,240||6.5%
|
|<ref group="メトロ" name="me2021">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2021.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2021年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>156,388||4.4%
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="東急" name="tokyu2022">{{Cite web|和書|author=東急電鉄株式会社|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/data/passengers/ |title=2022年度乗降人員 |東急電鉄|type= |page= |date= |accessdate=2023-06-17}}</ref>155,782||11.1%
|
|<ref group="メトロ" name="me2022">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/index.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>178,079||13.9%
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(1920年代 - 1930年代) ===
近年の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]推移は下表の通りである。
{|class="wikitable" style="text-align:right"
|+年度別1日平均乗車人員
!年度!!東京横浜電鉄!!出典
|-
|1927年(昭和{{0}}2年)
|<ref group="備考">1927年8月28日開業。</ref>1,703
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448164/317?viewMode= 昭和2年]</ref>
|-
|1928年(昭和{{0}}3年)
|1,937
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448188/349?viewMode= 昭和3年]</ref>
|-
|1929年(昭和{{0}}4年)
|2,467
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448218/334?viewMode= 昭和4年]</ref>
|-
|1930年(昭和{{0}}5年)
|2,719
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448245/342?viewMode= 昭和5年]</ref>
|-
|1931年(昭和{{0}}6年)
|2,898
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448278/345?viewMode= 昭和6年]</ref>
|-
|1932年(昭和{{0}}7年)
|2,966
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448259/316?viewMode= 昭和7年]</ref>
|-
|1933年(昭和{{0}}8年)
|3,156
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446322/336?viewMode= 昭和8年]</ref>
|-
|1934年(昭和{{0}}9年)
|3,413
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446161/344?viewMode= 昭和9年]</ref>
|-
|1935年(昭和10年)
|3,493
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446276/339?viewMode= 昭和10年]</ref>
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(1956年 - 2000年) ===
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right"
|+年度別1日平均乗車人員
!年度!!東京急行電鉄!!営団!!出典
|-
|1956年(昭和31年)
|11,639
|rowspan="8" style="text-align:center"|未開業
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1956/tn56qa0009.pdf 昭和31年]}} - 16ページ</ref>
|-
|1957年(昭和32年)
|12,778
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1957/tn57qa0009.pdf 昭和32年]}} - 16ページ</ref>
|-
|1958年(昭和33年)
|13,397
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1958/tn58qa0009.pdf 昭和33年]}} - 16ページ</ref>
|-
|1959年(昭和34年)
|14,258
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1959/tn59qyti0510u.htm 昭和34年]</ref>
|-
|1960年(昭和35年)
|14,806
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1960/tn60qyti0510u.htm 昭和35年]</ref>
|-
|1961年(昭和36年)
|15,330
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1961/tn61qyti0510u.htm 昭和36年]</ref>
|-
|1962年(昭和37年)
|15,525
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1962/tn62qyti0510u.htm 昭和37年]</ref>
|-
|1963年(昭和38年)
|15,698
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1963/tn63qyti0510u.htm 昭和38年]</ref>
|-
|1964年(昭和39年)
|20,402
|<ref group="備考">1964年7月22日開業。</ref>35,800
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1964/tn64qyti0510u.htm 昭和39年]</ref>
|-
|1965年(昭和40年)
|61,564
|56,566
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1965/tn65qyti0510u.htm 昭和40年]</ref>
|-
|1966年(昭和41年)
|66,864
|62,133
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1966/tn66qyti0510u.htm 昭和41年]</ref>
|-
|1967年(昭和42年)
|72,432
|68,002
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1967/tn67qyti0510u.htm 昭和42年]</ref>
|-
|1968年(昭和43年)
|77,250
|72,951
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1968/tn68qyti0510u.htm 昭和43年]</ref>
|-
|1969年(昭和44年)
|79,427
|77,107
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1969/tn69qyti0510u.htm 昭和44年]</ref>
|-
|1970年(昭和45年)
|79,353
|79,899
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1970/tn70qyti0510u.htm 昭和45年]</ref>
|-
|1971年(昭和46年)
|80,027
|83,489
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1971/tn71qyti0510u.htm 昭和46年]</ref>
|-
|1972年(昭和47年)
|83,200
|86,786
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1972/tn72qyti0510u.htm 昭和47年]</ref>
|-
|1973年(昭和48年)
|86,540
|86,660
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1973/tn73qyti0510u.htm 昭和48年]</ref>
|-
|1974年(昭和49年)
|88,005
|88,529
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1974/tn74qyti0510u.htm 昭和49年]</ref>
|-
|1975年(昭和50年)
|86,806
|88,896
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1975/tn75qyti0510u.htm 昭和50年]</ref>
|-
|1976年(昭和51年)
|85,455
|88,912
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1976/tn76qyti0510u.htm 昭和51年]</ref>
|-
|1977年(昭和52年)
|84,784
|87,312
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1977/tn77qyti0510u.htm 昭和52年]</ref>
|-
|1978年(昭和53年)
|80,192
|80,710
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1978/tn78qyti0510u.htm 昭和53年]</ref>
|-
|1979年(昭和54年)
|76,514
|77,202
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1979/tn79qyti0510u.htm 昭和54年]</ref>
|-
|1980年(昭和55年)
|74,132
|76,008
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1980/tn80qyti0510u.htm 昭和55年]</ref>
|-
|1981年(昭和56年)
|75,548
|77,729
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1981/tn81qyti0510u.htm 昭和56年]</ref>
|-
|1982年(昭和57年)
|77,184
|79,170
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1982/tn82qyti0510u.htm 昭和57年]</ref>
|-
|1983年(昭和58年)
|78,628
|80,473
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1983/tn83qyti0510u.htm 昭和58年]</ref>
|-
|1984年(昭和59年)
|81,044
|81,556
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1984/tn84qyti0510u.htm 昭和59年]</ref>
|-
|1985年(昭和60年)
|82,775
|83,307
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1985/tn85qyti0510u.htm 昭和60年]</ref>
|-
|1986年(昭和61年)
|85,600
|85,332
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1986/tn86qyti0510u.htm 昭和61年]</ref>
|-
|1987年(昭和62年)
|86,716
|86,590
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1987/tn87qyti0510u.htm 昭和62年]</ref>
|-
|1988年(昭和63年)
|88,047
|87,874
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1988/tn88qyti0510u.htm 昭和63年]</ref>
|-
|1989年(平成元年)
|87,025
|87,337
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm 平成元年]</ref>
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|87,403
|87,027
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 平成2年]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|84,355
|86,049
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 平成3年]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|85,759
|84,732
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 平成4年]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|84,296
|84,329
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 平成5年]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|84,726
|84,096
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 平成6年]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|85,008
|83,514
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 平成7年]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|83,786
|82,718
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 平成8年]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|81,707
|81,973
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 平成9年]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|80,036
|82,970
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 平成10年]}}</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|78,557
|81,287
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 平成11年]}}</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|79,323
|79,844
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 平成12年]</ref>
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) ===
{|class="wikitable" style="text-align:right"
|+年度別1日平均乗車人員
!年度!!東京急行電鉄<br />/ 東急電鉄!!営団 / <br />東京メトロ!!出典
|-
|2001年(平成13年)
|79,872
|78,984
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 平成13年]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|80,153
|78,975
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 平成14年]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|83,451
|81,404
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 平成15年]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|84,600
|81,060
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 平成16年]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|85,568
|83,178
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 平成17年]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|87,770
|86,414
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 平成18年]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|92,615
|96,626
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 平成19年]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|94,578
|97,504
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 平成20年]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|94,778
|96,816
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 平成21年]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|92,967
|94,386
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 平成22年]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|91,120
|92,049
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 平成23年]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|94,756
|95,729
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 平成24年]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|92,978
|103,926
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 平成25年]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|94,068
|106,775
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 平成26年]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|95,778
|109,920
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 平成27年]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|97,101
|111,279
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 平成28年]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|98,674
|113,249
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 平成29年]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|98,666
|114,044
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 平成30年]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|98,749
|113,781
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 平成31年・令和元年]</ref>
|}
;備考
{{Reflist|group="備考"}}
== 駅周辺 ==
[[画像:nakameguro200505.jpg|thumb|250px|駒沢通り(手前)、山手通り、中目黒駅(遠方)(2005年5月)]]
{{See also|上目黒|中目黒}}
駅周辺は目黒区中央部の[[繁華街]]。駅及びその周辺地域は住所上は[[上目黒]]であるが、 駅周辺は'''「なかめ」'''の略称で親しまれている。駅から線路沿いに目黒銀座[[商店街]]が伸びていて、飲食店や感度の高いセレクトショップなどが立ち並ぶ。また、[[目黒川]]沿いに小規模ながら個性的な飲食店が増加している。目黒川沿いの[[サクラ|桜]]並木は有名であり、桜のシーズンには多くの人が訪れる。[[2003年]][[1月6日]]には駅近隣へ目黒区総合庁舎([[目黒区役所]]・目黒区社会保険事務所)が[[中央町 (目黒区)|中央町]]から移転したため、目黒区の中心駅([[目黒駅]]は[[品川区]]に所在がある)として機能している。
高架下は[[2008年]]から耐震補強工事を行っていたが、[[2016年]][[11月22日]]に商業施設「中目黒高架下」として開業した<ref name="koukashita"/>。2017年度[[グッドデザイン賞]]受賞。
* 目黒区総合庁舎
** [[目黒区役所]]
** 目黒区社会保険事務所
* [[知的財産高等裁判所・東京地方裁判所中目黒庁舎]]
** [[知的財産高等裁判所]]
** [[東京地方裁判所]] 知的財産権部・商事部・倒産部
* [[目黒警察署|警視庁目黒警察署]]
* [[目黒区立中目黒小学校]]
* [[目黒学院中学校・高等学校]]
* [[東京着物染色美術専門学校]]
* [[めぐろ歴史資料館]]
* [[東京共済病院]]
* [[正覚寺 (目黒区)|正覚寺]]
* [[みずほ銀行]] 中目黒センター
* [[りそな銀行]]中目黒支店
* 中目黒駅前郵便局
* [[中目黒ゲートタウン]]
* [[ナカメアルカス]]
** 中目黒アリーナ
** [[中目黒アトラスタワー]]
* [[東急ストア]]本社
* [http://www.nakamegurokoukashita.jp/ 中目黒高架下]
* 目黒銀座商店街
* [[ドン・キホーテ中目黒本店]]
* [[キンケロ・シアター]]
* [[目黒川]]
* [[東京都道317号環状六号線|山手通り]]
* [[東京都道416号古川橋二子玉川線|駒沢通り]]
== バス路線 ==
最寄り停留所は「'''中目黒駅'''」である。全て[[東急バス]]による運行である。
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!乗り場!!運行事業者!!系統・行先!!備考
|-
!1
|rowspan="4"style="text-align:center;"|東急バス
|[[東急バス目黒営業所#品川線|'''渋41''']]・[[東急バス目黒営業所#品川線|'''渋42''']]・[[東急バス目黒営業所#品川線|'''渋43''']]:[[渋谷駅]]
|
|-
!2
|[[東急バス下馬営業所#野沢線|'''黒09''']]:[[東急バス下馬営業所|下馬営業所]]・【循環】野沢龍雲寺
|
|-
!3
|'''渋41''':大鳥神社前・[[大井町駅]]・[[新馬場駅|新馬場駅前]]・[[東急バス目黒営業所|清水]]<br />'''渋42''':[[大崎駅|大崎駅西口]]<br />'''渋43''':[[高輪ゲートウェイ駅]]・[[品川駅]]
|
|-
!4
|'''黒09''':[[目黒駅|目黒駅前]]
|
|}
== 隣の駅 ==
; 東急電鉄
: [[File:Tokyu TY line symbol.svg|15px|TY]] 東横線
:: {{Color|#f7931d|■}}特急・{{Color|#f7931d|□}}通勤特急
::: [[渋谷駅]] (TY01) - '''中目黒駅 (TY03)''' - [[自由が丘駅]] (TY07)
:: {{Color|#ef3123|■}}急行
::: 渋谷駅 (TY01) - '''中目黒駅 (TY03)''' - [[学芸大学駅]] (TY05)
:: {{Color|#1359a9|■}}各駅停車
::: [[代官山駅]] (TY02) - '''中目黒駅 (TY03)''' - [[祐天寺駅]] (TY04)
; 東京地下鉄(東京メトロ)
: [[File:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|15px|H]] 日比谷線
:::'''中目黒駅 (H 01)''' - [[恵比寿駅]] (H 02)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 記事本文 ===
==== 注釈 ====
{{Reflist|group="注釈"}}
==== 出典 ====
{{Reflist|2}}
=== 利用状況 ===
; 私鉄・地下鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="利用客数"}}
; 東急電鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="東急"|22em}}
; 東京地下鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="メトロ"|22em}}
; 私鉄・地下鉄の統計データ
{{Reflist|group="乗降データ"}}
; 東京府統計書
{{Reflist|group="東京府統計"|24em}}
; 東京都統計年鑑
{{Reflist|group="東京都統計"|16em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_hibiya.html/|date=1969-01-31|title=東京地下鉄道日比谷線建設史|publisher=帝都高速度交通営団|ref=Hibiya-Con}}
* {{Cite book|和書|title=東京急行電鉄50年史|publisher=東京急行電鉄|date=1973-04-18|ref=50th}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Naka-Meguro Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/東急電鉄駅|filename=3|name=中目黒}}
* [https://www.tokyometro.jp/station/naka-meguro/index.html 中目黒駅/H01 | 路線・駅の情報 | 東京メトロ]
{{東急東横線}}
{{東京メトロ日比谷線}}
{{DEFAULTSORT:なかめくろ}}
[[Category:目黒区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 な|かめくろ]]
[[Category:東急電鉄の鉄道駅]]
[[Category:東京地下鉄の鉄道駅]]
[[Category:1927年開業の鉄道駅]] | 2003-05-19T12:16:15Z | 2023-12-11T11:18:43Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E7%9B%AE%E9%BB%92%E9%A7%85 |
8,653 | 卒業論文 | 卒業論文(そつぎょうろんぶん)は、大学(短期大学を含む)および高等専門学校に所属する主に最終学年の学生が、その最終学年の1年間を通して行う「卒業研究の成果として提出する論文」のことである(期間や、方法が異なる場合もある)。一部の高等学校や中学校にも課しているところがある。略称は、卒論(そつろん)。
その形式や書式等は、各大学・学部・学科(場合によっては所属している研究室)や、専攻する分野によって異なるが、概ねIMRAD型といわれるスタイルをとるものと考えてよい。
文系学部などでは、ゼミナール論文を卒業論文と同様に扱うこともある。医学部では卒業論文ではなく「卒業試験」が行われる。理学部や工学部、農学部などでは、研究成果をOHPやコンピュータを使って発表する口頭試問(学会におけるプレゼンテーションを模したもの)の形をとることもある。芸術学部・美術学部・音楽学部・建築学科などの場合は、卒業制作、卒業展示(卒展)、卒業演奏会(卒演)など卒業研究の成果発表として行われる。語学系の大学・学部などでは卒業翻訳がある場合もある。法学部では卒業論文を課さない大学も多い。
理系学部の多くが、4年次に「卒業研究」という科目を履修して、卒業論文としてまとめて提出することが必修とされているのに対し、文系学部では卒業論文の提出が卒業要件ではない場合も多い(各大学の方針によって異なり、文系でも卒論必修の場合があるし、理系でも選択科目の場合もある)。提出された論文は叢書にまとめられ、公開されることもある。
卒論では、一部例外を除いて、基本的に、研究するテーマを学生が自分で考えて決める(例えば「広告」を対象にする卒業論文についてのまとめがある)ほか、卒論の提出時には、「最低でもこれだけの文章量は書くこと」というノルマが、規定として大学から指示される。構想の制定、資料やアンケートの収集、分析作業などに忙殺され、最終学年の学生は1年をかけて卒論を完成させることが一般的である。
卒業論文の作成にあたっては他人の著作権に触れることのないよう細心の注意が求められる。孫引きや無断転用などは剽窃にあたる可能性があり、大学当局から不正と認定されてしまう危険性があるので注意が必要である。
また過去の誰かの、そして多くの先行研究と、自身の研究内容が重複して無価値な卒業論文を書かないようにするためや、過去にいかなる研究が行われ、いかなる論証・プロセスを経て現在の学説や理論が構築されてきたかを理解するため、先行研究(論文)を次々に読み、時系列的に整理していく「研究史の整理」が必要となる。これは過去の研究成果を踏まえて新規性のある研究テーマを見出だし、また自身の研究を、今ある研究体系の中に位置付けしていく上で極めて重大な意味をもつ。
なお、卒業論文の提出時期はさまざまであり、毎年12月から3月に定められていることが多い。
卒業論文はかつて原稿用紙に手書きで書かれていた。その後、ワープロやパソコンを利用するようになり、現在はパソコン(さらに近年ではスマートフォンやタブレットを使うこともある)で書かれるものが多い。このため近年、大学ではコピペ等の不正行為がないかなどのチェックなどを厳しく行っている。
前述のようにワープロやパソコンを利用して卒論を作成することが多くなったため、卒業論文を専門の業者に代行させることが容易になり、教育現場の課題となっている。詳しくは、卒業論文代行問題を参照のこと。 | [
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] | 卒業論文(そつぎょうろんぶん)は、大学(短期大学を含む)および高等専門学校に所属する主に最終学年の学生が、その最終学年の1年間を通して行う「卒業研究の成果として提出する論文」のことである(期間や、方法が異なる場合もある)。一部の高等学校や中学校にも課しているところがある。略称は、卒論(そつろん)。 | {{複数の問題
|出典の明記 = 2021-11
|独自研究 = 2021-11}}
'''卒業論文'''(そつぎょうろんぶん)は、[[大学]]([[短期大学]]を含む)および[[高等専門学校]]に所属する主に最終学年の[[学生]]が、その最終学年の1年間を通して行う「'''卒業研究の成果として提出する[[論文]]'''」のことである(期間や、方法が異なる場合もある)。一部の[[高等学校]]や[[中学校]]にも課しているところがある。略称は、'''卒論'''(そつろん)。
== 概要 ==
=== 形式・書式 ===
その形式や書式等は、各大学・[[学部]]・[[学科 (学校)|学科]](場合によっては所属している[[研究室]])や、[[専攻]]する分野によって異なるが、概ね[[IMRAD]]型といわれるスタイルをとるものと考えてよい。
=== 学部による卒業論文 ===
[[文系と理系|文系]]学部などでは、[[ゼミナール]]論文を卒業論文と同様に扱うこともある。[[医学部]]では卒業論文ではなく「卒業試験」が行われる。[[理学部]]や[[工学部]]、[[農学部]]などでは、研究成果を[[オーバーヘッドプロジェクタ|OHP]]や[[コンピュータ]]を使って発表する口頭試問(学会における[[プレゼンテーション]]を模したもの)の形をとることもある。[[芸術学部]]・[[美術学部]]・[[音楽学部]]・[[建築学科]]などの場合は、[[卒業制作]]、卒業展示(卒展)、卒業演奏会(卒演)など卒業研究の成果発表として行われる。[[語学]]系の大学・学部などでは卒業翻訳がある場合もある。[[法学部]]では卒業論文を課さない大学も多い。
[[文系と理系|理系]]学部の多くが、4年次に「卒業研究」という科目を履修して、卒業論文としてまとめて提出することが必修とされているのに対し、[[文系と理系|文系]]学部では卒業論文の提出が卒業要件ではない場合も多い(各大学の方針によって異なり、文系でも卒論必修の場合があるし、理系でも選択科目の場合もある)。提出された論文は[[叢書]]にまとめられ、公開されることもある。
卒論では、一部例外を除いて、基本的に、研究するテーマを学生が自分で考えて決める(例えば「広告」を対象にする卒業論文についてのまとめがある<ref>{{Cite journal|和書|author=水野由多加 |title=大学生はどのような「広告研究」を行っているのか : 事例から見る「求められる研究」への発想転換 |date=2015 |publisher=日経広告研究所 |journal=日経広告研究所報|volume= 49 (3)|CRID=1570291611742510848|pages=18-25|ref=harv}}</ref>)ほか、卒論の提出時には、「最低でもこれだけの文章量は書くこと」というノルマが、規定として大学から指示される<ref>「卒論応援団2013」クラブハウス刊/p180, p69より</ref>。構想の制定、資料やアンケートの収集、分析作業などに忙殺され、最終学年の学生は1年をかけて卒論を完成させることが一般的である。
卒業論文の作成にあたっては他人の[[著作権]]に触れることのないよう細心の注意が求められる。孫引きや無断転用などは[[剽窃]]にあたる可能性があり、大学当局から不正と認定されてしまう危険性があるので注意が必要である。
また過去の誰かの、そして多くの[[先行研究]]と、自身の研究内容が重複して無価値な卒業論文を書かないようにするためや、過去にいかなる研究が行われ、いかなる論証・プロセスを経て現在の学説や理論が構築されてきたかを理解するため、先行研究(論文)を次々に読み、時系列的に整理していく「[[研究史]]の整理」が必要となる。これは過去の研究成果を踏まえて新規性のある研究テーマを見出だし、また自身の研究を、今ある研究体系の中に位置付けしていく上で極めて重大な意味をもつ{{Sfn|Howard|2012|pp=199-220}}{{Sfn|村上|2019|pp=31-79}}{{Sfn|村上|2019|pp=167-182}}。
なお、卒業論文の提出時期はさまざまであり、毎年12月から3月に定められていることが多い。
=== 近年の卒業論文 ===
卒業論文はかつて[[原稿用紙]]に手書きで書かれていた。その後、[[ワードプロセッサ|ワープロ]]や[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]を利用するようになり、現在はパソコン(さらに近年では[[スマートフォン]]や[[タブレット (コンピュータ)|タブレット]]を使うこともある)で書かれるものが多い。このため近年、大学では[[コピー・アンド・ペースト|コピペ]]等の不正行為がないかなどのチェックなどを厳しく行っている。
=== 卒業論文代行問題 ===
前述のようにワープロやパソコンを利用して卒論を作成することが多くなったため、卒業論文を専門の業者に代行させることが容易になり、教育現場の課題となっている。詳しくは、[[卒業論文代行問題]]を参照のこと。
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
==参考文献==
*{{Cite book|和書|last=Becker|first=Howard|authorlink=:en:Howard S. Becker|title=ベッカー先生の論文教室(小川芳範・訳)|chapter=文献に怯える|publisher=[[慶應義塾大学出版会]]|year=2012|date=2012-04-30|pages=199-220|isbn=9784766419375|ncid=BB08994076|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|last=村上|first=紀夫|title=歴史学で卒業論文を書くために|chapter=第3章 論文の集め方と読み方|publisher=[[創元社]]|year=2019|date=2019-09-20|pages=31-79|isbn=9784422800417|ncid=BB28929146|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|last=村上|first=紀夫|title=歴史学で卒業論文を書くために|chapter=第10章「はじめに」を書く|publisher=創元社|year=2019|date=2019-09-20|pages=167-182|isbn=9784422800417|ncid=BB28929146|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[修了論文]]
* [[修士論文]]
* [[博士論文]]
* [[卒業論文代行問題]]
* [[卒業制作]]
* [[大学]]
* [[紀要]]
* [[論文]]
* [[論文工場]]
* [[短期大学]]
* [[高等専門学校]]
* [[研究]]
* [[先行研究]]
* [[研究史]]
*[[アカデミック・ライティング]]
{{Univ-stub}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:そつきようろんふん}}
[[Category:高等教育]]
[[Category:論文]]
[[Category:アカデミックスキル]]
[[Category:ステートメント]]
[[Category:フォーマット別の出版物]] | null | 2023-07-01T20:52:16Z | false | false | false | [
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"Template:Cite book",
"Template:Univ-stub",
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"Template:Sfn",
"Template:脚注ヘルプ"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%92%E6%A5%AD%E8%AB%96%E6%96%87 |
8,655 | 熱海駅 | 熱海駅(あたみえき)は、静岡県熱海市田原本町にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東海旅客鉄道(JR東海)の駅である。JR東海に所属する東海道新幹線と、JR東日本およびJR東海に所属する東海道本線、JR東日本に所属する伊東線の合計3線が乗り入れる。在来線の駅番号はJR東日本がJT 21、JR東海がCA00。
当駅は、静岡県東部に位置する温泉街熱海市の代表駅である。
在来線における当駅の所属線は東海道本線である。また、JR東海が発売する休日乗り放題きっぷの東海道線の東端であり、JR東日本が発売する三連休東日本・函館パス、週末パスの東海道線の西端である。
東京方面から見た場合、静岡県に入って最初の駅である(新幹線・在来線とも)。JR東日本とJR東海の共同使用駅であり、新幹線構内はJR東海新幹線鉄道事業本部が管理し、在来線構内はJR東日本横浜支社が管理・駅業務を実施する。
在来線は当駅がJR東日本とJR東海の会社境界駅であり、東海道本線の当駅以東(東京方面)と伊東線はJR東日本、東海道本線の当駅以西(静岡方面)はJR東海の管轄である。施設上の境界は駅構内ではなく丹那トンネル東側坑口付近にある来宮駅上り場内信号機(来宮駅北西)である。
在来線ではJR東日本の熱海運輸区が構内に存在するなど運行上の拠点でもあるため、当駅を経由するすべての旅客列車が客扱い停車していたが、2009年(平成21年)3月14日のダイヤ改正で臨時列車とされた「ムーンライトながら」は運転停車扱いとなった。特急列車や一部普通列車(朝夕の沼津駅発着列車や伊東線直通列車など)を除く大半の列車が当駅で系統が分離されている。
JR東海の管轄となっている新幹線は、各駅停車である「こだま」に加えて、「ひかり」が東京 - 岡山間の2往復と上り広島発東京行きの1本、下り東京発新大阪行きの1本が停車している。
東海道本線は当駅を境に管轄会社が異なっているが、当駅では両方向とも「東海道線」(上り・下りの表記もあり)と案内されている。本稿でも必要に応じて、その案内方式に準じた表記も用いる。
当駅は、JR東日本のICカード「Suica」/JR東海のICカード「TOICA」対応自動改札機が設置されている(函南方面からのICカード出場は、TOICAエリア出場専用の水色のIC改札機からとなる)。また、伊豆急行線の駅もSuicaの簡易改札機が設置されており、Suica及びその相互利用が可能なIC乗車券でのタッチ&ゴーで往来ができる。SuicaとTOICAは相互利用が可能だが、2021年3月12日まで、当駅はTOICAエリアに含まれておらず、またSuicaエリアとTOICAエリアを跨ぐ利用はできないため、当駅からJR東海函南駅方面へはICカードを利用できず、あらかじめ券売機できっぷを購入する必要があった。2021年3月13日からは当駅がTOICAエリアに編入され、当駅発着に限り函南方面へICカードを利用できるようになったが、定期券を除いて当駅を跨いだICカードの利用は引き続きできない。
駅の開業は1925年(大正14年)3月である。開業当初は国府津駅を起点とする熱海線の終着駅であったが、1934年(昭和9年)12月に当駅西側の熱海 - 沼津間が開業し、東海道本線の中間駅となった。 交通の便が良くなったことで熱海や伊豆の各温泉に向かう利用者が激増、1935年(昭和10年)正月の乗降客数は前年比5-6割増となり、駅の手荷物一時預りも1日あたり250から300個の利用となった。
伊東線は翌年の1935年(昭和10年)3月から乗り入れている。東海道新幹線の熱海駅は、新幹線が開業した1964年(昭和39年)10月から存在する12駅のうちの一つである。1987年3月まで、これらの路線はすべて日本国有鉄道(国鉄)の路線であったが、同年4月の国鉄分割民営化によって、JR東日本とJR東海の駅となった。
東海道本線は当初、小田原 - 熱海 - 三島の山岳地帯にトンネルを開削する技術がなかったこともあり、後の御殿場線ルートで建設された。そのルートから外れた小田原・熱海では、国府津駅より小田原電気鉄道という路面電車で小田原市街へ、さらに豆相人車鉄道→熱海鉄道→大日本軌道→熱海軌道組合の人車軌道・軽便鉄道により熱海まで連絡を図った。その後、御殿場経由は急勾配が存在し輸送力増強の障壁になることや、トンネル掘削の技術が進展したことなどから、当初見送られた熱海経由での路線整備が決定する。そして1925年(大正14年)、熱海線として、熱海駅まで鉄道路線が開業して路面電車や軽便鉄道は全廃。1934年(昭和9年)、丹那トンネルが開通すると熱海線は東海道本線となった。
新幹線ホームのホームドアは高速で通過する列車への対策のため1974年(昭和49年)に日本で初めて設置された。老朽化のため、上りホームは2011年12月、下りホームは2012年7月に更新され、0系に合わせていた開口幅や扉の位置は、N700系・700系に合うように変更された。
2002年までは箱根登山鉄道もバス路線を有していた(同年10月1日をもって箱根方面の路線を廃止し伊豆東海バスに継承)。
高度経済成長期には、新婚旅行や社員旅行で盛況だった熱海は坂が多く、市内の公共交通手段が求められたため、熱海駅から海岸線を通り、熱海港付近に至る熱海モノレールが計画されたが、頓挫している。
駅舎は老朽化により建替えられ、市が駅前の整備事業を行った。
旧駅ビルの「熱海ラスカ」は2010年3月31日をもって店舗を閉鎖し、取り壊し工事が同年7月から11月まで行われた。
2011年7月下旬より駅前広場、仮駅舎設置工事は本格化した。
改札外にはスルガ銀行のATMがあり、観光案内所(熱海コンシェルジュ)にエフエム熱海湯河原のサテライトスタジオが2007年5月から併設されていたが、観光案内所とサテライトスタジオは2011年12月1日に仮駅舎へ移動した。毎週土・日曜に公開生放送が行われていた。
仮駅舎には、熱海ブランド『A-PLUS』専門店も入居していた。
熱海駅開発工事の主体である駅舎建て替え等開発工事の事業者、JR東日本のファクトシート(2012年7月発行)に、熱海駅はオフィス・ショッピング部門での開発が明記されていた。
2014年8月30日に、駅は温泉地らしさをイメージして、外壁をさざ波などをイメージした青と白の2色で配し、巨大窓を茶色枠で囲って襖を表わしたデザインと報じられていた。
駅舎は、事業着手が2014年4月1日で完成が2015年度の予定だったが、着工も完成も遅れた。
旧バスターミナルだった東側を2層化し、上がバスターミナル、下がタクシープールになった。一般車とタクシー兼用ロータリーだった西側は一般車用ロータリー(県道103号熱海停車場線)となった。
駅前広場では2014年1月に、足湯に併設されていた駅前間歇泉を撤去し、蒸気機関車を駅前西端へ移動した。その後足湯は休止となり、2014年12月20日に復活した。
JR東日本の保養所であったいでゆ荘の跡地に駐車場を建設した。
伊東線のホーム案内は東海道線に合わせて■オレンジが用いられていたが、駅舎建て替え工事の進捗とともに順次■緑に変更された(なお、各駅の運賃表や「JR東日本アプリ」では以前から伊東線を緑で表記している)。
JR東日本が管轄する在来線駅(東海道本線・伊東線)、JR東海が管轄する新幹線駅ともに地上駅である。
駅舎は1番線に隣接し、改札外にはJR東日本が営業するみどりの窓口とビューアルッテが設置されている。ラスカ熱海1階に、観光案内所や駅レンタカー営業所などが入居している。
乗降設備は単式ホーム1面1線と島式ホーム2面4線、合計3面5線のホームが設けられている。構内の南側に単式ホームがあり、その北側に島式ホームが並ぶ。ホームの番号は、単式ホーム側から1番線・2番線...の順で、5番線まである。そのうち、2番線が下り本線、5番線が上り本線となっている。
なお、JR東日本の管理駅である都合上、JR東海の列車は通常3番線のみを使用している(列車によって4番線を使用することもある)。そのため事故・トラブルや大雨・落雷などでダイヤが乱れた場合、沼津方面からの列車がホームに入線できないためひとつ前の函南駅で待機か、沼津駅や三島駅、および東田子の浦駅で打ち切りになることも発生する。
改札口は駅舎内の1か所のみで、改札口から各ホームに直結する地下道が存在する。
立ち食いそば・うどん店は1番線ホーム東京方にある(JTS運営)。
旅客トイレは、精算所の近くにあり、多機能トイレも設置されている。
構内に熱海CTCセンター(小田原・伊豆統括センターの管理下)がある。JR東日本東海道本線の東京駅 - 湯河原駅間では東京圏輸送管理システム (ATOS) が導入されているが、当駅・来宮駅ならびに伊東線の運行管理・進路制御は熱海CTCセンターで行っている。
(出典:JR東日本:駅構内図)
新幹線乗降設備は待避線のない相対式ホーム2面2線の構造。ホーム上の乗り場番号は南側(在来線ホーム側)から6番線・7番線の順で付番されている。山肌に沿った高い位置にホームがある。開業当初は安全性確保の観点から停車列車到着直前まで改札制限を行なっていたが、停車列車本数増加に伴い、1974年(昭和49年)に日本で初めてホームドア(可動柵)が設置されている。
当駅はスペースの都合で待避線が設置されなかったため、ダイヤ作成上のネックとなっている。その上、当駅付近から新丹那トンネルまでの区間内には最小曲線半径1,500 mという新幹線有数の急カーブが控えており、この影響で「のぞみ」を始めとする通過列車の速度は200 km/h(かつては185 km/h)に制限されている。この速度は、東海道新幹線の駅通過速度としては最も遅い。
東海道新幹線の「ひかり」の一部停車駅の中では最も停車本数が少ない駅であり、先述の通り、一日上下各3本のみの停車である(なお、最多は上りは静岡駅・下りは静岡駅・岐阜羽島駅・米原駅で、いずれも19本が停車)。
JR東日本の地下道とJR東海の新幹線コンコースとの間には、乗換改札が設置され、在来線側にJR東海が営業するJR全線きっぷうりばがある。
地形の関係上、新幹線独自の改札口は設けられておらず、JR東海の新幹線改札内へはJR東日本の在来線駅構内を経由しなければならない構造となっているため、JR東海のみが扱う乗車券・サービス(エクスプレス予約で後述のICカードを使用しない場合やe5489でJR東海エリアを含む予約など)を受ける旅客はJR東日本の改札口で「熱海駅構内通過票」の交付を受けた上で、JR東海のJR全線きっぷうりばまで出向く必要がある。EX-ICカードやプラスEXカードを所持している場合は、Suicaなどの都市圏のICカード乗車券(当駅改札内に入る場合は最低147円の残高が必要)をJR東日本の自動改札機にタッチさせた上で、新幹線の自動改札機に都市圏のICカードとEX-ICカードまたはプラスEXカードを2枚重ねてタッチすることで、新幹線ホームへの入出場が可能となっている。
(出典:JR東海:駅構内図)
主な駅弁は下記の通り。
近年の1日平均乗車人員の推移は以下の通りである。
国際観光文化都市熱海市の主要部である熱海市市街地の北側に立地し、駅前には熱海温泉のホテル・旅館・みやげ物店が立ち並ぶ。
駅前広場に足湯「家康の湯」があり、駅前商店街前に熱海軽便鉄道の7号蒸気機関車が静態保存されている。
※熱海市役所や熱海税務署は、隣駅である伊東線来宮駅が最寄り駅である。
「熱海駅」停留所が設置されており、東海バスや伊豆箱根バスが運行する路線バスが発着する。 | [
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"text": "熱海駅(あたみえき)は、静岡県熱海市田原本町にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東海旅客鉄道(JR東海)の駅である。JR東海に所属する東海道新幹線と、JR東日本およびJR東海に所属する東海道本線、JR東日本に所属する伊東線の合計3線が乗り入れる。在来線の駅番号はJR東日本がJT 21、JR東海がCA00。",
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"text": "当駅は、静岡県東部に位置する温泉街熱海市の代表駅である。",
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"text": "在来線における当駅の所属線は東海道本線である。また、JR東海が発売する休日乗り放題きっぷの東海道線の東端であり、JR東日本が発売する三連休東日本・函館パス、週末パスの東海道線の西端である。",
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"text": "東京方面から見た場合、静岡県に入って最初の駅である(新幹線・在来線とも)。JR東日本とJR東海の共同使用駅であり、新幹線構内はJR東海新幹線鉄道事業本部が管理し、在来線構内はJR東日本横浜支社が管理・駅業務を実施する。",
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"text": "在来線は当駅がJR東日本とJR東海の会社境界駅であり、東海道本線の当駅以東(東京方面)と伊東線はJR東日本、東海道本線の当駅以西(静岡方面)はJR東海の管轄である。施設上の境界は駅構内ではなく丹那トンネル東側坑口付近にある来宮駅上り場内信号機(来宮駅北西)である。",
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"text": "在来線ではJR東日本の熱海運輸区が構内に存在するなど運行上の拠点でもあるため、当駅を経由するすべての旅客列車が客扱い停車していたが、2009年(平成21年)3月14日のダイヤ改正で臨時列車とされた「ムーンライトながら」は運転停車扱いとなった。特急列車や一部普通列車(朝夕の沼津駅発着列車や伊東線直通列車など)を除く大半の列車が当駅で系統が分離されている。",
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"text": "JR東海の管轄となっている新幹線は、各駅停車である「こだま」に加えて、「ひかり」が東京 - 岡山間の2往復と上り広島発東京行きの1本、下り東京発新大阪行きの1本が停車している。",
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"text": "東海道本線は当駅を境に管轄会社が異なっているが、当駅では両方向とも「東海道線」(上り・下りの表記もあり)と案内されている。本稿でも必要に応じて、その案内方式に準じた表記も用いる。",
"title": "概要"
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"text": "当駅は、JR東日本のICカード「Suica」/JR東海のICカード「TOICA」対応自動改札機が設置されている(函南方面からのICカード出場は、TOICAエリア出場専用の水色のIC改札機からとなる)。また、伊豆急行線の駅もSuicaの簡易改札機が設置されており、Suica及びその相互利用が可能なIC乗車券でのタッチ&ゴーで往来ができる。SuicaとTOICAは相互利用が可能だが、2021年3月12日まで、当駅はTOICAエリアに含まれておらず、またSuicaエリアとTOICAエリアを跨ぐ利用はできないため、当駅からJR東海函南駅方面へはICカードを利用できず、あらかじめ券売機できっぷを購入する必要があった。2021年3月13日からは当駅がTOICAエリアに編入され、当駅発着に限り函南方面へICカードを利用できるようになったが、定期券を除いて当駅を跨いだICカードの利用は引き続きできない。",
"title": "概要"
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"text": "駅の開業は1925年(大正14年)3月である。開業当初は国府津駅を起点とする熱海線の終着駅であったが、1934年(昭和9年)12月に当駅西側の熱海 - 沼津間が開業し、東海道本線の中間駅となった。 交通の便が良くなったことで熱海や伊豆の各温泉に向かう利用者が激増、1935年(昭和10年)正月の乗降客数は前年比5-6割増となり、駅の手荷物一時預りも1日あたり250から300個の利用となった。",
"title": "歴史"
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"text": "伊東線は翌年の1935年(昭和10年)3月から乗り入れている。東海道新幹線の熱海駅は、新幹線が開業した1964年(昭和39年)10月から存在する12駅のうちの一つである。1987年3月まで、これらの路線はすべて日本国有鉄道(国鉄)の路線であったが、同年4月の国鉄分割民営化によって、JR東日本とJR東海の駅となった。",
"title": "歴史"
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"text": "東海道本線は当初、小田原 - 熱海 - 三島の山岳地帯にトンネルを開削する技術がなかったこともあり、後の御殿場線ルートで建設された。そのルートから外れた小田原・熱海では、国府津駅より小田原電気鉄道という路面電車で小田原市街へ、さらに豆相人車鉄道→熱海鉄道→大日本軌道→熱海軌道組合の人車軌道・軽便鉄道により熱海まで連絡を図った。その後、御殿場経由は急勾配が存在し輸送力増強の障壁になることや、トンネル掘削の技術が進展したことなどから、当初見送られた熱海経由での路線整備が決定する。そして1925年(大正14年)、熱海線として、熱海駅まで鉄道路線が開業して路面電車や軽便鉄道は全廃。1934年(昭和9年)、丹那トンネルが開通すると熱海線は東海道本線となった。",
"title": "歴史"
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"text": "新幹線ホームのホームドアは高速で通過する列車への対策のため1974年(昭和49年)に日本で初めて設置された。老朽化のため、上りホームは2011年12月、下りホームは2012年7月に更新され、0系に合わせていた開口幅や扉の位置は、N700系・700系に合うように変更された。",
"title": "歴史"
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"text": "2002年までは箱根登山鉄道もバス路線を有していた(同年10月1日をもって箱根方面の路線を廃止し伊豆東海バスに継承)。",
"title": "歴史"
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"text": "高度経済成長期には、新婚旅行や社員旅行で盛況だった熱海は坂が多く、市内の公共交通手段が求められたため、熱海駅から海岸線を通り、熱海港付近に至る熱海モノレールが計画されたが、頓挫している。",
"title": "歴史"
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"text": "駅舎は老朽化により建替えられ、市が駅前の整備事業を行った。",
"title": "歴史"
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"text": "旧駅ビルの「熱海ラスカ」は2010年3月31日をもって店舗を閉鎖し、取り壊し工事が同年7月から11月まで行われた。",
"title": "歴史"
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"text": "2011年7月下旬より駅前広場、仮駅舎設置工事は本格化した。",
"title": "歴史"
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"text": "改札外にはスルガ銀行のATMがあり、観光案内所(熱海コンシェルジュ)にエフエム熱海湯河原のサテライトスタジオが2007年5月から併設されていたが、観光案内所とサテライトスタジオは2011年12月1日に仮駅舎へ移動した。毎週土・日曜に公開生放送が行われていた。",
"title": "歴史"
},
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"text": "仮駅舎には、熱海ブランド『A-PLUS』専門店も入居していた。",
"title": "歴史"
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"text": "熱海駅開発工事の主体である駅舎建て替え等開発工事の事業者、JR東日本のファクトシート(2012年7月発行)に、熱海駅はオフィス・ショッピング部門での開発が明記されていた。",
"title": "歴史"
},
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"text": "2014年8月30日に、駅は温泉地らしさをイメージして、外壁をさざ波などをイメージした青と白の2色で配し、巨大窓を茶色枠で囲って襖を表わしたデザインと報じられていた。",
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},
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"text": "駅舎は、事業着手が2014年4月1日で完成が2015年度の予定だったが、着工も完成も遅れた。",
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"text": "旧バスターミナルだった東側を2層化し、上がバスターミナル、下がタクシープールになった。一般車とタクシー兼用ロータリーだった西側は一般車用ロータリー(県道103号熱海停車場線)となった。",
"title": "歴史"
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"text": "駅前広場では2014年1月に、足湯に併設されていた駅前間歇泉を撤去し、蒸気機関車を駅前西端へ移動した。その後足湯は休止となり、2014年12月20日に復活した。",
"title": "歴史"
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"text": "JR東日本の保養所であったいでゆ荘の跡地に駐車場を建設した。",
"title": "歴史"
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"text": "伊東線のホーム案内は東海道線に合わせて■オレンジが用いられていたが、駅舎建て替え工事の進捗とともに順次■緑に変更された(なお、各駅の運賃表や「JR東日本アプリ」では以前から伊東線を緑で表記している)。",
"title": "歴史"
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"text": "JR東日本が管轄する在来線駅(東海道本線・伊東線)、JR東海が管轄する新幹線駅ともに地上駅である。",
"title": "駅構造"
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"text": "駅舎は1番線に隣接し、改札外にはJR東日本が営業するみどりの窓口とビューアルッテが設置されている。ラスカ熱海1階に、観光案内所や駅レンタカー営業所などが入居している。",
"title": "駅構造"
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"text": "乗降設備は単式ホーム1面1線と島式ホーム2面4線、合計3面5線のホームが設けられている。構内の南側に単式ホームがあり、その北側に島式ホームが並ぶ。ホームの番号は、単式ホーム側から1番線・2番線...の順で、5番線まである。そのうち、2番線が下り本線、5番線が上り本線となっている。",
"title": "駅構造"
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"text": "なお、JR東日本の管理駅である都合上、JR東海の列車は通常3番線のみを使用している(列車によって4番線を使用することもある)。そのため事故・トラブルや大雨・落雷などでダイヤが乱れた場合、沼津方面からの列車がホームに入線できないためひとつ前の函南駅で待機か、沼津駅や三島駅、および東田子の浦駅で打ち切りになることも発生する。",
"title": "駅構造"
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"text": "改札口は駅舎内の1か所のみで、改札口から各ホームに直結する地下道が存在する。",
"title": "駅構造"
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"text": "立ち食いそば・うどん店は1番線ホーム東京方にある(JTS運営)。",
"title": "駅構造"
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"text": "旅客トイレは、精算所の近くにあり、多機能トイレも設置されている。",
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"text": "構内に熱海CTCセンター(小田原・伊豆統括センターの管理下)がある。JR東日本東海道本線の東京駅 - 湯河原駅間では東京圏輸送管理システム (ATOS) が導入されているが、当駅・来宮駅ならびに伊東線の運行管理・進路制御は熱海CTCセンターで行っている。",
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"text": "(出典:JR東日本:駅構内図)",
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"title": "駅構造"
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"text": "地形の関係上、新幹線独自の改札口は設けられておらず、JR東海の新幹線改札内へはJR東日本の在来線駅構内を経由しなければならない構造となっているため、JR東海のみが扱う乗車券・サービス(エクスプレス予約で後述のICカードを使用しない場合やe5489でJR東海エリアを含む予約など)を受ける旅客はJR東日本の改札口で「熱海駅構内通過票」の交付を受けた上で、JR東海のJR全線きっぷうりばまで出向く必要がある。EX-ICカードやプラスEXカードを所持している場合は、Suicaなどの都市圏のICカード乗車券(当駅改札内に入る場合は最低147円の残高が必要)をJR東日本の自動改札機にタッチさせた上で、新幹線の自動改札機に都市圏のICカードとEX-ICカードまたはプラスEXカードを2枚重ねてタッチすることで、新幹線ホームへの入出場が可能となっている。",
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"text": "(出典:JR東海:駅構内図)",
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"text": "主な駅弁は下記の通り。",
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"text": "近年の1日平均乗車人員の推移は以下の通りである。",
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"text": "国際観光文化都市熱海市の主要部である熱海市市街地の北側に立地し、駅前には熱海温泉のホテル・旅館・みやげ物店が立ち並ぶ。",
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"text": "※熱海市役所や熱海税務署は、隣駅である伊東線来宮駅が最寄り駅である。",
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"text": "「熱海駅」停留所が設置されており、東海バスや伊豆箱根バスが運行する路線バスが発着する。",
"title": "バス路線"
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] | 熱海駅(あたみえき)は、静岡県熱海市田原本町にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東海旅客鉄道(JR東海)の駅である。JR東海に所属する東海道新幹線と、JR東日本およびJR東海に所属する東海道本線、JR東日本に所属する伊東線の合計3線が乗り入れる。在来線の駅番号はJR東日本がJT 21、JR東海がCA00。 | {{Otheruses|静岡県熱海市にあるJR東日本東海道本線・伊東線、JR東海東海道本線・東海道新幹線の熱海駅|かつて同名を称した福島県郡山市にあるJR東日本磐越西線の駅|磐梯熱海駅}}
{{複数の問題|出典の明記=2011年2月|更新=2017年6月}}
{{Mergefrom|ラスカ熱海|ラスカ|date=2023年12月}}
{{駅情報
|社色 = #008000
|文字色 =
|駅名 = 熱海駅
|画像 = Atami Station.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 駅舎(2018年4月)
|地図 = {{Infobox mapframe|zoom=15|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|35|6|12.99|N|139|4|38.80|E}}}}
|よみがな = あたみ
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|事務官コード = ▲0460131
|所属事業者= {{Plainlist|
* [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
* [[東海旅客鉄道]](JR東海)}}
|所在地 = [[静岡県]][[熱海市]]田原本町11-1
|座標 = {{coord|35|6|12.99|N|139|4|38.80|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}}
|開業年月日 = <span style="white-space:nowrap;">[[1925年]]([[大正]]14年)[[3月25日]]</span>
|駅構造 = [[地上駅]]
|ホーム = {{Plainlist|
* 2面2線(新幹線)
* 3面5線(在来線)}}
|廃止年月日 =
|乗車人員 = {{Smaller|(JR東日本)-2022年-}}<br />9,756人/日(降車客含まず)<!--JR東日本HPによる--><hr />{{Smaller|(JR東海)-2020年-}}<br />2,270<!--静岡県統計年鑑による-->
|乗降人員 =
|統計年度 =
|乗入路線数 = 3
|所属路線1 = {{Color|mediumblue|■}}[[東海道新幹線]](JR東海){{Refnest|group="*"|name="jurisdiction-1"|幹線駅はJR東海、在来線駅はJR東日本が管轄。}}
|前の駅1 = [[小田原駅|小田原]]
|駅間A1 = 20.7
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|キロ程1 = 104.6
|起点駅1 = [[東京駅|東京]]
|所属路線2 = [[東海道本線]]<br />({{Color|#f68b1e|■}}[[東海道線 (JR東日本)|JR東日本]]・{{JR海駅番号|CA}} JR東海[[東海道線 (静岡地区)|静岡地区]])<ref group="*" name="jurisdiction-1" />
|駅番号2 = {{駅番号r|JT|21|#f68b1e|1}}(JR東日本)<br />{{JR海駅番号|CA|00}}(JR東海)
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|備考 = {{Plainlist|
JR東日本
* [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]])
* [[みどりの窓口]] 有}}<hr />
{{Plainlist|
JR東海
* [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]])<!--←JR東海の表記-->
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|備考全幅 = {{Reflist|group="*"}}
}}
'''熱海駅'''(あたみえき)は、[[静岡県]][[熱海市]]田原本町にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[東海旅客鉄道]](JR東海)の[[鉄道駅|駅]]である。JR東海に所属する[[東海道新幹線]]と、JR東日本およびJR東海に所属する[[東海道本線]]、JR東日本に所属する[[伊東線]]の合計3線が乗り入れる。[[在来線]]の[[駅ナンバリング#JR東日本・東京モノレール・東京臨海高速鉄道|駅番号]]はJR東日本が'''JT 21'''、[[駅ナンバリング#JR東海|JR東海]]が'''CA00'''。
== 概要 ==
当駅は、静岡県東部に位置する[[温泉街]]熱海市の代表駅である。
在来線における当駅の[[日本の鉄道駅#所属線|所属線]]は東海道本線である{{sfn|石野|1998|p=17}}。また、JR東海が発売する[[休日乗り放題きっぷ]]の東海道線の東端であり、JR東日本が発売する[[三連休東日本・函館パス]]、[[週末パス]]の東海道線の西端である。
[[東京駅|東京]]方面から見た場合、静岡県に入って最初の駅である(新幹線・在来線とも)。JR東日本とJR東海の[[共同使用駅]]であり、新幹線構内は[[東海旅客鉄道新幹線鉄道事業本部|JR東海新幹線鉄道事業本部]]が管理し、在来線構内は[[東日本旅客鉄道横浜支社|JR東日本横浜支社]]が管理・駅業務を実施する。
在来線は当駅がJR東日本とJR東海の[[会社境界駅]]であり、東海道本線の当駅以東(東京方面)と伊東線はJR東日本、東海道本線の当駅以西(静岡方面)はJR東海の管轄である。施設上の境界は駅構内ではなく[[丹那トンネル]]東側坑口付近にある[[来宮駅]]上り場内[[鉄道信号機|信号機]](来宮駅北西)である。
在来線ではJR東日本の[[熱海運輸区]]が構内に存在するなど運行上の拠点でもあるため、当駅を経由するすべての[[旅客列車]]が客扱い停車していたが、[[2009年]]([[平成]]21年)[[3月14日]]の[[ダイヤ改正]]で[[臨時列車]]とされた「[[ムーンライトながら]]」は[[停車 (鉄道)#運転停車|運転停車]]扱いとなった。[[特別急行列車|特急列車]]や一部[[普通列車]](朝夕の沼津駅発着列車や伊東線直通列車など)を除く大半の列車が当駅で系統が分離されている。
JR東海の管轄となっている新幹線は、各駅停車である「[[こだま (列車)|こだま]]」に加えて、「[[ひかり (列車)|ひかり]]」が[[東京駅|東京]] - [[岡山駅|岡山]]間の2往復と上り[[広島駅|広島]]発東京行きの1本、下り東京発[[新大阪駅|新大阪]]行きの1本が停車している。
東海道本線は当駅を境に管轄会社が異なっているが、当駅では両方向とも「東海道線」(上り・下りの表記もあり)と案内されている。本稿でも必要に応じて、その案内方式に準じた表記も用いる。
当駅は、JR東日本の[[乗車カード|ICカード]]「[[Suica]]」/JR東海のICカード「[[TOICA]]」対応[[自動改札機]]が設置されている(函南方面からのICカード出場は、TOICAエリア出場専用の水色のIC改札機からとなる)。また、[[伊豆急行線]]の駅もSuicaの簡易改札機が設置されており、Suica及びその[[交通系ICカード全国相互利用サービス|相互利用が可能なIC乗車券]]でのタッチ&ゴーで往来ができる。SuicaとTOICAは相互利用が可能だが、[[2021年]][[3月12日]]まで、当駅はTOICAエリアに含まれておらず、また[[乗車カード#ICカード間の相互利用・片利用|SuicaエリアとTOICAエリアを跨ぐ利用]]はできないため、当駅からJR東海[[函南駅]]方面へはICカードを利用できず、あらかじめ券売機できっぷを購入する必要があった。2021年[[3月13日]]からは当駅がTOICAエリアに編入され、当駅発着に限り函南方面へICカードを利用できるようになったが、定期券を除いて当駅を跨いだICカードの利用は引き続きできない<ref group="報道" name="press/20210119" /><ref group="報道" name="press/20190920_ho01" />。
== 歴史 ==
{{節スタブ|date=2017年6月}}
[[File:Atami Station in Pre-war Showa era.JPG|thumb|戦前の熱海駅]]
[[File:atami station.jpg|thumb|熱海駅旧駅舎(2010年7月)]]
駅の開業は[[1925年]]([[大正]]14年)3月である。開業当初は[[国府津駅]]を起点とする[[熱海線]]の[[終着駅]]であったが、[[1934年]]([[昭和]]9年)12月に当駅西側の熱海 - [[沼津駅|沼津]]間が開業し、東海道本線の中間駅となった。
交通の便が良くなったことで熱海や伊豆の各温泉に向かう利用者が激増、[[1935年]](昭和10年)正月の乗降客数は前年比5-6割増となり、駅の[[手荷物]]一時預りも1日あたり250から300個の利用となった<ref>開通後初の正月に伊豆の温泉は超満員『東京日日新聞』昭和10年1月8日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p363 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。
伊東線は翌年の[[1935年]]([[昭和]]10年)3月から乗り入れている。東海道新幹線の熱海駅は、新幹線が開業した[[1964年]]([[昭和]]39年)10月から存在する12駅のうちの一つである。[[1987年]]3月まで、これらの路線はすべて[[日本国有鉄道]](国鉄)の路線であったが、同年4月の[[国鉄分割民営化]]によって、JR東日本とJR東海の駅となった。
東海道本線は当初、小田原 - 熱海 - 三島の山岳地帯に[[トンネル]]を開削する技術がなかったこともあり、後の[[御殿場線]]ルートで建設された。そのルートから外れた小田原・熱海では、[[国府津駅]]より[[箱根登山鉄道小田原市内線|小田原電気鉄道]]という[[路面電車]]で小田原市街へ、さらに[[熱海鉄道|豆相人車鉄道]]→[[熱海鉄道]]→[[大日本軌道]]→熱海軌道組合の[[人車軌道]]・[[軽便鉄道]]により熱海まで連絡を図った。その後、御殿場経由は急勾配が存在し輸送力増強の障壁になることや、トンネル掘削の技術が進展したことなどから、当初見送られた熱海経由での路線整備が決定する。そして[[1925年]](大正14年)、熱海線として、熱海駅まで鉄道路線が開業して路面電車や軽便鉄道は全廃。[[1934年]]([[昭和]]9年)、[[丹那トンネル]]が開通すると熱海線は東海道本線となった。
新幹線ホームの[[ホームドア]]は高速で通過する列車への対策のため[[1974年]](昭和49年)に日本で初めて設置された。老朽化のため、上りホームは2011年12月、下りホームは2012年7月に更新され、0系に合わせていた開口幅や扉の位置は、N700系・700系に合うように変更された<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://jr-central.co.jp/news/release/nws000656.html|title=【社長会見】熱海駅設置のホーム可動柵の取り替えについて|publisher=東海旅客鉄道|date=2010-12-21|accessdate=2020-05-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200523052902/https://jr-central.co.jp/news/release/nws000656.html|archivedate=2020-05-23}}</ref><ref>[https://trafficnews.jp/post/36660/2 東海道新幹線のホームドア その早さも日本一] 乗り物ニュース 2019年3月18日閲覧</ref>。
2002年までは[[箱根登山バス|箱根登山鉄道]]もバス路線を有していた(同年10月1日をもって箱根方面の路線を廃止し伊豆東海バスに継承)。
高度経済成長期には、新婚旅行や社員旅行で盛況だった熱海は坂が多く、市内の公共交通手段が求められたため、熱海駅から海岸線を通り、熱海港付近に至る熱海モノレールが計画されたが、頓挫している<ref>{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/240590|title=人気回復「熱海」に眠る幻のモノレール計画|author=細川 幸一|publisher=東洋経済新報社|website=東洋経済オンライン|accessdate=2023-12-03}}</ref>。
=== 駅舎の建替えと駅前の整備 ===
駅舎は老朽化により建替えられ、市が[[駅前]]の整備事業を行った。
旧駅ビルの「[[ラスカ熱海|熱海ラスカ]]」は[[2010年]][[3月31日]]をもって店舗を閉鎖し、[[取り壊し]]工事が同年7月から11月まで行われた。
[[2011年]]7月下旬より駅前広場、仮駅舎設置工事は本格化した。
改札外には[[スルガ銀行]]のATMがあり、観光案内所(熱海コンシェルジュ)に[[エフエム熱海湯河原]]のサテライトスタジオが2007年5月から併設されていたが、観光案内所とサテライトスタジオは2011年12月1日に仮駅舎へ移動した。毎週土・日曜に公開生放送が行われていた<ref>[https://web.archive.org/web/20110708153742/http://www.ciao796.com/information/infomation.html '07/05/17 熱海駅にサテライトスタジオ開設](2011年7月8日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。
仮駅舎には、熱海ブランド『A-PLUS』専門店も入居していた。
熱海駅開発工事の主体である駅舎建て替え等開発工事の事業者、JR東日本のファクトシート([[2012年]][[7月]]発行)に、熱海駅は[[オフィス]]・[[買物|ショッピング]]部門での[[開発]]が明記されていた。
[[2014年]][[8月30日]]に、駅は温泉地らしさをイメージして、[[外壁]]をさざ波などをイメージした青と白の2色で配し、巨大[[窓]]を茶色枠で囲って[[襖]]を表わした[[デザイン]]<ref group="新聞">{{Cite news|date=2014-8-30|newspaper=[[静岡新聞]]|url=http://www.at-s.com/news/detail/1141962855.html|title=JR熱海駅、駅ビル改築 16年度中に完成|accessdate=2015-8-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140901172124/http://www.at-s.com/news/detail/1141962855.html|archivedate=2014-09-01}}</ref>と報じられていた。
駅舎は、事業着手が[[2014年]][[4月1日]]で完成が[[2015年]]度の予定だったが、[[着工]]も完成も遅れた。
旧[[バスターミナル]]だった東側を2層化し、上がバスターミナル、下がタクシープールになった。一般車と[[タクシー]]兼用ロータリーだった西側は一般車用ロータリー([[静岡県道103号熱海停車場線|県道103号熱海停車場線]])となった。
駅前広場では2014年1月に、足湯に併設されていた駅前[[間歇泉]]を撤去し、[[蒸気機関車]]を駅前西端へ移動<!--年表によると2013年12月12日-->した。その後足湯は休止となり、2014年12月20日に復活した<ref>{{Cite web|和書|date=2014-12-26 |url=http://atamimachiaruki.net/all-things/20141225-2/ |title=熱海駅前の足湯「家康の湯」(無料)が復活 |publisher=熱海まち歩きガイドの会 |accessdate=2017-6-2}}</ref>。
JR東日本の[[保養所]]であったいでゆ荘の跡地に[[駐車場]]を建設した。
伊東線のホーム案内は東海道線に合わせて{{Color|#f68b1e|■}}オレンジが用いられていたが、駅舎建て替え工事の進捗とともに順次{{Color|#22aa33|■}}緑に変更された(なお、各駅の[[運賃表]]や「JR東日本アプリ」では以前から伊東線を緑で表記している)。
=== 年表 ===
[[File:Atami Station.1967.jpg|thumb|熱海駅周辺の白黒空中写真(1967年10月撮影)。北(上)から新幹線、JR在来線。右下は相模湾。<br />{{国土航空写真}}]]
* [[1895年]]([[明治]]27年):吉浜(現[[湯河原町]]内)まで豆相人車鉄道開通(翌年小田原延伸)。
* [[1907年]](明治40年):豆相人車鉄道改め熱海鉄道により、小田原 - 熱海で蒸気機関車運転開始。
* [[1923年]]([[大正]]12年)[[9月1日]]:[[関東大震災]]のため、熱海鉄道より改めた熱海軌道組合線休止(後に廃止)。
* [[1925年]](大正14年)[[3月25日]]:[[鉄道省]]([[日本国有鉄道]]の前身組織)により、'''熱海駅'''が開業(熱海線 湯河原 - 熱海間の開通と同時){{sfn|石野|1998|p=17}}。旅客・[[鉄道貨物|貨物]]営業を開始{{sfn|石野|1998|p=17}}。
* 1930年([[昭和]]5年)11月26日:未明に[[北伊豆地震]]発生。駅構内の給水タンクが倒れる被害<ref>各地で火災 - 機上から震災地を見る『東京日日新聞』昭和5年11月27日夕刊(『昭和ニュース事典第2巻 昭和4年-昭和5年』本編p173 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。
* [[1934年]](昭和9年)[[12月1日]]:熱海 - 沼津間の開通に伴い{{sfn|石野|1998|p=17}}、熱海線は東海道本線に編入される。
* [[1935年]](昭和10年)[[3月30日]]:伊東線 熱海 - [[網代駅|網代]]間が開通{{sfn|石野|1998|p=87}}。
* [[1964年]](昭和39年)[[10月1日]]:東海道新幹線が開業し、[[停車駅]]となる{{sfn|石野|1998|p=58}}。
* [[1966年]](昭和41年)9月1日:貨物の取扱を廃止{{sfn|石野|1998|p=17}}。
* [[1970年]](昭和45年):新幹線のホームが16両対応に延伸される<ref>{{Cite news |title=ホーム延伸工事進む 「こだま」の一部16両化で |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1972-01-13 |page=2 }}</ref>。
* [[1974年]](昭和49年)9月1日:新幹線ホームに可動式[[ホームドア]]を設置<ref group="新聞">{{Cite news |和書|title=これでホームのお客は安全 熱海駅に自動式可動柵 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1974-08-04 |page=3 }}</ref>。日本初。
* [[1986年]](昭和61年)[[11月1日]]:(新聞紙を除く)[[チッキ|荷物]]の取扱を廃止{{sfn|石野|1998|p=17}}。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、当駅を境に東海道本線(東京方面){{sfn|石野|1998|p=17}}・伊東線は[[東日本旅客鉄道]](JR東日本){{sfn|石野|1998|p=87}}、東海道本線(静岡方面){{sfn|石野|1998|p=17}}・東海道新幹線は[[東海旅客鉄道]](JR東海)の駅となる{{sfn|石野|1998|p=58}}。駅業務は在来線が東日本旅客鉄道(JR東日本)、東海道新幹線は東海旅客鉄道(JR東海)が継承。
* [[1997年]]([[平成]]9年):リニューアル工事で新幹線と在来線の乗換改札口2か所(東京方は入口・出口兼用、新大阪方は出口専用)を1か所に集約。
* [[1998年]](平成10年)
** [[2月4日]]:在来線に[[自動改札機]]を設置し、供用開始<ref>[[#JRR1998|『JR気動車客車編成表 98年版』 183頁]]</ref>。
** [[2月24日]]:新幹線と在来線の中間改札口に自動改札機を設置し、供用開始<ref>[[#JRR1998|『JR気動車客車編成表 98年版』 184頁]]</ref>。
* [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:JR東日本で[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる(東京方面のみ)<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-05-23|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。
* [[2004年]](平成16年)[[10月16日]]:伊東線でICカード「Suica」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2004_1/20040807.pdf|format=PDF|language=日本語|title=首都圏でSuicaをご利用いただけるエリアが広がります|publisher=東日本旅客鉄道|date=2004-08-23|accessdate=2020-05-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190709202725/https://www.jreast.co.jp/press/2004_1/20040807.pdf|archivedate=2019-07-09}}</ref>。
* [[2006年]](平成18年):伊東線のCTC装置が当駅構内の進路制御も可能な装置に更新され、CTCセンターが[[来宮駅]]構内より当駅に移転。
* [[2010年]](平成22年)[[3月31日]]:熱海ラスカが閉鎖。12月下旬に解体工事が完了。<!--本文によると11月まで-->
* [[2011年]](平成23年)
** 4月 - 9月:熱海駅バスターミナルにおいて、仮バス停の使用開始(4月1日から)。解体工事。
** 11月:仮駅舎完成、[[11月10日]]に一部使用開始。([[NewDays|NEWDAYS]]ミニ熱海・[[BECK'S COFFEE SHOP]]熱海店)
** [[12月1日]]:[[ドトールコーヒー]]熱海店閉店。熱海観光案内所移動開設。
* [[2012年]](平成24年)
** [[1月10日]]:旧ドトールコーヒー熱海店横にあった旅客[[トイレ]]が1番線ホーム東京方へ移動。これに伴い[[静岡県警]][[鉄道警察隊]]熱海分駐所も移動。
** [[2月15日]]:駅前広場の改良工事再開。
** [[8月25日]]:足湯裏の[[コインロッカー]]が使用停止。後日撤去された。
* [[2013年]](平成25年)
** [[3月15日]]:バス乗り場とタクシープールが完成し、使用を開始。
** [[12月12日]]:[[熱海軽便鉄道]]の7号蒸気機関車の移送作業が行われる。<!--本文によると2014年1月-->
* [[2014年]](平成26年)[[10月26日]]:熱海駅新駅舎・駅ビル建て替え工事起工式が行われる。
* [[2015年]](平成27年)
** [[3月25日]]:開業90周年。記念[[イベント]]が熱海駅仮駅舎前で行われた。
** [[11月29日]]:新駅舎(駅ビルを除く)の使用開始。
* [[2016年]](平成28年)[[11月25日]]:新駅ビルが完成し、「[[ラスカ熱海]]」として開業する<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2016/yokohama/20160726.pdf|title=2016年11月25日(金)「ラスカ熱海」がオープンします!|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道横浜支社/湘南ステーションビル|date=2016-07-26|accessdate=2020-05-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160803213830/http://www.jreast.co.jp/press/2016/yokohama/20160726.pdf|archivedate=2016-08-04}}</ref>。
* [[2019年]](平成31年)1月10日:4・5番線ホーム沼津方にあった[[日本レストランエンタプライズ|NRE]]運営の[[立ち食いそば・うどん店]]「熱海そば」が、この日をもって閉店<ref>[https://twitter.com/masachan26768/status/1083478857703817216]</ref>。
* [[2020年]]([[令和]]2年)[[9月6日]]:4・5番線ホーム東京方にあった旅客トイレが、この日をもって廃止<ref>[https://twitter.com/koyanothemania/status/1304530417710764037]</ref>。
* [[2021年]](令和3年)[[3月13日]]:当駅が[[TOICA]]エリアに編入され、JR東海とJR東日本のICサービスエリアを跨るICカード定期券が発売開始<ref group="報道" name="press/20210119">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20210119_ho03.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210119050250/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20210119_ho03.pdf|format=PDF|language=日本語|title= 在来線および新幹線におけるIC定期券のサービス向上について 〜2021年3月13日(土)からサービスを開始します!〜|publisher=東日本旅客鉄道/東海旅客鉄道/西日本旅客鉄道|date=2021-01-19|accessdate=2021-01-19|archivedate=2021-01-19}}</ref><ref group="報道" name="press/20190920_ho01">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20190920_ho01.pdf|format=PDF|language=日本語|title= 在来線および新幹線におけるIC定期券のサービス向上について|publisher=東日本旅客鉄道/東海旅客鉄道/西日本旅客鉄道|date=2019-09-20|accessdate=2019-09-21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20190921130006/https://www.jreast.co.jp/press/2019/20190920_ho01.pdf|archivedate=2019-09-21}}</ref>。
== 駅構造 ==
JR東日本が管轄する在来線駅(東海道本線・伊東線)、JR東海が管轄する新幹線駅ともに[[地上駅]]である。
[[駅舎]]は1番線に隣接し、改札外にはJR東日本が営業する[[みどりの窓口]]と[[ビューアルッテ]]が設置されている。[[ラスカ熱海]]1階に、観光案内所や[[駅レンタカー]]営業所などが入居している。
=== 在来線 ===
乗降設備は[[単式ホーム]]1面1線と[[島式ホーム]]2面4線、合計3面5線のホームが設けられている。構内の南側に単式ホームがあり、その北側に島式ホームが並ぶ。ホームの番号は、単式ホーム側から1番線・2番線…の順で、5番線まである。そのうち、2番線が下り[[停車場#本線|本線]]、5番線が上り本線となっている。
なお、JR東日本の管理駅である都合上、JR東海の列車は通常3番線のみを使用している(列車によって4番線を使用することもある)。そのため[[事故]]・[[トラブル]]や[[大雨]]・[[落雷]]などでダイヤが乱れた場合、[[沼津駅|沼津]]方面からの列車がホームに入線できないためひとつ前の函南駅で待機か、沼津駅や三島駅、および[[東田子の浦駅]]で打ち切りになることも発生する。
[[改札|改札口]]は駅舎内の1か所のみで、改札口から各ホームに直結する地下道が存在する。
立ち食いそば・うどん店は1番線ホーム東京方にある([[ジャパン・トラベル・サーヴィス|JTS]]運営)。
旅客トイレは、[[精算所]]の近くにあり、多機能トイレも設置されている。
構内に熱海[[列車集中制御装置|CTC]]センター(小田原・伊豆統括センターの管理下)がある。JR東日本東海道本線の[[東京駅]] - [[湯河原駅]]間では[[東京圏輸送管理システム]] (ATOS) が導入されているが、当駅・[[来宮駅]]ならびに伊東線の運行管理・進路制御は熱海CTCセンターで行っている。
==== のりば ====
{|class="wikitable"
!番線!!事業者!!路線!!方向!!行先!!備考
|-
!1
|rowspan="2"|JR東日本
|rowspan="2"|[[File:JR JT line symbol.svg|15px|JT]] 伊東線
|rowspan="3" style="text-align:center;"|下り
|rowspan="2"|[[伊東駅|伊東]]・[[伊豆急下田駅|伊豆急下田]]方面
|当駅始発の[[普通列車|普通]]
|-
!rowspan="2"|2・3
|東海道線からの[[特急]]・普通
|-
|JR東海
|[[File:JR Central Tokaido Line.svg|15px|CA]] 東海道線
|[[三島駅|三島]]・[[沼津駅|沼津]]・[[静岡駅|静岡]]方面
|一部列車は4番線
|-
!rowspan="2"|4・5
|-
|JR東日本
|[[File:JR JT line symbol.svg|15px|JT]] 東海道線<br />([[上野東京ライン]])
|上り
|[[小田原駅|小田原]]・[[横浜駅|横浜]]・[[品川駅|品川]]・[[東京駅|東京]]・[[上野駅|上野]]方面
|一部列車は3番線
|}
(出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/64.html JR東日本:駅構内図])
* 1番線は伊東線の折り返し普通列車のみ使用している。かつては東海道線下り本線から1番線に進入可能となっていたが、伊東線直通の減少や配線の改良に伴い分岐器を撤去し、伊東・伊豆急下田方面への折り返し専用となった。当駅から普通列車で伊豆急下田駅へ向かう場合、一部時間帯では伊東駅ないし伊豆高原駅で乗り換えとなる列車がある。
* 東海道線から伊東線を直通する場合、下りは2番線、上りは4番線を基本に使用する。
* 在来線はJR東日本とJR東海の境界駅である。会社相互間を直通する普通列車は[[2004年]]10月16日の[[ダイヤ改正]]で大幅に削減され、朝夕の通勤時間帯と夜間を除いて当駅で乗り換えが必要となっている。乗り換え時間が短い場合でも、階段連絡でホーム間の移動が必要なことが多い。また、一部を除き当駅を境に列車の編成両数・ドア枚数が極端に変わるため(例、JR東日本・東京方面の列車が4ドア15両、JR東海・浜松方面の列車が3ドア3両)、特に東京方面から浜松方面の列車での接続時に起こっているが、隣り合わせで乗り換えができる場合でも短い乗りかえ時間でホーム端から中程まで移動を強いられることもある。
<gallery>
JR Atami-STA Gate.jpg|在来線改札口。左端は在来線TOICA専用出場改札機
JR Atami-STA Home1.jpg|在来線1番線ホーム
JR Atami-STA Home2-3.jpg|在来線2・3番線ホーム
JR Atami-STA Home4-5.jpg|在来線4・5番線ホーム
</gallery>
=== 新幹線 ===
新幹線乗降設備は[[待避駅|待避線]]のない[[相対式ホーム]]2面2線の構造<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=Afu9clEUinQ&t=2770s 記録映画 東海道新幹線]</ref>。ホーム上の乗り場番号は南側(在来線ホーム側)から6番線・7番線の順で付番されている。山肌に沿った高い位置にホームがある。開業当初は安全性確保の観点から停車列車到着直前まで改札制限を行なっていたが、停車列車本数増加に伴い、1974年(昭和49年)に日本で初めて[[ホームドア]](可動柵)が設置されている<ref>{{Cite news |title=東海道新幹線のホームドア その早さも日本一 |newspaper=乗りものニュース |date=2014-12-04 |author=恵知仁(鉄道ライター) |url=https://trafficnews.jp/post/36660 |accessdate=2018-05-20 |quote=全2頁構成(→[https://trafficnews.jp/post/36660/2 2頁目])}}</ref><ref>{{Cite news |title=駅のホームドア 最新型は秒速20センチメートルで移動可能 |newspaper=[[NEWSポストセブン]] |date=2016-09-11 |url=http://www.news-postseven.com/archives/20160911_447025.html |accessdate=2018-05-20 |quote=全3頁構成(→[http://www.news-postseven.com/archives/20160911_447025.html?PAGE=2 2頁目]・[http://www.news-postseven.com/archives/20160911_447025.html?PAGE=3 3頁目])}}</ref><ref>{{Cite news |title=山手線ホームドア設置ほぼ完了 なぜ並行している京浜東北線に設置されないのか |newspaper=ZUU online |date=2016-01-23 |url=https://zuuonline.com/archives/95192 |accessdate=2018-05-20}}</ref>。
当駅はスペースの都合で待避線が設置されなかったため<ref>[[山陽新幹線]]の[[新神戸駅]]も同様</ref>、[[ダイヤグラム|ダイヤ]]作成上のネックとなっている。その上、当駅付近から[[丹那トンネル#新丹那トンネル|新丹那トンネル]]までの区間内には最小曲線[[半径]]1,500 mという新幹線有数の急カーブが控えており、この影響で「[[のぞみ (列車)|のぞみ]]」を始めとする通過列車の速度は200 km/h(かつては185 km/h)に制限されている<ref>{{Cite web|和書|author=今尾恵介(日本地図センター客員研究員、地図研究家) |date=2014-12-07 |url=http://www.library.metro.tokyo.jp/Portals/0/event/26/pdf/chizu_de_yomu_shinkansen(PP).pdf#page=2 |title=講演会『地図で読む新幹線-東海道新幹線開業50周年-』(スライド資料) |format=PDF |work=東京マガジンバンク([[東京都立多摩図書館|都立多摩図書館]]) |publisher=[[東京都立図書館]] |page=2 |accessdate=2016-02-18 |quote=標記講演会の当日現場レポートは[http://www.library.metro.tokyo.jp/reference/tama_library/tokyo_magazinebank/tabid/4011/Default.aspx こちら]。}}《→アーカイブ({{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20160218075524/http://www.library.metro.tokyo.jp/Portals/0/event/26/pdf/chizu_de_yomu_shinkansen(PP).pdf スライド資料]}}・[https://web.archive.org/web/20160218080345/http://www.library.metro.tokyo.jp/reference/tama_library/tokyo_magazinebank/tabid/4011/Default.aspx 当日現場レポート])》</ref><ref>{{Cite news |title=【日本の高速鉄道 その誕生と歴史】第3回「弾丸列車計画が新幹線に与えた影響」 |newspaper=乗りものニュース |date=2014-08-23 |author=赤野克利 |url=http://trafficnews.jp/post/35921/2/ |publisher=(株)メディア・ヴァーグ |accessdate=2016-02-17 |quote=全2頁中2頁目。1頁目は[http://trafficnews.jp/post/35921/ こちら]}}《→アーカイブ([https://web.archive.org/web/20160218082245/http://trafficnews.jp/post/35921/ P1]・[https://web.archive.org/web/20160218082202/http://trafficnews.jp/post/35921/2/ P2])》</ref>。この速度は、東海道新幹線の駅通過速度としては最も遅い。
東海道新幹線の「ひかり」の一部停車駅の中では最も停車本数が少ない駅であり、先述の通り、一日上下各3本のみの停車である(なお、最多は上りは静岡駅・下りは静岡駅・岐阜羽島駅・米原駅で、いずれも19本が停車)。
JR東日本の地下道とJR東海の新幹線コンコースとの間には、乗換改札が設置され、在来線側にJR東海が営業する[[みどりの窓口|JR全線きっぷうりば]]がある。
[[地形]]の関係上、新幹線独自の改札口は設けられておらず、JR東海の新幹線改札内へはJR東日本の在来線駅構内を経由しなければならない構造となっているため、JR東海のみが扱う[[乗車券]]・[[サービス]]([[エクスプレス予約]]で後述のICカードを使用しない場合や[[e5489]]でJR東海エリアを含む予約など)を受ける旅客はJR東日本の改札口で「熱海駅構内通過票」の交付を受けた上で、JR東海のJR全線きっぷうりばまで出向く必要がある。[[エクスプレス予約|EX-ICカード]]や[[プラスEX|プラスEXカード]]を所持している場合は、Suicaなどの都市圏の[[乗車カード|ICカード乗車券]](当駅改札内に入る場合は最低147円の残高が必要)をJR東日本の[[自動改札機]]にタッチさせた上で、新幹線の自動改札機に都市圏のICカードとEX-ICカードまたはプラスEXカードを2枚重ねてタッチすることで、新幹線ホームへの入出場が可能となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://expy.jp/faq/category/detail/?id=61|title=熱海駅など、新幹線直接口のない駅から入場し、エクスプレス予約を利用して新幹線に乗車するにはどうしたらいいですか?|accessdate=2018-09-22|website=expy.jp|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=交通系ICカードでの乗車方法 {{!}} 乗車ガイド|url=https://smart-ex.jp/entraining/|website=スマートEX|accessdate=2020-04-24|language=ja}}</ref>。
==== のりば ====
{|class="wikitable"
!番線!!路線!!方向!!行先
|-
!6
|rowspan="2"|[[File:Shinkansen jrc.svg|17px|■]] 東海道新幹線
|style="text-align:center"|下り
|[[新大阪駅|新大阪]]方面
|-
!7
|style="text-align:center"|上り
|東京方面
|}
(出典:[https://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shinkansen/atami/map.html JR東海:駅構内図])
<gallery>
JR Atami-STA Shinkansen-transfer.jpg|新幹線乗換改札口
JR Atami Station Shinkansen Platform 6・7.jpg|新幹線ホーム
</gallery>
== 駅弁 ==
主な[[駅弁]]は下記の通り<ref>{{Cite journal|和書|year=2023|publisher=[[JTBパブリッシング]]|journal=JTB時刻表|issue=2023年3月号|page=39-40,152-153}}</ref>。
{{Div col||20em}}
* 炙り金目鯛と小鰺押寿司
* うなぎ、金目鯛と銀鮭のあいのせ御膳
* 箱根山麓豚弁当カルビ&ロース
* やまゆり牛しぐれ煮弁当
* 小鰺押寿司
* しらす弁当
* 金目鯛西京焼弁当
* デラックスこゆるぎ弁当
* おたのしみ弁当
* こゆるぎ茶めし
* 鯛めし
{{Div col end}}
== 利用状況 ==
* '''JR東日本(在来線)''' - 2022年(令和4年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''9,756人'''である。
* '''JR東海(新幹線)''' - 2020年(令和2年)度の1日平均'''乗車'''人員は'''2,270人'''である。
近年の1日平均'''乗車'''人員の推移は以下の通りである。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|-
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計">[https://toukei.pref.shizuoka.jp/chosa/22-020/index.html 静岡県統計年鑑] - 静岡県</ref><ref group="統計">[http://www.city.atami.lg.jp/shisei/toukei/1001262/1001264.html 熱海市統計書] - 熱海市</ref>
|-
!年度
!style="text-align:center;" colspan="1"|JR東日本<br />(在来線)
!style="text-align:center;" colspan="1"|JR東海<br />(新幹線)
!出典
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|13,225
|6,790
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_14.pdf 静岡県統計年鑑1993(平成5年)]}}</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|12,942
|6,590
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_13.pdf 静岡県統計年鑑1994(平成6年)]}}</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|12,325
|6,460
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_12.pdf 静岡県統計年鑑1995(平成7年)]}}</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|12,091
|6,330
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_11.pdf 静岡県統計年鑑1996(平成8年)]}}</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|11,485
|5,980
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_10.pdf 静岡県統計年鑑1997(平成9年)]}}</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|11,080
|5,510
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_9.pdf 静岡県統計年鑑1998(平成10年)]}}</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|10,539
|5,220
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_8.pdf 静岡県統計年鑑1999(平成11年)]}}</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000_01.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>10,181
|5,000
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_7.pdf 静岡県統計年鑑2000(平成12年)]}}</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001_01.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>10,066
|4,929
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_6.pdf 静岡県統計年鑑2001(平成13年)]}}</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002_01.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>9,606
|4,722
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_5.pdf 静岡県統計年鑑2002(平成14年)]}}</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003_01.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>9,498
|4,794
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_4.pdf 静岡県統計年鑑2003(平成15年)]}}</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004_01.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>9,486
|4,762
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_3.pdf 静岡県統計年鑑2004(平成16年)]}}</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005_01.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>9,592
|4,915
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/h17_11_6.pdf 静岡県統計年鑑2005(平成17年)]}}</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006_01.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>9,607
|5,000
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_01-02_2.pdf 静岡県統計年鑑2006(平成18年)]}}</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007_01.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>9,657
|5,001
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_01-02_3.pdf 静岡県統計年鑑2007(平成19年)]}}</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008_01.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>9,905
|4,906
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_01-02.pdf 静岡県統計年鑑2008(平成20年)]}}</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009_01.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>9,670
|4,481
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06.pdf 静岡県統計年鑑2009(平成21年)]}}</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010_01.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>9,272
|4,346
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_1.pdf 静岡県統計年鑑2010(平成22年)]}}</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011_01.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>8,871
|4,203
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_23.pdf 静岡県統計年鑑2011(平成23年)]}}</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012_02.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>9,239
|4,260
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/h24_11_06.pdf 静岡県統計年鑑2012(平成24年)]}}</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013_02.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>9,499
|4,423
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/h25_11_06.pdf 静岡県統計年鑑2013(平成25年)]}}</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014_02.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>9,583
|4,452
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/h26_11_06.pdf 静岡県統計年鑑2014(平成26年)]}}</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015_02.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>9,842
|4,543
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/h27_11_06.pdf 静岡県統計年鑑2015(平成27年)]}}</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016_02.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>10,057
|4,583
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/h28_11_06.pdf 静岡県統計年鑑2016(平成28年)]}}</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017_02.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>10,635
|4,805
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/h29_11_06.pdf 静岡県統計年鑑2017(平成29年)]}}</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018_02.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>10,753
|4,825
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/h30_11_06.pdf 静岡県統計年鑑2018(平成30年)]}}</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019_02.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>10,820
|4,690
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/r01_11_06.pdf 静岡県統計年鑑2019(令和元年)]}}</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020_02.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>6,747
|2,270
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/r02_11_06.pdf 静岡県統計年鑑2020(令和2年)]}}</ref>
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021_02.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>7,605
|
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_02.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>9,756
|
|
|}
== 駅周辺 ==
[[File:Atami view from ocean.jpg|thumb|熱海温泉(2004年)。海岸線の平坦部から、すぐに上り斜面となっている。]]
[[国際観光文化都市]]熱海市の主要部である熱海市市街地の北側に立地し、駅前には[[熱海温泉]]の[[ホテル]]・[[旅館]]・[[土産|みやげ物]]店が立ち並ぶ。
[[駅前広場]]に[[足湯]]「家康の湯」があり、駅前[[商店街]]前に[[熱海軽便鉄道]]の7号[[蒸気機関車]]が[[静態保存]]されている。
{{columns-list|2|
* [[熱海第一ビル]] - 計画中止となった[[未成線]]の[[熱海モノレール]]駅予定地が地下3階に残っている。
* 熱海簡易裁判所
* [[静岡家庭裁判所]]熱海出張所
* 熱海区検察庁
* 熱海駅前郵便局
* [[熱海サンビーチ]]
* [[お宮の松]]
* [[国際医療福祉大学熱海病院]]
* [[MOA美術館]]
* [[熱海城]]
* [[東横イン]]熱海駅前
|}}
※熱海市役所や熱海税務署は、隣駅である伊東線[[来宮駅]]が最寄り駅である。
== バス路線 ==
<!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。-->
「熱海駅」停留所が設置されており、[[伊豆東海バス|東海バス]]や[[伊豆箱根バス]]が運行する路線バスが発着する。
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!のりば!!運行事業者!!系統・行先!!備考
|-
!0
|style="text-align:center;"|東海バス
|'''[[湯〜遊〜バス]]''':[[錦ヶ浦]]入り口・[[ACAO FOREST|アカオフォレスト]]・[[大湯間歇泉]]方面
|-
!1
|rowspan="2" style="text-align:center;"|伊豆箱根バス
|{{Unbulleted list|[[伊豆箱根バス三島営業所#熱海駅・湯河原駅発着路線|'''熱11''']]:相の原団地|'''熱14''':[[来宮駅|来の宮駅]]・梅園・来の宮神社前方面|'''熱15''':[[大場駅]]前}}
|「熱15」は夕方2本のみ運行
|-
!2
|{{Unbulleted list|'''熱22''':国際専門学校前・笹良ヶ台団地上方面|'''熱23''':小学校前|'''AT52'''・'''AT53''':[[元箱根]]・[[箱根園]]|'''AT57''':[[伊豆箱根鉄道十国鋼索線|十国峠登り口]]}}
|「AT52」の土休日は[[箱根関|箱根関所跡]]止まり
|-
!3
|rowspan="4" style="text-align:center;"|東海バス
|{{Unbulleted list|[[東海バス熱海営業所#紅葉ヶ丘・ひばりヶ丘線|'''A31'''・'''A32''']]:ひばりヶ丘|'''A35'''・'''A36''':紅葉ヶ丘|'''A37'''・'''A38''':上の山}}
|
|-
!4
|{{Unbulleted list|[[東海バス熱海営業所#七尾線|'''A41''']]・[[東海バス熱海営業所#伊豆山・湯河原線|'''A47'''・'''A48''']]:[[伊豆山神社]]前方面|'''A43''':七尾団地}}
|
|-
!5
|{{Unbulleted list|'''A51''':[[湯河原駅]]|'''A52''':[[伊豆山 (熱海市)|伊豆山]]}}
|
|-
!6
|{{Unbulleted list|[[東海バス熱海営業所#網代・弘法滝線|'''A61'''・'''A62''']]:弘法滝藤哲|'''A63'''・'''A64''':網代旭町|'''A65'''・'''A66''':網代車庫|'''A68''':桜ヶ丘}}
|
|-
!7
|style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|東海バス|伊豆箱根バス}}
|[[東海バス熱海営業所#後楽園線|'''A71''']]:[[熱海後楽園]]
|
|-
!8
|style="text-align:center;"|東海バス
|[[東海バス熱海営業所#MOA線|'''A81''']]:[[MOA美術館]]
|朝2本のみ運行
|}
== 隣の駅 ==
<!-- 普通列車はいつも直通するわけではないので、直通先は記載しない --->
; 東日本旅客鉄道(JR東日本)
: [[File:JR JT line symbol.svg|15px|JT]] 東海道線
:* 特急[[踊り子 (列車)|「踊り子」「サフィール踊り子」]]、寝台特急「[[サンライズ瀬戸]]」「[[サンライズ出雲]]」停車駅
:: {{Color|#18a629|■}}普通
::: [[湯河原駅]] (JT 20) - '''熱海駅 (JT 21)''' - (一部が東海区間へ直通)
: [[File:JR JT line symbol.svg|15px|JT]] 伊東線
:* 特急「踊り子」「サフィール踊り子」停車駅
:: {{Color|#18a629|■}}普通
:::(東海道線) - '''熱海駅 (JT 21)''' - [[来宮駅]] (JT 22)
; 東海旅客鉄道(JR東海)
: [[File:Shinkansen jrc.svg|17px|■]] 東海道新幹線(各列車の停車駅は列車記事参照)
::: [[小田原駅]] - '''熱海駅''' - [[三島駅]]
: [[File:JR Central Tokaido Line.svg|15px|CA]] 東海道本線
:* 特急「踊り子」、寝台特急「サンライズ瀬戸」「サンライズ出雲」停車駅
::: ([[沼津駅|沼津]]発着の一部が東日本区間へ直通) - '''熱海駅 (CA00)''' - [[函南駅]] (CA01)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 記事本文 ===
<!--==== 注釈 ====
{{Reflist|group="注釈"}}
-->
==== 出典 ====
{{Reflist|2}}
===== 報道発表資料 =====
{{Reflist|group="報道"}}
===== 新聞記事 =====
{{Reflist|group="新聞"}}
=== 利用状況 ===
{{Reflist|group="統計"}}
; JR東日本の2000年度以降の乗車人員
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; 静岡県統計年鑑
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|editor=石野哲|publisher=[[JTB]]|date=1998-10-01|edition=初版|isbn=978-4-533-02980-6|ref = {{sfnref|石野|1998}} }}
* {{Cite book |和書 |date=1998-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '98年版 |chapter=JR年表 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-119-8|ref=JRR1998}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Atami Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[東海道線 (JR東日本)]]
* [[東海道線 (静岡地区)]] - JR東海が管轄する東海道本線の運転系統についてはこちらを参照されたい。
* [[徳山駅]] - 同じ[[東海道・山陽新幹線]]区間にあり、当駅と同じく急カーブにより185km/h制限が設けられている。
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=64|name=熱海}}
* [https://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shinkansen/atami/ JR東海 熱海駅]
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[[Category:日本の鉄道駅 あ|たみ]]
[[Category:静岡県の鉄道駅]]
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[[Category:東海旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:東海道線 (JR東日本)]]
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[[Category:熱海市の交通|あたみえき]]
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8,656 | セム語派 | セム語派(セムごは)ないしセム語族(セムごぞく)は、言語学においてアフロ・アジア語族に属する言語グループである。
「セム語」という名称は、18世紀ドイツの歴史学者アウグスト・シュレーツァーによって、トーラーに記述されているノアの息子のセムにちなんで名づけられた。これが19世紀に発展した比較言語学研究の中で語族名に転用され、「セム語族」という用語が生まれた。
かつてはセム語族の上位にセム・ハム語族が立てられ、セム・ハム語族はインド・ヨーロッパ語族、ウラル・アルタイ語族(現在、ウラル語族とアルタイ諸語は別のグループとされている)と並ぶ世界の3大語族の一つとされていた。20世紀半ば以降、アメリカの言語学者ジョーゼフ・グリーンバーグの研究により、セム・ハム語族を構成するもう一方の語族であるハム語族の存在に疑問が生じたことから、セム・ハム語族は「アフロ・アジア語族」に置き換えられ、セム語派はその中の一語派とされた。
セム語に共通の特徴としては、音声的には子音の種類が多く、とくに強勢音と呼ばれる特徴的な音や咽頭音があることがあげられる。その一方で母音は少なく、アラビア語(フスハー)では a i u ā ī ū ai au のみにすぎない。音節構造は単純で CV または CVC が普通であり、子音結合には制約がある。
文法的には三子音からなる語根がきわめて特徴的で、この三子音の間の母音を交替させたり(貫通接辞)、接尾辞や接頭辞を加えたり、子音を重ねたりすることで複雑な派生を行う。
セム語に属する諸言語の間では基本的な語彙がよく一致し、そこからセム祖語が構築される。
インド・ヨーロッパ語族とは、名詞に性・格・数の区別があり、形容詞や代名詞において性・数・格の一致が見られること、動詞が数と人称で変化すること、母音交替など、類型的に顕著な類似があり、一部の語彙(数詞など)にも関係が指摘されているが、親族関係は証明されていない。
今日話されている主なセム語には、母語話者数の多い順にアラビア語、アムハラ語、ヘブライ語、ティグリニャ語、アラム語がある。それ以外にアッカド語・フェニキア語・ゲエズ語など、歴史に関係する重要な言語も多く、また旧約聖書やコーランなど宗教に関する重要な書物もある。
東方セム語(アッカド語)、北西セム語(アラム語・カナン諸語・ウガリット語)、アラビア語、古代南アラビア語、エチオピア諸語、現代南アラビア語の6つの区分があることは広く認められているが、この6種類がどのような関係にあるかは、学者の間で結論の一致を見ていない。
伝統的な分類では、まずセム語を東西に分け(東セムはアッカド語のみ)、西を北西セムと南セムに、さらに南セムをアラビア語と南東セムに、南東セムを現代南アラビア諸語とエチオピア=古代南アラビアに分けていた。
1970年代になると、ウガリット語とエブラ語が発見され、またアラビア語がもっともセム祖語に近いという従来の考えが反省されるようになった。ロバート・ヘツロン(英語版)は、強勢音が咽頭化音として現れることや、動詞の活用の特徴などから、アラビア語を南セムから除き、北西セムをあわせて新たに「中央セム語」と呼んだ。 | [
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] | セム語派(セムごは)ないしセム語族(セムごぞく)は、言語学においてアフロ・アジア語族に属する言語グループである。 | {{Otheruses|言語学上の概念|セム人の概念|セム族 (民族集団)}}
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}}
'''セム語派'''(セムごは)ないし'''セム語族'''(セムごぞく)は<ref>三省堂『言語学大辞典』第2巻は「セム語族」と記し、『オックスフォード言語学辞典』の日本語版(2009年)は Semitic を「セム語族」と翻訳している。一方、デイヴィッド・クリスタル『言語学百科事典』の日本語版(1992年)は「セム語派」と翻訳している。</ref>、[[言語学]]において'''[[アフロ・アジア語族]]'''に属する言語グループである。
==言語学における沿革==
「セム語」という名称は、[[18世紀]]ドイツの[[歴史学者]][[アウグスト・シュレーツァー]]によって、[[トーラー]]に記述されている[[ノア (聖書)|ノア]]の息子の[[セム]]にちなんで名づけられた。これが[[19世紀]]に発展した[[比較言語学]]研究の中で[[語族]]名に転用され、「セム語族」という用語が生まれた<ref>平凡社 『世界大百科事典』「セム語族」の項。</ref>。
かつてはセム語族の上位に'''セム・ハム語族'''が立てられ、セム・ハム語族は[[インド・ヨーロッパ語族]]、[[ウラル・アルタイ語族]](現在、ウラル語族とアルタイ諸語は別のグループとされている)と並ぶ世界の3大語族の一つとされていた。[[20世紀]]半ば以降、アメリカの言語学者[[ジョーゼフ・グリーンバーグ]]の研究により、セム・ハム語族を構成するもう一方の語族であるハム語族の存在に疑問が生じたことから、セム・ハム語族は「アフロ・アジア語族」に置き換えられ、セム語派はその中の一語派とされた。
==特徴==
セム語に共通の特徴としては、音声的には[[子音]]の種類が多く、とくに[[強勢音]]と呼ばれる特徴的な音や[[咽頭音]]があることがあげられる。その一方で母音は少なく、アラビア語([[フスハー]])では {{unicode|a i u ā ī ū ai au}} のみにすぎない。音節構造は単純で CV または CVC が普通であり、[[子音結合]]には制約がある。
文法的には三子音からなる[[語根]]がきわめて特徴的で、この三子音の間の母音を交替させたり([[貫通接辞]])、[[接尾辞]]や[[接頭辞]]を加えたり、[[子音]]を重ねたりすることで複雑な派生を行う。
セム語に属する諸言語の間では基本的な[[語彙]]がよく一致し、そこから[[セム祖語]]が構築される。
[[インド・ヨーロッパ語族]]とは、名詞に[[性 (文法)|性]]・[[格]]・[[数 (文法)|数]]の区別があり、[[形容詞]]や[[代名詞]]において性・数・格の一致が見られること、[[動詞]]が数と人称で変化すること、[[母音交替]]など、類型的に顕著な類似があり、一部の語彙(数詞など)にも関係が指摘されているが、親族関係は証明されていない。
今日話されている主なセム語には、母語話者数の多い順に[[アラビア語]]、[[アムハラ語]]、[[ヘブライ語]]、[[ティグリニャ語]]、[[アラム語]]がある。それ以外に[[アッカド語]]・[[フェニキア語]]・[[ゲエズ語]]など、歴史に関係する重要な言語も多く、また[[旧約聖書]]や[[コーラン]]など宗教に関する重要な書物もある。
== 下位分類 ==
[[東方セム語]](アッカド語)、[[北西セム語]](アラム語・カナン諸語・ウガリット語)、[[アラビア語]]、[[古代南アラビア語]]、[[エチオピア諸語]]、[[現代南アラビア語]]の6つの区分があることは広く認められているが、この6種類がどのような関係にあるかは、学者の間で結論の一致を見ていない。
伝統的な分類では、まずセム語を東西に分け(東セムは[[アッカド語]]のみ)、西を北西セムと南セムに、さらに南セムをアラビア語と南東セムに、南東セムを現代南アラビア諸語とエチオピア=古代南アラビアに分けていた。
[[1970年代]]になると、ウガリット語とエブラ語が発見され、またアラビア語がもっとも[[セム祖語]]に近いという従来の考えが反省されるようになった。{{仮リンク|ロバート・ヘツロン|en|Robert Hetzron}}は、[[強勢音]]が[[咽頭化|咽頭化音]]として現れることや、動詞の活用の特徴などから、アラビア語を南セムから除き、北西セムをあわせて新たに「中央セム語」と呼んだ<ref>Faber (1997) pp.5-7</ref>。
* [[東セム諸語]]
** [[アッカド語]] -- 消滅
** [[エブラ語]] -- 消滅
* [[中央セム語]]
** [[北西セム語]]
*** [[カナン諸語]]
**** [[フェニキア語]] -- 消滅
**** [[ヘブライ語]]
**** 碑文に残る言語(モアブ語、アモン語、エドム語など)-- 消滅
*** [[アラム語]]
*** [[ウガリット語]]-- 消滅
** [[アラビア語]]
*** 古典アラビア語([[フスハー]]、標準アラビア語)
*** [[アーンミーヤ]](現代口語)
* [[南セム諸語]]
** 東方([[現代南アラビア語]])
*** 東部
**** [[ソコトラ語]]
**** [[シャフラ語]](ジッバーリ語)
*** 西部
**** [[マフラ語]]
**** [[ハラシース語]]
**** [[バトハリ語]]
*** [[ホビョト語]]
** 西方
*** [[古代南アラビア語]] - 消滅。[[中央セム語]]に分類されることもある。
*** [[エチオピア・セム諸語]]
**** 北方
***** [[ティグリニャ語]]
***** [[ティグレ語]]
***** [[ゲエズ語]] -- 消滅
**** 南方
***** 横軸?(Transverse)
****** [[アムハラ語]]
****** アルゴッバ語?([[w:Argobba language|Argobba language]])
****** [[ハラリ語]]([[w:Harari language|Harari language]])
****** 東グラゲ語(East Gurage languages)
******* セルティ語([[w:Silt'e language|Silt'e language]])
******* ズワイ語?([[w:Zay language|Zay language]])
***** 外部?(Outer)
****** [[ソッド語]]([[w:Soddo language]])
****** ムヘル語?([[w:Muher language]])
****** 西グラゲ語(West Gurage languages)
******* マスカン語?([[w:Masqan language]])
******* セバト・ベト・グラゲ語?([[w:Sebat Bet Gurage language]])
******* イノル語?([[w:Inor language]])
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{cite book|author=Faber, Alice|chapter=Genetic Subgrouping of the Semitic Languages|year=1997|title=The Semitic Languages|editor=Robert Hetzron|publisher=Routledge|isbn=9780415412667|pages=3-15}}
{{Normdaten}}
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[[Category:セム語派|*]] | null | 2023-05-23T00:25:33Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%A0%E8%AA%9E%E6%B4%BE |
8,657 | 在来線 | 在来線(ざいらいせん)とは、日本国有鉄道(国鉄)およびそれを継承したJRにおける「新幹線鉄道」以外の鉄道を指す概念で、具体的には日本の鉄道路線のうち路面交通を除くもので最高速度160 km/h以下で走行するものを指す。
日本の鉄道路線には全国新幹線鉄道整備法第2条に規定される新幹線鉄道(「その主たる区間を列車が二百キロメートル毎時以上の高速度で走行できる幹線鉄道」)とそうでない鉄道路線がある。
在来線は1964年(昭和39年)10月の東海道新幹線開業によって従来の国鉄路線を新幹線と区別するために生まれた概念である。したがって新幹線がない時代には在来線の概念も定義もなかった。その後、在来線は日本の鉄道路線のうち路面交通を除くもので最高速度160 km/h以下で走行するものを指すようになっている。
秋田新幹線や山形新幹線といった、いわゆるミニ新幹線は、旅客案内上「新幹線」と称してはいるが、現状では主たる区間を200 km/h以上で走行できないため、これらの路線は法規上は「新幹線」にあたらず「在来線」に分類される。また、新幹線規格の設備や車両を使用していても、博多南線や上越線支線(上越新幹線)の越後湯沢 - ガーラ湯沢間は、旅客営業上「在来線」である。なお、日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(国鉄再建法)により、在来線は幹線と地方交通線に分類されており、新幹線はすべて幹線である(新幹線の語源は「新+幹線」)。
新幹線の開業に伴い、通常は在来線特急列車の利用者が新幹線へ移行するため、新幹線と並行する在来線(「#並行在来線」も参照)は、地域内輸送・新幹線の輸送の補完的な輸送・貨物列車あるいは夜行列車の運行が主体となり、相対的に利用者が減少する。ただし、新幹線と在来線が並行していても別会社による運営である場合など(東京 - 熱海、米原 - 新大阪、小倉 - 博多)は地域の実情に合わせ、在来線でも特急列車や新快速などを積極的に運行していることもある。
1964年(昭和39年)10月1日に日本初の新幹線「東海道新幹線」が開業したが、それまで新幹線がない時代には「在来線」という言葉や定義はなかった。新幹線の誕生に伴い、「新幹線」と従来の国鉄路線(当時。その後開業した在来線規格の路線を含む)を対比させる対義語として生まれたレトロニムである。
並行在来線とは、整備新幹線区間に並行する形で運行する在来線鉄道のことである。
整備新幹線については、1990年(平成2年)12月24日の「整備新幹線着工等についての政府・与党申合せ」により、「建設着工する区間の並行在来線は、開業時にJRの経営から分離することを認可前に確認すること」が合意された。さらに、1996年(平成8年)12月25日の「整備新幹線の取扱いについて 政府与党合意」 において、建設着工する区間の並行在来線については、従来どおり、開業時にJRの経営から分離することとする。具体的なJRからの経営分離区間については、当該区間に関する工事実施計画の認可前に、沿線地方公共団体及びJRの同意を得て確定する。」とされた。よって、整備新幹線の開業により在来線特急等の運行が終了し、採算が見込めない路線をJRが新幹線と共に経営することによる負担増加を避けるため、JRが収益を見込めると判断した区間など(後述)以外に関しては経営分離ができるとされ、第三セクターの運営に委ねられている。なお、一部区間(信越本線 横川 - 軽井沢)では廃線となっている。
JR各社の負担軽減を理由として実施される並行在来線の経営分離は、JR時代に比べ運賃の大幅な上昇となる場合がある。「整備新幹線の建設」と「並行在来線の経営分離」が抱き合わせになったことで、整備新幹線沿線自治体を中心に並行在来線の経営が政治問題化している。JRと第三セクター区間を乗り継ぐ場合、区間によっては割引運賃が適用されている。
並行在来線であっても、新幹線が新設されてもJRの負担が少なく利益が出ると想定される区間や、輸送体系上の事情といった理由で、JRが路線内で必要な区間を引き続き保有して運営を行う場合もある。九州新幹線に並行する鹿児島本線(博多 - 八代及び川内 - 鹿児島中央)、北陸新幹線に並行する信越本線(高崎 - 横川及び篠ノ井 - 長野)はこのケースである。北海道新幹線(新青森 - 新中小国信号場間)に並行する津軽線の青森 - 新中小国信号場間もJRが引き続き保有して運営しているが、当該区間に関しては「津軽線の経営主体(JR東日本)は、北海道新幹線の経営主体(JR北海道)と異なるため、並行在来線ではない」との解釈がなされている。飯山線の豊野 - 飯山間も北陸新幹線と地図上では並行するが、北陸新幹線のルート上の制約でたまたま飯山駅を経由することになったため、本来の並行在来線の意義から外れる同区間は並行在来線とはならず、北陸新幹線の延伸開業後も引き続きJR東日本が運営している。
並行在来線から分岐する枝線の中には、花輪線や飯山線・七尾線のように、全列車が新幹線停車駅まで運行される路線もある。これらの路線の場合、経営分離区間の関係上、新幹線開業後は第三セクター区間に乗り入れる運行形態に変更された。七尾線を除き、直通運転にはJRの車両のみが使用されるため、片乗り入れによる運行となっている。
整備新幹線上に設置される新駅が既存の中心駅と異なる場合は、新幹線アクセス列車が走る区間の経営分離が問題となる。既開業区間のうち、奥羽本線の新青森 - 青森と函館本線の新函館北斗 - 函館はJRが運営しているが、前者についてはJR東日本が並行在来線とみなしていないため経営分離の予定はない。一方、後者についてはJR北海道が「北海道新幹線の新函館北斗 - 札幌開業時に経営分離される並行在来線」の一部と解釈しているため、新幹線札幌延伸時に経営分離される予定である。このうち、長万部 - 余市間に関しては沿線自治体の合意によりバス転換が容認され、北海道新幹線の札幌開業とともに廃止される予定となっている。一方で新函館北斗駅 - 函館駅間が並行在来線であるかどうかについては異論があり、当該区間は並行在来線ではないとの立場に立つ函館市はJRによる運行継続を求めていた。このように並行在来線の選定並びに経営分離の決定権は事実上JR各社が有しているため、沿線自治体とトラブルが生じる例が全国的に見受けられる。西九州新幹線(武雄温泉 - 長崎)では、経営分離に難色を示す沿線自治体との協議の結果、並行在来線の上下分離方式の取扱(別記事内「西九州新幹線#並行在来線の扱い」を参照)が検討されることとなり、最終的に江北駅(旧・肥前山口) - 諫早間に関しては上下分離方式により、新幹線先行開業後23年間はJR九州による運行が継続されることとなり、また、一部区間(肥前浜 - 長崎間)は電化設備の撤去による非電化路線へ運行形態が変更されることとなった。 | [
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] | 在来線(ざいらいせん)とは、日本国有鉄道(国鉄)およびそれを継承したJRにおける「新幹線鉄道」以外の鉄道を指す概念で、具体的には日本の鉄道路線のうち路面交通を除くもので最高速度160 km/h以下で走行するものを指す。 | {{Otheruses|日本の在来線|特殊鉄道以外の鉄道のうち高速鉄道に対する分類|普通鉄道}}
{{複数の問題
|出典の明記 = 2012年11月
|独自研究 = 2019年9月
}}
'''在来線'''(ざいらいせん)とは、[[日本国有鉄道]](国鉄)およびそれを継承した[[JR]]における「[[新幹線]]鉄道」以外の[[鉄道]]を指す概念で、具体的には[[日本の鉄道]]路線のうち路面交通を除くもので[[鉄道の最高速度|最高速度]]160 [[キロメートル毎時|km/h]]以下で走行するものを指す<ref name="akiyama53" />。
== 概要 ==
[[ファイル:JR東日本在来線.jpg|250 px|thumb|首都圏における在来線の例]]
日本の[[鉄道路線]]には[[全国新幹線鉄道整備法]]第2条に規定される新幹線鉄道(「その主たる区間を[[列車]]が二百[[キロメートル毎時]]以上の[[高速鉄道|高速度]]で走行できる[[幹線]]鉄道」)とそうでない鉄道路線がある。
在来線は[[1964年]]([[昭和]]39年)10月の[[東海道新幹線]]開業によって従来の国鉄路線を新幹線と区別するために生まれた概念である<ref name="akiyama53">秋山芳弘『図解入門よくわかる最新鉄道の基本と仕組み』秀和システム、2009年、214頁</ref>。したがって新幹線がない時代には在来線の概念も定義もなかった<ref name="akiyama53" />。その後、在来線は日本の鉄道路線のうち路面交通を除くもので最高速度160 km/h以下で走行するものを指すようになっている<ref name="akiyama53" />。
[[秋田新幹線]]や[[山形新幹線]]といった、いわゆる[[ミニ新幹線]]は、旅客案内上「新幹線」と称してはいるが、現状では主たる区間を200 km/h以上で走行できないため、これらの路線は法規上は「新幹線」にあたらず「在来線」に分類される<ref name="akiyama53" />。また、新幹線規格の設備や車両を使用していても、[[博多南線]]や[[上越線]]支線([[上越新幹線]])の[[越後湯沢駅|越後湯沢]] - [[ガーラ湯沢駅|ガーラ湯沢]]間は、旅客営業上「在来線」である。なお、[[日本国有鉄道経営再建促進特別措置法]](国鉄再建法)により、在来線は幹線と[[地方交通線]]に分類されており、新幹線はすべて幹線である(新幹線の語源は「新+幹線」)。
新幹線の開業に伴い、通常は在来線[[特別急行列車|特急列車]]の利用者が新幹線へ移行するため、新幹線と並行する在来線(「[[#並行在来線]]」も参照)は、地域内輸送・新幹線の輸送の補完的な輸送・[[貨物列車]]あるいは[[夜行列車]]の運行が主体となり、相対的に利用者が減少する。ただし、新幹線と在来線が並行していても別会社による運営である場合など([[東京駅|東京]] - [[熱海駅|熱海]]、[[米原駅|米原]] - [[新大阪駅|新大阪]]、[[小倉駅 (福岡県)|小倉]] - [[博多駅|博多]])は地域の実情に合わせ、在来線でも特急列車や[[新快速]]などを積極的に運行していることもある。
=== 語源 ===
[[1964年]](昭和39年)[[10月1日]]に日本初の新幹線「[[東海道新幹線]]」が開業したが、それまで新幹線がない時代には「'''在来線'''」という言葉や定義はなかった。新幹線の誕生に伴い、「'''新幹線'''」と従来の国鉄路線(当時。その後開業した在来線規格の路線を含む)を対比させる[[対義語]]として生まれた[[レトロニム]]である。
=== 並行在来線 ===
{{See also|整備新幹線#並行在来線問題}}
'''並行在来線'''とは、[[整備新幹線]]区間に並行する形で運行する[[#top|在来線]]鉄道のことである<ref>{{Cite web|和書|title=鉄道:新幹線鉄道について - 国土交通省|url=https://www.mlit.go.jp/tetudo/tetudo_fr1_000041.html|website=www.mlit.go.jp|accessdate=2020-05-26}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=[[杉山淳一]] |date=2015-01-30 |url=https://www.itmedia.co.jp/makoto/articles/1501/30/news028.html |title=赤字で当然、並行在来線問題を解決する必要はない |website=[[ITmedia]] ビジネスオンライン 杉山淳一の時事日想 |publisher=アイティメディア |accessdate=2021-03-20}}</ref>。
整備新幹線については、[[1990年]]([[平成]]2年)[[12月24日]]の「整備新幹線着工等についての[[日本国政府|政府]]・[[与党]]申合せ」により、「建設着工する区間の並行在来線は、開業時に[[JR]]の経営から分離することを認可前に確認すること」が合意された。さらに、[[1996年]](平成8年)[[12月25日]]の「整備新幹線の取扱いについて 政府与党合意」<ref>[https://www.mlit.go.jp/tetudo/shinkansen/shinkansen6_kanren.html#goui 整備新幹線の取扱いについて 政府与党合意]</ref> において、建設着工する区間の並行在来線については、従来どおり、開業時にJRの経営から分離することとする。具体的なJRからの経営分離区間については、当該区間に関する工事実施計画の認可前に、沿線[[地方公共団体]]及びJRの同意を得て確定する。」とされた。よって、整備新幹線の開業により在来線特急等の運行が終了し、[[損益分岐点|採算]]が見込めない路線をJRが新幹線と共に経営することによる負担増加を避けるため<ref name="kensetsu">[http://www.jiti.co.jp/graph/kouji/sin-kyusyu/sin-kyusyu.htm 連載特集・整備新幹線 九州新幹線:明日の九州を支える新幹線整備] - 建設グラフ(自治タイムス)2002年8月号</ref>、JRが収益を見込めると判断した区間など(後述)以外に関しては経営分離ができるとされ、[[第三セクター鉄道|第三セクター]]の運営に委ねられている。なお、一部区間([[信越本線]] [[横川駅 (群馬県)|横川]] - [[軽井沢駅|軽井沢]])では[[廃線]]となっている。
JR各社の負担軽減を理由として実施される並行在来線の経営分離は、JR時代に比べ[[運賃]]の大幅な上昇となる場合がある。「整備新幹線の建設」と「並行在来線の経営分離」が抱き合わせになったことで、整備新幹線沿線自治体を中心に並行在来線の経営が[[政治問題]]化している。JRと第三セクター区間を乗り継ぐ場合、区間によっては割引運賃が適用されている。
並行在来線であっても、新幹線が新設されてもJRの負担が少なく[[利益]]が出ると想定される区間や、輸送体系上の事情といった理由で、JRが路線内で必要な区間を引き続き保有して運営を行う場合もある<ref name="kensetsu" />。[[九州新幹線]]に並行する[[鹿児島本線]]([[博多駅|博多]] - [[八代駅|八代]]及び[[川内駅 (鹿児島県)|川内]] - [[鹿児島中央駅|鹿児島中央]])、北陸新幹線に並行する[[信越本線]]([[高崎駅|高崎]] - [[横川駅 (群馬県)|横川]]及び[[篠ノ井駅|篠ノ井]] - [[長野駅|長野]])はこのケースである。[[北海道新幹線]]([[新青森駅|新青森]] - [[新中小国信号場]]間)に並行する[[津軽線]]の[[青森駅|青森]] - 新中小国信号場間もJRが引き続き保有して運営しているが、当該区間に関しては「津軽線の経営主体([[東日本旅客鉄道|JR東日本]])は、北海道新幹線の経営主体([[北海道旅客鉄道|JR北海道]])と異なるため、並行在来線ではない」との解釈がなされている<ref>{{Cite web|和書|title=北海道新幹線の並行在来線 - ページ 2 / 2|url=https://www.mag2.com/p/news/158658/2|website=まぐまぐニュース!|date=2016-03-19|accessdate=2020-05-26|language=ja}}</ref>。[[飯山線]]の[[豊野駅|豊野]] - [[飯山駅|飯山]]間も北陸新幹線と地図上では並行するが、[[北陸新幹線]]のルート上の制約でたまたま飯山駅を経由することになったため、本来の並行在来線の意義から外れる同区間は並行在来線とはならず<ref group="注釈">北陸新幹線のこの区間は信越本線の新幹線であるため、並行在来線はあくまでも信越本線である。</ref>、北陸新幹線の延伸開業後も引き続きJR東日本が運営している。
並行在来線から分岐する[[支線|枝線]]の中には、[[花輪線]]や飯山線・[[七尾線]]のように、全列車が新幹線停車駅まで運行される路線もある。これらの路線の場合、経営分離区間の関係上、新幹線開業後は第三セクター区間に乗り入れる運行形態に変更された。七尾線を除き、[[直通運転]]にはJRの車両のみが使用されるため、片乗り入れによる運行となっている。
整備新幹線上に設置される新駅が既存の[[中央駅|中心駅]]と異なる場合は、新幹線アクセス列車が走る区間の経営分離が問題となる。既開業区間のうち、[[奥羽本線]]の[[新青森駅|新青森]] - [[青森駅|青森]]と[[函館本線]]の[[新函館北斗駅|新函館北斗]] - [[函館駅|函館]]はJRが運営しているが、前者についてはJR東日本が並行在来線とみなしていないため経営分離の予定はない<ref group="注釈">東北新幹線の並行在来線は[[盛岡駅|盛岡]] - 青森間の[[東北本線]]である。</ref>。一方、後者についてはJR北海道が「北海道新幹線の新函館北斗 - [[札幌駅|札幌]]開業時に経営分離される並行在来線」の一部と解釈しているため、新幹線札幌延伸時に経営分離される予定である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/common/001131887.pdf|title=並行在来線区間(未開業区間を含む)|accessdate=2020-05-26|publisher=国土交通省}}</ref>。このうち、[[長万部駅|長万部]] - [[余市駅|余市]]間に関しては沿線自治体の合意により[[バス代行|バス転換]]が容認され、北海道新幹線の札幌開業とともに廃止される予定となっている<ref>[https://mainichi.jp/articles/20220203/k00/00m/040/247000c JR長万部-余市間は廃線、バス転換へ 並行在来線で全国2例目] - 毎日新聞 2022年2月3日</ref>。一方で新函館北斗駅 - 函館駅間が並行在来線であるかどうかについては異論があり<ref>{{Cite web|和書|title=新幹線開業後の並行在来線はどうなるのか|url=https://hokkaidofan.com/zairaisen/|website=北海道ファンマガジン|date=2010-05-14|accessdate=2020-05-26|language=ja|last=編集部}}</ref>、当該区間は並行在来線ではないとの立場に立つ[[函館市]]はJRによる運行継続を求めていた<ref>{{Cite web|和書|title=【Q&A】18.並行在来線とはそもそも何なのか|url=http://www.shinkansen-hakodate.com/archives/1083|website=北海道新幹線2016.3新函館北斗開業ウェブサイト|accessdate=2020-05-26|language=ja}}</ref>。このように並行在来線の選定並びに経営分離の決定権は事実上JR各社が有しているため、沿線自治体とトラブルが生じる例が全国的に見受けられる<ref>{{Cite journal |和書 |title=北海道新幹線札幌延伸にともなう負の影響について考える |author=角一典 |journal=現代社会学研究 |volume=30 |issue= |pages=19-26 |year=2017 |doi=10.7129/hokkaidoshakai.30.19 |url=https://doi.org/10.7129/hokkaidoshakai.30.19 |publisher=北海道社会学会 |accessdate=2020-05-16}}</ref>。[[西九州新幹線]](武雄温泉 - 長崎)では、経営分離に難色を示す沿線自治体との協議の結果、並行在来線の[[上下分離方式]]の取扱(別記事内「[[西九州新幹線#並行在来線の扱い]]」を参照)が検討されることとなり、最終的に[[江北駅 (佐賀県)|江北駅]](旧・肥前山口) - [[諫早駅|諫早]]間に関しては上下分離方式により、新幹線先行開業後23年間はJR九州による運行が継続されることとなり、また、一部区間([[肥前浜駅|肥前浜]] - [[長崎駅|長崎]]間)は[[鉄道の電化|電化]]設備の撤去による[[非電化]]路線へ運行形態が変更されることとなった。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道]]
* [[600メートル条項]]
* [[JR線]]
* [[国鉄分割民営化]] - 東海道・山陽・上越・東北(上野 - 盛岡間)の各新幹線は[[日本国有鉄道|国鉄]]時代の開業のため並行在来線問題は存在しなかった。
* [[特定地方交通線]]
{{デフォルトソート:さいらいせん}}
[[Category:鉄道路線]]
[[Category:レトロニム]] | 2003-05-19T12:31:28Z | 2023-11-16T11:02:01Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E6%9D%A5%E7%B7%9A |
8,658 | 九州旅客鉄道 |
九州旅客鉄道株式会社(きゅうしゅうりょかくてつどう、英: Kyushu Railway Company) は、九州地方を中心として旅客鉄道等を運営する日本の鉄道事業者。1987年4月1日に日本国有鉄道(国鉄)から大分・熊本・鹿児島の各鉄道管理局および九州総局が管理していた鉄道事業を引き継いで発足したJRグループの旅客鉄道会社の一つ。通称はJR九州(ジェイアールきゅうしゅう)、英語略称はJR Kyushu。コーポレートカラーは赤色。
鉄道事業のほか、旅行業や小売業、不動産業、農業などの関連事業も多角的に展開し、関西や首都圏といった九州以外の日本国内エリアや、タイなど一部日本国外にも進出している。本社は福岡県福岡市博多区。切符の地紋には「K」と記されている。東京証券取引所プライム市場・福岡証券取引所上場企業。
鉄道事業においては、九州地方に鉄道路線(九州新幹線・西九州新幹線と在来線)を有し、2023年6月13日時点で総営業キロ数 2,342.6 km、595駅(駅数にBRT駅含む)の運営を行っている。
鉄道事業においては、JR九州発足から2016年3月期まで一度も営業黒字を計上したことがなく、九州新幹線が全線開業した後も依然として厳しい経営状況が続いていた。2015年度に実施された減損会計による減価償却費の大幅な圧縮や合理化などにより、2017年3月期の決算においてJR九州発足以来初めて鉄道事業が250.8億円の営業黒字となった。
その一方で、鉄道事業を補完するため旅行・ホテル、不動産、船舶、飲食業、農業など事業の多角化を推し進めており(「グループ会社」も参照)、その営業範囲は九州のみならず首都圏 などや日本国外にも展開している。2017年9月にはタイで不動産開発などを手掛ける現地法人「タイJR九州キャピタルマネジメント株式会社」の開設を、同年12月にはタイの首都バンコクにおける「タイJR九州ビジネスディベロップメント」設立と長期滞在用サービスアパートメント事業参入 を発表した。
訪日外国人による鉄道などの利用も重視しており、2018年7月に戦略的提携を結んだ中国のアリババグループ など外国企業とも協力関係にある。
2016年9月中間期の売上高に占める「非鉄道」部門の割合は51%と過半を超えており、民営化以降こうした事業の多角化が経営面での安定に寄与したこともあって、『旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社に関する法律の一部を改正する法律』(平成27年法律第36号)が2015年6月10日に公布、2016年4月1日に施行され、JR旅客会社では東日本旅客鉄道(JR東日本)・西日本旅客鉄道(JR西日本)・東海旅客鉄道(JR東海)に次いで4番目、本州以外に鉄道路線を有する、経営が厳しいと見られているいわゆる「三島会社」では初の上場および完全民営化を果たした。なお、完全民営化前に経営支援策として設定されていた経営安定基金(3877億円、元本の利用はできない。利益配当のみ経常利益に含まれる)については、九州新幹線の施設使用料(年102億円)の一括前払い(計2205億円)および借入金の償還などに充てられている。
1987年のJR九州発足後は、福岡市博多区の博多駅前に福岡本社(登記上本店)、北九州市門司区の門司港駅隣の旧国鉄九州総局ビルに北九州本社を構えていたが、2001年に福岡本社に統合し、北九州市小倉北区の西小倉駅近隣(小倉駅からも至近)に北部九州地域本社を設置している。
鉄道事業においては、博多駅・熊本駅・鹿児島中央駅の各都市間の輸送を主としている九州新幹線と、博多駅を中心に九州の各主要都市間を結ぶ在来線特急列車などの中長距離輸送が主な収益源となっているが、九州では主たる都市間を結ぶ高速道路の整備が早期から進んでおり、JR九州の列車に対して料金面で優位性のある高速バスが九州の各地で競合している。さらに福岡市と北九州市の大都市同士を結ぶ博多駅 - 小倉駅間では国鉄分割民営化により、山陽新幹線が西日本旅客鉄道(JR西日本)の所有となったことで、JR九州の所有する鹿児島本線の同区間を走る特急列車(「きらめき」「ソニック」など)と、時間的な優位性のあるJR西日本の山陽新幹線が競争関係になった。宮崎県と福岡県の移動では所要時間が短い航空機を使う人も多く、九州内では競合交通機関に対して時間面、料金面、利便性の面などで圧倒的な優位性を発揮できる区間は限られているのが現状である。九州新幹線は山陽新幹線と直通運転を行い、九州の各都市と山陽地方や関西とを結んでいるが、ここでも高速バスや航空機と競合関係にある。
近距離輸送の面では、管内には福岡市・北九州市(北九州・福岡大都市圏)をはじめ、九州各県の県庁所在地の近郊など比較的輸送量の多い線区も存在するが、首都圏や関西圏などのように莫大な収益をもたらすものではなく、経営の一助になるには至っていない。むしろ、管内には輸送密度が低いローカル線も多く抱え、沿線の過疎化などの社会問題も相まって年々利用が減少しており、経営の負担になっている。
このような経営環境にあり、ネット予約を用いた割引切符の拡充や増発などで主力である中長距離輸送のサービス向上を図る一方、現業部門のコスト縮減・合理化の一環として以下の施策により現業部門の人員削減を進めているほか、2020年代に入るとコロナ禍による鉄道事業の大幅な減収への対策として、不要な設備の撤去や普通・快速列車のロングシート化などによる保有車両数の削減を打ち出している。
その他、線路のメンテナンスにロボットを導入することなども検討中であるとしている。
これらの施策の結果、発足初年度の営業損益は288億円の赤字となったが、九州新幹線が部分開業した2004年度には、営業損益が黒字に転換した。2011年3月12日に全線開業した九州新幹線の営業収益は2017年3月時点でおよそ501億円となり、JR九州の鉄道事業全体の収益(同年1464億円)の3分の1以上を占めるに至るなど、事業の大きな柱となっている。これを軸として、D&S列車と称する観光列車などで引き続き地域の活性化や鉄道事業の収益拡大を図りつつ、不動産などの沿線開発や事業の多角化を進め、鉄道事業と関連事業の相乗効果をもって利益を拡大する事業戦略を推進している。2016年度から3カ年の中期経営計画では「総合的な街づくり企業グループを目指す」としている。
2016年の株式公開においては、投資家の間でも訪日観光客の強い伸びが安定した企業成長につながるといった見方があるとされている。
九州新幹線西九州ルートのうち武雄温泉駅 - 諫早駅間が2008年4月、諫早駅 - 長崎駅間が2012年8月に着工され、2022年9月23日に武雄温泉駅 - 長崎駅間が西九州新幹線として開業した。
優等列車の運行については民営化後、博多駅を中心とした体系に改められ、同駅から九州各県の主要駅に向かう新幹線・在来線特急列車が発着している。
九州新幹線は、九州内においては博多駅・熊本駅・鹿児島中央駅の各都市間の輸送を主としている。このほかにも主な新幹線停車駅で、佐賀・長崎・大分・宮崎の各県庁所在地を結ぶ在来線特急列車や高速バスと連絡している。加えて、山陽新幹線の新大阪駅と鹿児島中央駅との間で直通運転も行っている。
通常は博多駅から熊本駅までは1時間あたり3 - 4本、鹿児島中央駅までは2本 - 3本の頻度で運行されており、繁忙期などは山陽新幹線に直通する臨時列車も多数運行され、最大で1時間に6本ほど運行される時間帯もあるなど、高頻度での運行がなされている。
在来線特急列車は博多駅を中心として、小倉駅・佐賀駅・長崎駅・佐世保駅・大分駅などの間で特急列車を運行している。特に博多駅 - 小倉駅・佐賀駅間に関しては、「在来線特急毎時上下各2-3本運転」 と高頻度での運行を行っている。宮崎駅に関しては途中駅での接続で対応しているが、特急料金の通算や同一ホームでの乗り換えなどで便宜を図っている。このほかにも宮崎駅 - 鹿児島中央駅間や、大分駅 - 熊本駅間を結ぶ特急列車も運行されている。
博多駅はかつて日本で在来線特急が最も多く発着するターミナル駅となっていた。特に九州新幹線全線開業前の博多駅 - 鳥栖駅間は3系統8種の特急列車(「リレーつばめ」「有明」「かもめ」「みどり」「ハウステンボス」「ゆふ」「ゆふDX」「ゆふいんの森」)が運転され線路容量は限界に達しており、2003年には待避専用の太宰府信号場が設置されたほどである。2011年3月12日に九州新幹線が全線開業して「リレーつばめ」が廃止、「有明」が朝晩のみの運行になったことでこの区間の線路容量にも若干余裕ができたため、1976年の長崎本線・佐世保線電化開業以来行われていた「かもめ」「みどり」の併結運転は終了した。「みどり」は「ハウステンボス」と併結運転を行っており、「かもめ」との併結運転が終了するまでは「かもめ・みどり・ハウステンボス」の3階建て列車が運行されていた。
2008年6月発売の時刻表から、管内の「エル特急」の呼称が全て「特急」に変更された。
なお、定期運行の寝台特急については1994年に「あさかぜ1・4号」「みずほ」が廃止されたのを皮切りに縮小が進み、2009年3月14日のダイヤ改正で「はやぶさ」「富士」が廃止されたことでJR九州管内から消滅した。そして2011年3月12日のダイヤ改正で「ドリームにちりん」が廃止されたことで定期運行の夜行列車自体が消滅した。
急行列車については特急格上げや廃止が進められ、2004年に「くまがわ」が特急に格上げされたことで消滅した。
JR九州の発足後、都市圏輸送の強化のため普通列車の増発が進められ、長距離を運行する普通列車の系統を分離、JR他社線への直通運転を廃止するなど、運転区間の細分化、需要に合わせた短編成化も並行して行われた。また福岡都市圏を中心に、快速列車の新規設定や増発・停車駅追加などを実施した。しかし2000年代以降、博多 - 小倉間では特急列車の増発が図られるとともに、快速列車については停車駅の追加のほか毎時1本を準快速に格下げし快速区間の短縮を行った。朝や夜間の一部を除く大半の列車で待避停車があり、博多 - 小倉間を日中の快速は68-70分。準快速にいたっては通過駅が5駅しかなく78分を要することとなり、最速55分で結んでいた国鉄時代と比較しても同区間の所要時間は大きく延びている。振り子式車両の883系や885系を投入して大幅に速度向上した特急列車との格差は拡大している。
九州各地の在来線特急列車や新幹線も、乗車距離の短い区間に廉価な特急料金や割引切符を設定し、列車の増発や停車駅を拡大することによって、短距離でも利用しやすい体制を整えている。
JR九州では、管内各地のローカル線で「D&S(デザイン&ストーリー)列車」と称する観光列車を多数運行している。「D&S」とは、これらの列車にはそれぞれ特別なデザインと運行する地域に基づくストーリーがあり、「デザインと物語のある列車」であることに由来する。
2023年10月時点において、JR九州管内で以下の11種類のD&S列車が運行されている。
1989年に同社初の観光列車として特急「ゆふいんの森」が運行を開始し、2004年には九州新幹線が一部開業することを契機に、鹿児島県・宮崎県を中心として多数の観光列車が運行を開始した。その後、九州新幹線が全線開業、沿線である熊本・鹿児島両県でさらなる観光列車の投入が行われた。
D&S列車はそのほとんどが従来から使用されていた車両をリニューアルした車両で運行されており、中には普通列車用の車両を改造し、観光特急と称して運行している列車もある。D&S列車はその全てが水戸岡鋭治によるデザイン・設計である。
各D&S列車の特徴としては、内外装やサービスに乗客を楽しませる仕掛けが施されてあり、車内にアルコール飲料を提供するバーを備えた特急「A列車で行こう」や、沿線の浦島太郎伝説にちなみ、ドアが開くとドア上部から玉手箱の煙に見立てた白いミストが噴出する特急「指宿のたまて箱」、中には、列車の運行中に客室乗務員が沿線の日本神話をモチーフにした手作りの紙芝居を披露するサービスが行われている特急「海幸山幸」といった列車も運行されている。
2019年11月21日に12番目のD&S列車として、787系を改造した初の電車ベースの専用車両で九州内を毎週5日かけて周遊して運転する「36ぷらす3」が発表され、2020年10月16日から運転を開始した。D&S列車として初めての他社線乗り入れ(肥薩おれんじ鉄道線内を通過)を実施している。
2004年に運行を開始した「はやとの風」は、2022年3月に運転終了、車両は「いさぶろう・しんぺい」用予備車とともに「ふたつ星4047」に改造され、同年9月23日より運行を開始した。
肥薩線で1996年3月16日(専用車両は2004年3月13日)から運行されていた「いさぶろう・しんぺい」は2020年7月に同線が水害で不通となった後、車両がツアー列車などで運行されていたが、2023年10月4日で運行を終了した。車両はキハ125形1両とともに久大本線で2024年春運行開始予定の新D&S列車「かんぱち・いちろく」に改造される予定である。
2013年10月15日から、寝台列車「ななつ星 in 九州」を運行している。ななつ星in九州は、1室の料金が1人最大55万円ともなる超豪華寝台列車で、数日にわたって九州を周遊する。日本初となる観光に特化した寝台列車(クルーズトレイン)であり、主に国内やアジアの富裕層をターゲットにする。
1996年に普通運賃を値上げしつつ、JR他社より安いグリーン料金や、JRグループの中では唯一、在来線特急の繁忙期(指定席特急料金が200円増しになる時期)の設定をなくすなど料金の値下げを行った。ただし、九州新幹線に関しては繁忙期・通常期・閑散期の設定がなされており、2022年4月には在来線特急にも繁忙期が再設定され、時期により指定料金が異なっている。
JR九州の競争区間(主に九州内の高速バス)の対象である旅客に対する値下げ戦略は、2001年に割引きっぷのほとんどを特急回数券「2枚きっぷ・4枚きっぷ」に集約した。この「2枚きっぷ・4枚きっぷ」において、高速バスとの競合する区間では普通乗車券よりも安くなる区間も存在する。
インターネットでの割引切符の予約・販売も推進しており、「2枚きっぷ」と同等の価格で片道から購入できる「九州ネットきっぷ」、早期予約で「4枚きっぷ」以上の割引率で片道から購入できる「九州ネット早得」といった割引切符が設定されている。JR九州のインターネット予約サービスはJR西日本の同サービス「e5489」とも連携しており、山陽新幹線方面のインターネット専用割引切符「eきっぷ」「スーパー早得きっぷ」も購入できる。
快速・普通列車用の割引回数券としては、6枚つづりの「ミニ回数券」があったが、2016年1月31日に発売を終了した。特急列車の設定のない一部の区間(長崎駅 - 佐世保駅間、唐津駅 - 福岡市地下鉄空港線博多駅間など)では、普通列車用の「2枚きっぷ・4枚きっぷ」を発売している。
若者向けの割引商品として、1996年に16歳から29歳までの人が入会可能な会員制割引サービス「ナイスゴーイングカード」を開始し、2011年まで新規入会受付を継続した。2012年からは16歳から24歳までの人が購入可能で2枚きっぷ・4枚きっぷより割引率の高い割引きっぷ「ガチきっぷ」を長期休暇期間に発売している。
全線フリーの企画乗車券については以前「九州グリーン豪遊券」(2003年まで)・「九州レディースパス」(2002年まで)の発売が終了してから数年間存在しなかったが、2007年に入り特急列車・九州新幹線が利用可能な「九州特急フリーきっぷ」が発売開始され、以後使用期間を限定し、商品名を変更して発売されている。同年にはJR九州の普通列車と九州内の私鉄路線に乗車できる「旅名人の九州満喫きっぷ」が発売された。
このように割引きっぷを設定する一方、急行列車の特急格上げ、山陽新幹線と在来線の乗継割引の廃止など、負担増となった例もある。九州新幹線には新幹線と在来線の乗継割引が導入されていない。
車両の禁煙化については、民営化直後の1988年には普通・快速列車の分煙化を行い、さらに1995年には普通・快速列車は全面禁煙とした。一方、特急列車でも年々禁煙車は増加しており、2003年からは特急列車の喫煙車は編成最後部(下り列車基準)の1両のみとし、指定席・自由席を1両に集約していた。1999年に投入された「有明」用の787系では、喫煙ルームを設けることで客室内を禁煙とした。
その後、2007年3月18日のダイヤ改正で、JR北海道・JR東日本と共に管内特急の喫煙コーナーの廃止を含む大幅な禁煙化が行われた。この改正により管内特急の大半が全面禁煙となり、「にちりん」「ひゅうが」「きりしま」に喫煙車が、「ゆふ」「ゆふDX」「ゆふいんの森」「九州横断特急」「くまがわ」に喫煙ルーム(客席内は禁煙)が残るのみとなった。2009年3月14日のダイヤ改正でこれら特急の喫煙車および喫煙ルームが廃止となり、当時残っていた寝台特急を除いて全特急が完全禁煙となった。
なお、九州新幹線に関しては、部分開業した2004年に運行を開始した「つばめ」に充当された800系に関しては、当初から全面禁煙であった。全線開業に伴い運行を開始したN700系では客室内は全室禁煙で、3・7号車に喫煙ルームが設置され、JR九州管内を運行する列車では2年ぶりに喫煙可能の列車が登場した。
2017年1月時点でJR九州管内を運行する列車において、車内での喫煙が可能な列車はN700系で運行される九州新幹線列車の喫煙ルームのみで、それ以外の列車は新幹線・在来線とも全面禁煙となっている。
2012年4月1日からは福岡・北九州都市圏の一部エリアの在来線駅においてホーム上の喫煙コーナーを廃止し、全面禁煙となった。ただし、博多駅・小倉駅の喫煙ルームは存続している。
2023年4月1日現在
ダイヤ改正については3月に実施することが多く、他のJR各社に合わせて実施される。
JR九州発足以降に同社の路線で運行されている、もしくはかつて運行されていた愛称付きの列車を挙げる(2023年10月5日時点。廃止列車は廃止時点)。種別が変更された列車は変更後のもので記載し、他社の車両による運行のものはその会社名も記載する。詳細は各列車の記事を参照。
JR九州の車両のデザインは、鮮やかな色彩を用い、社名英称・列車愛称・形式称号などをヘルベチカによるレタリングに統一した塗装と、快適さを主眼においた内装を持っている。これらは同社のデザイン顧問に就任した水戸岡鋭治(ドーンデザイン研究所)が手掛けたものである。建築デザイナーとしてホテルや公共施設のデザインを手がけていた水戸岡は、1988年のキハ58系「アクアエクスプレス」からJR九州の車両デザインに参加する。効率と採算重視というそれまでの鉄道車両の常識の対極をいくとも言える「居住空間としての客席」との考え方によるデザイン により、1992年の787系「つばめ」は、そのデザインと優れた内装によって、ブルーリボン賞・グッドデザイン商品(現・グッドデザイン賞)といった日本国内の賞のみならず、日本国外からもブルネル賞を受賞している。以降も水戸岡は883系「ソニック」・885系「かもめ」そして新幹線800系「つばめ」などの特急用にとどまらず、普通列車用まで含めた新車両や、国鉄から継承した車両のリニューアルでもデザインを手がけている。D&S列車(観光列車)に使用されている車両の大半は国鉄から継承した車両の内外装を水戸岡のデザインを基に改造した車両であり、特に「はやとの風」「指宿のたまて箱」「かわせみ やませみ」などの列車には一般形のキハ40系気動車を改造した車両が特急列車として使用されている。
車両のメーカーに関しては、電車では発足当初は日立製作所と近畿車輛の2社に集約されていたが、現在、JR九州の新製電車は殆ど「A-train」の採用で新幹線車両を含めて2012年頃から日立製作所のみでの製造となっている。一方、気動車では液体式気動車は新潟鐵工所製が多いが、一部に富士重工業と日本車輌製造で製造された車両も導入している。ただし、2011年3月の九州新幹線全線開業に伴い投入されたN700系8000番台の一部、2019年から新規製造されたYC1系に川崎重工業車両カンパニー製の車両も存在する。なお、一部の形式については小倉工場での自社製造(ノックダウン製造含む)車両が含まれる。
JR旅客鉄道6社の中で唯一、これまで2階建車両を保有したことがない。
自社車両の他社乗り入れについては、在来線についてはJR西日本の下関駅及び福岡市地下鉄空港線のみに乗り入れる。ななつ星 in 九州や36ぷらす3といった定期運行を行わない列車は、肥薩おれんじ鉄道線にも乗り入れる。新幹線はほとんどがJR西日本管内のみに乗り入れているが、東端の新大阪駅はJR東海の管轄である。さらに回送列車として鳥飼車両基地まで走行している。自社エリア以外の都道府県では、新幹線が山口県、広島県、岡山県、兵庫県、大阪府に、在来線が山口県のみに乗り入れている。JR旅客6社で自社車両が乗り入れる自社エリア以外の都道府県の数はJR四国、JR東日本に次いで少ない。
特急車両に関しては、発足当初は、JR他社と同様に485系など国鉄から引き継いだ車両の座席交換などの改良工事を進めていった。1988年にはJRグループ初の新系列車両である783系を導入した。以降は、水戸岡のデザインによる個性的な車両やデザイン面を重視した列車を相次いで開発し、「アクアエクスプレス」を皮切りに、787系、883系、885系などの新系列特急車を多く導入している。
九州新幹線の全線開業以前は比較的車両によって使用される列車が固定されていたこともあり、外装に列車名をロゴとして表記する車両も多く見られた。このため運用の変更が起こると、885系電車では、「かもめ」編成の「ソニック」と「ソニック」編成の「かもめ」が博多駅のホームに並んだり、稀ではあるが783系電車において「ハウステンボス」編成の「みどり」と「みどり」編成の「ハウステンボス」が併結するなどの事態が発生した。787系は、九州新幹線の全線開業以降「ハウステンボス」「ソニック」以外のJR九州管内の全ての在来線電車特急に充当されるようになった。885系でも、「かもめ」編成と「ソニック」編成が事実上の共通運用になっていたことから、この2形式は共通運用を前提とした「AROUND THE KYUSHU」ロゴへの変更が行われた。
気動車特急についてもキハ185系気動車において「あそ・ゆふ」共通塗装、「九州横断特急」塗装が存在する。キハ185系は車両数が少ないうえ、増解結や編成組み換えをしばしば行うので「あそ・ゆふ」塗装と「九州横断特急」塗装が逆の列車名の列車に充当されたり、両種類の塗装の列車が混結されることもあった。現在はキハ185系においても共通運用を前提とした「AROUND THE KYUSHU」ロゴへの変更が行われつつある。なお、「A列車で行こう」用キハ185系については独立して運用されている。
前述の観光列車については「指宿のたまて箱」と、「はやとの風」には、共通の予備車が1両、「いさぶろう・しんぺい」には、増結用の予備車が1両ある。しかし、その他の列車には予備車両がない。このため、「海幸山幸」や、「あそぼーい!」などは、運転日を週末などに限定している。「かわせみ やませみ」など、毎日運転する列車では、専用車両が検査の際には別の列車の車両を予備車として充当することがある。そして、「ゆふいんの森」のように列車自体は運休して同じダイヤで特急「ゆふ」を替わりに運行するような措置が取られている。
他鉄道事業者からの購入車両としては、1992年には久大本線の急行「由布」を特急「ゆふ」に、豊肥本線の急行「火の山」を特急「あそ」にそれぞれ格上げするために、JR四国からキハ185系を購入して充当した。2005年の台風14号の被害から廃線となった高千穂鉄道からTR-400形を購入し、これを日南線向け観光特急「海幸山幸」用に改造した。2015年には四国で余剰となったキハ47形を譲り受けスイーツトレイン「或る列車」に改造するなどの事例もある。特急や観光列車用以外では交直両用電車の更新のために、JR東日本から415系500・1500番台を購入している。
このほか豊肥本線電化に際し、熊本県等と共同設立した第三セクター「豊肥本線高速鉄道保有株式会社」が所有し、JR九州に貸与されていた815系電車4編成8両を2015年度に同社から購入した。これは従来からJR九州の路線で使用していた車両の所有者の変更のみであり、他鉄道事業者からの転入ではない。
近郊形電車については811系を皮切りに813系・815系・817系・821系といった新形式車両を北部九州を中心に積極的に投入している。817系は南九州エリアにも投入され、国鉄型電車の置き換えを進め、2022年9月に415系鋼製車の置き換えが完了した。一方、門司駅 - 下関駅間で運用可能な交直両用電車は、分割民営化後は1両も造られていない。交直両用電車の更新については、JR東日本からE531系の投入で余剰となった415系500・1500番台を購入する形で行っている。一般型気動車については、キハ200系・キハ125形の2形式が投入されたほか、キハ40系をはじめとする気動車置き換えを見据えた交流蓄電池電車としてBEC819系、ハイブリッドディーゼル車両としてYC1系を開発している。
座席の種類別で見ると、JR九州発足後に開発された普通列車用の電車については、かつては815系を除いて転換クロスシートが採用されることが多かった。一方で、近年福岡都市圏向けに投入された303系、305系、813系500番台、817系2000番台・3000番台、821系などの電車ではロングシートも積極的に採用している上、既存の811系でも転換クロスシートからの改造車が増えている。特に2010年代以降は転換クロスシートの車両の新製はなくなった。
2016年に、JR化後に製造された811系の改造に着手。駆動装置は最新鋭のものに更新し、転換クロスシートはロングシートに改めるなど、既存車両の延命化を見据えた大規模なリニューアルが行われた。改造車の第1号は2017年4月から営業運転を開始した。以後2024年頃を目途に811系全27編成の改造を行う予定。他の形式ではトイレの設置を進めており、近年では103系1500番台、303系の全編成、キハ125形の全車に、バリアフリー対応トイレが設置された。キハ31形の運用終了により、全列車にトイレが設置された。
2021年以降、813系の一部車両において乗降口付近の座席を撤去して定員を増加させる改造が行われている。改造された際、それぞれ改造元が200番台と1100番台の車両は2200番台と3100番台に改番されている。
発足当初は団体用のジョイフルトレインも保有していたが、団体用については1994年までに全廃され、以後は保有していない。団体専用列車には一般の特急形車両や、D&S列車(観光列車)用車両を使用しており、結果的には、ジョイフルトレインと同じような対応が可能となっている。
支社別の車両基地設置状況は、以下のとおりである。漢字1文字の略号は機関車にのみ付される。
かつては鹿児島車両センター構内に鹿児島総合車両所 「KG」 が設置されており、鹿児島支社所属の在来線および、九州新幹線部分開業時の新幹線車両の検査などを行っていたが、2011年に工場機能を廃止した。廃止後は主な検査を小倉総合車両所に移管、鹿児島車両センター・宮崎車両センターに一部検査機能が移管された。工場機能を担当する職員のほとんどは、熊本総合車両所に転勤となった。
社歌は『浪漫鉄道』で、ハイ・ファイ・セットが歌っている。
国鉄から民営化されてJR九州発足以来デザインにほとんど変更は無く、駅社員、乗務員(運転士、車掌)とも共通の制服である。冬服は紺色のスーツ型で襟元にはコーポレートカラーの赤色のラインが入る。ネクタイは赤をベースに黒や白のラインが入ったものとなっている。
駅長、新幹線車掌、在来線優等列車車掌など管理者クラスの社員は濃い紺色でダブルタイプとなる。ネクタイは紅と金色のストライプでインナーシャツは個人のものを使用する。制帽はJR他社と異なりドゴール帽で、正面には旧国鉄のシンボルマーク「動輪」にJRマークが入ったものに、赤色のラインが入った帽子を採用している。
なお、乗務員は上着の左肩には月桂冠と列車をモチーフにしたエンブレムを面ファスナー止めで着用する。エンブレムの上下の列車部分には「運転士/DRIVER」(白い刺繍)、「車掌/CONDUCTOR」(赤い刺繍)などと標記されている。このエンブレムは在来線の乗務員と新幹線の乗務員とでデザインが異なり、新幹線の乗務員のエンブレムは下部に金色の刺繍が入っており「新幹線 運転士」「新幹線 車掌」と標記されている。このほか、指令員(青い刺繍)などがエンブレムを佩用する。
女性用制服は営業関係社員と運転関係社員とでは異なる。営業関係社員は左肩元に「KYUSYU RAILWAY COMPANY」のロゴが入った黒のスーツタイプの制服にスカーフを巻く。制帽はない。この制服にはパンツタイプ、スカートタイプが存在する。運転関係社員は前述の男性用制服と同じ紺色の制服を着用する。制帽に関しては、これまで男性社員同様ドゴール帽であったが、新幹線駅および博多駅・小倉駅在来線の輸送係を除き、2010年6月ごろから変更され、JR他社同様ハットタイプのものとなった。
一方、夏服は冬服よりは薄い紺色のズボンに男性はチェック柄の女性は水色の半袖のワイシャツを着用する。上着は省略する。駅長、車掌区長、新幹線車掌、在来線優等列車車掌など管理者クラスの社員は灰色で襟元に赤色のラインが入ったダブルのスーツタイプの制服を着用する。勿論、制帽も灰色のドゴール帽である。女性の管理者クラスの社員も同じものを着用する。女性の営業関係社員は上述の冬の制服の上着を省略し、代わりにインナーのベストを着用する。
客室乗務員の制服も存在しており、「ハイパーレディ」や「つばめレディ」用等が設定されていた。その後、つばめレディをベースとした共通デザインのものが導入されたものの、「TSUBAME」ロゴの入った「つばめレディ」用と混在した状態となっていた。
厳冬期に乗務員・駅員が着用するジャンパーは、国鉄を踏襲するベージュ色の厚いガウンジャケット(肩にエンブレムを取り付けられるほか、胸にはJRロゴのエンブレムを取り付けできる。)が使用されていたが、2011年から黒色で「AROUND THE KYUSHU」「KYUSHU RAILWAY COMPANY」ロゴが入り、ラインなど白い部分には反射材を採用した、水戸岡鋭治のデザインによるスッキリとしたブルゾンに更新された。
2017年度から制服のデザインが、ロウタスインターナショナルのクリエイティブディレクターである嶋﨑隆一郎デザインによるものに変更された。水戸岡はトータルアドバイザーを引き続き担当し、客室乗務員制服は従来のものに生地やポケットなど一部変更が加えられた。
同一コンセプトのもと、職域ごとに異なった制服が男女ごとに設定されている。冬服・合服はジャケット・ズボンが紺色から黒となり、胸には「つばめ」のエンブレム、肩に英名の社名が入っている。帽子は従来を踏襲し、男性はドゴール帽、女性はハットタイプとなった。夏服は青のカッターシャツを着用するが、クールビズに対応してノーネクタイとなった。
職域ごとの制服の違いとして、冬服・合服には「ダブルジャケット」と「シングルジャケット」が職域によって使い分けされている。「ダブルジャケット」は駅長、副駅長、新幹線車掌、特急列車車掌が着用する。ダブルジャケットは帽子に赤地のライン、ジャケットの裾・襟の縁取り、およびズボンのサイドラインに金色を配している。「シングルジャケット」は駅員、運転士、在来線普通・快速列車の車掌、ホーム輸送係等が着用する。シングルジャケットには前述の縁取りやラインは省略している。乗務員を除く駅員、旅行支店勤務の女性職員には「女性接客用制服」が着用できる。これは、シングルジャケットおよび夏服をベースにしているが、冬服・合服ではネクタイの代わりにスカーフを、夏服ではカッターシャツの上からベストを着用することができる。共通して、ズボンの代わりにスカートを着用する。
初代同様に乗務員等では面ファスナー止めのエンブレムを左肩に取り付ける。従来のデザインから大きく変わり、黒地に金文字の英社名・役職名(和英ともに)を並べたシンプルで小さいものになった。在来線乗務員・指令員では金文字単色のものを使用する。
客室乗務員の制服は従来のものをマイナーチェンジし、専用制服を除きデザインが統一された。マイナーチェンジながら、生地の改良、機能性の向上により「これから先も通じる制服」としている。
技術系制服も更新され、青ベースの制服から灰色ベースの制服に変更となった。
「SL人吉」の機関士と機関助士は国鉄時代のものを復刻させた制服を、車掌はレトロ調の制服を、観光列車「ゆふいんの森」「あそぼーい!」号の車掌はホテルの支配人をイメージしたオリジナルの制服を着用する(博多車掌区、門司車掌区、大分車掌センター等の車掌が着用する)。通常の制服と異なり黒のダブルの制服で胸元にそれぞれ「ゆふいんの森」「あそぼーい!」号オリジナルのロゴが入ったピンバッジを付けている。制帽は省略されている。
門司港駅では男性駅員・駅長の制服も他の駅とは異なっており、門司港レトロと調和されたデザインの制服となっている。同様のコンセプトで、由布院駅でも駅員・駅長の制服が独自デザインとなっている。
客室乗務員、「ななつ星in九州」の全乗務員のデザインは車両などのデザインも手掛けているドーンデザイン研究所の水戸岡鋭治によるものであり、それぞれ冬服・夏服もある。
2009年3月1日から、独自のICカード乗車券「SUGOCA」(スゴカ)のサービスを福岡県内の都市圏と佐賀県の一部を中心とした148駅で開始し、2012年12月1日から、既存エリアが熊本、大分の各都市圏まで拡大、長崎、鹿児島の各都市圏を中心に新規エリアが開設された。さらに2015年11月14日に宮崎市に新規エリアが開設されたことで九州全県の主な都市圏での利用が可能となった。2015年11月14日時点では、JR九州全566駅のおよそ半分にあたる284駅で利用が可能である。
発行するのは、プリペイドタイプのIC乗車券(無記名式・記名式)と、それに定期乗車券の機能を一体化させたIC定期券の2種類で、発売の際、デポジット料金として500円を徴収する。積み増せるチャージ上限は20,000円。
開始当初から電子マネー機能を搭載しており、駅売店などで利用できる。ポイントシステムは2010年2月1日に導入され、西日本鉄道(西鉄)が導入しているnimocaにあるクレジット兼用型についても、グループ企業や系列の商業施設「アミュプラザ」などが独自に導入していたクレジットカードを統合する形で、同年3月に「JQ CARD」(三菱UFJニコスもしくはクレディセゾンと提携)の発行を開始した。
相互利用の拡大も進められている。2010年3月13日からは、nimocaおよび福岡市交通局が導入しているはやかけん、JR東日本のSuicaを含めた、4社局のICカード乗車券の相互利用を開始した。2011年3月5日には、JR西日本のICOCAおよびJR東海のTOICAと相互利用を開始し、2013年3月23日にはJR北海道のKitaca、関東私鉄・バス事業者のPASMO、中京圏私鉄・バス事業者のmanaca、近畿圏私鉄・バス事業者のPiTaPaとの相互利用(PiTaPaは交通利用のみ、他は交通利用と電子マネーサービス)を開始している。
大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満の端数切り下げ)。2019年(令和元年)10月1日改定。
170円(小児は80円)
2020年度は 公式サイト より。それ以外は 福岡県統計年鑑、鹿児島市統計書、大分県統計年鑑、熊本市統計書、佐賀県統計年鑑、長崎県統計年鑑、公式サイトアーカイブ(2015年度)、大野城市公式サイト より。
は、右欄の乗車人員と比較して増()、減()を表す。
参考:宮崎駅 3,762人(44位)
2017年度の1日平均の運輸取扱収入額は以下のとおり。
参考:宮崎駅 571万5千円(12位)
2017年7月31日に、初めて路線別の利用状況を公表し、昭和62年度および平成28年度の平均通過人員(人/日)、平成28年度の旅客運輸収入(百万円/年)を公表した。社長の青柳俊彦は記者会見で「輸送密度が少ないところを廃止するために出したわけではない。鉄道ネットワークを維持するために今後も努力していく」と述べた一方で「(自治体が線路設備を取得しJRが運行する)上下分離などがこの先、発生するかもしれない。九州の鉄道の状況を今のうちに正しく認識してもらいたい」といい、今回のデータも参考に、自治体や住民と鉄道のあり方を巡る議論を活発にする意向を示した。
データは非常に膨大なため、各線区の記事を参照するか、出典を参照されたい。
JR九州本体以外にグループ企業が47+1社ある(2023年5月1日時点)。タイ王国にも法人を設立している。2012年までに社名の「ジェイアール九州」を「JR九州」に揃える形で変更され、JR九州が付かない社名でも社名変更の際に「JR九州」が追加された企業もいくつか存在する。
2021年3月31日現在、三つの労働組合がある。カッコ内は略称。
各労働組合と会社との間で労働協約を締結している。組合員数が最大なのは九州旅客鉄道労働組合である。
CM等で活躍。★印は地元・九州出身者。
全てJR九州一社提供番組。2022年6月時点では放送されていない。
東京支社で、手書きイラスト・文章を印刷した『鉄聞』(てつぶん)を2011年から毎月1ページ発行している。年に1度、加筆して冊子版にしており、電子書籍化もされている。 | [
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"text": "九州旅客鉄道株式会社(きゅうしゅうりょかくてつどう、英: Kyushu Railway Company) は、九州地方を中心として旅客鉄道等を運営する日本の鉄道事業者。1987年4月1日に日本国有鉄道(国鉄)から大分・熊本・鹿児島の各鉄道管理局および九州総局が管理していた鉄道事業を引き継いで発足したJRグループの旅客鉄道会社の一つ。通称はJR九州(ジェイアールきゅうしゅう)、英語略称はJR Kyushu。コーポレートカラーは赤色。",
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"text": "鉄道事業のほか、旅行業や小売業、不動産業、農業などの関連事業も多角的に展開し、関西や首都圏といった九州以外の日本国内エリアや、タイなど一部日本国外にも進出している。本社は福岡県福岡市博多区。切符の地紋には「K」と記されている。東京証券取引所プライム市場・福岡証券取引所上場企業。",
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"text": "鉄道事業においては、九州地方に鉄道路線(九州新幹線・西九州新幹線と在来線)を有し、2023年6月13日時点で総営業キロ数 2,342.6 km、595駅(駅数にBRT駅含む)の運営を行っている。",
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"text": "鉄道事業においては、JR九州発足から2016年3月期まで一度も営業黒字を計上したことがなく、九州新幹線が全線開業した後も依然として厳しい経営状況が続いていた。2015年度に実施された減損会計による減価償却費の大幅な圧縮や合理化などにより、2017年3月期の決算においてJR九州発足以来初めて鉄道事業が250.8億円の営業黒字となった。",
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"text": "その一方で、鉄道事業を補完するため旅行・ホテル、不動産、船舶、飲食業、農業など事業の多角化を推し進めており(「グループ会社」も参照)、その営業範囲は九州のみならず首都圏 などや日本国外にも展開している。2017年9月にはタイで不動産開発などを手掛ける現地法人「タイJR九州キャピタルマネジメント株式会社」の開設を、同年12月にはタイの首都バンコクにおける「タイJR九州ビジネスディベロップメント」設立と長期滞在用サービスアパートメント事業参入 を発表した。",
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"text": "訪日外国人による鉄道などの利用も重視しており、2018年7月に戦略的提携を結んだ中国のアリババグループ など外国企業とも協力関係にある。",
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"text": "2016年9月中間期の売上高に占める「非鉄道」部門の割合は51%と過半を超えており、民営化以降こうした事業の多角化が経営面での安定に寄与したこともあって、『旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社に関する法律の一部を改正する法律』(平成27年法律第36号)が2015年6月10日に公布、2016年4月1日に施行され、JR旅客会社では東日本旅客鉄道(JR東日本)・西日本旅客鉄道(JR西日本)・東海旅客鉄道(JR東海)に次いで4番目、本州以外に鉄道路線を有する、経営が厳しいと見られているいわゆる「三島会社」では初の上場および完全民営化を果たした。なお、完全民営化前に経営支援策として設定されていた経営安定基金(3877億円、元本の利用はできない。利益配当のみ経常利益に含まれる)については、九州新幹線の施設使用料(年102億円)の一括前払い(計2205億円)および借入金の償還などに充てられている。",
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"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "1987年のJR九州発足後は、福岡市博多区の博多駅前に福岡本社(登記上本店)、北九州市門司区の門司港駅隣の旧国鉄九州総局ビルに北九州本社を構えていたが、2001年に福岡本社に統合し、北九州市小倉北区の西小倉駅近隣(小倉駅からも至近)に北部九州地域本社を設置している。",
"title": "概況"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "鉄道事業においては、博多駅・熊本駅・鹿児島中央駅の各都市間の輸送を主としている九州新幹線と、博多駅を中心に九州の各主要都市間を結ぶ在来線特急列車などの中長距離輸送が主な収益源となっているが、九州では主たる都市間を結ぶ高速道路の整備が早期から進んでおり、JR九州の列車に対して料金面で優位性のある高速バスが九州の各地で競合している。さらに福岡市と北九州市の大都市同士を結ぶ博多駅 - 小倉駅間では国鉄分割民営化により、山陽新幹線が西日本旅客鉄道(JR西日本)の所有となったことで、JR九州の所有する鹿児島本線の同区間を走る特急列車(「きらめき」「ソニック」など)と、時間的な優位性のあるJR西日本の山陽新幹線が競争関係になった。宮崎県と福岡県の移動では所要時間が短い航空機を使う人も多く、九州内では競合交通機関に対して時間面、料金面、利便性の面などで圧倒的な優位性を発揮できる区間は限られているのが現状である。九州新幹線は山陽新幹線と直通運転を行い、九州の各都市と山陽地方や関西とを結んでいるが、ここでも高速バスや航空機と競合関係にある。",
"title": "概況"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "近距離輸送の面では、管内には福岡市・北九州市(北九州・福岡大都市圏)をはじめ、九州各県の県庁所在地の近郊など比較的輸送量の多い線区も存在するが、首都圏や関西圏などのように莫大な収益をもたらすものではなく、経営の一助になるには至っていない。むしろ、管内には輸送密度が低いローカル線も多く抱え、沿線の過疎化などの社会問題も相まって年々利用が減少しており、経営の負担になっている。",
"title": "概況"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "このような経営環境にあり、ネット予約を用いた割引切符の拡充や増発などで主力である中長距離輸送のサービス向上を図る一方、現業部門のコスト縮減・合理化の一環として以下の施策により現業部門の人員削減を進めているほか、2020年代に入るとコロナ禍による鉄道事業の大幅な減収への対策として、不要な設備の撤去や普通・快速列車のロングシート化などによる保有車両数の削減を打ち出している。",
"title": "概況"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "その他、線路のメンテナンスにロボットを導入することなども検討中であるとしている。",
"title": "概況"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "これらの施策の結果、発足初年度の営業損益は288億円の赤字となったが、九州新幹線が部分開業した2004年度には、営業損益が黒字に転換した。2011年3月12日に全線開業した九州新幹線の営業収益は2017年3月時点でおよそ501億円となり、JR九州の鉄道事業全体の収益(同年1464億円)の3分の1以上を占めるに至るなど、事業の大きな柱となっている。これを軸として、D&S列車と称する観光列車などで引き続き地域の活性化や鉄道事業の収益拡大を図りつつ、不動産などの沿線開発や事業の多角化を進め、鉄道事業と関連事業の相乗効果をもって利益を拡大する事業戦略を推進している。2016年度から3カ年の中期経営計画では「総合的な街づくり企業グループを目指す」としている。",
"title": "概況"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "2016年の株式公開においては、投資家の間でも訪日観光客の強い伸びが安定した企業成長につながるといった見方があるとされている。",
"title": "概況"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "九州新幹線西九州ルートのうち武雄温泉駅 - 諫早駅間が2008年4月、諫早駅 - 長崎駅間が2012年8月に着工され、2022年9月23日に武雄温泉駅 - 長崎駅間が西九州新幹線として開業した。",
"title": "概況"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "優等列車の運行については民営化後、博多駅を中心とした体系に改められ、同駅から九州各県の主要駅に向かう新幹線・在来線特急列車が発着している。",
"title": "概況"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "九州新幹線は、九州内においては博多駅・熊本駅・鹿児島中央駅の各都市間の輸送を主としている。このほかにも主な新幹線停車駅で、佐賀・長崎・大分・宮崎の各県庁所在地を結ぶ在来線特急列車や高速バスと連絡している。加えて、山陽新幹線の新大阪駅と鹿児島中央駅との間で直通運転も行っている。",
"title": "概況"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "通常は博多駅から熊本駅までは1時間あたり3 - 4本、鹿児島中央駅までは2本 - 3本の頻度で運行されており、繁忙期などは山陽新幹線に直通する臨時列車も多数運行され、最大で1時間に6本ほど運行される時間帯もあるなど、高頻度での運行がなされている。",
"title": "概況"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "在来線特急列車は博多駅を中心として、小倉駅・佐賀駅・長崎駅・佐世保駅・大分駅などの間で特急列車を運行している。特に博多駅 - 小倉駅・佐賀駅間に関しては、「在来線特急毎時上下各2-3本運転」 と高頻度での運行を行っている。宮崎駅に関しては途中駅での接続で対応しているが、特急料金の通算や同一ホームでの乗り換えなどで便宜を図っている。このほかにも宮崎駅 - 鹿児島中央駅間や、大分駅 - 熊本駅間を結ぶ特急列車も運行されている。",
"title": "概況"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "博多駅はかつて日本で在来線特急が最も多く発着するターミナル駅となっていた。特に九州新幹線全線開業前の博多駅 - 鳥栖駅間は3系統8種の特急列車(「リレーつばめ」「有明」「かもめ」「みどり」「ハウステンボス」「ゆふ」「ゆふDX」「ゆふいんの森」)が運転され線路容量は限界に達しており、2003年には待避専用の太宰府信号場が設置されたほどである。2011年3月12日に九州新幹線が全線開業して「リレーつばめ」が廃止、「有明」が朝晩のみの運行になったことでこの区間の線路容量にも若干余裕ができたため、1976年の長崎本線・佐世保線電化開業以来行われていた「かもめ」「みどり」の併結運転は終了した。「みどり」は「ハウステンボス」と併結運転を行っており、「かもめ」との併結運転が終了するまでは「かもめ・みどり・ハウステンボス」の3階建て列車が運行されていた。",
"title": "概況"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "2008年6月発売の時刻表から、管内の「エル特急」の呼称が全て「特急」に変更された。",
"title": "概況"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "なお、定期運行の寝台特急については1994年に「あさかぜ1・4号」「みずほ」が廃止されたのを皮切りに縮小が進み、2009年3月14日のダイヤ改正で「はやぶさ」「富士」が廃止されたことでJR九州管内から消滅した。そして2011年3月12日のダイヤ改正で「ドリームにちりん」が廃止されたことで定期運行の夜行列車自体が消滅した。",
"title": "概況"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "急行列車については特急格上げや廃止が進められ、2004年に「くまがわ」が特急に格上げされたことで消滅した。",
"title": "概況"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "JR九州の発足後、都市圏輸送の強化のため普通列車の増発が進められ、長距離を運行する普通列車の系統を分離、JR他社線への直通運転を廃止するなど、運転区間の細分化、需要に合わせた短編成化も並行して行われた。また福岡都市圏を中心に、快速列車の新規設定や増発・停車駅追加などを実施した。しかし2000年代以降、博多 - 小倉間では特急列車の増発が図られるとともに、快速列車については停車駅の追加のほか毎時1本を準快速に格下げし快速区間の短縮を行った。朝や夜間の一部を除く大半の列車で待避停車があり、博多 - 小倉間を日中の快速は68-70分。準快速にいたっては通過駅が5駅しかなく78分を要することとなり、最速55分で結んでいた国鉄時代と比較しても同区間の所要時間は大きく延びている。振り子式車両の883系や885系を投入して大幅に速度向上した特急列車との格差は拡大している。",
"title": "概況"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "九州各地の在来線特急列車や新幹線も、乗車距離の短い区間に廉価な特急料金や割引切符を設定し、列車の増発や停車駅を拡大することによって、短距離でも利用しやすい体制を整えている。",
"title": "概況"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "JR九州では、管内各地のローカル線で「D&S(デザイン&ストーリー)列車」と称する観光列車を多数運行している。「D&S」とは、これらの列車にはそれぞれ特別なデザインと運行する地域に基づくストーリーがあり、「デザインと物語のある列車」であることに由来する。",
"title": "概況"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "2023年10月時点において、JR九州管内で以下の11種類のD&S列車が運行されている。",
"title": "概況"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "1989年に同社初の観光列車として特急「ゆふいんの森」が運行を開始し、2004年には九州新幹線が一部開業することを契機に、鹿児島県・宮崎県を中心として多数の観光列車が運行を開始した。その後、九州新幹線が全線開業、沿線である熊本・鹿児島両県でさらなる観光列車の投入が行われた。",
"title": "概況"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "D&S列車はそのほとんどが従来から使用されていた車両をリニューアルした車両で運行されており、中には普通列車用の車両を改造し、観光特急と称して運行している列車もある。D&S列車はその全てが水戸岡鋭治によるデザイン・設計である。",
"title": "概況"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "各D&S列車の特徴としては、内外装やサービスに乗客を楽しませる仕掛けが施されてあり、車内にアルコール飲料を提供するバーを備えた特急「A列車で行こう」や、沿線の浦島太郎伝説にちなみ、ドアが開くとドア上部から玉手箱の煙に見立てた白いミストが噴出する特急「指宿のたまて箱」、中には、列車の運行中に客室乗務員が沿線の日本神話をモチーフにした手作りの紙芝居を披露するサービスが行われている特急「海幸山幸」といった列車も運行されている。",
"title": "概況"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "2019年11月21日に12番目のD&S列車として、787系を改造した初の電車ベースの専用車両で九州内を毎週5日かけて周遊して運転する「36ぷらす3」が発表され、2020年10月16日から運転を開始した。D&S列車として初めての他社線乗り入れ(肥薩おれんじ鉄道線内を通過)を実施している。",
"title": "概況"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "2004年に運行を開始した「はやとの風」は、2022年3月に運転終了、車両は「いさぶろう・しんぺい」用予備車とともに「ふたつ星4047」に改造され、同年9月23日より運行を開始した。",
"title": "概況"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "肥薩線で1996年3月16日(専用車両は2004年3月13日)から運行されていた「いさぶろう・しんぺい」は2020年7月に同線が水害で不通となった後、車両がツアー列車などで運行されていたが、2023年10月4日で運行を終了した。車両はキハ125形1両とともに久大本線で2024年春運行開始予定の新D&S列車「かんぱち・いちろく」に改造される予定である。",
"title": "概況"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "2013年10月15日から、寝台列車「ななつ星 in 九州」を運行している。ななつ星in九州は、1室の料金が1人最大55万円ともなる超豪華寝台列車で、数日にわたって九州を周遊する。日本初となる観光に特化した寝台列車(クルーズトレイン)であり、主に国内やアジアの富裕層をターゲットにする。",
"title": "概況"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "1996年に普通運賃を値上げしつつ、JR他社より安いグリーン料金や、JRグループの中では唯一、在来線特急の繁忙期(指定席特急料金が200円増しになる時期)の設定をなくすなど料金の値下げを行った。ただし、九州新幹線に関しては繁忙期・通常期・閑散期の設定がなされており、2022年4月には在来線特急にも繁忙期が再設定され、時期により指定料金が異なっている。",
"title": "概況"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "JR九州の競争区間(主に九州内の高速バス)の対象である旅客に対する値下げ戦略は、2001年に割引きっぷのほとんどを特急回数券「2枚きっぷ・4枚きっぷ」に集約した。この「2枚きっぷ・4枚きっぷ」において、高速バスとの競合する区間では普通乗車券よりも安くなる区間も存在する。",
"title": "概況"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "インターネットでの割引切符の予約・販売も推進しており、「2枚きっぷ」と同等の価格で片道から購入できる「九州ネットきっぷ」、早期予約で「4枚きっぷ」以上の割引率で片道から購入できる「九州ネット早得」といった割引切符が設定されている。JR九州のインターネット予約サービスはJR西日本の同サービス「e5489」とも連携しており、山陽新幹線方面のインターネット専用割引切符「eきっぷ」「スーパー早得きっぷ」も購入できる。",
"title": "概況"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "快速・普通列車用の割引回数券としては、6枚つづりの「ミニ回数券」があったが、2016年1月31日に発売を終了した。特急列車の設定のない一部の区間(長崎駅 - 佐世保駅間、唐津駅 - 福岡市地下鉄空港線博多駅間など)では、普通列車用の「2枚きっぷ・4枚きっぷ」を発売している。",
"title": "概況"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "若者向けの割引商品として、1996年に16歳から29歳までの人が入会可能な会員制割引サービス「ナイスゴーイングカード」を開始し、2011年まで新規入会受付を継続した。2012年からは16歳から24歳までの人が購入可能で2枚きっぷ・4枚きっぷより割引率の高い割引きっぷ「ガチきっぷ」を長期休暇期間に発売している。",
"title": "概況"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "全線フリーの企画乗車券については以前「九州グリーン豪遊券」(2003年まで)・「九州レディースパス」(2002年まで)の発売が終了してから数年間存在しなかったが、2007年に入り特急列車・九州新幹線が利用可能な「九州特急フリーきっぷ」が発売開始され、以後使用期間を限定し、商品名を変更して発売されている。同年にはJR九州の普通列車と九州内の私鉄路線に乗車できる「旅名人の九州満喫きっぷ」が発売された。",
"title": "概況"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "このように割引きっぷを設定する一方、急行列車の特急格上げ、山陽新幹線と在来線の乗継割引の廃止など、負担増となった例もある。九州新幹線には新幹線と在来線の乗継割引が導入されていない。",
"title": "概況"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "車両の禁煙化については、民営化直後の1988年には普通・快速列車の分煙化を行い、さらに1995年には普通・快速列車は全面禁煙とした。一方、特急列車でも年々禁煙車は増加しており、2003年からは特急列車の喫煙車は編成最後部(下り列車基準)の1両のみとし、指定席・自由席を1両に集約していた。1999年に投入された「有明」用の787系では、喫煙ルームを設けることで客室内を禁煙とした。",
"title": "概況"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "その後、2007年3月18日のダイヤ改正で、JR北海道・JR東日本と共に管内特急の喫煙コーナーの廃止を含む大幅な禁煙化が行われた。この改正により管内特急の大半が全面禁煙となり、「にちりん」「ひゅうが」「きりしま」に喫煙車が、「ゆふ」「ゆふDX」「ゆふいんの森」「九州横断特急」「くまがわ」に喫煙ルーム(客席内は禁煙)が残るのみとなった。2009年3月14日のダイヤ改正でこれら特急の喫煙車および喫煙ルームが廃止となり、当時残っていた寝台特急を除いて全特急が完全禁煙となった。",
"title": "概況"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "なお、九州新幹線に関しては、部分開業した2004年に運行を開始した「つばめ」に充当された800系に関しては、当初から全面禁煙であった。全線開業に伴い運行を開始したN700系では客室内は全室禁煙で、3・7号車に喫煙ルームが設置され、JR九州管内を運行する列車では2年ぶりに喫煙可能の列車が登場した。",
"title": "概況"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "2017年1月時点でJR九州管内を運行する列車において、車内での喫煙が可能な列車はN700系で運行される九州新幹線列車の喫煙ルームのみで、それ以外の列車は新幹線・在来線とも全面禁煙となっている。",
"title": "概況"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "2012年4月1日からは福岡・北九州都市圏の一部エリアの在来線駅においてホーム上の喫煙コーナーを廃止し、全面禁煙となった。ただし、博多駅・小倉駅の喫煙ルームは存続している。",
"title": "概況"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2023年4月1日現在",
"title": "本社組織"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "ダイヤ改正については3月に実施することが多く、他のJR各社に合わせて実施される。",
"title": "ダイヤ"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "JR九州発足以降に同社の路線で運行されている、もしくはかつて運行されていた愛称付きの列車を挙げる(2023年10月5日時点。廃止列車は廃止時点)。種別が変更された列車は変更後のもので記載し、他社の車両による運行のものはその会社名も記載する。詳細は各列車の記事を参照。",
"title": "列車"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "JR九州の車両のデザインは、鮮やかな色彩を用い、社名英称・列車愛称・形式称号などをヘルベチカによるレタリングに統一した塗装と、快適さを主眼においた内装を持っている。これらは同社のデザイン顧問に就任した水戸岡鋭治(ドーンデザイン研究所)が手掛けたものである。建築デザイナーとしてホテルや公共施設のデザインを手がけていた水戸岡は、1988年のキハ58系「アクアエクスプレス」からJR九州の車両デザインに参加する。効率と採算重視というそれまでの鉄道車両の常識の対極をいくとも言える「居住空間としての客席」との考え方によるデザイン により、1992年の787系「つばめ」は、そのデザインと優れた内装によって、ブルーリボン賞・グッドデザイン商品(現・グッドデザイン賞)といった日本国内の賞のみならず、日本国外からもブルネル賞を受賞している。以降も水戸岡は883系「ソニック」・885系「かもめ」そして新幹線800系「つばめ」などの特急用にとどまらず、普通列車用まで含めた新車両や、国鉄から継承した車両のリニューアルでもデザインを手がけている。D&S列車(観光列車)に使用されている車両の大半は国鉄から継承した車両の内外装を水戸岡のデザインを基に改造した車両であり、特に「はやとの風」「指宿のたまて箱」「かわせみ やませみ」などの列車には一般形のキハ40系気動車を改造した車両が特急列車として使用されている。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "車両のメーカーに関しては、電車では発足当初は日立製作所と近畿車輛の2社に集約されていたが、現在、JR九州の新製電車は殆ど「A-train」の採用で新幹線車両を含めて2012年頃から日立製作所のみでの製造となっている。一方、気動車では液体式気動車は新潟鐵工所製が多いが、一部に富士重工業と日本車輌製造で製造された車両も導入している。ただし、2011年3月の九州新幹線全線開業に伴い投入されたN700系8000番台の一部、2019年から新規製造されたYC1系に川崎重工業車両カンパニー製の車両も存在する。なお、一部の形式については小倉工場での自社製造(ノックダウン製造含む)車両が含まれる。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "JR旅客鉄道6社の中で唯一、これまで2階建車両を保有したことがない。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "自社車両の他社乗り入れについては、在来線についてはJR西日本の下関駅及び福岡市地下鉄空港線のみに乗り入れる。ななつ星 in 九州や36ぷらす3といった定期運行を行わない列車は、肥薩おれんじ鉄道線にも乗り入れる。新幹線はほとんどがJR西日本管内のみに乗り入れているが、東端の新大阪駅はJR東海の管轄である。さらに回送列車として鳥飼車両基地まで走行している。自社エリア以外の都道府県では、新幹線が山口県、広島県、岡山県、兵庫県、大阪府に、在来線が山口県のみに乗り入れている。JR旅客6社で自社車両が乗り入れる自社エリア以外の都道府県の数はJR四国、JR東日本に次いで少ない。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "特急車両に関しては、発足当初は、JR他社と同様に485系など国鉄から引き継いだ車両の座席交換などの改良工事を進めていった。1988年にはJRグループ初の新系列車両である783系を導入した。以降は、水戸岡のデザインによる個性的な車両やデザイン面を重視した列車を相次いで開発し、「アクアエクスプレス」を皮切りに、787系、883系、885系などの新系列特急車を多く導入している。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "九州新幹線の全線開業以前は比較的車両によって使用される列車が固定されていたこともあり、外装に列車名をロゴとして表記する車両も多く見られた。このため運用の変更が起こると、885系電車では、「かもめ」編成の「ソニック」と「ソニック」編成の「かもめ」が博多駅のホームに並んだり、稀ではあるが783系電車において「ハウステンボス」編成の「みどり」と「みどり」編成の「ハウステンボス」が併結するなどの事態が発生した。787系は、九州新幹線の全線開業以降「ハウステンボス」「ソニック」以外のJR九州管内の全ての在来線電車特急に充当されるようになった。885系でも、「かもめ」編成と「ソニック」編成が事実上の共通運用になっていたことから、この2形式は共通運用を前提とした「AROUND THE KYUSHU」ロゴへの変更が行われた。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "気動車特急についてもキハ185系気動車において「あそ・ゆふ」共通塗装、「九州横断特急」塗装が存在する。キハ185系は車両数が少ないうえ、増解結や編成組み換えをしばしば行うので「あそ・ゆふ」塗装と「九州横断特急」塗装が逆の列車名の列車に充当されたり、両種類の塗装の列車が混結されることもあった。現在はキハ185系においても共通運用を前提とした「AROUND THE KYUSHU」ロゴへの変更が行われつつある。なお、「A列車で行こう」用キハ185系については独立して運用されている。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "前述の観光列車については「指宿のたまて箱」と、「はやとの風」には、共通の予備車が1両、「いさぶろう・しんぺい」には、増結用の予備車が1両ある。しかし、その他の列車には予備車両がない。このため、「海幸山幸」や、「あそぼーい!」などは、運転日を週末などに限定している。「かわせみ やませみ」など、毎日運転する列車では、専用車両が検査の際には別の列車の車両を予備車として充当することがある。そして、「ゆふいんの森」のように列車自体は運休して同じダイヤで特急「ゆふ」を替わりに運行するような措置が取られている。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "他鉄道事業者からの購入車両としては、1992年には久大本線の急行「由布」を特急「ゆふ」に、豊肥本線の急行「火の山」を特急「あそ」にそれぞれ格上げするために、JR四国からキハ185系を購入して充当した。2005年の台風14号の被害から廃線となった高千穂鉄道からTR-400形を購入し、これを日南線向け観光特急「海幸山幸」用に改造した。2015年には四国で余剰となったキハ47形を譲り受けスイーツトレイン「或る列車」に改造するなどの事例もある。特急や観光列車用以外では交直両用電車の更新のために、JR東日本から415系500・1500番台を購入している。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "このほか豊肥本線電化に際し、熊本県等と共同設立した第三セクター「豊肥本線高速鉄道保有株式会社」が所有し、JR九州に貸与されていた815系電車4編成8両を2015年度に同社から購入した。これは従来からJR九州の路線で使用していた車両の所有者の変更のみであり、他鉄道事業者からの転入ではない。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "近郊形電車については811系を皮切りに813系・815系・817系・821系といった新形式車両を北部九州を中心に積極的に投入している。817系は南九州エリアにも投入され、国鉄型電車の置き換えを進め、2022年9月に415系鋼製車の置き換えが完了した。一方、門司駅 - 下関駅間で運用可能な交直両用電車は、分割民営化後は1両も造られていない。交直両用電車の更新については、JR東日本からE531系の投入で余剰となった415系500・1500番台を購入する形で行っている。一般型気動車については、キハ200系・キハ125形の2形式が投入されたほか、キハ40系をはじめとする気動車置き換えを見据えた交流蓄電池電車としてBEC819系、ハイブリッドディーゼル車両としてYC1系を開発している。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "座席の種類別で見ると、JR九州発足後に開発された普通列車用の電車については、かつては815系を除いて転換クロスシートが採用されることが多かった。一方で、近年福岡都市圏向けに投入された303系、305系、813系500番台、817系2000番台・3000番台、821系などの電車ではロングシートも積極的に採用している上、既存の811系でも転換クロスシートからの改造車が増えている。特に2010年代以降は転換クロスシートの車両の新製はなくなった。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "2016年に、JR化後に製造された811系の改造に着手。駆動装置は最新鋭のものに更新し、転換クロスシートはロングシートに改めるなど、既存車両の延命化を見据えた大規模なリニューアルが行われた。改造車の第1号は2017年4月から営業運転を開始した。以後2024年頃を目途に811系全27編成の改造を行う予定。他の形式ではトイレの設置を進めており、近年では103系1500番台、303系の全編成、キハ125形の全車に、バリアフリー対応トイレが設置された。キハ31形の運用終了により、全列車にトイレが設置された。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "2021年以降、813系の一部車両において乗降口付近の座席を撤去して定員を増加させる改造が行われている。改造された際、それぞれ改造元が200番台と1100番台の車両は2200番台と3100番台に改番されている。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "発足当初は団体用のジョイフルトレインも保有していたが、団体用については1994年までに全廃され、以後は保有していない。団体専用列車には一般の特急形車両や、D&S列車(観光列車)用車両を使用しており、結果的には、ジョイフルトレインと同じような対応が可能となっている。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "支社別の車両基地設置状況は、以下のとおりである。漢字1文字の略号は機関車にのみ付される。",
"title": "現業機関"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "かつては鹿児島車両センター構内に鹿児島総合車両所 「KG」 が設置されており、鹿児島支社所属の在来線および、九州新幹線部分開業時の新幹線車両の検査などを行っていたが、2011年に工場機能を廃止した。廃止後は主な検査を小倉総合車両所に移管、鹿児島車両センター・宮崎車両センターに一部検査機能が移管された。工場機能を担当する職員のほとんどは、熊本総合車両所に転勤となった。",
"title": "現業機関"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "社歌は『浪漫鉄道』で、ハイ・ファイ・セットが歌っている。",
"title": "社歌"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "国鉄から民営化されてJR九州発足以来デザインにほとんど変更は無く、駅社員、乗務員(運転士、車掌)とも共通の制服である。冬服は紺色のスーツ型で襟元にはコーポレートカラーの赤色のラインが入る。ネクタイは赤をベースに黒や白のラインが入ったものとなっている。",
"title": "制服"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "駅長、新幹線車掌、在来線優等列車車掌など管理者クラスの社員は濃い紺色でダブルタイプとなる。ネクタイは紅と金色のストライプでインナーシャツは個人のものを使用する。制帽はJR他社と異なりドゴール帽で、正面には旧国鉄のシンボルマーク「動輪」にJRマークが入ったものに、赤色のラインが入った帽子を採用している。",
"title": "制服"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "なお、乗務員は上着の左肩には月桂冠と列車をモチーフにしたエンブレムを面ファスナー止めで着用する。エンブレムの上下の列車部分には「運転士/DRIVER」(白い刺繍)、「車掌/CONDUCTOR」(赤い刺繍)などと標記されている。このエンブレムは在来線の乗務員と新幹線の乗務員とでデザインが異なり、新幹線の乗務員のエンブレムは下部に金色の刺繍が入っており「新幹線 運転士」「新幹線 車掌」と標記されている。このほか、指令員(青い刺繍)などがエンブレムを佩用する。",
"title": "制服"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "女性用制服は営業関係社員と運転関係社員とでは異なる。営業関係社員は左肩元に「KYUSYU RAILWAY COMPANY」のロゴが入った黒のスーツタイプの制服にスカーフを巻く。制帽はない。この制服にはパンツタイプ、スカートタイプが存在する。運転関係社員は前述の男性用制服と同じ紺色の制服を着用する。制帽に関しては、これまで男性社員同様ドゴール帽であったが、新幹線駅および博多駅・小倉駅在来線の輸送係を除き、2010年6月ごろから変更され、JR他社同様ハットタイプのものとなった。",
"title": "制服"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "一方、夏服は冬服よりは薄い紺色のズボンに男性はチェック柄の女性は水色の半袖のワイシャツを着用する。上着は省略する。駅長、車掌区長、新幹線車掌、在来線優等列車車掌など管理者クラスの社員は灰色で襟元に赤色のラインが入ったダブルのスーツタイプの制服を着用する。勿論、制帽も灰色のドゴール帽である。女性の管理者クラスの社員も同じものを着用する。女性の営業関係社員は上述の冬の制服の上着を省略し、代わりにインナーのベストを着用する。",
"title": "制服"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "客室乗務員の制服も存在しており、「ハイパーレディ」や「つばめレディ」用等が設定されていた。その後、つばめレディをベースとした共通デザインのものが導入されたものの、「TSUBAME」ロゴの入った「つばめレディ」用と混在した状態となっていた。",
"title": "制服"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "厳冬期に乗務員・駅員が着用するジャンパーは、国鉄を踏襲するベージュ色の厚いガウンジャケット(肩にエンブレムを取り付けられるほか、胸にはJRロゴのエンブレムを取り付けできる。)が使用されていたが、2011年から黒色で「AROUND THE KYUSHU」「KYUSHU RAILWAY COMPANY」ロゴが入り、ラインなど白い部分には反射材を採用した、水戸岡鋭治のデザインによるスッキリとしたブルゾンに更新された。",
"title": "制服"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "2017年度から制服のデザインが、ロウタスインターナショナルのクリエイティブディレクターである嶋﨑隆一郎デザインによるものに変更された。水戸岡はトータルアドバイザーを引き続き担当し、客室乗務員制服は従来のものに生地やポケットなど一部変更が加えられた。",
"title": "制服"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "同一コンセプトのもと、職域ごとに異なった制服が男女ごとに設定されている。冬服・合服はジャケット・ズボンが紺色から黒となり、胸には「つばめ」のエンブレム、肩に英名の社名が入っている。帽子は従来を踏襲し、男性はドゴール帽、女性はハットタイプとなった。夏服は青のカッターシャツを着用するが、クールビズに対応してノーネクタイとなった。",
"title": "制服"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "職域ごとの制服の違いとして、冬服・合服には「ダブルジャケット」と「シングルジャケット」が職域によって使い分けされている。「ダブルジャケット」は駅長、副駅長、新幹線車掌、特急列車車掌が着用する。ダブルジャケットは帽子に赤地のライン、ジャケットの裾・襟の縁取り、およびズボンのサイドラインに金色を配している。「シングルジャケット」は駅員、運転士、在来線普通・快速列車の車掌、ホーム輸送係等が着用する。シングルジャケットには前述の縁取りやラインは省略している。乗務員を除く駅員、旅行支店勤務の女性職員には「女性接客用制服」が着用できる。これは、シングルジャケットおよび夏服をベースにしているが、冬服・合服ではネクタイの代わりにスカーフを、夏服ではカッターシャツの上からベストを着用することができる。共通して、ズボンの代わりにスカートを着用する。",
"title": "制服"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "初代同様に乗務員等では面ファスナー止めのエンブレムを左肩に取り付ける。従来のデザインから大きく変わり、黒地に金文字の英社名・役職名(和英ともに)を並べたシンプルで小さいものになった。在来線乗務員・指令員では金文字単色のものを使用する。",
"title": "制服"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "客室乗務員の制服は従来のものをマイナーチェンジし、専用制服を除きデザインが統一された。マイナーチェンジながら、生地の改良、機能性の向上により「これから先も通じる制服」としている。",
"title": "制服"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "技術系制服も更新され、青ベースの制服から灰色ベースの制服に変更となった。",
"title": "制服"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "「SL人吉」の機関士と機関助士は国鉄時代のものを復刻させた制服を、車掌はレトロ調の制服を、観光列車「ゆふいんの森」「あそぼーい!」号の車掌はホテルの支配人をイメージしたオリジナルの制服を着用する(博多車掌区、門司車掌区、大分車掌センター等の車掌が着用する)。通常の制服と異なり黒のダブルの制服で胸元にそれぞれ「ゆふいんの森」「あそぼーい!」号オリジナルのロゴが入ったピンバッジを付けている。制帽は省略されている。",
"title": "制服"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "門司港駅では男性駅員・駅長の制服も他の駅とは異なっており、門司港レトロと調和されたデザインの制服となっている。同様のコンセプトで、由布院駅でも駅員・駅長の制服が独自デザインとなっている。",
"title": "制服"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "客室乗務員、「ななつ星in九州」の全乗務員のデザインは車両などのデザインも手掛けているドーンデザイン研究所の水戸岡鋭治によるものであり、それぞれ冬服・夏服もある。",
"title": "制服"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "2009年3月1日から、独自のICカード乗車券「SUGOCA」(スゴカ)のサービスを福岡県内の都市圏と佐賀県の一部を中心とした148駅で開始し、2012年12月1日から、既存エリアが熊本、大分の各都市圏まで拡大、長崎、鹿児島の各都市圏を中心に新規エリアが開設された。さらに2015年11月14日に宮崎市に新規エリアが開設されたことで九州全県の主な都市圏での利用が可能となった。2015年11月14日時点では、JR九州全566駅のおよそ半分にあたる284駅で利用が可能である。",
"title": "ICカード乗車券"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "発行するのは、プリペイドタイプのIC乗車券(無記名式・記名式)と、それに定期乗車券の機能を一体化させたIC定期券の2種類で、発売の際、デポジット料金として500円を徴収する。積み増せるチャージ上限は20,000円。",
"title": "ICカード乗車券"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "開始当初から電子マネー機能を搭載しており、駅売店などで利用できる。ポイントシステムは2010年2月1日に導入され、西日本鉄道(西鉄)が導入しているnimocaにあるクレジット兼用型についても、グループ企業や系列の商業施設「アミュプラザ」などが独自に導入していたクレジットカードを統合する形で、同年3月に「JQ CARD」(三菱UFJニコスもしくはクレディセゾンと提携)の発行を開始した。",
"title": "ICカード乗車券"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "相互利用の拡大も進められている。2010年3月13日からは、nimocaおよび福岡市交通局が導入しているはやかけん、JR東日本のSuicaを含めた、4社局のICカード乗車券の相互利用を開始した。2011年3月5日には、JR西日本のICOCAおよびJR東海のTOICAと相互利用を開始し、2013年3月23日にはJR北海道のKitaca、関東私鉄・バス事業者のPASMO、中京圏私鉄・バス事業者のmanaca、近畿圏私鉄・バス事業者のPiTaPaとの相互利用(PiTaPaは交通利用のみ、他は交通利用と電子マネーサービス)を開始している。",
"title": "ICカード乗車券"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満の端数切り下げ)。2019年(令和元年)10月1日改定。",
"title": "運賃"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "170円(小児は80円)",
"title": "運賃"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "2020年度は 公式サイト より。それ以外は 福岡県統計年鑑、鹿児島市統計書、大分県統計年鑑、熊本市統計書、佐賀県統計年鑑、長崎県統計年鑑、公式サイトアーカイブ(2015年度)、大野城市公式サイト より。",
"title": "社内乗車人員上位20駅"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "は、右欄の乗車人員と比較して増()、減()を表す。",
"title": "社内乗車人員上位20駅"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "参考:宮崎駅 3,762人(44位)",
"title": "社内乗車人員上位20駅"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "2017年度の1日平均の運輸取扱収入額は以下のとおり。",
"title": "取扱収入上位10駅"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "参考:宮崎駅 571万5千円(12位)",
"title": "取扱収入上位10駅"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "2017年7月31日に、初めて路線別の利用状況を公表し、昭和62年度および平成28年度の平均通過人員(人/日)、平成28年度の旅客運輸収入(百万円/年)を公表した。社長の青柳俊彦は記者会見で「輸送密度が少ないところを廃止するために出したわけではない。鉄道ネットワークを維持するために今後も努力していく」と述べた一方で「(自治体が線路設備を取得しJRが運行する)上下分離などがこの先、発生するかもしれない。九州の鉄道の状況を今のうちに正しく認識してもらいたい」といい、今回のデータも参考に、自治体や住民と鉄道のあり方を巡る議論を活発にする意向を示した。",
"title": "路線別利用状況"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "データは非常に膨大なため、各線区の記事を参照するか、出典を参照されたい。",
"title": "路線別利用状況"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "JR九州本体以外にグループ企業が47+1社ある(2023年5月1日時点)。タイ王国にも法人を設立している。2012年までに社名の「ジェイアール九州」を「JR九州」に揃える形で変更され、JR九州が付かない社名でも社名変更の際に「JR九州」が追加された企業もいくつか存在する。",
"title": "グループ会社"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "2021年3月31日現在、三つの労働組合がある。カッコ内は略称。",
"title": "労働組合"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "各労働組合と会社との間で労働協約を締結している。組合員数が最大なのは九州旅客鉄道労働組合である。",
"title": "労働組合"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "CM等で活躍。★印は地元・九州出身者。",
"title": "広告"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "全てJR九州一社提供番組。2022年6月時点では放送されていない。",
"title": "広告"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "東京支社で、手書きイラスト・文章を印刷した『鉄聞』(てつぶん)を2011年から毎月1ページ発行している。年に1度、加筆して冊子版にしており、電子書籍化もされている。",
"title": "広告"
}
] | 九州旅客鉄道株式会社 は、九州地方を中心として旅客鉄道等を運営する日本の鉄道事業者。1987年4月1日に日本国有鉄道(国鉄)から大分・熊本・鹿児島の各鉄道管理局および九州総局が管理していた鉄道事業を引き継いで発足したJRグループの旅客鉄道会社の一つ。通称はJR九州(ジェイアールきゅうしゅう)、英語略称はJR Kyushu。コーポレートカラーは赤色。 鉄道事業のほか、旅行業や小売業、不動産業、農業などの関連事業も多角的に展開し、関西や首都圏といった九州以外の日本国内エリアや、タイなど一部日本国外にも進出している。本社は福岡県福岡市博多区。切符の地紋には「K」と記されている。東京証券取引所プライム市場・福岡証券取引所上場企業。 | {{pp-vandalism|small=yes}}
{{基礎情報 会社
| 社名 = 九州旅客鉄道株式会社
| 英文社名 = Kyushu Railway Company
| ロゴ = [[ファイル:JR logo (kyushu).svg|150px]]
| 画像 = [[ファイル:Hakata Station Business Center Building.JPG|220px]]
| 画像説明 = 本社(博多駅前ビジネスセンタービル6F-11F)
| 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
| 機関設計 = [[監査等委員会設置会社]]<ref>[https://www.jrkyushu.co.jp/company//ir/policy/governance/ コーポレート・ガバナンス] - 九州旅客鉄道株式会社</ref>
| 市場情報 = {{上場情報 | 東証プライム | 9142 | 2016年10月25日}}{{上場情報 | 福証 | 9142 | 2016年10月26日}}
| 略称 = JR九州<ref group="注釈">その他、JR Kyushu、JR-K、JRQ等の表記がある。</ref>
| 国籍 = {{JPN}}
| 本社郵便番号 = 812-8566
| 本社所在地 = [[福岡県]][[福岡市]][[博多区]][[博多駅前]]三丁目25番21号<br/>(博多駅前ビジネスセンタービル)
| 本社緯度度 = 33
| 本社緯度分 = 35
| 本社緯度秒 = 21.8
| 本社N(北緯)及びS(南緯) = N
| 本社経度度 = 130
| 本社経度分 = 25
| 本社経度秒 = 1.8
| 本社E(東経)及びW(西経) = E
| 座標右上表示 = Yes
| 本社地図国コード = JP
| 設立 = [[1987年]]([[昭和]]62年)[[4月1日]]<ref name="交通2001-04-02">{{Cite news |和書 |title=JR7社14年のあゆみ |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2001-04-02 |page=9 }}</ref>
| 業種 = 陸運業
| 統一金融機関コード =
| SWIFTコード =
| 事業内容 = 旅客鉄道事業 他
| 代表者 = {{Plainlist|
* 代表取締役会長執行役員 [[青柳俊彦]]
* 代表取締役社長執行役員 [[古宮洋二]]
}}
| 資本金 =
* 160億円
(2023年3月31日現在)<ref name="fy">{{Cite report |和書 |author=九州旅客鉄道株式会社 |date=2023-06-23 |title=第36期(2022年4月1日 - 2023年3月31日)有価証券報告書}}</ref><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 発行済株式総数 =
* 1億5730万1600株
(2023年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 売上高 =
* 連結: 3832億4200万円
* 単独: 2116億1000万円
(2023年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 営業利益 =
* 連結: 343億2300万円
* 単独: 228億1300万円
(2023年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 経常利益 =
* 連結: 357億0000万円
* 単独: 271億5100万円
(2023年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 純利益 =
* 連結: 312億7500万円
* 単独: 254億0800万円
(2023年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 純資産 =
* 連結: 4068億5000万円
* 単独: 3399億4800万円
(2023年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 総資産 =
* 連結: 9966億9900万円
* 単独: 8440億5100万円
(2023年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 従業員数 =
* 連結: 14,269人
* 単独: 6,092人
(2023年3月31日現在)<ref name="fy" />
| 決算期 = 3月31日
| 会計監査人 = [[有限責任監査法人トーマツ]]<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 主要株主 = {{Plainlist|
* [[日本マスタートラスト信託銀行]](信託口) 14.49%
* [[日本カストディ銀行]](信託口) 6.89%
* RAILWAY HOLDINGS,L.L.C. 4.55%
* [[太陽生命保険]] 2.03%
* [[日本生命保険]] 1.99%
* [[明治安田生命保険]] 1.46%
* [[東海旅客鉄道]] 1.32%
* [[東日本旅客鉄道]] 1.25%
* [[西日本旅客鉄道]] 1.25%
* JR九州従業員持株会 1.19%
* (2023年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
}}
| 主要子会社 = [[#グループ会社|グループ会社]]参照
| 関係する人物 =
| 外部リンク = {{Official URL}}
| 特記事項 =
}}
'''九州旅客鉄道株式会社'''(きゅうしゅうりょかくてつどう、{{lang-en-short|Kyushu Railway Company}}<ref>九州旅客鉄道株式会社 定款 第1章第1条2項</ref>)<ref group="注釈">社名[[ロゴタイプ|ロゴ]]では「金を失う」という意味を避けるため、「鉄」の字の代わりに「金偏に矢」という「'''鉃'''」の文字を使って、「九州旅客'''鉃'''道株式会社」としているが、正式な[[商号]]は[[常用漢字]]の「鉄」である([[四国旅客鉄道]]以外のJR各社も同じ)。</ref> は、[[九州地方]]を中心として[[旅客]]鉄道等を運営する[[日本]]の[[鉄道事業者]]。[[1987年]][[4月1日]]に[[日本国有鉄道]](国鉄)から[[九州旅客鉄道大分支社|大分]]・[[九州旅客鉄道熊本支社|熊本]]・[[九州旅客鉄道鹿児島支社|鹿児島]]の各[[鉄道管理局]]および九州[[鉄道管理局#総局|総局]]<ref group="注釈">各鉄道管理局は民営化後、「支社」などになっている。</ref>が管理していた鉄道事業を引き継いで発足した[[JR|JRグループ]]の旅客鉄道会社の一つ。通称は'''JR九州'''(ジェイアールきゅうしゅう)、英語略称は'''JR Kyushu'''。[[コーポレートカラー]]は[[赤色]]。
鉄道事業のほか、[[旅行会社|旅行業]]や[[小売業]]、[[不動産会社|不動産業]]、[[農業]]などの関連事業も多角的に展開し、[[関西]]や[[首都圏 (日本)|首都圏]]といった九州以外の日本国内エリアや、[[タイ王国|タイ]]など一部日本国外にも進出している<ref name="jrkyushu-group">[http://www.jrkyushu.co.jp/company/info/group/ JR九州グループ会社](2023年3月29日閲覧)</ref><ref>{{Cite web|和書|title=運営店舗|JR九州フードサービス株式会社 |url=https://www.jrfs.co.jp/store |website=www.jrfs.co.jp |access-date=2022-12-22 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=JR九州の新築分譲マンション「MJR」 |url=https://www.jrkyushu.co.jp/mjr/ |website=JR九州のマンション<MJR> |access-date=2022-12-22 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=【公式】JR九州ホテルズ |url=https://www.jrk-hotels.co.jp/ |website=九州・沖縄・東京のホテルならJR九州ホテルズ【公式サイト】|JR九州ホテルズ株式会社 |access-date=2022-12-22 |language=ja}}</ref>。本社は[[福岡県]][[福岡市]][[博多区]]。切符の地紋には「K」と記されている。[[東京証券取引所]]プライム市場・[[福岡証券取引所]][[上場]]企業。
== 概況 ==
=== 営業概要 ===
鉄道事業においては、九州地方に鉄道路線([[九州新幹線]]<ref group="注釈">JR九州は営業路線の名称として「鹿児島ルート」を用いず、単に「九州新幹線」としている。以下この記事で単に「九州新幹線」とした時は鹿児島ルートを表すものとする。</ref>・[[西九州新幹線]]と[[在来線]])を有し、2023年6月13日時点で総[[営業キロ]]数 2,342.6 [[キロメートル|km]]、595[[鉄道駅|駅]](駅数にBRT駅含む)の運営を行っている<ref name="outline">{{Cite web|和書|url=http://www.jrkyushu.co.jp/company/info/outline/ |title=会社概要 |publisher=九州旅客鉄道 |accessdate=2023-09-12}}</ref>。
鉄道事業においては、JR九州発足から[[2016年]]3月期まで一度も営業[[黒字]]を計上したことがなく、九州新幹線が全線開業した後も依然として厳しい経営状況が続いていた。[[2015年]]度に実施された[[減損会計]]による[[減価償却]]費の大幅な圧縮や合理化などにより、[[2017年]]3月期の決算においてJR九州発足以来初めて鉄道事業が250.8億円の営業黒字となった<ref name="平成27年度決算について">{{Cite web|和書|url=https://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2018/05/10/18051001kessan.pdf|title=平成30年度決算について|accessdate=2018-09-02|format=PDF|publisher=九州旅客鉄道|page=5}}</ref>。
その一方で、鉄道事業を補完するため旅行・ホテル、不動産、船舶、飲食業、農業など事業の多角化を推し進めており(「[[#グループ会社|グループ会社]]」も参照)、その営業範囲は九州のみならず[[首都圏 (日本)|首都圏]]<ref>[https://www.jrk-hotels.co.jp/hotels/ JR九州ホテルズ ホテル一覧](2019年4月5日閲覧)、[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO42788590S9A320C1LX0000/ 「JR九州、東京・虎の門の再開発に参画」][[日本経済新聞]]ニュースサイト(2019年3月22日)2019年4月5日閲覧</ref> などや日本国外にも展開している。2017年9月には[[タイ王国|タイ]]で不動産開発などを手掛ける現地法人「タイJR九州キャピタルマネジメント株式会社」の開設を<ref>{{PDFlink|[http://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2017/09/28/170928-001.pdf タイ現地法人設立に関するお知らせ]}} - 九州旅客鉄道(2017年9月28日)2021年4月16日閲覧</ref>、同年12月にはタイの首都[[バンコク]]における「タイJR九州ビジネスディベロップメント」設立と長期滞在用サービスアパートメント事業参入<ref>{{PDFlink|[http://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2017/12/25/171225_001.pdf タイにおけるサービスアパートメント事業への参入に関するお知らせ-東南アジアへ初進出、海外不動産市場へ初挑戦 サービスアパートメント事業初参画-]}} - 九州旅客鉄道(2017年12月25日)2021年4月16日閲覧</ref> を発表した。
訪日外国人による鉄道などの利用も重視しており、[[2018年]]7月に戦略的提携を結んだ[[中華人民共和国|中国]]の[[アリババグループ]]<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO33276860T20C18A7LX0000/ 「アリババとJR九州が提携、中国から九州へ100万人送客めざす」] - 日本経済新聞ニュースサイト(2018年7月23日)2018年9月28日閲覧。</ref> など外国企業とも協力関係にある。
2016年9月中間期の売上高に占める「非鉄道」部門の割合は51%と過半を超えており、民営化以降こうした事業の多角化が経営面での安定に寄与したこともあって、『[[旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社に関する法律]]の一部を改正する法律』(平成27年法律第36号<ref>{{ws|[[:s:旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社に関する法律の一部を改正する法律 (平成27年法律第36号)|原文]]}}</ref>)が2015年6月10日に公布、2016年4月1日に施行され、JR旅客会社では[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)・[[東海旅客鉄道]](JR東海)に次いで4番目、[[本州]]以外に鉄道路線を有する、経営が厳しいと見られているいわゆる「三島会社」では初の上場および完全民営化を果たした<ref>{{Cite news |和書 |url=http://www.nikkei.com/article/DGXLZO07308230V10C16A9TJC000/ |title=JR九州、時価総額は4000億円 10月25日に上場 |newspaper=日本経済新聞 |publisher=日本経済新聞社 |date=2016-09-16 |accessdate=2016-10-18 |quote=1987年の旧国鉄分割民営化で誕生したJRグループでは4社目、(中略)北海道、四国、九州の「三島会社」では初めての株式上場となる。}}</ref>。なお、完全民営化前に経営支援策として設定されていた[[経営安定基金]](3877億円、元本の利用はできない。利益配当のみ経常利益に含まれる)については、九州新幹線の施設使用料(年102億円)の一括前払い(計2205億円)および借入金の償還などに充てられている<ref name="nikkei20150127">{{Cite web|和書|url=http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS27H7F_X20C15A1EE8000/ |title=JR九州、債務返済に基金充当 上場へ国交省が報告書 |publisher=『日本経済新聞』 |date=2015-01-27 |accessdate=2015-08-25}}</ref>。
[[1987年]]のJR九州発足後は、[[福岡市]][[博多区]]の[[博多駅]]前に福岡本社([[登記]]上本店)、[[北九州市]][[門司区]]の[[門司港駅]]隣の[[旧三井物産門司支店|旧国鉄九州総局ビル]]に北九州本社を構えていたが、2001年に福岡本社に統合し、北九州市[[小倉北区]]の[[西小倉駅]]近隣([[小倉駅 (福岡県)|小倉駅]]からも至近)に北部九州地域本社を設置している<ref name="交通2001-03-01">{{Cite news |和書 |title=北部九州地域本社を新設 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通新聞社 |date=2001-03-01 |page=1 }}</ref>。
=== 経営環境 ===
鉄道事業においては、博多駅・[[熊本駅]]・[[鹿児島中央駅]]の各都市間の輸送を主としている[[九州新幹線]]と、博多駅を中心に九州の各主要都市間を結ぶ在来線[[特別急行列車|特急列車]]などの中長距離輸送が主な収益源となっているが、九州では主たる都市間を結ぶ[[高速道路]]の整備が早期から進んでおり、JR九州の列車に対して料金面で優位性のある[[高速バス]]が九州の各地で競合している<ref name="王国">{{Cite web|和書|url= https://trafficnews.jp/post/82268|title= 九州の高速バス事情 圧倒的本数の「高速バス王国」、観光地路線も盛況 競争さらに激化|publisher=メディア・ヴァーグ|date=2018-12-12|accessdate=2021/12/05|author=成定竜一}}</ref>。さらに福岡市と北九州市の大都市同士を結ぶ博多駅 - 小倉駅間では[[国鉄分割民営化]]により、[[山陽新幹線]]が[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)の所有となったことで、JR九州の所有する[[鹿児島本線]]の同区間を走る特急列車(「[[きらめき (列車)|きらめき]]」「[[ソニック (列車)|ソニック]]」など<ref>[https://www.jrkyushu-timetable.jp/cgi-bin/sp/sp-tt_dep.cgi/2815502e/ 駅別時刻表 小倉駅 鹿児島本線 折尾・赤間・博多方面(下り)【特急】] 九州旅客鉄道(2020年1月14日閲覧)</ref>)と、時間的な優位性のあるJR西日本の山陽新幹線が競争関係になった。[[宮崎県]]と福岡県の移動では所要時間が短い[[航空機]]を使う人も多く<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO54183640Y0A100C2LX0000/ 【チャートは語る】空路 鉄路とすみ分け/時間短縮でビジネス需要]『日本経済新聞』朝刊2020年1月9日(地域経済面)2020年1月14日閲覧</ref>、九州内では競合交通機関に対して時間面、料金面、利便性の面などで圧倒的な優位性を発揮できる区間は限られているのが現状である。九州新幹線は山陽新幹線と[[直通運転]]を行い、九州の各都市と[[山陽地方]]や[[関西]]とを結んでいるが、ここでも高速バスや航空機と競合関係にある。
近距離輸送の面では、管内には福岡市・北九州市([[北九州・福岡大都市圏]])をはじめ、九州各県の[[都道府県庁所在地|県庁所在地]]の近郊など比較的輸送量の多い線区も存在するが、[[首都圏 (日本)|首都圏]]や[[関西圏]]などのように莫大な収益をもたらすものではなく、経営の一助になるには至っていない。むしろ、管内には[[輸送密度]]が低い[[ローカル線]]も多く抱え、沿線の[[過疎化]]などの社会問題も相まって年々利用が減少しており、経営の負担になっている。
このような経営環境にあり、ネット予約を用いた割引切符の拡充や増発などで主力である中長距離輸送のサービス向上を図る一方{{r|王国}}、[[現業]]部門のコスト縮減・合理化の一環として以下の施策により現業部門の人員削減を進めているほか、2020年代に入ると[[日本における2019年コロナウイルス感染症による社会・経済的影響|コロナ禍]]による鉄道事業の大幅な減収への対策として、不要な設備の撤去や普通・快速列車のロングシート化などによる保有車両数の削減を打ち出している<ref name="2021年決算">{{Cite press release|和書|url=https://www.jrkyushu.co.jp/company/ir/news/__icsFiles/afieldfile/2021/05/13/9142.FY2021.4q.material.ja_1.pdf|format=PDF|title=2021年3月期決算説明会|publisher=九州旅客鉄道|date=2021-05-13|accessdate=2022-03-31}}</ref>。
; ワンマン運転の拡充
: 普通列車では、1988年の[[香椎線]]と[[三角線]]を皮切りに、[[車掌]]を乗務させない[[ワンマン運転]]を九州各地で拡大させた。普通列車のワンマン運転は2023年3月時点で、[[山陽本線]]の[[下関駅]] - [[門司駅]]間、鹿児島本線の[[折尾駅]] - [[鳥栖駅]]間、[[日豊本線]]の[[重岡駅]] - [[延岡駅]]間を除く全ての区間で行われている。2004年以降は、2両以下の編成の[[#D&S列車(観光列車)|D&S列車]]もワンマン運転となっている([[改札#日本の車内改札|車内改札]]は客室乗務員が担当する)。
: 特急列車においても、「[[ゆふ (列車)|ゆふいんの森]]」「[[九州横断特急#あそぼーい!|あそぼーい!]]」「[[36ぷらす3]]」を除くD&S列車と、「[[にちりん (列車)|にちりん]]」「[[ひゅうが (列車)|ひゅうが]]」「[[きりしま (列車)|きりしま]]」の一部([[JR九州787系電車|787系電車]]4両編成を使用する列車)<ref>{{Cite news |url=https://trafficnews.jp/post/64934/ |title=特急「にちりん」「ひゅうが」計15本がワンマン化 3月から JR九州 |newspaper=乗りものニュース |publisher=メディア・ヴァーグ |date=2017-02-15 |accessdate=2017-03-04 }}</ref> でワンマン運転を実施している。
; 駅の無人化等
: JR九州発足以降一貫して[[無人駅|駅の無人化]]を進めており、2015年には、同年春以降に同社発足以来最大規模となる100駅前後を無人化する計画が明らかになった。このうち香椎線ではANSWERと呼ばれる[[駅集中管理システム|駅遠隔案内システム]]を導入した「Smart Support Station」として、[[香椎駅]]・[[長者原駅]]を除く線内の14駅が無人化された<ref>{{Cite news|url=https://news.mynavi.jp/article/20141224-a095/|title=JR九州ダイヤ改正、香椎線の"ANSWER"とは? 香椎駅・長者原駅除く14駅無人化|newspaper=[[マイナビニュース]]|date=2014-12-24|accessdate=2017-03-04}}</ref>。同システムはこの他に2021年3月3日時点で[[筑豊本線]] [[若松駅]] - [[新入駅]]([[折尾駅]]を除く11駅)<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2017/02/03/20170203tikuhouhonsensss.pdf|format=PDF|title=筑豊本線の一部が「Smart Support Station」に変わります|publisher=九州旅客鉄道|date=2017-02-23|accessdate=2017-03-04}}</ref>、大分地区の[[豊肥本線]]と日豊本線の一部の駅、[[指宿枕崎線]]の[[郡元駅]] - [[喜入駅]]にも導入されている。
: [[新玉名駅]]を皮切りに新幹線駅では全国で初めて[[プラットホーム|ホーム]]への駅員配置を廃止した。JR九州が管理する新幹線駅では2021年3月3日時点で[[新鳥栖駅]]、[[熊本駅]]、[[鹿児島中央駅]]を除く駅の新幹線ホームが駅員無配置となっている。
: 今後は[[インターネット]]を用いた割引切符の販売強化などによる[[みどりの窓口]]の削減<ref>{{Cite news |和書 |url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASFB1000J_Q4A710C1EAF000/ |title=JR九州社長「鉄道事業、16年度黒字めざす」 上場へ収益改善 |newspaper=日本経済新聞 |publisher=[[日本経済新聞社]] |date=2014-07-10 |accessdate=2017-01-06}}</ref>を予定しているという。
その他、線路のメンテナンスにロボットを導入することなども検討中であるとしている<ref>{{Cite news |url=https://web.archive.org/web/20151218071333/http://www.sankeibiz.jp/business/news/151216/bsd1512161049007-n1.htm |title=線路メンテにロボット導入検討 JR九州「ベテラン引退による技能断絶に対応」 |newspaper=SankeiBiz |publisher=[[産経新聞社]] |date=2015-12-16|accessdate=2017-01-06}}</ref>。
これらの施策の結果、発足初年度の営業損益は288億円の[[黒字と赤字|赤字]]となったが、九州新幹線が部分開業した2004年度には、営業損益が[[黒字と赤字|黒字]]に転換した。2011年3月12日に全線開業した九州新幹線の営業収益は2017年3月時点でおよそ501億円となり、JR九州の鉄道事業全体の収益(同年1464億円)の3分の1以上を占めるに至るなど、事業の大きな柱となっている<ref name="平成27年度決算について" />。これを軸として、[[#D&S列車(観光列車)|D&S列車]]と称する[[観光列車]]などで引き続き地域の活性化や鉄道事業の収益拡大を図りつつ、不動産などの沿線開発や事業の多角化を進め、鉄道事業と関連事業の相乗効果をもって利益を拡大する事業戦略を推進している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jrkyushu.co.jp/profile/tsukuru2016.jsp |title=JR九州グループ中期経営計画 つくる2016 |publisher=九州旅客鉄道 |accessdate=2015-08-25}}</ref>。2016年度から3カ年の中期経営計画では「総合的な街づくり企業グループを目指す」としている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jrkyushu.co.jp/company/info/message/|title=トップメッセージ|accessdate=2017-05-18|publisher=九州旅客鉄道}}</ref>。
2016年の[[株式公開]]においては、投資家の間でも[[訪日外国人旅行|訪日観光客]]の強い伸びが安定した企業成長につながるといった見方があるとされている<ref name="reuters20161017">{{Cite news|title=JR九州の公開価格は2600円、仮条件の上限 強い需要を反映|newspaper=[[ロイター]]|date=2016-10-17|url=http://jp.reuters.com/article/jrkyushu-ipo-idJPKBN12H0EO|accessdate=2016-10-17}}</ref>。
[[九州新幹線 (整備新幹線)#西九州ルート|九州新幹線西九州ルート]]のうち武雄温泉駅 - 諫早駅間が2008年4月、諫早駅 - 長崎駅間が2012年8月に着工され、2022年9月23日に武雄温泉駅 - 長崎駅間が[[西九州新幹線]]として開業した<ref name="prkyushu20220222">{{Cite press release|和書|title=西九州新幹線の開業日について|publisher=九州旅客鉄道|date=2022-02-22|url=https://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/news/newtopics/__icsFiles/afieldfile/2022/02/22/220222_nishikyushu_kaigyoubi.pdf|format=PDF|accessdate=2022-02-23}}</ref>。
=== 運転面 ===
==== 広域輸送 ====
優等列車の運行については民営化後、博多駅を中心とした体系に改められ、同駅から九州各県の主要駅に向かう新幹線・在来線特急列車が発着している。
[[九州新幹線]]は、九州内においては博多駅・熊本駅・鹿児島中央駅の各都市間の輸送を主としている。このほかにも主な新幹線停車駅で、[[佐賀市|佐賀]]・[[長崎市|長崎]]・[[大分市|大分]]・[[宮崎市|宮崎]]の各県庁所在地を結ぶ在来線特急列車や高速バスと連絡している。加えて、[[山陽新幹線]]の[[新大阪駅]]と鹿児島中央駅との間で直通運転も行っている。
通常は博多駅から熊本駅までは1時間あたり3 - 4本、鹿児島中央駅までは2本 - 3本の頻度で運行されており、繁忙期などは山陽新幹線に直通する臨時列車も多数運行され、最大で1時間に6本ほど運行される時間帯もあるなど、高頻度での運行がなされている。
在来線特急列車は博多駅を中心として、小倉駅・[[佐賀駅]]・[[長崎駅]]・[[佐世保駅]]・[[大分駅]]などの間で特急列車を運行している。特に博多駅 - 小倉駅・佐賀駅間に関しては、「在来線特急毎時上下各2-3本運転」<ref group="注釈">2017年3月4日改正時点の日中1時間の運転本数は、博多駅 - 小倉駅間が「[[ソニック (列車)|ソニック]]」2本、「[[きらめき (列車)|きらめき]]」1本(一部時間帯除く)、博多駅 - 佐賀駅間が「[[かもめ (列車)|かもめ]]」2本、「[[みどり (列車)|みどり]]」「[[ハウステンボス (列車)|ハウステンボス]]」1本(「ハウステンボス」併結は一部時間帯除く)。</ref> と高頻度での運行を行っている。[[宮崎駅]]に関しては途中駅での接続で対応しているが、特急料金の通算や同一ホームでの乗り換えなどで便宜を図っている。このほかにも宮崎駅 - 鹿児島中央駅間や、大分駅 - 熊本駅間を結ぶ特急列車も運行されている。
博多駅はかつて日本で在来線特急が最も多く発着する[[ターミナル駅]]となっていた。特に九州新幹線全線開業前の博多駅 - [[鳥栖駅]]間は3系統8種の特急列車(「[[つばめ (JR九州)|リレーつばめ]]」「[[有明 (列車)|有明]]」「かもめ」「みどり」「ハウステンボス」「[[ゆふ (列車)|ゆふ]]」「[[ゆふ (列車)|ゆふDX]]」「[[ゆふ (列車)|ゆふいんの森]]」)が運転され線路容量は限界に達しており、2003年には待避専用の[[太宰府信号場]]が設置されたほどである。2011年3月12日に九州新幹線が全線開業して「リレーつばめ」が廃止、「有明」が朝晩のみの運行になったことでこの区間の線路容量にも若干余裕ができたため、1976年の[[長崎本線]]・[[佐世保線]][[鉄道の電化|電化]]開業以来行われていた「かもめ」「みどり」の併結運転は終了した。「みどり」は「ハウステンボス」と併結運転を行っており、「かもめ」との併結運転が終了するまでは「かもめ・みどり・ハウステンボス」の[[多層建て列車|3階建て列車]]が運行されていた。
2008年6月発売の時刻表から、管内の「[[エル特急]]」の呼称が全て「特急」に変更された。
なお、定期運行の[[寝台列車|寝台特急]]については1994年に「[[あさかぜ (列車)|あさかぜ1・4号]]」「[[はやぶさ (列車)|みずほ]]」が廃止されたのを皮切りに縮小が進み、2009年3月14日のダイヤ改正で「[[はやぶさ (列車)|はやぶさ]]」「[[富士 (列車)|富士]]」が廃止されたことでJR九州管内から消滅した。そして2011年3月12日のダイヤ改正で「[[にちりん (列車)|ドリームにちりん]]」が廃止されたことで定期運行の[[夜行列車]]自体が消滅した。
[[急行列車]]については特急格上げや廃止が進められ、2004年に「[[かわせみ やませみ|くまがわ]]」が特急に格上げされたことで消滅した。
==== 地域輸送 ====
JR九州の発足後、都市圏輸送の強化のため[[普通列車]]の増発が進められ、長距離を運行する普通列車の系統を分離、JR他社線への[[直通運転]]を廃止するなど、運転区間の細分化、需要に合わせた短編成化も並行して行われた。また福岡都市圏を中心に、[[快速列車]]の新規設定や増発・停車駅追加などを実施した。しかし2000年代以降、博多 - 小倉間では特急列車の増発が図られるとともに、快速列車については停車駅の追加のほか毎時1本を準快速に格下げし快速区間の短縮を行った。朝や夜間の一部を除く大半の列車で待避停車があり、博多 - 小倉間を日中の快速は68-70分。準快速にいたっては通過駅が5駅しかなく78分を要することとなり、最速55分<!--1972年4月時点の特別快速-->で結んでいた国鉄時代と比較しても同区間の所要時間は大きく延びている。[[車体傾斜式車両|振り子式車両]]の[[JR九州883系電車|883系]]や[[JR九州885系電車|885系]]を投入して大幅に速度向上した特急列車との格差は拡大している。
九州各地の在来線特急列車や新幹線も、乗車距離の短い区間に廉価な[[特別急行券|特急料金]]や割引切符を設定し、列車の増発や停車駅を拡大することによって、短距離でも利用しやすい体制を整えている。
==== D&S列車(観光列車) ====
JR九州では、管内各地の[[ローカル線]]で「'''D&S(デザイン&ストーリー)列車'''」と称する[[観光列車]]を多数運行している。「D&S」とは、これらの列車にはそれぞれ特別なデザインと運行する地域に基づくストーリーがあり、「デザインと物語のある列車」であることに由来する<ref>{{Cite press release |和書 |url=http://www13.jrkyushu.co.jp/newsreleaseweb.nsf/9dd28b8cb8f46cee49256a7d0030d2e6/a2251619c552576549257c6a003c5744/$FILE/%EF%BC%A4%EF%BC%86%EF%BC%B3%E5%88%97%E8%BB%8A%E3%81%AE%E9%81%8B%E8%BB%A2%E6%97%A5%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6.pdf |format=PDF |title=D&S列車の運転日について |publisher=九州旅客鉄道 |date=2014-01-24 |accessdate=2015-08-25 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140714204141/http://www13.jrkyushu.co.jp/newsreleaseweb.nsf/9dd28b8cb8f46cee49256a7d0030d2e6/a2251619c552576549257c6a003c5744/%24FILE/%EF%BC%A4%EF%BC%86%EF%BC%B3%E5%88%97%E8%BB%8A%E3%81%AE%E9%81%8B%E8%BB%A2%E6%97%A5%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6.pdf |archivedate=2014年7月14日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。
2023年10月時点において、JR九州管内で以下の11種類のD&S列車が運行されている。
{| class="wikitable"
! 列車名 !! 運転開始
|-
| [[ゆふ (列車)|ゆふいんの森]] || 1989年3月11日
|-
| [[九州横断特急]] || 2004年3月13日
|-
| [[SL人吉]] || 2009年4月25日
|-
| [[海幸山幸 (列車)|海幸山幸]] || 2009年10月10日
|-
| [[指宿のたまて箱]] || 2011年3月12日(実際の運転開始は同年3月13日)
|-
| [[九州横断特急#あそぼーい!|あそぼーい!]] || 2011年6月4日
|-
| [[A列車で行こう (列車)|A列車で行こう]] || 2011年10月8日
|-
| [[或る列車]] || 2015年8月8日
|-
| [[かわせみ やませみ]] || 2017年3月4日
|-
| [[36ぷらす3]] || 2020年10月16日
|-
| [[ふたつ星4047]] || 2022年9月23日
|-
|}
<!-- また、以下の列車の運転が予定されている。
{| class="wikitable" style="width:38em"
! 列車名 !! 運転開始予定
|} -->
1989年に同社初の観光列車として特急「[[ゆふ (列車)|ゆふいんの森]]」が運行を開始し、2004年には九州新幹線が一部開業することを契機に、[[鹿児島県]]・[[宮崎県]]を中心として多数の観光列車が運行を開始した。その後、九州新幹線が全線開業、沿線である[[熊本県|熊本]]・鹿児島両県でさらなる観光列車の投入が行われた。
D&S列車はそのほとんどが従来から使用されていた車両をリニューアルした車両で運行されており、中には普通列車用の車両を改造し、観光特急と称して運行している列車もある。D&S列車はその全てが[[水戸岡鋭治]]によるデザイン・設計である{{Refnest|group="注釈"|2023年5月にJR九州が発表した2024年春より久大本線で運行する予定の新D&S列車(2023年5月現在列車名未発表)のデザインは水戸岡鋭治ではなく鹿児島に本社を置く株式会社 IFOOである<ref>[https://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2023/05/10/230510_yuhukougen_ds.pdf ~ゆふ高原線の風土を感じる旅~新D&S列車デビュー] - 九州旅客鉄道、2023年5月10日</ref>。}}。
各D&S列車の特徴としては、内外装やサービスに乗客を楽しませる仕掛けが施されてあり、車内にアルコール飲料を提供する[[バー (酒場)|バー]]を備えた特急「[[A列車で行こう (列車)|A列車で行こう]]」や、沿線の[[浦島太郎]]伝説にちなみ、ドアが開くとドア上部から[[玉手箱]]の煙に見立てた白いミストが噴出する特急「[[指宿のたまて箱]]」、中には、列車の運行中に客室乗務員が沿線の[[日本神話]]をモチーフにした手作りの[[紙芝居]]を披露するサービスが行われている特急「[[海幸山幸 (列車)|海幸山幸]]」といった列車も運行されている。
2019年11月21日に12番目のD&S列車として、[[JR九州787系電車|787系]]を改造した初の電車ベースの専用車両で九州内を毎週5日かけて周遊して運転する「[[36ぷらす3]]」が発表され<ref name=":02">{{Cite web|和書|url=http://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/news/newtopics/__icsFiles/afieldfile/2019/11/21/001.pdf|title=黒い787「36ぷらす3」2020年秋運行開始!|accessdate=2019-11-21|publisher=九州旅客鉄道|date=2019-11-21|format=PDF}}</ref>、2020年10月16日から運転を開始した<ref name="mainichi20201016">{{Cite web|和書|title=「走る九州」出発進行 観光列車「36ぷらす3」運行開始 |website=毎日新聞 |date=2020-10-16 |url=https://mainichi.jp/articles/20201016/k00/00m/040/156000c |publisher=毎日新聞社 |accessdate=2020-10-17}}</ref>。D&S列車として初めての他社線乗り入れ([[肥薩おれんじ鉄道線]]内を通過)を実施している<ref name=":02" />。
2004年に運行を開始した「[[はやとの風]]」は、2022年3月に運転終了、車両は「いさぶろう・しんぺい」用予備車とともに「[[ふたつ星4047]]」に改造され、同年9月23日より運行を開始した。
肥薩線で1996年3月16日(専用車両は2004年3月13日)から運行されていた「[[いさぶろう・しんぺい]]」は2020年7月に同線が水害で不通となった後、車両がツアー列車などで運行されていたが、2023年10月4日で運行を終了した<ref>{{Cite web|和書|title=観光列車「いさぶろう・しんぺい」 来月4日、福岡でラストラン 県内は20日 |website=読売新聞オンライン |date=2023-09-08 |url=https://www.yomiuri.co.jp/local/kumamoto/news/20230907-OYTNT50177/ |access-date=2023-10-05 |publisher=読売新聞社}}</ref>。車両はキハ125形1両とともに久大本線で2024年春運行開始予定の新D&S列車「[[かんぱち・いちろく]]」に改造される予定である<ref>{{Cite web|和書|title=JR九州、24年春に新観光列車 博多―由布院・別府間 |website=日本経済新聞 |date=2023-05-10 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOJC109J60Q3A510C2000000/ |access-date=2023-10-05 |publisher=日本経済新聞社}}</ref><ref>{{Cite press release|title=ゆふ高原線の風土を感じる新たなD&S列車~列車名決定!特急「かんぱち・いちろく」|publisher=九州旅客鉄道|date=2023-10-26|url=https://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/news/newtopics/__icsFiles/afieldfile/2023/10/26/20231026_d_s_kampachi_ichiroku.pdf|format=PDF|language=ja|access-date=2023-10-27}}</ref>。
{{-}}
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ファイル:Kuha71-Kagoshima-Line.jpg|同社の観光列車の先駆けとなった特急「ゆふいんの森」
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==== 豪華寝台列車 ====
2013年10月15日から、[[寝台列車]]「[[ななつ星 in 九州]]」を運行している。ななつ星in九州は、1室の料金が1人最大55万円ともなる超豪華寝台列車で、数日にわたって九州を周遊する。日本初となる観光に特化した寝台列車([[クルーズトレイン]])であり、主に国内やアジアの富裕層をターゲットにする<ref>{{Cite news |url=http://sankei.jp.msn.com/region/news/130101/fkk13010102030000-n1.htm |title=日本初のクルーズトレイン10月15日発車 JR九州 |newspaper=MSN産経ニュース |publisher=[[産経新聞社]] |date=2013-01-01 |accessdate=2015-08-25 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130103204007/http://sankei.jp.msn.com/region/news/130101/fkk13010102030000-n1.htm |archivedate=2013-01-03 |deadlinkdate=2015年8月}}</ref>。
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ファイル:Seven Stars in Kyushu at Aso Station 20131103.jpg|日本初のクルーズトレイン「ななつ星 in 九州」
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=== 運賃・料金面 ===
1996年に[[運賃|普通運賃]]を値上げしつつ、JR他社より安い[[グリーン券|グリーン料金]]や、JRグループの中では唯一、在来線特急の[[特別急行券#閑散期・繁忙期・最繁忙期|繁忙期]](指定席特急料金が200円増しになる時期)の設定をなくす<ref group="注釈">ただしピーク期として2枚きっぷなどの[[特別企画乗車券]]で座席指定をする際には別途500円が必要になる期間を設けている。</ref>など料金の値下げを行った。ただし、九州新幹線に関しては繁忙期・通常期・閑散期の設定がなされており、2022年4月には在来線特急にも繁忙期が再設定され<ref name="jrkyushu20210803" />、時期により指定料金が異なっている。
JR九州の競争区間(主に九州内の[[高速バス]])の対象である旅客に対する値下げ戦略は、2001年に割引きっぷのほとんどを特急[[回数乗車券|回数券]]「[[2枚きっぷ・4枚きっぷ]]」に集約した。この「2枚きっぷ・4枚きっぷ」において、高速バスとの競合する区間では普通乗車券よりも安くなる区間も存在する<ref group="注釈">例:博多駅 - 大分駅(鹿児島線・日豊線経由)間の普通乗車券が3570円なのに対し、「福岡市内 - 別府・大分」の4枚きっぷは普通乗車券+指定席特急券で1枚当たり2500円。</ref>。
[[JR九州列車予約サービス|インターネット]]での割引切符の予約・販売も推進しており、「2枚きっぷ」と同等の価格で片道から購入できる「九州ネットきっぷ」、早期予約で「4枚きっぷ」以上の割引率で片道から購入できる「九州ネット早得」といった割引切符が設定されている。JR九州のインターネット予約サービスはJR西日本の同サービス「[[e5489]]」とも連携しており、山陽新幹線方面のインターネット専用割引切符「eきっぷ」「スーパー早得きっぷ」も購入できる。
快速・普通列車用の割引回数券としては、6枚つづりの「[[ミニ回数券 (JR九州)|ミニ回数券]]」があったが、2016年1月31日に発売を終了した。特急列車の設定のない一部の区間(長崎駅 - 佐世保駅間、[[唐津駅]] - [[福岡市地下鉄空港線]]博多駅間など)では、普通列車用の「2枚きっぷ・4枚きっぷ」を発売している。
若者向けの割引商品として、1996年に16歳から29歳までの人が入会可能な会員制割引サービス「[[ナイスゴーイングカード]]」を開始し、2011年まで新規入会受付を継続した。2012年からは16歳から24歳までの人が購入可能で2枚きっぷ・4枚きっぷより割引率の高い割引きっぷ「[[ガチきっぷ]]」を長期休暇期間に発売している。
全線フリーの企画乗車券については以前「[[九州グリーン豪遊券]]」(2003年まで)<ref>{{Cite journal|和書 |title = 鉄道記録帳2003年9月 |journal = RAIL FAN |date = 2003-12-01 |issue = 12 |volume = 50 |publisher = 鉄道友の会 |page = 22}}</ref>・「[[九州レディースパス]]」(2002年まで)の発売が終了してから数年間存在しなかったが、2007年に入り特急列車・九州新幹線が利用可能な「[[九州特急フリーきっぷ]]」が発売開始され、以後使用期間を限定し、商品名を変更して発売されている。同年にはJR九州の普通列車と九州内の私鉄路線に乗車できる「[[旅名人の九州満喫きっぷ]]」が発売された。
このように割引きっぷを設定する一方、[[急行列車]]の特急格上げ、山陽新幹線と在来線の[[乗継割引]]の廃止など、負担増となった例もある。九州新幹線には新幹線と在来線の乗継割引が導入されていない。
=== 禁煙化 ===
[[交通機関の喫煙規制|車両の禁煙化]]については、民営化直後の1988年には[[喫煙席|喫煙車]]を設定して普通・快速列車の[[分煙]]化を行い、さらに1995年には普通・快速列車は全面[[禁煙]]とした<ref group="注釈">それまであった喫煙車は、電車は鹿児島本線基準で門司港方の先頭車に固定されていたが、気動車は進行方向基準で編成最後尾の車両に設定されていた。</ref>。一方、特急列車でも年々禁煙車は増加しており、2003年からは特急列車の喫煙車は編成最後部(下り列車基準)の1両のみとし、[[座席指定席|指定席]]・[[自由席]]を1両に集約していた<ref group="注釈">なお、車両が2室に分かれる783系ではA室を自由席、B室を指定席とし、その他の車両については指定席の枕カバーを黄色にすることで区別していた。</ref>。1999年に投入された「[[有明 (列車)|有明]]」用の787系では、喫煙ルームを設けることで客室内を禁煙とした。
その後、2007年3月18日のダイヤ改正で、[[北海道旅客鉄道|JR北海道]]・[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]と共に管内特急の喫煙コーナーの廃止を含む大幅な禁煙化が行われた。この改正により管内特急の大半が全面禁煙となり、「にちりん」「ひゅうが」「きりしま」に喫煙車が、「ゆふ」「ゆふDX」「ゆふいんの森」「[[九州横断特急]]」「[[かわせみ やませみ|くまがわ]]」に喫煙ルーム(客席内は禁煙)が残るのみとなった。2009年3月14日のダイヤ改正でこれら特急の喫煙車および喫煙ルームが廃止となり、当時残っていた[[寝台列車|寝台特急]]を除いて全特急が完全禁煙となった。
なお、九州新幹線に関しては、部分開業した2004年に運行を開始した「[[つばめ (JR九州)|つばめ]]」に充当された[[新幹線800系電車|800系]]に関しては、当初から全面禁煙であった。全線開業に伴い運行を開始した[[新幹線N700系電車|N700系]]では客室内は全室禁煙で、3・7号車に喫煙ルームが設置され、JR九州管内を運行する列車では2年ぶりに喫煙可能の列車が登場した。
2017年1月時点でJR九州管内を運行する列車において、車内での喫煙が可能な列車はN700系で運行される九州新幹線列車の喫煙ルームのみで、それ以外の列車は新幹線・在来線とも全面禁煙となっている。
2012年4月1日からは福岡・北九州都市圏の一部エリアの在来線駅においてホーム上の喫煙コーナーを廃止し、全面禁煙となった<ref name="禁煙">{{Cite web|和書|url=http://www.jrkyushu.co.jp/nosmoking/index.jsp |title=禁煙・喫煙について |publisher=九州旅客鉄道 |accessdate=2015-08-25}}</ref>。ただし、博多駅・小倉駅の喫煙ルームは存続している<ref name="禁煙" />。
== 事業所 ==
{{Location map+|Japan|float=right|width=250|places=
{{Location map~|Japan|label=北部九州地域本社 |lat_deg=33|lat_min=53|lat_sec=18|lon_deg=130|lon_min=52|lon_sec=22|mark=Blue pog.svg |position=top}}
{{Location map~|Japan|label=長崎 |lat_deg=32|lat_min=45|lat_sec=05|lon_deg=129|lon_min=52|lon_sec=12|mark=Blue pog.svg |position=left}}
{{Location map~|Japan|label=大分 |lat_deg=33|lat_min=14|lat_sec=00|lon_deg=131|lon_min=36|lon_sec=23|mark=Blue pog.svg |position=right}}
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{{Location map~|Japan|label=東京 |lat_deg=35|lat_min=40|lat_sec=35|lon_deg=139|lon_min=45|lon_sec=43|mark=Blue pog.svg |position=right}}
{{Location map~|Japan|label=<!--本社--> |lat_deg=33|lat_min=35|lat_sec=21|lon_deg=130|lon_min=25|lon_sec=01|position=left}}
|caption=JR九州 [[image:Red pog.svg|8px]] 本社 [[image:Blue pog.svg|8px]] 支社
}}
{{Main2|本社・支社の路線管轄境界駅については「[[JR支社境]]」の項目を、車両基地は「[[#車両基地|車両基地]]」の節を、工場は「[[#車両工場|車両工場]]」の節を}}
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
! 名称 !! 所在地
|-
! 本社
| 福岡県福岡市[[博多区]][[博多駅前]]三丁目25番21号(博多駅前ビジネスセンタービル)
|-
! [[九州旅客鉄道北部九州地域本社|北部九州地域本社]]<!-- 「本社」とあるがJR九州によると支社扱いだそうです -->
| 福岡県[[北九州市]][[小倉北区]]室町三丁目2番57号
|-
! [[九州旅客鉄道長崎支社|長崎支社]]
| [[長崎県]][[長崎市]]尾上町8番6号
|-
! [[九州旅客鉄道大分支社|大分支社]]
| [[大分県]][[大分市]][[要町 (大分市)|要町]]1番1号(大分駅構内)
|-
! [[九州旅客鉄道熊本支社|熊本支社]]
| [[熊本県]][[熊本市]][[西区 (熊本市)|西区]][[春日 (熊本市)|春日]]三丁目15番1号(熊本駅構内)
|-
! [[九州旅客鉄道鹿児島支社|鹿児島支社]]
| [[鹿児島県]][[鹿児島市]][[武 (鹿児島市)|武一丁目]]2番1号
|-
! [[九州旅客鉄道宮崎支社|宮崎支社]]
| [[宮崎県]][[宮崎市]]東大淀2丁目60番地(南宮崎駅構内)
|-
! 東京支社
| [[東京都]][[千代田区]][[永田町]]二丁目12番4号(赤坂山王センタービル9階)
|-
! [[小倉総合車両センター]]
| 福岡県北九州市小倉北区金田三丁目1番1号
|-
! 社員研修センター
| 福岡県北九州市門司区新原町8番1号
|}
* [[九州旅客鉄道新幹線部|新幹線部]]は本社[[九州旅客鉄道鉄道事業本部|鉄道事業本部]]内部組織である。
* [[九州旅客鉄道沖縄支店|沖縄支店]]については2017年3月31日をもって閉店した。
* [[JR九州病院]]は2020年4月1日をもって医療法人若葉会に事業譲渡<ref name=":3">{{Cite web|和書|url=http://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/info/list/__icsFiles/afieldfile/2019/09/30/20190930_jr_hospital.pdf|title=事業の譲渡に関するお知らせ|accessdate=2019-10-1|publisher=九州旅客鉄道|format=PDF|date=2019-9-30}}</ref>。
* 佐賀県には支社・支店が設置されていないが、本社[[九州旅客鉄道鉄道事業本部|鉄道事業本部]]直轄の[[佐賀鉄道事業部]]<ref name="saga-s20210324">{{Cite news|和書 |url=https://www.saga-s.co.jp/articles/-/650105|title=<企業人事さが>JR九州 佐賀鉄道事業部を新設 4月1日付|newspaper=[[佐賀新聞]]|date=2021-3-24|accessdate=2021-06-1}}</ref>が設置されている。宮崎県にも2022年までは支社・支店が設置されておらず、[[九州旅客鉄道鹿児島支社|鹿児島支社]]の[[宮崎総合鉄道事業部]]<ref name=":2">{{Cite news |和書 |title=キーパーソン - JR九州宮崎総合鉄道事業部長 宮野原佳さん|date=2016-9-5|newspaper=宮日ビジネス みやビズ e-press|url=https://miyabiz.com/keyperson/keyperson_1/item_20695.html |accessdate=2019-2-24 |agency=[[宮崎日日新聞]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20190224035406/https://miyabiz.com/keyperson/keyperson_1/item_20695.html|archivedate=2019-2-24}}</ref>が設置されていたが、2022年に宮崎支社に改組された<ref name=":6">[http://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/news/newtopics/__icsFiles/afieldfile/2022/03/23/220323_JRkyushu_jinjiidou.pdf 九州旅客鉄道株式会社人事異動(2022年4月1日付)]- 九州旅客鉄道(2022年3月25日閲覧)</ref>。
* [[中華人民共和国|中国]][[上海市]]の上海事務所については2021年3月末をもって閉鎖した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2020/12/10/201210_shanghai_1.pdf |title=中国・上海における飲食事業の営業終了ならびに 駐在事務所の業務終了について |access-date=2022-07-19 |publisher=九州旅客鉄道株式会社・JR 九州フードサービス株式会社 |date=2020-12-10}}</ref>。
== 本社組織 ==
2023年4月1日現在<ref>{{Cite web|和書|title=役員一覧・組織図 {{!}} 企業情報 {{!}} 企業・IR・採用 {{!}} JR九州 |url=https://www.jrkyushu.co.jp/company/info/officers/ |website=www.jrkyushu.co.jp |access-date=2023-06-17 |language=ja}}</ref>
* 総合企画本部
** 経営企画部
** 地域戦略部
** 新幹線計画部
** IT推進部
* 監査部
* 広報部
* [[九州旅客鉄道鉄道事業本部|鉄道事業本部]]
** 安全創造部
** サービス部
*** サービス課
** 事業統括部
** クルーズトレイン本部
** [[九州旅客鉄道新幹線部|新幹線部]]
*** 企画課
*** 運輸課
*** 工務課
** 営業部
*** 企画課
*** 営業課
*** 販売課
*** 旅行課
*** 総合販売センター
** 運輸部
*** 企画課
*** 輸送課
*** 乗務員課
*** 車両課
** 工務部
*** 企画課
*** 保線課
*** 工事課
*** 設備課
*** 電力課
*** 信号通信課
*** システム課
** 運行管理部
** 建設工事部
*** 企画課
*** 施設課
*** 電気課
*** 博多駅工事事務所
** [[佐賀鉄道事業部]]
** [[久留米鉄道事業部]]
** [[筑豊篠栗鉄道事業部]]
* 事業開発本部
** 企画部
*** 企画課
** 開発部
*** 企画開発課
*** まち創造課
*** 博多まちづくり課
*** 商業開発課
*** オフィス開発課
*** 物流開発課
** ホテル事業部
** 開発工事部
** 住宅開発部
*** 分譲事業課
*** 賃貸シニア事業課
*** 開発計画課
*** 設計工事課
** 保険事業部
** デジタル事業創造部
* 総務部
** 総務課
** 危機管理室
** 法務室
** 人権推進室
* 人事部
** 人事課
** 勤労課
** 社員研修センター
* 財務部
** 財務課
** 資金課
== 歴史 ==
<!-- 列車の運転開始・新路線開業はその年の代表するものを記載。また公式HPの転載にならないよう注意してください。細かい事項は列車や路線、駅の記事に移すことがあります。-->
<!-- JR他社と表現を合わせている箇所があります。修正の際はJR他社も確認してください。-->
* 1987年([[昭和]]62年)4月1日:国鉄が[[国鉄分割民営化|分割民営化]]され、九州旅客鉄道発足<ref name="交通2001-04-02"/>。社長に[[石井幸孝]]が就任。
* 1988年(昭和63年)
** 2月1日:[[山野線]]廃止。
** 3月13日:[[一本列島|ダイヤ改正]]
*** 特急「[[有明 (列車)|有明]]」に「ハイパーサルーン」[[JR九州783系電車|783系電車]]を投入<ref name="交通2001-04-02"/>(JRグループ初の新形式特急車両)。
*** 普通・快速列車分煙化。福岡・北九州地区の電車は指定車両、それ以外の地区の列車は進行方向先頭車両を喫煙車とする。
** 4月1日:[[松浦鉄道西九州線|松浦線]]廃止([[松浦鉄道]]に転換)。
** 5月12日:[[沖縄県|沖縄]]事務所開設。
** 8月28日:[[豊肥本線]]で蒸気機関車[[国鉄8620形蒸気機関車|58654(8620形)]]牽引による「[[あそBOY|SLあそBOY]]」運転開始<ref name="交通2001-04-02"/>。
** 9月1日:[[上山田線]]廃止。
* 1989年([[平成]]元年)
** 3月11日:特急「[[ゆふ (列車)|ゆふいんの森]]」運転開始<ref name="交通2001-04-02"/>。
** 4月28日:[[高千穂鉄道高千穂線|高千穂線]]廃止([[高千穂鉄道]]に転換)<ref name=JRR1990>{{Cite book|和書 |date=1990-08-01 |title=JR気動車客車編成表 90年版 |chapter=JR年表 |page=176 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-111-2}}</ref>。
** 4月29日:世界初の電車と[[気動車]]による動力[[協調運転]]開始(「有明11号」「[[ハウステンボス (列車)|オランダ村特急]]」。1992年まで続いた){{R|JRR1990}}。
** 10月1日:[[平成筑豊鉄道伊田線|伊田線]]・[[平成筑豊鉄道糸田線|糸田線]]・[[平成筑豊鉄道田川線|田川線]]廃止(3線区とも[[平成筑豊鉄道]]に転換)。及び[[くま川鉄道湯前線|湯前線]]廃止([[くま川鉄道]]に転換){{R|JRR1990}}。
** 12月23日:[[宮田線]]廃止{{R|JRR1990}}。
* 1990年(平成2年)
** 3月12日:博多と小倉に電話予約センターを開設。
** 5月2日:高速船「[[ビートル (高速船)|ビートル]]」が[[博多港]] - [[平戸港|平戸]] - [[長崎オランダ村]]間で運航開始<ref name=JRR1991>{{Cite book|和書 |date=1991-08-01 |title=JR気動車客車編成表 '91年版 |chapter=JR年表 |page=196 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-112-0}}</ref>。
** 6月5日:一般旅行業取扱開始{{R|JRR1991}}。
** 7月2日:[[集中豪雨]]により、豊肥本線[[宮地駅]] - [[緒方駅]]間が不通になる{{R|JRR1991}}(1991年10月19日に全線復旧)。
** 9月1日:長崎・熊本・大分・鹿児島の4支店を支社に改組<ref name="kotsu_2012">『JR気動車客車編成表2012』交通新聞社 2012年</ref>。
* 1991年(平成3年)
** 3月1日:電話予約サービスを九州全域に拡大。
** 3月25日:博多 - [[釜山港|釜山]]([[大韓民国|韓国]])間に高速船「[[ビートル (高速船)|ビートルII]]」運航開始<ref name="交通2001-04-02"/>。
** 6月1日:[[唐津鉄道事業部]]発足<ref name="交通2001-04-02"/>。
* 1992年(平成4年)
** 3月25日:[[大村線]]早岐駅 - [[ハウステンボス駅]]間電化。特急「[[ハウステンボス (列車)|ハウステンボス]]」運転開始<ref name="交通2001-04-02"/>。高速船「ビートル」の航路を博多港 - 平戸 - [[ハウステンボス]]間に変更。
** 6月1日:人吉鉄道事業部・霧島高原鉄道事業部開設<ref name="交通2001-04-02"/>。
** 7月15日:鹿児島本線に783・[[JR九州787系電車|787系電車]]で特急「[[つばめ (JR九州)|つばめ]]」運転開始<ref name="交通2001-04-02"/>。
* 1994年(平成6年)
** 3月31日:博多港 - 平戸 - ハウステンボス間の高速船「ビートル」休航。
** 6月1日:日南鉄道事業部発足<ref name=JRR1995>{{Cite book|和書 |date=1995-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '95年版 |chapter=JR年表 |page=191 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-116-3}}</ref>。
** 12月3日:寝台特急「[[はやぶさ (列車)#列車名の由来|みずほ]]」が廃止{{R|JRR1995}}。
* 1995年(平成7年)
** 4月20日:[[JR九州883系電車|883系電車]]で特急「[[ソニック (列車)|ソニックにちりん]]」運転開始<ref name="交通2001-04-02"/>。
** 9月1日:普通・快速列車を全面禁煙化。
* 1996年(平成8年)
** 1月10日:JR九州を含む三島会社が運賃を改定<ref>{{cite news |和書|title=JR3島会社の運賃改定 運輸省きょう認可 |newspaper=交通新聞 |date=1995-12-22 |publisher=交通新聞社 |page=1 }}</ref><ref>{{cite news |和書|title=運賃改定きょう実施 JR3島会社 特急料金据え置き |newspaper=交通新聞 |date=1996-01-10 |publisher=交通新聞社 |page=1 }}</ref>。JRグループの日本全国同一運賃体系が崩れ、運賃格差が発生。
** 2月1日:外食・物販部門をジェイアール九州フードサービス、[[JR九州リテール|ジェイアール九州リーテイル]]に分社。
** 4月20日:「[[ナイスゴーイングカード]]」会員募集開始。
** 6月1日:大分鉄道事業部(旧)・[[宮崎総合鉄道事業部]]<ref name=":2" />・[[筑豊篠栗鉄道事業部]]開設。[[九州旅客鉄道大分支社|大分支社]]の管轄区域の一部([[日豊本線]][[市棚駅]] - [[佐土原駅]])を[[九州旅客鉄道鹿児島支社|鹿児島支社]]に移管。
** 7月18日:[[宮崎空港線]]が開業<ref name="交通2001-04-02"/>。
** 10月14日:[[ウェブサイト|公式サイト]]を開設<ref>{{Cite news |title=ホームページ完成 JR九州 全5項目出そろう |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1996-11-05 |page=3 }}</ref>。
** 11月1日:指定席の繁忙期料金を廃止<ref>{{Cite news |title=JR九州 独自の料金設定へ 11月から グリーンと特急指定席 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1996-09-24 |page=1 }}</ref>(JRグループでは初めて)。
* 1997年(平成9年)6月下旬:定時株主総会後の取締役会で社長に[[田中浩二]]、会長に石井幸孝が就任。
* 1999年(平成11年)
** 10月1日:豊肥本線熊本駅 - [[肥後大津駅]]間が電化<ref name="交通2001-04-02"/>。
** 10月17日:[[南福岡駅]]にJR九州で初めての[[自動改札機]]設置<ref name="交通2001-04-02"/>。
** 12月1日:[[長崎鉄道事業部|長崎]]・[[熊本鉄道事業部|熊本]]・[[大分鉄道事業部|大分]](現)・[[佐世保鉄道事業部|佐世保]]・[[久留米鉄道事業部|久留米]]・[[日田彦山鉄道事業部|日田彦山]]・[[阿蘇鉄道事業部|阿蘇]]・日南・[[指宿鉄道事業部|指宿]]の各鉄道事業部を開設。大分鉄道事業部(旧)を[[豊肥久大鉄道事業部]]に改称。
* 2000年(平成12年)
** 3月6日:福岡本社移転<ref name="交通2001-04-02"/>。
** 3月11日:特急「[[かもめ (列車)|かもめ]]」で[[JR九州885系電車|885系電車]]運転開始<ref name="交通2001-04-02"/>。
** 2月26日:[[列車運行管理システム#JRグループ|JACROS]]の開発工事終了、順次供用開始。
* 2001年(平成13年)
** 4月1日
*** 福岡本社に北九州本社を統合<ref name="交通2001-03-01"/>。[[九州旅客鉄道北部九州地域本社|北部九州地域本社]]を新設する<ref name="交通2001-03-01"/>。
*** [[福岡市交通局]]との共通カード乗車券「[[ワイワイカード]]」を導入。
** 6月1日:佐賀鉄道部開設。
** 6月22日:改正[[旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社に関する法律|JR会社法]]が施行(成立は2001年6月15日)。本州3社が本法の適用から除外されたものの、指針によりJR九州を含む三島会社とJR貨物との協力関係の維持を規定。
** 7月1日:自動車事業部を全て[[JR九州バス|ジェイアール九州バス]]に分社。
** 9月27日:特急回数券「2枚きっぷ・4枚きっぷ」を発売開始。イメージキャラクターに[[PUFFY]]を起用。
** 10月6日:[[筑豊本線]]黒崎駅・折尾駅 - 桂川駅間と[[篠栗線]]が電化。これに合わせ[[福北ゆたか線]]と愛称をつける。
* 2002年(平成14年)
** 2月22日:[[無閉塞運転#鹿児島線列車衝突事故|鹿児島線列車追突事故]]が発生。
** 6月21日:社長に[[石原進]]、[[会長]]に田中浩二が就任。石井幸孝は[[相談役]]に就任するが福岡市長選に立候補するため、その後に退社(結果的には立候補しなかった)。
* 2003年(平成15年)
** 4月1日:「JR九州インターネット列車予約サービス」開始。
** 7月18日:[[日本の鉄道事故 (2000年以降)#長崎本線特急列車脱線転覆事故|長崎本線特急列車脱線転覆事故]]が発生。
** 12月1日:新幹線鉄道事業部開設。
* 2004年(平成16年)
** 3月13日
*** [[九州新幹線]]の一部(新八代駅 - 鹿児島中央駅間)開業<ref name="mlit kaigyo">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/statistics/details/content/001608780.pdf |title=鉄軌道開業一覧(平成5年度以降) |publisher=国土交通省 |accessdate=2023-06-17}}</ref>。これに伴い、並行する鹿児島本線の一部(八代駅 - 川内駅間)を経営分離し、[[肥薩おれんじ鉄道]]に移管。特急「つばめ」を廃止し、「リレーつばめ」運転開始。
*** 特急「[[はやとの風]]」運転開始。
*** 急行「[[かわせみ やませみ|くまがわ]]」が特急「[[九州横断特急]]」「くまがわ」に格上げされ、廃止。これにより、[[四国旅客鉄道|JR四国]]に続いて管内から定期急行列車が消滅。
*** 特急「九州横断特急」「くまがわ」で[[ワンマン運転]]開始<ref>{{Cite journal |和書|journal = [[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]] |publisher = 交友社|issue = 通巻519号 |date = 2004年7月 |page = 22}}</ref>。
** 6月1日:日南鉄道事業部と人吉鉄道事業部を廃止。
* 2005年(平成17年)
** 3月1日:寝台特急「[[さくら (列車)|さくら]]」が廃止。
** 8月28日:「SLあそBOY」がこの日限りで運転終了。<!-- 復活決定・修復開始は2007年。当時は復活させるかは公式には未定だった。 復活発表時の公式リリースにも「運転終了」とあり。https://web.archive.org/web/20070207233211/http://www13.jrkyushu.co.jp/newsreleaseweb.nsf/9dd28b8cb8f46cee49256a7d0030d2e6/e64457272b44be844925726b0057fa9a?OpenDocument -->
** 10月1日
*** 寝台特急「[[彗星 (列車)|彗星]]」が廃止。
*** 船舶事業部を分社化し、[[JR九州高速船]]が発足。
* 2006年(平成18年)
** 7月22日:豊肥本線で観光列車「[[あそ1962]]」運転開始。
** 9月17日:[[JR日豊本線脱線転覆事故|日豊本線特急脱線転覆事故]]が発生。
* 2007年(平成19年)
** 3月18日:管内列車の大幅な禁煙化を実施。
* 2008年(平成20年)
** 3月15日:寝台特急「[[なは (列車)|なは]]」「[[あかつき (列車)|あかつき]]」廃止。<!--これにより定期旅客列車に関してはJR旅客鉄道他社の車両の乗り入れがなくなる。-->
** 4月1日
*** 管内主要駅に設置している旅行業店舗名をこれまでの「ジョイロード」から「[[JR九州 旅行の窓口|JR九州旅行]]」に変更。
*** 豊肥久大、阿蘇、[[霧島高原鉄道事業部|霧島高原]]、指宿の4鉄道事業部廃止。
** 6月:管内を走る「エル特急」の呼称を「特急」に統一。これにより「エル特急」の呼称がなくなる。田中浩二が相談役に就任。
* 2009年(平成21年)
** 3月1日:福岡・北九州都市圏にICカード乗車券[[SUGOCA]]を導入。
** 3月14日
*** 寝台特急「[[はやぶさ (列車)#列車名の由来|はやぶさ]]」「[[富士 (列車)|富士]]」廃止。これにより<!--定期列車での自社車両のJR旅客他社乗り入れ、および-->九州内を発着地とする本州直通の寝台特急列車が消滅。
*** 管内の全ての新幹線および在来線特急を全列車全車両禁煙とする(喫煙車両や喫煙ルームの全面廃止)。
** 4月1日:日田彦山鉄道事業部廃止<ref name="kotsu_2012" />。
** 4月25日:熊本駅 - 人吉駅間で「[[SL人吉]]」を運転開始。「SLあそBOY」の蒸気機関車58654を[[オーバーホール]]して投入。
** 6月23日:社長に唐池恒二、会長に石原進が就任。
** 10月10日:[[日南線]]で高千穂鉄道から購入・改造した車両を使用した観光特急「[[海幸山幸 (列車)|海幸山幸]]」を運転開始<ref>{{Cite news |url=http://railf.jp/news/2009/06/26/123500.html |title=日南線で観光特急“海幸山幸”を運転へ - 鉄道ファン |newspaper=鉄道ニュース |publisher=交友社 |date=2009-06-26 |accessdate=2015-08-25}}</ref>。
** 10月31日:この日限りで九州管内の在来線特急から車内公衆電話サービスを全廃。
* 2010年(平成22年)
** 3月13日:SUGOCAと[[nimoca]]・[[はやかけん]]・[[Suica]]の相互乗車および電子マネー相互利用開始。
** 4月1日:北部九州地域本社のうち、現業機関を再度、鉄道事業本部直轄とする<ref name="kotsu_2012" />。
* 2011年(平成23年)
** 3月3日:博多駅新駅ビル「[[JR博多シティ]]」開業<ref>[http://www13.jrkyushu.co.jp/newsreleaseweb.nsf/9dd28b8cb8f46cee49256a7d0030d2e6/193309a67739d987492577de0058093c?OpenDocument 「JR博多シティ」開業について] - 九州旅客鉄道 2010年11月17日 {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20101124002328/http://www13.jrkyushu.co.jp/newsreleaseweb.nsf/9dd28b8cb8f46cee49256a7d0030d2e6/193309a67739d987492577de0058093c?OpenDocument |date=2010年11月24日 }}</ref>。
** 3月5日:SUGOCAとJR西日本の[[ICOCA]]、およびJR東海の[[TOICA]]との相互乗車および電子マネー相互利用を開始<ref name="jrkyushu20101213">{{Cite press release |和書 |url=http://www13.jrkyushu.co.jp/newsreleaseweb.nsf/9dd28b8cb8f46cee49256a7d0030d2e6/2a3d67ecb2caef8b492577f80057f83d/$FILE/%E3%80%94%E5%88%A5%E7%B4%99%E3%80%95TOICA%E3%83%BBICOCA%E2%87%94SUGOCA%E7%9B%B8%E4%BA%92%E5%88%A9%E7%94%A8%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%93%E3%82%B9%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6.pdf |title=TOICA・ICOCA⇔SUGOCAの相互利用サービスについて |publisher=九州旅客鉄道 |date=2010-12-13 |accessdate=2015-08-25 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20101226023751/http://www13.jrkyushu.co.jp/newsreleaseweb.nsf/9dd28b8cb8f46cee49256a7d0030d2e6/2a3d67ecb2caef8b492577f80057f83d/%24FILE/%E3%80%94%E5%88%A5%E7%B4%99%E3%80%95TOICA%E3%83%BBICOCA%E2%87%94SUGOCA%E7%9B%B8%E4%BA%92%E5%88%A9%E7%94%A8%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%93%E3%82%B9%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6.pdf |archivedate=2010年12月26日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。九州新幹線開業へ向け、JR西日本と連携し「JR九州インターネット列車予約サービス」の機能を拡大・強化。
** 3月12日<ref>[http://www13.jrkyushu.co.jp/newsreleaseweb.nsf/9dd28b8cb8f46cee49256a7d0030d2e6/f10cefaacdfac1f74925779f0057f572?OpenDocument 九州新幹線(鹿児島ルート)博多〜新八代間の開業日等について] - 九州旅客鉄道 2010年9月15日{{リンク切れ|date=2015年8月}}</ref>
*** 九州新幹線(博多駅 - 新八代駅間)延伸開業<ref name="mlit kaigyo" />。同時に山陽新幹線と[[直通運転|相互直通運転]]実施<ref>{{Cite press release |和書 |url=http://www.jrkyushu.co.jp/071018_news_release.jsp |title=山陽新幹線と九州新幹線との相互直通運転の実施について |publisher=九州旅客鉄道 |date=2007-10-18 |accessdate=2015-08-25 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120117050204/http://www.jrkyushu.co.jp/071018_news_release.jsp |archivedate=2012-01-17 |deadlinkdate=2015年8月}}</ref>。
*** 管内における、[[国鉄485系電車|485系電車]]の定期運用が消滅。
*** 「[[にちりん (列車)|ドリームにちりん]]」の廃止により管内の[[夜行列車]]が消滅。
** 3月13日:観光特急「[[指宿のたまて箱]]」運転開始<ref group="注釈">当初は2011年3月12日に運行を開始する予定であったが、前日に発生した[[東日本大震災]]による[[津波]]警報が[[指宿枕崎線]]の沿線で出された影響で全列車運休となり、翌13日から運転を開始した。</ref>。
** 6月4日:観光特急「[[九州横断特急#あそぼーい!|あそぼーい!]]」運転開始。
** 10月8日:観光特急「[[A列車で行こう (列車)|A列車で行こう]]」運転開始。
** 10月14日:[[ブルネル賞]]の中でも最も優れた企業・団体に特別に贈られるJury Prize(審査員賞)を日本の企業として初めて受賞<ref>[http://www13.jrkyushu.co.jp/NewsReleaseWeb.nsf/Search/ADFDE8C3D07333904925793A00387F1B?OpenDocument 第11回ブルネル賞 「Jury Prize」の受賞について] - 九州旅客鉄道 2010年10月31日{{リンク切れ|date=2015年8月}}</ref>。
** 時期不明:新幹線鉄道事業部を廃止し、鉄道事業本部新幹線部に改組
* 2012年(平成24年)12月1日:SUGOCA利用可能エリアが、熊本・大分の両県(現行の福岡・佐賀エリアの拡大分)、ならびに長崎・鹿児島の両県(それぞれが独立エリア)に拡大<ref>{{Cite journal |和書 |year=2015 |month=10 |volume=588 |title=博多シティをかなめに色彩の電車群が行き交う 福岡都市圏のJR |journal=[[鉄道ジャーナル]] |pages=61 |publisher=[[鉄道ジャーナル社]] |id={{JAN|4910164991051}}}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|長崎・鹿児島エリアと福岡・佐賀・熊本・大分の各エリアをまたがっての利用、および九州新幹線での利用は不可<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jrkyushu.co.jp/sugoca/area/index.html |title=利用可能エリア |publisher=九州旅客鉄道 |accessdate=2015-08-25}}</ref>。}}。
* 2013年(平成25年)
** 3月23日:[[交通系ICカード全国相互利用サービス|交通系ICカード全国相互利用]]が開始され、SUGOCAが[[PASMO]]などとも相互利用可能に。
** 10月15日:九州を一周する豪華寝台列車「[[ななつ星 in 九州]]」の運行開始<ref>{{PDFlink|[http://www13.jrkyushu.co.jp/newsreleaseweb.nsf/9dd28b8cb8f46cee49256a7d0030d2e6/0be7ad0cc5ca64d649257a7e003841e6/$FILE/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%88%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%80%8C%E3%81%AA%E3%81%AA%E3%81%A4%E6%98%9F%E3%80%8D%E3%81%AE%E9%81%8B%E8%A1%8C%E9%96%8B%E5%A7%8B%E6%97%A5%E3%81%AE%E6%B1%BA%E5%AE%9A%E5%8F%8A%E3%81%B3%E4%BA%88%E7%B4%84%E5%8F%97%E4%BB%98%E9%96%8B%E5%A7%8B%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6.pdf クルーズトレイン「ななつ星」の運行開始日の決定及び予約受付開始について]}} - 九州旅客鉄道、2012年9月19日。{{リンク切れ|date=2015年8月}}</ref>。
** 時期不明:佐世保鉄道事業部を廃止。
* 2014年(平成26年)
** 6月21日:[[日本の鉄道事故 (2000年以降)#指宿枕崎線特急「指宿のたまて箱」脱線事故|指宿枕崎線特急「指宿のたまて箱」脱線事故]]が発生。
** 6月27日:社長に青柳俊彦、会長に唐池恒二が就任。
** 9月30日:特急「にちりん」「にちりんシーガイア」「きりしま」における[[車内販売]]を終了。
* 2015年(平成27年)
** 3月14日:特急「かもめ」「ソニック」における車内販売を終了。これにより、九州新幹線の列車と「D&S列車」以外での車内販売の営業が事実上終了となった<ref group="注釈">この時点では「九州横断特急4号」の送り込みとなる「くまがわ1号」のみ車内販売を継続していた。翌年3月のダイヤ改正で「くまがわ」は列車自体が廃止となる。</ref>。
** 3月27日:旅行部門で[[JTB]]とアライアンス関係を構築<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jrkyushu.co.jp/top_info/pdf/481/jrkyushujtb.pdf |format=PDF |title=JR九州×JTB 旅行部門におけるアライアンス関係を構築 |author=九州旅客鉄道・JTB |date=2015-03-27 |accessdate=2015-08-25}}</ref>。
** 5月22日:[[長崎本線]][[肥前竜王駅]]にて特急「かもめ」20号が停車している線路に同19号が進入、93m手前で非常停止する[[インシデント]]が発生<ref>{{cite news |url=http://www.sankei.com/west/news/150522/wst1505220072-n1.html |title=特急同士が正面衝突寸前 距離93メートルで緊急停止 JR長崎線 |newspaper=産経WEST |publisher=産経デジタル |date=2015-05-23 |accessdate=2016-04-18 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150524010850/http://www.sankei.com/west/news/150522/wst1505220072-n1.html |archivedate=2015年5月24日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。
** 8月4日:「[[或る列車]]」運転開始。
** 11月14日:SUGOCA利用可能エリアが宮崎県(独立エリア)に拡大。
* 2016年(平成28年)
** 1月27日:[[大分県]][[日田市]]の[[第三セクター]]「おおやま夢工房」を買収、子会社化<ref>[https://web.archive.org/web/20171003113055/http://www.jrkyushu.co.jp/news/pdf/ooyamayumekoubou_b.pdf 株式会社おおやま夢工房の株式取得に関するお知らせ] - 九州旅客鉄道(2016年1月27日、2017年10月3日現在の{{PDFlink|[http://www.jrkyushu.co.jp/news/pdf/ooyamayumekoubou_b.pdf オリジナル]}}をアーカイブ化)</ref>。
** 3月26日:特急「くまがわ」と「川内エクスプレス」を廃止。
** 4月1日:[[:s:旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社に関する法律の一部を改正する法律 (平成27年法律第36号)|旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社に関する法律の一部を改正する法律]](改正JR会社法、2015年(平成27年)6月3日成立、同年6月10日公布)が施行されたためJR会社法の適用対象から除外され、純粋民間会社(非特殊会社)化。
** 4月14日:[[熊本地震 (2016年)|平成28年熊本地震]]の前震が発生。九州新幹線が[[列車脱線事故|脱線]]するなどの被害が出る<ref>[https://news.mynavi.jp/article/20160415-a011/ 「熊本で震度7の地震 - JR九州、九州新幹線や熊本県内の在来線で運転見合わせ」][[マイナビニュース]](2016年4月15日)2020年1月14日閲覧</ref>。
** 4月16日:14日の地震の本震が発生。豊肥本線で脱線や大規模な土砂崩れが発生するなど被害が拡大する<ref>[https://news.mynavi.jp/article/20160416-a080/ 「JR豊肥本線で列車脱線・土砂流入などの被害 - 北熊本駅ではホーム一部損壊」] マイナビニュース(2016年4月16日)2020年1月14日閲覧</ref>。
** 10月19日:[[筑豊本線]]若松駅 - 折尾駅間(若松線)で架線式蓄電池電車[[JR九州BEC819系電車|BEC819系]]「DENCHA」が営業運転開始<ref>{{Cite web|和書|date=2016-10-02 |url=https://railf.jp/news/2016/10/02/205000.html |title=BEC819系「DENCHA」の試乗会開催 |website=鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース |publisher=交友社 |accessdate=2020-03-17}}</ref>。
** 10月25日:東京証券取引所に上場<ref name="press20161025">{{Cite press release |和書 |title=東京証券取引所市場第一部上場のお知らせ |url=http://www.jrkyushu.co.jp/top_info/pdf/1024/ichibujoujounoosirase.pdf |publisher=九州旅客鉄道 |format=PDF |date=2016-10-25 |accessdate=2016-10-25}}</ref>。
** 10月26日:福岡証券取引所に上場<ref name="press20161025"/>。
** 12月22日:一般向けリアルタイム列車位置情報システム「どれどれ」提供開始<ref name="jrkyushu20161220">{{PDFlink|[http://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2016/12/20/001doredore.pdf 〜運行情報のご案内を充実〜「JR九州アプリ」で列車位置情報を表示します!]}} - 九州旅客鉄道、2016年12月20日</ref>。
* 2017年(平成29年)
** 3月4日:観光特急「[[かわせみ やませみ]]」運転開始<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXLZO99619350T10C16A4LX0000/ JR九州、新観光列車は「かわせみ やませみ」新幹線と相乗効果]『日本経済新聞』2016年4月14日(2020年1月14日閲覧)</ref>。一部の特急「にちりん」「ひゅうが」で、ワンマン運転を実施<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jrkyushu.co.jp/byarea/kagoshima/info/__icsFiles/afieldfile/2017/02/15/290215_miyazakiwanman.pdf|title=平成29年3月4日(土)から、一部の特急にちりん号、ひゅうが号等においてワンマン運転を実施します。|accessdate=2017-02-18|date=2017-02-05|format=PDF|publisher=九州旅客鉄道}}</ref>。
** 3月31日:沖縄支店閉鎖
** 5月16日:インターネット予約システムのコンビニエンスストア支払い等が開始。
** 7月5日:[[平成29年7月九州北部豪雨|九州北部地方での豪雨災害]]により、[[久大本線]]の[[花月川]]橋梁流出など、久大本線・[[日田彦山線]]において大規模な線路被害を受ける<ref>{{Cite news|title=流木でせき止められ、氾濫か 九州豪雨、専門家分析|newspaper=[[朝日新聞デジタル]]|date=2017-07-07|url=http://www.asahi.com/articles/ASK765G6YK76UTIL03H.html|accessdate=2017-07-13}}</ref>。
** 7月7日:インターネット列車予約向け「eレールポイント」、JQ CARD利用者向け「JQポイント」、SUGOCA利用者向け「SUGOCAポイント」 の各[[ポイントプログラム|ポイントサービス]]を統合し、名称を「JRキューポ」に変更<ref>{{PDFlink|[http://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2016/11/28/161128jrkyupo.pdf JR九州のポイントはJRキューポに生まれ変わります!]}} - 九州旅客鉄道 2016年11月28日</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2017/06/27/170627JRQpo0707.pdf JR九州のポイント JRキューポいよいよ7月7日誕生!]}} - 九州旅客鉄道 2017年6月27日</ref>。
** 7月31日:路線別利用状況を初公表<ref name=":1" />。昭和62年度および平成28年度の平均通過人員(人/日)、平成28年度の旅客運輸収入(百万円/年)を公表したほか、駅別乗車人数を大幅に拡張して公表した<ref name=":0" />。
** 9月17日:[[平成29年台風第18号|台風18号]]により、日豊本線・豊肥本線で土砂崩れ等による大規模な線路被害を受ける<ref>{{PDFlink|[https://www.mlit.go.jp/common/001202333.pdf 台風第18号による被害状況について(第3報)]}} - 国土交通省災害情報(平成29年9月19日6時30分現在)(2017年9月19日、2017年9月22日閲覧)</ref>。
** 9月18日:筑豊本線[[直方駅]]構内の[[筑豊篠栗鉄道事業部|直方車両センター]]で入換中の車両が車止めに衝突、脱線して上り本線を支障。その後、営業列車が列車防護取り扱い前に支障した区間を走行した重大インシデントが発生<ref>[http://jtsb.mlit.go.jp/jtsb/railway/detail2.php?id=1922 調査中の案件:筑豊線 直方駅(直方車両センター)構内[福岡県直方市]] - [[運輸安全委員会]](2019年9月20日、9月22日閲覧)</ref>。
** 10月2日:[[キャタピラー九州]]の株式分割により、分割された(新生)キャタピラー九州の全株式を取得して子会社化<ref>{{PDFlink|[http://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2017/08/10/170810catkyushu_1.pdf 株式の取得(子会社化)のお知らせ]}} - 九州旅客鉄道 2017年8月10日(2017年8月14日閲覧)</ref>。
** 11月21日:在来線で初となる[[ホームドア]]を[[筑肥線]]・[[九大学研都市駅]]に設置<ref>{{Cite press release |和書 |title= 軽量型ホームドア実証試験の開始について |publisher=九州旅客鉄道|date=2017-09-28 |url=http://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2017/09/28/170928-004.pdf |format=PDF|accessdate=2017-09-30 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170929014415/http://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2017/09/28/170928-004.pdf |archivedate=2017-09-29}}</ref>。
* 2018年(平成30年)
** 3月17日:ダイヤ改正により、会社発足以来で最大規模となる1日当たり117本の運行削減<ref>{{Cite news|url=http://www.asahi.com/articles/ASKDH5RNVKDHTIPE02D.html|title=JR九州、117本の運行削減へ 発足以来最大、来春に|newspaper=朝日新聞Dデジタル|publisher=朝日新聞社|date=2017-12-16|accessdate=2017-12-19}}</ref>。
**7月1日:子会社を整理合併し、[[JR九州エンジニアリング]]および[[JR九州サービスサポート]]設立。
**9月30日:北部九州エリアの在来線157駅に[[駅ナンバリング]]を順次導入<ref name="jrkyushuu20180928">{{Cite press release |和書 |title=北部九州エリア157駅に「駅ナンバリング」を導入します |publisher=九州旅客鉄道 |date=2018-09-28 |url=http://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2018/09/28/Newsrelease-ekinumbering.pdf |format=PDF |accessdate=2018-09-29}}</ref>。
* 2019年(平成31年・[[令和]]元年)
** 1月31日:短文投稿サイト「[[Twitter]]」で列車運行情報の配信を開始<ref>[https://response.jp/article/2019/01/30/318572.html 「JR九州でも運行情報のツイッター配信を開始…エリアごとに配信、外国語版も 1月31日から」] [[Response.|レスポンス]](2019年1月30日)2020年1月14日閲覧</ref>。
** 2月1日:九大学研都市駅で実験運用していた軽量ホームドアを本格運用開始。2020年度を目処に筑肥線[[下山門駅]] - 筑前前原駅間で導入予定<ref>{{Cite press release |和書 |title=新型ホームドア 筑肥線(下山門〜筑前前原間)へ本格導入 |publisher=九州旅客鉄道 |date=2019-01-25 |url=http://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2019/01/25/003.pdf |format=PDF |accessdate=2019-01-28}}</ref>。
** 3月15日:九州新幹線(博多駅 - 鹿児島中央駅間)の一部列車で行っていた車内販売を終了<ref>[https://www.fnn.jp/posts/2019012500000003TNC 九州新幹線 車内販売終了へ JR九州 青柳社長「役割終えた」] - [[フジニュースネットワーク|FNN]]プライムオンライン 2019年1月25日(2019年1月28日閲覧)</ref>。
** 4月1日:[[駅ビル]]事業・ホテル事業の子会社を整理し、グループ初の中間[[持株会社]]として[[JR九州駅ビルホールディングス]]、[[JR九州ホテルズアンドリゾーツホールディングス]]を設立。
** 10月1日:子会社のJR九州フィナンシャルマネジメントを会社分割して、[[リース]]・[[割賦販売|割賦]]事業以外の事業を同年7月18日設立のJR九州ビジネスパートナーズに継承させた上で、JR九州フィナンシャルマネジメントの株式を[[九州フィナンシャルグループ]]傘下の[[肥後銀行]]へ譲渡<ref name=":4">{{Cite web|和書|url=http://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2019/08/05/Newsrelease-kabushikijouto.pdf|title=子会社の異動(株式譲渡)に関するお知らせ|date=2019-8-5|accessdate=2019-11-2|publisher=九州旅客鉄道}}</ref>。JR九州フィナンシャルマネジメントはJR九州FGリースに社名変更<ref name=":4" />。
**10月以降:北部九州のみで行われていたラインカラーを全路線に導入。
** 11月28日:[[西日本鉄道]]と[[トヨタ自動車]]が共同で実証実験を行っていた[[Mobility as a Service|MaaS]]システム「my route」の本格運用開始と同時に参画<ref>[https://global.toyota/jp/newsroom/corporate/30632540.html トヨタと西鉄、マルチモーダルモビリティサービス「my route」を福岡市・北九州市で本格実施] - トヨタ自動車・西日本鉄道・九州旅客鉄道 2019年11月27日(2019年11月28日閲覧)</ref>。
**12月16日:佐賀県で水産品加工業・サービス業を経営する萬坊を[[第三者割当増資]]引受により子会社化<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/news/newtopics/__icsFiles/afieldfile/2019/11/25/Newsreleasemanbou.pdf|title=株式会社萬坊の第三者割当増資引受(子会社化)に関するお知らせ|accessdate=2019-11-29|publisher=九州旅客鉄道|date=2019-11-25|format=PDF}}</ref>。
**12月28日:香椎線 西戸崎駅 - 香椎駅間での自動運転列車の試験走行を報道各社に初公開<ref>[https://www.nishinippon.co.jp/item/n/572224/ 「JR九州、自動運転を初公開 香椎線で試験走行」] [[西日本新聞]]ニュースサイト(2019年12月28日)2020年1月14日閲覧</ref>。
*2020年(令和2年)
**3月8日・14日:[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]]対策として、[[JR九州305系電車|305系]]・BEC819系・[[JR九州YC1系気動車|YC1系]]の「スマートドア」([[半自動ドア]])の運用を中止<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jrkyushu.co.jp/company/counterplan/|title=新型コロナウイルスの感染予防について|accessdate=2020-3-16|publisher=九州旅客鉄道|date=2020-3-8}}</ref>。
**3月14日:大村線で[[ディーゼル・エレクトリック方式|ディーゼルエレクトリック式]]ハイブリッド車 YC1系が営業運転開始<ref>{{Cite web|和書|date=2020-03-14 |url=https://railf.jp/news/2020/03/14/205000.html |title=YC1系が営業運転を開始 |website=鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース |publisher=交友社 |accessdate=2020-03-17}}</ref>。
**3月16日・3月20日 - 6月28日:[[2019年コロナウイルス感染症による社会・経済的影響#交通|新型コロナウイルス感染症による利用客減少]]に伴い、九州新幹線・在来線特急列車・快速列車・普通列車の運休・運転区間変更を実施<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/emergency/__icsFiles/afieldfile/2020/03/16/200316unkyutuika2_2.pdf|title=新型コロナウイルス感染拡大に伴う今後の運転計画について|accessdate=2020-3-16|publisher=九州旅客鉄道}}</ref>。
**4月1日
***[[JR九州病院]]を医療法人若葉会に事業譲渡し<ref name=":3" />、「若葉会 九州鉄道記念病院」に改称。
***JR九州レンタカー&パーキング「駅レンタカー」事業を株式会社イデックスオート・ジャパン([[バジェット・レンタカー]])に業務委託<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/news/newtopics/__icsFiles/afieldfile/2020/03/25/200326jrqrp.pdf|title=九州の「駅レンタカー」事業の業務委託について|accessdate=2020-3-26|publisher=九州旅客鉄道|author=JR九州レンタカー&パーキング株式会社|date=2020-3-26|format=PDF}}</ref>。
*** この日から、JR九州が管轄する駅の全面禁煙化を実施([[熊本駅]]新幹線ホームと[[鹿児島中央駅]]の新幹線改札内の喫煙ルームを除く)<ref>{{PDFlink|[https://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2020/02/27/200227Newsrelease001.pdf 駅の全面禁煙実施について]}} - 九州旅客鉄道、2020年2月27日</ref>。
**5月2日 - 5月6日:前述の新型コロナウイルス感染症対策として、在来線特急を全て運休<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jrkyushu.co.jp/train/pamphlet/img/200421gw_unkyuu.pdf|title=新型コロナウイルス感染拡大に伴う運転計画について(2020年4月21日追加)|accessdate=2020-4-21|publisher=九州旅客鉄道}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/info/list/__icsFiles/afieldfile/2020/04/21/200421_gw_unkyuu_tuika.pdf|title=新型コロナウイルス感染拡大に伴う追加の運転計画について|accessdate=2020-4-21|publisher=九州旅客鉄道}}</ref>。
** 5月28日 - 九州旅客鉄道が所有していたJR九州ドラッグイレブンの株式の一部(総発行数の51%)を[[ツルハホールディングス]]に譲渡しツルハホールディングスの連結子会社となる<ref name=":03">[http://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/news/newtopics/__icsFiles/afieldfile/2020/04/30/200430Newsreleasedrugeleven.pdf 子会社の異動(株式譲渡)に関するお知らせ] - 九州旅客鉄道(2020年4月30日)</ref>。九州旅客鉄道から見て持分法適用関連会社となる。
** 8月8日 - 熊本地震で被災した豊肥本線が復旧。特急「[[あそ (列車)|あそ]]」が名称復活<ref name=":22">{{Cite press release|和書|title=豊肥本線全線開通に伴う特急列車の運行体系について 〜特急「あそぼーい!」が熊本〜大分・別府で直通運転〜|publisher=九州旅客鉄道|date=2020-06-16|url=http://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/news/newtopics/__icsFiles/afieldfile/2020/06/16/200616asobouiunntenn.pdf|format=PDF|language=日本語|accessdate=2020-06-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200617025933/http://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/news/newtopics/__icsFiles/afieldfile/2020/06/16/200616asobouiunntenn.pdf|archivedate=2020-06-17}}</ref>。
** 10月14日 - [[LINE Fukuoka]]を発起人に、当社を含む9社([[西日本鉄道]]、[[グッデイ (ホームセンター)|嘉穂無線ホールディングス]]、[[西部ガス]]、[[西日本シティ銀行]]、[[福岡銀行]]、[[福岡国際空港]]、[[福岡地所]])とオブザーバーの[[福岡市]]で「Fukuoka Smart City Community」を発足<ref>{{PDFlink|[http://www.nishitetsu.co.jp/release/2020/20_060.pdf Fukuoka Smart City Community発足 異業種9社で強固な協力体制を構築し、福岡市のスマートシティ化の加速を目指す]}} - Fukuoka Smart City Community 2020年10月14日(2020年10月14日閲覧)</ref>。
** 10月16日 - 観光特急「[[36ぷらす3]]」運転開始<ref name="mainichi20201016" />。
*2021年(令和3年)
**3月13日:ダイヤ改正。このダイヤ改正から冊子型の『ポケット時刻表』の作製を廃止<ref>[https://www.nishinippon.co.jp/item/n/690267/ 「“旅のお供”今は昔…ポケット時刻表の配布廃止」]『[[西日本新聞]]』2021年2月9日(2021年4月16日閲覧)</ref>。
**3月31日:JR九州ホテルズアンドリゾーツホールディングスが事業終了・清算<ref name=":12">[http://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/info/list/__icsFiles/afieldfile/2021/03/31/210331_hotelhd_jigyosyuryo.pdf ホテル事業における中間持株会社の事業終了について] - 九州旅客鉄道・JR九州ホテルズアンドリゾーツホールディングス(2021年3月31日)2021年4月16日閲覧</ref>。
**4月1日:
***JR九州アセットマネジメント株式会社を設立
***唐津鉄道事業部と佐賀鉄道部を統合し[[佐賀鉄道事業部]]を設置<ref name="saga-s20210324" />。
**4月5日:九州の中小企業などに投資する50億円規模の[[投資ファンド|ファンド]]「JR九州企業投資」をJWグループと共同で設立することを発表<ref>{{PDFlink|[https://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/news/newtopics/__icsFiles/afieldfile/2021/04/05/210405_fund.pdf 地域特化型ファンドの設立について]}} - 九州旅客鉄道(2021年4月5日)2021年4月16日閲覧</ref>。
**8月10日:綱屋の事業譲受を受けるために、子会社「ヌルボン」を設立<ref name=":5">[http://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/news/newtopics/__icsFiles/afieldfile/2021/10/01/211001_nurubon_uneikaisi.pdf 株式会社ヌルボン事業運営開始及び 「毎日がお肉の日キャンペーン」の開催について] - 九州旅客鉄道、綱屋、ヌルボン(2021年10月1日、同年10月2日閲覧)</ref>。
**10月1日:綱屋の「焼肉ヌルボン」を始めとする飲食店事業および、ロイヤルフーズの精肉・ 食材卸販売事業の事業譲受を完了し、ヌルボンの事業運営を開始<ref name=":5" />。
**12月7日:[[JR九州プライベートリート投資法人]]を設立。
*[[2022年]](令和4年)
**3月21日:特急「[[はやとの風]]」運転終了。
**3月31日:[[長崎鉄道事業部|長崎]]、[[熊本鉄道事業部|熊本]]、[[大分鉄道事業部|大分]]、[[鹿児島鉄道事業部|鹿児島]]の各鉄道事業部、[[宮崎総合鉄道事業部]]、吉松運輸センターを廃止。
**4月1日
***社長に[[古宮洋二]]、会長に[[青柳俊彦]]が就任。
***[[九州旅客鉄道宮崎支社|宮崎支社]]を開設<ref name=":6" /><ref name=":7">{{Cite web|和書|url=https://www.jrkyushu.co.jp/company/info/officers/img/soshikizu_220401.pdf |title=組織図(2022年4月1日現在) |accessdate=2022-04-01 |publisher=九州旅客鉄道}}</ref>。長崎、熊本、大分、鹿児島の各支社の組織を再編<ref name=":7" />。
***特急料金改定。繁忙期料金の復活、博多駅 - 門司港駅・行橋駅間の特急券の車内販売時の追加料金を設定<ref name="jrkyushu20210803">{{Cite web|和書|url=https://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2021/08/03/210803_zairaisen_minaoshi.pdf |format=PDF |title=在来線特急料金の見直しについて |publisher=九州旅客鉄道 |date=2021-08-03 |accessdate=2022-03-26}}</ref>。
**6月20日:西九州新幹線の現業機関を設置。
***本社新幹線部工務課に新大村新幹線工務所、[[熊本総合車両所]]に[[熊本総合車両所大村車両管理室|大村車両管理室]]を新編。
***長崎支社長崎乗務センターと佐世保運輸センターを統合し、長崎総合乗務センターを設置。
**7月22日:JRグループでは初となる、運賃精算に「[[Visaのタッチ決済]]」を導入する実証実験を開始。2023年3月31日までの予定で、対象となる駅は鹿児島本線の博多駅・吉塚駅・箱崎駅・千早駅・香椎駅<ref>[https://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/news/newtopics/__icsFiles/afieldfile/2022/07/07/20220707_jrkyushu_visa.pdf JRグループ初!! JR九州にてVisaのタッチ決済による実証実験 ~2022年7月22日より開始~] - 九州旅客鉄道(2022年7月7日)、2022年7月27日閲覧</ref>。
**9月23日:[[西九州新幹線]](武雄温泉駅 - 長崎駅間)開業<ref name="mlit kaigyo" />。長崎本線の一部(江北駅 - 諫早駅間)を[[佐賀・長崎鉄道管理センター]]との[[上下分離方式]]に移行(同区間の第一種鉄道事業を廃止し、第二種鉄道事業者となる)。在来線特急「かもめ」を廃止し、特急「[[かもめ (列車)|リレーかもめ]]」「[[かささぎ (列車)|かささぎ]]」「[[ふたつ星4047]]」運転開始。
**10月16日:[[JR九州リージョナルデザイン]]設立。
*[[2023年]](令和5年)
**1月23日:2023年秋開業予定の「嬉野八十八(やどや)」及び2024年初冬開業予定の「長崎マリオットホテル」の運営管理を行う子会社・JR九州ホテルマネジメントを設立<ref>[http://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/news/newtopics/__icsFiles/afieldfile/2023/01/26/230126_hotel_management.pdf JR九州ホテルマネジメント株式会社設立のお知らせ] - 九州旅客鉄道 2023年1月23日(2023年1月27日閲覧)</ref>
**5月1日:トランドールを[[新旧分離]]し、事業を譲受する新設子会社の全株式をタカキベーカリーに譲渡<ref>{{Cite press release|title=連結子会社の会社分割(新設分割)及び株式譲渡等に関するお知らせ|publisher=九州旅客鉄道|date=2023-02-28|url=https://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2023/02/28/230228_traindor.pdf|access-date=2023-05-01|和書}}</ref>。残余部分をJR九州トランドールに改称。
**5月31日 - JR九州の所有するドラッグイレブン全株式(議決権割合の49%)が[[ツルハホールディングス]]に譲渡。ツルハドラッグの完全子会社となるとともに、JR九州の持分法適用関連会社から離脱<ref name=":8">[http://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/news/newtopics/__icsFiles/afieldfile/2023/04/28/motibunhoutekiyou_d11.pdf 持分法適用関連会社の異動(株式譲渡)に関するお知らせ] - 九州旅客鉄道(2023年4月28日、2023年5月1日閲覧。)</ref>。
**7月3日
***JR九州の建設セグメント5社の共同株式移転により、[[持株会社|中間持株会社]]「[[JR九州建設グループホールディングス]]」を設立し、5社をその子会社とする<ref>{{Cite press release|title=建設セグメントにおける中間持株会社設立に関するお知らせ|publisher=九州旅客鉄道|date=2023-05-11|url=http://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/news/newtopics/__icsFiles/afieldfile/2023/05/11/230511_kensetsuHD.pdf}}</ref>。
***「[[博多ステーションビル]]」の株式取得により、同社を[[持分法適用会社]]化<ref>{{Cite press release|title=株式会社博多ステーションビルの株式取得に関するお知らせ|publisher=九州旅客鉄道|date=2023-05-24|url=http://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/news/newtopics/__icsFiles/afieldfile/2023/05/24/230524_hakatabs_1.pdf|access-date=2023-05-24}}</ref>。
**7月31日:JR九州トランドールを事業終了・清算。
**10月2日:JR九州本体とJR九州保険コンサルティング(2023 年4月3日設立)で会社分割(簡易吸収)を実施し、JR九州本体の保険代理店業をJR九州保険コンサルティングに移管、同日より同社の事業を開始<ref>[https://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/news/newtopics/__icsFiles/afieldfile/2023/10/02/231002_jrkyushu_insurance_consulting.pdf JR九州保険コンサルティング株式会社の事業開始に関するお知らせ] - JR九州保険コンサルティング(2023年10月2日、同日閲覧)</ref>。
**10月26日:事業用車として、キハ220形気動車を改造した[[JR九州キハ200系気動車#BE220形多機能検測車「BIG EYE」|BE220形気動車「BIG EYE」]]の開発を発表。
== 歴代社長 ==
{|class=wikitable
|+歴代の九州旅客鉄道社長
|-
!代数||氏名||在任期間||出身校
|-
|1||[[石井幸孝]]||1987年 - 1997年||[[東京大学]]工学部
|-
|2||[[田中浩二]]||1997年 - 2002年||東京大学法学部
|-
|3||[[石原進]]||2002年 - 2009年||東京大学法学部
|-
|4||[[唐池恒二]]||2009年 - 2014年||[[京都大学]]法学部
|-
|5||[[青柳俊彦]]||2014年 - 2022年 ||東京大学工学部
|-
|6||[[古宮洋二]]||2022年 - ||[[九州大学]]工学部
|}
== 路線 ==
<!-- 運転・列車については上の概況章の「運転面」節か関係記事に記述を。-->
{|class="wikitable" rules="all" style="text-align:center"
|-
!
!営業キロ数
!線区数
!駅数
|-
!新幹線
|style="text-align:right;"|358.5 km
|2
|16
|-
!在来線
|style="text-align:right;"|1984.1 km
|21
|590
|-
!全体
|style="text-align:right;"|2342.6 km
|23
|595 <!--注記の通り新幹線・在来線併設駅は重複計上していない(博多駅などを1駅と数えている)ので合計値ではありません。-->
|}
*営業キロ・線区数は2022年9月23日時点<ref name="data">{{Cite web|和書|url=https://www.jrkyushu.co.jp/company/info/data/line_km.html |title=交通・営業データ |publisher=九州旅客鉄道 |accessdate=2023-09-13}}</ref>、駅数は2023年6月13日時点(駅数はBRT駅を含み、全体数に新幹線・在来線併設駅12駅は重複計上せず)<ref name="outline" />。
=== 現有路線 ===
==== 鉄道 ====
{| class="wikitable" style="font-size:85%;" rules="all"
|-
!style="width:1em;"|分類
!style="width:8em;"|路線名
!style="width:13em;"|区間
!style="width:5em;"|営業キロ
!愛称
!備考
|-
!style="width:1em;" rowspan="2"|[[新幹線]]
![[九州新幹線]]
|[[博多駅]] - [[鹿児島中央駅]]
|style="text-align:right;"|288.9 km
|山陽・九州新幹線
|整備計画上の路線名は'''[[九州新幹線 (整備新幹線)|九州新幹線]]'''。<br />鉄道施設は[[鉄道建設・運輸施設整備支援機構|鉄道・運輸機構]]が保有。<br />実キロは256.8 km。<br />博多駅と博多南駅から約8 kmの区間は[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]の管轄。
|-
![[西九州新幹線]]
|[[武雄温泉駅]] - [[長崎駅]]
|style="text-align:right;"|69.6 km
|
|整備計画上の路線名は'''[[九州新幹線 (整備新幹線)|九州新幹線]]'''。<br />鉄道施設は鉄道・運輸機構が保有。<br />実キロは66.0 km。
|-
!style="width:1em;" rowspan="11"|[[幹線]]
![[山陽本線]]
|[[下関駅]] - [[門司駅]]
|style="text-align:right;"|6.3 km
|
|[[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]] - 下関駅間はJR西日本管轄。
|-
!rowspan="2"|[[鹿児島本線]]
|[[門司港駅]] - [[八代駅]]
|style="text-align:right;"|232.3 km
|[[福北ゆたか線]]([[黒崎駅]] - [[折尾駅]]および[[吉塚駅]] - 博多駅)<br />あまくさみすみ線(熊本駅 - [[宇土駅]])
|小倉駅 - [[西小倉駅]]間 (0.8 km) は日豊本線と重複。
|-
|[[川内駅 (鹿児島県)|川内駅]] - [[鹿児島駅]]
|style="text-align:right;"|49.3 km
|
|
|-
![[篠栗線]]
|[[桂川駅 (福岡県)|桂川駅]] - 吉塚駅
|style="text-align:right;"|25.1 km
|福北ゆたか線
|
|-
!rowspan="2"|[[長崎本線]]
|[[鳥栖駅]] - 長崎駅
|style="text-align:right;"|125.3 km
|
|[[江北駅 (佐賀県)|江北駅]] - [[諫早駅]]間 (60.8 km) は第二種鉄道事業者(施設保有は[[佐賀・長崎鉄道管理センター]])。
|-
|[[喜々津駅]] - [[長与駅]] - [[浦上駅]]
|style="text-align:right;"|23.5 km
|旧線(長与支線)
|
|-
!rowspan="2"|[[筑肥線]]
|[[姪浜駅]] - [[唐津駅]]
|style="text-align:right;"|42.6 km
|
|rowspan="2"|両線は唐津線唐津駅で接続。
|-
|[[山本駅 (佐賀県)|山本駅]] - [[伊万里駅]]
|style="text-align:right;"|25.7 km
|
|-
![[佐世保線]]
|[[江北駅 (佐賀県)|江北駅]] - [[佐世保駅]]
|style="text-align:right;"|48.8 km
|
|
|-
![[日豊本線]]
|[[小倉駅 (福岡県)|小倉駅]] - 鹿児島駅
|style="text-align:right;"|462.6 km
|空港線([[宮崎駅]] - 南宮崎駅)
|小倉駅 - 西小倉駅間 (0.8 km) は鹿児島本線と重複。
|-
![[宮崎空港線]]
|[[田吉駅]] - [[宮崎空港駅]]
|style="text-align:right;"|1.4 km
|空港線
|
|-
!style="width:1em;" rowspan="13"|[[地方交通線]]
![[香椎線]]
|[[西戸崎駅]] - [[宇美駅]]
|style="text-align:right;"|25.4 km
|海の中道線(西戸崎駅 - [[香椎駅]])
|
|-
![[三角線]]
|宇土駅 - [[三角駅]]
|style="text-align:right;"|25.6 km
|あまくさみすみ線
|
|-
![[肥薩線]]
|八代駅 - [[隼人駅]]
|style="text-align:right;"|124.2 km
|[[えびの高原線]](八代駅 - 吉松駅)
|
|-
![[指宿枕崎線]]
|鹿児島中央駅 - [[枕崎駅]]
|style="text-align:right;"|87.8 km
|
|
|-
![[唐津線]]
|[[久保田駅 (佐賀県)|久保田駅]] - [[西唐津駅]]
|style="text-align:right;"|42.5 km
|
|
|-
![[大村線]]
|[[早岐駅]] - [[諫早駅]]
|style="text-align:right;"|47.6 km
|
|
|-
![[久大本線]]
|[[久留米駅]] - [[大分駅]]
|style="text-align:right;"|141.5 km
|ゆふ高原線
|
|-
![[豊肥本線]]
|大分駅 - [[熊本駅]]
|style="text-align:right;"|148.0 km
|阿蘇高原線
|
|-
![[日田彦山線]]
|[[城野駅 (JR九州)|城野駅]] - [[夜明駅]]
|style="text-align:right;"|68.7 km
|
|添田駅 - 夜明駅は鉄道運行を行わず、この区間を含む乗車券の発売も行わない(IC乗車券の運賃計算上の最短経路として営業キロが用いられる場合はある)。同区間はJR九州バスにより[[日田彦山線BRT]](BRTひこぼしライン)として運行され、JR九州は同BRTの事業主体として土地や設備を保有。
|-
![[日南線]]
|[[南宮崎駅]] - [[志布志駅]]
|style="text-align:right;"|88.9 km
|空港線(南宮崎駅 - 田吉駅)
|
|-
![[吉都線]]
|[[吉松駅]] - [[都城駅]]
|style="text-align:right;"|61.6 km
|えびの高原線
|
|-
![[筑豊本線]]
|[[若松駅]] - [[原田駅 (福岡県)|原田駅]]
|style="text-align:right;"|66.1 km
|[[筑豊本線|若松線]](若松駅 - 折尾駅)<br />福北ゆたか線(折尾駅 - 桂川駅)<br />[[筑豊本線|原田線]](桂川駅 - 原田駅)
|
|-
![[後藤寺線]]
|[[田川後藤寺駅]] - [[新飯塚駅]]
|style="text-align:right;"|13.3 km
|
|
|-
!rowspan="2" style="width:1em;"|[[鉄道連絡船|航路]]
!rowspan="2"|[[ビートル (高速船)|ビートル]]
|[[博多港]] - [[ハウステンボス]]
|style="text-align:center;"|-
|
|1992年3月25日までは博多港 - [[長崎オランダ村]]間。<br />1994年3月31日休航。
|-
|博多港 - [[釜山港]]
|style="text-align:center;"|-
|
|[[大韓民国]][[釜山広域市]]への国際[[航路]](運賃形態は独立)。<br />2005年10月1日から[[JR九州高速船]]が運航。
|-
|}
* 山陽・九州新幹線は[[山陽新幹線]](JR西日本)との総称。
* 福北ゆたか線は鹿児島本線黒崎駅 - 折尾駅間および吉塚駅 - 博多駅間、篠栗線全線、筑豊本線折尾駅 - 桂川駅間の総称。
* えびの高原線は肥薩線八代駅 - 吉松駅間と吉都線全線の総称。
==== BRT ====
{|class="wikitable" style="width:100%;font-size:85%;" rules="all"
|-style="text-align:left;"
!style="width:10em;"|路線名
!style="width:16em;"|区間
!style="width:5em;"|営業キロ
!備考
|-
![[日田彦山線BRT]]
|[[添田駅]] - [[日田駅]]
|style="text-align:right;"|37.7 km
|JR九州バスによる運行。愛称は「BRTひこぼしライン」。<br>夜明駅 - 日田駅間は[[久大本線]]と並行して運行。<br />営業キロ設定は鉄道時代を継承したもので、実際の運行経路とは異なる。
|-
|}
=== 廃止路線 ===
{| class="wikitable" style="font-size:85%;" rules="all"
|-
!style="width:1em;"|分類
!style="width:8em;"|路線名
!style="width:13em;"|区間
!style="width:5em;"|営業キロ
!style="width:9em;"|廃止年月日
!備考
|-
!style="width:1em;"|幹線
![[肥薩おれんじ鉄道線|鹿児島本線]]
|八代駅 - 川内駅
|style="text-align:right;"|116.9 km
|2004年3月13日
|九州新幹線[[新八代駅]] - 鹿児島中央駅間開業に伴い経営分離。<br />[[肥薩おれんじ鉄道]]に移管。
|-
! rowspan="9" style="width:1em;" |地方交通線
![[山野線]]
|[[水俣駅]] - [[栗野駅]]
|style="text-align:right;"|55.7 km
|1988年2月1日
|[[特定地方交通線#第2次廃止対象路線|第2次特定地方交通線]]の指定を受けて廃止。<br />[[南国交通]](バス)に転換。
|-
![[松浦鉄道西九州線|松浦線]]
|[[有田駅]] - 佐世保駅
|style="text-align:right;"|93.9 km
|1988年4月1日
|第2次特定地方交通線の指定を受けて廃止。<br />[[松浦鉄道]]に転換。
|-
![[上山田線]]
|[[飯塚駅]] - [[豊前川崎駅]]
|style="text-align:right;"|25.9 km
|1988年9月1日
|第2次特定地方交通線の指定を受けて廃止。<br />[[西鉄バス]]に転換。
|-
![[高千穂鉄道高千穂線|高千穂線]]
|[[延岡駅]] - [[高千穂駅]]
|style="text-align:right;"|50.1 km
|1989年4月28日
|第2次特定地方交通線の指定を受けて廃止。<br />[[高千穂鉄道]]に転換。<br />[[平成17年台風第14号|台風14号]]による豪雨災害に伴い、2005年9月6日全線運転休止。<br />延岡駅 - [[槇峰駅]]間は2007年9月6日、槇峰駅 - 高千穂駅間は2008年12月28日に廃止。<br />[[宮崎交通]]バスに転換。
|-
![[平成筑豊鉄道糸田線|糸田線]]
|[[金田駅]] - 田川後藤寺駅
|style="text-align:right;"|6.9 km
|rowspan="4"|1989年10月1日
|rowspan="3"|[[特定地方交通線#第3次廃止対象路線|第3次特定地方交通線]]の指定を受けて廃止。<br />[[平成筑豊鉄道]]に転換。
|-
![[平成筑豊鉄道田川線|田川線]]
|[[行橋駅]] - [[田川伊田駅]]
|style="text-align:right;"|26.3 km
|-
![[平成筑豊鉄道伊田線|伊田線]]
|[[直方駅]] - 田川伊田駅
|style="text-align:right;"|16.2 km
|-
![[くま川鉄道湯前線|湯前線]]
|[[人吉駅]] - [[湯前駅]]
|style="text-align:right;"|24.9 km
|第3次特定地方交通線の指定を受けて廃止。<br />[[くま川鉄道]]に転換。
|-
![[宮田線]]
|[[勝野駅]] - [[筑前宮田駅]]
|style="text-align:right;"|5.3 km
|1989年12月23日
|第3次特定地方交通線の指定を受けて廃止。<br />西鉄バス・[[JR九州バス]](当時はJR九州直営)に転換。
|-
|}
== ダイヤ ==
{{Main|JRダイヤ改正}}
ダイヤ改正については3月に実施することが多く、他のJR各社に合わせて実施される。
== 列車 ==
<!-- 記述を修正・変更された場合は、JR他社の記事の「列車」節も確認・修正してください。-->
JR九州発足以降に同社の路線で運行されている、もしくはかつて運行されていた愛称付きの列車を挙げる(2023年10月5日時点。廃止列車は廃止時点)。種別が変更された列車は変更後のもので記載し、他社の車両による運行のものはその会社名も記載する。詳細は各列車の記事を参照。
<div style="float:left; width:50%">
=== 現行列車 ===
==== 新幹線 ====
* [[九州新幹線|九州]]・[[山陽新幹線]]
** [[みずほ (列車)|みずほ]](一部はJR西日本)
** [[さくら (新幹線)|さくら]](一部はJR西日本)
<!--* 九州新幹線 --2017年3月ダイヤ改正で、朝に小倉まで上り1本直通列車を設定-->
** [[つばめ (JR九州)|つばめ]](一部はJR西日本)
* [[西九州新幹線]]
** [[かもめ (列車)|かもめ]]
==== 在来線 ====
* [[特別急行列車|特急列車]]
** [[きらめき (列車)|きらめき]]
** [[ソニック (列車)|ソニック]]
** [[にちりん (列車)|にちりん・にちりんシーガイア]]
** [[ひゅうが (列車)|ひゅうが]]
** [[きりしま (列車)|きりしま]]
** [[かもめ (列車)|リレーかもめ]]
** [[かささぎ (列車)|かささぎ]]
** [[みどり (列車)|みどり・みどり(リレーかもめ)]]
** [[ハウステンボス (列車)|ハウステンボス・ハウステンボス(リレーかもめ)]]
** [[かいおう]]
** [[ゆふ (列車)|ゆふ・ゆふいんの森]]
** [[九州横断特急]]
** [[九州横断特急#あそぼーい!|あそぼーい!]]
** [[九州横断特急|あそ]](2020年 -)
** [[A列車で行こう (列車)|A列車で行こう]]
** [[海幸山幸 (列車)|海幸山幸]]
** [[指宿のたまて箱]]
** [[かわせみ やませみ]]
** [[36ぷらす3]]
** [[ふたつ星4047]]
* [[快速列車]]
** [[指宿枕崎線|なのはな]]
** [[シーサイドライナー (列車)|シーサイドライナー]]
** [[日南線|日南マリーン号]]
* 観光列車・[[クルーズトレイン]]
** [[SL人吉]]
** [[或る列車]]([[団体専用列車]])
** [[おれんじ食堂]](肥薩おれんじ鉄道)
** [[ななつ星 in 九州]](団体専用列車)
</div><div style="float:left; width:50%">
=== 廃止列車 ===
==== 在来線 ====
* 特急列車
** [[つばめ (JR九州)|つばめ]]
** [[つばめ (JR九州)|リレーつばめ]]
** [[つばめ (JR九州)|ドリームつばめ]]
** [[にちりん (列車)|ハイパーにちりん]]
** [[ソニック (列車)|ソニックにちりん]]
** [[にちりん (列車)|ドリームにちりん]]
** [[有明 (列車)|有明]]
** [[有明 (列車)|スーパー有明]]
** [[有明 (列車)|ハイパー有明]]
** [[かもめ (列車)|かもめ]]
** [[かもめ (列車)|ハイパーかもめ]]
** [[ハウステンボス (列車)|オランダ村特急]]
** [[シーサイドライナー (列車)|シーボルト]]
** [[ゆふ (列車)|ゆふDX]]
** [[九州横断特急|あそ]](1992年 - 2004年)
** [[かわせみ やませみ|くまがわ]]
** [[川内エクスプレス]]
** [[はやとの風]]
** [[いさぶろう・しんぺい]](一部普通列車)
** [[いそかぜ (列車)|いそかぜ]](JR西日本)
** [[さくら (列車)|さくら]](JR東日本車両と併結運転の時期があり)
** [[はやぶさ (列車)#東京対鹿児島本線優等列車沿革|みずほ]](JR東日本車両と併結)
** [[あさかぜ (列車)|あさかぜ]](JR東日本)
** [[彗星 (列車)|彗星]](JR西日本)
** [[なは (列車)|なは]]
** [[あかつき (列車)|あかつき]](JR西日本)
** [[富士 (列車)|富士]]
** [[はやぶさ (列車)#列車名の由来|はやぶさ]]
* [[急行列車]]
** [[シーサイドライナー (列車)|平戸]]
** [[ゆふ (列車)|由布]]
** [[九州横断特急|火の山]]
** [[有明 (列車)|かいもん]]
** [[にちりん (列車)|日南]]
** [[かわせみ やませみ|えびの]]
* 快速列車・ライナー
** [[日田彦山線|日田]]
** [[福北ゆたか線|赤い快速]]
** [[筑肥線#運行形態|からつライナー・ふくおかライナー]]
** [[豊肥本線#肥後大津駅 - 熊本駅間|豊肥ライナー]]
** [[肥薩おれんじ鉄道線#快速「スーパーおれんじ」・「オーシャンライナーさつま」|スーパーおれんじ]]([[肥薩おれんじ鉄道]])
** [[肥薩おれんじ鉄道線#快速「スーパーおれんじ」・「オーシャンライナーさつま」|オーシャンライナーさつま]](肥薩おれんじ鉄道)
** [[肥薩線|九千坊号]]
** [[きりしま (列車)|錦江]]
** [[ひゅうが (列車)|ひむか]]
** [[指宿枕崎線|いぶすき]]
** [[指宿枕崎線|なのはなDX]]
** [[ホームライナー|さわやかライナー・ホームライナー]]
** [[ムーンライト九州]](臨時・JR西日本)
** [[鹿児島本線#荒尾駅 - 八代駅間|くまもとライナー]]
* 観光列車
** [[あそBOY|SLあそBOY・ディーゼルあそBOY]]
** [[あそ1962]]
** [[SL人吉|SL人吉号・ディーゼル人吉号]]
** [[三角線|天草グルメ快速「おこしき」]]
**[[TORO-Q]]
</div>{{clear}}
== 車両 ==
{{See also|JR九州の車両形式}}
=== 特徴 ===
JR九州の車両の[[デザイン]]は、鮮やかな色彩を用い、社名英称・[[列車愛称]]・形式称号などを[[Helvetica|ヘルベチカ]]による[[レタリング]]に統一した塗装と、快適さを主眼においた内装を持っている。これらは同社のデザイン顧問に就任した[[水戸岡鋭治]](ドーンデザイン研究所)が手掛けたものである。建築[[デザイナー]]として[[ホテル]]や[[施設#公共施設|公共施設]]のデザインを手がけていた水戸岡は、[[1988年]]のキハ58系「[[アクアエクスプレス]]」からJR九州の車両デザインに参加する<ref>{{Cite journal |和書 |author= |title=ART CANVAS KYUSHU 鉄道の旅をより楽しく豊かに…水戸岡鋭治がデザインしたJR九州のサービス |year=1995 |publisher=[[鉄道ジャーナル社]] |journal=鉄道ジャーナル |volume=339 |page=22}}</ref>。効率と採算重視というそれまでの鉄道車両の常識の対極をいくとも言える「居住空間としての客席」との考え方によるデザイン<ref>{{Cite journal |和書 |author= |title=デザイナー・水戸岡鋭治氏インタビュー「ファンを生み出す列車のつくり方」 |year=2012 |publisher=[[プレジデント社]] |journal=プレジデント |issue=2012年8月13日号 |page= |url=http://president.jp/articles/-/7140 |accessdate=2015-01-11}}</ref> により、[[1992年]]の[[JR九州787系電車|787系]]「[[つばめ (JR九州)|つばめ]]」は、そのデザインと優れた内装によって、[[ブルーリボン賞 (鉄道)|ブルーリボン賞]]・グッドデザイン商品(現・[[グッドデザイン賞]]<!--1998年から-->)といった日本国内の賞のみならず、日本国外からも[[ブルネル賞]]を受賞している。以降も水戸岡は[[JR九州883系電車|883系]]「[[ソニック (列車)|ソニック]]」・[[JR九州885系電車|885系]]「[[かもめ (列車)|かもめ]]」そして新幹線[[新幹線800系電車|800系]]「つばめ」などの[[特急形車両|特急用]]にとどまらず、普通列車用まで含めた新車両や、国鉄から継承した車両のリニューアルでもデザインを手がけている。[[#D&S列車(観光列車)|D&S列車(観光列車)]]に使用されている車両の大半は国鉄から継承した車両の内外装を水戸岡のデザインを基に改造した車両であり、特に「[[はやとの風]]」「[[指宿のたまて箱]]」「[[かわせみ やませみ]]」などの列車には[[一般形車両 (鉄道)|一般形]]の[[国鉄キハ40系気動車 (2代)|キハ40系]][[気動車]]を改造した車両が特急列車として使用されている。
車両のメーカーに関しては、電車では発足当初は[[日立製作所]]と[[近畿車輛]]の2社に集約されていたが、現在、JR九州の新製電車は殆ど「'''[[A-train (日立製作所)|A-train]]'''」の採用で[[新幹線車両]]を含めて[[2012年]]頃から日立製作所のみでの製造となっている。一方、気動車では液体式気動車は[[新潟鐵工所]]製が多いが、一部に[[富士重工業]]と[[日本車輌製造]]で製造された車両も導入している。ただし、[[2011年]]3月の九州新幹線全線開業に伴い投入された[[新幹線N700系電車|N700系8000番台]]の一部、[[2019年]]から新規製造された[[JR九州YC1系気動車|YC1系]]<ref group="注釈">YC1系の台車は日本車輌製造の[[N-QUALIS#台車|タンデム式台車]]を採用。</ref>に[[川崎車両|川崎重工業車両カンパニー]]製の車両も存在する。なお、一部の形式については小倉工場での自社製造([[ノックダウン生産|ノックダウン製造]]含む)車両が含まれる。
JR旅客鉄道6社の中で唯一、これまで[[2階建車両]]を保有したことがない。
自社車両の他社乗り入れについては、在来線についてはJR西日本の[[下関駅]]及び[[福岡市地下鉄空港線]]のみに乗り入れる。[[ななつ星 in 九州]]や[[36ぷらす3]]といった定期運行を行わない列車は、[[肥薩おれんじ鉄道線]]にも乗り入れる。新幹線はほとんどがJR西日本管内のみに乗り入れているが、東端の[[新大阪駅]]はJR東海の管轄である。さらに回送列車として[[鳥飼車両基地]]まで走行している。自社エリア以外の都道府県では、新幹線が山口県、広島県、岡山県、兵庫県、大阪府に、在来線が山口県のみに乗り入れている。JR旅客6社で自社車両が乗り入れる自社エリア以外の都道府県の数はJR四国<!--岡山県:自社管轄の駅がある場合を自社エリアとする。-->、JR東日本<!--富山県、石川県、岐阜県、北海道-->に次いで少ない。
<gallery>
ファイル:Kiha58 aqua express hakata.jpg|JR九州の車両デザインの方向性を決めた「アクアエクスプレス」
ファイル:JRkyusyu 787 tsubame 9cars kumoha.jpg|国内外から複数の賞を受賞した、特急「つばめ」用787系
</gallery>
=== 特急車両 ===
[[特急形車両|特急車両]]に関しては、発足当初は、JR他社と同様に[[国鉄485系電車|485系]]など国鉄から引き継いだ車両の座席交換などの改良工事を進めていった。[[1988年]]にはJRグループ初の新系列車両である[[JR九州783系電車|783系]]を導入した。以降は、水戸岡のデザインによる個性的な車両やデザイン面を重視した列車を相次いで開発し、「[[アクアエクスプレス]]」を皮切りに、787系、883系、885系などの新系列特急車を多く導入している。
九州新幹線の全線開業以前は比較的車両によって使用される列車が固定されていたこともあり、外装に列車名をロゴとして表記する車両も多く見られた。このため運用の変更が起こると、885系電車では、「かもめ」編成の「ソニック」と「ソニック」編成の「かもめ」が博多駅のホームに並んだり、稀ではあるが783系電車において「ハウステンボス」編成の「みどり」と「みどり」編成の「ハウステンボス」が併結するなどの事態が発生した。787系は、九州新幹線の全線開業以降「ハウステンボス」「ソニック」以外のJR九州管内の全ての在来線電車特急に充当されるようになった。885系でも、「かもめ」編成と「ソニック」編成が事実上の共通運用になっていたことから、この2形式は共通運用を前提とした「AROUND THE KYUSHU」[[ロゴタイプ|ロゴ]]への変更が行われた。
気動車特急についてもキハ185系気動車において「[[あそ (列車)|あそ]]・[[ゆふ (列車)|ゆふ]]」共通塗装、「[[九州横断特急]]」塗装が存在する。キハ185系は車両数が少ないうえ、増解結や編成組み換えをしばしば行うので「あそ・ゆふ」塗装と「九州横断特急」塗装が逆の列車名の列車に充当されたり、両種類の塗装の列車が混結されることもあった。現在はキハ185系においても共通運用を前提とした「AROUND THE KYUSHU」ロゴへの変更が行われつつある。なお、「[[A列車で行こう (列車)|A列車で行こう]]」用キハ185系については独立して運用されている。
前述の観光列車については「指宿のたまて箱」と、「はやとの風」には、共通の予備車が1両、「[[いさぶろう・しんぺい]]」には、増結用の予備車が1両ある。しかし、その他の列車には予備車両がない。このため、「[[海幸山幸 (列車)|海幸山幸]]」や、「[[九州横断特急#あそぼーい!|あそぼーい!]]」などは、運転日を週末などに限定している。「かわせみ やませみ」など、毎日運転する列車では、専用車両が検査の際には別の列車の車両を予備車として充当することがある。そして、「[[ゆふ (列車)|ゆふいんの森]]」のように列車自体は運休して同じダイヤで特急「ゆふ」を替わりに運行するような措置が取られている。
<gallery>
ファイル:JRkyusyu 783 kamome kuro782.jpg|JRグループ初の新系列車両となった783系
</gallery>
=== 譲受車両 ===
他鉄道事業者からの購入車両としては、[[1992年]]には[[久大本線]]の急行[[ゆふ (列車)|「由布」を特急「ゆふ」]]に、[[豊肥本線]]の急行[[九州横断特急|「火の山」を特急「あそ」]]にそれぞれ格上げするために、JR四国から[[国鉄キハ185系気動車|キハ185系]]を購入して充当した。[[2005年]]の[[平成17年台風第14号|台風14号]]の被害から廃線となった[[高千穂鉄道]]から[[高千穂鉄道TR-400形気動車|TR-400形]]を購入し、これを[[日南線]]向け観光特急「[[海幸山幸 (列車)|海幸山幸]]」用に改造した。[[2015年]]には四国で余剰となったキハ47形を譲り受けスイーツトレイン「[[或る列車]]」に改造するなどの事例もある。特急や観光列車用以外では交直両用電車の更新のために、JR東日本から[[国鉄415系電車#JR東日本 → JR九州譲渡車|415系500・1500番台]]を購入している。
このほか豊肥本線電化に際し、熊本県等と共同設立した[[第三セクター]]「[[豊肥本線高速鉄道保有]]株式会社」が所有し、JR九州に貸与されていた815系電車4編成8両を2015年度に同社から購入した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jrkyushu.co.jp/company/ir/library/fact_sheet/__icsFiles/afieldfile/2018/08/29/factsheets2018_1.pdf|title=JR九州 ファクトシート2018|accessdate=2018年10月17日|publisher=}}</ref>。これは従来からJR九州の路線で使用していた車両の所有者の変更のみであり、他鉄道事業者からの転入ではない。
<gallery>
ファイル:Kiha185 yuhu.jpg|特急用にJR四国から購入したキハ185系
</gallery>
=== 普通列車・快速列車用 ===
近郊形電車については[[JR九州811系電車|811系]]を皮切りに[[JR九州813系電車|813系]]・[[JR九州815系電車|815系]]・[[JR九州817系電車|817系]]・[[JR九州821系電車|821系]]といった新形式車両を北部九州を中心に積極的に投入している。817系は南九州エリアにも投入され、国鉄型電車の置き換えを進め、2022年9月に415系鋼製車の置き換えが完了した<ref>{{Cite web|和書|title=415系鋼製車の定期運用が終了|鉄道ニュース|2022年9月23日掲載|鉄道ファン・railf.jp |url=https://railf.jp/news/2022/09/23/201500.html |website=鉄道ファン・railf.jp |access-date=2022-09-23 |language=ja}}</ref>。一方、門司駅 - 下関駅間で運用可能な[[交直流電車|交直両用電車]]は、分割民営化後は1両も造られていない。交直両用電車の更新については、JR東日本から[[JR東日本E531系電車|E531系]]の投入で余剰となった[[国鉄415系電車#415系|415系500・1500番台]]を購入する形で行っている。一般型気動車については、[[JR九州キハ200系気動車|キハ200系]]・[[JR九州キハ125形気動車|キハ125形]]の2形式が投入されたほか、[[国鉄キハ40系気動車 (2代)|キハ40系]]をはじめとする気動車置き換えを見据えた交流蓄電池電車として[[JR九州BEC819系電車|BEC819系]]、ハイブリッドディーゼル車両として[[JR九州YC1系気動車|YC1系]]を開発している。
座席の種類別で見ると、JR九州発足後に開発された普通列車用の電車については、かつては815系を除いて[[鉄道車両の座席#転換式クロスシート(転換腰掛)|転換クロスシート]]が採用されることが多かった。一方で、近年福岡都市圏向けに投入された[[JR九州303系電車|303系]]、[[JR九州305系電車|305系]]、813系500番台、817系2000番台・3000番台、821系などの電車では[[鉄道車両の座席#ロングシート(縦座席)|ロングシート]]も積極的に採用している上、既存の811系でも転換クロスシートからの改造車が増えている。特に2010年代以降は転換クロスシートの車両の新製はなくなった。
[[2016年]]に、JR化後に製造された811系の改造に着手。駆動装置は最新鋭のものに更新し、転換クロスシートはロングシートに改めるなど、既存車両の延命化を見据えた大規模なリニューアルが行われた。改造車の第1号は[[2017年]]4月から営業運転を開始した。以後2024年頃を目途に811系全27編成の改造を行う予定<ref name=":811系リニューアル">JR九州「811系」リニューアル - 西日本新聞(2017年4月27日朝刊)</ref>。他の形式では[[列車便所|トイレ]]の設置を進めており、近年では[[国鉄103系電車#1500番台|103系1500番台]]、303系の全編成、キハ125形の全車に、[[バリアフリー]]対応トイレが設置された。[[国鉄キハ31形気動車|キハ31形]]の運用終了により、全列車にトイレが設置された。
2021年以降、813系の一部車両において乗降口付近の座席を撤去して定員を増加させる改造が行われている。改造された際、それぞれ改造元が200番台と1100番台の車両は2200番台と3100番台に改番されている<ref name="JRR 2021s 211">ジェー・アール・アール編『JR電車編成表』2021夏 交通新聞社、2021年、p.211。ISBN 9784330025216。</ref>。
<gallery>
ファイル:Mojikou kagoshima-mainline local trains 1.jpg|普通・快速列車用の車両群(左から415系2本・811系・813系)
</gallery>
=== ジョイフルトレイン ===
発足当初は団体用の[[ジョイフルトレイン]]も保有していたが、団体用については[[1994年]]までに全廃され、以後は保有していない。[[団体専用列車]]には一般の特急形車両や、[[#D&S列車(観光列車)|D&S列車(観光列車)]]用車両を使用しており、結果的には、ジョイフルトレインと同じような対応が可能となっている。
{{-}}
== 現業機関 ==
=== 車両基地 ===
支社別の[[車両基地]]設置状況は、以下のとおりである。漢字1文字の略号は機関車にのみ付される。
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
! style="width:7em" | 本・支社 !! style="width:18em" | 車両基地 !! 略号 !! 備考
|-
! rowspan="7" |本社<br />鉄道事業本部
| [[熊本総合車両所]] || rowspan="2" | 幹クマ || rowspan="2"|新幹線車両のみ配置。
|-
| [[熊本総合車両所大村車両管理室]]
|-
| [[南福岡車両区]] || 本ミフ ||
|-
|南福岡車両区[[博多運転区#南福岡車両区竹下車両派出|竹下車両派出]]<ref>九州旅客鉄道『JR九州のひみつ』([[PHP研究所]]、2013年)pp.54-55</ref>
| style="white-space:nowrap;"|(本タケ)
|1989年から配置車両なし、筑豊笹栗鉄道事業部直方車両センターからの派出配置あり。
|-
| [[小倉総合車両センター]][[小倉総合車両センター#門司港車両派出|門司港車両派出]] || 本コラ || [[門司港運転区]](本モコ)の検修部門を小倉総合車両センターに統合の上改組。
|-
| [[筑豊篠栗鉄道事業部]][[筑豊篠栗鉄道事業部#直方車両センター|直方車両センター]] || 本チク ||南福岡車両区竹下車両派出に車両派出あり。
|-
| [[佐賀鉄道事業部]][[佐賀鉄道事業部#唐津車両センター|唐津車両センター]] || 本カラ ||
|-
! 長崎支社
| [[長崎鉄道事業部#佐世保車両センター|佐世保車両センター]] || 崎サキ || [[九州新幹線 (整備新幹線)#西九州ルート|九州新幹線西九州ルート]]建設に伴う高架事業により、2014年3月15日に長崎鉄道事業部[[長崎鉄道事業部#長崎車両センター|長崎車両センター]]を移転・改組。[[早岐駅]]構内に所在。
|-
! 大分支社
| [[大分鉄道事業部#大分車両センター|大分車両センター]] || 分オイ、大 || 大分鉄道事業部大分運輸センターの一部と[[豊肥久大鉄道事業部]]豊肥久大運輸センター(分ホウ)を統合。
|-
! 熊本支社
| [[熊本鉄道事業部#熊本車両センター|熊本車両センター]] || 熊クマ、熊 ||
|-
! 鹿児島支社
| [[鹿児島車両センター]] || 鹿カコ、鹿 ||鹿児島総合車両所の工場機能廃止に伴い設置。
|-
! 宮崎支社
| [[九州旅客鉄道宮崎支社#宮崎車両センター|宮崎車両センター]] || 鹿ミサ ||鹿児島総合車両所の工場機能廃止に伴い、鹿児島車両センターから宮崎地区の気動車運用を独立させて設置。
|}
=== 車両工場 ===
{| class="wikitable"
! 工場 !! 名称
|-
! 在来線
| 小倉総合車両センター 「KK」
|-
! 新幹線
| 熊本総合車両所
|}
かつては鹿児島車両センター構内に[[鹿児島総合車両所]] 「KG」 が設置されており、鹿児島支社所属の在来線および、九州新幹線部分開業時の新幹線車両の検査などを行っていたが、2011年に工場機能を廃止した。廃止後は主な検査を小倉総合車両所に移管、鹿児島車両センター・宮崎車両センターに一部検査機能が移管された。工場機能を担当する職員のほとんどは、熊本総合車両所に[[転勤]]となった。
== 社歌 ==
[[社歌]]は『[[浪漫鉄道]]』で、[[ハイ・ファイ・セット]]が歌っている。
== 制服 ==
=== 初代(民営化 - 2017年3月) ===
国鉄から民営化されてJR九州発足以来デザインにほとんど変更は無く、駅社員、乗務員(運転士、車掌)とも共通の[[制服]]である。冬服は紺色の[[背広|スーツ]]型で襟元にはコーポレートカラーの赤色のラインが入る。[[ネクタイ]]は赤をベースに黒や白のラインが入ったものとなっている。
[[駅長]]、新幹線[[車掌]]、在来線[[優等列車]]車掌など管理者クラスの社員は濃い紺色でダブルタイプとなる。ネクタイは紅と金色のストライプでインナーシャツは個人のものを使用する。制帽はJR他社と異なり[[ケピ帽|ドゴール帽]]で、正面には旧国鉄のシンボルマーク「動輪」にJRマークが入ったものに、赤色のラインが入った帽子を採用している。
なお、乗務員は上着の左肩には[[月桂冠]]と列車をモチーフにした[[エンブレム]]を[[面ファスナー]]止めで着用する。エンブレムの上下の列車部分には「運転士/DRIVER」(白い[[刺繍]])、「車掌/CONDUCTOR」(赤い刺繍)などと標記されている。このエンブレムは在来線の乗務員と新幹線の乗務員とでデザインが異なり、新幹線の乗務員のエンブレムは下部に金色の刺繍が入っており「新幹線 運転士」「新幹線 車掌」と標記されている。このほか、指令員(青い刺繍)などがエンブレムを佩用する。
女性用制服は営業関係社員と運転関係社員とでは異なる。営業関係社員は左肩元に「KYUSYU RAILWAY COMPANY」のロゴが入った黒の[[レディーススーツ|スーツ]]タイプの制服に[[スカーフ]]を巻く。制帽はない。この制服にはパンツタイプ、スカートタイプが存在する。運転関係社員は前述の男性用制服と同じ紺色の制服を着用する。制帽に関しては、これまで男性社員同様ドゴール帽であったが、新幹線駅および博多駅・小倉駅在来線の輸送係を除き、2010年6月ごろから変更され、JR他社同様ハットタイプのものとなった。
一方、夏服は冬服よりは薄い紺色のズボンに男性はチェック柄の女性は水色の半袖のワイシャツを着用する。上着は省略する。駅長、車掌区長、新幹線車掌、在来線優等列車車掌など管理者クラスの社員は灰色で襟元に赤色のラインが入ったダブルのスーツタイプの制服を着用する。勿論、制帽も灰色のドゴール帽である。女性の管理者クラスの社員も同じものを着用する。女性の営業関係社員は上述の冬の制服の上着を省略し、代わりにインナーのベストを着用する。
客室乗務員の制服も存在しており、「ハイパーレディ」や「つばめレディ」用等が設定されていた。その後、つばめレディをベースとした共通デザインのものが導入されたものの、「TSUBAME」ロゴの入った「つばめレディ」用と混在した状態となっていた。
厳冬期に乗務員・駅員が着用する[[ジャンパー (衣服)|ジャンパー]]は、国鉄を踏襲するベージュ色の厚いガウンジャケット(肩にエンブレムを取り付けられるほか、胸にはJRロゴのエンブレムを取り付けできる。)が使用されていたが、2011年から黒色で「AROUND THE KYUSHU」「KYUSHU RAILWAY COMPANY」ロゴが入り、ラインなど白い部分には反射材を採用した、水戸岡鋭治のデザインによるスッキリとしたブルゾンに更新された。
=== 2代目(現行:2017年4月 - ) ===
2017年度から制服のデザインが、[[ロウタスインターナショナル]]のクリエイティブディレクターである[[嶋﨑隆一郎]]デザインによるものに変更された<ref name="tc20161205">[https://tetsudo-ch.com/9039.html JR九州 来年4月 制服を一新] 鉄道チャンネル、2016年12月5日</ref><ref name="jrkyushu20161205" />。水戸岡はトータルアドバイザーを引き続き担当し<ref name="jrkyushu20161205">{{Cite web|和書|date=2016-12-05
|url=http://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2016/12/05/newuniform.pdf|title=制服が新しくなります!|format=PDF|publisher=九州旅客鉄道|accessdate=2015-12-05}}</ref>、客室乗務員制服は従来のものに生地やポケットなど一部変更が加えられた<ref name="tc20161205" />。
同一コンセプトのもと、職域ごとに異なった制服が男女ごとに設定されている。冬服・合服はジャケット・ズボンが紺色から黒となり、胸には「つばめ」のエンブレム、肩に英名の社名が入っている。帽子は従来を踏襲し、男性はドゴール帽、女性はハットタイプとなった。夏服は青のカッターシャツを着用するが、[[クールビズ]]に対応してノーネクタイとなった。
職域ごとの制服の違いとして、冬服・合服には「ダブルジャケット」と「シングルジャケット」が職域によって使い分けされている。「ダブルジャケット」は駅長、副駅長、新幹線車掌、特急列車車掌が着用する。ダブルジャケットは帽子に赤地のライン、ジャケットの裾・襟の縁取り、およびズボンのサイドラインに金色を配している。「シングルジャケット」は駅員、運転士、在来線普通・快速列車の車掌、ホーム輸送係等が着用する。シングルジャケットには前述の縁取りやラインは省略している。乗務員を除く駅員、旅行支店勤務の女性職員には「女性接客用制服」が着用できる。これは、シングルジャケットおよび夏服をベースにしているが、冬服・合服ではネクタイの代わりにスカーフを、夏服ではカッターシャツの上からベストを着用することができる。共通して、ズボンの代わりにスカートを着用する。
初代同様に乗務員等では面ファスナー止めのエンブレムを左肩に取り付ける。従来のデザインから大きく変わり、黒地に金文字の英社名・役職名(和英ともに)を並べたシンプルで小さいものになった。在来線乗務員・指令員では金文字単色のものを使用する。
客室乗務員の制服は従来のものをマイナーチェンジし、専用制服を除きデザインが統一された。マイナーチェンジながら、生地の改良、機能性の向上により「これから先も通じる制服」としている。
技術系制服も更新され、青ベースの制服から灰色ベースの制服に変更となった。
=== その他の制服 ===
「SL人吉」の[[機関士]]と機関助士は国鉄時代のものを復刻させた制服を、車掌はレトロ調の制服を、観光列車「ゆふいんの森」「あそぼーい!」号の車掌はホテルの支配人をイメージしたオリジナルの制服を着用する(博多車掌区、門司車掌区、大分車掌センター等の車掌が着用する)。通常の制服と異なり黒のダブルの制服で胸元にそれぞれ「ゆふいんの森」「あそぼーい!」号オリジナルのロゴが入ったピンバッジを付けている。制帽は省略されている。
門司港駅では男性駅員・駅長の制服も他の駅とは異なっており、[[門司港レトロ]]と調和されたデザインの制服となっている。同様のコンセプトで、由布院駅でも駅員・駅長の制服が独自デザインとなっている。
客室乗務員、「ななつ星in九州」の全乗務員のデザインは車両などのデザインも手掛けているドーンデザイン研究所の水戸岡鋭治によるものであり、それぞれ冬服・夏服もある。
== ICカード乗車券 ==
{{Main|SUGOCA}}
2009年3月1日から、独自の[[ICカード#日本の鉄道|ICカード乗車券]]「[[SUGOCA]]」(スゴカ)のサービスを福岡県内の都市圏と佐賀県の一部を中心とした148駅で開始し<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jrkyushu.co.jp/profile/outline/history05.jsp |title=JR九州年譜(2007〜) |publisher=九州旅客鉄道 |accessdate=2015-08-25}}</ref>、2012年12月1日から、既存エリアが熊本、大分の各都市圏まで拡大、長崎、鹿児島の各都市圏を中心に新規エリアが開設された。さらに2015年11月14日に宮崎市に新規エリアが開設されたことで九州全県の主な都市圏での利用が可能となった。2015年11月14日時点では、JR九州全566駅のおよそ半分にあたる284駅で利用が可能である。
発行するのは、プリペイドタイプのIC乗車券(無記名式・記名式)と、それに[[定期乗車券]]の機能を一体化させたIC定期券の2種類で、発売の際、[[デポジット]]料金として500円を徴収する。積み増せるチャージ上限は20,000円。
開始当初から[[電子マネー]]機能を搭載しており、駅売店などで利用できる。ポイントシステムは2010年2月1日に導入され、[[西日本鉄道]](西鉄)が導入している[[nimoca]]にある[[クレジットカード|クレジット]]兼用型についても、グループ企業や系列の商業施設「[[アミュプラザ]]」などが独自に導入していたクレジットカードを統合する形で、同年3月に「JQ CARD」([[三菱UFJニコス]]もしくは[[クレディセゾン]]と提携)の発行を開始した。
相互利用の拡大も進められている。2010年3月13日からは、nimocaおよび[[福岡市交通局]]が導入している[[はやかけん]]、JR東日本の[[Suica]]を含めた、4社局のICカード乗車券の相互利用を開始した。2011年3月5日には、JR西日本の[[ICOCA]]およびJR東海の[[TOICA]]と相互利用を開始し<ref name="jrkyushu20101213" />、2013年3月23日にはJR北海道の[[Kitaca]]、関東私鉄・バス事業者の[[PASMO]]、中京圏私鉄・バス事業者の[[manaca]]、近畿圏私鉄・バス事業者の[[PiTaPa]]との相互利用(PiTaPaは交通利用のみ、他は交通利用と電子マネーサービス)を開始している。
== 運賃 ==
大人普通旅客[[運賃]](小児半額・10円未満の端数切り下げ)。2019年(令和元年)10月1日改定<ref>{{Cite press release |和書 |date=2019-09 |url=https://www.jrkyushu.co.jp/pdf/190906_fare_information.pdf |format=PDF |title=運賃・料金改定のご案内 |publisher=九州旅客鉄道 |accessdate=2019-11-03}}</ref>。
* [[幹線]]と[[地方交通線]]を連続して利用する場合、幹線の[[営業キロ]]と地方交通線の[[擬制キロ]]を合計した運賃計算キロにより運賃を計算する。
* [[宮崎空港線]]田吉駅 - 宮崎空港駅間は130円の加算運賃を適用する。
* [[特定都区市内]]である[[特定都区市内#設定区域一覧|北九州市内]]にある駅と、[[小倉駅 (福岡県)|小倉駅]]から片道の営業キロが200kmを超える駅との相互間の片道普通旅客運賃は、小倉駅を起点または終点とした営業キロまたは運賃計算キロによって計算する。
** 例として、[[折尾駅]] - [[新八代駅]]間の営業キロは199.4kmであるが、小倉駅から片道の営業キロが200kmを超えるため、小倉駅を起点とした営業キロ(218.5 km)を適用する。券面表示は「北九州市内→新八代」となり、北九州市内発であれば同一運賃となる。
* 特定都区市内である[[特定都区市内#設定区域一覧|福岡市内]]にある駅と、[[博多駅]]から片道の営業キロが200kmを超える駅との相互間の片道普通旅客運賃は、博多駅を起点または終点とした営業キロまたは運賃計算キロによって計算する。ただし、筑肥線は含まない。
** 筑肥線[[姪浜駅]]、[[今宿駅]]、[[周船寺駅]]は1983年まで「福岡市内」として扱われていたが、同年3月22日に博多駅 - 姪浜駅間が廃止されたことで「福岡市内」として扱われなくなった。同日に開業した[[福岡市地下鉄空港線]]とは[[通過連絡運輸]]が設定されており、前後のキロ程を通算して計算する。[[SUGOCA]]や[[はやかけん]]等の[[乗車カード|交通系ICカード]]で乗車した場合も通過連絡運輸の対象となる。
* 401km以上の運賃は外部リンク参照のこと。
{| class="wikitable" rules="all" style="text-align:center; margin-left:3em;"
|-
! キロ程 !! 運賃(円) !! キロ程 !! 運賃(円)
|-
|初乗り3km||style="text-align:right;"|170||101 - 120||style="text-align:right;"|2,170
|-
|4 - 6||style="text-align:right;"|210||121 - 140||style="text-align:right;"|2,530
|-
|7 - 10||style="text-align:right;"|230||141 - 160||style="text-align:right;"|2,860
|-
|11 - 15||style="text-align:right;"|280||161 - 180||style="text-align:right;"|3,300
|-
|16 - 20||style="text-align:right;"|380||181 - 200||style="text-align:right;"|3,740
|-
|21 - 25||style="text-align:right;"|480||201 - 220||style="text-align:right;"|4,070
|-
|26 - 30||style="text-align:right;"|570||221 - 240||style="text-align:right;"|4,400
|-
|31 - 35||style="text-align:right;"|660||241 - 260||style="text-align:right;"|4,840
|-
|36 - 40||style="text-align:right;"|760||261 - 280||style="text-align:right;"|5,280
|-
|41 - 45||style="text-align:right;"|860||281 - 300||style="text-align:right;"|5,610
|-
|46 - 50||style="text-align:right;"|950||301 - 320||style="text-align:right;"|5,940
|-
|51 - 60||style="text-align:right;"|1,130||321 - 340||style="text-align:right;"|6,160
|-
|61 - 70||style="text-align:right;"|1,310||341 - 360||style="text-align:right;"|6,490
|-
|71 - 80||style="text-align:right;"|1,500||361 - 380||style="text-align:right;"|6,820
|-
|81 - 90||style="text-align:right;"|1,680||381 - 400||style="text-align:right;"|7,040
|-
|91 - 100||style="text-align:right;"|1,850||colspan="2"|
|-
|}
* 地方交通線のみ利用する場合、擬制キロと営業キロにより特定運賃が適用される。
{| class="wikitable" rules="all" style="text-align:center; margin-left:3em;"
|-
! 擬制キロ !! 営業キロ !! 運賃(円)!! 擬制キロ !! 営業キロ !! 運賃(円)
|-
| 4 || 3 ||style="text-align:right;"|180|| 51 || 46 ||style="text-align:right;"|1,020
|-
| 11 || - ||style="text-align:right;"|260|| 61 || 55 ||style="text-align:right;"|1,200
|-
| 16 || - ||style="text-align:right;"|300|| 71 || 64 ||style="text-align:right;"|1,400
|-
| 17 || 15 ||style="text-align:right;"|300|| 81 || 73 ||style="text-align:right;"|1,500
|-
| 21 || - ||style="text-align:right;"|400|| 91 || 82 ||style="text-align:right;"|1,690
|-
| 22 || - ||style="text-align:right;"|400|| 101 || 91 ||style="text-align:right;"|1,870
|-
| 26 || 23 ||style="text-align:right;"|500|| 121 || - ||style="text-align:right;"|2,360
|-
| 31 || 28 ||style="text-align:right;"|610|| 141 || 128 ||style="text-align:right;"|2,730
|-
| 36 || 32 ||style="text-align:right;"|730|| 161 || 146 ||style="text-align:right;"|3,160
|-
| 41 || 37 ||style="text-align:right;"|820|| 181 || 164 ||style="text-align:right;"|3,690
|-
| 46 || 41 ||style="text-align:right;"|930||colspan="3"|
|}
* 幹線と地方交通線を連続して利用する場合、運賃計算キロと営業キロにより特定運賃が適用される。
{| class="wikitable" rules="all" style="text-align:center; margin-left:3em;"
|-
! 運賃計算キロ !! 営業キロ !! 運賃(円)
|-
| 4 || 3 ||style="text-align:right;"|180
|-
| 11 || 10 ||style="text-align:right;"|260
|}
* 本州3社(JR東日本・JR東海・JR西日本)と通しで乗る際は本州3社の幹線運賃を適用するが、境界駅(在来線は下関駅、新幹線は小倉駅または博多駅)からの営業キロに応じて下表の加算額を加える。
{| class="wikitable" rules="all" style="text-align:center; margin-left:3em;"
|-
! キロ程 !! 運賃(円) !! キロ程 !! 運賃(円)
|-
|1 – 6 km||style="text-align:right;"|20||51 - 70||style="text-align:right;"|140
|-
|7 - 10||style="text-align:right;"|30||71 - 100||style="text-align:right;"|160
|-
|11 - 15||style="text-align:right;"|40||101 - 120||style="text-align:right;"|190
|-
|16 - 20||style="text-align:right;"|50||121 - 180||style="text-align:right;"|220
|-
|21 - 30||style="text-align:right;"|60||121 - 180||style="text-align:right;"|220
|-
|31 - 35||style="text-align:right;"|70||181 - 260||style="text-align:right;"|330
|-
|36 - 40||style="text-align:right;"|80||261 - ||style="text-align:right;"|440
|-
|41 - 50||style="text-align:right;"|90||colspan="2"|
|}
=== 入場料金 ===
170円(小児は80円)
* ただし、小倉駅および博多駅については、150円(小児は70円)。
== 社内乗車人員上位20駅 ==
2020年度は [https://www.jrkyushu.co.jp/company/info/data/pdf/2020ekibetsu.pdf 公式サイト] より。それ以外は [https://www.pref.fukuoka.lg.jp/dataweb/report-1-10-3.html 福岡県統計年鑑]、[http://www.city.kagoshima.lg.jp/soumu/soumu/soumu/shise/toke-02/tokesyo/index.html 鹿児島市統計書]、[https://www.pref.oita.jp/site/toukei/toukeinenkan.html 大分県統計年鑑]、[https://www.city.kumamoto.jp/hpkiji/pub/List.aspx?c_id=5&class_set_id=2&class_id=2515 熊本市統計書]、[https://www.pref.saga.lg.jp/toukei/list01625.html 佐賀県統計年鑑]、[https://www.pref.nagasaki.jp/bunrui/kenseijoho/toukeijoho/kankoubutsu/nenkan/ 長崎県統計年鑑]、[https://web.archive.org/web/20170819012013/http://www.jrkyushu.co.jp/company/info/data/data2015.html 公式サイトアーカイブ(2015年度)]、[http://www.city.onojo.fukuoka.jp/s010/010/040/020/060/010/020/5296.html 大野城市公式サイト] より。
{{↑}}{{↓}}は、右欄の乗車人員と比較して増({{↑}})、減({{↓}})を表す。
{|class="wikitable" style="font-size:90%; text-align:right;"
|-
!style="width:1em;"|順位
!style="width:8em;"|駅名
!style="width:12em;"|所在地
!style="width:6em;"|2020年度
!style="width:6em;"|2015年度
!style="width:6em;"|2010年度
!style="width:6em;"|2005年度
!style="width:6em;"|2000年度
!特記事項
|-
!1
|style="text-align:left;"|[[博多駅]]
|style="text-align:left;"|[[福岡県]][[福岡市]][[博多区]]
|{{↓}} 87,674
|{{↑}} 118,082
|{{↑}} 99,006
|{{↑}} 97,988
|96,123
|style="text-align:left;"|[[九州|九州地方]]の駅として第1位。<br/>[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]の乗車人員を含まない。
|-
!2
|style="text-align:left;"|[[小倉駅 (福岡県)|小倉駅]]
|style="text-align:left;"|福岡県[[北九州市]][[小倉北区]]
|{{↓}} 25,014
|{{↓}} 35,510
|{{↓}} 36,276
|{{↓}} 38,745
|40,091
|style="text-align:left;"|福岡県内の駅として第2位。<br/>JR西日本の乗車人員を含まない。
|-
!3
|style="text-align:left;"|[[鹿児島中央駅]]
|style="text-align:left;"|[[鹿児島県]][[鹿児島市]]
|{{↓}} 14,013
|{{↑}} 20,153
|{{↑}} 17,934
|{{↑}} 17,318
|14,819
|style="text-align:left;"|鹿児島県内の駅として第1位。
|-
!4
|style="text-align:left;"|[[大分駅]]
|style="text-align:left;"|[[大分県]][[大分市]]
|{{↓}} 13,250
|{{↑}} 19,550
|{{↓}} 16,429
|{{↓}} 16,832
|16,919
|style="text-align:left;"|大分県内の駅として第1位。
|-
!5
|style="text-align:left;"|[[吉塚駅]]
|style="text-align:left;"|福岡県福岡市博多区
|{{↓}} 12,524
|{{↑}} 13,457
|{{↑}} 10,698
|{{↑}} {{0}}9,298
|8,183
|style="text-align:left;"|福岡県内の駅として第3位。
|-
!6
|style="text-align:left;"|[[黒崎駅]]
|style="text-align:left;"|福岡県北九州市[[八幡西区]]
|{{↓}} 11,333
|{{↑}} 15,524
|{{↓}} 15,018
|{{↓}} 16,261
|19,562
|style="text-align:left;"|福岡県内の駅として第4位。
|-
!7
|style="text-align:left;"|[[折尾駅]]
|style="text-align:left;"|福岡県北九州市八幡西区
|{{↓}} 11,306
|{{↑}} 16,475
|{{↓}} 16,096
|{{↓}} 16,799
|18,910
|style="text-align:left;"|福岡県内の駅として第5位。
|-
!8
|style="text-align:left;"|[[香椎駅]]
|style="text-align:left;"|福岡県福岡市[[東区 (福岡市)|東区]]
|{{↓}} 10,494
|{{↑}} 11,891
|{{↓}} 11,482
|{{↓}} 12,544
|18,566
|style="text-align:left;"|
|-
!9
|style="text-align:left;"|[[千早駅]]
|style="text-align:left;"|福岡県福岡市東区
|{{↓}} 10,452
|{{↑}} 11,375
|8,483
|
|
|style="text-align:left;"|2003年7月7日開業。
|-
!10
|style="text-align:left;"|[[熊本駅]]
|style="text-align:left;"|[[熊本県]][[熊本市]][[西区 (熊本市)|西区]]
|{{↓}} {{0}}9,465
|{{↑}} 14,513
|{{↓}} 10,307
|{{↓}} 10,550
|11,502
|style="text-align:left;"|熊本県内の駅として第1位。
|-
!11
|style="text-align:left;"|[[佐賀駅]]
|style="text-align:left;"|[[佐賀県]][[佐賀市]]
|{{↓}} {{0}}8,546
|{{↑}} 12,251
|{{↑}} 11,390
|{{↑}} 10,807
|10,371
|style="text-align:left;"|佐賀県内の駅、他路線と接続しない単独駅として第1位。
|-
!12
|style="text-align:left;"|[[福工大前駅]]
|style="text-align:left;"|福岡県福岡市東区
|{{↓}} {{0}}8,273
|{{↑}} 11,299
|{{↑}} 10,914
|{{↑}} 10,829
|10,639
|style="text-align:left;"|
|-
!13
|style="text-align:left;"|[[南福岡駅]]
|style="text-align:left;"|福岡県福岡市博多区
|{{↓}} {{0}}8,013
|{{↑}} {{0}}9,567
|{{↑}} {{0}}8,407
|{{↑}} {{0}}8,059
|7,939
|style="text-align:left;"|
|-
!14
|style="text-align:left;"|[[戸畑駅]]
|style="text-align:left;"|福岡県北九州市[[戸畑区]]
|{{↓}} {{0}}7,521
|{{↓}} {{0}}9,715
|{{↓}} {{0}}9,924
|{{↓}} 10,374
|10,863
|style="text-align:left;"|
|-
!15
|style="text-align:left;"|[[福間駅]]
|style="text-align:left;"|福岡県[[福津市]]
|{{↓}} {{0}}7,305
|{{↑}} {{0}}8,043
|{{↑}} {{0}}6,563
|{{↓}} {{0}}6,513
|7,581
|style="text-align:left;"|
|-
!16
|style="text-align:left;"|[[竹下駅]]
|style="text-align:left;"|福岡県福岡市博多区
|{{↓}} {{0}}6,861
|7,540
|
|
|
|style="text-align:left;"|
|-
!17
|style="text-align:left;"|[[赤間駅]]
|style="text-align:left;"|福岡県[[宗像市]]
|{{↓}} {{0}}6,582
|{{↑}} {{0}}9,181
|{{↓}} {{0}}9,154
|{{↓}} {{0}}9,918
|10,736
|style="text-align:left;"|
|-
!18
|style="text-align:left;"|[[大野城駅]]
|style="text-align:left;"|福岡県[[大野城市]]
|{{↓}} {{0}}6,554
|{{↑}} {{0}}7,919
|{{↑}} {{0}}6,508
|{{↑}} {{0}}5,599
|4,049
|style="text-align:left;"|2005年、2000年の数値は年次で算出。
|-
!19
|style="text-align:left;"|[[九大学研都市駅]]
|style="text-align:left;"|福岡県福岡市[[西区 (福岡市)|西区]]
|{{↓}} {{0}}6,531
|{{↑}} {{0}}8,036
|{{↑}} {{0}}5,799
|1,278
|
|style="text-align:left;"|2005年9月23日開業。
|-
!20
|style="text-align:left;"|[[長崎駅]]
|style="text-align:left;"|[[長崎県]][[長崎市]]
|{{↓}} {{0}}6,239
|{{↓}} 11,080
|{{↓}} 11,099
|{{↑}} 11,258
|10,716
|style="text-align:left;"|長崎県内の駅として第1位。
|}
参考:[[宮崎駅]] 3,762人(44位)
== 取扱収入上位10駅 ==
2017年度の1日平均の運輸取扱収入額は以下のとおり<ref name="平成27年度決算について"/>。
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
! 順位 !! 駅名 !! 運輸取扱収入額
|-
! 1
| [[博多駅]] || 9273万8千円
|-
! 2
| [[鹿児島中央駅]] || 3876万9千円
|-
! 3
| [[熊本駅]] || 3171万2千円
|-
! 4
| [[小倉駅 (福岡県)|小倉駅]] || 2340万1千円
|-
! 5
| [[大分駅]] || 1724万7千円
|-
! 6
| [[長崎駅]] || 1160万3千円
|-
! 7
| [[佐賀駅]] || 1133万3千円
|-
! 8
| [[久留米駅]] || 1123万4千円
|-
! 9
| [[黒崎駅]]|| 732万5千円
|-
! 10
| [[折尾駅]]|| 731万6千円
|}
参考:[[宮崎駅]] 571万5千円(12位)
== 路線別利用状況 ==
2017年7月31日に、初めて路線別の利用状況を公表し、昭和62年度および平成28年度の平均通過人員(人/日)、平成28年度の旅客運輸収入(百万円/年)を公表した<ref name=":0" />。社長の青柳俊彦は記者会見で「輸送密度が少ないところを廃止するために出したわけではない。鉄道ネットワークを維持するために今後も努力していく」と述べた一方で「(自治体が線路設備を取得しJRが運行する)[[上下分離方式|上下分離]]などがこの先、発生するかもしれない。九州の鉄道の状況を今のうちに正しく認識してもらいたい」といい、今回のデータも参考に、自治体や住民と鉄道のあり方を巡る議論を活発にする意向を示した<ref name=":1">[http://www.nikkei.com/article/DGXLZO19473870R30C17A7LX0000/ 「JR九州、区間別の利用状況を初公表 路線維持へ地元議論促す」] 日本経済新聞(2017年7月31日 23:30配信)2020年1月14日閲覧</ref>。
データは非常に膨大なため、各線区の記事を参照するか、出典を参照されたい<ref name=":0" />。
== グループ会社 ==
JR九州本体以外にグループ企業が47+1社ある(2023年5月1日時点)<ref name="jrkyushu-group" /><ref group="注釈">グループ企業44社とJR九州本体1社</ref>。[[タイ王国]]にも法人を設立している<ref name="jrkyushu-group" /><ref>『JR九州のひみつ』(PHP研究所編)</ref>。2012年までに社名の「ジェイアール九州」を「JR九州」に揃える形で変更され、JR九州が付かない社名でも社名変更の際に「JR九州」が追加された企業もいくつか存在する。
<!--記事を作成してからリンクすることを推奨。-->
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
! style="width:15em;" | 社名 !! 事業内容
|-
! colspan="2" style="text-align:left"|運輸サービスグループ
|-
| [[JR九州バス]] || 旅客自動車運送事業(高速・貸切・乗合)
|-
| [[JR九州高速船]] || 海上運送事業([[ビートル (高速船)|ビートル]])
|-
! colspan="2" style="text-align:left" |不動産・ホテルグループ
|-
| [[JR九州駅ビルホールディングス]] || 駅ビル事業会社7社(下記)、およびJR九州ビルマネジメントの持ち株会社。
|-
| [[JR博多シティ (企業)|JR博多シティ]] || [[JR博多シティ]]、[[アミュプラザ博多]]、[[デイトス]]を経営。旧称・博多ターミナルビル。
|-
| [[小倉ターミナルビル|JR小倉シティ]] || [[アミュプラザ (小倉駅)|アミュプラザ小倉]]を経営。旧称・小倉ターミナルビル。
|-
| [[長崎ターミナルビル|JR長崎シティ]] || [[アミュプラザ長崎]]を経営。旧称・長崎ターミナルビル。
|-
| [[JR大分シティ]] || [[アミュプラザおおいた]]を経営。旧称・大分ターミナルビル。
|-
| [[JR鹿児島シティ]] || [[アミュプラザ鹿児島]]を経営。旧称・鹿児島ターミナルビル。
|-
|[[JR熊本シティ]]
|[[アミュプラザくまもと]]などを経営。熊本駅前再開発事業に伴う自社物件を管理。
|-
|[[JR宮崎シティ]]
|[[アミュプラザみやざき]]などを経営。宮崎駅西口再開発事業に伴う自社物件を管理。[[宮崎交通]]との合弁企業。
|-
| [[JR九州ビルマネジメント]] || [[えきマチ1丁目]]などを経営。
|-
| [[JR九州住宅]]|| 注文住宅建設・販売、リフォーム
|-
|[[JR九州レンタカー&パーキング]]
|[[駅レンタカー]]([[レンタカー]]・カーリース)、[[駐車場]]管理事業。駅レンタカー事業はイデックスオート・ジャパン([[バジェット・レンタカー]])に業務委託
|-
|[[JR九州シニアライフサポート]]
|有料型老人ホーム運営、訪問及び通所介護事業。居宅介護支援。
|-
| [[JR九州リゾート開発]] || JR内野カントリークラブ経営。
|-
|[[JR九州アセットマネジメント]]
|[[JR九州プライベートリート投資法人]]の運用会社。
|-
|JR Kyushu Capital anagement (Thailand) Co., Ltd.
|[[タイ王国]]法人。同国での不動産投資事業を行う。
|-
|[[JR九州リージョナルデザイン]]
|福岡市の所有する油山牧場・[[ABURAYAMA FUKUOKA|油山市民の森]]の運営委託、地域プロデュースに関する企画・開発・運営
|-
|[[JR九州ホテルズ]]
|JR九州ホテル及び同ブラッサム、THE BLOSSOM(ザ・ブラッサム)ブランドを運営。旧称・ジェイアール九州都市開発。
|-
|[[JR九州ハウステンボスホテル]]
|ホテルオークラJRハウステンボスを運営。
|-
|[[JR九州ステーションホテル小倉]]
|JR九州ステーションホテル小倉を運営。2019年4月1日に小倉ターミナルビルからホテル部門を分離。
|-
|[[おおやま夢工房]]
|大分県日田市で旅館「奥日田温泉 うめひびき」および道の駅「[[道の駅水辺の郷おおやま|水辺の郷おおやま]]」を運営。2016年、株式を取得しグループ会社化。
|-
|JR Kyushu Business Development (Thailand) Co., Ltd.
|[[タイ王国]]法人。同国での賃貸用不動産の経営を行う。
|-
|[[JR九州ホテルマネジメント]]
|「嬉野八十八」及び「長崎マリオットホテル」の開業準備及び開業後の運営。
|-
! colspan="2" style="text-align:left" |流通・外食レジャーグループ
|-
| [[JR九州リテール]] || 九州内の[[KIOSK]]、[[ファミリーマート]](各駅構内の店舗と、北部九州のフランチャイズ店舗の一部)などを経営。かつては[[生活列車]]、[[am/pm]](一部店舗のみ)を経営していた。
|-
| [[JR九州ファーストフーズ]] || 「[[ミスタードーナツ]]」「[[日本ケンタッキーフライドチキン|ケンタッキーフライドチキン]]」「[[モスバーガー]]」「[[シアトルズベストコーヒー]]」「[[サブウェイ]]」等の運営。シアトルズベストコーヒーの日本法人を兼ねる。
|-
| [[JR九州フードサービス]] || 「うまや」「驛亭」「華都飯店」「駅弁当」等の運営。2017年4月1日に[[分鉄開発]]を吸収合併。<!--[[日本食堂]]の九州分社・旧[[ジェイアール九州トラベルフーズ]]の事業も継承したと思われる。-->
|-
| [[JR九州ファーム]] || 農畜産物の生産、販売。旧JR九州たまごファームおよび旧JR九州ファーム大分。
|-
|[[萬坊]]
|「いかしゅうまい」を主とする水産加工品製造・販売、レストラン経営を主とする。2019年12月16日に第三者割当増資引受により子会社化。
|-
|[[ヌルボン]]
|「焼肉ヌルボン」を始めとする飲食店事業、精肉・食材卸販売事業
|-
|[[フジバンビ]]
|「黒糖ドーナツ棒」を主とする菓子製造・販売。2023年6月13日に子会社化。
|-
! colspan="2" style="text-align:left"|建設グループ
|-
|[[JR九州建設グループホールディングス]]
|建設グループ5社の持ち株会社
|-
| [[九鉄工業]] || 総合建設業
|-
|[[JR九州エンジニアリング]]|| 車両・機械・設備工事業および、鉄道車両整備、駅施設・駅ビルの管理。
|-
| [[三軌建設]]|| 土木・建設工事業
|-
| [[九州電気システム|JR九州電気システム]] || 電気工事業、電気通信工事業
|-
| [[JR九州コンサルタンツ]]|| 建設コンサルタント業、設計業、駐車場
|-
! colspan="2" style="text-align:left"|ビジネスサービスグループ
|-
| [[キャタピラー九州]] || [[キャタピラー (企業)|キャタピラー]]製品の九州地区特約店。同社製品の販売・メンテナンス・教習を主要業務とする。
|-
| [[JR九州商事]] || JR九州関連商品等の製造販売。鉄道関連部品の供給など。
|-
|[[JR九州サービスサポート]]|| 車両・ビル清掃・管理、有料老人ホームの経営。および駅業務の受託。
|-
| [[JR九州エージェンシー]] || [[広告代理店]]
|-
| [[JR九州システムソリューションズ]] ||
|-
| [[JR九州セコム]]|| 総合警備業。大手警備会社「[[セコム]]」との合弁会社。
|-
| [[JR九州リネン]]|| リネンサプライ業。
|-
|[[JR九州ビジネスパートナーズ]]||2019年10月1日に「JR九州フィナンシャルマネジメント」を分割。金融事業を存続会社として社名を「JR九州FGリース」に改称、[[肥後銀行]]に譲渡。その他事業を分割会社「JR九州ビジネスパートナーズ」として引き続きグループ会社として保有。
|-
| [[JR九州ライフサービス]]||寮管理・給食・清掃業務受託
|-
|[[JR九州保険コンサルティング]]
|保険代理店(損保・生保・少額短期)、その他販売代理店等
|}
[[ファイル:Kagoshim-Chuo Station 04.jpg|thumb|240px|none|アミュプラザ鹿児島]]
=== 過去のグループ会社 ===
* [[ドラッグイレブン]] - 「ドラッグイレブン」を経営。2020年5月28日に[[ツルハホールディングス]]傘下となったが、引き続き持分法適用関連会社となっていた(2023年5月に除外)。2023年4月28日にツルハホールディングスへ全株式を譲渡し、同社の完全子会社となった<ref>{{PDFlink|[http://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2018/05/10/18051003reorganization.pdf 持分法適用関連会社の異動(株式譲渡)に関するお知らせ]}} - 九州旅客鉄道 2023年4月28日(2023年5月15日閲覧)</ref>。
* [[トランドール]] - 製パン業およびベーカリー「トランドール」を経営。2023年5月1日付けで「トランドール」の[[新旧分離]]と、事業を譲受する新設子会社の全株式をJR九州から[[タカキベーカリー]]へ譲渡した<ref name=":04">{{Cite press release|title=連結子会社の会社分割(新設分割)及び株式譲渡等に関するお知らせ|publisher=九州旅客鉄道|date=2023-02-28|url=https://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2023/02/28/230228_traindor.pdf|access-date=2023-03-01|和書}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOJC285020Y3A220C2000000/ |title=JR九州、パン店「トランドール」を事業譲渡 赤字続く |publisher=日本経済新聞 |date=2023-02-28 |accessdate=2023-03-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nishinippon.co.jp/item/n/1060175/ |title=JR九州がトランドール株を譲渡 駅構内を中心にパン店を展開 5月までにさらに10店舗撤退 |publisher=西日本新聞 |date=2023-03-01 |accessdate=2023-03-01}}</ref>。旧会社は「JR九州トランドール」として存続し、2023年7月に清算<ref name=":04" />。
== 労働組合 ==
<!--組合が解散あるいは他の組合と統合した場合は、単に消すのではなくその旨注記や、解散・統合に至った経緯を記述してください。-->
2021年3月31日現在、三つの[[労働組合]]がある<ref>{{Cite report |和書 |author=九州旅客鉄道株式会社 |date=2021-06-23 |title=第34期(2020年4月1日 - 2021年3月31日)有価証券報告書 従業員の状況}}</ref>。カッコ内は略称。
{| class="wikitable" style="font-size:small;" border="1"
|-
!名称
!上部組織
|-
|[[九州旅客鉄道労働組合]](JR九州労組)
|[[日本鉄道労働組合連合会]](JR連合)
|-
|[[ジェイアール九州ユニオン]](JR九州ユニオン)
|
|-
|[[国鉄労働組合]]九州本部(国労九州本部)
|国鉄労働組合(国労)
|}
各労働組合と会社との間で[[労働協約]]を締結している。組合員数が最大なのは九州旅客鉄道労働組合である。
== 広告 ==
=== イメージキャラクター ===
[[コマーシャルメッセージ|CM]]等で活躍。★印は地元・九州出身者。
* [[酒井法子]] ★
* [[藤井フミヤ]] ★<ref group="注釈">国鉄時代に職員として[[鳥栖駅]]・[[早岐駅]]での勤務経験があるほか、実父もまた国鉄の元職員であった。</ref>
* [[PUFFY]]
* [[黒木瞳]] ★
* [[佐藤弘道]]
* [[小西真奈美]] ★
* [[スザンヌ (タレント)|スザンヌ]] ★
* 九州新幹線「笑う。熊本・鹿児島」(2012年3月 - )
** [[森三中]]・[[ハリセンボン (お笑いコンビ)|ハリセンボン]] - 笑う。熊本篇
** [[宮川大輔 (タレント)|宮川大輔]]・[[堤下敦]]([[インパルス (お笑いコンビ)|インパルス]]) - 笑う。鹿児島篇
* [[AI (歌手)|AI]] ★ - 九州新幹線「鹿児島、沸いてます!」(2013年3月 - )
* [[壇蜜]] -「決めなきゃ、ダメ?大分VS鹿児島」(2014年8月 - )
* [[DREAMS COME TRUE]] - 「ドリカム新幹線」(2015年3月 - 2016年3月)<ref>{{Cite web|和書
|date=2015-2-25
|url=http://www.jrkyushu.co.jp/top_info/pdf/434/dorecomeshinnkannsenn.pdf
|title=2015年春、「夢のプロジェクト」がはじまる! 夢をかなえに、今日行こう。ドリカム新幹線
|format=PDF
|publisher=九州旅客鉄道
|accessdate=2015-02-28
}}</ref>
* [[DAIGO]] - 「どっちがウィッシュ?長崎VS熊本」(2015年8月 - )<ref>{{Cite web|和書
|date=2015-8-19
|url=http://www.jrkyushu.co.jp/top_info/pdf/585/nagasakivskumamoto.pdf
|title=どっちがウィッシュ? 長崎VS熊本キャンペーンを実施します!
|format=PDF
|publisher=九州旅客鉄道
|accessdate=2015-08-21
}}</ref>
* [[Kis-My-Ft2]] - 「KISS MY NAGASAKI」(2016年10月 - )<ref>{{Cite web|和書
|date=2016-9-7
|url=http://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2016/10/07/160907kissmynagasaki.pdf
|title=新しい7つの長崎へ KISS MY NAGASAKIキャンペーンを実施します!
|format=PDF
|publisher=九州旅客鉄道・長崎県
|accessdate=2016-12-05
}}</ref>
* [[HKT48]] ★
** 「JRキューポ」「JR九州インターネット列車予約」(2017年3月 - 2018年2月)<ref>{{Cite web|和書
|date=2017-3-8
|url=http://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2017/03/09/HPhkt48tvcm.pdf
|title=HKT48が出演する新CMスタート!
|format=PDF
|publisher=九州旅客鉄道
|accessdate=2017-03-10
}}</ref>
** 「HKT48×JR九州 みんなの九州プロジェクト」(2020年7月-2021年3月)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2020/07/28/200728hkt_minnnanokyushu_2.pdf|title=「HKT48×JR九州 みんなの九州プロジェクト」(2020年7月-2021年3月)|accessdate=2020.7.28|publisher=}}</ref>
*[[沢村一樹]] ★ - 「JRキューポ」「JR九州インターネット列車予約」(2018年3月 - 2020年2月)<ref>{{Cite web|和書
|date=2018-3-14
|url=http://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2017/03/09/HPhkt48tvcm.pdf
|title=ネット予約チャンス!JRキューポチャンス!〜新プロモーションスタート!〜
|format=PDF
|publisher=九州旅客鉄道
|accessdate=2018-03-14
}}</ref>
*[[泉里香]] - 「列車でいきなり 熊本ばケーション」(2017年7月1日(テレビCMは6月19日から) - )
*[[奈緒]] ★ - 「JRキューポ」「JR九州インターネット列車予約」(2020年3月 - 2022年)<ref>{{Cite web|和書
|date=2020-3-18
|url=http://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/news/newtopics/__icsFiles/afieldfile/2020/03/18/200318Newsrelease.pdf
|title=インターネット列車予約&JRキューポの新プロモーションがはじまります!
|format=PDF
|publisher=九州旅客鉄道
|accessdate=2020-03-23
}}</ref>
*[[博多華丸・大吉]] ★
** 「[[エクスプレス予約|エクスプレス予約・スマートEX]]」「JR九州インターネット列車予約」(2022年6月 - )<ref>{{Cite web|和書
|date=2022-5-27
|url=http://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/news/newtopics/__icsFiles/afieldfile/2022/05/27/220527_EX_hanamaru_daikichi.pdf
|title=「博多華丸・大吉」さんが九州新幹線でEXサービス利用開始のイメージキャラクターに!
|format=PDF
|publisher=九州旅客鉄道
|accessdate=2022-6-2
}}</ref>
** 「西九州開店」(2022年8月 - )
** 「ごほうび福岡 ごほうび大分」(2023年3月 - )
=== 提供番組 ===
全てJR九州[[一社提供]]番組。2022年6月時点では放送されていない。
* 鉄道番組
** [[味わいぶらり旅]]([[RKB毎日放送]]、2004年4月 - 2012年3月)
** [[列車に乗って]](RKB毎日放送、2012年4月 - 2016年3月)
** [[のんびり走ろう! 〜九州・鉄道の旅〜]]([[TVQ九州放送]]、2009年4月 - 2010年3月)
** [[列車で行こう! 〜九州・鉄道の旅〜]](TVQ九州放送、2010年4月 - 2011年9月)
=== フリーペーパー ===
東京支社で、手書きイラスト・文章を印刷した『鉄聞』(てつぶん)を2011年から毎月1ページ発行している。年に1度、加筆して冊子版にしており、[[電子書籍]]化もされている<ref>[http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201902/CK2019022602000115.html 九州の魅力 手書きで発信/フリーペーパー「鉄聞」電子書籍に/JR九州東京支社発行 全国で無料購読可能に]『[[東京新聞]]』朝刊2019年2月26日(都心面)2019年3月5日閲覧</ref>。
== その他 ==
[[ファイル:JRKyushu-Chikuhi-line-Susenji-station-building-20091103.jpg|thumb|200px|日章旗を掲げた駅舎の様子([[周船寺駅]]、2009年11月3日)]]
*2002年以降、管内にある全ての有人駅([[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]を含む)で、全ての[[国民の祝日に関する法律|国民の祝日]]に、国旗([[日本の国旗|日章旗]])を掲揚するようになった。{{要出典|date=2015年5月}}
*2011年に社員有志により演舞団「JR九州櫻燕隊(おうえんたい)」が結成され、「[[YOSAKOIソーラン祭り]]」など全国各地のイベントに出演し受賞するなどPR活動を行なっている<ref>[https://www.facebook.com/pages/%E6%AB%BB%E7%87%95%E9%9A%8A/1438839603072055 櫻燕隊] - facebook</ref><ref>[http://ouentai-from-2011.blog.so-net.ne.jp/2015-06-20 櫻燕隊の部屋] - 櫻燕隊、2015-06-20</ref>。
*2016年12月22日から一般向けリアルタイム列車位置情報システム「どれどれ」が一部を除く在来線全線で提供されている<ref name="jrkyushu20161220" />。
*2018年3月にJR東海・JR西日本が[[駅ナンバリング]]を導入し、唯一の駅ナンバリング未導入のJR旅客鉄道会社となっていたが、2018年9月30日から北部九州エリアの在来線157駅に順次導入することが発表された<ref name="jrkyushuu20180928" />。
*2018年から、NPO団体や地元自治体、地方金融機関と協力して路線に附属する自社の遊休施設を宿泊・観光用にリニューアルして活用する施策を開始し、第1弾として肥薩線沿線の保線員詰め所や駅長官舎をレストランや宿泊施設に改造する<ref>{{Cite news |和書 |url=https://r.nikkei.com/article/DGXMZO34413880R20C18A8LX0000?unlock=1&s=1|title=JR九州、鉄道旧施設をレストランに 自治体など連携 |newspaper=日本経済新聞 |date=2018-08-22|accessdate=2018-08-22}}(全文を読むには会員登録が必要)</ref>。
== 関連項目 ==
<!-- この節に<ref> … </ref>があるため、脚注節より前に配置しています。-->
* [[JR]]
* [[九州の鉄道]]
* [[九州の鉄道路線]]
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[日本の鉄道事業者一覧]]
* [[日本の鉄道]]
* 鉄道事業関連
** [[SUGOCA]]
** [[エクセルパス]]
** [[2枚きっぷ・4枚きっぷ]]
** [[ナイスゴーイングカード]](若者向け鉄道割引制度)
* イベント・企画
** [[JR九州ウォーキング]]
** [[夏の思い出きっぷ]](期間限定の特別企画乗車券)
** [[九州鉄道検定]]
** [[祝!九州]]
* その他の関連事業等
** [[JR九州硬式野球部]]
** [[JR九州サンダース]]
* 関連企業
** [[水戸岡鋭治|ドーンデザイン研究所(水戸岡鋭治)]] - JR九州の車両や駅等のデザインを請け負っている。
** [[タツウラ]] - JR九州・JR西日本の[[客室乗務員]]や[[駅員]]等職員の制服の製作・納入を請け負っている。
* 車内放送における関連人物
** [[脇坂京子]] - 九州新幹線の日本語アナウンスを担当<ref>[https://haikyo.co.jp/profile/profile.php?ActorID=224&ImageFile=1&VoiceFile=1#voice_sample 脇坂京子] 俳協、2020年9月13日閲覧</ref>。
** [[ドナ・バーク]] - 九州新幹線の英語アナウンスを担当<ref>[https://www.excite.co.jp/news/article/Getnews_2260753/ 娘が担当する新幹線の車内アナウンスを聞いた母親のリアクションがキュートすぎる]</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2|refs=
<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=http://www.jrkyushu.co.jp/company/info/data/rosenbetsu.html|title=交通・営業データ(平成28年度)|accessdate=2017-8-18|publisher=}}</ref>
}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat|JR_Kyushu}}
{{Wikinewscat|JR九州}}
* [https://www.jrkyushu.co.jp/ 九州旅客鉄道株式会社]
** [https://www.jrkyushu.co.jp/byarea/fukuoka_saga/index.html/ 福岡・佐賀エリア]
** [https://www.jrkyushu.co.jp/byarea/kagoshima/index.html/ 鹿児島・宮崎エリア]
** [https://www.jrkyushu.co.jp/byarea/kumamoto/index.html/ 熊本エリア]
** [https://www.jrkyushu.co.jp/byarea/ooita/index.html/ 大分エリア]
** [https://www.jrkyushu.co.jp/byarea/nagasaki/index.html/ 長崎エリア]
* {{Facebook|jrkyushu.please|JR九州鉄道プロモーション部}}
{{JR}}
{{JR九州}}
{{旅名人九州満喫きっぷ}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:きゆうしゆうりよかくてつとう}}
[[Category:日本の鉄道事業者]]
[[Category:かつて存在した日本のバス事業者]]
[[Category:九州旅客鉄道|*]]
[[Category:JR九州グループ|*]]
[[Category:災害対策基本法指定公共機関]]
[[Category:博多区の企業]]
[[Category:九州地方の交通]]
[[Category:1987年設立の企業]]
[[Category:2016年上場の企業]]
[[Category:東証プライム上場企業]]
[[Category:福証上場企業]]
[[Category:かつて存在した特殊会社]]
[[Category:博多駅]] | 2003-05-19T12:42:00Z | 2023-12-12T16:56:31Z | false | false | false | [
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8,659 | 東京メトロ銀座線 |
銀座線(ぎんざせん)は、東京都台東区の浅草駅から渋谷区の渋谷駅までを結ぶ、東京地下鉄(東京メトロ)が運営する鉄道路線である。『鉄道要覧』における名称は3号線銀座線。
路線名は経由地である繁華街の銀座に由来する。車体および路線図や乗り換え案内で使用されるラインカラーは「オレンジ」(#ff9500、橙)、路線記号はG。
1927年(昭和2年)に浅草駅 - 上野駅間で営業を開始した、日本で最初の“本格的”な地下鉄である。当時のポスターでは「東洋唯一の地下鉄道」というキャッチコピーが使われ、アジア・オセアニア地域でも初めての地下鉄路線である。なお、1番切符を手にし、一番初めに乗った乗客は、後に原鉄道模型博物館の館長を務めた原信太郎であり、同館には当時の新聞記事等が展示されている。
東京地下鉄(東京メトロ)の路線では丸ノ内線とこの銀座線のみ標準軌である。また、第三軌条方式を採用しているため分岐機の前後で無電区間が生じている箇所がある。このため車両間引き通しを持たず、600 V電源を直接使用して室内灯等に用いていた01系導入前の車両(電動発電機搭載の100形・1500N形を除く)では、ポイント通過時や駅到着直前に室内灯や扇風機などが瞬間停電し、代わりにバッテリー電源の非常灯が点灯していた。現在運用されている車両には引き通し線が装備されており、停電することはなくなった。狭軌及び架空電車線方式を採用している周辺他社路線との直通運転は形態的に困難なため、丸ノ内線と同様に実施されていない。
建設費削減のためにトンネル断面が小さいゆえ、1両の車両長が16 m、1編成6両の長さが96 m、車幅が2,550 mmと、車体の規格が東京地下鉄で最も小さい。そのため、1両あたりの乗車定員が少ない、車内冷房装置の屋外機が屋根に取り付けられない、などの制約が生じている。初めての地下鉄建設とあって将来的な輸送の見込みを立てるのは困難であり、実際開業当時は十分な輸送力を持っていたが、現代に至っては輸送力不足を招く結果になった。
冷房装置については、前述の理由で車両冷房化が困難であったことにより、一般の鉄道車両においては冷房装置搭載が一般的になっていた1983年から製造が開始された01系も当初は非冷房で製造されたが、1990年頃になって薄型冷房装置が開発されたことにより屋根上に搭載できるようになったため、これ以降に製造された01系からは当初より冷房が搭載され、冷房装置なしで登場した01系にも冷房装置の設置が行われた。現在運用されている1000系車両には全編成に冷房装置が取り付けられている。なお地上区間がごく短いことや、地下線内は地上ほど冷え込まないという事情もあって、開業時から01系初期型に至るまで銀座線電車には暖房装置も装備されていなかった。
路線延長は14.2キロメートルで、駅数は19。浅草通り、中央通り 、外堀通り、青山通りなどの地下を通って、東京都心3区とそれに隣接する台東区、渋谷区の主要な繁華街やビジネス街を縫うように走り、浅草、上野、秋葉原、神田、日本橋、銀座、新橋、虎ノ門、赤坂、青山、渋谷エリアに駅がある。このため利用客が多く、高頻度運行が行なわれている。日中においては3分間隔で運行されていたが、COVID-19流行による5分間隔への減便を経て、2023年4月29日以降は4分間隔での運行となっている。渋谷駅から赤坂見附駅/永田町駅まで並走する半蔵門線は、銀座線の混雑緩和のために建設された路線(バイパス路線)である。
また銀座線は開削工法で建設されたため、後発の他路線に比べて乗り場が浅く、田原町駅や稲荷町駅、末広町駅などの一部の駅では階段を降りるとすぐに改札口があり、改札口の先にすぐホームがあるという利用しやすい形態になっている。相対式ホームの駅ではそのほとんどで線路間を隔てて建てられている支柱がリベット組みの鉄骨となっており、日本最初の地下鉄の歴史を偲ぶことができる。
また、浅草駅にて松屋浅草店、上野広小路駅にて松坂屋上野店、三越前駅にて日本橋三越本店、日本橋駅にて日本橋高島屋、銀座駅にて銀座三越と松屋銀座、渋谷駅にて東急百貨店東横店(現在は閉店)と繋がっている。これらの百貨店の多くが地下鉄開業以前の開店か同時期に創業した老舗であり、買物客の誘致を図って、古くから地下鉄と百貨店各店とのタイアップも積極的に行われてきた。駅自体がタイアップで設置された三越前駅は端的な事例である。三越前駅に関しては日本橋三越本店が、日本橋駅に関しては日本橋高島屋が駅の建設費を負担している。その他、白木屋(元・東急日本橋店)や銀座松屋、銀座三越等が地下鉄の建設費の一部を負担している。
車両基地の上野検車区は地上と地下の2層構造になっており、地上車庫の入口箇所には日本の地下鉄では唯一となった踏切(しかも日本では珍しい、道路の通行が優先される軌道遮断式。同種の踏切はイギリスに存在する)が存在する。また、渋谷駅周辺は窪地となっており、同駅では東急百貨店東横店3階にあったホームから発着していたが、基盤整備によりホームを東口バスターミナル付近に移設する工事が進められ、2020年1月3日に新ホームの供用が開始された。
赤坂見附駅の溜池山王側には丸ノ内線とを結ぶ連絡線がある。銀座線車両の重点検整備に際しては、中野工場(中野富士見町駅近在)や小石川CR(茗荷谷駅近在)への回送時にこの連絡線を通過する。過去には隅田川花火大会開催日の臨時列車「花火ライナー」(1992年 - 1999年。丸ノ内線新宿駅発浅草駅行)や浅草寺への初詣客向けの「初詣新春らいなー」(1993年 - 廃止時期不明。運転区間は花火ライナーと同一)、中野工場見学会などのイベント列車なども通過していた。2010年5月2日には映画『仮面ライダー×仮面ライダー×仮面ライダー THE MOVIE 超・電王トリロジー』公開を記念したイベント列車「メトロデンライナー」が上野駅 - 赤坂見附駅 - 中野富士見町駅間で運転され、連絡線を通過した。なお2008年以降丸ノ内線がホームドア使用のワンマン運転となったこともあり、車両ドアとホームドアの位置の関係から、丸ノ内線駅ホームでの乗降を取り扱わないイベント列車を除いての直通運転は行われていない。
ホーム有効長が編成長ぎりぎりの駅が多いことから、オーバーラン防止と駅進入速度の向上による運転間隔の短縮・輸送力増強を図るために定位置停止装置(TASC)が設置されている。
2012年12月17日、銀座線全19駅をリニューアルすることが発表された。2017年度中に浅草駅 - 京橋駅間を、2022年度までに全駅をリニューアルする計画で、ホームや改札口を刷新し、2012年12月30日に開業85周年を迎える日本最古の地下鉄として歴史を守りつつ、各駅に先端の機能を取り入れた主要路線として新たなイメージ定着を目指すとしている。
太平洋戦争後、戦災復興院によって「東京都市計画高速鉄道網」の改訂が行われ、1946年(昭和21年)12月7日に戦災復興院告示第252号によって戦後の第3号線は「大橋 - 渋谷 - 浅草間」の路線として告示し、都市計画を決定した。
日本最古の地下鉄である区間を含むにもかかわらず『鉄道要覧』での路線名が「3号線銀座線」を名乗るのは、前述の戦災復興院の告示において、開業の順序にかかわらず、都心への路線が東京湾に近い方から時計回りに計画路線番号を割り当てたためである。
1962年(昭和37年)6月の都市交通審議会答申第6号において、第3号線は「二子玉川方面より渋谷、赤坂見附、新橋、神田、上野及び浅草の各方面を経て三ノ輪方面に至る路線」として答申され、8月29日の建設省告示第2187号により、第3号線二子玉川園駅 - 三ノ輪間(26.0 km)の都市計画が決定された。
しかし、1968年(昭和43年)4月の答申第10号において、第3号線は渋谷 - 三ノ輪間(17.3 km)に短縮され、二子玉川園 - 渋谷間(東急新玉川線の建設を予定)は銀座線規格の第三軌条方式の路線から架空電車線方式の路線となり、新たに追加された第11号線(半蔵門線)の一部となった。その後1977年(昭和52年)4月に東急新玉川線(現在の東急田園都市線)として開業している。
浅草 - 三ノ輪間(3.2 km)の延伸は、都市高速鉄道第3号線としての都市計画決定が行われ現在も有効であるが、1985年(昭和60年)の運輸政策審議会答申第7号にて延伸計画は削除されている。
浅草駅 - 上野駅間の土木工事に発生した土砂(掘削土・主に田原町駅方面から)は隅田川の水運(土運搬船)で搬出していた。この土砂搬出用として、駒形橋西詰交差点付近の地下(本線トンネル)から東に向かって約70 mのトンネル(高さ:1.83 m 、幅:3.05 m)および約20 mの切開部を構築し、隅田川河岸付近で地上に出て、隅田川に沿った桟橋 (112.78 m) が構築された。搬出した土砂は約36,000 mにもなる。
トンネル(坑道)には軌道が2線敷設されており、電動回転のエンドレスワイヤーによって小型トロリー(貨車)を往復運転して、桟橋まで搬出していた。田原町方面からの土砂は、トロリーに積載して小型ガソリン機関車けん引で当地点まで運び、ここで解放してトロリーは1両ごとにワイヤーへ引っ掛けて桟橋まで運搬していた。
浅草駅 - 新橋駅間は「東京地下鉄道」によって建設・運営された。本来は新橋駅から浅草駅まで一挙に開通させることを目指していたものの、関東大震災(1923年)による不況のため資金調達が困難になり、当時は日本一の繁華街で、高収益が見込める浅草から上野までの建設を先行させたのである。なお、建設は関東大震災後の1925年(大正14年)に開始された。1927年(昭和2年)の開業当初は物珍しさもあって乗車時間がわずか5分の区間に乗車するため、2時間待ちの行列ができたという。その後の経営も順調で、1934年(昭和9年)までに全通した。
一方、渋谷駅 - 新橋駅間は目黒蒲田電鉄系(東急の前身)の「東京高速鉄道」により建設・運営され、支那事変(日中戦争)中の1939年(昭和14年)までに全通した。同区間は当初、東京市が市営での事業経営を目論んでいたため、東京市から免許の譲渡契約を結んだ上で建設された。譲渡契約は将来的に東京地下鉄道と合併すること、東京市が買収したいときはいつでも応じることが盛り込まれた内容であった。
1939年(昭和14年)9月16日から、東京地下鉄道との相互乗り入れ運転が開始。この際、ラッシュ時の運転間隔が2分半から2分に短縮された。さらに1941年(昭和16年)7月には、両社は陸上交通事業調整法に基づき、特殊法人「帝都高速度交通営団」(営団地下鉄)に統合された。営団の発足に伴い学生定期券が新たに導入された(従前は高速度鉄道側のみで発売されていた)。
同年12月の太平洋戦争開戦後しばらく、日本本土は1942年(昭和17年)4月18日のドーリットル空襲を除き戦禍に見舞われなかった上、経済活動が活発化して鉄道需要も高まったため、同年12月31日より全列車を3両編成とするなど輸送力増大に対応した。しかし戦争激化による電力不足のため、1943年(昭和18年)1月19日以降は節電ダイヤとして、一部列車の運行区間短縮(一部列車の三越前駅 - 渋谷駅間折り返し運転、休日は運休)や速度低下などの措置がとられる。その後もさらなる電力状況の悪化や、車両部品不足による運用可能な電動車の減少などにより、スピードダウンや運行本数減少が相次いだ。
戦争末期には東京はアメリカ軍により繰り返し爆撃を受けるようになり(東京大空襲)、土被りの浅い本路線は空襲の度に運休を余儀なくされた。また、土被りの浅さから他路線の地下鉄(例えば大阪市の御堂筋線)のように防空壕代わりに使用されることはなかった。
1945年(昭和20年)1月27日の空襲時には、銀座通り(現・中央通り)上に投下された爆弾より銀座駅や京橋駅が被害を受け乗客多数が死亡し、さらに水道管の破裂により、日本橋駅 - 新橋駅間のトンネルが浸水したため、浅草駅 - 三越前駅間、新橋駅 - 渋谷駅間で折り返し運転を行い、2月1日から新橋駅 - 三越前駅間を単線運転で再開させた(全線復旧は3月10日)。また5月25日には、渋谷検車区に着弾して車輌5両が焼損(廃車とはならず、後に修復して復帰)する被害を受けた。6月1日時点では在籍車両84両のうち稼動車は24両のみとなり、また空襲により駅周辺が過疎となったことから、田原町駅と末広町駅では1946年(昭和21年)10月14日まで時間を限って駅通過扱いとされた。
終戦後もしばらく劣悪な電力事情から低速運行が続いたが、徐々に戦前の水準を回復し、さらに1949年(昭和24年)3月15日には新型車両(1300形)が導入された。丸ノ内線が開業する前年の1953年(昭和28年)には、当線に銀座線の名称が付与され、長く営団の重要路線として機能することとなる。そして、2004年(平成16年)4月1日の営団の民営化に伴う「東京地下鉄」の発足に際しては、上野駅で発車式が行われた。
平日朝夕ラッシュ時は最短2分間隔、日中は4 - 5分間隔(コロナ禍前は3分間隔)で運行されている。
全区間(浅草駅 - 渋谷駅間)直通運転を基本とする。全線の所要時間は33分である。
1993年(平成5年)7月30日までは01系車両と旧形車両(先頭に2000形・中間に1500N形組込)で運用し、保安装置は打子式ATSを使用してきた。最高速度は55 km/h、全線所要時分は34分30秒、最大運用数は36本(予備4本)であった。7月30日の終電後に保安装置の切り換えを実施し、翌7月31日からは新CS-ATC化と全車両が01系に統一された。
旧形車引退後の1993年8月2日、01系統一による車両性能の向上(旧型車両と比較して、01系は35 km/h以上の加速性能が優れている)と曲線および分岐器通過速度の向上、保安装置の新CS-ATC化とTASC(駅定置停止制御装置)の使用開始を反映したダイヤ改正を実施した。これにより最高速度は65 km/hに向上し、全線所要時分は4分短縮した30分30秒に、朝ラッシュ時に3本の列車増発を行っても、最大運用数は2本削減した34本(予備3本)となった。
銀座線のTASCはホームドアなどの設置を目的としたものではなく、銀座線の各駅はホーム有効長と列車の長さがほぼ同じで、運転士の個人差に左右されるブレーキ操作をTASCにより均一化することを目的としたものである。TASCの停止精度は± 50 cm以内となっている。
その後、1997年(平成9年)9月30日には溜池山王駅開業に伴い、全線所要時分は55秒増えた31分25秒となり、運用数が1本増えた35本(予備3本)となった。このため、第38編成が新製された。
なお、01系の置き換えを目的として2011年(平成23年)度より順次導入された1000系も当初は置き換え対象の01系と同数の38本の導入予定であったが、東京メトロが2016年3月28日に発表した、2016年度から2018年度までの3年間の中期経営計画『東京メトロプラン2018〜「安心の提供」と「成長への挑戦」〜』において、今後銀座線全駅に整備を予定しているホームドアの関係で各駅での停車時分が拡大し、全線所要時分・運用数がそれぞれ増えることになり、2本増の40本の導入へと変更された。
旧型車両の塗色は、1927年の開業用の車両の製作にあたってベルリン地下鉄の淡黄色を参考とした。しかし、戦中・戦後の混乱期に色見本を紛失したため、改めて記憶で色見本を製作したものがやや濃い目となり、その後作り直すたびにさらに濃くなったという。
2022年(令和4年)度の最混雑区間(B線、赤坂見附駅 → 溜池山王駅間)の混雑率は94%である。
表参道駅は半蔵門線と、赤坂見附駅は丸ノ内線と対面乗り換えができる駅であり、始発駅の渋谷駅のみならず各路線から新橋駅周辺への最短ルートとなるため混雑する。1988年度まで混雑率は230%を超えていたが、1989年に半蔵門線が三越前駅まで延伸開業してバイパス路線となったことにより、1990年度に200%を下回った。その後も輸送人員の減少により混雑が緩和し、2001年度に170%を下回った。逆方向も宇都宮線、高崎線、常磐線が乗り入れる上野駅のほか、東西線と接続する日本橋駅から混雑が激しくなるが、上野東京ラインの開業により上野駅 - 新橋駅間が当路線と並走するようになり、混雑は緩和されている。
2007年度の一日平均通過人員は、虎ノ門駅 - 新橋駅間が392,196人で最も多く、これに次ぐのは溜池山王 - 虎ノ門間の391,849人である。渋谷駅 - 表参道駅間は258,609人であるが表参道駅 - 外苑前駅間が321,942人に増加し、日本橋駅までは一日平均通過人員が30万人を超える。京橋駅 - 日本橋駅間は313,981人であるが日本橋駅 - 三越前駅間で252,874人と一気に減少する。その後も通過人員が減少するが上野広小路駅 - 上野駅間は206,943人であり、上野駅までは一日平均通過人員が20万人を超える。上野駅 - 稲荷町駅間で126,225人と一気に減少し、一日平均通過人員が最も少ない田原町駅 - 浅草駅間は90,362人である。1人平均乗車キロは3.6 kmであり、これは東京メトロ全線で最も短い。
近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
2012年10月30日・31日に溜池山王・銀座・上野・浅草の4駅において、従来のブザーに代わり発車メロディ(発車サイン音)の使用を開始した。その後、2015年6月18日から20日にかけて神田・末広町・上野広小路・稲荷町・田原町の5駅に、さらに2018年8月から11月にかけて残りの10駅にも順次導入された。銀座駅・日本橋駅・三越前駅・神田駅・上野駅・浅草駅で使用されているメロディは、その駅や街にゆかりのある楽曲をアレンジしたものである。
また、2019年3月26日からは、放送装置が更新された車両より順次車載メロディの使用を開始している。
メロディの制作は、銀座駅・上野駅・浅草駅および2018年導入の10駅と車載メロディはスイッチ、2015年導入の5駅はスタマック、溜池山王駅はエピキュラスが担当し、塩塚博、福嶋尚哉(以上スイッチ)、岡村みどり、薄井由行、ゴンドウトモヒコ、山口優、永田太郎(以上スタマック)、鈴木ヤスヨシ(エピキュラス)の8名が作曲および編曲を手掛けた。
渋谷駅は、東急百貨店東横店の西館3階に設けられていた相対式ホーム2面2線が使用されてきたが、渋谷駅街区基盤整備の一環で同百貨店を解体するのに併せ、元位置から東へ130 mの明治通りの上空に、幅12 mの島式ホーム1面2線を設ける工事が実施された。
この工事の一環として、新しいホームを築造するスペースを確保するため、渋谷 - 表参道間を終日運休して明治通り上空での「線路切替工事」が2016年より段階的に実施された。
2020年1月3日、始発電車より渋谷駅新駅舎の供用が開始され、開業記念式典が催された。移設によって銀座線渋谷駅 - 表参道駅の駅間キロは1.3 kmから1.2 kmに短縮されたが、東京メトロの旅客営業規程第13条に渋谷駅 - 表参道駅間の運賃計算キロを1.3 km(半蔵門線の駅間キロ)とする旨が追加されたため、運賃計算上の最短経路が渋谷駅 - 表参道駅間を経由する駅相互間の運賃に変更はなかった。駅移設後もエレベーターの増設やホームドア設置などの工事が、同年7月の東京オリンピック当初の開幕直前までを工期として進められた。
2008年8月29日に、社団法人土木学会から銀座線浅草駅 - 新橋駅間が鉄構框構造やアーチ構造など「土木的に貴重な構造物が多数存在する」との理由で、土木学会選奨土木遺産に選ばれた。同年11月18日の「土木の日」に同学会から認定書と銘板が贈呈された。
また、2009年には経済産業省から銀座線(全線)と旧新橋駅(東京高速鉄道時代に営業していたホーム)、銀座線での運用から退いた後に地下鉄博物館で保存されている1000形1001号車・100形129号車などが「近代化産業遺産続33」に認定され、次いで2017年には1000形1001号車が重要文化財に指定及び機械遺産に認定された。 | [
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"text": "2012年12月17日、銀座線全19駅をリニューアルすることが発表された。2017年度中に浅草駅 - 京橋駅間を、2022年度までに全駅をリニューアルする計画で、ホームや改札口を刷新し、2012年12月30日に開業85周年を迎える日本最古の地下鉄として歴史を守りつつ、各駅に先端の機能を取り入れた主要路線として新たなイメージ定着を目指すとしている。",
"title": "概要"
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{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "太平洋戦争後、戦災復興院によって「東京都市計画高速鉄道網」の改訂が行われ、1946年(昭和21年)12月7日に戦災復興院告示第252号によって戦後の第3号線は「大橋 - 渋谷 - 浅草間」の路線として告示し、都市計画を決定した。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "日本最古の地下鉄である区間を含むにもかかわらず『鉄道要覧』での路線名が「3号線銀座線」を名乗るのは、前述の戦災復興院の告示において、開業の順序にかかわらず、都心への路線が東京湾に近い方から時計回りに計画路線番号を割り当てたためである。",
"title": "概要"
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{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "1962年(昭和37年)6月の都市交通審議会答申第6号において、第3号線は「二子玉川方面より渋谷、赤坂見附、新橋、神田、上野及び浅草の各方面を経て三ノ輪方面に至る路線」として答申され、8月29日の建設省告示第2187号により、第3号線二子玉川園駅 - 三ノ輪間(26.0 km)の都市計画が決定された。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "しかし、1968年(昭和43年)4月の答申第10号において、第3号線は渋谷 - 三ノ輪間(17.3 km)に短縮され、二子玉川園 - 渋谷間(東急新玉川線の建設を予定)は銀座線規格の第三軌条方式の路線から架空電車線方式の路線となり、新たに追加された第11号線(半蔵門線)の一部となった。その後1977年(昭和52年)4月に東急新玉川線(現在の東急田園都市線)として開業している。",
"title": "概要"
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{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "浅草 - 三ノ輪間(3.2 km)の延伸は、都市高速鉄道第3号線としての都市計画決定が行われ現在も有効であるが、1985年(昭和60年)の運輸政策審議会答申第7号にて延伸計画は削除されている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "浅草駅 - 上野駅間の土木工事に発生した土砂(掘削土・主に田原町駅方面から)は隅田川の水運(土運搬船)で搬出していた。この土砂搬出用として、駒形橋西詰交差点付近の地下(本線トンネル)から東に向かって約70 mのトンネル(高さ:1.83 m 、幅:3.05 m)および約20 mの切開部を構築し、隅田川河岸付近で地上に出て、隅田川に沿った桟橋 (112.78 m) が構築された。搬出した土砂は約36,000 mにもなる。",
"title": "概要"
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{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "トンネル(坑道)には軌道が2線敷設されており、電動回転のエンドレスワイヤーによって小型トロリー(貨車)を往復運転して、桟橋まで搬出していた。田原町方面からの土砂は、トロリーに積載して小型ガソリン機関車けん引で当地点まで運び、ここで解放してトロリーは1両ごとにワイヤーへ引っ掛けて桟橋まで運搬していた。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "浅草駅 - 新橋駅間は「東京地下鉄道」によって建設・運営された。本来は新橋駅から浅草駅まで一挙に開通させることを目指していたものの、関東大震災(1923年)による不況のため資金調達が困難になり、当時は日本一の繁華街で、高収益が見込める浅草から上野までの建設を先行させたのである。なお、建設は関東大震災後の1925年(大正14年)に開始された。1927年(昭和2年)の開業当初は物珍しさもあって乗車時間がわずか5分の区間に乗車するため、2時間待ちの行列ができたという。その後の経営も順調で、1934年(昭和9年)までに全通した。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "一方、渋谷駅 - 新橋駅間は目黒蒲田電鉄系(東急の前身)の「東京高速鉄道」により建設・運営され、支那事変(日中戦争)中の1939年(昭和14年)までに全通した。同区間は当初、東京市が市営での事業経営を目論んでいたため、東京市から免許の譲渡契約を結んだ上で建設された。譲渡契約は将来的に東京地下鉄道と合併すること、東京市が買収したいときはいつでも応じることが盛り込まれた内容であった。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "1939年(昭和14年)9月16日から、東京地下鉄道との相互乗り入れ運転が開始。この際、ラッシュ時の運転間隔が2分半から2分に短縮された。さらに1941年(昭和16年)7月には、両社は陸上交通事業調整法に基づき、特殊法人「帝都高速度交通営団」(営団地下鉄)に統合された。営団の発足に伴い学生定期券が新たに導入された(従前は高速度鉄道側のみで発売されていた)。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "同年12月の太平洋戦争開戦後しばらく、日本本土は1942年(昭和17年)4月18日のドーリットル空襲を除き戦禍に見舞われなかった上、経済活動が活発化して鉄道需要も高まったため、同年12月31日より全列車を3両編成とするなど輸送力増大に対応した。しかし戦争激化による電力不足のため、1943年(昭和18年)1月19日以降は節電ダイヤとして、一部列車の運行区間短縮(一部列車の三越前駅 - 渋谷駅間折り返し運転、休日は運休)や速度低下などの措置がとられる。その後もさらなる電力状況の悪化や、車両部品不足による運用可能な電動車の減少などにより、スピードダウンや運行本数減少が相次いだ。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "戦争末期には東京はアメリカ軍により繰り返し爆撃を受けるようになり(東京大空襲)、土被りの浅い本路線は空襲の度に運休を余儀なくされた。また、土被りの浅さから他路線の地下鉄(例えば大阪市の御堂筋線)のように防空壕代わりに使用されることはなかった。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "1945年(昭和20年)1月27日の空襲時には、銀座通り(現・中央通り)上に投下された爆弾より銀座駅や京橋駅が被害を受け乗客多数が死亡し、さらに水道管の破裂により、日本橋駅 - 新橋駅間のトンネルが浸水したため、浅草駅 - 三越前駅間、新橋駅 - 渋谷駅間で折り返し運転を行い、2月1日から新橋駅 - 三越前駅間を単線運転で再開させた(全線復旧は3月10日)。また5月25日には、渋谷検車区に着弾して車輌5両が焼損(廃車とはならず、後に修復して復帰)する被害を受けた。6月1日時点では在籍車両84両のうち稼動車は24両のみとなり、また空襲により駅周辺が過疎となったことから、田原町駅と末広町駅では1946年(昭和21年)10月14日まで時間を限って駅通過扱いとされた。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "終戦後もしばらく劣悪な電力事情から低速運行が続いたが、徐々に戦前の水準を回復し、さらに1949年(昭和24年)3月15日には新型車両(1300形)が導入された。丸ノ内線が開業する前年の1953年(昭和28年)には、当線に銀座線の名称が付与され、長く営団の重要路線として機能することとなる。そして、2004年(平成16年)4月1日の営団の民営化に伴う「東京地下鉄」の発足に際しては、上野駅で発車式が行われた。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "平日朝夕ラッシュ時は最短2分間隔、日中は4 - 5分間隔(コロナ禍前は3分間隔)で運行されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "全区間(浅草駅 - 渋谷駅間)直通運転を基本とする。全線の所要時間は33分である。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "1993年(平成5年)7月30日までは01系車両と旧形車両(先頭に2000形・中間に1500N形組込)で運用し、保安装置は打子式ATSを使用してきた。最高速度は55 km/h、全線所要時分は34分30秒、最大運用数は36本(予備4本)であった。7月30日の終電後に保安装置の切り換えを実施し、翌7月31日からは新CS-ATC化と全車両が01系に統一された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "旧形車引退後の1993年8月2日、01系統一による車両性能の向上(旧型車両と比較して、01系は35 km/h以上の加速性能が優れている)と曲線および分岐器通過速度の向上、保安装置の新CS-ATC化とTASC(駅定置停止制御装置)の使用開始を反映したダイヤ改正を実施した。これにより最高速度は65 km/hに向上し、全線所要時分は4分短縮した30分30秒に、朝ラッシュ時に3本の列車増発を行っても、最大運用数は2本削減した34本(予備3本)となった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "銀座線のTASCはホームドアなどの設置を目的としたものではなく、銀座線の各駅はホーム有効長と列車の長さがほぼ同じで、運転士の個人差に左右されるブレーキ操作をTASCにより均一化することを目的としたものである。TASCの停止精度は± 50 cm以内となっている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "その後、1997年(平成9年)9月30日には溜池山王駅開業に伴い、全線所要時分は55秒増えた31分25秒となり、運用数が1本増えた35本(予備3本)となった。このため、第38編成が新製された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "なお、01系の置き換えを目的として2011年(平成23年)度より順次導入された1000系も当初は置き換え対象の01系と同数の38本の導入予定であったが、東京メトロが2016年3月28日に発表した、2016年度から2018年度までの3年間の中期経営計画『東京メトロプラン2018〜「安心の提供」と「成長への挑戦」〜』において、今後銀座線全駅に整備を予定しているホームドアの関係で各駅での停車時分が拡大し、全線所要時分・運用数がそれぞれ増えることになり、2本増の40本の導入へと変更された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "旧型車両の塗色は、1927年の開業用の車両の製作にあたってベルリン地下鉄の淡黄色を参考とした。しかし、戦中・戦後の混乱期に色見本を紛失したため、改めて記憶で色見本を製作したものがやや濃い目となり、その後作り直すたびにさらに濃くなったという。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "2022年(令和4年)度の最混雑区間(B線、赤坂見附駅 → 溜池山王駅間)の混雑率は94%である。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "表参道駅は半蔵門線と、赤坂見附駅は丸ノ内線と対面乗り換えができる駅であり、始発駅の渋谷駅のみならず各路線から新橋駅周辺への最短ルートとなるため混雑する。1988年度まで混雑率は230%を超えていたが、1989年に半蔵門線が三越前駅まで延伸開業してバイパス路線となったことにより、1990年度に200%を下回った。その後も輸送人員の減少により混雑が緩和し、2001年度に170%を下回った。逆方向も宇都宮線、高崎線、常磐線が乗り入れる上野駅のほか、東西線と接続する日本橋駅から混雑が激しくなるが、上野東京ラインの開業により上野駅 - 新橋駅間が当路線と並走するようになり、混雑は緩和されている。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "2007年度の一日平均通過人員は、虎ノ門駅 - 新橋駅間が392,196人で最も多く、これに次ぐのは溜池山王 - 虎ノ門間の391,849人である。渋谷駅 - 表参道駅間は258,609人であるが表参道駅 - 外苑前駅間が321,942人に増加し、日本橋駅までは一日平均通過人員が30万人を超える。京橋駅 - 日本橋駅間は313,981人であるが日本橋駅 - 三越前駅間で252,874人と一気に減少する。その後も通過人員が減少するが上野広小路駅 - 上野駅間は206,943人であり、上野駅までは一日平均通過人員が20万人を超える。上野駅 - 稲荷町駅間で126,225人と一気に減少し、一日平均通過人員が最も少ない田原町駅 - 浅草駅間は90,362人である。1人平均乗車キロは3.6 kmであり、これは東京メトロ全線で最も短い。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "2012年10月30日・31日に溜池山王・銀座・上野・浅草の4駅において、従来のブザーに代わり発車メロディ(発車サイン音)の使用を開始した。その後、2015年6月18日から20日にかけて神田・末広町・上野広小路・稲荷町・田原町の5駅に、さらに2018年8月から11月にかけて残りの10駅にも順次導入された。銀座駅・日本橋駅・三越前駅・神田駅・上野駅・浅草駅で使用されているメロディは、その駅や街にゆかりのある楽曲をアレンジしたものである。",
"title": "発車メロディ"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "また、2019年3月26日からは、放送装置が更新された車両より順次車載メロディの使用を開始している。",
"title": "発車メロディ"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "メロディの制作は、銀座駅・上野駅・浅草駅および2018年導入の10駅と車載メロディはスイッチ、2015年導入の5駅はスタマック、溜池山王駅はエピキュラスが担当し、塩塚博、福嶋尚哉(以上スイッチ)、岡村みどり、薄井由行、ゴンドウトモヒコ、山口優、永田太郎(以上スタマック)、鈴木ヤスヨシ(エピキュラス)の8名が作曲および編曲を手掛けた。",
"title": "発車メロディ"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "渋谷駅は、東急百貨店東横店の西館3階に設けられていた相対式ホーム2面2線が使用されてきたが、渋谷駅街区基盤整備の一環で同百貨店を解体するのに併せ、元位置から東へ130 mの明治通りの上空に、幅12 mの島式ホーム1面2線を設ける工事が実施された。",
"title": "今後の予定"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "この工事の一環として、新しいホームを築造するスペースを確保するため、渋谷 - 表参道間を終日運休して明治通り上空での「線路切替工事」が2016年より段階的に実施された。",
"title": "今後の予定"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "2020年1月3日、始発電車より渋谷駅新駅舎の供用が開始され、開業記念式典が催された。移設によって銀座線渋谷駅 - 表参道駅の駅間キロは1.3 kmから1.2 kmに短縮されたが、東京メトロの旅客営業規程第13条に渋谷駅 - 表参道駅間の運賃計算キロを1.3 km(半蔵門線の駅間キロ)とする旨が追加されたため、運賃計算上の最短経路が渋谷駅 - 表参道駅間を経由する駅相互間の運賃に変更はなかった。駅移設後もエレベーターの増設やホームドア設置などの工事が、同年7月の東京オリンピック当初の開幕直前までを工期として進められた。",
"title": "今後の予定"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "2008年8月29日に、社団法人土木学会から銀座線浅草駅 - 新橋駅間が鉄構框構造やアーチ構造など「土木的に貴重な構造物が多数存在する」との理由で、土木学会選奨土木遺産に選ばれた。同年11月18日の「土木の日」に同学会から認定書と銘板が贈呈された。",
"title": "選奨土木遺産・近代化産業遺産"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "また、2009年には経済産業省から銀座線(全線)と旧新橋駅(東京高速鉄道時代に営業していたホーム)、銀座線での運用から退いた後に地下鉄博物館で保存されている1000形1001号車・100形129号車などが「近代化産業遺産続33」に認定され、次いで2017年には1000形1001号車が重要文化財に指定及び機械遺産に認定された。",
"title": "選奨土木遺産・近代化産業遺産"
}
] | 銀座線(ぎんざせん)は、東京都台東区の浅草駅から渋谷区の渋谷駅までを結ぶ、東京地下鉄(東京メトロ)が運営する鉄道路線である。『鉄道要覧』における名称は3号線銀座線。 路線名は経由地である繁華街の銀座に由来する。車体および路線図や乗り換え案内で使用されるラインカラーは「オレンジ」(#ff9500、橙)、路線記号はG。 | {{pp-vandalism|small=yes}}
{{Redirect|銀座線|銀座線と通称された路面電車|都電本通線}}
{{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[File:Tokyo Metro logo.svg|20px|東京地下鉄|link=東京地下鉄]] 銀座線
|路線色=#ff9500
|ロゴ=Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg
|ロゴサイズ=40px
|画像=Ginza-Line-Series1031.jpg
|画像サイズ=300px
|画像説明=銀座線を走る[[東京メトロ1000系電車|1000系]]電車<br>(2017年2月8日 渋谷駅 - 表参道駅間)
|国={{JPN}}
|所在地=[[東京都]]
|種類=[[地下鉄]]
|路線網=[[東京地下鉄|東京メトロ]]
|起点=[[浅草駅]]
|終点=[[渋谷駅]]
|駅数=19駅<ref name="駅数">[https://www.tokyometro.jp/corporate/ir/2022/pdf/202203_yuka.pdf#page=29 第18期『有価証券報告書』「主要な設備の状況」] 東京地下鉄(2023年4月15日閲覧)</ref>
|輸送実績=1,456,122千[[輸送量の単位|人キロ]]<small>(2019年度)<ref name="passenger numbers">{{Cite web|和書|url= https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19qa041401.xls|title=東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)/運輸|format=XLS|publisher=[[東京都]]|accessdate =2021-07-31}}</ref></small>
|1日利用者数=
|路線記号=G
|路線番号=3号線
|路線色3={{Legend2|#ff9500|オレンジ}}
|開業=[[1927年]][[12月30日]]
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|廃止=
|所有者=[[東京地下鉄]]
|運営者=東京地下鉄
|車両基地=[[上野検車区]]・[[上野検車区渋谷分室]]
|使用車両=[[東京メトロ1000系電車|1000系]](6両[[編成 (鉄道)|編成]])
|路線距離=14.2 [[キロメートル|km]]<ref name="metro2" />
|軌間=1,435 [[ミリメートル|mm]]([[標準軌]])
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|電化方式=[[直流電化|直流]]600 [[ボルト (単位)|V]]([[第三軌条方式]])<ref name="metro2" />
|最大勾配=33 [[パーミル|‰]]<ref name="RP489_58">{{Cite journal|和書|author=松枝一夫(帝都高速度交通営団工務部工務課)|title=線路と保線|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=1987-12-10|volume=37|issue=第12号(通巻489号)|page=58|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>
|最小曲線半径=94.183 [[メートル|m]]<ref name="Tokyo-Subway-31">[[#坤|東京地下鉄道史. 坤]]、pp.31 - 35。</ref><br />(上野駅前後<ref name="Tokyo-Subway-31"/>)
|閉塞方式=速度制御式
|保安装置=[[自動列車制御装置#新CS-ATC|新CS-ATC]]
|最高速度=65 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="metro2">{{Cite web|和書|url=http://www.jametro.or.jp/upload/data/UklSNCUrzToN.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211017105609/http://www.jametro.or.jp/upload/data/UklSNCUrzToN.pdf|title=令和3年度 地下鉄事業の現況|work=7.営業線の概要|date=2021-10|archivedate=2021-10-17|accessdate=2021-10-17|publisher=一般社団法人[[日本地下鉄協会]]|format=PDF|language=日本語|pages=3 - 4|deadlinkdate=}}</ref><ref name="judan">{{Cite book|和書|author=小佐野カゲトシ|title=日本縦断! 地下鉄の謎|date=2016-12-09|language=日本語|isbn=9784408112015|publisher=[[実業之日本社]]}}</ref>
|路線図=File:銀座線案内.png
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{| {{Railway line header}}
{{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#ff9500}}
{{BS-table}}
{{BS|hKBHFa|O1=eKDSTa|||''[[上野検車区渋谷分室]]''|}}
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{{BS3|tSTR|O1=BLc2|KBL3|O2=tBHF|P2=HUBaq|tBHF|O3=HUBeq|9.6|G-06 [[溜池山王駅]] {{rint|tokyo|n}}||}}
{{BS3|KBL1|O1=tBHF|tSTR|O2=BLc4|tSTR|||([[国会議事堂前駅]] {{rint|tokyo|m}} {{rint|tokyo|c}})|}}
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'''銀座線'''(ぎんざせん)は、[[東京都]][[台東区]]の[[浅草駅]]から[[渋谷区]]の[[渋谷駅]]までを結ぶ、[[東京地下鉄]](東京メトロ)が運営する[[鉄道路線]]である。『[[鉄道要覧]]』における名称は'''3号線銀座線'''。
路線名は経由地である繁華街の[[銀座]]に由来する。車体および路線図や乗り換え案内で使用される[[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]は「オレンジ」(#ff9500、橙)<ref name="color">{{Cite web|和書|url=https://developer.tokyometroapp.jp/guideline|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210604113943/https://developer.tokyometroapp.jp/guideline|title=東京メトロ オープンデータ 開発者サイト|archivedate=2021-06-04|accessdate=2021-06-04|publisher=東京地下鉄|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>、路線記号は'''G'''。
== 概要 ==
[[1927年]]([[昭和]]2年)に[[浅草駅]] - [[上野駅]]間で営業を開始した、日本で最初の“本格的”な[[地下鉄]]である<ref group="注釈">貨物線では[[1915年]]に[[東京駅]]周辺で、旅客線では[[1925年]]に[[仙台駅]]周辺で地下鉄道が開通している(「[[日本の地下鉄#黎明期]]」参照)。</ref>。当時のポスター<ref group="注釈">レプリカの[[エッチング]]が上野駅の[[渋谷駅|渋谷]]方面ホームにある。</ref>では「'''東洋唯一の地下鉄道'''」という[[キャッチコピー]]が使われ、[[アジア]]・[[オセアニア]]地域でも初めての地下鉄路線である。なお、1番切符を手にし、一番初めに乗った乗客は、後に[[原鉄道模型博物館]]の館長を務めた[[原信太郎]]であり、同館には当時の新聞記事等が展示されている。
東京地下鉄(東京メトロ)の路線では[[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]]とこの銀座線のみ[[標準軌]]である。また、[[第三軌条方式]]を採用しているため分岐機の前後で[[デッドセクション|無電区間]]が生じている箇所がある。このため車両間引き通しを持たず、600 [[ボルト (単位)|V]]電源を直接使用して室内灯等に用いていた[[営団01系電車|01系]]導入前の車両([[電動発電機]]搭載の[[東京高速鉄道100形電車|100形]]・[[営団1500形電車#1500NN形(1500N2形)|1500N形]]を除く)では、ポイント通過時や駅到着直前に室内灯や[[扇風機]]などが瞬間停電し、代わりにバッテリー電源の非常灯が点灯していた<ref group="注釈">丸ノ内線など、日本国内の他の第三軌条方式採用路線では、当初より電動発電機を搭載した車両が使用されたため、同様の現象はほとんど発生しなかった。</ref>。現在運用されている車両には引き通し線が装備されており、停電することはなくなった。[[狭軌]]及び[[架空電車線方式]]を採用している周辺他社路線との[[直通運転]]は形態的に困難なため、丸ノ内線と同様に実施されていない。
建設費削減のためにトンネル断面が小さいゆえ、1両の車両長が16 [[メートル|m]]、1[[編成 (鉄道)|編成]]6両の長さが96 m、車幅が2,550 mmと<ref group="注釈">丸ノ内線は1両の車両長が18 m、1編成6両の長さが108 m、車幅が2,780 mm</ref>、車体の規格が東京地下鉄で最も小さい。そのため、1両あたりの乗車定員が少ない、車内[[エア・コンディショナー|冷房装置]]の屋外機が屋根に取り付けられない、などの制約が生じている。初めての地下鉄建設とあって将来的な輸送の見込みを立てるのは困難であり、実際開業当時は十分な輸送力を持っていたが、現代に至っては輸送力不足を招く結果になった。
冷房装置については、前述の理由で車両冷房化が困難であったことにより、一般の鉄道車両においては冷房装置搭載が一般的になっていた[[1983年]]から製造が開始された01系も当初は非冷房で製造されたが、[[1990年]]頃になって薄型冷房装置が開発されたことにより屋根上に搭載できるようになったため、これ以降に製造された01系からは当初より冷房が搭載され、冷房装置なしで登場した01系にも冷房装置の設置が行われた。現在運用されている[[東京メトロ1000系電車|1000系]]車両には全編成に冷房装置が取り付けられている。なお地上区間がごく短いことや、地下線内は地上ほど冷え込まないという事情もあって、開業時から01系初期型に至るまで銀座線電車には暖房装置も装備されていなかった。
路線延長は14.2キロメートル<ref>[https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/lines/index.html 鉄道事業 営業状況] 東京メトロ(2023年4月15日閲覧)</ref>で、駅数は19<ref name="駅数" />。[[浅草通り]]、[[中央通り (東京都)|中央通り]] 、[[東京都道405号外濠環状線|外堀通り]]、[[青山通り]]などの地下を通って<ref group="注釈">私権は上空のみならず40メートル未満の地下にも及ぶので、住宅地の地下を通すと地権者全員に土地使用料を支払わなければならない。公道の地下であればその必要がない。</ref>、東京[[都心]]3区とそれに隣接する台東区、渋谷区の主要な[[繁華街]]や[[オフィス街|ビジネス街]]を縫うように走り、[[浅草]]、[[上野]]、[[秋葉原]]、[[神田 (千代田区)|神田]]、[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]、[[銀座]]、[[新橋 (東京都港区)|新橋]]、[[虎ノ門]]、[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]、[[青山 (東京都港区)|青山]]、[[渋谷]]エリアに駅がある。このため利用客が多く、高頻度運行が行なわれている。日中においては3分間隔で運行されていたが、[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|COVID-19流行]]による5分間隔への減便を経て、2023年4月29日以降は4分間隔での運行となっている<ref name="マイナビ20230330">「[https://news.mynavi.jp/article/20230330-2640160/ 東京メトロ銀座線、4/29から列車増発 - 日中時間帯は4分間隔で運転]」[[マイナビニュース]](2023年3月30日)2023年4月15日閲覧</ref>。渋谷駅から[[赤坂見附駅]]/[[永田町駅]]まで並走する[[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]]は、銀座線の混雑緩和のために建設された路線(バイパス路線)である。
また銀座線は[[地下鉄#開削工法|開削工法]]で建設されたため、後発の他路線に比べて乗り場が浅く、[[田原町駅 (東京都)|田原町駅]]や[[稲荷町駅 (東京都)|稲荷町駅]]、[[末広町駅 (東京都)|末広町駅]]などの一部の駅では[[階段]]を降りるとすぐに[[改札|改札口]]があり、改札口の先にすぐ[[プラットホーム|ホーム]]があるという利用しやすい形態になっている。[[相対式ホーム]]の駅ではそのほとんどで線路間を隔てて建てられている支柱が[[リベット]]組みの鉄骨となっており、日本最初の地下鉄の歴史を偲ぶことができる。
<gallery>
ファイル:GinzaLine Shibuya200505-5.jpg|渋谷駅[[東急百貨店東横店|東急東横店]]3階のホームから出て明治通りを跨ぎ、表参道駅に向かう01系(2005年5月5日撮影)
</gallery>
また、浅草駅にて[[松屋 (百貨店)#店舗|松屋浅草店]]、[[上野広小路駅]]にて[[松坂屋#店舗|松坂屋上野店]]、[[三越前駅]]にて[[三越#日本橋本店|日本橋三越本店]]、[[日本橋駅 (東京都)|日本橋駅]]にて[[髙島屋#関東|日本橋高島屋]]、銀座駅にて[[三越#銀座店|銀座三越]]と[[松屋 (百貨店)|松屋銀座]]、[[渋谷駅]]にて[[東急百貨店東横店]](現在は閉店)と繋がっている<ref name="eidan24-25" />。これらの百貨店の多くが地下鉄開業以前の開店か同時期に創業した[[老舗]]であり、買物客の誘致を図って、古くから地下鉄と百貨店各店との[[タイアップ]]も積極的に行われてきた。駅自体がタイアップで設置された三越前駅は端的な事例である。三越前駅に関しては日本橋三越本店が、日本橋駅に関しては日本橋高島屋が駅の建設費を負担している<ref>{{Cite web|和書|title=重要文化財 三越日本橋本店 |url=https://tokyo-trip.org/spot/visiting/tk0346/|website=東京とりっぷ|date=2017-01-14|accessdate=2020-08-15|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=重要文化財 日本橋高島屋|url=https://tokyo-trip.org/spot/visiting/tk0333/|website=東京とりっぷ|date=2017-01-12|accessdate=2020-08-15|language=ja}}</ref>。その他、[[白木屋 (デパート)|白木屋]](元・東急日本橋店)や銀座松屋、銀座三越等が地下鉄の建設費の一部を負担している<ref name="eidan24-25" />。
[[車両基地]]の[[上野検車区]]は地上と地下の2層構造になっており、地上車庫の入口箇所には日本の地下鉄では唯一<!--第三軌条集電方式では唯一…とすべきか-->となった[[踏切]](しかも日本では珍しい、道路の通行が優先される軌道遮断式。同種の踏切は[[イギリス]]に存在する)が存在する。また、渋谷駅周辺は窪地となっており、同駅では東急百貨店東横店3階にあったホームから発着していたが、基盤整備によりホームを東口[[バスターミナル]]付近に移設する工事が進められ、[[2020年]][[1月3日]]に新ホームの供用が開始された<ref group="報道" name="2019-10-28" /><ref group="新聞" name="Asahi 20200103" />。
[[赤坂見附駅]]の溜池山王側には丸ノ内線とを結ぶ[[連絡線]]がある。銀座線車両の[[日本の鉄道車両検査|重点検整備]]に際しては、[[中野車両基地|中野工場]]([[中野富士見町駅]]近在)や[[小石川車両基地|小石川CR]]([[茗荷谷駅]]近在)への[[回送]]時にこの連絡線を通過する。過去には[[隅田川花火大会]]開催日の[[臨時列車]]「花火ライナー」(1992年 - 1999年。丸ノ内線[[新宿駅]]発浅草駅行)や[[浅草寺]]への[[初詣]]客向けの「初詣新春らいなー」(1993年 - 廃止時期不明。運転区間は花火ライナーと同一)、中野工場見学会などのイベント列車なども通過していた。[[2010年]][[5月2日]]には映画『[[仮面ライダー×仮面ライダー×仮面ライダー THE MOVIE 超・電王トリロジー]]』公開を記念したイベント列車「メトロデンライナー」が上野駅 - 赤坂見附駅 - 中野富士見町駅間で運転され、連絡線を通過した。なお2008年以降丸ノ内線が[[ホームドア]]使用の[[ワンマン運転]]となったこともあり、車両ドアとホームドアの位置の関係から、丸ノ内線駅ホームでの乗降を取り扱わないイベント列車を除いての直通運転は行われていない。
ホーム[[有効長]]が編成長ぎりぎりの駅が多いことから、[[オーバーラン]]防止と駅進入速度の向上による運転間隔の短縮・輸送力増強を図るために[[定位置停止装置]](TASC)が設置されている。
[[2012年]][[12月17日]]、銀座線全19駅をリニューアルすることが発表された。2017年度中に浅草駅 - 京橋駅間を、2022年度までに全駅をリニューアルする計画<ref group="報道" name="pr20121217">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/metroNews20121217_ginzasenconpe.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180525204317/http://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/metroNews20121217_ginzasenconpe.pdf|format=PDF|language=日本語|title=銀座線のすべての駅を5つのエリアコンセプトに沿ってリニューアルします これに伴い上野、稲荷町、神田の3駅のデザインをお客様から広く公募します あなたのアイデアが駅を創る 平成34年度完成予定|publisher=東京地下鉄|date=2012-12-17|accessdate=2020-11-14|archivedate=2018-05-25}}</ref>で、ホームや改札口を刷新し、2012年12月30日に開業85周年を迎える日本最古の地下鉄として歴史を守りつつ、各駅に先端の機能を取り入れた主要路線として新たなイメージ定着を目指すとしている<ref group="報道" name="pr20121217"/>。
=== 都市計画と延伸計画 ===
[[太平洋戦争]]後、[[戦災復興院]]によって「東京都市計画高速鉄道網」の改訂が行われ、[[1946年]](昭和21年)[[12月7日]]に[[戦災復興院告示第252号]]によって戦後の第3号線は「[[大橋 (目黒区)|大橋]] - 渋谷 - 浅草間」の路線として告示し、[[都市計画]]を決定した<ref name="Marunouchi-Const1-298-74">[[#Morunouchi-Con1|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(上巻)]]、p.297。</ref>。
日本最古の地下鉄である区間を含むにもかかわらず『鉄道要覧』での路線名が「'''3号線'''銀座線」を名乗るのは、前述の戦災復興院の告示において、開業の順序にかかわらず、都心への路線が東京湾に近い方から時計回りに計画路線番号を割り当てたためである{{Efn|「1号線」は馬込・五反田方面から都心への路線(後の[[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]])、「2号線」は中目黒・恵比寿方面から都心への路線(後の[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]])に割り当てられた。}}。
[[1962年]]([[昭和]]37年)6月の[[都市交通審議会答申第6号]]において、第3号線は「'''[[二子玉川駅|二子玉川]]方面より渋谷、赤坂見附、新橋、神田、上野及び浅草の各方面を経て[[三ノ輪]]方面に至る路線'''」として答申され<ref name="Hibiya-Const117">[[#Hibiya-Con|東京地下鉄道日比谷線建設史]]、pp.117 - 120。</ref>、[[8月29日]]の[[建設省]]告示第2187号により、第3号線二子玉川園駅 - 三ノ輪間(26.0 km)の都市計画が決定された<ref name="Hibiya-Const117"/>。
しかし、[[1968年]](昭和43年)4月の[[都市交通審議会答申第10号|答申第10号]]において、第3号線は渋谷 - 三ノ輪間(17.3 km)に短縮され<ref name="Tozai-Const157">[[#Tozai-Const|東京地下鉄道東西線建設史]]、pp.157 - 162。</ref>、[[二子玉川駅|二子玉川園]] - 渋谷間(東急新玉川線の建設を予定)は銀座線規格の第三軌条方式の路線から架空電車線方式の路線となり、新たに追加された第11号線([[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]])の一部となった<ref name="Tozai-Const157"/>。その後[[1977年]](昭和52年)4月に東急新玉川線(現在の[[東急田園都市線]])として開業している。
浅草 - 三ノ輪間(3.2 km)の延伸は、都市高速鉄道第3号線としての[[都市計画]]決定が行われ現在も有効であるが<ref>{{Cite book |和書 |title=大江戸線建設物語 |author=大江戸線建設物語編纂委員会 |publisher=[[成山堂書店]] |date=2015-07-08 |page=5 |isbn=978-4-425-96231-0}}</ref>、1985年(昭和60年)の[[運輸政策審議会答申第7号]]にて延伸計画は削除されている。
=== 路線データ ===
* 路線距離([[営業キロ]]):14.2 [[キロメートル|km]](うち地上部:0.3 km)<ref name="metro2" />
* [[軌間]]:1,435 [[ミリメートル|mm]]<ref name="metro2" />
* 駅数:19駅(起終点駅含む)<ref name="metro2" />
* [[複線]]区間:全線
* [[鉄道の電化|電化]]区間:全線([[直流電化|直流]] 600 V、[[第三軌条方式]])<ref name="metro2" />
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:速度制御式([[自動列車制御装置#新CS-ATC|新CS-ATC]])
* [[列車無線]]方式:デジタル空間波無線 (D-SR) 方式<ref name="metro2" />
* 最高速度:65 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="metro2" /><ref name="judan" />
* 平均速度:34.1 km/h(2021年4月1日現在)<ref name="metro2" />
* [[表定速度]]:25.8 km/h(2021年4月1日現在)<ref name="metro2" />
* 全線所要時分:33分00秒(2021年4月1日現在)<ref name="metro2" />
* 最急勾配:33 [[パーミル|‰]]<ref name="RP489_58" />
** 東京地下鉄道が建設した浅草駅 - [[新橋駅]]間の最急勾配は25 ‰であり<ref name="Tokyo-Subway-31"/>、33 ‰の勾配があるのは東京高速鉄道が建設した渋谷駅 - 新橋駅間である。
** 本線ではないが、上野駅から上野車両基地への入出庫線には、55 ‰の急勾配がある<ref name="Tokyo-Subway-189">[[#坤|東京地下鉄道史. 坤]]、p.189。</ref>。
* 最小曲線半径:94.183 m<ref name="Tokyo-Subway-31"/>(309[[尺]]・上野駅前後<ref name="Tokyo-Subway-31"/>)
** 銀座線の最小曲線は91.44 mとする資料もあるが<ref name="Marunouchi-Const2-8">[[#Marunouchi-Con2|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(下巻)]]、p.8。</ref>、文献<ref name="Tokyo-Subway-31"/>では特別認可を得て使用できる最小の曲線が91.44 m(300[[尺#日本の尺|尺]])であり、鉄道史による上野駅前後の曲線は94.183 m(309尺)であるとされる<ref name="Tokyo-Subway-31"/>。
* [[車両基地]]:[[上野検車区]]、[[上野検車区渋谷分室]](廃止)
* 工場:[[中野車両基地#中野工場|中野工場]]([[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]]内)
* 地上区間:渋谷駅付近
=== 建設費用 ===
* 東京地下鉄道が建設した浅草駅 - 新橋駅間の建設費用は、総額4,213万円であった<ref name="Marunouchi-Const1-15-17">[[#Morunouchi-Con1|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(上巻)]]、pp.15 - 17。</ref>。
* 東京高速鉄道が建設した渋谷駅 - 新橋駅間の建設費用は、総額2,126万円であった<ref name="Marunouchi-Const1-15-17"/>。
=== 駒形土砂搬出線 ===
浅草駅 - 上野駅間の土木工事に発生した土砂(掘削土・主に田原町駅方面から)は[[隅田川]]の[[水運]](土運搬船)で搬出していた<ref name="Tokyo-Subway-185">[[#坤|東京地下鉄道史. 坤]]、pp.185 - 186。</ref>。この土砂搬出用として、[[駒形橋]]西詰交差点付近の地下(本線トンネル)から東に向かって約70 mのトンネル(高さ:1.83 m 、幅:3.05 m)および約20 mの切開部を構築し、隅田川河岸付近で地上に出て、隅田川に沿った[[桟橋]] (112.78 m) が構築された<ref name="Tokyo-Subway-185"/>。搬出した土砂は約36,000 [[立方メートル|m<sup>3</sup>]]にもなる<ref name="Tokyo-Subway-185"/>。
トンネル([[坑道]])には軌道が2線敷設されており、電動回転のエンドレスワイヤーによって小型トロリー(貨車)を往復運転して、桟橋まで搬出していた<ref name="Tokyo-Subway-185"/>。田原町方面からの土砂は、トロリーに積載して小型ガソリン機関車けん引で当地点まで運び、ここで解放してトロリーは1両ごとにワイヤーへ引っ掛けて桟橋まで運搬していた<ref name="Tokyo-Subway-185"/>。
== 沿革 ==
{{Vertical_images_list
|幅= 200px
|1=Groundbreaking ceremony of Tokyo Underground Railway 2.jpg
|2=1925年9月27日の東京地下鉄道上野浅草間の起工式記念写真。座っている前列の右から、[[ルドルフ・ブリスケ]]、[[早川徳次 (東京地下鉄道)|早川徳次]]、[[古市公威]]、[[野村龍太郎]]。
|3=Opening ceremoy of Tokyo Undeground Railway.jpg
|4=1927年12月29日の東京地下鉄道の開通披露式会場([[上野恩賜公園|上野公園]])
|5=Opening day of Ueno Station of Tokyo Metro Ginza Line.jpg
|6=開業初日の上野駅(1927年12月30日)
}}
浅草駅 - 新橋駅間は「[[東京地下鉄道]]」によって建設・運営された<ref name="eidan24-25" />。本来は新橋駅から浅草駅まで一挙に開通させることを目指していたものの、[[関東大震災]](1923年)による[[震災恐慌|不況]]のため資金調達が困難になり、当時は日本一の繁華街で、高収益が見込める浅草から上野までの建設を先行させたのである<ref name="eidan24-25">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、pp.24 - 25。</ref>。なお、建設は関東大震災後の[[1925年]]([[大正]]14年)に開始された<ref name="eidan24-25" />。[[1927年]]([[昭和]]2年)の開業当初は物珍しさもあって乗車時間がわずか5分の区間に乗車するため、2時間待ちの行列ができたという。その後の経営も順調で、[[1934年]](昭和9年)までに全通した<ref name="eidan24-25" />。
一方、渋谷駅 - 新橋駅間は[[目黒蒲田電鉄]]系([[東急]]の前身)の「[[東京高速鉄道]]」により建設・運営され、[[支那事変]]([[日中戦争]])中の[[1939年]](昭和14年)までに全通した<ref name="eidan26-27" />。同区間は当初、[[東京市]]が市営での事業経営を目論んでいたため、東京市から免許の譲渡契約を結んだ上で建設された<ref name="eidan26-27" />。譲渡契約は将来的に東京地下鉄道と合併すること、東京市が買収したいときはいつでも応じることが盛り込まれた内容であった<ref name="eidan26-27" />。
1939年(昭和14年)9月16日から、東京地下鉄道との相互乗り入れ運転が開始<ref name="eidan26-27" />。この際、[[ラッシュ時]]の運転間隔が2分半から2分に短縮された<ref name="eidan26-27" /><ref group="新聞">{{Cite news|和書|title=澁谷淺草廿八分 けふから地下鐵直通運轉|newspaper=[[東京日日新聞]]|publisher=東京日日新聞社|date=1941-09-01|page=3 東京夕刊}}</ref>。さらに[[1941年]](昭和16年)7月には、両社は[[陸上交通事業調整法]]に基づき、[[特殊法人]]「[[帝都高速度交通営団]]」(営団地下鉄)に統合された<ref name="eidan26-27">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、pp.26 - 27</ref>。営団の発足に伴い[[定期乗車券|学生定期券]]が新たに導入された(従前は高速度鉄道側のみで発売されていた)<ref group="新聞">{{Cite news|和書|title=地下鐵営業一本に|newspaper=[[朝日新聞]]|publisher=朝日新聞社|date=1941-09-01|page=5 朝刊}}</ref>。
同年12月の太平洋戦争開戦後しばらく、日本本土は[[1942年]](昭和17年)4月18日の[[ドーリットル空襲]]を除き戦禍に見舞われなかった上、経済活動が活発化して鉄道需要も高まったため、同年12月31日より全列車を3両編成とするなど輸送力増大に対応した<ref name="RF521_24" />。しかし戦争激化による電力不足のため、[[1943年]](昭和18年)[[1月19日]]以降は節電ダイヤとして、一部列車の運行区間短縮(一部列車の三越前駅 - 渋谷駅間折り返し運転、休日は運休)や速度低下などの措置がとられる<ref name="RF521_24" />。その後もさらなる電力状況の悪化や、車両部品不足による運用可能な電動車の減少などにより、スピードダウンや運行本数減少が相次いだ<ref name="RF521_24" />。
戦争末期には東京は[[アメリカ軍]]により繰り返し爆撃を受けるようになり([[東京大空襲]])、土被りの浅い本路線は空襲の度に運休を余儀なくされた。また、土被りの浅さから他路線の地下鉄(例えば[[大阪市]]の[[Osaka Metro御堂筋線|御堂筋線]])のように[[防空壕]]代わりに使用されることはなかった。
[[1945年]](昭和20年)[[1月27日]]の空襲時には、銀座通り(現・[[中央通り (東京都)|中央通り]])上に投下された[[航空爆弾|爆弾]]より銀座駅や[[京橋駅 (東京都)|京橋駅]]が被害を受け乗客多数が死亡し、さらに[[水道管]]の破裂により、[[日本橋駅 (東京都)|日本橋駅]] - 新橋駅間の[[トンネル]]が浸水したため、浅草駅 - 三越前駅間、新橋駅 - 渋谷駅間で折り返し運転を行い、2月1日から新橋駅 - 三越前駅間を単線運転で再開させた(全線復旧は3月10日)。また5月25日には、渋谷検車区に着弾して車輌5両が焼損([[廃車 (鉄道)|廃車]]とはならず、後に修復して復帰)する被害を受けた<ref name="RF521_24" />。6月1日時点では在籍車両84両のうち稼動車は24両のみとなり、また空襲により駅周辺が過疎となったことから、田原町駅と[[末広町駅 (東京都)|末広町駅]]では[[1946年]](昭和21年)10月14日まで時間を限って駅通過扱いとされた。
終戦後もしばらく劣悪な電力事情から低速運行が続いたが、徐々に戦前の水準を回復し、さらに[[1949年]](昭和24年)[[3月15日]]には新型車両([[営団1300形電車|1300形]])が導入された<ref name="RF521_25">[[#RF521|『鉄道ファン』通巻521号]]、p.25。</ref>。丸ノ内線が開業する前年の[[1953年]](昭和28年)には、当線に銀座線の名称が付与され、長く営団の重要路線として機能することとなる。そして、[[2004年]](平成16年)[[4月1日]]の営団の民営化に伴う「東京地下鉄」の発足に際しては、上野駅で発車式が行われた。
=== 東京地下鉄道 ===
{{Vertical_images_list
|幅= 200px
|1=Eidan type 1000 train.jpg
|2=浅草駅 - 上野駅間開業時に用いられた1000形
|3=Tkosoku100_1.jpg
|4=東京高速鉄道開業時に用いられた100形([[地下鉄博物館]]に保存されているカットボディ)
}}
* [[1925年]]([[大正]]14年)[[9月27日]]:浅草駅 - 上野駅間着工<ref name="eidan558">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.558。</ref>。
* [[1927年]]([[昭和]]2年)
** [[7月10日]]:上野駅 - 万世橋駅間着工<ref name="eidan558"/>。
** [[12月29日]]:浅草駅 - 上野駅間の開通式および関係者による試乗<ref group="新聞">{{Cite news|title=上野淺草間の地下鐵道開通 竹田朝香若宮御試乗 きのふ盛大な開通式|newspaper=『[[読売新聞]]』朝刊|publisher=[[読売新聞社]]|date=1927-12-30|page=7}}</ref>。
** [[12月30日]]:浅草駅 - 上野駅間(2.2 km)開業<ref name="eidan558"/>。
* [[1929年]](昭和4年)[[6月7日]]:万世橋駅 - [[神田駅 (東京都)|神田駅]]間着工<ref name="eidan559">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.559。</ref>。
* [[1930年]](昭和5年)[[1月1日]]:上野駅 - [[万世橋駅#東京地下鉄道 万世橋駅|万世橋駅]]間(1.7 km)開業<ref name="eidan559"/>。
** 万世橋駅は、東京市街を東西に流れる[[神田川 (東京都)|神田川]]の下を掘り抜く工事の難航が予想されたため北岸に仮駅として設けられた。廃駅(後述)になった後は一般の立ち入りはできないが、地下に遺構が残っている<ref name="幻の廃駅">[https://dailyportalz.jp/kiji/170118198578 幻の廃駅「銀座線萬世橋駅」をキラキラさせる] [[デイリーポータルZ]](2017年1月18日)2023年4月15日閲覧</ref>。
* [[1931年]](昭和6年)
** [[2月25日]]:神田駅 - 三越前駅間着工<ref name="eidan559"/>。
** [[10月10日]]:三越前駅 - 京橋駅間着工<ref name="eidan559"/>。
** [[11月21日]]:万世橋駅 - 神田駅間(0.5 km)開業。万世橋駅は廃止<ref name="eidan559"/>。
* [[1932年]](昭和7年)
** [[4月29日]]:神田 - 三越前間(0.7 km)開業<ref name="eidan559"/>。
** [[12月24日]]:三越前 - 京橋間(1.3 km)開業<ref name="eidan559"/>。
* [[1933年]](昭和8年)
** [[1月7日]]:京橋駅 - 銀座駅間着工<ref name="eidan560">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.560。</ref>。
** [[4月10日]]:銀座駅 - 新橋駅着工<ref name="eidan560"/>。
* [[1934年]](昭和9年)
** [[3月3日]]:京橋駅 - 銀座駅間(0.7 km)開業<ref name="eidan560"/>。
** [[6月21日]]:銀座駅 - 新橋駅間(0.9 km)開業<ref name="eidan560"/>。
* [[1939年]](昭和14年)
** [[4月19日]]:東京高速鉄道との連絡特定運賃を設定<ref name="eidan561"/>。
** [[9月16日]]:東京高速鉄道と相互直通運転開始<ref name="eidan561">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.561。</ref>。
* [[1941年]](昭和16年)[[9月1日]]:路線を帝都高速度交通営団に譲渡<ref name="eidan561"/>。
=== 東京高速鉄道 ===
* [[1935年]](昭和10年)
** [[10月18日]]:[[虎ノ門駅]] - 新橋駅間着工<ref name="eidan560"/>。
** [[12月6日]]:[[宮益坂]] - 青山四丁目駅(現・[[外苑前駅]])間着工<ref name="eidan560"/>。
* [[1936年]](昭和11年)
** [[3月7日]]:青山四丁目駅 - 赤坂新町一丁目間着工<ref name="eidan560"/>。
** [[5月12日]]:赤坂新町一丁目 - 虎ノ門駅間着工<ref name="eidan560"/>。
* [[1937年]](昭和12年)
** [[3月1日]]:中通道路 - 宮益坂間着工<ref name="eidan560"/>。
** [[11月30日]]:大和田 - 中通道路間着工<ref name="eidan560"/>。
* [[1938年]](昭和13年)
** [[11月18日]]:青山六丁目駅(現・[[表参道駅]]) - 虎ノ門駅間(4.4 km) 開業<ref name="eidan560"/>。[[単線並列]]運転<ref name="eidan560"/>。青山六丁目駅は、現在よりやや渋谷寄りに設置された。
** [[12月20日]]:渋谷駅 - 青山六丁目駅間(1.1 km)開業<ref name="eidan560"/>。赤坂見附駅 - 虎ノ門駅間は単線運転<ref name="eidan560"/>。
* [[1939年]](昭和14年)
** [[1月15日]]:虎ノ門駅 - 新橋駅間(0.7 km)開業<ref name="eidan561"/>。
*** 東京高速鉄道の新橋駅は現在の駅である東京地下鉄道の新橋駅より西側の場所に設けられた。統合後は[[留置線]]として使用され、イベントで何度か公開されている。
** [[4月19日]]:東京地下鉄道との連絡特定運賃を設定<ref name="eidan561"/>。
** 9月16日:東京地下鉄道と[[相互直通運転]]開始<ref name="eidan561"/>。新橋駅を東京地下鉄道の新橋駅に統合。渋谷起点変更(+0.3 km)<ref name="eidan561"/>。青山四丁目駅を外苑前駅に、青山六丁目駅を神宮前駅に改称。
* 1941年(昭和16年)9月1日:路線を帝都高速度交通営団に譲渡<ref name="eidan561"/>。
=== 帝都高速度交通営団 ===
[[ファイル:Choshi Deha 1001 Inuboh 20120826.JPG|thumb|元は長らく銀座線の主力として運用された2000形である、[[銚子電気鉄道]]1000形の銀座線復刻塗装]]
* 1941年(昭和16年)
** 9月1日:帝都高速度交通営団発足。東京地下鉄道、東京高速鉄道から路線譲受(14.3 km)<ref name="eidan561"/>。
** [[12月1日]]:全列車を2両もしくは3両編成の運行とし、単車運転を終了<ref>[[#eidan50|営団地下鉄五十年史]]、p.653。</ref>。
* [[1942年]](昭和17年)[[12月31日]]:全列車を3両編成での運行に統一<ref name="RF521_24">[[#RF521|『鉄道ファン』通巻521号]]、p.24。</ref>。
* [[1944年]](昭和19年)
** [[4月1日]]:休日ダイヤを初めて導入<ref name="RF521_24" />。
** [[10月10日]]:新橋駅旧本線を使用し、夕方ラッシュ時(17時 - 19時30分)に虎ノ門駅 - 渋谷駅間ノンストップの[[急行列車]]を3往復運転(B線は回送扱い)、年末まで継続<ref>[[#eidan50|営団地下鉄五十年史]]、p.74・655。</ref>。
* [[1945年]](昭和20年)
** [[1月27日]]:連合国軍機の空襲の被害を受け一部区間運休(3月10日に全線復旧)<ref>[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.565。</ref>。
** [[10月10日]]:虎ノ門駅 - 渋谷駅間ノンストップ電車運転(同年12月31日まで)<ref>[[#eidan50|営団地下鉄五十年史]]、p.656。</ref>。
* [[1953年]](昭和28年)12月1日:路線名称を銀座線と決定<ref>[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.571。</ref>。
* [[1955年]](昭和30年)5月1日:一部列車で4両編成での運行を開始<ref name="eidan572" />。ただし、当初は旧・東京高速鉄道の駅である神宮前・外苑前・青山一丁目・虎ノ門の各駅ホーム有効長が3両分しかなかったため、当該駅では浅草方1両を締切扱いとした<ref name="eidan572">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.572。</ref>。添乗[[車掌]]の乗務開始<ref name="eidan572" />。
* [[1956年]](昭和31年)[[10月1日]]:一部列車で5両編成での運行を開始<ref name="eidan573" />。旧・東京高速鉄道の駅では2両を締切扱いとした<ref name="eidan573">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.573。</ref>。
* [[1957年]](昭和32年)
** [[7月1日]]:締切運転を解消<ref name="eidan574">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.574。</ref>。添乗車掌を廃止<ref name="eidan574" />。
** [[7月13日]]:全駅5両編成の客扱いを開始<ref name="eidan574" />。
* [[1960年]](昭和35年)[[11月28日]]:朝ラッシュ時に一部列車で6両編成の運転を開始<ref>[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.578。</ref>。
* [[1963年]](昭和38年)[[9月5日]]:京橋駅で車内に仕掛けられた時限爆弾が爆発し、乗客10名が負傷([[草加次郎事件]]の一つ)<ref>[[#eidan50|営団地下鉄五十年史]]、p.676。</ref><ref group="新聞">{{Cite news|title=地下鉄車内に“時限爆弾” 京橋乗客十人が重軽傷|newspaper=『読売新聞』朝刊|publisher=読売新聞社|date=1963-09-06|page=1 朝刊}}</ref>。
* [[1966年]](昭和41年)
** [[1月6日]]:全列車を6両編成で運転開始<ref>[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.584。</ref>。
** [[9月19日]]:[[誘導無線]](IR)の使用を開始<ref>[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.585。</ref>。
* [[1968年]](昭和43年)
** [[4月10日]]:[[都市交通審議会答申第10号]]にて、東京3号線は渋谷方面より赤坂見附、新橋、神田、上野及び浅草の各方面を経て三ノ輪方面に至る路線として提示。
** 5月 - 7月:開業以来使用してきた旧形車両60両を廃車<ref name="RP939_70">{{Cite journal|和書|author=澤内一晃|title=戦前型銀座線車両の技術史|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2017-12-01|volume=67|issue=第12号(通巻939号)|page=70|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。
* [[1972年]](昭和47年)[[10月20日]]:神宮前駅を表参道駅に改称<ref>[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.592。</ref>。
* [[1978年]](昭和53年)[[8月1日]]:表参道駅を外苑前駅側に約180 m移設<ref name="RP939_52">{{Cite journal|和書|author=藤井和之|title=90周年を迎える東京メトロ銀座線をめぐる改良工事|journal=鉄道ピクトリアル|date=2017-12-01|volume=67|issue=第12号(通巻939号)|page=52|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref>。
* [[1984年]](昭和59年)
** 1月1日:[[営団01系電車|01系]]試作車営業運転開始<ref name="RP443_55">{{Cite journal|和書|author=刈田威彦(帝都高速度交通営団車両部検修課)|title=営団地下鉄銀座線に01系量産車登場|journal=鉄道ピクトリアル|date=1985-02-01|volume=35|issue=第2号(通巻第443号)|pages=55 - 57|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref>。
** [[11月30日]]:01系量産車営業運転開始<ref>[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.603。</ref><ref name="RP443_55" />。
* [[1985年]](昭和60年)[[7月11日]]:[[運輸政策審議会答申第7号]]にて、浅草 - 三ノ輪間の延伸計画を削除。
* [[1986年]](昭和61年)[[10月9日]]:旧性能車(吊りかけ駆動方式)を含んだ最後の編成(1572号 + 1244号)が運用から外される<ref name="Journal1987-1">鉄道ジャーナル社『鉄道ジャーナル』1987年1月号RAILWAY TOPICS「営団銀座線の旧型車全廃」p.128。</ref>。
* [[1990年]]([[平成]]2年)[[8月13日]]:冷房車両の運転を開始<ref>[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.608。</ref>。
* [[1993年]](平成5年)
** [[7月30日]]:[[営団2000形電車|2000形]]・[[営団1500形電車|1500N形]]車両の営業運転を終了<ref name="RP939_34-45">{{Cite journal|和書|author=堀江光雄、巴川享則|title=銀座線車両 90年の変遷|journal=鉄道ピクトリアル|date=2017-12-01|volume=67|issue=第12号(通巻939号)|pages=34 - 45|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref>。これにより無電区間での瞬間停電現象が解消される。
** [[7月31日]]:保安装置を[[自動列車制御装置#新CS-ATC|新CS-ATC]]化<ref name="eidan612">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.612。</ref>、および定位置停止装置(TASC)導入<ref>{{Cite journal|和書|author=足立武士(帝都高速度交通営団電気部信号通信課)|title=CS-ATCの導入 その効果と展望|journal=鉄道ピクトリアル|date=1995-07-10|volume=45|issue=第7号(通巻608号)|pages=72 - 75|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref>。全車両を01系に統一<ref name="eidan612"/>。
** [[8月2日]]:ATC化に対応した全面的なダイヤ改正を実施し、運転最高速度を55 km/hから65 km/hに引き上げ<ref name="eidan612"/><ref name="PICT1995-7-38">{{Cite journal|和書|author=黒川悦伸(帝都高速度交通営団車両部設計課)|title=車両総説|journal=鉄道ピクトリアル|date=1995-07-10|volume=45|issue=第7号(通巻608号)|pages=38 - 39|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref>。浅草駅 - 渋谷駅間の所要時間を4分短縮<ref name="eidan612"/><ref name="PICT1995-7-38"/>。
* [[1995年]](平成7年)
** [[3月20日]]:[[地下鉄サリン事件]]に関連して午前中の運転を休止、午後から再開。
** [[3月27日]]:[[列車運行管理システム]](PTC)を導入<ref name="eidan611">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.611。</ref>。
** [[8月24日]]:全車両が冷房車両となる<ref>{{Cite journal|和書|author=|title=読者短信|journal=鉄道ピクトリアル|date=1995-12-01|volume=45|issue=第12号(通巻第614号)|page=111|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref>。
* [[1997年]](平成9年)[[9月30日]]:[[溜池山王駅]]開業(虎ノ門駅 - 赤坂見附駅間)<ref group="報道" name="pr19970901">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.go.jp/news/97-17.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/19980630203213/http://www.tokyometro.go.jp/news/97-17.html|language=日本語|title=人にやさしい、より便利な地下鉄を目指して 平成9年9月30日(火)南北線四ツ谷・溜池山王間 銀座線溜池山王駅が開業いたします。|publisher=営団地下鉄|date=1997-09-01|accessdate=2020-11-14|archivedate=1998-06-30}}</ref><ref>[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.617。</ref>。銀座線の新駅としては1938年の[[渋谷駅#東京メトロ(銀座線)|渋谷駅]]以来59年ぶり。
* [[2000年]](平成12年)[[12月12日]]:[[上野広小路駅]]と[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]][[仲御徒町駅]]との連絡業務を開始<ref group="報道" name="pr20001115">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.go.jp/news/2000-16.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20011220061326/http://www.tokyometro.go.jp/news/2000-16.html|language=日本語|title=平成12年12月12日 営団地下鉄・都営地下鉄連絡普通旅客運賃の変更 営団地下鉄・都営地下鉄共通一日乗車券の発売 日比谷線仲御徒町駅を発着とする一部区間の普通旅客運賃の変更 都営地下鉄通過連絡(営団-都営-営団)定期乗車券発売区間の追加|publisher=営団地下鉄|date=2000-11-15|accessdate=2020-11-16|archivedate=2001-12-20}}</ref>。
* [[2002年]](平成14年)[[8月25日]]:新橋駅構内線路リフレッシュ工事のため、始発から8時50分まで銀座駅 - 溜池山王駅間で運休<ref group="報道" name="pr20020715">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.go.jp/news/2002-26.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20030804121550/http://www.tokyometro.go.jp/news/2002-26.html|language=日本語|title=平成14年8月25日(日)始発から8時50分まで 銀座線新橋駅構内 線路設備のリフレッシュ工事のため銀座線 銀座・溜池山王間の運転を休止いたします。~浅草・銀座間、溜池山王・渋谷間で折り返し運転~|publisher=営団地下鉄|date=2002-07-15|accessdate=2021-01-15|archivedate=2003-08-04}}</ref>。
=== 東京地下鉄 ===
* [[2004年]](平成16年)4月1日:帝都高速度交通営団が民営化して東京地下鉄になる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060708164650/https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|language=日本語|title=「営団地下鉄」から「東京メトロ」へ|publisher=営団地下鉄|date=2004-01-27|accessdate=2020-05-14|archivedate=2006-07-08}}</ref>。
* [[2008年]](平成20年)[[8月29日]]:浅草駅 - 新橋駅間が「[[土木学会選奨土木遺産]]」に認定される<ref group="報道" name="pr20081014">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.jp/news/2008/2008-55.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170718023025/http://www.tokyometro.jp/news/2008/2008-55.html|language=日本語|title=銀座線(浅草駅~新橋駅間)の土木構造物が「選奨土木遺産」に認定されました!|publisher=東京地下鉄|date=2008-10-14|accessdate=2020-11-14|archivedate=2017-07-18}}</ref>。
* [[2009年]](平成21年)[[2月6日]]:銀座線が「[[近代化産業遺産]]」に認定される<ref group="報道" name="pr20090209">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.jp/news/2009/2009-08.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170718160020/http://www.tokyometro.jp/news/2009/2009-08.html|language=日本語|title=日本初の地下鉄「銀座線」が『近代化産業遺産』に認定! 東京メトロ銀座線と地下鉄博物館1000形車両など|publisher=東京地下鉄|date=2009-02-09|accessdate=2020-11-14|archivedate=2017-07-18}}</ref>。
* [[2012年]](平成24年)
** [[4月11日]]:[[東京メトロ1000系電車|1000系]]電車が営業運転開始<ref group="報道" name="pr20120326">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/metroNews20120326_01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170718123228/http://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/metroNews20120326_01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=ホームページで運行ダイヤをお知らせいたします 銀座線新型車両1000系いよいよデビュー 平成24年4月11日(水)記念ヘッドマークを掲出|publisher=東京地下鉄|date=2012-03-26|accessdate=2020-11-14|archivedate=2017-07-18}}</ref><ref group="新聞">{{Cite news|url=http://www.asahi.com/travel/aviation/TKY201204110270.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201116023707/http://www.asahi.com/travel/aviation/TKY201204110270.html|title=銀座線に新型車両デビュー 80年前の「レトロ」仕様|newspaper=朝日新聞|publisher=朝日新聞社|date=2012-04-11|accessdate=2020-11-16|archivedate=2020-11-16}}</ref>。
** [[9月13日]]:銀座駅 - 神田駅で[[携帯電話]]の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.softbank.jp/corp/group/sbm/news/press/2012/20120906_01/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210131091725/https://www.softbank.jp/corp/group/sbm/news/press/2012/20120906_01/|language=日本語|title=東京メトロ一部路線における携帯電話のサービスエリア拡大について ~9月13日(木)より銀座線、南北線の一部区間でもサービス開始~|publisher=[[NTTドコモ]]/[[KDDI]]/[[ソフトバンク|ソフトバンクモバイル]]/[[ワイモバイル|イー・アクセス]]|date=2012-09-06|accessdate=2021-01-31|archivedate=2021-01-31}}</ref>。
** [[10月30日]]:浅草駅・上野駅で[[発車メロディ|発車合図メロディ]]を導入<ref group="報道" name="tokyometro20121024" />。翌31日には銀座駅と溜池山王駅にも導入<ref group="報道" name="tokyometro20121024" />。
** [[12月6日]]:青山一丁目駅 - 渋谷駅間で携帯電話の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/metroNews20121129_1290b.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210130170448/https://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/metroNews20121129_1290b.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東京メトロのトンネル内携帯電話利用可能エリアがさらに拡大! 銀座線 青山一丁目駅〜渋谷駅間 日比谷線 小伝馬町駅〜築地駅間|publisher=東京地下鉄|date=2012-11-29|accessdate=2021-01-31|archivedate=2021-01-30}}</ref>。
* [[2013年]](平成25年)
** [[1月24日]]:銀座駅 - 青山一丁目駅間で携帯電話の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNews20130116_13-01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170718062850/http://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNews20130116_13-01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成25年1月17日(木)・24日(木)より 東京メトロのトンネル内携帯電話利用可能エリア拡大 銀座線 銀座駅〜青山一丁目駅間 丸ノ内線 淡路町駅〜東京駅間 半蔵門線 神保町駅〜三越前駅間|publisher=東京地下鉄|date=2013-01-16|accessdate=2021-01-31|archivedate=2017-07-18}}</ref>。
** [[3月21日]]:浅草駅 - 神田駅間で携帯電話の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNes20130318_mobile.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201106181153/https://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNes20130318_mobile.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成25年3月21日(木)正午より、東京メトロの全線で携帯電話が利用可能に!|publisher=東京地下鉄/NTTドコモ/KDDI/ソフトバンクモバイル/イー・アクセス|date=2013-03-18|accessdate=2021-01-31|archivedate=2020-11-06}}</ref>。
* [[2017年]](平成29年)[[3月10日]]:01系電車の営業運転を終了<ref group="報道" name="01kei-last">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20170127_09.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170814215954/http://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20170127_09.pdf|format=PDF|language=日本語|title=銀座線01系車両が引退します! 2017年3月10日(金)に営業運転終了|publisher=東京地下鉄|date=2017-01-27|accessdate=2020-11-14|archivedate=2017-08-14}}</ref><ref name="railf170311">{{Cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2017/03/11/202000.html|title=東京メトロ銀座線で01系の営業運転終了|website=[https://railf.jp/news/ 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース]|publisher=[[交友社]]|date=2017-03-11|accessdate=2021-02-08}}</ref>。
* [[2019年]]([[令和]]元年)[[12月27日]]:この日の終電をもって、渋谷駅旧ホームの供用を終了<ref group="報道" name="2019-10-28" /><ref group="新聞" name="Asahi 20200103" />。
* [[2020年]](令和2年)
** [[1月3日]]:渋谷駅の移設が完了し、新駅舎および新ホームの供用を開始<ref group="報道" name="2019-10-28" /><ref group="新聞" name="Asahi 20200103" />。同時に銀座線渋谷駅 - 表参道駅の駅間キロが1.3 kmから1.2 kmに短縮されたため、路線全体のキロ程も14.3 km<ref>『JTB時刻表』2019年12月号、p.793</ref>から14.2 km<ref>[https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/lines/index.html 営業状況](2020年1月3日現在) - 東京地下鉄、2020年1月7日閲覧</ref>に変更。ただし、東京メトロの旅客営業規程第13条に渋谷駅 - 表参道駅間の運賃計算キロを1.3 km(半蔵門線の駅間キロ)とする旨が追加されたため、運賃計算上の最短経路が渋谷駅 - 表参道駅間を経由する駅相互間の運賃に変更なし<ref name=":5">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/library/ticket/terms/pdf/ryokyaku_eigyo_200131.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210130134808/https://www.tokyometro.jp/library/ticket/terms/pdf/ryokyaku_eigyo_200131.pdf|title=旅客営業規程|format=PDF|accessdate=2021-01-30|publisher=東京地下鉄|archivedate=2021-01-30}}</ref>。
** [[6月6日]]
*** 虎ノ門駅と同日新規開業する日比谷線[[虎ノ門ヒルズ駅]]との乗り換え業務を開始<ref group="報道" name="metroNews201901111_g50">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews201901111_g50.pdf|format=PDF|language=日本語|title=日比谷線に虎ノ門ヒルズ駅が誕生します! 2020年6月6日(土)開業|publisher=独立行政法人[[都市再生機構]]/東京地下鉄|date=2019-11-11|accessdate=2019-11-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191111065705/https://www.ur-net.go.jp/toshisaisei/press/lrmhph0000015qbk-att/20191111_toranomon_ur.pdf|archivedate=2019-11-11}}</ref><ref group="報道" name="yurakucho-l"/>。
*** 銀座駅と[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]][[銀座一丁目駅]]との乗り換え業務を開始<ref group="報道" name="yurakucho-l">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/5dd3751942166712a7d85b7fa75bf25f_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200514061131/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/5dd3751942166712a7d85b7fa75bf25f_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東京メトロ線でのお乗換えがさらに便利になります! 新たな乗換駅の設定(虎ノ門駅⇔虎ノ門ヒルズ駅、銀座駅⇔銀座一丁目駅)改札外乗換時間を30分から60分に拡大|publisher=東京地下鉄|date=2020-05-14|accessdate=2020-05-14|archivedate=2020-05-14}}</ref>。
== 運行形態 ==
平日朝夕ラッシュ時は最短2分間隔<ref name=上野駅時刻表>[https://www.tokyometro.jp/station/ueno/timetable/ginza/a/index.html 銀座線 上野駅 渋谷方面時刻表] 東京メトロ(2023年4月15日閲覧)</ref>、日中は4 - 5分間隔(コロナ禍前は3分間隔)で運行されている<ref name="マイナビ20230330" />。
全区間(浅草駅 - 渋谷駅間)直通運転を基本とする。全線の所要時間は33分である。
* 平日朝夕と終列車時間帯に上野駅 - 渋谷駅間の列車が設定されている<ref name=上野駅時刻表/>。また、早朝と深夜に浅草駅 - 上野駅間の区間運転列車が数本ある<ref>[https://www.tokyometro.jp/station/asakusa/timetable/ginza/a/index.html 銀座線 浅草駅 渋谷方面時刻表] 東京メトロ(2023年4月15日閲覧)</ref><ref>[https://www.tokyometro.jp/station/ueno/timetable/ginza/b/index.html 銀座線 上野駅 浅草方面時刻表] 東京メトロ(2023年4月15日閲覧)</ref>。
* 溜池山王駅で[[夜間滞泊|夜間留置]]した車両の出庫列車として、溜池山王駅発渋谷駅行きと虎ノ門駅発浅草駅行き(平日のみ)が早朝に各1本設定されている。
* 新橋駅で夜間留置した車両の出庫列車として、土休日の早朝に新橋駅発浅草駅行き列車が設定されている。
* [[大晦日]]から[[元日]]にかけての[[終夜運転]]では、浅草駅 - 上野駅間の区間運転列車と全区間直通運転列車(2019年12月31日 - 2020年1月1日のみ浅草駅 - 溜池山王駅間)が運転されており、両列車が重複する区間では7.5分間隔となる。区間列車の場合、上野駅では浅草方面のホームに到着して折り返す。
=== 運転時間と車両運用の沿革 ===
[[1993年]](平成5年)[[7月30日]]までは01系車両と旧形車両(先頭に[[営団2000形電車|2000形・中間に1500N形組込]])で運用し、保安装置は[[自動列車停止装置#打子式ATS|打子式ATS]]を使用してきた<ref name="jtoa1993-11">{{Cite journal|和書|author=船渡達雄(帝都高速度交通営団計画部施設課)|title=銀座線の速度向上 ー営団地下鉄ー|journal=運転協会誌|date=1993-11-01|volume=35|issue=第11号(通巻第413号)|pages=49 - 51|publisher=[[日本鉄道運転協会]]|issn=}}</ref>。最高速度は55 km/h、全線所要時分は34分30秒、最大運用数は36本(予備4本)であった<ref name="jtoa1993-11"/>。7月30日の[[終電]]後に保安装置の切り換えを実施し、翌[[7月31日]]からは[[自動列車制御装置#新CS-ATC|新CS-ATC]]化と全車両が01系に統一された<ref name="jtoa1993-11"/>。
旧形車引退後の1993年[[8月2日]]、01系統一による車両性能の向上(旧型車両と比較して、01系は35 km/h以上の加速性能が優れている<ref name="jtoa1993-11"/>)と曲線および分岐器通過速度の向上、保安装置の新CS-ATC化とTASC([[定位置停止装置|駅定置停止制御装置]])の使用開始を反映したダイヤ改正を実施した<ref name="eidan612"/><ref name="jtoa1993-11"/>。これにより最高速度は65 km/hに向上し、全線所要時分は4分短縮した30分30秒に<ref name="eidan612"/>、朝ラッシュ時に3本の列車増発を行っても、最大運用数は2本削減した34本(予備3本)となった<ref name="jtoa1993-11"/>。
銀座線のTASCは[[ホームドア]]などの設置を目的としたものではなく、銀座線の各駅はホーム有効長と列車の長さがほぼ同じで、[[運転士]]の個人差に左右されるブレーキ操作をTASCにより均一化することを目的としたものである<ref name="jtoa1995-5">{{Cite journal|和書|author=増子進(帝都高速度交通営団運輸本部施設課)|title=銀座線の駅定位置停止制御装置(TASC)|journal=運転協会誌|date=1995-05-01|volume=37|issue=第5号(通巻第431号)|pages=6 - 9|publisher=[[日本鉄道運転協会]]|issn=}}</ref><ref group="注釈">技量の高い運転士は無駄のないブレーキ操作で短い時分で停止できるが、技量の高くない運転士は無駄なブレーキ操作で停止に余計な時分がかかる。このブレーキ操作をTASCにより自動化することで、すべての列車で同じ時分で駅停車が可能となる。</ref>。TASCの停止精度は± 50 cm以内となっている<ref name="jtoa1995-5"/>。
その後、[[1997年]](平成9年)[[9月30日]]には[[溜池山王駅]]開業に伴い、全線所要時分は55秒増えた31分25秒となり、運用数が1本増えた35本(予備3本)となった。このため、第38編成が新製された<ref name="RF521_53">[[#RF521|『鉄道ファン』通巻521号]]、p.53。</ref>。
なお、01系の置き換えを目的として[[2011年]](平成23年)度より順次導入された1000系も当初は置き換え対象の01系と同数の38本の導入予定であったが<ref name="newsletter20170419">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/newsletter/metroNews20170419_l68.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181018043401/https://www.tokyometro.jp/corporate/newsletter/metroNews20170419_l68.pdf|title=「銀座線新型車両導入完了・他線導入計画」編|work=東京メトロニュースレター第68号|date=2017-04-19|archivedate=2018-10-18|accessdate=2020-05-22|publisher=東京地下鉄|format=PDF|language=日本語}}</ref><ref>鉄道図書刊行会『鉄道ピクトリアル』2012年12月臨時増刊号鉄道車両年鑑2012年版記事。</ref>、東京メトロが2016年3月28日に発表した、2016年度から2018年度までの3年間の中期経営計画『東京メトロプラン2018〜「安心の提供」と「成長への挑戦」〜』において、今後銀座線全駅に整備を予定しているホームドアの関係で各駅での停車時分が拡大し、全線所要時分・運用数がそれぞれ増えることになり、2本増の40本の導入へと変更された<ref name="metroplan2018">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/profile/plan/pdf/tmp2018.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160407111836/https://www.tokyometro.jp/corporate/profile/plan/pdf/tmp2018.pdf|title=東京メトログループ中期経営計画 東京メトロプラン2018 〜「安心の提供」と「成長への挑戦」〜|pages=15 - 16|archivedate=2016-04-07|accessdate=2022-06-09|publisher=東京地下鉄|format=PDF|language=日本語}}</ref><ref name="newsletter20170419"/>。
== 車両 ==
=== 現在の車両 ===
* [[東京メトロ1000系電車|1000系]] - 6両編成40本240両が在籍している。2013年春より量産を開始し、2017年3月をもって従来の01系をすべて置き換えた<ref group="報道" name="pr20120326"/><ref name="tokyometro20152701">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/profile/scheme/pdf/plan_h27_2.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190329085914/https://www.tokyometro.jp/corporate/profile/scheme/pdf/plan_h27_2.pdf|title=平成27年度(第12期)事業計画(説明資料)|archivedate=2019-03-29|accessdate=2021-01-30|publisher=東京地下鉄|format=PDF|language=日本語}}</ref>。
<gallery widths="200">
ファイル:Tokyo Metro 1000 ginza line.JPG|1000系<br />浅草 - 上野間開業時の車両1000形の塗色を再現したカラーフィルムによるラッピングが施されている。
</gallery>
=== 過去の車両 ===
* [[東京地下鉄道1000形電車|1000形]]
* [[東京地下鉄道1000形電車#1100形電車|1100形]]
* [[東京地下鉄道1200形電車|1200形]]
* [[東京高速鉄道100形電車|100形]]
* [[営団1300形電車|1300形]]
* [[営団1400形電車|1400形]]
* [[営団1500形電車|1500形]]
* [[営団1700形電車|1600形]]
* [[営団1700形電車|1700形]]
* [[営団1700形電車|1800形]]
* [[営団2000形電車#1900形|1900形]]
* [[営団2000形電車|2000形]]
* [[営団01系電車|01系]]<ref group="報道" name="01kei-last"/>
<gallery widths="200">
ファイル:Tokyometro01-138.jpg|01系第38編成<br />VVVFインバータ制御で、1997年に溜池山王駅開業にあわせ落成。
</gallery>
旧型車両の塗色は、[[1927年]]の開業用の車両の製作にあたって[[ベルリン地下鉄]]の[[淡黄色]]を参考とした<ref name="RJ794_111">{{Cite journal|和書|author=里田啓一(元営団地下鉄車両部長)|title=【連載】私の鉄道人生75年史-第10回 再び本社車両課に勤務(その2)-日比谷線3000系の設計-|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2007-10-01|volume=57|issue=第10号(通巻第794号)|page=111|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。しかし、戦中・戦後の混乱期に色見本を紛失したため、改めて記憶で色見本を製作したものがやや濃い目となり、その後作り直すたびにさらに濃くなったという<ref name="RJ794_111" />。
== 利用状況 ==
2022年(令和4年)度の最混雑区間(B線、赤坂見附駅 → 溜池山王駅間)の[[定員#混雑率・乗車率|混雑率]]は'''94%'''である<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001619625.pdf|title=最混雑区間における混雑率(令和4年度)|date=2023-07-14|accessdate=2023-08-02|publisher=国土交通省|page=3|format=PDF}}</ref>。
表参道駅は半蔵門線と、赤坂見附駅は丸ノ内線と[[対面乗り換え]]ができる駅であり、始発駅の渋谷駅のみならず各路線から新橋駅周辺への最短ルートとなるため混雑する。1988年度まで混雑率は230%を超えていたが、1989年に半蔵門線が三越前駅まで延伸開業してバイパス路線となったことにより、1990年度に200%を下回った。その後も輸送人員の減少により混雑が緩和し、2001年度に170%を下回った。逆方向も宇都宮線、高崎線、常磐線が乗り入れる上野駅のほか、東西線と接続する日本橋駅から混雑が激しくなるが、上野東京ラインの開業により上野駅 - 新橋駅間が当路線と並走するようになり、混雑は緩和されている。
2007年度の一日平均通過人員は、虎ノ門駅 - 新橋駅間が392,196人で最も多く、これに次ぐのは溜池山王 - 虎ノ門間の391,849人である。渋谷駅 - 表参道駅間は258,609人であるが表参道駅 - 外苑前駅間が321,942人に増加し、日本橋駅までは一日平均通過人員が30万人を超える。京橋駅 - 日本橋駅間は313,981人であるが日本橋駅 - 三越前駅間で252,874人と一気に減少する。その後も通過人員が減少するが上野広小路駅 - 上野駅間は206,943人であり、上野駅までは一日平均通過人員が20万人を超える。上野駅 - 稲荷町駅間で126,225人と一気に減少し、一日平均通過人員が最も少ない田原町駅 - 浅草駅間は90,362人である。1人平均乗車キロは3.6 kmであり、これは東京メトロ全線で最も短い<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.train-media.net/report/0810/metro.pdf|format=PDF|title=東京地下鉄 平成19年度1日平均乗降人員・通過人員|publisher=関東交通広告協議会|accessdate=2017-09-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190406020630/https://www.train-media.net/report/0810/metro.pdf|archivedate=2019-04-06}}</ref>。
近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center;"
|-
!rowspan="2"|年度
!colspan="4"|最混雑区間(B線、赤坂見附 → 溜池山王間)輸送実績<ref>『都市交通年報』各年度版</ref>
!rowspan="2"|特記事項
|-
! 運転本数:本 !! 輸送力:人 !! 輸送量:人 !! 混雑率:%
|-
|1963年(昭和38年)
| 29 || 17,226 || 38,158 || '''222'''
|style="text-align:left;"|最混雑区間は赤坂見附駅 → 虎ノ門駅間
|-
|1964年(昭和39年)
| 29 || 17,226 || style="background-color: #ccffcc;"|34,706 || style="background-color: #ccffcc;"|'''202'''
|style="text-align:left;"|1964年8月29日、日比谷線全線開業
|-
|1965年(昭和40年)
| 29 || 17,261 || 36,563 || '''212'''
|
|-
|1966年(昭和41年)
| 29 || 17,278 || 36,927 || '''214'''
|
|-
|1967年(昭和42年)
| 29 || 17,313 || 35,152 || '''203'''
|
|-
|1968年(昭和43年)
| 29 || 17,400 || 37,444 || '''215'''
|
|-
|1969年(昭和44年)
| 29 || 17,470 || 40,019 || '''229'''
|
|-
|1970年(昭和45年)
| 29 || 17,470 || 40,890 || '''234'''
|
|-
|1971年(昭和46年)
| 29 || 17,470 || 41,778 || '''239'''
|
|-
|1972年(昭和47年)
| 29 || 17,470 || 42,797 || '''245'''
|
|-
|1973年(昭和48年)
| 29 || 17,470 || 43,336 || '''248'''
|
|-
|1974年(昭和49年)
| 29 || 17,470 || 42,946 || '''246'''
|
|-
|1975年(昭和50年)
| 29 || 17,470 || 41,137 || '''235'''
|
|-
|1976年(昭和51年)
| 29 || 17,470 || 39,741 || '''227'''
|
|-
|1977年(昭和52年)
| 29 || 17,470 || 40,382 || '''231'''
|
|-
|1978年(昭和53年)
| 29 || 17,470 || 40,882 || '''234'''
|
|-
|1979年(昭和54年)
| 29 || 17,470 || 42,115 || '''241'''
|style="text-align:left;"|1979年9月21日、半蔵門線青山一丁目 - 永田町間開業
|-
|1980年(昭和55年)
| 29 || 17,470 || 41,314 || '''236'''
|
|-
|1981年(昭和56年)
| 29 || 17,470 || 42,223 || '''242'''
|
|-
|1982年(昭和57年)
| 29 || 17,470 || 42,407 || '''243'''
|style="text-align:left;"|1982年12月9日、半蔵門線永田町 - 半蔵門間開業
|-
|1983年(昭和58年)
| 29 || 17,470 || style="background-color: #ffcccc;"|44,336 || style="background-color: #ffcccc;"|'''254'''
|
|-
|1984年(昭和59年)
| 29 || 17,470 || 43,816 || '''251'''
|
|-
|1985年(昭和60年)
| 29 || 17,470 || 42,256 || '''242'''
|
|-
|1986年(昭和61年)
| 29 || 17,470 || 42,125 || '''241'''
|
|-
|1987年(昭和62年)
| 29 || 17,470 || 41,953 || '''240'''
|
|-
|1988年(昭和63年)
| 29 || 17,632 || 40,955 || '''232'''
|style="text-align:left;"|1989年1月26日、半蔵門線半蔵門 - 三越前間開業
|-
|1989年(平成元年)
| 29 || 17,632 || 36,265 || '''206'''
|
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
| 30 || 18,240 || 35,758 || '''196'''
|style="text-align:left;"|1990年11月28日、半蔵門線三越前 - 水天宮前間開業
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
| 30 || 18,240 || 31,626 || '''173'''
|
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
| 30 || 18,240 || 33,347 || '''183'''
|
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
| 30 || 18,240 || 32,072 || '''176'''
|
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
| 30 || 18,240 || 31,018 || '''170'''
|
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
| 30 || 18,240 || 31,086 || '''170'''
|
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
| 30 || 18,240 || 31,016 || '''170'''
|
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
| 30 || 18,240 || 32,175 || '''176'''
|style="text-align:left;"|最混雑区間を赤坂見附 → 溜池山王間に変更<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001491866.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220722234549/https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001491866.pdf|title=資料2:三大都市圏の主要区間の混雑率(2021)|date=2022-07-22|page=1|archivedate=2022-07-22|accessdate=2022-07-22|publisher=国土交通省鉄道局都市鉄道政策課|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>
|-
|1998年(平成10年)
| 30 || 18,240 || 32,451 || '''178'''
|
|-
|1999年(平成11年)
| 30 || 18,240 || 31,867 || '''175'''
|
|-
|2000年(平成12年)
| 30 || 18,240 || 31,625 || '''173'''
|
|-
|2001年(平成13年)
| 30 || 18,240 || || '''169'''
|
|-
|2002年(平成14年)
| 30 || 18,240 || 30,609 || '''168'''
|style="text-align:left;"|2003年3月19日、半蔵門線水天宮前 - 押上間開業
|-
|2003年(平成15年)
| 30 || 18,240 || 30,452 || '''167'''
|
|-
|2004年(平成16年)
| 30 || 18,240 || || '''162'''
|
|-
|2005年(平成17年)
| 30 || 18,240 || || '''164'''
|
|-
|2006年(平成18年)
| 30 || 18,240 || 30,122 || '''165'''
|
|-
|2007年(平成19年)
| 30 || 18,240 || 30,682 || '''168'''
|
|-
|2008年(平成20年)
| 30 || 18,240 || 30,219 || '''166'''
|
|-
|2009年(平成21年)
| 30 || 18,240 || 29,421 || '''161'''
|
|-
|2010年(平成22年)
| 30 || 18,240 || 29,153 || '''160'''
|
|-
|2011年(平成23年)
| 30 || 18,240 || 28,472 || '''156'''
|
|-
|2012年(平成24年)
| 30 || 18,240 || 27,898 || '''153'''
|style="text-align:left;"|2013年3月16日、東急東横線渋谷駅が地下化
|-
|2013年(平成25年)
| 30 || 18,240 || 27,882 || '''153'''
|
|-
|2014年(平成26年)
| 30 || 18,240 || 28,530 || '''156'''
|
|-
|2015年(平成27年)
| 30 || 18,240 || 28,891 || '''158'''
|
|-
|2016年(平成28年)
| 30 || 18,240 || 28,650 || '''158'''
|
|-
|2017年(平成29年)
| 30 || 18,300 || 29,241 || '''160'''
|
|-
|2018年(平成30年)
| 30 || 18,300 || 29,240 || '''160'''
|
|-
|2019年(令和元年)
| 30 || 18,300 || 29,264 || '''160'''
|
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
| 30 || 18,300 || 17,915 || '''98'''
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
| 30 || 18,300 || 16,883 || style="background-color: #ccffff;"|'''92'''
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
| 26 || 15,860 || style="background-color: #ccffff;"|14,908 || '''94'''
|
|}
== 駅一覧 ==
<!--接続路線の事業者名・駅番号は付けたほうがよいかと-->
* 駅番号はB線方向(渋谷駅から浅草駅の方向)に増加。
* 全駅が[[東京都]]に所在。
* 渋谷駅のみ高架駅で、他の駅は全て地下駅となっている。
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!rowspan="2" style="width:4em; border-bottom:3px solid #ff9500;"|駅番号
!rowspan="2" style="width:7em; border-bottom:3px solid #ff9500;"|駅名
!colspan="2" style="white-space:nowrap;"|営業キロ
!colspan="2" style="white-space:nowrap;"|運賃計算キロ
!rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #ff9500;"|接続路線
!rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #ff9500;"|所在地
|-
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #ff9500;"|駅間
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #ff9500;"|累計
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #ff9500;"|駅間
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #ff9500;"|累計
|-
!G-01
|[[渋谷駅]]
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|0.0
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|0.0
|[[東京地下鉄]]:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hanzōmon Line.svg|18px|Z]] [[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]] (Z-01)・[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Fukutoshin Line.svg|18px|F]] [[東京メトロ副都心線|副都心線]] (F-16)(改札外乗り換え)<ref group="*" name="shibuya">渋谷駅では銀座線と半蔵門線は別の駅として扱われる。そのため、銀座線と東急田園都市線の乗り換えは半蔵門線との対面乗り換えが可能な表参道駅が案内されている。一方、銀座線と副都心線を乗り換える時は改札外に出ることになるが、60分の乗り換え時間が設けられている。</ref><br />[[東日本旅客鉄道]]:[[ファイル:JR JY line symbol.svg|18px|JY]] [[山手線]] (JY 20)・[[ファイル:JR JA line symbol.svg|18px|JA]] [[埼京線]] (JA 10)・[[ファイル:JR JS line symbol.svg|18px|JS]] [[湘南新宿ライン]] (JS 19)<br />[[東急電鉄]]:[[ファイル:Tokyu TY line symbol.svg|18px|TY]] [[東急東横線|東横線]] (TY01)、[[ファイル:Tokyu DT line symbol 01.svg|18px|DT]] [[東急田園都市線|田園都市線]] (DT01)<ref group="*" name="shibuya" /><br />[[京王電鉄]]:[[ファイル:Number prefix Keio-Inokashira-line.svg|18px|IN]] [[京王井の頭線|井の頭線]] (IN01)
|[[渋谷区]]
|-
!G-02
|[[表参道駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|1.3
|東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|18px|C]] [[東京メトロ千代田線|千代田線]] (C-04)・[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hanzōmon Line.svg|18px|Z]] 半蔵門線 (Z-02)
|rowspan="4"|[[港区 (東京都)|港区]]
|-
!G-03
|[[外苑前駅]]
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|1.9
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|2.0
|
|-
!G-04
|[[青山一丁目駅]]
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|2.6
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|2.7
|東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hanzōmon Line.svg|18px|Z]] 半蔵門線 (Z-03)<br />[[都営地下鉄]]:[[ファイル:Toei Oedo line symbol.svg|18px|E]] [[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]] (E-24)
|-
!G-05
|[[赤坂見附駅]]
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|3.9
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|4.0
|東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|18px|M]] [[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]] (M-13)・[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|18px|Y]] [[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]([[永田町駅]]:Y-16)・[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hanzōmon Line.svg|18px|Z]] 半蔵門線(永田町駅:Z-04)・[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|18px|N]] [[東京メトロ南北線|南北線]](永田町駅:N-07)
|-
!G-06
|[[溜池山王駅]]
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|4.6
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|4.9
|東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|18px|N]] 南北線 (N-06)・[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|18px|M]] 丸ノ内線([[国会議事堂前駅]]:M-14)・[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|18px|C]] 千代田線(国会議事堂前駅:C-07)
|style="white-space:nowrap;"|[[千代田区]]<br /><ref group="*">駅所在地は千代田区とされているが、銀座線のホームは港区にある。</ref>
|-
!G-07
|[[虎ノ門駅]]
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:right;"|5.4
|style="text-align:right;"|0.6
|style="text-align:right;"|5.5
|東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|18px|H]] [[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]([[虎ノ門ヒルズ駅]]:H-06)<ref group="*" name="norikae20200606"/>
|rowspan="2"|港区
|-
!G-08
|[[新橋駅]]
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:right;"|6.2
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:right;"|6.3
|都営地下鉄:[[ファイル:Toei Asakusa line symbol.svg|18px|A]] [[都営地下鉄浅草線|浅草線]] (A-10)<br />東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR JY line symbol.svg|18px|JY]] 山手線 (JY 29)・[[ファイル:JR JK line symbol.svg|18px|JK]] [[京浜東北線]] (JK 24)・[[ファイル:JR JT line symbol.svg|18px|JT]] [[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]〈[[上野東京ライン]]〉(JT 02)・[[ファイル:JR JO line symbol.svg|18px|JO]] [[横須賀・総武快速線|横須賀線]] (JO 18)<br />[[ゆりかもめ (企業)|ゆりかもめ]]:[[ファイル:Yurikamome line symbol.svg|18px|U]] [[ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線|東京臨海新交通臨海線]] (U-01)
|-
!G-09
|[[銀座駅]]<br />{{smaller|{{要出典範囲|date=2023年11月|([[松屋 (百貨店)|松屋]]・[[三越]]前)}}}}
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|7.1
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|7.2
|東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|18px|M]] 丸ノ内線 (M-16)・[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|18px|H]] 日比谷線 (H-09)・[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|18px|Y]] 有楽町線([[銀座一丁目駅]]:Y-19){{Refnest|group="*"|name="norikae20200606"|2020年6月6日から乗換駅指定<ref group="報道" name="yurakucho-l"/>。}}<br />''地下通路で[[東銀座駅]]・[[日比谷駅]]・[[有楽町駅]]に連絡''<ref group="*">東銀座駅・日比谷駅・有楽町駅との連絡業務は行っていない。</ref>
|rowspan="4"|[[中央区 (東京都)|中央区]]
|-
!G-10
|[[京橋駅 (東京都)|京橋駅]]<br />{{smaller|{{要出典範囲|date=2023年11月|([[明治屋]]前)}}}}
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|7.8
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|7.9
|
|-
!G-11
|[[日本橋駅 (東京都)|日本橋駅]]<br />{{smaller|{{要出典範囲|date=2023年11月|([[髙島屋]]前)}}}}
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|8.5
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|8.6
|東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|18px|T]] [[東京メトロ東西線|東西線]] (T-10)<br />都営地下鉄:[[ファイル:Toei Asakusa line symbol.svg|18px|A]] 浅草線 (A-13)<br />''地下通路で[[茅場町駅]]に連絡''<ref group="*">茅場町駅との連絡業務は行っていない。</ref>
|-
!G-12
|[[三越前駅]]
|style="text-align:right;"|0.6
|style="text-align:right;"|9.1
|style="text-align:right;"|0.6
|style="text-align:right;"|9.2
|東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hanzōmon Line.svg|18px|Z]] 半蔵門線 (Z-09)(改札外乗り換え)<br />東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR JO line symbol.svg|18px|JO]] [[横須賀・総武快速線|総武線(快速)]]([[新日本橋駅]]:JO 20)
|-
!G-13
|[[神田駅 (東京都)|神田駅]]
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|9.8
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|9.9
|東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR JY line symbol.svg|18px|JY]] 山手線 (JY 02)・[[ファイル:JR JK line symbol.svg|18px|JK]] 京浜東北線 (JK 27)・[[ファイル:JR JC line symbol.svg|18px|JC]] [[中央線快速|中央線(快速)]](JC 02)
|rowspan="2"|千代田区
|-
!G-14
|[[末広町駅 (東京都)|末広町駅]]
|style="text-align:right;"|1.1
|style="text-align:right;"|10.9
|style="text-align:right;"|1.1
|style="text-align:right;"|11.0
|
|-
!G-15
|[[上野広小路駅]]<br />{{smaller|{{要出典範囲|date=2023年11月|([[松坂屋]]前)}}}}
|style="text-align:right;"|0.6
|style="text-align:right;"|11.5
|style="text-align:right;"|0.6
|style="text-align:right;"|11.6
|東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|18px|H]] 日比谷線([[仲御徒町駅]]:H-17)(改札外乗り換え){{Refnest|group="*"|2000年12月12日から乗換駅指定<ref group="報道" name="pr20001115"/>。}}<br />都営地下鉄:[[ファイル:Toei Oedo line symbol.svg|18px|E]] 大江戸線([[上野御徒町駅]]:E-09)
|rowspan="5"|[[台東区]]
|-
!G-16
|[[上野駅]]
|style="text-align:right;"|0.5
|style="text-align:right;"|12.0
|style="text-align:right;"|0.5
|style="text-align:right;"|12.1
|東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|18px|H]] 日比谷線 (H-18)(改札外乗り換え)<br />東日本旅客鉄道:[[ファイル:Shinkansen-E.svg|18px|新幹線]] [[東北新幹線]]・[[北海道新幹線]]・[[山形新幹線]]・[[秋田新幹線]]・[[上越新幹線]]・[[北陸新幹線]]・[[ファイル:JR JY line symbol.svg|18px|JY]] 山手線 (JY 05)・[[ファイル:JR JK line symbol.svg|18px|JK]] 京浜東北線 (JK 30)・[[ファイル:JR JU line symbol.svg|18px|JU]] [[宇都宮線]]・[[高崎線]] (JU 02)・[[ファイル:JR JJ line symbol.svg|18px|JJ]] [[常磐線]]([[常磐快速線|快速]])(JJ 01)・{{Color|purple|■}}上野東京ライン<br />[[京成電鉄]]:[[ファイル:Number prefix Keisei.svg|18px|KS]] [[京成本線|本線]]([[京成上野駅]]:KS01)
|-
!G-17
|[[稲荷町駅 (東京都)|稲荷町駅]]
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|12.7
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|12.8
|
|-
!G-18
|[[田原町駅 (東京都)|田原町駅]]
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|13.4
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|13.5
|
|-
!G-19
|[[浅草駅]]
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:right;"|14.2
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:right;"|14.3
|都営地下鉄:[[ファイル:Toei Asakusa line symbol.svg|18px|A]] 浅草線 (A-18)<br />[[東武鉄道]]:[[ファイル:Tobu Skytree Line (TS) symbol.svg|18px|TS]] [[東武伊勢崎線|伊勢崎線(東武スカイツリーライン)]](TS-01)
|}
{{Reflist|group="*"}}
== 発車メロディ ==
2012年10月30日・31日に溜池山王・銀座・上野・浅草の4駅において、従来のブザーに代わり[[発車メロディ]](発車サイン音)の使用を開始した<ref group="報道" name="tokyometro20121024">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/metroNews20121024_ginzamelody.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190511235621/https://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/metroNews20121024_ginzamelody.pdf|format=PDF|language=日本語|title=〜街にゆかりのあるメロディがホームを彩ります〜 銀座線の4駅に街のイメージに合った発車合図メロディを導入します!|publisher=東京地下鉄|date=2012-10-24|accessdate=2020-03-07|archivedate=2019-05-11}}</ref>。その後、2015年6月18日から20日にかけて神田・末広町・上野広小路・稲荷町・田原町の5駅に、さらに2018年8月から11月にかけて残りの10駅にも順次導入された。銀座駅・日本橋駅・三越前駅・神田駅・上野駅・浅草駅で使用されているメロディは、その駅や街にゆかりのある楽曲をアレンジしたものである。
また、2019年3月26日からは、放送装置が更新された車両より順次[[乗車促進音|車載メロディ]]の使用を開始している。
メロディの制作は、銀座駅・上野駅・浅草駅および2018年導入の10駅と車載メロディは[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]<ref name=":3">{{Cite web|和書|url=http://www.switching.co.jp/pressrelease/352|title=東京メトロ銀座線発車サイン音を制作|date=2018-08-27|accessdate=2018-09-01|publisher=株式会社スイッチ}}</ref><ref name=":0">{{Cite web|和書|url=http://www.switching.co.jp/sound/index3.html|title=音源リスト|東京メトロ|accessdate=2018-03-26|publisher=株式会社スイッチ}}</ref><ref name=":8">{{Cite web|和書|title=コンテンツを探す|url=https://www.te2do.jp/cntsearch/station/detail/?line_cd=28001&station_cd=2800119&xid=|website=鉄道モバイル|accessdate=2020-04-02|language=ja|publisher=株式会社スイッチ}}</ref><ref name=":6">{{Cite web|和書|title=メトロ銀座線車載メロディ|url=https://blog.goo.ne.jp/tetsunomusician/e/8d4a2a0d665cad0fd7471cf24c3604e9|author=[[塩塚博]]|website=☆♪☆ 鉄のみゅーじしゃん ☆♪☆|accessdate=2019-08-03|language=ja}}</ref>、2015年導入の5駅はスタマック<ref name=":2">{{Cite web|和書|url=http://www.stomach.co.jp/services.html|title=業務内容|accessdate=2019-01-19|publisher=有限会社スタマック}}</ref>、溜池山王駅は[[ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス|エピキュラス]]<ref name=":4">{{Cite web|和書|url=http://epicurus.co.jp/work/work_music01.html|title=音楽制作|accessdate=2018-09-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161017120942/http://epicurus.co.jp/work/work_music01.html|archivedate=2016-10-17|deadlinkdate=2018-9-1|publisher=株式会社エピキュラス}}</ref><ref group="注釈">2017年4月1日に[[ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス]]に吸収合併。</ref>が担当し、[[塩塚博]]、[[福嶋尚哉]](以上スイッチ)、[[岡村みどり]]、[[薄井由行]]、[[権藤知彦|ゴンドウトモヒコ]]、[[山口優]]、[[永田太郎]](以上スタマック)<ref>{{Cite web|和書|title=【news】東京メトロ銀座線 発車メロディ|url=http://www.manuera.com/?menu=news&id=436|website=Manual of Errors Artists|accessdate=2019-07-21|publisher=有限会社マニュアル・オブ・エラーズ・アーティスツ}}</ref>、[[鈴木ヤスヨシ]](エピキュラス)<ref name=":7">{{Cite web|和書|title=yasuyoshi-suzuki {{!}} WORKS|url=https://www.suzukiyasuyoshi.com/works|website=鈴木ヤスヨシ|accessdate=2019-07-21|language=ja}}</ref>の8名が作曲および編曲を手掛けた。
{| class="wikitable"
|-
!rowspan="2"|駅名
!colspan="2"|曲名
!rowspan="2"|導入年月日
!rowspan="2"|制作会社
|-
!A線(渋谷方面)
!B線(浅草方面)
|-style="border-top:3px solid #ff9500;"
!渋谷
|style="text-align:center;"| ―
|1:道はここから【福嶋】<br />2:アンディーン【福嶋】
|1:2020年1月3日<br />2:2018年11月22日
| rowspan="5" |スイッチ<ref name=":3" /><ref name=":8" />
|-
!表参道駅
|4:永遠に続く道【塩塚】
|5:早瀬【福嶋】
|2018年11月22日
|-
!外苑前駅
|1:ようこそ!【福嶋】
|2:Ready To Go【塩塚】
|2018年8月22日
|-
!青山一丁目駅
|1:いつかきっと【塩塚】
|2:コンシェルジュ【福嶋】
|2018年8月30日
|-
!赤坂見附駅
|1:星を探して【塩塚】
|3:オレンジピール【福嶋】
|2018年7月27日
|-
!溜池山王駅
|1:(オリジナル曲)【鈴木】
|2:(オリジナル曲)【鈴木】
|2012年10月31日
|エピキュラス<ref name=":4" /><ref name=":7" />
|-
!虎ノ門駅
|1:シトラスの香り【塩塚】
|2:玉紫陽花【福嶋】
|2018年11月22日
| rowspan="6" |スイッチ<ref group="報道" name="tokyometro20121024" /><ref name=":0" /><ref name=":3" />
|-
!新橋駅
|1:スタートライン【塩塚】
|2:Fast River【福嶋】
|2018年11月16日
|-
!銀座駅
|1:[[銀座カンカン娘#主題歌|銀座カンカン娘]]([[Aメロ]])【福嶋】
|2:銀座カンカン娘([[サビ]])【福嶋】
|2012年10月31日
|-
!京橋駅
|1:蜜柑色の夢【福嶋】
|2:雪月花【福嶋】
|2018年11月22日
|-
!日本橋駅
|1:[[お江戸日本橋]] verC【福嶋】
|2:お江戸日本橋 verD【塩塚】
| rowspan="2" |2018年8月30日
|-
!三越前駅
|1:お江戸日本橋 verA【福嶋】
|2:お江戸日本橋 verB【塩塚】
|-
!神田駅
|1:[[お祭りマンボ]]【永田】
|2:お祭りマンボ【永田】
|2015年6月20日
| rowspan="3" |スタマック<ref group="報道" name=":1">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2015/article_pdf/metroNews2015014_g47.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180630134624/http://www.tokyometro.jp/news/2015/article_pdf/metroNews2015014_g47.pdf|format=PDF|language=日本語|title=神田駅「お祭りマンボ」採用 銀座線の発車メロディを拡大します。|publisher=東京地下鉄|date=2015-05-14|accessdate=2020-11-14|archivedate=2018-06-30}}</ref><ref name=":2" />
|-
!末広町駅
|1:(オリジナル曲)【山口】
|2:(オリジナル曲)【山口】
|2015年6月19日
|-
!上野広小路駅
|1:(オリジナル曲)【ゴンドウ】
|2:(オリジナル曲)【ゴンドウ】
|2015年6月18日
|-
!上野駅
|1:[[さくら (森山直太朗の曲)|さくら(独唱)]] verA【塩塚】
|2:さくら(独唱) verB【塩塚】
|2012年10月30日
|スイッチ<ref group="報道" name="tokyometro20121024" /><ref name=":0" />
|-
!稲荷町駅
|1:(オリジナル曲)【薄井】
|2:(オリジナル曲)【薄井】
|2015年6月17日
| rowspan="2" |スタマック<ref group="報道" name=":1" /><ref name=":2" />
|-
!田原町駅
|1:(オリジナル曲)【岡村】
|2:(オリジナル曲)【山口】
|2015年6月16日
|-
!浅草駅
|1:[[花 (瀧廉太郎)|花]] verA【塩塚】<br />2:花 verB【福嶋】
|style="text-align:center;"| ―
|2012年10月30日
| rowspan="2" |スイッチ<ref group="報道" name="tokyometro20121024" /><ref name=":0" /><ref name=":6" />
|-
!(車載メロディ)
|水の都【塩塚】
|小鳥のワルツ【塩塚】
|2019年3月26日
|}
* 上表の数字は各駅の番線、【】内は作曲者(銀座・日本橋・三越前・神田・上野・浅草の各駅は編曲者)を表す。
== 今後の予定 ==
* 2017年度より[[ホームドア]]の設置工事を行い<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://contents.xj-storage.jp/xcontents/67420/36bb6d99/e876/4502/98f3/172d76ffcd10/20160830140747364s.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190326053023/http://contents.xj-storage.jp/xcontents/67420/36bb6d99/e876/4502/98f3/172d76ffcd10/20160830140747364s.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東京メトロ銀座線のホームドア・可動ステップを受注いたしました|publisher=京三製作所|date=2016-09-01|accessdate=2021-02-14|archivedate=2019-03-26}}</ref>、2018年8月5日までに改良工事中の渋谷駅を除く全駅で稼働を開始した。このうち、2015年12月20日に上野駅1番線に透過型ハーフハイトタイプのホームドアが先行して設置され、2016年3月12日に稼働を開始している<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20151207_99.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200529155506/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20151207_99.pdf|format=PDF|language=日本語|title=銀座線上野駅1番ホーム(渋谷方面)にホームドア・可動ステップを設置します|publisher=東京地下鉄|date=2015-12-07|accessdate=2020-11-14|archivedate=2020-05-29}}</ref><ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://contents.xj-storage.jp/xcontents/67420/0177fac2/5137/4ad8/9882/a005f10f0e8b/20160614160941892s.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210214142004/https://contents.xj-storage.jp/xcontents/67420/0177fac2/5137/4ad8/9882/a005f10f0e8b/20160614160941892s.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東京メトロ銀座線上野駅に透過型ホームドア・可動ステップを納入いたしました|publisher=京三製作所|date=2016-06-15|accessdate=2021-02-14|archivedate=2021-02-14}}</ref>。こうした取り組みは、前述の全車両(240両)更新などを含めて、2017年12月30日の開通90年を視野に全面改修として実施している。総投資額は1000億円を超えるという<ref group="新聞">{{Cite news|和書|title=銀座線90周年 全面改修 東京メトロ、バリアフリーなど|newspaper=[[日経産業新聞]]|publisher=[[日本経済新聞社]]|date=2017-10-27|page=20}}</ref>。最後の未設置駅となった渋谷駅もホーム移設後の2020年度に設置され、全駅への整備が完了している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/newsletter/metroNews20200904_l79_2.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201219054855/https://www.tokyometro.jp/corporate/newsletter/metroNews20200904_l79_2.pdf|title=「駅の安心・安全設備」編|page=1|work=東京メトロニュースレター第79号|date=2020-09-04|archivedate=2020-12-19|accessdate=2020-12-19|publisher=東京地下鉄|format=PDF|language=日本語}}</ref>。
* 遅延吸収能力の改善等によりさらなる安定輸送の向上を図るため、浅草駅構内の折り返し線の増設工事が進められている<ref name="tokyometro20152701" />。
* 新橋駅では、1番線ホームを延伸し、階段・エスカレーター・エレベーターを再配置すると共に、ホームを拡幅する工事が行われている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tokyometro.jp/ginza/about/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190606172342/http://www.tokyometro.jp/ginza/about/|title=5.新橋駅の大規模改良|work=銀座線リニューアル情報サイト|archivedate=2019-06-06|accessdate=2021-02-07|publisher=東京地下鉄|language=日本語|deadlinkdate=2021年2月}}</ref>。
* 丸ノ内線とともに走行安定性向上のため、第三軌条に給電する標準電圧を600 Vから750 Vに昇圧することが発表されたが具体的な実施時期は示されていない<ref name="metroplan2018" />。
=== 渋谷駅移設工事 ===
[[ファイル:Shibuya Station-G1d.jpg|thumb|160px|線路移設工事中の渋谷駅(2018年5月3日)]]
[[ファイル:Shibuya_Station-G7c.jpg|thumb|200px|新ホーム上屋工事の様子(2019年1月26日)]]
渋谷駅は、[[東急百貨店東横店]]の西館3階に設けられていた相対式ホーム2面2線が使用されてきたが、渋谷駅街区基盤整備の一環で同百貨店を解体するのに併せ、元位置から東へ130 mの[[明治通り (東京都)|明治通り]]の上空に、幅12 mの島式ホーム1面2線を設ける工事が実施された<ref name="newsletter20140717">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/newsletter/images/newsletter20140717_koji.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210130185853/https://www.tokyometro.jp/corporate/newsletter/images/newsletter20140717_koji.pdf|title=「銀座線渋谷駅改良工事」編|work=東京メトロニュースレター|date=2014-07-17|archivedate=2021-01-30|accessdate=2021-02-04|publisher=東京地下鉄|format=PDF|language=日本語}}</ref>。
この工事の一環として、新しいホームを築造するスペースを確保するため、渋谷 - 表参道間を終日運休して明治通り上空での「線路切替工事」が2016年より段階的に実施された。
* 工事日程
** 第1回:[[2016年]][[11月5日]] - [[11月6日|6日]]・[[11月19日|19日]] - [[11月20日|20日]]に2日間×2回の計4日間で実施。
*** 「作業スペースの確保」を目的に、渋谷駅方面行きと浅草駅方面行きの線路を南側に3.5 m移動<ref group="報道">{{Cite press release|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews160912_3.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160913100443/http://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews160912_3.pdf|format=PDF|language=日本語|title=銀座線渋谷駅 線路切替工事のため 銀座線 渋谷{{~}}表参道間、青山一丁目{{~}}溜池山王間を運休します 1回目 2016年11月5日(土)〜6日(日)2日間終日 2回目 2016年11月19日(土)〜20日(日)2日間終日|publisher=東京地下鉄|date=2016-09-13|accessdate=2020-11-15|archivedate=2016-09-13}}</ref>。
** 第2回:[[2018年]][[5月3日]] - [[5月5日|5日]]の3日間で実施<ref group="報道" name="release20180222">{{Cite press release|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20180222_16_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190830103546/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20180222_16_1.pdf|title=銀座線渋谷駅 移設に伴う線路切替工事のため 銀座線渋谷〜表参道駅間、青山一丁目〜溜池山王駅間を運休します 2018年5月3日(木・祝)〜5日(土・祝)3日間終日|language=日本語|format=PDF|publisher=東京地下鉄|date=2018-02-22|archivedate=2019-08-30|accessdate=2020-11-14}}</ref>。
*** 「島式ホームの場所の確保」を目的に、線路の切り替え区間の延長415 mの間で、二つの線路を両側に最大4.6 m動かして間隔を広げた。同時に明治通りを跨ぐ箇所の縦断勾配を緩和するため、線路の高さを最大で2 m下げた。渋谷駅を東側に130 m離れた明治通りの上空にプラットホームを移動する<ref group="報道" name="release20180222"/>。
** 第3回:[[2019年]][[12月28日]] - [[2020年]][[1月2日]]の6日間で実施<ref group="報道" name="2019-10-28"/>。
*** 「新ホームの供用開始」を目的に、渋谷行き線路をさらに南側に移設すると共に浅草行き線路も現ホームを一部を撤去の上で北側に一部移設。これらと平行してホームを築造する<ref group="報道" name="2019-10-28">{{Cite press release|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20191028_105.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200117181713/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20191028_105.pdf|format=PDF|language=日本語|title=銀座線渋谷駅が生まれ変わります! 2020年1月3日(金)に新駅舎供用開始|publisher=東京地下鉄|date=2019-10-28|accessdate=2020-03-12|archivedate=2020-01-17}}</ref>。この過程で、かつての渋谷行き線路は旧[[上野検車区渋谷分室]]への線路と分離され行き止まり構造となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20190612_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200207222236/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20190612_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=銀座線渋谷駅移設に伴う線路切替・ホーム移設工事のため銀座線渋谷{{~}}表参道駅間、青山一丁目{{~}}溜池山王駅間を運休します|publisher=東京地下鉄|date=2019-06-12|accessdate=2020-11-14|archivedate=2020-02-07}}</ref>。
*** なお、この工程は当初「南側への移設と新ホーム供用開始」「北側への移設とホーム拡幅」の2段階に分けて行われることが想定されていたが<ref group="報道" name="release20180222"/>、これらの工程を一括して実施し、2020年1月3日より渋谷駅新駅舎での営業を開始した<ref group="報道" name="2019-10-28" />。
* 工事施工当日の運行計画 [[File:Single line parallel(Tokyo-métro Ginza line).png|thumb|200px|工事当日、外苑前駅を逆走で通過する回送列車]]
** 渋谷駅 - 表参道駅間及び、青山一丁目駅 - 赤坂見附駅 - 溜池山王駅間を終日運休。渋谷駅と赤坂見附駅の銀座線ホームは閉鎖。
** 表参道駅 - 青山一丁目駅間及び、溜池山王駅 - 上野駅 - 浅草駅間の2区間において折り返し運転。
** 並行して、[[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]]・[[東京メトロ南北線|南北線]]・[[東京メトロ千代田線|千代田線]]・[[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]]および[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]等の他社線を使用しての[[振替輸送]]も実施<ref>[https://www.tokyometro.jp/ticket/guide/substitute/ginza.html 銀座線支障時の振り替え輸送区間] - 東京メトロ公式サイト</ref>。半蔵門線は早朝・深夜に臨時列車を運転。
** 溜池山王駅 - 浅草駅間は、溜池山王駅渋谷寄りの折り返し設備を利用。運行区間の短縮以外はほぼ平常通り。
** 表参道駅 - 外苑前駅 - 青山一丁目駅間は、乗り換え路線がない上、周辺で各種イベントが開催される外苑前駅の封鎖を避けるため運転されることになった。同区間を含む溜池山王駅 - 渋谷駅間には折り返し設備がないため、表参道発青山一丁目行と青山一丁目発表参道行を[[単線並列]]とし、約12分間隔で折り返し運転。終点到着後は回送扱いで本線を逆走し、青山一丁目駅・表参道駅に戻る形で運転した<ref>[http://response.jp/article/2016/11/05/284873.html 東京メトロ銀座線が区間運休…単線並列で折り返し] - レスポンス、2016年11月5日</ref>。
2020年1月3日、始発電車より渋谷駅新駅舎の供用が開始され、開業記念式典が催された<ref group="新聞" name="Asahi 20200103">{{Cite news|url=https://www.asahi.com/sp/articles/ASMDS5JVBMDSUTIL039.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200103015444/https://www.asahi.com/articles/ASMDS5JVBMDSUTIL039.html|title=東京メトロ銀座線渋谷駅の新駅舎が開業 ホーム幅2倍に|newspaper=朝日新聞|publisher=朝日新聞社|date=2020-01-03|accessdate=2020-01-03|archivedate=2020-01-03}}</ref>。移設によって銀座線渋谷駅 - 表参道駅の駅間キロは1.3 kmから1.2 kmに短縮されたが、東京メトロの旅客営業規程第13条に渋谷駅 - 表参道駅間の運賃計算キロを1.3 km(半蔵門線の駅間キロ)とする旨が追加されたため、運賃計算上の最短経路が渋谷駅 - 表参道駅間を経由する駅相互間の運賃に変更はなかった<ref name=":5" />。駅移設後もエレベーターの増設やホームドア設置などの工事が、同年7月の[[2020年東京オリンピック|東京オリンピック]]当初の開幕直前までを工期として進められた<ref group="新聞" name="Asahi 20200103"/>。
== 選奨土木遺産・近代化産業遺産 ==
[[ファイル:TRT-1001-Tokyo-Metro-Museum.jpg|thumb|right|240px|地下鉄博物館に復元保存されている1000形1001号車(重要文化財)]]
[[2008年]][[8月29日]]に、[[土木学会|社団法人土木学会]]から銀座線浅草駅 - 新橋駅間が鉄構框構造やアーチ構造など「土木的に貴重な構造物が多数存在する」との理由で、[[土木学会選奨土木遺産]]に選ばれた<ref group="報道" name="pr20081014"/>。同年[[11月18日]]の「[[日本の記念日一覧#11月|土木の日]]」に同学会から認定書と銘板が贈呈された<ref group="報道" name="pr20081014"/><ref group="新聞" name="yomiuri20081021">{{Cite news|title=銀座線が「土木遺産」に|newspaper=読売新聞|publisher=読売新聞社|date=2008-10-21|page=16 夕刊}}</ref>。
また、[[2009年]]には[[経済産業省]]から銀座線(全線)と旧新橋駅(東京高速鉄道時代に営業していたホーム)、銀座線での運用から退いた後に[[地下鉄博物館]]で保存されている[[東京地下鉄道1000形電車|1000形]]1001号車・[[東京高速鉄道100形電車|100形]]129号車などが「[[近代化産業遺産]]続33」に認定され<ref group="報道" name="pr20090209"/>、次いで[[2017年]]には1000形1001号車が[[重要文化財]]に指定及び[[機械遺産]]に認定された<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20170929_95_2.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201213081024/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20170929_95_2.pdf|format=PDF|language=日本語|title=地下鉄博物館所蔵「日本初の地下鉄車両1001号車」が国の重要文化財に指定されました! 鉄道用電気車両(電車)、東京メトログループ所有物として初の指定|publisher=東京地下鉄|date=2017-09-29|accessdate=2020-12-14|archivedate=2020-12-13}}</ref><ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20170724_71_2.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201213080857/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20170724_71_2.pdf|format=PDF|language=日本語|title=地下鉄博物館所蔵の「日本初の地下鉄車両1001号車」が機械遺産に認定されます 東京メトログループ所有物では初認定となります|publisher=東京地下鉄|date=2017-07-25|accessdate=2020-12-14|archivedate=2020-12-13}}</ref><ref>{{国指定文化財等データベース|201|00011779|東京地下鉄道一〇〇一号電車}}、2020年4月12日閲覧。</ref>。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
=== 報道発表資料 ===
{{Reflist|group="報道"|2}}
=== 新聞記事 ===
{{Reflist|group="新聞"}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|title=帝都高速度交通営団史|publisher=東京地下鉄|date=2004-12|ref=eidan}}
* {{Cite book|和書|title=営団地下鉄五十年史|publisher=帝都高速度交通営団|date=1991-07-04|ref=eidan50}}
* {{Cite book|和書|author=中村建治|date=2007-07-01|title=メトロ誕生―地下鉄を拓いた早川徳次と五島慶太の攻防|publisher=[[交通新聞社]]|isbn=9784330936079|ref=}}
* {{Cite book|和書|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1235044?tocOpened=1|title=東京地下鉄道史. 乾|author=東京地下鐵道|authorlink=東京地下鉄道|publisher=[[実業之日本社]]|id={{全国書誌番号|47011566}}|date=1934-06-20|ref=乾}}
* {{Cite book|和書|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1235045?tocOpened=1|title=東京地下鉄道史. 坤|author=東京地下鐵道|publisher=実業之日本社|id={{全国書誌番号|47011567}}|date=1934-06-20|ref=坤}}
* {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_marunouchi.html/|date=1960-03-31|title=東京地下鉄道丸ノ内線建設史(上巻)|publisher=帝都高速度交通営団|ref=Morunouchi-Con1}}
* {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_marunouchi.html/|date=1960-03-31|title=東京地下鉄道丸ノ内線建設史(下巻)|publisher=帝都高速度交通営団|ref= Marunouchi-Con2}}
* {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_hibiya.html/|date=1969-01-31|title=東京地下鉄道日比谷線建設史|publisher=帝都高速度交通営団|ref=Hibiya-Con}}
* {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_touzai.html/|date=1978-07-31|title=東京地下鉄道東西線建設史|publisher=帝都高速度交通営団|ref=Tozai-Const}}
* {{Cite journal|和書|author=増田泰博、佐藤公一、楠居利彦|date=2004-09-01|title=特集:東京メトロ|journal=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]|volume=44|issue=第9号(通巻521号)|pages=pp.9 - 68|oclc=61102288|publisher=[[交友社]]|ref=RF521}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Tokyo Metro Ginza Line}}
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[早川徳次 (東京地下鉄道)|早川徳次(東京地下鉄道)]]
* [[安倍邦衛]] - 上野駅 - 浅草駅間の路線を設計した鉄道技師
* [[今井兼次]] - 上野駅 - 浅草駅間の駅舎を設計した建築家
* [[大倉土木]] - 上野駅 - 浅草駅間の路線と駅舎を施工した建設会社
* [[杉浦非水]] - 上野駅 - 浅草駅間開業時のポスターをデザインしたグラフィックデザイナー
* [[地震列島]] - 銀座線が舞台として登場。
* [[帝都物語]] - 銀座線が舞台として登場。
* [[井上夢人]] - 小説家。銀座線がインターネットで連載した小説『99人の最終電車』の舞台となっている。
== 外部リンク ==
* [https://www.tokyometro.jp/station/line_ginza/ 銀座線/G | 路線・駅の情報 | 東京メトロ]
* [http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/04_03.html 『土木建築工事画報』 第4巻 第3号] 東京地下鉄道開通特集 工事画報社 昭和3年3月発行
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[[Category:関東地方の鉄道路線|きんさ]]
[[Category:東京地下鉄の鉄道路線|きんさ]]
[[Category:東京都の交通]]
[[Category:近代化産業遺産]]
[[Category:土木学会選奨土木遺産]] | 2003-05-19T12:49:47Z | 2023-12-31T15:46:47Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%A1%E3%83%88%E3%83%AD%E9%8A%80%E5%BA%A7%E7%B7%9A |
8,661 | 結晶学 | 結晶学(けっしょうがく、英語:crystallography)は、結晶の幾何学的な特徴や、光学的な性質、物理的な性質、化学的性質等を研究する学問である。今日では結晶学の物理的側面は固体物理学、化学的側面は結晶化学で扱われる。
結晶学は、結晶の形態分類、光学的性質や、想定される原子・分子の配置との関係を調べる古典的な結晶学と、X線回折などの方法で原子配置を調べる現代的な結晶学に分けることができる。現在では原子配列決定のための方法論として、生化学や材料工学への応用の面が広がっている。
結晶学の主要な方法はある種のビームを当てた場合に起こる回折のパターンの分析である。このビームとして、最も普通に使われるのはX線である。目的によっては電子や中性子が用いられるが、これは粒子が波としての性質(量子力学で記述される)も有することによる。
古くから使われた方法としては顕微鏡があり、特に偏光顕微鏡は結晶の観察によく用いられてきた。しかし光の波長は原子や原子間の結合に比べて長すぎる。電子顕微鏡でもあまり細かい様子を調べることはできない。かといってもっと短い波長を使うと顕微鏡で実際のイメージを得ることはできない。このような短波長の波を集束できるような材料(レンズのようなもの)は存在しないからである(ただし最近、金でできたX線顕微鏡用フレネルゾーンプレートでX線を集束することはある程度可能となった)。
回折パターンからイメージを作り出すには数学的方法(フーリエ変換など)と、モデリングとその改良の過程が必要である。この過程で仮説的な「モデル」構造から数学的に予測される回折パターンを、試料から実際に得られたパターンと比較し、予測パターンと一致する程度までモデルの改良を繰り返す。
回折パターンは波が規則的配列によって回折される場合にしか得られない。したがって結晶学は基本的には結晶(あるいは測定目的で結晶させることのできる分子)にしか適用できない。
ただ実際には、繊維や粉末から得られたパターンにより分子に関する情報が得られている。これらは固体結晶ほどではないがある程度の秩序的構造を有していると考えられる。この程度の秩序でも分子の大まかな性質を求めるには十分である。たとえばDNAの二重らせん構造は繊維状サンプルから得られたX線回折パターンにより求められた。
結晶学の研究には結晶中の原子配置に由来する対称パターン(対称群)を網羅することも必要であり、このため群論や幾何学と深い関係がある。
結晶学は材料工学でもよく用いられる。単結晶では結晶の形態に原子の配列が反映されるため原子配列は巨視的に予測できることが多い。また物理的性質はその結晶の欠陥により決まることが多い。結晶構造を知ることで初めて結晶欠陥が明らかにできる。
他にも結晶学に関連する物理的性質が多くある。たとえば粘土は小さい平らな板状の構造を形成する。この板状の粒子は互いに平面上を滑るが、平面に並行する方向では強く結合しているため、粘土は変形しやすい。
他の例としては、室温では体心立方(bcc)構造をとっている鉄を熱したとき、面心立方(fcc)構造(オーステナイトと呼ばれる)に転移する。fcc構造は最密充填構造だが、bcc構造はそうではない。これは転移が起きたときに鉄の体積が減少することの説明になる。
結晶学は相の識別にも有用である。すなわち、材料に加工を行うとき、どの化合物のどの相が材料中にあるかを知りたい。各相は特徴的な原子配列を持っている。X線回折のような方法を用いて、材料中にどのパターンがあるか、そしてどんな化合物があるかを知ることができる。
X線結晶学は蛋白質やその他生体高分子のコンフォメーションを決定するためにまず行う方法であり、DNAの二重らせん構造などもX線回折パターンから決定された。
タンパク質結晶の回折パターンは非常に複雑で、解析にはコンピュータと高度の数学的手法を要する。X線源としては、より明瞭なパターンを得るためにシンクロトロンを用いる例も多い。
水晶などの結晶の特異な形は古くから注目され、結晶学はそれらの形態を調べるところから始まった(すなわち鉱物学の一分野であった)。17世紀に、デンマークのニコラウス・ステノが、結晶の各面のなす角度は種類によって決まっているという「面角一定の法則」を見出した。18世紀後半になると結晶学は進展を見せはじめ、1780年にはカランジョー(Arnould Carangeot)が結晶面の角度を測る装置(ゴニオメーター)を発明した。同じ頃フランスのルネ=ジュスト・アユイ(René-Just Haüy、結晶学の祖と呼ばれる)が、結晶面の寸法に整数比が成り立つという「有理指数の法則」を発見し、結晶は小さなユニット(原子または分子が並んで作る)の繰り返しでできていると考えた。これに基づいて19世紀初めにイギリスのウィリアム・ハロウズ・ミラー(1801-1880)が結晶面を「ミラー指数」で表現することを始めた。方解石などの複屈折は古くから知られていたが、これを応用してスコットランドのウィリアム・ニコル(William Nicol、1768-1851)が偏光顕微鏡を発明し、以後結晶の観察に偏光顕微鏡が多く用いられた。
結晶は形態的対称性から7晶系に分類されていたが、フランスの数学者オーギュスト・ブラヴェ(Auguste Bravais、1811-1863)が詳しい幾何学的研究を行い、すべての結晶が14種の空間格子(ブラヴェ格子、結晶格子)に分類されることを1848年に明らかにした。さらに対称性に群論を応用した研究が進められ、32晶族(単位格子の対称性に関する32種の点群に対応する)が明らかにされた。19世紀末になるとドイツの物理学者アーサー・モーリッツ・シェーンフリース(Arthur Schoenflies、1853-1928)らにより結晶全体の対称性が研究され、230種の空間群による細かい分類が完成した。
20世紀に入ってX線が発見されると、X線が結晶で回折されて特有のパターン(ラウエの斑点)を示すことが明らかにされた。これを研究したブラッグ父子によって1912年、ブラッグの反射条件(ブラッグの法則)が見出され、回折パターンから具体的な原子の空間配置を求める道が開かれた。
この方法は分子結晶で分子構造を求めるのにも応用され、1930年代以降ドロシー・ホジキンらによりペニシリンやビタミンB12の構造が解明された。さらに第二次大戦後は蛋白質やDNAなど生体高分子の構造解析にも応用が広がった。 | [
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"text": "結晶学(けっしょうがく、英語:crystallography)は、結晶の幾何学的な特徴や、光学的な性質、物理的な性質、化学的性質等を研究する学問である。今日では結晶学の物理的側面は固体物理学、化学的側面は結晶化学で扱われる。",
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"text": "結晶学の主要な方法はある種のビームを当てた場合に起こる回折のパターンの分析である。このビームとして、最も普通に使われるのはX線である。目的によっては電子や中性子が用いられるが、これは粒子が波としての性質(量子力学で記述される)も有することによる。",
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"text": "他にも結晶学に関連する物理的性質が多くある。たとえば粘土は小さい平らな板状の構造を形成する。この板状の粒子は互いに平面上を滑るが、平面に並行する方向では強く結合しているため、粘土は変形しやすい。",
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"text": "タンパク質結晶の回折パターンは非常に複雑で、解析にはコンピュータと高度の数学的手法を要する。X線源としては、より明瞭なパターンを得るためにシンクロトロンを用いる例も多い。",
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"text": "水晶などの結晶の特異な形は古くから注目され、結晶学はそれらの形態を調べるところから始まった(すなわち鉱物学の一分野であった)。17世紀に、デンマークのニコラウス・ステノが、結晶の各面のなす角度は種類によって決まっているという「面角一定の法則」を見出した。18世紀後半になると結晶学は進展を見せはじめ、1780年にはカランジョー(Arnould Carangeot)が結晶面の角度を測る装置(ゴニオメーター)を発明した。同じ頃フランスのルネ=ジュスト・アユイ(René-Just Haüy、結晶学の祖と呼ばれる)が、結晶面の寸法に整数比が成り立つという「有理指数の法則」を発見し、結晶は小さなユニット(原子または分子が並んで作る)の繰り返しでできていると考えた。これに基づいて19世紀初めにイギリスのウィリアム・ハロウズ・ミラー(1801-1880)が結晶面を「ミラー指数」で表現することを始めた。方解石などの複屈折は古くから知られていたが、これを応用してスコットランドのウィリアム・ニコル(William Nicol、1768-1851)が偏光顕微鏡を発明し、以後結晶の観察に偏光顕微鏡が多く用いられた。",
"title": "歴史"
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"text": "結晶は形態的対称性から7晶系に分類されていたが、フランスの数学者オーギュスト・ブラヴェ(Auguste Bravais、1811-1863)が詳しい幾何学的研究を行い、すべての結晶が14種の空間格子(ブラヴェ格子、結晶格子)に分類されることを1848年に明らかにした。さらに対称性に群論を応用した研究が進められ、32晶族(単位格子の対称性に関する32種の点群に対応する)が明らかにされた。19世紀末になるとドイツの物理学者アーサー・モーリッツ・シェーンフリース(Arthur Schoenflies、1853-1928)らにより結晶全体の対称性が研究され、230種の空間群による細かい分類が完成した。",
"title": "歴史"
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"text": "20世紀に入ってX線が発見されると、X線が結晶で回折されて特有のパターン(ラウエの斑点)を示すことが明らかにされた。これを研究したブラッグ父子によって1912年、ブラッグの反射条件(ブラッグの法則)が見出され、回折パターンから具体的な原子の空間配置を求める道が開かれた。",
"title": "歴史"
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"text": "この方法は分子結晶で分子構造を求めるのにも応用され、1930年代以降ドロシー・ホジキンらによりペニシリンやビタミンB12の構造が解明された。さらに第二次大戦後は蛋白質やDNAなど生体高分子の構造解析にも応用が広がった。",
"title": "歴史"
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] | 結晶学は、結晶の幾何学的な特徴や、光学的な性質、物理的な性質、化学的性質等を研究する学問である。今日では結晶学の物理的側面は固体物理学、化学的側面は結晶化学で扱われる。 | {{出典の明記|date=2011年10月}}
'''結晶学'''(けっしょうがく、[[英語]]:crystallography)は、[[結晶]]の[[幾何学]]的な特徴や、[[光学]]的な性質、物理的な性質、化学的性質等を研究する学問である。今日では結晶学の物理的側面は[[固体物理学]]、化学的側面は'''結晶化学'''で扱われる。
== 概要 ==
結晶学は、結晶の形態分類、[[光学]]的性質や、想定される[[原子]]・[[分子]]の配置との関係を調べる古典的な結晶学と、[[X線回折]]などの方法で原子配置を調べる現代的な結晶学に分けることができる。現在では原子配列決定のための[[方法論]]として、[[生化学]]や[[材料工学]]への応用の面が広がっている。
結晶学の主要な方法はある種の[[ビーム (物理学)|ビーム]]を当てた場合に起こる[[回折]]のパターンの分析である。このビームとして、最も普通に使われるのは[[X線]]である。目的によっては[[電子]]や[[中性子]]が用いられるが、これは[[粒子]]が[[波]]としての性質([[量子力学]]で記述される)も有することによる。
古くから使われた方法としては[[顕微鏡]]があり、特に[[偏光]]顕微鏡は結晶の観察によく用いられてきた。しかし[[光]]の[[波長]]は原子や原子間の結合に比べて長すぎる。[[電子顕微鏡]]でもあまり細かい様子を調べることはできない。かといってもっと短い波長を使うと顕微鏡で実際のイメージを得ることはできない。このような短波長の波を集束できるような材料([[レンズ]]のようなもの)は存在しないからである(ただし最近、[[金]]でできた[[X線顕微鏡]]用[[フレネルゾーンプレート]]でX線を集束することはある程度可能となった)。
回折パターンからイメージを作り出すには数学的方法([[フーリエ変換]]など)と、モデリングとその改良の過程が必要である。この過程で仮説的な「モデル」構造から数学的に予測される回折パターンを、試料から実際に得られたパターンと比較し、予測パターンと一致する程度までモデルの改良を繰り返す。
回折パターンは波が規則的配列によって回折される場合にしか得られない。したがって結晶学は基本的には結晶(あるいは測定目的で結晶させることのできる分子)にしか適用できない。
ただ実際には、[[繊維]]や[[粉|粉末]]から得られたパターンにより分子に関する情報が得られている。これらは固体結晶ほどではないがある程度の秩序的構造を有していると考えられる。この程度の秩序でも分子の大まかな性質を求めるには十分である。たとえば[[デオキシリボ核酸|DNA]]の二重らせん構造は繊維状サンプルから得られたX線回折パターンにより求められた。
結晶学の研究には結晶中の原子配置に由来する対称パターン([[対称群]])を網羅することも必要であり、このため[[群論]]や[[幾何学]]と深い関係がある。
== 応用 ==
=== 材料工学 ===
結晶学は材料工学でもよく用いられる。[[単結晶]]では結晶の形態に原子の配列が反映されるため原子配列は巨視的に予測できることが多い。また物理的性質はその結晶の[[欠陥]]により決まることが多い。結晶構造を知ることで初めて結晶欠陥が明らかにできる。
他にも結晶学に関連する物理的性質が多くある。たとえば[[粘土]]は小さい平らな板状の構造を形成する。この板状の粒子は互いに平面上を滑るが、平面に並行する方向では強く結合しているため、粘土は変形しやすい。
他の例としては、室温では[[体心立方]](bcc)構造をとっている[[鉄]]を熱したとき、[[面心立方]](fcc)構造([[オーステナイト]]と呼ばれる)に[[相転移|転移]]する。fcc構造は最密充填構造だが、bcc構造はそうではない。これは転移が起きたときに鉄の体積が減少することの説明になる。
結晶学は[[相]]の識別にも有用である。すなわち、材料に加工を行うとき、どの化合物のどの相が材料中にあるかを知りたい。各相は特徴的な原子配列を持っている。X線回折のような方法を用いて、材料中にどのパターンがあるか、そしてどんな化合物があるかを知ることができる。
=== 生物学 ===
X線結晶学は[[蛋白質]]やその他生体高分子のコンフォメーションを決定するためにまず行う方法であり、[[デオキシリボ核酸|DNA]]の二重らせん構造などもX線回折パターンから決定された。
タンパク質結晶の回折パターンは非常に複雑で、解析には[[コンピュータ]]と高度の数学的手法を要する。X線源としては、より明瞭なパターンを得るために[[シンクロトロン]]を用いる例も多い。
== 歴史 ==
[[水晶]]などの結晶の特異な形は古くから注目され、結晶学はそれらの形態を調べるところから始まった(すなわち[[鉱物学]]の一分野であった)。17世紀に、デンマークの[[ニコラウス・ステノ]]が、結晶の各面のなす角度は種類によって決まっているという「[[面角一定の法則]]」を見出した。18世紀後半になると結晶学は進展を見せはじめ、[[1780年]]には[[カランジョー]](Arnould Carangeot)が結晶面の角度を測る装置([[ゴニオメーター]])を発明した。同じ頃フランスの[[ルネ=ジュスト・アユイ]](René-Just Haüy、結晶学の祖と呼ばれる)が、結晶面の寸法に整数比が成り立つという「[[有理指数の法則]]」を発見し、結晶は小さなユニット(原子または分子が並んで作る)の繰り返しでできていると考えた。これに基づいて19世紀初めにイギリスの[[ウィリアム・ハロウズ・ミラー]](1801-1880)が結晶面を「[[ミラー指数]]」で表現することを始めた。[[方解石]]などの[[複屈折]]は古くから知られていたが、これを応用してスコットランドの[[ウィリアム・ニコル]](William Nicol、1768-1851)が[[偏光顕微鏡]]を発明し、以後結晶の観察に偏光顕微鏡が多く用いられた。
結晶は形態的[[対称性]]から7[[晶系]]に分類されていたが、フランスの数学者[[オーギュスト・ブラヴェ]]([[:en:Auguste Bravais|Auguste Bravais]]、1811-1863)が詳しい幾何学的研究を行い、すべての結晶が14種の空間格子(ブラヴェ格子、[[結晶格子]])に分類されることを[[1848年]]に明らかにした。さらに対称性に[[群論]]を応用した研究が進められ、32[[晶族]](単位格子の対称性に関する32種の[[点群]]に対応する)が明らかにされた。19世紀末になるとドイツの物理学者[[アーサー・モーリッツ・シェーンフリース]]([[:en:Arthur Moritz Schönflies|Arthur Schoenflies]]、1853-1928)らにより結晶全体の対称性が研究され、230種の[[空間群]]による細かい分類が完成した。
20世紀に入ってX線が発見されると、X線が結晶で回折されて特有のパターン([[ラウエ]]の斑点)を示すことが明らかにされた。これを研究した[[ブラッグ]]父子によって[[1912年]]、[[ブラッグの反射条件]](ブラッグの法則)が見出され、回折パターンから具体的な原子の空間配置を求める道が開かれた。
この方法は[[分子結晶]]で[[分子]]構造を求めるのにも応用され、1930年代以降[[ドロシー・ホジキン]]らにより[[ペニシリン]]や[[ビタミンB12]]の構造が解明された。さらに第二次大戦後は蛋白質やDNAなど生体高分子の構造解析にも応用が広がった。
=== 人物 ===
* [[マックス・フォン・ラウエ]]
* [[ヘンリー・ブラッグ]]
* [[ローレンス・ブラッグ]]
== 関連項目 ==
* [[物性物理学]]
* [[固体物理学]]
* [[結晶構造]]
* [[構造生物学]]
* [[鉱物学]]
* [[光学]]
== 外部リンク ==
* [http://www.crsj.jp 日本結晶学会]
* [http://www.jacg.jp 日本結晶成長学会]
* [http://www.iucr.org International Union of Crystallography (IUCr)]
* [http://crystdb.nims.go.jp/index.html Atomwork] - 無機材料データベース (国立研究開発法人 物質・材料研究機構)
* [http://www.aflowlib.org AFlow] - material database (Duke University, North Carolina)
{{地質学}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:けつしようかく}}
[[Category:結晶学|*]]
[[Category:鉱物学]]
[[Category:固体物理学]]
[[Category:化学の分野]]
[[Category:結晶]]
[[Category:ルネ=ジュスト・アユイ]] | null | 2022-08-26T03:46:20Z | false | false | false | [
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"Template:地質学",
"Template:Normdaten"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E6%99%B6%E5%AD%A6 |
8,663 | 遷移 | 遷移(せんい)とは、「うつりかわり」のこと。類義語として「変遷」「推移」などがある。
自然科学の分野では transition の訳語であり、一般に、何らかの事象(物)が、ある状態から別の状態へ変化すること。さまざまな分野で使われており、場合によって意味が異なることもある。以下に解説する。
物理学や化学では、物質がエネルギーを吸収(あるいは放出)し、状態が変化することを遷移、transitionと言う。なお、ある相から別の相へ変わる相転移 (phase transition) のことを「相遷移」とは言わない。
たとえば原子が光を放出・吸収する場合、原子は光との相互作用によってある定常状態からエネルギーの違う他の定常状態に時間変化する。このような状態の変化を遷移という。量子論での遷移の概念を最初に提唱したのはニールス・ボーアである(ボーアの原子模型)。そして遷移振幅の確率を計算できる方法はポール・ディラックによって構築された。
ここでは例としてエネルギー固有状態に摂動が加わったときの遷移確率について考える。ハミルトニアンの固有ベクトル(固有関数)であるエネルギー固有状態は定常状態であり、系の外部からの摂動が無ければ系は定常状態にとどまっている。外部からの摂動が加わると、系は新たなハミルトニアンの固有状態になっていないときはシュレディンガー方程式に従って時間変化し、他の定常状態に遷移する。始状態 | i ⟩ {\displaystyle |i\rangle } に摂動が加わってからt秒後の状態を | t ⟩ {\displaystyle |t\rangle } とすると、状態 | i ⟩ {\displaystyle |i\rangle } から別の定常状態 | f ⟩ {\displaystyle |f\rangle } への遷移確率は | ⟨ f | t ⟩ | 2 {\displaystyle |\langle f|t\rangle |^{2}} で定義され、 ⟨ f | t ⟩ {\displaystyle \langle f|t\rangle } は遷移振幅と呼ばれる。
たとえば摂動が加わってt秒後の系 | t ⟩ {\displaystyle |t\rangle } において、摂動を取り除き、間髪入れずにエネルギーの測定をしたとする。このときエネルギーの測定は摂動が加わってない状態で行われている。よってエネルギーの測定値が E i {\displaystyle E_{i}} がである確率はボルンの規則より、摂動が無いときのハミルトニアンの E i {\displaystyle E_{i}} に対応する固有ベクトル | E i ⟩ {\displaystyle |E_{i}\rangle } を用いて | ⟨ E i | t ⟩ | 2 {\displaystyle |\langle E_{i}|t\rangle |^{2}} と表せる。よってこのとき遷移確率が100%であるということは、最初 | i ⟩ {\displaystyle |i\rangle } だった系が、摂動によってt秒後には測定値が100%の確率で E i {\displaystyle E_{i}} が得られる状態 | E i ⟩ {\displaystyle |E_{i}\rangle } に行き着いており、他の状態は重ね合わせられていないことを意味する。
摂動が加わって十分に時間がたつと、遷移確率は時間tに比例することが多いため、単位時間当たりの遷移確率 lim t → ∞ d d t | ⟨ f | t ⟩ | 2 {\displaystyle \lim _{t\to \infty }{\frac {d}{dt}}|\langle f|t\rangle |^{2}} がよく用いられる。時間依存を考慮した散乱理論によると、摂動 H ^ ′ {\displaystyle {\hat {H}}'} が与えられて十分に時間が経過したときの単位時間あたりの遷移確率 W i → f {\displaystyle W_{i\rightarrow f}} は以下のように表される。
ここで δ ( x ) {\displaystyle \delta (x)} はデルタ関数でエネルギー保存を表す。 T ^ {\displaystyle {\hat {T}}} は摂動 H ^ ′ {\displaystyle {\hat {H}}'} に対応したT行列である。
一般的には摂動が小さいとして、摂動論によって求められた遷移確率を用いることが多い。この場合、T行列要素は次のように摂動展開される。
摂動の一次の範囲まで(一次のボルン近似)では、遷移確率は次のように与えられる(フェルミの黄金律)。
一次の摂動が選択律などで禁止されている場合や光散乱などを扱う場合には、より高次の摂動を計算しなければならない。二次の摂動まで含めた場合は、 i → f {\displaystyle i\rightarrow f} の遷移は仮想的な中間状態 n {\displaystyle n} を経由する。この中間状態ではエネルギーが保存されなくてよいが、 E n ⋍ E i {\displaystyle E_{n}\backsimeq E_{i}} の状態が主要になる。この二次の摂動まで含めた場合の遷移確率は次のように与えられる。
これらの遷移は、ヤブロンスキー図などを用いて表現される。
流体力学では、層流から乱流に流れの状態が変化することを層流から乱流に"遷移"するという。
群集生態学では、ある基質上の生物群集が時間的経過にそって、一定の不可逆な種組成の変化をしめす場合にこの言葉を使う。特に、植物群集を中心にした遷移は、生態系の発達にも関わって重要である。
オートマトン理論として知られている情報工学の一分野では、遷移とはシステムの状態が変化することを意味する。有限オートマトンは矢印付きの弧でその遷移を表す一方、ペトリネットは特別なノードの要素として表す。状態遷移表、状態遷移図も参照されたい。 | [
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"text": "遷移(せんい)とは、「うつりかわり」のこと。類義語として「変遷」「推移」などがある。",
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"text": "自然科学の分野では transition の訳語であり、一般に、何らかの事象(物)が、ある状態から別の状態へ変化すること。さまざまな分野で使われており、場合によって意味が異なることもある。以下に解説する。",
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"text": "物理学や化学では、物質がエネルギーを吸収(あるいは放出)し、状態が変化することを遷移、transitionと言う。なお、ある相から別の相へ変わる相転移 (phase transition) のことを「相遷移」とは言わない。",
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"text": "たとえば原子が光を放出・吸収する場合、原子は光との相互作用によってある定常状態からエネルギーの違う他の定常状態に時間変化する。このような状態の変化を遷移という。量子論での遷移の概念を最初に提唱したのはニールス・ボーアである(ボーアの原子模型)。そして遷移振幅の確率を計算できる方法はポール・ディラックによって構築された。",
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"text": "ここでは例としてエネルギー固有状態に摂動が加わったときの遷移確率について考える。ハミルトニアンの固有ベクトル(固有関数)であるエネルギー固有状態は定常状態であり、系の外部からの摂動が無ければ系は定常状態にとどまっている。外部からの摂動が加わると、系は新たなハミルトニアンの固有状態になっていないときはシュレディンガー方程式に従って時間変化し、他の定常状態に遷移する。始状態 | i ⟩ {\\displaystyle |i\\rangle } に摂動が加わってからt秒後の状態を | t ⟩ {\\displaystyle |t\\rangle } とすると、状態 | i ⟩ {\\displaystyle |i\\rangle } から別の定常状態 | f ⟩ {\\displaystyle |f\\rangle } への遷移確率は | ⟨ f | t ⟩ | 2 {\\displaystyle |\\langle f|t\\rangle |^{2}} で定義され、 ⟨ f | t ⟩ {\\displaystyle \\langle f|t\\rangle } は遷移振幅と呼ばれる。",
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"text": "たとえば摂動が加わってt秒後の系 | t ⟩ {\\displaystyle |t\\rangle } において、摂動を取り除き、間髪入れずにエネルギーの測定をしたとする。このときエネルギーの測定は摂動が加わってない状態で行われている。よってエネルギーの測定値が E i {\\displaystyle E_{i}} がである確率はボルンの規則より、摂動が無いときのハミルトニアンの E i {\\displaystyle E_{i}} に対応する固有ベクトル | E i ⟩ {\\displaystyle |E_{i}\\rangle } を用いて | ⟨ E i | t ⟩ | 2 {\\displaystyle |\\langle E_{i}|t\\rangle |^{2}} と表せる。よってこのとき遷移確率が100%であるということは、最初 | i ⟩ {\\displaystyle |i\\rangle } だった系が、摂動によってt秒後には測定値が100%の確率で E i {\\displaystyle E_{i}} が得られる状態 | E i ⟩ {\\displaystyle |E_{i}\\rangle } に行き着いており、他の状態は重ね合わせられていないことを意味する。",
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"text": "摂動が加わって十分に時間がたつと、遷移確率は時間tに比例することが多いため、単位時間当たりの遷移確率 lim t → ∞ d d t | ⟨ f | t ⟩ | 2 {\\displaystyle \\lim _{t\\to \\infty }{\\frac {d}{dt}}|\\langle f|t\\rangle |^{2}} がよく用いられる。時間依存を考慮した散乱理論によると、摂動 H ^ ′ {\\displaystyle {\\hat {H}}'} が与えられて十分に時間が経過したときの単位時間あたりの遷移確率 W i → f {\\displaystyle W_{i\\rightarrow f}} は以下のように表される。",
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"text": "一次の摂動が選択律などで禁止されている場合や光散乱などを扱う場合には、より高次の摂動を計算しなければならない。二次の摂動まで含めた場合は、 i → f {\\displaystyle i\\rightarrow f} の遷移は仮想的な中間状態 n {\\displaystyle n} を経由する。この中間状態ではエネルギーが保存されなくてよいが、 E n ⋍ E i {\\displaystyle E_{n}\\backsimeq E_{i}} の状態が主要になる。この二次の摂動まで含めた場合の遷移確率は次のように与えられる。",
"title": "物理学や化学における遷移"
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"text": "これらの遷移は、ヤブロンスキー図などを用いて表現される。",
"title": "物理学や化学における遷移"
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"text": "流体力学では、層流から乱流に流れの状態が変化することを層流から乱流に\"遷移\"するという。",
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"text": "群集生態学では、ある基質上の生物群集が時間的経過にそって、一定の不可逆な種組成の変化をしめす場合にこの言葉を使う。特に、植物群集を中心にした遷移は、生態系の発達にも関わって重要である。",
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"text": "オートマトン理論として知られている情報工学の一分野では、遷移とはシステムの状態が変化することを意味する。有限オートマトンは矢印付きの弧でその遷移を表す一方、ペトリネットは特別なノードの要素として表す。状態遷移表、状態遷移図も参照されたい。",
"title": "情報工学における遷移"
}
] | 遷移(せんい)とは、「うつりかわり」のこと。類義語として「変遷」「推移」などがある。 自然科学の分野では transition の訳語であり、一般に、何らかの事象(物)が、ある状態から別の状態へ変化すること。さまざまな分野で使われており、場合によって意味が異なることもある。以下に解説する。 | {{Otheruses||[[生物学]]分野における'''遷移'''の詳細|遷移 (生物学)}}
'''遷移'''(せんい)とは、「うつりかわり」のこと。類義語として「変遷」「推移」などがある。
[[自然科学]]の分野では '''transition''' の訳語であり、一般に、何らかの事象(物)が、ある状態から別の状態へ変化すること。さまざまな分野で使われており、場合によって意味が異なることもある。以下に解説する。
== 物理学や化学における遷移 ==
[[物理学]]や[[化学]]では、[[物質]]が[[エネルギー]]を吸収(あるいは放出)し、状態が変化することを'''遷移'''、transitionと言う。なお、ある[[相]]から別の相へ変わる[[相転移]] (phase transition) のことを「相遷移」とは言わない。
=== 量子論における遷移 ===
たとえば[[原子]]が光を放出・吸収する場合、原子は光との相互作用によってある[[定常状態]]からエネルギーの違う他の定常状態に[[時間変化]]する。このような状態の変化を'''遷移'''という。量子論での遷移の概念を最初に提唱したのは[[ニールス・ボーア]]である([[ボーアの原子模型]])。そして遷移振幅の確率を計算できる方法は[[ポール・ディラック]]によって構築された<ref>{{Cite book|和書|author=C・ロヴェッリ|authorlink=カルロ・ロヴェッリ|year=2019|title=すごい物理学講義|publisher=河出文庫|page=163}}</ref>。
==== 遷移確率 ====
ここでは例として[[エネルギー固有状態]]に[[摂動]]が加わったときの遷移確率について考える。[[ハミルトニアン]]の[[固有ベクトル]]([[固有関数]])であるエネルギー固有状態は定常状態であり、系の外部からの[[摂動]]が無ければ系は定常状態にとどまっている。外部からの摂動が加わると、系は新たなハミルトニアンの固有状態になっていないときは[[シュレディンガー方程式]]に従って時間変化し、他の定常状態に遷移する。始状態<math>|i\rangle</math>に摂動が加わってからt秒後の状態を<math>|t\rangle</math>とすると、状態<math>|i\rangle</math>から別の定常状態<math>|f\rangle</math>への'''遷移確率'''は<math>|\langle f|t\rangle|^2</math>で定義され、<math>\langle f|t\rangle</math>は'''遷移振幅'''と呼ばれる。
たとえば摂動が加わってt秒後の系<math>|t\rangle</math>において、摂動を取り除き、間髪入れずにエネルギーの測定をしたとする。このときエネルギーの測定は摂動が加わってない状態で行われている。よってエネルギーの測定値が<math>E_i</math>がである確率は[[ボルンの規則]]より、摂動が無いときのハミルトニアンの<math>E_i</math>に対応する固有ベクトル<math>|E_i\rangle</math>を用いて<math>|\langle E_i|t\rangle|^2</math>と表せる。よってこのとき遷移確率が100%であるということは、最初<math>|i\rangle</math>だった系が、摂動によってt秒後には測定値が100%の確率で<math>E_i</math>が得られる状態<math>|E_i\rangle</math>に行き着いており、他の状態は[[重ね合わせ]]られていないことを意味する。
摂動が加わって十分に時間がたつと、遷移確率は時間tに比例することが多いため、単位時間当たりの遷移確率<math>\lim_{t \to \infty}\frac{d}{dt}|\langle f|t\rangle|^2</math>がよく用いられる。時間依存を考慮した[[散乱理論]]によると、摂動<math>\hat{H}'</math>が与えられて十分に時間が経過したときの単位時間あたりの遷移確率<math>W_{i \rightarrow f}</math>は以下のように表される。
:<math>W_{i \rightarrow f}=\frac{2\pi}{\hbar}|\langle f |\hat{T}|i \rangle |^2\delta(E_f-E_i)</math>
ここで<math>\delta(x)</math>はデルタ関数で[[エネルギー保存]]を表す。<math>\hat{T}</math>は摂動<math>\hat{H}'</math>に対応した[[T行列]]である。
一般的には摂動が小さいとして、[[摂動論]]によって求められた遷移確率を用いることが多い。この場合、T行列要素は次のように摂動展開される。
:<math>
\langle f |\hat{T}|i \rangle
= \langle f |\hat{H}'|i \rangle
+ \sum_n \frac{\langle f |\hat{H}'|n \rangle \langle n |\hat{H}'|i \rangle}{E_i - E_n}</math>
::<math>+ \sum_{n_1,n_2} \frac{\langle f |\hat{H}'|n_2 \rangle \langle n_2 |\hat{H}'|n_1 \rangle \langle n_1 |\hat{H}'|i \rangle}{(E_i - E_{n_2})(E_i - E_{n_1})}
+ \cdots </math>
::<math>+ \sum_{n_1,n_2,\cdots n_m} \frac{\langle f |\hat{H}'|n_m \rangle \cdots \langle n_2 |\hat{H}'|n_1 \rangle \langle n_1 |\hat{H}'|i \rangle}{(E_i - E_{n_m})\cdots (E_i - E_{n_2})(E_i - E_{n_1})}
+ \cdots
</math>
摂動の一次の範囲まで(一次の[[ボルン近似]])では、遷移確率は次のように与えられる([[フェルミの黄金律]])。
:<math>W_{i \rightarrow f}=\frac{2\pi}{\hbar}|\langle f |\hat{H}'|i \rangle |^2\delta(E_f-E_i)</math>
一次の摂動が[[選択律]]などで禁止されている場合や[[光散乱]]などを扱う場合には、より高次の摂動を計算しなければならない。二次の摂動まで含めた場合は、<math>i \rightarrow f</math>の遷移は仮想的な中間状態<math>n</math>を経由する。この中間状態ではエネルギーが保存されなくてよいが、<math>E_n \backsimeq E_i</math>の状態が主要になる。この二次の摂動まで含めた場合の遷移確率は次のように与えられる。
:<math>W_{i \rightarrow f}=\frac{2\pi}{\hbar}\Bigg|\langle f |\hat{H}'|i \rangle +\sum_n \frac{\langle f |\hat{H}'|n \rangle\langle n |\hat{H}'|i \rangle}{E_i - E_n}\Bigg|^2\delta(E_f-E_i)</math>
==== 具体例 ====
*[[電子遷移]]:[[電子]]がある[[電子軌道|軌道]]から別の[[電子軌道|軌道]]へ飛び移ること、あるいは[[価電子帯]]の頂上から[[伝導帯]]の底へ電子が飛び移ること。
*[[振動遷移]]・[[回転遷移]]:分子の振動や回転の状態が変化すること。
これらの遷移は、[[ヤブロンスキー図]]などを用いて表現される。
== 流体力学における遷移 ==
[[流体力学]]では、[[層流]]から[[乱流]]に流れの状態が変化することを層流から乱流に"遷移"するという。
== 群集生態学における遷移 ==
[[群集生態学]]では、ある基質上の[[生物群集]]が時間的経過にそって、一定の不可逆な[[種組成]]の変化をしめす場合にこの言葉を使う。特に、[[植物群集]]を中心にした遷移は、[[生態系]]の発達にも関わって重要である。
{{Main|遷移 (生物学)}}
== 情報工学における遷移 ==
[[オートマトン]]理論として知られている[[情報工学]]の一分野では、遷移とはシステムの状態が変化することを意味する。[[有限オートマトン]]は矢印付きの弧でその遷移を表す一方、[[ペトリネット]]は特別なノードの要素として表す。[[状態遷移表]]、[[状態遷移図]]も参照されたい。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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[[Category:物理化学の現象]]
[[Category:システム]] | null | 2022-06-20T12:44:01Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%B7%E7%A7%BB |
8,665 | クロム | クロム(英: chromium [ˈkroʊmiəm]、独: Chrom [ˈkroːm]、羅: chromium、中: 鉻)は、原子番号24の元素。元素記号はCr。クロム族元素のひとつ。
1797年、酸化状態によってさまざまな色を呈することからギリシャ語のχρωμα(chrōma、色)にちなんでルネ=ジュスト・アユイにより命名された。別名クロミウム。
クロムは銀白色の金属で硬く、融点は1907 °C、沸点は2671 °C(ほかに融点に関しては1857 °C、沸点に関しては2200 °C、2690 °Cという値がある)。ネール点は34.85 °C。
クロムには3つの同素体(α、β、γ)があり、それぞれの結晶構造は体心立方格子、立方最密充填構造、六方最密充填構造である。
1797年にフランスのルイ=ニコラ・ヴォークランによってシベリア産の紅鉛鉱(クロム酸鉛、PbCrO4)から発見された。ヴォークランはこの翌年(1798年)ルビーが赤いこと、エメラルドが緑色であることについて、クロムが不純物として入っているためであることを発見した。
かつて、兵馬傭坑より出土した青銅の剣や矛・戟・弓矢からクロムが検出されたこと、またそれらの多くに錆びた痕跡がないことから、秦代にクロムによる耐食加工技術が用いられていたという説が唱えられていたが、2019年の調査によって、クロムは兵士像に塗布されていた塗料由来のものであり、耐食加工の痕跡ではないことが明らかにされた 。
金属としての利用は、光沢があること、硬いこと、耐食性があることを利用するクロムメッキとしての用途が大きい。また、鉄と10.5 %以上のクロムを含む合金(フェロクロム)はステンレス鋼と呼ぶ。ステンレス鋼ではクロムが不動態皮膜を形成し、ほとんど錆を生じないため車両や機械といった重工業製品から流し台、包丁などの台所用品まで幅広い用途がある。
この金属は産業上、重要性が高いものの、産出地に偏りがあり供給構造が脆弱である。日本では、国内で消費される鉱物資源の多くが他国からの輸入で賄われている実情から、万一の国際情勢の急変に対する安全保障策として、国内消費量の最低60日分を国家備蓄すると定められている。
クロムは人間にとって微量必須元素である。1日の必要量は50–200 μg。クロムを多く含む食品は、ビール酵母、レバー、エビ、未精製の穀類、豆類、キノコ類、黒胡椒などである。
クロムは、インスリンが体内でレセプターと結合するのを助ける働きをしている耐糖因子を構成する材料となるため、クロムが体内で不足すると、糖代謝の異常が起こり糖尿病の発症に至る可能性がある。
もともとクロムは体内に吸収されにくいミネラルであるが、穀物を精製するとクロムが大幅に失われてしまう問題が存在する。小麦粉の場合、精白すると98 %のクロムが失われ、米を精米すると92 %のクロムが失われるとされている。そのため、体内へのクロム吸収率の向上を図ったサプリメントなども開発・販売されている。
クロム単体および3価のクロムは毒性がない一方で、6価のクロム化合物(六価クロム)は毒性が高い。かつては六価クロムをメッキ用途として使うことが多かったが、土壌汚染を起こすなどでしばしば問題視され、亜鉛メッキ上のクロメート処理では使われなくなってきているが、クロムメッキでは酸化クロム(VI)を使用したメッキ液が主流である。また、たばこに含まれる発がん性物質としても知られる。
4価のクロム化合物はWHOの下部機関IARCより発癌性があると(Type1)勧告されている。
EU-RoHSにおいては6価クロムの濃度を0.1 %以下に抑えること、中国版RoHSにおいては意図的添加、処理を規制対象としている。検出方法としてはジフェニルカルバジド法を用いる。これは6価クロムが1,5-ジフェニルカルボノヒドラジドと酸性溶液中で反応してクロム‐ジフェニルカルバゾン錯体を形成することを利用したもので、紫外可視分光光度計を用いて吸光度を測定し、濃度を求める。この際、共存元素(3価鉄、5価バナジウム、6価モリブデン)の影響を受ける。
2019年における国別の産出量は以下の通りである。 | [
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"title": "用途"
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"text": "クロムは人間にとって微量必須元素である。1日の必要量は50–200 μg。クロムを多く含む食品は、ビール酵母、レバー、エビ、未精製の穀類、豆類、キノコ類、黒胡椒などである。",
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"title": "必須元素としてのクロム"
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"text": "もともとクロムは体内に吸収されにくいミネラルであるが、穀物を精製するとクロムが大幅に失われてしまう問題が存在する。小麦粉の場合、精白すると98 %のクロムが失われ、米を精米すると92 %のクロムが失われるとされている。そのため、体内へのクロム吸収率の向上を図ったサプリメントなども開発・販売されている。",
"title": "必須元素としてのクロム"
},
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"text": "クロム単体および3価のクロムは毒性がない一方で、6価のクロム化合物(六価クロム)は毒性が高い。かつては六価クロムをメッキ用途として使うことが多かったが、土壌汚染を起こすなどでしばしば問題視され、亜鉛メッキ上のクロメート処理では使われなくなってきているが、クロムメッキでは酸化クロム(VI)を使用したメッキ液が主流である。また、たばこに含まれる発がん性物質としても知られる。",
"title": "クロムの毒性"
},
{
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"text": "4価のクロム化合物はWHOの下部機関IARCより発癌性があると(Type1)勧告されている。",
"title": "クロムの毒性"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "EU-RoHSにおいては6価クロムの濃度を0.1 %以下に抑えること、中国版RoHSにおいては意図的添加、処理を規制対象としている。検出方法としてはジフェニルカルバジド法を用いる。これは6価クロムが1,5-ジフェニルカルボノヒドラジドと酸性溶液中で反応してクロム‐ジフェニルカルバゾン錯体を形成することを利用したもので、紫外可視分光光度計を用いて吸光度を測定し、濃度を求める。この際、共存元素(3価鉄、5価バナジウム、6価モリブデン)の影響を受ける。",
"title": "RoHS規制物質としてのクロム"
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{
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"text": "2019年における国別の産出量は以下の通りである。",
"title": "国別の産出量"
}
] | クロム(英: chromium 、独: Chrom 、羅: chromium、中: 鉻)は、原子番号24の元素。元素記号はCr。クロム族元素のひとつ。 | {{Redirect|クローム|その他|クローム (曖昧さ回避)}}
{{出典の明記|date=2018-3}}
{{Elementbox
|name=chromium
|japanese name=クロム
|pronounce={{IPA-en|ˈkroʊmiəm|}} {{Respell|KROH|mee-əm}}
|number=24
|symbol=Cr
|left=[[バナジウム]]
|right=[[マンガン]]
|above=-
|below=[[モリブデン|Mo]]
|series=遷移金属
|series comment=
|group=6
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|phase color=
|appearance=銀白色
|image name= Chromium_crystals_and_1cm3_cube.jpg
|image size=
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|image name 2=
|image name 2 comment=
|atomic mass=51.9961
|atomic mass 2=6
|atomic mass comment=
|electron configuration=[[[アルゴン|Ar]]] 3d<sup>5</sup> 4s<sup>1</sup>
|electrons per shell=2, 8, 13, 1
|color=
|phase=固体
|phase comment=
|density gplstp=
|density gpcm3nrt=7.19
|density gpcm3nrt 2=
|density gpcm3mp=6.3
|melting point K=2180
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|boiling point C=2671
|boiling point F=4840
|triple point K=
|triple point kPa=
|critical point K=
|critical point MPa=
|heat fusion=21.0
|heat fusion 2=
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|vapor pressure 1=1656
|vapor pressure 10=1807
|vapor pressure 100=1991
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|vapor pressure 10 k=2530
|vapor pressure 100 k=2942
|vapor pressure comment=
|crystal structure=body-centered cubic
|japanese crystal structure=[[体心立方]]
|oxidation states='''6''', 5, 4, '''3''', 2, 1, −1, −2
|oxidation states comment=[[酸性酸化物]]
|electronegativity=1.66
|number of ionization energies=4
|1st ionization energy=652.9
|2nd ionization energy=1590.6
|3rd ionization energy=2987
|atomic radius=[[1 E-10 m|128]]
|atomic radius calculated=
|covalent radius=[[1 E-10 m|139±5]]
|Van der Waals radius=
|magnetic ordering=[[反強磁性]] (rather: [[スピン密度波|SDW]]<ref name=fawcett>{{cite journal|doi=10.1103/RevModPhys.60.209|title=Spin-density-wave antiferromagnetism in chromium|year=1988|author=Fawcett, Eric|journal=Reviews of Modern Physics|volume=60|pages=209|bibcode=1988RvMP...60..209F}}</ref>)
|electrical resistivity=
|electrical resistivity at 0=
|electrical resistivity at 20=125 n
|thermal conductivity=93.9
|thermal conductivity 2=
|thermal diffusivity=
|thermal expansion=
|thermal expansion at 25=4.9
|speed of sound=
|speed of sound rod at 20=5940
|speed of sound rod at r.t.=
|Young's modulus=279
|Shear modulus=115
|Bulk modulus=160
|Poisson ratio=0.21
|Mohs hardness=8.5
|Vickers hardness=1060
|Brinell hardness=1120
|CAS number=7440-47-3
|isotopes=
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[クロム50|50]] | sym=Cr
| na=4.345% | hl= > [[1 E24 s|{{val|1.8|e=17}} y]]
| dm=[[二重電子捕獲|εε]] | de=-| pn=[[チタン50|50]] | ps=[[チタン|Ti]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=[[クロム51|51]] | sym=Cr
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E6 s|27.7025 d]]
| dm1=[[電子捕獲|ε]] | de1=- | pn1=[[バナジウム51|51]] | ps1=[[バナジウム|V]]
| dm2=[[ガンマ崩壊|γ]] | de2=0.320 | pn2= | ps2=-}}
{{Elementbox_isotopes_stable | mn=[[クロム52|52]] | sym=Cr | na=83.789 % | n=28}}
{{Elementbox_isotopes_stable | mn=[[クロム53|53]] | sym=Cr | na=9.501 % | n=29}}
{{Elementbox_isotopes_stable | mn=[[クロム54|54]] | sym=Cr | na=2.365 % | n=30}}
|isotopes comment=
|Curie point=34.85}}
'''クロム'''({{lang-en-short|chromium}} {{IPA-en|ˈkroʊmiəm|}}、{{lang-de-short|Chrom}} {{IPA-de|ˈkroːm|}}、{{lang-la-short|chromium}}、{{lang-zh-short|鉻}})は、[[原子番号]]24の[[元素]]。[[元素記号]]は'''Cr'''。[[クロム族元素]]のひとつ。
== 名称 ==
[[1797年]]、[[酸化]]状態によってさまざまな色を呈することから[[ギリシャ語]]の{{lang|el|χρωμα}}(chrōma、色)にちなんで[[ルネ=ジュスト・アユイ]]により命名された<ref name=":1">{{Cite web |url=https://periodic-table.com/chromium/ |title=Chromium {{!}} History, Uses, Facts, Physical & Chemical Characteristics |access-date=2023-01-02 |publisher=Interactive Periodic Table}}</ref>。別名'''クロミウム'''。
== 性質 ==
クロムは銀白色の[[金属]]で硬く、[[融点]]は1907 °C、[[沸点]]は2671 °C(ほかに融点に関しては1857 °C、沸点に関しては2200 °C、2690 °Cという値がある)<ref>[http://resource.ashigaru.jp/top_rank_chromium_country_production.html クロム生産量(国別)] 資源について</ref>{{信頼性要検証|date=2018-09}}。[[ネール温度|ネール点]]は34.85 °C。
クロムには3つの同素体(α、β、γ)があり、それぞれの結晶構造は体心立方格子、立方最密充填構造、六方最密充填構造である。
== 歴史 ==
[[1797年]]に[[フランス]]の[[ルイ=ニコラ・ヴォークラン]]によって[[シベリア]]産の[[紅鉛鉱]](クロム酸鉛、PbCrO<sub>4</sub>)から発見された。ヴォークランはこの翌年([[1798年]])[[ルビー]]が赤いこと、[[エメラルド]]が緑色であることについて、クロムが[[不純物]]として入っているためであることを発見した<ref name=":1" />。
かつて、[[兵馬俑|兵馬傭坑]]より出土した[[青銅]]の剣や矛・戟・弓矢からクロムが検出されたこと、またそれらの多くに錆びた痕跡がないことから、[[秦]]代にクロムによる耐食加工技術が用いられていたという説が唱えられていたが<ref>{{cite web|url=http://www.chinatourguide.com/xian/terracotta_warriors_details.html|title=Terracotta Warriors (Terracotta Army)|publisher=China Tour Guide|accessdate=2020-09-24}}</ref>、2019年の調査によって、クロムは兵士像に塗布されていた塗料由来のものであり、耐食加工の痕跡ではないことが明らかにされた
<ref>{{cite journal |last1=Martinón-Torres |first1=Marcos |display-authors=etal |title=Surface chromium on Terracotta Army bronze weapons is neither an ancient anti-rust treatment nor the reason for their good preservation |journal=Scientific Reports |date=4 April 2019 |volume=9 |issue=1 |pages=5289 |doi=10.1038/s41598-019-40613-7|pmid=30948737 |pmc=6449376 }}</ref>。
== 用途 ==
金属としての利用は、光沢があること、硬いこと、[[腐食|耐食性]]があることを利用するクロムメッキとしての用途が大きい。また、鉄と10.5 %以上のクロムを含む[[合金]]([[フェロクロム]])は[[ステンレス鋼]]と呼ぶ。ステンレス鋼ではクロムが不動態皮膜を形成し、ほとんど[[錆]]を生じないため[[車両]]や[[機械]]といった重工業製品から[[流し台]]、[[包丁]]などの[[台所|台所用品]]まで幅広い用途がある。
この金属は[[産業]]上、重要性が高いものの、産出地に偏りがあり供給構造が脆弱である。日本では、国内で消費される[[鉱物]][[資源]]の多くが他国からの[[輸入]]で賄われている実情から、万一の国際情勢の急変に対する[[安全保障]]策として、国内消費量の最低60[[日]]分を国家[[備蓄]]すると定められている。
== 必須元素としてのクロム ==
クロムは人間にとって微量[[必須元素]]である。1日の必要量は50–200 μg。クロムを多く含む[[食品]]は、[[酵母|ビール酵母]]、[[レバー (食材)|レバー]]、[[エビ]]、未精製の[[穀物|穀類]]、[[豆|豆類]]、[[キノコ|キノコ類]]、[[コショウ|黒胡椒]]などである。
クロムは、[[インスリン]]が体内で[[レセプター]]と結合するのを助ける働きをしている[[耐糖因子]]を構成する材料となるため、クロムが体内で不足すると、糖代謝の異常が起こり[[糖尿病]]の発症に至る可能性がある<ref name=":0">{{Cite web |title=クロムとは |url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%A0-58145 |website=コトバンク |accessdate=2022-02-08 |language=ja |first=日本大百科全書(ニッポニカ),化学辞典 第2版,知恵蔵,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,百科事典マイペディア,精選版 日本国語大辞典,漢方薬・生薬・栄養成分がわかる事典,デジタル大辞泉,栄養・生化学辞典,世界大百科事典 |last=第2版}}</ref>。
もともとクロムは体内に吸収されにくいミネラルであるが、穀物を精製するとクロムが大幅に失われてしまう問題が存在する。[[小麦粉]]の場合、精白すると98 %のクロムが失われ、[[米]]を精米すると92 %のクロムが失われるとされている。そのため、体内へのクロム吸収率の向上を図った[[サプリメント]]なども開発・販売されている。
== クロムの毒性 ==
クロム単体および3価のクロムは毒性がない<ref name=":0" />一方で、6価のクロム化合物([[六価クロム]])は[[毒|毒性]]が高い。かつては六価クロムをメッキ用途として使うことが多かったが、[[土壌汚染]]を起こすなどでしばしば問題視され、亜鉛メッキ上のクロメート処理では使われなくなってきているが、クロムメッキでは[[酸化クロム(VI)]]を使用したメッキ液が主流である。また、[[たばこ]]に含まれる発がん性物質としても知られる。
4価のクロム化合物は[[世界保健機関|WHO]]の下部機関'''IARC'''より[[発癌性]]があると(Type1)勧告されている。
== RoHS規制物質としてのクロム ==
EU-[[RoHS]]においては[[六価クロム|6価クロム]]の濃度を0.1 %以下に抑えること、中国版RoHSにおいては意図的添加、処理を規制対象としている。検出方法としてはジフェニルカルバジド法を用いる。これは6価クロムが1,5-ジフェニルカルボノヒドラジドと酸性溶液中で反応してクロム‐ジフェニルカルバゾン錯体を形成することを利用したもので、紫外可視分光光度計を用いて吸光度を測定し、濃度を求める。この際、共存元素(3価[[鉄]]、5価[[バナジウム]]、6価[[モリブデン]])の影響を受ける。
== クロムの化合物 ==
[[ファイル:5-fold chromium.png|thumb|五重結合状態のクロム化合物を化学構造式で表現した図]]
* [[酸化クロム]] - 5種類が存在する。
**[[酸化クロム(II)]](CrO) - 酸化クロムの1種。
** [[酸化クロム(III)]](Cr<sub>2</sub>O<sub>3</sub>) - 同上。
** [[酸化クロム(VI)]](CrO<sub>3</sub>) - 同上。
* [[クロム酸カリウム]](K<sub>2</sub>CrO<sub>4</sub>) - 6価の化合物で、強力な[[酸化剤]]。劇物として扱われ、6価クロムによる汚染の際、問題になることも多い。
* [[二クロム酸カリウム]](K<sub>2</sub>Cr<sub>2</sub>O<sub>7</sub>) - クロム酸カリウムと同じく、強力な酸化剤。
* [[クロム酸鉛(II)|クロム酸鉛]](PbCrO<sub>4</sub>) - 紅鉛鉱として天然に産するほか、[[黄色]][[顔料]]・[[黄鉛]](クロムイエロー)として使われる。
* [[ジンククロメート|クロム酸亜鉛]](ZnCrO<sub>4</sub>) - 黄色顔料・ジンククロメート(亜鉛黄、ジンクイエロー)として使われる。
* [[クロム酸カルシウム]](CaCrO<sub>4</sub>) - 黄色顔料・カルシウム黄(カルシウムイエロー)として使われる。
* [[ストロンチウムクロメート|クロム酸ストロンチウム]](SrCrO<sub>4</sub>) - 黄色顔料・ストロンチウムクロメート(ストロンシャンイエロー、ストロンチウムイエロー)として使われる。
* [[クロム酸バリウム]](BaCrO<sub>4</sub>) - 黄色顔料・バリウムクロメート(バリウムイエロー、バリウム黄)として使われる。
== 同位体 ==
{{Main|クロムの同位体}}
==国別の産出量==
2019年における国別の産出量は以下の通りである<ref>[https://pubs.usgs.gov/periodicals/mcs2020/mcs2020-chromium.pdf USGS クロムの統計と情報2020年版]</ref>。
{| class="wikitable"
|-
!順位 !! 国 !!クロム鉱の産出量/(1000 t)
|-
|style="text-align:center" |1
|[[南アフリカ共和国]]
|style="text-align:right" | 17000
|-
|style="text-align:center" |2
|[[トルコ]]
|style="text-align:right" | 10000
|-
|style="text-align:center" |3
|[[カザフスタン]]
|style="text-align:right" | 6700
|-
|style="text-align:center" |4
|[[インド]]
|style="text-align:right" | 4100
|-
|style="text-align:center" |5
|[[フィンランド]]
|style="text-align:right" | 2200
|-
|style="text-align:center" |6
|その他
|style="text-align:right" | 4000
|}
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
{{Wiktionary}}
* [[クロムモリブデン鋼]]
* [[クロム鉄鉱]]
* [[ビリジアン]]
* [[オキサイド・オブ・クロミウム]]
* [[耐糖因子]] (Glucose Tolerance Factor)
== 外部リンク ==
*{{PaulingInstitute|jp/mic/minerals/chromium}}
*{{hfnet|758|クロム解説}}
* {{hfnet|34|クロム|nolink=yes}}
* [https://gbank.gsj.jp/geochemmap/zenkoku/japanCr.htm クロムの地球化学図]
* {{Kotobank}}
{{元素周期表}}
{{クロムの化合物}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:くろむ}}
[[Category:クロム|*]]
[[Category:元素]]
[[Category:遷移金属]]
[[Category:第6族元素]]
[[Category:第4周期元素]]
[[Category:必須ミネラル]] | 2003-05-19T14:07:05Z | 2023-11-20T08:50:28Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%A0 |
8,667 | 南アメリカ | 南アメリカ(みなみアメリカ)は、全体が西半球にあり、大部分が南半球にある大陸。南米(なんべい)ともいう。西に太平洋、北と東に大西洋、北西に北米とカリブ海に囲まれている。南米大陸には12の主権国家が存在している。
南アメリカは1507年、アメリカ州が東インドではなくヨーロッパ人にとっての新大陸であると指摘した最初のヨーロッパ人ヴァルトゼーミュラー、リングマンによって、ヴェスプッチの名から付けられた。
面積は17,780,000 kmであり、地球の陸地面積の約12%を占める。人口は、2016年10月現在で4億2千万人と見積もられている。
南アメリカはリャマ、アナコンダ、ピラニア、ジャガー、ビクーニャといった多種多様な生物の故郷である。アマゾンの熱帯雨林は生物多様性が高く、地球の種族の主要な部分である。南アメリカにはアンデス諸国、ギアナ、コーノ・スール、ブラジルが含まれる。西インド諸島などのカリブ海地域やパナマは含めない。
総面積は1781万8500平方キロ、人口は約4億2000万人である。面積、人口共に南アメリカ最大の国はブラジルで面積855万平方キロ、人口は約2億人であり、アルゼンチンが面積で続く。大陸の北端はコロンビアのグアヒラ半島ガイーナス岬で、北緯12度28分、南端はティエラ・フエゴ諸島のホーン(オルノス)岬で、南緯55度59分。
北アメリカ大陸の南に位置する。
大陸の約3分の2が両回帰線の中にあり熱帯性気候だが、大陸の南部では温暖な地中海性気候から寒冷多雨な西岸海洋性気候に変わる。
地形は、西部に南北8500キロにわたって走るアンデス山脈があり、6960メートルに及ぶアコンカグアをはじめ5000~6000メートル級の高山が並んでいる。アンデス山脈は高度は高いものの、とくに北アンデスから中央アンデスにかけての山脈上は麓の熱帯気候と比べて温和で暮らしやすく、山脈の間の河谷や盆地、高原には多くの人々が住む。特にエクアドルからベネズエラにかけての北アンデス山脈にはキトやボゴタ、カラカスといった大都市が立地しており、これらの国で最も人口稠密な地帯となっている。中央アンデスにおいてもこの傾向は顕著で、ペルー南部からボリビアにかけて広がるアルティプラーノと呼ばれる広い高原とその周辺地域は、古代アンデス文明の揺籃の地となり、インカ帝国など様々な国家が生まれた。現在でもこの地域は人口が多く、とくにインディオが多く居住する地域となっている。アルティプラーノ北部は農耕に適し、チチカカ湖などの湖沼も存在する。ボリビアの首都ラパスは、このアルティプラーノの間の狭い谷に位置している。アルティプラーノ南部は冷涼で乾燥しており、ウユニ塩湖はこの地域に存在する。
アンデス山脈の西には海岸に沿って狭い平地が広がっているが、この内コロンビアからエクアドル北部にかけては熱帯雨林気候となっているものの、エクアドル南部からペルーを通りチリ北部にかけては、沿岸を通る寒流のペルー海流の影響によって雨がほとんど降らない砂漠地帯となっており、アンデス山脈から太平洋に流れ出る川の流域だけが、人間が居住できる場所である。しかし、とくにペルーにおいては海岸部には点々と大都市が連なっており、ペルーの首都リマもこうした乾燥海岸に位置している。この乾燥地域の南には地中海性気候の地域が広がり、アンデスの主脈と海岸山脈とのあいだの盆地で農業が営まれる。チリの首都サンティアゴも、こうした盆地の中に存在する。
東部にはアンデスのような巨大山脈は存在せず、ギアナ高地やブラジル高原といったなだらかな高原が広がるものの、地形はそれほど険しくはない。そしてこれらの高原と西部のアンデス山脈との間には、広い平地が広がっている。そこにオリノコ川、アマゾン川、ラ・プラタ川の三水系がある。オリノコ川は北流して大西洋へと注ぎ、流域は北部がリャノと呼ばれる乾燥サバンナ、南部はアマゾンへと広がる熱帯雨林となっている。オリノコ水系とアマゾン水系は細い水路によってつながっている。アマゾン川はこの3河川中で最も大きく、長さは6300キロにもおよび、流域面積は世界一である。川の勾配は河口から3450キロ上流のイキートスでも海抜100メートルで非常に緩やかであり、ここまでは外洋汽船の航行が可能である。ネグロ川以西の流域の大部分は、高温多湿の熱帯雨林で、標高200メートル以下の平地が広がっている。このアマゾン熱帯雨林(セルバ)は世界最大の熱帯雨林として知られており、南アメリカ大陸北部の中央部をすっぽりと覆っている。アマゾンは自然の宝庫として知られており、多くの固有種が存在するが、1960年代以降ブラジル政府が積極的な開発に乗り出したため、徐々に森林が失われ始めている。
アマゾン熱帯雨林は、東のブラジル高原に近づくにしたがってサバンナ気候に移行する。さらに東のブラジル北東部に入ると、気候は乾燥しステップ気候となる。ブラジル高原の南東部は大西洋に面しているが、ここは降水量も多く肥沃な土地で、サンパウロやリオデジャネイロなどブラジルのみならず南米屈指の大都市が連なる人口集中地帯となっている。
アマゾンから南へ向かうとマトグロッソ高原に入るが、ここはアマゾン川水系とラプラタ川水系の分水嶺となっている。マトグロッソ高原の南には熱帯半乾燥気候のグラン・チャコ地方やパンタナール大湿原があり、さらにその南には、アルゼンチンの温帯草原、いわゆるパンパが広がっている。パンパは非常に肥沃な土地であり、各地で大牧場が営まれ、アルゼンチンの主要輸出品である牛肉を生産している。パンパのみならず、ラプラタ川流域の北東方面にあるパラナ川やパラグアイ川、ウルグアイ川といった支流の流域にも肥沃な温帯草原が広がっており、豊かな農牧業地帯となっている。ラプラタ川の河口にあるブエノスアイレスはこの地域の経済の中心である。
パンパの南には、乾燥して冷涼なパタゴニアの台地が広がっている。この地域はパンパに比べて自然条件が厳しく、牧場が点在する程度で開発は進んでおらず、強風の吹きすさぶ荒涼とした土地が広がる。パタゴニアは冷涼な気候と強風が特徴であるが、この気候は南に、つまり南極に近づくにつれてより一層強くなる。南アメリカ大陸と属島であるフエゴ島との間には細いマゼラン海峡が通っており、パナマ運河ができるまでは大西洋と太平洋をつなぐほぼ唯一の商業水路であったが、南極から吹きつける強風によって非常な難所として知られていた。フエゴ島の南端近くには、世界最南端の都市として知られるウシュアイアがある。南アメリカの最南端は、フエゴ島のさらに南のオルノス島に位置するホーン岬であり、ドレーク海峡を挟んで南極大陸と向かい合っている。
ヨーロッパからは、ブラジルの北東部と北米大陸東海岸はそれほど距離に差はない(ロンドン<>ニューヨーク間が5576キロである一方、植民地時代のブラジルの主都だったサルヴァドールと宗主国ポルトガルの首都リスボンの距離は6515キロ)。つまり、南アメリカは北アメリカと比べて、それほどヨーロッパから離れていないということができる。このことが南アメリカの大西洋岸地域をヨーロッパと密接に結びつけた。
南アメリカに人類が出現したのは「氷河の時代」や「人類の時代」といわれる更新世の末期である。その時期に東北アジアから野生の動物を追って渡来してきたモンゴロイドのホモ・サピエンス・サピエンスの狩猟民が、気候の温暖化・乾燥化によって変化する環境に適応しながらこの地方に定着した。中央アンデスにおいてはやがてジャガイモやトマトなどこの地域の植物を栽培化していき、この食料生産と農耕を基盤として独自の文明がはぐくまれた。これらの国家は消長を繰り返すが、15世紀末にはアンデス地域の過半はタワンティンスーユ(四つの地方)と呼ばれ、現ペルー南部高原のクスコを首都にしたインカ帝国によって統合されていた。このほかの地域では大規模な帝国は生まれなかった。
しかしインカ帝国は大航海時代からのヨーロッパ人の世界進出の波に飲み込まれ、1533年にスペインのフランシスコ・ピサロがクスコに入城することでほぼ滅亡した。これによりスペインはインカ帝国の遺領を制圧し、さらに周辺地域にも支配を広げていき、16世紀中ごろにはアンデスなど南アメリカ大陸西部を中心として大陸の過半を支配下におさめていた。例外はポルトガルで、トルデシリャス条約の規定を根拠として大陸東部のブラジル北東部(ノルデステ)を中心に勢力を広げ、やがて大陸東半を支配下におさめた。ポルトガル領が17世紀初頭に一時オランダ領になるなどの変化もあったが、この勢力図は19世紀初頭に各植民地で独立運動が始まるまで基本的な変化はなかった。この両国はどちらもラテン系の国家であり、ラテン系の言語や文化が地域に深く浸透し、中米と並んでラテンアメリカと呼ばれることとなった。
19世紀初頭、ナポレオン戦争によってヨーロッパが混乱すると、南アメリカ各地でも独立への動きが表面化した。例外はブラジルで、本国をナポレオンに侵略されたポルトガル王室がリオデジャネイロに遷都し、ブラジルに根を下ろした。戦後も情勢は安定せず、シモン・ボリバルやホセ・デ・サン=マルティンといった独立の英雄たちのもとで、南アメリカのスペイン領諸国は1820年代に相次いで独立した。次いで、ブラジルにおいても王室のポルトガル帰還に際して王家が分裂し、リオデジャネイロに残った王家はブラジル帝国の成立を宣言し、ここにスペイン・ポルトガル両国の南アメリカにおける領土は消滅し、南アメリカのほとんどは各独立国家によって統治されることとなった。
独立はしたものの、各国の統治体制は脆弱で、カウディーリョと呼ばれる地域ボスが各地に分立し、各国を専制的に支配することとなった。また、各国間の国境も明確に定まっているわけではなく、このため19世紀には各国間で領土をめぐる戦争が多発した。経済的には旧宗主国に代わってイギリスの強い影響下におかれることとなり、非公式帝国と呼ばれるイギリスの経済覇権が確立していた。1870年代以降になると、南アメリカ南部で政情が安定しはじめ、それに伴って経済成長がおこった。最初に情勢が安定したのはチリで、ここは建国以降政情の混乱が最小限にとどまり、順調に成長を続けていた。次いで、ブエノスアイレス州と内陸諸州との内戦をおさめたアルゼンチンが、冷凍船の開発に伴う牛肉輸出の爆発的増加によって経済成長を成し遂げた。ウルグアイもこの牛肉輸出ブームの恩恵にあずかり、20世紀初頭にはこの繁栄の中でホセ・バッジェ・イ・オルドーニェスがあらわれて福祉国家化がなされ、南アメリカでも最も安定した国家となった。ブラジルではコーヒーブームによってサンパウロ州などの農園主の発言力が増していき、1889年には皇帝が廃位されて共和制となったことで、南アメリカの国家はすべて共和制国家となった。この両期間を通じてブラジルの政情は安定しており、とくに南部を中心に経済が成長した。南米北部においてもプランテーション農業や鉱物輸出によってある程度の経済成長はあったが、南部に比べると政治的安定に欠け、成長も限定的なものにとどまった。
1930年代以降、南米各国では世界恐慌による一次産品価格の下落による経済危機に見舞われ、この混乱の中からポプリスモ(ポピュリスト)が各国に出現し、政権を握るようになっていった。アルゼンチンのフアン・ペロンや、ブラジルのジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガスなどがその代表例である。しかし彼らの政策は経済の混乱を招き、その中で軍部がクーデターを起こして実権を握るようになっていき、1970年代半ばにはコロンビアやベネズエラなどの数か国を除いて、ウルグアイやチリなどのかつて安定した民主主義国家であった国々でさえ軍政が敷かれるようになっていた。しかし、軍部もまた経済危機を乗り越えることはできず、1980年代以降南米各国では急速に民主化が進んだ。
この地域を統括する経済組織としては、1948年に国際連合(UN)の下部組織として設置された国連ラテンアメリカ経済委員会(1984年に国連ラテンアメリカ・カリブ経済委員会に改称)や、1961年に発足したラテンアメリカ自由貿易連合(通称LAFTA、1981年にラテンアメリカ統合連合に改組)などがあったが、いずれも中米との統一組織の上、加盟各国の足並みの乱れなどでそれほどの効果が上がっていなかった。
そのため、近接する国家同士による経済機構結成の機運が生まれ、1969年にボリビア、コロンビア、エクアドル、ペルー、ベネズエラ、チリのアンデス6ヵ国によってアンデス共同体が結成され、次いで1991年にはアルゼンチン、ブラジル、パラグアイ、ウルグアイの南アメリカ南部4ヵ国によってメルコスールが結成された。この2つの共同体は加盟国間の出入国管理の簡素化や、域内関税の撤廃などで一定の成果を上げた。そしてこれらの成果をもとに、南米全体を統括する2004年に南米共同体が結成された(2007年に南米諸国連合に改組)。南米諸国連合はメルコスールとアンデス共同体の二つの関税同盟を統合し、大陸一体の自由貿易圏を計画している。
南米諸国の所得格差は、他の大陸を含めて最も大きいと考えられている。ベネズエラ、パラグアイ、ボリビア、および他の南米諸国は上位20%の富裕層が60%の国富を有し、下位20%の最貧層は5%にも満たない。この大きな較差は南アメリカの諸都市で摩天楼と上流階級の豪華なアパートに隣接する貧困層のスラムという形で目にすることができる。南アメリカの富は南部諸国のほうがより多く、チリ、アルゼンチン、ウルグアイの3国はコーノ・スールと呼ばれる先進地域を形成している。ブラジルもまた、南部と南東部は開発が進んだ豊かな地域であり、コーノ・スールから連続する先進地域の一角をなしている。一方で、チリを除くアンデス諸国やブラジルの北東部は相対的に貧しい地域となっている。
南アメリカのほとんどの国(ベネズエラ、コロンビア、エクアドル、ペルー、ボリビア、チリ、パラグアイ、アルゼンチン、ウルグアイ)ではスペイン語が公用語である。ブラジルではポルトガル語が公用語であり、ほぼ全ての国民にとって母語でもある。その他、ガイアナでは英語、スリナムではオランダ語、フランス海外領土のギアナではフランス語が公用語となっている。
とはいえ、先住民や移民の子孫の間では、母語などとしてそれ以外の言語を使うケースも少なくない。ケチュア語がエクアドル・ペルー・ボリビアの3か国で、アイマラ語がペルーとボリビアで、そしてグアラニー語がパラグアイで、それぞれスペイン語と並んで公用語になっているほか、南米各地の先住民コミュニティ内ではその他数多くの言語が、特に日常生活において今でも使われ続けている。非先住民系の言語としては、ヒンディー語とインドネシア語がスリナムで話されている。イタリア語がアルゼンチン、ブラジル、ペルー、ウルグアイ、ベネズエラ、チリで話されている。ドイツ語がアルゼンチン、チリ、ベネズエラ、ペルー、パラグアイの極一部とブラジル南部各州の多くの地域で話されている(フンスリュック方言(英語版)は国で最も話されているドイツ語の方言であり、その他のドイツ語の方言も広く話されている。ブラジル式ポメラニア語もリバイバルされている)。ウェールズ語はアルゼンチンのパタゴニアのトレレウ、ラウソンで話され、書かれている。少数の日本語話者もブラジル、ボリビア、コロンビア、パラグアイ、エクアドルにいる。レバノン系、シリア系、パレスチナ系のアラビア語話者はブラジル、エクアドル、チリ、アルゼンチンのアラブ人コミュニティーにおり、コロンビアとパラグアイには少ない。
上流階級と高等教育のある人々は一般に英語、フランス語、ドイツ語またはイタリア語を学習する。この地域で観光は大きな産業であり、英語や他のヨーロッパの言語はしばしば話されている。ウルグアイと近接しているため、南ブラジルの大半にはスペイン語の話される小さな地域がある。
ヨーロッパ、特にスペイン、ポルトガルとの歴史的な繋がりのため文化的に豊かである。またアメリカ合衆国の大衆文化からも影響を受けている。
南アメリカのスペイン語圏アメリカの文学は、1960年代・1970年代のラテンアメリカ文学ブームで大きな人気を得た。小説ではガブリエル・ガルシア=マルケスが、他のジャンルではパブロ・ネルーダやホルヘ・ルイス・ボルヘスといった作家が注目された。
南アメリカの広範な人種混合により、ラテンアメリカ料理は黒人、インディオ、アジア人、ヨーロッパ人の影響を受けている。西アフリカの影響を受けているブラジルのバイーアは特に有名である。アルゼンチン、チリ、ウルグアイでは一般にワインが好まれており、アルゼンチン、パラグアイ、ウルグアイ、チリ南部とブラジル南部の住民は好んでマテ茶を飲み、パラグアイでは冷やしたテレレが飲まれる。ピスコはチリとペルーでグレープワインから生産される酒であるが、双方の国が起源を主張している。ペルー料理は中国、日本、スペイン、アフリカ、アンデス、アマゾンの料理の要素の混合である。
インディヘナとしてはペルーとボリビアの人口の大多数を占めているケチュア人、アイマラ人は他のスペイン語圏諸国よりも注目される存在となっている。大陸南西部のアルゼンチンとウルグアイでは南ヨーロッパ人の子孫がマジョリティである。チリ、パラグアイ、コロンビア、エクアドル、ベネズエラではメスティーソが最大のエスニック・グループである。スリナムはアジア人が最大の唯一の国である。フランス領ギアナではクレオールが最大のエスニック・グループだが、ガイアナ、ベネズエラ、スリナム、コロンビア、ペルー、エクアドルでもまた大きな人種集団である。ブラジルは南アメリカで最も多様な人種構成の国であり、多くの黒人、白人、ムラートと、注目されるべき数のアジア人、アメリカインディアンの住人を抱えている。 | [
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"text": "アンデス山脈の西には海岸に沿って狭い平地が広がっているが、この内コロンビアからエクアドル北部にかけては熱帯雨林気候となっているものの、エクアドル南部からペルーを通りチリ北部にかけては、沿岸を通る寒流のペルー海流の影響によって雨がほとんど降らない砂漠地帯となっており、アンデス山脈から太平洋に流れ出る川の流域だけが、人間が居住できる場所である。しかし、とくにペルーにおいては海岸部には点々と大都市が連なっており、ペルーの首都リマもこうした乾燥海岸に位置している。この乾燥地域の南には地中海性気候の地域が広がり、アンデスの主脈と海岸山脈とのあいだの盆地で農業が営まれる。チリの首都サンティアゴも、こうした盆地の中に存在する。",
"title": "地理"
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{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "東部にはアンデスのような巨大山脈は存在せず、ギアナ高地やブラジル高原といったなだらかな高原が広がるものの、地形はそれほど険しくはない。そしてこれらの高原と西部のアンデス山脈との間には、広い平地が広がっている。そこにオリノコ川、アマゾン川、ラ・プラタ川の三水系がある。オリノコ川は北流して大西洋へと注ぎ、流域は北部がリャノと呼ばれる乾燥サバンナ、南部はアマゾンへと広がる熱帯雨林となっている。オリノコ水系とアマゾン水系は細い水路によってつながっている。アマゾン川はこの3河川中で最も大きく、長さは6300キロにもおよび、流域面積は世界一である。川の勾配は河口から3450キロ上流のイキートスでも海抜100メートルで非常に緩やかであり、ここまでは外洋汽船の航行が可能である。ネグロ川以西の流域の大部分は、高温多湿の熱帯雨林で、標高200メートル以下の平地が広がっている。このアマゾン熱帯雨林(セルバ)は世界最大の熱帯雨林として知られており、南アメリカ大陸北部の中央部をすっぽりと覆っている。アマゾンは自然の宝庫として知られており、多くの固有種が存在するが、1960年代以降ブラジル政府が積極的な開発に乗り出したため、徐々に森林が失われ始めている。",
"title": "地理"
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"tag": "p",
"text": "アマゾン熱帯雨林は、東のブラジル高原に近づくにしたがってサバンナ気候に移行する。さらに東のブラジル北東部に入ると、気候は乾燥しステップ気候となる。ブラジル高原の南東部は大西洋に面しているが、ここは降水量も多く肥沃な土地で、サンパウロやリオデジャネイロなどブラジルのみならず南米屈指の大都市が連なる人口集中地帯となっている。",
"title": "地理"
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{
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"text": "アマゾンから南へ向かうとマトグロッソ高原に入るが、ここはアマゾン川水系とラプラタ川水系の分水嶺となっている。マトグロッソ高原の南には熱帯半乾燥気候のグラン・チャコ地方やパンタナール大湿原があり、さらにその南には、アルゼンチンの温帯草原、いわゆるパンパが広がっている。パンパは非常に肥沃な土地であり、各地で大牧場が営まれ、アルゼンチンの主要輸出品である牛肉を生産している。パンパのみならず、ラプラタ川流域の北東方面にあるパラナ川やパラグアイ川、ウルグアイ川といった支流の流域にも肥沃な温帯草原が広がっており、豊かな農牧業地帯となっている。ラプラタ川の河口にあるブエノスアイレスはこの地域の経済の中心である。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 12,
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"text": "パンパの南には、乾燥して冷涼なパタゴニアの台地が広がっている。この地域はパンパに比べて自然条件が厳しく、牧場が点在する程度で開発は進んでおらず、強風の吹きすさぶ荒涼とした土地が広がる。パタゴニアは冷涼な気候と強風が特徴であるが、この気候は南に、つまり南極に近づくにつれてより一層強くなる。南アメリカ大陸と属島であるフエゴ島との間には細いマゼラン海峡が通っており、パナマ運河ができるまでは大西洋と太平洋をつなぐほぼ唯一の商業水路であったが、南極から吹きつける強風によって非常な難所として知られていた。フエゴ島の南端近くには、世界最南端の都市として知られるウシュアイアがある。南アメリカの最南端は、フエゴ島のさらに南のオルノス島に位置するホーン岬であり、ドレーク海峡を挟んで南極大陸と向かい合っている。",
"title": "地理"
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"text": "ヨーロッパからは、ブラジルの北東部と北米大陸東海岸はそれほど距離に差はない(ロンドン<>ニューヨーク間が5576キロである一方、植民地時代のブラジルの主都だったサルヴァドールと宗主国ポルトガルの首都リスボンの距離は6515キロ)。つまり、南アメリカは北アメリカと比べて、それほどヨーロッパから離れていないということができる。このことが南アメリカの大西洋岸地域をヨーロッパと密接に結びつけた。",
"title": "地理"
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{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "南アメリカに人類が出現したのは「氷河の時代」や「人類の時代」といわれる更新世の末期である。その時期に東北アジアから野生の動物を追って渡来してきたモンゴロイドのホモ・サピエンス・サピエンスの狩猟民が、気候の温暖化・乾燥化によって変化する環境に適応しながらこの地方に定着した。中央アンデスにおいてはやがてジャガイモやトマトなどこの地域の植物を栽培化していき、この食料生産と農耕を基盤として独自の文明がはぐくまれた。これらの国家は消長を繰り返すが、15世紀末にはアンデス地域の過半はタワンティンスーユ(四つの地方)と呼ばれ、現ペルー南部高原のクスコを首都にしたインカ帝国によって統合されていた。このほかの地域では大規模な帝国は生まれなかった。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "しかしインカ帝国は大航海時代からのヨーロッパ人の世界進出の波に飲み込まれ、1533年にスペインのフランシスコ・ピサロがクスコに入城することでほぼ滅亡した。これによりスペインはインカ帝国の遺領を制圧し、さらに周辺地域にも支配を広げていき、16世紀中ごろにはアンデスなど南アメリカ大陸西部を中心として大陸の過半を支配下におさめていた。例外はポルトガルで、トルデシリャス条約の規定を根拠として大陸東部のブラジル北東部(ノルデステ)を中心に勢力を広げ、やがて大陸東半を支配下におさめた。ポルトガル領が17世紀初頭に一時オランダ領になるなどの変化もあったが、この勢力図は19世紀初頭に各植民地で独立運動が始まるまで基本的な変化はなかった。この両国はどちらもラテン系の国家であり、ラテン系の言語や文化が地域に深く浸透し、中米と並んでラテンアメリカと呼ばれることとなった。",
"title": "歴史"
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"text": "19世紀初頭、ナポレオン戦争によってヨーロッパが混乱すると、南アメリカ各地でも独立への動きが表面化した。例外はブラジルで、本国をナポレオンに侵略されたポルトガル王室がリオデジャネイロに遷都し、ブラジルに根を下ろした。戦後も情勢は安定せず、シモン・ボリバルやホセ・デ・サン=マルティンといった独立の英雄たちのもとで、南アメリカのスペイン領諸国は1820年代に相次いで独立した。次いで、ブラジルにおいても王室のポルトガル帰還に際して王家が分裂し、リオデジャネイロに残った王家はブラジル帝国の成立を宣言し、ここにスペイン・ポルトガル両国の南アメリカにおける領土は消滅し、南アメリカのほとんどは各独立国家によって統治されることとなった。",
"title": "歴史"
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"text": "独立はしたものの、各国の統治体制は脆弱で、カウディーリョと呼ばれる地域ボスが各地に分立し、各国を専制的に支配することとなった。また、各国間の国境も明確に定まっているわけではなく、このため19世紀には各国間で領土をめぐる戦争が多発した。経済的には旧宗主国に代わってイギリスの強い影響下におかれることとなり、非公式帝国と呼ばれるイギリスの経済覇権が確立していた。1870年代以降になると、南アメリカ南部で政情が安定しはじめ、それに伴って経済成長がおこった。最初に情勢が安定したのはチリで、ここは建国以降政情の混乱が最小限にとどまり、順調に成長を続けていた。次いで、ブエノスアイレス州と内陸諸州との内戦をおさめたアルゼンチンが、冷凍船の開発に伴う牛肉輸出の爆発的増加によって経済成長を成し遂げた。ウルグアイもこの牛肉輸出ブームの恩恵にあずかり、20世紀初頭にはこの繁栄の中でホセ・バッジェ・イ・オルドーニェスがあらわれて福祉国家化がなされ、南アメリカでも最も安定した国家となった。ブラジルではコーヒーブームによってサンパウロ州などの農園主の発言力が増していき、1889年には皇帝が廃位されて共和制となったことで、南アメリカの国家はすべて共和制国家となった。この両期間を通じてブラジルの政情は安定しており、とくに南部を中心に経済が成長した。南米北部においてもプランテーション農業や鉱物輸出によってある程度の経済成長はあったが、南部に比べると政治的安定に欠け、成長も限定的なものにとどまった。",
"title": "歴史"
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"text": "1930年代以降、南米各国では世界恐慌による一次産品価格の下落による経済危機に見舞われ、この混乱の中からポプリスモ(ポピュリスト)が各国に出現し、政権を握るようになっていった。アルゼンチンのフアン・ペロンや、ブラジルのジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガスなどがその代表例である。しかし彼らの政策は経済の混乱を招き、その中で軍部がクーデターを起こして実権を握るようになっていき、1970年代半ばにはコロンビアやベネズエラなどの数か国を除いて、ウルグアイやチリなどのかつて安定した民主主義国家であった国々でさえ軍政が敷かれるようになっていた。しかし、軍部もまた経済危機を乗り越えることはできず、1980年代以降南米各国では急速に民主化が進んだ。",
"title": "歴史"
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"text": "この地域を統括する経済組織としては、1948年に国際連合(UN)の下部組織として設置された国連ラテンアメリカ経済委員会(1984年に国連ラテンアメリカ・カリブ経済委員会に改称)や、1961年に発足したラテンアメリカ自由貿易連合(通称LAFTA、1981年にラテンアメリカ統合連合に改組)などがあったが、いずれも中米との統一組織の上、加盟各国の足並みの乱れなどでそれほどの効果が上がっていなかった。",
"title": "経済"
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"text": "そのため、近接する国家同士による経済機構結成の機運が生まれ、1969年にボリビア、コロンビア、エクアドル、ペルー、ベネズエラ、チリのアンデス6ヵ国によってアンデス共同体が結成され、次いで1991年にはアルゼンチン、ブラジル、パラグアイ、ウルグアイの南アメリカ南部4ヵ国によってメルコスールが結成された。この2つの共同体は加盟国間の出入国管理の簡素化や、域内関税の撤廃などで一定の成果を上げた。そしてこれらの成果をもとに、南米全体を統括する2004年に南米共同体が結成された(2007年に南米諸国連合に改組)。南米諸国連合はメルコスールとアンデス共同体の二つの関税同盟を統合し、大陸一体の自由貿易圏を計画している。",
"title": "経済"
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"text": "南米諸国の所得格差は、他の大陸を含めて最も大きいと考えられている。ベネズエラ、パラグアイ、ボリビア、および他の南米諸国は上位20%の富裕層が60%の国富を有し、下位20%の最貧層は5%にも満たない。この大きな較差は南アメリカの諸都市で摩天楼と上流階級の豪華なアパートに隣接する貧困層のスラムという形で目にすることができる。南アメリカの富は南部諸国のほうがより多く、チリ、アルゼンチン、ウルグアイの3国はコーノ・スールと呼ばれる先進地域を形成している。ブラジルもまた、南部と南東部は開発が進んだ豊かな地域であり、コーノ・スールから連続する先進地域の一角をなしている。一方で、チリを除くアンデス諸国やブラジルの北東部は相対的に貧しい地域となっている。",
"title": "経済"
},
{
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"text": "南アメリカのほとんどの国(ベネズエラ、コロンビア、エクアドル、ペルー、ボリビア、チリ、パラグアイ、アルゼンチン、ウルグアイ)ではスペイン語が公用語である。ブラジルではポルトガル語が公用語であり、ほぼ全ての国民にとって母語でもある。その他、ガイアナでは英語、スリナムではオランダ語、フランス海外領土のギアナではフランス語が公用語となっている。",
"title": "言語と文化"
},
{
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"text": "とはいえ、先住民や移民の子孫の間では、母語などとしてそれ以外の言語を使うケースも少なくない。ケチュア語がエクアドル・ペルー・ボリビアの3か国で、アイマラ語がペルーとボリビアで、そしてグアラニー語がパラグアイで、それぞれスペイン語と並んで公用語になっているほか、南米各地の先住民コミュニティ内ではその他数多くの言語が、特に日常生活において今でも使われ続けている。非先住民系の言語としては、ヒンディー語とインドネシア語がスリナムで話されている。イタリア語がアルゼンチン、ブラジル、ペルー、ウルグアイ、ベネズエラ、チリで話されている。ドイツ語がアルゼンチン、チリ、ベネズエラ、ペルー、パラグアイの極一部とブラジル南部各州の多くの地域で話されている(フンスリュック方言(英語版)は国で最も話されているドイツ語の方言であり、その他のドイツ語の方言も広く話されている。ブラジル式ポメラニア語もリバイバルされている)。ウェールズ語はアルゼンチンのパタゴニアのトレレウ、ラウソンで話され、書かれている。少数の日本語話者もブラジル、ボリビア、コロンビア、パラグアイ、エクアドルにいる。レバノン系、シリア系、パレスチナ系のアラビア語話者はブラジル、エクアドル、チリ、アルゼンチンのアラブ人コミュニティーにおり、コロンビアとパラグアイには少ない。",
"title": "言語と文化"
},
{
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"text": "上流階級と高等教育のある人々は一般に英語、フランス語、ドイツ語またはイタリア語を学習する。この地域で観光は大きな産業であり、英語や他のヨーロッパの言語はしばしば話されている。ウルグアイと近接しているため、南ブラジルの大半にはスペイン語の話される小さな地域がある。",
"title": "言語と文化"
},
{
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"text": "ヨーロッパ、特にスペイン、ポルトガルとの歴史的な繋がりのため文化的に豊かである。またアメリカ合衆国の大衆文化からも影響を受けている。",
"title": "言語と文化"
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{
"paragraph_id": 26,
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"text": "南アメリカのスペイン語圏アメリカの文学は、1960年代・1970年代のラテンアメリカ文学ブームで大きな人気を得た。小説ではガブリエル・ガルシア=マルケスが、他のジャンルではパブロ・ネルーダやホルヘ・ルイス・ボルヘスといった作家が注目された。",
"title": "言語と文化"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "南アメリカの広範な人種混合により、ラテンアメリカ料理は黒人、インディオ、アジア人、ヨーロッパ人の影響を受けている。西アフリカの影響を受けているブラジルのバイーアは特に有名である。アルゼンチン、チリ、ウルグアイでは一般にワインが好まれており、アルゼンチン、パラグアイ、ウルグアイ、チリ南部とブラジル南部の住民は好んでマテ茶を飲み、パラグアイでは冷やしたテレレが飲まれる。ピスコはチリとペルーでグレープワインから生産される酒であるが、双方の国が起源を主張している。ペルー料理は中国、日本、スペイン、アフリカ、アンデス、アマゾンの料理の要素の混合である。",
"title": "言語と文化"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "インディヘナとしてはペルーとボリビアの人口の大多数を占めているケチュア人、アイマラ人は他のスペイン語圏諸国よりも注目される存在となっている。大陸南西部のアルゼンチンとウルグアイでは南ヨーロッパ人の子孫がマジョリティである。チリ、パラグアイ、コロンビア、エクアドル、ベネズエラではメスティーソが最大のエスニック・グループである。スリナムはアジア人が最大の唯一の国である。フランス領ギアナではクレオールが最大のエスニック・グループだが、ガイアナ、ベネズエラ、スリナム、コロンビア、ペルー、エクアドルでもまた大きな人種集団である。ブラジルは南アメリカで最も多様な人種構成の国であり、多くの黒人、白人、ムラートと、注目されるべき数のアジア人、アメリカインディアンの住人を抱えている。",
"title": "住人"
}
] | 南アメリカ(みなみアメリカ)は、全体が西半球にあり、大部分が南半球にある大陸。南米(なんべい)ともいう。西に太平洋、北と東に大西洋、北西に北米とカリブ海に囲まれている。南米大陸には12の主権国家が存在している。 南アメリカは1507年、アメリカ州が東インドではなくヨーロッパ人にとっての新大陸であると指摘した最初のヨーロッパ人ヴァルトゼーミュラー、リングマンによって、ヴェスプッチの名から付けられた。 面積は17,780,000 km2であり、地球の陸地面積の約12%を占める。人口は、2016年10月現在で4億2千万人と見積もられている。 | {{混同|アメリカ合衆国南部}}
{{Infobox Continent|title=南アメリカ|image=South America (orthographic projection).svg|area={{convert|17840000
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[[ファイル:South america.jpg|thumb|200px|none|南アメリカの地図]]
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'''南アメリカ'''(みなみアメリカ)は、全体が[[西半球]]にあり、大部分が[[南半球]]にある大陸。'''南米'''(なんべい)ともいう。西に[[太平洋]]、北と東に[[大西洋]]、北西に[[北アメリカ|北米]]と[[カリブ海]]に囲まれている。南米大陸には12の主権国家が存在している。
南アメリカは[[1507年]]、アメリカ州が[[東インド]]ではなく[[ヨーロッパ]]人にとっての新大陸であると指摘した最初の[[ヨーロッパ人]][[マルティン・ヴァルトゼーミュラー|ヴァルトゼーミュラー]]、[[マティアス・リングマン|リングマン]]によって、[[アメリゴ・ヴェスプッチ|ヴェスプッチ]]の名から付けられた。
面積は17,780,000 [[平方キロメートル|km{{sup|2}}]]であり、[[地球]]の陸地面積の約12%を占める。人口は、2016年10月現在で4億2千万人と見積もられている<ref>[https://web.archive.org/web/20161019010351/https://www.worldometers.info/world-population/south-america-population/ Population of South America (2016) - Worldometers]</ref>。
== 地理 ==
南アメリカは[[リャマ]]、[[アナコンダ]]、[[ピラニア]]、[[ジャガー]]、[[ビクーニャ]]といった多種多様な生物の故郷である。アマゾンの[[熱帯雨林]]は生物多様性が高く、地球の種族の主要な部分である。南アメリカには[[アンデス諸国]]、[[ギアナ地方|ギアナ]]、[[コーノ・スール]]、[[ブラジル]]が含まれる。[[西インド諸島]]などの[[カリブ海]]地域や[[パナマ]]は含めない。
総面積は1781万8500平方キロ、人口は約4億2000万人である。面積、人口共に南アメリカ最大の国は[[ブラジル]]で面積855万平方キロ、人口は約2億人であり、[[アルゼンチン]]が面積で続く。大陸の北端は[[コロンビア]]のグアヒラ半島[[ガイナス岬|ガイーナス岬]]で、北緯12度28分、南端はティエラ・フエゴ諸島のホーン(オルノス)岬で、南緯55度59分。
[[北アメリカ大陸]]の南に位置する。
大陸の約3分の2が両[[回帰線]]の中にあり[[熱帯性気候]]だが、大陸の南部では温暖な[[地中海性気候]]から寒冷多雨な[[西岸海洋性気候]]に変わる。
地形は、西部に南北8500キロにわたって走る[[アンデス山脈]]があり、6960メートルに及ぶ[[アコンカグア]]をはじめ5000~6000メートル級の高山が並んでいる。アンデス山脈は高度は高いものの、とくに北アンデスから中央アンデスにかけての山脈上は麓の熱帯気候と比べて温和で暮らしやすく、山脈の間の河谷や盆地、高原には多くの人々が住む。特にエクアドルからベネズエラにかけての北アンデス山脈には[[キト]]や[[ボゴタ]]、[[カラカス]]といった大都市が立地しており、これらの国で最も人口[[人口集中|稠密]]な地帯となっている。中央アンデスにおいてもこの傾向は顕著で、ペルー南部からボリビアにかけて広がる[[アルティプラーノ]]と呼ばれる広い高原とその周辺地域は、古代アンデス文明の揺籃の地となり、インカ帝国など様々な国家が生まれた。現在でもこの地域は人口が多く、とくにインディオが多く居住する地域となっている。アルティプラーノ北部は農耕に適し、[[チチカカ湖]]などの湖沼も存在する。[[ボリビア]]の首都[[ラパス]]は、このアルティプラーノの間の狭い谷に位置している。アルティプラーノ南部は冷涼で乾燥しており、[[ウユニ塩湖]]はこの地域に存在する。
アンデス山脈の西には海岸に沿って狭い平地が広がっているが、この内[[コロンビア]]から[[エクアドル]]北部にかけては熱帯雨林気候となっているものの、エクアドル南部からペルーを通りチリ北部にかけては、沿岸を通る[[寒流]]の[[ペルー海流]]の影響によって雨がほとんど降らない[[砂漠|砂漠地帯]]となっており、アンデス山脈から[[太平洋]]に流れ出る川の流域だけが、人間が居住できる場所である。しかし、とくにペルーにおいては海岸部には点々と大都市が連なっており、ペルーの首都[[リマ]]もこうした乾燥海岸に位置している。この乾燥地域の南には[[地中海性気候]]の地域が広がり、アンデスの主脈と海岸山脈とのあいだの盆地で農業が営まれる。チリの首都[[サンティアゴ (チリ)|サンティアゴ]]も、こうした盆地の中に存在する。
東部にはアンデスのような巨大山脈は存在せず、[[ギアナ高地]]や[[ブラジル高原]]といったなだらかな高原が広がるものの、地形はそれほど険しくはない。そしてこれらの高原と西部のアンデス山脈との間には、広い平地が広がっている。そこに[[オリノコ川]]、[[アマゾン川]]、[[ラ・プラタ川]]の三水系がある。オリノコ川は北流して大西洋へと注ぎ、流域は北部がリャノと呼ばれる乾燥サバンナ、南部はアマゾンへと広がる熱帯雨林となっている。オリノコ水系とアマゾン水系は細い水路によってつながっている。アマゾン川はこの3河川中で最も大きく、長さは6300キロにもおよび、流域面積は世界一である。川の勾配は河口から3450キロ上流の[[イキートス]]でも海抜100メートルで非常に緩やかであり、ここまでは外洋汽船の航行が可能である。ネグロ川以西の流域の大部分は、高温多湿の[[熱帯雨林]]で、標高200メートル以下の平地が広がっている。この[[アマゾン熱帯雨林]](セルバ)は世界最大の熱帯雨林として知られており、南アメリカ大陸北部の中央部をすっぽりと覆っている。アマゾンは自然の宝庫として知られており、多くの固有種が存在するが、[[1960年代]]以降ブラジル政府が積極的な開発に乗り出したため、徐々に森林が失われ始めている。
アマゾン熱帯雨林は、東のブラジル高原に近づくにしたがって[[サバンナ気候]]に移行する。さらに東の[[ブラジル北東部]]に入ると、気候は乾燥し[[ステップ気候]]となる。ブラジル高原の南東部は大西洋に面しているが、ここは降水量も多く肥沃な土地で、サンパウロやリオデジャネイロなどブラジルのみならず南米屈指の大都市が連なる人口集中地帯となっている。
アマゾンから南へ向かうとマトグロッソ高原に入るが、ここはアマゾン川水系とラプラタ川水系の分水嶺となっている。マトグロッソ高原の南には熱帯半乾燥気候の[[グラン・チャコ]]地方や[[パンタナール]]大湿原があり、さらにその南には、アルゼンチンの[[温帯]][[草原]]、いわゆる[[パンパ]]が広がっている。パンパは非常に肥沃な土地であり、各地で大牧場が営まれ、アルゼンチンの主要輸出品である牛肉を生産している。パンパのみならず、ラプラタ川流域の北東方面にある[[パラナ川]]や[[パラグアイ川]]、[[ウルグアイ川]]といった支流の流域にも肥沃な温帯草原が広がっており、豊かな農牧業地帯となっている。ラプラタ川の河口にある[[ブエノスアイレス]]はこの地域の経済の中心である。
パンパの南には、乾燥して冷涼な[[パタゴニア]]の台地が広がっている。この地域はパンパに比べて自然条件が厳しく、牧場が点在する程度で開発は進んでおらず、強風の吹きすさぶ荒涼とした土地が広がる。パタゴニアは冷涼な気候と強風が特徴であるが、この気候は南に、つまり南極に近づくにつれてより一層強くなる。南アメリカ大陸と属島である[[フエゴ島]]との間には細い[[マゼラン海峡]]が通っており、[[パナマ運河]]ができるまでは大西洋と太平洋をつなぐほぼ唯一の商業水路であったが、南極から吹きつける強風によって非常な難所として知られていた。フエゴ島の南端近くには、世界最南端の都市として知られる[[ウシュアイア]]がある。南アメリカの最南端は、フエゴ島のさらに南の[[オルノス島]]に位置する[[ホーン岬]]であり、ドレーク海峡を挟んで[[南極大陸]]と向かい合っている。
[[ヨーロッパ]]からは、ブラジルの北東部と北米大陸東海岸はそれほど距離に差はない([[ロンドン]]<>[[ニューヨーク]]間が5576キロである一方、植民地時代のブラジルの主都だった[[サルヴァドール]]と宗主国[[ポルトガル]]の首都[[リスボン]]の距離は6515キロ)。つまり、南アメリカは北アメリカと比べて、それほどヨーロッパから離れていないということができる。このことが南アメリカの大西洋岸地域をヨーロッパと密接に結びつけた。
== 地域 ==
{{main|南アメリカの主権国家及び属領の一覧}}
[[ファイル:SACN member states.jpg|right|210px|thumb|南米共同体加盟国]]
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}}
{| class="wikitable sortable" style="font-size:90%;"
|- style="background:#ececec;"
! [[国]] or <br />[[地域]]およびその[[旗]]
! [[面積]]<br />(km²)<ref name="factbook2008">Land areas and population estimates are taken from ''The 2008 World Factbook'' which currently uses July 2007 data, unless otherwise noted.</ref> (per sq mi)
! [[人口]]<br />(July 2009 est.)<ref name="factbook2008" />
! [[人口密度]]<br />per km<sup>2</sup>
! [[首都]]
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| style="text-align:left;" | [[ラパス]]または[[スクレ (ボリビア)|スクレ]]<ref>憲法上の首都はスクレであるが、実際の首都機能はラパスにある。;<br /></ref>
|-
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| style="text-align:left;" | [[ブラジリア]]
|-
| style="text-align:left;" | {{sort|Chile|{{flag|Chile}}}}<ref>太平洋に浮かぶイースター島を含む。なお、イースター島は地域区分的にはオセアニアに属する。また、行政首都はサンティアゴであるが、国会は[[バルパライソ]]におかれている。</ref>
| style="text-align:right;"| {{sort|0756950| {{convert|756950|km2|sqmi|abbr=on}}}}
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|-
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|-
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| style="text-align:right;"| {{sort|0283560| {{convert|283560|km2|sqmi|abbr=on}}}}
| style="text-align:right;"| 14,573,101
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| style="text-align:left;" | [[キト]]
|-
| style="text-align:left;" | {{sort|Falkland Islands|{{flag|Falkland Islands}}}} ([[イギリス]])<ref>アルゼンチンと係争中<br /></ref>
| style="text-align:right;"| {{sort|0012173| {{convert|12173|km2|sqmi|abbr=on}}}}
| style="text-align:right;"| 3,140<ref>{{cite web|url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/fk.html |title=Falkland Islands: July 2008 population estimate |publisher=Cia.gov |date= |accessdate=2012-05-21}}</ref>
| style="text-align:right;"| {{sort|0026|0.26/km² ({{formatnum:{{#expr: 0.26 * 2.589988110336 round 1}} }}/sq mi)}}
| style="text-align:left;" | [[ポート・スタンリー]]
|-
| style="text-align:left;" |{{sort|French Guiana|{{flag|French Guiana}}}} ([[フランス]])
| style="text-align:right;"| {{sort|0091000| {{convert|91000|km2|sqmi|abbr=on}}}}
| style="text-align:right;"| 221,500<ref>(January 2009) {{cite web| url=http://www.insee.fr/fr/themes/tableau.asp?reg_id=99&ref_id=CMRSOS02137| title=Population des régions au 1er janvier| first=Government of France| last=[[INSEE]]| accessdate=2009-01-20|language=fr}}</ref>
| style="text-align:right;"| {{sort|0210|2.7/km² ({{formatnum:{{#expr: 2.1 * 2.589988110336 round 1}} }}/sq mi)}}
| style="text-align:left;" | [[カイエンヌ]]
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| style="text-align:right;"| 772,298
| style="text-align:right;"| {{sort|0360|3.5/km² ({{formatnum:{{#expr: 3.5 * 2.589988110336 round 1}} }}/sq mi)}}
| style="text-align:left;" | [[ジョージタウン]]
|-
| style="text-align:left;" | {{sort|Paraguay|{{flag|Paraguay}}}}
| style="text-align:right;"| {{sort|0406750| {{convert|406750|km2|sqmi|abbr=on}}}}
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|-
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| style="text-align:right;"| 29,132,013
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| style="text-align:left;" | [[リマ]]
|-
| style="text-align:left;" | {{sort|South Georgia and the South Sandwich Islands|{{flagicon|South Georgia and the South Sandwich Islands}} [[サウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島]] (イギリス)}}
| style="text-align:right;"| {{sort|0003093| {{convert|3093|km2|sqmi|abbr=on}}}}
| style="text-align:right;"| 20
| style="text-align:right;"| {{sort|0000|0/km² ({{formatnum:{{#expr: 0 * 2.589988110336 round 1}} }}/sq mi)}}
| style="text-align:left;" | [[キング・エドワード・ポイント]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://country-facts.findthedata.org/q/240/2390/What-is-the-capital-city-of-South-Georgia-And-The-South-Sandwich-Islands-a-country-in-the-continent-of-Oceania |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2014年1月28日 |archiveurl=https://archive.is/20140128114719/http://country-facts.findthedata.org/q/240/2390/What-is-the-capital-city-of-South-Georgia-And-The-South-Sandwich-Islands-a-country-in-the-continent-of-Oceania |archivedate=2014年1月28日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>
|-
| style="text-align:left;" | {{sort|Suriname|{{flag|Suriname}}}}
| style="text-align:right;"| {{sort|0163270| {{convert|163270|km2|sqmi|abbr=on}}}}
| style="text-align:right;"| 472,000
| style="text-align:right;"| {{sort|0270|3/km² ({{formatnum:{{#expr: 3 * 2.589988110336 round 1}} }}/sq mi)}}
| style="text-align:left;" | [[パラマリボ]]
|-
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| style="text-align:right;"| {{sort|0176220| {{convert|176220|km2|sqmi|abbr=on}}}}
| style="text-align:right;"| 3,477,780
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| style="text-align:left;" | [[モンテビデオ]]
|-
| style="text-align:left;" | {{sort|Venezuela|{{flag|Venezuela}}}}
| style="text-align:right;"| {{sort|09116445| {{convert|916445|km2|sqmi|abbr=on}}}}
| style="text-align:right;"| 31,648,930
| style="text-align:right;"| {{sort|2780|30.2/km² ({{formatnum:{{#expr: 27.8 * 2.589988110336 round 1}} }}/sq mi)}}
| style="text-align:left;" | [[カラカス]]
|- class="sortbottom"
! 総計
| style="text-align:right;"| {{nts|17,824,513}}
| style="text-align:right;"| {{nts|385,742,554}}
| style="text-align:right;"| 21.5/km²
|
|}
== 歴史 ==
南アメリカに人類が出現したのは「氷河の時代」や「人類の時代」といわれる[[更新世]]の末期である。その時期に[[東北アジア]]から野生の動物を追って渡来してきた[[モンゴロイド]]の[[ヒト|ホモ・サピエンス・サピエンス]]の狩猟民が、気候の温暖化・乾燥化によって変化する環境に適応しながらこの地方に定着した。中央アンデスにおいてはやがて[[ジャガイモ]]や[[トマト]]などこの地域の植物を栽培化していき、この食料生産と農耕を基盤として独自の文明がはぐくまれた。これらの国家は消長を繰り返すが、15世紀末にはアンデス地域の過半はタワンティンスーユ(四つの地方)と呼ばれ、現ペルー南部高原の[[クスコ]]を首都にした[[インカ帝国]]によって統合されていた。このほかの地域では大規模な帝国は生まれなかった。
しかしインカ帝国は[[大航海時代]]からのヨーロッパ人の世界進出の波に飲み込まれ、[[1533年]]に[[スペイン]]の[[フランシスコ・ピサロ]]が[[クスコ]]に入城することでほぼ滅亡した。これによりスペインはインカ帝国の遺領を制圧し、さらに周辺地域にも支配を広げていき、16世紀中ごろにはアンデスなど南アメリカ大陸西部を中心として大陸の過半を支配下におさめていた。例外は[[ポルトガル]]で、[[トルデシリャス条約]]の規定を根拠として大陸東部のブラジル北東部(ノルデステ)を中心に勢力を広げ、やがて大陸東半を支配下におさめた。ポルトガル領が17世紀初頭に一時[[オランダ]]領になるなどの変化もあったが、この勢力図は19世紀初頭に各植民地で独立運動が始まるまで基本的な変化はなかった。この両国はどちらもラテン系の国家であり、ラテン系の言語や文化が地域に深く浸透し、中米と並んでラテンアメリカと呼ばれることとなった。
[[19世紀]]初頭、[[ナポレオン戦争]]によってヨーロッパが混乱すると、南アメリカ各地でも独立への動きが表面化した。例外はブラジルで、本国を[[ナポレオン]]に侵略されたポルトガル王室がリオデジャネイロに遷都し、ブラジルに根を下ろした。戦後も情勢は安定せず、[[シモン・ボリバル]]や[[ホセ・デ・サン=マルティン]]といった独立の英雄たちのもとで、南アメリカのスペイン領諸国は1820年代に相次いで独立した。次いで、ブラジルにおいても王室のポルトガル帰還に際して王家が分裂し、リオデジャネイロに残った王家は[[ブラジル帝国]]の成立を宣言し、ここにスペイン・ポルトガル両国の南アメリカにおける領土は消滅し、南アメリカのほとんどは各独立国家によって統治されることとなった。
独立はしたものの、各国の統治体制は[[脆弱]]で、[[カウディーリョ]]と呼ばれる地域ボスが各地に分立し、各国を専制的に支配することとなった。また、各国間の国境も明確に定まっているわけではなく、このため19世紀には各国間で領土をめぐる戦争が多発した。経済的には旧宗主国に代わってイギリスの強い影響下におかれることとなり、[[非公式帝国]]と呼ばれるイギリスの経済覇権が確立していた。[[1870年代]]以降になると、南アメリカ南部で政情が安定しはじめ、それに伴って経済成長がおこった。最初に情勢が安定したのはチリで、ここは建国以降政情の混乱が最小限にとどまり、順調に成長を続けていた。次いで、[[ブエノスアイレス州]]と内陸諸州との内戦をおさめたアルゼンチンが、[[冷凍船]]の開発に伴う[[牛肉]]輸出の爆発的増加によって経済成長を成し遂げた。ウルグアイもこの牛肉輸出ブームの恩恵にあずかり、20世紀初頭にはこの繁栄の中で[[ホセ・バッジェ・イ・オルドーニェス]]があらわれて福祉国家化がなされ、南アメリカでも最も安定した国家となった。ブラジルでは[[コーヒー]]ブームによって[[サンパウロ州]]などの農園主の発言力が増していき、[[1889年]]には皇帝が廃位されて共和制となったことで、南アメリカの国家はすべて共和制国家となった。この両期間を通じてブラジルの政情は安定しており、とくに南部を中心に経済が成長した。南米北部においてもプランテーション農業や鉱物輸出によってある程度の経済成長はあったが、南部に比べると政治的安定に欠け、成長も限定的なものにとどまった。
[[1930年代]]以降、南米各国では[[世界恐慌]]による一次産品価格の下落による経済危機に見舞われ、この混乱の中からポプリスモ([[ポピュリスト]])が各国に出現し、政権を握るようになっていった。アルゼンチンの[[フアン・ペロン]]や、ブラジルの[[ジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス]]などがその代表例である。しかし彼らの政策は経済の混乱を招き、その中で軍部が[[クーデター]]を起こして実権を握るようになっていき、[[1970年代]]半ばにはコロンビアやベネズエラなどの数か国を除いて、ウルグアイやチリなどのかつて安定した民主主義国家であった国々でさえ[[軍政]]が敷かれるようになっていた。しかし、軍部もまた経済危機を乗り越えることはできず、1980年代以降南米各国では急速に民主化が進んだ。
== 経済 ==
この地域を統括する経済組織としては、[[1948年]]に[[国際連合]](UN)の下部組織として設置された国連ラテンアメリカ経済委員会([[1984年]]に国連ラテンアメリカ・カリブ経済委員会に改称)<ref>http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/latinamerica/keizai/andes/andina_gaiyo.html 「国連ラテンアメリカ・カリブ経済委員会」 外務省 2012年4月 2015年2月4日閲覧</ref>や、[[1961年]]に発足したラテンアメリカ自由貿易連合(通称LAFTA、[[1981年]]に[[ラテンアメリカ統合連合]]に改組)<ref>http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/latinamerica/kikan/aladi_gaiyo.html 「ラテンアメリカ統合連合」 外務省 平成24年10月 2015年2月4日閲覧</ref>などがあったが、いずれも中米との統一組織の上、加盟各国の足並みの乱れなどでそれほどの効果が上がっていなかった。
そのため、近接する国家同士による経済機構結成の機運が生まれ、[[1969年]]に[[ボリビア]]、[[コロンビア]]、[[エクアドル]]、[[ペルー]]、[[ベネズエラ]]、[[チリ]]のアンデス6ヵ国によって[[アンデス共同体]]が結成され<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/latinamerica/keizai/andes/andina_gaiyo.html 外務省: アンデス共同体(Andean Community/Comunidad Andina)概要] 平成24年8月 2015年2月4日閲覧</ref>、次いで[[1991年]]には[[アルゼンチン]]、[[ブラジル]]、[[パラグアイ]]、[[ウルグアイ]]の南アメリカ南部4ヵ国によって[[メルコスール]]が結成された<ref>http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/latinamerica/keizai/mercosur/gaiyo.html 「南米南部共同市場(メルコスール)概要」 外務省 平成25年10月15日 2015年2月4日閲覧</ref>。この2つの共同体は加盟国間の出入国管理の簡素化や、域内関税の撤廃などで一定の成果を上げた。そしてこれらの成果をもとに、南米全体を統括する[[2004年]]に南米共同体が結成された([[2007年]]に[[南米諸国連合]]に改組)<ref>https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/latinamerica/kikan/unasur/gaiyo.html 「アンデス共同体 概要」 外務省 平成24年8月 2015年2月4日閲覧</ref>。南米諸国連合はメルコスールとアンデス共同体の二つの[[関税同盟]]を統合し、大陸一体の[[貿易圏|自由貿易圏]]を計画している。
南米諸国の所得格差は、他の大陸を含めて最も大きいと考えられている。ベネズエラ、パラグアイ、ボリビア、および他の南米諸国は上位20%の[[富裕層]]が60%の国富を有し、下位20%の最貧層は5%にも満たない。この大きな較差は南アメリカの諸都市で摩天楼と[[上流階級]]の豪華なアパートに隣接する[[貧困|貧困層]]の[[スラム]]という形で目にすることができる。南アメリカの富は南部諸国のほうがより多く、チリ、アルゼンチン、ウルグアイの3国は[[コーノ・スール]]と呼ばれる先進地域を形成している。ブラジルもまた、南部と南東部は開発が進んだ豊かな地域であり、コーノ・スールから連続する先進地域の一角をなしている。一方で、チリを除くアンデス諸国やブラジルの北東部は相対的に貧しい地域となっている。
{| class="wikitable sortable" style="font-size:85%;"
|-
! [[国]]
! 2011年のGDP<ref name=PPP_GDP>{{cite web|url=http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2012/01/weodata/weorept.aspx?sy=2010&ey=2011&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&pr1.x=44&pr1.y=10&c=336%2C213%2C218%2C223%2C228%2C288%2C233%2C293%2C248%2C366%2C298%2C299&s=NGDPD%2CNGDPDPC%2CPPPGDP%2CPPPPC&grp=0&a=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/rankorder/2004rank.html |title=World Economic Outlook Database |publisher=IMF |date=April 2012 |accessdate=2012-05-24}}</ref>
! 2011年のGDP(購買力平価)<ref name=PPP_GDP/>
! 2011年のひとりあたりGDP(購買力平価)<ref name=PPP_GDP />
! 輸出額<br />($bn), 2011<ref name=wfex>{{cite web|url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/rankorder/2078rank.html?|title=Country Comparison:Exports|work=The World Factbook |year=2011|publisher=CIA|accessdate=2015-02-04}}</ref>
! HDI(2011年)<ref name="UN">{{cite web|url=http://hdr.undp.org/en/media/HDR_2011_EN_Complete.pdf|title=Human Development Report 2011. Human development indices. p.23 |publisher=The United Nations|accessdate=2011-05-24}}</ref>
! 一日あたり2ドル(購買力平価)以下で暮らす人々の割合<ref name=wb2>{{cite web|url=http://data.worldbank.org/indicator/SI.POV.2DAY/countries|title=Poverty headcount ratio at $2 a day (PPP) (% of population)|publisher=The World Bank|year=|accessdate=2015-02-04}}</ref>
|-
| style="text-align:left;" | {{flagcountry|Argentina}}
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| {{Nts|17516}}
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|-
| style="text-align:left;" | {{flagcountry|Bolivia}}
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|-
| style="text-align:left;" | {{flagcountry|Brazil}}
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|-
| style="text-align:left;" | {{flagcountry|Chile}}
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|-
| style="text-align:left;" | {{flagcountry|Ecuador}}
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|-
| style="text-align:left;" | {{flagcountry|Falkland Islands}}<ref>{{cite web|url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/fk.html|title=Falkland Islands|work=The World Factbook |year=2011|publisher=CIA|accessdate=2015-02-04}}</ref> ([[イギリス]])
| {{Nts|165}}
| {{Nts|165}}
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|
|-
| style="text-align:left;" | {{flagcountry|French Guiana}}<ref>{{cite web|url=http://www.iedom.fr/IMG/pdf/ra2009_guyane-.pdf|title=Guyane|year=2009|publisher=IEDOM|accessdate=2015-02-04}}</ref> ([[フランス]])
| {{Nts|4456}}
| {{Nts|4456}}
| {{Nts|19728}}
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|
|-
| style="text-align:left;" | {{flagcountry|Guyana}}
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! style="text-align:left;"| 総計 || {{Nts|4176712}} || {{Nts|4738384}} || {{Nts|11962}} || {{Nts|669.1}} || {{Nts|0.729}} || {{Nts|11.3}}
|}
; 南アメリカ経済10大都市(2010年)
{| class="wikitable sortable"
|-
! 順位
! 都市
! 国
! GDP(GKドル)(10億ドル)<ref name="pricewater">{{cite web|url=https://www.ukmediacentre.pwc.com/imagelibrary/downloadMedia.ashx?MediaDetailsID=1562|title=Global city GDP rankings 2008–2025|publisher=Pricewaterhouse Coopers|accessdate=31 July 2010|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130531000745/https://www.ukmediacentre.pwc.com/imagelibrary/downloadMedia.ashx?MediaDetailsID=1562|archivedate=2013年5月31日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>
! 人口 (mil)<ref>{{cite web|url=http://www.demographia.com/db-worldua.pdf|title=Demographia World Urban Areas p.22|publisher=Demographia|date=April 2012|accessdate=2015-02-04}}</ref>
! 一人当たりGDP
|-
| 1
| [[サンパウロ]]
| {{BRA}}
| $388
| 20,186,000
| $19,221
|-
| 2
| [[ブエノスアイレス]]
| {{ARG}}
| $362
| 13,639,000
| $26,542
|-
| 3
| [[リオデジャネイロ]]
| {{BRA}}
| $201
| 12,043,000
| $16,690
|-
| 4
| [[サンティアゴ (チリ)|サンティアゴ]]
| {{CHI}}
| $120
| 6,015,000
| $19,950
|-
| 5
| [[ブラジリア]]
| {{BRA}}
| $110
| 2,362,000
| $46,571
|-
| 6
| [[リマ]]
| {{PER}}
| $109
| 9,121,000
| $11,950
|-
| 7
| [[ボゴタ]]
| {{COL}}
| $100
| 8,702,000
| $11,492
|-
| 8
| [[カラカス]]
| {{VEN}}
| $99
| 5,965,000
| $15,646
|-
| 9
| [[ベロオリゾンテ]]
| {{BRA}}
| $61
| 5,523,000
| $11,045
|-
| 10
| [[メデリン]]
| {{COL}}
| $50
| 3,686,000
| $13,565
|}
== 言語と文化 ==
[[ファイル:Languages of South America (en).svg|thumb|right|南アメリカの公用語]]
[[ファイル:Rio de Janeiro from Sugarloaf mountain, May 2004.jpg|thumb|right|ブラジルは米州で唯一ポルトガル語を話す国であり、ポルトガル語はブラジルの重要な国民的アイデンティティとなっている。]]
[[ファイル:Bariloche- Argentina2.jpg|thumb|right|アルゼンチンの[[サン・カルロス・デ・バリローチェ]]の風景]]
=== 言語 ===
{{See also|:en:Languages of South America}}
南アメリカのほとんどの国(ベネズエラ、コロンビア、エクアドル、ペルー、ボリビア、チリ、パラグアイ、アルゼンチン、ウルグアイ)では[[スペイン語]]が公用語である。ブラジルでは[[ポルトガル語]]が公用語であり、ほぼ全ての国民にとって母語でもある。その他、ガイアナでは[[英語]]、スリナムでは[[オランダ語]]、フランス海外領土のギアナでは[[フランス語]]が公用語となっている。
とはいえ、先住民や移民の子孫の間では、母語などとしてそれ以外の言語を使うケースも少なくない。[[ケチュア語族|ケチュア語]]がエクアドル・ペルー・ボリビアの3か国で、[[アイマラ語]]がペルーとボリビアで、そして[[グアラニー語]]がパラグアイで、それぞれスペイン語と並んで公用語になっているほか、南米各地の先住民コミュニティ内ではその他数多くの言語が、特に日常生活において今でも使われ続けている。非先住民系の言語としては、[[ヒンディー語]]と[[インドネシア語]]がスリナムで話されている。[[イタリア語]]がアルゼンチン、ブラジル、ペルー、ウルグアイ、ベネズエラ、チリで話されている。[[ドイツ語]]がアルゼンチン、チリ、ベネズエラ、ペルー、パラグアイの極一部とブラジル南部各州の多くの地域で話されている({{仮リンク|フンスリュック方言|en|Riograndenser Hunsrückisch}}は国で最も話されているドイツ語の方言であり、その他のドイツ語の方言も広く話されている。ブラジル式ポメラニア語もリバイバルされている)。ウェールズ語はアルゼンチンのパタゴニアのトレレウ、ラウソンで話され、書かれている。少数の[[日本語]]話者もブラジル、ボリビア、コロンビア、パラグアイ、エクアドルにいる。レバノン系、シリア系、パレスチナ系のアラビア語話者はブラジル、エクアドル、チリ、アルゼンチンのアラブ人コミュニティーにおり、コロンビアとパラグアイには少ない。
上流階級と高等教育のある人々は一般に英語、フランス語、ドイツ語またはイタリア語を学習する。この地域で観光は大きな産業であり、英語や他のヨーロッパの言語はしばしば話されている。ウルグアイと近接しているため、南ブラジルの大半にはスペイン語の話される小さな地域がある。
=== 文化 ===
ヨーロッパ、特にスペイン、ポルトガルとの歴史的な繋がりのため文化的に豊かである。またアメリカ合衆国の大衆文化からも影響を受けている。
南アメリカのスペイン語圏アメリカの文学は、1960年代・1970年代のラテンアメリカ文学ブームで大きな人気を得た。小説では[[ガブリエル・ガルシア=マルケス]]が、他のジャンルでは[[パブロ・ネルーダ]]や[[ホルヘ・ルイス・ボルヘス]]といった作家が注目された。
南アメリカの広範な人種混合により、ラテンアメリカ料理は黒人、インディオ、アジア人、ヨーロッパ人の影響を受けている。西アフリカの影響を受けているブラジルの[[バイーア]]は特に有名である。アルゼンチン、チリ、ウルグアイでは一般に[[ワイン]]が好まれており、アルゼンチン、パラグアイ、ウルグアイ、チリ南部とブラジル南部の住民は好んで[[マテ茶]]を飲み、パラグアイでは冷やした[[テレレ]]が飲まれる。[[ピスコ]]はチリとペルーでグレープワインから生産される酒であるが、双方の国が起源を主張している。[[ペルー料理]]は中国、日本、スペイン、アフリカ、アンデス、アマゾンの料理の要素の混合である。
== 住人 ==
インディヘナとしてはペルーとボリビアの人口の大多数を占めている[[ケチュア人]]、[[アイマラ人]]は他のスペイン語圏諸国よりも注目される存在となっている。大陸南西部のアルゼンチンとウルグアイでは南ヨーロッパ人の子孫がマジョリティである。チリ、パラグアイ、コロンビア、エクアドル、ベネズエラではメスティーソが最大のエスニック・グループである。スリナムはアジア人が最大の唯一の国である。フランス領ギアナではクレオールが最大のエスニック・グループだが、ガイアナ、ベネズエラ、スリナム、コロンビア、ペルー、エクアドルでもまた大きな人種集団である。ブラジルは南アメリカで最も多様な人種構成の国であり、多くの黒人、白人、ムラートと、注目されるべき数のアジア人、アメリカインディアンの住人を抱えている。
== 地域機構 ==
* [[ラテンアメリカ・カリブ諸国共同体]]
* [[アンデス共同体]]
* [[メルコスール]]
* [[南米諸国連合]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* "South America". ''[http://www.columbiagazetteer.org/ The Columbia Gazetteer of the World Online]''. 2005. New York: Columbia University Press.
*[http://www.xist.org/earth/pop_region.aspx GeoHive: The population of continents, regions and countries]
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|南アメリカ|[[画像:P South America.png|42px|Portal:南アメリカ]]}}
{{ウィキポータルリンク|地理|[[画像:Gnome-globe.svg|34px|Portal:地理]]}}
{{Commons&cat|South_America|South America}}
{{Wikibooks|中学校社会_地理/南アメリカ州}}
{{WikinewsPortal}}
{{Wikivoyage|pt:América_do_Sul|南アメリカ{{pt icon}}}}
{{Wikivoyage|es:Sudamérica|南アメリカ{{es icon}}}}
{{Wikivoyage|South_America|南アメリカ{{en icon}}}}
{{osm box|n|36966069}}
* [[ラテンアメリカ]]
* {{仮リンク|南アメリカ料理|en|South American cuisine}}
* [[南アメリカのスポーツ]]
* {{仮リンク|南アメリカのサッカー|en|Football in South America}}
* [[アメリカ州]]
* [[北アメリカ]]
* [[アングロアメリカ]]
* [[中央アメリカ]]
* [[コーノ・スール]]
* [[アメリカ大陸諸国の独立年表]]
* [[国の一覧]]([[国の一覧 (大陸別)|大陸別の一覧]])
* [[海外領土・自治領の一覧]]
* [[国の面積順リスト]]
* [[国の人口順リスト]]
* [[国の人口密度順リスト]]
* [[国の国内総生産順リスト]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{大州横}}
{{世界の地理}}
{{アメリカ}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:みなみあめりか}}
[[Category:南アメリカ|*]] | 2003-05-19T15:16:02Z | 2023-11-15T09:12:08Z | false | false | false | [
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"Template:Reflist"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB |
8,669 | 超大陸 | 超大陸(ちょうたいりく)は、地球表面上において大陸とみなされる陸塊を1つ以上含む非常に広大な陸のことをいう。
一般に現在の大陸のうちの1つ以上を含む陸塊を指すが、どのような陸塊を大陸や亜大陸とするかの定義に曖昧さがあるため、超大陸の定義も曖昧である。
現在の超大陸は次の二つである。
一般に超大陸という用語は、現在存在する大陸から構成される広大な陸地を参照するために使用されている。そのような広大な陸地は、大陸移動説によると、約4億年から5億年ごとに形成、あるいは破壊されることになる。
超大陸は地球内部からの熱の流れを閉鎖するため、下層のアセノスフェア(岩流圏)を過熱させる。結局、上層のプレートを成すリソスフェア(岩石圏)は上向きに押されて割れてゆく。マグマが上方へわき出て、超大陸の破片が別々の方向へ押されることになる。
しかし、分裂した大陸片はしばしば再び結合する。他の場所で分裂して反対方向に向かってきた別の大陸片と衝突することもあるし、そうでなくとも地球表面は球面であるので、反対方向に分裂した破片同士はいずれどこかで出会う可能性が高い。こうして、超大陸が再形成される。
再形成された超大陸はしばらくするとまた分裂を始め、以上を繰り返す。これをウィルソン・サイクルと呼ぶ。
超大陸 分裂した超大陸
古地磁気を使った研究(古地磁気学)により、過去の大陸移動の様子は6億年ほど前まで詳細に分かっている。また、それ以前についても大まかな大陸移動の様子が推定され、過去に何度か超大陸が形成されていた。現在は、超大陸パンゲアが分裂・四散して、再び次の超大陸の形成に向けまとまり始めた時点であると考えられている。
大陸は現在も移動を続けており、過去に周期的に超大陸が形成されてきたことから、数億年後には再び超大陸が出現すると予測されている。ただし、それがどのように形成されるかについては諸説ある。 | [
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] | 超大陸(ちょうたいりく)は、地球表面上において大陸とみなされる陸塊を1つ以上含む非常に広大な陸のことをいう。 一般に現在の大陸のうちの1つ以上を含む陸塊を指すが、どのような陸塊を大陸や亜大陸とするかの定義に曖昧さがあるため、超大陸の定義も曖昧である。 | {{出典の明記| date = 2018年1月}}
[[ファイル:Pangea animation 03.gif|thumb|250px|超大陸パンゲアの分裂の様子]]
'''超大陸'''(ちょうたいりく)は、[[地球]]表面上において[[大陸]]とみなされる[[陸塊]]を1つ以上含む非常に広大な[[陸]]のことをいう。
一般に現在の大陸のうちの1つ以上を含む陸塊を指すが、どのような陸塊を大陸や[[亜大陸]]とするかの定義に曖昧さがあるため、超大陸の定義も曖昧である。
== 現在の超大陸 ==
現在の超大陸は次の二つである。
*[[アフロ・ユーラシア大陸]] : アフリカ=ユーラシア大陸、[[世界島]]ともいう
*[[アメリカ大陸]]
== 超大陸の形成と破壊 ==
[[File:Platetechsimple.png|400px|thumb|現在の大西洋半球から見た超大陸の変遷。]]
一般に超大陸という用語は、現在存在する大陸から構成される広大な陸地を参照するために使用されている。そのような広大な陸地は、[[大陸移動説]]によると、約4億年から5億年ごとに形成、あるいは破壊されることになる。
超大陸は地球内部からの熱の流れを閉鎖するため、下層の[[アセノスフェア]](岩流圏)を過熱させる。結局、上層の[[プレート]]を成す[[リソスフェア]](岩石圏)は上向きに押されて割れてゆく。[[マグマ]]が上方へわき出て、超大陸の破片が別々の方向へ押されることになる。
しかし、分裂した大陸片はしばしば再び結合する。他の場所で分裂して反対方向に向かってきた別の大陸片と衝突することもあるし、そうでなくとも地球表面は球面であるので、反対方向に分裂した破片同士はいずれどこかで出会う可能性が高い。こうして、超大陸が再形成される。
再形成された超大陸はしばらくするとまた分裂を始め、以上を繰り返す。これを[[ウィルソン・サイクル]]と呼ぶ。
== 太古の超大陸 ==
{{legend inline|orange|超大陸}} {{legend inline|lightgreen|分裂した超大陸}}
{| class="wikitable"
! 超大陸 !! 存在した年(単位:億年前)
|-
|style="background-color:lightgreen"| (大陸[[クラトン]]の形成)|| ~40.31–
|-
|style="background-color:orange"| [[バールバラ大陸|バールバラ超大陸]] ||~36.36–28.03
|-
|style="background-color:lightgreen"| {{仮リンク|コンゴ・クラトン|en|Congo_Craton}} || ~36.00–
|-
|style="background-color:orange"| {{仮リンク|ウル大陸|en|Ur_(continent)}} || ~31.00–28.03
|-
|style="background-color:orange"| [[ケノーランド大陸]] || ~27.20–21.00
|-
|style="background-color:orange"| {{仮リンク|Arctica大陸|en|Arctica}} || ~27.20–21.00
|-
|style="background-color:lightgreen"| {{仮リンク|スクラヴィア・クラトン|en|Sclavia Craton}}|| ~26.65–23.30
|-
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|-
|style="background-color:lightgreen"| [[インド亜大陸]]|| ~25.25–
|-
|style="background-color:lightgreen"| [[アトランティカ大陸]]|| ~21.1–1.14
|-
|style="background-color:lightgreen"| [[ヌーナ大陸]]|| 19.50–5.92
|-
|style="background-color:orange" | [[コロンビア超大陸]]([[ヌーナ大陸]]) || ~18.20–13.50
|-
|style="background-color:lightgreen"| [[ローレンシア大陸]] || 18.16–
|-
|style="background-color:lightgreen"| [[バルティカ大陸]] || 18.00–
|-
|style="background-color:lightgreen"| {{仮リンク|キンメリア大陸|en|Cimmeria (continent)}} || 12.50–
|-
|style="background-color:orange"| [[ロディニア超大陸]] || ~10.71–7.50
|-
|style="background-color:lightgreen" | 前ローラシア大陸 || 10.71–5.92
|-
|style="background-color:lightgreen" | 前ゴンドワナ大陸 || 10.71–6.20
|-
|style="background-color:lightgreen" | {{仮リンク|アヴァロニア|en|Avalonia}} || 6.30–0.560
|-
|style="background-color:orange" | [[パノティア大陸|パノティア超大陸]] (Vendian大陸)|| ~6.20–~5.55
|-
|style="background-color:lightgreen" | [[ゴンドワナ大陸]] || ~6.20–~1.32
|-
|style="background-color:lightgreen" | [[ユーラメリカ大陸]] || 4.33–0.56
|-
|style="background-color:orange" | [[パンゲア超大陸]] || ~3.35 (~2.99) –1.73
|-
|style="background-color:lightgreen" | ゴンドワナ大陸 || ~2.53–~0.56
|-
|style="background-color:lightgreen" | [[ローラシア大陸]] || ~2.53–~0.56
|}
古[[地磁気]]を使った研究([[古地磁気学]])により、過去の大陸移動の様子は6億年ほど前まで詳細に分かっている。また、それ以前についても大まかな大陸移動の様子が推定され、過去に何度か超大陸が形成されていた。現在は、超大陸パンゲアが分裂・四散して、再び次の超大陸の形成に向けまとまり始めた時点であると考えられている。
==未来の超大陸==
{{unsolved|地球科学上|次の超大陸はどのようになるのか。}}
大陸は現在も移動を続けており、過去に周期的に超大陸が形成されてきたことから、数億年後には再び超大陸が出現すると予測されている。ただし、それがどのように形成されるかについては諸説ある。
; [[アメイジア大陸]]
: 現在の東アジアを中心にユーラシア、オーストラリア、アメリカが衝突するという説。
; [[パンゲア・ウルティマ大陸]]
: アフリカがヨーロッパにめり込みながら大きく北上する一方、大西洋が再び縮小して北アメリカがアフリカ南部に衝突するという説。
== 参考文献 ==
* {{Cite journal
| last = Rogers | first = J. J. W.
| title = A history of continents in the past three billion years
| year = 1996 | journal = Journal of Geology | volume = 104 | pages = 91–107, Chicago
| doi = 10.1086/629803 | jstor = 30068065 | ref = harv | bibcode=1996JG....104...91R}}
{{プレートテクトニクス}}
{{DEFAULTSORT:ちようたいりく}}
[[Category:超大陸|*]]
[[Category:大陸|*ちようたいりく]]
[[Category:プレートテクトニクス]]
[[Category:地球史]] | 2003-05-19T15:35:38Z | 2023-11-25T08:46:53Z | false | false | false | [
"Template:出典の明記",
"Template:Legend inline",
"Template:仮リンク",
"Template:Unsolved",
"Template:Cite journal",
"Template:プレートテクトニクス"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%85%E5%A4%A7%E9%99%B8 |
8,671 | ユークリッド空間 | ユークリッド空間(ユークリッドくうかん、英: Euclidean space)とは、数学における概念の1つで、エウクレイデス(ユークリッド)が研究したような幾何学(ユークリッド幾何学)の場となる平面や空間、およびその高次元への一般化である。エウクレイデスが研究した平面や空間はそれぞれ、2次元ユークリッド空間、3次元ユークリッド空間に当たり、これらは通常、ユークリッド平面、ユークリッド空間などとも呼ばれる。「ユークリッド的」という修飾辞は、これらの空間が非ユークリッド幾何やアインシュタインの相対性理論に出てくるような曲がった空間ではないことを示唆している。
古典的なギリシャ数学では、ユークリッド平面や(三次元)ユークリッド空間は所定の公準によって定義され、そこからほかの性質が定理として演繹されるものであった。現代数学では、デカルト座標と解析幾何学の考え方にしたがってユークリッド空間を定義するほうが普通である。そうすれば、幾何学の問題に代数学や解析学の道具を持ち込んで調べることができるようになるし、三次元以上のユークリッド空間への一般化も容易になるといった利点が生まれる。
現代的な観点では、ユークリッド空間は各次元に本質的に一つだけ存在すると考えられる。たとえば一次元なら実数直線、二次元ならデカルト平面、より高次の場合は実数の組を座標にもつ実座標空間である。つまり、ユークリッド空間の「点」は実数からなる組であり、二点間の距離は二点間の距離の公式に従うものとして定まる。n-次元ユークリッド空間は、(標準的なモデルを与えるものという意味で)しばしば R とかかれるが、(余分な構造を想起させない)ユークリッド空間固有の性質を備えたものということを強調する意味で E と書かれることもある。ふつう、ユークリッド空間といえば有限次元であるものをいう。
ユークリッド平面を考える一つの方法は、(距離や角度といったような言葉で表される)ある種の関係を満足する点集合と見なすことである。例えば、平面上には二種類の基本操作が存在する。一つは平行移動で、これは平面上の各点が同じ方向へ同じ距離だけ動くという平面のずらし操作である。いま一つは平面上の決まった点に関する回転で、これは平面上の各点が決められた点のまわりに一貫して同じ角度だけ曲がるという操作である。ユークリッド幾何学の基本的教義の一つとして、二つの図形(つまり点集合の部分集合)が等価なもの(合同)であるとは、平行移動と回転および鏡映の有限個の組合せ(ユークリッドの運動群)で一方を他方に写すことができることをいう。
これらのことを数学的にきちんと述べるには、距離や角度、平行移動や回転といった概念をきちんと定義せねばならない。標準的な方法は、ユークリッド平面を内積を備えた二次元実ベクトル空間として定義することである。そうして
といったようなことを考えるのである。こうやってユークリッド平面が記述されてしまえば、これらの概念を勝手な次元へ拡張することは実に簡単である。次元が上がっても大部分の語彙や公式は難しくなったりはしない(ただし、高次元の回転についてはやや注意が必要である。また高次元空間の可視化は、熟達した数学者でさえ難しい)。
最後に気を付けるべき点は、ユークリッド空間は技術的にはベクトル空間ではなくて、(ベクトル空間が作用する)アフィン空間と考えなければいけないことである。直観的には、この差異はユークリッド空間には原点の位置を標準的に決めることはできない(平行移動でどこへでも動かせるため)ことをいうものである。大抵の場合においては、この差異を無視してもそれほど問題を生じることはないであろう。
非負整数 n に対して n-次元ユークリッド空間 E とは、空でない集合 S と n-次元実内積空間 V の組 (S, V) で、次をみたすものをいう:
ある非負整数 n に対する n-次元ユークリッド空間であるものを単にユークリッド空間と呼ぶ。
数空間 R の各点 x, y に対して x y → := y − x {\displaystyle {\overrightarrow {xy}}:=y-x} と定義すれば、R と(標準内積を持った内積空間としての)R の組 (R, R) はユークリッド空間の一つの例であり、これを n-次元の標準的ユークリッド空間と呼ぶ(記号の濫用で、これをやはり単に R で表す)。
(S, V) を n-次元ユークリッド空間とするとき、S の点 O と V の順序付けられた基底 B ≔ (e1, e2, ..., en) の組 (O; B) を (S, V) の座標系と呼び、点 O を座標系の原点と呼ぶ。特に (e1, e2, ..., en) が V の正規直交基底であるような座標系を直交座標系と呼ぶ。(S, V) の座標系 (O; B) が一つ固定されると、任意の P ∈ S に対して、ただ一つの x = (x1, x2, ..., xn) ∈ R が存在して、
が成り立つ。そこで、この x ∈ R を座標系 (O; B) における P の座標と呼ぶ。
いったん直交座標系が固定されると、n-次元ユークリッド空間 (S, V) は n-次元の標準的ユークリッド空間 (R, R) と同一視することができるので、ユークリッド空間といったら標準的ユークリッド空間のことを指す場合も多い。
なお、n-次元ユークリッド空間の定義において、「実内積空間」を「実ベクトル空間」に置き換えて得られる空間を n-次元アフィン空間と呼ぶ。ユークリッド空間は計量(内積)をもった特別なアフィン空間であるということができる。計量をもたないアフィン空間においては、二点間の距離や線分のなす角などは定義されないが、ユークリッド空間においてはこれらの概念を以下に述べる仕方で定義することができる。
(S, V) を n次元ユークリッド空間とする。二変数の函数 d: S × S → R を
によって定義すればこの d は距離関数の条件を満たし、d(P, Q) を P と Q の間の距離と呼ぶ。したがって (S, d) は距離空間である。場合によっては、この距離空間と同相な位相空間もユークリッド空間と呼び、E などで表すこともある。(O; B) が直交座標系である場合、この座標系における S の点 P および Q の座標をそれぞれ x = (x1, x2, ..., xn) および y = (y1, y2, ..., yn) とすれば、P と Q との距離は
と表すことができる。
(S, V) をユークリッド空間とする。S の異なる2点 P, Q に対して、S の部分集合
を P と Q を端点とする線分、あるいは線分 PQ などと呼ぶ。線分 PQ の長さ(あるいは大きさ)とは距離 d(P, Q) のことをいう。 また、シュワルツの不等式より、S の異なる3点 P, Q, R に対して、
を満たす θ ∈ [0, π] がただ一つ存在するので、これを線分 PQ と線分 PR のなす角 ∠QPR と言う。
以上のように定義された直線、平面、線分、角度などの概念を用いることによって、ユークリッド空間の中でユークリッド幾何学を展開することができる。
(S, V) を n-次元ユークリッド空間とする。S の部分集合 T が、S のある点 P と V のある r-次元部分空間 W を用いて(r ≤ n)、
と表されるとき、T は (S, V) の r-次元部分空間であるという。特に、1次元部分空間を直線(アフィン部分直線)、2次元部分空間を平面(アフィン部分平面)と呼ぶ。(S, V) の部分空間 T に対して、上のような P ∈ S は一つには決まらないが、W は一意的に定まる。そこで、この W を T に付随する内積空間と呼ぶ。
ユークリッド空間は距離空間であるから、距離から誘導される自然な位相を持った位相空間でもある。E 上の距離位相は、ユークリッド位相あるいは通常の位相と呼ばれる。すなわち、ユークリッド空間の部分集合が開集合であるための必要十分条件は、その部分集合に属する各点に対して、それを中心とする適当な大きさの開球体をその部分集合が必ず含むことである。ユークリッド位相は、R を(標準位相を備えた)実数直線 R の n 個のコピーの直積と見たときの直積位相と同値であることが確かめられる。
ユークリッド空間の位相的性質について、「E の部分集合は、それがある開集合に同相となるものならばそれ自身が開集合である」というブラウウェルの領域の不変性定理(英語版)が知られている。またその帰結として、n ≠ m ならば E と E は互いに同相でないことが示せる。これは明白な事実のようであるが、それでいて証明するとなるとそれは容易ではない。
n 次元ユークリッド空間は n 次元位相多様体の原型的な例であり、可微分多様体の例ともなっている。n ≠ 4 ならば n 次元ユークリッド空間に同相な位相多様体は、可微分構造まで込めて同相(微分同相)である。しかし n = 4 のときはそうならないという驚くべき事実が、1982年にサイモン・ドナルドソンによって証明された。この反例となる(すなわち 4 次元ユークリッド空間と同相だが微分同相でない)多様体は異種4次元空間 (exotic 4-spaces) と呼ばれる。
現代数学において、ユークリッド空間はほかのより複雑な幾何学的対象の原型を成している。例えば、可微分多様体は局所的にユークリッド空間に微分同相であるようなハウスドルフ位相空間である。微分同相写像は距離や角度といったものは考慮しないので、ユークリッド幾何学で重要な役割であったこれらの概念を可分多様体の上で考えることは一般にはできない。それでも、多様体の接空間上に滑らかに変化する内積を入れることはできて、そのようなものをリーマン多様体と呼ぶ。表現を変えれば、リーマン多様体はユークリッド空間を変形し、貼り合わせて構成される空間である。そのような空間では距離や角度の概念を取り扱うことができるが、その振る舞いは曲率を伴う非ユークリッド的なものとなる。最も単純なリーマン多様体は、一定の内積を備えた R で、これは本質的に n-次元ユークリッド空間そのものと同一視される。
内積が負の値をとりうるものとして得られるユークリッド空間の類似物は擬ユークリッド空間(英語版)と呼ばれ、そのような空間から構成した滑らかな多様体は擬リーマン多様体と呼ばれる。これらの空間の最もよく知られた応用はおそらく相対論で、そこでは質料を持たない空でない時空はミンコフスキー空間と呼ばれる平坦擬ユークリッド空間によって表される。また、質料を持つ時空は擬ユークリッドでない擬リーマン多様体を成し、重力はその多様体の曲率に対応する。
相対論の主題としての我々の宇宙はユークリッド的でない。これは天文学と宇宙論の理論的考察において重要であり、また全地球測位システムや航空管制などの実務的な問題でも重要になる。それでも、宇宙のユークリッド的なモデルは、多くの実用上の問題において十分な正確さを持って解決するために利用することができる。 | [
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"text": "ユークリッド空間(ユークリッドくうかん、英: Euclidean space)とは、数学における概念の1つで、エウクレイデス(ユークリッド)が研究したような幾何学(ユークリッド幾何学)の場となる平面や空間、およびその高次元への一般化である。エウクレイデスが研究した平面や空間はそれぞれ、2次元ユークリッド空間、3次元ユークリッド空間に当たり、これらは通常、ユークリッド平面、ユークリッド空間などとも呼ばれる。「ユークリッド的」という修飾辞は、これらの空間が非ユークリッド幾何やアインシュタインの相対性理論に出てくるような曲がった空間ではないことを示唆している。",
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"text": "古典的なギリシャ数学では、ユークリッド平面や(三次元)ユークリッド空間は所定の公準によって定義され、そこからほかの性質が定理として演繹されるものであった。現代数学では、デカルト座標と解析幾何学の考え方にしたがってユークリッド空間を定義するほうが普通である。そうすれば、幾何学の問題に代数学や解析学の道具を持ち込んで調べることができるようになるし、三次元以上のユークリッド空間への一般化も容易になるといった利点が生まれる。",
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"text": "現代的な観点では、ユークリッド空間は各次元に本質的に一つだけ存在すると考えられる。たとえば一次元なら実数直線、二次元ならデカルト平面、より高次の場合は実数の組を座標にもつ実座標空間である。つまり、ユークリッド空間の「点」は実数からなる組であり、二点間の距離は二点間の距離の公式に従うものとして定まる。n-次元ユークリッド空間は、(標準的なモデルを与えるものという意味で)しばしば R とかかれるが、(余分な構造を想起させない)ユークリッド空間固有の性質を備えたものということを強調する意味で E と書かれることもある。ふつう、ユークリッド空間といえば有限次元であるものをいう。",
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"text": "ユークリッド平面を考える一つの方法は、(距離や角度といったような言葉で表される)ある種の関係を満足する点集合と見なすことである。例えば、平面上には二種類の基本操作が存在する。一つは平行移動で、これは平面上の各点が同じ方向へ同じ距離だけ動くという平面のずらし操作である。いま一つは平面上の決まった点に関する回転で、これは平面上の各点が決められた点のまわりに一貫して同じ角度だけ曲がるという操作である。ユークリッド幾何学の基本的教義の一つとして、二つの図形(つまり点集合の部分集合)が等価なもの(合同)であるとは、平行移動と回転および鏡映の有限個の組合せ(ユークリッドの運動群)で一方を他方に写すことができることをいう。",
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"text": "これらのことを数学的にきちんと述べるには、距離や角度、平行移動や回転といった概念をきちんと定義せねばならない。標準的な方法は、ユークリッド平面を内積を備えた二次元実ベクトル空間として定義することである。そうして",
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"text": "といったようなことを考えるのである。こうやってユークリッド平面が記述されてしまえば、これらの概念を勝手な次元へ拡張することは実に簡単である。次元が上がっても大部分の語彙や公式は難しくなったりはしない(ただし、高次元の回転についてはやや注意が必要である。また高次元空間の可視化は、熟達した数学者でさえ難しい)。",
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"text": "最後に気を付けるべき点は、ユークリッド空間は技術的にはベクトル空間ではなくて、(ベクトル空間が作用する)アフィン空間と考えなければいけないことである。直観的には、この差異はユークリッド空間には原点の位置を標準的に決めることはできない(平行移動でどこへでも動かせるため)ことをいうものである。大抵の場合においては、この差異を無視してもそれほど問題を生じることはないであろう。",
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"text": "非負整数 n に対して n-次元ユークリッド空間 E とは、空でない集合 S と n-次元実内積空間 V の組 (S, V) で、次をみたすものをいう:",
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"text": "ユークリッド空間は距離空間であるから、距離から誘導される自然な位相を持った位相空間でもある。E 上の距離位相は、ユークリッド位相あるいは通常の位相と呼ばれる。すなわち、ユークリッド空間の部分集合が開集合であるための必要十分条件は、その部分集合に属する各点に対して、それを中心とする適当な大きさの開球体をその部分集合が必ず含むことである。ユークリッド位相は、R を(標準位相を備えた)実数直線 R の n 個のコピーの直積と見たときの直積位相と同値であることが確かめられる。",
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"text": "ユークリッド空間の位相的性質について、「E の部分集合は、それがある開集合に同相となるものならばそれ自身が開集合である」というブラウウェルの領域の不変性定理(英語版)が知られている。またその帰結として、n ≠ m ならば E と E は互いに同相でないことが示せる。これは明白な事実のようであるが、それでいて証明するとなるとそれは容易ではない。",
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"text": "n 次元ユークリッド空間は n 次元位相多様体の原型的な例であり、可微分多様体の例ともなっている。n ≠ 4 ならば n 次元ユークリッド空間に同相な位相多様体は、可微分構造まで込めて同相(微分同相)である。しかし n = 4 のときはそうならないという驚くべき事実が、1982年にサイモン・ドナルドソンによって証明された。この反例となる(すなわち 4 次元ユークリッド空間と同相だが微分同相でない)多様体は異種4次元空間 (exotic 4-spaces) と呼ばれる。",
"title": "ユークリッド空間の点集合論"
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"text": "現代数学において、ユークリッド空間はほかのより複雑な幾何学的対象の原型を成している。例えば、可微分多様体は局所的にユークリッド空間に微分同相であるようなハウスドルフ位相空間である。微分同相写像は距離や角度といったものは考慮しないので、ユークリッド幾何学で重要な役割であったこれらの概念を可分多様体の上で考えることは一般にはできない。それでも、多様体の接空間上に滑らかに変化する内積を入れることはできて、そのようなものをリーマン多様体と呼ぶ。表現を変えれば、リーマン多様体はユークリッド空間を変形し、貼り合わせて構成される空間である。そのような空間では距離や角度の概念を取り扱うことができるが、その振る舞いは曲率を伴う非ユークリッド的なものとなる。最も単純なリーマン多様体は、一定の内積を備えた R で、これは本質的に n-次元ユークリッド空間そのものと同一視される。",
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"text": "内積が負の値をとりうるものとして得られるユークリッド空間の類似物は擬ユークリッド空間(英語版)と呼ばれ、そのような空間から構成した滑らかな多様体は擬リーマン多様体と呼ばれる。これらの空間の最もよく知られた応用はおそらく相対論で、そこでは質料を持たない空でない時空はミンコフスキー空間と呼ばれる平坦擬ユークリッド空間によって表される。また、質料を持つ時空は擬ユークリッドでない擬リーマン多様体を成し、重力はその多様体の曲率に対応する。",
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"text": "相対論の主題としての我々の宇宙はユークリッド的でない。これは天文学と宇宙論の理論的考察において重要であり、また全地球測位システムや航空管制などの実務的な問題でも重要になる。それでも、宇宙のユークリッド的なモデルは、多くの実用上の問題において十分な正確さを持って解決するために利用することができる。",
"title": "一般化"
}
] | ユークリッド空間とは、数学における概念の1つで、エウクレイデス(ユークリッド)が研究したような幾何学(ユークリッド幾何学)の場となる平面や空間、およびその高次元への一般化である。エウクレイデスが研究した平面や空間はそれぞれ、2次元ユークリッド空間、3次元ユークリッド空間に当たり、これらは通常、ユークリッド平面、ユークリッド空間などとも呼ばれる。「ユークリッド的」という修飾辞は、これらの空間が非ユークリッド幾何やアインシュタインの相対性理論に出てくるような曲がった空間ではないことを示唆している。 古典的なギリシャ数学では、ユークリッド平面や(三次元)ユークリッド空間は所定の公準によって定義され、そこからほかの性質が定理として演繹されるものであった。現代数学では、デカルト座標と解析幾何学の考え方にしたがってユークリッド空間を定義するほうが普通である。そうすれば、幾何学の問題に代数学や解析学の道具を持ち込んで調べることができるようになるし、三次元以上のユークリッド空間への一般化も容易になるといった利点が生まれる。 現代的な観点では、ユークリッド空間は各次元に本質的に一つだけ存在すると考えられる。たとえば一次元なら実数直線、二次元ならデカルト平面、より高次の場合は実数の組を座標にもつ実座標空間である。つまり、ユークリッド空間の「点」は実数からなる組であり、二点間の距離は二点間の距離の公式に従うものとして定まる。n-次元ユークリッド空間は、(標準的なモデルを与えるものという意味で)しばしば Rn とかかれるが、(余分な構造を想起させない)ユークリッド空間固有の性質を備えたものということを強調する意味で En と書かれることもある。ふつう、ユークリッド空間といえば有限次元であるものをいう。 | {{出典の明記|date=2017年6月}}
{{No footnotes|date=2023年9月}}
[[Image:Coord system CA 0.svg|thumb|right|250px|三次元ユークリッド空間の各点は三つの成分の座標で決定される。]]
'''ユークリッド空間'''(ユークリッドくうかん、{{lang-en-short|Euclidean space}})とは、[[数学]]における概念の1つで、[[エウクレイデス]](ユークリッド)が研究したような[[幾何学]]([[ユークリッド幾何学]])の場となる平面や空間、およびその高次元への一般化である。エウクレイデスが研究した平面や空間はそれぞれ、2次元ユークリッド空間、3次元ユークリッド空間に当たり、これらは通常、ユークリッド平面、ユークリッド空間{{efn|このように3次元ユークリッド空間のことを指して単にユークリッド空間ということもあるので、一般のユークリッド空間と3次元ユークリッド空間のどちらを意味しているのかを文脈から判断することが必要である。本項目においては、ユークリッド空間という言葉は(3次元に限らない)一般のユークリッド空間を指すものとする。}}などとも呼ばれる。「ユークリッド的」という修飾辞は、これらの空間が[[非ユークリッド幾何学|非ユークリッド幾何]]や[[アルベルト・アインシュタイン|アインシュタイン]]の[[相対性理論]]に出てくるような[[リーマン幾何学|曲がった空間]]ではないことを示唆している。
古典的なギリシャ数学では、ユークリッド平面や(三次元)ユークリッド空間は所定の[[公理|公準]]によって定義され、そこからほかの性質が[[定理]]として演繹されるものであった。現代数学では、[[デカルト座標]]と[[解析幾何学]]の考え方にしたがってユークリッド空間を定義するほうが普通である。そうすれば、幾何学の問題に[[代数学]]や[[解析学]]の道具を持ち込んで調べることができるようになるし、三次元以上のユークリッド空間への一般化も容易になるといった利点が生まれる。
現代的な観点では、ユークリッド空間は各次元に本質的に一つだけ存在すると考えられる。たとえば一次元なら[[実数直線]]、二次元なら[[デカルト平面]]、より高次の場合は[[実数]]の組を座標にもつ[[実数空間|実座標空間]]である。つまり、ユークリッド空間の「[[点 (幾何学)|点]]」は実数からなる[[順序組|組]]であり、二点間の距離は[[ユークリッド距離|二点間の距離の公式]]に従うものとして定まる。[[ハメル次元|{{mvar|n}}-次元]]ユークリッド空間は、(標準的なモデルを与えるものという意味で)しばしば {{math|'''R'''{{sup|''n''}}}} とかかれるが、(余分な構造を想起させない)ユークリッド空間固有の性質を備えたものということを強調する意味で {{mvar|E{{sup|n}}}} と書かれることもある。ふつう、ユークリッド空間といえば有限次元であるものをいう。
== 直観的な説明 ==
ユークリッド平面を考える一つの方法は、(距離や角度といったような言葉で表される)ある種の関係を満足する[[点集合]]{{efn|{{kotobank|点集合}}などの説明も参照}}と見なすことである。例えば、平面上には二種類の基本操作が存在する。一つは[[平行移動]]で、これは平面上の各点が同じ方向へ同じ距離だけ動くという平面のずらし操作である。いま一つは平面上の決まった点に関する[[回転 (数学)|回転]]で、これは平面上の各点が決められた点のまわりに一貫して同じ角度だけ曲がるという操作である。ユークリッド幾何学の基本的教義の一つとして、二つの図形(つまり点集合の[[部分集合]])が等価なもの([[図形の合同|合同]])であるとは、平行移動と回転および[[鏡映]]の有限個の組合せ([[ユークリッドの運動群]])で一方を他方に写すことができることをいう。
これらのことを数学的にきちんと述べるには、距離や角度、平行移動や回転といった概念をきちんと定義せねばならない。標準的な方法は、ユークリッド平面を[[内積]]を備えた二次元実ベクトル空間として定義することである。そうして
* ユークリッド平面の点は、二次元の[[座標ベクトル]]に対応する。
* 平面上の平行移動は、[[ベクトルの加法]]に対応する。
* 回転を定義する角度や距離は、内積から導かれる。
といったようなことを考えるのである。こうやってユークリッド平面が記述されてしまえば、これらの概念を勝手な次元へ拡張することは実に簡単である。次元が上がっても大部分の語彙や公式は難しくなったりはしない(ただし、高次元の回転についてはやや注意が必要である。また高次元空間の可視化は、熟達した数学者でさえ難しい)。
最後に気を付けるべき点は、ユークリッド空間は技術的にはベクトル空間ではなくて、(ベクトル空間が作用する)[[アフィン空間]]と考えなければいけないことである。直観的には、この差異はユークリッド空間には原点の位置を標準的に決めることはできない(平行移動でどこへでも動かせるため)ことをいうものである。大抵の場合においては、この差異を無視してもそれほど問題を生じることはないであろう。
== 厳密な定義 ==
非負整数 {{mvar|n}} に対して '''{{mvar|n}}-次元ユークリッド空間 {{mvar|E{{sup|n}}}}''' とは、空でない集合 {{mvar|S}} と {{mvar|n}}-次元実[[内積空間]] {{mvar|V}} の組 {{math|(''S'', ''V'')}} で、次をみたすものをいう:
# 各 {{math|''P'', ''Q'' ∈ ''S''}} に対して、{{mvar|V}} のベクトル <math>\overrightarrow{PQ}</math> が一つ定まっている。
# 任意の {{math|''P'', ''Q'', ''R'' ∈ ''S''}} に対して、<math>\overrightarrow{PQ} + \overrightarrow{QR} = \overrightarrow{PR}</math> 。
# 任意の {{math|''P'' ∈ ''S''}} と任意の {{math|''v'' ∈ ''V''}} に対して、ただ一つ {{math|''Q'' ∈ ''S''}} が存在して、 <math>v = \overrightarrow{PQ}</math> 。
ある非負整数 {{mvar|n}} に対する {{mvar|n}}-次元ユークリッド空間であるものを単に'''ユークリッド空間'''と呼ぶ。
数空間 {{math|'''R'''{{sup|''n''}}}} の各点 {{mvar|x, y}} に対して <math>\overrightarrow{xy} := y-x</math> と定義すれば、{{math|'''R'''{{sup|''n''}}}} と(標準内積を持った内積空間としての){{math|'''R'''{{sup|''n''}}}} の組 {{math|('''R'''{{sup|''n''}}, '''R'''{{sup|''n''}})}} はユークリッド空間の一つの例であり、これを {{mvar|n}}-次元の'''標準的ユークリッド空間'''と呼ぶ([[記号の濫用]]で、これをやはり単に {{math|'''R'''{{sup|''n''}}}} で表す)。
{{math|(''S'', ''V'')}} を {{mvar|n}}-次元ユークリッド空間とするとき、{{mvar|S}} の点 {{mvar|O}} と {{mvar|V}} の順序付けられた基底 {{math|1='''B''' {{coloneqq}} ('''e'''{{sub|1}}, '''e'''{{sub|2}}, …, '''e'''{{sub|''n''}})}} の組 {{math|(''O''; '''B''')}} を {{math|(''S'', ''V'')}} の'''座標系'''と呼び、点 {{mvar|O}} を座標系の'''原点'''と呼ぶ。特に {{math|('''e'''{{sub|1}}, '''e'''{{sub|2}}, …, '''e'''{{sub|''n''}})}} が {{mvar|V}} の[[正規直交基底]]であるような座標系を'''[[直交座標系]]'''と呼ぶ。{{math|(''S'', ''V'')}} の座標系 {{math|(''O''; '''B''')}} が一つ固定されると、任意の {{math|''P'' ∈ ''S''}} に対して、ただ一つの {{math|1='''x''' = (''x''{{sub|1}}, ''x''{{sub|2}}, …, ''x''{{sub|''n''}}) ∈ '''R'''{{sup|''n''}}}} が存在して、
:<math>\overrightarrow{OP} = x_1\cdot \mathbf{e}_1 + \cdots + x_n\cdot \mathbf{e}_n</math>
が成り立つ。そこで、この {{math|'''x''' ∈ '''R'''{{sup|''n''}}}} を座標系 {{math|(''O''; '''B''')}} における '''{{mvar|P}} の座標'''と呼ぶ。
いったん直交座標系が固定されると、{{mvar|n}}-次元ユークリッド空間 {{math|(''S'', ''V'')}} は {{mvar|n}}-次元の標準的ユークリッド空間 {{math|('''R'''{{sup|''n''}}, '''R'''{{sup|''n''}})}} と同一視することができるので、ユークリッド空間といったら標準的ユークリッド空間のことを指す場合も多い。
なお、{{mvar|n}}-次元ユークリッド空間の定義において、「実内積空間」を「実ベクトル空間」に置き換えて得られる空間を {{mvar|n}}-'''次元アフィン空間'''と呼ぶ。ユークリッド空間は計量(内積)をもった特別な[[アフィン空間]]であるということができる。計量をもたないアフィン空間においては、二点間の距離や線分のなす角などは定義されないが、ユークリッド空間においてはこれらの概念を以下に述べる仕方で定義することができる。
== ユークリッド空間の計量 ==
{{math|(''S'', ''V'')}} を {{mvar|n}}次元ユークリッド空間とする。二変数の函数 {{math|''d'': ''S'' × ''S'' → '''R'''}} を
:<math>d(P, Q) := \| \overrightarrow{PQ} \| = \sqrt{ \langle \overrightarrow{PQ}, \overrightarrow{PQ} \rangle}</math>
によって定義すればこの {{mvar|d}} は[[距離函数|距離関数]]の条件を満たし、{{math|''d''(''P'', ''Q'')}} を '''{{mvar|P}} と {{mvar|Q}} の間の距離'''と呼ぶ。したがって {{math|(''S'', ''d'')}} は[[距離空間]]である。場合によっては、この距離空間と同相な位相空間もユークリッド空間と呼び、{{mvar|E{{sup|n}}}} などで表すこともある。{{math|(''O''; '''B''')}} が直交座標系である場合、この座標系における {{mvar|S}} の点 {{mvar|P}} および {{mvar|Q}} の座標をそれぞれ {{math2|1=''x'' = (''x''{{sub|1}}, ''x''{{sub|2}}, …, ''x{{sub|n}}'')}} および {{math2|1=''y'' = (''y''{{sub|1}}, ''y''{{sub|2}}, …, ''y{{sub|n}}'')}} とすれば、{{mvar|P}} と {{mvar|Q}} との距離は
:<math>d(P, Q) = \sqrt{\textstyle\sum\limits_{i=1}^n (y_i - x_i)^2}</math>
と表すことができる。
{{math|(''S'', ''V'')}} をユークリッド空間とする。{{mvar|S}} の異なる2点 {{math2|''P'', ''Q''}} に対して、{{mvar|S}} の部分集合
:<math>\{ R \in S \mid {}^\exists t \in [0, 1] ( \overrightarrow{PR} = t\cdot \overrightarrow{PQ} ) \}</math>
を '''{{mvar|P}} と {{mvar|Q}} を端点とする[[線分]]'''、あるいは'''線分 {{mvar|PQ}}''' などと呼ぶ。'''線分 {{mvar|PQ}} の長さ'''(あるいは大きさ)とは距離 {{math|''d''(''P'', ''Q'')}} のことをいう。
また、[[シュワルツの不等式]]より、{{mvar|S}} の異なる3点 {{mvar|P, Q, R}} に対して、
:<math> \cos \theta = \frac{\langle \overrightarrow{PQ}, \overrightarrow{PR} \rangle}{\| \overrightarrow{PQ} \| \cdot \| \overrightarrow{PR} \|} </math>
を満たす {{math2|''θ'' ∈ {{closed-closed|0, π}}}} がただ一つ存在するので、これを'''線分 {{mvar|PQ}} と線分 {{mvar|PR}} のなす角 {{math|∠''QPR''}}''' と言う。
以上のように定義された直線、平面、線分、角度などの概念を用いることによって、ユークリッド空間の中でユークリッド幾何学を展開することができる。
== 部分空間 ==
{{math|(''S'', ''V'')}} を {{mvar|n}}-次元ユークリッド空間とする。{{mvar|S}} の[[部分集合]] {{mvar|T}} が、{{mvar|S}} のある点 {{mvar|P}} と {{mvar|V}} のある {{mvar|r}}-次元[[部分空間]] {{mvar|W}} を用いて({{math|''r'' ≤ ''n''}})、
:<math>T = \{ Q\in S \mid \overrightarrow{PQ} \in W\}</math>
と表されるとき、{{mvar|T}} は {{math|(''S'', ''V'')}} の {{mvar|r}}-'''次元部分空間'''であるという。特に、1次元部分空間を'''直線'''(アフィン部分直線)、2次元部分空間を'''平面'''(アフィン部分平面)と呼ぶ。{{math|(''S'', ''V'')}} の部分空間 {{mvar|T}} に対して、上のような {{math|''P'' ∈ ''S''}} は一つには決まらないが、{{mvar|W}} は一意的に定まる。そこで、この {{mvar|W}} を '''{{mvar|T}} に付随する内積空間'''と呼ぶ。
== ユークリッド空間の点集合論 ==
* 平行移動、鏡映、回転などの (free) motions 、アフィン変換、射影変換などで安定な点集合論 → エルランゲン計画
* ''E''<sup>''n''</sup>, '''R'''<sup>''n''</sup>, 平行移動群 ''T''<sup>''n''</sup> との同相性など
* 距離空間の位相, 完備性, 局所コンパクト性etc
* 曲率や(二次形式orリーマン)計量など
* ホモロジーやホモトピーなど
=== 位相構造 ===
{{関連記事|ユークリッド位相}}
ユークリッド空間は[[距離空間]]であるから、距離から誘導される自然な位相を持った[[位相空間]]でもある。{{mvar|E{{sup|n}}}} 上の距離位相は、'''ユークリッド位相'''あるいは通常の位相と呼ばれる。すなわち、ユークリッド空間の部分集合が[[開集合]]であるための[[必要十分条件]]は、その部分集合に属する各点に対して、それを中心とする適当な大きさの[[開球体]]をその部分集合が必ず含むことである。ユークリッド位相は、{{math|'''R'''{{sup|''n''}}}} を(標準位相を備えた)[[実数直線]] {{math|'''R'''}} の {{mvar|n}} 個のコピーの直積と見たときの[[直積位相]]と同値であることが確かめられる。
ユークリッド空間の位相的性質について、「{{mvar|E{{sup|n}}}} の部分集合は、それがある開集合に同相となるものならばそれ自身が開集合である」というブラウウェルの{{ill2|領域の不変性定理|en|Invariance of domain}}が知られている。またその帰結として、{{math|''n'' ≠ ''m''}} ならば {{mvar|E{{sup|n}}}} と {{mvar|E{{sup|m}}}} は互いに同相でないことが示せる。これは明白な事実のようであるが、それでいて証明するとなるとそれは容易ではない。
=== 微分構造・異種空間 ===
{{mvar|n}} 次元ユークリッド空間は {{mvar|n}} 次元[[位相多様体]]の原型的な例であり、[[可微分多様体]]の例ともなっている。{{math|''n'' ≠ 4}} ならば {{mvar|n}} 次元ユークリッド空間に[[位相同型|同相]]な位相多様体は、可微分構造まで込めて同相(微分同相)である。しかし {{math|1=''n'' = 4}} のときはそうならないという驚くべき事実が、[[1982年]]に[[サイモン・ドナルドソン]]によって証明された。この反例となる(すなわち 4 次元ユークリッド空間と同相だが微分同相でない)多様体は'''異種4次元空間''' {{lang|en|(exotic 4-spaces)}} と呼ばれる。
== 一般化 ==
現代数学において、ユークリッド空間はほかのより複雑な幾何学的対象の原型を成している。例えば、[[可微分多様体]]は局所的にユークリッド空間に[[微分同相]]であるような[[ハウスドルフ空間|ハウスドルフ位相空間]]である。微分同相写像は距離や角度といったものは考慮しないので、ユークリッド幾何学で重要な役割であったこれらの概念を可分多様体の上で考えることは一般にはできない。それでも、多様体の[[接空間]]上に滑らかに変化する内積を入れることはできて、そのようなものを[[リーマン多様体]]と呼ぶ。表現を変えれば、リーマン多様体はユークリッド空間を変形し、貼り合わせて構成される空間である。そのような空間では距離や角度の概念を取り扱うことができるが、その振る舞いは[[曲率]]を伴う非ユークリッド的なものとなる。最も単純なリーマン多様体は、一定の内積を備えた {{math|'''R'''{{sup|''n''}}}} で、これは本質的に {{mvar|n}}-次元ユークリッド空間そのものと同一視される。
内積が負の値をとりうるものとして得られるユークリッド空間の類似物は{{ill2|擬ユークリッド空間|en|Pseudo-Euclidean space}}と呼ばれ、そのような空間から構成した滑らかな多様体は[[擬リーマン多様体]]と呼ばれる。これらの空間の最もよく知られた応用はおそらく[[相対性理論|相対論]]で、そこでは[[質料]]を持たない空でない[[時空]]は[[ミンコフスキー空間]]と呼ばれる平坦擬ユークリッド空間によって表される。また、質料を持つ時空は擬ユークリッドでない擬リーマン多様体を成し、[[重力]]はその多様体の曲率に対応する。
相対論の主題としての我々の宇宙はユークリッド的でない。これは[[天文学]]と[[宇宙論]]の理論的考察において重要であり、また[[全地球測位システム]]や[[航空管制]]などの実務的な問題でも重要になる。それでも、宇宙のユークリッド的なモデルは、多くの実用上の問題において十分な正確さを持って解決するために利用することができる。
* '''R''' をピタゴラス的な順序体に取り替えても類似の距離が定義できて、運動群などの構造が乗る。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist}}
<!--=== 出典 ===
{{reflist}}-->
== 参考文献 ==
{{Reflist}}
*{{cite book | author=Kelley, John L. | title=General Topology | publisher=Springer-Verlag | year=1975 | isbn= 0-387-90125-6 }}
*{{cite book | author=Munkres, James | title=Topology | publisher=Prentice-Hall | year=1999 | isbn= 0-13-181629-2 }}
== 関連項目 ==
* [[平面充填]]
* [[空間充填]]
* [[ユークリッド幾何学]]
* [[非ユークリッド幾何学]]
* [[ベクトル空間]]
* [[アフィン空間]]
== 外部リンク ==
* {{MathWorld|urlname=EuclideanSpace|title=Euclidean Space}}
* {{PlanetMath|urlname=EuclideanSpace|title=Euclidean space}}
* {{PlanetMath|urlname=EuclideanVectorSpace|title=Euclidean vector space}}
* {{PlanetMath|urlname=MathbbRnAsARiemannianManifold|title=Euclidean space as a manifold}}
* {{PlanetMath|urlname=Chart2|title=locally Euclidean}}
* {{Kotobank|2=世界大百科事典 第2版}}
* {{SpringerEOM|urlname=Euclidean_space|title=Euclidean space}}
* {{nlab|urlname=Euclidean+space|title=Euclidean space}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ゆうくりつとくうかん}}
[[category:ユークリッド幾何学|*くうかん]]
[[Category:距離空間]]
[[Category:数学に関する記事]]
[[Category:数学のエポニム]]
[[Category:空間]]
[[Category:エウクレイデス]] | 2003-05-19T15:39:13Z | 2023-11-28T23:31:39Z | false | false | false | [
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"Template:Nlab"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%89%E7%A9%BA%E9%96%93 |
8,676 | ローラシア大陸 | ローラシア大陸(ローラシアたいりく、Laurasia)は、プレートテクトニクス理論で太古に存在したとされる超大陸である。1937年に南アフリカの地質学者アレクサンダー・デュ・トワによって提示された。ローレンシア大陸とユーラシア大陸のかばん語から名付けられている。
超大陸パンゲアが分裂し、テチス海を挟んでローラシア大陸とゴンドワナ大陸が生成された。ローラシア大陸は、さらに分裂していき、ユーラシア大陸と北アメリカ大陸が形成されていく。ローラシア大陸は、かつてパンゲア大陸を形成したローレンシア大陸、バルティカ大陸、シベリア大陸、カザフスタニア及びシナ地塊から成る。 | [
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] | ローラシア大陸(ローラシアたいりく、Laurasia)は、プレートテクトニクス理論で太古に存在したとされる超大陸である。1937年に南アフリカの地質学者アレクサンダー・デュ・トワによって提示された。ローレンシア大陸とユーラシア大陸のかばん語から名付けられている。 超大陸パンゲアが分裂し、テチス海を挟んでローラシア大陸とゴンドワナ大陸が生成された。ローラシア大陸は、さらに分裂していき、ユーラシア大陸と北アメリカ大陸が形成されていく。ローラシア大陸は、かつてパンゲア大陸を形成したローレンシア大陸、バルティカ大陸、シベリア大陸、カザフスタニア及びシナ地塊から成る。 | {{混同|ユーラシア大陸}}
[[File:Laurasia-Gondwana.svg|right|200px|thumb|2億年前(三畳紀)の世界図 ローラシア大陸は北半球に広がっていた。南方は[[ゴンドワナ大陸]]]]
'''ローラシア大陸'''(ローラシアたいりく、Laurasia)は、[[プレートテクトニクス]]理論で太古に存在したとされる[[超大陸]]である。[[1937年]]に[[南アフリカ]]の地質学者[[アレクサンダー・デュ・トワ]]によって提示された。[[ローレンシア大陸]]とユーラシア大陸の[[かばん語]]から名付けられている。
超大陸[[パンゲア大陸|パンゲア]]が分裂し、[[テチス海]]を挟んでローラシア大陸と[[ゴンドワナ大陸]]が生成された。ローラシア大陸は、さらに分裂していき、[[ユーラシア#ユーラシア大陸|ユーラシア大陸]]と[[北アメリカ大陸]]が形成されていく。ローラシア大陸は、かつてパンゲア大陸を形成した[[ローレンシア大陸]]、[[バルティカ大陸]]、[[シベリア大陸]]、[[カザフスタニア]]及び[[シナ地塊]]から成る。
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Laurasia and Gondwana|ローラシア大陸とゴンドワナ大陸}}
* [[超大陸]]
* [[ローラシア獣上目]]
{{世界の地理}}
{{プレートテクトニクス}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ろおらしあたいりく}}
[[Category:古大陸]]
[[Category:超大陸]]
[[Category:北アメリカの自然史]]
[[Category:アジアの自然史]]
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[[Category:アジアの地質学]]
[[Category:ヨーロッパの地質学]]
[[Category:グリーンランドの地質学]] | null | 2023-07-16T14:28:25Z | false | false | false | [
"Template:混同",
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"Template:世界の地理",
"Template:プレートテクトニクス",
"Template:Normdaten"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%82%A2%E5%A4%A7%E9%99%B8 |
8,677 | 阿蘇郡 | 阿蘇郡(あそぐん)は、熊本県(肥後国)の郡である。
人口32,956人、面積703.25km2、人口密度46.9人/km2。(2023年7月1日、推計人口)
以下の3町3村を含む。
1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、下記の区域にあたる。
『筑紫風土記』に閼宗県(あそ の あがた)という県(あがた)として記される。
また、『日本書紀』には阿蘇国(あそ の くに)という国が記されている。「国造本紀」によれば、阿蘇国を支配したのは阿蘇国造であるという。阿蘇氏はその子孫とされる。
『日本書紀』には阿蘇国造の祖先でもある阿蘇都彦(あそつひこ)・阿蘇都媛(あそつひめ)の2神が登場し、この2神がいたことが「阿蘇」の地名の由来であると記される。この2神は現在の阿蘇市にある阿蘇神社の祭神となっている。
『延喜式』神名帳に記される郡内の式内社。 | [
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] | 阿蘇郡(あそぐん)は、熊本県(肥後国)の郡である。 人口32,956人、面積703.25km²、人口密度46.9人/km²。(2023年7月1日、推計人口) 以下の3町3村を含む。 南小国町(みなみおぐにまち)
小国町(おぐにまち)
産山村(うぶやまむら)
高森町(たかもりまち)
西原村(にしはらむら)
南阿蘇村(みなみあそむら) | {{Pathnavbox|
*{{Pathnav|令制国一覧|西海道|肥後国}}
*{{Pathnav|日本|九州地方|熊本県}}
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[[画像:Kumamoto Aso-gun.png|frame|熊本県阿蘇郡の位置(1.南小国町 2.小国町 3.産山村 4.高森町 5.西原村 6.南阿蘇村 薄黄:後に他郡に編入された区域 薄緑:後に他郡から編入した区域)]]
'''阿蘇郡'''(あそぐん)は、熊本県(肥後国)の[[郡]]である。
{{郡データ換算|熊本県|南小国町|小国町|産山村|高森町|西原村|南阿蘇村}}
以下の3町3村を含む。
* [[南小国町]](みなみおぐにまち)
* [[小国町 (熊本県)|小国町]](おぐにまち)
* [[産山村]](うぶやまむら)
* [[高森町 (熊本県)|高森町]](たかもりまち)
* [[西原村]](にしはらむら)
* [[南阿蘇村]](みなみあそむら)
== 郡域 ==
[[1879年]]([[明治]]12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、下記の区域にあたる。
* [[阿蘇市]]・南小国町・小国町・産山村・高森町の全域
* 西原村の大部分(河原を除く)
* 南阿蘇村の大部分(立野を除く)
* [[菊池郡]][[大津町]]の一部(岩坂・錦野・外牧)
* [[上益城郡]][[山都町]]の一部(大見口、上差尾、塩出迫、塩原、柳井原、方ヶ野、仮屋、米生、須原、小峰、貫原、小中竹、木原谷、緑川以東)
== 名所 ==
=== 水源 ===
* 白川水源(白川吉見神社境内)
* 立岩水源
*[[池山水源]]
*[[塩井社水源]]
*山吹水源
=== 滝 ===
*鍋ヶ滝公園
*[[夫婦滝]]
=== 温泉 ===
*[[杖立温泉]]
*[[地獄温泉]]
*[[黒川温泉]]
*くぬぎ湯
*阿蘇白水温泉
*久木野温泉
=== 神社 ===
*白川吉見神社
*上色見熊野座神社
*[[草部吉見神社]]
*阿蘇白水龍神權現
*宝来宝来神社
*小国両神社
*高森阿蘇神社
*片俣阿蘇神社
*長野阿蘇神社
*平川阿蘇神社
=== 牧場 ===
*阿蘇ミルク牧場
*[[阿蘇ファームランド]]
*阿蘇オルゴール館
*モーモーファーム竹原牧場
== 歴史 ==
=== 古代 ===
『筑紫風土記』に'''閼宗県'''(あそ の あがた)という[[古代日本の地方官制#県(アガタ)|県]](あがた)として記される。
また、『[[日本書紀]]』には'''[[阿蘇国]]'''(あそ の くに)という国が記されている。「[[国造本紀]]」によれば、阿蘇国を支配したのは[[阿蘇国造]]であるという。[[阿蘇氏]]はその子孫とされる。
『日本書紀』には阿蘇国造の祖先でもある[[阿蘇都彦]](あそつひこ)・阿蘇都媛(あそつひめ)の2神が登場し、この2神がいたことが「[[阿蘇]]」の地名の由来であると記される。この2神は現在の[[阿蘇市]]にある[[阿蘇神社]]の祭神となっている。
==== 式内社 ====
『[[延喜式]]』[[延喜式神名帳|神名帳]]に記される郡内の[[式内社]]。
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{{肥後国阿蘇郡の式内社一覧}}
{{式内社一覧/footer}}
=== 近世以降の沿革 ===
* [[明治]]初年時点では全域が肥後'''[[熊本藩]]'''領であった。「[[旧高旧領取調帳]]」に記載されている明治初年時点での村は以下の通り。(1町212村)
: 内牧村、分内牧村、宇土村、折戸村、小園村(現・阿蘇市西小園)、西湯浦村、湯浦村、宮原村(現・阿蘇市)、小里村、成川村、小池村、黒流町村、今町村、小野田新村、綾野村<ref>記載は綾野町。</ref>、小倉村、山田村、小野田村、小野田町村、綾野下原村、役犬原村、西町村、分西町村、竹原村(現・阿蘇市)、蔵原村、東黒川村、黒川村、乙姫村、永草村、赤水村、車帰村、的石村、跡ヶ瀬村、狩尾村、坂梨村、古閑村、馬場村(現・阿蘇市)、北坂梨村、上野中村、下野中村、上三ヶ村、下三ヶ村、手野村、尾籠村、東下原村、西下原村、中原村(現・阿蘇市)、井手村、宮地村<ref>158石・885石の2村に分かれて記載。</ref>、東宮地村、北宮地村、西宮地村、分西宮地村、四分一村、布田村、日向村、宮山村、小東村、小森村、鳥子村、岩坂村、錦野村、外牧村、下久木野村、久木野村、上久木野村、東下田村、宮寺村、下田村、川後田村、長野村、喜多村、吉田村、下市村、下積村、上中村、西中村、下中村、松木村、二子石村、竹崎村、市下村、高森村、高森町、村山村、上色見村、色見村、白川村、大中野村、永野原村、幸子村、大切畑村、所尾野村、下切村、小篠村、草ヶ部村、社倉村、小崎村、木郷村、原口村、馬場村(現・高森町)、芹口村、水湛村、菅山村、水迫村、下尾野村、栃原村(現・高森町)、岩神村、野尻村、胡桃原村、蔵地村、向津留村、津留村、上津留村、重井野村、永野村、尾下村、牧戸村、味鳥村、黒岩村、仁田水村、市野尾村、河原村、峰ノ宿村、中村、祭場村、矢津田村、高尾野村、小村、柳村、西竹原村、東竹原村、旅草村、梶原村、小倉村、早楢村、高畑村、下山村、目細村、稲生村、玉目村、蔵木山村、仁瀬本村、丸小野村、大野原村、橘崎村、神動村、椛山村、神木村、八矢村、二津留村、柏村、花寺村、今村、米山村、大久保村、大迫村、塩出迫村、大見口村、上指尾村、菅尾村、神前村、大野村、竿渡村、馬見原村、長崎村、方ヶ野村、土戸村、仮屋村、名ヶ園村、上原村、馬場野村、市原村、鎌野村、白石村、尾野尻村、小峰村、貫原村、栃原村(現・上益城郡山都町)、猪尾村、木原谷村、西原村、川口村、梅木鶴村、栗林村、尾ヶ分村、栗藤村、斗塩村、黒原村、柳井原村、須刈村、小中竹村、高須村、黒淵村、宮原村(現・小国町)、西里村、北里村、満願寺村、上田村、赤馬場村、中原村(現・南小国町)、下城村、産山村、田尻村、山鹿村、大利村、片俣村、小園村(現・阿蘇市波野小園)、小地野村、赤仁田村、滝水村、波野村、中江村
* 明治4年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により'''[[熊本県]]'''(第1次)の管轄となる。
* 明治5年[[6月14日 (旧暦)|6月14日]]([[1872年]][[7月19日]]) - '''[[白川県]]'''の管轄となる。
* 明治初年(1町214村)
** 無田村が起立。
** 波野村の一部が分立して新波野村となる。
* 明治7年([[1874年]]) - 日向村が宮山村に、小東村が小森村にそれぞれ合併。(1町212村)
* 明治8年([[1875年]])[[12月10日]] - '''熊本県'''(第2次)の管轄となる。同年、以下の各村の統合が行われる。(1町205村)
** 須原村 ← 西原村、高須村
** 米生村 ← 名ヶ園村、上原村、馬場野村
** 緑川村 ← 川口村、梅木鶴村、栗林村、尾ヶ分村、栗藤村
* 明治9年([[1876年]]) - 以下の各村の統合が行われる。(1町130村)
{{col|
:* 三野村 ← 上野中村、下野中村、上三ヶ村、下三ヶ村
:* 中通村 ← 東下原村、西下原村、中原村(現・阿蘇市)、井手村
:* 河陰村 ← 下久木野村、久木野村[一部]、下田村[一部]
:* 久石村 ← 久木野村[残部]、上久木野村、二子石村
:* 河陽村 ← 東下田村、宮寺村、下田村[残部]、川後田村、喜多村
:* 一関村 ← 下市村、下積村
:* 中松村 ← 上中村、西中村、下中村、松木村
:* 両併村 ← 竹崎村、市下村
:* 竹原村(現・上益城郡山都町) ← 西竹原村、東竹原村
|
:* 伊勢村 ← 旅草村、梶原村
:* 高辻村 ← 小倉村、早楢村
:* 長谷村 ← 目細村、稲生村、蔵木山村
:* 橘村 ← 橘崎村、椛山村
:* 花上村 ← 神動村、花寺村
:* 八木村 ← 神木村、八矢村
:* 米迫村 ← 米山村、大迫村
:* 滝上村 ← 竿渡村、土戸村、須刈村
:* 塩原村 ← 斗塩村、黒原村
}}
:* 綾野村が小倉村に、古閑村・馬場村(現・阿蘇市)が坂梨村に、尾籠村が手野村に、東宮地村・北宮地村・西宮地村・分西宮地村・四分一村が宮地村に、高森村・村山村が高森町に、大中野村・幸子村が永野原村に、大切畑村・所尾野村・小篠村が下切村に、社倉村・小崎村・木郷村が草ヶ部村に、原口村・馬場村(現・高森町)が芹口村に、水湛村・水迫村・下尾野村・栃原村(現・高森町)が菅山村に、岩神村が永野原村に、胡桃原村・蔵地村・向津留村が野尻村に、上津留村・重井野村・永野村が津留村に、牧戸村が尾下村に、味鳥村・黒岩村・仁田水村・市野尾村が河原村に、峰ノ宿村・祭場村が中村に、高尾野村・小村が矢津田村に、丸小野村・大野原村が仁瀬本村に、大久保村が菅尾村に、栃原村(現・上益城郡山都町)・猪尾村が小峰村にそれぞれ合併。
* 明治12年([[1879年]])(1町124村)
** [[1月20日]] - [[郡区町村編制法]]の熊本県での施行により、行政区画としての'''阿蘇郡'''が発足。郡役所が内牧村に設置。
** 河陽村の一部が分立して下野村となる。
** 宇土村・折戸村が合併して三久保村となる。
** 分内牧村・成川村が内牧村に、小野田新村・小野田町村・綾野下原村が小野田村に、分西町村が西町村にそれぞれ合併。
* 明治13年([[1880年]])(1町123村)
** 東黒川村が黒川村に合併。
** 小園村(現・阿蘇市西小園)が西小園村に、宮原村(現・阿蘇市)が南宮原村に、竹原村(現・上益城郡山都町)が東竹原村にそれぞれ改称。
=== 町村制以降の沿革 ===
[[ファイル:Kumamoto Aso-gun 1889.png|frame|1.宮地村 2.中通村 3.高森町 4.内牧村 5.古城村 6.坂梨村 7.山田村 8.南小国村 9.北小国村 10.尾ヶ石村 11.黒川村 12.錦野村 13.野尻村 14.山西村 15.草ヶ矢村 16.白水村 17.色見村 18.長陽村 19.久木野村 20.波野村 21.永水村 22.産山村 23.菅尾村 24.馬見原町 25.柏村 26.小峰村(紫:阿蘇市 桃:高森町 水色:西原村 緑:菊池郡大津町 赤:上益城郡山都町 青:合併なし)]]
* 明治22年([[1889年]])[[4月1日]] - [[町村制]]の施行により、以下の町村が発足。(2町24村)
** '''[[宮地町|宮地村]]'''、'''[[中通村 (熊本県)|中通村]]'''(それぞれ単独村制。現・阿蘇市)
** '''[[高森町 (熊本県)|高森町]]'''(単独町制。'''現存''')
** '''[[内牧町|内牧村]]''' ← 内牧村、湯浦村、西湯浦村、三久保村、南宮原村、西小園村、小里村(現・阿蘇市)
** '''[[古城村 (熊本県)|古城村]]''' ← 北坂梨村[大部分]、三野村、手野村(現・阿蘇市)
** '''[[坂梨村]]''' ← 坂梨村、北坂梨村[一部](現・阿蘇市)
** '''[[山田村 (熊本県)|山田村]]''' ← 山田村、小野田村、小倉村、小池村、黒流町村、今町村(現・阿蘇市)
** '''[[南小国町|南小国村]]''' ← 赤馬場村、満願寺村、中原村(現・南小国町)
** '''[[小国町 (熊本県)|北小国村]]''' ← 宮原村、上田村、西里村、北里村、下城村、黒淵村(現・小国町)
** '''[[尾ヶ石村]]''' ← 狩尾村、跡ヶ瀬村、的石村(現・阿蘇市)
** '''[[黒川村 (熊本県)|黒川村]]''' ← 役犬原村、西町村、蔵原村、黒川村、竹原村、乙姫村(現・阿蘇市)
** '''[[錦野村]]''' ← 外牧村、錦野村、岩坂村(現・菊池郡大津町)
** '''[[野尻村 (熊本県)|野尻村]]''' ← 津留村、野尻村、尾下村、河原村(現・高森町)
** '''[[山西村]]''' ← 小森村、布田村、宮山村、鳥子村(現・西原村)
** '''[[草部村|草ヶ矢村]]''' ← 芹口村、草ヶ部村、菅山村、永野原村、下切村、矢津田村、中村(現・高森町)
** '''[[白水村 (熊本県阿蘇郡)|白水村]]''' ← 吉田村、白川村、両併村、一関村、中松村(現・南阿蘇村)
** '''[[色見村]]''' ← 色見村、上色見村(現・高森町)
** '''[[長陽村]]''' ← 下野村、長野村、河陽村(現・南阿蘇村)
** '''[[久木野村 (熊本県阿蘇郡)|久木野村]]''' ← 河陰村、久石村(現・南阿蘇村)
** '''[[波野村 (熊本県)|波野村]]''' ← 波野村、新波野村、中江村、滝水村、小地野村、赤仁田村、小園村(現・阿蘇市)
** '''[[永水村]]''' ← 車帰村、無田村、赤水村、永草村(現・阿蘇市)
** '''[[産山村]]''' ← 産山村、田尻村、山鹿村、大利村、片俣村('''現存''')
** '''[[菅尾村 (熊本県)|菅尾村]]''' ← 菅尾村、花上村、八木村、今村、米迫村、塩出迫村、塩原村(現・上益城郡山都町)
** '''[[馬見原町]]''' ← 神前村、白石村、方ヶ野村、大野村、長崎村、馬見原町、滝上村、柳井原村(現・上益城郡山都町)
** '''[[柏村 (熊本県)|柏村]]''' ← 柳村、東竹原村、伊勢村、高畑村、高辻村、下山村、橘村、長谷村、仁瀬本村、玉目村、柏村、大見口村、上指尾村、二津留村(現・上益城郡山都町)
** '''[[小峰村]]''' ← 小峰村、貫原村、小中竹村、木原谷村、緑川村、尾野尻村、鎌野村、市原村、仮屋村、米生村、須原村(現・上益城郡山都町)
* 明治27年([[1894年]])[[1月12日]] - 草ヶ矢村が改称して'''[[草部村]]'''となる。
* 明治29年([[1896年]])[[6月1日]] - [[郡制]]を施行。郡役所が宮地村に設置。
* 明治34年([[1901年]])[[1月1日]] - 宮地村が町制施行して'''[[宮地町]]'''となる。(3町23村)
* 明治39年([[1906年]])4月1日 - 内牧村が町制施行して'''[[内牧町]]'''となる。(4町22村)
* [[大正]]12年([[1923年]])4月1日 - 郡会が廃止。郡役所は存続。
* 大正15年([[1926年]])[[7月1日]] - 郡役所が廃止。以降は地域区分名称となる。
* [[昭和]]10年([[1935年]])4月1日 - 北小国村が町制施行・改称して'''[[小国町 (熊本県)|小国町]]'''となる。(5町21村)
* 昭和23年([[1948年]])4月1日 - 小峰村の所属郡が[[上益城郡]]に変更。(5町20村)
* 昭和29年([[1954年]])4月1日 (5町13村)
** 宮地町・坂梨村・中通村・古城村が合併して'''[[一の宮町]]'''が発足。
** 黒川村・永水村・尾ヶ石村・内牧町・山田村が合併して'''[[阿蘇町]]'''が発足。
* 昭和30年([[1955年]])4月1日 - 草部村・高森町・色見村が合併し、改めて'''高森町'''が発足。(5町11村)
* 昭和31年([[1956年]])
** [[8月1日]](5町10村)
*** 錦野村の一部(外牧・錦野および大字岩坂の大部分)が[[菊池郡]][[平真城村]]・大津町・[[陣内村]]および[[瀬田村]]の一部(瀬田・大林・吹田)・[[護川村]]の一部(杉水・矢護川)と合併し、改めて菊池郡[[大津町]]が発足。
*** 長陽村が菊池郡瀬田村の一部(立野)を編入。
*** 錦野村の残部(岩坂の残部)が山西村に編入。
** [[9月30日]] - 柏村・菅尾村・馬見原町が合併して'''[[蘇陽町]]'''が発足。(5町8村)
* 昭和32年([[1957年]])8月1日 - 野尻村が高森町に編入。(5町7村)
* 昭和35年([[1960年]])[[9月1日]] - 山西村が[[上益城郡]][[河原村 (熊本県上益城郡)|河原村]]と合併して'''[[西原村]]'''が発足。(5町7村)
* 昭和44年([[1969年]])[[11月1日]] - 南小国村が町制施行して'''[[南小国町]]'''となる。(6町6村)
* [[平成]]17年([[2005年]])
** [[2月11日]](3町5村)
*** 一の宮町・阿蘇町・波野村が合併して'''[[阿蘇市]]'''が発足し、郡より離脱。
*** 蘇陽町が上益城郡[[矢部町]]・[[清和村 (熊本県)|清和村]]が合併して上益城郡[[山都町]]が発足。
** [[2月13日]] - 白水村・久木野村・長陽村が合併して'''[[南阿蘇村]]'''が発足。(3町3村)
=== 変遷表 ===
{{hidden begin
|title = 自治体の変遷
|titlestyle = background:lightgrey;
}}
{| class="wikitable" style="font-size:x-small"
!明治22年以前
!明治22年4月1日
!明治22年 - 昭和19年
!昭和20年 - 昭和29年
!昭和30年 - 昭和63年
!平成元年 - 現在
!現在
|-
|
| style="background-color:#6ff;" | 高森町
| style="background-color:#6ff;" | 高森町
| style="background-color:#6ff;" | 高森町
| rowspan="3" style="background-color:#6ff;" | 昭和30年4月1日<br />高森町
| rowspan="4" style="background-color:#6ff;" | 高森町
| rowspan="4" style="background-color:#6ff;" | [[高森町 (熊本県)|高森町]]
|-
|
| style="background-color:#9cf;" | 草ヶ矢村
| style="background-color:#9cf;" | 明治27年1月12日<br />改称<br />草部村
| style="background-color:#9cf;" | 草部村
|-
|
| style="background-color:#9cf;" | 色見村
| style="background-color:#9cf;" | 色見村
| style="background-color:#9cf;" | 色見村
|-
|
| style="background-color:#9cf;" | 野尻村
| style="background-color:#9cf;" | 野尻村
| style="background-color:#9cf;" | 野尻村
| style="background-color:#6ff;" | 昭和32年8月1日<br />高森町に編入
|-
|
| style="background-color:#9cf;" | 宮地村
| style="background-color:#6ff;" | 明治34年1月1日<br />町制
| rowspan="4" style="background-color:#6ff;" | 昭和29年4月1日<br />一の宮町
| rowspan="4" style="background-color:#6ff;" | 一の宮町
| rowspan="10" | 平成17年2月11日<br />阿蘇市
| rowspan="10" | [[阿蘇市]]
|-
|
| style="background-color:#9cf;" | 中通村
| style="background-color:#9cf;" | 中通村
|-
|
| style="background-color:#9cf;" | 古城村
| style="background-color:#9cf;" | 古城村
|-
|
| style="background-color:#9cf;" | 坂梨村
| style="background-color:#9cf;" | 坂梨村
|-
|
| style="background-color:#9cf;" | 内牧村
| style="background-color:#6ff;" | 明治39年4月1日<br />町制
| rowspan="5" style="background-color:#6ff;" | 昭和29年4月1日<br />阿蘇町
| rowspan="5" style="background-color:#6ff;" | 阿蘇町
|-
|
| style="background-color:#9cf;" | 山田村
| style="background-color:#9cf;" | 山田村
|-
|
| style="background-color:#9cf;" | 尾ヶ石村
| style="background-color:#9cf;" | 尾ヶ石村
|-
|
| style="background-color:#9cf;" | 黒川村
| style="background-color:#9cf;" | 黒川村
|-
|
| style="background-color:#9cf;" | 永水村
| style="background-color:#9cf;" | 永水村
|-
|'''波野村・小園村・小地野村<br />赤仁田村・滝水村・中江村<br />新波野村'''
| style="background-color:#9cf;" | 波野村
| style="background-color:#9cf;" | 波野村
| style="background-color:#9cf;" | 波野村
| style="background-color:#9cf;" | 波野村
|-
|'''産山村・山鹿村・片俣村<br />田尻村・大利村'''
| style="background-color:#9cf;" | 産山村
| style="background-color:#9cf;" | 産山村
| style="background-color:#9cf;" | 産山村
| style="background-color:#9cf;" | 産山村
| style="background-color:#9cf;" | 産山村
| style="background-color:#9cf;" | [[産山村]]
|-
|
| style="background-color:#9cf;" | 南小国村
| style="background-color:#9cf;" | 南小国村
| style="background-color:#9cf;" | 南小国村
| style="background-color:#6ff;" | 昭和44年11月1日<br />町制
| style="background-color:#6ff;" | 南小国町
| style="background-color:#6ff;" | [[南小国町]]
|-
|
| style="background-color:#9cf;" | 北小国村
| style="background-color:#6ff;" | 昭和10年4月1日<br />町制改称<br />小国町
| style="background-color:#6ff;" | 小国町
| style="background-color:#6ff;" | 小国町
| style="background-color:#6ff;" | 小国町
| style="background-color:#6ff;" | [[小国町 (熊本県)|小国町]]
|-
|'''吉田村・両併村・白川村<br />一関村・中松村'''
| style="background-color:#9cf;" | 白水村
| style="background-color:#9cf;" | 白水村
| style="background-color:#9cf;" | 白水村
| style="background-color:#9cf;" | 白水村
| rowspan="3" style="background-color:#9cf;" | 平成17年2月13日<br />南阿蘇村
| rowspan="3" style="background-color:#9cf;" | [[南阿蘇村]]
|-
|
| style="background-color:#9cf;" | 長陽村
| style="background-color:#9cf;" | 長陽村
| style="background-color:#9cf;" | 長陽村
| style="background-color:#9cf;" | 昭和31年8月1日<br />菊池郡<br />瀬田村立野を編入
|-
|'''久石村・河陰村'''
| style="background-color:#9cf;" | 久木野村
| style="background-color:#9cf;" | 久木野村
| style="background-color:#9cf;" | 久木野村
| style="background-color:#9cf;" | 久木野村
|-
|
| rowspan="2" style="background-color:#9cf;" | 錦野村
| rowspan="2" style="background-color:#9cf;" | 錦野村
| rowspan="2" style="background-color:#9cf;" | 錦野村
| 昭和31年8月1日<br />(外牧・錦野・岩坂の一部)<br />菊池郡<br />大津町の一部
|
| [[菊池郡]]<br />大津町
|-
|
| style="background-color:#9cf;" | 昭和31年8月1日<br />(岩坂の一部)<br />山西村に編入
| rowspan="3" style="background-color:#9cf;" | 西原村
| rowspan="3" style="background-color:#9cf;" | [[西原村]]
|-
|
| style="background-color:#9cf;" | 山西村
| style="background-color:#9cf;" | 山西村
| style="background-color:#9cf;" | 山西村
| rowspan="2" style="background-color:#9cf;" | 昭和35年9月1日<br />西原村
|-
|
| 上益城郡<br />河原村
| 上益城郡<br />河原村
| 上益城郡<br />河原村
|-
|
| style="background-color:#6ff;" | 馬見原町
| style="background-color:#6ff;" | 馬見原町
| style="background-color:#6ff;" | 馬見原町
| rowspan="3" style="background-color:#6ff;" | 昭和31年9月30日<br />蘇陽町
| rowspan="4" | 平成17年2月11日<br />上益城郡<br />山都町の一部
| rowspan="4" | [[上益城郡]]<br />[[山都町]]
|-
|
| style="background-color:#9cf;" | 菅尾村
| style="background-color:#9cf;" | 菅尾村
| style="background-color:#9cf;" | 菅尾村
|-
|
| style="background-color:#9cf;" | 柏村
| style="background-color:#9cf;" | 柏村
| style="background-color:#9cf;" | 柏村
|-
|
| style="background-color:#9cf;" | 小峰村
| style="background-color:#9cf;" | 小峰村
| 昭和23年4月1日<br />上益城郡
| 昭和31年7月1日<br />上益城郡<br />清和村の一部
|}
{{hidden end}}
== 行政 ==
;歴代郡長
{| class="wikitable"
!代!!氏名!!就任年月日!!退任年月日!!備考
|-
|1||||明治12年(1879年)1月20日||||
|-
|||||||大正15年(1926年)6月30日||郡役所廃止により、廃官
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=「角川日本地名大辞典」編纂委員会|year=1987|date=1987-11-01|title=[[角川日本地名大辞典]]|publisher=[[角川書店]]|volume=43 熊本県|isbn=4040014308|ref={{SfnRef|角川日本地名大辞典|1987}}}}
* [https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース]
== 関連項目 ==
* [[阿蘇]]
* [[安蘇郡]]
{{火国二国の郡}}
{{熊本県の郡}}
{{熊本県の自治体}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:あそくん}}
[[Category:阿蘇郡|*]]
[[Category:熊本県の郡]]
[[Category:肥後国の郡]]
[[Category:阿蘇市の歴史]]
[[Category:南小国町]]
[[Category:小国町 (熊本県)]]
[[Category:産山村]]
[[Category:高森町 (熊本県)]]
[[Category:西原村]]
[[Category:南阿蘇村]]
[[Category:山都町の歴史]] | null | 2023-06-08T17:53:26Z | false | false | false | [
"Template:熊本県の自治体",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:肥後国阿蘇郡の式内社一覧",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E8%98%87%E9%83%A1 |
8,678 | 712年 | 712年(712 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。 | [
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"text": "712年(712 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。",
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}
] | 712年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。 | {{年代ナビ|712}}
{{year-definition|712}}
== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[壬子]]
* [[日本]]
** [[和銅]]5年
** [[皇紀]]1372年
* [[中国]]
** [[唐]] : [[景雲 (唐)|景雲]]3年、[[太極 (唐)|太極]]元年、[[延和 (唐)|延和]]元年、[[先天 (唐)|先天]]元年
* [[朝鮮]] :
* [[ベトナム]] :
* [[仏滅紀元]] :
* [[ユダヤ暦]] :
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=712|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
{{seealso|712年の日本}}
* [[3月9日]](和銅5年1月28日) - [[古事記]]が完成し、元明天皇に献上される。
* [[出羽国]]を新たに設置
== 誕生 ==
{{see also|Category:712年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[杜甫]]、[[唐]]の[[詩人]](詩聖)(+ [[770年]])
* [[マンスール]]、[[アッバース朝]]の第2代[[カリフ]](+ [[775年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:712年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[宋之問]]、[[唐]]の詩人(* [[656年]]?)
* [[法蔵 (唐)|法蔵]]、唐の[[華厳宗]]の[[僧]](* [[643年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|712}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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8,679 | 南アメリカ大陸 | 南アメリカ大陸(みなみアメリカたいりく)は、アメリカ大陸のうち、パナマ地峡より南側の部分である。東は大西洋、西は太平洋に面していて、北は北アメリカ大陸とパナマ地峡で接する。南米大陸(なんべいたいりく)とも呼ばれる。
ゴンドワナ大陸が分裂して生成した。
約3000万年前に南極大陸と分離してから、約200万年前にパナマ地峡ができるまで、孤立大陸であったため、独特の動植物が進化し、固有種が多い。また、ギアナ高地やアマゾンなどの熱帯雨林も、種の多様性に大きく貢献している。
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最南端:フロワード岬(チリ)南緯53度53分47秒、西経71度17分40秒
最西端:パリニャス岬(ペルー)南緯4度40分58秒、西経81度19分43秒
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'''南アメリカ大陸'''(みなみアメリカたいりく)は、[[アメリカ大陸]]のうち、[[パナマ地峡]]より南側の部分である。東は[[大西洋]]、西は[[太平洋]]に面していて、北は[[北アメリカ大陸]]とパナマ地峡で接する。'''南米大陸'''(なんべいたいりく)とも呼ばれる。
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*最北端:[[ガイナス岬]]([[コロンビア]])北緯12度27分31秒、西経71度40分8秒
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
{{Commonscat|Geography of South America|南アメリカ大陸の地理}}
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* [[南アメリカ]]
* [[北アメリカ大陸]]
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8,681 | 北アメリカ大陸 | 北アメリカ大陸(きたアメリカたいりく、North American continent)、通称北米大陸(ほくべいたいりく)は、現在においては南北アメリカ大陸のうち、パナマ地峡より北側の部分のこと。かつてはローラシア大陸から分かれ、ゴンドワナ大陸から分かれた南アメリカ大陸とは別々に存在していた大陸であった。面積は約2400万平方キロメートルである。
アメリカ合衆国、カナダ、メキシコ、グアテマラ、ベリーズ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカ、パナマが位置する。地理的にも実質的にも広義の北アメリカ地方の大半を占めるといってよい。これはカリブ海地域においては大国であるキューバを北アメリカ大陸で最も国内総生産が高い国であるアメリカ合衆国と比較すると人口が約26分の1、面積に至っては約87分の1であり、またアメリカ合衆国の国内総生産はカリブ海地域で最大であるプエルトリコのそれの約169倍である。
なお、北アメリカ地方と称した場合にはメキシコ以南を中央アメリカ地方として区別することがあるのに対し、「北アメリカ大陸」という語にはそのような用法は存在しない。
先住民は大航海時代以前においてはモンゴロイドが中心であったが、クリストファー・コロンブスによる大陸の発見以降、ヨーロッパ人が北アメリカ大陸に到達したことから、彼らとの戦闘や持ち込まれた病原菌によって、先住民の人口は劇的に減少した。現在は、コーカソイド、ネグロイドなどを含めた多種多様な人種の人々が住んでいる。 | [
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[[File:Location North America.svg|thumb|300px|right|北アメリカ大陸]]
'''北アメリカ大陸'''(きたアメリカたいりく、North American continent)、通称'''北米大陸'''(ほくべいたいりく)は、現在においては南北[[アメリカ大陸]]のうち、[[パナマ地峡]]より北側の部分のこと。かつては[[ローラシア大陸]]から分かれ、[[ゴンドワナ大陸]]から分かれた[[南アメリカ大陸]]とは別々に存在していた[[大陸]]であった。面積は約2400万平方キロメートルである。
== 概要 ==
[[アメリカ合衆国]]、[[カナダ]]、[[メキシコ]]、[[グアテマラ]]、[[ベリーズ]]、[[エルサルバドル]]、[[ホンジュラス]]、[[ニカラグア]]、[[コスタリカ]]、[[パナマ]]が位置する。地理的にも実質的にも広義の[[北アメリカ]]地方の大半を占めるといってよい。これは[[カリブ海]]地域においては大国である[[キューバ]]を北アメリカ大陸で最も[[国内総生産]]が高い国である[[アメリカ合衆国]]と比較すると[[国の人口順リスト|人口]]が約26分の1、[[国の面積順リスト|面積]]に至っては約87分の1であり、またアメリカ合衆国の国内総生産はカリブ海地域で最大である[[プエルトリコ]]のそれの約169倍である{{efn2|詳細は[[国の国内総生産順リスト]]を参照。ただし、アメリカ合衆国には[[ハワイ州]]や[[マンハッタン島]]なども含まれる。}}。
なお、北アメリカ地方と称した場合にはメキシコ以南を[[中央アメリカ]]地方として区別することがあるのに対し、「北アメリカ大陸」という語にはそのような用法は存在しない。
[[先住民]]は[[大航海時代]]以前においては[[モンゴロイド]]が中心{{efn2|[[ケネウィック人]]の発見もあり、他の人種も住んでいた可能性もある。}}であったが、[[クリストファー・コロンブス]]による[[アメリカ大陸の発見|大陸の発見]]以降、ヨーロッパ人が北アメリカ大陸に到達したことから、彼らとの戦闘や持ち込まれた病原菌によって、先住民の人口は劇的に減少した<ref>{{cite book|title=A Concise History of World Population: An Introduction to Population Processes, |last=Massimo Livi Bacci |first=Malden |place=Massachusetts |publisher=Blackwell Publishing |year=2001 |edition=3rd |isbn=0-631-22335-5 |pages=42–46}}</ref>。現在は、[[コーカソイド]]、[[ネグロイド]]などを含めた多種多様な人種の人々が住んでいる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
{{Commonscat|Geography of North America|北アメリカ大陸の地理}}
{{ウィキポータルリンク|北アメリカ}}
* [[北アメリカ]]
** [[北米出身者の一覧]]
* [[北アメリカ星雲]]
* [[南アメリカ大陸]]
{{世界の地理 |continents}}
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[[Category:大陸]]
[[Category:北アメリカの地形|*きたあめりかたいりく]]
[[en:North America]] | null | 2022-11-18T10:42:09Z | false | false | false | [
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8,683 | め〜め〜る〜 | 『め〜め〜る〜』は、あゆみゆいによる日本の少女漫画作品。単行本はKCなかよし(講談社)から全1巻。作者の2000年代の作品としては珍しく原作がない。
講談社発行の『なかよし』2002年8月号増刊、『なつやすみランド』に掲載された読み切り作品。
送信したはずのメールが戻ってきたとき、見なれないソフトを起動したことから主人公の琴子が「コトハノクニ」に入ってしまうという物語。
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] | 『め〜め〜る〜』は、あゆみゆいによる日本の少女漫画作品。単行本はKCなかよし(講談社)から全1巻。作者の2000年代の作品としては珍しく原作がない。 | 『'''め〜め〜る〜'''』は、[[あゆみゆい]]による[[日本]]の[[少女漫画]]作品。単行本は[[講談社コミックスなかよし|KCなかよし]]([[講談社]])から全1巻。作者の[[2000年代]]の作品としては珍しく原作がない。
== 概要 ==
講談社発行の『[[なかよし]]』[[2002年]]8月号増刊、『なつやすみランド』に掲載された読み切り作品。
送信したはずのメールが戻ってきたとき、見なれないソフトを起動したことから主人公の'''琴子'''が「コトハノクニ」に入ってしまうという物語。
単行本には、「デビピッピ」・「手のなかの宇宙」・「ヒトメボレ前線」も併録されている。
== 単行本 ==
* め〜め〜る〜 (2003年3月6日発行、KCなかよし、ISBN 978-4-06-364014-4) - 2008年6月現在、品切重版未定。
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[[Category:あゆみゆいの漫画作品]]
[[Category:漫画作品 め|えめえるう]]
[[Category:なかよしの短編集]]
[[Category:ファンタジー漫画]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%81%E3%80%9C%E3%82%81%E3%80%9C%E3%82%8B%E3%80%9C |
8,685 | ロシア語 | ロシア語(ロシアご、русский язык、[ˈruskjɪj jɪˈzɨk] ( 音声ファイル))は、インド・ヨーロッパ語族のスラヴ語派東スラヴ語群に属する言語。露語(ろご)とも略され、ロシア連邦の公用語。ロシア連邦の国語表記には、キリル文字を使用することが必要である。
話し言葉と文語として、ロシア語は(ウクライナ語とベラルーシ語とともに)古いロシア語から発展した。ロシア語の書き方は、古代スラヴ語のキリル文字に基づいている。近縁の言語にウクライナ語とベラルーシ語がある。
ロシア語はヨーロッパで最も母語話者が多い言語であり、母語話者数では世界で8番目に多く、第二言語の話者数も含めると世界で4番目に多い。国際連合においては、英語、フランス語、中国語、スペイン語、アラビア語と並ぶ、6つの公用語の1つである。
ロシア語の起源については諸説あるが、東スラヴ人が使っていた古東スラヴ語(10世紀 - 15世紀)から発展したという説が最もよく知られている。13世紀にキエフ大公国が崩壊した後、ルーシの地はモンゴル帝国に支配(タタールのくびき)されており、現代ロシア語にも財政や金融に関わる単語を中心に、タタール語などのテュルク諸語やモンゴル語の影響が残っている。その後、北東ルーシの辺境(現在のヨーロッパ・ロシア)でモスクワ大公国が成立し、この国の公用語がロシア語として独自に発展していった。
ロシア帝国の時代には、1708年にピョートル1世によってアルファベットが単純化されたのを皮切りに、ロシア語の改革が盛んとなった。18世紀後半にはミハイル・ロモノーソフが初めてロシア語の文法書を著し、標準語の形成に大きく寄与した。19世紀初頭にはアレクサンドル・プーシキンによって近代的な文語が確立した。また、宮廷は西欧諸国を模範として近代化を進めたことから、大量の専門語彙がオランダ語、フランス語、ドイツ語などから取り入れられた。その一方で、当時の上流階級はフランス語を日常的に使用しており、19世紀の小説(レフ・トルストイの『戦争と平和』など)はフランス語を交えて書かれた作品が多い。
ソビエト連邦ではロシア語が事実上の公用語であり、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国を除くソビエト連邦構成共和国において共通語として機能していたが、公式には公用語は存在しなかった。テュルク系のチュヴァシ人を祖先に持つレーニンがオーストロ・マルキシズムやカウツキーの影響のもと、1914年の論文『強制的な国家語は必要か?』において国家語の制定を批判した。また、自身も少数民族グルジア人の出自を持つスターリンも民族問題の専門家として民族語奨励政策を採用した結果、ソ連はその崩壊にいたるまで、ロシア語を正式な公用語の地位につけることはついになかった(ちなみに、オットー・バウアーから借用した「形式は民族的、内容は社会主義的な文化の建設」というスターリンのテーゼはまず言語問題にまつわる1925年の演説『母語による教育』において現れた)。それゆえ、ロシア語が公的に国家語化したのはロシア連邦成立後である。
1918年には、アレクセイ・シャフマトフ(ロシア語版)が準備していたアルファベット改革案がボリシェヴィキによって実行に移され、現在のロシア語の正書法が成立した。ただし、Ёはこの時点でまだ正式なアルファベットとして認められておらず、正式に組み入れられたのは1942年のことである。なお、1964年にもソ連科学アカデミーによって正書法の改革案が作られたが、こちらは実施されなかった。
1991年末のソビエト連邦の崩壊で、ソ連を構成していた各共和国はそれぞれ独立し、それまでロシア語との併用という形を採っていたそれぞれの民族語が第一の公用語へと昇格したが、その後の言語状況に関しては様々である。
バルト三国と呼ばれるエストニア・ラトビア・リトアニアでは、ソ連からの独立以降急速に各民族語(エストニア語・ラトビア語・リトアニア語)が使用される機会が増えている。もちろんソ連崩壊後30年程しか経過しておらず、またロシア系住民が多い地域などではロシア語が今でも使われるが、ソ連時代と比べるとロシア語はそれほど使われなくなっていると言える。特にこの3カ国が2004年にEUに加盟してからは、英語やドイツ語がより広く学ばれるようになっている。ただし、ソ連時代後期にロシア語人口がラトビア語人口を逆転するのではないかと言われたラトビアでは、独立回復後に制定した国籍法で国籍取得要件にラトビア語の習得を義務付けたという経緯がある。これによって多くのロシア系住民をロシアへ移住させる事に成功したが、国籍を与えられない残留ロシア人の権利が阻害されているとするロシア政府からの抗議を受け、さらに欧州委員会からもこの言語規定が市民の平等を定める欧州憲法に違反しているという指摘を受けた。2018年4月には、教育法が改正され、ロシア系住民が通う学校であっても、小学校は50%以上、中学校は80%、高校は100%の科目をラトビア語で教育することが義務付けられた。
モルドバにおいては、ロシア語が国内共通語と法定されてきたが、2018年6月に失効が確認された。
また、ロシア影響圏からの離脱を模索するウクライナやジョージアでも、ロシア語ではなくウクライナ語やグルジア語がより広範に使われている。ウクライナでは、西部を中心に従来よりほとんどウクライナ語のみが使用されている地域がある一方で、ウクライナ語とロシア語両方が使われている地域もあり、また東部やクリミア半島ではロシア語の使用者が大勢である地域もあり、地域によっては将来的にもロシア語は当分使われ続けると推定されている。一方で、都市部を中心に伝統的にウクライナ語とロシア語の混交が起こっていたが、ソ連の崩壊以降、それまでロシア語が優勢であった地域を中心にウクライナ語にロシア語の要素が混じった「スールジク(混血)」と呼ばれる混交言語が広まりを見せている。現在でも、ウクライナ西部を除く広範囲でロシア語は使用、理解されており、ロシア語をウクライナ語に次ぐ第二公用語に加える動きもあるなど、今までのロシア語排除の動きから転換点を迎えようとしている。
ジョージアもまた長年ロシア語による支配を受けてきた国であった。ジョージア政府はロシア語教育を廃止し、ロシア語読みに基づいた国名である日本語の「グルジア」を英語読みの「ジョージア」に変更することを要請しており(グルジア語名では「サカルトヴェロ」)、日本政府も承諾している。また、ロシアに多くのジョージア人が住んでいることなどからロシア語は今でもよく使われている。
それ以外の地域に関しては、今でもロシア語が幅広く使われ続けている。ベラルーシやカザフスタン・キルギス・ウズベキスタン・トルクメニスタンなどでは非ロシア人でもロシア語しか喋れない人も多く、また多民族が入り混じって生活する中央アジア諸国では、ロシア語が民族を超えた共通語として使われている。カフカース地域、及びモルドバでも、現地人同士の日常会話には現地語が用いられることが増えてきたものの、ロシア語で会話する人々は少なくない。なお、ロシアとの統合に積極的なアレクサンドル・ルカシェンコ大統領の独裁体制が続くベラルーシでは、ベラルーシ語とロシア語が公用語に指定されているが、隣国ウクライナとは逆にロシア語使用が奨励され、本来の民族語であるベラルーシ語が軽視される傾向にある。
ポーランドやブルガリアなど旧共産圏諸国では、共産主義体制ではロシア語が広く学習されていたが、民主化後は英語やドイツ語(歴史的にはチェコやハンガリーなど、オーストリア帝国の支配下にあった国も少なくない)など西欧の言語に押されて、ロシア語学習は下火になった。またバルト三国や東側諸国はハンガリー動乱やプラハの春などでソ連軍による民主化弾圧などがあったために、かつて第一外国語だったロシア語を使う事も拒んでいる者もいる。
一方、ウラジーミル・プーチン政権で経済の立て直しに成功したロシアがBRICsと呼ばれる経済成長地域の一つに加わり、天然資源を核にした諸外国との経済関係が再び拡大すると共に、ロシア語の需要は再び高まりつつある。バルト三国などでもロシア語に対するマイナスイメージもソ連時代を経験していない若い世代を中心に徐々に薄れてきており、ロシア語は英語やドイツ語などと共に、ビジネスなどで必要な言語ととらえる人も増えてきている。また、宇宙開発においては国際宇宙ステーションの公用語になるなど、英語と並んで必要不可欠な言語の1つとなっている。
ロシア国内では急速な資本主義化や新技術の導入に伴い、今まで存在しなかった概念や用語が大量に導入された。これにロシア語の造語能力が追いつかず、特に英語を中心とした外来語がそのままロシア語に導入される例が多くなっている。
18世紀には、すでに「北槎聞略」という書物があり、「大黒屋光太夫」の口述による、キリル文字、一部のロシア語の単語、文などの記載も見られる。本格的なロシア語研究が始まるのは、1804年から1811年にロシア使節からもたらされた公文書の翻訳が必要となった江戸幕府の命により、蘭語通詞の馬場貞由(左十郎)らがゴローニン事件によって松前藩に幽閉されていたゴローニンから学んだのが最初。
1868年に成立した明治政府は文明開化政策の規範を欧米諸国に取り、イギリス・ドイツ・フランス・アメリカなどから多くの技術や思想を導入した。西欧よりも産業発展が遅れていたロシアはその対象から外れたため、通常の学校教育での採用では英語・ドイツ語・フランス語に次ぐものとして扱われた。その中で東京外国語学校では1873年の第一次創設から魯(露)語学科が設置され、東京商業学校への統合を経て1899年に再設置されると二葉亭四迷が露語学科の教授として就任して、同校はロシア語やロシア文学の研究拠点となっていった。また、開港地としてロシア領事館が置かれた函館などから布教が広がった日本ハリストス正教会もキリスト教(正教会)の聖職者育成とともにロシア語教育が重視された。ゴローニンの『日本幽囚記』で日本に興味を持ったニコライ(イヴァン・カサートキン)が日本大主教としてロシアから派遣後の1891年に建設された東京復活大聖堂(ニコライ堂)に設けられた正教神学校では昇曙夢が活躍して、自身を含んだロシア文学研究者の育成に貢献した。
一方、南下政策をとるロシア帝国は大日本帝国にとって仮想敵国の筆頭にあり、実際に1904年からは日露戦争が勃発、1905年からは樺太の北緯50度線で陸上国境で接するようになったため、日本軍にとってロシア語を習得する必要は一貫して高く、陸軍の教育機関である陸軍幼年学校や陸軍大学校、海軍の海軍大学校ではロシア語が科目に含まれた。陸軍の東郷正延や海軍の井桁貞敏らは第二次大戦後のロシア語教育でも大きな役割を担った。
1920年には早稲田大学文学部に露文学科が設置され、1921年設立の大阪外国語学校や1925年設立の天理外国語学校でも当初からロシア語の学科が置かれた。1917年にロシア革命が始まり、ソビエト連邦が成立、日本とは新たな緊張関係が生まれた。ソ連の国家イデオロギーである社会主義や共産主義は天皇制を奉じる日本では危険思想とみなされ、その事実上の公用語であるロシア語学習者は「アカ」などの蔑称で呼ばれることが多く、1937年には早稲田大学の露文学科が閉鎖された。また正教会はロシア本国ではソ連政府による弾圧、日本ではソ連(ロシア)への利敵者とみなされる偏見という二重の苦境に立ち、その影響力とともにロシア語教育への余力も減退した。一方、日本が勢力を伸ばした満州では実務面でもロシア語教育の必要性が高く、1920年にハルピン市に設置された日露協会学校は後にハルピン学院となり、1940年からは満州国立大学となったが、1945年8月のソ連対日参戦とそれに続く第二次世界大戦での日本の敗北で消滅した。赤軍(ソビエト連邦軍)に降伏した日本軍の将兵はシベリア抑留の対象となってソ連国内の収容所に連行されて、赤軍が進駐した満州や朝鮮半島北部、ソ連が日本からの領土編入を宣言したサハリン南部(南樺太)や千島列島南部ではソ連軍人や一般国民と混住状態になった日本人が日常的にロシア語を使う状況となったが、民間人は一部の残留者を除いて1948年までに日本へ帰国し、シベリア抑留者の送還も1956年に終了して、この状態は短期間で終わった。
1946年に早稲田大学の露文学科は再開され、1949年にはソ連との友好促進を目指す民間団体として(旧)日ソ親善協会が設立されてロシア語教室が開催されるなど、戦後のロシア語教育は東西冷戦の影響も受けながら徐々に拡大された。1956年10月に日ソ共同宣言で両国間の国交回復が決まると同年11月からNHKラジオでロシア語講座が開講され、1957年には同年に日ソ親善協会から改称した日ソ協会系の日ソ学院によってロシア語能力検定試験が開始された。同年はスプートニク1号による史上初の宇宙飛行も行われ(スプートニク・ショック)、ソ連の高い自然科学力を背景にした理工系教員からの要望を受けて1962年には東京大学の教養学部に在籍する1年生と2年生の一部を対象にロシア語が第二外国語に加えられ、ソ連政府からの独立性を維持した正教会系のニコライ学院を含め、高等・専門教育ではロシア語教育の機会が増えていった。
1960年代までは上記のようにロシア語の研究論文を読む必要がある自然科学系の研究者、共産主義を支持する人々を中心にロシア文化への関心は比較的高かった。しかしながら、レオニード・ブレジネフ体制下でのソ連文化の硬直化や科学技術の停滞、中ソ対立などにも影響された日本共産党や日本社会党などの日本の左派(革新)政党とソ連共産党の関係の混乱などを背景にソ連(ロシア)への関心は低下した。1985年にソ連で始まったペレストロイカによって経済交流や文化的関心は高まり、ロシア語学習者も一時的に増加したが、1991年のソ連崩壊前後の経済混乱はその熱を冷まし、1996年には19世紀からの伝統を持つニコライ学院が閉校に追い込まれた。
その後は日ソ学院が改称してロシア語能力検定試験の主催を続ける東京ロシア語学院や、こちらも改称しながら同学院との友好関係を維持する日本ユーラシア協会の独自講座、ロシア連邦教育科学省の認定試験として日本対外文化協会が窓口となって行われているロシア語検定試験(ТРКИ)、各大学で続けられるロシア語・ロシア文学関係の講座、それにNHKの語学番組改革の中で2017年からEテレで始まった「ロシアゴスキー」やラジオ第2放送の「まいにちロシア語」の放送などで日本におけるロシア語教育が継続されている。しかしながら、放送大学におけるロシア語講座開設が2007年度限りで終了するなど、その退潮傾向は続いている。ただ、伝統的にロシアが強国であるフィギュアスケートでは浅田真央や羽生結弦などの日本選手もロシア人指導者のコーチを受けてきた事もあり、ここからロシア語への関心を持つ例も見られる。あるいは後述するアニメ・漫画などのサブカルチャー分野の人気作品内でロシア語が使用される例もあり、2020年4月に京都外国語大学がロシア語学科を新設するなど、一定の状況変化も見られる。
ロシアとの交流は北海道や日本海側の一部の地域を除くと盛んではなく、貿易額で示される経済的なつながりもロシアと同様の近隣諸国である中国や韓国、あるいは多くの面で緊密な関係を維持しているアメリカ合衆国より薄い。そのため、日本(特に西日本)においてロシア語の重要性は低い。英語や中国語、朝鮮語に比べて語学教材も恵まれておらず、改訂も進まない結果、内容がソ連時代のままである教材も少なくない。
しかし、上記のように第二次世界大戦後も日本とソ連は軍事的対立が続き、冷戦終結とソ連崩壊後も日ロ間では領土問題などでの対立が残ったほか、漁船操業や国際協力などでの実務的必要もある。したがって海上保安庁では第二外国語として中国語・朝鮮語と並びロシア語が学ばれており、自衛隊でも第二外国語として学ばれているほか、北海道の一部の高校では地理的に近いということもありロシア語の授業が行われている。さらに稚内や根室、紋別や新千歳空港ではロシア語表記の看板が見られるなど、隣国としてのロシアの姿が実感できる。同様に、新潟東港を通じての対ロ貿易の日本海側拠点である新潟市でも日本語の他英語とロシア語を併記した看板を見ることができる。新潟市ではこれ以外にもロシア語スピーチコンテストを行うなどしている。同じく対露貿易の多い富山県伏木富山港周辺でもロシア語表記の看板が見られ、新潟県や富山県でもロシア語の授業を開講する高校がある。また、2010年代に入り「ガールズ&パンツァー」「ゴールデンカムイ」などロシア語の台詞が多い漫画・アニメーションの人気作品が制作され、ここからロシア語に興味を持った人が若者が生まれたという指摘もある。上記のNHKテレビロシア語講座「ロシアゴスキー」では2013年から放送が始まった放送シリーズで「ガールズ&パンツァー」に出演したロシア出身の声優であるJenyaを起用している。
江戸時代まで遡る日ロ両国間の政治交渉、ロシア文学や共産主義思想の受容、宇宙工学を中心とした多くの自然科学分野における重要性の存在などの様々な理由から、今でも日本の多くの大学の第二外国語でロシア語を学ぶことができるものの、日本人(特に西日本在住者)でロシア語を学ぶ人々は少ない。その中で、近畿地方(関西圏)における日本海側の最重要港湾都市としてソ連時代から貿易拠点となっていた舞鶴市では北陸地方の各都市と類似したロシア語への接触環境があり、その舞鶴市がある京都府では2020年4月に京都外国語大学がロシア語学科を新設している。
また、2022年3月31日 、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻を受け、外務省はウクライナ国内の地名をロシア語からウクライナ語に合わせた日本語表記に変更すると発表した。
このほかに、JR東日本の恵比寿駅でもロシア語の看板を撤去するというような事案が発生している。
ロシア語の学科がある主な大学は以下の通りである。このうち1994年に設立されたロシア極東連邦総合大学函館校は他校とは違って日本の教育制度の中では専修学校として扱われ、外国大学の日本校として指定されている。一方、ロシアではウラジオストクにある極東連邦大学の正式な分校として扱われ、本校への留学も含んだロシア語教育が重点的に行われている。
ウクライナ東部や南部ではロシア語が広く使われている。また、ウクライナ語とロシア語の社会方言が混じった口語の混合言語であるスルジク(суржик)も使われている。ウクライナではソ連崩壊後、言語問題がしばしば発生している。2014年にはロシア語話者の多いクリミア共和国とセヴァストポリ特別市が独立を宣言し、それらのロシアへの編入の宣言に至った(クリミア危機)。それと同時に東部のドンバスでも紛争が発生し、一部地域がドネツク人民共和国、ルガンスク人民共和国として事実上独立した。2022年にロシアによるウクライナ侵攻に発展し、同年9月30日にロシアはドネツク・ルガンスクの両共和国及びザポロージェ州とヘルソン州の併合を宣言した。 東部や南部とは対称にロシア語話者が少ない西部のリヴィウ州では、議会が2018年9月18日、ロシア語による歌曲を公共の場で流したり、書籍を出版したりすることを禁じる条例を可決した 。
ソ連崩壊後、1994年にルカシェンコが大統領に選出された翌年の1995年にロシア語にベラルーシ語と同じ地位が与える国民投票が行われ、可決された。現在、これまでにない規模でロシア語化が推し進められている。また、2019年の国勢調査では、総人口9530.8万人中ベラルーシ語の母語話者は53.2%、対してロシア語の母語話者は41.5%となっている。総人口の4分の3に当たる都市住民の間ではベラルーシ語の母語話者は44.1%、家庭内での使用割合は11.3%に過ぎず、ロシア語化が大きく進行している事が示されている。
ロシアとの歴史的な関係からエストニア国内にはエストニア語を解さないロシア語話者が一定数存在する。エストニア政府は度重なる「言語法」の改訂によって彼らの排除、あるいは社会統合を企図し、その甲斐あって若年層のロシア人(英語版)はエストニア語能力に向上を見せた。しかし、エストニア語能力を有さない住民は北東部イダ=ヴィル県を中心に未だ多く存在し、その社会統合は課題として残されている。
ロシアとの国境に近い北東部イダ=ヴィル県ナルヴァではロシア語話者の割合が95パーセント以上を占め、その他イダ=ヴィル県にはロシア語話者が過半数を占める都市が散見される。 エストニアの言語法第11条には、「全定住者のうち過半数の使用する言語がエストニア語でない地方自治体においては、自治体内の実務言語として〔中略〕エストニア語に加えて全定住者のうち過半数を形成する少数民族の言語を使用することができる」との条文があり、ロシア人が95パーセント以上を占めるナルヴァ市議会は、これに基づいて議会でのロシア語使用許可を申請している。政府は、同市におけるエストニア語の使用が未だ保障されていない、として申請を却下したが、ロシア人の側は、非合法状態にはありながら公的領域においてもロシア語の使用を続けている。 また、過去には首都のタリンでもロシア系住民とエストニア政府との間で大規模な暴動が起きた。
カザフスタンではソ連から独立した後も他の中央アジア諸国に比べてロシア語が使用されることが多く、カザフ語は国家語、ロシア語は実質的な共通語としての地位を確立し、都市部ではカザフ語よりもロシア語を得意とするカザフ人は少なくない。こうした状況下で、カザフスタン政府はカザフ語の振興を掲げていて、カザフ語の急速な台頭とロシア語の重要性の低下に対して抵抗を感じる人間がいる一方で、マスメディアにおけるロシア語の支配的な地位を疑問視する意見も投げかけられている。 だが、近年ではロシア語離れの動きがあると報じられている。具体的には、カザフ語の表記がキリル文字からラテン文字へ移行する草案が提出された。しかし、この移行は国民の間では一般に普及していない。 また、カザフ語自体もロシア語からの借用語が多い。
ウズベキスタンでは独立以降しばらくはウズベク語とロシア語が公的な文書において使用されていたが、1995年12月に憲法が改正され、ウズベキスタン憲法第四条及び「国家言語法」によりウズベク語が公用語の地位を獲得することになった。 ウズベク・ソビエト社会主義共和国時代はウズベク語とロシア語が公用語の地位を獲得していた。現在、ウズベキスタンではウズベク語とロシア語の他に、主にウズベク人以外の少数民族によってタジク語やキルギス語、トルクメン語、カザフ語、カラカルパク語、タタール語、ノガイ語などのテュルク諸語の他、アゼルバイジャン語、ウイグル語などの言語が話されている。地方ではウズベク語を母語とする者の割合が高いが、首都タシュケントでは人口の約半数がロシア語話者であり、ロシア語が日常的に使用されている。また、大学ではウズベク語とロシア語による講義が行われており、研究活動を行う者はほぼロシア語環境で研究を行なっている。一方で、英語が通じることは少なく、2005年時点の調査では、英語を話すことができると答えた人々の割合は9%にすぎず、ロシア語を話すことができると答えた人々の割合は中央アジア全体で80%を超えている。 現在、ロシア語は全人口の14.2%に当たる人々が第一言語として使用しており、その他の人々もその多くがロシア語を第二言語として使用しているなど異民族間の共通語・準公用語的な地位にある。
タジキスタンではロシア語は帝政ロシア~ソビエト連邦時代の共通語であったため、現在でも第二言語として教育・ビジネス等で多く使用されている。ただし、2009年10月から国語法が成立し、公文書や看板、新聞はタジク語を用いることを義務づけられた。 また、ソビエト連邦の崩壊後に起きたタジキスタン内戦によるロシア人の大量国外流出によりロシア語の通用度が急激に低くなったが、現在では出稼ぎ先の大半はロシアであることと、高等教育にはロシア語習得が不可欠であることから、ロシア語教育も重要視されつつあり、国民の間ではロシア語学習熱が強い。
キルギスではロシア語が公用語、キルギス語が国家語とされている (憲法第10条第1項、第2項)。 2017年の国勢調査によると、母語話者の割合はキルギス語が55.2%、ウズベク語が4.7%、ロシア語が34.0%となっている。 独立以降公用語から除外されたウズベキスタンなどとは違い、引き続き公用語に制定されている。これは、国の中枢を占めていたロシア人などのロシア語系住民の国外流出(頭脳流出)を防ぐためであり、現在でも山岳部を除く全土で通用し、教育、ビジネスや政府機関で幅広く使用される。また医療用語などはロシア語にしか翻訳されていない単語があるため、ロシア語が理解できないと生活に苦労する場合もある。 首都ビシュケクとその周辺では多くの住民はロシア語を使って生活しており、キルギス語が上手に話せないキルギス人も少なくない。このため、現地生まれのロシア人はキルギス語を話せない人がほとんどを占めている。
エストニアの他に同じくヨーロッパ連合加盟国となったラトビア、リトアニアなどの旧ソ連諸国でも、公用語にこそなっていないもののロシア系住民を中心に広く使われているがEUの公用語には加わっていない。2018年には、ロシアに対する反感や地位低下を背景に、先述したウクライナ、カザフスタンのほかにラトビア、モルドバでロシア語離れの動きがあるとも報じられている。その中ではカザフ語やアゼルバイジャン語の表記がキリル文字からラテン文字へ変更されたことが挙げられている。ただし、ソ連時代からロシア人の居住比率が10%程度だったリトアニアを除くと上記の各国でロシア系住民の比率は相対的に高く、特に中央アジアにおいては相対的に賃金水準の高いロシアの都市部へ出稼ぎ労働者が流出を続ける状況もあって、ロシア語が対ロシア、および地域諸国内の商業・行政面における共通言語(リングワ・フランカ)として現在でも使用され続けている。
1999年のデータではイスラエルへの旧ソ連からの移民は75万人にのぼり、ロシア語のテレビ・ラジオ放送局もある。イスラエルの公用語はヘブライ語だけだが公用語ではない英語にならび移民の影響でロシア語も広く使われている。
アメリカ合衆国におけるロシア語話者には2つの類型がある。1つは政治的な理由でロシア帝国やソビエト連邦から移住した人々やその子孫である「ロシア系アメリカ人」、そしてロシア統治時代のアラスカ住民の子孫である。
ロシア帝国ではロマノフ朝と非常に強い関係を持ったロシア正教会の主流派が絶大な権力を持ち、正教の反主流派である古儀式派やモロカン派、そして少数民族となったユダヤ人が信仰を守るユダヤ教などを抑える体制ができていた。特にユダヤ人に対しては「ポグロム」と呼ばれる大量虐殺が一般民衆の手で頻発したため、1880年代以降にユダヤ人がアメリカ合衆国へ集団移住する例が始まった。彼らはニューヨークやサンフランシスコなどの都市部に集住した。
続いて、1917年のロシア革命により社会主義体制のボリシェヴィキ政権が誕生し、ロシア内戦を経て1922年にソビエト連邦が成立したことで、貴族、地主、教会関係者などの旧支配層、さらに政治的混乱と迫害をおそれた一般民衆が多くロシアを脱出し、その一部が新大陸である、既にロシア系コミュニティが成立していたアメリカ合衆国を目指した。これらの亡命者は「白系ロシア人」とも呼ばれ、多くの文化人も含まれていたことから、アメリカでのロシア語及びロシア文化の伝達を促進した。ソ連成立後も合法的な出国を認められる文化人は少数ながら存在し、彼らもに1933年にソ連との国交を樹立したアメリカ合衆国へ移住する例が生まれた。
第二次世界大戦後は東西冷戦が激化し、両陣営の中心となったソ連からアメリカへの移住は厳しく制限され、ごく少数の亡命者を除けば人口移動は起きなかったが、1970年代に入るとソ連政府は自国民のユダヤ人がイスラエルへ移住することを一定数の範囲で認めるようになり、その一部がアメリカへ再移住した。そして1980年代のペレストロイカ政策によるソ連の自由化、そして1991年のソビエト連邦崩壊によるロシア連邦の成立により、ロシア人の国外出国は容易となり、アメリカへの移住者が再び増加した。移住理由には、国内での民族対立を背景とした政治的亡命、より豊かな生活を求める経済移民、ソビエト体制での高い教育水準で育成された技術者のアメリカ企業による雇用などがあり、ロシアン・マフィアによる非合法移住、英語では「メールオーダーブライド(英語版)」とも呼ばれる、業者を介した簡易な国際結婚によるロシア人女性の渡米なども含まれる。
彼らもアメリカにおけるロシア語人口の増加に寄与し、21世紀に入ってその数は減少したとされるものの、2000年の国勢調査では70万人がロシア語話者と答え、ロシア系アメリカ人自体はアメリカ全体の人口の約1%である約300万人とされる。
一方、ロシア帝国は16世紀から進めたシベリア征服の結果、ベーリング海峡を越えて北米大陸の北西端にあるアラスカに到達していた。1784年にはアラスカ南部のコディアック島に根拠地を置き、1799年にアラスカ領有を宣言、1821年には正式に「ロシア領アメリカ」が成立していたが、ロシア帝国にとってアラスカはあまりに遠く、有効な植民地統治は困難だった。これは逆に、帝国内での迫害から逃れたい古儀式派にとっては好都合だった。1867年にアメリカ合衆国がロシアからアラスカを購入すると、ロシア帝国の役人や毛皮商などは本国へ帰還したが、古儀式派は帰国を拒否し、自らの信仰が保証されるアメリカ国民になることを選択した。その際に「ロシア語ネイティブのアメリカ人」が生まれ、さらにソビエト政権の成立後にアラスカとシベリアとの交流が断絶したため、アラスカのごく一部ではロシア帝国時代からの古儀式派信仰とロシア語が保存された。特にアラスカ本土、コディアック島から約250km離れたニニルチク(英語版)(露: Нинилчик)では下記の「方言」で記す通りに発音や性の構造などで現在の標準ロシア語との差異があるとされ、同地では20世紀末からモスクワ大学などの研究者が言語収集を行っている。
ロシア語では以下の33個のキリル文字が用いられている。音価は固有語におけるもののみに限って紹介するが、外来語の中では延長線上の軟音化・硬音化が行われる場合もある。またロシア語における母音弱化は非常に複雑な変化をもたらすため、この表では概ねそれに触れない。
主語がない無人称文(ru:Безличные предложения)がある。無人称文では意味上の主語は与格で表される。
不定人称文(ru:Неопределённо-личные предложения)では動詞は三人称複数となる。
普遍人称文(ru:Обобщённо-личные предложения)では動詞は二人称単数となる。
名詞は、男性、中性、女性の3つの性に分かれている。ロシア語の名詞は、例外はあるものの総じて、単数主格形について男性名詞は子音字または軟音記号 -ьで、女性名詞は母音字 -а, -я または軟音記号 -ь で、中性名詞は母音字 -о, -е または -мяで終わる。そのため、名詞の性の判別が比較的容易である。これに加えて名詞は言葉の意味によって、人や動物を表す活動体とそれ以外のものを表す不活動体に分けられる。
数は、単数と複数の区別を有する。複数では性の対立は薄れ、主格・生格・対格を除くとどの性の名詞も同一の格語尾を有する。複数主格の男性及び女性名詞は -ы または -иで終わり、中性名詞は -а または -я で終わる。歴史的には単数・複数の他に双数(目、手、足など、二つ一組のものに用いられる数)が存在したが、現在は数詞 два「2」との結合(男性名詞のかつての双数主格の語尾 -а が後に単数生格の語尾 -а と解釈され、それが一般化された結果どの性の名詞に対しても数詞 два は後ろに単数生格を要求するようになった)あるいは берег「岸」の複数主格 берега(本来想定される複数主格は *береги)などに痕跡的に見られるのみである。
名詞の格は主格、生格、与格、対格、造格、前置格の6種類である。一部には呼格(例:Боже! 神よ!)、処格、物主格(притяжательный падеж)、分離格(разделительный падеж)が残る。格変化は語尾によって表され、性・数・体に合わせて変化を見せる。例外的に語尾が変化しない名詞もあるが、ほとんどは語順で格を示す必要がないため、語順は比較的自由に変えられる。
他にも大きな特徴として出没母音がある。これは語形変化に合わせて出現あるいは消滅する母音であり、主にо, еが用いられる。例えば、пирожок(ピロシキ)を複数形にすると、最後のоが消滅してпирожкиになる。
名詞の格変化の基本パターンは以下の通りであるが、特に活動体と不活動体の男性名詞の対格の区別は注意すべきである。また、重音の移動、出没母音や正書法の制約などによる不規則変化も多いほか、外来語などに不変化の名詞もある。
数詞とそれに関連する名詞は特殊な変化をみせる。1 は単数主格だが、2-4 は単数生格、5以上が複数生格をとる。2-4 の単数生格は古い双数形の名残りである。
敬称としての вы は、文中でも Вы のように大文字で書き始めることがある。なお、ロシア語ではほとんどの動詞が語尾から人称と数がわかるので、特に必要がなければ主格人称代名詞は省略できる(例:Читаю книгу. 「(私は)本を読む」)。
動詞は1回限りの動作や、その開始と終了がはっきりと意識できるひとまとまりの動作など(日本語で言えば「食べてしまう」「読み切る」のような)を表す完了体(совершенный вид)と、進行・継続・反復する動作または動作そのものなど(「食べている」「読む」のような)を表す不完了体(несовершенный вид)(未完了体とも)の2つの体(相 (言語学)参照)に分類され、多くの動詞で対になっている。一部には対になる体をもたないものや、完了体でもあり不完了体でもあるものなど、変則的な動詞も存在しているが、いずれにも属さない動詞は存在しない。
時制は、単純に過去・現在・未来の3つだけである。基本的に全ての動詞は過去形と現在形しかもたない(唯一の例外は英語のbe動詞に当たる быть であって、過去形・現在形・未来形の3形態をもつ)。現在形は主語の人称・数により、過去形は性・数によって変化する。未来形は完了体と不完了体で表現の方法が異なり、完了体の場合は、その現在形がそのまま意味上の未来を表すのに対し、不完了体では助動詞 быть の未来形との結合で表される。
動詞の過去形の語形変化の基本パターンは1つしかないが、不規則なものがある。
動詞の現在形の語形変化の基本パターンは2種類があるが、不規則なものも多い。
コピュラ動詞(...である)быть の現在形は基本的には明示されない(例:Я чайка. 「私はかもめ」)。かつては、主語の人称と数に一致した быть が用いられていたが、そのような機能は現在の быть からはほぼ完全に失われており、現在形が用いられる局面は、所有を表す場合に限定されると言っても過言ではない。その際には、所有される側が文法的な主語に当たるので、быть の三人称単数形 есть(例:У меня есть сын.「私には息子がいる(私の許には息子がいる)」)を用いることになる。所有される側が複数の場合、以前は быть の三人称複数形に当たる суть を使用していたが、現在では数に関係なく есть を使う傾向にあるようである。
さらに、есть は存在だけを問題としているので、存在することが前提となっている場合は不要になる(例:У меня маленький сын. 「私には小さな息子がいる」→息子の有無についてではなく、それがどのような息子なのかが問題となっている)。
なお、否定の表現(...がない、...がいない)は нет を使い、存在を否定する名詞を生格に変える(例:У меня нет сына. 「私に息子はいない」)。この нет は、не есть の音便形であり、"Да(はい)"、"Нет(いいえ)" の "Нет" とは、別物である。
動詞が変化したものとして形動詞(西欧語の分詞のように形容詞の働きをする)や副動詞(副詞の働き)がある。ся動詞と呼ばれる一群の動詞(語尾に再帰代名詞 ся がつく)はフランス語などの再帰動詞と同様に用いられ、また相互の動作や受動表現にも用いられる。
形容詞は名詞と同様に性・数・格によって変化し、限定的用法(名詞につく場合)はそれらが一致する。叙述的用法では語尾が短い「短語尾形」も用いられる。
形容詞の格変化の基本形は以下の通りである。なお、ロシア人の形容詞型の姓(チャイコフスキー、トルストイなど)も同じ格変化になる。
上記の通り、アラスカがロシアの領土であった時代にニニルチク(英語版)(露: Нинилчик)村に定住して現地の民族と融合したロシア人は、1867年のアラスカ購入以降ロシアとの接触が減少し、さらには1917年の十月革命によるロシアの共産化によって接触機会が完全になくなったため、標準語のロシア語から完全に隔離された状態で約100年にわたって独自の発達を遂げてきた。シベリアの方言、英語、エスキモー諸語、アサバスカ諸語の単語が混ざり、中性名詞が消えていて、女性名詞もかなり少なくなっている。2013年現在、ニニルチク村では英語が使われていて、ロシア語を覚えている住人はわずか20人であり、全員が75歳以上となっている。
以下に日本語かなのキリル文字表記を示す。
母音の後に続く「い」は и ではなく й を用いる。例えば愛知は Аити ではなく Айти である。
ロシア語から日本語に入った単語は、18世紀以降の両国間の接触によってロシアの文物が日本に紹介されたものと、1917年のロシア革命とその後のソビエト体制の成立によって社会主義(共産主義)思想と共に日本に導入されたものの2種類が多い。前者は日常生活の中で使用されている例があるが(イクラなど)、後者はむしろソ連・ロシア社会の特定の組織や現象を指す固有名詞としてとらえられるものが多い(コルホーズ、ペレストロイカなど)。ただし、後者にもロシアから離れ、日本社会の事象を説明するときに使われる用語もある(コンビナート、ノルマなど)。文字 в [v] は、古くから入った外来語の場合「ワ・ウィ・ウ・ウェ・ウォ」と転写し、比較的新しいものは「ヴァ・ヴィ・ヴ・ヴェ・ヴォ」と転写する。ただし、女性の姓末尾の -ва は現在でも「ワ」と転写する慣用が残っている(例:マリア・シャラポワ)。
日本語からロシア語への単語移入は、日本文化の文物がロシアで紹介された時に単語が使われる場合が多く、技術用語や学術用語では例が少ない。 | [
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"text": "ロシア語(ロシアご、русский язык、[ˈruskjɪj jɪˈzɨk] ( 音声ファイル))は、インド・ヨーロッパ語族のスラヴ語派東スラヴ語群に属する言語。露語(ろご)とも略され、ロシア連邦の公用語。ロシア連邦の国語表記には、キリル文字を使用することが必要である。",
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"text": "話し言葉と文語として、ロシア語は(ウクライナ語とベラルーシ語とともに)古いロシア語から発展した。ロシア語の書き方は、古代スラヴ語のキリル文字に基づいている。近縁の言語にウクライナ語とベラルーシ語がある。",
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"text": "ロシア語はヨーロッパで最も母語話者が多い言語であり、母語話者数では世界で8番目に多く、第二言語の話者数も含めると世界で4番目に多い。国際連合においては、英語、フランス語、中国語、スペイン語、アラビア語と並ぶ、6つの公用語の1つである。",
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"text": "ロシア語の起源については諸説あるが、東スラヴ人が使っていた古東スラヴ語(10世紀 - 15世紀)から発展したという説が最もよく知られている。13世紀にキエフ大公国が崩壊した後、ルーシの地はモンゴル帝国に支配(タタールのくびき)されており、現代ロシア語にも財政や金融に関わる単語を中心に、タタール語などのテュルク諸語やモンゴル語の影響が残っている。その後、北東ルーシの辺境(現在のヨーロッパ・ロシア)でモスクワ大公国が成立し、この国の公用語がロシア語として独自に発展していった。",
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"text": "ロシア帝国の時代には、1708年にピョートル1世によってアルファベットが単純化されたのを皮切りに、ロシア語の改革が盛んとなった。18世紀後半にはミハイル・ロモノーソフが初めてロシア語の文法書を著し、標準語の形成に大きく寄与した。19世紀初頭にはアレクサンドル・プーシキンによって近代的な文語が確立した。また、宮廷は西欧諸国を模範として近代化を進めたことから、大量の専門語彙がオランダ語、フランス語、ドイツ語などから取り入れられた。その一方で、当時の上流階級はフランス語を日常的に使用しており、19世紀の小説(レフ・トルストイの『戦争と平和』など)はフランス語を交えて書かれた作品が多い。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 5,
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"text": "ソビエト連邦ではロシア語が事実上の公用語であり、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国を除くソビエト連邦構成共和国において共通語として機能していたが、公式には公用語は存在しなかった。テュルク系のチュヴァシ人を祖先に持つレーニンがオーストロ・マルキシズムやカウツキーの影響のもと、1914年の論文『強制的な国家語は必要か?』において国家語の制定を批判した。また、自身も少数民族グルジア人の出自を持つスターリンも民族問題の専門家として民族語奨励政策を採用した結果、ソ連はその崩壊にいたるまで、ロシア語を正式な公用語の地位につけることはついになかった(ちなみに、オットー・バウアーから借用した「形式は民族的、内容は社会主義的な文化の建設」というスターリンのテーゼはまず言語問題にまつわる1925年の演説『母語による教育』において現れた)。それゆえ、ロシア語が公的に国家語化したのはロシア連邦成立後である。",
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"text": "1918年には、アレクセイ・シャフマトフ(ロシア語版)が準備していたアルファベット改革案がボリシェヴィキによって実行に移され、現在のロシア語の正書法が成立した。ただし、Ёはこの時点でまだ正式なアルファベットとして認められておらず、正式に組み入れられたのは1942年のことである。なお、1964年にもソ連科学アカデミーによって正書法の改革案が作られたが、こちらは実施されなかった。",
"title": "歴史"
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"text": "1991年末のソビエト連邦の崩壊で、ソ連を構成していた各共和国はそれぞれ独立し、それまでロシア語との併用という形を採っていたそれぞれの民族語が第一の公用語へと昇格したが、その後の言語状況に関しては様々である。",
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"text": "バルト三国と呼ばれるエストニア・ラトビア・リトアニアでは、ソ連からの独立以降急速に各民族語(エストニア語・ラトビア語・リトアニア語)が使用される機会が増えている。もちろんソ連崩壊後30年程しか経過しておらず、またロシア系住民が多い地域などではロシア語が今でも使われるが、ソ連時代と比べるとロシア語はそれほど使われなくなっていると言える。特にこの3カ国が2004年にEUに加盟してからは、英語やドイツ語がより広く学ばれるようになっている。ただし、ソ連時代後期にロシア語人口がラトビア語人口を逆転するのではないかと言われたラトビアでは、独立回復後に制定した国籍法で国籍取得要件にラトビア語の習得を義務付けたという経緯がある。これによって多くのロシア系住民をロシアへ移住させる事に成功したが、国籍を与えられない残留ロシア人の権利が阻害されているとするロシア政府からの抗議を受け、さらに欧州委員会からもこの言語規定が市民の平等を定める欧州憲法に違反しているという指摘を受けた。2018年4月には、教育法が改正され、ロシア系住民が通う学校であっても、小学校は50%以上、中学校は80%、高校は100%の科目をラトビア語で教育することが義務付けられた。",
"title": "歴史"
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"text": "モルドバにおいては、ロシア語が国内共通語と法定されてきたが、2018年6月に失効が確認された。",
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"text": "また、ロシア影響圏からの離脱を模索するウクライナやジョージアでも、ロシア語ではなくウクライナ語やグルジア語がより広範に使われている。ウクライナでは、西部を中心に従来よりほとんどウクライナ語のみが使用されている地域がある一方で、ウクライナ語とロシア語両方が使われている地域もあり、また東部やクリミア半島ではロシア語の使用者が大勢である地域もあり、地域によっては将来的にもロシア語は当分使われ続けると推定されている。一方で、都市部を中心に伝統的にウクライナ語とロシア語の混交が起こっていたが、ソ連の崩壊以降、それまでロシア語が優勢であった地域を中心にウクライナ語にロシア語の要素が混じった「スールジク(混血)」と呼ばれる混交言語が広まりを見せている。現在でも、ウクライナ西部を除く広範囲でロシア語は使用、理解されており、ロシア語をウクライナ語に次ぐ第二公用語に加える動きもあるなど、今までのロシア語排除の動きから転換点を迎えようとしている。",
"title": "歴史"
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"text": "ジョージアもまた長年ロシア語による支配を受けてきた国であった。ジョージア政府はロシア語教育を廃止し、ロシア語読みに基づいた国名である日本語の「グルジア」を英語読みの「ジョージア」に変更することを要請しており(グルジア語名では「サカルトヴェロ」)、日本政府も承諾している。また、ロシアに多くのジョージア人が住んでいることなどからロシア語は今でもよく使われている。",
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"text": "それ以外の地域に関しては、今でもロシア語が幅広く使われ続けている。ベラルーシやカザフスタン・キルギス・ウズベキスタン・トルクメニスタンなどでは非ロシア人でもロシア語しか喋れない人も多く、また多民族が入り混じって生活する中央アジア諸国では、ロシア語が民族を超えた共通語として使われている。カフカース地域、及びモルドバでも、現地人同士の日常会話には現地語が用いられることが増えてきたものの、ロシア語で会話する人々は少なくない。なお、ロシアとの統合に積極的なアレクサンドル・ルカシェンコ大統領の独裁体制が続くベラルーシでは、ベラルーシ語とロシア語が公用語に指定されているが、隣国ウクライナとは逆にロシア語使用が奨励され、本来の民族語であるベラルーシ語が軽視される傾向にある。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "ポーランドやブルガリアなど旧共産圏諸国では、共産主義体制ではロシア語が広く学習されていたが、民主化後は英語やドイツ語(歴史的にはチェコやハンガリーなど、オーストリア帝国の支配下にあった国も少なくない)など西欧の言語に押されて、ロシア語学習は下火になった。またバルト三国や東側諸国はハンガリー動乱やプラハの春などでソ連軍による民主化弾圧などがあったために、かつて第一外国語だったロシア語を使う事も拒んでいる者もいる。",
"title": "歴史"
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"text": "一方、ウラジーミル・プーチン政権で経済の立て直しに成功したロシアがBRICsと呼ばれる経済成長地域の一つに加わり、天然資源を核にした諸外国との経済関係が再び拡大すると共に、ロシア語の需要は再び高まりつつある。バルト三国などでもロシア語に対するマイナスイメージもソ連時代を経験していない若い世代を中心に徐々に薄れてきており、ロシア語は英語やドイツ語などと共に、ビジネスなどで必要な言語ととらえる人も増えてきている。また、宇宙開発においては国際宇宙ステーションの公用語になるなど、英語と並んで必要不可欠な言語の1つとなっている。",
"title": "歴史"
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"text": "ロシア国内では急速な資本主義化や新技術の導入に伴い、今まで存在しなかった概念や用語が大量に導入された。これにロシア語の造語能力が追いつかず、特に英語を中心とした外来語がそのままロシア語に導入される例が多くなっている。",
"title": "歴史"
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"text": "18世紀には、すでに「北槎聞略」という書物があり、「大黒屋光太夫」の口述による、キリル文字、一部のロシア語の単語、文などの記載も見られる。本格的なロシア語研究が始まるのは、1804年から1811年にロシア使節からもたらされた公文書の翻訳が必要となった江戸幕府の命により、蘭語通詞の馬場貞由(左十郎)らがゴローニン事件によって松前藩に幽閉されていたゴローニンから学んだのが最初。",
"title": "各国におけるロシア語の状況"
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"text": "1868年に成立した明治政府は文明開化政策の規範を欧米諸国に取り、イギリス・ドイツ・フランス・アメリカなどから多くの技術や思想を導入した。西欧よりも産業発展が遅れていたロシアはその対象から外れたため、通常の学校教育での採用では英語・ドイツ語・フランス語に次ぐものとして扱われた。その中で東京外国語学校では1873年の第一次創設から魯(露)語学科が設置され、東京商業学校への統合を経て1899年に再設置されると二葉亭四迷が露語学科の教授として就任して、同校はロシア語やロシア文学の研究拠点となっていった。また、開港地としてロシア領事館が置かれた函館などから布教が広がった日本ハリストス正教会もキリスト教(正教会)の聖職者育成とともにロシア語教育が重視された。ゴローニンの『日本幽囚記』で日本に興味を持ったニコライ(イヴァン・カサートキン)が日本大主教としてロシアから派遣後の1891年に建設された東京復活大聖堂(ニコライ堂)に設けられた正教神学校では昇曙夢が活躍して、自身を含んだロシア文学研究者の育成に貢献した。",
"title": "各国におけるロシア語の状況"
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"paragraph_id": 18,
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"text": "一方、南下政策をとるロシア帝国は大日本帝国にとって仮想敵国の筆頭にあり、実際に1904年からは日露戦争が勃発、1905年からは樺太の北緯50度線で陸上国境で接するようになったため、日本軍にとってロシア語を習得する必要は一貫して高く、陸軍の教育機関である陸軍幼年学校や陸軍大学校、海軍の海軍大学校ではロシア語が科目に含まれた。陸軍の東郷正延や海軍の井桁貞敏らは第二次大戦後のロシア語教育でも大きな役割を担った。",
"title": "各国におけるロシア語の状況"
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"text": "1920年には早稲田大学文学部に露文学科が設置され、1921年設立の大阪外国語学校や1925年設立の天理外国語学校でも当初からロシア語の学科が置かれた。1917年にロシア革命が始まり、ソビエト連邦が成立、日本とは新たな緊張関係が生まれた。ソ連の国家イデオロギーである社会主義や共産主義は天皇制を奉じる日本では危険思想とみなされ、その事実上の公用語であるロシア語学習者は「アカ」などの蔑称で呼ばれることが多く、1937年には早稲田大学の露文学科が閉鎖された。また正教会はロシア本国ではソ連政府による弾圧、日本ではソ連(ロシア)への利敵者とみなされる偏見という二重の苦境に立ち、その影響力とともにロシア語教育への余力も減退した。一方、日本が勢力を伸ばした満州では実務面でもロシア語教育の必要性が高く、1920年にハルピン市に設置された日露協会学校は後にハルピン学院となり、1940年からは満州国立大学となったが、1945年8月のソ連対日参戦とそれに続く第二次世界大戦での日本の敗北で消滅した。赤軍(ソビエト連邦軍)に降伏した日本軍の将兵はシベリア抑留の対象となってソ連国内の収容所に連行されて、赤軍が進駐した満州や朝鮮半島北部、ソ連が日本からの領土編入を宣言したサハリン南部(南樺太)や千島列島南部ではソ連軍人や一般国民と混住状態になった日本人が日常的にロシア語を使う状況となったが、民間人は一部の残留者を除いて1948年までに日本へ帰国し、シベリア抑留者の送還も1956年に終了して、この状態は短期間で終わった。",
"title": "各国におけるロシア語の状況"
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"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "1946年に早稲田大学の露文学科は再開され、1949年にはソ連との友好促進を目指す民間団体として(旧)日ソ親善協会が設立されてロシア語教室が開催されるなど、戦後のロシア語教育は東西冷戦の影響も受けながら徐々に拡大された。1956年10月に日ソ共同宣言で両国間の国交回復が決まると同年11月からNHKラジオでロシア語講座が開講され、1957年には同年に日ソ親善協会から改称した日ソ協会系の日ソ学院によってロシア語能力検定試験が開始された。同年はスプートニク1号による史上初の宇宙飛行も行われ(スプートニク・ショック)、ソ連の高い自然科学力を背景にした理工系教員からの要望を受けて1962年には東京大学の教養学部に在籍する1年生と2年生の一部を対象にロシア語が第二外国語に加えられ、ソ連政府からの独立性を維持した正教会系のニコライ学院を含め、高等・専門教育ではロシア語教育の機会が増えていった。",
"title": "各国におけるロシア語の状況"
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"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "1960年代までは上記のようにロシア語の研究論文を読む必要がある自然科学系の研究者、共産主義を支持する人々を中心にロシア文化への関心は比較的高かった。しかしながら、レオニード・ブレジネフ体制下でのソ連文化の硬直化や科学技術の停滞、中ソ対立などにも影響された日本共産党や日本社会党などの日本の左派(革新)政党とソ連共産党の関係の混乱などを背景にソ連(ロシア)への関心は低下した。1985年にソ連で始まったペレストロイカによって経済交流や文化的関心は高まり、ロシア語学習者も一時的に増加したが、1991年のソ連崩壊前後の経済混乱はその熱を冷まし、1996年には19世紀からの伝統を持つニコライ学院が閉校に追い込まれた。",
"title": "各国におけるロシア語の状況"
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"paragraph_id": 22,
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"text": "その後は日ソ学院が改称してロシア語能力検定試験の主催を続ける東京ロシア語学院や、こちらも改称しながら同学院との友好関係を維持する日本ユーラシア協会の独自講座、ロシア連邦教育科学省の認定試験として日本対外文化協会が窓口となって行われているロシア語検定試験(ТРКИ)、各大学で続けられるロシア語・ロシア文学関係の講座、それにNHKの語学番組改革の中で2017年からEテレで始まった「ロシアゴスキー」やラジオ第2放送の「まいにちロシア語」の放送などで日本におけるロシア語教育が継続されている。しかしながら、放送大学におけるロシア語講座開設が2007年度限りで終了するなど、その退潮傾向は続いている。ただ、伝統的にロシアが強国であるフィギュアスケートでは浅田真央や羽生結弦などの日本選手もロシア人指導者のコーチを受けてきた事もあり、ここからロシア語への関心を持つ例も見られる。あるいは後述するアニメ・漫画などのサブカルチャー分野の人気作品内でロシア語が使用される例もあり、2020年4月に京都外国語大学がロシア語学科を新設するなど、一定の状況変化も見られる。",
"title": "各国におけるロシア語の状況"
},
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"paragraph_id": 23,
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"text": "ロシアとの交流は北海道や日本海側の一部の地域を除くと盛んではなく、貿易額で示される経済的なつながりもロシアと同様の近隣諸国である中国や韓国、あるいは多くの面で緊密な関係を維持しているアメリカ合衆国より薄い。そのため、日本(特に西日本)においてロシア語の重要性は低い。英語や中国語、朝鮮語に比べて語学教材も恵まれておらず、改訂も進まない結果、内容がソ連時代のままである教材も少なくない。",
"title": "各国におけるロシア語の状況"
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{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "しかし、上記のように第二次世界大戦後も日本とソ連は軍事的対立が続き、冷戦終結とソ連崩壊後も日ロ間では領土問題などでの対立が残ったほか、漁船操業や国際協力などでの実務的必要もある。したがって海上保安庁では第二外国語として中国語・朝鮮語と並びロシア語が学ばれており、自衛隊でも第二外国語として学ばれているほか、北海道の一部の高校では地理的に近いということもありロシア語の授業が行われている。さらに稚内や根室、紋別や新千歳空港ではロシア語表記の看板が見られるなど、隣国としてのロシアの姿が実感できる。同様に、新潟東港を通じての対ロ貿易の日本海側拠点である新潟市でも日本語の他英語とロシア語を併記した看板を見ることができる。新潟市ではこれ以外にもロシア語スピーチコンテストを行うなどしている。同じく対露貿易の多い富山県伏木富山港周辺でもロシア語表記の看板が見られ、新潟県や富山県でもロシア語の授業を開講する高校がある。また、2010年代に入り「ガールズ&パンツァー」「ゴールデンカムイ」などロシア語の台詞が多い漫画・アニメーションの人気作品が制作され、ここからロシア語に興味を持った人が若者が生まれたという指摘もある。上記のNHKテレビロシア語講座「ロシアゴスキー」では2013年から放送が始まった放送シリーズで「ガールズ&パンツァー」に出演したロシア出身の声優であるJenyaを起用している。",
"title": "各国におけるロシア語の状況"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "江戸時代まで遡る日ロ両国間の政治交渉、ロシア文学や共産主義思想の受容、宇宙工学を中心とした多くの自然科学分野における重要性の存在などの様々な理由から、今でも日本の多くの大学の第二外国語でロシア語を学ぶことができるものの、日本人(特に西日本在住者)でロシア語を学ぶ人々は少ない。その中で、近畿地方(関西圏)における日本海側の最重要港湾都市としてソ連時代から貿易拠点となっていた舞鶴市では北陸地方の各都市と類似したロシア語への接触環境があり、その舞鶴市がある京都府では2020年4月に京都外国語大学がロシア語学科を新設している。",
"title": "各国におけるロシア語の状況"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "また、2022年3月31日 、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻を受け、外務省はウクライナ国内の地名をロシア語からウクライナ語に合わせた日本語表記に変更すると発表した。",
"title": "各国におけるロシア語の状況"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "このほかに、JR東日本の恵比寿駅でもロシア語の看板を撤去するというような事案が発生している。",
"title": "各国におけるロシア語の状況"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "ロシア語の学科がある主な大学は以下の通りである。このうち1994年に設立されたロシア極東連邦総合大学函館校は他校とは違って日本の教育制度の中では専修学校として扱われ、外国大学の日本校として指定されている。一方、ロシアではウラジオストクにある極東連邦大学の正式な分校として扱われ、本校への留学も含んだロシア語教育が重点的に行われている。",
"title": "各国におけるロシア語の状況"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "ウクライナ東部や南部ではロシア語が広く使われている。また、ウクライナ語とロシア語の社会方言が混じった口語の混合言語であるスルジク(суржик)も使われている。ウクライナではソ連崩壊後、言語問題がしばしば発生している。2014年にはロシア語話者の多いクリミア共和国とセヴァストポリ特別市が独立を宣言し、それらのロシアへの編入の宣言に至った(クリミア危機)。それと同時に東部のドンバスでも紛争が発生し、一部地域がドネツク人民共和国、ルガンスク人民共和国として事実上独立した。2022年にロシアによるウクライナ侵攻に発展し、同年9月30日にロシアはドネツク・ルガンスクの両共和国及びザポロージェ州とヘルソン州の併合を宣言した。 東部や南部とは対称にロシア語話者が少ない西部のリヴィウ州では、議会が2018年9月18日、ロシア語による歌曲を公共の場で流したり、書籍を出版したりすることを禁じる条例を可決した 。",
"title": "各国におけるロシア語の状況"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "ソ連崩壊後、1994年にルカシェンコが大統領に選出された翌年の1995年にロシア語にベラルーシ語と同じ地位が与える国民投票が行われ、可決された。現在、これまでにない規模でロシア語化が推し進められている。また、2019年の国勢調査では、総人口9530.8万人中ベラルーシ語の母語話者は53.2%、対してロシア語の母語話者は41.5%となっている。総人口の4分の3に当たる都市住民の間ではベラルーシ語の母語話者は44.1%、家庭内での使用割合は11.3%に過ぎず、ロシア語化が大きく進行している事が示されている。",
"title": "各国におけるロシア語の状況"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "ロシアとの歴史的な関係からエストニア国内にはエストニア語を解さないロシア語話者が一定数存在する。エストニア政府は度重なる「言語法」の改訂によって彼らの排除、あるいは社会統合を企図し、その甲斐あって若年層のロシア人(英語版)はエストニア語能力に向上を見せた。しかし、エストニア語能力を有さない住民は北東部イダ=ヴィル県を中心に未だ多く存在し、その社会統合は課題として残されている。",
"title": "各国におけるロシア語の状況"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "ロシアとの国境に近い北東部イダ=ヴィル県ナルヴァではロシア語話者の割合が95パーセント以上を占め、その他イダ=ヴィル県にはロシア語話者が過半数を占める都市が散見される。 エストニアの言語法第11条には、「全定住者のうち過半数の使用する言語がエストニア語でない地方自治体においては、自治体内の実務言語として〔中略〕エストニア語に加えて全定住者のうち過半数を形成する少数民族の言語を使用することができる」との条文があり、ロシア人が95パーセント以上を占めるナルヴァ市議会は、これに基づいて議会でのロシア語使用許可を申請している。政府は、同市におけるエストニア語の使用が未だ保障されていない、として申請を却下したが、ロシア人の側は、非合法状態にはありながら公的領域においてもロシア語の使用を続けている。 また、過去には首都のタリンでもロシア系住民とエストニア政府との間で大規模な暴動が起きた。",
"title": "各国におけるロシア語の状況"
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{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "カザフスタンではソ連から独立した後も他の中央アジア諸国に比べてロシア語が使用されることが多く、カザフ語は国家語、ロシア語は実質的な共通語としての地位を確立し、都市部ではカザフ語よりもロシア語を得意とするカザフ人は少なくない。こうした状況下で、カザフスタン政府はカザフ語の振興を掲げていて、カザフ語の急速な台頭とロシア語の重要性の低下に対して抵抗を感じる人間がいる一方で、マスメディアにおけるロシア語の支配的な地位を疑問視する意見も投げかけられている。 だが、近年ではロシア語離れの動きがあると報じられている。具体的には、カザフ語の表記がキリル文字からラテン文字へ移行する草案が提出された。しかし、この移行は国民の間では一般に普及していない。 また、カザフ語自体もロシア語からの借用語が多い。",
"title": "各国におけるロシア語の状況"
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{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "ウズベキスタンでは独立以降しばらくはウズベク語とロシア語が公的な文書において使用されていたが、1995年12月に憲法が改正され、ウズベキスタン憲法第四条及び「国家言語法」によりウズベク語が公用語の地位を獲得することになった。 ウズベク・ソビエト社会主義共和国時代はウズベク語とロシア語が公用語の地位を獲得していた。現在、ウズベキスタンではウズベク語とロシア語の他に、主にウズベク人以外の少数民族によってタジク語やキルギス語、トルクメン語、カザフ語、カラカルパク語、タタール語、ノガイ語などのテュルク諸語の他、アゼルバイジャン語、ウイグル語などの言語が話されている。地方ではウズベク語を母語とする者の割合が高いが、首都タシュケントでは人口の約半数がロシア語話者であり、ロシア語が日常的に使用されている。また、大学ではウズベク語とロシア語による講義が行われており、研究活動を行う者はほぼロシア語環境で研究を行なっている。一方で、英語が通じることは少なく、2005年時点の調査では、英語を話すことができると答えた人々の割合は9%にすぎず、ロシア語を話すことができると答えた人々の割合は中央アジア全体で80%を超えている。 現在、ロシア語は全人口の14.2%に当たる人々が第一言語として使用しており、その他の人々もその多くがロシア語を第二言語として使用しているなど異民族間の共通語・準公用語的な地位にある。",
"title": "各国におけるロシア語の状況"
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{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "タジキスタンではロシア語は帝政ロシア~ソビエト連邦時代の共通語であったため、現在でも第二言語として教育・ビジネス等で多く使用されている。ただし、2009年10月から国語法が成立し、公文書や看板、新聞はタジク語を用いることを義務づけられた。 また、ソビエト連邦の崩壊後に起きたタジキスタン内戦によるロシア人の大量国外流出によりロシア語の通用度が急激に低くなったが、現在では出稼ぎ先の大半はロシアであることと、高等教育にはロシア語習得が不可欠であることから、ロシア語教育も重要視されつつあり、国民の間ではロシア語学習熱が強い。",
"title": "各国におけるロシア語の状況"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "キルギスではロシア語が公用語、キルギス語が国家語とされている (憲法第10条第1項、第2項)。 2017年の国勢調査によると、母語話者の割合はキルギス語が55.2%、ウズベク語が4.7%、ロシア語が34.0%となっている。 独立以降公用語から除外されたウズベキスタンなどとは違い、引き続き公用語に制定されている。これは、国の中枢を占めていたロシア人などのロシア語系住民の国外流出(頭脳流出)を防ぐためであり、現在でも山岳部を除く全土で通用し、教育、ビジネスや政府機関で幅広く使用される。また医療用語などはロシア語にしか翻訳されていない単語があるため、ロシア語が理解できないと生活に苦労する場合もある。 首都ビシュケクとその周辺では多くの住民はロシア語を使って生活しており、キルギス語が上手に話せないキルギス人も少なくない。このため、現地生まれのロシア人はキルギス語を話せない人がほとんどを占めている。",
"title": "各国におけるロシア語の状況"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "エストニアの他に同じくヨーロッパ連合加盟国となったラトビア、リトアニアなどの旧ソ連諸国でも、公用語にこそなっていないもののロシア系住民を中心に広く使われているがEUの公用語には加わっていない。2018年には、ロシアに対する反感や地位低下を背景に、先述したウクライナ、カザフスタンのほかにラトビア、モルドバでロシア語離れの動きがあるとも報じられている。その中ではカザフ語やアゼルバイジャン語の表記がキリル文字からラテン文字へ変更されたことが挙げられている。ただし、ソ連時代からロシア人の居住比率が10%程度だったリトアニアを除くと上記の各国でロシア系住民の比率は相対的に高く、特に中央アジアにおいては相対的に賃金水準の高いロシアの都市部へ出稼ぎ労働者が流出を続ける状況もあって、ロシア語が対ロシア、および地域諸国内の商業・行政面における共通言語(リングワ・フランカ)として現在でも使用され続けている。",
"title": "各国におけるロシア語の状況"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "1999年のデータではイスラエルへの旧ソ連からの移民は75万人にのぼり、ロシア語のテレビ・ラジオ放送局もある。イスラエルの公用語はヘブライ語だけだが公用語ではない英語にならび移民の影響でロシア語も広く使われている。",
"title": "各国におけるロシア語の状況"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "アメリカ合衆国におけるロシア語話者には2つの類型がある。1つは政治的な理由でロシア帝国やソビエト連邦から移住した人々やその子孫である「ロシア系アメリカ人」、そしてロシア統治時代のアラスカ住民の子孫である。",
"title": "各国におけるロシア語の状況"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "ロシア帝国ではロマノフ朝と非常に強い関係を持ったロシア正教会の主流派が絶大な権力を持ち、正教の反主流派である古儀式派やモロカン派、そして少数民族となったユダヤ人が信仰を守るユダヤ教などを抑える体制ができていた。特にユダヤ人に対しては「ポグロム」と呼ばれる大量虐殺が一般民衆の手で頻発したため、1880年代以降にユダヤ人がアメリカ合衆国へ集団移住する例が始まった。彼らはニューヨークやサンフランシスコなどの都市部に集住した。",
"title": "各国におけるロシア語の状況"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "続いて、1917年のロシア革命により社会主義体制のボリシェヴィキ政権が誕生し、ロシア内戦を経て1922年にソビエト連邦が成立したことで、貴族、地主、教会関係者などの旧支配層、さらに政治的混乱と迫害をおそれた一般民衆が多くロシアを脱出し、その一部が新大陸である、既にロシア系コミュニティが成立していたアメリカ合衆国を目指した。これらの亡命者は「白系ロシア人」とも呼ばれ、多くの文化人も含まれていたことから、アメリカでのロシア語及びロシア文化の伝達を促進した。ソ連成立後も合法的な出国を認められる文化人は少数ながら存在し、彼らもに1933年にソ連との国交を樹立したアメリカ合衆国へ移住する例が生まれた。",
"title": "各国におけるロシア語の状況"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦後は東西冷戦が激化し、両陣営の中心となったソ連からアメリカへの移住は厳しく制限され、ごく少数の亡命者を除けば人口移動は起きなかったが、1970年代に入るとソ連政府は自国民のユダヤ人がイスラエルへ移住することを一定数の範囲で認めるようになり、その一部がアメリカへ再移住した。そして1980年代のペレストロイカ政策によるソ連の自由化、そして1991年のソビエト連邦崩壊によるロシア連邦の成立により、ロシア人の国外出国は容易となり、アメリカへの移住者が再び増加した。移住理由には、国内での民族対立を背景とした政治的亡命、より豊かな生活を求める経済移民、ソビエト体制での高い教育水準で育成された技術者のアメリカ企業による雇用などがあり、ロシアン・マフィアによる非合法移住、英語では「メールオーダーブライド(英語版)」とも呼ばれる、業者を介した簡易な国際結婚によるロシア人女性の渡米なども含まれる。",
"title": "各国におけるロシア語の状況"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "彼らもアメリカにおけるロシア語人口の増加に寄与し、21世紀に入ってその数は減少したとされるものの、2000年の国勢調査では70万人がロシア語話者と答え、ロシア系アメリカ人自体はアメリカ全体の人口の約1%である約300万人とされる。",
"title": "各国におけるロシア語の状況"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "一方、ロシア帝国は16世紀から進めたシベリア征服の結果、ベーリング海峡を越えて北米大陸の北西端にあるアラスカに到達していた。1784年にはアラスカ南部のコディアック島に根拠地を置き、1799年にアラスカ領有を宣言、1821年には正式に「ロシア領アメリカ」が成立していたが、ロシア帝国にとってアラスカはあまりに遠く、有効な植民地統治は困難だった。これは逆に、帝国内での迫害から逃れたい古儀式派にとっては好都合だった。1867年にアメリカ合衆国がロシアからアラスカを購入すると、ロシア帝国の役人や毛皮商などは本国へ帰還したが、古儀式派は帰国を拒否し、自らの信仰が保証されるアメリカ国民になることを選択した。その際に「ロシア語ネイティブのアメリカ人」が生まれ、さらにソビエト政権の成立後にアラスカとシベリアとの交流が断絶したため、アラスカのごく一部ではロシア帝国時代からの古儀式派信仰とロシア語が保存された。特にアラスカ本土、コディアック島から約250km離れたニニルチク(英語版)(露: Нинилчик)では下記の「方言」で記す通りに発音や性の構造などで現在の標準ロシア語との差異があるとされ、同地では20世紀末からモスクワ大学などの研究者が言語収集を行っている。",
"title": "各国におけるロシア語の状況"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "ロシア語では以下の33個のキリル文字が用いられている。音価は固有語におけるもののみに限って紹介するが、外来語の中では延長線上の軟音化・硬音化が行われる場合もある。またロシア語における母音弱化は非常に複雑な変化をもたらすため、この表では概ねそれに触れない。",
"title": "文字"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "主語がない無人称文(ru:Безличные предложения)がある。無人称文では意味上の主語は与格で表される。",
"title": "文法"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "不定人称文(ru:Неопределённо-личные предложения)では動詞は三人称複数となる。",
"title": "文法"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "普遍人称文(ru:Обобщённо-личные предложения)では動詞は二人称単数となる。",
"title": "文法"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "名詞は、男性、中性、女性の3つの性に分かれている。ロシア語の名詞は、例外はあるものの総じて、単数主格形について男性名詞は子音字または軟音記号 -ьで、女性名詞は母音字 -а, -я または軟音記号 -ь で、中性名詞は母音字 -о, -е または -мяで終わる。そのため、名詞の性の判別が比較的容易である。これに加えて名詞は言葉の意味によって、人や動物を表す活動体とそれ以外のものを表す不活動体に分けられる。",
"title": "文法"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "数は、単数と複数の区別を有する。複数では性の対立は薄れ、主格・生格・対格を除くとどの性の名詞も同一の格語尾を有する。複数主格の男性及び女性名詞は -ы または -иで終わり、中性名詞は -а または -я で終わる。歴史的には単数・複数の他に双数(目、手、足など、二つ一組のものに用いられる数)が存在したが、現在は数詞 два「2」との結合(男性名詞のかつての双数主格の語尾 -а が後に単数生格の語尾 -а と解釈され、それが一般化された結果どの性の名詞に対しても数詞 два は後ろに単数生格を要求するようになった)あるいは берег「岸」の複数主格 берега(本来想定される複数主格は *береги)などに痕跡的に見られるのみである。",
"title": "文法"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "名詞の格は主格、生格、与格、対格、造格、前置格の6種類である。一部には呼格(例:Боже! 神よ!)、処格、物主格(притяжательный падеж)、分離格(разделительный падеж)が残る。格変化は語尾によって表され、性・数・体に合わせて変化を見せる。例外的に語尾が変化しない名詞もあるが、ほとんどは語順で格を示す必要がないため、語順は比較的自由に変えられる。",
"title": "文法"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "他にも大きな特徴として出没母音がある。これは語形変化に合わせて出現あるいは消滅する母音であり、主にо, еが用いられる。例えば、пирожок(ピロシキ)を複数形にすると、最後のоが消滅してпирожкиになる。",
"title": "文法"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "名詞の格変化の基本パターンは以下の通りであるが、特に活動体と不活動体の男性名詞の対格の区別は注意すべきである。また、重音の移動、出没母音や正書法の制約などによる不規則変化も多いほか、外来語などに不変化の名詞もある。",
"title": "文法"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "数詞とそれに関連する名詞は特殊な変化をみせる。1 は単数主格だが、2-4 は単数生格、5以上が複数生格をとる。2-4 の単数生格は古い双数形の名残りである。",
"title": "文法"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "敬称としての вы は、文中でも Вы のように大文字で書き始めることがある。なお、ロシア語ではほとんどの動詞が語尾から人称と数がわかるので、特に必要がなければ主格人称代名詞は省略できる(例:Читаю книгу. 「(私は)本を読む」)。",
"title": "文法"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "動詞は1回限りの動作や、その開始と終了がはっきりと意識できるひとまとまりの動作など(日本語で言えば「食べてしまう」「読み切る」のような)を表す完了体(совершенный вид)と、進行・継続・反復する動作または動作そのものなど(「食べている」「読む」のような)を表す不完了体(несовершенный вид)(未完了体とも)の2つの体(相 (言語学)参照)に分類され、多くの動詞で対になっている。一部には対になる体をもたないものや、完了体でもあり不完了体でもあるものなど、変則的な動詞も存在しているが、いずれにも属さない動詞は存在しない。",
"title": "文法"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "時制は、単純に過去・現在・未来の3つだけである。基本的に全ての動詞は過去形と現在形しかもたない(唯一の例外は英語のbe動詞に当たる быть であって、過去形・現在形・未来形の3形態をもつ)。現在形は主語の人称・数により、過去形は性・数によって変化する。未来形は完了体と不完了体で表現の方法が異なり、完了体の場合は、その現在形がそのまま意味上の未来を表すのに対し、不完了体では助動詞 быть の未来形との結合で表される。",
"title": "文法"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "動詞の過去形の語形変化の基本パターンは1つしかないが、不規則なものがある。",
"title": "文法"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "動詞の現在形の語形変化の基本パターンは2種類があるが、不規則なものも多い。",
"title": "文法"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "コピュラ動詞(...である)быть の現在形は基本的には明示されない(例:Я чайка. 「私はかもめ」)。かつては、主語の人称と数に一致した быть が用いられていたが、そのような機能は現在の быть からはほぼ完全に失われており、現在形が用いられる局面は、所有を表す場合に限定されると言っても過言ではない。その際には、所有される側が文法的な主語に当たるので、быть の三人称単数形 есть(例:У меня есть сын.「私には息子がいる(私の許には息子がいる)」)を用いることになる。所有される側が複数の場合、以前は быть の三人称複数形に当たる суть を使用していたが、現在では数に関係なく есть を使う傾向にあるようである。",
"title": "文法"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "さらに、есть は存在だけを問題としているので、存在することが前提となっている場合は不要になる(例:У меня маленький сын. 「私には小さな息子がいる」→息子の有無についてではなく、それがどのような息子なのかが問題となっている)。",
"title": "文法"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "なお、否定の表現(...がない、...がいない)は нет を使い、存在を否定する名詞を生格に変える(例:У меня нет сына. 「私に息子はいない」)。この нет は、не есть の音便形であり、\"Да(はい)\"、\"Нет(いいえ)\" の \"Нет\" とは、別物である。",
"title": "文法"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "動詞が変化したものとして形動詞(西欧語の分詞のように形容詞の働きをする)や副動詞(副詞の働き)がある。ся動詞と呼ばれる一群の動詞(語尾に再帰代名詞 ся がつく)はフランス語などの再帰動詞と同様に用いられ、また相互の動作や受動表現にも用いられる。",
"title": "文法"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "形容詞は名詞と同様に性・数・格によって変化し、限定的用法(名詞につく場合)はそれらが一致する。叙述的用法では語尾が短い「短語尾形」も用いられる。",
"title": "文法"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "形容詞の格変化の基本形は以下の通りである。なお、ロシア人の形容詞型の姓(チャイコフスキー、トルストイなど)も同じ格変化になる。",
"title": "文法"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "上記の通り、アラスカがロシアの領土であった時代にニニルチク(英語版)(露: Нинилчик)村に定住して現地の民族と融合したロシア人は、1867年のアラスカ購入以降ロシアとの接触が減少し、さらには1917年の十月革命によるロシアの共産化によって接触機会が完全になくなったため、標準語のロシア語から完全に隔離された状態で約100年にわたって独自の発達を遂げてきた。シベリアの方言、英語、エスキモー諸語、アサバスカ諸語の単語が混ざり、中性名詞が消えていて、女性名詞もかなり少なくなっている。2013年現在、ニニルチク村では英語が使われていて、ロシア語を覚えている住人はわずか20人であり、全員が75歳以上となっている。",
"title": "方言"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "以下に日本語かなのキリル文字表記を示す。",
"title": "文例"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "母音の後に続く「い」は и ではなく й を用いる。例えば愛知は Аити ではなく Айти である。",
"title": "文例"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "ロシア語から日本語に入った単語は、18世紀以降の両国間の接触によってロシアの文物が日本に紹介されたものと、1917年のロシア革命とその後のソビエト体制の成立によって社会主義(共産主義)思想と共に日本に導入されたものの2種類が多い。前者は日常生活の中で使用されている例があるが(イクラなど)、後者はむしろソ連・ロシア社会の特定の組織や現象を指す固有名詞としてとらえられるものが多い(コルホーズ、ペレストロイカなど)。ただし、後者にもロシアから離れ、日本社会の事象を説明するときに使われる用語もある(コンビナート、ノルマなど)。文字 в [v] は、古くから入った外来語の場合「ワ・ウィ・ウ・ウェ・ウォ」と転写し、比較的新しいものは「ヴァ・ヴィ・ヴ・ヴェ・ヴォ」と転写する。ただし、女性の姓末尾の -ва は現在でも「ワ」と転写する慣用が残っている(例:マリア・シャラポワ)。",
"title": "ロシア語由来の日本語外来語"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "日本語からロシア語への単語移入は、日本文化の文物がロシアで紹介された時に単語が使われる場合が多く、技術用語や学術用語では例が少ない。",
"title": "日本語由来のロシア語単語"
}
] | ロシア語は、インド・ヨーロッパ語族のスラヴ語派東スラヴ語群に属する言語。露語(ろご)とも略され、ロシア連邦の公用語。ロシア連邦の国語表記には、キリル文字を使用することが必要である。 | {{Infobox Language
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[[File:Flag of Gagauzia.svg|border|25px]] [[ガガウズ自治区]]<br />
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|agency={{flagicon|RUS}} [[ロシア科学アカデミー]][http://www.ras.ru/ ]
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}}
'''ロシア語'''(ロシアご、{{lang|ru|русский язык}}、{{IPA-ru|ˈruskʲɪj jɪˈzɨk||Ru-russkiy_jizyk.ogg}})は、[[インド・ヨーロッパ語族]]の[[スラヴ語派]][[東スラヴ語群]]に属する[[言語]]。'''露語'''(ろご)とも略され、[[ロシア|ロシア連邦]]の[[公用語]]。ロシア連邦の国語表記には、[[キリル文字]]を使用することが必要である。
== 特徴 ==
話し言葉と文語として、ロシア語は(ウクライナ語とベラルーシ語とともに)[[古東スラヴ語|古いロシア語]]から発展した。ロシア語の書き方は、古代スラヴ語の[[キリル文字]]に基づいている。近縁の言語に[[ウクライナ語]]と[[ベラルーシ語]]がある。
ロシア語は[[ヨーロッパ]]で最も[[母語]]話者が多い言語であり、母語話者数では世界で8番目に多く、[[第二言語]]の話者数も含めると世界で4番目に多い。[[国際連合]]においては、[[英語]]、[[フランス語]]、[[中国語]]、[[スペイン語]]、[[アラビア語]]と並ぶ、6つの公用語の1つである。
== 歴史 ==
{{main|{{仮リンク|ロシア語の歴史|ru|История русского литературного языка}}}}
{{節スタブ}}
=== スラヴ祖語 ===
{{main|スラヴ祖語}}
=== 聖キュリロス(キリル)と聖メトディオス ===
{{main|en:Saints Cyril and Methodius|キュリロス (スラヴの(亜)使徒) |メトディオス (スラヴの(亜)使徒) }}
=== 古ロシア語 ===
{{main|[[古東スラヴ語|古ロシア語]]}}
ロシア語の起源については諸説あるが、[[東スラヴ人]]が使っていた[[古東スラヴ語]]([[10世紀]] - [[15世紀]])から発展したという説が最もよく知られている。13世紀に[[キエフ大公国]]が崩壊した後、[[ルーシ]]の地は[[モンゴル帝国]]に支配([[タタールのくびき]])されており、現代ロシア語にも[[財政]]や[[金融]]に関わる単語を中心に、[[タタール語]]などの[[テュルク諸語]]や[[モンゴル語]]の影響が残っている。その後、北東ルーシの辺境(現在の[[ヨーロッパ・ロシア]])で[[モスクワ大公国]]が成立し、この国の[[公用語]]がロシア語として独自に発展していった。
[[ロシア帝国]]の時代には、[[1708年]]に[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]]によってアルファベットが単純化されたのを皮切りに、ロシア語の改革が盛んとなった。18世紀後半には[[ミハイル・ロモノーソフ]]が初めてロシア語の文法書を著し、[[標準語]]の形成に大きく寄与した。19世紀初頭には[[アレクサンドル・プーシキン]]によって近代的な[[文語]]が確立した。また、宮廷は[[西ヨーロッパ|西欧]]諸国を模範として近代化を進めたことから、大量の専門語彙が[[オランダ語]]、[[フランス語]]、[[ドイツ語]]などから取り入れられた。その一方で、当時の上流階級はフランス語を日常的に使用しており<ref>岩間他(1979), pp. 260-261.<br>{{Cite web|和書|title=第5回 ロシア人と外国語――欧米文化に復帰するロシア人|url=http://www.tmu.co.jp/feature/hakamada05.html|author=[[袴田茂樹]]|publisher=[http://www.tmu.co.jp/ TMU CONSULTING]|page=|accessdate=2012-11-27}}</ref>、19世紀の小説([[レフ・トルストイ]]の『[[戦争と平和]]』など)はフランス語を交えて書かれた作品が多い。
=== ソ連時代 ===
[[ソビエト連邦]]ではロシア語が事実上の公用語であり、[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]]を除く[[ソビエト連邦構成共和国]]において[[共通語]]として機能していたが、公式には[[公用語]]は存在しなかった。テュルク系のチュヴァシ人を祖先に持つ[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]が[[オーストリア・マルクス主義|オーストロ・マルキシズム]]や[[カール・カウツキー|カウツキー]]の影響のもと、[[1914年]]の論文『強制的な国家語は必要か?』において[[国語|国家語]]の制定を批判した。また、自身も少数民族[[グルジア人]]の出自を持つ[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]も[[民族]]問題の専門家として民族語奨励政策を採用した結果、ソ連はその崩壊にいたるまで、ロシア語を正式な公用語の地位につけることはついになかった(ちなみに、[[オットー・バウアー]]から借用した「形式は民族的、内容は[[社会主義]]的な文化の建設」というスターリンのテーゼはまず言語問題にまつわる[[1925年]]の演説『母語による教育』において現れた)。それゆえ、ロシア語が公的に国家語化したのはロシア連邦成立後である<ref>田中克彦『「スターリン言語学」精読』、岩波書店、2000年、171頁</ref>。
[[1918年]]には、{{仮リンク|アレクセイ・シャフマトフ|ru|Шахматов, Алексей Александрович|label=}}が準備していたアルファベット改革案が[[ボリシェヴィキ]]によって実行に移され、現在のロシア語の正書法が成立した。ただし、[[Ё]]はこの時点でまだ正式なアルファベットとして認められておらず、正式に組み入れられたのは[[1942年]]のことである。なお、[[1964年]]にも[[ロシア科学アカデミー|ソ連科学アカデミー]]によって正書法の改革案が作られたが、こちらは実施されなかった。
=== ソ連崩壊後 ===
[[1991年]]末の[[ソビエト連邦の崩壊]]で、ソ連を構成していた[[ソビエト連邦構成共和国|各共和国]]はそれぞれ独立し、それまでロシア語との併用という形を採っていたそれぞれの民族語が第一の公用語へと昇格したが、その後の言語状況に関しては様々である。
[[バルト三国]]と呼ばれる[[エストニア]]・[[ラトビア]]・[[リトアニア]]では、ソ連からの独立以降急速に各民族語([[エストニア語]]・[[ラトビア語]]・[[リトアニア語]])が使用される機会が増えている。もちろんソ連崩壊後30年程しか経過しておらず、またロシア系住民が多い地域などではロシア語が今でも使われるが、ソ連時代と比べるとロシア語はそれほど使われなくなっていると言える。特にこの3カ国が[[2004年]]に[[欧州連合|EU]]に加盟してからは、[[英語]]や[[ドイツ語]]がより広く学ばれるようになっている。ただし、ソ連時代後期にロシア語人口がラトビア語人口を逆転するのではないかと言われたラトビアでは、独立回復後に制定した[[国籍]]法で国籍取得要件にラトビア語の習得を義務付けたという経緯がある。これによって多くのロシア系住民をロシアへ移住させる事に成功したが、国籍を与えられない[[残留ロシア人]]の権利が阻害されているとするロシア政府からの抗議を受け、さらに[[欧州委員会]]からもこの言語規定が市民の平等を定める[[欧州憲法]]に違反しているという指摘を受けた。2018年4月には、教育法が改正され、ロシア系住民が通う学校であっても、小学校は50%以上、中学校は80%、高校は100%の科目をラトビア語で教育することが義務付けられた<ref name="sankei1809">[https://www.sankei.com/article/20180929-LBRGKEZGJJIDHJXEE5X2QMAHPY/ 旧ソ連圏で相次ぐ“ロシア語離れ” 反露感情、ロシアの地位低下を反映か]産経新聞 2018年9月30日</ref>。
[[モルドバ]]においては、ロシア語が国内共通語と法定されてきたが、2018年6月に失効が確認された<ref name="sankei1809"/>。
また、ロシア影響圏からの離脱を模索する[[ウクライナ]]や[[ジョージア (国)|ジョージア]]でも、ロシア語ではなく[[ウクライナ語]]や[[グルジア語]]がより広範に使われている。ウクライナでは、西部を中心に従来よりほとんどウクライナ語のみが使用されている地域がある一方で、ウクライナ語とロシア語両方が使われている地域もあり、また東部や[[クリミア半島]]ではロシア語の使用者が大勢である地域もあり、地域によっては将来的にもロシア語は当分使われ続けると推定されている。一方で、都市部を中心に伝統的にウクライナ語とロシア語の混交が起こっていたが、ソ連の崩壊以降、それまでロシア語が優勢であった地域を中心にウクライナ語にロシア語の要素が混じった「[[スルジク|スールジク]](混血)」と呼ばれる混交言語が広まりを見せている。現在でも、ウクライナ西部を除く広範囲でロシア語は使用、理解されており、ロシア語をウクライナ語に次ぐ第二公用語に加える動きもあるなど、今までのロシア語排除の動きから転換点を迎えようとしている。
ジョージアもまた長年ロシア語による支配を受けてきた国であった。ジョージア政府はロシア語教育を廃止し、ロシア語読みに基づいた国名である日本語の「グルジア」を英語読みの「ジョージア」に変更することを要請しており(グルジア語名では「サカルトヴェロ」)、日本政府も承諾している。また、ロシアに多くのジョージア人が住んでいることなどからロシア語は今でもよく使われている。
それ以外の地域に関しては、今でもロシア語が幅広く使われ続けている。[[ベラルーシ]]や[[カザフスタン]]・[[キルギス]]・[[ウズベキスタン]]・[[トルクメニスタン]]などでは非ロシア人でもロシア語しか喋れない人も多く、また多民族が入り混じって生活する[[中央アジア]]諸国では、ロシア語が民族を超えた共通語として使われている。[[カフカース]]地域、及び[[モルドバ]]でも、現地人同士の日常会話には現地語が用いられることが増えてきたものの、ロシア語で会話する人々は少なくない。なお、ロシアとの統合に積極的な[[アレクサンドル・ルカシェンコ]]大統領の独裁体制が続くベラルーシでは、[[ベラルーシ語]]とロシア語が公用語に指定されているが、隣国ウクライナとは逆にロシア語使用が奨励され、本来の民族語であるベラルーシ語が軽視される傾向にある。
[[ポーランド]]や[[ブルガリア]]など旧共産圏諸国では、[[共産主義]]体制ではロシア語が広く学習されていたが、民主化後は英語やドイツ語(歴史的には[[チェコ]]や[[ハンガリー]]など、[[オーストリア帝国]]の支配下にあった国も少なくない)など西欧の言語に押されて、ロシア語学習は下火になった。またバルト三国や東側諸国はハンガリー動乱やプラハの春などでソ連軍による民主化弾圧などがあったために、かつて第一外国語だったロシア語を使う事も拒んでいる者もいる。
一方、[[ウラジーミル・プーチン]]政権で経済の立て直しに成功したロシアが[[BRICs]]と呼ばれる経済成長地域の一つに加わり、天然資源を核にした諸外国との経済関係が再び拡大すると共に、ロシア語の需要は再び高まりつつある。バルト三国などでもロシア語に対するマイナスイメージもソ連時代を経験していない若い世代を中心に徐々に薄れてきており、ロシア語は[[英語]]や[[ドイツ語]]などと共に、ビジネスなどで必要な言語ととらえる人も増えてきている。また、[[宇宙開発]]においては[[国際宇宙ステーション]]の公用語になるなど、英語と並んで必要不可欠な言語の1つとなっている。
ロシア国内では急速な[[資本主義]]化や新技術の導入に伴い、今まで存在しなかった概念や用語が大量に導入された。これにロシア語の造語能力が追いつかず、特に英語を中心とした外来語がそのままロシア語に導入される例が多くなっている。
:例:[[コンピュータ]] - ロシア語では外来語の {{lang|ru|[[:wikt:компьютер#ロシア語|компьютер]]}}(カンピユーテル)がスラヴ語的な {{lang|ru|вычислитель}}(ヴィチスリーチェリ=数字出力物)より頻出。{{lang|ru|компьютер}} では本来のロシア語発音では「イェ」になる「{{lang|ru|е}}」が「エ({{lang|ru|э}})」と発音される点にも、外来語的な特徴がよく表れている。
== 各国におけるロシア語の状況 ==
[[ファイル:Ruština ve světě.svg|right|300px|thumb|'''ロシア語話者の分布'''
{{legend|#000076|公用語として用いられている}}
{{legend|#027475|人口の3割以上が第一あるいは第二言語として話す}}
]]
=== 公用語 ===
* {{Flagicon|Russia}} [[ロシア]]
* {{Flagicon|Kazakhstan}} [[カザフスタン]](他に[[カザフ語]])
* {{Flagicon|Kyrgyzstan}} [[キルギス]](他に[[キルギス語]])
* {{Flagicon|Tajikistan}} [[タジキスタン]](他に[[タジク語]])
* {{Flagicon|Belarus}} [[ベラルーシ]](他に[[ベラルーシ語]])
; 事実上独立した地域
* {{Flagicon|Transnistria}} [[沿ドニエストル共和国]](他に[[モルドバ語]]、[[ウクライナ語]])
* {{Flagicon|Abkhazia}} [[アブハジア]](他に[[アブハズ語]])
* {{Flagicon|South Ossetia}} [[南オセチア]](他に[[オセット語]])
* {{Flagicon|ナゴルノ・カラバフ}} [[アルツァフ共和国]](他に[[アルメニア語]])
; その他の地域または州
* {{Flagicon|ガガウズ自治区}} [[ガガウズ自治区]](他に[[ガガウズ語]]、[[ルーマニア語]])
* {{Flagicon|Norway}} [[スバールバル諸島]](他に[[ノルウェー語]])
; 国際機関
* {{Flagicon|UN}} [[国際連合]](他に[[英語]]、[[フランス語]]、[[中国語]]、[[スペイン語]]、[[アラビア語]])
* {{Flagicon|IAEA}} [[国際原子力機関]]
* {{Flagicon|ICAO}} [[国際民間航空機関]]
* {{Flagicon|UNESCO}} [[国際連合教育科学文化機関]]
* {{Flagicon|WHO}} [[世界保健機関]]
* [[国際標準化機構]](他に英語、フランス語)
* [[上海協力機構]](他に中国語)
* {{Flagicon|CIS}} [[独立国家共同体]](CIS)
* {{Flagicon|CSTO}} [[集団安全保障条約]] (CSTO)
* {{Flagicon|EEU}} [[ユーラシア経済連合]]
=== 人口の3割以上が第一、第二言語 ===
* {{Flagicon|Ukraine}} [[ウクライナ]]
* {{Flagicon|Uzbekistan}} [[ウズベキスタン]]
* {{Flagicon|Latvia}} [[ラトビア]]
* {{Flagicon|Estonia}} [[エストニア]]
* {{Flagicon|Moldova}} [[モルドバ]]
* {{Flagicon|Mongolia}} [[モンゴル]]
=== 日本 ===
{{Vertical images list|幅=200px
|画像1=Road traffic sign with Russian, Wakkanai, Hokkaido, Japan.jpg|説明1=[[稚内市]]の道路標識
|画像2=Road traffic sign with Russian, Nemuro, Hokkaido, Japan.jpg|説明2=[[根室市]]の道路標識
|画像3=Signboard, Gotandabashi Bridge, Niigata, Japan, August 2021.jpg|説明3=[[新潟県]][[田上町]]の看板
}}
18世紀には、すでに「[[北槎聞略]]」という書物があり、「[[大黒屋光太夫]]」の口述による、[[キリル文字]]、一部のロシア語の単語、文などの記載も見られる<ref> 桂川甫周『北槎聞略・大黒屋光太夫ロシア漂流記』亀井高孝校訂、岩波書店(岩波文庫)1993年(平成5年)、148~156頁、273~332頁</ref>。本格的なロシア語研究が始まるのは、1804年から1811年にロシア使節からもたらされた公文書の翻訳が必要となった[[江戸幕府]]の命により、[[オランダ語|蘭語]]通詞の[[馬場貞由|馬場貞由(左十郎)]]らが[[ゴローニン事件]]によって[[松前藩]]に幽閉されていた[[ヴァシーリー・ゴロヴニーン|ゴローニン]]から学んだのが最初<ref>[http://www.tufs.ac.jp/common/archives/TUFShistory-russian-1.pdf ロシア語の黎明期]渡辺雅司、ロシア語ロシア文学研究15号、1983-09</ref>。
1868年に成立した明治政府は文明開化政策の規範を欧米諸国に取り、イギリス・ドイツ・フランス・アメリカなどから多くの技術や思想を導入した。西欧よりも産業発展が遅れていたロシアはその対象から外れたため、通常の学校教育での採用では英語・ドイツ語・フランス語に次ぐものとして扱われた。その中で[[東京外国語学校 (旧制)|東京外国語学校]]では1873年の第一次創設から魯(露)語学科が設置され<ref group="注">公的なロシア語教育の起源は1871年に外務省が設置した「独魯清語学所」で、これは東京外国語学校に統合された。</ref>、[[東京商科大学 (旧制)|東京商業学校]]への統合を経て1899年に再設置されると[[二葉亭四迷]]が露語学科の教授として就任して、同校はロシア語やロシア文学の研究拠点となっていった。また、開港地としてロシア領事館が置かれた函館などから布教が広がった[[日本ハリストス正教会]]もキリスト教([[正教会]])の聖職者育成とともにロシア語教育が重視された。ゴローニンの『日本幽囚記』で日本に興味を持った[[ニコライ (日本大主教)|ニコライ]](イヴァン・カサートキン)が日本大主教としてロシアから派遣後の1891年に建設された東京復活大聖堂([[ニコライ堂]])に設けられた正教神学校では[[昇曙夢]]が活躍して、自身を含んだロシア文学研究者の育成に貢献した。
一方、南下政策をとる[[ロシア帝国]]は[[大日本帝国]]にとって仮想敵国の筆頭にあり、実際に1904年からは[[日露戦争]]が勃発、1905年からは[[樺太]]の北緯50度線で陸上国境で接するようになったため<ref group="注">同年の[[ポーツマス条約]]で日本が[[南樺太]]を領有。サハリンをロシアと南北分割する。1910年の[[韓国併合]]で日本領となった[[日本統治時代の朝鮮|朝鮮]]北東端の日本海沿岸部分が、ロシアの沿海地方と[[豆満江]]河口部で接した。</ref>、[[日本軍]]にとってロシア語を習得する必要は一貫して高く、[[大日本帝国陸軍|陸軍]]の教育機関である[[陸軍幼年学校]]や[[陸軍大学校]]、[[大日本帝国海軍|海軍]]の[[海軍大学校]]ではロシア語が科目に含まれた。陸軍の[[東郷正延]]や海軍の[[井桁貞敏]]らは第二次大戦後のロシア語教育でも大きな役割を担った。
1920年には[[早稲田大学]][[早稲田大学第一文学部|文学部]]に露文学科が設置され<ref name=":0">{{Cite web|url=http://apop.chicappa.jp/wordpress/?page_id=149|title=概要|accessdate=2020-12-13|publisher=早稲田大学文学学術院文学部 ロシア語ロシア文学コース}}</ref><ref group="注">杉山は1916年を同大学露語学科の設置年としている。</ref>、1921年設立の[[大阪外国語大学|大阪外国語学校]]<ref group="注">戦後の学制改革で大阪外国語大学となり、2007年に[[大阪大学]]へ統合。ロシア語教育の部署は同大学外国語学部ロシア語専攻としてその後も残存。</ref>や1925年設立の[[天理大学|天理外国語学校]]<ref group="注">現在の天理大学。2020年現在ではロシア語やロシア文学の単独学科はなく、同大学国際学部地域文化学科ヨーロッパ・アフリカ研究コースにロシア語担当の教員が在籍。</ref>でも当初からロシア語の学科が置かれた<ref>杉山、138p。</ref>。1917年に[[ロシア革命]]が始まり、[[ソビエト連邦]]が成立、日本とは新たな緊張関係が生まれた。ソ連の国家イデオロギーである[[社会主義]]や[[共産主義]]は天皇制を奉じる日本では危険思想とみなされ、その事実上の公用語であるロシア語学習者は「[[アカ]]」などの蔑称で呼ばれることが多く、1937年には早稲田大学の露文学科が閉鎖された<ref name=":0" />。また正教会はロシア本国ではソ連政府による弾圧、日本ではソ連(ロシア)への利敵者とみなされる偏見という二重の苦境に立ち、その影響力とともにロシア語教育への余力も減退した。一方、日本が勢力を伸ばした[[満州]]では実務面でもロシア語教育の必要性が高く、1920年に[[ハルビン市|ハルピン市]]に設置された日露協会学校は後に[[ハルピン学院 (旧制専門学校)|ハルピン学院]]となり、1940年からは[[満州国]]立大学となったが、1945年8月の[[ソ連対日参戦]]とそれに続く[[第二次世界大戦]]での日本の敗北で消滅した。赤軍([[ソビエト連邦軍]])に降伏した日本軍の将兵は[[シベリア抑留]]の対象となってソ連国内<ref group="注">一部はソ連とともに日本と戦った[[モンゴル人民共和国]]領内の収容所へ送られた。</ref>の収容所に連行されて、赤軍が進駐した満州や[[朝鮮半島]]北部、ソ連が日本からの領土編入を宣言したサハリン南部(南[[樺太]])や千島列島南部<ref group="注">千島列島南部の[[国後島]]や[[択捉島]]、北海道東方の[[色丹島]]などでは日本政府が領有権の残存を主張している([[北方領土問題]])。</ref>ではソ連軍人や一般国民と混住状態になった日本人が日常的にロシア語を使う状況となったが、民間人は一部の残留者を除いて1948年までに日本へ帰国し、シベリア抑留者の送還も1956年に終了して、この状態は短期間で終わった。
1946年に早稲田大学の露文学科は再開され<ref name=":0" />、1949年にはソ連との友好促進を目指す民間団体として(旧)日ソ親善協会が設立されてロシア語教室が開催されるなど、戦後のロシア語教育は東西[[冷戦]]の影響も受けながら徐々に拡大された。1956年10月に[[日ソ共同宣言]]で両国間の国交回復が決まると同年11月からNHKラジオで[[ロシア語講座]]が開講され、1957年には同年に日ソ親善協会から改称した日ソ協会系の[[東京ロシア語学院|日ソ学院]]によって[[ロシア語能力検定試験]]が開始された。同年は[[スプートニク1号]]による史上初の宇宙飛行も行われ([[スプートニク・ショック]])、ソ連の高い自然科学力を背景にした理工系教員からの要望を受けて1962年には[[東京大学]]の[[東京大学大学院総合文化研究科・教養学部|教養学部]]に在籍する1年生と2年生の一部を対象にロシア語が第二外国語に加えられ<ref>西原史暁、「[https://id.fnshr.info/2011/02/06/russian/ ロシア語、第二外国語となる―戦後の東京大学の場合]」、2011年2月6日公開、2020年12月13日閲覧。この時点では理科一類(工学部系)と理科二類(理学部・農学部・薬学部系)の学生のみ。後に全6科類の学生に対象が拡大。</ref>、ソ連政府からの独立性を維持した正教会系のニコライ学院を含め、高等・専門教育ではロシア語教育の機会が増えていった。
1960年代までは上記のようにロシア語の研究論文を読む必要がある自然科学系の研究者、共産主義を支持する人々を中心にロシア文化への関心は比較的高かった。しかしながら、[[レオニード・ブレジネフ]]体制下でのソ連文化の硬直化や科学技術の停滞、[[中ソ対立]]などにも影響された[[日本共産党]]や[[日本社会党]]などの日本の左派(革新)政党と[[ソビエト連邦共産党|ソ連共産党]]の関係の混乱などを背景にソ連(ロシア)への関心は低下した。1985年にソ連で始まった[[ペレストロイカ]]によって経済交流や文化的関心は高まり、ロシア語学習者も一時的に増加したが、1991年のソ連崩壊前後の経済混乱はその熱を冷まし、1996年には19世紀からの伝統を持つニコライ学院が閉校に追い込まれた<ref>{{Cite web|和書|url=http://tokyomonogatari-apr.blogspot.com/2012/02/176_17.html|title=東京物語 Токио Моногатари - ニコライ堂|accessdate=2020-12-13|publisher=ロシア語通訳協会}}</ref>。
その後は日ソ学院が改称してロシア語能力検定試験の主催を続ける[[東京ロシア語学院]]や、こちらも改称しながら同学院との友好関係を維持する[[日本ユーラシア協会]]の独自講座、ロシア連邦教育科学省の認定試験として[[日本対外文化協会]]が窓口となって行われている[[ロシア語検定試験]](ТРКИ)、各大学で続けられるロシア語・ロシア文学関係の講座、それにNHKの語学番組改革の中で2017年からEテレで始まった「[[ロシアゴスキー]]」やラジオ第2放送の「[[まいにちロシア語]]」の放送などで日本におけるロシア語教育が継続されている。しかしながら、[[放送大学]]におけるロシア語講座開設が2007年度限りで終了するなど、その退潮傾向は続いている。ただ、伝統的にロシアが強国であるフィギュアスケートでは浅田真央や羽生結弦などの日本選手もロシア人指導者のコーチを受けてきた事もあり、ここからロシア語への関心を持つ例も見られる。あるいは後述するアニメ・漫画などのサブカルチャー分野の人気作品内でロシア語が使用される例もあり、2020年4月に[[京都外国語大学]]がロシア語学科を新設するなど、一定の状況変化も見られる。
ロシアとの交流は北海道や日本海側の一部の地域を除くと盛んではなく、貿易額で示される経済的なつながりもロシアと同様の近隣諸国である中国や韓国、あるいは多くの面で緊密な関係を維持しているアメリカ合衆国より薄い。そのため、日本(特に[[西日本]])においてロシア語の重要性は低い。英語や中国語、朝鮮語に比べて語学教材も恵まれておらず、改訂も進まない結果、内容がソ連時代のままである教材も少なくない。
しかし、上記のように第二次世界大戦後も日本とソ連は軍事的対立が続き、冷戦終結とソ連崩壊後も日ロ間では領土問題などでの対立が残ったほか、漁船操業や国際協力などでの実務的必要もある。したがって[[海上保安庁]]では第二外国語として中国語・朝鮮語と並びロシア語が学ばれており、[[自衛隊]]でも第二外国語として学ばれているほか、北海道の一部の高校では地理的に近いということもありロシア語の授業が行われている。さらに[[稚内市|稚内]]や[[根室市|根室]]、[[紋別市|紋別]]や[[新千歳空港]]ではロシア語表記の看板が見られるなど、隣国としてのロシアの姿が実感できる。同様に、[[新潟港|新潟東港]]を通じての対ロ貿易の日本海側拠点である[[新潟市]]でも日本語の他英語とロシア語を併記した看板を見ることができる。新潟市ではこれ以外にも[[ロシア語スピーチコンテスト]]を行うなどしている。同じく対露貿易の多い[[富山県]][[伏木富山港]]周辺でもロシア語表記の看板が見られ、新潟県や富山県でもロシア語の授業を開講する高校がある。また、2010年代に入り「[[ガールズ&パンツァー]]」「[[ゴールデンカムイ]]」<ref group="注">「ゴールデンカムイ」は日露戦争後の北海道が主な舞台となる作品で、登場人物は作品中でサハリンに渡航し、戦後に日本領となった南樺太とロシア領にとどまった北樺太の双方を訪れる。詳細は当該項目参照。</ref>などロシア語の台詞が多い漫画・アニメーションの人気作品が制作され、ここからロシア語に興味を持った人が若者が生まれたという指摘もある。上記のNHKテレビロシア語講座「ロシアゴスキー」では2013年から放送が始まった放送シリーズで「ガールズ&パンツァー」に出演したロシア出身の声優である[[ジェーニャ (声優)|ジェーニャ]]<ref group="注">[[ノヴォシビルスク]]出身、現在は日本在住の女性声優。本名はイヴギェーニヤ・ダヴィデューク。</ref>を起用している。
江戸時代まで遡る日ロ両国間の政治交渉、ロシア文学や共産主義思想の受容、宇宙工学を中心とした多くの自然科学分野における重要性の存在などの様々な理由から、今でも日本の多くの大学の第二外国語でロシア語を学ぶことができるものの、日本人(特に西日本在住者)でロシア語を学ぶ人々は少ない。その中で、[[近畿地方]]([[関西|関西圏]])における日本海側の最重要港湾都市としてソ連時代から貿易拠点となっていた[[舞鶴市]]では北陸地方の各都市と類似したロシア語への接触環境があり、その舞鶴市がある[[京都府]]では2020年4月に京都外国語大学がロシア語学科を新設している。<ref group="注">但し同大学が本拠地を置く[[京都市]]はウクライナの首都[[キエフ|キーウ]]と姉妹提携を結んでおり、京都市においても、ロシア・ウクライナ危機を受け、ウクライナ国内の地名をロシア語ではなく、ウクライナ語での表記を行っている。</ref><ref>{{Cite web|和書|title=京都市も「キーウ」に ウクライナ首都の呼称、4月1日から |url=https://www.47news.jp/7599500.html |website=47NEWS |accessdate=2022-04-01 |language=ja}}</ref>
また、2022年3月31日 、ロシアによるウクライナへの[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|軍事侵攻]]を受け、外務省はウクライナ国内の地名をロシア語からウクライナ語に合わせた日本語表記に変更すると発表した。<ref>{{Cite web|和書|title=キエフを「キーウ」へ変更 ウクライナの首都名称|url=https://www.chunichi.co.jp/article/444889 |website=中日新聞|accessdate=2022-04-01 |language=ja}}</ref>
:例:[[キエフ]] (Kiev) → [[キエフ|キーウ]] (kyiv)
このほかに、[[JR東日本]]の[[恵比寿駅]]でもロシア語の看板を撤去するというような事案が発生している。
<ref>[https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2204/14/news138.html 【追記あり】駅に掲出されていた「ロシア語の案内」が「調整中」に…… ウクライナ侵攻との関連は? JR東に聞いた] - ねとらぼ</ref>
ロシア語の学科がある主な[[大学]]は以下の通りである。このうち1994年に設立された[[ロシア極東連邦総合大学函館校]]は他校とは違って日本の教育制度の中では[[専修学校]]として扱われ、[[外国大学の日本校]]として指定されている。一方、ロシアではウラジオストクにある[[極東連邦大学]]の正式な分校として扱われ、本校への留学も含んだロシア語教育が重点的に行われている。
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* [[札幌大学]]
* [[筑波大学]]
* [[上智大学]]
* [[津田塾大学]]
* [[東京外国語大学]]
* [[創価大学]]
* [[新潟国際情報大学]]
* [[静岡県立大学]]
* [[中京大学]]
* [[富山大学]]
* [[大阪大学]]
* [[同志社大学]]
* [[京都産業大学]]
* [[京都外国語大学]]
* [[神戸市外国語大学]]
* [[ロシア極東連邦総合大学函館校]]
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=== ウクライナ ===
[[ウクライナ]]東部や南部ではロシア語が広く使われている。また、[[ウクライナ語]]とロシア語の社会方言が混じった口語の混合言語である[[スルジク|スルジク(суржик)]]も使われている。ウクライナではソ連崩壊後、言語問題がしばしば発生している。[[2014年]]にはロシア語話者の多いクリミア共和国とセヴァストポリ特別市が独立を宣言し、それらのロシアへの編入の宣言に至った([[クリミア危機]])。それと同時に東部の[[ドンバス]]でも[[ドンバス戦争|紛争]]が発生し、一部地域が[[ドネツク人民共和国]]、[[ルガンスク人民共和国]]として事実上独立した。2022年に[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ロシアによるウクライナ侵攻]]に発展し、同年[[9月30日]]にロシアはドネツク・ルガンスクの両共和国及び[[ザポリージャ州|ザポロージェ州]]と[[ヘルソン州]]の[[ロシアによるウクライナ4州の併合宣言|併合を宣言]]した。
東部や南部とは対称にロシア語話者が少ない西部の[[リヴィウ州]]では、議会が2018年9月18日、ロシア語による歌曲を公共の場で流したり、書籍を出版したりすることを禁じる[[条例]]を可決した
<ref>[https://www.sankei.com/article/20180929-LBRGKEZGJJIDHJXEE5X2QMAHPY/ 「旧ソ連圏、強まる反露感情 ロシア語離れ加速」]『産経新聞』朝刊2018年9月30日(国際面)2019年1月10日閲覧</ref>。
=== ベラルーシ ===
ソ連崩壊後、[[1994年]]に[[アレクサンドル・ルカシェンコ|ルカシェンコ]]が大統領に選出された翌年の[[1995年]]にロシア語に[[ベラルーシ語]]と同じ地位が与える国民投票が行われ、可決された。現在、これまでにない規模でロシア語化が推し進められている。また、[[2019年]]の国勢調査では、総人口9530.8万人中ベラルーシ語の母語話者は53.2%、対してロシア語の母語話者は41.5%となっている。総人口の4分の3に当たる都市住民の間ではベラルーシ語の母語話者は44.1%、家庭内での使用割合は11.3%に過ぎず、ロシア語化が大きく進行している事が示されている。
=== エストニア ===
ロシアとの歴史的な関係からエストニア国内には[[エストニア語]]を解さないロシア語話者が一定数存在する。エストニア政府は度重なる「言語法」の改訂によって彼らの排除、あるいは社会統合を企図し、その甲斐あって若年層のロシア人(英語版)はエストニア語能力に向上を見せた。しかし、エストニア語能力を有さない住民は北東部[[イダ=ヴィル県]]を中心に未だ多く存在し、その社会統合は課題として残されている。
{{main|{{仮リンク|エストニアにおけるロシア語|ru|Русский язык в Эстонии}}}}
[[File:Russophone population in Estonia.png|300px|thumb|2000年国勢調査におけるロシア語話者の分布]]
[[ロシア]]との国境に近い北東部[[イダ=ヴィル県]][[ナルヴァ]]ではロシア語話者の割合が95パーセント以上を占め、その他イダ=ヴィル県にはロシア語話者が過半数を占める都市が散見される<ref name="小森07228">[[#小森07|小森 (2007a)]] 228頁</ref>。<br>
エストニアの言語法第11条には、「全定住者のうち過半数の使用する言語がエストニア語でない地方自治体においては、自治体内の実務言語として{{Interp|中略|和文=1}}エストニア語に加えて全定住者のうち過半数を形成する少数民族の言語を使用することができる」との条文があり、ロシア人が95パーセント以上を占めるナルヴァ市議会は、これに基づいて議会でのロシア語使用許可を申請している<ref name="小森119">[[#小森|小森 (2009)]] 119頁</ref>。政府は、同市におけるエストニア語の使用が未だ保障されていない、として申請を却下したが、ロシア人の側は、非合法状態にはありながら公的領域においてもロシア語の使用を続けている<ref name="小森119"/>。<br>
また、過去には首都の[[タリン]]でもロシア系住民とエストニア政府との間で[[青銅の夜|大規模な暴動]]が起きた。
=== カザフスタン ===
[[カザフスタン]]ではソ連から独立した後も他の中央アジア諸国に比べてロシア語が使用されることが多く、カザフ語は国家語、ロシア語は実質的な共通語としての地位を確立し、都市部ではカザフ語よりもロシア語を得意とするカザフ人は少なくない<ref name="akashi">坂井「二つの主要言語」『カザフスタンを知るための60章』、34-38頁</ref>。こうした状況下で、カザフスタン政府はカザフ語の振興を掲げていて<ref>{{cite journal|和書|author=淺村卓生 |title=カザフスタンにおける自国語振興政策
及び文字改革の理念的側面 |journal=外務省調査月報 |issue=1 |publisher=外務省 |date=2011 |page=1-24}}</ref>、カザフ語の急速な台頭とロシア語の重要性の低下に対して抵抗を感じる人間がいる一方で、マスメディアにおけるロシア語の支配的な地位を疑問視する意見も投げかけられている<ref name="akashi"/>。<br>
だが、近年ではロシア語離れの動きがあると報じられている。具体的には、[[カザフ語]]の表記が[[キリル文字]]から[[ラテン文字]]へ移行する草案が提出された<ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20180929-LBRGKEZGJJIDHJXEE5X2QMAHPY/photo/NEVIJN43LRKCVKI3UXHKJG2XKY/|title=旧ソ連圏で相次ぐ“ロシア語離れ” 反露感情、ロシアの地位低下を反映か|work=産経ニュース|newspaper=[[産経新聞]]|date=2018-09-29|accessdate=2018-09-30}}</ref>。しかし、この移行は国民の間では一般に普及していない。<br>
また、カザフ語自体もロシア語からの借用語が多い<ref name="ce-jiten">坂井「カザフ語」『中央ユーラシアを知る事典』、117-118頁</ref>。
=== ウズベキスタン ===
[[ウズベキスタン]]では独立以降しばらくは[[ウズベク語]]とロシア語が公的な文書において使用されていた<ref>{{Cite web|url=http://www.fito-center.ru/obschestvo/2437-status-russkogo-yazyka-v-stranah-byvshego-sssr.html|title=Статус русского языка в странах бывшего СССР. Справка.|publisher=fito-center.ru|accessdate=2013-02-23}}</ref>が、1995年12月に憲法が改正され、ウズベキスタン憲法第四条<ref>{{Cite web|url=http://constitutions.ru/archives/226|title=КОНСТИТУЦИЯ УЗБЕКИСТАНА|publisher=constitutions.ru|accessdate=2013-02-23}}</ref>及び「国家言語法」により<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jp-ca.org/data/gaiyo.pdf|title=ウズベキスタン共和国基礎情報|publisher=日ウ投資環境整備ネットワーク|accessdate=2013-02-23}}</ref>[[ウズベク語]]が公用語の地位を獲得することになった。<br>
[[ウズベク・ソビエト社会主義共和国]]時代はウズベク語とロシア語が公用語の地位を獲得していた。現在、ウズベキスタンではウズベク語とロシア語の他に、主にウズベク人以外の少数民族によって[[タジク語]]や[[キルギス語]]、[[トルクメン語]]、[[カザフ語]]、[[カラカルパク語]]、[[タタール語]]、[[ノガイ語]]などの[[テュルク諸語]]の他、[[アゼルバイジャン語]]、[[ウイグル語]]などの言語が話されている。地方ではウズベク語を母語とする者の割合が高いが、首都[[タシュケント]]では人口の約半数がロシア語話者であり、ロシア語が日常的に使用されている<ref name="shimada">{{Cite web|和書|url=https://ricas.ioc.u-tokyo.ac.jp/asj/html/ab_s/ab_s24.html|title=ウズベキスタン留学案内|publisher=ricas.ioc.u-tokyo.ac.jp|author=島田志津夫|date=2004-04|accessdate=2013-02-23}}</ref>。また、大学ではウズベク語とロシア語による講義が行われており、研究活動を行う者はほぼロシア語環境で研究を行なっている。一方で、[[英語]]が通じることは少なく<ref name="shimada"/>、2005年時点の調査では、英語を話すことができると答えた人々の割合は9%にすぎず、ロシア語を話すことができると答えた人々の割合は中央アジア全体で80%を超えている<ref name="timur08">{{Cite book|和書
|author = ティムール・ダダバエフ
|year = 2008
|title = 社会主義後のウズベキスタン - 変わる国と揺れる人々の心
|publisher = [[アジア経済研究所]]
|isbn = 978-4-258-05110-6
}}</ref>。<br>
現在、ロシア語は全人口の14.2%に当たる人々が第一言語として使用しており、その他の人々もその多くがロシア語を第二言語として使用しているなど異民族間の共通語・準公用語的な地位にある。
=== タジキスタン ===
[[タジキスタン]]ではロシア語は[[ロシア帝国|帝政ロシア]]~[[ソビエト連邦]]時代の共通語であったため、現在でも[[第二言語]]として教育・ビジネス等で多く使用されている。ただし、[[2009年]]10月から国語法が成立し、公文書や看板、新聞はタジク語を用いることを義務づけられた<ref name="asahi">{{Cite web|和書
| url = http://www.asahi.com/international/weekly-asia/TKY201110170089.html
| title = 旧ソ連圏、ロシア語回帰 タジキスタン ことばを訪ねて(4)
| publisher = [[朝日新聞]]
| date = 2011-10-17
| accessdate = 2012-6-25
| archivedate = 2012-5-25
| deadlinkdate = 2018-1-22
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20120525052232/http://www.asahi.com/international/weekly-asia/TKY201110170089.html
}}</ref>。<br>
また、[[ソビエト連邦の崩壊]]後に起きた[[タジキスタン内戦]]によるロシア人の大量国外流出によりロシア語の通用度が急激に低くなったが、現在では出稼ぎ先の大半はロシアであることと、高等教育にはロシア語習得が不可欠であることから、ロシア語教育も重要視されつつあり{{R|asahi}}、国民の間ではロシア語学習熱が強い。
=== キルギス ===
[[キルギス]]ではロシア語が[[公用語]]、[[キルギス語]]が[[国語|国家語]]とされている (憲法第10条第1項、第2項<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kg.emb-japan.go.jp/files/000414759.pdf|title=キルギス共和国憲法 (2010年6月27日採択)|accessdate=2021年2月24日|publisher=在キルギス日本国大使館}}</ref>)。<br>
2017年の[[国勢調査]]によると、母語話者の割合はキルギス語が55.2%、[[ウズベク語]]が4.7%、ロシア語が34.0%となっている。<br>
独立以降公用語から除外されたウズベキスタンなどとは違い、引き続き公用語に制定されている。これは、国の中枢を占めていたロシア人などのロシア語系住民の国外流出([[頭脳流出]])を防ぐためであり、現在でも山岳部を除く全土で通用し、教育、ビジネスや政府機関で幅広く使用される。また医療用語などはロシア語にしか翻訳されていない単語があるため、ロシア語が理解できないと生活に苦労する場合もある。<br>
首都ビシュケクとその周辺では多くの住民はロシア語を使って生活しており、キルギス語が上手に話せないキルギス人も少なくない。このため、現地生まれのロシア人はキルギス語を話せない人がほとんどを占めている。
=== その他の旧ソ連圏 ===
[[エストニア]]の他に同じく[[ヨーロッパ連合]]加盟国となった[[ラトビア]]、[[リトアニア]]などの旧ソ連諸国でも、公用語にこそなっていないもののロシア系住民を中心に広く使われているがEUの公用語には加わっていない。2018年には、ロシアに対する反感や地位低下を背景に、先述したウクライナ、カザフスタンのほかに[[ラトビア]]、[[モルドバ]]でロシア語離れの動きがあるとも報じられている<ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20180929-LBRGKEZGJJIDHJXEE5X2QMAHPY/photo/NEVIJN43LRKCVKI3UXHKJG2XKY/|title=旧ソ連圏で相次ぐ“ロシア語離れ” 反露感情、ロシアの地位低下を反映か|work=産経ニュース|newspaper=[[産経新聞]]|date=2018-09-29|accessdate=2018-09-30}}</ref>。その中ではカザフ語や[[アゼルバイジャン語]]の表記がキリル文字からラテン文字へ変更されたことが挙げられている。ただし、ソ連時代からロシア人の居住比率が10%程度だったリトアニアを除くと上記の各国でロシア系住民の比率は相対的に高く、特に中央アジアにおいては相対的に賃金水準の高いロシアの都市部へ出稼ぎ労働者が流出を続ける状況もあって、ロシア語が対ロシア、および地域諸国内の商業・行政面における共通言語([[リングワ・フランカ]])として現在でも使用され続けている。
=== イスラエル ===
{{main|イスラエルにおけるロシア語}}
[[1999年]]のデータではイスラエルへの旧ソ連からの移民は75万人にのぼり、ロシア語のテレビ・ラジオ放送局もある。イスラエルの公用語は[[ヘブライ語]]だけだが公用語ではない英語にならび移民の影響でロシア語も広く使われている。
=== アメリカ合衆国 ===
[[アメリカ合衆国]]におけるロシア語話者には2つの類型がある。1つは政治的な理由でロシア帝国やソビエト連邦から移住した人々やその子孫である「[[ロシア系アメリカ人]]」、そしてロシア統治時代の[[アラスカ州|アラスカ]]住民の子孫である。
ロシア帝国ではロマノフ朝と非常に強い関係を持った[[ロシア正教会]]の主流派が絶大な権力を持ち、正教の反主流派である[[古儀式派]]や[[モロカン派]]、そして少数民族となった[[ユダヤ人]]が信仰を守る[[ユダヤ教]]などを抑える体制ができていた。特にユダヤ人に対しては「[[ポグロム]]」と呼ばれる大量虐殺が一般民衆の手で頻発したため、1880年代以降にユダヤ人がアメリカ合衆国へ集団移住する例が始まった。彼らはニューヨークやサンフランシスコなどの都市部に集住した。
続いて、1917年のロシア革命により社会主義体制のボリシェヴィキ政権が誕生し、[[ロシア内戦]]を経て1922年にソビエト連邦が成立したことで、貴族、地主、教会関係者などの旧支配層、さらに政治的混乱と迫害をおそれた一般民衆が多くロシアを脱出し、その一部が新大陸である、既にロシア系コミュニティが成立していたアメリカ合衆国を目指した。これらの亡命者は「[[白系ロシア人]]」とも呼ばれ、多くの文化人も含まれていたことから、アメリカでのロシア語及びロシア文化の伝達を促進した。ソ連成立後も合法的な出国を認められる文化人は少数ながら存在し、彼らもに1933年に[[ソビエト連邦の外交関係#アメリカ合衆国|ソ連との国交]]を樹立したアメリカ合衆国へ移住する例が生まれた。
[[第二次世界大戦]]後は東西[[冷戦]]が激化し、両陣営の中心となったソ連からアメリカへの移住は厳しく制限され、ごく少数の亡命者を除けば人口移動は起きなかったが、1970年代に入るとソ連政府は自国民のユダヤ人がイスラエルへ移住することを一定数の範囲で認めるようになり、その一部がアメリカへ再移住した。そして1980年代のペレストロイカ政策によるソ連の自由化、そして1991年のソビエト連邦崩壊によるロシア連邦の成立により、ロシア人の国外出国は容易となり、アメリカへの移住者が再び増加した。移住理由には、国内での民族対立を背景とした政治的亡命、より豊かな生活を求める経済移民、ソビエト体制での高い教育水準で育成された技術者のアメリカ企業による雇用などがあり、[[ロシアン・マフィア]]による非合法移住、英語では「{{仮リンク|メールオーダーブライド|en|Mail-order bride}}」とも呼ばれる、業者を介した簡易な[[国際結婚]]によるロシア人女性の渡米なども含まれる。
彼らもアメリカにおけるロシア語人口の増加に寄与し、21世紀に入ってその数は減少したとされるものの、2000年の国勢調査では70万人がロシア語話者と答え、ロシア系アメリカ人自体はアメリカ全体の人口の約1%である約300万人とされる。
一方、ロシア帝国は16世紀から進めた[[シベリア]]征服の結果、[[ベーリング海峡]]を越えて北米大陸の北西端にあるアラスカに到達していた。1784年にはアラスカ南部の[[コディアック島]]に根拠地を置き、1799年にアラスカ領有を宣言、1821年には正式に「[[ロシア領アメリカ]]」が成立していたが、ロシア帝国にとってアラスカはあまりに遠く、有効な植民地統治は困難だった。これは逆に、帝国内での迫害から逃れたい古儀式派にとっては好都合だった。1867年にアメリカ合衆国がロシアから[[アラスカ購入|アラスカを購入]]すると、ロシア帝国の役人や毛皮商などは本国へ帰還したが、古儀式派は帰国を拒否し、自らの信仰が保証されるアメリカ国民になることを選択した。その際に「ロシア語ネイティブのアメリカ人」が生まれ、さらにソビエト政権の成立後にアラスカとシベリアとの交流が断絶したため、アラスカのごく一部ではロシア帝国時代からの古儀式派信仰とロシア語が保存された。特にアラスカ本土、コディアック島から約250km離れた{{仮リンク|ニニルチク|en|Ninilchik, Alaska}}<small>('''露''': {{lang|ru|[[:ru:Нинилчик (Аляска)|Нинилчик]]}})</small>では下記の「方言」で記す通りに発音や性の構造などで現在の標準ロシア語との差異があるとされ、同地では20世紀末から[[モスクワ大学]]などの研究者が言語収集を行っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.rbth.com/science/2014/02/20/18_47229 |title=アラスカに残る18世紀のロシア語 |access-date=2022-12-01 |publisher=[[ロシア・ビヨンド]] |date=2014-02-20}}</ref>。
== 文字 ==
{{main|ロシア語アルファベット}}
ロシア語では以下の33個の[[キリル文字]]が用いられている。音価は[[固有語]]におけるもののみに限って紹介するが、外来語の中では延長線上の軟音化・硬音化が行われる場合もある。またロシア語における[[母音弱化]]は非常に複雑な変化をもたらすため、この表では概ねそれに触れない。
{| class="wikitable" style="text-align:center" border="1" frame="box" rules="all" cellspacing="0" cellpadding="3"
! colspan="2" | 文字
! colspan="3" | 文字の名称
! colspan="2" | 音価 ([[国際音声記号|IPA]])
! rowspan="2" | 発音上の注意等
|-
!<abbr title="大文字">大</abbr>
!<abbr title="小文字">小</abbr>
!露文
!<abbr title="ラテン文字音写">羅文</abbr>
!<abbr title="カナ音写">カナ</abbr>
!硬音
!軟音
|-
|lang="ru"|[[А]]
|lang="ru"|а
|lang="ru"|а
|a
|ア
|{{ipa|a}}
|{{lang|ru|[[Я]]}}に同じ
|
|-
|lang="ru"|[[Б]]
|lang="ru"|б
|lang="ru"|бэ
|be
|ベ
|{{ipa|b}}
|{{ipa|bʲ}}
|
|-
|lang="ru"|[[В]]
|lang="ru"|в
|lang="ru"|вэ
|ve
|ヴェ
|{{ipa|v}}
|{{ipa|vʲ}}
|align=left|語末では {{IPA|f}} と発音。またしっかりしていない発音では特に母音に挟まれた {{lang|ru|в}} は「ワ」に似たような音価 {{IPA|ʋ}} などで発音されることがある</td>
|-
|lang="ru"|[[Г]]
|lang="ru"|г
|lang="ru"|гэ
|ge
|ゲ
|{{ipa|g}}
|{{ipa|gʲ}}
|align=left|形容詞・代名詞の活用の語尾の中では {{lang|ru|в}} と読むものがある。また特定の[[感動詞]]や[[教会スラブ語]]由来の言葉では伝統的に [[有声軟口蓋摩擦音|{{IPA|ɣ}}]] で発音される</td>
|-
|lang="ru"|[[Д]]
|lang="ru"|д
|lang="ru"|дэ
|de
|デ
|{{ipa|d}}
|{{ipa|dʲ}}
|align=left|軟音は実際に[[舌端音]]の {{IPA|d̻ʲ<sup>zʲ</sup>}} といったように発音される</td>
|-
|lang="ru"|[[Е]]
|lang="ru"|е
|lang="ru"|е
|je
|イェ
|{{lang|ru|[[Э]]}}に同じ
|{{ipa|je}}
|align=left|「イェ」に近い 外来語では不規則的に子音後で硬音化するものがある
|-
|lang="ru"|[[Ё]]
|lang="ru"|ё
|lang="ru"|ё
|jo
|ヨ
|{{small|{{lang|ru|[[О]]}}に同じ}}
|{{ipa|jo}}
|align=left|「ヨ」に近い(母音の実際の音価は [[円唇中舌半狭母音|{{IPA|ɵ}}]] )。多くの場合[[トレマ]]無表記で {{lang|ru|E}} と同じく書かれるが読み方には影響しない
|-
|lang="ru"|[[Ж]]
|lang="ru"|ж
|lang="ru"|жэ
|zhe
|ジェ
|{{ipa|ʐ}}
| -
|align=left|[[そり舌音|そり舌気味]]で発音される {{IPA|z}}。日本語にないが、例えば[[中国語]]の「肉」([[pinyin|ròu]]) の発音 {{IPA|ʐoʊ̯˥˩}} の {{IPA|ʐ}} はこれに近い。<br />
※正書法における {{lang|ru|жж}} や {{lang|ru|зж}} は伝統的に別の、唯一固有の文字を持たない基本音素 {{ipa|ʑː}} を表すものが多い(例: {{lang|ru|жжет}} {{IPA|ʑːɵt}}、{{lang|ru|езжу}} {{IPA|ˈjeʑːʊ}}、但し {{lang|ru|разжать}} 等はこの音素を含んでいないため {{IPA|rɐˈʐːatʲ}})。[[20世紀]]以来に本来 {{IPA|ʑː}} と読むべきところを「書かれたまま」 {{IPA|ʐː}} と読むのが普及したため、この[[音素]]はロシア語話者の間では珍しくなっている。日本語に喩えて音を説明すると「家事」{{IPA|ka̠ʑi}} の {{IPA|ʑ}} がやや長めに発音された感じになる。
|-
|lang="ru"|[[З]]
|lang="ru"|з
|lang="ru"|зэ
|ze
|ゼ
|{{ipa|z}}
|{{ipa|zʲ}}
|align=left|同じ[[スラヴ語派]]の[[ポーランド語]]と違って[[口蓋化|軟音化]]のときは {{IPA|zʲ}} になる程度であって、日本語の「家事」{{IPA|ka̠ʑi}} における[[有声歯茎硬口蓋摩擦音|子音 {{IPA|ʑ}}]] にまでなることはない
|-
|lang="ru"|[[И]]
|lang="ru"|и
|lang="ru"|и
|i
|イ
|{{small|{{lang|ru|[[Ы]]}}に同じ}}
|{{ipa|i}}
|
|-
|lang="ru"|[[Й]]
|lang="ru"|й
|lang="ru"|и краткое
|i kratkoje
|イ クラトコイェ<ref group="*">アクセントのないоは[ɐ~ə]、еは[ɪ~ɪ̯ə~ə]に弱化するため、正確にはイ クラトカヤ{{IPA|ˈi ˈkratkəɪ̯ə}}。</ref>
| -
|{{ipa|j}}
|align=left|[[半母音]]の {{IPA|j}}(短い「イ」)<ref group="*">半母音の {{lang|ru|й}} は、主に母音の後ろでのみあらわれ、日本語のヤ、ユ、ヨのように {{IPA|j}} の音の後ろに母音が続く場合は {{lang|ru|е}}, {{lang|ru|ё}}, {{lang|ru|ю}}, {{lang|ru|я}} を用いる。</ref>
|-
|lang="ru"|[[К]]
|lang="ru"|к
|lang="ru"|ка
|ka
|カ
|{{ipa|k}}
|{{ipa|kʲ}}
|align=left|日本語と違って、[[無声硬口蓋破裂音|「き」が「ち」のような発音 {{IPA|ci}}]] になるといった訛り方に相当する現象はロシア語には存在せず、ロシア語話者にもっぱら {{lang|ru|ть}} や {{lang|ru|ч}} に聞こえ誤解を招き得る
|-
|lang="ru"|[[Л]]
|lang="ru"|л
|lang="ru"|эль
|el'
|エル
|{{ipa|ɫ}}
|{{ipa|lʲ}}
|align=left|硬音は[[アメリカ英語]]の L の発音に、軟音は[[イタリア語]]・[[フランス語]]・[[ドイツ語]]における L の発音にそれぞれ似ている
|-
|lang="ru"|[[М]]
|lang="ru"|м
|lang="ru"|эм
|em
|エム
|{{ipa|m}}
|{{ipa|mʲ}}
|
|-
|lang="ru"|[[Н]]
|lang="ru"|н
|lang="ru"|эн
|en
|エヌ
|{{ipa|n}}
|{{ipa|nʲ}}
|align=left|硬音は常に、環境によらず「ナ」の子音 {{IPA|n}} であり、日本語の「ン」とは実際にかなり違う。特に多くの言語とは対照的に [[軟口蓋鼻音|{{IPA|ŋ}}]] になることさえない
|-
|lang="ru"|[[О]]
|lang="ru"|о
|lang="ru"|о
|o
|オ
|{{ipa|o}}
|{{lang|ru|[[Ё]]}}に同じ
|align=left|アクセントがない場合は a と同じく発音する(ただし {{lang|ru|радио}} {{IPA|ˈradʲɪo}} のような例外もある)</td>
|-
|lang="ru"|[[П]]
|lang="ru"|п
|lang="ru"|пэ
|pe
|ペ
|{{ipa|p}}
|{{ipa|pʲ}}
|
|-
|lang="ru"|[[Р]]
|lang="ru"|р
|lang="ru"|эр
|er
|エル
|{{ipa|r}}
|{{ipa|rʲ}}
|align=left|[[歯茎ふるえ音|巻き舌 {{IPA|r}}]] で発音される。軟音化すると[[口蓋化]]した {{IPA|rʲ}} になり、発音の仕組みの特徴から [[歯茎ふるえ音|{{IPA|r}}]] に対して {{IPA|rʲ}} は若干ふるえにくい。
|-
|lang="ru"|[[С]]
|lang="ru"|с
|lang="ru"|эс
|es
|エス
|{{ipa|s}}
|{{ipa|sʲ}}
|align=left|同じ[[スラヴ語派]]の[[ポーランド語]]と違って軟音化のときは {{IPA|sʲ}} になる程度であって、日本語の「シ」の[[無声歯茎硬口蓋摩擦音|子音 {{IPA|ɕ}}]] にまでなることはない
|-
|lang="ru"|[[Т]]
|lang="ru"|т
|lang="ru"|тэ
|te
|テ
|{{ipa|t}}
|{{ipa|tʲ}}
|align=left|軟音は実際に[[舌端音]]の {{IPA|t̻ʲ<sup>sʲ</sup>}} といったように発音される
|-
|lang="ru"|[[У]]
|lang="ru"|у
|lang="ru"|у
|u
|ウ
|{{ipa|u}}
|{{small|{{lang|ru|[[Ю]]}}に同じ}}
|align=left|日本語の「う」よりも口を丸めて発音</td>
|-
|lang="ru"|[[Ф]]
|lang="ru"|ф
|lang="ru"|эф
|ef
|エフ
|{{ipa|f}}
|{{ipa|fʲ}}
|align=left|英語や中国語にも見られる音声 {{IPA|f}} 日本語の「フ」の子音 {{IPA|ɸ}} ではない 文字としてもっぱら外来語に登場する
|-
|lang="ru"|[[Х]]
|lang="ru"|х
|lang="ru"|ха
|kha
|ハ
|{{ipa|x}}
|{{ipa|xʲ}}
|align=left|[[無声軟口蓋摩擦音|「カ」のように発音される「ハ」]]であるが、[[口蓋化|軟音化]]すると日本語の標準的な「ヒ」の子音とさほど変わらない
|-
|lang="ru"|[[Ц]]
|lang="ru"|ц
|lang="ru"|цэ
|tse
|ツェ
|{{ipa|ʦ}}
| -
|align=left|「ツァ」「ツ」「ツォ」
|-
|lang="ru"|[[Ч]]
|lang="ru"|ч
|lang="ru"|че
|che
|チェ
| -
|{{ipa|ʨ}}
|align=left|「チャ」「チュ」「チョ」
|-
|lang="ru"|[[Ш]]
|lang="ru"|ш
|lang="ru"|ша
|sha
|シャ
|{{ipa|ʂ}}
| -
|align=left|[[後部歯茎音|そり舌気味]]で発音される {{IPA|s}}。日本語にないが、例えば[[中国語]]や[[サンスクリット]](梵語)における音素 {{ipa|ʂ}} はこのような音である(例: 中国語「[[上海]]」{{pinyin|shànghǎi}} {{IPA|ʂâŋ.xài}}、梵語 {{lang|sa|कृष्ण}} {{IPA|ˈkr̩ʂɳɐ}} 「[[クリシュナ]]」などの {{IPA|ʂ}} )
|-
|lang="ru"|[[Щ]]
|lang="ru"|щ
|lang="ru"|ща
|shcha
|シシャ(シチャ)
| -
|{{ipa|ɕː}}
|align=left|「ッシ」(「[[し|シ]]」の[[無声歯茎硬口蓋摩擦音|子音 {{IPA|ɕ}}]] に似ているが、やや長め)
|-
|lang="ru"|[[Ъ]]
|lang="ru"|ъ
|lang="ru"|твёрдый знак
|tvjordɨj znak
|トヴョルドゥイズナク
| -
| -
|align=left|[[硬音]]記号、非[[口蓋化]]する<ref group="*" name="KONAN">硬音の子音は微妙に「ウ」の音感、軟音の子音は微妙に「イ」の音感を伴う。</ref><ref group="*">硬音記号は、現在では軟母音で始まる単語の前に硬子音で終わる[[接頭辞]]が付加される場合(例: {{lang|ru|под + ехать}} → {{lang|ru|подъехать}})にしか用いられない。ただし日本語をロシア語式に音訳する際、[[鼻音|{{IPA|n}}]]と後続の母音を分けて発音することを明示する必要がある場合など(例:欽一の「き'''んい'''ち」が「き'''に'''ち」にならないようにする)、外国語の表記に用いることがある。</ref>
|-
|lang="ru"|[[Ы]]
|lang="ru"|ы
|lang="ru"|ы
|ɨ
|ウィ
|{{ipa|ɨ}}
| -
|align=left|カタカナ表記にもかかわらず、あくまで「イ」でも「ウ」でもない単純母音である。日本語に無く、例えば[[中国語]]の「吃」([[pinyin|chī]]) の発音 {{IPA|[tʂʰɨ˥]}} の母音 [[非円唇中舌狭母音|{{IPA|ɨ}}]] はこのような音である
|-
|lang="ru"|[[Ь]]
|lang="ru"|ь
|lang="ru"|мягкий знак
|mjagkij znak
|ミャグキイズナク<ref group="*">к、т、чの前のгは/х/となるため、正確にはミャフキイズナク{{IPA|ˈmʲæxʲkʲɪɪ̯ znak}}。</ref>
| -
| -
|align=left|[[軟音]]記号、[[口蓋化]]する<ref group="*" name="KONAN" /><ref group="*">軟音記号はそれが伴う直前の子音が軟音であることを現す。</ref>
|-
|lang="ru"|[[Э]]
|lang="ru"|э
|lang="ru"|э
|e
|エ
|{{ipa|e}}
| -
|align=left|日本語の「え」よりも広めに発音される(実際の音価は [[ɛ|{{IPA|ɛ}}]] ) 文字としては主に外来語に使用
|-
|lang="ru"|[[Ю]]
|lang="ru"|ю
|lang="ru"|ю
|ju
|ユ
|{{small|{{lang|ru|[[У]]}}に同じ}}
|{{ipa|ju}}
|align=left|「ユ」 両側に軟子音に挟まれてはさらに軟母音化して [[円唇中舌狭母音|{{IPA|ʉ}}]] と発音
|-
|lang="ru"|[[Я]]
|lang="ru"|я
|lang="ru"|я
|ja
|ヤ
|{{small|{{lang|ru|[[А]]}}に同じ}}
|{{ipa|ja}}
|align=left|「ヤ」 両側に軟子音に挟まれてはさらに軟母音化して [[非円唇前舌狭めの広母音|{{IPA|æ}}]] と発音
|}
{{reflist|group="*"}}
== アクセント・発音 ==
*日本語の[[アクセント]]([[高低アクセント]])とは異なり、[[強弱アクセント]]である。アクセントのある音は長く、強く発音する。
*[[疑問詞]]のない[[疑問文]]では、一番聞きたい部分の単語のアクセントで[[イントネーション]]を上げて発音する。
*ロシア語には {{ipa|w}} という子音がないため、外来語における {{ipa|w}} は {{ipa|v}} で置き換えられる。ただし発音のまま文字があてられたものもある。(例:{{lang|ru|Туалет}} トゥアリェートゥ←toilette([[フランス語]]より))
*子音字{{lang|ru|й}}は通常、語頭および子音字の直後には置かないが、特に[[外来語]]では {{lang|ru|Йокога́ма}}(ヨコガマ=[[横浜市|横浜]])のように単語の先頭に置くこともある。
*軟子音([[口蓋化|硬口蓋化]]子音)と硬子音(非硬口蓋化子音)が明確に区別される。なお日本で出版されているロシア語の参考書では {{ipa|jV}} (V は母音) という音およびその文字を「軟母音(字)」と呼び、それに対して単なる母音を「硬母音」と呼ぶことが多いが、この用語は日本特有のものであり本来ロシア語にこのような母音の硬軟の区別は存在しない。
*硬子音の前の軟子音は硬音化し、軟子音の前と単語の末尾にある硬子音は軟音化する。但し、[[接続詞]]や[[助詞]]は直後の単語と連結して発音される。
*{{lang|ru|ё}}には必ずアクセントがある(アクセントがなくなった場合、文字上は{{lang|ru|е}}に変化する)。
*{{lang|ru|у}}以外の母音はアクセントが無いと音が[[母音弱化|弱化]]する。アクセントの前後、位置で音は変わる。{{lang|ru|а}}, {{lang|ru|о}}は{{IPA|ə}}、{{lang|ru|и}}と{{lang|ru|э}}は{{IPA|ɪ}}({{lang|ru|и скло́нно к э}}「イがエに傾く」)、{{lang|ru|я}}と{{lang|ru|е}}は{{IPA|jɪ}}になる(ただし、厳密には音節によって弱化の度合いが異なり、従って実際の発音も異なる)。そのため、アクセントのない {{lang|ru|о}}, {{lang|ru|е}} はそれぞれ「ア」、「イ」のように聞こえる(例: {{Lang|ru|хорошо́}} [[ハラショー]])。ロシアにおける標準語の発音とされるが、元はモスクワの方言であり、地方や個人によっては {{lang|ru|о}}, {{lang|ru|е}} をそのまま「オ」、「イェ」で発音することもある。また、{{lang|ru|е, и}} の発音が「ヤ」気味になる方言が存在する。
*西欧語にはない {{IPA|zn}} や {{IPA|nr}} など、子音連続が多様である
*:例: {{lang|ru|зна́ние}} {{IPA|zna-}}(知識)
*:語頭に現れるもの
*:*{{lang|ru|зв, зд, зн, зл, зм, зр, мгл, мгн, мл, мн, нр}}... など
*一部の子音は[[派生]]語などで規則的に別の子音に変化する。
**{{lang|ru|г}} - {{lang|ru|ж}} など
*[[音素]]{{IPA|j}}は[[母音]]が後に続き、かつアクセントがある場合、[[摩擦音]]が生じ{{IPA|ʝ}}で発音される傾向がある。
*正書法の規則により、{{lang|ru|г ,к, х, ж, ч, ш, щ}} の後には {{lang|ru|я, ы, ю}}を置かず、代わりにそれぞれ {{lang|ru|а, и, у}} を用いる。ただし、この規則が適用されないケースもある。
== 文法 ==
{{main|{{仮リンク|ロシア語の文法|en|Russian grammar}}}}
{{節スタブ}}
=== 文 ===
主語がない[[無人称文]]({{lang|ru|[[:ru:Безличные предложения]]}})がある。無人称文では意味上の主語は与格で表される。
[[不定人称文]]({{lang|ru|[[:ru:Неопределённо-личные предложения]]}})では動詞は[[三人称]][[複数]]となる。
[[普遍人称文]]({{lang|ru|[[:ru:Обобщённо-личные предложения]]}})では動詞は[[二人称]][[数 (文法)|単数]]となる。
=== 名詞 ===
[[名詞]]は、男性、中性、女性の3つの[[性 (文法)|性]]に分かれている。ロシア語の名詞は、例外はあるものの総じて、単数主格形について男性名詞は子音字または軟音記号 {{lang|ru|-ь}}で、女性名詞は母音字 {{lang|ru|-а, -я}} または軟音記号 {{lang|ru|-ь}} で、中性名詞は母音字 {{lang|ru|-о, -е}} または {{lang|ru|-мя}}で終わる。そのため、名詞の性の判別が比較的容易である。これに加えて名詞は言葉の意味によって、人や動物を表す[[有生性|活動体]]とそれ以外のものを表す不活動体に分けられる。
[[数 (文法)|数]]は、単数と複数の区別を有する。複数では性の対立は薄れ、主格・生格・対格を除くとどの性の名詞も同一の格語尾を有する。複数主格の男性及び女性名詞は -{{lang|ru|ы}} または -{{lang|ru|и}}で終わり、中性名詞は {{lang|ru|-а}} または {{lang|ru|-я}} で終わる。歴史的には単数・複数の他に[[双数]](目、手、足など、二つ一組のものに用いられる数)が存在したが、現在は数詞 два「2」との結合(男性名詞のかつての双数主格の語尾 -а が後に単数生格の語尾 -а と解釈され、それが一般化された結果どの性の名詞に対しても数詞 два は後ろに単数生格を要求するようになった)あるいは берег「岸」の複数主格 берега(本来想定される複数主格は *береги)などに痕跡的に見られるのみである。
名詞の[[格]]は[[主格]]、[[属格|生格]]、[[与格]]、[[対格]]、[[造格]]、[[前置格]]の6種類である。一部には[[呼格]](例:{{lang|ru|Боже!}} 神よ!)、[[処格]]、物主格({{lang|ru|притяжательный падеж}})、分離格({{lang|ru|разделительный падеж}})が残る。[[格変化]]は語尾によって表され、性・数・体に合わせて変化を見せる。例外的に語尾が変化しない名詞もあるが、ほとんどは語順で格を示す必要がないため、語順は比較的自由に変えられる。
他にも大きな特徴として'''出没母音'''がある。これは語形変化に合わせて出現あるいは消滅する母音であり、主に{{lang|ru|о, е}}が用いられる。例えば、{{lang|ru|пирожок}}([[ピロシキ]])を複数形にすると、最後の{{lang|ru|о}}が消滅して{{lang|ru|пирожки}}になる。
名詞の格変化の基本パターンは以下の通りであるが、特に[[活動体]]と[[不活動体]]の男性名詞の対格の区別は注意すべきである。また、重音の移動、出没母音や[[正書法]]の制約などによる不規則変化も多いほか、[[外来語]]などに不変化の名詞もある。
{| class="wikitable"
|+男性名詞
| rowspan="2" |
| rowspan="8" |
! colspan="2" |語尾は子音<br/>({{lang|ru|самолёт}} 飛行機)
| rowspan="8" |
! colspan="2" |語尾は子音<br/>({{lang|ru|студент}} 男子大学生)
| rowspan="8" |
! colspan="2" |語尾は - <br/>{{lang|ru|й}}({{lang|ru|музей}} 博物館)
| rowspan="8" |
! colspan="2" |語尾は - <br/>{{lang|ru|ь}}({{lang|ru|словарь}} 辞書)
|-
!単数
!複数
!単数
!複数
!単数
!複数
!単数
!複数
|-
! 主格
|{{lang|ru|самолёт}}||{{lang|ru|самолёт'''ы'''}}
|{{lang|ru|студент}}
|{{lang|ru|студент'''ы'''}}||{{lang|ru|музе'''й'''}}
|{{lang|ru|музе'''и'''}}
|{{lang|ru|словар'''ь'''}}
|{{lang|ru|словар'''и'''}}
|-
! 生格
|{{lang|ru|самолёт'''a'''}}||{{lang|ru|самолёт'''ов'''}}
|{{lang|ru|студент'''a'''}}
|{{lang|ru|студент'''ов'''}}||{{lang|ru|музе'''я'''}}
|{{lang|ru|музе'''ев'''}}
|{{lang|ru|словар'''я'''}}
|{{lang|ru|словар'''ей'''}}
|-
! 与格
|{{lang|ru|самолёт'''у'''}}||{{lang|ru|самолёт'''aм'''}}
|{{lang|ru|студент'''у'''}}
|{{lang|ru|студент'''aм'''}}||{{lang|ru|музе'''ю'''}}
|{{lang|ru|музе'''ям'''}}
|{{lang|ru|словар'''ю'''}}
|{{lang|ru|словар'''ям'''}}
|-
! 対格
|{{lang|ru|самолёт}}
|{{lang|ru|самолёт'''ы'''}}
|{{lang|ru|студент'''a'''}}
|{{lang|ru|студент'''ов'''}}||{{lang|ru|музе'''й'''}}
|{{lang|ru|музе'''и'''}}
|{{lang|ru|словар'''ь'''}}
|{{lang|ru|словар'''и'''}}
|-
! 造格
|{{lang|ru|самолёт'''ом'''}}||{{lang|ru|самолёт'''aми'''}}
|{{lang|ru|студент'''ом'''}}
|{{lang|ru|студент'''aми'''}}||{{lang|ru|музе'''ем'''}}
|{{lang|ru|музе'''ями'''}}
|{{lang|ru|словар'''ём'''}}
|{{lang|ru|словар'''ями'''}}
|-
! 前置格
|{{lang|ru|самолёт'''е'''}}||{{lang|ru|самолёт'''aх'''}}
|{{lang|ru|студент'''е'''}}
|{{lang|ru|студент'''aх'''}}||{{lang|ru|музе'''е'''}}
|{{lang|ru|музе'''ях'''}}
|{{lang|ru|словар'''е'''}}
|{{lang|ru|словар'''ях'''}}
|}
{| class="wikitable"
|+女性名詞
| rowspan="2" |
| rowspan="8" |
! colspan="2" |語尾は -<br/>{{lang|ru|а}}({{lang|ru|машина}} 車)
| rowspan="8" |
! colspan="2" |語尾は --<br/>{{lang|ru|а}}({{lang|ru|рыба}} 魚)
| rowspan="8" |
! colspan="2" |語尾は --<br/>{{lang|ru|я}}({{lang|ru|станция}} 駅)
| rowspan="8" |
! colspan="2" |語尾は --<br/>{{lang|ru|ь}}({{lang|ru|тетрадь}} 手帳)
|-
!単数
!複数
!単数
!複数
!単数
!複数
!単数
!複数
|-
! 主格
|{{lang|ru|машин'''а'''}}
|{{lang|ru|машин'''ы'''}}
|{{lang|ru|рыб'''а'''}}
|{{lang|ru|рыб'''ы'''}}
|{{lang|ru|станци'''я'''}}
|{{lang|ru|станци'''и'''}}
|{{lang|ru|тетрад'''ь'''}}
|{{lang|ru|тетрад'''и'''}}
|-
! 生格
|{{lang|ru|машин'''ы'''}}
|{{lang|ru|машин}}
|{{lang|ru|рыб'''ы'''}}
|{{lang|ru|рыб}}
|{{lang|ru|станци'''и'''}}
|{{lang|ru|станци'''й'''}}
|{{lang|ru|тетрад'''и'''}}
|{{lang|ru|тетрад'''ей'''}}
|-
! 与格
|{{lang|ru|машин'''е'''}}
|{{lang|ru|машин'''ам'''}}
|{{lang|ru|рыб'''е'''}}
|{{lang|ru|рыб'''ам'''}}
|{{lang|ru|станци'''и'''}}
|{{lang|ru|станци'''ям'''}}
|{{lang|ru|тетрад'''и'''}}
|{{lang|ru|тетрад'''ям'''}}
|-
! 対格
|{{lang|ru|машин'''у'''}}
|{{lang|ru|машин'''ы'''}}
|{{lang|ru|рыб'''у'''}}
|{{lang|ru|рыб}}
|{{lang|ru|станци'''ю'''}}
|{{lang|ru|станци'''и'''}}
|{{lang|ru|тетрад'''ь'''}}
|{{lang|ru|тетрад'''и'''}}
|-
! 造格
|{{lang|ru|машин'''ой'''}}
|{{lang|ru|машин'''ами'''}}
|{{lang|ru|рыб'''ой'''}}
|{{lang|ru|рыб'''ами'''}}
|{{lang|ru|станци'''ей'''}}
|{{lang|ru|станци'''ями'''}}
|{{lang|ru|тетрад'''ью'''}}
|{{lang|ru|тетрад'''ями'''}}
|-
! 前置格
|{{lang|ru|машин'''е'''}}
|{{lang|ru|машин'''ах'''}}
|{{lang|ru|рыб'''е'''}}
|{{lang|ru|рыб'''ах'''}}
|{{lang|ru|станци'''и'''}}
|{{lang|ru|станци'''ях'''}}
|{{lang|ru|тетрад'''и'''}}
|{{lang|ru|тетрад'''ях'''}}
|}
{| class="wikitable"
|+中性名詞
| rowspan="2" |
| rowspan="8" |
! colspan="2" |語尾は -<br/>{{lang|ru|о}}({{lang|ru|вино}} ワイン)
| rowspan="8" |
! colspan="2" |語尾は -<br/>{{lang|ru|е}}({{lang|ru|море}} 海)
| rowspan="8" |
! colspan="2" |語尾は -<br/>{{lang|ru|мя}}({{lang|ru|имя}} 名前)
|-
!単数
!複数
!単数
!複数
!単数
!複数
|-
! 主格
|{{lang|ru|вин'''о'''}}
|{{lang|ru|вин'''а'''}}
|{{lang|ru|мор'''е'''}}
|{{lang|ru|мор'''я'''}}
|{{lang|ru|им'''я'''}}
|{{lang|ru|им'''ена'''}}
|-
! 生格
|{{lang|ru|вин'''а'''}}
|{{lang|ru|вин}}
|{{lang|ru|мор'''я'''}}
|{{lang|ru|мор'''ей'''}}
|{{lang|ru|им'''ени'''}}
|{{lang|ru|им'''ён'''}}
|-
! 与格
|{{lang|ru|вин'''у'''}}
|{{lang|ru|вин'''ам'''}}
|{{lang|ru|мор'''ю'''}}
|{{lang|ru|мор'''ям'''}}
|{{lang|ru|им'''ени'''}}
|{{lang|ru|им'''енам'''}}
|-
! 対格
|{{lang|ru|вин'''о'''}}
|{{lang|ru|вин'''а'''}}
|{{lang|ru|мор'''е'''}}
|{{lang|ru|мор'''я'''}}
|{{lang|ru|им'''я'''}}
|{{lang|ru|им'''ена'''}}
|-
! 造格
|{{lang|ru|вин'''ом'''}}
|{{lang|ru|вин'''ами'''}}
|{{lang|ru|мор'''ем'''}}
|{{lang|ru|мор'''ями'''}}
|{{lang|ru|им'''енем'''}}
|{{lang|ru|им'''енами'''}}
|-
! 前置格
|{{lang|ru|вин'''е'''}}
|{{lang|ru|вин'''ах'''}}
|{{lang|ru|мор'''е'''}}
|{{lang|ru|мор'''ях'''}}
|{{lang|ru|им'''ени'''}}
|{{lang|ru|им'''енах'''}}
|}
[[数詞]]とそれに関連する名詞は特殊な変化をみせる。1 は単数主格だが、2-4 は単数生格、5以上が複数生格をとる。2-4 の単数生格は古い[[双数形]]の名残りである。
{| class="wikitable"
|
!男性名詞({{lang|ru|сантиметр}} センチ)
!女性名詞({{lang|ru|деревня}} 村)
!中性名詞({{lang|ru|яблоко}} リンゴ)
!複数名詞({{lang|ru|сани}} 橇)
|-
! 1
|{{lang|ru|один сантиметр}}
|{{lang|ru|одна деревня}}
|{{lang|ru|одно яблоко}}
|{{lang|ru|одни сани}}
|-
! 2
|{{lang|ru|два сантиметра}}
|{{lang|ru|две деревни}}
|{{lang|ru|два яблока}}
|{{lang|ru|двое саней}}
|-
! 5
|{{lang|ru|пять сантиметров}}
|{{lang|ru|пять деревень}}
|{{lang|ru|пять яблок}}
|{{lang|ru|пятеро саней}}
|-
! 12
|{{lang|ru|двенадцать сантиметров}}
|{{lang|ru|двенадцать деревень}}
|{{lang|ru|двенадцать яблок}}
|{{lang|ru|двенадцать саней}}
|-
! 22
|{{lang|ru|двадцать два сантиметра}}
|{{lang|ru|двадцать две деревни}}
|{{lang|ru|двадцать два яблока}}
|{{lang|ru|двадцать двое саней}}
|}
=== 人称代名詞 ===
{| class="wikitable"
! rowspan="3"|
| rowspan="10"|
! style="background:#C0C0C0" colspan="5"|単数
| rowspan="10"|
! style="background:#C0C0C0" colspan="3"|複数
| rowspan="10"|
! style="background:#C0C0C0" colspan="2" rowspan="3"|再帰
|-
! style="background:#C0C0C0" rowspan="2"|一人称
! style="background:#C0C0C0" rowspan="2"|二人称
! style="background:#C0C0C0" colspan="3"|三人称
! style="background:#C0C0C0" rowspan="2"|一人称
! style="background:#C0C0C0" rowspan="2"|二人称
! style="background:#C0C0C0" rowspan="2"|三人称
|-
! style="background:#C0C0C0" | 男性
! style="background:#C0C0C0" | 女性
! style="background:#C0C0C0" | 中性
|- style="background:#E0E0E0"
| '''(日本語)''' || 私 || 君 || 彼 || 彼女 || それ || 私たち || あなた、あなたたち || 彼ら、彼女ら、それら || 自分自身
|-
| style="background:#C0C0C0" | '''[[主格]]''' || {{lang|ru|я}} || {{lang|ru|ты}} || {{lang|ru|он}} || {{lang|ru|она}} || {{lang|ru|оно}} || {{lang|ru|мы}} || {{lang|ru|вы}} || {{lang|ru|они}} ||
|-
| style="background:#C0C0C0" | '''[[生格]]''' || {{lang|ru|меня}} || {{lang|ru|тебя}} || {{lang|ru|его}} || {{lang|ru|её}} || {{lang|ru|его}} || {{lang|ru|нас}} || {{lang|ru|вас}} || {{lang|ru|их}} || {{lang|ru|себя}}
|-
| style="background:#C0C0C0" | '''[[与格]]''' || {{lang|ru|мне}} || {{lang|ru|тебе}} || {{lang|ru|ему}} || {{lang|ru|ей}} || {{lang|ru|ему}} || {{lang|ru|нам}} || {{lang|ru|вам}} || {{lang|ru|им}} || {{lang|ru|себе}}
|-
| style="background:#C0C0C0" | '''[[対格]]''' || {{lang|ru|меня}} || {{lang|ru|тебя}} || {{lang|ru|его}} || {{lang|ru|её}} || {{lang|ru|его}} || {{lang|ru|нас}} || {{lang|ru|вас}} || {{lang|ru|их}} || {{lang|ru|себя}}
|-
| style="background:#C0C0C0" | '''[[造格]]''' || {{lang|ru|мной}}<br />({{lang|ru|мною}}) || {{lang|ru|тобой}}<br />({{lang|ru|тобою}}) || {{lang|ru|им}} || {{lang|ru|ей}}<br />({{lang|ru|ею}}) || {{lang|ru|им}} || {{lang|ru|нами}} || {{lang|ru|вами}} || {{lang|ru|ими}} || {{lang|ru|собой}}<br />({{lang|ru|собою}})
|-
| style="background:#C0C0C0" | '''[[前置格]]''' || {{lang|ru|мне}} || {{lang|ru|тебе}} || {{lang|ru|нём}} || {{lang|ru|ней}} || {{lang|ru|нём}} || {{lang|ru|нас}} || {{lang|ru|вас}} || {{lang|ru|них}} || {{lang|ru|себе}}
|}
* {{lang|ru|его}} の {{lang|ru|г}} は「{{lang|ru|в}}」と発音する。
* 三人称の生格・与格・対格・造格は、前置詞があると、前に {{lang|ru|н}} を付ける(例:{{lang|ru|у него}}、{{lang|ru|с неё}})。
敬称としての {{lang|ru|вы}} は、文中でも {{lang|ru|Вы}} のように大文字で書き始めることがある。なお、ロシア語ではほとんどの動詞が語尾から人称と数がわかるので、特に必要がなければ主格人称代名詞は省略できる(例:{{lang|ru|Читаю книгу.}} 「(私は)本を読む」)。
=== 動詞 ===
[[動詞]]は1回限りの動作や、その開始と終了がはっきりと意識できるひとまとまりの動作など(日本語で言えば「食べてしまう」「読み切る」のような)を表す完了体({{lang|ru|совершенный вид}})と、進行・継続・反復する動作または動作そのものなど(「食べている」「読む」のような)を表す不完了体({{lang|ru|несовершенный вид}})(未完了体とも)の2つの体([[相 (言語学)]]参照)に分類され、多くの動詞で対になっている。一部には対になる体をもたないものや、完了体でもあり不完了体でもあるものなど、変則的な動詞も存在しているが、いずれにも属さない動詞は存在しない。
[[時制]]は、単純に過去・現在・未来の3つだけである。基本的に全ての動詞は過去形と現在形しかもたない(唯一の例外は[[英語]]のbe動詞に当たる {{lang|ru|быть}} であって、過去形・現在形・未来形の3形態をもつ)。現在形は[[主語]]の人称・数により、過去形は性・数によって変化する。未来形は完了体と不完了体で表現の方法が異なり、完了体の場合は、その現在形がそのまま意味上の未来を表すのに対し、不完了体では助動詞 {{lang|ru|быть}} の未来形との結合で表される。
動詞の過去形の語形変化の基本パターンは1つしかないが、不規則なものがある。
{| class="wikitable"
|+動詞の過去形の語形変化
| rowspan="2" |
| rowspan="5" |
! colspan="2" |一般({{lang|ru|читать}} 読む)
| rowspan="5" |
! colspan="2" |特殊({{lang|ru|идти}} 行く)
| rowspan="5" |
! colspan="2" |語尾は -{{lang|ru|ся}}({{lang|ru|строиться}} 建設する)
|-
!単数
!複数
!単数
!複数
!単数
!複数
|-
! 男性
|{{lang|ru|он чита'''л'''}}
| rowspan="3" |{{lang|ru|они чита'''ли'''}}
|{{lang|ru|он '''шёл'''}}
| rowspan="3" |{{lang|ru|они '''шли'''}}
|{{lang|ru|он строи'''л'''с'''я'''}}
| rowspan="3" |{{lang|ru|они строи'''ли'''с'''ь'''}}
|-
! 女性
|{{lang|ru|она чита'''ла'''}}
|{{lang|ru|она '''шла'''}}
|{{lang|ru|она строи'''ла'''с'''ь'''}}
|-
! 中性
|{{lang|ru|оно чита'''ло'''}}
|{{lang|ru|оно '''шло'''}}
|{{lang|ru|оно строи'''ло'''с'''ь'''}}
|}
動詞の現在形の語形変化の基本パターンは2種類があるが、不規則なものも多い。
{| class="wikitable"
|+動詞の現在形の語形変化
| rowspan="2" |
| rowspan="5" |
! colspan="2" |第一式変化({{lang|ru|читать}} 読む)
| rowspan="5" |
! colspan="2" |第二式変化({{lang|ru|смотреть}} 見る)
| rowspan="5" |
! colspan="2" |語尾は -{{lang|ru|ся}}({{lang|ru|строиться}} 建設する)
|-
!単数
!複数
!単数
!複数
!単数
!複数
|-
! 一人称
|{{lang|ru|я чита'''ю'''}}
|{{lang|ru|мы чита'''ем'''}}
|{{lang|ru|я смотр'''ю'''}}
|{{lang|ru|мы смотр'''им'''}}
|{{lang|ru|я стро'''ю'''с'''ь'''}}
|{{lang|ru|мы стро'''им'''с'''я'''}}
|-
! 二人称
|{{lang|ru|ты чита'''ешь'''}}
|{{lang|ru|вы чита'''ете'''}}
|{{lang|ru|ты смотр'''ишь'''}}
|{{lang|ru|вы смотр'''ите'''}}
|{{lang|ru|ты стро'''ишь'''с'''я'''}}
|{{lang|ru|вы стро'''ите'''с'''ь'''}}
|-
! 三人称
|{{lang|ru|он/она/оно чита'''ет'''}}
|{{lang|ru|они чита'''ют'''}}
|{{lang|ru|он/она/оно смотр'''ит'''}}
|{{lang|ru|они смотр'''ят'''}}
|{{lang|ru|он/она/оно стро'''ит'''с'''я'''}}
|{{lang|ru|они стро'''ят'''с'''я'''}}
|}
{| class="wikitable"
|+
{{lang|ru|быть}} の未来形の語形変化
|
!単数
!複数
|-
! 一人称
|{{lang|ru|я буд'''у'''}}
|{{lang|ru|мы буд'''ем'''}}
|-
! 二人称
|{{lang|ru|ты буд'''ешь'''}}
|{{lang|ru|вы буд'''ете'''}}
|-
! 三人称
|{{lang|ru|он/она/оно буд'''ет'''}}
|{{lang|ru|они буд'''ут'''}}
|}
[[コピュラ]]動詞(…'''である'''){{lang|ru|быть}} の現在形は基本的には明示されない(例:{{lang|ru|Я чайка.}} 「私はかもめ」)。かつては、主語の人称と数に一致した {{lang|ru|быть}} が用いられていたが、そのような機能は現在の {{lang|ru|быть}} からはほぼ完全に失われており、現在形が用いられる局面は、所有を表す場合に限定されると言っても過言ではない。その際には、所有される側が文法的な主語に当たるので、{{lang|ru|быть}} の三人称単数形 {{lang|ru|есть}}(例:{{lang|ru|У меня есть сын.}}「私には息子がいる(私の許には息子がいる)」)を用いることになる。所有される側が複数の場合、以前は {{lang|ru|быть}} の三人称複数形に当たる {{lang|ru|суть}} を使用していたが、現在では数に関係なく {{lang|ru|есть}} を使う傾向にあるようである。
さらに、{{lang|ru|есть}} は存在だけを問題としているので、存在することが前提となっている場合は不要になる(例:{{lang|ru|У меня маленький сын.}} 「私には小さな息子がいる」→息子の有無についてではなく、それがどのような息子なのかが問題となっている)。
なお、否定の表現(…'''がない'''、…'''がいない''')は {{lang|ru|нет}} を使い、存在を否定する名詞を生格に変える(例:{{lang|ru|У меня нет сына.}} 「私に息子はいない」)。この {{lang|ru|нет}} は、{{lang|ru|не есть}} の音便形であり、"{{lang|ru|Да}}(はい)"、"{{lang|ru|Нет}}(いいえ)" の "{{lang|ru|Нет}}" とは、別物である。
動詞が変化したものとして[[形動詞]](西欧語の分詞のように形容詞の働きをする)や[[副動詞]](副詞の働き)がある。{{lang|ru|ся}}動詞と呼ばれる一群の動詞(語尾に再帰代名詞 {{lang|ru|ся}} がつく)はフランス語などの[[再帰動詞]]と同様に用いられ、また相互の動作や[[受動態|受動表現]]にも用いられる。
{| class="wikitable"
|+形動詞(男性単数主格形)と副動詞
| rowspan="2" |
| rowspan="8" |
! colspan="2" |第一式変化({{lang|ru|читать}} / {{lang|ru|прочитать}} 読む)
| rowspan="8" |
! colspan="2" |第二式変化({{lang|ru|смотреть}} / {{lang|ru|посмотреть}} 見る)
| rowspan="8" |
! colspan="2" |語尾は -{{lang|ru|ся}}({{lang|ru|строиться}} / {{lang|ru|построиться}} 建設する)
|-
!不完了体
!完了体
!不完了体
!完了体
!不完了体
!完了体
|-
! 能動形現在
|{{lang|ru|чита'''ющий'''}}
|
|{{lang|ru|смотр'''ящий'''}}
|
|{{lang|ru|стро'''ящий'''с'''я'''}}
|
|-
! 能動形過去
|{{lang|ru|чита'''вший'''}}
|{{lang|ru|прочита'''вший'''}}
|{{lang|ru|смотр'''евший'''}}
|{{lang|ru|посмотр'''евший'''}}
|{{lang|ru|стро'''ивший'''с'''я'''}}
|{{lang|ru|постро'''ивший'''с'''я'''}}
|-
! 受動形現在
|{{lang|ru|чита'''емый'''}}
|
|{{lang|ru|смотр'''имый'''}}
|
|
|
|-
! rowspan="2" |受動形過去
|
|{{lang|ru|прочита'''нный'''}}
|
|{{lang|ru|посмотр'''енный'''}}
|
|
|-
|
|{{lang|ru|прочита'''н'''}}
|
|{{lang|ru|посмотр'''ен'''}}
|
|
|-
!副動詞
|{{lang|ru|чита'''я'''}}
|{{lang|ru|прочита'''в'''}}
|{{lang|ru|смотр'''я'''}}
|{{lang|ru|посмотр'''ев'''}}
|{{lang|ru|стро'''я'''с'''ь'''}}
|{{lang|ru|постро'''ивши'''с'''ь'''}}
|}
=== 形容詞 ===
[[形容詞]]は名詞と同様に性・数・格によって変化し、限定的用法(名詞につく場合)はそれらが[[一致]]する。叙述的用法では語尾が短い「短語尾形」も用いられる。
==== 格変化 ====
形容詞の格変化の基本形は以下の通りである。なお、ロシア人の形容詞型の[[姓]]([[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]、[[レフ・トルストイ|トルストイ]]など)も同じ格変化になる。
{| class="wikitable"
|+ '''硬音型({{lang|ru|новый}} 新しい)'''
| rowspan="2"|
| rowspan="8"|
! colspan="3" align="center" | 単数
| rowspan="8"|
! rowspan="2" valign="center" | 複数
|-
! 男性
! 女性
! 中性
|-
! 主格
|{{lang|ru|нов'''ый'''}}
|{{lang|ru|нов'''ая'''}}
|{{lang|ru|нов'''ое'''}}
|{{lang|ru|нов'''ые'''}}
|-
! 生格
|{{lang|ru|нов'''ого'''}}
|{{lang|ru|нов'''ой'''}}
|{{lang|ru|нов'''ого'''}}
|{{lang|ru|нов'''ых'''}}
|-
! 与格
|{{lang|ru|нов'''ому'''}}
|{{lang|ru|нов'''ой'''}}
|{{lang|ru|нов'''ому'''}}
|{{lang|ru|нов'''ым'''}}
|-
! 対格
|{{lang|ru|нов'''ый'''}} または {{lang|ru|нов'''ого'''}}||{{lang|ru|нов'''ую'''}}
|{{lang|ru|нов'''ое'''}}
|{{lang|ru|нов'''ые'''}} または {{lang|ru|нов'''ых'''}}
|-
! 造格
|{{lang|ru|нов'''ым'''}}
|{{lang|ru|нов'''ой'''}}
|{{lang|ru|нов'''ым'''}}
|{{lang|ru|нов'''ыми'''}}
|-
! 前置格
|{{lang|ru|нов'''ом'''}}
|{{lang|ru|нов'''ой'''}}
|{{lang|ru|нов'''ом'''}}
|{{lang|ru|нов'''ых'''}}
|-
| colspan="7" |
|-
!短語尾形
|
|{{lang|ru|нов}}
|{{lang|ru|нов'''а'''}}
|{{lang|ru|нов'''о'''}}
|
|{{lang|ru|нов'''ы'''}}
|}
{| class="wikitable"
|+ '''軟音型({{lang|ru|синий}} 青い)'''
| rowspan="2"|
| rowspan="8"|
! colspan="3" align="center" | 単数
| rowspan="8"|
! rowspan="2" valign="center" | 複数
|-
! 男性
! 女性
! 中性
|-
! 主格
|{{lang|ru|син'''ий'''}}
|{{lang|ru|син'''яя'''}}
|{{lang|ru|син'''ее'''}}
|{{lang|ru|син'''ие'''}}
|-
! 生格
|{{lang|ru|син'''его'''}}
|{{lang|ru|син'''ей'''}}
|{{lang|ru|син'''его'''}}
|{{lang|ru|син'''их'''}}
|-
! 与格
|{{lang|ru|син'''ему'''}}
|{{lang|ru|син'''ей'''}}
|{{lang|ru|син'''ему'''}}
|{{lang|ru|син'''им'''}}
|-
! 対格
|{{lang|ru|син'''ий'''}} または {{lang|ru|син'''его'''}}||{{lang|ru|син'''юю'''}}
|{{lang|ru|син'''ее'''}}
|{{lang|ru|син'''ие'''}} または {{lang|ru|син'''их'''}}
|-
! 造格
|{{lang|ru|син'''им'''}}
|{{lang|ru|син'''ей'''}}
|{{lang|ru|син'''им'''}}
|{{lang|ru|син'''ими'''}}
|-
! 前置格
|{{lang|ru|син'''ем'''}}
|{{lang|ru|син'''ей'''}}
|{{lang|ru|син'''ем'''}}
|{{lang|ru|син'''их'''}}
|-
| colspan="7" |
|-
!短語尾形
|
|{{lang|ru|син'''ь'''}}
|{{lang|ru|син'''я'''}}
|{{lang|ru|син'''е'''}}
|
|{{lang|ru|син'''и'''}}
|}
* 男性および複数の対格は、名詞が活動体であれば生格と同じになり、不活動体であれば主格と同じになる。
== 方言 ==
[[ファイル:Dialects of Russian language.png|300px|thumb|ロシア語の方言図(1915年)]]
*北部の方言
{{legend|#587942|1. [[アルハンゲリスク]]([[白海]])の訛り}}
{{legend|#3E7D6D|2. [[オロネツ]]の訛り}}
{{legend|#45AD96|3. [[ノヴゴロド]](北西)の訛り}}
{{legend|#69A74B|4. [[キーロフ|ヴャトカ]](北東)の訛り}}
{{legend|#61C57A|5. [[ウラジーミル (ウラジーミル州)|ウラジーミル]]・[[ヴォルガ川|ヴォルガ]]の訛り}}
*中部(中間)の方言
{{legend|#F587C1|6. [[モスクワ]](中東)の訛り}}
{{legend|#D172A2|7. [[トヴェリ]](中西)の訛り}}
*南部の方言
{{legend|#FF9B06|8. [[オリョール]]([[ドン・コサック|ドン]])の訛り}}
{{legend|#FF7D26|9. [[リャザン]](南東)の訛り}}
{{legend|#FFAA71|10. [[トゥーラ (ロシア)|トゥーラ]]の訛り}}
{{legend|#F2D273|11. [[スモレンスク]](南西)の訛り}}
*その他
{{legend|#40956C|12. [[ベラルーシ語]]の影響を受けたロシア北部の訛り}}
{{legend|#ECBD00|13. [[ウクライナ語]]の訛り([[スロボダ・ウクライナ|スロボダ]]の訛り、[[草原]]の訛り)}}
{{legend|#FFD93E|14. ロシア語の影響を受けたウクライナ語の草原([[クバーニ・コサック|クバーニ]])の訛り}}
=== ロシア領時代からアラスカに残存するロシア語方言 ===
上記の通り、アラスカがロシアの領土であった時代に{{仮リンク|ニニルチク|en|Ninilchik, Alaska}}<small>('''露''': {{lang|ru|[[:ru:Нинилчик (Аляска)|Нинилчик]]}})</small>村に定住して現地の民族と融合した[[ロシア人]]は、1867年の[[アラスカ購入]]以降ロシアとの接触が減少し、さらには1917年の[[十月革命]]によるロシアの共産化によって接触機会が完全になくなったため、標準語のロシア語から完全に隔離された状態で約100年にわたって独自の発達を遂げてきた。[[シベリア]]の方言、[[英語]]、[[エスキモー・アレウト語族|エスキモー諸語]]、[[アサバスカ諸語]]の単語が混ざり、中性名詞が消えていて、女性名詞もかなり少なくなっている。2013年現在、ニニルチク村では英語が使われていて、ロシア語を覚えている住人はわずか20人であり、全員が75歳以上となっている<ref>[http://m.roshianow.jp/arts/2013/05/30/43261.html アラスカでロシア語の方言発見]、ロシアNOW、2013年5月30日</ref>。
== 文例 ==
{|class="wikitable sortable"
!日本語!!ロシア語!!class=unsortable|備考
|-
|こんにちは||{{読み|subst=2015-03
|{{lang|ru|Здравствуйте}}!|ズドラーストヴイチェ|rblang=ru|lang=Ja}}||ひとつめのвは[[黙字]]。
|-
|やあ!||{{読み|subst=2015-03
|{{lang|ru|Привет}}.|プリヴィェート|rblang=ru|lang=Ja}}||親しみを込めた「こんにちは」
|-
|やあ!||{{読み|subst=2015-03
|{{lang|ru|Здравствуй}}.|ズドラーストヴイ|rblang=ru|lang=Ja}}||親しみを込めた「こんにちは」
|-
|はじめまして||{{読み|subst=2015-03
|{{lang|ru|Очень приятно}}.|オーチニ プリヤートナ|rblang=ru|lang=Ja}}||名前を言った後に言う
|-
|おはよう||{{読み|subst=2015-03
|{{lang|ru|Доброе утро}}.|ドーブライェ ウートラ|rblang=ru|lang=Ja}}||
|-
|こんにちは||{{読み|subst=2015-03
|{{lang|ru|Добрый день}}.|ドーブルィイ ヂェーニ|rblang=ru|lang=Ja}}||
|-
|こんばんは||{{読み|subst=2015-03
|{{lang|ru|Добрый вечер}}.|ドーブルィイ ヴィェーチェル|rblang=ru|lang=Ja}}||
|-
|お休みなさい||{{読み|subst=2015-03
|{{lang|ru|Спокойной ночи}}.|スパコーイナイ ノーチ|rblang=ru|lang=Ja}}||
|-
|さようなら||{{読み|subst=2015-03
|{{lang|ru|До}} {{lang|ru|свидания}}!|ダスヴィダーニヤ|rblang=ru|lang=Ja}}||「また会いましょう、また会うときまで」
|-
|さようなら||{{読み|subst=2015-03
|{{lang|ru|Прощайте}}.|プラシャーイチェ|rblang=ru|lang=Ja}}||当分会えない場合
|-
|さようなら||{{読み|subst=2015-03
|{{lang|ru|До}} {{lang|ru|завтра}}.|ダザーフトラ|rblang=ru|lang=Ja}}||「また明日」
|-
|ありがとう||{{読み|subst=2015-03
|{{lang|ru|Спасибо}}!|スパシーバ|rblang=ru|lang=Ja}}||
|-
|すばらしい||{{読み|subst=2015-03
|{{lang|ru|Хорошо}}.|ハラショー|rblang=ru|lang=Ja}}||
|-
|はい||{{読み|subst=2015-03
|{{lang|ru|Да}}.|ダー|rblang=ru|lang=Ja}}||
|-
|いいえ||{{読み|subst=2015-03
|{{lang|ru|Нет}}.|ニェート|rblang=ru|lang=Ja}}||
|-
|すいません 、ごめんなさい||{{読み|subst=2015-03
|{{lang|ru|Извините}}.|イズヴィニーチェ|rblang=ru|lang=Ja}}||「許してください」の意。
|-
|どういたしまして||{{読み|subst=2015-03
|{{lang|ru|Не за что}}.|ニェー ザ シュトー|rblang=ru|lang=Ja}}||「全くない」という意味。({{lang-en|Not At All}})
|-
|お名前は?||{{読み|subst=2015-03
|{{lang|ru|Как вас зовут}}?|カーク ヴァース ザヴート|rblang=ru|lang=Ja}}||
|-
|私は…です。||{{読み|subst=2015-03
|{{lang|ru|Меня зовут}} ….|ミニャー ザヴート|rblang=ru|lang=Ja}}||「…」の部分は名前
|-
|私はあなたを愛しています。||{{読み|subst=2015-03
|{{lang|ru|Я тебя люблю}}.|ヤー チビャー リュブリュー|rblang=ru|lang=Ja}}||{{lang|ru|тебя}}を取って最後に名詞の対格を持ってくると「~が好きです」という意味になる。
|-
|おかえりなさい||{{読み|subst=2015-03
|{{lang|ru|С возвращением}}.|ス ヴァズヴラシェーニイム|rblang=ru|lang=Ja}}||
|-
|喜んで||{{読み|subst=2015-03
|{{lang|ru|С удовольствием}}.|スダヴォーリストヴイム|rblang=ru|lang=Ja}}||{{lang-en|With pleasure}}
|-
|残念ながら
|{{lang|ru|К сожалению.}}
|
|-
|幸いなことに
|{{lang|ru|К счастью.}}
|
|-
|夕食はいつか?
|{{lang|ru|Когда ужин?}}
|
|-
|これをロシア語で何という?
|{{lang|ru|Как это по-русски?}}
|
|}
=== 日本語かなのキリル文字表記 ===
{{main|日本語のキリル文字表記}}
以下に日本語かなの[[キリル文字]]表記を示す<ref>ソ連科学アカデミー東洋学研究所『和露大辞典』[[ニコライ・コンラド]]監修、1976年、[[ナウカ]]、裏表紙の表の表記に基づいた。</ref>。
{|class=wikitable
|+日本語かなのキリル文字表記
! !!あ列<br>{{lang|ru|а}}!!い列<br>{{lang|ru|и}}!!う列<br>{{lang|ru|у}}!!え列<br>{{lang|ru|э}}!!お列<br>{{lang|ru|о}}!!ゃ列<br>{{lang|ru|я}}!!ゅ列<br>{{lang|ru|ю}}!!ょ列<br>{{lang|ru|ё}}
|-
!style="text-align:left"|あ行<br>
|あ<br>{{lang|ru|а}}||い<br>{{lang|ru|и}}||う<br>{{lang|ru|у}}||え<br>{{lang|ru|э}}||お<br>{{lang|ru|о}}
|-
!style="text-align:left"|か行<br>{{lang|ru|к}}
|か<br>{{lang|ru|ка}}||き<br>{{lang|ru|ки}}||く<br>{{lang|ru|ку}}||け<br>{{lang|ru|кэ}}||こ<br>{{lang|ru|ко}}||きゃ<br>{{lang|ru|кя}}||きゅ<br>{{lang|ru|кю}}||きょ<br>{{lang|ru|кё}}
|-
!style="text-align:left"|さ行<br>{{lang|ru|с}}
|さ<br>{{lang|ru|са}}||し<br>{{lang|ru|си}}||す<br>{{lang|ru|су}}||せ<br>{{lang|ru|сэ}}||そ<br>{{lang|ru|со}}||しゃ<br>{{lang|ru|ся}}||しゅ<br>{{lang|ru|сю}}||しょ<br>{{lang|ru|сё}}
|-
!style="text-align:left"|た行<br>{{lang|ru|т}}
|た<br>{{lang|ru|та}}||ち<br>{{lang|ru|ти}}||つ<br>{{lang|ru|цу}}||て<br>{{lang|ru|тэ}}||と<br>{{lang|ru|то}}||ちゃ<br>{{lang|ru|тя}}||ちゅ<br>{{lang|ru|тю}}||ちょ<br>{{lang|ru|тё}}
|-
!style="text-align:left"|な行<br>{{lang|ru|н}}
|な<br>{{lang|ru|на}}||に<br>{{lang|ru|ни}}||ぬ<br>{{lang|ru|ну}}||ね<br>{{lang|ru|нэ}}||の<br>{{lang|ru|но}}||にゃ<br>{{lang|ru|ня}}||にゅ<br>{{lang|ru|ню}}||にょ<br>{{lang|ru|нё}}
|-
!style="text-align:left"|は行<br>{{lang|ru|х}}
|は<br>{{lang|ru|ха}}||ひ<br>{{lang|ru|хи}}||ふ<br>{{lang|ru|фу}}||へ<br>{{lang|ru|хэ}}||ほ<br>{{lang|ru|хо}}||ひゃ<br>{{lang|ru|хя}}||ひゅ<br>{{lang|ru|хю}}||ひょ<br>{{lang|ru|хё}}
|-
!style="text-align:left"|ま行<br>{{lang|ru|м}}
|ま<br>{{lang|ru|ма}}||み<br>{{lang|ru|ми}}||む<br>{{lang|ru|му}}||め<br>{{lang|ru|мэ}}||も<br>{{lang|ru|мо}}||みゃ<br>{{lang|ru|мя}}||みゅ<br>{{lang|ru|мю}}||みょ<br>{{lang|ru|мё}}
|-
!style="text-align:left"|や行<br>{{lang|ru|й}}
|や<br>{{lang|ru|я}}||{{N/A}}||ゆ<br>{{lang|ru|ю}}||{{N/A}}||よ<br>{{lang|ru|ё}}||{{N/A}}||{{N/A}}||{{N/A}}
|-
!style="text-align:left"|ら行<br>{{lang|ru|р}}
|ら<br>{{lang|ru|ра}}||り<br>{{lang|ru|ри}}||る<br>{{lang|ru|ру}}||れ<br>{{lang|ru|рэ}}||ろ<br>{{lang|ru|ро}}||りゃ<br>{{lang|ru|ря}}||りゅ<br>{{lang|ru|рю}}||りょ<br>{{lang|ru|рё}}
|-
!style="text-align:left"|わ行<br>
|わ<br>{{lang|ru|ва}}||{{N/A}}||{{N/A}}||{{N/A}}||を<br>{{lang|ru|о}}||{{N/A}}||{{N/A}}||{{N/A}}
|-
!style="text-align:left"|が行<br>{{lang|ru|г}}
|が<br>{{lang|ru|га}}||ぎ<br>{{lang|ru|ги}}||ぐ<br>{{lang|ru|гу}}||げ<br>{{lang|ru|гэ}}||ご<br>{{lang|ru|го}}||ぎゃ<br>{{lang|ru|гя}}||ぎゅ<br>{{lang|ru|гю}}||ぎょ<br>{{lang|ru|гё}}
|-
!style="text-align:left"|ざ行<br>{{lang|ru|дз}}
|ざ<br>{{lang|ru|дза}}||じ<br>{{lang|ru|дзи}}||ず<br>{{lang|ru|дзу}}||ぜ<br>{{lang|ru|дзэ}}||ぞ<br>{{lang|ru|дзо}}||じゃ<br>{{lang|ru|дзя}}||じゅ<br>{{lang|ru|дзю}}||じょ<br>{{lang|ru|дзё}}
|-
!style="text-align:left"|だ行<br>{{lang|ru|д}}
|だ<br>{{lang|ru|да}}||ぢ<br>{{lang|ru|дзи}}||づ<br>{{lang|ru|дзу}}||で<br>{{lang|ru|дэ}}||ど<br>{{lang|ru|до}}||ぢゃ<br>{{lang|ru|дзя}}||ぢゅ<br>{{lang|ru|дзю}}||ぢょ<br>{{lang|ru|дзё}}
|-
!style="text-align:left"|ば行<br>{{lang|ru|б}}
|ば<br>{{lang|ru|ба}}||び<br>{{lang|ru|би}}||ぶ<br>{{lang|ru|бу}}||べ<br>{{lang|ru|бэ}}||ぼ<br>{{lang|ru|бо}}||びゃ<br>{{lang|ru|бя}}||びゅ<br>{{lang|ru|бю}}||びょ<br>{{lang|ru|бё}}
|-
!style="text-align:left"|ぱ行<br>{{lang|ru|п}}
|ぱ<br>{{lang|ru|па}}||ぴ<br>{{lang|ru|пи}}||ぷ<br>{{lang|ru|пу}}||ぺ<br>{{lang|ru|пэ}}||ぽ<br>{{lang|ru|по}}||ぴゃ<br>{{lang|ru|пя}}||ぴゅ<br>{{lang|ru|пю}}||ぴょ<br>{{lang|ru|пё}}
|-
!撥音
|ん<br>{{lang|ru|н}}/м||{{N/A}}||{{N/A}}||{{N/A}}||{{N/A}}||{{N/A}}||{{N/A}}||{{N/A}}
|}
母音の後に続く「い」は {{lang|ru|и}} ではなく {{lang|ru|й}} を用いる。例えば{{読み|subst=2015-03|3=補助表示|愛知|あいち}}は {{lang|ru|Аити}} ではなく {{lang|ru|Айти}} である。
== ロシア語由来の日本語外来語 ==
{|class="wikitable sortable" title="主な語例"
! 日本語 !! ロシア語 !! 意味および備考
|-
| [[アジト]] || {{lang|ru|агитпункт}} || 扇動本部
|-
| [[イクラ]] || {{lang|ru|икра}} || 魚卵
|-
| [[インテリ]]<br/>(インテリゲンツィア、インテリゲンチャとも) || {{lang|ru|интеллигенция}} || 知識層
|-
| [[ウォッカ]] || {{lang|ru|водка}} || [[蒸留酒]]
|-
| [[ヘアバンド#カチューシャ|カチューシャ]] || {{lang|ru|Катюша}} || 女性名・エカテリーナの愛称。※ヘアバンドを意味するものは日本独自の呼称
|-
| [[カンパ]] || {{lang|ru|кампания}} || キャンペーン
|-
| [[グラスノスチ]] || {{lang|ru|гласность}} || 情報公開
|-
| [[コミンテルン]] || {{lang|ru|Коминтерн}} || 国際共産党・第三インター。{{lang|ru|'''Ком'''мунистический '''интерн'''ационал}} の略語。
|-
| [[コルホーズ]] || {{lang|ru|колхоз}} || 集団農場。{{lang|ru|'''кол'''лективное '''хоз'''яйство}} の略語。
|-
| [[コンビナート (旧社会主義国の経営形態)|コンビナート]] || {{lang|ru|комбинат}} || 企業集団
|-
| [[サモワール]] || {{lang|ru|самовар}} || ロシア式湯沸かし器
|-
| [[ステップ (植生)|ステップ]] || {{lang|ru|степь}} || 草原
|-
| [[セイウチ]] || {{lang|ru|сивуч}} || トド
|-
| [[ソビエト]]<br/>(ソヴィエト、ソヴェトとも) || {{lang|ru|Совет}} || 会議
|-
| [[ソフホーズ]] || {{lang|ru|совхоз}} || ソビエトの農場。 {{lang|ru|'''сов'''етское '''хоз'''яйство}} の略語
|-
| [[ソユーズ]] || {{lang|ru|союз}} || ソビエト連邦とロシアの宇宙船。本来は同盟、連合の意
|-
| [[タイガ]] || {{lang|ru|тайга}} || 密林
|-
| [[チェルノーゼム]] || {{lang|ru| чернозём}} || 黒土:地理用語
|-
| [[ツァーリ]](ツァーとも) || {{lang|ru|царь}} || 皇帝・王
|-
| [[ツンドラ]] || {{lang|ru|тундра}} || (本来は[[サーミ語]]からロシア語を経由したもの)
|-
| [[テトリス]] || {{lang|ru|тетрис}} || コンピュータゲーム
|-
| [[トーチカ]] || {{lang|ru|точка}} || 点、地点
|-
| [[トロイカ]] || {{lang|ru|тройка}} || 3つ組、3頭立ての馬車
|-
| [[トロツキスト]] || {{lang|ru|троцкист}} || (しばしば軽蔑の意味をこめて言われる)
|-
| [[ノーメンクラトゥーラ]] || {{lang|ru|номенклатура}} || 支配的階級に属する人々
|-
| [[ノルマ]] || {{lang|ru|норма}} || 生産や製造の基準量
|-
| [[バラライカ]] || {{lang|ru|балалайка}} ||
|-
| [[ピロシキ]] || {{lang|ru|пирожки}} ||
|-
| [[ナロードニキ|ヴ・ナロード]] || {{lang|ru|в народ}} || 人民の中へ
|-
| [[オーブン|ペチカ]] || {{lang|ru|печка}} || 暖炉、ストーブ
|-
| [[ペレストロイカ]] || {{lang|ru|перестройка}} || 建て直し
|-
| [[ポドゾル]] || {{lang|ru|подзол}} || シベリア地方に見られる酸性土壌(地理用語)
|-
| [[ボリシェヴィキ]]<br/>(ボルシェヴィキとも) || {{lang|ru|большевики}} || 多数派
|-
| [[メンシェヴィキ]] <br/>(メニシェヴィキとも)|| {{lang|ru|меньшевики}} || 少数派
|}
ロシア語から日本語に入った単語は、18世紀以降の両国間の接触によってロシアの文物が日本に紹介されたものと、[[1917年]]の[[ロシア革命]]とその後のソビエト体制の成立によって社会主義(共産主義)思想と共に日本に導入されたものの2種類が多い。前者は日常生活の中で使用されている例があるが(イクラなど)、後者はむしろソ連・ロシア社会の特定の組織や現象を指す[[固有名詞]]としてとらえられるものが多い(コルホーズ、ペレストロイカなど)。ただし、後者にもロシアから離れ、日本社会の事象を説明するときに使われる用語もある(コンビナート、ノルマなど)。<BR />文字 {{lang|ru|в}} {{IPA|v}} は、古くから入った外来語の場合「ワ・ウィ・ウ・ウェ・ウォ」と転写し、比較的新しいものは「ヴァ・ヴィ・ヴ・ヴェ・ヴォ」と転写する。ただし、女性の姓末尾の -{{lang|ru|ва}} は現在でも「ワ」と転写する慣用が残っている(例:[[マリア・シャラポワ]])。
== 日本語由来のロシア語単語 ==
{{div col}}
*[[:ru:Вата|{{lang|ru|Ва́та}}]] - [[脱脂綿]]<ref>''Габдуллина'' [https://cyberleninka.ru/article/n/leksicheskie-zaimstvovaniya-iz-yaponskogo-yazyka-v-russkiy-kognitivno-pragmaticheskie-osobennosti-i-protsess-assimilyatsii Лексические заимствования из японского языка в русский: когнитивно-прагматические особенности и процесс ассимиляции] // Вест. Челябинского гос. университета. — 2012. — № 2 (256), Филология. Искусствоведение. — Вып. 62. — С. 12—16.</ref>
*[[:ru:Дзюдо|{{lang|ru|Дзюдо́}}]] - [[柔道]]
*[[:ru:Карате|{{lang|ru|Карате́/каратэ́}}]] - [[空手道]]
*[[:ru:Джиу-джитсу|{{lang|ru|Джи́у-джи́тсу/джи́у-джи́цу/дзюдзю́цу}}]] - [[柔術]]
*[[:ru:Сумо|{{lang|ru|Сумо́}}]] - [[相撲]]
*[[:ru:Камикадзе|{{lang|ru|Камика́дзе}}]] - [[特別攻撃隊|特攻隊]](神風特攻隊から)
*[[:ru:Ката|{{lang|ru|Ка́та}}]] - 柔道や空手の[[形]]
*[[:ru:Кимоно|{{lang|ru|Кимоно́}}]] - [[着物]]
*[[:ru:Гейша|{{lang|ru|Ге́йша}}]] - [[芸者]]
*[[:ru:Кабуки|{{lang|ru|Кабу́ки}}]] - [[歌舞伎]]
*[[:ru:Хайку|{{lang|ru|Ха́йку}}]] - [[俳句]]
*[[:ru:Танка|{{lang|ru|Та́нка}}]] - [[短歌]]
*[[:ru:Цунами|{{lang|ru|Цуна́ми}}]] - [[津波]]
*[[:ru:Сакура|{{lang|ru|Са́кура}}]] - [[サクラ|桜]]
*[[:ru:Бонсай|{{lang|ru|Бонса́й}}]] - [[盆栽]]
*[[:ru:Сайра|{{lang|ru|Са́йра}}]] - [[サンマ|秋刀魚]]
*[[:ru:Иваси|{{lang|ru|Иваси́}}]] - [[イワシ|鰯]]
*[[:ru:Саке|{{lang|ru|Саке́}}]] - [[日本酒]]
*[[:ru:Соя|{{lang|ru|Соя}}]] - [[大豆]]
*[[:ru:Суши|{{lang|ru|Су́ши}}]] - [[寿司]]
*[[:ru:Самурай|{{lang|ru|Самура́й}}]] - [[侍]]、[[武士]]
*[[:ru:Катана|{{lang|ru|Ката́на}}]] - [[日本刀]]
*[[:ru:Харакири|{{lang|ru|Хараки́ри}}]] - [[切腹]](腹切りから)
*[[:ru:Ниндзя|{{lang|ru|Ни́ндзя}}]] - [[忍者]]
*[[:ru:Кайдзен|{{lang|ru|Кайдзе́н}}]] - [[改善]]
*[[:ru:Банзай|{{lang|ru|Банза́й/бандза́й}}]] - [[万歳]]
*[[:ru:Минтай|{{lang|ru|Минта́й}}]] - [[スケトウダラ]]の地方別名から
*[[:ru:Рикша|{{lang|ru|Ри́кша}}]] - [[力車]]
*[[:ru:Фудзияма|{{lang|ru|Фудзия́ма}}]] - [[富士山]]の誤読
*[[:ru:Иокогама|{{lang|ru|Иокога́ма}}]]<ref group="注">「ヤカガーマ」古い時期の表記でハ行音にхでなくгを使用している</ref> - [[横浜市|横浜]]
*[[:ru:Аниме|{{lang|ru|Аниме́}}]] - [[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]
*[[:ru:Манга|{{lang|ru|Ма́нга}}]] - [[日本の漫画]]
*[[:ru:Отаку|{{lang|ru|Ота́ку}}]] - [[おたく]]
*[[:ru:Каваий|{{lang|ru|Кава́ий}}]] - [[可愛い]](形容詞)
*[[:ru:Хентай|{{lang|ru|Хента́й}}]] - [[ヘンタイ]]
*[[:ru:Якудза|{{lang|ru|Яку́дза}}]] - [[ヤクザ]]、[[暴力団]]
*[[:ru:Микадо (игра)|{{lang|ru|Мика́до}}]] - [[ミカド (ゲーム)]]
*[[:ru:Татами|{{lang|ru|Тата́ми}}]] - [[畳]]
*[[:ru:Оригами|{{lang|ru|Орига́ми}}]] - [[折り紙]]
{{div col end}}
日本語からロシア語への単語移入は、日本文化の文物がロシアで紹介された時に単語が使われる場合が多く、技術用語や学術用語では例が少ない。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* 杉山秀子、『日本におけるロシア語教育(戦前)』、駒澤大学外国語部論集(55)、137-152、2001-09
== 関連項目 ==
{{Wikipedia|ru}}
{{Wiktionary|Category:ロシア語|ロシア語}}
{{Commonscat|Russian language}}
*[[Wikipedia:外来語表記法/ロシア語]]
*[[欧州連合の言語]] - ロシア語は同連合の公用語に指定されていないものの、同連合に加盟する旧[[東側諸国]]の一部において広く使用されている
*[[ネイティブスピーカーの数が多い言語の一覧]]
*[[ロシア文学]]
*[[ロシアの言語]]
*{{仮リンク|ロシア語の人名|en|Russian given name}}
== 外部リンク ==
* [https://www.cegloc.tsukuba.ac.jp/page/page000030.html ロシア語とロシア語圏文化の魅力 | 筑波大学CEGLOC公式ホームページ]
* [http://www.coelang.tufs.ac.jp/mt/ru/ 東外大言語モジュール|ロシア語]
* {{Kotobank}}
{{国際連合公用語}}
{{スラヴ語派}}
{{印欧語族}}
{{ロシア連邦}}
{{典拠管理}}
{{デフォルトソート:ろしあこ}}
[[Category:ロシア語|*ろしあこ]]
[[Category:ロシアの言語]]
[[Category:アゼルバイジャンの言語]]
[[Category:ベラルーシの言語]]
[[Category:エストニアの言語]]
[[Category:カザフスタンの言語]]
[[Category:キルギスの言語]]
[[Category:ラトビアの言語]]
[[Category:タジキスタンの言語]]
[[Category:トルクメニスタンの言語]]
[[Category:ウクライナの言語]]
[[Category:ウズベキスタンの言語]]
[[Category:東スラヴ語群]] | 2003-05-19T16:22:24Z | 2023-11-21T04:53:14Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E8%AA%9E |
8,686 | 有沢遼 | 有沢 遼(ありさわ りょう、3月7日 - )は、日本の漫画家。新潟県阿賀野市(旧水原町)出身。血液型はB型。
1988年、『なかよしデラックス』(講談社)秋の号に掲載の「あなたにうつりたい」でデビュー。
主に『なかよし』(講談社)などで活動後、『ハーレクイン』(ハーレクイン社)で執筆している。代表作は『迷子のドルフィン』など。 | [
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] | 有沢 遼は、日本の漫画家。新潟県阿賀野市(旧水原町)出身。血液型はB型。 1988年、『なかよしデラックス』(講談社)秋の号に掲載の「あなたにうつりたい」でデビュー。 主に『なかよし』(講談社)などで活動後、『ハーレクイン』(ハーレクイン社)で執筆している。代表作は『迷子のドルフィン』など。 | {{存命人物の出典明記|date=2014年1月15日 (水) 16:27 (UTC)}}
{{Infobox 漫画家
| 名前 = 有沢 遼
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 脚注 =
| 本名 =
| 生地 = {{JPN}}・[[新潟県]][[阿賀野市]]
| 生年 = {{生年月日と年齢||3|7}}
| 没年 =
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'''有沢 遼'''(ありさわ りょう、[[3月7日]]<ref name="harlequin">{{Cite web|和書|work=ハーレクインライブラリ|url=https://www.harlequin-library.jp/book/comic/artist/有沢遼|title=有沢遼|accessdate=2021-07-01}}</ref> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[新潟県]]{{R|harlequin}}[[阿賀野市]](旧水原町)出身。[[ABO式血液型|血液型]]はB型{{R|harlequin}}。
[[1988年]]、『なかよしデラックス』([[講談社]])秋の号に掲載の「あなたにうつりたい」でデビュー{{R|harlequin}}。
主に『[[なかよし]]』(講談社)などで活動後、『[[ハーレクイン (出版社)|ハーレクイン]]』(ハーレクイン社)で執筆している。代表作は『[[迷子のドルフィン]]』など。
== 作品リスト ==
* [[二人だけのヒミツ]](『なかよし』、[[講談社]])
* [[花園のヒ・ミ・ツ]](『なかよし』)
* [[カーテンコール!]](『なかよし』)
* [[笑顔のシグナル]](『なかよし』)
* [[迷子のドルフィン]](『なかよし』)
* [[上手な夢のかなえかた]](『[[るんるん (講談社)|るんるん]]』、講談社)
* [[夏色のグラデーション]](『なかよし』)
* [[恋愛向上委員会 ジューシーフルーツ]](『なかよし』)
* ふたりの六週間(ハーレクインコミックス、[[ハーレクイン (出版社)|ハーレクイン社]])
* オアシスの奇跡(ハーレクインコミックス)
* 愛と名誉にかけて(ハーレクインコミックス)
* シンデレラの嘆き(原作:ルーシー・モンロー、ハーレクインコミックス)
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [http://games.nakayosi-net.com/mfile/mangaka/arisawar.html デジなか-まんが家情報] - 講談社によるページ。プロフィールを掲載。
* [https://www.harlequin.co.jp/hqc/artist/detail/1928 ハーレクイン オフィシャルサイト/著者詳細 有沢 遼|ハーレクインコミックス] - ハーレクイン社によるページ。メッセージを掲載。
{{Normdaten}}
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[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:新潟県出身の人物]]
[[Category:生年未記載]]
[[Category:存命人物]] | 2003-05-19T16:23:53Z | 2023-11-23T22:02:11Z | false | false | false | [
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8,688 | 安藤なつみ | 安藤 なつみ(あんどう なつみ、1月27日 - )は、日本の漫画家。
1994年、第19回なかよし新人まんが賞において「いじっぱりなシンデレラ」で「入選」を受賞。同作品が『なかぞう』(講談社)1995年夏休み号に掲載されデビューした。デビュー時のペンネームは「あすかきょう」であり、その後「安藤なつ」から「安藤なつみ」に改名している。
2006年、『キッチンのお姫さま』で平成18年度(第30回)講談社漫画賞児童部門を受賞。その後も雑誌を変えつつ講談社で活動。 | [
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] | 安藤 なつみは、日本の漫画家。 | {{Infobox 漫画家
| 名前 = 安藤 なつみ
| ふりがな = あんどう なつみ
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| 脚注 =
| 本名 =
| 生年 = {{生年月日と年齢||1|27}}
| 生地 = [[日本]]・[[愛知県]][[名古屋市]][[天白区]]
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| 職業 = [[漫画家]]
| 活動期間 = [[1994年]] -
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| 代表作 = <!-- 「代表作を挙げた出典」に基づき記載 -->
| 受賞 = 第19回[[なかよし新人まんが賞]]入選<br />第30回[[講談社漫画賞]]児童部門を受賞
| サイン =
| 公式サイト = [http://nattun.cocolog-nifty.com/blog/ どーなつ通信]
}}
{{JIS2004}}
'''安藤 なつみ'''(あんどう なつみ、[[1月27日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。
== 来歴 ==
[[1994年]]、第19回[[なかよし新人まんが賞]]において「いじっぱりなシンデレラ」で「入選」を受賞。同作品が『なかぞう』([[講談社]])1995年夏休み号に掲載されデビューした。デビュー時の[[ペンネーム]]は「あすかきょう」であり、その後「安藤なつ」から「安藤なつみ」に改名している<ref>「安藤なつ」という別の漫画家がいる。両者のプロフィールを混同しているサイトが存在している。</ref>。
2006年、『キッチンのお姫さま』で平成18年度(第30回)[[講談社漫画賞]]児童部門を受賞。その後も雑誌を変えつつ講談社で活動。
== 作品リスト ==
=== 連載 ===
* [[貯めてみせまショウ!]](全1巻、『[[るんるん (講談社)|るんるん]]』1996年11月号 - 1997年5月号、全1巻)
* 花丸忍法帳(『るんるん』1997年9月号 - 1998年1月号)
* [[ツイてるね聖ちゃん]](『なかよし』1998年4月号 - 1998年8月号、番外編:1998年『なかよし増刊はるやすみランド』、1998年11月号、全1巻)
* [[スマイルでいこう]](『なかよし』1999年2月号 - 1999年12月号、番外編:なかよし2000年 2月号、全2巻)
* [[マリアっぽいの!]](『なかよし』2000年4月号 - 2001年3月号、全2巻)
* [[十二宮でつかまえて]](『なかよし』2001年4月号 - 2003年1月号、番外編:『なかよし2002年8月号増刊なつやすみランド』、全4巻)
* [[ワイルドだもん|ワイルドだもん{{JIS2004フォント|♥}}]](『なかよし』2003年4月号 - 2004年5月号、全3巻)
* [[キッチンのお姫さま]](原作:[[小林深雪]]、『なかよし』2004年9月号 - 2008年9月号、全10巻)
* [[ARISA (漫画)|ARISA]](『なかよし』2009年2月号 - 2012年9月号、全12巻)
* ワルツのお時間(『なかよし』2013年2月号 - 2014年2月号)
* 〜Tea With Memory〜シリーズ
** ゴールデンドロップ(『[[BE・LOVE]]』2014年12号)
** 父のフレーバー(『BE・LOVE』2014年15号)
* ハイジと山男(『BE・LOVE』2015年2号 - 18号、全3巻)
* [[私たちはどうかしている]](『BE・LOVE』2016年24号 - 2021年9月号、全19巻)
** 私たちはどうかしている 新婚編(『BE・LOVE』2022年1月号<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/455791|title=「私たちはどうかしている」“新婚編”開始、五十嵐大介が読み切りでBE・LOVE初登場|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-12-01|accessdate=2023-02-01}}</ref> - 2023年3月号<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/511189|title=“男女逆転吉原”を描く転生ラブコメ、鶴ゆみかの新連載がBE・LOVEでスタート|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-02-01|accessdate=2023-02-01}}</ref>)
=== 読み切り ===
* いじっぱりなシンデレラ(『なかぞう』1995年春休み)
* きみにエールを送ろう(『なかぞう』1995年クリスマス)
* 時を経ても変わらないもの(『なかぞう』1996年夏休み)
* 夏のおくりもの(『るんるん』1996年9月号)
* わたしのデビュー道(『なかよし1997年8月号増刊 なつやすみランド』)
* 無敵のヒロイン(『なかよし』1997年9月号)
* みんなでヒロインをめざせ!(『なかよし1998年8月号増刊 なつやすみランド』)
* プレイしたよ!「グラニュー島! 大冒険」(『なかよし1998年12月号増刊[[Amie]]』)
* ほしいのはスマイル!(『なかよし1999年1月号増刊 ふゆやすみランド』)
* ホーンテッド・マンションは今夜もフィーバー(『なかよし』2003年11月号)
== 脚注 ==
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== 外部リンク ==
* {{Twitter|natumiando}}
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[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:名古屋市出身の人物]]
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8,689 | アフロ・ユーラシア大陸 | アフロ・ユーラシア大陸(アフロ・ユーラシアたいりく、Afro-Eurasia)は、アフリカ大陸とユーラシア大陸を合わせた大陸であり、現在、地球表面上における最大の陸塊である。普通は別の2つの大陸として数えることが多いが、両者はスエズ地峡で繋がっていたため(現在はスエズ運河で寸断)、これを1つの大陸(超大陸)と見なすことができる。ユーラフラシア(Eurafrasia)、アフラシア(Afrasia)という用語もあるが、あまり使われない。
アフロ・ユーラシア大陸は、古代より知られたエクメーネであり、周辺の島々を含めると、84,980,532平方キロメートルの面積を有し、2006年現在、全人類の85%である約57億人が住んでいる。歴史的には古代文明と数多くの大帝国を興起させてきた地域であり、今なお人口や経済活動の面で世界の主要な部分を占めている。
「旧大陸」の呼称は、アフロ・ユーラシア大陸とほぼ同じ対象を指しているが、そこには必ずしも単一の陸塊という意味合いはない。それに対し、「アフロ・ユーラシア大陸」の呼称は、文脈に応じて周辺島嶼を含まない、単一の陸塊の意味合いで用いられることがある。旧大陸(旧世界)はまた、「東半球」と称されることも多いが、この呼称は西半球すなわちアメリカ大陸の見方に立った表現といえる。
近代とくに第一次世界大戦後は、地政学の影響が強まり、その観点からアフロ・ユーラシア大陸の本体だけを指して「世界島」と呼ぶ風潮が一時流行した。これは、イギリスの地理学者で政治家でもあったハルフォード・マッキンダーの造語によるもので、ここではグレートブリテン島(イギリス)、アイルランド島(アイルランド)、日本列島(日本)、マダガスカル島(マダガスカル)など周辺の島々は含まれない。これは、当時、陸軍を重視する大陸の諸勢力にあっては、半島や島などへの進軍は軍事的に不利と考えられたことを前提としている(→項目「ハートランド 」を参照)。
地質学的には、仮説の超大陸「パンゲア大陸」がアフロ・ユーラシア大陸の母体になったと考えられる(→次節「地質 」参照)。
アフロ・ユーラシアは通常2つ、ないし3つの大陸の集合体とみられているが、それは必ずしも適切ではなく、超大陸サイクルの理論(「ウィルソン・サイクル」)にしたがえば、むしろ元来は1つの大きな「超大陸」である。
地質学の知見からは、地上で確認できるアフロ・ユーラシア大陸の最古の陸地はアフリカ大陸南部のカープバールクラトンであり、およそ30億年前まで、現在のマダガスカル、インドの一部、西部オーストラリアなどとともに最初の超大陸であるバールバラ大陸ないしウル大陸を構成していたと推定される。ただし、バールバラ大陸は時期や広がりなどの詳細が不明であり、全体像をつかめていない、いまだ「仮説上の大陸」の域を出ない大陸である。
約4億1600万年前から約3億5900万年前、ローレンシア大陸とバルティカ大陸が衝突してユーラメリカ大陸を形成、そして、約2億9,900万年前から約2億5,100万年前にはゴンドワナ大陸とユーラメリカ大陸が衝突、さらにベルム紀の終わりである2億5000万年前頃にはゴンドワナ大陸、シベリア大陸などすべての大陸が次々に衝突したことによって「パンゲア大陸」と称される超大陸が成立した。パンゲア大陸は、ペルム紀から中生代三畳紀にかけて存在し、2億年前ごろから、再び分裂を始めたとみられる。
パンゲア大陸の分裂によって、アフリカプレートが南部のゴンドワナ大陸をかたちづくるとともに、北アメリカプレートとユーラシアプレートがともにテチス海をはさんだゴンドワナの北側にローラシア大陸を形成した。これはインドプレートの活動によるものであるが、このことは現在の南アジアに衝撃をもたらした。ヒマラヤ山脈は約7,000万年前に6,000キロメートル以上を移動したインド亜大陸が、約5,000万年前から4,000万年前にかけてユーラシアプレートと衝突したことによって形成され始めたと考えられている。そして、ほぼ同時期にインドプレートはオーストラリアプレートと融合したとみられる。
アラビアプレートは約3,000万年前にアフリカより切り離され、約1,900万年前から1,200万年前のあいだにはその影響を受けたイランプレートがエルブールズ山脈とザグロス山脈を形成した。このアフロ・ユーラシアの初期の接合ののち、現在のスペイン南部にあたるベティック回廊(英語版)に沿って、600万年より少し前に、ジブラルタル弧(英語版)が閉じたところから、こんにちのアフリカ大陸北西部とイベリア半島が結びついた。これにより、こんにちの地中海周辺は盆地状となって著しく乾燥し、「メッシニアン塩分危機」の問題を引き起こした。ユーラシアとアフリカは、新生代・新第三紀・鮮新世の前半の約533万年前に起こった「ザンクリアン洪水(英語版)」によって地中海がジブラルタル海峡によって外洋に通じたことで切り離され、紅海およびスエズ・リフト湾(英語版)も形成されて、アフリカはアラビアプレートから遠く分離した。
現在のアフリカ大陸は、狭い陸橋であるスエズ地峡でアジア大陸と結びつき、ジブラルタル海峡やシチリア島などによってヨーロッパ大陸とは切り離されている。古地質学者のロナルド・ブレーキーは、次の1,500万年ないし1億年のプレートテクトニクスはかなりの確度でもって予測可能だと説明している 。今後、アフリカ大陸は北方に移動し続け、およそ60万年後にはジブラルタル海峡は塞がれて地中海の海水は猛烈な速さで蒸発すると予想される。超大陸がその時期にあって形成されることはないだろうとしているが、しかしながら、地質学的な記録によれば、プレートの活動は想像もできない変化に満ちあふれており、その活動を前もって推定することは「きわめて、きわめて不確実」であるとも述べている。可能性としては3つ考えられる。第一に、ノヴォパンゲア大陸、アメイジア大陸、パンゲア・ウルティマ大陸といった超大陸の形成である。第二に、太平洋が塞がり、アフリカとユーラシアは結びついたままだが、ユーラシア大陸自体が分裂し、ヨーロッパとアフリカが西に向かって移動する可能性、最後は、三大陸がそろって東に移動して大西洋を塞ぐという可能性である。
人類は長らくアフリカ大陸において進化し、そのうちのわずかなグループが出アフリカして外部世界の各地に適応進化した。そのため、アフリカに残留したネグロイド人種内部の遺伝的距離は、コーカソイドやモンゴロイドなどのその他の人種間の遺伝的距離よりはるかに大きいとされる。コーカソイドの一部は北アフリカに戻り、およそサハラ砂漠を隔ててネグロイドと棲み分ける形となった。
気候の温暖化にともない、約1万年前にはユーラシアと北アフリカにおいて農耕が成立し、牧畜や冶金技術の誕生をまねいた(同様の発展はアメリカ大陸でも独立して起こったが、これはアフロ・ユーラシアに比較して数千年ののちのことであった)。金石併用時代の後期には、メソポタミアでシュメール人の都市国家が生まれた。ナイル川流域では、都市国家の成立はこれにやや遅れたが、統一国家の成立はむしろメソポタミアに先んじた。同様の青銅器文明は、インダス川、黄河、長江など他地域でも現れ、それぞれ文字をともなう農耕文明として発展を遂げた。
この大陸を舞台に、アケメネス朝ペルシア、アレクサンドロス大王の帝国、東西のローマ帝国、ウマイヤ朝・アッバース朝によるイスラーム帝国、モンゴル帝国、オスマン帝国、ムガル帝国、大英帝国、ロシア帝国および中国の諸王朝など強大な帝国が出現した。ユーラシア大陸の東側と西側ないしアフリカ大陸東岸とは、シルクロード(絹の道)、草原の道、海の道によって結ばれ、物流と文化が行き交った。ヨーロッパが主導する大航海時代にあっては、「コロンブス交換」と欧州以外の各地の(半)植民地化がこれにともなって起こり、世界の文化にグローバリゼーションの波をもたした。
第一次産業革命が英国で、第二次産業革命が英国はじめ仏独米などで起こり、アフロ・ユーラシアの地に住む人びとの多くが流血の戦争・革命を経験した。第一次世界大戦および第二次世界大戦は脱植民地化と共産主義革命をもたらしたが、1989年の革命により東西冷戦が終結し、資本主義諸国側の勝利となった。こんにち、核兵器を有する9か国のうち8か国がユーラシアに所在し、ヨーロッパ連合(EU)、ロシア連邦、日本、中華人民共和国といった強国もまた、ユーラシアに内包されている。
こんにち、アフロ・ユーラシアは世界人口および諸文化の大半を保有するだけでなく、世界経済においても中心的な役割をになっており、ここから生まれたインド・ヨーロッパ語、セム・ハム語、シナ・チベット語、ウラル・アルタイ語などに属する諸言語が、新大陸を含めた全世界で話されている。アルファベット、漢字、アラビア文字、「ブラーフミー系文字」といわれるインド系諸文字、日本の仮名文字などの文字もまた同様である。
世界中で最も多く信仰されている四大宗教、すなわちキリスト教、イスラーム教、仏教、ヒンドゥー教やキリスト教、イスラーム教の起源になったユダヤ教はすべてアフロ・ユーラシアの地を発祥地としており、同様に、経験的な諸科学、哲学、ヒューマニズム、世俗的な諸思想などもまた、多くはここから起こってきたのである。
アフロ・ユーラシアは次のような地域に区分できる。
人類学、歴史学の観点で、アフロ・ユーラシアをユーラシア・北アフリカと、サブサハラに二分することがある.。
アフリカ大陸にあっては、アフリカ連合(AU)、西アフリカ諸国経済共同体、中部アフリカ諸国経済共同体、東アフリカ共同体、南部アフリカ開発共同体、アラブ・マグレブ連合などの地域統合・地域協力のための機関があり、ユーラシアにあっては、ヨーロッパに欧州連合(EU)、欧州自由貿易連合(EFTA)、中欧自由貿易協定(CEFTA)、旧ソビエト連邦地域に独立国家共同体(CIS)、ユーラシア経済共同体、ロシア・ベラルーシ連盟国、アジア地域に湾岸協力会議、経済協力機構(ECO)、南アジア地域協力連合(SAARC)、東南アジア諸国連合(ASEAN)などが組織され、それぞれ地域統合を強めている。また、アフリカ、ユーラシアの両大陸をまたぐ機関としてはアラブ世界(アラビア語を話す地域)の統合をめざしたアラブ連盟がある。
中華人民共和国が近年唱えている「一帯一路」は、中国からヨーロッパやアフリカまで陸海路で結び、かつてのシルクロード沿いに中国を中心とした新しい経済圏を生み出そうとする構想であり、アフロ・ユーラシア大陸を一体的なものとしてとらえる発想にもとづいている。具体的には、中国からロシアや中央アジア、モンゴルを経由(例:トランス=ユーラシア・ロジスティクス)してイギリスのロンドンやスペインのマドリードまでを鉄道で結び(例:義烏・マドリード路線、義烏・ロンドン路線)、一方ではアフリカのジブチやパキスタンのグワダルなどインド洋各地に中国主導で港をつくり、海路でギリシャのピレウスなどヨーロッパに連結させるというものである。これについては、一部に中国資本による地域開発を歓迎する声があるものの、明確に中国の覇権主義と結びついた構想であることから、これを警戒する声も大きい。 | [
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"text": "人類は長らくアフリカ大陸において進化し、そのうちのわずかなグループが出アフリカして外部世界の各地に適応進化した。そのため、アフリカに残留したネグロイド人種内部の遺伝的距離は、コーカソイドやモンゴロイドなどのその他の人種間の遺伝的距離よりはるかに大きいとされる。コーカソイドの一部は北アフリカに戻り、およそサハラ砂漠を隔ててネグロイドと棲み分ける形となった。",
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"text": "アフロ・ユーラシアは次のような地域に区分できる。",
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"text": "アフリカ大陸にあっては、アフリカ連合(AU)、西アフリカ諸国経済共同体、中部アフリカ諸国経済共同体、東アフリカ共同体、南部アフリカ開発共同体、アラブ・マグレブ連合などの地域統合・地域協力のための機関があり、ユーラシアにあっては、ヨーロッパに欧州連合(EU)、欧州自由貿易連合(EFTA)、中欧自由貿易協定(CEFTA)、旧ソビエト連邦地域に独立国家共同体(CIS)、ユーラシア経済共同体、ロシア・ベラルーシ連盟国、アジア地域に湾岸協力会議、経済協力機構(ECO)、南アジア地域協力連合(SAARC)、東南アジア諸国連合(ASEAN)などが組織され、それぞれ地域統合を強めている。また、アフリカ、ユーラシアの両大陸をまたぐ機関としてはアラブ世界(アラビア語を話す地域)の統合をめざしたアラブ連盟がある。",
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"text": "中華人民共和国が近年唱えている「一帯一路」は、中国からヨーロッパやアフリカまで陸海路で結び、かつてのシルクロード沿いに中国を中心とした新しい経済圏を生み出そうとする構想であり、アフロ・ユーラシア大陸を一体的なものとしてとらえる発想にもとづいている。具体的には、中国からロシアや中央アジア、モンゴルを経由(例:トランス=ユーラシア・ロジスティクス)してイギリスのロンドンやスペインのマドリードまでを鉄道で結び(例:義烏・マドリード路線、義烏・ロンドン路線)、一方ではアフリカのジブチやパキスタンのグワダルなどインド洋各地に中国主導で港をつくり、海路でギリシャのピレウスなどヨーロッパに連結させるというものである。これについては、一部に中国資本による地域開発を歓迎する声があるものの、明確に中国の覇権主義と結びついた構想であることから、これを警戒する声も大きい。",
"title": "一帯一路構想"
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] | アフロ・ユーラシア大陸(アフロ・ユーラシアたいりく、Afro-Eurasia)は、アフリカ大陸とユーラシア大陸を合わせた大陸であり、現在、地球表面上における最大の陸塊である。普通は別の2つの大陸として数えることが多いが、両者はスエズ地峡で繋がっていたため(現在はスエズ運河で寸断)、これを1つの大陸(超大陸)と見なすことができる。ユーラフラシア(Eurafrasia)、アフラシア(Afrasia)という用語もあるが、あまり使われない。 | [[ファイル:Afro-Eurasia (orthographic projection) political.svg|right|thumb|250px|アフロ・ユーラシア]]
'''アフロ・ユーラシア大陸'''(アフロ・ユーラシアたいりく、Afro-Eurasia<ref>{{ Citation
| last=Frank
| first=Andre G.
| author-link=アンドレ・グンダー・フランク
| title=ReORIENT: Global Economy in the Asian Age
| year=1998
| isbn=978-0520214743
| publisher=University of California Press
}}</ref>)は、[[アフリカ大陸]]と[[ユーラシア#ユーラシア大陸|ユーラシア大陸]]を合わせた[[大陸]]であり、現在、[[地球]]表面上における最大の陸塊である。普通は別の2つの大陸として数えることが多いが、両者は[[スエズ運河|スエズ地峡]]で繋がっていたため(現在は[[スエズ運河]]で寸断)、これを1つの大陸([[超大陸]])と見なすことができる。'''ユーラフラシア'''(Eurafrasia)<ref name="Field">[http://links.jstor.org/sici?sici=0002-7294(194807%2F09)2%3A50%3A3%3C479%3ATUOCAE%3E2.0.CO%3B2-C "The University of California African Expedition: I, Egypt"]. ''American Anthropologist,'' New Series, Vol. 50, No. 3, Part 1 (Jul. - Sep., 1948), pp. 479-493.</ref>、'''アフラシア'''(Afrasia)<ref name="Field"/>という用語もあるが、あまり使われない。
== 概要 ==
[[ファイル:Pangaea continents ja.svg|thumb|right|200px|アフロ・ユーラシア大陸の母体になったと考えられる仮説大陸「[[パンゲア大陸]]」]]
アフロ・ユーラシア大陸は、古代より知られた[[エクメーネ]]であり、周辺の島々を含めると、84,980,532平方キロメートルの面積を有し、2006年現在、全人類の85%である約57億人が住んでいる<ref group="注釈">[http://www.un.org/esa/population/publications/wpp2006/WPP2006_Highlights_rev.pdf World Population Prospects: The 2006 Revision (Highlights)] に基づく。</ref><ref group="注釈">2013年段階では約60億人に増加している。</ref>。歴史的には[[古代文明]]と数多くの[[帝国|大帝国]]を興起させてきた地域であり、今なお人口や経済活動の面で世界の主要な部分を占めている。
「'''[[旧世界|旧大陸]]'''」の呼称は、アフロ・ユーラシア大陸とほぼ同じ対象を指しているが、そこには必ずしも単一の陸塊という意味合いはない。それに対し、「アフロ・ユーラシア大陸」の呼称は、文脈に応じて周辺[[島嶼]]を含まない、単一の陸塊の意味合いで用いられることがある。旧大陸(旧世界)はまた、「'''[[東半球]]'''」と称されることも多いが、この呼称は西半球すなわち[[アメリカ大陸]]の見方に立った表現といえる。
[[近代]]とくに[[第一次世界大戦]]後は、[[地政学]]の影響が強まり、その観点からアフロ・ユーラシア大陸の本体だけを指して「'''[[世界島]]'''」と呼ぶ風潮が一時流行した。これは、[[イギリス]]の[[地理学者]]で[[政治家]]でもあった[[ハルフォード・マッキンダー]]の造語によるもので、ここでは[[グレートブリテン島]]([[イギリス]])、[[アイルランド島]]([[アイルランド]])、[[日本列島]]([[日本]])、[[マダガスカル島]]([[マダガスカル]])など周辺の島々は含まれない。これは、当時、[[陸軍]]を重視する大陸の諸勢力にあっては、[[半島]]や島などへの進軍は軍事的に不利と考えられたことを前提としている(→項目「''[[ハートランド]]'' 」を参照)。
[[地質学]]的には、仮説の[[超大陸]]「[[パンゲア大陸]]」がアフロ・ユーラシア大陸の母体になったと考えられる(→次節「''[[#地質|地質]]'' 」参照)。
== 地質 ==
[[ファイル:Map of Kaapvaal craton.svg|thumb|right|200px|カープバールクラトンの大略範囲図]]
{{main|プレートテクトニクス|ユーラシアプレート|アフリカプレート|インド・オーストラリアプレート|アラビアプレート}}
アフロ・ユーラシアは通常2つ、ないし3つの大陸の集合体とみられているが、それは必ずしも適切ではなく、超大陸サイクルの理論(「[[ウィルソン・サイクル]]」)にしたがえば、むしろ元来は1つの大きな「[[超大陸]]」である。
[[地質学]]の知見からは、地上で確認できるアフロ・ユーラシア大陸の最古の陸地はアフリカ大陸南部の[[カープバールクラトン]]であり、およそ30億年前まで、現在のマダガスカル、[[インド]]の一部、西部[[オーストラリア]]などとともに最初の超大陸である[[バールバラ大陸]]ないし[[ウル大陸]]を構成していたと推定される。ただし、バールバラ大陸は時期や広がりなどの詳細が不明であり、全体像をつかめていない、いまだ「仮説上の大陸」の域を出ない大陸である<ref group="注釈">「バールバラ」の名は、アフリカ大陸の「カープバールクラトン」と西オーストラリアの「[[ピルバラクラトン]]」とが、かつて近接していただろうことをもって同一大陸であったと見なす仮説に由来し、両[[クラトン]](陸塊)を合成して命名されたものである。[[古地磁気学]]的な調査の結果、カープバールとピルバラがともに[[緯度]]30度にあった、27億8000万年前〜27億7000万年前には分離していたと考えられている。[http://paleogeology.blogspot.com/2008/12/archaean-supercontinents.html Paleogeography: Paleogeology, Paleoclimate, in relation to Evolution of Life on Earth]" p.2 Posted 12/30/2008 at 11:58:00 PM.
</ref>。
[[ファイル:Pangäa.jpg|right|thumb|200px|パンゲア大陸の西側部分を構成したとみられる現在の陸地]]
約4億1600万年前から約3億5900万年前、[[ローレンシア大陸]]と[[バルティカ大陸]]が衝突して[[ユーラメリカ大陸]]を形成、そして、約2億9,900万年前から約2億5,100万年前には[[ゴンドワナ大陸]]とユーラメリカ大陸が衝突、さらにベルム紀の終わりである2億5000万年前頃にはゴンドワナ大陸、[[シベリア大陸]]などすべての大陸が次々に衝突したことによって「[[パンゲア大陸]]」と称される超大陸が成立した<ref group="注釈">この仮説大陸の名称である「パンゲア」は[[ギリシア語]]で「すべての陸地」を意味している。</ref>。パンゲア大陸は、ペルム紀から[[中生代]][[三畳紀]]にかけて存在し、2億年前ごろから、再び分裂を始めたとみられる<ref group="注釈">『科学雑学辞典』によると、[[大陸移動説]]を唱えた[[アルフレート・ヴェーゲナー]]は、[[1912年]]当時、パンゲア大陸は3億年ぐらい前までには存在し、その後分裂して数百万年かかって現在の大陸の形になったと主張していた。</ref>。
[[ファイル:Laurasia-Gondwana.svg|left|250px|thumb|2億年前(三畳紀)の世界(パンゲア大陸が分裂し、北のローラシア大陸と南のゴンドワナ大陸に分かれる)]]
[[ファイル:Himalaya-formation.gif|thumb|right|145px|インド亜大陸とユーラシア大陸の衝突によってヒマラヤ山脈が形成された]]
パンゲア大陸の分裂によって、[[アフリカプレート]]が南部のゴンドワナ大陸をかたちづくるとともに、[[北アメリカプレート]]と[[ユーラシアプレート]]がともに[[テチス海]]をはさんだゴンドワナの北側に[[ローラシア大陸]]を形成した。これは[[インドプレート]]の活動によるものであるが、このことは現在の[[南アジア]]に衝撃をもたらした。[[ヒマラヤ山脈]]は約7,000万年前に6,000キロメートル以上を移動したインド亜大陸が、約5,000万年前から4,000万年前にかけてユーラシアプレートと衝突したことによって形成され始めたと考えられている。そして、ほぼ同時期にインドプレートは[[オーストラリアプレート]]と融合したとみられる。
[[アラビアプレート]]は約3,000万年前にアフリカより切り離され、約1,900万年前から1,200万年前のあいだにはその影響を受けた[[イランプレート]]が[[エルブールズ山脈]]と[[ザグロス山脈]]を形成した。このアフロ・ユーラシアの初期の接合ののち、現在のスペイン南部にあたる{{仮リンク|ベティック回廊|en|Betic corridor}}に沿って、600万年より少し前に、{{仮リンク|ジブラルタル弧|en|Gibraltar Arc}}が閉じたところから、こんにちのアフリカ大陸北西部と[[イベリア半島]]が結びついた。これにより、こんにちの[[地中海]]周辺は[[盆地]]状となって著しく乾燥し、「{{仮リンク|メッシニアン塩分危機|en|Messinian salinity crisis}}」の問題を引き起こした。ユーラシアとアフリカは、[[新生代]]・[[新第三紀]]・[[鮮新世]]の前半の約533万年前に起こった「{{仮リンク|ザンクリアン洪水|en|Zanclean flood}}」によって地中海が[[ジブラルタル海峡]]によって外洋に通じたことで切り離され、[[紅海]]および{{仮リンク|スエズ・リフト湾|en|Gulf of Suez Rift}}も形成されて、アフリカはアラビアプレートから遠く分離した。
現在のアフリカ大陸は、狭い陸橋である[[スエズ地峡]]で[[アジア大陸]]と結びつき、ジブラルタル海峡や[[シチリア島]]などによって[[ヨーロッパ大陸]]とは切り離されている。古地質学者のロナルド・ブレーキーは、次の1,500万年ないし1億年のプレートテクトニクスはかなりの確度でもって予測可能だと説明している<ref name=achyblakeyheart>Manaugh, Geoff & al. [http://www.theatlantic.com/technology/archive/2013/09/what-did-the-continents-look-like-millions-of-years-ago/279892/ "What Did the Continents Look Like Millions of Years Ago?"] in ''The Atlantic'' online. 23 Sept 2013. Accessed 22 July 2014.</ref> 。今後、アフリカ大陸は北方に移動し続け、およそ60万年後にはジブラルタル海峡は塞がれて地中海の[[海水]]は猛烈な速さで蒸発すると予想される。超大陸がその時期にあって形成されることはないだろうとしているが、しかしながら、地質学的な記録によれば、プレートの活動は想像もできない変化に満ちあふれており、その活動を前もって推定することは「きわめて、きわめて不確実」であるとも述べている<ref name=achyblakeyheart/>。可能性としては3つ考えられる。第一に、{{仮リンク|ノヴォパンゲア大陸|en|Novopangaea}}、[[アメイジア大陸]]、[[パンゲア・ウルティマ大陸]]といった超大陸の形成である。第二に、[[太平洋]]が塞がり、アフリカとユーラシアは結びついたままだが、ユーラシア大陸自体が分裂し、ヨーロッパとアフリカが西に向かって移動する可能性、最後は、三大陸がそろって東に移動して[[大西洋]]を塞ぐという可能性である。
== 歴史 ==
[[ファイル:MakedonischesReich.jpg|left|330px|thumb|「[[アレクサンドロス帝国]]」の最大領域]]
人類は長らく[[アフリカ大陸]]において進化し、そのうちのわずかなグループが[[人類の進化#出アフリカ説|出アフリカ]]して外部世界の各地に適応進化した。そのため、アフリカに残留した[[ネグロイド]]人種内部の遺伝的距離は、[[コーカソイド]]や[[モンゴロイド]]などのその他の人種間の遺伝的距離よりはるかに大きいとされる。コーカソイドの一部は北アフリカに戻り、およそ[[サハラ砂漠]]を隔ててネグロイドと棲み分ける形となった。
[[ファイル:Das Mongolenreich unter den Erben Dschingis Khans.GIF|right|thumb|250px|[[モンゴル帝国]]とその支配地]]
[[ファイル:Silkroutes.jpg|right|thumb|250px|[[シルクロード]]の主要なルート]]
気候の温暖化にともない、約1万年前にはユーラシアと北アフリカにおいて[[農耕]]が成立し、[[牧畜]]や[[冶金]]技術の誕生をまねいた(同様の発展はアメリカ大陸でも独立して起こったが、これはアフロ・ユーラシアに比較して数千年ののちのことであった)<ref name=kenkyu7>[[#研究|『詳説世界史研究』(1995)p.7]]</ref>。[[金石併用時代]]の後期には、[[メソポタミア]]で[[シュメール人]]の[[都市国家]]が生まれた<ref name=kenkyu7/><ref name=take12>[[#武光|武光(2006)pp.12-13]]</ref>。[[ナイル川]]流域では、都市国家の成立はこれにやや遅れたが、統一国家の成立はむしろメソポタミアに先んじた<ref name=take12/>。同様の[[青銅器文明]]は、[[インダス川]]、[[黄河]]、[[長江]]など他地域でも現れ、それぞれ[[文字]]をともなう[[農耕文明]]として発展を遂げた<ref name=kenkyu7/>。
[[ファイル:Phoenician alphabet.svg|left|thumb|180px|[[古ヘブライ文字]]、[[アラム文字]]、[[ギリシア文字]]の母体となった[[フェニキア文字]]。<small>ギリシア文字を経て[[ローマ文字]]、[[キリル文字]]もこの文字から派生している。</small>]]
この大陸を舞台に、[[アケメネス朝ペルシア]]、[[アレクサンドロス大王]]の帝国、東西の[[ローマ帝国]]、[[ウマイヤ朝]]・[[アッバース朝]]による[[イスラーム帝国]]、[[モンゴル帝国]]、[[オスマン帝国]]、[[ムガル帝国]]、[[大英帝国]]、[[ロシア帝国]]および[[中国]]の諸王朝など強大な帝国が出現した<ref name=kenkyu16>[[#研究|『詳説世界史研究』(1995)p.16]]</ref><ref name=kenkyu63>[[#研究|『詳説世界史研究』(1995)p.63]]</ref><ref name=kenkyu109>[[#研究|『詳説世界史研究』(1995)p.109]]</ref><ref name=kenkyu150>[[#研究|『詳説世界史研究』(1995)p.150]]</ref><ref name=kenkyu281>[[#研究|『詳説世界史研究』(1995)p.281]]</ref>。ユーラシア大陸の東側と西側ないしアフリカ大陸東岸とは、[[シルクロード]](絹の道)、[[草原の道]]、[[海の道]]によって結ばれ、物流と文化が行き交った。ヨーロッパが主導する[[大航海時代]]にあっては、「[[コロンブス交換]]」と欧州以外の各地の(半)[[植民地化]]がこれにともなって起こり、世界の文化に[[グローバリゼーション]]の波をもたした<ref name=kenkyu225>[[#研究|『詳説世界史研究』(1995)p.225]]</ref><ref name=take126>[[#武光|武光(2006)pp.126-127]]</ref>。
[[産業革命|第一次産業革命]]が英国で、[[第二次産業革命]]が英国はじめ[[フランス|仏]][[ドイツ|独]][[アメリカ合衆国|米]]などで起こり、アフロ・ユーラシアの地に住む人びとの多くが流血の[[戦争]]・[[革命]]を経験した。[[第一次世界大戦]]および[[第二次世界大戦]]は脱植民地化と[[共産主義革命]]をもたらしたが、[[1989年]]の革命により[[東西冷戦]]が終結し、[[資本主義]]諸国側の勝利となった<ref name=take218>[[#武光|武光(2006)pp.218-219]]</ref><ref name=take268>[[#武光|武光(2006)pp.268-269]]</ref>。こんにち、[[核兵器]]を有する9か国のうち8か国がユーラシアに所在し、[[ヨーロッパ連合]](EU)、[[ロシア連邦]]、[[日本]]、[[中華人民共和国]]といった強国もまた、ユーラシアに内包されている。
[[ファイル:Maquina vapor Watt ETSIIM.jpg|thumb|right|200px|[[ジェームズ・ワット]]による改良[[蒸気機関]]]]
こんにち、アフロ・ユーラシアは世界人口および諸文化の大半を保有するだけでなく、世界経済においても中心的な役割をになっており、ここから生まれた[[インド・ヨーロッパ語]]、[[セム・ハム語族|セム・ハム語]]、[[シナ・チベット語族|シナ・チベット語]]、[[ウラル・アルタイ語族|ウラル・アルタイ語]]などに属する諸[[言語]]が、新大陸を含めた全世界で話されている。[[アルファベット]]、[[漢字]]、[[アラビア文字]]、「[[ブラーフミー系文字]]」といわれるインド系諸文字、日本の[[仮名文字]]などの文字もまた同様である。
世界中で最も多く信仰されている四大宗教、すなわち[[キリスト教]]、[[イスラーム教]]、[[仏教]]、[[ヒンドゥー教]]やキリスト教、イスラーム教の起源になった[[ユダヤ教]]はすべてアフロ・ユーラシアの地を発祥地としており、同様に、経験的な諸科学、[[哲学]]、[[ヒューマニズム]]、世俗的な諸思想などもまた、多くはここから起こってきたのである。
== 構成地域 ==
[[ファイル:LocationAfricaEurasia.png|thumb|400px|right|アフロ・ユーラシア大陸と付随する[[島|島々]]]]
アフロ・ユーラシアは次のような[[地域]]に区分できる。
* [[アフリカ]]
** [[北アフリカ]]
** [[中部アフリカ]]
** [[西アフリカ]]
** [[東アフリカ]]
** [[南部アフリカ]]
* [[ユーラシア]]
** [[東アジア]]
** [[東南アジア]]
** [[南アジア]]
** [[中央アジア]]
** [[西アジア]]
** [[北アジア]]
** [[ヨーロッパ]]
人類学、歴史学の観点で、アフロ・ユーラシアをユーラシア・北アフリカと、[[サブサハラ]]に二分することがある.<ref>{{ Citation
| last=Diamond
| first=Jared
| author-link=ジャレド・ダイアモンド
| title=Guns, Germs, and Steel: The Fates of Human Societies
| year=1997
| isbn=0-393-03891-2
| publisher=Norton & Company
}}</ref>。
== 国家相互の結びつき ==
アフリカ大陸にあっては、[[アフリカ連合]](AU)、[[西アフリカ諸国経済共同体]]、[[中部アフリカ諸国経済共同体]]、[[東アフリカ共同体]]、[[南部アフリカ開発共同体]]、[[アラブ・マグレブ連合]]などの[[地域統合]]・地域協力のための[[機関]]があり、ユーラシアにあっては、ヨーロッパに[[欧州連合]](EU)、[[欧州自由貿易連合]](EFTA)、[[中欧自由貿易協定]](CEFTA)、旧[[ソビエト連邦]]地域に[[独立国家共同体]](CIS)、[[ユーラシア経済共同体]]、[[ロシア・ベラルーシ連盟国]]、アジア地域に[[湾岸協力会議]]、[[経済協力機構]](ECO)、[[南アジア地域協力連合]](SAARC)、[[東南アジア諸国連合]](ASEAN)などが組織され、それぞれ地域統合を強めている。また、アフリカ、ユーラシアの両大陸をまたぐ機関としては[[アラブ世界]]([[アラビア語]]を話す地域)の統合をめざした[[アラブ連盟]]がある。
== 一帯一路構想 ==
中華人民共和国が近年唱えている「[[一帯一路]]」は、中国からヨーロッパやアフリカまで陸海路で結び、かつてのシルクロード沿いに中国を中心とした新しい経済圏を生み出そうとする構想であり、アフロ・ユーラシア大陸を一体的なものとしてとらえる発想にもとづいている。具体的には、中国から[[ロシア]]や[[中央アジア]]、[[モンゴル]]を経由(例:[[トランス=ユーラシア・ロジスティクス]])して[[イギリス]]の[[ロンドン]]や[[スペイン]]の[[マドリード]]までを鉄道で結び(例:[[:en:Yiwu–Madrid railway line|義烏・マドリード路線]]、[[:en:Yiwu-London railway line|義烏・ロンドン路線]])、一方ではアフリカの[[ジブチ]]や[[パキスタン]]の[[グワダル]]など[[インド洋]]各地に中国主導で港をつくり、海路で[[ギリシャ]]の[[ピレウス]]などヨーロッパに連結させるというものである。これについては、一部に中国資本による地域開発を歓迎する声があるものの、明確に中国の[[覇権主義]]と結びついた構想であることから、これを警戒する声も大きい。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注釈}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=武光誠編著|authorlink=武光誠|year=2006|month=6|title=横割り世界史|publisher=[[ナツメ社]]|series=|isbn=4-8163-4080-7|ref=武光}}
* {{Cite book|和書|editor1-first=康彦|editor1-last=木下|editor1-link=木下康彦|editor2-first=靖二|editor2-last=木村|editor2-link=木村靖二|editor3-first=寅|editor3-last=吉田|editor3-link=吉田寅|year=1995|month=7|title=詳説世界史研究|publisher=[[山川出版社]]|series=|isbn=4-634-03420-4|ref=研究}}
== 関連項目 ==
* [[旧世界]]
* [[東半球]]
{{プレートテクトニクス}}
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[[Category:アフリカの地理]]
[[Category:ユーラシア]]
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[[Category:超大陸]] | null | 2023-06-07T00:59:39Z | false | false | false | [
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"Template:脚注ヘルプ"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%82%A2%E5%A4%A7%E9%99%B8 |
8,690 | 征海美亜 | 征海 美亜(いくみ みあ、1979年3月27日 - 2022年3月7日)は、日本の漫画家。旧名義は征海 未亜(読み同じ)。
大阪府出身。主に『なかよし』(講談社)などで活動。代表作は、アニメ化もされた『東京ミュウミュウ』(原案・講談社、シナリオ・吉田玲子)など。 | [
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}
] | 征海 美亜は、日本の漫画家。旧名義は征海 未亜(読み同じ)。 大阪府出身。主に『なかよし』(講談社)などで活動。代表作は、アニメ化もされた『東京ミュウミュウ』(原案・講談社、シナリオ・吉田玲子)など。 | {{JIS2004}}
'''征海 美亜'''<ref name="prtimes20191130">{{Cite press release|和書|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000002438.000001719.html |title=2020年は…『東京ミュウミュウ』プロジェクト始動します! |publisher=講談社 |date=2019-11-30 |accessdate=2022-03-14}}</ref>(いくみ みあ、[[1979年]][[3月27日]]<!--1979年--> - [[2022年]][[3月7日]])は、[[日本]]の[[漫画家]]。旧名義は'''征海 未亜'''(読み同じ)<ref name="prtimes20191130" />。
[[大阪府]]出身。主に『[[なかよし]]』([[講談社]])などで活動。代表作は、アニメ化もされた『[[東京ミュウミュウ]]』(原案・講談社、シナリオ・[[吉田玲子]])など<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2227797/full/|title=『東京ミュウミュウ』作者死去、声優が追悼 作品の出会いに「いつまでもかけがえのない宝物です」|website=ORICON NEWS|publisher=oricon ME|date=2022-03-14|accessdate=2022-03-15}}</ref>。
== 略歴 ==
* 1997年 - 「ウサギの降らす星」が第24回[[なかよし新人まんが賞]]を受賞し、「[[るんるん (講談社)|るんるん]] 1998年1月号」([[講談社]])に掲載され、デビュー。
* 1998年 - 『[[なかよし]]』にて、『[[スーパードール★リカちゃん]]』(コミカライズ)の連載を開始。( - 1999年)
* 2000年 - 『なかよし』にて、『東京ミュウミュウ』の連載を開始。( - 2004年)
* 2002年 - 『東京ミュウミュウ』がアニメ化される。第一話では本人も女子生徒役として声をあてている。([[テレビ愛知]]制作)
* 2002年 - [[ゲームボーイアドバンス]]と[[PlayStation (ゲーム機)|プレイステーション]]で『東京ミュウミュウ』がゲーム化される。(ともに[[タカラ (玩具メーカー)|タカラ]])
* 2004年 - 『[[月刊Asuka|Asuka]]』([[角川書店]])にて『リピュア〜Repure〜』を連載。
* 2004年 - 『[[なかよしラブリー]]』(講談社)にて『wish たったひとつの願いごと』をシリーズ連載。
* 2005年 - 『[[コミデジ+|コミデジ]]』にて『[[恋きゅー♥]]』を連載。
* 2006年 - 『コミデジ』からリニューアルされた『[[コミデジ+]]』にて『恋きゅー♥』を継続して連載。
* 2019年 - ペンネームを「征海 未亜」から「征海 美亜」に変更。
* 2022年 - 3月7日、[[くも膜下出血]]により死去。訃報は14日に『なかよし』公式サイトで公表された<ref name="nakayoshi20220314" />。告別式等は近親者のみで執り行われた<ref name="nakayoshi20220314">{{Cite web|和書|author=講談社 なかよし編集部 |url=http://nakayosi.kodansha.co.jp/news/20220314.html |title=訃報 征海美亜先生 ご逝去のお知らせ |website=なかよし 講談社コミックプラス |publisher=講談社 |date=2022-03-14 |accessdate=2022-03-14}}</ref>。
== 作品リスト ==
* [[スーパードール★リカちゃん]](1998年-1999年、なかよし他連載。1999年、[[講談社コミックスなかよし|KCなかよし]] 全2巻)
* [[東京ミュウミュウ]](講談社原案、吉田玲子シナリオ。2000年-2003年、なかよし他連載。KCなかよし 全7巻)
** 東京ミュウミュウ あ・ら・もーど(講談社原案。2003年-2004年、なかよし他連載。2003年-2004年、KCなかよし 全2巻)
* リピュア〜Repure〜(2004年、Asuka連載。2004年、あすかコミックス 全1巻)
* [[Wish 〜たったひとつの願いごと〜]] (2004年-2005年、なかよしラブリー連載。2005年、KCなかよし 全1巻)
* [[恋きゅー♥]](2005年-2008年、コミデジおよびコミデジ+連載。2006年、コミデジコミックス 全5巻)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
{{東京ミュウミュウ}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:いくみ みあ}}
[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:大阪府出身の人物]]
[[Category:生年不明]]
[[Category:2022年没]] | 2003-05-19T16:34:40Z | 2023-11-21T21:47:47Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E6%B5%B7%E7%BE%8E%E4%BA%9C |
8,692 | 芸術 | 芸術(げいじゅつ、旧字体: 藝術󠄁)またはアート(希: (η) τέχνη, tékhnē、羅: ars、英: art、仏: art、独: Kunst)とは、表現者あるいは表現物と、鑑賞者が相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動を表す。文芸(言語芸術)、美術(造形芸術)、音楽(音響芸術)、演劇・映画(総合芸術)などが、芸術の諸分野である。
ギリシャ語の「τέχνη(tékhnē, テクネー)」や、その訳語としてのラテン語の「ars(アルス)」、英語の「art(アート)」、フランス語の「art(アール)」、ドイツ語の「Kunst(クンスト)」などは、もともと単に「人工(のもの)」という意味の医術や土木工学などの広い分野を含む概念で、現在でいうところの「技術」にあたる。現在でいう「芸術」は、近代以前には、単なる技術と特に区別して呼ぶ場合「よい技術、美しい技術」(beaux arts, schöne Kunstなど)と表現され、本来の「art」の一部を占めるに過ぎない第二義的なものであった。
18世紀ごろから加速する科学技術の発展とともに、それまで「ものをつくる」という活動において大きな比重を占めた装飾的な部分よりも、科学的知識を応用した実用性の向上が圧倒的な意味をもつようになる。これにともなって各種の技術は分業化と細分化が進み、現代でいう技術(technics,technology)に再編されるのに対し、建築などの人工物を装飾する美的要素がこれと分化独立しながら、従前の「art」という呼称を引き継ぐことになった。
現代の日本語における「芸術」は、伝統的に継承された単語ではなく、明治時代に西周によってリベラル・アーツの訳語として用いられたことに由来する。現在では、英語の音写「アート」が用いられることも多い。
正字表記では「藝」だが、第二次大戦後の日本における漢字制限(当用漢字、常用漢字、教育漢字)により、「藝」が「芸」と略記されることになった。なお、「芸」は、もともと「云」を声符として「ウン」と読み、ヘンルーダ等の植物をあらわす別字だが、本来「藝」の字とはまったく関係がない。
「藝」の原字の「埶」は、「木」+「土」+「丮」からなる会意文字で、人が両手に持った植物を土に植えるさまを表す。のち、植物であることを強調するため「艸」が加えられ「蓺」となり、さらに「云」が加えられて「藝」となった。「芸」はその中央部を省略した略字である。本来、植物を植えることを意味したが、転じて技芸・技能一般、特に文芸を表すようになった。
美学者の佐々木健一は、広義のart(仕業)を、「人間が自らの生と生の環境とを改善するために自然を改造する力」と定義している。その中でも特に、芸術とは、予定された特定の目的に鎖されることなく、技術的困難を克服し、現状を越え出てゆこうとする精神の冒険性に根ざし、美的コミュニケーションを志向する活動であるとする。この活動は作品としてコミュニケーション媒体となる。時代や場所によって、その形態や機能は変化する。芸術の定義をめぐる問いは美学の分野で議論・研究されている。
日本では「藝術󠄁(芸術)」が明治期になって新しい語として使用されるようになったため、近代以前の『伝統芸術』を芸道と呼んだり、また芸能とも呼ばれ、「芸術」とは意味が異なるものとして想定される場合もあり、語用統一されていない。
なお芸能は、芸術の諸ジャンルのうち、人間の身体をもって表現する技法と定義され、職業として芸能に携わる者を芸能人と呼ぶとされるが、これは「身体芸術」とも「舞台芸術」ともまた異なる概念である。
表現者が、どのような手段、媒体を用いるかによって、芸術を多くのジャンルに分けることができる。下記は、芸術の表現方法のうち、歴史的に比較的様式の定まった具体区分に、詳細な学説的分類を加えたものである。
上記分類は、表現者が一定の枠内に収まった表現方法を用いた場合に分類可能となるというだけであって、表現者がこれらの枠に収まらない表現を用いる場合や、複数の表現を組み合わせたりする場合なども多い。より包括的な分類方法として「空間芸術」・「時間芸術」・「総合芸術」・「大衆芸術」などもある。
空間芸術とは、物を用い、空間に形を表現する芸術であり、二次元(絵画・平面装飾など)的なものと三次元(彫刻・建築など)的なもの、その複合も存在する。その空間だけで一瞬ですべてを表現する芸術である。
時間芸術とは、文芸・音楽・演劇・映画など、ある一定の時間をかけて(物語性のあるものを)鑑賞する芸術。時間芸術と空間芸術は対義語であるといえる。
総合芸術とは各種芸術が協調・調和した形式でオペラ(歌劇)・映画などがこう呼ばれる。
また、ある作品や活動の程度が非常に高いとき、これを芸術と呼ぶ場合がある。この用法では、作品や活動の独創性は要件に入らない。 | [
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"text": "空間芸術とは、物を用い、空間に形を表現する芸術であり、二次元(絵画・平面装飾など)的なものと三次元(彫刻・建築など)的なもの、その複合も存在する。その空間だけで一瞬ですべてを表現する芸術である。",
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"text": "時間芸術とは、文芸・音楽・演劇・映画など、ある一定の時間をかけて(物語性のあるものを)鑑賞する芸術。時間芸術と空間芸術は対義語であるといえる。",
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] | 芸術またはアートとは、表現者あるいは表現物と、鑑賞者が相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動を表す。文芸(言語芸術)、美術(造形芸術)、音楽(音響芸術)、演劇・映画(総合芸術)などが、芸術の諸分野である。 | {{Otheruses||学校の教科|芸術 (教科)}}
{{未検証|date=2008年11月}}
{{出典明記|date=2013年11月}}
[[File:Great Wave off Kanagawa2.jpg|thumb|250px|[[神奈川沖浪裏]]、日本の[[画家]] [[葛飾北斎]]、[[東洋]]文化における芸術の一例。]]
[[File:Mona Lisa, by Leonardo da Vinci, from C2RMF retouched.jpg|thumb|200px|[[モナ・リザ]]、有名な[[イタリア]]の画家[[レオナルド・ダヴィンチ]]の作品、西洋文化の芸術の古典的な例。]]
'''芸術'''(げいじゅつ、{{旧字体|'''藝術󠄁'''}})または'''アート'''({{Lang-el-short|(η) τέχνη}}, [[wiktionary:τέχνη#English|'''tékhnē''']]、{{Lang-la-short|'''ars'''}}、{{Lang-en-short|'''art'''}}、{{Lang-fr-short|'''art'''}}、{{Lang-de-short|'''Kunst'''}})とは、[[表現]]者あるいは表現物と、鑑賞者が相互に作用し合うことなどで、[[精神]]的・[[感覚]]的な変動を得ようとする活動を表す。[[文芸]]([[言語芸術]])、[[美術]]([[造形芸術]])、[[音楽]]([[音響芸術]])、[[演劇]]・[[映画]]([[総合芸術]])などが、芸術の諸分野である。
== 語源 ==
[[ギリシャ語]]の「{{Lang|el|τέχνη}}(tékhnē, テクネー)」や、その訳語としての[[ラテン語]]の「ars(アルス)」、[[英語]]の「art(アート)」、[[フランス語]]の「art(アール)」、[[ドイツ語]]の「Kunst(クンスト)<ref group="注釈">ドイツ語では、Kunst(芸術)、Kunstwissenschaft(芸術学)、allgemeine Kunstwissenschaft(一般芸術学)、Kunstverhalten(芸術態度)、Kunstwollen(芸術意志)などの用語分岐もある。</ref>」などは、もともと単に「人工(のもの)」という意味の医術や土木工学などの広い分野を含む概念で、現在でいうところの「[[技術]]」にあたる。現在でいう「芸術」は、[[近代]]以前には、単なる技術と特に区別して呼ぶ場合「よい技術、美しい技術」(beaux arts, schöne Kunstなど)と表現され、本来の「art」の一部を占めるに過ぎない第二義的なものであった。
18世紀ごろから加速する科学技術の発展とともに、それまで「ものをつくる」という活動において大きな比重を占めた装飾的な部分よりも、科学的知識を応用した実用性の向上が圧倒的な意味をもつようになる。これにともなって各種の技術は分業化と細分化が進み、現代でいう技術(technics,technology)に再編されるのに対し、建築などの人工物を装飾する美的要素がこれと分化独立しながら、従前の「art」という呼称を引き継ぐことになった。
現代の日本語における「'''芸術'''」は、伝統的に継承された単語ではなく、明治時代に[[西周 (啓蒙家)|西周]]によって[[リベラル・アーツ]]の訳語として用いられたことに由来する{{Sfn|佐々木健一|1995|p=31}}。現在では、英語の音写「アート」が用いられることも多い。<ref>『[[後漢書]]』5巻[[安帝 (漢)|孝安帝]]紀の[[永初]]4年([[110年]])2月の[[五経]]博士の[[劉珍及]]による「{{Lang|zh-tw|校定東觀 五經 諸子 傳記 百家'''蓺術''' 整齊脫誤 是正文字}}」の「{{Lang|zh-tw|蓺術}}」等の用例に由来する。</ref><ref>{{Cite wikisource|title=後漢書/卷5|author=范曄|wslanguage=zh}}</ref><ref group="注釈">[[佐久間象山]]は「東洋道徳西洋芸術」という言葉を遺している(全文:「象山先生七絶 : 題地球儀詩 / 象山 [撰]」が、ここでいう芸術は技術のことである([[和魂洋才]]と同様の意味)。</ref><ref>[[早稲田大学図書館]]古典籍総合データベース https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/chi06/chi06_03890_0185/index.html</ref>
=== 表記({{kyujitai|'''藝術󠄁・芸術'''}}) ===
正字表記では'''「藝」'''だが、第二次大戦後の日本における[[漢字制限]]([[当用漢字]]、[[常用漢字]]、[[教育漢字]])により、「藝」が「芸」と略記されることになった。なお、「芸」は、もともと「云」を声符として「ウン」と読み、[[ヘンルーダ]]等の植物をあらわす別字だが、本来「藝」の字とはまったく関係がない。
{{Wiktionary|藝}}「藝」の原字の「埶」は、「木」+「土」+「丮」からなる会意文字で、人が両手に持った植物を土に植えるさまを表す。のち、植物であることを強調するため「艸」が加えられ「蓺」となり、さらに「云」が加えられて「藝」となった。「芸」はその中央部を省略した[[略字]]である。本来、植物を植えることを意味したが、転じて技芸・技能一般、特に文芸を表すようになった。
== 概説 ==
[[美学者]]の[[佐々木健一 (美学者)|佐々木健一]]は、広義のart(仕業)を、「人間が自らの生と生の環境とを改善するために自然を改造する力」と定義している{{Sfn|佐々木健一|1995|p=31}}。その中でも特に、芸術とは、予定された特定の目的に鎖されることなく、技術的困難を克服し、現状を越え出てゆこうとする精神の冒険性に根ざし、美的コミュニケーションを志向する活動であるとする{{Sfn|佐々木健一|1995|p=31}}。この活動は作品としてコミュニケーション媒体となる{{Sfn|佐々木健一|1995|p=31}}。時代や場所によって、その形態や機能は変化する{{Sfn|佐々木健一|1995|p=31}}。芸術の定義をめぐる問いは[[美学]]の分野で議論・研究されている。
<!-- 前半部分(R.G.コリングウッド〜ダダまで)は「芸術」を全体にわたって、そのあらましを説明する記述であるのか疑問に思ったため、後半部分は(ある活動〜「権威に認められた高尚な活動」)出典の確認や裏付けが取れず独自研究の可能性があるため、一旦コメントアウトとさせていただきました。出典情報の確認と加筆をお願いします。
{{独自研究|section=1|date=2008年11月}}
[[R.G.コリングウッド]]は『[[芸術の原理]]』において、今日は本来のあり方を外れた'''擬似芸術'''に覆われているとし、それらは人生のための芸術である'''魔術芸術'''と芸術のための芸術である'''娯楽芸術'''という類型に分けることができるとした。魔術芸術とは芸術がもたらすさまざまな感情の刺激によって人々を実際の政治や商業などの実際的な狙いを持つ活動へと仕向ける種類の芸術と定義され(例えば教会のための芸術や軍楽などを含む)、娯楽芸術とは実際的な狙いがない活動へと仕向ける単に感情を高揚させるだけの芸術である。ヨーロッパの美術史ではこの魔術芸術と娯楽芸術が拮抗してきたとコリングウッドは概括し、真の芸術がその両方から脅威に晒されてきたと考えた。本来の芸術とは魔術や娯楽から分離されたもので、表現的で想像上の、ある種の言語であるとした。
詩人・批評家の[[シャルル・ボードレール|ボードレール]]は、絵画論においてそれまでの歴史画を批判し、[[エドゥアール・マネ|マネ]]の平面性などに「近代性({{ill2|モデルニテ|en|Modernité}})」を見出した。[[ミシェル・フーコー|フーコー]]は、このボードレールの批評に近代芸術の発祥をみている<ref>『マネの絵画』筑摩書房</ref>。
ダダイズムの影響をうけた[[マルセル・デュシャン]]は既成の商品であった便器を逆さに展示して「噴水」と名付けた作品を発表し、「芸術」がひとの観点によることなど、その定義、芸術という概念そのものを問い直した。以降、20世紀を通じて、「反芸術」「コンセプチュアル・アート」なども産まれた。
ある活動や作品が芸術であるか否かについて、必ずしも誰もが同意する基準があるとは限らない。表現者側では、その働きかけに自分の創造性が発揮されること、鑑賞者側ではその働きかけに何らかの作用を受けることなどが芸術が成り立つ要件とされる。これに関して、表現者側では、自分の作品を構成するにあたり、先人の影響を受けたり、既に様式が決まっている表現方法、媒体を用いたりすることはよく行われるので、必ずしも表現の内容が完全に自分の創造性にのみよっているとは限らない。また鑑賞者側が、その表現が前提としている様式の暗号を知らないと働きかけはうまくいかない。
「権威に認められた高尚な活動」が芸術であると誤解されることがあるが、そうではない。権威とは芸術作品を世に広めたり後世に遺したり芸術活動を推奨することを目的とした組織であり、そのために特にその価値がある芸術作品を認め知らしめるだけで、芸術を定義しているものではない。
-->
日本では「{{kyujitai|'''藝術󠄁(芸術)'''}}」が明治期になって新しい語として使用されるようになったため、近代以前の『伝統芸術』を[[芸道]]と呼んだり、また[[芸能]]とも呼ばれ、「芸術」とは意味が異なるものとして想定される場合もあり、語用統一されていない。
なお[[芸能]]は、芸術の諸ジャンルのうち、人間の身体をもって表現する技法と定義され、職業として芸能に携わる者を[[芸能人]]と呼ぶとされるが<ref>ウィキペディア項目「芸能」参照</ref>、これは「身体芸術」とも「舞台芸術」ともまた異なる概念である。
== 分類 ==
{{See|諸芸術}}
表現者が、どのような手段、媒体を用いるかによって、芸術を多くのジャンルに分けることができる。下記は、芸術の表現方法のうち、歴史的に比較的様式の定まった具体区分に、詳細な学説的分類を加えたものである。
=== 文芸 ===
* [[文芸]]([[言語芸術]])
** [[詩]]
** [[小説]]・[[物語]]
** [[戯曲]]
** [[随筆]]・[[紀行]]
** [[文芸評論]]
** [[伝記]]・[[自伝]]・[[日記文学]]
=== 美術 ===
* [[美術]]([[造形芸術]]・[[視覚芸術]])
** [[絵画]]([[洋画家|洋画]]・[[日本画]])
** [[浮世絵]]
** [[彫刻]]・[[彫塑]]
** [[折り紙]]
** [[庭園]]
** [[書道]]
** [[工芸]]
** [[華道]]([[いけばな]])
** [[陶芸]]
** [[建築]]
** [[写真]]([[芸術写真]])
=== 音楽 ===
* [[音楽]]([[音響芸術]]・聴覚芸術<ref>{{Cite web|和書|title=聴覚芸術(ちょうかくげいじゅつ)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E8%81%B4%E8%A6%9A%E8%8A%B8%E8%A1%93-1367621 |website=コトバンク |access-date=2023-06-05 |language=ja |last=世界大百科事典内言及}}</ref>)
** [[作曲]]
** [[器楽]]([[演奏]])
** [[声楽]]([[歌唱]])
** [[指揮 (音楽)|指揮]]
** [[楽理]]([[音楽学]])
=== 総合芸術 ===
* [[舞台芸術]]
** [[演劇]]
** [[オペラ]]([[歌劇]])
** [[能]]・[[狂言]]
** [[歌舞伎]]
** [[文楽]]
** [[ダンス]]([[舞踊]]・[[舞踏]])
** [[バレエ]]
** [[コンテンポラリー・ダンス]]
** [[パフォーマンスアート]]
** [[ボディアート]]
* [[映像芸術]]
** [[映画]]
** [[アニメーション]]
** [[コンピュータグラフィックス]]
** [[コンピュータゲーム]]:ゲームの芸術性については論争がある。詳細は[[芸術としてのゲーム]]を参照。
=== デザイン ===
* [[デザイン]]([[応用芸術]])
** [[ファッション]]
** [[衣服]]
** [[テキスタイル]]
** [[グラフィック]]
** [[工業デザイン]]
** [[インダストリアルデザイン]]
** [[インタラクションデザイン]]
** [[プロダクトデザイン]]
** [[ユニバーサルデザイン]]
** [[メカニズムデザイン]]
** [[カーデザイン]]
** [[CAD]]([[コンピューター・デザイン]])
** [[ストラクチャーデザイン]]
** [[スペースデザイン]]
** [[空間デザイン]]
** [[インテリアデザイン]]
** [[ランドスケープデザイン]]
** [[アーバンデザイン]]
** [[ペーブメントデザイン]]
** [[構造デザイン]]
**
** [[グラフィックデザイン]]
** [[ビジュアルデザイン]]
** [[パッケージデザイン]]
** [[キャラクターデザイン]]
** [[ウェブデザイン]]
** [[ゲームデザイン]]
** [[タイポグラフィ]]
** [[エディトリアルデザイン]]
** [[ブックデザイン]]
** [[ジャケットデザイン]]
** [[情報デザイン]]
<!-- IDは反進化論から生まれた宗教的背景を持つ概念。芸術的観念は乏しい。 ** [[インテリジェント・デザイン]] -->
** [[環境デザイン]]
** [[フラワーデザイン]]
** [[ガーデンデザイン]]
** [[エコロジカルデザイン]]
** [[エクステリアデザイン]]
** [[サウンド|サウンドデザイン]]
** [[音響]]デザイン
** [[照明]]・[[:en:Architectural lighting design|ディメンション・デザイン]]
** [[フード]][[:de:Food Design|デザイン]]
** [[コミュニケーションデザイン]]
<!-- キャリアデザインは職業(キャリア)の計画的・戦略的立案に関する。芸術との関連性はない。 ** [[キャリアデザイン]] -->
<!-- ライフデザインは、一般的にライフプラン(人生設計)を指す。芸術との関連性はない。 ** [[ライフデザイン]] -->
** [[プロセスデザイン]]
** [[ペルソナデザイン]]
** [[ボディデザイン]]
** [[メカニックデザイン]]
** [[メタデザイン]]
** [[ユーザーエクスペリエンスデザイン]]
** [[参加型デザイン]]
** [[先端デザイン]]
** [[パブリックデザイン]]
** [[トータルデザイン]]
=== その他 ===
* [[芸能]]
* [[芸道]]
* [[武芸]]
* [[茶道]]
* [[香道]]
* [[料理]]
* [[菓子]]
* [[漫画]]
* [[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]
* [[前衛演劇]]
* [[アヴァンギャルド]]
* [[インスタレーション]]
* [[イラストレーション]]
* [[イルミネーション]]
* [[アンダーグラウンド (文化)]]
* [[カウンター・カルチャー]]
* [[アクアリウム]]
=== 他の分類 ===
上記分類は、表現者が一定の枠内に収まった表現方法を用いた場合に分類可能となるというだけであって、表現者がこれらの枠に収まらない表現を用いる場合や、複数の表現を組み合わせたりする場合なども多い。より包括的な分類方法として「[[空間芸術]]」・「[[時間芸術]]」・「[[総合芸術]]」・「[[大衆芸術]]」などもある。
空間芸術とは、物を用い、空間に形を表現する芸術であり、二次元(絵画・平面装飾など)的なものと三次元(彫刻・建築など)的なもの、その複合も存在する。その空間だけで一瞬ですべてを表現する芸術である。
時間芸術とは、文芸・音楽・演劇・映画など、ある一定の時間をかけて(物語性のあるものを)鑑賞する芸術。時間芸術と空間芸術は対義語であるといえる。
総合芸術とは各種芸術が協調・調和した形式でオペラ(歌劇)・映画などがこう呼ばれる。
また、ある作品や活動の程度が非常に高いとき、これを芸術と呼ぶ場合がある。この用法では、作品や活動の独創性は要件に入らない。
== 用語解説 ==
* [[退廃芸術]] - ナチスが近代美術を、道徳的・人種的に堕落したもので、ドイツの社会や民族感情を害するものであるとして禁止するために打ち出した芸術観
* [[反芸術]] - 伝統的な展覧会の文脈の中で展示されながら、真剣な芸術をあざ笑うかのような内容を持つ作品、また芸術というものの本質を問い直し変質させてしまうような作品
* [[教祖祭PL花火芸術]] - [[パーフェクト リバティー教団]](PL) の宗教行事
* [[イランの芸術]] - イラン文化圏([[:en:Greater Iran|Greater Iran]])における芸術
* [[世紀末芸術]] - 1890年代から20世紀初頭にかけて、おもにヨーロッパの都市を中心に流行した諸芸術のなかで一定の傾向を示す一群
== 雑誌・書籍 ==
* [[映画芸術]] - 日本の映画雑誌
* [[レコード芸術]] - [[音楽之友社]]が発行するクラシック盤音楽の月刊誌
* [[ステレオ芸術]] - 1982年12月まで発行されていたクラシック音楽のレコードの月刊誌
* [[女人芸術]] - 女性の文芸雑誌で1928年(昭和3年)7 月から1932年(昭和7年)6月まで48冊を出した
* [[第二芸術]] - 、『世界』1946年11月号に掲載された桑原武夫の論文
* [[今日の芸術]] - 岡本太郎による美術評論書
* [[複製技術時代の芸術]] - ドイツの文化評論家[[ヴァルター・ベンヤミン]]が1935年に著した評論
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
*{{Cite |和書
| author = 佐々木健一
| title = 美学辞典
| date = 1995
| publisher = 東京大学出版会
| isbn = 4130802003
| ref = harv }}
== 関連項目 ==
{{Sisterlinks|芸術
|wikt=芸術
|wikibooks=芸術
|q=芸術
|commons=Art
|wikisource=Category:芸術
}}
* [[美]]
* [[芸術家]]
* [[芸術テロ]]
* [[芸能]]
* [[芸術のための芸術]]
* [[ギリシア神話と西洋芸術]]
* [[2006年の芸術]]
* [[2008年の芸術]]
* [[2009年の芸術]]
*[[芸術としてのゲーム]]
* {{ill2|動物が作った作品|en|Animal-made art}}
== 外部リンク ==
* {{SEP|art-definition|The Definition of Art|芸術の定義}}
* {{Kotobank}}
{{美術}}
{{音楽}}
{{Normdaten}}
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[[Category:哲学の主題]]
[[Category:芸術|*]]
[[Category:美]]
[[Category:和製漢語]]
[[Category:哲学の和製漢語]] | 2003-05-19T16:38:41Z | 2023-12-25T21:31:55Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B8%E8%A1%93 |
8,693 | いなだ詩穂 | いなだ 詩穂(いなだ しほ、10月17日生まれ)は、日本の漫画家。
1994年、『LaLa DX』(白泉社)に掲載された『カムフラージュ』が第4回LaLaまんがグランプリ佳作を受賞しデビュー。
「幻影奇譚」などで注目され、1998年、『Amie』(講談社)で小野不由美原作の『悪霊シリーズ』第1作のコミカライズである「悪霊がいっぱい!?」を連載開始。連載終了時点で同誌は休刊となり、シリーズ2作目以降は「ゴーストハント」と改題し、『なかよし』での連載となる。第6巻以降は雑誌掲載はせず、コミックスに書き下ろしとなっている。2010年9月末に全12巻で(「悪霊シリーズ」部は)完結。
その後、2012年7月28日に発売された月刊ARIAから、続編にあたる「悪夢の棲む家」を、隔月連載で連載開始。
コミックスは発売日が発表されてからの発売延期も多く、しばしば初めに予定された発売日から1年近く遅れて刊行される。
『ゴーストハント』は2006年10月より、テレビ東京系で深夜アニメ化されている(原作ではなく漫画版のアニメ化と見受けられる)。
また、『ゴーストハント』は、別名義で小野不由美作品の同人誌を発表していたいなだ詩穂を作者・小野不由美が知り、直々に指名された経緯もある。
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] | いなだ 詩穂は、日本の漫画家。 1994年、『LaLa DX』(白泉社)に掲載された『カムフラージュ』が第4回LaLaまんがグランプリ佳作を受賞しデビュー。 | '''いなだ 詩穂'''(いなだ しほ、[[10月17日]]生まれ)は、[[日本]]の[[漫画家]]。
[[1994年]]、『[[LaLa DX]]』([[白泉社]])に掲載された『カムフラージュ』が第4回[[LaLa]]まんがグランプリ佳作を受賞しデビュー。
== 概要 ==
「[[幻影奇譚]]」などで注目され、[[1998年]]、『[[Amie]]』([[講談社]])で[[小野不由美]]原作の『[[悪霊シリーズ]]』第1作の[[漫画化|コミカライズ]]である「悪霊がいっぱい!?」を連載開始。連載終了時点で同誌は[[休刊]]となり、シリーズ2作目以降は「ゴーストハント」と改題し、『[[なかよし]]』での連載となる。第6巻以降は雑誌掲載はせず、コミックスに[[書き下ろし]]となっている。2010年9月末に全12巻で(「悪霊シリーズ」部は)完結。
その後、2012年7月28日に発売された月刊ARIAから、続編にあたる「悪夢の棲む家」を、隔月連載で連載開始。
コミックスは発売日が発表されてからの発売延期も多く、しばしば初めに予定された発売日から1年近く遅れて刊行される。
『ゴーストハント』は[[2006年]]10月より、[[テレビ東京]]系で深夜アニメ化されている(原作ではなく漫画版のアニメ化と見受けられる)。
また、『ゴーストハント』は、別名義で小野不由美作品の同人誌を発表していたいなだ詩穂を作者・[[小野不由美]]が知り、直々に指名された経緯もある。
== 作品リスト ==
※コミックス収録先を明記していないものは、全て未収録
* ささやかな野望(1993年 増刊LaLa3/10号掲載)
* カムフラージュ(1994年 LaLaDX1/10号掲載)
* ロック・ハンターズ(1994年 LaLaDX3/10号掲載)
* いつか、ね(1994年 LaLaDX7/10号掲載)
* かえらない波(1994年 LaLaDX7/10号掲載)
* マザーアース〜処女航海〜(1995年 LUNATIC LALA3/10号掲載/[[若木未生]]原作)
* LMSカット・漫画講座(1995年 LaLa4月号~1996年5月号掲載)
* 天国をつくろう(1995年 LaLaDX5/10号掲載)
* 君がいれば天国(1995年 LaLa DX 9/10号掲載)
* 背中ノ思イ出(1996年 LaLaDX5/10号掲載/HC『幻影奇譚』収録)
* ハッタレ!(1996年 LaLa9月号掲載)
* [[幻影奇譚]]シリーズ
** 幻影奇譚(1995年 LUNATIC LALA12/10号掲載/HC『幻影奇譚』収録)
** 幻影奇譚〜鬼哭〜(1996年 LUNATIC LALA6/20号掲載/HC『幻影奇譚』収録)
** 幻影奇譚〜現夢〜(1996年 LaLa7月号掲載/HC『幻影奇譚』収録)
** 幻影奇譚〜宿木〜(1996年 LaLa11月号掲載)
** 幻影奇譚〜花宵〜(1997年 LaLaDX1/10号掲載/HC『幻影奇譚』収録)
** 幻影奇譚〜春待〜(1997年 LaLaDX3/10号掲載)
** 幻影奇譚〜光月〜(1997年 LaLa5月号掲載)
** 幻影奇譚〜瞑夏〜(1997年 LaLaDX9/10号掲載)
* [[悪霊シリーズ|ゴーストハント]]([[Amie]]1998.1~5月号・[[なかよし]]1998.8~2000.10月号に断続的に掲載、以降コミックス描き下ろし/KCN『ゴーストハント』収録)
*悪夢の棲む家(月刊ARIA)
== 外部リンク ==
* 電脳いなだ屋本舗(公式・閉鎖済)
* [http://kc.kodansha.co.jp/magazine/index.php/01033 デジなか(ゴーストハント掲載誌公式)]
* [https://www.tv-tokyo.co.jp/anime/ghosthunt/ あにてれ ゴーストハント(アニメ公式)]
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[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:存命人物]]
[[Category:生年未記載]] | null | 2020-03-13T02:06:21Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%84%E3%81%AA%E3%81%A0%E8%A9%A9%E7%A9%82 |
8,695 | 海野つなみ | 海野 つなみ(うみの つなみ、1970年8月9日 - )は、日本の女性漫画家。兵庫県出身。
1989年に「お月様にお願い」(第8回なかよし新人まんが賞入選)で講談社『なかよしデラックス』からデビュー(作品投稿時のタイトルは『お月様に、お願い。』だったが、雑誌掲載時に編集者の見落としで句読点が抜けてしまった)。講談社の『なかよし』を中心に作品を発表していたが、1997年以降は『Kiss』、『Kiss PLUS』を中心に活動。代表作は『Kissの事情』、『回転銀河』、『逃げるは恥だが役に立つ』など。2015年5月には、『逃げるは恥だが役に立つ』で第39回講談社漫画賞(少女部門)を受賞。
ストーリーはもちろん登場人物の心の動きに重点を置いた描写や、従来の少女漫画とは一線を画する設定・テーマ、アイディアの上手さ、言葉選びのセンスに長け、また所々にコアでマイナーなギャグを入れるため、単行本では「ネタ帳公開」としてギャグの解説ページを設けることもある。
特記のない限り、単行本はすべて講談社。
近所には自分が漫画家であることを伏せて生活しており、2016年12月19日にNHK総合の『あさイチ』に出演の際には顔出しNGとしてすりガラス越しで出演した。
「海野つなみ」というペンネームは投稿を始めた中学2年生の時につけた。津波を連想させることもあり途中で改名を考えたが、当時の担当者や販売部など周囲の関係者に反対され、断念。2011年3月11日に発生した 東北地方太平洋沖地震 に際しては、逆に「海野つなみ」という名前だからこそチャリティ活動にも積極的に参加していきたいと、本人ブログにて発言した。また東日本大震災の被災者を支援するチャリティ活動として他の漫画家と共同で東日本大震災チャリティ同人誌「pray for Japan」で執筆する。
海野は阪神・淡路大震災で被災している。当時は大阪市に住んでいたが、神戸市での所用を終えて西宮市の実家に滞在中に揺れに見舞われ、実家が半壊した。JR社員の父、看護師の母、通信会社勤務の兄が復興に向けて多忙な日々を送るのを見て自らの境遇に悩んだが、当時既に連載を抱えていたため、ひたすら漫画を描き続けることによって精神状態を保ったと振り返っている。 | [
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"text": "海野は阪神・淡路大震災で被災している。当時は大阪市に住んでいたが、神戸市での所用を終えて西宮市の実家に滞在中に揺れに見舞われ、実家が半壊した。JR社員の父、看護師の母、通信会社勤務の兄が復興に向けて多忙な日々を送るのを見て自らの境遇に悩んだが、当時既に連載を抱えていたため、ひたすら漫画を描き続けることによって精神状態を保ったと振り返っている。",
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] | 海野 つなみは、日本の女性漫画家。兵庫県出身。 | {{Infobox 漫画家
| 名前 = 海野 つなみ
| ふりがな = うみの つなみ
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| 画像サイズ =
| 脚注 =
| 本名 = <!-- 必ず出典を付ける -->
| 生年 = {{生年月日と年齢|1970|8|9}}
| 生地 = [[日本]]・[[兵庫県]][[西宮市]]
| 没年 =
| 没地 =
| 国籍 = <!-- {{JPN}} 出生地から推定できない場合のみ指定 -->
| 職業 = 漫画家
| 活動期間 = [[1989年]] -
| ジャンル = [[少女漫画]]
| 代表作 = <!-- 「代表作を挙げた出典」に基づき記載 -->
| 受賞 =
| サイン =
| 公式サイト = [http://uminotsunami.seesaa.net/ 海野つなみ*Information]
}}
'''海野 つなみ'''(うみの つなみ、[[1970年]][[8月9日]] - )は、[[日本]]の女性[[漫画家]]。[[兵庫県]]出身。
== 来歴 ==
1989年に「お月様にお願い」(第8回[[なかよし新人まんが賞]]入選)で講談社『[[なかよし|なかよしデラックス]]』からデビュー(作品投稿時のタイトルは『お月様に'''、'''お願い'''。'''』だったが、雑誌掲載時に編集者の見落としで句読点が抜けてしまった)。[[講談社]]の『[[なかよし]]』を中心に作品を発表していたが、1997年以降は『[[Kiss (雑誌)|Kiss]]』、『[[Kiss PLUS]]』を中心に活動。代表作は『Kissの事情』、『回転銀河』、『逃げるは恥だが役に立つ』など。2015年5月には、『逃げるは恥だが役に立つ』で第39回[[講談社漫画賞]](少女部門)を受賞<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/146953|title=講談社漫画賞が決定!シドニアの騎士、逃げ恥、七つの大罪、弱虫ペダル|publisher=コミックナタリー|date=2015-05-12|accessdate=2017-10-15}}</ref>。
== 作風 ==
{{独自研究|date=2021年9月|section=1}}
ストーリーはもちろん登場人物の心の動きに重点を置いた描写や、従来の少女漫画とは一線を画する設定・テーマ、アイディアの上手さ、言葉選びのセンスに長け、また所々にコアでマイナーなギャグを入れるため、単行本では「ネタ帳公開」としてギャグの解説ページを設けることもある。
== 作品リスト ==
=== 連載 ===
* 学園宝島(1991年、『[[なかよし]]』([[講談社]]))
* 彼はカリスマ(1992年 - 1997年、『なかよしデラックス』・『なかぞう』・『[[Amie]]』(すべて講談社))
* ロマンスのたまご(1992年、『なかよし』)
* ゆうてる場合か!(1995年、『[[mimi (雑誌)|mimi]]』(講談社))
* Kissの事情(1997年、『Amie』)
* Telescope Diaries(1998年、『Amie』)
* [[デイジー・ラック]](2000年 - 2001年、『Kiss Carnival』・『[[Kiss (雑誌)|Kiss]]』(すべて講談社))
* [[回転銀河]](2003年 - '''継続中'''、『[[One more Kiss (雑誌)|One more Kiss]]』(講談社)・『Kiss』・『[[Kiss PLUS]]』(講談社))
* 後宮(2005年 - 2007年、『Kiss』)
* [[小煌女]](2009年<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/22860|title=「回転銀河」海野つなみの新連載は、SF版小公女|publisher=コミックナタリー|date=2009-10-24|accessdate=2017-10-15}}</ref> - 2011年、『Kiss』)
* くまえもん(2009年 - 2012年、『デジキス』(講談社))
* [[逃げるは恥だが役に立つ]](2012年<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/79697|title=海野つなみ新連載「逃げるは恥だが役に立つ」Kissで開幕|publisher=コミックナタリー|date=2012-11-09|accessdate=2017-10-15}}</ref> - 2017年<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/214564|title=「逃げるは恥だが役に立つ」本編完結!百合ちゃんの番外編は4月号に登場|publisher=コミックナタリー|date=2016-12-24|accessdate=2017-10-15}}</ref>・2019年<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/317310|title=海野つなみ「逃げるは恥だが役に立つ」みくり&平匡の結婚生活編がKissで始動|publisher=コミックナタリー|date=2019-01-25|accessdate=2019-03-30}}</ref> - 2020年<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/368537|title=海野つなみ「逃げるは恥だが役に立つ」がフィナーレ、結婚生活やみくりの妊娠描く|accessdate=2020-02-25|date=2020-02-25|work=コミックナタリー|publisher=ナターシャ}}</ref>、『Kiss』)
* その日世界は終わる(原作を担当、2018年<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/258115|title=海野つなみ原作連載「その日世界は終わる」始動、栗原まもる&ひうらさとる|publisher=コミックナタリー|date=2017-11-25|accessdate=2017-12-01}}</ref>、『Kiss』)
** 作画:[[栗原まもる]](第1話)、[[ひうらさとる]](第2話)、[[飛鳥あると]](第3話)、[[樋口橘]](第4話)、[[小原愼司]](第5話)、[[上田倫子]](第6話)、[[TONO]](第7話)、[[なかはら★ももた|なかはら・ももた]](第8話)、[[おかざき真里]](第9話)、[[柘植文]](最終話)
* スプートニク(2021年 - 2022年、『[[フィール・ヤング]]』2021年5月号<ref name="natalie20210408">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/423643|title=海野つなみの読切がシリーズ連載化、なじみのカフェでおしゃべりする仲の3人を描く|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-04-08|accessdate=2021-04-08}}</ref> - 2022年5月号<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/473131|title=海野つなみ「スプートニク」が完結、人生をともにすることになった男女3人の行く末は|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-04-08|accessdate=2022-04-08}}</ref>) - 読み切りから連載化{{R|natalie20210408}}
* クロエマ Chloe et Emma(『Kiss』2022年10月号<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/490967|title=正反対な女2人の“仲良くない”同居生活、海野つなみの新連載「クロエマ」がKissで|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-08-25|accessdate=2022-08-25}}</ref> - )
=== 読切 ===
{| class="wikitable" style="font-size:smaller;"
! 作品名 !! 掲載誌 !! 収録コミックス
|-
|お月様にお願い ※デビュー作||『なかよしデラックス』1989年秋の号||『恋の熱帯低気圧』
|-
|ワクワク。||『なかよしデラックス』1990年お正月号||
|-
|SUPER GIRL||『なかよしデラックス』1990年春の号||『ロマンスのたまご』
|-
|わたしはフラミンゴになりたい||『なかよし4月号増刊』(講談社)1990年||『ロマンスのたまご』
|-
|少年少女ぼよよん無国籍活劇・21世紀盗賊団||『なかよしデラックス』1990年夏の号||『学園宝島』
|-
|プールサイドの人魚姫||『なかよし』1990年9月号||『tsunamix 2』
|-
|ぼよよんゴーストバスターズ||『なかよしデラックス』1990年初冬の号||『恋の熱帯低気圧』
|-
|チャンスをちょうだい||『なかよしデラックス』1991年お正月号||『tsunamix 2』
|-
|キッスにお願い||『なかよし』1991年5月号||『Telescope Diaries』第2巻
|-
|メリー・メリー・クリスマス・キッス||『なかよしデラックス』1992年お正月号||『恋の熱帯低気圧』
|-
|[[恋の熱帯低気圧]]||『なかよしデラックス』1992年秋の号||『恋の熱帯低気圧』
|-
|[[西園寺さんと山田くん]]||『なかぞう』1993年クリスマス号||『西園寺さんと山田くん』
|-
|ヴァンパイア―朱い夏―||『[[mimi (雑誌)|Monthly mimi]]』(講談社)1994年9月号||『ゴ-ルデン・デリシャス・アップル・シャーベット』
|-
|ローレライは月の夜に||『なかよし』1994年12月号||『西園寺さんと山田くん』
|-
|両手に愛をつかめ!||『なかぞう』1995年夏休み号||『tsunamix』
|-
|Girly||『mimi Carnival』(講談社)1996年3月号||『ゴ-ルデン・デリシャス・アップル・シャーベット』
|-
|Sweets||『なかぞう』1996年春休み号||『西園寺さんと山田くん』
|-
|ゴールデン・デリシャス・アップルシャーベット||『mimi Carnival』1996年7月号||『ゴ-ルデン・デリシャス・アップル・シャーベット』
|-
|十二夜―クリスマスの十二日―||『なかよし』1997年1月号||『tsunamix 2』
|-
|若奥様と僕||『Monthly mimi』1997年2月号||『ゴ-ルデン・デリシャス・アップル・シャーベット』
|-
|はちみつ||『Kiss』1997年17号||『ゴ-ルデン・デリシャス・アップル・シャーベット』
|-
|シエスタ||『Kiss Carnival』1999年3月号||『デイジー・ラック』第2巻
|-
|奇跡の春||『Amie』1999年初夏号||『tsunamix』
|-
|Cleaning Beauty||『Kiss Carnival』1999年9月号||『ゆうてる場合か!』
|-
|たまごやき||『Kiss Carnival』2001年9月号||『tsunamix』
|-
|リフォーム父さん||『One more Kiss』2002年3月号||『tsunamix』
|-
|2番目に好きなひと||『[[Vanilla (雑誌)|Vanilla]]』(講談社)2002年6月号||『tsunamix 2』
|-
|世界の終わりに君を想う||『Kiss in the dark』(講談社)2002年||『tsunamix』
|-
|豚飼い王子と100回のキス||『Kiss PLUS』2012年7月号・9月号||『豚飼い王子と100回のキス』
|-
|排気ダクト||『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』(講談社)2012年52号||
|-
|さよなら世界||『モーニング』2013年50号||
|-
|Will||『[[スピカ (雑誌)|comicスピカ]]』([[幻冬舎]])2015年No.40||アンソロジー『星の恋物語』<br />(2015年刊、幻冬舎、原作:[[石井ゆかり (占星術師)]])
|-
|スプートニク||『[[FEEL YOUNG]]』([[祥伝社]])2017年11月号||
|-
|20万円ガール||『[[月刊バーズ]]』(幻冬舎)2018年2月号||
|-
|わたしは毛布||『モーニング』2018年6号||
|-
|お見合い探偵 帷子ノ辻椥||『[[別冊花とゆめ]]』([[白泉社]])2018年3月号||
|}
== 単行本リスト ==
特記のない限り、単行本はすべて講談社<ref>[http://kc.kodansha.co.jp/search?kw=海野つなみ&content_type%5B%5D=2&order=1 講談社コミックプラス "海野つなみ"検索結果]</ref>。
; [[講談社コミックスなかよし|KCなかよし]]
:* ロマンスのたまご 1993年2月、{{ISBN2|4-06-178741-1}}
:* [[恋の熱帯低気圧]] 1993年7月、{{ISBN2|4-06-178741-1}}
:* [[西園寺さんと山田くん]] 1997年4月、{{ISBN2|4-06-178860-4}}
:* 学園宝島([[講談社の漫画レーベル#雑誌に依存しないレーベル|KCDX]]) 2010年4月、{{ISBN2|978-4-06-375895-5}}
:
; AmieKC
:* Kissの事情 1997年12月 ISBN 4-06-340010-7 (新装版/KCDX)2011年7月、{{ISBN2|978-4-06-364316-9}}
:* 彼はカリスマ
:*# 1997年10月、{{ISBN2|4-06-340006-9}} (新装版/KCDX)2009年6月、{{ISBN2|978-4-06-375726-2}}
:*# 1998年4月、{{ISBN2|4-06-340017-4}} (新装版/KCDX)2009年6月、{{ISBN2|978-4-06-375727-9}}
:* Telescope Diaries
:*# 1998年7月、{{ISBN2|4-06-340023-9}}
:*# 1999年3月、{{ISBN2|4-06-340031-X}}
:
; KC Kiss
:* ゴールデン・デリシャス・アップルシャーベット 1998年2月、{{ISBN2|4-06-325763-0}}
:* ゆうてる場合か! 2000年1月、{{ISBN2|4-06-325864-5}}
:* [[デイジー・ラック]](2001年 - 2002年、全2巻、新装版2018年、全2巻)
:* tsunamix 2005年1月、{{ISBN2|4-06-340527-3}}
:* tsunamix 2 2005年10月、{{ISBN2|4-06-340564-8}}
:* [[回転銀河]](2003年 - 2009年、全6巻、新装版2018年、全6巻)
:* 後宮
:** 壱 2006年5月、{{ISBN2|4-06-340593-1}}
:** 弐 2006年9月、{{ISBN2|4-06-340611-3}}
:** 参 2007年1月、{{ISBN2|978-4-06-340630-6}}
:** 四 2007年6月、{{ISBN2|978-4-06-340651-1}}
:** 伍 2007年11月、{{ISBN2|978-4-06-340674-0}}
:* [[小煌女]](2010年 - 2011年、全5巻)
:* 豚飼い王子と100回のキス(ワイドKC) 2012年10月、{{ISBN2|978-4-06-337763-7}}
:* くまえもん(ワイドKC) 2012年10月、{{ISBN2|978-4-06-337764-4}}
:* [[逃げるは恥だが役に立つ]](2013年 - 2020年、全11巻)
:* その日世界は終わる(KCDX、原作を担当) 2018年9月、{{ISBN2|978-4-06-513030-8}}
:* Travel journal(KISS KC)2021年9月13日発売<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/444892|title=海野つなみが20年にわたって綴ってきたショート旅行記「Travel journal」単行本化|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-09-13|accessdate=2021-09-13}}</ref><ref>{{Cite web|和書|website=講談社コミックプラス|publisher=講談社|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000354891|title=『Travel journal』(海野 つなみ)|accessdate=2021-09-13}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-524678-8}}
:*クロエマ(KC KISS)
:*#2023年6月13日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/528488 |title=無職の女と占い師の女、価値観も対照的な2人の同居を海野つなみが描く「クロエマ」|accessdate=2023-08-14|date=2023-06-13 |website=コミックナタリー}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-531837-9}}
* スプートニク(フィールヤングコミックス)2022年7月8日発売<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/484722|title=海野つなみ、男女3人の人生がコロナ禍を経て交わっていく「スプートニク」単行本化|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-07-08|accessdate=2022-07-18}}</ref>、{{ISBN2|978-4-396-76862-1}} ※祥伝社刊
== 人物 ==
近所には自分が漫画家であることを伏せて生活しており、2016年12月19日に[[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]の『[[あさイチ]]』に出演の際には顔出しNGとしてすりガラス越しで出演した<ref>{{cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/12/19/kiji/20161219s00041000209000c.html|title=「逃げ恥」原作海野さん「あさイチ」出演、すりガラス越し恋ダンス|newspaper=スポニチアネックス|date=2016-12-19|accessdate=2016-12-19}}</ref>。
=== ペンネーム ===
「海野つなみ」というペンネームは投稿を始めた中学2年生の時につけた。[[津波]]を連想させることもあり途中で改名を考えたが、当時の担当者や販売部など周囲の関係者に反対され、断念。2011年3月11日に発生した [[東北地方太平洋沖地震]] に際しては、逆に「海野つなみ」という名前だからこそチャリティ活動にも積極的に参加していきたいと、本人ブログにて発言した<ref>『うめきた大仏』コメント欄[http://blogs.dion.ne.jp/0809_umino_273/archives/10031552.html]参照。</ref>。また[[東日本大震災]]の被災者を支援するチャリティ活動として他の漫画家と共同で東日本大震災チャリティ[[同人誌]]「pray for Japan」で執筆する<ref>[http://koge.kokage.cc/earthquake/ 東日本大震災チャリティ同人誌「pray for Japan」]</ref>。
=== 阪神・淡路大震災での被災 ===
海野は[[阪神・淡路大震災]]で被災している。当時は[[大阪市]]に住んでいたが、[[神戸市]]での所用を終えて西宮市の実家に滞在中に揺れに見舞われ、実家が半壊した。[[西日本旅客鉄道|JR]]社員の父、[[看護師]]の母、[[通信会社]]勤務の兄が復興に向けて多忙な日々を送るのを見て自らの境遇に悩んだが、当時既に連載を抱えていたため、ひたすら漫画を描き続けることによって精神状態を保ったと振り返っている<ref>{{cite news|url=https://www.asahi.com/sp/articles/ASP1F3T56P1DPTIL008.html |title= テーマ特集阪神・淡路大震災
1.17 再現/阪神・淡路大震災
「逃げ恥」海野つなみさんの1・17 トラウマと救い |newspaper=朝日新聞デジタル|date=2021-01-17|accessdate=2021-01-17}}</ref>。
== メディア出演 ==
=== テレビ ===
* [[クローズアップ現代+]](2016年11月24日、[[日本放送協会|NHK]]) - 「恋人いらないってホント?出現!“いきなり結婚族”」インタビュー。顔出しは無し
* [[あさイチ]](2016年12月19日、[[NHK総合テレビジョン]]) - 「[[あさイチ#メインコーナー|女性リアル]] 年末SP 『オンナ×働く』モヤモヤ大特集」に出演。本名・顔は非公開。
=== ラジオ ===
* 『逃げるは恥だが役に立つ』大好き[[ジェーン・スー]]が、原作漫画家・海野つなみ先生に恥を承知で聞いてきた!特番(2016年12月4日、[[TBSラジオ]]) - [[ジェーン・スー 生活は踊る]]内の特集コーナー<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20161128113755/http://www.tbsradio.jp/95403|title=「逃げ恥」原作の海野つなみとジェーン・スーの対談特番が緊急放送|publisher=TBSラジオ「ジェーン・スー 生活は踊る」お知らせ|date=2016-11-28|accessdate=2016-12-19}}</ref>
* [[GOLD RUSH (J-WAVEのラジオ番組)|GOLD RUSH]](2016年12月2日、[[J-WAVE]]) - 電話での出演
* チキチキ・遠藤 Nami乗りジョニー(2016年12月7日、[[KBS京都ラジオ]]) - 電話での出演
* [[SMILE ON SUNDAY]](2016年12月18日、J-WAVE)<ref>[https://twitter.com/SMILEONSUNDAY/status/810428031261151234 SMILE ON SUNDAY公式Twitter(2016年12月18日)]</ref>
* 内田樹&名越康文の辺境ラジオ(2017年4月3日、[[MBSラジオ]] - ゲスト出演
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 関連項目 ==
* [[早稲田ちえ]]
== 外部リンク ==
* [http://uminotsunami.seesaa.net/ 海野つなみ*Information](本人のBlog)
* {{Twitter|uminotsunami}}
{{Normdaten}}
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{{DEFAULTSORT:うみの つなみ}}
[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:兵庫県出身の人物]]
[[Category:1970年生]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E9%87%8E%E3%81%A4%E3%81%AA%E3%81%BF |
8,697 | マールス | マールス(ラテン語:Mārs) は、ローマ神話における戦と農耕の神。日本語では「マルス」や「マーズ」と呼ばれる。英語読みは「マーズ」(Mars)である。
元の名はマーウォルス(マウォルス、Māvors)であるらしく、また、マーメルス(マメルス、Māmers)とも呼ばれていた。
ギリシア神話のアレースと同一視され、軍神としてグラディーウゥス(グラディウス、Gradīvus、「進軍する者」の意)という異称でも呼ばれる。しかし、疫病神のように思われて全く良い神話のないアレースに対し、マールスは勇敢な戦士、青年の理想像として慕われ、主神並みに篤く崇拝された重要な神である。聖獣は狼、聖鳥はキツツキである。
マールスは他のローマ神話のどの神とも違い、ローマ建国時に既にローマにいた神であった。3月の神であるのも、気候がよくなり軍隊を動かす季節と一致する。また、これが農耕の始まる季節に一致している。当時のローマ暦は、新年は農耕の始まる3月におかれた。主神と同様に扱われたために、ローマ建設者とされる初代ロームルス王の父親という伝承まで残されている。
旧来の学説では、ローマ人が農耕民族であったため、マールスも元々は農耕神(草木の精霊)で、勇敢に戦い領地を増やしたロームルス王と像が重なり、後に軍神としても祭られるようになったと考えられていた。また、元は地下神であったため、地下に眠る死者との関連づけから軍神モートになったとする説もあった。しかし現在では、インド・ヨーロッパ語族比較神話学の進歩により、マールスは本来軍神であり、三機能イデオロギーの第二機能(戦闘)を担っていたと考えられている。しかし、マールスの名前はインド・ヨーロッパ語族とは関係のないエトルリア人に崇拝された神マリスを原型としている。
マールスからは「マルクス」「マルケッルス」「マリウス」「マルティヌス」といったローマ人名が派生し、それらをヨーロッパ各語にアレンジした人名が使われている。
マールスは、天体の火星とも同一視されている。ルーヴル美術館所蔵の彫刻「ボルゲーゼのアレス(英語版)」は美術分野でデッサンによく使われる石膏像に取り上げられており、本来ならアレースであるところを「マルス」と呼ばれて親しまれている。スペイン語では火曜日を「martes」と呼ぶが、本来は「軍神マルスの日」を意味する語である。
また、マールスは、男性の武勇や闘争心を表す比喩として用いられたり、軍神の代名詞として用いられることも多い。ウェヌス(ヴィーナス)が「愛」「女性」を象徴するのに対して、マールスは「武勇」「男性」「火星」の象徴として用いられることも多い。性別記号で男性は「♂」と表記されるが、本来はマールスを意味する記号である。 | [
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] | マールス(ラテン語:Mārs) は、ローマ神話における戦と農耕の神。日本語では「マルス」や「マーズ」と呼ばれる。英語読みは「マーズ」(Mars)である。 | {{Otheruses|[[ローマ神話]]のマルス|その他の「マルス」|マーズ (曖昧さ回避)}}
{{Infobox deity
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'''マールス'''([[ラテン語]]:'''{{lang|la|Mārs}}''') は、[[ローマ神話]]における戦と農耕の[[神]]<ref name="G">マイケル・グラント、ジョン・ヘイゼル 『ギリシア・ローマ神話事典』 [[大修館書店]]</ref>。[[日本語]]では「'''マルス'''」や「'''マーズ'''」と呼ばれる<ref name="G" />。[[英語]]読みは「'''マーズ'''」('''{{lang|en|Mars}}''')である。
== 概要 ==
元の名は'''マーウォルス'''('''マウォルス'''、'''{{lang|la|Māvors}}''')であるらしく、また、'''マーメルス'''('''マメルス'''、'''{{lang|la|Māmers}}''')とも呼ばれていた<ref name="G" />。
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== 神格 ==
[[ファイル:Venus and Mars.jpg|thumb|300px|[[サンドロ・ボッティチェッリ]]作、ヴィーナスとマルス]]
{{Roman mythology}}
マールスは他のローマ神話のどの神とも違い、[[王政ローマ|ローマ]]建国時に既にローマにいた神であった。[[3月]]の神であるのも、気候がよくなり軍隊を動かす季節と一致する。また、これが農耕の始まる季節に一致している<ref name="G" />。当時の[[ローマ暦]]は、新年は農耕の始まる3月におかれた。主神と同様に扱われたために、ローマ建設者とされる初代[[ロームルス]]王の父親という伝承まで残されている<ref name="G" />。
旧来の学説では、ローマ人が農耕民族であったため、マールスも元々は農耕神(草木の精霊)で、勇敢に戦い領地を増やしたロームルス王と像が重なり、後に軍神としても祭られるようになったと考えられていた<ref name="G" />。また、元は地下神であったため、地下に眠る死者との関連づけから軍神[[モート]]になったとする説もあった。しかし現在では、[[インド・ヨーロッパ語族]][[比較神話学]]の進歩により、マールスは本来軍神であり、[[ジョルジュ・デュメジル#三機能仮説|三機能イデオロギー]]の第二機能(戦闘)を担っていたと考えられている。しかし、マールスの名前はインド・ヨーロッパ語族とは関係のない[[エトルリア]]人に崇拝された神マリスを原型としている。
マールスからは「[[マルクス]]」「[[マルケッルス]]」「[[マリウス]]」「[[マルティヌス]]」といったローマ人名が派生し、それらをヨーロッパ各語にアレンジした人名が使われている。
マールスは、[[天体]]の[[火星]]とも同一視されている。[[ルーヴル美術館]]所蔵の[[彫刻]]「{{仮リンク|ボルゲーゼのアレス|en|Ares Borghese}}」は美術分野でデッサンによく使われる石膏像に取り上げられており、本来ならアレースであるところを「マルス」と呼ばれて親しまれている。[[スペイン語]]では[[火曜日]]を「[[:es:martes|martes]]」と呼ぶが、本来は「軍神マルスの日」を意味する語である。
また、マールスは、男性の武勇や闘争心を表す比喩として用いられたり、'''軍神'''の代名詞として用いられることも多い。[[ウェヌス]](ヴィーナス)が「愛」「女性」を象徴するのに対して、マールスは「武勇」「男性」「火星」の象徴として用いられることも多い。性別記号で男性は「'''♂'''」と表記されるが、本来はマールスを意味する記号である。
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commons|Mars (god)|マルス}}
* [[マメルティニ]]
{{ローマ神話}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:まあるす}}
[[Category:ローマ神話の神]]
[[Category:軍神]]
[[Category:農耕神]]
[[Category:火星神]]
[[Category:アレース]]
[[Category:3月]] | 2003-05-19T16:45:38Z | 2023-10-21T08:44:37Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B9 |
8,698 | えぬえけい | えぬえ けい(7月31日 - )は、日本の漫画家。埼玉県出身。
1997年、「いちばんの奇跡」が第24回なかよし新人まんが賞入選。『るんるん』(講談社)11月号に掲載された同作でデビューした。代表作には『なかよし』(同)にて連載された『B-ウォンテッド』などがある。影響を受けた漫画として『小さな恋のものがたり』(みつはしちかこ)を挙げている。夫はアニメーターの吉田大輔。
2009年、『名探偵夢水清志郎事件ノート』で第33回講談社漫画賞児童部門を受賞。
東日本大震災チャリティ同人誌「pray for Japan」にイラストを上梓した。 | [
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] | えぬえ けいは、日本の漫画家。埼玉県出身。 1997年、「いちばんの奇跡」が第24回なかよし新人まんが賞入選。『るんるん』(講談社)11月号に掲載された同作でデビューした。代表作には『なかよし』(同)にて連載された『B-ウォンテッド』などがある。影響を受けた漫画として『小さな恋のものがたり』(みつはしちかこ)を挙げている。夫はアニメーターの吉田大輔。 2009年、『名探偵夢水清志郎事件ノート』で第33回講談社漫画賞児童部門を受賞。 東日本大震災チャリティ同人誌「pray for Japan」にイラストを上梓した。 | {{Infobox 漫画家
|名前 = えぬえ けい
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}}
'''えぬえ けい'''([[7月31日]]<ref name="profile">[http://games.nakayosi-net.com/mfile/mangaka/enukey.html デジなか-まんが家情報]より(2010年2月13日閲覧)</ref> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[埼玉県]]出身<ref name="profile" />。
[[1997年]]、「いちばんの奇跡」が第24回[[なかよし新人まんが賞]]入選<ref>[https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000027375 講談社コミックプラス 著者紹介](2018年6月22日閲覧)</ref>。『[[るんるん (講談社)|るんるん]]』([[講談社]])11月号に掲載された同作でデビューした<ref name="profile" />。代表作には『[[なかよし]]』(同)にて連載された『[[B-ウォンテッド]]』などがある。影響を受けた漫画として『[[小さな恋のものがたり]]』([[みつはしちかこ]])を挙げている<ref name="profile" />。夫はアニメーターの[[吉田大輔]]。
[[2009年]]、『[[名探偵夢水清志郎事件ノート]]』で第33回[[講談社漫画賞]]児童部門を受賞。
[[東日本大震災チャリティ同人誌「pray for Japan」]]にイラストを上梓した。
== 作品リスト ==
* [[RSRアールズレボリューション]]([[なかよし]]、[[講談社]]) ISBN 4-06-178908-2
* [[B-ウォンテッド]](なかよし、全6巻)
*# ISBN 4-06-178924-4
*# ISBN 4-06-178936-8
*# ISBN 4-06-178949-X
*# ISBN 4-06-178960-0
*# ISBN 4-06-178972-4
*# ISBN 4-06-178986-4
* [[神様がくれた夏]](なかよし) ISBN 4-06-364004-3
* [[ちゃんねるW]](なかよし) ISBN 4-06-364024-8
*[[名探偵夢水清志郎事件ノート]](原作・[[はやみねかおる]]、なかよし、既刊9巻)
*# ISBN 4-06-334953-5
*# ISBN 4-06-372006-3
*# ISBN 4-06-372093-4
*# ISBN 4-06-372148-5
*# ISBN 978-4-06-372208-6
*# ISBN 978-4-06-372342-7
*# ISBN 978-4-06-375421-6
*# ISBN 978-4-06-375571-8
*# ISBN 978-4-06-375830-6
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [http://games.nakayosi-net.com/mfile/mangaka/enukey.html デジなか-まんが家情報] - 講談社によるページ。プロフィールを掲載。
* [http://pakukopaku.cocolog-nifty.com/ えぬえのべんりNOTE] - 本人によるブログ。
* [https://twitter.com/nak_enuekei?lang=ja えぬえけい] - [[Twitter]]。
{{Normdaten}}
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[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:埼玉県出身の人物]]
[[Category:生年未記載]]
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8,699 | おおうちえいこ | おおうち えいこ(3月6日 - )は、日本の漫画家。
山形県出身。おもに『なかよし』で執筆。1999年に「お父ちゃんといっしょ」(なかよし増刊 2000年ふゆやすみランド(講談社))でデビュー。代表作は『ほっぺにチューボー!』。 | [
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] | おおうち えいこは、日本の漫画家。 山形県出身。おもに『なかよし』で執筆。1999年に「お父ちゃんといっしょ」でデビュー。代表作は『ほっぺにチューボー!』。 |
'''おおうち えいこ'''([[3月6日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。
[[山形県]]出身。おもに『[[なかよし]]』で執筆。[[1999年]]に「お父ちゃんといっしょ」(なかよし増刊 2000年ふゆやすみランド([[講談社]]))でデビュー。代表作は『ほっぺにチューボー!』。
== 作品リスト ==
* [[ほっぺにチューボー!]] ([[なかよし]]([[講談社]]))
* [[パパとわたしと隕石と]]([[なかよしラブリー]](講談社))
* [[若おかみは小学生!]](原作:[[令丈ヒロ子]] なかよし(講談社))
== 外部リンク ==
* [https://ameblo.jp/coffeename/ コーヒー飲んだらネームする] - 本人のブログ
* {{Wayback |url=http://keisyuuoshino.fc2web.com/ |title=Welcome to Oh-uchi's website|date=20130330060939}}
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[[Category:日本の漫画家]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%81%8A%E3%81%86%E3%81%A1%E3%81%88%E3%81%84%E3%81%93 |
8,700 | 岡本慶子 | 岡本 慶子(おかもと けいこ、11月20日 - )は、日本の漫画家。岡山県出身。椙山女学園大学短期大学部文学科国文専攻卒業。
代表作に『CUTE BEAT おしゃれクラブ!』などがある。
秋田書店の『月刊プリンセス』に掲載された『7月はガラスのリボン』でデビューした後、講談社の『なかよし』やその姉妹誌『るんるん』で連載した。 | [
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] | 岡本 慶子は、日本の漫画家。岡山県出身。椙山女学園大学短期大学部文学科国文専攻卒業。 代表作に『CUTE BEAT おしゃれクラブ!』などがある。 秋田書店の『月刊プリンセス』に掲載された『7月はガラスのリボン』でデビューした後、講談社の『なかよし』やその姉妹誌『るんるん』で連載した。 | '''岡本 慶子'''(おかもと けいこ、[[11月20日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[岡山県]]出身。[[椙山女学園大学短期大学部]]文学科国文専攻卒業。
{{要出典範囲|date=2022-03-11|代表作に『CUTE BEAT おしゃれクラブ!』などがある。}}
[[秋田書店]]の『[[月刊プリンセス]]』に掲載された『7月はガラスのリボン』でデビューした後、[[講談社]]の『[[なかよし]]』やその姉妹誌『[[るんるん (講談社)|るんるん]]』で連載した。
== 作品リスト ==
* 7月はガラスのリボン (月刊プリンセス(秋田書店))
* 夢幻パトローラーYUZU (るんるん(講談社))
**1巻 ISBN 4063228169
**2巻 ISBN 4063228258
**3巻 ISBN 4063228320
* 世紀末KISS伝説 (なかよし増刊 1995年(講談社))
* 魔法の夜はチャイコフスキー (なかよし増刊 1995年(講談社))
* テディにおまかせ! (なかよし増刊 1996年(講談社))
* 10月の青い鳥 (なかよし(講談社))
* [[CUTE BEAT おしゃれクラブ!]] (なかよし(講談社)ISBN 4061788728)
* ザッツ・新世紀ウェディング (なかよし増刊 1997年(講談社))
* 扉の向こう (なかよし(講談社))
* [[コレクター・ユイ]] ([[NHK出版]])
* 古城のウエディング ([[ハーレクイン]] ([[宙出版]])ISBN 4776714310)
* 嘘のまま愛して (ハーレクイン(宙出版)ISBN 4776716135)
* 国王陛下のラブレター (ハーレクイン(宙出版)ISBN 4776717085)
* 獅子の館の誘惑 (ハーレクイン(宙出版)ISBN 4776717638)
* 入れ替わった花嫁 (ハーレクイン(宙出版)ISBN 4776719258)
* 花嫁の贈り物 (ハーレクイン(宙出版)ISBN 4776719266)
* 暴君はおことわり(ハーレクイン(宙出版)ISBN 4776720310)
* キスは三度まで(ハーレクイン(宙出版)ISBN 4776721104)
* プリンスは独裁者?(ハーレクイン(宙出版)ISBN 4776722070)
* ボスは宿敵(ハーレクイン(宙出版)ISBN 4776722542)
* 冷たくしないで(ハーレクイン(宙出版)ISBN 978-4776723172)
* 眠れぬ夜に(ハーレクイン・コミックス(ハーレクイン)ISBN 4596950318)
* 愛を捨てたシーク(ハーレクイン・コミックス(ハーレクイン)ISBN 459695058X)
* 魔法の鏡にささやいて(ハーレクイン・コミックス(ハーレクイン)ISBN 4596950830)
* 恋するキッチン(ハーレクインコミックス・キララ(ハーレクイン)ISBN 4596970491)
* 身代わりのシンデレラ([[ハーレクイン]] ([[宙出版]]))
* 昨日の影に別れを(原作:キャシー・ウィリアムズ、ハーレクイン、2022年3月10日発売<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/468697|title=【3月10日付】本日発売の単行本リスト|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-03-10|accessdate=2022-03-11}}</ref>、{{ISBN2|978-4-596-32000-1}}
== 関連人物 ==
* [[ひうらさとる]]
* [[葛西映子]]
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [http://www.netlaputa.ne.jp/~kiriko/ LOVE & CLASSIC] (公式ページ・閉鎖)
* {{twitter|kirikokei}}
* {{マンガ図書館Z作家|217}}
{{Normdaten}}
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[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:岡山県出身の人物]]
[[Category:椙山女学園大学短期大学部出身の人物]]
[[Category:生年未記載]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E6%9C%AC%E6%85%B6%E5%AD%90 |
8,701 | レアー | レアー(古希: Ῥέα, Rheā)は、ギリシア神話に登場する女神である。ティーターンの1柱で、大地の女神とされる。レイアー(古希: Ῥεία, Rheiā)ともいい、長母音を省略してレア、レイアとも表記される。
ヘーシオドスの『神統記』などによれば、父はウーラノス、母はガイアで、オーケアノス、コイオス、クレイオス、ヒュペリーオーン、イーアペトス、クロノス、テイアー、テミス、ムネーモシュネー、ポイベー、テーテュースと兄弟。またレアーがクロノスとの間に産んだ神々はヘスティアー、デーメーテール、ヘーラー、ハーデース、ポセイドーン、ゼウスである。
夫のクロノスがレアーとの間の子供達を飲み込んだ時は、それを嘆いたレアーはクレータ島に行きゼウスを生んだ。生まれたばかりのゼウスの代わりに産着に包んだ石を飲ませ、ゼウスをガイアに託し、クレータ島のニュムペー達とアマルテイアとクーレース達に預けて育てさせた(ポセイドーンも仔馬を代わりに飲ませて助けたともいわれる)。ティーターノマキアーの際はヘーラーを守るためにオーケアノスとテーテュース夫婦に預けた。その後もレートーの出産に立ち会ったり、ハーデースがペルセポネーをさらった際にハーデースとデーメーテールの争いを調停したり、ヘーラーに迫害されたディオニューソスを助けて密儀を授けたりしている。 その象徴はライオン、鳩、オーク、松、小塔冠(塔の形をした王冠)、豊穣の角。 夫のクロノスがローマ神話のサートゥルヌスと同一視された事から、後にサートゥルヌスの妻オプスと同一視される。
小アジアのプリュギアに由来しローマでも長年に渡り崇められた大地の女神キュベレーと同一視されることもあった。
紀元前三千年頃からクレータ島を中心に栄えた地中海文明(エーゲ文明)で崇められていた神々の中の最高神は、多くの古いアジアの信仰の最高神と同じく女神であり、植物や豊穣の女神であり万物の母であった。 その固有の神名は伝えられていないが、クレータ島ではレアーと呼ばれ信仰されていた。この名は後にゼウス信仰において古代クレータの神々を呼ぶのに用いられる名であった。これがヘーシオドスの詩『神統紀』においてゼウスの母の名として記載された。
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] | レアーは、ギリシア神話に登場する女神である。ティーターンの1柱で、大地の女神とされる。レイアーともいい、長母音を省略してレア、レイアとも表記される。 | {{Otheruses||その他|レア (曖昧さ回避)}}
{{Infobox deity
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| deity_of = {{small|[[大地母神]]}}
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'''レアー'''({{lang-grc-short|'''Ῥέα'''}}, {{ラテン翻字|el|Rheā}})は、[[ギリシア神話]]に登場する[[女神]]である<ref name="G">マイケル・グラント、ジョン・ヘイゼル 『ギリシア・ローマ神話事典』 [[大修館書店]]</ref>。[[ティーターン]]の1柱で、大地の女神とされる<ref name="G" />。'''レイアー'''({{lang-grc-short|'''Ῥεία''', ''Rheiā''}})ともいい<ref>木村点 『早わかりギリシア神話』 日本実業出版社 2003年</ref>、[[長母音]]を省略して'''レア'''<ref name="G" />、'''レイア'''とも表記される<ref>松島道也 『図説ギリシア神話 【神々の世界】篇』 [[河出書房新社]] 2001年</ref>。
== 概要 ==
[[ヘーシオドス]]の『[[神統記]]』などによれば、父は[[ウーラノス]]、母は[[ガイア]]で、[[オーケアノス]]、[[コイオス]]、[[クレイオス]]、[[ヒュペリーオーン]]、[[イーアペトス]]、[[クロノス]]、[[テイアー]]、[[テミス]]、[[ムネーモシュネー]]、[[ポイベー]]、[[テーテュース]]と兄弟<ref>ヘーシオドス、133~138。アポロドーロス、1巻1・3。</ref>。またレアーがクロノスとの間に産んだ神々は[[ヘスティアー]]、[[デーメーテール]]、[[ヘーラー]]、[[ハーデース]]、[[ポセイドーン]]、[[ゼウス]]である<ref>ヘーシオドス、453~458。アポロドーロス、1巻1・5~1・6。</ref>。
== 神話 ==
夫のクロノスがレアーとの間の子供達を飲み込んだ時は、それを嘆いたレアーは[[クレタ島|クレータ島]]に行きゼウスを生んだ。生まれたばかりのゼウスの代わりに産着に包んだ石を飲ませ、ゼウスをガイアに託し、クレータ島の[[ニュンペー|ニュムペー]]達と[[アマルテイア]]とクーレース達に預けて育てさせた<ref name="F">フェリックス・ギラン 『ギリシア神話』 [[青土社]]</ref>(ポセイドーンも仔馬を代わりに飲ませて助けたともいわれる<ref name="G" />)。[[ティーターノマキアー]]の際はヘーラーを守るためにオーケアノスとテーテュース夫婦に預けた<ref name="G" />。その後も[[レートー]]の出産に立ち会ったり<ref>『ホメーロス風讃歌』第3歌(「アポローン讃歌」)</ref>、ハーデースが[[ペルセポネー]]をさらった際にハーデースとデーメーテールの争いを調停したり<ref>[[シブサワ・コウ]] 『爆笑ギリシア神話』 [[コーエー|光栄]]</ref>、ヘーラーに迫害された[[ディオニューソス]]を助けて密儀を授けたりしている<ref>[[松村一男]]『世界の神々の事典 神・精霊・英雄の神話と伝説』[[学研ホールディングス|学研]]〈Books Esoterica 事典シリーズ 5〉、2004年、ISBN 4-05-603367-6。</ref>。
その象徴は[[ライオン]]、[[鳩]]、[[オーク]]、[[マツ|松]]、小塔冠(塔の形をした王冠)、[[コルヌコピア|豊穣の角]]。
夫のクロノスが[[ローマ神話]]の[[サートゥルヌス]]と同一視された事から、後にサートゥルヌスの妻[[オプス]]と同一視される<ref name="G" />。
[[アナトリア半島|小アジア]]の[[フリギア|プリュギア]]に由来し[[古代ローマ|ローマ]]でも長年に渡り崇められた大地の女神[[キュベレー]]と同一視されることもあった<ref name="G" />。
== 歴史 ==
紀元前三千年頃からクレータ島を中心に栄えた地中海文明(エーゲ文明)で崇められていた神々の中の最高神は、多くの古いアジアの信仰の最高神と同じく女神であり、植物や豊穣の女神であり万物の母であった<ref name="F" />。
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== 影響 ==
[[土星]]の第5[[衛星]][[レア (衛星)|レア]]はレアーにちなんで名付けられた。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 参考文献 ==
* [[アポロドーロス]]『ギリシア神話』[[高津春繁]]訳、[[岩波文庫]](1953年)
* ヘシオドス『神統記』[[廣川洋一]]訳、岩波文庫(1984年)
* 高津春繁『ギリシア・ローマ神話辞典』[[岩波書店]](1960年)
* フェリックス・ギラン『ギリシア神話』中島健訳、[[青土社]](1991年)
== 関連項目 ==
{{Commons|Category:Rhea (mythology)}}
* [[レア (衛星)]]
* [[レア (小惑星)]]
{{ギリシア神話}}
{{Normdaten}}
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[[Category:ギリシア神話の神]]
[[Category:大地神]]
[[Category:女神]]
[[Category:地母神]] | null | 2023-07-17T02:19:47Z | false | false | false | [
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"Template:Commons"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%A2%E3%83%BC |
8,702 | 片岡みちる | 片岡 みちる(かたおか みちる、1966年8月2日 - )は、日本の漫画家。大阪府出身。徳島県在住。血液型はB型。
1986年、『なかよしデラックス』2月号に掲載の「HINKETSU(ひんけつ)☆ぱにっく」でデビュー。同作品で第1回なかよし新人まんが賞佳作を受賞。
デビュー後は講談社の『なかよし』、『るんるん』などを中心に活動。『なかよし』の読者投稿コーナー「ちゃめっこくらぶ」のイラストを長年にわたって担当。
1997年、テレビアニメ『夢のクレヨン王国』の主役であるシルバー王女の旅姿のデザインを行うと共に、コミカライズを『なかよし』に連載するも、1998年8月号を最後に体調不良のため中断となる。
『夢のクレヨン王国』以降メジャー誌での作品発表はなく、2005年8月現在は、宙出版を中心にゲームアンソロジーコミックや同人誌などの執筆を行っている。同人誌では一時期CHIHOというペンネームを用いていたが、現在は商業誌と同じ片岡みちるの名前に統一している。 | [
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] | 片岡 みちるは、日本の漫画家。大阪府出身。徳島県在住。血液型はB型。 | {{Infobox 漫画家
|名前 = 片岡 みちる
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'''片岡 みちる'''(かたおか みちる、[[1966年]][[8月2日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[大阪府]]出身。[[徳島県]]在住。[[ABO式血液型|血液型]]はB型。
== 経歴・人物 ==
[[1986年]]、『[[なかよし#増刊号|なかよしデラックス]]』2月号に掲載の「HINKETSU(ひんけつ)☆ぱにっく」でデビュー。同作品で第1回[[なかよし新人まんが賞]]佳作を受賞。
デビュー後は[[講談社]]の『[[なかよし]]』、『[[るんるん (講談社)|るんるん]]』などを中心に活動。『なかよし』の読者投稿コーナー「ちゃめっこくらぶ」のイラストを長年にわたって担当。
[[1997年]]、テレビアニメ『[[夢のクレヨン王国]]』の主役であるシルバー王女の旅姿のデザインを行うと共に、[[漫画化|コミカライズ]]を『なかよし』に連載するも、1998年8月号を最後に体調不良のため中断となる。
『夢のクレヨン王国』以降メジャー誌での作品発表はなく、2005年8月現在は、[[宙出版]]を中心にゲーム[[アンソロジーコミック]]や[[同人誌]]などの執筆を行っている。同人誌では一時期'''CHIHO'''というペンネームを用いていたが、現在は商業誌と同じ片岡みちるの名前に統一している。
== 作品リスト ==
* [[夢のクレヨン王国]]
** [[みつあみ四重奏]](カルテット)(第3巻に収録)
* [[さくらんぼねむり姫]]
* [[しましましっぽ]]
* [[わんだ〜・わ〜るど]]
* [[トゥインクルきゃっと]]
* [[月うさぎたまご姫]]
* [[うしろのはてな]]
== 単行本リスト ==
* トゥインクルきゃっと(講談社)
*# 1989年1月、ISBN 4-06-178626-1
*# 1990年3月、ISBN 4-06-178656-3
* 月うさぎたまご姫 - 講談社、1991年3月、ISBN 4-06-178683-0
* わんだ〜・わ〜るど(講談社)
*# 1992年4月、ISBN 4-06-178715-2
*# 1992年9月、ISBN 4-06-178728-4
* うしろのはてな - 講談社、1993年5月、ISBN 4-06-178747-0
* しましましっぽ - 講談社、1994年7月、ISBN 4-06-178782-9
* さくらんぼねむり姫 - 講談社、1995年5月、ISBN 4-06-178805-1
* 夢のクレヨン王国(講談社)
*# 1998年1月、ISBN 4-06-178880-9
*# 1998年6月、ISBN 4-06-178889-2
*# 1998年12月、ISBN 4-06-178905-8
== 関連項目 ==
* [[夢のクレヨン王国]]
== 外部リンク ==
* [http://chel.sakura.ne.jp/chiru2/ CHIRU CHIRU] - 片岡みちる本人サイト
{{Normdaten}}
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{{DEFAULTSORT:かたおか みちる}}
[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:大阪府出身の人物]]
[[Category:1966年生]]
[[Category:存命人物]] | null | 2019-01-05T09:29:15Z | false | false | false | [
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8,703 | 木村千歌 | 木村 千歌(きむら ちか、1964年5月12日 - )は、日本の漫画家。血液型はB型。東京都足立区出身。東京都立足立西高等学校卒業。既婚。
1987年、『コミックモーニング』(講談社)に掲載の『こたつむり伝説』でデビュー。以後は活躍の場を、主に『mimi』、『Kiss』、『デザート』など、同社の女性向け雑誌に移す。代表作に『パジャマ・デート』、『カンベンしてちょ! 』など。
少女漫画誌の『なかよし』に連載した『あずきちゃん』がアニメ化されたことにより、名が広く知られるようになった。 また、同アニメではゲストとして声優デビューも果たしている。
竹書房『まんがくらぶ』で『マイニチ』を連載した縁で、同社の麻雀イベントに招かれるようになり、それを通じて西原理恵子と親しくなった。一時期、西原の無頼派エッセイ漫画のレギュラーキャラクターとして登場する実在の人物群の1人であった。なお、少ないながらも麻雀漫画やパチンコ漫画を描いていた(いずれも単行本化はされていない)こともあり、男性読者にはそちらの方がよく知られている。
声優の高山みなみとは、高校時代の同級生である。 学生時代に漫画家の須藤真澄と一緒にデビューしている。須藤真澄はデビュー作『こたつむり伝説』に登場する。 | [
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] | 木村 千歌は、日本の漫画家。血液型はB型。東京都足立区出身。東京都立足立西高等学校卒業。既婚。 1987年、『コミックモーニング』(講談社)に掲載の『こたつむり伝説』でデビュー。以後は活躍の場を、主に『mimi』、『Kiss』、『デザート』など、同社の女性向け雑誌に移す。代表作に『パジャマ・デート』、『カンベンしてちょ! 』など。 少女漫画誌の『なかよし』に連載した『あずきちゃん』がアニメ化されたことにより、名が広く知られるようになった。
また、同アニメではゲストとして声優デビューも果たしている。 竹書房『まんがくらぶ』で『マイニチ』を連載した縁で、同社の麻雀イベントに招かれるようになり、それを通じて西原理恵子と親しくなった。一時期、西原の無頼派エッセイ漫画のレギュラーキャラクターとして登場する実在の人物群の1人であった。なお、少ないながらも麻雀漫画やパチンコ漫画を描いていた(いずれも単行本化はされていない)こともあり、男性読者にはそちらの方がよく知られている。 声優の高山みなみとは、高校時代の同級生である。
学生時代に漫画家の須藤真澄と一緒にデビューしている。須藤真澄はデビュー作『こたつむり伝説』に登場する。 | {{存命人物の出典皆無|date=2013年1月25日 (金) 02:14 (UTC)}}
'''木村 千歌'''(きむら ちか、[[1964年]][[5月12日]] - )は、日本の[[漫画家]]。[[ABO式血液型|血液型]]はB型。[[東京都]][[足立区]]出身。[[東京都立足立西高等学校]]卒業。既婚。
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声優の[[高山みなみ]]とは、高校時代の同級生である。
学生時代に漫画家の[[須藤真澄]]と一緒にデビューしている。須藤真澄はデビュー作『こたつむり伝説』に登場する。
== 作品リスト ==
* [[こたつむり伝説]]
* [[マイニチ]]
* [[パジャマ・デート]]
* [[なんてったって結婚]]
* [[あずきちゃん]]
* [[メイプルハイツ201]]※メープルハイツ201と表記されることもある
* [[ルート3 (漫画)|ルート3]]
* [[正しい夫のしつけ方]] ([[エッセイ]]漫画)
* [[ずるずるマイラブ]]
* [[Re:アイシテル]]
* [[田丸のバカヤロウ]](まんがハイム(徳間オリオン)未単行本化)
* [[負けちゃった]](未単行本化の麻雀漫画)
* [[カンベンしてちょ!]]
== 関連項目 ==
* [[なかよし]]
* [[日本の漫画家一覧]]
== 外部リンク ==
* [https://web.archive.org/web/20030219121832/http://www008.upp.so-net.ne.jp/bellpage/choko/ はっちゃん、38歳](文字化けあり)
{{Normdaten}}
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[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:東京都区部出身の人物]]
[[Category:1964年生]]
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8,704 | 小坂理絵 | 小坂 理絵(こさか りえ、9月24日-)は、日本の漫画家。
血液型はB型。北海道出身。中央大学卒業。
1991年、第12回なかよし新人まんが賞入選『しあわせになろうね!』で、『なかよしデラックス』(講談社)1991年夏の号にてデビュー。
2002年3月に発売された『なかよしはるやすみランド』に『山田さん』第3話を掲載後、出産・育児により事実上引退状態にあったが、2006年12月に発売された『なかよしラブリー』冬の号に『山田さん』の続編を発表、復帰を果たした。しかし、家事と仕事の両立が時間的に不可能となり、同作を最後に漫画家活動からの引退を自身のホームページで発表(自身のホームページでは「『なかよし』を去り、漫画家活動を無期限休止」と表現していた)、2007年2月をもってホームページを閉鎖した。
2011年から、単行本が絶版となっていた『セキホクジャーナル』、『ヒロインをめざせ!』、『とんでもナイト』の三作が『Jコミ』にて全編無料公開された。 Jコミを立ち上げた赤松健は、小坂が大学生の頃に在籍していた漫画研究部の後輩にあたり、在学当時は小坂がペン入れのアドバイス等を行ったという。同3作品は2020年3月に『Jコミックテラス』より国内電子書籍ストアへの配信も行われた。
『るんるん』にて代表作『セキホクジャーナル』を連載し、また『なかよし』の作家陣の一員として活躍。さらに合作漫画などでは主に構成を担当した。
作品がアニメ化されることはなかったが、コアなファンが多く、男性ファンも多数存在し、90年代のなかよしとるんるんを支えた。 かわいらしくすっきりとした絵柄と小気味のいいギャグが特徴で学園もの、スポーツもの、ホラーと幅広く描く。 なかよし、るんるんとしては比較的主人公の年齢が高め(高校生)の作品が多く、魔法少女ものが多いなかよしの中でファンタジーものは手掛けておらず、現実的な作風が多かった。 | [
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] | 小坂 理絵は、日本の漫画家。 血液型はB型。北海道出身。中央大学卒業。 | '''小坂 理絵'''(こさか りえ、[[9月24日]]-)は、[[日本]]の[[漫画家]]。
血液型はB型。[[北海道]]出身。[[中央大学]]卒業。
== 人物・経歴 ==
[[1991年]]、第12回[[なかよし新人まんが賞]]入選『しあわせになろうね!』で、『[[なかよし]]デラックス』([[講談社]])1991年夏の号にてデビュー。
[[2002年]]3月に発売された『なかよしはるやすみランド』に『山田さん』第3話を掲載後、出産・育児により事実上引退状態にあったが、[[2006年]]12月に発売された『[[なかよしラブリー]]』冬の号に『山田さん』の続編を発表、復帰を果たした。しかし、家事と仕事の両立が時間的に不可能となり、同作を最後に漫画家活動からの引退を自身のホームページで発表(自身のホームページでは「『なかよし』を去り、漫画家活動を無期限休止」と表現していた)、[[2007年]]2月をもってホームページを閉鎖した。
2011年から、単行本が絶版となっていた『[[セキホクジャーナル]]』、『[[ヒロインをめざせ!]]』、『[[とんでもナイト]]』の三作が『[[Jコミ]]』にて全編無料公開された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.j-comi.jp/title/index/query:%E5%B0%8F%E5%9D%82%20%E7%90%86%E7%B5%B5|title=検索ページ 小坂理絵|publisher=Jコミ|accessdate=2011-11-2}}</ref>。
Jコミを立ち上げた[[赤松健]]は、小坂が大学生の頃に在籍していた漫画研究部の後輩にあたり、在学当時は小坂がペン入れのアドバイス等を行ったという<ref>{{Cite web|和書|url=http://d.hatena.ne.jp/KenAkamatsu/20110901/|title=小坂理絵先生の 『ヒロインをめざせ!』(全2巻)を公開しました|publisher=(株)Jコミの中の人|accessdate=2011-11-2}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://d.hatena.ne.jp/KenAkamatsu/20111102/|title=小坂理絵先生の 『セキホクジャーナル ~こちら関北高校新聞部~』(全4巻)を公開しました|publisher=(株)Jコミの中の人|accessdate=2011-11-2}}</ref>。同3作品は2020年3月に『Jコミックテラス』より国内電子書籍ストアへの配信も行われた。
== 作風 ==
『[[るんるん (講談社)|るんるん]]』にて代表作『セキホクジャーナル』を連載し、また『なかよし』の作家陣の一員として活躍。さらに合作漫画などでは主に構成を担当した。
作品がアニメ化されることはなかったが、コアなファンが多く、男性ファンも多数存在し、90年代のなかよしとるんるんを支えた。
かわいらしくすっきりとした絵柄と小気味のいいギャグが特徴で学園もの、スポーツもの、ホラーと幅広く描く。
なかよし、るんるんとしては比較的主人公の年齢が高め(高校生)の作品が多く、魔法少女ものが多いなかよしの中でファンタジーものは手掛けておらず、現実的な作風が多かった。
== 作品リスト ==
=== 単行本表題および収録作品 ===
* '''[[セキホクジャーナル]]''' (KC[[るんるん (講談社)|るんるん]]・全4巻)
** セキホクジャーナル (るんるん連載)
** しあわせになろうね! ([[なかよし]]デラックス掲載)
** 恋する人々 (なかぞう掲載)
* '''わたしがやらねば''' (KCるんるん・全1巻)
** わたしがやらねば (るんるん連載)
** わたしを好きといってくれ (なかよしデラックス掲載)
* '''[[レッツ バリボー!]]''' (KCなかよし・全1巻)
** レッツ バリボー! (なかよし連載)
** あるバレー部のムボーな賭 (なかぞう掲載)
* '''[[とんでもナイト]]''' (KCなかよし・全3巻)
** とんでもナイト (なかよし連載)
** 線路はつづくのだ (なかぞう掲載)
** 七つめのふしぎ (なかよしデラックス掲載)
* '''[[ヒロインをめざせ!]]''' (KCなかよし・全2巻)
** ヒロインをめざせ! (なかよし連載)
* '''[[トップ オブ ザ ワールドな人たち]]''' (KCなかよし・全2巻)
** トップ オブ ザ ワールドな人たち (なかよし連載)
** シンシアリー ([[Amie]]掲載)
** ジャストフレンド ([[Amie]]掲載)
* '''[[VAMP!?]]''' (KCなかよし・全1巻)
** VAMP!? (なかよし連載)
=== 単行本未収録作品 ===
* 仁科杏美の怖い噂 (別冊付録「バレンタインストーリーズ」収録)
* 家族の食卓 (別冊付録「恐怖の館」収録)
* お客様は神さまです
* 吠える大捜査線 (合作)
* みんなでヒロインを目指せ (合作)
* カレについて (別冊付録「ロマンスの小箱」収録)
* 修道院の優雅な一日 (『VAMP!?』番外編)
* 山田さん (なかよし連載・コミックス未発売)
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [http://www.hkmd.jp/kosaka/indexold.html 小坂理絵「くまの遊歩道」トップページ]
* {{マンガ図書館Z作家|117}}
{{Normdaten}}
{{Manga-artist-stub}}
{{DEFAULTSORT:こさか りえ}}
[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:中央大学出身の人物]]
[[Category:北海道出身の人物]]
[[Category:存命人物]] | 2003-05-19T16:58:22Z | 2023-11-19T09:16:49Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%9D%82%E7%90%86%E7%B5%B5 |
8,705 | 紀元前17世紀 | 紀元前17世紀(きげんぜんじゅうななせいき)は、西暦による紀元前1700年から紀元前1601年までの100年間を指す世紀。 | [
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] | 紀元前17世紀(きげんぜんじゅうななせいき)は、西暦による紀元前1700年から紀元前1601年までの100年間を指す世紀。 | {{出典の明記|date=2023年3月}}
{{Centurybox| 千年紀 = 2 | 世紀 = 17 | BC = 1 }}
'''紀元前17世紀'''(きげんぜんじゅうななせいき)は、[[西暦]]による紀元前1700年から紀元前1601年までの100年間を指す[[世紀]]。
[[ファイル:Knossos Bull-Leaping Fresco.jpg|thumb|280px|[[クノッソス|クノッソス宮殿]]。この時代に[[クレタ文明]]を代表するこの宮殿は「新宮殿時代」を迎え領域は拡張された。画像は二人の女性を伴った「牛跳び」の壁画でこの宮殿を飾っていたもの。なお紀元前17世紀にはクレタ文明に何らかの影響を及ぼした[[サントリーニ島]]の火山が大爆発を起こしている。]]
[[ファイル:Joseph Overseer of the Pharaohs Granaries.jpg|thumb|エジプトのヨセフ。ヘブライ人ヤコブの息子[[ヨセフ (ヤコブの子)|ヨセフ]]は「[[創世記]]」ではエジプトで高官となったと記されている。異邦人[[ヒクソス]]がエジプトに侵入し、第15王朝・第16王朝を立てたこの時代こそ、ヨセフの時代に相当すると考えられている。画像は「ファラオの穀物倉庫監督のヨセフ([[ローレンス・アルマ・タデマ]]の歴史画)」。]]
[[ファイル:Masque-de-bronze-Sanxingdui.jpg|thumb|「[[青銅縦目仮面]]」。中国の[[四川省]][[三星堆遺跡]]を代表する遺物で、大きな耳と突出した眼を具えた異形の神の頭部とされる。]]
== 出来事 ==
* ヨーロッパは[[青銅器時代]]。
* 中国は[[夏 (三代)|夏]]王朝から[[殷]]王朝時代。
* [[ヒッタイト]]は古王国時代前で記録が断片的に残存。
* [[旧約聖書]]では族長[[アブラハム]]・[[イサク]]・[[ヤコブ (旧約聖書)|ヤコブ]]・[[ヨセフ (ヤコブの子)|ヨセフ]]の時代。
=== 紀元前1700年代 ===
* 紀元前1700年 - 紀元前1500年頃 - 西アジアで[[フルリ人]]による征服。
* 紀元前1700年 - 紀元前1200年頃 - 中国西部[[四川省]]で[[三星堆遺跡]]の時代。
* 紀元前1700年 - 紀元前1600年頃 - 中国黄河流域で[[二里頭文化]]II期。
* 紀元前1700年頃
** クレタ島[[クノッソス]]で古宮殿時代から新宮殿時代への移行期。
*** クノッソス宮殿東翼部出土の象牙製「牛跳びの像(イラクリオン考古学博物館蔵)」が作られる。
** [[サルデーニャ島]][[バルーミニ]]にある[[ヌラーゲ]]の[[スー・ヌラージ・ディ・バルーミニ|スー・ヌラージ]]が建設される。
** [[シナイ半島]]のサラービート刻文に[[ワディ・エル・ホル文字と原シナイ文字|原シナイ文字]]が用いられる。
** この頃までに『[[アトラ・ハシース]]叙事詩』が成立する。
*** 人類創造から大洪水の厄災に至るまでの賢人アトラ・ハシース({{仮リンク|ウトナピシュティム|en|Utnapishtim}})の活躍をアッカド語粘土板で記録したもの。
** [[北欧青銅器時代]]が始まる( - 紀元前500年頃)。[[ターヌムの岩絵群]]はこの時代のもの。
** ポーランドを中心とするプロト・スラブ人の[[トシュチニェツ文化]]が始まる( - 紀元前1200年頃)。
** [[ロシア]]の{{仮リンク|アルカイム (ロシア)|en|Arkaim}}の円型集合住居遺跡が建設される(シンタシュタ・ペトロフカ・アルカイム文化)。
** [[シベリア]]北東部の[[北極海]]([[チュクチ海]])の孤島[[ウランゲリ島]]に残存していた小型[[マンモス]]が絶滅する。
=== 紀元前1660年代 ===
* 紀元前1663年 - エジプトで[[エジプト第13王朝|第13王朝]]と[[エジプト第14王朝|第14王朝]]の終わり。
** この時期までに異民族[[ヒクソス]](ヘカウ・カスウト)が下エジプト東部に定住する。
** {{仮リンク|アヴァリス|en|Avaris}}を中心にヒクソスによる[[エジプト第15王朝|第15王朝]](大ヒクソス)が成立。
** 同時期に下エジプト西部にて諸侯国が成立し[[エジプト第16王朝|第16王朝]](小ヒクソス)と呼ばれる。
=== 紀元前1650年代 ===
* 紀元前1650年頃 - [[ヨルダン渓谷]]の{{仮リンク|テル・エル・ハマム|en|Tall el-Hammam}}遺跡に天体の爆発に巻き込まれた痕跡が残る。
=== 紀元前1640年代 ===
* 紀元前1646年 - 紀元前1626年 - バビロニア王[[アンミ・サドゥカ]]の治世。
** この王の時代に[[金星]]の出没を記録した「{{仮リンク|アンミ・サドゥカ王の金星についての粘土板文書|en|Venus tablet of Ammisaduqa}}」が作成される。
=== 紀元前1630年代 ===
* 紀元前1630年頃 - 紀元前1610年頃 - エジプト第15王朝の王[[キアン (ファラオ)|キアン]]の治世。
** 都アヴァリスの宮殿遺跡({{仮リンク|テル・エル・ダバ|en|Tell el-Dab'a}})からキアン王の[[カルトゥーシュ]]で囲んだ印章が出土している。
** この宮殿遺跡からは{{仮リンク|クレタ様式の壁画|en|Minoan frescoes from Tell el-Dab'a}}が出土しており、ヒクソスとクレタ文明との交流があったことが想定される。
=== 紀元前1620年代 ===
* 紀元前1628年頃 - [[サントリーニ島]]の爆発([[ミノア噴火]])。
** サントリーニ島南部にあった華麗な装飾フレスコ壁画で有名な{{仮リンク|アクロティリ遺跡|en|Akrotiri (prehistoric city)}}もこの時期に埋没した。
=== 紀元前1610年代 ===
* 紀元前1610年頃 - 紀元前1570年頃 - エジプト第15王朝[[アペピ1世]]の治世。
=== 紀元前1600年代 ===
* 紀元前1600年以前 - [[夏 (三代)|夏]]王朝の末期で[[桀]]王の時代に当たる([[夏商周年表プロジェクト]]による)。
** 銅を製錬する燃料を作るための木炭窯が出土した[[山西省]]運城市絳県西呉壁遺跡は夏王朝末期のこの時期のもの。
== 発明・発見 ==
* [[メソポタミア]]や[[エジプト]]で瓶などの[[ガラス]]容器が作られたと推定されている。
* [[エドウィン・スミス・パピルス]] - [[外傷手術]]、[[人体解剖学]]に関する[[パピルス]]
* [[リンド数学パピルス]] - 単独方程式や[[連立方程式]]、等差級数や[[等比級数]]が見られる。
==人物==
* [[ハンムラビ]] - [[バビロニア]]王(在位:紀元前1728年 - 紀元前1686年(低年代法による))
* サイテス(サリティス) - [[ヒクソス]]の王・エジプト第15王朝の王・アヴァリス市を建設
== 関連項目 ==
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* [[年表]]
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8,707 | アフリカ大陸 | アフリカ大陸(アフリカたいりく)は、アフロ・ユーラシア大陸のうちスエズ地峡の西側の部分を占める大陸を指す。ユーラシア大陸とは陸続きになり、インド洋・大西洋・地中海に囲まれている。単にアフリカというときは、大陸の周辺の島嶼(マダガスカル島など)や海域をも含んだ地域の総称になる。かつては、暗黒大陸(英:Dark continent)と呼ばれていた。
大陸北部は非常に乾燥したサハラ砂漠で、赤道付近は広大な熱帯雨林が広がる。その南側もまた乾燥しており、サバナと砂漠が広がる。大陸東部には南北に大地溝帯があり大陸を東西に引き裂いていて、ビクトリア湖などを経て一年に数センチメートル単位で東西に分裂していっている。
アラビア半島やマダガスカル島もかつては大陸と一体であったが、この地溝帯によって分裂した。大陸自体は北へ移動しており、地中海をはさんだヨーロッパへ接近している。アルプス山脈はこのために造山運動が起こっているが、アフリカ大陸自体も最北部はアトラス山脈が連なっている。
ライオン・アフリカゾウ・キリンなど大型哺乳類がよく知られている。ゾウ・ライオン・サイなどは熱帯アジアに近縁種があるが、キリン・カバなどはアフリカだけに生息する。また、クマが生息していないことは意外に知られていない。これは、19世紀頃までアフリカ大陸北部の地中海沿いのアトラス山脈周辺にアトラスヒグマ(英語版)(U. a. crowtheri)が生息していたが、絶滅した事による。ゴリラ・チンパンジーなど、特に人間に近縁な類人猿がいる地域でもあり、人類の起源もまた、アフリカ中部であると考えられている。 | [
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] | アフリカ大陸(アフリカたいりく)は、アフロ・ユーラシア大陸のうちスエズ地峡の西側の部分を占める大陸を指す。ユーラシア大陸とは陸続きになり、インド洋・大西洋・地中海に囲まれている。単にアフリカというときは、大陸の周辺の島嶼(マダガスカル島など)や海域をも含んだ地域の総称になる。かつては、暗黒大陸と呼ばれていた。 大陸北部は非常に乾燥したサハラ砂漠で、赤道付近は広大な熱帯雨林が広がる。その南側もまた乾燥しており、サバナと砂漠が広がる。大陸東部には南北に大地溝帯があり大陸を東西に引き裂いていて、ビクトリア湖などを経て一年に数センチメートル単位で東西に分裂していっている。 アラビア半島やマダガスカル島もかつては大陸と一体であったが、この地溝帯によって分裂した。大陸自体は北へ移動しており、地中海をはさんだヨーロッパへ接近している。アルプス山脈はこのために造山運動が起こっているが、アフリカ大陸自体も最北部はアトラス山脈が連なっている。 | <!--ここには、大陸としての特徴を書いてください!-->
{{出典の明記|date=2023年5月}}
[[File:Africa map no countries.svg|thumb|経度・緯度10度刻みのアフリカ大陸の位置]]
'''アフリカ大陸'''(アフリカたいりく)は、[[アフロ・ユーラシア大陸]]のうち[[スエズ地峡]]の西側の部分を占める[[大陸]]を指す。[[ユーラシア#ユーラシア大陸|ユーラシア大陸]]とは陸続きになり、[[インド洋]]・[[大西洋]]・[[地中海]]に囲まれている。単に[[アフリカ]]というときは、大陸の周辺の[[島嶼]]([[マダガスカル島]]など)や[[海域]]をも含んだ地域の総称になる。かつては、'''暗黒大陸'''([[英語|英]]:Dark continent)と呼ばれていた。
大陸北部は非常に乾燥した[[サハラ砂漠]]で、[[赤道]]付近は広大な[[熱帯雨林]]が広がる。その南側もまた乾燥しており、[[サバナ (地理)|サバナ]]と[[砂漠]]が広がる。大陸東部には南北に[[大地溝帯]]があり大陸を東西に引き裂いていて、[[ビクトリア湖]]などを経て一年に数[[センチメートル]][[単位]]で東西に分裂していっている。
[[アラビア半島]]やマダガスカル島もかつては大陸と一体であったが、この地溝帯によって分裂した。大陸自体は[[北]]へ移動しており、[[地中海]]をはさんだ[[ヨーロッパ]]へ接近している。[[アルプス山脈]]はこのために[[造山運動]]が起こっているが、アフリカ大陸自体も最北部は[[アトラス山脈]]が連なっている。
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[[ファイル:Africa-regions.png|thumb|200px|[[国連による世界地理区分]]によるアフリカの各地域
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== 主な地理・地形 ==
{{columns-list|colwidth=22em|
* [[ナイル川]](世界最長の[[川]])
* [[セネガル川]]
* [[ニジェール川]]
* [[ジュバ川]]
* [[ザンベジ川]]
* [[ザイール川]]
* [[ヴィクトリア湖]](アフリカ大陸最大の[[湖]])
* [[タンガニーカ湖]]
* [[マラウイ湖]]
* [[チャド湖]]
* [[リビア砂漠]]
* [[サハラ砂漠]](世界最大の[[砂漠]])
* {{仮リンク|イギディ砂漠|en|Erg Iguidi}}
* [[カラハリ砂漠]]
* [[ドラケンスバーグ山脈]]
* [[アトラス山脈]]
* [[キリマンジャロ]](アフリカ大陸の最高峰)
* [[アイル山地]](世界遺産)
* [[ティベスティ山地]]
* [[アハガル高原]]
* [[エチオピア高原]]
* [[コンゴ盆地]]
}}
== 生物相 ==
[[ライオン]]・[[アフリカゾウ]]・[[キリン]]など大型[[哺乳類]]がよく知られている。ゾウ・ライオン・[[サイ]]などは熱帯アジアに近縁種があるが、キリン・[[カバ]]などはアフリカだけに生息する。また、[[クマ]]が生息していないことは意外に知られていない。これは、19世紀頃までアフリカ大陸北部の[[地中海]]沿いの[[アトラス山脈]]周辺に{{仮リンク|アトラスヒグマ|en|Atlas Bear}}(U. a. crowtheri)が生息していたが、絶滅した事による。[[ゴリラ]]・[[チンパンジー]]など、特に人間に近縁な類人猿がいる地域でもあり、[[人類]]の起源もまた、アフリカ中部であると考えられている。
<!--
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}-->
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|アフリカ|[[File:Africa_satellite_orthographic.jpg|36px|Portal:アフリカ]]}}
* [[アフリカ]] - 六大州の一つとしての説明
{{世界の地理|continents}}
{{DEFAULTSORT:あふりかたいりく}}
[[Category:大陸]]
[[Category:アフリカの地形|*]]
[[Category:アフリカの地域|*]] | null | 2023-07-07T14:45:33Z | false | false | false | [
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8,708 | パンゲア大陸 | パンゲア大陸(パンゲアたいりく)とは、ペルム紀から三畳紀にかけて存在した超大陸である。パンゲア(Pangaea/Pangea)という名前は古代ギリシャ語のpan(πᾶν, 全ての、全体の)Gaia(γαῖα、ガイア、大地)から。漢名は盤古大陸(ばんこたいりく)である。
1912年にアルフレート・ヴェーゲナーは、自身の提唱する大陸移動説の中で、現在の諸大陸は分裂する前に一つであったとの仮説を考え、この大陸を「パンゲア大陸」と命名した。
当初、大陸を動かす原動力が説明されておらず、このような移動は物理的にありえないと亜流扱いされたが、ヴェーゲナーの死後、1950年以降次々に新事実が見つかり、プレートテクトニクス理論として再評価されている。
古生代ペルム紀の終わりである2億5000万年前頃に、ローレンシア大陸、バルティカ大陸(ローレンシア・バルティカ両大陸は既にデボン紀には衝突し、ユーラメリカ大陸を形成していた)、ゴンドワナ大陸(ペルム紀初期にはユーラメリカと衝突)、シベリア大陸などすべての大陸が次々と衝突したことによって誕生し、中生代三畳紀の2億年前ごろから、再び分裂を始めた。
超大陸の完成時、地球内部からスーパープルームが上昇して世界各地の火山活動が活発になり、ペルム紀と三畳紀との境界(P-T境界)に当時生きていた古生代の海洋生物種のうち、実に95%以上が絶滅した。
当時の海水準は高かったため、大半の時代は、浅海によって幾つかの陸塊に分かれていた。
パンゲア大陸は、赤道をはさんで三日月型に広がっていた。三日月内部の浅く広大な内海であるテチス海では多くの海洋生物が繁殖した。その一方、内陸部は海岸から遠いため乾燥した砂漠が荒涼と広がっていた。ほぼ全ての大地が地続きで動植物の移動が促進されたため、生物多様性は現在よりも乏しく均質だった。
1億8000万年前のジュラ紀になると、南北に分裂し、北はローラシア大陸、南はゴンドワナ大陸となった。両大陸は、更に分裂していった。
パンゲア大陸の形状については、三日月型ではなく、上記地図のユーラシア大陸の凹みとオーストラリア大陸の凸部とが丁度つながり、丸くなっていたという説もある。 | [
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] | パンゲア大陸(パンゲアたいりく)とは、ペルム紀から三畳紀にかけて存在した超大陸である。パンゲア(Pangaea/Pangea)という名前は古代ギリシャ語のpanGaia(γαῖα、ガイア、大地)から。漢名は盤古大陸(ばんこたいりく)である。 | {{Redirect|パンゲア|その他|パンゲア (曖昧さ回避)}}
[[ファイル:Pangaea continents ja.svg|thumb|250px|パンゲア大陸]]
[[ファイル:Pangea animation 03.gif|thumb|200px|パンゲア大陸の分裂]]
'''パンゲア大陸'''(パンゲアたいりく)とは、[[ペルム紀]]から[[三畳紀]]にかけて存在した[[超大陸]]である。パンゲア(Pangaea/Pangea)という名前は[[古代ギリシャ語]]の''pan''({{Lang|grc|{{Linktext|πᾶν}}}}, 全ての、全体の)''Gaia''({{Lang|grc|{{Linktext|γαῖα}}}}、[[ガイア]]、大地)<ref>{{Cite web|title=Pangaea|url=http://www.etymonline.com/index.php?term=Pangaea&allowed_in_frame=0|publisher=[[Online Etymology Dictionary]]|accessdate=2018/8/6}}</ref>から。漢名は[[盤古]]大陸(ばんこたいりく)である。
== 大陸移動説 ==
[[1912年]]に[[アルフレート・ヴェーゲナー]]は、自身の提唱する[[大陸移動説]]の中で、現在の諸[[大陸]]は分裂する前に一つであったとの[[仮説]]を考え、この大陸を「パンゲア大陸」と命名した。
当初、大陸を動かす原動力が説明されておらず、このような移動は物理的にありえないと亜流扱いされたが、ヴェーゲナーの死後、[[1950年]]以降次々に新事実が見つかり、[[プレートテクトニクス]]理論として再評価されている<ref>大浜一之『科学雑学辞典』([[日本実業出版社]])</ref>。
== 概要 ==
[[古生代]][[ペルム紀]]の終わりである2億5000万年前頃に、[[ローレンシア大陸]]、[[バルティカ大陸]](ローレンシア・バルティカ両大陸は既に[[デボン紀]]には衝突し、[[ユーラメリカ大陸]]を形成していた)、[[ゴンドワナ大陸]](ペルム紀初期にはユーラメリカと衝突)、[[シベリア大陸]]などすべての大陸が次々と衝突したことによって誕生し、[[中生代]][[三畳紀]]の2億年前ごろから、再び分裂を始めた<ref>『科学雑学辞典』によると、ヴェーグナーはパンゲア大陸は3億年ぐらい前までには存在し、その後分裂して数百万年かかって現在の大陸の形になったと主張していた。</ref>。
超大陸の完成時、地球内部から[[プルームテクトニクス#ホットプルーム|スーパープルーム]]が上昇して世界各地の火山活動が活発になり、[[ペルム紀]]と[[三畳紀]]との境界([[P-T境界]])に当時生きていた[[古生代]]の海洋生物種のうち、実に95%以上が絶滅した。
当時の海水準は高かったため、大半の時代は、浅海によって幾つかの陸塊に分かれていた。
== 大陸の形態 ==
[[File:249 global.png|thumb|right|パンゲア大陸と古テチス海]]
パンゲア大陸は、[[赤道]]をはさんで三日月型に広がっていた。三日月内部の浅く広大な内海である[[テチス海]]では多くの海洋生物が繁殖した。その一方、内陸部は海岸から遠いため乾燥した[[砂漠]]が荒涼と広がっていた。ほぼ全ての大地が地続きで動植物の移動が促進されたため、[[生物多様性]]は現在よりも乏しく均質だった。
1億8000万年前の[[ジュラ紀]]になると、南北に分裂し、北は[[ローラシア大陸]]、南は[[ゴンドワナ大陸]]となった。両大陸は、更に分裂していった。
パンゲア大陸の形状については、三日月型ではなく、上記地図の[[ユーラシア#ユーラシア大陸|ユーラシア大陸]]の凹みと[[オーストラリア大陸]]の凸部とが丁度つながり、丸くなっていたという説もある。
== 出典・脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Pangea}}
*[[ローラシア大陸]]
*[[ゴンドワナ大陸]]
*[[プレートテクトニクス]]
*[[プルームテクトニクス]]
*[[パンサラッサ]]
{{プレートテクトニクス}}
{{Normdaten}}
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[[Category:古大陸]]
[[Category:超大陸]]
[[Category:二畳紀]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%82%A2%E5%A4%A7%E9%99%B8 |
8,709 | アルフレート・ヴェーゲナー | アルフレート・ロータル・ウェーゲナー(Alfred Lothar Wegener、1880年11月1日 - 1930年11月2日もしくは11月3日)は、大陸移動説を提唱したドイツの気象学者。現在でいう地球物理学者である。1908年からマールブルク大学で教鞭を執り、1924年にオーストリアのグラーツ大学の教授に就任した。
義父(妻の父親)は「ケッペンの気候区分」で有名なロシア出身のドイツ人気象学者ウラジミール・ペーター・ケッペン。日本では英語読みでアルフレッド・ウェゲナーとも表記される。
ヴェーゲナーは、牧師のリヒャルト・ヴェーゲナーと妻アンナの間に生まれた5人の子の末っ子だった。5人のうち2人は子どものうちに亡くなっていた。
当初ハイデルベルグとインスブルックの大学に学び、天文学を専攻していたが、極地探検にあこがれて気象学も学ぶ。ベルリン大学で天文学の博士号を取得したあと、兄のいた航空気象台に助手として雇われる。
そこで気球を用いた高層気象観測や天文観測の先駆的研究に携わった。1906年には科学者の兄クルトとともに気球に乗って滞空コンテストに参加し、当時の最長滞空の世界最高記録である52.5時間を達成した。 同年、デンマーク探検隊の遠征に応募し、グリーンランドに2年間滞在した。これがヴェーゲナーの5度にわたるグリーンランド探検の最初である。滞在中、北東岸の地図作りの手伝いをしたり、多くの極地気象のデータを収集した。とくに極地での気球による上層大気の調査はこれが初めてであったため、気象学者の注目を集めた(それをきっかけにケッペンと親しくなり、のちに彼の娘と結婚する)。
1910年、世界地図(イギリスが中心に描かれているもの)を見て、南大西洋を挟んで、南アメリカ大陸の東海岸線とアフリカ大陸の西海岸線がよく似ていることに気づいた。これが大陸移動のアイデアの元となった。 1912年にフランクフルトで開かれたドイツ地質学会で初めて大陸移動説を発表した。
1914年、第一次世界大戦が始まり陸軍中尉の任務につくが、二度目に負傷したとき心臓の悪いことが判ったため、後方にまわって気象調査の任務を与えられた。この間に大陸移動説を研究し執筆をすすめる。
1915年にその主著『大陸と海洋の起源』の中で、地質学・古生物学・古気候学などの資料を元にして、中生代には大西洋は存在せず、現在は大西洋をはさむ四大陸が分離して移動を開始、大西洋ができたとする「大陸移動説」を主張した。ヴェーゲナーの専門は気象学であり、地質学は専門外である上、当時の地質学は今日では古典的とされる化石の研究や同一地点の地層の重なりを調べる層序学を主流の手法としており、彼の主張は全く認められなかった。1919年に義父ケッペンの後任としてハンブルクの海洋観測所気象研究部門長となり、『大陸と海洋の起源』第2版を出した。ケッペンも古気候学者として協力し、1922年には第3版が出版された。
1929年には『大陸と海洋の起源』の第4版(最終版である第5版はヴェーゲナーの死去により未出版)において、南北アメリカ大陸だけでなく、こんにち存在するすべての大陸は1つの巨大大陸「パンゲア」であったが、約2億年前に分裂して別々に漂流し、現在の位置および形状に至ったとする説を発表した。各大陸の岩石の連続性や氷河の痕跡、石炭層や古生物の分布などから漂流前の北アメリカとユーラシア大陸が1つのローラシア大陸であったこと、南アメリカとアフリカがゴンドワナ大陸であったことを説いた。しかし当時の地質学者たちは化石に基づく研究から彼が主張する大陸移動の根拠を「陸橋説」で説明し、「大陸は沈む事はあっても動くことはない」(現在では誤りと判明)として批判した。特に大陸移動の原動力をうまく説明できなかったヴェーゲナーの説は、またも完全に否定された。第4版ではマントル対流に言及したが、大陸移動の原動力と彼自身が気づかなかったのである。
気象学分野では大気熱力学で業績をあげたものの、彼はそれでは満足せず、大陸移動説の根拠を探すために自身を隊長として5度目のグリーンランド探査を行なった。(当時の年代推定の不確かさから、グリーンランドが西に移動する速度は現在考えられている年数センチメートルよりずっと大きい30メートルとヴェーゲナーは推定しており、正確な経度測定で移動が検出できると考えた) 1930年11月1日、ちょうど50歳の誕生日に、ヴェーゲナーはグリーンランド人のビルムセン(Rasmus Villumsen)と2人で、補給物資を持って400kmはなれた西岸基地へ戻るため、雪嵐の中を出発した。しかし悪天候のために2人は遭難し、基地へ帰りつくことはできなかった。翌年5月12日になってから、捜索隊が基地から190kmの地点で立てられたスキーの下にウェゲナーの遺体を発見した。ウェゲナーは(おそらく過労による)心臓発作か何かで死亡し、ビルムセンは彼の遺体を埋葬した後に1人で基地に向かったと考えられている。しかしビルムセンもその後遭難し、また彼がウェゲナーの日記を持ち去ったために遭難当時の詳しい様子もわかっていない。墓標には「偉大なる気象学者であった」と記されているが、大陸移動説については何も触れられていない。
ヴェーゲナーがグリーンランドの氷河に消えてから約30年後の1950年代 - 1960年代に、大陸移動の原動力をマントル対流であるという仮説が唱えられ、さらに岩石に残された過去の地磁気の調査(古地磁気学)によって「大陸が移動した」と考えなければ説明できない事実が判明したことから、大陸移動説は息を吹き返した。その後、これを発展させる形で地殻変動を総合的に説明できる説としてプレートテクトニクス理論が提唱され、ヴェーゲナーの大陸移動は「古くて最も新しい地質学」として再評価され、現在では高く評価されている。
日本での紹介は戦前からおこなわれていた。ただし、この時代には「異端の説」という扱いであった。その時期にこの説を取り上げたものの一つに手塚治虫の漫画『ジャングル大帝』(1950年 - 1954年)がある。同作品のクライマックスは、大陸移動説の証拠となる石を発見するための登山であった。
その後、日本では1960年代になって、主に地球物理学系の学者によって上記のマントル対流とともに紹介され、1970年代には小学生向けの科学読み物にも取り上げられるなど、広く知られるようになった。特に1973年に小松左京が発表した小説『日本沈没』と同年公開のその映画版は、この説を普及させる上で大きな役割を果たした。1980年-2001年には、光村図書出版の小学5年生の国語教科書で、「大陸は動いている」(竹内均)、「大陸は動く」(大竹政和)として掲載された。
ただし、地球物理学系の学者と地質学系の学者の間でこの説の受容に差があり、1980年代までの高等学校の地学の教科書では出版社によって扱いに違いがあった。日本列島の形成史という地球規模ではミクロに属する領域までも大陸移動とプレート説による説明が日本で定着したのは、付加体説が受容された1990年前後のことである。 | [
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] | アルフレート・ロータル・ウェーゲナーは、大陸移動説を提唱したドイツの気象学者。現在でいう地球物理学者である。1908年からマールブルク大学で教鞭を執り、1924年にオーストリアのグラーツ大学の教授に就任した。 義父(妻の父親)は「ケッペンの気候区分」で有名なロシア出身のドイツ人気象学者ウラジミール・ペーター・ケッペン。日本では英語読みでアルフレッド・ウェゲナーとも表記される。 | {{出典の明記|date=2015年9月4日 (金) 14:30 (UTC)|ソートキー=人1930年没}}
{{Infobox_学者
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[[ファイル:Alfred Wegener Die Entstehung der Kontinente und Ozeane 1929.jpg|thumb|250px|『大陸と海洋の起源』第4版(1929年)より]]
'''アルフレート・ロータル・ウェーゲナー'''(Alfred Lothar Wegener、[[1880年]][[11月1日]] - [[1930年]][[11月2日]]もしくは[[11月3日]])は、[[大陸移動説]]を提唱した[[ドイツ]]の[[気象学者]]。現在でいう[[地球物理学]]者である。[[1908年]]から[[フィリップ大学マールブルク|マールブルク大学]]で教鞭を執り、[[1924年]]にオーストリアの[[グラーツ大学]]の[[教授]]に就任した。
義父(妻の父親)は「[[ケッペンの気候区分]]」で有名な[[ロシア帝国|ロシア]]出身の[[ドイツ人]]気象学者[[ウラジミール・ペーター・ケッペン]]<ref>{{Cite book|和書 |author = 中川毅 |year = 2017 |title = 人類と気候の10万年史 |publisher = [[講談社]] |page = 121 |isbn = 978-4-06-502004-3}}</ref>。日本では英語読みで'''アルフレッド・ウェゲナー'''とも表記される<ref>{{Cite web|和書|title=1月 6日 ウェゲナーが大陸移動説を発表(1912年)(ブルーバックス編集部)|url=https://gendai.media/articles/-/59061|website=ブルーバックス {{!}} 講談社|date=2019-01-06|accessdate=2020-06-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://sciencechannel.jst.go.jp/C990501/detail/C990501011.html|title=(11)ウェゲナー|accessdate=2020年6月|publisher=サイエンスチャンネル}}</ref>。
== 概略 ==
ヴェーゲナーは、牧師のリヒャルト・ヴェーゲナーと妻アンナの間に生まれた5人の子の末っ子だった。5人のうち2人は子どものうちに亡くなっていた。
当初[[ハイデルベルグ]]と[[インスブルック]]の大学に学び、[[天文学]]を専攻していたが、極地探検にあこがれて[[気象学]]も学ぶ。[[ベルリン大学]]で天文学の博士号を取得したあと、兄のいた航空気象台に助手として雇われる。
そこで[[気球]]を用いた高層[[気象観測]]や天文観測の先駆的研究に携わった。[[1906年]]には科学者の兄クルトとともに気球に乗って滞空コンテストに参加し、当時の最長滞空の世界最高記録である52.5時間を達成した<ref name="ted_p175">『[[#超大陸 - 100億年の地球史|超大陸 - 100億年の地球史]]』、175頁</ref>。
同年、[[デンマーク]]探検隊の遠征に応募し、[[グリーンランド]]に2年間滞在した。これがヴェーゲナーの5度にわたるグリーンランド探検の最初である<ref>『[[#理科と数学の法則・定理集|数学と理科の法則・定理集]]』、152頁</ref><ref>『[[#理科と数学の法則・定理集|数学と理科の法則・定理集]]』、153頁</ref>。滞在中、北東岸の地図作りの手伝いをしたり<ref name="ted_p175" />、多くの[[極地]]気象のデータを収集した。とくに極地での気球による上層大気の調査はこれが初めてであったため、気象学者の注目を集めた(それをきっかけに[[ウラジミール・ペーター・ケッペン|ケッペン]]と親しくなり、のちに彼の娘と結婚する)<ref>『[[#漫画人物科学の歴史11|漫画人物科学の歴史11]]』、94頁</ref>。
[[1910年]]、世界地図(イギリスが中心に描かれているもの)を見て、南[[大西洋]]を挟んで、[[南アメリカ大陸]]の東[[海岸#海岸線|海岸線]]と[[アフリカ大陸]]の西海岸線がよく似ていることに気づいた。これが大陸移動の[[アイデア]]の元となった{{refnest|group="注釈"|最初の章で「大陸移動という考えが最初に私の頭に浮かんだのは、1910年、世界地図を調べているときのことだった。大西洋をはさんだ両側の形が同じであることが目に焼きついた」と書いている<ref>『[[#超大陸 - 100億年の地球史|超大陸 - 100億年の地球史]]』、158頁</ref>。}}。
1912年に[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]で開かれたドイツ地質学会で初めて大陸移動説を発表した。
[[1914年]]、[[第一次世界大戦]]が始まり陸軍中尉の任務につくが、二度目に負傷したとき心臓の悪いことが判ったため、後方にまわって気象調査の任務を与えられた。この間に大陸移動説を研究し執筆をすすめる<ref>『[[#漫画人物科学の歴史11|漫画人物科学の歴史11]]』、112頁</ref>。
[[1915年]]にその主著『[[大陸と海洋の起源]]』の中で、[[地質学]]・[[古生物学]]・[[古気候学]]などの資料を元にして、[[中生代]]には大西洋は存在せず、現在は大西洋をはさむ四[[大陸]]が分離して移動を開始、大西洋ができたとする「大陸移動説」を主張した。ヴェーゲナーの専門は気象学であり、地質学は専門外である上、当時の地質学は今日では古典的とされる[[化石]]の研究や同一地点の地層の重なりを調べる[[層序学]]を主流の手法としており、彼の主張は全く認められなかった。1919年に義父ケッペンの後任としてハンブルクの海洋観測所気象研究部門長となり、『大陸と海洋の起源』第2版を出した。ケッペンも古気候学者として協力し、1922年には第3版が出版された。
[[1929年]]には『大陸と海洋の起源』の第4版(最終版である第5版はヴェーゲナーの死去により未出版)において、南北アメリカ大陸だけでなく、こんにち存在するすべての大陸は1つの巨大大陸「[[パンゲア大陸|パンゲア]]」であったが、約2億年前に分裂して別々に漂流し、現在の位置および形状に至ったとする説を発表した。各大陸の岩石の連続性や氷河の痕跡、石炭層や古生物の分布などから漂流前の北アメリカとユーラシア大陸が1つの[[ローラシア大陸]]であったこと、南アメリカとアフリカが[[ゴンドワナ大陸]]であったことを説いた。しかし当時の[[地質学者]]たちは化石に基づく研究から彼が主張する大陸移動の根拠を「[[陸橋 (生物地理)|陸橋]]説」で説明し、「大陸は沈む事はあっても動くことはない」(現在では誤りと判明)として批判した。特に大陸移動の原動力をうまく説明できなかったヴェーゲナーの説は、またも完全に否定された。第4版ではマントル対流に言及したが、大陸移動の原動力と彼自身が気づかなかったのである。
気象学分野では[[大気熱力学]]で業績をあげたものの、彼はそれでは満足せず、大陸移動説の根拠を探すために自身を隊長として5度目のグリーンランド探査を行なった。(当時の年代推定の不確かさから、グリーンランドが西に移動する速度は現在考えられている年数センチメートルよりずっと大きい30メートルとヴェーゲナーは推定しており、正確な経度測定で移動が検出できると考えた) [[1930年]]11月1日、ちょうど50歳の誕生日に、ヴェーゲナーはグリーンランド人のビルムセン([[:de:Rasmus Villumsen|Rasmus Villumsen]])と2人で、補給物資を持って400kmはなれた西岸基地へ戻るため、雪嵐の中を出発した。しかし悪天候のために2人は遭難し、基地へ帰りつくことはできなかった。翌年5月12日になってから、捜索隊が基地から190kmの地点で立てられたスキーの下にウェゲナーの遺体を発見した<ref>『[[#漫画人物科学の歴史11|漫画人物科学の歴史11]]』、119頁</ref>。ウェゲナーは(おそらく過労による)[[心臓発作]]か何かで死亡し、ビルムセンは彼の遺体を埋葬した後に1人で基地に向かったと考えられている。しかしビルムセンもその後遭難し、また彼がウェゲナーの日記を持ち去ったために遭難当時の詳しい様子もわかっていない。墓標には「偉大なる気象学者であった」と記されているが、大陸移動説については何も触れられていない。
== 大陸移動説その後 ==
{{See also|大陸移動説}}
ヴェーゲナーがグリーンランドの[[氷河]]に消えてから約30年後の[[1950年代]] - [[1960年代]]に、大陸移動の原動力を[[マントル対流説|マントル対流]]であるという[[仮説]]が唱えられ、さらに[[岩石]]に残された過去の[[地磁気]]の調査([[古地磁気学]])によって「大陸が移動した」と考えなければ説明できない事実が判明したことから、大陸移動説は息を吹き返した。その後、これを発展させる形で[[地殻変動]]を総合的に説明できる説として[[プレートテクトニクス]]理論が提唱され、ヴェーゲナーの大陸移動は「古くて最も新しい地質学」として再評価され、現在では高く評価されている。
== 日本での紹介 ==
日本での紹介は戦前からおこなわれていた。ただし、この時代には「異端の説」という扱いであった。その時期にこの説を取り上げたものの一つに[[手塚治虫]]の漫画『[[ジャングル大帝]]』(1950年 - 1954年)がある。同作品のクライマックスは、大陸移動説の証拠となる石を発見するための登山であった。
その後、日本では1960年代になって、主に[[地球物理学]]系の学者によって上記のマントル対流とともに紹介され、1970年代には[[小学生]]向けの[[科学小説|科学読み物]]<ref group="注釈">[[学研ホールディングス|学研]]の「[[ひみつシリーズ]]」・『コロ助の科学質問箱』(1972年)等。</ref>にも取り上げられるなど、広く知られるようになった。特に1973年に[[小松左京]]が発表した小説『[[日本沈没]]』と同年公開のその映画版は、この説を普及させる上で大きな役割を果たした。1980年-2001年には、[[光村図書出版]]の小学5年生の国語教科書で、「大陸は動いている」([[竹内均]])、「大陸は動く」([[大竹政和]])として掲載された<ref>[http://www.mitsumura-tosho.co.jp/chronicle/shogaku/index.html 教科書クロニクル小学校編] - 光村図書出版</ref>。
ただし、地球物理学系の学者と地質学系の学者の間でこの説の受容に差があり、1980年代までの高等学校の[[地学]]の教科書では出版社によって扱いに違いがあった{{Refnest|group="注釈"|地球物理学系、特に地震学の学者は[[地震]]の発生エネルギーをうまく説明できるプレートテクトニクス説を早くから支持したのに対し、[[造山運動|地向斜造山論]]で[[日本列島]]の形成を説明していた地質学系の学者は、「地質帯の水平方向移動」に否定的な[[ソビエト連邦]]の影響もあり、受容が遅れた<ref name="tsutsumi">{{Cite book |和書 |author=堤之恭 |title=絵でわかる日本列島の誕生 |publisher=[[講談社]] |series=絵でわかるシリーズ |date=2014-11 |pages=pp.98-105 |isbn=978-4-06-154773-5 }}</ref>。このため、当時の高等学校の地学教科書では、大陸移動説による大陸の変化と地向斜説に基づく日本列島史をともに掲載する「折衷形」の記述も見られた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ailab7.com/tikousyazouzan.html |title=新・地震学セミナーからの学び 36 地向斜造山理論 |publisher=ANS観測網事務局 |work=ニューオフィス 新地震学・セミナーからの学び |date=2004-01-24 |accessdate=2016-02-26 }}</ref>。日本の地質学界がプレート説を受容するまでの経緯については、泊次郎『プレートテクトニクスの拒絶と受容』 <small>([[東京大学出版会]]、2008年6月、ISBN 978-4-13-060307-2)</small> に詳述されている<ref name="tsutsumi" />。}}。日本列島の形成史という地球規模ではミクロに属する領域までも大陸移動とプレート説による説明が日本で定着したのは、[[付加体]]説が受容された1990年前後のことである。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
<!--この節には、記事本文の編集時に実際に参考にした書籍等のみを記載して下さい-->
* {{Cite book |和書 |last=ニールド |first=テッド |others=[[松浦俊輔]]訳 |title=超大陸 - 100億年の地球史 |publisher=[[青土社]] |date=2008-10 |isbn=978-4-7917-6442-6 |ref=超大陸 - 100億年の地球史 }}
* {{Cite book |和書 |editor=グリップ(編) |title=理科と数学の法則・定理集 |publisher=アントレックス(発行)、図書印刷(印刷) |year=2009 |asin=B00AKQC728 |ref=理科と数学の法則・定理集 }}
* {{Cite book |和書 |last=佐々木 |first=ケン |others=インタラクティブ編 |title=漫画人物科学の歴史11 ガモフ/ウェゲナー : 地球と宇宙 |publisher=ほるぷ出版 |date=1991-05 |ref=漫画人物科学の歴史11 }}
== 関連書籍 ==
<!--この節には、記事の編集時に参考にしていないがさらに理解するのに役立つ書籍を記載して下さい。
書籍の宣伝はおやめ下さい-->
* [[上田誠也]] 『新しい地球観』 [[岩波書店]]〈[[岩波新書]] 青版 779〉、1971年3月。ISBN 978-4-00-416016-8。
* [[都城秋穂]] 『科学革命とは何か』 岩波書店、1998年1月。ISBN 978-4-00-005184-2。
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Alfred Wegener}}
* [[陸橋 (生物地理)]]
* {{仮リンク|ヘアアイス|en|Hair ice}} - 1918年に発見した現象
* [[地球科学者#あ|地球科学者]]
== 外部リンク ==
* [http://www.awi-bremerhaven.de/ Alfred-Wegener-Institut(アルフレート・ヴェーゲナー研究所)] {{de icon}}
{{Normdaten}}
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[[Category:アルフレート・ヴェーゲナー|*]]
[[Category:19世紀ドイツの物理学者]]
[[Category:ドイツの気象学者]]
[[Category:ドイツの地球物理学者]]
[[Category:プレートテクトニクス]]
[[Category:グラーツ大学の教員]]
[[Category:フィリップ大学マールブルクの教員]]
[[Category:ベルリン出身の人物]]
[[Category:1880年生]]
[[Category:1930年没]]
[[Category:20世紀ドイツの物理学者]] | 2003-05-19T17:37:13Z | 2023-10-07T05:38:30Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%8A%E3%83%BC |
8,710 | 大陸移動説 | 大陸移動説(たいりくいどうせつ、英: continental drift theory, theory of continental drift)は、大陸は地球表面上を移動してその位置や形状を変えるという学説。大陸漂移説(たいりくひょういせつ)ともいう。
発想自体は古くからあり様々な人物が述べているが、一般にはドイツの気象学者アルフレート・ヴェーゲナーが1912年に提唱した説を指す。ヴェーゲナーの大陸移動説は発表後長く受容されなかったが、現在はプレートテクトニクス理論の帰結のひとつとして実証され受け入れられている。
ヴェーゲナーは大陸移動を思いついたきっかけとして、大西洋両岸の大陸の形状(特にアフリカと南アメリカ)が一致することをあげているが、これについて言及している人物は、もっとも古くはフランドルの地図製作者アブラハム・オルテリウス (1596年)がいる。フランシス・ベーコンも1620年に西アフリカと南アメリカの形状の一致について述べており、セオドア・クリストフ・リリエンタール(Theodor Christoph Lilienthal、1756年)は大西洋にあったとされる大陸アトランティスの沈降と海水準の変動に絡めて考察している。また、アレクサンダー・フォン・フンボルト(1801年, 1845年)は、「大西洋は一種の巨大な河底として誕生した。そしてその河川水がまわりの大陸の海岸線を削り取っていった」と述べており、その理由として南緯10度以北の海岸の並行性をあげている。アントニオ・スナイダー=ペレグリニ(英語版)は1858年に『天地創造とそのあばかれた神秘』という本の中で南北アメリカをヨーロッパとアフリカに結合した図を載せている。
具体的に証拠をあげて、かつて大陸同士がつながり超大陸を形成していたと述べたのはエドアルト・ジュース(1901年)で、ペルム紀に栄えた裸子植物グロッソプテリスの化石の分布から、南アメリカ、アフリカ、インドが一つの大陸だったと考え、ゴンドワナ大陸と名付けた。また、アルプスの山から海底堆積物や海生生物の化石が見つかることから、かつてそこは海の底であったと考え、地中海よりも広かったそれをテチス海と名付けている。しかし、彼は大陸自体が動いたとは考えておらず、当時の地球収縮説を使って説明している。
また、ウィリアム・ヘンリー・ピッカリングは1907年に、かつて超大陸として1つだった南北アメリカとヨーロッパ、アフリカが、月が太平洋から分離したため分裂を始めたという考えを述べている。1909年にはロベルト・マントヴァーニ(英語版)が地球膨張説を提唱し、膨張により大陸間の相対距離が増大したとしている。さらに1910年にフランク・バーズリー・テイラー(英語版)が山脈の形成システムを述べた本の中で、大西洋中央海嶺があるため大西洋が広がって大陸が移動したという、後の海洋底拡大説に似た説を述べている。
1912年1月6日に、フランクフルト・アム・マインで行われた地質学会の席上で、ヴェーゲナーは太古の時代に大西洋両岸の大陸が別々に漂流したとする「大陸移動説」を発表した。ヴェーゲナーの大陸移動説は、測地学、地質学、古生物学、古気候学、地球物理学など様々な当時最新の資料を元にして構築されたもので、彼以前の説とは詳細度や学術的正確性などがはっきり異なったものだった。また、明確に「大陸移動(独: Kontinentalverschiebung、英: continental drift)」という言葉を使ったのもヴェーゲナーが最初であった。
さらに1915年に出版された著書『大陸と海洋の起源』の中で、彼は、石炭紀後期に存在していた巨大な陸塊(超大陸)が分裂して別々に漂流し、現在の位置・形状に至ったと発表した。この本は1920年(第2版)、1922年(第3版)、1929年(第4版・最終版)と出版され、各版はそれぞれ初めから完全に書き直されている。このうち第3版が英語へ翻訳され、主な議論はその版の内容で行われた。ヴェーゲナーはこの分裂前の超大陸を「パンゲア」と名付けたことで有名だが、じつは第3版の最終章でほんの軽く述べているだけで、第4版ではパンゲアという呼称は記述されていない。
彼は、大陸が移動したという判断の根拠として、以下のようなものをあげている。
広い海で隔てられた別々の大陸に、同じ種類の、あるいはごく近縁な動植物が隔離分布している例はその頃までには広く知られていた。この説明に使われていたのが陸橋説だった。ベーリング海峡のように、今は海になっているがかつて陸地として自由に動植物が行き来できた場所を沈降陸橋というが、これを南アメリカとアフリカを大西洋南部でつなぐ「南大西洋陸橋」、南アフリカ・マダガスカルとインドをつなぐ「レムリア陸橋」といった具合に、海峡のような大陸棚ではなく今は深い海洋底である場所にもあったとする説である。
この説の前提として、地球が現在も冷却していっているため地殻が収縮していくとする地球収縮説があった。収縮活動によって高くなったところが山になり、逆に沈降したところが海になったというもので、ヴェーゲナーの時代ではまだ有力な説であった。陸橋説は大陸が沈む理由をこの収縮説を使って説明していた。
この地球収縮説をヴェーゲナーは、山脈を形成するのに必要な収縮量の計算結果が到底不可能な値を示していること、地殻のアイソスタシーの存在から大陸が沈降して海洋になることはほとんどありえないこと、地球内部の放射性元素の崩壊熱の存在(1898年にラジウムが発見されていた)などをあげて否定している。そして、大陸移動を考えれば、隔離分布の説明に(地球物理学的に不自然な)沈降陸橋の存在を考えなくてすむと述べた。
大陸が移動するだけでなく、地球の極もその絶対位置が移動することをヴェーゲナーは詳細に述べている。白亜紀以来の南極点の移動を、彼の師であるウラジミール・ペーター・ケッペンとともに化石の調査から割り出しており、南アメリカを基準とした極移動とアフリカを基準とした極移動を図で示した。そしてその移動のずれを大陸移動によるずれとみなした。
この極移動は、その後1950年代に、古地磁気の測定からインドの北上を指摘したパトリック・ブラケットのもとで学んだケイス・ランコーン(英語版)、エドワード・A・アーヴィング(英語版)らによる岩石の残留磁気の詳細な調査により、北米大陸とヨーロッパ大陸のそれぞれの磁北極移動軌跡が描かれ、それらが系統的にずれていることが確認されている。これはその後、大陸移動の独立の証明とみなされた。
ヴェーゲナーによると、古生代には地球上に現在見られる大陸はすべてまとまって互いに隣接した位置にあった。それらの部分はすべてが陸であったわけではなく、少なくとも一部は浅い海になっていた。そこから、まずジュラ紀以降に南極・オーストラリア・インドがアフリカ南部から切り離された。北アメリカとグリーンランド、それにヨーロッパは第三紀、北部では第四紀に分裂が始まった。
また、分裂と大陸の移動は造山運動を引き起こし、例えばインドはアジア南部とぶつかり、ここに巨大な山脈が形成された。南北アメリカは西に移動したために、その前面である西側に長い山脈が形成された。
ヴェーゲナーの時代には地球上層部は花崗岩質のシアル(SiAl)層と玄武岩質のシマ(SiMa)層に分かれるとされていた。これは前述のエドアルト・ジュースによる分類である。大陸地殻が氷山のようにシマ層の上に浮かんでいるようなモデルが想像されていた。ヴェーゲナーは密度の小さいシアルからなる大陸地殻が、密度の高いシマ層の上を滑るように押し分けて進むイメージを考えた。
そして、移動の駆動力として離極力(遠心力)と月と太陽による潮汐力に求めた。地球が回転している楕円体であるため、赤道方向への遠心力が働き、インド、オーストラリアの離極運動がおこり、潮汐力により地球の自転速度が遅くなり、南北アメリカへの西向きの力が生じているとした。
このモデルはすぐにハロルド・ジェフリーズ、ポール・ソフォス・エプスタイン(英語版)など物理学者らによって、遠心力や潮汐力は大陸のような巨大な陸塊を動かし山脈を形成できるほど強力ではないことが示されている。シマ層は流体ではなく頑丈な固体であるので、多くの地球物理学者・地質学者に納得のいくメカニズムとはみなされなかった。
その後、アレクサンダー・デュ・トワによる大陸周辺の地向斜による引っ張りによる分裂説(1937年)や、アーサー・ホームズによるシマ層の熱対流による移動説(1929年, のちのマントル対流説、1944年)などが唱えられたが、いずれも証拠に乏しく、定量的にも不十分なものだったため、次第に正統派の地質学者からかえりみられなくなっていった。
大陸移動説に対する評価は様々だった。ヨーロッパやその南半球の植民地などでは当初好意的に評価する研究者も多かった。大褶曲山脈の形成の説明に使われていた地球収縮説が説得力を失いつつあった時代に、大陸移動説は山脈を生み出す別の原動力を与えることができたからである。また、南半球では距離的にごく近いのに生物相がまったく異なるウォレス線のように大陸移動がなければどうしても説明がつかない事例がいくつか発見されていた。大陸移動説がまったく見向きもされなくなった時代でも、南アフリカやオーストラリアの研究者に大陸移動を支持するものがいたのはこのためである。一方、否定的に評価したのはアメリカの研究者たちだった。当時知られていた物理学では、大陸移動をおこすような駆動力は説明ができなかったためである。彼らはしばしば、ヴェーゲナーを専門外の学者として感情的に批判した。日本では寺田寅彦が好意的に紹介したが、1924年のハロルド・ジェフリーズらによる批判が知られるようになると取り上げる研究者は少なくなっていった。
1920年代には大陸移動説に関するシンポジウムが開かれ、ヴェーゲナーの著書が各国で出版されていたが、1926年にニューヨークで開かれたシンポジウムの報告書(1928年)は多くの学者の反対意見で占められ、大陸移動説の死亡報告書とみなされた。1930年のヴェーゲナーの死後、大半の科学者たちは大陸移動説をまじめに取り上げなくなり、数年後にはナチス政権が誕生してドイツの科学界も変貌していった。
現代から見ると不自然な陸橋説より、よっぽど説明力があるように思える大陸移動説が受け入れられなかった理由の一つに、大陸を動かす原動力の説明ができなかったことがよく取り上げられる。地形、地質・古生物・古気候の数々の資料をヴェーゲナーは証拠として提示したが、いずれも状況証拠に過ぎず、当時の一般概念を覆すほどの証拠とは見なされなかった。S.J.グールドは「常識で考えて"起こりえない"出来事はそれが起こったという証拠だけをいくら積み上げても正当に評価されない。いかにしてそれが起こりうるかを説明するメカニズムが必要である」と述べている。また、当時の物理学では大陸が動くことを直接的に証明する方法がなかった。ヴェーゲナーも『大陸と海洋の起源』の中で「測地学的議論」の章を設け、「現在の大陸の位置変化を実測する定量的証明こそ大部分の研究者が最も厳密で信頼できる大陸移動説の検証である」と述べている。
その後、1950年代から1960年代にかけて、古地磁気や大西洋の海底などの研究によって海洋底拡大説が提唱され、それがプレートテクトニクス理論へと発展した。そして、プレートの運動の結果として大陸移動が導きだされることから、ヴェーゲナーの説も見直されるようになった。ただし、ヴェーゲナーの説は、海底面を構成する地層の上を大陸自らが滑り動くとするものであり、プレートがその表面に露出する大陸を伴って動くとするプレートテクトニクス理論とはメカニズムが異なる。
大陸移動説が嘲笑の対象となっていた時代とその後の再評価を地質学の分野で直接経験した古生物学者S.J.グールドはこう述べている。
なお大陸移動の実測は1980年代後半に電波星や衛星を用いた測量技術(VLBI)が発展してから可能になり、多くの大陸が1年に数cmの速度で移動していることが明らかになった。 | [
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"text": "大陸移動説(たいりくいどうせつ、英: continental drift theory, theory of continental drift)は、大陸は地球表面上を移動してその位置や形状を変えるという学説。大陸漂移説(たいりくひょういせつ)ともいう。",
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"text": "具体的に証拠をあげて、かつて大陸同士がつながり超大陸を形成していたと述べたのはエドアルト・ジュース(1901年)で、ペルム紀に栄えた裸子植物グロッソプテリスの化石の分布から、南アメリカ、アフリカ、インドが一つの大陸だったと考え、ゴンドワナ大陸と名付けた。また、アルプスの山から海底堆積物や海生生物の化石が見つかることから、かつてそこは海の底であったと考え、地中海よりも広かったそれをテチス海と名付けている。しかし、彼は大陸自体が動いたとは考えておらず、当時の地球収縮説を使って説明している。",
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"text": "また、ウィリアム・ヘンリー・ピッカリングは1907年に、かつて超大陸として1つだった南北アメリカとヨーロッパ、アフリカが、月が太平洋から分離したため分裂を始めたという考えを述べている。1909年にはロベルト・マントヴァーニ(英語版)が地球膨張説を提唱し、膨張により大陸間の相対距離が増大したとしている。さらに1910年にフランク・バーズリー・テイラー(英語版)が山脈の形成システムを述べた本の中で、大西洋中央海嶺があるため大西洋が広がって大陸が移動したという、後の海洋底拡大説に似た説を述べている。",
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"text": "1912年1月6日に、フランクフルト・アム・マインで行われた地質学会の席上で、ヴェーゲナーは太古の時代に大西洋両岸の大陸が別々に漂流したとする「大陸移動説」を発表した。ヴェーゲナーの大陸移動説は、測地学、地質学、古生物学、古気候学、地球物理学など様々な当時最新の資料を元にして構築されたもので、彼以前の説とは詳細度や学術的正確性などがはっきり異なったものだった。また、明確に「大陸移動(独: Kontinentalverschiebung、英: continental drift)」という言葉を使ったのもヴェーゲナーが最初であった。",
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"text": "さらに1915年に出版された著書『大陸と海洋の起源』の中で、彼は、石炭紀後期に存在していた巨大な陸塊(超大陸)が分裂して別々に漂流し、現在の位置・形状に至ったと発表した。この本は1920年(第2版)、1922年(第3版)、1929年(第4版・最終版)と出版され、各版はそれぞれ初めから完全に書き直されている。このうち第3版が英語へ翻訳され、主な議論はその版の内容で行われた。ヴェーゲナーはこの分裂前の超大陸を「パンゲア」と名付けたことで有名だが、じつは第3版の最終章でほんの軽く述べているだけで、第4版ではパンゲアという呼称は記述されていない。",
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"title": "大陸移動説の評価"
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"text": "1920年代には大陸移動説に関するシンポジウムが開かれ、ヴェーゲナーの著書が各国で出版されていたが、1926年にニューヨークで開かれたシンポジウムの報告書(1928年)は多くの学者の反対意見で占められ、大陸移動説の死亡報告書とみなされた。1930年のヴェーゲナーの死後、大半の科学者たちは大陸移動説をまじめに取り上げなくなり、数年後にはナチス政権が誕生してドイツの科学界も変貌していった。",
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"text": "現代から見ると不自然な陸橋説より、よっぽど説明力があるように思える大陸移動説が受け入れられなかった理由の一つに、大陸を動かす原動力の説明ができなかったことがよく取り上げられる。地形、地質・古生物・古気候の数々の資料をヴェーゲナーは証拠として提示したが、いずれも状況証拠に過ぎず、当時の一般概念を覆すほどの証拠とは見なされなかった。S.J.グールドは「常識で考えて\"起こりえない\"出来事はそれが起こったという証拠だけをいくら積み上げても正当に評価されない。いかにしてそれが起こりうるかを説明するメカニズムが必要である」と述べている。また、当時の物理学では大陸が動くことを直接的に証明する方法がなかった。ヴェーゲナーも『大陸と海洋の起源』の中で「測地学的議論」の章を設け、「現在の大陸の位置変化を実測する定量的証明こそ大部分の研究者が最も厳密で信頼できる大陸移動説の検証である」と述べている。",
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"text": "なお大陸移動の実測は1980年代後半に電波星や衛星を用いた測量技術(VLBI)が発展してから可能になり、多くの大陸が1年に数cmの速度で移動していることが明らかになった。",
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] | 大陸移動説は、大陸は地球表面上を移動してその位置や形状を変えるという学説。大陸漂移説(たいりくひょういせつ)ともいう。 発想自体は古くからあり様々な人物が述べているが、一般にはドイツの気象学者アルフレート・ヴェーゲナーが1912年に提唱した説を指す。ヴェーゲナーの大陸移動説は発表後長く受容されなかったが、現在はプレートテクトニクス理論の帰結のひとつとして実証され受け入れられている。 | [[ファイル:Pangea animation 03.gif|thumb|パンゲア大陸の分裂]]
[[ファイル:Antonio Snider-Pellegrini Opening of the Atlantic.jpg|thumb|スナイダー=ペレグリニによる図]]
[[ファイル:Alfred Wegener Die Entstehung der Kontinente und Ozeane 1929.jpg|thumb|ヴェーゲナー『大陸と海洋の起源』第4版(1929年)より]]
'''大陸移動説'''(たいりくいどうせつ、{{Lang-en-short|continental drift theory, theory of continental drift}})は、[[大陸]]は[[地球]]表面上を移動してその位置や形状を変えるという[[学説]]。'''大陸漂移説'''(たいりくひょういせつ)ともいう{{sfn|ビクトリア現代新百科8巻|1973|p=149}}。
発想自体は古くからあり様々な人物が述べているが、一般には[[ドイツ]]の[[気象学者]][[アルフレート・ヴェーゲナー]]が1912年に提唱した説を指す。ヴェーゲナーの大陸移動説は発表後長く受容されなかったが、現在は[[プレートテクトニクス]]理論の帰結のひとつとして実証され受け入れられている{{sfn|グールド|1995}}。
== 大陸移動説前史 ==
ヴェーゲナーは大陸移動を思いついたきっかけとして、[[大西洋]]両岸の大陸の形状(特にアフリカと南アメリカ)が一致することをあげているが、これについて言及している人物は、もっとも古くは[[フランドル]]の地図製作者[[アブラハム・オルテリウス]] (1596年)がいる{{sfn|Romm|1994}}。[[フランシス・ベーコン (哲学者)|フランシス・ベーコン]]も1620年に西アフリカと南アメリカの形状の一致について述べており{{sfn|Keary & Vine|1990}}、セオドア・クリストフ・リリエンタール(Theodor Christoph Lilienthal、1756年)は大西洋にあったとされる大陸[[アトランティス]]の沈降と海水準の変動に絡めて考察している{{sfn|Romm|1994}}。また、[[アレクサンダー・フォン・フンボルト]](1801年, 1845年)は、「大西洋は一種の巨大な河底として誕生した。そしてその河川水がまわりの大陸の海岸線を削り取っていった」と述べており、その理由として南緯10度以北の海岸の並行性をあげている{{sfn|ウエゲナー|竹内|1975}}。{{仮リンク|アントニオ・スナイダー=ペレグリニ|en|Antonio Snider-Pellegrini}}は1858年に『天地創造とそのあばかれた神秘』という本の中で南北アメリカをヨーロッパとアフリカに結合した図を載せている{{sfn|ウエゲナー|竹内|1975}}。
具体的に証拠をあげて、かつて大陸同士がつながり超大陸を形成していたと述べたのは[[エドアルト・ジュース]](1901年)で、[[ペルム紀]]に栄えた[[裸子植物]][[グロッソプテリス]]の化石の分布から、南アメリカ、アフリカ、インドが一つの大陸だったと考え、[[ゴンドワナ大陸]]と名付けた。また、[[アルプス山脈|アルプス]]の山から海底堆積物や海生生物の化石が見つかることから、かつてそこは海の底であったと考え、[[地中海]]よりも広かったそれを[[テチス海]]と名付けている。しかし、彼は大陸自体が動いたとは考えておらず、当時の[[地球収縮説]]を使って説明している{{sfn|Suess|1901}}。
また、[[ウィリアム・ヘンリー・ピッカリング]]は1907年に、かつて超大陸として1つだった南北アメリカとヨーロッパ、アフリカが、[[月]]が[[太平洋]]から分離したため分裂を始めたという考えを述べている。1909年には{{仮リンク|ロベルト・マントヴァーニ|en|Roberto Mantovani}}が[[地球膨張説]]を提唱し、膨張により大陸間の相対距離が増大したとしている。さらに1910年に{{仮リンク|フランク・バーズリー・テイラー|en|Frank Bursley Taylor}}が山脈の形成システムを述べた本の中で、[[大西洋中央海嶺]]があるため大西洋が広がって大陸が移動したという、後の[[海洋底拡大説]]に似た説を述べている。
== ヴェーゲナーの登場 ==
[[ファイル:Alfred Wegener 1910.jpg|thumb|ヴェーゲナー(1910年)。しばしば専門外の学者という攻撃をされたが、当時気象学は大気物理学の一分野であり、地球物理学者のひとりだった{{sfn|ウッド|1985}}。]]
[[1912年]][[1月6日]]に、[[フランクフルト・アム・マイン]]で行われた地質学会の席上で、ヴェーゲナーは太古の時代に大西洋両岸の大陸が別々に漂流したとする「大陸移動説」を発表した。ヴェーゲナーの大陸移動説は、[[測地学]]、[[地質学]]、[[古生物学]]、[[古気候学]]、[[地球物理学]]など様々な当時最新の資料を元にして構築されたもので、彼以前の説とは詳細度や学術的正確性などがはっきり異なったものだった。また、明確に「大陸移動({{Lang-de-short|Kontinentalverschiebung}}、{{lang-en-short|continental drift}})」という言葉を使ったのもヴェーゲナーが最初であった{{sfn|ウエゲナー|竹内|1975}}。
さらに[[1915年]]に出版された著書『[[大陸と海洋の起源]]』の中で、彼は、[[石炭紀]]後期に存在していた巨大な陸塊([[超大陸]])が分裂して別々に漂流し、現在の位置・形状に至ったと発表した。この本は1920年(第2版)、1922年(第3版)、1929年(第4版・最終版)と出版され、各版はそれぞれ初めから完全に書き直されている。このうち第3版が英語へ翻訳され、主な議論はその版の内容で行われた{{sfn|ウッド|1985}}。ヴェーゲナーはこの分裂前の超大陸を「[[パンゲア大陸|パンゲア]]」と名付けたことで有名だが、じつは第3版の最終章でほんの軽く述べているだけで、第4版ではパンゲアという呼称は記述されていない{{sfn|ニールド|2008}}。
== ヴェーゲナーの大陸移動説 ==
[[ファイル:Snider-Pellegrini Wegener fossil map.svg|thumb|ゴンドワナ大陸の化石の分布。キノグナトゥス(橙色)、メソサウルス(青色)、リストロサウルス(茶色)、グロッソプテリス(緑色)]]
彼は、大陸が移動したという判断の根拠として、以下のようなものをあげている。
;地形学的根拠
:大西洋両岸の大陸を、海岸線ではなく大陸棚の端を使ってつなぎ合わせるとうまく一致すること。これは1965年に[[エドワード・ブラード]]らによって、コンピュータを使って水深約900m(500[[ファゾム]])でつなぎあわせた図が作られ、その対応性がはっきりと示されている{{sfn|上田|水谷|1992}}。
;地球物理学的根拠
:地殻表面の高さの頻度曲線をとると陸地と海底によって代表される2つのピークが存在する。これは大陸地殻と海洋地殻が2つの異なった層であり、もとから成り立ちが異なることを示している。大陸地殻は[[アイソスタシー]]のエアリーモデルをとると氷山のように海底地殻の上に浮かんでいるモデルが考えられ、地球表面を完全に覆い尽くしていないため、そこで大陸の水平移動の可能性が生じる。また、地殻を構成している物質も、[[地震波]]のような短周期では[[弾性体]]のように振舞うが、[[地質学的時間]]のスケールで力をかけ続けると、[[粘性率]]によっては[[流体]]のように振舞うだろうと述べた{{sfn|ウエゲナー|竹内|1975}}。
;地質学的根拠
:アフリカ、南アメリカ両大陸の大西洋両岸における地質構造の一致。例えば、[[ブエノスアイレス]]の[[シエラ・デ・ラ・ヴェンタナ山脈]]と[[南アフリカ]]の[[ケープ山脈]]の[[褶曲]]構造の一致や[[ダイヤモンド]]を含む特殊な岩石[[キンバーライト]]の分布状況、[[ブラジル]]とアフリカの巨大な[[片麻岩]]台地の岩石や[[走向]]の一致など。これらは主に[[アレクサンダー・デュ・トワ]]によって詳細に調べられた。
:ヨーロッパと北アメリカの大西洋両岸の地層の一致。例えば、[[スコットランド]]の[[カレドニア山脈]]を横断している[[断層]]が、北アメリカの[[ボストン]]から[[ニューファンドランド島]]に広がっている[[カボット断層]]につながっていることを[[ツゾー・ウィルソン]]が発見している。
;古生物学的根拠
:[[グロッソプテリス]]の分布、[[単弓類]][[キノグナトゥス]]、[[リストロサウルス]]及び淡水生の[[メソサウルス]]の分布、ヨーロッパ全域と北アメリカのニューファンドランドの一部でみつかる[[三葉虫]]の分布状態など。
;生物地理学的根拠
:海を越えて渡ることができない[[ミミズ]]のある属 (Ocnerodrilidae, Acanthodrilidae, Octochaetidae)の分布、ある種の淡水[[ザリガニ]](''Limnocalanus macrurus'')の分布など、いくつかの不思議な[[隔離分布]]が知られている。生物地理学ではこれを説明するのに[[陸橋 (生物地理)|陸橋]]説があったが、大陸移動があって、以前は陸続きであったとする方が遙かに説明がたやすいとした。
;古気候学的根拠
:現在は極地域にある[[スピッツベルゲン島]]が過去に熱帯気候であったことの説明に[[極移動]]だけでは説明できないこと、[[古生代]]後期の[[氷河]]の分布が現在は熱帯である地域にまたがっているが、同時期の北半球には氷河の痕跡が見られないことなど。とくに南アメリカ東部の氷河の[[擦痕]]の方向が、現在は大西洋があるところから氷河が流れてきていることを示しているなど。これらは大陸が移動したとするとよく解決できる。
=== 陸橋説とアイソスタシー ===
[[ファイル:Isostasy.svg|thumb|地殻の[[アイソスタシー]]を示した図。茶色部分が地殻で、7の橙色部分がマントル、5の青色部分が海。標高が高いところは地殻も厚い。アイソスタシーがあるため、大規模な大陸の海洋化は否定される。]]
広い海で隔てられた別々の大陸に、同じ種類の、あるいはごく近縁な動植物が[[隔離分布]]している例はその頃までには広く知られていた。この説明に使われていたのが陸橋説だった。[[ベーリング海峡]]のように、今は海になっているがかつて陸地として自由に動植物が行き来できた場所を沈降陸橋というが、これを南アメリカとアフリカを大西洋南部でつなぐ「南大西洋陸橋」、南アフリカ・[[マダガスカル]]と[[インド]]をつなぐ「[[レムリア]]陸橋」といった具合に、[[海峡]]のような[[大陸棚]]ではなく今は深い[[海洋底]]である場所にもあったとする説である。
この説の前提として、地球が現在も冷却していっているため[[地殻]]が収縮していくとする[[地球収縮説]]があった。収縮活動によって高くなったところが山になり、逆に沈降したところが海になったというもので、ヴェーゲナーの時代ではまだ有力な説であった。陸橋説は大陸が沈む理由をこの収縮説を使って説明していた。
この地球収縮説をヴェーゲナーは、山脈を形成するのに必要な収縮量の計算結果が到底不可能な値を示していること、[[地殻]]の[[アイソスタシー]]の存在から大陸が沈降して海洋になることはほとんどありえないこと、地球内部の[[放射性元素]]の[[崩壊熱]]の存在(1898年に[[ラジウム]]が発見されていた)などをあげて否定している。そして、大陸移動を考えれば、隔離分布の説明に(地球物理学的に不自然な)沈降陸橋の存在を考えなくてすむと述べた{{sfn|ウエゲナー|竹内|1975}}。
=== 極移動 ===
大陸が移動するだけでなく、地球の極もその絶対位置が移動することをヴェーゲナーは詳細に述べている。[[白亜紀]]以来の[[南極点]]の移動を、彼の師である[[ウラジミール・ペーター・ケッペン]]とともに化石の調査から割り出しており、南アメリカを基準とした極移動とアフリカを基準とした極移動を図で示した。そしてその移動のずれを大陸移動によるずれとみなした。
この[[極移動]]は、その後1950年代に、古地磁気の測定からインドの北上を指摘した[[パトリック・ブラケット]]のもとで学んだ{{仮リンク|ケイス・ランコーン|en|Keith Runcorn}}、{{仮リンク|エドワード・A・アーヴィング|en|Edward A. Irving}}らによる岩石の[[残留磁気]]の詳細な調査により、北米大陸とヨーロッパ大陸のそれぞれの磁北極移動軌跡が描かれ、それらが系統的にずれていることが確認されている。これはその後、大陸移動の独立の証明とみなされた。
=== 移動の過程 ===
ヴェーゲナーによると、古生代には地球上に現在見られる大陸はすべてまとまって互いに隣接した位置にあった<ref>ウェゲナー/都城・紫藤(1981)p.48-56</ref>。それらの部分はすべてが陸であったわけではなく、少なくとも一部は浅い海になっていた。そこから、まず[[ジュラ紀]]以降に南極・オーストラリア・インドがアフリカ南部から切り離された。北アメリカとグリーンランド、それにヨーロッパは第三紀、北部では[[第四紀]]に分裂が始まった。
また、分裂と大陸の移動は造山運動を引き起こし、例えばインドはアジア南部とぶつかり、ここに巨大な山脈が形成された。南北アメリカは西に移動したために、その前面である西側に長い山脈が形成された。
=== 大陸移動のメカニズム ===
ヴェーゲナーの時代には地球上層部は[[花崗岩]]質の[[シアル]](SiAl)層と[[玄武岩]]質の[[シマ (地球科学)|シマ]](SiMa)層に分かれるとされていた{{sfn|ウエゲナー|竹内|1975}}。これは前述のエドアルト・ジュースによる分類である。大陸地殻が[[氷山]]のようにシマ層の上に浮かんでいるようなモデルが想像されていた。ヴェーゲナーは密度の小さいシアルからなる大陸地殻が、密度の高いシマ層の上を滑るように押し分けて進むイメージを考えた。
そして、移動の駆動力として離極力([[遠心力]])と月と太陽による[[潮汐力]]に求めた。地球が回転している楕円体であるため、赤道方向への遠心力が働き、インド、オーストラリアの離極運動がおこり、潮汐力により地球の自転速度が遅くなり、南北アメリカへの西向きの力が生じているとした。
このモデルはすぐに[[ハロルド・ジェフリーズ]]、{{仮リンク|ポール・ソフォス・エプスタイン|en|Paul Sophus Epstein}}など物理学者らによって、遠心力や潮汐力は大陸のような巨大な陸塊を動かし山脈を形成できるほど強力ではないことが示されている。シマ層は流体ではなく頑丈な固体であるので、多くの地球物理学者・地質学者に納得のいくメカニズムとはみなされなかった。
その後、[[アレクサンダー・デュ・トワ]]による大陸周辺の[[地向斜]]による引っ張りによる分裂説(1937年)や、[[アーサー・ホームズ]]によるシマ層の熱対流による移動説(1929年, のちの[[マントル対流説]]、1944年)などが唱えられたが、いずれも証拠に乏しく、定量的にも不十分なものだったため、次第に正統派の地質学者からかえりみられなくなっていった{{sfn|ビクトリア現代新百科8巻|1973|p=149}}。
== 大陸移動説の評価 ==
大陸移動説に対する評価は様々だった。ヨーロッパやその南半球の植民地などでは当初好意的に評価する研究者も多かった{{sfn|ニールド|2008}}。大褶曲山脈の形成の説明に使われていた地球収縮説が説得力を失いつつあった時代に、大陸移動説は山脈を生み出す別の原動力を与えることができたからである{{sfn|上田|水谷|1992}}。また、南半球では距離的にごく近いのに[[生物相]]がまったく異なる[[ウォレス線]]のように大陸移動がなければどうしても説明がつかない事例がいくつか発見されていた。大陸移動説がまったく見向きもされなくなった時代でも、南アフリカやオーストラリアの研究者に大陸移動を支持するものがいたのはこのためである{{sfn|ニールド|2008}}。一方、否定的に評価したのはアメリカの研究者たちだった。当時知られていた物理学では、大陸移動をおこすような駆動力は説明ができなかったためである。彼らはしばしば、ヴェーゲナーを専門外の学者として感情的に批判した{{sfn|ニールド|2008}}。日本では[[寺田寅彦]]が好意的に紹介したが{{efn|日本に紹介したのは[[山崎直方]]が最初であるという調査もある<ref>{{Cite web|和書|title=GlobalTectonics論の形成と受容 |url=http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/2604/1/kyoyo_76_tanimoto.pdf |format=PDF |work= |publisher=谷本勉 |date= |accessdate=2012年7月15日}}</ref>。}}、1924年のハロルド・ジェフリーズらによる批判が知られるようになると取り上げる研究者は少なくなっていった{{sfn|泊|2008}}。
[[1920年代]]には大陸移動説に関する[[シンポジウム]]が開かれ、ヴェーゲナーの著書が各国で出版されていたが、1926年にニューヨークで開かれたシンポジウムの報告書(1928年)は多くの学者の反対意見で占められ、大陸移動説の死亡報告書とみなされた{{sfn|ウッド|1985}}。[[1930年]]のヴェーゲナーの死後、大半の科学者たちは大陸移動説をまじめに取り上げなくなり、数年後には[[ナチス]]政権が誕生してドイツの科学界も変貌していった。
現代から見ると不自然な[[陸橋説]]より、よっぽど説明力があるように思える大陸移動説が受け入れられなかった理由の一つに、大陸を動かす原動力の説明ができなかったことがよく取り上げられる。地形、地質・古生物・古気候の数々の資料をヴェーゲナーは証拠として提示したが、いずれも状況証拠に過ぎず、当時の一般概念を覆すほどの証拠とは見なされなかった。[[スティーヴン・ジェイ・グールド|S.J.グールド]]は「常識で考えて"起こりえない"出来事はそれが起こったという証拠だけをいくら積み上げても正当に評価されない。いかにしてそれが起こりうるかを説明するメカニズムが必要である」<ref>スティーヴン・ジェイ・グールド『パンダの親指 下』[[田隅本生|櫻町翠軒]] 訳、早川書房 ISBN 4-15-050207-2</ref>と述べている。また、当時の物理学では大陸が動くことを直接的に証明する方法がなかった。ヴェーゲナーも『大陸と海洋の起源』の中で「測地学的議論」の章を設け、「現在の大陸の位置変化を実測する定量的証明こそ大部分の研究者が最も厳密で信頼できる大陸移動説の検証である」と述べている。
== プレートテクトニクス以後 ==
その後、1950年代から1960年代にかけて、[[古地磁気]]や大西洋の[[海底]]などの研究によって[[海洋底拡大説]]が提唱され、それが[[プレートテクトニクス]]理論へと発展した。そして、プレートの運動の結果として大陸移動が導きだされることから、ヴェーゲナーの説も見直されるようになった。ただし、ヴェーゲナーの説は、海底面を構成する地層の上を大陸自らが滑り動くとするものであり、プレートがその表面に露出する大陸を伴って動くとするプレートテクトニクス理論とはメカニズムが異なる。
大陸移動説が嘲笑の対象となっていた時代とその後の再評価を地質学の分野で直接経験した古生物学者S.J.グールドはこう述べている{{sfn|グールド|1995}}。
{{Cquote|今やわれわれは大陸移動の新しい正統理論(註:プレートテクトニクスのこと)をもつにいたった。この理論の光の下で、大陸移動についての古典的データが明るみに出され、積極的な証明であると宣言されてきた。だが、これらのデータは、大陸が移動するという考えが市民権を得るにあたっては何の役割も果たさなかったのである。大陸移動説が勝利したのは、それが新しい理論の必然的な帰結であるということになってからにすぎない。}}
なお大陸移動の実測は1980年代後半に電波星や衛星を用いた測量技術([[VLBI]])が発展してから可能になり、多くの大陸が1年に数cmの速度で移動していることが明らかになった{{sfn|上田|水谷|1992}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* アルフレッド・ウエゲナー『大陸と海洋の起源』 [[竹内均]] 全訳・解説 [[講談社]] 1975年 ISBN 4-06-158908-3
* 上田誠也・水谷仁 編 『地球』 岩波書店 1992年、ISBN 4-00-007831-3
* [[スティーヴン・ジェイ・グールド]] 『ダーウィン以来』 [[早川書房]] 1995年 ISBN 4-15-050196-3
* 『ビクトリア現代新百科』 学習研究社 1973年 第8巻
* テッド・ニールド 『超大陸』 松浦俊輔 訳 青土社 2008年 ISBN 978-4-7917-6442-6
* 泊次郎 『プレートテクトニクスの拒絶と受容』東京大学出版会 2008年 ISBN 978-4130603072
* R.M.ウッド 『地球の科学史』 谷本勉 訳 朝倉書店 2001年 ISBN 4-254-10574-6
* {{Citation |last=Romm |first=James |title=A New Forerunner for Continental Drift |journal=Nature |date=February 3, 1994 |volume=367 |pages=407–408 |doi=10.1038/367407a0 |postscript=. |issue=6462}}
* {{Cite book |last=Keary |first=P |last2=Vine |first2=F. J. |title=Global Tectonics |year=1990 |publisher=Blackwell Scientific Publications |place=Oxford |pages=302}}
* Suess, Eduard (1885-1908) ''Das Antlitz der Erde'' F. Tempsky, Vienna, [http://www.worldcat.org/oclc/2903551 OCLC 2903551], 註: 3巻は2つに分けて出版された。
* [https://www.jamstec.go.jp/j/about/press_release/20150212/ スーパーコンピューターでパンゲアの分裂から現在までの大陸移動を再現し、その原動力を解明-ヒマラヤ山脈はマントルのコールドプルームが作った!-] 2015年2月12日 海洋研究開発機構プレスリリース
== 関連項目 ==
* [[アルフレート・ヴェーゲナー]] - [[大陸と海洋の起源]]
* [[地球科学]] - [[地球物理学]]
* [[マントル対流説]]
* [[海洋底拡大説]]
* [[地磁気]]
* [[測地学]]
* [[陸橋 (生物地理)]]
* [[グローマー・チャレンジャー]]
== 外部リンク ==
* [https://www.jamstec.go.jp/j/jamstec_news/20150914/ ウェゲナー「大陸移動説」完成100年に寄せて] 2015年9月14日 海洋研究開発機構 吉田晶樹主任研究員 コラム
* {{Kotobank}}
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8,714 | 沖ノ鳥島 | 沖ノ鳥島(おきのとりしま)は、太平洋(フィリピン海)上に位置する小笠原諸島に属する孤立島。サンゴ礁からなる島であり、東京都小笠原村に属する。日本の領土としてもっとも南に位置しており、日本最南端の島である。地名表記は東京都小笠原村沖ノ鳥島。
東京都心部から1,740キロメートル、硫黄島から720キロメートル、フィリピン海プレートのほぼ中央、九州・パラオ海嶺上に位置する、太平洋の絶海に孤立して形成された南北約1.7キロメートル、東西約4.5キロメートル、周囲約11キロメートルほどの米粒形をしたサンゴ礁の島である。北回帰線の南に位置するため、長らく日本で唯一熱帯に属していた。
干潮時には環礁の大部分が海面上に姿を現しているが、満潮時には礁池内の東小島(旧称・東露岩)と北小島(旧称・北露岩)を除いて海面下となる。
沖ノ鳥島は過去100年あたり1センチメートルという、地盤沈下が極めて小さいことでも知られ、地球温暖化に伴う海面の水位変化を調べるのに役立っている。1999年から2002年のGPS調査によると、沈降こそないものの、N70°W5.0センチメートル/年(1年間に進む距離が、真北から西へ70度回った方向に5センチメートル)で西北西に移動していることが確認されている。
島周辺は海面と海底の海水の温度差が年間を通じて20°Cほどあり、海洋温度差発電にふさわしい条件が揃っている。
なお、「沖ノ鳥島」として公式に記載されたのは1929年(昭和4年)のことであるが、沖ノ鳥島という名前自体の由来は不明である。
沖ノ鳥島があることにより、日本の領海と排他的経済水域が大幅に拡大されるため、日本政府は護岸工事などを行って領土として保護しようと尽力している。
東京都小笠原村沖ノ鳥島1番地。旧称は北露岩。北緯20度25分31秒 東経136度4分11秒 / 北緯20.42528度 東経136.06972度 / 20.42528; 136.06972 (北小島)に位置する。面積7.86平方メートル。海抜は第二次世界大戦以前の海図では2.8メートルと記載されていたが、2008年3月時点で約1メートル。高潮(満潮)時も約16センチメートルが海面上に現れる。三等三角点「北小島」が設置されている。
東京都小笠原村沖ノ鳥島2番地。旧称は東露岩。北緯20度25分32秒 東経136度4分52秒 / 北緯20.42556度 東経136.08111度 / 20.42556; 136.08111 (東小島)に位置する。面積1.58平方メートル。海抜は第二次世界大戦以前の海図では1.4メートルと記載されていたが、2008年3月時点で約0.9メートル。高潮(満潮)時も約6センチメートルが海面上に現れる。一等三角点「沖ノ鳥島」が設置されている。
日本は1988年から北小島および東小島に鉄製消波ブロックの設置とコンクリート護岸工事を施し、東小島にはチタン製防護ネットを被せて保護している(詳細は#浸食防止策を参照)。
第二次世界大戦中の1940年(昭和15年)7月中旬、大日本帝国海軍は北露岩に無人灯台建設を計画した。その後、中断していた灯台基盤跡に、人工島の観測所基盤が、海面上に大規模な観測施設(作業架台:60メートル×80メートル)が建築されており、無人の気象・海象観測が行われている(海洋研究開発機構)。
その他、船舶が沖ノ鳥島に座礁することを防止するため、海上保安庁によって領海内に「沖ノ鳥島灯台」が設置されている。この無人灯台の灯火は海面上から26メートルの位置にあり、発光ダイオードの光を沖合12海里まで届けるもので太陽電池によって稼働している。
東小島には一等三角点「沖ノ鳥島」、北小島には三等三角点「北小島」、観測所基盤には水準標石が設けられている。また、2005年には電子基準点「沖ノ鳥島」が東小島に設置されている。
第二次世界大戦の前の1933年の調査記録では、海抜最大2.8メートルの北露岩、1.4メートルの東露岩、さらに北露岩の南側に海抜2.25メートルの「南露岩」、それ以外に60 - 90センチメートルの露岩があり、合計6つの露岩が満潮時にも姿を現していたことが記されている。
これらのうち、南露岩は1938年に消失が確認された。1968年に日本へ施政権が返還されたあとの1982年以前は露岩の数は4つとされていたため、1987年までに、現在の北小島、東小島を除いたものは風化や海食により消え失せたと見られている。
日本がアメリカ合衆国やイギリスをはじめとする48か国と締結したサンフランシスコ平和条約第3条では、日本は「北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)、孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島」を、アメリカ合衆国を施政権者とする国際連合の信託統治制度の下に置くことを承認し、さらには国際連合がこの信託統治制度を可決するまでの間は、アメリカがこれらの島々に対する施政権を持つことを承認した。実際にはアメリカは国際連合に対してこれらの島を信託統治する提案をしなかったため、沖ノ鳥島は小笠原諸島とともにアメリカの施政下に置かれたものの、領土主権は日本に残された。1968年(昭和43年)に日本国とアメリカ合衆国が結んだ小笠原返還協定が発効したことにより、小笠原諸島および沖ノ鳥島の施政権は日本に返還された。
日本では小笠原諸島の一部として東京都小笠原村に属し、住所は郵便番号「100-2100」、東京都小笠原村沖ノ鳥島1番地(北小島)および、2番地(東小島)となっているが、無人島のため交通困難地の一覧には掲載されていない。所属市町村が未定である鳥島などと違い、所属市町村が決まっており住所が設定されているため本籍を置くことが可能である。
1987年10月に東京都によって海岸保全区域に指定されたが、東京都だけでは保守費用を負担しきれないことから、1999年6月以降は、全額国費による直轄管理(所管は国土交通省)となっている。2011年6月、一部が低潮線保全区域に指定されている。
電話の市外局番は小笠原村の04998だが、現状では無人島であることから加入者は存在していない。
沖ノ鳥島が日本国の領土であり、その周囲に日本の領海・領空を持つことは、どこの国家からも異論が出ていない。ただし下記のように、沖ノ鳥島を基点とする排他的経済水域(Exclusive Economic Zone、略称:EEZ)および大陸棚の設定について、日本国と中華人民共和国(中国)、中華民国(台湾)および大韓民国(韓国)、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で、主張が異なっている。
1994年11月16日に発効した、国際海洋法の基礎となっている海洋法に関する国際連合条約(国連海洋法条約)では、「島」と「岩」について以下のように定義されている。
第121条 第1項:島とは、自然に形成された陸地であって、水に囲まれ、高潮時においても水面上にあるものをいう。
第121条 第3項:人間の居住又は独自の経済的生活を維持することのできない岩は、排他的経済水域又は大陸棚を有しない。
日本国はこの第121条1項の定義に従って沖ノ鳥島は「島」であるとし、国連海洋法条約発効に併せて制定した「排他的経済水域及び大陸棚に関する法律」(平成8年法律第74号)によって、沖ノ鳥島を中心とする排他的経済水域および大陸棚を設定した。
しかし、沖ノ鳥島が同3項の「岩」に当てはまるとすれば、沖ノ鳥島は領海は有するものの、排他的経済水域や大陸棚を有しないということになる。海洋法専門家でハワイ大学マノア校教授のジョン・ヴァン・ダイクは、1988年1月21日のニューヨーク・タイムズで「沖ノ鳥島――せいぜいキングサイズのベッドくらいの大きさしかない、2つの浸蝕された突起から構成される――」と、独自の経済的生活を維持することのできない居住不可能な岩という記述に間違いなくあてはまるので、200海里の排他的経済水域を生み出す資格を与えられない、と主張した。ダイクは同様の主張を繰り返し、その意見は2005年2月16日のウォール・ストリート・ジャーナルで「日本の立場は、イギリスが1990年代にEEZの主張を諦めた、大西洋のロッコール島の例に酷似している」「沖ノ鳥島のEEZをもっともらしく主張することはできない」として紹介されている。こうした意見に対して日本国政府は、「岩」の定義が同条約上に存在しないことを根拠に、沖ノ鳥島の排他的経済水域を主張している。
2003年以降には、中国および韓国の2か国が日本の主張に対する異議を申し立てるようになった。両国は、沖ノ鳥島が日本の領土であることは認めるものの、それは国連海洋法条約第121条第1項の「島」ではなく、同条第3項の「岩」であり、沖ノ鳥島周辺に日本国が排他的経済水域を設定することはできないと主張している。
なお同条約には、島に関する以下のような条文も定められている。沖ノ鳥島の北小島・東小島に設置された鉄製消波ブロックやコンクリート製護岸・チタン製防護ネット、および観測所基盤・観測拠点施設については、この条文に記された人工の「構築物」に該当する。ただし、沖ノ鳥島の本体は自然に形成されたものであるため、この条文には該当しない。
ロッコール島
海面から突出した塔状の岩(高さ約23m、直径27m)。無主地であったため1955年からイギリスが領有権を主張、1972年にイギリスの領土として正式に編入された。排他的経済水域 (EEZ) を設定した場合、豊富な海洋資源を得ることができるため、イギリスは編入後にロッコールを基点とするEEZの設定を検討したが、アイルランド共和国、デンマーク(フェロー諸島の一部として)、アイスランドはこれに反対していた。
1982年に採択、1994年に発効した「海洋法に関する国際連合条約(国連海洋法条約)」には、121条3項に「人間の居住又は独自の経済的生活を維持することのできない岩は、排他的経済水域又は大陸棚を有しない」と規定されており、イギリスは、ロッコール島は「条約第121条3項に基づき漁業水域の限界のための有効な基点ではない」と判断して政策転換を図り、ロッコール島の排他的経済水域と大陸棚に関する主張を放棄した。
太平島
中華民国(台湾)が実効支配。
中華民国政府は2016年3月23日、海外メディアを初めて太平島に招き、島には井戸水が湧いており、人間の居住や農業が可能であることをアピールした。島内にはこのほか原生林、太陽光発電施設、観音堂、病院があり、病院では外国人に対しても人道的見地から医療活動をしていると説明した。
しかし、2016年7月12日、国連海洋法条約に基づくオランダ・ハーグの仲裁裁判所が、太平島を含む南沙諸島(スプラトリー諸島)には法的に排他的経済水域(EEZ)を設けられる「島」はないと認定し、中華民国(台湾)が実効支配する太平島が「島」ではなく「岩」だとして排他的経済水域を認めない判断を下した(南シナ海判決)。
これに対して、中華民国政府は強く反発。蔡英文総統は「裁定は台湾の権利を傷つけるもの」として軍艦(康定級フリゲート「迪化」)を派遣した。
2016年(平成28年)4月、台湾の馬英九中国国民党政権(当時)は、排他的経済水域を設定できない岩との認識を示していた。台湾漁船「東聖吉16号」が4月25日午前、沖ノ鳥島の東南東150海里の海上で日本の海上保安庁に拿捕されたことについて、張善政・行政院長は26日、沖ノ鳥はただの岩礁であり、排他的経済水域(EEZ)は設定できないと指摘。漁船は公海上で操業しており、日本に拿捕する権利はないと語った。張氏は、堂々たる大国である日本が、なぜこのような理不尽なことをしたのか、と批判。農業委員会漁業署の蔡日耀署長も25日、沖ノ鳥は岩礁であるとして、同様の主張を行っていた。しかし翌5月に発足した蔡英文民主進歩党政権は、自由民主党国会議員らとの対話後、5月23日に「法律上の特定の立場を取らない」として扱いを修正した。翌24日のフォーカス台湾は、この方針転換に対し下野した国民党はもちろん与党の民進党からも異論が相次いだと報道した。民進党の黄偉哲・立法委員は方針転換は「速すぎると言わざるを得ない」とした上で、台湾は沖ノ鳥を「岩」と主張するべきだと訴えた。同党の蔡其昌・立法院副院長(国会副議長)も、新政権の決定に理解を示しつつも、個人的には「岩」だと認識していると語った。国民党の林徳福・立法委員は新政権を「弱腰」と批判し、「台湾の漁民は今後、公海で日本の船を見たら逃げなければならないのか」と皮肉った。同党の江啓臣・立法委員は、「国の尊厳と品格を損なう発言だ」と童報道官を非難した。また、民進党、国民党に次ぐ第三党の時代力量も、沖ノ鳥は「岩」であるとの立場を示した。25日には行政院の童振源報道官が、国連大陸棚限界委員会は沖ノ鳥島の北側の海域では大陸棚の延長を認めたが、「南側は結論が先送りされている」と指摘し、沖ノ鳥周辺の排他的経済水域(EEZ)をめぐる国際的論争はいまなお存在すると強調した。一方で、最も重要なのは漁業権を守ることであるとして、日本側との協議を進める姿勢を改めて示した。30日には葉俊栄内政部長が立法院の質疑において、沖ノ鳥島についての国民党所属の立法委員からの質問に対し、「内政部の業務ではない」としながらも、「基本的には岩」とする認識を示し、周辺海域には排他的経済水域(EEZ)はないとした。2018年5月23日の台湾立法院における野党との質疑の中で、海洋政策を担当する海洋委員会の黄煌輝主任委員は沖ノ鳥島について、「沖ノ鳥は岩で、太平島は島」だとする見解を明らかにした。また台湾は島の地位が確定するまで漁業権を認めるようにも主張している。
サンフランシスコ平和条約においては沖ノ鳥島の存在について明記されており、日韓基本条約ではサンフランシスコ平和条約の関係規定を想起し条約を締結することに決定と定められている。しかし、同国の外交部は沖ノ鳥島が島であることを否定している。
沖ノ鳥島は日本領土から数百キロも離れた太平洋の上に位置した岩であり、国連海洋法協約で規定された島の範疇に属してもおらず、自らの経済水域を持つことができないと主張している。
2005年5月20日、石原都知事は沖ノ鳥島の視察を行い、周辺海域へシマアジの稚魚を放流した。同年6月17日には国土交通省が縦1メートル、横1.5メートルのチタン製銘板を設置した。「東京都小笠原村沖ノ鳥島一番地」「日本国最南端の島」のほか、沖ノ鳥島の緯度・経度が刻まれている。
2005年8月24日、海上保安庁は経済活動実証のため沖ノ鳥島に灯台を設置することを決定し、2007年3月16日に、周辺海域を航行する船舶や操業漁船の安全と運航能率の増進を図ることを目的として「沖ノ鳥島灯台」を設置して運用開始した(#地理を参照)。また、同灯台を海図に記載した。
2009年11月6日、環礁部分に船舶が接岸できるような港湾施設を建設する方針を決めたと報道され、2013年に建設を開始した(#浸食防止策を参照)。中国の「『経済的生活の維持』ができない」とする主張に対抗する意図があるとされる。
2010年7月23日には「排他的経済水域及び大陸棚の保全及び利用の促進のための低潮線の保全及び拠点施設の整備等に関する基本計画」を閣議決定し、沖ノ鳥島における特定離島港湾施設の建設に着手している。
2020年7月10日、老朽化した旧観測拠点施設の撤去と新観測拠点施設への更新、及び破損していた観測所基盤の船着き場の災害復旧が行われたことを公表した。
2008年11月12日、日本は大陸棚限界委員会(Commission on the Limits of the Continental Shelf、略称:CLCS)に対して、沖ノ鳥島の周辺海域である九州・パラオ海嶺南部海域、四国海盆海域を含む7つの海域について大陸棚延長申請を提出した。その申請に対してアメリカ合衆国、中国、韓国およびパラオがそれぞれ、自国の見解を示す文書を提出している。アメリカ合衆国とパラオは日本に異議を唱えなかったが、中国と韓国とフィリピンは「沖ノ鳥島は、島に該当せず、岩に当たる」という抗弁を2009年2月に提出して、大東島、沖ノ鳥島より南西の日本の領海を「フィリピン海」と定義するとして、沖ノ鳥島を「島」とする採択が前進する。
2009年9月に、大陸棚限界委員会は日本の採択を審査するために、各海域の審査を行った。2011年8月には大陸棚限界委員会において、「フィリピン海」と定義するとして、沖ノ鳥島を「島」と定義する案を提出したが、中国は改めて異議を提出となった。その後、2012年4月の全体会合において、沖ノ鳥島の北側に位置する四国海盆海域を含む4つの海域について、日本の申請の大部分を認める案が採択された。
一方で、大東島、沖ノ鳥島の南西側に位置する九州・パラオ海嶺南部海域については、委員会が勧告を出すための行動を取るべきか否かの投票において、賛成5、反対8、棄権3となり、可決に必要な委員の3分の2以上の賛成が得られず、大陸棚限界委員会は「言及された事項が解決されるときまで、本海域に関する勧告を出すための行動をとる状況にないと考える」との声明を出し、結論を先送りにした。
四国海盆海域についての勧告採択を受け、外務省は2012年4月28日に「沖ノ鳥島を基点とする我が国の大陸棚延長が認められていることを評価します」とする談話を発表したが、四国海盆海域の大陸棚延長は沖ノ鳥島以外の陸地を基点としても成立するものであるが、勧告の中に沖ノ鳥島が大陸棚延長の基点であるとした趣旨の明確な記述はなく、勧告が沖ノ鳥島が大陸棚延長の基点であることを認めているとは必ずしも断定できない。
また、大陸棚限界委員会はあくまでも科学的・技術的な観点から大陸棚の延長について勧告をする国際機関であって、法的な問題について判断する権限はない。このことは委員会自身が認めているところであり、仮に大陸棚限界委員会による勧告が沖ノ鳥島を大陸棚延長の基点であることを認める趣旨のものであったとしても、それは科学的・技術的な観点に関するものであり、国連海洋法条約上の「島」であるか「岩」であるかといった法的地位に関する問題については何ら影響を与えるものではない。
沖ノ鳥島にある2つの小島が風化や海食で浸食され、満潮時に海面下に隠れてしまうと、定義上の「島」と認められなくなり、その場合、日本の国土面積(約38万平方キロメートル)を上回る約40万平方キロメートルの排他的経済水域が失われてしまうため、1987年から「災害復旧工事」として2つの島の周りに鋳鉄製消波ブロックによる消波堤を設置し、内部に直径50メートルのコンクリート製護岸を設置した。ところが、護岸コンクリートの破片が東小島を傷つけるという事故が起こったため、東小島の上はチタン製の防護ネットで覆っている。これらの保全工事にかかった費用は約285億円である。
地球温暖化にともなう海面上昇により、島そのものが将来水面下に没することが予想されている。そこで、自然の力により島を高くしようとの構想がある。具体的には、島の周囲の珊瑚礁を活性化して大規模な珊瑚礁を生成させる。これが砕けて砂となり堆積や波による集積を行うことにより、自然の力により島の高さを上げてしまうという構想である。この構想の調査のために、水産庁は実施期間を2006年度から2年間とする「生育環境が厳しい条件下における増養殖技術開発調査事業」を創設、業務取りまとめ機関として「サンゴ増養殖技術検討委員会」を設置し、初年度に3億円の予算を充てている。
2010年、民主党政権下において国土交通省が750億円を投じ、沖ノ鳥島の西側に港湾設備、岸壁、泊地、臨港道路などインフラストラクチャーを建設し、輸送や補給が可能な活動拠点を作ることを決定した。経済的な活動拠点が完成すれば、事実上の有人島となり「同島では経済的生活の維持ができない」とする島の地位に関する批判(前出の「#地位に関する論争」を参照)を退けることができることから計画されたものである。
この計画に従って、2011年度に国土交通省が特定離島港湾の建設に着手した。長さ160メートルの岸壁を作る工事で、130メートル級の大型海底調査船も停泊可能な岸壁となる。港湾整備は2027年度に完成する予定。国土交通省は「輸入頼みの資源を自前で開発する拠点。経済的な安全保障につながる」と説明している。2019年7月現在、北側桟橋、中央桟橋、南側桟橋と荷捌施設が建設されている。
沖ノ鳥島は気象条件が厳しくアクセスが難しいため、航空機や船舶による島や港湾施設の監視・保全に支障が出ている。
2021年、沖ノ鳥島と南鳥島とその周辺の衛星画像を人工知能で解析し、施設の状況を早期に把握するシステムを国土交通省が2022年度に導入すると報道された。 | [
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"text": "沖ノ鳥島(おきのとりしま)は、太平洋(フィリピン海)上に位置する小笠原諸島に属する孤立島。サンゴ礁からなる島であり、東京都小笠原村に属する。日本の領土としてもっとも南に位置しており、日本最南端の島である。地名表記は東京都小笠原村沖ノ鳥島。",
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"text": "東京都心部から1,740キロメートル、硫黄島から720キロメートル、フィリピン海プレートのほぼ中央、九州・パラオ海嶺上に位置する、太平洋の絶海に孤立して形成された南北約1.7キロメートル、東西約4.5キロメートル、周囲約11キロメートルほどの米粒形をしたサンゴ礁の島である。北回帰線の南に位置するため、長らく日本で唯一熱帯に属していた。",
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"text": "干潮時には環礁の大部分が海面上に姿を現しているが、満潮時には礁池内の東小島(旧称・東露岩)と北小島(旧称・北露岩)を除いて海面下となる。",
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"text": "沖ノ鳥島は過去100年あたり1センチメートルという、地盤沈下が極めて小さいことでも知られ、地球温暖化に伴う海面の水位変化を調べるのに役立っている。1999年から2002年のGPS調査によると、沈降こそないものの、N70°W5.0センチメートル/年(1年間に進む距離が、真北から西へ70度回った方向に5センチメートル)で西北西に移動していることが確認されている。",
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"text": "島周辺は海面と海底の海水の温度差が年間を通じて20°Cほどあり、海洋温度差発電にふさわしい条件が揃っている。",
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"text": "なお、「沖ノ鳥島」として公式に記載されたのは1929年(昭和4年)のことであるが、沖ノ鳥島という名前自体の由来は不明である。",
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"text": "沖ノ鳥島があることにより、日本の領海と排他的経済水域が大幅に拡大されるため、日本政府は護岸工事などを行って領土として保護しようと尽力している。",
"title": "概要"
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"text": "東京都小笠原村沖ノ鳥島1番地。旧称は北露岩。北緯20度25分31秒 東経136度4分11秒 / 北緯20.42528度 東経136.06972度 / 20.42528; 136.06972 (北小島)に位置する。面積7.86平方メートル。海抜は第二次世界大戦以前の海図では2.8メートルと記載されていたが、2008年3月時点で約1メートル。高潮(満潮)時も約16センチメートルが海面上に現れる。三等三角点「北小島」が設置されている。",
"title": "地理"
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"text": "東京都小笠原村沖ノ鳥島2番地。旧称は東露岩。北緯20度25分32秒 東経136度4分52秒 / 北緯20.42556度 東経136.08111度 / 20.42556; 136.08111 (東小島)に位置する。面積1.58平方メートル。海抜は第二次世界大戦以前の海図では1.4メートルと記載されていたが、2008年3月時点で約0.9メートル。高潮(満潮)時も約6センチメートルが海面上に現れる。一等三角点「沖ノ鳥島」が設置されている。",
"title": "地理"
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"text": "日本は1988年から北小島および東小島に鉄製消波ブロックの設置とコンクリート護岸工事を施し、東小島にはチタン製防護ネットを被せて保護している(詳細は#浸食防止策を参照)。",
"title": "地理"
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"text": "第二次世界大戦中の1940年(昭和15年)7月中旬、大日本帝国海軍は北露岩に無人灯台建設を計画した。その後、中断していた灯台基盤跡に、人工島の観測所基盤が、海面上に大規模な観測施設(作業架台:60メートル×80メートル)が建築されており、無人の気象・海象観測が行われている(海洋研究開発機構)。",
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"text": "その他、船舶が沖ノ鳥島に座礁することを防止するため、海上保安庁によって領海内に「沖ノ鳥島灯台」が設置されている。この無人灯台の灯火は海面上から26メートルの位置にあり、発光ダイオードの光を沖合12海里まで届けるもので太陽電池によって稼働している。",
"title": "地理"
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"text": "東小島には一等三角点「沖ノ鳥島」、北小島には三等三角点「北小島」、観測所基盤には水準標石が設けられている。また、2005年には電子基準点「沖ノ鳥島」が東小島に設置されている。",
"title": "地理"
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"text": "第二次世界大戦の前の1933年の調査記録では、海抜最大2.8メートルの北露岩、1.4メートルの東露岩、さらに北露岩の南側に海抜2.25メートルの「南露岩」、それ以外に60 - 90センチメートルの露岩があり、合計6つの露岩が満潮時にも姿を現していたことが記されている。",
"title": "地理"
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"text": "これらのうち、南露岩は1938年に消失が確認された。1968年に日本へ施政権が返還されたあとの1982年以前は露岩の数は4つとされていたため、1987年までに、現在の北小島、東小島を除いたものは風化や海食により消え失せたと見られている。",
"title": "地理"
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"text": "日本がアメリカ合衆国やイギリスをはじめとする48か国と締結したサンフランシスコ平和条約第3条では、日本は「北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)、孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島」を、アメリカ合衆国を施政権者とする国際連合の信託統治制度の下に置くことを承認し、さらには国際連合がこの信託統治制度を可決するまでの間は、アメリカがこれらの島々に対する施政権を持つことを承認した。実際にはアメリカは国際連合に対してこれらの島を信託統治する提案をしなかったため、沖ノ鳥島は小笠原諸島とともにアメリカの施政下に置かれたものの、領土主権は日本に残された。1968年(昭和43年)に日本国とアメリカ合衆国が結んだ小笠原返還協定が発効したことにより、小笠原諸島および沖ノ鳥島の施政権は日本に返還された。",
"title": "歴史"
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"text": "日本では小笠原諸島の一部として東京都小笠原村に属し、住所は郵便番号「100-2100」、東京都小笠原村沖ノ鳥島1番地(北小島)および、2番地(東小島)となっているが、無人島のため交通困難地の一覧には掲載されていない。所属市町村が未定である鳥島などと違い、所属市町村が決まっており住所が設定されているため本籍を置くことが可能である。",
"title": "行政区分"
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"text": "1987年10月に東京都によって海岸保全区域に指定されたが、東京都だけでは保守費用を負担しきれないことから、1999年6月以降は、全額国費による直轄管理(所管は国土交通省)となっている。2011年6月、一部が低潮線保全区域に指定されている。",
"title": "行政区分"
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"text": "電話の市外局番は小笠原村の04998だが、現状では無人島であることから加入者は存在していない。",
"title": "行政区分"
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"paragraph_id": 19,
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"text": "沖ノ鳥島が日本国の領土であり、その周囲に日本の領海・領空を持つことは、どこの国家からも異論が出ていない。ただし下記のように、沖ノ鳥島を基点とする排他的経済水域(Exclusive Economic Zone、略称:EEZ)および大陸棚の設定について、日本国と中華人民共和国(中国)、中華民国(台湾)および大韓民国(韓国)、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で、主張が異なっている。",
"title": "地位に関する論争"
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"text": "1994年11月16日に発効した、国際海洋法の基礎となっている海洋法に関する国際連合条約(国連海洋法条約)では、「島」と「岩」について以下のように定義されている。",
"title": "地位に関する論争"
},
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"paragraph_id": 21,
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"text": "第121条 第1項:島とは、自然に形成された陸地であって、水に囲まれ、高潮時においても水面上にあるものをいう。",
"title": "地位に関する論争"
},
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"paragraph_id": 22,
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"text": "第121条 第3項:人間の居住又は独自の経済的生活を維持することのできない岩は、排他的経済水域又は大陸棚を有しない。",
"title": "地位に関する論争"
},
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"paragraph_id": 23,
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"text": "日本国はこの第121条1項の定義に従って沖ノ鳥島は「島」であるとし、国連海洋法条約発効に併せて制定した「排他的経済水域及び大陸棚に関する法律」(平成8年法律第74号)によって、沖ノ鳥島を中心とする排他的経済水域および大陸棚を設定した。",
"title": "地位に関する論争"
},
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"paragraph_id": 24,
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"text": "しかし、沖ノ鳥島が同3項の「岩」に当てはまるとすれば、沖ノ鳥島は領海は有するものの、排他的経済水域や大陸棚を有しないということになる。海洋法専門家でハワイ大学マノア校教授のジョン・ヴァン・ダイクは、1988年1月21日のニューヨーク・タイムズで「沖ノ鳥島――せいぜいキングサイズのベッドくらいの大きさしかない、2つの浸蝕された突起から構成される――」と、独自の経済的生活を維持することのできない居住不可能な岩という記述に間違いなくあてはまるので、200海里の排他的経済水域を生み出す資格を与えられない、と主張した。ダイクは同様の主張を繰り返し、その意見は2005年2月16日のウォール・ストリート・ジャーナルで「日本の立場は、イギリスが1990年代にEEZの主張を諦めた、大西洋のロッコール島の例に酷似している」「沖ノ鳥島のEEZをもっともらしく主張することはできない」として紹介されている。こうした意見に対して日本国政府は、「岩」の定義が同条約上に存在しないことを根拠に、沖ノ鳥島の排他的経済水域を主張している。",
"title": "地位に関する論争"
},
{
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"tag": "p",
"text": "2003年以降には、中国および韓国の2か国が日本の主張に対する異議を申し立てるようになった。両国は、沖ノ鳥島が日本の領土であることは認めるものの、それは国連海洋法条約第121条第1項の「島」ではなく、同条第3項の「岩」であり、沖ノ鳥島周辺に日本国が排他的経済水域を設定することはできないと主張している。",
"title": "地位に関する論争"
},
{
"paragraph_id": 26,
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"text": "なお同条約には、島に関する以下のような条文も定められている。沖ノ鳥島の北小島・東小島に設置された鉄製消波ブロックやコンクリート製護岸・チタン製防護ネット、および観測所基盤・観測拠点施設については、この条文に記された人工の「構築物」に該当する。ただし、沖ノ鳥島の本体は自然に形成されたものであるため、この条文には該当しない。",
"title": "地位に関する論争"
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"text": "ロッコール島",
"title": "地位に関する論争"
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{
"paragraph_id": 28,
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"text": "海面から突出した塔状の岩(高さ約23m、直径27m)。無主地であったため1955年からイギリスが領有権を主張、1972年にイギリスの領土として正式に編入された。排他的経済水域 (EEZ) を設定した場合、豊富な海洋資源を得ることができるため、イギリスは編入後にロッコールを基点とするEEZの設定を検討したが、アイルランド共和国、デンマーク(フェロー諸島の一部として)、アイスランドはこれに反対していた。",
"title": "地位に関する論争"
},
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"paragraph_id": 29,
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"text": "1982年に採択、1994年に発効した「海洋法に関する国際連合条約(国連海洋法条約)」には、121条3項に「人間の居住又は独自の経済的生活を維持することのできない岩は、排他的経済水域又は大陸棚を有しない」と規定されており、イギリスは、ロッコール島は「条約第121条3項に基づき漁業水域の限界のための有効な基点ではない」と判断して政策転換を図り、ロッコール島の排他的経済水域と大陸棚に関する主張を放棄した。",
"title": "地位に関する論争"
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"text": "太平島",
"title": "地位に関する論争"
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"text": "中華民国(台湾)が実効支配。",
"title": "地位に関する論争"
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"text": "中華民国政府は2016年3月23日、海外メディアを初めて太平島に招き、島には井戸水が湧いており、人間の居住や農業が可能であることをアピールした。島内にはこのほか原生林、太陽光発電施設、観音堂、病院があり、病院では外国人に対しても人道的見地から医療活動をしていると説明した。",
"title": "地位に関する論争"
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"text": "しかし、2016年7月12日、国連海洋法条約に基づくオランダ・ハーグの仲裁裁判所が、太平島を含む南沙諸島(スプラトリー諸島)には法的に排他的経済水域(EEZ)を設けられる「島」はないと認定し、中華民国(台湾)が実効支配する太平島が「島」ではなく「岩」だとして排他的経済水域を認めない判断を下した(南シナ海判決)。",
"title": "地位に関する論争"
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"text": "これに対して、中華民国政府は強く反発。蔡英文総統は「裁定は台湾の権利を傷つけるもの」として軍艦(康定級フリゲート「迪化」)を派遣した。",
"title": "地位に関する論争"
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"text": "2016年(平成28年)4月、台湾の馬英九中国国民党政権(当時)は、排他的経済水域を設定できない岩との認識を示していた。台湾漁船「東聖吉16号」が4月25日午前、沖ノ鳥島の東南東150海里の海上で日本の海上保安庁に拿捕されたことについて、張善政・行政院長は26日、沖ノ鳥はただの岩礁であり、排他的経済水域(EEZ)は設定できないと指摘。漁船は公海上で操業しており、日本に拿捕する権利はないと語った。張氏は、堂々たる大国である日本が、なぜこのような理不尽なことをしたのか、と批判。農業委員会漁業署の蔡日耀署長も25日、沖ノ鳥は岩礁であるとして、同様の主張を行っていた。しかし翌5月に発足した蔡英文民主進歩党政権は、自由民主党国会議員らとの対話後、5月23日に「法律上の特定の立場を取らない」として扱いを修正した。翌24日のフォーカス台湾は、この方針転換に対し下野した国民党はもちろん与党の民進党からも異論が相次いだと報道した。民進党の黄偉哲・立法委員は方針転換は「速すぎると言わざるを得ない」とした上で、台湾は沖ノ鳥を「岩」と主張するべきだと訴えた。同党の蔡其昌・立法院副院長(国会副議長)も、新政権の決定に理解を示しつつも、個人的には「岩」だと認識していると語った。国民党の林徳福・立法委員は新政権を「弱腰」と批判し、「台湾の漁民は今後、公海で日本の船を見たら逃げなければならないのか」と皮肉った。同党の江啓臣・立法委員は、「国の尊厳と品格を損なう発言だ」と童報道官を非難した。また、民進党、国民党に次ぐ第三党の時代力量も、沖ノ鳥は「岩」であるとの立場を示した。25日には行政院の童振源報道官が、国連大陸棚限界委員会は沖ノ鳥島の北側の海域では大陸棚の延長を認めたが、「南側は結論が先送りされている」と指摘し、沖ノ鳥周辺の排他的経済水域(EEZ)をめぐる国際的論争はいまなお存在すると強調した。一方で、最も重要なのは漁業権を守ることであるとして、日本側との協議を進める姿勢を改めて示した。30日には葉俊栄内政部長が立法院の質疑において、沖ノ鳥島についての国民党所属の立法委員からの質問に対し、「内政部の業務ではない」としながらも、「基本的には岩」とする認識を示し、周辺海域には排他的経済水域(EEZ)はないとした。2018年5月23日の台湾立法院における野党との質疑の中で、海洋政策を担当する海洋委員会の黄煌輝主任委員は沖ノ鳥島について、「沖ノ鳥は岩で、太平島は島」だとする見解を明らかにした。また台湾は島の地位が確定するまで漁業権を認めるようにも主張している。",
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"text": "沖ノ鳥島は日本領土から数百キロも離れた太平洋の上に位置した岩であり、国連海洋法協約で規定された島の範疇に属してもおらず、自らの経済水域を持つことができないと主張している。",
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"paragraph_id": 43,
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"text": "2008年11月12日、日本は大陸棚限界委員会(Commission on the Limits of the Continental Shelf、略称:CLCS)に対して、沖ノ鳥島の周辺海域である九州・パラオ海嶺南部海域、四国海盆海域を含む7つの海域について大陸棚延長申請を提出した。その申請に対してアメリカ合衆国、中国、韓国およびパラオがそれぞれ、自国の見解を示す文書を提出している。アメリカ合衆国とパラオは日本に異議を唱えなかったが、中国と韓国とフィリピンは「沖ノ鳥島は、島に該当せず、岩に当たる」という抗弁を2009年2月に提出して、大東島、沖ノ鳥島より南西の日本の領海を「フィリピン海」と定義するとして、沖ノ鳥島を「島」とする採択が前進する。",
"title": "地位に関する論争"
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"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "2009年9月に、大陸棚限界委員会は日本の採択を審査するために、各海域の審査を行った。2011年8月には大陸棚限界委員会において、「フィリピン海」と定義するとして、沖ノ鳥島を「島」と定義する案を提出したが、中国は改めて異議を提出となった。その後、2012年4月の全体会合において、沖ノ鳥島の北側に位置する四国海盆海域を含む4つの海域について、日本の申請の大部分を認める案が採択された。",
"title": "地位に関する論争"
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"text": "一方で、大東島、沖ノ鳥島の南西側に位置する九州・パラオ海嶺南部海域については、委員会が勧告を出すための行動を取るべきか否かの投票において、賛成5、反対8、棄権3となり、可決に必要な委員の3分の2以上の賛成が得られず、大陸棚限界委員会は「言及された事項が解決されるときまで、本海域に関する勧告を出すための行動をとる状況にないと考える」との声明を出し、結論を先送りにした。",
"title": "地位に関する論争"
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"text": "四国海盆海域についての勧告採択を受け、外務省は2012年4月28日に「沖ノ鳥島を基点とする我が国の大陸棚延長が認められていることを評価します」とする談話を発表したが、四国海盆海域の大陸棚延長は沖ノ鳥島以外の陸地を基点としても成立するものであるが、勧告の中に沖ノ鳥島が大陸棚延長の基点であるとした趣旨の明確な記述はなく、勧告が沖ノ鳥島が大陸棚延長の基点であることを認めているとは必ずしも断定できない。",
"title": "地位に関する論争"
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"text": "また、大陸棚限界委員会はあくまでも科学的・技術的な観点から大陸棚の延長について勧告をする国際機関であって、法的な問題について判断する権限はない。このことは委員会自身が認めているところであり、仮に大陸棚限界委員会による勧告が沖ノ鳥島を大陸棚延長の基点であることを認める趣旨のものであったとしても、それは科学的・技術的な観点に関するものであり、国連海洋法条約上の「島」であるか「岩」であるかといった法的地位に関する問題については何ら影響を与えるものではない。",
"title": "地位に関する論争"
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"text": "沖ノ鳥島にある2つの小島が風化や海食で浸食され、満潮時に海面下に隠れてしまうと、定義上の「島」と認められなくなり、その場合、日本の国土面積(約38万平方キロメートル)を上回る約40万平方キロメートルの排他的経済水域が失われてしまうため、1987年から「災害復旧工事」として2つの島の周りに鋳鉄製消波ブロックによる消波堤を設置し、内部に直径50メートルのコンクリート製護岸を設置した。ところが、護岸コンクリートの破片が東小島を傷つけるという事故が起こったため、東小島の上はチタン製の防護ネットで覆っている。これらの保全工事にかかった費用は約285億円である。",
"title": "保全策"
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"text": "地球温暖化にともなう海面上昇により、島そのものが将来水面下に没することが予想されている。そこで、自然の力により島を高くしようとの構想がある。具体的には、島の周囲の珊瑚礁を活性化して大規模な珊瑚礁を生成させる。これが砕けて砂となり堆積や波による集積を行うことにより、自然の力により島の高さを上げてしまうという構想である。この構想の調査のために、水産庁は実施期間を2006年度から2年間とする「生育環境が厳しい条件下における増養殖技術開発調査事業」を創設、業務取りまとめ機関として「サンゴ増養殖技術検討委員会」を設置し、初年度に3億円の予算を充てている。",
"title": "保全策"
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"text": "2010年、民主党政権下において国土交通省が750億円を投じ、沖ノ鳥島の西側に港湾設備、岸壁、泊地、臨港道路などインフラストラクチャーを建設し、輸送や補給が可能な活動拠点を作ることを決定した。経済的な活動拠点が完成すれば、事実上の有人島となり「同島では経済的生活の維持ができない」とする島の地位に関する批判(前出の「#地位に関する論争」を参照)を退けることができることから計画されたものである。",
"title": "保全策"
},
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"text": "この計画に従って、2011年度に国土交通省が特定離島港湾の建設に着手した。長さ160メートルの岸壁を作る工事で、130メートル級の大型海底調査船も停泊可能な岸壁となる。港湾整備は2027年度に完成する予定。国土交通省は「輸入頼みの資源を自前で開発する拠点。経済的な安全保障につながる」と説明している。2019年7月現在、北側桟橋、中央桟橋、南側桟橋と荷捌施設が建設されている。",
"title": "保全策"
},
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"text": "沖ノ鳥島は気象条件が厳しくアクセスが難しいため、航空機や船舶による島や港湾施設の監視・保全に支障が出ている。",
"title": "保全策"
},
{
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"text": "2021年、沖ノ鳥島と南鳥島とその周辺の衛星画像を人工知能で解析し、施設の状況を早期に把握するシステムを国土交通省が2022年度に導入すると報道された。",
"title": "保全策"
}
] | 沖ノ鳥島(おきのとりしま)は、太平洋(フィリピン海)上に位置する小笠原諸島に属する孤立島。サンゴ礁からなる島であり、東京都小笠原村に属する。日本の領土としてもっとも南に位置しており、日本最南端の島である。地名表記は東京都小笠原村沖ノ鳥島。 | {{Infobox 島
|島名 = 沖ノ鳥島
|画像 = Okinotorishima20070602.jpg
|画像説明 = 沖ノ鳥島の航空写真(2007年6月12日)
|国 = [[東京都]][[小笠原村]]
|海域 = [[フィリピン海]]
|諸島 = [[小笠原諸島]]
|座標 = {{coord|20|25|31.9768|N|136|4|52.1430|E|type:isle_region:JP-13|display=inline,title}}<ref group="注">一等[[三角点]]『沖ノ鳥島』の座標。</ref><ref name="kijyun">{{Cite web|和書|url=https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html |title=基準点成果等閲覧サービス |publisher=[[国土地理院]] |accessdate=2014/07/13|quote=基準点コード TR13036501601}}</ref>
<!-- |緯度度 = 20|緯度分 = 25|緯度秒 = 31.9768 -->
<!-- |経度度 = 136|経度分 = 4|経度秒 = 52.1430 -->
|面積 = 約5.78
|周囲 = 約11
|標高 = 約1<ref name="第169回">[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=116914006X00320080327 第169回国会 環境委員会 第3号]、[[参議院]]、[[2008年]][[3月27日]] <q>島の大きさからしますと、平均水面からですけれども、高さは北小島で一メーター、それから東小島で〇・九メーターということでございます。</q></ref>
|最高峰 = 北小島
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|地図 =
|地図2 =
|OSM要否 =
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}}
'''沖ノ鳥島'''(おきのとりしま)は、[[太平洋]]([[フィリピン海]])上に位置する[[小笠原諸島]]に属する孤立島<ref name="ogasawara">[https://www.vill.ogasawara.tokyo.jp/nature_index/ 小笠原村 自然 地勢・気候]、小笠原村</ref>。[[環礁|サンゴ礁]]からなる[[島]]であり、[[東京都]][[小笠原村]]に属する<ref name="ogasawara"/>。[[日本]]の[[領土]]としてもっとも[[南]]に位置しており、'''日本最南端の島'''である<ref name="ogasawara"/>。地名表記は東京都小笠原村沖ノ鳥島。
== 概要 ==
[[ファイル:Location_of_Okinotorishima.png|thumb|260px|沖ノ鳥島の位置(上)と島の詳細(下)]]{{出典の明記| date = 2023年6月| section = 1}}
[[東京]]都心部から1,740[[キロメートル]]、[[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]から720キロメートル、[[フィリピン海プレート]]のほぼ中央、[[九州・パラオ海嶺]]上に位置する、太平洋の絶海に孤立して形成された南北約1.7キロメートル、東西約4.5キロメートル、周囲約11キロメートルほどの米粒形をした[[環礁|サンゴ礁の島]]である。[[北回帰線]]の南に位置するため、長らく日本で唯一[[熱帯]]に属していた<ref>[https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000090712.pdf 日本最南端の島 沖ノ鳥島の保全 直轄海岸管理]、国土交通省、2021年3月</ref><ref group="注">2023年現在は[[沖縄県]]の[[先島諸島]]も熱帯に属している。</ref>。
干潮時には環礁の大部分が海面上に姿を現しているが、満潮時には[[ラグーン|礁池]]内の東小島(旧称・東露岩)と北小島(旧称・北露岩)を除いて海面下となる。
沖ノ鳥島は過去100年あたり1[[センチメートル]]という、[[地盤沈下]]が極めて小さいことでも知られ、[[地球温暖化]]に伴う海面の水位変化を調べるのに役立っている。1999年から2002年の[[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]]調査によると、沈降こそないものの、N70°W5.0センチメートル/年(1年間に進む距離が、真北から西へ70度回った方向に5センチメートル)で西北西に移動していることが確認されている。
島周辺は海面と海底の海水の温度差が年間を通じて20[[セルシウス度|℃]]ほどあり、[[海洋温度差発電]]にふさわしい条件が揃っている。
なお、「沖ノ鳥島」として公式に記載されたのは[[1929年]](昭和4年)のことであるが、沖ノ鳥島という名前自体の由来は不明である。
沖ノ鳥島があることにより、日本の[[領海]]と[[排他的経済水域]]が大幅に拡大されるため、[[日本国政府|日本政府]]は[[護岸|護岸工事]]などを行って[[領土]]として保護しようと尽力している。
== 地理 ==
[[File:Okinotorishima Island Aerial photograph.1979.jpg|thumb|260px|沖ノ鳥島の空中写真。1979年3月28日撮影の5枚を合成作成。<br />{{国土航空写真}}。]]
=== 気候 ===
熱帯気候で、年平均の気温は26.8℃。台風の発生する海域に近く、毎年多くの台風が通過し、台風接近時は50m/秒を越える風が吹くことがある<ref>{{Cite web |url=https://www.t-borderislands.metro.tokyo.lg.jp/okinotorishima/#:~:text=%E6%B0%97%E8%B1%A1%E3%83%BB%E6%B5%B7%E8%B1%A1,%E6%B0%B4%E6%B8%A9%E3%81%AF27.7%E2%84%83%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82 |title=沖ノ鳥島はこんな島 |access-date=2023.12.15 |publisher=[[東京都総務局]]}}</ref>。
=== 地勢 ===
==== 北小島 ====
[[東京都]][[小笠原村]]沖ノ鳥島1番地。旧称は北露岩<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070389200|昭和15年7月23日(火)海軍公報(部内限)3556号 p.40}}『(別紙)沖ノ鳥島北露岩側面略圖』</ref>。{{Coord|20|25|31|N|136|4|11|E|region:JP-13_type:isle|name=北小島}}<ref name="kitakojima">{{Cite web|和書|url=https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html |title=基準点成果等閲覧サービス |publisher=[[国土地理院]] |accessdate=2014/07/13|quote=基準点コード TR33036501501}}</ref><ref>琵琶湖線米原駅よりも西</ref>に位置する。面積7.86平方メートル。海抜は第二次世界大戦以前の[[海図]]では2.8メートルと記載されていたが、2008年3月時点で約1メートル<ref name="第169回" />。高潮(満潮)時も約16センチメートルが海面上に現れる<ref name="報告書">[http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2004/00004/contents/0001.htm 「沖ノ鳥島の有効利用を目的とした視察団」報告書]、日本財団、2005年2月</ref>。三等[[三角点]]「北小島」が設置されている<ref group="注">[[2002年]]1月23日付で三等三角点「北露岩」から名称変更された。</ref>。
==== 東小島 ====
東京都小笠原村沖ノ鳥島2番地。旧称は東露岩。{{Coord|20|25|32|N|136|4|52|E|region:JP-13_type:isle|name=東小島}}<ref name="kijyun" />に位置する。面積1.58平方メートル。海抜は第二次世界大戦以前の海図では1.4メートルと記載されていたが、2008年3月時点で約0.9メートル<ref name="第169回" />。高潮(満潮)時も約6センチメートルが海面上に現れる<ref name="報告書" />。一等三角点「沖ノ鳥島」が設置されている<ref group="注">2002年1月23日付で一等三角点「東露岩」から名称変更された。</ref>。
==== 建造物 ====
[[ファイル:Okinotorishima breakwaters and concrete walls.jpg|thumb|消波ブロックとコンクリートの護岸(2010年6月18日)]]
[[ファイル:Durability test in Okinotorishima.jpg|thumb|観測施設(作業架台)で、金属、塗装、コンクリートなどの耐久性を試験している様子(2010年6月撮影)]]
日本は[[1988年]]から北小島および東小島に鉄製[[消波ブロック]]の設置と[[コンクリート]]護岸工事を施し、東小島には[[チタン]]製防護ネットを被せて保護している<ref>{{Wayback|url=http://www.alloy.co.jp/sekourei_1.html |title=施工例1「沖ノ鳥島防護工事」 |date=20070109040914}}、株式会社アロイ</ref>(詳細は[[#浸食防止策]]を参照)。
[[第二次世界大戦]]中の1940年(昭和15年)7月中旬、[[大日本帝国海軍]]は北露岩に無人灯台建設を計画した<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070389200|昭和15年7月23日(火)海軍公報(部内限)3556号 p.37}}『軍務二機密第五九九號ノ三 昭和十五年七月十九日 海軍省軍務局長 關係廰長殿 沖ノ鳥島假燈標ノ件通知 目下中央氣象臺ニ於テ沖ノ鳥島ニ氣象観測所建設工事中ノトコロ同臺ヲシテ今年度同工事終了後(七月下旬)ヨリ昭和十五年十月下旬迄同島北露岩頂ニ別紙略圖ノ如キ假燈標ヲ殘置セシムルコトニ取計置候ニ付了知相成度 追テ右燈標ハ勿論無看守ナルニ付消燈其ノ他故障ヲ發見セル場合ハ機ヲ失セズ當方ニ通報ノコトニ取計相成度(別紙添)』</ref>。その後、中断していた[[灯台]]基盤跡に、[[人工島]]の観測所基盤が、海面上に大規模な観測施設(作業架台:60メートル×80メートル)が建築されており<ref name="REPORT">{{Cite journal |和書|author=愛場政広 |author2=濱崎英夫 |url=https://www.gsi.go.jp/common/000024725.pdf |title=沖ノ鳥島の変位(1999年2月 ~ 2002年2月) |journal=国土地理院時報 |volume=99集 |publisher=国土地理院 |year=2002-10-01 |pages=21-26}}</ref>、無人の気象・海象観測が行われている([[海洋研究開発機構]])。
その他、船舶が沖ノ鳥島に[[座礁]]することを防止するため、[[海上保安庁]]によって領海内に「[[沖ノ鳥島灯台]]」が設置されている。この無人灯台の灯火は海面上から26メートルの位置にあり、[[発光ダイオード]]の光を沖合12[[海里]]まで届けるもので[[太陽電池]]によって稼働している<ref name="灯台">{{PDFlink|[https://www.kaiho.mlit.go.jp/info/kouhou/h19/k20070316/o070316.pdf 「沖ノ鳥島灯台」の運用開始について]}}、[[海上保安庁]]、2007年3月16日</ref>。
東小島には一等三角点「沖ノ鳥島」、北小島には三等三角点「北小島」、観測所基盤には[[水準点|水準標石]]が設けられている<ref>{{PDFlink|[https://www1.kaiho.mlit.go.jp/KOHO/report/sat_14/chikaku1999_2.pdf 平成11年度地殻変動監視観測(沖ノ鳥島)]}}、海上保安庁[[海洋情報部]]</ref>。また、2005年には[[電子基準点]]「沖ノ鳥島」が東小島に設置されている<ref name="PRESS">[https://www.gsi.go.jp/WNEW/PRESS-RELEASE/2005-0629.html 沖ノ鳥島に電子基準点設置]、[[国土地理院]]、2005年6月29日</ref><ref>[https://www.gsi.go.jp/WNEW/PRESS-RELEASE/2006-0323.html 電子基準点「沖ノ鳥島」の測量成果を提供開始]、国土地理院、2006年3月23日</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html |title=基準点成果等閲覧サービス |publisher=[[国土地理院]] |accessdate=2014-07-13 |quote=基準点コード EL03036501602}}</ref>。
==== 消失した露岩 ====
{{出典の明記| date = 2023年6月| section = 1}}
[[第二次世界大戦]]の前の[[1933年]]の調査記録では、[[海抜]]最大2.8メートルの北露岩、1.4メートルの東露岩、さらに北露岩の南側に海抜2.25メートルの「南露岩」、それ以外に60 - 90センチメートルの露岩があり、合計6つの露岩が満潮時にも姿を現していたことが記されている。
これらのうち、南露岩は1938年に消失が確認された。1968年に[[本土復帰|日本へ施政権が返還]]されたあとの1982年以前は露岩の数は4つとされていたため、1987年までに、現在の北小島、東小島を除いたものは[[風化]]や[[侵食|海食]]により消え失せたと見られている。
== 歴史 ==
=== 沿革 ===
{{Wikisource|府縣支廳ノ名稱等中追加|昭和6年内務省告示第163号}}
* [[1543年]] - [[スペイン]]船が発見、アブレオホス({{lang-es|Abre Ojos}})と命名される(異説あり)。
* 1565年 - スペイン船が発見、パレセベラ({{lang-es|Parece Vela}})と命名される。
* 1639年 - [[オランダ]]船が発見、エンヘルスドローフテ({{lang-nl|Engelsdroogte}})と命名される。
* 1789年 - [[イギリス]]のウィリアム・ダグラスが発見、ダグラス礁({{lang-en|Douglas Reef}})と命名される。
* 1922年(大正11年) - 日本の[[海防艦]]「[[満州 (通報艦)|満州]]」が測量を行う。
* 1929年(昭和4年) - [[水路部 (日本海軍)|水路部]]発行の海図第800号に「沖ノ鳥島」の名称で記載される。
* 1931年(昭和6年)7月6日 - [[内務省 (日本)|内務省]][[告示]]第163号により「沖ノ鳥島」と命名され、[[東京府]][[小笠原支庁]]に編入される<ref>{{アジア歴史資料センター|B02031163800|本邦島嶼領有関係雑件 3. 沖ノ鳥島(小笠原附近)}}</ref>。
* 1939年(昭和14年) - 島に気象観測所や灯台を建設しようと調査・工事が始まる。しかし、[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])に突入し、戦局が悪化すると工事は中断。2014年現在はサンゴ礁を爆破した水路跡と灯台の基礎を改築した観測所基盤が残っている。この灯台の基礎工事を発見した米艦艇が砲撃を加えたという記録もある。
* 1943年(昭和18年)7月1日 - [[東京都制]]施行、東京府廃止。
* 1952年(昭和27年)4月28日 - [[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]]第3条により、小笠原諸島と共に[[アメリカ合衆国]]の[[アメリカ施政権下の小笠原諸島|施政権下]]に置かれる。
* 1968年(昭和43年)6月26日 - [[南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定|小笠原返還協定]]に基づき、小笠原諸島とともに日本に返還される。
* 1976年(昭和51年) - [[日本アマチュア無線連盟]]創立50年を記念して、5月30日から6月2日まで、[[アマチュア無線]]の[[アマチュア局]]移動運用(沖ノ鳥島DXペディション)を行う。[[コールサイン]]は7J1RL(セパレート[[DX Century Club|DXCC]][[エンティティ]]として認められていたが、別のハムたちからの[[クレーム|異議申し立て]]により、1980年11月30日付で「消滅エンティティ」となり、以降は[[小笠原諸島]]/JD1の一部)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.icom.co.jp/beacon/ham_life/ebihara/001615.html |title=JA3ART 海老原 和夫氏 No.12 1980年前後の無線活動(1)|publisher=週刊BEACON、[[アイコム]]株式会社 |deadlinkdate=2018-11-21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130501040216/http://www.icom.co.jp:80/beacon/ham_life/ebihara/001253.html |archivedate=2013-05-01}}</ref>。
* 1977年(昭和52年)7月1日 - [[領海及び接続水域に関する法律|領海法]]、漁業水域に関する暫定措置法により、[[領海]]12海里、漁業水域200海里を設置。
* 1987年(昭和62年)10月14日 - 東京都により[[海岸保全区域]]に指定。
* 1987年(昭和62年)11月1日 - [[建設省]](現・[[国土交通省]])による直轄工事を開始。波の侵食による島の消失を防ぐため、2つの島の周りに護岸工事を行う<ref>{{Cite news |url=http://www.47news.jp/news/photonews/2008/11/post_217.php |title=<あのころ>沖ノ鳥島の保全工事完了 周辺経済水域を確保 |newspaper=47NEWS |agency=共同通信 |publisher=全国新聞ネット |date=2008-11-04 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130328103231/http://www.47news.jp/news/photonews/2008/11/post_217.php |archivedate=2013-03-28}}</ref><ref>[http://www.uchimiya.co.jp/img/project/okinotori.png 沖ノ鳥島護岸工事]、内宮運輸機工</ref>。
* 1999年(平成11年)6月23日 - 建設省による直轄管理区域に指定。維持管理については京浜河川事務所が所管。
* 2004年(平成16年)4月22日 - 日中間外交当局者協議で、[[中華人民共和国]]が沖ノ鳥島を「'''[[岩]]'''」だと主張。日本に無断で周辺の海洋調査を進める。
* 2005年(平成17年)6月25日 - [[国土地理院]]が、電子基準点「沖ノ鳥島」を設置<ref name="PRESS"/>。
* 2007年(平成19年)3月16日 - [[海上保安庁]]が、「沖ノ鳥島灯台」を設置して運用開始<ref name="灯台"/>。
* 2010年(平成22年)6月24日 - 沖ノ鳥島などの離島の保全を目的とした[[排他的経済水域及び大陸棚の保全及び利用の促進のための低潮線の保全及び拠点施設の整備等に関する法律|低潮線保全・拠点施設整備法]](沖ノ鳥島保全法)を施行。指定区域内の海底の掘削は国土交通大臣の許可が必要とし、違反した場合の罰則規定が設けられた<ref>経済水域保全の新法成立 沖ノ鳥島、南鳥島を想定 産経新聞、2010年5月26日</ref>。
* 2011年(平成23年)6月1日 - 低潮線保全区域を設定。
* 2012年(平成24年)4月20日 - [[大陸棚限界委員会]]が沖ノ鳥島北方に位置する[[四国海盆]]海域を含む4海域について、日本の大陸棚延長を認める勧告を採択し、同年4月27日に日本が勧告を受領。ただし、沖ノ鳥島南方に位置する九州・パラオ海嶺南部海域の大陸棚延長については判断を先送りした<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXNZO40904230Y2A420C1NN8000/ 日本国の大陸棚拡張、国連が認定 沖ノ鳥島周辺など]、日本経済新聞、2012年4月28日</ref><ref name="mofa">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/24/dga_0428.html 我が国の大陸棚延長申請に関する大陸棚限界委員会の勧告について] - [[外務省]]、2012年4月28日</ref>。
* 2014年(平成26年)3月30日 - 港湾整備事業により[[五洋建設]]が設置作業中の桟橋が転覆、作業員7人が[[死亡]]する事故が発生<ref>{{Cite news |url=http://www.asahi.com/articles/ASG3Z43QKG3ZULOB003.html |title=沖ノ鳥島で事故、5人死亡・2人不明 桟橋の工事現場 |newspaper=朝日新聞 |date=2014-03-30 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140331131312/http://www.asahi.com/articles/ASG3Z43QKG3ZULOB003.html |archivedate=2014-03-31 |accessdate=2022-09-29}}</ref><ref>{{Cite news |url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140413/k10013701381000.html |title=沖ノ鳥島 行方不明の作業員か 海中で見つかる |newspaper=NHK NEWS WEB |publisher=[[日本放送協会|NHK]] |date=2014-04-03 |accessdate=2014-04-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140413134558/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140413/k10013701381000.html |archivedate=2014-04-13}}</ref><ref>{{Cite news |url=http://www.jiji.com/jc/zc?k=201404/2014042200828 |title=沖ノ鳥島事故の死者7人に=桟橋転覆、遺体の身元確認-海保 |agency=[[時事ドットコム]] |date=2014-04-22 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140517132336/http://www.jiji.com/jc/zc?k=201404/2014042200828 |archivedate=2014-05-17 |accessdate=2022-09-29}}</ref><ref>{{Cite news |url=https://www.j-cast.com/2014/04/14202123.html |title=沖ノ鳥島桟橋工事は「極秘計画」だった 事故の結果、中国、韓国の反発招く可能性も |publisher=Jcastニュース |date=2014-04-14 |accessdate=2014-09-14}}</ref>。詳細は「'''[[沖ノ鳥島港湾工事事故]]'''」を参照。
* 2014年(平成26年)9月12日 -2012年の大陸棚限界委員会による勧告を受け、「[[排他的経済水域及び大陸棚に関する法律]]」第2条第2号に基づき、沖ノ鳥島周辺の四国海盆海域について大陸棚を延長する旨の政令を制定し、同年10月1日に施行<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=426CO0000000302_20150801_000000000000000 排他的経済水域及び大陸棚に関する法律第二条第二号の海域を定める政令]</ref>
* 2015年(平成27年)5月1日 - 港湾工事を再開し、桟橋の据付を開始<ref name="kokudokantou20150501">。{{Wayback|url=http://www.ktr.mlit.go.jp/kisha/pa_00000155.html |title=沖ノ鳥島における港湾工事(北側桟橋)の据付の開始について |date=20151009063713}}、国土交通省関東地方整備局、2015年5月1日</ref>。
* 2019年(令和元年)7月 - 新観測拠点施設の運用開始
=== サンフランシスコ平和条約の中での沖ノ鳥島 ===
日本がアメリカ合衆国やイギリスをはじめとする48か国と締結した[[日本国との平和条約|サンフランシスコ平和条約]]第3条では、日本は「北緯二十九度以南の[[南西諸島]]([[琉球諸島]]及び[[大東諸島]]を含む。)、[[孀婦岩]]の南の南方諸島([[小笠原群島]]、[[西之島]]及び[[火山列島]]を含む。)並びに'''沖の鳥島'''及び[[南鳥島]]」を、アメリカ合衆国を施政権者とする[[国際連合]]の[[信託統治|信託統治制度]]の下に置くことを承認し、さらには国際連合がこの信託統治制度を可決するまでの間は、アメリカがこれらの島々に対する施政権を持つことを承認した。実際にはアメリカは国際連合に対してこれらの島を信託統治する提案をしなかったため、沖ノ鳥島は小笠原諸島とともにアメリカの施政下に置かれたものの、領土主権は日本に残された。1968年(昭和43年)に日本国とアメリカ合衆国が結んだ[[南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定|小笠原返還協定]]が発効したことにより、小笠原諸島および沖ノ鳥島の施政権は日本に返還された。
== 行政区分 ==
{{出典の明記| date = 2023年6月| section = 1}}
日本では[[小笠原諸島]]の一部として東京都小笠原村に属し、住所は郵便番号「100-2100」、東京都小笠原村沖ノ鳥島1番地(北小島)および、2番地(東小島)となっているが、[[無人島]]のため[[交通困難地]]の一覧には掲載されていない。所属市町村が未定である鳥島などと違い、所属市町村が決まっており住所が設定されているため本籍を置くことが可能である。
1987年10月に東京都によって[[海岸保全区域]]に指定されたが、東京都だけでは保守費用を負担しきれないことから、1999年6月以降は、全額国費による直轄管理(所管は国土交通省)となっている。2011年6月、一部が低潮線保全区域に指定されている。
電話の[[市外局番]]は小笠原村の'''04998'''だが、現状では無人島であることから加入者は存在していない。
== 地位に関する論争 ==
沖ノ鳥島が日本国の領土であり、その周囲に日本の領海・領空を持つことは、どこの[[国家]]からも異論が出ていない。ただし下記のように、沖ノ鳥島を基点とする[[排他的経済水域]](Exclusive Economic Zone、略称:EEZ)および大陸棚の設定について、日本国と[[中華人民共和国]](中国)、[[中華民国]](台湾)および[[大韓民国]](韓国)、[[朝鮮民主主義人民共和国]](北朝鮮)の間で、主張が異なっている<ref>{{Cite news|url=http://japan.cna.com.tw/news/apol/201812280002.aspx |title=台湾、日本と海洋科学協力や密輸・密航対策で覚書 海洋対話第3回会合 |publisher=[[中央通訊社]] |newspaper=フォーカス台湾 |date=2018-12-28 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20181228102447/http://japan.cna.com.tw/news/apol/201812280002.aspx |archivedate=2018-12-28 |accessdate=2019-01-15}}</ref>。
[[1994年]]11月16日に発効した、国際海洋法の基礎となっている[[海洋法に関する国際連合条約]](国連海洋法条約)では、「島」と「岩」について以下のように定義されている。
{{quotation|
第121条 第1項:島とは、自然に形成された陸地であって、水に囲まれ、高潮時においても水面上にあるものをいう。
第121条 第3項:人間の居住又は独自の経済的生活を維持することのできない岩は、排他的経済水域又は大陸棚を有しない。
}}
日本国はこの第121条1項の定義に従って沖ノ鳥島は「'''[[島]]'''」であるとし、国連海洋法条約発効に併せて制定した「排他的経済水域及び大陸棚に関する法律」([[平成]]8年法律第74号)によって、沖ノ鳥島を中心とする排他的経済水域および大陸棚を設定した。
しかし、沖ノ鳥島が同3項の「岩」に当てはまるとすれば、沖ノ鳥島は領海は有するものの、排他的経済水域や大陸棚を有しないということになる。海洋法専門家で[[ハワイ大学システム|ハワイ大学マノア校]]教授のジョン・ヴァン・ダイクは、1988年1月21日の[[ニューヨーク・タイムズ]]で「沖ノ鳥島――せいぜいキングサイズの[[ベッド]]くらいの大きさしかない、2つの浸蝕された突起から構成される――」と、独自の経済的生活を維持することのできない居住不可能な岩という記述に間違いなくあてはまるので、200海里の排他的経済水域を生み出す資格を与えられない、と主張した<ref>[http://www.nytimes.com/1988/01/21/opinion/l-speck-in-the-ocean-meets-law-of-the-sea-406488.html "Speck in the Ocean Meets Law of the Sea"]. [[ニューヨーク・タイムズ|The New York Times]], January 21, 1988</ref><ref>沖ノ鳥島補強しても経済水域保てない/米学者が主張、読売新聞、1988年1月22日附夕刊 2面</ref>。ダイクは同様の主張を繰り返し、その意見は2005年2月16日の[[ウォール・ストリート・ジャーナル]]で「日本の立場は、[[イギリス]]が[[1990年代]]にEEZの主張を諦めた、[[大西洋]]の[[ロッコール島]]の例に酷似している」「沖ノ鳥島のEEZをもっともらしく主張することはできない」として紹介されている<ref>"A Reef or a Rock? Question Puts Japan In a Hard Place To Claim Disputed Waters, Charity Tries to Find Use For Okinotori Shima". [[ウォール・ストリート・ジャーナル|Wall Street Journal]], February 16, 2005</ref><ref>中国の主張正当と米専門家 沖ノ鳥島問題で米紙、[[共同通信]]、[[2005年]][[2月17日]]</ref>。こうした意見に対して[[日本国政府]]は、「'''岩'''」の定義が同条約上に存在しないことを根拠に、沖ノ鳥島の排他的経済水域を主張している<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/simple/detail?minId=114504149X00819990416¤t=-1 第145回国会 建設委員会 第8号]、[[衆議院]]、1999年4月16日</ref>。
2003年以降には、中国および韓国の2か国が日本の主張に対する異議を申し立てるようになった。両国は、沖ノ鳥島が日本の領土であることは認めるものの、それは国連海洋法条約第121条第1項の「島」ではなく、同条第3項の「岩」であり、沖ノ鳥島周辺に日本国が排他的経済水域を設定することはできないと主張している。
なお同条約には、島に関する以下のような条文も定められている。沖ノ鳥島の北小島・東小島に設置された鉄製消波ブロックやコンクリート製護岸・チタン製防護ネット、および観測所基盤・観測拠点施設については、この条文に記された人工の「構築物」に該当する。ただし、沖ノ鳥島の本体は自然に形成されたものであるため、この条文には該当しない。
{{quotation|
第60条 第8項:人工島、施設及び構築物は、島の地位を有しない。これらのものは、それ自体の領海を有せず、また、その存在は、領海、排他的経済水域又は大陸棚の境界画定に影響を及ぼすものではない。}}
=== 過去の事例 ===
'''[[ロッコール島]]'''
海面から突出した塔状の[[岩]](高さ約23m、直径27m)。[[無主地]]であったため[[1955年]]から[[イギリス]]が[[領有権]]を主張、[[1972年]]にイギリスの領土として正式に[[編入]]された<ref name="isles">{{cite book |url=https://books.google.com/books?id=QM-8BQAAQBAJ&pg=PT232 |title=Isles of the North |author=Ian Mitchell |publisher=Birlinn |date=2012 |page=232 |isbn=9780857900999}}</ref>。排他的経済水域 (EEZ) を設定した場合、豊富な海洋資源を得ることができるため、イギリスは編入後にロッコールを基点とするEEZの設定を検討したが、[[アイルランド共和国]]、[[デンマーク]]([[フェロー諸島]]の一部として)、[[アイスランド]]はこれに反対していた。
[[ファイル:Rockall - geograph.org.uk - 1048818.jpg|サムネイル|ロッコール島]]
[[1982年]]に採択、[[1994年]]に発効した「海洋法に関する国際連合条約([[国連海洋法条約]])」には、121条3項に「人間の居住又は独自の経済的生活を維持することのできない岩は、排他的経済水域又は[[大陸棚]]を有しない」と規定されており、イギリスは、ロッコール島は「条約第121条3項に基づき漁業水域の限界のための有効な基点ではない」と判断して政策転換を図り、ロッコール島の排他的経済水域と[[大陸棚]]に関する'''主張を放棄'''した<ref>[https://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2011pdf/20111003127.pdf 沖ノ鳥島をめぐる諸問題と西太平洋の海洋安全保障] 134ページ参照 外交防衛委員会調査室 参議院</ref>。
'''[[太平島]]'''
[[中華民国]]([[台湾]])が実効支配。
[[中華民国政府]]は[[2016年]]3月23日、海外メディアを初めて太平島に招き、島には[[井戸]]水が湧いており、人間の居住や[[農業]]が可能であることをアピールした。島内にはこのほか[[原生林]]、[[太陽光発電]]施設、[[観音菩薩|観音堂]]、[[病院]]があり、病院では外国人に対しても人道的見地から医療活動をしていると説明した<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.roc-taiwan.org/jp_ja/post/29390.html |title=国内外のメディアを南シナ海・太平島に招待=外交部 |date=2016-03-24 |publisher=[[台北経済文化代表処#台北駐日経済文化代表処|台北駐日経済文化代表処]] |accessdate=2017-07-31}}</ref>。
[[ファイル:Taiping Island and Zhongzhou Reef ISS.jpg|サムネイル|太平島]]
しかし、2016年7月12日、[[国連海洋法条約]]に基づくオランダ・ハーグの[[常設仲裁裁判所|仲裁裁判所]]が、太平島を含む[[南沙諸島]](スプラトリー諸島)には法的に[[排他的経済水域]](EEZ)を設けられる「島」はないと認定し、中華民国(台湾)が実効支配する太平島が'''「島」ではなく「岩」'''だとして[[排他的経済水域]]を認めない判断を下した([[南シナ海判決]])。
これに対して、中華民国政府は強く反発。[[蔡英文]][[中華民国総統|総統]]は「裁定は台湾の権利を傷つけるもの」<ref>{{cite news |url=https://www.sankei.com/article/20160713-ZGSC676LYRNTXGHOR65YMU7XLQ/ |title=【緊迫・南シナ海】蔡総統「裁定は台湾の権利傷つけた」 南シナ海に軍艦を派遣 |newspaper=産経ニュース |publisher=産経デジタル |date=2016-07-13 |accessdate=2018-02-10}}</ref>として軍艦([[康定級フリゲート]]「迪化」)を派遣した<ref>{{cite news |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3093813 |title=台湾、南シナ海に軍艦派遣 |newspaper=[[フランス通信社|AFP通信]] |date=2016-07-13 |accessdate=2018-02-10}}</ref>。
=== 中華人民共和国の主張 ===
* 2001年(平成13年)ごろから、中華人民共和国の[[調査船|海洋調査船]]による調査が沖ノ鳥島の排他的経済水域内で多く行われ、この件について日本は2004年(平成16年)に事務レベル協議で抗議した。これに対し同年4月22日、中国側は、沖ノ鳥島は'''「島」ではなく「岩」'''であり、日本の領土とは認めるが、排他的経済水域は設定できないと主張。2009年(平成21年)8月24日には国連[[大陸棚限界委員会]]において、沖ノ鳥島を「人の居住または経済的生活を維持できない岩」であると認定するよう意見書を提出した。
* 一方で、中華人民共和国は[[南シナ海]]の[[南沙諸島]]の[[ジョンソン南礁]](赤瓜礁)の領有権を主張しており、その周囲に排他的経済水域を設定している。しかし、ジョンソン南礁は沖ノ鳥島と同様、満潮時に水面上に出ている部分は小面積であるため、中国の主張は[[二重規範|ダブルスタンダード]]であるという批判がある<ref name="akauri">[http://janjan.voicejapan.org/government/0911/0911092882/1.php 沖ノ鳥島に「港」-カギはレアメタルと制海権]、[[JanJan]]ニュース、2009年11月10日</ref>。
=== 台湾(中華民国)の主張 ===
2016年(平成28年)4月、台湾の[[馬英九]][[中国国民党]]政権(当時)は、[[排他的経済水域]]を設定できない岩との認識を示していた。台湾漁船「東聖吉16号」が4月25日午前、沖ノ鳥島の東南東150海里の海上で日本の海上保安庁に拿捕されたことについて、張善政・行政院長は26日、沖ノ鳥はただの岩礁であり、排他的経済水域(EEZ)は設定できないと指摘。漁船は公海上で操業しており、日本に拿捕する権利はないと語った。張氏は、堂々たる大国である日本が、なぜこのような理不尽なことをしたのか、と批判。農業委員会漁業署の蔡日耀署長も25日、沖ノ鳥は岩礁であるとして、同様の主張を行っていた<ref>{{Cite news |和書 |url=https://japan.cna.com.tw/news/apol/201604260004.aspx |title=日本の台湾漁船拿捕に反発 「沖ノ鳥はただの岩」=張首相 |publisher=中央通訊社 |newspaper=フォーカス台湾 |date=2016-04-26 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160427112056/https://japan.cna.com.tw/news/apol/201604260004.aspx |archivedate=2016-04-27 |accessdate=2022-09-29}}</ref>。しかし翌5月に発足した[[蔡英文]][[民主進歩党]]政権は、[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]国会議員らとの対話後、5月23日に「法律上の特定の立場を取らない」として扱いを修正した<ref>{{Cite news |和書 |url=http://www.asahi.com/sp/articles/ASJ5R5GZJJ5RUHBI01J.html |title=台湾新政権、沖ノ鳥島の「岩」扱いを修正 日本を重視 |newspaper=朝日新聞 |date=2016-05-23 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160529150945/http://www.asahi.com/sp/articles/ASJ5R5GZJJ5RUHBI01J.html |archivedate=2016-05-29 |accessdate=2022-09-29}}</ref><ref>[http://www.jiji.com/sp/article2?utm_expid=105781272-0.H2AsW134RzeVQ8OlLTRRfg.1&k=2016052300799&g=pol 沖ノ鳥島めぐる方針撤回=蔡新政権、巡視船引き揚げ-台湾]{{リンク切れ|date=2022年9月}}、時事通信、2016年5月23日</ref><ref>[http://www.yomiuri.co.jp/world/20160524-OYT1T50155.html 沖ノ鳥島、蔡政権「岩」主張を撤回…対立収束へ]{{リンク切れ|date=2022年9月}}、読売新聞、2016年5月24日</ref>。翌24日の''フォーカス台湾は、この方針転換に''対し下野した国民党はもちろん与党の民進党からも異論が相次いだと報道した<ref name=":0">{{Cite news |url=http://japan.cna.com.tw/search/201605240008.aspx |title=台湾、「沖ノ鳥は岩」の主張取り下げ 与野党から異論続出 |publisher=中央通訊社 |newspaper=フォーカス台湾 |date=2016-05-24 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160624034009/http://japan.cna.com.tw/search/201605240008.aspx |archivedate=2016-06-24 |accessdate=2016-05-24}}</ref>。民進党の黄偉哲・立法委員は方針転換は「速すぎると言わざるを得ない」とした上で、台湾は沖ノ鳥を「岩」と主張するべきだと訴えた。同党の蔡其昌・立法院副院長(国会副議長)も、新政権の決定に理解を示しつつも、個人的には「岩」だと認識していると語った。国民党の林徳福・立法委員は新政権を「弱腰」と批判し、「台湾の漁民は今後、公海で日本の船を見たら逃げなければならないのか」と皮肉った。同党の江啓臣・立法委員は、「国の尊厳と品格を損なう発言だ」と童報道官を非難した。また、民進党、国民党に次ぐ第三党の時代力量も、沖ノ鳥は「岩」であるとの立場を示した<ref name=":0" />。25日には行政院の童振源報道官が、国連大陸棚限界委員会は沖ノ鳥島の北側の海域では大陸棚の延長を認めたが、「南側は結論が先送りされている」と指摘し、沖ノ鳥周辺の排他的経済水域(EEZ)をめぐる国際的論争はいまなお存在すると強調した。一方で、最も重要なのは漁業権を守ることであるとして、日本側との協議を進める姿勢を改めて示した<ref>{{Cite news |和書 |url=https://www.excite.co.jp/news/article/Jpcna_CNA_20160526_201605260015/ |title=台湾、沖ノ鳥の大陸棚「南側は未承認」 争議の存在強調 |newspaper=エキサイトニュース |agency=フォーカス台湾 |date=2016-05-26 ||archiveurl=https://web.archive.org/web/20210409110914/https://www.excite.co.jp/news/article/Jpcna_CNA_20160526_201605260015/ |archivedate=2021-04-09 |accessdate=2022-09-29}}</ref>。30日には葉俊栄内政部長が立法院の質疑において、沖ノ鳥島についての国民党所属の立法委員からの質問に対し、「内政部の業務ではない」としながらも、「基本的には岩」とする認識を示し、周辺海域には排他的経済水域(EEZ)はないとした<ref>{{Cite news |和書 |url=https://japan.cna.com.tw/news/apol/201605300004.aspx |title=葉俊栄内相「沖ノ鳥は基本的には岩」/台湾 |publisher=中央通訊社 |newspaper=フォーカス台湾 |date=2016-05-30 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160602210036/https://japan.cna.com.tw/news/apol/201605300004.aspx |archivedate=2016-06-02 |accessdate=2022-09-29}}</ref>。2018年5月23日の台湾立法院における野党との質疑の中で、海洋政策を担当する海洋委員会の黄煌輝主任委員は沖ノ鳥島について、「'''沖ノ鳥は岩で、[[太平島]]は島'''」だとする見解を明らかにした。また台湾は島の地位が確定するまで漁業権を認めるようにも主張している<ref>{{Cite news |和書 |url=http://japan.cna.com.tw/news/apol/201805230006.aspx |title=沖ノ鳥は「岩」=海洋委トップ/台湾 |publisher=中央通訊社 |newspaper=フォーカス台湾 |date=2018-05-23 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180523141047/http://japan.cna.com.tw/news/apol/201805230006.aspx |archivedate=2018-05-23 |accessdate=2019-01-15}}</ref><ref>{{Cite news |url=https://news.ltn.com.tw/news/politics/paper/1203225 |title=黃煌煇︰沖之鳥是「礁」 太平島是「島」 |newspaper=[[自由時報]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20201028060535/https://news.ltn.com.tw/news/politics/paper/1203225 |archivedate=2020-10-28 |accessdate=2022-09-29}}</ref>。
=== 大韓民国の主張 ===
サンフランシスコ平和条約においては沖ノ鳥島の存在について'''明記'''されており、[[日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約|日韓基本条約]]ではサンフランシスコ平和条約の関係規定を想起し条約を締結することに決定と定められている<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/A-S40-237.pdf 日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約]、[[外務省]]</ref>。しかし、同国の[[外交部 (大韓民国)|外交部]]は沖ノ鳥島が島であることを否定している<ref>{{Cite news |url=http://www.ohmynews.com/NWS_Web/View/at_pg.aspx?CNTN_CD=A0001936798 |title="오키노토리는 섬"... 일본 정부 편든 교학사 교과서 |language=ko |newspaper=[[オーマイニュース]] |date=2013-12-14}}</ref>。
=== 朝鮮民主主義人民共和国の主張 ===
{{出典の明記| date = 2023年6月| section = 1}}
沖ノ鳥島は日本領土から数百キロも離れた太平洋の上に位置した岩であり、国連海洋法協約で規定された島の範疇に属してもおらず、自らの経済水域を持つことができないと主張している。
=== 日本の対抗措置 ===
2005年5月20日、[[石原慎太郎|石原都知事]]は沖ノ鳥島の視察を行い、周辺海域へ[[シマアジ]]の稚魚を放流した。同年6月17日には国土交通省が縦1メートル、横1.5メートルのチタン製銘板を設置した。「東京都小笠原村沖ノ鳥島一番地」「日本国最南端の島」のほか、沖ノ鳥島の緯度・経度が刻まれている<ref>{{Cite news |和書|url=http://www.47news.jp/CN/200506/CN2005062001002634.html |title=沖ノ鳥島に住所表示の銘板 国交省が設置 |newspaper=47NEWS |date=2005-06-20 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130515235615/http://www.47news.jp/CN/200506/CN2005062001002634.html |archivedate=2013-05-15 |access-date=2022-09-29}}</ref>。
2005年8月24日、海上保安庁は経済活動実証のため沖ノ鳥島に灯台を設置することを決定し<ref>[[n:海上保安庁、沖ノ鳥島への灯台設置を決定]]、2005年8月26日</ref>、2007年3月16日に、周辺海域を航行する船舶や操業漁船の安全と運航能率の増進を図ることを目的として「沖ノ鳥島灯台」を設置して運用開始した<ref name="灯台"/>([[#地理]]を参照)。また、同灯台を海図に記載した。
2009年11月6日、環礁部分に船舶が接岸できるような港湾施設を建設する方針を決めたと報道され<ref>沖ノ鳥島に「港」建設へ 中国の「岩」主張に対抗、産経新聞、2009年11月6日</ref>、2013年に建設を開始した([[#浸食防止策]]を参照)。中国の「『経済的生活の維持』ができない」とする主張に対抗する意図があるとされる。
2010年7月23日には「排他的経済水域及び大陸棚の保全及び利用の促進のための低潮線の保全及び拠点施設の整備等に関する基本計画」を閣議決定し<ref>[https://www.kantei.go.jp/jp/singi/kaiyou/teichousen/keikaku.pdf 排他的経済水域及び大陸棚の保全及び利用の促進のための低潮線の保全及び拠点施設の整備等に関する基本計画]、首相官邸</ref>、沖ノ鳥島における特定離島港湾施設の建設に着手している<ref name="整備事業"/>。
2020年7月10日、老朽化した旧観測拠点施設の撤去と新観測拠点施設への更新、及び破損していた観測所基盤の船着き場の災害復旧が行われたことを公表した<ref>[https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000779460.pdf 絶海の孤島“沖ノ鳥島”観測拠点施設更新・災害復旧完了!!]、国土交通省 関東地方整備局 京浜河川事務所、2020年7月10日</ref>。
=== 国連大陸棚限界委員会への申請 ===
2008年11月12日、日本は大陸棚限界委員会({{en|Commission on the Limits of the Continental Shelf}}、略称:{{en|CLCS}})に対して、沖ノ鳥島の周辺海域である九州・パラオ海嶺南部海域、四国海盆海域を含む7つの海域について大陸棚延長申請を提出した。その申請に対してアメリカ合衆国、中国、韓国および[[パラオ]]がそれぞれ、自国の見解を示す文書を提出している。アメリカ合衆国とパラオは日本に異議を唱えなかったが、中国と韓国とフィリピンは「沖ノ鳥島は、島に該当せず、岩に当たる」という抗弁を2009年2月に提出<ref>[https://www.spf.org/tairikudana/03world/japan.php 大陸棚限界委員会に対する各国の申請状況 日本の申請(2008年)]、海洋政策研究財団</ref><ref name="submission_jpn">[http://www.un.org/Depts/los/clcs_new/submissions_files/submission_jpn.htm Commission on the Limits of the Continental Shelf (CLCS) Outer limits of the continental shelf beyond 200 nautical miles from the baselines: Submissions to the Commission: Submission by Japan]、Division for Ocean Affairs and the Law of the Sea(国連海事・海洋法課)</ref>して、[[大東諸島|大東島]]、沖ノ鳥島より南西の日本の領海を「フィリピン海」と定義するとして、沖ノ鳥島を「島」とする採択が前進する。
2009年9月に、大陸棚限界委員会は日本の採択を審査するために、各海域の審査を行った。2011年8月には大陸棚限界委員会において、「フィリピン海」と定義するとして、沖ノ鳥島を「島」と定義する案を提出したが、中国は改めて異議を提出となった<ref name="submission_jpn"/>。その後、2012年4月の全体会合において、沖ノ鳥島の北側に位置する四国海盆海域を含む4つの海域について、日本の申請の大部分を認める案が採択された<ref name="mofa"/><ref>[https://www.kantei.go.jp/jp/singi/kaiyou/dai9/siryou4.pdf 我が国大陸棚延長に関する大陸棚限界委員会の勧告について]、[[総合海洋政策本部]]事務局</ref>。
一方で、大東島、沖ノ鳥島の南西側に位置する九州・パラオ海嶺南部海域については、委員会が勧告を出すための行動を取るべきか否かの投票において、賛成5、反対8、棄権3となり、可決に必要な委員の3分の2以上の賛成が得られず<ref>[http://www.jpsn.org/essay/captain/275/ 河村雅美 大陸棚限界委員会(CLCS)の勧告と沖ノ鳥島の戦略的重要性]、チャンネルNipponアーカイブ、2012年8月20日</ref>、大陸棚限界委員会は「言及された事項が解決されるときまで、本海域に関する勧告を出すための行動をとる状況にないと考える」との声明を出し、結論を先送りにした<ref>{{Cite news |和書 |url=http://www.asahi.com/politics/update/0428/TKY201204280012.html |title=沖ノ鳥島海域の大陸棚延伸 日本の申請、国際機関認める |newspaper=朝日新聞 |date=2012-04-28 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120428223955/http://www.asahi.com/politics/update/0428/TKY201204280012.html |archivedate=2012-04-28 |accessdate=2022-09-29}}</ref>。
四国海盆海域についての勧告採択を受け、外務省は2012年4月28日に「沖ノ鳥島を基点とする我が国の大陸棚延長が認められていることを評価します」とする談話を発表したが、四国海盆海域の大陸棚延長は沖ノ鳥島以外の陸地を基点としても成立するものであるが、勧告の中に沖ノ鳥島が大陸棚延長の基点であるとした趣旨の明確な記述はなく、勧告が沖ノ鳥島が大陸棚延長の基点であることを認めているとは必ずしも断定できない<ref name="ndl">[https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_11018221_po_20121203003.pdf 沖ノ鳥島を基点とする大陸棚限界延長申請への勧告 ― 国連大陸棚限界委員会の審査手続と中国・韓国の口上書 ―]</ref>。
また、大陸棚限界委員会はあくまでも科学的・技術的な観点から大陸棚の延長について勧告をする[[国際機関]]であって、法的な問題について判断する権限はない。このことは委員会自身が認めているところであり、'''仮に大陸棚限界委員会による勧告が沖ノ鳥島を大陸棚延長の基点であることを認める趣旨のものであったとしても、それは科学的・技術的な観点に関するものであり、国連海洋法条約上の「島」であるか「岩」であるかといった法的地位に関する問題については何ら影響を与えるものではない'''<ref name="ndl">[https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_11018221_po_20121203003.pdf 沖ノ鳥島を基点とする大陸棚限界延長申請への勧告 ― 国連大陸棚限界委員会の審査手続と中国・韓国の口上書 ―]</ref>。
== 保全策 ==
[[ファイル:Okinotorishima concrete walls repair.jpg|thumb|コンクリートの護岸に生じた割れ目を補修している様子(2010年3月撮影)]]{{出典の明記| date = 2023年6月| section = 1}}
沖ノ鳥島にある2つの小島が風化や海食で浸食され、満潮時に海面下に隠れてしまうと、定義上の「島」と認められなくなり、その場合、日本の国土面積(約38万平方キロメートル)を上回る約40万平方キロメートルの排他的経済水域が失われてしまうため、1987年から「災害復旧工事」として2つの島の周りに[[鋳鉄]]製[[消波ブロック]]による[[防波堤|消波堤]]を設置し、内部に直径50メートルのコンクリート製護岸を設置した。ところが、護岸コンクリートの破片が東小島を傷つけるという事故が起こったため、東小島の上は[[チタン]]製の防護ネットで覆っている。これらの保全工事にかかった費用は約285億円である<ref>{{Wayback|url=http://www.jsanet.or.jp/seminar/text/seminar_092.html |title=畳6枚分で285億円、太平洋上に浮かぶ日本一高価な「島」 |date=20030101125117}} 、一般社団法人[[日本船主協会]]</ref>。
=== 自然による造成策 ===
{{出典の明記| date = 2023年6月| section = 1}}
地球温暖化にともなう[[海面上昇]]により、島そのものが将来水面下に没することが予想されている。そこで、自然の力により島を高くしようとの構想がある。具体的には、島の周囲の珊瑚礁を活性化して大規模な珊瑚礁を生成させる。これが砕けて砂となり堆積や波による集積を行うことにより、自然の力により島の高さを上げてしまうという構想である。この構想の調査のために、[[水産庁]]は実施期間を2006年度から2年間とする「生育環境が厳しい条件下における増養殖技術開発調査事業」を創設、業務取りまとめ機関として「サンゴ増養殖技術検討委員会」を設置し、初年度に3億円の[[予算]]を充てている。
=== 有人島化計画 ===
2010年、[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]政権下において国土交通省が750億円を投じ、沖ノ鳥島の西側に[[港湾]]設備、[[岸壁]]、[[泊地]]、[[臨港道路]]など[[インフラストラクチャー]]を建設し、[[輸送]]や[[補給]]が可能な活動拠点を作ることを決定した<ref name="整備事業">[https://www.mlit.go.jp/common/000123239.pdf 沖ノ鳥島における活動拠点整備事業 説明資料]、国土交通省[[港湾局]]、2010年8月</ref>。経済的な活動拠点が完成すれば、事実上の有人島となり「同島では経済的生活の維持ができない」とする島の地位に関する批判(前出の「[[#地位に関する論争]]」を参照)を退けることができることから計画されたものである。
この計画に従って、2011年度に国土交通省が特定離島港湾の建設に着手した<ref>[https://www.pa.ktr.mlit.go.jp/ritou/gaiyou/gaiyou.html 特定離島港湾施設の整備 南鳥島,沖ノ鳥島]、国土交通省 関東地方整備局 特定離島港湾事務所</ref>。長さ160メートルの岸壁を作る工事で、130メートル級の大型海底調査船も停泊可能な岸壁となる。港湾整備は[[2027年]]度に完成する予定<ref name="港湾">{{Cite web|和書|url=https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000812592.pdf |title=沖ノ鳥島における活動拠点整備事業 |date=2021-09-15 |accessdate=2022-09-29 |publisher=国土交通省 関東地方整備局}}</ref>。国土交通省は「輸入頼みの資源を自前で開発する拠点。経済的な[[安全保障]]につながる」と説明している<ref>{{Cite news |和書 |url=http://www.asahi.com/national/update/0321/TKY201303200425.html |title=沖ノ鳥島は宝島? 港整備に750億円 経産省は冷ややか |newspaper=朝日新聞 |date=2013-03-21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130322053823/https://www.asahi.com/national/update/0321/TKY201303200425.html |archivedate=2013-03-22 |access-date=2022-09-29}}</ref><ref>{{Cite news |和書 |url=http://japanese.ruvr.ru/2013_03_22/108709292/ |title=日本が沖ノ鳥に港を建設する作業を始めた |newspaper=[[ロシアの声|The Voice of Russia]] |date=2013-03-22 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130519055209/http://japanese.ruvr.ru/2013_03_22/108709292/ |archivedate=2013-05-19 |access-date=2022-09-29}}</ref>。2019年7月現在、北側桟橋、中央桟橋、南側桟橋と荷捌施設が建設されている<ref name="港湾"/>。
=== 遠隔監視 ===
沖ノ鳥島は気象条件が厳しくアクセスが難しいため、航空機や船舶による島や港湾施設の監視・保全に支障が出ている。
2021年、沖ノ鳥島と南鳥島とその周辺の[[衛星画像]]を[[人工知能]]で解析し、施設の状況を早期に把握するシステムを国土交通省が2022年度に導入すると報道された<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://www.yomiuri.co.jp/national/20210906-OYT1T50153/ |title=【独自】国境の「南鳥島」「沖ノ鳥島」、AIが監視…衛星画像分析し異常を通報 |website=読売新聞オンライン |date=2021-09-06 |accessdate=2021-09-21}}</ref>。
== 参考文献 ==
* [https://www.mlit.go.jp/river/pamphlet_jirei/kouhou/sabo_kaigan/pdf/conservation_of_okinotorishima.pdf 日本の最南端 沖ノ鳥島の保全] - [[国土交通省]]
* 外交防衛委員会調査室・加地良太「[https://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2011pdf/20111003127.pdf 沖ノ鳥島をめぐる諸問題と西太平洋の海洋安全保障]」 - 『立法と調査』321号(平成23年10月3日)、127 - 144頁、[[参議院]]事務局企画調整室
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Commons|Category:Okinotorishima}}
{{ウィキポータルリンク|日本の地理|[[画像:Gnome-globe.svg|34px|Portal:日本の地理]]}}
* [[ロッコール島]] - [[スコットランド]]西部の北[[大西洋]]に浮かぶ[[海食柱]]。イギリスの領土でかつてEEZの設定を試みたが、周辺国の反対によりEEZと大陸棚に関する主張を放棄した。
* [[バサス・ダ・インディア]] - [[モザンビーク海峡]]([[モザンビーク]]と[[マダガスカル]]の間)にある[[フランス]]の無人島。
* [[ファイアリー・クロス礁]] - [[南シナ海]]にある島で、[[中華人民共和国]]と[[中華民国]]、[[ベトナム]]が領有を主張している。2014年8月から中華人民共和国が埋め立てを行い、南沙諸島最大の人工島が造成されている。
* [[南沙諸島]]
* [[蘇岩礁]] - [[干潮]]時においても海面下に没しており、島の定義に当てはまらないが、[[大韓民国]]は「韓国のEEZ内にある海中暗礁」と主張している。
* [[ふうちょう座]] - 南天の星座の一つ。日本国内から観測できない星座とされているが、沖ノ鳥島では一部を観測できる。
* [[日本の島の一覧]]
* [[日本の端の一覧]]
== 外部リンク ==
{{座標一覧}}
* [https://maps.gsi.go.jp/?ll=20.42388888888889,136.07583333333332&z=15#15/20.423889/136.075833/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1 国土地理院 地図閲覧サービス 2万5千分1地形図名:沖ノ鳥島]
* [https://www.google.com/maps/@20.42287,136.074343,1905m/data=!3m1!1e3 Googleマップ 沖ノ鳥島]
* [https://www.ktr.mlit.go.jp/keihin/keihin_index005.html 沖ノ鳥島] - 国土交通省[[関東地方整備局]]京浜河川事務所
** [https://www.ktr.mlit.go.jp/keihin/keihin00038.html 沖ノ鳥島の保全(パンフレット)]
* [https://www.kaiho.mlit.go.jp/ 海上保安庁 公式サイト]
** [https://www.kaiho.mlit.go.jp/info/books/report2005/tokushu/p027.html 海上保安リポート2005 沖ノ鳥島]
** [https://www.kaiho.mlit.go.jp/info/books/report2007/topics/p009a.html 海上保安リポート2007 我が国最南端を照らす光]
** [https://www.kaiho.mlit.go.jp/info/books/report2010/reportfeature17.html 海上保安レポート2010 沖ノ鳥島について]
* [https://www.jamstec.go.jp/j/database/okitori/index.html 沖の鳥島観測] - [[独立行政法人]][[海洋研究開発機構]](沖ノ鳥島に設置した気象、海象自動観測システムのデータ)
* [https://www.jfa.maff.go.jp/j/gyoko_gyozyo/g_hourei/ 有性生殖によるサンゴ増殖の手引き-生育環境が厳しい沖ノ鳥島におけるサンゴ増殖-] - [[水産庁]]
* [https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2004/00004/mokuji.htm 「沖ノ鳥島の有効利用を目的とした視察団」報告書] - [[日本財団]]
* [https://www.sangyo-rodo.metro.tokyo.lg.jp/nourin/suisan/okinotorishima/about/ 沖ノ鳥島の概要] - [[東京都産業労働局]]農林水産部
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E3%83%8E%E9%B3%A5%E5%B3%B6 |
8,716 | 南鳥島 | 南鳥島(みなみとりしま)は、小笠原諸島の島。本州から1,800キロメートル離れた日本の最東端として知られている。そのため、日本列島の東側に南北に走る日本海溝を隔てた唯一の島である。行政上は東京都小笠原村に属する。現在は一般住民はいないが海上自衛隊、気象庁、関東地方整備局の人員が常駐している。一般人は立ち入り禁止とされており、観光目的で訪問することはできず、常駐職員以外は調査、取材目的での立ち入りとなる。また、島内に医師も医療施設も無く、食中毒を起こすと命の危険があるため、魚を釣って食べる事は禁止されている。
日本国の島では唯一、他の島と排他的経済水域を接していない島でもある。マーカス島、マルカス島(-とう、Marcus Island)とも呼ばれる。本島とトゥイシの間が、日本国の施政権の及ぶ領土間で最長の大圏距離を取ることができる地点である(約3,139キロメートル)。
ケッペンの気候区分でいうサバナ気候 (Aw) に属する。月平均気温2月21.8°C - 7月28.5°C、年間平均25.8°Cと温暖。降水量は日本国内では少なめ。日本では南西諸島と南鳥島を含む小笠原諸島のそれぞれ一部が熱帯に属しているが、南西諸島はアジア大陸からの距離が近いため寒候期(10 - 3月)にはシベリア気団の大きな影響を受ける。同じ熱帯でも、南西諸島南部(石垣島、西表島、与那国島、宮古島など)は年中降水量が多いので熱帯雨林気候 (Af) に属する。これに対して、南鳥島は大陸からの距離が遠いため年間の気温差が小さいが、日平均気温年較差が約6.7°Cあり、寒候期には北極方面からの寒気の影響があることを示している。極値は、最低気温が1976年2月10日 13.8°C、最高気温が1951年7月17日 35.6°C、積雪記録はない。また、南鳥島はアメダス、気象官署をあわせた気象庁の観測所における11月、12月、1月の国内最高気温記録を保持している。(それぞれ1953年11月4日の34.2°C、1952年12月5日の31.6°C、1954年1月7日及び2021年1月9日の29.7°C)
一辺が約2キロメートルの三角形の平坦な島であり、最高地点の標高は9メートル。島の周囲はサンゴ礁で浅くなっているが、潮流が速く泳ぐのは危険である。この海域は北西太平洋海盆に含まれ、島の周囲は深い海に囲まれており、他のどの陸地からも1,000キロメートル以上離れている。サンゴ礁の外側は水深1,000メートルの断崖となる。
日本の島としては唯一日本海溝の東側にあり、日本で唯一太平洋プレート上にある。日本最東端の電子基準点が存在し、この電子基準点は日本で唯一太平洋プレート上にあることからプレート運動の監視に重要な意義を持っている。
南鳥島は、プレート運動による動きとして、西北西方向に移動しているが、2011年に発生した東日本大震災以降、移動速度が約1割(8センチメートル/年→8.8センチメートル/年)加速している(2014年の時点)との研究が2015年に発表された。
1543年、スペイン東洋艦隊のベルナンド・デ・ラ・トーレによる探検航海中に南鳥島が初めて発見されたとされる。1864年、ハワイのミッション船「モーニング・スター」が南鳥島を確認。記録が確かなのはこれが最初であるという。1874年にはアメリカの測量船「Tuscarora」が、1880年にはフランス軍艦「Eclai-leu」が島の位置を測量している。また、1860年ごろ、アメリカ人宣教師がマーカス島と命名した。1889年、アメリカ商船「ワーレン」の船長ローズヒルが島に上陸した。この人物は後に日本との間で問題を引き起こすこととなる。
1885年、イギリス帆船「ナット」が島に打ち寄せられた際に日本人乗組員が島に上陸した。また、1886年(または1883年)には、コンシロウー商会のイギリス船「エター」から信崎常太郎(信岡常太郎とするものもある)という日本人が上陸したという。他に、静岡県の斎藤清左衛門が、島を1879年に視認し1893年には上陸したと主張している。
1896年12月3日に水谷新六が南鳥島を発見し、水谷は島でのアホウドリ捕獲事業を開始した。翌年、水谷は島嶼発見届を提出し、島は1898年7月24日付の東京府告第58号で南鳥島として日本の領土に編入。東京府小笠原島庁所管とされた。南鳥島の借地権をめぐって水谷と斎藤清左衛門との間で争いがあったが、同年、南鳥島は水谷に10年間貸し付けられることとなった。
ヤモリ科の一種であるミナミトリシマヤモリが生息していたが、1952年以降生息が確認されておらず、個体群は消滅したと考えられている。なお、標準和名にはミナミトリシマとあるがこの島の固有種ではなく、ミクロネシア方面から流木などに乗って分布を広げたものと考えられている。
人体に有害な寄生虫を持つ外来種アフリカマイマイが多数生息する。
一般市民の定住者はなく、飛行場施設を管理する海上自衛隊硫黄島航空基地隊の南鳥島航空派遣隊(約10名)や気象庁南鳥島気象観測所(約10名)、関東地方整備局南鳥島港湾保全管理所(3名)の職員が交代で常駐する。南鳥島航空基地があり、気象通報の観測地でもある。アマチュア局は気象庁の社団局JD1YAAがあり、来島者の個人局が運用することもある。かつては海上保安庁の社団局JD1YBJもあった。
往来・補給のために1,370メートルの滑走路があり、島の一辺の方向に平行である。島の南側に船の波止場があるが、浅いサンゴ礁に阻まれて大型船は接岸できないため、大型船は沖合いに停泊し、そこから船積みの小型ボートで島に荷揚げを行っている。このため、2010年度より泊地及び岸壁工事が行われており、2022年度に完成予定である。
太平洋戦争の際に、上陸戦を想定して島を要塞化していたため、その時代の戦車や大砲の残骸などが残る。アメリカ軍による空襲はあったものの、上陸・戦闘は起きなかった。かつては、アメリカ沿岸警備隊が電波航法施設ロランC局を運用していた。1993年に海上保安庁千葉ロランセンターが業務を引き継ぎ、213mのアンテナから1.8MWの送信出力でロランパルスを発射していたが、GPSの普及でロランを使用する船舶が減少したため、2009年12月1日午前に廃止された。
島に駐在する職員の交代などのため航空自衛隊のC-130Hが月に一度、海上自衛隊のC-130Rが週に一度、硫黄島を経由して食料の補給や荷物の逓送のために飛来する。海上自衛隊のUS-2や航空自衛隊のC-1が利用されることもある。交代の職員もこれらの飛行機を利用する。日本郵便株式会社が「交通困難地」に指定しているため、郵便番号「100-2100」(小笠原村の父島・母島以外の(一覧に掲載がない)地域の番号)と南鳥島の住所を記載しても郵便物は届かない。これは各社宅配便も同様である。このため、郵便及び宅配便の利用はできない。
所要時間はC-130が厚木基地からの直行で約3時間半である。
海上自衛隊が2014年まで運用していたYS-11Mでは、厚木基地から硫黄島を経由して約7時間かかり、絶海の孤島で周囲に緊急着陸が可能な飛行場が存在せず、何らかの理由で着陸ができないと帰路に燃料不足の懸念があることから、確実に着陸可能である状況でのみ運航を行っていた。
作家の池澤夏樹が南鳥島に行きたいと要望し、補給船に乗って1日だけ上陸して、その際の状況を「南鳥島特別航路」に書いた。
2014年では公衆電話か手紙のみであった通信手段も、2020年時点ではソフトバンクの携帯電話がどうにか使用できるようになっている。 インターネットに接続する際は携帯回線を利用しないといけない。衛星電話も利用できる。テレビはあるが地上波放送を受信することはできず、BS放送のみ視聴可能で、中には休暇の時にDVDを大量購入する人もいた。
2012年6月28日、東京大学の加藤泰浩ら研究チームは当地付近の海底5,600メートルにおいて、日本で消費する約230年分に相当する希土類(レア・アース)を発見したと発表。日本の排他的経済水域である南鳥島沖の海底の泥に、希土類の中でも特に希少でハイブリッド車 (HV) の電動機などに使われるジスプロシウムが、国内消費量の約230年分あるという推定がなされた。これにより、掘削技術を提供している三井海洋開発と共同で深海底からの泥の回収技術の開発を目指す。
2013年3月21日、海洋研究開発機構と東京大学の研究チームは、深海底黒泥中には最高で中国鉱山の30倍超の高濃度希土類があることが判ったと発表。今回の調査で、同大学の加藤泰浩は「230年分以上、数百年分埋蔵している可能性がある」と話している。なお、陸上の希土類鉱山で問題になる放射性トリウムは深海底黒泥中には含まれていなかった。
世界の希土類の現在の主な輸出国である中華人民共和国は、日本による2013年の当地域の希土類に関する報道について、「我が国を煽り立て、牽制(けんせい)することが目的だった可能性がある」とした。アドバンストマテリアルジャパン社長の中村繁夫は、南鳥島の希土類採掘は経済合理性に欠けており、一連の報道は単なる牽制目的なのではないかと述べた。
経済産業省は2013年度から3年間、南鳥島周辺の排他的経済水域内において、希土類を含む海底堆積物の分布状況を調査して評価を行い、商用化に向けた技術開発も行っている。
2020年7月、JOGMECが南鳥島南方の排他的経済水域内の水深約930メートルにおいて世界で初めてコバルトリッチクラストの掘削試験を実施し、649キログラムを回収した。掘削試験をした拓洋第5海山平頂部には、日本の年間消費量の約88年分のコバルト、約12年分のニッケルの存在が期待されている。
2022年11月、中国による海洋進出や台湾への軍事侵攻などの地政学的リスクの高まり、経済安全保障の観点から、2022年度第2次補正予算案に採掘に向けた関連経費を盛り込む方針が示された。2023年度に採掘法確立に向けた技術開発に着手し、5年以内の試掘を目指す方針である。 | [
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"text": "南鳥島(みなみとりしま)は、小笠原諸島の島。本州から1,800キロメートル離れた日本の最東端として知られている。そのため、日本列島の東側に南北に走る日本海溝を隔てた唯一の島である。行政上は東京都小笠原村に属する。現在は一般住民はいないが海上自衛隊、気象庁、関東地方整備局の人員が常駐している。一般人は立ち入り禁止とされており、観光目的で訪問することはできず、常駐職員以外は調査、取材目的での立ち入りとなる。また、島内に医師も医療施設も無く、食中毒を起こすと命の危険があるため、魚を釣って食べる事は禁止されている。",
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"text": "日本国の島では唯一、他の島と排他的経済水域を接していない島でもある。マーカス島、マルカス島(-とう、Marcus Island)とも呼ばれる。本島とトゥイシの間が、日本国の施政権の及ぶ領土間で最長の大圏距離を取ることができる地点である(約3,139キロメートル)。",
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"text": "ケッペンの気候区分でいうサバナ気候 (Aw) に属する。月平均気温2月21.8°C - 7月28.5°C、年間平均25.8°Cと温暖。降水量は日本国内では少なめ。日本では南西諸島と南鳥島を含む小笠原諸島のそれぞれ一部が熱帯に属しているが、南西諸島はアジア大陸からの距離が近いため寒候期(10 - 3月)にはシベリア気団の大きな影響を受ける。同じ熱帯でも、南西諸島南部(石垣島、西表島、与那国島、宮古島など)は年中降水量が多いので熱帯雨林気候 (Af) に属する。これに対して、南鳥島は大陸からの距離が遠いため年間の気温差が小さいが、日平均気温年較差が約6.7°Cあり、寒候期には北極方面からの寒気の影響があることを示している。極値は、最低気温が1976年2月10日 13.8°C、最高気温が1951年7月17日 35.6°C、積雪記録はない。また、南鳥島はアメダス、気象官署をあわせた気象庁の観測所における11月、12月、1月の国内最高気温記録を保持している。(それぞれ1953年11月4日の34.2°C、1952年12月5日の31.6°C、1954年1月7日及び2021年1月9日の29.7°C)",
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"text": "一辺が約2キロメートルの三角形の平坦な島であり、最高地点の標高は9メートル。島の周囲はサンゴ礁で浅くなっているが、潮流が速く泳ぐのは危険である。この海域は北西太平洋海盆に含まれ、島の周囲は深い海に囲まれており、他のどの陸地からも1,000キロメートル以上離れている。サンゴ礁の外側は水深1,000メートルの断崖となる。",
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"text": "日本の島としては唯一日本海溝の東側にあり、日本で唯一太平洋プレート上にある。日本最東端の電子基準点が存在し、この電子基準点は日本で唯一太平洋プレート上にあることからプレート運動の監視に重要な意義を持っている。",
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"text": "南鳥島は、プレート運動による動きとして、西北西方向に移動しているが、2011年に発生した東日本大震災以降、移動速度が約1割(8センチメートル/年→8.8センチメートル/年)加速している(2014年の時点)との研究が2015年に発表された。",
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"text": "1543年、スペイン東洋艦隊のベルナンド・デ・ラ・トーレによる探検航海中に南鳥島が初めて発見されたとされる。1864年、ハワイのミッション船「モーニング・スター」が南鳥島を確認。記録が確かなのはこれが最初であるという。1874年にはアメリカの測量船「Tuscarora」が、1880年にはフランス軍艦「Eclai-leu」が島の位置を測量している。また、1860年ごろ、アメリカ人宣教師がマーカス島と命名した。1889年、アメリカ商船「ワーレン」の船長ローズヒルが島に上陸した。この人物は後に日本との間で問題を引き起こすこととなる。",
"title": "人間史"
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"text": "1885年、イギリス帆船「ナット」が島に打ち寄せられた際に日本人乗組員が島に上陸した。また、1886年(または1883年)には、コンシロウー商会のイギリス船「エター」から信崎常太郎(信岡常太郎とするものもある)という日本人が上陸したという。他に、静岡県の斎藤清左衛門が、島を1879年に視認し1893年には上陸したと主張している。",
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"text": "1896年12月3日に水谷新六が南鳥島を発見し、水谷は島でのアホウドリ捕獲事業を開始した。翌年、水谷は島嶼発見届を提出し、島は1898年7月24日付の東京府告第58号で南鳥島として日本の領土に編入。東京府小笠原島庁所管とされた。南鳥島の借地権をめぐって水谷と斎藤清左衛門との間で争いがあったが、同年、南鳥島は水谷に10年間貸し付けられることとなった。",
"title": "人間史"
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"text": "ヤモリ科の一種であるミナミトリシマヤモリが生息していたが、1952年以降生息が確認されておらず、個体群は消滅したと考えられている。なお、標準和名にはミナミトリシマとあるがこの島の固有種ではなく、ミクロネシア方面から流木などに乗って分布を広げたものと考えられている。",
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"text": "人体に有害な寄生虫を持つ外来種アフリカマイマイが多数生息する。",
"title": "生物"
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"text": "一般市民の定住者はなく、飛行場施設を管理する海上自衛隊硫黄島航空基地隊の南鳥島航空派遣隊(約10名)や気象庁南鳥島気象観測所(約10名)、関東地方整備局南鳥島港湾保全管理所(3名)の職員が交代で常駐する。南鳥島航空基地があり、気象通報の観測地でもある。アマチュア局は気象庁の社団局JD1YAAがあり、来島者の個人局が運用することもある。かつては海上保安庁の社団局JD1YBJもあった。",
"title": "島内の施設と交通"
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"text": "往来・補給のために1,370メートルの滑走路があり、島の一辺の方向に平行である。島の南側に船の波止場があるが、浅いサンゴ礁に阻まれて大型船は接岸できないため、大型船は沖合いに停泊し、そこから船積みの小型ボートで島に荷揚げを行っている。このため、2010年度より泊地及び岸壁工事が行われており、2022年度に完成予定である。",
"title": "島内の施設と交通"
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"text": "太平洋戦争の際に、上陸戦を想定して島を要塞化していたため、その時代の戦車や大砲の残骸などが残る。アメリカ軍による空襲はあったものの、上陸・戦闘は起きなかった。かつては、アメリカ沿岸警備隊が電波航法施設ロランC局を運用していた。1993年に海上保安庁千葉ロランセンターが業務を引き継ぎ、213mのアンテナから1.8MWの送信出力でロランパルスを発射していたが、GPSの普及でロランを使用する船舶が減少したため、2009年12月1日午前に廃止された。",
"title": "島内の施設と交通"
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"text": "島に駐在する職員の交代などのため航空自衛隊のC-130Hが月に一度、海上自衛隊のC-130Rが週に一度、硫黄島を経由して食料の補給や荷物の逓送のために飛来する。海上自衛隊のUS-2や航空自衛隊のC-1が利用されることもある。交代の職員もこれらの飛行機を利用する。日本郵便株式会社が「交通困難地」に指定しているため、郵便番号「100-2100」(小笠原村の父島・母島以外の(一覧に掲載がない)地域の番号)と南鳥島の住所を記載しても郵便物は届かない。これは各社宅配便も同様である。このため、郵便及び宅配便の利用はできない。",
"title": "島内の施設と交通"
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"text": "所要時間はC-130が厚木基地からの直行で約3時間半である。",
"title": "島内の施設と交通"
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"text": "海上自衛隊が2014年まで運用していたYS-11Mでは、厚木基地から硫黄島を経由して約7時間かかり、絶海の孤島で周囲に緊急着陸が可能な飛行場が存在せず、何らかの理由で着陸ができないと帰路に燃料不足の懸念があることから、確実に着陸可能である状況でのみ運航を行っていた。",
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"text": "作家の池澤夏樹が南鳥島に行きたいと要望し、補給船に乗って1日だけ上陸して、その際の状況を「南鳥島特別航路」に書いた。",
"title": "島内の施設と交通"
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"text": "2014年では公衆電話か手紙のみであった通信手段も、2020年時点ではソフトバンクの携帯電話がどうにか使用できるようになっている。 インターネットに接続する際は携帯回線を利用しないといけない。衛星電話も利用できる。テレビはあるが地上波放送を受信することはできず、BS放送のみ視聴可能で、中には休暇の時にDVDを大量購入する人もいた。",
"title": "島内の施設と交通"
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"text": "2012年6月28日、東京大学の加藤泰浩ら研究チームは当地付近の海底5,600メートルにおいて、日本で消費する約230年分に相当する希土類(レア・アース)を発見したと発表。日本の排他的経済水域である南鳥島沖の海底の泥に、希土類の中でも特に希少でハイブリッド車 (HV) の電動機などに使われるジスプロシウムが、国内消費量の約230年分あるという推定がなされた。これにより、掘削技術を提供している三井海洋開発と共同で深海底からの泥の回収技術の開発を目指す。",
"title": "希土類"
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"text": "2013年3月21日、海洋研究開発機構と東京大学の研究チームは、深海底黒泥中には最高で中国鉱山の30倍超の高濃度希土類があることが判ったと発表。今回の調査で、同大学の加藤泰浩は「230年分以上、数百年分埋蔵している可能性がある」と話している。なお、陸上の希土類鉱山で問題になる放射性トリウムは深海底黒泥中には含まれていなかった。",
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"text": "世界の希土類の現在の主な輸出国である中華人民共和国は、日本による2013年の当地域の希土類に関する報道について、「我が国を煽り立て、牽制(けんせい)することが目的だった可能性がある」とした。アドバンストマテリアルジャパン社長の中村繁夫は、南鳥島の希土類採掘は経済合理性に欠けており、一連の報道は単なる牽制目的なのではないかと述べた。",
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"text": "経済産業省は2013年度から3年間、南鳥島周辺の排他的経済水域内において、希土類を含む海底堆積物の分布状況を調査して評価を行い、商用化に向けた技術開発も行っている。",
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},
{
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"text": "2020年7月、JOGMECが南鳥島南方の排他的経済水域内の水深約930メートルにおいて世界で初めてコバルトリッチクラストの掘削試験を実施し、649キログラムを回収した。掘削試験をした拓洋第5海山平頂部には、日本の年間消費量の約88年分のコバルト、約12年分のニッケルの存在が期待されている。",
"title": "希土類"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "2022年11月、中国による海洋進出や台湾への軍事侵攻などの地政学的リスクの高まり、経済安全保障の観点から、2022年度第2次補正予算案に採掘に向けた関連経費を盛り込む方針が示された。2023年度に採掘法確立に向けた技術開発に着手し、5年以内の試掘を目指す方針である。",
"title": "希土類"
}
] | 南鳥島(みなみとりしま)は、小笠原諸島の島。本州から1,800キロメートル離れた日本の最東端として知られている。そのため、日本列島の東側に南北に走る日本海溝を隔てた唯一の島である。行政上は東京都小笠原村に属する。現在は一般住民はいないが海上自衛隊、気象庁、関東地方整備局の人員が常駐している。一般人は立ち入り禁止とされており、観光目的で訪問することはできず、常駐職員以外は調査、取材目的での立ち入りとなる。また、島内に医師も医療施設も無く、食中毒を起こすと命の危険があるため、魚を釣って食べる事は禁止されている。 日本国の島では唯一、他の島と排他的経済水域を接していない島でもある。マーカス島、マルカス島とも呼ばれる。本島とトゥイシの間が、日本国の施政権の及ぶ領土間で最長の大圏距離を取ることができる地点である(約3,139キロメートル)。 | {{Otheruses|日本最東端の島|[[母島列島]]の[[姉島]]の南側沖にある小島の南鳥島|姉島}}
{{Distinguish|沖ノ鳥島|x1=日本最南端の島}}
{{Infobox 島
|島名 = 南鳥島
|画像 = [[画像:Aerial-View-Minamitori-Island-1987.jpg|300px]]<br/> 南鳥島の空中写真(1987年6月18日)
|座標 = {{ウィキ座標2段度分秒|24|17|12|N|153|58|50|E|region:JP-13_type:isle_scale:100000|display=inline,title}}
|面積 = 1.51<ref name="gaiyou">[https://www.mlit.go.jp/common/001025368.pdf 国土交通省 南鳥島の概要]</ref>
|周囲 = 6
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|海域 = [[太平洋]]
|国 = {{JPN}}・[[東京都]][[小笠原村]]
|地図2 = Pacific Ocean
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{{Infobox mine
| name = 南鳥島鉱山
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<!-- 所在地 -->
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| place = 東京都小笠原村
| subdivision_type =
| state/province =
| country = {{JPN}}
<!-- 所有者 -->
| owner = 水谷新六 → 南鳥島合資会社 → 全国肥料株式会社
| official website = <!-- 公式サイト -->
| acquisition year = 1903年(水谷による採掘開始)<!-- 取得時期 -->
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| stock_code =
<!-- 生産 -->
| products = 燐鉱(グアノ)
| amount = 年間600トン(大正初期)<!-- 生産量 -->
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<!-- 歴史 -->
| opening year = 1903年<!-- 開山 -->
| closing year = 昭和初期?
}}
'''南鳥島'''(みなみとりしま)は、[[小笠原諸島]]の[[島]]。[[本州]]から1,800[[キロメートル]]離れた'''[[日本]]の最東端'''として知られている<ref name="jma">[https://www.jma-net.go.jp/minamitorishima/ 気象庁 > 南鳥島気象観測所]</ref>。そのため、日本列島の東側に南北に走る[[日本海溝]]を隔てた唯一の島である。行政上は[[東京都]][[小笠原村]]に属する。現在は一般住民はいないが[[海上自衛隊]]、[[気象庁]]、[[関東地方整備局]]の人員が常駐している。一般人は[[立ち入り禁止]]とされており、[[観光]]目的で訪問することはできず、常駐職員以外は調査、[[取材]]目的での立ち入りとなる。また、島内に[[医師]]も医療施設も無く、[[食中毒]]を起こすと命の危険があるため、[[魚類|魚]]を[[釣り|釣って]]食べる事は禁止されている。
日本国の島では唯一、他の島と[[排他的経済水域]]を接していない島でもある。'''マーカス島'''、'''マルカス島'''(-とう、Marcus Island)<ref>[http://www.jacar.go.jp/siryo/ichiran/G_101/m8310.html# アジア歴史資料センター 収蔵資料一覧] {{ja icon}}</ref>とも呼ばれる。本島と[[トゥイシ]]<ref group="注">[[与那国島]]の附属岩。与那国島西崎との距離のほうがわずかに短いが、こちらとの距離も約3,139kmである。</ref>の間が、日本国の施政権の及ぶ[[領土]]間で最長の[[大圏距離]]を取ることができる地点である(約3,139キロメートル)。
== 地勢 ==
=== 気候 ===
[[ファイル:ClimateMinamiTorishimaJapan.png|thumb|右|降水量(青、右軸)と気温(赤、左軸)]]
[[ケッペンの気候区分]]でいう[[サバナ気候]] (Aw) に属する<ref>{{Cite web |title=南鳥島 | 小笠原村公式サイト |url=https://www.vill.ogasawara.tokyo.jp/minamitori_index/ |access-date=2023-12-14 |language=ja}}</ref>。月平均気温2月21.8{{℃}} - 7月28.5{{℃}}、年間平均25.8{{℃}}と温暖。[[降水量]]は日本国内では少なめ。日本では[[南西諸島]]と南鳥島を含む[[小笠原諸島]]のそれぞれ一部が[[熱帯]]に属しているが、南西諸島は[[アジア大陸]]からの距離が近いため寒候期(10 - 3月)には[[シベリア気団]]の大きな影響を受ける。同じ熱帯でも、南西諸島南部([[石垣島]]、[[西表島]]、[[与那国島]]、[[宮古島]]など)は年中降水量が多いので[[熱帯雨林気候]] (Af) に属する。これに対して、南鳥島は大陸からの距離が遠いため年間の気温差が小さいが、日平均気温[[年較差]]が約6.7{{℃}}あり、寒候期には[[北極]]方面からの寒気の影響があることを示している。極値は、最低気温が[[1976年]][[2月10日]] 13.8{{℃}}、最高気温が[[1951年]][[7月17日]] 35.6{{℃}}、積雪記録はない。また、南鳥島は[[アメダス]]、気象官署をあわせた気象庁の観測所における11月、12月、1月の国内最高気温記録を保持している。(それぞれ[[1953年]][[11月4日]]の34.2{{℃}}、[[1952年]][[12月5日]]の31.6{{℃}}、[[1954年]][[1月7日]]及び[[2021年]][[1月9日]]の29.7{{℃}})
{{Marcus Island weatherbox}}
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!'''平均気温の推移'''<ref group="注">以下の数値は資料不足値の為未記載「1963(22.6),1964-1967(測定値なし),1968(26.7),2006(25.4),2008(25.9)」</ref>
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|y1Title=最高気温|colors=#ff7f50}}
|-
!'''平均最低気温'''<ref group="注">以下の数値は資料不足値の為未記載「1963(20.8),1964-1967(測定値なし),1968(24.4),2006(23.4),2008(23.6)」</ref>
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|y1Title=平均最低気温|colors=#4169e1}}
|-
!'''最低気温(最低値)'''<ref group="注">以下の数値は資料不足値の未記載「1963(15.1),1956,1964-1967(測定値なし),1968(19.3),2006(16.8),2008(17.6)」</ref>
|-
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|y1Title=最低気温|colors=#0000cd}}
|-
!'''最低気温(最高値)'''<ref group="注">以下の数値は資料不足値の為未記載「1963(25.9),1956,1964-1967(測定値なし),1968(28.3),2006(27.7),2008(27.6)」</ref>
|-
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1952,1953,1954,1955,1956,1957,1958,1959,1960,1961,1962,1963,1964,1965,1966,1967,1968,1969,1970,1971,1972,1973,1974,1975,1976,1977,1978,1979,1980,1981,1982,1983,1984,1985,1986,1987,1988,1989,1990,1991,1992,1993,1994,1995,1996,1997,1998,1999,2000,2001,2002,2003,2004,2005,2006,2007,2008,2009,2010,2011,2012,2013,2014,2015,2016,2017,2018,2019,2020,2021,2022
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|-
!'''各階級の日数'''
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1952,1953,1954,1955,1956,1957,1958,1959,1960,1961,1962,1963,1964,1965,1966,1967,1968,1969,1970,1971,1972,1973,1974,1975,1976,1977,1978,1979,1980,1981,1982,1983,1984,1985,1986,1987,1988,1989,1990,1991,1992,1993,1994,1995,1996,1997,1998,1999,2000,2001,2002,2003,2004,2005,2006,2007,2008,2009,2010,2011,2012,2013,2014,2015,2016,2017,2018,2019,2020,2021,2022
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112,121,104,77,0,93,120,88,44,47,68,, , , , ,,108,94,78,55,153,100,110,105,65,63,100,127,149,160,171,124,127,116,113,130,112,133,170,94,123,140,164,141,134,147,151,169,125,151,143,116,164,,156,,130,103,97,105,119,116,139,110,160,155,169,176,160,149
|y4=
1,0,1,0, ,1,0,0,0,0,0,, , , , ,,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,3,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,,0,,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0
|y1Title=≧25℃(最低)|y2Title=≧25℃(最高)|y3Title=≧30℃(最高)|y4Title=≧35℃(最高)|colors=#0000cd,#ffd700,#ff8c00,#ff0000}}
|-
!'''平均湿度の推移'''<ref group="注">以下の数値は資料不足値の為未記載「1964~1967(記録なし),2006(75%)」</ref>
|-
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1952,1953,1954,1955,1956,1957,1958,1959,1960,1961,1962,1963,1964,1965,1966,1967,1968,1969,1970,1971,1972,1973,1974,1975,1976,1977,1978,1979,1980,1981,1982,1983,1984,1985,1986,1987,1988,1989,1990,1991,1992,1993,1994,1995,1996,1997,1998,1999,2000,2001,2002,2003,2004,2005,2006,2007,2008,2009,2010,2011,2012,2013,2014,2015,2016,2017,2018,2019,2020,2021,2022
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77,77,75,76,75,77,76,75,76, , , , , , , , , ,76,77,75,75,76,78,78,80,81,78,75,75,72,75,78,81,78,75,76,76,74,74,76,77,75,74,77,75,73,75,74,76,76,73,75,73, ,79,77,77,75,76,73,77,80,77,81,77,78,79,78,79,79
|y1Title=平均湿度|colors=#66cdaa}}
|}
|-
| 出典:気象庁<ref name="kishou01">{{Cite web|和書|url=https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/annually_s.php?prec_no=44&block_no=47991&year=&month=&day=&view=a2 |title=過去の気象データ |publisher=[[気象庁]] |accessdate=2023-01-02}}</ref>
|}
=== 地形 ===
一辺が約2キロメートルの[[三角形]]の平坦な島であり、最高地点の[[高さ#地理|標高]]は9[[メートル]]<ref name="jma"/>。島の周囲は[[サンゴ礁]]で浅くなっているが、[[潮流]]が速く泳ぐのは危険である。この海域は[[北西太平洋海盆]]に含まれ、島の周囲は深い海に囲まれており、他のどの陸地からも1,000キロメートル以上離れている。サンゴ礁の外側は[[水深]]1,000メートルの断崖となる。
日本の島としては唯一[[日本海溝]]の東側にあり、日本で唯一[[太平洋プレート]]上にある。日本最東端の[[電子基準点]]が存在し、この電子基準点は日本で唯一太平洋プレート上にあることからプレート運動の監視に重要な意義を持っている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.gsi.go.jp/common/000108672.pdf|title=国土地理院広報第568号(2015年10月発行)|publisher=国土地理院|accessdate=2015-11-12}}</ref>。
南鳥島は、プレート運動による動きとして、西北西方向に移動しているが、[[2011年]]に発生した[[東日本大震災]]以降、移動速度が約1割(8[[センチメートル]]/年→8.8センチメートル/年)加速している([[2014年]]の時点)との研究が[[2015年]]に発表された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nikkei.com/article/DGXLZO81545790U5A100C1000000/ |title=南鳥島、西への移動加速 震災後年8.8センチメートルに |author= |date=2015-01-15 |work= |publisher=日経新聞 |accessdate=2015-09-21}}</ref>。
<gallery>
Minami Torishima Island Aerial photograph.1975.jpg|南鳥島の空中写真。<br>1975年11月20日撮影。<br>{{国土航空写真}}。
Minami Torishima Map.jpg|南鳥島の地図
Ogasawara Minamitorishima.png|日本本土との位置関係
GNSS-based control station in Minami-Tori-shima.jpg|南鳥島に設置された電子基準点
</gallery>
== 人間史 ==
[[File:Marcus Island attack Aug1943.jpg|thumb|250px|南鳥島への空襲(1943年8月31日)]]
[[File:Japanese 16th Tank Regiment Type 95 Ha-Gos on Marcus Island.JPG|thumb|right|200px|南鳥島に配備されていた[[九五式軽戦車]]と[[九四式六輪自動貨車]]。(1945年)]]
* 約20万年前([[第四紀]][[更新世]]) - [[隆起]]して島となる。
1543年、[[スペイン]]東洋艦隊のベルナンド・デ・ラ・トーレによる探検航海中に南鳥島が初めて発見されたとされる<ref>アホウドリと「帝国」日本の拡大、35ページ、歴史 | 小笠原村公式サイト</ref>。1864年、[[ハワイ]]のミッション船「モーニング・スター」が南鳥島を確認<ref name=hiraoka36>アホウドリと「帝国」日本の拡大、36ページ</ref>。記録が確かなのはこれが最初であるという<ref name=Ogasawaravillage>歴史 | 小笠原村公式サイト</ref>。1874年には[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の測量船「Tuscarora」が、1880年には[[フランス]]軍艦「Eclai-leu」が島の位置を[[測量]]している<ref name=Ogasawaravillage/>。また、1860年ごろ、[[アメリカ人]][[宣教師]]がマーカス島と命名した<ref name=hiraoka36/>。1889年、アメリカ[[商船]]「ワーレン」の船長ローズヒルが島に上陸した<ref name=hiraoka36/>。この人物は後に日本との間で問題を引き起こすこととなる。
1885年、[[イギリス]][[帆船]]「ナット」が島に打ち寄せられた際に日本人乗組員が島に上陸した<ref name=hiraoka36/>。また、1886年(または1883年<ref name=Ogasawaravillage/>)には、コンシロウー商会のイギリス船「エター」から信崎常太郎(信岡常太郎とするものもある)という日本人が上陸したという<ref name=hiraoka37>アホウドリと「帝国」日本の拡大、37ページ</ref>。他に、[[静岡県]]の斎藤清左衛門が、島を1879年に視認し1893年には上陸したと主張している<ref name=hiraoka37/>。
1896年12月3日に[[水谷新六]]が南鳥島を発見し、水谷は島での[[アホウドリ]]捕獲事業を開始した<ref name=hiraoka37/>。翌年、水谷は島嶼発見届を提出し、島は1898年7月24日付の[[東京府]]告第58号で南鳥島として日本の領土に編入<ref>アホウドリと「帝国」日本の拡大、37-39ページ</ref>。東京府小笠原島庁所管とされた<ref name=hiraoka39>アホウドリと「帝国」日本の拡大、39ページ</ref>。南鳥島の借地権をめぐって水谷と斎藤清左衛門との間で争いがあったが、同年、南鳥島は水谷に10年間貸し付けられることとなった<ref>アホウドリと「帝国」日本の拡大、39-40ページ、歴史 | 小笠原村公式サイト</ref>。
* [[1902年]]([[明治]]35年) - アメリカ人A・A・ローズヒルがアメリカ合衆国による領有権を主張して開拓を試みるが、それを察知した[[大日本帝国]]も軍艦[[笠置 (防護巡洋艦)|笠置]]を派遣し、先に上陸して牽制した(南鳥島事件)。
** この事件の際、軍艦「[[高千穂 (防護巡洋艦)|高千穂]]」に同乗していた[[地質調査所]]の技師が南鳥島の土を採取・分析。[[リン酸]]分が30%程度であったことから、南鳥島が[[燐鉱]]の国内産地として注目される<ref name=rinkou>{{Cite journal|和書
|author = 平岡昭利
|authorlink = 平岡昭利
|date = 2003-9
|title = 南鳥島の領有と経営 -アホウドリから鳥糞,リン鉱採取ヘ-
|journal = 歴史地理学
|issue =
|volume =
|publisher =
|naid =
|ref = harv }}</ref>。
* [[1903年]](明治36年) - 2月、水谷が東京府に「鳥糞採取願」を提出。3月に府より許可が降りる<ref name=rinkou/>。これにより鳥糞石([[グアノ]])の採掘が本格化する。
** 最盛期には年間1,000トンの[[グアノ]]を採掘<ref name=rinkou/>。島の中央部において採掘され、現場から沿岸部へ敷設された[[トロッコ]]によって運搬されて貨物船で出荷された。主な出荷先は[[東京]]の「全国肥料取次所」であった<ref name=rinkou/>。グアノ採掘に従事する労働者は60~70人をかぞえた<ref name=rinkou/>。大正初期の生産高は年間600[[トン]]であった<ref name=rinkou/>。
** この時期に南鳥島の事業の権利は水谷から「南鳥島[[合資会社]]」に移転<ref name=rinkou/>。
* [[1922年]]([[大正]]11年)- グアノ事業の権利が全国肥料[[株式会社]]に移転する<ref name=rinkou/>。
** グアノ採掘はその後も続いたが、[[昭和金融恐慌|不況]]によるグアノや肥料の価格急落、資源枯渇などから昭和初期までにグアノ事業は終了。会社及び労働者は南鳥島から撤退した。
* 昭和初期 - [[漁業]]を営む数世帯が暮らしていたという。
* 1928年(昭和3年) - 戸数19、人口30人(男21人、女9人)を数える<ref>{{Cite book|和書 |title=東京府統計書 昭和3年 |year=1930年 |publisher=東京府 |page=80}}</ref>。
* [[1935年]](昭和10年) - 最後に残った1世帯<ref>{{Cite book|和書 |title=東京府統計書 昭和15年 第1編 土地、人口、其他 |publisher=東京府 |page=45}}</ref>が離れ無人島となる。同年、[[大日本帝国海軍]]が[[気象観測所]]を開設する。
* [[1942年]](昭和17年)[[3月4日]] - [[太平洋戦争]]中、[[ウィリアム・ハルゼー]]中将麾下の[[アメリカ海軍]][[第16任務部隊]]([[航空母艦|空母]][[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]旗艦)により、南鳥島は東京府内で初めて[[空襲]]を受ける(日本本土への初空襲は同年4月の[[ドーリットル空襲]])。その後も1943年(昭和18年)[[8月31日]]など何度も空襲を受けた。
* [[1943年]](昭和18年)[[7月1日]] - [[東京都制]]施行(東京府廃止)。
* [[1945年]](昭和20年) - [[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍の一国である[[アメリカ軍]]によって[[占領]]される。
* [[1946年]](昭和21年)[[1月26日]] - 連合軍総司令部が[[SCAPIN|SCAPIN-677]]を指令し、日本の南鳥島への[[施政権]]が停止される。
* [[1947年]](昭和22年) - [[台風]]発生に伴う[[高潮]]で被害を受けたため、アメリカ軍が撤退して無人島となる<ref name=Ogasawaravillage/>。
* 1951年(昭和26年) - 日本の[[気象庁]]が[[アメリカ合衆国連邦政府]]の委託を受け、南鳥島で[[気象観測]]業務を始める<ref name=Ogasawaravillage/>。
* 1952年(昭和27年) - [[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]]によって、正式に[[アメリカ施政権下の小笠原諸島|アメリカの施政権下]]に入る。
* [[1963年]](昭和38年) - [[南鳥島ロランC局]]が完成する。これを受け、南鳥島に[[アメリカ沿岸警備隊]]が駐留し、日本の気象庁職員は撤収する<ref name=Ogasawaravillage/>。
* [[1968年]](昭和43年)[[6月26日]] - [[本土復帰|アメリカより返還]]され、[[東京都]][[小笠原村]]に属する。[[海上自衛隊]]南鳥島航空派遣隊が編成される。
* [[1993年]](平成5年) - 南鳥島ロランC局を管理していた[[アメリカ沿岸警備隊]]が撤収し、[[海上保安庁]]が管理を引き継ぐ。
* [[2002年]](平成14年)[[12月10日]] - [[国土地理院]]により[[電子基準点]]が設置され、日本最東端の点となる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gsi.go.jp/WNEW/PRESS-RELEASE/2002-1219.html|title=南鳥島に電子基準点設置|publisher=[[国土地理院]]|accessdate=2020-04-07}}</ref>。
* [[2006年]](平成18年)[[9月1日]] - [[平成18年台風第12号|台風12号]]接近により、気象観測所職員全員が一時島外避難。
* [[2009年]](平成21年)[[11月1日]] - 環境省が[[鳥獣保護区]]に指定。
* 2009年(平成21年)[[12月1日]] - 南鳥島ロランC局([[LORAN]]自体の)廃止に伴い海上保安庁職員が撤収。
* [[2010年]](平成22年)[[5月18日]] - 南鳥島などの離島の保全を目的とした[[排他的経済水域及び大陸棚の保全及び利用の促進のための低潮線の保全及び拠点施設の整備等に関する法律|低潮線保全・拠点施設整備法]]案が衆議院を全会一致で通過。[[5月26日]]、参議院で全会一致で可決・成立し、一部規定を除き[[6月24日]]施行。
* 2011年(平成23年)[[3月31日]] - 南鳥島港湾保全管理所の仮庁舎完成。
* [[2012年]](平成24年)[[6月28日]] - [[東京大学]]研究チームにより、南鳥島付近の海底で[[レアアース]]が発見される<ref>[https://www.j-cast.com/2012/06/29137676.html?p=all 南鳥島でレアアース発見 日本は資源大国になれるのか] [[ジェイ・キャスト]]</ref>。翌年3月、[[鉱床]]の一部が高濃度であることが発見される<ref>[https://web.archive.org/web/20130224021809/http://news24.jp/articles/2013/02/21/06223501.html 南鳥島のレアアース、一部で中国の約20倍] 日テレNEWS24</ref>。
== 生物 ==
[[ヤモリ科]]の一種である[[ミナミトリシマヤモリ]]が生息していたが、1952年以降生息が確認されておらず、個体群は消滅したと考えられている<ref>日本国内ではその後1982年の調査で[[南硫黄島]]に生息が認められている。</ref>。なお、標準[[和名]]にはミナミトリシマとあるがこの島の固有種ではなく、[[ミクロネシア]]方面から流木などに乗って分布を広げたものと考えられている。
人体に有害な[[寄生虫]]を持つ[[外来種]][[アフリカマイマイ]]が多数生息する。
== 島内の施設と交通 ==
=== 施設 ===
[[File:Sending up a balloon with GPS Sonde.jpg|thumb|200px|高層気象観測のため気球に[[GPSゾンデ]]を吊るして飛ばす様子]]
一般市民の定住者はなく、飛行場施設を管理する[[海上自衛隊]][[硫黄島航空基地|硫黄島航空基地隊]]の[[南鳥島航空基地|南鳥島航空派遣隊]](約10名)や[[気象庁]]南鳥島気象観測所(約10名)、[[地方整備局#関東地方整備局|関東地方整備局]]南鳥島港湾保全管理所(3名)の職員が交代で常駐する<ref name="gaiyou"/><ref name="jma"/>。[[南鳥島航空基地]]があり、[[気象通報]]の観測地でもある。[[アマチュア局]]は気象庁の社団局JD1YAAがあり<ref>{{Cite news |title=世界のハム仲間から殺到するラブコール 南鳥島気象庁HAMクラブ |newspaper=[[朝日新聞]] |publisher=[[朝日新聞社]] |date=2000-09-30 |page=34 }}</ref>、来島者の個人局が運用することもある。かつては海上保安庁の社団局JD1YBJもあった。
往来・補給のために1,370メートルの[[滑走路]]があり、島の一辺の方向に平行である<ref name="gaiyou"/>。島の南側に船の[[埠頭|波止場]]があるが、浅い[[サンゴ礁]]に阻まれて大型船は接岸できないため、大型船は沖合いに停泊し、そこから船積みの小型[[ボート]]で島に荷揚げを行っている<ref>[https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000615557.pdf 南鳥島における活動拠点整備事業 平成27年1月16日 国土交通省 関東地方整備局]</ref>。このため、2010年度より泊地及び[[岸壁]]工事が行われており、2022年度に完成予定である<ref>[https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000661644.pdf 南鳥島における活動拠点整備事業 平成28年12月6日 国土交通省 関東地方整備局]</ref>。
[[太平洋戦争]]の際に、[[上陸戦]]を想定して島を[[要塞]]化していたため、その時代の[[戦車]]や[[大砲]]の残骸などが残る。[[アメリカ軍]]による空襲はあったものの、上陸・戦闘は起きなかった。かつては、[[アメリカ沿岸警備隊]]が電波航法施設[[LORAN|ロランC局]]を運用していた。1993年に[[海上保安庁]]千葉ロランセンターが業務を引き継ぎ、213mの[[アンテナ]]から1.8[[ワット|MW]]の送信出力でロランパルスを発射していたが、[[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]]の普及でロランを使用する船舶が減少したため、2009年12月1日午前に廃止された<ref>{{PDFlink|[https://www.kaiho.mlit.go.jp/info/kouhou/h21/k20090601/k090601.pdf 北西太平洋ロランCチェーンの縮小(南鳥島局の廃止)について 平成21年6月1日 海上保安庁]}}</ref>。
=== 交通 ===
{{Location map | Pacific Ocean
| lat_deg = 24 | lat_min = 17 | lat_sec = 12 | lat_dir = N
| lon_deg = 153 | lon_min = 58 | lon_sec = 50 | lon_dir = E
| label = 南鳥島
| position = bottom
| mark = Location dot red.svg
| marksize = 9
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| float = right
| caption = 太平洋における南鳥島の位置
| alt = 太平洋における南鳥島の位置
| AlternativeMap = Pacific Ocean laea relief location map.jpg
}}
島に駐在する職員の交代などのため[[航空自衛隊]]の[[C-130 (航空機)|C-130H]]が月に一度、海上自衛隊のC-130Rが週に一度、[[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]を経由して食料の補給や荷物の逓送のために飛来する。海上自衛隊の[[US-2 (航空機)|US-2]]や航空自衛隊の[[C-1 (輸送機)|C-1]]が利用されることもある。交代の職員もこれらの飛行機を利用する。[[日本郵便|日本郵便株式会社]]が「[[交通困難地]]」<ref>{{PDFlink|[https://www.post.japanpost.jp/about/yakkan/1-7.pdf 交通困難地・速達取扱地域外一覧]}} {{ja icon}} 郵便事業株式会社</ref>に指定しているため、[[日本の郵便番号|郵便番号]]「100-2100」(小笠原村の[[父島]]・[[母島]]以外の(一覧に掲載がない)地域の番号<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?pref=13&city=1134210&cmp=1 |title=郵便番号検索 > 東京都 > 小笠原村 |access-date=2022年4月19日 |publisher=日本郵便}}</ref>)と南鳥島の住所を記載しても[[郵便物]]は届かない。これは各社[[宅配便]]も同様である。このため、[[郵便]]及び宅配便の利用はできない。
所要時間はC-130が[[厚木海軍飛行場|厚木基地]]からの直行で約3時間半である<ref>[https://www.jiji.com/jc/v4?id=torishima0001 日本の最東端「南鳥島」~絶海の孤島を訪ねて,時事ドットコムニュース,2012年]</ref>。
海上自衛隊が[[2014年]]まで運用していた[[YS-11|YS-11M]]では、厚木基地から硫黄島を経由して約7時間かかり、絶海の[[孤島]]で周囲に[[緊急着陸]]が可能な飛行場が存在せず、何らかの理由で着陸ができないと帰路に燃料不足の懸念があることから、確実に着陸可能である状況でのみ運航を行っていた<ref>[http://otakei.otakuma.net/archives/2015022002.html 【宙にあこがれて】第50回 海上自衛隊クルーが語るYS-11] - [[おたくま経済新聞]]</ref>。
[[作家]]の[[池澤夏樹]]が南鳥島に行きたいと要望し、補給船に乗って1日だけ上陸して、その際の状況を「南鳥島特別航路」に書いた。
===通信・放送 ===
[[2014年]]では[[公衆電話]]か[[手紙]]のみであった通信手段も、[[2020年]]時点では[[ソフトバンク]]の[[携帯電話]]がどうにか使用できるようになっている。 [[インターネット]]に接続する際は[[無線パケット通信|携帯回線]]を利用しないといけない。[[衛星電話]]も利用できる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/common/001247601.pdf |title=資料3 南鳥島技術開発マニュアル(案) |access-date=2022-11-12 |publisher=国土交通省}}</ref>。[[テレビ]]はあるが[[地上波]]放送を受信することはできず、[[BS放送]]のみ視聴可能で、中には休暇の時に[[DVD]]を大量購入する人もいた<ref>{{Cite web|和書|title=一般人は絶対行けない、南の孤島硫黄島の求人 携帯・ネット不可での勤務に耐えられるのか |url=https://www.j-cast.com/2014/07/14210461.html |website=J-CAST ニュース |date=2014-07-14 |access-date=2022-11-12 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=最東端で日本の海を守る自衛隊 南鳥島で見た海洋国家の現実(2/3ページ) |url=https://www.sankei.com/article/20200718-GNE7F67RPJPFXJGHICZHASFAYY/2/ |website=産経ニュース |date=2020-07-18 |access-date=2022-11-12 |language=ja |first=SANKEI DIGITAL |last=INC}}</ref>。
== 希土類 ==
[[File:Japan_Exclusive_Economic_Zones.png|350px|thumb|日本の[[排他的経済水域]]。右端に離れた円が南鳥島周辺。<br>{{legend|#dd12c2|日本単独のEEZ}}<br>
{{legend|#f080e1|[[韓国]]との共同開発区域}}<br />{{legend|#f2d1ee|周辺国との係争区域}}]]
2012年6月28日、[[東京大学]]の加藤泰浩ら研究チームは当地付近の[[海底]]5,600メートルにおいて、日本で消費する約230年分に相当する[[希土類元素|希土類]](レア・アース)を発見したと発表。日本の排他的経済水域である南鳥島沖の海底の泥に、希土類の中でも特に希少で[[ハイブリッドカー|ハイブリッド車]] (HV) の[[電動機]]などに使われる[[ジスプロシウム]]が、国内消費量の約230年分あるという推定がなされた。これにより、掘削技術を提供している[[三井海洋開発]]と共同で[[深海平原|深海底]]からの泥の回収技術の開発を目指す<ref>{{cite news |title=南鳥島近海にレアアース-東大・三井海洋開発、国産化にらみ技術開発 |newspaper=日刊工業新聞 |date=2012-07-02 |url=http://www.nikkan.co.jp/news/nkx0720120702eaad.html?news-t0702 |accessdate=2012-10-9 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121021222937/http://www.nikkan.co.jp/news/nkx0720120702eaad.html?news-t0702 |archivedate=2012-10-21 }}</ref>。
2013年3月21日、[[海洋研究開発機構]]と東京大学の研究チームは、深海底黒泥中には最高で中国鉱山の30倍超の高濃度希土類があることが判ったと発表。今回の調査で、同大学の加藤泰浩は「230年分以上、数百年分埋蔵している可能性がある」と話している。なお、陸上の希土類鉱山で問題になる放射性[[トリウム]]は深海底黒泥中には含まれていなかった。
世界の希土類の現在の主な輸出国である[[中華人民共和国]]は、日本による2013年の当地域の希土類に関する報道について、「我が国を煽り立て、牽制(けんせい)することが目的だった可能性がある」とした<ref>{{Cite web|和書| url = http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2013&d=0410&f=national_0410_022.shtml | archiveurl = https://web.archive.org/web/20130416015027/http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2013&d=0410&f=national_0410_022.shtml | title = 南鳥島のレアアース発見報道は「わが国を煽り、牽制のため」=中国 | editor = 及川源十郎
| website = [[サーチナ (ポータルサイト)|サーチナ]] | date = 2013/4/10 | accessdate = 2013-4-10 | archivedate = 2013-4-16 | deadlinkdate = 2019年4月24日}}</ref>。[[アドバンストマテリアルジャパン]]社長の中村繁夫は、南鳥島の希土類採掘は経済合理性に欠けており、一連の報道は単なる牽制目的なのではないかと述べた<ref>中村繁夫「 [http://toyokeizai.net/articles/-/13478 南鳥島レアアース開発は30年かけても難しい]」</ref>。
[[経済産業省]]は2013年度から3年間、南鳥島周辺の排他的経済水域内において、希土類を含む海底堆積物の分布状況を調査して評価を行い、商用化に向けた技術開発も行っている<ref>[http://www.enecho.meti.go.jp/about/whitepaper/2016html/3-1-4.html 資源エネルギー庁 エネルギー白書2016 第4節 石油・天然ガス等国産資源の開発の促進]</ref>。
2020年7月、[[石油天然ガス・金属鉱物資源機構|JOGMEC]]が南鳥島南方の排他的経済水域内の水深約930メートルにおいて世界で初めて[[コバルトリッチクラスト]]の掘削試験を実施し、649[[キログラム]]を回収した。掘削試験をした拓洋第5海山平頂部には、日本の年間消費量の約88年分の[[コバルト]]、約12年分の[[ニッケル]]の存在が期待されている<ref>{{Cite news|title=世界初、コバルトリッチクラストの掘削試験に成功~海底に存在するコバルト・ニッケルの資源化を促進~|date=2020-08-21|url=http://www.jogmec.go.jp/news/release/news_01_000162.html|publisher=[[JOGMEC]]}}</ref>。
2022年11月、中国による海洋進出や[[台湾]]への軍事侵攻などの[[チャイナリスク|地政学的リスク]]の高まり、[[経済安全保障]]の観点から、2022年度第2次[[補正予算]]案に採掘に向けた関連経費を盛り込む方針が示された。2023年度に採掘法確立に向けた技術開発に着手し、5年以内の試掘を目指す方針である。
== ギャラリー ==
<gallery>
The monument of the easternmost point in Japan.jpg|日本最東端の碑
Remain of weapon in Minami Torishima.jpg|兵器の残骸。2020年7月撮影。
Minami Torishima 06.jpg|植生
</gallery>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* [[米内金治]] 『鳥を釣った話―父島・南鳥島気象観測所長の思い出』 [[翰林書房]]、1996年3月。ISBN 4906424880
* [[池澤夏樹]] 『南鳥島特別航路』 [[新潮文庫]]、1994年。ISBN 4101318123、「南鳥島―」は内 1章。
* [[山本皓一]] 『日本人が行けない「日本領土」―北方領土・竹島・尖閣諸島・南鳥島・沖ノ鳥島上陸記』 [[小学館]]、2007年6月。ISBN 9784093897068
*平岡昭利『アホウドリと「帝国」日本の拡大 南洋の島々への進出から侵略へ』明石書店、2012年、ISBN 978-4-7503-3700-5
*[https://www.vill.ogasawara.tokyo.jp/minamitori_index/minamitori_history/ 歴史 | 小笠原村公式サイト](南鳥島の歴史)、小笠原村公式サイト(2020年11月16日閲覧)
== 関連項目 ==
* [[中ノ鳥島]] - 存在が確認できなかったにもかかわらず、日本国の[[領域 (国家)|領土]]として[[海図]]などにも記載されていた架空の島。仮に実在の島ならば、南鳥島よりも東にある日本最東端の島となる<!--中ノ鳥島が実在とされた戦前時点では日本領だった占守島のほうが東に位置していたので最東端ではなかった-->。
* [[海上自衛隊厚木基地マーカス]] - 施設を管理する厚木基地のサッカーチーム。チーム名は島の英語名が由来。
* [[日本の島の一覧]]
* [[日本の端の一覧]]
* [[:Category:栄力丸|栄力丸]]
* [[マーカス・アイランド]] - 本島の別名から艦名を付けた[[アメリカ海軍]]の[[護衛空母]]。[[カサブランカ級航空母艦]]の一隻。
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Minami Torishima}}
* [https://maps.gsi.go.jp/?ll=24.2875,153.98&z=15#15/24.287496/153.979805/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1 国土地理院 地図閲覧サービス 2万5千分1地形図名:南鳥島 (南東)]
* [https://www.google.com/maps/@24.288748,153.979998,3706m/data=!3m1!1e3 Google Map]
* [https://www.vill.ogasawara.tokyo.jp/minamitori_history/ 南鳥島] - (東京都小笠原村)
* {{Wayback |url=http://www.ktr.mlit.go.jp/koubuez/annai/minamitorishima.htm |title=南鳥島のご案内(関東地方整備局甲武営繕事務所) |date=20150508071713}}
* [https://www.jma-net.go.jp/minamitorishima/ 気象庁南鳥島気象観測所]
* [http://ww35.tiki.ne.jp/~sight/marcus.html はなのはね南鳥島ガイド]
* [https://www.spf.org/_opri/newsletter/114_2.html 南鳥島における海岸清掃作戦]([[笹川平和財団]])
* [http://marcus.world.coocan.jp 日本の最南東端「南鳥島」]
* [http://hist-geo.jp/img/archive/215_001.pdf 南鳥島の領有と経営 アホウドリから鳥糞,リン鉱採取] - [[平岡昭利]]、歴史地理学45-4 (215) 1 ~ 14 2003. 9
* {{NHK for School clip|D0005310871_00000|南鳥島(みなみとりしま)}}
{{伊豆・小笠原諸島の島々}}
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[[Category:小笠原村の地理]]
[[Category:小笠原諸島の有人島]]
[[Category:太平洋の島]]
[[Category:交通困難地]]
[[Category:東京都の鉱山]]
[[Category:日本の廃鉱山]]
[[Category:日本の要塞]]
[[Category:日本の極と端]]
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[[Category:日本の鉱山]] | 2003-05-19T19:04:15Z | 2023-12-27T05:00:07Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%B3%A5%E5%B3%B6 |
8,717 | 大陸と海洋の起源 | 『大陸と海洋の起源』(たいりくとかいようのきげん、独:Die Entstehung der Kontinente und Ozeane)は、ドイツの気象学者アルフレート・ヴェーゲナーが大陸移動説を提起し論じた古典的名著。
ヴェーゲナー自身の主著で、初版は1915年に刊行、版を重ねるごと(1920年に第二版、1922年に第三版)に全面的に書き直しを行い、1929年に最終改訂・第四版を刊行した。
本書が主張した大陸移動説は、人工衛星による精密な測地観測が進み、大陸が実際に移動している状況が直接的に観測され実証されている。研究の大幅な進展により、本書内容には少なからず誤りが判明しているが、自然科学の真理探求の過程を克明に描写した点において、本書は古典としての多大な意義を持っている。 | [
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|title = 大陸と海洋の起源
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|image_caption = 第4版の表紙
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『'''大陸と海洋の起源'''』(たいりくとかいようのきげん、独:'''Die Entstehung der Kontinente und Ozeane''')は、[[ドイツ]]の[[気象学者]][[アルフレート・ヴェーゲナー]]が[[大陸移動説]]を提起し論じた古典的名著。
ヴェーゲナー自身の主著で、初版は[[1915年]]に刊行、版を重ねるごと([[1920年]]に第二版、[[1922年]]に第三版)に全面的に書き直しを行い、[[1929年]]に最終改訂・第四版を刊行した。
本書が主張した大陸移動説は、人工衛星による精密な測地観測が進み、[[大陸]]が実際に移動している状況が直接的に観測され実証されている。研究の大幅な進展により、本書内容には少なからず誤りが判明しているが、[[自然科学]]の[[真理]]探求の過程を克明に描写した点において、本書は古典としての多大な意義を持っている。
== 目次 ==
:表記は、岩波文庫版『大陸と海洋の起源』より
* 第1章 '''歴史的序論'''(私の大陸移動説の起源と発展 大陸移動説の先駆者たち)
* 第2章 '''大陸移動説の本質、ならびに[[地質時代]]における地球表面の変化についての従来の諸見解に対する大陸移動説の関係'''([[陸橋説]] 地球収縮説 [[アイソスタシー]] 海洋不変説 大陸移動説)
* 第3章 '''測地学的議論'''([[地質時代]]の長さ 大陸の移動速度 ヨーロッパに対するグリーンランドと北米の移動 その他の移動 緯度変化)
* 第4章 '''地球物理学的議論'''(高さ頻度曲線の2つの極大 アイソスタシーと大陸移動 地震学的に見た大陸と深海底 [[シアル]]・[[シマ (地球科学)|シマ]] 地球の力学的性質)
* 第5章 '''地質学的議論'''(南大西洋両岸の比較 デュ・トワの議論 北大西洋両岸の比較 アフリカ・マダガスカル・インド アルガンの議論 オーストラリアとニュージーランド スンダ列島付近 南極大陸)
* 第6章 '''古生物学的および生物学的議論'''(陸地のつながり(南米―アフリカ、北米―ヨーロッパ、インド―マダガスカル―オーストラリア、ニュージーランド―南太平洋) オーストラリアの動物群 大陸移動説に基づく研究)
* 第7章 '''[[古気候学]]的議論'''(気候帯とその証拠 極移動の及ぼす効果 大陸移動説と二畳―石炭紀の気候帯(大陸氷河、偽氷河成礫岩、気候帯の復元)
* 第8章 '''大陸移動と極移動に関する基礎的問題'''(基準座標 極移動 地殻の相対運動 地球内部の軸の移動 軸の天文学的移動)
* 第9章 '''大陸を動かす力'''(極から遠ざける力 西へ動かす力 地表の高まりから生ずる力 シマ層の対流)
* 第10章 '''シアル層についての補足的覚え書'''(褶曲山脈 地溝帯と大陸分裂 弧状列島 大陸縁に平行なすべり運動 火山 など)
* 第11章 '''深海底についての補足的覚え書'''
== 日本語訳 ==
*ヴェーゲナー『大陸と海洋の起源 [[大陸移動説]]』[[都城秋穂]]・紫藤文子訳、[[岩波文庫]](上・下) 1981年。ISBN 4003390717・ISBN 4003390725
*アルフレッド・ウェゲナー『大陸と海洋の起源』[[竹内均]] 訳・解説、[[講談社ブルーバックス]]、2020年。ISBN 4065194040
**[[講談社]]、1975年。[[講談社学術文庫]](改訂版)、1990年。原著は各・第四版
<!-- == 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}} -->
== 参考文献 ==
{{節スタブ}} <!-- {{Cite book}} --> <!-- {{Cite journal}} -->
== 関連項目 ==
{{Wikisourcelang|de|Die Entstehung der Kontinente und Ozeane}}
{{Commonscat|Entstehung Kontinente Ozeane (Wegener)}}
* [[地球物理学]]
* [[自然地理学]]
* [[測地学]]
== 外部リンク ==
{{節スタブ}} <!-- {{Cite web}} -->
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8,720 | 世界 | 世界(、英: World、梵: loka-dhaatu、羅: mundus)とは、以下の概念を指す。
実用上は人類が定常的に活動している物理的な領域の全体を指すことが多い(「世界的〇〇」や「世界各国」など)が、それ以外にも上述のように「世界」という言葉は多義的に用いられる。主として何らかの社会と関連のある空間を意味する多義的な言葉である。人間など命あるものと関連づけられた、社会的、政治的、経済的ないし人文地理的概念として用いられることが多い。
類義語にあたる「社会」では、集団や共同体に焦点が当てられており、縁故等の対人関係までが連想される。「世界」は空間概念としては現代では(人々の活動範囲が広がったため)「地球上の全地域」を意味することが多いが、「地球」は日本語では人類の活動の場という意味合いをあまり含めず、自然科学的側面からみた物体や物理的空間としての用例が多い。今後、人類の定常的な活動が宇宙にも拡がった場合、「世界」に含める物理的な領域が宇宙空間や他の惑星にも拡張される可能性がある。
世界、および、世界における人間のありかたについての、まとまった考え方のことを「世界観」と呼んでいる。人生観とも部分的に重なるが、人生観よりも広い範囲を指し、人生観同様、多分に情緒的な評価づけを含んでいる。なお、「世界像」は世界観とは異なり、世界を外から眺めるような態度であり、そこでは、世界はあくまでも知的、客観的な分析の対象である。ただし、世界像はしばしばその時代に応じた検証を受け、伝統的な世界観を突き崩し、新しい世界観の知的基盤となることがある。言い換えれば、世界観とは各時代の各地に住む人びとの生活体験や伝統的な観念を基礎とし、知的体系としての世界像とむすびついて、各人の生き方や行動の指針となる考え方という意味である。
人間界の個人や集団が所属ないし活動する、物理的・社会的・心理的な領域を指して用いられることが多いが、人間以外の生物のそれ、あるいは非生物や抽象的事象の領域等に対して用いられることもある。本稿においては、主に人間界のそれについて述べる。
日本語の「世界」は、インドから中国を経て漢語として日本に伝来した来歴を有している。
源流となっているサンスクリットはローカダートゥ(loka-dhaatu)である。"loka "は、「空間」や「(林の中の)木の無い場所」「空き地」のようなものを意味していた。"dhaatu "は界を意味する。"loka-dhaatu "は仏教用語として用いられた歴史があり、「命あるものが生存し輪廻する空間で、そこにおいて一仏が教えを広める空間」を意味する。
このサンスクリットが漢語訳されたとき「世界」となった。「世」には時間の観念に重きをおいた字であり、「界」は空間に重きをおいた字であり、「世界」とは、時間と空間の両方に配慮した訳語である。ある経典では、東西南北上下が界であり、過去・現在・未来の三世が世である、といった主旨のことが述べられている。
中国においては、当初は仏教用語であった「世界」であったが、詩歌の分野において(特に唐詩において)次第に「世の中」や「世間」といった意味で使用されるようになった。これらの歴史が積み重なった状態で日本にももたらされ、『竹取物語』などでも「世の中」「世間」の意味で「世界」の語が用いられている。
西洋に目を向けてみると、古代ギリシア語では「kosmos」コスモス という言葉が用いられ、この語は《世界》を意味しつつ、《美しい飾り》や《秩序》という意味も備えていた。つまり、《カオス》という概念と対比されつつ、《美しい秩序をそなえた世界》を意味していた。このようにギリシア〜西洋においては、世界の概念は、秩序と関連づけられる面がことさら重視されたらしい。『ヨハネによる福音書』においても、「言葉は世(コスモス)にあった。世は言葉によって成ったが、世は言葉を認めなかった」とある。最初の二つの「世」(コスモス)は、神によって創造され神的秩序をそなえた世のことを指しており、3番目の「世」は人間によって秩序を与えられた世間を指している、という。そしてアウグスティヌスはこのくだりに基づいて、mundus(ラテン語で「世界」)を、被造物の全体としての世界と、世俗的な世間としての世界を区別して考えたという。
江戸時代になって、当時の世界地図をもとにした『世界図屏風』が広く流布したが、ここにおける「世界」は今日の用例と同じ、「地球」「万国」の意味である。1867年(慶応2年)初版のジェームス・カーティス・ヘボンの『和英語林集成』では、これを踏襲して、地球、万国の意としての「世界」の語がみえる。また、井上哲次郎らの編集による『哲学字彙』(1912)には、world、cosmosの訳語として、「宇宙」とともに「世界」をもあてている。
堺屋太一は、チンギス・ハーンによって「世界」がはじめて意識されるようになったとしている。堺屋によれば、チンギス・ハーン自身が「東洋と西洋は1つ」という世界観をもっており、大量報復思想、信仰の自由とともに「ジンギスカンの三大発明」と呼んでいる。
なお、世界にかかわりの深い用語である「国際化(Internationalization)」は、17世紀ヨーロッパで成立し、その後世界的に拡大した主権国家体制の存在を前提にしている。それに対し、「グローバル化(Globalization)」は政治や文化、経済上の国境にとらわれない動きである。すなわち、前者では国境の役割は依然大きく、たとえば文物が国境を通過することは監視すべきものとされるが、後者ではそもそも監視すべきではなく、秘匿性が重要な価値観のひとつとして考慮されている。国際化あるいはグローバル化の進展によって、各領域、各分野においてトランスナショナルな関係も広がっている。現代においては、経済におけるグローバル化の進展とともに、とくに政治領域における地域化(Regionalization)の進展も顕著である。なお、歴史的には、地域相互の間の関係を称するのに「域際(Interregional)」の語も多用されてきた。17世紀のオランダは域際貿易や域際交流において重要な役割を果たしてきたといわれる。 | [
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] | 世界(せかい、とは、以下の概念を指す。 地球上の人間社会のすべて。人間の社会全体。限定された社会ではなく、全ての社会の集合、全人類の社会を指す。地球上の全ての国。万国の意。特定の一国ではなく全ての国々ということ。報道・政治等で多用される用法。例:「世界のトヨタ」「世界経済」「世界の歴史」「世界人口」「世界の地理」。類義語に「国際」や「グローバル」。
海外や外国と言う意味 - 上記の意味から文脈上の自国を除いた部分。
世の中。人の住むところ。例:「世界が狭い」。類義語に「世間」。
すべての有限な事物や事象の全体。宇宙。
特定の範囲。例:「勝負の世界」。
同類の者の集まり、またその社会。例:「学者の世界」「役者の世界」「芸術家の世界」。
特定の文化・文明を共有する人々の社会やそのまとまりを指す。「キリスト教世界」「イスラム世界」。また「第一世界」「第二世界」「第三世界」のように冷戦体制下で見られた陣営ごとの国々のまとまりを指すこともある。
歌舞伎や浄瑠璃で、特定の時代・人物による類型。例:「義経記の世界」。 宇宙の中のひとつの区域で、一仏の教化する領域。例:「三千大千世界」「娑婆世界」。
生物が外界を認識する過程で主観体験として構築する「環世界」など。 | {{Otheruses}}
{{読み仮名|'''世界'''|せかい|{{lang-en-short|World}}、{{lang-sa-short|loka-dhaatu}}、{{lang-la-short|mundus}}}}とは、以下の概念を指す。
* [[地球]]上の人間社会のすべて<ref name="kojien5" />。[[人間]]の[[社会]]全体。限定された社会ではなく、全ての社会の集合、全[[人類]]の社会を指す<ref name="kojirin">広辞林 第五版</ref>。地球上の全ての国<ref name="kojirin" />。万国の意。特定の一[[国]]ではなく全ての国々ということ。報道・政治等で多用される用法。例:「世界の[[トヨタ自動車|トヨタ]]」「[[世界経済]]」「[[世界の歴史]]」「[[世界人口]]」「[[世界の地理]]」。類義語に「[[国際]]」や「[[グローバル]]」。
*[[海外]]や[[外国]]と言う意味 - 上記の意味から文脈上の自国を除いた部分。
* 世の中<ref name="kojien5" />。人の住むところ<ref name="kojien5" />。例:「世界が狭い」。類義語に「[[世間]]」。
* すべての有限な事物や事象の全体<ref name="kojirin" />。[[宇宙]]<ref name="kojirin" />。
* 特定の範囲<ref name="kojien5" />。例:「勝負の世界」。
* 同類の者の集まり<ref name="kojien5" />、またその社会。例:「学者の世界<ref name="kojien5" />」「役者の世界」「芸術家の世界」。
* 特定の文化・文明を共有する人々の社会やそのまとまりを指す。「[[キリスト教]]世界」「[[イスラム世界]]」。また「[[第一世界]]」「[[第二世界]]」「[[第三世界]]」のように[[冷戦]]体制下で見られた陣営ごとの国々のまとまりを指すこともある。
* [[歌舞伎]]や[[浄瑠璃]]で、特定の時代・人物による類型<ref name="kojien5" />。例:「義経記の世界<ref name="kojien5" />」。
* (仏教用語、''loka-dhaatu'') [[宇宙]]の中のひとつの区域で、一仏の教化する領域<ref name="kojien5">広辞苑第5版</ref>。例:「[[三千大千世界]]<ref name="kojien5" />」「[[娑婆|娑婆世界]]<ref name="kojien5" />」。
*[[生物]]が[[外界]]を[[認識]]する過程で[[現象的意識|主観体験]]として[[構築]]する「[[環世界]]」など。
== 概説 ==
実用上は[[人類]]が定常的に活動している物理的な領域の全体を指すことが多い(「世界的〇〇」や「世界各国」など)が、それ以外にも上述のように「世界」という言葉は多義的に用いられる。主として何らかの社会と関連のある[[空間]]を意味する多義的な言葉である。[[人間]]など[[命]]あるものと関連づけられた、社会的、政治的、経済的ないし人文地理的概念として用いられることが多い。
類義語にあたる「[[社会]]」では、[[集団]]や[[共同体]]に焦点が当てられており、縁故等の対人関係までが連想される。「世界」は空間概念としては現代では(人々の活動範囲が広がったため)「地球上の全地域」を意味することが多いが、「地球」は日本語では人類の活動の場という意味合いをあまり含めず、自然科学的側面からみた物体や物理的空間としての用例が多い。今後、人類の定常的な活動が[[宇宙]]にも拡がった場合、「世界」に含める物理的な領域が[[宇宙空間]]や他の[[惑星]]にも[[拡張]]される可能性がある。
世界、および、世界における人間のありかたについての、まとまった考え方のことを「[[世界観]]」と呼んでいる<ref name="kojirin" />。[[人生観]]とも部分的に重なるが、人生観よりも広い範囲を指し、人生観同様、多分に情緒的な評価づけを含んでいる。なお、「[[世界像]]」は世界観とは異なり、世界を外から眺めるような態度であり、そこでは、世界はあくまでも知的、客観的な分析の対象である。ただし、世界像はしばしばその時代に応じた検証を受け、伝統的な世界観を突き崩し、新しい世界観の知的基盤となることがある。言い換えれば、世界観とは各時代の各地に住む人びとの生活体験や伝統的な観念を基礎とし、知的体系としての世界像とむすびついて、各人の生き方や行動の指針となる考え方という意味である。
[[人間]]界の個人や集団が所属ないし活動する、物理的・社会的・心理的な領域を指して用いられることが多いが、人間以外の生物のそれ、あるいは非生物や抽象的事象の領域等に対して用いられることもある。本稿においては、主に人間界のそれについて述べる。
== 語の由来と歴史 ==
日本語の「世界」は、[[インド]]から[[中国]]を経て[[漢語]]として日本に伝来した来歴を有している。
源流となっている[[サンスクリット]]はローカダートゥ(''loka-dhaatu'')である。"''loka'' "は、「空間」や「(林の中の)木の無い場所」「空き地」のようなものを意味していた。"''dhaatu'' "は界を意味する。"''loka-dhaatu'' "は[[仏教]]用語として用いられた歴史があり、「命あるものが生存し輪廻する空間で、そこにおいて一仏が教えを広める空間」を意味する。
このサンスクリットが漢語訳されたとき「世界」となった。「世」には時間の観念に重きをおいた字であり、「界」は空間に重きをおいた字であり、「世界」とは、時間と空間の両方に配慮した訳語である。ある経典では、東西南北上下が界であり、過去・現在・未来の三世が世である、といった主旨のことが述べられている。
中国においては、当初は仏教用語であった「世界」であったが、詩歌の分野において(特に[[唐詩]]において)次第に「世の中」や「[[世間]]」といった意味で使用されるようになった。これらの歴史が積み重なった状態で日本にももたらされ、『[[竹取物語]]』などでも「世の中」「世間」の意味で「世界」の語が用いられている。
西洋に目を向けてみると、[[古代ギリシア語]]では「kosmos」[[コスモス]] という言葉が用いられ<ref name="iwa_philo">岩波 哲学思想事典、1988年 pp.933-934【世界】</ref>、この語は《世界》を意味しつつ、《美しい飾り》や《秩序》という意味も備えていた<ref name="iwa_philo" />。つまり、《[[カオス]]》という概念と対比されつつ、《美しい秩序をそなえた世界》を意味していた<ref name="iwa_philo" />。このようにギリシア〜西洋においては、世界の概念は、秩序と関連づけられる面がことさら重視されたらしい<ref name="iwa_philo" />。『[[ヨハネによる福音書]]』においても、「言葉は世(コスモス)にあった。世は言葉によって成ったが、世は言葉を認めなかった」とある<ref name="iwa_philo" />。最初の二つの「世」(コスモス)は、神によって創造され神的秩序をそなえた世のことを指しており<ref name="iwa_philo" />、3番目の「世」は人間によって秩序を与えられた世間を指している、という<ref name="iwa_philo" />。そして[[アウグスティヌス]]はこのくだりに基づいて、mundus(ラテン語で「世界」)を、被造物の全体としての世界と、世俗的な世間としての世界を区別して考えたという<ref name="iwa_philo" />。
[[File:Kunyu_Wanguo_Quantu_(坤輿萬國全圖).jpg|thumb|right|280px|『世界図屏風』のもととなったマテオ・リッチの『[[坤輿万国全図]]』]]
[[江戸時代]]になって、当時の[[世界地図]]をもとにした『世界図屏風』<ref group="注釈">[[マテオ・リッチ]]の『[[坤輿万国全図]]』がもとになっていることが多い。[[岡山市]]の[[妙覚寺 (岡山市)|妙覚寺]]所蔵の『世界図屏風』は[[岡山県]]指定の[[有形文化財]]となっている。</ref>が広く流布したが、ここにおける「世界」は今日の用例と同じ、「[[地球]]」「万国」の意味である。[[1867年]]([[慶応]]2年)初版の[[ジェームス・カーティス・ヘボン]]の『和英語林集成』では、これを踏襲して、地球、万国の意としての「世界」の語がみえる。また、[[井上哲次郎]]らの編集による『[[哲学字彙]]』(1912)には、world、cosmosの訳語として、「宇宙」とともに「世界」をもあてている。
[[堺屋太一]]は、[[チンギス・カン|チンギス・ハーン]]によって「世界」がはじめて意識されるようになったとしている。堺屋によれば、チンギス・ハーン自身が「東洋と西洋は1つ」という世界観をもっており、大量報復思想、信仰の自由とともに「ジンギスカンの三大発明」と呼んでいる<ref>堺屋『東大講義録』(2003)、同『堺屋太一が説くチンギス・ハンの世界』(2006)ほか</ref>。
[[File:Rotating earth (large).gif|thumb|right|180px]]
なお、世界にかかわりの深い用語である「[[国際化]](Internationalization)」は、17世紀ヨーロッパで成立し、その後世界的に拡大した[[主権国家体制]]の存在を前提にしている。それに対し、「[[グローバル化]](Globalization)」は政治や文化、経済上の国境にとらわれない動きである。すなわち、前者では[[国境]]の役割は依然大きく、たとえば文物が国境を通過することは監視すべきものとされるが、後者ではそもそも監視すべきではなく、秘匿性が重要な価値観のひとつとして考慮されている。国際化あるいはグローバル化の進展によって、各領域、各分野において[[トランスナショナルな関係]]も広がっている。現代においては、経済におけるグローバル化の進展とともに、とくに政治領域における[[地域化]](Regionalization)の進展も顕著である。なお、歴史的には、地域相互の間の関係を称するのに「域際(Interregional)」の語も多用されてきた。17世紀の[[オランダ]]は域際貿易や域際交流において重要な役割を果たしてきたといわれる。
== 世界の諸地域 ==
{{See also|大陸|大州|六大州|地球の半球}}
===半球による二分===
* [[赤道]]を基線として → [[北半球]]・[[南半球]]
* [[本初子午線]]や[[国際日付変更線|日付変更線]]を基線として → [[東半球]]・[[西半球]]
* [[陸]]と[[海]]の割合をもとにして → [[陸半球]]・[[水半球]]
=== 大局的な分類 ===
* [[アフロ・ユーラシア大陸|アフロ・ユーラシア]](ユーシリカ)
** [[ユーラシア大陸|ユーラシア]]
***[[アジア]]
***[[ヨーロッパ]]
** [[アフリカ]]
* [[アメリカ州|アメリカ]](南北アメリカ)
** [[北アメリカ]]
*** [[アングロアメリカ]]
** [[ラテンアメリカ]]
*** [[中央アメリカ]]
*** [[南アメリカ]]
* [[オセアニア]]
** [[オーストラリア大陸|オーストラリア]]
* [[北極]]
* [[南極]]
=== 局地的な分類 ===
* [[環太平洋]]・[[大西洋|環大西洋]]
* [[北極圏]]・[[南極圏]]・[[赤道|赤道地帯]]
* [[極東]]・[[中東]]・[[近東]]・[[中近東]]
=== 大州 ===
* [[ヨーロッパ|ヨーロッパ州]] → [[北ヨーロッパ]]・[[西ヨーロッパ]]・[[東ヨーロッパ]]・[[南ヨーロッパ]]
* [[アジア|アジア州]] → [[北アジア]]・[[中央アジア]]・[[南アジア]]・[[東アジア]]・[[東南アジア]]・[[西アジア]]
* [[アフリカ|アフリカ州]] → [[北アフリカ]]・[[中部アフリカ]]・[[東アフリカ]]・[[南部アフリカ]]・[[西アフリカ]]
* [[北アメリカ|北アメリカ州]] → [[北アメリカ]]・[[中央アメリカ]]・[[カリブ海地域]]
* [[南アメリカ|南アメリカ州]] → [[南アメリカ]]
* [[オセアニア|オセアニア州]] → [[ポリネシア]]・[[メラネシア]]・[[ミクロネシア]]・[[オーストララシア]]
== 国際機関・組織 ==
: 現在活動中の主な[[国際機関]]・国際組織・[[非政府組織]]。
* [[国際連合]](UN)
** [[国際連合児童基金]](UNICEF)
** [[国際労働機関]](ILO)
** [[国際連合教育科学文化機関]](UNESCO)
** [[国際通貨基金]](IMF)
** [[世界銀行]](WB)
** [[世界保健機関]](WHO)
** [[世界気象機関]](WMO)
** [[国際司法裁判所]](ICJ)
* [[世界貿易機関]](WTO)
* [[経済協力開発機構]](OECD)
* [[国際原子力機関]](IAEA)
* [[国際連合世界食糧計画]](WFP)
* [[G8]](主要国首脳会議)
* [[G20]](20ヶ国・地域首脳会合および20ヶ国・地域財務大臣・中央銀行総裁会議)
* [[欧州連合]](EU)
* [[欧州評議会]](CE)
* [[欧州安全保障協力機構]](OSCE)
* [[北大西洋条約機構]](NATO)
* [[アジア太平洋経済協力]](APEC)
* [[石油輸出国機構]](OPEC)
* [[アラブ石油輸出国機構]](OAPEC)
* [[アフリカ連合]](AU)
* [[アラブ連盟]](AL)
* [[イスラム諸国会議機構]](OIC)
* [[東南アジア諸国連合]](ASEAN)
* [[独立国家共同体]](CIS)
* [[イギリス連邦]](UK)
* [[朝鮮半島エネルギー開発機構]](KEDO)
* [[米州機構]](OAS)
* [[南アジア地域協力連合]](SAARC)
* [[中部アフリカ諸国経済共同体]](CEEAC)
* [[中部アフリカ経済通貨共同体]](CEMAC)
* [[南部アフリカ開発共同体]](SADC)
* [[環インド洋地域協力連合|環インド洋連合]](IORA)
=== NGO(非政府組織) ===
* [[赤十字社]]・[[国際赤十字赤新月社連盟]]・[[赤十字国際委員会]]
* [[国際標準化機構]]
* [[アムネスティ・インターナショナル]]
* [[国境なき医師団]]
* [[地雷禁止国際キャンペーン]]
* [[難民を助ける会]]
* [[グリーンピース (NGO)|グリーンピース]]
== その他 ==
* 1960〜1980年代の日本で、世界的な名声を得た日本人に対し、「世界の○○」という呼び名がよく用いられた。「世界の王」([[王貞治]])、「世界の馬場」([[ジャイアント馬場]])、「世界のミフネ」([[三船敏郎]])、「世界のナベサダ」([[渡辺貞夫]])など。これを元ネタにしたのが[[桂三度|世界のナベアツ]]である。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Sisterlinks
}}
=== 世界に関する一覧 ===
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* [[国の一覧]]
* [[100万都市の一覧]]
* [[人名一覧]]
* [[世界の宗教一覧]]
* [[世界の文字一覧]]
* [[言語の一覧|世界の言語一覧]]
* [[世界の通貨一覧]]
* [[世界各国関係記事の一覧]]
* [[世界一の一覧]]
* [[世界三大一覧]]
{{Div col end}}
===「世界」に関連するさらに掘り下げた内容の記事 ===
{{Div col}}
* [[世界経済]]
* [[世界標準]]
* [[世界時]] - [[標準時]]
* [[世界の地理]]
* [[世界の歴史]]
* [[世界地図]]
* [[人類]]
* [[世界軸]]
* [[世界の一体化]] - [[世界システム論]]
* [[世界観]] - [[世界像]]
* [[異世界]] - [[天界]] - [[霊界]] - [[魔界]]
* [[なぜ何もないのではなく、何かがあるのか]]
* [[多層性]]
{{Div col end}}
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
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8,721 | プレートテクトニクス | プレートテクトニクス(英: plate tectonics)は、1960年代後半以降に発展した地球科学の学説。地球の表面が、右図に示したような何枚かの固い岩盤(「プレート」と呼ぶ)で構成されており、このプレートが互いに動くことで大陸移動などが引き起こされると説明される。従来の大陸移動説・マントル対流説・海洋底拡大説など基礎として、「プレート」という概念を用いることでさらに体系化した理論で、地球科学において一大転換をもたらした。プレート理論とも呼ばれる。
地球は、半径約6,400キロメートルであるが、その内部構造を物質的に分類すると、外から順に下記のようになる。
地殻とマントルは岩石で構成されており、核は金属質である。マントルを構成する岩石は、地震波に対しては固体として振舞うが、長い時間単位で見れば流動性を有する。その流動性は、深さによって著しく変化し、上部マントルの最上部(深さ約100キロメートルまで)は固くてほとんど流れず、約100 - 400キロメートルまでの間は比較的流動性がある。地殻と上部マントル上端の固い部分を合わせてリソスフェア(岩石圏)と呼び、その下の流動性のある部分をアセノスフェア(岩流圏)と呼んで分類する。この厚さ約100キロメートルの固いリソスフェアが地表を覆っているわけであるが、リソスフェアはいくつかの「プレート」という巨大な板に分かれている。
地球表面が2種類のプレート群からなっていることは、地球表面の高度や深度の分布の割合にもあらわれている。地球表面は、大陸と大陸棚からなる高度1,500メートル - 深度500メートルの部分と、深度2,000 - 6,000メートルの海洋底と呼ばれる部分が多く、その中間である深度500 - 2,000メートルの海底は割合が少なくなっている。
プレートは大きく見ると十数枚に分けることができ、それぞれ固有の方向へ年に数センチメートルの速さで動かされることになる。大型のプレートとしては、ユーラシア大陸主要部や西日本などを含むユーラシアプレート、北アメリカ大陸やグリーンランド、東日本などの北アメリカプレート、太平洋底の大部分を占める太平洋プレート、インドとオーストラリア大陸を乗せたインド・オーストラリアプレート、アフリカ大陸を中心とするアフリカプレート、南アメリカ大陸を乗せた南アメリカプレート、南極大陸と周辺海域を含む南極プレートがある。このほか、アラビア半島のアラビアプレートやアメリカ・カリフォルニア沖にあるファンデフカプレート、中米の太平洋側に存在するココスプレート、カリブ海のカリブプレート、ペルー沖のナスカプレート、フィリピン海を中心に伊豆諸島・小笠原諸島・伊豆半島付近まで伸びるフィリピン海プレート、南米大陸と南極海の間のスコシア海に広がるスコシアプレートなどのような小規模なプレートもいくつか存在する。
プレートは大陸部分と海洋部分の双方を持っていることが多いが、大陸部分や海洋部分がそれぞれ大部分を占めているプレートも存在する。異なるプレートの海洋部分と大陸部分が衝突した場合、主に花崗岩からなる比重の軽い大陸部分が浮き上がり、主に玄武岩からなる比重の重い海洋部分が沈み込むこととなる。プレートの起源は古く、少なくとも38億年前には現在のようなプレートテクトニクスが存在していたと考えられている。プレートテクトニクスの進展に伴い各地に造山帯が成立し、これによって成立した小地塊が衝突して徐々に拡大していき、やがて大陸規模の陸地が各地に出現した。
プレートは海嶺で生まれ、ゆっくりとベルトコンベアのように動いて海溝へ沈み込む。大陸はプレートの動きに伴い離合集散を繰り返しており、しばしば地球上のすべての大陸が統合された超大陸が出現した。ツゾー・ウィルソンは、この大陸の離合集散がおよそ3億年ごとに一つのサイクルをなしていることを提唱し、これはウィルソンサイクルと呼ばれるようになった。
プレートが動く原因には、プレートが自らの重みで海溝に沈み込む説と、下のマントルの動きに合わせてプレートも動いていくという説の、2つの説が存在する。従来は前者の説が有力説であったが、2014年に日本の海洋研究開発機構の調査によって、北海道南東沖でマントルの動きに伴って地殻の動いた痕跡が発見され、後者の説にも有力な根拠が生じた。
プレートは新たに生まれることがあるほか、古いプレートは海溝の下に沈み込んで消滅することがある。一例として、かつて北西太平洋に存在したイザナギプレートは、約2500万年前に消滅している。プレート内部、特にマントルの部分をそのまま観察することは不可能であるが、かつての海洋プレートの残骸であるオフィオライトは世界各地に存在しており、ここから観察をすることが可能である。なかでもオマーン北部のハジャル山地(英語版)には世界最大のオフィオライト層が広がっており、盛んに調査が行われている。
プレートテクトニクスは地球内部の温度低下によっていずれ確実に終了するとされているものの、その時期についてはさまざまな説が存在する。
プレートは、その下にあるアセノスフェアの動きに乗って、おのおの固有な運動を行っている。アセノスフェアを含むマントルは、定常的に対流しており、一定の場所で上昇・移動・沈降している。プレートは、その動きに乗って移動しているが、プレート境界部では、造山運動、火山、断層、地震等の種々の地殻変動が発生している。プレートテクトニクスは、これらの現象に明確な説明を与えた。
大局的なプレートの運動は、すべて簡単な球面上の幾何学によって表される。また、局地的なプレート運動は平面上の幾何学でも十分に説明しうる。3つのプレートが集合する点(三重会合点)は、それらを形成するプレート境界の種類(発散型・収束型・トランスフォーム型)によって16種類に分類されるが、いずれも初等幾何学で、その安定性や移動速度・方向を完全に記述することができる。
一般に、プレートの運動は、隣接する2プレート間での相対運動でしか表されない。しかし、隣接するプレートの相対運動を次々と求めることで、地球上の任意の2プレート間の相対運動を記述することができる。近年では、準星の観測を応用した超長基線電波干渉法 (VLBI) と呼ばれる方法や、グローバル・ポジショニング・システム (GPS) などの「全地球衛星測位航法システム、(GNSS:Global Navigation Satellite System)」によって、プレートの絶対運動を直接観測することが可能となった。
マントルの上昇部に相当し、上の冒頭図では太平洋東部や大西洋中央を南北に走る境界線に相当する。この境界部は、毎年数cmずつ東西に拡大している。開いた割れ目には、地下から玄武岩質マグマが供給され、新しく地殻が作られている。この部分は、海洋底からかなり盛り上がっており、海嶺と呼ばれている。海嶺の拡大速度はそれぞれ異なり、拡大速度の遅い海嶺の中心部は深い渓谷をなしている。また、海嶺付近にはチムニーと呼ばれる熱水の噴出口も多数見つかっている。
発散型境界はほとんどが深海底に存在するが、まれに陸上にも存在するものもある。アイスランドは大西洋中央海嶺が海面上に姿を現した部分であり、活発な火山活動が起きている。また、アフリカ東部にある大地溝帯は中軸部の深い渓谷と周辺の高山の列からなっており、大西洋中央海嶺と地形が類似していて、ホット・プルームによってアフリカプレートが引き裂かれつつある部分と考えられている。
収束型境界ではプレートどうしが衝突し圧縮されるが、衝突するプレートの特性によって起きる現象が異なる。ただしどちらの境界においても造山運動が起き、造山帯を形成している。
すれ違う境界同士の間では、明瞭な横ずれ断層(トランスフォーム断層)が形成される。アメリカ西部のサンアンドレアス断層や、トルコの北アナトリア断層などが有名で、非常に活発に活動している。サンアンドレアス断層は大陸上にあるが、一連の海嶺の列(大西洋中央海嶺や東太平洋海嶺など)の間で、個々の海嶺と海嶺をつなぐものが多数を占める。理論上は、2プレート間の相対運動軸を通る大円に直交し、海嶺とも直交する。また、トランスフォーム型境界においても巨大な地震が発生しやすい。
1912年に、ドイツのアルフレート・ヴェーゲナーが提唱した大陸移動説は、かつて地球上にはパンゲア大陸と呼ばれる一つの超大陸のみが存在し、これが中生代末より分離・移動し、現在のような大陸の分布になったとするものである。その証拠として、大西洋をはさんだ北アメリカ大陸・南アメリカ大陸とヨーロッパ・アフリカ大陸の海岸線が相似である上、両岸で発掘された古生物の化石も一致することなどから、元は一つの大陸であったとする仮説であった。それまで古生物学の通説は、古生代までアフリカ大陸と南アメリカ大陸との間には狭い陸地が存在するとした陸橋説であったが、これをヴェーゲナーはアイソスタシー理論によって否定した。
古生物や地質、氷河分布などさまざまな証拠のあった大陸移動説であるが、当時の人には、大陸が動くこと自体が考えられないことであり、さらにヴェーゲナーの大陸移動説では、大陸が移動する原動力を地球の自転による遠心力と潮汐力に求め、その結果、赤道方向と西方へ動くものとしていたが、この説明には無理があったため激しい攻撃を受け、ヴェーゲナーが生存している間は注目される説ではなかった。
一方、アレクサンダー・デュ・トワやアーサー・ホームズのように大陸移動説を支持する学者も少数ながら存在し、なかでも1944年にアーサー・ホームズが発表したマントル対流説は、大陸移動の原動力を地球内部の熱対流に求めることを可能とした。1950年代に入ると古地磁気学分野での研究が進展し、各大陸の岩石に残る古地磁気を比較することで磁北移動の軌跡が導き出されたが、その軌跡は大陸ごとに異なっていた。しかし大陸が移動すると考えることで合理的な説明が可能となり、ここに大陸移動説は復活した。
同時期、海洋底の研究が進む中で、1961年から1962年にかけてハリー・ハモンド・ヘスやロバート・ディーツが海洋底拡大説を唱え、海洋地殻は海嶺で生み出され海溝で消滅すると唱えた。海嶺周辺の地磁気の調査によって数万年毎に発生する地磁気の逆転現象が、海嶺の左右で全く対称に記録されていることは知られていたが、1963年にフレデリック・ヴァイン(英語版)とドラモンド・マシューズ(英語版)によってテープレコーダーモデルとして理論化され、海嶺を中心として地殻が新しく生産されている証拠とされた。さらに1965年には、ツゾー・ウィルソンによってトランスフォーム断層の概念が提唱された。
こうして前提となる理論が出そろったところで、地震の発生がほぼ海嶺や海溝、トランスフォーム断層に限られていることが発見され、さらに地震のほぼ起きない安定した部分を取り巻くように地震発生地域が存在することが明らかとなった。この安定岩盤はプレートと呼ばれ、これがそれぞれ移動していることが発見されたことで、ツゾー・ウィルソンやダン・マッケンジー、ウィリアム・ジェイソン・モーガン、グザヴィエ・ル・ピションといった複数の学者によって1968年にプレートテクトニクス理論が完成した。
プレートテクトニクスの概念は西側諸国では速やかに普及し、1970年までには概ね受け入れられ地学にパラダイムシフトを起こした。一方で東側諸国は、理論構築に大きくかかわったのが北米や西欧といった西側であったため、この理論を帝国主義的思想として受け止め、完全に受け入れられるのはソ連が崩壊する90年代まで要した。日本では、1973年から高校の地学の教科書でプレートテクトニクスが導入されたことや、同年のベストセラーである小松左京の『日本沈没』でプレートテクトニクスが用いられていることもあり、一般社会に普及した。日本の地質学界ではマルクス主義思想が強かったことや、ソ連が推す地向斜造山論に傾倒していたことなども重なり、センメルヴェイス反射状の反応を起こし、学会で受け入れられるまでには一般社会で普及してから10年以上を要した。
岩石を主体とする地球型惑星や一部の衛星には内部が高熱となっているものが存在し、火山が存在するものもあるが、プレートテクトニクスの存在は確認されておらず、現在判明している中では地球がプレートテクトニクスの存在する唯一の天体となっている。例えば火星にはかつて火山活動が存在したものの、プレート移動が起きなかったため火山がホットスポット上から移動せず、噴出した溶岩が同じ場所に堆積し続けた。このため火星のオリンポス山は標高27キロメートルにも達する太陽系最大の火山となっているほか、ほかにもアルシア山(標高19キロメートル)やアスクレウス山(標高18キロメートル)、パボニス山(標高14キロメートル)といった巨大火山が点在する。金星にもプレートテクトニクスによって発生する地形上の特徴は見られず、プレートテクトニクスは存在しないと考えられている。
なお、2014年には木星の衛星であるエウロパにおいて、画像の精査により氷地殻の沈み込み帯と思われる地形が発見され、プレートテクトニクスが存在する可能性があるとの論文が発表されている。この場合、エウロパの地殻を構成する氷が地球における岩石と同様の動きを示し、内部のより高温の氷の上に乗った地表の氷地殻が沈み込みを起こすと推測されている。 | [
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] | プレートテクトニクスは、1960年代後半以降に発展した地球科学の学説。地球の表面が、右図に示したような何枚かの固い岩盤(「プレート」と呼ぶ)で構成されており、このプレートが互いに動くことで大陸移動などが引き起こされると説明される。従来の大陸移動説・マントル対流説・海洋底拡大説など基礎として、「プレート」という概念を用いることでさらに体系化した理論で、地球科学において一大転換をもたらした。プレート理論とも呼ばれる。 | {{混同|x1=この項目では、[[地球]]の表面が[[岩盤]]で構成されている説を記述しています。[[マントル]]の対流運動を説明する|プルームテクトニクス}}
{{Unsolved|地球科学|なぜ、[[太陽系]]の[[天体]]で[[地球]]にのみプレートテクトニクスがみられるのか?プレート運動はどのようにして始まったのか?}}
[[File:Plates tect2 ja.svg|thumb|300px|現在の主要なプレート15個(過去のプレートも含めた詳細は[[プレート]]を参照の事)]]
[[ファイル:Plate.png|サムネイル|[[日本列島]]周辺のプレートの模式図]]
'''プレートテクトニクス'''({{Lang-en-short|plate tectonics}})は、[[1960年代]]後半以降に発展した[[地球科学]]の[[学説]]。[[地球]]の表面が、右図に示したような何枚かの固い岩盤(「'''[[プレート]]'''」と呼ぶ)で構成されており、このプレートが互いに動くことで大陸移動などが引き起こされると説明される。従来の[[大陸移動説]]・[[マントル対流説]]・[[海洋底拡大説]]など基礎として、「プレート」という概念を用いることでさらに体系化した[[理論]]で、地球科学において一大転換をもたらした<ref>「基礎地球科学 第2版」p32-34 西村祐二郞編著 朝倉書店 2010年11月30日第2版第1刷</ref>。'''プレート理論'''とも呼ばれる。
== プレートとは ==
[[画像:Earth layers model.png|thumb|200px|'''地球の内部構造''' 薄い[[地殻]]の下に[[上部マントル]]と[[下部マントル]]があり、中心部の白っぽい部分は[[核 (天体)|核]]。プレートは地殻と上部マントルの最上部が一体となった岩板]]
[[File:地球の内部構造.png|thumb|地球内部の構造]]
{{Main|プレート|地球#構造}}
地球は、半径約6,400キロメートルであるが、その内部構造を物質的に分類すると、外から順に下記のようになる<ref name="名前なし-1">「せまりくる「天災」とどう向き合うか」p16-17 鎌田浩毅監修・著 ミネルヴァ書房 2015年12月15日初版第1刷</ref>。
#深さ約5 - 40キロメートルまで : '''[[地殻]]'''
#深さ約670キロメートルまで : '''[[上部マントル]]''' - 最上層、低速度層(アセノスフェア、岩流圏)、遷移層
#深さ約2,900キロメートルまで : '''[[下部マントル]]''' - メソスフェア(固い岩石の層)
#深さ約5,100キロメートルまで : '''[[外核]]'''(外部コア)
#中心 : '''[[内核]]'''(内部コア)
地殻と[[マントル#地球|マントル]]は[[岩石]]で構成されており、[[核 (天体)#地球|核]]は[[金属]]質である。マントルを構成する岩石は、[[地震波]]に対しては[[固体]]として振舞うが、長い時間単位で見れば[[流動性]]を有する。その流動性は、深さによって著しく変化し、上部マントルの最上部(深さ約100キロメートルまで)は固くてほとんど流れず、約100 - 400キロメートルまでの間は比較的流動性がある。地殻と上部マントル上端の固い部分を合わせて'''[[リソスフェア]]'''(岩石圏)と呼び、その下の流動性のある部分を[[アセノスフェア]](岩流圏)と呼んで分類する。この厚さ約100キロメートルの固いリソスフェアが地表を覆っているわけであるが、リソスフェアはいくつかの「[[プレート]]」という巨大な板に分かれている<ref name="名前なし-1"/>。
地球表面が2種類のプレート群からなっていることは、地球表面の[[高度]]や深度の分布の割合にもあらわれている。地球表面は、[[大陸]]と[[大陸棚]]からなる高度1,500メートル - 深度500メートルの部分と、深度2,000 - 6,000メートルの[[海洋底]]と呼ばれる部分が多く、その中間である深度500 - 2,000メートルの海底は割合が少なくなっている。
プレートは大きく見ると十数枚に分けることができ、それぞれ固有の方向へ年に数センチメートルの速さで動かされることになる。大型のプレートとしては、ユーラシア大陸主要部や西日本などを含む[[ユーラシアプレート]]、北アメリカ大陸やグリーンランド、東日本などの[[北アメリカプレート]]、太平洋底の大部分を占める[[太平洋プレート]]、インドとオーストラリア大陸を乗せた[[インド・オーストラリアプレート]]、アフリカ大陸を中心とする[[アフリカプレート]]、南アメリカ大陸を乗せた[[南アメリカプレート]]、南極大陸と周辺海域を含む[[南極プレート]]がある。このほか、アラビア半島の[[アラビアプレート]]やアメリカ・カリフォルニア沖にある[[ファンデフカプレート]]、中米の太平洋側に存在する[[ココスプレート]]、カリブ海の[[カリブプレート]]、ペルー沖の[[ナスカプレート]]、フィリピン海を中心に伊豆諸島・小笠原諸島・伊豆半島付近まで伸びる[[フィリピン海プレート]]、南米大陸と南極海の間のスコシア海に広がる[[スコシアプレート]]などのような小規模なプレートもいくつか存在する。
プレートは大陸部分と海洋部分の双方を持っていることが多いが、大陸部分や海洋部分がそれぞれ大部分を占めているプレートも存在する<ref>「基礎地球科学 第2版」p34 西村祐二郞編著 朝倉書店 2010年11月30日第2版第1刷</ref>。異なるプレートの海洋部分と大陸部分が衝突した場合、主に[[花崗岩]]からなる比重の軽い大陸部分が浮き上がり、主に[[玄武岩]]からなる比重の重い海洋部分が沈み込むこととなる<ref>「基礎地球科学 第2版」p35 西村祐二郞編著 朝倉書店 2010年11月30日第2版第1刷</ref>。プレートの起源は古く、少なくとも38億年前には現在のようなプレートテクトニクスが存在していたと考えられている<ref>「基礎地球科学 第2版」p141 西村祐二郞編著 朝倉書店 2010年11月30日第2版第1刷</ref>。プレートテクトニクスの進展に伴い各地に造山帯が成立し、これによって成立した小地塊が衝突して徐々に拡大していき、やがて大陸規模の陸地が各地に出現した<ref>「基礎地球科学 第2版」p142 西村祐二郞編著 朝倉書店 2010年11月30日第2版第1刷</ref>。
プレートは[[海嶺]]で生まれ、ゆっくりとベルトコンベアのように動いて[[海溝]]へ沈み込む。大陸はプレートの動きに伴い離合集散を繰り返しており、しばしば地球上のすべての大陸が統合された[[超大陸]]が出現した。ツゾー・ウィルソンは、この大陸の離合集散がおよそ3億年ごとに一つのサイクルをなしていることを提唱し、これは[[ウィルソンサイクル]]と呼ばれるようになった<ref>「山はどうしてできるのか ダイナミックな地球科学入門」p111-113 藤岡換太郎 講談社 2012年1月20日第1刷</ref>。
プレートが動く原因には、プレートが自らの重みで海溝に沈み込む説と、下のマントルの動きに合わせてプレートも動いていくという説の、2つの説が存在する。従来は前者の説が有力説であった<ref>「基礎地球科学 第2版」p94-95 西村祐二郞編著 朝倉書店 2010年11月30日第2版第1刷</ref>が、2014年に日本の[[海洋研究開発機構]]の調査によって、北海道南東沖でマントルの動きに伴って地殻の動いた痕跡が発見され、後者の説にも有力な根拠が生じた<ref name="名前なし-2">https://www.jamstec.go.jp/j/about/press_release/20140331/ 「プレートはなぜ動くのか?~プレート運動の原動力に関する新しい発見~」独立行政法人海洋研究開発機構 2014年3月31日 2020年3月11日閲覧</ref>。
プレートは新たに生まれることがあるほか、古いプレートは海溝の下に沈み込んで消滅することがある。一例として、かつて北西太平洋に存在した[[イザナギプレート]]は、約2500万年前に消滅している<ref name="名前なし-2"/>。プレート内部、特にマントルの部分をそのまま観察することは不可能であるが、かつての海洋プレートの残骸である[[オフィオライト]]は世界各地に存在しており、ここから観察をすることが可能である。なかでも[[オマーン]]北部の{{仮リンク|ハジャル山地|en|Al Hajar Mountains}}には世界最大のオフィオライト層が広がっており、盛んに調査が行われている<ref>https://www.jamstec.go.jp/j/about/press_release/quest/20170714/index.html 「オマーン掘削プロジェクト~かつての海洋プレートを掘る!~」独立行政法人海洋研究開発機構 2017年7月14日 2020年3月11日閲覧</ref>。
プレートテクトニクスは地球内部の温度低下によっていずれ確実に終了するとされているものの、その時期についてはさまざまな説が存在する<ref>https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/b/083100222/?P=1 「【解説】地球のプレート運動、14.5億年後に終了説」ナショナルジオグラフィック日本版 2018.09.03 2020年6月10日閲覧</ref>。
== プレートの動き ==
[[画像:Tectonic plate boundaries.png|thumb|350px|'''プレートの境界''' (Illustration by Jose F. Vigil. USGS)]]
プレートは、その下にあるアセノスフェアの動きに乗って、おのおの固有な運動を行っている。アセノスフェアを含むマントルは、定常的に対流しており、一定の場所で上昇・移動・沈降している。プレートは、その動きに乗って移動しているが、プレート境界部では、[[造山運動]]、[[火山]]、[[断層]]、[[地震]]等の種々の[[地殻変動]]が発生している。プレートテクトニクスは、これらの[[現象]]に明確な説明を与えた<ref>「石と人間の歴史」p11-12 蟹澤聰史 中公新書 2010年11月25日発行</ref>。
大局的なプレートの運動は、すべて簡単な[[球面]]上の[[幾何学]]によって表される。また、局地的なプレート運動は[[平面]]上の幾何学でも十分に説明しうる。3つのプレートが集合する点([[三重会合点]])は、それらを形成するプレート境界の種類(発散型・収束型・トランスフォーム型)によって16種類に分類されるが、いずれも初等幾何学で、その安定性や移動速度・方向を完全に記述することができる。
一般に、プレートの運動は、隣接する2プレート間での相対運動でしか表されない。しかし、隣接するプレートの相対運動を次々と求めることで、地球上の任意の2プレート間の相対運動を記述することができる。近年では、[[準星]]の観測を応用した[[超長基線電波干渉法]] (VLBI) と呼ばれる方法や、[[グローバル・ポジショニング・システム]] (GPS) などの「全地球[[衛星測位システム|衛星測位航法システム]]、(GNSS:Global Navigation Satellite System)」によって、プレートの絶対運動を直接観測することが可能となった<ref>「図説 地球科学の事典」p110-111 鳥海光弘編集代表 朝倉書店 2018年4月25日初版第1刷</ref>。
== プレートの境界 ==
=== 発散型境界(広がる境界) ===
{{Main|発散型境界}}
マントルの上昇部に相当し、上の冒頭図では[[太平洋]]東部や[[大西洋]]中央を南北に走る境界線に相当する。この境界部は、毎年数cmずつ東西に拡大している。開いた割れ目には、地下から[[玄武岩]]質マグマが供給され、新しく地殻が作られている。この部分は、海洋底からかなり盛り上がっており、[[海嶺]]と呼ばれている<ref>「基礎地球科学 第2版」p36 西村祐二郞編著 朝倉書店 2010年11月30日第2版第1刷</ref>。海嶺の拡大速度はそれぞれ異なり、拡大速度の遅い海嶺の中心部は深い渓谷をなしている<ref>「図説 地球科学の事典」p176-177 鳥海光弘編集代表 朝倉書店 2018年4月25日初版第1刷</ref>。また、海嶺付近にはチムニーと呼ばれる[[熱水噴出孔|熱水の噴出口]]も多数見つかっている<ref>「山はどうしてできるのか ダイナミックな地球科学入門」p102-104 藤岡換太郎 講談社 2012年1月20日第1刷</ref>。
発散型境界はほとんどが深海底に存在するが、まれに陸上にも存在するものもある。[[アイスランド]]は大西洋中央海嶺が海面上に姿を現した部分であり、活発な火山活動が起きている<ref>「山はどうしてできるのか ダイナミックな地球科学入門」p105 藤岡換太郎 講談社 2012年1月20日第1刷</ref>。また、アフリカ東部にある[[大地溝帯]]は中軸部の深い渓谷と周辺の高山の列からなっており、大西洋中央海嶺と地形が類似していて<ref>「山はどうしてできるのか ダイナミックな地球科学入門」p88 藤岡換太郎 講談社 2012年1月20日第1刷</ref>、[[ホット・プルーム]]によってアフリカプレートが引き裂かれつつある部分と考えられている<ref>「山はどうしてできるのか ダイナミックな地球科学入門」p123-124 藤岡換太郎 講談社 2012年1月20日第1刷</ref>。
=== 収束型境界(せばまる境界) ===
[[画像:Oceanic-continental convergence Fig21oceancont.gif|thumb|沈み込み型:海洋-大陸]]
[[画像:Oceanic-oceanic convergence Fig21oceanocean.gif|thumb|沈み込み型:海洋-海洋]]
[[画像:Continental-continental convergence Fig21contcont.gif|thumb|衝突型]]
{{Main|収束型境界}}
収束型境界ではプレートどうしが衝突し圧縮されるが、衝突するプレートの特性によって起きる現象が異なる。ただしどちらの境界においても[[造山運動]]が起き、[[造山帯]]を形成している<ref>「基礎地球科学 第2版」p113 西村祐二郞編著 朝倉書店 2010年11月30日第2版第1刷</ref>。
;[[沈み込み]]型
:大陸プレートと海洋プレート、または海洋プレートどうしが衝突した場合、比重の大きいプレートが比重の小さいプレートの下に沈み込み、深い[[海溝]]を形成する。大陸プレートは海洋プレートより比重が軽いため、この2者が衝突した場合は海洋プレートが大陸プレートの下に沈み込むこととなる。この沈み込みによって引きずり込まれた上部プレートが反発することで[[地震]]が発生する。こうしたプレートの境界で起きる地震は[[プレート間地震]]と呼ばれるが、このほかにプレートの下に沈み込んだプレート(スラブ)で起きるスラブ内地震も存在する<ref>「基礎地球科学 第2版」p194 西村祐二郞編著 朝倉書店 2010年11月30日第2版第1刷</ref>。また地下深く沈んだプレートから分離された水が、周辺の岩石の[[融点]]を下げるため、大陸プレートの深部において[[マグマ]]が発生し、多くの[[火山]]を生成する<ref name="名前なし-3">「山はどうしてできるのか ダイナミックな地球科学入門」p156-158 藤岡換太郎 講談社 2012年1月20日第1刷</ref>。マグマの発生地点は海洋プレートが大陸プレートに沈み込む地点ではなく、そこからさらに大陸プレート側に入った地点であるため、沈み込みの起きている海溝から一定の距離を開けて、海溝に平行する[[火山列]]が形成されることとなる。この火山列より海溝側には火山が存在しないため、これを火山フロント(火山前線)と呼ぶ<ref>「山はどうしてできるのか ダイナミックな地球科学入門」p192-194 藤岡換太郎 講談社 2012年1月20日第1刷</ref>。この火山活動と大陸同士の衝突による褶曲によって、大陸プレート側には陸弧と呼ばれる大山脈が形成されることがある。陸弧の後背地が陥没して[[背弧海盆]]が形成されることも多く、この場合陸弧は大陸から切り離されて[[島弧]]となる<ref>「図説 地球科学の事典」p118 鳥海光弘編集代表 朝倉書店 2018年4月25日初版第1刷</ref>。また、海洋プレートと海洋プレートが衝突する場合は、古いプレートの方が冷たく重いために新しいプレートの下に潜り込む。このとき、海洋プレートどうしの衝突によっても島弧が形成される場合がある<ref name="名前なし-4">「図説 地球科学の事典」p172-173 鳥海光弘編集代表 朝倉書店 2018年4月25日初版第1刷</ref>。この島弧と海溝はセットとして存在しており、島弧・海溝系と呼ばれる<ref>「山はどうしてできるのか ダイナミックな地球科学入門」p192 藤岡換太郎 講談社 2012年1月20日第1刷</ref>。
:海嶺で作られて以来、長い時間をかけて海の底を移動してきたプレートには、[[チャート (岩石)|チャート]]、[[石灰岩]]、[[砂岩]]、[[泥岩]]といった多くの[[堆積物]]が載っているため、プレートが沈み込む際に陸側のプレートにそれらが張り付く現象が起こることがある。これを付加と言い、そうしてできたものを[[付加体]]と呼ぶ。[[日本列島]]もこのようにしてできた部分が多い<ref>「せまりくる「天災」とどう向き合うか」p26 鎌田浩毅監修・著 ミネルヴァ書房 2015年12月15日初版第1刷</ref>。一方、付加体がほぼ存在せず、逆に上部プレートの一部を侵食し削りながら沈み込むタイプの境界も多く、沈み込み型境界の57%はこのタイプである。境界が付加型になるか侵食型になるかは沈み込みの速度に依存し、速度が遅いほど堆積物が沈み込めず付加体となりやすい<ref>「図説 地球科学の事典」p10-11 鳥海光弘編集代表 朝倉書店 2018年4月25日初版第1刷</ref>。沈み込んだ海洋プレートの残骸はスラブと呼ばれ、冷たく重いためにマントル内でさらに沈み込んでいき、外核とマントルの境界にまで達するものもある<ref>「図説 地球科学の事典」p72 鳥海光弘編集代表 朝倉書店 2018年4月25日初版第1刷</ref>。
:日本近海は北の北アメリカプレート、東の太平洋プレート、南のフィリピン海プレート、西のユーラシアプレートの4つのプレートの境界が近接しており、プレートの沈み込み運動が激しい地域の一つである<ref>「山はどうしてできるのか ダイナミックな地球科学入門」p191-192 藤岡換太郎 講談社 2012年1月20日第1刷</ref>。[[東北日本]]の東の海中では、約1億年前に太平洋東部で生まれた[[太平洋プレート]]([[比重]]の大きい[[海洋プレート]])が、東北日本を載せた[[北アメリカプレート]](比重の小さい[[大陸プレート]])に衝突している。重い太平洋プレートは、軽い北アメリカプレートにぶつかって、[[日本海溝]]に斜め下40 - 50°の角度で沈み込んでいる。地下深く沈んだ太平洋プレートから分離された水は周辺の岩石の[[融点]]を下げて[[マグマ]]が発生し、北アメリカプレート側に多くの[[火山]]を生成する<ref name="名前なし-3"/>。火山から噴出した溶岩はやがて陸地を形成し、2,000万年前から1,500万年前にかけて火山列の後方に形成された[[背弧海盆]]である[[日本海]]によってアジア大陸から切り離され、[[島弧]]を形成した<ref>「基礎地球科学 第2版」p172 西村祐二郞編著 朝倉書店 2010年11月30日第2版第1刷</ref>。太平洋プレートに衝突され押された北アメリカプレートは、圧縮応力を受けてひび割れ、たくさんの断層が発生し、[[北上山地]]などが生まれた。同様に、日本の南海上にある[[南海トラフ]]ではフィリピン海プレートがユーラシアプレートの下に沈み込んでおり、[[伊豆・小笠原海溝]]においては太平洋プレートがフィリピン海プレートの下に沈み込んでいる<ref name="名前なし-4"/>。これによって、フィリピン海プレート側には[[伊豆・小笠原・マリアナ島弧]]と呼ばれる大規模な火山島弧が形成されている<ref>「基礎地球科学 第2版」p173 西村祐二郞編著 朝倉書店 2010年11月30日第2版第1刷</ref>。[[海溝]]では、[[日本海溝]]に[[:en:Daiichi-Kashima_Seamount|第一鹿島海山]]が沈み込んでいる様子なども観察されている<ref>「山はどうしてできるのか ダイナミックな地球科学入門」p202 藤岡換太郎 講談社 2012年1月20日第1刷</ref>。
;衝突型
:大陸プレートどうしが衝突する場合はどちらも比重が軽いために沈み込みが発生せず、境界が隆起し続けるために大山脈が形成される<ref>「基礎地球科学 第2版」p114 西村祐二郞編著 朝倉書店 2010年11月30日第2版第1刷</ref>。現在もっとも活発で大規模な大陸衝突が起きているのは[[ヒマラヤ]]である。元来、[[南極大陸]]と一緒だった[[インドプレート]]が分離・北上して、約4,500万年前に[[ユーラシアプレート]]と衝突し、そのままゆっくり北上を続けている。大陸プレート同士の衝突のため、日本近海のような一方的な沈み込みは生起せず、インドプレートがユーラシアプレートの下に部分的にもぐりこみながら押し上げている。その結果、両大陸間の堆積物などが付加体となって盛り上がり、8,000メートル級の[[高山]]が並ぶ[[ヒマラヤ山脈]]や、広大な[[チベット高原]]が発達した<ref>「山はどうしてできるのか ダイナミックな地球科学入門」p128-132 藤岡換太郎 講談社 2012年1月20日第1刷</ref>。
:規模は小さいながらも、衝突運動が現在でも進行している地域としては、[[ニュージーランド]]([[南島 (ニュージーランド)|南島]])や[[台湾]]が挙げられる。これらは、世界で最も速く成長している[[山地]]であり、台湾の隆起速度は、[[海岸|海岸線]]でも年間5ミリメートルを超える。
:日本においては、[[日高山脈]]や[[丹沢山地]]が衝突型造山帯である<ref>「山はどうしてできるのか ダイナミックな地球科学入門」p128 藤岡換太郎 講談社 2012年1月20日第1刷</ref>。特に、丹沢山地は[[伊豆半島]]の衝突によってできたものであり、この衝突過程は現在も進行中である<ref>「山はどうしてできるのか ダイナミックな地球科学入門」p132 藤岡換太郎 講談社 2012年1月20日第1刷</ref>。ただし、日高山脈は活動を終えている。
:過去の大規模な大陸衝突の跡は多く見つかっている。有名なものは、[[アルプス山脈|ヨーロッパアルプス]]、[[アパラチア山脈]]、[[ウラル山脈]]など。大陸衝突の過程には、未知の部分が非常に多く残っている。その理由は、沈み込み型境界では、深部で発生する地震の位置から地下のプレート形状を推定できるのに対して、大陸衝突帯では、深部で地震が発生しないからである。
=== トランスフォーム型境界(ずれる境界) ===
{{Main|トランスフォーム断層}}
すれ違う境界同士の間では、明瞭な[[横ずれ断層]]([[トランスフォーム断層]])が形成される。アメリカ西部の[[サンアンドレアス断層]]や、[[トルコ]]の[[北アナトリア断層]]などが有名で、非常に活発に活動している。サンアンドレアス断層は大陸上にあるが、一連の海嶺の列([[大西洋中央海嶺]]や[[東太平洋海嶺]]など)の間で、個々の海嶺と海嶺をつなぐものが多数を占める<ref>「基礎地球科学 第2版」p38 西村祐二郞編著 朝倉書店 2010年11月30日第2版第1刷</ref>。理論上は、2プレート間の相対運動軸を通る[[大円]]に[[直交]]し、海嶺とも直交する<ref name="名前なし-5">「図説 地球科学の事典」p110 鳥海光弘編集代表 朝倉書店 2018年4月25日初版第1刷</ref>。また、トランスフォーム型境界においても巨大な地震が発生しやすい<ref name="名前なし-5"/>。
== プレートテクトニクスに至る概念の発達 ==
[[画像:Snider-Pellegrini Wegener fossil map-ja.svg|thumb|250px|'''ゴンドワナ大陸と古生物の化石の分布の関係''' [[キノグナトゥス|{{Snamei|Cynognathus}}]](橙)と[[リストロサウルス|{{Snamei|Lystrosaurus}}]](茶)は[[三畳紀]]に分布した陸棲の[[単弓類]]。{{Snamei|Cynognathus}} は体長3mに達した。[[メソサウルス|{{Snamei|Mesosaurus}}]](青)は淡水性の爬虫類。[[グロッソプテリス|{{Snamei|Glossopteris}}]](緑)は[[シダ]]類であり、南半球すべてで化石が見つかっていることから、南半球の大陸が一続きであったことを示唆する。以上の互いに補強しあう証拠から現在の大陸が図中のように結合して[[ゴンドワナ大陸]]を形成していたという仮定には妥当性がある。]]
[[画像:Oceanic.Stripe.Magnetic.Anomalies.Scheme.gif|thumb|250px|'''中央海嶺と周囲の磁化された岩石の分布''' 溶岩は[[キュリー点]]を下回ると同時に磁化され、磁区の方向がそろう(熱残留磁気)。一方、地球の磁場が何度か逆転したことは、火山研究から生まれた古地磁気学により実証されている。中央海嶺周辺の岩石を調べると、海嶺と並行して磁化の方向が現在と同じ部分(着色部)、逆の部分(白)が左右に同じパターンをなして並んでいる。以上の証拠から、海洋底が中央海嶺を中心に拡大したことが推論できる。]]
{{See also|大陸移動説|アイソスタシー|マントル対流説|海洋底拡大説}}
[[1912年]]に、[[ドイツ]]の[[アルフレート・ヴェーゲナー]]が提唱した[[大陸移動説]]は、かつて地球上には[[パンゲア大陸]]と呼ばれる一つの[[超大陸]]のみが存在し、これが[[中生代]]末より分離・移動し、現在のような大陸の分布になったとするものである。その証拠として、大西洋をはさんだ[[北アメリカ大陸]]・[[南アメリカ大陸]]と[[ヨーロッパ大陸|ヨーロッパ]]・[[アフリカ大陸]]の海岸線が相似である上、両岸で発掘された[[古生物]]の[[化石]]も一致することなどから、元は一つの大陸であったとする仮説であった<ref>「山はどうしてできるのか ダイナミックな地球科学入門」p73 藤岡換太郎 講談社 2012年1月20日第1刷</ref>。それまで[[古生物学]]の[[通説]]は、[[古生代]]までアフリカ大陸と南アメリカ大陸との間には狭い陸地が存在するとした[[陸橋説]]であったが、これをヴェーゲナーは[[アイソスタシー]]理論によって否定した<ref>「地質学の歴史」p284-287 ガブリエル・ゴオー著 菅谷暁訳 みすず書房 1997年6月6日発行</ref>。
古生物や地質、氷河分布などさまざまな証拠のあった大陸移動説であるが、当時の人には、大陸が動くこと自体が考えられないことであり、さらにヴェーゲナーの大陸移動説では、大陸が移動する原動力を地球の[[自転]]による[[遠心力]]と[[潮汐力]]に求め、その結果、[[赤道]]方向と西方へ動くものとしていたが<ref>「地質学の歴史」p289 ガブリエル・ゴオー著 菅谷暁訳 みすず書房 1997年6月6日発行</ref>、この説明には無理があったため激しい攻撃を受け、ヴェーゲナーが生存している間は注目される説ではなかった<ref>「地質学の歴史」p290 ガブリエル・ゴオー著 菅谷暁訳 みすず書房 1997年6月6日発行</ref>。
一方、[[アレクサンダー・デュ・トワ]]や[[アーサー・ホームズ]]のように大陸移動説を支持する学者も少数ながら存在し、なかでも1944年にアーサー・ホームズが発表した[[マントル対流説]]は、大陸移動の原動力を地球内部の[[熱対流]]に求めることを可能とした<ref>「山はどうしてできるのか ダイナミックな地球科学入門」p80-81 藤岡換太郎 講談社 2012年1月20日第1刷</ref>。[[1950年代]]に入ると[[古地磁気学]]分野での研究が進展し、各大陸の岩石に残る[[古地磁気]]を比較することで[[磁北]]移動の軌跡が導き出されたが、その軌跡は大陸ごとに異なっていた。しかし大陸が移動すると考えることで合理的な説明が可能となり、ここに大陸移動説は復活した<ref>「山はどうしてできるのか ダイナミックな地球科学入門」p82-84 藤岡換太郎 講談社 2012年1月20日第1刷</ref>。
同時期、海洋底の研究が進む中で、1961年から1962年にかけて[[ハリー・ハモンド・ヘス]]や[[ロバート・ディーツ]]が[[海洋底拡大説]]を唱え、海洋地殻は海嶺で生み出され海溝で消滅すると唱えた<ref>「基礎地球科学 第2版」p86-87 西村祐二郞編著 朝倉書店 2010年11月30日第2版第1刷</ref>。海嶺周辺の[[地磁気]]の調査によって数万年毎に発生する[[地磁気逆転|地磁気の逆転現象]]が、海嶺の左右で全く対称に記録されていることは知られていたが、1963年に{{仮リンク|フレデリック・ヴァイン|en|Frederick Vine}}と{{仮リンク|ドラモンド・マシューズ|en|Drummond Matthews}}によってテープレコーダーモデルとして理論化され<ref>「基礎地球科学 第2版」p88 西村祐二郞編著 朝倉書店 2010年11月30日第2版第1刷</ref>、海嶺を中心として地殻が新しく生産されている証拠とされた<ref>「太陽系探検ガイド エクストリームな50の場所」p18 デイヴィッド・ベイカー、トッド・ラトクリフ著 渡部潤一監訳 後藤真理子訳 朝倉書店 2012年10月10日初版第1刷</ref>。さらに1965年には、[[ツゾー・ウィルソン]]によってトランスフォーム断層の概念が提唱された<ref>「基礎地球科学 第2版」p89-90 西村祐二郞編著 朝倉書店 2010年11月30日第2版第1刷</ref>。
こうして前提となる理論が出そろったところで、地震の発生がほぼ海嶺や海溝、トランスフォーム断層に限られていることが発見され、さらに地震のほぼ起きない安定した部分を取り巻くように地震発生地域が存在することが明らかとなった。この安定岩盤はプレートと呼ばれ、これがそれぞれ移動していることが発見されたことで、ツゾー・ウィルソンや[[ダン・マッケンジー]]、[[ウィリアム・ジェイソン・モーガン]]、[[グザヴィエ・ル・ピション]]といった複数の学者によって[[1968年]]にプレートテクトニクス理論が完成した<ref>「地質学の歴史」p307-308 ガブリエル・ゴオー著 菅谷暁訳 みすず書房 1997年6月6日発行</ref><ref>「山はどうしてできるのか ダイナミックな地球科学入門」p97-99 藤岡換太郎 講談社 2012年1月20日第1刷</ref>。
プレートテクトニクスの[[概念]]は[[西側諸国]]では速やかに普及し、1970年までには概ね受け入れられ地学に[[パラダイムシフト]]を起こした。一方で[[東側諸国]]は、理論構築に大きくかかわったのが[[北米]]や[[西欧]]といった西側であったため、この理論を[[帝国主義]]的思想として受け止め、完全に受け入れられるのは[[ソビエト連邦の崩壊|ソ連が崩壊]]する90年代まで要した。日本では、1973年から高校の地学の教科書でプレートテクトニクスが導入された<ref group="注釈">地向斜造山論との併用。地向斜説が教科書から無くなるのは90年代以降になる。</ref>ことや、同年のベストセラーである[[小松左京]]の『[[日本沈没]]』でプレートテクトニクスが用いられていることもあり、一般社会に普及した<ref>https://www.bousai.go.jp/kyoiku/keigen/torikumi/ssh19013.html 「映画「日本沈没」と地球科学に関するQ&Aコーナー(減災への取組)」日本国内閣府・防災情報のページ 2020年6月10日閲覧</ref>。日本の地質学界では[[マルクス主義]]思想が強かったことや、ソ連が推す[[地向斜|地向斜造山論]]に傾倒していたことなども重なり、[[センメルヴェイス反射]]状の反応を起こし、学会で受け入れられるまでには一般社会で普及してから10年以上を要した<ref>{{Cite web|和書|author=伊与原 新 |date=2018-09-09 |url=https://gendai.media/articles/-/57443?page=2 |title=プレートテクトニクスを拒んだ科学者たち |website=gendai.ismedia.jp |publisher=[[週刊現代]] |accessdate=2020-05-16}}</ref>。
== その他 ==
[[岩石]]を主体とする[[地球型惑星]]や一部の[[衛星]]には内部が高熱となっているものが存在し、火山が存在するものもあるが、プレートテクトニクスの存在は確認されておらず、現在判明している中では地球がプレートテクトニクスの存在する唯一の天体となっている<ref>http://www.eps.s.u-tokyo.ac.jp/epphys/solid/plate.html 「プレート・テクトニクス」東京大学地球惑星科学専攻 2020年6月10日閲覧</ref>。例えば[[火星]]にはかつて火山活動が存在したものの、プレート移動が起きなかったため火山が[[ホットスポット]]上から移動せず、噴出した溶岩が同じ場所に堆積し続けた<ref>「太陽系探検ガイド エクストリームな50の場所」p5 デイヴィッド・ベイカー、トッド・ラトクリフ著 渡部潤一監訳 後藤真理子訳 朝倉書店 2012年10月10日初版第1刷</ref>。このため火星の[[オリンポス山 (火星)|オリンポス山]]は標高27キロメートルにも達する太陽系最大の火山となっているほか、ほかにもアルシア山(標高19キロメートル)やアスクレウス山(標高18キロメートル)、パボニス山(標高14キロメートル)といった巨大火山が点在する<ref>「Newton別冊 探査機が明らかにした太陽系のすべて」p42 ニュートンプレス 2006年11月15日発行</ref>。[[金星]]にもプレートテクトニクスによって発生する地形上の特徴は見られず、プレートテクトニクスは存在しないと考えられている<ref>http://www.isas.jaxa.jp/j/column/inner_planet/12.shtml 「最終回:金星の溶岩が刻んだ6800kmの溝地形 / 内惑星探訪」宇宙科学研究所(ISASニュース 2004年9月 No.282掲載) 2020年6月10日閲覧</ref>。
なお、2014年には[[木星]]の[[衛星]]である[[エウロパ (衛星)|エウロパ]]において、画像の精査により氷地殻の[[沈み込み帯]]と思われる地形が発見され、プレートテクトニクスが存在する可能性があるとの論文が発表されている。この場合、エウロパの地殻を構成する[[氷]]が地球における岩石と同様の動きを示し、内部のより高温の氷の上に乗った地表の氷地殻が沈み込みを起こすと推測されている<ref>https://www.afpbb.com/articles/-/3025284 「木星の衛星エウロパでも地殻変動か、衛星画像に証拠 研究」AFPBB 2014年9月8日 2023年4月30日閲覧</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書
|author = [[アルフレート・ヴェーゲナー]]
|translator = [[都城秋穂]]・紫藤文子
|title = [[大陸と海洋の起源]]
|year = 1981
|publisher = [[岩波書店]]
|series = [[岩波文庫]]
|isbn = 4003390717
|volume = 上
}}
*{{Cite book|和書
|author = アルフレート・ヴェーゲナー
|translator = 都城秋穂・紫藤文子
|title = 大陸と海洋の起源
|year = 1981
|publisher = 岩波書店
|series = 岩波文庫
|isbn = 4003390725
|volume = 下
}}
*{{Cite book|和書
|author = [[アーサー・ホームズ]]
|translator = [[上田誠也]]ほか
|title = 一般地質学 I 原書第3版
|year = 1983
|publisher = [[東京大学出版会]]
|isbn = 4130620819
}}
*{{Cite book|和書
|author = アーサー・ホームズ
|translator = 上田誠也ほか
|title = 一般地質学 II 原書第3版
|year = 1984
|publisher = 東京大学出版会
|isbn = 4130620827
}}
*{{Cite book|和書
|author = アーサー・ホームズ
|translator = 上田誠也ほか
|title = 一般地質学 III 原書第3版
|year = 1984
|publisher = 東京大学出版会
|isbn = 4130620835
}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Plate tectonics}}
*[[テクトニクス]]
*[[プレート]]、[[リソスフェア]]
*[[プルームテクトニクス]]
*[[ホットスポット (地学)]]
*[[地磁気]]
*[[竹内均]]
*[[地球膨張説]]
*[[地向斜]] - [[造山運動|地向斜造山論]]
== 外部リンク ==
*[http://home.hiroshima-u.ac.jp/yhiraya/er/ES_PT.html プレート・テクトニクスとは] - 広島大学大学院総合科学研究科 地球資源論研究室 福岡正人
*{{EoE|Plate_tectonics|Plate tectonics}}
* {{Kotobank}}
{{プレートテクトニクス}}
{{Earthquake}}
{{地球}}
{{自然}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:ふれえとてくとにくす}}
[[Category:プレートテクトニクス|*]]
[[Category:地球科学]]
[[Category:地震学]]
[[Category:大陸]]
[[Category:地質学の理論]] | 2003-05-19T22:15:12Z | 2023-10-29T08:37:40Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%86%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%82%B9 |
8,727 | 亜大陸 | 亜大陸(あたいりく、英語: subcontinent)は、大陸の中で地理的に独立した広い一部分のことである。特に大きい半島をそう呼ぶこともある。
一般には大陸の他の部分とは山脈など何らかの地理的要因で区切られている。
プレートテクトニクスでは、より大きな大陸と接している小さい大陸プレートを亜大陸と呼べる。これに当てはまるのはインド亜大陸とアラビア亜大陸だけである。どちらもユーラシアプレートと接し、地理的にはユーラシア大陸に含まれる。
南アジアは、半島であること、一つの文化圏であること、ヒマラヤ山脈で他と区切られていることから、地理的にもよく「インド亜大陸」と呼ばれる。単に亜大陸といった場合、インド亜大陸を指すことが多い。
ヨーロッパも亜大陸と呼ばれることがあるが、地学上はユーラシア大陸の半島に過ぎない。
オーストラリアは最小の大陸であるため、またグリーンランドは最大の島であるため、それぞれ亜大陸と呼ばれることがある。地学上はそれぞれ大陸と島である。オーストラリアはオーストラリアプレート上にあり、グリーンランドは北アメリカプレート上にある。
北アメリカ大陸と南アメリカ大陸を、アメリカ大陸を構成する二つの亜大陸と見なすことがある。同様にユーラシア大陸とアフリカ大陸を、アフロ・ユーラシア大陸の亜大陸とすることもある。しかしどちらについても、アメリカ大陸とアフリカ=ユーラシア大陸を超大陸とみなすほうが適切である。 | [
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] | 亜大陸は、大陸の中で地理的に独立した広い一部分のことである。特に大きい半島をそう呼ぶこともある。 一般には大陸の他の部分とは山脈など何らかの地理的要因で区切られている。 | {{独自研究|date=2014-3}}
'''亜大陸'''(あたいりく、{{lang-en|subcontinent}})は、[[大陸]]の中で地理的に独立した広い一部分のことである。特に大きい[[半島]]をそう呼ぶこともある。
一般には大陸の他の部分とは山脈など何らかの地理的要因で区切られている。
==概要==
[[プレートテクトニクス]]では、より大きな大陸と接している小さい大陸[[プレート]]を亜大陸と呼べる。これに当てはまるのは[[インド亜大陸]]と[[アラビア半島|アラビア亜大陸]]だけである。どちらも[[ユーラシアプレート]]と接し、地理的には[[ユーラシア#ユーラシア大陸|ユーラシア大陸]]に含まれる。
[[南アジア]]は、半島であること、一つの文化圏であること、[[ヒマラヤ山脈]]で他と区切られていることから、地理的にもよく「インド亜大陸」と呼ばれる。単に亜大陸といった場合、インド亜大陸を指すことが多い。
[[ヨーロッパ]]も亜大陸と呼ばれることがあるが、地学上は[[ユーラシア大陸]]の半島に過ぎ<!--ず、ましてや大陸では-->ない。
[[オーストラリア大陸|オーストラリア]]は最小の大陸であるため、また[[グリーンランド]]は最大の[[島]]であるため、それぞれ亜大陸と呼ばれることがある。地学上はそれぞれ大陸と島である。オーストラリアは[[オーストラリアプレート]]上にあり、グリーンランドは[[北アメリカプレート]]上にある。
[[北アメリカ大陸]]と[[南アメリカ大陸]]を、[[アメリカ大陸]]を構成する二つの亜大陸と見なすことがある。同様に[[ユーラシア#ユーラシア大陸|ユーラシア大陸]]と[[アフリカ大陸]]を、[[アフロ・ユーラシア大陸]]の亜大陸とすることもある。しかしどちらについても、アメリカ大陸とアフリカ=ユーラシア大陸を[[超大陸]]とみなすほうが適切である。
[[Category:大陸|*あたいりく]]
[[Category:半島|あたいりく]] | null | 2023-04-18T04:31:37Z | false | false | false | [
"Template:独自研究",
"Template:Lang-en"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%9C%E5%A4%A7%E9%99%B8 |
8,729 | プレート (曖昧さ回避) | プレート(plate) | [
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}
] | プレート(plate) 皿、平皿、盆(トレイ)。食器類(銀食器・シルバープレート)。また食物を含めた皿。
ガラス板、金属板など、板状のもの。
野球場の内野に位置する塁の1つである本塁、ホームプレートのこと。
鉄道・自動車などで、個別の車両を識別する、ナンバープレートのこと。
地球を覆う岩盤。プレートを参照。
真空管の端子の一つ。陽極。アノード。
紋章学における銀色(白色)の円形の図形。プレートを参照。
バーベル・ダンベルに使用する、円形の鉄製の錘。 | {{wikt|プレート|plate}}
'''プレート'''(plate)
* [[皿]]、平皿、[[盆]]([[トレイ]])。[[食器]]類(銀食器・シルバープレート)。また[[食物]]を含めた皿。
* [[ガラス]]板、[[金属]]板など、[[wikt:板|板]]状のもの。
* [[野球場]]の[[内野]]に位置する塁の1つである本塁、[[野球場#本塁|ホームプレート]]のこと。
* 鉄道・自動車などで、個別の車両を識別する、[[ナンバープレート]]のこと。
* 地球を覆う岩盤。[[プレート]]を参照。
* [[真空管]]の端子の一つ。陽極。[[アノード]]。
* [[紋章学]]における銀色(白色)の円形の図形。[[ラウンデル (紋章学)#金属色|プレート]]を参照。
* [[バーベル]]・[[ダンベル]]に使用する、円形の鉄製の錘。
==関連項目==
*[[板 (曖昧さ回避)]]
{{aimai}}
{{デフォルトソート:ふれえと}}
[[Category:英語の語句]] | null | 2023-07-05T08:55:30Z | true | false | false | [
"Template:Wikt",
"Template:Aimai"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88_(%E6%9B%96%E6%98%A7%E3%81%95%E5%9B%9E%E9%81%BF) |
8,730 | プレート | プレート(英: tectonic plate)は、地球の表面を覆う、十数枚の厚さ100kmほどの岩盤のこと。リソスフェア(岩石圏)とほぼ同じで、地殻とマントルの最上部を合わせたもの。
プレートには、大陸プレートと海洋プレートがあり、海洋プレートは大陸プレートよりも強固で密度が高いため、2つがぶつかると海洋プレートは大陸プレートの下に沈んでいくことになる。
また、地下のマグマの上昇によりプレートに亀裂ができ、連続してマグマが上昇し続けると、その後プレートが分断されて両側に分かれることになる。
プレートテクトニクス仮説に基づくプレートのリスト(英語版)を以下に示す。
プレートは大きく分けると、次の14 - 15枚とされている。一般的にはこれら14 - 15枚のプレートを地球上の全プレートと考える。
上記の14 - 15枚のプレートを地球上の全プレートと考えると、GPSの観測などでは、1つのプレート内で移動速度が異なる部分があって、不自然となる。これを説明するために考え出されたのが、以下のプレートである。40枚程度存在する。これらはすべて、上記の14 - 15枚のプレートのどれかのグループに便宜的に分類されている。ただ、地質学的に見ても、親プレートと完全に切り離されて独立しているものもあるが、ほとんどは完全には切り離されておらず、一部がつながっている。
造山運動によって山塊の中に埋没しているプレート。
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] | プレートは、地球の表面を覆う、十数枚の厚さ100kmほどの岩盤のこと。リソスフェア(岩石圏)とほぼ同じで、地殻とマントルの最上部を合わせたもの。 | {{Otheruses|[[地球]]のプレート([[リソスフェア]])|その他のプレート|プレート (曖昧さ回避)}}
[[ファイル:Earth-cutaway-schematic-numbered.svg|thumb|300px|1:地殻、2:マントル、3a:外核、3b:内核、4:リソスフェア(≒'''プレート''')、5:アセノスフェア]]
[[ファイル:Earth cross section (Japanese).svg|thumb|300px|地球の断面構造。[[組成]]、[[鉱物]]相、[[力学]]性質から分類。]]
'''プレート'''({{lang-en-short|tectonic plate}})は、[[地球]]の表面を覆う、十数枚の厚さ100kmほどの[[岩盤]]のこと。[[リソスフェア]](岩石圏)とほぼ同じで、[[地殻]]と[[マントル]]の最上部を合わせたもの。
== プレートの動き ==
{{Main|プレートテクトニクス#プレートの動き}}
プレートには、'''大陸プレート'''と'''海洋プレート'''があり、海洋プレートは大陸プレートよりも強固で[[密度]]が高いため、2つがぶつかると海洋プレートは大陸プレートの下に沈んでいくことになる。
また、地下の[[マグマ]]の上昇によりプレートに亀裂ができ、連続してマグマが上昇し続けると、その後プレートが分断されて両側に分かれることになる。
== プレートのリスト ==
プレートテクトニクス仮説に基づく{{仮リンク|プレートのリスト|label=プレートのリスト|en|List of tectonic plates}}を以下に示す。
[[ファイル:Plates tect2 ja.svg|thumb|400px|主要なプレートの位置図]]
[[ファイル:Tectonicplates Serret.png|thumb|300px|Tectonics plates (preserved surfaces)]]
=== 大規模なプレート ===
プレートは大きく分けると、次の14 - 15枚とされている。一般的にはこれら14 - 15枚のプレートを地球上の全プレートと考える。
* '''[[ユーラシアプレート]]''' (Eurasian Plate)
* '''[[北アメリカプレート]]''' (North American Plate)
* '''[[南アメリカプレート]]''' (South American Plate)
* '''[[太平洋プレート]]''' (Pacific Plate)
* '''[[ココスプレート]]''' (Cocos Plate)
* '''[[ナスカプレート]]''' (Nazca Plate)
* '''[[カリブプレート]]''' (Caribbean Plate)
* '''[[アフリカプレート]]''' (African Plate)
* '''[[南極プレート]]''' (Antarctic Plate)
* '''[[アラビアプレート]]''' (Arabian Plate)
* '''[[インド・オーストラリアプレート]]''' (Indian-Australian Plate) - 1つのプレートであるが、[[インドプレート]] (Indian Plate) と[[オーストラリアプレート]] (Australian Plate) の2つに分けて考えることもある。
* '''[[フィリピン海プレート]]''' (Philippine Sea Plate)
* '''[[スコシアプレート]]''' (Scotia Plate) - 簡略図では南アメリカプレートの一部とすることもある。
* '''[[ファンデフカプレート]]''' (Juan de Fuca Plate) - 簡略図では北アメリカプレートの一部とすることもある。
=== 小規模なプレート ===
上記の14 - 15枚のプレートを地球上の全プレートと考えると、[[GPS]]の観測などでは、1つのプレート内で移動速度が異なる部分があって、不自然となる。これを説明するために考え出されたのが、以下のプレートである。40枚程度存在する。これらはすべて、上記の14 - 15枚のプレートのどれかのグループに便宜的に分類されている。ただ、[[地質学]]的に見ても、親プレートと完全に切り離されて独立しているものもあるが、ほとんどは完全には切り離されておらず、一部がつながっている。
* [[エーゲ海プレート]] (Aegean Sea Plate)
* [[アルティプラーノプレート]] (Altiplano Plate)
* [[アムールプレート]] (Amurian Plate)
* [[アナトリアプレート]] (Anatolian Plate)
* [[バルモーラル暗礁プレート]] (Balmoral Reef Plate)
* [[バンダ海プレート]] (Banda Sea Plate)
* [[バーズヘッドプレート]] (Bird's Head Plate)
* [[ビルマプレート]] (Burma Plate)
* [[カロリンプレート]] (Caroline Plate)
* [[コンウェイ暗礁プレート]] (Conway Reef Plate)
* [[イースタープレート]] (Easter Plate)
* [[フツナプレート]] (Futuna Plate)
* [[ガラパゴスプレート]] (Galapagos Plate)
<!-- * [[ヘレニックプレート]] (Hellenic Plate) - 下図では示されていない。ギリシャ付近にあるプレート。異説もある。--><!-- エーゲ海プレートと同一 -->
* [[イランプレート]] (Iranian Plate) - 下図では示されていない。イラン付近にあるプレート。異説もある。
* [[ヤンマイエンプレート]] (Jan Mayen Plate) - 下図では示されていない。アイスランド北東沖にあるやや小さなプレート。
* [[ファン・フェルナンデスプレート]] (Juan Fernandez Plate)
* [[ケルマデックプレート]] (Kermadec Plate)
* [[マヌスプレート]] (Manus Plate)
* [[マウケプレート]] (Maoke Plate)
* [[マリアナプレート]] (Mariana Plate)
* [[モルッカ海プレート]] (Molucca Sea Plate)
* [[ニューヘブリデスプレート]] (New Hebrides Plate)
* [[ニウアフォプレート]] (Niuafo'ou Plate)
* [[北アンデスプレート]] (North Andes Plate)
* [[北ビスマルクプレート]] (North Bismarck Plate)
* [[北ガラパゴスプレート]] (North Galapagos Plate)
* [[オホーツクプレート]] (Okhotsk Plate)
* [[沖縄プレート]] (Okinawa Plate)
* [[パナマプレート]] (Panama Plate)
* [[リベラプレート]] (Rivera Plate)
* [[サンドウィッチプレート]] (Sandwich Plate)
* [[シェトランドプレート]] (Shetland Plate)
* [[ソロモン海プレート]] (Solomon Sea Plate)
* [[ソマリアプレート]] (Somali Plate)
* [[南ビスマルクプレート]] (South Bismarck Plate)
* [[スンダプレート]] (Sunda Plate)
* [[ティモールプレート]] (|Timor Plate)
* [[トンガプレート]] (Tonga Plate)
* [[ウッドラークプレート]] (Woodlark Plate)
* [[揚子江プレート]] (Yangtze Plate)
=== 埋没しているプレート ===
[[造山運動]]によって[[山塊]]の中に埋没しているプレート。
* [[アプリアプレート]] ([[:en:Apulian plate|Apulian plate]])
* [[エクスプローラープレート]] ([[:en:Explorer Plate|Explorer Plate]])
* [[ゴルダプレート]] ([[:en:Gorda Plate|Gorda Plate]])
=== その他のプレート ===
* [[関東フラグメント]] (Kanto fragment) - [[栃木県]]南部から[[神奈川県]]北部にかけての[[関東地方]]の地下深さ30〜100km付近に、厚さ25km、100km四方の太平洋プレートの断片が残存しているものと推定されている。このプレート断片とほかのプレートとの境界では、[[陸地]]下でありながら[[地震#プレート間地震|プレート間地震]](海溝型地震)が発生すると考えられ、[[南関東直下地震|首都直下地震]]の要因の一つとなる可能性が指摘されている<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20081005-OYT1T00722.htm?ref=mag 関東直下に「地震の巣」…100キロ四方の巨大岩盤が形成] {{リンク切れ|date=2012年4月}} [[読売新聞]] 2008年10月6日</ref><ref>{{Cite journal
|author = Shinji Toda(遠田晋次)
|coauthors = Ross S. Stein(ロス・スタイン), Stephen H. Kirby(ステファン・カービー), Serkan B. Bozkurt(サルカン・ボズクルト)
|year = 2008
|title = A slab fragment wedged under Tokyo and its tectonic and seismic implications(東京直下に潜むプレート断片と地殻変動・地震発生における重要性)
|journal = Nature Geoscience
|volume = 1
|issue =
|pages = 771 - 776
|publisher =
|issn = 1752-0894
|doi = 10.1038/ngeo318
|naid = <!-- NII論文ID -->
|id =
|url = http://usgsprojects.org/fragment/
}}</ref><ref>[https://www.aist.go.jp/aist_j/new_research/2008/nr20081010/nr20081010.html?ref=mag 首都圏直下に潜むプレートの断片と地震発生]産業技術総合研究所</ref>。
* [[アリューシャンプレート]] - [[ベーリング海]]の海底を形成するとされるプレート。[[気象庁]]の石川有三らが主張しているが、あまり認知されていない。
=== プレートの位置図 ===
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|alt=プレートの詳細な位置図(インドネシア東部)
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; 凡例
* 線の色:{{color|purple|紫}}=衝突型境界(沈み込み帯を除く)、{{color|red|赤}}=拡張型境界(海嶺や地溝)、{{color|yellowgreen|黄緑}}=トランスフォーム断層、{{color|blue|青}}=沈み込み帯
* 灰色の領域:プレートの衝突による造山運動がプレート内部まで及んで隆起が盛んな地域。構造線や断層帯が多数ある。
* 矢印:アフリカプレート基準の、各プレートの移動方向と速度(mm/年)
* 出典:[http://element.ess.ucla.edu/publications/2003_PB2002/PB2002_wall_map.gif]
'''注意:環境によっては、リンクの位置が正しく表示されない場合がある。'''
=== 過去に存在したとされるプレート ===
* [[イザナギプレート]] (Izanagi Plate)
* [[クラプレート]] ([[:en:Kula Plate|Kula Plate]])
* [[ファラロンプレート]] ([[:en:Farallon Plate|Farallon Plate]])
* [[バンクーバープレート]]
* [[バルトプレート]] ([[:en:Baltic Plate|Baltic Plate]])
* [[ベリングスハウゼンプレート]] ([[:en:Bellingshausen Plate|Bellingshausen Plate]])
* [[キンメリアプレート]] ([[:en:Cimmerian Plate|Cimmerian Plate]])
* [[インスラープレート]] ([[:en:Insular Plate|Insular Plate]])
* [[インターモンテンプレート]] ([[:en:Intermontane Plate|Intermontane Plate]])
* [[ラサプレート]] ([[:en:Lhasa Plate|Lhasa Plate]])
* [[フェニックスプレート]] ([[:en:Phoenix Plate|Phoenix Plate]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == <!-- {{Cite book}}、{{Cite journal}} -->
* {{Cite journal
|author = Peter Bird
|year = 2003
|title = An updated digital model of plate boundaries
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|doi = 10.1029/2001GC000252
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*https://www.s-yamaga.jp/nanimono/chikyu/platetectonics-01.htm
== 関連項目 ==
{{Wiktionary}}
{{Commonscat|Maps of tectonic plates}}
* [[プレートテクトニクス]]
* [[テレーン]]
== 外部リンク == <!-- {{Cite web}} -->
* [https://web.archive.org/web/20061012144853/http://volcano.und.nodak.edu/vwdocs/volc_images/ Images of Volcanoes(By Region)] - 世界各地のプレート構造と火山
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[[Category:プレート|*]]
[[Category:プレートテクトニクス|*ふれと]]
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[[Category:地球科学の一覧]] | 2003-05-19T23:51:48Z | 2023-10-01T15:47:50Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88 |
8,731 | 江戸 |
江戸(えど、旧字体: 江戶) は、東京の旧称であり、1603年(慶長8年)から1868年(慶応4年)まで江戸幕府が置かれていた都市である。
現在の東京都区部の中央部に位置し、その前身および原型に当たる。
江戸は、江戸時代に江戸幕府が置かれた日本の政治の中心地(行政首都)として発展した。また、江戸城は徳川氏の将軍の居城であり、江戸は幕府の政庁が置かれる行政府の所在地であると同時に、自身も天領を支配する領主である徳川氏(徳川将軍家)の城下町でもあり、武陽(ぶよう)と呼ばれることもあった。
徳川氏が関ヶ原の戦いに勝利し1603年に征夷大将軍となると、江戸は一気に重要性を増した。徳川家に服する武将(大名)に江戸の市街地普請が命じられ、山の切り崩しや入り江や湾の埋め立て等が行なわれ、旗本・御家人などの武士、家臣、その家族らが数多く居住するとともに、町人が呼び寄せられ、江戸は急速に拡大した。1612年(慶長17年)には江戸町割が実施され、1623年元和9年には武家地に町人が住むことが禁じられた。1635年(寛永12年)に参勤交代が始まると、新たに大名とその家族のための武家屋敷が建設された。
木造家屋が密集しており、火事が頻発した(江戸の火事)。1657年3月2日(明暦3年旧暦1月11日)には、明暦の大火が発生し、多大な被害が生じたが、その後も市街地の拡大が続いた。
江戸の町を大きく分けると、江戸城の南西ないし北に広がる町(山の手)と、東の隅田川をはじめとする数々の河川・堀に面した町(下町)に大別される。江戸時代前期には、「山の手が武家屋敷で、下町が町人の町」と一般的に言われていたが、江戸時代中期以降の人口増加によって、山の手に町人町が存在(千代田区の一部が挙げられる)したり、逆に下町に多くの武家屋敷が存在するなど、実際はかなり複雑な様相を示していた。江戸の都市圏内には非常に多数の(そして多様な)町が存在するようになり「江戸八百八町」とも言われるようになり、18世紀初頭には人口が百万人を超え、世界有数の大都市へと発展を遂げた。膨大な数の庶民によって多彩な文化が開花した。また、江戸は循環型社会であった。江戸の住人は「江戸者」「江戸衆」「江戸人」などと言ったが、江戸で生まれ育った生粋の江戸人や、根っから江戸者らしい性質(小さなことにこだわらず、だが意地張りで、しばしばせっかちで短気、等々)を備えた町人が江戸っ子と呼ばれた。→#生活と文化
最初、江戸の「町方支配場」の行政・司法は江戸町奉行(南町奉行および北町奉行)が管理した。町奉行が管理したのは あくまで町方のみであり、神社や寺院の私有地である「寺社門前地」や江戸城・大名屋敷等の「武家地」は町奉行の管理(支配)は及ばなかった。
だがその後、1745年(延享2年)に寺社門前地内の町屋を江戸町奉行が管理することが正式に通達され、門前町町屋・寺社領町屋440箇所、寺社境内借家有の分127箇所、合計567箇所が町奉行の支配となった。江戸町方支配場・寺社門前地の町数は享保8年(1723年)に1672町、延享3年(1746年)に1678町、天保19年(1843年)には1719町に増えた。『江戸図説』によると天明年中(1785年頃)の江戸町数1650余町の内、町方分1200余町、寺社門前地分400余町で、他に大名上屋敷265ヶ所、中屋敷・下屋敷466ヶ所、「神社凡そ200余社」「寺院凡1000余所」との記述がある。
町奉行の管理領域だけでなく、「江戸御府内」の範囲も時代によって変化があり、特に寺社門前地をどう取り扱うかについては幕府役人の間でも混乱があったことをうかがわせる書簡が残っている。1818年(文政元年)には江戸御府内を「朱引」、町奉行の支配領域を「墨引」と呼び、江戸御府内であっても町奉行の支配下ではない地域が郊外にできた(これらの地域は武家屋敷と武家所領、寺社門前地と寺社所領などで、御府内であっても一部で代官支配体制が続いており、武家屋敷と共にかなりの農地が存在し、また一部では町屋を形成していたと考えられている)。また1854年安政元年以降は新吉原・品川・三軒地糸割符猿屋町会所までが町奉行の支配下に入った。
徳川幕府は実に260年ほども続いたが、幕末には内政でも外政でも問題が山積の状態となり混乱を来たした。
1862年(文久2年)に参勤交代が緩和され、江戸の武家人口が激減。政治的中心も京都に移り、15代将軍徳川慶喜は将軍としては江戸に一度も居住しないような状態であった。徳川家と敵対する勢力によって一連の軍事的また政治的クーデターである明治維新が行われ、1868年(明治元年)に発せられた江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書によって江戸は「東京」と改称され、東京への改称とともに町奉行支配地内を管轄する東京府庁が開庁された。また天皇の東京行幸により江戸城が東京の皇居とされた。
明治維新により徳川将軍家が静岡に転封された際にも人口が減少した。明治2年(1869年)に東京府は新たに朱引を引き直し、朱引の内側を「市街地」、外側を「郷村地」と定めた。この時の朱引の範囲は江戸時代の「墨引」の範囲におおむね相当し、安政年間以降一時的に江戸に組み込まれた品川などは、東京とは別の町として扱われ、町数も1048(『府治類集』)に減った。翌年には、最初は京都にあった明治新政府も東京に移され、再び日本の事実上の首都となった。1871年に廃藩置県が行われ、東京府は新・東京府に置き換わった。
「江戸」という地名は、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』が史料上の初見で、おおよそ平安時代後半に発生した地名であると考えられている。
平安時代中期(930年代頃)に成立した『和名類聚抄』にはまだ江戸と言う地名は登場せず、豊島郡に「湯島郷」「日頭郷」、荏原郡に「桜田郷」が存在したと記されている。湯島郷は現在の文京区湯島、日頭郷は同区小日向、桜田郷は千代田区霞が関の旧称である桜田であったと推定されている。江戸は元々は湯島郷もしくは日頭郷に属する小地名であったと考えられている。後述の江戸氏は、他の武士の名乗りと同様に江戸を所領としていたために「江戸」と称したと考えられるため、江戸氏が歴史上登場する平安時代末期には既に江戸という地名が存在したと言える。
地名の由来は諸説あるが、江は川あるいは入江とすると、戸は入口を意味するから「江の入り口」に由来したと考える説が有力である。また、「戸」は港町の名称に用いられる例が多いことから、「江の港」とする説もある。あるいは、江戸の近郊にあったとされる今津・亀津・奥津という地名が、現在では今戸・亀戸・奥戸と称されている事から、「江の津」とする説もある。当時の江戸は、武蔵国と下総国の国境である隅田川の河口の西に位置し、日比谷入江と呼ばれる入江が、後の江戸城の間近に入り込んでいた。
江戸の開発は、平安時代後期に武蔵国の秩父地方から出て河越から入間川(現荒川)沿いに平野部へと進出してきた桓武平氏を称する秩父党の一族によって始められた。12世紀に秩父氏から出た江戸重継は、江戸の地を領して桜田の高台に城館を構え(のちの江戸城)、江戸の地名をとって江戸太郎を称し、江戸氏を興す。重継の子である江戸重長は1180年に源頼朝が挙兵した時には、当初は平家方として頼朝方の三浦氏と戦ったが、後に和解して鎌倉幕府の御家人となった。弘長元年10月3日(1261年)、江戸氏の一族の一人であった地頭江戸長重が正嘉の飢饉による荒廃で経営ができなくなった江戸郷前島村(現在の東京駅周辺)を北条氏得宗家に寄進してその被官となり、1315年までに得宗家から円覚寺に再寄進されていることが記録として残されている。ここにおいて、『和名類聚抄』の段階では存在しなかった「江戸郷」という地名を見ることが出来る。また、弘安4年4月15日(1281年)に長重と同族とみられる平重政が作成した譲状には「ゑとのかう(江戸郷)」にある「しハさきのむら」にある在家と田畠の譲渡に関する記述が出てくる。この江戸郷芝崎村(もしくは柴崎村)は前島村の北側、今の神田付近と推定されている。この頃の鎌倉からの奥州への街道は、日比谷入江に注ぐ平川にかかる高橋を渡り、鳥越(現・鳥越神社付近)、浅草へ通っていた。この平川沿いには早くから村ができていたようである。なお過去、平川は当初から日本橋川を流れたとされたが、現在は江戸城三ノ丸の堀付近を日比谷入江へ注いだと認識されている。芝崎村の西側にある平川の河口部には平川村が存在していたが、後には平川村および平川流域も江戸郷の一部として認識されるようになっていった。
鎌倉幕府が滅びると、江戸氏一族は南北朝の騒乱において新田義貞に従って南朝方についたりしたが、室町時代に次第に衰え、戦国末期には多摩郡喜多見で活動している。また、応永27年(1420年)紀州熊野神社の御師が書き留めた「江戸の苗字書立」によれば、さらに多摩川下流の大田区蒲田・六郷・原・鵜の木・丸子や隅田川下流域の金杉・石浜・牛島、江戸郷の国府方、柴崎、古川沿いの飯倉、小石川沿いの小日向、渋谷川沿いの渋谷、善福寺川沿いの中野、阿佐谷にも江戸氏一族が展開した。また、応永30年(1423年)には江戸氏一族とみられる江戸大炊助憲重が「武州豊嶋郡桜田郷」の土地売却を巡って訴訟を起こしている。前述通り、元々荏原郡の一部であった桜田郷が豊島郡の一部とされた背景として江戸氏の勢力拡大に伴って桜田郷への影響力が強まったことが背景にあったと推測され、やがてこの地域が江戸の一部として認識されていくことになる過程であったと考えられる。
代わって江戸の地には、関東管領上杉氏の一族扇谷上杉家の有力な武将であり家老であった太田資長(のちの太田道灌)が入り、江戸氏の居館跡に江戸城を築く。江戸城は、一説には康正2年(1456年)に建設を始め、翌年完成したという(『鎌倉大草紙』)。太田資長は文明10年(1478年)に剃髪し道灌と号し、文明18年(1486年)に謀殺されるまで江戸城を中心に南関東一円で活躍した。道灌の時代も平川は日比谷入江へ注いでおり、江戸前島を挟んで西に日比谷入江、東に江戸湊(ただし『東京市史稿』は日比谷入江を江戸湊としている)があり、浅草湊や品川湊と並ぶ中世武蔵国の代表的な湊であった。江戸や品川は利根川(現在の古利根川・中川)や荒川などの河口に近く、北関東の内陸部から水運を用いて鎌倉・小田原・西国方面に出る際の中継地点となった。
太田道灌の時代、長く続いた応仁の乱により荒廃した京都を離れ、権勢の良かった道灌を頼りに下向する学者や僧侶も多かったと見られ、平川の村を中心に城下町が形成された。吉祥寺は当時の城下町のはずれにあたる現在の大手町付近にあり、江戸時代初期に移転を命じられるまで同寺の周辺には墓地が広がっていた(現在の「東京駅八重洲北口遺跡」)。平河山を号する法恩寺や浄土寺も縁起からかつては城の北側の平川沿いの城下町にあったとみられている。また、戦国時代には「大橋宿」と呼ばれる宿場町が形成された。更に江戸城と河越城を結ぶ川越街道や小田原方面と結ぶ矢倉沢往還もこの時期に整備されたと考えられ、万里集九・宗祇・宗牧など多くの文化人が東国の旅の途中に江戸を訪れたことが知られている。
道灌の死後、扇谷上杉氏の当主である上杉朝良が長享の乱の結果、隠居を余儀なくされて江戸城に閉居することになった。ところが、その後朝良は実権を取り戻して江戸で政務を行い、後を継いだ朝興も江戸城を河越城と並ぶ扇谷上杉氏・武蔵国支配の拠点と位置付けた。だが、扇谷上杉氏は高輪原の戦いで後北条氏に敗れ、江戸城も後北条氏の支配下に移った。既に相模国・伊豆国を支配していた後北条氏の江戸支配によって東京湾(江戸湾)の西半分を完全に支配下に置き、これに衝撃を受けた東半分の房総半島の諸勢力(小弓公方・里見氏)に後北条氏との対決を決意させたと言われている。後北条氏末期には北条氏政が直接支配して太田氏や千葉氏を統率していた。支城の支配域としては、東京23区の隅田川以西・以南および墨田区・川崎市・多摩地区の各々一部まで含まれている。
従来、徳川家康入城当時の江戸はあたかも全域が寒村のようであったとされてきた。だが近年になって、太田道灌およびその後の扇谷上杉氏・後北条氏の記録や古文書から、徳川氏入部以前より江戸は交通の要衝としてある程度発展しており、こうした伝承は徳川家康・江戸幕府の業績を強調するために作られたものとする見方が登場するようになった。また、『吾妻鑑』における源頼朝入城当時の鎌倉に関する描写(治承4年10月12日条)がそのまま家康の江戸入城時の描写に引用されている可能性を指摘する研究者もいる。その一方で、太田道灌時代の記録にも道灌を称える要素が含まれているため、家康以前の記録についてもその全てを史実として受け取ることに懐疑的な意見もある。とはいえ、現在では中世に達成した一定の成果の上に徳川家康以後の江戸の発展があったと考えられており、中世期文書の研究に加えて歴史考古学による調査の進展によって家康以前の江戸の歴史に関する研究が進展することが期待されている。
1590年、後北条氏が小田原征伐で豊臣秀吉に滅ぼされると、後北条氏の旧領に封ぜられ、関東・奥羽方面の押さえを期待された徳川家康は、関東地方の中心となるべき居城を江戸に定めた。同年の旧暦8月1日(八朔)、家康は駿府から居を移すが、当時の江戸城は老朽化した粗末な城であったという。家康は江戸城本城の拡張は一定程度に留める代わりに城下町の建設を進め、神田山を削り、日比谷入江を盛んに埋め立てて町を広げ、家臣と町民の家屋敷を配置した。突貫工事であったために、埋め立て当初は地面が固まっておらず、乾燥して風が吹くと、もの凄い埃が舞い上がるという有様だったと言われる。この時期の江戸城はこれまでの本丸・二ノ丸に、西丸・三ノ丸・吹上・北ノ丸があり、また道三堀の開削や平川の江戸前島中央部への移設、それに伴う埋め立てにより、現在の西丸下の半分以上が埋め立られている(この時期の本城といえるのはこの内、本丸・二ノ丸と家康の隠居所として造られた西丸である)。
家康が1600年の関ヶ原の戦いに勝利して天下人となり、1603年に征夷大将軍に任ぜられると、幕府の所在地として江戸の政治的重要性は一気に高まり、徳川家に服する諸大名の屋敷が設けられた。江戸に居住する大名の家臣・家族や、徳川氏の旗本・御家人などの武士が数多く居住するようになるとともに、町人を呼び寄せて、町が急速に拡大した。江戸城とその堀は幕府から諸大名に課せられた手伝普請によって整備され、江戸城は巨大な堅城に生まれ変わり、城と武家屋敷を取り巻く広大な惣構が構築された。(都市開発の歴史については後の都市の章で述べる。)
1657年の明暦の大火の後、再建事業によって市域は隅田川を超え、東へと拡大した。その人口は絶えず拡大を続け、18世紀初頭には人口が百万人を超え、大江戸八百八町といわれる世界有数(一説によると当時世界一)の大都市へと発展を遂げた。人口の増大は、江戸を東日本における大消費地とし、日本各地の農村と結ばれた大市場、経済的先進地方である上方(近畿地方)と関東地方を結ぶ中継市場として、経済的な重要性も増した。当時の江戸は、『東都歳時記』、『富嶽三十六景』にみる葛飾北斎の両国(現在の墨田区)からの作品などからも見られるように、漢風に「東都」とも呼ばれる大都市となっていた。18世紀末から19世紀初めには、上方にかわる文化的な中心地ともなり、経済活動や参勤交代を通じた江戸を中心とする人の往来は江戸から地方へ、地方から江戸へ盛んな文化の伝播をもたらした。一方で、膨大な人口が農村から江戸に流入して、様々な都市問題を引き起こすことにもなった。
江戸の地名で呼ばれる地域は、江戸御府内ともいったが、その範囲は時期により、幕府部局により異なっていた。一般に江戸御府内は町奉行の支配範囲と理解された。その支配地は拡大していった。寛文2年(1662)に街道筋の代官支配の町や300町が編入され、正徳3年(1713)には町屋が成立した場所259町が編入された。さらに、延享2年(1745)には寺社門前地440カ所、境内227町が町奉行支配に移管された。この町奉行の支配範囲とは別に御府内の範囲とされた御構場の範囲、寺社奉行が勧化を許す範囲、塗り高札場の掲示範囲、旗本・御家人が御府外に出るときの範囲などが決められた。これらの御府内の異同を是正するため、文政元年(1818)に絵図面に朱線を引き、御府内の範囲を確定した。これにより御府内の朱引内(しゅびきうち)とも称するようになった。 この範囲外は朱引外(しゅびきそと)と称した。 元々は平安時代に存在した荏原郡桜田郷(江戸城の西南)の一部であったが、やがて豊島郡江戸郷と呼ばれるようになっていた。
江戸時代初期における江戸の範囲は、現在の東京都千代田区とその周辺であり、江戸城の外堀はこれを取り囲むよう建造された。明暦の大火以後、その市街地は拡大。通称「八百八町」と呼ばれるようになる。1818年、朱引の制定によって、江戸の市域は初めて正式に定められることになった。今日「大江戸」としてイメージされるのは、一般にこの範囲である。
以下に江戸に含まれる主な歴史的地名をあげる。
実際には、既に触れたように江戸の地は平安時代末期から関東南部の要衝であった。確かに徳川氏の記録が伝えるように、後北条氏時代の江戸城は最重要な支城とまではみなされず城は15世紀の粗末な造りのまま残されていたが、関八州の首府となりうる基礎はすでに存在していた。
しかし、江戸が都市として発展するためには、日比谷入江の東、隅田川河口の西にあたる江戸前島と呼ばれる砂州を除けば、城下町をつくるために十分な平地が存在しないことが大きな障害となる。そこで徳川氏は、まず江戸城の和田倉門から隅田川まで道三堀を穿ち、そこから出た土で日比谷入江の埋め立てを開始した。道三堀は墨田川河口から江戸城の傍まで、城の建造に必要な木材や石材を搬入するために活用され、道三堀の左右に舟町が形成された。また、元からあった平地である今の常盤橋門外から日本橋の北に新たに町人地が設定された(この時と時期を同じくして平川の日比谷入江から江戸前島を貫通する流路変更が行われたと思われる)。これが江戸本町、今の日本銀行本店や三越本店がある一帯である。さらに元からあった周辺集落である南の芝、北の浅草や西の赤坂、牛込、麹町にも町屋が発展した。この頃の江戸の姿を伝える地図としては『別本慶長江戸図』が知られている。
江戸は「の」の字形に設計されたことが一般の城下町と比べて特異であるといわれる。 つまり、江戸城の本城は大手門から和田倉門、馬場先門、桜田門の内側にある本丸、二の丸、西の丸などの内郭に将軍、次期将軍となる将軍の世子、先代の将軍である大御所が住む御殿が造られ、その西にあたる半蔵門内の吹上に将軍の親族である御三家の屋敷が置かれた。内城の堀の外は東の大手門下から和田倉門外に譜代大名の屋敷、南の桜田門の外に外様大名の屋敷と定められ、西の半蔵門外から一ツ橋門、神田橋門外に至る台地に旗本・御家人が住まわされ、さらに武家屋敷地や大名屋敷地の東、常盤橋・呉服橋・鍛冶橋・数寄屋橋から隅田川、江戸湾に至るまでの日比谷埋立地方面に町人地が広げられた。これを地図で見るとちょうど大手門から数寄屋橋に至るまでの「の」の字の堀の内外に渦巻き上に将軍・親藩・譜代・外様大名・旗本御家人・町人が配置されている形になる。巻き貝が殻を大きくするように、渦巻き型に柔軟に拡大できる構造を取ったことが、江戸の拡大を手助けした。
家康の死後、2代将軍徳川秀忠は、江戸の北東の守りを確保するため、小石川門の西から南に流れていた平川をまっすぐ東に通す改修を行った。今の水道橋から万世橋(秋葉原)の間は本郷から駿河台まで伸びる神田台地があったためこれを掘り割って人工の谷を造って通し、そこから西は元から神田台地から隅田川に流れていた中川の流路を転用し、浅草橋を通って隅田川に流れるようにした。これが江戸城の北の外堀である神田川である。この工事によって平川下流であった一ツ橋、神田橋、日本橋を経て隅田川に至る川筋は神田川(平川)から切り離され、江戸城の堀となった。この堀が再び神田川に接続され、神田川支流の日本橋川となるのは明治時代のことである。
更に3代将軍徳川家光はこれまで手薄で残されてきた城の西部外郭を固めることにし、溜池や神田川に注ぎ込む小川の谷筋を利用して溜池から赤坂、四ッ谷、市ヶ谷を経て牛込に至り、神田川に接する外堀を造らせた。全国の外様大名を大動員して行われた外堀工事は1636年に竣工し、ここに御成門から浅草橋門に至る江戸城の「の」の字の外側の部分が完成した。
城下町において武家地、町人地とならぶ要素は寺社地であるが、江戸では寺社の配置に風水の思想が重視されたという。そもそも江戸城が徳川氏の城に選ばれた理由の一因には、江戸の地が当初は北の玄武は麹町台地、東の青龍は平川、南の朱雀は日比谷入江、西の白虎は東海道、江戸の拡大後は、玄武に本郷台地、青龍に大川(隅田川)、朱雀に江戸湾、白虎に甲州街道と四神相応に則っている点とされる。関東の独立を掲げた武将で、代表的な怨霊でもある平将門を祭る神田明神は、大手門前(現在の首塚周辺)から、江戸城の鬼門にあたる駿河台へと移され、江戸惣鎮守として奉られた。また、江戸城の建設に伴って城内にあった山王権現(現在の日枝神社)は裏鬼門である赤坂へと移される。更に、家康の帰依していた天台宗の僧天海が江戸城の鬼門にあたる上野忍岡を拝領、京都の鬼門封じである比叡山に倣って堂塔を建設し、1625年に寛永寺を開山した。寛永寺の山号は東叡山、すなわち東の比叡山を意味しており、寺号は延暦寺と同じように建立時の年号から取られている。
江戸は海辺を埋め立てて作られた町のため、井戸を掘っても真水を十分に得ることができず、水の確保が問題となる。そこで、赤坂に元からあった溜池が活用されると共に、井の頭池を水源とする神田上水が造られた。やがて江戸の人口が増えて来るとこれだけでは供給し切れなくなり、水不足が深刻になって来た。このために造られた水道が1653年完成の玉川上水である。水道は江戸っ子の自慢の物の一つで、「水道の水を産湯に使い」などと言う言葉がよく使われる。
1640年には江戸城の工事が最終的に完成し、江戸の都市建設はひとつの終着点に達した。しかし、1657年に明暦の大火が起こると江戸の町は大部分が焼亡し、江戸城天守も炎上してしまった。幕府はこれ以降、火事をできるだけ妨げられるよう都市計画を変更することになった。これまで吹上にあった御三家の屋敷が半蔵門外の紀尾井町に移されるなど大名屋敷の配置換えが行われ、類焼を防ぐための火除地として十分な広さの空き地や庭園が設けられた。
大名屋敷が再建され、参勤交代のために多くの武士が滞在するようになると、彼らの生活を支えるため江戸の町は急速に復興するが、もはや外堀内の江戸の町は狭すぎる状態だった。こうして江戸の町の拡大が始まり、隅田川の対岸、深川・永代島まで都市化が進んでいった。南・西・北にも都市化の波は及び、外延部の上野、浅草が盛り場として発展、さらに外側には新吉原遊郭が置かれていた。
1624年(寛永元年)には中村勘三郎(猿若)が京都から江戸に移り、町奉行所の許可を得て「猿若座」を開き、江戸の芝居小屋が始まった。最初は江戸・中橋(現在の日本橋と京橋の中間あたり)にあったが、やがて堺町(今の人形町)へ移転。元禄時代(1688~1704年頃)には江戸の歌舞伎は隆盛となり、芝居小屋は猿若座(堺町)、市村座(葺屋町=現 人形町)、森田座(木挽町=現在の歌舞伎座のあたり)、山村座(木挽町)の4つとなった(「江戸四座」と言う)。
江戸の落語は17世紀後半(貞享・元禄年間)に鹿野武左衛門によって始められ、18世紀後半には烏亭焉馬の会咄を経て、三笑亭可楽(初代)によって寄席芸能として確立したと言われている。
江戸の成人男性の識字率は幕末には70%を超え、同時期のロンドン (20%)、パリ(10%未満)を遥かに凌ぎ、世界的に見れば極めて高い水準であった。ロシア人革命家メーチニコフや、ドイツ人の考古学者シュリーマンらが、驚きを以って識字状況について書いている。また武士だけではなく農民も和歌を嗜んだと言われており、その背景には寺子屋の普及があったと考えられ、高札等でいわゆる『御触書』を公表したり、『瓦版』や『貸本屋』等が大いに繁盛した事実からも、大半の町人は文字を読む事が出来たと考えられている。ただし識字率が高い武士階級の人口も多いため、識字率がかさ上げされているのも間違いなく、当時、全国平均での識字率は20%から50%程度と推定されている。また、明治時代に入ってからの話であるが、徴兵制施行時の調査では、事務処理が出来る実用的なレベルの読み書きが出来るものは20%程度だったという(識字の項参照のこと)。
(火事のときは周りの家を倒して広がるのを防いだ。木造建築なので火が移りやすいため。)
慶応4年/明治元年旧暦1月3日(1868年1月27日)に戊辰戦争が起こり、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れると、薩長軍の大軍が江戸に迫り、江戸は戦火に晒される危険に陥った。幕臣勝海舟は早期停戦を唱えて薩長軍を率いる西郷隆盛と交渉、同年旧暦4月11日(5月3日)に最後の将軍徳川慶喜は江戸城の無血開城し降伏、交戦派と官軍の間の上野戦争を例外として、江戸は戦火を免れた(江戸無血開城)。
同年旧暦5月12日(7月1日)に町地を中心に「江戸府」が設置された。同年旧暦7月17日(9月6日)には「江戸」は「東京」と改称され、「江戸府」は「東京府」となった(江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書)。同年旧暦10月13日(11月26日)に明治天皇が東京行幸した際、「江戸城」は「東京城」と改称された。翌明治2年旧暦2月19日(1869年3月31日)には新たに朱引きの範囲が定められ、旧暦3月16日(4月27日)には町地に五十番組制(五十区制)が敷かれた。旧暦3月28日(5月9日)には、明治天皇が二度目の行幸を行い、「東京城」を「皇城」と称し、かつての将軍の居住する都市・江戸は、天皇の行在する都市・東京となった(東京奠都)。旧暦11月2日(12月4日)には武家地を含めた地域が東京府の管轄となった。明治4年旧暦6月9日(1871年7月26日)には朱引が改定され、大区小区制に基づく六大区制が導入された。
同年旧暦7月14日(8月29日)の廃藩置県以降、段階的に周辺の地域が東京府に併合され、明治4年旧暦12月27日(1872年2月5日)には武家地・町地という名称が廃止された。明治7年(1874年)3月4日には東京十一大区制へ再編され、明治11年(1878年)11月2日には東京十五区制に落ち着く。以降、東京の町並が東京市、東京都へと変遷しつつ東京都市圏に拡大してゆく過程で、かつての江戸のうち隅田川以東の本所・深川を除いた地区は都心となり、その中核としての役割を果たしている。
その他多数あり。
川・堀の水路網と蔵は江戸を象徴する町並の特徴であり、蔵造りの町並が残された栃木市、埼玉県川越市、千葉県香取市の旧佐原市の市街地などの関東地方の河港都市は、江戸に似た構造という点や江戸と交流が深かったという点から「小江戸」と呼ばれている。
なお上記とは別用法として、初期の江戸城下町を、後年の広域化した江戸城下町を意味する「大江戸」に対して「小江戸」と称する用法もある。 | [
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"text": "江戸(えど、旧字体: 江戶) は、東京の旧称であり、1603年(慶長8年)から1868年(慶応4年)まで江戸幕府が置かれていた都市である。",
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"text": "現在の東京都区部の中央部に位置し、その前身および原型に当たる。",
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"text": "江戸は、江戸時代に江戸幕府が置かれた日本の政治の中心地(行政首都)として発展した。また、江戸城は徳川氏の将軍の居城であり、江戸は幕府の政庁が置かれる行政府の所在地であると同時に、自身も天領を支配する領主である徳川氏(徳川将軍家)の城下町でもあり、武陽(ぶよう)と呼ばれることもあった。",
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"text": "徳川氏が関ヶ原の戦いに勝利し1603年に征夷大将軍となると、江戸は一気に重要性を増した。徳川家に服する武将(大名)に江戸の市街地普請が命じられ、山の切り崩しや入り江や湾の埋め立て等が行なわれ、旗本・御家人などの武士、家臣、その家族らが数多く居住するとともに、町人が呼び寄せられ、江戸は急速に拡大した。1612年(慶長17年)には江戸町割が実施され、1623年元和9年には武家地に町人が住むことが禁じられた。1635年(寛永12年)に参勤交代が始まると、新たに大名とその家族のための武家屋敷が建設された。",
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"text": "木造家屋が密集しており、火事が頻発した(江戸の火事)。1657年3月2日(明暦3年旧暦1月11日)には、明暦の大火が発生し、多大な被害が生じたが、その後も市街地の拡大が続いた。",
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"text": "江戸の町を大きく分けると、江戸城の南西ないし北に広がる町(山の手)と、東の隅田川をはじめとする数々の河川・堀に面した町(下町)に大別される。江戸時代前期には、「山の手が武家屋敷で、下町が町人の町」と一般的に言われていたが、江戸時代中期以降の人口増加によって、山の手に町人町が存在(千代田区の一部が挙げられる)したり、逆に下町に多くの武家屋敷が存在するなど、実際はかなり複雑な様相を示していた。江戸の都市圏内には非常に多数の(そして多様な)町が存在するようになり「江戸八百八町」とも言われるようになり、18世紀初頭には人口が百万人を超え、世界有数の大都市へと発展を遂げた。膨大な数の庶民によって多彩な文化が開花した。また、江戸は循環型社会であった。江戸の住人は「江戸者」「江戸衆」「江戸人」などと言ったが、江戸で生まれ育った生粋の江戸人や、根っから江戸者らしい性質(小さなことにこだわらず、だが意地張りで、しばしばせっかちで短気、等々)を備えた町人が江戸っ子と呼ばれた。→#生活と文化",
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"text": "最初、江戸の「町方支配場」の行政・司法は江戸町奉行(南町奉行および北町奉行)が管理した。町奉行が管理したのは あくまで町方のみであり、神社や寺院の私有地である「寺社門前地」や江戸城・大名屋敷等の「武家地」は町奉行の管理(支配)は及ばなかった。",
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"text": "だがその後、1745年(延享2年)に寺社門前地内の町屋を江戸町奉行が管理することが正式に通達され、門前町町屋・寺社領町屋440箇所、寺社境内借家有の分127箇所、合計567箇所が町奉行の支配となった。江戸町方支配場・寺社門前地の町数は享保8年(1723年)に1672町、延享3年(1746年)に1678町、天保19年(1843年)には1719町に増えた。『江戸図説』によると天明年中(1785年頃)の江戸町数1650余町の内、町方分1200余町、寺社門前地分400余町で、他に大名上屋敷265ヶ所、中屋敷・下屋敷466ヶ所、「神社凡そ200余社」「寺院凡1000余所」との記述がある。",
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"text": "町奉行の管理領域だけでなく、「江戸御府内」の範囲も時代によって変化があり、特に寺社門前地をどう取り扱うかについては幕府役人の間でも混乱があったことをうかがわせる書簡が残っている。1818年(文政元年)には江戸御府内を「朱引」、町奉行の支配領域を「墨引」と呼び、江戸御府内であっても町奉行の支配下ではない地域が郊外にできた(これらの地域は武家屋敷と武家所領、寺社門前地と寺社所領などで、御府内であっても一部で代官支配体制が続いており、武家屋敷と共にかなりの農地が存在し、また一部では町屋を形成していたと考えられている)。また1854年安政元年以降は新吉原・品川・三軒地糸割符猿屋町会所までが町奉行の支配下に入った。",
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"text": "徳川幕府は実に260年ほども続いたが、幕末には内政でも外政でも問題が山積の状態となり混乱を来たした。",
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"text": "1862年(文久2年)に参勤交代が緩和され、江戸の武家人口が激減。政治的中心も京都に移り、15代将軍徳川慶喜は将軍としては江戸に一度も居住しないような状態であった。徳川家と敵対する勢力によって一連の軍事的また政治的クーデターである明治維新が行われ、1868年(明治元年)に発せられた江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書によって江戸は「東京」と改称され、東京への改称とともに町奉行支配地内を管轄する東京府庁が開庁された。また天皇の東京行幸により江戸城が東京の皇居とされた。",
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"text": "明治維新により徳川将軍家が静岡に転封された際にも人口が減少した。明治2年(1869年)に東京府は新たに朱引を引き直し、朱引の内側を「市街地」、外側を「郷村地」と定めた。この時の朱引の範囲は江戸時代の「墨引」の範囲におおむね相当し、安政年間以降一時的に江戸に組み込まれた品川などは、東京とは別の町として扱われ、町数も1048(『府治類集』)に減った。翌年には、最初は京都にあった明治新政府も東京に移され、再び日本の事実上の首都となった。1871年に廃藩置県が行われ、東京府は新・東京府に置き換わった。",
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"text": "「江戸」という地名は、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』が史料上の初見で、おおよそ平安時代後半に発生した地名であると考えられている。",
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"text": "平安時代中期(930年代頃)に成立した『和名類聚抄』にはまだ江戸と言う地名は登場せず、豊島郡に「湯島郷」「日頭郷」、荏原郡に「桜田郷」が存在したと記されている。湯島郷は現在の文京区湯島、日頭郷は同区小日向、桜田郷は千代田区霞が関の旧称である桜田であったと推定されている。江戸は元々は湯島郷もしくは日頭郷に属する小地名であったと考えられている。後述の江戸氏は、他の武士の名乗りと同様に江戸を所領としていたために「江戸」と称したと考えられるため、江戸氏が歴史上登場する平安時代末期には既に江戸という地名が存在したと言える。",
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"text": "地名の由来は諸説あるが、江は川あるいは入江とすると、戸は入口を意味するから「江の入り口」に由来したと考える説が有力である。また、「戸」は港町の名称に用いられる例が多いことから、「江の港」とする説もある。あるいは、江戸の近郊にあったとされる今津・亀津・奥津という地名が、現在では今戸・亀戸・奥戸と称されている事から、「江の津」とする説もある。当時の江戸は、武蔵国と下総国の国境である隅田川の河口の西に位置し、日比谷入江と呼ばれる入江が、後の江戸城の間近に入り込んでいた。",
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"text": "江戸の開発は、平安時代後期に武蔵国の秩父地方から出て河越から入間川(現荒川)沿いに平野部へと進出してきた桓武平氏を称する秩父党の一族によって始められた。12世紀に秩父氏から出た江戸重継は、江戸の地を領して桜田の高台に城館を構え(のちの江戸城)、江戸の地名をとって江戸太郎を称し、江戸氏を興す。重継の子である江戸重長は1180年に源頼朝が挙兵した時には、当初は平家方として頼朝方の三浦氏と戦ったが、後に和解して鎌倉幕府の御家人となった。弘長元年10月3日(1261年)、江戸氏の一族の一人であった地頭江戸長重が正嘉の飢饉による荒廃で経営ができなくなった江戸郷前島村(現在の東京駅周辺)を北条氏得宗家に寄進してその被官となり、1315年までに得宗家から円覚寺に再寄進されていることが記録として残されている。ここにおいて、『和名類聚抄』の段階では存在しなかった「江戸郷」という地名を見ることが出来る。また、弘安4年4月15日(1281年)に長重と同族とみられる平重政が作成した譲状には「ゑとのかう(江戸郷)」にある「しハさきのむら」にある在家と田畠の譲渡に関する記述が出てくる。この江戸郷芝崎村(もしくは柴崎村)は前島村の北側、今の神田付近と推定されている。この頃の鎌倉からの奥州への街道は、日比谷入江に注ぐ平川にかかる高橋を渡り、鳥越(現・鳥越神社付近)、浅草へ通っていた。この平川沿いには早くから村ができていたようである。なお過去、平川は当初から日本橋川を流れたとされたが、現在は江戸城三ノ丸の堀付近を日比谷入江へ注いだと認識されている。芝崎村の西側にある平川の河口部には平川村が存在していたが、後には平川村および平川流域も江戸郷の一部として認識されるようになっていった。",
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"text": "鎌倉幕府が滅びると、江戸氏一族は南北朝の騒乱において新田義貞に従って南朝方についたりしたが、室町時代に次第に衰え、戦国末期には多摩郡喜多見で活動している。また、応永27年(1420年)紀州熊野神社の御師が書き留めた「江戸の苗字書立」によれば、さらに多摩川下流の大田区蒲田・六郷・原・鵜の木・丸子や隅田川下流域の金杉・石浜・牛島、江戸郷の国府方、柴崎、古川沿いの飯倉、小石川沿いの小日向、渋谷川沿いの渋谷、善福寺川沿いの中野、阿佐谷にも江戸氏一族が展開した。また、応永30年(1423年)には江戸氏一族とみられる江戸大炊助憲重が「武州豊嶋郡桜田郷」の土地売却を巡って訴訟を起こしている。前述通り、元々荏原郡の一部であった桜田郷が豊島郡の一部とされた背景として江戸氏の勢力拡大に伴って桜田郷への影響力が強まったことが背景にあったと推測され、やがてこの地域が江戸の一部として認識されていくことになる過程であったと考えられる。",
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"text": "代わって江戸の地には、関東管領上杉氏の一族扇谷上杉家の有力な武将であり家老であった太田資長(のちの太田道灌)が入り、江戸氏の居館跡に江戸城を築く。江戸城は、一説には康正2年(1456年)に建設を始め、翌年完成したという(『鎌倉大草紙』)。太田資長は文明10年(1478年)に剃髪し道灌と号し、文明18年(1486年)に謀殺されるまで江戸城を中心に南関東一円で活躍した。道灌の時代も平川は日比谷入江へ注いでおり、江戸前島を挟んで西に日比谷入江、東に江戸湊(ただし『東京市史稿』は日比谷入江を江戸湊としている)があり、浅草湊や品川湊と並ぶ中世武蔵国の代表的な湊であった。江戸や品川は利根川(現在の古利根川・中川)や荒川などの河口に近く、北関東の内陸部から水運を用いて鎌倉・小田原・西国方面に出る際の中継地点となった。",
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"text": "太田道灌の時代、長く続いた応仁の乱により荒廃した京都を離れ、権勢の良かった道灌を頼りに下向する学者や僧侶も多かったと見られ、平川の村を中心に城下町が形成された。吉祥寺は当時の城下町のはずれにあたる現在の大手町付近にあり、江戸時代初期に移転を命じられるまで同寺の周辺には墓地が広がっていた(現在の「東京駅八重洲北口遺跡」)。平河山を号する法恩寺や浄土寺も縁起からかつては城の北側の平川沿いの城下町にあったとみられている。また、戦国時代には「大橋宿」と呼ばれる宿場町が形成された。更に江戸城と河越城を結ぶ川越街道や小田原方面と結ぶ矢倉沢往還もこの時期に整備されたと考えられ、万里集九・宗祇・宗牧など多くの文化人が東国の旅の途中に江戸を訪れたことが知られている。",
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"text": "道灌の死後、扇谷上杉氏の当主である上杉朝良が長享の乱の結果、隠居を余儀なくされて江戸城に閉居することになった。ところが、その後朝良は実権を取り戻して江戸で政務を行い、後を継いだ朝興も江戸城を河越城と並ぶ扇谷上杉氏・武蔵国支配の拠点と位置付けた。だが、扇谷上杉氏は高輪原の戦いで後北条氏に敗れ、江戸城も後北条氏の支配下に移った。既に相模国・伊豆国を支配していた後北条氏の江戸支配によって東京湾(江戸湾)の西半分を完全に支配下に置き、これに衝撃を受けた東半分の房総半島の諸勢力(小弓公方・里見氏)に後北条氏との対決を決意させたと言われている。後北条氏末期には北条氏政が直接支配して太田氏や千葉氏を統率していた。支城の支配域としては、東京23区の隅田川以西・以南および墨田区・川崎市・多摩地区の各々一部まで含まれている。",
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"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "従来、徳川家康入城当時の江戸はあたかも全域が寒村のようであったとされてきた。だが近年になって、太田道灌およびその後の扇谷上杉氏・後北条氏の記録や古文書から、徳川氏入部以前より江戸は交通の要衝としてある程度発展しており、こうした伝承は徳川家康・江戸幕府の業績を強調するために作られたものとする見方が登場するようになった。また、『吾妻鑑』における源頼朝入城当時の鎌倉に関する描写(治承4年10月12日条)がそのまま家康の江戸入城時の描写に引用されている可能性を指摘する研究者もいる。その一方で、太田道灌時代の記録にも道灌を称える要素が含まれているため、家康以前の記録についてもその全てを史実として受け取ることに懐疑的な意見もある。とはいえ、現在では中世に達成した一定の成果の上に徳川家康以後の江戸の発展があったと考えられており、中世期文書の研究に加えて歴史考古学による調査の進展によって家康以前の江戸の歴史に関する研究が進展することが期待されている。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "1590年、後北条氏が小田原征伐で豊臣秀吉に滅ぼされると、後北条氏の旧領に封ぜられ、関東・奥羽方面の押さえを期待された徳川家康は、関東地方の中心となるべき居城を江戸に定めた。同年の旧暦8月1日(八朔)、家康は駿府から居を移すが、当時の江戸城は老朽化した粗末な城であったという。家康は江戸城本城の拡張は一定程度に留める代わりに城下町の建設を進め、神田山を削り、日比谷入江を盛んに埋め立てて町を広げ、家臣と町民の家屋敷を配置した。突貫工事であったために、埋め立て当初は地面が固まっておらず、乾燥して風が吹くと、もの凄い埃が舞い上がるという有様だったと言われる。この時期の江戸城はこれまでの本丸・二ノ丸に、西丸・三ノ丸・吹上・北ノ丸があり、また道三堀の開削や平川の江戸前島中央部への移設、それに伴う埋め立てにより、現在の西丸下の半分以上が埋め立られている(この時期の本城といえるのはこの内、本丸・二ノ丸と家康の隠居所として造られた西丸である)。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "家康が1600年の関ヶ原の戦いに勝利して天下人となり、1603年に征夷大将軍に任ぜられると、幕府の所在地として江戸の政治的重要性は一気に高まり、徳川家に服する諸大名の屋敷が設けられた。江戸に居住する大名の家臣・家族や、徳川氏の旗本・御家人などの武士が数多く居住するようになるとともに、町人を呼び寄せて、町が急速に拡大した。江戸城とその堀は幕府から諸大名に課せられた手伝普請によって整備され、江戸城は巨大な堅城に生まれ変わり、城と武家屋敷を取り巻く広大な惣構が構築された。(都市開発の歴史については後の都市の章で述べる。)",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "1657年の明暦の大火の後、再建事業によって市域は隅田川を超え、東へと拡大した。その人口は絶えず拡大を続け、18世紀初頭には人口が百万人を超え、大江戸八百八町といわれる世界有数(一説によると当時世界一)の大都市へと発展を遂げた。人口の増大は、江戸を東日本における大消費地とし、日本各地の農村と結ばれた大市場、経済的先進地方である上方(近畿地方)と関東地方を結ぶ中継市場として、経済的な重要性も増した。当時の江戸は、『東都歳時記』、『富嶽三十六景』にみる葛飾北斎の両国(現在の墨田区)からの作品などからも見られるように、漢風に「東都」とも呼ばれる大都市となっていた。18世紀末から19世紀初めには、上方にかわる文化的な中心地ともなり、経済活動や参勤交代を通じた江戸を中心とする人の往来は江戸から地方へ、地方から江戸へ盛んな文化の伝播をもたらした。一方で、膨大な人口が農村から江戸に流入して、様々な都市問題を引き起こすことにもなった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 25,
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"text": "江戸の地名で呼ばれる地域は、江戸御府内ともいったが、その範囲は時期により、幕府部局により異なっていた。一般に江戸御府内は町奉行の支配範囲と理解された。その支配地は拡大していった。寛文2年(1662)に街道筋の代官支配の町や300町が編入され、正徳3年(1713)には町屋が成立した場所259町が編入された。さらに、延享2年(1745)には寺社門前地440カ所、境内227町が町奉行支配に移管された。この町奉行の支配範囲とは別に御府内の範囲とされた御構場の範囲、寺社奉行が勧化を許す範囲、塗り高札場の掲示範囲、旗本・御家人が御府外に出るときの範囲などが決められた。これらの御府内の異同を是正するため、文政元年(1818)に絵図面に朱線を引き、御府内の範囲を確定した。これにより御府内の朱引内(しゅびきうち)とも称するようになった。 この範囲外は朱引外(しゅびきそと)と称した。 元々は平安時代に存在した荏原郡桜田郷(江戸城の西南)の一部であったが、やがて豊島郡江戸郷と呼ばれるようになっていた。",
"title": "範囲"
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"text": "江戸時代初期における江戸の範囲は、現在の東京都千代田区とその周辺であり、江戸城の外堀はこれを取り囲むよう建造された。明暦の大火以後、その市街地は拡大。通称「八百八町」と呼ばれるようになる。1818年、朱引の制定によって、江戸の市域は初めて正式に定められることになった。今日「大江戸」としてイメージされるのは、一般にこの範囲である。",
"title": "範囲"
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"text": "以下に江戸に含まれる主な歴史的地名をあげる。",
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"text": "実際には、既に触れたように江戸の地は平安時代末期から関東南部の要衝であった。確かに徳川氏の記録が伝えるように、後北条氏時代の江戸城は最重要な支城とまではみなされず城は15世紀の粗末な造りのまま残されていたが、関八州の首府となりうる基礎はすでに存在していた。",
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"text": "しかし、江戸が都市として発展するためには、日比谷入江の東、隅田川河口の西にあたる江戸前島と呼ばれる砂州を除けば、城下町をつくるために十分な平地が存在しないことが大きな障害となる。そこで徳川氏は、まず江戸城の和田倉門から隅田川まで道三堀を穿ち、そこから出た土で日比谷入江の埋め立てを開始した。道三堀は墨田川河口から江戸城の傍まで、城の建造に必要な木材や石材を搬入するために活用され、道三堀の左右に舟町が形成された。また、元からあった平地である今の常盤橋門外から日本橋の北に新たに町人地が設定された(この時と時期を同じくして平川の日比谷入江から江戸前島を貫通する流路変更が行われたと思われる)。これが江戸本町、今の日本銀行本店や三越本店がある一帯である。さらに元からあった周辺集落である南の芝、北の浅草や西の赤坂、牛込、麹町にも町屋が発展した。この頃の江戸の姿を伝える地図としては『別本慶長江戸図』が知られている。",
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"text": "江戸は「の」の字形に設計されたことが一般の城下町と比べて特異であるといわれる。 つまり、江戸城の本城は大手門から和田倉門、馬場先門、桜田門の内側にある本丸、二の丸、西の丸などの内郭に将軍、次期将軍となる将軍の世子、先代の将軍である大御所が住む御殿が造られ、その西にあたる半蔵門内の吹上に将軍の親族である御三家の屋敷が置かれた。内城の堀の外は東の大手門下から和田倉門外に譜代大名の屋敷、南の桜田門の外に外様大名の屋敷と定められ、西の半蔵門外から一ツ橋門、神田橋門外に至る台地に旗本・御家人が住まわされ、さらに武家屋敷地や大名屋敷地の東、常盤橋・呉服橋・鍛冶橋・数寄屋橋から隅田川、江戸湾に至るまでの日比谷埋立地方面に町人地が広げられた。これを地図で見るとちょうど大手門から数寄屋橋に至るまでの「の」の字の堀の内外に渦巻き上に将軍・親藩・譜代・外様大名・旗本御家人・町人が配置されている形になる。巻き貝が殻を大きくするように、渦巻き型に柔軟に拡大できる構造を取ったことが、江戸の拡大を手助けした。",
"title": "範囲"
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"text": "家康の死後、2代将軍徳川秀忠は、江戸の北東の守りを確保するため、小石川門の西から南に流れていた平川をまっすぐ東に通す改修を行った。今の水道橋から万世橋(秋葉原)の間は本郷から駿河台まで伸びる神田台地があったためこれを掘り割って人工の谷を造って通し、そこから西は元から神田台地から隅田川に流れていた中川の流路を転用し、浅草橋を通って隅田川に流れるようにした。これが江戸城の北の外堀である神田川である。この工事によって平川下流であった一ツ橋、神田橋、日本橋を経て隅田川に至る川筋は神田川(平川)から切り離され、江戸城の堀となった。この堀が再び神田川に接続され、神田川支流の日本橋川となるのは明治時代のことである。",
"title": "範囲"
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"text": "更に3代将軍徳川家光はこれまで手薄で残されてきた城の西部外郭を固めることにし、溜池や神田川に注ぎ込む小川の谷筋を利用して溜池から赤坂、四ッ谷、市ヶ谷を経て牛込に至り、神田川に接する外堀を造らせた。全国の外様大名を大動員して行われた外堀工事は1636年に竣工し、ここに御成門から浅草橋門に至る江戸城の「の」の字の外側の部分が完成した。",
"title": "範囲"
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"text": "城下町において武家地、町人地とならぶ要素は寺社地であるが、江戸では寺社の配置に風水の思想が重視されたという。そもそも江戸城が徳川氏の城に選ばれた理由の一因には、江戸の地が当初は北の玄武は麹町台地、東の青龍は平川、南の朱雀は日比谷入江、西の白虎は東海道、江戸の拡大後は、玄武に本郷台地、青龍に大川(隅田川)、朱雀に江戸湾、白虎に甲州街道と四神相応に則っている点とされる。関東の独立を掲げた武将で、代表的な怨霊でもある平将門を祭る神田明神は、大手門前(現在の首塚周辺)から、江戸城の鬼門にあたる駿河台へと移され、江戸惣鎮守として奉られた。また、江戸城の建設に伴って城内にあった山王権現(現在の日枝神社)は裏鬼門である赤坂へと移される。更に、家康の帰依していた天台宗の僧天海が江戸城の鬼門にあたる上野忍岡を拝領、京都の鬼門封じである比叡山に倣って堂塔を建設し、1625年に寛永寺を開山した。寛永寺の山号は東叡山、すなわち東の比叡山を意味しており、寺号は延暦寺と同じように建立時の年号から取られている。",
"title": "範囲"
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"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "江戸は海辺を埋め立てて作られた町のため、井戸を掘っても真水を十分に得ることができず、水の確保が問題となる。そこで、赤坂に元からあった溜池が活用されると共に、井の頭池を水源とする神田上水が造られた。やがて江戸の人口が増えて来るとこれだけでは供給し切れなくなり、水不足が深刻になって来た。このために造られた水道が1653年完成の玉川上水である。水道は江戸っ子の自慢の物の一つで、「水道の水を産湯に使い」などと言う言葉がよく使われる。",
"title": "範囲"
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"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "1640年には江戸城の工事が最終的に完成し、江戸の都市建設はひとつの終着点に達した。しかし、1657年に明暦の大火が起こると江戸の町は大部分が焼亡し、江戸城天守も炎上してしまった。幕府はこれ以降、火事をできるだけ妨げられるよう都市計画を変更することになった。これまで吹上にあった御三家の屋敷が半蔵門外の紀尾井町に移されるなど大名屋敷の配置換えが行われ、類焼を防ぐための火除地として十分な広さの空き地や庭園が設けられた。",
"title": "範囲"
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"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "大名屋敷が再建され、参勤交代のために多くの武士が滞在するようになると、彼らの生活を支えるため江戸の町は急速に復興するが、もはや外堀内の江戸の町は狭すぎる状態だった。こうして江戸の町の拡大が始まり、隅田川の対岸、深川・永代島まで都市化が進んでいった。南・西・北にも都市化の波は及び、外延部の上野、浅草が盛り場として発展、さらに外側には新吉原遊郭が置かれていた。",
"title": "範囲"
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"text": "",
"title": "神社仏閣"
},
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"paragraph_id": 38,
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"text": "1624年(寛永元年)には中村勘三郎(猿若)が京都から江戸に移り、町奉行所の許可を得て「猿若座」を開き、江戸の芝居小屋が始まった。最初は江戸・中橋(現在の日本橋と京橋の中間あたり)にあったが、やがて堺町(今の人形町)へ移転。元禄時代(1688~1704年頃)には江戸の歌舞伎は隆盛となり、芝居小屋は猿若座(堺町)、市村座(葺屋町=現 人形町)、森田座(木挽町=現在の歌舞伎座のあたり)、山村座(木挽町)の4つとなった(「江戸四座」と言う)。",
"title": "生活と文化"
},
{
"paragraph_id": 39,
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"text": "江戸の落語は17世紀後半(貞享・元禄年間)に鹿野武左衛門によって始められ、18世紀後半には烏亭焉馬の会咄を経て、三笑亭可楽(初代)によって寄席芸能として確立したと言われている。",
"title": "生活と文化"
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"paragraph_id": 40,
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"text": "江戸の成人男性の識字率は幕末には70%を超え、同時期のロンドン (20%)、パリ(10%未満)を遥かに凌ぎ、世界的に見れば極めて高い水準であった。ロシア人革命家メーチニコフや、ドイツ人の考古学者シュリーマンらが、驚きを以って識字状況について書いている。また武士だけではなく農民も和歌を嗜んだと言われており、その背景には寺子屋の普及があったと考えられ、高札等でいわゆる『御触書』を公表したり、『瓦版』や『貸本屋』等が大いに繁盛した事実からも、大半の町人は文字を読む事が出来たと考えられている。ただし識字率が高い武士階級の人口も多いため、識字率がかさ上げされているのも間違いなく、当時、全国平均での識字率は20%から50%程度と推定されている。また、明治時代に入ってからの話であるが、徴兵制施行時の調査では、事務処理が出来る実用的なレベルの読み書きが出来るものは20%程度だったという(識字の項参照のこと)。",
"title": "生活と文化"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "(火事のときは周りの家を倒して広がるのを防いだ。木造建築なので火が移りやすいため。)",
"title": "生活と文化"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "慶応4年/明治元年旧暦1月3日(1868年1月27日)に戊辰戦争が起こり、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れると、薩長軍の大軍が江戸に迫り、江戸は戦火に晒される危険に陥った。幕臣勝海舟は早期停戦を唱えて薩長軍を率いる西郷隆盛と交渉、同年旧暦4月11日(5月3日)に最後の将軍徳川慶喜は江戸城の無血開城し降伏、交戦派と官軍の間の上野戦争を例外として、江戸は戦火を免れた(江戸無血開城)。",
"title": "東京への改称"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "同年旧暦5月12日(7月1日)に町地を中心に「江戸府」が設置された。同年旧暦7月17日(9月6日)には「江戸」は「東京」と改称され、「江戸府」は「東京府」となった(江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書)。同年旧暦10月13日(11月26日)に明治天皇が東京行幸した際、「江戸城」は「東京城」と改称された。翌明治2年旧暦2月19日(1869年3月31日)には新たに朱引きの範囲が定められ、旧暦3月16日(4月27日)には町地に五十番組制(五十区制)が敷かれた。旧暦3月28日(5月9日)には、明治天皇が二度目の行幸を行い、「東京城」を「皇城」と称し、かつての将軍の居住する都市・江戸は、天皇の行在する都市・東京となった(東京奠都)。旧暦11月2日(12月4日)には武家地を含めた地域が東京府の管轄となった。明治4年旧暦6月9日(1871年7月26日)には朱引が改定され、大区小区制に基づく六大区制が導入された。",
"title": "東京への改称"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "同年旧暦7月14日(8月29日)の廃藩置県以降、段階的に周辺の地域が東京府に併合され、明治4年旧暦12月27日(1872年2月5日)には武家地・町地という名称が廃止された。明治7年(1874年)3月4日には東京十一大区制へ再編され、明治11年(1878年)11月2日には東京十五区制に落ち着く。以降、東京の町並が東京市、東京都へと変遷しつつ東京都市圏に拡大してゆく過程で、かつての江戸のうち隅田川以東の本所・深川を除いた地区は都心となり、その中核としての役割を果たしている。",
"title": "東京への改称"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "その他多数あり。",
"title": "関連作品"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "川・堀の水路網と蔵は江戸を象徴する町並の特徴であり、蔵造りの町並が残された栃木市、埼玉県川越市、千葉県香取市の旧佐原市の市街地などの関東地方の河港都市は、江戸に似た構造という点や江戸と交流が深かったという点から「小江戸」と呼ばれている。",
"title": "小江戸"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "なお上記とは別用法として、初期の江戸城下町を、後年の広域化した江戸城下町を意味する「大江戸」に対して「小江戸」と称する用法もある。",
"title": "小江戸"
}
] | 江戸 は、東京の旧称であり、1603年(慶長8年)から1868年(慶応4年)まで江戸幕府が置かれていた都市である。 現在の東京都区部の中央部に位置し、その前身および原型に当たる。 | {{otheruses}}
[[画像:Edo_P.jpg|thumb|right|300px|江戸図屏風に見る、初期の江戸]]
[[画像:Edo 1844-1848 Map.jpg|thumb|right|350px|弘化年間(1844年-1848年)改訂江戸図]]
[[File:Edo (1853).jpg|thumb|300px|1853年の[[青山通り]]宮益坂上(左)~[[青山_(東京都港区)|青山]]2丁目(右)、[[麻布]]長谷寺(中央下)近辺。根岸信輔蔵。]]
'''江戸'''(えど、{{旧字体|'''江戶'''}}) <ref>外国語では、Edo、Yedo、Yeddo、Yendo、Jedoなど諸表記あり</ref>は、'''[[東京]]'''の旧称であり、[[1603年]]([[慶長]]8年)から[[1868年]]([[慶応]]4年)まで[[江戸幕府]]が置かれていた都市である。
現在の[[東京都区部]]の中央部に位置し、その前身および原型に当たる。
==概要==
江戸は、[[江戸時代]]に江戸幕府が置かれた[[日本]]の[[政治]]の中心地(行政首都)として発展した。また、[[江戸城]]は[[徳川氏]]の[[征夷大将軍|将軍]]の居城であり、江戸は[[幕府]]の政庁が置かれる行政府の所在地であると同時に、自身も[[天領]]を支配する領主である徳川氏([[徳川将軍家]])の[[城下町]]でもあり、'''武陽'''(ぶよう)と呼ばれることもあった。
徳川氏が関ヶ原の戦いに勝利し1603年に征夷大将軍となると、江戸は一気に重要性を増した。徳川家に服する武将([[大名]])に江戸の市街地普請が命じられ、山の切り崩しや入り江や湾の埋め立て等が行なわれ、[[旗本]]・[[御家人#近世の御家人|御家人]]などの[[武士]]、家臣、その家族らが数多く居住するとともに、[[町人]]が呼び寄せられ、江戸は急速に拡大した。[[1612年]](慶長17年)には[[江戸町割]]が実施され<ref>『慶長記』</ref>、[[1623年]]元和9年には武家地に町人が住むことが禁じられた。[[1635年]](寛永12年)に[[参勤交代]]が始まると、新たに大名とその家族のための武家屋敷が建設された。
木造家屋が密集しており、火事が頻発した([[江戸の火事]])。[[1657年]]3月2日(明暦3年旧暦1月11日)には、[[明暦の大火]]が発生し、多大な被害が生じたが、その後も市街地の拡大が続いた。
江戸の町を大きく分けると、江戸城の南西ないし北に広がる町([[山の手]])と、東の[[隅田川]]をはじめとする数々の河川・堀に面した町([[下町]])に大別される。江戸時代前期には、「山の手が[[武家屋敷]]で、下町が町人の町」と一般的に言われていたが、江戸時代中期以降の人口増加によって、山の手に町人町が存在([[千代田区]]の一部が挙げられる)したり、逆に下町に多くの武家屋敷が存在するなど、実際はかなり複雑な様相を示していた。江戸の都市圏内には非常に多数の(そして多様な)町が存在するようになり「江戸八百八町」とも言われるようになり、[[18世紀]]初頭には人口が百万人を超え、世界有数の大都市へと発展を遂げた。膨大な数の庶民によって多彩な文化が開花した。また、江戸は[[循環型社会]]であった<ref>石川英輔『大江戸リサイクル事情』 講談社 1997年</ref>。江戸の住人は「江戸者」「江戸衆」「江戸人」などと言ったが、江戸で生まれ育った生粋の江戸人や、根っから江戸者らしい性質(小さなことにこだわらず、だが意地張りで、しばしばせっかちで短気、等々)を備えた町人が[[江戸っ子]]と呼ばれた。→[[#生活と文化]]
===江戸の行政・司法(および警察)===
最初、江戸の「町方支配場」の行政・司法は[[江戸町奉行]]([[南町奉行]]および[[北町奉行]])が管理した。町奉行が管理したのは あくまで町方のみであり、神社や寺院の私有地である「寺社門前地」や江戸城・大名屋敷等の「武家地」は町奉行の管理(支配)は及ばなかった。
だがその後、[[1745年]](延享2年)に寺社門前地内の町屋を江戸町奉行が管理することが正式に通達され、門前町町屋・寺社領町屋440箇所、寺社境内借家有の分127箇所、合計567箇所が町奉行の支配となった。江戸町方支配場・寺社門前地の町数は享保8年(1723年)に1672町、延享3年(1746年)に1678町、天保19年(1843年)には1719町に増えた。『[[江戸図説]]』によると天明年中(1785年頃)の江戸町数1650余町の内、町方分1200余町、寺社門前地分400余町で、他に大名上屋敷265ヶ所、中屋敷・下屋敷466ヶ所{{Refnest|group="注釈"|ただし[[御三卿]]屋敷並びに抱屋敷の分を除いた}}、「神社凡そ200余社」「寺院凡1000余所」との記述がある。
町奉行の管理領域だけでなく、「江戸御府内」の範囲も時代によって変化があり、特に寺社門前地をどう取り扱うかについては幕府役人の間でも混乱があったことをうかがわせる書簡が残っている。[[1818年]](文政元年)には江戸御府内を「[[朱引]]」、町奉行の支配領域を「墨引」と呼び、江戸御府内であっても町奉行の支配下ではない地域が郊外にできた(これらの地域は武家屋敷と武家所領、寺社門前地と寺社所領などで、御府内であっても一部で代官支配体制が続いており、武家屋敷と共にかなりの[[農地]]が存在し、また一部では[[町屋]]を形成していたと考えられている)。また[[1854年]]安政元年以降は[[新吉原]]・[[品川宿|品川]]・三軒地糸割符猿屋町会所までが町奉行の支配下に入った。
===幕末の江戸と明治初頭の東京===
徳川幕府は実に260年ほども続いたが、[[幕末]]には内政でも外政でも問題が山積の状態となり混乱を来たした。
[[1862年]](文久2年)に参勤交代が緩和され、江戸の武家人口が激減。政治的中心も京都に移り、15代将軍[[徳川慶喜]]は将軍としては江戸に一度も居住しないような状態であった。徳川家と敵対する勢力によって一連の軍事的また政治的クーデターである[[明治維新]]が行われ、[[1868年]](明治元年)に発せられた[[江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書]]によって江戸は「[[東京]]」と改称され、東京への改称とともに[[町奉行]]支配地内を管轄する[[東京府]]庁が開庁された。また天皇の[[東京行幸]]により[[江戸城]]が東京の[[皇居]]とされた。
明治維新により徳川将軍家が静岡に転封された際にも人口が減少した。明治2年([[1869年]])に東京府は新たに朱引を引き直し、朱引の内側を「市街地」、外側を「郷村地」と定めた。この時の朱引の範囲は江戸時代の「墨引」の範囲におおむね相当し、安政年間以降一時的に江戸に組み込まれた品川などは、東京とは別の町として扱われ、町数も1048(『府治類集』)に減った。翌年には、最初は京都にあった明治新政府も東京に移され、再び日本の事実上の[[首都]]となった。[[1871年]]に[[廃藩置県]]が行われ、東京府は新・東京府に置き換わった。
== 歴史 ==
=== 徳川氏以前の江戸 ===
「'''江戸'''」という地名は、[[鎌倉幕府]]の歴史書『[[吾妻鏡]]』が[[史料]]上の初見で、おおよそ[[平安時代]]後半に発生した地名であると考えられている。
平安時代中期([[930年代]]頃)に成立した『[[和名類聚抄]]』にはまだ江戸と言う地名は登場せず、[[豊島郡_(武蔵国)|豊島郡]]に「湯島郷」「日頭郷」、荏原郡に「桜田郷」が存在したと記されている。湯島郷は現在の[[文京区]][[湯島]]、日頭郷は同区[[小日向]]、桜田郷は千代田区[[霞が関]]の旧称である[[桜田 (千代田区)|桜田]]であったと推定されている。江戸は元々は湯島郷もしくは日頭郷に属する小地名であったと考えられている<ref name="yamada">山田邦明「古代・中世の江戸」(初出:藤田覚・大岡聡 編『街道の日本史20 江戸』(吉川弘文館、2003年) ISBN 978-4-642-06220-6 P31-55./所収:山田『鎌倉府と地域社会』(同成社、2014年) ISBN 978-4-88621-681-6)</ref>。後述の[[江戸氏]]は、他の武士の名乗りと同様に江戸を所領としていたために「江戸」と称したと考えられるため、江戸氏が歴史上登場する平安時代末期には既に江戸という地名が存在したと言える<ref name=yamada/>。
地名の[[語源|由来]]は諸説あるが、'''江'''は川あるいは入江とすると、'''戸'''は入口を意味するから「'''江の入り口'''」に由来したと考える説が有力である。また、「戸」は港町の名称に用いられる例が多いことから、「江の港」とする説{{Refnest|group="注釈"|この場合「江戸湊」は語源が忘れられた後に出来た[[重言]]とされる。}}<ref name=okano>岡野友彦『家康はなぜ江戸を選んだか』教育出版、1999年</ref>もある。あるいは、江戸の近郊にあったとされる今津・亀津・奥津という地名が、現在では[[今戸]]・[[亀戸]]・[[奥戸]]と称されている事から、「江の津」とする説<ref name=yamada/>もある。当時の江戸は、[[武蔵国]]と[[下総国]]の国境である'''隅田川'''の河口の西に位置し、[[日比谷入江]]と呼ばれる入江が、後の江戸城の間近に入り込んでいた。
江戸の開発は、[[平安時代]]後期に武蔵国の[[秩父]]地方から出て[[川越市|河越]]から[[入間川 (埼玉県)|入間川]](現[[荒川 (関東)|荒川]])沿いに平野部へと進出してきた[[桓武平氏]]を称する秩父党の一族によって始められた。[[12世紀]]に[[秩父氏]]から出た[[江戸重継]]は、江戸の地を領して桜田の高台に[[城館]]を構え(のちの江戸城)<ref>山田邦明「古代・中世の江戸」では、桜田は本来は(平川流域地域を指した)江戸の一部ではなく、江戸氏の勢力拡大や太田道灌の江戸城築城に伴う「江戸」の拡大よって本来属していた荏原郡から切り離されて豊島郡江戸の一部になったとしている。また、山田は江戸氏の館も後の江戸城ではなく、平川流域の現在の[[水道橋 (神田川)|水道橋]]付近にあったとする説を提示している。</ref>、江戸の地名をとって'''江戸太郎'''を称し、江戸氏を興す。重継の子である[[江戸重長]]は[[1180年]]に[[源頼朝]]が挙兵した時には、当初は[[伊勢平氏|平家]]方として頼朝方の[[三浦氏]]と戦ったが、後に和解して[[鎌倉幕府]]の[[御家人]]となった。[[弘長]]元年[[10月3日 (旧暦)|10月3日]]([[1261年]])、江戸氏の一族の一人であった[[地頭]][[江戸長重]]が[[正嘉の飢饉]]による荒廃で経営ができなくなった江戸郷前島村(現在の[[東京駅]]周辺)を[[北条氏]][[得宗家]]に寄進してその[[被官]]となり、[[1315年]]までに得宗家から[[円覚寺]]に再寄進されていることが記録として残されている。ここにおいて、『和名類聚抄』の段階では存在しなかった「江戸郷」という地名を見ることが出来る。また、[[弘安]]4年[[4月15日 (旧暦)|4月15日]]([[1281年]])に長重と同族とみられる平重政が作成した[[譲状]]<ref>「深江文書」</ref>には「ゑとのかう(江戸郷)」にある「しハさきのむら」にある在家と田畠の譲渡に関する記述が出てくる。この江戸郷芝崎村(もしくは柴崎村)は前島村の北側、今の[[神田 (千代田区)|神田]]付近と推定されている<ref name=yamada/>。この頃の[[鎌倉]]からの奥州への街道は、日比谷入江に注ぐ'''平川'''にかかる高橋を渡り、鳥越(現・[[鳥越神社]]付近)、[[浅草]]へ通っていた。この平川沿いには早くから村ができていたようである<ref>内藤昌『江戸の町』(上)p.6-7</ref>。なお過去、平川は当初から日本橋川を流れたとされたが、現在は江戸城三ノ丸の堀付近を日比谷入江へ注いだと認識されている<ref>岡野友彦「「静勝軒寄題詩序」再考」江戸遺跡研究会編『江戸の開府と土木技術』吉川弘文館、2014年</ref>。芝崎村の西側にある平川の河口部には平川村が存在していたが、後には平川村および平川流域も江戸郷の一部として認識されるようになっていった。
鎌倉幕府が滅びると、江戸氏一族は[[南北朝時代 (日本)|南北朝]]の騒乱において[[新田義貞]]に従って[[南朝 (日本)|南朝]]方についたりしたが、[[室町時代]]に次第に衰え、戦国末期には[[多摩郡]]喜多見で活動している。また、[[応永]]27年([[1420年]])紀州熊野神社の御師が書き留めた「江戸の苗字書立」によれば、さらに多摩川下流の大田区[[蒲田]]・六郷・[[久が原|原]]・[[鵜の木]]・[[丸子]]や隅田川下流域の[[下谷|金杉]]・[[清川 (台東区)|石浜]]・[[向島 (墨田区)|牛島]]、江戸郷の[[麹町|国府方]]、[[大手町 (千代田区)|柴崎]]、古川沿いの[[飯倉 (東京都港区)|飯倉]]、小石川沿いの小日向、渋谷川沿いの[[渋谷]]、善福寺川沿いの[[中野 (中野区)|中野]]、[[阿佐谷]]にも江戸氏一族が展開した。また、応永30年([[1423年]])には江戸氏一族とみられる江戸大炊助憲重が「武州豊嶋郡桜田郷」の土地売却を巡って訴訟を起こしている。前述通り、元々荏原郡の一部であった桜田郷が豊島郡の一部とされた背景として江戸氏の勢力拡大に伴って桜田郷への影響力が強まったことが背景にあったと推測され、やがてこの地域が江戸の一部として認識されていくことになる過程であったと考えられる<ref name=yamada/>。
[[画像:Outa Doukan.jpg|thumb|right|太田道灌]]
代わって江戸の地には、[[関東管領]][[上杉氏]]の一族[[扇谷上杉家]]の有力な武将であり家老であった太田資長(のちの'''[[太田道灌]]''')が入り、江戸氏の居館跡に'''[[江戸城]]'''を築く。江戸城は、一説には[[康正]]2年([[1456年]])に建設を始め、翌年完成したという(『[[鎌倉大草紙]]』)。太田資長は[[文明 (日本)|文明]]10年([[1478年]])に剃髪し道灌と号し、文明18年([[1486年]])に謀殺されるまで江戸城を中心に[[南関東]]一円で活躍した。道灌の時代も平川は[[日比谷入江]]へ注いでおり、江戸前島を挟んで西に日比谷入江、東に[[江戸湊]](ただし『[[東京市史稿]]』は日比谷入江を江戸湊としている)があり、[[浅草湊]]や[[品川湊]]と並ぶ中世武蔵国の代表的な湊であった。江戸や品川は[[利根川]](現在の[[古利根川]]・[[中川]])や[[荒川 (関東)|荒川]]などの[[河口]]に近く、[[北関東]]の内陸部から[[水運]]を用いて鎌倉・[[小田原城|小田原]]・[[西国]]方面に出る際の中継地点となった。
太田道灌の時代、長く続いた[[応仁の乱]]により荒廃した[[京都]]を離れ、権勢の良かった道灌を頼りに下向する学者や僧侶も多かったと見られ、平川の村を中心に[[城下町]]が形成された<ref>内藤昌『江戸の町(上)』p8-9。</ref>。[[吉祥寺 (文京区)|吉祥寺]]は当時の城下町のはずれにあたる現在の[[大手町 (千代田区)|大手町]]付近にあり、江戸時代初期に移転を命じられるまで同寺の周辺には墓地が広がっていた(現在の「東京駅八重洲北口遺跡」)。平河山を号する[[法恩寺 (墨田区)|法恩寺]]や[[浄土寺 (東京都港区)|浄土寺]]も縁起からかつては城の北側の平川沿いの城下町にあったとみられている。また、戦国時代には「大橋宿」と呼ばれる宿場町が形成された。更に江戸城と[[河越城]]を結ぶ[[川越街道]]や小田原方面と結ぶ[[矢倉沢往還]]もこの時期に整備されたと考えられ、[[万里集九]]・[[宗祇]]・[[宗牧]]など多くの文化人が東国の旅の途中に江戸を訪れたことが知られている<ref name="saitou">[[齋藤慎一]]『中世東国の道と城館』([[東京大学出版会]]、2010年)第三章「南関東の都市と道」(2004年発表)/第一五章「中近世移行期の都市江戸」(新稿)</ref>。
道灌の死後、扇谷上杉氏の当主である[[上杉朝良]]が[[長享の乱]]の結果、隠居を余儀なくされて江戸城に閉居することになった。ところが、その後朝良は実権を取り戻して江戸で政務を行い、後を継いだ[[上杉朝興|朝興]]も江戸城を河越城と並ぶ扇谷上杉氏・武蔵国支配の拠点と位置付けた。だが、扇谷上杉氏は[[高輪原の戦い]]で[[後北条氏]]に敗れ、江戸城も後北条氏の支配下に移った。既に相模国・伊豆国を支配していた後北条氏の江戸支配によって東京湾(江戸湾)の西半分を完全に支配下に置き、これに衝撃を受けた東半分の房総半島の諸勢力([[小弓公方]]・[[里見氏]])に後北条氏との対決を決意させたと言われている<ref>[[佐藤博信]]「小弓公方足利氏の成立と展開」『中世東国政治史論』[[塙書房]]、2006年(1992年発表)</ref>。後北条氏末期には[[北条氏政]]が直接支配して[[太田氏]]や[[千葉氏]]を統率していた。支城の支配域としては、[[東京都区部|東京23区]]の[[隅田川]]以西・以南および[[墨田区]]・[[川崎市]]・[[多摩地区]]の各々一部まで含まれている。
従来、徳川家康入城当時の江戸はあたかも全域が寒村のようであったとされてきた。だが近年になって、太田道灌およびその後の扇谷上杉氏・後北条氏の記録や古文書から、徳川氏入部以前より江戸は交通の要衝としてある程度発展しており、こうした伝承は徳川家康・江戸幕府の業績を強調するために作られたものとする見方<ref name=okano/>が登場するようになった。また、『[[吾妻鑑]]』における[[源頼朝]]入城当時の鎌倉に関する描写(治承4年10月12日条)がそのまま家康の江戸入城時の描写に引用されている可能性を指摘する研究者もいる<ref>平安時代後期に[[妙見信仰]]の中心的寺院として朝廷にも知られていた鎌倉の生源寺(現在の[[鶴岡八幡宮]]付近にあり、鎌倉幕府成立後は岩窟不動尊の東に移されて松源寺と改名され、[[廃仏毀釈]]で廃寺)の存在などを指摘して、頼朝以前の鎌倉を都市とまでは言えなくても東国の天台宗の重要な拠点であったとする福島金治の見解(福島金治「鶴岡八幡宮の成立と鎌倉生源寺・江ノ島」地方史研究協議会編『都市・近郊の信仰と遊山・観光 交流と引用』(雄山閣、1999年)ISBN 4-639-01640-9 P24-28・36.)。</ref>。その一方で、太田道灌時代の記録にも道灌を称える要素が含まれているため、家康以前の記録についてもその全てを史実として受け取ることに懐疑的な意見もある<ref>代表的なものとして、平野明夫「太田道灌と江戸城」東京都教育委員会『文化財の保護』21号、1989年、など</ref>。とはいえ、現在では中世に達成した一定の成果の上に徳川家康以後の江戸の発展があったと考えられており、中世期文書の研究に加えて[[歴史考古学]]による調査の進展によって家康以前の江戸の歴史に関する研究が進展することが期待されている<ref name="saitou"/>。
=== 徳川時代の江戸 ===
[[画像:Tokugawa Ieyasu2.JPG|thumb|right|300px|徳川家康]]
[[1590年]]、[[後北条氏]]が[[小田原征伐]]で[[豊臣秀吉]]に滅ぼされると、後北条氏の旧領に封ぜられ、関東・奥羽方面の押さえを期待された徳川家康は、[[関東地方]]の中心となるべき居城を江戸に定めた<ref>柴裕之は小田原征伐中に豊臣秀吉が江戸城に御座所を設ける意向を表明しており(「富田文書」)、家康の移封後の本拠地の決定についても秀吉の意向が働いたとみている(柴裕之 『徳川家康 境界の領主から天下人へ』 平凡社〈中世から近世へ〉、2017年6月。ISBN 978-4-582-47731-3 P195.)</ref>。同年の旧暦[[8月1日 (旧暦)|8月1日]]([[八朔]])<ref>松平家忠の『家忠日記』によれば7月18日とされる。なお、柴裕之は徳川氏の領国の最終確定が8月1日であったことから、江戸幕府の成立後に徳川氏の領国確定日と八朔の日が重ねるこの日を家康の入城の日と定めたとする(柴裕之 『徳川家康 境界の領主から天下人へ』 平凡社〈中世から近世へ〉、2017年6月。ISBN 978-4-582-47731-3 P193.)。</ref>、家康は[[駿府]]から居を移すが、当時の江戸城は老朽化した粗末な城であったという。家康は[[江戸城]]本城の拡張は一定程度に留める代わりに城下町の建設を進め、'''神田山'''を削り、'''日比谷入江'''を盛んに埋め立てて町を広げ、家臣と町民の家屋敷を配置した。突貫工事であったために、埋め立て当初は地面が固まっておらず、乾燥して風が吹くと、もの凄い埃が舞い上がるという有様だったと言われる。この時期の江戸城はこれまでの本丸・二ノ丸に、西丸・三ノ丸・吹上・北ノ丸があり、また'''[[道三堀]]'''の開削や'''[[神田川 (東京都)|平川]]'''の'''江戸前島'''中央部への移設、それに伴う埋め立てにより、現在の西丸下の半分以上が埋め立られている(この時期の本城といえるのはこの内、本丸・二ノ丸と家康の隠居所として造られた西丸である)。
家康が[[1600年]]の[[関ヶ原の戦い]]に勝利して天下人となり、[[1603年]]に[[征夷大将軍]]に任ぜられると、幕府の所在地として江戸の政治的重要性は一気に高まり、徳川家に服する諸[[大名]]の屋敷が設けられた。江戸に居住する大名の家臣・家族や、徳川氏の[[旗本]]・[[御家人#近世の御家人|御家人]]などの[[武士]]が数多く居住するようになるとともに、[[町人]]を呼び寄せて、町が急速に拡大した。江戸城とその堀は幕府から諸大名に課せられた[[手伝普請]]によって整備され、江戸城は巨大な堅城に生まれ変わり、城と武家屋敷を取り巻く広大な[[惣構]]が構築された。(都市開発の歴史については後の[[#都市|都市]]の章で述べる。)
{{wide image|Panorama of Edo bw.jpg|1666px|『[[愛宕山 (港区)|愛宕山]]から見た江戸のパノラマ』 撮影者:[[フェリーチェ・ベアト]] 1865-1866頃}}
[[1657年]]の'''[[明暦の大火]]'''の後、再建事業によって市域は'''[[隅田川]]'''を超え、東へと拡大した。その人口は絶えず拡大を続け、[[18世紀]]初頭には人口が百万人を超え、'''大江戸八百八町'''といわれる世界有数(一説によると当時世界一)の大都市へと発展を遂げた。人口の増大は、江戸を[[東日本]]における大消費地とし、日本各地の農村と結ばれた大市場、経済的先進地方である[[上方]]([[近畿地方]])と関東地方を結ぶ中継市場として、経済的な重要性も増した。当時の江戸は、『[[東都歳時記]]』、『[[富嶽三十六景]]』にみる葛飾北斎の両国(現在の墨田区)からの作品などからも見られるように、漢風に「'''東都'''」とも呼ばれる大都市となっていた。18世紀末から[[19世紀]]初めには、上方にかわる文化的な中心地ともなり、経済活動や[[参勤交代]]を通じた江戸を中心とする人の往来は江戸から地方へ、地方から江戸へ盛んな文化の伝播をもたらした。一方で、膨大な人口が農村から江戸に流入して、様々な都市問題を引き起こすことにもなった。
=== 江戸の人口 ===
{{main|江戸の人口}}
== 範囲 ==
{{main2|幕府によって定められた市域については[[朱引]]も}}
[[画像:Karte Tokia MKL1888.png|thumb|282px|江戸の墨引(≒明治期の朱引)の範囲を引き継いだ明治期の東京市街(1888年)。江戸城の東、現在の[[丸の内]]・[[東京駅]]付近を中心とする半径4kmほどの円状を為す。]]
江戸の地名で呼ばれる地域は、江戸御府内ともいったが、その範囲は時期により、幕府部局により異なっていた。一般に江戸御府内は町奉行の支配範囲と理解された。その支配地は拡大していった。寛文2年(1662)に街道筋の代官支配の町や300町が編入され、正徳3年(1713)には町屋が成立した場所259町が編入された。さらに、延享2年(1745)には寺社門前地440カ所、境内227町が町奉行支配に移管された。この町奉行の支配範囲とは別に御府内の範囲とされた御構場の範囲、寺社奉行が勧化を許す範囲、塗り高札場の掲示範囲、旗本・御家人が御府外に出るときの範囲などが決められた。これらの御府内の異同を是正するため、文政元年(1818)に絵図面に朱線を引き、御府内の範囲を確定した。これにより御府内の朱引内(しゅびきうち)とも称するようになった。<ref>竹内誠・古泉弘・池上裕子・加藤貴・藤野敦『東京都の歴史』山川出版 2003年 168-170頁</ref> この範囲外は朱引外(しゅびきそと)と称した。
元々は平安時代に存在した[[荏原郡]]桜田郷(江戸城の西南)の一部であったが、やがて[[豊島郡 (武蔵国)|豊島郡]]江戸郷と呼ばれるようになっていた。
江戸時代初期における江戸の範囲は、現在の[[東京都]][[千代田区]]とその周辺であり、[[江戸城]]の外堀はこれを取り囲むよう建造された。[[明暦の大火]]以後、その市街地は拡大。通称「八百八町」と呼ばれるようになる。1818年、[[朱引]]の制定によって、江戸の市域は初めて正式に定められることになった<ref name="hani">[https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/01soumu/archives/0609k_kiyo04.pdf 江戸の範囲 (レファレンスの杜)] 『東京都公文書館 研究紀要』(第4号)、p45-48、平成14年3月</ref>。今日「[[大江戸]]」としてイメージされるのは、一般にこの範囲である<ref name="oyedo">[https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/01soumu/archives/0606dayori06.pdf 江戸の市街地の広がりと「大江戸」 (シリーズ・レファレンスの杜)] 『東京都公文書館だより』 第6号、p6、東京都公文書館発行、平成17年3月</ref>。
{|class="wikitable" style="text-align:right;font-size:small"
|+江戸の市街地の拡大
(内藤昌 「江戸―その築城と都市計画―」 月刊文化財 175号(1978年))
!年号
!西暦
!総面積
!武家地
!町人地
!寺社地
!その他
|-
|align="left"|正保年中||align="left"|1647年頃||43.95 km<sup>2</sup>||34.06 km<sup>2</sup><br />(77.4%)||4.29 km<sup>2</sup><br />(9.8%)||4.50 km<sup>2</sup><br />(10.3%)||1.10 km<sup>2</sup><br />(2.5%)
|-
|align="left"|寛文10~13年||align="left"|1670~1673年||63.42 km<sup>2</sup>||43.66 km<sup>2</sup><br />(68.9%)||6.75 km<sup>2</sup><br />(10.6%)||7.90 km<sup>2</sup><br />(12.4%)||5.1 km<sup>2</sup><br />(8.1%)
|-
|align="left"|享保10年||align="left"|1725年||69.93 km<sup>2</sup>||46.47 km<sup>2</sup><br />(66.4%)||8.72 km<sup>2</sup><br />(12.5%)||10.74 km<sup>2</sup><br />(15.4%)||4.00 km<sup>2</sup><br />(5.7%)
|-
|align="left"|慶応元年||align="left"|1865年||79.8 km<sup>2</sup>||50.7 km<sup>2</sup><br />(63,5%)||14.2 km<sup>2</sup><br />(17.8%)||10.1 km<sup>2</sup><br />(12.7%)||4.8 km<sup>2</sup><br />(6.0%)
|-
|align="left"|明治2年||align="left"|1869年||56.36 km<sup>2</sup>||38.65 km<sup>2</sup><br />(68.6%)||8.92 km<sup>2</sup><br />(15.8%)||8.80 km<sup>2</sup><br />(15.6%)||
|-
|}
以下に江戸に含まれる主な歴史的地名をあげる。
* [[神田 (千代田区)|神田]]、[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]、[[京橋 (東京都中央区)|京橋]]、[[本郷 (文京区)|本郷]]、[[下谷]]、[[上野 (台東区)|上野]]、[[浅草]]、[[本所 (墨田区)|本所]]、[[深川 (江東区)|深川]]、[[両国 (墨田区)|両国]]、[[向島 (墨田区)|向島]]
実際には、既に触れたように江戸の地は平安時代末期から関東南部の要衝であった。確かに徳川氏の記録が伝えるように、後北条氏時代の江戸城は最重要な支城とまではみなされず城は[[15世紀]]の粗末な造りのまま残されていたが、関八州の首府となりうる基礎はすでに存在していた。
しかし、江戸が都市として発展するためには、日比谷入江の東、隅田川河口の西にあたる江戸前島と呼ばれる[[砂州]]を除けば、城下町をつくるために十分な平地が存在しないことが大きな障害となる。そこで徳川氏は、まず江戸城の和田倉門から隅田川まで道三堀を穿ち、そこから出た土で日比谷入江の埋め立てを開始した。道三堀は墨田川河口から江戸城の傍まで、城の建造に必要な木材や石材を搬入するために活用され、道三堀の左右に舟町が形成された。また、元からあった平地である今の常盤橋門外から日本橋の北に新たに町人地が設定された(この時と時期を同じくして平川の日比谷入江から江戸前島を貫通する流路変更が行われたと思われる)。これが江戸本町、今の[[日本銀行]]本店や[[三越]]本店がある一帯である。さらに元からあった周辺集落である南の[[芝 (東京都港区)|芝]]、北の[[浅草]]や西の赤坂、牛込、麹町にも町屋が発展した。この頃の江戸の姿を伝える地図としては『別本慶長江戸図』が知られている。
[[画像:Edo hori.png|thumb|267px|江戸中心部の主要な門と橋、寺社。青部分は江戸を敵から守る堀と神田川、隅田川。]]
江戸は「の」の字形に設計された<ref>[[内藤昌]]説</ref>ことが一般の城下町と比べて特異であるといわれる。 つまり、江戸城の本城は大手門から和田倉門、馬場先門、桜田門の内側にある本丸、二の丸、西の丸などの内郭に将軍、次期将軍となる将軍の世子、先代の将軍である[[大御所 (江戸時代)|大御所]]が住む御殿が造られ、その西にあたる半蔵門内の吹上に将軍の親族である[[徳川御三家|御三家]]の屋敷が置かれた。内城の堀の外は東の大手門下から和田倉門外に[[譜代大名]]の屋敷、南の桜田門の外に[[外様大名]]の屋敷と定められ、西の半蔵門外から一ツ橋門、神田橋門外に至る台地に[[旗本]]・[[御家人]]が住まわされ、さらに武家屋敷地や大名屋敷地の東、常盤橋・呉服橋・鍛冶橋・数寄屋橋から隅田川、江戸湾に至るまでの日比谷埋立地方面に町人地が広げられた。これを地図で見るとちょうど大手門から数寄屋橋に至るまでの「の」の字の堀の内外に渦巻き上に将軍・親藩・譜代・外様大名・旗本御家人・町人が配置されている形になる。巻き貝が殻を大きくするように、渦巻き型に柔軟に拡大できる構造を取ったことが、江戸の拡大を手助けした。
家康の死後、2代将軍[[徳川秀忠]]は、江戸の北東の守りを確保するため、小石川門の西から南に流れていた平川をまっすぐ東に通す改修を行った。今の水道橋から万世橋([[秋葉原]])の間は本郷から駿河台まで伸びる神田台地があったためこれを掘り割って人工の谷を造って通し、そこから西は元から神田台地から隅田川に流れていた中川の流路を転用し、浅草橋を通って隅田川に流れるようにした。これが江戸城の北の外堀である[[神田川 (東京都)|神田川]]である。この工事によって平川下流であった一ツ橋、神田橋、日本橋を経て隅田川に至る川筋は神田川(平川)から切り離され、江戸城の堀となった。この堀が再び神田川に接続され、神田川支流の[[日本橋川]]となるのは[[明治時代]]のことである。
更に3代将軍[[徳川家光]]はこれまで手薄で残されてきた城の西部外郭を固めることにし、溜池や神田川に注ぎ込む小川の谷筋を利用して溜池から赤坂、四ッ谷、市ヶ谷を経て牛込に至り、神田川に接する外堀を造らせた。全国の外様大名を大動員して行われた外堀工事は[[1636年]]に竣工し、ここに御成門から浅草橋門に至る江戸城の「の」の字の外側の部分が完成した。
城下町において武家地、町人地とならぶ要素は寺社地であるが、江戸では寺社の配置に[[風水]]の思想が重視されたという。そもそも江戸城が徳川氏の城に選ばれた理由の一因には、江戸の地が当初は北の[[玄武]]は[[麹町]]台地、東の[[青竜|青龍]]は[[神田川 (東京都)|平川]]、南の[[朱雀]]は[[日比谷入江]]、西の[[白虎]]は[[東海道]]、江戸の拡大後は、玄武に[[本郷 (文京区)|本郷]]台地、青龍に大川([[隅田川]])、朱雀に[[江戸湾]]、白虎に[[甲州街道]]と[[四神相応]]に則っている点とされる<ref>[[柳営秘鑑]]</ref>。関東の独立を掲げた武将で、代表的な[[怨霊]]でもある[[平将門]]を祭る[[神田明神]]は、大手門前(現在の首塚周辺)から、江戸城の[[鬼門]]にあたる駿河台へと移され、江戸惣鎮守として奉られた。また、江戸城の建設に伴って城内にあった山王権現(現在の[[日枝神社_(千代田区)|日枝神社]])は裏鬼門である赤坂へと移される。更に、家康の帰依していた[[天台宗]]の僧[[天海]]が江戸城の鬼門にあたる上野忍岡を拝領、京都の鬼門封じである[[比叡山]]に倣って堂塔を建設し、[[1625年]]に[[寛永寺]]を開山した。寛永寺の山号は東叡山、すなわち東の比叡山を意味しており、寺号は[[延暦寺]]と同じように建立時の[[年号]]から取られている。
江戸は海辺を埋め立てて作られた町のため、[[井戸]]を掘っても真水を十分に得ることができず、水の確保が問題となる。そこで、赤坂に元からあった溜池が活用されると共に、[[井の頭池]]を水源とする[[神田上水]]が造られた。やがて江戸の人口が増えて来るとこれだけでは供給し切れなくなり、水不足が深刻になって来た。このために造られた[[水道]]が[[1653年]]完成の[[玉川上水]]である。水道は江戸っ子の自慢の物の一つで、「水道の水を産湯に使い」などと言う言葉がよく使われる。
[[1640年]]には江戸城の工事が最終的に完成し、江戸の都市建設はひとつの終着点に達した。しかし、[[1657年]]に[[明暦の大火]]が起こると江戸の町は大部分が焼亡し、江戸城天守も炎上してしまった。幕府はこれ以降、火事をできるだけ妨げられるよう都市計画を変更することになった。これまで吹上にあった御三家の屋敷が半蔵門外の紀尾井町に移されるなど大名屋敷の配置換えが行われ、類焼を防ぐための[[火除地]]として十分な広さの空き地や庭園が設けられた。
大名屋敷が再建され、[[参勤交代]]のために多くの武士が滞在するようになると、彼らの生活を支えるため江戸の町は急速に復興するが、もはや外堀内の江戸の町は狭すぎる状態だった。こうして江戸の町の拡大が始まり、隅田川の対岸、深川・永代島まで都市化が進んでいった。南・西・北にも都市化の波は及び、外延部の[[上野 (台東区)|上野]]、[[浅草]]が盛り場として発展、さらに外側には[[吉原遊廓|新吉原遊郭]]が置かれていた。
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=== 江戸の水運 ===
-->
== 神社仏閣 ==
=== 神社 ===
* [[神田明神]]
* [[日枝神社 (千代田区)|山王権現]](日枝神社)
* [[根津権現]]([[根津神社]])
* [[富岡八幡宮]]
* [[築土神社]]
* [[鳥越神社]]
* [[湯島天神]]
=== 寺院 ===
* [[寛永寺]]
* [[増上寺]]
* [[浅草寺]]
* [[天王寺 (台東区)|感應寺]]
* [[伝通院]]
* [[護国寺]]
* [[泉岳寺]]
* [[深川不動尊]]<!-- - [[成田山]]別院 深川不動尊は江戸時代には富岡八幡宮で行われた成田山の出開帳。不動堂の建立は明治-->
[[File:Brooklyn Museum - Inside the Courtyard of the Toeizan Temple at Ueno - Katsushika Hokusai.jpg|thumb|200px|right|[[葛飾北斎]]筆 東叡山中堂之図]]
=== 廟 ===
* [[湯島聖堂]]
* [[徳川家霊廟]]
=== 江戸近郊 ===
* 目黒不動([[瀧泉寺]])
* [[池上本門寺]]
* [[柴又帝釈天]]
* [[東海寺 (品川区)|東海寺]]
* [[豪徳寺]] - 彦根井伊家の菩提寺
* [[深大寺]]
* [[武蔵国分寺跡|国分寺]]
== 生活と文化 ==
[[Image:100 views edo 024.jpg|thumb|250px|江戸のさまざまな場所から富士山を見ることができ、江戸の住人は富士山を愛した。江戸には[[富士見坂]](=富士が見える坂)という名がついた坂も多い。[[浮世絵]]も多数描かれた。また富士山を信仰する'''[[富士講]]'''も非常にさかんとなり、江戸には多数の富士構信者がいた。その結果、わざわざ富士山まで行くことができない住民らのために[[富士塚]]が多数作られ、近所で日々富士登山ができるようになった。富士塚は現在でも多数残っている。この浮世絵は、目黒に二つあった富士塚のうちのひとつの新富士(現存せず)と富士山を描いたものである(『目黒新富士』[[名所江戸百景]]より。歌川広重:江戸後期)。]]
=== 娯楽 ===
[[Image:Inasegawa Seizoroi no Ba.jpg|300px|thumb|江戸の歌舞伎。[[市村座]]での『[[青砥稿花紅彩画]](白浪五人男)』より稲瀬川勢揃いの場([[歌川豊国]]:1862年(文久2年))。江戸時代の町人文化を代表する歌舞伎。本作の時代には作者[[河竹黙阿弥]]が活躍し、江戸歌舞伎が隆盛を極めた。]]
;歌舞伎
1624年(寛永元年)には[[中村勘三郎]]([[猿若]])が京都から江戸に移り、町奉行所の許可を得て「[[猿若座]]」を開き、江戸の[[芝居小屋]]が始まった。最初は江戸・中橋(現在の日本橋と京橋の中間あたり)にあったが、やがて堺町(今の[[日本橋人形町|人形町]])へ移転。[[元禄時代]](1688~1704年頃)には江戸の[[歌舞伎]]は隆盛となり、芝居小屋は猿若座(堺町)、市村座([[葺屋町]]=現 人形町)、森田座([[木挽町]]=現在の[[歌舞伎座]]のあたり)、山村座(木挽町)の4つとなった(「江戸四座」と言う)。
* [[歌舞伎]] - [[市川團十郎]] - [[十八番]]、[[浄瑠璃]](人形浄瑠璃、常磐津など)
;江戸落語
江戸の落語は17世紀後半(貞享・元禄年間)に[[鹿野武左衛門]]によって始められ、18世紀後半には[[烏亭焉馬]]の会咄を経て、[[三笑亭可楽]](初代)によって寄席芸能として確立したと言われている。
;他
* [[講談]]
* 行楽(参詣、花見、月見、紅葉狩り、雪見など)
** 江戸近郊 - [[飛鳥山]]、[[武蔵野]]、[[深大寺]]詣で、[[小金井桜]]、[[富士塚]]
** 江戸から関東各地 - [[大山 (神奈川県)|大山]]詣で、[[富士講]]
* [[錦絵]]
* [[浮世絵]] - [[葛飾北斎]]、[[歌川広重]]、[[東洲斎写楽]]
* [[黄表紙]]本 - [[戯作]]、[[洒落本]]
* [[俳諧]] - [[松尾芭蕉]]、[[小林一茶]]
* [[花火]] - [[玉屋 (曖昧さ回避)|玉屋]]、[[花火#江戸時代|鍵屋]]
* [[風呂]]
=== 服装 ===
* [[着物]]
** [[振袖]]
** [[浴衣]]
* [[履物]]
** [[下駄]] [[足駄]] [[草履]] [[雪駄]]
=== 食 ===
* [[江戸前寿司]]([[にぎり寿司]]・[[海苔巻き]])
* [[蕎麦]]
* [[天ぷら]]
* [[百珍物]]([[豆腐百珍]]、卵百珍、大根百珍、甘藷百珍、蒟蒻百珍)
* 初([[カツオ|鰹]]、[[茄子]]、[[酒]]、蕎麦)
* [[沢庵漬け]]
* [[棒手振]]・[[振売]]・[[行商人]](塩・味噌・[[納豆汁]]・豆腐・蜆など)
* [[どじょう]] ([[柳川鍋]]、[[どぜう鍋]]、[[揚げる|唐揚げ]])
* [[鰻]](江戸前)
* [[どらやき]]、[[今川焼き]]
* [[佃煮]]
* [[納豆]]
* [[茶漬け]]
* [[新香]]
* [[目刺し]]
* [[しじみ]]汁
* [[鹿]]・[[猪]]<ref>[http://www.kabuki-za.com/syoku/2/no170.html 江戸食文化紀行]</ref>
* 壷焼塩(上流階級)
* [[白米]]
* [[豚カツ]]など(牛肉料理に替わる'''豚肉'''料理)<ref>[[宮崎昭]]の『食卓を変えた肉食』で、(1)[[カレー (代表的なトピック)|カレー]]の牛肉を豚肉に替える食文化が出来た。(2)カツレツを豚肉で作ると特においしい事が知られた。(3)牛肉は豚肉にとって替わられていった。と、変化の状況を説明。 </ref><ref>[[吉田忠 (統計学者)|吉田忠]]の『牛肉と日本人』ISBN 978-4540911064<nowiki/>で、(1)東京人は真っ先に豚肉によって食肉の消費が増加。 (2)豚カツをはじめ豚肉の消費が多様化。(3)牛肉料理を豚肉に変えたらどうかと工夫を重ねる。最初は江戸において変化が起こった。</ref><ref>[[農林省]]畜産局の『本邦の養豚』、全国で(1)1916年 337,891頭。(2)1925年 672,583頭。と、9年倍増のデータで前述の変化を裏付</ref>
=== 江戸の識字率 ===
江戸の[[成人]]男性の[[識字率]]は[[幕末]]には'''70%'''を超え、同時期のロンドン (20%)、パリ(10%未満)を遥かに凌ぎ、世界的に見れば極めて高い水準であった。[[ロシア]]人革命家[[レフ・メーチニコフ|メーチニコフ]]や、[[ドイツ]]人の考古学者[[ハインリヒ・シュリーマン|シュリーマン]]らが、驚きを以って識字状況について書いている。また武士だけではなく農民も[[和歌]]を嗜んだと言われており、その背景には[[寺子屋]]の普及があったと考えられ、高札等でいわゆる『御触書』を公表したり、『瓦版』や『貸本屋』等が大いに繁盛した事実からも、大半の町人は文字を読む事が出来たと考えられている。ただし識字率が高い武士階級の人口も多いため、識字率がかさ上げされているのも間違いなく、当時、全国平均での識字率は20%から50%程度と推定されている<ref>[[鈴木理恵]], "江戸時代における識字の多様性", [[史学研究]], 209号 (1995), pp. 23–40. 江戸時代の識字率は状況証拠(文書による支配の徹底、年貢村請制の実現、商品経済の浸透、寺子屋の隆盛、欧米人の旅行記の記載、出版業の隆盛、多量多彩な文書の蓄積)から推定されたものであり、批判も多い。また、ヨーロッパでの識字率の低さは、字が読めることが男らしくない、格好悪いとされた騎士道の時代の考え方の名残という文化的背景や、自分の名前がかける程度の者は非識字とカウントしている点なども考慮しなくてはならない</ref>。また、明治時代に入ってからの話であるが、徴兵制施行時の調査では、事務処理が出来る実用的なレベルの読み書きが出来るものは20%程度だったという([[識字]]の項参照のこと)。
=== 諺・故事成語 ===
* [[江戸前]]
* 火事と喧嘩は江戸の華 >>[[江戸の火事]]
(火事のときは周りの家を倒して広がるのを防いだ。木造建築なので火が移りやすいため。)
* 江戸の敵を[[長崎市|長崎]]で討つ
* 江戸っ子は宵越しの銭は持たぬ
* 江戸っ子は5月の鯉の吹き流し
* 江戸っ子の梨を食うよう
* 江戸っ子の初もの食い
* 江戸っ子の産れ損なひ金を貯め
* 京の着だおれ、大坂の喰いだおれ、江戸の呑みだおれ(京の人はファッションにお金を使い、大坂の人はグルメにお金を使い、江戸の人は酒を呑んで酔いつぶれている)<ref>[[朝日ジャーナル]]編、「大江戸曼荼羅」、p.211、[[朝日新聞社]]、1996年。</ref>
== 東京への改称 ==
<!--[[画像:Meiji tenno1.jpg|thumb|right|200px|明治天皇]]-->
慶応4年/明治元年旧暦1月3日([[1868年]]1月27日)に[[戊辰戦争]]が起こり、[[鳥羽・伏見の戦い]]で幕府軍が敗れると、[[薩摩藩|薩]][[長州藩|長]]軍の大軍が江戸に迫り、江戸は戦火に晒される危険に陥った。幕臣[[勝海舟]]は早期停戦を唱えて薩長軍を率いる[[西郷隆盛]]と交渉、同年旧暦4月11日(5月3日)に最後の将軍[[徳川慶喜]]は江戸城の無血開城し降伏、交戦派と官軍の間の[[上野戦争]]を例外として、江戸は戦火を免れた([[江戸開城|江戸無血開城]])。
同年旧暦5月12日(7月1日)に町地を中心に「[[江戸府]]」が設置された。同年旧暦7月17日(9月6日)には「江戸」は「[[東京]]」と改称され、「江戸府」は「[[東京府]]」となった([[江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書]])。同年旧暦10月13日(11月26日)に[[明治天皇]]が[[東京行幸]]した際、「江戸城」は「東京城」と改称された。翌明治2年旧暦2月19日([[1869年]]3月31日)には新たに朱引きの範囲が定められ、旧暦3月16日(4月27日)には町地に五十番組制(五十区制)が敷かれた。旧暦3月28日(5月9日)には、明治天皇が二度目の行幸を行い、「東京城」を「皇城」と称し、かつての将軍の居住する都市・江戸は、天皇の行在する都市・東京となった([[東京奠都]])。旧暦11月2日(12月4日)には武家地を含めた地域が東京府の管轄となった。明治4年旧暦6月9日([[1871年]]7月26日)には朱引が改定され、[[大区小区制]]に基づく六大区制が導入された。
同年旧暦7月14日(8月29日)の[[廃藩置県]]以降、段階的に周辺の地域が東京府に併合され、明治4年旧暦12月27日([[1872年]]2月5日)には武家地・町地という名称が廃止された。明治7年([[1874年]])3月4日には東京十一大区制へ再編され、明治11年([[1878年]])11月2日には[[東京15区|東京十五区]]制に落ち着く。以降、東京の町並が[[東京市]]、[[東京都]]へと変遷しつつ[[東京都市圏]]に拡大してゆく過程で、かつての江戸のうち隅田川以東の本所・深川を除いた地区は都心となり、その中核としての役割を果たしている。
== 関連作品 ==
=== 小説 ===
* [[岡本綺堂]]『半七捕物帳』光文社文庫
* [[池波正太郎]]『鬼平犯科帳』文春文庫
* [[宮部みゆき]]『本所深川ふしぎ草紙』新人物往来社
* [[司馬遼太郎]]『菜の花の沖』全六巻 文春文庫
* [[半村良]]『小説 浅草案内』新潮文庫
* [[宇江佐真理]]『幻の声 髪結い伊三次捕物余話』文春文庫
* [[那須正幹]] 『お江戸の百太郎』岩崎書店
* [[畠中恵]] 『しゃばけ』シリーズ新潮文庫
* [[門井慶喜]]『[[家康、江戸を建てる]]』[[祥伝社]]
=== 随筆 ===
* [[エドワード・サイデンステッカー]]『東京 下町 山の手』
* [[宮部みゆき]]『平成お徒歩日記』新潮社
* [[山本博文]]『鳶魚で江戸を読む 江戸学と近世史研究』中公文庫
* 山本博文『江戸を楽しむ 三田村鳶魚の世界』中公文庫
=== 映画・テレビドラマ ===
* 『[[写楽 (映画)|写楽]]』 監督:[[篠田正浩]]
* [[忠臣蔵]]関連作品
* [[鬼平犯科帳]]シリーズ
* [[銭形平次捕物控|銭形平次]]シリーズ
* [[半七捕物帳]]シリーズ
* [[水戸黄門]]シリーズ
* [[大江戸捜査網]]シリーズ
* [[長七郎江戸日記]]シリーズ
* [[暴れん坊将軍]]シリーズ
* 『[[赤ひげ]]』、監督:[[黒澤明]]
その他多数あり。
== 著名な出身者 ==
* [[沼間守一]] - [[政治家]]、[[ジャーナリスト]]。牛込
* [[大田南畝]] - [[戯作者]]。牛込
* [[夏目漱石]] - [[作家]]。早稲田
* [[津田梅子]] - [[教育者]]。南御徒町
* [[青木昆陽]] - [[儒学者]]、[[蘭学]]者。日本橋
* [[中沢彦吉]] - 政治家、[[実業家]]。京橋
* [[星亨]] - 政治家。築地小田原町
* [[榎本武揚]] - [[幕臣]]・政治家、[[蝦夷共和国|蝦夷島政府]]総裁、[[第1次松方内閣|第7代]][[外務大臣 (日本)|外務大臣]]ほか[[国務大臣|大臣]]を歴任。下谷御徒町
* [[成島柳北]] - ジャーナリスト、戯作者。浅草御厩河岸
* [[幸田露伴]] - [[小説家]]。下谷三枚橋横町
* [[高村光雲]] - [[彫刻家]]。下谷
* [[河合浩蔵]] - [[建築家]]。本所
* [[佐々木東洋]] - 洋方医、内科医。本所
== 小江戸 ==
川・堀の水路網と蔵は江戸を象徴する町並の特徴であり、蔵造りの町並が残された[[栃木市]]、埼玉県[[川越市]]、千葉県[[香取市]]の旧[[佐原市]]の市街地などの[[関東地方]]の河港都市は、江戸に似た構造という点や江戸と交流が深かったという点から「[[小江戸]]」と呼ばれている。
なお上記とは別用法として、初期の江戸城下町を、後年の広域化した江戸城下町を意味する「大江戸」に対して「小江戸」と称する用法もある。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
;注釈
{{Reflist|group="注釈"}}
;出典や注など
{{reflist|2}}
== 外部リンク ==
* {{Wayback|url=http://homepage3.nifty.com/oohasi/ |title=江戸城史跡めぐり |date=20040415233045}}
* {{Archive.today|url=http://homepage2.nifty.com/oohasi/ |title=江戸の町今と昔|date=20130427094308}}
* {{Wayback|url=http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog251.html |title=国柄探訪: 花のお江戸の市場経済 |date=20060925160401}}
* [https://www.viva-edo.com/ ビバ!江戸]
* [http://codh.rois.ac.jp/edo-maps/ 江戸マップβ版]
* [https://nakamuranobuo.com/ 江戸3DCG『江戸Edo』]
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|江戸}}
{{Wiktionary|江戸}}
{{wikiquote|江戸}}
{{Commonscat|Edo}}
;学問
* [[江戸学]]
* [[江戸東京博物館]]
* [[深川江戸資料館]]
* [[三田村鳶魚]] - 江戸文化・風俗の研究者
* [[斎藤月岑]] - 江戸の町名主、考証家
;文化
* [[江戸言葉]]
* [[江戸前]]
* [[火消]]
* [[伝統的工芸品]]([[江戸切子]])
;その他
* [[都営地下鉄大江戸線]]
* [[江戸見坂]]
* [[八朔]](八月朔日の略、旧暦の8月1日) - 徳川家康が初めて公式に江戸城に入城。そこから江戸幕府は八月朔日を祝日とした。
* [[東京特別区]]
*山の手言葉
== 関連書籍 ==
* [[谷畑美帆]] 『江戸八百八町に骨が舞う 人骨から解く病気と社会』 [[吉川弘文館]] (2006年)ISBN 4642056130
* [[鈴木理生]] 『江戸の橋』 [[三省堂]] ISBN 4-385-36261-0
* [[矢田挿雲]] 『江戸から東京へ』 全9巻、[[中公文庫]]、新版1999年
* 『[[江戸名所図会]]』 全8巻、[[ちくま学芸文庫]] 1997年、2009年復刊
* [[川田寿]] 『江戸名所図会を読む』 正続 [[東京堂出版]] 1990. 95年
* [[法政大学]]建築学科『東京のまちを読む―都市・建築の構成原理に関する史的考察』 東京のまち研究会 1980年
* [[スーパームック]]CG日本史シリーズ / CG再現 3江戸の暮らし(07/9) 5江戸の風景(08/1) 7江戸の遊び(08/4) 9大奥と江戸の女たち(08/9/25) 17大江戸事件帳(09/4) [[双葉社]]
{{Authority control}}
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[[Category:城下町|+えと]]
[[Category:江戸時代の東京|*]]
[[Category:江戸|*]]
[[Category:15世紀の日本の設立]] | 2003-05-20T00:25:54Z | 2023-11-27T13:04:11Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8 |
8,732 | 悟り | 悟り(さとり、梵: bodhi) pnse (継続的非記号体験)は、迷いの世界を超え、真理を体得すること。覚、悟、覚悟、証、証得、証悟、菩提などともいう。仏教において悟りは、涅槃や解脱とも同義とされる。
日常用語としては、理解すること、知ること、気づくこと、感づくことなどを意味する。
インドの仏教では、彼岸行とされる波羅蜜の用法を含めれば、類語を集約しても20種類以上の「さとり」に相当する語が駆使された。
PNSEとは、“persistent non-symbolic experience”といい、日本語では「継続的非記号体験」と訳されています。PNSEというのは、アメリカの、ジェフリー・マーティン博士という方が、提唱しているようです。その研究を始めたキッカケとして、こんなことが書かれています。Martin博士は、宗教家など、「悟っている」「覚醒している」と言われる人たちの中に、そうした幸福感を持っている人が多いことに気づき、これらの人々に連絡を取って回った。インターネットや図書館で調べたり、人から紹介されたりして、12年間でこれまでに2500人以上にコンタクトを取ってきたという、継続的非記号体験と言われてもピンと来ないと思いますが、これは簡単に言うと「言語化できないような、雑念のない状態」で落ち着いていることを指しています。なぜこんなに理解しにくい名前になったのかというと、宗教上の「悟り」の概念がそれぞれの宗教で異なるため、一概に「自我を超越した意識状態」を指すこととされています(参考文献及び抜粋、ブレインクリニック、空白jp)
悟った人を「仏」と呼ぶ場合がある。「仏」は本来「佛」と書くけれども、「弗」という字には否定の意味があり、人間でありながら、人間にあらざる者になるという意味があるとされる。水の例でいうと、水は沸点に達すると、水蒸気になるが、水蒸気というのはもとは水だけれど、水にあらざるものになる、というところが、人と仏との関係に似ているとされている。また、宇宙には、物質の宇宙と意識の宇宙があるとする説がある。
釈迦(しゃか)は、29歳で出家する前にすでに阿羅漢果を得ていたとされ、ピッパラ樹(菩提樹)の下で降魔成道を果たして悟りを開き、梵天勧請を受けて鹿野苑(ろくやおん)で初転法輪を巡らしたとする。
釈迦は悟りを開いた当初、自身の境涯は他人には理解できないと考え、自分でその境地を味わうのみに留めようとしたが、梵天勧請を受けて教えを説くようになったと伝えられることから(聖求経)、ブッダの説法の根本は、その悟りの体験を言語化して伝え、人々をその境地に導くことが、後代に至るまで仏教の根本目的であるとされることがある。一方、藤本晃によれば、南伝仏教であるテーラワーダ仏教では、釈尊は悟りを四沙門果と呼ぶ四段階で語っていたが、釈迦以外の凡夫は悟りを開くことはできないとパーリ語仏典や漢訳阿含経典に書いてあるとする。
釈迦は説法の中で自身の過去世を語り、様々な過去の輪廻の遍歴を披露している。
ジャイナ教では、修行によって業の束縛が滅せられ、微細な物質が霊魂から払い落とされることを「止滅」(ニルジャラー)と称する。その止滅の結果、罪悪や汚れを滅し去って完全な悟りの智慧を得た人は、「完全者」(ケーヴァリン)となり、「生をも望ます、死をも欲せず」という境地に至り、さらに「現世をも来世をも願うことなし」という境地に到達する。この境地に達すると、生死を超越し、また現世をも来世をも超越する。煩悩を離れて生きることを欲しない、と同時に死をも欲しないのは、死を願うこともまた一つの執着とみるからである。ここに到達した者は、まったく愛欲を去り、苦しみを離脱して迫害に会ったとしても少しも動揺することなく、一切の苦痛を堪え忍ぶ。この境地をモークシャ・やすらぎ(寂静)・ニルヴァーナ(涅槃)、とジャイナ教では称する。
モークシャに到達したならば、ただ死を待つのみである。身体の壊滅とともに最期の完全な解脱に到達する。完全な解脱によって向かう場所を、特に空間的に限定して、この世とは異なったところであるとしている。「賢者はモークシャ(複数)なるものを順次に体得して、豊かで、智慧がある。彼は無比なるすべてを知って[身体と精神の]二種の[障礙を]克服して、順次に思索して業を超越する『アーラヤンガ』」。モークシャは生前において、この世において得られるものと考えられている。このモークシャをウッタマーンタ(最高の真理)と呼んで、ただ“否定的”にのみ表現ができるとしている。
このモークシャを得るために、徹底した苦行、瞑想、不殺生(アヒンサー)、無所有の修行を行う。ジャイナ教では、次の「七つの真実」(タットヴァ)を、正しく知り(正知)それを信頼し(正見)実践する(正行)することが真理に至る道であると考えられている。
1. 霊魂(ジーヴァ) 2. 非霊魂(アジーヴァ) 3. 業の流入(アースラヴァ) 4. 束縛(バンダ) 5. 防ぎ守ること(サンヴァラ) 6. 止滅(ニルジャラー) 7. 解脱(モークシャ)
ジャイナ教では、宇宙は多くの要素から構成され、それらを大別して霊魂(ジーヴァ)と非霊魂(アジーヴァ)の二種とする。霊魂は多数存在する。非霊魂は、運動の条件(ダルマ)と静止の条件(アダルマ)と虚空(アーカーシャ)と物質(プドガラ)の四つであり、霊魂と合わせて数える時は「五つの実在体」(アスティカーヤ)と称する。これらはみな“実体”であり、点(パエーサ)の集まりであると考えられている。宇宙は永遠の昔からこれらの実在体によって構成されているとして、宇宙を創造し支配している主宰神のようなものは“存在しない”とする。
霊魂(ジーヴァ)とは、インド哲学でいう我(アートマン)と同じであり、個々の物質の内部に想定される生命力を実体的に考えたものであるが、唯一の常住して遍在する我(ブラフマン)を“認めず”、多数の実体的な個我のみを認める「多我説」に立っていると見なされている。霊魂は、地・水・火・風・動物・植物の六種に存在し、“元素”にまで霊魂の存在を認める。霊魂は“上昇性”を持つが、それに対して物質は“下降性”を有する。その下降性の故に霊魂を身体の内にとどめ、上昇性を発揮することができないようにしていると考えられている。この世では人間は迷いに支配されて行動している。人間が活動(身・口・意)をするとその行為のために微細な物質(ボッガラ)が霊魂を取り巻いて付着する。これを「流入」(アースラヴァ)と称する。霊魂に付着した物質はそのままでは業ではないが、さらにそれが霊魂に浸透した時、その物質が「業」となる。そのため「業物質」とも呼ばれる。霊魂が業(カルマン)の作用によって曇り、迷いにさらされることを「束縛」(バンダ)という。そして「業の身体」(カンマ・サリーラガ)という特別の身体を形成して、霊魂の本性をくらまし束縛しているとする。霊魂はこのように物質と結び付き、そして業に縛られて輪廻すると伝えられている。
霊魂に業が浸透し付着して、人間が苦しみに悩まされる根源は外界の対象に執着してはならないとの教えで、あらゆるところから業の流れ(ソータ)は侵入してくるので、五つの感覚器官(感官)を制御して全ての感覚が快くとも悪しくとも愛着や執着を起こさなければ、業はせき止められる。それを、「防ぎ守ること・制御」(サンヴァラ)と呼び、新規に流入する業物質の防止とする。それに対し、既に霊魂の中に蓄積された業物質を、苦行などによって霊魂から払い落とすことを「止滅」(ニルジャラー)と呼ぶ。
霊魂は業に縛られて、過去から未来へ生存を変えながら流転する存在の輪すなわち輪廻(サンサーラ)の中にいる。輪廻は、迷い迷って生存を繰り返すことだと云われる。ジャイナ教は、その原因となる業物質を、制御(サンヴァラ)と止滅(ニルジャラー)によって消滅させるために、人は“修行”すべきであると説く。そのために出家して、「五つの大誓戒」(マハーヴラタ、mahaavrata)である、不殺生、不妄語、不盗、不淫、無所有を守りながら、苦行を実践する。身体の壊滅によって完全な解脱が完成すると「業の身体」を捨てて、自身の固有の浮力によって一サマヤ(短い時間)の間に上昇し、まっすぐにイーシーパッバーラーという天界の上に存在する完成者(シッダ)たちの住処に達し、霊魂は過去の完成者たちの仲間に入るとしている。
ヒンドゥー教は非常に雑多な宗教であるが、そこにはヴェーダの時代から続く悟りの探求の長い歴史がある。
仏教に対峙するヴェーダの宗教系で使われる悟りは意識の状態で、人が到達することの出来る最高の状態とされる。サンスクリットのニルヴァーナ(涅槃)に相当する。光明または大悟と呼ばれることもある。悟りを得る時に強烈な光に包まれる場合があることから、光明と呼ばれる。
インドではヴェーダの時代から、「悟りを得るための科学」というものが求められた。それらは特に哲学的な表現でウパニシャッドなどに記述されている。古代の時代の悟りを得た存在は特にリシと呼ばれている。
ニルヴァーナには3つの段階が存在するといわれ、マハパリ・ニルヴァーナが最高のものとされる。悟りと呼ぶ場合はこのどれも指すようである。どの段階のニルヴァーナに到達しても、その意識状態は失われることはないとされる。また、マハパリ・ニルヴァーナは肉体を持ったまま得るのは難しいとされ、悟りを得た存在が肉体を離れる場合にマハパリ・ニルヴァーナに入ると言われる。
悟りを得た存在が肉体を離れるときには、「死んだ」とは言われず、「肉体を離れる」、「入滅する」、「涅槃に入る」などと言われる。
悟りという場合、ニルヴァーナの世界をかいま見る神秘体験を指す場合がある。この場合はニルヴァーナには含まれないとされ、偽のニルヴァーナと呼ばれる。偽のニルヴァーナであっても、人生が変わる体験となるので、偽のニルヴァーナを含めて、ニルヴァーナには4つあるとする場合もある。
現在でも、ゴータマ・ブッダの時代と同じように山野で修行を行う行者が多い。どんな時代にでも多くの場所に沢山の数の悟りを得た(と自称している)存在に事欠かない。
通常、悟りを得たとする存在もヒンドゥー教、またはその前段階のバラモン教の伝統の内にとどまっていた。しかし、特にゴータマ・ブッダの時代はバラモン教が司祭の血統であるブラフミン(バラモン)を特別な存在と主張した時で、それに反対してバラモン教の範囲から飛び出している。同時代にはジャイナ教のマハーヴィーラも悟りを得た存在としており、やはり階級制であるカーストに反対してこれを認めず、バラモン教から独立している。
仏教者鈴木大拙はイエスを妙好人と考証している。 また、イエスは、古今東西の覚者と同じく、悟りの体験をしていたという見解がある。
イエスの認識を全く理解できなかった弟子が、イエスに叱責されるというエピソードが福音書には載っている。その時に、イエスは、あなたがたは今なお、「悟り」がないのか、という語を用いてそのことを指摘したとされている。キリスト教と悟りとの関連が見られる箇所の一つがそこにあると見ることができる。
十字架にかかる以前のナザレのイエスの教えには、心の中の悪に対しての認識を深めることが弟子たちに対しての要求に含まれていた。人の心の中から出てくる行為や想念については、淫行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪意、奸計、好色、よこしまな眼、瀆言、高慢、無分別などがあげられている。
これらの箇所に見えることは、人が、自分の心の中の悪を自覚できるようになることは一種の悟りである、という「自力救済的な教え」を、時にイエスは説いていたということである。しかし、ナザレのイエスは悟っていたかもしれないということを裏付けできるような資料はほとんどなく、わずかに『闘技者トマスの書』や、『トマス福音書』に仏教的な悟達者との関連があるかもしれないという記述が残っているのみである。
福音書と同じくイエスの言行を記した『闘技者トマスの書』には、自力救済的な思想が記されている。「自己を知った者は、同時に、すでに万物の深遠についての認識に達している。」という言葉などにも、人が、心の中の悪を突き詰めていった「悟り」というものにつながっている部分があるようにも見える。『闘技者トマスの書』は、自力救済的な思想でありながらも、同じナグ・ハマディ文書のトマス福音書とは異なり、異端であるとはされなかった。
「人間を救済する自己認識」の信念は異色のものであると言える。こうした自力救済的な思想は、正統的教会にとっては異端として退けられるべきものであると考えられる。しかし、岩波書店『ナグ・ハマディ文書 III 』によれば、「闘技者トマスの書」は、正統的教会の、いわば外延をなした修道者に向けて編まれたものと思われるとされていて、その主な内容であるところの、欲望に対する闘争は、キリスト教的な禁欲思想をつらぬくものとされている。
(77)、すべては私から出て、 そしてすべては私に達した。木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出すであろう。
(4)、・・・日を重ねた老人は生命の場所について7日の幼な子に問うことを躊躇してはならない。 そうすれば彼は生きるであろう。
(5)、あなたの面前にあるものを認識せよ。そうすれば、隠されているものはあなたに明かされるであろう。 明らかにならないまま隠されているものはないからである。
(15)、もしあなたが女から産まれなかった者を見たら、ひれ伏しなさい。彼を拝みなさい。その者こそ、あなた方の父である。
一般のイスラム教には悟りの伝統は含まれていないが、特にイスラム教神秘主義とも呼ばれるスーフィーは、内なる神との合一を目的としており、そのプロセスは悟りのプロセスのいずれかに近い。しかし、神との合一を成し遂げたスーフィの中にはハッラージュ(英語版)のように「我は真理なり」と宣言して時の為政者に処刑された例がある。
イスラーム世界において異端とされてきたスーフィーの一派の中には、人間の自我意識の払拭を修行の目的としている一派があるとされている。彼らは、人間には「我」というものがあるから、苦しみや悪があると捉え、修行者は、自我意識を内的に超克したところに、神の顔を見ることが出来るとされる。スーフィーにおいて、神は、自分自身の魂の奥底に存在するだけでなく、すべての場所に遍在しているとされる。また、神は、あらゆる物事の内面に存在している内在神であるともされている。 そして、修行者においては、自己否定の無の底に、「遍在する人格的な神」の実在性の顕現が為されるとされる。
ムスハフ解釈本を研究する者は、大体三つの時期に全体を大別するのが常である。 ムハンマドに表立って反対する者が出てくる前、最初の啓示から四年ほどの間に下されたアッラーによる初期の啓示に顕された姿は、ユダヤ教(なかでもモーセの教え)やキリスト教(なかでもナザレのイエスの教え)で説かれている神の姿とたいへんよく似通っているとされる 。
アラブの伝承では、人はめいめいに自身の精霊(ジン)を持っているとされ、砂漠の民は、神、あらゆる精霊、あらゆる超自然の力に畏怖の念を抱いているとされる。当時、ムハンマドの住んでいた地域のキリスト教は、異端とされるものであったとされ、閑静な場所で、瞑想生活を送るタイプの異端であったとされる。ムハンマドは、啓示を受け始める以前、ヒラー山の洞窟に、定期的に数か月単位で瞑想生活を送っていたとされる。それは、ムハンマドの祖父が、キリスト教徒に関心を持ち、異端とされる宗派の信仰生活に影響を受けてのものであったようだ。祖父の代より行われていた、一家の宗教行事ともいえる瞑想生活を契機として、ムハンマドに神の啓示が下される事態となったわけである。しかしそのとき、ムハンマドが悟っていたかどうかについては、定かではない。
啓示を受け始めた当初、神はムハンマドに対して「あなたは神の預言者である」という言葉を繰り返していたとされている。彼が瞑想のために山に登るたび、その声が彼をつつみ、彼の自覚を促していたという。その神が、ユダヤ教やキリスト教の神と同じであると直感したのは、彼を取り巻く人たちであった。
ヒラー山にて、内的啓示を受けたとき、ムハンマドは、それがアラブに昔から言い伝えられるジンと呼ばれる霊的存在であると思った。妻は、妻のいとこに相談をした。「かつてモーセを訪れた偉大な神が到来したのだ」と、いとこは、ムハンマドに語ったと言われます。その後、ムハンマドが「ヒラー山」に登るたびに「ムハンマドよ、あなたは神の使徒である」という、神の、啓示があったとされる。ムハンマドには、その神が、「モーセを訪れた偉大な神」であるかどうかは判らなかった。けれども、神によって、モーセに連なる預言者の一人としての自覚を促されている、という認識はあったようだ。
ムハンマドの啓示も、当初はイエス(宗教者)と同じ、一なる神の理を説くものであり、平和を目指すものであったとされる。しかし、平和のために剣を取ることによって生じた甚だしい自己矛盾が、神の理とその啓示から、ムハンマド(宗教者)を遠ざけてしまった、という見解がある。そのような観点からすると、ムハンマドの意識は、最初期に限定してみた場合、「神の理」を悟る心境にあったとみることができる。また、信者においては、こうした瞑想生活と神の理に対する理解と洞察から、後年のスーフィズムが生じてきたとみることができる。
「道」は、この現象界を超えたところで、現象界を生起させ変化させる一者として考えられている。この「道」は言葉によって客観的に捉えることができないとされている。そのため、荘子において、道を体得した人とは、すべてのものが、生成(無為)と破壊・分散(有為)の区別なく道において一となっていることを感得した人であるとされている。また、「道」は、無限なる者として、天地のまだ存在しない大古から、すでに存在しているものであり、これを感得する者を、真人や聖人と呼んでいる。また、道を体得した者は、霊妙な力を持つ天帝や鬼神の存在についても知ることになる、とされている。(斉物論篇 九)。「道」は、すべての現象をそうあらしめている原理としての性格と、宇宙生成論的な発生の根源者という性格の二面が融合していることが知られている。このことは、宇宙の真理を説いたとされる初期仏教における悟りと何らかの関係にあると見ることができる。
道は万物が皆よって生ずる根本的な一者であるとしている。道は無為無形の造物主として古より存在するが、情あり、信ありとされている。
自然の道から見れば、分散することは集成であり、集成することは、そのまま分散破壊することに他ならない。道を体得するとは、すべてを通じて一であることを知るということである。すべてのものは、生成(無為)と破壊・分散(有為)の区別なく道において一となっている、とされる(斉物論篇)。
老子においては、実在としての道は、循環運動を永遠に続けているとされている。あらゆる存在は、「有」として、「無」から生まれている。「有」が「無」として、「無」が「有」として、運動して(生まれて)ゆく姿は、反(循環)である。(第40章)。
「道」は一を生み出す。一は二を生み出す。万物は陰(無為)を背負って、陽(有為)を抱える。沖気というのは、調和(均衡)の状態を維持することである。道は全体に対して、弱い力として働いている(42章)。
「道」は隠れたもので、名がない。大象(無限の象)は形がない。「道」こそは、何にもまして(すべてのものに)援助を与え、しかも(それらが目的を)成しとげるようにさせるものである。この援助は、徳とも、慈悲とも言えるものである。
荘子において、道を体得した人とは、すべてのものが、生成(無為)と破壊・分散(有為)の区別なく道において一となっていることを感得した人であるとされている。
道は、万物が皆よって生ずる根本的な一者であり、無為無形の造物主として古より存在するが、情あり、信ありとされている。
聖人における「聖」という概念には、倒置の状態(自己を外物のうちに見失い、自らの本性を世俗の内に喪失した状態)から完全に脱することができた真人という意味合いがある。聖人の境地とは、およそ無心のままに静けさを保ち、欲望に動かされずに安らかであり、静まりかえって作為から離れていることとされる。それは、天地の安定した姿のうちにあり、自然のままの道徳の極致を体現した聖なる存在であるとされる。(天道篇 二)。
自得とは、最初の段階では、自分自身の在り方に満足することであり、与えられた運命のままに生きるという随順の立場と変わりがないといえる。しかし、これは、自分の「外なる物」という自分の本性でないものと自分の内にある本性とを弁別して、自らの本性を選択し続ける、という段階につながっている。その外物とは、仁義であり、世間的な名声であり、欲望をさそう財貨であり、五味、五色、五声である。これらの外物を遠ざけ、退けるところにはじめて自然の性が保たれるのである、とされる。
道の徳を身に得た者は、徳を傷つける知識を得ようとはしない。だから、「ただ自己のあり方を正すことがすべてである」。このような自己本来の立場にあって、完全な楽しみを得ること、これを「わが志を得る」という、とされている(繕性篇)。
天地の徳を明白に知る者は、いっさいの根源を宗とする者であるといえる。それは天との和合をもたらすものであり、また、天下万物に調和を与え、人との和合をもたらすものである(大宗師篇)、とされている。また、道とは徳の根源である。生とは徳が発する光に他ならない、ともされている(庚桑楚篇)。
荘子の思想の中には、「道」と「無為」とを同一視してしまう場合がある。また、「無為」と、「自然の為すところ」とが同一視されている場合もある。至人の境地に至るためには、これらを念頭に生きることが不可欠な道標であるとされる場合もある。この場合の至人は、物との調和を保ち、その心が無限の広さを感得することをもって善しとする(大宗師篇)。こうした思想は、後代になって、解脱を目的とする禅宗の成立に大きな影響を与えたとされる。仏教における禅宗は、仏教伝統を受けつぎながらも荘子を頂点とする中国思想と深く交流することによって、はじめて成立したものであるとする見解がある。それによると、禅宗における悟りと関連した概念(「不立文字」「見性仏性」等)と、荘子における無為自然との合一という概念とには、相通じるものがあるとされている。
「その光を和らげ、その塵を同じくす。是を玄同という」(第56章)という言葉がある。玄を道と解釈した場合、老子においても道との合一を果たす生き方は、一つの悟りであり、「道の徳」や「道の援助」のうちに生きる生き方であると見ることができる。
道は全体に対して、弱い力として働いており、沖気というのは、調和(均衡)の状態を維持することである。(42章)
古代ギリシアにおいては、「知識」・「認識」はグノーシスと呼ばれていた。古代思想としてのグノーシスは、「神の認識の仕方」の一種であるとされる。宗教用語として見た場合、グノーシスという言葉は、広義な意味を有している。古代ギリシアにおいて、ソフィアとグノーシスを分けて考えることは難しい状況にある。そのため、客観的認識作用や、主観的認識作用とその結果を、グノーシスと呼ぶことが可能である。「悟り」についても、広義の意味におけるグノーシスの一部に属していると見ることができる。また、古代ギリシアより遅れて生じ、グノーシスを壊滅させたキリスト教においては、すべての民族・国民がただひとつの神を信ずべきだとする教義によって、国民を統制する立場であった。歴史的に見て、絶対的一神教は、悟りと関わりのある宗派・宗教を異端として弾圧してきた。こうした、絶対的一神教(三位一体神等)による神の認識の仕方は、悟りとは逆の思想であるといえる。
グノーシスは、古代ギリシア語で「知識」・「認識」を意味しているギリシア哲学では知のことをソフィアとしているが、ソクラテスやプラトンも、神や、神の世界や魂を信じていた。宗教と哲学を分かつことは難しい。言い換えると、古代において、ソフィアとグノーシスを分けて考えることは難しい。古代のグノーシスは、悟りのようなものであると見ることができる。そうしたグノーシス主義には、神の存在を認めない哲学的思想を批判している文書もある。また、スピノザの説いた一元的汎神論は、グノーシス主義に似通っているが、絶対的一神教が支配的な社会であったためか、無神論の一種として扱われた。
古代ギリシアでは、あの世の神的次元にいるとされる神々が、賢者に啓示を下すと考えられていた。プラトンは、ソクラテスの言葉として、神々に対する不敬を行った者などは、あの世にて重い罰を与えられるエルの物語を記した。これは、神話ではなく、ソクラテスの受けた啓示を物語として記したものであるといえる。
啓示宗教の項目を参照
グノーシスとは、「現れえないものどもを、現れているもののうちに見出すことから、はじまる」という言葉がある。広義な意味において、グノーシスとは、「神は、宇宙を含むすべての存在についての真理を認識できるようにしている」、という信念に基づく類の宗教思想を全体的に言い表す言葉であるといえる。該当する宗教の中に、神話論的、実践的、直感的な真理としての「神の認識の仕方を有する宗教思想」があった場合、その宗教は、グノーシスとしての面を持っていると解釈することができるようだ。
ヴェーダにおける神の認識の伝承は、バラモン教やヒンドゥー教にも影響している。
ゴータマ・ブッダは、仏教というものを説いたことがなく、あらゆる宗教に通じた万古不滅の法を説いたとされる。その中には、ウパニシャッドの哲学等においける、悟達の境地に到達した古仙人たちのことが語られているので、古代の聖人たちと関係のあるバラモン教の宗派の悟りと古代文明のグノーシスとには、密接な関係があると見ることができる。
ゴータマ・ブッダは、自然の背後に神の存在を認めていた。また、神はあるということは、智者によって一方的に(直感的に)認識されるべきであるとしていた。宇宙の真理としてのバフラマーは、啓示を「この世の主であるバフラマー神」によって、修行完成者としてのブッダに下したとされる。また、万古不滅の法として、諸仏の教えがあるとしている。また、ブッダは、諸仏を尊敬し信じる心のある者は、それだけで、天に生まれるとしている。
初期の仏教においては、相手に応じて法を説いた。学問のある知識階級に対しては、哲学的な用語を用いて語ったときもあれば、知識階級でも実践的真理の欠けているものには、哲学とは無意味であるとする回答をしているときもある。あるいは、論理的な説明がかえって害となる場合には、黙して返事をしない場合もあった。
唯一神を参照
中期プラトン主義はグノーシス主義に影響を与えたとされている。また、旧約聖書も影響しているとされている。全能者は、この世界を覆っていて、悪(貧しさや高慢)であるとする思想は、キリスト教グノーシス主義のみではなく、非キリスト教グノーシス主義にも、よくある要素であるとする見解がある。こうした二元論的なグノーシス主義は、直感的な悟りの体験における喜悦や神の愛を、知によって不平や不満に変質させる、という特質を持っている。
ナグ・ハマディ文書の中に、『エウグノストス』という写本がある。この書は、宇宙開闢の神について語られている。次の、宇宙の真理を説く天啓に満ちた人が来るまでの神の認識の書であるとされている。端的に見るならば、宇宙開闢の神が、天啓を賢者に下した、と見ることができる。
ここでのイエスの思想は、至高神の本質(霊魂)が、宇宙や世界を貫いて人間の中にも宿されているとする。しかし人間は自らの本質である本来的な自分について無知の状態に置かれていて、本当の自分と身体的な自分とを取り違えている。人間は救済者に学ぶことにより、人間の本質と至高神とが同一の存在であることを体得し、認識したときに、神との合一による救済にいたれるとするものであるとされている。
トマス福音書の中には、イエスの直伝にまで遡る可能性が想定されている句が二つあるとされる(77の後半、98など)。イエス(宗教者)の直伝の経文がほとんど無いのは、単純に言うと、直伝の経文が破棄されたり、別の思想者によって編集・改ざんされたためである。
唯一神#イエス(宗教者)を参照
77の後半:「木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出すであろう。」・・・この句は、神の遍在思想と関係があるとされる。イエスは一なる神を信じていた。
98:イエスが言った、「父の王国は、高官を殺そうとする人のようなものである。彼は自分の家で刀を抜き、自分の腕が強いかどうかを知るために、それを壁に突き刺した。それから、彼は高官を殺した。」・・・この句は自己吟味の勧めであるとされ、ルカ14:31-32に類似しているとされている。ルカ14:33では、自らの財産のすべてを断念しない者は、誰一人私の弟子になることはできない、とされている。父の王国は、自らの財産のすべてを断念しないと入ることができない、と考えると理解しやすいといえる。 荒野の試みのところでは、悪魔がこの世を支配していることが述べられている。この句に言われている「高官」とは、この世の君(高官)を指し、その支配から脱却することを、彼は高官を殺した、と譬えたことがうかがえる。高官殺人をたとえに用いたのは、弟子の中に刀を持っていた者がいたためであると、考えられる(ヨハネ18の10)。また、民衆の多くは、救世主が、ユダヤの政治的な解放者であると考えていたとされており、政権の転覆には、高官暗殺が必要と考えていた弟子がいたのではないかと思われる。
「エリアはすでに来た」という句では、ヨハネの前世がエリアであったことが表明されている。エリアの転生輪廻は、天から生まれたことになり、トマス福音書の天から人は生まれてくるという記述とつながっている。
四福音書におけるイエスの思想は四つほどである。他は、福音記者による物語か、講釈である。四福音書のイエスの言行には「人間を育む慈悲の神」は出てきているが、「唯一の神」は出てきていない。唯の字をはぶいた「一なる神」という概念を、ユダヤ教の聖書を引用するときに使ったとされている。宗教者としてのイエスの考察にとって重要と思われる『闘技者トマスの書』や、『トマス福音書』に出てくる神は、この、「一なる神」や、あるいは、ブッダの説いた「人格的な面を持つダルマ(神)」に近いようだ。全宇宙の神として観た場合、「一なる神」は、ブッダが説いた「人格的な面を持つ神(ダルマ)」というものに似ているといえる 。
トマスによる福音書を参照
マリアによる福音書を参照
広義には、地域を問わず、シャーマンが関わる宗教、現象、思想を総合してシャーマニズムと呼んでいる。その中にあって、自然界における神的存在やあの世の神的存在がシャーマンに神事を告げてきた時には、啓示宗教としての形態を持つことになる。そのため、各文明におけるシャーマンの思想が、万古不滅の法にかなったものである場合には、そのシャーマン自身の悟りに結びついているといえる。
絶対的一神教を参照
キリスト教は、すべての民族・国民がただひとつの神を信ずべきだとする立場であるので、悟りとはほど遠い思想である。
367年にアタナシウスはエジプトにある諸教会に宛てて、現行新約のみを聖典として、その他の外典を排除するようにとの書簡を出している。このことと、ナグ・ハマディ写本が地下に埋められたこととは関係があると推察されている。
「在りてある者」としての神は、モーセに、十戒等の啓示を下したとされる。在りてある者としての神は、人格的な面を持つ実在のことであると言い換えることができる。旧約聖書における神観念は、初期には拝一神教であった。拝一神教とは、他との調和をはかるという特質がある。神の唯一性が絶対的になったのは、前6世紀のバビロニア捕囚前後からとされるので、モーセの時代には、多神教徒とは争わないで調和して生きよ、という神の啓示があったと見ることができる。
タナハにおいて、拝一神教に該当する部分については、啓示宗教であるといえる。また、タナハにおいて、絶対的一神教としての神の啓示の部分は、神話と編集作業から生まれたものとされている。
唯一神を参照 | [
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"text": "悟り(さとり、梵: bodhi) pnse (継続的非記号体験)は、迷いの世界を超え、真理を体得すること。覚、悟、覚悟、証、証得、証悟、菩提などともいう。仏教において悟りは、涅槃や解脱とも同義とされる。",
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"text": "日常用語としては、理解すること、知ること、気づくこと、感づくことなどを意味する。",
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"text": "インドの仏教では、彼岸行とされる波羅蜜の用法を含めれば、類語を集約しても20種類以上の「さとり」に相当する語が駆使された。",
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"text": "PNSEとは、“persistent non-symbolic experience”といい、日本語では「継続的非記号体験」と訳されています。PNSEというのは、アメリカの、ジェフリー・マーティン博士という方が、提唱しているようです。その研究を始めたキッカケとして、こんなことが書かれています。Martin博士は、宗教家など、「悟っている」「覚醒している」と言われる人たちの中に、そうした幸福感を持っている人が多いことに気づき、これらの人々に連絡を取って回った。インターネットや図書館で調べたり、人から紹介されたりして、12年間でこれまでに2500人以上にコンタクトを取ってきたという、継続的非記号体験と言われてもピンと来ないと思いますが、これは簡単に言うと「言語化できないような、雑念のない状態」で落ち着いていることを指しています。なぜこんなに理解しにくい名前になったのかというと、宗教上の「悟り」の概念がそれぞれの宗教で異なるため、一概に「自我を超越した意識状態」を指すこととされています(参考文献及び抜粋、ブレインクリニック、空白jp)",
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"text": "悟った人を「仏」と呼ぶ場合がある。「仏」は本来「佛」と書くけれども、「弗」という字には否定の意味があり、人間でありながら、人間にあらざる者になるという意味があるとされる。水の例でいうと、水は沸点に達すると、水蒸気になるが、水蒸気というのはもとは水だけれど、水にあらざるものになる、というところが、人と仏との関係に似ているとされている。また、宇宙には、物質の宇宙と意識の宇宙があるとする説がある。",
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"text": "釈迦(しゃか)は、29歳で出家する前にすでに阿羅漢果を得ていたとされ、ピッパラ樹(菩提樹)の下で降魔成道を果たして悟りを開き、梵天勧請を受けて鹿野苑(ろくやおん)で初転法輪を巡らしたとする。",
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"text": "釈迦は悟りを開いた当初、自身の境涯は他人には理解できないと考え、自分でその境地を味わうのみに留めようとしたが、梵天勧請を受けて教えを説くようになったと伝えられることから(聖求経)、ブッダの説法の根本は、その悟りの体験を言語化して伝え、人々をその境地に導くことが、後代に至るまで仏教の根本目的であるとされることがある。一方、藤本晃によれば、南伝仏教であるテーラワーダ仏教では、釈尊は悟りを四沙門果と呼ぶ四段階で語っていたが、釈迦以外の凡夫は悟りを開くことはできないとパーリ語仏典や漢訳阿含経典に書いてあるとする。",
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"text": "釈迦は説法の中で自身の過去世を語り、様々な過去の輪廻の遍歴を披露している。",
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"text": "ジャイナ教では、修行によって業の束縛が滅せられ、微細な物質が霊魂から払い落とされることを「止滅」(ニルジャラー)と称する。その止滅の結果、罪悪や汚れを滅し去って完全な悟りの智慧を得た人は、「完全者」(ケーヴァリン)となり、「生をも望ます、死をも欲せず」という境地に至り、さらに「現世をも来世をも願うことなし」という境地に到達する。この境地に達すると、生死を超越し、また現世をも来世をも超越する。煩悩を離れて生きることを欲しない、と同時に死をも欲しないのは、死を願うこともまた一つの執着とみるからである。ここに到達した者は、まったく愛欲を去り、苦しみを離脱して迫害に会ったとしても少しも動揺することなく、一切の苦痛を堪え忍ぶ。この境地をモークシャ・やすらぎ(寂静)・ニルヴァーナ(涅槃)、とジャイナ教では称する。",
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"text": "モークシャに到達したならば、ただ死を待つのみである。身体の壊滅とともに最期の完全な解脱に到達する。完全な解脱によって向かう場所を、特に空間的に限定して、この世とは異なったところであるとしている。「賢者はモークシャ(複数)なるものを順次に体得して、豊かで、智慧がある。彼は無比なるすべてを知って[身体と精神の]二種の[障礙を]克服して、順次に思索して業を超越する『アーラヤンガ』」。モークシャは生前において、この世において得られるものと考えられている。このモークシャをウッタマーンタ(最高の真理)と呼んで、ただ“否定的”にのみ表現ができるとしている。",
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"text": "このモークシャを得るために、徹底した苦行、瞑想、不殺生(アヒンサー)、無所有の修行を行う。ジャイナ教では、次の「七つの真実」(タットヴァ)を、正しく知り(正知)それを信頼し(正見)実践する(正行)することが真理に至る道であると考えられている。",
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"text": "1. 霊魂(ジーヴァ) 2. 非霊魂(アジーヴァ) 3. 業の流入(アースラヴァ) 4. 束縛(バンダ) 5. 防ぎ守ること(サンヴァラ) 6. 止滅(ニルジャラー) 7. 解脱(モークシャ)",
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"text": "ジャイナ教では、宇宙は多くの要素から構成され、それらを大別して霊魂(ジーヴァ)と非霊魂(アジーヴァ)の二種とする。霊魂は多数存在する。非霊魂は、運動の条件(ダルマ)と静止の条件(アダルマ)と虚空(アーカーシャ)と物質(プドガラ)の四つであり、霊魂と合わせて数える時は「五つの実在体」(アスティカーヤ)と称する。これらはみな“実体”であり、点(パエーサ)の集まりであると考えられている。宇宙は永遠の昔からこれらの実在体によって構成されているとして、宇宙を創造し支配している主宰神のようなものは“存在しない”とする。",
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"text": "霊魂(ジーヴァ)とは、インド哲学でいう我(アートマン)と同じであり、個々の物質の内部に想定される生命力を実体的に考えたものであるが、唯一の常住して遍在する我(ブラフマン)を“認めず”、多数の実体的な個我のみを認める「多我説」に立っていると見なされている。霊魂は、地・水・火・風・動物・植物の六種に存在し、“元素”にまで霊魂の存在を認める。霊魂は“上昇性”を持つが、それに対して物質は“下降性”を有する。その下降性の故に霊魂を身体の内にとどめ、上昇性を発揮することができないようにしていると考えられている。この世では人間は迷いに支配されて行動している。人間が活動(身・口・意)をするとその行為のために微細な物質(ボッガラ)が霊魂を取り巻いて付着する。これを「流入」(アースラヴァ)と称する。霊魂に付着した物質はそのままでは業ではないが、さらにそれが霊魂に浸透した時、その物質が「業」となる。そのため「業物質」とも呼ばれる。霊魂が業(カルマン)の作用によって曇り、迷いにさらされることを「束縛」(バンダ)という。そして「業の身体」(カンマ・サリーラガ)という特別の身体を形成して、霊魂の本性をくらまし束縛しているとする。霊魂はこのように物質と結び付き、そして業に縛られて輪廻すると伝えられている。",
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"text": "霊魂に業が浸透し付着して、人間が苦しみに悩まされる根源は外界の対象に執着してはならないとの教えで、あらゆるところから業の流れ(ソータ)は侵入してくるので、五つの感覚器官(感官)を制御して全ての感覚が快くとも悪しくとも愛着や執着を起こさなければ、業はせき止められる。それを、「防ぎ守ること・制御」(サンヴァラ)と呼び、新規に流入する業物質の防止とする。それに対し、既に霊魂の中に蓄積された業物質を、苦行などによって霊魂から払い落とすことを「止滅」(ニルジャラー)と呼ぶ。",
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"paragraph_id": 15,
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"text": "霊魂は業に縛られて、過去から未来へ生存を変えながら流転する存在の輪すなわち輪廻(サンサーラ)の中にいる。輪廻は、迷い迷って生存を繰り返すことだと云われる。ジャイナ教は、その原因となる業物質を、制御(サンヴァラ)と止滅(ニルジャラー)によって消滅させるために、人は“修行”すべきであると説く。そのために出家して、「五つの大誓戒」(マハーヴラタ、mahaavrata)である、不殺生、不妄語、不盗、不淫、無所有を守りながら、苦行を実践する。身体の壊滅によって完全な解脱が完成すると「業の身体」を捨てて、自身の固有の浮力によって一サマヤ(短い時間)の間に上昇し、まっすぐにイーシーパッバーラーという天界の上に存在する完成者(シッダ)たちの住処に達し、霊魂は過去の完成者たちの仲間に入るとしている。",
"title": "各宗教における悟り"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "ヒンドゥー教は非常に雑多な宗教であるが、そこにはヴェーダの時代から続く悟りの探求の長い歴史がある。",
"title": "各宗教における悟り"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "仏教に対峙するヴェーダの宗教系で使われる悟りは意識の状態で、人が到達することの出来る最高の状態とされる。サンスクリットのニルヴァーナ(涅槃)に相当する。光明または大悟と呼ばれることもある。悟りを得る時に強烈な光に包まれる場合があることから、光明と呼ばれる。",
"title": "各宗教における悟り"
},
{
"paragraph_id": 18,
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"text": "インドではヴェーダの時代から、「悟りを得るための科学」というものが求められた。それらは特に哲学的な表現でウパニシャッドなどに記述されている。古代の時代の悟りを得た存在は特にリシと呼ばれている。",
"title": "各宗教における悟り"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "ニルヴァーナには3つの段階が存在するといわれ、マハパリ・ニルヴァーナが最高のものとされる。悟りと呼ぶ場合はこのどれも指すようである。どの段階のニルヴァーナに到達しても、その意識状態は失われることはないとされる。また、マハパリ・ニルヴァーナは肉体を持ったまま得るのは難しいとされ、悟りを得た存在が肉体を離れる場合にマハパリ・ニルヴァーナに入ると言われる。",
"title": "各宗教における悟り"
},
{
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"tag": "p",
"text": "悟りを得た存在が肉体を離れるときには、「死んだ」とは言われず、「肉体を離れる」、「入滅する」、「涅槃に入る」などと言われる。",
"title": "各宗教における悟り"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "悟りという場合、ニルヴァーナの世界をかいま見る神秘体験を指す場合がある。この場合はニルヴァーナには含まれないとされ、偽のニルヴァーナと呼ばれる。偽のニルヴァーナであっても、人生が変わる体験となるので、偽のニルヴァーナを含めて、ニルヴァーナには4つあるとする場合もある。",
"title": "各宗教における悟り"
},
{
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"text": "現在でも、ゴータマ・ブッダの時代と同じように山野で修行を行う行者が多い。どんな時代にでも多くの場所に沢山の数の悟りを得た(と自称している)存在に事欠かない。",
"title": "各宗教における悟り"
},
{
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"text": "通常、悟りを得たとする存在もヒンドゥー教、またはその前段階のバラモン教の伝統の内にとどまっていた。しかし、特にゴータマ・ブッダの時代はバラモン教が司祭の血統であるブラフミン(バラモン)を特別な存在と主張した時で、それに反対してバラモン教の範囲から飛び出している。同時代にはジャイナ教のマハーヴィーラも悟りを得た存在としており、やはり階級制であるカーストに反対してこれを認めず、バラモン教から独立している。",
"title": "各宗教における悟り"
},
{
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"tag": "p",
"text": "仏教者鈴木大拙はイエスを妙好人と考証している。 また、イエスは、古今東西の覚者と同じく、悟りの体験をしていたという見解がある。",
"title": "各宗教における悟り"
},
{
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"text": "イエスの認識を全く理解できなかった弟子が、イエスに叱責されるというエピソードが福音書には載っている。その時に、イエスは、あなたがたは今なお、「悟り」がないのか、という語を用いてそのことを指摘したとされている。キリスト教と悟りとの関連が見られる箇所の一つがそこにあると見ることができる。",
"title": "各宗教における悟り"
},
{
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"text": "十字架にかかる以前のナザレのイエスの教えには、心の中の悪に対しての認識を深めることが弟子たちに対しての要求に含まれていた。人の心の中から出てくる行為や想念については、淫行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪意、奸計、好色、よこしまな眼、瀆言、高慢、無分別などがあげられている。",
"title": "各宗教における悟り"
},
{
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"text": "これらの箇所に見えることは、人が、自分の心の中の悪を自覚できるようになることは一種の悟りである、という「自力救済的な教え」を、時にイエスは説いていたということである。しかし、ナザレのイエスは悟っていたかもしれないということを裏付けできるような資料はほとんどなく、わずかに『闘技者トマスの書』や、『トマス福音書』に仏教的な悟達者との関連があるかもしれないという記述が残っているのみである。",
"title": "各宗教における悟り"
},
{
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"tag": "p",
"text": "福音書と同じくイエスの言行を記した『闘技者トマスの書』には、自力救済的な思想が記されている。「自己を知った者は、同時に、すでに万物の深遠についての認識に達している。」という言葉などにも、人が、心の中の悪を突き詰めていった「悟り」というものにつながっている部分があるようにも見える。『闘技者トマスの書』は、自力救済的な思想でありながらも、同じナグ・ハマディ文書のトマス福音書とは異なり、異端であるとはされなかった。",
"title": "各宗教における悟り"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "「人間を救済する自己認識」の信念は異色のものであると言える。こうした自力救済的な思想は、正統的教会にとっては異端として退けられるべきものであると考えられる。しかし、岩波書店『ナグ・ハマディ文書 III 』によれば、「闘技者トマスの書」は、正統的教会の、いわば外延をなした修道者に向けて編まれたものと思われるとされていて、その主な内容であるところの、欲望に対する闘争は、キリスト教的な禁欲思想をつらぬくものとされている。",
"title": "各宗教における悟り"
},
{
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"text": "(77)、すべては私から出て、 そしてすべては私に達した。木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出すであろう。",
"title": "各宗教における悟り"
},
{
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"text": "(4)、・・・日を重ねた老人は生命の場所について7日の幼な子に問うことを躊躇してはならない。 そうすれば彼は生きるであろう。",
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},
{
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"text": "(5)、あなたの面前にあるものを認識せよ。そうすれば、隠されているものはあなたに明かされるであろう。 明らかにならないまま隠されているものはないからである。",
"title": "各宗教における悟り"
},
{
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"text": "(15)、もしあなたが女から産まれなかった者を見たら、ひれ伏しなさい。彼を拝みなさい。その者こそ、あなた方の父である。",
"title": "各宗教における悟り"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "一般のイスラム教には悟りの伝統は含まれていないが、特にイスラム教神秘主義とも呼ばれるスーフィーは、内なる神との合一を目的としており、そのプロセスは悟りのプロセスのいずれかに近い。しかし、神との合一を成し遂げたスーフィの中にはハッラージュ(英語版)のように「我は真理なり」と宣言して時の為政者に処刑された例がある。",
"title": "各宗教における悟り"
},
{
"paragraph_id": 35,
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"text": "イスラーム世界において異端とされてきたスーフィーの一派の中には、人間の自我意識の払拭を修行の目的としている一派があるとされている。彼らは、人間には「我」というものがあるから、苦しみや悪があると捉え、修行者は、自我意識を内的に超克したところに、神の顔を見ることが出来るとされる。スーフィーにおいて、神は、自分自身の魂の奥底に存在するだけでなく、すべての場所に遍在しているとされる。また、神は、あらゆる物事の内面に存在している内在神であるともされている。 そして、修行者においては、自己否定の無の底に、「遍在する人格的な神」の実在性の顕現が為されるとされる。",
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{
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"title": "各宗教における悟り"
},
{
"paragraph_id": 37,
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"text": "ムスハフ解釈本を研究する者は、大体三つの時期に全体を大別するのが常である。 ムハンマドに表立って反対する者が出てくる前、最初の啓示から四年ほどの間に下されたアッラーによる初期の啓示に顕された姿は、ユダヤ教(なかでもモーセの教え)やキリスト教(なかでもナザレのイエスの教え)で説かれている神の姿とたいへんよく似通っているとされる 。",
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"text": "アラブの伝承では、人はめいめいに自身の精霊(ジン)を持っているとされ、砂漠の民は、神、あらゆる精霊、あらゆる超自然の力に畏怖の念を抱いているとされる。当時、ムハンマドの住んでいた地域のキリスト教は、異端とされるものであったとされ、閑静な場所で、瞑想生活を送るタイプの異端であったとされる。ムハンマドは、啓示を受け始める以前、ヒラー山の洞窟に、定期的に数か月単位で瞑想生活を送っていたとされる。それは、ムハンマドの祖父が、キリスト教徒に関心を持ち、異端とされる宗派の信仰生活に影響を受けてのものであったようだ。祖父の代より行われていた、一家の宗教行事ともいえる瞑想生活を契機として、ムハンマドに神の啓示が下される事態となったわけである。しかしそのとき、ムハンマドが悟っていたかどうかについては、定かではない。",
"title": "各宗教における悟り"
},
{
"paragraph_id": 39,
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"text": "啓示を受け始めた当初、神はムハンマドに対して「あなたは神の預言者である」という言葉を繰り返していたとされている。彼が瞑想のために山に登るたび、その声が彼をつつみ、彼の自覚を促していたという。その神が、ユダヤ教やキリスト教の神と同じであると直感したのは、彼を取り巻く人たちであった。",
"title": "各宗教における悟り"
},
{
"paragraph_id": 40,
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"text": "ヒラー山にて、内的啓示を受けたとき、ムハンマドは、それがアラブに昔から言い伝えられるジンと呼ばれる霊的存在であると思った。妻は、妻のいとこに相談をした。「かつてモーセを訪れた偉大な神が到来したのだ」と、いとこは、ムハンマドに語ったと言われます。その後、ムハンマドが「ヒラー山」に登るたびに「ムハンマドよ、あなたは神の使徒である」という、神の、啓示があったとされる。ムハンマドには、その神が、「モーセを訪れた偉大な神」であるかどうかは判らなかった。けれども、神によって、モーセに連なる預言者の一人としての自覚を促されている、という認識はあったようだ。",
"title": "各宗教における悟り"
},
{
"paragraph_id": 41,
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"text": "ムハンマドの啓示も、当初はイエス(宗教者)と同じ、一なる神の理を説くものであり、平和を目指すものであったとされる。しかし、平和のために剣を取ることによって生じた甚だしい自己矛盾が、神の理とその啓示から、ムハンマド(宗教者)を遠ざけてしまった、という見解がある。そのような観点からすると、ムハンマドの意識は、最初期に限定してみた場合、「神の理」を悟る心境にあったとみることができる。また、信者においては、こうした瞑想生活と神の理に対する理解と洞察から、後年のスーフィズムが生じてきたとみることができる。",
"title": "各宗教における悟り"
},
{
"paragraph_id": 42,
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"text": "「道」は、この現象界を超えたところで、現象界を生起させ変化させる一者として考えられている。この「道」は言葉によって客観的に捉えることができないとされている。そのため、荘子において、道を体得した人とは、すべてのものが、生成(無為)と破壊・分散(有為)の区別なく道において一となっていることを感得した人であるとされている。また、「道」は、無限なる者として、天地のまだ存在しない大古から、すでに存在しているものであり、これを感得する者を、真人や聖人と呼んでいる。また、道を体得した者は、霊妙な力を持つ天帝や鬼神の存在についても知ることになる、とされている。(斉物論篇 九)。「道」は、すべての現象をそうあらしめている原理としての性格と、宇宙生成論的な発生の根源者という性格の二面が融合していることが知られている。このことは、宇宙の真理を説いたとされる初期仏教における悟りと何らかの関係にあると見ることができる。",
"title": "老荘思想と悟り"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "道は万物が皆よって生ずる根本的な一者であるとしている。道は無為無形の造物主として古より存在するが、情あり、信ありとされている。",
"title": "老荘思想と悟り"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "自然の道から見れば、分散することは集成であり、集成することは、そのまま分散破壊することに他ならない。道を体得するとは、すべてを通じて一であることを知るということである。すべてのものは、生成(無為)と破壊・分散(有為)の区別なく道において一となっている、とされる(斉物論篇)。",
"title": "老荘思想と悟り"
},
{
"paragraph_id": 45,
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"text": "老子においては、実在としての道は、循環運動を永遠に続けているとされている。あらゆる存在は、「有」として、「無」から生まれている。「有」が「無」として、「無」が「有」として、運動して(生まれて)ゆく姿は、反(循環)である。(第40章)。",
"title": "老荘思想と悟り"
},
{
"paragraph_id": 46,
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"text": "「道」は一を生み出す。一は二を生み出す。万物は陰(無為)を背負って、陽(有為)を抱える。沖気というのは、調和(均衡)の状態を維持することである。道は全体に対して、弱い力として働いている(42章)。",
"title": "老荘思想と悟り"
},
{
"paragraph_id": 47,
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"text": "「道」は隠れたもので、名がない。大象(無限の象)は形がない。「道」こそは、何にもまして(すべてのものに)援助を与え、しかも(それらが目的を)成しとげるようにさせるものである。この援助は、徳とも、慈悲とも言えるものである。",
"title": "老荘思想と悟り"
},
{
"paragraph_id": 48,
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"text": "荘子において、道を体得した人とは、すべてのものが、生成(無為)と破壊・分散(有為)の区別なく道において一となっていることを感得した人であるとされている。",
"title": "老荘思想と悟り"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "道は、万物が皆よって生ずる根本的な一者であり、無為無形の造物主として古より存在するが、情あり、信ありとされている。",
"title": "老荘思想と悟り"
},
{
"paragraph_id": 50,
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"text": "聖人における「聖」という概念には、倒置の状態(自己を外物のうちに見失い、自らの本性を世俗の内に喪失した状態)から完全に脱することができた真人という意味合いがある。聖人の境地とは、およそ無心のままに静けさを保ち、欲望に動かされずに安らかであり、静まりかえって作為から離れていることとされる。それは、天地の安定した姿のうちにあり、自然のままの道徳の極致を体現した聖なる存在であるとされる。(天道篇 二)。",
"title": "老荘思想と悟り"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "自得とは、最初の段階では、自分自身の在り方に満足することであり、与えられた運命のままに生きるという随順の立場と変わりがないといえる。しかし、これは、自分の「外なる物」という自分の本性でないものと自分の内にある本性とを弁別して、自らの本性を選択し続ける、という段階につながっている。その外物とは、仁義であり、世間的な名声であり、欲望をさそう財貨であり、五味、五色、五声である。これらの外物を遠ざけ、退けるところにはじめて自然の性が保たれるのである、とされる。",
"title": "老荘思想と悟り"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "道の徳を身に得た者は、徳を傷つける知識を得ようとはしない。だから、「ただ自己のあり方を正すことがすべてである」。このような自己本来の立場にあって、完全な楽しみを得ること、これを「わが志を得る」という、とされている(繕性篇)。",
"title": "老荘思想と悟り"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "天地の徳を明白に知る者は、いっさいの根源を宗とする者であるといえる。それは天との和合をもたらすものであり、また、天下万物に調和を与え、人との和合をもたらすものである(大宗師篇)、とされている。また、道とは徳の根源である。生とは徳が発する光に他ならない、ともされている(庚桑楚篇)。",
"title": "老荘思想と悟り"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "荘子の思想の中には、「道」と「無為」とを同一視してしまう場合がある。また、「無為」と、「自然の為すところ」とが同一視されている場合もある。至人の境地に至るためには、これらを念頭に生きることが不可欠な道標であるとされる場合もある。この場合の至人は、物との調和を保ち、その心が無限の広さを感得することをもって善しとする(大宗師篇)。こうした思想は、後代になって、解脱を目的とする禅宗の成立に大きな影響を与えたとされる。仏教における禅宗は、仏教伝統を受けつぎながらも荘子を頂点とする中国思想と深く交流することによって、はじめて成立したものであるとする見解がある。それによると、禅宗における悟りと関連した概念(「不立文字」「見性仏性」等)と、荘子における無為自然との合一という概念とには、相通じるものがあるとされている。",
"title": "老荘思想と悟り"
},
{
"paragraph_id": 55,
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"text": "「その光を和らげ、その塵を同じくす。是を玄同という」(第56章)という言葉がある。玄を道と解釈した場合、老子においても道との合一を果たす生き方は、一つの悟りであり、「道の徳」や「道の援助」のうちに生きる生き方であると見ることができる。",
"title": "老荘思想と悟り"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "道は全体に対して、弱い力として働いており、沖気というのは、調和(均衡)の状態を維持することである。(42章)",
"title": "老荘思想と悟り"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "古代ギリシアにおいては、「知識」・「認識」はグノーシスと呼ばれていた。古代思想としてのグノーシスは、「神の認識の仕方」の一種であるとされる。宗教用語として見た場合、グノーシスという言葉は、広義な意味を有している。古代ギリシアにおいて、ソフィアとグノーシスを分けて考えることは難しい状況にある。そのため、客観的認識作用や、主観的認識作用とその結果を、グノーシスと呼ぶことが可能である。「悟り」についても、広義の意味におけるグノーシスの一部に属していると見ることができる。また、古代ギリシアより遅れて生じ、グノーシスを壊滅させたキリスト教においては、すべての民族・国民がただひとつの神を信ずべきだとする教義によって、国民を統制する立場であった。歴史的に見て、絶対的一神教は、悟りと関わりのある宗派・宗教を異端として弾圧してきた。こうした、絶対的一神教(三位一体神等)による神の認識の仕方は、悟りとは逆の思想であるといえる。",
"title": "グノーシス思想と悟り"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "グノーシスは、古代ギリシア語で「知識」・「認識」を意味しているギリシア哲学では知のことをソフィアとしているが、ソクラテスやプラトンも、神や、神の世界や魂を信じていた。宗教と哲学を分かつことは難しい。言い換えると、古代において、ソフィアとグノーシスを分けて考えることは難しい。古代のグノーシスは、悟りのようなものであると見ることができる。そうしたグノーシス主義には、神の存在を認めない哲学的思想を批判している文書もある。また、スピノザの説いた一元的汎神論は、グノーシス主義に似通っているが、絶対的一神教が支配的な社会であったためか、無神論の一種として扱われた。",
"title": "グノーシス思想と悟り"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "古代ギリシアでは、あの世の神的次元にいるとされる神々が、賢者に啓示を下すと考えられていた。プラトンは、ソクラテスの言葉として、神々に対する不敬を行った者などは、あの世にて重い罰を与えられるエルの物語を記した。これは、神話ではなく、ソクラテスの受けた啓示を物語として記したものであるといえる。",
"title": "グノーシス思想と悟り"
},
{
"paragraph_id": 60,
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"text": "啓示宗教の項目を参照",
"title": "グノーシス思想と悟り"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "グノーシスとは、「現れえないものどもを、現れているもののうちに見出すことから、はじまる」という言葉がある。広義な意味において、グノーシスとは、「神は、宇宙を含むすべての存在についての真理を認識できるようにしている」、という信念に基づく類の宗教思想を全体的に言い表す言葉であるといえる。該当する宗教の中に、神話論的、実践的、直感的な真理としての「神の認識の仕方を有する宗教思想」があった場合、その宗教は、グノーシスとしての面を持っていると解釈することができるようだ。",
"title": "グノーシス思想と悟り"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "ヴェーダにおける神の認識の伝承は、バラモン教やヒンドゥー教にも影響している。",
"title": "グノーシス思想と悟り"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "ゴータマ・ブッダは、仏教というものを説いたことがなく、あらゆる宗教に通じた万古不滅の法を説いたとされる。その中には、ウパニシャッドの哲学等においける、悟達の境地に到達した古仙人たちのことが語られているので、古代の聖人たちと関係のあるバラモン教の宗派の悟りと古代文明のグノーシスとには、密接な関係があると見ることができる。",
"title": "グノーシス思想と悟り"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "ゴータマ・ブッダは、自然の背後に神の存在を認めていた。また、神はあるということは、智者によって一方的に(直感的に)認識されるべきであるとしていた。宇宙の真理としてのバフラマーは、啓示を「この世の主であるバフラマー神」によって、修行完成者としてのブッダに下したとされる。また、万古不滅の法として、諸仏の教えがあるとしている。また、ブッダは、諸仏を尊敬し信じる心のある者は、それだけで、天に生まれるとしている。",
"title": "グノーシス思想と悟り"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "初期の仏教においては、相手に応じて法を説いた。学問のある知識階級に対しては、哲学的な用語を用いて語ったときもあれば、知識階級でも実践的真理の欠けているものには、哲学とは無意味であるとする回答をしているときもある。あるいは、論理的な説明がかえって害となる場合には、黙して返事をしない場合もあった。",
"title": "グノーシス思想と悟り"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "唯一神を参照",
"title": "グノーシス思想と悟り"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "中期プラトン主義はグノーシス主義に影響を与えたとされている。また、旧約聖書も影響しているとされている。全能者は、この世界を覆っていて、悪(貧しさや高慢)であるとする思想は、キリスト教グノーシス主義のみではなく、非キリスト教グノーシス主義にも、よくある要素であるとする見解がある。こうした二元論的なグノーシス主義は、直感的な悟りの体験における喜悦や神の愛を、知によって不平や不満に変質させる、という特質を持っている。",
"title": "グノーシス思想と悟り"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "ナグ・ハマディ文書の中に、『エウグノストス』という写本がある。この書は、宇宙開闢の神について語られている。次の、宇宙の真理を説く天啓に満ちた人が来るまでの神の認識の書であるとされている。端的に見るならば、宇宙開闢の神が、天啓を賢者に下した、と見ることができる。",
"title": "グノーシス思想と悟り"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "ここでのイエスの思想は、至高神の本質(霊魂)が、宇宙や世界を貫いて人間の中にも宿されているとする。しかし人間は自らの本質である本来的な自分について無知の状態に置かれていて、本当の自分と身体的な自分とを取り違えている。人間は救済者に学ぶことにより、人間の本質と至高神とが同一の存在であることを体得し、認識したときに、神との合一による救済にいたれるとするものであるとされている。",
"title": "グノーシス思想と悟り"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "トマス福音書の中には、イエスの直伝にまで遡る可能性が想定されている句が二つあるとされる(77の後半、98など)。イエス(宗教者)の直伝の経文がほとんど無いのは、単純に言うと、直伝の経文が破棄されたり、別の思想者によって編集・改ざんされたためである。",
"title": "グノーシス思想と悟り"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "唯一神#イエス(宗教者)を参照",
"title": "グノーシス思想と悟り"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "77の後半:「木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出すであろう。」・・・この句は、神の遍在思想と関係があるとされる。イエスは一なる神を信じていた。",
"title": "グノーシス思想と悟り"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "98:イエスが言った、「父の王国は、高官を殺そうとする人のようなものである。彼は自分の家で刀を抜き、自分の腕が強いかどうかを知るために、それを壁に突き刺した。それから、彼は高官を殺した。」・・・この句は自己吟味の勧めであるとされ、ルカ14:31-32に類似しているとされている。ルカ14:33では、自らの財産のすべてを断念しない者は、誰一人私の弟子になることはできない、とされている。父の王国は、自らの財産のすべてを断念しないと入ることができない、と考えると理解しやすいといえる。 荒野の試みのところでは、悪魔がこの世を支配していることが述べられている。この句に言われている「高官」とは、この世の君(高官)を指し、その支配から脱却することを、彼は高官を殺した、と譬えたことがうかがえる。高官殺人をたとえに用いたのは、弟子の中に刀を持っていた者がいたためであると、考えられる(ヨハネ18の10)。また、民衆の多くは、救世主が、ユダヤの政治的な解放者であると考えていたとされており、政権の転覆には、高官暗殺が必要と考えていた弟子がいたのではないかと思われる。",
"title": "グノーシス思想と悟り"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "「エリアはすでに来た」という句では、ヨハネの前世がエリアであったことが表明されている。エリアの転生輪廻は、天から生まれたことになり、トマス福音書の天から人は生まれてくるという記述とつながっている。",
"title": "グノーシス思想と悟り"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "四福音書におけるイエスの思想は四つほどである。他は、福音記者による物語か、講釈である。四福音書のイエスの言行には「人間を育む慈悲の神」は出てきているが、「唯一の神」は出てきていない。唯の字をはぶいた「一なる神」という概念を、ユダヤ教の聖書を引用するときに使ったとされている。宗教者としてのイエスの考察にとって重要と思われる『闘技者トマスの書』や、『トマス福音書』に出てくる神は、この、「一なる神」や、あるいは、ブッダの説いた「人格的な面を持つダルマ(神)」に近いようだ。全宇宙の神として観た場合、「一なる神」は、ブッダが説いた「人格的な面を持つ神(ダルマ)」というものに似ているといえる 。",
"title": "グノーシス思想と悟り"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "トマスによる福音書を参照",
"title": "グノーシス思想と悟り"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "マリアによる福音書を参照",
"title": "グノーシス思想と悟り"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "広義には、地域を問わず、シャーマンが関わる宗教、現象、思想を総合してシャーマニズムと呼んでいる。その中にあって、自然界における神的存在やあの世の神的存在がシャーマンに神事を告げてきた時には、啓示宗教としての形態を持つことになる。そのため、各文明におけるシャーマンの思想が、万古不滅の法にかなったものである場合には、そのシャーマン自身の悟りに結びついているといえる。",
"title": "グノーシス思想と悟り"
},
{
"paragraph_id": 79,
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"text": "絶対的一神教を参照",
"title": "グノーシス思想と悟り"
},
{
"paragraph_id": 80,
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"text": "キリスト教は、すべての民族・国民がただひとつの神を信ずべきだとする立場であるので、悟りとはほど遠い思想である。",
"title": "グノーシス思想と悟り"
},
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"text": "367年にアタナシウスはエジプトにある諸教会に宛てて、現行新約のみを聖典として、その他の外典を排除するようにとの書簡を出している。このことと、ナグ・ハマディ写本が地下に埋められたこととは関係があると推察されている。",
"title": "グノーシス思想と悟り"
},
{
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"tag": "p",
"text": "「在りてある者」としての神は、モーセに、十戒等の啓示を下したとされる。在りてある者としての神は、人格的な面を持つ実在のことであると言い換えることができる。旧約聖書における神観念は、初期には拝一神教であった。拝一神教とは、他との調和をはかるという特質がある。神の唯一性が絶対的になったのは、前6世紀のバビロニア捕囚前後からとされるので、モーセの時代には、多神教徒とは争わないで調和して生きよ、という神の啓示があったと見ることができる。",
"title": "グノーシス思想と悟り"
},
{
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"text": "タナハにおいて、拝一神教に該当する部分については、啓示宗教であるといえる。また、タナハにおいて、絶対的一神教としての神の啓示の部分は、神話と編集作業から生まれたものとされている。",
"title": "グノーシス思想と悟り"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "唯一神を参照",
"title": "グノーシス思想と悟り"
}
] | 悟り pnse (継続的非記号体験)は、迷いの世界を超え、真理を体得すること。覚、悟、覚悟、証、証得、証悟、菩提などともいう。仏教において悟りは、涅槃や解脱とも同義とされる。 日常用語としては、理解すること、知ること、気づくこと、感づくことなどを意味する。 | {{言葉を濁さない|date=2023年3月}}
{{Otheruses|宗教全般における宗教用語としての悟り|その他の悟り(さとり)|さとり}}
{{redirect|悟|呼出|悟 (呼出)}}
{{宗教哲学}}
'''悟り'''(さとり、{{lang-sa-short|bodhi}})''' pnse '''(継続的非記号体験)は、迷いの世界を超え、真理を体得すること<ref name="ib370">{{Cite book |和書 |author=中村元ほか(編) |coauthors= |others= |date=2002-10 |title=岩波仏教辞典 |edition=第二版 |publisher=岩波書店 |page=370-371 }}</ref>。'''覚'''、'''悟'''、'''覚悟'''、'''証'''、'''証得'''、'''証悟'''、'''[[菩提]]'''などともいう<ref name="ib370" />{{efn|菩提は{{lang-sa-short|bodhi}}の音写<ref name="ib370" />。}}。[[仏教]]において悟りは、[[涅槃]]や[[解脱]]とも同義とされる<ref name="ib370" />。
日常用語としては、理解すること、知ること、気づくこと、感づくことなどを意味する<ref name="広辞苑972">{{Cite book |和書 |author=新村出(編) |authorlink= |coauthors= |others= |date=1986-10 |title=広辞苑 |edition=第三版 |publisher=岩波書店 |volume= |page=972 |isbn=}}</ref>。
== 原語・語義・類語 ==
{{複数の問題|独自研究=2017年6月16日 (金) 04:30 (UTC)|一次資料=2017年6月16日 (金) 04:30 (UTC)||section=1}}
[[インドの仏教]]では、彼岸行とされる[[波羅蜜]]の用法を含めれば、類語を集約しても20種類以上の「さとり」に相当する語が駆使された<ref>『仏教漢梵大辞典』 [[平川彰]]編纂 ([[霊友会]]) 「悟」 483頁。</ref>{{要検証|date=2017年6月16日 (金) 04:30 (UTC)|title=}}。
; 正覚
:語頭に“無上”や“等”など何らかの形容語がついたものを含めれば、日本で編纂された[[三蔵]]経である[[大正新脩大藏經]]に1万5700余みられるが<ref>『正覚』 [https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ 大正新脩大蔵経テキストデータベース]。</ref>、意味の異なる数種類以上のサンスクリットの単語・複合語の訳として用いられている<ref name="shokaku">『仏教漢梵大辞典』 [[平川彰]]編纂 (霊友会) 「正覚」 687頁、ならびに『梵和大辞典』 (鈴木学術財団) を対照逐訳。</ref>{{要ページ番号|date=2017年6月23日 (金) 07:21 (UTC)|title=梵和大辞典のほうのページ番号がない。}}{{要検証|date=2017年6月16日 (金) 04:30 (UTC)|title=}}。元となるサンスクリットの原意はその種類によって幅広く、[[初転法輪]]にかかわる意味から[[成仏]]に近似した意味、智波羅蜜に類した意味にまでに及ぶ<ref name="shokaku" />。
;開悟
:日本語で悟りを開く意の「開悟」と漢訳されたサンスクリットは数種類ある<ref name="広説佛教語大辞典180">『広説佛教語大辞典』 中村元著 (東京書籍) 上巻 「開悟」 180-181頁。</ref>{{efn|「開悟」が仏教伝来以前から中国に存在していた漢語かどうかは不明。}}。いずれのサンスクリットも「仏地を熱望する」など、彼岸行の始まりを示唆する婉曲な表現の複合語で、prativibudda の場合、開悟のほかにも「夢覚已」「従睡寤」と漢訳されることがあった<ref>『梵和大辞典』 (鈴木学術財団) prativibudda 840頁。</ref>。
;悟
:単独の訳語として用いられる数種類のサンスクリットのうち、日本の仏教で多用される「悟る」もしくはその連用形「悟り」に最も近いサンスクリットの原意は、「目覚めたるもの(avabodha)」という名詞と、「覚された/学ばれた(avabuddha)」という形容詞である<ref name="go">『仏教漢梵大辞典』 [[平川彰]]編纂 (霊友会) 「悟」 483頁、ならびに『梵和大辞典』 (鈴木学術財団) を対照逐訳。</ref>{{要ページ番号|date=2017年6月23日 (金) 07:21 (UTC)|title=梵和大辞典のほうのページ番号が無い。}}{{要検証|date=2017年6月16日 (金) 04:30 (UTC)|title=}}。これらとは逆に、一つのサンスクリットが複数種類以上の漢訳語を持つケースは珍しくなく、「知」「解」「一致」など数種類の漢訳語を持つ anubodha, saṃvid, saṃjñā などの名詞は「悟」と訳されることもあった<ref name="go" />。
;菩提
:bodhi の漢訳で、「覚」「道」「得道」などと漢訳される場合もある<ref>『梵和大辞典』 (鈴木学術財団) bodhi 932頁。</ref>。大乗経典では「bodhi」を「菩提」と音訳せず「覚」と意訳した新訳があるが、「覚」の訳が当てられたサンスクリットは十種類以上に及ぶ<ref>『仏教漢梵大辞典』 [[平川彰]]編纂 (霊友会) 「覺」 1062頁。</ref>{{要検証|date=2017年8月7日 (月) 05:07 (UTC)|title=}}。
;阿耨多羅三藐三菩提
:大乗経典で多用され<ref>[https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E9%98%BF%E8%80%A8%E5%A4%9A%E7%BE%85%E4%B8%89%E8%97%90%E4%B8%89%E8%8F%A9%E6%8F%90&mode=search 阿耨多羅三藐三菩提] がは大正新脩大蔵経に1万3500余回出現するが、阿含部は45回に過ぎない。</ref>、「最も優れた-正しい-知識」「最も勝った-完全な-理解」といった意味あいで<ref>『梵和大辞典』 (鈴木学術財団) anuttarāṃ 58頁, samyak 1437頁, sambodhiṃ 1434頁。</ref>、すでに部派仏典に見られる述語である<ref>[https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E9%98%BF%E8%80%A8%E5%A4%9A%E7%BE%85%E4%B8%89%E8%97%90%E4%B8%89%E8%8F%A9%E6%8F%90&mode=search&uarsers%5B0%5D=%E9%98%BF%E5%90%AB%E9%83%A8 阿耨多羅三藐三菩提 (阿含部)] - 大正新脩大蔵経テキストデータベース。</ref>。
;[[モークシャ (ジャイナ教)|モークシャ]]
:モークシャには自由の意味があり、最終的な自由を得ることをさす。また、[[天国]]と[[地獄]]を超越した場所として、モークシャを指す場合もある。
== 各論 ==
==現代化学的見解==
===PNSE(継続的非記号体験)===
PNSEとは、“persistent non-symbolic experience”といい、日本語では「継続的非記号体験」と訳されています。PNSEというのは、アメリカの、ジェフリー・マーティン博士という方が、提唱しているようです。その研究を始めたキッカケとして、こんなことが書かれています。Martin博士は、宗教家など、「悟っている」「覚醒している」と言われる人たちの中に、そうした幸福感を持っている人が多いことに気づき、これらの人々に連絡を取って回った。インターネットや図書館で調べたり、人から紹介されたりして、12年間でこれまでに2500人以上にコンタクトを取ってきたという、継続的非記号体験と言われてもピンと来ないと思いますが、これは簡単に言うと「言語化できないような、雑念のない状態」で落ち着いていることを指しています。なぜこんなに理解しにくい名前になったのかというと、宗教上の「悟り」の概念がそれぞれの宗教で異なるため、一概に「自我を超越した意識状態」を指すこととされています(参考文献及び抜粋、ブレインクリニック、空白jp)
== 科学的見解 ==
悟った人を「仏」と呼ぶ場合がある。「仏」は本来「佛」と書くけれども、「弗」という字には否定の意味があり、人間でありながら、人間にあらざる者になるという意味があるとされる。水の例でいうと、水は沸点に達すると、水蒸気になるが、水蒸気というのはもとは水だけれど、水にあらざるものになる、というところが、人と仏との関係に似ているとされている<ref>『ブッダ入門』春秋社1991年 P7 中村元</ref>。また、宇宙には、物質の宇宙と意識の宇宙があるとする説がある{{efn|肉体的な執着から離れた境地となり、意識が調和されるにしたがって、水が水蒸気になって拡大してゆくように、もう一人の我というものが拡大していって宇宙と一如と感じられるようになってゆくことを悟りとする説もある。内的宇宙が拡大して外的宇宙と合一することが佛への転換点であるとされている。<ref>『心の原点』高橋信次 三宝出版 1973年 P26</ref>}}。
== 各宗教における悟り ==
=== 仏教 ===
{{Main|菩提}}
釈迦(しゃか)は、29歳で出家する前にすでに阿羅漢果を得ていたとされ<ref>『四禅‐定』 (禅学大辞典)参照: [[釈迦族]]の農耕祭のときに四禅定を得たとする。同辞典の旧版では農耕祭での相撲のときに四禅の相を現したとしている。</ref>{{要ページ番号|date=2017年5月29日 (月) 09:18 (UTC)}}、[[インドボダイジュ|ピッパラ樹]](菩提樹)の下で降魔成道を果たして悟りを開き<ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース 『大日經疏演奧鈔([[杲宝|杲寶]]譯)』 (T2216_.59.0414a08: ~): 疏如佛初欲成道等者 按西域記 菩提樹垣正中金剛座。…(中略)… 若不以金剛爲座 則無地堪發金剛之定 今欲降魔成道 必居於此。</ref>{{efn|釈迦が降魔成道を遂げて悟りを開いたとされる蝋月(12月)8日は、今日でも降魔成道会として、曹洞宗では最も重要な年中行事の一つとなっている<ref name="kyoto">[http://kyototravel.info/%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%AF%BA%E6%88%90%E9%81%93%E4%BC%9A 清水寺成道会12/8] ※記述内容は各寺共通 - 京都・観光旅行。</ref>。}}、[[梵天勧請]]を受けて[[鹿野苑]](ろくやおん)で[[初転法輪]]を巡らしたとする<ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース 『釋迦譜』 (T2040_.50.0064a08: ~): 佛成道已 梵天勸請轉妙法輪 至波羅捺鹿野苑中爲拘隣五人轉四眞諦。</ref>。
釈迦は悟りを開いた当初、自身の境涯は他人には理解できないと考え、自分でその境地を味わうのみに留めようとしたが、梵天勧請を受けて教えを説くようになったと伝えられることから([[聖求経]])、ブッダの説法の根本は、その悟りの体験を言語化して伝え、人々をその境地に導くことが、後代に至るまで仏教の根本目的であるとされることがある<ref name="ib370" />。一方、藤本晃によれば、[[南伝仏教]]である[[テーラワーダ仏教]]では、釈尊は悟りを四沙門果と呼ぶ四段階で語っていたが、釈迦以外の凡夫は悟りを開くことはできないと[[パーリ語仏典]]や漢訳[[阿含経典]]に書いてあるとする<ref name="藤本">{{Cite book|title=悟りの四つのステージ|date=2015年11月|year=2015|publisher=サンガ|author=藤本晃}}{{要ページ番号|date=2019-04-17}}</ref>。
釈迦は説法の中で自身の過去世を語り、様々な過去の輪廻の遍歴を披露している。
{{Seealso|解脱への道}}
=== ジャイナ教 ===
{{出典の明記|date=2017年1月11日 (水) 03:11 (UTC)|section=1|title=参考文献節に挙げられたジャイナ教関係の文献が出典かと思われるが、ページ番号が特定されていない。}}
[[File:Swastik4.svg|thumb|ジャイナ教のシンボル]]
[[ジャイナ教]]では、修行によって[[業]]の束縛が滅せられ、微細な物質が[[霊魂]]から払い落とされることを「止滅」(ニルジャラー)と称する。その止滅の結果、罪悪や汚れを滅し去って完全な'''悟り'''の智慧を得た人は、「完全者」(ケーヴァリン)となり、「生をも望ます、死をも欲せず」という境地に至り、さらに「現世をも来世をも願うことなし」という境地に到達する。この境地に達すると、生死を超越し、また現世をも来世をも超越する。[[煩悩]]を離れて生きることを欲しない、と同時に死をも欲しないのは、死を願うこともまた一つの執着とみるからである。ここに到達した者は、まったく愛欲を去り、苦しみを離脱して迫害に会ったとしても少しも動揺することなく、一切の苦痛を堪え忍ぶ。この境地を[[モークシャ (ジャイナ教)|モークシャ]]・やすらぎ(寂静)・ニルヴァーナ([[涅槃]])、とジャイナ教では称する。
モークシャに到達したならば、ただ死を待つのみである。身体の壊滅とともに最期の完全な[[解脱]]に到達する。完全な解脱によって向かう場所を、特に空間的に限定して、この世とは異なったところであるとしている。「賢者はモークシャ(複数)なるものを順次に体得して、豊かで、智慧がある。彼は無比なるすべてを知って[身体と精神の]二種の[障礙を]克服して、順次に思索して業を超越する『アーラヤンガ』」。モークシャは生前において、この世において得られるものと考えられている。このモークシャをウッタマーンタ(最高の真理)と呼んで、ただ“否定的”にのみ表現ができるとしている。
このモークシャを得るために、徹底した[[苦行]]、[[瞑想]]、不殺生([[アヒンサー]])、無所有の修行を行う。ジャイナ教では、次の「七つの真実」(タットヴァ)を、正しく知り(正知)それを信頼し(正見)実践する(正行)することが真理に至る道であると考えられている。
1. 霊魂(ジーヴァ)
2. 非霊魂(アジーヴァ)
3. 業の流入(アースラヴァ)
4. 束縛(バンダ)
5. 防ぎ守ること(サンヴァラ)
6. 止滅(ニルジャラー)
7. 解脱(モークシャ)
ジャイナ教では、宇宙は多くの要素から構成され、それらを大別して霊魂(ジーヴァ)と非霊魂(アジーヴァ)の二種とする。霊魂は多数存在する。非霊魂は、運動の条件([[ダルマ (ジャイナ教)|ダルマ]])と静止の条件(アダルマ)と虚空(アーカーシャ)と物質(プドガラ)の四つであり、霊魂と合わせて数える時は「五つの実在体」(アスティカーヤ)と称する。これらはみな“実体”であり、点(パエーサ)の集まりであると考えられている。宇宙は永遠の昔からこれらの実在体によって構成されているとして、宇宙を[[創造神|創造し支配している主宰神]]のようなものは“存在しない”とする。
霊魂(ジーヴァ)とは、インド哲学でいう我([[アートマン]])と同じであり、個々の物質の内部に想定される生命力を実体的に考えたものであるが、唯一の常住して遍在する我([[ブラフマン]])を“認めず”、多数の実体的な個我のみを認める「多我説」に立っていると見なされている。霊魂は、地・水・火・風・動物・植物の六種に存在し、“元素”にまで霊魂の存在を認める。霊魂は“上昇性”を持つが、それに対して物質は“下降性”を有する。その下降性の故に霊魂を身体の内にとどめ、上昇性を発揮することができないようにしていると考えられている。この世では人間は迷いに支配されて行動している。人間が活動(身・口・意)をするとその行為のために微細な物質(ボッガラ)が霊魂を取り巻いて付着する。これを「流入」(アースラヴァ)と称する。霊魂に付着した物質はそのままでは業ではないが、さらにそれが霊魂に浸透した時、その物質が「[[業]]」となる。そのため「業物質」とも呼ばれる。霊魂が業(カルマン)の作用によって曇り、迷いにさらされることを「束縛」(バンダ)という。そして「業の身体」(カンマ・サリーラガ)という特別の身体を形成して、霊魂の本性をくらまし束縛しているとする。霊魂はこのように物質と結び付き、そして業に縛られて[[輪廻]]すると伝えられている。
霊魂に業が浸透し付着して、人間が苦しみに悩まされる根源は外界の対象に執着してはならないとの教えで、あらゆるところから業の流れ(ソータ)は侵入してくるので、五つの感覚器官(感官)を制御して全ての感覚が快くとも悪しくとも愛着や執着を起こさなければ、業はせき止められる。それを、「防ぎ守ること・制御」(サンヴァラ)と呼び、新規に流入する業物質の防止とする。それに対し、既に霊魂の中に蓄積された業物質を、苦行などによって霊魂から払い落とすことを「止滅」(ニルジャラー)と呼ぶ。
霊魂は業に縛られて、過去から未来へ生存を変えながら流転する存在の輪すなわち輪廻(サンサーラ)の中にいる。輪廻は、迷い迷って生存を繰り返すことだと云われる。ジャイナ教は、その原因となる業物質を、制御(サンヴァラ)と止滅(ニルジャラー)によって消滅させるために、人は“修行”すべきであると説く。そのために[[出家]]して、「五つの大誓戒」(マハーヴラタ、mahaavrata)である、不殺生、不妄語、不盗、[[不淫]]、無所有を守りながら、苦行を実践する。身体の壊滅によって完全な解脱が完成すると「業の身体」を捨てて、自身の固有の浮力によって一サマヤ(短い時間)の間に上昇し、まっすぐにイーシーパッバーラーという天界の上に存在する完成者([[シッダ]])たちの住処に達し、霊魂は過去の完成者たちの仲間に入るとしている{{sfn|渡辺研二|2006}}。
=== ヒンドゥー教(バラモン教) ===
{{Hinduism}}
[[ヒンドゥー教]]は非常に雑多な宗教であるが、そこにはヴェーダの時代から続く悟りの探求の長い歴史がある。
仏教に対峙する[[ヴェーダの宗教]]系で使われる'''悟り'''は[[意識]]の状態で、人が到達することの出来る最高の状態とされる。[[サンスクリット]]の[[涅槃|ニルヴァーナ]]([[涅槃]])に相当する。[[光明]]または大悟と呼ばれることもある。悟りを得る時に強烈な光に包まれる場合があることから、光明と呼ばれる。
インドでは[[ヴェーダ]]の時代から、「悟りを得るための科学」というものが求められた。それらは特に哲学的な表現で[[ウパニシャッド]]などに記述されている。古代の時代の悟りを得た存在は特にリシと呼ばれている。
ニルヴァーナには3つの段階が存在するといわれ、マハパリ・ニルヴァーナが最高のものとされる。悟りと呼ぶ場合はこのどれも指すようである。どの段階のニルヴァーナに到達しても、その意識状態は失われることはないとされる。また、マハパリ・ニルヴァーナは肉体を持ったまま得るのは難しいとされ、悟りを得た存在が肉体を離れる場合にマハパリ・ニルヴァーナに入ると言われる。
悟りを得た存在が肉体を離れるときには、「死んだ」とは言われず、「肉体を離れる」、「[[入滅]]する」、「涅槃に入る」などと言われる。
悟りという場合、ニルヴァーナの世界をかいま見る[[神秘体験]]を指す場合がある。この場合はニルヴァーナには含まれないとされ、[[偽涅槃|偽のニルヴァーナ]]と呼ばれる。偽のニルヴァーナであっても、人生が変わる体験となるので、偽のニルヴァーナを含めて、ニルヴァーナには4つあるとする場合もある。
現在でも、[[ゴータマ・ブッダ]]の時代と同じように山野で修行を行う行者が多い。どんな時代にでも多くの場所に沢山の数の悟りを得た(と自称している)存在に事欠かない。
通常、悟りを得たとする存在もヒンドゥー教、またはその前段階の[[バラモン教]]の伝統の内にとどまっていた。しかし、特にゴータマ・ブッダの時代はバラモン教が司祭の血統であるブラフミン(バラモン)を特別な存在と主張した時で、それに反対してバラモン教の範囲から飛び出している。同時代には[[ジャイナ教]]のマハーヴィーラも悟りを得た存在としており、やはり階級制である[[カースト]]に反対してこれを認めず、バラモン教から独立している。
=== キリスト教 ===
仏教者[[鈴木大拙]]はイエスを[[妙好人]]と考証している<ref>{{要追加記述範囲|鈴木大拙全集第十巻|title=ページ番号まで記述すべき。発行所、発行年なども必要。|date=2016-01-08}}</ref>。
また、イエスは、古今東西の覚者と同じく、悟りの体験をしていたという見解がある。<ref>『人間の絆 響働編』高橋佳子 祥伝社 1991年 P55</ref>
==== 福音書における悟りの関連個所 ====
イエスの認識を全く理解できなかった弟子が、イエスに叱責されるというエピソードが福音書には載っている。その時に、イエスは、あなたがたは今なお、「悟り」がないのか、という語を用いてそのことを指摘したとされている。キリスト教と悟りとの関連が見られる箇所の一つがそこにあると見ることができる<ref>マタイ福音書15:16</ref>。
十字架にかかる以前の[[ナザレのイエス]]の教えには、心の中の悪に対しての認識を深めることが弟子たちに対しての要求に含まれていた。人の心の中から出てくる行為や想念については、[[淫行]]、盗み、殺人、[[姦淫]]、[[貪欲]]、[[悪意]]、奸計、好色、よこしまな眼、涜言、高慢、無分別などがあげられている<ref>マルコ福音書7-21</ref>{{efn|「淫行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪意」までは、複数形で言われており、それらの具体的な行為が意味されている。「奸計、好色、よこしまな眼、瀆言、高慢、無分別」までは単数形。それらで表される心のあり方に主眼点があるとされている。<ref>『新約聖書』新約聖書委員会岩波書店2004年、P31</ref>}}。
==== 仏教的な悟達者との関連 ====
これらの箇所に見えることは、人が、自分の心の中の悪を自覚できるようになることは一種の悟りである、という「自力救済的な教え」を、時にイエスは説いていたということである{{efn|福音書において、「十字架」という語には、贖罪論的な意味はなく、自力的な人生の重荷や使命といった意味を持つ言葉としてしか使われていないとされている。<ref>『新約聖書』新約聖書委員会岩波書店2004年、補注用語解説P21</ref>そうしたことから、福音書の中には、「自力救済的な教え」と、「他力救済的な教え」とが混在していると言える。そして、キリスト教が国家宗教としての位置を確立するころには、「他力救済的な教え」以外のものを異端として排斥するようになっていった。}}。しかし、[[ナザレのイエス]]は悟っていたかもしれないということを裏付けできるような資料はほとんどなく、わずかに『[[闘技者トマスの書]]』や、『[[トマス福音書]]』に仏教的な悟達者との関連があるかもしれないという記述が残っているのみである。
===== 『闘技者トマスの書』に見るナザレのイエスと悟りの関連性 =====
福音書と同じくイエスの言行を記した『闘技者トマスの書』には、自力救済的な思想が記されている。「自己を知った者は、同時に、すでに万物の深遠についての認識に達している。」<ref>『ナグ・ハマディ文書 III 説教・書簡』 闘技者トマスの書 3 [[岩波書店]]、1998年、 [[荒井献]]、[[大貫隆]]、小林稔、筒井賢治訳 </ref>という言葉などにも、人が、心の中の悪を突き詰めていった「悟り」というものにつながっている部分があるようにも見える。『闘技者トマスの書』は、自力救済的な思想でありながらも、同じナグ・ハマディ文書の[[トマス福音書]]とは異なり、異端であるとはされなかった。
「人間を救済する自己認識」の信念は異色のものであると言える。こうした自力救済的な思想は、正統的教会にとっては異端として退けられるべきものであると考えられる。しかし、岩波書店『ナグ・ハマディ文書 III 』によれば、「闘技者トマスの書」は、正統的教会の、いわば外延をなした[[修道者]]に向けて編まれたものと思われるとされていて、その主な内容であるところの、欲望に対する闘争は、キリスト教的な禁欲思想をつらぬくものとされている<ref>岩波書店『ナグ・ハマディ文書 III 』 P380</ref>。
===== 闘技者トマスの書における悟りと関連した信念 =====
* 2、イエスの友と呼ばれる人は、自らを測り知らなければならない。
* 自分が何者なのか、いかにして存在しているのかについて、知らなくてはならない。
* 自分がいかなる存在になるかを、学び知りなさい。
* イエスの兄弟と呼ばれている人は、自分自身について無知であってはならない。
* 私は真理の知識である{{efn|自分の霊的な本質を認識していることを指しているとされている<ref>岩波書店『ナグ・ハマディ文書 III 』用語解説 P5</ref>}}。
* 私が真理の知識であることを、誰もが認識することができる。
* 今だ自分自身について無知であっても、すでに認識にたっすることはできる。
* 3、自己を知った者は、同時に、すでに万物の深遠についての認識に達している。
* 5、変化するものは滅し、滅びる。肉体が滅びるのと同じように、万物は変化し、滅びてゆく。
* 6、万物の深遠や真理の知識は、見ることができず、説明することも困難である。
* 8、欲情や肉欲は肉体に属する火炎である。人の心を酔わせ、魂を混乱させる。人々の霊を焼き焦がす。
* 真の知恵から真理を求める者は誰でも、自らを翼にして飛翔し、「欲情」から逃れることが出来る。<ref>[[マリア福音書]]参照</ref>
* 9、これは完全なる者たちの教えである。もし、あなたたちが完全になろうと思うならば、あなたたちはこれらのことを守るであろう{{efn|マタイ5:48にも、同じような言葉が使われている。}}。
* 11、幸いだ、賢者は。彼がそれを見出した時に、彼はその上に永遠に安息し、彼を動揺させる者どもを恐れることがなかった。
* 12、本来的自己の中に安息することは、益になる。そして、それはお前たちにとって善いことなのだ。
* 22、あなたたちが、身体の苦悩と苦難から離れるとき、あなたたちは、善なる者{{efn|太陽を介し、そのよき従者である光を人間に送る神<ref>岩波書店『ナグ・ハマディ文書 III』P57</ref>}}から安息を受け、王とともに支配するであろう<ref>『ナグ・ハマディ文書 III 説教・書簡』 闘技者トマスの書 [[岩波書店]]、1998年、 [[荒井献]]、[[大貫隆]]、小林稔、筒井賢治訳 </ref>。<ref>[[闘技者トマスの書]]参照</ref>
=====『トマス福音書』における悟りと関連した信念 =====
(77)、すべては私から出て、 そしてすべては私に達した。木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出すであろう。
(4)、・・・日を重ねた老人は生命の場所について7日の幼な子に問うことを躊躇してはならない。 そうすれば彼は生きるであろう。
(5)、あなたの面前にあるものを認識せよ。そうすれば、隠されているものはあなたに明かされるであろう。 明らかにならないまま隠されているものはないからである。
(15)、もしあなたが女から産まれなかった者を見たら、ひれ伏しなさい。彼を拝みなさい。その者こそ、あなた方の父である<ref>岩波書店『ナグ・ハマディ文書 II 』トマス福音書1989年 荒井献ほか</ref>。<ref>[[トマス福音書]]参照</ref>
=== イスラム教 ===
一般の[[イスラム教]]には悟りの伝統は含まれていないが、特にイスラム教[[神秘主義]]とも呼ばれる[[スーフィー]]は、内なる神との合一を目的としており、そのプロセスは悟りのプロセスのいずれかに近い。しかし、神との合一を成し遂げたスーフィの中には{{仮リンク|ハッラージュ|en|Mansur Al-Hallaj}}のように「我は真理なり」と宣言して時の為政者に処刑された例がある<ref>{{ウェブアーカイブ |deadlink=yes |title=イスラム史におけるスーフィズムの意義について |url=http://www4.ocn.ne.jp/~kimuraso/ronbun3.html |archiveurl=https://archive.fo/7RDB |archiveservice=Webpage archive |archivedate=2012-08-05}}</ref>。
==== スーフィズムの修行例 ====
イスラーム世界において異端とされてきたスーフィーの一派の中には、人間の自我意識の払拭を修行の目的としている一派があるとされている。彼らは、人間には「我」というものがあるから、苦しみや悪があると捉え、修行者は、自我意識を内的に超克したところに、神の顔を見ることが出来るとされる。スーフィーにおいて、神は、自分自身の魂の奥底に存在するだけでなく、すべての場所に遍在しているとされる。また、神は、あらゆる物事の内面に存在している内在神であるともされている。 そして、修行者においては、自己否定の無の底に、「遍在する人格的な神」の実在性の顕現が為されるとされる。<ref>『イスラーム文化』井筒俊彦著 岩波書店 1991年P212</ref>
* 「悪とは汝が汝であることだ。そして最大の悪とは、・・・それを汝が知らないでいる状態のことだ」。(アブー・サイード)(11世紀のスーフィー)
* 「汝が汝であることよりも、大きな災いはこの世にはありえない」。(アブー・サイード)
* 「我こそは真実在」。(ハッラージ)(10世紀のスーフィー)
* 「我が虚無性のただ中にこそ、永遠に汝の実在性がある」。(ハッラージ)
* 「人間的自我の消滅とは、神の実在性の顕現がその者の内部を占拠して、もはや神以外のなにものの意識もまったく残らないことだ」。(ジャーミー)(15世紀のスーフィー)
* 「蛇がその皮を脱ぎ捨てるように、わたしは自分という皮を脱ぎ捨てた。・・・私は彼だったのだ」。(バーヤジード)(9世紀のスーフィー)
{{efn|内面的に純化されたイスラームは、「悟り」を求める修行者の意識と共通する部分があると言える。このように、内面的ともいえるイスラームの一宗派は、イスラーム自身の歴史的形態の否定スレスレのところまで来ているとされている。そのため、イスラーム教において彼らは、異端として弾圧されてきたとされている。<ref>『イスラーム文化』井筒俊彦著(岩波書店 1991年P218</ref>}}
==== 初期イスラーム教と悟り ====
===== 初期イスラーム教について =====
[[ムスハフ解釈本]]を研究する者は、大体三つの時期に全体を大別するのが常である<ref>『コーラン 中』井筒俊彦岩波書店 1958年 P301 解説</ref>。
ムハンマドに表立って反対する者が出てくる前、最初の啓示から四年ほどの間に下されたアッラーによる初期の啓示に顕された姿は、ユダヤ教(なかでもモーセの教え)やキリスト教(なかでもナザレのイエスの教え)で説かれている神の姿とたいへんよく似通っているとされる<ref>『マホメット』藤本勝次著 中央公論社 1971年 P15</ref> <ref>『真創世記黙示篇』 祥伝社 1978年 P54 高橋佳子</ref>。
アラブの伝承では、人はめいめいに自身の精霊(ジン)を持っているとされ、砂漠の民は、神、あらゆる精霊、あらゆる超自然の力に畏怖の念を抱いているとされる<ref>『マホメットの生涯』ビルジル・ゲオルギウ著 中谷和夫訳 河出書房新社 2002年P22</ref>。当時、ムハンマドの住んでいた地域のキリスト教は、異端とされるものであったとされ、閑静な場所で、瞑想生活を送るタイプの異端であったとされる。ムハンマドは、啓示を受け始める以前、ヒラー山の洞窟に、定期的に数か月単位で瞑想生活を送っていたとされる。それは、ムハンマドの祖父が、キリスト教徒に関心を持ち、異端とされる宗派の信仰生活に影響を受けてのものであったようだ。祖父の代より行われていた、一家の宗教行事ともいえる瞑想生活を契機として、ムハンマドに神の啓示が下される事態となったわけである。しかしそのとき、ムハンマドが悟っていたかどうかについては、定かではない。
啓示を受け始めた当初、神はムハンマドに対して「あなたは神の預言者である」という言葉を繰り返していたとされている。彼が瞑想のために山に登るたび、その声が彼をつつみ、彼の自覚を促していたという<ref>『マホメットの生涯』ビルジル・ゲオルギウ著 中谷和夫訳 河出書房新社 2002年</ref>。その神が、ユダヤ教やキリスト教の神と同じであると直感したのは、彼を取り巻く人たちであった。
ヒラー山にて、内的啓示を受けたとき、ムハンマドは、それがアラブに昔から言い伝えられるジンと呼ばれる霊的存在であると思った。妻は、妻のいとこに相談をした。「かつてモーセを訪れた偉大な神が到来したのだ」と、いとこは、ムハンマドに語ったと言われます<ref>『ムハンマド』国書刊行会 2016年 P45 カレン・アームストロング著 徳永理沙訳</ref>。その後、ムハンマドが「ヒラー山」に登るたびに「ムハンマドよ、あなたは神の使徒である」という、神の、啓示があったとされる。ムハンマドには、その神が、「モーセを訪れた偉大な神」であるかどうかは判らなかった。けれども、神によって、モーセに連なる預言者の一人としての自覚を促されている、という認識はあったようだ{{efn2|しかし、初期の啓示とされるものについても、ヒラー山にて下されたものはごくわずかであり、2年ほど通信は途絶えたとされている。その後は、当時の偶像崇拝のメッカであった神殿にて再開されたと言われている。当時の神殿は、人身御供も行われるほど、霊的に乱れた場所であり、その後の神の啓示の神聖さに大きな影響を与えたと考えられる。詳しくは[[ナスフ]]を参照のこと。}}。
===== スーフィズムにつながる心境 =====
ムハンマドの啓示も、当初は[[イエス(宗教者)]]と同じ、一なる神の理を説くものであり、平和を目指すものであったとされる。しかし、平和のために剣を取ることによって生じた甚だしい自己矛盾が、神の理とその啓示から、ムハンマド(宗教者)を遠ざけてしまった、という見解がある<ref>『心眼を開く』高橋信次著 三宝出版 1974年 P142</ref>。そのような観点からすると、ムハンマドの意識は、最初期に限定してみた場合、「神の理」を悟る心境にあったとみることができる。また、信者においては、こうした瞑想生活と神の理に対する理解と洞察から、後年のスーフィズムが生じてきたとみることができる。
== 老荘思想と悟り ==
=== 「悟り」と「道の体得」との関係 ===
「[[道]]」は、この[[現象界]]を超えたところで、現象界を生起させ変化させる一者として考えられている。この「道」は言葉によって客観的に捉えることができないとされている。そのため、[[荘子 (書物)|荘子]]において、道を体得した人とは、すべてのものが、生成(無為)と破壊・分散(有為)の区別なく道において一となっている<ref name="名前なし-20230316121928">『老子・荘子』講談社学術文庫1994年P184森三樹三郎</ref>ことを感得した人であるとされている。また、「道」は、無限なる者<ref>『老子・荘子』講談社学術文庫1994年P89森三樹三郎</ref>として、天地のまだ存在しない大古から、すでに存在しているものであり、これを感得する者を、真人や聖人と呼んでいる。また、道を体得した者は、霊妙な力を持つ[[天帝]]や[[鬼神]]の存在についても知ることになる、とされている。(斉物論篇 九)。「道」は、すべての現象をそうあらしめている原理としての性格と、[[宇宙]]生成論的な発生の[[根源]]者という性格の二面が融合していることが知られている<ref>『中国古典文学大系4』平凡社1973年 P488解説 金谷治</ref>。このことは、宇宙の真理を説いたとされる初期仏教における悟りと何らかの関係にあると見ることができる。{{Efn|[[初期仏教]]の経典の中には、[[サーリプッタ]]が[[解脱]]をしたときに、「内に専心して、外の諸行に向かうときに道が出起して、[[阿羅漢]]位に達した」と語ったとされる。他に、「内に専心して、内に向かうと道が出起」、「外に専心して外に向かうと道が出起」「外に専心して、内に向かうと道が出起」という四通りがあるとされる。(出典『原始仏典II 相応部経典第2巻』P596 第1篇注60 春秋社2012年 中村元監修 前田専學編集 浪花宣明訳)}}
==== 荘子の「道」について ====
道は万物が皆よって生ずる根本的な一者であるとしている。道は無為無形の[[造物主]]として古より存在するが、情あり、信ありとされている<ref name="名前なし-20230316121928-2">『中国古典文学大系4』平凡社1973年 P64 金谷治</ref>。
[[自然]]の道から見れば、分散することは集成であり、集成することは、そのまま分散[[破壊]]することに他ならない。道を体得するとは、すべてを通じて一であることを知るということである。すべてのものは、生成(無為)と破壊・分散(有為)の区別なく道において一となっている、とされる(斉物論篇)<ref name="名前なし-20230316121928"/>。
==== 老子の「道」について ====
[[老子道徳経|老子]]においては、実在としての道は、循環運動を永遠に続けているとされている<ref>『老荘を読む』講談社 1987年 P114 蜂屋邦夫</ref>。あらゆる[[存在]]は、「[[有]]」として、「[[無]]」から生まれている。「有」が「無」として、「無」が「有」として、運動して(生まれて)ゆく姿は、反(循環)である。(第40章)。
「道」は一を生み出す。一は二を生み出す。万物は陰(無為)を背負って、陽(有為)を抱える。沖気というのは、調和([[均衡]])の状態を維持することである。道は全体に対して、弱い力として働いている(42章)。
「道」は隠れたもので、名がない。大象(無限の象)は形がない。「道」こそは、何にもまして(すべてのものに)援助を与え、しかも(それらが目的を)成しとげるようにさせるものである<ref>『世界の名著4 老子 荘子』中央公論社1978年P114 小川環樹</ref>{{efn2|老子が「道(タオ)」と呼んできたものは、人間がこれまで神とか仏とか宇宙意識とか呼んでいた、万生万物の根源としての「一なるもの」であるとする見解がある。(出典『人間の絆 嚮働編』祥伝社 1991年 P34 高橋佳子)}}。この援助は、徳とも、慈悲とも言えるものである。
=== 荘子(書物)と悟り ===
荘子において、道を体得した人とは、すべてのものが、生成(無為)と破壊・分散(有為)の区別なく道において一となっている<ref name="名前なし-20230316121928"/>ことを感得した人であるとされている。
道は、万物が皆よって生ずる根本的な一者であり、無為無形の[[造物主]]として古より存在するが、情あり、信ありとされている<ref name="名前なし-20230316121928-2"/>。
==== 根源的な真人や聖人における心境 ====
聖人における「聖」という概念には、倒置の状態(自己を外物のうちに見失い、自らの本性を世俗の内に喪失した状態)から完全に脱することができた真人という意味合いがある。聖人の境地とは、およそ無心のままに静けさを保ち、欲望に動かされずに安らかであり、静まりかえって作為から離れていることとされる。それは、天地の安定した姿のうちにあり、自然のままの道徳の極致を体現した聖なる存在であるとされる。(天道篇 二){{efn2|欲望に動かされずに道徳の極致にいたるというのは、初期仏教における「諸仏の教え」に通ずるものであると見ることができる。}}。
==== 自得について ====
自得とは、最初の段階では、自分自身の在り方に満足することであり、与えられた運命のままに生きるという随順の立場と変わりがないといえる。しかし、これは、自分の「外なる物」という自分の本性でないものと自分の内にある本性とを弁別して、自らの本性を選択し続ける、という段階につながっている。その外物とは、仁義であり、世間的な名声であり、欲望をさそう財貨であり、五味、五色、五声である。これらの外物を遠ざけ、退けるところにはじめて自然の性が保たれるのである、とされる<ref>『世界の名著4 老子 荘子』中央公論社 1978年 P40解説 小川環樹</ref>。
道の徳を身に得た者は、徳を傷つける知識を得ようとはしない。だから、「ただ自己のあり方を正すことがすべてである」。このような自己本来の立場にあって、完全な楽しみを得ること、これを「わが志を得る」という、とされている(繕性篇)。
==== 明知について ====
天地の徳を明白に知る者は、いっさいの根源を宗とする者であるといえる。それは天との和合をもたらすものであり、また、天下万物に調和を与え、人との和合をもたらすものである(大宗師篇)、とされている。また、道とは徳の根源である。生とは徳が発する光に他ならない、ともされている(庚桑楚篇)<ref>『世界の名著4 老子 荘子』中央公論社 1978年 P472 小川環樹</ref>。
===== 荘子の坐忘的心境と悟りについて =====
荘子の思想の中には、「道」と「無為」とを同一視してしまう場合がある。また、「無為」と、「自然の為すところ」とが同一視されている場合もある。至人の境地に至るためには、これらを念頭に生きることが不可欠な道標であるとされる場合もある。この場合の至人は、物との調和を保ち、その心が無限の広さを感得することをもって善しとする(大宗師篇)。こうした思想は、後代になって、[[解脱]]を目的とする[[禅宗]]の成立に大きな影響を与えたとされる<ref>『世界の名著4 老子 荘子』中央公論社 1978年 P256の注 小川環樹)</ref>。仏教における禅宗は、仏教伝統を受けつぎながらも荘子を頂点とする中国思想と深く交流することによって、はじめて成立したものであるとする見解がある。それによると、禅宗における悟りと関連した概念(「不立文字」「見性仏性」等)と、荘子における無為自然との合一という概念とには、相通じるものがあるとされている<ref>『世界の名著4 老子 荘子』中央公論社 1978年 P51 小川環樹</ref>{{efn2|また、荘子において、「明」によって照らすとする思想の中には、是非の対立を超えた明らかな知恵を持つことであるとする場合がある。この場合の明知は、絶対的な智慧を指し、こては仏教でいう無分別智にあたるとされる(出典『老子・荘子』講談社学術文庫 1994年 P178 森三樹三郎}}。
=== 老子道徳経と悟りについて ===
==== 玄同(道との合一)について ====
「その光を和らげ、その塵を同じくす。是を玄同という」(第56章)という言葉がある。玄を道と解釈した場合、老子においても道との合一を果たす生き方は、一つの悟りであり、「道の徳」や「道の援助」のうちに生きる生き方であると見ることができる。
道は全体に対して、弱い力として働いており、沖気というのは、調和([[均衡]])の状態を維持することである。(42章)
== グノーシス思想と悟り ==
古代ギリシアにおいては、「知識」・「認識」はグノーシスと呼ばれていた<ref name="名前なし-20230316121928-3">『ナグ・ハマディ文書 II 福音書』 岩波書店、1998年 序に変えてP12 荒井献ら</ref>。古代思想としてのグノーシスは、「神の認識の仕方」の一種であるとされる<ref>『広辞苑』第4版</ref>。宗教用語として見た場合、グノーシスという言葉は、広義な意味を有している。古代ギリシアにおいて、ソフィアとグノーシスを分けて考えることは難しい状況にある。そのため、客観的認識作用や、主観的認識作用とその結果を、グノーシスと呼ぶことが可能である。「悟り」についても、広義の意味におけるグノーシスの一部に属していると見ることができる{{efn2|宗教的な直感的認識として限定的に見た場合のグノーシスは、超感覚的な神との融合の体験を可能にする「神秘的直観」に関する知識を指しているとされる。神秘的直観は、霊知とも解釈される。}}。また、古代ギリシアより遅れて生じ、グノーシスを壊滅させたキリスト教においては、すべての民族・国民がただひとつの神を信ずべきだとする教義によって、国民を統制する立場であった。歴史的に見て、絶対的一神教は、悟りと関わりのある宗派・宗教を異端として弾圧してきた。こうした、[[絶対的一神教]](三位一体神等)による神の認識の仕方は、悟りとは逆の思想であるといえる。
=== グノーシス思想(ギリシア)と悟り ===
グノーシスは、古代ギリシア語で「知識」・「認識」を意味している<ref name="名前なし-20230316121928-3"/>ギリシア哲学では知のことをソフィアとしているが、ソクラテスやプラトンも、神や、神の世界や魂を信じていた。宗教と哲学を分かつことは難しい。言い換えると、古代において、ソフィアとグノーシスを分けて考えることは難しい。古代のグノーシスは、悟りのようなものであると見ることができる{{efn2|グノーシスという言葉は、宗教用語としては、広義に過ぎるため、一般的には西洋古代末期における宗教思想の一つに限定して用いられている。広義における「認識」や、「神の認識」は、宗教用語としても使われていない。神の認識の仕方としてのグノーシスは、グノーシス主義と同一の言葉として扱われることが多い。}}。そうしたグノーシス主義には、神の存在を認めない哲学的思想を批判している文書もある。また、スピノザの説いた一元的汎神論は、グノーシス主義に似通っているが、絶対的一神教が支配的な社会であったためか、無神論の一種として扱われた。
古代ギリシアでは、あの世の神的次元にいるとされる神々が、賢者に啓示を下すと考えられていた。プラトンは、ソクラテスの言葉として、神々に対する不敬を行った者などは、あの世にて重い罰を与えられるエルの物語を記した。これは、神話ではなく、ソクラテスの受けた啓示を物語として記したものであるといえる{{efn2|ギリシアの古代の思想は、宗教と哲学とを分けて考えてはいなかった。また、古代ギリシャの宗教としてのオルペウス教は、神話を啓示の位置にもってきている。}}。
=== 広義な意味でのグノーシス思想と悟り ===
[[啓示宗教]]の項目を参照
グノーシスとは、「現れえないものどもを、現れているもののうちに見出すことから、はじまる」という言葉がある<ref>『ナグ・ハマディ文書 III 説教・書簡』 岩波書店 1998年P322</ref>。広義な意味において、グノーシスとは、「神は、宇宙を含むすべての存在についての真理を認識できるようにしている」、という信念に基づく類の宗教思想を全体的に言い表す言葉であるといえる。該当する宗教の中に、神話論的、実践的、直感的な真理としての「神の認識の仕方を有する宗教思想」があった場合、その宗教は、グノーシスとしての面を持っていると解釈することができるようだ。
==== 汎神論的宗教(遍在神的) における神の認識の仕方と悟り====
===== 古代思想としてのグノーシスと悟り =====
* プラトンの転生輪廻の記憶と古代文明
* 太陽信仰におけるエジプト文明と[[ゴータマ・ブッダ(宗教者)]]における太陽信仰。
* 最古は、ゴータマ・ブッダによって伝承された、7回の宇宙期における、それぞれの文明の中で悟った賢者による「諸仏の教え」であるとされる。また、初期の仏典に現れたとされる「世界の主」は、諸仏のきまりとして、「人格的な面を持つ万古不滅の理法」の導きに頼って生きることを啓示したとされる。
* リグ・ヴェーダの賛歌は、その最古のものは紀元前1500年ころより作られ、前1200年頃に形成されたとされる<ref>『バラモン経典 原始仏典』中央公論社 1979年P15 解説 長尾雅人 服部正明</ref>。インドの西北方から攻め入ったアーリア人によって作られたとされている。
ヴェーダにおける神の認識の伝承は、バラモン教やヒンドゥー教にも影響している{{efn2|バラモン教とは、バフラマーの教えという意味もあり、宇宙の真理を悟ることとバフラマーとは、関係があると考えられていた。}}。
===== 初期の仏教における神の認識の仕方と悟り =====
ゴータマ・ブッダは、仏教というものを説いたことがなく、あらゆる宗教に通じた万古不滅の法を説いたとされる。その中には、ウパニシャッドの哲学等においける、悟達の境地に到達した古仙人たちのことが語られている{{efn2|原始仏典の古い詩句では、古来言い伝えられた七人の仙人という観念を受け、ブッダのことを第七の仙人としていた。(出典 原始仏典II 相応部第一巻P484第8篇注80 中村元ほか)}}ので、古代の聖人たちと関係のあるバラモン教の宗派の悟りと古代文明のグノーシスとには、密接な関係があると見ることができる。
ゴータマ・ブッダは、自然の背後に神の存在を認めていた。また、神はあるということは、智者によって一方的に(直感的に)認識されるべきであるとしていた<ref>『原始仏典第4巻 中部経典 III』第100経 清らかな行いの体験ー サンガーラヴァ経 春秋社2005年 中村元監修 山口務訳</ref>。宇宙の真理としてのバフラマーは、啓示を「この世の主であるバフラマー神」によって、修行完成者としてのブッダに下したとされる。また、万古不滅の法<ref>岩波仏教辞典第二版P901</ref>として、諸仏の教えがあるとしている。また、ブッダは、諸仏を尊敬し信じる心のある者は、それだけで、天に生まれるとしている<ref>『原始仏典第4巻 中部経典 I』第34経 小牧牛経 前書きP504 春秋社2004年 中村元監修 平木光二訳</ref>{{efn2|初期の仏教においても、神の存在と、人間が肉体と霊体で構成されていること、などが言われている。そのため、人間の直感を用いて宇宙の神秘的な真理と倫理を体得するという点においては、不連続なつながりがあると言うことができる。}}。
[[初期仏教|初期の仏教]]においては、相手に応じて法を説いた。学問のある知識階級に対しては、哲学的な用語を用いて語ったときもあれば、知識階級でも実践的真理の欠けているものには、哲学とは無意味であるとする回答をしているときもある。あるいは、論理的な説明がかえって害となる場合には、黙して返事をしない場合もあった。
==== 唯一神教(汎神論的)による神の認識の仕方と悟り ====
[[唯一神]]を参照
===== ギリシア思想・ユダヤ教の思想における神の認識の仕方と悟り =====
中期プラトン主義はグノーシス主義に影響を与えたとされている。また、旧約聖書も影響しているとされている。全能者は、この世界を覆っていて、悪(貧しさや高慢)であるとする思想は、キリスト教グノーシス主義のみではなく、非キリスト教グノーシス主義にも、よくある要素であるとする見解がある<ref>『ナグ・ハマディ文書 III 説教・書簡』 岩波書店 1998年 解説イエスの知恵 P388 小林</ref>。こうした二元論的なグノーシス主義は、直感的な悟りの体験における喜悦や神の愛を、知によって不平や不満に変質させる、という特質を持っている。
==== 西洋古代末期におけるグノーシスと悟り ====
===== 『エウグノストス』における神の認識の仕方と悟り =====
ナグ・ハマディ文書の中に、『[[エウグノストス]]』という写本がある。この書は、宇宙開闢の神について語られている。次の、宇宙の真理を説く天啓に満ちた人が来るまでの神の認識の書であるとされている。端的に見るならば、宇宙開闢の神が、天啓を賢者に下した、と見ることができる{{efn2|キリスト教グノーシス主義者によって編集されている同名の他の一冊を度外視して考えると、古典的な古代ギリシャ思想であると見ることができる。(出典『ナグ・ハマディ文書 III 説教・書簡』 岩波書店 1998年 解説エウグノストス P503 小林稔)}}{{efn2|キリスト教的グノーシス主義とされるものは、自己の霊的な本質の認識と神についての認識に到達することを求める思想である。}}。
=== イエスの思想を起点とした神の認識の仕方と悟り ===
ここでのイエスの思想は、至高神の本質(霊魂)が、宇宙や世界を貫いて人間の中にも宿されているとする。しかし人間は自らの本質である本来的な自分について無知の状態に置かれていて、本当の自分と身体的な自分とを取り違えている。人間は救済者に学ぶことにより、人間の本質と至高神とが同一の存在であることを体得し、認識したときに、神との合一による救済にいたれるとするものであるとされている<ref>『ナグ・ハマディ文書 II 福音書』 岩波書店 1998年 序に変えて。</ref>。
トマス福音書の中には、イエスの直伝にまで遡る可能性が想定されている句が二つあるとされる(77の後半、98など)<ref>『ナグ・ハマディ文書 II 福音書』 岩波書店 1998年 P320 解説トマス福音書</ref>{{efn2|初期の仏教の経文なども、短い詩句などは、ブッダの直伝にまで至ることができるものが多い。}}。イエス(宗教者)の直伝の経文がほとんど無いのは、単純に言うと、直伝の経文が破棄されたり、別の思想者によって編集・改ざんされたためである。
==== イエスの思想と悟り ====
[[唯一神#イエス(宗教者)]]を参照
77の後半:「木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出すであろう。」・・・この句は、神の遍在思想と関係があるとされる<ref>『ナグ・ハマディ文書 II 福音書』 岩波書店 1998年トマス福音書 P41注12 荒井</ref>。イエスは一なる神を信じていた。
98:イエスが言った、「父の王国は、高官を殺そうとする人のようなものである。彼は自分の家で刀を抜き、自分の腕が強いかどうかを知るために、それを壁に突き刺した。それから、彼は高官を殺した。」・・・この句は自己吟味の勧めであるとされ、ルカ14:31-32に類似しているとされている<ref>『ナグ・ハマディ文書 II 福音書』 岩波書店 1998年 トマス福音書 P47注7 荒井</ref>。ルカ14:33では、自らの財産のすべてを断念しない者は、誰一人私の弟子になることはできない、とされている。父の王国は、自らの財産のすべてを断念しないと入ることができない、と考えると理解しやすいといえる。
荒野の試みのところでは、悪魔がこの世を支配していることが述べられている。この句に言われている「高官」とは、この世の君(高官)を指し、その支配から脱却することを、彼は高官を殺した、と譬えたことがうかがえる。高官殺人をたとえに用いたのは、弟子の中に刀を持っていた者がいたためであると、考えられる(ヨハネ18の10)。また、民衆の多くは、救世主が、ユダヤの政治的な解放者であると考えていたとされており、政権の転覆には、高官暗殺が必要と考えていた弟子がいたのではないかと思われる。
「エリアはすでに来た」という句では、ヨハネの前世がエリアであったことが表明されている。エリアの転生輪廻は、天から生まれたことになり、トマス福音書の天から人は生まれてくるという記述とつながっている。
四福音書におけるイエスの思想は四つほどである。他は、福音記者による物語か、講釈である。四福音書のイエスの言行には「人間を育む慈悲の神」は出てきているが、「唯一の神」は出てきていない。唯の字をはぶいた「一なる神」という概念を、ユダヤ教の聖書を引用するときに使ったとされている<ref>『新約聖書』新約聖書委員会 2004年 岩波書店 P52 マルコ12章29の注11 佐藤研訳</ref>。宗教者としてのイエスの考察にとって重要と思われる『闘技者トマスの書』や、『トマス福音書』に出てくる神は、この、「一なる神」や、あるいは、ブッダの説いた「人格的な面を持つダルマ(神)」に近いようだ。全宇宙の神として観た場合、「一なる神」は、ブッダが説いた「人格的な面を持つ神(ダルマ)」というものに似ているといえる<ref>『仏弟子の告白 テーラガーター』岩波書店1982年 P252注303 中村元</ref> {{efn2|それとは異なり、「座して全存在を支配している人格神」というのは、旧約聖書のイザヤ書(14章)や、新約聖書の使徒行伝やヨハネによる黙示録に出てくる「神の座に座す唯一神」に該当するといえる。座して全存在を支配している人格神について、「唯一の神」の「唯」の字をわざわざ省くことによって、イエスはこれを否定している、と見ることができる。}}。
===== トマスと悟り =====
[[トマスによる福音書]]を参照
===== マリアと悟り =====
[[マリアによる福音書]]を参照
=== シャーマニズムにおける啓示宗教と悟り ===
広義には、地域を問わず、シャーマンが関わる宗教、現象、思想を総合してシャーマニズムと呼んでいる。その中にあって、自然界における神的存在やあの世の神的存在がシャーマンに神事を告げてきた時には、啓示宗教としての形態を持つことになる。そのため、各文明におけるシャーマンの思想が、万古不滅の法にかなったものである場合には、そのシャーマン自身の悟りに結びついているといえる。
=== 万古不滅の法と絶対的一神教の関係 ===
[[絶対的一神教]]を参照
==== キリスト教と悟り ====
キリスト教は、すべての民族・国民がただひとつの神を信ずべきだとする立場であるので、悟りとはほど遠い思想である{{efn2|しかしながら、一部の修道院や、一部の聖人とされる者や、一部の実践者などには、悟りに近いと思われる人がいると見ることができる。}}。
367年にアタナシウスはエジプトにある諸教会に宛てて、現行新約のみを聖典として、その他の外典を排除するようにとの書簡を出している。このことと、ナグ・ハマディ写本が地下に埋められたこととは関係があると推察されている<ref>『ナグ・ハマディ文書 II 福音書』 岩波書店、1998年 序にかえてP8 荒井献、大貫隆、小林稔、筒井賢治訳</ref>。
==== ユダヤ教と悟り ====
「在りてある者」としての神は、モーセに、十戒等の啓示を下したとされる。在りてある者としての神は、人格的な面を持つ実在のことであると言い換えることができる。旧約聖書における神観念は、初期には拝一神教であった<ref>サムエル記上26:19、士師記11:24、出エジプト記20:2</ref>。拝一神教とは、他との調和をはかるという特質がある{{efn2|拝一神教は、特定の一神のみを崇拝するが、他の神々の存在そのものを否定せず、前提としている点で、絶対的一神教(唯一神教)とは異なっている。(出典岩波キリスト教辞典 岩波書店2002年P869 拝一神教の項目 山我哲雄)}}。神の唯一性が絶対的になったのは、前6世紀のバビロニア捕囚前後からとされるので、モーセの時代には、多神教徒とは争わないで調和して生きよ、という神の啓示があったと見ることができる。
タナハにおいて、拝一神教に該当する部分については、啓示宗教であるといえる。また、タナハにおいて、絶対的一神教としての神の啓示の部分は、神話と編集作業から生まれたものとされている{{efn2|どの部分に編集の手が加わっているかははっきりしないので、絶対的一神教を強調している部分は、啓示的ではない、と解釈することができる。}}。
==== イスラム教と悟り ====
[[唯一神]]を参照
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
{{refbegin|2}}
*{{cite book|和書|title=漢訳対照梵和大辞典 |editor=鈴木学術財団 |publisher=山喜房佛書林 |date=2012-05 |edition=新訂版 |isbn=9784796308687|ref=harv}}
*{{cite book|和書|title=広説佛教語大辞典 |author=中村元 |publisher=東京書籍 |date=2001-06 |ncid=BA52204175|ref=harv}}
*{{cite book|和書|title=大正新脩大藏經テキストデータベース |edition=2012版 |author=大蔵経テキストデータベース研究会 |url=http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-bdk-sat2.php |year=2012|ref=harv}}
*{{cite book|和書|title=禅学大辞典 |editor=禪學大辭典編纂所 |publisher=大修館書店 |date=1985-11 |edition=新版 |isbn=4469091081|ref=harv}}
*{{cite book|和書|author=渡辺研二 |title=ジャイナ教入門 |publisher=現代図書 |year=2006 |isbn=4-434-08207-8|ref=harv}}
{{refend}}
== 関連項目 ==
* [[六祖壇経]]
* [[臨済宗]]
* [[曹洞宗]]
* [[十牛図]]
* [[バガヴァッド・ギーター]]
* [[Bodhi Linux]]
* [[Enlightenment]]
{{Normdaten}}
{{Buddhism2}}
{{宗教}}
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[[Category:宗教用語]]
[[Category:仏教用語]]
[[Category:仏教哲学の概念]]
[[Category:神秘主義]] | 2003-05-20T00:37:42Z | 2023-12-11T18:45:35Z | false | false | false | [
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8,733 | ナポレオン (曖昧さ回避) | ナポレオン (Napoléon) | [
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] | ナポレオン (Napoléon) ナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルト)
ナポレオン2世(ナポレオン・フランソワ・シャルル・ジョゼフ・ボナパルト、1世の息子)
ナポレオン3世(シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト、1世の甥)
ナポレオン4世(ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト、3世の息子)
ナポレオン・ジョゼフ・シャルル・ポール・ボナパルト(ナポレオン公、1世の甥)
ナポレオン5世(ナポレオン・ヴィクトル・ボナパルト、ナポレオン公、上記人物の息子)
ナポレオン6世(ルイ・ナポレオン・ボナパルト、ナポレオン公、5世の息子)
ナポレオン7世(シャルル・ナポレオン・ボナパルト、ナポレオン公、6世の息子) ペルシアのナポレオン・ナーディル・シャーの別称(イラン、アフシャール朝の君主)
インドのナポレオン・ヤシュワント・ラーオ・ホールカルの別称(マラーター同盟、ホールカル家の当主)
ナポレオン・ヒル - アメリカの作家
ナポレオン (俳優) - インドの俳優、政治家
ルイ・ナポレオン - 高橋陽一の漫画『キャプテン翼』の登場人物、作中のサッカーフランス代表選手(キャプテン翼の登場人物#フランス参照) ナポレオン (イギリスのトランプゲーム) - 「ナップ」とも呼ばれるイギリスのトランプゲーム
ナポレオン (日本のトランプゲーム) - 日本で考案されたトランプゲーム
ナポレオン (戦列艦) - 1850年に完成したフランスの戦列艦
ナポレオン (1926年の映画) - アベル・ガンスが監督した無声映画
ナポレオン (1955年の映画) - サシャ・ギトリが監督した映画
ナポレオン (フェリー・2代) - フランスの会社・SNCMが運航していたフェリー。2015年に解体された。
ナポレオン (コンピュータゲーム) - 任天堂より発売されたゲームボーイアドバンス用ソフト
ナポレオン (テレビ映画) - イヴ・シモノーが監督したテレビ映画
ナポレオン -獅子の時代- - ナポレオンを主人公とした漫画
ナポレオン (2023年の映画) - 2023年公開予定のアメリカ・イギリスの伝記映画。リドリー・スコット監督、ホアキン・フェニックス主演。
ナポレオンフィッシュ - メガネモチノウオの別称。横から見た形がナポレオン・ボナパルトの軍帽に似ていることから。
ナポレオン・バロア - 漫画『リングにかけろ』『リングにかけろ2』の登場人物
ブランデーの等級の1つ。ブランデー#熟成年数を表す符号を参照。
フォークダンスの音楽としても使われるデンマーク民謡
サクランボの品種の1つ | '''ナポレオン''' (Napoléon)
; [[フランス]]の男性名<!--[[ボナパルト家]]に始まる。-->
* ナポレオン1世([[ナポレオン・ボナパルト]])
* [[ナポレオン2世]](ナポレオン・フランソワ・シャルル・ジョゼフ・ボナパルト、1世の息子)
* [[ナポレオン3世]](シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト、1世の甥)
* ナポレオン4世([[ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト]]、3世の息子)
* [[ナポレオン・ジョゼフ・シャルル・ポール・ボナパルト]](ナポレオン公、1世の甥)
* ナポレオン5世([[ナポレオン・ヴィクトル・ボナパルト]]、ナポレオン公、上記人物の息子)
* ナポレオン6世([[ルイ・ナポレオン (ナポレオン公)|ルイ・ナポレオン]]・ボナパルト、ナポレオン公、5世の息子)
* ナポレオン7世([[シャルル・ナポレオン]]・ボナパルト、ナポレオン公、6世の息子)
; その他の人名・別称
* [[ペルシア]]のナポレオン・[[ナーディル・シャー]]の別称([[イラン]]、[[アフシャール朝]]の君主)
* [[インド]]のナポレオン・[[ヤシュワント・ラーオ・ホールカル]]の別称([[マラーター同盟]]、[[ホールカル家]]の当主)
* [[ナポレオン・ヒル]] - アメリカの作家
* [[ナポレオン (俳優)]] - [[インド]]の俳優、政治家
* ルイ・ナポレオン - [[高橋陽一]]の漫画『[[キャプテン翼]]』の登場人物、作中の[[サッカーフランス代表]]選手([[キャプテン翼の登場人物#フランス]]参照)
; 創作物
* [[ナポレオン (イギリスのトランプゲーム)]] - 「ナップ」とも呼ばれるイギリスのトランプゲーム
* [[ナポレオン (日本のトランプゲーム)]] - 日本で考案されたトランプゲーム
* [[ナポレオン (戦列艦)]] - [[1850年]]に完成したフランスの[[戦列艦]]
* [[ナポレオン (1926年の映画)]] - [[アベル・ガンス]]が監督した無声映画
* [[ナポレオン (1955年の映画)]] - [[サシャ・ギトリ]]が監督した映画
* [[ナポレオン (フェリー・2代)]] - フランスの会社・[[SNCM]]が運航していたフェリー。2015年に解体された。
* [[ナポレオン (コンピュータゲーム)]] - [[任天堂]]より発売された[[ゲームボーイアドバンス]]用ソフト
* {{仮リンク|ナポレオン (テレビ映画)|en|Napoléon (miniseries)}} - [[イヴ・シモノー]]が監督したテレビ映画
* [[ナポレオン -獅子の時代-]] - ナポレオンを主人公とした漫画
* [[ナポレオン (2023年の映画)]] - 2023年公開のアメリカ・イギリスの伝記映画。[[リドリー・スコット]]監督、[[ホアキン・フェニックス]]主演。
* ナポレオンフィッシュ - [[メガネモチノウオ]]の別称。横から見た形がナポレオン・ボナパルトの軍帽に似ていることから。
* ナポレオン・バロア - 漫画『[[リングにかけろ]]』『[[リングにかけろ2]]』の登場人物
* ブランデーの等級の1つ。[[ブランデー#熟成年数を表す符号]]を参照。
* フォークダンスの音楽としても使われるデンマーク民謡
* [[サクランボ]]の品種の1つ
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8,735 | 代数幾何学 | 代数幾何学(だいすうきかがく、英: algebraic geometry)とは、多項式の零点(zero)のなすような図形を代数的手法を用いて(代数多様体として)研究する数学の一分野である。
大別して、「多変数代数函数体に関する幾何学論」「射影空間上での複素多様体論」とに分けられる。前者は代数学の中の可換環論と関係が深く、後者は幾何学の中の多様体論と関係が深い。20世紀に入って外観を一新し、大きく発展した数学の分野といわれる。
ルネ・デカルトは、多項式の零点を曲線として幾何学的に扱う発想を生みだしたが、これが代数幾何学の始まりとなったといえる。例えば、x, y を実変数として "x + ay − 1" という多項式を考えると、これの零点のなす R の中の集合は a の正、零、負によってそれぞれ楕円、平行な2直線、双曲線になる。このように、多項式の係数と多様体の概形の関係は非常に深いものがある。
上記の例のように、代数幾何学において非常に重要な問題として「多項式の形から、多様体を分類せよ」という問題が挙げられる。曲線のような低次元の多様体の場合、分類は簡単にできると思われがちだが、低次元でも次数が高くなるとあっという間に分類が非常に複雑になる。
当然、次元が上がると更に複雑化し、4次元以上の代数多様体についてはあまり研究は進んでいない。
2次元の場合、多様体に含まれる(−1)カーブと呼ばれる曲線を除外していくことにより、特殊な物をのぞいて極小モデルと呼ばれる多様体が一意に定まるので、2次元の場合の分類問題は「極小モデルを分類せよ」という問題に帰着される。
3次元の場合も同じように極小モデルを分類していくという方針が立てられたが、3次元の場合は、その極小モデルが一意に定まるかどうかが大問題であった。しかし、1988年森重文により3次元多様体の極小モデル存在定理が証明され、以降「森のプログラム」と呼ばれるプログラムに沿って分類が強力に推し進められている。
19世紀中期に、ベルンハルト・リーマンがアーベル関数論の中で双有理同値など代数幾何学の中心概念を生み出し、19世紀後半には、イタリアの直観的な代数幾何学が発展した(代数幾何学のイタリア学派)。20世紀前半には、アンドレ・ヴェイユ、オスカー・ザリスキによって、抽象的な代数幾何学の研究が進められ、1950年代以降はグロタンディークのスキーム論によって代数幾何学全体が大きく書き直された。
局所的問題についてきちんとした話題を与える前に、アフィン多様体における位相を定義する必要がある;もちろん、基礎体(仏: corps de base)が R {\displaystyle \mathbb {R} } や C {\displaystyle \mathbb {C} } の場合、通常のユークリッド的な位相の移し変えを考察することは駄目になる、だがしかしこれらはあまりにも豊富過ぎる。本質的に、私たちは多項式が連続であることの正当な必要を有する。さしあたり、私たちは基礎体における位相を自由に使えない、だがしかしそれは { 0 } {\displaystyle \{{0\}}} が閉じている事を要求し過ぎない(そして単集合について並びに一連の有限な単集合の和集合についての均質性についてもまた:以上の事は都合よく既述の共有限(フランス語: cofinie)を与える)。そういう訳で、私たちは正則関数の k {\displaystyle k} -環(仏: 構文解析に失敗 (SVG(ブラウザのプラグインで MathML を有効にすることができます): サーバー「http://localhost:6011/ja.wikipedia.org/v1/」から無効な応答 ("Math extension cannot connect to Restbase."):): k -algèbre)の要素である Z ( f ) {\displaystyle Z(f)} もしくは f {\displaystyle f} を共に重点的に描写する、すなわちひとつの定義された多項式はあるイデアル I ( V ) {\displaystyle I(V)} の要素を直ちに与える。私たちはそれらが、ザリスキ位相と呼ばれる、ある特定の位相をしっかりと巧く構成することを確かめることを得る。 D ( F ) := { P ∈ V / f ( p ) ≠ 0 } {\displaystyle D(F):=\{P\in V/f(p)\neq 0\}} において、開いた基底(仏: base d'ouverts)が豊富に備わっている事だけについて言及する、領域の周囲を成すそれらについてここに問題ではない。
微分幾何学で私たちがすることのようにする、しかしながら、圧倒的にアフィン多様体と局所的に似ていること更に多項式的な地図の(座標)変換における、位相空間のようなものである私たちの大域的な対象の定義を私たちはし辛くさせられる。しかしながら層におけるこれらの、私たちが選んだところの見方でのこの論点ではそうでない。私たちは、環 A j {\displaystyle A_{j}} のいくつかのスペクトルに同型な、導かれた層を備えたところの、開いた U i {\displaystyle U_{i}} における被覆を許す局所環における環付き空間(仏: espace annelé )全体をそのとき概型と呼ぶ。概型の間の同型は何も局所環における環付き空間の同型とは別のものでない。
計算代数幾何学(英:computational algebraic geometry)の始まりは1979年6月にフランスのマルセイユで開かれたEUROSAM '79(International Symposium on Symbolic and Algebraic Manipulation)を年代として推定できるかもしれない。この会議では、
以来、この分野での多くの結果はこれらのアルゴリズムのひとつを使用または証明することのどちらかによって、または未知数の数において単純に指数的な複雑性であるアルゴリズムの発見によって、それらの項目の一つないし幾つかと関係した。
記号的な方法を補完する数値代数幾何学(英語版)と呼ばれる数学的な理論の本体は過去数十年にわたって発展してきた。その主な電子計算上の方法はホモトピー連続(英語版)である。これは、例えば、代数幾何学の問題を解くための浮動小数点数の電子計算の或るモデルを支える。
代数幾何学はそもそも、多項式の零点のなすような図形を代数多様体として研究する学問であったが、現代では数理物理学・可積分系との関係や、機械学習への応用が研究されている。 | [
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"text": "微分幾何学で私たちがすることのようにする、しかしながら、圧倒的にアフィン多様体と局所的に似ていること更に多項式的な地図の(座標)変換における、位相空間のようなものである私たちの大域的な対象の定義を私たちはし辛くさせられる。しかしながら層におけるこれらの、私たちが選んだところの見方でのこの論点ではそうでない。私たちは、環 A j {\\displaystyle A_{j}} のいくつかのスペクトルに同型な、導かれた層を備えたところの、開いた U i {\\displaystyle U_{i}} における被覆を許す局所環における環付き空間(仏: espace annelé )全体をそのとき概型と呼ぶ。概型の間の同型は何も局所環における環付き空間の同型とは別のものでない。",
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"text": "計算代数幾何学(英:computational algebraic geometry)の始まりは1979年6月にフランスのマルセイユで開かれたEUROSAM '79(International Symposium on Symbolic and Algebraic Manipulation)を年代として推定できるかもしれない。この会議では、",
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"text": "以来、この分野での多くの結果はこれらのアルゴリズムのひとつを使用または証明することのどちらかによって、または未知数の数において単純に指数的な複雑性であるアルゴリズムの発見によって、それらの項目の一つないし幾つかと関係した。",
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"text": "記号的な方法を補完する数値代数幾何学(英語版)と呼ばれる数学的な理論の本体は過去数十年にわたって発展してきた。その主な電子計算上の方法はホモトピー連続(英語版)である。これは、例えば、代数幾何学の問題を解くための浮動小数点数の電子計算の或るモデルを支える。",
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"text": "代数幾何学はそもそも、多項式の零点のなすような図形を代数多様体として研究する学問であったが、現代では数理物理学・可積分系との関係や、機械学習への応用が研究されている。",
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] | 代数幾何学とは、多項式の零点(zero)のなすような図形を代数的手法を用いて(代数多様体として)研究する数学の一分野である。 | {{出典の明記|date=2011年12月|ソートキー=学}}
{{Redirect|代数幾何|高等学校の数学の科目|代数・幾何}}
'''代数幾何学'''(だいすうきかがく、{{lang-en-short|algebraic geometry}})とは、[[多項式]]の[[零点]](zero)のなすような図形を代数的手法を用いて([[代数多様体]]として)研究する[[数学]]の一分野である<ref>Rowland, Todd. "Algebraic Geometry." From MathWorld--A Wolfram Web Resource, created by Eric W. Weisstein. http://mathworld.wolfram.com/AlgebraicGeometry.html</ref>。
==概論==
大別して、「多変数[[代数函数体]]に関する幾何学論」「[[射影空間]]上での[[複素多様体]]論」とに分けられる。前者は[[代数学]]の中の[[可換環論]]と関係が深く、後者は[[幾何学]]の中の[[多様体]]論と関係が深い。20世紀に入って外観を一新し、大きく発展した数学の分野といわれる。
[[ルネ・デカルト]]は、多項式の零点を[[曲線]]として幾何学的に扱う発想を生みだしたが、これが代数幾何学の始まりとなったといえる。例えば、''x'', ''y'' を[[実数|実]]変数として "''x''<sup>2</sup> + ''ay''<sup>2</sup> − 1" という多項式を考えると、これの零点のなす '''R'''<sup>2</sup> の中の集合は ''a'' の正、零、負によってそれぞれ[[楕円]]、平行な2[[直線]]、[[双曲線]]になる。このように、多項式の係数と多様体の概形の関係は非常に深いものがある。
上記の例のように、代数幾何学において非常に重要な問題として「多項式の形から、多様体を分類せよ」という問題が挙げられる。曲線のような低次元の多様体の場合、分類は簡単にできると思われがちだが、低次元でも次数が高くなるとあっという間に分類が非常に複雑になる。
当然、次元が上がると更に複雑化し、4次元以上の[[代数多様体]]についてはあまり研究は進んでいない。
2次元の場合、[[多様体]]に含まれる(−1)カーブと呼ばれる曲線を除外していくことにより、特殊な物をのぞいて[[極小モデル]]と呼ばれる多様体が一意に定まるので、2次元の場合の分類問題は「極小モデルを分類せよ」という問題に帰着される。
3次元の場合も同じように極小モデルを分類していくという方針が立てられたが、3次元の場合は、その極小モデルが一意に定まるかどうかが大問題であった。しかし、1988年[[森重文]]により3次元多様体の極小モデル存在定理が証明され、以降「森のプログラム<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.iwanami.co.jp/book/b265777.html|title = 双有理幾何学|website = www.iwanami.co.jp|publisher = 岩波書店|date = |accessdate = 2020-06-14}}</ref>」と呼ばれるプログラムに沿って分類が強力に推し進められている。
19世紀中期に、[[ベルンハルト・リーマン]]がアーベル関数論の中で双有理同値など代数幾何学の中心概念を生み出し、19世紀後半には、イタリアの直観的な代数幾何学が発展した(代数幾何学のイタリア学派)。20世紀前半には、[[アンドレ・ヴェイユ]]、[[オスカー・ザリスキ]]によって、抽象的な代数幾何学の研究が進められ、1950年代以降は[[グロタンディーク]]のスキーム論によって代数幾何学全体が大きく書き直された。
== 局所的性質 ==
{{Rough translation|フランス語版|3=節}}
局所的問題についてきちんとした話題を与える前に、アフィン多様体における位相を定義する必要がある;もちろん、''基礎体''({{lang-fr-short |corps de base}})が<math>\R</math>や<math>\C</math>の場合、通常のユークリッド的な位相の移し変えを考察することは駄目になる、だがしかしこれらはあまりにも豊富過ぎる。本質的に、私たちは多項式が連続であることの正当な必要を有する。さしあたり、私たちは基礎体における位相を自由に使えない、だがしかしそれは<math>\{{0\}}</math>が閉じている事を要求し過ぎない(そして[[単集合]]について並びに一連の有限な単集合の和集合についての均質性についてもまた:以上の事は都合よく既述の{{日本語版にない記事リンク<!--フランス語版でもリンク先の記事は未作成です。-->|共有限|fr|cofinie}}を与える)。そういう訳で、私たちは正則関数の''<math>k</math>-環''({{lang-fr-short |<math>k</math>-algèbre}})の要素である<math>Z(f)</math>もしくは<math>f</math>を共に重点的に描写する、すなわちひとつの定義された多項式はあるイデアル<math>I(V)</math>の要素を直ちに与える。私たちはそれらが、[[ザリスキ位相]]と呼ばれる、ある特定の位相をしっかりと巧く構成することを確かめることを得る。<math>D(F) := \{P \in V / f( p ) \neq 0\}</math>において、''開いた基底''({{lang-fr-short |base d'ouverts}})が豊富に備わっている事だけについて言及する、領域の周囲を成すそれらについてここに問題ではない。
== 大局的性質 ==
{{Rough translation|フランス語版|3=節}}
[[微分幾何学]]で私たちがすることのようにする、しかしながら、圧倒的にアフィン多様体と局所的に似ていること更に多項式的な[[地図 (多様体)|地図]]の(座標)変換における、位相空間のようなものである私たちの大域的な対象の定義を私たちはし辛くさせられる。しかしながら[[層 (数学)|層]]におけるこれらの、私たちが選んだところの見方でのこの論点ではそうでない。私たちは、環<math>A_j</math>のいくつかの[[概型#環のスペクトル |スペクトル]]に同型な、導かれた層を備えたところの、開いた<math>U_i</math>における被覆を許す[[局所環]]における''環付き空間''({{lang-fr-short |espace annelé
}})全体をそのとき[[概型]]と呼ぶ。概型の間の[[同型写像 (数学) |同型]]は何も局所環における環付き空間の同型とは別のものでない。
== 計算代数幾何学 ==
'''計算代数幾何学'''(英:computational algebraic geometry)の始まりは[[1979年#できごと#6月|1979年6月]]にフランスの[[マルセイユ]]で開かれたEUROSAM '79(International Symposium on Symbolic and Algebraic Manipulation)を年代として推定できるかもしれない。この会議では、
* {{仮リンク|ジョージ・E.コリンズ|en|George E. Collins}}の'''{{仮リンク|円柱的代数的分解|en|Cylindrical algebraic decomposition}}'''(CAD)が半代数的集合(英:semi-algebraic set)の位相の計算を可能にすることをデニス・アーノン(英:Dennis S. Arnon)は示した。
* {{仮リンク|ブルーノ・ブッフベルガー|en|Bruno Buchberger}}は'''[[グレブナー基底]]'''とそれを計算する彼のアルゴリズムを提示した。
* {{仮リンク|ダニエル・ラザード|en|Daniel Lazard}}は同次多項式の方程式の系を解くための新しいアルゴリズムを提示した。それは見込まれた解の数において本質的に多項式的であり、したがってその未知数の数において、単純に指数的なものである、{{仮リンク|計算複雑性|en|computational complexity}}による。このアルゴリズムは{{仮リンク|マッカーレイ|en|Francis Sowerby Macaulay}}の[[終結式|多変数終結式]]と深く関係する。
以来、この分野での多くの結果はこれらのアルゴリズムのひとつを使用または証明することのどちらかによって、または未知数の数において単純に指数的な複雑性であるアルゴリズムの発見によって、それらの項目の一つないし幾つかと関係した。
記号的な方法を補完する'''{{仮リンク|数値代数幾何学|en|numerical algebraic geometry}}'''と呼ばれる数学的な理論の本体は過去数十年にわたって発展してきた。その主な電子計算上の方法は'''{{仮リンク|ホモトピー連続|en|homotopy continuation}}'''である。これは、例えば、代数幾何学の問題を解くための[[浮動小数点数]]の電子計算の或るモデルを支える。
==他分野との関係==
代数幾何学はそもそも、[[多項式]]の[[零点]]のなすような図形を[[代数多様体]]として研究する学問であったが、現代では[[数理物理学]]<ref>[https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-16H06335/ 数理物理学の観点からの代数幾何学の新展開]</ref><ref>[http://pantodon.shinshu-u.ac.jp/topology/literature/ja/physics_and_algebraic_geometry.html 数理物理と代数幾何]</ref>・[[可積分系]]<ref>[http://www.nara-wu.ac.jp/initiative-MPI/images/nwu_only/Inoue-file.pdf 可積分系と代数幾何学の入り口]</ref><ref>[https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-17H06127/ 代数幾何と可積分系の融合 - 理論の深化と数学・数理物理学における新展開 -]</ref><ref>Vanhaecke, P. (2001). Integrable systems in the realm of algebraic geometry. Springer Science & Business Media.</ref><ref>Integrable Systems and Algebraic Geometry, Proceedings of the Taniguchi Symposium 1997, Rokko Oriental Hotel, Kobe, 30 June – 4 July 1997, https://doi.org/10.1142/3597 (October 1998) Edited by M-H Saito (Kobe University, Japan), Y Shimizu (Kyoto University, Japan) and K Ueno (Kyoto University, Japan)</ref><ref>Integrable Systems and Algebraic Geometry, Edited by Ron Donagi, Cambridge University Press.</ref>との関係や、[[機械学習]]への応用が研究されている<ref>渡辺澄夫. (2006). 代数幾何と学習理論. [[森北出版]].</ref><ref>Watanabe, S. (2009). Algebraic geometry and statistical learning theory (Vol. 25). Cambridge University Press.</ref>。
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}
== 参考文献 ==
* <!--フリーで読めます。-->{{cite book |last =Fulton |first =William |authorlink =:en:William Fulton (mathematician) |year =2008-01-28 <!--オリジナルはもっと古いです。-->|title =Algebraic Curves: An Introduction to Algebraic Geometry |url =http://www.math.lsa.umich.edu/~wfulton/CurveBook.pdf |accessdate =2021-04-22 |ref =harv}}
* 秋月康夫,中井喜和,永田雅宜:「代数幾何学」、岩波書店、ISBN:4-00-005638-7(1987年3月20日)。
== 関連項目 ==
* [[概型|スキーム]]
* [[代数多様体]]
* [[代数幾何学と解析幾何学]]
=== 主な日本人研究者 ===
*[[小平邦彦]]
*[[森重文]]
*[[広中平祐]]
*[[梅村浩]]
*[[飯高茂]]
*[[斎藤秀司]]
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{{Normdaten}}
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[[Category:代数幾何学|*]]
[[Category:数学の分野]]
[[Category:数学に関する記事]] | 2003-05-20T01:02:17Z | 2023-11-13T00:28:07Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A3%E6%95%B0%E5%B9%BE%E4%BD%95%E5%AD%A6 |
8,737 | 伝説上の大陸 | 伝説上の大陸(でんせつじょうのたいりく)では、今日では一般的に伝説と見なされている過去の記録に登場する大陸、およびかつて仮説として提案されていたが今日の科学知見によって否定された架空の大陸のことについて記す。さまざまなタイプがあり、また、さまざまな物語が付与されている。伝説上の大陸の上に、古代四大文明の以前にあった高度な超古代文明が栄えていたとする物語が典型的なタイプである。
伝説上の大陸を信じる者には、伝説などを手がかりに実在の証拠を見つけようと試みている者や、考古学・地質学、地球科学的な成果により既知の文明や文化に比定しようとする者もいる。
伝説上の大陸の存在について科学的に可能性があるとすれば、海水準の上昇による大陸平野部の水没である。最終氷期が終了する際には大量の氷河が融解し、汎地球的に海水準が100m以上上昇した。(氷河性海水準変動)。これにより当時の沖積平野の大部分が海面下に水没し、現在の大陸棚となったと考えられるが、その時の記憶が、失われた伝説上の大陸として今日まで伝えられているとも考えられる。
ムー大陸の実在を唱えたジェームズ・チャーチワードなど、沈没大陸の実在を唱える偽史史家たちは多くの場合その大陸が全人類・全文明の発祥の地であり、支配者は白人で自分たちの先祖だったと主張していた。沈没大陸の偽史は白人優越主義や自民族至上主義を正当化し、かつて全世界を支配していたと証明することで植民地支配の正しさを主張するために作られたと考えられている。 | [
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] | 伝説上の大陸(でんせつじょうのたいりく)では、今日では一般的に伝説と見なされている過去の記録に登場する大陸、およびかつて仮説として提案されていたが今日の科学知見によって否定された架空の大陸のことについて記す。さまざまなタイプがあり、また、さまざまな物語が付与されている。伝説上の大陸の上に、古代四大文明の以前にあった高度な超古代文明が栄えていたとする物語が典型的なタイプである。 伝説上の大陸を信じる者には、伝説などを手がかりに実在の証拠を見つけようと試みている者や、考古学・地質学、地球科学的な成果により既知の文明や文化に比定しようとする者もいる。 | {{複数の問題
|出典の明記 = 2013年5月6日 (月) 16:24 (UTC)
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'''伝説上の大陸'''(でんせつじょうのたいりく)では、今日では一般的に[[伝説]]と見なされている過去の記録に登場する[[大陸]]、およびかつて仮説として提案されていたが今日の[[科学]]知見によって否定された架空の[[大陸]]のことについて記す。さまざまなタイプがあり、また、さまざまな[[物語]]が付与されている。伝説上の大陸の上に、古代[[四大文明]]の以前にあった高度な[[超古代文明]]が栄えていたとする物語が典型的なタイプである。
伝説上の大陸を信じる者には、伝説などを手がかりに実在の証拠を見つけようと試みている者や、[[考古学]]・[[地質学]]、[[地球科学]]的な成果により既知の[[文明]]や[[文化_(代表的なトピック)|文化]]に比定しようとする者もいる。
== 伝説の大陸一覧 ==
<!--アイオウエ順。しかし、出典順の方が良いかも?-->
=== アトランティス大陸 ===
{{main|アトランティス}}
; 所在
:* [[大西洋]]説
:* [[地中海]]説
:* [[アメリカ大陸]]説
; 出典
: 『[[ティマイオス]]』、『[[クリティアス (対話篇)|クリティアス]]』 - ともに[[古代ギリシア]]の[[哲学者]][[プラトン]]の著作
; 存在した時期
: [[紀元前9000年]]以前
; 世間の認識
: 「又聞きだったために、プラトンが年代や大きさを一桁間違えていた」として、地中海の[[火山]]島(サントリーニ島)の噴火のことだとする説がある。
: また、「[[暦]]の違いにより、年代算出方法が異なる」ことや、近年の地質学的知見を元に、[[マルタ島]]の[[古代]]の[[巨石文明]]に比定する説も現れた。
; 備考
: [[古代]]、[[中世]]、[[近代]]と、知識人の関心を最も集めた伝説の大陸。
: 強力な軍隊を持ち、侵略戦争を繰り広げていたが、[[アテナイ]]をリーダーとした都市国家群に敗北した。のちの偽史では「超文明が栄えていた」とされる。
=== パシフィス大陸 ===
{{main|パシフィス大陸}}
; 所在
: [[太平洋]]中央一帯
; 出典
: [[ポリネシア]]一帯の文化の共通性を説明するため、[[1920年代]]に[[イギリス|英国]]と[[ロシア]]の学者がそれぞれ別個に唱えた。
; 存在時期
: 不明
; 世間の認識
: 地質学の発達や当時の航海技術の解明により、存在には否定的。
=== ムー大陸 ===
{{main|ムー大陸}}
; 所在
: [[太平洋]]中央一帯
; 出典
: [[イギリス陸軍]]大佐を詐称したアメリカの作家、[[ジェームズ・チャーチワード]]が『失われたムー大陸』([[1926年]]、[[1931年]])以下の一連の著書の中で、インドとメキシコで見つかった2書類のタブレットを解読したとして、ムー大陸と呼ばれたレムリア大陸が実在し、1万2000年前に一夜にして海中に没したと主張した。チャーチワードは、ムー大陸では約5万年前に超古代文明が栄え、太陽神を崇拝するラーとよばれる帝王がおり、[[ウイグル帝国]]、[[ナイル川|ナイル]]帝国、インドの[[ナガ族|ナガ]]帝国、[[マヤ文明|マヤ]]帝国、[[アマゾン熱帯雨林|アマゾン]]のカラ帝国などの植民地を持っていたと、まるで見てきたように詳細に語った<ref name="matsuoka">松岡正剛 [http://1000ya.isis.ne.jp/0732.html 732夜『失われたムー大陸』ジェームズ・チャーチワード] 松岡正剛の千夜千冊</ref>。
; 存在時期
: 今から約1万2千年前
; 世間の認識
: 「現存する以外に、大陸規模の陸地があった」とする説には否定的である。
: 近年の地質学的知見を元に、以下のような場所・存在とする意見もある。
:* [[氷期]]に陸地として存在した、[[東南アジア]]の[[スンダランド]]。
:* [[オーストラリア大陸]]と[[ニューギニア島]]などを合わせた[[サフル大陸|サフールランド]]。
:* [[東シナ海]]や[[琉球古陸]]などの、現在の[[大陸棚]]に存在した。
=== メガラニカ ===
{{main|メガラニカ}}
; 所在
: [[南極]]を中心とした[[南半球]]の大部分。
; 出典
: 古代ギリシア。世界が球体である([[地球]])とすると、当時の知見から考えて、大地が北半球に集中し南半球は海洋ばかりになってしまって、バランスが悪い。南半球にも巨大な大陸が存在すると仮定すれば、地球のバランスが取れるとして考え出された。
:* 別名、'''未知の南方大陸'''({{lang-la-short|Terra Australis Incognita}}, 後の[[オーストラリア]]の語源)。
; 存在時期
: 現在。「滅びた大陸」ではなく、「発見されていない」とされた大陸。
:* なお、南極には実際に[[南極大陸]]が存在するが、[[伝説]]とは関係なく、偶然。
; 世間の認識
: アフリカ以南・南米以南まで探検が行われるようになる[[大航海時代]]まで実在説は存続し、[[オーストラリア大陸]]の北側が発見された当初はメガラニカの一部であるとされたほどである。日本にも架空の「墨瓦臘泥加」が書き込まれた世界地図がいくつか残っている。その後、オーストラリア大陸が南極まで及んでいない事が分かると、メガラニカの存在は否定され、地図からも消された。さらに後に南極大陸が発見されることになる。
: 南極大陸の存在を知っている現代人の知識からすると、「南極大陸が古代より知られていた」ように見えるため、メガラニカの実在否定から南極大陸発見まで一時的に世界地図から「南極大陸が消えている」ように見えることから、「南極大陸の知識が一時期封印された」といったような[[陰謀論]]を唱える者がいる。しかし、オーストラリア大陸がメガラニカの一部であると考えられていた事実から分かるように、メガラニカは南極大陸よりはるかに巨大な大陸を想定していたのであり(北半球との「バランス」をとるには[[アフロ・ユーラシア大陸]]に匹敵する規模でなければならない)、南極大陸の存在はむしろ偶然である。
: また、[[1929年]]に[[トルコ]]で発見された[[羊皮紙]]による[[ピーリー・レイースの地図]]には、南極大陸らしき大陸が載せられているが、出典時期としては疑問視されている。この大陸が、メガラニカであるという証拠はどこにもなく、関連性も否定されている。
=== レムリア大陸 ===
{{main|レムリア}}
; 所在
: [[インド洋]]中央一帯
; 出典
: もともとは[[キツネザル|レムール(キツネザル)]]などの、「インド洋に面した、かけ離れた地域の[[生物相]]に類似点が見られた」ことから推測された科学上の仮説だった。
: 後に、[[ヘレナ・P・ブラヴァツキー]]などの[[オカルティスト]]たちによって、様々な伝説が付加された。ブラヴァツキーは、アメリカ西海岸の先住民の古い記録にレムリアに関する文章があったとし、この大陸は太平洋にあったのではないかと考え、[[ルドルフ・シュタイナー]]もこれを引き継いで同様の主張をした<ref name="matsuoka" />。
; 存在時期
: 諸説あり
; 世間の認識
: [[プレートテクトニクス]]理論により、インド洋を取り巻く陸地は、かつて一つの[[超大陸]]([[ゴンドワナ大陸|ゴンドワナランド]])であったと考えられるようになり、現存する以外の大陸規模の陸地があったとする説には否定的である。
: むしろ、超大陸の存在は、伝説の背景となる仮説の時代背景とは異なるため、レムリア大陸と関連付けられる物は何もない。
== 科学的推論 ==
伝説上の大陸の存在について科学的に可能性があるとすれば、[[海面|海水準]]の上昇による大陸平野部の水没である。[[最終氷期]]が終了する際には大量の[[氷河]]が融解し、汎地球的に海水準が100m以上上昇した。(氷河性[[海水準変動]])。これにより当時の[[沖積平野]]の大部分が海面下に水没し、現在の[[大陸棚]]となったと考えられるが、その時の記憶が、失われた伝説上の大陸として今日まで伝えられているとも考えられる。
==白人優越主義・植民地支配との関係==
ムー大陸の実在を唱えた[[ジェームズ・チャーチワード]]など、沈没大陸の実在を唱える[[偽史]]史家たちは多くの場合その大陸が全人類・全文明の発祥の地であり、支配者は白人で自分たちの先祖だったと主張していた。沈没大陸の偽史は[[白人優越主義]]や[[エスノセントリズム|自民族至上主義]]を正当化し、かつて全世界を支配していたと証明することで[[植民地支配]]の正しさを主張するために作られたと考えられている<ref name=hasegawa>長谷川亮一 [http://boumurou.world.coocan.jp/tondemo/gishi/gishi.html 近代日本における「偽史」の系譜─日本人起源論を中心として─]</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2016年3月10日 (木) 13:33 (UTC)|section=1}}
* [[と学会]] ([[山本弘 (作家)|山本弘]]・[[志水一夫_(作家)|志水一夫]]・[[皆神龍太郎]]) 『トンデモ超常現象99の真相』 ISBN 4896912519 ISBN 4796618007
* [[L・スプレイグ・ディ=キャンプ|ライアン・スプレイグ・ディ・キャンプ]] 『プラトンのアトランティス』 [[小泉源太郎]]訳 ISBN 4894563657
** 大陸書房刊 『幻想大陸』 の改題再刊
== 関連項目 ==
*[[伝説]]
*[[超古代文明]]
*[[黒潮古陸]]
*[[神智学]]
*[[ヘレナ・P・ブラヴァツキー]]
*[[ジーランディア]]
*[[神話・伝説の土地]]
{{世界の地理}}
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{{Myth-stub}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:てんせつしようのたいりく}}
[[Category:伝説上の大陸]]
[[Category:神話・伝説の土地|*たいりく]]
[[Category:白人優越主義]]
[[Category:大航海時代]] | null | 2023-04-29T06:53:30Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9D%E8%AA%AC%E4%B8%8A%E3%81%AE%E5%A4%A7%E9%99%B8 |
8,738 | 人 | 人(ひと・にん・じん・びと)
現代中国語では「rén(レン)」、 朝鮮語では「인(イン)」と読む。 | [
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"text": "現代中国語では「rén(レン)」、 朝鮮語では「인(イン)」と読む。",
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] | 人(ひと・にん・じん・びと) 現代中国語では「rén(レン)」、 朝鮮語では「인(イン)」と読む。 | {{TOCright}}
'''人'''(ひと・にん・じん・びと)
[[普通話|現代中国語]]では「rén(レン)」、 [[朝鮮語]]では「인(イン)」と読む
== 人(ひと) ==
; 一般概念
:* 関係性や人格から捉えられた人。 {{main|'''[[人間]]'''|[[人間関係]]|[[人格]]}}
:** 心だて<ref name="koujien" />。心の性質。「まあ、○○さんたら、人が悪い」「彼は人が変わった」などと使う。 {{main|[[性格]]|[[心]]|[[人格]]}}
:* (法律用語)権利・義務の主体となる人格<ref name="koujien">広辞苑「ひと【人】」</ref><ref name="britanica" /><ref name=kotobank>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E8%87%AA%E7%84%B6%E4%BA%BA-73595 |title=自然人とは コトバンク|accessdate=2017-03-28}}</ref>。権利能力が認められる社会的実在としての人間のこと<ref name="britanica">ブリタニカ百科事典</ref><ref name=kotobank />。 {{main|'''[[人 (法律)]]'''|[[自然人]]}}
:* 相違点を越えた《類》("なかま")としての人間。 {{main|'''[[人類]]'''}}
:* 生物学上の人。 {{main|[[ヒト]]}}
:* 個々の人。 {{main|[[個人]]}}
:* 特別な関係にある人<ref name="koujien" />。「ひとはこなたざまに心寄せて」(蜻蛉日記)など<ref name="koujien" />。主に夫や妻など<ref name="koujien" />。 {{main|[[夫]]|[[妻]]}}
:* ほかの人<ref name="koujien" />。「ひと(人)のことは気にするなよ」などと使う。 {{main|[[他人]]}}
; 固有名
:* [[人 (GReeeeNの曲)]]
:* [[人 (渋谷すばるの曲)]]
:* 人 - [[PEDRO]]の[[楽曲]]。アルバム『[[後日改めて伺います]]』収録。短編映画『[[ウワキな現場]]』主題歌。
:* [[人 (映画)]]
== 人(にん) ==
* 人(ひと)を数えるときに用いる助数詞。
**「3人(さんにん)、4人(よにん)...」と数える。 {{main|[[助数詞]]}}
* [[漢字]]の[[部首]]の一つ。 {{main|[[人部]]}}
== 人(読み不詳) ==
;人名
:* [[織田信長]]の九男・[[織田信貞 (左京亮)|織田信貞]]の[[幼名]]。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{WikinewsPortal|ひと}}
{{Wiktionary}}
* {{Prefix}}
*{{intitle}}
* [[ひと]]
*[[ヒト]]
* [[人々]]
* [[人でなし]]
* [[偉人]]、[[要人]]、[[同人]]、[[友人]]、[[愛人]]、[[異人]]、[[外国人]]、[[古代人]]、[[現代人]]
* [[Unicode]][[康煕部首]] (Unicode Kangxi Radicals) の「'''⼈'''」(U+2F08; [[人部]])に酷似する。また、「'''⼊'''」(U+2F0A; [[入部 (部首)|入部]])に相似する。
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{Aimai}}
{{デフォルトソート:ひと}}
[[Category:人間|*ひと]]
[[Category:同名の作品]] | 2003-05-20T01:31:38Z | 2023-11-19T07:35:16Z | true | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA |
8,740 | プルームテクトニクス | プルームテクトニクス (plume tectonics) は、1990年代以降の地球物理学の新しい学説。マントル内の大規模な対流運動をプルーム (plume) と呼び、この変動をプルームテクトニクスと命名された。
プレートテクトニクス理論が地球の表面に存在するプレート(厚さ約100km)の変動(テクトニクス)を扱うのに対し、この説では深さ2,900kmに達するマントル全体の動きを検討する。日本の深尾良夫(元東京大学地震研究所)や丸山茂徳(東京工業大学地球生命研究所)が提唱している。
地震波トモグラフィーで調べると、マントル内部に上昇流とみられる高温領域、下降流とみられる低温領域が確認でき、こうした筒状の上下の流れ(プルーム)がマントルの対流に相当すると考えられる。
プルームとは(羽毛のように舞い上がる)「煙」を意味する。マントルは半径約6,357kmの地球の中で、深さ数十km - 約2,900kmまでの範囲を占めているが、その中を下降するプルーム(コールドプルーム)と上昇するプルーム(ホットプルーム)が存在する。プルームの上昇・下降とも、通常時は深さ670kmの所でいったん停滞する。この部分は上部マントルと下部マントルの境目に当たり、マントルを構成する鉱物がこの位置の温度と圧力を境に相変化するため、この上下でマントルの密度や固さが大きく変化すると想定されている。プルームが深さ670km付近を超え大きく上昇、あるいは下降したものをスーパープルームという。
コールドプルームとは、周辺のマントルより温度が低く、マントル表層から中心部へ向かって下降するプルーム。コールドプルームの成り立ちはプレートテクトニクスと深く関係がある。大陸プレートと衝突した海洋プレートは海溝からマントル中に沈み込み、沈み込んだプレートは徐々に周辺のマントルと一体化していくが、大部分が比較的低温のまま、外部マントルと内部マントルの境目の深さ670kmの部分でいったん滞留した後、さらに内部マントルの底を目指して沈んでいく。何かのきっかけで下降流が複数寄り集まった場合には、強く大きな下降流が発生する。これはスーパーコールドプルームと呼ばれ、現在はユーラシア大陸のアジア大陸側の下に存在している。スーパーコールドプルームは周辺のプレートを吸い寄せるため、陸地を1か所に集めて超大陸を形成する原動力にもなる。
浴槽に木の葉を浮かべて栓を抜いたときを想像すると理解しやすい。水に浮いた木の葉は水栓の上に吸い寄せられて集まるが、地球では比重の小さい大陸地殻がスーパーコールドプルームに吸い寄せられる。現在ではインド亜大陸がアジアと衝突し、アフリカ大陸やオーストラリア大陸もアジアに接近しつつある。今は太平洋によって隔てられているアメリカ大陸もアジアに向かって移動しており、約2億年後にはほとんどの大陸が合体した超大陸(アメイジア大陸)が生まれると想定されている。(これとは逆に、将来的に新たなコールドプルームがユーラシア西部に出来ることで、大西洋が再び縮小に転じ、アメリカ大陸がユーラシア、アフリカ大陸の西岸に接近・合体するというシナリオもあり、これをパンゲア・ウルティマ大陸説と呼ぶ)
ホットプルームとは、コールドプルームと逆に、深さ2,900kmの核との境目で核の熱を受けて高温になったマントル成分が上昇するものを呼ぶ。現在はアフリカ大陸の下と南太平洋にスーパーホットプルームが存在し、大地溝帯(グレート・リフト・バレー)が形成された原因であり、南太平洋に点在する火山の源であると考えられている。ホットプルームもまた、外部マントルと内部マントルの境目の深さ670kmの部分に一旦滞留するため、通常では地上へ激甚な影響を与えることはない。しかし大規模なスーパーホットプルームが直接地表に達すると、非常に激しい火山活動が発生すると考えられている。地球生命史上最も大きな大量絶滅が発生した2.5億年前のペルム紀/三畳紀境界(P-T境界)では史上最大級の溶岩噴出事件によりシベリア台地玄武岩(洪水玄武岩)が形成されたが、これはスーパーホットプルームによるものと考えられている。この時期は超大陸パンゲアが分裂を開始した時期に相当し、プルームの地表への到達と大陸分裂について相関性が指摘される。
将来的には、次の超大陸ができたときに直接地表に達する大規模なスーパーホットプルームが起こると考えられている。現在、次の超大陸形成には約2億年後に出現すると考えられるアメイジア大陸説と、約2億5千万 - 4億年後にかけて出現すると考えられるパンゲア・ウルティマ大陸説がある。アメイジア大陸説では現在の太平洋、パンゲア・ウルティマ大陸説では現在の大西洋での大規模なスーパーホットプルームの発生が推測される。
プレートテクトニクスでは、大陸プレートや海洋プレートの動きから、地球表面で発生している造山運動・地震・火山などの説明に至ったが、プレートが移動する方向について検討されておらず、超大陸の形成や分裂を説明することはできなかった。プルームテクトニクスはこれに説明をもたらした。また生物の大量絶滅の原因についても、地球内部の動きに起因する大陸の離合集散や、大規模な火山活動による二酸化炭素濃度の上昇に端を発する気候変動と関連付けて、学際的な研究が行われている。
「プルームテクトニクス」という語は日本では丸山により朝日新聞紙上で発表され、ある程度は認知されているほか、この理論は高等学校学習指導要領における地学基礎・地学の内容に含まれているため、履修者はこの部分を学習することになる(故に大学入試でも問われる)。しかし、日本以外ではそれほど広まりを見せておらず、「プルーム仮説」(Plume Hypothesis) と呼ばれている。なおマントルプルーム (Mantle plume) の概念自体は浸透している。 | [
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"text": "プルームテクトニクス (plume tectonics) は、1990年代以降の地球物理学の新しい学説。マントル内の大規模な対流運動をプルーム (plume) と呼び、この変動をプルームテクトニクスと命名された。",
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"text": "浴槽に木の葉を浮かべて栓を抜いたときを想像すると理解しやすい。水に浮いた木の葉は水栓の上に吸い寄せられて集まるが、地球では比重の小さい大陸地殻がスーパーコールドプルームに吸い寄せられる。現在ではインド亜大陸がアジアと衝突し、アフリカ大陸やオーストラリア大陸もアジアに接近しつつある。今は太平洋によって隔てられているアメリカ大陸もアジアに向かって移動しており、約2億年後にはほとんどの大陸が合体した超大陸(アメイジア大陸)が生まれると想定されている。(これとは逆に、将来的に新たなコールドプルームがユーラシア西部に出来ることで、大西洋が再び縮小に転じ、アメリカ大陸がユーラシア、アフリカ大陸の西岸に接近・合体するというシナリオもあり、これをパンゲア・ウルティマ大陸説と呼ぶ)",
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"text": "「プルームテクトニクス」という語は日本では丸山により朝日新聞紙上で発表され、ある程度は認知されているほか、この理論は高等学校学習指導要領における地学基礎・地学の内容に含まれているため、履修者はこの部分を学習することになる(故に大学入試でも問われる)。しかし、日本以外ではそれほど広まりを見せておらず、「プルーム仮説」(Plume Hypothesis) と呼ばれている。なおマントルプルーム (Mantle plume) の概念自体は浸透している。",
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] | プルームテクトニクス は、1990年代以降の地球物理学の新しい学説。マントル内の大規模な対流運動をプルーム (plume) と呼び、この変動をプルームテクトニクスと命名された。 プレートテクトニクス理論が地球の表面に存在するプレート(厚さ約100km)の変動(テクトニクス)を扱うのに対し、この説では深さ2,900kmに達するマントル全体の動きを検討する。日本の深尾良夫(元東京大学地震研究所)や丸山茂徳(東京工業大学地球生命研究所)が提唱している。 地震波トモグラフィーで調べると、マントル内部に上昇流とみられる高温領域、下降流とみられる低温領域が確認でき、こうした筒状の上下の流れ(プルーム)がマントルの対流に相当すると考えられる。 | {{混同|プレートテクトニクス}}
{{複数の問題
|出典の明記=2023年10月
|脚注の不足=2023年10月
}}
[[画像:Earth layers model.png|thumb|250px|地球の構造、最外部の薄い[[地殻]]の下に[[上部マントル]]と[[下部マントル]]がある。中心の白い部分は[[核 (天体)|核]]。プルームテクトニクスでは外部・内部マントルにおける変動を扱う。]]
[[File:Plume tectonics japanese.svg|thumb|250px|プルームテクトニクス]]
'''プルームテクトニクス''' (plume tectonics) は、[[1990年代]]以降の[[地球物理学]]の新しい[[学説]]。[[マントル]]内の大規模な[[対流]]運動を'''プルーム''' (plume) と呼び、この変動をプルームテクトニクスと命名された。
[[プレートテクトニクス]]理論が地球の表面に存在する[[プレート]](厚さ約100km)の変動([[テクトニクス]])を扱うのに対し、この説では深さ2,900kmに達する[[マントル]]全体の動きを検討する。日本の[[深尾良夫]](元[[東京大学地震研究所]])や[[丸山茂徳]]([[東京工業大学地球生命研究所]])が提唱している。
[[地震波トモグラフィー]]で調べると、マントル内部に上昇流とみられる高温領域、下降流とみられる低温領域が確認でき、こうした筒状の上下の流れ(プルーム)がマントルの対流に相当すると考えられる。
== マントルプルーム ==
[[画像:Plumetectonics&hotspot.JPG|thumb|250px|[[太平洋]]におけるホットプルーム、コールドプルームおよびホットスポット]]
[[画像:Lower Mantle Superplume.PNG|thumb|250px|下部マントルにおけるスーパープルームの概念図]]
プルームとは([[羽毛]]のように舞い上がる)「[[煙]]」を意味する。マントルは半径約6,357kmの[[地球]]の中で、深さ数十km - 約2,900kmまでの範囲を占めているが、その中を下降するプルーム('''コールドプルーム''')と上昇するプルーム('''ホットプルーム''')が存在する。プルームの上昇・下降とも、通常時は深さ670kmの所でいったん停滞する。この部分は[[上部マントル]]と[[下部マントル]]の境目に当たり、マントルを構成する[[鉱物]]がこの位置の温度と圧力を境に[[相変化]]するため、この上下でマントルの[[密度]]や固さが大きく変化すると想定されている。プルームが深さ670km付近を超え大きく上昇、あるいは下降したものを'''スーパープルーム'''という。
=== コールドプルーム ===
コールドプルームとは、周辺のマントルより温度が低く、マントル表層から中心部へ向かって下降するプルーム。コールドプルームの成り立ちはプレートテクトニクスと深く関係がある。[[大陸プレート]]と衝突した[[海洋プレート]]は[[海溝]]からマントル中に沈み込み、沈み込んだプレートは徐々に周辺のマントルと一体化していくが、大部分が比較的低温のまま、外部マントルと内部マントルの境目の深さ670kmの部分でいったん滞留した後、さらに内部マントルの底を目指して沈んでいく。何かのきっかけで下降流が複数寄り集まった場合には、強く大きな下降流が発生する。これは'''スーパーコールドプルーム'''と呼ばれ、現在は[[ユーラシア大陸]]の[[アジア大陸]]側の下に存在している。スーパーコールドプルームは周辺のプレートを吸い寄せるため、陸地を1か所に集めて[[超大陸]]を形成する原動力にもなる。
[[浴槽]]に木の葉を浮かべて栓を抜いたときを想像すると理解しやすい。水に浮いた木の葉は水栓の上に吸い寄せられて集まるが、地球では[[比重]]の小さい[[大陸地殻]]がスーパーコールドプルームに吸い寄せられる。現在では[[インド亜大陸]]が[[アジア]]と衝突し、[[アフリカ大陸]]や[[オーストラリア大陸]]もアジアに接近しつつある。今は[[太平洋]]によって隔てられている[[アメリカ大陸]]もアジアに向かって移動しており、約2億年後にはほとんどの大陸が合体した[[超大陸]]([[アメイジア大陸]])が生まれると想定されている。(これとは逆に、将来的に新たなコールドプルームがユーラシア西部に出来ることで、[[大西洋]]が再び縮小に転じ、アメリカ大陸がユーラシア、アフリカ大陸の西岸に接近・合体するというシナリオもあり、これを[[パンゲア・ウルティマ大陸]]説と呼ぶ)
=== ホットプルーム ===
ホットプルームとは、コールドプルームと逆に、深さ2,900kmの[[核 (天体)|核]]との境目で核の熱を受けて高温になったマントル成分が上昇するものを呼ぶ。現在はアフリカ大陸の下と[[南太平洋]]に'''スーパーホットプルーム'''が存在し、[[大地溝帯]](グレート・リフト・バレー)が形成された原因であり、南太平洋に点在する[[火山]]の源であると考えられている。ホットプルームもまた、外部マントルと内部マントルの境目の深さ670kmの部分に一旦滞留するため、通常では地上へ激甚な影響を与えることはない。しかし大規模なスーパーホットプルームが直接地表に達すると、非常に激しい火山活動が発生すると考えられている。地球生命史上最も大きな[[大量絶滅]]が発生した2.5億年前の[[ペルム紀]]/[[三畳紀]]境界([[P-T境界]])では史上最大級の[[溶岩]]噴出事件により[[シベリア・トラップ|シベリア台地玄武岩]]([[洪水玄武岩]])が形成されたが、これはスーパーホットプルームによるものと考えられている。この時期は[[超大陸]][[パンゲア大陸|パンゲア]]が分裂を開始した時期に相当し、プルームの地表への到達と大陸分裂について相関性が指摘される。
将来的には、次の超大陸ができたときに直接地表に達する大規模なスーパーホットプルームが起こると考えられている。現在、次の超大陸形成には約2億年後に出現すると考えられる[[アメイジア大陸]]説と、約2億5千万 - 4億年後にかけて出現すると考えられる[[パンゲア・ウルティマ大陸]]説がある。アメイジア大陸説では現在の[[太平洋]]、パンゲア・ウルティマ大陸説では現在の[[大西洋]]での大規模なスーパーホットプルームの発生が推測される。
== 他の分野との関連 ==
プレートテクトニクスでは、大陸プレートや海洋プレートの動きから、地球表面で発生している[[造山運動]]・[[地震]]・火山などの説明に至ったが、プレートが移動する方向について検討されておらず、超大陸の形成や分裂を説明することはできなかった。プルームテクトニクスはこれに説明をもたらした。また生物の大量絶滅の原因についても、地球内部の動きに起因する大陸の離合集散や、大規模な[[火山]]活動による[[二酸化炭素]]濃度の上昇に端を発する[[気候変動]]と関連付けて、[[学際]]的な研究が行われている。
== 評価 ==
「プルームテクトニクス」という語は日本では丸山により朝日新聞紙上で発表され、ある程度は認知されているほか、この理論は高等学校学習指導要領における地学基礎・地学の内容に含まれている<ref>{{Cite web|和書|title=高等学校学習指導要領解説:文部科学省 |url=https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/1407074.htm |website=文部科学省ホームページ |access-date=2022-12-26 |language=ja}}</ref>ため、履修者はこの部分を学習することになる(故に大学入試でも問われる)。しかし、日本以外ではそれほど広まりを見せておらず、「プルーム仮説」(Plume Hypothesis) と呼ばれている。なおマントルプルーム ([[:en:Mantle plume|Mantle plume]]) の概念自体は浸透している<ref>{{cite book
|title = The natural history of the Earth
|author = Richard J. Huggett
|url = https://books.google.co.jp/books?id=9DYtP7qVJt8C&pg=PA20&redir_esc=y&hl=ja
|isbn = 0415358027
|publisher = Taylor & Francis
|yea r= 2006
}}</ref><ref>Sara E. Pratt「[https://web.archive.org/web/20151225210011/https://www.earthmagazine.org/article/question-mantle-plumes/ The question of mantle plumes]」。2015年。</ref>。
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 参考文献 ==
*[[丸山茂徳]]『46億年 地球は何をしてきたか?』[[岩波書店]]〈地球を丸ごと考える〉、1993年、ISBN 4-00-007902-6。
*丸山茂徳・[[磯﨑行雄]]『生命と地球の歴史』 岩波書店〈岩波新書〉1998年、ISBN 4-00-430543-8。
*[[熊澤峰夫]]・丸山茂徳編『プルームテクトニクスと全地球史解読』岩波書店、2002年、ISBN 4-00-005945-9。
*[[川上紳一]]・[[東條文治]]『最新地球史がよくわかる本』[[秀和システム]]〈図解入門〉、2006年、ISBN 4-7980-1260-2。
== 関連項目 ==
<!-- {{Commonscat|plume tectonics}} -->
*[[アイスランドプルーム]]
*[[地震波トモグラフィー]]
*[[海嶺]]・[[海溝]]
*[[ホットスポット (地学)]]
*[[プレートテクトニクス]]
== 外部リンク ==
*{{Wayback|url=http://rika-net.com/contents/cp0150/start.html |title=プレートテクトニクスからプルームテクトニクスへ 理科ねっとわーく(一般公開版) |date=20171004191357}} - 文部科学省 国立教育政策研究所
*[http://www.s-yamaga.jp/nanimono/chikyu/platetectonics-02.htm プレートテクトニクスとプルームテクトニクス](われわれは何者か)<!--
*[http://www1.tecnet.or.jp/museum/scripts/hpdsp.asp?PARA=3C04 地球のからくり:プルームテクトニクス]([http://www1.tecnet.or.jp/museum/ EPACS自然史博物館])-->
*{{Wayback|url=http://home.hiroshima-u.ac.jp/er/ES_PT2.html|title=プルーム・テクトニクスとは|date=20160402174007}} - 地球資源論研究室
*[http://www.ouj.ac.jp/hp/kamoku/H29/daigakuin/B/shizen/8960615.html 地球史を読み解く]([[丸山茂徳]]){{リンク切れ|date=2023年10月}} - [[放送大学]]大学院修士課程 授業科目 (テキスト ISBN 4-595-14075-4)
{{プレートテクトニクス}}
{{デフォルトソート:ふるうむてくとにくす}}
[[Category:地球科学]]
[[Category:プレートテクトニクス]]
[[Category:マントル]] | 2003-05-20T02:04:12Z | 2023-10-29T08:10:47Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%86%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%82%B9 |
8,742 | 大西洋 | 大西洋(たいせいよう、英: Atlantic Ocean、羅: Oceanus Atlanticus)は、ヨーロッパ大陸とアフリカ大陸、アメリカ大陸の間にある海である。南大西洋と北大西洋とに分けて考えることもある。
おおまかに言うと、南大西洋はアフリカ大陸と南アメリカ大陸の分裂によって誕生した海洋であり、北大西洋は北アメリカ大陸とユーラシア大陸の分裂によって誕生した海洋である。これら大陸分裂は、ほぼ同時期に発生したと考えられており、したがって南大西洋と北大西洋もほぼ同時期に誕生したとされる。
大西洋の面積は約8660万平方km。これはユーラシア大陸とアフリカ大陸の合計面積よりわずかに広い面積である。大西洋と太平洋との境界は、南アメリカ大陸最南端のホーン岬から南極大陸を結ぶ、西経67度16分の経線と定められている。また、インド洋との境界は、アフリカ大陸最南端のアガラス岬から南極大陸を結ぶ、東経20度の経線と定められている。そして、南極海との境界は、南緯60度の緯線と定められている。大西洋の縁海としては、アメリカ地中海(英語版)(メキシコ湾、カリブ海)、地中海、黒海、バルト海があり、縁海との合計面積は約9430万平方kmである。大西洋の幅が一番狭くなるのはアフリカ大陸西端と南アメリカ大陸北東端の間であり、距離は約2870kmである。
他の大洋と比較した場合、大西洋の特徴は、水深の浅い部分の面積が多いことである。とは言っても大西洋に水深4000mから5000mの部分の面積が最も多いということは、他の大洋と変わらない。しかし、全海洋平均では31.7%がこの区分に属するが、大西洋の場合は30.4%である。そして、水深0mから200m、いわゆる大陸棚の面積が大西洋では8.7%を占める(太平洋5.6%)、0mから2000mの区分では19.8%(同12.9%)となる。このため、大西洋の平均深度は三大大洋(太平洋、大西洋、インド洋)のうち最も浅い3736mである。なお、大西洋での最深地点はプエルトリコ海溝に位置し、8605mである。
海洋底の骨格となる構造は、アイスランドから南緯58度まで大西洋のほぼ中央部を南北に約16000kmに渡って連なる大西洋中央海嶺である。なお、海嶺(海底にある山脈)の頂部の平均水深は2700mである。三畳紀にパンゲア超大陸がプレート運動によって南北米大陸と欧州・アフリカ大陸に分裂し、大西洋海底が拡大していった。中央海嶺はマントルからマグマが噴き出た場所である。太平洋と比較すると、海嶺(大西洋中央海嶺を除く)や海山の発達に乏しい。大西洋はほぼ大西洋中央海嶺の働きだけで形成された大洋であり、このため両岸の海岸線は海嶺が形成されて分裂する前の形状を残している。この海岸線の類似は、アルフレート・ヴェーゲナーに大陸移動説を発想させ、プレートテクトニクス理論を発達させる契機となった。
海底に泥や砂あるいは生物遺骸が堆積しているのは、他の大洋と同様だが、大西洋は他の大洋と比べて、水深の浅い場所が多い。大西洋の沿岸部では河川などによって陸から運ばれた物質が溜まって、厚く堆積している。そして沖合(遠洋)には、粒子の細かい赤色粘土、軟泥(プランクトン死骸など)が堆積している。こうした大西洋の堆積物は、最大で約3300m堆積している。大西洋の堆積物は、太平洋の堆積物と比べると非常に厚い。この理由としては、太平洋に比べ大西洋が狭く、堆積物の主な供給源である陸地からどこもあまり離れていないこと、太平洋に比べて注ぎ込む大河が多い上に、河川の流域面積も広く、河川が侵食して運搬してきた大量の土砂などが流れ込むことなどが挙げられる。大西洋に流れ込む河川中でもっとも土砂の流入量が多いのはアマゾン川で、年に14億トン以上の土砂を大西洋に運び込む。
また、海底にはマンガン団塊のような自生金属鉱物も見られる。マンガン団塊は大西洋の深海部に広く分布するが、なかでも南大西洋に多い。
大西洋の平均水温は4°C、平均塩分濃度は35.3‰。この水温と塩分濃度は、ともに他の大洋とほぼ同じである。なお、海水の塩分濃度は均一ではなく、熱帯降雨が多い赤道の北や、極地方、川の流入がある沿岸部で低く、降雨が少なく蒸発量が大きい北緯25度付近と赤道の南で高い。また、水温は極地方での-2°Cから赤道の北の29°Cまで変化する。なお、大西洋の南緯50度付近には、表面付近の海水温が急に2度〜3度変化する潮境が存在し、ここは南極収束線と呼ばれる 。 ちなみに、この南極収束線はインド洋や太平洋にも存在し、インド洋の場合も南緯50度付近だが、太平洋は南緯60度付近と位置が大きく異なっている 。
また、属海である地中海は高温乾燥地域にあるため高温・高塩分であるが、ここからジブラルタル海峡を通って流れ出た水は比重が重いために沈み込みながら数千kmにわたって特徴を保ち続ける。
大西洋の表層に存在する主な海流は、北から、東グリーンランド海流(北部、寒流)、北大西洋海流(北部、暖流)、ラブラドル海流(北西部、寒流)、メキシコ湾流(西部、暖流)、カナリア海流(東部、寒流)、アンティル海流(西部、暖流)、北赤道海流(東部、暖流)、赤道を超えて、南赤道海流(西部、暖流)、ベンゲラ海流(東部、寒流)、ブラジル海流(西部、暖流)、フォークランド海流(南部、寒流)である。このうち、北大西洋においてはメキシコ湾から北アメリカ大陸東岸を通って西ヨーロッパへと流れるメキシコ湾流の西部、そこからアフリカ大陸西岸を南下するカナリア海流、アフリカ西岸から赤道の北を西へ流れカリブ海やメキシコ湾にまで流れる北赤道海流は、北大西洋亜熱帯循環と呼ばれる時計回りの環流をなしている。同じく南大西洋においても、アフリカ西岸からブラジル北東部にまで東に流れる南赤道海流、南アメリカ大陸東岸を南流するブラジル海流、南アメリカ大陸南部から南極環流の北縁を東に流れる南大西洋海流、そしてアフリカ大陸南端から北上するベンゲラ海流は、南大西洋亜熱帯循環と呼ばれる反時計回りの環流をなしており、大西洋には南北二つの環流が存在していることとなる。
大西洋の海流の中で最も強く流量があり、また重要な役割を果たしているのはメキシコ湾流である。メキシコ湾流は北アメリカ大陸東岸から西ヨーロッパ沿岸を通り北海から北極海方面へと抜けるが、この海流がもたらす熱量は膨大なものであり、この海流の影響によってイギリスやヨーロッパ大陸西岸は緯度に比べて温暖な気候となっている。この地域の、夏季はそれほど気温が上がらないものの冬季も気温がさほど下がらず温暖な気候は西岸海洋性気候としてケッペンの気候区分のひとつとされている。逆にメキシコ湾流はアフリカ北岸で南流して寒流となるカナリア海流は寒流であるため付近で上昇気流を発生させないため、沿岸はサハラ砂漠の一部となっている。また、ベンゲラ海流も同様であり、沿岸のナミビアの海岸は典型的な西岸砂漠となり、ナミブ砂漠を形成している。
また、現在の地球の海には地球全体を巡る海水大循環があるが、この大循環の起点は北大西洋にある。北大西洋の極海で冷やされた海水は北大西洋深層水として沈み込み、大西洋深層流として南下し、太平洋やインド洋で暖められて表層水となり、インド洋から流入して北上して戻ってくる。これらの海流(循環)は、地球全体の気候に影響を与えるくらいに、多くの熱を輸送している。
ところで、北大西洋の中央部にあるサルガッソ海には、目立った海流が無い。これは、南赤道海流・メキシコ湾流・北大西洋海流・カナリア海流によって構成される大循環の中心に位置し、これらの循環から取り残された位置に、このサルガッソ海が存在するからである。また、ちょうどこの場所は亜熱帯の無風帯に属するため風もほとんど吹かない。このため上記4海流から吹き寄せられた海藻類(いわゆる流れ藻)が多く、風がない上に海藻が船に絡みつくことから、航海に帆船を使用していた時代には難所として知られていた。なお、このサルガッソ海付近は、大西洋の中でも海水面が少し高くなっている場所であることでも知られている 。
大西洋には各大陸から多くの河川が流入する。流入河川のうち水量・長さとも最も大きいのは南アメリカ大陸から流れ込むアマゾン川である。アマゾン川のほかにも、南アメリカ大陸からはオリノコ川やラプラタ川、サンフランシスコ川などの大河川が流れ込む。なかでもラプラタ川は南アメリカ大陸南部の大半を流域にもち、アマゾン川流域と南アメリカ大陸を二分する広大な流域面積を持つ。北アメリカ大陸でもっとも重要な流入河川はセントローレンス川である。河川自体の長さはそれほどでもないが、五大湖を水源に持ち広大な流域面積を持つ。それ以外にもハドソン川など多くの河川が流入するが、アパラチア山脈が大西洋岸からそれほど遠くないところを走っているため、大西洋に直接流入する河川はそれほど長くない。アフリカ大陸からの流入河川では、西アフリカのニジェール川と中部アフリカのコンゴ川が特に大きい。そのほかにも、セネガル川やオレンジ川など多数の河川が流入する。ヨーロッパ大陸からは、グアダルキビル川、タホ川、ドウロ川、ジロンド川、ロワール川などが流入する。
大西洋は生物の種数が比較的少なく、様々な分類群において太平洋やインド洋に比べて数分の1程度の種数しか持たない。これは、大西洋が大陸移動によって作られた新しい海であること、他の海洋とは南北の極地でしか繋がっていないために生物の移動が困難であることなどによると考えられる。ちなみに、大西洋の魚類の総種数より、アマゾン川の淡水魚の種数の方が多いとも言われる。
大西洋の各地には漁場が点在するが、とくに大西洋北部はメキシコ湾流が寒冷な地方にまで流れ込むために海水の攪拌がおき、世界屈指の好漁場となっている。メキシコ湾流とラブラドル海流が出会う北アメリカ・ニューファンドランド沖のグランドバンクや、北海やアイスランド沖などの大西洋北東部が特に好漁場となっている。北大西洋の生産性は全般的に高いが、サルガッソ海だけは貧栄養で漁獲量も非常に少ない。しかしこのサルガッソ海はウナギの産卵場所となっており、ヨーロッパウナギやアメリカウナギはここで産卵し生育したのち各大陸に向かう。
南大西洋はベンゲラ沖に湧昇域があり、アフリカ沿岸は豊かな漁場で南アメリカ沿岸も生産性は低くないが、大洋の中央部はメキシコ湾流のような豊かに栄養分を含む海流が存在しないため、生産性は非常に低い。
英語のアトランティック・ オーシャン(Atlantic Ocean)はプラトンの『ティマイオス』や『クリティアス』に登場する伝説の大陸アトランティスに因む。
明代末の中国では1602年にイエズス会士マテオ・リッチが世界地図『坤輿万国全図』を作成した。この地図は世界の地理名称をすべて漢語に翻訳したものでポルトガルの西海岸に「大西洋」という記述がある。
マテオ・リッチの世界地図『坤輿万国全図』は日本にも伝来し、1698年頃に書かれた渋川春海の『世界図』ではポルトガル沖に「大西洋」と記されている。幕末、アトランティック・ オーシャンという呼び名が伝来し、永井則の『銅版万国方図』(1846年)や箕作阮甫の『新模欧邏巴図』(1851年)では「亜太臘海」、山路諧孝『重訂万国全図』(1855年)では「壓瀾的海」という漢字を当てた表記が使われたが名称として定着しなかった。
大西洋沿岸のほぼすべての地域には有史以前から人類が居住していた。紀元前6世紀ごろからは、カルタゴが大西洋のヨーロッパ沿岸を北上してイギリスのコーンウォール地方と錫の交易を行っていた。その後もヨーロッパ近海では沿岸交易が行われていた。1277年には、地中海のジェノヴァ共和国のガレー船がフランドルのブリュージュ外港のズウィン湾に到着し、これによって大西洋を経由し北海・バルト海と地中海を直接結ぶ商業航路が開設され、ハンザ同盟が力を持っていた北海・バルト海航路と、ヴェネツィアやジェノヴァが中心となる地中海航路が直接結びつくこととなった。この大西洋航路の活発化により、それまでの内陸のシャンパーニュ大市に代わってフランドルのブリュージュが、その後はアントウェルペンがヨーロッパ南北航路の結節点となり、ヨーロッパ商業の一中心地となった。
最も古い大西洋横断の記録は、西暦1000年のレイフ・エリクソンによるものである。これに先立つ9世紀ごろから、ヴァイキングの一派であるノース人が本拠地のノルウェーから北西に勢力を伸ばし始め、874年にはアイスランドに殖民し、985年には赤毛のエイリークがグリーンランドを発見した。そして、赤毛のエイリークの息子であるレイフ・エリクソンがヴィンランド(現在のニューファンドランドに比定される)に到達した。しかしこの到達は一時的なものに終わり、グリーンランド植民地も15世紀ごろには寒冷化により全滅してしまう。
一方そのころ、南のイベリア半島においてはポルトガルのエンリケ航海王子が1416年ごろからアフリカ大陸沿いに探検船を南下させるようになった。この探検船はその頃開発されたキャラック船やキャラベル船を利用し航海の安全性を上げており、これによって遠方の探検が可能になった。1419年にはマデイラ諸島が、1427年にはアゾレス諸島が発見され、1434年にはそれまでヨーロッパでは世界の果てと考えられていたボハドール岬(スペイン語版)(スペイン語: Cabo Bojador アラビア語: رأس بوجدور ra's Būyadūr ラス・ブジュドゥール)を突破。以後も探検船は南下し続け、1443年にはアルギンを占領し、1488年には、バルトロメウ・ディアスが喜望峰を発見し、アフリカ大陸沿いの南下は終止符を打った。
このアフリカ大陸沿岸航路の発見により、旧来のサハラ交易は大きな打撃を受けた。アフリカの大西洋沿岸にはヨーロッパ各国の商館が軒を連ねるようになり、それまで内陸のサハラ砂漠を通過していた交易ルートの一部が大西洋経由に振り向けられるようになった。ただしサハラ交易は内陸部においては依然盛んであり、交易ルートが完全に大西洋経由へと振り替えられるのは19世紀後半までずれ込んだ。
1492年にはスペインの後援を受けたクリストファー・コロンブスが大西洋中部を横断し、バハマ諸島の1つであるサン・サルバドル島に到着した。以後、スペインの植民者が次々とアメリカ大陸に侵攻し、16世紀初頭にはアメリカ大陸の中央部はほとんどがスペイン領となった。一方、コロンブスの報が伝わってすぐ、1496年にジョン・カボットが北大西洋をブリストルから西進し、ニューファンドランド島へ到達。メキシコ湾流とラブラドル海流が潮目を成しており、世界有数の好漁場となっているニューファンドランド沖で、彼らは大量のタラの魚群を発見した。タラは日持ちもよく価値の高い魚だったため、この報が伝わるやすぐにフランスやポルトガルの漁民たちは大挙して大西洋を渡り、タラをとるようになった。1500年には、インドへの航海中だったペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジル北東部に到達し、1494年に締結されたトルデシリャス条約の分割線の東側だったためポルトガルによる開発が行われるようになった。1513年にはバスコ・ヌーニェス・デ・バルボアによってアメリカ大陸が最も狭まる地点であるパナマ地峡が発見され、1515年にはパナマ地峡を越える最短ルートである「王の道」が発見されたことでアメリカ大陸を越えるルートが利用可能になった。
1520年にはフェルディナンド・マゼランがマゼラン海峡を発見し、大西洋と太平洋をつなぐ航路が利用可能になった。もっともマゼラン海峡は波の荒い難所であるうえ経済の中心地域から遠く隔たっており、船を回航する際には利用されたものの商業航路としてはあまり利用されなかった。太平洋からのルートはむしろ中央アメリカのパナマ地峡やメキシコを通過することが多く、1566年からはベラクルスやポルトベロといった太平洋からの貿易ルートの終着点をめぐり、スペインのセビリアを目指すインディアス艦隊が就航するようになった。この航路によって新大陸で取れた銀がスペインに運ばれ、スペインの隆盛の基盤となった。一方でこうしたスペインの艦船に積まれた財宝を狙う私掠船や海賊もこのころから大西洋に出没するようになり、そのうちの一人であるイギリスのフランシス・ドレークは、1578年にドレーク海峡を発見している。
これらのヨーロッパ人のアメリカ大陸移住によって、大西洋両岸においていわゆるコロンブス交換が起こり、両大陸の文化に重大な影響をもたらした。旧大陸からはコムギや牛、鉄などがもたらされる一方、新大陸からはトウモロコシやジャガイモ、トマトやたばこなどがもたらされ、両地域ともに盛んに利用・生産されるようになっていった。17世紀には南アメリカからアフリカ大陸にキャッサバがもたらされ、キャッサバ革命と呼ばれる農業技術の革新が起こった。
また、上記の諸航路の発見・開発によって、アジアや新大陸の富が大西洋経由でヨーロッパ大陸へと流れ込むようになり、ヨーロッパ大陸の経済重心は大きく変化した。アジア交易の起点であるリスボンや、新大陸交易の拠点であるセビリアはいずれも大西洋に面した港町であり、それまでのヨーロッパ域内貿易に依存したバルト海・地中海地域から、域外交易を握る大西洋地域、およびそれと直結した北海地域がヨーロッパの新たな経済の中心地域となった。
17世紀に入るとスペインの勢力は衰え、オランダやイギリスなどの新興国が大西洋交易を握るようになった。一時は各国が競って大西洋交易を担う西インド会社を設立したもののうまくいかず、やがて大西洋交易は一般商人によるものが主流となった。また、スペインの勢力縮小に伴って小アンティル諸島には空白地域が点在するようになり、そこにヨーロッパ諸国が競って植民地を建設していった。北アメリカ大陸においては、1607年にイギリスがジェームズタウンを建設し、さらに1620年にメイフラワー号に乗ったピルグリム・ファーザーズがプリマスを建設して、以後農業移民が続々と大西洋を渡って北アメリカ大陸東岸へと押し寄せ、18世紀末にはアメリカ東部13植民地が成立していた。これらの植民地はいずれも大西洋岸から内陸へと進出して建設されたもので、主要都市はいずれも大西洋岸にあり、本国並びに西インド諸島との大西洋交易を基盤として発展していった。
18世紀には、ヨーロッパの工業製品をアフリカに運んで奴隷と交換し、その奴隷を西インド諸島やアメリカ南部に運んで砂糖や綿花と交換し、それをヨーロッパへと運ぶ三角貿易が隆盛を極め、この貿易がイギリスが富を蓄える一因となった。一方で大量の奴隷を流出させたアフリカの経済は衰弱し、のちの植民地化の遠因となった。奴隷として運ばれた黒人たちは小アンティル諸島やアメリカ南部、ブラジル北東部など各地に定着し、やがて独自の文化を形成していった。この交易はイギリス経済の根幹の一つとなり、イギリス商業革命の原動力になるとともに、西インド諸島やアメリカ植民地ではイギリス文化の流入が進み、商人以外にも官僚や宣教師などの移動も活発化して、大西洋はイギリス帝国の内海になった。上記の三角貿易のほかに、英国、北米、西インドを結ぶ奴隷を商品としない三角貿易も存在した。1763年のパリ条約によって、イギリスは北アメリカ大陸からフランスをほぼ撤退させ、北大西洋の内海化をより進めた。しかし、やがて七年戦争の戦費負担を求められたアメリカ植民地が反発し、アメリカ独立戦争が勃発。1776年にアメリカ合衆国は独立することとなった。
19世紀に入り、アメリカ合衆国が大国となるにつれて、アメリカとヨーロッパを結ぶ北大西洋航路は世界でもっとも重要な航路となった。また、独立を達成したラテンアメリカ諸国も経済的にはイギリスにほとんどの国が従属することとなり、対南米航路においてもイギリスは優位を占めることとなった。また、19世紀にはヨーロッパ大陸から移民が大西洋を渡って陸続と南北アメリカ大陸へと押し寄せた。この時期には、輸送手段の革新と高速化も進んだ。19世紀に入って開発されたクリッパー船は帆船の頂点をなすもので、アメリカとイギリスが主な生産地であり、この両国によって使用され、これによって大西洋両岸の時間的距離は大きく縮まった。1818年には最初の帆船による定期航路がリヴァプールとニューヨークを結ぶようになり、1838年には蒸気船による定期航路がリヴァプールとブリストルからニューヨークにそれぞれ開設された。1833年には最速で大西洋を横断した船舶にブルーリボン賞が贈られるようになって、スピード競争が始まった。1858年にはアイルランドのヴァレンティア島とカナダのニューファンドランド島との間に初の大西洋横断電信ケーブルが敷設された。このケーブルは失敗したものの、1866年に再敷設された際には成功し、以後大西洋の両岸を結ぶ海底ケーブルが次々と敷設され、両岸の情報伝達は急激に改善された。1914年には大西洋と太平洋を結ぶパナマ運河が開通し、それまでマゼラン海峡を回るしかなかった船舶が中米地峡を通過することができるようになったことで両地域間のアクセスは飛躍的に向上した。
1919年以降、技術の進歩によって大西洋を飛行機で横断することが可能となり、大西洋横断飛行記録に注目が集まるようになった。1919年5月には飛行艇が着水しながらニューヨーク州ロングアイランドからポルトガルのリスボンまでの横断に成功し、同年6月にはニューファンドランド島からアイルランドまでの無着陸横断が成功。1927年5月20日にはチャールズ・リンドバーグがニューヨーク~パリ間の単独無着陸飛行に成功した。
1949年には北大西洋条約機構が設立され、北大西洋の両岸(北アメリカと西ヨーロッパ)が軍事同盟を締結したことによって北大西洋は巨大な軍事同盟の傘の下におかれることとなった。
1970年、イギリス人男性が単独で手漕ぎボート(全長約6m)による大西洋横断を果たした。イギリスからカナリア諸島を経由し、アンティグア島に142日で至ったもの。
北大西洋の両岸は、北アメリカと西ヨーロッパという世界でもっとも開発された地域となっており、政治的にも経済的にも関係が深い。この両岸の協調関係を重視する政治主張は大西洋主義と呼ばれる。北アメリカ大陸のアメリカ・カナダ両国はアングロアメリカとも呼ばれる通り、イギリスから独立した国家であり両国間の関係が強い。これに対し、メキシコ以南の中央アメリカ・南アメリカ地域はスペインおよびポルトガルから独立した国家が多く、イベロアメリカとも呼ばれ、イベリア半島の両国との関係が深い。1991年からはこの両地域の首脳が年一回集結するイベロアメリカ首脳会議が開催されている。
北大西洋は、世界で最も開発された地域である西ヨーロッパと北アメリカを結ぶため、世界で最も重要な航路の一つとなっている。資源としては、アフリカのギニア湾沖に油田が数多く存在し、ナイジェリア、赤道ギニア、ガボン、アンゴラ各国の財政を潤している。
大西洋に面する都市で最も重要な都市は、北アメリカ大陸のニューヨークである。ニューヨークはアメリカのみならず、世界で最も重要な都市となっている。ニューヨークが大きく成長したのは、大西洋岸の主要港であることのほかに、19世紀前半にエリー運河によって五大湖と連結し、内陸水系と大西洋海運との結節点となったことが爆発的発展の基盤となった。また、アメリカ大陸は南北ともにヨーロッパ大陸からの大量の移民によって建国・開発され、長らく宗主国と密接に結びついていたことから、その窓口となった大西洋岸の港湾都市は大きく成長し、その国を代表する大都市になったものも多い。重要な港湾都市としては、北アメリカ大陸のボストンやニューヨーク、マイアミ、南アメリカ大陸のブラジルにあるベレン、フォルタレザ、レシフェやサルバドール、サントスなどがある。リオデジャネイロはブラジルで最も重要な港湾都市であり、ナポレオン戦争時にポルトガル王家が疎開してきたときにはその首都となり、王家帰還の際に王家が分裂してブラジル帝国が成立した時にはその首都となって、1960年に内陸部のブラジリアに移転するまではブラジルの首都であった。アルゼンチンのブエノスアイレスはラプラタ川の河口にあり、ラプラタ川を利用したボリビア地方からの銀の輸出によって栄え、ラプラタ流域地方の中心として長く栄えた。これに対抗すべく建設されたのがウルグアイのモンテビデオであり、両都市はしばらく対抗関係にあったが、やがてモンテビデオは自己の交易圏を中心としてウルグアイとして独立し、ブエノスアイレスはアルゼンチンの貿易や文化を一手に握る存在となった。これに反対する内陸諸州との間で何度か内戦がおこったものの、対外貿易ルートを唯一握るブエノスアイレスの影響力は圧倒的で、ブエノスアイレス側の優位でこの対立は終了した。現在でもブエノスアイレスは国内ほぼ唯一の大規模港であり、国内の他地域からは懸絶した大きな存在感を保っている。
アフリカ大陸においては、ヨーロッパ諸国によって19世紀に植民地化が進められたが、その際の拠点となるのが大西洋岸の大規模港湾だった。本国との連絡や開発の都合もあり、植民地の首都も多くはその大規模港湾都市におかれた。1960年代にその植民地のほとんどは独立したが、独立後の首都はそのまま大規模港湾都市におかれることが多かった。現在でも、セネガルのダカール、ガンビアのバンジュール、ギニアビサウのビサウ、ギニアのコナクリ、シエラレオネのフリータウン、リベリアのモンロビア、ガーナのアクラ、トーゴのロメ、ベナンのポルトノボ、アンゴラのルアンダといった港湾都市は首都となっている。一方で、コートジボワールのアビジャンやナイジェリアのラゴスのように独立後に首都が内陸部に移転し、大経済都市としての役割のみ残っているところや、モロッコのカサブランカやタンジール、ベナンのコトヌーやカメルーンのドゥアラ、コンゴ共和国のポワントノワール、南アフリカ共和国のケープタウンのように、純粋に港湾都市として成長してきた大都市も存在する。モーリタニアのヌアクショットも大西洋岸の都市であるが、ここは独立直前に行政を担うための都市として建設された計画都市である。
ヨーロッパ大陸においては、大西洋に面した大都市はそれほど多くない。これは、属海である地中海やバルト海、縁海である北海内の経済活動のほうが従来大きかったことによる。ポルトガルのリスボンやアイルランドのダブリンを除けば、あとは首都は存在せず、イギリスのリヴァプール、ブリストル、プリマス、グラスゴー、アイルランドのコーク、フランスのブレストやボルドー、ポルトガルのオポルト、スペインのカディスなどの数十万人規模の港湾都市が点在する。これらの都市は18世紀から19世紀にアメリカ大陸との貿易によって繁栄した。
数年に一度の頻度で発生する現象で、太平洋のエルニーニョ現象ほど水温偏差は大きくない。周辺地域の南アメリカやアフリカの気候への影響は大きく、熱帯域で洪水や干魃を発生させる要因となっているほか、エルニーニョにも影響を与えていることも示唆されている。発生のメカニズムはエルニーニョ現象と同様に、「数年に一度、弱まった貿易風の影響で、西側の暖水が東へと張り出す」タイプと「赤道の北側で海洋表層の水温が通常よりも暖められ、暖められた海水が赤道域に輸送される」があると考えられている。 | [
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"text": "大西洋(たいせいよう、英: Atlantic Ocean、羅: Oceanus Atlanticus)は、ヨーロッパ大陸とアフリカ大陸、アメリカ大陸の間にある海である。南大西洋と北大西洋とに分けて考えることもある。",
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"text": "おおまかに言うと、南大西洋はアフリカ大陸と南アメリカ大陸の分裂によって誕生した海洋であり、北大西洋は北アメリカ大陸とユーラシア大陸の分裂によって誕生した海洋である。これら大陸分裂は、ほぼ同時期に発生したと考えられており、したがって南大西洋と北大西洋もほぼ同時期に誕生したとされる。",
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"text": "大西洋の面積は約8660万平方km。これはユーラシア大陸とアフリカ大陸の合計面積よりわずかに広い面積である。大西洋と太平洋との境界は、南アメリカ大陸最南端のホーン岬から南極大陸を結ぶ、西経67度16分の経線と定められている。また、インド洋との境界は、アフリカ大陸最南端のアガラス岬から南極大陸を結ぶ、東経20度の経線と定められている。そして、南極海との境界は、南緯60度の緯線と定められている。大西洋の縁海としては、アメリカ地中海(英語版)(メキシコ湾、カリブ海)、地中海、黒海、バルト海があり、縁海との合計面積は約9430万平方kmである。大西洋の幅が一番狭くなるのはアフリカ大陸西端と南アメリカ大陸北東端の間であり、距離は約2870kmである。",
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"text": "他の大洋と比較した場合、大西洋の特徴は、水深の浅い部分の面積が多いことである。とは言っても大西洋に水深4000mから5000mの部分の面積が最も多いということは、他の大洋と変わらない。しかし、全海洋平均では31.7%がこの区分に属するが、大西洋の場合は30.4%である。そして、水深0mから200m、いわゆる大陸棚の面積が大西洋では8.7%を占める(太平洋5.6%)、0mから2000mの区分では19.8%(同12.9%)となる。このため、大西洋の平均深度は三大大洋(太平洋、大西洋、インド洋)のうち最も浅い3736mである。なお、大西洋での最深地点はプエルトリコ海溝に位置し、8605mである。",
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"text": "海底に泥や砂あるいは生物遺骸が堆積しているのは、他の大洋と同様だが、大西洋は他の大洋と比べて、水深の浅い場所が多い。大西洋の沿岸部では河川などによって陸から運ばれた物質が溜まって、厚く堆積している。そして沖合(遠洋)には、粒子の細かい赤色粘土、軟泥(プランクトン死骸など)が堆積している。こうした大西洋の堆積物は、最大で約3300m堆積している。大西洋の堆積物は、太平洋の堆積物と比べると非常に厚い。この理由としては、太平洋に比べ大西洋が狭く、堆積物の主な供給源である陸地からどこもあまり離れていないこと、太平洋に比べて注ぎ込む大河が多い上に、河川の流域面積も広く、河川が侵食して運搬してきた大量の土砂などが流れ込むことなどが挙げられる。大西洋に流れ込む河川中でもっとも土砂の流入量が多いのはアマゾン川で、年に14億トン以上の土砂を大西洋に運び込む。",
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"text": "また、海底にはマンガン団塊のような自生金属鉱物も見られる。マンガン団塊は大西洋の深海部に広く分布するが、なかでも南大西洋に多い。",
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"text": "ところで、北大西洋の中央部にあるサルガッソ海には、目立った海流が無い。これは、南赤道海流・メキシコ湾流・北大西洋海流・カナリア海流によって構成される大循環の中心に位置し、これらの循環から取り残された位置に、このサルガッソ海が存在するからである。また、ちょうどこの場所は亜熱帯の無風帯に属するため風もほとんど吹かない。このため上記4海流から吹き寄せられた海藻類(いわゆる流れ藻)が多く、風がない上に海藻が船に絡みつくことから、航海に帆船を使用していた時代には難所として知られていた。なお、このサルガッソ海付近は、大西洋の中でも海水面が少し高くなっている場所であることでも知られている 。",
"title": "地理"
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{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "大西洋には各大陸から多くの河川が流入する。流入河川のうち水量・長さとも最も大きいのは南アメリカ大陸から流れ込むアマゾン川である。アマゾン川のほかにも、南アメリカ大陸からはオリノコ川やラプラタ川、サンフランシスコ川などの大河川が流れ込む。なかでもラプラタ川は南アメリカ大陸南部の大半を流域にもち、アマゾン川流域と南アメリカ大陸を二分する広大な流域面積を持つ。北アメリカ大陸でもっとも重要な流入河川はセントローレンス川である。河川自体の長さはそれほどでもないが、五大湖を水源に持ち広大な流域面積を持つ。それ以外にもハドソン川など多くの河川が流入するが、アパラチア山脈が大西洋岸からそれほど遠くないところを走っているため、大西洋に直接流入する河川はそれほど長くない。アフリカ大陸からの流入河川では、西アフリカのニジェール川と中部アフリカのコンゴ川が特に大きい。そのほかにも、セネガル川やオレンジ川など多数の河川が流入する。ヨーロッパ大陸からは、グアダルキビル川、タホ川、ドウロ川、ジロンド川、ロワール川などが流入する。",
"title": "地理"
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{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "大西洋は生物の種数が比較的少なく、様々な分類群において太平洋やインド洋に比べて数分の1程度の種数しか持たない。これは、大西洋が大陸移動によって作られた新しい海であること、他の海洋とは南北の極地でしか繋がっていないために生物の移動が困難であることなどによると考えられる。ちなみに、大西洋の魚類の総種数より、アマゾン川の淡水魚の種数の方が多いとも言われる。",
"title": "生物"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "大西洋の各地には漁場が点在するが、とくに大西洋北部はメキシコ湾流が寒冷な地方にまで流れ込むために海水の攪拌がおき、世界屈指の好漁場となっている。メキシコ湾流とラブラドル海流が出会う北アメリカ・ニューファンドランド沖のグランドバンクや、北海やアイスランド沖などの大西洋北東部が特に好漁場となっている。北大西洋の生産性は全般的に高いが、サルガッソ海だけは貧栄養で漁獲量も非常に少ない。しかしこのサルガッソ海はウナギの産卵場所となっており、ヨーロッパウナギやアメリカウナギはここで産卵し生育したのち各大陸に向かう。",
"title": "生物"
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{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "南大西洋はベンゲラ沖に湧昇域があり、アフリカ沿岸は豊かな漁場で南アメリカ沿岸も生産性は低くないが、大洋の中央部はメキシコ湾流のような豊かに栄養分を含む海流が存在しないため、生産性は非常に低い。",
"title": "生物"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "英語のアトランティック・ オーシャン(Atlantic Ocean)はプラトンの『ティマイオス』や『クリティアス』に登場する伝説の大陸アトランティスに因む。",
"title": "名称"
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{
"paragraph_id": 18,
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"text": "明代末の中国では1602年にイエズス会士マテオ・リッチが世界地図『坤輿万国全図』を作成した。この地図は世界の地理名称をすべて漢語に翻訳したものでポルトガルの西海岸に「大西洋」という記述がある。",
"title": "名称"
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{
"paragraph_id": 19,
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"text": "マテオ・リッチの世界地図『坤輿万国全図』は日本にも伝来し、1698年頃に書かれた渋川春海の『世界図』ではポルトガル沖に「大西洋」と記されている。幕末、アトランティック・ オーシャンという呼び名が伝来し、永井則の『銅版万国方図』(1846年)や箕作阮甫の『新模欧邏巴図』(1851年)では「亜太臘海」、山路諧孝『重訂万国全図』(1855年)では「壓瀾的海」という漢字を当てた表記が使われたが名称として定着しなかった。",
"title": "名称"
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{
"paragraph_id": 20,
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"text": "大西洋沿岸のほぼすべての地域には有史以前から人類が居住していた。紀元前6世紀ごろからは、カルタゴが大西洋のヨーロッパ沿岸を北上してイギリスのコーンウォール地方と錫の交易を行っていた。その後もヨーロッパ近海では沿岸交易が行われていた。1277年には、地中海のジェノヴァ共和国のガレー船がフランドルのブリュージュ外港のズウィン湾に到着し、これによって大西洋を経由し北海・バルト海と地中海を直接結ぶ商業航路が開設され、ハンザ同盟が力を持っていた北海・バルト海航路と、ヴェネツィアやジェノヴァが中心となる地中海航路が直接結びつくこととなった。この大西洋航路の活発化により、それまでの内陸のシャンパーニュ大市に代わってフランドルのブリュージュが、その後はアントウェルペンがヨーロッパ南北航路の結節点となり、ヨーロッパ商業の一中心地となった。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "最も古い大西洋横断の記録は、西暦1000年のレイフ・エリクソンによるものである。これに先立つ9世紀ごろから、ヴァイキングの一派であるノース人が本拠地のノルウェーから北西に勢力を伸ばし始め、874年にはアイスランドに殖民し、985年には赤毛のエイリークがグリーンランドを発見した。そして、赤毛のエイリークの息子であるレイフ・エリクソンがヴィンランド(現在のニューファンドランドに比定される)に到達した。しかしこの到達は一時的なものに終わり、グリーンランド植民地も15世紀ごろには寒冷化により全滅してしまう。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 22,
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"text": "一方そのころ、南のイベリア半島においてはポルトガルのエンリケ航海王子が1416年ごろからアフリカ大陸沿いに探検船を南下させるようになった。この探検船はその頃開発されたキャラック船やキャラベル船を利用し航海の安全性を上げており、これによって遠方の探検が可能になった。1419年にはマデイラ諸島が、1427年にはアゾレス諸島が発見され、1434年にはそれまでヨーロッパでは世界の果てと考えられていたボハドール岬(スペイン語版)(スペイン語: Cabo Bojador アラビア語: رأس بوجدور ra's Būyadūr ラス・ブジュドゥール)を突破。以後も探検船は南下し続け、1443年にはアルギンを占領し、1488年には、バルトロメウ・ディアスが喜望峰を発見し、アフリカ大陸沿いの南下は終止符を打った。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 23,
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"text": "このアフリカ大陸沿岸航路の発見により、旧来のサハラ交易は大きな打撃を受けた。アフリカの大西洋沿岸にはヨーロッパ各国の商館が軒を連ねるようになり、それまで内陸のサハラ砂漠を通過していた交易ルートの一部が大西洋経由に振り向けられるようになった。ただしサハラ交易は内陸部においては依然盛んであり、交易ルートが完全に大西洋経由へと振り替えられるのは19世紀後半までずれ込んだ。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 24,
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"text": "1492年にはスペインの後援を受けたクリストファー・コロンブスが大西洋中部を横断し、バハマ諸島の1つであるサン・サルバドル島に到着した。以後、スペインの植民者が次々とアメリカ大陸に侵攻し、16世紀初頭にはアメリカ大陸の中央部はほとんどがスペイン領となった。一方、コロンブスの報が伝わってすぐ、1496年にジョン・カボットが北大西洋をブリストルから西進し、ニューファンドランド島へ到達。メキシコ湾流とラブラドル海流が潮目を成しており、世界有数の好漁場となっているニューファンドランド沖で、彼らは大量のタラの魚群を発見した。タラは日持ちもよく価値の高い魚だったため、この報が伝わるやすぐにフランスやポルトガルの漁民たちは大挙して大西洋を渡り、タラをとるようになった。1500年には、インドへの航海中だったペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジル北東部に到達し、1494年に締結されたトルデシリャス条約の分割線の東側だったためポルトガルによる開発が行われるようになった。1513年にはバスコ・ヌーニェス・デ・バルボアによってアメリカ大陸が最も狭まる地点であるパナマ地峡が発見され、1515年にはパナマ地峡を越える最短ルートである「王の道」が発見されたことでアメリカ大陸を越えるルートが利用可能になった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 25,
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"text": "1520年にはフェルディナンド・マゼランがマゼラン海峡を発見し、大西洋と太平洋をつなぐ航路が利用可能になった。もっともマゼラン海峡は波の荒い難所であるうえ経済の中心地域から遠く隔たっており、船を回航する際には利用されたものの商業航路としてはあまり利用されなかった。太平洋からのルートはむしろ中央アメリカのパナマ地峡やメキシコを通過することが多く、1566年からはベラクルスやポルトベロといった太平洋からの貿易ルートの終着点をめぐり、スペインのセビリアを目指すインディアス艦隊が就航するようになった。この航路によって新大陸で取れた銀がスペインに運ばれ、スペインの隆盛の基盤となった。一方でこうしたスペインの艦船に積まれた財宝を狙う私掠船や海賊もこのころから大西洋に出没するようになり、そのうちの一人であるイギリスのフランシス・ドレークは、1578年にドレーク海峡を発見している。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "これらのヨーロッパ人のアメリカ大陸移住によって、大西洋両岸においていわゆるコロンブス交換が起こり、両大陸の文化に重大な影響をもたらした。旧大陸からはコムギや牛、鉄などがもたらされる一方、新大陸からはトウモロコシやジャガイモ、トマトやたばこなどがもたらされ、両地域ともに盛んに利用・生産されるようになっていった。17世紀には南アメリカからアフリカ大陸にキャッサバがもたらされ、キャッサバ革命と呼ばれる農業技術の革新が起こった。",
"title": "歴史"
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"tag": "p",
"text": "また、上記の諸航路の発見・開発によって、アジアや新大陸の富が大西洋経由でヨーロッパ大陸へと流れ込むようになり、ヨーロッパ大陸の経済重心は大きく変化した。アジア交易の起点であるリスボンや、新大陸交易の拠点であるセビリアはいずれも大西洋に面した港町であり、それまでのヨーロッパ域内貿易に依存したバルト海・地中海地域から、域外交易を握る大西洋地域、およびそれと直結した北海地域がヨーロッパの新たな経済の中心地域となった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 28,
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"text": "17世紀に入るとスペインの勢力は衰え、オランダやイギリスなどの新興国が大西洋交易を握るようになった。一時は各国が競って大西洋交易を担う西インド会社を設立したもののうまくいかず、やがて大西洋交易は一般商人によるものが主流となった。また、スペインの勢力縮小に伴って小アンティル諸島には空白地域が点在するようになり、そこにヨーロッパ諸国が競って植民地を建設していった。北アメリカ大陸においては、1607年にイギリスがジェームズタウンを建設し、さらに1620年にメイフラワー号に乗ったピルグリム・ファーザーズがプリマスを建設して、以後農業移民が続々と大西洋を渡って北アメリカ大陸東岸へと押し寄せ、18世紀末にはアメリカ東部13植民地が成立していた。これらの植民地はいずれも大西洋岸から内陸へと進出して建設されたもので、主要都市はいずれも大西洋岸にあり、本国並びに西インド諸島との大西洋交易を基盤として発展していった。",
"title": "歴史"
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"text": "18世紀には、ヨーロッパの工業製品をアフリカに運んで奴隷と交換し、その奴隷を西インド諸島やアメリカ南部に運んで砂糖や綿花と交換し、それをヨーロッパへと運ぶ三角貿易が隆盛を極め、この貿易がイギリスが富を蓄える一因となった。一方で大量の奴隷を流出させたアフリカの経済は衰弱し、のちの植民地化の遠因となった。奴隷として運ばれた黒人たちは小アンティル諸島やアメリカ南部、ブラジル北東部など各地に定着し、やがて独自の文化を形成していった。この交易はイギリス経済の根幹の一つとなり、イギリス商業革命の原動力になるとともに、西インド諸島やアメリカ植民地ではイギリス文化の流入が進み、商人以外にも官僚や宣教師などの移動も活発化して、大西洋はイギリス帝国の内海になった。上記の三角貿易のほかに、英国、北米、西インドを結ぶ奴隷を商品としない三角貿易も存在した。1763年のパリ条約によって、イギリスは北アメリカ大陸からフランスをほぼ撤退させ、北大西洋の内海化をより進めた。しかし、やがて七年戦争の戦費負担を求められたアメリカ植民地が反発し、アメリカ独立戦争が勃発。1776年にアメリカ合衆国は独立することとなった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "19世紀に入り、アメリカ合衆国が大国となるにつれて、アメリカとヨーロッパを結ぶ北大西洋航路は世界でもっとも重要な航路となった。また、独立を達成したラテンアメリカ諸国も経済的にはイギリスにほとんどの国が従属することとなり、対南米航路においてもイギリスは優位を占めることとなった。また、19世紀にはヨーロッパ大陸から移民が大西洋を渡って陸続と南北アメリカ大陸へと押し寄せた。この時期には、輸送手段の革新と高速化も進んだ。19世紀に入って開発されたクリッパー船は帆船の頂点をなすもので、アメリカとイギリスが主な生産地であり、この両国によって使用され、これによって大西洋両岸の時間的距離は大きく縮まった。1818年には最初の帆船による定期航路がリヴァプールとニューヨークを結ぶようになり、1838年には蒸気船による定期航路がリヴァプールとブリストルからニューヨークにそれぞれ開設された。1833年には最速で大西洋を横断した船舶にブルーリボン賞が贈られるようになって、スピード競争が始まった。1858年にはアイルランドのヴァレンティア島とカナダのニューファンドランド島との間に初の大西洋横断電信ケーブルが敷設された。このケーブルは失敗したものの、1866年に再敷設された際には成功し、以後大西洋の両岸を結ぶ海底ケーブルが次々と敷設され、両岸の情報伝達は急激に改善された。1914年には大西洋と太平洋を結ぶパナマ運河が開通し、それまでマゼラン海峡を回るしかなかった船舶が中米地峡を通過することができるようになったことで両地域間のアクセスは飛躍的に向上した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "1919年以降、技術の進歩によって大西洋を飛行機で横断することが可能となり、大西洋横断飛行記録に注目が集まるようになった。1919年5月には飛行艇が着水しながらニューヨーク州ロングアイランドからポルトガルのリスボンまでの横断に成功し、同年6月にはニューファンドランド島からアイルランドまでの無着陸横断が成功。1927年5月20日にはチャールズ・リンドバーグがニューヨーク~パリ間の単独無着陸飛行に成功した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "1949年には北大西洋条約機構が設立され、北大西洋の両岸(北アメリカと西ヨーロッパ)が軍事同盟を締結したことによって北大西洋は巨大な軍事同盟の傘の下におかれることとなった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "1970年、イギリス人男性が単独で手漕ぎボート(全長約6m)による大西洋横断を果たした。イギリスからカナリア諸島を経由し、アンティグア島に142日で至ったもの。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "北大西洋の両岸は、北アメリカと西ヨーロッパという世界でもっとも開発された地域となっており、政治的にも経済的にも関係が深い。この両岸の協調関係を重視する政治主張は大西洋主義と呼ばれる。北アメリカ大陸のアメリカ・カナダ両国はアングロアメリカとも呼ばれる通り、イギリスから独立した国家であり両国間の関係が強い。これに対し、メキシコ以南の中央アメリカ・南アメリカ地域はスペインおよびポルトガルから独立した国家が多く、イベロアメリカとも呼ばれ、イベリア半島の両国との関係が深い。1991年からはこの両地域の首脳が年一回集結するイベロアメリカ首脳会議が開催されている。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "北大西洋は、世界で最も開発された地域である西ヨーロッパと北アメリカを結ぶため、世界で最も重要な航路の一つとなっている。資源としては、アフリカのギニア湾沖に油田が数多く存在し、ナイジェリア、赤道ギニア、ガボン、アンゴラ各国の財政を潤している。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "大西洋に面する都市で最も重要な都市は、北アメリカ大陸のニューヨークである。ニューヨークはアメリカのみならず、世界で最も重要な都市となっている。ニューヨークが大きく成長したのは、大西洋岸の主要港であることのほかに、19世紀前半にエリー運河によって五大湖と連結し、内陸水系と大西洋海運との結節点となったことが爆発的発展の基盤となった。また、アメリカ大陸は南北ともにヨーロッパ大陸からの大量の移民によって建国・開発され、長らく宗主国と密接に結びついていたことから、その窓口となった大西洋岸の港湾都市は大きく成長し、その国を代表する大都市になったものも多い。重要な港湾都市としては、北アメリカ大陸のボストンやニューヨーク、マイアミ、南アメリカ大陸のブラジルにあるベレン、フォルタレザ、レシフェやサルバドール、サントスなどがある。リオデジャネイロはブラジルで最も重要な港湾都市であり、ナポレオン戦争時にポルトガル王家が疎開してきたときにはその首都となり、王家帰還の際に王家が分裂してブラジル帝国が成立した時にはその首都となって、1960年に内陸部のブラジリアに移転するまではブラジルの首都であった。アルゼンチンのブエノスアイレスはラプラタ川の河口にあり、ラプラタ川を利用したボリビア地方からの銀の輸出によって栄え、ラプラタ流域地方の中心として長く栄えた。これに対抗すべく建設されたのがウルグアイのモンテビデオであり、両都市はしばらく対抗関係にあったが、やがてモンテビデオは自己の交易圏を中心としてウルグアイとして独立し、ブエノスアイレスはアルゼンチンの貿易や文化を一手に握る存在となった。これに反対する内陸諸州との間で何度か内戦がおこったものの、対外貿易ルートを唯一握るブエノスアイレスの影響力は圧倒的で、ブエノスアイレス側の優位でこの対立は終了した。現在でもブエノスアイレスは国内ほぼ唯一の大規模港であり、国内の他地域からは懸絶した大きな存在感を保っている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "アフリカ大陸においては、ヨーロッパ諸国によって19世紀に植民地化が進められたが、その際の拠点となるのが大西洋岸の大規模港湾だった。本国との連絡や開発の都合もあり、植民地の首都も多くはその大規模港湾都市におかれた。1960年代にその植民地のほとんどは独立したが、独立後の首都はそのまま大規模港湾都市におかれることが多かった。現在でも、セネガルのダカール、ガンビアのバンジュール、ギニアビサウのビサウ、ギニアのコナクリ、シエラレオネのフリータウン、リベリアのモンロビア、ガーナのアクラ、トーゴのロメ、ベナンのポルトノボ、アンゴラのルアンダといった港湾都市は首都となっている。一方で、コートジボワールのアビジャンやナイジェリアのラゴスのように独立後に首都が内陸部に移転し、大経済都市としての役割のみ残っているところや、モロッコのカサブランカやタンジール、ベナンのコトヌーやカメルーンのドゥアラ、コンゴ共和国のポワントノワール、南アフリカ共和国のケープタウンのように、純粋に港湾都市として成長してきた大都市も存在する。モーリタニアのヌアクショットも大西洋岸の都市であるが、ここは独立直前に行政を担うための都市として建設された計画都市である。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "ヨーロッパ大陸においては、大西洋に面した大都市はそれほど多くない。これは、属海である地中海やバルト海、縁海である北海内の経済活動のほうが従来大きかったことによる。ポルトガルのリスボンやアイルランドのダブリンを除けば、あとは首都は存在せず、イギリスのリヴァプール、ブリストル、プリマス、グラスゴー、アイルランドのコーク、フランスのブレストやボルドー、ポルトガルのオポルト、スペインのカディスなどの数十万人規模の港湾都市が点在する。これらの都市は18世紀から19世紀にアメリカ大陸との貿易によって繁栄した。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "数年に一度の頻度で発生する現象で、太平洋のエルニーニョ現象ほど水温偏差は大きくない。周辺地域の南アメリカやアフリカの気候への影響は大きく、熱帯域で洪水や干魃を発生させる要因となっているほか、エルニーニョにも影響を与えていることも示唆されている。発生のメカニズムはエルニーニョ現象と同様に、「数年に一度、弱まった貿易風の影響で、西側の暖水が東へと張り出す」タイプと「赤道の北側で海洋表層の水温が通常よりも暖められ、暖められた海水が赤道域に輸送される」があると考えられている。",
"title": "大西洋ニーニョ"
}
] | 大西洋は、ヨーロッパ大陸とアフリカ大陸、アメリカ大陸の間にある海である。南大西洋と北大西洋とに分けて考えることもある。 おおまかに言うと、南大西洋はアフリカ大陸と南アメリカ大陸の分裂によって誕生した海洋であり、北大西洋は北アメリカ大陸とユーラシア大陸の分裂によって誕生した海洋である。これら大陸分裂は、ほぼ同時期に発生したと考えられており、したがって南大西洋と北大西洋もほぼ同時期に誕生したとされる。 | {{Otheruses||大西 洋(おおにし・ひろし)という名の人物などその他の用法|大西洋 (曖昧さ回避)}}
{{redirect|北大西洋|映画|北大西洋 (映画)}}
[[ファイル:Atlantic Ocean-ja.png|thumb|250px|大西洋]]
{{五大洋}}
'''大西洋'''(たいせいよう、{{lang-en-short|Atlantic Ocean}}、{{lang-la-short|Oceanus Atlanticus}})は、[[ヨーロッパ大陸]]と[[アフリカ大陸]]、[[アメリカ大陸]]の間にある[[海]]である。'''南大西洋'''と'''北大西洋'''とに分けて考えることもある。
おおまかに言うと、南大西洋はアフリカ大陸と[[南アメリカ大陸]]の分裂によって誕生した海洋であり、北大西洋は[[北アメリカ大陸]]と[[ユーラシア大陸]]の分裂によって誕生した海洋である。これら大陸分裂は、ほぼ同時期に発生したと考えられており、したがって南大西洋と北大西洋もほぼ同時期に誕生したとされる。
== 地理 ==
大西洋の[[面積]]は約8660万平方km。これは[[ユーラシア大陸]]と[[アフリカ大陸]]の合計面積よりわずかに広い面積である。大西洋と[[太平洋]]との境界は、南アメリカ大陸最南端の[[ホーン岬]]から南極大陸を結ぶ、西経67度16分の[[経線]]と定められている。また、[[インド洋]]との境界は、アフリカ大陸最南端の[[アガラス岬]]から南極大陸を結ぶ、[[東経20度線|東経20度の経線]]と定められている。そして、[[南極海]]との境界は、[[南緯60度線|南緯60度の緯線]]と定められている<ref>[http://iodeweb5.vliz.be/oceanteacher/index.php?module=contextview&action=contextdownload&id=gen11Srv32Nme37_366 ''Limits of Oceans and Seas'']. International Hydrographic Organization Special Publication No. 23, 1953.</ref>。大西洋の[[縁海]]としては、{{仮リンク|アメリカ地中海|en|American Mediterranean Sea}}([[メキシコ湾]]、[[カリブ海]])、[[地中海]]、[[黒海]]、[[バルト海]]があり、縁海との合計面積は約9430万平方kmである。大西洋の幅が一番狭くなるのはアフリカ大陸西端と南アメリカ大陸北東端の間であり、距離は約2870kmである<ref>「地球を旅する地理の本 7 中南アメリカ」p18 大月書店 1993年11月29日第1刷発行</ref>。
=== 水深 ===
他の大洋と比較した場合、大西洋の特徴は、水深の浅い部分の面積が多いことである。とは言っても大西洋に水深4000mから5000mの部分の面積が最も多いということは、他の大洋と変わらない。しかし、全海洋平均では31.7%がこの区分に属するが、大西洋の場合は30.4%である。そして、水深0mから200m、いわゆる[[大陸棚]]の面積が大西洋では8.7%を占める(太平洋5.6%)、0mから2000mの区分では19.8%(同12.9%)となる。このため、大西洋の平均深度は三大大洋(太平洋、大西洋、インド洋)のうち最も浅い3736mである。なお、大西洋での最深地点は[[プエルトリコ海溝]]に位置し、8605mである<ref>[http://www.sea-seek.com/site/Milwaukee_Deep Milwaukee Deep] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130807100334/http://www.sea-seek.com/site/Milwaukee_Deep |date=2013年8月7日 }}. sea-seek.com</ref>。
=== 海底 ===
[[File:Atlantic bathymetry.jpg|thumb|right|大西洋と大陸の地形図]]
海洋底の骨格となる構造は、[[アイスランド]]から南緯58度まで大西洋のほぼ中央部を南北に約16000kmに渡って連なる[[大西洋中央海嶺]]である。なお、海嶺(海底にある山脈)の頂部の平均水深は2700mである。[[三畳紀]]に[[パンゲア超大陸]]が[[プレート]]運動によって南北米大陸と欧州・アフリカ大陸に分裂し、大西洋海底が拡大していった。中央海嶺はマントルからマグマが噴き出た場所である。太平洋と比較すると、[[海嶺]](大西洋中央海嶺を除く)や[[海山]]の発達に乏しい。大西洋はほぼ大西洋中央海嶺の働きだけで形成された大洋であり、このため両岸の海岸線は海嶺が形成されて分裂する前の形状を残している。この海岸線の類似は、[[アルフレート・ヴェーゲナー]]に[[大陸移動説]]を発想させ、[[プレートテクトニクス]]理論を発達させる契機となった。
海底に泥や砂あるいは生物遺骸が[[堆積]]しているのは、他の大洋と同様だが、大西洋は他の大洋と比べて、水深の浅い場所が多い。大西洋の沿岸部では[[河川]]などによって陸から運ばれた物質が溜まって、厚く堆積している。そして沖合(遠洋)には、粒子の細かい赤色粘土、[[軟泥]](プランクトン死骸など)が堆積している。こうした大西洋の堆積物は、最大で約3300m堆積している。大西洋の堆積物は、太平洋の堆積物と比べると非常に厚い。この理由としては、太平洋に比べ大西洋が狭く、堆積物の主な供給源である陸地からどこもあまり離れていないこと、太平洋に比べて注ぎ込む大河が多い上に、河川の[[流域面積]]も広く、河川が侵食して運搬してきた大量の土砂などが流れ込むことなどが挙げられる<ref>「世界地理12 両極・海洋」p196 [[福井英一郎]]編 朝倉書店 昭和58年9月10日</ref>。大西洋に流れ込む河川中でもっとも土砂の流入量が多いのはアマゾン川で、年に14億トン以上の土砂を大西洋に運び込む<ref>「海洋学 原著第4版」p115 ポール・R・ピネ著 東京大学海洋研究所監訳 東海大学出版会 2010年3月31日第1刷第1版発行</ref>。
また、海底には[[マンガン団塊]]のような[[自生金属鉱物]]も見られる。マンガン団塊は大西洋の深海部に広く分布するが、なかでも南大西洋に多い<ref>「海洋学 原著第4版」p122 ポール・R・ピネ著 東京大学海洋研究所監訳 東海大学出版会 2010年3月31日第1刷第1版発行</ref>。
=== 海水 ===
大西洋の平均水温は4℃、平均[[塩分濃度]]は35.3‰。この水温と塩分濃度は、ともに他の大洋とほぼ同じである。なお、海水の塩分濃度は均一ではなく、熱帯降雨が多い赤道の北や、極地方、川の流入がある沿岸部で低く、降雨が少なく蒸発量が大きい北緯25度付近と赤道の南で高い。また、水温は極地方での-2℃から赤道の北の29℃まで変化する。なお、大西洋の南緯50度付近には、表面付近の海水温が急に2度〜3度変化する[[潮境]]が存在し、ここは[[南極収束線]]と呼ばれる
<ref name="wa_kj_p431">
和達 清夫 監修 『海洋の事典』 p.431 東京堂出版 1960年4月20日発行
</ref>
。
ちなみに、この南極収束線はインド洋や太平洋にも存在し、インド洋の場合も南緯50度付近だが、太平洋は南緯60度付近と位置が大きく異なっている
<ref name="wa_kj_p431">
和達 清夫 監修 『海洋の事典』 p.431 東京堂出版 1960年4月20日発行
</ref>
。
また、属海である地中海は高温乾燥地域にあるため高温・高塩分であるが、ここからジブラルタル海峡を通って流れ出た水は比重が重いために沈み込みながら数千kmにわたって特徴を保ち続ける。
=== 海流 ===
[[File:Circulacion termohalina.jpg|thumb|right|海水大循環]]
大西洋の表層に存在する主な[[海流]]は、北から、[[東グリーンランド海流]](北部、寒流)、[[北大西洋海流]](北部、暖流)、[[ラブラドル海流]](北西部、寒流)、[[メキシコ湾流]](西部、暖流)、[[カナリア海流]](東部、寒流)、[[アンティル海流]](西部、暖流)、[[北赤道海流]](東部、暖流)、赤道を超えて、[[南赤道海流]](西部、暖流)、[[ベンゲラ海流]](東部、寒流)、[[ブラジル海流]](西部、暖流)、[[フォークランド海流]](南部、寒流)である。このうち、北大西洋においてはメキシコ湾から北アメリカ大陸東岸を通って西ヨーロッパへと流れるメキシコ湾流の西部、そこからアフリカ大陸西岸を南下するカナリア海流、アフリカ西岸から赤道の北を西へ流れカリブ海やメキシコ湾にまで流れる北赤道海流は、北大西洋亜熱帯循環と呼ばれる時計回りの[[環流]]をなしている。同じく南大西洋においても、アフリカ西岸からブラジル北東部にまで東に流れる南赤道海流、南アメリカ大陸東岸を南流するブラジル海流、南アメリカ大陸南部から南極環流の北縁を東に流れる南大西洋海流、そしてアフリカ大陸南端から北上するベンゲラ海流は、南大西洋亜熱帯循環と呼ばれる反時計回りの環流をなしており、大西洋には南北二つの環流が存在していることとなる<ref>「海洋学 原著第4版」p201 ポール・R・ピネ著 東京大学海洋研究所監訳 東海大学出版会 2010年3月31日第1刷第1版発行</ref>。
大西洋の海流の中で最も強く流量があり、また重要な役割を果たしているのはメキシコ湾流である。メキシコ湾流は北アメリカ大陸東岸から西ヨーロッパ沿岸を通り北海から北極海方面へと抜けるが、この海流がもたらす熱量は膨大なものであり、この海流の影響によってイギリスやヨーロッパ大陸西岸は緯度に比べて温暖な気候となっている。この地域の、夏季はそれほど気温が上がらないものの冬季も気温がさほど下がらず温暖な気候は[[西岸海洋性気候]]として[[ケッペンの気候区分]]のひとつとされている。逆にメキシコ湾流はアフリカ北岸で南流して寒流となるカナリア海流は寒流であるため付近で上昇気流を発生させないため、沿岸は[[サハラ砂漠]]の一部となっている。また、ベンゲラ海流も同様であり、沿岸の[[ナミビア]]の海岸は典型的な[[西岸砂漠]]となり、[[ナミブ砂漠]]を形成している。
また、現在の地球の海には地球全体を巡る[[海水大循環]]があるが、この大循環の起点は北大西洋にある。北大西洋の極海で冷やされた海水は北大西洋深層水として沈み込み、[[大西洋深層流]]として南下し、太平洋やインド洋で暖められて表層水となり、インド洋から流入して北上して戻ってくる<ref>「海洋学 原著第4版」p223 ポール・R・ピネ著 東京大学海洋研究所監訳 東海大学出版会 2010年3月31日第1刷第1版発行</ref>。これらの海流(循環)は、地球全体の気候に影響を与えるくらいに、多くの[[熱]]を輸送している。
ところで、北大西洋の中央部にある[[サルガッソ海]]には、目立った海流が無い。これは、南赤道海流・メキシコ湾流・北大西洋海流・カナリア海流によって構成される大循環の中心に位置し、これらの循環から取り残された位置に、このサルガッソ海が存在するからである。また、ちょうどこの場所は亜熱帯の無風帯に属するため風もほとんど吹かない。このため上記4海流から吹き寄せられた[[海藻]]類(いわゆる[[流れ藻]])が多く、風がない上に海藻が船に絡みつくことから、航海に[[帆船]]を使用していた時代には難所として知られていた。なお、このサルガッソ海付近は、大西洋の中でも海水面が少し高くなっている場所であることでも知られている
<ref>
和達 清夫 監修 『海洋の事典』 p.594 東京堂出版 1960年4月20日発行
</ref>
。
=== 流入河川 ===
大西洋には各大陸から多くの河川が流入する。流入河川のうち水量・長さとも最も大きいのは南アメリカ大陸から流れ込む[[アマゾン川]]である。アマゾン川のほかにも、南アメリカ大陸からは[[オリノコ川]]や[[ラプラタ川]]、[[サンフランシスコ川]]などの大河川が流れ込む。なかでもラプラタ川は南アメリカ大陸南部の大半を流域にもち、アマゾン川流域と南アメリカ大陸を二分する広大な流域面積を持つ。北アメリカ大陸でもっとも重要な流入河川は[[セントローレンス川]]である。河川自体の長さはそれほどでもないが、五大湖を水源に持ち広大な流域面積を持つ。それ以外にも[[ハドソン川]]など多くの河川が流入するが、[[アパラチア山脈]]が大西洋岸からそれほど遠くないところを走っているため、大西洋に直接流入する河川はそれほど長くない。アフリカ大陸からの流入河川では、[[西アフリカ]]の[[ニジェール川]]と[[中部アフリカ]]の[[コンゴ川]]が特に大きい。そのほかにも、[[セネガル川]]や[[オレンジ川]]など多数の河川が流入する。ヨーロッパ大陸からは、[[グアダルキビル川]]、[[タホ川]]、[[ドウロ川]]、[[ジロンド川]]、[[ロワール川]]などが流入する。
== 生物 ==
大西洋は生物の種数が比較的少なく、様々な分類群において太平洋やインド洋に比べて数分の1程度の種数しか持たない。これは、大西洋が[[大陸移動]]によって作られた新しい海であること、他の海洋とは南北の極地でしか繋がっていないために生物の移動が困難であることなどによると考えられる。ちなみに、大西洋の魚類の総種数より、[[アマゾン川]]の淡水魚の種数の方が多いとも言われる{{要出典|date=2010年11月}}。
大西洋の各地には漁場が点在するが、とくに大西洋北部はメキシコ湾流が寒冷な地方にまで流れ込むために海水の攪拌がおき、世界屈指の好漁場となっている。メキシコ湾流とラブラドル海流が出会う北アメリカ・ニューファンドランド沖の[[グランドバンク]]や、北海やアイスランド沖などの大西洋北東部が特に好漁場となっている。北大西洋の生産性は全般的に高いが、サルガッソ海だけは貧栄養で漁獲量も非常に少ない。しかしこのサルガッソ海はウナギの産卵場所となっており、ヨーロッパウナギやアメリカウナギはここで産卵し生育したのち各大陸に向かう<ref>「海洋学 原著第4版」p368 ポール・R・ピネ著 東京大学海洋研究所監訳 東海大学出版会 2010年3月31日第1刷第1版発行</ref>。
南大西洋はベンゲラ沖に湧昇域があり、アフリカ沿岸は豊かな漁場で南アメリカ沿岸も生産性は低くないが、大洋の中央部はメキシコ湾流のような豊かに栄養分を含む海流が存在しないため、生産性は非常に低い<ref>「海洋学 原著第4版」p364 ポール・R・ピネ著 東京大学海洋研究所監訳 東海大学出版会 2010年3月31日第1刷第1版発行</ref>。
== 名称 ==
英語のアトランティック・ オーシャン(Atlantic Ocean)は[[プラトン]]の『[[ティマイオス]]』や『[[クリティアス (対話篇)|クリティアス]]』に登場する伝説の大陸[[アトランティス大陸|アトランティス]]に因む<ref name="sato" />。
明代末の中国では1602年にイエズス会士[[マテオ・リッチ]]が世界地図『坤輿万国全図』を作成した<ref name="sato">{{Cite web |author=佐藤正幸 |url=http://www.yamanashi-ken.ac.jp/wp-content/uploads/kgk2014003.pdf|title=明治初期の英語導入に伴う日本語概念表記の変容に関する研究|publisher=山梨県立大学 |accessdate=2020-01-18}}</ref>。この地図は世界の地理名称をすべて漢語に翻訳したものでポルトガルの西海岸に「大西洋」という記述がある<ref name="sato" />。
マテオ・リッチの世界地図『坤輿万国全図』は日本にも伝来し、1698年頃に書かれた[[渋川春海]]の『世界図』ではポルトガル沖に「大西洋」と記されている<ref name="sato" />。幕末、アトランティック・ オーシャンという呼び名が伝来し、永井則の『銅版万国方図』(1846年)や箕作阮甫の『新模欧邏巴図』(1851年)では「亜太臘海」、山路諧孝『重訂万国全図』(1855年)では「壓瀾的海」という漢字を当てた表記が使われたが名称として定着しなかった<ref name="sato" />。
== 歴史 ==
=== 古代・中世 ===
大西洋沿岸のほぼすべての地域には有史以前から人類が居住していた。[[紀元前6世紀]]ごろからは、[[カルタゴ]]が大西洋のヨーロッパ沿岸を北上して[[イギリス]]の[[コーンウォール]]地方と[[錫]]の交易を行っていた。その後もヨーロッパ近海では沿岸交易が行われていた。[[1277年]]には、[[地中海]]の[[ジェノヴァ共和国]]の[[ガレー船]]が[[フランドル]]の[[ブリュージュ]]外港のズウィン湾に到着し<ref>河原温著 『ブリュージュ フランドルの輝ける宝石』p25 中公新書、2006年</ref>、これによって大西洋を経由し北海・バルト海と地中海を直接結ぶ商業航路が開設され、[[ハンザ同盟]]が力を持っていた北海・バルト海航路と、[[ヴェネツィア]]や[[ジェノヴァ]]が中心となる地中海航路が直接結びつくこととなった。この大西洋航路の活発化により、それまでの内陸の[[シャンパーニュ大市]]に代わってフランドルのブリュージュが<ref>「商業史」p27-28 石坂昭雄、壽永欣三郎、諸田實、山下幸夫著 有斐閣 1980年11月20日初版第1刷</ref>、その後は[[アントウェルペン]]がヨーロッパ南北航路の結節点となり、ヨーロッパ商業の一中心地となった。
最も古い大西洋横断の記録は、西暦[[1000年]]の[[レイフ・エリクソン]]によるものである。これに先立つ[[9世紀]]ごろから、[[ヴァイキング]]の一派である[[ノース人]]が本拠地の[[ノルウェー]]から北西に勢力を伸ばし始め、[[874年]]には[[アイスランド]]に殖民し、[[985年]]には[[赤毛のエイリーク]]が[[グリーンランド]]を発見した。そして、赤毛のエイリークの息子であるレイフ・エリクソンが[[ヴィンランド]](現在の[[ニューファンドランド]]に比定される)に到達した。しかしこの到達は一時的なものに終わり、グリーンランド植民地も[[15世紀]]ごろには寒冷化により全滅してしまう。
=== 大航海時代 ===
一方そのころ、南の[[イベリア半島]]においては[[ポルトガル]]の[[エンリケ航海王子]]が[[1416年]]ごろから[[アフリカ大陸]]沿いに探検船を南下させるようになった。この探検船はその頃開発された[[キャラック船]]や[[キャラベル船]]を利用し航海の安全性を上げており、これによって遠方の探検が可能になった。[[1419年]]には[[マデイラ諸島]]が、[[1427年]]には[[アゾレス諸島]]が発見され、[[1434年]]にはそれまでヨーロッパでは世界の果てと考えられていた{{仮リンク|カボ・ボハドール|es|Cabo Bojador|label=ボハドール岬}}({{lang-es|Cabo Bojador}} {{lang-ar|رأس بوجدور}} {{lang|en|ra's Būyadūr}} ラス・ブジュドゥール)を突破<ref>「大帆船時代」p7 杉浦昭典 昭和54年6月26日印刷 中央公論社</ref>。以後も探検船は南下し続け、[[1443年]]にはアルギンを占領し<ref>「サハラが結ぶ南北交流」(世界史リブレット60)p74 私市正年 山川出版社 2004年6月25日1版1刷</ref>、[[1488年]]には、[[バルトロメウ・ディアス]]が[[喜望峰]]を発見し、アフリカ大陸沿いの南下は終止符を打った。
このアフリカ大陸沿岸航路の発見により、旧来の[[サハラ交易]]は大きな打撃を受けた。アフリカの大西洋沿岸にはヨーロッパ各国の商館が軒を連ねるようになり、それまで内陸のサハラ砂漠を通過していた交易ルートの一部が大西洋経由に振り向けられるようになった。ただしサハラ交易は内陸部においては依然盛んであり、交易ルートが完全に大西洋経由へと振り替えられるのは19世紀後半までずれ込んだ。
[[1492年]]には[[スペイン]]の後援を受けた[[クリストファー・コロンブス]]が大西洋中部を横断し、[[バハマ諸島]]の1つである[[サン・サルバドル島]]に到着した。以後、スペインの植民者が次々とアメリカ大陸に侵攻し、[[16世紀]]初頭にはアメリカ大陸の中央部はほとんどがスペイン領となった。一方、コロンブスの報が伝わってすぐ、[[1496年]]に[[ジョン・カボット]]が北大西洋を[[ブリストル]]から西進し、[[ニューファンドランド島]]へ到達。メキシコ湾流とラブラドル海流が[[潮目]]を成しており、世界有数の好漁場となっているニューファンドランド沖で、彼らは大量のタラの魚群を発見した。タラは日持ちもよく価値の高い魚だったため、この報が伝わるやすぐに[[フランス]]やポルトガルの漁民たちは大挙して大西洋を渡り、タラをとるようになった<ref>「魚で始まる世界史 ニシンとタラとヨーロッパ」p162-163 越智敏之 平凡社新書 2014年6月13日初版第1刷</ref>。[[1500年]]には、インドへの航海中だった[[ペドロ・アルヴァレス・カブラル]]がブラジル北東部に到達し、[[1494年]]に締結された[[トルデシリャス条約]]の分割線の東側だったためポルトガルによる開発が行われるようになった<ref>「概説ブラジル史」p26 山田睦男 有斐閣 昭和61年2月15日 初版第1刷 </ref>。[[1513年]]には[[バスコ・ヌーニェス・デ・バルボア]]によってアメリカ大陸が最も狭まる地点である[[パナマ地峡]]が発見され、[[1515年]]にはパナマ地峡を越える最短ルートである「王の道」が発見された<ref>国本伊代・小林志郎・小沢卓也『パナマを知るための55章』p54 エリア・スタディーズ、明石書店 2004年</ref>ことでアメリカ大陸を越えるルートが利用可能になった。
[[1520年]]には[[フェルディナンド・マゼラン]]が[[マゼラン海峡]]を発見し、大西洋と太平洋をつなぐ航路が利用可能になった。もっともマゼラン海峡は波の荒い難所であるうえ経済の中心地域から遠く隔たっており、船を回航する際には利用されたものの商業航路としてはあまり利用されなかった。太平洋からのルートはむしろ中央アメリカのパナマ地峡やメキシコを通過することが多く、[[1566年]]からは[[ベラクルス]]や[[ポルトベロ]]といった太平洋からの貿易ルートの終着点をめぐり、スペインの[[セビリア]]を目指す[[インディアス艦隊]]が就航するようになった。この航路によって新大陸で取れた[[銀]]がスペインに運ばれ、スペインの隆盛の基盤となった。一方でこうしたスペインの艦船に積まれた財宝を狙う[[私掠船]]や[[海賊]]もこのころから大西洋に出没するようになり、そのうちの一人であるイギリスの[[フランシス・ドレーク]]は、[[1578年]]に[[ドレーク海峡]]を発見している。
これらのヨーロッパ人のアメリカ大陸移住によって、大西洋両岸においていわゆる[[コロンブス交換]]が起こり、両大陸の文化に重大な影響をもたらした。旧大陸からは[[コムギ]]や[[牛]]、[[鉄]]などがもたらされる一方、新大陸からは[[トウモロコシ]]や[[ジャガイモ]]、[[トマト]]や[[たばこ]]などがもたらされ、両地域ともに盛んに利用・生産されるようになっていった。17世紀には南アメリカからアフリカ大陸に[[キャッサバ]]がもたらされ、キャッサバ革命と呼ばれる農業技術の革新が起こった。
また、上記の諸航路の発見・開発によって、アジアや新大陸の富が大西洋経由でヨーロッパ大陸へと流れ込むようになり、ヨーロッパ大陸の経済重心は大きく変化した。アジア交易の起点である[[リスボン]]や、新大陸交易の拠点であるセビリアはいずれも大西洋に面した港町であり、それまでのヨーロッパ域内貿易に依存したバルト海・地中海地域から、域外交易を握る大西洋地域、およびそれと直結した北海地域がヨーロッパの新たな経済の中心地域となった。
=== 近世 ===
[[画像:Triangular trade.png|250px|right|thumb|大西洋三角貿易]]
[[17世紀]]に入るとスペインの勢力は衰え、[[オランダ]]やイギリスなどの新興国が大西洋交易を握るようになった。一時は各国が競って大西洋交易を担う[[西インド会社]]を設立したもののうまくいかず、やがて大西洋交易は一般商人によるものが主流となった。また、スペインの勢力縮小に伴って小アンティル諸島には空白地域が点在するようになり、そこにヨーロッパ諸国が競って植民地を建設していった。北アメリカ大陸においては、[[1607年]]にイギリスが[[ジェームズタウン (バージニア州)|ジェームズタウン]]を建設し、さらに[[1620年]]に[[メイフラワー号]]に乗った[[ピルグリム・ファーザーズ]]が[[プリマス (マサチューセッツ州)|プリマス]]を建設して、以後農業移民が続々と大西洋を渡って北アメリカ大陸東岸へと押し寄せ、18世紀末にはアメリカ東部[[13植民地]]が成立していた。これらの植民地はいずれも大西洋岸から内陸へと進出して建設されたもので、主要都市はいずれも大西洋岸にあり、本国並びに西インド諸島との大西洋交易を基盤として発展していった。
[[18世紀]]には、ヨーロッパの工業製品をアフリカに運んで[[奴隷]]と交換し、その奴隷を[[西インド諸島]]や[[アメリカ南部]]に運んで[[砂糖]]や[[綿花]]と交換し、それをヨーロッパへと運ぶ[[三角貿易]]が隆盛を極め、この貿易がイギリスが富を蓄える一因となった<ref>「略奪の海カリブ」p162-164 増田義郎 岩波書店 1989年6月20日第1刷</ref>。一方で大量の奴隷を流出させたアフリカの経済は衰弱し、のちの植民地化の遠因となった。奴隷として運ばれた黒人たちは小アンティル諸島やアメリカ南部、ブラジル北東部など各地に定着し、やがて独自の文化を形成していった。この交易はイギリス経済の根幹の一つとなり、イギリス[[商業革命]]の原動力になるとともに、西インド諸島やアメリカ植民地ではイギリス文化の流入が進み、商人以外にも[[官僚]]や[[宣教師]]などの移動も活発化して、大西洋は[[イギリス帝国]]の内海になった<ref>『イギリス帝国の歴史――アジアから考える』p58 秋田茂(中公新書, 2012年)</ref>。上記の三角貿易のほかに、英国、北米、西インドを結ぶ奴隷を商品としない三角貿易も存在した。[[1763年]]のパリ条約によって、イギリスは北アメリカ大陸からフランスをほぼ撤退させ、北大西洋の内海化をより進めた。しかし、やがて[[七年戦争]]の戦費負担を求められたアメリカ植民地が反発し、[[アメリカ独立戦争]]が勃発。[[1776年]]に[[アメリカ合衆国]]は独立することとなった。
=== 近現代 ===
[[19世紀]]に入り、アメリカ合衆国が大国となるにつれて、アメリカとヨーロッパを結ぶ北大西洋航路は世界でもっとも重要な航路となった。また、独立を達成したラテンアメリカ諸国も経済的にはイギリスにほとんどの国が従属することとなり、対南米航路においてもイギリスは優位を占めることとなった。また、19世紀にはヨーロッパ大陸から[[移民]]が大西洋を渡って陸続と南北アメリカ大陸へと押し寄せた。この時期には、輸送手段の革新と高速化も進んだ。19世紀に入って開発された[[クリッパー船]]は[[帆船]]の頂点をなすもので、アメリカとイギリスが主な生産地であり、この両国によって使用され、これによって大西洋両岸の時間的距離は大きく縮まった。[[1818年]]には最初の帆船による定期航路が[[リヴァプール]]と[[ニューヨーク]]を結ぶようになり、[[1838年]]には[[蒸気船]]による定期航路がリヴァプールと[[ブリストル]]からニューヨークにそれぞれ開設された<ref>『世界一周の誕生――グローバリズムの起源』p42-45 園田英弘(文藝春秋[文春新書], 2003年)</ref>。[[1833年]]には最速で大西洋を横断した船舶に[[ブルーリボン賞 (船舶)|ブルーリボン賞]]が贈られるようになって、スピード競争が始まった。[[1858年]]にはアイルランドの[[ヴァレンティア島]]とカナダの[[ニューファンドランド島]]との間に初の[[大西洋横断電信ケーブル]]が敷設された。このケーブルは失敗したものの、[[1866年]]に再敷設された際には成功し、以後大西洋の両岸を結ぶ[[海底ケーブル]]が次々と敷設され、両岸の情報伝達は急激に改善された。[[1914年]]には大西洋と太平洋を結ぶ[[パナマ運河]]が開通し、それまで[[マゼラン海峡]]を回るしかなかった船舶が中米地峡を通過することができるようになったことで両地域間のアクセスは飛躍的に向上した。
[[1919年]]以降、技術の進歩によって大西洋を[[飛行機]]で横断することが可能となり、[[大西洋横断飛行]]記録に注目が集まるようになった。1919年5月には[[飛行艇]]が着水しながらニューヨーク州ロングアイランドからポルトガルのリスボンまでの横断に成功し、同年6月にはニューファンドランド島からアイルランドまでの無着陸横断が成功。[[1927年]][[5月20日]]には[[チャールズ・リンドバーグ]]がニューヨーク~パリ間の単独無着陸飛行に成功した。
[[1949年]]には[[北大西洋条約機構]]が設立され、北大西洋の両岸(北アメリカと西ヨーロッパ)が軍事同盟を締結したことによって北大西洋は巨大な軍事同盟の傘の下におかれることとなった。
[[1970年]]、イギリス人男性が単独で手漕ぎボート(全長約6m)による大西洋横断を果たした。イギリスから[[カナリア諸島]]を経由し、[[アンティグア島]]に142日で至ったもの<ref>ボートぎっちら 大西洋を乗り切る 英人単独、142日で『朝日新聞』1970年(昭和45年)3月12日 12版 15面</ref>。
== 国際関係 ==
北大西洋の両岸は、北アメリカと西ヨーロッパという世界でもっとも開発された地域となっており、政治的にも経済的にも関係が深い。この両岸の協調関係を重視する政治主張は[[大西洋主義]]と呼ばれる。北アメリカ大陸のアメリカ・カナダ両国は[[アングロアメリカ]]とも呼ばれる通り、イギリスから独立した国家であり両国間の関係が強い。これに対し、メキシコ以南の中央アメリカ・南アメリカ地域はスペインおよびポルトガルから独立した国家が多く、[[イベロアメリカ]]とも呼ばれ、[[イベリア半島]]の両国との関係が深い。[[1991年]]からはこの両地域の首脳が年一回集結する[[イベロアメリカ首脳会議]]が開催されている。
== 経済 ==
北大西洋は、世界で最も開発された地域である西ヨーロッパと北アメリカを結ぶため、世界で最も重要な航路の一つとなっている。資源としては、アフリカの[[ギニア湾]]沖に[[油田]]が数多く存在し、ナイジェリア、赤道ギニア、ガボン、アンゴラ各国の財政を潤している。
大西洋に面する都市で最も重要な都市は、北アメリカ大陸の[[ニューヨーク]]である。ニューヨークはアメリカのみならず、世界で最も重要な都市となっている。ニューヨークが大きく成長したのは、大西洋岸の主要港であることのほかに、19世紀前半に[[エリー運河]]によって[[五大湖]]と連結し、内陸水系と大西洋海運との結節点となったことが爆発的発展の基盤となった。また、アメリカ大陸は南北ともにヨーロッパ大陸からの大量の移民によって建国・開発され、長らく宗主国と密接に結びついていたことから、その窓口となった大西洋岸の港湾都市は大きく成長し、その国を代表する大都市になったものも多い。重要な港湾都市としては、北アメリカ大陸の[[ボストン]]やニューヨーク、[[マイアミ]]、南アメリカ大陸のブラジルにある[[ベレン]]、[[フォルタレザ]]、[[レシフェ]]や[[サルバドール]]、[[サントス]]などがある。[[リオデジャネイロ]]はブラジルで最も重要な港湾都市であり、ナポレオン戦争時にポルトガル王家が疎開してきたときにはその首都となり、王家帰還の際に王家が分裂して[[ブラジル帝国]]が成立した時にはその首都となって、[[1960年]]に内陸部の[[ブラジリア]]に移転するまではブラジルの首都であった。[[アルゼンチン]]の[[ブエノスアイレス]]は[[ラプラタ川]]の河口にあり、ラプラタ川を利用した[[ボリビア]]地方からの銀の輸出によって栄え、ラプラタ流域地方の中心として長く栄えた。これに対抗すべく建設されたのが[[ウルグアイ]]の[[モンテビデオ]]であり、両都市はしばらく対抗関係にあったが、やがてモンテビデオは自己の交易圏を中心としてウルグアイとして独立し、ブエノスアイレスはアルゼンチンの貿易や文化を一手に握る存在となった。これに反対する内陸諸州との間で何度か内戦がおこったものの、対外貿易ルートを唯一握るブエノスアイレスの影響力は圧倒的で、ブエノスアイレス側の優位でこの対立は終了した。現在でもブエノスアイレスは国内ほぼ唯一の大規模港であり、国内の他地域からは懸絶した大きな存在感を保っている。
アフリカ大陸においては、ヨーロッパ諸国によって19世紀に植民地化が進められたが、その際の拠点となるのが大西洋岸の大規模港湾だった。本国との連絡や開発の都合もあり、植民地の首都も多くはその大規模港湾都市におかれた。[[1960年代]]にその植民地のほとんどは独立したが、独立後の首都はそのまま大規模港湾都市におかれることが多かった。現在でも、[[セネガル]]の[[ダカール]]、[[ガンビア]]の[[バンジュール]]、[[ギニアビサウ]]の[[ビサウ]]、[[ギニア]]の[[コナクリ]]、[[シエラレオネ]]の[[フリータウン]]、[[リベリア]]の[[モンロビア]]、[[ガーナ]]の[[アクラ]]、[[トーゴ]]の[[ロメ]]、[[ベナン]]の[[ポルトノボ]]、[[アンゴラ]]の[[ルアンダ]]といった港湾都市は首都となっている。一方で、[[コートジボワール]]の[[アビジャン]]や[[ナイジェリア]]の[[ラゴス]]のように独立後に首都が内陸部に移転し、大経済都市としての役割のみ残っているところや、[[モロッコ]]の[[カサブランカ]]や[[タンジェ|タンジール]]、ベナンの[[コトヌー]]や[[カメルーン]]の[[ドゥアラ]]、[[コンゴ共和国]]の[[ポワントノワール]]、[[南アフリカ共和国]]の[[ケープタウン]]のように、純粋に港湾都市として成長してきた大都市も存在する。[[モーリタニア]]の[[ヌアクショット]]も大西洋岸の都市であるが、ここは独立直前に行政を担うための都市として建設された計画都市である。
ヨーロッパ大陸においては、大西洋に面した大都市はそれほど多くない。これは、属海である地中海やバルト海、縁海である北海内の経済活動のほうが従来大きかったことによる。ポルトガルの[[リスボン]]や[[アイルランド]]の[[ダブリン]]を除けば、あとは首都は存在せず、イギリスの[[リヴァプール]]、[[ブリストル]]、[[プリマス]]、[[グラスゴー]]、アイルランドの[[コーク (アイルランド)|コーク]]、フランスの[[ブレスト (フランス)|ブレスト]]や[[ボルドー]]、ポルトガルの[[オポルト]]、スペインの[[カディス]]などの数十万人規模の港湾都市が点在する。これらの都市は18世紀から19世紀にアメリカ大陸との貿易によって繁栄した。
== 大西洋に接する国と地域 ==
=== ヨーロッパ ===
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=== アフリカ ===
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=== 南アメリカ ===
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=== カリブ海 ===
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=== 北アメリカ、中央アメリカ ===
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== 大西洋ニーニョ ==
数年に一度の頻度で発生する現象で、太平洋の[[エルニーニョ・南方振動|エルニーニョ]]現象ほど水温偏差は大きくない。周辺地域の南アメリカやアフリカの気候への影響は大きく、熱帯域で洪水や干魃を発生させる要因となっているほか、エルニーニョにも影響を与えていることも示唆されている。発生のメカニズムはエルニーニョ現象と同様に、「数年に一度、弱まった貿易風の影響で、西側の暖水が東へと張り出す」タイプと「赤道の北側で海洋表層の水温が通常よりも暖められ、暖められた海水が赤道域に輸送される<ref>[http://www.jamstec.go.jp/rigc/j/topics/20121225.html 大西洋赤道域の新たな気候変動メカニズム]海洋研究開発機構 JAMSTEC</ref>」があると考えられている。
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
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* [[バミューダトライアングル]]
* {{仮リンク|南大西洋平和協力地帯|en|South Atlantic Peace and Cooperation Zone|pt|Zona de Paz e Cooperação do Atlântico Sul}}
== 外部リンク ==
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8,745 | 麻雀 | 麻雀(マージャン、繁体字中国語: 麻將、簡体字中国語: 麻将、英語: Mahjong)は、テーブルゲームの一種。牌を使い、原則として4人で行われる。中国を起源とし、世界中で親しまれている。
本記事では、麻雀というゲーム一般について説明するとともに、その中でも特に「リーチ麻雀(英語: Riichi Mahjong)」とも称される日本式麻雀について詳述する。
4人のプレイヤーがテーブルを囲み、数十枚から百枚あまりの牌を引いて役を揃えることを数回行い、得点を重ねていくゲーム。勝敗はゲーム終了時における得点の多寡と順位で決定される。ゲームのルールは非常に複雑であるが発祥の地である中国のほか、日本、東南アジア、アメリカ合衆国などの国々で親しまれている。
現在の中国語では麻雀のことを一般に「麻將」(マージアン 拼音: májiàng 注音: ㄇㄚˊㄐㄧㄤˋ)という。「麻雀」(マーチュエ 拼音: máquè 注音: ㄇㄚˊㄑㄩㄝˋ)は中国語ではスズメを意味する。ちなみに麻雀をするというのは「打麻將」(ダー マージアン dǎ má jiàng ㄉㄚˇㄇㄚˊㄐㄧㄤˋ)という。麻雀発祥地の寧波で話される呉語では麻雀と麻将が同音であったため、中国の北方に伝来した際に麻将の名前で広まり中国語の呼称となったが、中国北方を通さず寧波から直接伝来した日本語、広東語や台湾語では呉語と同様に「麻雀」というのが普通である(粤拼:maa4zoek3、白話字:môa-chhiok/bâ-chhiok)。香港ではスズメと区別するために「蔴雀」と書くことがある。戦前の日本では「魔雀(モージャン)」と表記することもあった。
日本では34種類136枚の牌を使うのが一般的で、麻雀卓と呼ばれる麻雀専用のテーブルが用いられる。麻雀卓などの専用の道具がなくともプレイできるように、カードにした簡易版の道具も市販されている。使用する道具や採用するルールについては国や地域によって異なる点が多く、日本国内でも標準的とされるルールのほかに、様々なローカルルールが存在する。
現在の日本では、家庭や麻雀店(雀荘)で遊ばれるほか、ゲームセンターや家庭用コンピュータゲームやオンラインゲームでもプレイすることができる。昭和期における麻雀ブームの時期と比較すると雀荘の数や麻雀専門誌の数は減少傾向にあるが、コンピュータとの対戦やネットワークを通じた不特定の相手との対戦が可能になったことで、形を変えて人気を保っている。また、効率性を思考することや指先の運動により認知症の予防にも役立つという説もある。
参加人口は日本では2019年時点で510万人と2016年以降500万人台で推移していたが、2020年のコロナショックで400万人に急減した。アジア全体では3億5千万人を数える。
起源には諸説がある。紀元前6世紀頃、孔子が発明したという説もあるが有力ではない。
最も有力な説は、清の同治年間(1862 - 1874年)に寧波の陳魚門が、12世紀以前に存在した「葉子(馬弔・マーディアオ)」というカードゲームと明代(1368 - 1644年)以前から存在した「骨牌」というドミノのような遊戯を合体させて「麻雀(マージャン)」を完成させたとするものである。
なお、葉子は欧州に伝わり、トランプとなったともいわれる。
明の成化年間の陸容 (1466-1494)『菽園雑記』の記すところによると、当時の昆山で一種のカードゲームが流行しており、カードの総数は38枚であって、一銭から九銭・一百から九百・一万貫から九万貫・二十万貫から九十万貫・百万貫・千万貫・万万貫からなっていた。「糸巻き」の様に見える図柄は、「銭の穴に糸を通した束」で、「サイコロの目」の様に見える図は「銭を正面から見た図」である。一万貫以上のカードには『水滸伝』中の二十人の絵が描かれており万万貫は宋江・千万貫は武松等となっていた(ただし「混江竜李進」と「混江竜李海」が別人として存在するなど、現行の水滸伝とは名前が多少異なっている)。当時の人はこの種のカードを「葉子」と呼び、葉子を使ったカードゲーム自身のことは「葉子戯」と呼んでいた。今では水滸牌と呼ぶことが多い。
語源については、上記の「馬弔(マーディアオ)」が日本で転訛して「麻雀(マージャン)」となったとされる。
1949年に中華人民共和国政府によって一旦、全てのギャンブルと共に禁止された。しかし、文化大革命終結後の改革開放に伴ってギャンブルでない麻雀は許されるようになり、1985年には禁止令が解除された。
1895年、アメリカ合衆国の人類学者スチュワート・キューリンは麻雀に言及した記事を書いた。これは中国語以外の言語で書かれた最初の麻雀についての記述であった。1910年までにはフランス語や日本語の文献も出揃った。1920年、アバークロンビー・アンド・フィッチ社は初めて合衆国に麻雀を輸入し販売を開始した。麻雀セットはニューヨーク市を中心にヒット商品となり、合計で12000セットを売り上げた。また、同時期にジョセフ・パーク・バブコックが世界初の麻雀本となる"Rules of Mah-Jongg"を出版した。
1920年代の合衆国で麻雀は全ての人種の間で流行しアメリカ式のルールや役が生まれ、多くの「マージャン・ナイト」が開かれた。人々は中国風の装飾が施された部屋に着飾って集まり、これに親しんだ。エディ・カンターの"Since Ma is Playing Mah Jong"など、マージャンを主題にした流行歌も幾つか生まれた。
1937年には初のルールブックとなる"Maajh: The American Version of the Ancient Chinese Game."が出版されるとともに、全米麻雀リーグ (National Mah Jongg League, NMJL) が発足した。しかし、合衆国における麻雀の流行は一過性のものに終わった。
1980年代にコンピュータ用ゲーム『上海』が登場して以来、「mahjong」「mahjongg」「mah-jang」という表現が再び一般的に使われるようになるが、それらは『上海』タイプのパズルゲームを指しており、中には麻雀牌以外の絵柄を使っているものも存在する 。
記録に残るうえで実際の麻雀牌が日本に伝わったのは1909(明治42)年に清からこれを持ち帰った名川彦作によるものであり、大正中期以降はルール面において独自の変化を遂げつつ各地に広まっていったともいうが、一般に認知されるようになったのは関東大震災の後である。神楽坂のカフェー・プランタンで文藝春秋の菊池寛らが麻雀に熱中し、次第に雑誌等にも取り上げられるようになった。文藝春秋社では、みずから麻雀牌を販売していた。 なお、日本人で初めて麻雀に言及したのは大正・昭和戦前期の中国文学・中国文化研究者の井上紅梅であり、『支那風俗』(1921年、全3巻)の中巻では麻雀の起源やルールについて記述している。異説として夏目漱石が挙げられることもあるが、これは中村徳三郎が『麻雀競技法』(1924年)において、『満韓ところどころ』(1909年)内の大連での見聞である「四人で博奕を打っていた。(略)厚みも大きさも将棋の飛車角ぐらいに当る札を五六十枚ほど四人で分けて、それをいろいろに並べかえて勝負を決していた。」という記述を引き合いにしたものである。ただし、中国の麻雀牌にしては厚みや大きさがないことや枚数が少なすぎることから別のゲームであった可能性も指摘されている。
1929年(昭和4年)3月21日、東京で初の麻雀全国大会が開かれ、350人が参加した。1930年7月10日、警視庁は麻雀屋の新設を禁止した(1930年5月現在937店)。
1933年(昭和8年)、不良華族事件の捜査の過程で、著名な文士や出版関係者らの常習賭博が明らかになり逮捕者が相次いだ。この逮捕を受けて、文士だけではないとの声が高まり、翌1934年(昭和9年)にも医師や画家、音楽家、実業家、代議士など著名人の検挙が相次いだ。この頃、日本麻雀連盟の関係者が行っていた賭けのレートは1000点10円ないし15円であった。
1937年(昭和12年)日中戦争開戦前の頃には東京都内に約2000軒の麻雀クラブがあったが、戦時色が濃くなるにつれて麻雀も下火とならざるを得なくなり、1942年(昭和17年)の時点では230軒余と激減した。業者の団体は警視庁の指導に基づき同年9月1日より「麻雀」を「卓技」と名称を改め、東京卓技商業報国会を結成。健全娯楽化を目指した。
終戦後再び麻雀は流行し始め、戦前から行われていたアルシーアル麻雀に「途中リーチ」(現在の立直)・ドラ・場ゾロなどを加えた新ルールが取り入れられるようになり、アレンジを加えられた日本式の麻雀(リーチ麻雀)が主流を占めるようになった。1952年には天野大三が報知新聞(現在のスポーツ報知)に日本で最初に立直およびドラを成文化した「一九五三年度リーチ麻雀標準規程」(通称:報知ルール)を発表、同年には競技麻雀団体の日本牌棋院を設立しリーチ麻雀の原型を作った。 アルシーアル麻雀は1947年に再建された日本麻雀連盟などを中心に現在も行われてはいるが、次第に主流からは外れていった。
1969年、阿佐田哲也は『週刊大衆』で『麻雀放浪記』シリーズの連載を開始。1970年には阿佐田、小島武夫、古川凱章らが麻雀新撰組を結成。
同年『週刊大衆』で名人戦開始。1972年に『近代麻雀』、1975年に「プロ麻雀」が創刊され、麻雀ブームが起きた。1976年には竹書房主催で、プロのタイトル戦「最高位戦」が開始された。『レジャー白書』によるとピーク時の1982年の参加人口は2140万人であり、この時期、多くの大学生やサラリーマンが手軽な小遣い稼ぎやコミュニケーションツールとして麻雀に親しんだ。しかし、同時に賭博・喫煙・飲酒・徹夜などの不健康なイメージが広がったため、1988年にはそれらを廃して麻雀を楽しむことを目的とした日本健康麻将協会が設立された(#健康マージャンも参照)。
麻雀におけるコンピュータゲームの普及は1975年頃からであるが、業務用(アーケードゲーム)で現在のものに近いゲームシステムが導入された最初の麻雀コンピュータゲームは1981年3月のジャンピューター(アルファ電子)であった。このゲームは一世を風靡し、ゲームセンターや喫茶店に数多く見ることができた。その後、対戦相手のコンピュータの画像を女性をモチーフとしプレイヤーが勝つ毎にその女性の衣服を脱がせるという、いわゆる「脱衣麻雀」のコンセプトが大当たりした。年代と共に映像技術も向上し、性能や官能性もアップした。ゲームセンターでは麻雀ゲームはアダルトゲームの代名詞でもあった。
1990年代後半から2000年代にかけてのインターネットの普及や通信対戦の発展により、自宅やゲームセンターなどで容易に対局が可能になった。1997年にはオンライン対戦麻雀の先駆けとなる『東風荘』がサービス開始、2002年には通信機能を持たせ全国のプレーヤーと対戦できる麻雀アーケードゲーム『セガネットワーク対戦麻雀MJ』『麻雀格闘倶楽部』が稼動を開始し、2004年には携帯麻雀ゲーム『ジャンナビ四人麻雀オンライン』が稼動を開始した。2006年にはオンライン対戦麻雀『半熟荘(2007年に天鳳に改称)』がサービス開始した。2019年にはオンライン対戦麻雀『雀魂』が日本でサービス開始した。
こうしたオンライン麻雀の普及に伴い、次第に学生競技麻雀やオープントーナメントの予選や大会そのものがオンライン麻雀を会場として行われることが増えていき、競技団体所属のプロ雀士もゲームとの提携やイベント、あるいは一プレイヤーとして参戦することが増えていった。
1990年、天野晴夫が『リーチ麻雀論改革派』(南雲社)において麻雀戦術論からの抽象の排除を提唱した。その中で小島、田村光昭など当時の有名麻雀プロや在野の桜井章一らの麻雀論を「ツキ」「勘」「流れ」といった抽象論に支配されている非科学的なものであると批判した。天野は抽象的な要因を考慮することは的確な情報判断を鈍らせる原因にこそなれ、麻雀の上達には繋がらないと主張した。これがいわゆる「デジタル雀士」のさきがけである。
2004年、とつげき東北の『科学する麻雀』が講談社現代新書から出版された。とつげきは前の局の結果が次の局に影響を及ぼすとするいわゆる「流れ論」を徹底的に否定しており、本著でも確率論を基礎とした統計学的な麻雀戦略を提唱している。「このような時にはこう打つ」と明確にかつ論理的に場面に応じた打ち方を指導している点が特徴である。これらデジタル麻雀に対して「ツキ」「勘」「流れ」を重視する雀士も多く、そのような戦術論はアナログやオカルト派と呼ばれている。
2018年、Mリーグの開始を機に対局の動画配信を楽しむスタイル、通称「見る雀」がブームになる。2019年には前年に中華人民共和国でサービスを開始していたオンライン対戦麻雀『雀魂』の日本語版がサービス開始。バーチャルYouTuberやプロ雀士などのYouTube配信によって人気を博している。
2002年10月23日から27日にかけて、東京で「2002 世界麻雀選手権大会」が開催される。日本の初音舞が優勝し、ジョン・オコーナーが準優勝した。2006年に世界麻雀機構 (WMO) が設立され、中国の北京に本部が置かれた。翌2007年には、11月3日から5日にかけて、中国の成都で「世界麻雀選手権大会」が開催された。公式にはこの大会が「第1回」として扱われる。
また、WMO主催の大会以外にもマカオの企業ワールドマージャン主催の賞金制(1位にはアメリカドルで50万ドル支払われる)の世界大会である世界麻雀大会の他、中国北京で発足 し、スイスのローザンヌに本部を置く国際麻雀連盟(英語版)による世界麻雀スポーツゲーム(英語版)も存在する。
2008年の北京オリンピックでは将棋類とともに公開競技としての導入が図られたが、国際オリンピック委員会から却下された。北京五輪後に行われた第1回ワールドマインドスポーツゲームズでは中国将棋(シャンチー)は競技になったものの麻雀は外された。
ロシアでは、麻雀アニメをきっかけとして2009年ごろから学生の間で日本式麻雀が普及しはじめ、2012年から全国の愛好者らによるトーナメント式のリーチ麻雀大会がモスクワで開催されている。
一般的には4人で行うゲームであるが、三人麻雀、二人麻雀もある。
各プレイヤーは13枚の牌を手牌として対戦相手に見えないようにして目前に配置し、順に山から牌を1枚自摸しては1枚捨てる行為を繰り返す。この手順を摸打といい、数回から十数回の摸打を通して手牌13枚とアガリ牌1枚を合わせた計14枚を定められた形に揃えることを目指す。アガリ形の組み合わせに応じて点棒のやりとりが行われ、最終的に最も多くの得点を保持していた者を勝者とする。
前述のように採用するルールについては国や地域によって異なる点が多いが、日本においては一般に花牌を使用しないルール(清麻雀)、立直を役として採用するルール(立直麻雀)が採用されている。
以下では日本において麻雀で使われる道具類について説明する。
日本では、中国で用いられるものより小さめの34種136枚の牌を使用するのが一般的である。牌の種類には萬子(ワンズ/マンズ)・筒子(ピンズ)・索子(ソーズ)・字牌(ツーパイ)がある。萬子・筒子・索子はそれぞれ一から九までの9種、字牌はさらに三元牌と四風牌に分かれ三元牌は白發中の3種、四風牌は東南西北の4種である。これら34種がそれぞれ4枚ずつ、計136枚である。
この他に花牌と呼ばれる牌が4種1枚ずつあるが、花牌は一般的なルールでは使用されない。そのため日本で販売される麻雀牌では花牌をなくし、その代わりに赤牌を追加したセットが多い。
麻雀牌などの麻雀用具は、専門店、おもちゃ屋、リサイクルショップ、オークションなどで入手できる。
点棒(てんぼう)は各プレイヤーの得点を表すために用いる細い棒である。正式にはチョーマ(籌馬)と呼ばれる。
特に棒でなければならない理由はなく、海外ではカードやチップも使われる。
点数の最小単位は100点だが大量の点棒を扱わなくてよいように、数種類の点数が用意されている。
点棒のタイプは軸色の種類により白点棒とカラー点棒の二つがある。現在の日本国内の麻雀店では全自動麻雀卓が非常に多く、点箱内の点棒を自動的に計算し、点数を表示するため、万点棒が赤、1000点棒が青のように点棒自体が色分けされて分かりやすくなっているカラー点棒が多い。
また、全自動麻雀卓用(点数表示枠用)の点棒では自動読取りを行う形式によって接触型と非接触型に分けられる。
起家マーク(チーチャマーク)は最初の親が誰かを示す目印となる物。親マークともいう。
表面に“東”、裏面には“南”と書かれている。一般的ではないが“南”のかわりに“北”と書かれているものやサイコロ状のものに東南西北が書かれ、格子にはめ込むタイプのものもある。これは場風の明示を兼ねるため使用される。
最初の親を決めるとき及び配牌時に取り始める山を決めるために、サイコロを使用する。通常は6面ダイス2個を使用するが、12面サイコロ(パッコロ)を用いる場合もある。その場合は1つのサイコロは1から12が、もう1つのサイコロには東西南北が書かれている。
なおプレイ中のサイコロは親を表す目印として、親の席の右隅に置くこととしている。
一度も和了しないまま競技単位を終えるとペナルティを受けるローカルルールがあり、その時にまだ和了(アガリ)していないことを示す目印となるとして使われる。アガリ成立の時点で裏返しにする。 このローカルルールを焼き鳥とも呼ぶ。また、和了してから一定時間内(次局開始までなど)に目印を裏返さない場合は焼き鳥状態が継続や、4人とも焼き鳥を解消した時点で、また4人全員が焼き鳥状態に戻るといったローカルルールもある。
麻雀卓(マージャンたく)または雀卓(ジャンたく)は麻雀を行うための卓で、通常60-70cm四方の正方形のテーブルである。
一般に麻雀卓は、麻雀牌が卓よりこぼれないように卓の周りに枠を設けており、麻雀牌の音を吸収するとともに麻雀牌が痛まないように緑系統あるいは青系統の色を用いたフェルト製の天板マットが張られており、洗牌(シーパイ、牌をかき混ぜる作業)や打牌に向いている。また、卓は点棒を収納する引き出しを備えている(関西向けには引き出しではなく卓の枠部分に固定され、全員に中身が見えるように作られた点棒箱を備えているものもある)。
なお点棒箱は通常全員分の点棒が入るサイズに作られるが関西では原点を超えた点棒を卓上に晒すルールが多いため、原点1人分の点棒が入るサイズとなっている。
麻雀卓は卓の形状により座卓タイプと立卓タイプに分かれる。家庭や旅館などの座敷用には座卓タイプを、椅子に腰をかけながら麻雀を行う時には立卓タイプを使用する。支柱部分が取り外し可能になっており、使用環境に応じて立卓か座卓かを選択し組み立て直すことができる製品もある。
また、麻雀卓は卓の機能により全自動麻雀卓(洗牌と山積みを電動で行う)、半自動麻雀卓(裏返し等を自動で行う)、手打卓に分かれる。
自動化された麻雀卓が出現するまで麻雀卓は手打卓であった。最近の雀荘はすべての卓を全自動麻雀卓で営業しているのが一般的であり、近年は麻雀卓といえば全自動麻雀卓を指すことが多い。手打卓は新たに出現した自動麻雀卓と区別するために用いられるようになった呼称であり、手打ち麻雀卓、手積卓などと呼ばれることもある。風営法では全自動麻雀卓(テレジャンも含む)とそれ以外の麻雀卓(マグジャンなどの半自動卓を含む)が厳密に区別されており、徴収可能な料金の上限が異なっている。
こたつやちょうど良い大きさのちゃぶ台が置いてある家庭等ではわざわざ麻雀専用にしか使い道がない麻雀卓を購入するのではなく、麻雀用のマットを購入しそれらの上で麻雀を行うこともある。こたつについては、最初から天板の裏に緑のフェルトを張ったものも以前はよく見られた。
なお、後述の三人麻雀専用で用いる正三角形の卓もある。
雀荘(ジャンそう)とは、麻雀の設備を設けて客に麻雀を遊技させる店舗である。風俗営業適正化法の条文では「まあじやん屋」と記述される。
日本国内の雀荘は、第二次世界大戦以前から都道府県の条例(京都府の場合は遊技場営業取締規則)などで規制や制限を受けていた。しばしば規制は強化され、京都府では1936年(昭和11年)に学生、未成年者の出入を禁止している。 戦後は、風俗営業適正化法が定義する風俗第四号営業に位置づけられ、これを営むには、営業所ごとに当該営業所の所在地を管轄する都道府県公安委員会の許可を受けなければならないとされている。また、同法により原則として午前0時から午前6時までの営業は禁止されている。しかし現実にはフリー雀荘の多くで深夜営業が行われており、店は窓にカーテンを引くなどして音や光が外部に漏れないようにしてこっそりと営業されている。
営業の形式には、大きく分けて2種類ある。3人から4人あるいはそれ以上の人数で店舗に出向き、麻雀卓を借りる形式のセット雀荘と、1人で行って不特定の相手と対戦する形式のフリー雀荘である。セット雀荘には「貸卓専門」、フリー雀荘には「お一人様でも遊べます」といった内容の看板などが掲げられており、それによって営業形態を察することができる。セット雀荘のほとんどは貸卓を専門としているが、フリー雀荘は貸卓営業を併行して行っていることが多い。フリー雀荘の場合、時間帯によっては来客が中途半端で卓が成り立たない場合があるほか、客が都合で一時的に卓から抜ける際に進行を止めたくない等の事情もあり、その場合は「メンバー」と呼ばれる店員が加わることでゲームを成立させる。
遊技料は風俗営業適正化法施行規則により定められており、現在は客1人当たりの時間を基礎として計算する場合1時間600円(全自動卓)、1卓につき時間を基礎として計算する場合1時間2400円(全自動卓)を超えないこととなっている。よってフリー雀荘の多くは1回○○円となっているが、1時間換算で料金が上記を超える場合は違法である。 高級なセット雀荘や、黙認される上限ギリギリのレートで営業するフリー雀荘では、上限いっぱいの料金を設定している。
雀士の資格・語義は一義的ではない。麻雀愛好家という程度の意味(麻雀子と同義)に解されることも多い。日本プロ麻雀棋士会のように棋士と呼ぶ例もある。
日本の法律では職業として麻雀を行うのに資格は必要ないが、競技を開催する団体の認定が必要である。競技麻雀のプロ団体は現在9団体である。プロ団体に所属していないフリープロも存在する。
五十嵐毅などは「プロ」という用語を「プロフェッショナル」ではなく「プロパー」(生え抜き)の略として解釈する。
☆主要プロ団体代表(会長)は全員掲載。
前節に挙げたプロ雀士には、複数の麻雀戦術書・指南書を刊行している者もいる。本節ではプロ雀士の他に、プロ雀士ではないが麻雀に関する複数の著作物を世に出している人物も列する。
麻雀から賭博要素を排除し、ルールを調整してマインドスポーツとして競技化した麻雀は「競技麻雀」と呼ばれる。
昭和期の麻雀ブームの頃は専門誌が刊行されたが、現在では一般の書店に並ぶ専門誌は存在しない。
麻雀を題材とした漫画のみを掲載した雑誌。詳細は麻雀漫画参照。現在発行されているのは竹書房から刊行されている1誌のみ。
麻雀は夜通しで行われることも多い。こうした麻雀は徹夜マージャン、もしくは略して「徹マン」と呼ばれる。
参加人数が4人しかいなければ、寝ることもままならず体力的にもかなりきつい。それでも大学生など若者を中心に、麻雀愛好家は徹夜マージャンを盛んに行う傾向にある。 参加人数が5人以上であれば、1人は競技に参加できない半荘が発生する。競技に参加できない者を「抜け番」と言い、仮眠を取って次の半荘に備えることができる。
麻雀の不健全なイメージ(賭博と酒、タバコ、徹夜など)を排除すべく、脳の機能の維持などを目的として起案された麻雀。健康麻将(けんこうマージャン)とも呼ばれ、脳のトレーニングや老化防止にも活用されている。
映像作品に玉利祐助監督の長編記録映画「少子超高齢化する現代社会における『健康マージャン』の社会性の報告」がある。
一般に麻雀は賭博的な要素を持つ遊技と認識されており、大人に限らず未成年者がプレーする場合でも金品のやりとりを伴うことが多い。
日本において、公営ギャンブル以外のギャンブルは賭博であり、刑法上の犯罪である 。個人間での賭博が違法で無い国では金銭をかけた麻雀が行われている。
麻雀は零和ゲーム(全員の点数の合計が常に一定:ゼロサムゲーム)であるため点数のやりとりをそのまま賭け金のやりとりに換算しやすい。さらに思考ゲームであると同時に偶然の要素も強く、運・実力共に結果に反映されることからギャンブルとして馴染みやすい。
結果に従ってやりとりする金額は普通、ウマ等を考慮した得失点1000点につき何円というレートが設定される。1000点あたり10円なら「点1(テンイチ)」、50円なら「点5(テンゴ)」、100円なら「ピン」(または「テンピン」)、200円なら「リャンピン」、1000円なら「デカピン」、10000円なら「デカデカピン」と言われる。日本の法律および判例では金銭については額の多少に関わらず一時の娯楽に供するものとは見なされない(大審院大正13年2月9日、最判昭和23年10月7日など)ため、原理的にはこれらすべてのレートに対し賭博罪が成立する。2011年には、比較的少額とされる点5雀荘も摘発された。1000点あたり1000円を超えるような高レートの設定といった高額の金品等を賭けるケースは、人目を忍んでマンションの一室で催されるという意味でマンション麻雀などと呼ばれる。
その他のギャンブル(カジノなどで行われている多くのものや公営競技など)と異なる点として点棒の移動によって異なる負け金を勝負の後に出すことから控除率の計算が難しいが、ギャンブルとしては公営競技などと比しても破格の高さで特に1000点20円以下の低レートでは控除率が100%を超えることすらある。例として1000点20円、2の2-4のレートで場代が1人250円の場合で30000点丁度の一人浮きトップを取った場合を例に取ればトップ者の収入(=敗者の支出合計)は800円であるがこれに対しハウスが徴収するコミッション(控除額)は1000円となる。したがって、控除率は125%となる。
なお負けた者の支払いが本人によって行われない場合(たとえば大会においてスポンサーがあり、勝者に賞金を提供するなど)、または勝った者の利益が本人の手に渡らない場合は賭博罪には当たらない。
雀荘で不特定の客同士が卓を囲む場合は、レート設定で対立することのないように雀荘側で公式レートを定めていることが多い。この公式レートはウマとあわせて店外に掲示されているが、「風速」などと婉曲表現されていたり、サイコロの目のイラストで示されていることが多い。例えば「風速0.5」とあれば、それは1000点で50円のレートであるという意味である。
多くの雀荘、預かり金と称して、5000円から1万円を客から預かることもあり、客が負けて手持ちがなくなっても一定程度払えるようにしている。また、それでも足りなければ、「アウト」と称して店が不足分を立て替える雀荘もある。
賭博要素を排除した麻雀は「ノーレート麻雀」と呼ばれる。 | [
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"text": "麻雀(マージャン、繁体字中国語: 麻將、簡体字中国語: 麻将、英語: Mahjong)は、テーブルゲームの一種。牌を使い、原則として4人で行われる。中国を起源とし、世界中で親しまれている。",
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"text": "本記事では、麻雀というゲーム一般について説明するとともに、その中でも特に「リーチ麻雀(英語: Riichi Mahjong)」とも称される日本式麻雀について詳述する。",
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"text": "4人のプレイヤーがテーブルを囲み、数十枚から百枚あまりの牌を引いて役を揃えることを数回行い、得点を重ねていくゲーム。勝敗はゲーム終了時における得点の多寡と順位で決定される。ゲームのルールは非常に複雑であるが発祥の地である中国のほか、日本、東南アジア、アメリカ合衆国などの国々で親しまれている。",
"title": "概要"
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"text": "現在の中国語では麻雀のことを一般に「麻將」(マージアン 拼音: májiàng 注音: ㄇㄚˊㄐㄧㄤˋ)という。「麻雀」(マーチュエ 拼音: máquè 注音: ㄇㄚˊㄑㄩㄝˋ)は中国語ではスズメを意味する。ちなみに麻雀をするというのは「打麻將」(ダー マージアン dǎ má jiàng ㄉㄚˇㄇㄚˊㄐㄧㄤˋ)という。麻雀発祥地の寧波で話される呉語では麻雀と麻将が同音であったため、中国の北方に伝来した際に麻将の名前で広まり中国語の呼称となったが、中国北方を通さず寧波から直接伝来した日本語、広東語や台湾語では呉語と同様に「麻雀」というのが普通である(粤拼:maa4zoek3、白話字:môa-chhiok/bâ-chhiok)。香港ではスズメと区別するために「蔴雀」と書くことがある。戦前の日本では「魔雀(モージャン)」と表記することもあった。",
"title": "概要"
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"text": "日本では34種類136枚の牌を使うのが一般的で、麻雀卓と呼ばれる麻雀専用のテーブルが用いられる。麻雀卓などの専用の道具がなくともプレイできるように、カードにした簡易版の道具も市販されている。使用する道具や採用するルールについては国や地域によって異なる点が多く、日本国内でも標準的とされるルールのほかに、様々なローカルルールが存在する。",
"title": "概要"
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"text": "現在の日本では、家庭や麻雀店(雀荘)で遊ばれるほか、ゲームセンターや家庭用コンピュータゲームやオンラインゲームでもプレイすることができる。昭和期における麻雀ブームの時期と比較すると雀荘の数や麻雀専門誌の数は減少傾向にあるが、コンピュータとの対戦やネットワークを通じた不特定の相手との対戦が可能になったことで、形を変えて人気を保っている。また、効率性を思考することや指先の運動により認知症の予防にも役立つという説もある。",
"title": "概要"
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"text": "参加人口は日本では2019年時点で510万人と2016年以降500万人台で推移していたが、2020年のコロナショックで400万人に急減した。アジア全体では3億5千万人を数える。",
"title": "概要"
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"text": "起源には諸説がある。紀元前6世紀頃、孔子が発明したという説もあるが有力ではない。",
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"text": "最も有力な説は、清の同治年間(1862 - 1874年)に寧波の陳魚門が、12世紀以前に存在した「葉子(馬弔・マーディアオ)」というカードゲームと明代(1368 - 1644年)以前から存在した「骨牌」というドミノのような遊戯を合体させて「麻雀(マージャン)」を完成させたとするものである。",
"title": "麻雀の歴史 "
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"text": "なお、葉子は欧州に伝わり、トランプとなったともいわれる。",
"title": "麻雀の歴史 "
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"text": "明の成化年間の陸容 (1466-1494)『菽園雑記』の記すところによると、当時の昆山で一種のカードゲームが流行しており、カードの総数は38枚であって、一銭から九銭・一百から九百・一万貫から九万貫・二十万貫から九十万貫・百万貫・千万貫・万万貫からなっていた。「糸巻き」の様に見える図柄は、「銭の穴に糸を通した束」で、「サイコロの目」の様に見える図は「銭を正面から見た図」である。一万貫以上のカードには『水滸伝』中の二十人の絵が描かれており万万貫は宋江・千万貫は武松等となっていた(ただし「混江竜李進」と「混江竜李海」が別人として存在するなど、現行の水滸伝とは名前が多少異なっている)。当時の人はこの種のカードを「葉子」と呼び、葉子を使ったカードゲーム自身のことは「葉子戯」と呼んでいた。今では水滸牌と呼ぶことが多い。",
"title": "麻雀の歴史 "
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"text": "語源については、上記の「馬弔(マーディアオ)」が日本で転訛して「麻雀(マージャン)」となったとされる。",
"title": "麻雀の歴史 "
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"text": "1949年に中華人民共和国政府によって一旦、全てのギャンブルと共に禁止された。しかし、文化大革命終結後の改革開放に伴ってギャンブルでない麻雀は許されるようになり、1985年には禁止令が解除された。",
"title": "麻雀の歴史 "
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"text": "1895年、アメリカ合衆国の人類学者スチュワート・キューリンは麻雀に言及した記事を書いた。これは中国語以外の言語で書かれた最初の麻雀についての記述であった。1910年までにはフランス語や日本語の文献も出揃った。1920年、アバークロンビー・アンド・フィッチ社は初めて合衆国に麻雀を輸入し販売を開始した。麻雀セットはニューヨーク市を中心にヒット商品となり、合計で12000セットを売り上げた。また、同時期にジョセフ・パーク・バブコックが世界初の麻雀本となる\"Rules of Mah-Jongg\"を出版した。",
"title": "麻雀の歴史 "
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"text": "1920年代の合衆国で麻雀は全ての人種の間で流行しアメリカ式のルールや役が生まれ、多くの「マージャン・ナイト」が開かれた。人々は中国風の装飾が施された部屋に着飾って集まり、これに親しんだ。エディ・カンターの\"Since Ma is Playing Mah Jong\"など、マージャンを主題にした流行歌も幾つか生まれた。",
"title": "麻雀の歴史 "
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"text": "1937年には初のルールブックとなる\"Maajh: The American Version of the Ancient Chinese Game.\"が出版されるとともに、全米麻雀リーグ (National Mah Jongg League, NMJL) が発足した。しかし、合衆国における麻雀の流行は一過性のものに終わった。",
"title": "麻雀の歴史 "
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"text": "1980年代にコンピュータ用ゲーム『上海』が登場して以来、「mahjong」「mahjongg」「mah-jang」という表現が再び一般的に使われるようになるが、それらは『上海』タイプのパズルゲームを指しており、中には麻雀牌以外の絵柄を使っているものも存在する 。",
"title": "麻雀の歴史 "
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"text": "記録に残るうえで実際の麻雀牌が日本に伝わったのは1909(明治42)年に清からこれを持ち帰った名川彦作によるものであり、大正中期以降はルール面において独自の変化を遂げつつ各地に広まっていったともいうが、一般に認知されるようになったのは関東大震災の後である。神楽坂のカフェー・プランタンで文藝春秋の菊池寛らが麻雀に熱中し、次第に雑誌等にも取り上げられるようになった。文藝春秋社では、みずから麻雀牌を販売していた。 なお、日本人で初めて麻雀に言及したのは大正・昭和戦前期の中国文学・中国文化研究者の井上紅梅であり、『支那風俗』(1921年、全3巻)の中巻では麻雀の起源やルールについて記述している。異説として夏目漱石が挙げられることもあるが、これは中村徳三郎が『麻雀競技法』(1924年)において、『満韓ところどころ』(1909年)内の大連での見聞である「四人で博奕を打っていた。(略)厚みも大きさも将棋の飛車角ぐらいに当る札を五六十枚ほど四人で分けて、それをいろいろに並べかえて勝負を決していた。」という記述を引き合いにしたものである。ただし、中国の麻雀牌にしては厚みや大きさがないことや枚数が少なすぎることから別のゲームであった可能性も指摘されている。",
"title": "麻雀の歴史 "
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"text": "1929年(昭和4年)3月21日、東京で初の麻雀全国大会が開かれ、350人が参加した。1930年7月10日、警視庁は麻雀屋の新設を禁止した(1930年5月現在937店)。",
"title": "麻雀の歴史 "
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"text": "1933年(昭和8年)、不良華族事件の捜査の過程で、著名な文士や出版関係者らの常習賭博が明らかになり逮捕者が相次いだ。この逮捕を受けて、文士だけではないとの声が高まり、翌1934年(昭和9年)にも医師や画家、音楽家、実業家、代議士など著名人の検挙が相次いだ。この頃、日本麻雀連盟の関係者が行っていた賭けのレートは1000点10円ないし15円であった。",
"title": "麻雀の歴史 "
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"text": "1937年(昭和12年)日中戦争開戦前の頃には東京都内に約2000軒の麻雀クラブがあったが、戦時色が濃くなるにつれて麻雀も下火とならざるを得なくなり、1942年(昭和17年)の時点では230軒余と激減した。業者の団体は警視庁の指導に基づき同年9月1日より「麻雀」を「卓技」と名称を改め、東京卓技商業報国会を結成。健全娯楽化を目指した。",
"title": "麻雀の歴史 "
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"text": "終戦後再び麻雀は流行し始め、戦前から行われていたアルシーアル麻雀に「途中リーチ」(現在の立直)・ドラ・場ゾロなどを加えた新ルールが取り入れられるようになり、アレンジを加えられた日本式の麻雀(リーチ麻雀)が主流を占めるようになった。1952年には天野大三が報知新聞(現在のスポーツ報知)に日本で最初に立直およびドラを成文化した「一九五三年度リーチ麻雀標準規程」(通称:報知ルール)を発表、同年には競技麻雀団体の日本牌棋院を設立しリーチ麻雀の原型を作った。 アルシーアル麻雀は1947年に再建された日本麻雀連盟などを中心に現在も行われてはいるが、次第に主流からは外れていった。",
"title": "麻雀の歴史 "
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"text": "1969年、阿佐田哲也は『週刊大衆』で『麻雀放浪記』シリーズの連載を開始。1970年には阿佐田、小島武夫、古川凱章らが麻雀新撰組を結成。",
"title": "麻雀の歴史 "
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"text": "同年『週刊大衆』で名人戦開始。1972年に『近代麻雀』、1975年に「プロ麻雀」が創刊され、麻雀ブームが起きた。1976年には竹書房主催で、プロのタイトル戦「最高位戦」が開始された。『レジャー白書』によるとピーク時の1982年の参加人口は2140万人であり、この時期、多くの大学生やサラリーマンが手軽な小遣い稼ぎやコミュニケーションツールとして麻雀に親しんだ。しかし、同時に賭博・喫煙・飲酒・徹夜などの不健康なイメージが広がったため、1988年にはそれらを廃して麻雀を楽しむことを目的とした日本健康麻将協会が設立された(#健康マージャンも参照)。",
"title": "麻雀の歴史 "
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"text": "麻雀におけるコンピュータゲームの普及は1975年頃からであるが、業務用(アーケードゲーム)で現在のものに近いゲームシステムが導入された最初の麻雀コンピュータゲームは1981年3月のジャンピューター(アルファ電子)であった。このゲームは一世を風靡し、ゲームセンターや喫茶店に数多く見ることができた。その後、対戦相手のコンピュータの画像を女性をモチーフとしプレイヤーが勝つ毎にその女性の衣服を脱がせるという、いわゆる「脱衣麻雀」のコンセプトが大当たりした。年代と共に映像技術も向上し、性能や官能性もアップした。ゲームセンターでは麻雀ゲームはアダルトゲームの代名詞でもあった。",
"title": "麻雀の歴史 "
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"text": "1990年代後半から2000年代にかけてのインターネットの普及や通信対戦の発展により、自宅やゲームセンターなどで容易に対局が可能になった。1997年にはオンライン対戦麻雀の先駆けとなる『東風荘』がサービス開始、2002年には通信機能を持たせ全国のプレーヤーと対戦できる麻雀アーケードゲーム『セガネットワーク対戦麻雀MJ』『麻雀格闘倶楽部』が稼動を開始し、2004年には携帯麻雀ゲーム『ジャンナビ四人麻雀オンライン』が稼動を開始した。2006年にはオンライン対戦麻雀『半熟荘(2007年に天鳳に改称)』がサービス開始した。2019年にはオンライン対戦麻雀『雀魂』が日本でサービス開始した。",
"title": "麻雀の歴史 "
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"text": "こうしたオンライン麻雀の普及に伴い、次第に学生競技麻雀やオープントーナメントの予選や大会そのものがオンライン麻雀を会場として行われることが増えていき、競技団体所属のプロ雀士もゲームとの提携やイベント、あるいは一プレイヤーとして参戦することが増えていった。",
"title": "麻雀の歴史 "
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"text": "1990年、天野晴夫が『リーチ麻雀論改革派』(南雲社)において麻雀戦術論からの抽象の排除を提唱した。その中で小島、田村光昭など当時の有名麻雀プロや在野の桜井章一らの麻雀論を「ツキ」「勘」「流れ」といった抽象論に支配されている非科学的なものであると批判した。天野は抽象的な要因を考慮することは的確な情報判断を鈍らせる原因にこそなれ、麻雀の上達には繋がらないと主張した。これがいわゆる「デジタル雀士」のさきがけである。",
"title": "麻雀の歴史 "
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"text": "2004年、とつげき東北の『科学する麻雀』が講談社現代新書から出版された。とつげきは前の局の結果が次の局に影響を及ぼすとするいわゆる「流れ論」を徹底的に否定しており、本著でも確率論を基礎とした統計学的な麻雀戦略を提唱している。「このような時にはこう打つ」と明確にかつ論理的に場面に応じた打ち方を指導している点が特徴である。これらデジタル麻雀に対して「ツキ」「勘」「流れ」を重視する雀士も多く、そのような戦術論はアナログやオカルト派と呼ばれている。",
"title": "麻雀の歴史 "
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"text": "2018年、Mリーグの開始を機に対局の動画配信を楽しむスタイル、通称「見る雀」がブームになる。2019年には前年に中華人民共和国でサービスを開始していたオンライン対戦麻雀『雀魂』の日本語版がサービス開始。バーチャルYouTuberやプロ雀士などのYouTube配信によって人気を博している。",
"title": "麻雀の歴史 "
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"text": "2002年10月23日から27日にかけて、東京で「2002 世界麻雀選手権大会」が開催される。日本の初音舞が優勝し、ジョン・オコーナーが準優勝した。2006年に世界麻雀機構 (WMO) が設立され、中国の北京に本部が置かれた。翌2007年には、11月3日から5日にかけて、中国の成都で「世界麻雀選手権大会」が開催された。公式にはこの大会が「第1回」として扱われる。",
"title": "麻雀の歴史 "
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"text": "また、WMO主催の大会以外にもマカオの企業ワールドマージャン主催の賞金制(1位にはアメリカドルで50万ドル支払われる)の世界大会である世界麻雀大会の他、中国北京で発足 し、スイスのローザンヌに本部を置く国際麻雀連盟(英語版)による世界麻雀スポーツゲーム(英語版)も存在する。",
"title": "麻雀の歴史 "
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"text": "2008年の北京オリンピックでは将棋類とともに公開競技としての導入が図られたが、国際オリンピック委員会から却下された。北京五輪後に行われた第1回ワールドマインドスポーツゲームズでは中国将棋(シャンチー)は競技になったものの麻雀は外された。",
"title": "麻雀の歴史 "
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"text": "ロシアでは、麻雀アニメをきっかけとして2009年ごろから学生の間で日本式麻雀が普及しはじめ、2012年から全国の愛好者らによるトーナメント式のリーチ麻雀大会がモスクワで開催されている。",
"title": "麻雀の歴史 "
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"text": "一般的には4人で行うゲームであるが、三人麻雀、二人麻雀もある。",
"title": "ルール"
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"text": "各プレイヤーは13枚の牌を手牌として対戦相手に見えないようにして目前に配置し、順に山から牌を1枚自摸しては1枚捨てる行為を繰り返す。この手順を摸打といい、数回から十数回の摸打を通して手牌13枚とアガリ牌1枚を合わせた計14枚を定められた形に揃えることを目指す。アガリ形の組み合わせに応じて点棒のやりとりが行われ、最終的に最も多くの得点を保持していた者を勝者とする。",
"title": "ルール"
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"text": "前述のように採用するルールについては国や地域によって異なる点が多いが、日本においては一般に花牌を使用しないルール(清麻雀)、立直を役として採用するルール(立直麻雀)が採用されている。",
"title": "ルール"
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"text": "以下では日本において麻雀で使われる道具類について説明する。",
"title": "道具"
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"text": "日本では、中国で用いられるものより小さめの34種136枚の牌を使用するのが一般的である。牌の種類には萬子(ワンズ/マンズ)・筒子(ピンズ)・索子(ソーズ)・字牌(ツーパイ)がある。萬子・筒子・索子はそれぞれ一から九までの9種、字牌はさらに三元牌と四風牌に分かれ三元牌は白發中の3種、四風牌は東南西北の4種である。これら34種がそれぞれ4枚ずつ、計136枚である。",
"title": "道具"
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{
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"text": "この他に花牌と呼ばれる牌が4種1枚ずつあるが、花牌は一般的なルールでは使用されない。そのため日本で販売される麻雀牌では花牌をなくし、その代わりに赤牌を追加したセットが多い。",
"title": "道具"
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"text": "麻雀牌などの麻雀用具は、専門店、おもちゃ屋、リサイクルショップ、オークションなどで入手できる。",
"title": "道具"
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{
"paragraph_id": 41,
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"text": "点棒(てんぼう)は各プレイヤーの得点を表すために用いる細い棒である。正式にはチョーマ(籌馬)と呼ばれる。",
"title": "道具"
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"text": "特に棒でなければならない理由はなく、海外ではカードやチップも使われる。",
"title": "道具"
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{
"paragraph_id": 43,
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"text": "点数の最小単位は100点だが大量の点棒を扱わなくてよいように、数種類の点数が用意されている。",
"title": "道具"
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{
"paragraph_id": 44,
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"text": "点棒のタイプは軸色の種類により白点棒とカラー点棒の二つがある。現在の日本国内の麻雀店では全自動麻雀卓が非常に多く、点箱内の点棒を自動的に計算し、点数を表示するため、万点棒が赤、1000点棒が青のように点棒自体が色分けされて分かりやすくなっているカラー点棒が多い。",
"title": "道具"
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"text": "また、全自動麻雀卓用(点数表示枠用)の点棒では自動読取りを行う形式によって接触型と非接触型に分けられる。",
"title": "道具"
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{
"paragraph_id": 46,
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"text": "起家マーク(チーチャマーク)は最初の親が誰かを示す目印となる物。親マークともいう。",
"title": "道具"
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{
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"text": "表面に“東”、裏面には“南”と書かれている。一般的ではないが“南”のかわりに“北”と書かれているものやサイコロ状のものに東南西北が書かれ、格子にはめ込むタイプのものもある。これは場風の明示を兼ねるため使用される。",
"title": "道具"
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{
"paragraph_id": 48,
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"text": "最初の親を決めるとき及び配牌時に取り始める山を決めるために、サイコロを使用する。通常は6面ダイス2個を使用するが、12面サイコロ(パッコロ)を用いる場合もある。その場合は1つのサイコロは1から12が、もう1つのサイコロには東西南北が書かれている。",
"title": "道具"
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{
"paragraph_id": 49,
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"text": "なおプレイ中のサイコロは親を表す目印として、親の席の右隅に置くこととしている。",
"title": "道具"
},
{
"paragraph_id": 50,
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"text": "一度も和了しないまま競技単位を終えるとペナルティを受けるローカルルールがあり、その時にまだ和了(アガリ)していないことを示す目印となるとして使われる。アガリ成立の時点で裏返しにする。 このローカルルールを焼き鳥とも呼ぶ。また、和了してから一定時間内(次局開始までなど)に目印を裏返さない場合は焼き鳥状態が継続や、4人とも焼き鳥を解消した時点で、また4人全員が焼き鳥状態に戻るといったローカルルールもある。",
"title": "道具"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "麻雀卓(マージャンたく)または雀卓(ジャンたく)は麻雀を行うための卓で、通常60-70cm四方の正方形のテーブルである。",
"title": "道具"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "一般に麻雀卓は、麻雀牌が卓よりこぼれないように卓の周りに枠を設けており、麻雀牌の音を吸収するとともに麻雀牌が痛まないように緑系統あるいは青系統の色を用いたフェルト製の天板マットが張られており、洗牌(シーパイ、牌をかき混ぜる作業)や打牌に向いている。また、卓は点棒を収納する引き出しを備えている(関西向けには引き出しではなく卓の枠部分に固定され、全員に中身が見えるように作られた点棒箱を備えているものもある)。",
"title": "道具"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "なお点棒箱は通常全員分の点棒が入るサイズに作られるが関西では原点を超えた点棒を卓上に晒すルールが多いため、原点1人分の点棒が入るサイズとなっている。",
"title": "道具"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "麻雀卓は卓の形状により座卓タイプと立卓タイプに分かれる。家庭や旅館などの座敷用には座卓タイプを、椅子に腰をかけながら麻雀を行う時には立卓タイプを使用する。支柱部分が取り外し可能になっており、使用環境に応じて立卓か座卓かを選択し組み立て直すことができる製品もある。",
"title": "道具"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "また、麻雀卓は卓の機能により全自動麻雀卓(洗牌と山積みを電動で行う)、半自動麻雀卓(裏返し等を自動で行う)、手打卓に分かれる。",
"title": "道具"
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{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "自動化された麻雀卓が出現するまで麻雀卓は手打卓であった。最近の雀荘はすべての卓を全自動麻雀卓で営業しているのが一般的であり、近年は麻雀卓といえば全自動麻雀卓を指すことが多い。手打卓は新たに出現した自動麻雀卓と区別するために用いられるようになった呼称であり、手打ち麻雀卓、手積卓などと呼ばれることもある。風営法では全自動麻雀卓(テレジャンも含む)とそれ以外の麻雀卓(マグジャンなどの半自動卓を含む)が厳密に区別されており、徴収可能な料金の上限が異なっている。",
"title": "道具"
},
{
"paragraph_id": 57,
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"text": "こたつやちょうど良い大きさのちゃぶ台が置いてある家庭等ではわざわざ麻雀専用にしか使い道がない麻雀卓を購入するのではなく、麻雀用のマットを購入しそれらの上で麻雀を行うこともある。こたつについては、最初から天板の裏に緑のフェルトを張ったものも以前はよく見られた。",
"title": "道具"
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{
"paragraph_id": 58,
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"text": "なお、後述の三人麻雀専用で用いる正三角形の卓もある。",
"title": "道具"
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{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "雀荘(ジャンそう)とは、麻雀の設備を設けて客に麻雀を遊技させる店舗である。風俗営業適正化法の条文では「まあじやん屋」と記述される。",
"title": "遊戯施設"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "日本国内の雀荘は、第二次世界大戦以前から都道府県の条例(京都府の場合は遊技場営業取締規則)などで規制や制限を受けていた。しばしば規制は強化され、京都府では1936年(昭和11年)に学生、未成年者の出入を禁止している。 戦後は、風俗営業適正化法が定義する風俗第四号営業に位置づけられ、これを営むには、営業所ごとに当該営業所の所在地を管轄する都道府県公安委員会の許可を受けなければならないとされている。また、同法により原則として午前0時から午前6時までの営業は禁止されている。しかし現実にはフリー雀荘の多くで深夜営業が行われており、店は窓にカーテンを引くなどして音や光が外部に漏れないようにしてこっそりと営業されている。",
"title": "遊戯施設"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "営業の形式には、大きく分けて2種類ある。3人から4人あるいはそれ以上の人数で店舗に出向き、麻雀卓を借りる形式のセット雀荘と、1人で行って不特定の相手と対戦する形式のフリー雀荘である。セット雀荘には「貸卓専門」、フリー雀荘には「お一人様でも遊べます」といった内容の看板などが掲げられており、それによって営業形態を察することができる。セット雀荘のほとんどは貸卓を専門としているが、フリー雀荘は貸卓営業を併行して行っていることが多い。フリー雀荘の場合、時間帯によっては来客が中途半端で卓が成り立たない場合があるほか、客が都合で一時的に卓から抜ける際に進行を止めたくない等の事情もあり、その場合は「メンバー」と呼ばれる店員が加わることでゲームを成立させる。",
"title": "遊戯施設"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "遊技料は風俗営業適正化法施行規則により定められており、現在は客1人当たりの時間を基礎として計算する場合1時間600円(全自動卓)、1卓につき時間を基礎として計算する場合1時間2400円(全自動卓)を超えないこととなっている。よってフリー雀荘の多くは1回○○円となっているが、1時間換算で料金が上記を超える場合は違法である。 高級なセット雀荘や、黙認される上限ギリギリのレートで営業するフリー雀荘では、上限いっぱいの料金を設定している。",
"title": "遊戯施設"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "雀士の資格・語義は一義的ではない。麻雀愛好家という程度の意味(麻雀子と同義)に解されることも多い。日本プロ麻雀棋士会のように棋士と呼ぶ例もある。",
"title": "雀士"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "日本の法律では職業として麻雀を行うのに資格は必要ないが、競技を開催する団体の認定が必要である。競技麻雀のプロ団体は現在9団体である。プロ団体に所属していないフリープロも存在する。",
"title": "雀士"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "五十嵐毅などは「プロ」という用語を「プロフェッショナル」ではなく「プロパー」(生え抜き)の略として解釈する。",
"title": "雀士"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "☆主要プロ団体代表(会長)は全員掲載。",
"title": "雀士"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "前節に挙げたプロ雀士には、複数の麻雀戦術書・指南書を刊行している者もいる。本節ではプロ雀士の他に、プロ雀士ではないが麻雀に関する複数の著作物を世に出している人物も列する。",
"title": "雀士"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "麻雀から賭博要素を排除し、ルールを調整してマインドスポーツとして競技化した麻雀は「競技麻雀」と呼ばれる。",
"title": "麻雀競技"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "昭和期の麻雀ブームの頃は専門誌が刊行されたが、現在では一般の書店に並ぶ専門誌は存在しない。",
"title": "出版物"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "麻雀を題材とした漫画のみを掲載した雑誌。詳細は麻雀漫画参照。現在発行されているのは竹書房から刊行されている1誌のみ。",
"title": "出版物"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "麻雀は夜通しで行われることも多い。こうした麻雀は徹夜マージャン、もしくは略して「徹マン」と呼ばれる。",
"title": "麻雀に関する文化"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "参加人数が4人しかいなければ、寝ることもままならず体力的にもかなりきつい。それでも大学生など若者を中心に、麻雀愛好家は徹夜マージャンを盛んに行う傾向にある。 参加人数が5人以上であれば、1人は競技に参加できない半荘が発生する。競技に参加できない者を「抜け番」と言い、仮眠を取って次の半荘に備えることができる。",
"title": "麻雀に関する文化"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "麻雀の不健全なイメージ(賭博と酒、タバコ、徹夜など)を排除すべく、脳の機能の維持などを目的として起案された麻雀。健康麻将(けんこうマージャン)とも呼ばれ、脳のトレーニングや老化防止にも活用されている。",
"title": "麻雀に関する文化"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "映像作品に玉利祐助監督の長編記録映画「少子超高齢化する現代社会における『健康マージャン』の社会性の報告」がある。",
"title": "麻雀に関する文化"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "一般に麻雀は賭博的な要素を持つ遊技と認識されており、大人に限らず未成年者がプレーする場合でも金品のやりとりを伴うことが多い。",
"title": "麻雀に関する文化"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "日本において、公営ギャンブル以外のギャンブルは賭博であり、刑法上の犯罪である 。個人間での賭博が違法で無い国では金銭をかけた麻雀が行われている。",
"title": "麻雀に関する文化"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "麻雀は零和ゲーム(全員の点数の合計が常に一定:ゼロサムゲーム)であるため点数のやりとりをそのまま賭け金のやりとりに換算しやすい。さらに思考ゲームであると同時に偶然の要素も強く、運・実力共に結果に反映されることからギャンブルとして馴染みやすい。",
"title": "麻雀に関する文化"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "結果に従ってやりとりする金額は普通、ウマ等を考慮した得失点1000点につき何円というレートが設定される。1000点あたり10円なら「点1(テンイチ)」、50円なら「点5(テンゴ)」、100円なら「ピン」(または「テンピン」)、200円なら「リャンピン」、1000円なら「デカピン」、10000円なら「デカデカピン」と言われる。日本の法律および判例では金銭については額の多少に関わらず一時の娯楽に供するものとは見なされない(大審院大正13年2月9日、最判昭和23年10月7日など)ため、原理的にはこれらすべてのレートに対し賭博罪が成立する。2011年には、比較的少額とされる点5雀荘も摘発された。1000点あたり1000円を超えるような高レートの設定といった高額の金品等を賭けるケースは、人目を忍んでマンションの一室で催されるという意味でマンション麻雀などと呼ばれる。",
"title": "麻雀に関する文化"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "その他のギャンブル(カジノなどで行われている多くのものや公営競技など)と異なる点として点棒の移動によって異なる負け金を勝負の後に出すことから控除率の計算が難しいが、ギャンブルとしては公営競技などと比しても破格の高さで特に1000点20円以下の低レートでは控除率が100%を超えることすらある。例として1000点20円、2の2-4のレートで場代が1人250円の場合で30000点丁度の一人浮きトップを取った場合を例に取ればトップ者の収入(=敗者の支出合計)は800円であるがこれに対しハウスが徴収するコミッション(控除額)は1000円となる。したがって、控除率は125%となる。",
"title": "麻雀に関する文化"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "なお負けた者の支払いが本人によって行われない場合(たとえば大会においてスポンサーがあり、勝者に賞金を提供するなど)、または勝った者の利益が本人の手に渡らない場合は賭博罪には当たらない。",
"title": "麻雀に関する文化"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "雀荘で不特定の客同士が卓を囲む場合は、レート設定で対立することのないように雀荘側で公式レートを定めていることが多い。この公式レートはウマとあわせて店外に掲示されているが、「風速」などと婉曲表現されていたり、サイコロの目のイラストで示されていることが多い。例えば「風速0.5」とあれば、それは1000点で50円のレートであるという意味である。",
"title": "麻雀に関する文化"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "多くの雀荘、預かり金と称して、5000円から1万円を客から預かることもあり、客が負けて手持ちがなくなっても一定程度払えるようにしている。また、それでも足りなければ、「アウト」と称して店が不足分を立て替える雀荘もある。",
"title": "麻雀に関する文化"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "賭博要素を排除した麻雀は「ノーレート麻雀」と呼ばれる。",
"title": "麻雀に関する文化"
}
] | 麻雀は、テーブルゲームの一種。牌を使い、原則として4人で行われる。中国を起源とし、世界中で親しまれている。 本記事では、麻雀というゲーム一般について説明するとともに、その中でも特に「リーチ麻雀」とも称される日本式麻雀について詳述する。 | {{複数の問題
|出典の明記 = 2015年10月
|独自研究 = 2015年10月
}}
{{Chinese
|pic = Mahjong in Hangzhou.jpg
|picsize = 200px
|piccap = 中国・[[杭州市]]の公園で麻雀を楽しむ人々
|t = 麻將
|s = 麻将
|gan = ma4 chiong4
|p = Má jiàng
|bpmf = ㄇㄚˊㄐㄧㄤˋ
|j = maa4 zoeng3
|y = ma4 jeung3
|h = ma jiong3
|wuu = mo ziang
|t2 = 麻雀
|s2 = 麻雀
|p2 = Má què
|bpmf2 = ㄇㄚˊㄑㄩㄝˋ
|j2 = maa4 zoek3
|y2 = ma4 jeuk3
|h2 = ma4 jiok3
|gan2 = ma4 chhiok6
|wuu2 = mo ziang(麻雀兒)
|poj2 = Moâ-chhiok
|buc2 = Mà-chiók
|hhbuc2 = Má-chio̤h
|kanji = 麻雀
|kana = マージャン
|romaji = mājan
|hangul = 마작
|hanja = 麻雀
|rr = majak
|mr = machak
|vie = mạt chược
|tha = ไพ่นกกระจอก
}}
[[File:Mahjong setup wall 4.jpg|thumb|正方形に配置された麻雀牌]]
[[File:MahjongSet6a.jpg|thumb|摸打中の麻雀牌]]
[[File:Mahjong game.jpg|thumb|摸打中の日本麻雀]]
'''麻雀'''(マージャン、{{lang-zh-hant|麻將}}、{{Lang-zh-hans|麻将}}、{{Lang-en|Mahjong}})は、[[テーブルゲーム]]の一種。[[麻雀牌|牌]]を使い、原則として4人で行われる。[[中華人民共和国|中国]]を起源とし、世界中で親しまれている。
本記事では、麻雀というゲーム一般について説明するとともに、その中でも特に「'''[[立直|リーチ]]麻雀'''({{lang-en|Riichi Mahjong}})」とも称される[[日本]]式麻雀について詳述する。
== 概要 ==
4人のプレイヤーがテーブルを囲み、数十枚から百枚あまりの[[麻雀牌|牌]]を引いて[[役 (麻雀)|役]]を揃えることを数回行い、得点を重ねていくゲーム。勝敗はゲーム終了時における得点の多寡と順位で決定される。ゲームのルールは非常に複雑であるが発祥の地である中国のほか、[[日本]]、[[東南アジア]]、[[アメリカ合衆国]]などの国々で親しまれている。
現在の[[中国語]]では麻雀のことを一般に「{{Lang|zh-hant|麻將}}」(マージアン {{ピン音|májiàng}} {{注音|ㄇㄚˊㄐㄧㄤˋ}})という。「{{Lang|zh-hant|麻雀}}」(マーチュエ {{ピン音|máquè}} {{注音|ㄇㄚˊㄑㄩㄝˋ}})は中国語では[[スズメ]]を意味する。ちなみに麻雀をするというのは「打麻將」(ダー マージアン dǎ má jiàng ㄉㄚˇㄇㄚˊㄐㄧㄤˋ)という。麻雀発祥地の[[寧波]]で話される[[呉語]]では麻雀と麻将が同音であったため、中国の北方に伝来した際に麻将の名前で広まり中国語の呼称となったが、中国北方を通さず寧波から直接伝来した[[日本語]]、[[広東語]]や[[台湾語]]では呉語と同様に「麻雀」というのが普通である([[粤拼]]:maa4zoek3、[[白話字]]:môa-chhiok/bâ-chhiok)。[[香港]]ではスズメと区別するために「蔴雀」と書くことがある。戦前の日本では「'''魔雀'''(モージャン)」と表記することもあった<ref>{{harvnb|麻雀検定青本|2015|p=12}}。</ref>。
日本では34種類136枚の牌を使うのが一般的で、[[#麻雀卓|麻雀卓]]と呼ばれる麻雀専用のテーブルが用いられる。麻雀卓などの専用の道具がなくともプレイできるように、カードにした簡易版の道具も市販されている。使用する道具や採用するルールについては国や地域によって異なる点が多く、日本国内でも標準的とされるルールのほかに、様々なローカルルールが存在する。
現在の日本では、家庭や麻雀店([[#雀荘|雀荘]])で遊ばれるほか、[[ゲームセンター]]や家庭用[[コンピュータゲーム]]や[[オンラインゲーム]]でもプレイすることができる。[[#第二次麻雀ブーム|昭和期における麻雀ブームの時期]]と比較すると雀荘の数や麻雀専門誌の数は減少傾向にあるが、コンピュータとの対戦や[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]を通じた不特定の相手との対戦が可能になったことで、形を変えて人気を保っている。また、効率性を思考することや指先の運動により[[認知症]]の予防にも役立つという説もある<ref>[http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1160129.article.html 麻雀で認知症予防 佐賀中部広域連合] - 佐賀新聞</ref>。
参加人口は日本では2019年時点で510万人と2016年以降500万人台で推移していたが、2020年の[[コロナショック]]で400万人に急減した<ref>[https://mj-news.net/news/20201118152452 「レジャー白書2020」麻雀人口510万人で前年比70万人減]</ref><ref>[https://mj-news.net/news/20211020167412 「レジャー白書2021」麻雀人口400万人で前年比110万人減 – 麻雀ウォッチ]</ref>。アジア全体では3億5千万人を数える<ref>[https://www.cnn.co.jp/travel/35100630.html 変わりゆく香港麻雀事情、見つめ続ける牌彫師に聞く<下>]</ref>。
== 麻雀の歴史 ==
=== 中国大陸における誕生 ===
[[File:山東濰坊楊家埠的水滸牌.png|thumb|300px|山東省の葉子戯([[馬弔]]・マーディアオ)]]
[[File:Carte bergamasche.jpg|thumb|300px|16世紀イタリア・[[ベルガモ]]の[[トランプ]]40枚組]]
起源には諸説がある。[[紀元前6世紀]]頃、[[孔子]]が発明したという説もあるが有力ではない<ref>Butler, Jonathan. ''{{lang|en|The Tiles of Mah Jong}}''. 1996.</ref>。
最も有力な説は、[[清]]の[[同治]]年間([[1862年|1862]] - [[1874年]])に[[寧波]]の[[陳魚門]]が、[[12世紀]]以前に存在した「[[馬弔|葉子]]([[馬弔]]・マーディアオ)」という[[カードゲーム]]と[[明]]代([[1368年|1368]] - [[1644年]])以前から存在した「[[牌九|骨牌]]」という[[ドミノ]]のような遊戯を合体させて「麻雀(マージャン)」を完成させたとするものである<ref name="NM">{{harv|永松憲一|2001|p=15}}。</ref>。
なお、葉子は[[ヨーロッパ|欧州]]に伝わり、[[トランプ]]となったともいわれる。
{{main|[[トランプ|トランプの歴史]]}}
明の[[成化]]年間の陸容 (1466-1494)『菽園雑記』の記すところによると<ref>(明)陸容[[s:zh:菽園雜記/卷14|『菽園雑記』第十四巻]]:「闘葉子之戯、吾崑城上自士夫、下至僮豎皆能之。予游崑庠八年、独不解此。人以拙嗤之。近得閲其形製、一銭至九銭各一葉、一百至九百各一葉、自万貫以上皆図人形、万万貫呼保義宋江、千万貫行者武松、百万貫阮小五、九十万貫活閻羅阮小七、八十万貫混江竜李進、七十万貫病尉遅孫立、六十万貫鉄鞭呼延綽、五十万貫花和尚魯智深、四十万貫賽関索王雄、三十万貫青面獣楊志、二十万貫一丈青張横、九万貫插翅虎雷横、八万貫急先鋒索超、七万貫霹靂火秦明、六万貫混江竜李海、五万貫黒旋風李逵、四万貫小旋風柴進、三万貫大刀関勝、二万貫小李広花栄、一万貫浪子燕青。或謂賭博以勝人為強、故葉子所図、皆才力絶倫之人、非也。蓋宋江等皆大盗、詳見『宣和遺事』及『癸辛雑識』。作此者、蓋以賭博如群盗劫奪之行、故以此警世。而人為利所迷、自不悟耳。記此、庶吾後之人知所以自重云。」</ref>、当時の[[崑山市|昆山]]で一種のカードゲームが流行しており、カードの総数は38枚であって、一銭から九銭・一百から九百・一万貫から九万貫・二十万貫から九十万貫・百万貫・千万貫・万万貫からなっていた。「糸巻き」の様に見える図柄は、「銭の穴に糸を通した束」で、「サイコロの目」の様に見える図は「銭を正面から見た図」である。一万貫以上のカードには『[[水滸伝]]』中の二十人の絵が描かれており万万貫は宋江・千万貫は武松等となっていた(ただし「混江竜李進」と「混江竜李海」が別人として存在するなど、現行の水滸伝とは名前が多少異なっている)。当時の人はこの種のカードを「葉子」と呼び、葉子を使ったカードゲーム自身のことは「葉子戯」と呼んでいた。今では[[水滸牌]]と呼ぶことが多い。
語源については、上記の「馬弔(マーディアオ)」が日本で転訛して「麻雀(マージャン)」となったとされる<ref>[http://www9.plala.or.jp/majan/rekisi04.html 「麻雀」という名称]</ref>。
[[1949年]]に[[中華人民共和国]]政府によって一旦、全ての[[賭博|ギャンブル]]と共に禁止された<ref>{{Cite book |title=Encyclopedia of Play in Today's Society |last=Carlisle |first=Rodney P. |year=2009 |publisher=[[SAGE Publications|SAGE]] |isbn=9781412966702 |page=133 }}</ref>。しかし、[[文化大革命]]終結後の[[改革開放]]に伴ってギャンブルでない麻雀は許されるようになり、[[1985年]]には禁止令が解除された<ref>{{lang|zh|{{cite web |url=http://dangan.jianghai.gov.cn/Article_Show.asp?ArticleID=12251 |title=转发公安部关于废止部分规范性文件的通知|publishCr=Guangdong Provincial Public Security Department |accessdate=2009-10-25}}}}</ref>。
=== アメリカ合衆国における受容と発展 ===
[[Image:Schoolkidsmahjong.jpg|thumb|200px|学校で麻雀を学ぶアメリカ合衆国の学生]]
{{main|アメリカ麻雀}}
[[1895年]]、アメリカ合衆国の[[人類学者]][[スチュワート・キューリン]]は麻雀に言及した記事を書いた。これは中国語以外の言語で書かれた最初の麻雀についての記述であった。[[1910年]]までには[[フランス語]]や[[日本語]]の文献も出揃った。[[1920年]]、[[アバークロンビー・アンド・フィッチ]]社は初めて合衆国に麻雀を輸入し販売を開始した<ref name="abercrombie.com">[http://www.abercrombie.com/anf/hr/jobs/careers.html], A&F Careers, History, "1920"</ref>。麻雀セットは[[ニューヨーク市]]を中心にヒット商品となり、合計で12000セットを売り上げた<ref name="abercrombie.com" />。また、同時期に[[ジョセフ・パーク・バブコック]]が世界初の麻雀本となる"''{{lang|en|Rules of Mah-Jongg}}''"を出版した。
[[1920年代]]の合衆国で麻雀は全ての人種の間で流行しアメリカ式の[[麻雀のルール|ルール]]や[[役 (麻雀)|役]]が生まれ、多くの「マージャン・ナイト」が開かれた。人々は中国風の装飾が施された部屋に着飾って集まり、これに親しんだ<ref>Bryson, Bill, ''{{lang|en|Made in America}}''. Harper, 1996, ch. 16.</ref>。[[エディ・カンター]]の"Since Ma is Playing Mah Jong"など、マージャンを主題にした流行歌も幾つか生まれた<ref>[http://www.sloperama.com/mjfaq/mjfaq19.html#t Eddie Cantor and his mahjong song]</ref>。
[[1937年]]には初のルールブックとなる"''{{lang|en|Maajh: The American Version of the Ancient Chinese Game.}}''"が出版されるとともに、全米麻雀リーグ (National Mah Jongg League, NMJL) が発足した。しかし、合衆国における麻雀の流行は一過性のものに終わった。
[[1980年代]]にコンピュータ用ゲーム『[[上海 (ゲーム)|上海]]』が登場して以来、「mahjong」「mahjongg」「mah-jang」という表現が再び一般的に使われるようになるが、それらは『上海』タイプのパズルゲームを指しており、中には麻雀牌以外の絵柄を使っているものも存在する [http://www.mahjonggames4all.com/][http://freeonlinemahjonggames.net/]。
=== 日本における受容と発展 ===
==== 初期 ====
記録に残るうえで実際の麻雀牌が日本に伝わったのは1909(明治42)年に清からこれを持ち帰った名川彦作によるものであり、[[大正]]中期以降はルール面において独自の変化を遂げつつ各地に広まっていったともいうが、一般に認知されるようになったのは[[関東大震災]]の後である。[[神楽坂]]の[[カフェー・プランタン]]で[[文藝春秋]]の[[菊池寛]]らが麻雀に熱中し、次第に雑誌等にも取り上げられるようになった。文藝春秋社では、みずから麻雀牌を販売していた。
なお、日本人で初めて麻雀に言及したのは大正・昭和戦前期の中国文学・中国文化研究者の[[井上紅梅]]であり、『支那風俗』(1921年、全3巻)の中巻では麻雀の起源やルールについて記述している。異説として[[夏目漱石]]が挙げられることもあるが、これは中村徳三郎が『麻雀競技法』(1924年)において、『[[満韓ところどころ]]』([[1909年]])内の[[大連市|大連]]での見聞である「四人で[[博奕]]を打っていた。(略)厚みも大きさも[[将棋]]の飛車角ぐらいに当る札を五六十枚ほど四人で分けて、それをいろいろに並べかえて勝負を決していた。」という記述を引き合いにしたものである。ただし、中国の麻雀牌にしては厚みや大きさがないことや枚数が少なすぎることから別のゲームであった可能性も指摘されている<ref>[[大谷通順]]『麻雀の誕生』21ページ。</ref>。
1929年(昭和4年)3月21日、東京で初の麻雀全国大会が開かれ、350人が参加した<ref>国民新聞</ref><ref>国民年鑑 国民新聞社</ref>。1930年7月10日、警視庁は麻雀屋の新設を禁止した(1930年5月現在937店)<ref>昭和五年史 年史刊行会刊</ref>。
1933年(昭和8年)、[[不良華族事件]]の捜査の過程で、著名な文士や出版関係者らの常習[[賭博]]が明らかになり逮捕者が相次いだ<ref>吉井勇夫人の供述から文士連の賭博暴露『中外商業新報』昭和8年11月18日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p613 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref><ref>久米正雄、里見弴、佐佐木茂索ら検挙『中外商業新報』昭和8年11月18日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p613)</ref>。この逮捕を受けて、文士だけではないとの声が高まり、翌1934年(昭和9年)にも医師や画家、音楽家、実業家、代議士など著名人の検挙が相次いだ。この頃、日本麻雀連盟の関係者が行っていた賭けのレートは1000点10円ないし15円であった<ref>またマージャン賭博、広津和郎ら検挙『東京朝日新聞』昭和9年3月17日夕刊(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p614)</ref>。
1937年(昭和12年)日中戦争開戦前の頃には東京都内に約2000軒の麻雀クラブがあったが、戦時色が濃くなるにつれて麻雀も下火とならざるを得なくなり、1942年(昭和17年)の時点では230軒余と激減した。業者の団体は警視庁の指導に基づき同年9月1日より「麻雀」を「卓技」と名称を改め、東京卓技商業報国会を結成。健全娯楽化を目指した<ref>麻雀を卓技と改称、警視庁の指導で『東京日日新聞』昭和17年9月24日夕刊(『昭和ニュース事典第8巻 昭和17年/昭和20年』本編p27 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。
==== 戦後 ====
終戦後再び麻雀は流行し始め、戦前から行われていた[[アルシーアル麻雀]]に「途中リーチ」(現在の[[立直]])・[[ドラ (麻雀)|ドラ]]・場ゾロなどを加えた新ルールが取り入れられるようになり、アレンジを加えられた日本式の麻雀('''リーチ麻雀''')が主流を占めるようになった。[[1952年]]には[[天野大三]]が[[報知新聞]](現在の[[スポーツ報知]])に日本で最初に立直およびドラを成文化した「一九五三年度リーチ麻雀標準規程」(通称:報知ルール)を発表、同年には競技麻雀団体の[[日本牌棋院]]を設立しリーチ麻雀の原型を作った。
アルシーアル麻雀は[[1947年]]に再建された[[日本麻雀連盟]]などを中心に現在も行われてはいるが、次第に主流からは外れていった<ref>{{Cite journal|和書|title=歴史探訪|journal=バカヅキハリケーン|pages=P102-103|publisher=竹書房||year=1989|}}</ref>。
==== 第二次麻雀ブーム ====
[[1969年]]、[[色川武大|阿佐田哲也]]は『[[週刊大衆]]』で『[[麻雀放浪記]]』シリーズの連載を開始。[[1970年]]には阿佐田、[[小島武夫]]、[[古川凱章]]らが[[麻雀新撰組]]を結成<ref>{{Cite journal|和書|title=麻雀新撰組 in the 70s'|journal=近代麻雀|pages=11から14ページ|publisher=竹書房|issue=7|volume=30|year=2008|month=3}}</ref>。
同年『[[週刊大衆]]』で[[名人戦 (麻雀)|名人戦]]開始。[[1972年]]に『[[近代麻雀]]』、[[1975年]]に「[[プロ麻雀]]」が創刊され、麻雀ブームが起きた。[[1976年]]には竹書房主催で、プロのタイトル戦「[[最高位戦]]」が開始された。『レジャー白書』によるとピーク時の[[1982年]]の参加人口は2140万人であり、この時期、多くの大学生やサラリーマンが手軽な小遣い稼ぎやコミュニケーションツールとして麻雀に親しんだ。しかし、同時に賭博・喫煙・飲酒・徹夜などの不健康なイメージが広がったため、[[1988年]]にはそれらを廃して麻雀を楽しむことを目的とした[[日本健康麻将協会]]が設立された([[#健康マージャン]]も参照)<ref>{{Cite web|和書|date= 2008年6月|url= http://www.kenko-mahjong.com/association/|title= 日本健康麻将協会 - 協会設立20周年会長挨拶|publisher= 日本健康麻将協会|accessdate=2012-03-08}}</ref>。
==== 麻雀ゲームの普及 ====
麻雀におけるコンピュータゲームの普及は[[1975年]]頃からであるが、業務用([[アーケードゲーム]])で現在のものに近いゲームシステムが導入された最初の麻雀コンピュータゲームは[[1981年]]3月の[[ジャンピューター]]([[アルファ電子]])であった。このゲームは一世を風靡し、ゲームセンターや喫茶店に数多く見ることができた。その後、対戦相手のコンピュータの画像を女性をモチーフとしプレイヤーが勝つ毎にその女性の衣服を脱がせるという、いわゆる「[[脱衣麻雀]]」のコンセプトが大当たりした。年代と共に映像技術も向上し、性能や官能性もアップした。ゲームセンターでは麻雀ゲームは[[アダルトゲーム]]の代名詞でもあった。
1990年代後半から2000年代にかけてのインターネットの普及や通信対戦の発展により、自宅やゲームセンターなどで容易に対局が可能になった。[[1997年]]にはオンライン対戦麻雀の先駆けとなる『[[東風荘]]』がサービス開始、[[2002年]]には通信機能を持たせ全国のプレーヤーと対戦できる麻雀[[アーケードゲーム]]『[[セガネットワーク対戦麻雀MJ]]』『[[麻雀格闘倶楽部]]』が稼動を開始し、[[2004年]]には携帯麻雀ゲーム『[[ジャンナビ麻雀オンライン|ジャンナビ四人麻雀オンライン]]』が稼動を開始した<ref>[http://www.winlight.co.jp/about_history.cgi 株式会社ウィンライト 沿革]</ref>。[[2006年]]にはオンライン対戦麻雀『半熟荘(2007年に[[天鳳 (オンラインゲーム)|天鳳]]に改称)』がサービス開始した。2019年にはオンライン対戦麻雀『[[雀魂]]』が日本で<ref>中国では2018年にサービス開始している。</ref>サービス開始した。
こうしたオンライン麻雀の普及に伴い、次第に学生競技麻雀やオープントーナメントの予選や大会そのものがオンライン麻雀を会場として行われることが増えていき、競技団体所属のプロ雀士もゲームとの提携やイベント、あるいは一プレイヤーとして参戦することが増えていった。
{{Anchors|デジタル・アナログ論争}}
==== 科学的な麻雀戦略の普及 ====
[[1990年]]、[[天野晴夫]]が『リーチ麻雀論改革派』([[南雲社]])において麻雀戦術論からの抽象の排除を提唱した。その中で小島、[[田村光昭]]など当時の有名麻雀プロや在野の[[桜井章一]]らの麻雀論を「ツキ」「勘」「流れ」といった抽象論に支配されている非科学的なものであると批判した。天野は抽象的な要因を考慮することは的確な情報判断を鈍らせる原因にこそなれ、麻雀の上達には繋がらないと主張した。これがいわゆる「[[デジタル (麻雀)|デジタル雀士]]」のさきがけである。
2004年、[[とつげき東北]]の『科学する麻雀』が[[講談社現代新書]]から出版された。とつげきは前の局の結果が次の局に影響を及ぼすとするいわゆる「流れ論」を徹底的に否定しており、本著でも[[確率論]]を基礎とした[[統計学]]的な麻雀戦略を提唱している。「このような時にはこう打つ」と明確にかつ論理的に場面に応じた打ち方を指導している点が特徴である。これらデジタル麻雀に対して「ツキ」「勘」「流れ」を重視する雀士も多く、そのような戦術論は[[アナログ (麻雀)|アナログ]]や[[オカルト]]派と呼ばれている。
==== 「見る雀」ブーム ====
[[2018年]]、[[Mリーグ]]の開始を機に対局の動画配信を楽しむスタイル、通称「見る雀」がブームになる<ref>{{Cite web|和書|url=https://xtrend.nikkei.com/atcl/contents/18/00637/00006/ |title=Mリーグが「見る雀」でマージャンのファン層拡大【ブーム解析】 |website=日経トレンディ |publisher=日経BP |date=2022-05-23 |accessdate=2022-08-31}}</ref>。[[2019年]]には前年に[[中華人民共和国]]でサービスを開始していたオンライン対戦麻雀『[[雀魂]]』の日本語版がサービス開始。[[バーチャルYouTuber]]やプロ雀士などの[[YouTube]]配信によって人気を博している<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.ign.com/jantama/49764/feature/ |title=【今月の流行りゲー】麻雀ゲームとして異例の地位を築く『雀魂‐じゃんたま‐』の流行を紐解く |website=IGN Japan |publisher=産経デジタル |date=2021-02-05 |accessdate=2022-08-31}}</ref>。
=== 国際的な普及 ===
[[File:Wk-mahjong2002.jpg|thumb|2002 世界麻雀選手権大会表彰式]]
2002年10月23日から27日にかけて、東京で「2002 世界麻雀選手権大会」が開催される。日本の[[初音舞]]が優勝し、[[ジョン・オコーナー]]が準優勝した<ref>[http://www.mindmahjong.com/info/showinfo.asp?id=470 2002年日本国際麻雀試合]</ref>。2006年に[[世界麻雀機構]] (WMO) が設立され、中国の北京に本部が置かれた。翌2007年には、11月3日から5日にかけて、[[中国]]の[[成都]]で「世界麻雀選手権大会」が開催された。公式にはこの大会が「第1回」として扱われる。
また、WMO主催の大会以外にも[[マカオ]]の企業ワールドマージャン主催の賞金制(1位には[[アメリカドル]]で50万ドル支払われる)の世界大会である[[世界麻雀大会]]の他、中国北京で発足<ref>{{Cite web|url=http://en.ytsports.cn/news-754.html|title=Mahjong International League Establishment Ceremony held in Beijing to promote mind sport|accessdate=2017-06-08|author=|date=2015-05-12|publisher=Yutang Sports }}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.mahjongnews.com/index.php/news/reports/14-mil-intro|title=New Mahjong International League Elevating Mahjong As A Mind Sport|accessdate=2017-06-08|author=|date=2015-05-11|publisher=Mahjong News }}</ref> し、[[スイス]]の[[ローザンヌ]]に本部を置く{{仮リンク|国際麻雀連盟|en|Mahjong International League}}による{{仮リンク|世界麻雀スポーツゲーム|en|World Mahjong Sports Games}}も存在する。
2008年の[[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]]では[[将棋類]]とともに[[オリンピック公開競技|公開競技]]としての導入が図られたが、[[国際オリンピック委員会]]から却下された。北京五輪後に行われた第1回[[ワールドマインドスポーツゲームズ]]では中国将棋([[シャンチー]])は競技になったものの麻雀は外された。
[[ロシア]]では、麻雀[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]をきっかけとして2009年ごろから学生の間で日本式麻雀が普及しはじめ、[[2012年]]から全国の愛好者らによるトーナメント式のリーチ麻雀大会がモスクワで開催されている<ref>[http://www.youtube.com/watch?v=TykBoUp8cew ロシア人の雀鬼らが激突/モスクワで麻雀大会 ] 朝日新聞モスクワ支局員関根和弘チャンネル、2013/05/22</ref>。
== ルール ==
{{Main|麻雀のルール}}
一般的には4人で行うゲームであるが、[[三人麻雀]]、[[二人麻雀]]もある。
各プレイヤーは13枚の牌を'''[[手牌]]'''として対戦相手に見えないようにして目前に配置し、順に'''山'''から牌を1枚[[自摸]]しては1枚捨てる行為を繰り返す。この手順を[[摸打]]といい、数回から十数回の摸打を通して手牌13枚とアガリ牌1枚を合わせた計14枚を定められた形に揃えることを目指す。アガリ形の組み合わせに応じて点棒のやりとりが行われ、最終的に最も多くの得点を保持していた者を勝者とする。
前述のように採用するルールについては国や地域によって異なる点が多いが、日本においては一般に[[麻雀牌#花牌|花牌]]を使用しないルール('''清麻雀''')、[[立直]]を役として採用するルール('''立直麻雀''')が採用されている。
=== 得点と役 ===
{{Main|麻雀の点|麻雀の得点計算|麻雀の役一覧}}
== 道具 ==
[[File:Mhajong Set.jpg|thumb|麻雀用具一式]]
[[File:Mahjong japan fiches.png|thumb|350px|right|右は一般点棒、左は全自動卓用]]
{{Double image aside |right|Mahjong japan tools.jpg|98|Dice(mahjong) 3.jpg|100|起家マーク・焼き鳥マーク(左)とサイコロ(右)}}
以下では日本において'''麻雀'''で使われる道具類について説明する。
=== 牌 ===
{{Main|麻雀牌}}
日本では、中国で用いられるものより小さめの34種136枚の牌を使用するのが一般的である。牌の種類には萬子(ワンズ/マンズ)・筒子(ピンズ)・索子(ソーズ)・字牌(ツーパイ)がある。萬子・筒子・索子はそれぞれ一から九までの9種、字牌はさらに三元牌と四風牌に分かれ三元牌は白發中の3種、四風牌は東南西北の4種である。これら34種がそれぞれ4枚ずつ、計136枚である。
この他に花牌と呼ばれる牌が4種1枚ずつあるが、花牌は一般的なルールでは使用されない。そのため日本で販売される麻雀牌では花牌をなくし、その代わりに赤牌を追加したセットが多い。<!--色牌についての説明があったが省略-->
麻雀牌などの麻雀用具は、専門店、おもちゃ屋、リサイクルショップ、オークションなどで入手できる。
=== 点棒 ===
点棒(てんぼう)は各プレイヤーの[[麻雀の点|得点]]を表すために用いる細い棒である。正式には'''チョーマ'''('''籌馬''')と呼ばれる。
特に[[棒]]でなければならない理由はなく、海外ではカードやチップも使われる。
点数の最小単位は100点だが大量の点棒を扱わなくてよいように、数種類の点数が用意されている。
*万点棒 - 1本につき1万点。5個の赤点(5000点棒)の両脇に2つずつの黒点という、最も複雑な意匠である。最も高額な点棒であり初期状態では1人あたり1本しか配分されないことから、「連隊旗」とも呼ばれている。通常は1セット4本。
*5000点棒 - 1本につき5000点。5個の赤点の意匠。通常は1セット8本。
*1000点棒 - 1本につき1000点。1個の赤点の意匠。[[立直]]の際はこれを場に[[供託点|供託]]する。通常は1セット36本。
*100点棒 - 1本につき100点。8個の黒点の意匠。[[連荘]]の際などに[[麻雀の得点計算#積み符|本場数]]を表す積み符としても用いられる。シバ棒ともいう。通常は1セット40本。
*(500点棒 - 標準的なセットにはない。やりとりをスムーズにするために用いられることもある)
点棒のタイプは軸色の種類により白点棒とカラー点棒の二つがある。現在の日本国内の麻雀店では全自動麻雀卓が非常に多く、点箱内の点棒を自動的に計算し、点数を表示するため、万点棒が赤、1000点棒が青のように点棒自体が色分けされて分かりやすくなっているカラー点棒が多い。<!--
アールシアール麻雀の点棒の額も並列して記載されていましたが非常に読みにくく混乱を招くため、削除いたしました。アールシアールなんて今どき誰もやってないだろうし、一般的なリーチ麻雀の点棒の説明だけでいいのではないでしょーか。--><!--配給原点については道具としての記述の範囲を超えるので省略-->
また、全自動麻雀卓用(点数表示枠用)の点棒では自動読取りを行う形式によって接触型と非接触型に分けられる。
=== 起家マーク ===
起家マーク(チーチャマーク)は最初の親が誰かを示す目印となる物。親マークともいう。
表面に“東”、裏面には“南”と書かれている。一般的ではないが“南”のかわりに“北”と書かれているものやサイコロ状のものに東南西北が書かれ、格子にはめ込むタイプのものもある。これは場風の明示を兼ねるため使用される。
=== サイコロ ===
最初の親を決めるとき及び配牌時に取り始める山を決めるために、[[サイコロ]]を使用する。通常は6面ダイス2個を使用するが、12面サイコロ(パッコロ)を用いる場合もある。その場合は1つのサイコロは1から12が、もう1つのサイコロには東西南北が書かれている。
なおプレイ中のサイコロは親を表す目印として、親の席の右隅に置くこととしている。
=== 焼き鳥マーク ===
一度も和了しないまま競技単位を終えるとペナルティを受けるローカルルールがあり、その時にまだ[[和了]](アガリ)していないことを示す目印となるとして使われる。アガリ成立の時点で裏返しにする。
このローカルルールを[[麻雀のルール#付加的なルール|焼き鳥]]とも呼ぶ。また、和了してから一定時間内(次局開始までなど)に目印を裏返さない場合は焼き鳥状態が継続や、4人とも焼き鳥を解消した時点で、また4人全員が焼き鳥状態に戻るといったローカルルールもある。
=== 麻雀卓 ===
麻雀卓(マージャンたく)または雀卓(ジャンたく)は麻雀を行うための卓で、通常60-70cm四方の正方形のテーブルである。
一般に麻雀卓は、[[麻雀牌]]が卓よりこぼれないように卓の周りに枠を設けており、麻雀牌の音を吸収するとともに麻雀牌が痛まないように緑系統あるいは青系統の色を用いたフェルト製の天板マットが張られており、洗牌(シーパイ、牌をかき混ぜる作業)や打牌に向いている。また、卓は[[点棒]]を収納する引き出しを備えている(関西向けには引き出しではなく卓の枠部分に固定され、全員に中身が見えるように作られた点棒箱を備えているものもある)。
なお点棒箱は通常全員分の点棒が入るサイズに作られるが関西では原点を超えた点棒を卓上に晒すルールが多いため、原点1人分の点棒が入るサイズとなっている。
麻雀卓は卓の形状により座卓タイプと立卓タイプに分かれる。家庭や旅館などの座敷用には座卓タイプを、椅子に腰をかけながら麻雀を行う時には立卓タイプを使用する。支柱部分が取り外し可能になっており、使用環境に応じて立卓か座卓かを選択し組み立て直すことができる製品もある。
また、麻雀卓は卓の機能により[[全自動麻雀卓]](洗牌と山積みを電動で行う)、半自動麻雀卓(裏返し等を自動で行う)、手打卓に分かれる。
自動化された麻雀卓が出現するまで麻雀卓は手打卓であった。最近の[[雀荘]]はすべての卓を全自動麻雀卓で営業しているのが一般的であり、近年は麻雀卓といえば全自動麻雀卓を指すことが多い。手打卓は新たに出現した自動麻雀卓と区別するために用いられるようになった呼称であり、手打ち麻雀卓、手積卓などと呼ばれることもある。風営法では全自動麻雀卓(テレジャンも含む)とそれ以外の麻雀卓(マグジャンなどの半自動卓を含む)が厳密に区別されており、徴収可能な料金の上限が異なっている。
[[こたつ]]やちょうど良い大きさの[[ちゃぶ台]]が置いてある家庭等ではわざわざ麻雀専用にしか使い道がない麻雀卓を購入するのではなく、麻雀用のマットを購入しそれらの上で麻雀を行うこともある。こたつについては、最初から天板の裏に緑のフェルトを張ったものも以前はよく見られた。
なお、後述の三人麻雀専用で用いる正三角形の卓もある。
== 遊戯施設 ==
=== 雀荘 ===
雀荘(ジャンそう)とは、麻雀の設備を設けて客に麻雀を遊技させる店舗である。[[風俗営業適正化法]]の条文では「まあじやん屋」と記述される。
日本国内の雀荘は、[[第二次世界大戦]]以前から都道府県の[[条例]]([[京都府]]の場合は遊技場営業取締規則)などで規制や制限を受けていた。しばしば規制は強化され、京都府では[[1936年]]([[昭和]]11年)に[[学生]]、[[未成年]]者の出入を禁止している<ref>カフェーなどから学生を締め出し『大阪毎日新聞』昭和11年5月15日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p154 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。
戦後は、風俗営業適正化法が定義する[[風俗第四号営業]]に位置づけられ、これを営むには、営業所ごとに当該営業所の所在地を管轄する都道府県[[公安委員会]]の許可を受けなければならないとされている。また、同法により原則として午前0時から午前6時までの営業は禁止されている。しかし現実にはフリー雀荘の多くで深夜営業が行われており、店は窓にカーテンを引くなどして音や光が外部に漏れないようにしてこっそりと営業されている<ref>[http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20150511/280890/ 「徹マン」解禁の影で無断深夜営業のスポーツバーは厳罰? 「踊れる国」実現に留まらぬ風営法改正の衝撃] - 木曽崇、日経ビジネスオンライン、2015年5月15日</ref>。
営業の形式には、大きく分けて2種類ある。3人から4人あるいはそれ以上の人数で店舗に出向き、麻雀卓を借りる形式の'''セット雀荘'''と、1人で行って不特定の相手と対戦する形式の'''フリー雀荘'''である。セット雀荘には「貸卓専門」、フリー雀荘には「お一人様でも遊べます」といった内容の看板などが掲げられており、それによって営業形態を察することができる。セット雀荘のほとんどは貸卓を専門としているが、フリー雀荘は貸卓営業を併行して行っていることが多い。フリー雀荘の場合、時間帯によっては来客が中途半端で卓が成り立たない場合があるほか、客が都合で一時的に卓から抜ける際に進行を止めたくない等の事情もあり、その場合は「メンバー」と呼ばれる店員が加わることでゲームを成立させる<ref>[http://www.mj-festa.com/member.html 麻雀荘メンバーマニュアル] - 麻雀フェスタ</ref>。
遊技料は風俗営業適正化法施行規則により定められており、現在は客1人当たりの時間を基礎として計算する場合1時間600円(全自動卓)、1卓につき時間を基礎として計算する場合1時間2400円(全自動卓)を超えないこととなっている。よってフリー雀荘の多くは1回○○円となっているが、1時間換算で料金が上記を超える場合は違法である<ref group="注釈">。平成26年4月の消費税率変更に伴い規則上は税別価格を提示し、これに消費税相当額を加算したものを上限とするという規則構造に改められている。</ref>。 高級なセット雀荘や、黙認される上限ギリギリのレートで営業するフリー雀荘では、上限いっぱいの料金を設定している。
== 雀士 ==
{{Main2|雀士の一覧|:Category:雀士}}
[[雀士]]の資格・語義は一義的ではない。麻雀愛好家という程度の意味(麻雀子と同義)に解されることも多い。[[日本プロ麻雀棋士会]]のように[[棋士]]と呼ぶ例もある。
=== プロ雀士 ===
日本の法律では職業として麻雀を行うのに資格は必要ないが、競技を開催する団体の認定が必要である。[[競技麻雀]]のプロ団体は現在9団体である。プロ団体に所属していないフリープロも存在する。
[[五十嵐毅]]などは「プロ」という用語を「[[プロフェッショナル]]」ではなく「プロパー」(生え抜き)の略として解釈する{{要出典|date=2022年9月}}。
; 男子
☆主要プロ団体代表(会長)は全員掲載。
*[[荒正義]] - [[日本プロ麻雀連盟]]副会長
*[[安藤満]] - 故人。[[日本プロ麻雀連盟]]に所属
*[[飯田正人]] - 故人。[[最高位戦日本プロ麻雀協会]]に所属、永世最高位
*[[五十嵐毅]] - [[日本プロ麻雀協会]]代表
*[[井出洋介]] - [[麻将連合-μ-]](ミュー)初代代表、元[[日本健康麻将協会]]代表。「[[東京大学|東大]]式麻雀」で有名
*[[多井隆晴]] - [[RMU]]代表
*[[忍田幸夫]] - [[麻将連合-μ-]](ミュー)代表
*[[金子正輝]] - [[最高位戦日本プロ麻雀協会]]副代表、[[101競技連盟]]名誉会員
*[[小島武夫]] - 故人。[[日本プロ麻雀連盟]]初代会長
*[[田村光昭]] - 引退。[[旅打ち]]エッセイ『麻雀ブルース』
*[[土田浩翔]] - [[最高位戦日本プロ麻雀協会]]、元[[日本麻雀機構]]理事長
*[[土井泰昭]] - [[日本プロ麻雀協会]]初代代表、[[全日本麻雀協会]]代表
*[[ともたけ雅晴]] - [[日本プロ麻雀連盟]]、2017年第2回[[リーチ麻雀世界選手権]]優勝
*[[灘麻太郎]] - [[日本プロ麻雀連盟]]名誉会長
*[[奈良圭純]] - [[日本プロ麻雀連盟]]、2022年第3回リーチ麻雀世界選手権優勝
*[[新津潔]] - [[最高位戦日本プロ麻雀協会]]代表
*[[古川凱章]] - 故人。[[101競技連盟]]の創設者
*[[森山茂和]] - [[日本プロ麻雀連盟]]会長
*[[山井弘]] - [[日本プロ麻雀連盟]]、2014年第1回リーチ麻雀世界選手権優勝
; 女子
*[[朝倉ゆかり]] - [[日本プロ麻雀協会]]
*[[石井あや (プロ雀士)|石井あや]] - [[最高位戦日本プロ麻雀協会]]
*[[和泉由希子]] - [[日本プロ麻雀連盟]]
*[[魚谷侑未]] - [[日本プロ麻雀連盟]]、第9・11・12回モンド王座優勝
*[[浦田和子]] - [[日本プロ麻雀棋士会]]、女子初の最上位リーグ在籍([[日本プロ麻雀連盟]]プロリーグA1)
*[[大崎初音]] - [[日本プロ麻雀協会]]
*[[大平亜季]] - [[最高位戦日本プロ麻雀協会]]
*[[奥村知美]] - [[日本プロ麻雀協会]]
*[[茅森早香]] - [[最高位戦日本プロ麻雀協会]]
*[[草場とも子]] - [[麻将連合-μ-]](ミュー)
*[[黒沢咲]] - [[日本プロ麻雀連盟]]
*[[小池美穂 (プロ雀士)|小池美穂]] - [[最高位戦日本プロ麻雀協会]]
*[[崎見百合]] - [[日本プロ麻雀協会]]
*[[佐月麻理子]] - [[日本プロ麻雀協会]]
*[[清水香織]] - [[日本プロ麻雀連盟]]
*[[高橋純子]] - [[日本プロ麻雀棋士会]]初代会長
*[[高宮まり]] - [[日本プロ麻雀連盟]]
*[[仲田加南]] - [[日本プロ麻雀連盟]]
*[[二階堂瑠美]](姉) - [[日本プロ麻雀連盟]]
*[[二階堂亜樹]](妹) - [[日本プロ麻雀連盟]]、先にデビュー
*[[根本佳織]] - [[最高位戦日本プロ麻雀協会]]、永世女流最高位
*[[初音舞]] - [[RMU]]、2002世界選手権(中国公式ルール、通称国際ルール)個人優勝
*[[眞崎雪菜]] - [[日本プロ麻雀協会]]
*[[宮内こずえ]] - [[日本プロ麻雀連盟]]
*[[山口まや]] - [[最高位戦日本プロ麻雀協会]]
*[[山崎由江]] - 故人。[[日本プロ麻雀連盟]]に所属、女子初のビッグタイトルを獲得(2000年第9期[[麻雀マスターズ]])
*[[和久津晶]] - [[日本プロ麻雀連盟]]
*[[渡辺洋香]] - [[最高位戦日本プロ麻雀協会]]
*[[涼宮麻由]] - [[日本プロ麻雀協会]]
=== 麻雀に関する複数の著作物がある人物 ===
前節に挙げたプロ雀士には、複数の麻雀戦術書・指南書を刊行している者もいる。本節ではプロ雀士の他に、プロ雀士ではないが麻雀に関する複数の著作物を世に出している人物も列する。
* [[色川武大|阿佐田哲也]](作家、『[[麻雀放浪記]]』の作者)
* [[朝倉康心|ASAPIN]](初代・11代天鳳位、後の朝倉康心プロ)
* [[天野大三]]([[日本牌棋院]]創立者)
* [[天野晴夫]](雀荘経営者、『リーチ麻雀論改革派』など)
* [[大隈秀夫]](社会評論家、第2期麻雀名人、第7期麻雀[[最高位戦|最高位]]、[[麻雀博物館]]初代館長)
* [[片山まさゆき]](漫画家、第1回麻雀最強位、『[[ぎゅわんぶらあ自己中心派]]』『[[ノーマーク爆牌党]]』『[[牌賊! オカルティ]]』など麻雀マンガ多数)
*[[来賀友志]]([[漫画原作者]]、『[[天牌]]』シリーズなど)
* [[北野英明]](漫画家、『やさぐれ雀士』など)
* [[小池一夫]](劇画原作者、『黒い雀たちの神話』など)
* [[五味康祐]](作家、戦術書『五味マージャン教室』『五味マージャン大学』、小説『暗い金曜日の麻雀』『雨の日の二筒』など)
* [[西原理恵子]](漫画家、『[[まあじゃんほうろうき]]』他多数)
* [[さいふうめい]]([[漫画原作者]]、『[[哲也-雀聖と呼ばれた男|哲也]]』シリーズの作者)
* [[桜井章一]]([[雀鬼会]]主宰者)
* [[G・ウザク]](ブロガー、『麻雀 傑作「何切る」300選』など)
* [[清水一行]](作家、小説『天国野郎』『九連宝燈』『緑発を打て』)
* [[雀ゴロK]](雀荘経営者、『フリー麻雀で食う超実践打法』など)
* [[沖中祐也|ZERO]](『ゼロ秒思考の麻雀』など、後の沖中祐也プロ)
* [[田中貞行]](第3期王位・『現代麻雀用語大辞典』『完先ルール麻雀の役とアガり方』など)
* [[寺内大吉]](僧侶、作家、戦術書『大吉攻め麻雀』、小説『雀鬼群盗伝』など)
* [[とつげき東北]](公務員、インターネット麻雀研究家、『科学する麻雀』著者)
* [[ネマタ]](僧侶、ライター、麻雀研究家、『現代麻雀技術論』など)
* [[畑正憲]] 故人。(作家、[[ムツゴロウ王国|ムツゴロウ]]、[[日本プロ麻雀連盟]]相談役)
* [[福地泡介]](漫画家、第6・7期麻雀名人、『われかくて名人となれり』)
* [[福地誠]](ライター、著書編書多数)
* [[福本伸行]](漫画家、『アカギ』『カイジ』など)
* [[藤村正太]](作家、『大三元殺人事件』『必殺の大四喜』『緑一色は殺しのサイン』などの作者)
* [[みーにん]](インターネット麻雀研究家、『統計で勝つ麻雀』など)
* [[村石利夫]]([[日本麻雀道連盟]]創立者)
* [[山崎一夫 (賭博)|山崎一夫]](ライター、西原理恵子との共著多数。銀玉親方)
* [[ゆうせー]](ライター、YouTube、朝倉康心の兄、『実戦でよく出る!読むだけで勝てる麻雀講義』など)
* [[横山竜介]](ライター、著書多数)
=== 麻雀愛好家の著名人 ===
<!--※本一覧の掲載基準についてはノートページ([[ノート:麻雀#麻雀愛好家の著名人]])も参照のこと。-->
{{main2|『[[THEわれめDEポン|われめDEポン]]』出演経験者については「[[THEわれめDEポン#過去に出場した芸能人]]」を}}
{{columns-list|2;font-size:90%;|
* [[青木さやか]](お笑いタレント)
* [[阿川弘之]](作家)
* [[芦田伸介]](俳優)
* [[旭國斗雄]](力士、大関、第4期東スポ麻雀王座)
* [[天路圭子]](俳優、[[麻雀女新撰組]]、第2期女流麻雀名人)
* [[天月ミク]](アイドル・タレント、アイドルグループ「[[純情のアフィリア|アフィリア・サーガ]]」元メンバー、[[日本プロ麻雀協会]]所属プロ)
* 天宮こころ(VTuber)
* [[綾辻行人]](作家、第30期麻雀名人)
* [[荒木一郎]](歌手、作曲家)
* [[井沢元彦]](作家)
* [[石田芳夫]](囲碁棋士、二十四世[[本因坊]]秀芳、第5期東スポ麻雀王座)
* [[泉ピン子]](俳優、麻雀女新撰組)
* [[伊集院静]](作家)
* [[因幡はねる]](VTuber)
* [[井上陽水]](歌手)
* [[岩崎ひろみ]](俳優)
* [[植田佳奈]](声優)
* [[UZI (ラッパー)|UZI]](ヒップホップMC)
* [[歌衣メイカ]](VTuber)
* [[宇野千代]](作家、自伝『生きていく私』)
* [[海野十三]](作家)
* [[江國滋]](演芸評論家、第6期麻雀名人戦観戦記)
* [[江橋崇]](憲法学者、[[麻雀博物館]]顧問、[[健康麻将]]大使)
* [[蛭子能収]](漫画家、タレント)
* [[笈田敏夫]](歌手、[[週刊ポスト]]5週勝ち抜き第1号)
* [[大亀あすか]](声優、元[[日本プロ麻雀連盟]]所属プロ)
* [[大川慶次郎]](競馬評論家)
* [[大橋巨泉]](タレント、司会者、日本テレビ「11PM]で麻雀対局のホスト・解説、戦術書『巨泉の麻雀』)
* [[大堀早苗]](俳優、[[麻女セブン]])
* [[大宅壮一]](評論家)
* [[大山のぶ代]](声優)
* [[岡田紗佳]](ファッションモデル、[[日本プロ麻雀連盟]]所属プロ)
* [[小沢一敬]](お笑いタレント、[[スピードワゴン]])
* [[小野伸二]](サッカー選手)
* [[折原みか]](グラビアアイドル)
* [[魁傑將晃]](力士、大関、[[週刊ポスト]]5週勝ち抜き)
* [[加賀まりこ]](俳優)
* [[風間杜夫]](俳優)
* [[柏木由紀子]](俳優)
* [[勝間和代]](経済評論家、[[最高位戦日本プロ麻雀協会]]所属プロ)
* [[菅直人]](政治家、第94代内閣総理大臣、麻雀点数計算機を試作)
* [[神崎ちろ]](声優、[[日本プロ麻雀協会]]所属プロ・神崎はつみ)
* [[菊池寛]](作家、[[日本麻雀連盟]]初代総裁、小説『第二の接吻』)
* [[岸田今日子]](俳優、[[週刊ポスト]]5週勝ち抜き)
* [[草村礼子]](俳優)
* [[楠栞桜]](VTuber)
* [[熊切あさ美]](タレント、[[日本プロ麻雀協会]]所属プロ)
* [[久米正雄]](作家、[[日本麻雀連盟]]2代・6代総裁)
* [[倉田真由美]](漫画家)
* [[倉田てつを]](俳優)
* [[黒鉄ヒロシ]](漫画家)
* [[小清水亜美]](声優)
* [[児嶋一哉]](お笑いタレント、[[アンジャッシュ]]、日本プロ麻雀協会所属プロ)
* [[小山剛志]](声優)
* [[小林未沙]](声優、元最高位戦日本プロ麻雀協会所属プロ)
* [[近藤正臣]](俳優、[[週刊ポスト]]5週勝ち抜き)
* [[西条ゆり子]](タレント、麻雀女新撰組)
* [[堺正章]](タレント、歌手)
* [[坂上忍]](俳優)
* [[鷺沢萠]](作家)
* [[咲乃もこ]](VTuber)
* [[佐藤里佳]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]アナウンサー)<ref>http://www.fujitv.co.jp/ana/sato/index.html より。</ref>
* [[里見弴]](作家、小説『大道無門』)
* [[佐野洋]](作家、『麻雀事件簿』)
* [[沢村美司子]](歌手、麻雀女新撰組隊長)
* [[三遊亭圓楽 (5代目)]](落語家、東京12チャンネル「円楽の名人メッタ斬り」で麻雀対局のホスト)
* [[塩田丸男]](評論家、第1期麻雀名人戦観戦記(筆名・四面道人))
* [[志賀直哉]](作家)
* [[島本須美]](声優)
* [[鈴木大介 (棋士)|鈴木大介]](将棋棋士、2019年最強位、2023年より日本プロ麻雀連盟所属プロ)
* [[須藤凜々花]](タレント、元[[NMB48]])
* [[芹沢博文]](将棋棋士)
* [[先崎学]](将棋棋士)
* 千羽黒乃(VTuber)
* [[園山俊二]](漫画家)
* [[宝田明]](俳優)
* [[高本公夫]](馬券作家)
* [[武宮正樹]](囲碁棋士、第6期東スポ麻雀王座)
* [[伊達朱里紗]](声優、日本プロ麻雀連盟所属プロ)
* [[はじめしゃちょー#常駐メンバー(レギュラーメンバー)|棚澤龍昇]](YouTuber、プロ雀士)<ref>https://mj-news.net/column/20210929165643</ref>
* [[谷川流]](作家、『[[涼宮ハルヒシリーズ|涼宮ハルヒの憂鬱]]』原作者)
* [[筑紫哲也]](ジャーナリスト)
* [[椿彩奈]](ファッションモデル、タレント、日本プロ麻雀協会所属プロ)
* [[鶴田浩二]](俳優)
* [[天開司]](VTuber、「[[神域Streamerリーグ]]」主催)
* [[徳光和夫]](テレビ司会者、アナウンサー)
* [[中居正広]](元[[SMAP]])<ref>https://www.zakzak.co.jp/article/20201221-4MUAOR2S3FIU7GRFNNDM2D254I/</ref>
* [[中尾ミエ]](歌手)<ref>[[講談社]][[三枝の爆笑美女対談]]74ページより。</ref>
* [[長門裕之]](俳優)
* [[中田花奈]](タレント、日本プロ麻雀連盟所属プロ)
* [[中村勘三郎 (17代目)|十七世中村勘三郎]]([[歌舞伎役者]])
* [[野村沙知代]](野球監督夫人、第27期麻雀名人)
* [[萩本欽一]](タレント、コメディアン<!--、市民球団・[[茨城ゴールデンゴールズ]]オーナー兼監督-->)
* [[萩原聖人]](俳優、日本プロ麻雀連盟所属プロ)
* [[長谷川和彦]](映画監督、第13・14・15期麻雀名人、第9期近代麻雀王位、第8回最強位)
* [[畑中しんじろう]](芸人)
* [[花登筐]](作家、第8・9期麻雀名人)
* [[葉山良二]](俳優)
* [[張本勲]](野球選手、[[週刊ポスト]]5週勝ち抜き)
* [[東尾修]](野球選手)
* [[平畠啓史]](お笑いタレント)
* [[広津和郎]](作家、『麻雀入門』)
* [[福田蘭童]](尺八奏者、随筆『志賀直哉先生の台所』)
* [[藤田晋]]([[サイバーエージェント]]代表取締役、[[Mリーグ]]初代チェアマン)
* [[藤田伸二]] (元JRA騎手)
* [[藤原審爾]](作家)
* [[藤山律子]](俳優、麻女セブン)隊長)
* 舞元啓介(VTuber)
* [[前田佳織里]](声優)
* [[水森亜土]](イラストレーター、歌手)
* [[南田洋子]](俳優、[[週刊ポスト]]5週勝ち抜き)
* [[三原脩]](野球監督)
* [[宮路オサム]](歌手、第26期麻雀名人)
* [[宮下順子]](俳優)
* [[みやはら啓一]](漫画家、『雀のお宿』)
* [[三好徹]](作家)
* [[武藤敬司]](プロレスラー)
* [[村瀬紗英]](アイドル、NMB48)
* [[森田舜]](俳優)<ref>https://twitter.com/eyebrowman/status/1401912415638351872</ref>
* [[森光子]](俳優)
* [[森山周一郎]](声優)
* [[山田風太郎]](作家)
* [[山本ひかる]](女優)
* [[山本陽子]](俳優)
* [[横山光輝]](漫画家、第12期麻雀名人)
* [[吉沢やすみ]](漫画家)
* [[吉行淳之介]](作家、随筆『麻雀好日』)
* ルイス・キャミー(VTuber)
* [[和田誠]](映画監督、[[麻雀放浪記#映画(1984年版)映画(1985年版)映画版『麻雀放浪記』]]の監督)
}}
<!--※本一覧の掲載基準についてはノートページ([[ノート:麻雀#麻雀愛好家の著名人]])も参照のこと。-->
== 麻雀競技 ==
麻雀から賭博要素を排除し、ルールを調整して[[マインドスポーツ]]として競技化した麻雀は「[[競技麻雀]]」と呼ばれる。
=== 競技団体 ===
{{See also|Category:麻雀競技団体}}
=== 麻雀のタイトル戦 ===
{{See also|Category:麻雀のタイトル戦}}
== 出版物 ==
=== 麻雀専門誌 ===
昭和期の麻雀ブームの頃は専門誌が刊行されたが、現在では一般の書店に並ぶ専門誌は存在しない。
; 市販
*[[近代麻雀]]([[竹書房]]、1973年1月号 - 1987年12月号)1978年第1期[[王位戦 (麻雀)]]開始
*[[近代麻雀|ジャンケン 麻雀研究]]([[竹書房]]、1975年6月号 - 1977年2月号)1976年2月号第1期[[最高位戦]]開始
*プロ麻雀([[新評社]]、1975年秋号(季刊)- 1977年8月号(隔月に)- 1978年11月号(月刊に)- 1982年10月号(銀星出版社発行に)- 2002年1月号(マインドスポーツマガジン社発行に)- 2005年6月号(ブレインスポーツマガジン社発行に)- 2005年12月号)
*ビッグ麻雀([[司書房]]、1977年11月号 - 1978年7月号)
*別冊近代麻雀([[竹書房]]、2004年4月号 - 同年9月号)
; 通販
*麻雀四季報(麻雀ファン倶楽部、季刊、1 - 17号)
*麻雀@(スリーアローズコミュニケーションズ、隔月、2006年6月号 - 2007年2月号)
*麻雀界(日本雀友会、「麻雀四季報」の後継誌、2010年1・2月号(隔月)- 2011年11月号(月刊)- 現在)
; 宅配
*[[麻雀新聞]](麻雀新聞、月刊、1977年5月創刊)
=== 麻雀専門サイト ===
*[https://kinmaweb.jp/ キンマweb]([[竹書房]])
=== 麻雀漫画専門誌 ===
麻雀を題材とした漫画のみを掲載した雑誌。詳細は[[麻雀漫画]]参照。現在発行されているのは[[竹書房]]から刊行されている1誌のみ。
*[[近代麻雀]]
*[[近代麻雀|近代麻雀オリジナル]] ([[2013年]][[12月9日]]発売号をもって新雑誌にリニューアル)
*近代麻雀ギャンブルCOM([[2006年]]1月より同年[[4月24日]]発売号をもって休刊)
*近代麻雀ゴールド([[2005年]][[12月23日]]発売号をもって休刊)
== 麻雀を題材とした作品 ==
{{main|Category:麻雀を題材とした作品}}
;テレビ番組
{{main|Category:麻雀番組}}
;ゲーム
{{main|麻雀ゲームソフト一覧}}
:{{main2|脱衣系については「[[脱衣麻雀]]」も}}
;麻雀漫画
{{main|麻雀漫画}}
== 麻雀に関する文化 ==
=== 徹夜マージャン ===
麻雀は夜通しで行われることも多い。こうした麻雀は徹夜マージャン、もしくは略して「'''徹マン'''」と呼ばれる。
参加人数が4人しかいなければ、寝ることもままならず体力的にもかなりきつい。それでも大学生など若者を中心に、麻雀愛好家は徹夜マージャンを盛んに行う傾向にある。
参加人数が5人以上であれば、1人は競技に参加できない[[半荘]]が発生する。競技に参加できない者を「抜け番」と言い、仮眠を取って次の半荘に備えることができる。
=== 健康マージャン ===
麻雀の不健全なイメージ(賭博と酒、タバコ、徹夜など)を排除すべく、脳の機能の維持などを目的として起案された麻雀。'''健康麻将'''(けんこうマージャン)とも呼ばれ、[[脳力トレーニング|脳のトレーニング]]や老化防止にも活用されている<ref>[http://kenko-mahjong.com/index.php 日本健康麻将協会HP]</ref>。
映像作品に[[玉利祐助]]監督の長編記録映画「少子超高齢化する現代社会における『健康マージャン』の社会性の報告」がある。
=== 博物館 ===
* [[麻雀博物館]] - 貴重な麻雀牌や麻雀関連の書籍が多数収蔵されていた。(2017年に閉館)
=== 麻雀用語から派生した言葉 ===
<!--
;和(が)る/和了る(アガる){{疑問点|date=2021年2月|talksection=「麻雀用語から派生した言葉」節の「和(が)る/和了る(アガる)」について}}
:ゲームに勝利すること(「上がる」の当て字)。主に簡易麻雀類([[ポンジャン]]など)や[[トランプ]]ゲーム([[セブンブリッジ]]、[[ババ抜き]]など)で使う用語。'''アガる'''などと呼ぶこともある。
-->
;[[連荘|連荘(レンチャン)]]
:親が[[和了]]して(アガって)再度親を続けること。転じて、同じことが続けて起きること。[[パチンコ]]において大当たりが連続すること、あるいは[[確率変動]]が続くことや、シフト制の勤務形態で働く労働者が連続して[[出勤]]することを指すことが多い。
;[[立直]]が掛かる(リーチがかかる)
:[[門前清|門前(メンゼン)]]で[[聴牌|聴牌(テンパイ)]]し、今後一切手を変えない旨を宣言(その代わり、和了したら1翻を得られる)する際に発声する用語。転じて、一大事が差し迫っていること。また、パチンコやパチスロで大当たりの一歩手前の状態になること。([[リーチ (パチンコ)]]を参照。)その他[[ボードゲーム]]や[[ビンゴ]]ゲームなど、ゲーム一般でもゴール(アガリ)直前の状態を指す言葉として用いられる。([[リーチ (ゲーム)]]を参照。)ネガティブ表現としても度々使用される。(クビ(会社の解雇)にリーチがかかる、別れ・別居にリーチ(不倫・不貞行為多数の為)がかかる 等)
;テンパる
:聴牌するの意。危険牌を捨てるか聴牌を崩すかの選択を迫られる事が多く、転じて手詰まりの状態、物事を抱え過ぎた状態などから[[パニック]]に陥ることを指す。また和了に向けて緊張する様子から、同様の心理状態をも指す。英語の temper 由来の説もある。
;[[オーラス]]
:「オールラスト」([[和製英語]])の略語で、半荘の最後の一局(南4局)を言う([[英語]]では just the last)。転じて、物事の最後の意。フジテレビ系のクイズ番組『[[なるほど!ザ・ワールド]]』で司会の[[愛川欽也]]が発した「オーラスです、恋人選び」というフレーズからも一般化した。
;ラス前
:上記「オーラス」に関連し、「オールラストの1局前」の略語で、最後の一局の1つ前の南3局を指す(英語では the last but one)。南4局には[[麻雀のルール#ゲームの終了|ゲーム終了]]に際して様々な縛りがあるため、縛りのない南3局は大切な局となる。転じて物事の終了前の大切な時期、または男女の別れや夫婦の[[離婚]]の前などのもつれた時期などを指す。
;面子(メンツ)
:和了に必要な牌の組み合わせ。また、麻雀を行うのに必要なメンバー。転じて、ある集まりの参加者をもいう。
;対面(トイメン)
:マージャン卓を隔てた向かい側の席。また、その席の人。転じて、真向かいの位置。また、その位置の人。
;錯和(チョンボ)
:冲和とも書く。和了が成立していないのに和了を宣言すること。転じて大失敗や大失態、反則の意。
;白板(パイパン)
:三元牌の1つ。通称'''白'''(「ハク」または「しろ」)。字も絵も一切彫られていない真っ白の状態であることから、女性の無毛症、または女性の[[陰毛]]を剃り落とした状態を指す。
;[[安全牌・危険牌|安全牌(アンゼンパイ)]]
:河に捨ててもロンあがりされる可能性がない牌のこと。<!-- '''アンパイ'''とも言う。-->転じてスポーツなどで確実に勝ちを計算できる相手、あるいはいつでも自分の恋人や結婚相手になってくれる人を指す。<!-- 按配?→「安全策」を言い換えて「アンパイ」と使うこともある。-->
;自摸(ツモ)
:自力で和了り(アガり)、牌を引いてくること。門前で向聴(シャンテン)数がスムーズに進んだり、自分の欲しい牌が良く来る流れを「ツモが良い」と言う。[[ローグライクゲーム]]などランダム性の強いゲームで、序盤で強力な装備やアイテムを手に入れた時に使うこともある。パチンコの抽選でも度々用いられる(確率変動(確変)をツモった。16R(ラウンド)をツモった 等)
;両面(リャンメン)
:2つ連続した数牌2牌の組み合わせで、その両側のいずれかの数牌が来れば順子(シュンツ)になる塔子(ターツ)を指す。[[アメフト]]([[アメリカンフットボール]])において攻守ともに出場している状態を指す言葉として使われている。
;嵌張(カンチャン)
:1つ飛びの数牌2牌の組み合わせで、その間の数牌が来れば順子(シュンツ)になる塔子(ターツ)を指す。[[野球]]において打者が打ち上げたフライが野手と野手との間にポトリと落ちるようなヒットの事を「カンチャンヒット」という場合がある(ポテンヒット・テキサスヒットなどと同じ意味で使用する)。また、[[バレーボール]]において2名以上のプレーヤーでブロックした場合の、ブロッカー間の隙間を俗に「カンチャン」と呼ぶ。
<!--ナシナシ、アリナシは?→;アリアリ:後付け有り・食い断有りの各ルールを略した総称で、関東地方では通例的にアリアリと呼称する事が多い。またコーヒーの砂糖・ミルク入りを指す。-->
<!--日本では「一貫」用いられ、中国では「一气通贯」となる→; 一気通貫
:役の一つ。同種の数牌を123・456・789と1から9まで全て揃えると成立する。転じて、「最初から最後まで」という意味で使用される。-->
;辺張(ペンチャン)
:麻雀では順子の1,2,3の3部分、7,8,9の7部分を待つ形。ごくまれに「間に合わせの意味」「保険用の人」で使用される事がある。(ペンチャンメンバー(特に予定が無い人に声をかけておき、飲み会、合コンで人数が足りない場合、人員を間に合わせる為、連絡し人数確保する)を確保しておく いわゆる余った人の意)実際の麻雀でも辺張待ち(3,7牌待ち)は、来ないことが多いのでこのような表現として用いられている。
=== 賭け麻雀 ===
一般に麻雀は[[賭博]]的な要素を持つ遊技と認識されており、[[大人]]に限らず[[未成年者]]がプレーする場合でも金品のやりとりを伴うことが多い。
日本において、[[公営ギャンブル]]以外のギャンブルは賭博であり、[[刑法 (日本)|刑法]]上の犯罪である<ref group="注釈">定義法がないものは全て違法・犯罪。</ref> 。個人間での賭博が違法で無い国では金銭をかけた麻雀が行われている。
麻雀は零和ゲーム(全員の点数の合計が常に一定:[[ゼロサムゲーム]])であるため点数のやりとりをそのまま賭け金のやりとりに換算しやすい。さらに思考ゲームであると同時に偶然の要素も強く、運・実力共に結果に反映されることからギャンブルとして馴染みやすい。
結果に従ってやりとりする金額は普通、ウマ等を考慮した得失点1000点につき何円というレートが設定される。1000点あたり10円なら「点1(テンイチ)」、50円なら「点5(テンゴ)」、100円なら「ピン」(または「テンピン」)、200円なら「リャンピン」、1000円なら「デカピン」、10000円なら「デカデカピン」と言われる。日本の法律および判例では金銭については額の多少に関わらず一時の娯楽に供するものとは見なされない(大審院[[1924年|大正13年]][[2月9日]]、最判[[1948年|昭和23年]][[10月7日]]など)ため、原理的にはこれらすべてのレートに対し[[賭博及び富くじに関する罪#一時の娯楽に供する物|賭博罪]]が成立する。2011年には、比較的少額とされる点5雀荘も摘発された。1000点あたり1000円を超えるような高レートの設定といった高額の金品等を賭けるケースは、人目を忍んでマンションの一室で催されるという意味で'''マンション麻雀'''などと呼ばれる。
その他のギャンブル([[カジノ]]などで行われている多くのものや[[公営競技]]など)と異なる点として点棒の移動によって異なる負け金を勝負の後に出すことから[[控除率]]の計算が難しいが、ギャンブルとしては公営競技などと比しても破格の高さで'''特に1000点20円以下の低レートでは控除率が100%を超えることすらある'''。例として1000点20円、2の2-4のレートで場代が1人250円の場合で30000点丁度の一人浮きトップを取った場合を例に取ればトップ者の収入(=敗者の支出合計)は800円であるがこれに対しハウスが徴収するコミッション(控除額)は1000円となる。したがって、'''控除率は125%となる'''。
なお負けた者の支払いが本人によって行われない場合(たとえば大会においてスポンサーがあり、勝者に賞金を提供するなど)、または勝った者の利益が本人の手に渡らない場合は賭博罪には当たらない。
雀荘で不特定の客同士が卓を囲む場合は、レート設定で対立することのないように雀荘側で公式レートを定めていることが多い。この公式レートは[[麻雀のルール#付加的なルール|ウマ]]とあわせて店外に掲示されているが、「風速」などと[[婉曲表現]]されていたり、サイコロの目のイラストで示されていることが多い。例えば「風速0.5」とあれば、それは1000点で50円のレートであるという意味である。
多くの雀荘、預かり金と称して、5000円から1万円を客から預かることもあり、客が負けて手持ちがなくなっても一定程度払えるようにしている。また、それでも足りなければ、「アウト」と称して店が不足分を立て替える雀荘もある。
賭博要素を排除した麻雀は「ノーレート麻雀」と呼ばれる。
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|ゲーム|[[画像:10_sided_die.svg|none|34px]]}}
{{ウィキポータルリンク|玩具|[[画像:Rubik's_cube.svg|none|34px]]}}
*[[麻雀の点]]
*[[麻雀の得点計算]]
*[[麻雀の役一覧]]
*[[麻雀の戦術]]
*[[麻雀の不正行為]]
*[[麻雀用語一覧]]
*[[麻雀の目無し問題]]
*[[麻雀牌]]
*[[全自動麻雀卓]]
*[[牌九]]
*[[ドミノ]]
*[[ラミーキューブ]]
*[[オケイ]]
*[[ポンジャン]]
*[[上海_(ゲーム)]]
*[[トランプ類税]]
*[[マインドスポーツ]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*{{cite book|和書|title=麻雀検定青本:あなたの雀力一発判定!! |editor=福地誠監修・近代麻雀編集部 |date=2015-04 |publisher=竹書房 |isbn=9784801902411 |series=近代麻雀 |ref={{SfnRef|麻雀検定青本|2015}}}}
*{{cite book|和書|title=麻雀の原理を探る:心の旅路 |author=永松憲一 |date=2001-09 |publisher=東京図書出版会 |isbn=4434011367 |ref=harv }}
*{{cite book|和書|title=バカヅキハリケーン:マージャン百科全書 |last=馬場 |first=裕一 |last2=片山 |first2=まさゆき |publisher=竹書房 |date=1990-01 |isbn=4884750438 |ref=harv }}
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Mahjong}}
{{Wiktionary|麻雀}}
{{Wikibooks|麻雀}}
*[https://mj-dragon.com/ 麻雀の雀龍.com] - ルール・役・点数計算の解説、ゲーム・番組の紹介
*[https://www.mjclv.com/ 麻雀%] - 麻雀ルール、役の覚え方、点数計算の解説、牌効率・戦術の解説
*{{Kotobank|2=日本大百科全書(ニッポニカ)}}
{{麻雀の役}}
{{麻雀のバリエーションルール}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:まあしやん}}
[[Category:麻雀|*]] | 2003-05-20T03:31:27Z | 2023-12-05T19:44:00Z | false | false | false | [
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[癸酉]]
* [[日本]]
** [[仁徳天皇]]元年
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* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[西晋]] : [[永嘉 (晋)|永嘉]]7年、[[建興 (晋)|建興]]元年
** [[前趙]] : [[嘉平 (前趙)|嘉平]]3年
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** [[前涼]] : [[建興 (晋)|建興]]元年(西晋の元号を使用)
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** [[高句麗]] : [[美川王]]14年
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** [[新羅]] : [[訖解尼師今|訖解王]]4年
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* [[仏滅紀元]] : 856年
* [[ユダヤ暦]] : 4073年 - 4074年
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== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=313|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[2月14日]](仁徳天皇元年[[1月3日 (旧暦)|1月3日]]) - 第16代[[天皇]]・[[仁徳天皇]]が即位
* 高句麗が[[楽浪郡]]を滅ぼす。
* [[ミラノ勅令]] - [[ローマ帝国]]の[[コンスタンティヌス1世|コンスタンティヌス帝]]が[[キリスト教]]を公認
* 西晋の第3代皇帝で捕虜となっていた懐帝が[[前趙]]の[[劉聡]]により[[処刑]]される。
== 誕生 ==
{{see also|Category:313年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
== 死去 ==
{{see also|Category:313年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[3月14日]](永嘉7年[[2月1日 (旧暦)|2月1日]]) - [[懐帝 (西晋)|懐帝]]、西晋の第3代皇帝(* [[284年]])
* [[マクシミヌス・ダイア]] - [[ローマ皇帝]](* [[270年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|313}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/313%E5%B9%B4 |
8,747 | ナポレオン・ボナパルト | ナポレオン・ボナパルト(フランス語: Napoléon Bonaparte、別名(1794年以前): ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテ、Napoleone di Buonaparte、1769年8月15日 - 1821年5月5日)は、フランス革命期の軍人、革命家で、フランス第一帝政の皇帝に即位してナポレオン1世(フランス語: Napoléon I、在位:1804年 - 1814年、1815年)となった。1世から3世まで存在するが、単にナポレオンと言えばナポレオン1世を指す。
フランス革命後の混乱を収拾し、軍事独裁政権を確立した。大陸軍(フランス語: Grande Armée グランダルメ)と名づけた軍隊を築き上げ、フランス革命への干渉を図る欧州諸国とのナポレオン戦争を戦い、幾多の勝利と婚姻政策によって、イギリス、ロシア帝国、オスマン帝国の領土を除いたヨーロッパ大陸の大半を勢力下に置いた。対仏大同盟との戦いに敗北し、百日天下による一時的復権を経て、51歳のとき南大西洋の英領セントヘレナにて没した。
1769年、イタリア半島の西に位置するフランス領の島コルシカ島のアジャクシオにおいて、父カルロ・マリア・ブオナパルテと母マリア・レティツィア・ラモリーノの間に、12人の子ども(4人は夭折)のうち4番目として生まれた。出生時の洗礼名はナブリオーネ・ブオナパルテ。島を追われ、フランスで一生を暮らすと決めて、25歳となる1794年頃より、ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテというイタリア人名の綴りから、フランス風のナポレオン・ボナパルトへ改名し、署名も改めた。
ブオナパルテ家の先祖は中部イタリアのトスカーナ州に起源を持つ、古い血統貴族。それがジェノヴァ共和国の傭兵隊長としてコルシカ島に渡り、16世紀頃に土着した。判事であった父カルロは、1729年に始まっていたコルシカ独立闘争の指導者パスカル・パオリの副官を務めていたが、ナポレオンが生まれる直前にフランス側に転向し、戦後に寝返りへの見返りとして報奨を受け、フランス貴族と同等の権利を得た。旧ジェノヴァ共和国領であるコルシカ島には貴族制度がなかったが、新貴族としての身分を晴れて認められたことで特権を得て、フランス本国への足がかりを得た父カルロはやがてコルシカ総督とも懇意になり、その援助でナポレオンと兄のジュゼッペ(ジョゼフ)を教育を受けさせるためにフランス本国へと送った。
ナポレオンは当初、修道院付属学校に短期間だけ入っていたが、1779年に貴族の子弟が学ぶブリエンヌ陸軍幼年学校(fr)へ国費で入学し、数学で抜群の成績を修めたという。1784年にパリの陸軍士官学校(fr)に入学。士官学校には騎兵科、歩兵科、砲兵科の3つがあったが、彼が専門として選んだのは、伝統もあり花形で人気のあった騎兵科ではなく、砲兵科であった。大砲を用いた戦術は、のちの彼の命運を大きく左右することになる。卒業試験の成績は58人中42位であったものの、通常の在籍期間が4年前後であるところを、わずか11か月で必要な全課程を修了したことを考えれば、むしろ非常に優秀な成績と言える。実際、この11か月での卒業は開校以来の最短記録であった。
この時期のエピソードとして、クラスで雪合戦をした際にナポレオンの見事な指揮と陣地構築で快勝したという話が有名で、この頃から指揮官としての才能があったとされるが、実話かは定かではない。幼年時のナポレオンは、節約をかねて読書に明け暮れ、特にプルタルコスの『英雄伝』やルソーの著作などを精読し、無口で友達の少ない少年であった。学校ではコルシカなまりを馬鹿にされ、ナポレオーネに近い音でラパイヨネ(la paille au nez, 藁鼻)とあだ名された。裕福な貴族子弟と折り合いが悪かったためである。その頃の数少ない友人の一人が、のちに秘書官を務めるルイ・アントワーヌ・フォヴレ・ド・ブーリエンヌであった。一方で、癇癪持ちでもあり、喧嘩っ早く短気な一面もあった。また十代の後半は小説家にも憧れ、その頃から断続的に文学活動もしていた。
16歳のとき1785年に砲兵士官として任官。20歳を迎える1789年、フランス革命が勃発し、フランス国内の情勢は不穏なものとなっていくが、コルシカ民族主義者であった当時のナポレオンは革命には無関心だった。ナポレオンはしばしばコルシカ島へと長期帰郷している。
23歳となる1792年、故郷アジャクシオの国民衛兵隊中佐に選ばれるが、ブオナパルテ家が親仏派であったことから、英国に逃れているコルシカ島独立指導者パスカル・パオリの腹心でナポレオンと遠い縁戚関係にもあるポッツォ・ディ・ボルゴら親英派によってブオナパルテ家弾劾決議を下される。軍人ナポレオンと家族はコルシカ島から追放され、船で脱出するという逃避行によってコルシカ島に近い南仏マルセイユに移住した。マルセイユでは、ブオナパルテ家は裕福な商家であるクラリー家と親交を深め、ナポレオンの兄のジョゼフは、クラリー家の娘・ジュリーと結婚した。ナポレオンもクラリー家の末娘・デジレと恋仲となり、婚約する。この頃、ナポレオンは、己の政治信条を語る小冊子『ボーケールの晩餐』を著して、当時のフランス政府(革命政府)の中心にいた有力者ロベスピエールの弟・オーギュスタンの知遇を得ていた(この小冊子はのちに、ロベスピエールとジャコバン派の独裁を支持するものであるとして、後述するナポレオン逮捕の口実ともなった)。
24歳となる1793年、原隊に復帰すると、貴族士官の亡命という恩恵を得て、特に何もせずに大尉に昇進。ナポレオンはフランス軍の中でも主に王党派蜂起の鎮圧を行っていたカルトー将軍の南方軍に所属し、トゥーロン攻囲戦に出征。前任者の負傷を受けて、新たに砲兵司令官となり、少佐に昇格する。当時の欧州情勢としては、「フランス革命政府」対「反革命側反乱軍(およびそれに介入する第一次対仏大同盟諸国)」の図式があり、近代的城郭を備えた港湾都市トゥーロンはフランス地中海艦隊の母港で、イギリス・スペイン艦隊の支援を受けた反革命側が鉄壁の防御を築いていた。革命後の混乱で人材の乏しいフランス側は、元画家のカルトー将軍らの指揮で、要塞都市への無謀ともいえる突撃を繰り返して自ら大損害を被っているような状況であった。ここでナポレオンは、まずは港を見下ろす二つの高地を奪取して、次にそこから大砲で敵艦隊を狙い撃ちにする、という作戦を進言する。次の次の司令官であったデュゴミエ将軍がこれを採用し、豪雨をついて作戦は決行され成功、外国艦隊を追い払い反革命軍を降伏に追い込んだ。ナポレオン自身は足を負傷したが、この功績により国民公会の議員の推薦を受け、当時24歳の彼は一挙に旅団将軍(少将相当)に昇進し、一躍フランス軍を代表する若き英雄へと祭り上げられた。
1794年、革命政府内でロベスピエールがテルミドール9日のクーデタで失脚して処刑された。ナポレオンはイタリア方面軍の砲兵司令官となっていたが、ロベスピエールの弟オーギュスタンとつながりがあったこと、およびイタリア戦線での方針対立などにより逮捕、収監された。短期拘留であったものの軍務から外され、降格処分となった。その後も転属を拒否するなどして、公安委員のオーブリと対立したために予備役とされてしまった。
しかし1795年、パリにおいて王党派の蜂起(ヴァンデミエールの反乱)が起こった。このときに国民公会軍司令官となったポール・バラスは、トゥーロン攻囲戦のときの派遣議員であったため、知り合いのナポレオンを副官として登用した。実際の鎮圧作戦をこの副官となったナポレオンにほぼ一任した結果、首都の市街地で一般市民に対して大砲(しかも広範囲に被害が及ぶぶどう弾)を撃つという大胆な戦法をとって鎮圧に成功した。これによってナポレオンは師団将軍(中将相当)に昇進。国内軍副司令官、ついで国内軍司令官の役職を手に入れ、「ヴァンデミエール(葡萄月)将軍」の異名をとった。月の呼称については「フランス革命暦」参照。
27歳を迎える1796年には、デジレ・クラリーとの婚約を反故にして、恐怖政治の下で処刑されたボアルネ子爵の未亡人でポール・バラスの愛人でもあったジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと結婚。同年、総裁政府の総裁となっていたバラスによってナポレオンはイタリア方面軍の司令官に抜擢された。フランス革命へのオーストリア帝国の干渉に端を発したフランス革命戦争が欧州各国を巻き込んでいく中、総裁政府はドイツ側の二方面とイタリア側の一方面をもってオーストリアを包囲攻略する作戦を企図しており、ナポレオンはこの内のイタリア側からの攻撃を任されたのである。
ドイツ側からの部隊がオーストリア軍の抵抗に苦戦したのに対し、ナポレオン軍は連戦連勝であった。
1797年4月にはオーストリアの帝都ウィーンへと迫り、同年4月にはナポレオンは総裁政府に断ることなく講和交渉に入った。そして10月にはオーストリアとカンポ・フォルミオ条約を結んだ。これによって第一次対仏大同盟は崩壊、フランスはイタリア北部に広大な領土を獲得して、いくつもの衛星国(姉妹共和国)を建設し、膨大な戦利品を得た。このイタリア遠征をフランス革命戦争からナポレオン戦争への転換点とみる見方もある。フランスへの帰国途中、ナポレオンはラシュタット会議に儀礼的に参加。12月、パリへと帰還したフランスの英雄ナポレオンは熱狂的な歓迎をもって迎えられた。
オーストリアに対する陸での戦勝とは裏腹に、対仏大同盟の雄であり強力な海軍を有し制海権を握っているイギリスに対しては、フランスは決定的な打撃を与えられなかった。そこでナポレオンは、イギリスにとって最も重要な植民地であるインドとの連携を絶つことを企図し、英印交易の中継地点でありオスマン帝国の支配下にあったエジプトを押さえること(エジプト遠征)を総裁政府に進言し、これを認められた。
1798年7月、ナポレオン軍はエジプトに上陸し、ピラミッドの戦いで勝利してカイロに入城した。しかしその直後、アブキール湾の海戦でネルソン率いるイギリス艦隊にフランス艦隊が大敗し、ナポレオン軍はエジプトに孤立してしまった。12月にはイギリスの呼びかけにより再び対仏大同盟が結成され(第二次対仏大同盟)、フランス本国も危機に陥った。1799年にはオーストリアにイタリアを奪還され、フランスの民衆からは総裁政府を糾弾する声が高まっていた。シリアのアッコンの砦での敗北もあり、これを知ったナポレオンは、自軍を次将のクレーベルに託し、エジプトに残したまま側近のみを連れ単身フランス本土へ舞い戻った。
フランスの民衆はナポレオンの到着を、歓喜をもって迎えた。11月、ナポレオンはブルジョワジーの意向を受けたエマニュエル=ジョゼフ・シエイエスらとブリュメール18日のクーデタを起こし、統領政府を樹立し自ら第一統領(第一執政)となり、実質的に独裁権を握った。もしこのクーデタが失敗すれば、ナポレオンはエジプトからの敵前逃亡罪および国家反逆罪により処刑される可能性もあった。
統領政府の第一統領(第一執政)となり政権の座に就いたナポレオンであるが、内外に問題は山積していた。まずは第二次対仏大同盟に包囲されたフランスの窮状を打破することが急務であった。
まず、イタリアの再獲得を目指した。当時のイタリアへの進入路は、直接フランスからトリノに向かう峠道、地中海沿いリグーリア州の2つの有名な峠道、ジェノヴァ方面の4つが主であったが、これらは既に1794年、1795年、1796年の戦役での侵攻作戦で使用していたため、ナポレオンはアルプス山脈をグラン・サン・ベルナール峠で越えて北イタリアに入る奇襲策をとった。これによって主導権を奪って優位に戦争を進めたが、緒戦の大勝のあと、メラス将軍率いるオーストリア軍を一時見失って兵力を分割したことから、不意に大軍と遭遇して苦戦を強いられる。しかし別働隊が戻ってきて、1800年6月14日のマレンゴの戦いにおいてオーストリア軍に劇的に勝利した。別働隊の指揮官でありナポレオンの友人であったドゼーはこの戦闘で亡くなった。12月には、ドイツ方面のホーエンリンデンの戦いでモロー将軍の率いるフランス軍がオーストリア軍に大勝した。翌年2月にオーストリアはリュネヴィルの和約に応じて、ライン川の左岸をフランスに割譲し、北イタリアなどをフランスの保護国とした。この和約をもって第二次対仏大同盟は崩壊し、フランスとなおも交戦するのはイギリスのみとなったが、イギリス国内の対仏強硬派の失脚や宗教・労働運動の問題、そしてナポレオン率いるフランスとしても国内統治の安定に力を注ぐ必要を感じていたことなどにより、1802年3月にはアミアンの和約で講和が成立した。
ナポレオンは内政面でも諸改革を行った。全国的な税制度、行政制度の整備を進めると同時に、革命期に壊滅的な打撃を受けた工業生産力の回復をはじめ産業全般の振興に力を注いだ。1800年にはフランス銀行を設立し、通貨と経済の安定を図った。
1802年には有名なレジオンドヌール勲章を創設。さらには国内の法整備にも取り組み、1804年には「フランス民法典」、いわゆるナポレオン法典を公布した。これは各地に残っていた種々の慣習法、封建法を統一した初の本格的な民法典で、「万人の法の前の平等」「国家の世俗性」「信教の自由」「経済活動の自由」などの近代的な価値観を取り入れた画期的なものであった。
教育改革にも尽力し「公共教育法」を制定している。また、交通網の整備を精力的に推進した。
フランス革命以後、敵対関係にあったカトリック教会との和解も目指したナポレオンは、1801年に教皇ピウス7世との間で政教条約(コンコルダート)(英語版)を結び、国内の宗教対立を緩和した。また革命で亡命した貴族たちの帰国を許し、王党派やジャコバン派といった前歴を問わず有能の士を軍や行政に登用し、政治的な和解を推進した。その一方で、体制を覆そうとする者には容赦せずに弾圧した。
ナポレオンが統領政府の第一統領となったときから彼を狙った暗殺未遂事件は激化し、1800年12月には王党派による爆弾テロも起きていた。そして、それらの事件の果てに起こった1804年3月のフランス王族アンギャン公ルイ・アントワーヌの処刑は、王を戴く欧州諸国の反ナポレオンの感情を呼び覚ますのに十分であった。ナポレオン陣営は相次ぐ暗殺未遂への対抗から独裁色を強め、帝制への道を突き進んで行くことになる。
さらに、フランスの産業が復興し市場となる衛星国や保護国への支配と整備が進められる一方で、かねてより争いのあったイギリスもまた海外への市場の覇権争いから引くわけにはいかなかった。既に1803年4月にはマルタ島の管理権をめぐってフランスとイギリスの関係は悪化しており、5月のロシア皇帝アレクサンドル1世による調停も失敗。前年に締結したばかりのアミアンの和約はイギリスによって破棄され、英仏両国は講和からわずか1年で再び戦争状態に戻ろうとしていたのである。こうした国内外の情勢のなか、ナポレオンは自らへの権力の集中によって事態を推し進めることを選び、1802年8月2日には1791年憲法を改定して自らを終身統領(終身執政)と規定した。
植民地のサン=ドマングでは、ジャコバン派による奴隷制廃止の後にフランス側に戻った黒人の将軍トゥーサン・ルーヴェルチュールがイギリス軍やスペイン軍と戦ってサン=ドマングを回復。さらにはスペイン領サントドミンゴに侵攻してスペイン領の奴隷を解放した後に全イスパニョーラ島を統一し、1801年7月7日に自身を終身総督とする自治憲法を制定して支配権を確立していた。ナポレオンはサン=ドマングを再征服するために、義弟のルクレール将軍をサン=ドマング植民地に送った。ルクレール将軍は熱病、ゲリラ戦に苦戦しながらも騙し討ちでトゥーサンを捕えてフランス本国に送り、トゥーサンは獄死した。さらに1803年4月、アメリカ合衆国にルイジアナ植民地を売却した(ルイジアナ買収)。しかし、奴隷制を復活したことにサン=ドマングの黒人は強く怒り、1803年11月18日のヴェルティエールの戦いでフランス軍は大敗を喫し、1804年1月1日にジャン=ジャック・デサリーヌが指導するフランス領サン=ドマングはハイチ共和国として独立した(ハイチ革命)。これは、ナポレオンのフランスにとって最初の大規模な敗北となった。
1804年5月、国会の議決と国民投票を経て世襲でナポレオンの子孫にその位を継がせるという皇帝の地位についた。皇帝の地位に就くにあたって国民投票を行ったことは、フランス革命で育まれつつあった民主主義を形式的にしても守ろうとしたものだったとする見方もある。1804年12月2日には「フランス人民の皇帝」としての戴冠式が行われた(フランス第一帝政)。英雄が独裁的統治者となったこの出来事は多方面に様々な衝撃を与えた。この戴冠式には、教皇ピウス7世も招かれていた。それまでオスマン帝国やロシアを除く欧州の皇帝は教皇から王冠を戴くのが儀礼として一般的な形であったが、ナポレオンは教皇の目の前で、自ら王冠をかぶった。この行動には、欧州に自由の革命精神を根付かせるに当たって、帝冠は血筋によってではなく努力によって戴冠される時代が来たことを示すという事と、政治の支配下に教会を置くという事との二つの思惑が絡んでいると考えられる。
ナポレオンは、閣僚や大臣に多くの政治家、官僚、学者などを登用し、自身が軍人であるほかには、国防大臣のみに軍人を用いた。
1805年、ナポレオンはイギリス上陸を目指してドーバー海峡に面したブローニュに大軍を集結させた。イギリスはこれに対してオーストリア・ロシアなどを引き込んで第三次対仏大同盟を結成。プロイセンは同盟に対して中立的な立場を取ったもののイギリス・オーストリアからの外交の手は常に伸びており、ナポレオンはこれを中立のままにしておくためにイギリスから奪ったハノーファーをプロイセンに譲渡するとの約束をした。
1805年10月、ネルソン率いるイギリス海軍の前にトラファルガーの海戦にて完敗。イギリス上陸作戦は失敗に終わる。もっともナポレオンはこの敗戦の報を握り潰し、この敗戦の重要性は、英仏ともに戦後になってようやく理解されることになったという。
海ではイギリスに敗れたフランス軍だが、陸上では10月のウルムの戦役でオーストリア軍を破り、ウィーンを占領した。オーストリアのフランツ1世の軍は北に逃れ、その救援に来たロシアのアレクサンドル1世の軍と合流。フランス軍とオーストリア・ロシア軍は、奇しくもナポレオン1世の即位一周年の12月2日にアウステルリッツ郊外のプラツェン高地で激突。このアウステルリッツの戦いは三人の皇帝が一つの戦場に会したことから三帝会戦とも呼ばれる。ここはナポレオンの巧妙な作戦で完勝し、12月にフランスとオーストリアの間でプレスブルク条約が結ばれ、フランスへの多額の賠償金支払いと領土の割譲などが取り決められ、第三次対仏大同盟は崩壊した。イギリス首相ウィリアム・ピット(小ピット)は、この敗戦に衝撃を受けて翌年に没した。ちなみに凱旋門はアウステルリッツの戦いでの勝利を祝してナポレオン1世が1806年に建築を命じたものだが、完成はナポレオン死後の1836年のことである。
戦場から逃れたアレクサンドル1世はイギリス・プロイセンと手を組み、1806年10月にはプロイセンが中心となって第四次対仏大同盟を結成した。これに対しナポレオンは、10月のイエナの戦いとアウエルシュタットの戦いでプロイセン軍に大勝してベルリンを占領し、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は東プロイセンへと逃亡する。こうしてロシア、イギリス、スウェーデン、オスマン帝国以外のヨーロッパ中央をほぼ制圧したナポレオンは、兄のジョゼフをナポリ王、弟のルイをオランダ王に就かせ、西南ドイツ一帯をライン同盟としてこれを保護国化することで以後のドイツにおいても強い影響力を持った。これらのことにより、神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世は退位してオーストリア皇帝のみとなり、ドイツ国家群連合として長い歴史を誇ってきた神聖ローマ帝国は名実ともに消滅した。なおナポレオン失脚後にほぼ同じ参加国でオーストリアを議長国としてドイツ連邦が結成された。
並行して1806年11月にはイギリスへの対抗策として大陸封鎖令を出し、ロシア・プロイセンを含めた欧州大陸諸国とイギリスとの貿易を禁止してイギリスを経済的な困窮に落とし、フランスの市場を広げようと目論んだ。これは産業革命後のイギリスの製品を輸入していた諸国やフランス民衆の不満を買うこととなった。
ナポレオンは残る強敵ロシアへの足がかりとして、プロイセン王を追ってポーランドでプロイセン・ロシアの連合軍に戦いを挑んだ。ここで若く美しいポーランド貴族の夫人マリア・ヴァレフスカと出会った。彼女はナポレオンの愛人となり、のちにナポレオンの庶子アレクサンドル・ヴァレフスキを出産した。
1807年2月、アイラウの戦いと6月のハイルスベルクの戦い(英語版)は、猛雪や情報漏れにより苦戦し、ナポレオン側が勝ったとはいうものの失った兵は多く実際は痛み分けのような状況であった。しかし同6月のフリートラントの戦いでナポレオン軍は大勝。ティルジット条約において、フランスから地理的に遠く善戦してきたロシアとは大陸封鎖令に参加させるのみで講和したが、プロイセンは49%の領土を削って小国としてしまい、さらに多額の賠償金をフランスに支払わせることとした。そしてポーランドの地にワルシャワ大公国と、ドイツのヴェストファーレン(ウェストファリア)地方を含む地域にヴェストファーレン王国をフランスの傀儡国家として誕生させた。ヴェストファーレン王には弟のジェロームを就けた。スウェーデンに対してもフランス陸軍元帥ベルナドットを王位継承者として送り込み、ベルナドットは1818年に即位してスウェーデン王カール14世ヨハンとなる(このスウェーデン王家は現在までも続いている)。スウェーデンはナポレオンの影響下にはあるものの、ベルナドット個人はナポレオンに対し好意を持ってはおらず強固たる関係とはいえない状態であった。またデンマークはイギリスからの脅威のためにやむなくフランスと同盟関係を結んだ。とはいえデンマークはナポレオン戦争の終結まで同盟関係を破棄することはなかった。ちなみにスウェーデン王となったベルナドットは、ナポレオンの昔の婚約者であるデジレ・クラリーと結婚している。
ナポレオンの勢力はイギリスとスウェーデンを除くヨーロッパ全土を制圧し、イタリア、ドイツ西南部諸国、ポーランドはフランス帝国の属国に、ドイツ系の残る二大国のオーストリアとプロイセンも従属的な同盟国となった。このころがナポレオンの絶頂期と評される。
1808年5月、ナポレオンはスペイン・ブルボン朝の内紛に介入し(半島戦争)、ナポリ王に就けていた兄のジョゼフを今度はスペイン王に就けた。ナポレオン軍のスペイン人虐殺を描いたゴヤの絵画(『マドリード、1808年5月3日』)は有名である。同5月17日、ナポレオンは1791年9月27日のユダヤ人同権化法の例外として時限立法をなし、向こう10年間彼らの享有できる人権を商業・職業選択・住居移転に限ることとした。一方、ジョゼフ・ボナパルトの治世が始まるやいなやマドリード市民が蜂起した。1808年7月、スペイン軍・ゲリラ連合軍の前にデュポン将軍率いるフランス軍が降伏。皇帝に即位して以来ヨーロッパ全土を支配下に入れてきたナポレオンの陸上での最初の敗北だった。8月にイギリスがポルトガルとの英葡永久同盟により参戦し、半島戦争に発展した。イギリスではネイサン・メイヤー・ロスチャイルドが1798年にマンチェスターで開業しており、半島戦争までにアーサー・ウェルズリーと通じていた。
ナポレオンがスペインで苦戦しているのを見たオーストリアは、1809年、ナポレオンに対して再び起ち上がり、プロイセンは参加しなかったもののイギリスと組んで第五次対仏大同盟を結成する。4月のエックミュールの戦い(英語版)ではナポレオンが勝利し、5月には二度目のウィーン進攻を果たすがアスペルン・エスリンクの戦いでナポレオンはオーストリア軍に敗れ、ジャン・ランヌ元帥が戦死した。しかし続く7月のヴァグラムの戦いでは双方合わせて30万人以上の兵が激突、両軍あわせて5万人にのぼる死傷者をだしながら辛くもナポレオンが勝利した。そのままシェーンブルンの和約を結んでオーストリアの領土を削り、第五次対仏大同盟は消滅した。
この和約のあと、皇后ジョゼフィーヌを後嗣を生めないと言う理由で離別して、1810年にオーストリア皇女マリ・ルイーズと再婚した。この婚約は当初アレクサンドル1世の妹、ロシア皇女アンナ・パーヴロヴナ大公女が候補に挙がっていたが、ロシア側の反対によって立ち消えとなった。オーストリア皇女に決定したのは、オーストリア宰相メッテルニヒの裁定によるものであった。そして1811年に王子ナポレオン2世が誕生すると、ナポレオンはこの乳児をローマ王の地位に就けた。
大陸封鎖令を出されたことでイギリスの物産を受け取れなくなった欧州諸国は経済的に困窮し、しかも世界の工場と呼ばれたイギリスの代わりを重農主義のフランスが担うるのは無理があったため、フランス産業も苦境に陥った。1810年にはロシアが大陸封鎖令を破ってイギリスとの貿易を再開。これに対しナポレオンは封鎖令の継続を求めたが、ロシアはこれを拒否。そして1812年、ナポレオンは対ロシア開戦を決意、同盟諸国兵を加えた60万の大軍でロシアに侵攻する。これがロシア遠征であり、ロシア側では祖国戦争と呼ばれる。
ロシア軍の司令官は隻眼の老将・ミハイル・クトゥーゾフである。老獪な彼は、いまナポレオンと戦えば確実に負けると判断し、広大なロシアの国土を活用し、会戦を避けてひたすら後退し、フランス軍の進路にある物資や食糧は全て焼き払う焦土戦術で、辛抱強くフランス軍の疲弊を待つ。
荒涼としたロシアの原野を進むフランス軍は兵站に苦しみ、脱落者が続出、モスクワ前面のボロジノの戦いでは、開戦前から兵力が1/3以下になっていた。モスクワを制圧すればロシアが降伏するか、食糧が手に入ると期待していたナポレオンは、ボロジノでロシア軍を破ってついにモスクワへ入城するが、市内に潜伏したロシア兵がその夜各所に放火、モスクワは3日間燃え続けた大火で焼け野原と化した。ロシアの冬を目前にして、物資の獲得と敵の撃破のいずれにも失敗したナポレオンは、この時点で遠征の失敗を悟る。フランス軍が撤退を開始したことを知ったクトゥーゾフは、コサック騎兵を繰り出してフランス軍を追撃させた。コサックの襲撃と冬将軍とが重なり、ロシア国境まで生還したフランス兵は全軍の1%以下の、わずか5,000人であった。
敗報の届いたパリではクーデター事件が発生した(未遂に終わり、首謀者のマレ(フランス語版)将軍は銃殺)。ナポレオンはクーデター発生の報を聞き、仏軍の撤退指揮を後任に任せ、一足先に脱出帰国する。この途上でナポレオンは大陸軍の惨状を嘆き、百年前の大北方戦争を思い巡らせ、「余はスウェーデン王カール12世のようにはなりたくない」と漏らしたという。
この大敗を見た各国は一斉に反ナポレオンの行動を取る。初めに動いたのがプロイセンであり、諸国に呼びかけて第六次対仏大同盟を結成する。この同盟には、元フランス陸軍将軍でありナポレオンの意向によってスウェーデン王太子についていたベルナドットのスウェーデンも7月に参加した。ロシア遠征で数十万の兵を失った後に強制的に徴兵された、新米で訓練不足のフランス若年兵たちは「マリー・ルイーズ兵」と陰口を叩かれた。1813年春、それでもナポレオンはプロイセン・ロシアなどの反仏同盟軍と、リュッツェンの戦い・バウツェンの戦い(英語版)に勝って休戦に持ち込んだ。オーストリアのメッテルニヒを介した和平交渉が不調に終わった後、オーストリアも参戦して同盟軍はナポレオン本隊との会戦を避けるトラーヒェンブルク・プランを採用、ナポレオンの部下たちを次々と破った。ドレスデンの戦いでナポレオンはオーストリア・ロシア同盟軍を破ったが敗走する敵を追撃したフランス軍がクルムの戦い(英語版)で包囲されて降伏。10月のライプツィヒの戦いではナポレオン軍は対仏同盟軍に包囲されて大敗し、フランスへ逃げ帰った。
1814年になるとフランスを取り巻く情勢はさらに悪化した。フランスの北東にはシュヴァルツェンベルク(ドイツ語版)、ゲプハルト・フォン・ブリュッヒャーのオーストリア・プロイセン軍25万人、北西にはベルナドットのスウェーデン軍16万人、南方ではウェリントン公率いるイギリス軍10万人の大軍がフランス国境を固め、大包囲網が完成しつつあった。一方ナポレオンはわずか7万人の手勢しかなく絶望的な戦いを強いられた。3月31日にはフランス帝国の首都・パリが陥落する。ナポレオンは外交によって退位と終戦を目指したが、マルモン元帥らの裏切りによって無条件に退位させられ(4月4日の「将軍連の反乱」)、4月16日のフォンテーヌブロー条約の締結ののち、地中海コルシカ島とイタリア本土の間にあるエルバ島の小領主として追放された。この一連の戦争は解放戦争と呼ばれる。 その際、フランツ1世の使者を名乗る人物が突然マリー=ルイーズのところにやってきて、半ば強制的に彼女とナポレオン2世を連れていってしまった。
4月12日、全てに絶望したナポレオンはフォンテーヌブロー宮殿で毒をあおって自殺を図ったとされている。ナポレオンは、ローマ王だった実子ナポレオン2世を後継者として望んだが、同盟国側に認められなかった。また元フランス軍人であり次期スウェーデン王に推戴されていたベルナドットもフランス王位を望んだが、フランス側の反発で砕かれ、紆余曲折の末にブルボン家が後継に選ばれた(フランス復古王政)。
ナポレオン失脚後、ウィーン会議が開かれて欧州をどのようにするかが話し合われていたが、「会議は踊る、されど進まず」の言葉が示すように各国の利害が絡んで会議は遅々として進まなかった。さらに、フランス王に即位したルイ18世の政治が民衆の不満を買っていた。
1815年、ナポレオンはエルバ島を脱出し、苦労してパリに戻って復位を成し遂げる。ナポレオンは自由主義的な新憲法(帝国憲法付加法)を発布し、自身に批判的な勢力との妥協を試みた。そして、連合国に講和を提案したが拒否され、結局戦争へと進んでいく。しかし、緒戦では勝利したもののイギリス・プロイセンの連合軍にワーテルローの戦いで完敗し、ナポレオンの「百日天下」は幕を閉じることとなる(実際は95日間)。
ナポレオンは再び退位(英語版)に追い込まれ、アメリカ合衆国への亡命も考えたが港の封鎖により断念、最終的にイギリスの軍艦に投降した。彼の処遇をめぐってイギリス政府はウェリントン公の提案を採用し、ナポレオンを南大西洋のセントヘレナ島に幽閉した。
ナポレオンはベルトラン、モントロン、グールゴ(フランス語版)、ラス・カーズらごく少数の従者とともに、島内中央のロングウッド・ハウスで生活した。高温多湿な気候と劣悪な環境はナポレオンを大いに苦しませたばかりか、その屋敷の周囲には多くの歩哨が立ち、常時行動を監視され、さらに乗馬での散歩も制限されるなど、実質的な監禁生活であった。その中でもナポレオンは、側近に口述筆記させた膨大な回想録を残した。これらは彼の人生のみならず彼の世界観、歴史観、人生観まで網羅したものであり「ナポレオン伝説」の形成に大きく寄与した。
ナポレオンは特に島の総督ハドソン・ロー(英語版)の無礼な振る舞いに苦しめられた。彼は誇り高いナポレオンを「ボナパルト将軍」と呼び、腐ったブドウ酒を振る舞うなどナポレオンを徹底して愚弄した(もっとも、腐ったブドウ酒はともかく、イギリス政府はナポレオンの帝位を承認していないので、イギリスの公人としては「将軍」としか呼びようがない)。また、ナポレオンの体調が悪化していたにもかかわらず主治医を本国に帰国させた。ナポレオンは彼を呪い、「将来、彼の子孫はローという苗字に赤面することになるだろう」と述べている。
そうした心労も重なってナポレオンの病状は進行し、スペイン立憲革命やギリシャ独立戦争で欧州全体が動揺する中、1821年5月5日に死去した。彼の遺体は遺言により解剖されて胃に潰瘍と癌が見つかり、死因としては公式には胃癌と発表されたが、ヒ素による暗殺の可能性も指摘された(彼の死因をめぐる論議については次節で述べる)。その遺体は1840年にフランスに返還され(Retour des cendres(フランス語版)、灰の帰還、灰は遺体の意)、現在はパリのオテル・デ・ザンヴァリッド(廃兵院)に葬られている。最期の言葉は「フランス!...軍隊!...軍隊のかしらに...ジョゼフィーヌ!」だった。
ヒ素(砒素)中毒による暗殺説が語られるのは、本人が臨終の際に「私はイギリスに暗殺されたのだ」と述べたこともさることながら、彼の遺体をフランス本国に返還するために掘り返したとき、遺体の状態が死亡直後とほぼ変わりなかったこと(ヒ素は剥製にも使われるように保存作用がある)、さらには、スウェーデンの歯科医ステン・フォーシュフットがナポレオンの従僕マルシャンの日記を精読して、その異常な病状の変化から毒殺を確信し、英国グラスゴー大学の法医学研究室ハミルトン・スミス博士の協力のもと、ナポレオンのものとされる頭髪からヒ素を検出して、砒素毒殺説をセンセーショナルに発表したことによる。ヒ素はナポレオンとともにセントヘレナに同行した何者かがワインに混入させた毒殺説以外にも、その当時の壁紙にはヒ素が使われており、ナポレオンの部屋にあった壁紙のヒ素がカビとともに空気中に舞い、それを吸ったためだという中毒説がある。フォーシュフットの検査に使った頭髪が実際にナポレオンのものか確証がないという反論があったため、2002年に改めてパリ警視庁とストラスブール法医学研究所が様々なナポレオンの遺髪を再調査した。すると、皇帝時代に採取された彼の髪に放射光をあてて調査した結果、やはりかなりの量のヒ素が検出され、セントヘレナに行く前からヒ素中毒であった可能性があると発表された。しかし当時は髪の毛の保存料としてヒ素が広く使われており、ナポレオン以外の頭髪でもヒ素が検出されることがその後の調査で判明した。生前にヒ素を摂取した場合も頭髪に残るが、切り取られた髪の毛の保存料としてヒ素が使われた場合にも、同様にヒ素が髪の内部まで浸透し、科学的には両方の可能性を否定できないため、この場合はヒ素は死因を特定する材料にはならないことがわかった。ヒ素による慢性あるいは急性の中毒説は(消極的に)否定された。
ちなみにモントロン伯爵の子孫であるフランソワ・ド・カンデ=モントロンのように(王党派であった)「私の祖先が殺したんです」と敢えてワインにヒ素を盛ったという毒殺説を主張する人もいる。
死の直後に発表された胃癌説(病死説)は現在でも維持され、最近の研究でも胃癌が指摘された。また同様に胃潰瘍説も取り沙汰されている。実際ナポレオンの家族にも胃癌で亡くなった者(家族性胃癌症候群)がおり、ナポレオン自身は胃潰瘍で、特に1817年以降、体調は急激に悪化している。ただ、解剖所見では、胃潰瘍により胃に穿孔していたことが確認され、また初期の癌も見つかった。しかしパリのジョルジュ・ポンピドゥー病院(英語)の法医学者ポール・フォルネスは1821年の解剖報告書など史料を分析して「死んだ時、ナポレオンには癌があったようだが、これが直接の死因とは言い切れない」と指摘する。癌患者であってもそれが末期でないのであれば最終的な死因は癌ではないことがありえるためだ。
そのほか、20年以上にわたり戦場を駆けた重圧と緊張が、もともと頑丈ではなかった心身に変調を来させたという説もある。若いころは精神力でカバーできていたが、40歳を迎えるころにはナポレオンの体を蝕んでいたという主張で、その死は激動の生活から無為の生活を強いられた孤島の幽囚生活が心理的ストレスとなり、生活の変調がもたらした致死性胃潰瘍であるという。胃潰瘍とともに悪化した心身の変調を内分泌や脳下垂体の異常を原因と主張する医学者もいた。
このように様々な説があるが、公式見解の胃癌説以外で考慮に値するのは、医療ミス説である。カリフォルニア大学バークレー校の心臓病理学者スティーブン・カーチは、ナポレオンを看取った主治医アントマルキのカルテを見て、医師が下剤として酒石酸アンチモニルカリウムを、さらに死の前日には嘔吐剤として甘汞()を大量に処方していたことに気づいた。これらは単独でも毒物であるが、飲みやすくするために使われた甘味料オルジエと合わせると体内でシアン化水銀という猛毒にかわった可能性があり、薬の量からして、体内の電解質のバランスを崩して心拍の乱れを起こして心停止に至ったと判断できるとした。カーチは「ヒ素の長期的影響に加えて医療過誤により悪化した不整脈が直接の死因」と主張する。
総合的にはナポレオンの死の原因は現在に至っても決着していない。前出のフォルネスは「どの説も一理あるが、いずれの説も正しくない」とし、歴史家で医師のジャン=フランソワ・ルメールは(ナポレオンの死因探しは)「すでに歴史と科学の領域を離れて娯楽の世界に入っている」という。ヒ素毒殺説は有名であるため誤解されやすいが、前述の理由でこれが主流になったことはなく、フランスでは胃癌説の方が有力視される。
ナポレオンはフランス革命の時流に乗って皇帝にまで上り詰めたが、彼が鼓舞した諸国民のナショナリズムによって彼自身の帝国が滅亡するという皮肉な結果に終わった。
一連のナポレオン戦争では約200万人の命が失われたという。その大きな人命の喪失とナポレオン自身の非人道さから、国内外から「食人鬼」「人命の浪費者」「コルシカの悪魔」と酷評(あるいはレッテル貼り)もされた。ナポレオンによって起こされた喪失はフランスの総人口にも現れた。以後フランスの人口(特に青壮年男性を中心とする生産年齢人口)は伸び悩み、国力でイギリスやドイツ(のちにはアメリカ合衆国も)などに抜かれることとなった。フランス復古王政を経て成立した7月王政期の1831年には、フランス軍における人員のおびただしい喪失への反省から、フランス人からではなく多国籍の外国人から兵士を採用するフランス外人部隊が創設されることになった。これ以降、21世紀に徴兵制が全面廃止されるまで、フランス国民からの徴兵と、外国籍人を含む志願制とが併用されることになる。
ナポレオン後に即位したルイ18世とその後のシャルル10世は、ナポレオン以前の状態にフランスを回帰させようとしたが、ナポレオンによってもたらされたものはフランスに深く浸透しており、もはや覆すことはできなかった。王党派は、1815年の王政復古から反ボナパルティズムを取り、数年にわたり白色テロを繰り返した。王党派とボナパルティストとの長き対立と確執は、フランスに禍根を残すことにもつながった。ウィーン体制による欧州諸国の反動政治もまた欧州諸国民の憤激を買い、フランス革命の理念が欧州各国へ飛び火していくことになる(1848年革命など)。
ナポレオン没後もナポレオン体制を支持する潮流は軍人、小土地自由農民とプチ・ブルジョワジーを基盤としており、その権力形態はボナパルティズムと呼ばれるようになり、その後のフランス政治にも少なからず影響を与えた。他方、フランス革命前のブルボン朝によるアンシャン・レジームを絶対視するレジティミスムや、7月革命後のルイ・フィリップによる立憲君主制を模範とする統治を支持するオルレアニスムも存在しており、フランス国内の右派においてこの3者は競合する関係となった。
その一方、産業革命などによって急速に個性を喪失していくなか、全ヨーロッパを駆け抜けたナポレオンを時代に対する抵抗の象徴として「英雄」視する風潮が生まれた。ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルが「世界理性の馬を駆るを見る」と評し、フリードリヒ・ニーチェが「今世紀(19世紀)最大の出来事」と評し、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテが「半神」、「空前絶後の人物」と評した。その一方で、こうしたナポレオンを理念化されたナポレオンであって現実のナポレオン像ではないとする人々もいた。ベートーヴェンがその楽譜を破いたとされる故事は、そうした背景を象徴するものであると言われている。
1840年に遺骸がフランス本国に返還されたことでナポレオンを慕う気持ちが民衆の間で高まり、ナポレオンの栄光を想う感情がフランス第二帝政を生み出すことになる。
ナショナリズムに基づく国民国家、メリトクラシー(能力主義)による統治、私有財産の不可侵や経済活動、信教の自由など現代に至る国家・社会制度の確立にナポレオンが与えた影響は大きい。2021年5月に開かれた没後200年式典で、フランス大統領エマニュエル・マクロンは功績を高く評価しつつ、奴隷制復活を「誤り」と批判した。
現在のフランスでは、ナポレオンのイメージを損なうとして、豚にナポレオンと名づけることを禁止している(ただし、そのような法律は法令集に確認されず、1947年、フランスの出版社が、ジョージ・オーウェル『動物農場』の翻訳出版に当たり、登場する豚〈擬人化された独裁者〉の名前を「ナポレオン」のままとすることを拒否した例があるにすぎないという指摘もある)。
ナポレオンが用いて広めた法・政治・軍事といった制度はその後のヨーロッパにおいて共通のものとなった。かつて古代ローマの法・政治・軍事が各国に伝播した以上の影響を世界に与えたと見ることもできる。
詳細はウィキクォートを参照。
哲学者ヘーゲルがイエナ大学教授時代、自著『精神現象学』を発表する際にフランス軍はイエナに入城した。旧弊の国家を統合するナポレオン、ヨーロッパにおける近代市民社会の形成期、ナポレオンはフランス革命の精神たる「自由」をヨーロッパに広めようとしていると彼には見えた。ヘーゲルの言う「自由」とは理性(絶対精神)が歴史を舞台として自己実現をとげる全体的自由のことであり、ヘーゲルの目にはナポレオンが世界精神そのものと映った。彼は、「皇帝が...この世界精神が...陣地偵察のために馬上ゆたかに街を出ていくところを見ました。この個人こそ、この一地点に集結して馬上にまたがっていながら、しかも世界を鷲づかみにして、これを支配しています」とナポレオンのことを書き送っている。
ナポレオンを人民の英雄と期待し、「ボナパルト」という題名でナポレオンに献呈する予定で交響曲第3番を作曲していたベートーヴェンは、ナポレオンの皇帝即位に失望して彼へのメッセージを破棄し、曲名も『英雄』に変更したという逸話が伝わっているが、この逸話が事実であるかどうかについては異説も多い。ベートーヴェンは旧体制側の人間で革命派ではなかったが、終始ナポレオンを尊敬しており、第2楽章が英雄の死と葬送をテーマにしているためこれではナポレオンに対して失礼であるとして、あえて曲名を変更し献呈を取りやめたとする逸話がある。また、定説とは逆に、実際に献呈すべく面会を求めたがまったく相手にされず、その怒りから改題し上記の定説を友人に話したという、作曲家の地位向上の境目の時代を意識したような逸話も存在する。
ナポレオンの存命中に生存もしくは誕生していた人物に限定する。一族全員についてはCategory:ボナパルト家を参照。
※「#」印はナポレオンは登場するものの直接的に扱われていない作品
ギネスブックによると、歴史上の人物の中で最も多く映画に登場したのはナポレオンで、177回である。以下にその一部を掲載する。
ナポレオンは「死んだ翌日から」伝記が書かれた人物と呼ばれるほど、彼について書かれた書籍は多い。
ボードゲームかコンピューターゲームかに限らず、ナポレオン関連のウォーゲームはナポレオニックと呼ばれる。
ほか海外物多数、現在も出版され続けている。
発売順, タイトル, 発売元, 機種, 発売年, ジャンル順。 | [
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"text": "ナポレオン・ボナパルト(フランス語: Napoléon Bonaparte、別名(1794年以前): ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテ、Napoleone di Buonaparte、1769年8月15日 - 1821年5月5日)は、フランス革命期の軍人、革命家で、フランス第一帝政の皇帝に即位してナポレオン1世(フランス語: Napoléon I、在位:1804年 - 1814年、1815年)となった。1世から3世まで存在するが、単にナポレオンと言えばナポレオン1世を指す。",
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"text": "フランス革命後の混乱を収拾し、軍事独裁政権を確立した。大陸軍(フランス語: Grande Armée グランダルメ)と名づけた軍隊を築き上げ、フランス革命への干渉を図る欧州諸国とのナポレオン戦争を戦い、幾多の勝利と婚姻政策によって、イギリス、ロシア帝国、オスマン帝国の領土を除いたヨーロッパ大陸の大半を勢力下に置いた。対仏大同盟との戦いに敗北し、百日天下による一時的復権を経て、51歳のとき南大西洋の英領セントヘレナにて没した。",
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"text": "1769年、イタリア半島の西に位置するフランス領の島コルシカ島のアジャクシオにおいて、父カルロ・マリア・ブオナパルテと母マリア・レティツィア・ラモリーノの間に、12人の子ども(4人は夭折)のうち4番目として生まれた。出生時の洗礼名はナブリオーネ・ブオナパルテ。島を追われ、フランスで一生を暮らすと決めて、25歳となる1794年頃より、ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテというイタリア人名の綴りから、フランス風のナポレオン・ボナパルトへ改名し、署名も改めた。",
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"text": "ブオナパルテ家の先祖は中部イタリアのトスカーナ州に起源を持つ、古い血統貴族。それがジェノヴァ共和国の傭兵隊長としてコルシカ島に渡り、16世紀頃に土着した。判事であった父カルロは、1729年に始まっていたコルシカ独立闘争の指導者パスカル・パオリの副官を務めていたが、ナポレオンが生まれる直前にフランス側に転向し、戦後に寝返りへの見返りとして報奨を受け、フランス貴族と同等の権利を得た。旧ジェノヴァ共和国領であるコルシカ島には貴族制度がなかったが、新貴族としての身分を晴れて認められたことで特権を得て、フランス本国への足がかりを得た父カルロはやがてコルシカ総督とも懇意になり、その援助でナポレオンと兄のジュゼッペ(ジョゼフ)を教育を受けさせるためにフランス本国へと送った。",
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"text": "ナポレオンは当初、修道院付属学校に短期間だけ入っていたが、1779年に貴族の子弟が学ぶブリエンヌ陸軍幼年学校(fr)へ国費で入学し、数学で抜群の成績を修めたという。1784年にパリの陸軍士官学校(fr)に入学。士官学校には騎兵科、歩兵科、砲兵科の3つがあったが、彼が専門として選んだのは、伝統もあり花形で人気のあった騎兵科ではなく、砲兵科であった。大砲を用いた戦術は、のちの彼の命運を大きく左右することになる。卒業試験の成績は58人中42位であったものの、通常の在籍期間が4年前後であるところを、わずか11か月で必要な全課程を修了したことを考えれば、むしろ非常に優秀な成績と言える。実際、この11か月での卒業は開校以来の最短記録であった。",
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"text": "この時期のエピソードとして、クラスで雪合戦をした際にナポレオンの見事な指揮と陣地構築で快勝したという話が有名で、この頃から指揮官としての才能があったとされるが、実話かは定かではない。幼年時のナポレオンは、節約をかねて読書に明け暮れ、特にプルタルコスの『英雄伝』やルソーの著作などを精読し、無口で友達の少ない少年であった。学校ではコルシカなまりを馬鹿にされ、ナポレオーネに近い音でラパイヨネ(la paille au nez, 藁鼻)とあだ名された。裕福な貴族子弟と折り合いが悪かったためである。その頃の数少ない友人の一人が、のちに秘書官を務めるルイ・アントワーヌ・フォヴレ・ド・ブーリエンヌであった。一方で、癇癪持ちでもあり、喧嘩っ早く短気な一面もあった。また十代の後半は小説家にも憧れ、その頃から断続的に文学活動もしていた。",
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"text": "16歳のとき1785年に砲兵士官として任官。20歳を迎える1789年、フランス革命が勃発し、フランス国内の情勢は不穏なものとなっていくが、コルシカ民族主義者であった当時のナポレオンは革命には無関心だった。ナポレオンはしばしばコルシカ島へと長期帰郷している。",
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"text": "23歳となる1792年、故郷アジャクシオの国民衛兵隊中佐に選ばれるが、ブオナパルテ家が親仏派であったことから、英国に逃れているコルシカ島独立指導者パスカル・パオリの腹心でナポレオンと遠い縁戚関係にもあるポッツォ・ディ・ボルゴら親英派によってブオナパルテ家弾劾決議を下される。軍人ナポレオンと家族はコルシカ島から追放され、船で脱出するという逃避行によってコルシカ島に近い南仏マルセイユに移住した。マルセイユでは、ブオナパルテ家は裕福な商家であるクラリー家と親交を深め、ナポレオンの兄のジョゼフは、クラリー家の娘・ジュリーと結婚した。ナポレオンもクラリー家の末娘・デジレと恋仲となり、婚約する。この頃、ナポレオンは、己の政治信条を語る小冊子『ボーケールの晩餐』を著して、当時のフランス政府(革命政府)の中心にいた有力者ロベスピエールの弟・オーギュスタンの知遇を得ていた(この小冊子はのちに、ロベスピエールとジャコバン派の独裁を支持するものであるとして、後述するナポレオン逮捕の口実ともなった)。",
"title": "生涯"
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"text": "24歳となる1793年、原隊に復帰すると、貴族士官の亡命という恩恵を得て、特に何もせずに大尉に昇進。ナポレオンはフランス軍の中でも主に王党派蜂起の鎮圧を行っていたカルトー将軍の南方軍に所属し、トゥーロン攻囲戦に出征。前任者の負傷を受けて、新たに砲兵司令官となり、少佐に昇格する。当時の欧州情勢としては、「フランス革命政府」対「反革命側反乱軍(およびそれに介入する第一次対仏大同盟諸国)」の図式があり、近代的城郭を備えた港湾都市トゥーロンはフランス地中海艦隊の母港で、イギリス・スペイン艦隊の支援を受けた反革命側が鉄壁の防御を築いていた。革命後の混乱で人材の乏しいフランス側は、元画家のカルトー将軍らの指揮で、要塞都市への無謀ともいえる突撃を繰り返して自ら大損害を被っているような状況であった。ここでナポレオンは、まずは港を見下ろす二つの高地を奪取して、次にそこから大砲で敵艦隊を狙い撃ちにする、という作戦を進言する。次の次の司令官であったデュゴミエ将軍がこれを採用し、豪雨をついて作戦は決行され成功、外国艦隊を追い払い反革命軍を降伏に追い込んだ。ナポレオン自身は足を負傷したが、この功績により国民公会の議員の推薦を受け、当時24歳の彼は一挙に旅団将軍(少将相当)に昇進し、一躍フランス軍を代表する若き英雄へと祭り上げられた。",
"title": "生涯"
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"text": "1794年、革命政府内でロベスピエールがテルミドール9日のクーデタで失脚して処刑された。ナポレオンはイタリア方面軍の砲兵司令官となっていたが、ロベスピエールの弟オーギュスタンとつながりがあったこと、およびイタリア戦線での方針対立などにより逮捕、収監された。短期拘留であったものの軍務から外され、降格処分となった。その後も転属を拒否するなどして、公安委員のオーブリと対立したために予備役とされてしまった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 10,
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"text": "しかし1795年、パリにおいて王党派の蜂起(ヴァンデミエールの反乱)が起こった。このときに国民公会軍司令官となったポール・バラスは、トゥーロン攻囲戦のときの派遣議員であったため、知り合いのナポレオンを副官として登用した。実際の鎮圧作戦をこの副官となったナポレオンにほぼ一任した結果、首都の市街地で一般市民に対して大砲(しかも広範囲に被害が及ぶぶどう弾)を撃つという大胆な戦法をとって鎮圧に成功した。これによってナポレオンは師団将軍(中将相当)に昇進。国内軍副司令官、ついで国内軍司令官の役職を手に入れ、「ヴァンデミエール(葡萄月)将軍」の異名をとった。月の呼称については「フランス革命暦」参照。",
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"text": "27歳を迎える1796年には、デジレ・クラリーとの婚約を反故にして、恐怖政治の下で処刑されたボアルネ子爵の未亡人でポール・バラスの愛人でもあったジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと結婚。同年、総裁政府の総裁となっていたバラスによってナポレオンはイタリア方面軍の司令官に抜擢された。フランス革命へのオーストリア帝国の干渉に端を発したフランス革命戦争が欧州各国を巻き込んでいく中、総裁政府はドイツ側の二方面とイタリア側の一方面をもってオーストリアを包囲攻略する作戦を企図しており、ナポレオンはこの内のイタリア側からの攻撃を任されたのである。",
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"text": "ドイツ側からの部隊がオーストリア軍の抵抗に苦戦したのに対し、ナポレオン軍は連戦連勝であった。",
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"paragraph_id": 13,
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"text": "1797年4月にはオーストリアの帝都ウィーンへと迫り、同年4月にはナポレオンは総裁政府に断ることなく講和交渉に入った。そして10月にはオーストリアとカンポ・フォルミオ条約を結んだ。これによって第一次対仏大同盟は崩壊、フランスはイタリア北部に広大な領土を獲得して、いくつもの衛星国(姉妹共和国)を建設し、膨大な戦利品を得た。このイタリア遠征をフランス革命戦争からナポレオン戦争への転換点とみる見方もある。フランスへの帰国途中、ナポレオンはラシュタット会議に儀礼的に参加。12月、パリへと帰還したフランスの英雄ナポレオンは熱狂的な歓迎をもって迎えられた。",
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"text": "オーストリアに対する陸での戦勝とは裏腹に、対仏大同盟の雄であり強力な海軍を有し制海権を握っているイギリスに対しては、フランスは決定的な打撃を与えられなかった。そこでナポレオンは、イギリスにとって最も重要な植民地であるインドとの連携を絶つことを企図し、英印交易の中継地点でありオスマン帝国の支配下にあったエジプトを押さえること(エジプト遠征)を総裁政府に進言し、これを認められた。",
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"paragraph_id": 15,
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"text": "1798年7月、ナポレオン軍はエジプトに上陸し、ピラミッドの戦いで勝利してカイロに入城した。しかしその直後、アブキール湾の海戦でネルソン率いるイギリス艦隊にフランス艦隊が大敗し、ナポレオン軍はエジプトに孤立してしまった。12月にはイギリスの呼びかけにより再び対仏大同盟が結成され(第二次対仏大同盟)、フランス本国も危機に陥った。1799年にはオーストリアにイタリアを奪還され、フランスの民衆からは総裁政府を糾弾する声が高まっていた。シリアのアッコンの砦での敗北もあり、これを知ったナポレオンは、自軍を次将のクレーベルに託し、エジプトに残したまま側近のみを連れ単身フランス本土へ舞い戻った。",
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"text": "フランスの民衆はナポレオンの到着を、歓喜をもって迎えた。11月、ナポレオンはブルジョワジーの意向を受けたエマニュエル=ジョゼフ・シエイエスらとブリュメール18日のクーデタを起こし、統領政府を樹立し自ら第一統領(第一執政)となり、実質的に独裁権を握った。もしこのクーデタが失敗すれば、ナポレオンはエジプトからの敵前逃亡罪および国家反逆罪により処刑される可能性もあった。",
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"text": "統領政府の第一統領(第一執政)となり政権の座に就いたナポレオンであるが、内外に問題は山積していた。まずは第二次対仏大同盟に包囲されたフランスの窮状を打破することが急務であった。",
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"text": "まず、イタリアの再獲得を目指した。当時のイタリアへの進入路は、直接フランスからトリノに向かう峠道、地中海沿いリグーリア州の2つの有名な峠道、ジェノヴァ方面の4つが主であったが、これらは既に1794年、1795年、1796年の戦役での侵攻作戦で使用していたため、ナポレオンはアルプス山脈をグラン・サン・ベルナール峠で越えて北イタリアに入る奇襲策をとった。これによって主導権を奪って優位に戦争を進めたが、緒戦の大勝のあと、メラス将軍率いるオーストリア軍を一時見失って兵力を分割したことから、不意に大軍と遭遇して苦戦を強いられる。しかし別働隊が戻ってきて、1800年6月14日のマレンゴの戦いにおいてオーストリア軍に劇的に勝利した。別働隊の指揮官でありナポレオンの友人であったドゼーはこの戦闘で亡くなった。12月には、ドイツ方面のホーエンリンデンの戦いでモロー将軍の率いるフランス軍がオーストリア軍に大勝した。翌年2月にオーストリアはリュネヴィルの和約に応じて、ライン川の左岸をフランスに割譲し、北イタリアなどをフランスの保護国とした。この和約をもって第二次対仏大同盟は崩壊し、フランスとなおも交戦するのはイギリスのみとなったが、イギリス国内の対仏強硬派の失脚や宗教・労働運動の問題、そしてナポレオン率いるフランスとしても国内統治の安定に力を注ぐ必要を感じていたことなどにより、1802年3月にはアミアンの和約で講和が成立した。",
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"text": "ナポレオンは内政面でも諸改革を行った。全国的な税制度、行政制度の整備を進めると同時に、革命期に壊滅的な打撃を受けた工業生産力の回復をはじめ産業全般の振興に力を注いだ。1800年にはフランス銀行を設立し、通貨と経済の安定を図った。",
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"paragraph_id": 20,
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"text": "1802年には有名なレジオンドヌール勲章を創設。さらには国内の法整備にも取り組み、1804年には「フランス民法典」、いわゆるナポレオン法典を公布した。これは各地に残っていた種々の慣習法、封建法を統一した初の本格的な民法典で、「万人の法の前の平等」「国家の世俗性」「信教の自由」「経済活動の自由」などの近代的な価値観を取り入れた画期的なものであった。",
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"text": "教育改革にも尽力し「公共教育法」を制定している。また、交通網の整備を精力的に推進した。",
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"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "フランス革命以後、敵対関係にあったカトリック教会との和解も目指したナポレオンは、1801年に教皇ピウス7世との間で政教条約(コンコルダート)(英語版)を結び、国内の宗教対立を緩和した。また革命で亡命した貴族たちの帰国を許し、王党派やジャコバン派といった前歴を問わず有能の士を軍や行政に登用し、政治的な和解を推進した。その一方で、体制を覆そうとする者には容赦せずに弾圧した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "ナポレオンが統領政府の第一統領となったときから彼を狙った暗殺未遂事件は激化し、1800年12月には王党派による爆弾テロも起きていた。そして、それらの事件の果てに起こった1804年3月のフランス王族アンギャン公ルイ・アントワーヌの処刑は、王を戴く欧州諸国の反ナポレオンの感情を呼び覚ますのに十分であった。ナポレオン陣営は相次ぐ暗殺未遂への対抗から独裁色を強め、帝制への道を突き進んで行くことになる。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "さらに、フランスの産業が復興し市場となる衛星国や保護国への支配と整備が進められる一方で、かねてより争いのあったイギリスもまた海外への市場の覇権争いから引くわけにはいかなかった。既に1803年4月にはマルタ島の管理権をめぐってフランスとイギリスの関係は悪化しており、5月のロシア皇帝アレクサンドル1世による調停も失敗。前年に締結したばかりのアミアンの和約はイギリスによって破棄され、英仏両国は講和からわずか1年で再び戦争状態に戻ろうとしていたのである。こうした国内外の情勢のなか、ナポレオンは自らへの権力の集中によって事態を推し進めることを選び、1802年8月2日には1791年憲法を改定して自らを終身統領(終身執政)と規定した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "植民地のサン=ドマングでは、ジャコバン派による奴隷制廃止の後にフランス側に戻った黒人の将軍トゥーサン・ルーヴェルチュールがイギリス軍やスペイン軍と戦ってサン=ドマングを回復。さらにはスペイン領サントドミンゴに侵攻してスペイン領の奴隷を解放した後に全イスパニョーラ島を統一し、1801年7月7日に自身を終身総督とする自治憲法を制定して支配権を確立していた。ナポレオンはサン=ドマングを再征服するために、義弟のルクレール将軍をサン=ドマング植民地に送った。ルクレール将軍は熱病、ゲリラ戦に苦戦しながらも騙し討ちでトゥーサンを捕えてフランス本国に送り、トゥーサンは獄死した。さらに1803年4月、アメリカ合衆国にルイジアナ植民地を売却した(ルイジアナ買収)。しかし、奴隷制を復活したことにサン=ドマングの黒人は強く怒り、1803年11月18日のヴェルティエールの戦いでフランス軍は大敗を喫し、1804年1月1日にジャン=ジャック・デサリーヌが指導するフランス領サン=ドマングはハイチ共和国として独立した(ハイチ革命)。これは、ナポレオンのフランスにとって最初の大規模な敗北となった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 26,
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"text": "1804年5月、国会の議決と国民投票を経て世襲でナポレオンの子孫にその位を継がせるという皇帝の地位についた。皇帝の地位に就くにあたって国民投票を行ったことは、フランス革命で育まれつつあった民主主義を形式的にしても守ろうとしたものだったとする見方もある。1804年12月2日には「フランス人民の皇帝」としての戴冠式が行われた(フランス第一帝政)。英雄が独裁的統治者となったこの出来事は多方面に様々な衝撃を与えた。この戴冠式には、教皇ピウス7世も招かれていた。それまでオスマン帝国やロシアを除く欧州の皇帝は教皇から王冠を戴くのが儀礼として一般的な形であったが、ナポレオンは教皇の目の前で、自ら王冠をかぶった。この行動には、欧州に自由の革命精神を根付かせるに当たって、帝冠は血筋によってではなく努力によって戴冠される時代が来たことを示すという事と、政治の支配下に教会を置くという事との二つの思惑が絡んでいると考えられる。",
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{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "ナポレオンは、閣僚や大臣に多くの政治家、官僚、学者などを登用し、自身が軍人であるほかには、国防大臣のみに軍人を用いた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "1805年、ナポレオンはイギリス上陸を目指してドーバー海峡に面したブローニュに大軍を集結させた。イギリスはこれに対してオーストリア・ロシアなどを引き込んで第三次対仏大同盟を結成。プロイセンは同盟に対して中立的な立場を取ったもののイギリス・オーストリアからの外交の手は常に伸びており、ナポレオンはこれを中立のままにしておくためにイギリスから奪ったハノーファーをプロイセンに譲渡するとの約束をした。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 29,
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"text": "1805年10月、ネルソン率いるイギリス海軍の前にトラファルガーの海戦にて完敗。イギリス上陸作戦は失敗に終わる。もっともナポレオンはこの敗戦の報を握り潰し、この敗戦の重要性は、英仏ともに戦後になってようやく理解されることになったという。",
"title": "生涯"
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{
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"text": "海ではイギリスに敗れたフランス軍だが、陸上では10月のウルムの戦役でオーストリア軍を破り、ウィーンを占領した。オーストリアのフランツ1世の軍は北に逃れ、その救援に来たロシアのアレクサンドル1世の軍と合流。フランス軍とオーストリア・ロシア軍は、奇しくもナポレオン1世の即位一周年の12月2日にアウステルリッツ郊外のプラツェン高地で激突。このアウステルリッツの戦いは三人の皇帝が一つの戦場に会したことから三帝会戦とも呼ばれる。ここはナポレオンの巧妙な作戦で完勝し、12月にフランスとオーストリアの間でプレスブルク条約が結ばれ、フランスへの多額の賠償金支払いと領土の割譲などが取り決められ、第三次対仏大同盟は崩壊した。イギリス首相ウィリアム・ピット(小ピット)は、この敗戦に衝撃を受けて翌年に没した。ちなみに凱旋門はアウステルリッツの戦いでの勝利を祝してナポレオン1世が1806年に建築を命じたものだが、完成はナポレオン死後の1836年のことである。",
"title": "生涯"
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"text": "戦場から逃れたアレクサンドル1世はイギリス・プロイセンと手を組み、1806年10月にはプロイセンが中心となって第四次対仏大同盟を結成した。これに対しナポレオンは、10月のイエナの戦いとアウエルシュタットの戦いでプロイセン軍に大勝してベルリンを占領し、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は東プロイセンへと逃亡する。こうしてロシア、イギリス、スウェーデン、オスマン帝国以外のヨーロッパ中央をほぼ制圧したナポレオンは、兄のジョゼフをナポリ王、弟のルイをオランダ王に就かせ、西南ドイツ一帯をライン同盟としてこれを保護国化することで以後のドイツにおいても強い影響力を持った。これらのことにより、神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世は退位してオーストリア皇帝のみとなり、ドイツ国家群連合として長い歴史を誇ってきた神聖ローマ帝国は名実ともに消滅した。なおナポレオン失脚後にほぼ同じ参加国でオーストリアを議長国としてドイツ連邦が結成された。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 32,
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"text": "並行して1806年11月にはイギリスへの対抗策として大陸封鎖令を出し、ロシア・プロイセンを含めた欧州大陸諸国とイギリスとの貿易を禁止してイギリスを経済的な困窮に落とし、フランスの市場を広げようと目論んだ。これは産業革命後のイギリスの製品を輸入していた諸国やフランス民衆の不満を買うこととなった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 33,
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"text": "ナポレオンは残る強敵ロシアへの足がかりとして、プロイセン王を追ってポーランドでプロイセン・ロシアの連合軍に戦いを挑んだ。ここで若く美しいポーランド貴族の夫人マリア・ヴァレフスカと出会った。彼女はナポレオンの愛人となり、のちにナポレオンの庶子アレクサンドル・ヴァレフスキを出産した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 34,
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"text": "1807年2月、アイラウの戦いと6月のハイルスベルクの戦い(英語版)は、猛雪や情報漏れにより苦戦し、ナポレオン側が勝ったとはいうものの失った兵は多く実際は痛み分けのような状況であった。しかし同6月のフリートラントの戦いでナポレオン軍は大勝。ティルジット条約において、フランスから地理的に遠く善戦してきたロシアとは大陸封鎖令に参加させるのみで講和したが、プロイセンは49%の領土を削って小国としてしまい、さらに多額の賠償金をフランスに支払わせることとした。そしてポーランドの地にワルシャワ大公国と、ドイツのヴェストファーレン(ウェストファリア)地方を含む地域にヴェストファーレン王国をフランスの傀儡国家として誕生させた。ヴェストファーレン王には弟のジェロームを就けた。スウェーデンに対してもフランス陸軍元帥ベルナドットを王位継承者として送り込み、ベルナドットは1818年に即位してスウェーデン王カール14世ヨハンとなる(このスウェーデン王家は現在までも続いている)。スウェーデンはナポレオンの影響下にはあるものの、ベルナドット個人はナポレオンに対し好意を持ってはおらず強固たる関係とはいえない状態であった。またデンマークはイギリスからの脅威のためにやむなくフランスと同盟関係を結んだ。とはいえデンマークはナポレオン戦争の終結まで同盟関係を破棄することはなかった。ちなみにスウェーデン王となったベルナドットは、ナポレオンの昔の婚約者であるデジレ・クラリーと結婚している。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 35,
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"text": "ナポレオンの勢力はイギリスとスウェーデンを除くヨーロッパ全土を制圧し、イタリア、ドイツ西南部諸国、ポーランドはフランス帝国の属国に、ドイツ系の残る二大国のオーストリアとプロイセンも従属的な同盟国となった。このころがナポレオンの絶頂期と評される。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "1808年5月、ナポレオンはスペイン・ブルボン朝の内紛に介入し(半島戦争)、ナポリ王に就けていた兄のジョゼフを今度はスペイン王に就けた。ナポレオン軍のスペイン人虐殺を描いたゴヤの絵画(『マドリード、1808年5月3日』)は有名である。同5月17日、ナポレオンは1791年9月27日のユダヤ人同権化法の例外として時限立法をなし、向こう10年間彼らの享有できる人権を商業・職業選択・住居移転に限ることとした。一方、ジョゼフ・ボナパルトの治世が始まるやいなやマドリード市民が蜂起した。1808年7月、スペイン軍・ゲリラ連合軍の前にデュポン将軍率いるフランス軍が降伏。皇帝に即位して以来ヨーロッパ全土を支配下に入れてきたナポレオンの陸上での最初の敗北だった。8月にイギリスがポルトガルとの英葡永久同盟により参戦し、半島戦争に発展した。イギリスではネイサン・メイヤー・ロスチャイルドが1798年にマンチェスターで開業しており、半島戦争までにアーサー・ウェルズリーと通じていた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "ナポレオンがスペインで苦戦しているのを見たオーストリアは、1809年、ナポレオンに対して再び起ち上がり、プロイセンは参加しなかったもののイギリスと組んで第五次対仏大同盟を結成する。4月のエックミュールの戦い(英語版)ではナポレオンが勝利し、5月には二度目のウィーン進攻を果たすがアスペルン・エスリンクの戦いでナポレオンはオーストリア軍に敗れ、ジャン・ランヌ元帥が戦死した。しかし続く7月のヴァグラムの戦いでは双方合わせて30万人以上の兵が激突、両軍あわせて5万人にのぼる死傷者をだしながら辛くもナポレオンが勝利した。そのままシェーンブルンの和約を結んでオーストリアの領土を削り、第五次対仏大同盟は消滅した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "この和約のあと、皇后ジョゼフィーヌを後嗣を生めないと言う理由で離別して、1810年にオーストリア皇女マリ・ルイーズと再婚した。この婚約は当初アレクサンドル1世の妹、ロシア皇女アンナ・パーヴロヴナ大公女が候補に挙がっていたが、ロシア側の反対によって立ち消えとなった。オーストリア皇女に決定したのは、オーストリア宰相メッテルニヒの裁定によるものであった。そして1811年に王子ナポレオン2世が誕生すると、ナポレオンはこの乳児をローマ王の地位に就けた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "大陸封鎖令を出されたことでイギリスの物産を受け取れなくなった欧州諸国は経済的に困窮し、しかも世界の工場と呼ばれたイギリスの代わりを重農主義のフランスが担うるのは無理があったため、フランス産業も苦境に陥った。1810年にはロシアが大陸封鎖令を破ってイギリスとの貿易を再開。これに対しナポレオンは封鎖令の継続を求めたが、ロシアはこれを拒否。そして1812年、ナポレオンは対ロシア開戦を決意、同盟諸国兵を加えた60万の大軍でロシアに侵攻する。これがロシア遠征であり、ロシア側では祖国戦争と呼ばれる。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "ロシア軍の司令官は隻眼の老将・ミハイル・クトゥーゾフである。老獪な彼は、いまナポレオンと戦えば確実に負けると判断し、広大なロシアの国土を活用し、会戦を避けてひたすら後退し、フランス軍の進路にある物資や食糧は全て焼き払う焦土戦術で、辛抱強くフランス軍の疲弊を待つ。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "荒涼としたロシアの原野を進むフランス軍は兵站に苦しみ、脱落者が続出、モスクワ前面のボロジノの戦いでは、開戦前から兵力が1/3以下になっていた。モスクワを制圧すればロシアが降伏するか、食糧が手に入ると期待していたナポレオンは、ボロジノでロシア軍を破ってついにモスクワへ入城するが、市内に潜伏したロシア兵がその夜各所に放火、モスクワは3日間燃え続けた大火で焼け野原と化した。ロシアの冬を目前にして、物資の獲得と敵の撃破のいずれにも失敗したナポレオンは、この時点で遠征の失敗を悟る。フランス軍が撤退を開始したことを知ったクトゥーゾフは、コサック騎兵を繰り出してフランス軍を追撃させた。コサックの襲撃と冬将軍とが重なり、ロシア国境まで生還したフランス兵は全軍の1%以下の、わずか5,000人であった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "敗報の届いたパリではクーデター事件が発生した(未遂に終わり、首謀者のマレ(フランス語版)将軍は銃殺)。ナポレオンはクーデター発生の報を聞き、仏軍の撤退指揮を後任に任せ、一足先に脱出帰国する。この途上でナポレオンは大陸軍の惨状を嘆き、百年前の大北方戦争を思い巡らせ、「余はスウェーデン王カール12世のようにはなりたくない」と漏らしたという。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "この大敗を見た各国は一斉に反ナポレオンの行動を取る。初めに動いたのがプロイセンであり、諸国に呼びかけて第六次対仏大同盟を結成する。この同盟には、元フランス陸軍将軍でありナポレオンの意向によってスウェーデン王太子についていたベルナドットのスウェーデンも7月に参加した。ロシア遠征で数十万の兵を失った後に強制的に徴兵された、新米で訓練不足のフランス若年兵たちは「マリー・ルイーズ兵」と陰口を叩かれた。1813年春、それでもナポレオンはプロイセン・ロシアなどの反仏同盟軍と、リュッツェンの戦い・バウツェンの戦い(英語版)に勝って休戦に持ち込んだ。オーストリアのメッテルニヒを介した和平交渉が不調に終わった後、オーストリアも参戦して同盟軍はナポレオン本隊との会戦を避けるトラーヒェンブルク・プランを採用、ナポレオンの部下たちを次々と破った。ドレスデンの戦いでナポレオンはオーストリア・ロシア同盟軍を破ったが敗走する敵を追撃したフランス軍がクルムの戦い(英語版)で包囲されて降伏。10月のライプツィヒの戦いではナポレオン軍は対仏同盟軍に包囲されて大敗し、フランスへ逃げ帰った。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "1814年になるとフランスを取り巻く情勢はさらに悪化した。フランスの北東にはシュヴァルツェンベルク(ドイツ語版)、ゲプハルト・フォン・ブリュッヒャーのオーストリア・プロイセン軍25万人、北西にはベルナドットのスウェーデン軍16万人、南方ではウェリントン公率いるイギリス軍10万人の大軍がフランス国境を固め、大包囲網が完成しつつあった。一方ナポレオンはわずか7万人の手勢しかなく絶望的な戦いを強いられた。3月31日にはフランス帝国の首都・パリが陥落する。ナポレオンは外交によって退位と終戦を目指したが、マルモン元帥らの裏切りによって無条件に退位させられ(4月4日の「将軍連の反乱」)、4月16日のフォンテーヌブロー条約の締結ののち、地中海コルシカ島とイタリア本土の間にあるエルバ島の小領主として追放された。この一連の戦争は解放戦争と呼ばれる。 その際、フランツ1世の使者を名乗る人物が突然マリー=ルイーズのところにやってきて、半ば強制的に彼女とナポレオン2世を連れていってしまった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 45,
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"text": "4月12日、全てに絶望したナポレオンはフォンテーヌブロー宮殿で毒をあおって自殺を図ったとされている。ナポレオンは、ローマ王だった実子ナポレオン2世を後継者として望んだが、同盟国側に認められなかった。また元フランス軍人であり次期スウェーデン王に推戴されていたベルナドットもフランス王位を望んだが、フランス側の反発で砕かれ、紆余曲折の末にブルボン家が後継に選ばれた(フランス復古王政)。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "ナポレオン失脚後、ウィーン会議が開かれて欧州をどのようにするかが話し合われていたが、「会議は踊る、されど進まず」の言葉が示すように各国の利害が絡んで会議は遅々として進まなかった。さらに、フランス王に即位したルイ18世の政治が民衆の不満を買っていた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "1815年、ナポレオンはエルバ島を脱出し、苦労してパリに戻って復位を成し遂げる。ナポレオンは自由主義的な新憲法(帝国憲法付加法)を発布し、自身に批判的な勢力との妥協を試みた。そして、連合国に講和を提案したが拒否され、結局戦争へと進んでいく。しかし、緒戦では勝利したもののイギリス・プロイセンの連合軍にワーテルローの戦いで完敗し、ナポレオンの「百日天下」は幕を閉じることとなる(実際は95日間)。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "ナポレオンは再び退位(英語版)に追い込まれ、アメリカ合衆国への亡命も考えたが港の封鎖により断念、最終的にイギリスの軍艦に投降した。彼の処遇をめぐってイギリス政府はウェリントン公の提案を採用し、ナポレオンを南大西洋のセントヘレナ島に幽閉した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "ナポレオンはベルトラン、モントロン、グールゴ(フランス語版)、ラス・カーズらごく少数の従者とともに、島内中央のロングウッド・ハウスで生活した。高温多湿な気候と劣悪な環境はナポレオンを大いに苦しませたばかりか、その屋敷の周囲には多くの歩哨が立ち、常時行動を監視され、さらに乗馬での散歩も制限されるなど、実質的な監禁生活であった。その中でもナポレオンは、側近に口述筆記させた膨大な回想録を残した。これらは彼の人生のみならず彼の世界観、歴史観、人生観まで網羅したものであり「ナポレオン伝説」の形成に大きく寄与した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "ナポレオンは特に島の総督ハドソン・ロー(英語版)の無礼な振る舞いに苦しめられた。彼は誇り高いナポレオンを「ボナパルト将軍」と呼び、腐ったブドウ酒を振る舞うなどナポレオンを徹底して愚弄した(もっとも、腐ったブドウ酒はともかく、イギリス政府はナポレオンの帝位を承認していないので、イギリスの公人としては「将軍」としか呼びようがない)。また、ナポレオンの体調が悪化していたにもかかわらず主治医を本国に帰国させた。ナポレオンは彼を呪い、「将来、彼の子孫はローという苗字に赤面することになるだろう」と述べている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "そうした心労も重なってナポレオンの病状は進行し、スペイン立憲革命やギリシャ独立戦争で欧州全体が動揺する中、1821年5月5日に死去した。彼の遺体は遺言により解剖されて胃に潰瘍と癌が見つかり、死因としては公式には胃癌と発表されたが、ヒ素による暗殺の可能性も指摘された(彼の死因をめぐる論議については次節で述べる)。その遺体は1840年にフランスに返還され(Retour des cendres(フランス語版)、灰の帰還、灰は遺体の意)、現在はパリのオテル・デ・ザンヴァリッド(廃兵院)に葬られている。最期の言葉は「フランス!...軍隊!...軍隊のかしらに...ジョゼフィーヌ!」だった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "ヒ素(砒素)中毒による暗殺説が語られるのは、本人が臨終の際に「私はイギリスに暗殺されたのだ」と述べたこともさることながら、彼の遺体をフランス本国に返還するために掘り返したとき、遺体の状態が死亡直後とほぼ変わりなかったこと(ヒ素は剥製にも使われるように保存作用がある)、さらには、スウェーデンの歯科医ステン・フォーシュフットがナポレオンの従僕マルシャンの日記を精読して、その異常な病状の変化から毒殺を確信し、英国グラスゴー大学の法医学研究室ハミルトン・スミス博士の協力のもと、ナポレオンのものとされる頭髪からヒ素を検出して、砒素毒殺説をセンセーショナルに発表したことによる。ヒ素はナポレオンとともにセントヘレナに同行した何者かがワインに混入させた毒殺説以外にも、その当時の壁紙にはヒ素が使われており、ナポレオンの部屋にあった壁紙のヒ素がカビとともに空気中に舞い、それを吸ったためだという中毒説がある。フォーシュフットの検査に使った頭髪が実際にナポレオンのものか確証がないという反論があったため、2002年に改めてパリ警視庁とストラスブール法医学研究所が様々なナポレオンの遺髪を再調査した。すると、皇帝時代に採取された彼の髪に放射光をあてて調査した結果、やはりかなりの量のヒ素が検出され、セントヘレナに行く前からヒ素中毒であった可能性があると発表された。しかし当時は髪の毛の保存料としてヒ素が広く使われており、ナポレオン以外の頭髪でもヒ素が検出されることがその後の調査で判明した。生前にヒ素を摂取した場合も頭髪に残るが、切り取られた髪の毛の保存料としてヒ素が使われた場合にも、同様にヒ素が髪の内部まで浸透し、科学的には両方の可能性を否定できないため、この場合はヒ素は死因を特定する材料にはならないことがわかった。ヒ素による慢性あるいは急性の中毒説は(消極的に)否定された。",
"title": "死因をめぐる論議"
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{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "ちなみにモントロン伯爵の子孫であるフランソワ・ド・カンデ=モントロンのように(王党派であった)「私の祖先が殺したんです」と敢えてワインにヒ素を盛ったという毒殺説を主張する人もいる。",
"title": "死因をめぐる論議"
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{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "死の直後に発表された胃癌説(病死説)は現在でも維持され、最近の研究でも胃癌が指摘された。また同様に胃潰瘍説も取り沙汰されている。実際ナポレオンの家族にも胃癌で亡くなった者(家族性胃癌症候群)がおり、ナポレオン自身は胃潰瘍で、特に1817年以降、体調は急激に悪化している。ただ、解剖所見では、胃潰瘍により胃に穿孔していたことが確認され、また初期の癌も見つかった。しかしパリのジョルジュ・ポンピドゥー病院(英語)の法医学者ポール・フォルネスは1821年の解剖報告書など史料を分析して「死んだ時、ナポレオンには癌があったようだが、これが直接の死因とは言い切れない」と指摘する。癌患者であってもそれが末期でないのであれば最終的な死因は癌ではないことがありえるためだ。",
"title": "死因をめぐる論議"
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{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "そのほか、20年以上にわたり戦場を駆けた重圧と緊張が、もともと頑丈ではなかった心身に変調を来させたという説もある。若いころは精神力でカバーできていたが、40歳を迎えるころにはナポレオンの体を蝕んでいたという主張で、その死は激動の生活から無為の生活を強いられた孤島の幽囚生活が心理的ストレスとなり、生活の変調がもたらした致死性胃潰瘍であるという。胃潰瘍とともに悪化した心身の変調を内分泌や脳下垂体の異常を原因と主張する医学者もいた。",
"title": "死因をめぐる論議"
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{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "このように様々な説があるが、公式見解の胃癌説以外で考慮に値するのは、医療ミス説である。カリフォルニア大学バークレー校の心臓病理学者スティーブン・カーチは、ナポレオンを看取った主治医アントマルキのカルテを見て、医師が下剤として酒石酸アンチモニルカリウムを、さらに死の前日には嘔吐剤として甘汞()を大量に処方していたことに気づいた。これらは単独でも毒物であるが、飲みやすくするために使われた甘味料オルジエと合わせると体内でシアン化水銀という猛毒にかわった可能性があり、薬の量からして、体内の電解質のバランスを崩して心拍の乱れを起こして心停止に至ったと判断できるとした。カーチは「ヒ素の長期的影響に加えて医療過誤により悪化した不整脈が直接の死因」と主張する。",
"title": "死因をめぐる論議"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "総合的にはナポレオンの死の原因は現在に至っても決着していない。前出のフォルネスは「どの説も一理あるが、いずれの説も正しくない」とし、歴史家で医師のジャン=フランソワ・ルメールは(ナポレオンの死因探しは)「すでに歴史と科学の領域を離れて娯楽の世界に入っている」という。ヒ素毒殺説は有名であるため誤解されやすいが、前述の理由でこれが主流になったことはなく、フランスでは胃癌説の方が有力視される。",
"title": "死因をめぐる論議"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "ナポレオンはフランス革命の時流に乗って皇帝にまで上り詰めたが、彼が鼓舞した諸国民のナショナリズムによって彼自身の帝国が滅亡するという皮肉な結果に終わった。",
"title": "評価と影響"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "一連のナポレオン戦争では約200万人の命が失われたという。その大きな人命の喪失とナポレオン自身の非人道さから、国内外から「食人鬼」「人命の浪費者」「コルシカの悪魔」と酷評(あるいはレッテル貼り)もされた。ナポレオンによって起こされた喪失はフランスの総人口にも現れた。以後フランスの人口(特に青壮年男性を中心とする生産年齢人口)は伸び悩み、国力でイギリスやドイツ(のちにはアメリカ合衆国も)などに抜かれることとなった。フランス復古王政を経て成立した7月王政期の1831年には、フランス軍における人員のおびただしい喪失への反省から、フランス人からではなく多国籍の外国人から兵士を採用するフランス外人部隊が創設されることになった。これ以降、21世紀に徴兵制が全面廃止されるまで、フランス国民からの徴兵と、外国籍人を含む志願制とが併用されることになる。",
"title": "評価と影響"
},
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"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "ナポレオン後に即位したルイ18世とその後のシャルル10世は、ナポレオン以前の状態にフランスを回帰させようとしたが、ナポレオンによってもたらされたものはフランスに深く浸透しており、もはや覆すことはできなかった。王党派は、1815年の王政復古から反ボナパルティズムを取り、数年にわたり白色テロを繰り返した。王党派とボナパルティストとの長き対立と確執は、フランスに禍根を残すことにもつながった。ウィーン体制による欧州諸国の反動政治もまた欧州諸国民の憤激を買い、フランス革命の理念が欧州各国へ飛び火していくことになる(1848年革命など)。",
"title": "評価と影響"
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"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "ナポレオン没後もナポレオン体制を支持する潮流は軍人、小土地自由農民とプチ・ブルジョワジーを基盤としており、その権力形態はボナパルティズムと呼ばれるようになり、その後のフランス政治にも少なからず影響を与えた。他方、フランス革命前のブルボン朝によるアンシャン・レジームを絶対視するレジティミスムや、7月革命後のルイ・フィリップによる立憲君主制を模範とする統治を支持するオルレアニスムも存在しており、フランス国内の右派においてこの3者は競合する関係となった。",
"title": "評価と影響"
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"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "その一方、産業革命などによって急速に個性を喪失していくなか、全ヨーロッパを駆け抜けたナポレオンを時代に対する抵抗の象徴として「英雄」視する風潮が生まれた。ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルが「世界理性の馬を駆るを見る」と評し、フリードリヒ・ニーチェが「今世紀(19世紀)最大の出来事」と評し、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテが「半神」、「空前絶後の人物」と評した。その一方で、こうしたナポレオンを理念化されたナポレオンであって現実のナポレオン像ではないとする人々もいた。ベートーヴェンがその楽譜を破いたとされる故事は、そうした背景を象徴するものであると言われている。",
"title": "評価と影響"
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"paragraph_id": 63,
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"text": "1840年に遺骸がフランス本国に返還されたことでナポレオンを慕う気持ちが民衆の間で高まり、ナポレオンの栄光を想う感情がフランス第二帝政を生み出すことになる。",
"title": "評価と影響"
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"text": "ナショナリズムに基づく国民国家、メリトクラシー(能力主義)による統治、私有財産の不可侵や経済活動、信教の自由など現代に至る国家・社会制度の確立にナポレオンが与えた影響は大きい。2021年5月に開かれた没後200年式典で、フランス大統領エマニュエル・マクロンは功績を高く評価しつつ、奴隷制復活を「誤り」と批判した。",
"title": "評価と影響"
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"text": "現在のフランスでは、ナポレオンのイメージを損なうとして、豚にナポレオンと名づけることを禁止している(ただし、そのような法律は法令集に確認されず、1947年、フランスの出版社が、ジョージ・オーウェル『動物農場』の翻訳出版に当たり、登場する豚〈擬人化された独裁者〉の名前を「ナポレオン」のままとすることを拒否した例があるにすぎないという指摘もある)。",
"title": "評価と影響"
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"text": "ナポレオンが用いて広めた法・政治・軍事といった制度はその後のヨーロッパにおいて共通のものとなった。かつて古代ローマの法・政治・軍事が各国に伝播した以上の影響を世界に与えたと見ることもできる。",
"title": "功績"
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"text": "詳細はウィキクォートを参照。",
"title": "語録"
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"paragraph_id": 68,
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"text": "哲学者ヘーゲルがイエナ大学教授時代、自著『精神現象学』を発表する際にフランス軍はイエナに入城した。旧弊の国家を統合するナポレオン、ヨーロッパにおける近代市民社会の形成期、ナポレオンはフランス革命の精神たる「自由」をヨーロッパに広めようとしていると彼には見えた。ヘーゲルの言う「自由」とは理性(絶対精神)が歴史を舞台として自己実現をとげる全体的自由のことであり、ヘーゲルの目にはナポレオンが世界精神そのものと映った。彼は、「皇帝が...この世界精神が...陣地偵察のために馬上ゆたかに街を出ていくところを見ました。この個人こそ、この一地点に集結して馬上にまたがっていながら、しかも世界を鷲づかみにして、これを支配しています」とナポレオンのことを書き送っている。",
"title": "逸話"
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"text": "ナポレオンを人民の英雄と期待し、「ボナパルト」という題名でナポレオンに献呈する予定で交響曲第3番を作曲していたベートーヴェンは、ナポレオンの皇帝即位に失望して彼へのメッセージを破棄し、曲名も『英雄』に変更したという逸話が伝わっているが、この逸話が事実であるかどうかについては異説も多い。ベートーヴェンは旧体制側の人間で革命派ではなかったが、終始ナポレオンを尊敬しており、第2楽章が英雄の死と葬送をテーマにしているためこれではナポレオンに対して失礼であるとして、あえて曲名を変更し献呈を取りやめたとする逸話がある。また、定説とは逆に、実際に献呈すべく面会を求めたがまったく相手にされず、その怒りから改題し上記の定説を友人に話したという、作曲家の地位向上の境目の時代を意識したような逸話も存在する。",
"title": "逸話"
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"text": "",
"title": "逸話"
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"paragraph_id": 71,
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"text": "ナポレオンの存命中に生存もしくは誕生していた人物に限定する。一族全員についてはCategory:ボナパルト家を参照。",
"title": "関係者"
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{
"paragraph_id": 72,
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"text": "※「#」印はナポレオンは登場するものの直接的に扱われていない作品",
"title": "ナポレオンを扱った作品"
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"text": "ギネスブックによると、歴史上の人物の中で最も多く映画に登場したのはナポレオンで、177回である。以下にその一部を掲載する。",
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"text": "ナポレオンは「死んだ翌日から」伝記が書かれた人物と呼ばれるほど、彼について書かれた書籍は多い。",
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"text": "ボードゲームかコンピューターゲームかに限らず、ナポレオン関連のウォーゲームはナポレオニックと呼ばれる。",
"title": "ナポレオンを扱った作品"
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"text": "ほか海外物多数、現在も出版され続けている。",
"title": "ナポレオンを扱った作品"
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{
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"text": "発売順, タイトル, 発売元, 機種, 発売年, ジャンル順。",
"title": "ナポレオンを扱った作品"
}
] | ナポレオン・ボナパルトは、フランス革命期の軍人、革命家で、フランス第一帝政の皇帝に即位してナポレオン1世となった。1世から3世まで存在するが、単にナポレオンと言えばナポレオン1世を指す。 フランス革命後の混乱を収拾し、軍事独裁政権を確立した。大陸軍と名づけた軍隊を築き上げ、フランス革命への干渉を図る欧州諸国とのナポレオン戦争を戦い、幾多の勝利と婚姻政策によって、イギリス、ロシア帝国、オスマン帝国の領土を除いたヨーロッパ大陸の大半を勢力下に置いた。対仏大同盟との戦いに敗北し、百日天下による一時的復権を経て、51歳のとき南大西洋の英領セントヘレナにて没した。 | {{Redirect|ナポレオン}}
{{出典の明記|date=2015年4月19日 (日) 13:03 (UTC)|ソートキー=人1821年没}}
{{基礎情報 君主
| 人名 = ナポレオン・ボナパルト<br />(ナポレオン1世)
| 各国語表記 = {{Lang|fr|Napoléon I<sup>er</sup>}}
| 君主号 = [[フランス皇帝]]
| 画像 = François Gérard - Napoleon I 001.JPG
| 画像サイズ =
| 画像説明 = 『戴冠式の正装の皇帝ナポレオン』<br />([[フランソワ・ジェラール]]画、[[1805年]]、[[アムステルダム国立美術館]]蔵)
| 在位 = [[1804年]]<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3151689|title=ナポレオンの冠から除かれた金細工の葉、8000万円超で落札 仏|newspaper=[[フランス通信社|AFPBB News]]|date=2017-11-20|accessdate=2020-12-02}}</ref>[[5月18日]] - [[1814年]][[4月11日]]<br />[[1815年]][[3月20日]] - [[1815年]][[6月22日]]
| 戴冠日 = 1804年[[12月2日]]、[[ノートルダム大聖堂 (パリ)|パリ・ノートルダム大聖堂]]
| 別号 = [[イタリア王|イタリア国王]]、[[アンドラ君主一覧|アンドラ大公]]
| 全名 = ナポレオン・ボナパルト<br />{{Lang|fr|Napoléon Bonaparte}}
| 出生日 = [[1769年]][[8月15日]]
| 生地 = {{FRA987}}領<br />[[コルシカ島]]、[[アジャクシオ]]
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1769|8|15|1821|5|5}}
| 没地 = {{flagicon image|Flag of the British East India Company (1801).svg}} [[イギリス東インド会社|イギリス]]領<br />[[セントヘレナ|セントヘレナ島]]、{{仮リンク|ロングウッド|en|Longwood, Saint Helena}}
| 埋葬日 = [[1840年]][[12月15日]]
| 埋葬地 = {{FRA1830}}<br />[[パリ]]、[[オテル・デ・ザンヴァリッド]]
| 配偶者1 = [[ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ]]
| 配偶者2 = [[マリア・ルイーザ (パルマ女公)|マリー・ルイーズ・ドートリッシュ]]
| 子女 = [[ナポレオン2世]]<br />[[レオン伯シャルル]]<br />[[アレクサンドル・ヴァレフスキ]]
| 王家 =
| 王朝 = [[ボナパルト朝]]
| 王室歌 =
| 父親 = [[シャルル・マリ・ボナパルト]]
| 母親 = [[マリア・レティツィア・ボナパルト]]
| 宗教 = [[カトリック教会|ローマ・カトリック]]
| サイン = Napolean Bonaparte Signature.svg
}}
[[ファイル:David_-_Napoleon_crossing_the_Alps_-_Malmaison1.jpg|270px|thumb|[[ジャック=ルイ・ダヴィッド|ダヴィッド]]『[[サン=ベルナール峠を越えるボナパルト]]』]]
[[ファイル:Grandes Armes Impériales (1804-1815)2.svg|thumb|220px|ナポレオン一世皇家の紋章]]
'''ナポレオン・ボナパルト'''({{lang-fr|Napoléon Bonaparte}}、別名(1794年以前): '''ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテ'''、{{lang|it|Napoleone di Buonaparte}}、[[1769年]][[8月15日]] - [[1821年]][[5月5日]])は、[[フランス革命]]期の[[軍人]]、[[革命家]]で、[[フランス第一帝政]]の[[フランス皇帝|皇帝]]に即位して'''ナポレオン1世'''({{lang-fr|Napoléon I<sup>er</sup>}}、在位:[[1804年]] - [[1814年]]、[[1815年]])となった。1世から3世まで存在するが、単にナポレオンと言えばナポレオン1世を指す。
フランス革命後の混乱を収拾し、軍事独裁政権を確立した。[[大陸軍 (フランス)|大陸軍]]({{lang-fr|Grande Armée}} グランダルメ)と名づけた軍隊を築き上げ、[[フランス革命戦争|フランス革命への干渉]]を図る欧州諸国との[[ナポレオン戦争]]を戦い、幾多の勝利と[[政略結婚|婚姻政策]]によって、[[イギリス]]、[[ロシア帝国]]、[[オスマン帝国]]の領土を除いた[[ヨーロッパ大陸]]の大半を勢力下に置いた。[[対仏大同盟]]との戦いに敗北し、[[百日天下]]による一時的復権を経て、51歳のとき[[南大西洋]]の英領[[セントヘレナ]]にて没した。
== 生涯 ==
=== 生い立ち===
[[ファイル:CarloB.jpg|thumb|160px|left|父・カルロ]]
[[1769年]]、イタリア半島の西に位置するフランス領の島[[コルシカ島]]の[[アジャクシオ]]において、父[[シャルル・マリ・ボナパルト|カルロ・マリア・ブオナパルテ]]<ref group="注釈">フランス名では[[シャルル・マリ・ボナパルト]]。しばしば貴族名の定冠詞をつけたディ・ブオナパルテまたはド・ボナパルトとも名乗ったり、署名したりしている。</ref>と母[[マリア・レティツィア・ボナパルト|マリア・レティツィア・ラモリーノ]]の間に、12人の子ども(4人は[[夭折]])のうち4番目として生まれた。出生時の[[洗礼名]]は'''ナブリオーネ・ブオナパルテ'''<ref group="注釈">[[コルシカ語]]: 「Nabulione Buonaparte」。コルシカ語は[[イタリア語]]系の[[方言]]のなかでもかなり特殊で、「p」表記がbの発音に、「o」表記がuの発音に、なるなど独特の発音になるために表音表記ではこうなる。当時、コルシカ島では[[文語]]は[[ラテン語]]がまだ使われており、実際の表記は表音とさらに異なって書くときは「Nabulion」とラテン語風となり、家族の一般的呼び名は「ナブリオ」になる。幼くしてフランス本土に渡ってフランス語を勉強するようになってからフランス語で書くイタリア語人名表記を使うように指導された。</ref><ref group="注釈">「ナポレオン(ナブリオーネ)」との名が付けられた3番目の子供で、同名の夭折した長兄が一人いる。一つ上の次兄も[[ジョゼフ・ボナパルト|ジョゼフ・ナポレオン]](ジュゼッペ・ナブリオーネ)。またこのナポレオンという名前は伯父からとったもの。</ref>。島を追われ、フランスで一生を暮らすと決めて、25歳となる[[1794年]]頃より、ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテというイタリア人名の綴りから、フランス風の'''ナポレオン・ボナパルト'''へ改名し、署名も改めた。
ブオナパルテ家の先祖は中部[[イタリア]]の[[トスカーナ州]]に起源を持つ、古い[[パトリキ|血統貴族]]。それが[[ジェノヴァ共和国]]の[[傭兵]]隊長としてコルシカ島に渡り、[[16世紀]]頃に土着した。[[判事]]であった父[[シャルル・マリ・ボナパルト|カルロ]]は、[[1729年]]に始まっていた[[コルシカ独立戦争|コルシカ独立闘争]]の指導者[[パスカル・パオリ]]の[[副官]]を務めていたが、ナポレオンが生まれる直前にフランス側に転向し、戦後に寝返りへの見返りとして報奨を受け、フランス貴族と同等の権利を得た。旧ジェノヴァ共和国領である[[コルシカ島]]には貴族制度がなかったが、新貴族としての身分を晴れて認められたことで特権を得て、フランス本国への足がかりを得た父カルロはやがてコルシカ総督とも懇意になり、その援助でナポレオンと兄の[[ジョゼフ・ボナパルト|ジュゼッペ]](ジョゼフ)を教育を受けさせるためにフランス本国へと送った。
ナポレオンは当初、[[修道院]]付属学校に短期間だけ入っていたが、[[1779年]]に貴族の子弟が学ぶ[[:fr:Brienne-le-Château|ブリエンヌ]][[陸軍幼年学校]]([[:fr:École de Brienne|fr]])へ国費で入学し、[[数学]]で抜群の成績を修めたという。[[1784年]]に[[パリ]]の[[陸軍士官学校]]([[:fr:École militaire (France)|fr]])に入学。士官学校には[[騎兵]]科、[[歩兵]]科、[[砲兵]]科の3つがあったが、彼が専門として選んだのは、伝統もあり花形で人気のあった騎兵科ではなく、砲兵科であった<ref group="注釈">騎兵科は主に裕福な名門貴族の登竜門であり、彼らと同じ土俵に立てば出世の見込みがなかったため。他にも後に友人となるマルモンなども中産階級出身であり、身分や財産よりも学業や実務能力が重んじられる道を選んでいる。他の選択肢としては、数学が得意だったことから、天文学や測量などの専門知識が求められる海軍も考えていた。</ref>。[[大砲]]を用いた戦術は、のちの彼の命運を大きく左右することになる。卒業試験の成績は58人中42位であったものの、通常の在籍期間が4年前後であるところを、わずか11か月で必要な全課程を修了したことを考えれば、むしろ非常に優秀な成績と言える。実際、この11か月での卒業は開校以来の最短記録であった。
この時期のエピソードとして、クラスで[[雪合戦]]をした際にナポレオンの見事な指揮と[[陣地]]構築で快勝したという話が有名で、この頃から[[指揮官]]としての才能があったとされるが、実話かは定かではない。幼年時のナポレオンは、節約をかねて読書に明け暮れ、特に[[プルタルコス]]の『[[対比列伝|英雄伝]]』や[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]の著作<ref group="注釈">これはルソーが『[[社会契約論]]』の中で、コルシカ島を革命が起こり憲法が成立する余地があるとした。若い頃のナポレオンはコルシカ民族主義者であった。</ref>などを精読し、無口で友達の少ない少年であった。学校ではコルシカなまり<ref group="注釈">ナポレオンのフランス語は青年期まで、イタリア語の一方言であるコルシカ訛りがかなりはっきりとあった。前述のようにコルシカ語ではいくつかのアルファベットの表記が音と異なるため、特に固有名詞で言い間違いが多かったが、皇帝になってからは特にそれを誰も注意しなかった。</ref>を馬鹿にされ、ナポレオーネに近い音でラパイヨネ({{lang|fr|la paille au nez}}, 藁鼻)とあだ名された。裕福な貴族子弟と折り合いが悪かったためである。その頃の数少ない友人の一人が、のちに秘書官を務める[[ルイ・アントワーヌ・フォヴレ・ド・ブーリエンヌ]]であった。一方で、癇癪持ちでもあり、喧嘩っ早く短気な一面もあった。また十代の後半は小説家にも憧れ、その頃から断続的に文学活動もしていた。
=== 軍人ナポレオン ===
16歳のとき[[1785年]]に砲兵[[士官]]として[[任官]]。20歳を迎える[[1789年]]、フランス革命が勃発し、フランス国内の情勢は不穏なものとなっていくが、コルシカ民族主義者であった当時のナポレオンは革命には無関心だった。ナポレオンはしばしばコルシカ島へと長期帰郷している。
23歳となる[[1792年]]、故郷アジャクシオの国民衛兵隊[[中佐]]に選ばれるが、ブオナパルテ家が親仏派であったことから、英国に逃れているコルシカ島独立指導者パスカル・パオリの腹心でナポレオンと遠い縁戚関係にもある[[ポッツォ・ディ・ボルゴ]]ら親英派によってブオナパルテ家弾劾決議を下される。軍人ナポレオンと家族はコルシカ島から追放され、船で脱出するという逃避行によってコルシカ島に近い南仏[[マルセイユ]]に移住した。マルセイユでは、ブオナパルテ家は裕福な商家であるクラリー家と親交を深め、ナポレオンの兄のジョゼフは、クラリー家の娘・[[ジュリー・クラリー|ジュリー]]と結婚した。ナポレオンもクラリー家の末娘・[[デジレ・クラリー|デジレ]]と恋仲となり、婚約する。この頃、ナポレオンは、己の政治信条を語る小冊子『ボーケールの晩餐』を著して、当時のフランス政府(革命政府)の中心にいた有力者[[マクシミリアン・ロベスピエール|ロベスピエール]]の弟・[[オーギュスタン・ロベスピエール|オーギュスタン]]の知遇を得ていた(この小冊子はのちに、ロベスピエールと[[ジャコバン派]]の独裁を支持するものであるとして、後述するナポレオン逮捕の口実ともなった)。
[[ファイル:Paul Barras directeur.jpg|thumb|180px|left|ポール・バラス]]
24歳となる1793年、原隊に復帰すると、貴族士官の[[亡命]]という恩恵を得て、特に何もせずに[[大尉]]に昇進。ナポレオンはフランス軍の中でも主に[[王党派]]蜂起の鎮圧を行っていた[[ジャン・フランソワ・カルトー|カルトー将軍]]の南方軍に所属し、[[トゥーロン攻囲戦]]に出征。前任者の負傷を受けて、新たに砲兵司令官となり、[[少佐]]に昇格する。当時の欧州情勢としては、「フランス革命政府」対「反革命側反乱軍(およびそれに介入する[[第一次対仏大同盟]]諸国)」の図式があり、近代的城郭を備えた港湾都市[[トゥーロン]]はフランス地中海艦隊の母港で、イギリス・スペイン艦隊の支援を受けた反革命側が鉄壁の防御を築いていた。革命後の混乱で人材の乏しいフランス側は、元画家のカルトー将軍らの指揮で、要塞都市への無謀ともいえる突撃を繰り返して自ら大損害を被っているような状況であった。ここでナポレオンは、まずは港を見下ろす二つの高地を奪取して、次にそこから大砲で敵艦隊を狙い撃ちにする、という作戦を進言する。次の次の司令官であった[[ジャック・フランソワ・デュゴミエ|デュゴミエ将軍]]がこれを採用し、豪雨をついて作戦は決行され成功、外国艦隊を追い払い反革命軍を降伏に追い込んだ。ナポレオン自身は足を負傷したが、この功績により[[国民公会]]の議員の推薦を受け、当時24歳の彼は一挙に[[旅団将軍]]([[少将]]相当)<ref group="注釈">この頃はまだ少将の扱いだった。(「[[ルイ=ニコラ・ダヴー]]」参照。</ref>に昇進し、一躍フランス軍を代表する若き英雄へと祭り上げられた。
[[1794年]]、革命政府内でロベスピエールが[[テルミドール9日のクーデター|テルミドール9日のクーデタ]]で失脚して処刑された。ナポレオンはイタリア方面軍の砲兵司令官となっていたが、ロベスピエールの弟[[オーギュスタン・ロベスピエール|オーギュスタン]]とつながりがあったこと、およびイタリア戦線での方針対立などにより逮捕、収監された。短期拘留であったものの軍務から外され、降格処分となった。その後も転属を拒否するなどして、公安委員のオーブリと対立したために[[予備役]]とされてしまった。
しかし[[1795年]]、パリにおいて王党派の蜂起([[ヴァンデミエールの反乱]])が起こった。このときに[[国民公会]]軍司令官となった[[ポール・バラス]]は、トゥーロン攻囲戦のときの[[派遣議員]]であったため、知り合いのナポレオンを副官として登用した。実際の鎮圧作戦をこの副官となったナポレオンにほぼ一任した結果、首都の市街地で一般市民に対して大砲(しかも広範囲に被害が及ぶ[[ぶどう弾]])を撃つという大胆な戦法をとって鎮圧に成功した。これによってナポレオンは[[師団将軍]]([[中将]]相当)<ref group="注釈">フランス革命軍では将軍のランクを廃止したため、少将、中将、大将といった階級は存在しない。</ref>に昇進。国内軍副司令官、ついで国内軍司令官<ref group="注釈">国内軍は治安維持を任務とする方面軍と同格の軍組織であり、国軍の総司令官という意味ではないので注意されたい。</ref>の役職を手に入れ、「ヴァンデミエール([[葡萄月]])将軍」の異名をとった。月の呼称については「[[フランス革命暦]]」参照。
=== 若き英雄 ===
[[ファイル:Bonabarte Premier consul.jpg|left|thumb|200px|近衛猟騎兵大佐の制服を好んで着た]]
27歳を迎える[[1796年]]には、[[デジレ・クラリー]]との婚約を反故にして、[[恐怖政治]]の下で処刑された[[アレクサンドル・ド・ボアルネ|ボアルネ]][[子爵]]の[[未亡人]]でポール・バラスの愛人でもあった[[ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ]]と結婚。同年、[[総裁政府]]の総裁となっていたバラスによってナポレオンはイタリア方面軍の司令官に抜擢された。フランス革命への[[オーストリア帝国]]の干渉に端を発した[[フランス革命戦争]]が欧州各国を巻き込んでいく中、総裁政府は[[ドイツ]]側の二方面とイタリア側の一方面をもってオーストリアを包囲攻略する作戦を企図しており、ナポレオンはこの内のイタリア側からの攻撃を任されたのである。
ドイツ側からの部隊がオーストリア軍の抵抗に苦戦したのに対し、ナポレオン軍は連戦連勝であった<ref group="注釈">当時の北イタリアはオーストリアの支配を受けており、市民革命を成し遂げた新しい秩序の国から来たナポレオンの軍隊は、市民から解放軍として大きな歓迎を受けたといわれる。</ref>。
[[1797年]]4月にはオーストリアの帝都[[ウィーン]]へと迫り、同年4月にはナポレオンは総裁政府に断ることなく講和交渉に入った。そして10月にはオーストリアと[[カンポ・フォルミオ条約]]を結んだ。これによって[[第一次対仏大同盟]]は崩壊、フランスはイタリア北部に広大な領土を獲得して、いくつもの衛星国([[姉妹共和国]])を建設し、膨大な戦利品を得た。この[[イタリア戦役 (1796-1797年)|イタリア遠征]]をフランス革命戦争から[[ナポレオン戦争]]への転換点とみる見方もある。フランスへの帰国途中、ナポレオンは[[ラシュタット会議]]に儀礼的に参加。12月、パリへと帰還したフランスの英雄ナポレオンは熱狂的な歓迎をもって迎えられた。
[[ファイル:Francois-Louis-Joseph Watteau 001.jpg|thumb|230px|『ピラミッドの戦い』を描いた絵画]]
オーストリアに対する陸での戦勝とは裏腹に、対仏大同盟の雄であり強力な海軍を有し[[制海権]]を握っているイギリスに対しては、フランスは決定的な打撃を与えられなかった。そこでナポレオンは、イギリスにとって最も重要な植民地である[[インド]]との連携を絶つことを企図し、英印交易の中継地点であり[[オスマン帝国]]の支配下にあったエジプトを押さえること([[エジプト・シリア戦役|エジプト遠征]])を総裁政府に進言し、これを認められた<ref group="注釈">この遠征に関しては、イギリスの海軍の力をそぐための有効策であったかどうか疑問視する見方もある。対イギリス作戦のためというのは口実でこれまでの戦勝に自信を深めていたナポレオンが自らを[[古代ギリシア]]の英雄[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]、[[古代ローマ]]の英雄[[ジュリアス・シーザー|ユリウス・カエサル]]になぞらえたかったために言い出したものであり、イタリア戦線で独断でオーストリアとの講和交渉を始めるなどしたナポレオンを総裁政府も疎んじるようになっていたため厄介払いとしてそうした荒唐無稽な遠征を政府も容認したのだとみる見方もある。ナポレオンは、アレクサンドロス大王がしたのと同じように、[[考古学]]者を165人も同行させていた。このときに[[ロゼッタ・ストーン]]が発見されたことはよく知られている。</ref>。
[[1798年]]7月、ナポレオン軍は[[エジプト]]に上陸し、[[ピラミッドの戦い]]で勝利して[[カイロ]]に入城した。しかしその直後、[[アブキール湾の海戦]]で[[ホレーショ・ネルソン (初代ネルソン子爵)|ネルソン]]率いるイギリス艦隊にフランス艦隊が大敗し、ナポレオン軍はエジプトに孤立してしまった。12月にはイギリスの呼びかけにより再び対仏大同盟が結成され([[第二次対仏大同盟]])、フランス本国も危機に陥った。[[1799年]]にはオーストリアにイタリアを奪還され、フランスの民衆からは総裁政府を糾弾する声が高まっていた。[[シリア]]の[[アッコン]]の砦での敗北もあり、これを知ったナポレオンは、自軍を次将のクレーベルに託し、エジプトに残したまま側近のみを連れ単身フランス本土へ舞い戻った<ref group="注釈">補給路も断たれ[[ペスト]]などの伝染病の中に残されたナポレオン軍の兵はこのあと2年近く抗戦した後、オスマン帝国軍とイギリス軍に降伏することとなる。</ref>。
フランスの民衆はナポレオンの到着を、歓喜をもって迎えた。11月、ナポレオンは[[ブルジョワジー]]の意向を受けた[[エマニュエル=ジョゼフ・シエイエス]]らと[[ブリュメール18日のクーデタ]]を起こし、[[統領政府]]を樹立し自ら第一統領(第一執政)となり、実質的に独裁権を握った。もしこの[[クーデタ]]が失敗すれば、ナポレオンはエジプトからの[[敵前逃亡]]罪および国家反逆罪により処刑される可能性もあった。
=== 統領ナポレオン ===
[[ファイル:Gros - First Consul Bonaparte (Detail).png|thumb|200px|[[アントワーヌ=ジャン・グロ]]『第一統領ボナパルト』]]
統領政府の第一統領(第一執政)となり政権の座に就いたナポレオンであるが、内外に問題は山積していた。まずは[[第二次対仏大同盟]]に包囲されたフランスの窮状を打破することが急務であった。
まず、イタリアの再獲得を目指した。当時のイタリアへの進入路は、直接フランスから[[トリノ]]に向かう峠道、地中海沿い[[リグーリア州]]の2つの有名な峠道、[[ジェノヴァ]]方面の4つが主であったが、これらは既に1794年、1795年、1796年の戦役での侵攻作戦で使用していたため、ナポレオンは[[アルプス山脈]]を[[グラン・サン・ベルナール峠]]で越えて北イタリアに入る[[奇襲]]策をとった。これによって主導権を奪って優位に戦争を進めたが、緒戦の大勝のあと、メラス将軍率いるオーストリア軍を一時見失って兵力を分割したことから、不意に大軍と遭遇して苦戦を強いられる。しかし別働隊が戻ってきて、[[1800年]][[6月14日]]の[[マレンゴの戦い]]においてオーストリア軍に劇的に勝利した。別働隊の指揮官でありナポレオンの友人であった[[ルイ・シャルル・アントワーヌ・ドゼー|ドゼー]]はこの戦闘で亡くなった。12月には、ドイツ方面の[[ホーエンリンデンの戦い]]で[[ジャン・ヴィクトル・マリー・モロー|モロー]]将軍の率いるフランス軍がオーストリア軍に大勝した。翌年2月にオーストリアは[[リュネヴィルの和約]]に応じて、[[ライン川]]の左岸をフランスに割譲し、北イタリアなどをフランスの[[保護国]]とした。この和約をもって第二次対仏大同盟は崩壊し、フランスとなおも交戦するのはイギリスのみとなったが、イギリス国内の対仏強硬派の失脚や宗教・労働運動の問題、そしてナポレオン率いるフランスとしても国内統治の安定に力を注ぐ必要を感じていたことなどにより、[[1802年]]3月には[[アミアンの和約]]で講和が成立した。
ナポレオンは[[内政]]面でも諸改革を行った。全国的な税制度、行政制度の整備を進めると同時に、革命期に壊滅的な打撃を受けた工業生産力の回復をはじめ産業全般の振興に力を注いだ。1800年には[[フランス銀行]]を設立し、通貨と経済の安定を図った<ref group="注釈">1803年には、1[[フランス・フラン#フランス革命後|フラン]]=10デシム=100サンチームという新しい通貨制度を制定した。1フランは純[[銀]]で約4.5グラムであった。この、いわゆるジェルミナール・フランは以後[[第一次世界大戦]]後まで採用されていた。</ref>。
1802年には有名な[[レジオンドヌール勲章]]を創設。さらには国内の法整備にも取り組み、[[1804年]]には「フランス民法典」、いわゆる[[ナポレオン法典]]を公布した。これは各地に残っていた種々の[[慣習法]]、[[封建制度|封建]]法を統一した初の本格的な民法典で、「万人の法の前の平等」「国家の世俗性」「[[信教の自由]]」「経済活動の自由」などの近代的な価値観を取り入れた画期的なものであった<ref group="注釈">1808年には刑事訴訟法、1810年には刑法を定めるなど法制を逐次整備し、1810年頃までには法体系を確立した。</ref>。
教育改革にも尽力し「公共教育法」を制定している<ref group="注釈">全国を数個の大学管区に分割し、大学管区の中に、県ごとに中等学校、師範学校を置き、さらに小学校を多数設置した。そして教員不足を補うために、政治的妥協を図って聖職者による教育活動を許した。</ref>。また、交通網の整備を精力的に推進した<ref group="注釈">道路網、運河、港湾などの改修は、商工業の発展だけでなく軍事活動にも関わるものであり、ベルギー・オランダ、イタリア方面にまでひろがった広大な領土を支配するため全国に派遣された100人近い知事の最大の業務のひとつは土木建設だった。知事たちの重要な業務には警察業務もあり、迅速な情報伝達のために「[[腕木通信|テレグラフ]]」網がパリを中心として東西、南北に敷設された。手動で腕木を動かして信号を送るシグナルが数キロメートルおきに立てられ、暗号文が伝達された。</ref>。
フランス革命以後、敵対関係にあった[[カトリック教会]]との和解も目指したナポレオンは、[[1801年]]に[[教皇]][[ピウス7世 (ローマ教皇)|ピウス7世]]との間で{{仮リンク|1801年のコンコルダート|en|Concordat of 1801|label=政教条約(コンコルダート)}}を結び、国内の宗教対立を緩和した。また革命で亡命した貴族たちの帰国を許し、王党派や[[ジャコバン派]]といった前歴を問わず有能の士を軍や行政に登用し、政治的な和解を推進した。その一方で、体制を覆そうとする者には容赦せずに弾圧した。
ナポレオンが統領政府の第一統領となったときから彼を狙った暗殺未遂事件は激化し、1800年12月には王党派による爆弾テロも起きていた。そして、それらの事件の果てに起こった[[1804年]]3月のフランス王族[[アンギャン公ルイ・アントワーヌ]]の処刑は、王を戴く欧州諸国の反ナポレオンの感情を呼び覚ますのに十分であった。ナポレオン陣営は相次ぐ暗殺未遂への対抗から独裁色を強め、[[帝制]]への道を突き進んで行くことになる。
さらに、フランスの産業が復興し市場となる衛星国や保護国への支配と整備が進められる一方で、かねてより争いのあったイギリスもまた海外への市場の覇権争いから引くわけにはいかなかった。既に1803年4月には[[マルタ島]]の管理権をめぐってフランスとイギリスの関係は悪化しており、5月のロシア皇帝[[アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル1世]]による調停も失敗。前年に締結したばかりのアミアンの和約はイギリスによって破棄され、英仏両国は講和からわずか1年で再び戦争状態に戻ろうとしていたのである。こうした国内外の情勢のなか、ナポレオンは自らへの権力の集中によって事態を推し進めることを選び、1802年[[8月2日]]には[[1791年憲法]]を改定して自らを終身統領(終身執政)と規定した。
=== ハイチ革命 ===
植民地の[[サン=ドマング]]では、ジャコバン派による[[奴隷制廃止]]の後にフランス側に戻った[[黒人]]の将軍[[トゥーサン・ルーヴェルチュール]]が[[イギリス軍]]や[[スペイン軍]]と戦ってサン=ドマングを回復。さらにはスペイン領[[サントドミンゴ]]に侵攻してスペイン領の[[奴隷]]を解放した後に全[[イスパニョーラ島]]を統一し、1801年7月7日に自身を終身総督とする自治憲法を制定して支配権を確立していた。ナポレオンはサン=ドマングを再征服するために、義弟の[[シャルル・ヴィクトール・エマニュエル・ルクレール|ルクレール]]将軍をサン=ドマング植民地に送った。ルクレール将軍は熱病、[[ゲリラ戦]]に苦戦しながらも騙し討ちでトゥーサンを捕えてフランス本国に送り、トゥーサンは獄死した。さらに1803年4月、[[アメリカ合衆国]]に[[フランス領ルイジアナ|ルイジアナ植民地]]を売却した([[ルイジアナ買収]])。しかし、奴隷制を復活したことにサン=ドマングの黒人は強く怒り、[[1803年]][[11月18日]]の[[ヴェルティエールの戦い]]でフランス軍は大敗を喫し、1804年1月1日に[[ジャン=ジャック・デサリーヌ]]が指導するフランス領サン=ドマングは[[ハイチ共和国]]として独立した([[ハイチ革命]])。これは、ナポレオンのフランスにとって最初の大規模な敗北となった。
=== 皇帝ナポレオン ===
[[ファイル:Jacques-Louis David, The Coronation of Napoleon edit.jpg|right|thumb|300px|ダヴィッド『[[ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠]]』。皇后となるジョゼフィーヌにナポレオンが自ら冠を授けている。]]
1804年5月、国会の議決と国民投票を経て[[世襲]]でナポレオンの子孫にその位を継がせるという皇帝の地位についた。皇帝の地位に就くにあたって[[国民投票]]を行ったことは、フランス革命で育まれつつあった民主主義を形式的にしても守ろうとしたものだったとする見方もある。[[1804年]][[12月2日]]には「[[フランス皇帝|フランス人民の皇帝]]」としての戴冠式が行われた([[フランス第一帝政]])。英雄が独裁的統治者となったこの出来事は多方面に様々な衝撃を与えた。この戴冠式には、教皇ピウス7世も招かれていた。それまでオスマン帝国やロシアを除く欧州の皇帝は教皇から王冠を戴くのが儀礼として一般的な形であったが、ナポレオンは教皇の目の前で、自ら王冠をかぶった。この行動には、欧州に自由の革命精神を根付かせるに当たって、帝冠は血筋によってではなく努力によって戴冠される時代が来たことを示すという事と、政治の支配下に教会を置くという事との二つの思惑が絡んでいると考えられる<ref group="注釈">1808年にはナポレオン軍は再び[[教皇領]]に侵入し、この時には教皇領をフランス領に接収し、ティブル県およびトラジメーヌ県を置いた。ここに至ってピウス7世はナポレオンをローマ教会から[[破門]]とする。ナポレオンはこれに対してピウス7世を北イタリアの[[サヴォナ]]に監禁した。教皇がローマへ戻れるのはナポレオン退位後、1814年になってからである。</ref>。
ナポレオンは、閣僚や大臣に多くの政治家、官僚、学者などを登用し、自身が軍人であるほかには、国防大臣のみに軍人を用いた。
=== 絶頂期 ===
[[ファイル:Napoleon in His Study.jpg|thumb|200px|皇帝時代のナポレオン。[[近衛兵|近衛]][[連隊|連隊長]]の制服を着用している(画:ダヴィッド)]]
[[1805年]]、ナポレオンはイギリス上陸を目指して[[ドーバー海峡]]に面した[[ブローニュ=シュル=メール|ブローニュ]]に大軍を集結させた。イギリスはこれに対してオーストリア・[[ロシア帝国|ロシア]]などを引き込んで[[第三次対仏大同盟]]を結成。[[プロイセン王国|プロイセン]]は同盟に対して中立的な立場を取ったもののイギリス・オーストリアからの外交の手は常に伸びており、ナポレオンはこれを中立のままにしておくためにイギリスから奪った[[ハノーファー]]をプロイセンに譲渡するとの約束をした。
1805年10月、ネルソン率いるイギリス海軍の前に[[トラファルガーの海戦]]にて完敗。イギリス上陸作戦は失敗に終わる。もっともナポレオンはこの敗戦の報を握り潰し、この敗戦の重要性は、英仏ともに戦後になってようやく理解されることになったという。
海ではイギリスに敗れたフランス軍だが、陸上では10月の[[ウルム戦役|ウルムの戦役]]でオーストリア軍を破り、ウィーンを占領した。オーストリアの[[フランツ2世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ1世]]の軍は北に逃れ、その救援に来たロシアのアレクサンドル1世の軍と合流。フランス軍とオーストリア・ロシア軍は、奇しくもナポレオン1世の即位一周年の[[12月2日]]にアウステルリッツ郊外のプラツェン高地で激突。この[[アウステルリッツの戦い]]は三人の皇帝が一つの戦場に会したことから'''三帝会戦'''とも呼ばれる。ここはナポレオンの巧妙な作戦で完勝し、12月にフランスとオーストリアの間で[[プレスブルク条約]]が結ばれ、フランスへの多額の[[戦争賠償|賠償金]]支払いと領土の割譲などが取り決められ、[[第三次対仏大同盟]]は崩壊した。[[イギリス首相]][[ウィリアム・ピット (小ピット)|ウィリアム・ピット]](小ピット)は、この敗戦に衝撃を受けて翌年に没した。ちなみに[[エトワール凱旋門|凱旋門]]はアウステルリッツの戦いでの勝利を祝してナポレオン1世が[[1806年]]に建築を命じたものだが、完成はナポレオン死後の1836年のことである。
戦場から逃れたアレクサンドル1世はイギリス・プロイセンと手を組み、1806年10月にはプロイセンが中心となって[[第四次対仏大同盟]]を結成した。これに対しナポレオンは、10月の[[イエナの戦い]]と[[アウエルシュタットの戦い]]でプロイセン軍に大勝して[[ベルリン]]を占領し、[[プロイセン国王]][[フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム3世]]は[[東プロイセン]]へと逃亡する。こうしてロシア、イギリス、[[スウェーデン]]、オスマン帝国以外のヨーロッパ中央をほぼ制圧したナポレオンは、兄のジョゼフを[[ナポリ王国|ナポリ]]王、弟の[[ルイ・ボナパルト|ルイ]]をオランダ王に就かせ、西南ドイツ一帯を[[ライン同盟]]としてこれを[[保護国]]化することで以後のドイツにおいても強い影響力を持った。これらのことにより、[[神聖ローマ帝国]]皇帝[[フランツ2世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ2世]]は退位してオーストリア皇帝のみとなり、ドイツ国家群連合として長い歴史を誇ってきた神聖ローマ帝国は名実ともに消滅した。なおナポレオン失脚後にほぼ同じ参加国でオーストリアを議長国として[[ドイツ連邦]]が結成された。
並行して1806年11月にはイギリスへの対抗策として[[大陸封鎖令]]を出し、ロシア・プロイセンを含めた欧州大陸諸国とイギリスとの貿易を禁止してイギリスを経済的な困窮に落とし、フランスの市場を広げようと目論んだ。これは[[産業革命]]後のイギリスの製品を輸入していた諸国やフランス民衆の不満を買うこととなった。
ナポレオンは残る強敵ロシアへの足がかりとして、プロイセン王を追って[[ポーランド]]でプロイセン・ロシアの連合軍に戦いを挑んだ。ここで若く美しいポーランド貴族の夫人[[マリア・ヴァレフスカ]]と出会った。彼女はナポレオンの愛人となり、のちにナポレオンの庶子[[アレクサンドル・ヴァレフスキ]]を出産した。
[[1807年]]2月、[[アイラウの戦い]]と6月の{{仮リンク|ハイルスベルクの戦い|en|Battle of Heilsberg}}は、猛雪や情報漏れにより苦戦し、ナポレオン側が勝ったとはいうものの失った兵は多く実際は痛み分けのような状況であった。しかし同6月の[[フリートラントの戦い]]でナポレオン軍は大勝。[[ティルジット条約]]において、フランスから地理的に遠く善戦してきたロシアとは[[大陸封鎖令]]に参加させるのみで講和したが、プロイセンは49%の領土を削って小国としてしまい、さらに多額の賠償金をフランスに支払わせることとした。そしてポーランドの地に[[ワルシャワ大公国]]と、ドイツの[[ヴェストファーレン|ヴェストファーレン(ウェストファリア)]]地方を含む地域に[[ヴェストファーレン王国]]をフランスの[[傀儡国家]]として誕生させた。ヴェストファーレン王には弟の[[ジェローム・ボナパルト|ジェローム]]を就けた。スウェーデンに対してもフランス陸軍[[元帥]][[カール14世ヨハン (スウェーデン王)|ベルナドット]]を王位継承者として送り込み、ベルナドットは[[1818年]]に即位してスウェーデン王[[カール14世ヨハン (スウェーデン王)|カール14世ヨハン]]となる(このスウェーデン王家は現在までも続いている)。スウェーデンはナポレオンの影響下にはあるものの、ベルナドット個人はナポレオンに対し好意を持ってはおらず強固たる関係とはいえない状態であった。また[[デンマーク]]はイギリスからの脅威のためにやむなくフランスと同盟関係を結んだ。とはいえデンマークはナポレオン戦争の終結まで同盟関係を破棄することはなかった。ちなみにスウェーデン王となったベルナドットは、ナポレオンの昔の婚約者であるデジレ・クラリーと結婚している。
ナポレオンの勢力はイギリスとスウェーデンを除くヨーロッパ全土を制圧し、イタリア、ドイツ西南部諸国、ポーランドはフランス帝国の[[属国]]に、ドイツ系の残る二大国のオーストリアとプロイセンも従属的な同盟国となった。このころがナポレオンの絶頂期と評される。
=== 帝国崩壊へ ===
[[ファイル:Empire_français_1811.png|thumb|left|230px|1811年時点の最大勢力図{{legend|#BF4901|フランス帝国}}{{legend|#E1A135|衛星国}}{{legend|#E9BD72|同盟国}}]]
[[1808年]]5月、ナポレオンは[[スペイン・ブルボン朝]]の内紛に介入し([[半島戦争]])、ナポリ王に就けていた兄のジョゼフを今度は[[ボナパルト朝|スペイン王]]に就けた。ナポレオン軍のスペイン人虐殺を描いた[[フランシスコ・デ・ゴヤ|ゴヤ]]の絵画(『[[マドリード、1808年5月3日]]』)は有名である。同5月17日、ナポレオンは1791年9月27日の[[ユダヤ人]]同権化法の例外として時限立法をなし、向こう10年間彼らの享有できる人権を商業・職業選択・住居移転に限ることとした。一方、[[ジョゼフ・ボナパルト治世下のスペイン|ジョゼフ・ボナパルトの治世]]が始まるやいなやマドリード市民が蜂起した。1808年7月、スペイン軍・ゲリラ連合軍の前に[[ピエール・デュポン (軍人)|デュポン]]将軍率いるフランス軍が降伏。皇帝に即位して以来ヨーロッパ全土を支配下に入れてきたナポレオンの陸上での最初の敗北だった。8月にイギリスが[[ポルトガル]]との[[英葡永久同盟]]により参戦し、半島戦争に発展した。イギリスでは[[ネイサン・メイヤー・ロスチャイルド]]が1798年に[[マンチェスター]]で開業しており、半島戦争までに[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|アーサー・ウェルズリー]]と通じていた。
ナポレオンがスペインで苦戦しているのを見たオーストリアは、[[1809年]]、ナポレオンに対して再び起ち上がり、プロイセンは参加しなかったもののイギリスと組んで[[第五次対仏大同盟]]を結成する。4月の{{仮リンク|エックミュールの戦い|en|Battle of Eckmühl}}ではナポレオンが勝利し、5月には二度目のウィーン進攻を果たすが[[アスペルン・エスリンクの戦い]]でナポレオンはオーストリア軍に敗れ、[[ジャン・ランヌ]][[フランス元帥|元帥]]が戦死した。しかし続く7月の[[ヴァグラムの戦い]]では双方合わせて30万人以上の兵が激突、両軍あわせて5万人にのぼる死傷者をだしながら辛くもナポレオンが勝利した。そのまま[[シェーンブルンの和約]]を結んでオーストリアの領土を削り、第五次対仏大同盟は消滅した。
この和約のあと、[[皇后]]ジョゼフィーヌを後嗣を生めないと言う理由で離別して、[[1810年]]にオーストリア皇女[[マリア・ルイーザ (パルマ女公)|マリ・ルイーズ]]と再婚した。この婚約は当初アレクサンドル1世の妹、ロシア皇女アンナ・パーヴロヴナ大公女が候補に挙がっていたが、ロシア側の反対によって立ち消えとなった。オーストリア皇女に決定したのは、オーストリア宰相[[クレメンス・メッテルニヒ|メッテルニヒ]]の裁定によるものであった。そして[[1811年]]に王子[[ナポレオン2世]]が誕生すると、ナポレオンはこの乳児を[[ローマ王]]の地位に就けた。
[[ファイル:Napoleons retreat from moscow.jpg|thumbnail|300px|[[アドルフ・ノーザン]]『ナポレオンのモスクワからの退却』]]
大陸封鎖令を出されたことでイギリスの物産を受け取れなくなった欧州諸国は経済的に困窮し、しかも世界の工場と呼ばれたイギリスの代わりを[[重農主義]]のフランスが担うるのは無理があったため、フランス産業も苦境に陥った。1810年にはロシアが大陸封鎖令を破ってイギリスとの貿易を再開。これに対しナポレオンは封鎖令の継続を求めたが、ロシアはこれを拒否。そして[[1812年]]、ナポレオンは対ロシア開戦を決意、同盟諸国兵を加えた60万の大軍でロシアに侵攻する。これが[[1812年ロシア戦役|ロシア遠征]]であり、ロシア側では[[1812年ロシア戦役|祖国戦争]]と呼ばれる。
=== ロシア遠征とその失敗 ===
ロシア軍の司令官は隻眼の老将・[[ミハイル・クトゥーゾフ]]である。老獪な彼は、いまナポレオンと戦えば確実に負けると判断し、広大なロシアの国土を活用し、会戦を避けてひたすら後退し、フランス軍の進路にある物資や食糧は全て焼き払う[[焦土戦術]]で、辛抱強くフランス軍の疲弊を待つ。
荒涼としたロシアの原野を進むフランス軍は[[兵站]]に苦しみ、脱落者が続出、モスクワ前面の[[ボロジノの戦い]]では、開戦前から兵力が1/3以下になっていた。モスクワを制圧すればロシアが降伏するか、食糧が手に入ると期待していたナポレオンは、ボロジノでロシア軍を破ってついに[[モスクワ]]へ入城するが、市内に潜伏したロシア兵がその夜各所に放火、モスクワは3日間燃え続けた大火で焼け野原と化した。ロシアの冬を目前にして、物資の獲得と敵の撃破のいずれにも失敗したナポレオンは、この時点で遠征の失敗を悟る。フランス軍が撤退を開始したことを知ったクトゥーゾフは、[[コサック]]騎兵を繰り出してフランス軍を追撃させた。コサックの襲撃と[[冬将軍]]とが重なり、ロシア国境まで生還したフランス兵は全軍の1%以下の、わずか5,000人であった。
敗報の届いたパリではクーデター事件が発生した(未遂に終わり、首謀者の{{仮リンク|クロード=フランソワ・マレ|fr|Claude-François Malet|label=マレ}}将軍は銃殺)。ナポレオンはクーデター発生の報を聞き、仏軍の撤退指揮を後任に任せ、一足先に脱出帰国する。この途上でナポレオンは[[大陸軍 (フランス)|大陸軍]]の惨状を嘆き、百年前の[[大北方戦争]]を思い巡らせ、「余はスウェーデン王[[カール12世 (スウェーデン王)|カール12世]]のようにはなりたくない」と漏らしたという<ref group="注釈">かつて広大な領土を有していた[[スウェーデン|スウェーデン王国]]は、カール12世の時代にロシアと戦ったものの、やはり焦土作戦と冬将軍に苦しめられた。そして、カール12世自身は[[ポルタヴァの戦い]]に敗れて[[黒海]]北岸にあるオスマン帝国領に亡命した。1718年にカール12世が死ぬと、スウェーデンは一気に弱体化した。</ref>。
この大敗を見た各国は一斉に反ナポレオンの行動を取る。初めに動いたのがプロイセンであり、諸国に呼びかけて[[第六次対仏大同盟]]を結成する。この同盟には、元フランス陸軍将軍でありナポレオンの意向によってスウェーデン[[皇太子|王太子]]についていたベルナドットのスウェーデンも7月に参加した。ロシア遠征で数十万の兵を失った後に強制的に[[徴兵]]された、新米で訓練不足のフランス若年兵たちは「マリー・ルイーズ兵」と陰口を叩かれた。[[1813年]]春、それでもナポレオンはプロイセン・ロシアなどの反仏同盟軍と、{{仮リンク|リュッツェンの戦い (1813年)|label=リュッツェンの戦い|en|Battle of Lützen (1813)}}・{{仮リンク|バウツェンの戦い|en|Battle of Bautzen}}に勝って休戦に持ち込んだ。オーストリアのメッテルニヒを介した和平交渉が不調に終わった後、オーストリアも参戦して同盟軍はナポレオン本隊との会戦を避けるトラーヒェンブルク・プランを採用、ナポレオンの部下たちを次々と破った。[[ドレスデンの戦い]]でナポレオンはオーストリア・ロシア同盟軍を破ったが敗走する敵を追撃したフランス軍が{{仮リンク|クルムの戦い|en|Battle of Kulm}}で包囲されて降伏。10月の[[ライプツィヒの戦い]]ではナポレオン軍は対仏同盟軍に包囲されて大敗し、フランスへ逃げ帰った。
[[1814年]]になるとフランスを取り巻く情勢はさらに悪化した。フランスの北東には{{仮リンク|シュヴァルツェンベルク大公カール・フィリップ|de|Karl Philipp zu Schwarzenberg|label=シュヴァルツェンベルク}}、[[ゲプハルト・フォン・ブリュッヒャー]]のオーストリア・プロイセン軍25万人、北西には[[カール14世ヨハン (スウェーデン王)|ベルナドット]]のスウェーデン軍16万人、南方では[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|ウェリントン公]]率いるイギリス軍10万人の大軍がフランス国境を固め、大包囲網が完成しつつあった。一方ナポレオンはわずか7万人の手勢しかなく絶望的な戦いを強いられた。[[3月31日]]にはフランス帝国の首都・パリが陥落する。ナポレオンは[[外交]]によって退位と終戦を目指したが、[[オーギュスト・マルモン|マルモン]]元帥らの裏切りによって無条件に退位させられ([[4月4日]]の「将軍連の反乱」)、[[4月16日]]の[[フォンテーヌブロー条約 (1814年)|フォンテーヌブロー条約]]の締結ののち、地中海コルシカ島とイタリア本土の間にある[[エルバ島]]の小領主として追放された。この一連の戦争は[[解放戦争 (ドイツ)|解放戦争]]と呼ばれる。
その際、フランツ1世の使者を名乗る人物が突然[[マリー=ルイーズ]]のところにやってきて、半ば強制的に彼女と[[ナポレオン2世]]を連れていってしまった<ref group="注釈">[https://www.tv-tokyo.co.jp/tohoho/back/041029.html 『所さん&おすぎの偉大なるトホホ人物事典』第24回ナポレオンと2人の妻] [[テレビ東京]]</ref>。
4月12日、全てに絶望したナポレオンは[[フォンテーヌブロー宮殿]]で毒をあおって自殺を図ったとされている。ナポレオンは、ローマ王だった実子ナポレオン2世を後継者として望んだが、同盟国側に認められなかった。また元フランス軍人であり次期スウェーデン王に推戴されていたベルナドットもフランス王位を望んだが、フランス側の反発で砕かれ、紆余曲折の末に[[ブルボン朝|ブルボン家]]が後継に選ばれた([[フランス復古王政]])。
=== 百日天下とその後 ===
ナポレオン失脚後、[[ウィーン会議]]が開かれて欧州をどのようにするかが話し合われていたが、「[[会議は踊る]]、されど進まず」の言葉が示すように各国の利害が絡んで会議は遅々として進まなかった。さらに、フランス王に即位した[[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]の政治が民衆の不満を買っていた。
[[1815年]]、ナポレオンはエルバ島を脱出し、苦労してパリに戻って復位を成し遂げる。ナポレオンは自由主義的な新憲法([[帝国憲法付加法]])を発布し、自身に批判的な勢力との妥協を試みた。そして、連合国に講和を提案したが拒否され、結局戦争へと進んでいく。しかし、緒戦では勝利したもののイギリス・プロイセンの連合軍に[[ワーテルローの戦い]]で完敗し<ref>{{Cite news|url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/4d57ba83d5e41aac42e5017f84dc3147e53dc0ff|title=19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう(福和伸夫) |newspaper=Yahoo!ニュース|date=2020-08-24|accessdate=2020-12-02}}</ref>、ナポレオンの「[[百日天下]]」は幕を閉じることとなる(実際は95日間)。
ナポレオンは再び{{仮リンク|ナポレオンの退位 (1815年)|en|Abdication of Napoleon, 1815|label=退位}}に追い込まれ、[[アメリカ合衆国]]への亡命も考えたが港の封鎖により断念、最終的に[[ベレロフォン (戦列艦)|イギリスの軍艦]]に投降した。彼の処遇をめぐってイギリス政府はウェリントン公の提案を採用し、ナポレオンを南大西洋の[[セントヘレナ]]島に幽閉した。<!-- セントヘレナにおけるナポレオンはパズルを中国人から貰うなりしており、現在でもそれが残されている。 -->
[[ファイル:Napoleon sainthelene.jpg|thumb|250px|セントヘレナのナポレオン]]
ナポレオンは[[アンリ・ガティアン・ベルトラン|ベルトラン]]、[[シャルル=トリスタン・ド・モントロン|モントロン]]、{{仮リンク|ガスパール・グールゴ|fr|Gaspard Gourgaud|label=グールゴ}}、[[ラス・カーズ]]らごく少数の従者とともに、島内中央の[[ロングウッド・ハウス]]で生活した。高温多湿な気候と劣悪な環境はナポレオンを大いに苦しませたばかりか、その屋敷の周囲には多くの[[歩哨]]が立ち、常時行動を監視され、さらに乗馬での散歩も制限されるなど、実質的な監禁生活であった。その中でもナポレオンは、側近に口述筆記させた膨大な回想録を残した{{refnest|group="注釈"|[[:en:Emmanuel, comte de Las Cases|ラス・カーズ]]の『[[:en:The Memorial of Saint Helena|セント=ヘレナ覚書]]』は日本語訳が刊行されている(小宮正弘編訳、[[潮出版社]]、2006年3月、ISBN 978-4-267-01710-0)。ほか、ナポレオンの従僕の[[:en:Louis Joseph Marchand|ルイ・ジョゼフ・ナルシス・マルシャン]](1791年-1876年)の回想も抄訳されている(『ナポレオン最期の日 皇帝従僕マルシャンの回想』(藪崎利美訳、MK出版社、2007年、ISBN 9784990208219)。}}。これらは彼の人生のみならず彼の[[世界観]]、[[歴史観]]、[[人生観]]まで網羅したものであり「ナポレオン伝説」の形成に大きく寄与した。
ナポレオンは特に島の総督{{仮リンク|ハドソン・ロー|en|Hudson Lowe|label=ハドソン・ロー}}の無礼な振る舞いに苦しめられた。彼は誇り高いナポレオンを「'''ボナパルト将軍'''」と呼び、腐った[[ブドウ酒]]を振る舞うなどナポレオンを徹底して愚弄した(もっとも、腐ったブドウ酒はともかく、イギリス政府はナポレオンの帝位を承認していないので、イギリスの公人としては「将軍」としか呼びようがない)。また、ナポレオンの体調が悪化していたにもかかわらず主治医を本国に帰国させた。ナポレオンは彼を呪い、「将来、彼の子孫はローという苗字に赤面することになるだろう」と述べている。
そうした心労も重なってナポレオンの病状は進行し、[[スペイン立憲革命]]や[[ギリシャ独立戦争]]で欧州全体が動揺する中、[[1821年]][[5月5日]]に死去した。彼の遺体は遺言により解剖されて胃に[[潰瘍]]と癌が見つかり、死因としては公式には[[胃癌]]と発表されたが、[[ヒ素]]による暗殺の可能性も指摘された(彼の死因をめぐる論議については次節で述べる)。その遺体は[[1840年]]にフランスに返還され({{ill2|Retour des cendres|fr|Retour des cendres}}、灰の帰還、灰は遺体の意)、現在はパリの[[オテル・デ・ザンヴァリッド]]([[廃兵院]])に葬られている。最期の言葉は「フランス!…軍隊!…軍隊のかしらに…ジョゼフィーヌ!」だった。
== 死因をめぐる論議 ==
[[ファイル:Napoleon tomb bordercropped.jpg|thumb|300px|[[オテル・デ・ザンヴァリッド]]地下にある{{仮リンク|ナポレオンの墓|en|Napoleon's tomb}}]]
ヒ素(砒素)中毒による暗殺説が語られるのは、本人が臨終の際に「私はイギリスに暗殺されたのだ」と述べたこともさることながら、彼の遺体をフランス本国に返還するために掘り返したとき、遺体の状態が死亡直後とほぼ変わりなかったこと(ヒ素は[[剥製]]にも使われるように保存作用がある)、さらには、スウェーデンの歯科医ステン・フォーシュフットがナポレオンの従僕マルシャンの日記を精読して、その異常な病状の変化から毒殺を確信し、英国[[グラスゴー大学]]の法医学研究室ハミルトン・スミス博士の協力のもと、ナポレオンのものとされる頭髪からヒ素を検出して、砒素毒殺説をセンセーショナルに発表したことによる。ヒ素はナポレオンとともにセントヘレナに同行した何者かがワインに混入させた'''毒殺説'''以外にも、その当時の壁紙にはヒ素が使われており、ナポレオンの部屋にあった壁紙のヒ素がカビとともに空気中に舞い、それを吸ったためだという'''中毒説'''がある。フォーシュフットの検査に使った頭髪が実際にナポレオンのものか確証がないという反論があったため、[[2002年]]に改めて[[パリ警視庁]]と[[ストラスブール]]法医学研究所が様々なナポレオンの遺髪を再調査した。すると、皇帝時代に採取された彼の髪に放射光をあてて調査した結果、やはりかなりの量のヒ素が検出され、セントヘレナに行く前から[[ヒ素中毒]]であった可能性があると発表された。しかし当時は髪の毛の保存料としてヒ素が広く使われており、ナポレオン以外の頭髪でもヒ素が検出されることがその後の調査で判明した。生前にヒ素を摂取した場合も頭髪に残るが、切り取られた髪の毛の保存料としてヒ素が使われた場合にも、同様にヒ素が髪の内部まで浸透し、科学的には両方の可能性を否定できないため、この場合はヒ素は死因を特定する材料にはならないことがわかった{{efn|{{要検証範囲|「ナポレオン謀殺ミステリー」ディスカバリーチャンネルで放送。|date=2015年4月}} }}{{sfn|ニューマン|2005|p=47}}。ヒ素による慢性あるいは急性の中毒説は(消極的に)否定された{{sfn|両角|1994|pp=282-284}}。
ちなみにモントロン伯爵の子孫であるフランソワ・ド・カンデ=モントロンのように(王党派であった)「私の祖先が殺したんです」と敢えてワインにヒ素を盛ったという毒殺説を主張する人もいる{{sfn|ニューマン|2005|p=47}}。
[[ファイル:Napoleon sur son lit de mort Horace Vernet 1826.jpg|thumb|230px|ナポレオンの死を描いた1826年の絵画]]
死の直後に発表された'''胃癌説(病死説)'''は現在でも維持され、最近の研究でも胃癌が指摘された<ref>The Biology of Gastric Cancers. Timothy C. Wang, James G. Fox, and Andrew S. Giraud. 2009, 251-252.</ref>。また同様に[[胃潰瘍]]説も取り沙汰されている。実際ナポレオンの家族にも胃癌で亡くなった者(家族性胃癌症候群)がおり<ref>坪井芳五郎 著『癌療法』p.12「遺伝の関係」([[国立国会図書館]]デジタルコレクション)</ref>、ナポレオン自身は胃潰瘍で、特に[[1817年]]以降、体調は急激に悪化している{{sfn|両角|1994|pp=234-235}}。ただ、解剖所見では、胃潰瘍により胃に穿孔していたことが確認され、また初期の癌も見つかった{{sfn|ニューマン|2005|p=46}}{{sfn|両角|1994|p=282}}。しかしパリのジョルジュ・ポンピドゥー病院([[:en:Hôpital Européen Georges-Pompidou|英語]])の法医学者ポール・フォルネスは1821年の解剖報告書など史料を分析して「死んだ時、ナポレオンには癌があったようだが、これが直接の死因とは言い切れない」と指摘する{{sfn|ニューマン|2005|p=47}}。癌患者であってもそれが末期でないのであれば最終的な死因は癌ではないことがありえるためだ。
そのほか、20年以上にわたり戦場を駆けた重圧と緊張が、もともと頑丈ではなかった心身に変調を来させたという説もある。若いころは精神力でカバーできていたが、40歳を迎えるころにはナポレオンの体を蝕んでいたという主張で、その死は激動の生活から無為の生活を強いられた孤島の幽囚生活が心理的[[ストレス (生体)|ストレス]]となり、生活の変調がもたらした致死性胃潰瘍であるという。胃潰瘍とともに悪化した心身の変調を内分泌や脳下垂体の異常を原因と主張する医学者もいた{{sfn|両角|1998|pp=259-260}}{{refnest|ヒルマン博士の「ナポレオン1世の神経性内分泌異常症候群」およびフリュジェ博士の「脳下垂体異常」{{sfn|両角|1998|p=260}}。}}。
このように様々な説があるが、公式見解の胃癌説以外で考慮に値するのは、'''医療ミス説'''である。[[カリフォルニア大学バークレー校]]の心臓病理学者スティーブン・カーチは、ナポレオンを看取った主治医アントマルキのカルテを見て、医師が下剤として酒石酸アンチモニルカリウムを、さらに死の前日には嘔吐剤として[[塩化水銀|{{読み仮名|甘汞|かんこう}}]]を大量に処方していたことに気づいた。これらは単独でも毒物であるが、飲みやすくするために使われた甘味料オルジエと合わせると体内でシアン化水銀という猛毒にかわった可能性があり、薬の量からして、体内の電解質のバランスを崩して心拍の乱れを起こして心停止に至ったと判断できるとした。カーチは「ヒ素の長期的影響に加えて医療過誤により悪化した不整脈が直接の死因」と主張する<ref>{{Citation|和書|editor=長坂邦宏|author=キャシー・ニューマン|title=毒をめぐる10の物語|journal=[[ナショナルジオグラフィック (雑誌)|ナショナルジオグラフィック]]日本版|volume=11|issue=5|publisher=日経BP|date=2005-5|pages=46-47|naid= |ref={{sfnref|ニューマン|2005}}|}}『[http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/bn/200505.shtml 2005年5月号]』 </ref><ref>{{Cite news | title = Napoleon 'killed by his doctors' | date = 2004-07-22 | url = http://news.bbc.co.uk/2/hi/health/3913213.stm | accessdate = 2014-04-12 | publisher = BBC News |language = English }}</ref>。
総合的にはナポレオンの死の原因は現在に至っても決着していない。前出のフォルネスは「どの説も一理あるが、いずれの説も正しくない」とし、歴史家で医師のジャン=フランソワ・ルメールは(ナポレオンの死因探しは)「すでに歴史と科学の領域を離れて娯楽の世界に入っている」という{{sfn|ニューマン|2005|p=47}}。ヒ素毒殺説は有名であるため誤解されやすいが、前述の理由でこれが主流になったことはなく、フランスでは胃癌説の方が有力視される。
== 評価と影響 ==
{{独自研究|section=1|date=2012年6月}}
[[ファイル:2011 Chateau de Malmaison Rueil-Malmaison cite-jardin suresnes 015.JPG|thumb|right|180px|ナポレオンの胸像]]
ナポレオンはフランス革命の時流に乗って皇帝にまで上り詰めたが、彼が鼓舞した諸国民の[[ナショナリズム]]によって彼自身の帝国が滅亡するという皮肉な結果に終わった。
一連のナポレオン戦争では約200万人の命が失われたという。その大きな人命の喪失とナポレオン自身の非人道さから、国内外から「食人鬼」「人命の浪費者」「コルシカの悪魔」と酷評(あるいはレッテル貼り)もされた。ナポレオンによって起こされた喪失はフランスの総人口にも現れた。以後フランスの人口(特に青壮年男性を中心とする生産年齢人口)は伸び悩み、[[国力]]でイギリスやドイツ(のちにはアメリカ合衆国も)などに抜かれることとなった。フランス復古王政を経て成立した[[7月王政]]期の[[1831年]]には、フランス軍における人員のおびただしい喪失への反省から、フランス人からではなく多国籍の外国人から兵士を採用する[[フランス外人部隊]]が創設されることになった。これ以降、[[21世紀]]に徴兵制が全面廃止されるまで、フランス国民からの徴兵と、外国籍人を含む志願制とが併用されることになる。
ナポレオン後に即位したルイ18世とその後の[[シャルル10世 (フランス王)|シャルル10世]]は、ナポレオン以前の状態にフランスを回帰させようとしたが、ナポレオンによってもたらされたものはフランスに深く浸透しており、もはや覆すことはできなかった。王党派は、1815年の王政復古から反ボナパルティズムを取り、数年にわたり[[白色テロ]]を繰り返した。王党派とボナパルティストとの長き対立と確執は、フランスに禍根を残すことにもつながった。[[ウィーン体制]]による欧州諸国の反動政治もまた欧州諸国民の憤激を買い、フランス革命の理念が欧州各国へ飛び火していくことになる([[1848年革命]]など)。
ナポレオン没後もナポレオン体制を支持する潮流は軍人、小土地自由農民とプチ・ブルジョワジーを基盤としており、その権力形態は[[ボナパルティズム]]と呼ばれるようになり、その後のフランス政治にも少なからず影響を与えた。他方、フランス革命前のブルボン朝による[[アンシャン・レジーム]]を絶対視する[[レジティミスム]]や、[[7月革命]]後の[[ルイ・フィリップ]]による[[立憲君主制]]を模範とする統治を支持する[[オルレアニスム]]も存在しており、フランス国内の右派においてこの3者は競合する関係となった。
その一方、[[産業革命]]などによって急速に個性を喪失していくなか、全ヨーロッパを駆け抜けたナポレオンを時代に対する抵抗の象徴として「英雄」視する風潮が生まれた。[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル]]が「世界理性の馬を駆るを見る」と評し、[[フリードリヒ・ニーチェ]]が「今世紀(19世紀)最大の出来事」と評し、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ]]が「半神」、「空前絶後の人物」と評した。その一方で、こうしたナポレオンを理念化されたナポレオンであって現実のナポレオン像ではないとする人々もいた。[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]が[[交響曲第3番 (ベートーヴェン)|その楽譜]]を破いたとされる故事は、そうした背景を象徴するものであると言われている。
[[1840年]]に遺骸がフランス本国に返還されたことでナポレオンを慕う気持ちが民衆の間で高まり、ナポレオンの栄光を想う感情が[[フランス第二帝政]]を生み出すことになる。
ナショナリズムに基づく[[国民国家]]、[[メリトクラシー]](能力主義)による統治、私有財産の不可侵や経済活動、信教の自由など現代に至る国家・社会制度の確立にナポレオンが与えた影響は大きい。2021年5月に開かれた没後200年式典で、[[フランス大統領]][[エマニュエル・マクロン]]は功績を高く評価しつつ、奴隷制復活を「誤り」と批判した<ref>「没後200年 ナポレオン 揺れる評価」『[[読売新聞]]』朝刊2021年8月31日(文化面)</ref>。
現在のフランスでは、ナポレオンのイメージを損なうとして、[[ブタ|豚]]にナポレオンと名づけることを禁止している<ref>{{cite news |title=犬の名前「イトラー」に町長が拒絶反応、その理由は フランス|newspaper=[[フランス通信社|AFPBB News]] |date=2014-09-06 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3025128 |accessdate=2014-09-06 }}</ref>(ただし、そのような法律は法令集に確認されず、1947年、フランスの出版社が、[[ジョージ・オーウェル]]『[[動物農場]]』の翻訳出版に当たり、登場する豚〈擬人化された独裁者〉の名前を「ナポレオン」のままとすることを拒否した例があるにすぎないという指摘もある<ref>{{Cite web|url=https://www.napoleon.org/histoire-des-2-empires/articles/une-chronique-de-sophie-muffat-la-vie-extraordinaire-du-cochon-napoleon/|title=LA VIE EXTRAORDINAIRE DU COCHON NAPOLÉON|accessdate=2021/5/30|publisher=Fondation Napoléon|last=MUFFAT|first=Sophie|language=fr|date=2018-10}}</ref>)。
== 功績 ==
[[ファイル:Code Civil 1804.png|thumb|200px|ナポレオン法典、別名フランス民法典(1804年)]]
ナポレオンが用いて広めた法・政治・軍事といった制度はその後のヨーロッパにおいて共通のものとなった。かつて古代ローマの法・政治・軍事が各国に伝播した以上の影響を世界に与えたと見ることもできる。
* [[ナポレオン法典]]はその後の近代的法典の基礎とされ、修正を加えながら[[オランダ]]、ポルトガルや日本などの現在の[[民法 (日本)|民法]]に影響を与えている。フランスにおいては現在に至るまでナポレオン法典が現行法である。[[アメリカ合衆国]][[ルイジアナ州]]の現行民法もナポレオン法典である。ナポレオンはこの法典の条文の完全性に自信を持ち、注釈書の発行を禁じた。
* [[軍事]]的にもナポレオンが生み出した、[[国民軍]]の創設、砲兵・騎兵・歩兵の連携([[三兵戦術]])、[[輜重]]の重視、指揮官の養成などは、その後の近代戦争・近代的軍隊の基礎となり、プロイセンにおいて[[カール・フォン・クラウゼヴィッツ]]によって『[[戦争論]]』に理論化されることになる。
* 「輜重の重視」という方針を実行する過程において、軍用食の開発のために効率的な食料の保存方法を広く公募することも行い、そこで発明されて採用されたのが[[ニコラ・アペール]]が発明した「[[瓶詰]]」である。「瓶詰」そのものは加工の手間がかかり過ぎて普及しにくかったものの、ここで発明された「密封後に加熱殺菌」という概念が、のちに「[[缶詰]]」(1810年イギリスにて発明)などの[[保存食]]の大発展へとつながっていく。
* ナポレオンの[[大陸封鎖令]](対イギリス経済封鎖)によって[[砂糖]]価格が暴騰した結果、[[テンサイ|ビート]](砂糖大根)からの[[製糖]]が一気に普及した。
* [[道路]]の[[右側通行]]がヨーロッパ全土に普及したのもこの頃である(イギリスは占領されなかったので[[左側通行]]のままとなっている)。
* 政治思想史においてもフランス革命の理念([[自由、平等、友愛|自由、平等、博愛]])がナポレオン戦争によって各国に輸出されたということも見逃してはならない。
* 短い期間ではあったが、ナポレオンに支配された諸国は急激な変化を経験した。ナポレオンは、各地で領主の支配や[[農奴制]]を打破し、憲法と議会を置き、フランス式の行政や司法の制度を確立し、フランスと同様の民法を移植していった。長くフランスの支配を受けた地域では工業化が始まり、19世紀にはヨーロッパの先進地帯となっていった。また、ヨーロッパの諸民族は他民族からの解放や民族の統一を学んだ。列強の君主たちは、ナポレオン退位後にヨーロッパ社会をフランス革命以前に戻そうとしたが、社会の仕組みは既に変化しており、新しい政治勢力が生まれていた。
== 年表とおよその年齢 ==
* 1769年8月15日 - イタリア半島の西に位置するフランス領の島[[コルシカ島]]のアジャクシオに生まれる。12人兄弟の4番目。
* 1779年(10歳)- フランス本土の貴族の子弟が学ぶブリエンヌ陸軍幼年学校へ国費で入学。
* 1784年(15歳)- パリの陸軍士官学校に入学し、砲兵科で大砲術を学ぶ。
* 1785年(16歳)- わずか11カ月という最短記録で全課程を修了し卒業。砲兵士官として任官。20歳の頃にフランス革命勃発。
* 1792年(23歳)- 故郷のアジャクシオの国民衛兵隊中佐に選ばれるが、父親を筆頭に家族弾劾を受け、コルシカ島近くの南仏マルセイユに移住。同年、クラリー・デジレと婚約するがその後反故にしている。また、政治信条を語る小冊子『ボーケールの晩餐』を著す。
* 1793年(24歳)- 原隊に復帰し、カルト―将軍の南方軍に所属。[[トゥーロン攻囲戦]]での活躍により、旅団陸将(少将相当)まで昇格し、一躍フランス軍を代表する若き英雄として認識される。
* 1796年(27歳)- [[ポール・バラス]]によって、イタリア方面軍の司令官に抜擢。同年、[[ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ]]と結婚。
* 1797年(28歳)- [[オーストリア]]の帝都[[ウィーン]]へと迫り、その後オーストリアと[[カンポ・フォルミオ条約]]を締結。
* 1798年(29歳)- ナポレオン軍がエジプトに上陸、[[ピラミッドの戦い]]で勝利しカイロに入城。1799年7月にナポレオン軍の一兵士による[[ロゼッタ・ストーン]]の発見につながる。
* 1799年11月9日(30歳)- [[ブリュメール18日のクーデター]]を主導し[[総裁政府]]を打倒。直後、[[統領政府]]を樹立し、[[第1コンスル|第一コンスル]](第一統領あるいは第一執政とも言われる)に就任。
* 1804年12月2日(35歳)- [[ノートルダム大聖堂 (パリ)|ノートルダム大聖堂]]にて有名な[[ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠|戴冠式]]が行われ、ナポレオン1世として皇帝に即位。
* 1805年10月(36歳)- イギリス上陸作戦を計画するが、イギリス海軍に対し[[トラファルガーの海戦]]にて完敗。
* 1812年(43歳)- ロシア戦役でロシアに侵攻するものの敗北し、ナポレオンにとって決定的な大打撃(転換点)となる。
* 1821年5月5日(51歳)- イギリス政府により[[セントヘレナ|セント・ヘレナ島]]に幽閉され、胃がんにより生涯を終える。
== 語録 ==
{{Wikiquote|ナポレオン・ボナパルト}}
''詳細はウィキクォートを参照。''
;{{Lang|fr|Impossible, n'est pas français.}}「''不可能という言葉はフランス的ではない''」
: 直訳すれば「不可能はフランス語ではない」。ナポレオンが日常よく口にした言葉とされ、一般には「'''余の辞書に不可能の文字はない'''」として知られている。元は「不可能と言う文字は愚か者の辞書にのみ存在する」という言葉だったという説もある。また、ほかにも「フランス人は不可能という言葉を語ってはならない」という説もある。実際にナポレオンが口にしたかどうかは定かでなく、後世の創作ともいわれる。
=== その他の語録 ===
*「人間はあらゆるものを発明することができる。ただ幸福になる術を除いては」<ref>『現代に生きる故事ことわざ辞典』([[宮越賢]]編、[[旺文社]])p.422</ref>
*「子供の将来の運命は、その母の努力によって定まる」<ref>『現代に生きる故事ことわざ辞典』(宮越賢編、旺文社)p.424</ref>
*「私は百万の銃剣よりも、三枚の新聞紙をもっと恐れる」<ref>『現代に生きる故事ことわざ辞典』(宮越賢編、旺文社)p.433</ref>
*「美婦は目を楽しませ、良妻は心を楽しませる」<ref>『現代に生きる故事ことわざ辞典』(宮越賢編、旺文社)p.435</ref>
*「愚人は才人にまさる大いなる利得を有する。彼は常に自らに満足している」<ref name="千趣会190">『世界の旅路 くにぐにの物語2 フランス』([[千趣会]] 1978年6月1日)p.190</ref>
*「フランス人は絶えず愚痴をこぼしている」<ref>『世界の旅路 くにぐにの物語2 フランス』(千趣会 1978年6月1日)p.191</ref>
*「戦闘の翌日に備えて新鮮な部隊を取っておく将軍はほとんど常に敗れる」<ref>『ナポレオン言行録』({{仮リンク|オクターヴ・オブリ|en|Octave Aubry}}編、[[岩波文庫]])p.252。</ref>
*「最大の危険は勝利の瞬間にある」<ref>『ナポレオン言行録』({{仮リンク|オクターヴ・オブリ|en|Octave Aubry}}編、岩波文庫)p.258</ref>
== 逸話 ==
=== ヘーゲル ===
哲学者[[ヘーゲル]]が[[イエナ大学]]教授時代、自著『精神現象学』を発表する際にフランス軍はイエナに入城した。旧弊の国家を統合するナポレオン、ヨーロッパにおける近代市民社会の形成期、ナポレオンはフランス革命の精神たる「自由」をヨーロッパに広めようとしていると彼には見えた。ヘーゲルの言う「自由」とは理性(絶対精神)が歴史を舞台として自己実現をとげる全体的自由のことであり、ヘーゲルの目にはナポレオンが世界精神そのものと映った。彼は、「皇帝が…この世界精神が…陣地偵察のために馬上ゆたかに街を出ていくところを見ました。この個人こそ、この一地点に集結して馬上にまたがっていながら、しかも世界を鷲づかみにして、これを支配しています<ref>[[#ヘーゲル 1975|ヘーゲル 1975]]{{要ページ番号|date=2015年4月}}</ref>」とナポレオンのことを書き送っている。
=== ベートーヴェンの「英雄」 ===
{{main|交響曲第3番 (ベートーヴェン)#作曲の経緯}}
ナポレオンを人民の英雄と期待し、「ボナパルト」という題名でナポレオンに献呈する予定で[[交響曲第3番 (ベートーヴェン)|交響曲第3番]]を作曲していた[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]は、ナポレオンの皇帝即位に失望して彼へのメッセージを破棄し、曲名も『英雄』に変更したという逸話が伝わっているが、この逸話が事実であるかどうかについては異説も多い。ベートーヴェンは旧体制側の人間で革命派ではなかったが、終始ナポレオンを尊敬しており、第2楽章が英雄の死と葬送をテーマにしているためこれではナポレオンに対して失礼であるとして、あえて曲名を変更し献呈を取りやめたとする逸話がある。また、定説とは逆に、実際に献呈すべく面会を求めたがまったく相手にされず、その怒りから改題し上記の定説を友人に話したという、作曲家の地位向上の境目の時代を意識したような逸話も存在する。
=== その他 ===
* 早飯食いだった。食事にかけた時間は、将軍になったとき10分、第一執政になったとき15分、皇帝になったときでさえ30分だった<ref name="千趣会190"/>。
<div style="margin:0.8em 0;">
{{出典の明記|section=1|date=2009年1月|ソートキー=人1821年没}}
</div>
<!--出典明記されたら上に上げてください-->
<!--雑多、無出典--><!--
=== ナポレオンの健康面 ===
精神的な面では、一定時間その場所にいられなかったほど落ち着きがなく[[てんかん]]持ちであったと言われており、[[注意欠陥・多動性障害|ADHD]]説を唱える者もいる。一日3時間しか睡眠を取らなかったと言われるのは、夜間に[[発作]]が起きたからだと言われている。イタリアの学者[[チェーザレ・ロンブローゾ]]は、著書『天才論』で、ナポレオンのてんかんの症状を指摘し、天才とてんかんとの関連性を説いた。「天才と狂人は紙一重」という言葉はここから生まれたという。2回自殺未遂をしたことがある。
* 新しく雇った秘書の前でいきなり延々と自らの政見を述べ、述べ終えた後それを筆記することを求め、できないと拒絶されると激怒して即日解雇にしてしまった。独り言のように政見を延々と述べる癖があったらしく、しかも内容は思いつきと勢いで述べられており、秘書は最大500枚の原稿を筆記したという。そのうえ、ナポレオンの凄まじい仕事量についていけず、次々と秘書を使い潰しては新しく雇うという有様だった。
* 肉体的な面では、若い頃に最前線で部下の兵士にうつされたという[[疥癬]]や、長時間の乗馬での移動を強いられるためにできた[[痔]]、ほかには[[胃下垂]]などに罹っていた。王であり軍神という偶像化された自分の立場の重い責務でストレスを溜め、夜遅くまで酒を飲み、脂肪分の多い食事を摂り、昼に眠るという生活が死期を早めたとされる<ref group="注釈">脂肪に富んだ食事をして昼寝をすると、微小な[[脂肪細胞]]が胸管中で凝集して脂肪血栓を引き起こす危険性が高くなる。</ref>。
* 臭いが好きだった。例として戦場から恋人に、「今から帰るから、風呂にだけは入るな」という手紙を書いたこともあった。ちなみに、ナポレオンが寝ているところに鼻先に[[ブルーチーズ]]を持っていったところ、ナポレオンは「おお、ジョゼフィーヌか。今夜は勘弁してくれ」と寝言を言ったという冗談がある。ナポレオン本人は朝風呂が好きで、[[シャンパン]]を入れた風呂に入っていた。
* [[鶏肉]]が好きだった。特に若鶏のマレンゴ風<ref group="注釈">鶏肉をトマトをベースに煮込んだ料理。</ref>が好物だった。これは[[マレンゴの戦い]]の勝利後、シェフが現地にて即席で創作した料理である。エルバ島から脱出してパリに戻る道中では[[目玉焼き]]を好んで食べていた。
* 数学が好きだった。側近に[[ジョゼフ・フーリエ|フーリエ]]などの数学者を置いて数学の勉強を続けた。また、[[アドリアン=マリ・ルジャンドル|ルジャンドル]]や[[ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ|ラグランジュ]]とも親交があった。ナポレオンが発見したとされる[[ナポレオンの定理]]や[[ナポレオン点]]、[[ナポレオンの問題]]というものがあるが、諸説あり、真相は定かではない。
* 読書が好きだった。しかし、飽きっぽい性格のため読破した本はほとんどなく、妻のジョゼフィーヌに毎晩読んでもらうのが日課だった。ただし[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]の『[[若きウェルテルの悩み]]』だけは例外で、生涯に7度も自分で読んでいる。また読書の仕方も独特で、気に入ったと感じた本を読むと、一冊ノートに要約、感想などを書いていて内容をものにしていた。逆に最初の数ページを読んで読むに値しない本はすぐ捨てていた(状況によっては馬車の外へ)。セントヘレナでも本を読んでおり、3,000冊もの書庫があった。
*[[クレープ]]占いに凝っていた。左手にコインを持って、右手のフライパンで焼けたクレープをうまくひっくり返せたら1年がうまくいくというものである。1812年2月2日に挑戦したクレープ占いでは、5枚目で失敗。その年、彼はモスクワ遠征も失敗し、退却する際「余の5枚目のクレープだ」と呟いたという話がある。
{{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2011年4月}}
* 当時としては珍しい[[ギター]]弾きであった。しかし[[音痴]]だった。
* [[暗殺]]されるのを恐れ、自分で髭を剃っていた。
* 友人に宛てて書いた手紙があまりの悪筆で、戦場の地図と間違えられたことがある。
* 背が低いとされ、しばしば文学や演劇のネタにされてきた([[ナポレオン・コンプレックス]])。[[バーゼル大学|バーゼル大]]病院のリュグリの研究によると身長167cmと推定されるが、当時のフランス人としてはこれはむしろ平均以上である。それにもかかわらず低身長とされるのは、彼の周囲の軍人がことごとく高身長だったからだと推測される。例を挙げれば、モルティエ元帥は196cm、ミュラ元帥は180cm以上、ランヌ元帥は178cm、ネイ元帥は178cm。そして親衛隊の入隊基準には身長178cmとあり、これらによって相対的に小さく見えてしまったためと思われる。
* 妻ジョゼフィーヌのベッドに入った際、彼女の愛犬フォーチュン([[パグ]])に噛まれたことがある。
* 乗っていた馬の中には[[アイルランド]]産もいる。
* ナポレオンがイタリア戦線で名声を挙げているときに革命政府がもう一人の将軍を派遣しようとした際、「軍隊は、二人の良将に指揮させるより一人の愚将に指揮させる方がいい」といって拒否したという話がある。
* 事実ではないが、[[ブレザー]]などの袖についている[[ボタン]]は、ナポレオンがロシア遠征の際に、兵士達が袖で鼻水を拭えないようにするためにつけたのが始まりであるという逸話がある。これと同じ話が前時代の[[フリードリヒ大王]]にもある。
* ナポレオンの肖像は第4共和国最後の10,000[[フランス・フラン|フラン]]紙幣と、[[フランス第5共和国]]重フラン制度最初の100Nフランに描かれていた。
*ナポレオン自身が[[フリーメイソン]]に加入したことを証明する書類はないが、彼は兄弟たちをフランスのフリーメイソンの高位職につけた。[[ルイ・ボナパルト|ルイ]]は副グランドマスター、[[ジェローム・ボナパルト|ジェローム]]はウェストファーレンのグランド・オリエントのグランドマスター、[[ジョゼフ・ボナパルト|ジョゼフ]]はフランスのグランド・オリエントのグランドマスターに就任している<ref>{{Cite web |url=http://freemasonry.bcy.ca/biography/bonaparte_n/bonaparte_n.html |title=Napoleon I |accessdate= 2015-09-04 |work= [http://freemasonry.bcy.ca/grandlodge.html Grand Lodge of British Columbia and Yukon] |language= 英語 }}</ref>。
-->
== 関係者 ==
[[ファイル:Marie Louise von Österreich Napoleon Zweite.jpg|thumb|right|二番目の妻 マリ・ルイーズ<br />ナポレオン2世とともに<br />(画)[[ジョゼフ=ボニファス・フランク]]]]
[[ファイル:Le duc de Reichstadt.jpg|サムネイル|息子[[ナポレオン2世]]。21歳で没]]
=== ナポレオンの家族・妻・愛人 ===
ナポレオンの存命中に生存もしくは誕生していた人物に限定する。一族全員については[[:Category:ボナパルト家]]を参照。
; 両親とその兄弟
* 父:[[シャルル・マリ・ボナパルト]](カルロ・マリア・ブオナパルテ)
* 母:[[マリア・レティツィア・ボナパルト]](旧姓ラモリノ)
* 母方の叔父:[[ジョゼフ・フェッシュ]]
; 兄弟
* 兄:[[ジョゼフ・ボナパルト]](ジュゼッペ)
** ジョゼフの妻:[[ジュリー・クラリー|マリー・ジュリー・クラリー]]
* 弟:[[リュシアン・ボナパルト]](ルチアーノ)
** リュシアンの子:[[ピエール=ナポレオン・ボナパルト]]
* 妹:[[エリザ・ボナパルト]](マリア・アンナ)
** エリザの夫:[[フェリーチェ・バチョッキ]]
* 弟:[[ルイ・ボナパルト]](ルイジ)
** ルイの妻は、ナポレオンの継子[[オルタンス・ド・ボアルネ]]。
** ルイの子:[[ナポレオン・ルイ・ボナパルト]]
** ルイの子:ルイ=ナポレオン・ボナパルト([[ナポレオン3世]])
** ルイの孫:ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト([[ナポレオン4世]])
* 妹:[[ポーリーヌ・ボナパルト]](パオレッタ)
* 妹:[[カロリーヌ・ボナパルト]](マリア・アヌンツィアタ)
** カロリーヌの夫:[[ジョアシャン・ミュラ]]
* 弟:[[ジェローム・ボナパルト]](ジローラモ)
** ジェロームの子:[[マチルド・ボナパルト]]
** ジェロームの子:ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ジャン・ジョゼフ・ボナパルト
** ジェロームの孫:ナポレオン・ヴィクトル・ボナパルト([[ナポレオン5世]])
; 妻と嫡子・養子
* 妻:[[ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ]]
** 継子:[[ウジェーヌ・ド・ボアルネ]]
** 継子、弟ルイの妻:[[オルタンス・ド・ボアルネ]]
** 養女、ジョゼフィーヌの姻戚:[[ステファニー・ド・ボアルネ]]
* 妻:[[マリア・ルイーザ (パルマ女公)|マリ・ルイーズ]]
** 子:[[ナポレオン2世]](ナポレオン・フランソワ・シャルル・ジョゼフ またはフランソワ・ボナパルト)
; 愛人と庶子
* 愛人:[[ポーリーヌ・フーレス]]
* 愛人:[[エレオノール・ドニュエル]]
** 子:[[レオン伯シャルル]]
* 愛人:[[マリア・ヴァレフスカ]]
** 子:[[アレクサンドル・ヴァレフスキ|アレクサンドル・コロンナ=ヴァレフスキ]]
; 愛人にならなかった人物
* [[テレーズ・カバリュス]]
* [[ジュリエット・レカミエ]]
; 元婚約者
* [[デジレ・クラリー]]
; 愛馬
* [[マレンゴ]] - 芦毛のアラブ馬でナポレオンはこの馬によく乗っていた。上の絵画『アルプス越えのナポレオン』にも描かれている。
=== 第一帝政期の元帥 ===
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:詳しくは「[[大陸軍軍人一覧]]」、「[[フランス元帥|フランス元帥(第一帝政の項)]]」の項目も参照。
* [[ユゼフ・アントニ・ポニャトフスキ]]
* [[ミシェル・ネイ]]
* [[カール14世ヨハン (スウェーデン王)|ジャン=バティスト・ジュール・ベルナドット]]
* [[ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト]]
* [[ルイ=ニコラ・ダヴー]]
* [[ジョアシャン・ミュラ]]
* [[アンドレ・マッセナ]]
* [[ルイ=アレクサンドル・ベルティエ]]
* [[ジャン・ランヌ]]
{{col-3}}
* [[ルイ=ガブリエル・スーシェ]]
* [[ニコラ・ウディノ]]
* [[フランソワ・ジョゼフ・ルフェーヴル]]
* [[ジャン=バティスト・ジュールダン]]
* [[ジャン=バティスト・ベシェール]]
* [[ギヨーム=マリ=アン・ブリューヌ]]
* [[ボン・アドリアン・ジャノー・ド・モンセー]]
* [[エドゥアール・モルティエ]]
* [[シャルル・ピエール・フランソワ・オージュロー]]
{{col-3}}
* [[ジャン=マチュー・フィリベール・セリュリエ]]
* [[クロード・ヴィクトル=ペラン]]
* [[ジャック・マクドナル]]
* [[オーギュスト・マルモン]]
* [[ローラン・グーヴィオン=サン=シール]]
* [[フランソワ・クリストフ・ケレルマン]]
* [[カトリーヌ=ドミニク・ド・ペリニョン]]
* [[エマニュエル・ド・グルーシー]]
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== 関連書籍 ==
{{Notice|参考文献とは異なります。編集に用いられている書籍は下の節に移動させてください。|small=yes}}
<!--下記の書籍に基づいて編集をした場合は、本文中に脚注形式で出典のページを明記した上で、書籍を「参考文献」の節に移動してください--><!--初版発行順-->
* フランソワ・ヴィゴ=ルシヨン『ナポレオン戦線従軍記』[[瀧川好庸]]訳、[[中央公論新社|中央公論社]]、1982年。ISBN 978-4-12-001089-7。[[中公文庫]]、1988年4月。ISBN 978-4-12-201508-1。
* 『ナポレオン言行録』{{仮リンク|オクターヴ・オブリ|en|Octave Aubry|label=オブリ, オクターヴ}}編、[[大塚幸男]]訳、[[岩波書店]]〈[[岩波文庫]]〉、1983年9月。ISBN 978-4-00-334351-7。
* {{仮リンク|ジョルジュ・ルノートル|en|Théodore Gosselin|label=ルノートル, G.}}『ナポレオン秘話』大塚幸男訳、白水社〈[[白水Uブックス]] 1012〉、1991年8月。ISBN 978-4-560-07312-4。
* [[長塚隆二]]『ナポレオン』上・下、[[文藝春秋]]〈[[文春文庫]]〉、1996年9月。上:ISBN 978-4-16-743902-6。下:ISBN 978-4-16-743903-3。
* {{仮リンク|ティエリー・レンツ|fr|Thierry Lentz|label=レンツ, ティエリー}} 『ナポレオンの生涯 ヨーロッパをわが手に』 [[福井憲彦]]監修、遠藤ゆかり訳、[[創元社]]〈[[「知の再発見」双書]] 84〉、1999年6月。ISBN 978-4-422-21144-2。
* [[安達正勝]]『ナポレオンを創った女たち』[[集英社]]〈[[集英社新書]] 0109〉、2001年10月。ISBN 978-4-08-720109-3。
* [[鹿島茂]]『情念戦争』[[集英社インターナショナル]]、2003年10月、ISBN 978-4-7976-7080-6。
** 新版『ナポレオン フーシェ タレーラン 情念戦争1789-1815』[[講談社]]〈[[講談社学術文庫]] 1959〉、2009年8月、ISBN 978-4-06-291959-3。
* {{仮リンク|ロジェ・デュフレス|de|Roger Dufraisse|label=デュフレス, ロジェ}} 『ナポレオンの生涯』 [[安達正勝]]訳、[[白水社]]〈[[文庫クセジュ]] 871〉、2004年2月。ISBN 978-4-560-05871-8。
* [[エーミール・ルートヴィヒ|ルートヴィヒ, エミール]] 『ナポレオン 英雄の野望と苦悩』上・下、北沢真木訳、講談社学術文庫、2004年5月-6月。上:ISBN 978-4-06-159659-7/下:ISBN 978-4-06-159660-3
* エリス, ジェフリー 『ナポレオン帝国』 [[杉本淑彦]]、中山俊訳、[[岩波書店]]〈ヨーロッパ史入門〉、2008年12月。ISBN 978-4-00-027201-8。
* 『皇帝ナポレオンのすべて ビジュアル詳解 欧州制覇への道とボナパルト家の実像』 [[新人物往来社]]〈別冊[[歴史読本]] 35〉、2009年12月。ISBN 978-4-404-03635-3。
=== 古い関連書籍 ===
<!--以下は2008年11月29日 16:54 UTC で偽書さんが書籍名のみ提示した関連書籍。もしこれらを参考に加筆した場合は参考文献の節に移動してください。--><!--発行順-->
* 『拿勃列翁兵家格言』月曜会文庫、1885年。[http://www.meitan.j.u-tokyo.ac.jp/detail/22623 東京大学明治新聞雑誌文庫]
* [[梅崎延太郎]]講述『奈翁戦史講授録』[[陸軍大学校]]将校集会所、1916年。{{全国書誌番号|42030245}}、{{NDLJP|925972}}。
* [[ルイ・アントワーヌ・フォヴレ・ド・ブーリエンヌ|ド・ブーリエンヌ]]『奈翁実伝』栗原元吉訳、玄黄社、1920年。{{全国書誌番号|43028438}}、{{NDLJP|960724}}。
* {{仮リンク|ラス・カーズ|en|Emmanuel, comte de Las Cases}}『ナポレオン大戦回想録 全3冊』難波浩訳、改造社、1937-1938年。{{NCID|BA41522656}}。
* 『戦争・政治・人間 ナポレオンの言葉』柳沢恭雄訳、河出書房、1939年。{{全国書誌番号|46061737}}。
* ナポレオン『イタリア戦記 上』難波浩訳、昭和刊行会〈ナポレオン全集 第1巻〉、1943年。{{全国書誌番号|46014332}}。
* 梅崎延太郎『偕行叢書 第13-14 奈翁戦史略 上・下』[[偕行社]]、1943年。{{全国書誌番号|46035584}}。
* [[大場弥平]]、上田修一郎共著『ナポレオン戦略』甲陽書房〈国防双書 第2編〉、1966年。{{全国書誌番号|66005588}}。
* 『ナポレオン作品集』[[:fr:Tancrède Martel|マルテル]]編、若井林一訳、[[読売新聞社]]、1972年。{{全国書誌番号|73005600}}
<!--国会図書館サーチなどでも見つからず、コメントアウト。
* 『戦史ナポレオン 将軍としてのナポレオン 全3巻』ウオテンベルグ (防衛大学、1955年)-->
== ナポレオンを扱った作品 ==
※「#」印はナポレオンは登場するものの直接的に扱われていない作品
=== 映画 ===
[[ギネス世界記録|ギネスブック]]によると、歴史上の人物の中で最も多く映画に登場したのはナポレオンで、177回である。以下にその一部を掲載する。
* 『[[ありし日のナポレオン |ありし日のナポレオン]]』(1925年 監督:[[レオンス・ペレ]])
* 『[[ナポレオン (1927年の映画)|ナポレオン]]』(1927年 監督:[[アベル・ガンス]]。1934年にトーキー版が、1981年に再構成修復版が製作された)
* 『[[征服 (1937年の映画)|征服]]』(1937年 監督:[[クラレンス・ブラウン]])
* 『[[デジレ・クラリの突飛な運命 |デジレ・クラリの突飛な運命]]』(1942年 監督:[[サシャ・ギトリ]])
* 『[[ナポレオン (1954年の映画)|ナポレオン]]』(1954年 監督:サシャ・ギトリ)
* 『[[デジレ]]』(1954年 監督:[[ヘンリー・コスター (映画監督)|ヘンリー・コスター]])
* 『[[戦争と平和 (1956年の映画)|戦争と平和]]』(1956年 監督:[[キング・ヴィダー]])#
* 『[[ナポレオン/アウステルリッツの戦い]]』(1959年 監督:アベル・ガンス)) ※日本劇場未公開。ビデオ・リリース。
* 『[[戦争と平和 (1967年の映画)|戦争と平和]]』(1966・67年 監督:[[セルゲイ・ボンダルチュク]])#
* 『[[ワーテルロー (映画)|ワーテルロー]]』(1970年 監督:セルゲイ・ボンダルチュク)
* 『[[ボナパルトと革命]]』(1971年 監督:アベル・ガンス) ※日本未公開
* 『[[アデュー・ボナパルト]]』(1984年 監督:[[ユーセフ・シャヒーン]]) ※映画祭上映のみ
* 『[[ビルとテッドの大冒険]]』(1989年 監督:[[スティーヴン・ヘレク]])#
* 『[[帽子を脱いだナポレオン]]』(2001年 監督:[[アラン・テイラー]])日本劇場未公開。ビデオ・リリース。
* 『[[ナポレオンの愛人]]』(2006年 監督:パオロ・ヴィルツィ)日本劇場未公開。DVD・リリース。
* 『[[ナイト ミュージアム2]]』(2009年 監督:[[ショーン・レヴィ]])#
* 『[[ナポレオンの王冠 ロシア大決戦]]』(2012年 監督:[[オレグ・フェセンコ]])# 日本劇場未公開。DVD・リリース。
* 『[[我こそはナポレオン]]』(2018年 監督:ジェシー・ハンドシャー/オリヴィエ・ロラン) ※[[Netflix]]映画 日本劇場未公開。
* 『[[ナポレオン (2023年の映画)|ナポレオン]]』(2023年 監督:[[リドリー・スコット]]) ※[[Apple TV+]]映画 日本劇場公開。
=== テレビドラマ ===
* 『[[英雄物語/ナポレオンとジョセフィーヌ]]』(1987年 監督:[[リチャード・T・ヘフロン]])
* 『[[炎の英雄 シャープ]]』第5話 『失われた名誉』(1994年 監督:[[トム・クレッグ]])
* 『[[キング・オブ・キングス (2003年の映画)|キング・オブ・キングス]]』(2003年 監督:[[イヴ・シモノー]])
=== 舞台 ===
<!--各カテゴリーの作品表記順は時系列-->
* ミュージカル
** 『[[愛あれば命は永遠に]]』(1985年 [[宝塚歌劇]][[花組 (宝塚歌劇)|花組]]公演 脚本・演出:[[植田紳爾]] 作曲:[[寺田瀧雄]]) - ナポレオン・ボナパルト役:[[高汐巴]]
** 『[[酔いどれ公爵]]』(1985年 演出:[[千葉真一]] 脚本:[[亀石征一郎]] 作曲:[[宮川晶]]) - ナポレオン・ボナパルト役:[[真田広之]]
** 『[[:en:Napoleon (musical)|NAPOLEON]]』(1994年・[[カナダ]]初演 脚本・作曲:ティモシー・ウィリアムズ 共同脚本:アンドリュー・サビストン 演出:フランセスカ・ザンベッロ) - ナポレオン・ボナパルト役:ポール・ベイカー/ウウェ・クルーガー ※日本未上演
** 『TRAFALGAR -ネルソン、その愛と奇跡-』(2010年 [[宝塚歌劇]][[宙組 (宝塚歌劇)|宙組]]公演 脚本・演出:[[齋藤吉正]] 作曲:[[寺嶋民哉]]/[[太田健 (作曲家)|太田健]]) - ナポレオン・ボナパルト役:[[蘭寿とむ]]
** 『[[眠らない男・ナポレオン -愛と栄光の涯に-]]』(2014年 [[宝塚歌劇]][[星組 (宝塚歌劇)|星組]]公演 脚本・演出:[[小池修一郎]] 作曲:ジェラール・プレスギュルヴィック) - ナポレオン・ボナパルト役:[[柚希礼音]]
**『fff -フォルティッシッシモ-』(2021年 [[宝塚歌劇]][[雪組 (宝塚歌劇)|雪組]]公演 脚本・演出:[[上田久美子]] 作曲:[[甲斐正人]]) - ナポレオン・ボナパルト役:[[彩風咲奈]]
* ストレートプレイ
** 『おのれナポレオン』(2013年 脚本・演出:[[三谷幸喜]]) - ナポレオン・ボナパルト役:[[野田秀樹]]
** 『英雄のうた』(2013年 脚本・演出:[[毛利亘宏]]) - ナポレオン・ボナパルト役:[[大山真志]]
=== 書籍 ===
ナポレオンは「死んだ翌日から」伝記が書かれた人物と呼ばれるほど、彼について書かれた書籍は多い。
* 伝記
** 『ナポレオン―英雄の野望と苦悩』([[エーミール・ルートヴィヒ|エミール・ルートヴィヒ]])
** 『ナポレオンの生涯』(ティエリー・レンツ)
** 『ナポレオン自伝』([[アンドレ・マルロー]])
** 『セント=ヘレナ覚書』(ラス・カーズ)
* 小説
** 『皇帝ナポレオン』([[藤本ひとみ]])
** 『ナポレオンと田虫』([[横光利一]])
** 『ナポレオン』全3巻([[佐藤賢一]])
* 漫画
** 『[[栄光のナポレオン-エロイカ]]』([[池田理代子]])
** 『[[ナポレオン -獅子の時代-]]』([[長谷川哲也]])
* 戯曲
** 『ナポレオン』([[東隆明]])
=== ゲーム ===
[[ボードゲーム]]か[[コンピューターゲーム]]かに限らず、ナポレオン関連の[[ウォー・シミュレーションゲーム|ウォーゲーム]]はナポレオニックと呼ばれる。
==== トランプ ====
* [[ナポレオン (日本のトランプゲーム)|ナポレオン (日本のトランプゲーム)]]
* [[ナポレオン (イギリスのトランプゲーム)|ナポレオン (イギリスのトランプゲーム)]]
==== ボードゲーム ====
=====[[アブストラクトゲーム]]=====
* 『ナポレオン』([[任天堂]]) ※[[ダイヤモンドゲーム]]の亜流
=====[[ウォー・シミュレーションゲーム|ウォーゲーム]]=====
* M.McLaughlin『戦争と平和』([[ホビージャパン]]) - ''WAR and PEACE'' ([[アバロンヒル]],1980年)
* K.Zucker『Napoleon's Last Battles』([[:en:Decision Games|en:Decision Games]],1995年)
* 森野智次『ナポレオンモスクワへ』 [[アド・テクノス]]
* 加藤伸郎・森野智次『バウツェンの戦い』 アド・テクノス
* 加藤伸郎・森野智次『アウステルリッツの太陽』 アド・テクノス
* 森野智次『ナポレオン帝国の崩壊』 アド・テクノス
* 平野茂『皇帝ナポレオン』 [[翔企画]]
* 上田広樹『ワーテルロー』 翔企画
* 平野茂「赤い夕日のナポレオン」『[[コマンドマガジン日本版]]』第52号、[[国際通信社 (出版社)|国際通信社]]、2003年。
* 関山康紀一「アイラウの戦い」『[[タクテクス]]』10号、[[ホビージャパン]]、1980年代。(絶版)
* 「大堡塁」『タクテクス』12号、[[ホビージャパン]]、1980年代。(ポロディノの戦い、ミニゲーム)
* 井村正佳「Battle field Auelstadt-1806」『[[ゲームジャーナル#同人旧ゲームジャーナル|旧ゲームジャーナル]]』42号、シミュレーションジャーナル。
* 亀掛川彰夫「FINナポレオン」『旧ゲームジャーナル』52号、シミュレーションジャーナル。
* 「ウーグモン」(コマンドマガジン61号)、国際通信社、2005年。(ワーテルローの戦いで、フランス軍とイギリス軍の中間にあったウーグモン館をめぐる攻防戦を描いたゲーム)
*[[:en:Jim Dunnigan|en:James F. Dunnigan]]『ワーテルロー』(タクテクス25号) - ''Napoleon at Waterloo'' (SPI、1971)
*D.Isby 『マレンゴの戦い』(タクテクス34号) - ''Marengo: Napoleon in Italy, 14 June 1800'' ([[シミュレーションズ・パブリケイションズ|SPI]]、1975年)
*T.Walczyk『イエナ=アウエルシュタット』(タクテクス41号) - ''Jena-Auerstadt '' (SPI,1975)
* I.Hardy『ワグラムの戦い』(タクテクス47号) - ''Wagram'' (SPI,1975)
*L.Schutz, T.Shaw『ワーテルロー』(ホビージャパン) - '' Waterloo''(アバロンヒル,1962年)
* T.Dalgliesh『ナポレオン』(ホビージャパン) - ''[[:en:Napoleon (game)|en:Napoleon]]'' (Gamma Two Games,1974;アバロンヒル,1977;Columbia Games,1993)
*K.Zucker『ナポレオンの黄昏』(ホビージャパン) - ''Struggle of Nations'' (アバロンヒル,1982)
ほか海外物多数、現在も出版され続けている。
==== コンピュータゲーム ====
発売順, タイトル, 発売元, 機種, 発売年, ジャンル順。
:※英字タイトルは海外版。なお海外版だが日本のPCで問題なく起動しプレイ可能であることを前提としている。
* 『英雄ナポレオン』PONYCA([[ポニーキャニオン]]の旧ブランド), [[PC-9801シリーズ|PC-9801]], 1987年(春夏秋冬ターン制[[シミュレーションゲーム|SLG]])
* 『[[ナポレオン戦記]]』[[アピエス|アイレム]], [[ファミリーコンピュータ]], 1988年 ([[リアルタイムストラテジー|RTS]][[アクションゲーム|アクション]])
* 『[[ランペルール]]』[[コーエー|光栄]], [[PC-8801シリーズ|PC-8801]]・PC-9801・[[X68000]]・[[FM TOWNS]]・[[MSX|MSX2]]・[[ファミリーコンピュータ]]・[[Microsoft Windows|Windows]], 1990年(ターン制, 光栄SLG)
*『Battleground 3: Waterloo』, TalonSoft, Windows 95, 1996年(TBS)
*『Battleground 6: Napoleon in Russia』, TalonSoft, Windows 95, 1997年(TBS)
*『Battleground 8: Prelude to Waterloo』, TalonSoft, Windows 95, 1997年(TBS)
*『NAPOLEON 1813』, Empire Interactive, Windows 95-97, 1999年(RTS+会戦級<ref group="注釈">戦略モードと会戦モードの二つがある</ref>)
*『[[ナポレオン (コンピュータゲーム)|ナポレオン]]<ref name="non-napo" group="注釈" />』[[任天堂]], [[ゲームボーイアドバンス]], 2001年(RTSアクション)
*『Waterloo: Napoleon's Last Battle』, StrategyFisrst (Davilex), Windows 95-XP, 2002年(会戦級RTS)
*『Austerlitz: Napoleon's Greatest Victory』, StrategyFisrst, Windows 95-XP, 2002年(会戦級RTS)
*『WAR AND PEACE 1796 - 1815』, Microids, Windows 98-XP, 2002年(ヨーロッパ大陸級RTS)
*『Campaigns On The Danube』, Matrix Games, Windows 95-XP, 2004年(TBS)
*『コサックスII 〜皇帝ナポレオン〜』 [[ズー (会社)|ズー]], Windows XP, 2005年(RTS)
*『Crown of Glory: Europe in the Age of Napoleon』, Matrix Games, Windows 2000-XP, 2005年(TBS)
*『Napoleon in Italy』, Matrix Games, Windows 98-XP-7, 2007年(TBS)
*『Empires in Arms』, Matrix Games, Windows 2000-NT-XP-Vista-7, 2007年(TBSマルチゲーム)
*『John Tiller's Battleground Napoleonic Wars<ref group="注釈">Talon soft社のBattlegroundシリーズの復刻・移植版</ref>』, Matrix Games, Windows 98-2000-XP-Vista-7, 2007年(TBS)
*『[[Europa Universalis#Europa Universalis III: Napoleon's ambition|ヨーロッパ・ユニバーサリスIIIナポレオンの野望【完全日本語版】]]』[[サイバーフロント]], Windows XP, 2008年(RTS)
*『Commander - Napoleon at War』, Matrix Games, Windows 98-2000-XP-Vista-7, 2008年(TBS)
*『Napoleon's Campaigns』, Ascaron, Windows XP, 2008年(TBS)
*『シヴィライゼーション レボリューション<ref name="non-napo" group="注釈">ナポレオンは登場するが、ナポレオニックゲームではない、またはその要素が極めて少ない</ref>』, サイバーフロント, Xbox 360・2008年, ニンテンドーDS・2009年, PS3・2009年(STR)
*『Napoleon: Total War』, SEGA of America, Windows XP-Vista-7, 2010年(RTS)
*『March of the Eagles』, Paradox Interactive, Windows XP-Vista-7, 2013年(RTS)
*『[[アサシン クリード ユニティ]]』, [[ユービーアイソフト]], 2014年(アクション)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
<!--編集にあたって実際に参照した書籍等のみを記載してください-->
<!--{{Cite book}}等の出典テンプレートの利用をご検討ください-->
* {{Cite book|和書|author=ヘーゲル|authorlink=ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|others=[[小島貞介]]訳 |title=ヘーゲル書簡集 |publisher=日清堂書店 |date=1975-10 |ncid=BN01905221 |ref=ヘーゲル 1975}}
* {{Cite book|和書|author=浜洋 |title=世界の謎と怪奇 |publisher=[[大陸書房]] |series=世界の謎シリーズ |date=1985-07 |isbn=978-4-8033-0916-4 |ref=浜 1985 }}
* {{Citation|和書|last=両角|first=良彦|authorlink=両角良彦|title=セント・ヘレナ落日 ナポレオン遠島始末 |publisher=[[朝日新聞出版]] |series=[[朝日選書]] 514 |year=1994|edition=新版 |isbn=978-4-02-259614-7}}
* {{Citation|和書|last=両角|first=良彦|title=反ナポレオン考 時代と人間 |publisher=朝日新聞出版 |series=朝日選書 615 |year=1998|edition=新版 |isbn=978-4-02-259715-1}}
== 関連項目 ==
{{Portal box|フランス|ヨーロッパ|歴史|戦争}}
{{commons&cat|Napoléon Bonaparte|Napoleon I of France}}
{{Wikiquote|ナポレオン・ボナパルト}}
* [[古参近衛隊]]
* [[ヘーゲル]]
* [[交響曲第3番 (ベートーヴェン)]]
* [[ロゼッタ・ストーン]]
* [[戦車 (タロット)]]
* [[ドンブロフスキのマズルカ]] - ポーランド国歌。2番の歌詞にボナパルトの名が入っている。
* [[1812年 (序曲)|序曲1812年]]
* [[分進合撃]]
* [[ポルタ・ニグラ]]
* [[オリバー・クロムウェル]]
* [[奴隷制]] - 1794年にジャコバン派はフランス領での奴隷制を廃止したが、ナポレオンは1802年に奴隷制を復活した。
* [[恐竜]] - 1796年以降のナポレオンのヨーロッパ征服により、各地の[[化石]]などがフランスに持ち込まれ、[[ジョルジュ・キュビエ]]らの研究の発展に貢献した。
* [[二角帽]]
* [[ナポレオンの定理]]
* [[ナポレオン・コンプレックス]] - 身長の低い男性が持つとされる劣等感
===「ナポレオン」の異名を与えられた人物 ===
{{col-begin}}
{{col-2}}
* [[ナーディル・シャー]] - [[アフシャール朝]]の開祖。「ペルシアのナポレオン」
* [[トトメス3世]] - [[古代エジプト]][[第18王朝]]の[[ファラオ]]。「エジプトのナポレオン」。
::上記の2人は、ナポレオンが生まれる前の時代の人物である。
* [[トゥーサン・ルーヴェルチュール]] - [[ハイチ]]の[[独立運動]]指導者。「黒いナポレオン」。
* [[アンドレス・デ・サンタ・クルス]] - [[ペルー・ボリビア連合]]指導者。「[[アンデス山脈|アンデス]]のナポレオンにして[[インカ帝国]]の後継者」。
* [[ヤシュワント・ラーオ・ホールカル]] - インドのマラーター同盟の[[マハラジャ]]。「インドのナポレオン」。
* [[アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ]] - メキシコの軍人、政治家。「西半球のナポレオン」。ナポレオン・ボナパルトの関連品のコレクターとしても知られていた。
* [[ジョージ・マクレラン]] - 南北戦争中のアメリカ合衆国の軍人。「若きナポレオン」。
* [[P・G・T・ボーリガード]] - 南北戦争中のアメリカ連合国の軍人。「灰色のナポレオン」。
* [[セシル・ローズ]] - イギリスの[[政治家]]。「アフリカのナポレオン」。
* [[ミハイル・トゥハチェフスキー]] - [[ソビエト連邦|ソ連]][[赤軍]]総参謀長。「[[赤いナポレオン]]」。
* [[ヴォー・グエン・ザップ]] - [[北ベトナム]]人民軍総司令官。「赤いナポレオン」。
{{col-2}}
* [[馬占山]] - 中華民国の軍人。「東洋のナポレオン」
* [[ミシェル・プラティニ]] - [[サッカー選手]]
* [[ジャン=ベデル・ボカサ]] - [[中央アフリカ帝国]]皇帝。「黒いナポレオン」。
* [[ジョン・マグロー]] - [[メジャーリーグベースボール|MLB]][[監督]]。[[サンフランシスコ・ジャイアンツ|ニューヨーク・ジャイアンツ]]の監督として黄金時代を築き、その独裁的采配で「リトル・ナポレオン」の異名をとる。
* [[ジェームズ・モリアーティ]] - 推理小説「[[シャーロック・ホームズシリーズ]]」の登場人物。「犯罪のナポレオン」。
* [[金子直吉]] - [[神戸市]]に存在した[[総合商社]]「[[鈴木商店]]」の[[大番頭]]。「財界のナポレオン」。
* [[山田顕義]] - [[日本]]の初代[[司法大臣]]。「小ナポレオン」。
{{col-end}}
== 外部リンク ==
* [http://www.napoleonicsociety.com/ International Napoleonic Society]
* [https://www.westpoint.edu/academics/academic-departments/history/napoleonic-wars UNITED STATES MILITARY ACADEMY WEST POINT ナポレオン戦争の会戦図(英語)]
* {{Kotobank|ナポレオン(1世)}}
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%9D%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%8A%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%88 |
8,752 | 北 | 北(きた)は、地表に沿って北極点に向かう方位。天の北極を鉛直に下ろして水平面と交わる方位。東西が相対的な位置関係にあるのに対して南北は絶対的な位置関係にある。
地軸の両端(極)のうち北極星を指す方向にある極を北極といい、北極点に向かう方位を北と呼ぶ。後述の磁北やグリッド北と区別するため真北(しんほく、まきた)とも呼ぶ。
磁北(じほく)とは、鉄など外力の影響を受けていない状態において方位磁石が指す「北」のことである。地磁気の水平分力の向き。磁北(磁気子午線)と真北(真の子午線)はほとんどの場所でずれており、その交わる角を偏差あるいは偏角という。偏差は地域や年代により異なり、磁北が真北より右に傾いているときは偏東、左に傾いているときは偏西と呼ばれる。日本国内では、磁北は真北より約5 - 10度西へ偏っている。
さらに、船舶などで使用される羅針儀は現実には船内の鉄の構造物による磁気作用を受けるのが常とされ、磁気子午線と羅針の指す線との間にも差(自差という)を生じ、その結果、真の子午線と羅針との差角は偏差と自差の代数和分の差を生じることになる。この差をコンパス緯差と呼ぶ。
また、航空機などにおいては、磁北を0度として時計回りに風向や機体を向ける角度、滑走路の向きなどを示すのに用いられる。
「地図では上が北」というが、使用する地図投影法の影響をうけて、真北(および真南)を示す子午線は(厳密には)地図上で縦方向の平行線になっていない場合が(しばしば)ある。小縮尺の地図であれば、真北を常に上に出来るメルカトル図法など正軸の円筒図法を除いて、中心経線以外が真上を向いてない事がすぐに分かる。
大縮尺の地図でも、たとえば斜軸メルカトル図法を使っているスイスの地形図の場合(swisstopo 1/25,000図画(pdf))、経緯度ではなくベルンを原点とした直交座標系により地形図を四角く切り出している。そのため地図は完全な長方形であるが、場所によっては真上と真北が2度以上ずれている。日本ではあまり多くないが、一部の大縮尺地形図に平面直角座標系に基づく直交方眼が引かれており、縦線が真北から約1度ずれる場所もある。このように地図投影面上に直交座標系(グリッド)を定義した場合、地図面での上向きをグリッド北(グリッドきた、grid north)または方眼北という。 | [
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] | 北(きた)は、地表に沿って北極点に向かう方位。天の北極を鉛直に下ろして水平面と交わる方位。東西が相対的な位置関係にあるのに対して南北は絶対的な位置関係にある。 | {{Otheruses|方位}}
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{{出典の明記|date=2015年3月20日 (金) 08:31 (UTC)}}
{{単一の出典|date=2016年2月19日 (金) 13:23 (UTC)}}
{{方位}}
'''北'''(きた)は、地表に沿って[[北極点]]に向かう[[方位]]。[[天の北極]]を鉛直に下ろして水平面と交わる方位。東西が相対的な位置関係にあるのに対して南北は絶対的な位置関係にある。
== 真北 ==
{{Main|真北}}
[[地軸]]の両端(極)のうち[[北極星]]を指す方向にある極を[[北極]]といい{{sfn|佐藤|1958|pages=1-2}}、北極点に向かう方位を北と呼ぶ。後述の磁北やグリッド北と区別するため'''真北'''(しんほく、まきた)とも呼ぶ。
== 磁北とグリッド北 ==
=== 磁北 ===
[[ファイル:Earth Magnetic Field Declination from 1590 to 1990.gif|thumb|220px|偏角はこのように場所や年代によって複雑に変化している。]]
'''磁北'''(じほく)とは、鉄など外力の影響を受けていない状態において[[方位磁石]]が指す「北」のことである。[[地磁気]]の水平分力の向き。磁北(磁気子午線)と真北(真の子午線)はほとんどの場所でずれており、その交わる角を'''偏差'''あるいは'''偏角'''という{{sfn|佐藤|1958|page=6}}。偏差は地域や年代により異なり、磁北が真北より右に傾いているときは偏東、左に傾いているときは偏西と呼ばれる{{sfn|佐藤|1958|page=6}}。日本国内では、磁北は真北より約5 - 10度西へ偏っている<ref>[http://vldb.gsi.go.jp/sokuchi/geomag/menu_03/magnetic_chart.html 国土地理院 地磁気測量 磁気図]</ref>。
さらに、船舶などで使用される羅針儀は現実には船内の鉄の構造物による磁気作用を受けるのが常とされ、磁気子午線と羅針の指す線との間にも差('''自差'''という)を生じ、その結果、真の子午線と羅針との差角は偏差と自差の代数和分の差を生じることになる。この差を'''コンパス緯差'''と呼ぶ{{sfn|佐藤|1958|pages=6-7}}。
また、航空機などにおいては、磁北を0度として時計回りに風向や機体を向ける角度、滑走路の向きなどを示すのに用いられる。
{{See also|北磁極}}
=== グリッド北 ===
「地図では上が北」というが、使用する[[地図投影法]]の影響をうけて、真北(および真南)を示す[[子午線]]は(厳密には)地図上で縦方向の平行線になっていない場合が(しばしば)ある。小縮尺の地図であれば、真北を常に上に出来る[[メルカトル図法]]など正軸の円筒図法を除いて、中心経線以外が真上を向いてない事がすぐに分かる。
大縮尺の地図でも、たとえば[[斜軸メルカトル図法]]を使っている[[スイス]]の[[地形図]]の場合([http://www.swisstopo.admin.ch/internet/swisstopo/de/home/products/maps/national/25.parsysrelated1.71364.downloadList.20689.DownloadFile.tmp/blueb25.pdf swisstopo 1/25,000図画(pdf)])、[[経緯度]]ではなく[[ベルン]]を原点とした直交座標系により地形図を四角く切り出している。そのため地図は完全な長方形であるが、場所によっては真上と真北が2度以上ずれている。日本ではあまり多くないが、一部の[[大縮尺地形図]]に[[平面直角座標系]]に基づく直交方眼が引かれており、縦線が真北から約1度ずれる場所もある。このように地図投影面上に[[直交座標系]](グリッド)を定義した場合、地図面での上向きを'''グリッド北'''(グリッドきた、{{interlang|en|grid north}})または方眼北という。
== 文化 ==
=== 北に関する言葉 ===
* 睡眠する場合に、北側に頭を向けて寝る事を「[[北枕]]」といい、縁起の悪いものとされる。
** 北枕の凶運は、[[釈迦]]が死んだ時に、頭を北向きにして安置された事に由来する。
* [[方位]]においては北が基準とされ、[[地図]]においては北は[[上]]を指す事が多い。
* [[時刻]]や[[角度]]において、北は[[北極星]]に因んで真夜中や0度(=360度)を表し、変わり目や始終点とされる。
*[[四神]]において北は[[玄武]]が司る。
* 殊に[[北半球]]では、北は[[寒冷地|寒冷]]の象徴とされて来た。
* [[南北問題]] - 地球の[[北半球]]に富な国が集中し、[[南半球]]に貧しい国が集中する問題。
* [[北日本]] - 日本においては、かつて都が[[畿内]]にあった時代は[[北陸地方]]を指していた。現在では、北陸地方、[[東北地方]]、[[北海道]]が「北日本」と呼ばれる事があるが、一般的には東北地方と北海道を指す事が多い。
* [[朝鮮民主主義人民共和国]](北朝鮮)の俗称 - [[北朝鮮核問題]]や[[朝鮮統一問題|朝鮮半島情勢]]を語る際、「北」と言えば[[朝鮮民主主義人民共和国]]のことである。(例:「[[金正恩|北の将軍様 北のミサイル
]]」、「[[南北首脳会談]]」など)
* [[ベトナム民主共和国]](北ベトナム)の俗称 - 「[[ベトナム戦争#北爆|北爆]]」など。ニュースでの略称もこれである
* [[華北]]:中国北部大凡[[秦嶺・淮河線]]以北の地域を指す事が多い。
* 元となった[[地名]]より北に位置する土地や[[鉄道駅]]などに、新たにつけられる[[接頭辞]]。[[北浦和]]、[[北広島町]]のように隣接地である場合と、[[北広島市]]、[[北吉原駅]]のように遠隔地の場合がある。
* [[チップセット#構成|ノースブリッジ]] - [[マザーボード]]の[[回路図]]上で「北」(上側)にあるため。
=== 派生した俗語 ===
* 北向く
** [[大相撲]]の[[隠語]]で、変わり者だったり、すねたりする者のことをいう。<br />[[高松城 (讃岐国)|高松城]]の[[鎮守神]]である[[華下天満宮]](はなしたてんまんぐう)は改築にあたり[[社殿]]が通常の向きと違う北向きに建てられて、そのため別名「北向き天神」と呼ばれている。この呼び名を「北向き変人」と[[シャレ]][[言葉]]にして、普通の人と違う者のことを意味している。大相撲の世界には、このようなシャレ言葉が多く、「[[シカ#派生した俗語|しかをきめる]]」などの隠語もある。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*{{Citation|和書|last=佐藤|first=新一|title=誰にもわかる地文航法|publisher=[[海文堂]]出版|year=1958}}
== 関連項目 ==
{{Wiktionary|きた|北}}
* [[真北方向角]]
* {{仮リンク|子午線収差|de|Meridiankonvergenz}}
* [[東]] / [[西]] / [[南]]
* {{Prefix}}
*{{intitle}}
{{デフォルトソート:きた}}
[[Category:方位]]
[[da:Kompasretning#Nord]] | 2003-05-20T04:24:05Z | 2023-11-17T12:05:59Z | false | false | false | [
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"Template:仮リンク"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97 |
8,753 | るんるん (講談社) | 『るんるん』は、かつて講談社より発行されていた漫画雑誌。『なかよし』の姉妹誌である。同社の発行する『なかよし』より低年齢層をターゲットとした内容になっている。元々は季刊だったが、1993年5月号より隔月刊誌になった。
姉妹誌とは言え、元は『なかよし』の増刊号(なかよし増刊るんるん)である為、2015年末時点で最後の増刊号である『なかよしラブリー』と雑誌の傾向はほぼ同じであり、掲載された作品はオリジナル作品が中心だが、『なかよし』連載作品の番外編も掲載されていた。また、ショート&ギャグについては一部『なかよし』と共通だった。
なお、隔月刊誌創刊号から1996年7月号まで「キャンディ・キャンディ」の別冊付録(B6判96ページ、最終20巻のみ112ページ)が付いていた。
1998年1月号をもって事実上廃刊。 | [
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] | 『るんるん』は、かつて講談社より発行されていた漫画雑誌。『なかよし』の姉妹誌である。同社の発行する『なかよし』より低年齢層をターゲットとした内容になっている。元々は季刊だったが、1993年5月号より隔月刊誌になった。 姉妹誌とは言え、元は『なかよし』の増刊号(なかよし増刊るんるん)である為、2015年末時点で最後の増刊号である『なかよしラブリー』と雑誌の傾向はほぼ同じであり、掲載された作品はオリジナル作品が中心だが、『なかよし』連載作品の番外編も掲載されていた。また、ショート&ギャグについては一部『なかよし』と共通だった。 なお、隔月刊誌創刊号から1996年7月号まで「キャンディ・キャンディ」の別冊付録(B6判96ページ、最終20巻のみ112ページ)が付いていた。 1998年1月号をもって事実上廃刊。 | 『'''るんるん'''』は、かつて[[講談社]]より発行されていた[[漫画雑誌]]。『[[なかよし]]』の姉妹誌である。同社の発行する『なかよし』より低年齢層をターゲットとした内容になっている。元々は季刊だったが、[[1993年]]5月号より隔月刊誌になった。
姉妹誌とは言え、元は『なかよし』の増刊号(なかよし増刊るんるん)である為、2015年末時点で最後の増刊号<ref>2011年秋の号を持って事実上廃刊。</ref>である『[[なかよしラブリー]]』と雑誌の傾向はほぼ同じであり、掲載された作品はオリジナル作品が中心だが、『なかよし』連載作品の番外編も掲載されていた。また、ショート&ギャグについては一部『なかよし』と共通だった。
なお、隔月刊誌創刊号から[[1996年]]7月号まで「[[キャンディ・キャンディ]]」の別冊付録(B6判96ページ、最終20巻のみ112ページ)が付いていた。
[[1998年]]1月号をもって事実上廃刊。
== 連載作 ==
* [[イノセントスマイル]]([[永澄田えま]])
* [[おでまし!プリンセス]]([[あしざわ深花]])
* [[神様のしっぺ]]([[たておか夏希]])
* [[学校怪談 (北川久・上野すばるの漫画)|学校怪談]]([[上野すばる]])
* [[コードネームはセーラーV]]([[武内直子]])
* [[上手な夢のかなえかた]]([[有沢遼]])
* [[シンデレラ・ロード]]([[井沢陽子]])
* [[セキホクジャーナル]]([[小坂理絵]])
* [[空よりもたかく]]([[野村あきこ]])
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* [[桃にキッス!]]([[川村美香]])
* [[屋根裏部屋へようこそ]]([[英洋子]])
* [[夢食案内人]]([[立川恵]])
* [[リリィ&アールのふしぎなお店]]([[高瀬綾]])
== 注釈 ==
<references />
== 関連項目 ==
* [[なかよし]]
* [[月刊キャロル|キャロル]] - 講談社が1983年から1984年までに発行した『なかよし』の姉妹誌。
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8,754 | ルネ・デカルト | ルネ・デカルト(仏: René Descartes、1596年3月31日 - 1650年2月11日)は、フランス生まれの哲学者、数学者。合理主義哲学の祖であり、近世哲学の祖として知られる。
ラテン語名はレナトゥス・カルテシウス (Renatus Cartesius) である。デカルト座標系(仏: système de coordonnées cartésiennes ; 英: Cartesian coordinate system)、デカルト積(デカルトせき、英: Cartesian product)のようにデカルトの名がついたものにカルテジアン(Cartesian)という表現が用いられる。デカルト主義者もカルテジアン(仏: Cartésien ; 英: Cartesian)と呼ばれる。
考える主体としての自己(精神)とその存在を定式化した「我思う、ゆえに我あり」は哲学史上で最も有名な命題の一つである。そしてこの命題は、当時の保守的思想であったスコラ哲学の教えであるところの「信仰」による真理の獲得ではなく、人間の持つ「自然の光(理性)」を用いて真理を探求していこうとする近代哲学の出発点を簡潔に表現している。デカルトが「近代哲学の父」と称される所以である。
ただし、デカルトはそのすべてを信仰も根ざして考えており、著書『方法序説』においても神の存在証明を哲学的にしようと試みてさえいる。
初めて哲学書として出版した著作『方法序説』(1637年)において、冒頭が「良識 (bon sens) はこの世で最も公平に配分されているものである」という文で始まるため、思想の領域における人権宣言にも比される。
また、当時学術的な論文はラテン語で書かれるのが通例であった中で、デカルトは『方法序説』を母語であるフランス語で書いた。その後のフランス文学が「明晰かつ判明」を指標とするようになったのは、デカルトの影響が大きい、ともいわれる。
デカルトは1596年に、中部フランスの西側にあるアンドル=エ=ロワール県のラ・エーに生まれた。父はブルターニュの高等法院評定官であった。母からは、空咳と青白い顔色を受け継ぎ、診察した医師たちからは、夭折を宣告された。母は病弱で、デカルトを生んだ後13ヶ月で亡くなる。母を失ったデカルトは、祖母と乳母に育てられる。
1606年、デカルト10歳のとき、イエズス会のラ・フレーシュ (La Flèche) 学院に入学する。1585年の時点で、イエズス会の学校はフランスに15校出来ており、多くの生徒が在籍していた。その中でもフランス王アンリ4世自身が邸宅を提供したことで有名であるラ・フレーシュ学院は、1604年に創立され、優秀な教師、生徒が集められていた。
イエズス会は反宗教改革・反人文主義(反ヒューマニズム)の気風から、生徒をカトリック信仰へと導こうとした。そして信仰と理性は調和する、という考え(プロテスタントでは「信仰と理性は調和しない」とされる)からスコラ哲学をカリキュラムに取り入れ、また自然研究などの新発見の導入にも積極的であった。1610年に、ガリレオ・ガリレイが初めて望遠鏡を作り、木星の衛星を発見したとの知らせに、学院で祝祭が催されたほどである。ただし、哲学は神学の予備学としてのみ存在し、不確実な哲学は神学によって完成されると考えられていた。
デカルトは学院において従順で優秀な生徒であり、教えられる学問(論理学・形而上学・自然学)だけでなく占星術や魔術など秘術の類(たぐい)のものも含めて多くの書物を読んだ。そして、学問の中ではとりわけ数学を好んだ。カリキュラムの一つである哲学的討論においては数学的な手法を用いて相手を困らせた。のちにミニモ会士になり、終生の友人となるマラン・メルセンヌは、学院の先輩に当たる。
好んだ数学に対して、神学・スコラ学の非厳密性、蓋然性は際立ち、それを基礎にした学院の知識に対して、懐疑が生まれることになる。しかし、この学院での教育や教師たちに、デカルトは終生感謝の念を持ち続けた。
1614年、デカルトは18歳で学院を卒業する。その後ポワティエ大学に進み、法学・医学を修めた。1616年、デカルト20歳のとき、法学士の学位を受けて卒業する。この後2年間は、自由気ままに生活したと考えられる。パリで学院時代の友人であるメルセンヌに再会し、偉大な数学者フランシス=ヴィエタ(ヴィエタについては#数学も参照)の後を継ぐものと騒がれた数学者クロード・ミドルジと知り合うなど、交際を広げた。
デカルトは、学園を離れるとともに書斎で読まれるような「書物」を捨てた。そして、猶予のない決断を迫る「世間という大きな書物」の中に飛び込んでいくことを決意する。
1618年、デカルト22歳のとき、オランダに赴きナッサウ伯マウリッツの軍隊に加わる。ただし、八十年戦争は1609年に休戦協定が結ばれており、実際の戦闘はなかった。マウリッツの軍隊は近代化されており、ステヴィン等の優れた数学者、技師などの起用によって、新兵器の開発も盛んであったことが知られていた。デカルトは自然科学者との交流を求めて、マウリッツの軍隊を選んだとも考えられる。
1618年11月、オランダ国境の要塞都市ブレダにおいて、イザーク・ベークマンという、医者でありながら自然学者・数学者としての幅広い知識をもつ人物に出会う。ベークマンは、原子・真空・運動の保存を認める近代物理学に近い考えを持っていた。コペルニクスの支持者でもあった。ベークマンは青年デカルトの数学の造詣の深さに驚き、そしてデカルトは、感化されるところまではいかないものの、学院を卒業以来久しい知的な刺激を受けた。このときの研究の主題は、物理学の自由落下の法則・水圧の分圧の原理・三次方程式の解法・角の三等分のための定規の考案などである。処女作となる『音楽提要』はベークマンに贈られる。
1619年4月、三十年戦争が起こったことを聞いたデカルトは、この戦いに参加するためにドイツへと旅立つ。これは、休戦状態の続くマウリッツの軍隊での生活に退屈していたことも原因であった。フランクフルトでの皇帝フェルディナント2世の戴冠式に列席し、バイエルン公マクシミリアン1世の軍隊に入る。
1619年10月からノイブルクで炉部屋にこもり、精神力のすべてをかけて自分自身の生きる道を見つけようとする。そして11月10日の昼間に、「驚くべき学問の基礎」を発見し、夜に3つの神秘的な夢をみる。
1623年から1625年にかけて、ヴェネツィア、ローマを渡り歩く。旅を終えたデカルトはパリにしばらく住む。その間に、メルセンヌを中心として、亡命中のホッブズ、ピエール・ガッサンディなどの哲学者や、その他さまざまな学者と交友を深める。
そして、教皇使節ド・バニュの屋敷での集まりにおいて、彼は初めて公衆の面前で自分の哲学についての構想を明らかにすることになる。そこにはオラトリオ修道会の神父たちもいた。その創立者枢機卿ド=ベリュルはデカルトの語る新しい哲学の構想を理解し、それを実現させるべく努めることがデカルトの「良心の義務」だとまでいって、研究に取り組むことを強く勧めた。1628年、オランダ移住直前に、自らの方法について考察して『精神指導の規則』をラテン語で書く。未完である。
1628年にオランダに移住する。その理由は、この国が八十年戦争によって立派な規律を生み出しており、最も人口の多い町で得られる便利さを欠くことなく、「孤独な隠れた生活」を送ることができるためであった。
32歳のデカルトは、自己の使命を自覚して本格的に哲学にとりかかる。この頃に書かれたのが『世界論』(『宇宙論』)である。これは、デカルトの機械論的世界観をその誕生から解き明かしたものであった。しかし、1633年にガリレイが地動説を唱えたのに対して、ローマの異端審問所が審問、そして地動説の破棄を求めた事件が起こる。これを知ったデカルトは、『世界論』の公刊を断念した。
1637年、『方法序説』を公刊する。
1641年、デカルト45歳のとき、パリで『省察』を公刊する。この『省察』には、公刊前にホッブズ、ガッサンディなどに原稿を渡して反論をもらっておき、それに対しての再反論をあらかじめ付した。『省察』公刊に前後してデカルトの評判は高まる。その一方で、この年の暮れからユトレヒト大学の神学教授ヴォエティウスによって「無神論を広める思想家」として非難を受け始める。
1643年5月、プファルツ公女エリーザベト(プファルツ選帝侯フリードリヒ5世の長女)との書簡のやりとりを始め、これはデカルトの死まで続く。エリーザベトの指摘により、心身問題についてデカルトは興味を持ち始める。
1644年、『哲学原理』を公刊する。エリーザベトへの献辞がつけられる。
1645年6月、ヴォエティウスとデカルトの争いを沈静化させるために、ユトレヒト市はデカルト哲学に関する出版・論議を一切禁じる。
1649年『情念論』を公刊する。
1649年の初めから2月にかけて、スウェーデン女王クリスティーナから招きの親書を3度受け取る。そして、4月にはスウェーデンの海軍提督が軍艦をもって迎えにきた。女王が冬を避けるように伝えたにもかかわらず、デカルトは9月に出発し、10月にはストックホルムへ到着した。
1650年1月から、女王のために朝5時からの講義を行う。朝寝の習慣があるデカルトには辛い毎日だった。2月にデカルトは風邪をこじらせて肺炎を併発し、死去した。デカルトは、クリスティーナ女王のカトリックの帰依に貢献した。
デカルトの遺体はスウェーデンで埋葬されたが、1666年にフランスのパリ市内のサント=ジュヌヴィエーヴ修道院に移され、その後、フランス革命の動乱を経て、1792年にサン=ジェルマン=デ=プレ教会に移された。
『哲学の原理』の仏語訳者へ宛てた手紙の中に示されるように、哲学全体は一本の木に例えられ、根に形而上学、幹に自然学、枝に諸々のその他の学問が当てられ、そこには機械学、医学、道徳という果実が実り、哲学の成果は、枝に実る諸学問から得られる、と考えた。
デカルトの哲学体系は人文学系の学問を含まない。これは、『方法序説』第一部にも明らかなように、デカルトが歴史学・文献学に興味を持たず、もっぱら数学・幾何学の研究によって得られた明晰判明さの概念の上にその体系を考えたことが原因として挙げられる。これに対して後にヴィーコなどが反論することとなった。
ものを学ぶためというよりも、教えることに向いていると思われた当時の論理学に替わる方法を求めた。そこで、最も単純な要素から始めてそれを演繹していけば最も複雑なものに達しうるという、還元主義的・数学的な考えを規範にして、以下の4つの規則を定めた。
幼児の時から無批判に受け入れてきた先入観を排除し、真理に至るために、一旦全てのものをデカルトは疑う。
この方法的懐疑の特徴として、2点挙げられる。1つ目は懐疑を抱くことに本人が意識的・仮定的であること、2つ目は一度でも惑いが生じたものならば、すなわち少しでも疑わしければ、それを完全に排除することである。つまり、方法的懐疑とは、積極的懐疑のことである。
この強力な方法的懐疑は、もう何も確実であるといえるものはないと思えるところまで続けられる。まず、肉体の与える感覚(外部感覚)は、しばしば間違うので偽とされる。また、「痛い」「甘い」といった内部感覚や「自分が目覚めている」といった自覚すら、覚醒と睡眠を判断する指標は何もないことから偽とされる。さらに、正しいと思っている場合でも、後になって間違っていると気付くことがあるから、計算(2+3=5のような)も排除される。そして、究極的に、真理の源泉である神が実は欺く神 (Dieu trompeur) で、自分が認める全てのものが悪い霊 (genius malignus)の謀略にすぎないかもしれない、とされ、このようにあらゆるものが疑いにかけられることになる。
この方法的懐疑の特徴は、当時の哲学者としてはほとんど初めて、「表象」と「外在」の不一致を疑ったことにある。対象が意識の中に現われている姿を表象と呼ぶが(デカルトは観念 仏:Idée と呼んでいた)、これはプラトンやアリストテレスにおいては外在の対象と一致すると思われていた。しかし、デカルトは方法的懐疑を推し進めることによって、この一致そのものを問題に付したのである。
方法的懐疑を経て、肉体を含む全ての外的事物が懐疑にかけられ、純化された精神だけが残り、デカルトは、「私がこのように“全ては偽である”と考えている間、その私自身はなにものかでなければならない」、これだけは真であるといえる絶対確実なことを発見する。これが「私は考える、ゆえに私はある」Je pense, donc je suis(フランス語)である。ちなみに、有名な「我思う、ゆえに我あり」コギト・エルゴ・スム cogito ergo sum(ラテン語)とのラテン語表現は『真理の探究』でなされているが、これは第三者による訳で、デカルト自身がこのような表現をしたのは、後に彼がラテン語で執筆した『哲学原理』においてである。方法序説はラテン語訳が出版され、「Ego cogito, ergo sum, sive existo 」との表現がとらえている。詳細は同名の内部リンクを参照。
コギト・エルゴ・スムは、方法的懐疑を経て「考える」たびに成立する。そして、「我思う、故に我あり」という命題が明晰かつ判明に知られるものであることから、その条件を真理を判定する一般規則として立てて、「自己の精神に明晰かつ判明に認知されるところのものは真である」と設定する(明晰判明の規則)
のちのスピノザは、コギト・エルゴ・スムは三段論法ではなく、コギトとスムは単一の命題を言っているのであり、「私は思いつつ、ある」と同義であるとした。そのスピノザの解釈から、カントはエルゴを不要とし(デカルト自身もエルゴの不要性については考えていた)、コギト・エルゴ・スムは経験的命題であり自意識によるものだとした。
欺く神 (Dieu trompeur)・ 悪い霊 (genius malignus) を否定し、誠実な神を見出すために、デカルトは神の存在証明を行う。
悪い霊という仮定は神の完全性・無限性から否定され誠実な神が見出される。誠実な神が人間を欺くということはないために、ここに至って、方法的懐疑によって退けられていた自己の認識能力は改めて信頼を取り戻すことになる。
物体の本質と存在の説明も、デカルト的な自然観を適用するための準備として不可欠である。三次元の空間の中で確保される性質(幅・奥行き・高さ)、すなわち「延長」こそ物体の本質であり、これは解析幾何学的手法によって把捉される。一方、物体に関わる感覚的条件(熱い、甘い、臭いetc.)は物体が感覚器官を触発することによって与えられる。なにものかが与えられるためには、与えるものがまずもって存在しなければならないから、物体は存在することが確認される。しかし、存在するからといって、方法的懐疑によって一旦退けられた感覚によってその本質を理解することはできない。純粋な数学・幾何学的な知のみが外在としての物体と対応する。このことから、後述する機械論的世界観が生まれる。
明晰判明の規則は存在証明によって絶対確実な信念をもって適用され、更に物体の本質と存在が説明された後で、明晰判明に知られる数学的・力学的知識はそのまま外部に実在を持つことが保証される。結果、数学的・力学的世界として、自然は理解されることになる。コギトを梃子に、世界はその実在を明らかにされるのである。
なお、このような「神」は、デカルトの思想にとってとりわけ都合のよいものである。ブレーズ・パスカルはこの事実を指摘し、『パンセ』の中で「アブラハム、イサク、ヤコブの神。哲学者、科学者の神にあらず」とデカルトを批判した。すなわち、デカルトの神は単に科学上の条件の一部であって、主体的に出会う信仰対象ではない、というのである。
1643年5月の公女エリーザベトからの書簡において、デカルトは、自身の哲学において実在的に区別される心(精神)と体(延長)が、どのようにして相互作用を起こしうるのか、という質問を受ける。この質問は、心身の厳格な区別を説くデカルトに対する、本質的な、核心をついた質問であった。それに対してデカルトは、心身合一の次元があることを認める。この書簡の後もデカルトは薄幸な公女の悩みや悲しみに対して助言をしたり、公刊された書物の中では見せなかった率直な意見を述べたりと、書簡のやり取りを続け、その間に情念はどのように生じ、どうすれば統御できるのか、というエリーザベトの問いに答える著作に取り組んだ。それは1649年の『情念論』として結実することになる。
『情念論』において、デカルトは人間を精神と身体とが分かち難く結びついている存在として捉えた。喉が痛いのは体が不調だからである。「痛い」という内部感覚は意識の中での出来事であり、外在としての身体と結びつくことは本来ないはずである。しかし、現実問題としてそれは常識である。デカルトはこの事実に妥協し、これらを繋ぐ結び目は脳の奥の松果腺において顕著であり、その腺を精神が動かす(能動)、もしくは動物精気 (esprits animaux) と呼ばれる血液が希薄化したものによって動かされる(受動)ことによって、精神と身体が相互作用を起こす、と考えた。そして、ただ生理学的説明だけに留まらず、基本的な情念を「驚き」「愛」「憎しみ」「欲望」「喜び」「悲しみ」の6つに分類した後、自由意志の善用による「高邁」の心の獲得を説いた。
デカルトが(能動としての)精神と(受動としての)身体との間に相互作用を認めたことと、一方で精神と身体の区別を立てていることは、論理の上で、矛盾を犯している。後の合理主義哲学者(スピノザ、ライプニッツ)らはこの二元論の難点を理論的に克服することを試みた。
1645年11月3日のエリーザベトへのデカルトの書簡を見てみると、デカルトは自身の哲学の二元性をあくまでも実践的・実際的問題として捉えていたことが窺われる。デカルトはその書簡において、自由意志と神の無限性が論理的には両立しないことを認めながら、自由意志の経験と神の認識が両立の事実を明らかにしていると書いている。
デカルトは、物体の基本的な運動は、直線運動であること、動いている物体は、抵抗がない限り動き続けること(慣性の法則)、一定の運動量が宇宙全体で保存されること(運動量保存則)など、(神によって保持される)法則によって粒子の運動が確定されるとした。この考えは、精神に物体的な風や光を、宇宙に生命を見たルネサンス期の哲学者の感覚的・物活論的世界観とは全く違っており、力学的な法則の支配する客観的世界観を見出した点で重要である。
更にデカルトは、見出した物理法則を『世界論』(宇宙論)において宇宙全体にも適用し、粒子の渦状の運動として宇宙の創生を説く渦動説を唱えた。その宇宙論は、
という点で過去の宇宙論とは一線を画すものであった。
デカルトは見出した法則を数学的に定式化せず、また実験的検証を欠いたことで法則の具体的な値にも誤謬が多い。そのために科学史の上ではガリレイとニュートンの間で、独断論に陥った例として取り上げられることが多かった。しかし今日ではニュートンはデカルトの『哲学の原理』を熱心に読んでいたことが科学史家ヘリヴェルの研究によって明らかにされるなど、その位置付けが見直されている。
また、デカルトは動物機械論(英語版)や身体機械論を唱え、これは人間機械論に影響を与えた。
デカルトは動物が痛みを感じる能力を否定する動物機械論を信じており、意識のある動物(主に犬が使用された)を生体解剖(生きたまま解剖)し、動物がもがき悲鳴をあげても、見学者に心配しないように伝え、動物のこれらの反応が、プログラムされた応答にすぎないと主張した。デカルトのこのような思想や行為が、のちの動物福祉運動や動物の権利運動に大きな影響を及ぼすことになる。
デカルトは、『方法叙説』「第三部」において、「備えのための道徳morale par provision」と呼ばれる幾つかの格律を立てた。これは、全般的な懐疑を遂行し自らの思想を再構築する思索を遂行している最中も、不決断に陥らずかつ幸福に生きることができるようにするためである。その三つは要約すると
次のようになる。
ただし上の三つの格律はあくまで哲学的探究の過程で従うべき生き方である。例えば第一確率に関しては、最終的には自らの判断力によって正しい意見を発見することが望ましく、定評ある意見に無条件に満足し続けるべきではない、とデカルトは断っている。
2つの実数によって平面上の点の位置(座標)を表すという方法は、デカルトによって発明され、『方法序説』の中で初めて用いられた。この座標はデカルト座標と呼ばれ、デカルト座標の入った平面をデカルト平面という。デカルト座標、デカルト平面によって、後の解析幾何学の発展の基礎が築かれた。座標という考え方は今日、小学校の算数で教えられるほど一般的なものとなっている。
また、今日、数式の表記でアルファベットの最初の方 (a,b,c,...) を定数に、最後の方 (...,x,y,z) に未知数をあて、ある量(例えばx)の係数を左に(2x)、冪数を右に( x 3 {\displaystyle x^{3}} )に書く表記法はデカルトが始めた。
ちなみに、アルファベットを用いた数式というだけであれば、『解析術序論』を著したフランソワ・ビエトの方が先で、子音を定数に、母音を未知数にあてた。
デカルトはその新たな手法によって西洋哲学の流れを大きく変えたため、近代西洋哲学の父とみなされ、その基礎を築いた思想家の一人に数えられる 。中でも方法的懐疑を定式化した『第一哲学に関する諸省察』の最初の2篇は、デカルトの著作の中で特に近代の哲学に大きな影響を与えた 。 しかし当のデカルト本人は彼の考え方が歴史的にどれほど革命的であったかは理解していなかった。それでも哲学において「何が真実か」という議論を「何が疑えない事実か」という議論にシフトすることで、デカルトは間違いなくキリスト教的な神中心の真理探求を人間の理性に基づく真理探求へと変えた。
彼の論じた人文主義的な、人間性を重視した哲学の転換により、人間は主体的で、独立した理性を備える自由な存在と考えられるようになった。そしてこれは近代の学問の基礎を確立し、その影響は今もなお続いている。言い換えれば、中世のキリスト教的な真理や教会の教義から人類が解放され、人類が理性に基づき自ら法を作り、独立した主体としての立場をとるようになったのだ。近代においては、彼の影響から真理を保証するのはもはや神ではなく人間であるとの考えが強まった.。そうすることで、人間に対する見方は、神に従順な存在ではなく、理性的で主体的な存在へと近づいていった。そしてこのような観点の変化こそ、キリスト教的な中世から理性的な近代への転換であり、他の分野でも期待されていたことであったが、デカルトによって特に哲学の分野では顕著に現れるようになった。
この人間の理性を独立的なものとして確立したデカルトの人間中心主義的な観点は、啓蒙主義として、哲学がキリスト教と教会から離れるきっかけを作った。またマルティン・ハイデガーによれば、デカルトの視点は、その後のすべての人類学の基礎ともなったほど重要なものだという。このようにデカルトの哲学は、現代の人間中心主義や主観主義の原因になったと言われる。
『方法序説』はデカルト存命中に500部の単行本として出版され、そのうち200部は彼自信のために確保された。同じような運命をたどったのは『省察』のフランス語版で、デカルトの死後も完売することはなかった。しかし、『省察』のラテン語版はヨーロッパの学者たちの間で熱狂的な人気をはくし、商業的な成功を収めた。
晩年に近づくにつれて、デカルトの存在は哲学界でよく知られていたものの、彼の著作を学校で教えることには賛否両論があった。例としてユトレヒト大学の医学部教授であったアンリ・ド・ロワは、デカルトの物理学を大学で教えたことで、同大学の学長であったギスバート・ヴォートから非難されることになる。
他にも、『省察』の英訳をしたことで知られるジョン・コッティンガムによれば、デカルトの『第一哲学に関する諸省察』は「西洋哲学の重要な文献のひとつ」であるとされている。またコッティンガムによれば、『省察』はデカルトの著作の中でも「最も広く研究されている」著作だという。
エコノミスト誌の元シニア・エディターで、『理性の夢』と『啓蒙の夢』の著者であるアンソニー・ゴットリーブによれば、デカルトとトマス・ホッブズが2020年代でも議論され続けている理由のひとつは、「科学の進歩は、私たち自身と私たちの宗教観にどう影響するか」、「政府は宗教の多様性にどう対処すべきか」といった問いに、彼らの哲学が深く関連するからだという。
デカルトの薔薇十字団との関与については様々な議論がある。
彼の名の頭文字が、薔薇十字団員(ローゼンクロイツァー)の頭文字R.C.と結びついていることや、1619年に薔薇十字運動の中心地として有名なウルムに移り住んだこと、ドイツを旅している間に、薔薇十字団の兄弟結社に所属するヨハネス・ファウルハーバーと出会っていたことなどから様々な憶測が飛び交っている。
また、デカルトは『ポリビウスの数学的宝庫、世界市民』と題された作品を「世界中の学識ある人々、特にドイツの著名なB.R.C.(バラ十字の兄弟組織)」に献呈した。この作品は未完で、出版は不確かであるが、薔薇十字団との関与を示唆しているとされる。
著作を時系列で並べると以下のようになる。 | [
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"text": "イエズス会は反宗教改革・反人文主義(反ヒューマニズム)の気風から、生徒をカトリック信仰へと導こうとした。そして信仰と理性は調和する、という考え(プロテスタントでは「信仰と理性は調和しない」とされる)からスコラ哲学をカリキュラムに取り入れ、また自然研究などの新発見の導入にも積極的であった。1610年に、ガリレオ・ガリレイが初めて望遠鏡を作り、木星の衛星を発見したとの知らせに、学院で祝祭が催されたほどである。ただし、哲学は神学の予備学としてのみ存在し、不確実な哲学は神学によって完成されると考えられていた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "デカルトは学院において従順で優秀な生徒であり、教えられる学問(論理学・形而上学・自然学)だけでなく占星術や魔術など秘術の類(たぐい)のものも含めて多くの書物を読んだ。そして、学問の中ではとりわけ数学を好んだ。カリキュラムの一つである哲学的討論においては数学的な手法を用いて相手を困らせた。のちにミニモ会士になり、終生の友人となるマラン・メルセンヌは、学院の先輩に当たる。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "好んだ数学に対して、神学・スコラ学の非厳密性、蓋然性は際立ち、それを基礎にした学院の知識に対して、懐疑が生まれることになる。しかし、この学院での教育や教師たちに、デカルトは終生感謝の念を持ち続けた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "1614年、デカルトは18歳で学院を卒業する。その後ポワティエ大学に進み、法学・医学を修めた。1616年、デカルト20歳のとき、法学士の学位を受けて卒業する。この後2年間は、自由気ままに生活したと考えられる。パリで学院時代の友人であるメルセンヌに再会し、偉大な数学者フランシス=ヴィエタ(ヴィエタについては#数学も参照)の後を継ぐものと騒がれた数学者クロード・ミドルジと知り合うなど、交際を広げた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "デカルトは、学園を離れるとともに書斎で読まれるような「書物」を捨てた。そして、猶予のない決断を迫る「世間という大きな書物」の中に飛び込んでいくことを決意する。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "1618年、デカルト22歳のとき、オランダに赴きナッサウ伯マウリッツの軍隊に加わる。ただし、八十年戦争は1609年に休戦協定が結ばれており、実際の戦闘はなかった。マウリッツの軍隊は近代化されており、ステヴィン等の優れた数学者、技師などの起用によって、新兵器の開発も盛んであったことが知られていた。デカルトは自然科学者との交流を求めて、マウリッツの軍隊を選んだとも考えられる。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "1618年11月、オランダ国境の要塞都市ブレダにおいて、イザーク・ベークマンという、医者でありながら自然学者・数学者としての幅広い知識をもつ人物に出会う。ベークマンは、原子・真空・運動の保存を認める近代物理学に近い考えを持っていた。コペルニクスの支持者でもあった。ベークマンは青年デカルトの数学の造詣の深さに驚き、そしてデカルトは、感化されるところまではいかないものの、学院を卒業以来久しい知的な刺激を受けた。このときの研究の主題は、物理学の自由落下の法則・水圧の分圧の原理・三次方程式の解法・角の三等分のための定規の考案などである。処女作となる『音楽提要』はベークマンに贈られる。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "1619年4月、三十年戦争が起こったことを聞いたデカルトは、この戦いに参加するためにドイツへと旅立つ。これは、休戦状態の続くマウリッツの軍隊での生活に退屈していたことも原因であった。フランクフルトでの皇帝フェルディナント2世の戴冠式に列席し、バイエルン公マクシミリアン1世の軍隊に入る。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "1619年10月からノイブルクで炉部屋にこもり、精神力のすべてをかけて自分自身の生きる道を見つけようとする。そして11月10日の昼間に、「驚くべき学問の基礎」を発見し、夜に3つの神秘的な夢をみる。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "1623年から1625年にかけて、ヴェネツィア、ローマを渡り歩く。旅を終えたデカルトはパリにしばらく住む。その間に、メルセンヌを中心として、亡命中のホッブズ、ピエール・ガッサンディなどの哲学者や、その他さまざまな学者と交友を深める。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "そして、教皇使節ド・バニュの屋敷での集まりにおいて、彼は初めて公衆の面前で自分の哲学についての構想を明らかにすることになる。そこにはオラトリオ修道会の神父たちもいた。その創立者枢機卿ド=ベリュルはデカルトの語る新しい哲学の構想を理解し、それを実現させるべく努めることがデカルトの「良心の義務」だとまでいって、研究に取り組むことを強く勧めた。1628年、オランダ移住直前に、自らの方法について考察して『精神指導の規則』をラテン語で書く。未完である。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "1628年にオランダに移住する。その理由は、この国が八十年戦争によって立派な規律を生み出しており、最も人口の多い町で得られる便利さを欠くことなく、「孤独な隠れた生活」を送ることができるためであった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "32歳のデカルトは、自己の使命を自覚して本格的に哲学にとりかかる。この頃に書かれたのが『世界論』(『宇宙論』)である。これは、デカルトの機械論的世界観をその誕生から解き明かしたものであった。しかし、1633年にガリレイが地動説を唱えたのに対して、ローマの異端審問所が審問、そして地動説の破棄を求めた事件が起こる。これを知ったデカルトは、『世界論』の公刊を断念した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "1637年、『方法序説』を公刊する。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "1641年、デカルト45歳のとき、パリで『省察』を公刊する。この『省察』には、公刊前にホッブズ、ガッサンディなどに原稿を渡して反論をもらっておき、それに対しての再反論をあらかじめ付した。『省察』公刊に前後してデカルトの評判は高まる。その一方で、この年の暮れからユトレヒト大学の神学教授ヴォエティウスによって「無神論を広める思想家」として非難を受け始める。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "1643年5月、プファルツ公女エリーザベト(プファルツ選帝侯フリードリヒ5世の長女)との書簡のやりとりを始め、これはデカルトの死まで続く。エリーザベトの指摘により、心身問題についてデカルトは興味を持ち始める。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "1644年、『哲学原理』を公刊する。エリーザベトへの献辞がつけられる。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "1645年6月、ヴォエティウスとデカルトの争いを沈静化させるために、ユトレヒト市はデカルト哲学に関する出版・論議を一切禁じる。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "1649年『情念論』を公刊する。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "1649年の初めから2月にかけて、スウェーデン女王クリスティーナから招きの親書を3度受け取る。そして、4月にはスウェーデンの海軍提督が軍艦をもって迎えにきた。女王が冬を避けるように伝えたにもかかわらず、デカルトは9月に出発し、10月にはストックホルムへ到着した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "1650年1月から、女王のために朝5時からの講義を行う。朝寝の習慣があるデカルトには辛い毎日だった。2月にデカルトは風邪をこじらせて肺炎を併発し、死去した。デカルトは、クリスティーナ女王のカトリックの帰依に貢献した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "デカルトの遺体はスウェーデンで埋葬されたが、1666年にフランスのパリ市内のサント=ジュヌヴィエーヴ修道院に移され、その後、フランス革命の動乱を経て、1792年にサン=ジェルマン=デ=プレ教会に移された。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "『哲学の原理』の仏語訳者へ宛てた手紙の中に示されるように、哲学全体は一本の木に例えられ、根に形而上学、幹に自然学、枝に諸々のその他の学問が当てられ、そこには機械学、医学、道徳という果実が実り、哲学の成果は、枝に実る諸学問から得られる、と考えた。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "デカルトの哲学体系は人文学系の学問を含まない。これは、『方法序説』第一部にも明らかなように、デカルトが歴史学・文献学に興味を持たず、もっぱら数学・幾何学の研究によって得られた明晰判明さの概念の上にその体系を考えたことが原因として挙げられる。これに対して後にヴィーコなどが反論することとなった。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "ものを学ぶためというよりも、教えることに向いていると思われた当時の論理学に替わる方法を求めた。そこで、最も単純な要素から始めてそれを演繹していけば最も複雑なものに達しうるという、還元主義的・数学的な考えを規範にして、以下の4つの規則を定めた。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "幼児の時から無批判に受け入れてきた先入観を排除し、真理に至るために、一旦全てのものをデカルトは疑う。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "この方法的懐疑の特徴として、2点挙げられる。1つ目は懐疑を抱くことに本人が意識的・仮定的であること、2つ目は一度でも惑いが生じたものならば、すなわち少しでも疑わしければ、それを完全に排除することである。つまり、方法的懐疑とは、積極的懐疑のことである。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "この強力な方法的懐疑は、もう何も確実であるといえるものはないと思えるところまで続けられる。まず、肉体の与える感覚(外部感覚)は、しばしば間違うので偽とされる。また、「痛い」「甘い」といった内部感覚や「自分が目覚めている」といった自覚すら、覚醒と睡眠を判断する指標は何もないことから偽とされる。さらに、正しいと思っている場合でも、後になって間違っていると気付くことがあるから、計算(2+3=5のような)も排除される。そして、究極的に、真理の源泉である神が実は欺く神 (Dieu trompeur) で、自分が認める全てのものが悪い霊 (genius malignus)の謀略にすぎないかもしれない、とされ、このようにあらゆるものが疑いにかけられることになる。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "この方法的懐疑の特徴は、当時の哲学者としてはほとんど初めて、「表象」と「外在」の不一致を疑ったことにある。対象が意識の中に現われている姿を表象と呼ぶが(デカルトは観念 仏:Idée と呼んでいた)、これはプラトンやアリストテレスにおいては外在の対象と一致すると思われていた。しかし、デカルトは方法的懐疑を推し進めることによって、この一致そのものを問題に付したのである。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "方法的懐疑を経て、肉体を含む全ての外的事物が懐疑にかけられ、純化された精神だけが残り、デカルトは、「私がこのように“全ては偽である”と考えている間、その私自身はなにものかでなければならない」、これだけは真であるといえる絶対確実なことを発見する。これが「私は考える、ゆえに私はある」Je pense, donc je suis(フランス語)である。ちなみに、有名な「我思う、ゆえに我あり」コギト・エルゴ・スム cogito ergo sum(ラテン語)とのラテン語表現は『真理の探究』でなされているが、これは第三者による訳で、デカルト自身がこのような表現をしたのは、後に彼がラテン語で執筆した『哲学原理』においてである。方法序説はラテン語訳が出版され、「Ego cogito, ergo sum, sive existo 」との表現がとらえている。詳細は同名の内部リンクを参照。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "コギト・エルゴ・スムは、方法的懐疑を経て「考える」たびに成立する。そして、「我思う、故に我あり」という命題が明晰かつ判明に知られるものであることから、その条件を真理を判定する一般規則として立てて、「自己の精神に明晰かつ判明に認知されるところのものは真である」と設定する(明晰判明の規則)",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "のちのスピノザは、コギト・エルゴ・スムは三段論法ではなく、コギトとスムは単一の命題を言っているのであり、「私は思いつつ、ある」と同義であるとした。そのスピノザの解釈から、カントはエルゴを不要とし(デカルト自身もエルゴの不要性については考えていた)、コギト・エルゴ・スムは経験的命題であり自意識によるものだとした。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "欺く神 (Dieu trompeur)・ 悪い霊 (genius malignus) を否定し、誠実な神を見出すために、デカルトは神の存在証明を行う。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "悪い霊という仮定は神の完全性・無限性から否定され誠実な神が見出される。誠実な神が人間を欺くということはないために、ここに至って、方法的懐疑によって退けられていた自己の認識能力は改めて信頼を取り戻すことになる。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "物体の本質と存在の説明も、デカルト的な自然観を適用するための準備として不可欠である。三次元の空間の中で確保される性質(幅・奥行き・高さ)、すなわち「延長」こそ物体の本質であり、これは解析幾何学的手法によって把捉される。一方、物体に関わる感覚的条件(熱い、甘い、臭いetc.)は物体が感覚器官を触発することによって与えられる。なにものかが与えられるためには、与えるものがまずもって存在しなければならないから、物体は存在することが確認される。しかし、存在するからといって、方法的懐疑によって一旦退けられた感覚によってその本質を理解することはできない。純粋な数学・幾何学的な知のみが外在としての物体と対応する。このことから、後述する機械論的世界観が生まれる。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "明晰判明の規則は存在証明によって絶対確実な信念をもって適用され、更に物体の本質と存在が説明された後で、明晰判明に知られる数学的・力学的知識はそのまま外部に実在を持つことが保証される。結果、数学的・力学的世界として、自然は理解されることになる。コギトを梃子に、世界はその実在を明らかにされるのである。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "なお、このような「神」は、デカルトの思想にとってとりわけ都合のよいものである。ブレーズ・パスカルはこの事実を指摘し、『パンセ』の中で「アブラハム、イサク、ヤコブの神。哲学者、科学者の神にあらず」とデカルトを批判した。すなわち、デカルトの神は単に科学上の条件の一部であって、主体的に出会う信仰対象ではない、というのである。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "1643年5月の公女エリーザベトからの書簡において、デカルトは、自身の哲学において実在的に区別される心(精神)と体(延長)が、どのようにして相互作用を起こしうるのか、という質問を受ける。この質問は、心身の厳格な区別を説くデカルトに対する、本質的な、核心をついた質問であった。それに対してデカルトは、心身合一の次元があることを認める。この書簡の後もデカルトは薄幸な公女の悩みや悲しみに対して助言をしたり、公刊された書物の中では見せなかった率直な意見を述べたりと、書簡のやり取りを続け、その間に情念はどのように生じ、どうすれば統御できるのか、というエリーザベトの問いに答える著作に取り組んだ。それは1649年の『情念論』として結実することになる。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "『情念論』において、デカルトは人間を精神と身体とが分かち難く結びついている存在として捉えた。喉が痛いのは体が不調だからである。「痛い」という内部感覚は意識の中での出来事であり、外在としての身体と結びつくことは本来ないはずである。しかし、現実問題としてそれは常識である。デカルトはこの事実に妥協し、これらを繋ぐ結び目は脳の奥の松果腺において顕著であり、その腺を精神が動かす(能動)、もしくは動物精気 (esprits animaux) と呼ばれる血液が希薄化したものによって動かされる(受動)ことによって、精神と身体が相互作用を起こす、と考えた。そして、ただ生理学的説明だけに留まらず、基本的な情念を「驚き」「愛」「憎しみ」「欲望」「喜び」「悲しみ」の6つに分類した後、自由意志の善用による「高邁」の心の獲得を説いた。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "デカルトが(能動としての)精神と(受動としての)身体との間に相互作用を認めたことと、一方で精神と身体の区別を立てていることは、論理の上で、矛盾を犯している。後の合理主義哲学者(スピノザ、ライプニッツ)らはこの二元論の難点を理論的に克服することを試みた。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "1645年11月3日のエリーザベトへのデカルトの書簡を見てみると、デカルトは自身の哲学の二元性をあくまでも実践的・実際的問題として捉えていたことが窺われる。デカルトはその書簡において、自由意志と神の無限性が論理的には両立しないことを認めながら、自由意志の経験と神の認識が両立の事実を明らかにしていると書いている。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "デカルトは、物体の基本的な運動は、直線運動であること、動いている物体は、抵抗がない限り動き続けること(慣性の法則)、一定の運動量が宇宙全体で保存されること(運動量保存則)など、(神によって保持される)法則によって粒子の運動が確定されるとした。この考えは、精神に物体的な風や光を、宇宙に生命を見たルネサンス期の哲学者の感覚的・物活論的世界観とは全く違っており、力学的な法則の支配する客観的世界観を見出した点で重要である。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "更にデカルトは、見出した物理法則を『世界論』(宇宙論)において宇宙全体にも適用し、粒子の渦状の運動として宇宙の創生を説く渦動説を唱えた。その宇宙論は、",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "という点で過去の宇宙論とは一線を画すものであった。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "デカルトは見出した法則を数学的に定式化せず、また実験的検証を欠いたことで法則の具体的な値にも誤謬が多い。そのために科学史の上ではガリレイとニュートンの間で、独断論に陥った例として取り上げられることが多かった。しかし今日ではニュートンはデカルトの『哲学の原理』を熱心に読んでいたことが科学史家ヘリヴェルの研究によって明らかにされるなど、その位置付けが見直されている。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "また、デカルトは動物機械論(英語版)や身体機械論を唱え、これは人間機械論に影響を与えた。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "デカルトは動物が痛みを感じる能力を否定する動物機械論を信じており、意識のある動物(主に犬が使用された)を生体解剖(生きたまま解剖)し、動物がもがき悲鳴をあげても、見学者に心配しないように伝え、動物のこれらの反応が、プログラムされた応答にすぎないと主張した。デカルトのこのような思想や行為が、のちの動物福祉運動や動物の権利運動に大きな影響を及ぼすことになる。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "デカルトは、『方法叙説』「第三部」において、「備えのための道徳morale par provision」と呼ばれる幾つかの格律を立てた。これは、全般的な懐疑を遂行し自らの思想を再構築する思索を遂行している最中も、不決断に陥らずかつ幸福に生きることができるようにするためである。その三つは要約すると",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "次のようになる。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "ただし上の三つの格律はあくまで哲学的探究の過程で従うべき生き方である。例えば第一確率に関しては、最終的には自らの判断力によって正しい意見を発見することが望ましく、定評ある意見に無条件に満足し続けるべきではない、とデカルトは断っている。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "2つの実数によって平面上の点の位置(座標)を表すという方法は、デカルトによって発明され、『方法序説』の中で初めて用いられた。この座標はデカルト座標と呼ばれ、デカルト座標の入った平面をデカルト平面という。デカルト座標、デカルト平面によって、後の解析幾何学の発展の基礎が築かれた。座標という考え方は今日、小学校の算数で教えられるほど一般的なものとなっている。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "また、今日、数式の表記でアルファベットの最初の方 (a,b,c,...) を定数に、最後の方 (...,x,y,z) に未知数をあて、ある量(例えばx)の係数を左に(2x)、冪数を右に( x 3 {\\displaystyle x^{3}} )に書く表記法はデカルトが始めた。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "ちなみに、アルファベットを用いた数式というだけであれば、『解析術序論』を著したフランソワ・ビエトの方が先で、子音を定数に、母音を未知数にあてた。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "デカルトはその新たな手法によって西洋哲学の流れを大きく変えたため、近代西洋哲学の父とみなされ、その基礎を築いた思想家の一人に数えられる 。中でも方法的懐疑を定式化した『第一哲学に関する諸省察』の最初の2篇は、デカルトの著作の中で特に近代の哲学に大きな影響を与えた 。 しかし当のデカルト本人は彼の考え方が歴史的にどれほど革命的であったかは理解していなかった。それでも哲学において「何が真実か」という議論を「何が疑えない事実か」という議論にシフトすることで、デカルトは間違いなくキリスト教的な神中心の真理探求を人間の理性に基づく真理探求へと変えた。",
"title": "歴史的影響"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "彼の論じた人文主義的な、人間性を重視した哲学の転換により、人間は主体的で、独立した理性を備える自由な存在と考えられるようになった。そしてこれは近代の学問の基礎を確立し、その影響は今もなお続いている。言い換えれば、中世のキリスト教的な真理や教会の教義から人類が解放され、人類が理性に基づき自ら法を作り、独立した主体としての立場をとるようになったのだ。近代においては、彼の影響から真理を保証するのはもはや神ではなく人間であるとの考えが強まった.。そうすることで、人間に対する見方は、神に従順な存在ではなく、理性的で主体的な存在へと近づいていった。そしてこのような観点の変化こそ、キリスト教的な中世から理性的な近代への転換であり、他の分野でも期待されていたことであったが、デカルトによって特に哲学の分野では顕著に現れるようになった。",
"title": "歴史的影響"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "この人間の理性を独立的なものとして確立したデカルトの人間中心主義的な観点は、啓蒙主義として、哲学がキリスト教と教会から離れるきっかけを作った。またマルティン・ハイデガーによれば、デカルトの視点は、その後のすべての人類学の基礎ともなったほど重要なものだという。このようにデカルトの哲学は、現代の人間中心主義や主観主義の原因になったと言われる。",
"title": "歴史的影響"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "『方法序説』はデカルト存命中に500部の単行本として出版され、そのうち200部は彼自信のために確保された。同じような運命をたどったのは『省察』のフランス語版で、デカルトの死後も完売することはなかった。しかし、『省察』のラテン語版はヨーロッパの学者たちの間で熱狂的な人気をはくし、商業的な成功を収めた。",
"title": "歴史的影響"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "晩年に近づくにつれて、デカルトの存在は哲学界でよく知られていたものの、彼の著作を学校で教えることには賛否両論があった。例としてユトレヒト大学の医学部教授であったアンリ・ド・ロワは、デカルトの物理学を大学で教えたことで、同大学の学長であったギスバート・ヴォートから非難されることになる。",
"title": "歴史的影響"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "他にも、『省察』の英訳をしたことで知られるジョン・コッティンガムによれば、デカルトの『第一哲学に関する諸省察』は「西洋哲学の重要な文献のひとつ」であるとされている。またコッティンガムによれば、『省察』はデカルトの著作の中でも「最も広く研究されている」著作だという。",
"title": "歴史的影響"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "エコノミスト誌の元シニア・エディターで、『理性の夢』と『啓蒙の夢』の著者であるアンソニー・ゴットリーブによれば、デカルトとトマス・ホッブズが2020年代でも議論され続けている理由のひとつは、「科学の進歩は、私たち自身と私たちの宗教観にどう影響するか」、「政府は宗教の多様性にどう対処すべきか」といった問いに、彼らの哲学が深く関連するからだという。",
"title": "歴史的影響"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "デカルトの薔薇十字団との関与については様々な議論がある。",
"title": "歴史的影響"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "彼の名の頭文字が、薔薇十字団員(ローゼンクロイツァー)の頭文字R.C.と結びついていることや、1619年に薔薇十字運動の中心地として有名なウルムに移り住んだこと、ドイツを旅している間に、薔薇十字団の兄弟結社に所属するヨハネス・ファウルハーバーと出会っていたことなどから様々な憶測が飛び交っている。",
"title": "歴史的影響"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "また、デカルトは『ポリビウスの数学的宝庫、世界市民』と題された作品を「世界中の学識ある人々、特にドイツの著名なB.R.C.(バラ十字の兄弟組織)」に献呈した。この作品は未完で、出版は不確かであるが、薔薇十字団との関与を示唆しているとされる。",
"title": "歴史的影響"
},
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] | ルネ・デカルトは、フランス生まれの哲学者、数学者。合理主義哲学の祖であり、近世哲学の祖として知られる。 | {{redirect|デカルト}}
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'''ルネ・デカルト'''({{lang-fr-short|René Descartes}}、[[1596年]][[3月31日]] - [[1650年]][[2月11日]])は、[[フランス]]生まれの[[哲学者]]、[[数学者]]。[[合理主義哲学]]の祖であり、[[近世哲学]]の祖として知られる。
== 名前 ==
ラテン語名は'''レナトゥス・カルテシウス''' (Renatus Cartesius) である。[[直交座標系|デカルト座標系]]({{lang-fr-short|système de coordonnées cartésiennes}} ; {{lang-en-short|Cartesian coordinate system}})、[[直積集合|デカルト積]](デカルトせき、英: Cartesian product)のようにデカルトの名がついたものにカルテジアン(Cartesian)という表現が用いられる。[[デカルト主義]]者もカルテジアン({{lang-fr-short|Cartésien}} ; {{lang-en-short|Cartesian}})と呼ばれる。
== 概要 ==
考える主体としての自己(精神)とその存在を定式化した「[[我思う、ゆえに我あり]]」は哲学史上で最も有名な命題の一つである。そしてこの命題は、当時の保守的思想であった[[スコラ学|スコラ哲学]]の教えであるところの「信仰」による真理の獲得ではなく、人間の持つ「自然の光([[理性]])」を用いて真理を探求していこうとする[[近代哲学]]の出発点を簡潔に表現している。デカルトが「近代哲学の父」と称される所以である。
ただし、デカルトはそのすべてを信仰も根ざして考えており、著書『方法序説』においても神の存在証明を哲学的にしようと試みてさえいる。
初めて哲学書として出版した著作『[[方法序説]]』(1637年)において、冒頭が「[[ボン・サンス|良識 (bon sens)]] はこの世で最も公平に配分されているものである」という文で始まるため、思想の[[wikt:領域|領域]]における[[人権宣言]]にも比される。
また、当時学術的な論文は[[ラテン語]]で書かれるのが通例であった中で、デカルトは『方法序説』を母語である[[フランス語]]で書いた。その後のフランス文学が「明晰かつ判明」を指標とするようになったのは、デカルトの影響が大きい、ともいわれる。
== 生涯 ==
=== 生い立ち、学生時代 ===
デカルトは[[1596年]]に、中部フランスの西側にある[[アンドル=エ=ロワール県]]の[[ラ・エー]]に生まれた。父は[[ブルターニュ]]の高等法院評定官であった。母からは、空咳と青白い顔色を受け継ぎ、診察した医師たちからは、夭折を宣告された。母は病弱で、デカルトを生んだ後13ヶ月で亡くなる。母を失ったデカルトは、祖母と乳母に育てられる。
[[1606年]]、デカルト10歳のとき、[[イエズス会]]の[[ラ・フレーシュ]] (La Flèche) 学院に入学する。1585年の時点で、イエズス会の学校はフランスに15校出来ており、多くの生徒が在籍していた。その中でも[[フランス王国|フランス]]王[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]自身が邸宅を提供したことで有名であるラ・フレーシュ学院は、1604年に創立され、優秀な教師、生徒が集められていた。
イエズス会は反[[宗教改革]]・反[[人文主義]](反[[ヒューマニズム]])の気風から、生徒を[[カトリック教会|カトリック]]信仰へと導こうとした。そして信仰と理性は調和する、という考え([[プロテスタント]]では「信仰と理性は調和しない」とされる)から[[スコラ学|スコラ哲学]]を[[カリキュラム]]に取り入れ、また自然研究などの新発見の導入にも積極的であった。[[1610年]]に、[[ガリレオ・ガリレイ]]が初めて望遠鏡を作り、[[木星の衛星と環|木星の衛星]]を発見したとの知らせに、学院で祝祭が催されたほどである。ただし、哲学は[[神学]]の予備学としてのみ存在し、不確実な哲学は神学によって完成されると考えられていた。
デカルトは学院において従順で優秀な生徒であり、教えられる学問([[論理学]]・[[形而上学]]・[[自然学]])だけでなく[[占星術]]や魔術など秘術の類(たぐい)のものも含めて多くの書物を読んだ。そして、学問の中ではとりわけ数学を好んだ。カリキュラムの一つである哲学的討論においては数学的な手法を用いて相手を困らせた。のちに[[ミニモ会]]士になり、終生の友人となる[[マラン・メルセンヌ]]は、学院の先輩に当たる。
好んだ数学に対して、神学・スコラ学の非厳密性、蓋然性は際立ち、それを基礎にした学院の知識に対して、懐疑が生まれることになる。しかし、この学院での教育や教師たちに、デカルトは終生感謝の念を持ち続けた。
[[1614年]]、デカルトは18歳で学院を卒業する。その後[[ポワティエ大学]]に進み、法学・医学を修めた。[[1616年]]、デカルト20歳のとき、法学士の学位を受けて卒業する。この後2年間は、自由気ままに生活したと考えられる。[[パリ]]で学院時代の友人である[[マラン・メルセンヌ|メルセンヌ]]に再会し、偉大な数学者[[フランシス=ヴィエタ]](ヴィエタについては[[#数学]]も参照)の後を継ぐものと騒がれた数学者[[クロード・ミドルジ]]と知り合うなど、交際を広げた。
=== 遍歴時代 ===
デカルトは、学園を離れるとともに書斎で読まれるような「書物」を捨てた。そして、猶予のない決断を迫る「世間という大きな書物」の中に飛び込んでいくことを決意する。
[[1618年]]、デカルト22歳のとき、オランダに赴き[[マウリッツ (オラニエ公)|ナッサウ伯マウリッツ]]の軍隊に加わる。ただし、[[八十年戦争]]は[[1609年]]に休戦協定が結ばれており、実際の戦闘はなかった。マウリッツの軍隊は近代化されており、[[ステヴィン]]等の優れた数学者、技師などの起用によって、新兵器の開発も盛んであったことが知られていた。デカルトは[[自然科学者]]との交流を求めて、マウリッツの軍隊を選んだとも考えられる。
[[1618年]]11月、オランダ国境の要塞都市[[ブレダ (オランダ)|ブレダ]]において、[[イザーク・ベークマン]]という、医者でありながら自然学者・数学者としての幅広い知識をもつ人物に出会う。ベークマンは、[[原子]]・[[真空]]・運動の保存を認める[[近代物理学]]に近い考えを持っていた。[[コペルニクス]]の支持者でもあった。ベークマンは青年デカルトの数学の造詣の深さに驚き、そしてデカルトは、感化されるところまではいかないものの、学院を卒業以来久しい知的な刺激を受けた。このときの研究の主題は、物理学の[[自由落下]]の法則・水圧の分圧の原理・三次方程式の解法・角の三等分のための定規の考案などである。処女作となる『音楽提要』はベークマンに贈られる。
[[1619年]]4月、[[三十年戦争]]が起こったことを聞いたデカルトは、この戦いに参加するためにドイツへと旅立つ。これは、休戦状態の続くマウリッツの軍隊での生活に退屈していたことも原因であった。[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]での皇帝[[フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント2世]]の戴冠式に列席し、[[バイエルン大公|バイエルン公]][[マクシミリアン1世 (バイエルン選帝侯)|マクシミリアン1世]]の軍隊に入る。
1619年10月から[[ノイブルク・アン・デア・ドナウ|ノイブルク]]で炉部屋にこもり、精神力のすべてをかけて自分自身の生きる道を見つけようとする。そして11月10日の昼間に、「驚くべき学問の基礎」を発見し、夜に3つの神秘的な夢をみる。
=== パリでの交流 ===
[[1623年]]から[[1625年]]にかけて、[[ヴェネツィア]]、[[ローマ]]を渡り歩く。旅を終えたデカルトは[[パリ]]にしばらく住む。その間に、[[メルセンヌ]]を中心として、亡命中の[[トマス・ホッブズ|ホッブズ]]、[[ピエール・ガッサンディ]]などの哲学者や、その他さまざまな学者と交友を深める。
そして、教皇使節ド・バニュの屋敷での集まりにおいて、彼は初めて公衆の面前で自分の哲学についての構想を明らかにすることになる。そこにはオラトリオ修道会の神父たちもいた。その創立者[[枢機卿]][[ド=ベリュル]]はデカルトの語る新しい哲学の構想を理解し、それを実現させるべく努めることがデカルトの「良心の義務」だとまでいって、研究に取り組むことを強く勧めた。[[1628年]]、オランダ移住直前に、自らの方法について考察して『精神指導の規則』を[[ラテン語]]で書く。未完である。
=== オランダでの隠棲時代 ===
1628年にオランダに移住する。その理由は、この国が[[八十年戦争]]によって立派な規律を生み出しており、最も人口の多い町で得られる便利さを欠くことなく、「孤独な隠れた生活」を送ることができるためであった。
32歳のデカルトは、自己の使命を自覚して本格的に哲学にとりかかる。この頃に書かれたのが『世界論』(『宇宙論』)である。これは、デカルトの[[機械論]]的世界観をその誕生から解き明かしたものであった。しかし、[[1633年]]に[[ガリレオ・ガリレイ|ガリレイ]]が[[地動説]]を唱えたのに対して、ローマの[[異端審問]]所が審問、そして地動説の破棄を求めた事件が起こる。これを知ったデカルトは、『世界論』の公刊を断念した。
[[1637年]]、『[[方法序説]]』を公刊する。
[[1641年]]、デカルト45歳のとき、パリで『省察』を公刊する。この『省察』には、公刊前に[[トマス・ホッブズ|ホッブズ]]、[[ピエール・ガッサンディ|ガッサンディ]]などに原稿を渡して反論をもらっておき、それに対しての再反論をあらかじめ付した。『省察』公刊に前後してデカルトの評判は高まる。その一方で、この年の暮れから[[ユトレヒト大学]]の神学教授ヴォエティウスによって「[[無神論]]を広める思想家」として非難を受け始める。
[[1643年]]5月、[[ライン宮中伯|プファルツ]]公女[[エリーザベト・フォン・デア・プファルツ (1618-1680)|エリーザベト]](プファルツ選帝侯[[フリードリヒ5世 (プファルツ選帝侯)|フリードリヒ5世]]の長女)との書簡のやりとりを始め、これはデカルトの死まで続く。エリーザベトの指摘により、[[心身問題]]についてデカルトは興味を持ち始める。
[[1644年]]、『哲学原理』を公刊する。エリーザベトへの献辞がつけられる。
[[1645年]]6月、ヴォエティウスとデカルトの争いを沈静化させるために、[[ユトレヒト]]市はデカルト哲学に関する出版・論議を一切禁じる。
[[1649年]]『[[情念論]]』を公刊する。
=== 最後の旅 ===
[[画像:René Descartes i samtal med Sveriges drottning, Kristina.jpg|200px|thumb|クリスティーナ(左)とデカルト(右)]]
1649年の初めから2月にかけて、[[スウェーデン]]女王[[クリスティーナ (スウェーデン女王)|クリスティーナ]]から招きの親書を3度受け取る。そして、4月にはスウェーデンの海軍提督が軍艦をもって迎えにきた。女王が冬を避けるように伝えたにもかかわらず、デカルトは9月に出発し、10月には[[ストックホルム]]へ到着した。
[[1650年]]1月から、女王のために朝5時からの講義を行う。朝寝の習慣があるデカルトには辛い毎日だった。2月にデカルトは[[風邪]]をこじらせて[[肺炎]]を併発し、死去した。デカルトは、クリスティーナ女王のカトリックの帰依に貢献した。
デカルトの遺体はスウェーデンで埋葬されたが、[[1666年]]にフランスのパリ市内の[[サント=ジュヌヴィエーヴ修道院]]に移され、その後、[[フランス革命]]の動乱を経て、[[1792年]]に[[サン=ジェルマン=デ=プレ教会]]に移された<ref group="注釈">[[1821年]]にスウェーデンで発見された頭蓋骨だけは、パリ市内にある[[シャイヨ宮]]の[[人類博物館]]に保存され、[[1999年]][[7月31日]]から同[[10月17日]]まで日本の[[国立科学博物館]]で開催された<大「顔」展>で、頭蓋骨のデータを元に復元された胸像とともに、展示された。[[人類博物館]]は[[2010年]]現在改装中のため、頭蓋骨は同市内の[[国立自然史博物館 (フランス)|国立自然史博物館]]に保管されており、展示はされていない。</ref>。
== 思想 ==
=== 哲学 ===
==== 体系 ====
『哲学の原理』の仏語訳者へ宛てた手紙の中に示されるように、哲学全体は一本の木に例えられ、根に[[形而上学]]、幹に[[自然学]]、枝に諸々のその他の学問が当てられ、そこには機械学、医学、道徳という果実が実り、哲学の成果は、枝に実る諸学問から得られる、と考えた。
デカルトの哲学体系は人文学系の学問を含まない。これは、『[[方法序説]]』第一部にも明らかなように、デカルトが[[歴史学]]・[[文献学]]に興味を持たず、もっぱら[[数学]]・[[幾何学]]の研究によって得られた明晰判明さの概念の上にその体系を考えたことが原因として挙げられる。これに対して後に[[ジャンバッティスタ・ヴィーコ|ヴィーコ]]などが反論することとなった。
==== 方法 ====
ものを学ぶためというよりも、教えることに向いていると思われた当時の論理学に替わる方法を求めた。そこで、最も単純な要素から始めてそれを[[演繹]]していけば最も複雑なものに達しうるという、[[還元主義]]的・数学的な考えを規範にして、以下の4つの規則を定めた。
#明証的に真であると認めたもの以外、決して受け入れないこと。(明証)
#考える問題をできるだけ小さい部分にわけること。([[分析]])
#最も単純なものから始めて複雑なものに達すること。(総合)
#何も見落とさなかったか、全てを見直すこと。(枚挙 / 吟味)
=== 形而上学 ===
==== 方法的懐疑 ====
幼児の時から無批判に受け入れてきた先入観を排除し、真理に至るために、一旦全てのものをデカルトは疑う。
この[[方法的懐疑]]の特徴として、2点挙げられる。1つ目は懐疑を抱くことに本人が意識的・仮定的であること、2つ目は一度でも惑いが生じたものならば、すなわち少しでも疑わしければ、それを完全に排除することである。つまり、方法的懐疑とは、'''積極的'''懐疑のことである。
この強力な方法的懐疑は、もう何も確実であるといえるものはないと思えるところまで続けられる。まず、肉体の与える[[感覚]](外部感覚)は、しばしば間違うので偽とされる。また、「痛い」「甘い」といった内部感覚や「自分が目覚めている」といった自覚すら、覚醒と睡眠を判断する指標は何もないことから偽とされる。さらに、正しいと思っている場合でも、後になって間違っていると気付くことがあるから、計算(2+3=5のような)も排除される。そして、究極的に、真理の源泉である神が実は'''欺く神''' (Dieu trompeur) で、自分が認める全てのものが'''悪い霊''' (genius malignus)の謀略にすぎないかもしれない、とされ、このようにあらゆるものが疑いにかけられることになる。
この方法的懐疑の特徴は、当時の哲学者としてはほとんど初めて、「表象」と「外在」の不一致を疑ったことにある。対象が意識の中に現われている姿を[[表象]]と呼ぶが(デカルトは[[観念]] 仏:Idée と呼んでいた)、これは[[プラトン]]や[[アリストテレス]]においては外在の対象と一致すると思われていた。しかし、デカルトは方法的懐疑を推し進めることによって、この一致そのものを問題に付したのである。
==== コギト・エルゴ・スム ====
[[画像:DescartesMeditations.png|170px|thumb|『省察』(1641年)]]
方法的懐疑を経て、肉体を含む全ての外的事物が懐疑にかけられ、純化された精神だけが残り、デカルトは、「私がこのように“全ては偽である”と考えている間、その私自身はなにものかでなければならない」、これだけは真であるといえる[[基礎付け主義|絶対確実なこと]]を発見する。これが「私は考える、ゆえに私はある」'''Je pense, donc je suis{{small|([[フランス語]])}}'''である。ちなみに、有名な「[[我思う、ゆえに我あり]]」'''コギト・エルゴ・スム cogito ergo sum{{small|([[ラテン語]])}}'''とのラテン語表現は『真理の探究』でなされているが、これは第三者による訳で、デカルト自身がこのような表現をしたのは、後に彼がラテン語で執筆した『哲学原理』においてである<ref>ルネ・デカルト『方法序説』、山田弘明訳、ちくま書房〈ちくま学芸文庫〉、pp.234-235</ref>。方法序説はラテン語訳が出版され、「Ego cogito, ergo sum, sive existo 」との表現がとらえている{{efn|幾何学部分以外は、神学者のエティエンヌ・ド・クルセル Etienne de Courcelles) がラテン語に訳し、デカルト自身が校閲したとのことである<ref>ルネ・デカルト『方法序説』落合太郎訳、岩波文庫、(訳者「解題」pp.6-7)</ref>。}}。詳細は同名の内部リンクを参照。
コギト・エルゴ・スムは、方法的懐疑を経て「考える」たびに成立する。そして、「我思う、故に我あり」という命題が明晰かつ判明に知られるものであることから、その条件を真理を判定する一般規則として立てて、「自己の精神に明晰かつ判明に認知されるところのものは真である」と設定する([[真理|明晰判明の規則]])
のちの[[バールーフ・デ・スピノザ|スピノザ]]は、コギト・エルゴ・スムは[[三段論法]]ではなく、コギトとスムは単一の命題を言っているのであり、「私は思いつつ、ある」と同義であるとした。そのスピノザの解釈から、[[カント]]はエルゴを不要とし(デカルト自身もエルゴの不要性については考えていた)、コギト・エルゴ・スムは経験的命題であり自意識によるものだとした<ref group="注釈">スピノザとカントはデカルトの継承者としてデカルトを読み替えていく</ref>。
==== 神の存在証明 ====
'''欺く神''' (Dieu trompeur)・ '''悪い霊''' (genius malignus) を否定し、誠実な神を見出すために、デカルトは[[神の存在証明]]を行う。
#第一証明 - 意識の中における神の観念の無限な'''表現的実在性'''(観念の表現する実在性)は、対応する'''形相的実在性'''(現実的実在性)を必然的に導く。我々の知は常に有限であって間違いを犯すが、この「有限」であるということを知るためには、まさに「無限」の観念があらかじめ与えられていなければならない。
#第二証明 - 継続して存在するためには、その存在を保持する力が必要であり、それは神をおいて他にない。
#第三証明 - 完全な神の観念は、そのうちに存在を含む。([[アンセルムス]]以来の証明)
'''悪い霊'''という仮定は神の完全性・無限性から否定され誠実な神が見出される。誠実な神が人間を欺くということはないために、ここに至って、方法的懐疑によって退けられていた自己の認識能力は改めて信頼を取り戻すことになる。
物体の本質と存在の説明も、デカルト的な自然観を適用するための準備として不可欠である。三次元の空間の中で確保される性質(幅・奥行き・高さ)、すなわち「'''延長'''」こそ物体の本質であり、これは[[解析幾何学]]的手法によって把捉される。一方、物体に関わる感覚的条件(熱い、甘い、臭いetc.)は物体が感覚器官を触発することによって与えられる。なにものかが与えられるためには、与えるものがまずもって存在しなければならないから、物体は存在することが確認される。しかし、存在するからといって、方法的懐疑によって一旦退けられた[[感覚]]によってその本質を理解することはできない。純粋な[[数学]]・[[幾何学]]的な知のみが外在としての物体と対応する。このことから、後述する'''機械論的世界観'''が生まれる。
明晰判明の規則は存在証明によって絶対確実な信念をもって適用され、更に物体の本質と存在が説明された後で、明晰判明に知られる数学的・力学的知識はそのまま外部に実在を持つことが保証される。結果、数学的・力学的世界として、自然は理解されることになる。コギトを梃子に、世界はその実在を明らかにされるのである。
なお、このような「神」は、デカルトの思想にとってとりわけ都合のよいものである。[[ブレーズ・パスカル]]はこの事実を指摘し、『パンセ』の中で「アブラハム、イサク、ヤコブの神。哲学者、科学者の神にあらず」とデカルトを批判した。すなわち、デカルトの神は単に科学上の条件の一部であって、主体的に出会う信仰対象ではない、というのである。
==== 心身合一の問題 ====
1643年5月の公女エリーザベトからの書簡において、デカルトは、自身の哲学において実在的に区別される心(精神)と体(延長)が、どのようにして相互作用を起こしうるのか、という質問を受ける。この質問は、心身の厳格な区別を説くデカルトに対する、本質的な、核心をついた質問であった。それに対してデカルトは、[[心身合一]]の次元があることを認める。この書簡の後もデカルトは薄幸な公女の悩みや悲しみに対して助言をしたり、公刊された書物の中では見せなかった率直な意見を述べたりと、書簡のやり取りを続け、その間に情念はどのように生じ、どうすれば統御できるのか、というエリーザベトの問いに答える著作に取り組んだ。それは1649年の『情念論』として結実することになる。
『情念論』において、デカルトは人間を精神と身体とが分かち難く結びついている存在として捉えた。喉が痛いのは体が不調だからである。「痛い」という内部感覚は意識の中での出来事であり、外在としての身体と結びつくことは本来ないはずである。しかし、現実問題としてそれは常識である。デカルトはこの事実に妥協し、これらを繋ぐ結び目は脳の奥の[[松果腺]]において顕著であり、その腺を精神が動かす(能動)、もしくは[[動物精気]] (esprits animaux) と呼ばれる血液が希薄化したものによって動かされる(受動)ことによって、精神と身体が相互作用を起こす、と考えた。そして、ただ生理学的説明だけに留まらず、基本的な情念を「驚き」「愛」「憎しみ」「欲望」「喜び」「悲しみ」の6つに分類した後、[[自由意志]]の善用による「高邁」の心の獲得を説いた。
デカルトが(能動としての)精神と(受動としての)身体との間に相互作用を認めたことと、一方で精神と身体の区別を立てていることは、論理の上で、矛盾を犯している。後の[[合理主義哲学|合理主義]]哲学者([[バールーフ・デ・スピノザ|スピノザ]]、[[ゴットフリート・ライプニッツ|ライプニッツ]])らはこの二元論の難点を理論的に克服することを試みた。
1645年11月3日のエリーザベトへのデカルトの書簡を見てみると、デカルトは自身の哲学の二元性をあくまでも実践的・実際的問題として捉えていたことが窺われる。デカルトはその書簡において、自由意志と神の無限性が論理的には両立しないことを認めながら、自由意志の経験と神の認識が両立の事実を明らかにしていると書いている。
=== 自然哲学 ===
==== 機械論的世界観 ====
デカルトは、物体の基本的な運動は、直線運動であること、動いている物体は、抵抗がない限り動き続けること([[慣性の法則]])、一定の運動量が宇宙全体で保存されること(運動量保存則)など、(神によって保持される)法則によって粒子の運動が確定されるとした。この考えは、精神に物体的な風や光を、宇宙に生命を見た[[ルネサンス]]期の哲学者の感覚的・物活論的世界観とは全く違っており、力学的な法則の支配する客観的世界観を見出した点で重要である。
更にデカルトは、見出した物理法則を『世界論』([[宇宙論]])において宇宙全体にも適用し、粒子の渦状の運動として宇宙の創生を説く[[渦動説]]を唱えた。その宇宙論は、
*宇宙が誕生から粒子の運動を経て今ある姿に達したという発生的説明を与えた
*地上と、無限に広がる宇宙空間において同じ物理法則を適用した
という点で過去の宇宙論とは一線を画すものであった。
デカルトは見出した法則を数学的に定式化せず、また実験的検証を欠いたことで法則の具体的な値にも誤謬が多い。そのために[[科学史]]の上では[[ガリレオ・ガリレイ|ガリレイ]]と[[アイザック・ニュートン|ニュートン]]の間で、独断論に陥った例として取り上げられることが多かった。しかし今日ではニュートンはデカルトの『哲学の原理』を熱心に読んでいたことが科学史家ヘリヴェルの研究によって明らかにされるなど、その位置付けが見直されている<ref>神野慧一郎「デカルトあるいは熟慮断行の哲学者」20頁,『方法序説ほか』収録 中央公論新社,2001年</ref>。
また、デカルトは{{仮リンク|動物機械論|en|Animal machine}}や身体機械論を唱え、これは[[人間機械論]]に影響を与えた。
デカルトは動物が痛みを感じる能力を否定する動物機械論を信じており、意識のある動物(主に犬が使用された)を生体解剖(生きたまま解剖)し、動物がもがき悲鳴をあげても、見学者に心配しないように伝え、動物のこれらの反応が、プログラムされた応答にすぎないと主張した<ref>{{Cite web |url=https://www.animallaw.info/article/detailed-discussion-philosophy-and-animals |title=Detailed Discussion of Philosophy and Animals |accessdate=20220329}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.realclearscience.com/blog/2012/01/scientists-can-be-cruel.html |title=Scientists Have Learned from Cases of Animal Cruelty |accessdate=20220329}}</ref>。デカルトのこのような思想や行為が、のちの[[動物福祉]]運動や[[動物の権利]]運動に大きな影響を及ぼすことになる。
=== 倫理学 ===
デカルトは、『方法叙説』「第三部」において、「備えのための道徳morale par provision」と呼ばれる幾つかの格律を立てた。これは、全般的な懐疑を遂行し自らの思想を再構築する思索を遂行している最中も、不決断に陥らずかつ幸福に生きることができるようにするためである。その三つは要約すると
次のようになる。
# 自国の法律や慣習に従い、幼い頃から親しんだ宗教を保持し続け、最も穏健で定評のある意見に従うこと
# たとえ疑わしい意見に従う場合でも、一度従うと決断したらその行動指針を固く保つこと
# 運命よりも自らに打ち克ち、世界の秩序より自らの欲望を変えるよう努めること
ただし上の三つの格律はあくまで哲学的探究の過程で従うべき生き方である。例えば第一確率に関しては、最終的には自らの判断力によって正しい意見を発見することが望ましく、定評ある意見に無条件に満足し続けるべきではない、とデカルトは断っている。
=== 数学 ===
2つの実数によって平面上の点の位置([[座標]])を表すという方法は、デカルトによって発明され、『方法序説』の中で初めて用いられた。この座標は[[デカルト座標]]と呼ばれ、デカルト座標の入った平面を[[デカルト平面]]という。デカルト座標、デカルト平面によって、後の[[解析幾何学]]の発展の基礎が築かれた。座標という考え方は今日、小学校の算数で教えられるほど一般的なものとなっている。
また、今日、数式の表記でアルファベットの最初の方 (''a,b,c,…'') を定数に、最後の方 (''…,x,y,z'') に未知数をあて、ある量(例えば''x'')の係数を左に(''2x'')、[[冪数]]を右に(<math>x^3</math>)に書く表記法はデカルトが始めた。
ちなみに、アルファベットを用いた数式というだけであれば、『解析術序論』を著した[[フランソワ・ビエト]]の方が先で、子音を定数に、母音を未知数にあてた。
==歴史的影響==
===教会からの解放===
[[File:DescartesMeditations.png|thumb|Cover of ''Meditations'']]
デカルトはその新たな手法によって[[西洋哲学]]の流れを大きく変えたため、近代西洋哲学の父とみなされ、その基礎を築いた思想家の一人に数えられる<ref name="Russell2004p516" /><ref>Heidegger [1938] (2002), p. 76 quotation: </ref> 。中でも方法的懐疑を定式化した『[[第一哲学]]に関する諸省察』の最初の2篇は、デカルトの著作の中で特に近代の哲学に大きな影響を与えた<ref>[[Tad Schmaltz|Schmaltz, Tad M.]] [https://books.google.com/books?id=pIYcUBCOrNgC&pg=PA27 ''Radical Cartesianism: The French Reception of Descartes''] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20210816214240/https://books.google.com/books?id=pIYcUBCOrNgC&pg=PA27|date=16 August 2021}} p. 27 quotation: {{blockquote|The Descartes most familiar to twentieth-century philosophers is the Descartes of the first two ''Meditations'', someone preoccupied with hyperbolic doubt of the material world and the certainty of knowledge of the self that emerges from the famous cogito argument.}}</ref> 。 しかし当のデカルト本人は彼の考え方が歴史的にどれほど革命的であったかは理解していなかった<ref>[[Roy Wood Sellars]] (1949) [[iarchive:philosophyforfut00sell|''Philosophy for the future: the quest of modern materialism'']] quotation: {{blockquote|Husserl has taken Descartes very seriously in a historical as well as in a systematic sense [...] [in ''The Crisis of the European Sciences and Transcendental Phenomenology'', Husserl] finds in the first two Meditations of Descartes a depth which it is difficult to fathom, and which Descartes himself was so little able to appreciate that he let go "the great discovery" he had in his hands.}}</ref>。それでも哲学において「何が真実か」という議論を「何が疑えない事実か」という議論にシフトすることで、デカルトは間違いなくキリスト教的な神中心の真理探求を人間の理性に基づく真理探求へと変えた。
彼の論じた人文主義的な、人間性を重視した哲学の転換により、人間は主体的で、独立した理性を備える自由な存在と考えられるようになった。そしてこれは近代の学問の基礎を確立し、その影響は今もなお続いている。言い換えれば、中世のキリスト教的な真理や教会の教義から人類が解放され、人類が理性に基づき自ら法を作り、独立した主体としての立場をとるようになったのだ<ref name="Heidegger1938emancipated">[[Martin Heidegger]] [1938] (2002) ''[[The Age of the World Picture]]'' quotation: {{blockquote|For up to Descartes...a particular ''sub-iectum''...lies at the foundation of its own fixed qualities and changing circumstances. The superiority of a ''sub-iectum''...arises out of the claim of man to a...self-supported, unshakeable foundation of truth, in the sense of certainty. Why and how does this claim acquire its decisive authority? The claim originates in that emancipation of man in which he frees himself from obligation to Christian revelational truth and Church doctrine to a legislating for himself that takes its stand upon itself.}}</ref><ref name="Ingraffia95p126">Ingraffia, Brian D. (1995) [https://books.google.com/books?id=LHjZYbOLG8cC&pg=PA126 ''Postmodern theory and biblical theology: vanquishing God's shadow''] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20210816214231/https://books.google.com/books?id=LHjZYbOLG8cC&pg=PA126|date=16 August 2021}} p. 126</ref><ref>Norman K. Swazo (2002) [https://books.google.com/books?id=INP_cy6Mu7EC&pg=PA97 ''Crisis theory and world order: Heideggerian reflections''] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20210816214249/https://books.google.com/books?id=INP_cy6Mu7EC&pg=PA97|date=16 August 2021}} pp. 97–99</ref>。近代においては、彼の影響から真理を保証するのはもはや神ではなく人間であるとの考えが強まった.<ref name="Lovitt77pxxv">Lovitt, Tom (1977) introduction to [[Martin Heidegger]]'s ''The question concerning technology, and other essays'', pp. xxv–xxvi</ref><ref>Briton, Derek [[iarchive:modernpracticeof0000brit/page/76|''The modern practice of adult education: a postmodern critique'']] p. 76</ref>。そうすることで、人間に対する見方は、神に従順な存在ではなく、理性的で主体的な存在へと近づいていった<ref name="Lovitt77pxxv" />。そしてこのような観点の変化こそ、キリスト教的な中世から理性的な近代への転換であり、他の分野でも期待されていたことであったが、デカルトによって特に哲学の分野では顕著に現れるようになった。<ref name="Lovitt77pxxv" /><ref>Martin Heidegger ''The Word of Nietzsche: God is Dead'' pp. 88–90</ref>
この人間の理性を独立的なものとして確立したデカルトの[[人間中心主義]]的な観点は、啓蒙主義として、哲学がキリスト教と教会から離れるきっかけを作った。またマルティン・ハイデガーによれば、デカルトの視点は、その後のすべての[[人類学]]の基礎ともなったほど重要なものだという<ref name="Heidegger19382002p75">Heidegger [1938] (2002), p. 75 quotation: {{blockquote|With the interpretation of man as ''subiectum'', Descartes creates the metaphysical presupposition for future anthropology of every kind and tendency.}}</ref>。このようにデカルトの哲学は、現代の人間中心主義や主観主義の原因になったと言われる。<ref name="Russell2004p516" /><ref>[[Benjamin I. Schwartz|Schwartz, B. I.]], ''China and Other Matters'' (Cambridge, MA: Harvard University Press, 1996), [https://books.google.com/books?id=Wt4XDLEpjWYC&pg=PA95 p. 95] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20210816214238/https://books.google.com/books?id=Wt4XDLEpjWYC&pg=PA95|date=16 August 2021}}, quotation: {{blockquote|... the kind of anthropocentric subjectivism which has emerged from the Cartesian revolution.}}</ref><ref>[[Charles B. Guignon]] [https://books.google.com/books?id=5vFCfdWD5QEC&pg=PA23 ''Heidegger and the problem of knowledge''] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20210816214243/https://books.google.com/books?id=5vFCfdWD5QEC&pg=PA23|date=16 August 2021}} p. 23</ref><ref>[[Edmund Husserl|Husserl, Edmund]] (1931) ''[[Cartesian Meditations: An Introduction to Phenomenology]]'' quotation: {{blockquote|When, with the beginning of modern times, religious belief was becoming more and more externalized as a lifeless convention, men of intellect were lifted by a new belief: their great belief in an autonomous philosophy and science. [...] in philosophy, the ''Meditations'' were epoch-making in a quite unique sense, and precisely because of their going back to the pure ''ego cogito''. Descartes work has been used, in fact to inaugurates an entirely new kind of philosophy. Changing its total style, philosophy takes a radical turn: from naïve objectivism to transcendental subjectivism.}}</ref>
===その他の評価===
『方法序説』はデカルト存命中に500部の単行本として出版され、そのうち200部は彼自身のために確保された。同じような運命をたどったのは『省察』のフランス語版で、デカルトの死後も完売することはなかった。しかし、『省察』のラテン語版はヨーロッパの学者たちの間で熱狂的な人気をはくし、商業的な成功を収めた<ref>Maclean, I., introduction to Descartes, R., ''A Discourse on the Method of Correctly Conducting One's Reason and Seeking Truth in the Sciences'' (Oxford: Oxford University Press, 2006), [https://books.google.com/books?id=f9B3zzrPOY4C&pg=PR43 pp. xliii–xliv] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20210816214235/https://books.google.com/books?id=f9B3zzrPOY4C&pg=PR43|date=16 August 2021}}.</ref>。
晩年に近づくにつれて、デカルトの存在は哲学界でよく知られていたものの、彼の著作を学校で教えることには賛否両論があった。例としてユトレヒト大学の医学部教授であったアンリ・ド・ロワは、デカルトの物理学を大学で教えたことで、同大学の学長であったギスバート・ヴォートから非難されることになる<ref>{{cite book |last1=Cottingham |first1=John |author-link=John Cottingham |first2=Dugald |last2=Murdoch |first3=Robert |last3=Stoothof |title=The Philosophical Writings of Descartes |chapter-url=https://books.google.com/books?id=T5cSfRS4m5QC&pg=PA293 |chapter=Comments on a Certain Broadsheet |publisher=Cambridge University Press |year=1984 |page=293 |isbn=978-0-521-28807-1 |access-date=24 May 2020 |archive-date=1 August 2020 |archive-url=https://web.archive.org/web/20200801015720/https://books.google.com/books?id=T5cSfRS4m5QC&pg=PA293 |url-status=live}}</ref>。
他にも、『省察』の英訳をしたことで知られるジョン・コッティンガムによれば、デカルトの『第一哲学に関する諸省察』は「西洋哲学の重要な文献のひとつ」であるとされている。またコッティンガムによれば、『省察』はデカルトの著作の中でも「最も広く研究されている」著作だという{{sfn|Cottingham|Williams|1996}}。
[[エコノミスト|エコノミスト誌]]の元シニア・エディターで、『理性の夢』と『啓蒙の夢』の著者であるアンソニー・ゴットリーブによれば、デカルトとトマス・ホッブズが2020年代でも議論され続けている理由のひとつは、「科学の進歩は、私たち自身と私たちの宗教観にどう影響するか」、「政府は宗教の多様性にどう対処すべきか」といった問いに、彼らの哲学が深く関連するからだという。
===薔薇十字団との関与===
デカルトの[[薔薇十字団]]との関与については様々な議論がある。<ref>{{cite web|url=https://www.rosicrucian.org/history|title=The Rosicrucian history|website=www.rosicrucian.org|access-date=13 May 2021|archive-date=22 January 2015|archive-url=https://web.archive.org/web/20150122044350/https://www.rosicrucian.org/history|url-status=live}}</ref>
彼のラテン語名の頭文字が、薔薇十字団員(ローゼンクロイツァー)の頭文字R.C.と結びついていることや<ref name="doi_10.4000_miranda.1939">{{cite journal|last1=Bond|first1=Steven|date=24 June 2011|title="R.C.": Rosicrucianism and Cartesianism in Joyce and Beckett|url=https://journals.openedition.org/miranda/1939|journal=Miranda|issue=4–2011|doi=10.4000/miranda.1939|issn=2108-6559|oclc=5497224736|archive-url=https://archive.today/20180602083944/https://journals.openedition.org/miranda/1939|archive-date=2 June 2018|url-status=live|doi-access=free}}</ref>、1619年に薔薇十字運動の中心地として有名なウルムに移り住んだこと<ref name="doi_10.4000_miranda.1939" />、ドイツを旅している間に、薔薇十字団の兄弟結社に所属するヨハネス・ファウルハーバーと出会っていたことなどから様々な憶測が飛び交っている。<ref>{{cite journal|last1=Henri|first1=John|last2=Nolan|first2=Lawrence|editor1-last=Nolan|editor1-first=Lawrence|date=26 January 2015|title=Rosicrucian|url=https://www.cambridge.org/core/books/cambridge-descartes-lexicon/rosicrucian/0979688A495F25367EC8F9B2C11203CF|journal=The Cambridge Descartes Lexicon|pages=659–60|publisher=Cambridge University Press|doi=10.1017/CBO9780511894695.224|isbn=978-0511894695|access-date=13 May 2021|archive-url=https://archive.today/20180610211420/https://www.cambridge.org/core/books/cambridge-descartes-lexicon/rosicrucian/0979688A495F25367EC8F9B2C11203CF|archive-date=10 June 2018|url-status=live}}</ref>
また、デカルトは『ポリビウスの数学的宝庫、世界市民』と題された作品を「世界中の学識ある人々、特にドイツの著名なB.R.C.(バラ十字の兄弟組織)」に献呈した。この作品は未完で、出版は不確かであるが、薔薇十字団との関与を示唆しているとされる。<ref>{{cite journal|last1=Mansikka|first1=Tomas|date=21 April 2018|title=Esotericism in reverse. Descartes and the poetic imagination in the seventeenth century|url=https://www.researchgate.net/publication/324714534|journal=Approaching Religion|volume=8|issue=1|page=84|format=pdf|doi=10.30664/ar.66731|issn=1799-3121|oclc=8081521487|access-date=13 May 2021|doi-access=free}}</ref>
== 著作 ==
[[画像:Principia philosophiae.tif|thumb|''Principia philosophiae'', 1685]]
著作を時系列で並べると以下のようになる。
*1618年『[[音楽提要]]』''Compendium Musicae''
**公刊はデカルトの死後(1650年)である。
*1628年『[[精神指導の規則]]』''Regulae ad directionem ingenii''
**未完の著作。デカルトの死後(1651年)公刊される。
*1633年『世界論』''Le Monde''
**ガリレオと同じく地動説を事実上認める内容を含んでいたため、実際には公刊取り止めとなる。デカルトの死後(1664年)公刊される。
*1637年『[[みずからの理性を正しく導き、もろもろの学問において真理を探究するための方法についての序説およびこの方法の試論]](屈折光学・気象学・幾何学)』''Discours de la méthode pour bien conduire sa raison, et chercher la verité dans les sciences (La Dioptrique,Les Météores,La Géométrie)''
**試論(屈折光学・気象学・幾何学)を除いて序説単体で読まれるときは、『[[方法序説]]』''Discours de la méthode'' と略す。
*1641年『[[省察]]』''Meditationes de prima philosophia''
*1644年『[[哲学の原理 (デカルト)|哲学の原理]]』''Principia philosophiae''
*1648年『[[人間論]]』''Traité de l'homme''
**公刊はデカルトの死後(1664年)である。
*1649年『[[情念論]]』''Les passions de l'ame''
=== 日本語訳 ===
;文庫版
:*[[谷川多佳子]]訳<ref>谷川多佳子『デカルト「方法序説」を読む』(新版・岩波現代文庫、2014年)がある。</ref>『[[方法序説]]』([[岩波文庫]]、1997年、ワイド版2001年)ISBN 4003361318
:*谷川多佳子訳 『情念論』(岩波文庫、2008年)ISBN 4003361350
:*[[山田弘明]]訳・注解『省察』([[ちくま学芸文庫]]、2006年)ISBN 4480089659
:*山田弘明ほか訳・注解『哲学原理』(ちくま学芸文庫、2009年)ISBN 4480092080
:*山田弘明訳・注解『方法序説』(ちくま学芸文庫、2010年)ISBN 4480093060
:*[[原亨吉]]訳・解説『幾何学』(ちくま学芸文庫、2013年)ISBN 4480095659
:*[[野田又夫]]訳『方法序説・情念論』([[中公文庫]]、初版1974年、改版2019年)
;岩波文庫で復刊されたテキスト
:*野田又夫訳『精神指導の規則』、ISBN 4003361342、改訳1974年
:*[[桂壽一]]訳『哲学原理』、ISBN 4003361334、古い訳文
:*[[三木清]]訳『省察』、ISBN 4003361326、戦前の訳
:**岩波文庫旧版『方法序説』は、[[落合太郎]]訳
:
;新書(再刊)判
:*野田又夫・井上庄七・水野和久・神野慧一郎訳 『方法序説・哲学の原理・世界論』([[中央公論新社]]<[[中公クラシックス]]>、2001年)ISBN 4121600126
:*井上庄七・森啓・野田又夫訳 『省察・情念論』(中央公論新社<中公クラシックス>、2002年)ISBN 4121600339
:*[[三宅徳嘉]]・小池健男訳 『方法叙説』(白水社<[[白水Uブックス]]>、2005年)ISBN 4560720827
:
;全集・著作集
:*『デカルト著作集』([[白水社]]、全4巻、増補版1993年、2001年)
:*『デカルト医学論集』(法政大学出版局、2017年)
:*『デカルト数学・自然学論集』([[法政大学出版局]]、2018年)
:
;書簡
:*『デカルト全書簡集』([[知泉書館]]、全8巻、2012‐2016年)
:**現存しているデカルト往復書簡<ref>研究に山田弘明『デカルトと哲学書簡』(知泉書館、2018年)。文庫判に『デカルト=エリザベト往復書簡』(山田弘明訳、[[講談社学術文庫]]、2001年)</ref>は730通余りである
:*『デカルト ユトレヒト紛争書簡集』[[山田弘明]]・持田辰郎・倉田隆訳(知泉書館、2017年)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2|refs=
<ref name="Russell2004p516">[[Bertrand Russell]] (2004) [https://books.google.com/books?id=Ey94E3sOMA0C&pg=PA516 ''History of western philosophy''] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20210816214227/https://books.google.com/books?id=Ey94E3sOMA0C&pg=PA516 |date=16 August 2021 }} pp. 511, 516–17.</ref>
}}
== 日本語文献 ==
*[[小林道夫 (哲学者)|小林道夫]]『デカルト入門』[[ちくま新書]] 2006
<!--**第1章 デカルトの生涯―思索と遍歴
**第2章 デカルトの認識論と形而上学
**第3章 デカルトの自然学と宇宙論
**第4章 デカルトの人間論と道徳論-->
*[[小泉義之]]『デカルト=哲学のすすめ』[[講談社現代新書]] 1996
*[[斎藤慶典]]『デカルト 「われ思う」のは誰か』シリーズ・哲学のエッセンス・[[日本放送出版協会]] 2003
*[[野田又夫]]『デカルト』[[岩波新書]] 1966
*野田又夫『デカルトとその時代』弘文堂、1950/筑摩叢書 1971
*アラン『デカルト』[[桑原武夫]]・野田又夫訳 みすず書房 1971 新版1998
*野田又夫編『世界の思想家 デカルト』平凡社 1977.6
*サミュエル・S.ド・サスイ『デカルト』[[三宅徳嘉]]・[[小松元]]訳 人文書院[永遠の作家叢書] 1961
*J・ロディス=ルイス『デカルトと合理主義』[[福居純]]訳、白水社文庫クセジュ
*[[伊藤勝彦]]『デカルト センチュリーブックス 人と思想』清水書院 1967
*井上庄七・[[森田良紀]]編『デカルト方法序説入門』有斐閣新書 1979.1
*[[所雄章]]『人類の知的遺産 32 デカルト』講談社 1981.3
*[[所雄章]]『デカルト『省察』訳解』岩波書店 2004.
*ドゥニ・カンブシュネル『デカルトはそんなこと言ってない』 津崎良典 訳 晶文社 2021
== 伝記 ==
*[[竹田篤司]]『デカルトの青春 思想と実生活』勁草書房 1965
*アドリアン・バイエ『デカルト伝』 [[井沢義雄]],[[井上庄七]]訳.講談社 1979.4
*アダン『デカルトと女性たち』[[石井忠厚]]訳.未来社 1979.8
*アンリ・グイエ『人間デカルト』[[中村雄二郎]],[[原田佳彦]]訳.白水社 1981
*ディミトリ・ダヴィデンコ『快傑デカルト 哲学風雲録』竹田篤司,中田平訳.工作舎 1992.4
*小泉義之『兵士デカルト 戦いから祈りへ』勁草書房 1995.10
*[[所雄章]]『デカルトI』 勁草書房 」 1996
*ジュヌヴィエーヴ・ロディス=レヴィス『デカルト伝』 [[飯塚勝久]]訳.未來社 1998.7
*[[湯川佳一郎]],小林道夫編『デカルト読本』法政大学出版局 1998.10
*アイケ・ピース『デカルト暗殺』[[山内志朗]]訳.大修館書店 2000.2
== 関連項目 ==
{{wikisourcelang|fr|René Descartes|ルネ・デカルト}}
{{commons|René Descartes}}
{{Wikiquote|ルネ・デカルト}}
* [[エーテル (物理)]]:物理学のエーテル概念はデカルトが提唱
* [[デーモン仮説]]
* [[デカルト主義]]([[デカルト劇場]])
* [[合理主義哲学]]
**[[バールーフ・デ・スピノザ]](『デカルトの哲学原理』という著作は、デカルト哲学の注釈書の古典として挙げられる。)
**[[ゴットフリート・ライプニッツ]]
**[[ニコラス・マールブランシュ]]
* [[ブレーズ・パスカル]](デカルトと対照的な哲学者として取り上げられることが多い。)
* [[デカルト派言語学]]
**[[ノーム・チョムスキー]]
* [[エドムント・フッサール]](『デカルト的省察』という著作があるが、内容はデカルト哲学ではなくフッサール独自のもの。)
* [[心身問題]]
**[[実体二元論]]
**[[心の哲学]]
* [[理神論]]
**[[自由意志]]
**[[神の存在証明]]
* [[解析幾何学]]
**[[デカルト座標]]
* [[ポール・ヴァレリー]]([[フランス]]の[[作家]]。デカルトに深い関心を持っていた。)
* [[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ|フォイエルバッハ]]([[ドイツ]]の[[哲学者]]。デカルトの哲学の一部を否定した。)
* [[サミュエル・デ・マレ]](オランダの神学者。デカルトを批判した。)
* [[虚数]]
== 外部リンク ==
{{SEP|descartes-works|Descartes' Life and Works|デカルトの生涯とその業績}}
{{SEP|descartes-epistemology|Descartes' Epistemology|デカルトの認識論|nolink=yes}}
{{SEP|descartes-ideas|Descartes's Theory of Ideas|デカルトの観念説|nolink=yes}}
{{SEP|descartes-modal|Descartes' Modal Metaphysics|デカルトの様相の形而上学|nolink=yes}}
{{SEP|descartes-ontological|Descartes' Ontological Argument|デカルトの神の存在論的証明|nolink=yes}}
{{SEP|descartes-physics|Descartes' Physics|デカルトの物理学|nolink=yes}}
{{SEP|pineal-gland|Descartes and the Pineal Gland|デカルトと松果腺|nolink=yes}}
{{SEP|descartes-ethics|Descartes' Ethics|デカルトの倫理学|nolink=yes}}
ここまでスタンフォード哲学百科事典。
{{IEP|descarte|René Descartes}}
{{IEP|descmind|Descartes: The Mind-Body Distinction|デカルトの心身二元論|nolink=yes}}
{{DPM|cartesian-skepticism|Cartesian skepticism|デカルト的懐疑}}
*山形浩生訳『[http://www.genpaku.org/dcart01/dcart10j.html 方法序説]』(もろもろの学問分野で、正しく理詰めで真理を探究するための方法についての考察)
*[http://web.sc.itc.keio.ac.jp/anatomy/kokikawa/emotion.html デカルトの情念論]([[脳科学]]の立場からの歴史的考察)
*[http://www.page.sannet.ne.jp/takakok/pages/4MASTER.htm デカルトと心身二元論](脳科学の立場からの批判的デカルト概説)
*{{青空文庫著作者|1029|デカルト ルネ}}
*[http://pedagogie.ac-toulouse.fr/philosophie/descregulae.htm 『精神指導の規則』] ラテン語原典
*[http://kasainote.asia/descartes.html 『デカルトの羽根ペン、木漏れ日のテーブル』](デカルト関連の図書リスト)
* {{Kotobank|デカルト}}
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] | 1650年は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。 | {{出典の明記|date=2019年12月16日 (月) 10:35 (UTC)}}
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{{他の紀年法}}
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** [[黎朝|後黎朝]] : [[慶徳]]2年
*** [[莫朝|高平莫氏]] : [[順徳 (莫朝)|順徳]]13年
* [[仏滅紀元]] : 2192年 - 2193年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1059年 - 1061年
* [[ユダヤ暦]] : 5410年 - 5411年
* [[ユリウス暦]] : 1649年12月22日 - 1650年12月21日
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== カレンダー ==
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== できごと ==
* [[9月3日]]:[[ダンバーの戦い (1650年)|ダンバーの戦い]]
* [[イギリス]]・[[オックスフォード]]にヨーロッパ初の[[コーヒー・ハウス]]が開店。
* [[琉球王国|琉球]]初の正史『[[中山世鑑]]』が成立。
* 慶安の[[お蔭参り]]
== 誕生 ==
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* [[2月2日]] - [[ネル・グウィン]]、[[俳優|女優]]、[[イングランド王国|イングランド王]][[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]の愛人(+ [[1687年]])
* [[3月26日]] - [[マールバラ公]][[ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)|ジョン・チャーチル]]、[[イギリス]]の[[軍人]](+ [[1722年]])
* [[5月8日]](慶安3年[[4月8日 (旧暦)|4月8日]]) - [[岡部長泰]] 、[[和泉国|和泉]][[岸和田藩]]の第3代藩主(+ [[1724年]])
* [[8月16日]] - {{仮リンク|ヴィンチェンツォ・コロネッリ|en|Vincenzo Coronelli}}、[[地図]]製作者(+ [[1718年]])
* [[11月14日]] - [[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]、イングランド王(+ [[1702年]])
* [[11月]]頃 - {{仮リンク|クラウズリー・ショヴェル|en|Cloudesley Shovell}}、[[軍人]](+ [[1707年]])
== 死去 ==
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* [[2月11日]] - [[ルネ・デカルト]]、[[フランス]]の[[哲学者]]、数学者(* [[1596年]])
* [[2月]] - {{仮リンク|クロード・ファーヴル・ド・ヴォージュラ|en|Claude Favre de Vaugelas}}、[[文法]]学者(* [[1595年]])
* [[4月21日]](慶安3年[[3月21日 (旧暦)|3月21日]]) - [[柳生三厳]](十兵衛)、[[武士]]、剣豪(* [[1607年]])
* [[6月5日]](慶安3年[[5月7日 (旧暦)|5月7日]]) - [[徳川義直]]、[[尾張徳川家]]初代(* [[1600年]])
* [[6月18日]] - [[クリストフ・シャイナー]]、[[天文学者]](* [[1575年]])
* [[6月19日]] - [[マテウス・メーリアン]]、[[版画家]]・[[製図]]家(* [[1593年]])
* [[6月]] - [[ジャン・ロトルー]]、[[詩人]](* [[1609年]])
* [[7月20日]](慶安3年[[6月22日 (旧暦)|6月22日]]) - [[岩佐又兵衛]]、[[画家|絵師]](* [[1578年]])
* [[8月25日]] - {{仮リンク|リチャード・クラショー|en|Richard Crashaw}}、詩人(* [[1613年]]頃)
* [[10月5日]](慶安3年[[9月10日 (旧暦)|9月10日]]) - [[松平忠直]] 、[[越前]][[福井藩|北ノ庄(福井)藩]]主(* 1595年)
* [[11月24日]] - [[マヌエル・カルドーゾ]]、[[作曲家]](* [[1566年]])
* [[12月31日]](順治7年[[12月9日 (旧暦)|12月9日]]) - [[ドルゴン]]、[[清]]の[[皇族]](* [[1612年]])
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
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* [[年表一覧]]
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8,757 | クリストファー・コロンブス | クリストファー・コロンブス(1451年 - 1506年5月20日)は、大航海時代の探検家・航海者・コンキスタドール、奴隷商人。定説ではイタリアのジェノヴァ出身。ランス・オ・メドーが発見されるまではキリスト教世界の白人としては最初にアメリカ海域へ到達したとされていた。
彼の実績により彼の子孫はスペイン王室よりベラグア公爵とラ・ベガ公爵(スペイン語版)に叙され、2023年現在までスペイン貴族の公爵家として続いている。
日本では普通クリストファー・コロンブスと呼ばれているが、これは彼の元々の姓をラテン語によって表記したものが、そのまま英語に取り入れられて、日本にも伝わり、一般化したものである。
ジェノヴァ出身の彼の元々の姓名はクリストーフォロ・コロンボであった。しかし、スペインに移り住んでからはクリストバル・コロンに変えている。当時のスペインで作成された文献のほとんど全てにおいて彼は「コロン」と呼ばれていることからも、本人が名乗っていた名前は「クリストバル・コロン」であったと考えられる。
コロンブスは、1451年8月25日から10月末までの間に、ジェノヴァもしくはその近郊で生まれたという説が主流であったが、これについては史料として裏付けとなる根拠がなく、異説も多いため、はっきりした事実は判明していない。
通説(ジェノヴァ説)では、毛織物職人一家で育った父ドメニコ・コロンボと母スサナ・フォンタナローサの間にはクリストファーを含み7人の子がいたが、上の2人の子は若くして死亡したと考えられ、何の記録も残っていない。
弟は1 - 2歳下にバルトロメと17歳下にジャコモ(のちにディエゴと呼ばれる)、妹は2人いたが記録に残るのはピアンチネータの一人だけである。父は毛織物業を自営していたが一家は決して裕福ではなく、ワインやチーズの売買も行っていた。
コロンブスと海とのかかわりは10代のころから始まった。最初は父親の仕事を手伝って船に乗り、1472年にはアンジュー公ルネから対立するアラゴン王国のガレー船・フェルナンディア号拿捕の命を受けた船に乗ってチュニスに向かったという説もある。1475年から翌年にはジェノヴァのチェントリオーネ家に雇われ、ローナ号でエーゲ海のヒオス島へ行って乳香(マスティーハ)取引に関わったと、第一次航海誌にて述べられている。
1476年5月にはチェントリオーネ家やスピノラ家、ディ・ネグロ家などジェノヴァ商人団に雇われ、乳香をイギリスやフランドルへ運ぶ商船隊に参加し、ベカッラ号に乗り込んだ。しかし8月13日、この船団がブルゴーニュの旗を掲げていたため、ポルトガルのサン・ヴィセンテ岬沖で当時敵対していたフランス艦船から攻撃を受け、船は沈没した。コロンブスは櫂につかまって泳ぎ、ポルトガルのラゴス(en)までたどり着いた。なお、コロンブスが乗船していたのはフランスとカタルーニャ連合の船であり、いわばジェノヴァ船団を攻撃した側にいたという主張もある。
彼はジェノヴァ人共同体の助けを借りてリスボンへ移った。この時期は1477年春以降と考えられる。そこには、地図製作に従事する弟のバルトロメが住んでおり、コロンブスは弟と一緒に地図作成や売買をしながら、たびたび航海にも加わっていた。1477年2月には、イギリスのブリストルを経てアイルランドのゴールウェイ、そしてアイスランドまで向かった。アイスランドには、かつてヴァイキングが北アメリカに植民地を築いたという「ヴィンランド伝説」があったが、コロンブスがこの伝承を耳にしたかどうかは分かっていない。
1479年末、コロンブスはフェリパ・ペレストレリョ(ペレストレーロ)・エ・モイス(またはフェリパ・モニス・ペレストレロ)と結婚した。ロス・サントス修道院のミサで彼女を見初めたのがなれそめという。しかし、フェリパの父はマデイラ諸島にあるポルト・サント島の世襲領主バルトロメウ・ペレストレリョ(ペレストレーロ)であり、いわば貴族階級の女性であった。この釣り合わない結婚の背景には、フェリパが25歳という、当時としては晩婚と言える年齢であったこと、父バルトロメウは20年前に死去し、以後のペレストレリョ家は没落しており持参金を準備できなかったこと、逆にコロンブスは航海士・地図製作者として一定の成功を収めていたことなどがあったと推察されている。
結婚後は妻のゆかりの地ポルト・サント島(またはマデイラ島)に夫婦で行くこともあり、1480年ごろにそこで長男ディエゴに恵まれた。1481年、ディオゴ・デ・アザンプージャ(英語版)が 西アフリカを南下し、エルミナ城を築く航海に出ているが、これにコロンブスが加わりギニアと黄金海岸まで行ったと考えられている。ポルトガル側にこれを証拠づける資料はないが、コロンブスは第一次航海の日誌(バルトロメ・デ・ラス・カサス編纂)にて西アフリカの情景を引き合いに出しているところや、所蔵していたピエール・ダイイ著『イマゴ・ムンディ(世界像)』の「熱帯地方には人間は住めない」という箇所に「実際に行ってみたが、熱帯にも人は住んでいた」と書き込んでいる点がその根拠とされる。
また、当時のある事件をラス・カサスは『インディアス史』(第一巻十四章)に記している。それは、マデイラ島に漂着した白人漂流者がいたというものである。この漂流者はポルトガル交易船員だったが、嵐のためにキューバまで流されてしまい、船を修理して東へ出航したが生きてマデイラ島にたどり着いた数名はほとんどすぐ死に、最後の一人をコロンブスが保護したが、やがて彼も亡くなった。『インディアス自然一般史 (Historia General y Natural de las Indias)』を著したフェルナンデス・オヴェイド(en)も1535年にこの説話を懐疑的ながら採録している。コロンブス自身が著述したどの文章にもこの話は書かれていないが、ラス・カサスはこの事件がコロンブスをして西廻り航路の発想に至らす原点になったと述べている。
このころ、コロンブスは積極的にスペイン語やラテン語などの言語や天文学・地理、そして航海術の習得に努めた。仕事の拠点であるリスボンでパオロ・ダル・ポッツォ・トスカネッリと知り合う機会を得て、手紙の交換をしている。当時はすでに地球球体説は一般に信じられていたが、トスカネッリはマルコ・ポーロの考えを取り入れ、大西洋を挟んだヨーロッパとアジアの距離はプトレマイオスの試算よりもずっと短いと主張していた。『東方見聞録』にある黄金の国・ジパングに惹かれていたコロンブスはここに西廻りでアジアに向かう計画に現実性を見出した。また、現存する最古の地球儀を作ったマルティン・ベハイムとも交流を持ち意見を交換した説もある。これらの収集情報や考察を経てコロンブスは西廻り航海が可能だとする5つの理論根拠を構築した。ラス・カサス『インディアス史』(第5章)に記載されたその内容は、
この考えの根底にはアリストテレスの地理観を引き継いだ中世キリスト教の普遍史観から、世界はヨーロッパ・アジア・アフリカの3大陸で成り立っていたという概念がある。地球の大きさについても、北緯28度におけるカナリア諸島から日本までを実際の10,600海里に対しコロンブスは2,400海里と、非常に小さく見積もっていた。
1484年末、コロンブスはポルトガル王ジョアン2世に航海のための援助を求め、その自信に溢れた弁舌に、ジョアン2世は興味をそそられた。コロンブスは資金援助に加え成功報酬も求めたが、高い地位や権利、そして収益の10%という大きなものだった。王室は数学委員会(フンタ・ドス・マテマティコス)の諮問にかけて検討したが、回答は否決だった。コロンブス以前にも大西洋への航海は何度か試みられたがすべて失敗し、一方でアフリカ探検はディオゴ・カンがコンゴ王国との接触に成功し喜望峰に達する寸前まで来ていたこと、さらにコロンブスの要求があまりに過剰だと受け止められたことも影響した。
再度コロンブスは提案を上奏したが決定は覆らず、ジョアン2世はコロンブスが自費で航海をするならばよいと言うのみだったが、コロンブスにはそのような資金がなく、借金さえ抱えていた。このころ、コロンブスは妻フェリパを亡くし、1485年半ばごろ、8年間過ごしたポルトガルに別れを告げる決心をつけた。
コロンブスはリスボンから海路、スペインのパロスに着き、そこからウエルバのティント川沿いの丘に建つラ・ラビダ修道院を訪ねた。5歳の息子ディエゴを伴った彼を招き入れた修道院長のフアン・ペレス・デ・マルチェーネ神父はコロンブスの話に感銘を受け、彼に天文学者でもあるセビリアのアントニオ・マルチェーナ神父を紹介し、そこへ向かうために息子ディエゴを修道院で預かった。さらにコロンブスはスペイン貴族の第2代メディナ=シドニア公爵ドン・エンリケ・デ・グスマン(スペイン語版)、そして初代メディナセリ公爵(スペイン語版)(5代メディナセリ伯爵(スペイン語版))ドン・ルイス・デ・ラ・セルダ(スペイン語版)と面会する機会を得た。メディナセリ公は興味を抱き、コロンブスが求めた数隻の船や食料など3,000 - 4,000ドゥカート相当の物資を準備することに合意した。
コロンブスへの援助に同意したメディナセリ公だったが、このような計画は王室への許可を得るべきだと考えカスティーリャのイサベル1世へ計画を知らせると、彼女自身がこれに興味を覚えた。1486年5月1日、メディナセリ公が紹介してコロンブスはコルドバでイサベル1世とその夫フェルナンド2世(カトリック両王)に謁見した。コロンブスの話にフェルナンド2世はあまり興味を持たなかったが、イサベル1世は惹きつけられた。計画は、懺悔聴聞師のエルナンド・デ・タラベラ(フライ・エルナンド・デ・タラベーラ)神父を中心とする諮問委員会が設けられ、そこで評価されることになった。1486年だけで二度委員会は開かれたが、コロンブスが示したアジアまでの距離が特に疑問視され、結論は持ち越された。
コロンブスはメディナセリ公の支援を受けながらコルドバの彼の城に滞在し、カトリック両王との面談を模索する一方で、交流を持った医師や学者らの中の一人から当時20歳(または21歳)の小作人の娘ベアトリス・エンリケス・デ・アラーナ(スペイン語版)と恋愛関係となり、1488年8月15日にフェルナンド(スペイン語版)が生まれたが、コロンブスはベアトリスと正式に結婚しなかった。
しかしスペイン王室からの返事はなかなか届かなかった。コロンブスに好意を持った委員会長のタラベラや、メンバーの1人であるドミニコ会のディエゴ・デ・デサらは、委員会が否定的結論を出そうとすると引き延ばしにかかっていた。コロンブスはポルトガルのジョアン2世に手紙を送ったが、バルトロメウ・ディアスの喜望峰発見もあって話がまとまることはなかった。また、弟バルトロメをイギリスのヘンリー7世やフランスのシャルル8世の下に差し向け、計画の宣伝をさせた。いずれの王からも支持は得られなかったが、シャルル8世の姉アンヌ・ド・ボージューの歓待を得て、バルトロメはフォンテーヌブローの宮殿に数年間滞在した。しかしこれらの行動も実を結ばなかった。
一方のスペイン王室は、1489年5月12日付でコロンブスが王室に謁見するときに必要な宿泊費を無料にする通達を出すなど、不完全ではあるが金銭的援助を行い、決して彼を邪険にしていたわけではなかった。しかし1490年、タラベラの委員会は提案に反対する結論を出したことでコロンブスは諦め気味にパロスに戻り、ラ・ラビダ修道院に向かった。話を聞いたペレス院長はコロンブスを慰留し、イサベル1世の側近セバスチャン・ロドリゲスを頼り、王室に再検討を促した。このわずか2週間後、コロンブスのもとに王室の書簡が届き、旅金を添えて出頭するよう勧告する内容があった。提案の検討はカスティリャ枢機院に移された。
しかし1491年、枢機院にも案を否決されたために、万策尽きたコロンブスは弟バルトロメが滞在するフランスへ向かう決意を固めた。ここにルイス・デ・サンタンヘル(スペイン語版)が登場する。財務長官であった彼は女王説得に乗り出し、コロンブスが提示した条件は見込める収入からすれば充分に折り合い、また必要な経費も自らが都合をつけると申し出た。
1492年1月2日に、ムーア人の最後の拠点であったグラナダが陥落したことで、スペインに財政上の余裕ができたことをサンタンヘルは指摘した。もともと興味を持っていたイサベル1世はこれで勢いを得てフェルナンド2世を説き伏せ、スペインはついにコロンブスの計画を承認した。このとき、コロンブスはまさにフランスへ向けてグラナダを出発したところだった。女王の伝令は彼を追いかけ、15キロほど先のピノス・プエンテ村の橋の上でコロンブスに追いついた。この橋には、劇的ともいえる出来事を解説する銅版がある。
1492年4月17日、グラナダ郊外のサンタ・フェにて、コロンブスは王室と「サンタフェ契約」を締結した。その内容は、
というものだった。
航海の経費は、ルイス・デ・サンタンヘルが中心となって調達された。彼は、警察機構サンタ・エルマンダーの経理担当であったジェノヴァ人フランチェスコ・ピネリと協力して140万マラベディを、さらにアラゴン王国の国庫から35万マラベディを調達し、コロンブスに提供した。これは、イサベル1世が戴冠用宝玉を担保に供出することを防ぐことが目的だった。コロンブスは25万マラベディを調達したが、これはメディナセリ公やセビリアのフィレンツェ人銀行家ベラルディなどから借金をしてかき集めたものだった。
1492年8月3日、スペインウェルバのパロス港からインド(インディア)を目指して大西洋へ出航した。このときの編成はキャラベル船のニーニャ号とピンタ号、ナオ船のサンタ・マリア号の3隻で総乗組員数は約90人(120人という説も)。
いったんカナリア諸島へ寄り、大航海の準備を整えたあと、一気に西進した。大西洋は極端に島の少ない大洋であり、船員の間には次第に不安が募っていった。当時の最新科学では地球が球体であるということはほぼ常識となっていたが、船員の間では地球を平面とする旧来の考えも根強く残っていた。
コロンブス自身は平気なふりをしていたが、計算を越えて長い航海となったことに不安を感じるようになる。10月6日には小規模な暴動が起こり、3日後には船員の不安は頂点に達し、コロンブスに迫って「あと3日で陸地が見つからなかったら引き返す」と約束させた。その後、流木などを発見し陸が近くにあると船員を説得する。
そして10月11日の日付が変わろうとするとき、ピンタ号の水夫が陸地を発見した。翌朝、コロンブスはその島に上陸し、ここを占領してサン・サルバドル島と名づける。
最初に上陸した島でコロンブス一行は、アラワク族インディアンたちから歓待を受ける。アラワク族は船から上がったコロンブスたちに水や食料を贈り、オウムや綿の玉、槍やその他見たことのないたくさんのものを持ってきた。コロンブス一行はそれをガラスのビーズや鷹の鈴と交換した。しかしコロンブスの興味は、ただ黄金にしかなかった。彼はこう書き残している。
コロンブスはこの島で略奪を働き、次に現在のキューバ島を発見した。ここを「フアナ島」と名づけたあと、ピンタ号船長であるマルティン・アロンソ・ピンソンの独断によりピンタ号が一時離脱してしまうが、12月6日にはイスパニョーラ島と名づけた島に到達。24日にサンタ・マリア号が座礁してしまう。しかし、その残骸を利用して要塞を作り、アメリカにおけるスペイン初の入植地を作った。この入植地には39名の男性が残った。
年が明け、1493年1月6日にピンタ号と再び合流する。1月16日、スペインへの帰還を命じ、3月15日にパロス港へ帰還した。
帰還したコロンブスを歓迎して宮殿では盛大な式典が開かれた。コロンブスは航海に先んじて、発見地の総督職、世襲提督の地位、発見地から上がる収益の10分の1を貰う契約を交わしていた。この取り決めに従い、コロンブスはインディアンから強奪した金銀宝石、真珠などの戦利品の10分の1を手に入れた。また陸地を発見した者には賞金がカトリック両王から与えられることになっていたが、コロンブスは自分が先に発見したと言い張り、これをせしめている。
国王に調査報告を終え、少しばかりの援助を求めたコロンブスは、次の航海目標としてこう述べている。
1493年5月4日、ローマ法王勅書はアゾレス諸島の西100リーグの分界線を定め、スペインはこれによって新大陸を探検し植民する独占的な権利を手にした。折からの関心の高まりによって、コロンブスは2回目の航海の資金を難なく作ることができた。
1493年の9月に17隻1,500人で出発したコロンブスの2度目の航海は、その乗員の中に農民や坑夫を含み、植民目的であった。11月にドミニカ島と名づけた島に到着したが、前回作った植民地に行ってみると基地は原住民であるインディアンにより破壊されており、残した人間はすべて殺されていた。コロンブスはここを放棄して新しく「イサベル植民地」を築いた。しかし白人入植者の間では植民地での生活に不満の声が上がり、周辺諸島ではアラワク族、タイノ族、ルカヤン族、カリブ族などのインディアンの間で白人の行為に対して怒りが重積していた。
最終的に、コロンブスの率いるスペイン軍はインディアンに対して徹底的な虐殺弾圧を行った。
1495年3月、コロンブスは数百人の装甲兵と騎兵隊、そして訓練された軍用犬からなる一大軍団を組織した。再び船旅に出たコロンブスは、スペイン人の持ち込んだ病いに倒れたインディアンの村々を徹底的に攻撃し、数千人単位の虐殺を指揮した。コロンブスの襲撃戦略は以後10年間、欧州人が繰り返した殺戮モデルとなった。
コロンブスは、イスパニョーラ島のインディアン部族の指導者と睨んでいた一人の酋長を殺さずに、引き回しの刑と投獄のあと、鎖につないで船に乗せ、スペインへ連行しようとした。しかし他のインディアンたちと同様に、この男性は劣悪な船内環境の中、セビリアに着く前に死んでいる。
植民地の管理を弟に任せて、コロンブスは先住民の王と共にスペイン本国に帰国し、旧約聖書に登場する土地オフィール(英語版)を発見したと報告した。
コロンブスがカリブ海諸島で指揮した行き当たりばったりの大虐殺は、「黄金探し」を使命としたスペイン海軍によって体系化され、 あらゆる部族の子供以外のインディアンが、3か月以内に一定量の黄金を差し出すよう脅迫された。金を届けたインディアンには、「スペイン人に敬意を表した」という証しとして、その男女に首かけの標章が贈られた。金の量が足りなかった者は、男だろうと女だろうと手首が斬り落とされた。
コロンブスらスペイン人の幻想よりも当地の金の量ははるかに少なかったため、死にたくなかったインディアンたちは、生活を犠牲にして金を捜さざるを得なかった。インディアンが逃亡を始めると飢饉はさらに悪化した。コロンブスらスペイン人が運び込んだ疫病は、栄養失調となったインディアンたちの弱められた身体をより激しく蝕んだ。そしてコロンブスたちと同じく、スペイン軍は面白半分に男を殺し女を犯す楽しみを決してやめなかった。
1498年5月、6隻の船で3度目の航海に出る。今度は南よりの航路をとり、現在のベネズエラのオリノコ川の河口に上陸した。その膨大な量の河水が海水ではなく真水であったことから、それだけの大河を蓄えるのは島ではなく大陸であるということをコロンブスは認めざるを得なかった。それと同時に、オリノコ川は上方の地上の楽園から流れて来ていると考えていた(当時の世界観ではエデンの園を水源とする4つの川が東方を流れていると考えられていた)。
その後、北上してサントドミンゴに着くと後を任せていた弟・バルトロメの統治の悪さから反乱が起きていた。コロンブスは説得を続けるが、入植者たちはこれをなかなか受け入れず、1500年8月に本国から来た査察官により逮捕され、本国へと送還された。罪に問われる事は免れたものの、すべての地位を剥奪される。
それでもコロンブスは4度目となる航海を企画するが、王からの援助は小型のボロ舟4隻というものであった。1502年に出航したが、イスパニョーラ島への寄港は禁じられており、パナマ周辺を6か月さまよったが、最後は難破して救助され、1504年11月にスペインへ戻った。しかし1504年末にイサベル女王が死去し、スペイン王室はコロンブスに対してさらに冷淡になった。
帰国後は病気になり、1506年5月20日スペインのバリャドリッドにて死去。その遺骨はセビリアの修道院に納められたが1542年にサントドミンゴの大聖堂に移された。晩年は金銭的には恵まれていたが、最期まで自らが発見した島をアジアだと主張し続けていた。
コロンブスの死後、ドイツの地理学者マルティン・ヴァルトゼーミュラーが手がけた地図には、南米大陸の「発見者」としてコロンブスではなく、アメリゴ・ヴェスプッチの名前が記された。この結果、ヨーロッパでは「新大陸」全域を指す言葉として「コロンビア」ではなく「アメリカ」が使われるようになった(ただし、18世紀以降アメリカの雅称として「コロンビア」も用いられる)。
コロンブスに関してはその出自が明らかではないこと、また大航海の目的自体があまり明確に語り継がれていないことなどから、さまざまな異聞が流れている。また、残されている肖像画はすべて本人の死後に描かれたものであり、今となってはコロンブスの真の素顔を知るすべはない。
レオナルド・ダ・ヴィンチの日記の中に「ジェノヴァ人の船乗りと地球について話す」という興味深い記述があることから、両者の間に面識があったのではないかという説がある。
多く語られているものとしては、コロンブスはユダヤ人の片親から生まれたのではないかとする奇説である。
1492年、スペイン王家は同国内に住むユダヤ人に対し8月2日を期限とする国外追放令を発布したが、コロンブスがスペイン王家の支援を受けて出航したのは翌8月3日である。このことから、コロンブス出航の真の目的はユダヤ人の移住地探しではないかとする説も存在する。また、教皇インノケンティウス8世の落胤ではないかとする説も存在する。しかし、これらの仮説を支持する研究者は少なく、俗説の域を出ていない。
アメリカ、ノースカロライナ州にあるデューク大学でITアナリストとして働くアマチュア歴史家のマヌエル・ロサは、2010年10月にスペインで出版した『コロンブス:語られなかったストーリー』の中で、コロンブスがポーランド王ヴワディスワフ3世(晩年にかけてはウラースロー1世としてハンガリー王も兼位)の実の息子であるとの説を主張している。
新大陸発見を祝う凱旋式典で「誰でも西へ行けば陸地にぶつかる。造作もないことだ」などとコロンブスの成功を妬む人々に対し、コロンブスは「誰かこの卵を机に立ててみて下さい」と言い、誰もできなかったあとでコロンブスは軽く卵の先を割ってから机に立てた。「そんな方法なら誰でもできる」と言う人々に対し、コロンブスは「人のした後では造作もないことです」と返した。これが『コロンブスの卵(Egg of Columbus)』の逸話であり、「誰でもできることでも、最初に実行するのは至難であり、柔軟な発想力が必要」「逆転の発想」という意の故事成語として今日使われている。
しかし、ヴォルテールは『習俗論』(第145章)にて「これは建築家フィリッポ・ブルネレスキの逸話が元になった創作だ」と指摘し、会話の内容などもそのまま流用されていると説明した。逸話の内容は1410年代、『フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のクーポラ(ドーム部分)の設計にみな難儀していた際、ブルネレスキは設計図面も完成模型も見せないまま「私に建築させて下さい」と立候補した。ほかの建築家たちが大反対したところ、ブルネレスキは「大理石の上に卵を立てられる人に建築を任せてみてはどうか」と提案。誰もできなかった中で、ブルネレスキは卵の底を潰して立てた。当然のごとく周囲から批判されたが、ブルネレスキは「最初にやるのがもっとも難しい。もし先に図面を見せたら、あなたたちは真似をするでしょう?」と切り返した』というものである。 | [
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"text": "彼の実績により彼の子孫はスペイン王室よりベラグア公爵とラ・ベガ公爵(スペイン語版)に叙され、2023年現在までスペイン貴族の公爵家として続いている。",
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{
"paragraph_id": 2,
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"text": "日本では普通クリストファー・コロンブスと呼ばれているが、これは彼の元々の姓をラテン語によって表記したものが、そのまま英語に取り入れられて、日本にも伝わり、一般化したものである。",
"title": "名前について"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "ジェノヴァ出身の彼の元々の姓名はクリストーフォロ・コロンボであった。しかし、スペインに移り住んでからはクリストバル・コロンに変えている。当時のスペインで作成された文献のほとんど全てにおいて彼は「コロン」と呼ばれていることからも、本人が名乗っていた名前は「クリストバル・コロン」であったと考えられる。",
"title": "名前について"
},
{
"paragraph_id": 4,
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"text": "コロンブスは、1451年8月25日から10月末までの間に、ジェノヴァもしくはその近郊で生まれたという説が主流であったが、これについては史料として裏付けとなる根拠がなく、異説も多いため、はっきりした事実は判明していない。",
"title": "ジェノヴァ時代"
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"text": "通説(ジェノヴァ説)では、毛織物職人一家で育った父ドメニコ・コロンボと母スサナ・フォンタナローサの間にはクリストファーを含み7人の子がいたが、上の2人の子は若くして死亡したと考えられ、何の記録も残っていない。",
"title": "ジェノヴァ時代"
},
{
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"text": "弟は1 - 2歳下にバルトロメと17歳下にジャコモ(のちにディエゴと呼ばれる)、妹は2人いたが記録に残るのはピアンチネータの一人だけである。父は毛織物業を自営していたが一家は決して裕福ではなく、ワインやチーズの売買も行っていた。",
"title": "ジェノヴァ時代"
},
{
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"text": "コロンブスと海とのかかわりは10代のころから始まった。最初は父親の仕事を手伝って船に乗り、1472年にはアンジュー公ルネから対立するアラゴン王国のガレー船・フェルナンディア号拿捕の命を受けた船に乗ってチュニスに向かったという説もある。1475年から翌年にはジェノヴァのチェントリオーネ家に雇われ、ローナ号でエーゲ海のヒオス島へ行って乳香(マスティーハ)取引に関わったと、第一次航海誌にて述べられている。",
"title": "ジェノヴァ時代"
},
{
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"text": "1476年5月にはチェントリオーネ家やスピノラ家、ディ・ネグロ家などジェノヴァ商人団に雇われ、乳香をイギリスやフランドルへ運ぶ商船隊に参加し、ベカッラ号に乗り込んだ。しかし8月13日、この船団がブルゴーニュの旗を掲げていたため、ポルトガルのサン・ヴィセンテ岬沖で当時敵対していたフランス艦船から攻撃を受け、船は沈没した。コロンブスは櫂につかまって泳ぎ、ポルトガルのラゴス(en)までたどり着いた。なお、コロンブスが乗船していたのはフランスとカタルーニャ連合の船であり、いわばジェノヴァ船団を攻撃した側にいたという主張もある。",
"title": "ジェノヴァ時代"
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{
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"text": "彼はジェノヴァ人共同体の助けを借りてリスボンへ移った。この時期は1477年春以降と考えられる。そこには、地図製作に従事する弟のバルトロメが住んでおり、コロンブスは弟と一緒に地図作成や売買をしながら、たびたび航海にも加わっていた。1477年2月には、イギリスのブリストルを経てアイルランドのゴールウェイ、そしてアイスランドまで向かった。アイスランドには、かつてヴァイキングが北アメリカに植民地を築いたという「ヴィンランド伝説」があったが、コロンブスがこの伝承を耳にしたかどうかは分かっていない。",
"title": "ポルトガル時代"
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{
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"text": "1479年末、コロンブスはフェリパ・ペレストレリョ(ペレストレーロ)・エ・モイス(またはフェリパ・モニス・ペレストレロ)と結婚した。ロス・サントス修道院のミサで彼女を見初めたのがなれそめという。しかし、フェリパの父はマデイラ諸島にあるポルト・サント島の世襲領主バルトロメウ・ペレストレリョ(ペレストレーロ)であり、いわば貴族階級の女性であった。この釣り合わない結婚の背景には、フェリパが25歳という、当時としては晩婚と言える年齢であったこと、父バルトロメウは20年前に死去し、以後のペレストレリョ家は没落しており持参金を準備できなかったこと、逆にコロンブスは航海士・地図製作者として一定の成功を収めていたことなどがあったと推察されている。",
"title": "ポルトガル時代"
},
{
"paragraph_id": 11,
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"text": "結婚後は妻のゆかりの地ポルト・サント島(またはマデイラ島)に夫婦で行くこともあり、1480年ごろにそこで長男ディエゴに恵まれた。1481年、ディオゴ・デ・アザンプージャ(英語版)が 西アフリカを南下し、エルミナ城を築く航海に出ているが、これにコロンブスが加わりギニアと黄金海岸まで行ったと考えられている。ポルトガル側にこれを証拠づける資料はないが、コロンブスは第一次航海の日誌(バルトロメ・デ・ラス・カサス編纂)にて西アフリカの情景を引き合いに出しているところや、所蔵していたピエール・ダイイ著『イマゴ・ムンディ(世界像)』の「熱帯地方には人間は住めない」という箇所に「実際に行ってみたが、熱帯にも人は住んでいた」と書き込んでいる点がその根拠とされる。",
"title": "ポルトガル時代"
},
{
"paragraph_id": 12,
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"text": "また、当時のある事件をラス・カサスは『インディアス史』(第一巻十四章)に記している。それは、マデイラ島に漂着した白人漂流者がいたというものである。この漂流者はポルトガル交易船員だったが、嵐のためにキューバまで流されてしまい、船を修理して東へ出航したが生きてマデイラ島にたどり着いた数名はほとんどすぐ死に、最後の一人をコロンブスが保護したが、やがて彼も亡くなった。『インディアス自然一般史 (Historia General y Natural de las Indias)』を著したフェルナンデス・オヴェイド(en)も1535年にこの説話を懐疑的ながら採録している。コロンブス自身が著述したどの文章にもこの話は書かれていないが、ラス・カサスはこの事件がコロンブスをして西廻り航路の発想に至らす原点になったと述べている。",
"title": "ポルトガル時代"
},
{
"paragraph_id": 13,
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"text": "このころ、コロンブスは積極的にスペイン語やラテン語などの言語や天文学・地理、そして航海術の習得に努めた。仕事の拠点であるリスボンでパオロ・ダル・ポッツォ・トスカネッリと知り合う機会を得て、手紙の交換をしている。当時はすでに地球球体説は一般に信じられていたが、トスカネッリはマルコ・ポーロの考えを取り入れ、大西洋を挟んだヨーロッパとアジアの距離はプトレマイオスの試算よりもずっと短いと主張していた。『東方見聞録』にある黄金の国・ジパングに惹かれていたコロンブスはここに西廻りでアジアに向かう計画に現実性を見出した。また、現存する最古の地球儀を作ったマルティン・ベハイムとも交流を持ち意見を交換した説もある。これらの収集情報や考察を経てコロンブスは西廻り航海が可能だとする5つの理論根拠を構築した。ラス・カサス『インディアス史』(第5章)に記載されたその内容は、",
"title": "ポルトガル時代"
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{
"paragraph_id": 14,
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"text": "この考えの根底にはアリストテレスの地理観を引き継いだ中世キリスト教の普遍史観から、世界はヨーロッパ・アジア・アフリカの3大陸で成り立っていたという概念がある。地球の大きさについても、北緯28度におけるカナリア諸島から日本までを実際の10,600海里に対しコロンブスは2,400海里と、非常に小さく見積もっていた。",
"title": "ポルトガル時代"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "1484年末、コロンブスはポルトガル王ジョアン2世に航海のための援助を求め、その自信に溢れた弁舌に、ジョアン2世は興味をそそられた。コロンブスは資金援助に加え成功報酬も求めたが、高い地位や権利、そして収益の10%という大きなものだった。王室は数学委員会(フンタ・ドス・マテマティコス)の諮問にかけて検討したが、回答は否決だった。コロンブス以前にも大西洋への航海は何度か試みられたがすべて失敗し、一方でアフリカ探検はディオゴ・カンがコンゴ王国との接触に成功し喜望峰に達する寸前まで来ていたこと、さらにコロンブスの要求があまりに過剰だと受け止められたことも影響した。",
"title": "ポルトガル時代"
},
{
"paragraph_id": 16,
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"text": "再度コロンブスは提案を上奏したが決定は覆らず、ジョアン2世はコロンブスが自費で航海をするならばよいと言うのみだったが、コロンブスにはそのような資金がなく、借金さえ抱えていた。このころ、コロンブスは妻フェリパを亡くし、1485年半ばごろ、8年間過ごしたポルトガルに別れを告げる決心をつけた。",
"title": "ポルトガル時代"
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"paragraph_id": 17,
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"text": "コロンブスはリスボンから海路、スペインのパロスに着き、そこからウエルバのティント川沿いの丘に建つラ・ラビダ修道院を訪ねた。5歳の息子ディエゴを伴った彼を招き入れた修道院長のフアン・ペレス・デ・マルチェーネ神父はコロンブスの話に感銘を受け、彼に天文学者でもあるセビリアのアントニオ・マルチェーナ神父を紹介し、そこへ向かうために息子ディエゴを修道院で預かった。さらにコロンブスはスペイン貴族の第2代メディナ=シドニア公爵ドン・エンリケ・デ・グスマン(スペイン語版)、そして初代メディナセリ公爵(スペイン語版)(5代メディナセリ伯爵(スペイン語版))ドン・ルイス・デ・ラ・セルダ(スペイン語版)と面会する機会を得た。メディナセリ公は興味を抱き、コロンブスが求めた数隻の船や食料など3,000 - 4,000ドゥカート相当の物資を準備することに合意した。",
"title": "スペイン時代"
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{
"paragraph_id": 18,
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"text": "コロンブスへの援助に同意したメディナセリ公だったが、このような計画は王室への許可を得るべきだと考えカスティーリャのイサベル1世へ計画を知らせると、彼女自身がこれに興味を覚えた。1486年5月1日、メディナセリ公が紹介してコロンブスはコルドバでイサベル1世とその夫フェルナンド2世(カトリック両王)に謁見した。コロンブスの話にフェルナンド2世はあまり興味を持たなかったが、イサベル1世は惹きつけられた。計画は、懺悔聴聞師のエルナンド・デ・タラベラ(フライ・エルナンド・デ・タラベーラ)神父を中心とする諮問委員会が設けられ、そこで評価されることになった。1486年だけで二度委員会は開かれたが、コロンブスが示したアジアまでの距離が特に疑問視され、結論は持ち越された。",
"title": "スペイン時代"
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{
"paragraph_id": 19,
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"text": "コロンブスはメディナセリ公の支援を受けながらコルドバの彼の城に滞在し、カトリック両王との面談を模索する一方で、交流を持った医師や学者らの中の一人から当時20歳(または21歳)の小作人の娘ベアトリス・エンリケス・デ・アラーナ(スペイン語版)と恋愛関係となり、1488年8月15日にフェルナンド(スペイン語版)が生まれたが、コロンブスはベアトリスと正式に結婚しなかった。",
"title": "スペイン時代"
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{
"paragraph_id": 20,
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"text": "しかしスペイン王室からの返事はなかなか届かなかった。コロンブスに好意を持った委員会長のタラベラや、メンバーの1人であるドミニコ会のディエゴ・デ・デサらは、委員会が否定的結論を出そうとすると引き延ばしにかかっていた。コロンブスはポルトガルのジョアン2世に手紙を送ったが、バルトロメウ・ディアスの喜望峰発見もあって話がまとまることはなかった。また、弟バルトロメをイギリスのヘンリー7世やフランスのシャルル8世の下に差し向け、計画の宣伝をさせた。いずれの王からも支持は得られなかったが、シャルル8世の姉アンヌ・ド・ボージューの歓待を得て、バルトロメはフォンテーヌブローの宮殿に数年間滞在した。しかしこれらの行動も実を結ばなかった。",
"title": "スペイン時代"
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{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "一方のスペイン王室は、1489年5月12日付でコロンブスが王室に謁見するときに必要な宿泊費を無料にする通達を出すなど、不完全ではあるが金銭的援助を行い、決して彼を邪険にしていたわけではなかった。しかし1490年、タラベラの委員会は提案に反対する結論を出したことでコロンブスは諦め気味にパロスに戻り、ラ・ラビダ修道院に向かった。話を聞いたペレス院長はコロンブスを慰留し、イサベル1世の側近セバスチャン・ロドリゲスを頼り、王室に再検討を促した。このわずか2週間後、コロンブスのもとに王室の書簡が届き、旅金を添えて出頭するよう勧告する内容があった。提案の検討はカスティリャ枢機院に移された。",
"title": "スペイン時代"
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"paragraph_id": 22,
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"text": "しかし1491年、枢機院にも案を否決されたために、万策尽きたコロンブスは弟バルトロメが滞在するフランスへ向かう決意を固めた。ここにルイス・デ・サンタンヘル(スペイン語版)が登場する。財務長官であった彼は女王説得に乗り出し、コロンブスが提示した条件は見込める収入からすれば充分に折り合い、また必要な経費も自らが都合をつけると申し出た。",
"title": "スペイン時代"
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"paragraph_id": 23,
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"text": "1492年1月2日に、ムーア人の最後の拠点であったグラナダが陥落したことで、スペインに財政上の余裕ができたことをサンタンヘルは指摘した。もともと興味を持っていたイサベル1世はこれで勢いを得てフェルナンド2世を説き伏せ、スペインはついにコロンブスの計画を承認した。このとき、コロンブスはまさにフランスへ向けてグラナダを出発したところだった。女王の伝令は彼を追いかけ、15キロほど先のピノス・プエンテ村の橋の上でコロンブスに追いついた。この橋には、劇的ともいえる出来事を解説する銅版がある。",
"title": "スペイン時代"
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{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "1492年4月17日、グラナダ郊外のサンタ・フェにて、コロンブスは王室と「サンタフェ契約」を締結した。その内容は、",
"title": "スペイン時代"
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{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "というものだった。",
"title": "スペイン時代"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "航海の経費は、ルイス・デ・サンタンヘルが中心となって調達された。彼は、警察機構サンタ・エルマンダーの経理担当であったジェノヴァ人フランチェスコ・ピネリと協力して140万マラベディを、さらにアラゴン王国の国庫から35万マラベディを調達し、コロンブスに提供した。これは、イサベル1世が戴冠用宝玉を担保に供出することを防ぐことが目的だった。コロンブスは25万マラベディを調達したが、これはメディナセリ公やセビリアのフィレンツェ人銀行家ベラルディなどから借金をしてかき集めたものだった。",
"title": "スペイン時代"
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{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "1492年8月3日、スペインウェルバのパロス港からインド(インディア)を目指して大西洋へ出航した。このときの編成はキャラベル船のニーニャ号とピンタ号、ナオ船のサンタ・マリア号の3隻で総乗組員数は約90人(120人という説も)。",
"title": "航海"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "いったんカナリア諸島へ寄り、大航海の準備を整えたあと、一気に西進した。大西洋は極端に島の少ない大洋であり、船員の間には次第に不安が募っていった。当時の最新科学では地球が球体であるということはほぼ常識となっていたが、船員の間では地球を平面とする旧来の考えも根強く残っていた。",
"title": "航海"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "コロンブス自身は平気なふりをしていたが、計算を越えて長い航海となったことに不安を感じるようになる。10月6日には小規模な暴動が起こり、3日後には船員の不安は頂点に達し、コロンブスに迫って「あと3日で陸地が見つからなかったら引き返す」と約束させた。その後、流木などを発見し陸が近くにあると船員を説得する。",
"title": "航海"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "そして10月11日の日付が変わろうとするとき、ピンタ号の水夫が陸地を発見した。翌朝、コロンブスはその島に上陸し、ここを占領してサン・サルバドル島と名づける。",
"title": "航海"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "最初に上陸した島でコロンブス一行は、アラワク族インディアンたちから歓待を受ける。アラワク族は船から上がったコロンブスたちに水や食料を贈り、オウムや綿の玉、槍やその他見たことのないたくさんのものを持ってきた。コロンブス一行はそれをガラスのビーズや鷹の鈴と交換した。しかしコロンブスの興味は、ただ黄金にしかなかった。彼はこう書き残している。",
"title": "航海"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "コロンブスはこの島で略奪を働き、次に現在のキューバ島を発見した。ここを「フアナ島」と名づけたあと、ピンタ号船長であるマルティン・アロンソ・ピンソンの独断によりピンタ号が一時離脱してしまうが、12月6日にはイスパニョーラ島と名づけた島に到達。24日にサンタ・マリア号が座礁してしまう。しかし、その残骸を利用して要塞を作り、アメリカにおけるスペイン初の入植地を作った。この入植地には39名の男性が残った。",
"title": "航海"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "年が明け、1493年1月6日にピンタ号と再び合流する。1月16日、スペインへの帰還を命じ、3月15日にパロス港へ帰還した。",
"title": "航海"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "帰還したコロンブスを歓迎して宮殿では盛大な式典が開かれた。コロンブスは航海に先んじて、発見地の総督職、世襲提督の地位、発見地から上がる収益の10分の1を貰う契約を交わしていた。この取り決めに従い、コロンブスはインディアンから強奪した金銀宝石、真珠などの戦利品の10分の1を手に入れた。また陸地を発見した者には賞金がカトリック両王から与えられることになっていたが、コロンブスは自分が先に発見したと言い張り、これをせしめている。",
"title": "航海"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "国王に調査報告を終え、少しばかりの援助を求めたコロンブスは、次の航海目標としてこう述べている。",
"title": "航海"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "1493年5月4日、ローマ法王勅書はアゾレス諸島の西100リーグの分界線を定め、スペインはこれによって新大陸を探検し植民する独占的な権利を手にした。折からの関心の高まりによって、コロンブスは2回目の航海の資金を難なく作ることができた。",
"title": "航海"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "1493年の9月に17隻1,500人で出発したコロンブスの2度目の航海は、その乗員の中に農民や坑夫を含み、植民目的であった。11月にドミニカ島と名づけた島に到着したが、前回作った植民地に行ってみると基地は原住民であるインディアンにより破壊されており、残した人間はすべて殺されていた。コロンブスはここを放棄して新しく「イサベル植民地」を築いた。しかし白人入植者の間では植民地での生活に不満の声が上がり、周辺諸島ではアラワク族、タイノ族、ルカヤン族、カリブ族などのインディアンの間で白人の行為に対して怒りが重積していた。",
"title": "航海"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "最終的に、コロンブスの率いるスペイン軍はインディアンに対して徹底的な虐殺弾圧を行った。",
"title": "航海"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "1495年3月、コロンブスは数百人の装甲兵と騎兵隊、そして訓練された軍用犬からなる一大軍団を組織した。再び船旅に出たコロンブスは、スペイン人の持ち込んだ病いに倒れたインディアンの村々を徹底的に攻撃し、数千人単位の虐殺を指揮した。コロンブスの襲撃戦略は以後10年間、欧州人が繰り返した殺戮モデルとなった。",
"title": "航海"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "コロンブスは、イスパニョーラ島のインディアン部族の指導者と睨んでいた一人の酋長を殺さずに、引き回しの刑と投獄のあと、鎖につないで船に乗せ、スペインへ連行しようとした。しかし他のインディアンたちと同様に、この男性は劣悪な船内環境の中、セビリアに着く前に死んでいる。",
"title": "航海"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "植民地の管理を弟に任せて、コロンブスは先住民の王と共にスペイン本国に帰国し、旧約聖書に登場する土地オフィール(英語版)を発見したと報告した。",
"title": "航海"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "コロンブスがカリブ海諸島で指揮した行き当たりばったりの大虐殺は、「黄金探し」を使命としたスペイン海軍によって体系化され、 あらゆる部族の子供以外のインディアンが、3か月以内に一定量の黄金を差し出すよう脅迫された。金を届けたインディアンには、「スペイン人に敬意を表した」という証しとして、その男女に首かけの標章が贈られた。金の量が足りなかった者は、男だろうと女だろうと手首が斬り落とされた。",
"title": "航海"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "コロンブスらスペイン人の幻想よりも当地の金の量ははるかに少なかったため、死にたくなかったインディアンたちは、生活を犠牲にして金を捜さざるを得なかった。インディアンが逃亡を始めると飢饉はさらに悪化した。コロンブスらスペイン人が運び込んだ疫病は、栄養失調となったインディアンたちの弱められた身体をより激しく蝕んだ。そしてコロンブスたちと同じく、スペイン軍は面白半分に男を殺し女を犯す楽しみを決してやめなかった。",
"title": "航海"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "1498年5月、6隻の船で3度目の航海に出る。今度は南よりの航路をとり、現在のベネズエラのオリノコ川の河口に上陸した。その膨大な量の河水が海水ではなく真水であったことから、それだけの大河を蓄えるのは島ではなく大陸であるということをコロンブスは認めざるを得なかった。それと同時に、オリノコ川は上方の地上の楽園から流れて来ていると考えていた(当時の世界観ではエデンの園を水源とする4つの川が東方を流れていると考えられていた)。",
"title": "航海"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "その後、北上してサントドミンゴに着くと後を任せていた弟・バルトロメの統治の悪さから反乱が起きていた。コロンブスは説得を続けるが、入植者たちはこれをなかなか受け入れず、1500年8月に本国から来た査察官により逮捕され、本国へと送還された。罪に問われる事は免れたものの、すべての地位を剥奪される。",
"title": "航海"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "それでもコロンブスは4度目となる航海を企画するが、王からの援助は小型のボロ舟4隻というものであった。1502年に出航したが、イスパニョーラ島への寄港は禁じられており、パナマ周辺を6か月さまよったが、最後は難破して救助され、1504年11月にスペインへ戻った。しかし1504年末にイサベル女王が死去し、スペイン王室はコロンブスに対してさらに冷淡になった。",
"title": "航海"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "帰国後は病気になり、1506年5月20日スペインのバリャドリッドにて死去。その遺骨はセビリアの修道院に納められたが1542年にサントドミンゴの大聖堂に移された。晩年は金銭的には恵まれていたが、最期まで自らが発見した島をアジアだと主張し続けていた。",
"title": "航海"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "コロンブスの死後、ドイツの地理学者マルティン・ヴァルトゼーミュラーが手がけた地図には、南米大陸の「発見者」としてコロンブスではなく、アメリゴ・ヴェスプッチの名前が記された。この結果、ヨーロッパでは「新大陸」全域を指す言葉として「コロンビア」ではなく「アメリカ」が使われるようになった(ただし、18世紀以降アメリカの雅称として「コロンビア」も用いられる)。",
"title": "航海"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "コロンブスに関してはその出自が明らかではないこと、また大航海の目的自体があまり明確に語り継がれていないことなどから、さまざまな異聞が流れている。また、残されている肖像画はすべて本人の死後に描かれたものであり、今となってはコロンブスの真の素顔を知るすべはない。",
"title": "出自に関する諸説"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "レオナルド・ダ・ヴィンチの日記の中に「ジェノヴァ人の船乗りと地球について話す」という興味深い記述があることから、両者の間に面識があったのではないかという説がある。",
"title": "出自に関する諸説"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "多く語られているものとしては、コロンブスはユダヤ人の片親から生まれたのではないかとする奇説である。",
"title": "出自に関する諸説"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "1492年、スペイン王家は同国内に住むユダヤ人に対し8月2日を期限とする国外追放令を発布したが、コロンブスがスペイン王家の支援を受けて出航したのは翌8月3日である。このことから、コロンブス出航の真の目的はユダヤ人の移住地探しではないかとする説も存在する。また、教皇インノケンティウス8世の落胤ではないかとする説も存在する。しかし、これらの仮説を支持する研究者は少なく、俗説の域を出ていない。",
"title": "出自に関する諸説"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "アメリカ、ノースカロライナ州にあるデューク大学でITアナリストとして働くアマチュア歴史家のマヌエル・ロサは、2010年10月にスペインで出版した『コロンブス:語られなかったストーリー』の中で、コロンブスがポーランド王ヴワディスワフ3世(晩年にかけてはウラースロー1世としてハンガリー王も兼位)の実の息子であるとの説を主張している。",
"title": "出自に関する諸説"
},
{
"paragraph_id": 54,
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"text": "新大陸発見を祝う凱旋式典で「誰でも西へ行けば陸地にぶつかる。造作もないことだ」などとコロンブスの成功を妬む人々に対し、コロンブスは「誰かこの卵を机に立ててみて下さい」と言い、誰もできなかったあとでコロンブスは軽く卵の先を割ってから机に立てた。「そんな方法なら誰でもできる」と言う人々に対し、コロンブスは「人のした後では造作もないことです」と返した。これが『コロンブスの卵(Egg of Columbus)』の逸話であり、「誰でもできることでも、最初に実行するのは至難であり、柔軟な発想力が必要」「逆転の発想」という意の故事成語として今日使われている。",
"title": "「コロンブスの卵」"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "しかし、ヴォルテールは『習俗論』(第145章)にて「これは建築家フィリッポ・ブルネレスキの逸話が元になった創作だ」と指摘し、会話の内容などもそのまま流用されていると説明した。逸話の内容は1410年代、『フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のクーポラ(ドーム部分)の設計にみな難儀していた際、ブルネレスキは設計図面も完成模型も見せないまま「私に建築させて下さい」と立候補した。ほかの建築家たちが大反対したところ、ブルネレスキは「大理石の上に卵を立てられる人に建築を任せてみてはどうか」と提案。誰もできなかった中で、ブルネレスキは卵の底を潰して立てた。当然のごとく周囲から批判されたが、ブルネレスキは「最初にやるのがもっとも難しい。もし先に図面を見せたら、あなたたちは真似をするでしょう?」と切り返した』というものである。",
"title": "「コロンブスの卵」"
}
] | クリストファー・コロンブスは、大航海時代の探検家・航海者・コンキスタドール、奴隷商人。定説ではイタリアのジェノヴァ出身。ランス・オ・メドーが発見されるまではキリスト教世界の白人としては最初にアメリカ海域へ到達したとされていた。 彼の実績により彼の子孫はスペイン王室よりベラグア公爵とラ・ベガ公爵に叙され、2023年現在までスペイン貴族の公爵家として続いている。 | {{Infobox 人物
|氏名=Christopher Columbus<br/>Cristoforo Colombo<br/>Cristóbal Colón
|ふりがな=クリストファー・コロンバス([[英語|英]])<br/>クリストーフォロ・コロンボ([[イタリア語|伊]])<br />クリストバル・コロン([[スペイン語|西]])
|画像=Ridolfo Ghirlandaio Columbus.jpg
|画像サイズ=200px
|画像説明={{仮リンク|リドルフォ・デル・ギルランダイオ|it|Ridolfo del Ghirlandaio}}画
|生年月日=[[1451年]]
|生誕地={{GEN}} [[ジェノヴァ]]
|没年月日=[[1506年]][[5月20日]]
|死没地={{KOC}} [[バリャドリッド]]
|職業=大洋の提督
インディアスの総督・副王
カスティーリャ王国国務院議員
|配偶者=フェリパ・ペレストレリョ・エ・モイス<br />{{仮リンク|ベアトリス・エンリケス・デ・アラーナ|es|Beatriz Enríquez de Arana}}(内縁)
|子供=[[ディエゴ・コロン]]<br />{{仮リンク|エルナンド・コロン|label=エルナンド・コロン|es|Hernando Colón}}
|署名=Columbus_Signature.svg
|親=父 : ドメニコ・コロンボ
母 : スサナ・フォンタナロサ}}
'''クリストファー・コロンブス'''([[1451年]] <ref group="注">コロンブスは1470年10月31日付の公正証書において「満19歳」、ジェノヴァで開かれた裁判で1479年8月25日に証言した際に「満27歳」と述べており、これら2つの証言から1451年の8月26日から10月31日までの間に出生したと考えられる。(青木(1993)、p.444)</ref>- [[1506年]][[5月20日]])は、[[大航海時代]]の[[探検家]]・[[航海者]]・[[コンキスタドール]]、[[奴隷]]商人。[[定説]]では[[イタリア]]の[[ジェノヴァ]]出身<ref>{{Cite news|url=https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/685493/|title=【528年前の今日:コロンブス・デー】世界史から見る戦国時代・・・10月12日、アメリカ大陸の発見は先住民にとって侵略記念日|newspaper=BEST TiMES(ベストタイムズ)|date=2020-10-12|accessdate=2020-11-28}}</ref>。[[ランス・オ・メドー]]が発見されるまでは[[キリスト教]]世界の[[白人]]としては最初に[[アメリカ州|アメリカ]]海域へ到達したとされていた。
彼の実績により彼の子孫は[[スペイン君主一覧|スペイン王室]]より[[ベラグア公爵領|ベラグア公爵]]と{{仮リンク|ラ・ベガ公爵|es|Ducado de la Vega}}に叙され、2023年現在まで[[スペイン貴族]]の[[公爵]]家として続いている。
== 名前について ==
日本では普通クリストファー・コロンブスと呼ばれているが、これは彼の元々の姓をラテン語<ref group="注"> Christophorus Columbus</ref>によって表記したものが、そのまま英語<ref group="注">Christopher Columbus</ref>に取り入れられて、日本にも伝わり、一般化したものである<ref>{{Cite journal|last=永吉|first=林屋|date=1965|title=コロンボからコロンへ|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/hispanica1965/1965/10/1965_10_61/_article/-char/ja/|journal=Hispanica / Hispánica|volume=1965|issue=10|pages=61–70|doi=10.4994/hispanica1965.1965.61}}</ref>。
ジェノヴァ出身の彼の元々の姓名はクリストーフォロ・コロンボ<ref group="注">イタリア語: Cristoforo Colombo</ref>であった。しかし、スペインに移り住んでからはクリストバル・コロン<ref group="注">スペイン語: Cristóbal Colón</ref>に変えている。当時のスペインで作成された文献のほとんど全てにおいて彼は「コロン」と呼ばれていることからも、本人が名乗っていた名前は「クリストバル・コロン」であったと考えられる。
== ジェノヴァ時代 ==
=== 生誕 ===
コロンブスは、1451年8月25日から10月末までの間に、ジェノヴァもしくはその近郊で生まれたという説が主流であった<ref name="hayashiya-kaisetsu278-280">[[#林屋、解説|林屋、解説p.278-280 (1) 生い立ち]]</ref>が、これについては史料として裏付けとなる根拠がなく、異説も多いため、はっきりした事実は判明していない。
通説(ジェノヴァ説)では、[[毛織物]]職人一家で育った父ドメニコ・コロンボと母スサナ・フォンタナローサの間にはクリストファーを含み7人の子がいたが、上の2人の子は若くして死亡したと考えられ、何の記録も残っていない<ref name="hayashiya-kaisetsu278-280" />。
弟は1 - 2歳下に[[バルトロメ・コロンブス|バルトロメ]]と17歳下にジャコモ(のちにディエゴと呼ばれる)、妹は2人いたが記録に残るのはピアンチネータの一人だけである<ref name="hayashiya-kaisetsu278-280" />。父は毛織物業を自営していたが一家は決して裕福ではなく、[[ワイン]]や[[チーズ]]の売買も行っていた。
[[ファイル:Columbus genoa.jpg|180px|thumb|ジェノヴァにあるコロンブスのモニュメント]]
=== 海とのかかわり ===
コロンブスと海とのかかわりは10代のころから始まった。最初は父親の仕事を手伝って船に乗り、1472年には[[ルネ・ダンジュー|アンジュー公ルネ]]から対立する[[アラゴン王国]]の[[ガレー船]]・フェルナンディア号拿捕の命を受けた船に乗って[[チュニス]]に向かったという説もある<ref group="注">これはコロンブスがカトリック両王に送った手紙の断片をフェルナンドが記録したものにあるが、この説明には矛盾がある。航海当時20歳前後のコロンブスが船長を務めるには若すぎる事([[#笈川|笈川p23-24]])、[[サルデーニャ|サルディニア]]で敵の艦隊が見つかったため北へ引き返そうとする船員たちを、[[方位磁針]]の文字板を南北逆にして騙し南へ向かったという点に、[[太陽]]の位置から船員らが方角を間違えるはずが無い([[#笈川|笈川p23-24]]、[[#ルケーヌ|ルケーヌp25-28]])という点が指摘されている。しかしルケーヌは、スペインと敵対した行為を、しかも標的が「フェルナンディア号」であったことをスペインの「フェルナンド2世」が読む手紙に自らへの心象を傷つける可能性がありながら記している点から、脚色を含みつつも航海そのものは事実だったと推察している([[#ルケーヌ|ルケーヌp28-29]])。</ref>。1475年から翌年にはジェノヴァのチェントリオーネ家に雇われ<ref name="masuda17-22">[[#増田|増田p.17-22 海に出る]]</ref><ref group="注">[[#笈川|笈川p27]]では「1478年から翌年」とあるが、同箇所には乗船が沈没しポルトガルに渡った時を「1476年8月」と明記しており、矛盾がある。</ref>、ローナ号で<ref name="oikawa27-29">[[#笈川|笈川p.27-29 ポルトガル領、聖ヴィセンテ岬に漂着]]</ref>[[エーゲ海]]の[[ヒオス島]]へ行って[[乳香]]([[マスティーハ]])取引に関わったと、第一次航海誌にて述べられている。
1476年5月にはチェントリオーネ家やスピノラ家、ディ・ネグロ家などジェノヴァ商人団に雇われ、乳香を[[イギリス]]や[[フランドル]]へ運ぶ商船隊に参加し、ベカッラ号に乗り込んだ。しかし8月13日<ref name="oikawa27-29" />、この船団が[[ブルゴーニュ]]の旗を掲げていたため、[[ポルトガル]]の[[サン・ヴィセンテ岬]]沖で当時敵対していた[[フランス]]艦船から攻撃を受け、船は沈没した。コロンブスは[[櫂]]につかまって泳ぎ、ポルトガルのラゴス[[:en:Lagos, Portugal|(en)]]までたどり着いた。なお、コロンブスが乗船していたのはフランスと[[カタルーニャ州|カタルーニャ]]連合の船であり、いわばジェノヴァ船団を攻撃した側にいたという主張もある<ref group="注">[[#ルケーヌ|ルケーヌp32]]でルケーヌは、この海戦は本当はフランス・カタルーニャ連合に加わっていたカズノヴ・クーロン船長の私掠船にコロンブスが乗っていた際の戦いを指していたものを、同郷人の船を襲った良心の呵責から偽って1485年に起こった別の海戦の内容へ差し替えたと主張している。</ref>。
== ポルトガル時代 ==
=== リスボンでのコロンブス ===
彼はジェノヴァ人共同体の助けを借りて[[リスボン]]へ移った<ref name="hayashiya-kaisetsu278-280" />。この時期は1477年春以降と考えられる<ref name="hayashiya-kaisetsu280-282">[[#林屋、解説|林屋、解説p.280-282 (2) ポルトガルでの滞在]]</ref>。そこには、[[地図]]製作に従事する弟のバルトロメが住んでおり、コロンブスは弟と一緒に地図作成や売買をしながら、たびたび航海にも加わっていた。1477年2月には、イギリスの[[ブリストル]]を経て[[アイルランド]]の[[ゴールウェイ]]、そして[[アイスランド]]まで向かった。アイスランドには、かつて[[ヴァイキング]]が[[北アメリカ]]に植民地を築いたという「[[ヴィンランド]]伝説」があったが、コロンブスがこの伝承を耳にしたかどうかは分かっていない<ref name="oikawa36-38">[[#笈川|笈川p.36-38 「ヴィンランド」伝説]]</ref>。
1479年末、コロンブスはフェリパ・ペレストレリョ(ペレストレーロ<ref name="oikawa40-42">[[#笈川|笈川p.40-42 名家の娘、フェリパと結婚]]</ref>)・エ・モイス(またはフェリパ・モニス・ペレストレロ<ref name="Lequenne43-48">[[#ルケーヌ|ルケーヌp.43-48 弟のように、彼も地図製作者になる]]</ref>)と[[結婚]]した。ロス・サントス修道院のミサで彼女を見初めたのがなれそめという<ref name="hayashiya-kaisetsu278-280" />。しかし、フェリパの父は[[マデイラ諸島]]にある[[ポルト・サント島]]の世襲領主バルトロメウ・ペレストレリョ(ペレストレーロ)であり、いわば[[貴族]]階級の女性であった。この釣り合わない結婚の背景には、フェリパが25歳という、当時としては晩婚と言える年齢であったこと、父バルトロメウは20年前に死去し、以後のペレストレリョ家は没落しており持参金を準備できなかったこと、逆にコロンブスは航海士・地図製作者として一定の成功を収めていたことなどがあったと推察されている<ref name="oikawa40-42" /><ref name="Lequenne43-48" /><ref name="masuda23-27">[[#増田|増田p.23-27 ポルトガルとコロンブス]]</ref>。
=== 西廻り航海の着想 ===
結婚後は妻のゆかりの地ポルト・サント島(またはマデイラ島)に夫婦で行くこともあり、1480年ごろにそこで長男[[ディエゴ・コロン|ディエゴ]]に恵まれた。1481年、{{ill|ディオゴ・デ・アザンプージャ|en|Diogo de Azambuja}}が [[西アフリカ]]を南下し、[[エルミナ城]]を築く航海に出ているが、これにコロンブスが加わり[[ギニア]]と[[黄金海岸]]まで行った<ref>「人物アメリカ史(上)」p15 ロデリック・ナッシュ著/足立康訳 新潮選書</ref>と考えられている。ポルトガル側にこれを証拠づける資料はないが、コロンブスは第一次航海の日誌([[バルトロメ・デ・ラス・カサス]]編纂)にて西アフリカの情景を引き合いに出しているところや<ref name="masuda23-27" />、所蔵していた[[ピエール・ダイイ]]著『イマゴ・ムンディ(世界像)』の「熱帯地方には人間は住めない」という箇所に「実際に行ってみたが、熱帯にも人は住んでいた」と書き込んでいる<ref name="oikawa38-39">[[#笈川|笈川p.38-39 「熱帯にも人が住んでいた」]]</ref>点がその根拠とされる。
また、当時のある事件をラス・カサスは『インディアス史』(第一巻十四章)に記している。それは、[[マデイラ島]]に漂着した白人漂流者がいたというものである。この漂流者はポルトガル交易船員だったが、嵐のために[[キューバ]]まで流されてしまい、船を修理して東へ出航したが生きてマデイラ島にたどり着いた数名はほとんどすぐ死に、最後の一人をコロンブスが保護したが、やがて彼も亡くなった。『インディアス自然一般史 (Historia General y Natural de las Indias)』を著したフェルナンデス・オヴェイド[[:en:Gonzalo Fernández de Oviedo y Valdés|(en)]]も1535年にこの説話を懐疑的ながら採録している。コロンブス自身が著述したどの文章にもこの話は書かれていないが、ラス・カサスはこの事件がコロンブスをして西廻り航路の発想に至らす原点になったと述べている<ref group="注">[[#笈川|笈川p.98-100]]、ただし[[#増田|増田p.75]]では西アフリカ航海中に漂流者を拾い上げたとある。</ref>。
このころ、コロンブスは積極的に[[スペイン語]]や[[ラテン語]]などの[[言語]]や[[天文学]]・[[地理学|地理]]、そして航海術の習得に努めた。仕事の拠点であるリスボンで[[パオロ・ダル・ポッツォ・トスカネッリ]]と知り合う機会を得て、手紙の交換をしている。当時はすでに[[地球球体説]]は一般に信じられていたが、トスカネッリは[[マルコ・ポーロ]]の考えを取り入れ、大西洋を挟んだヨーロッパとアジアの距離は[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]の試算よりもずっと短いと主張していた。『東方見聞録』にある[[金|黄金]]の国・[[ジパング]]に惹かれていたコロンブスはここに西廻りでアジアに向かう計画に現実性を見出した。また、現存する最古の地球儀を作った[[マルティン・ベハイム]]とも交流を持ち意見を交換した説もある<ref>[[#笈川|笈川p.116-118 ベハイムとコロンブスのかかわり]]</ref><ref group="2-">アントニオ・デ・ヘレラ『インディアス一般史』17世紀</ref>。これらの収集情報や考察を経てコロンブスは西廻り航海が可能だとする5つの理論根拠を構築した。ラス・カサス『インディアス史』(第5章)に記載されたその内容は、<ref>[[#笈川|笈川p.100-101 5つの根拠]]</ref>
#地球は球体であり、西に進めば東端にたどりつく。
#地球の未知の部分はアジア東端から[[カーボベルデ|ベルデ岬諸島]]以西だけになった。
#2世紀の[[ギリシア]]人地理学者の[[マリノス (古代の地理学者)|マリヌス]]はヨーロッパからアジアまでは地球の15/24に当たるという。したがって未知の領域は9/24=約1/3となる。
#マリヌスが認識していたアジアは(当時認識されていたという意味で)現在のアジア東端までに比べれば狭い。したがって未知の領域はさらに狭くなる。
#9世紀の[[イスラム]]人天文学者[[アルフラガヌス]]は経度1度=約56.6マイルと計算した。したがって未知の領域は56.6×360/3=約6,800マイル。しかもこれは赤道上であり北寄航路ならば距離はさらに縮まる。
この考えの根底には[[アリストテレス]]の地理観を引き継いだ中世[[キリスト教]]の[[普遍史]]観から、世界はヨーロッパ・アジア・アフリカの3大陸で成り立っていたという概念がある。地球の大きさについても、北緯28度におけるカナリア諸島から[[日本]]までを実際の10,600[[海里]]に対しコロンブスは2,400海里と、非常に小さく見積もっていた<ref>[[#笈川|笈川p.126-128 実際の距離ははるかに長く]]</ref>。
=== 王室への提案 ===
1484年末<ref group="注">[[#増田|増田p.28]]では1483年末。</ref>、コロンブスはポルトガル王[[ジョアン2世 (ポルトガル王)|ジョアン2世]]に航海のための援助を求め、その自信に溢れた弁舌に<ref group="2-">ポルトガル王室付き歴史家[[ジョアン・デ・バロス]](1496年 - 1570年)『アジア』</ref>、ジョアン2世は興味をそそられた<ref name="masuda28-36">[[#増田|増田p.28-36 西廻り航海の構想]]</ref>。コロンブスは資金援助に加え成功報酬も求めたが、高い地位や権利、そして収益の10%という大きなものだった<ref group="注">ラス・カサス『インディアス史』にある内容だが、これは後にスペイン王室と結んだサンタフェ条約とまったく同一であり、[[#笈川|笈川(p45)]]はラス・カサスが誤った可能性を示唆している。</ref>。王室は数学委員会(フンタ・ドス・マテマティコス)の諮問にかけて検討したが、回答は否決だった。コロンブス以前にも大西洋への航海は何度か試みられたがすべて失敗し、一方でアフリカ探検は[[ディオゴ・カン]]が[[コンゴ王国]]との接触に成功し<ref name="masuda28-36" />[[喜望峰]]に達する寸前まで来ていたこと、さらにコロンブスの要求があまりに過剰だと受け止められたことも影響した<ref name="Lequenne48-49">[[#ルケーヌ|ルケーヌp.48-49 コロンブスはジョアン2世に、冒険を試みるために「許可状」と船を求めた]]</ref>。
再度コロンブスは提案を上奏したが決定は覆らず<ref name="Lequenne48-49" />、ジョアン2世はコロンブスが自費で航海をするならばよいと言うのみだったが、コロンブスにはそのような資金がなく<ref name="masuda28-36" />、借金さえ抱えていた<ref name="hayashiya-kaisetsu280-282" />。このころ、コロンブスは妻フェリパを亡くし、1485年半ばごろ、8年間過ごしたポルトガルに別れを告げる決心をつけた<ref name="hayashiya-kaisetsu280-282" />。
== スペイン時代 ==
コロンブスはリスボンから海路、スペインの[[パロス・デ・ラ・フロンテーラ|パロス]]に着き、そこから[[ウエルバ]]のティント川沿いの丘に建つラ・ラビダ修道院を訪ねた<ref group="注">この行動について、[[#ルケーヌ|ルケーヌp.50]]は亡き妻フェリパの姉妹が当地におり、その伝を頼ったという。同書では、修道院長のフアン・ペレス・デ・マルチェーネ神父はポルトガル人で、この姉妹と面識があった可能性を示唆している。</ref>。5歳の息子ディエゴを伴った彼を招き入れた修道院長のフアン・ペレス・デ・マルチェーネ神父はコロンブスの話に感銘を受け、彼に天文学者でもある<ref name="oikawa45-48">[[#笈川|笈川p.45-48 ポルトガルからスペインへ]]</ref>[[セビリア]]のアントニオ・マルチェーナ神父を紹介し、そこへ向かうために息子ディエゴを修道院で預かった。さらにコロンブスは[[スペイン貴族]]の第2代[[メディナ=シドニア公|メディナ=シドニア公爵]][[ドン (尊称)|ドン]]・{{仮リンク|エンリケ・デ・グスマン (第2代メディナ=シドニア公爵)|label=エンリケ・デ・グスマン|es|Enrique de Guzmán (m. 1492)}}<ref name="masuda28-36" />、そして初代{{仮リンク|メディナセリ公爵|es|Ducado de Medinaceli}}(5代{{仮リンク|メディナセリ伯爵|es|Condado de Medinaceli}}<ref name="oikawa45-48" />)ドン・{{仮リンク|ルイス・デ・ラ・セルダ (初代メディナセリ公)|label=ルイス・デ・ラ・セルダ|es|Luis de la Cerda y de la Vega}}<ref name="masuda28-36" />と面会する機会を得た。メディナセリ公は興味を抱き、コロンブスが求めた数隻の船や食料など3,000 - 4,000[[ドゥカート]]相当の物資を準備することに合意した<ref name="oikawa45-48" /><ref group="2-">ラス・カサス『インディアス史』</ref>。
[[ファイル:ColombusMap.jpg|300px|thumb|コロンブスが作成したと言われる地図。これは19世紀に発見されたものだが、アイスランドとフェローズ諸島の位置が逆になっているなど、疑問も提示されている<ref name="Lequenne51-54">[[#ルケーヌ|ルケーヌp.51-54 落胆と困窮のうちに、5年間の歳月が流れた]]</ref>。]]
=== カトリック両王への売り込み ===
コロンブスへの援助に同意したメディナセリ公だったが、このような計画は王室への許可を得るべきだと考え[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]の[[イサベル1世 (カスティーリャ女王)|イサベル1世]]へ計画を知らせると、彼女自身がこれに興味を覚えた<ref name="masuda28-36" />。1486年5月1日<ref group="注">[[#ルケーヌ|ルケーヌp.51]]によると「4月または5月」</ref>、メディナセリ公が紹介してコロンブスは[[コルドバ (スペイン)|コルドバ]]でイサベル1世とその夫[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド2世]]([[カトリック両王]])に謁見した。コロンブスの話にフェルナンド2世はあまり興味を持たなかったが、イサベル1世は惹きつけられた。計画は、懺悔聴聞師のエルナンド・デ・タラベラ(フライ・エルナンド・デ・タラベーラ)神父を中心とする諮問委員会が設けられ、そこで評価されることになった。1486年だけで二度<ref group="注">[[#林屋、解説|林屋、解説p.283]](第1回会議は1486 年夏にコルドバにて、第2回は同年に[[サラマンカ]]にて)に準拠する。[[#増田|増田p.33]]は1486年秋と1487年春と表記。[[#笈川|笈川p.49]]は増田が示す場所のみ表記し、時期には触れず。</ref>委員会は開かれたが、コロンブスが示したアジアまでの距離が特に疑問視され、結論は持ち越された。
コロンブスはメディナセリ公の支援を受けながらコルドバの彼の城に滞在し、カトリック両王との面談を模索する一方で、交流を持った[[医師]]や学者らの中の一人から当時20歳(または21歳)の小作人の娘{{仮リンク|ベアトリス・エンリケス・デ・アラーナ|es|Beatriz Enríquez de Arana}}と<ref name = "Columbus essay1"> [http://www.megaessays.com/viewpaper/10276.html Christopher Columbus essay] </ref>恋愛関係となり、1488年8月15日に{{仮リンク|フェルナンド・コロン|label=フェルナンド|es|Hernando Colón}}が生まれたが、コロンブスはベアトリスと正式に結婚しなかった。
しかしスペイン王室からの返事はなかなか届かなかった。コロンブスに好意を持った委員会長のタラベラや、メンバーの1人である[[ドミニコ会]]のディエゴ・デ・デサらは、委員会が否定的結論を出そうとすると引き延ばしにかかっていた<ref name="masuda28-36" /><ref group="注">委員長のタラベラが取った態度について、文献に差がある。[[#増田|増田p.33-34]]では「コロンブスに好意的」と言う。ところが[[#ルケーヌ|ルケーヌp.53]]では、サンタフェ条約締結後にタラベラはイサベル1世に手紙を送り、世界の果てを越えることは神に対する不遜な行為であり、コロンブスを[[異端審問]]にかけるよう主張したとある。</ref>。コロンブスはポルトガルのジョアン2世に手紙を送ったが、[[バルトロメウ・ディアス]]の[[喜望峰]]発見もあって話がまとまることはなかった<ref group="注">[[#増田|増田p.34-36]]の内容に準ずる。[[#笈川|笈川p.50]]ではジョアン2世はコロンブスを招待したが喜望峰の件で頓挫したと、[[#林屋、解説|林屋、解説p.283]]ではコロンブスはポルトガルに向かい再度謁見したが同じ理由で立ち消えになったとある。[[#ルケーヌ|ルケーヌp.53-54]]では、手紙の返事にジョアン2世は旅券を送ったが、コロンブスは用心深くポルトガルに向かわなかったとある。</ref>。また、弟バルトロメを[[イギリス]]の[[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー7世]]や[[フランス]]の[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]の下に差し向け、計画の宣伝をさせた。いずれの王からも支持は得られなかったが、シャルル8世の姉[[アンヌ・ド・ボージュー]]の歓待を得て、バルトロメは[[フォンテーヌブロー]]の宮殿に数年間滞在した<ref name="hayashiya-kaisetsu282-285">[[#林屋、解説|林屋、解説p.282-285 (3)スペインでの7年間]]</ref>。しかしこれらの行動も実を結ばなかった。
一方のスペイン王室は、1489年5月12日付でコロンブスが王室に謁見するときに必要な宿泊費を無料にする通達を出す<ref name="hayashiya-kaisetsu282-285" />など、不完全ではあるが金銭的援助を行い<ref name="Lequenne51-54" />、決して彼を邪険にしていたわけではなかった。しかし1490年、タラベラの委員会は提案に反対する結論を出したことでコロンブスは諦め気味にパロスに戻り、ラ・ラビダ修道院に向かった。話を聞いたペレス院長はコロンブスを慰留し、イサベル1世の側近セバスチャン・ロドリゲスを頼り、王室に再検討を促した。このわずか2週間後、コロンブスのもとに王室の書簡が届き、旅金を添えて出頭するよう勧告する内容があった。提案の検討はカスティリャ枢機院に移された。
[[ファイル:Isabella I of Castille & Christopher Columbus by Larkin Goldsmith Mead (photo 2007).jpg|180px|thumb|イザベル1世とコロンブス(カリフォルニア州議事堂)]]
しかし1491年、枢機院にも案を否決されたために、万策尽きたコロンブスは弟バルトロメが滞在するフランスへ向かう決意を固めた。ここに{{仮リンク|ルイス・デ・サンタンヘル|es|Luis de Santángel}}が登場する。[[財務大臣|財務長官]]であった彼は女王説得に乗り出し、コロンブスが提示した条件は見込める収入からすれば充分に折り合い、また必要な経費も自らが都合をつけると申し出た。
1492年1月2日に、ムーア人の最後の拠点であった[[レコンキスタ|グラナダが陥落]]したことで、スペインに財政上の余裕ができたことをサンタンヘルは指摘した<ref>[[#ナッシュ|ナッシュp.21 スペインが賭ける]]</ref>。もともと興味を持っていたイサベル1世はこれで勢いを得てフェルナンド2世を説き伏せ、スペインはついにコロンブスの計画を承認した。このとき、コロンブスはまさにフランスへ向けてグラナダを出発したところだった。女王の伝令は彼を追いかけ、15キロほど先のピノス・プエンテ村の橋の上でコロンブスに追いついた。この橋には、劇的ともいえる出来事を解説する銅版がある<ref>[[#笈川|笈川p.52-53 西航計画、実現]]</ref>。
=== サンタ・フェ契約 ===
1492年4月17日、[[グラナダ]]郊外の[[サンタ・フェ (グラナダ県)|サンタ・フェ]]にて、コロンブスは王室と「サンタフェ契約」を締結した。その内容は、
#コロンブスは発見された土地の終身提督(アルーランテ)となり、この地位は相続される。
#コロンブスは発見された土地の副王(ピリレイ)および総督(ゴベルナドール・ヘネラール)の任に就く。各地の統治者は3名の候補をコロンブスが推挙し、この中から選ばれる。
#提督領から得られたすべての純益のうち10%はコロンブスの取り分とする。
#提督領から得られた物品の交易において生じた紛争は、コロンブスが裁判権を持つ。
#コロンブスが今後行う航海において費用の8分の1をコロンブスが負担する場合、利益の8分の1をコロンブスの取り分とする。
というものだった。<ref>[[#林屋、訳注|林屋、訳注p.254-255 (6)]]</ref>
航海の経費は、ルイス・デ・サンタンヘルが中心となって調達された。彼は、警察機構サンタ・エルマンダーの経理担当であったジェノヴァ人フランチェスコ・ピネリと協力して140万[[マラベディ]]を、さらにアラゴン王国の国庫から35万マラベディを調達し、コロンブスに提供した<ref name="masuda37-42">[[#増田|増田p.37-42 イザベル女王の決断]]</ref>。これは、イサベル1世が戴冠用宝玉を担保に供出することを防ぐことが目的だった<ref>{{cite web|url= http://www.amuseum.org/jahf/virtour/index.html#santangel |title= Luis de Santangel|publisher=JEWISH-AMWRICAN HALL OF FAME|accessdate=2010-03-15}}</ref>。コロンブスは25万マラベディを調達したが、これはメディナセリ公やセビリアのフィレンツェ人銀行家ベラルディなどから借金をしてかき集めたものだった<ref name="Lequenne58-60">[[#ルケーヌ|ルケーヌp.58-60 これほど大それた冒険だというのに、資金の心細さは前代未聞だった]]</ref>。
== 航海 ==
{{Main|{{仮リンク|クリストファー・コロンブスの航海|en|Voyages of Christopher Columbus}}}}
{{複数の問題|section=1
| 正確性 = 2017年12月
| 観点 = 2017年12月
|出典の明記 = 2023年11月
}}
=== 船出 ===
1492年[[8月3日]]、[[パロス・デ・ラ・フロンテーラ|スペインウェルバのパロス]]港から[[インド]](インディア)を目指して[[大西洋]]へ出航した。このときの編成は[[キャラベル船]]の[[ニーニャ号]]と[[ピンタ号]]、[[キャラック船|ナオ船]]の[[サンタ・マリア号]]の3隻で総乗組員数は約90人(120人という説も)。
いったん[[カナリア諸島]]へ寄り、大航海の準備を整えたあと、一気に西進した。大西洋は極端に島の少ない大洋であり、船員の間には次第に不安が募っていった。当時の最新科学では地球が球体であるということはほぼ常識となっていたが、船員の間では地球を平面とする旧来の考えも根強く残っていた。
コロンブス自身は平気なふりをしていたが、計算を越えて長い航海となったことに不安を感じるようになる。[[10月6日]]には小規模な暴動が起こり、3日後には船員の不安は頂点に達し、コロンブスに迫って「あと3日で陸地が見つからなかったら引き返す」と約束させた。その後、流木などを発見し陸が近くにあると船員を説得する。
=== 1492年「新大陸」上陸 ===
[[ファイル:Columbus routes.png|300px|thumb|コロンブスの航路]]
そして[[10月11日]]の日付が変わろうとするとき、ピンタ号の水夫が陸地を発見した。翌朝、コロンブスはその島に上陸し、ここを占領して[[サン・サルバドル島]]と名づける。
最初に上陸した島でコロンブス一行は、[[アラワク族]][[インディアン]]たちから歓待を受ける。アラワク族は船から上がったコロンブスたちに水や食料を贈り、オウムや綿の玉、槍やその他見たことのないたくさんのものを持ってきた。コロンブス一行はそれをガラスのビーズや鷹の鈴と交換した。しかしコロンブスの興味は、ただ黄金にしかなかった。彼はこう書き残している。<ref>{{Cite book|和書|title=完訳 コロンブス航海誌|url=https://www.worldcat.org/oclc/674490002|publisher=平凡社|date=1993.9|isbn=4-582-48112-4|oclc=674490002|others=Christopher,?-1506 Columbus, Yasuyuki Aoki, 康征 青木|page=72、73}}</ref>
:「彼らと友好を結ぶため、それにまた、彼らは力ではなく愛をもって接すれば、より速やかに解放され、我らの聖なる信仰に帰依すると分かったので、彼らの何人かに赤いボンネット帽や首にかけるガラス玉の数珠といった安価な品をいくつか与えたところ、彼らはとても喜び、我々も驚くほど和やかな間柄になった。(中略)
:彼らは良き僕になるに違いない。なぜならわたしが見るに、彼らはわたしが話すことすべて、すぐにあとについて口にするからである。また、わたしは彼らは速やかにキリスト教徒になると信じる。なぜならいかなる宗派ももっていないように思われたからである」
コロンブスはこの島で略奪を働き、次に現在の[[キューバ]]島を発見した。ここを「フアナ島」と名づけたあと、ピンタ号船長である[[マルティン・アロンソ・ピンソン]]の独断によりピンタ号が一時離脱してしまうが、12月6日には[[イスパニョーラ島]]と名づけた島に到達。24日にサンタ・マリア号が座礁してしまう。しかし、その残骸を利用して要塞を作り、アメリカにおけるスペイン初の入植地を作った。この入植地には39名の男性が残った。
年が明け、[[1493年]][[1月6日]]にピンタ号と再び合流する。[[1月16日]]、スペインへの帰還を命じ、[[3月15日]]にパロス港へ帰還した。
帰還したコロンブスを歓迎して宮殿では盛大な式典が開かれた。コロンブスは航海に先んじて、発見地の総督職、世襲提督の地位、発見地から上がる収益の10分の1を貰う契約を交わしていた。この取り決めに従い、コロンブスは[[インディアン]]から強奪した金銀宝石、真珠などの戦利品の10分の1を手に入れた。また陸地を発見した者には賞金がカトリック両王から与えられることになっていたが、コロンブスは自分が先に発見したと言い張り、これをせしめている。
国王に調査報告を終え、少しばかりの援助を求めたコロンブスは、次の航海目標としてこう述べている。
:「彼らが必要とするだけのありったけの黄金…彼らが欲しがるだけのありったけの奴隷を連れてくるつもりだ。このように、永遠なる我々の神は、一見不可能なことであっても、主の仰せに従う者たちには、勝利を与えるものなのだ」
1493年5月4日、ローマ法王勅書はアゾレス諸島の西100リーグの分界線を定め、スペインはこれによって新大陸を探検し植民する独占的な権利を手にした<ref name="名前なし-1">[[#ナッシュ|ナッシュp.26]]</ref>。折からの関心の高まりによって、コロンブスは2回目の航海の資金を難なく作ることができた<ref name="名前なし-1"/>。
=== 1493年インディアンへの大虐殺 ===
1493年の9月に17隻1,500人で出発したコロンブスの2度目の航海は、その乗員の中に農民や坑夫を含み、植民目的であった。11月に[[ドミニカ島]]と名づけた島に到着したが、前回作った植民地に行ってみると基地は原住民である[[インディアン]]により破壊されており、残した人間はすべて殺されていた。コロンブスはここを放棄して新しく「イサベル植民地」を築いた。しかし白人入植者の間では[[植民地]]での生活に不満の声が上がり、周辺諸島では[[アラワク族]]、[[タイノ族]]、[[w:Lucayan|ルカヤン族]]、[[カリブ族]]などのインディアンの間で白人の行為に対して怒りが重積していた。
最終的に、コロンブスの率いるスペイン軍はインディアンに対して徹底的な虐殺弾圧を行った。
1495年3月、コロンブスは数百人の装甲兵と騎兵隊、そして訓練された軍用犬からなる一大軍団を組織した。再び船旅に出たコロンブスは、スペイン人の持ち込んだ病いに倒れたインディアンの村々を徹底的に攻撃し、数千人単位の虐殺を指揮した。コロンブスの襲撃戦略は以後10年間、欧州人が繰り返した殺戮モデルとなった<ref name="名前なし-2">『American Holocaust』(David Stannard, Oxford University Press, 1992)</ref>。
コロンブスは、イスパニョーラ島のインディアン部族の指導者と睨んでいた一人の酋長を殺さずに、引き回しの刑と投獄のあと、鎖につないで船に乗せ、スペインへ連行しようとした。しかし他のインディアンたちと同様に、この男性は劣悪な船内環境の中、セビリアに着く前に死んでいる。
=== 晩年 ===
植民地の管理を弟に任せて、コロンブスは先住民の王と共にスペイン本国に帰国し、[[旧約聖書]]に登場する土地{{仮リンク|オフィール|en|Ophir}}を発見したと報告した<ref name="pen104"/>。
コロンブスがカリブ海諸島で指揮した行き当たりばったりの大虐殺は、「黄金探し」を使命としたスペイン海軍によって体系化され、 あらゆる部族の子供以外のインディアンが、3か月以内に一定量の黄金を差し出すよう脅迫された。金を届けたインディアンには、「スペイン人に敬意を表した」という証しとして、その男女に首かけの標章が贈られた。金の量が足りなかった者は、男だろうと女だろうと手首が斬り落とされた。
コロンブスらスペイン人の幻想よりも当地の金の量ははるかに少なかったため、死にたくなかったインディアンたちは、生活を犠牲にして金を捜さざるを得なかった。インディアンが逃亡を始めると飢饉はさらに悪化した。コロンブスらスペイン人が運び込んだ疫病は、栄養失調となったインディアンたちの弱められた身体をより激しく蝕んだ。そしてコロンブスたちと同じく、スペイン軍は面白半分に男を殺し女を犯す楽しみを決してやめなかった。
[[1498年]]5月、6隻の船で3度目の航海に出る。今度は南よりの航路をとり、現在の[[ベネズエラ]]の[[オリノコ川]]の河口に上陸した。その膨大な量の河水が海水ではなく真水であったことから、それだけの大河を蓄えるのは島ではなく大陸であるということをコロンブスは認めざるを得なかった。それと同時に、オリノコ川は上方の[[エデンの園|地上の楽園]]から流れて来ていると考えていた<ref name="pen104">ペンローズ(1985年)p.104</ref>(当時の世界観ではエデンの園を水源とする4つの川が東方を流れていると考えられていた<ref>ペンローズ(1985年)p.16</ref>)。
その後、北上して[[サントドミンゴ]]に着くと後を任せていた弟・バルトロメの統治の悪さから反乱が起きていた。コロンブスは説得を続けるが、入植者たちはこれをなかなか受け入れず、[[1500年]]8月に本国から来た査察官により逮捕され、本国へと送還された。罪に問われる事は免れたものの、すべての地位を剥奪される。
それでもコロンブスは4度目となる航海を企画するが、王からの援助は小型のボロ舟4隻というものであった。[[1502年]]に出航したが、イスパニョーラ島への寄港は禁じられており、パナマ周辺を6か月さまよったが、最後は難破して救助され、[[1504年]]11月にスペインへ戻った。しかし1504年末にイサベル女王が死去し、スペイン王室はコロンブスに対してさらに冷淡になった。
帰国後は病気になり、[[1506年]][[5月20日]][[スペイン]]の[[バリャドリッド]]にて死去。その遺骨は[[セビリア]]の修道院に納められたが[[1542年]]に[[サントドミンゴ]]の大聖堂に移された。晩年は金銭的には恵まれていたが、最期まで自らが発見した島をアジアだと主張し続けていた<ref>ペンローズ(1985年)p.107</ref>。
コロンブスの死後、ドイツの地理学者[[マルティン・ヴァルトゼーミュラー]]が手がけた地図には、南米大陸の「発見者」としてコロンブスではなく、[[アメリゴ・ヴェスプッチ]]の名前が記された。この結果、ヨーロッパでは「新大陸」全域を指す言葉として「コロンビア」ではなく「アメリカ」が使われるようになった(ただし、18世紀以降アメリカの雅称として「[[コロンビア (古名)|コロンビア]]」も用いられる)。
== 航海などの関係略年表 ==
* [[1492年]]
**[[8月3日]] 第1回航海出発( - 1493年3月15日)
** [[10月12日]] バハマ諸島グァナハニ島に到達
** [[10月28日]] キューバ島着
** [[12月6日]] イスパニョーラ島着
* [[1493年]]
**[[9月25日]] 第2回航海出発( - 1496年6月11日)
* [[1494年]]
** [[6月7日]] [[トルデシリャス条約]]によりスペインとポルトガルの境界線画定
* [[1498年]]
** 8月 [[サント・ドミンゴ]]市の建設
** [[5月30日]] 第3回航海出発( - 1500年10月)
* [[1502年]]
**[[5月9日]] 第4回航海出発( - 1504年11月7日)
* [[1503年]]
** [[2月14日]] スペイン、植民地との貿易を統括する通商院をセビリャに設置
** [[12月20日]] [[エンコミエンダ制]]、イスパニョーラ島で公認
* [[1505年]]
** イスパニョーラ島に黒人奴隷導入
== 出自に関する諸説 ==
コロンブスに関してはその出自が明らかではないこと、また大航海の目的自体があまり明確に語り継がれていないことなどから、さまざまな異聞が流れている。また、残されている肖像画はすべて本人の死後に描かれたものであり、今となってはコロンブスの真の素顔を知るすべはない。
{{要出典範囲|レオナルド・ダ・ヴィンチの日記の中に「ジェノヴァ人の船乗りと地球について話す」という興味深い記述があることから|date=2023年5月|}}、両者の間に面識があったのではないかという説がある。
=== ユダヤ人? ===
多く語られているものとしては、コロンブスは[[ユダヤ人]]の片親から生まれたのではないかとする奇説である。
1492年、スペイン王家は同国内に住むユダヤ人に対し8月2日を期限とする国外追放令を発布したが、コロンブスがスペイン王家の支援を受けて出航したのは翌8月3日である。このことから、コロンブス出航の真の目的はユダヤ人の移住地探しではないかとする説も存在する。また、[[教皇]][[インノケンティウス8世 (ローマ教皇)|インノケンティウス8世]]の[[落胤]]ではないかとする説も存在する。しかし、これらの仮説を支持する研究者は少なく、俗説の域を出ていない。
=== ポーランドの王子? ===
[[ファイル:Władysław III Warneńczyk by Aleksander Lesser.PNG|thumb|left|200px|ヴワディスワフ3世([[アレクサンデル・レッセル]]画)]]
アメリカ、[[ノースカロライナ州]]にある[[デューク大学]]でITアナリストとして働くアマチュア歴史家の[[マヌエル・ロサ]]<ref>{{cite web|url=http://www.dukechronicle.com/articles/2009/10/12/q-manuel-rosa-it-analyst-duke-comprehensive-cancer-center|title=Q+A with Manuel Rosa, IT analyst at the Duke Comprehensive Cancer Center|publisher=Dukechronicle.com, Duke Student Publishing Company|language=英語|date=2009-10-12|accessdate=2014-01-07}}</ref>は、[[2010年]][[10月]]に[[スペイン]]で出版した『コロンブス:語られなかったストーリー』の中で、コロンブスが[[ポーランド王]][[ヴワディスワフ3世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ3世]](晩年にかけてはウラースロー1世として[[ハンガリー王]]も兼位)の実の息子であると<!--結論しており、この仮説は合理的な説得力を持つとして歴史学者の間でも急速に支持を獲得している<ref>http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/europe/poland/8166041/Christopher-Columbus-was-son-of-Polish-king.html</ref><ref>http://www.dailymail.co.uk/news/article-1333895/Christopher-Colombus-Polish-Portuguese-Historians-claim-explorer-son-exiled-King-Vladislav-III.html?ito=feeds-newsxml</ref><ref>http://www.aolnews.com/world/article/book-christopher-columbus-was-son-of-polish-king/19735940</ref><ref>http://www.ottawacitizen.com/Columbus+have+been+exiled+royal/3898067/story.html</ref><ref>http://www.wbj.pl/article-52239-was-christopher-columbus-polish.html?typ=ise</ref>。ヴワディスワフ3世は[[オスマン・トルコ]]との戦争における[[ヴァルナの戦い]]で戦死したと伝えられるが、生き延びて[[ポルトガル]]の[[マデイラ島]]に渡り、ポーランド国内の政治的混乱を避けて現地で亡命生活を送ったという説もあり、ロサによればコロンブスはそのころに生まれたという。
ロサによると、以下のような傍証は、コロンブスがヴワディスワフ3世の実の息子であることを当時のヨーロッパの王侯貴族たちが暗黙裡に承知していたことを指し示しているという。
[[ファイル:Nagrobek Władysława II Jagiełły - fragment.jpg|thumb|right|[[ヴワディスワフ2世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ2世ヤギェウォ]]の墓所([[クラクフ]]、[[ヴァヴェル大聖堂]])]]
[[ファイル:Master of the Adoration of Machico - Meeting at the Golden Gate.jpg|thumb|200px|left|聖ヨアキムと聖アンナ<br />マデイラ島が背景に描かれている<br />ここに聖ヨアキムとしてアンナの隣に描かれている白髪の人物は実はヴワディスワフ3世であるとされる<br />[[フンシャル]]聖画美術館(マデイラ島)]]
{|
|
:1. アメリカ大陸を発見して名を挙げるより15年も前に、[[平民]]出身(織物職人の息子)という定説のコロンブスはポルトガル王の認可のもとにポルトガル貴族の娘と結婚しており、当時としてはそのような結婚はあり得ない。
:2. ヨーロッパの4つの王室と直接交渉して航海への出資を引き出すことに成功している。
:3. コロンブスの持っていた[[地理学|地理]]、[[天文学]]、[[地図]]の知識、そして兄弟と通信する際に彼の使っていた[[暗号]]法は、高度な教育を必要としたはずで、これは彼が学者であることを示しており、自学自習で学問を身に着けたというこれまでの定説にそぐわない。
:4. [[1498年]]に書かれた最後の[[遺書]]では「私は[[ジェノヴァ]]で生まれた」と書かれているが、この遺書は彼の死後80年たった1586年に彼の[[遺産]]を狙う[[イタリア人]]たちによって彼の名を「コロンボ」として偽造されたものである。
:5. コロンブスの使っていた家紋はポーランド王家の紋章とよく似ている。
:6. [[アルカサル (セビリア)|セビリアのスペイン王宮]](アルカサル)にあるコロンブスの肖像では、彼の袖に王冠が隠されていた。
:7. 南欧では珍しいがポーランド(一帯)ではよく見かける赤い髪、白い肌、青い目がコロンブスの外見上の特徴である。(彼の祖父のポーランド王[[ヴワディスワフ2世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ2世ヤギェウォ]]は[[リトアニア|原リトアニア]]地方の出身で、祖母[[ゾフィア・ホルシャンスカ|ゾフィア]]は[[ルーシ (地名)|ルテニア]]地方の出身)。
ロサによると、上に挙げたほかにもコロンブスがポーランド王の息子であることを指し示す傍証が数多く存在するという。
|}
ロサはポーランド、[[クラクフ]]の王宮内にある[[ヴァヴェル大聖堂]]に対し、聖堂内に安置されている[[ヴワディスワフ2世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ2世ヤギェウォ]]などの遺体の[[デオキシリボ核酸|DNA]]採取を要請している。セビリアの大聖堂に遺体のあるコロンブスのDNAはすでに採取されていることから、この照合によってコロンブスがヴワディスワフ3世の実の息子であるかどうかが証明されるからである。
2005年にコロンブスと彼の兄弟のDNAが採取され、全ヨーロッパでコロンブス家系の子孫と思われる477人の人々のDNAと照合されたが、そのときは彼の親類も子孫も発見できなかった。この当時ポーランド説はまだ浮上しておらず、検査の想定外だった。
[[ナショナル・ジオグラフィック]]がこれに強い興味を持ち、プロデューサーを急遽スペインとポルトガルに派遣している。<ref>http://www.prnewswire.com/news-releases/polish-king-in-exile-was-christopher-columbus-true-father-110810919.html</ref>-->の説を主張している。
== 「コロンブスの卵」 ==
{{main|コロンブスの卵}}
新大陸発見を祝う凱旋式典で「誰でも西へ行けば陸地にぶつかる。造作もないことだ」などとコロンブスの成功を妬む人々に対し、コロンブスは「誰かこの卵を机に立ててみて下さい」と言い、誰もできなかったあとでコロンブスは軽く卵の先を割ってから机に立てた。「そんな方法なら誰でもできる」と言う人々に対し、コロンブスは「人のした後では造作もないことです」と返した。これが『[[コロンブスの卵]](Egg of Columbus)』の逸話であり、「誰でもできることでも、最初に実行するのは至難であり、柔軟な発想力が必要」「逆転の発想」という意の故事成語として今日使われている<ref group="注">天才パズル作家[[サム・ロイド]]は別に9つの点を4本の線でつなぐパズルなど2つを「コロンブスの卵」と名づけている[[:en:Nine dots puzzle|(Nine dots puzzle)]]。</ref>。
しかし、[[ヴォルテール]]は『習俗論』(第145章)にて「これは[[建築家]][[フィリッポ・ブルネレスキ]]の逸話が元になった創作だ」と指摘し、会話の内容などもそのまま流用されていると説明した<ref>[[#ルケーヌ|ルケーヌp.154-155 コロンブスの卵の真実]]</ref>。逸話の内容は[[1410年代]]、『[[フィレンツェ]]の[[サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂]]のクーポラ(ドーム部分)の設計にみな難儀していた際、ブルネレスキは設計図面も完成模型も見せないまま「私に建築させて下さい」と立候補した。ほかの建築家たちが大反対したところ、ブルネレスキは「大理石の上に卵を立てられる人に建築を任せてみてはどうか」と提案。誰もできなかった中で、ブルネレスキは卵の底を潰して立てた。当然のごとく周囲から批判されたが、ブルネレスキは「最初にやるのがもっとも難しい。もし先に図面を見せたら、あなたたちは真似をするでしょう?」と切り返した』というものである。
== その他 ==
[[ファイル:Lire 5000 (Cristoforo Colombo, 2° tipo).JPG|thumb|240px|旧5000イタリア・リレ紙幣([[1971年]]にデザインを変更した後期バージョン)]]
* 紙幣では、イタリアで1964年から1979年まで発行されていた5,000[[イタリア・リラ|リラ]]<!-- 〜リレ]]([[リラ (通貨)|リラ]]の複数形)--><!-- かえって混乱を招く脱線トリビア -->札、スペインで1992年から2001年まで発行されていた5,000[[ペセタ]]札、[[エルサルバドル]]で2001年まで流通していた全額面の[[サルバドール・コロン|コロン]]札でその肖像が使用されていた。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2|2}}
=== 出典 ===
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=== 脚注2 ===
本脚注は、出典・脚注内で提示されている「出典」を示しています。
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== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=笈川博一|authorlink=笈川博一|year=1992|month=5|title=コロンブスは何を「発見」したか|series=[[講談社現代新書]]|publisher=[[講談社]]|isbn=4-06-149100-8|ref=笈川}}
* {{Cite book|和書|author=ラス・カサス|authorlink=ラス・カサス|others=[[長南実]]・[[増田義郎]]訳|date=1994-07-05|title=インディアス史|series=[[大航海時代叢書]] 21|volume=1|publisher=[[岩波書店]]|isbn=4-00-008541-7|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/00/7/0085410.html|ref=ラス・カサス1994a}}
* {{Cite book|和書|author=ラス・カサス|others=長南実・増田義郎訳|date=1994-08-04|title=インディアス史|series=大航海時代叢書 22|volume=2|publisher=岩波書店|isbn=4-00-008542-5|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/00/5/0085420.html|ref=ラス・カサス1994b}}
* {{Cite book|和書|author=ラス・カサス|others=長南実訳|date=1994-09-05|title=インディアス史|series=大航海時代叢書 23|volume=3|publisher=岩波書店|isbn=4-00-008543-3|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/00/3/0085430.html|ref=ラス・カサス1994c}}
* {{Cite book|和書|author=ラス・カサス|others=長南実訳|date=1994-10-05|title=インディアス史|series=大航海時代叢書 24|volume=4|publisher=岩波書店|isbn=4-00-008544-1|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/00/1/0085440.html|ref=ラス・カサス1994d}}
* {{Cite book|和書|author=ラス・カサス|others=長南実訳|date=1994-11-07|title=インディアス史|series=大航海時代叢書 25|volume=5|publisher=岩波書店|isbn=4-00-008550-6|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/00/6/0085500.html|ref=ラス・カサス1994e}}
** {{Cite book|和書|author=ラス・カサス|editor=石原保徳|editor-link=石原保徳|others=長南実訳|date=2009-03-17|title=インディアス史|series=[[岩波文庫]]|volume=全7巻|publisher=岩波書店|isbn=978-4-00-201149-3|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/20/6/2011490.html|ref=ラス・カサス2009}} - コロンブス(クリストバル・コロン)の生い立ちと航海について記述がある。
* {{Cite book|和書|author=コロンブス|others=[[林屋永吉]]訳|date=1977-09-16|title=コロンブス航海誌|series=岩波文庫 青428-1|publisher=岩波書店|isbn=4-00-334281-X|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/33/X/3342810.html|ref=コロンブス1977}}
**{{Anchors|林屋、解説}}林屋永吉「訳者解説」、『[[#コロンブス1977|コロンブス航海誌]]』 岩波文庫、1977年、pp. 273-297。
**林屋永吉「訳註」、『[[#コロンブス1977|コロンブス航海誌]]』 岩波文庫、1977年、pp. 253-272。
* {{Cite book|和書|author=コロンブス|others=林屋永吉訳|date=2011-02-16|title=コロンブス 全航海の報告|series=岩波文庫 青428-2|publisher=岩波書店|isbn=978-4-00-334282-4|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/33/8/3342820.html|ref=コロンブス2011}}
* {{Cite book|和書|author=増田義郎|authorlink=増田義郎|date=1979-08-20|title=コロンブス|series=[[岩波新書]]|publisher=岩波書店|isbn=4-00-420093-8|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/42/8/4200930.html|ref=増田}}
* {{Cite book|和書|author=ミシェル・ルケーヌ|authorlink=ミシェル・ルケーヌ|others=[[大貫良夫]]監修、[[富樫瓔子]]・[[久保実]]訳|date=1992-10-14|title=コロンブス――聖者か,破壊者か|series=[[「知の再発見」双書]] 21|publisher=[[創元社]]|page=192|isbn=4-422-21071-8|url=http://www.sogensha.co.jp/booklist.php?act=details&ISBN_5=21071|ref=ルケーヌ}}
* {{Cite book|和書|author=ロデリック・ナッシュ|others=[[足立康]]訳|year=1989|month=4|title=人物アメリカ史|volume=(上)|series=[[新潮選書]]|publisher=[[新潮社]]|isbn=4-10-600358-9|ref=ナッシュ}}
* コロンブス『完訳 コロンブス航海誌』、青木康征訳、平凡社、1993年9月1日。ISBN 4582481124。
*{{Cite book|和書|author=ボイス・ペンローズ|others=[[荒尾克己]]訳|year=1985|month=|title=大航海時代 旅と発見の二世紀|publisher=[[筑摩書房]]|ASIN=4480852697}}
== 関連作品 ==
* [[コロンブスの探険]] - コロンブスを描いた1949年のイギリス映画。
* [[1492 コロンブス]] - コロンブスを描いた1992年のフランス・スペイン・イギリス合作映画。
* [[コロンブス (映画)]] - コロンブスを描いた1992年のスペイン・イギリス・アメリカ合作映画。
== 関連項目 ==
{{commons|Christophorus Columbus}}
* [[コロンビア]] - コロンブスの名に由来して命名された国
* [[クリストバル・コロン山]] - コロンビア北部の山
* [[コロンバス]] - 「コロンブス」の英語読みで、コロンブスの名に由来する地名など
* [[コロンビア (曖昧さ回避)]] - その他、コロンブスの名に由来するものの一覧
* [[レイフ・エリクソン]] - コロンブス以前に[[北アメリカ|北米]]へ達していた[[ノルマン人]]
* [[アメリカ大陸の発見]] - 公式には、ヨーロッパ人初の「発見」者と見なされる
* [[先コロンブス期]] - コロンブス到達以前を表す南北アメリカ大陸の時代区分
* [[コロンブス交換]] - 新大陸発見により新旧相互の世界にもたらされた動植物・疫病・物品等
* [[ディエゴ・デ・アラーナ]] - コロンブスの航海に同行
* コロンブスの名を付した[[スペイン海軍]]の軍艦
** [[クリストーバル・コロン (巡洋艦)]]
** [[クリストーバル・コロン (装甲巡洋艦)]]
** [[クリストーバル・コロン (フリゲート)]]
* [[アメリゴ・ヴェスプッチ]] - コロンブスより後にアメリカ海域に到達に成功したものの、アメリカ大陸の名前の由来となった人物。
* [[コロンブスの卵 (シルエットパズル)]]
* [[梅毒の歴史]]
* [[大航海時代]]
== 外部リンク ==
* [http://kambun.jp/kambun/asaka-columbus-yaku.htm コロンブス伝(安積艮齋)]江戸時代のコロンブス伝(日本漢文の世界)
* {{Kotobank|コロンブス}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ころんふす くりすとふああ}}
[[Category:クリストファー・コロンブス|*]]
[[Category:航海者]]
[[Category:イタリアの探検家]]
[[Category:中世イタリアの人物]]
[[Category:中世イベリア半島の人物]]
[[Category:ジェノヴァ共和国の人物]]
[[Category:広く信じられた謬説]]
[[Category:イタリア・リラ紙幣の人物]]
[[Category:スペイン・ペセタ紙幣の人物]]
[[Category:バハマの紙幣の人物]]
[[Category:エルサルバドルの紙幣の人物]]
[[Category:コロンブス家|*]]
[[Category:ジェノヴァ出身の人物]]
[[Category:1451年生]]
[[Category:1506年没]]
[[Category:大西洋の歴史]] | 2003-05-20T04:55:05Z | 2023-11-27T14:53:05Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%96%E3%82%B9 |
8,758 | 1662年 | 1662年(1662 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。
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] | 1662年は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。 | {{年代ナビ|1662}}
{{year-definition|1662}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[壬寅]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[寛文]]元年[[11月11日 (旧暦)|11月11日]] - 寛文2年[[11月21日 (旧暦)|11月21日]]
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2322年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[康熙]]元年
** [[南明]]・[[鄭氏政権 (台湾)|鄭氏政権]]{{Sup|*}} : [[永暦 (南明)|永暦]]16年
** [[朱亶セキ|朱亶塉]]([[南明]]): [[定武]]17年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[顕宗 (朝鮮王)|顕宗]]3年
** [[檀君紀元|檀紀]]3995年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[永寿 (黎朝)|永寿]]5年、[[万慶]]元年9月 -
* [[仏滅紀元]] : 2204年 - 2205年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1072年 - 1073年
* [[ユダヤ暦]] : 5422年 - 5423年
* [[ユリウス暦]] : 1661年12月22日 - 1662年12月21日
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1662}}
== できごと ==
* [[2月1日]](永暦15年[[12月13日 (旧暦)|12月13日]]) - [[鄭成功]]が[[台湾]]の[[安平古堡|ゼーランディア城]]を陥落し[[オランダ東インド会社]]を駆逐。[[鄭氏政権 (台湾)|鄭氏政権]]が発足(-[[1683年]])。
* [[3月18日]] - [[フランス]]:[[ブレーズ・パスカル]]が[[パリ]]で[[5ソルの馬車]]の運行を開始。
* [[5月19日]] - [[イングランド国教会]]再建を期して{{仮リンク|1662年礼拝統一法|label=礼拝統一法|en|Act of Uniformity 1662}}が公布される。
* [[6月1日]](永暦16年[[4月15日 (旧暦)|4月15日]]) - [[ビルマ]]に逃れた[[南明]]の[[永暦帝]]が[[呉三桂]]により処刑される。
* [[6月16日]](寛文2年[[5月1日 (旧暦)|5月1日]]) - [[寛文近江・若狭地震]]発生。M 7.4~7.8、死者数千人。
* [[10月31日]](寛文2年[[9月20日 (旧暦)|9月20日]])-[[外所地震]]発生。M7.6、4-5mの[[津波]]が発生して [[日向国]][[飫肥藩]]を中心に被害。
* [[ボイルの法則]]が発見される。
* [[モンゴル]]の[[年代記]]『[[蒙古源流]]』が著される。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1662年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月27日]] - [[リチャード・ベントレー]]([[w:Richard Bentley|Richard Bentley]])、[[神学者]](+ [[1742年]])
* [[4月30日]] - [[メアリー2世 (イングランド女王)|メアリー2世]]、[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]の共同統治者としての[[イングランド王国|イングランド]]・[[スコットランド王国|スコットランド]]・[[アイルランド王国|アイルランド]][[女王]](+ [[1694年]])
* [[6月11日]](寛文2年[[4月25日 (旧暦)|4月25日]]) - [[徳川家宣]]、[[江戸幕府]]第6代[[征夷大将軍]](+ [[1712年]])
* [[7月11日]] - [[マクシミリアン2世エマニュエル (バイエルン選帝侯)|マクシミリアン2世エマニュエル]]([[w:Maximilian II Emanuel, Elector of Bavaria|Maximilian II Emanuel]])、[[バイエルン選帝侯]](+ [[1726年]])
* [[12月13日]] - [[フランチェスコ・ビアンキーニ]]([[w:Francesco Bianchini|Francesco Bianchini]])、[[哲学者]]、[[天文学者]](+ [[1729年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1662年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月14日]](寛文元年[[11月24日 (旧暦)|11月24日]]) - [[今川直房]]、[[旗本]]、[[高家 (江戸時代)|高家]](* [[1594年]])
* [[2月13日]] - [[エリザベス・ステュアート]](エリザベス・オブ・ボヘミア)、[[イングランド王国|イングランド]]王[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]の娘、[[プファルツ選帝侯]][[フリードリヒ5世 (プファルツ選帝侯)|フリードリヒ5世]]の妻(* [[1596年]])
* [[2月23日]] - [[ヨハン・クリューガー]]、[[作曲家]](* [[1598年]])
* [[3月23日]] - [[ジョン・ゴードン]]([[w:John Gauden|John Gauden]])、[[聖職者]]、[[作家]](* [[1605年]])
* [[3月30日]] - [[フランソワ・ル・メテル・ド・ボワロベール]]([[w:François le Métel de Boisrobert|François le Métel de Boisrobert]])、聖職者、詩人(* [[1592年]])
* [[5月4日]](寛文2年[[3月16日 (旧暦)|3月16日]]) - [[松平信綱]]、[[老中]](* [[1596年]])
* [[6月23日]](南明永曆16年[[5月8日 (旧暦)|5月8日]]) - [[鄭成功]]、[[明]]王朝の[[軍人]](* [[1624年]])
* [[8月19日]] - [[ブレーズ・パスカル]]、[[哲学者]]、[[数学者]](* [[1623年]])
* [[8月25日]](寛文2年[[7月12日 (旧暦)|7月12日]]) - [[酒井忠勝 (小浜藩主)|酒井忠勝]]、老中、[[大老]](* [[1587年]])
* [[9月3日]] - [[ウィリアム・レントール]]([[w:William Lenthall|William Lenthall]])、[[政治家]](* [[1591年]])
* [[10月21日]] - [[ヘンリー・ローズ]]、作曲家(* [[1595年]])
* [[11月2日]](寛文2年[[10月5日 (旧暦)|10月5日]]) - [[津軽信英]]、[[津軽地方|津軽]][[弘前藩]]後見人、黒石支藩藩主(* [[1620年]])
* [[道者超元]]、中国から来日した僧(* [[1602年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1662}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}}
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[[Category:1662年|*]] | null | 2021-07-06T05:19:29Z | false | false | false | [
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8,760 | 1658年 | 1658年(1658 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。
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{{year-definition|1658}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[戊戌]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[明暦]]4年、[[万治]]元年7月23日 -
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2318年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[順治]]15年
** [[南明]] : [[永暦 (南明)|永暦]]12年
** [[朱亶セキ|朱亶塉]]([[南明]]): [[定武]]13年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[孝宗 (朝鮮王)|孝宗]]9年
** [[檀君紀元|檀紀]]3991年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[盛徳 (黎朝)|盛徳]]6年、[[永寿 (黎朝)|永寿]]元年2月 -
*** [[莫朝|高平莫氏]] : [[順徳 (莫朝)|順徳]]21年
* [[仏滅紀元]] : 2200年 - 2201年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1068年 - 1069年
* [[ユダヤ暦]] : 5418年 - 5419年
* [[ユリウス暦]] : 1657年12月22日 - 1658年12月21日
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1658}}
== できごと ==
* [[2月6日]] - [[スウェーデン]]王[[カール10世 (スウェーデン王)|カール10世]]、[[デンマーク]]への[[氷上侵攻]]。
* [[2月26日]] - [[ロスキレ条約 (1658年)|ロスキレ条約]]締結。[[スコーネ]]地方などがデンマークからスウェーデンに割譲。
* [[7月31日]] - [[ムガル帝国]]で[[シャー・ジャハーン]]が[[皇帝]]位を失い、[[アウラングゼーブ]]が第6代皇帝に即位。
* [[8月21日]](明暦4年[[7月23日 (旧暦)|7月23日]]) - 日本、[[改元]]して[[万治]]元年。
* [[9月3日]] - [[オリバー・クロムウェル]]死去、息子[[リチャード・クロムウェル]]が[[護国卿]]となる(-[[1659年]])。
* [[レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト1世]]が[[神聖ローマ皇帝]]に即位。
* [[スリランカ]]の[[コロンボ]]を[[ポルトガル]]に代わり[[オランダ]]が植民地化([[オランダ領セイロン]]、-[[1796年]])。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1658年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月9日]] - [[ニコラス・クストゥ]]([[w:Nicolas Coustou|Nicolas Coustou]])、[[彫刻家]](+ [[1733年]])
* [[1月17日]] - [[ザムゾン・ヴェルトハイマー]]、[[ラビ]](+ [[1742年]])
* [[3月4日]](万治元年[[2月1日 (旧暦)|2月1日]]) - [[瑞春院|お伝の方(瑞春院)]]、[[徳川綱吉]]の[[側室]](+ [[1738年]])
* [[3月29日]](万治元年[[2月26日 (旧暦)|2月26日]]) - [[室鳩巣]]、[[儒学者]](+ [[1734年]])
* [[4月22日]] - [[ジュゼッペ・トレッリ]]、[[作曲家]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1709年]])
* [[10月5日]] - [[メアリー・オブ・モデナ]]、[[イングランド王国|イングランド]]王[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]][[王妃]]、[[モデナ=レッジョ公国|モデナ公国]]公女(+ [[1718年]])
* [[12月31日]](万治元年[[12月8日 (旧暦)|12月8日]]) - [[柳沢吉保]]、[[江戸幕府]][[老中]](+ [[1714年]])
* 月日不明 - [[尾形光琳]]、[[画家]](+ [[1716年]])
* 月日不明 - [[荻原重秀]]、[[幕臣]]・[[勘定奉行]](+ [[1713年]])
* 月日不明 - [[エリザベス・バリー]]([[w:Elizabeth Barry|Elizabeth Barry]])、[[俳優|女優]](+ [[1713年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1658年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[4月29日]] - [[ジョン・クリーブランド]]([[w:John Cleveland|John Cleveland]])、[[詩人]](* [[1613年]])
* [[9月3日]] - [[オリバー・クロムウェル]]、[[軍人]]、[[政治家]](* [[1599年]])
* [[9月9日]] - [[ダーラー・シコー]]、ムガル帝国皇族(* [[1615年]])
* [[10月12日]](万治元年[[9月16日 (旧暦)|9月16日]]) - [[本因坊算悦]]、[[囲碁]][[棋士 (囲碁)|棋士]](* [[1611年]])
* [[10月23日]] - [[トマス・プライド]]、[[イングランド]][[下院]]議員、「[[プライドのパージ]]」で知られる(* 生年不詳)
* [[11月6日]] - [[ピエール・デュ・リエ]]([[w:Pierre du Ryer|Pierre du Ryer]])、[[劇作家]](* [[1606年]])
* [[11月7日]](万治元年[[10月12日 (旧暦)|10月12日]]) - [[前田利常]]、[[加賀藩]]第3代[[藩主]](* [[1594年]])
* [[11月8日]] - [[ヴィッテ・コルネリスゾーン・デ・ヴィス]]([[w:Witte Corneliszoon de With|Witte Corneliszoon de With]])、[[オランダ]][[海軍]]士官(* [[1599年]])
* [[11月12日]](万治元年[[10月17日 (旧暦)|10月17日]]) - [[真田信之]]、[[信濃国|信濃]][[松代藩]]初代藩主(* [[1566年]])
* [[12月13日]](万治元年[[11月19日 (旧暦)|11月19日]]) - [[千宗旦]]、[[茶道|茶人]](* [[1578年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
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== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1658}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}}
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1658%E5%B9%B4 |
8,761 | アリストテレス | アリストテレス(アリストテレース、古希: Ἀριστοτέλης、羅: Aristotelēs、前384年 - 前322年)は、古代ギリシアの哲学者である。
プラトンの弟子であり、ソクラテス、プラトンとともに、しばしば西洋最大の哲学者の一人とされる。知的探求つまり科学的な探求全般を指した当時の哲学を、倫理学、自然科学を始めとした学問として分類し、それらの体系を築いた業績から「万学の祖」とも呼ばれる。特に動物に関する体系的な研究は古代世界では東西に類を見ない。様々な著書を残し、イスラーム哲学や中世スコラ学、さらには近代哲学・論理学に多大な影響を与えた。また、マケドニア王アレクサンドロス3世(通称アレクサンドロス大王)の家庭教師であったことでも知られる。
アリストテレスは、人間の本性が「知を愛する」ことにあると考えた。ギリシャ語ではこれをフィロソフィアと呼ぶ。フィロは「愛する」、ソフィアは「知」を意味する。この言葉がヨーロッパの各国の言語で「哲学」を意味する言葉の語源となった。著作集は日本語版で17巻に及ぶが、内訳は形而上学、倫理学、論理学といった哲学関係のほか、政治学、宇宙論、天体学、自然学(物理学)、気象学、博物誌学的なものから分析的なもの、その他、生物学、詩学、演劇学、および現在でいう心理学なども含まれており多岐にわたる。アリストテレスはこれらをすべてフィロソフィアと呼んでいた。アリストテレスのいう「哲学」とは知的欲求を満たす知的行為そのものと、その行為の結果全体であり、現在の学問のほとんどが彼の「哲学」の範疇に含まれている。
名前の由来はギリシア語の「Ἀριστος」(最高の)と「τελος 」(目的)から 。
紀元前384年、トラキア地方のスタゲイロス(後のスタゲイラ)にて出生。スタゲイロスはカルキディケ半島の小さなギリシア人植民町で、当時マケドニア王国の支配下にあった。父はニコマコスといい、マケドニア王アミュンタス3世の侍医であったという。幼少にして両親を亡くし、義兄プロクセノスを後見人として少年期を過ごす。このため、マケドニアの首都ペラから後見人の居住地である小アジアのアタルネウスに移住したとも推測されているが、明確なことは伝わっていない。
紀元前367年、17-18歳にして、「ギリシアの学校」とペリクレスの謳ったアテナイに上り、そこでプラトン主催の学園、アカデメイアに入門した。修業時代のアリストテレスについては真偽の定かならぬさまざまな話が伝えられているが、一説には、親の遺産を食い潰した挙句、食い扶持のために軍隊に入るも挫折し、除隊後に医師(くすし)として身を立てようとしたがうまく行かず、それでプラトンの門を叩いたのだと言う者もいた。いずれにせよ、かれはそこで勉学に励み、プラトンが死去するまでの20年近い年月、学徒としてアカデメイアの門に留まることになる。アリストテレスは師プラトンから「学校の精神」と評されたとも伝えられ、時には教師として後進を指導することもあったと想像されている。紀元前347年にプラトンが亡くなると、その甥に当たるスペウシッポスが学頭に選ばれる。この時期、アリストテレスは学園を辞してアテナイを去る。アリストテレスが学園を去った理由には諸説あるが、デモステネスらの反マケドニア派が勢いづいていた当時のアテナイは、マケドニアと縁の深い在留外国人にとって困難な情況にあったことも理由のひとつと言われている。その後アカデメイアは、529年に東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌス1世(在位 527年 - 565年)によって閉鎖されるまで続いた。
アカデメイアを去ったアリストテレスは、アカデメイア時代の学友で小アジアのアッソスの僭主であるヘルミアスの招きに応じてアッソスの街へ移住し、ここでヘルミアスの姪にあたるピュティアスと結婚した。その後紀元前345年にヘルミアスがペルシア帝国によって捕縛されると難を逃れるためにアッソスの対岸に位置するレスボス島のミュティレネに移住した。ここではアリストテレスは主に生物学の研究に勤しんでいた。
紀元前342年、42歳頃、マケドニア王フィリッポス2世の招聘により、当時13歳であった王子アレクサンドロス(後のアレクサンドロス大王)の師傅となった。アリストテレスは首都ペラから離れたところにミエザの学園を作り、弁論術、文学、科学、医学、そして哲学を教えた。ミエザの学園にはアレクサンドロスのほかにも貴族階級の子弟が彼の学友として多く学んでおり、のちに彼らはマケドニア王国の中核を担う存在となっていった。
教え子アレクサンドロスが王に即位(紀元前336年)した翌年の紀元前335年、49歳頃、アテナイに戻り、自身の指示によりアテナイ郊外に学園「リュケイオン」を開設した(リュケイオンとは、アテナイ東部郊外の、アポロン・リュケイオスの神域たる土地を指す)。弟子たちとは学園の歩廊(ペリパトス)を逍遥(そぞろ歩き、散歩)しながら議論を交わしたため、かれの学派は逍遥学派(ペリパトス学派)と呼ばれた。このリュケイオンもまた、529年にユスティニアヌス1世によって閉鎖されるまで、アカデメイアと対抗しながら存続した。
紀元前323年にアレクサンドロス大王が没すると、広大なアレクサンドロス帝国は政情不安に陥り、マケドニアの支配力は大きく減退した。これに伴ってアテナイではマケドニア人に対する迫害が起こったため、紀元前323年、61歳頃、母方の故郷であるエウボイア島のカルキスに身を寄せた。しかし、そこで病に倒れ(あるいは毒人参をあおったとも)、紀元前322年、62歳で死去している。
アリストテレスの著作は元々550巻ほどあったともされるが、そのうち現存しているのは約3分の1である。ほとんどが講義のためのノート、あるいは自分用に認めた研究ノートであり、公開を想定していなかったため簡潔な文体で書かれている。この著作はリュケイオンに残されていたものの、アレクサンドリア図書館が建設され資料を収集しはじめると、その資料は小アジアに隠され、そのまま忘れ去られた。この資料はおよそ2世紀後の紀元前1世紀に再発見され、リュケイオンに戻された。この資料はペリパトス学派の11代目学頭であるロドス島のアンドロニコスによって紀元前30年頃に整理・編集された。それが現在、『アリストテレス全集』と呼称されている文献である。したがって、われわれに残されている記述はアリストテレスが意図したものと異なっている可能性が高い。
キケロらの証言によれば、師プラトン同様、アリストテレスもいくつか対話篇を書いたようであるが、まとまった形で伝存しているものはない。
アリストテレスは、「論理学」があらゆる学問成果を手に入れるための「道具」(オルガノン)であることを前提とした上で、学問体系を「理論」(テオリア)、「実践」(プラクシス)、「制作」(ポイエーシス)に三分し、理論学を「自然学」、「形而上学」、実践学を「政治学」、「倫理学」、制作学を「詩学」に分類した。
アリストテレスの哲学には現在では多くの誤りがあるが、その誤謬の多さにもかかわらずその知的巨人さゆえに、あるいはキリスト教との結びつきにおいて宗教的権威付けが得られたため、彼の知的体系全体が中世を通じ疑われることなく崇拝の対象となった。これがのちにガリレオ・ガリレイの悲劇を生む要因ともなる。中世の知的世界はアリストテレスがあまりにも大きな権威を得たがゆえに誤れる権威主義的な知の体系化が行われた。しかし、その後これが崩壊することで近代科学の基礎確立という形で人間の歴史は大きく進歩した。アリストテレスの総体的な哲学の領域を構成していた個別の学問がその外に飛び出し、独立した学問として自律し成立することで、巨視的にはこれが中世以降の近世を経て現代に至るまで続いてきた学問の歴史となる。アリストテレスの誤りの原因は、もっぱら思弁に基づき頭で作り上げた理論の部分で、事実に立脚しておらずそれが原因で近代科学によって崩れたが、その後「事実を見出してゆくこと(Fact finding)」が原理となったとする立花隆の見解がある。
アリストテレスの師プラトンは、対話によって真実を追究していく問答法を哲学の唯一の方法論としたが、アリストテレスは経験的事象を元に演繹的に真実を導き出す分析論を重視した。このような手法は論理学として三段論法などの形で体系化された。
アリストテレスの死去した後、かれの論理学の成果は『オルガノン』 (Organon) 6巻として集大成され、これを元に中世の学徒が論理学の研究を行った。
アリストテレスによる自然学に関する論述は、物理学、天文学、気象学、動物学、植物学等多岐にわたる。
プラトンは「イデア」こそが真の実在であるとした(実在形相説)が、アリストテレスは、可感的かつ形相が質料と不可分に結合した「個物」こそが基本的実在(第一実体)であり、それらに適応される「類の概念」を第二実体とした(個物形相説)。さまざまな物体の特性を決定づけているのは、「温」と「冷」、「乾」と「湿」の対立する性質の組み合わせであり、これらの基礎には火・空気・水・土の四大元素が想定されている。これはエンペドクレスの4元素論を基礎としているが、より現実事象、感覚知見に根ざしたものとなっている。
アリストテレスの宇宙論は、同心円による諸球状の階層的重なりの無限大的な天球構造をしたものとして論じている。世界の中心に地球があり、その外側に月、水星、金星、太陽、その他の惑星らの運行域にそれぞれ割り当てられた各層天球があるとした構成を呈示する。これらの天球層は、前述の4元素とは異なる完全元素である第5元素「アイテール」(エーテル)に帰属する元素から成るとする。そして「その天球アイテール」中に存在するがゆえに、太陽を含めたそれらの諸天体(諸惑星)は、それぞれの天球内上を永遠に円運動しているとした。加えてそれらの天外層の上には、さらに無数の星々、いわゆる諸々の恒星が張り付いている別の天球があり、他の諸天球に被いかぶさるかたちで周回転運動をしている。さらにまた、その最上位なる天外層上には「不動の動者」である世界全体に関わる「第一動者」が存在し、すべての運動の究極の原因(者)がまさにそれであるとする。(これは総じて、アリストテレスの天界宇宙論ともなるが、あとに続く『形而上学』(自然学の後の書)においては、その「第一動者」を 彼は、「神」とも呼んでいる。)
アリストテレスの自然学研究の中で最も顕著な成果を上げているのは生物学、特に動物学の研究である。生物学では、自然発生説をとっている。その研究の特徴は系統的かつ網羅的な経験事実の収集である。数百種にわたる生物を詳細に観察し、かなり多くの種の解剖にも着手している。特に、海洋に生息する生物の記述は詳細なものである。また、鶏の受精卵に穴を空け、発生の過程を詳しく観察している。 一切の生物はプシュケー(希: ψυχη、和訳では霊魂とする)を有しており、これを以て無生物と区別されるとした。この場合のプシュケーは生物の形相であり(『ペリ・プシュケース』第2巻第1章)、栄養摂取能力、感覚能力、運動能力、思考能力によって規定される(『ペリ・プシュケース』第2巻第2章)。また、感覚と運動能力をもつ生物を動物、もたない生物を植物に二分する生物の分類法を提示している(ただし、『動物誌』第6巻第1章では、植物と動物の中間にいるような生物の存在を示唆している)。
さらに、人間は理性(作用する理性〔ヌース・ポイエーティコン〕、受動理性〔ヌース・パテーティコン〕)によって現象を認識するので、他の動物とは区別される、としている。
アリストテレス自然学では、月下の世界は土・水・空気・火の四元素より成り、それらは相互に移り変わることが可能としている。この月より下の常に転化して生成・変化・消滅を繰り返す世界は「地上界」と呼ばれる。それに対して月とそれより先のエーテルよりなる世界では決して転化することがなく、生成や消滅は見られない。この不変の世界は「天上界」と呼ばれる。アリストテレスはそれぞれの世界は別な法則に従っていると考えた。この考え方は二元的宇宙像(論)と呼ばれている。
このアリストテレスによる二元的宇宙像は、バビロニアでの日食や月食などの現象が「地上の物体に作用する」という考え方と結びついて、「地上界の出来事には必然的に天上界が作用している」という考え方の基本となった。月齢による海の干満や曇りの日でも花が太陽の方向を向く植物などから、当時の人々から見ればこれは当然であった。この考えは、地上界の出来事の原因を天上界(つまり星の動き)に求める占星術(学)が隆盛するもとともなった。プトレマイオスはこの法則性を綿密に探るために彼の著書「アルマゲスト」で、将来の惑星の動きを(誤差は大きかったが)計算して予測できる宇宙モデルを初めて構築した。そして著書「テトラビブロス」では、天上界が及ぼす地上界への影響の法則性を探ろうとした。これは実証学的な学問だった。
ところが、占星術は天上界による地上界への影響がはっきりしないまま、星の動きを「未来を指し示す予兆」と捉える星占い(ホロスコープ)として、幅広く民衆に広がっていった。他方、この人々に広がった星占いは、12世紀以降にエフェメリス(天体暦)やアルマナック(生活暦)という惑星を含む天体の正確な運行という強い需要を喚起し、後に天文学が発展する動機ともなった。
天上界が及ぼす地上界への影響の法則性を探ろうとした例として、16世紀のデンマークの天文学者チコ・ブラーエがある。彼は占星学の研究者でもあり、彼が精巧な天文観測装置を作った動機の一つとして、天上界の地上界への影響の法則を正確に捉えられないのは観測精度が足らないと考えたことがある。そして天上界が及ぼす地上界への影響が最も現れるものの一つとして気象を取り上げた。彼は天文観測しながら1582年の10月から1597年の4月まで、15年間にわたってヴェーン島で気象観測の記録を残している。これは占星気象学の検証のためと思われている。
ヨハネス・ケプラーは占星術者としても有名であり、彼の著書『調停者』でも1592 年から1609年までの16 年間にわたって気象観測を継続して、その間に観測された星相と天候異常の関係の実例をいくつも記している。また著書『調和』の中でも「ひたすら天候を観察し、そういう天候を引き起こす星相の考察をしたかからであった。すなわち、惑星が合になるか、一般に占星術師が弘布した星相になると、そのたびに決まって大気の状態が乱れるのを私は認めてきた。」と述べている。
この「天上界」と「地上界」という考え方が終焉するのは、ニュートンによる万有引力の法則の発見によってである。この法則によって天上界と地上界とに同じ法則が適用できることがわかった。この法則は天上界と地上界の区別を消し去り、これを彼は万有引力(universal gravitation)と名付けた。
このようにアリストテレスの二元的宇宙像は、後世に大きな影響を与えた。
アリストテレスの師プラトンは、感覚界を超越したイデアが個物から離れて実在するというイデア論を唱えたが、アリストテレスはイデア論を批判して、個物に内在するエイドス(形相)とヒュレー(質料)の概念を提唱した。
また、アリストテレスは、世界に生起する現象の原因には「質料因」と「形相因」があるとし、後者をさらに「動力因(作用因)」、「形相因」、「目的因」の3つに分けて、都合4つの原因(アイティア aitia)があるとした(四原因説)(『形而上学』A巻『自然学』第2巻第3章等)。
事物が何でできているかが「質料因」、そのものの実体であり本質であるのが「形相因」、運動や変化を引き起こす始源(アルケー・キネーセオース)は「動力因」(ト・ディア・ティ)、そして、それが目指している終局(ト・テロス)が「目的因」(ト・フー・ヘネカ)である。存在者を動態的に見たとき、潜在的には可能であるものが、素材としての可能態(デュナミス)であり、それと、すでに生成したもので思考が具体化した現実態(エネルゲイア)とを区別した。
万物が可能態から現実態への生成のうちにあり、質料をもたない純粋形相として最高の現実性を備えたものは、「神」(不動の動者)と呼ばれる。イブン・スィーナーら中世のイスラム哲学者・神学者や、トマス・アクィナス等の中世のキリスト教神学者は、この「神」概念に影響を受け、彼らの宗教(キリスト教・イスラム教)の神(ヤハウェ・アッラーフ)と同一視した。
アリストテレスは、述語(AはBであるというときのBにあたる)の種類を、範疇として下記のように区分する。すなわち「実体」「性質」「量」「関係」「能動」「受動」「場所」「時間」「姿勢」「所有」(『カテゴリー論』第4章)。ここでいう「実体」は普遍者であって、種や類をあらわし、述語としても用いられる(第二実体)。これに対して、述語としては用いられない基体としての第一実体があり、形相と質料の両者からなる個物がこれに対応する。
アリストテレスは、倫理学を創始した。 一定の住み処で人々が暮らすためには慣習や道徳、規範が生まれる。古代ギリシャではそれぞれのポリスがその母体であったのだが、アリストテレスは、エートス(住み処)の基底となるものが何かを問い、人間存在にとって求めるに値するもの(善)が数ある中で、それらを統括する究極の善(最高善)を明らかにし、基礎付ける哲学を実践哲学として確立した。
アリストテレスによると、人間の営為にはすべて目的(善)があり、それらの目的の最上位には、それ自身が目的である「最高善」があるとした。人間にとって最高善とは、幸福、それも卓越性(アレテー)における活動のもたらす満足のことである。幸福とは、たんに快楽を得ることだけではなく、政治を実践し、または、人間の霊魂が、固有の形相である理性を発展させることが人間の幸福であると説いた(幸福主義)。
また、理性的に生きるためには、中庸を守ることが重要であるとも説いた。中庸に当たるのは、
である。ただし、羞恥は情念であっても徳ではなく、羞恥は仮言的にだけよきものであり、徳においては醜い行為そのものが許されないとした。
また、各々にふさわしい分け前を配分する配分的正義(幾何学的比例)と、損なわれた均衡を回復するための裁判官的な矯正的正義(算術的比例)、これに加えて〈等価〉交換的正義とを区別した。
アリストテレスの倫理学は、ダンテ・アリギエーリにも大きな影響を与えた。ダンテは『帝政論』において『ニコマコス倫理学』を継承しており、『神曲』地獄篇における地獄の階層構造も、この『倫理学』の分類に拠っている。 なお、彼の著作である『ニコマコス倫理学』の「ニコマコス」とは、アリストテレスの父の名前であり、子の名前でもあるニコマスから命名された。
アリストテレスは『政治学』を著したが、政治学を倫理学の延長線上に考えた。「人間は政治的生物である」とかれは定義する。自足して、共同の必要のないものは神であり、共同できないものは野獣である。両者とは異なって、人間はあくまでも社会的存在である。国家のあり方は王制、貴族制、ポリティア、その逸脱としての僭主制、寡頭制、民主制に区分される。王制は、父と息子、貴族制は夫と妻、ポリティアは兄と弟の関係にその原型をもつと言われる(ニコマコス倫理学)。
アリストテレス自身は、ひと目で見渡せる小規模のポリスを理想としたが、アレクサンドロス大王の登場と退場の舞台となったこの時代、情勢は世界国家の形成へ向かっており、古代ギリシアの伝統的都市国家体制は過去のものとなりつつあった。
アリストテレスによれば、芸術創作活動の基本的原理は模倣(ミメーシス)である。文学は言語を使用しての模倣であり、理想像の模倣が悲劇の成立には必要不可欠である。作品受容の目的は心情の浄化としてのカタルシスであり、悲劇の効果は急転(ペリペテイア)と、人物再認(アナグノーリシス)との巧拙によるという。古典的作劇術の三一致の法則は、かれの『詩学』にその根拠を求めている。
アリストテレスは、紀元前4世紀に、アテナイに創建された学園「リュケイオン」での教育用のテキストと、専門家向けの論文の二種類の著作を著したとされているが、前者はいずれも散逸したため、今日伝承されているアリストテレスの著作はいずれも後者の専門家向けに著述した論文である。
現在の『アリストテレス全集』は、ロドス島出身の学者であり逍遥学派(ペリパトス派)の第11代学頭でもあったアンドロニコスが紀元前1世紀にローマで編纂した遺稿が原型となっている。ただし、プラトンの場合と同じく、この中にも(逍遙学派(ペリパトス派)の後輩達の作や、後世の創作といった)アリストテレスの手によらない偽書がいくつか混ざっている。
ルネサンス期に至り、15-16世紀頃から印刷術・印刷業が確立・発達するに伴い、アリストテレスの著作も様々な印刷工房から出版され、一般に普及するようになった。
現在は、1831年に出版された、ドイツの文献学者イマヌエル・ベッカー校訂、プロイセン王立アカデミー刊行による『アリストテレス全集』、通称「ベッカー版」が、標準的な底本となっている。これは各ページが左右二段組み(二分割)になっているギリシャ語原文の書籍である。現在でも、アリストテレス著作の訳文には、「984a1」といった数字とアルファベットが付記されることが多いが、これは「ベッカー版」のページ数・左右欄区別(左欄はa、右欄はb)・行数を表している。
なお、現在『アリストテレス全集』に含まれている作品の内、『アテナイ人の国制』だけは、1890年にエジプトで発見され、大英博物館に引き取られたパピルス写本から復元されたものであり、「ベッカー版」には含まれておらず、その後に追加されたものである。
3世紀のディオゲネス・ラエルティオスの『哲学者列伝』ではアリストテレスの著作143書名を挙げ、その中に『正義について』『詩人について』『哲学について』『政治家について』『グリュロス(弁論術について)』『ネリントス』『ソフィスト』『メネクセノス』『エロースについて』『饗宴』など、おそらくプラトンの対話編に倣って書かれた公開的著作が存在していた。それらは現在では殆ど失われ、部分的に他の著作者の引用などで断片が知られるのみである。
また『哲学者列伝』では現代まで伝わっている『形而上学』や『トピカ』などの主著を欠いているが、5・6世紀頃とされる伝ヘシュキオス(英語版)の『オノマトロゴイ』ではそれらを含めた拡充された著作リストを挙げている。この事実はディオゲネスに知られた著作群の系統と、他の伝来系統が存在していることを示唆しており、『オノマトロゴイ』の時代にはそれらが一つとして統合されていたことが考えられる。
ストラボンの『ゲオグラピカ』の伝えるところによれば、アリストテレスは自分の集めた文庫(ビブリオテーケー)をテオプラストスに譲り、テオプラストスはコリスコスの子のネレウスに譲った。ネレウスは小アジアのスケプシス(現トルコ領クルシュンル・テペ)に持ち帰り、彼は後継者たちに譲ったが、後継者たちは学問に通じておらず文庫を封印したままにして手を着けることがなかった。ペルガモンのアッタロス朝の王たちが自分たちの文庫のために書籍を収集していることを知り、奪われることを恐れた人たちはそれを地下倉に隠し、その破損が進んでしまった。その後に、前1世紀のアテナイの富豪・書籍の収集家であったアペリコン(英語版)にそれらを売却した。アペリコンはそれを何とか修復して公にしたが、十分な出来とは言えずペリパトス派の哲学者たちはまともに勉強もできない状況であった。アペリコンの死後、ローマのスッラがアテナイを占領し、アペリコンの文庫をローマへと持ち帰り、それを専門家のテュラニオン(英語版)に委ねた。
プルタルコスの『対比列伝・スッラ伝』ではその続きの顛末が記されている。文庫にはアリストテレスとテオプラトスの書物の大部分が含まれていたが、テュラニオンがその大部分を整理した。そしてロドスのアンドロニコスがそれを転写することを許され、公にし今に行われている著作目録の形にでまとめ上げた。ここにおいてようやくペリパトス派の哲学者たちもアリストテレスやテオプラストスの著作を精確に知ることが出来るようになり、それ以前の同派の哲学者たちはその機会がなかった。
アンドロニコスは転写した資料を内容に応じて分類し、独自に配列してこれを公刊した。この形式が中世においてアリストテレス全集の方式においても受け継がれている。ピロポノスは『自然学註解』において、シドンのポエトスは自然学から学問を始めるべきだと主張したが、彼の師であるアンドロニコスは論理学をもって始めるべきだとしたと伝えている。現在のアリストテレス全集の形式において、論理学諸書(オルガノン)が劈頭に置かれるのはアンドロニコスに由来するということを考えることができる。
アリストテレス自身が多数の人に見せることを想定して公開した著作が多数あった。殆どが散逸してしまったが、後世に伝わっている引用や証言などの断片から、ある程度内容を知ることが出来るものもある。
ほとんどはペリパトス派(逍遙学派)の後輩たちの手による著作である。
テオプラトスの没後、アリストテレスの主要テキストは早くも失伝し、ペリパトス派の目立った研究者は現れなかったが、ローマ時代に入るとテキストが再発見され公刊された。ペリパトス派では2世紀のアスパシオスが広範囲に注解を施したことが知られ、ボエティウスによりたびたび言及されているが、現在ではニコマコス倫理学の一部分しか残存していない。3世紀前半には学頭であったアフロディシアスのアレクサンドロスが本格的注解を著した。その優れた内容から“注解者”と呼称されるようになったが、これがペリパトス派直系による最後の主要な研究成果というものであった。それ以後はテミスティオスのように独自の研究者もあったが、主にネオ・プラトニストによってアリストテレスの研究は行われた。ポルピュリオスのアリストテレス論理学の入門書『エイサゴーゲー』は、ラテン語やアラビア語にも翻訳されて東西世界に影響を及ぼした。アテナイ学派ではシュリアノスが『形而上学』について(批判的に)注解し、キリキアのシンプリキオスは『自然学』について浩瀚な注解を残した。アカデメイア閉鎖を傍らにアレクサンドリア学派のアンモニオス、小オリュンピオドロスらが、プラトンに対するのと勝るとも劣らない熱意を以てアリストテレスを研究した。そこにはピロポノス、エリアス(英語版)といったキリスト教徒の子弟もいた。アレクサンドリアの学校の閉鎖の後は、コンスタンティノープルがギリシャ語圏における哲学の中心地となり、12世紀にはエフェソスのミカエルやエウストラティオスといった註解者が現れた。
後世「万学の祖」と称されるように、アリストテレスのもたらした知識体系は網羅的であり、当時としては完成度が高く、偉大なものであった。しかし、アリストテレスの学説の多くはローマ帝国崩壊後の混乱によって、西ヨーロッパではいったんほとんどが忘れ去られた。ただし、6世紀にボエティウスが『範疇論』と『命題論』をラテン語訳しており、これによってわずかにアリストテレスの学説が伝えられ、中世のアリストテレス研究の端緒となった。一方、西ヨーロッパで衰退したアリストテレスの学説は、東方のビザンツ帝国においてはよく維持された。12世紀の皇帝アレクシオス1世の皇女アンナ・コムネナは自身が記した歴史書『アレクシアス(アレクシオス1世伝)』の序文で自らについて「アリストテレスの諸学とプラトンの対話作品を精読」したと記している。529年にユスティニアヌス1世によってリュケイオンが閉鎖された後は、サーサーン朝ペルシアに移住したネストリウス派のキリスト教徒によって知識は保持され続けた。彼らはペルシア南西部のジュンディーシャープールに移住し、国王ホスロー1世の庇護のもとでこの時期にアリストテレスの著作のギリシア語からシリア語への翻訳が行われている。こうした文献は、830年にアッバース朝の第7代カリフ・マームーンが、バグダードに設立した知恵の館に収集され、シリア語やギリシア語からアラビア語への翻訳が行われた。この大翻訳事業によって訳されたアリストテレスの著作はイスラム文明に巨大な影響を与え、イスラム科学の隆盛の礎を築いた。なかでも、イブン・スィーナーはアリストテレスの影響を大きく受けており、アリストテレス哲学とイスラム科学との橋渡しの役割を果たした。
こうして保持され進化したアリストテレス哲学は、1150年から1210年にかけてアラビア語からラテン語にいくつかのアリストテレスの著作が翻訳されたことにより、ヨーロッパに再導入された。アリストテレスの学説はスコラ学に大きな影響を与え、13世紀のトマス・アクィナスによる神学への導入を経て、中世ヨーロッパの学者たちから支持されることになる。しかし、アリストテレスの諸説の妥当な部分だけでなく、混入した誤謬までもが無批判に支持されることになった。
例えば、現代の物理学、生物学に関る説では、レウキッポスとデモクリトスの「原子論」や「脳が知的活動の中心」という説に対する、アリストテレスの「四元素論」や「脳は血液を冷やす機関」という説等も信奉され続けることになり、中世に至るまでこの学説に異論を唱える者は出てこなかった。
さらに、ガリレオ・ガリレイは太陽中心説(地動説)を巡って生涯アリストテレス学派と対立し、結果として裁判にまで巻き込まれることになった。当時のアリストテレス学派は、望遠鏡を「アリストテレスを侮辱する悪魔の道具」と見なし、覗くことすら拒んだとも言われる。古代ギリシアにおいて大いに科学を進歩させたアリストテレスの説が、後の時代には逆にそれを遅らせてしまったという皮肉な事態を招いたことになる。また近い時代、インディオの奴隷化を正当化する根拠として『政治学』が利用された(バリャドリッド論争)。
ただ、その後の哲学におけるアリストテレスの影響も忘れてはならない。例えば、エドムント・フッサールの師であった哲学者フランツ・ブレンターノは、志向性という概念は自分が発見したものではなく、アリストテレスやスコラ哲学がすでに知っていたものであることを強調している。
ウニ類の正形類とタコノマクラ類がもっている口器をアリストテレスの提灯と呼ぶ。アリストテレスがこの口器の構造を調べて記録していることから、その名がつけられた。
A・E・ヴァン・ヴォークトのSF作品『非Aの世界』のAはアリストテレスのことで、一般意味論から出た言葉である。
1941年からギリシャで発行されていた旧1ドラクマ紙幣に肖像が使用されていた。 | [
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"text": "アリストテレス(アリストテレース、古希: Ἀριστοτέλης、羅: Aristotelēs、前384年 - 前322年)は、古代ギリシアの哲学者である。",
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"text": "プラトンの弟子であり、ソクラテス、プラトンとともに、しばしば西洋最大の哲学者の一人とされる。知的探求つまり科学的な探求全般を指した当時の哲学を、倫理学、自然科学を始めとした学問として分類し、それらの体系を築いた業績から「万学の祖」とも呼ばれる。特に動物に関する体系的な研究は古代世界では東西に類を見ない。様々な著書を残し、イスラーム哲学や中世スコラ学、さらには近代哲学・論理学に多大な影響を与えた。また、マケドニア王アレクサンドロス3世(通称アレクサンドロス大王)の家庭教師であったことでも知られる。",
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"text": "アリストテレスは、人間の本性が「知を愛する」ことにあると考えた。ギリシャ語ではこれをフィロソフィアと呼ぶ。フィロは「愛する」、ソフィアは「知」を意味する。この言葉がヨーロッパの各国の言語で「哲学」を意味する言葉の語源となった。著作集は日本語版で17巻に及ぶが、内訳は形而上学、倫理学、論理学といった哲学関係のほか、政治学、宇宙論、天体学、自然学(物理学)、気象学、博物誌学的なものから分析的なもの、その他、生物学、詩学、演劇学、および現在でいう心理学なども含まれており多岐にわたる。アリストテレスはこれらをすべてフィロソフィアと呼んでいた。アリストテレスのいう「哲学」とは知的欲求を満たす知的行為そのものと、その行為の結果全体であり、現在の学問のほとんどが彼の「哲学」の範疇に含まれている。",
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"text": "紀元前384年、トラキア地方のスタゲイロス(後のスタゲイラ)にて出生。スタゲイロスはカルキディケ半島の小さなギリシア人植民町で、当時マケドニア王国の支配下にあった。父はニコマコスといい、マケドニア王アミュンタス3世の侍医であったという。幼少にして両親を亡くし、義兄プロクセノスを後見人として少年期を過ごす。このため、マケドニアの首都ペラから後見人の居住地である小アジアのアタルネウスに移住したとも推測されているが、明確なことは伝わっていない。",
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"text": "紀元前367年、17-18歳にして、「ギリシアの学校」とペリクレスの謳ったアテナイに上り、そこでプラトン主催の学園、アカデメイアに入門した。修業時代のアリストテレスについては真偽の定かならぬさまざまな話が伝えられているが、一説には、親の遺産を食い潰した挙句、食い扶持のために軍隊に入るも挫折し、除隊後に医師(くすし)として身を立てようとしたがうまく行かず、それでプラトンの門を叩いたのだと言う者もいた。いずれにせよ、かれはそこで勉学に励み、プラトンが死去するまでの20年近い年月、学徒としてアカデメイアの門に留まることになる。アリストテレスは師プラトンから「学校の精神」と評されたとも伝えられ、時には教師として後進を指導することもあったと想像されている。紀元前347年にプラトンが亡くなると、その甥に当たるスペウシッポスが学頭に選ばれる。この時期、アリストテレスは学園を辞してアテナイを去る。アリストテレスが学園を去った理由には諸説あるが、デモステネスらの反マケドニア派が勢いづいていた当時のアテナイは、マケドニアと縁の深い在留外国人にとって困難な情況にあったことも理由のひとつと言われている。その後アカデメイアは、529年に東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌス1世(在位 527年 - 565年)によって閉鎖されるまで続いた。",
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"text": "アカデメイアを去ったアリストテレスは、アカデメイア時代の学友で小アジアのアッソスの僭主であるヘルミアスの招きに応じてアッソスの街へ移住し、ここでヘルミアスの姪にあたるピュティアスと結婚した。その後紀元前345年にヘルミアスがペルシア帝国によって捕縛されると難を逃れるためにアッソスの対岸に位置するレスボス島のミュティレネに移住した。ここではアリストテレスは主に生物学の研究に勤しんでいた。",
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"text": "紀元前342年、42歳頃、マケドニア王フィリッポス2世の招聘により、当時13歳であった王子アレクサンドロス(後のアレクサンドロス大王)の師傅となった。アリストテレスは首都ペラから離れたところにミエザの学園を作り、弁論術、文学、科学、医学、そして哲学を教えた。ミエザの学園にはアレクサンドロスのほかにも貴族階級の子弟が彼の学友として多く学んでおり、のちに彼らはマケドニア王国の中核を担う存在となっていった。",
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"text": "教え子アレクサンドロスが王に即位(紀元前336年)した翌年の紀元前335年、49歳頃、アテナイに戻り、自身の指示によりアテナイ郊外に学園「リュケイオン」を開設した(リュケイオンとは、アテナイ東部郊外の、アポロン・リュケイオスの神域たる土地を指す)。弟子たちとは学園の歩廊(ペリパトス)を逍遥(そぞろ歩き、散歩)しながら議論を交わしたため、かれの学派は逍遥学派(ペリパトス学派)と呼ばれた。このリュケイオンもまた、529年にユスティニアヌス1世によって閉鎖されるまで、アカデメイアと対抗しながら存続した。",
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"text": "紀元前323年にアレクサンドロス大王が没すると、広大なアレクサンドロス帝国は政情不安に陥り、マケドニアの支配力は大きく減退した。これに伴ってアテナイではマケドニア人に対する迫害が起こったため、紀元前323年、61歳頃、母方の故郷であるエウボイア島のカルキスに身を寄せた。しかし、そこで病に倒れ(あるいは毒人参をあおったとも)、紀元前322年、62歳で死去している。",
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"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "アリストテレスの著作は元々550巻ほどあったともされるが、そのうち現存しているのは約3分の1である。ほとんどが講義のためのノート、あるいは自分用に認めた研究ノートであり、公開を想定していなかったため簡潔な文体で書かれている。この著作はリュケイオンに残されていたものの、アレクサンドリア図書館が建設され資料を収集しはじめると、その資料は小アジアに隠され、そのまま忘れ去られた。この資料はおよそ2世紀後の紀元前1世紀に再発見され、リュケイオンに戻された。この資料はペリパトス学派の11代目学頭であるロドス島のアンドロニコスによって紀元前30年頃に整理・編集された。それが現在、『アリストテレス全集』と呼称されている文献である。したがって、われわれに残されている記述はアリストテレスが意図したものと異なっている可能性が高い。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "キケロらの証言によれば、師プラトン同様、アリストテレスもいくつか対話篇を書いたようであるが、まとまった形で伝存しているものはない。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "アリストテレスは、「論理学」があらゆる学問成果を手に入れるための「道具」(オルガノン)であることを前提とした上で、学問体系を「理論」(テオリア)、「実践」(プラクシス)、「制作」(ポイエーシス)に三分し、理論学を「自然学」、「形而上学」、実践学を「政治学」、「倫理学」、制作学を「詩学」に分類した。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "アリストテレスの哲学には現在では多くの誤りがあるが、その誤謬の多さにもかかわらずその知的巨人さゆえに、あるいはキリスト教との結びつきにおいて宗教的権威付けが得られたため、彼の知的体系全体が中世を通じ疑われることなく崇拝の対象となった。これがのちにガリレオ・ガリレイの悲劇を生む要因ともなる。中世の知的世界はアリストテレスがあまりにも大きな権威を得たがゆえに誤れる権威主義的な知の体系化が行われた。しかし、その後これが崩壊することで近代科学の基礎確立という形で人間の歴史は大きく進歩した。アリストテレスの総体的な哲学の領域を構成していた個別の学問がその外に飛び出し、独立した学問として自律し成立することで、巨視的にはこれが中世以降の近世を経て現代に至るまで続いてきた学問の歴史となる。アリストテレスの誤りの原因は、もっぱら思弁に基づき頭で作り上げた理論の部分で、事実に立脚しておらずそれが原因で近代科学によって崩れたが、その後「事実を見出してゆくこと(Fact finding)」が原理となったとする立花隆の見解がある。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "アリストテレスの師プラトンは、対話によって真実を追究していく問答法を哲学の唯一の方法論としたが、アリストテレスは経験的事象を元に演繹的に真実を導き出す分析論を重視した。このような手法は論理学として三段論法などの形で体系化された。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "アリストテレスの死去した後、かれの論理学の成果は『オルガノン』 (Organon) 6巻として集大成され、これを元に中世の学徒が論理学の研究を行った。",
"title": "思想"
},
{
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"text": "アリストテレスによる自然学に関する論述は、物理学、天文学、気象学、動物学、植物学等多岐にわたる。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "プラトンは「イデア」こそが真の実在であるとした(実在形相説)が、アリストテレスは、可感的かつ形相が質料と不可分に結合した「個物」こそが基本的実在(第一実体)であり、それらに適応される「類の概念」を第二実体とした(個物形相説)。さまざまな物体の特性を決定づけているのは、「温」と「冷」、「乾」と「湿」の対立する性質の組み合わせであり、これらの基礎には火・空気・水・土の四大元素が想定されている。これはエンペドクレスの4元素論を基礎としているが、より現実事象、感覚知見に根ざしたものとなっている。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "アリストテレスの宇宙論は、同心円による諸球状の階層的重なりの無限大的な天球構造をしたものとして論じている。世界の中心に地球があり、その外側に月、水星、金星、太陽、その他の惑星らの運行域にそれぞれ割り当てられた各層天球があるとした構成を呈示する。これらの天球層は、前述の4元素とは異なる完全元素である第5元素「アイテール」(エーテル)に帰属する元素から成るとする。そして「その天球アイテール」中に存在するがゆえに、太陽を含めたそれらの諸天体(諸惑星)は、それぞれの天球内上を永遠に円運動しているとした。加えてそれらの天外層の上には、さらに無数の星々、いわゆる諸々の恒星が張り付いている別の天球があり、他の諸天球に被いかぶさるかたちで周回転運動をしている。さらにまた、その最上位なる天外層上には「不動の動者」である世界全体に関わる「第一動者」が存在し、すべての運動の究極の原因(者)がまさにそれであるとする。(これは総じて、アリストテレスの天界宇宙論ともなるが、あとに続く『形而上学』(自然学の後の書)においては、その「第一動者」を 彼は、「神」とも呼んでいる。)",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "アリストテレスの自然学研究の中で最も顕著な成果を上げているのは生物学、特に動物学の研究である。生物学では、自然発生説をとっている。その研究の特徴は系統的かつ網羅的な経験事実の収集である。数百種にわたる生物を詳細に観察し、かなり多くの種の解剖にも着手している。特に、海洋に生息する生物の記述は詳細なものである。また、鶏の受精卵に穴を空け、発生の過程を詳しく観察している。 一切の生物はプシュケー(希: ψυχη、和訳では霊魂とする)を有しており、これを以て無生物と区別されるとした。この場合のプシュケーは生物の形相であり(『ペリ・プシュケース』第2巻第1章)、栄養摂取能力、感覚能力、運動能力、思考能力によって規定される(『ペリ・プシュケース』第2巻第2章)。また、感覚と運動能力をもつ生物を動物、もたない生物を植物に二分する生物の分類法を提示している(ただし、『動物誌』第6巻第1章では、植物と動物の中間にいるような生物の存在を示唆している)。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "さらに、人間は理性(作用する理性〔ヌース・ポイエーティコン〕、受動理性〔ヌース・パテーティコン〕)によって現象を認識するので、他の動物とは区別される、としている。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "アリストテレス自然学では、月下の世界は土・水・空気・火の四元素より成り、それらは相互に移り変わることが可能としている。この月より下の常に転化して生成・変化・消滅を繰り返す世界は「地上界」と呼ばれる。それに対して月とそれより先のエーテルよりなる世界では決して転化することがなく、生成や消滅は見られない。この不変の世界は「天上界」と呼ばれる。アリストテレスはそれぞれの世界は別な法則に従っていると考えた。この考え方は二元的宇宙像(論)と呼ばれている。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "このアリストテレスによる二元的宇宙像は、バビロニアでの日食や月食などの現象が「地上の物体に作用する」という考え方と結びついて、「地上界の出来事には必然的に天上界が作用している」という考え方の基本となった。月齢による海の干満や曇りの日でも花が太陽の方向を向く植物などから、当時の人々から見ればこれは当然であった。この考えは、地上界の出来事の原因を天上界(つまり星の動き)に求める占星術(学)が隆盛するもとともなった。プトレマイオスはこの法則性を綿密に探るために彼の著書「アルマゲスト」で、将来の惑星の動きを(誤差は大きかったが)計算して予測できる宇宙モデルを初めて構築した。そして著書「テトラビブロス」では、天上界が及ぼす地上界への影響の法則性を探ろうとした。これは実証学的な学問だった。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "ところが、占星術は天上界による地上界への影響がはっきりしないまま、星の動きを「未来を指し示す予兆」と捉える星占い(ホロスコープ)として、幅広く民衆に広がっていった。他方、この人々に広がった星占いは、12世紀以降にエフェメリス(天体暦)やアルマナック(生活暦)という惑星を含む天体の正確な運行という強い需要を喚起し、後に天文学が発展する動機ともなった。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "天上界が及ぼす地上界への影響の法則性を探ろうとした例として、16世紀のデンマークの天文学者チコ・ブラーエがある。彼は占星学の研究者でもあり、彼が精巧な天文観測装置を作った動機の一つとして、天上界の地上界への影響の法則を正確に捉えられないのは観測精度が足らないと考えたことがある。そして天上界が及ぼす地上界への影響が最も現れるものの一つとして気象を取り上げた。彼は天文観測しながら1582年の10月から1597年の4月まで、15年間にわたってヴェーン島で気象観測の記録を残している。これは占星気象学の検証のためと思われている。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "ヨハネス・ケプラーは占星術者としても有名であり、彼の著書『調停者』でも1592 年から1609年までの16 年間にわたって気象観測を継続して、その間に観測された星相と天候異常の関係の実例をいくつも記している。また著書『調和』の中でも「ひたすら天候を観察し、そういう天候を引き起こす星相の考察をしたかからであった。すなわち、惑星が合になるか、一般に占星術師が弘布した星相になると、そのたびに決まって大気の状態が乱れるのを私は認めてきた。」と述べている。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "この「天上界」と「地上界」という考え方が終焉するのは、ニュートンによる万有引力の法則の発見によってである。この法則によって天上界と地上界とに同じ法則が適用できることがわかった。この法則は天上界と地上界の区別を消し去り、これを彼は万有引力(universal gravitation)と名付けた。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "このようにアリストテレスの二元的宇宙像は、後世に大きな影響を与えた。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "アリストテレスの師プラトンは、感覚界を超越したイデアが個物から離れて実在するというイデア論を唱えたが、アリストテレスはイデア論を批判して、個物に内在するエイドス(形相)とヒュレー(質料)の概念を提唱した。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "また、アリストテレスは、世界に生起する現象の原因には「質料因」と「形相因」があるとし、後者をさらに「動力因(作用因)」、「形相因」、「目的因」の3つに分けて、都合4つの原因(アイティア aitia)があるとした(四原因説)(『形而上学』A巻『自然学』第2巻第3章等)。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "事物が何でできているかが「質料因」、そのものの実体であり本質であるのが「形相因」、運動や変化を引き起こす始源(アルケー・キネーセオース)は「動力因」(ト・ディア・ティ)、そして、それが目指している終局(ト・テロス)が「目的因」(ト・フー・ヘネカ)である。存在者を動態的に見たとき、潜在的には可能であるものが、素材としての可能態(デュナミス)であり、それと、すでに生成したもので思考が具体化した現実態(エネルゲイア)とを区別した。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "万物が可能態から現実態への生成のうちにあり、質料をもたない純粋形相として最高の現実性を備えたものは、「神」(不動の動者)と呼ばれる。イブン・スィーナーら中世のイスラム哲学者・神学者や、トマス・アクィナス等の中世のキリスト教神学者は、この「神」概念に影響を受け、彼らの宗教(キリスト教・イスラム教)の神(ヤハウェ・アッラーフ)と同一視した。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "アリストテレスは、述語(AはBであるというときのBにあたる)の種類を、範疇として下記のように区分する。すなわち「実体」「性質」「量」「関係」「能動」「受動」「場所」「時間」「姿勢」「所有」(『カテゴリー論』第4章)。ここでいう「実体」は普遍者であって、種や類をあらわし、述語としても用いられる(第二実体)。これに対して、述語としては用いられない基体としての第一実体があり、形相と質料の両者からなる個物がこれに対応する。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "アリストテレスは、倫理学を創始した。 一定の住み処で人々が暮らすためには慣習や道徳、規範が生まれる。古代ギリシャではそれぞれのポリスがその母体であったのだが、アリストテレスは、エートス(住み処)の基底となるものが何かを問い、人間存在にとって求めるに値するもの(善)が数ある中で、それらを統括する究極の善(最高善)を明らかにし、基礎付ける哲学を実践哲学として確立した。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "アリストテレスによると、人間の営為にはすべて目的(善)があり、それらの目的の最上位には、それ自身が目的である「最高善」があるとした。人間にとって最高善とは、幸福、それも卓越性(アレテー)における活動のもたらす満足のことである。幸福とは、たんに快楽を得ることだけではなく、政治を実践し、または、人間の霊魂が、固有の形相である理性を発展させることが人間の幸福であると説いた(幸福主義)。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "また、理性的に生きるためには、中庸を守ることが重要であるとも説いた。中庸に当たるのは、",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "である。ただし、羞恥は情念であっても徳ではなく、羞恥は仮言的にだけよきものであり、徳においては醜い行為そのものが許されないとした。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "また、各々にふさわしい分け前を配分する配分的正義(幾何学的比例)と、損なわれた均衡を回復するための裁判官的な矯正的正義(算術的比例)、これに加えて〈等価〉交換的正義とを区別した。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "アリストテレスの倫理学は、ダンテ・アリギエーリにも大きな影響を与えた。ダンテは『帝政論』において『ニコマコス倫理学』を継承しており、『神曲』地獄篇における地獄の階層構造も、この『倫理学』の分類に拠っている。 なお、彼の著作である『ニコマコス倫理学』の「ニコマコス」とは、アリストテレスの父の名前であり、子の名前でもあるニコマスから命名された。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "アリストテレスは『政治学』を著したが、政治学を倫理学の延長線上に考えた。「人間は政治的生物である」とかれは定義する。自足して、共同の必要のないものは神であり、共同できないものは野獣である。両者とは異なって、人間はあくまでも社会的存在である。国家のあり方は王制、貴族制、ポリティア、その逸脱としての僭主制、寡頭制、民主制に区分される。王制は、父と息子、貴族制は夫と妻、ポリティアは兄と弟の関係にその原型をもつと言われる(ニコマコス倫理学)。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "アリストテレス自身は、ひと目で見渡せる小規模のポリスを理想としたが、アレクサンドロス大王の登場と退場の舞台となったこの時代、情勢は世界国家の形成へ向かっており、古代ギリシアの伝統的都市国家体制は過去のものとなりつつあった。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "アリストテレスによれば、芸術創作活動の基本的原理は模倣(ミメーシス)である。文学は言語を使用しての模倣であり、理想像の模倣が悲劇の成立には必要不可欠である。作品受容の目的は心情の浄化としてのカタルシスであり、悲劇の効果は急転(ペリペテイア)と、人物再認(アナグノーリシス)との巧拙によるという。古典的作劇術の三一致の法則は、かれの『詩学』にその根拠を求めている。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "アリストテレスは、紀元前4世紀に、アテナイに創建された学園「リュケイオン」での教育用のテキストと、専門家向けの論文の二種類の著作を著したとされているが、前者はいずれも散逸したため、今日伝承されているアリストテレスの著作はいずれも後者の専門家向けに著述した論文である。",
"title": "著作"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "現在の『アリストテレス全集』は、ロドス島出身の学者であり逍遥学派(ペリパトス派)の第11代学頭でもあったアンドロニコスが紀元前1世紀にローマで編纂した遺稿が原型となっている。ただし、プラトンの場合と同じく、この中にも(逍遙学派(ペリパトス派)の後輩達の作や、後世の創作といった)アリストテレスの手によらない偽書がいくつか混ざっている。",
"title": "著作"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "ルネサンス期に至り、15-16世紀頃から印刷術・印刷業が確立・発達するに伴い、アリストテレスの著作も様々な印刷工房から出版され、一般に普及するようになった。",
"title": "著作"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "現在は、1831年に出版された、ドイツの文献学者イマヌエル・ベッカー校訂、プロイセン王立アカデミー刊行による『アリストテレス全集』、通称「ベッカー版」が、標準的な底本となっている。これは各ページが左右二段組み(二分割)になっているギリシャ語原文の書籍である。現在でも、アリストテレス著作の訳文には、「984a1」といった数字とアルファベットが付記されることが多いが、これは「ベッカー版」のページ数・左右欄区別(左欄はa、右欄はb)・行数を表している。",
"title": "著作"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "なお、現在『アリストテレス全集』に含まれている作品の内、『アテナイ人の国制』だけは、1890年にエジプトで発見され、大英博物館に引き取られたパピルス写本から復元されたものであり、「ベッカー版」には含まれておらず、その後に追加されたものである。",
"title": "著作"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "3世紀のディオゲネス・ラエルティオスの『哲学者列伝』ではアリストテレスの著作143書名を挙げ、その中に『正義について』『詩人について』『哲学について』『政治家について』『グリュロス(弁論術について)』『ネリントス』『ソフィスト』『メネクセノス』『エロースについて』『饗宴』など、おそらくプラトンの対話編に倣って書かれた公開的著作が存在していた。それらは現在では殆ど失われ、部分的に他の著作者の引用などで断片が知られるのみである。",
"title": "著作"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "また『哲学者列伝』では現代まで伝わっている『形而上学』や『トピカ』などの主著を欠いているが、5・6世紀頃とされる伝ヘシュキオス(英語版)の『オノマトロゴイ』ではそれらを含めた拡充された著作リストを挙げている。この事実はディオゲネスに知られた著作群の系統と、他の伝来系統が存在していることを示唆しており、『オノマトロゴイ』の時代にはそれらが一つとして統合されていたことが考えられる。",
"title": "著作"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "ストラボンの『ゲオグラピカ』の伝えるところによれば、アリストテレスは自分の集めた文庫(ビブリオテーケー)をテオプラストスに譲り、テオプラストスはコリスコスの子のネレウスに譲った。ネレウスは小アジアのスケプシス(現トルコ領クルシュンル・テペ)に持ち帰り、彼は後継者たちに譲ったが、後継者たちは学問に通じておらず文庫を封印したままにして手を着けることがなかった。ペルガモンのアッタロス朝の王たちが自分たちの文庫のために書籍を収集していることを知り、奪われることを恐れた人たちはそれを地下倉に隠し、その破損が進んでしまった。その後に、前1世紀のアテナイの富豪・書籍の収集家であったアペリコン(英語版)にそれらを売却した。アペリコンはそれを何とか修復して公にしたが、十分な出来とは言えずペリパトス派の哲学者たちはまともに勉強もできない状況であった。アペリコンの死後、ローマのスッラがアテナイを占領し、アペリコンの文庫をローマへと持ち帰り、それを専門家のテュラニオン(英語版)に委ねた。",
"title": "著作"
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{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "プルタルコスの『対比列伝・スッラ伝』ではその続きの顛末が記されている。文庫にはアリストテレスとテオプラトスの書物の大部分が含まれていたが、テュラニオンがその大部分を整理した。そしてロドスのアンドロニコスがそれを転写することを許され、公にし今に行われている著作目録の形にでまとめ上げた。ここにおいてようやくペリパトス派の哲学者たちもアリストテレスやテオプラストスの著作を精確に知ることが出来るようになり、それ以前の同派の哲学者たちはその機会がなかった。",
"title": "著作"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "アンドロニコスは転写した資料を内容に応じて分類し、独自に配列してこれを公刊した。この形式が中世においてアリストテレス全集の方式においても受け継がれている。ピロポノスは『自然学註解』において、シドンのポエトスは自然学から学問を始めるべきだと主張したが、彼の師であるアンドロニコスは論理学をもって始めるべきだとしたと伝えている。現在のアリストテレス全集の形式において、論理学諸書(オルガノン)が劈頭に置かれるのはアンドロニコスに由来するということを考えることができる。",
"title": "著作"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "アリストテレス自身が多数の人に見せることを想定して公開した著作が多数あった。殆どが散逸してしまったが、後世に伝わっている引用や証言などの断片から、ある程度内容を知ることが出来るものもある。",
"title": "著作"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "ほとんどはペリパトス派(逍遙学派)の後輩たちの手による著作である。",
"title": "著作"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "テオプラトスの没後、アリストテレスの主要テキストは早くも失伝し、ペリパトス派の目立った研究者は現れなかったが、ローマ時代に入るとテキストが再発見され公刊された。ペリパトス派では2世紀のアスパシオスが広範囲に注解を施したことが知られ、ボエティウスによりたびたび言及されているが、現在ではニコマコス倫理学の一部分しか残存していない。3世紀前半には学頭であったアフロディシアスのアレクサンドロスが本格的注解を著した。その優れた内容から“注解者”と呼称されるようになったが、これがペリパトス派直系による最後の主要な研究成果というものであった。それ以後はテミスティオスのように独自の研究者もあったが、主にネオ・プラトニストによってアリストテレスの研究は行われた。ポルピュリオスのアリストテレス論理学の入門書『エイサゴーゲー』は、ラテン語やアラビア語にも翻訳されて東西世界に影響を及ぼした。アテナイ学派ではシュリアノスが『形而上学』について(批判的に)注解し、キリキアのシンプリキオスは『自然学』について浩瀚な注解を残した。アカデメイア閉鎖を傍らにアレクサンドリア学派のアンモニオス、小オリュンピオドロスらが、プラトンに対するのと勝るとも劣らない熱意を以てアリストテレスを研究した。そこにはピロポノス、エリアス(英語版)といったキリスト教徒の子弟もいた。アレクサンドリアの学校の閉鎖の後は、コンスタンティノープルがギリシャ語圏における哲学の中心地となり、12世紀にはエフェソスのミカエルやエウストラティオスといった註解者が現れた。",
"title": "後世への影響"
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{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "後世「万学の祖」と称されるように、アリストテレスのもたらした知識体系は網羅的であり、当時としては完成度が高く、偉大なものであった。しかし、アリストテレスの学説の多くはローマ帝国崩壊後の混乱によって、西ヨーロッパではいったんほとんどが忘れ去られた。ただし、6世紀にボエティウスが『範疇論』と『命題論』をラテン語訳しており、これによってわずかにアリストテレスの学説が伝えられ、中世のアリストテレス研究の端緒となった。一方、西ヨーロッパで衰退したアリストテレスの学説は、東方のビザンツ帝国においてはよく維持された。12世紀の皇帝アレクシオス1世の皇女アンナ・コムネナは自身が記した歴史書『アレクシアス(アレクシオス1世伝)』の序文で自らについて「アリストテレスの諸学とプラトンの対話作品を精読」したと記している。529年にユスティニアヌス1世によってリュケイオンが閉鎖された後は、サーサーン朝ペルシアに移住したネストリウス派のキリスト教徒によって知識は保持され続けた。彼らはペルシア南西部のジュンディーシャープールに移住し、国王ホスロー1世の庇護のもとでこの時期にアリストテレスの著作のギリシア語からシリア語への翻訳が行われている。こうした文献は、830年にアッバース朝の第7代カリフ・マームーンが、バグダードに設立した知恵の館に収集され、シリア語やギリシア語からアラビア語への翻訳が行われた。この大翻訳事業によって訳されたアリストテレスの著作はイスラム文明に巨大な影響を与え、イスラム科学の隆盛の礎を築いた。なかでも、イブン・スィーナーはアリストテレスの影響を大きく受けており、アリストテレス哲学とイスラム科学との橋渡しの役割を果たした。",
"title": "後世への影響"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "こうして保持され進化したアリストテレス哲学は、1150年から1210年にかけてアラビア語からラテン語にいくつかのアリストテレスの著作が翻訳されたことにより、ヨーロッパに再導入された。アリストテレスの学説はスコラ学に大きな影響を与え、13世紀のトマス・アクィナスによる神学への導入を経て、中世ヨーロッパの学者たちから支持されることになる。しかし、アリストテレスの諸説の妥当な部分だけでなく、混入した誤謬までもが無批判に支持されることになった。",
"title": "後世への影響"
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{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "例えば、現代の物理学、生物学に関る説では、レウキッポスとデモクリトスの「原子論」や「脳が知的活動の中心」という説に対する、アリストテレスの「四元素論」や「脳は血液を冷やす機関」という説等も信奉され続けることになり、中世に至るまでこの学説に異論を唱える者は出てこなかった。",
"title": "後世への影響"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "さらに、ガリレオ・ガリレイは太陽中心説(地動説)を巡って生涯アリストテレス学派と対立し、結果として裁判にまで巻き込まれることになった。当時のアリストテレス学派は、望遠鏡を「アリストテレスを侮辱する悪魔の道具」と見なし、覗くことすら拒んだとも言われる。古代ギリシアにおいて大いに科学を進歩させたアリストテレスの説が、後の時代には逆にそれを遅らせてしまったという皮肉な事態を招いたことになる。また近い時代、インディオの奴隷化を正当化する根拠として『政治学』が利用された(バリャドリッド論争)。",
"title": "後世への影響"
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"text": "ただ、その後の哲学におけるアリストテレスの影響も忘れてはならない。例えば、エドムント・フッサールの師であった哲学者フランツ・ブレンターノは、志向性という概念は自分が発見したものではなく、アリストテレスやスコラ哲学がすでに知っていたものであることを強調している。",
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"text": "ウニ類の正形類とタコノマクラ類がもっている口器をアリストテレスの提灯と呼ぶ。アリストテレスがこの口器の構造を調べて記録していることから、その名がつけられた。",
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"text": "A・E・ヴァン・ヴォークトのSF作品『非Aの世界』のAはアリストテレスのことで、一般意味論から出た言葉である。",
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"text": "1941年からギリシャで発行されていた旧1ドラクマ紙幣に肖像が使用されていた。",
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] | アリストテレスは、古代ギリシアの哲学者である。 プラトンの弟子であり、ソクラテス、プラトンとともに、しばしば西洋最大の哲学者の一人とされる。知的探求つまり科学的な探求全般を指した当時の哲学を、倫理学、自然科学を始めとした学問として分類し、それらの体系を築いた業績から「万学の祖」とも呼ばれる。特に動物に関する体系的な研究は古代世界では東西に類を見ない。様々な著書を残し、イスラーム哲学や中世スコラ学、さらには近代哲学・論理学に多大な影響を与えた。また、マケドニア王アレクサンドロス3世(通称アレクサンドロス大王)の家庭教師であったことでも知られる。 アリストテレスは、人間の本性が「知を愛する」ことにあると考えた。ギリシャ語ではこれをフィロソフィアと呼ぶ。フィロは「愛する」、ソフィアは「知」を意味する。この言葉がヨーロッパの各国の言語で「哲学」を意味する言葉の語源となった。著作集は日本語版で17巻に及ぶが、内訳は形而上学、倫理学、論理学といった哲学関係のほか、政治学、宇宙論、天体学、自然学(物理学)、気象学、博物誌学的なものから分析的なもの、その他、生物学、詩学、演劇学、および現在でいう心理学なども含まれており多岐にわたる。アリストテレスはこれらをすべてフィロソフィアと呼んでいた。アリストテレスのいう「哲学」とは知的欲求を満たす知的行為そのものと、その行為の結果全体であり、現在の学問のほとんどが彼の「哲学」の範疇に含まれている。 名前の由来はギリシア語の「Ἀριστος」(最高の)と「τελος 」(目的)から。 | {{otheruses}}
{{混同|アリストクレス}}
{{Infobox_哲学者
<!-- 分野 -->
|地域 = [[西洋哲学]]
|時代 = [[古代哲学]]
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<!-- 画像 -->
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<!-- 人物情報 -->
|名前 = アリストテレス
|生年月日 = [[紀元前384年]]
|没年月日 = [[紀元前322年]]
|学派 = [[逍遙学派]]<br/>[[アリストテレス主義]]
|研究分野 = [[論理学]]<br/>[[自然哲学|自然学]]<br/>[[生物学]]・[[動物学]]<br/>[[形而上学]]<br/>[[倫理学]]<br/>[[政治学]]<br/>[[修辞学]]<br/>[[詩]]・[[演劇]]
|影響を受けた人物 = [[パルメニデス]]、[[ソクラテス]]、[[プラトン]]、[[ヘラクレイトス]]、[[デモクリトス]]
|影響を与えた人物 = 事実上彼以後の多くの[[哲学者]]、[[アウィケンナ]]、[[アウェロエス]]、[[モーシェ・ベン=マイモーン|マイモニデス]]、[[アルベルトゥス・マグヌス]]、[[トマス・アクィナス]]、[[ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス|ドゥンス・スコトゥス]]、[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]、[[メランヒトン]]、[[ニコラウス・コペルニクス|コペルニクス]]、[[ガリレオ・ガリレイ|ガリレオ]]、および多くの[[イスラーム哲学]]、[[ユダヤ哲学]]、[[キリスト教哲学]]、[[科学]]、[[:en:List of writers influenced by Aristotle|その他…]]
|特記すべき概念 =[[善]]<br/>[[中庸 (ギリシア哲学)]]<br/>[[理性]]<br/>[[エーテル (神学)|アイテール]]<br/>[[四原因説]]<br/>[[三段論法]]
|
}}
'''アリストテレス'''(アリストテレース、{{lang-grc-short|Ἀριστοτέλης}}<ref group="注釈">{{lang-*-Latn|grc|Aristotélēs}}</ref>、{{lang-la-short|Aristotelēs}}、[[紀元前384年|前384年]] - [[紀元前322年|前322年]]<ref>{{Cite Kotobank |word=アリストテレス |encyclopedia=日本大百科全書(ニッポニカ) |accessdate=2022-03-14}}</ref>)は、[[古代ギリシア]]の[[哲学者]]である。
[[プラトン]]の弟子であり、[[ソクラテス]]、プラトンとともに、しばしば[[西洋]]最大の哲学者の一人とされる。知的探求つまり科学的な探求全般を指した当時の哲学を、倫理学、自然科学を始めとした学問として分類し、それらの体系を築いた業績から「万学の祖」とも呼ばれる<ref>「哲学者群像101」p36 木田元編 新書館 2003年5月5日初版発行</ref>。特に動物に関する体系的な研究は古代世界では東西に類を見ない。様々な著書を残し、[[イスラーム哲学]]や中世[[スコラ学]]、さらには[[近代哲学]]・[[論理学]]に多大な影響を与えた。また、マケドニア王[[アレクサンドロス3世]](通称アレクサンドロス大王)の家庭教師であったことでも知られる。
アリストテレスは、[[人間]]の[[本性]]が「[[知]]を[[愛]]する」ことにあると考えた。[[ギリシャ語]]ではこれを[[フィロソフィア]]<ref group="注釈">{{lang-grc|φιλοσοφία}}</ref>と呼ぶ。'''フィロ'''は「愛する」、'''ソフィア'''は「知」を意味する。この言葉がヨーロッパの各国の言語で「[[哲学]]」を意味する言葉の語源となった。著作集は[[日本語]]版で17巻に及ぶが、内訳は[[形而上学]]、[[倫理学]]、[[論理学]]といった哲学関係のほか、[[政治学]]、[[宇宙論]]、[[天体学]]、[[自然学]]([[物理学]])、[[気象学]]、博物誌学的なものから分析的なもの、その他、[[生物学]]、[[詩学]]、[[演劇学]]、および現在でいう[[心理学]]なども含まれており多岐にわたる。アリストテレスはこれらをすべてフィロソフィアと呼んでいた。アリストテレスのいう「哲学」とは知的欲求を満たす知的行為そのものと、その行為の結果全体であり、現在の学問のほとんどが彼の「哲学」の範疇に含まれている<ref name="NOU">[[立花隆]]『脳を究める』(2001年3月1日 [[朝日文庫]])</ref>。
名前の由来は[[古代ギリシア語|ギリシア語]]の「{{lang|grc|Ἀριστος}}」(最高の)と「{{lang|grc|τελος }}」(目的)から
<ref>{{Cite web|url=http://www.behindthename.com/name/aristotle|title=Behind the Name: Meaning, Origin and History of the Name Aristotle|publisher=behindthename.com|accessdate=2011-06-20}}</ref>。
== 生涯 ==
===幼少期===
[[紀元前384年]]、[[トラキア]]地方のスタゲイロス(後のスタゲイラ)にて出生。スタゲイロスは[[ハルキディキ県|カルキディケ半島]]の小さなギリシア人植民町で、当時[[マケドニア王国]]の支配下にあった。父はニコマコスといい、マケドニア王[[アミュンタス3世]]の侍医であったという。幼少にして両親を亡くし、義兄プロクセノスを後見人として少年期を過ごす。このため、マケドニアの首都[[ペラ]]から後見人の居住地である小アジアのアタルネウスに移住したとも推測されているが、明確なことは伝わっていない。
===アカデメイア期===
[[紀元前367年]]、17-18歳にして、「ギリシアの学校」と[[ペリクレス]]の謳った[[アテナイ]]に上り、そこで[[プラトン]]主催の学園、[[アカデメイア]]に入門した。修業時代のアリストテレスについては真偽の定かならぬさまざまな話が伝えられているが、一説には、親の遺産を食い潰した挙句、食い扶持のために軍隊に入るも挫折し、除隊後に医師(くすし)として身を立てようとしたがうまく行かず、それでプラトンの門を叩いたのだと言う者もいた<ref>山本光雄 『ギリシア・ローマ哲学者物語』 講談社〈講談社学術文庫〉、2003年、154頁。ISBN 9784061596184。</ref>。いずれにせよ、かれはそこで勉学に励み、プラトンが死去するまでの20年近い年月、学徒としてアカデメイアの門に留まることになる。アリストテレスは師プラトンから「学校の精神」と評されたとも伝えられ、時には教師として後進を指導することもあったと想像されている。[[紀元前347年]]にプラトンが亡くなると、その甥に当たる[[スペウシッポス]]が学頭に選ばれる。この時期、アリストテレスは学園を辞してアテナイを去る。アリストテレスが学園を去った理由には諸説あるが、[[デモステネス]]らの反マケドニア派が勢いづいていた当時のアテナイは、マケドニアと縁の深い在留外国人にとって困難な情況にあったことも理由のひとつと言われている<ref>中畑正志「プラトンとアリストテレス」(『哲学の歴史 第1巻 哲学誕生 〔古代I〕』中央公論社、2008年、p641)</ref>。その後アカデメイアは、529年に[[東ローマ帝国]]皇帝[[ユスティニアヌス1世]](在位 [[527年]] - [[565年]])によって閉鎖されるまで続いた。
アカデメイアを去ったアリストテレスは、アカデメイア時代の学友で[[小アジア]]のアッソスの[[僭主]]であるヘルミアスの招きに応じてアッソスの街へ移住し、ここでヘルミアスの姪にあたるピュティアスと結婚した。その後[[紀元前345年]]にヘルミアスがペルシア帝国によって捕縛されると難を逃れるためにアッソスの対岸に位置する[[レスボス島]]の[[ミティリーニ|ミュティレネ]]に移住した<ref>{{Cite book|和書|author=G・W・F・ヘーゲル|year=2016|title=哲学史講義Ⅱ|publisher=河出文庫|pages=P.329}}</ref>。ここではアリストテレスは主に[[生物学]]の研究に勤しんでいた。
===アレクサンドロス大王とリュケイオン===
[[紀元前342年]]、42歳頃、マケドニア王[[ピリッポス2世 (マケドニア王)|フィリッポス2世]]の招聘により、当時13歳であった王子アレクサンドロス(後の[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]])の師傅となった。アリストテレスは首都[[ペラ]]から離れたところにミエザの学園を作り、[[弁論術]]、[[文学]]、[[科学]]、[[医学]]、そして[[哲学]]を教えた<ref>『数学と理科の法則・定理集』アントレックス、2009年、150、151頁。</ref>。ミエザの学園にはアレクサンドロスのほかにも貴族階級の子弟が彼の学友として多く学んでおり、のちに彼らはマケドニア王国の中核を担う存在となっていった。
教え子アレクサンドロスが王に即位([[紀元前336年]])した翌年の[[紀元前335年]]、49歳頃、アテナイに戻り、自身の指示によりアテナイ郊外に学園「[[リュケイオン]]」を開設した(リュケイオンとは、アテナイ東部郊外の、アポロン・リュケイオスの神域たる土地を指す)。弟子たちとは学園の歩廊(ペリパトス)を逍遥(そぞろ歩き、散歩)しながら議論を交わしたため、かれの学派は[[逍遥学派]](ペリパトス学派)と呼ばれた。このリュケイオンもまた、529年にユスティニアヌス1世によって閉鎖されるまで、アカデメイアと対抗しながら存続した。
[[紀元前323年]]に[[アレクサンドロス大王]]が没すると、広大なアレクサンドロス帝国は政情不安に陥り、マケドニアの支配力は大きく減退した。これに伴ってアテナイではマケドニア人に対する迫害が起こったため、[[紀元前323年]]、61歳頃、母方の故郷である[[エウボイア島]]の[[カルキス]]に身を寄せた。しかし、そこで病に倒れ(あるいは毒人参をあおったとも)、[[紀元前322年]]、62歳で死去している。
== 思想 ==
[[ファイル:Bust_of_Aristotle.jpg|thumb|200px]]
アリストテレスの著作は元々550巻ほどあったともされるが、そのうち現存しているのは約3分の1である。ほとんどが講義のためのノート、あるいは自分用に認めた研究ノートであり、公開を想定していなかったため簡潔な文体で書かれている。この著作はリュケイオンに残されていたものの、[[アレクサンドリア図書館]]が建設され資料を収集しはじめると、その資料は小アジアに隠され、そのまま忘れ去られた。この資料はおよそ2世紀後の[[紀元前1世紀]]に再発見され、リュケイオンに戻された。この資料はペリパトス学派の11代目学頭である[[ロドス島]]の[[ロドスのアンドロニコス|アンドロニコス]]によって紀元前30年頃に整理・編集された。それが現在、『アリストテレス全集』と呼称されている文献である。したがって、われわれに残されている記述はアリストテレスが意図したものと異なっている可能性が高い。
[[キケロ]]らの証言によれば、師プラトン同様、アリストテレスもいくつか対話篇を書いたようであるが、まとまった形で伝存しているものはない。
アリストテレスは、「論理学」があらゆる学問成果を手に入れるための「道具」(オルガノン)であることを前提とした上で、学問体系を「理論」(テオリア)、「実践」(プラクシス)、「制作」(ポイエーシス)に三分し、理論学を「自然学」、「形而上学」、実践学を「政治学」、「倫理学」、制作学を「詩学」に分類した。
アリストテレスの哲学には現在では多くの誤りがあるが、その誤謬の多さにもかかわらずその知的巨人さゆえに、あるいは[[キリスト教]]との結びつきにおいて宗教的権威付けが得られたため、彼の知的体系全体が[[中世]]を通じ疑われることなく崇拝の対象となった。これがのちに[[ガリレオ・ガリレイ]]の悲劇を生む要因ともなる。中世の知的世界はアリストテレスがあまりにも大きな権威を得たがゆえに誤れる権威主義的な知の体系化が行われた。しかし、その後これが崩壊することで[[近代科学]]の基礎確立という形で人間の歴史は大きく進歩した。アリストテレスの総体的な哲学の領域を構成していた個別の学問がその外に飛び出し、独立した学問として自律し成立することで、巨視的にはこれが中世以降の[[近世]]を経て現代に至るまで続いてきた学問の歴史となる。アリストテレスの誤りの原因は、もっぱら思弁に基づき頭で作り上げた理論の部分で、事実に立脚しておらずそれが原因で近代科学によって崩れたが、その後「事実を見出してゆくこと(Fact finding)」が原理となったとする[[立花隆]]の見解がある<ref name="NOU"></ref>。
=== 論理学 ===
アリストテレスの師[[プラトン]]は、対話によって真実を追究していく[[問答法]]を哲学の唯一の方法論としたが、アリストテレスは経験的事象を元に[[演繹]]的に真実を導き出す分析論を重視した。このような手法は[[論理学]]として[[三段論法]]などの形で体系化された。
アリストテレスの死去した後、かれの論理学の成果は『[[オルガノン]]』 (Organon) 6巻として集大成され、これを元に[[中世]]の学徒が論理学の研究を行った。
=== 自然学(第二哲学) ===
{{See also|形相|質料}}
アリストテレスによる[[自然学]]に関する論述は、[[物理学]]、[[天文学]]、[[気象学]]、[[動物学]]、[[植物学]]等多岐にわたる。
プラトンは「[[イデア論|イデア]]」こそが真の実在であるとした(実在形相説)が、アリストテレスは、可感的かつ形相が質料と不可分に結合した「個物」こそが基本的実在(第一実体)であり、それらに適応される「[[範疇論 (アリストテレス)|類の概念]]」を第二実体とした(個物形相説)。さまざまな物体の特性を決定づけているのは、「温」と「冷」、「乾」と「湿」の対立する性質の組み合わせであり、これらの基礎には火・空気・水・土の[[四大元素]]が想定されている。これは[[エンペドクレス]]の4元素論を基礎としているが、より現実事象、感覚知見に根ざしたものとなっている。
アリストテレスの[[宇宙論]]は、同心円による諸球状の階層的重なりの無限大的な天球構造をしたものとして論じている。世界の中心に[[地球]]があり、その外側に[[月]]、[[水星]]、[[金星]]、[[太陽]]、その他の[[惑星]]らの運行域にそれぞれ割り当てられた各層天球があるとした構成を呈示する。これらの天球層は、前述の4元素とは異なる完全元素である第5元素「'''[[アイテール]]'''」([[エーテル (神学)|エーテル]])に帰属する元素から成るとする。そして「その天球アイテール」中に存在するがゆえに、太陽を含めたそれらの諸天体(諸惑星)は、それぞれの天球内上を永遠に円運動しているとした。加えてそれらの天外層の上には、さらに無数の星々、いわゆる諸々の恒星が張り付いている別の天球があり、他の諸天球に被いかぶさるかたちで周回転運動をしている。さらにまた、その最上位なる天外層上には「'''[[不動の動者]]'''」である世界全体に関わる「'''[[第一動者]]'''」が存在し、すべての運動の究極の原因(者)がまさにそれであるとする。(これは総じて、アリストテレスの天界宇宙論ともなるが、あとに続く『形而上学』(自然学の後の書)においては、その「第一動者」を 彼は、「神」とも呼んでいる。)
アリストテレスの自然学研究の中で最も顕著な成果を上げているのは生物学、特に動物学の研究である。生物学では、[[自然発生説]]をとっている<ref name="NOU"></ref>。その研究の特徴は系統的かつ網羅的な経験事実の収集である。数百種にわたる[[生物]]を詳細に観察し、かなり多くの種の[[解剖]]にも着手している。特に、[[海洋]]に生息する生物の記述は詳細なものである。また、[[鶏]]の[[受精卵]]に穴を空け、発生の過程を詳しく観察している。
一切の生物は[[プシュケー]]({{lang-el-short|ψυχη}}、和訳では霊魂とする)を有しており、これを以て無生物と区別されるとした。この場合のプシュケーは生物の形相であり(『ペリ・プシュケース』第2巻第1章)、栄養摂取能力、感覚能力、運動能力、思考能力によって規定される(『ペリ・プシュケース』第2巻第2章)。また、感覚と運動能力をもつ生物を[[動物]]、もたない生物を[[植物]]に二分する[[生物の分類]]法を提示している(ただし、『動物誌』第6巻第1章では、植物と動物の中間にいるような生物の存在を示唆している)。
さらに、[[人間]]は[[理性]](作用する理性〔[[ヌース]]・ポイエーティコン〕、受動理性〔ヌース・パテーティコン〕)によって現象を認識するので、他の動物とは区別される、としている。
==== 二元的宇宙像について ====
アリストテレス自然学では、月下の世界は土・水・空気・火の四元素より成り、それらは相互に移り変わることが可能としている。この月より下の常に転化して生成・変化・消滅を繰り返す世界は「地上界」と呼ばれる。それに対して月とそれより先のエーテルよりなる世界では決して転化することがなく、生成や消滅は見られない。この不変の世界は「天上界」と呼ばれる。アリストテレスはそれぞれの世界は別な法則に従っていると考えた。この考え方は[https://korechi1.blogspot.com/2020/10/blog-post.html 二元的宇宙像](論)と呼ばれている<ref>{{Cite book|title=世界の見方の転換1 天文学の復興と天地学の提唱|date=|year=2014|publisher=みすず書房}}</ref>。
このアリストテレスによる二元的宇宙像は、バビロニアでの日食や月食などの現象が「地上の物体に作用する」という考え方と結びついて、「地上界の出来事には必然的に天上界が作用している」という考え方の基本となった。月齢による海の干満や曇りの日でも花が太陽の方向を向く植物などから、当時の人々から見ればこれは当然であった<ref name=":1">{{Cite book|title=気象学と気象予報の発達史|url=https://www.maruzen-publishing.co.jp/item/b302957.html|publisher=丸善出版|date=|isbn=978-4-621-30335-1|oclc=1061226259|last=堤之智.|year=2018}}</ref>。この考えは、地上界の出来事の原因を天上界(つまり星の動き)に求める占星術(学)が隆盛するもとともなった。プトレマイオスはこの法則性を綿密に探るために彼の著書「[[アルマゲスト]]」で、将来の惑星の動きを(誤差は大きかったが)計算して予測できる宇宙モデルを初めて構築した。そして著書「テトラビブロス」では、天上界が及ぼす地上界への影響の法則性を探ろうとした。これは実証学的な学問だった。
ところが、占星術は天上界による地上界への影響がはっきりしないまま、星の動きを「未来を指し示す予兆」と捉える星占い(ホロスコープ)として、幅広く民衆に広がっていった<ref name=":1" />。他方、この人々に広がった星占いは、12世紀以降に[[天体暦|エフェメリス]](天体暦)やアルマナック(生活暦)という惑星を含む天体の正確な運行という強い需要を喚起し、後に天文学が発展する動機ともなった<ref name=":2">{{Cite book|title=世界の見方の転換3 世界の一元化と天文学の改革|date=|year=2014|publisher=みすず書房}}</ref>。
天上界が及ぼす地上界への影響の法則性を探ろうとした例として、16世紀のデンマークの天文学者[[ティコ・ブラーエ|チコ・ブラーエ]]がある。彼は占星学の研究者でもあり、彼が精巧な天文観測装置を作った動機の一つとして、天上界の地上界への影響の法則を正確に捉えられないのは観測精度が足らないと考えたことがある<ref name=":2" />。そして天上界が及ぼす地上界への影響が最も現れるものの一つとして気象を取り上げた。彼は天文観測しながら1582年の10月から1597年の4月まで、15年間にわたってヴェーン島で気象観測の記録を残している。これは占星気象学の検証のためと思われている<ref name=":2" />。
[[ヨハネス・ケプラー]]は占星術者としても有名であり、彼の著書『調停者』でも1592 年から1609年までの16 年間にわたって気象観測を継続して、その間に観測された星相と天候異常の関係の実例をいくつも記している<ref name=":2" />。また著書『調和』の中でも「ひたすら天候を観察し、そういう天候を引き起こす星相の考察をしたかからであった。すなわち、惑星が合になるか、一般に占星術師が弘布した星相になると、そのたびに決まって大気の状態が乱れるのを私は認めてきた。」と述べている<ref name=":2" />。
この「天上界」と「地上界」という考え方が終焉するのは、ニュートンによる[[万有引力]]の法則の発見によってである。この法則によって天上界と地上界とに同じ法則が適用できることがわかった。この法則は天上界と地上界の区別を消し去り、これを彼は万有引力(universal gravitation)と名付けた。
このようにアリストテレスの二元的宇宙像は、後世に大きな影響を与えた。
=== 形而上学(第一哲学) ===
==== 原因について ====
アリストテレスの師プラトンは、感覚界を超越したイデアが個物から離れて実在するという[[イデア論]]を唱えたが、アリストテレスはイデア論を批判して、個物に内在するエイドス([[形相]])とヒュレー([[質料]])の概念を提唱した。
また、アリストテレスは、世界に生起する現象の原因には「質料因」と「形相因」があるとし、後者をさらに「動力因(作用因)」、「形相因」、「目的因」の3つに分けて、都合4つの原因(アイティア aitia)があるとした([[四原因説]])(『形而上学』A巻『自然学』第2巻第3章等)。
事物が何でできているかが「質料因」、そのものの実体であり本質であるのが「形相因」、運動や変化を引き起こす始源(アルケー・キネーセオース)は「動力因」(ト・ディア・ティ)、そして、それが目指している終局(ト・テロス)が「目的因」(ト・フー・ヘネカ)である。存在者を動態的に見たとき、潜在的には可能であるものが、素材としての[[可能態]](デュナミス)であり、それと、すでに生成したもので思考が具体化した[[現実態]](エネルゲイア)とを区別した。
万物が[[可能態]]から[[現実態]]への生成のうちにあり、質料をもたない純粋形相として最高の現実性を備えたものは、「'''[[神]]'''」('''[[不動の動者]]''')と呼ばれる。[[イブン・スィーナー]]ら中世の[[イスラーム哲学|イスラム哲学]]者・神学者や、[[トマス・アクィナス]]等の中世の[[キリスト教]][[神学者]]は、この「神」概念に影響を受け、彼らの宗教([[キリスト教]]・[[イスラム教]])の神([[ヤハウェ]]・[[アッラーフ]])と同一視した。
==== 範疇論 ====
アリストテレスは、述語(AはBであるというときのBにあたる)の種類を、[[カテゴリ|範疇]]として下記のように区分する。すなわち「実体」「性質」「量」「関係」「能動」「受動」「場所」「時間」「姿勢」「所有」(『カテゴリー論』第4章)<!--「形而上学」では「姿勢」「所有」を省略-->。ここでいう「実体」は普遍者であって、種や類をあらわし、述語としても用いられる(第二実体)。<!--付帯的な述語から上記の範疇としての述語を取りだした上、そこから「実体」だけを残すことで、そのものの定義(logos)が得られる。-->これに対して、述語としては用いられない基体<!--to hupokeimenon-->としての第一実体があり、形相と質料の両者からなる個物がこれに対応する。
=== 倫理学 ===
アリストテレスは、倫理学を創始した{{Sfn|河井徳治|2011|p=1}}。
一定の住み処で人々が暮らすためには慣習や道徳、規範が生まれる{{Sfn|河井徳治|2011|p=2}}。古代ギリシャではそれぞれのポリスがその母体であったのだが、アリストテレスは、[[エートス]](住み処)の基底となるものが何かを問い、人間存在にとって求めるに値するもの(善)が数ある中で、それらを統括する究極の善(最高善)を明らかにし、基礎付ける哲学を[[実践哲学]]として確立した{{Sfn|河井徳治|2011|p=2}}。
アリストテレスによると、人間の営為にはすべて目的(善)があり、それらの目的の最上位には、それ自身が目的である「'''[[最高善]]'''」があるとした。人間にとって最高善とは、幸福、それも卓越性([[アレテー]])における活動のもたらす満足のことである。幸福とは、たんに快楽を得ることだけではなく、政治を実践し、または、人間の霊魂が、固有の形相である理性を発展させることが人間の幸福であると説いた([[幸福主義]])。
また、理性的に生きるためには、[[中庸 (ギリシア哲学)|中庸]]を守ることが重要であるとも説いた。中庸に当たるのは、
* 恐怖と平然に関しては勇敢、
* 快楽と苦痛に関しては節制、
* 財貨に関しては寛厚と豪華(豪気)、
* 名誉に関しては矜持、
* 怒りに関しては温和、
* 交際に関しては親愛と真実と機知
である。ただし、羞恥は情念であっても徳ではなく、羞恥は仮言的にだけよきものであり、徳においては醜い行為そのものが許されないとした。
また、各々にふさわしい分け前を配分する配分的正義(幾何学的比例)と、損なわれた均衡を回復するための裁判官的な矯正的正義(算術的比例)、これに加えて〈等価〉交換的正義とを区別した。
アリストテレスの倫理学は、[[ダンテ・アリギエーリ]]にも大きな影響を与えた。ダンテは『帝政論』において『[[ニコマコス倫理学]]』を継承しており、『[[神曲]]』地獄篇における地獄の階層構造も、この『倫理学』の分類に拠っている。
なお、彼の著作である『ニコマコス倫理学』の「ニコマコス」とは、アリストテレスの父の名前であり、子の名前でもあるニコマスから命名された。
=== 政治学 ===
アリストテレスは『[[政治学 (アリストテレス)|政治学]]』を著したが、政治学を倫理学の延長線上に考えた。「人間は政治的生物である」とかれは定義する。自足して、共同の必要のないものは神であり、共同できないものは野獣である。両者とは異なって、人間はあくまでも社会的存在である。国家のあり方は王制、貴族制、ポリティア<!--国制:一定の財産を資格とするテモクラティアと呼ばれるのが適切とも言われる。ニコマコス倫理学-->、その逸脱としての僭主制、寡頭制、民主制に区分される。王制は、父と息子、貴族制は夫と妻、ポリティアは兄と弟の関係にその原型をもつと言われる([[ニコマコス倫理学]])。
アリストテレス自身は、<!--「徳」の重んぜられる貴族制、-->ひと目で見渡せる小規模のポリスを理想としたが、[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]の登場と退場の舞台となったこの時代、情勢は世界国家の形成へ向かっており、古代ギリシアの伝統的都市国家体制は過去のものとなりつつあった。
=== 文学 ===
アリストテレスによれば、芸術創作活動の基本的原理は模倣([[ミメーシス]])である。文学は言語を使用しての模倣であり、理想像の模倣が悲劇の成立には必要不可欠である。作品受容の目的は心情の浄化としての[[カタルシス]]であり、悲劇の効果は急転(ペリペテイア)と、人物再認(アナグノーリシス)との巧拙によるという。古典的作劇術の三一致の法則は、かれの『[[詩学]]』にその根拠を求めている。
== 著作 ==
{{Works of Aristotle}}
{{Wikiquote|アリストテレス}}
アリストテレスは、[[紀元前4世紀]]に、アテナイ<!--(現在のギリシャ共和国の首都[[アテネ]])-->に創建された学園「[[リュケイオン]]」での教育用のテキストと、専門家向けの論文の二種類の著作を著したとされているが、前者はいずれも散逸したため、今日伝承されているアリストテレスの著作はいずれも後者の専門家向けに著述した論文である。
現在の『[[アリストテレス全集]]』は、[[ロドス島]]出身の学者であり[[逍遥学派]](ペリパトス派)の第11代学頭でもあった[[ロドスのアンドロニコス|アンドロニコス]]が紀元前1世紀にローマで編纂した遺稿が原型となっている。ただし、[[プラトン]]の場合と同じく、この中にも(逍遙学派(ペリパトス派)の後輩達の作や、後世の創作といった)アリストテレスの手によらない偽書がいくつか混ざっている。
ルネサンス期に至り、15-16世紀頃から印刷術・印刷業が確立・発達するに伴い、アリストテレスの著作も様々な印刷工房から出版され、一般に普及するようになった。
現在は、[[1831年]]に出版された、[[ドイツ]]の文献学者[[イマヌエル・ベッカー]]校訂、[[プロイセン科学アカデミー|プロイセン王立アカデミー]]刊行による『アリストテレス全集』、通称「'''ベッカー版'''」が、標準的な底本となっている。これは各ページが左右二段組み(二分割)になっている[[ギリシャ語]]原文の書籍である。現在でも、アリストテレス著作の訳文には、「984a1」といった数字とアルファベットが付記されることが多いが、これは「ベッカー版」のページ数・左右欄区別(左欄はa、右欄はb)・行数を表している。
なお、現在『アリストテレス全集』に含まれている作品の内、『[[アテナイ人の国制]]』だけは、[[1890年]]に[[エジプト]]で発見され、[[大英博物館]]に引き取られたパピルス写本から復元されたものであり、「ベッカー版」には含まれておらず、その後に追加されたものである。
=== テキストの伝来について ===
<ref name=":0">{{Cite book|title=世界の名著8『アリストテレス』|date=|year=1979|publisher=中央公論社}}</ref>
3世紀の[[ディオゲネス・ラエルティオス]]の『[[ギリシア哲学者列伝|哲学者列伝]]』ではアリストテレスの著作143書名を挙げ、その中に『正義について』『詩人について』『哲学について』『政治家について』『グリュロス(弁論術について)』『ネリントス』『ソフィスト』『メネクセノス』『エロースについて』『饗宴』など、おそらくプラトンの対話編に倣って書かれた公開的著作が存在していた。それらは現在では殆ど失われ、部分的に他の著作者の引用などで断片が知られるのみである。
また『哲学者列伝』では現代まで伝わっている『形而上学』や『トピカ』などの主著を欠いているが、5・6世紀頃とされる伝{{仮リンク|ミレトスのヘシュキオス|en|Hesychius of Miletus|label=ヘシュキオス}}の『オノマトロゴイ』ではそれらを含めた拡充された著作リストを挙げている。この事実はディオゲネスに知られた著作群の系統と、他の伝来系統が存在していることを示唆しており、『オノマトロゴイ』の時代にはそれらが一つとして統合されていたことが考えられる。
[[ストラボン]]の『[[地理誌|ゲオグラピカ]]』の伝えるところによれば、アリストテレスは自分の集めた文庫(ビブリオテーケー)を[[テオプラストス]]に譲り、テオプラストスはコリスコスの子のネレウスに譲った。ネレウスは小アジアの[[スケプシス]](現トルコ領クルシュンル・テペ)に持ち帰り、彼は後継者たちに譲ったが、後継者たちは学問に通じておらず文庫を封印したままにして手を着けることがなかった。[[ペルガモン]]の[[アッタロス朝]]の王たちが自分たちの文庫のために書籍を収集していることを知り、奪われることを恐れた人たちはそれを地下倉に隠し、その破損が進んでしまった。その後に、前1世紀のアテナイの富豪・書籍の収集家であった{{仮リンク|テオスのアペリコン|en|Apellicon of Teos|label=アペリコン}}にそれらを売却した。アペリコンはそれを何とか修復して公にしたが、十分な出来とは言えず[[逍遙学派|ペリパトス派]]の哲学者たちはまともに勉強もできない状況であった。アペリコンの死後、ローマの[[ルキウス・コルネリウス・スッラ|スッラ]]がアテナイを占領し、アペリコンの文庫をローマへと持ち帰り、それを専門家の{{仮リンク|アミソスのテュランニオン|en|Tyrannion of Amisus|label=テュラニオン}}に委ねた。
[[プルタルコス]]の『[[対比列伝]]・スッラ伝』ではその続きの顛末が記されている。文庫にはアリストテレスとテオプラトスの書物の大部分が含まれていたが、テュラニオンがその大部分を整理した。そして[[ロドスのアンドロニコス]]がそれを転写することを許され、公にし今に行われている著作目録の形にでまとめ上げた。ここにおいてようやくペリパトス派の哲学者たちもアリストテレスやテオプラストスの著作を精確に知ることが出来るようになり、それ以前の同派の哲学者たちはその機会がなかった。
アンドロニコスは転写した資料を内容に応じて分類し、独自に配列してこれを公刊した。この形式が中世においてアリストテレス全集の方式においても受け継がれている。[[ヨハネス・ピロポノス|ピロポノス]]は『自然学註解』において、シドンのポエトスは自然学から学問を始めるべきだと主張したが、彼の師であるアンドロニコスは論理学をもって始めるべきだとしたと伝えている。現在のアリストテレス全集の形式において、論理学諸書(オルガノン)が劈頭に置かれるのはアンドロニコスに由来するということを考えることができる。
=== 公開的著作・対話篇 ===
アリストテレス自身が多数の人に見せることを想定して公開した著作が多数あった。殆どが散逸してしまったが、後世に伝わっている引用や証言などの断片から、ある程度内容を知ることが出来るものもある。<ref name=":0" /><ref>{{Cite book|title=世界古典文学全集16アリストテレス|date=1966/08|year=|publisher=筑摩書房}}</ref><ref>{{Cite book|title=Chosaku danpenshū : 2|url=https://www.worldcat.org/oclc/1078647540|publisher=Iwanamishoten|date=2018|location=Tōkyō|isbn=978-4-00-092790-1|oclc=1078647540|others=Uchiyama, Katsutoshi., Kanzaki, Shigeru., Nakahata, Masashi., Kunikata, Eiji., 内山勝利., 神崎繁.|last=Aristoteles.|last2=アリストテレス.}}</ref>
* 『エウデモス』または『魂について』 プラトンの『[[パイドン]]』にならって書かれた対話篇である。エウデモスはアリストテレスのアカデメイアでの学友であり、彼は[[シュラクサイのディオン|ディオン]]の[[シラクサ|シュライクサイ]]での戦争に参加して戦死した。アリストテレスは彼を記念して“エウデモス”の名を冠した著作を書き、霊魂の不滅を論じた。エウデモス没後(前357年)まもなく書かれたものと推測され、アリストテレスの著作で制作年代を唯一確定できるものである。
* 『[[哲学のすすめ]]』 原題“[[プロトレプティコス]]”は「勧奨」を意味する。[[カルキスのイアンブリコス|イアンブリコス]]の同名の書に大部分が引用されているので、ほぼ全編を再構成することができる。一説によれば、当時アテナイにはプラトンのアカデメイアの他に[[イソクラテス]]の弁論術の学校があったが、イソクラテスはアカデメイアを批判して『{{仮リンク|アンティドシス|en|Antidosis (treatise)}}』を公表した。『哲学のすすめ』はそれに対する反論とも言われている。
* 『哲学について』 後に『自然学』や『形而上学』Λ巻で述べられているような世界の構成および絶対者についての議論が行われている。知恵(ソフィア)の意味の変遷史、霊魂と自然世界から神を探求する二つの方法、[[エーテル (神学)|アイテール]]界において円運動を行い、純粋知の純粋認識を行う天体的・知性的存在である神々について、最後にアイテールが魂、知性の素材となる第五元素であることについて、四つの論点を述べる。
* 『グリュロス』 [[クセノポン]]の子グリュロスの為に書かれた弁論術に関する対話篇。著作の最も初期に属する。
* 『詩人について』 詩人についての伝記や逸話を収録したものと考えられる。『詩学』においても言及されている。
* 『饗宴』 あるいは「酩酊について」。プラトンの『饗宴』と同名だが内容は宴席での振る舞いなどについて語っている。
* 『王であることについて』 『アレクサンドロス』と同じくマケドニア王国で王子の教師として招聘された後に、アレクサンドロスのために書かれたもの。
* 『アレクサンドロス、あるいは植民者について』
* 『ソフィスト』
* 『ネリントス』
* 『恋愛論』
* 『富について』
* 『祈りについて』
* 『生まれのよさについて』
* 『快楽について』
* 『教育について』
* 『政治家』
* 『正義について』
=== 論理学 ===
*『[[オルガノン]]』({{lang-grc-short|Όργανον}})
**『[[範疇論 (アリストテレス)|範疇論]]』({{lang-grc-short|Κατηγορίαι}}、『カテゴリー論』とも)
**『[[命題論 (アリストテレス)|命題論]]』({{lang-grc-short|Περὶ Ἑρμηνείας}})
**『[[分析論前書]]』({{lang-grc-short|Αναλυτικων πρότερων}})
**『[[分析論後書]]』({{lang-grc-short|Αναλυτικων υστερων}})
**『[[トピカ (アリストテレス)|トピカ]]』({{lang-grc-short|Τόποι}}、{{lang-la-short|Topica}})
**『[[詭弁論駁論]]』({{lang-grc-short|Περὶ σοφιστικῶν ἐλέγχων}})
=== 自然学 ===
*『[[自然学 (アリストテレス)|自然学]]』({{lang-grc-short|Φυσικῆς ἀκροάσεως}})
*『[[天体論 (アリストテレス)|天体論]]』({{lang-grc-short|Περὶ οὐρανοῦ}})
*『[[生成消滅論]]』({{lang-grc-short|Περὶ γενέσεως καὶ φθορᾶς}})
*『[[気象論 (アリストテレス)|気象論]]』({{lang-grc-short|Περὶ Μετεωρολογικῶν}} または {{lang|el|Μετεωρολογικά}})
====生物・動物学====
*『[[霊魂論]]』({{lang-grc-short|Περὶ Ψυχῆς}})
*『[[自然学小論集]]』({{lang-grc-short|Μικρὰ φυσικά}}、{{lang-la-short|Parva Naturalia}})
**『[[感覚と感覚されるものについて]]』({{lang-el-short|Περὶ αἰσθήσεως καὶ αἰσθητῶν}})
**『[[記憶と想起について]]』({{lang-grc-short|Περί μνήμης και αναμνήσεως}})
**『[[睡眠と覚醒について]]』({{lang-grc-short|Περὶ ύπνου και εγρηγόρσεως}})
**『[[夢について]]』({{lang-grc-short|Περὶ ἐνυπνίων}})
**『[[夢占いについて]]』({{lang-grc-short|Περὶ τῆς καθ᾽ ὕπνον μαντικῆς}})
**『[[長命と短命について]]』({{lang-grc-short|Περὶ μακροβιότητος καὶ βραχυβιότητος}})
**『[[青年と老年について、生と死について、呼吸について]]』({{lang-grc-short|Περὶ νεότητος καὶ γήρως, καὶ ζωῆς καὶ θανάτου, καὶ ἀναπνοῆς}})
*『[[動物誌 (アリストテレス)|動物誌]]』({{lang-grc-short|Περὶ Τὰ Ζῷα Ἱστορίαι}})
*『[[動物部分論]]』({{lang-grc-short|Περὶ ζώων μορίων}})
*『[[動物運動論]]』({{lang-grc-short|Περὶ ζώων κινήσεως}})
*『[[動物進行論]]』({{lang-grc-short|Περὶ πορειας ζωων}})
*『[[動物発生論]]』({{lang-grc-short|Περὶ ζωων γενεσεως}})
=== 形而上学 ===
*『[[形而上学 (アリストテレス)|形而上学]]』({{lang-grc-short|Μεταφυσικά}})
=== 倫理学 ===
*『[[ニコマコス倫理学]]』({{lang-grc-short|Ἠθικὰ Νικομάχεια}})
*『[[大道徳学]]』({{lang-grc-short|Ηθικά Μεγάλα}}、{{lang-la-short|Magna Moralia}}, マグナ・モラリア)
*『[[エウデモス倫理学]]』({{lang-grc-short|Ηθικά Εὔδημια}})
=== 政治学 ===
*『[[政治学 (アリストテレス)|政治学]]』({{lang-grc-short|Πολιτικά}})
*『[[アテナイ人の国制]]』({{lang-grc-short|Ἀθηναίων πολιτεία}})
=== レトリックと詩学 ===
*『[[弁論術 (アリストテレス)|弁論術]]』({{lang-grc-short|τέχνη ῥητορική}})
*『[[詩学]]』({{lang-grc-short|Περὶ ποιητικῆς}})
=== 偽書 ===
ほとんどは[[ペリパトス派]]([[逍遙学派]])の後輩たちの手による著作である。
*『[[宇宙論 (アリストテレス)|宇宙論]]』({{lang-grc-short|Περὶ κόσμου}})
*『[[気息について]]』({{lang-grc-short|Περὶ πνεύματος}})
*『[[小品集 (アリストテレス)|小品集]]』({{lang-la-short|Opuscula}})
**『[[色について]]』({{lang-grc-short|Περὶ χρωμάτων}})
**『[[聞こえるものについて]]』({{lang-grc-short|Περὶ ακουστῶν}})
**『[[人相学]]』({{lang-grc-short|Φυσιογνωμονικά}})
**『[[植物について]]』({{lang-grc-short|Περὶ φυτῶν}})
**『[[異聞集]]』({{lang-grc-short|Περὶ θαυμασίων ἀκουσμάτων}})
**『[[機械学 (アリストテレス)|機械学]]』({{lang-grc-short|Μηχανικά}})
**『[[不可分の線について]]』({{lang-grc-short|Περὶ ἀτόμων γραμμῶν}})
**『[[風の方位と名称について]]』({{lang-grc-short|Ἀνέμων θέσεις καὶ προσηγορίαι}})
**『[[メリッソス、クセノパネス、ゴルギアスについて]]』({{lang-grc-short|Περὶ Μελίσσου, Ξενοφάνους καὶ Γοργίου}})
*『[[問題集 (アリストテレス)|問題集]]』({{lang-grc-short|Προβλήματα}})
*『[[徳と悪徳について]]』({{lang-grc-short|Περὶ αρετων και κακιων}})
*『[[経済学 (アリストテレス)|経済学]]』({{lang-grc-short|Οἰκονομικά}}、『家政学(家政術・家政論)』『オイコノミカ』とも)
*『[[アレクサンドロスに贈る弁論術]]』({{lang-grc-short|Ρητορική προς Αλέξανδρον}})
== 後世への影響 ==
テオプラトスの没後、アリストテレスの主要テキストは早くも失伝し、ペリパトス派の目立った研究者は現れなかったが、ローマ時代に入るとテキストが再発見され公刊された。ペリパトス派では2世紀の[[アスパシオス]]が広範囲に注解を施したことが知られ、[[ボエティウス]]によりたびたび言及されているが、現在ではニコマコス倫理学の一部分しか残存していない。3世紀前半には学頭であった[[アフロディシアスのアレクサンドロス]]が本格的注解を著した。その優れた内容から“注解者”と呼称されるようになったが、これがペリパトス派直系による最後の主要な研究成果というものであった。それ以後は[[テミスティオス]]のように独自の研究者もあったが、主にネオ・プラトニストによってアリストテレスの研究は行われた。[[テュロスのポルピュリオス|ポルピュリオス]]のアリストテレス論理学の入門書『[[エイサゴーゲー]]』は、ラテン語やアラビア語にも翻訳されて東西世界に影響を及ぼした。アテナイ学派では[[シュリアノス]]が『形而上学』について(批判的に)注解し、[[キリキアのシンプリキオス]]は『自然学』について浩瀚な注解を残した。アカデメイア閉鎖を傍らにアレクサンドリア学派の[[アンモニオス・ヘルメイウ|アンモニオス]]、[[オリュンピオドロス (哲学者)|小オリュンピオドロス]]らが、プラトンに対するのと勝るとも劣らない熱意を以てアリストテレスを研究した。そこには[[ヨハネス・ピロポノス|ピロポノス]]、{{仮リンク|エリアス (哲学者)|en|Elias (Greek scholar)|label=エリアス}}といったキリスト教徒の子弟もいた。アレクサンドリアの学校の閉鎖の後は、コンスタンティノープルがギリシャ語圏における哲学の中心地となり、12世紀には[[エフェソスのミカエル]]や[[エウストラティオス]]といった註解者が現れた。
後世「万学の祖」と称されるように、アリストテレスのもたらした知識体系は網羅的であり、当時としては完成度が高く、偉大なものであった。しかし、アリストテレスの学説の多くは[[ローマ帝国]]崩壊後の混乱によって、[[西ヨーロッパ]]ではいったんほとんどが忘れ去られた。ただし、[[6世紀]]に[[ボエティウス]]が『[[範疇論 (アリストテレス)|範疇論]]』と『[[命題論 (アリストテレス)|命題論]]』をラテン語訳しており<ref>「キリスト教の歴史」p75 小田垣雅也 講談社学術文庫 1995年5月10日第1刷</ref>、これによってわずかにアリストテレスの学説が伝えられ、中世のアリストテレス研究の端緒となった。一方、西ヨーロッパで衰退したアリストテレスの学説は、東方の[[ビザンツ帝国]]においてはよく維持された。12世紀の皇帝[[アレクシオス1世コムネノス|アレクシオス1世]]の皇女[[アンナ・コムネナ]]は自身が記した歴史書『[[アレクシアス|アレクシアス(アレクシオス1世伝)]]』の序文で自らについて「アリストテレスの諸学とプラトンの対話作品を精読」したと記している<ref>{{Cite book|和書|author= アンナ・コムニニ(アンナ・コムネナ)|translator = 相野洋三|year= 2019|title = アレクシアス|publisher = 悠書館}}p1</ref><ref>{{Cite book|和書|author=井上浩一|authorlink=井上浩一 (歴史学者)|title=歴史学の慰め アンナ・コムネナの生涯と作品|publisher=[[白水社]]|year=2020}}p137</ref>。529年にユスティニアヌス1世によってリュケイオンが閉鎖された後は、[[サーサーン朝|サーサーン朝ペルシア]]に移住した[[ネストリウス派]]のキリスト教徒によって知識は保持され続けた。彼らはペルシア南西部の[[ジュンディーシャープール]]に移住し、国王[[ホスロー1世]]の庇護のもとでこの時期にアリストテレスの著作のギリシア語から[[シリア語]]への翻訳が行われている。こうした文献は、[[830年]]に[[アッバース朝]]の第7代カリフ・[[マームーン]]が、[[バグダード]]に設立した[[知恵の館]]に収集され、シリア語やギリシア語から[[アラビア語]]への翻訳が行われた<ref>「医学の歴史」p140 梶田昭 講談社 2003年9月10日第1刷</ref>。この大翻訳事業によって訳されたアリストテレスの著作はイスラム文明に巨大な影響を与え、[[イスラム科学]]の隆盛の礎を築いた。なかでも、[[イブン・スィーナー]]はアリストテレスの影響を大きく受けており、アリストテレス哲学とイスラム科学との橋渡しの役割を果たした。
こうして保持され進化したアリストテレス哲学は、[[1150年]]から[[1210年]]にかけてアラビア語からラテン語にいくつかのアリストテレスの著作が翻訳された<ref>「キリスト教の歴史」p102 小田垣雅也 講談社学術文庫 1995年5月10日第1刷</ref>ことにより、ヨーロッパに再導入された。アリストテレスの学説は[[スコラ学]]に大きな影響を与え、[[13世紀]]の[[トマス・アクィナス]]による神学への導入を経て、[[中世]]ヨーロッパの学者たちから支持されることになる。しかし、アリストテレスの諸説の妥当な部分だけでなく、混入した誤謬までもが無批判に支持されることになった。
例えば、現代の物理学、生物学に関る説では、[[レウキッポス]]と[[デモクリトス]]の「[[原子論]]」や「脳が知的活動の中心」という説に対する、アリストテレスの「[[四元素]]論」や「脳は血液を冷やす機関」という説等も信奉され続けることになり、中世に至るまでこの学説に異論を唱える者は出てこなかった。
さらに、[[ガリレオ・ガリレイ]]は[[地動説|太陽中心説]](地動説)を巡って生涯アリストテレス学派と対立し、結果として裁判にまで巻き込まれることになった。当時のアリストテレス学派は、[[望遠鏡]]を「アリストテレスを侮辱する悪魔の道具」と見なし、覗くことすら拒んだとも言われる。古代ギリシアにおいて大いに科学を進歩させたアリストテレスの説が、後の時代には逆にそれを遅らせてしまったという皮肉な事態を招いたことになる。また近い時代、[[インディオ]]の奴隷化を正当化する根拠として『政治学』が利用された([[バリャドリッド論争]])<ref>ルイス・ハンケ 『アリストテレスとアメリカ・インディアン』佐々木昭夫訳、[[岩波書店]]〈[[岩波新書]]〉、1974年。</ref>。
ただ、その後の哲学におけるアリストテレスの影響も忘れてはならない。例えば、[[エドムント・フッサール]]の師であった哲学者[[フランツ・ブレンターノ]]は、志向性という概念は自分が発見したものではなく、アリストテレスやスコラ哲学がすでに知っていたものであることを強調している<ref>フランツ・ブレンターノ『経験的立場からの心理学』(''Psychologie vom empirischen Standpunkt''.)</ref>。
== エピソード ==
[[ウニ]]類の正形類とタコノマクラ類がもっている口器を'''アリストテレスの提灯'''と呼ぶ。アリストテレスがこの口器の構造を調べて記録していることから、その名がつけられた<ref>「ところで、ウニの口は始めと終りは連続的であるが、外見は連続的でなく、まわりに皮の張ってない提灯に似ている」({{Cite book|和書|author=アリストテレース|authorlink=アリストテレス|others=[[島崎三郎]]訳|date=1998-12-16|title=動物誌|volume=上|publisher=岩波書店|series=岩波文庫 青604-10|isbn=4-00-386011-X|ref=アリストテレス1998|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/38/X/3860110.html|pages=p. 174}})</ref>。
[[A・E・ヴァン・ヴォークト]]のSF作品『非Aの世界』のAはアリストテレスのことで、[[一般意味論]]から出た言葉である。
[[1941年]]からギリシャで発行されていた旧1[[ドラクマ]]紙幣に肖像が使用されていた。
== 関連項目 ==
* [[天文学者の一覧#紀元前の天文学者|紀元前の天文学者]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{Notelist}}
===出典===
<references/>
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=J・O・アームソン|others=[[雨宮健]]訳|year=1998|month=1|title=アリストテレス倫理学入門|publisher=[[岩波書店]]|series=同時代ライブラリー|isbn=4-00-260330-X|ref=アームソン1998}}
**{{Cite book|和書|author=J・O・アームソン|others=雨宮健訳|year=2004|month=7|title=アリストテレス倫理学入門|publisher=岩波書店|series=[[岩波現代文庫]]|isbn=4-00-600125-8|ref=アームソン2004}}
*{{Cite book|和書|others=[[出隆]]監修|editor=[[山本光雄]]編|origyear=1968年-1973年|date=1988年-1994年|title=アリストテレス全集|volume=全17巻|publisher=岩波書店}}
*『アリストテレス全集 新版』全20巻・別巻(総索引)、[[内山勝利]]・[[中畑正志]]・[[神崎繁]] 編集委員、岩波書店、2013年秋-(2020年春に19冊目刊、「14 形而上学」が未刊)
*{{Cite book|和書|author=今道友信|authorlink=今道友信|year=2004|month=5|title=アリストテレス|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社学術文庫]]|isbn=4-06-159657-8|ref=今道2004}}
*{{Cite book|和書|author=山口義久|authorlink=山口義久|year=2001|month=7|title=アリストテレス入門|publisher=[[筑摩書房]]|series=[[ちくま新書]]|isbn=4-480-05901-6|url=http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480059017/|ref=山口2001}}
*{{Cite book|和書|author=ディオゲネス・ラエルティオス|authorlink=ディオゲネス・ラエルティオス|others=[[加来彰俊]]訳|year=1989|month=9|title=ギリシア哲学者列伝 中|publisher=岩波書店|series=[[岩波文庫]]|isbn=4-00-336632-8|ref=ディオゲネス1989}}
*{{Cite book|last=Jori|first=Alberto|year=2003 |title=Aristotele|publisher=Bruno Mondadori|language=イタリア語|isbn=88-424-9737-1|url=http://www.brunomondadori.com/scheda_opera.php?materiaID=78238|ref=Jori2003}}
*『出隆著作集 第五巻 哲学史余話』[[勁草書房]] 1963年 {{ASIN|B000JBFR3U}}
*{{Cite |和書 | author = 河井徳治 | title = スピノザ『エチカ』| date = 2011| publisher = [[晃洋書房]]| series = 哲学書概説シリーズ ; 2| ref = harv }}
== 外部リンク ==
{{wikisourcelang|el|Αριστοτέλης|アリストテレス}}
{{wikisource|en:Author:Aristotle|アリストテレス|3=英語訳}}
{{wikiquote|アリストテレス}}
{{Commons&cat|Aristotelēs|Aristotle}}
*[http://www.las.osakafu-u.ac.jp/~yosyam/demarist.html デモクリトスとアリストテレス]
*[http://www.l.u-tokyo.ac.jp/cgi-bin/thesis.cgi?mode=2&id=239 アリストテレスの実体論における「本質」と「形相」−『形而上学』ZH巻の構造と「質料」の問題−]
*{{Wayback|url=http://www.geocities.jp/hgonzaemon/politics.html |title=アリストテレス『政治学』第一巻(花房友一による私訳) |date=20190331151726}}
* {{Kotobank}}
{{SEP|aristotle|Aristotle}}
{{IEP|aristotl|Aristotle}}
{{古代ギリシア学派}}
{{自然法論のテンプレート}}
{{Logic}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ありすとてれす}}
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B9 |
8,763 | 星雲賞 | 星雲賞(せいうんしょう)は、前暦年に発表もしくは完結した、優秀なSF作品およびSF活動に贈られる賞。毎年行われる日本SF大会参加登録者の投票(ファン投票)により選ばれる。
ワールドコン(世界SF大会)のヒューゴー賞を範に、1970年に創設された、日本でもっとも古いSF賞。「星雲賞」という名前は、1954年に刊行された日本最初のSF雑誌と言われる『星雲』に由来する。ネビュラ賞の日本語訳ともかけている。
最初は小説と映画演劇に関する部門だけだったが、その後メディアやコミック、アート、ノンフィクションなどの部門が追加された。2018年現在は「日本長編部門」「日本短編部門」「海外長編部門」「海外短編部門」「メディア部門」(第10回までは「映画演劇部門」)「コミック部門」「アート部門」「ノンフィクション部門」及び「自由部門」(平成14年の改訂で追加)がある。
なお、「特別賞」は第13回の「宇宙塵」を除き、すべてSFファンダムに多大な功績のあった人物が死去した際に追贈されている。ただし2011年の小松左京の星雲賞特別賞の受賞以降、死去者について星雲賞から授賞されなくなり、日本SF大賞の功績賞で顕彰されている。
集計・授賞などの運営事務は日本SFファングループ連合会議が担当する。副賞の選定は当該年度の日本SF大会実行委員会が実施する。毎回、趣向を凝らした副賞が贈られる。たとえばDAICON4の時には、開催地の大阪にちなんで、特大の瓦煎餅であった。
2014年から「レトロ星雲賞」(レトロヒューゴー賞にならい、星雲賞開始以前の年度の作品を年度別に顕彰する)が全日本中高年SFターミナルの主宰で行われている。
星雲賞の選考は以下の手順で実施されている。
なお、参考候補作は投票の助けとするためのリストであり、厳密にはノミネーションではない。規約上は参考候補作以外でも受賞資格のある作品に対しては投票可能で、たとえば2018年のノンフィクション部門のように実際に受賞した例もある。ただし、「雑誌掲載、または公開時に参考候補作にあがらなかった場合に限り、単行本またはメディア媒体収録時点でも対象となる」という条項にあるとおり、参考候補作は受賞資格に影響を与える。
小説部門・コミック部門・ノンフィクション部門については規約上、電子媒体で発表された作品の扱いが定められていないが、2015年の日本短編部門ではウェブ発表のみの作品「海の指」が参考候補作となり、受賞した。
※第9回から創設 | [
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] | 星雲賞(せいうんしょう)は、前暦年に発表もしくは完結した、優秀なSF作品およびSF活動に贈られる賞。毎年行われる日本SF大会参加登録者の投票(ファン投票)により選ばれる。 | {{Otheruses|SF文学賞の星雲賞|競馬の星雲賞|星雲賞 (競馬のレース)}}
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'''星雲賞'''(せいうんしょう)は、前暦年に発表もしくは完結した、優秀な[[サイエンス・フィクション|SF]]作品およびSF活動に贈られる賞<ref name="regaward">{{Cite web|和書| url=http://www.sf-fan.gr.jp/regaward.html | title=年次日本SF大会におけるSF賞に関する規定 | publisher=Federation of the Science Fiction Fan Groups of Japan |date=2006-07-08 |accessdate=2016-03-27}}</ref>。毎年行われる[[日本SF大会]]参加登録者の投票(ファン投票)により選ばれる。
== 概要 ==
[[ワールドコン]](世界SF大会)の[[ヒューゴー賞]]を範に、1970年に創設された、日本でもっとも古いSF賞。「星雲賞」という名前は、1954年に刊行された日本最初のSF雑誌と言われる『[[星雲 (雑誌)|星雲]]』に由来する。[[ネビュラ賞]]の日本語訳ともかけている。
最初は小説と映画演劇に関する部門だけだったが、その後メディアやコミック、アート、ノンフィクションなどの部門が追加された。2018年現在は「日本長編部門」「日本短編部門」「海外長編部門」「海外短編部門」「メディア部門」(第10回までは「映画演劇部門」)「コミック部門」「アート部門」「ノンフィクション部門」及び「自由部門」(平成14年の改訂で追加)がある。
なお、「特別賞」は第13回の「[[宇宙塵 (同人誌)|宇宙塵]]」を除き、すべて[[SFファンダム]]に多大な功績のあった人物が死去した際に追贈されている。ただし2011年の[[小松左京]]の星雲賞特別賞の受賞以降、死去者について星雲賞から授賞されなくなり、[[日本SF大賞]]の功績賞で顕彰されている。
集計・授賞などの運営事務は日本SFファングループ連合会議が担当する。副賞の選定は当該年度の日本SF大会実行委員会が実施する。毎回、趣向を凝らした副賞が贈られる。たとえばDAICON4の時には、開催地の大阪にちなんで、特大の瓦煎餅であった。
2014年から「[[レトロ星雲賞]]」(レトロヒューゴー賞にならい、星雲賞開始以前の年度の作品を年度別に顕彰する)が全日本中高年SFターミナルの主宰で行われている。
== 選考方法 ==
星雲賞の選考は以下の手順で実施されている<ref name="regaward"/>。
# 日本SFファングループ連合会議事務局において、各ファングループから提出のあった候補作および各種情報から'''参考候補作'''を選定する。
# 当該年度の[[日本SF大会]]実行委員会により、日本SF大会参加者に対して、'''参考候補作'''が投票用ハガキの発送とともに周知される。第36回[[2005年]]より、ネット投票も可能となった。
# 日本SFファングループ連合会議事務局で投票結果の集計を行う。
# 日本SF大会内で行われる日本SFファングループ連合会議定期総会席上で、集計結果の報告と授賞作品の確認が行われ、代議員から受賞資格等で異議がない場合、得票数1位が受賞作となる。
なお、'''参考候補作'''は投票の助けとするためのリストであり、厳密には'''ノミネーションではない'''。規約上は参考候補作以外でも受賞資格のある作品に対しては投票可能で、たとえば2018年のノンフィクション部門のように実際に受賞した例もある<ref>{{Cite web|和書| url=http://www.sf-fan.gr.jp/awards/2018result.html | title=2018年 第49回星雲賞 | publisher=日本SFファングループ連合会議 |date=2018-04-15 |accessdate=2018-07-22}}</ref><ref>{{Cite web|和書| url=http://animationbusiness.info/archives/5911 | title=第49回星雲賞決定、「あとは野となれ大和撫子」宮内悠介、メディア部門「けものフレンズ」など | publisher=アニメーションビジネス・ジャーナル |date=2018-07-21 |accessdate=2018-07-22}}</ref>。ただし、「雑誌掲載、または公開時に参考候補作にあがらなかった場合に限り、単行本またはメディア媒体収録時点でも対象となる」という条項にあるとおり、参考候補作は受賞資格に影響を与える。
小説部門・コミック部門・ノンフィクション部門については規約上、電子媒体で発表された作品の扱いが定められていないが、2015年の日本短編部門ではウェブ発表のみの作品「海の指」が参考候補作となり、受賞した。
== 主な受賞作品 ==
=== 日本部門 ===
{| class="wikitable"
! 賞回数
! 年度
! 日本長編作品名
! 作者
! 日本短編作品名
! 作者
|-
!style="white-space:nowrap"|第1回
|style="text-align:center; white-space:nowrap"|[[1970年]]
| [[霊長類南へ]]
| [[筒井康隆]]
| [[フル・ネルソン]]
| rowspan="2" | 筒井康隆
|-
! 第2回
|style="text-align:center"|[[1971年]]
| [[継ぐのは誰か?]]
| [[小松左京]]
| [[ビタミン (短編)|ビタミン]]
|-
! 第3回
|style="text-align:center"|[[1972年]]
| [[石の血脈]]
| [[半村良]]
| [[白壁の文字は夕陽に映える]]
| [[荒巻義雄]]
|-
! 第4回
|style="text-align:center"|[[1973年]]
| [[鏡の国のアリス (広瀬正)|鏡の国のアリス]]
| [[広瀬正]]
| [[結晶星団]]
| 小松左京
|-
! 第5回
|style="text-align:center"|[[1974年]]
| [[日本沈没]]
| 小松左京
| [[日本以外全部沈没]]
| 筒井康隆
|-
! 第6回
|style="text-align:center"|[[1975年]]
| [[おれの血は他人の血]]
| rowspan="2" | 筒井康隆
| [[神狩り]]
| [[山田正紀]]
|-
! 第7回
|style="text-align:center"|[[1976年]]
| [[七瀬ふたたび]]
| [[ヴォミーサ]]
| 小松左京
|-
! 第8回
|style="text-align:center"|[[1977年]]
| [[サイコロ特攻隊]]
| [[かんべむさし]]
| [[メタモルフォセス群島]]
| 筒井康隆
|-
! 第9回
|style="text-align:center"|[[1978年]]
| [[地球・精神分析記録|地球・精神分析記録(エルド・アナリュシス)]]
| 山田正紀
| [[ゴルディアスの結び目 (小松左京の小説)|ゴルディアスの結び目]]
| 小松左京
|-
!style="white-space:nowrap"|第10回
|style="text-align:center"|[[1979年]]
| [[消滅の光輪]]
| [[眉村卓]]
| [[地球はプレイン・ヨーグルト]]
| [[梶尾真治]]
|-
! 第11回
|style="text-align:center"|[[1980年]]
| [[宝石泥棒]]
| 山田正紀
| [[ダーティペア]]の大冒険
| [[高千穂遙]]
|-
! 第12回
|style="text-align:center"|[[1981年]]
| [[火星人先史]]
| [[川又千秋]]
| [[グリーン・レクイエム]]
| rowspan="2" | [[新井素子]]
|-
! 第13回
|style="text-align:center"|[[1982年]]
| [[吉里吉里人]]
| [[井上ひさし]]
| [[ネプチューン (小説)|ネプチューン]](『[[今はもういないあたしへ…]]』に所収)
|-
! 第14回
|style="text-align:center"|[[1983年]]
| [[さよならジュピター]]
| 小松左京
| [[言葉使い師]]
| rowspan="2" | [[神林長平]]
|-
! 第15回
|style="text-align:center"|[[1984年]]
| [[敵は海賊]]・海賊版
| rowspan="2" | 神林長平
| 「スーパー・フェニックス」(『[[戦闘妖精・雪風]]』に所収)
|-
! 第16回
|style="text-align:center"|[[1985年]]
| [[戦闘妖精・雪風]]
| 該当作なし
|style="text-align:center"|なし
|-
! 第17回
|style="text-align:center"|[[1986年]]
| [[ダーティペア]]の大逆転
| 高千穂遙
| [[レモンパイお屋敷横町ゼロ番地]]
| [[野田昌宏]]
|-
! 第18回
|style="text-align:center"|[[1987年]]
| [[プリズム]]
| 神林長平
| [[航空宇宙軍史|火星鉄道一九]]
| [[谷甲州]]
|-
! 第19回
|style="text-align:center"|[[1988年]]
| [[銀河英雄伝説]]
| [[田中芳樹]]
| [[山の上の交響楽]]
| [[中井紀夫]]
|-
! 第20回
|style="text-align:center"|[[1989年]]
| [[バビロニア・ウェーブ]]
| [[堀晃]]
| [[くらげの日]]
| [[草上仁]]
|-
! 第21回
|style="text-align:center"|[[1990年]]
| [[上弦の月を喰べる獅子]]
| [[夢枕獏]]
| [[アクアプラネット]](『[[ハイブリッド・チャイルド]]』に所収)
| [[大原まり子]]
|-
! 第22回
|style="text-align:center"|[[1991年]]
| [[ハイブリッド・チャイルド]]
| 大原まり子
| [[上段の突きを食らう猪獅子]](『[[仰天文学大系]]』に所収)
| 夢枕獏
|-
! 第23回
|style="text-align:center"|[[1992年]]
| [[メルサスの少年]]
| [[菅浩江]]
| [[恐竜ラウレンティスの幻視]]
| 梶尾真治
|-
! 第24回
|style="text-align:center"|[[1993年]]
| [[ヴィーナス・シティ]]
| [[柾悟郎]]
| [[そばかすのフィギュア]]
| 菅浩江
|-
! 第25回
|style="text-align:center"|[[1994年]]
| [[航空宇宙軍史|終わりなき索敵]]
| 谷甲州
| [[くるぐる使い]]
| rowspan="2" | [[大槻ケンヂ]]
|-
! 第26回
|style="text-align:center"|[[1995年]]
| [[機神兵団]]
| 山田正紀
| [[のの子の復讐ジグジグ]](『[[くるぐる使い]]』に所収)
|-
! 第27回
|style="text-align:center"|[[1996年]]
| [[引き潮のとき]]
| 眉村卓
| [[ひと夏の経験値]]
| [[火浦功]]
|-
! 第28回
|style="text-align:center"|[[1997年]]
| [[星界の紋章]]
| [[森岡浩之]]
| [[ダイエットの方程式]]
| 草上仁
|-
! 第29回
|style="text-align:center"|[[1998年]]
| [[敵は海賊]]・A級の敵
| 神林長平
| [[インデペンデンス・デイ・イン・オオサカ(愛はなくとも資本主義)]]<br/>(『[[SFバカ本 白菜編]]』に所収)
| 大原まり子
|-
! 第30回
|style="text-align:center"|[[1999年]]
| [[星のパイロット|彗星狩り〜星のパイロット2]]
| [[笹本祐一]]
| [[夜明けのテロリスト]](『[[夢の樹が接げたなら]]』に所収)
| 森岡浩之
|-
! 第31回
|style="text-align:center"|[[2000年]]
| グッドラック、[[戦闘妖精・雪風]]
| 神林長平
| [[太陽の簒奪者]]
| [[野尻抱介]]
|-
! 第32回
|style="text-align:center"|[[2001年]]
| [[永遠の森 博物館惑星]]
| 菅浩江
| [[あしびきデイドリーム]](『[[おもいでエマノン]]』に所収)
| 梶尾真治
|-
! 第33回
|style="text-align:center"|[[2002年]]
| [[ふわふわの泉]]
| rowspan="2" | 野尻抱介
| [[銀河帝国の弘法も筆の誤り]]
| [[田中啓文]]
|-
! 第34回
|style="text-align:center"|[[2003年]]
| [[太陽の簒奪者]]
| [[おれはミサイル]]
| [[秋山瑞人]]
|-
! 第35回
|style="text-align:center"|[[2004年]]
| [[第六大陸]]
| [[小川一水]]
| [[黄泉びと知らず]]
| 梶尾真治
|-
! 第36回
|style="text-align:center"|[[2005年]]
| [[ARIEL]]
| 笹本祐一
| [[象られた力]]
| [[飛浩隆]]
|-
! 第37回
|style="text-align:center"|[[2006年]]
| [[サマー/タイム/トラベラー]]
| [[新城カズマ]]
| [[漂った男]](『[[老ヴォールの惑星]]』に所収)
| 小川一水
|-
! 第38回
|style="text-align:center"|[[2007年]]
| [[日本沈没|日本沈没・第二部]]
|style="white-space:nowrap"|小松左京・谷甲州
| [[大風呂敷と蜘蛛の糸]](『[[沈黙のフライバイ]]』に所収)
| rowspan="3" | 野尻抱介
|-
! 第39回
|style="text-align:center"|[[2008年]]
| [[図書館戦争|図書館戦争シリーズ]]
| [[有川浩]]
| [[沈黙のフライバイ]]
|-
! 第40回
|style="text-align:center"|[[2009年]]
| [[ハーモニー (小説)|ハーモニー]]
| [[伊藤計劃]]
| [[南極点のピアピア動画]]
|-
! 第41回
|style="text-align:center"|[[2010年]]
| [[グイン・サーガ]]
| [[栗本薫]]
| [[自生の夢]]
| 飛浩隆
|-
! 第42回
|style="text-align:center"|[[2011年]]
| [[去年はいい年になるだろう]]
| [[山本弘 (作家)|山本弘]]
| [[アリスマ王の愛した魔物]]
| 小川一水
|-
! 第43回
|style="text-align:center"|[[2012年]]
| [[天獄と地国]]
| [[小林泰三]]
| [[歌う潜水艦とピアピア動画]]
| 野尻抱介
|-
! 第44回
|style="text-align:center"|[[2013年]]
| [[屍者の帝国]]
| [[円城塔]]・伊藤計劃
| [[いま集合的無意識を、]]
| 神林長平
|-
! 第45回
|style="text-align:center"|[[2014年]]
| [[コロロギ岳から木星トロヤへ]]
| 小川一水
| [[星を創る者たち]]
| 谷甲州
|-
! 第46回
|style="text-align:center"|[[2015年]]
| [[オービタル・クラウド]]
| [[藤井太洋]]
| [[海の指]]
| 飛浩隆
|-
! 第47回
|style="text-align:center"|[[2016年]]
| [[怨讐星域]]
| 梶尾真治
| [[多々良島ふたたび]]/[[怪獣ルクスビグラの足型を取った男]]<br />(共に『TSUBURAYA×HAYAKAWA UNIVERSE 01 <br />多々良島ふたたび ウルトラ怪獣アンソロジー』所収)
|style="white-space:nowrap"|山本弘/田中啓文
|-
! 第48回
|style="text-align:center"|[[2017年]]
| [[ウルトラマンF]]
| 小林泰三
| [[最後にして最初のアイドル]]
| [[草野原々]]
|-
! 第49回
|style="text-align:center"|[[2018年]]
| [[あとは野となれ大和撫子]]
| [[宮内悠介]]
| [[雲南省スー族におけるVR技術の使用例]]
| [[柴田勝家 (作家)|柴田勝家]]
|-
! 第50回
|style="text-align:center"|[[2019年]]
| [[零號琴]]
| 飛浩隆
| [[暗黒声優]]
| 草野原々
|-
! 第51回
|style="text-align:center"|[[2020年]]
| [[天冥の標]]
| 小川一水
| [[不見の月]]
| 菅浩江
|-
! rowspan="2"|第52回
| rowspan="2" style="text-align:center"|[[2021年]]
| rowspan="2"| [[星系出雲の兵站]]
| rowspan="2"| [[林譲治 (作家)|林譲治]]
| [[アメリカン・ブッダ]]
| [[柴田勝家 (作家)|柴田勝家]]
|-
| [[オービタル・クリスマス]]
| [[池澤春菜]]、[[堺三保]](原作)
|-
! rowspan="2"|第53回
| rowspan="2" style="text-align:center"|[[2022年]]
| [[月とライカと吸血姫]]
| [[牧野圭祐]]
| rowspan="2"| [[SF作家の倒し方]]
| rowspan="2"| [[小川哲]]
|-
| [[マン・カインド]]
| 藤井太洋
|-
! 第54回
|style="text-align:center"|[[2023年]]
| [[プロトコル・オブ・ヒューマニティ]]
| [[長谷敏司]]
| [[法治の獣]]
| [[春暮康一]]
|}
=== 海外部門 ===
{| class="wikitable"
! 賞回数
! 年度
! 海外長編作品名
! 作者
! 海外短編作品名
! 作者
|-
! 第1回
|style="text-align:center; white-space:nowrap"|1970年
| [[結晶世界]]
| [[J・G・バラード]]
| [[リスの檻]]
| [[トマス・M・ディッシュ]]
|-
! 第2回
|style="text-align:center"|1971年
| [[アンドロメダ病原体]]
| [[マイケル・クライトン]]
| [[詩 (小説)|詩]]
| rowspan="3" | [[レイ・ブラッドベリ]]
|-
! 第3回
|style="text-align:center"|1972年
| [[夜の翼]]
| [[ロバート・シルヴァーバーグ]]
| [[青い壜]]
|-
! 第4回
|style="text-align:center"|1973年
| [[タイタンの妖女]]
| [[カート・ヴォネガット・ジュニア]]
| [[黒い観覧車]]
|-
! 第5回
|style="text-align:center"|1974年
| [[デューン (小説)|デューン]]/砂の惑星
| [[フランク・ハーバート]]
| [[メデューサとの出会い]]
| [[アーサー・C・クラーク]]
|-
! 第6回
|style="text-align:center"|1975年
| [[時間線を遡って]]
| ロバート・シルヴァーバーグ
| [[愚者の楽園 (小説)|愚者の楽園]]
| [[R・A・ラファティ]]
|-
! 第7回
|style="text-align:center"|1976年
| [[わが名はコンラッド]]
| [[ロジャー・ゼラズニイ]]
| [[濡れた洞窟壁画の謎]]
| [[A・B・チャンドラー]]
|-
! 第8回
|style="text-align:center"|1977年
| [[竜を駆る種族]]
| [[ジャック・ヴァンス]]
| [[審問 (小説)|審問]]
| [[スタニスワフ・レム]]
|-
! 第9回
|style="text-align:center"|1978年
| [[悪徳なんかこわくない]]
| [[ロバート・A・ハインライン]]
| 該当作なし
|style="text-align:center"|-
|-
!style="white-space:nowrap"|第10回
|style="text-align:center"|1979年
| [[リングワールド]]
| [[ラリー・ニーヴン]]
| [[無常の月]]
| ラリー・ニーヴン
|-
! 第11回
|style="text-align:center"|1980年
| [[宇宙のランデブー]]
| アーサー・C・クラーク
| 該当作なし
|style="text-align:center"|-
|-
! 第12回
|style="text-align:center"|1981年
| [[星を継ぐもの]]
| rowspan="2" | [[J.P.ホーガン]]
| [[帝国の遺産]]
| ラリー・ニーヴン
|-
! 第13回
|style="text-align:center"|1982年
| [[創世記機械]]
| [[いさましいちびのトースター]]
| トマス・M・ディッシュ
|-
! 第14回
|style="text-align:center"|1983年
| [[竜の卵]]
| [[ロバート・L・フォワード]]
| [[ナイトフライヤー]]
| [[ジョージ・R・R・マーティン]]
|-
! 第15回
|style="text-align:center"|1984年
| [[カエアンの聖衣]]
| rowspan="2" | [[バリントン・J・ベイリー]]
| [[ユニコーン・ヴァリエーション]]
| ロジャー・ゼラズニイ
|-
! 第16回
|style="text-align:center"|1985年
| [[禅銃|禅〈ゼン・ガン〉銃]]
| 該当作なし
|style="text-align:center"|-
|-
! 第17回
|style="text-align:center"|1986年
| [[エルリック・サーガ]]
| [[マイケル・ムアコック]]
| 該当作なし
|style="text-align:center"|-
|-
! 第18回
|style="text-align:center"|1987年
| [[ニューロマンサー]]
| [[ウィリアム・ギブスン]]
| [[PRESS ENTER■]]
| [[ジョン・ヴァーリイ]]
|-
! 第19回
|style="text-align:center"|1988年
| [[ノーストリリア (小説)|ノーストリリア]]
| [[コードウェイナー・スミス]]
| [[たったひとつの冴えたやりかた]]
| [[ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア]]
|-
! 第20回
|style="text-align:center"|1989年
| [[降伏の儀式]]
| ラリー・ニーヴン&[[ジェリー・パーネル]]
| [[目には目を (小説)|目には目を]]
| [[オースン・スコット・カード]]
|-
! 第21回
|style="text-align:center"|1990年
| [[時間衝突]]
| バリントン・J・ベイリー
| [[青をこころに、一、二と数えよ]]
| コードウェイナー・スミス
|-
! 第22回
|style="text-align:center"|1991年
| [[知性化戦争]]
| [[デイヴィッド・ブリン]]
| [[シュレーディンガーの子猫]]
| [[ジョージ・アレック・エフィンジャー]]
|-
! 第23回
|style="text-align:center"|1992年
| [[マッカンドルー航宙記]]
| [[チャールズ・シェフィールド]]
| [[タンゴ・チャーリーとフォックストロット・ロミオ]]
| ジョン・ヴァーリイ
|-
! 第24回
|style="text-align:center"|1993年
| [[タウ・ゼロ]]
| [[ポール・アンダースン]]
| [[世界の蝶番はうめく]]
| R・A・ラファティ
|-
! 第25回
|style="text-align:center"|1994年
| [[内なる宇宙]]
| J.P.ホーガン
| [[タンジェント (小説)|タンジェント]]
| [[グレッグ・ベア]]
|-
! 第26回
|style="text-align:center"|1995年
| [[ハイペリオン (小説)|ハイペリオン]]
| rowspan="2" | [[ダン・シモンズ]]
| [[シェイヨルという名の星]]
| コードウェイナー・スミス
|-
!style="text-align:center" rowspan="2"|第27回
|style="text-align:center" rowspan="2"|1996年
| [[ハイペリオンの没落]]
|rowspan="2"|[[未来探測]]
|rowspan="2"|[[アイザック・アシモフ]]
|-
| [[時間的無限大]]
| [[スティーヴン・バクスター]]
|-
! 第28回
|style="text-align:center"|1997年
| [[さよならダイノサウルス]]
| [[ロバート・J・ソウヤー]]
| [[凍月]]
| グレッグ・ベア
|-
! 第29回
|style="text-align:center"|1998年
| [[天使墜落]]
| ラリー・ニーヴン&ジェリー・パーネル
| [[キャプテン・フューチャーの死]]
| [[アレン・スティール]]
|-
!style="text-align:center" rowspan="2"|第30回
|style="text-align:center" rowspan="2"|1999年
| [[タイム・シップ]]
| スティーヴン・バクスター
|rowspan="2"|[[最後のクラス写真]]
|rowspan="2"|ダン・シモンズ
|-
| [[レッド・マーズ]]
| [[キム・スタンリー・ロビンスン]]
|-
! 第31回
|style="text-align:center"|2000年
| [[キリンヤガ]]
| [[マイク・レズニック]]
| [[星々の荒野から]]
| ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア
|-
! 第32回
|style="text-align:center"|2001年
| [[フレームシフト (小説)|フレームシフト]]
| ロバート・J・ソウヤー
| [[祈りの海]]
| [[グレッグ・イーガン]]
|-
!style="text-align:center" rowspan="2"|第33回
|style="text-align:center" rowspan="2"|2002年
|rowspan="2"|[[ノービットの冒険]]
|rowspan="2"|[[パット・マーフィー]]
| [[あなたの人生の物語]]
| [[テッド・チャン]]
|-
| [[しあわせの理由]]
| rowspan="2" | グレッグ・イーガン
|-
! 第34回
|style="text-align:center"|2003年
| [[イリーガル・エイリアン]]
| ロバート・J・ソウヤー
| [[ルミナス (小説)|ルミナス]]
|-
! 第35回
|style="text-align:center"|2004年
| [[星海の楽園]]
| デイヴィッド・ブリン
| [[地獄とは神の不在なり]]
| テッド・チャン
|-
! 第36回
|style="text-align:center"|2005年
| [[万物理論 (小説)|万物理論]]
| rowspan="2" | グレッグ・イーガン
| [[ニュースの時間です]]
| [[シオドア・スタージョン]]
|-
! 第37回
|style="text-align:center"|2006年
| [[ディアスポラ (小説)|ディアスポラ]]
| [[人類戦線]]
| [[ケン・マクラウド]]
|-
! 第38回
|style="text-align:center"|2007年
| [[移動都市]]
| [[フィリップ・リーヴ]]
| [[ワイオミング生まれの宇宙飛行士]]
| [[アダム=トロイ・カストロ|アダム=トロイ・カストロ]]&[[ジェリイ・オルション]]
|-
! 第39回
|style="text-align:center"|2008年
| [[輝くもの天より墜ち]]
| ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア
| [[ウェザー (小説)|ウェザー]]
| [[アレステア・レナルズ]]
|-
! 第40回
|style="text-align:center"|2009年
| [[時間封鎖]]
| [[ロバート・チャールズ・ウィルスン]]
| [[商人と錬金術師の門]]
| テッド・チャン
|-
! 第41回
|style="text-align:center"|2010年
| [[最後の星戦 老人と宇宙3]]
| [[ジョン・スコルジー]]
| [[暗黒整数]]
| グレッグ・イーガン
|-
! 第42回
|style="text-align:center"|2011年
| [[異星人の郷]]
| [[マイクル・フリン]]
| [[月をぼくのポケットに]]
| [[ジェイムズ・ラヴグローヴ]]
|-
! 第43回
|style="text-align:center"|2012年
| [[ねじまき少女]]
| [[パオロ・バチガルピ]]
| [[ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル]]
| テッド・チャン
|-
! 第44回
|style="text-align:center"|2013年
| [[アンドロイドの夢の羊]]
| ジョン・スコルジー
| [[ポケットの中の法]]
| パオロ・バチガルピ
|-
! 第45回
|style="text-align:center"|2014年
| [[ブラインドサイト]]
| [[ピーター・ワッツ]]
| [[紙の動物園]]
| [[ケン・リュウ]]
|-
! 第46回
|style="text-align:center"|2015年
| [[火星の人]]
| [[アンディ・ウィアー]]
| [[スシになろうとした女]]
| [[パット・キャディガン]]
|-
! 第47回
|style="text-align:center"|2016年
| [[叛逆航路]]
| [[アン・レッキー]]
| [[良い狩りを]]
| ケン・リュウ
|-
!style="text-align:center" rowspan="2"| 第48回
|style="text-align:center" rowspan="2"| 2017年
|rowspan="2"| [[ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン]]
|rowspan="2"| [[ピーター・トライアス]]
| [[もどれ、過去へもどれ]]
| ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア
|-
| シミュラクラ
| ケン・リュウ
|-
! 第49回
| 2018年
| [[巨神計画]]
| [[シルヴァン・ヌーヴェル]]、佐田千織(翻訳)
| [[折りたたみ北京]]
| 郝景芳、大谷真弓(翻訳)、ケン・リュウ(英訳)
|-
! 第50回
| 2019年
| [[メカ・サムライ・エンパイア]]
| ピーター・トライアス
| [[円 (小説)|円]]
| [[劉慈欣]]
|-
! 第51回
| 2020年
| [[三体]]
| rowspan="2" | 劉慈欣
| [[不気味の谷 (小説)|不気味の谷]]
| グレッグ・イーガン
|-
! 第52回
| 2021年
| [[三体II 黒暗森林]]
| [[ジーマ・ブルー]]
| アレステア・レナルズ
|-
! 第53回
| 2022年
| [[プロジェクト・ヘイル・メアリー]]
| アンディ・ウィアー
| [[星間集団意識体の婚活]]
| [[ジェイムズ・アラン・ガードナー]]
|-
!style="text-align:center" rowspan="2"| 第54回
|style="text-align:center" rowspan="2"| 2023年
|rowspan="2"| [[ファウンデーションシリーズ|銀河帝国の興亡]]
|rowspan="2"| [[アイザック・アシモフ]]
| [[いずれすべては海の中に]]
| [[サラ・ピンスカー]]
|-
| [[流浪地球]]
| [[劉慈欣]]
|}
=== 映画演劇部門・メディア部門 ===
{| class="wikitable"
!style="text-align:center"|-
! 年度
! 作品名
! 製作者・監督
|-
!rowspan="2"|第1回
|rowspan="2"|1970年
| [[プリズナーNo.6]](TV)
| [[デヴィッド・トンブリン]]制作
|-
| [[まごころを君に]](映画演劇部門)
| [[ラルフ・ネルソン]]監督
|-
! 第2回
| 1971年
| [[謎の円盤UFO]](TV)
| [[ジェリー・アンダーソン|ジェリー]]&[[シルヴィア・アンダーソン]]夫妻制作
|-
! 第3回
| 1972年
| [[アンドロメダ病原体|アンドロメダ…]]
| [[ロバート・ワイズ]]監督
|-
! 第4回
| 1973年
| [[時計じかけのオレンジ]]
| [[スタンリー・キューブリック]]監督
|-
! 第5回
| 1974年
| [[ソイレント・グリーン]]
| [[リチャード・フライシャー]]監督
|-
! 第6回
| 1975年
| [[宇宙戦艦ヤマト]](TV)
| [[松本零士]]総監督
|-
! 第7回
| 1976年
| [[スタア (筒井康隆)|スタア]]
| ([[福田恆存]]・[[荒川哲生]]演出)
|-
! 第8回
| 1977年
| 該当作なし
|style="text-align:center"|-
|-
! 第9回
| 1978年
| [[惑星ソラリス]]
| [[アンドレイ・タルコフスキー]]監督
|-
! 第10回
| 1979年
| [[スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望|スター・ウォーズ]]
| [[ジョージ・ルーカス]]監督
|-
! 第11回
| 1980年
| [[エイリアン (映画)|エイリアン]]
| [[リドリー・スコット]]監督 - 「メディア部門」に変更
|-
! 第12回
| 1981年
| [[スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲|スター・ウォーズ/帝国の逆襲]]
| ジョージ・ルーカス製作総指揮
|-
! 第13回
| 1982年
| 該当作なし
|style="text-align:center"|-
|-
! 第14回
| 1983年
| [[ブレードランナー]]
| リドリー・スコット監督
|-
! 第15回
| 1984年
| [[ダーク・クリスタル]]
| [[ジム・ヘンソン]]&[[フランク・オズ]]監督
|-
! 第16回
| 1985年
| [[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]]
| [[宮崎駿]]監督
|-
! 第17回
| 1986年
| [[バック・トゥ・ザ・フューチャー]]
| [[ロバート・ゼメキス]]監督
|-
! 第18回
| 1987年
| [[未来世紀ブラジル]]
| [[テリー・ギリアム]]監督
|-
! 第19回
| 1988年
| [[王立宇宙軍 オネアミスの翼]]
| [[山賀博之]]監督
|-
! 第20回
| 1989年
| [[となりのトトロ]]
| 宮崎駿監督
|-
! 第21回
| 1990年
| [[トップをねらえ!]](OVA)
| [[庵野秀明]]監督
|-
! 第22回
| 1991年
| [[銀河宇宙オデッセイ]](TV)
| [[日本放送協会|NHK]]製作
|-
! 第23回
| 1992年
| [[ターミネーター2]]
| [[ジェームズ・キャメロン]]監督
|-
! 第24回
| 1993年
| [[ママは小学4年生]](TV)
| [[井内秀治]]総監督
|-
! 第25回
| 1994年
| [[ジュラシック・パーク]]
| [[スティーヴン・スピルバーグ]]監督
|-
! 第26回
| 1995年
| [[ゼイラム2]]
| [[雨宮慶太]]監督
|-
! 第27回
| 1996年
| [[ガメラ 大怪獣空中決戦]]
| rowspan="2" | [[金子修介]]監督・[[樋口真嗣]]特技監督
|-
! 第28回
| 1997年
| [[ガメラ2 レギオン襲来]]
|-
! 第29回
| 1998年
| [[ウルトラマンティガ]](TV)
| [[円谷プロダクション]]制作
|-
! 第30回
| 1999年
| [[機動戦艦ナデシコ -The prince of darkness-]]
| [[佐藤竜雄]]監督
|-
! 第31回
| 2000年
| [[カウボーイビバップ]](TV)
| [[渡辺信一郎 (アニメ監督)|渡辺信一郎]]監督
|-
! 第32回
| 2001年
| [[高機動幻想ガンパレード・マーチ]](ゲーム)
| [[ソニー・コンピュータエンタテインメント|SCEI]]・[[アルファシステム]]
|-
! 第33回
| 2002年
| [[仮面ライダークウガ]](TV)
| [[東映]]・[[テレビ朝日]]
|-
! 第34回
| 2003年
| [[ほしのこえ]]
| [[新海誠]]
|-
! 第35回
| 2004年
| [[ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔]]
| [[ピーター・ジャクソン]]監督
|-
! 第36回
| 2005年
| [[プラネテス]]
| [[谷口悟朗]]監督
|-
! 第37回
| 2006年
| [[特捜戦隊デカレンジャー]](TV)
| 東映
|-
! 第38回
| 2007年
| [[時をかける少女 (アニメ映画)|時をかける少女]]
| [[細田守]]監督
|-
! 第39回
| 2008年
| [[電脳コイル]]
| [[磯光雄]]監督・電脳コイル製作委員会
|-
! 第40回
| 2009年
| [[マクロスF]]
| [[河森正治]]総監督・[[菊地康仁]]監督
|-
! 第41回
| 2010年
| [[サマーウォーズ]]
| [[細田守]]監督
|-
! 第42回
| 2011年
| [[第9地区]]
| [[ニール・ブロムカンプ]]監督
|-
! 第43回
| 2012年
| [[魔法少女まどか☆マギカ]]
| [[新房昭之]]監督・[[宮本幸裕]]シリーズディレクター
|-
! 第44回
| 2013年
| [[モーレツ宇宙海賊]]
| [[佐藤竜雄]]監督
|-
! 第45回
| 2014年
| [[パシフィック・リム (映画)|パシフィック・リム]]
| [[ギレルモ・デル・トロ]]監督
|-
! 第46回
| 2015年
| [[宇宙戦艦ヤマト2199 星巡る方舟]]
| [[出渕裕]]監督・[[別所誠人]]チーフディレクター
|-
! 第47回
| 2016年
| [[ガールズ&パンツァー 劇場版]]
| [[水島努]]監督・「ガールズ&パンツァー 劇場版」製作委員会
|-
!第48回
|2017年
|[[シン・ゴジラ]]
|庵野秀明総監督・樋口真嗣監督&特技監督
|-
!第49回
|2018年
|[[けものフレンズ (アニメ)|けものフレンズ]]
|[[たつき]]監督
|-
!第50回
|2019年
|[[SSSS.GRIDMAN]]
|[[雨宮哲]]監督
|-
!第51回
|2020年
|[[彼方のアストラ]]
|[[安藤正臣]]監督
|-
!第52回
|2021年
|[[ウルトラマンZ]]
|[[田口清隆]]監督
|-
!第53回
|2022年
|[[ゴジラ S.P <シンギュラポイント>]]
|[[高橋敦史]]監督
|-
! 第54回
| 2023年
| [[シン・ウルトラマン]]
| 樋口真嗣監督・「シン・ウルトラマン」製作委員会
|}
=== コミック部門 ===
※第9回から創設
{| class="wikitable"
!style="text-align:center"|-
! 年度
! 作品名
! 作者
|-
! 第9回
| 1978年
| [[地球へ…|地球(テラ)へ…]]
| [[竹宮惠子]]
|-
! 第10回
| 1979年
| [[不条理日記]]
| [[吾妻ひでお]]
|-
! 第11回
| 1980年
| [[スター・レッド]]
| [[萩尾望都]]
|-
! 第12回
| 1981年
| [[樹魔・伝説|伝説]]
|[[水樹和佳子]]
|-
! 第13回
| 1982年
| [[気分はもう戦争]]
| [[矢作俊彦]]、[[大友克洋]]
|-
! 第14回
| 1983年
| [[銀の三角]]
| 萩尾望都
|-
! 第15回
| 1984年
| [[童夢 (漫画)|童夢]]
| 大友克洋
|-
! 第16回
| 1985年
| [[X+Y]]
| 萩尾望都
|-
! 第17回
| 1986年
| [[アップルシード]]
| [[士郎正宗]]
|-
! 第18回
| 1987年
| [[うる星やつら]]
| [[高橋留美子]]
|-
! 第19回
| 1988年
| [[究極超人あ〜る]]
| [[ゆうきまさみ]]
|-
! 第20回
| 1989年
| [[人魚シリーズ|人魚の森]]
| 高橋留美子
|-
! 第21回
| 1990年
| [[So What?]]
| [[わかつきめぐみ]]
|-
! 第22回
| 1991年
| [[宇宙大雑貨]]
| [[横山えいじ]]
|-
! 第23回
| 1992年
| [[ヤマタイカ]]
| [[星野之宣]]
|-
! 第24回
| 1993年
| [[OZ (樹なつみの漫画)|OZ]]
| [[樹なつみ]]
|-
!rowspan="2"|第25回
|rowspan="2"|1994年
| [[DAI-HONYA]]
| [[とり・みき]]
|-
| [[グラン・ローヴァ物語]]
| [[紫堂恭子]]
|-
! 第26回
| 1995年
| [[風の谷のナウシカ]]
| 宮崎駿
|-
! 第27回
| 1996年
| [[寄生獣]]
| [[岩明均]]
|-
! 第28回
| 1997年
| [[うしおととら]]
| [[藤田和日郎]]
|-
! 第29回
| 1998年
| [[SF大将]]
| とり・みき
|-
! 第30回
| 1999年
| [[ルンナ姫放浪記]]
| 横山えいじ
|-
! 第31回
| 2000年
| [[イティハーサ]]
| [[水樹和佳子]]
|-
! 第32回
| 2001年
| [[カードキャプターさくら]]
| [[CLAMP]]
|-
! 第33回
| 2002年
| [[プラネテス]]
| [[幸村誠]]
|-
! 第34回
| 2003年
| [[クロノアイズ]]
| [[長谷川裕一]]
|-
! 第35回
| 2004年
| [[彼方から]]
| [[ひかわきょうこ]]
|-
! 第36回
| 2005年
| [[ブレーメンII]]
| [[川原泉]]
|-
! 第37回
| 2006年
| [[陰陽師 (漫画)|陰陽師]]
| 夢枕獏・[[岡野玲子]]
|-
! 第38回
| 2007年
| [[ヨコハマ買い出し紀行]]
| [[芦奈野ひとし]]
|-
! 第39回
| 2008年
| [[20世紀少年|20世紀少年、21世紀少年]]
| [[浦沢直樹]]・[[長崎尚志]]
|-
! 第40回
| 2009年
| [[トライガン|トライガン・マキシマム]]
| [[内藤泰弘]]
|-
! 第41回
| 2010年
| [[PLUTO]]
| 浦沢直樹・[[手塚治虫]]
|-
! 第42回
| 2011年
| [[鋼の錬金術師]]
| [[荒川弘]]
|-
! 第43回
| 2012年
| [[機動戦士ガンダム THE ORIGIN]]
| [[安彦良和]]
|-
! 第44回
| 2013年
| [[星を継ぐもの]]
| J.P.ホーガン・[[星野之宣]]
|-
! 第45回
| 2014年
| [[成恵の世界]]
| [[丸川トモヒロ]]
|-
! 第46回
| 2015年
| [[もやしもん]]
| [[石川雅之]]
|-
! 第47回
| 2016年
| [[シドニアの騎士]]
| [[弐瓶勉]]
|-
!第48回
|2017年
|[[こちら葛飾区亀有公園前派出所]]
|[[秋本治]]
|-
!第49回
|2018年
|[[それでも町は廻っている]]
|[[石黒正数]]
|-
!第50回
|2019年
|[[少女終末旅行]]
|[[つくみず]]
|-
!rowspan="2"|第51回
|rowspan="2"|2020年
| [[バビロンまでは何光年?]]
| [[道満晴明]]
|-
| [[ニンジャバットマン]]
| [[久正人]]
|-
!rowspan="2"|第52回
|rowspan="2"|2021年
| [[きみを死なせないための物語]]
| [[吟鳥子]]
|-
| [[鬼灯の冷徹]]
| [[江口夏実]]
|-
!第53回
|2022年
|[[絶対可憐チルドレン]]
|[[椎名高志]]
|-
!第54回
|2023年
|[[チ。-地球の運動について-]]
|[[魚豊]]
|}
=== アート部門 ===
* 第10回(1979年) - [[加藤直之]]
* 第11回(1980年) - [[生頼範義|生賴範義]]
* 第12回(1981年) - [[安彦良和]]
* 第13回(1982年) - [[長岡秀星]]
* 第14回(1983年) - [[天野喜孝]]
* 第15回(1984年) - 天野喜孝
* 第16回(1985年) - 天野喜孝
* 第17回(1986年) - 天野喜孝
* 第18回(1987年) - [[佐藤道明]]
* 第19回(1988年) - [[末弥純]]
* 第20回(1989年) - [[加藤洋之&後藤啓介]]
* 第21回(1990年) - [[道原かつみ]]
* 第22回(1991年) - 横山えいじ
* 第23回(1992年) - 士郎正宗
* 第24回(1993年) - [[水玉螢之丞]]
* 第25回(1994年) - [[米田仁士]]
* 第26回(1995年) - [[水玉螢之丞]]
* 第27回(1996年) - [[山田章博]]
* 第28回(1997年) - [[開田裕治]]
* 第29回(1998年) - [[水木しげる]]
* 第30回(1999年) - [[赤井孝美]]
* 第31回(2000年) - [[鶴田謙二]]
* 第32回(2001年) - 鶴田謙二
* 第33回(2002年) - [[寺田克也]]
* 第34回(2003年) - 新海誠
* 第35回(2004年) - [[西島大介]]
* 第36回(2005年) - 新海誠
* 第37回(2006年) - [[村田蓮爾]]
* 第38回(2007年) - 天野喜孝
* 第39回(2008年) - 加藤直之
* 第40回(2009年) - 加藤直之
* 第41回(2010年) - 加藤直之
* 第42回(2011年) - 加藤直之
* 第43回(2012年) - [[鷲尾直広]]
* 第44回(2013年) - [[鶴田謙二]]
* 第45回(2014年) - 加藤直之
* 第46回(2015年) - [[水玉螢之丞]]
* 第47回(2016年) - [[生賴範義]]
* 第48回(2017年) - 加藤直之
* 第49回(2018年) - [[永野のりこ]]
* 第50回(2019年) - 加藤直之
* 第51回(2020年) - [[シライシユウコ]]
* 第52回(2021年) - シライシユウコ
* 第53回(2022年) - 加藤直之
* 第54回(2023年) - 鶴田謙二、加藤直之
=== ノンフィクション部門 ===
* 第16回(1985年) - 『光世紀の世界』[[石原藤夫]]([[早川書房]])
* 第17回(1986年) - 『特撮ヒーロー列伝』[[池田憲章]](『[[アニメック]]』連載)
* 第18回(1987年) - 『石原博士のSF研究室』石原藤夫(『[[SFマガジン]]』連載)
* 第19回(1988年) - 『ウィザードリィ日記』[[矢野徹]] (エム・アイ・エー)
* 第20回(1989年) - 『スペースオペラの書き方』野田昌宏(早川書房)
* 第21回(1990年) - 『SFはどこまで実現するか』ロバート・L・フォワード、[[久志本克己]]・訳(講談社)
* 第22回(1991年) - 『SFハンドブック』[[早川書房|早川書房編集部]]・編
* 第23回(1992年) - TV番組『[[電子立国日本の自叙伝]]』[[日本放送協会|NHK]](制作)
* 第24回(1993年) - 『[[24人のビリー・ミリガン]]』[[ダニエル・キイス]]、堀内静子・訳(早川書房)
* 第25回(1994年) - 『やさしい宇宙開発入門』野田昌宏(PHP研究所)
* 第26回(1995年) - 『愛しのワンダーランド』野田昌宏(早川書房)
* 第27回(1996年) - 『[[トンデモ本の世界]]』[[と学会]]・編([[洋泉社]])
* 第28回(1997年) - 『トンデモ本の逆襲』と学会・編(洋泉社)
* 第29回(1998年) - 自立歩行人間型ロボットP2([[本田技研工業]])
* 第30回(1999年) - 『宇宙を空想してきた人々』野田昌宏([[日本放送出版協会]])
* 第31回(2000年) - ロボット・[[AIBO]] ([[ソニー]])
* 第32回(2001年) - 『[[すごい科学で守ります!|もっとすごい科学で守ります!]]』[[長谷川裕一]](日本放送出版協会)
* 第33回(2002年) - 『NHK少年ドラマシリーズのすべて』増山久明 ([[アスキー (企業)|アスキー]])
* 第34回(2003年) - 『[[宇宙へのパスポート]]』笹本祐一 ([[朝日ソノラマ]])
** {{マンガ図書館Z作品|45381|宇宙へのパスポート}}(外部リンク)
* 第35回(2004年) - 『宇宙へのパスポート2・M-V & H-IIAロケット取材日記』笹本祐一 (朝日ソノラマ)
* 第36回(2005年) - 『前田建設ファンタジー営業部』[[前田建設工業#前田建設ファンタジー営業部|前田建設ファンタジー営業部]]ご一同 ([[幻冬舎]])
* 第37回(2006年) - 『[[失踪日記]]』[[吾妻ひでお]] (イースト・プレス)
* 第38回(2007年) - 『宇宙へのパスポート3 宇宙開発現場取材 』笹本祐一 (朝日ソノラマ)
* 第39回(2008年) - 『星新一 一〇〇一話をつくった人』[[最相葉月]] ([[新潮社]])
* 第40回(2009年) - 『世界のSFがやって来た!! ニッポンコン・ファイル2007』[[日本SF作家クラブ]] 監修:小松左京 ([[角川春樹事務所]])
* 第41回(2010年) - 『日本SF精神史 幕末・明治から戦後まで』[[長山靖生]]([[河出書房新社]])
* 第42回(2011年) - 『サはサイエンスのサ』[[鹿野司]]([[早川書房]])
* 第43回(2012年) - 『吾妻ひでお〈総特集〉---美少女・SF・不条理ギャグ、そして失踪』編集:[[穴沢優子]]、[[KAWADE夢ムック]] ([[河出書房新社]])
* 第44回(2013年) - 『情報処理2012年05月号別刷「《特集》CGMの現在と未来︰初音ミク,ニコニコ動画,ピアプロの切り拓いた世界」』ゲストエディタ:後藤真孝([[情報処理学会]])
* 第45回(2014年) - 『宇宙へ行きたくて液体燃料ロケットをDIYしてみた 実録なつのロケット団』[[あさりよしとお]]([[学研教育出版]])
* 第46回(2015年) - 『サンリオSF文庫総解説』編集:[[牧眞司]]、[[大森望]](本の雑誌社)
* 第47回(2016年) - 『SFまで10000光年』『SFまで10万光年以上』水玉螢之丞(早川書房)
* 第48回(2017年) - 『SFのSは、ステキのS』[[池澤春菜]](早川書房)
* 第49回(2018年) - 『アリエナクナイ科学ノ教科書 〜空想設定を読み解く31講〜』著者・[[くられ]]/協力・[[薬理凶室]](ソシム)
* 第50回(2019年) - 『筒井康隆、自作を語る』筒井康隆:著、日下三蔵:編集(早川書房)
* 第51回(2020年) - 『100分de名著 小松左京スペシャル 「神」なき時代の神話』[[宮崎哲弥]]([[NHK出版]])
* 第52回(2021年) - 『NHK 100分de名著 アーサー・C・クラークスペシャル ただの「空想」ではない』瀬名秀明(NHK出版)
* 第53回(2022年) - 『[[学研の図鑑]] [[スーパー戦隊シリーズ|スーパー戦隊]]』[[東映]]株式会社・[[企画者104|松井大]]:監修、[[学研プラス]]:編集・制作・発行
* 第54回(2023年) - 『[[地球の歩き方]] [[ムー (雑誌)|ムー]] 〜[[異世界の歩き方]]〜』著者:地球の歩き方編集室、出版社:[[Gakken]]
=== 自由部門 ===
* 第33回(2002年) - [[H-IIA]]ロケット試験機1号機([[宇宙開発事業団]])
* 第34回(2003年) - [[出渕裕]]デザインの人間型ロボット [[HRP-2]] 最終成果機(Promet) 出渕裕・[[川田工業]]株式会社
* 第35回(2004年) - 王立科学博物館シリーズ1 [[岡田斗司夫]](製作・販売[[タカラ (玩具メーカー)|タカラ]]・[[海洋堂]])
* 第36回(2005年) - [[ヴェネツィア・ビエンナーレ]][[おたく:人格=空間=都市|第9回国際建築展日本館展示]] [[国際交流基金]]・[[森川嘉一郎]]・参加作家一同
* 第37回(2006年) - 第20号[[科学衛星]]MUSES-C「[[はやぶさ (探査機)|はやぶさ]]」サンプルリターンミッションにおける[[イトカワ]]着陸([[独立行政法人]][[宇宙航空研究開発機構]])
* 第38回(2007年) - [[M-Vロケット]]([[独立行政法人]][[宇宙航空研究開発機構]])
* 第39回(2008年) - [[初音ミク]]([[クリプトン・フューチャー・メディア]])
* 第40回(2009年) - 該当なし
* 第41回(2010年) - [[GREEN TOKYO ガンダムプロジェクト|ガンダム30周年プロジェクト Real G 実物大ガンダム立像]](企画:[[サンライズ]]、制作:[[乃村工藝社]])
* 第42回(2011年) - 第20号科学衛星MUSES-C「はやぶさ」の地球帰還([[独立行政法人]][[宇宙航空研究開発機構]])
* 第43回(2012年) - 該当なし
* 第44回(2013年) - [[iPS細胞]]([[京都大学iPS細胞研究所]])
* 第45回(2014年) - 『[[NOVA 書き下ろし日本SFコレクション]]』全10巻刊行 [[大森望]]・[[河出書房新社]]
* 第46回(2015年) - 『[[アオイホノオ]]』原作:[[島本和彦]] 監督:[[福田雄一]]
* 第47回(2016年) - 『[[宇宙英雄ペリー・ローダン|宇宙英雄ローダン・シリーズ]]』500巻出版達成(いつまでたっても候補にあげられないから)
* 第48回(2017年) - "[[ニホニウム]]"正式名称決定([[理化学研究所]])
* 第49回(2018年) - 『[[超人ロック]]』生誕50周年トリビュート企画([[少年画報社]])
* 第50回(2019年) - 『MINERVA-Ⅱ1の[[リュウグウ (小惑星)|リュウグウ]]着地及び小惑星移動探査』 受賞対象者:「[[はやぶさ2]]」プロジェクト
* 第51回(2020年) - 『史上初のブラックホールの撮影』 受賞対象者:EHT ([[イベントホライズンテレスコープ|Event Horizon Telescope]]) プロジェクト
* 第52回(2021年) - 『疫病退散の妖怪[[アマビエ]]』(代理受賞:『肥後国海中の怪(アマビエの図)』を所蔵する[[京都大学附属図書館]])
* 第53回(2022年) - 『[[ヱヴァンゲリヲン新劇場版]]シリーズの完結』 受賞対象者:庵野秀明
* 第54回(2023年) - 該当なし
=== 特別賞 ===
* 第11回(1980年) - [[武部本一郎]]
* 第13回(1982年) - [[宇宙塵 (同人誌)|宇宙塵]]
* 第20回(1989年) - 手塚治虫
* 第36回(2005年) - 矢野徹
* 第38回(2007年) - [[米澤嘉博]]
* 第39回(2008年) - [[野田宏一郎]]
* 第41回(2010年) - [[柴野拓美]]
* 第42回(2011年) - 小松左京
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[日本SF大賞]]
* [[ヒューゴー賞]]
* [[ネビュラ賞]]
* [[ローカス賞]]
* [[暗黒星雲賞]]
* [[センス・オブ・ジェンダー賞]]
* [[レトロ星雲賞]]
== 外部リンク ==
* [http://www.sf-fan.gr.jp/awards/list.html SFファングループ連合会議公式サイトの受賞作リスト]
* [https://prizesworld.com/prizes/sf/siun.htm 星雲賞受賞作・参考候補作一覧](サイト「文学賞の世界」より)
{{サイエンス・フィクション}}
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[[Category:日本の文学賞]]
[[Category:日本の美術賞]]
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[[Category:ファンダム]]
[[Category:1970年開始のイベント]] | 2003-05-20T05:05:18Z | 2023-12-15T11:20:11Z | false | false | false | [
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8,764 | 聖典 | 聖典(せいてん)とは、神や神的存在、聖人の言行が書かれたもの、または教説がつづられたものの内、それぞれの宗教内で、特に権威ある書物をいう。教典、啓典ともいう。仏教においては特に「仏典」(仏教典籍)と呼び、神道においては「神典」と呼ぶ。
聖典のあり方は、宗教ごと各聖典ごとに様々である。
世界で最も多くの信者を抱える「アブラハムの宗教」すなわちユダヤ教、キリスト教、イスラム教にあっては、テキスト(聖書、クルアーン)がその宗教内の中心部に位置し、常に読まれ、朗読され、聞かれ、事あるごとに引用され、その一字一句を巡って討論される。聖典が特に重視されているということから「啓典宗教」という呼称も存在する。
仏教においても、一般に、出家した者が(あるいは在家の者も)その全部あるいは一部を日々唱える経典があるが、あまりにも膨大であるため、経典の中で一部だけを重要視する、重要度のランキングを作る(教相判釈)など、アブラハムの宗教の聖典と仏教のそれとでは、接し方や扱い方が随分と異なっている点がある。日蓮宗系の教団では「南無妙法蓮華経」として経典自体が崇拝対象になっている一方、禅宗は「不立文字」として経典を重視しない。
他の宗教の大多数も、何らかのテキストを持っているものがほとんどである。その中で、何らかの重要な役割を果たしているものについては「聖典」と呼べよう。だが、宗教によっては、テキストがせいぜい儀式や教えについての備忘録やといった程度のもので、宗教的共同体にとって重要な役割を果たしていないこともある。そのようなものは「聖典」には当てはまらないと考えるほうが適切である。
なお、聖典の書き手に関しても、聖人自身、聖人の言葉を聴いた弟子個人、弟子たちの集団・教団、民族の長い歴史の中で書きつがれ編纂されたもの、神がかりになった個人が書いたもの、あるいは神自身とされるものまであり、多様である。よって詳細については各聖典の項目を参照されたい。
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] | 聖典(せいてん)とは、神や神的存在、聖人の言行が書かれたもの、または教説がつづられたものの内、それぞれの宗教内で、特に権威ある書物をいう。教典、啓典ともいう。仏教においては特に「仏典」(仏教典籍)と呼び、神道においては「神典」と呼ぶ。 | {{宗教哲学}}
'''聖典'''(せいてん)とは、[[神]]や神的存在、[[聖人]]の言行が書かれたもの、または教説がつづられたものの内、それぞれの[[宗教]]内で、特に権威ある[[書物]]をいう。'''教典'''、'''[[啓典]]'''ともいう。[[仏教]]においては特に「[[仏典]]」(仏教典籍)と呼び、[[神道]]においては「[[神典]]」と呼ぶ。
== 概要 ==
聖典のあり方は、宗教ごと各聖典ごとに様々である。
世界で最も多くの信者を抱える「[[アブラハムの宗教]]」すなわち[[ユダヤ教]]、[[キリスト教]]、[[イスラム教]]にあっては、テキスト([[聖書]]、[[クルアーン]])がその宗教内の中心部に位置し、常に読まれ、朗読され、聞かれ、事あるごとに[[引用]]され、その一字一句を巡って討論される{{efn2|極端な場合には、その本自体が神聖不可侵な崇敬の対象として機能することもある([[聖書信仰]]等)。[[福音主義]]・[[キリスト教根本主義|根本主義]]やいわゆる「[[原理主義]]」の背景には、こうした要因もある。}}。聖典が特に重視されているということから「啓典宗教」という呼称も存在する<ref>{{citation|和書|author=小室直樹|title=日本人のための経済原論|url=https://books.google.co.jp/books?id=wZDZCgAAQBAJ&pg=PT100&lpg=PT100&dq=%22%E5%95%93%E5%85%B8%E5%AE%97%E6%95%99%22&source=bl&ots=ZX9EczvKLN&sig=ACfU3U00ZIQkzU6s1QevP9A4TbfkglyBRg&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwiXz8bi-cjyAhUiL6YKHUuYDKc4ChDoAXoECAIQAw#v=onepage&q=%22%E5%95%93%E5%85%B8%E5%AE%97%E6%95%99%22&f=false|publisher=[[東洋経済新報社]]|year=2015|isbn=978-4492396162}}</ref>。
[[仏教]]においても、一般に、[[出家]]した者が(あるいは[[在家]]の者も)その全部あるいは一部を日々唱える[[経典]]があるが、あまりにも膨大であるため、経典の中で一部だけを重要視する、重要度のランキングを作る([[教相判釈]])など、[[アブラハムの宗教]]の聖典と仏教のそれとでは、接し方や扱い方が随分と異なっている点がある。[[日蓮宗]]系の教団では「[[南無妙法蓮華経]]」として経典自体が崇拝対象になっている一方、[[禅宗]]は「[[不立文字]]」として経典を重視しない。
他の宗教の大多数も、何らかの[[テキスト]]を持っているものがほとんどである。その中で、何らかの重要な役割を果たしているものについては「聖典」と呼べよう。だが、宗教によっては、テキストがせいぜい儀式や教えについての備忘録やといった程度のもので、宗教的共同体にとって重要な役割を果たしていないこともある。そのようなものは「聖典」には当てはまらないと考えるほうが適切である。
なお、聖典の書き手に関しても、聖人自身、聖人の言葉を聴いた[[弟子]]個人、弟子たちの集団・教団、[[民族]]の長い[[歴史]]の中で書きつがれ編纂されたもの、神がかりになった個人が書いたもの、あるいは神自身とされるものまであり、多様である。よって詳細については各聖典の項目を参照されたい。
== 各宗教における聖典一覧 ==
*[[ユダヤ教]] - [[タナハ]]([[ヘブライ語聖書]])、[[タルムード]]
*[[キリスト教]]
**[[正教会]]、[[東方諸教会]]、[[カトリック教会|カトリック]]、[[聖公会]] - [[新約聖書]]、[[旧約聖書]](いわゆる「[[旧約聖書続編|続編]]」を含む{{efn2|[[聖公会]]では「[[旧約聖書続編]]」を礼拝で朗読する等で用いるが、厳密には聖典とは見なさない。}})、[[聖伝]]{{efn2|[[聖伝]]の定義や位置付けは教派間で大きな差異がある。特に[[聖公会]]では、聖伝を大切にするが、聖書以外の文書を「聖典」とは見なさない。}}
**[[プロテスタント]] - [[新約聖書]]、[[旧約聖書]](続編を含まず)
**[[末日聖徒イエス・キリスト教会]](モルモン教) - [[旧約聖書]]、[[新約聖書]]、[[モルモン書]]、教義と聖約
**[[統一教会]] - [[旧約聖書]]、[[新約聖書]]、[[原理講論]]、天聖経
*[[イスラム教]] - [[クルアーン]](コーラン)、[[ハディース]]、[[啓典]]([[モーセ五書|律法]]、[[詩篇]]、[[福音書]])
*[[仏教]] - [[仏典]]([[三蔵]] - [[律蔵]]、[[経蔵]]([[スートラ]])、[[論蔵]])
**[[上座部仏教]] - [[パーリ仏典]]
**[[大乗仏教]]
***[[真言宗]] - [[金剛頂経]]、[[大日経]]、[[理趣経]]など
***[[天台宗]] - [[法華三部経]]、[[阿弥陀経]]、[[大日経]]、[[梵網経 (大乗仏教)|梵網経]]など<ref name="e-butsuji">{{Cite web|和書|url=https://www.e-butsuji.jp/butsuji6-1.html|title=仏教の宗派の違い|publisher=法事・法要・四十九日がよくわかる|accessdate=2021-08-24}}</ref>
***[[浄土宗]]、[[浄土真宗]]、[[時宗]] - [[浄土三部経]]
***日蓮系諸派([[日蓮宗]]、[[日蓮正宗]]、[[創価学会]]など) - [[法華三部経]]、[[御書 (日蓮)|日蓮御書]]
***[[臨済宗]]、[[黄檗宗]] - ([[金剛般若経]]など<ref name="e-butsuji" />{{efn2|name="zen"|[[禅宗]]は「[[不立文字]]」を旨として、特定の経典を所依としない。}})
***[[曹洞宗]] - ([[法華経]]、[[金剛般若経]]など<ref name="e-butsuji" />{{efn2|name="zen"}})
*[[神道]] - [[神典]]([[古事記]]、[[日本書紀]]、[[古語拾遺]]、[[先代旧事本紀]]など{{efn2|[[神社神道]]は特定の「聖典」を持たない。}})
**[[天理教]] - [[みかぐらうた]]、[[おふでさき]]、おさしづ
**[[金光教]] - 金光教教典(金光大神覚書、お知らせ事覚帳、理解、神訓、神戒など)、金光大神言行録
**[[黒住教]] - 生命のおしえ
**[[大本]] - [[大本神諭]]、[[霊界物語]]
*[[ヒンドゥー教]] - [[ヴェーダ]]、[[バガヴァッド・ギーター]]、[[プラーナ文献]]
*[[ゾロアスター教]] - [[アヴェスター]]
*[[儒教]] - [[経書]]([[詩経]]、[[礼記]]、[[春秋]]、[[論語]]など)
*[[道教]] - [[道蔵]]
*[[シク教]] - グル・グラント・サーヒブ
*[[バーブ教]] - バヤーン
*[[バハイ教]] - アクダスの書(キターベ・アクダス)、イガンの書
*[[如来教]] - お経様
*[[生長の家]] - [[甘露の法雨]]、[[生命の実相]]、[[七つの灯台の点灯者の神示]]
*[[幸福の科学]] - 「正心法語」、救世の法三部作([[太陽の法]]、[[黄金の法]]、[[永遠の法]]など)など
*[[大山ねずの命神示教会]] - 真実の光・神示
*[[神慈秀明会]] - 聖教書
*[[霊波之光教会]] - 御書
*[[甑山道]] - 道典
*[[トゥルース教]] - 「祈りの詞」、「霊訓」、「みおしえのうた」
*[[天心聖教]] - 御諭し、由来
*[[聖心教会]] - 真正聖書
*[[GLA総合本部|GLA]] - 生命の余白に、心行
== 比喩としての聖典 ==
上記のような聖典の位置づけを模して、ある分野の指針となるような[[書籍]]を比喩的に「聖典」と呼ぶことがある(『古典詰将棋の聖典』など)。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == {{Cite book}}、{{Cite journal}} -->
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
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[[category:聖典|*]]
[[Category:ジャンル別の書物]] | 2003-05-20T05:10:05Z | 2023-12-01T00:43:59Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%85%B8 |
8,765 | 1491年 | 1491年(1491 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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] | 1491年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。 | {{年代ナビ|1491}}
{{year-definition|1491}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[辛亥]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[延徳]]3年
*** [[福徳 (私年号)|福徳]]2年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2151年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]] : [[弘治 (明)|弘治]]4年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[成宗 (朝鮮王)|成宗]]22年
** [[檀君紀元|檀紀]]3824年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[洪徳 (黎朝)|洪徳]]22年
* [[仏滅紀元]] : 2033年 - 2034年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 896年 - 897年
* [[ユダヤ暦]] : 5251年 - 5252年
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1491|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[8月6日]](延徳3年[[7月1日 (旧暦)|7月1日]]) - [[足利茶々丸]]が継母・[[円満院 (足利政知側室)|円満院]]と弟の潤童子を殺害して[[堀越公方]]の座を奪う。
* (延徳3年[[8月27日 (旧暦)|8月27日]]) - [[征夷大将軍|将軍]][[足利義材]]、[[近江国|近江]]の[[六角氏]]を攻めるべく出陣。
* [[8月 (旧暦)|8月]]) - 足利義材が[[細川政元]]を[[近江国]]の[[守護]]に任命する。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1491年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[5月10日]] - [[シュザンヌ・ド・ブルボン]]、[[ブルボン公|ブルボン女公]](+ [[1521年]])
* [[6月28日]] - [[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]、[[イングランド王国|イングランド王]](+ [[1547年]])
* [[10月26日]]([[弘治 (明)|弘治]]4年[[9月24日 (旧暦)|9月24日]]) - [[正徳帝]]{{要出典|date=2021-04}}、[[明]]の第11代[[皇帝]](+ [[1521年]])
* [[12月24日]] - [[イグナチオ・デ・ロヨラ]]、[[イエズス会]]初代総長(+ [[1556年]])
* [[12月31日]] - [[ジャック・カルティエ]]、[[探検家]](+ [[1557年]])
* [[浅井亮政]]、[[近江国]]の[[戦国大名]](+ [[1542年]])
* [[畠山義総]]、[[能登国]]の戦国大名(+ [[1545年]])
* [[アントニオ・ピガフェッタ]]、探検家(+ [[1534年]])
* [[ラプ=ラプ]]、[[マクタン島]]の領主(+ [[1542年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1491年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月21日]](延徳2年[[12月12日 (旧暦)|12月12日]]) - [[畠山義就]]、[[室町時代]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]](* [[1437年]]?)
* [[2月15日]](延徳3年[[1月7日 (旧暦)|1月7日]]) - [[足利義視]]{{sfn|日本史史料研究会監修|2018|p=305}}、室町時代、戦国時代の武将(* [[1439年]])
* [[3月6日]](延徳3年[[1月26日 (旧暦)|1月26日]]) - [[朝倉経景]]、室町時代、戦国時代の武将(* [[1438年]])
* [[5月11日]](延徳3年[[4月3日 (旧暦)|4月3日]]) - [[足利政知]]、室町時代、戦国時代の武将、初代[[堀越公方]](* [[1435年]])
* [[8月6日]](延徳3年[[7月1日 (旧暦)|7月1日]]) - [[足利潤童子]]、室町時代、戦国時代の武将(* 生年未詳)
* [[8月7日]] - [[ジャック・バルビロー]]、[[南ネーデルラント]]出身の[[ルネサンス音楽]]の[[作曲家]](* [[1455年]])
* [[9月23日]](延徳3年[[8月20日 (旧暦)|8月20日]]) - [[島津忠廉]]、室町時代の[[武将]]、[[豊州家]]第2代当主(* [[1440年]])
* [[10月27日]](延徳3年[[9月24日 (旧暦)|9月24日]]) - [[織田広近]]、室町時代、戦国時代の武将(* 生年未詳)
* [[インタラーチャー2世]]、[[アユタヤ王朝]]の王(* 生年未詳)
* [[ドメニコ・ディ・ミケリーノ]]、[[イタリア]]の[[フィレンツェ派]]の[[画家]](* [[1417年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1491}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=15|年代=1400}}
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8,766 | 1495年 | 1495年(1495 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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] | 1495年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。 | {{年代ナビ|1495}}
{{year-definition|1495}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[乙卯]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[明応]]4年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2155年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]] : [[弘治 (明)|弘治]]8年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[燕山君]]元年
** [[檀君紀元|檀紀]]3828年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[洪徳 (黎朝)|洪徳]]26年
* [[仏滅紀元]] : 2037年 - 2038年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 900年 - 901年
* [[ユダヤ暦]] : 5255年 - 5256年
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1495|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* 9月 - 伊勢宗瑞([[北条早雲]])が[[大森藤頼]]を討ち[[小田原城]]を奪取。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1495年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[3月8日]] - [[神のヨハネス]]、[[ポルトガル]]の[[修道士]]、[[聖人]](+ [[1550年]])
* [[6月2日]](明応4年[[5月10日 (旧暦)|5月10日]]) - [[千葉昌胤]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[戦国大名]]、[[下総国|下総]][[千葉氏]]の第24代当主(+ [[1546年]])
* [[9月18日]] - [[ルートヴィヒ10世 (バイエルン公)|ルートヴィヒ10世]]、[[バイエルン大公|バイエルン公]](+ [[1545年]])
* [[朝倉景高]]、戦国時代の[[武将]](+ [[1543年]]以後)
* [[石川高信]]、戦国時代の武将(+ 1571年/1581年)
* [[クアウテモック]]、[[アステカ]]の第11代王(+ [[1525年]])
* [[グスタフ1世 (スウェーデン王)|グスタフ1世]]、[[スウェーデン君主一覧|スウェーデン国王]](+ [[1560年]])
* [[ニコラ・ゴンベール]]、[[フランドル楽派]]の作曲家(+ [[1560年]]頃)
* [[佐伯惟治]]、戦国時代の武将、[[佐伯氏 (豊後国)|豊後佐伯氏]]の第10代当主(+ [[1527年]])
* [[三条公頼]]、戦国時代の[[公卿]](+ [[1551年]])
* [[ヤン・ファン・スコーレル]]、[[オランダ]]の画家(+ [[1562年]])
* [[大道寺盛昌]]、戦国時代の武将(+ [[1556年]])
* [[内藤興盛]]、戦国時代の武将、[[守護代]](+ [[1554年]])
* [[成田長泰]]、戦国時代の武将(+ [[1574年]])
* [[禰津元直]]、戦国時代の武将(+ [[1575年]])
* [[バルバラ・ザーポリャ]]、[[ポーランド国王]][[ジグムント1世 (ポーランド王)|ジグムント1世]]の最初の妃(+ [[1515年]])
* [[ロッソ・フィオレンティーノ]]、[[イタリア]]の画家(+ [[1540年]])
* [[フランソワーズ・ド・フォワ]]、[[フランス王国|フランス]]王[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]の愛妾(+ [[1537年]])
* [[マルコス・デ・ニサ]]、[[フランシスコ会]]修道士、宣教師(+ [[1558年]])
* [[宮城政業]]、戦国時代の武将(+ [[1589年]])
* [[六角定頼]]、戦国時代の戦国大名、[[六角氏]]の当主(+ [[1552年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1495年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月17日]](明応3年[[12月21日 (旧暦)|12月21日]]) - [[細川義春]]、[[室町時代]]、戦国時代の武将(* [[1461年]])
* [[1月20日]] - [[成宗 (朝鮮王)|成宗]]、[[李氏朝鮮]]の第9代国王(* [[1457年]])
* [[1月21日]] - [[マドレーヌ・ド・フランス (ビアナ公妃)|マドレーヌ・ド・フランス]]、[[ビアナ公]][[ガストン・ド・フォワ (ビアナ公)|ガストン]]の妃(* [[1443年]])
* [[2月26日]] - [[ジークムント (ブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯)|ジークムント]]、[[バイロイト侯領|ブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯]](* [[1468年]])
* [[3月24日]](明応4年[[2月28日 (旧暦)|2月28日]]) - [[内藤弘矩]]、室町時代、戦国時代の武将、守護代(* [[1446年]])
* [[3月26日]](明応4年[[2月30日 (旧暦)|2月30日]]) - [[真盛]]、室町時代、戦国時代の[[天台宗]]の[[僧]](* [[1443年]])
* [[4月7日]](明応4年[[3月12日 (旧暦)|3月12日]]) - [[正親町三条公治]]、室町時代、戦国時代の公卿、[[正親町三条家]]の第10代当主(* [[1441年]])
* [[5月31日]] - [[セシリー・ネヴィル]]、[[リチャード・プランタジネット (第3代ヨーク公)|ヨーク公リチャード]]の妻(* [[1415年]])
* [[7月26日]](明応4年[[7月5日 (旧暦)|7月5日]]) - [[織田敏定]]、室町時代、戦国時代の武将、守護代(* [[1452年]]?)
* [[9月11日]](明応4年[[8月23日 (旧暦)|8月23日]]) - [[細川政国]]、室町時代、戦国時代の守護大名(* 生年未詳)
* [[9月25日]](明応4年[[9月7日 (旧暦)|9月7日]]) - [[織田寛定]]、室町時代、戦国時代の武将、守護代(* 生年未詳)
* [[10月6日]](明応4年[[9月18日 (旧暦)|9月18日]]) - [[大内政弘]]、室町時代、戦国時代の守護大名、[[大内氏]]の第29代当主(* [[1446年]])
* [[10月8日]](明応4年[[9月20日 (旧暦)|9月20日]]) - [[朝倉景冬]]、室町時代、戦国時代の武将(* 生年未詳)
* [[10月22日]](明応4年[[10月5日 (旧暦)|10月5日]]) - [[留守郡宗]]、室町時代、戦国時代の武将、[[留守氏]]の第15代当主(* 生年未詳)
* [[10月25日]] - [[ジョアン2世 (ポルトガル王)|ジョアン2世]]、[[アヴィシュ王朝|アヴィシュ朝]]の[[ポルトガル王国|ポルトガル王]](* [[1455年]])
* [[10月30日]] - [[フランソワ (ヴァンドーム伯)|フランソワ]]、フランスの貴族、[[ヴァンドーム]]伯(* [[1470年]])
* [[11月8日]](明応4年[[10月13日 (旧暦)|10月13日]]) - [[十市遠清]]、室町時代、戦国時代の武将(* 生年未詳)
* [[12月18日]] - [[アルフォンソ2世 (ナポリ王)|アルフォンソ2世]]、[[ナポリ王国|ナポリ王]](* [[1448年]])
* [[12月11日]](明応4年[[11月25日 (旧暦)|11月25日]]) - [[西園寺実遠]]、室町時代、戦国時代の公卿、[[歌人]]、[[西園寺家]]の第16代当主(* [[1434年]])
* [[12月21日]]/26日 - [[ジャスパー・テューダー (ベッドフォード公)|ジャスパー・テューダー]]、イングランドの貴族、[[ベッドフォード公爵]]、[[ペンブルック伯]](* [[1431年]]頃)
* [[アシュラフ・カーイトバーイ]]、[[マムルーク朝|ブルジー・マムルーク朝]]の第19代[[スルターン|スルタン]](* 生年未詳)
* [[カルロ・クリヴェッリ]]、イタリアの[[ルネサンス]]期の画家(* [[1430年]]頃)
* [[陶武護]]、室町時代、戦国時代の武将(* 生年未詳)
* [[コズメ・トゥーラ]]、イタリアのルネサンス期の画家(* 1430年頃)
* [[二階堂行詮]]、室町時代、戦国時代の戦国大名、須賀川[[二階堂氏]]の当主(* 生年未詳)
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1495}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=15|年代=1400}}
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[[Category:1495年|*]] | null | 2021-07-17T21:51:29Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1495%E5%B9%B4 |
8,768 | 1486年 | 1486年(1486 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。 | [
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] | 1486年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。 | {{年代ナビ|1486}}
{{year-definition|1486}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[丙午]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[文明 (日本)|文明]]18年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2146年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]] : [[成化]]22年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[成宗 (朝鮮王)|成宗]]17年
** [[檀君紀元|檀紀]]3819年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[洪徳 (黎朝)|洪徳]]17年
* [[仏滅紀元]] : 2028年 - 2029年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 890年 - 892年
* [[ユダヤ暦]] : 5246年 - 5247年
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1486|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[1月18日]] - [[イングランド王]][[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー7世]]と[[エドワード4世 (イングランド王)|エドワード4世]]の王女[[エリザベス・オブ・ヨーク]]が結婚([[ランカスター家]]と[[ヨーク家]]の融和、[[薔薇戦争]]の終結)。
* [[2月5日]](文明18年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]) - [[尼子経久]]が[[出雲国]][[富田城]]を奪回。
* [[8月25日]](文明18年[[7月26日 (旧暦)|7月26日]]) - [[太田道灌]]、主君[[上杉定正|扇谷上杉定正]]に謀殺される。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1486年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[5月4日]](文明18年[[4月1日 (旧暦)|4月1日]]) - [[山科言綱]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[公家]](+ [[1530年]])
* [[7月2日]] - [[ヤーコポ・サンソヴィーノ]]、イタリアの[[建築家]]、[[彫刻家]](+ [[1570年]])
* [[7月16日]] - [[アンドレア・デル・サルト]]、イタリアの[[画家]](+ [[1531年]])
* [[8月10日]] - [[グリエルモ9世・デル・モンフェッラート]]、[[モンフェッラート侯国|モンフェッラート侯爵]](+ [[1518年]])
* [[8月23日]] - [[ジギスムント・フォン・ヘルベルシュタイン]]、[[オーストリア]]の外交官、著作家、歴史家(+ [[1566年]])
* [[9月14日]] - [[ハインリヒ・コルネリウス・アグリッパ]]、ドイツの[[魔術師]]・[[カバラ]]研究家・[[神学者]]・[[法律家]](+ [[1535年]])
* [[9月20日]] - [[アーサー・テューダー]]、[[イングランド王国|イングランド]]王[[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー7世]]と王妃[[エリザベス・オブ・ヨーク|エリザベス]]の第1王子。[[プリンス・オブ・ウェールズ]](+ [[1502年]])
* [[10月10日]] - [[カルロ3世・ディ・サヴォイア]]、[[サヴォイア公]]、[[ピエモンテ公]]、[[アオスタ]]伯、[[モーリエンヌ]]伯、[[ニース]]伯、[[キプロス王国|キプロス王]]、[[エルサレム王国|エルサレム王]](+ [[1553年]])
* [[井上元兼]]、戦国時代の[[武将]](+ [[1550年]])
* [[大須賀政常]]、戦国時代の武将(+ [[1570年]])
* [[大田原資清]]、戦国時代の武将(+ [[1560年]])
* [[シェール・シャー]]、[[スール朝]]の創始者(+ [[1545年]])
* [[実玄]]、戦国時代の[[浄土真宗]]の僧(+ [[1545年]])
* [[ルートヴィヒ・ゼンフル]]、スイスの[[作曲家]](+ [[1542年]])
* [[ジローラモ・プリウリ]]、[[ヴェネツィア]]の元首(+ [[1567年]])
* [[ドメニコ・ベッカフーミ]]、イタリアの画家(+ [[1551年]])
* [[細川之持]]、戦国時代の武将、[[細川氏#阿波守護家(讃州家)|阿波細川家]]の当主(+ [[1512年]])
* [[横瀬泰繁]]、戦国時代の武将、[[横瀬氏]]の第7代当主(+ [[1545年]])
* [[長尾為景]]、戦国時代の武将、[[上杉謙信]]の実父(+ [[1543年]])
* [[冷泉為和]]、戦国時代の[[公卿]](+ [[1549年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1486年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月5日]](文明18年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]) - [[塩冶掃部介]]、[[室町時代]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将(* 生年未詳)
* [[2月12日]] - [[マルガレータ・フォン・エスターライヒ (1416-1486)|マルガレータ・フォン・エスターライヒ]]、[[ザクセン君主一覧|ザクセン選帝侯]][[フリードリヒ2世 (ザクセン選帝侯)|フリードリヒ2世]]の妻(* [[1416年]])
* [[3月2日]](文明18年[[1月26日 (旧暦)|1月26日]]) - [[徳大寺公有]]、室町時代、戦国時代の公卿(* [[1422年]])
* [[3月11日]] - [[アルブレヒト・アヒレス (ブランデンブルク選帝侯)|アルブレヒト・アヒレス]]、[[ホーエンツォレルン家]]の[[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク選帝侯]](* [[1414年]])
* [[3月15日]] - [[マルグリット・ド・フォワ]]、[[ブルターニュ公国|ブルターニュ]]公[[フランソワ2世 (ブルターニュ公)|フランソワ2世]]の2度目の妃(* 1458年以降)
* [[3月18日]](文明18年[[2月13日 (旧暦)|2月13日]]) - [[楠葉西忍]]、室町時代、戦国時代の商人(* [[1395年]])
* [[5月11日]] - [[孝寧大君]]、[[李氏朝鮮]]の王族(* [[1396年]])
* [[6月14日]](文明18年[[5月13日 (旧暦)|5月13日]]) - [[願阿弥]]、室町時代、戦国時代の[[時宗]]の僧(* 生年未詳)
* [[7月3日]](文明18年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]) - [[雪江宗深]]、室町時代、戦国時代の[[臨済宗]]の僧(* [[1408年]])
* [[7月14日]] - [[マーガレット・オブ・デンマーク]]、[[スコットランド王国|スコットランド]]王[[ジェームズ3世 (スコットランド王)|ジェームズ3世]]の王妃(* [[1456年]])
* [[8月3日]](文明18年[[7月4日 (旧暦)|7月4日]]) - [[朝倉氏景 (8代当主)|朝倉氏景]]、室町時代、戦国時代の[[戦国大名]]、[[朝倉氏]]の第8代当主(* [[1449年]])
* [[8月4日]](文明18年[[7月5日 (旧暦)|7月5日]]) - [[長野藤継]]、室町時代、戦国時代の戦国大名(* [[1449年]])
* [[8月25日]](文明18年[[7月26日 (旧暦)|7月26日]]) - [[太田道灌]]、室町時代、戦国時代の[[守護代]](* [[1432年]])
* [[8月26日]] - [[エルンスト (ザクセン選帝侯)|エルンスト]]、ザクセン選帝侯、[[テューリンゲンの君主一覧|テューリンゲン方伯]]、[[マイセン辺境伯]](* [[1441年]])
* [[9月14日]](文明18年[[8月17日 (旧暦)|8月17日]]) - [[多賀高忠]]、室町時代、戦国時代の武将(* [[1425年]])
* [[ルイ1世 (モンパンシエ伯)|ルイ1世]]、モンパンシエ伯(* [[1405年]])
<!--
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1486}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=15|年代=1400}}
{{デフォルトソート:1486ねん}}
[[Category:1486年|*]] | null | 2023-03-29T03:34:52Z | false | false | false | [
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"Template:他の紀年法",
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"Template:年間カレンダー",
"Template:See also"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1486%E5%B9%B4 |
8,769 | 1496年 | 1496年(1496 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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] | 1496年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。 | {{年代ナビ|1496}}
{{year-definition|1496}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[丙辰]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[明応]]5年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2156年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]] : [[弘治 (明)|弘治]]9年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[燕山君]]2年
** [[檀君紀元|檀紀]]3829年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[洪徳 (黎朝)|洪徳]]27年
* [[仏滅紀元]] : 2038年 - 2039年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 901年 - 902年
* [[ユダヤ暦]] : 5256年 - 5257年
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1496|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
== 誕生 ==
{{see also|Category:1496年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[3月18日]] - [[メアリー・テューダー (フランス王妃)|メアリー・テューダー]]、[[フランス王国|フランス]]国王[[ルイ12世 (フランス王)|ルイ12世]]の王妃(+ [[1533年]])
* [[6月15日]](明応5年[[5月5日 (旧暦)|5月5日]]) - [[真壁宗幹]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]](+ [[1563年]])
* [[10月20日]] - [[クロード (ギーズ公)|クロード]]、[[ギーズ公]](+ [[1550年]])
* [[イヴァン5世 (リャザン大公)|イヴァン5世]]、[[リャザン公国|リャザン大公]](+ [[1534年]])
* [[セバスティアーノ・ヴェニエル]]、[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]の元首(+ [[1578年]])
* [[臼井景胤]]、戦国時代の武将(+ [[1557年]])
* [[大宮伊治]]、戦国時代の[[官人]](+ [[1551年]])
* [[西園寺実宣]]、戦国時代の[[公卿]]、[[西園寺家]]の第18代当主(+ [[1541年]])
* [[実恵 (浄土真宗)|実恵]]、戦国時代の[[浄土真宗]]の[[僧]]、[[願証寺]]2世(+ [[1536年]])
* [[メノ・シモンズ]]、[[オランダ]]の[[アナバプテスト]]の指導者、神学者(+ [[1561年]])
* [[太原雪斎]]、戦国時代の[[臨済宗]]の僧、[[今川氏]]の家臣(+ [[1555年]])
* [[ベルナル・ディアス・デル・カスティリョ]]、[[スペイン]]の[[コンキスタドール]](+ [[1584年]])
* [[本庄実忠]]、戦国時代の武将(+ [[1580年]])
* [[クレマン・マロ]]、フランスの[[ルネサンス]]期の[[詩人]](+ [[1544年]])
* [[三浦義意]]、戦国時代の武将(+ [[1516年]])
* [[山吉政久]]、戦国時代の武将(+ [[1556年]])
* [[ヨハン・ワルター]]、ドイツの[[ルーテル教会|ルーテル派]]の作曲家、讃美歌作家、詩人(+ [[1570年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1496年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月1日]] - [[シャルル・ドルレアン (アングレーム伯)|シャルル・ドルレアン]]、[[アングレーム]]伯(* [[1459年]])
* [[1月15日]](明応4年[[12月30日 (旧暦)|12月30日]]) - [[上原賢家]]、[[室町時代]]、戦国時代の[[丹波国|丹波]][[守護代]](* 生年未詳)
* [[1月22日]](明応5年[[1月7日 (旧暦)|1月7日]]) - [[唐橋在数]]、室町時代、戦国時代の公卿(* [[1448年]])
* [[2月25日]] - [[エーバーハルト1世 (ヴュルテンベルク公)|エーバーハルト1世]]、[[ヴュルテンベルク]]公(* [[1445年]])
* [[3月4日]] - [[ジークムント (オーストリア大公)|ジークムント]]、[[オーストリア大公]](* [[1427年]])
* [[6月6日]](明応5年[[4月25日 (旧暦)|4月25日]]) - [[赤松政則]]、室町時代、戦国時代の[[守護大名]]、戦国大名(* [[1455年]])
* [[6月30日]](明応5年[[5月20日 (旧暦)|5月20日]]) - [[日野富子]]、[[室町幕府]]8代将軍[[足利義政]]の[[正室]](* [[1440年]])
* [[7月7日]](明応5年[[5月27日 (旧暦)|5月27日]]) - [[大友義右]]、室町時代、戦国時代の戦国大名、[[大友氏]]の第17代当主(* [[1484年]])
* [[7月10日]](明応5年[[5月30日 (旧暦)|5月30日]]) - [[石丸利光]]、室町時代、戦国時代の武将(* 生年未詳)
* [[7月20日]](明応5年[[6月10日 (旧暦)|6月10日]]) - [[大友政親]]、室町時代、戦国時代の戦国大名、[[大友氏]]の第16代当主(* [[1444年]])
* [[7月30日]](明応5年[[6月20日 (旧暦)|6月20日]]) - [[土岐元頼]]、室町時代、戦国時代の武将(* 生年未詳)
* [[8月15日]] - [[イサベル・デ・ポルトゥガル (カスティーリャ王妃)|イサベル・デ・ポルトゥガル]]、[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]=[[レオン王国|レオン]]王[[フアン2世 (カスティーリャ王)|フアン2世]]の2番目の王妃(* [[1428年]])
* [[8月19日]](明応5年[[7月11日 (旧暦)|7月11日]]) - [[勧修寺教秀]]、室町時代、戦国時代の公卿、勧修寺家の第7代当主(* [[1426年]])
* [[9月7日]] - [[フェルディナンド2世 (ナポリ王)|フェルディナンド2世]]、[[ナポリ王国|ナポリ]]王(* [[1469年]])
* [[安東恒季]]、室町時代、戦国時代の戦国大名(* 生年未詳)
* [[小田治孝]]、室町時代、戦国時代の戦国大名、[[小田氏]]の第13代当主(* [[1472年]])
* [[小田顕家]]、室町時代、戦国時代の武将(* 生年未詳)
* [[カルロ・ジョヴァンニ・アメデーオ・ディ・サヴォイア]]、[[サヴォイア公]]、[[ピエモンテ公]]、[[アオスタ]]伯、[[モーリエンヌ]]伯、[[ニース]]伯、[[キプロス王国|キプロス]]王、[[エルサレム王国|エルサレム]]王(* [[1488年]])
* [[エルコレ・デ・ロベルティ]]、イタリアのルネサンス期の画家(* 1451年頃)
* [[ピエロ・デル・ポッライオーロ]]、イタリアのルネサンス期の画家(* 1441年頃)
<!--== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1496%E5%B9%B4 |
8,770 | 優駿牝馬 | 優駿牝馬(ゆうしゅんひんば)は、日本中央競馬会(JRA)が東京競馬場で施行する中央競馬の重賞競走(GI)である。1965年から(オークス)の副称が付けられており、競馬番組表での名称は「優駿牝馬(オークス)」、回次を含める表記では「優駿牝馬(第○回オークス)」と表記している。
「オーク(Oak)」は、樫を意味する英語。「ダービーステークス」創設者の第12代ダービー卿エドワード・スミス・スタンレーは樫の森が茂る「オークス」と呼ばれる土地を所有しており、1779年にエリザベス・ハミルトンと結婚した際、記念に競馬を開催することを発案。その中に夫人の希望を入れて3歳牝馬のレースを行い、これが「オークスステークス」と名づけられたのが由来とされている。日本では本競走の優勝馬を「樫の女王」という通称で呼ぶこともある。
正賞は内閣総理大臣賞、日本馬主協会連合会会長賞。
1938年にイギリスのオークスステークスを範として、4歳(現3歳)牝馬限定の「阪神優駿牝馬(はんしんゆうしゅんひんば)」を阪神競馬場(旧鳴尾競馬場)に創設。横浜農林省賞典四歳呼馬(現: 皐月賞)・東京優駿(日本ダービー)・京都農林省賞典四歳呼馬(現: 菊花賞)・中山四歳牝馬特別(現: 桜花賞)とともに日本のクラシック競走のひとつとされる。桜花賞は最もスピードのある繁殖牝馬の検定競走とされたのに対し、本競走はスピードとスタミナを兼ね備えた繁殖牝馬を選定するためのレースとされている。
距離は創設当初芝2700mだったが、1940年から1942年まで芝2450mで施行した後、1943年から芝2400mに変更。施行場も1946年から東京競馬場に変更され、この際に名称を「優駿牝馬」に改称。1965年から(オークス)の副称が付けられ、現在に至る。施行時期は1952年まで秋季だったが、1953年から春季に変更された。
1984年よりグレード制が施行され、GIに格付け。1995年から地方競馬所属馬が、2003年からは外国産馬がそれぞれ出走可能になり、2010年からは外国馬も出走可能な国際競走となった。
2018年から2020年まで、本競走の1 - 3着馬には当該年に行われるヴェルメイユ賞への優先出走権が与えられていた。同年よりヴィクトリアマイル・安田記念とともにデスティナシオンフランスの名称で提携していたが、2021年より対象競走から外された。
以下の内容は、2023年現在のもの。
出走資格: サラ系3歳牝馬(出走可能頭数 :最大18頭)
負担重量: 定量(55kg)
未勝利馬・未出走馬(収得賞金が0の馬)には出走権がないものの、未勝利馬・未出走馬でも出走できるフローラステークス・スイートピーステークスで収得賞金を加算し、優先出走権を得れば出走できる。2017年までは、フローラステークス3着・スイートピーステークス2着でも優先出走権を得られたものの、これらの着順では収得賞金を得られないため、未勝利馬・未出走馬がこれらの着順となった場合は出走資格を得られなかった。
出馬投票を行った馬のうち優先出走権を持つ馬から優先して割り当て、その他の馬は通算収得賞金の総計が多い順に出走できる。なお、出馬投票の結果同順位の馬が多数おり出走可能頭数を超過した場合は、抽選で出走馬を決める。
出馬投票を行った外国馬は、優先出走できる。
JRA所属馬・地方競馬所属馬は以下の競走で所定の成績を収めた馬に、優先出走権が付与される。
地方競馬所属馬は上記のほか、NHKマイルカップの2着以内馬、およびJRAで施行する芝の3歳重賞競走優勝馬にも出走資格が与えられる。
2023年の1着賞金は1億4000万円で、以下2着5600万円、3着3500万円、4着2100万円、5着1400万円。
優勝馬の馬齢は、2000年以前も現行表記に揃えている。
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] | 優駿牝馬(ゆうしゅんひんば)は、日本中央競馬会(JRA)が東京競馬場で施行する中央競馬の重賞競走(GI)である。1965年から(オークス)の副称が付けられており、競馬番組表での名称は「優駿牝馬(オークス)」、回次を含める表記では「優駿牝馬(第○回オークス)」と表記している。 「オーク(Oak)」は、樫を意味する英語。「ダービーステークス」創設者の第12代ダービー卿エドワード・スミス・スタンレーは樫の森が茂る「オークス」と呼ばれる土地を所有しており、1779年にエリザベス・ハミルトンと結婚した際、記念に競馬を開催することを発案。その中に夫人の希望を入れて3歳牝馬のレースを行い、これが「オークスステークス」と名づけられたのが由来とされている。日本では本競走の優勝馬を「樫の女王」という通称で呼ぶこともある。 正賞は内閣総理大臣賞、日本馬主協会連合会会長賞。 | {{Otheruses|中央競馬のGI競走|地方競馬で「オークス」を名乗る競走|オークス (曖昧さ回避)}}
{{競馬の競走
|馬場 = 芝
|競走名 = 優駿牝馬(オークス)<br />Yushun Himba(Japanese Oaks)<ref name="IFHA" />
|画像 = [[File:Liberty Island Yushun Himba 2023(IMG1).jpg|280px]]
|画像説明 = 第84回優駿牝馬 <br />優勝馬:[[リバティアイランド]]<br />(鞍上:[[川田将雅]])
|開催国 = {{JPN}}
|主催者 = [[日本中央競馬会]]
|競馬場 = [[東京競馬場]]
|第一回施行日 =
|創設 = 1938年11月23日<ref name="中央競馬全重賞競走成績集" />
|年次 = 2023
|距離 = 2400m
|格付け = GI
|1着賞金 = 1億5000万円
|賞金総額 =
|条件 = {{Nowrap|[[サラブレッド|サラ]]系3歳牝馬(国際)(指定)}}
|負担重量 = 定量(55kg)
|出典 = <ref name="jusyo_kanto" /><ref name="bangumi_2023tokyo2-2" />
}}
'''優駿牝馬'''(ゆうしゅんひんば)は、[[日本中央競馬会]](JRA)が[[東京競馬場]]で施行する[[中央競馬]]の[[重賞]][[競馬の競走|競走]]([[競馬の競走格付け|GI]])である。1965年から(オークス)の副称が付けられており、競馬番組表での名称は「'''優駿牝馬(オークス)'''」<ref name="bangumi_2023tokyo2-2" />、回次を含める表記では「'''優駿牝馬(第○回オークス)'''」<ref name="jusyo_kanto" />と表記している。
「オーク({{Lang|en|Oak}})」は、[[樫]]を意味する英語<ref name="特別レース名解説" />。「[[ダービーステークス]]」創設者の第12代ダービー卿[[エドワード・スミス=スタンリー (第12代ダービー伯爵)|エドワード・スミス・スタンレー]]は樫の森が茂る「オークス」と呼ばれる土地を所有しており、1779年にエリザベス・ハミルトンと結婚した際、記念に競馬を開催することを発案<ref name="特別レース名解説" />。その中に夫人の希望を入れて3歳牝馬のレースを行い、これが「[[オークスステークス]]」と名づけられたのが由来とされている<ref name="特別レース名解説" />。日本では本競走の優勝馬を「樫の女王」という通称で呼ぶこともある<ref name="sponichi20140526" />。
正賞は[[内閣総理大臣賞]]、[[日本馬主協会連合会]]会長賞<ref name="jusyo_kanto" /><ref name="bangumi_2023tokyo2-2" />。
== 概要 ==
1938年に[[イギリス]]の[[オークスステークス]]を範として、4歳(現3歳)牝馬限定の「'''阪神優駿牝馬'''(はんしんゆうしゅんひんば)」を阪神競馬場(旧[[鳴尾競馬場]])に創設<ref name="JRA注目" />。[[皐月賞|横浜農林省賞典四歳呼馬(現: 皐月賞)]]・[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]・[[菊花賞|京都農林省賞典四歳呼馬(現: 菊花賞)]]・[[桜花賞|中山四歳牝馬特別(現: 桜花賞)]]とともに日本の[[クラシック (競馬)|クラシック]]競走のひとつとされる。桜花賞は最もスピードのある繁殖牝馬の検定競走とされたのに対し、本競走はスピードとスタミナを兼ね備えた繁殖牝馬を選定するためのレースとされている<ref name="JRA注目" />。
距離は創設当初芝2700mだったが、1940年から1942年まで芝2450mで施行した後、1943年から芝2400mに変更<ref name="JRA注目" />。施行場も1946年から東京競馬場に変更され、この際に名称を「優駿牝馬」に改称。1965年から(オークス)の副称が付けられ、現在に至る<ref name="JRA注目" />。施行時期は1952年まで秋季だったが、1953年から春季に変更された<ref name="JRA注目" />。
1984年より[[グレード制]]が施行され、GI<ref group="注" name="grade">当時の格付表記は、JRAの独自グレード。</ref>に格付け。1995年から[[地方競馬]]所属馬が、2003年からは[[外国産馬]]がそれぞれ出走可能になり<ref name="result2003" />、2010年からは[[外国馬]]も出走可能な[[国際競走]]となった<ref name="result2010" />。
2018年から2020年まで、本競走の1 - 3着馬には当該年に行われる[[ヴェルメイユ賞]]への優先出走権が与えられていた。同年より[[ヴィクトリアマイル]]・[[安田記念]]とともに[[デスティナシオンフランス]]の名称で提携していた<ref>[http://www.jra.go.jp/news/201804/041701.html 優駿牝馬(GⅠ)優勝馬等の仏・ヴェルメイユ賞(G1)への優先出走権付与および「デスティナシオンフランス」について]日本中央競馬会、2018年4月17日閲覧</ref>が、2021年より対象競走から外された<ref>{{Cite news2|title=ヴィクトリアマイルと安田記念の上位3頭に新たにムーランドロンシャン賞の優先出走権|newspaper=Sponichi Annex|date=2021-04-27|url=https://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2021/04/27/kiji/20210427s00004048351000c.html|agency=スポーツニッポン新聞社|accessdate=2021-04-27}}</ref>。
=== 競走条件 ===
以下の内容は、2023年現在<ref name="jusyo_kanto" /><ref name="bangumi_2023tokyo2-2" />のもの。
出走資格: [[サラブレッド|サラ系]]3歳牝馬(出走可能頭数 :最大18頭)
* JRA所属馬
* [[地方競馬]]所属馬(後述)
* 外国調教馬(優先出走)
負担重量: 定量(55kg)
* 第3回 - 第6回は57kg<ref name="中央競馬全重賞競走成績集" />。
未勝利馬・未出走馬(収得賞金が0の馬)には出走権がないものの、未勝利馬・未出走馬でも出走できるフローラステークス・スイートピーステークスで収得賞金を加算し、優先出走権を得れば出走できる。2017年までは、フローラステークス3着・スイートピーステークス2着でも優先出走権を得られたものの、これらの着順では収得賞金を得られないため、未勝利馬・未出走馬がこれらの着順となった場合は出走資格を得られなかった<ref name="競馬番組一般事項" />。
出馬投票を行った馬のうち優先出走権を持つ馬から優先して割り当て、その他の馬は通算収得賞金の総計が多い順に出走できる。なお、出馬投票の結果同順位の馬が多数おり出走可能頭数を超過した場合は、抽選で出走馬を決める<ref name="競馬番組一般事項" />。
=== 優先出走権 ===
出馬投票を行った外国馬は、優先出走できる<ref name="競馬番組一般事項" /><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jra.go.jp/news/201710/101604.html |title=2018年度開催日割および重賞競走について|publisher=日本中央競馬会|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190306005018/http://www.jra.go.jp/news/201710/101604.html |archivedate=2019年3月6日|accessdate=2021年5月16日}}</ref>。
JRA所属馬・地方競馬所属馬は以下の競走で所定の成績を収めた馬に、優先出走権が付与される<ref name="競馬番組一般事項" /><ref name="ステップ競走" />。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|+優先出走権トライアル競走
!競走名!!格!!競馬場!!距離!!必要な着順
|-
|[[桜花賞]]||GI||{{Flagicon|JPN}}[[阪神競馬場]]||芝1600m||5着以内
|-
|[[フローラステークス]]<br />(オークストライアル)||GII||{{Flagicon|JPN}}東京競馬場||芝2000m||2着以内
|-
|[[スイートピーステークス]]<br />(オークストライアル)||L||{{Flagicon|JPN}}東京競馬場||芝1800m||1着馬
|}
地方競馬所属馬は上記のほか、[[NHKマイルカップ]]の2着以内馬、およびJRAで施行する芝の3歳重賞競走優勝馬にも出走資格が与えられる<ref name="競馬番組一般事項" /><ref name="ステップ競走" /><ref name="JRA注目" />。
=== 賞金 ===
2023年の1着賞金は1億4000万円で、以下2着5600万円、3着3500万円、4着2100万円、5着1400万円<ref name="jusyo_kanto" /><ref name="bangumi_2023tokyo2-2" />。
== 歴史 ==
=== 年表 ===
* 1938年 - 4歳牝馬限定の競走「'''阪神優駿牝馬'''」を創設<ref name="JRA注目" />。
* 1939年 - 距離を2450メートルに短縮。1位入線のヒサヨシが競走後、薬物使用が判明し失格となり、2位入線のホシホマレが繰り上がりで優勝([[ヒサヨシ事件]])。
* 1943年 - 施行場を京都競馬場に変更、距離を2400メートルに短縮。
* 1944年・1945年 - 太平洋戦争の影響で中止。
* 1946年 - 施行場を東京競馬場に変更、名称も「'''優駿牝馬'''」に変更<ref name="JRA注目" />。
* 1965年 - これ以降「オークス」の副称が付く<ref name="JRA注目" />。
* 1984年 - グレード制導入、GI<ref group="注" name="grade" />に格付け。
* 1995年 - [[指定交流競走]]となり、地方所属馬も出走が可能になる<ref name="中央競馬全重賞競走成績集" />。
* 2001年 - [[馬齢]]表示を国際基準へ変更したことに伴い、出走条件を「3歳牝馬」に変更。
* 2003年 - 外国産馬が最大2頭まで出走可能となる<ref name="result2003" />。
* 2007年 - 格付表記をJpnIに変更<ref name="result2007" />。
* 2010年
**[[国際競走]]に指定され、外国調教馬・外国産馬が合わせて最大9頭まで出走可能となる<ref name="result2010" />。
** 格付表記をGI(国際格付)に変更<ref name="result2010" />。
**[[アパパネ]]と[[サンテミリオン (競走馬)|サンテミリオン]]がJRA主催のGI・JpnIでは初の1着同着となった<ref>{{Cite|和書|title=日本中央競馬会60年史|date=2015|pages=46-47|publisher=日本中央競馬会}}</ref>。
* 2020年 - 新型コロナウイルス感染症([[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|COVID-19]])の感染拡大防止のため、「[[無観客試合#競馬|無観客競馬]]」として実施<!--<ref name="jranews042303" />-->。
== 歴代優勝馬 ==
{{注意|Wikipediaは[[WP:NOT#NEWSPAPER|競馬速報]]ではありません。レースの結果を書き込むときは、'''同時に'''各回競走結果の[[WP:CITE|出典]]に[[WP:RS|信頼できる]]出典の記載をお願いします。}}
優勝馬の馬齢は、2000年以前も現行表記に揃えている。
競馬場について、第5回までの「阪神」は[[鳴尾競馬場]]を表す。
競走名は第6回まで「阪神優駿牝馬」、第7回以降は「優駿牝馬」<ref name="JRA注目" />。
{| class="wikitable"
!回数!!施行日!!競馬場!!距離!!優勝馬!!性齢!!タイム!!優勝騎手!!管理調教師!!馬主
|-
|style="text-align:center"|第1回||1938年11月23日||[[鳴尾競馬場|阪神]]||2700m<ref group="注" name="course">コース種別について、「今週の注目レース(日本中央競馬会)」では「芝」と明記しているが、過去の記録をまとめた「サラブレッド血統大系(サラブレッド血統センター、2005年刊)」や「中央競馬レコードブック'94(中央競馬ピー・アールセンター、1994年刊)」ではコース種別を明記していない。</ref>||[[アステリモア]]||牝3||2:57 2/5||[[保田隆芳]]||[[尾形藤吉|尾形景造]]||[[大川義雄|タイヘイ]]
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|style="text-align:center"|第2回||1939年10月1日||阪神||2450m<ref group="注" name="course"/>||[[ホシホマレ]]||牝3||2:55 3/5<br />+ 大差<ref group="注">1位入線のヒサヨシが競走後、薬物使用が判明し失格([[ヒサヨシ事件]])。2位入線のホシホマレが繰り上がりで優勝したため、正確な優勝タイムが存在しない。</ref>||[[佐々木猛]]||[[大久保房松]]||[[新田牧場|ハクヨウ]]
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|style="text-align:center"|第3回||1940年10月6日||阪神||2450m<ref group="注" name="course"/>||[[ルーネラ]]||牝3||2:38 0/5||[[近藤貞男]]||[[青池良佐]]||天野弥三郎
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|style="text-align:center"|第4回||1941年10月5日||阪神||2450m<ref group="注" name="course"/>||[[テツバンザイ]]||牝3||2:43 1/5||colspan="2" style="text-align :center"|[[稲葉幸夫]]||鈴木甚四郎
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|style="text-align:center"|第5回||1942年10月11日||阪神||2450m<ref group="注" name="course"/>||[[ロツクステーツ]]||牝3||2:39 0/5||[[玉谷敬治]]||尾形景造||[[吉田善助]]
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|style="text-align:center"|第6回||1943年10月3日||京都||芝2400m||[[クリフジ]]||牝3||2:34 0/5||[[前田長吉]]||尾形景造||[[栗林友二]]
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|style="text-align:center"|第7回||1946年11月24日||東京||芝2400m||[[ミツマサ]]||牝3||2:46 2/5||[[新屋幸吉]]||[[上村大治郎]]||東浜一行
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|style="text-align:center"|第8回||1947年10月19日||東京||芝2400m||[[トキツカゼ]]||牝3||2:40 2/5||[[佐藤嘉秋]]||大久保房松||川口鷲太郎
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|style="text-align:center"|第9回||1948年11月14日||東京||芝2400m||[[ヤシマヒメ]]||牝3||2:32 0/5||佐藤嘉秋||大久保房松||小林庄平
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|style="text-align:center"|第10回||1949年11月13日||東京||芝2400m||[[キングナイト]]||牝3||2:38 0/5||[[高橋英夫 (競馬)|高橋英夫]]||[[函館孫作]]||浜谷年雄
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|style="text-align:center"|第11回||1950年11月19日||東京||芝2400m||[[コマミノル]]||牝3||2:38 0/5||[[渡辺正人 (競馬)|渡辺正人]]||[[西塚十勝]]||山内伝作
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|style="text-align:center"|第12回||1951年11月18日||東京||芝2400m||[[キヨフジ]]||牝3||2:33 4/5||[[阿部正太郎]]||[[田中和一郎]]||山口茂治
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|style="text-align:center"|第13回||1952年10月5日||東京||芝2400m||[[スウヰイスー]]||牝3||2:31 2/5||[[八木沢勝美]]||[[松山吉三郎]]||[[高峰三枝子]]
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|style="text-align:center"|第14回||1953年5月17日||東京||芝2400m||[[ジツホマレ]]||牝3||2:36 3/5||[[杉村一馬]]||[[杉村政春]]||中塚志つゑ
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|style="text-align:center"|第15回||1954年5月22日||東京||芝2400m||[[ヤマイチ (競走馬)|ヤマイチ]]||牝3||2:39 0/5||八木沢勝美||尾形藤吉||[[永田雅一]]
|-
|style="text-align:center"|第16回||1955年5月28日||東京||芝2400m||[[ヒロイチ (競走馬)|ヒロイチ]]||牝3||2:32 4/5||[[岩下密政]]||[[矢倉玉男]]||吉田一太郎
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|style="text-align:center"|第17回||1956年5月27日||東京||芝2400m||[[フエアマンナ]]||牝3||2:33 4/5||佐藤嘉秋||大久保房松||小林庄平
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|style="text-align:center"|第18回||1957年5月19日||東京||芝2400m||[[ミスオンワード]]||牝3||2:32 0/5||[[栗田勝]]||[[武田文吾]]||[[樫山純三]]
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|style="text-align:center"|第19回||1958年5月18日||東京||芝2400m||[[ミスマルサ]]||牝3||2:33 0/5||八木沢勝美||[[古賀嘉蔵]]||木村健次
|-
|style="text-align:center"|第20回||1959年5月17日||東京||芝2400m||[[オーカン]]||牝3||2:33 4/5||[[清田十一]]||[[伊藤勝吉]]||吉田一太郎
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|style="text-align:center"|第21回||1960年5月22日||東京||芝2400m||[[スターロツチ]]||牝3||2:33.4||[[高松三太]]||松山吉三郎||藤井金次郎
|-
|style="text-align:center"|第22回||1961年5月21日||東京||芝2400m||[[チトセホープ]]||牝3||2:32.5||[[伊藤修司]]||伊藤勝吉||野間勘一郎
|-
|style="text-align:center"|第23回||1962年5月20日||東京||芝2400m||[[オーハヤブサ]]||牝3||2:31.9||[[藤本勝彦]]||[[藤本冨良]]||笠木政彦
|-
|style="text-align:center"|第24回||1963年5月19日||東京||芝2400m||[[アイテイオー]]||牝3||2:32.4||[[伊藤竹男]]||[[久保田金造]]||伊藤忠雄
|-
|style="text-align:center"|第25回||1964年5月24日||東京||芝2400m||[[カネケヤキ]]||牝3||2:31.1||[[野平祐二]]||[[杉浦照]]||金指吉昭
|-
|style="text-align:center"|第26回||1965年5月23日||東京||芝2400m||[[ベロナ (競走馬)|ベロナ]]||牝3||2:31.3||[[加賀武見]]||[[田中和夫 (競馬)|田中和夫]]||[[田中はな]]<ref group="注">「はな」は、本来の登録上の表記には[[変体仮名]]が用いられており、「[[ファイル:TRON 9-837E.gif]][[ファイル:TRON 9-836B.gif]]」と書く。[[田中角栄]]の妻である。</ref>
|-
|style="text-align:center"|第27回||1966年5月22日||東京||芝2400m||[[ヒロヨシ]]||牝3||2:36.2||[[古山良司]]||[[久保田彦之]]||勝川玉子
|-
|style="text-align:center"|第28回||1967年5月13日||東京||芝2400m||[[ヤマピット|ヤマピツト]]||牝3||2:29.6||保田隆芳||[[浅見国一]]||小林信夫
|-
|style="text-align:center"|第29回||1968年6月30日||東京||芝2400m||[[ルピナス (競走馬)|ルピナス]]||牝3||2:31.6||[[中野渡清一]]|||[[茂木為二郎]]||[[藤田正明]]
|-
|style="text-align:center"|第30回||1969年5月18日||東京||芝2400m||[[シャダイターキン]]||牝3||2:32.4||[[森安重勝]]||尾形藤吉||[[吉田善哉]]
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|style="text-align:center"|第31回||1970年5月17日||東京||芝2400m||[[ジュピック]]||牝3||2:40.6||森安重勝||[[工藤嘉見]]||松井照夫
|-
|style="text-align:center"|第32回||1971年6月6日||東京||芝2400m||[[カネヒムロ]]||牝3||2:36.0||[[岡部幸雄]]||[[成宮明光]]||金指利明
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|style="text-align:center"|第33回||1972年7月2日||東京||芝2400m||[[タケフブキ]]||牝3||2:28.8||[[嶋田功]]||稲葉幸夫||近藤たけ
|-
|style="text-align:center"|第34回||1973年5月20日||東京||芝2400m||[[ナスノチグサ]]||牝3||2:28.9||嶋田功||稲葉幸夫||[[那須野牧場]]
|-
|style="text-align:center"|第35回||1974年5月19日||東京||芝2400m||[[トウコウエルザ]]||牝3||2:29.1||嶋田功||[[仲住達弥]]||[[渡辺喜八郎]]
|-
|style="text-align:center"|第36回||1975年5月18日||東京||芝2400m||[[テスコガビー]]||牝3||2:30.6||[[菅原泰夫]]||[[仲住芳雄]]||長島忠雄
|-
|style="text-align:center"|第37回||1976年5月23日||東京||芝2400m||[[テイタニヤ]]||牝3||2:34.4||嶋田功||稲葉幸夫||原八衛
|-
|style="text-align:center"|第38回||1977年5月22日||東京||芝2400m||[[リニアクイン]]||牝3|||2:28.1||[[松田幸春]]||[[松田由太郎]]||桶谷辰造
|-
|style="text-align:center"|第39回||1978年5月21日||東京||芝2400m||[[ファイブホープ]]||牝3||2:30.2||[[横山富雄]]||[[山岡寿恵次]]||榊原富夫
|-
|style="text-align:center"|第40回||1979年5月20日||東京||芝2400m||[[アグネスレディー]]||牝3||2:29.6||[[河内洋]]||[[長浜彦三郎]]||[[渡辺孝男 (実業家)|渡辺孝男]]
|-
|style="text-align:center"|第41回||1980年5月18日||東京||芝2400m||[[ケイキロク]]||牝3||2:32.3||岡部幸雄||浅見国一||内田敦子
|-
|style="text-align:center"|第42回||1981年5月24日||東京||芝2400m||[[テンモン]]||牝3||2:29.5||嶋田功||稲葉幸夫||原八衛
|-
|style="text-align:center"|第43回||1982年5月23日||東京||芝2400m||[[シャダイアイバー]]||牝3||2:28.6||[[加藤和宏_(JRA)|加藤和宏]]||[[二本柳俊夫]]||吉田善哉
|-
|style="text-align:center"|第44回||1983年5月22日||東京||芝2400m||[[ダイナカール]]||牝3||2:30.9||岡部幸雄||高橋英夫||(有)[[社台レースホース]]
|-
|style="text-align:center"|第45回||1984年5月20日||東京||芝2400m||[[トウカイローマン]]||牝3||2:31.9||[[岡冨俊一]]||[[中村均]]||[[内村正則]]
|-
|style="text-align:center"|第46回||1985年5月19日||東京||芝2400m||[[ノアノハコブネ]]||牝3||2:30.7||[[音無秀孝]]||[[田中良平 (競馬)|田中良平]]||[[小田切有一]]
|-
|style="text-align:center"|第47回||1986年5月18日||東京||芝2400m||[[メジロラモーヌ]]||牝3||2:29.6||河内洋||[[奥平真治]]||(有)[[メジロ牧場]]
|-
|style="text-align:center"|第48回||1987年5月24日||東京||芝2400m||[[マックスビューティ]]||牝3||2:30.9||[[田原成貴]]||[[伊藤雄二]]||[[田所祐]]
|-
|style="text-align:center"|第49回||1988年5月22日||東京||芝2400m||[[コスモドリーム]]||牝3||2:28.3||[[熊沢重文]]||[[松田博資]]||田邉廣己
|-
|style="text-align:center"|第50回||1989年5月21日||東京||芝2400m||[[ライトカラー]]||牝3||2:29.0||[[田島良保]]||清田十一||伊藤照三
|-
|style="text-align:center"|第51回||1990年5月20日||東京||芝2400m||[[エイシンサニー]]||牝3||2:26.1||[[岸滋彦]]||[[坂口正則]]||[[平井豊光]]
|-
|style="text-align:center"|第52回||1991年5月19日||東京||芝2400m||[[イソノルーブル]]||牝3||2:27.8||[[松永幹夫]]||[[清水久雄]]||磯野俊雄
|-
|style="text-align:center"|第53回||1992年5月24日||東京||芝2400m||[[アドラーブル]]||牝3||2:28.9||[[村本善之]]||[[小林稔 (競馬)|小林稔]]||根岸治男
|-
|style="text-align:center"|第54回||1993年5月23日||東京||芝2400m||[[ベガ (競走馬)|ベガ]]||牝3||2:27.3||[[武豊]]||松田博資||[[吉田和子 (社台グループ)|吉田和子]]
|-
|style="text-align:center"|第55回||1994年5月22日||東京||芝2400m||[[チョウカイキャロル]]||牝3||2:27.5||[[小島貞博]]||[[鶴留明雄]]||[[新田嘉一]]
|-
|style="text-align:center"|第56回||1995年5月21日||東京||芝2400m||[[ダンスパートナー]]||牝3||2:26.7||武豊||[[白井寿昭]]||[[吉田勝己]]
|-
|style="text-align:center"|第57回||1996年5月26日||東京||芝2400m||[[エアグルーヴ]]||牝3||2:29.1||武豊||伊藤雄二||[[吉原毎文]]
|-
|style="text-align:center"|第58回||1997年5月25日||東京||芝2400m||[[メジロドーベル]]||牝3||2:27.7||[[吉田豊 (競馬)|吉田豊]]||[[大久保洋吉]]||[[メジロ商事]](株)
|-
|style="text-align:center"|第59回||1998年5月31日||東京||芝2400m||[[エリモエクセル]]||牝3||2:28.1||[[的場均]]||[[加藤敬二 (競馬)|加藤敬二]]||[[山本慎一 (実業家)|山本慎一]]
|-
|style="text-align:center"|第60回||1999年5月30日||東京||芝2400m||[[ウメノファイバー]]||牝3||2:26.9||[[蛯名正義]]||[[相沢郁]]||梅崎敏則
|-
|style="text-align:center"|第61回||2000年5月21日||東京||芝2400m||[[シルクプリマドンナ]]||牝3||2:30.2||[[藤田伸二]]||[[山内研二]]||(有)[[シルクレーシング|シルク]]
|-
|style="text-align:center"|第62回||2001年5月20日||東京||芝2400m||[[レディパステル]]||牝3||2:26.3||[[ケント・デザーモ|K.デザーモ]]||[[田中清隆]]||(株)[[ロードホースクラブ]]
|-
|style="text-align:center"|第63回||2002年5月19日||東京||芝2400m||[[スマイルトゥモロー]]||牝3||2:27.7||吉田豊||[[勢司和浩]]||[[飯田正剛]]
|-
|style="text-align:center"|第64回||2003年5月25日||東京||芝2400m||[[スティルインラブ]]||牝3||2:27.5||[[幸英明]]||[[松元省一]]||(有)[[ノースヒルズ|ノースヒルズマネジメント]]
|-
|style="text-align:center"|第65回||2004年5月23日||東京||芝2400m||[[ダイワエルシエーロ]]||牝3||2:27.2||[[福永祐一]]||[[松田国英]]||[[大和商事]](株)
|-
|style="text-align:center"|第66回||2005年5月22日||東京||芝2400m||[[シーザリオ]]||牝3||2:28.8||福永祐一||[[角居勝彦]]||(有)[[キャロットファーム]]
|-
|style="text-align:center"|第67回||2006年5月21日||東京||芝2400m||[[カワカミプリンセス]]||牝3||2:26.2||[[本田優]]||[[西浦勝一]]||[[三石川上牧場]]
|-
|style="text-align:center"|第68回||2007年5月20日||東京||芝2400m||[[ローブデコルテ (競走馬)|ローブデコルテ]]||牝3||2:25.3||福永祐一||[[松元茂樹]]||[[前田幸治]]
|-
|style="text-align:center"|第69回||2008年5月25日||東京||芝2400m||[[トールポピー]]||牝3||2:28.8||[[池添謙一]]||角居勝彦||(有)キャロットファーム
|-
|style="text-align:center"|第70回||2009年5月24日||東京||芝2400m||[[ブエナビスタ (競走馬)|ブエナビスタ]]||牝3||2:26.1||[[安藤勝己]]||松田博資||(有)[[サンデーレーシング]]
|-
|rowspan="2" style="text-align:center"|[[第71回優駿牝馬|'''第71回''']]||rowspan="2"|2010年5月23日||rowspan="2"|東京||rowspan="2"|芝2400m||[[アパパネ]]||rowspan="2"|牝3||rowspan="2"|2:29.9<br />(同着)||蛯名正義||[[国枝栄]]||(株)[[金子真人ホールディングス]]
|-
|[[サンテミリオン (競走馬)|サンテミリオン]]||[[横山典弘]]||[[古賀慎明]]||[[吉田照哉]]
|-
|style="text-align:center"|第72回||2011年5月22日||東京||芝2400m||[[エリンコート]]||牝3||2:25.7||[[後藤浩輝]]||[[笹田和秀]]||吉田照哉
|-
|style="text-align:center"|第73回||2012年5月20日||東京||芝2400m||[[ジェンティルドンナ]]||牝3||2:23.6||[[川田将雅]]||[[石坂正]]||(有)サンデーレーシング
|-
|style="text-align:center"|第74回||2013年5月19日||東京||芝2400m||[[メイショウマンボ]]||牝3||2:25.2||[[武幸四郎]]||[[飯田明弘]]||[[松本好雄]]
|-
|style="text-align:center"|第75回||2014年5月25日||東京||芝2400m||[[ヌーヴォレコルト]]||牝3||2:25.8||[[岩田康誠]]||[[斎藤誠 (競馬)|斎藤誠]]||[[原禮子]]
|-
|style="text-align:center"|第76回||2015年5月24日||東京||芝2400m||[[ミッキークイーン]]||牝3||2:25.0||[[浜中俊]]||[[池江泰寿]]||[[野田みづき]]
|-
|style="text-align:center"|第77回||2016年5月22日||東京||芝2400m||[[シンハライト]]||牝3||2:25.0||[[池添謙一]]||石坂正||(有)キャロットファーム
|-
|style="text-align:center"|第78回||2017年5月21日||東京||芝2400m||[[ソウルスターリング]]||牝3||2:24.1||[[クリストフ・ルメール|C.ルメール]]||[[藤澤和雄]]||(有)社台レースホース
|-
|style="text-align:center"|第79回||2018年5月20日||東京||芝2400m||[[アーモンドアイ]]||牝3||2:23.8||C.ルメール||国枝栄||(有)[[シルクレーシング]]
|-
|style="text-align:center"|第80回||2019年5月19日||東京||芝2400m||[[ラヴズオンリーユー]]||牝3||2:22.8||[[ミルコ・デムーロ|M.デムーロ]]||[[矢作芳人]]||[[DMMドリームクラブ]](株)
|-
|style="text-align:center"|第81回||2020年5月24日||東京||芝2400m||[[デアリングタクト]]||牝3||2:24.4||[[松山弘平]]||[[杉山晴紀]]||(株)[[ノルマンディーサラブレッドレーシング]]
|-
|style="text-align:center"|第82回||2021年5月23日||東京||芝2400m||[[ユーバーレーベン]]||牝3||2:24.5||M.デムーロ||[[手塚貴久]]||(株)[[サラブレッドクラブ・ラフィアン]]
|-
|style="text-align:center"|[[第83回優駿牝馬|'''第83回''']]||2022年5月22日||東京||芝2400m||[[スターズオンアース]]||牝3||2:23.9||C.ルメール||[[高柳瑞樹]]||(有)社台レースホース
|-
|style="text-align:center"|[[第84回優駿牝馬|'''第84回''']]||2023年5月21日||東京||芝2400m||[[リバティアイランド]]||牝3||2:23.1||川田将雅||[[中内田充正]]||(有)サンデーレーシング
|}
== 優駿牝馬の記録 ==
* レースレコード 2:22.8(第80回優勝馬ラヴズオンリーユー)<ref name="GIrecord" />
** 優勝タイム最遅記録 - 2:46 2/5(第7回優勝馬ミツマサ)<ref>グレード制導入後は2:31.9(第45回優勝馬トウカイローマン)</ref>
* 最多優勝騎手 - 5勝
** 嶋田功(第33回・第34回・第35回・第37回・第42回)
* 最多優勝調教師 - 5勝
** 尾形藤吉(第1回・第5回・第6回・第15回・第30回)
** 稲葉幸夫(第4回<ref>騎手兼任で勝利</ref>・第33回・第34回・第37回・第42回)<ref>連覇は他に大久保房松(第8回・第9回)が記録</ref>
* 同一騎手の最多連覇記録 - 3連覇
** 嶋田功(第33 -35回)
* 最多優勝馬主 - 3勝
**(有)社台レースホース(第44回・第78回・第83回)、(有)キャロットファーム(第66回・第69回・第77回)、(有)サンデーレーシング(第70回・第73回・第84回)
* 最多勝利種牡馬 - 4勝
** [[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]](第73回・第76回・第77回・第80回)
* 最年少勝利騎手 - 熊沢重文(第49回・20歳3ヶ月)<ref>グレード制導入以前を含めると、保田隆芳(第1回)の18歳8ヶ月</ref>
* 最年長勝利騎手 - 本田優(第67回・47歳7ヶ月)
== 脚注・出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 参考文献 ===
* {{Cite book|和書|title=中央競馬全重賞成績集【GI編】|publisher=日本中央競馬会|year=1996|page=407-505|chapter=優駿牝馬(オークス)|ref=中央競馬全重賞成績集}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
{{Reflist
|refs=
<ref name="IFHA">{{Cite web|url=https://www.ifhaonline.org/default.asp?section=Racing&area=8&racepid=75643 |title=Racing - Race Detail Yushun Himba - Japanese Oaks|publisher=IFHA|accessdate=2022年5月2日}}</ref>
<ref name="jusyo_kanto">{{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/keiba/program/2023/pdf/jusyo_kanto.pdf#page=19 |title=重賞競走一覧(レース別・関東)|publisher=日本中央競馬会|year=2023|page=19|accessdate=2023年9月11日}}</ref>
<ref name="JRA注目">{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/keiba/thisweek/2023/0521_1/race.html |title=歴史・コース:優駿牝馬(オークス) 今週の注目レース|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年9月11日}}</ref>
<ref name="bangumi_2023tokyo2-2">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2023/pdf/bangumi/tokyo2-2.pdf |title=令和5年第2回東京競馬番組(第7日 - 第12日)|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年9月11日}}</ref>
<ref name="特別レース名解説">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/tokubetsu/2023/0205.pdf#page=7 |title=2023年度第2回東京競馬特別レース名解説|page=7|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年9月11日}}</ref>
<ref name="中央競馬全重賞競走成績集">『[[#中央競馬全重賞成績集|中央競馬全重賞競走成績集【GI編】]]』</ref>
<ref name="sponichi20140526">{{Cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2014/05/26/kiji/K20140526008234230.html |title=【オークス】樫女王はヌーヴォレコルト!直線突き抜けハープ負かした|work=スポニチアネックス|publisher=スポーツニッポン|date=2014年5月26日|accessdate=2016年5月12日}}</ref>
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* netkeiba.com
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* JBISサーチ(最終閲覧日 :2017年5月22日)
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== 関連項目 ==
* [[オークス#各国の「オークス」|各国の「オークス」]]
* [[中央競馬クラシック三冠]]
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== 外部リンク ==
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8,771 | ウイルス |
ウイルス(英語: virus〔ヴァイラス〕, ラテン語: virus〔ウィールス〕, 中国語: 病毒)は、他生物の細胞を利用して自己を複製させる、極微小な感染性の構造体で、タンパク質の殻とその内部に入っている核酸からなる。ウイルスは1930年代に電子顕微鏡が用いられるようになったことで観察が可能になり、その存在が知られるようになった。
生命の最小単位である細胞やその生体膜である細胞膜も持たないこと、小器官がないこと、自己増殖することがないことから、生物かどうかについて議論がある。一般的には「ウイルスは生物ではない」とされるが、フランスの進化生物学者パトリック・フォルテールのように、生物に含める見解もある。ウイルスが宿主に感染した状態(ヴァイロセル、virocell)を本来の姿と捉えれば生物のようにふるまっていること、ミミウイルスのように多数の遺伝子を持った巨大なウイルスもあることなどを理由としている。
ウイルスを生命体と見なせば、その数や多様性は地球上で最も多く(見なさない場合、個体数は微生物、種類は甲虫類が最も多い)、メタゲノム解析の実用化により様々な環境にウイルスが見つかっている。宿主に残ったウイルス由来の遺伝子が生物進化に関わったり、地球の生態系や気候にも影響を与えたりしている。動物や植物のほかほぼ全ての生物に特有のウイルスが存在する。ヒトを含めた動植物に感染症など疾病を引き起こすウイルスは一部であるが、発見・分析されていないウイルスが野生鳥獣を宿主とするものだけで170万種あり、その半数が人獣共通感染症の病原体になるリスクがあると推計されている。
英語のウイルス(virus)の語源は、ラテン語の「virus」で病毒因子という意味であり、英語のVirusは古くは動物が出す毒液も含めて用いられていた。
ヨーロッパの主な言語での発音を以下に列挙する。
以上のような発音をもとに、多様な日本語表記が使用された。
日本語表記としてはラテン語に近い「ウィールス」や「ウイルス」あるいはドイツ語に近い「ビールス」や「ヴィールス」があった。1949年(昭和24年)に日本ウイルス学会の前身となる「ヴィールス談話会」が発足した後、1953年(昭和28年)に日本ウイルス学会が設立されたのを機に、「ウイルス」という表記が採用された。その一方、日本医学会はドイツ語発音に由来する「ビールス」を用い、1970年代頃は「ビールス」呼称が学校や一般で使用されていた。現在は宿主に関わらず「ウイルス」が正式名称である。表記上は「イ」が大文字の「ウイルス」と小文字の「ウィルス」があるが、メディアでも直音の大文字で表記されることが一般的になっている。
なお、ウイルスの細胞外粒子を表す「英: virion」の語には、「ウイリオン」ではなく「ビリオン」の読み表記が定着している。
ウイルスは細胞を構成単位とせず、自己増殖はできないが、遺伝子を有するという、非生物・生物両方の特性を持っている。自然科学・生物学上、生物・生命の定義を厳密に行うことはできていないため、便宜的に細胞を構成単位とし、代謝し、自己増殖できるものを生物と呼んでおり、ウイルスは「非細胞性生物」あるいは「生物学的存在」と見なされている。感染することで宿主の恒常性に影響を及ぼし、病原体としてふるまうことがある。
ウイルスを対象として研究する分野はウイルス学と呼ばれる。
ウイルスは以下のような点で、一般的な生物と大きく異なる。
なお、4はウイルスだけに見られるものではなく、リケッチアやクラミジア、ファイトプラズマなど一部の細菌や真核生物にも同様の特徴を示すものがある。
細胞は生きるのに必要なエネルギーを作る製造ラインを持っているが、ウイルスはその代謝を行っておらず、代謝を宿主細胞に完全に依存し、宿主の中でのみ増殖が可能である。ウイルスに唯一できることは他の生物の遺伝子の中に彼らの遺伝子を入れる事である。厳密には自らを入れる能力も持っておらず、細胞が正常な物質と判別できず、ウイルスのタンパク質を増産するのを利用しているだけである。
これらの性質から、ウイルスを生物と見做さない言説も多いが、メガウイルス、ミミウイルスなど、細菌に非常に近い構造を持つウイルスも存在することから、少なくとも一部は遺伝子の大部分を捨て去り、寄生に特化した生物の一群由来であろうことが強く示唆されている。一方、レトロウイルスとトランスポゾンの類似性もまた、少なくとも一部のウイルスは機能性核酸が独立・進化したものである可能性を強く示唆している。つまり、ウイルスとして纏められている物は多元的であり、人為分類群である可能性が非常に高い。
しかし、その後の研究で、メガウイルスやミミウイルスなどの巨大ウイルスも、遥かに小さく典型的なウイルスからトランスポゾンを経て、比較的最近になって進化・巨大化した説が強くなっている。2019年、ICTVは、巨大ウイルスをウァリドナウィリアのバンフォルドウイルス界、巨大核質DNAウイルス門、メガウイルス綱に分類した。これは天然痘ウイルスやアフリカ豚熱ウイルスに比較的近い。両者はポリントンと呼ばれる、原生生物のDNA内に組み込まれているトランスポゾンから進化した可能性が高いとされる。これは、主要カプシドタンパク質やパッケージングタンパク質の比較から強く支持される。
ウイルスはタンパク質の殻の中にある遺伝物質の違いから、大きくDNAウイルスとRNAウイルスに分けられる(詳細は「ウイルスの分類」を参照)。
ウイルスの命名は国際ウイルス分類委員会(国際ウイルス命名委員会、International Committee on Taxonomy of Viruses)が管理しており、遺伝物質がDNAウイルスかRNAウイルスか、環状か鎖状か、宿主の種類などをもとに生物と同様に科、属、種を分類して命名している。
微生物学の歴史は、1674年にオランダのレーウェンフックが、顕微鏡観察によって細菌を見出したことに始まり、その後1860年にフランスのルイ・パスツールが生物学や醸造学における細菌の意義を、1876年にドイツのロベルト・コッホが、医学における細菌の意義を明らかにしたことで大きく展開した。特にコッホが発見し提唱した「感染症が病原性細菌によって起きる」という考えが医学に与えた影響は大きく、それ以降、感染症の原因は寄生虫を除いて、全て細菌によるものだと考えられていた。
1892年、ロシアのドミトリー・イワノフスキーは、タバコモザイク病の病原が細菌濾過器(当時は粘土を素焼きしたもの)を通過しても感染性を失わないことを発見。それが細菌よりも微小な、光学顕微鏡では観察できない存在であることを報告した。しかし、病原体は細菌であるという考えを捨てきれなかった。またこの研究とは別に、1898年にドイツのフリードリヒ・レフラーとパウル・フロッシュが口蹄疫の病原体の分離を試み、これが同様の存在であることを突き止め、「filterable virus(濾過性病原体)」と呼称した。同年にオランダのマルティヌス・ベイエリンクはイワノフスキーと同様の研究を行って、同じように見出された未知の性質を持つ病原体を「Contagium vivum fluidum(生命を持った感染性の液体)」と呼んだ。
レフラーは濾過性病原体を小さな細菌と考えていたが、ベイエリンクは分子であると考え、これが細胞に感染して増殖すると主張した。彼の主張はすぐには受け入れられなかったが、同様の性質をもった病原体やファージが発見されていくことで、一般にもウイルスの存在が信じられるようになった。その後、物理化学的な性質が徐々に解明され、ウイルスはタンパク質からできていると考えられた。
1935年、アメリカ合衆国のウェンデル・スタンリーがタバコモザイクウイルスの結晶化に成功し、これによってウイルスは電子顕微鏡によって初めて可視化されることとなった。また彼の発見したこの結晶は、感染能を持っていることを示し、化学物質のように結晶化できる生物の存在は生物学・科学界に衝撃を与えた。彼はこの業績により、1946年にノーベル化学賞を受賞した。
スタンリーは、ウイルスが自己触媒能を持つ巨大なタンパク質であるとしたが、翌年に少量のRNAが含まれることが示された。当時は遺伝子の正体は未解明であり、遺伝子タンパク質説が有力とされていた。当時は、病原体は能動的に病気を引き起こすと考えられていたので、分子ロボット(今で言うナノマシン)のようなもので、人が病気になるということに科学者たちは驚いた。それでも当時はまだ、病原体であるには細菌ほどの複雑な構造、少なくとも自己のタンパク質をコードする遺伝子ぐらいは、最低限持っていなくては病原体になりえない、と思われていた。
1952年に行われたハーシーとチェイスの実験は、バクテリオファージにおいてDNAが遺伝子の役割を持つことを明らかにし、これを契機にウイルスの繁殖、ひいてはウイルスの性質そのものの研究が進むようになった。同時に、この実験は生物の遺伝子がDNAであることを示したものと解せられた。
その後の研究で、大きさやゲノム、遺伝子の数で一部の細菌を上回るウイルスも発見されるようになった。750nmというサイズから1992年に細菌と誤認された「ブラッドフォード球菌」は、電子顕微鏡による解析が進められて、2003年にウイルスだったと確認された(ミミウイルス)。2013年には長径1000nmのパンドラウイルス、翌2014年には長径1500nmの「ピソウイルス」が発見された(「巨大核質DNAウイルス」参照)。
ウイルスの基本構造は、粒子の中心にあるウイルス核酸と、それを取り囲むカプシド (英: capsid) と呼ばれるタンパク質の殻から構成された粒子である。ウイルス核酸とカプシドを併せたものをヌクレオカプシド (英: nucleocapsid) と呼ぶ。ウイルスの形状はカプシドの形によって基本的には正20面体型(立方対称型)と螺旋対称型に分けられる。ウイルスによっては、エンベロープ (英: envelope) と呼ばれる膜成分など、ヌクレオカプシド以外の物質を含むものがある。これらの構成成分を含めて、そのウイルスにとって必要な構造を全て備え、宿主に対して感染可能な「完全なウイルス粒子」をビリオンと呼ぶ。
ウイルスの大きさ(長径)は小さいもので20〜40nmで大きいものも含め平均すると100nmほどである。最も大きい天然痘ウイルスは長径300nmで原核生物で最も小さいマイコプラズマ(200〜300nm)よりも大きい。ウイルスは光学顕微鏡では観察できず、電子顕微鏡が必要だが、電子線を照射するため生きた細胞内のウイルスを観察することはできない。
ウイルス核酸は、通常、DNAかRNAのどちらか一方である。すなわち、他の生物が一個の細胞内にDNA(遺伝子として)とRNA(mRNA、rRNA、tRNAなど)の両方の分子を含むのに対して、ウイルスの一粒子にはその片方しか含まれない(ただしDNAと共にRNAを一部含むB型肝炎ウイルスのような例外も稀に存在する)。そのウイルスが持つ核酸の種類によって、ウイルスはDNAウイルスとRNAウイルスに大別される。さらに、それぞれの核酸が一本鎖か二本鎖か、一本鎖のRNAであればmRNAとしての活性を持つか持たないか(プラス鎖RNAかマイナス鎖RNAか)、環状か線状か、などによって細かく分類される。ウイルスのゲノムは他の生物と比べてはるかにサイズが小さく、またコードしている遺伝子の数も極めて少ない。例えば、ヒトの遺伝子が数万個あるのに対して、ウイルスでは3〜100個ほどだと言われる。
ウイルスは基本的にタンパク質と核酸からなる粒子であるため、ウイルスの複製(増殖)のためには少なくとも
が必要である。しかしほとんどのウイルスは、1や3を行うのに必要な酵素の遺伝情報を持たず、宿主細胞の持つタンパク合成機構や代謝、エネルギーを利用して、自分自身の複製を行う。ウイルス遺伝子には自分の遺伝子(しばしば宿主と大きく異なる)を複製するための酵素の他、宿主細胞に吸着・侵入したり、あるいは宿主の持つ免疫機構から逃れたりするための酵素などがコードされている。
ウイルスによっては、カプシドの内側に、核酸と一緒にカプシドタンパク質とは異なるタンパク質を含むものがある。このタンパク質とウイルス核酸を合わせたものを「コア」と呼び、このタンパク質を「コアタンパク質」と呼ぶ。
カプシド (英: capsid) は、ウイルス核酸を覆っているタンパク質であり、ウイルス粒子が細胞の外にあるときに内部の核酸をさまざまな障害から守る「殻」の役割をしていると考えられている。ウイルスが宿主細胞に侵入した後、カプシドが壊れて(脱殻、だっかく)内部のウイルス核酸が放出され、ウイルスの複製がはじまる。
カプシドは、同じ構造を持つ小さなタンパク質(カプソマー)が多数組み合わさって構成されている。この方式は、ウイルスの限られた遺伝情報量を有効に活用するために役立っていると考えられている。小さなタンパク質はそれを作るのに必要とする遺伝子配列の長さが短くてすむため、大きなタンパク質を少数組み合わせて作るよりも、このように小さいタンパク質を多数組み合わせる方が効率がよいと考えられている。
ウイルス核酸とカプシドを合わせたものをヌクレオカプシド (英: nucleocapsid) と呼ぶ。エンベロープを持たないウイルスではヌクレオカプシドはビリオンと同じものを指す。言い換えればヌクレオカプシドは全てのウイルスに共通に見られる最大公約数的な要素である。
ヌクレオカプシドの形はウイルスごとに決まっている。基本的には正20面体型(立方対称型)と螺旋対称型に分けられる。ただし、天然痘の原因であるポックスウイルスやバクテリオファージなどでは、ヌクレオカプシドは極めて複雑な構造であり、単純な対称性は持たない。
エンベロープ (英: envelope) は、単純ヘルペスウイルスやインフルエンザウイルス、ヒト免疫不全ウイルスなど一部のウイルス粒子に見られる膜状の構造のこと。これらのウイルスにおいて、エンベロープはウイルス粒子(ビリオン)の最も外側に位置しており、ウイルスの基本構造となるウイルスゲノムおよびカプシドタンパク質を覆っている。エンベロープの有無はウイルスの種類によって決まっており、分離されたウイルスがどの種類のものであるかを鑑別する際の指標の一つである。
エンベロープは、ウイルスが感染した細胞内で増殖し、そこから細胞外に出る際に細胞膜あるいは核膜などの生体膜を被ったまま出芽することによって獲得されるものである。このため、基本的には宿主細胞の脂質二重膜に由来するものであるが、この他にウイルス遺伝子にコードされている膜タンパク質の一部を細胞膜などに発現した後で膜と一緒にウイルス粒子に取り込み、エンベロープタンパク質としてビリオン表面に発現させている。これらのエンベロープタンパク質には、そのウイルスが宿主細胞に吸着・侵入する際に細胞側が持つレセプターに結合したり、免疫などの生体防御機能を回避したりなど、様々な機能を持つものが知られており、ウイルスの感染に重要な役割を果たしている。
細胞膜に由来するエンベロープがあるウイルスでは、エンベロープタンパク質が細胞側のレセプターに結合した後、ウイルスのエンベロープと細胞膜とが膜融合を起こすことで、エンベロープ内部に包まれていたウイルスの遺伝子やタンパク質を細胞内に送り込む仕組みのものが多い。
エンベロープはその大部分が脂質から成るためエタノールや有機溶媒、石けんなどで処理すると容易に破壊することができる。このため一般にエンベロープを持つウイルスは、消毒用アルコールでの不活化が、エンベロープを持たないウイルスに比べると容易である。
ウイルスは、それ自身単独では増殖できず、他の生物の細胞内に感染して初めて増殖可能となる。このような性質を偏性細胞内寄生性と呼ぶ。また、一般的な生物の細胞が2分裂によって 2 で対数的に数を増やす(対数増殖)のに対し、ウイルスは1つの粒子が、感染した宿主細胞内で一気に数を増やして放出(一段階増殖)する。また感染したウイルスは細胞内で一度分解されるため、見かけ上ウイルス粒子の存在しない期間(暗黒期)がある。
もちろん、ウイルスは細菌よりも小さく、その遺伝物質であるDNAやRNAはタンパク質の外殻に包まれている。ウイルスに寄生された細胞は、通常の生命維持の機能を果たせなくなり、ウイルス工場となって他の細胞を感染させ、最終的にはウイルス工場となった細胞は破壊されてしまう。
ウイルスの増殖は以下のようなステップで行われる。
細胞表面への吸着 → 細胞内への侵入 → 脱殻(だっかく) → 部品の合成 → 部品の集合 → 感染細胞からの放出
ウイルス感染の最初のステップはその細胞表面に吸着することである。ウイルスが宿主細胞に接触すると、ウイルスの表面にあるタンパク質が宿主細胞の表面に露出しているいずれかの分子を標的にして吸着する。このときの細胞側にある標的分子をそのウイルスに対するレセプターと呼ぶ。ウイルスが感染するかどうかは、そのウイルスに対するレセプターを細胞が持っているかどうかに依存する。代表的なウイルスレセプターとしては、インフルエンザウイルスに対する気道上皮細胞のシアル酸糖鎖や、ヒト免疫不全ウイルスに対するヘルパーT細胞表面のCD4分子などが知られている。
細胞表面に吸着したウイルス粒子は、次に実際の増殖の場になる細胞内部へ侵入する。侵入のメカニズムはウイルスによって様々であり、代表的なものに以下のようなものがある。
細胞内に侵入したウイルスは、そこで一旦カプシドが分解されて、その内部からウイルス核酸が遊離する。この過程を脱殻と呼ぶ。脱殻が起こってから粒子が再構成されるまでの期間は、ビリオン(感染性のある完全なウイルス粒子)がどこにも存在しないことになり、この時期を暗黒期、あるいは日食や月食になぞらえてエクリプス期 (eclipse period) と呼ぶ。
脱殻により遊離したウイルス核酸は、次代のウイルス(娘ウイルス)の作成のために大量に複製されると同時に、さらにそこからmRNAを経て、カプソマーなどのウイルス独自のタンパク質が大量に合成される。すなわちウイルスの合成は、その部品となる核酸とタンパク質を別々に大量生産し、その後で組み立てるという方式で行われる。
ウイルス核酸は宿主細胞の核酸とは性質的に異なる点が多いために、その複製は宿主の持つ酵素だけではまかなえないため、それぞれのウイルスが独自に持つDNAポリメラーゼ、RNAポリメラーゼなど、転写・複製に関わる酵素が使われる。また逆転写酵素を持つレトロウイルスでは、宿主のDNAに自分の遺伝子を組み込むことで、宿主のDNA複製機構も利用する。
タンパク質の合成には、そのタンパク質をコードするmRNAを作成するためにウイルス独自の酵素を必要とする場合がある。mRNAからタンパク質への翻訳は、宿主細胞の持つ、リボソームなどのタンパク質合成系を利用して行われる。
別々に大量生産されたウイルス核酸とタンパク質は細胞内で集合する。最終的にはカプソマーがウイルス核酸を包み込み、ヌクレオカプシドが形成される。この機構はウイルスによってまちまちであり、まだ研究の進んでないものも多い。細胞内で集合したウイルスは、細胞から出芽したり、あるいは感染細胞が死ぬことによって放出されたりする。このときエンベロープを持つウイルスの一部は、出芽する際に被っていた宿主の細胞膜の一部をエンベロープとして獲得する。
ウイルスによる感染は、宿主となった生物に細胞レベルや個体レベルで様々な影響を与える。その多くの場合、ウイルスが病原体として作用し、宿主にダメージを与えるが、一部のファージやレトロウイルスなどに見られるように、ウイルスが外来遺伝子の運び屋として作用し、宿主の生存に有利に働く例も知られている。
ウイルスが感染して増殖すると、宿主細胞が本来自分自身のために産生・利用していたエネルギーや、アミノ酸などの栄養源がウイルスの粒子複製のために奪われ、いわば「ウイルスに乗っ取られた」状態になる。
これに対して宿主細胞はタンパク質や遺伝子の合成を全体的に抑制することで抵抗しようとし、一方でウイルスは自分の複製をより効率的に行うために、様々なウイルス遺伝子産物を利用して、宿主細胞の生理機能を制御しようとする。またウイルスが自分自身のタンパク質を一時に大量合成することは細胞にとって生理的なストレスになり、また完成した粒子を放出するときには宿主の細胞膜や細胞壁を破壊する場合もある。このような原因から、ウイルスが感染した個胞では様々な生理的・形態的な変化が現れる。
この現象のうち特に形態的な変化を示すものを細胞変性効果 (cytopathic effect, CPE) と呼ぶ。ウイルスによっては、特定の宿主細胞に形態的に特徴のある細胞変性効果を起こすものがあり、これがウイルスを鑑別する上での重要な手がかりの一つになっている。代表的な細胞変性効果としては、細胞の円形化・細胞同士の融合による合胞体 (synsitium) の形成・封入体の形成などが知られる。
様々な生理機能の変化によって、ウイルスが感染した細胞は最終的に以下のいずれかの運命を辿る。
ウイルス感染は、細胞レベルだけでなく多細胞生物の個体レベルでも、様々な病気を引き起こす。このような病気を総称してウイルス感染症と呼ぶ。インフルエンザや天然痘、麻疹、風疹、後天性免疫不全症候群 (AIDS)、新型コロナウイルス感染症などの病気がウイルス感染症に属しており、これら感染症の病原ウイルスはしばしばパンデミックを引き起こして人類に多くの犠牲者を出した。
また、動物ではウイルス感染が起きると、それに抵抗して免疫応答が引き起こされる。血液中や粘液中のウイルス粒子そのものに対しては、ウイルスに対する中和抗体が作用する(液性免疫)ことで感染を防ぐ。感染した後の細胞内のウイルスに対しては抗体は無効であるが、細胞傷害性T細胞やNK細胞などが感染細胞を殺す(細胞性免疫)ことで感染の拡大を防ぐ。免疫応答はまた、特定のウイルス感染に対して人工的に免疫を付与するワクチンによっても産生され得る。AIDSやウイルス性肝炎の原因となるものを含む一部のウイルスは、これらの免疫応答を回避し、慢性感染症を引き起こす。
ウイルス感染症における症状の中には、ウイルス感染自体による身体の異常もあるが、むしろ発熱、感染細胞のアポトーシスなどによる組織傷害のように、上記のような免疫応答を含む、対ウイルス性の身体の防御機構の発現自体が健康な身体の生理機構を変化させ、さらには身体恒常性に対するダメージともなり、疾患の症状として現れるものが多い。
人類は生物進化の最後尾にあり、他の動物からのホストジャンプにより多数のウイルスがヒトにとっての病原体となったと考えられる。それらのウイルスも、天然の宿主では無害であることが多い。そうなる仕組みは、弱毒化したウイルスが感染した宿主は長期間行動し、感染の機会が増えるため、ウイルスの適応進化を起こす、と考えられる。すなわち、一般に長い目で見ればウイルスは弱毒化する。しかし、短期的には強毒化する場合もあり、長期的な弱毒化を理由にウイルスを軽視することはできない。 | [
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"text": "ウイルス(英語: virus〔ヴァイラス〕, ラテン語: virus〔ウィールス〕, 中国語: 病毒)は、他生物の細胞を利用して自己を複製させる、極微小な感染性の構造体で、タンパク質の殻とその内部に入っている核酸からなる。ウイルスは1930年代に電子顕微鏡が用いられるようになったことで観察が可能になり、その存在が知られるようになった。",
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"text": "生命の最小単位である細胞やその生体膜である細胞膜も持たないこと、小器官がないこと、自己増殖することがないことから、生物かどうかについて議論がある。一般的には「ウイルスは生物ではない」とされるが、フランスの進化生物学者パトリック・フォルテールのように、生物に含める見解もある。ウイルスが宿主に感染した状態(ヴァイロセル、virocell)を本来の姿と捉えれば生物のようにふるまっていること、ミミウイルスのように多数の遺伝子を持った巨大なウイルスもあることなどを理由としている。",
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"text": "ウイルスを生命体と見なせば、その数や多様性は地球上で最も多く(見なさない場合、個体数は微生物、種類は甲虫類が最も多い)、メタゲノム解析の実用化により様々な環境にウイルスが見つかっている。宿主に残ったウイルス由来の遺伝子が生物進化に関わったり、地球の生態系や気候にも影響を与えたりしている。動物や植物のほかほぼ全ての生物に特有のウイルスが存在する。ヒトを含めた動植物に感染症など疾病を引き起こすウイルスは一部であるが、発見・分析されていないウイルスが野生鳥獣を宿主とするものだけで170万種あり、その半数が人獣共通感染症の病原体になるリスクがあると推計されている。",
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"text": "英語のウイルス(virus)の語源は、ラテン語の「virus」で病毒因子という意味であり、英語のVirusは古くは動物が出す毒液も含めて用いられていた。",
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"text": "ヨーロッパの主な言語での発音を以下に列挙する。",
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"text": "日本語表記としてはラテン語に近い「ウィールス」や「ウイルス」あるいはドイツ語に近い「ビールス」や「ヴィールス」があった。1949年(昭和24年)に日本ウイルス学会の前身となる「ヴィールス談話会」が発足した後、1953年(昭和28年)に日本ウイルス学会が設立されたのを機に、「ウイルス」という表記が採用された。その一方、日本医学会はドイツ語発音に由来する「ビールス」を用い、1970年代頃は「ビールス」呼称が学校や一般で使用されていた。現在は宿主に関わらず「ウイルス」が正式名称である。表記上は「イ」が大文字の「ウイルス」と小文字の「ウィルス」があるが、メディアでも直音の大文字で表記されることが一般的になっている。",
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"text": "なお、ウイルスの細胞外粒子を表す「英: virion」の語には、「ウイリオン」ではなく「ビリオン」の読み表記が定着している。",
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"text": "ウイルスは細胞を構成単位とせず、自己増殖はできないが、遺伝子を有するという、非生物・生物両方の特性を持っている。自然科学・生物学上、生物・生命の定義を厳密に行うことはできていないため、便宜的に細胞を構成単位とし、代謝し、自己増殖できるものを生物と呼んでおり、ウイルスは「非細胞性生物」あるいは「生物学的存在」と見なされている。感染することで宿主の恒常性に影響を及ぼし、病原体としてふるまうことがある。",
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"text": "ウイルスを対象として研究する分野はウイルス学と呼ばれる。",
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"text": "ウイルスは以下のような点で、一般的な生物と大きく異なる。",
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"text": "なお、4はウイルスだけに見られるものではなく、リケッチアやクラミジア、ファイトプラズマなど一部の細菌や真核生物にも同様の特徴を示すものがある。",
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"text": "細胞は生きるのに必要なエネルギーを作る製造ラインを持っているが、ウイルスはその代謝を行っておらず、代謝を宿主細胞に完全に依存し、宿主の中でのみ増殖が可能である。ウイルスに唯一できることは他の生物の遺伝子の中に彼らの遺伝子を入れる事である。厳密には自らを入れる能力も持っておらず、細胞が正常な物質と判別できず、ウイルスのタンパク質を増産するのを利用しているだけである。",
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"text": "これらの性質から、ウイルスを生物と見做さない言説も多いが、メガウイルス、ミミウイルスなど、細菌に非常に近い構造を持つウイルスも存在することから、少なくとも一部は遺伝子の大部分を捨て去り、寄生に特化した生物の一群由来であろうことが強く示唆されている。一方、レトロウイルスとトランスポゾンの類似性もまた、少なくとも一部のウイルスは機能性核酸が独立・進化したものである可能性を強く示唆している。つまり、ウイルスとして纏められている物は多元的であり、人為分類群である可能性が非常に高い。",
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"text": "しかし、その後の研究で、メガウイルスやミミウイルスなどの巨大ウイルスも、遥かに小さく典型的なウイルスからトランスポゾンを経て、比較的最近になって進化・巨大化した説が強くなっている。2019年、ICTVは、巨大ウイルスをウァリドナウィリアのバンフォルドウイルス界、巨大核質DNAウイルス門、メガウイルス綱に分類した。これは天然痘ウイルスやアフリカ豚熱ウイルスに比較的近い。両者はポリントンと呼ばれる、原生生物のDNA内に組み込まれているトランスポゾンから進化した可能性が高いとされる。これは、主要カプシドタンパク質やパッケージングタンパク質の比較から強く支持される。",
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"text": "ウイルスはタンパク質の殻の中にある遺伝物質の違いから、大きくDNAウイルスとRNAウイルスに分けられる(詳細は「ウイルスの分類」を参照)。",
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"text": "ウイルスの命名は国際ウイルス分類委員会(国際ウイルス命名委員会、International Committee on Taxonomy of Viruses)が管理しており、遺伝物質がDNAウイルスかRNAウイルスか、環状か鎖状か、宿主の種類などをもとに生物と同様に科、属、種を分類して命名している。",
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"text": "微生物学の歴史は、1674年にオランダのレーウェンフックが、顕微鏡観察によって細菌を見出したことに始まり、その後1860年にフランスのルイ・パスツールが生物学や醸造学における細菌の意義を、1876年にドイツのロベルト・コッホが、医学における細菌の意義を明らかにしたことで大きく展開した。特にコッホが発見し提唱した「感染症が病原性細菌によって起きる」という考えが医学に与えた影響は大きく、それ以降、感染症の原因は寄生虫を除いて、全て細菌によるものだと考えられていた。",
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"text": "1892年、ロシアのドミトリー・イワノフスキーは、タバコモザイク病の病原が細菌濾過器(当時は粘土を素焼きしたもの)を通過しても感染性を失わないことを発見。それが細菌よりも微小な、光学顕微鏡では観察できない存在であることを報告した。しかし、病原体は細菌であるという考えを捨てきれなかった。またこの研究とは別に、1898年にドイツのフリードリヒ・レフラーとパウル・フロッシュが口蹄疫の病原体の分離を試み、これが同様の存在であることを突き止め、「filterable virus(濾過性病原体)」と呼称した。同年にオランダのマルティヌス・ベイエリンクはイワノフスキーと同様の研究を行って、同じように見出された未知の性質を持つ病原体を「Contagium vivum fluidum(生命を持った感染性の液体)」と呼んだ。",
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"text": "レフラーは濾過性病原体を小さな細菌と考えていたが、ベイエリンクは分子であると考え、これが細胞に感染して増殖すると主張した。彼の主張はすぐには受け入れられなかったが、同様の性質をもった病原体やファージが発見されていくことで、一般にもウイルスの存在が信じられるようになった。その後、物理化学的な性質が徐々に解明され、ウイルスはタンパク質からできていると考えられた。",
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"text": "1935年、アメリカ合衆国のウェンデル・スタンリーがタバコモザイクウイルスの結晶化に成功し、これによってウイルスは電子顕微鏡によって初めて可視化されることとなった。また彼の発見したこの結晶は、感染能を持っていることを示し、化学物質のように結晶化できる生物の存在は生物学・科学界に衝撃を与えた。彼はこの業績により、1946年にノーベル化学賞を受賞した。",
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"text": "スタンリーは、ウイルスが自己触媒能を持つ巨大なタンパク質であるとしたが、翌年に少量のRNAが含まれることが示された。当時は遺伝子の正体は未解明であり、遺伝子タンパク質説が有力とされていた。当時は、病原体は能動的に病気を引き起こすと考えられていたので、分子ロボット(今で言うナノマシン)のようなもので、人が病気になるということに科学者たちは驚いた。それでも当時はまだ、病原体であるには細菌ほどの複雑な構造、少なくとも自己のタンパク質をコードする遺伝子ぐらいは、最低限持っていなくては病原体になりえない、と思われていた。",
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"text": "1952年に行われたハーシーとチェイスの実験は、バクテリオファージにおいてDNAが遺伝子の役割を持つことを明らかにし、これを契機にウイルスの繁殖、ひいてはウイルスの性質そのものの研究が進むようになった。同時に、この実験は生物の遺伝子がDNAであることを示したものと解せられた。",
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"text": "その後の研究で、大きさやゲノム、遺伝子の数で一部の細菌を上回るウイルスも発見されるようになった。750nmというサイズから1992年に細菌と誤認された「ブラッドフォード球菌」は、電子顕微鏡による解析が進められて、2003年にウイルスだったと確認された(ミミウイルス)。2013年には長径1000nmのパンドラウイルス、翌2014年には長径1500nmの「ピソウイルス」が発見された(「巨大核質DNAウイルス」参照)。",
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"text": "ウイルスの基本構造は、粒子の中心にあるウイルス核酸と、それを取り囲むカプシド (英: capsid) と呼ばれるタンパク質の殻から構成された粒子である。ウイルス核酸とカプシドを併せたものをヌクレオカプシド (英: nucleocapsid) と呼ぶ。ウイルスの形状はカプシドの形によって基本的には正20面体型(立方対称型)と螺旋対称型に分けられる。ウイルスによっては、エンベロープ (英: envelope) と呼ばれる膜成分など、ヌクレオカプシド以外の物質を含むものがある。これらの構成成分を含めて、そのウイルスにとって必要な構造を全て備え、宿主に対して感染可能な「完全なウイルス粒子」をビリオンと呼ぶ。",
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"text": "ウイルスの大きさ(長径)は小さいもので20〜40nmで大きいものも含め平均すると100nmほどである。最も大きい天然痘ウイルスは長径300nmで原核生物で最も小さいマイコプラズマ(200〜300nm)よりも大きい。ウイルスは光学顕微鏡では観察できず、電子顕微鏡が必要だが、電子線を照射するため生きた細胞内のウイルスを観察することはできない。",
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"text": "ウイルス核酸は、通常、DNAかRNAのどちらか一方である。すなわち、他の生物が一個の細胞内にDNA(遺伝子として)とRNA(mRNA、rRNA、tRNAなど)の両方の分子を含むのに対して、ウイルスの一粒子にはその片方しか含まれない(ただしDNAと共にRNAを一部含むB型肝炎ウイルスのような例外も稀に存在する)。そのウイルスが持つ核酸の種類によって、ウイルスはDNAウイルスとRNAウイルスに大別される。さらに、それぞれの核酸が一本鎖か二本鎖か、一本鎖のRNAであればmRNAとしての活性を持つか持たないか(プラス鎖RNAかマイナス鎖RNAか)、環状か線状か、などによって細かく分類される。ウイルスのゲノムは他の生物と比べてはるかにサイズが小さく、またコードしている遺伝子の数も極めて少ない。例えば、ヒトの遺伝子が数万個あるのに対して、ウイルスでは3〜100個ほどだと言われる。",
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"text": "ウイルスは基本的にタンパク質と核酸からなる粒子であるため、ウイルスの複製(増殖)のためには少なくとも",
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"text": "が必要である。しかしほとんどのウイルスは、1や3を行うのに必要な酵素の遺伝情報を持たず、宿主細胞の持つタンパク合成機構や代謝、エネルギーを利用して、自分自身の複製を行う。ウイルス遺伝子には自分の遺伝子(しばしば宿主と大きく異なる)を複製するための酵素の他、宿主細胞に吸着・侵入したり、あるいは宿主の持つ免疫機構から逃れたりするための酵素などがコードされている。",
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"text": "ウイルスによっては、カプシドの内側に、核酸と一緒にカプシドタンパク質とは異なるタンパク質を含むものがある。このタンパク質とウイルス核酸を合わせたものを「コア」と呼び、このタンパク質を「コアタンパク質」と呼ぶ。",
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"text": "カプシド (英: capsid) は、ウイルス核酸を覆っているタンパク質であり、ウイルス粒子が細胞の外にあるときに内部の核酸をさまざまな障害から守る「殻」の役割をしていると考えられている。ウイルスが宿主細胞に侵入した後、カプシドが壊れて(脱殻、だっかく)内部のウイルス核酸が放出され、ウイルスの複製がはじまる。",
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"text": "カプシドは、同じ構造を持つ小さなタンパク質(カプソマー)が多数組み合わさって構成されている。この方式は、ウイルスの限られた遺伝情報量を有効に活用するために役立っていると考えられている。小さなタンパク質はそれを作るのに必要とする遺伝子配列の長さが短くてすむため、大きなタンパク質を少数組み合わせて作るよりも、このように小さいタンパク質を多数組み合わせる方が効率がよいと考えられている。",
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"text": "ウイルス核酸とカプシドを合わせたものをヌクレオカプシド (英: nucleocapsid) と呼ぶ。エンベロープを持たないウイルスではヌクレオカプシドはビリオンと同じものを指す。言い換えればヌクレオカプシドは全てのウイルスに共通に見られる最大公約数的な要素である。",
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"text": "ヌクレオカプシドの形はウイルスごとに決まっている。基本的には正20面体型(立方対称型)と螺旋対称型に分けられる。ただし、天然痘の原因であるポックスウイルスやバクテリオファージなどでは、ヌクレオカプシドは極めて複雑な構造であり、単純な対称性は持たない。",
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"text": "エンベロープ (英: envelope) は、単純ヘルペスウイルスやインフルエンザウイルス、ヒト免疫不全ウイルスなど一部のウイルス粒子に見られる膜状の構造のこと。これらのウイルスにおいて、エンベロープはウイルス粒子(ビリオン)の最も外側に位置しており、ウイルスの基本構造となるウイルスゲノムおよびカプシドタンパク質を覆っている。エンベロープの有無はウイルスの種類によって決まっており、分離されたウイルスがどの種類のものであるかを鑑別する際の指標の一つである。",
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"text": "エンベロープは、ウイルスが感染した細胞内で増殖し、そこから細胞外に出る際に細胞膜あるいは核膜などの生体膜を被ったまま出芽することによって獲得されるものである。このため、基本的には宿主細胞の脂質二重膜に由来するものであるが、この他にウイルス遺伝子にコードされている膜タンパク質の一部を細胞膜などに発現した後で膜と一緒にウイルス粒子に取り込み、エンベロープタンパク質としてビリオン表面に発現させている。これらのエンベロープタンパク質には、そのウイルスが宿主細胞に吸着・侵入する際に細胞側が持つレセプターに結合したり、免疫などの生体防御機能を回避したりなど、様々な機能を持つものが知られており、ウイルスの感染に重要な役割を果たしている。",
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"text": "ウイルスは、それ自身単独では増殖できず、他の生物の細胞内に感染して初めて増殖可能となる。このような性質を偏性細胞内寄生性と呼ぶ。また、一般的な生物の細胞が2分裂によって 2 で対数的に数を増やす(対数増殖)のに対し、ウイルスは1つの粒子が、感染した宿主細胞内で一気に数を増やして放出(一段階増殖)する。また感染したウイルスは細胞内で一度分解されるため、見かけ上ウイルス粒子の存在しない期間(暗黒期)がある。",
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"text": "ウイルス核酸は宿主細胞の核酸とは性質的に異なる点が多いために、その複製は宿主の持つ酵素だけではまかなえないため、それぞれのウイルスが独自に持つDNAポリメラーゼ、RNAポリメラーゼなど、転写・複製に関わる酵素が使われる。また逆転写酵素を持つレトロウイルスでは、宿主のDNAに自分の遺伝子を組み込むことで、宿主のDNA複製機構も利用する。",
"title": "増殖"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "タンパク質の合成には、そのタンパク質をコードするmRNAを作成するためにウイルス独自の酵素を必要とする場合がある。mRNAからタンパク質への翻訳は、宿主細胞の持つ、リボソームなどのタンパク質合成系を利用して行われる。",
"title": "増殖"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "別々に大量生産されたウイルス核酸とタンパク質は細胞内で集合する。最終的にはカプソマーがウイルス核酸を包み込み、ヌクレオカプシドが形成される。この機構はウイルスによってまちまちであり、まだ研究の進んでないものも多い。細胞内で集合したウイルスは、細胞から出芽したり、あるいは感染細胞が死ぬことによって放出されたりする。このときエンベロープを持つウイルスの一部は、出芽する際に被っていた宿主の細胞膜の一部をエンベロープとして獲得する。",
"title": "増殖"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "ウイルスによる感染は、宿主となった生物に細胞レベルや個体レベルで様々な影響を与える。その多くの場合、ウイルスが病原体として作用し、宿主にダメージを与えるが、一部のファージやレトロウイルスなどに見られるように、ウイルスが外来遺伝子の運び屋として作用し、宿主の生存に有利に働く例も知られている。",
"title": "宿主に与える影響"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "ウイルスが感染して増殖すると、宿主細胞が本来自分自身のために産生・利用していたエネルギーや、アミノ酸などの栄養源がウイルスの粒子複製のために奪われ、いわば「ウイルスに乗っ取られた」状態になる。",
"title": "宿主に与える影響"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "これに対して宿主細胞はタンパク質や遺伝子の合成を全体的に抑制することで抵抗しようとし、一方でウイルスは自分の複製をより効率的に行うために、様々なウイルス遺伝子産物を利用して、宿主細胞の生理機能を制御しようとする。またウイルスが自分自身のタンパク質を一時に大量合成することは細胞にとって生理的なストレスになり、また完成した粒子を放出するときには宿主の細胞膜や細胞壁を破壊する場合もある。このような原因から、ウイルスが感染した個胞では様々な生理的・形態的な変化が現れる。",
"title": "宿主に与える影響"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "この現象のうち特に形態的な変化を示すものを細胞変性効果 (cytopathic effect, CPE) と呼ぶ。ウイルスによっては、特定の宿主細胞に形態的に特徴のある細胞変性効果を起こすものがあり、これがウイルスを鑑別する上での重要な手がかりの一つになっている。代表的な細胞変性効果としては、細胞の円形化・細胞同士の融合による合胞体 (synsitium) の形成・封入体の形成などが知られる。",
"title": "宿主に与える影響"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "様々な生理機能の変化によって、ウイルスが感染した細胞は最終的に以下のいずれかの運命を辿る。",
"title": "宿主に与える影響"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "ウイルス感染は、細胞レベルだけでなく多細胞生物の個体レベルでも、様々な病気を引き起こす。このような病気を総称してウイルス感染症と呼ぶ。インフルエンザや天然痘、麻疹、風疹、後天性免疫不全症候群 (AIDS)、新型コロナウイルス感染症などの病気がウイルス感染症に属しており、これら感染症の病原ウイルスはしばしばパンデミックを引き起こして人類に多くの犠牲者を出した。",
"title": "宿主に与える影響"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "また、動物ではウイルス感染が起きると、それに抵抗して免疫応答が引き起こされる。血液中や粘液中のウイルス粒子そのものに対しては、ウイルスに対する中和抗体が作用する(液性免疫)ことで感染を防ぐ。感染した後の細胞内のウイルスに対しては抗体は無効であるが、細胞傷害性T細胞やNK細胞などが感染細胞を殺す(細胞性免疫)ことで感染の拡大を防ぐ。免疫応答はまた、特定のウイルス感染に対して人工的に免疫を付与するワクチンによっても産生され得る。AIDSやウイルス性肝炎の原因となるものを含む一部のウイルスは、これらの免疫応答を回避し、慢性感染症を引き起こす。",
"title": "宿主に与える影響"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "ウイルス感染症における症状の中には、ウイルス感染自体による身体の異常もあるが、むしろ発熱、感染細胞のアポトーシスなどによる組織傷害のように、上記のような免疫応答を含む、対ウイルス性の身体の防御機構の発現自体が健康な身体の生理機構を変化させ、さらには身体恒常性に対するダメージともなり、疾患の症状として現れるものが多い。",
"title": "宿主に与える影響"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "人類は生物進化の最後尾にあり、他の動物からのホストジャンプにより多数のウイルスがヒトにとっての病原体となったと考えられる。それらのウイルスも、天然の宿主では無害であることが多い。そうなる仕組みは、弱毒化したウイルスが感染した宿主は長期間行動し、感染の機会が増えるため、ウイルスの適応進化を起こす、と考えられる。すなわち、一般に長い目で見ればウイルスは弱毒化する。しかし、短期的には強毒化する場合もあり、長期的な弱毒化を理由にウイルスを軽視することはできない。",
"title": "宿主に与える影響"
}
] | ウイルスは、他生物の細胞を利用して自己を複製させる、極微小な感染性の構造体で、タンパク質の殻とその内部に入っている核酸からなる。ウイルスは1930年代に電子顕微鏡が用いられるようになったことで観察が可能になり、その存在が知られるようになった。 生命の最小単位である細胞やその生体膜である細胞膜も持たないこと、小器官がないこと、自己増殖することがないことから、生物かどうかについて議論がある。一般的には「ウイルスは生物ではない」とされるが、フランスの進化生物学者パトリック・フォルテールのように、生物に含める見解もある。ウイルスが宿主に感染した状態(ヴァイロセル、virocell)を本来の姿と捉えれば生物のようにふるまっていること、ミミウイルスのように多数の遺伝子を持った巨大なウイルスもあることなどを理由としている。 ウイルスを生命体と見なせば、その数や多様性は地球上で最も多く(見なさない場合、個体数は微生物、種類は甲虫類が最も多い)、メタゲノム解析の実用化により様々な環境にウイルスが見つかっている。宿主に残ったウイルス由来の遺伝子が生物進化に関わったり、地球の生態系や気候にも影響を与えたりしている。動物や植物のほかほぼ全ての生物に特有のウイルスが存在する。ヒトを含めた動植物に感染症など疾病を引き起こすウイルスは一部であるが、発見・分析されていないウイルスが野生鳥獣を宿主とするものだけで170万種あり、その半数が人獣共通感染症の病原体になるリスクがあると推計されている。 | {{Otheruses||「'''ウイルス'''」及び「'''ウィルス'''」のその他の用法}}
{{Redirect|ビールス}}
{{参照方法|date=2011年8月}}
{{生物分類表
|色 = ウイルス
|名称 = ウイルス
|画像 = [[File:Rotavirus Reconstruction.jpg|250px]]
|画像キャプション = [[ロタウイルス]]の[[コンピュータグラフィックス|CG]]再現画像
|ドメイン階級なし = ウイルス
|下位分類名 = 下位分類<ref>“[https://talk.ictvonline.org/taxonomy/ Virus Taxonomy: 2021 Release]”. ''International Committee on Taxonomy of Viruses (ICTV)''. 2022年4月19日閲覧。</ref><ref>「国際ウイルス分類委員会の新しい分類体系(「ICTV New Taxonomy Release(2019)」)で提唱された目より上位の分類(2020年3月承認)」神谷茂 監修、錫谷達夫・松本哲哉 編『[https://www.igaku-shoin.co.jp/book/detail/108374 標準微生物学 第14版]』付録:表 27-4、[[医学書院]]、2021年(2022年4月19日閲覧)</ref>
|下位分類 =
* [[アドナウィリア|(和名なし)域]] {{Snamei||Adnaviria}}
* [[ドゥプロドナウィリア|デュプロドナウイルス域]] {{Snamei||Duplodnaviria}}
* [[モノドナウィリア|モノドナウイルス域]] {{Snamei||Monodnaviria}}
* [[リボウィリア|リボウイルス域]] {{Snamei||Riboviria}}
* (和名なし)域 {{Snamei||Ribozyviria}}
* [[ウァリドナウィリア|バリドナウイルス域]] {{Snamei||Varidnaviria}}
}}
'''ウイルス'''({{lang-en|virus}}〔ヴァイラス{{Sfn|辻野|2010|p=63}}〕, {{lang-la|virus}}〔ウィールス{{Sfn|辻野|2010|p=63}}〕, {{lang-zh|病毒}})は、他[[生物]]の[[細胞]]を利用して自己を[[コピー|複製]]させる、極微小な[[病原体|感染性の構造体]]で、[[タンパク質]]の殻とその内部に入っている[[核酸]]からなる。ウイルスは1930年代に電子顕微鏡が用いられるようになったことで観察が可能になり、その存在が知られるようになった。
[[生命]]の最小単位である細胞やその[[生体膜]]である[[細胞膜]]も持たないこと、[[細胞小器官|小器官]]がないこと、[[自己複製|自己増殖]]することがないことから、生物かどうかについて議論がある<ref>森安史典『あなたの医学書 C型肝炎・肝がん』([[誠文堂新光社]]、2009年)17ページ ISBN 978-4-416-80933-4</ref>。一般的には「ウイルスは生物ではない」とされるが、[[フランス]]の[[進化生物学]]者パトリック・フォルテールのように、生物に含める見解もある。ウイルスが宿主に[[感染]]した状態(ヴァイロセル、virocell)を本来の姿と捉えれば生物のようにふるまっていること、[[ミミウイルス]]のように多数の[[遺伝子]]を持った巨大なウイルスもあることなどを理由としている<ref>パトリック・フォルテ―ルは[[パスツール研究所]]及び[[パリ第11大学|パリ=サクレ大学]]の[[名誉教授]]。インタビュー記事「ウイルスは生命体」[[朝日新聞グローブ|『朝日新聞』GLOBE(朝刊別刷り)]]233号/2020年9月6日付【特集】世界はウイルスに満ちている(7面)による。</ref>。
ウイルスを生命体と見なせば、その数や多様性は[[地球]]上で最も多く(見なさない場合、個体数は[[微生物]]、種類は[[甲虫類]]が最も多い)、[[メタゲノミクス|メタゲノム解析]]の実用化により様々な環境にウイルスが見つかっている。宿主に残ったウイルス由来の遺伝子が生物[[進化]]に関わったり{{sfn|中屋敷均|2016|p=136-137}}、地球の[[生態系]]や[[気候]]にも影響を与えたりしている。動物や植物のほかほぼ全ての生物に特有のウイルスが存在する<ref name="u-tokyo" />。[[ヒト]]を含めた動植物に[[感染症]]など疾病を引き起こすウイルスは一部であるが<ref>[[山内一也]]:病気を引き起こすのは「氷山の一角」『朝日新聞』GLOBE(朝刊別刷り)233号/2020年9月6日付【特集】世界はウイルスに満ちている(3面)</ref>、発見・分析されていないウイルスが野生鳥獣を宿主とするものだけで170万種あり、その半数が[[人獣共通感染症]]の[[病原体]]になるリスクがあると推計されている<ref>国際組織「生物多様性および生態系サービスに関する政府間科学政策プラットフォーム」(IPBES)による。[https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/103100639/ 【環境】パンデミックを防ぐため、世界的な自然保護政策を、報告書/哺乳類や鳥類に未知のウイルスは推定170万種、うち85万が人間に感染する恐れ] [[ナショナルジオグラフィック (雑誌)|ナショナルジオグラフィック]]日本語サイト(2020年11月4
日)2021年6月24日閲覧</ref>。
[[ファイル:Human Immunodeficency Virus - stylized rendering.jpg|thumb|200px|[[ヒト免疫不全ウイルス]]の模式図]]
== 名称 ==
英語のウイルス(virus)の語源は、ラテン語の「{{lang|la|virus}}」で病毒因子という意味であり、英語のVirusは古くは動物が出す毒液も含めて用いられていた<ref name="u-tokyo">{{PDFlink|[https://mhm.m.u-tokyo.ac.jp/pdf/MHM_Catalog10.pdf 見えざるウイルスの世界]}} [[東京大学医学部]]・[[東京大学医学部附属病院]] 健康と医学の博物館(2021年8月22日閲覧)</ref>。
[[ヨーロッパ]]の主な言語での発音を以下に列挙する<ref>[http://www.collinsdictionary.com/dictionary/english/virus Definition of "virus" > Translations for 'virus'] (Collins English Dictionary)</ref>。
{|class="wikitable"
|+ヨーロッパ諸言語での綴り・発音
!rowspan="3"|言語
!rowspan="3"|[[性 (文法)|文法的性]]
!colspan="3"|[[数 (文法)|単数形]]
![[複数|複数形]]
|-
!rowspan="2"|綴り
!colspan="2"|発音
!rowspan="2"|綴り
|-
![[国際音声記号]]
!
|-
!ラテン語
|中性
|{{lang|la|vīrus|}}
|{{IPA-la|ˈwiːrʊs|}}
|
|{{lang|la|vīra|}}<ref>William T. Stearn: ''Botanical Latin. History, Grammar, Syntax, Terminology and Vocabulary.'' Third edition, David & Charles, 1983. 「Virus: virus (s.n. II), ''gen. sing.'' viri, ''nom. pl.'' vira, ''gen. pl.'' vīrorum (to be distinguished from ''virorum'', of men).」</ref><ref>[http://de.pons.com/%C3%BCbersetzung?l=dela&q=virus Pons: ''virus'']</ref>
|-
![[イタリア語]]
|男性
|{{lang|it|virus|}}
|{{IPA-it|ˈvirus|}}
|
|{{lang|it|virus|}}
|-
![[ドイツ語]]
|中性又は男性
|{{lang|de|Virus|}}
|{{IPA-de|ˈviːrʊs|}}
|
|{{lang|de|Vira|}}, {{lang|de|Viren|}}
|-
![[スペイン語]]
|男性
|{{lang|es|virus|}}
|{{IPA-en|ˈbiɾus|}}
|
|{{lang|es|virus|}}
|-
![[フランス語]]
|男性
|{{lang|fr|virus|}}
|{{IPA-fr|viʁys|}}
|
|{{lang|fr|virus|}}
|-
!英語
|-
|{{lang|en|virus|}}
|{{IPA-en|ˈvaɪɹəs|}}
|
|{{lang|en|viruses|}}<br>({{lang|en|viri|}}<ref>e.g. Michael Worboys: ''Cambridge History of Medicine: Spreading Germs: Disease Theories and Medical Practice in Britain, 1865-1900'', Cambridge University Press, 2000, p. 204</ref>, {{lang|en|vira|}}<ref>e.g. Karsten Buschard & Rikke Thon: ''Diabetic Animal Models''. In: ''Handbook of Laboratory Animal Science. Second Edition. Volume II: Animal Models'', edited by Jann Hau & Gerald L. Van Hoosier Jr., CRC Press, 2003, p.163 & 166</ref>)
|}
以上のような発音をもとに、多様な[[日本語]]表記が使用された。
{|class="wikitable"
|+日本語での表記([[歴史的仮名遣]]含む)<ref>『文章表現辞典』([[東京堂出版]]、1965年)p.48</ref><ref>野田省吾「[https://doi.org/10.3412/jsb1917.21.4_385 学術集談会演説要旨]」『実験医学雑誌』1937年 21巻 4号 pp.385-388, {{doi|10.3412/jsb1917.21.4_38}}</ref><ref>遠藤保太郎「[https://hdl.handle.net/10091/6066 植物のヷイラス病]」『蠶絲學雜誌』7(3): 195-207(1935), {{hdl|10091/6066}}</ref><ref>深井孝之助,土佐英輔,西義美「[https://doi.org/10.2222/jsv1951.1.135 インフルエンザ・ヴイールスの赤血球による收着]」『VIRUS.』1951年 1巻 2号 pp.135-140, {{doi|10.2222/jsv1951.1.135}}</ref><ref>波多野基一「[https://doi.org/10.2222/jsv1951.2.187 日本脳炎ウイールスの赤血球凝集反応 (第1報)]」『VIRUS.』1952年 2巻 3号 pp.187-194, {{doi|10.2222/jsv1951.2.187}}</ref>
<ref>田久保茂樹,川久保義典「[https://doi.org/10.14828/jsb1895.1930.643 家兎ニヨル發疹チフス病毒ノ實驗的研究]」『細菌學雜誌』1930年 1930巻 416号 pp.643-652, {{doi|10.14828/jsb1895.1930.643}}</ref><br>('''太字'''は[[三省堂]]『[[大辞林]]』掲載表記)
!colspan="6"|音写<br>(語頭の "vi" の音写の違いで分類)
!rowspan="3"|[[意訳]]
|-
!colspan="2" rowspan="2"|"v"\"vi"
!colspan="2"|<!--語頭の"vi"が-->1[[音節]]
!colspan="2"|<!--語頭の"vi"が-->2音節
|-
!<!--語頭の"vi"が-->1[[モーラ]]
!<!--語頭の"vi"が-->2モーラ<br><small>([[長音]]含む)</small>
!<!--語頭の"vi"が-->3モーラ<br><small>(長音含む)</small>
!<!--語頭の"vi"が-->2モーラ
|-
!rowspan="3"|[[子音]]
!<!--語頭の"v"が-->[[有声両唇破裂音|{{IPA|b}}]]
|ビルス
|'''ビールス'''
|ビイールス
|'''バイラス'''
|rowspan="4"|病毒<ref group="注">[[日本細菌学会]]が意訳。[[中国語]]に取り入れられ、現在でも使用されている。</ref><ref group="注">{{Cite web|和書|title=労働安全衛生規則(昭和四十七年労働省令第三十二号)第61条第1項第1号|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=347M50002000032#812|website=e-Gov法令検索|accessdate=2019-12-17|publisher=[[総務省]][[行政管理局]]}}に「'''病毒'''伝ぱのおそれのある伝染性の疾病にかかった者」とあるが、この場合の伝染性疾患とは[[結核]]を指すとされている([https://www.jaish.gr.jp/anzen/hor/hombun/hor1-41/hor1-41-13-1-0.htm 労働安全衛生規則等の一部を改正する省令の施行について] [[平成]]12年3月30日・基発第207号より)。すなわち、この場合の病毒はウイルスではなく、[[細菌]]である[[結核菌]]を指す。</ref><br>濾過性病原体
|-
!<!--語頭の"v"が-->[[有声唇歯摩擦音|{{IPA|v}}]]
|[[ヴ]]ィルス<!--<br>[[ヰ゛|ヸ]]ルス-->
|ヴィールス<!--<br>ヸールス-->
|ヴイールス<br>ヴ[[ゐ|ヰ]]ールス
|ヴァイラス<br>[[ワ゛|ヷ]]イラス
|-
!<!--語頭の"v"が-->[[有声両唇軟口蓋接近音|{{IPA|w}}]]([[両唇接近音|{{IPA|β̞}}]])
|ウィルス<!--<br>ヰルス-->
|ウィールス<!--<br>ヰールス-->
|
|ワイラス
|-
![[母音]]
!<!--語頭の"v"が-->[[う|{{IPA|u̜}}/{{IPA|ɯ̹}}]]
|
|
|ウイールス
|'''ウイルス'''
|}
日本語表記としてはラテン語に近い「ウィールス」や「ウイルス」あるいはドイツ語に近い「ビールス」や「ヴィールス」があった<ref name="u-tokyo" />。1949年(昭和24年)に[[日本ウイルス学会]]の前身となる「ヴィールス談話会」が発足した後、[[1953年]]([[昭和]]28年)に日本ウイルス学会が設立されたのを機に、<!--本来のラテン語発音に近い-->「ウイルス」という表記が採用された<ref name="u-tokyo" />。その一方、[[日本医学会]]はドイツ語発音に由来する「ビールス」を用い、1970年代頃は「ビールス」呼称が学校や一般で使用されていた。現在は宿主に関わらず「ウイルス」が正式名称である<ref>{{Cite web|和書|url= http://jsv.umin.jp/about_jsv/about_jsv.html |title= 日本ウイルス学会について |website= 日本ウイルス学会ホームページ |accessdate= 2020-04-06 }}</ref><ref>{{Cite book|author=日本植物病理学会編|title=植物病理学事典|publisher=養賢堂|year=1995|page=91}}</ref>。表記上は「イ」が大文字の「ウイルス」と小文字の「ウィルス」があるが、メディアでも直音の大文字で表記されることが一般的になっている<ref name="u-tokyo" />。
なお、ウイルスの細胞外粒子を表す「{{lang-en-short|virion}}」の語には、「ウイリオン」ではなく「[[ビリオン]]」の読み表記が定着している。{{See also|:en:virus|:zh:病毒}}
== 特徴 ==
ウイルスは[[細胞]]を構成単位とせず、自己増殖はできないが、[[遺伝子]]を有するという、非生物・生物両方の特性を持っている。[[自然科学]]・[[生物学]]上、生物・生命の定義を厳密に行うことはできていないため、便宜的に細胞を構成単位とし、[[代謝]]し、自己増殖できるものを生物と呼んでおり、ウイルスは「非細胞性生物」あるいは「生物学的存在」と見なされている<ref name="生化学">マシューズ、ホルダ、アハーン『カラー生化学』(西村書店刊、2003年5月15日発行)16ページ</ref>。感染することで宿主の[[恒常性]]に影響を及ぼし、[[病原体]]としてふるまうことがある。
ウイルスを対象として研究する分野は[[ウイルス学]]と呼ばれる。
=== 一般的な生物との違い ===
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!
! 一般的な原核生物<br>(例:[[大腸菌]])
! [[マイコプラズマ]]
! [[ナノアルカエウム・エクウィタンス]]
! [[リケッチア]]
! [[クラミジア]]
! [[ファイトプラズマ]]
! style="background:#ffadad" | ウイルス
|-
! 構成単位
| colspan="6" | 細胞
| ウイルス粒子
|-
! 遺伝情報の担体
| colspan="6" | [[デオキシリボ核酸|DNA]]
| DNAまたは[[リボ核酸|RNA]]
|-
! 増殖様式
| colspan="6" | [[対数増殖]]([[分裂]]や[[出芽]])
| [[一段階増殖]]<br/>[[暗黒期]]の存在
|-
! [[アデノシン三リン酸|ATP]]の合成
| colspan="4" | できる
| できない
| できる
| できない
|-
! [[タンパク質]]の合成
| colspan="6" | できる
| できない
|-
! [[細胞壁]]
| ある
| ない
| colspan="3" | ある
| colspan="2" | ない
|-
! 単独で増殖
| colspan="2" | できる
| できない<br>(他生物に付着)
| colspan="4" | できない(偏性細胞内寄生性)
|}
ウイルスは以下のような点で、一般的な生物と大きく異なる。
# 非細胞性で[[細胞質]]などは持たない。基本的にはタンパク質と[[核酸]]からなる粒子である(→[[ウイルス#構造|ウイルスの構造]])。
# 大部分の生物は細胞内部に[[デオキシリボ核酸|DNA]]と[[リボ核酸|RNA]]の両方の核酸が存在するが、ウイルス粒子内には基本的にどちらか片方だけしかない。
# 他のほとんどの生物の細胞は2<sup>n</sup>で[[指数関数]]的に増殖するのに対し、ウイルスは一段階増殖をする。また、ウイルス粒子が見かけ上消えてしまう「暗黒期」が存在する。
# 代謝系を持たず、自己増殖できない。他生物の細胞に寄生することによってのみ増殖できる<ref name="toho1834">[https://www.toholab.co.jp/info/archive/1834/ 細菌とウイルスとの違い?] - 東邦微生物病研究所</ref>。
# 自分自身でエネルギーを産生せず、宿主細胞の作るそれを利用する<ref name="toho1834" />。
なお、4はウイルスだけに見られるものではなく、[[リケッチア]]や[[クラミジア]]、[[ファイトプラズマ]]など一部の細菌や[[真核生物]]にも同様の特徴を示すものがある。
細胞は生きるのに必要なエネルギーを作る製造ラインを持っているが、ウイルスはその代謝を行っておらず、代謝を宿主細胞に完全に依存し、宿主の中でのみ増殖が可能である。ウイルスに唯一できることは他の生物の遺伝子の中に彼らの遺伝子を入れる事である。厳密には自らを入れる能力も持っておらず、細胞が正常な物質と判別できず、ウイルスのタンパク質を増産するのを利用しているだけである。
これらの性質から、ウイルスを生物と見做さない言説も多いが、[[メガウイルス・キレンシス|メガウイルス]]、[[ミミウイルス]]など、細菌に非常に近い構造を持つウイルスも存在することから、少なくとも一部は遺伝子の大部分を捨て去り、[[寄生]]に特化した生物の一群由来であろうことが強く示唆されている。一方、[[レトロウイルス]]と[[トランスポゾン]]の類似性もまた、少なくとも一部のウイルスは機能性核酸が独立・[[進化]]したものである可能性を強く示唆している。つまり、ウイルスとして纏められている物は多元的であり、人為分類群である可能性が非常に高い。
しかし、その後の研究で、メガウイルスやミミウイルスなどの巨大ウイルスも、遥かに小さく典型的なウイルスから[[トランスポゾン]]を経て、比較的最近になって進化・巨大化した説が強くなっている。2019年、ICTVは、巨大ウイルスを[[ウァリドナウィリア]]のバンフォルドウイルス界、巨大核質DNAウイルス門、メガウイルス綱に分類した。これは[[天然痘ウイルス]]や[[アフリカ豚熱ウイルス]]に比較的近い。両者はポリントンと呼ばれる、原生生物のDNA内に組み込まれている[[トランスポゾン]]から進化した可能性が高いとされる。これは、主要カプシドタンパク質やパッケージングタンパク質の比較から強く支持される<ref name=krupovic>{{cite journal2|vauthors=Krupovic M, Koonin EV|date=February 2015|title=Polintons: a hotbed of eukaryotic virus, transposon and plasmid evolution|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC5898198/|journal=Nat Rev Microbiol|volume=13|issue=2|pages=105-115|doi=10.1038/nrmicro3389|pmc=5898198|pmid=25534808|access-date=10 June 2020}}</ref>。
=== ウイルスの系統 ===
ウイルスはタンパク質の殻の中にある遺伝物質の違いから、大きく[[DNAウイルス]]と[[RNAウイルス]]に分けられる(詳細は「[[ウイルスの分類]]」を参照)<ref name="u-tokyo" />。
ウイルスの命名は[[国際ウイルス分類委員会]](国際ウイルス命名委員会、International Committee on Taxonomy of Viruses)が管理しており、遺伝物質がDNAウイルスかRNAウイルスか、環状か鎖状か、宿主の種類などをもとに生物と同様に科、属、種を分類して命名している<ref name="u-tokyo" />。
== 発見 ==
[[File:Airborne-particulate-size-chart ja.svg|thumb|right|450px|[[粒子状物質]]の分類(マイクロメートル)]]
{{Main|感染症の歴史|ウイルス学の歴史}}
[[微生物学]]の歴史は、[[1674年]]に[[オランダ]]の[[アントニ・ファン・レーウェンフック|レーウェンフック]]が、[[顕微鏡]]観察によって[[細菌]]を見出したことに始まり、その後[[1860年]]にフランスの[[ルイ・パスツール]]が[[生物学]]や[[醸造]]学における細菌の意義を、[[1876年]]に[[ドイツ]]の[[ロベルト・コッホ]]が、[[医学]]における細菌の意義を明らかにしたことで大きく展開した。特にコッホが発見し提唱した「[[感染症]]が[[病原性]]細菌によって起きる」という考えが医学に与えた影響は大きく、それ以降、感染症の原因は[[寄生虫]]を除いて、全て細菌によるものだと考えられていた。
[[1892年]]、[[ロシア帝国|ロシア]]の[[ドミトリー・イワノフスキー]]は、[[タバコモザイクウイルス|タバコモザイク病]]の病原が細菌[[濾過器]](当時は[[粘土]]を[[素焼き]]したもの)を通過しても感染性を失わないことを発見。それが細菌よりも微小な、[[光学顕微鏡]]では観察できない存在であることを報告した。しかし、病原体は細菌であるという考えを捨てきれなかった。またこの研究とは別に、[[1898年]]にドイツの[[フリードリヒ・レフラー]]と[[パウル・フロッシュ]]が[[口蹄疫]]の病原体の分離を試み、これが同様の存在であることを突き止め、「filterable virus(濾過性病原体)」と呼称した。同年にオランダの[[マルティヌス・ベイエリンク]]はイワノフスキーと同様の研究を行って、同じように見出された未知の性質を持つ病原体を「Contagium vivum fluidum(生命を持った感染性の液体)」と呼んだ。
レフラーは濾過性病原体を小さな細菌と考えていたが、ベイエリンクは[[分子]]であると考え、これが細胞に感染して増殖すると主張した。彼の主張はすぐには受け入れられなかったが、同様の性質をもった病原体や[[ファージ]]が発見されていくことで、一般にもウイルスの存在が信じられるようになった。その後、[[物理化学]]的な性質が徐々に解明され、ウイルスはタンパク質からできていると考えられた。
[[1935年]]、[[アメリカ合衆国]]の[[ウェンデル・スタンリー]]がタバコモザイクウイルスの[[結晶]]化に成功し、これによってウイルスは[[電子顕微鏡]]によって初めて可視化されることとなった<ref>加藤茂孝『人類と感染症の歴史 未知なる恐怖を越えて』([[丸善|丸善出版]] 平成25年3月30日発行)p.4</ref>。また彼の発見したこの結晶は、感染能を持っていることを示し、化学物質のように結晶化できる生物の存在は生物学・科学界に衝撃を与えた。彼はこの業績により、[[1946年]]に[[ノーベル化学賞]]を受賞した<ref>{{Cite web|url= http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/chemistry/laureates/1946/stanley-facts.html |title= Wendell M. Stanley - Facts |website= NobelPrize.org |accessdate= 2020-04-06 }}</ref>。
スタンリーは、ウイルスが[[自己触媒反応|自己触媒]]能を持つ巨大なタンパク質であるとしたが、翌年に少量の[[リボ核酸|RNA]]が含まれることが示された。当時は[[遺伝子]]の正体は未解明であり、遺伝子タンパク質説が有力とされていた。当時は、[[病原体]]は能動的に病気を引き起こすと考えられていたので、分子ロボット(今で言う[[ナノマシン]])のようなもので、人が病気になるということに科学者たちは驚いた。それでも当時はまだ、病原体であるには細菌ほどの複雑な構造、少なくとも自己のタンパク質をコードする遺伝子ぐらいは、最低限持っていなくては病原体になりえない、と思われていた。
[[1952年]]に行われた[[ハーシーとチェイスの実験]]は、[[バクテリオファージ]]においてDNAが遺伝子の役割を持つことを明らかにし<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.sci.toho-u.ac.jp/biomol/glossary/bio/Hershey_Chase_experiment.html |title= ハーシーとチェイスの実験 |work= 生物分子科学科 > 高校生のための科学用語集 > 生物用語 |publisher= [[東邦大学]]理学部 |accessdate= 2020-04-06 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20130519090442/http://www.sci.toho-u.ac.jp/biomol/glossary/bio/Hershey_Chase_experiment.html |archivedate= 2013-05-19 }}</ref>、これを契機にウイルスの繁殖、ひいてはウイルスの性質そのものの研究が進むようになった。同時に、この実験は生物の遺伝子がDNAであることを示したものと解せられた。
その後の研究で、大きさや[[ゲノム]]、遺伝子の数で一部の細菌を上回るウイルスも発見されるようになった。750nmというサイズから1992年に細菌と誤認された「ブラッドフォード[[球菌]]」は、電子顕微鏡による解析が進められて、2003年にウイルスだったと確認された([[ミミウイルス]])。2013年には長径1000nmの[[パンドラウイルス属|パンドラウイルス]]、翌2014年には長径1500nmの「[[ピソウイルス]]」が発見された<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO60026260V00C20A6MY1000/ 驚異のウイルスたち(3)「巨大」出現 新生命体へ進化?多数の遺伝子 揺らぐ定義]『[[日本経済新聞]]』朝刊2020年6月7日(サイエンス面)2020年6月10日閲覧</ref>(「[[巨大核質DNAウイルス]]」参照)。
== 構造 ==
[[File:Virion.png|thumb|400px|ウイルスの基本構造<br>(A)エンベロープを持たないウイルス、(B)エンベロープを持つウイルス、1. カプシド、2. ウイルス核酸、3. カプソマー、4. ヌクレオカプシド、5. ビリオン、6. エンベロープ、7. スパイクタンパク質]]
ウイルスの基本構造は、粒子の中心にある'''ウイルス核酸'''と、それを取り囲む'''[[カプシド]]''' ({{lang-en-short|capsid}}) と呼ばれるタンパク質の殻から構成された粒子である。ウイルス核酸とカプシドを併せたものを'''[[ヌクレオカプシド]]''' ({{lang-en-short|nucleocapsid}}) と呼ぶ。ウイルスの形状はカプシドの形によって基本的には正20面体型(立方対称型)と螺旋対称型に分けられる<ref name="u-tokyo" />。ウイルスによっては、'''[[エンベロープ (ウイルス)|エンベロープ]]''' ({{lang-en-short|envelope}}) と呼ばれる膜成分など、ヌクレオカプシド以外の物質を含むものがある。これらの構成成分を含めて、そのウイルスにとって必要な構造を全て備え、宿主に対して感染可能な「完全なウイルス粒子」を'''[[ビリオン]]'''と呼ぶ。
ウイルスの大きさ(長径)は小さいもので20〜40[[ナノメートル|nm]]で大きいものも含め平均すると100nmほどである<ref name="u-tokyo" />。最も大きい天然痘ウイルスは長径300nmで原核生物で最も小さい[[マイコプラズマ]](200〜300nm)よりも大きい<ref name="u-tokyo" />。ウイルスは光学顕微鏡では観察できず、[[電子顕微鏡]]が必要だが、電子線を照射するため生きた細胞内のウイルスを観察することはできない<ref name="u-tokyo" />。
=== ウイルス核酸 ===
ウイルス核酸は、通常、DNAかRNAのどちらか一方である。すなわち、他の生物が一個の細胞内にDNA(遺伝子として)とRNA([[伝令RNA|mRNA]]、[[リボソームRNA|rRNA]]、[[転移RNA|tRNA]]など)の両方の分子を含むのに対して、ウイルスの一粒子にはその片方しか含まれない(ただしDNAと共にRNAを一部含む[[B型肝炎ウイルス]]のような例外も稀に存在する)。そのウイルスが持つ核酸の種類によって、ウイルスはDNAウイルスとRNAウイルスに大別される。さらに、それぞれの核酸が一本鎖か二本鎖か、一本鎖のRNAであればmRNAとしての活性を持つか持たないか(プラス鎖RNAかマイナス鎖RNAか)、環状か線状か、などによって細かく分類される。ウイルスの[[ゲノム]]は他の生物と比べてはるかにサイズが小さく、またコードしている遺伝子の数も極めて少ない。例えば、ヒトの遺伝子が数万個あるのに対して、ウイルスでは3〜100個ほどだと言われる。
ウイルスは基本的にタンパク質と核酸からなる粒子であるため、ウイルスの複製(増殖)のためには少なくとも
# タンパク質の合成
# ウイルス核酸の複製
# 1. 2.を行うために必要な、材料の調達とエネルギーの産生
が必要である。しかしほとんどのウイルスは、1や3を行うのに必要な[[酵素]]の遺伝情報を持たず、宿主細胞の持つタンパク合成機構や代謝、エネルギーを利用して、自分自身の複製を行う。ウイルス遺伝子には自分の遺伝子(しばしば宿主と大きく異なる)を複製するための酵素の他、宿主細胞に吸着・侵入したり、あるいは宿主の持つ[[免疫]]機構から逃れたりするための酵素などがコードされている。
ウイルスによっては、カプシドの内側に、核酸と一緒にカプシドタンパク質とは異なるタンパク質を含むものがある。このタンパク質とウイルス核酸を合わせたものを「コア」と呼び、このタンパク質を「コアタンパク質」と呼ぶ。
=== カプシド ===
{{Main|カプシド}}
'''カプシド''' ({{lang-en-short|capsid}}) は、ウイルス核酸を覆っているタンパク質であり、ウイルス粒子が細胞の外にあるときに内部の核酸をさまざまな障害から守る「殻」の役割をしていると考えられている。ウイルスが宿主細胞に侵入した後、カプシドが壊れて(脱殻、だっかく)内部のウイルス核酸が放出され、ウイルスの複製がはじまる。
カプシドは、同じ構造を持つ小さなタンパク質('''カプソマー''')が多数組み合わさって構成されている。この方式は、ウイルスの限られた遺伝情報量を有効に活用するために役立っていると考えられている。小さなタンパク質はそれを作るのに必要とする遺伝子配列の長さが短くてすむため、大きなタンパク質を少数組み合わせて作るよりも、このように小さいタンパク質を多数組み合わせる方が効率がよいと考えられている。
=== ヌクレオカプシド ===
{{Main|ヌクレオカプシド}}
[[ファイル:Nucleocapsids.png|thumb|240px|ヌクレオカプシドの対称性(左) 正二十面体様(中) らせん構造(右)構造の複雑なファージ]]
ウイルス核酸とカプシドを合わせたものを'''ヌクレオカプシド''' ({{lang-en-short|nucleocapsid}}) と呼ぶ。エンベロープを持たないウイルスではヌクレオカプシドはビリオンと同じものを指す。言い換えればヌクレオカプシドは全てのウイルスに共通に見られる最大公約数的な要素である。
ヌクレオカプシドの形はウイルスごとに決まっている。基本的には正20面体型(立方対称型)と螺旋対称型に分けられる<ref name="u-tokyo" />。ただし、[[天然痘]]の原因である[[ポックスウイルス]]やバクテリオファージなどでは、ヌクレオカプシドは極めて複雑な構造であり、単純な対称性は持たない。
=== エンベロープ ===
{{main|[[エンベロープ (ウイルス)]]}}
'''エンベロープ''' ({{lang-en-short|envelope}}) は、[[単純ヘルペスウイルス]]や[[インフルエンザウイルス]]、[[ヒト免疫不全ウイルス]]など一部のウイルス粒子に見られる膜状の構造のこと。これらの'''ウイルス'''において、エンベロープはウイルス粒子('''[[ビリオン]]''')の最も外側に位置しており、'''ウイルス'''の基本構造となる'''ウイルス'''ゲノムおよび[[カプシド]]タンパク質を覆っている。エンベロープの有無はウイルスの種類によって決まっており、分離されたウイルスがどの種類のものであるかを鑑別する際の指標の一つである。
エンベロープは、ウイルスが[[感染]]した細胞内で増殖し、そこから細胞外に出る際に[[細胞膜]]あるいは[[核膜]]などの[[生体膜]]を被ったまま出芽することによって獲得されるものである。このため、基本的には宿主細胞の[[脂質二重膜]]に由来するものであるが、この他にウイルス遺伝子にコードされている[[膜タンパク質]]の一部を細胞膜などに発現した後で膜と一緒にウイルス粒子に取り込み、'''エンベロープタンパク質'''としてビリオン表面に発現させている。これらのエンベロープタンパク質には、そのウイルスが宿主細胞に吸着・侵入する際に細胞側が持つ[[レセプター]]に結合したり、[[免疫]]などの生体防御機能を回避したりなど、様々な機能を持つものが知られており、ウイルスの感染に重要な役割を果たしている。
細胞膜に由来するエンベロープがあるウイルスでは、エンベロープタンパク質が細胞側のレセプターに結合した後、ウイルスのエンベロープと細胞膜とが膜融合を起こすことで、エンベロープ内部に包まれていたウイルスの遺伝子やタンパク質を細胞内に送り込む仕組みのものが多い。
エンベロープはその大部分が脂質から成るため[[エタノール]]や[[有機溶媒]]、[[石鹸|石けん]]などで処理すると容易に破壊することができる。このため一般にエンベロープを持つウイルスは、[[消毒]]用[[アルコール]]での不活化が、エンベロープを持たないウイルスに比べると容易である。
== 増殖 ==
[[ファイル:Virus growth curve.png|thumb|200px|細胞(左)とウイルス(右)の増殖様式]]
ウイルスは、それ自身単独では増殖できず、他の生物の細胞内に感染して初めて増殖可能となる<ref name="toho1834" />。このような性質を'''偏性細胞内寄生性'''と呼ぶ。また、一般的な生物の細胞が2分裂によって {{Math|2<sup>''n''</sup>}} で[[対数]]的に数を増やす(対数増殖)のに対し、ウイルスは1つの粒子が、感染した宿主細胞内で一気に数を増やして放出(一段階増殖)する。また感染したウイルスは細胞内で一度分解されるため、見かけ上ウイルス粒子の存在しない期間('''暗黒期''')がある。
もちろん、ウイルスは細菌よりも小さく、その遺伝物質であるDNAやRNAはタンパク質の外殻に包まれている。ウイルスに寄生された細胞は、通常の生命維持の機能を果たせなくなり、ウイルス工場となって他の細胞を感染させ、最終的にはウイルス工場となった細胞は破壊されてしまう<ref>{{Cite web |title=Coronavirus Resource Center |url=https://www.health.harvard.edu/diseases-and-conditions/coronavirus-resource-center |website=Harvard Health |date=2020-02-28 |access-date=2022-06-12 |language=en}}</ref>。
ウイルスの増殖は以下のようなステップで行われる。
細胞表面への'''吸着''' → 細胞内への'''侵入''' → '''脱殻'''(だっかく) → 部品の合成 → 部品の集合 → 感染細胞からの放出
=== 細胞表面への吸着 ===
ウイルス感染の最初のステップはその細胞表面に吸着することである。ウイルスが宿主細胞に接触すると、ウイルスの表面にあるタンパク質が宿主細胞の表面に露出しているいずれかの分子を標的にして吸着する。このときの細胞側にある標的分子をそのウイルスに対する'''[[受容体|レセプター]]'''と呼ぶ。ウイルスが感染するかどうかは、そのウイルスに対するレセプターを細胞が持っているかどうかに依存する。代表的なウイルスレセプターとしては、[[インフルエンザウイルス]]に対する[[呼吸器|気道]][[上皮細胞]]のシアル酸糖鎖や、[[ヒト免疫不全ウイルス]]に対する[[T細胞|ヘルパーT細胞]]表面のCD4分子などが知られている。
=== 細胞内への侵入 ===
細胞表面に吸着したウイルス粒子は、次に実際の増殖の場になる細胞内部へ侵入する。侵入のメカニズムはウイルスによって様々であり、代表的なものに以下のようなものがある。
;[[エンドサイトーシス]]による取り込み
:細胞自身が持っているエンドサイトーシスの機構によって、エンドソーム小胞として細胞内に取り込まれ、その後でそこから細胞質へと抜け出すもの。エンベロープを持たないウイルスの多くや、インフルエンザウイルスなどに見られる。
;膜融合
:吸着したウイルスのエンベロープが細胞の細胞膜と融合し、粒子内部のヌクレオカプシドが細胞質内に送り込まれるもの。多くの、エンベロープを持つウイルスに見られる。
;能動的な遺伝子の注入
:Tファージなどのバクテリオファージに見られ、吸着したウイルスの粒子から尾部の管を通してウイルス核酸が細胞質に注入される。注入とは言っても、ウイルス粒子の尾部が細菌の細胞壁を貫通した後の遺伝子の移動は、細菌細胞が生きていないと起こらないため、細菌の細胞自体の作用によって吸い込まれるのではないかと言われている。
=== 脱殻 ===
細胞内に侵入したウイルスは、そこで一旦カプシドが分解されて、その内部からウイルス核酸が遊離する。この過程を脱殻と呼ぶ。脱殻が起こってから粒子が再構成されるまでの期間は、ビリオン(感染性のある完全なウイルス粒子)がどこにも存在しないことになり、この時期を'''[[暗黒期]]'''、あるいは[[日食]]や[[月食]]になぞらえて'''[[エクリプス]]期''' (eclipse period) と呼ぶ。
=== 部品の合成 ===
脱殻により遊離したウイルス核酸は、次代のウイルス(娘ウイルス)の作成のために大量に複製されると同時に、さらにそこから[[伝令RNA|mRNA]]を経て、カプソマーなどのウイルス独自のタンパク質が大量に合成される。すなわちウイルスの合成は、その部品となる核酸とタンパク質を別々に大量生産し、その後で組み立てるという方式で行われる。
ウイルス核酸は宿主細胞の核酸とは性質的に異なる点が多いために、その複製は宿主の持つ酵素だけではまかなえないため、それぞれのウイルスが独自に持つ[[DNAポリメラーゼ]]、[[RNAポリメラーゼ]]など、転写・複製に関わる酵素が使われる。また[[逆転写酵素]]を持つ[[レトロウイルス]]では、宿主のDNAに自分の遺伝子を組み込むことで、宿主の[[DNA複製]]機構も利用する。
タンパク質の合成には、そのタンパク質をコードするmRNAを作成するためにウイルス独自の酵素を必要とする場合がある。mRNAからタンパク質への翻訳は、宿主細胞の持つ、リボソームなどのタンパク質合成系を利用して行われる。
=== 部品の集合とウイルス粒子の放出 ===
別々に大量生産されたウイルス核酸とタンパク質は細胞内で集合する。最終的にはカプソマーがウイルス核酸を包み込み、ヌクレオカプシドが形成される。この機構はウイルスによってまちまちであり、まだ研究の進んでないものも多い。細胞内で集合したウイルスは、細胞から出芽したり、あるいは感染細胞が死ぬことによって放出されたりする。このときエンベロープを持つウイルスの一部は、出芽する際に被っていた宿主の細胞膜の一部をエンベロープとして獲得する。
== 宿主に与える影響 ==
ウイルスによる感染は、宿主となった生物に細胞レベルや個体レベルで様々な影響を与える。その多くの場合、ウイルスが[[病原体]]として作用し、宿主にダメージを与えるが、一部のファージやレトロウイルスなどに見られるように、ウイルスが外来遺伝子の運び屋として作用し、宿主の生存に有利に働く例も知られている。
=== 細胞レベルでの影響 ===
[[ファイル:CPE rounding.jpg|thumb|200px|'''細胞変性効果(円形化)'''培養[[フラスコ]]の底に敷石状に生育している培養細胞がウイルスの感染によって円く変形し、やがてフラスコからはがれてプラーク(空隙、写真中央)を形成する。]]
[[ファイル:CPE syncytium.jpg|thumb|200px|'''細胞変性効果(合胞体)'''敷石状に生育した培養細胞同士がウイルス感染によって細胞膜の融合を起こし、細胞核が中央に凝集して(写真中央)多核巨細胞様の形態になる。]]
ウイルスが感染して増殖すると、宿主細胞が本来自分自身のために産生・利用していたエネルギーや、アミノ酸などの栄養源がウイルスの粒子複製のために奪われ、いわば「ウイルスに乗っ取られた」状態になる。
これに対して宿主細胞はタンパク質や遺伝子の合成を全体的に抑制することで抵抗しようとし、一方でウイルスは自分の複製をより効率的に行うために、様々なウイルス遺伝子産物を利用して、宿主細胞の生理機能を制御しようとする。またウイルスが自分自身のタンパク質を一時に大量合成することは細胞にとって生理的なストレスになり、また完成した粒子を放出するときには宿主の細胞膜や細胞壁を破壊する場合もある。このような原因から、ウイルスが感染した個胞では様々な生理的・形態的な変化が現れる。
この現象のうち特に形態的な変化を示すものを'''[[細胞変性効果]]''' (cytopathic effect, CPE) と呼ぶ。ウイルスによっては、特定の宿主細胞に形態的に特徴のある細胞変性効果を起こすものがあり、これがウイルスを鑑別する上での重要な手がかりの一つになっている。代表的な細胞変性効果としては、細胞の円形化・細胞同士の融合による合胞体 (synsitium) の形成・封入体の形成などが知られる。
様々な生理機能の変化によって、ウイルスが感染した細胞は最終的に以下のいずれかの運命を辿る。
;ウイルス感染による細胞死
:ウイルスが細胞内で大量に増殖すると、細胞本来の生理機能が破綻したり細胞膜や細胞壁の破壊が起きたりする結果として、多くの場合、宿主細胞は死を迎える。ファージ感染による[[溶菌]]現象もこれにあたる。多細胞生物の細胞では、ウイルス感染時に[[細胞周期]]を停止させたり、[[MHCクラスI]]などの[[抗原]]提示分子を介して[[キラーT細胞|細胞傷害性T細胞]]を活性化したりして、[[アポトーシス]]を起こすことも知られている。感染した細胞が自ら死ぬことで周囲の細胞にウイルスが広まることを防いでいると考えられている。[[悪性腫瘍|がん細胞]]にウイルスを人為的に投与して感染させて破壊する[[ウイルス療法]]が実施・研究されている<ref>「[https://bio.nikkeibp.co.jp/atcl/news/p1/22/10/28/10078/ 日本ウイルス療法学会が発足、理事長は東大医科研の藤堂具紀教授]」日経バイオテク(2022年10月31日)2022年11月26日閲覧</ref>。
;持続感染
:ウイルスによっては、短期間で大量のウイルスを作って直ちに宿主を殺すのではなく、むしろ宿主へのダメージが少なくなるよう少量のウイルスを長期間に亘って持続的に産生(持続感染)するものがある。宿主細胞が増殖する速さと、ウイルス複製による細胞死の速さが釣り合うと持続感染が成立する。[[ファージ#複製|テンペレートファージ]]による溶原化もこれにあたる。持続感染の中でも、特にウイルス複製が遅くて、ほとんど粒子の複製が起こっていない状態を'''[[潜伏感染]]'''と呼ぶ。
;細胞の不死化とがん化
:多細胞生物に感染するウイルスの一部には、感染した細胞を[[細胞老化|不死化]]したり、[[がん]]化したりするものが存在する。このようなウイルスを'''[[腫瘍ウイルス]]'''あるいは'''がんウイルス'''と呼ぶ。ウイルスが宿主細胞を不死化あるいはがん化させるメカニズムはまちまちであるが、宿主細胞が感染に抵抗して起こす細胞周期停止やアポトーシスに対抗して、細胞周期を進行させたりアポトーシスを抑制したりする遺伝子産物を作る場合(DNAがんウイルス)や、細胞の増殖を活性化する場合、また[[レトロウイルス]]では宿主細胞のゲノムにウイルス遺伝子を組み込む際、[[がん遺伝子|がん抑制遺伝子]]を損傷することで、宿主細胞をがん化することも知られている。
=== 個体レベルでの影響 ===
ウイルス感染は、細胞レベルだけでなく多細胞生物の個体レベルでも、様々な病気を引き起こす。このような病気を総称してウイルス感染症と呼ぶ。[[インフルエンザ]]や[[天然痘]]、[[麻疹]]、[[風疹]]、[[後天性免疫不全症候群]] (AIDS)、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]]などの病気がウイルス感染症に属しており、これら感染症の病原ウイルスはしばしば[[パンデミック]]を引き起こして人類に多くの犠牲者を出した。
また、動物ではウイルス感染が起きると、それに抵抗して免疫応答が引き起こされる。[[血液]]中や[[粘液]]中のウイルス粒子そのものに対しては、ウイルスに対する中和抗体が作用する([[液性免疫]])ことで感染を防ぐ。感染した後の細胞内のウイルスに対しては抗体は無効であるが、細胞傷害性T細胞やNK細胞などが感染細胞を殺す([[細胞性免疫]])ことで感染の拡大を防ぐ。免疫応答はまた、特定のウイルス感染に対して人工的に免疫を付与する[[ワクチン]]によっても産生され得る。AIDSやウイルス性[[肝炎]]の原因となるものを含む一部のウイルスは、これらの免疫応答を回避し、慢性感染症を引き起こす。
ウイルス感染症における症状の中には、ウイルス感染自体による身体の異常もあるが、むしろ[[発熱]]、感染細胞のアポトーシスなどによる組織傷害のように、上記のような免疫応答を含む、対ウイルス性の身体の防御機構の発現自体が健康な身体の生理機構を変化させ、さらには身体恒常性に対するダメージともなり、[[疾患]]の症状として現れるものが多い。
人類は生物進化の最後尾にあり、他の動物からのホストジャンプにより多数のウイルスがヒトにとっての病原体となったと考えられる。それらのウイルスも、天然の宿主では無害であることが多い。そうなる仕組みは、弱毒化したウイルスが感染した宿主は長期間行動し、感染の機会が増えるため、ウイルスの適応進化を起こす、と考えられる。すなわち、一般に長い目で見ればウイルスは弱毒化する。しかし、短期的には強毒化する場合もあり、長期的な弱毒化を理由にウイルスを軽視することはできない{{sfn|中屋敷均|2016|pp=27-30}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
*『STEP内科 2 感染症・血液』松岡健 他 監修 海馬書房 1998年11月27日 初版 pp.107〜109
*『医科ウイルス学』[[大里外誉郎]]編集、[[南江堂]] 1992年12月
*『医学ウイルス学』David O. White, Frank J. Fenner
*『ウイルス図鑑』保坂康弘ほか
*『医学細菌学』[[中野昌康]] 菜根出版
* {{Cite book |和書 |author = 中屋敷均 |date = 2016-03-16 |title = ウイルスは生きている |publisher = 講談社 |ISBN = 4062883597 |ref = harv }}
* {{Cite journal |和書
| last = 辻野
| first = 匠
| authorlink = 辻野匠
| title = 学名(ラテン語)のカナ表記についての試論
| journal = 地質ニュース(産業技術総合研究所地質調査総合センター編)
| volume = 675
| publisher = 実業公報社
| date = 2010-11
| pages = 61-70
| issn = 00094854
| url = https://www.gsj.jp/data/chishitsunews/2010_11_15.pdf#page=3
| quote = vは常に[w](ワ行頭子音)になる.[v]ではないので注意されたい.たとえば,<ins>virusはウィールス</ins>となる(<ins>英語ではヴァイラス</ins>).
| ref = harv
}}
== 関連項目 ==
{{sisterlinks|commons=Category:Viruses|species=Virus}}
* [[バクテリオファージ]]
* [[ウイロイド]]
* [[サテライトウイルス]]
* [[ウイルスフリー]]
* [[ウイルス学]]
* [[ウイルス学の歴史]]
* [[ウイルスの社会史]]
* [[ウイルス療法]]
* [[ウイルスの進化]]
* [[生物兵器]]
'''生物以外'''
* [[コンピュータウイルス]]
* [[ミーム#マインド・ウイルス]]
== 外部リンク ==
* [http://jsv.umin.jp/index.html 日本ウイルス学会]
* [http://protist.i.hosei.ac.jp/virus/top.html ウイルス図鑑]
* [https://www.toholab.co.jp/info/archive/1834/ 細菌とウイルスとの違い?] - 東邦微生物病研究所
* {{Kotobank|2=世界大百科事典 第2版}}
{{ウイルスの話題}}
{{ボルティモア分類}}
{{自然}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ういるす}}
[[Category:ウイルス|*]]
[[Category:ラテン語の語句]] | 2003-05-20T05:47:27Z | 2023-12-04T03:06:30Z | false | false | false | [
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8,772 | カロン・ド・ボーマルシェ | ボーマルシェ(Beaumarchais)こと本名ピエール=オーギュスタン・カロン(Pierre-Augustin Caron, 1732年1月24日 - 1799年5月18日)は、18世紀フランスの実業家、劇作家。
現在は『セビリアの理髪師』、『フィガロの結婚』、『罪ある母』からなる「フィガロ3部作」で名高いが、劇作を専門としていたわけではなく、始めは時計師、次いで音楽師、宮廷人、官吏、実業家、劇作家など様々な経歴を持つため、フランス文学者の進藤誠一はボーマルシェを「彼ほど多種多様の仕事をし、転変極まりない生涯を送った作家も珍しい」と評している。
1732年1月24日、パリのサン=ドニ街(現在のパリ1区、2区を走るRue Saint-Denis界隈)にて、アンドレ=シャルル・カロンとマリー=ルイーズの間に、ピエール=オーギュスタン・カロンは生まれた。ピエールは10人兄妹の7番目であるが、そのうち4人は夭折しており、無事に育った男児は彼のみであった。父親のアンドレは先祖代々プロテスタントであったが、結婚前年の1697年にカトリックに改宗している。若い頃は騎兵でもあったが、ピエールが生まれたころには時計職人として生計を立てていた。単なる平民に過ぎなかったが、文学を愛好し、この時代の平民としてはかなり正確なフランス語運用能力があったことが遺されている手紙からうかがえる。母親であるマリー=ルイーズに関しては、ほとんどわからない。パリの町民階級出身であることが分かっているのみであるから、彼らは身分の釣り合った普通の夫婦であったといえるだろう。この家族について特筆すべきなのは、ピエールを取り巻く5人の姉妹たちである。長姉マリー=ジョセフ、次姉マリー=ルイーズ、三姉マドレーヌ=フランソワーズ、それに2人の妹、マリー=ジュリーと、ジャンヌ=マルグリートである。とくに妹たちは、ピエールと芸術の趣味が合ったらしく、ともに音楽を奏でて楽しんだという。この時に培われた音楽的素養は、彼が成人してからフランス社会で一歩ずつ社会的地位を高めていくのに、大きな役割を果たしたのであった。
家族の暖かな愛情に包まれて育ったピエールは、3年間の普通教育(おそらく獣医学校か)を修了したのち、13歳で時計職人である父の跡を継ぐべく工房に入って修業を始めた。ところが遊びたい盛りのピエールにとって、信心の篤い父親のもとでの修業は息苦しいものであったらしい。18歳のころ、放蕩の限りを尽くした挙句、工房の商品である時計を無断で持ち出して売却するという事案を起こし、父親の激しい怒りを買って勘当されてしまった。幸い父親の友人や母親のとりなしがあり、数か月後には父親の赦しを得たが、その代わりとして父親の出した厳しい条件を呑まねばならなかった。この条件によって以前のように遊べなくなったピエールは、真面目に時計職人として邁進するのであった。
こうした真面目な修業が実を結んで、1753年、21歳の時に時計の速度調節装置の開発に成功した。ピエールがこの装置を開発するまでは時刻を正確に刻む技術は発見されておらず、各々の時計が指し示す時刻がばらばらであったから、この発明は画期的であった。若くして素晴らしい発明を成し遂げたことを知らせようと、同年7月23日、父親の友人であった王室御用時計職人ルポートにこの装置を見せたという。
ところが、ルポートはこの装置を自らの発明と偽ってメルキュール・ド・フランス誌に発表してしまった。ルポートは、王室御用時計職人という肩書からもわかるように、当代随一の時計職人であり、様々な宮殿で使用されている時計の制作者であった。まさに時計業界の重鎮であったわけで、それほどの権威を持つ自分に無名の職人が歯向かってくるはずもないと考えてのことであったのかもしれない。ピエールはメルキュール誌に載った記事を直接見なかったようだが、幸いなことに彼が装置の開発に取り組んでいたことを知っていた人物(同業の時計職人と思われる)が知らせてくれたおかげで、ルポートの裏切りを知るところとなった。この人物への返信が遺されているが、そこには、相手がたとえ業界の重鎮であろうと怖気づかず、自身の発明に確固たる自信を持ち、権威である科学アカデミーに裁定を委ねようとする冷静沈着な態度が現れている。この内容通りに、ピエールは科学アカデミーに自身の発明した装置の下絵を提出して裁定を願い出るとともに、メルキュール誌にも抗議文を送付して掲載させた。この抗議文が掲載されるとルポートもさすがに焦ったようで、自身の業績や抱える顧客を例に挙げて社会的な信用の高さを示そうとしたが、このような卑劣な行為にピエールはますます激昂し、自身の正しさを証明しようと躍起になった。1754年2月23日、この一件に科学アカデミーからの裁定が下った。ピエール=オーギュスタン・カロンの主張を全面的に支持し、ルポートは単なる模倣者に過ぎないことを認める内容であった。
ピエールは、この一件で世に広く知られるようになった。国王ルイ15世への謁見を許され、高貴な人々からたくさんの注文を受けたことで、ルポートを追い落として正式に王室御用の時計職人となったのである。国王の注文に応じて製作した極薄の時計や、王姫のために制作した両面に文字盤のある時計も評判をとったが、何より宮中で話題となったのは国王の寵姫ポンパドゥール夫人のための指輪時計であった。この時計は直径1センチにも満たない極小の時計であったために龍頭を削ぎ落とさねばならなかった。まるで時計として使えないのではないか、と不審がる国王に向かって、若き時計職人は文字盤を取り囲んでいる枠を回転させれば、時計として機能を果たすことを示した。その卓越した技術に、宮中は大いに唸ったという。
こうして、時計職人としてもっぱらヴェルサイユ宮殿に出入りし、高貴な人々の注文に応じて時計の製作に励んでいたピエールであったが、それを切っ掛けとして彼に一人の女性との出会いが訪れた。ヴェルサイユ宮殿で彼を見かけ、その評判と若さに惹かれた人妻、フランケ夫人が彼の工房に時計の修理を目的として訪れたのである。彼女の夫であるピエール=オーギュスタン・フランケは、パリ郊外に土地を所有しており、王室大膳部吟味官(簡潔に言えば、料理の配膳係)という役職を務める貴族であった。初めは単なる時計職人とその顧客という関係でしかなかったが、フランケ夫人の希望もあって急速に夫妻とピエール(カロン)の関係は深まっていった。フランケはすでに齢50歳を超えて体力的にもかなり衰えていたため、夫人の助言を聞き入れて「王室大膳部吟味官」の役職をカロンに売り渡すことにした。1755年11月9日、ルイ15世直筆の允許状を手に入れ、ピエールは正式に宮廷勤務の役人となった。宮廷に出入りする単なる時計職人から、佩刀を許された役人として社会的な地位を一つ高めたのであった。
フランケ夫人との出会いは出世の役に立ったが、そのピエールとフランケ夫妻の三角関係は世間で広く噂されるようになった。フランケは病気に苦しんでおり、その夫人とピエールは若くて魅力的である。間違いが起こらないほうが不思議な状況であって、実際に夫人とピエールがいつごろから恋仲となったのかはわからないが、遺されている往復書簡から察するに1755年末にはすでに関係があったと思われる。この書簡からは、少なくともフランケ夫人は不倫に悩み苦しんでいることがうかがわれるが、ピエールは悩みや謝罪の色などつゆも見せておらず、ただ恋にのぼせた者にありがちな身勝手な考えが示されているのみである。1756年1月3日、フランケは脳卒中でこの世を去った。ピエールが役職を得てからまだ2か月しか経っておらず、その代金支払いに着手もしていないころであった。ピエールは運よく、夫人も役職も、ただ同然で手中に収めたのである。
1756年11月22日、正式にフランケの未亡人とピエールは結婚した。身分の釣り合わないこの結婚に父親は許可を与えてはいるが、結婚式に出席していないため、こころから祝福していたかどうか疑問である。だがともかく、ピエールはこうして父親のもとから完全に独立したのである。妻の所有地の土地(Bos Marchais)の名前を借用してカロン・ド・ボーマルシェと貴族を気取った名前を使用し始めたのもこの頃であるが、これは単に彼の自称に過ぎず、正式に貴族に列せられた訳ではない。実態は単なる宮廷勤務の役人であったわけだが、こうした貴族風の名前を使い始めたところから察するに、すでにこの頃には強烈な出世願望が彼のこころで燃え上がっていたと考えられる。
さて、初めての結婚生活はどうだったか。結婚後2か月してからの彼の手紙からは、妻の変貌にうんざりした様子が窺える:
上記のように新婚早々、結婚生活に幻滅したボーマルシェであったが、この結婚生活は長く続かなかった。結婚から1年も経たないうちに妻は腸チフスに倒れ、そのまま亡くなったのである。1757年9月29日のことであった。ところが、ボーマルシェを直撃した災難はこれだけではなかった。結婚契約書の登録を怠っていたために、妻の遺産は妻の実家に転がっていってしまうし、新婚生活での借金は自身に降りかかってきたのである。ボーマルシェはこの一件で、数年間窮乏に苦しむこととなる。
最初の妻を失った翌年、母をも失った。結婚生活で生じた借金のおかげで財政的には極めて苦しかったため、仕事に励む一方で、相次いで大切な人を失った寂しさを紛らわせるために文学と音楽に打ち込んだ。16世紀から18世紀まで幅広く、しかも外国の作家にまで傾倒していたという。幼い頃から音楽に親しんで来たことは先述したが、ボーマルシェ自身もハープの名手であり、当時は新しい楽器であったハープに改良ペダルをつけ、より音色が美しくなるように工夫するなどして宮廷で評判をとっていた。ルイ15世の4人の王姫はボーマルシェの楽才に魅せられ、たちまちとりことなり、彼に自身の音楽教師となるように要請した。この要請に、ボーマルシェ自身の男性的な魅力が影響していたかどうかはわからない。ボーマルシェは音楽を専門としているわけでもなく、単なる小役人に過ぎなかったため、金銭をもらってレッスンすることはできなかった。無料での労働であったわけだが、王姫の機嫌を損ねでもしたらすぐに国王の知るところとなって、単なる小役人の首などすぐに吹っ飛ぶため(職と命、ともに簡単に飛ぶ)、細心の注意を払ってレッスンに臨んだに違いない。神経をすり減らしつつ、才気と魅力を最大限に活用して王姫たちに仕えた結果、彼女たちから絶大な信頼を獲得するに至ったのである。
4人の王姫たちから絶大な信頼を獲得していたことは、当時のボーマルシェが起こした決闘事件の顛末からも明白である。ある貴族に侮辱、挑発されたボーマルシェは、当時禁止されていた決闘に応じて、相手に重傷を負わせた。決闘を行うことだけでも重罪であったが、もし相手の口から自身の名前が出た場合、復讐や処罰の対象となってしまうので、それを恐れて王姫たちに庇護を求めたのである。王姫たちは事情を父である国王に打ち明け、決闘事件に関する口止め工作を了承した。幸いなことに相手の貴族が「原因は自分自身にある」としてそのまま死んでいったため、工作を行う必要はなくなったが、この一件は国王家からの篤い信頼を獲得していたことの裏付けとなっている。
王姫たちへのレッスンは国王家の信頼を獲得するのに役だっただけでなく、ボーマルシェの財政状況の改善へも間接的に影響を与えた。直接的な影響としては、王姫たちの気ままな買い物やコンサートの費用を立て替えたり、王家に仕える者としての身なりを整える費用やらで、むしろ悪影響を与えたともいえるが、彼女たちを通じて国王家の信頼を勝ち取ったことで、18世紀における最大の金満家であるパーリ=デュヴェルネーと出会い、一気に財政状況が改善されたのである。
ルイ15世治下のフランス経済は、4人のパーリ兄弟によって動かされていた。パーリ=デュヴェルネーはその3番目であったが、兄弟の中でも特に商才に長けていたという。ルイ15世の愛人ポンパドゥール夫人などの貴族たちと結びついて急速にのし上がっていき、オーストリア継承戦争や七年戦争の折にはフランス王国軍の御用商人となり、巨万の富を築いた。1751年にポンパドゥール夫人と組んで士官学校の建設に乗り出し、1750年代末にはほとんど完成していたが、ちょうど運悪くフランスが七年戦争でイギリスに敗北を喫したころであり、ポンパドゥール夫人との不仲もあって、ルイ15世はこの士官学校に極めて冷たい態度を示した。すでに75歳と、当時としてはかなりの老齢であったパーリ=デュヴェルネーにすれば、後世に遺す自らの記念碑が王に冷たくあしらわれるなど心中穏やかでなく、どうにかしようとあれこれ動いて万策尽きた結果、国王家の信頼の篤いボーマルシェに目を留めたのであった。
野心みなぎるボーマルシェのことだから、この大金持ちの老人に恩を売っておけばどれほどの見返りがあるか、瞬時に理解したことだろう。ボーマルシェはこの富豪に恩を売るべく、まず4人の王姫たちに目を付けた。日ごろから彼女たちの願いにきちんと確実に答えてきた彼にとって、退屈しきった彼女を口車に乗せて、若い男の大勢いる士官学校に連れていくことなどたやすいことであった。士官学校を訪れた彼女たちはデュヴェルネーによって盛大に迎えられ、彼に向ってボーマルシェを褒めちぎるなど、大満足して帰っていったという。士官学校を訪れた娘たちが喜んでいるのを知って、国王ルイ15世は大いに心を動かされ、1760年8月12日、ついに士官学校を訪問したのだった。悲願を果たしたデュヴェルネーは、ボーマルシェにそのお礼として、様々な経済的な援助を惜しみなく与えた。6000リーヴルの年金、得意の金融業での助言、指導、融資など、窮乏に苦しんでいるボーマルシェにとってはどれも有り難いものばかりであった。こうして一気に財政状況は改善され、以後鰻登りのごとく、豊かになっていったのである。
1761年12月、ボーマルシェはデュヴェルネーに用立ててもらった55000リーヴルに、手持ち金30000リーヴルを加えて、「国王秘書官」という肩書を購入した。この肩書は「平民の化粧石鹸」などと呼ばれて蔑視されていたが、間違いなく金になる肩書であり、その上購入者の身分がどうであれ正式に貴族として認められる職業であった。さらに1762年に入ると、当時フランスを18の区に分けて管轄していた「森林水資源保護長官」のひとつに空きが出た。巨額の収入をもたらすポストであり、それだけに値段も高かったが(現在の日本円で5000万前後)、デュヴェルネーは惜しげもなくこれに必要な資金を提供した。この時は他の長官たちの猛反対に遭って、王姫たちの後押しも虚しく手に入れることはできなかったが、その代わりに翌年になって「ルーヴル狩猟区王室料地管理ならびに国王代官区における狩猟総代官」なる肩書を手に入れた。王室の料地を管理し、密猟者がいれば捕縛して裁くのが任務である。「代官」とあるように本来は「管理長官」たるラ・ヴァリエール公爵が任務にあたるべきなのだが、ほとんどの仕事をボーマルシェがこなしたという。彼は1785年まで、22年間に亘ってこの仕事を続けた。この肩書を手に入れたのと同じころ、4階建ての家を建て、父親と2人の妹を引き取ったり、ポリーヌ・ルブルトンという西インド諸島出身の女性と恋仲になったりしている。ポリーヌは大変な美女であったらしいが、所有地に関連して負債を抱えていたために、再婚には慎重になっていたようだ。フランケ夫人との結婚の後始末で、ずいぶん辛酸を舐めたことが影響しているのだろう。
1764年2月、ボーマルシェとその一家にとって大問題が発生した。スペインに居住する次姉が「結婚の約束を同じ男に2度も破談にされ、ひどい侮辱に苦しみ、泣きはらしている」との知らせが舞い込んできたのである。ボーマルシェはこの一件を、後年になって『1764年、スペイン旅行記断章』として記しているが、事実に即して書かれておらず、多分にフィクションを含んでいる。
次姉マリー=ルイーズは、長姉マリー=ジョセフが1748年に石大工の棟梁ルイ・ギルベールと結婚してスペインのマドリードに移住した際に、彼らにくっついていった。彼女は同地で、軍需省に努めていたクラビーホという男と親しくなって結婚の約束までしたが、姉であるマリー=ルイーズに慎重になるように忠告されたため、結婚を引き延ばしていたのであった。クラビーホは才能のある男で、スペイン陸軍に関する著作を発表するなどして頭角を現し、文芸誌を創刊したり、スペイン王室古文書管理官に任命されるなど、順調に出世していった。結婚の約束から6年が経ったある日、妹を任せるのに問題なしと判断したマリー=ジョセフは、彼に結婚の約束を履行するように迫ったが、クラビーホはなかなか首を縦に振らなかった。出会いからあまりに時間が経ちすぎていたし、マリー=ルイーズも33歳になっており、決して若いとは言えなかった。その美しさに陰りが見えていたし、出世を果たしたクラビーホはその辺の女など相手にしなくとも、もっと有利な結婚相手を見つけることができたのである。何より、クラビーホは優柔不断な男であった。マリー=ジョセフの求めに応じて、素直に従っているようなふりをして結婚の準備を進めておきながら、いざ結婚式当日に失踪したのである。フランス大使に訴えられたらどうなるかわからないとの思いからか、自身の行為が情けなくなったのか、どういう考えからかはわからないが、この時は自ら姿を現して姉妹に謝罪し、結婚の履行を承諾したが、再び式の3日前に失踪したのであった。
『1764年、スペイン旅行記断章』では、「悲嘆に暮れ、世間から後ろ指を指されて泣きはらしている次姉マリー=ルイーズの名誉回復のために、知らせを受けてすぐに馬に乗ってスペインに駆け付けた」ことになっているが、これは事実ではない。マリー=ルイーズはクラビーホのほかに、フランス商人のデュランという男をすでに婚約者として見つけていたし、ボーマルシェもその父親も、彼らの間柄を手紙で祝福している。さらに、ボーマルシェがパリを発つ許可を国王からもらったのは、4月7日のことだった。出発はそれよりさらに後のことだろうから、この事実からも急いで駆けつけようとしていないことは明らかである。この出発許可を獲得するために提出した手紙では、スペインへ行く目的として家庭の事情を挙げている。確かにそれも目的の一つには違いないのだが、それはあくまで名目で、本当の目的はフランスースペイン間の重要な通商問題(簡潔に言えば、新大陸の植民地の利権を寄越せ、というもの)を解決することにあった。同じ手紙で、スペイン駐在フランス大使への推薦状を依頼しているのはそのためである。こうしてフランスを発ったボーマルシェが、マドリードに到着したのは5月18日のことであった。急げば2週間足らずで到着する距離だが、途中でボルドーやバイヨンヌなどの都市に立ち寄っているところを見るに、自身に託された重要な使命について思案を巡らせていたのかもしれない。
彼に託されたフランスースペイン間の通商問題とは、七年戦争の手痛い敗戦に起因するものである。1763年2月10日に締結されたパリ条約によって戦争は終結したが、敗戦国フランスは大量の領土を失い、同じく領土を失った同盟国スペインに西ルイジアナ地方を割譲したのであった。政治的にも経済的にも、とにかく大打撃を被ったフランスは、一刻も早く立ち直ろうと、フランス経済界の重鎮であったパーリ=デュヴェルネーを中心に据えて計画を立て、スペイン王家に対していくつかの提案を行ったのだった。その使者として選ばれたのが、ボーマルシェである。
まず、あくまで名目でしかない次姉の結婚問題についてマドリードでどのように活動したか。『断章』によれば、マドリードに到着したボーマルシェは、姉や友人たちに囲まれて次姉と再会し、事の顛末を仔細に亘って聞き出し、名前を明かさずにクラビーホと会う約束を取り付け、証人を連れ添って文芸誌の編集長たるクラビーホの事務所へ乗り込んだという。旅の目的を問われたボーマルシェは、たとえ話を装って、2人の娘をマドリードに居住させるフランス人商人の話をし始め、彼女たちの結婚について問題が起こったためにやってきたのだと告げた。確信が持てないままに、しかし妙に目の前で語られる話が自分の体験している事情と似ていることにクラビーホは首をひねりつつ聞いていたようだが、ボーマルシェの種明かしによってとどめを刺され、しばらく茫然自失の状態であったという。さらなる追及を受けて、逃れられなくなったクラビーホは、マリー=ルイーズへ向けて謝罪文書を認めた。さらに踏み込んで徹底的に破滅へ追い込むこともできたが、フランス大使から穏便に済ませるように忠告されていたし、クラビーホはスペイン王室に強力な後ろ盾を持っており、本来の目的である通商問題の解決に使えると踏んだのか、3度目の約束となる婚約書を作成させるにとどめたのであった。
ところが、相変わらずクラビーホは優柔不断で卑劣な男であった。どう考えても割に合わない話だと思い直したのか、あちこちを逃げ回った挙句「ピストルで脅されて結婚を強制された」とスペインの宰相に訴え出たのである。窮地に陥ったボーマルシェであったが、訴えから逃げ出すことなく、自ら宰相のもとへ赴いて自身の潔白を主張し、クラビーホの公職追放(1年間で解除されたが)という逆転勝利を収めたという。この件に関して伝わっている話はここまでで、結局その後マリー=ルイーズはどうなったのか正確にはわからない。どうやらクラビーホともデュランとも結婚せず、独身のまま過ごしたらしい。
本来の目的である通商問題に関してはどうだったか。まずボーマルシェは、問題解決のために有力な貴族を探し始めた。手始めにスペイン社交界の有力者であったフエン=クララ侯爵夫人に近づき、彼女のサロンに出入りするうちに、スペインの将軍と結婚したフランス人、ラクロワ夫人と出会った。ボーマルシェを見て望郷の念に駆られたか、それとも彼の魅力に取りつかれたのか、理由は定かではないが、夫人は彼を連れ歩くようになり、スペイン社交界での彼の売り込みに大いに協力してくれたのであった。おかげで、在スペインのイギリス大使やスペイン宰相の知遇を得ることに成功した。ところが、結果的にラクロワ夫人の存在が邪魔となった。通商問題の解決のためにもうひと押し必要と考えたボーマルシェは、ラクロワ夫人をけしかけて、彼女に国王カルロス3世の愛人となるよう依頼した。夫人は見事にそれを果たしたのだが、国王の愛人となった夫人は、自分の立場を危うくするようなことはしたがらなくなった。夫人を通じて国王から譲歩を引き出そうとしたボーマルシェの試みはこうして失敗に終わり、そのまま状況を変えられることなく、帰国の日を迎えたのであった。スペイン宰相グリマルディは、ボーマルシェに持たせた手紙の中で彼への好意を率直に示しているが、とにかく使命の遂行には失敗した。
1年間のスペイン滞在は、外交的な成果は何一つないものであった。スペイン文化の吸収という点で、個人的な収穫はあったかもしれないが、祖国フランスへは貢献できなかったし、恋人をも失った。彼がフランスに帰国すると、婚約関係にあったポリーヌ・ルブルトンとは関係がすっかり冷え込んでしまっていた。そうなった原因はわからないが、おそらく不在期間が長すぎたのであろう。この頃彼らの間に交わされた手紙ではお互いを非難しあっており、まるで噛み合っていない。結局ポリーヌは別の男性と結婚し、こうしてボーマルシェは人生で(おそらく)初めて失恋の悲しみを味わった。その悲しみを癒そうとしてか、1766年、事業家としてシノンの森林開発に乗り出した。
シノンはパリから遠く離れたトゥーレーヌ地方の要衝で、この郊外に広がる広大な森林は国王の所有地であった。1766年の末、この森の一部が売りに出されることを知ったボーマルシェは、パーリ=デュヴェルネーから融資を受け、この森の開発事業に乗り出すことにした。ところが、彼が就いていた公職「ルーヴル狩猟区王室料地管理ならびに国王代官区における狩猟総代官」が森林を取得するのに障害となった。この長ったらしい職名を見ればわかるように、この職の任務は「国王所有地を守り、管理する」ことであった。そのような職業に就いている男が、国王所有地の売却に際して真っ先にそれに飛びつき、開発して利益を得ようとしているというのは極めて具合が悪い。これは現在で言えばインサイダー取引と同じようなものであるから違法であるし、当時の法律でも森林に関する公職に就く者が森林の競売に参加することは固く禁じられていたので、やはり違法なのであった。
困ったボーマルシェが思いついたのは、召使セザール・ルシュユールを名義人に仕立てあげることであった。これ自体法律の抜け穴をくぐった脱法行為であるが、当時としてはそれほど珍しいことでもなかったらしい。1767年2月、ボーマルシェは私的な証書を作成し、ルシュユールに単なる名義だけの存在であることを確認させたが、この召使は中々狡猾な男であった。ルシュユールは、主人であるボーマルシェがなぜ競売に参加せずに自分を名義人に立てたか、その理由を知った途端に主人を脅し、口止め料として2000リーヴルを要求した。ボーマルシェはこの要求を一蹴し、ピストルを突き付け、2度とこの類の脅迫をしないことを誓わせた。だが、ルシュユールは主人が知らない間にシノンへ足を延ばし、仕事でミスを犯して首になっていた森林開発の小役人であるグルーと結託して共同で会社を設立し、勝手に森林の開発に乗り出した。この行為を知って、ボーマルシェが激昂したのは当然であった。彼は憲兵とともにすぐさまシノンへ馬を飛ばし、ルシュユールを捕縛したのち、公証人立ち合いのもとで裏切りを白状させた。ところが、懲りないルシュユールは、解放されて再び自由を手に入れると、グルーと共謀して森林監督代官にボーマルシェの不法行為を訴え出た。代官はルシュユールの主張を支持し、名義人である彼の権利を認めた上、ボーマルシェに召喚状を発して、彼に対する暴行及び脅迫の罪で出頭を命じた。
ボーマルシェからすれば、森林に関する公職に就いている以上は、自身の行為を暴露されたくはないし、かといって召使ごときに頭を垂れるなど耐え難いことであった。彼は、パリの森林監督庁に提訴して自身の権利を守ろうとする一方で、親しくしていた公爵を通じて大法官への謁見を願い出て、庇護を求めた。さらにルシュユールの身元を拘束するために、王の封印状( Lettre de cachet 、これさえあれば好き勝手に人を逮捕出来た)を手に入れ、シャトレ牢獄にぶち込もうと画策したのであった。ルシュユールも負けておらず、逆にボーマルシェを横領犯として告訴しようと、請願書を提出した。当時のパリの警察長官サルティーヌはボーマルシェと知り合いであり、彼には好意的であったが、この泥仕合を快く思っていなかったようで、どちらの主張にも与することなく、中立的な立場を取り続けた。
絶対に勝たねばならん、牢獄にぶち込まねばならぬ、と息巻くボーマルシェは、いくら請願を行っても無駄であることを察知し、ルシュユールの身内を懐柔して攻撃に利用することにした。ルシュユールの妻に働きかけて「夫が家財道具の一切を持ち出したために、生命の危機に晒された」との内容で訴訟を起こさせたのである。この仕打ちにはルシュユールも打つ手がなくなったのか、ついに降参し、法廷でボーマルシェが森林の本当の落札者であることを認めた。1768年3月21日、ようやくボーマルシェはルシュユールを牢獄にぶち込むことに成功したが、わずか4か月足らずで釈放されてしまった。この後も無益な裁判が2年に亘って延々続いたが、結局白黒を付けることなく、お互いの痛み分けということで決着がつけられた。
パーリ=デュヴェルネーと出会い、事業家として着実に階段を上っていたボーマルシェにとって、シノンの森林開発事業は魅力的であったに違いないが、遺されている手紙から察するに、この森に相当な愛着を持っていたことが窺える。都会を離れて、素朴で親切な田舎人たちと交際し、大自然と調和した暮らしを送るよろこびが手紙には現れている。こうした愛着があったからこそ、徹底的に闘い抜いたのだと考えられるが、それにしてもボーマルシェとルシュユールの繰り広げたこの一連の騒動は、18世紀初頭から流行していた風俗喜劇をまさに地で行く、傍から見れば笑い話でしかない滑稽なものであったことも、指摘しておかねばならない。
森林開発を巡って召使との滑稽な闘争を繰り広げていたボーマルシェであったが、何もその期間中ずっとそれにのめり込んでいたわけではなかった。この頃の彼の生活は、充実したものであった。劇作家として活動を始めたのもこの頃である。まず、デビュー作『ユージェニー』が1767年1月29日に、コメディー・フランセーズで初演された。この作品はまずまずの成功を収めたので、それに続いて第2作目『2人の友、またはリヨンの商人』を制作し、1770年1月13日に初演させたが、こちらは大失敗してしまった。この2作品のジャンルは町民劇と呼ばれるものであるが、状況設定に無理がある筋立てで、特にそれは2作目の『2人の友』において顕著である。上演はたった10回で打ち切られ、批評家からは「宮廷で職を購ったり、空威張りしたり、下手くそな芝居を書くよりも、よい時計を製作しているほうがずっとましだった」と、辛辣な批判を投げつけられる始末であった。これまでに見てきたボーマルシェの行動からいって、この件でも何らかの行動を起こすかと思いきや、この件に関しては沈黙を貫いた。おそらくかなり痛いところを突かれてすっかり意気消沈したのであろう。今後純然たる町民劇を書くことはなくなったが、その美学を放棄したわけではないことはフィガロの3部作によって示されるのである。
1768年4月、36歳のときにジュヌヴィエーヴ=マドレーヌ・ワットブレドと再婚した。彼女は王室典礼監督官(1767年12月に死亡)の未亡人であったが、いつごろから交際を始めたのかはわからない。通常10か月間とされる服喪期間を無視してまで結婚していることから察するに、夫婦仲は相当に良かったようだ。同年の12月には長男が誕生しているところを考えると、未亡人となる前から関係があったのは確実であろう。夫妻の間には2人の子供が生まれたが、いずれも夭折した。夫人には亡き夫からの多額の年金が入るため、生活は豊かであったが、最初の結婚と同様にこの結婚も長くは続かなかった。1770年3月に娘を出産したころから夫人の健康は悪化し、肺結核に罹患して11月に死去してしまった。ボーマルシェは夫人を手厚く看護したと伝わる。夜中に肺結核の症状、激しい咳の発作に苦しむ夫人を哀れに思って、病気がうつると家族に忠告されても聞き入れず、ベッドを共にして彼女を労わり続けた。それを医者に強制的に止めさせられた際には、別のベッドを夫人の部屋に入れて、最期を看取ったという。
1770年は色々な意味でボーマルシェの生涯にとって重要な年となった。先述した夫人との死別もあったし、パーリ=デュヴェルネーが亡くなった年でもあったからだ。デュヴェルネーはボーマルシェと知り合った1670年以来、経済的にも、精神的にも彼に惜しみない援助を与えた大恩人であった。しかし彼も齢86となり、死は確実に近づいていた。ボーマルシェは、その莫大な遺産を巡る問題の発生を未然に防ごうとして、金銭的な問題をきちんと生前に処理しておこうと考えた。この年に入ってからすぐ手紙でやり取りした結果、4月1日付で2通の証書を取り交わした。証書ではボーマルシェとデュヴェルネーの金銭の貸し借りが詳細に列挙され、デュヴェルネーにおよそ14万リーヴルの借金があったボーマルシェは、一度この借金を相殺して、小切手で16万リーヴルをデュヴェルネーに渡して、シノンの森開発計画からの撤退を認めることにした。一方でデュヴェルネーは、ボーマルシェが借金を全額返済したことを認めたうえで、逆に98000リーヴルをボーマルシェに借りているので、そのうちの15000リーヴルは請求があり次第返済し、今後8年に亘って750000リーヴルを無利子で貸し付けることを約束したのであった。
デュヴェルネーには子供がおらず、血縁関係としても甥パーリ・ド・メズィユーと姪の娘ミシェル・ド・ロワシーがいるのみであった。とくにミシェルをかわいがっていたデュヴェルネーは、その夫であるラ・ブラシュ伯爵を相続人に指定した。ボーマルシェがこの措置に不満を抱くのも、当然といえば当然であろう。血縁関係があり、かつ事業の功労者でもあるメズィユーが遺産相続の対象とならず、なぜ血縁関係も何もない赤の他人のラ・ブラシュ伯爵が相続の対象となっているのか常人には理解しがたい。ボーマルシェはメズィユーにも遺産を与えるべきだと手紙で伝えているが、効果はなかったようだ。
一方、棚から牡丹餅とはまさにこのことで、血縁関係もないのに莫大な遺産が転がり込んできたラ・ブラシュ伯爵からすれば、その遺産の持主たるデュヴェルネーと特別な関係にあるボーマルシェが目ざわりになるのも無理のないことであった。ボーマルシェは貴族の肩書を有しているとはいえ、もともとはただの平民、時計職人からの成り上がりであり、自分と対等の人間ではないし、デュヴェルネーの甥であるメズィユーと友人であるから何を仕掛けてくるかわからない、などと考えていたのかもしれない。彼が何を考えていたかは分からないが、彼とボーマルシェのそりが合わなかったのは確実で、ボーマルシェには憎悪ともいえる感情を抱いていたという。ボーマルシェは伯爵のこのような感情を察知していたからこそ、遺産相続に関して手紙で安心して付き合っていけるメズィユーにも遺産を分け与えるように伝えたのである。
1770年7月7日、デュヴェルネーがこの世を去った。それとともに、遺産を巡る闘争が始まった。ラ・ブラシュ伯爵は、ボーマルシェが心配していた通りに、彼とデュヴェルネーが生前に交わした契約を反故にし始めた。契約では「請求あり次第15000リーヴルを返却する」はずであった。そのためボーマルシェは契約に則って、伯爵に15000リーヴルを請求したが、伯爵からの返答は「契約自体の存在と有効性を疑う」という信じがたいものであった。この頃、両者は短期間のうちに何通もの手紙をやり取りしているが、全く噛み合わなかった。埒が明かないので、ボーマルシェは公証人の家に自身の正当性を主張する根拠となる証書を預け、伯爵に検討させた。その検討の結果、伯爵は「証書に書かれているデュヴェルネーの署名は、彼の自筆であるとは認め難いため、証書は本物ではない」と主張し、辣腕弁護士カイヤールを雇って「証書自体に不正が含まれている以上、無効であり、この契約は破棄されるべきである」と裁判所に訴え出たのであった。
伯爵陣営の主張は、極めて悪質で巧妙であった。この訴えにおいてボーマルシェを間接的にペテン師であると攻撃し、証書自体が虚偽であるのだから、ボーマルシェがデュヴェルネーに借金を完済し終えた事実もまた虚偽なのであって、すなわち依然として14万リーヴルの借金は残っており、相続人の伯爵にはその請求権があるという主張を堂々と行ったのである。デュヴェルネーとボーマルシェの間に存在した金銭の貸し借りは否定しないなど、都合よく曲解した末に生み出された主張であった。
この件の裁判は1771年10月に、ルーヴル宮殿内の法廷において始まった。この法廷ではデュヴェルネーとボーマルシェとの間に交わされた証書の真偽が精査され、その結果、翌年になって証書は本物であると結論付けられた。ボーマルシェに有利な裁定が下ったわけだが、伯爵とカイヤールは単に主張を微修正しただけであった。「証書は正しいのかもしれないが、記載されている借金14万リーヴルは実際には返済されておらず、従って15000リーヴルの返済義務など存在せず、逆に14万リーヴルの請求権が発生している」と主張し、同時に根も葉もない不品行のうわさをボーマルシェのこれまでの恥ずべき行いとしてまき散らすことで彼の信用を貶めて、有利に主張を展開できるように試みた。ここでも伯爵たちが巧妙であったのは、まき散らした噂の中に少年時代の勘当という事実を一つだけ混ぜたことにある。「嘘八百かと思っていたら、ひとつだけ真実が混じっていた」なんてことがあったなら、その他の嘘とされていることも実は本当なのではないかと考えてしまうのは、無理もないことであるからだ。
ボーマルシェも、事あるごとに相手方の誹謗中傷に反撃しているが、その中でも特に効果的であったのは「王妃たちから謁見を禁じられた」との中傷に対する反撃である。ボーマルシェはこの中傷に対応するために、早速王姫に付き従う女官であるペリゴール伯爵夫人に手紙を宛て、王姫から「そのような事実はない」との言質を引き出した。それどころか、「いかなる場合においても、ボーマルシェの不利益となるようなことは発言しないつもりである」とのお言葉まで頂戴したのであった。ボーマルシェは快哉を叫んだに違いない。中傷への反撃として、国王家の一員たる王姫の保証以上に心強いものなど存在しないし、裁判官の心証にも大きな影響を与える力があるからである。だが、ボーマルシェは調子に乗りすぎた。誹謗中傷へ反撃する際に、伯爵夫人からの手紙を許可なく引用し、自分にはあたかも王姫が後ろについているかのようなふるまいをしたのである。王姫たちもこの行動を看過出来なかったと見え、即座に連署入りで「自分たちは裁判に無関係であるし、庇護を与えてもいない」との内容の手紙を送付している。
1772年2月22日、第一審の判決が下された。ボーマルシェの勝訴である。この判決ではデュヴェルネーとの間に交わした証書の有効性を認めたが、15000リーヴルの支払い命令は出されなかったため、再度手続きを取って、同年3月14日にこちらでも正式に命令を引き出した。だが、ラ・ブラシュ伯爵も負けてはいなかった。彼はこの法廷を欠席したうえで、高等法院に提訴し、審理中である事実を作って判決を実行できないように企てたのだ。こうして、場所を高等法院へと移した裁判の審理は続いていった。完全な決着がついたのは1778年のことである。この裁判の影響が、『セビリアの理髪師』の第2幕第8景の台詞に見られる。1773年1月3日、『セビリアの理髪師』がコメディー・フランセーズに上演候補作品として受理された。
当時のパリでは、あるひとりの女優があらゆる階級の男たちを惹きつけていた。名前をメナール嬢といい、宮廷貴族から町民まで誰もが先を競って彼女に近づきたがり、彼女のために大金をはたいていた。彼女が一通りの男から贈り物を受け取ったところへ、フランス十二大貴族のショーヌ公爵がその競争へ加わり、たちまちほかの男たちを蹴散らして彼女を自分の愛人とし、娘まで産ませるに至った。ショーヌ公爵は確かに血筋は抜群に良かったものの、異常な性格の持ち主であった。才気のある男ではあったが、判断力に乏しく、高慢であり、粗暴な男であった。なぜかはわからないが、この公爵はボーマルシェを気に入り、交際を結んでいたという。
普通にしていればそのまま幸福に過ごせただろうものを、判断力に乏しい公爵は、自ら余計なことをしでかした。ある日、公爵は愛人であるメナール嬢の家に親しい友人たちを招こうと考えた。その招かれた友人のうちの1人が、ボーマルシェであった。伝わっている資料から察するに、血筋以外に魅力のない公爵のどこを好きになったのかはわからないが、メナール嬢も彼の嫉妬と乱暴には辟易していたらしい。ボーマルシェの王侯貴族さながらの優雅な物腰にメナール嬢は惹かれたらしく、すぐに関係が始まったようだ。ところが、ボーマルシェも相変わらず軽率であった。彼はメナール嬢と自分の関係を言い訳しようと公爵に宛てて手紙を認めたが、その内容たるや、ひどいものであった。相手の嫉妬心を刺激する記述から始まり、延々と公爵を怒らせるような皮肉、言葉を並べ立て、最期に虫のいい提案で手紙を締めくくる。異常な性格の持ち主に、もっとも拙い内容の手紙を送ったのだ。
1773年2月11日、ついに問題が起きた。この当日の一件に関しては、ボーマルシェとその友人ギュダンが詳細に記録を遺している。この日の午前11時頃、メナール嬢の部屋に公爵がやってきた時、その傍にはギュダンとメナール嬢の女友達がいた。ギュダンと女友達は、公爵の暴力に怯えて、ボーマルシェの身を案じる彼女を慰めているところであった。この際、メナール嬢がボーマルシェを立派な紳士だと弁護したがために、公爵はとうとう激昂し、ボーマルシェと決闘を行うと断言して部屋を飛び出ていった。ギュダンはボーマルシェの家に事情を知らせに急行するが、その途中で馬車に乗るボーマルシェに出くわした。決闘に巻き込まれるから避難するように言うギュダンであったが、ボーマルシェは仕事(王室料地管理代官としての審理)があるから、それが終わったら伺うと答えて去っていった。
ギュダンは、帰宅途中に運悪くポンヌフのそばで、ボーマルシェの家に向かう公爵に捕まった。大柄な公爵に抵抗するすべもなく馬車の中に引きずり込まれ、その馬車の中でボーマルシェに対する恐ろしい脅迫を聞かされた。暴れまわって抵抗するギュダンを強引に抑え込もうとする公爵であったが、彼が大声で警察に助けを求めたために、公爵はそれ以上手出しできなくなった。ボーマルシェの家の前に到着すると、公爵は乗り込んでいった。ギュダンはこの時にすきを見て逃げ出したらしい。家にいた召使から主人の居場所を聞き出した公爵は、ルーヴル宮殿内の法廷に飛んで行き、そこで審理中のボーマルシェのもとへ現れ、法廷外へ今すぐ出るように要求した。公爵があまりにやかましいので、ボーマルシェは審理を一時中断して、小部屋へ彼を移動させた。その小部屋でおよそ大貴族にはふさわしくない言葉遣いでボーマルシェを罵る公爵であったが、しばらく待つように伝え、再び仕事に取り掛かるボーマルシェであった。
いざ審理が終わると、公爵が即刻決闘を迫ってきた。家に剣を取りに帰りたいとボーマルシェが告げても、ある伯爵を立会人に考えているから彼に借りればよい、と取り合わなかった。自身の馬車ではなく、公爵はボーマルシェの馬車に飛び乗ってある伯爵邸に出向いたが、ちょうど伯爵は出かけようとしているところであった。宮廷へ出向かなければならない、と立会を断られたので、公爵はボーマルシェを自邸に拉致しようとしたが、ボーマルシェはこれを断固として拒否し、自宅へ帰ることにした。相変わらず馬車に飛び乗ってきた公爵は、馬車内でもボーマルシェを徹底して罵倒したが、彼は余裕を見せて公爵を食事に招いたという。
自宅に着くと、公爵の激越な態度に脅える父親を落ち着かせて、ボーマルシェは2人分の食事を運ぶように召使に指示を出して2階の書斎に向かった。後を付いてきた召使に、剣を持ってくるように伝えたが、剣は研磨に預けていて手元にないという。取ってくるように言うボーマルシェであったが、公爵はそれを遮って「誰も外出してはならない。さもなければ殺す」と興奮気味に語る。なんとかして公爵を落ち着かせようと努力するボーマルシェであったが、その努力も虚しく、とうとう公爵は武力行使に打って出た。ボーマルシェの机の上に置いてあった葬儀用の剣に飛びつくと、自身の剣は腰につけたままでおきながら、剣を引き抜いて斬りかかってきたのである。ボーマルシェは剣が届かないように公爵に組みかかり、召使を呼ぶために呼び鈴をならそうとした。公爵が空いている片方の手で爪をボーマルシェの目に立てて顔を引き裂いたので、彼の顔は血まみれになった。なんとか呼び鈴を鳴らして、やってきた召使に向かって、公爵を抑えている間に剣を取り上げるように叫んだ。ここで乱暴な真似をすれば、後々になって「殺されかけた」などとうそをつくかもしれないと考えたようで、手荒な真似はさせなかったらしい。剣を取り上げられた公爵は、今度はボーマルシェの髪に飛びついて、額の毛をそっくりむしり取った。あまりの痛みに公爵を抑えていた手を放してしまったボーマルシェであったが、そのお返しに公爵の顔面に拳をぶち込んだ。
この際、公爵は「十二大貴族の一人を殴るとは何たる無礼か!」と口走ったらしい。すでに当時からこのような考えは時代錯誤であり、ボーマルシェ自身も「他の時であったなら、このような台詞には笑ったと思う」としているが、何しろお互いに節度を失って壮絶な殴り合いを繰り広げている真っ最中であった。そこへ、ボーマルシェの身を案じたギュダンが飛び込んできた。血まみれの顔をしているボーマルシェを見て驚いたギュダンは、彼を伴って2階へあがろうとしたが、怒り狂った公爵は自身の佩刀を抜き、突きかかろうとしてきた。召使たちが公爵に飛びついてなんとか剣をはぎ取ったが、頭や鼻や手に傷を負う者が出た。剣をはぎ取られた公爵は台所へ駆け込み、包丁を探しだしたので、召使たちはその後を追って殺傷能力のあるあらゆる道具を隠した。武器が見つからないことを悟った公爵は一人食卓に腰を下ろし、台所に準備されていたスープと牛の骨付き肉を平らげたという。ここでようやく警察が到着し、公爵とボーマルシェの乱痴気騒ぎは終わりを迎えた。この晩、ボーマルシェは包帯を体に巻き付けて、サロンに出向き、『セビリアの理髪師』の朗読やハープ演奏を行ったという。
当然、この騒ぎを裁く法廷が開かれた。貴族間の争いを裁く軍司令官法廷は、公爵とボーマルシェの邸宅に警備兵を置いて監視させ、両者を尋問した。この法廷とは別に、宮内大臣ラ・ヴリイエール公爵はボーマルシェに数日間パリを離れるように命令を出したが、ショーヌ公爵の怒りを恐れて逃げ出したと受け取られることを心外であると考え、この命令に従わなかった。結局、ショーヌ公爵の非を認め、ボーマルシェの行為を正当防衛と認める裁定が下され、公爵は王の封印状によって2月19日、ヴァンセンヌ牢獄にぶち込まれた。ところが、宮内大臣はこの裁定に不満があったらしい。ショーヌ公爵は先述したように、血筋の抜群に良い大貴族であった。その大貴族が牢獄に放り込まれているのに、貴族とはいえ平民出身の成り上がりが自由の身に置かれていることを問題視したのかもしれない。大臣は職務上、王の封印状を手に入れるのは容易であったから、それを手に入れて、2月24日にボーマルシェを牢獄にぶち込んだのであった。
この2人は、5月上旬に揃って出獄を許された。たとえ3か月程度とはいえ牢獄に放り込まれて充分懲りたのか、メナール嬢への恋心がずいぶん薄まったのか、いずれにせよ出獄後に楽しく食卓を囲み、和解したという。乱痴気騒ぎの原因となったメナール嬢は、公爵の暴力から逃げ出すために、聖職者や警察長官の助けを得て修道院へ駆けこんだが、その厳しい生活に2週間と耐えられなかったようだ。ちょうど公爵が牢獄にぶち込まれたことをこの頃に知ったようで、もう暴力に脅える必要なしと判断したのかもしれない。ボーマルシェはメナール嬢が修道院から抜け出したことを牢獄内で知り、手紙で修道院へ戻るように勧めているが、彼女はこれに従わなかった。
2月24日に牢獄に入れられてから、彼の関心はラ・ブラシュ伯爵との裁判にあった。伯爵がこれを絶好の機会ととらえ、高等法院の判事たちに自分の味方となるように働きかけを強めるに決まっていると考えたのであろう。早速、警察長官のサルティーヌに「進行中の裁判があるから、一刻も早く牢獄から出してくれるよう」手紙を書き、宮内大臣ラ・ヴリイエール公爵へ執り成しを頼んだが、無碍に断られてしまった。彼はこのような仕打ちに怒りを見せたようだが、宮内大臣が首を縦に振らない以上どうしようもなかった。3月20日、ある匿名の手紙が彼のもとへ届けられた。内容から察するに、ボーマルシェに好意的な人物の手によるものであろう。その手紙には「あなたがいくら権利を奪われたとして正義の裁きを求めても、宮内大臣の姿勢は変わらない。絶対王政下にあっては、権力者に赦しを請い、卑下した態度を示すことこそ肝要である」と認められていた。この手紙の意見を素直に聞き入れたようで、翌日の21日に宮内大臣へ彼が送った手紙には、匿名の手紙に書かれていた通りの態度が示されている。大臣はこの手紙を受け取り、ボーマルシェは充分懲りていると判断したのか、厳しい条件付きではあるが外出許可を与えた。早速判事たちに面会を求めてパリを歩き回ったボーマルシェであったが、思い通りの成果を挙げることはできなかった。
デュヴェルネーと証書を交わした、ちょうど3年後の1773年4月1日、高等法院の報告判事としてルイ=ヴァランタン・グズマン(ゴズマン、ゴエズマンとも)が任命された。当時の高等法院においては、この報告判事の下した結論に基づいて判決が決定されるのが一般的であったから、賄賂は厳禁であったが、事前に判事にあって懐柔しておくのが一般的であった。ボーマルシェも早速グズマンに会って自身の正当性を主張しようとしたが、会うことすらできなかった。ラ・ブラシュ伯爵の判事への工作が相当に浸透していたのかもしれないが、これにはグズマンという男自体の考えも絡んでいた可能性がある。この男は、遺されている資料から判断するに、融通の利かない性格で、容姿も醜い男であったという。顔面神経痛という持病がそれに拍車をかけており、その対照的な存在であるボーマルシェに個人的な恨みを抱いていたのかもしれない。
ボーマルシェは何度もグズマンに会いに行ったが、一度も面会を果たせないままであった。彼は途方に暮れ、妹の家での会合において不安を口にした。その際、そこに居合わせた知人ベルトラン・デロールから「本屋のルジェに頼んではどうか」との提案を受けた。ルジェはグズマンの著書の販売を手掛けており、グズマン夫妻と親しい間柄であったからだ。実際、ルジェを通してのグズマン夫人への面会申し込みは有効であった。厚かましくも彼女は、面会の条件として100ルイ(現在の日本円にしておよそ45000~110000円程度)を要求してきたが、必死になっていたボーマルシェはその要求を呑むことにした。こうしてボーマルシェはグズマン判事への面会を果たした。判事は「一通りの書類を検討した」と彼に述べたが、やはりこの男はボーマルシェに好意的でなく、筋の通らない論法や、傲岸不遜な態度、軽蔑的な口調を隠そうともしなかった。ボーマルシェは彼を論破するべく、判事への反論を文書化して再度面会を求めたが、またも夫人は贈り物を要求してきた。この際にはダイヤモンドを散りばめた時計と15ルイが贈られたが、この時にこれらの贈り物を要求したという事実が、グズマン判事夫妻の身を破滅させることになるのであった。
要求の品物を与え、面会の約束を取り付けたにもかかわらず、ボーマルシェはグズマン判事邸で門前払いを食らってしまった。約束の不履行を抗議するなどして、なんとか面会しようとしたが、結局果たせないままに判決を迎えた。1773年4月6日、高等法院での判決が下った。ボーマルシェの敗訴がこれで決定し、グズマン夫人は約束不履行のために、15ルイ以外の贈り物をすべて返却した。この敗訴は、ボーマルシェを相当に追い詰めた。彼は恩人を裏切って証書を偽造したペテン師ということになり、裁判所からは法定費用を含めておよそ6万リーヴルの罰金を科せられた。勝訴した伯爵によって財産と収入は差し押さえられ、そのあおりを受けて家族は家を追い出されて路頭に迷っていた。しかも、ボーマルシェは外出許可があったとはいえ、いまだ牢獄につながれている囚人のままであった。判決直後は絶望に打ちひしがれていたボーマルシェであったが、やがて立ち直り、四面楚歌の状況を打開しようともがき始めた。
なぜグズマン夫人が15ルイだけ返還しなかったのか、ボーマルシェはその点が気になっていた。15ルイは書記に与えるためとして要求された金であったが、自身でも以前、友人を介して書記に10ルイを渡そうとしており、中々彼が受け取ろうとしなかったことを知っていたからだ。10ルイでさえ受け取るのに渋るような男が、それに追加して15ルイを受け取ることなどあるだろうか?このように考えたボーマルシェは、早速手紙を認めて返還要請を行うが、夫人からは「書記に与えるために要求した金額であるから、返還の必要はない」との返答があった。この返答を受けて書記に確認した結果、15ルイは書記に渡っていないことが発覚した。
こうしてグズマン夫人の私利私欲から出た行為が明らかとなったわけだが、初めからこの点を利用して反撃しようと考えていたわけではなかったらしい。15ルイといえば精々現在の日本円にしてもおよそ5、6000円程度の少額であり、夫人はそれよりはるかに高額なダイヤモンドを散りばめた時計などをしっかり返還しているのも事実なのであって、この程度の金額に執着するはずもないと考えていたようだ。この件に関して、どのように対処すべきか本屋のルジェに手紙を宛てているが、彼は無礼なことに返事をよこさなかった。それまでボーマルシェは「15ルイ程度の額なら諦めても良いし、ルジェの顔を立てた対応をしても良い」と考えていたようだが、この一件で態度を一変させ、徹底的にこの件を利用することにした。
1773年5月8日、ボーマルシェはついに釈放された。いざ自由を手に入れると、彼はパリのサロンを巡り歩いて、自身が体験したグズマン判事夫妻との一件を面白おかしく話のネタにして見せた。寝耳に水の反撃に驚いたグズマン夫妻は、ボーマルシェを完全に社会的に抹殺すべく、止めを刺そうと動いた。虚偽の陳述書をでっちあげてルジェに署名させ、それを証拠として高等法院に贈賄未遂罪でボーマルシェを告訴したのである。それだけでは不十分と考えたのか、ルジェの友人であった劇作家の証言書を補強として提出するなどの徹底ぶりであった。6月21日、審理が開始され、グズマン判事夫妻を相手にしたボーマルシェの闘争が始まった。ルジェはたしかに上得意客であったグズマン判事に圧されて虚偽の陳述書作成にかかわったが、良心の呵責からその不法行為に苦しんでいた。妻にすべてを打ち明けて相談した結果、裁判で真実を述べるべきと諭され、7月上旬になって法廷で陳述書が虚偽であることを正式に認めた。その結果、ルジェは1か月近く身柄を拘束されて尋問に応じなければならなくなり、ボーマルシェを初めとする関係者も度々召喚命令を受けて、出頭する面倒をこなさなければならなくなった。
この当時の高等法院の慣例では、贈賄罪の審判は非公開で行われ、判決理由の公表も義務ではなかった。しかも、死刑を除くありとあらゆる刑罰の適用が可能であったから、法曹界がその一員であるグズマンを救おうと思えばそれが可能であったし、ボーマルシェの身柄などどうにでも片づけられるのであった。このように、ボーマルシェが仕掛けた闘いは自身にかなり不利な立場でのものであったわけだが、彼にはそれ以外の方法は残されていなかった。すでに控訴審に置いて敗訴が決定した以上、何も手を打たなければ莫大な罰金やら賠償金で立ち直れないほどの打撃を被ってしまう。独り身ならまだしも、彼は父親や妹などの家族を抱える一家の長であり、それだけに勝負に出るほかなかったのだ。
とはいえ、正攻法でまともに闘っては勝ち目が薄い。そこでボーマルシェが考え出した対抗策は、その文才を活かして世論を味方につけることであった。裁判に世間の注目を集めれば、秘密裏に審議を行うわけにもいかなくなるし、判決理由も非公表とはいかなくなるからだ。こうした考えに則って、1773年9月5日、ボーマルシェはこの事件に関する最初の著作『覚え書』を出版した。この『覚え書』は40ページに満たない小冊子で、内容はパーリ=デュヴェルネーとの契約にまつわること、グズマン判事夫妻との一件、裁判でのルジェの偽証などの事実報告と、敵対者たちへの反論で構成されており、これらを喜劇として面白おかしくまとめたものであった。この著作はたちまち話題となり、宮廷貴族から町民に至るまで、あらゆるところで評判になったという。
これに勇気づけられたボーマルシェは、同年11月18日に『覚え書補遺』を発表した。この作品の出版目的は、グズマンが主張する贈賄未遂の非難に対する自身の弁解を世間に広く知らしめることにあった。実際、この裁判の争点は「100ルイとダイヤモンドを散りばめた時計は、何の目的で贈られたのか」の一点のみであって、ボーマルシェとグズマン夫妻はこの点を巡って激しく対立した。ボーマルシェが『覚え書』の公表で世間に広く主張を訴えたのと同様に、グズマン夫人やその取り巻きたちも文書を公表し、激しい誹謗中傷を浴びせた。ところが、肝心のグズマン判事は沈黙を守っていた。遺された資料から判断するに、グズマン夫人は考えの足りない愚かな女であった。夫を庇おうとするあまりに敵対者に有利な証言を行ったりしているわりに、彼女の名義で発表された文書はやたらとラテン語や法律用語の出てくる内容で、明らかに教養ある人物によって認められたものであった。これはおそらく判事が書いたのであろう。これ以外にも先述したように、ルジェを使って虚偽の陳述書を作成したり、黒幕としてうごめいてはいるが絶対に自分の手は汚さない。あくまで被害者として同情を誘う戦略であったのか、他人を盾として安全圏に身を置くつもりであったのか、真意はわからないが、結局この行為は無駄であった。12月23日、グズマンにも召喚命令が発せられ、厳しい尋問が行われることとなったのである。
12月20日、ボーマルシェはこの件に関する3作目の著作『覚え書補遺追加』を発表した。夫妻の取り巻きたちや、グズマン夫人名義で発表された文書に詳細な反論と嘲笑を加え、贈賄罪の疑いに対して決定的な反駁を行った。以下はその抜粋である:
この反論に加えて、ボーマルシェはグズマン判事の人間性を暴露するエピソードを『覚え書補遺追加』に加えて発表した。高潔を自負するグズマンはかつて、町民夫婦の娘の洗礼に名付け親として立ちあった際に、偽名と偽住所を用いて受洗証にサインをしていたのだった。それだけにとどまらず「名付け親として養育費を援助する約束を全然履行してくれない」との夫婦の訴えまでもが、添えられていた。カトリックの重要な秘蹟である洗礼に立ち会うという大役を果たしながら、虚偽の事柄を用いて洗礼を穢したという事実は、世間がグズマンの人間性に厳しい目を向けるのに十分すぎる内容であった。
すでにボーマルシェに圧倒的有利な状況が形成されていたが、彼は反撃の手を緩めず、1774年2月10日に『第四の覚え書』を発表した。この覚え書に、スペイン滞在の際の一件を記した『1764年、スペイン旅行記断章』を付している。この作品では法廷描写をメインに、グズマン夫妻の言動を徹底して滑稽に描き、嘲笑し、徹底的にぶちのめす、世間に大受けした冊子であった。3日で6000部が完売し、ボーマルシェは時の人となったのである。彼の人気は、町民の間だけにとどまらなかった。ルイ15世の愛人デュ・バリ夫人は、この作品のボーマルシェとグズマン夫人の法廷でのやり取りを、滑稽な芝居に書き換え、ヴェルサイユ宮殿で何度も上演させて楽しんだという。
第四の覚え書は、文学者や作家からも高い評価を獲得した。ヴォルテールはグズマン夫人の取り巻きと親しかったこともあって、はじめのうちはボーマルシェに好意的でなかったが、発表された『覚え書』や当事者たちの反応を自身で精査するうちにボーマルシェに傾いていき、『第四の覚え書』で完全に彼を支持するに至った。ジャック=アンリ・ベルナルダン・ド・サン=ピエールはボーマルシェをモリエールに比肩する存在であると褒めちぎっているし、ゲーテは『スペイン旅行記断章』に触発され、戯曲『クラヴィーゴ』を制作したと『回想録』において述べている。彼らだけでなく、特に女性たちはボーマルシェを熱烈に支持した。こうして、世論を味方につけるという当初の目的は見事に果たされたが、問題はこれが高等法院の連中に通じるかどうかであった。
1774年2月26日、判決の日を迎えた。この日の裁判は朝6時から開廷された。これは異例の早さであったが、ボーマルシェの策略によってこの裁判並びにその判決に世間の注目が集まってしまったために、高等法院の担当者たちは彼らからの非難を恐れたのだろう。ところがパリ市民たちは続々と集まってきた。すでに午前8時には高等法院の広間は人で埋め尽くされていたらしいが、一向に判決が下される気配がない。判決当日になっても、判事たちはいまだに意見を統一できておらず、激しく議論していたのであった。12時間にわたる議論の末、ついに判決が下された。「グズマン判事は高等法院出入り差し止め。グズマン夫人は譴責処分、15ルイの返却。ボーマルシェは譴責処分と『覚え書』の焼却。」という内容であった。痛み分けのように見えて、実質ボーマルシェの勝利であったが、この判決を聞いた広間の市民たちはすぐに怒りだした。判事たちはそれを予想していたので、各々がこっそり法廷から逃げ帰ったという。ボーマルシェは大衆に温かく迎え入れられ、コンチ大公やシャルトル公爵は彼のために豪勢な宴を開催したとのことである。
『覚え書』の発表は、勝利だけでなく、運命の出会いをももたらした。この作品を読んで感動したスイス系フランス人女性マリー=テレーズ・ヴィレルモーラスは、ボーマルシェと面識はなかったが、彼に会うことを熱望した。2人は音楽を通じて仲を深め、そして恋に落ちたという。彼らは子を儲けたが、ボーマルシェは結婚に関して極めて慎重になっていたから、正式に結婚したのは1786年のことであった。実に12年後のことである。
この判決によってグズマン判事は失脚し、市井に溶け込んで生活していたが、20年後のフランス革命の折に国家反逆罪として断頭台の露と消えた。1794年7月25日のことである。マクシミリアン・ロベスピエール失脚の2日前のことであった。アンドレ・シェニエと同じ囚人護送車に乗せられ、同じ日に処刑されたという。
判決後の興奮から覚めると、ボーマルシェは自身に下された「譴責処分」の重さを実感せざるを得なかった。この判決で言う「譴責処分」とは、現在で言う公民権剥奪に相当する重いものであった。この処分によって公職から追放され、法的にもまともな扱いを受けることはできなくなる。厳しい状況に置かれたボーマルシェに対する、警察長官サルティーヌの助言は有効であった。言動を慎むように忠告し、「国王陛下がこの件に関して、何も書かないようお望みである」ことを伝えたのである。ボーマルシェはこの助言を守るべく、しばらくフランスを離れてイギリスへ渡ることにした。その道中、彼は友人である侍従長ラボルドに国王への執り成しを願うために手紙を送り、この目的は見事に達せられた。ボーマルシェの謹慎を評価した国王は、彼をヴェルサイユ宮殿に呼び戻し、グズマン判事夫妻との闘争で見せた交渉能力を自分が抱えているある問題の解決に利用しようと考えた。
この頃、国王ルイ15世は悩み事を抱えていた。イギリス在住のフランス人テヴノー・ド・モランドに、愛人であるデュ・バリ伯爵夫人の醜聞を種に強請られていたのである。当時、この手のあくどい行為は一種の産業ともいえるほどイギリスで盛んになっており、その書き手はもっぱらフランス人亡命者であった。ほとんど誹謗中傷に近い内容であったが、これらの冊子は金を払って出版をやめさせることが可能であり、書き手もそれが目的であった。モランドは金になりそうな相手を見つけては中傷冊子を発行するという性質の悪い行為を繰り返しており、デュ・バリ夫人に目をつけると、彼女とルイ15世の間柄を暴露する文書を発行すると通知した上で、フランス王室の出方を見極めようとしていたのであった。
ルイ15世も、何も手を打たなかったわけではない。イギリス王にモランドの身柄引き渡しを求めたが、折悪く七年戦争の影響で、フランス-イギリスの二国関係は極めて冷ややかな関係にあったために実現しなかった。イギリス政府からは「モランドを保護する気はないため、フランス側で彼の身柄を秘密裏に抑えるなら黙認する。ただし、国民感情を逆なですることは避けてもらいたい」という返答が帰ってきた。この返答の通りに、ルイ15世はモランドの身柄を抑えるべく警吏をイギリスに派遣したが、この動きがどこからかモランドに伝わり、イギリスの新聞にすっぱ抜かれてしまった。対応に手間取っているうちに、モランドの用意した暴露文書が流通寸前まで来ていた。いよいよ焦った国王は、交渉役としてボーマルシェに白羽の矢を立てたのである。
ボーマルシェは、本名カロン( Caron )のアナグラムであるロナク( Ronac )という偽名を名乗り、王の密命を帯びてロンドンへ向かった。この仕事を成功させれば、国王の感謝と庇護と言う、絶対王政化ではこれ以上ない強力な武器を手に入れることができる。ボーマルシェは、ロンドンに到着すると早速モランドとの交渉に入った。交渉はかなり円滑に首尾よく進んだようで、文書の破棄とこの件に関する完全な沈黙を条件として、2万フランと年金4000フランの提供で合意した。ボーマルシェとモランドはずいぶん気が合ったようで、その後も文通を交わしている。見事に任務を遂行してフランスへ帰国したボーマルシェであったが、運の悪いことに帰国したころには国王ルイ15世の容態が悪化しており、この一大事を前に怪文書事件などはもはやどうでもいい扱いになっていた。そのまま5月10日にルイ15世が亡くなると、その死を純粋に悼む気持ちもあっただろうが、期待していた復権のきっかけを逃したボーマルシェは気を落としたという。
ルイ15世が亡くなったことで復権の手がかりを失い、気を落としたボーマルシェであったが、すぐに次の策を見つけ出した。ユダヤ系イタリア人のグリエルモ・アンジェルッチなる男が、イギリスでルイ16世夫妻を中傷する怪文書を制作していることを聞きつけ、これを利用しようと考えたのだ。ルイ16世に宛てて「自身が父王のためにイギリスに赴いて使命を完遂したこと、その件に国王陛下(ルイ16世)も重要な関係があること」を認めた手紙を送り、警察長官のサルティーヌにも同様の内容で手紙を送って危機感を煽った。その結果ルイ16世に謁見を許され、すぐに中傷文書を闇に葬るように、モランドの時と同様の命令を受け、王の私設外交官となって再びイギリスへ渡ったのである。
ロンドンには、かつてスペイン滞在中に知己を得たロシュフォード卿が政府高官として健在であった。ボーマルシェは彼を通してこの使命を果たそうと考えたようだが、ロシュフォード卿の理解を得られず、早速行き詰ってしまった。困ったボーマルシェは、国王の命令書の送付を要請した。その文面まで提案していたり、サルティーヌに同様の手紙を送りつける徹底ぶりであった。サルティーヌ宛ての手紙にはアンジェルッチの怪文書の調査報告も付されている。ボーマルシェの報告が全部事実であったかどうか疑問が残るが、若き国王ルイ16世は「王妃の名誉が穢されようとしている」との報告を受けて冷静に思案を巡らせるほどの器量の持ち主ではなかった。慌てた国王は、ボーマルシェの要請に応えて、彼の提案した文面の命令書に署名を行った。
こうしてボーマルシェはアンジェルッチとの交渉に入ったが、モランドの時とは違ってなかなか円滑には進まなかった。アンジェルッチが高額な金銭を要求してきたため、あれこれ交渉を重ね、およそ35000リーヴルの支払いで合意に至った。原稿と印刷済みの4000部の文書がロンドンで焼却され、ついでもう一つの怪文書発行予定地であるアムステルダムに2人一緒に赴いて、同地でも出版予定の冊子を焼却することとなった。ところが、突然アンジェルッチが金と怪文書の原稿コピーを持ってニュルンベルクに逃走し、そこで怪文書を発行する動きを見せた。ボーマルシェはこの裏切りに激怒し、すぐさま後を追った。
ここまでの経緯は事実として考えてよいようだが、ここからの経過は資料不足もあって、虚実織り交じっていると考えられる。
8月14日の夕方、ニュルンベルクから遠くないノイシュタットの町役場に、不思議な客を乗せたという駅馬車の御者ヨハン・ドラツが現れ、証言を残していった。それによれば、ロナクと名乗る男はノイシュタット近くの森を通過中、駅馬車から降りて剃刀と手鏡を持ち、森を出たところで待つように言い残し、森の中へ消えていった。その指示に従って待っていると、斧を担いだ樵3人の後ろから、ハンカチで手に応急処置を施したロナク氏が現れたという。ハンカチには手がまみれ、首筋から血が流れているのが見えたのでどうしたのか問うと、盗賊に撃たれたと答えた。銃声を聞いていないドラツは、剃刀で自身を傷つけたのだろうと判断し、それ以上深入りしなかったという。
このロナク氏はなぜか近隣の自治体ではなく、翌日になってニュルンベルクの当局に出頭して自身の被害を訴え出た。その被害報告では盗賊の容姿が詳細に語られ、2人の盗賊の名前としてアンジェルッチ、アトキンソンという名前を挙げられている。アトキンソンとは、怪文書を発行しようとしていたアンジェルッチの用いていたイギリス名であるから、このロナク氏がボーマルシェであることは間違いないし、この被害報告の提出動機も明らかである。アンジェルッチの身柄を公権力によって抑え、あわよくばフランスへ連行しようと考えたのだろうが、それはともかく、1人の人間を2人に分割したこの被害報告には無理があった。なぜこのようなことをしたのか、この件に関してはドラツの証言とボーマルシェの手紙しか資料が存在しないため、確かなことはわからない。ボーマルシェはこの件について、自身を英雄のごとく劇的に描いている。
8月21日、ボーマルシェはシェーンブルン宮殿に赴き、女帝マリア・テレジアとの面会を求めたが、取次を拒否されてしまった。仕方なくボーマルシェは秘書官に「ご令嬢のマリー・アントワネットの名誉が穢されようとしているから、その件をお伝えしに参りました」とのメッセージを託して引き上げた。このメッセージに疑問を抱いた女帝は、側近の伯爵にボーマルシェと接触させ、その伯爵の同席のもとに翌日になって謁見を許した。この席の様子はボーマルシェがフランス帰国後にルイ16世に提出した報告書で仔細に語られており、この席でマリー・アントワネットへの忠誠心、これまでの顛末、偽名を用いた理由を語り、逃走したアンジェルッチから中傷文書を奪い取ったことを伝え、この男の逮捕を強く進言したという。
ところが、女帝とその側近たちはボーマルシェの話を全く信用していなかった。彼らはそもそもアンジェルッチなる男が存在するのか、そこから疑いをかけていたようだ。ボーマルシェは軟禁状態に置かれ、厳しい監視下のもとで過ごさなければならなくなった。宰相カウニッツは、ドラツの証言の調査を開始するとともに、フランス駐在オーストリア大使を通じて、フランス政府にボーマルシェの社会的信用を尋ねている。実際のところ、アンジェルッチという男の存在は長らく証明できなかった。1887年になってようやく、ボーマルシェの手紙中にこの男の名前があるのが確認されたため、今日においては「ボーマルシェ≠アンジェルッチ」であることは確実である。女帝に謁見を求めた目的として「その感謝を獲得して、フランス社会での自身の復権に利用したのではないか」との疑いもかけられたが、文書差し止めには成功しているのだから、そのまま帰国すれば復権のための計画は首尾よく運ぶに違いないので、これも単なる疑いの域を出ていない。
このように考えると、「アンジェルッチがニュルンベルクに逃走し、それを知ったボーマルシェが後を追って彼を捕まえ、持っていた文書のコピーを奪い取った」ということは間違いないと思われる。ただ、ドラツの証言でも少し触れられている「盗賊に襲われた」という件についてはかなりの疑問が残る。結局はっきりした事実はわからないのだが、研究者の中でもこの件についての見解は割れている。全くの虚偽、狂言と断じる研究者もいるが、ボーマルシェ自身の証言を全面的に支持する者もいる。おそらく、アンジェルッチから怪文書のコピーを奪い取ったボーマルシェが、自身の行為をもっと美化しようとしてでっち上げたのだろう。女帝マリア=テレジアに自身を売り込み、醜聞からブルボン王室を救ったとして箔を付ければ、自身の復権に大いに役立つからだ。しかし、それが通用しなかったことは先述したとおりである。女帝と宰相カウニッツの疑いを受けて勧められていた調査の結果、フランス政府からの身元保証もあって、ボーマルシェは軟禁状態から解放され、10月2日に帰国した。この件に関するカウニッツの書簡が残されているが、それによれば、最後までボーマルシェは信頼されていなかったようだ。
1775年、またしてもボーマルシェは王の密命を受けて活動しなければならなくなった。デオン・ド・ボーモンという男が、外交上の書類、故ルイ15世の書簡を有していることが判明したためである。この男が持っていた文書の中には、ルイ15世が密かに計画していたイギリス上陸作戦計画書もあったらしく、フランス政府としては絶対にこれらの文書を流出させるわけにはいかなかった。
デオン・ド・ボーモンという男は、1728年生まれで、士爵の称号を持っていた。若い時から女性と間違えられるような美貌の持ち主であったらしく、ルイ15世の命令で女装してロシア宮廷に仕え、エカチェリーナ2世の語学教師を務めたという。1763年にはイギリスで特命全権公使として国王の密命を帯びて工作を行ったが、当時のイギリス駐在フランス大使ゲルシー伯爵と激しく対立し、彼を失脚させる原因を作った。ゲルシー親子の恨みを買ったため、デオンも特命全権公使の地位を剥奪されたが、国王は彼の能力を高く評価していたため、年金を与えてそのままイギリスに滞在させていたのであった。この頃から常に女装し始めたらしく、その変装は、彼の性別が賭けの対象となるほど完璧なものであったという。
ボーマルシェは1775年4月末、一時的にロンドンに滞在していた。デオンはこの情報を掴み、ボーマルシェに接触して、すでに受けている年金に加えて30万リーヴルを要求する意志があることを告げた。デオンは、ボーマルシェが女性に優しいこころを持っていることを看破していたようで、そこにつけ込むことに見事に成功した。ボーマルシェは、内務大臣に昇進していたサルティーヌにデオンの要求を伝え、サルティーヌは外務大臣ヴェルジェンヌに話を通して、ボーマルシェ宛に交渉依頼状を送付した。これが正式な交渉となるのは、8月末のことであった。
デオンはそれまでのモランドやアンジェルッチとは違って、かつては特命全権公使を務めた貴族であるから、ボーマルシェは特に注意深く彼を扱った。金銭条件は当然として、特にデオンが拘ったのはフランスへの安全な帰国であった。デオンは、ゲルシー親子と対立した結果始まったイギリス滞在にうんざりしており、国王の帰国許可と身の安全保証を要求したのだった。このことを知らされた外務大臣は、ゲルシー親子の恨みの深さを理由に難色を示したが、「デオンが女装する条件で」帰国を容認すると返答してきた。ボーマルシェはこの奇策に乗っかって交渉を行い、11月4日、正式にデオンとの合意に至った。その合意では、デオンに「所有する書類の全ての引き渡し、ゲルシー親子への法的追及の放棄、女装の徹底」を約束させる代わりに「12000リーヴルの終身年金とロンドンでの負債の会計監査」を約束している。この奇妙な合意は、12月になってルイ16世の承認を受けて正式に発効された。合意成立後、ボーマルシェがデオンを一貫して女性として扱っていることから、デオンを本当に女性であると思っていたとか、デオンと関係を持ったとか推測する者もいるが、1775年にデオンはすでに47歳であり、いくら昔はとびきりの美貌を持っていたとはいっても、現実的な考えであるとは言えないだろう。このデオンとの交渉を最後にボーマルシェは王の私設外交官という役目から解放された。
王の密命を帯びてデオン・ド・ボーモンと交渉に当たっていた1775年は、アメリカ独立戦争の勃発した年でもあった。当時のフランスは、七年戦争での敗北をいまだに引きずっていた。この戦争で100万人近い人員を失い、大量の領土を奪われた挙句、屈辱的な譲歩を強いられていたためである。その結果、イギリス海軍は太平洋の制海権を掌握し、まさに世界最強として実力を誇示していたのだ。
イギリスに滞在していたボーマルシェは、デオンとの交渉にのみ専念していたわけではなかった。交渉に当たりつつも、イギリスの外務大臣ロシュフォード卿や、首相であるフレデリック・ノースやロンドン市長ジョン・ウィルクスの邸宅に出入りして、反乱軍に共鳴する人間と通じ合い、アメリカ独立戦争に関する情報を得ていた。その結果、この独立戦争がどのようになろうが、いずれにしても「フランスはアメリカを極秘に支援するべき」との考えに達した。1775年9月ごろから、ルイ16世と外務大臣ヴェルジェンヌに宛てて、アメリカを支援するように説得する手紙を何通も送っている。
その内容を簡潔に要約すると、「フランスはアメリカを支援するべきである。もし反乱軍が敗北したならば、彼らはただ傍観していたフランスを恨みに思って、イギリスと結託して攻撃してくるだろう。その結果、再び大損害を被って、ますますイギリスとの国力の差が広がることとなる。そうならないためにもフランスは反乱軍を支援しなければならないが、正面切ってイギリスと戦う余裕はまだないから、その準備をしつつアメリカを極秘に支援しなければならない。そのためにイギリス本土で正確な情報を獲得できる人間が必要だが、その任に私よりふさわしい人間はいない。」となる。外務大臣ヴェルジェンヌもこの意見に納得したようで、国王ルイ16世に進言し、ボーマルシェを正式にその任に当たらせることにした。こうしてボーマルシェは、単なる王の私設外交官から、外交顧問となったのである。
ボーマルシェはこの任務に特に意欲的であったようで、イギリスの政権与党のみならず、野党など幅広い人物から情報を獲得しようと努めた。フランスに帰国するたびに国王の側近大臣に情報を伝え、米英の分断政策を展開するように進言したが、いくら大臣とはいえ、決裁権を持たない人間相手では一向に埒が明かなかった。そのため、やがて国王に直接手紙を送り、丁寧に、しかしけしかける様にアメリカを支援するよう提案を行ったが、国王の態度は煮え切らなかった。だが、それも当然といえば当然であるだろう。いくら植民地側に反乱を起こす大義があったとしても、他国であるフランスがそれを公に認めて支援を行えば、それはすなわちイギリスへの宣戦布告と同様の意味を持つ。先述したように、この当時はイギリスはまさに世界最強であったし、フランスは国力を弱めていたから、攻撃されればひとたまりもなかったのである。ボーマルシェもこの点は承知していたようで、1776年2月29日の手紙ではイギリスの情勢を紹介し、反乱軍がフランスの支援がないことに絶望しかかっていると様子を伝えた上で、火中の栗たるアメリカ支援任務は自分が引き受けることを主張した。
こうして、正式にアメリカ支援の任務に当たることになったボーマルシェであったが、やはり慎重な姿勢を崩さないフランス政府は条件を付けてきた。アメリカ反乱軍を支援はしたいが、イギリスを刺激するのは国家存亡に関わる。そのため政府としての支援ではなく、単なる個人的投機として誰の目にも映るようにしてもらいたい、というのがその条件であった。そのための方法も詳しく指定されており、それによれば「ブルボン王家と親しく、利害関係のあるスペイン王家とフランス政府からの200万リーヴルと、それに民間から出資者を募って集めた資金を基に商社を設立し、アメリカ反乱軍に必要な武器弾薬などを提供する。フランス政府が武器を調達して商社に売り渡すが、反乱軍には金ではなく、物を要求しなければならない。」というものだった。
1775年9月6日、高等法院の判決によってボーマルシェは正式に社会的復権を果たした。商社設立のための障壁は完全に取り除かれたが、その設立のために必要な民間出資者がなかなか集まらなかった。それでもなんとか資金を集め、同年10月に「ロドリーグ・オルタレス商会」なる名前で商社を設立した。こうして、ボーマルシェは船や武器弾薬、義勇軍集めに奔走するなど、商人として動き始めたが、いささか派手に活動しすぎた。イギリス側が彼の動きを察知し、外務大臣ヴェルジェンヌに猛抗議してきたのである。いくら民間業者である(そのように装っているだけだが)とはいっても、外交関係があるイギリスからの猛抗議を無視できなかったフランスは、沿岸の港に船員の乗船と出港禁止を発令した。ボーマルシェの用意していた3隻の船のうち、2隻はこの命令によって足止めを食らったが、一番多く支援物資と人員を積んだ1隻は発令の直前に出港していた。ところが、この船に乗り込んだフランス義勇軍の司令官が、船の乗り心地の悪さを理由に他のフランスの港に立ち寄るように船長に求めたため、結局他の2隻と同じように足止めを食らった。この顛末を聞いたボーマルシェは激怒し、この司令官を船から降ろした上で、ヴェルジェンヌと交渉を重ねた。その結果、この3隻の船は1777年初頭、密かにアメリカ大陸へ向けて出港し、イギリスの軍艦に見つかることもなくアメリカへ無事到着した。初めての支援物資が届いたことを知ったアメリカ人たちは、熱狂したという。
ところが、ボーマルシェはミスを犯していた。武器弾薬の代わりとして大量の物産を積んで帰ってくるはずの3隻の船は、空っぽのままで帰ってきたのである。これには、ボーマルシェが関わったアメリカ人、アーサー・リー、サイラス・ディーン、アメリカ建国の父として高名なベンジャミン・フランクリンが密接に絡んでいる。
最初にボーマルシェと知り合ったのは、アーサー・リーであった。彼はヴァージニア州生まれであったが、イートン・カレッジで学び、エジンバラ大学を出たのち、ロンドン市長ウィルクスの下に出入りしていた。そこでボーマルシェと出会い、アメリカの秘密使節として彼と交渉するようになったのだ。交渉の初期段階においてボーマルシェに情報を流していたのはこの男であった。だが、いささかその性格に難があった。嫉妬深い性格で、恨みを根に持ち、猜疑心の強い男であったらしい。
1776年7月4日、独立を果たしたアメリカは、サイラス・ディーンとベンジャミン・フランクリンを代表としてパリに派遣した。遅れてリーもパリに到着したが、その頃にはすでに彼らはボーマルシェを通じてフランス政府との交渉で実績を挙げつつあった。このような状況を見て、リーは激しく焦り、嫉妬心に駆られた。1777年1月3日付のアメリカ議会へ宛てた手紙で、ボーマルシェの約束不履行をなじり、武器弾薬に見返りに何も支払う必要はないとの報告を行っていることでそれは裏付けられるだろう。だが、ボーマルシェにも非はあった。彼はリーをさほど信頼しておらず、その交渉も表面的でしかなかったと手紙に認めている。ボーマルシェが交渉相手としてサイラス・ディーンを信頼し、彼を選んだためにリーは立場を失い、ボーマルシェに恨みを抱いたのである。これだけで済めばよかったのだが、今度はサイラス・ディーンが原因になって、他にも恨みを買うことになった。ディーンがフランスに立つ際、仕事を円滑に進めるために、ベンジャミン・フランクリンはデュブール博士という男に宛てた推薦状を与えていた。デュブールという男は、フランクリンとの関係を利用してボーマルシェより前からアメリカに武器を提供していたが、彼の登場によってその商売が危うくなっていた。ディーンは、同じ商売を手掛けるボーマルシェとデュブールを天秤にかけた結果、ボーマルシェの方が交渉相手として有力であるとの判断を下した。こうしてデュブールの恨みをも買うことになったのである。この結果、ボーマルシェはフランクリンとあまり良い関係を構築できなかった。デュブールが悪評を吹き込んでいたのかもしれない。
こうして、ボーマルシェはディーンを相手に交渉を進め、1776年7月下旬には交渉をまとめた。「武器弾薬の代わりに、ヴァージニアなどの煙草を引き渡す」という内容であったが、ボーマルシェは詰めが甘かった。この交渉成立のおよそ1か月後にフィラデルフィアの議会に手紙を送っているが、良い印象を植え付けようとしたのか、アメリカ独立への熱烈な共感を強調したいあまりに、それだけが際立つ文面となってしまい、肝心の商売の話をうやむやにしてしまったのである。議会がこれを誤解したのか、つけ込んで利用したのかはわからないが、何にせよその結果は先述したとおりである。当てが外れたボーマルシェは商社の経営に行き詰ったが、幸いなことに外務大臣ヴェルジェンヌが100万リーヴルを追加融資してくれたおかげで、何とか破滅せずに済んだ。
1778年2月6日、それまで慎重な姿勢を崩さなかったフランス政府も、ボーマルシェの報告を分析したり、フランクリンなどとの交渉の進展を見て、パリにて仏米友好通商条約と仏米同盟条約を締結した。こうしてフランスとイギリスは戦争状態に突入し、ボーマルシェの商社は純粋な民間業者となった。彼は最初の失敗を教訓として、助手であったデヴノー・ド・フランシーをアメリカに送り、貿易業者としてアメリカ新政府と正式に契約を交わすに至った。1779年1月には、アメリカ議会の要請によって発せられた議長ジョン・ジェイ名義の感謝状を手に入れるほどであった。この感謝状には「これまでに合衆国支援のために被った負債の支払いを速やかに行う」と記されていたが、その負債の巨額さもあって、ボーマルシェの生前はこの通りに履行されなかった。1835年になって、ボーマルシェの相続者たちに80万フランが贈られてようやく片付いたのであった。
アメリカ独立戦争に絡むこの貿易では、巨額の負債が足を引っ張って、ほとんど利益を挙げられなかった。だが、アメリカの独立と祖国フランスの役に立ったのは間違いない。アメリカ独立戦争に関わっていたこの時期、1777年1月にマリー=テレーズ嬢との間に娘をもうけ、ユージェニーと名付けた。
1770年代後半になっても、ラ・ブラシュ伯爵との裁判は続いていた。ボーマルシェの多忙を知った伯爵は、判決が下される予定地であるエクス=アン=プロヴァンスに腰を据えて、自分に有利な判決が出る様に工作活動を進めていた。誹謗中傷文書のばらまきに勤しんだほか、朝早くから判事を訪れて自身の主張を訴えたほか、6人の弁護士を雇って準備を重ねるなど、その活動は抜かりのないものであった。
ロドリーグ・オルタレス商会の仕事でマルセイユを訪れたボーマルシェは、伯爵の上記のような活動を知り、反論文書を書き上げてエクス=アン=プロヴァンスで出版した。この文書は同地の住民たちに大受けしたようで、彼の人気は一気に高まった。予期せぬ反撃に伯爵は慌て、反論文書を発表した上で、ボーマルシェの文書の差し止めと焼却を求める請願書を裁判所に提出した。これにボーマルシェが再反論を加えるなど、泥仕合の様相を呈する論争で盛り上がる市民たちを尻目に、エクス=アン=プロヴァンスの裁判官たちは慎重にこの件に関する調査を行っていた。ボーマルシェは、すべての判事が同席する上で伯爵とともに陳述させる機会を与える様に裁判所に請願し、認められた。この2人はともに雄弁家であったから、大いに街の人々の関心を惹きつけたらしい。59回に及ぶ審理の結果、1778年7月12日、エクス=アン=プロヴァンスの再審法廷は、裁判官全員一致でボーマルシェの勝訴という判決を下した。伯爵の主張は悉く退けられただけでなく、根拠のない誹謗中傷と断じられ、ボーマルシェの本来の権利であった15000リーヴルに加えて、この裁判に要した費用はすべて伯爵が支払うことになったのである。
この判決に、町中が沸き返った。長年の苦しみから解放されたボーマルシェは、涙を浮かべ、喜びのあまりに気を失ったという。伯爵もさすがに根負けしたようで、判決に素直に従ったようだ。こうして、10年近くに亘るラ・ブラシュ伯爵との闘争は幕を閉じたのである。
『フィガロの結婚』は、ボーマルシェの最大の庇護者であったコンチ大公の「『セビリアの理髪師』以上に陽気な、フィガロ一家を舞台に登場させてほしい」という要請に応えて制作された作品であった。その完成を目にすることなく大公は亡くなってしまったが、ボーマルシェは大公との約束を果たそうと必死になり、結局1778年に完成させた。1781年9月、オペラ・コミックに客足を奪われ、興行成績の低迷に苦しんでいたコメディー・フランセーズの委員会は、同作品を上演作品として受理することを決めた。これに気を良くしたボーマルシェは、警察長官に検閲申請を行い、そこでも問題なしと判断されて、正式に上演許可を獲得した。
『フィガロの結婚』を高く評価していた貴族たちからの要請を受けて、国王ルイ16世も判断を下すために同作品を取り寄せた。これを朗読させ、王妃マリー・アントワネットとともに耳を傾けたという。この時、朗読役を任されたカンパン夫人の回想録に、この時の国王夫妻の反応が記録されている:
今日においては「凡庸そのもの」とか「無能」とか評価されることも多いルイ16世であるが、大勢の貴族が『フィガロの結婚』を表面的にしか理解していなかった(からこそ、作品上演を支持した)のに対して、その危険性を見抜いて上演禁止を言い渡したという事実は、結果論ではあるが国王に先見の明があったとも言える。この当時のフランス社会においては、市民たちはアメリカ独立戦争に刺激されて着々と力を蓄えつつあったし、貴族の間でも啓蒙思想が広く受け入れられていた。まさか10年もたたないうちに、自分たちが「フィガロ」のごとき市民たちに攻撃されるとは考えもしていなかったため、フィガロの権威を恐れもしない陽気な不屈さを愛し、その辛口な台詞の裏に隠された権威否定や身分制度批判の意図に気づかなかったのである。
こうして、作品の上演ならびに出版は禁止されてしまった。だが国王が自ら上演禁止処分を下したという事実が、却ってパリの人々の関心を刺激する結果となり、ボーマルシェはあちこちで朗読をせがまれた。作品の上演許可を取り付けるために、国王への抵抗として、彼はこの朗読を利用しようと考えた。毎日のように朗読会が開かれ、その巧みな朗読に大勢の人々が夢中になったという。こうして自信を深めたボーマルシェは、2度目の検閲申請を行った。この際の検閲官には、ジャン=バティスト=アントワーヌ・シュアール( Jean-Baptiste-Antoine Suard )が選ばれた。シュアールはアカデミー・フランセーズ会員であった(席次26番)が、平凡な劇作家であり、劇作家として成功しているボーマルシェを快く思っていなかったらしい。このような人間が検閲を審査するのだから、不道徳として却下された。
1783年になっても上演禁止措置は続いたが、同年6月13日、突然コメディー・フランセーズの役者たちにムニュ・プレジール劇場( Hôtel des Menus Plaisirs )で『フィガロの結婚』を上演するように通達が届いた。正確にはわからないのだが、王弟アルトワ伯爵が兄である国王に迫って、許可を出させたのだろうと推測されている。このことは瞬く間に貴族たちの間に広がり、公演のチケットは完売する熱狂ぶりであったが、幕が開く寸前で国王の使者が現れ、上演禁止の決定を伝えたのであった。優柔不断な性格であったと伝えられる王のことだから、この件でもその性格が出たのだろう。だが、まさに寸前でお預けを食らった貴族たちは黙っていなかった。この決定には反発が大きく、結局国王は9月26日になって、ヴォドルイユ伯爵の別荘で300人の貴族を前にした上演を許したのであった。
これに勢いをつけたボーマルシェは、作品の健全性を証明しようと躍起になった。『フィガロの結婚』の検閲申請をさらに4度にわたって繰り返し、彼の味方であったブルトィユ男爵に請願して「文学法廷」なるものを開催してもらうなど、徹底していた。これらをすべてクリアしたことで、同作品には有識者たちの信用が与えられたのである。その結果、抵抗を続けていたルイ16世もさすがに折れ、ついに市中での公演許可を出し、1784年4月27日に初演が行われた。パリ市民が全員押しかけてきたのではないかと思うほどの大成功であったという。
ところが、1785年3月にボーマルシェは筆禍事件を起こした。この事件は、フランス発の日刊紙『ジュルナル・ド・パリ』に匿名の記事が載ったことに端を発する。ボーマルシェはこの記事に反応し、返答を同紙に掲載させたが、両者のやり取りは次第に過激化していった。これに腹を立てたボーマルシェは、3月6日付で同紙の編集局に手紙を送ったのだが、その中の表現に問題があった。この手紙の「劇公演を実現するためにライオンや虎を打ち負かさなければならなかったわたしが...」という記述の「ライオンや虎」という比喩を、国王ルイ16世は自分たち夫妻のことであると解釈したのだ。元々日刊紙宛てに送られた手紙であったが、すぐにその内容は国王の知るところとなり、この記述が問題となってボーマルシェはサン=ラザール牢獄に入れられてしまった。この牢獄は、政治犯や貴族が収容されるところではなく、放蕩のあまり身を持ち崩した良家の子弟などが入れられる牢獄であった。53歳にもなってこのような牢獄に入れられたという事実は、ボーマルシェのプライドをかなり傷つけたようだ。
しばらく面白がって見ていた世間も、さすがにこの王の行為を行き過ぎた横暴と見るようになった。5日後には釈放命令が出されたが、プライドを傷つけられて意固地になっているボーマルシェは、中々その命令に従おうとしなかった。懸命な周囲の人々の説得によってしぶしぶ牢獄を出た彼は、王に名誉回復のための条件を複数突きつけた。いくつかの条件は全く無視されたようだが、国王はその代わりとして、ヴェルサイユ宮殿の離宮にボーマルシェを招待し、『セビリアの理髪師』を王妃や王弟に演じさせたり、アメリカ独立戦争で被った負債の補償として80万リーヴルを下賜するなど、要求を上回る賠償をしたと言えるだろう。
『フィガロの結婚』上演に関して一旦は国王に禁止命令を出されながらも、それを撤回させて見事に上演を成功させたボーマルシェは、まさに人生の絶頂期にあった。だが水道を巡る事業と、顔さえも知らない女性の問題に義侠心から首を突っ込んだことで足をすくわれ、その栄光にも陰りが出始めた。これらの問題を契機として陰り始めた彼の栄光は、フランス革命の勃発で完全に止めを刺されることになる。
18世紀のパリが、とにかく不潔で非衛生的な都市であったことはよく知られているが、それは人間が生きる上で欠かせない水においても例外ではなかった。井戸水は排泄物やその他無数の汚物の混入によって汚染され、それを用いてパンやビールを作るものだから、健康にも悪影響を与えていた。当時の人々がどのように清潔な水を手に入れていたかといえば、街を練り歩く「水売り」からのみであった。このような状況を解決しようと、1777年に発明家のペリエ兄弟はパリ水道会社を設立した。シャイヨの丘に揚水ポンプを設置してセーヌ川の水を汲み上げ、パイプを通してその水をパリ市民に提供するのが目的であり、この当時としてはまさに画期的な試みであった。1780年代になって、ペリエ兄弟の要請を受けて、ボーマルシェも経営に参加するようになった。
会社は資金集めのために株券を発行したが、初めのうちは中々買い手がおらず、額面の2000リーヴルを割り込む始末であったが、1785年になって人気が沸騰し、結局4000リーヴルの値を付けるまでになっていた。銀行家のクラヴィエルとパンショーはこれに目を付け、株価の下落を狙ってあれこれ仕掛けたが失敗し、大損してしまった。そのため、会社の信用を傷つけて株価の下落を謀ろうと考え、ミラボー伯爵をけしかけて、攻撃文書を書かせることにした。この目論みは見事に成功し、攻撃された水道会社の株価は半分近くまで下落した。ミラボー伯爵は、以前ボーマルシェに借金を申し込んで断られたことを根に持っていたようだ。
ボーマルシェもこれには黙っていなかったが、これまでとは違った反応を見せた。彼の公開した反論文書は、相手の非難より水道会社設立の意義やその業務の進行状況に多くを割いた内容のものであった。ミラボー伯爵へはまるで大人が子供をたしなめるかのような回答を向けており、それは攻撃というよりからかい程度のものであった。伯爵はこの回答に激怒し、本来の目的であった水道会社の件を忘れて、ボーマルシェへの人身攻撃に躍起になったが、ボーマルシェは相手にしなかった。理由はわからないが、この手の論争に飽き飽きしていたのかもしれない。この2人の関係は1790年になって、伯爵からの和解の申し出によって修復されたが、この時のボーマルシェの態度をパリ市民たちは弱腰と考えたようで、後々この点につけ込まれることになる。
1786年12月、すでに同棲して12年以上になるマリー=テレーズと正式に結婚した。
1781年10月、ボーマルシェはあるナッサウ大公妃の邸宅に大勢の人とともに食事に招かれ、その席である女性の話を耳にした。その女性は夫にひどい扱いを受けており、邸宅に監禁されているという。大公夫妻はこの女性を自由の身にしてやりたいと考えていたため、ボーマルシェに協力するように求めたが、これまで行動を起こすたびにトラブルになってきたことを理由に、初めは消極的であった。しかし、その女性の夫が出した手紙を読むうちに次第に態度を変え、女性の救出に協力する気になったようだ。
この女性は、名をコルヌマン夫人という。スイスに生まれたが、13歳で両親を失った。15歳の時、親族の勧めに従い、持参金36万リーヴルを携えて銀行家であるコルヌマンと結婚した。次第にドーデ・ド・ジョサンという男を愛人にするようになったが、これは彼女自身の浮気心からではなく、コルヌマン自身がそそのかしたのである。ドーデの裏には軍事大臣モンバレー公爵がいることを知り、彼を通じて軍事大臣に取り入って私腹を肥やそうとしていたのだ。この試みは見事に成功したが、1780年12月に軍事大臣が交代すると、ドーデの利用価値が無くなったために彼を切り捨てた。その一方で、銀行業の赤字を解消しようと夫人に持参金を寄越すように迫ったが、拒否されたため、国王の封印状を手に入れて身重の夫人を牢獄へぶち込んだのであった。
早速救出に乗り出したボーマルシェは、ヴェルサイユに赴き、ナッサウ大公夫妻とともに手分けをして関係者へ働きかけた。その結果、12月17日付で夫人を産科医の家に移して看護せよとの王の命令書を獲得した。こうして夫人は産科医のもとで出産を済ませ、コルヌマンの手の届かないところで法による庇護を受けることができた。離婚が許されない時代であったから、コルヌマンは和解しようと考えたようだが、うまくいかず、結局別居状態のまま数年間が経過した。
それから5年以上が経過した1787年2月、突然この件に関するコルヌマン夫人、ナッサウ大公夫妻、ドーデ・ド・ジョサン、警察長官ルノワール、ボーマルシェの5人を標的とした中傷文書がパリに大量にばらまかれた。この文書には「コルヌマン」と署名が入っていたが、実際それほど頭の切れる男ではなかったようだから、このような思い切った真似は出来なかったろうし、思いついたのもまた彼ではないだろう。この文書を手掛けたのは、弁護士のベルガスという男であった。この弁護士は売名しか頭にない悪徳弁護士で、生涯にわたって中傷や名誉棄損で裁判を引き起こし続けた。弁護士というよりデマゴーグというほうがふさわしい輩である。たまたまコルヌマンと出会ったベルガスは、コルヌマンの抱えるこの問題を絶好の機会と捉えたようで、彼の顧問弁護士となって、この一件に散々脚色を加えて文書を発表したのであった。ベルガスが特に標的としたのは、ボーマルシェの栄光とミラボー伯爵との論争で見せた弱腰であった。コルヌマンを妻に裏切られた哀れな夫に仕立て上げ、妻を救出した者たちを極悪非道な人間として描く。これを世に広めるためには人目を惹く必要があるが、そのためにボーマルシェを徹底的に叩いたのである。
これに対抗するために、ボーマルシェも反論文書を発表した。コルヌマン夫人を救出した事実を認めた上で、彼女がいかに夫から虐待されていたか、コルヌマンがいかに暴虐非道な男であるかを、その証拠となる手紙とともに論理的に示した。この論理的な反論には何も返答できないと考えたのか、この後のベルガスの攻撃はもっぱらボーマルシェへの中傷に絞られることになった。ベルガスのしつこさは相当なもので、この問題が起こってから1年半の間に200以上の中傷文書がばらまかれている。ボーマルシェも決して黙っていたわけではなかった。コルヌマンとベルガスを名誉棄損で訴え出るとともに、複数の反論文書の公開で対抗しようとしたのだが、市民たちはベルガスにこそ正義があると信じ込んでいたため、大した効果を挙げなかった。裁判ではボーマルシェが勝訴したが、ベルガスによる中傷攻撃で失った人気は回復しなかった。
1787年6月、バスティーユ城砦前のサンタントワーヌ街の土地が競売に付されていることを知ったボーマルシェは、これをおよそ20万リーヴルで落札し、170万リーヴルの大金をかけて豪邸を建設した。建設完成と同時に、この地区の区長に選ばれている。広大な土地に贅の限りを尽くした豪奢な建物は、法律を犯してこそいなかったが、如何せん場所が悪すぎた。市民たちが旧体制の象徴と見做していたバスティーユ城砦の前の土地にこれほどの豪邸を建築したために、庶民から激烈な反感を買ったのである。彼らに襲われないように日ごろから貧者たちへの施しを忘れなかったが、それでも自宅からそう遠くないところで市民たちによる放火暴動騒ぎなどもあって心配になったのか、警察長官へ治安の回復を求めたりしている。市民たちはボーマルシェを旧体制側の人間と見做していたようで、パリ・コミューンのメンバーとして招集された際にも、コルヌマンとの一件で彼に敵対した人間たちから激しい非難が挙がり、しばらくメンバーから外されたほどであった。
1792年3月2日、彼の元へある手紙が届いた。ボーマルシェの激動の人生の締めくくりにふさわしい事件の始まりである。この手紙はベルギー、ブリュッセル在住の商人ドラエーという男が差し出したもので、ボーマルシェにある取引を申し出る内容であった。
この当時のベルギーではブラバント革命が一時的な成功を治めていたが、指導者たちが仲違いを起こして結局失敗、短期間で再びハプスブルク家の支配下に組み込まれていた。ドラエーはこの革命の際にハプスブルク家に味方したために財産を没収されるなど大損害を受けていたが、革命の失敗によってそれを補償してもらえることになった。革命に際して追放されたヨーゼフ2世は病死してしまったため、ベルギー皇帝の座に納まったレオポルト2世はドラエーにブラバント中の小銃を買い取る独占権を与えた。ただ、この銃は革命軍から接収したものであるため、これらすべてを国外に売り飛ばすことが条件であった。数にして20万挺の銃を用意できたものの、これほどの銃を捌く能力がドラエーにはなかったようで、困りはてた末にボーマルシェに目を付け、混乱を極めているフランスに役立つから、と提案してきたのである。
すでにこの頃にはボーマルシェは事業を畳んでいたし、その話の大きさに乗り気ではなかったために一旦この話を断ったが、ドラエーが粘り強く動き回ったため、結局3月16日になって「小銃をフランス政府が購入した場合、利益の3分の2をボーマルシェ、3分の1をドラエーが取る」との内容で契約を交わした。この合意を実現させるために、早速ボーマルシェは軍事大臣と交渉に入ったが、その支払い方法で中々折り合いがつかなかった。ボーマルシェはオランダ通貨のフローリンで支払いを要求したのに対し、政府側はアシニャ債での支払いを主張したからである。アシニャ債は当時のフランスの大混乱が影響して、通貨としてとにかく弱く、外貨との交換レートがどんどん下がっていたから、利益が目減りするのを避けたいボーマルシェが難色を示すのも当然であった。それでもなんとか4月3日になって交渉は成立した。ボーマルシェがおよそ75万リーヴルの終身年金証書を抵当として差し出す代わりに、アシニャ債で50万リーヴルの融資を受け、追加資金が必要な場合は政府が提供するとの内容であった。
早速代理人ラオーグをブリュッセルに派遣したボーマルシェであったが、この話は中々思うようには進まなかった。各国の利害が絡んでいた上に、あくまで秘密裏に運んでいるはずのこの取引についてかなりの情報が漏れ出ていたからである。誰が情報を漏らしたのか、今となっては確認する術もないが、革命期のフランス政府の情報管理の緩慢さと、政府内部に私腹を肥やすために平然と売国行為を働く人物がいたことを裏付ける事実である。
情報を漏らす人物のおかげで、ついにパリ市民たちまでもがこの取引について知るようになった。秘密取引が秘密でなくなったどころか、6月4日付の国民議会において「ボーマルシェがブラバントで7万艇の小銃を買い付けたにもかかわらず、それをパリのどこかに隠している」との告発されてしまう。そもそも取引が成立していないのだから全くの事実無根であるが、この告発をきっかけとして「小銃を隠し持っている」との噂が独り歩きしていくことになった。この噂はどんどん広がっていき、ついに8月11日、ボーマルシェの豪邸は民衆による襲撃を受けた。ボーマルシェはこの襲撃に際して、はじめは弁解のために民衆に立ち向かおうとしたようだが、殺害される恐れがあるとの友人の勧めに従って、ひっそりと邸宅を抜け出したという。噂を信じ切っていた民衆たちは、ボーマルシェ邸で武器を探し回ったが、見つかるはずもなく、その代わりに大量に売れ残ったヴォルテール全集を見つけたという。
議会での告発と時期を同じくして、突然代理人がパリへ帰ってきた。オランダ政府が「自国の港に置いてある小銃の行先がインドであること」の保証として、5万フローリンを要求してきたのだという。関係大臣と協議を重ねて保証金捻出の目途を付けて、代理人をオランダに発たせたボーマルシェであったが、ここでもうまく事は運ばなかった。この取引の利益を横取りしようと画策した外務大臣ル・ブランの妨害に遭ったのである。ル・ブランは、ボーマルシェの代理人のパスポートを取り上げた上で、ラルシェという男をボーマルシェ邸へ出向かせた。8月20日のことである。この男は、オーストリアの商社から依頼されてやってきたと告げたのち、1週間後に小銃をフランスに到着させられるから、利益を折半にするよう提案を行ってきた。そして、今日中に返事をするように半ば脅迫めいた言葉を残して立ち去っていったという。
こうして、ル・ブランの妨害に気づいたボーマルシェであったが、対策を考えるには遅すぎた。ラルシェの残していった脅迫めいた言葉が現実のものとなり、8月23日に逮捕されてしまったのである。「国から支払代金を受け取りながら、購入済みの小銃をフランスへ移送することを拒否した」という国家への裏切りが彼にかけられた容疑であった。取り調べにおいて、一つ一つ丁寧に整然と説明を行ったため、嫌疑は晴れかけたが、ここでも邪魔が入った。ボーマルシェの言葉を借りれば「黒髪で鷲鼻の、ある恐ろしげな顔つきをした小男」であるジャン=ポール・マラーが現れ、取り調べの調査結果をひっくり返したのである。これによって、再び牢獄暮らしの日々が続くかと思われたが、8月29日になって突然釈放命令が下された。彼の愛人アメリー・ウーレが、ボーマルシェを助けるためにその美貌を活かして、パリ・コミューンの主席検事であるマニュエルと関係を持ったためである。ボーマルシェの女好きが、図らずもこうして身を助けたのであった。
9月18日、ボーマルシェとその同行者1名に対してパスポートが発行されたので、それを利用してイギリス、オランダへ問題解決のために赴いた。この時点では、ボーマルシェの取引相手であり、融資をしてくれていたイギリスの銀行家が小銃購入の名義人となっていたから、まずイギリスへ向けて小銃を運び出し、イギリスからインドへ向けて運び出すふりをして、フランスへ運べばオランダを刺激しないで済むだろうと考えてのことであった。10月3日にロンドンに到着し、手筈を整えてオランダへ向かったが、同地の政府が要求した保証金5万フローリンが届いていなかった。確かに関係大臣と協議して保証金の目途は付けていたものの、政情不安によって大臣がころころ変わっていたから、結局有耶無耶になっていたのである。新たな問題の発生に対処しようとオランダで金策に走るうちに、フランスでは国民公会議員ルコワントルが提出した、小銃を中々フランスに運び出さない(運び出せない)ボーマルシェに対する非難決議が可決されていた。この決議の可決によって逮捕状がハーグのフランス大使の元に届けられたため、ボーマルシェはオランダにいられなくなり、難を逃れるためにイギリスへ戻らなければならなくなった。
だが、この非難決議の陰で糸を引いていたのは、ル・ブランやその取り巻きたちであった。またも邪魔をされたことに怒ったボーマルシェは、穢された名誉を回復するために、フランスへの帰国を企てた。非難決議が出ているのにわざわざフランスへ出向くと言うのはまさに自殺行為であり、この考えを知った銀行家は仰天するとともに、自身の債権が焦げ付くのを恐れてボーマルシェを告訴し、公権力に身柄を確保させた。ボーマルシェも拘留されて冷静さを取り戻したのか、遺された手紙から察するに、特に銀行家へ恨みを抱いてはいなかったようだ。この問題に関する経緯を詳細に記した文書を書き上げ、イギリスの銀行家に対する債務を履行して自由の身になったボーマルシェは、2月26日にパリへ戻った。さっそく獄中で書き上げた文書を印刷してパリ中にばら撒くと、非難決議を提出したルコワントルはあっさり自身の非を認めたため、5月7日になって公安委員会から正式に無罪が言い渡された。それどころか、小銃の取得に全力を挙げるように依頼されたのであった。
その依頼に応じてオランダに出向いて様々な策を試みるが、なおも事態は好転するどころか、悪化する一方であった。成果を挙げられないまま時だけが過ぎ、ついに1794年3月14日、亡命者リストに名前を載せられてしまう。この名簿に名前を載せられると、財産はすべて没収され、帰国次第反逆者として逮捕されてしまうため、ボーマルシェはフランスに帰ることもできなくなった。その後もあれこれ手を尽くすも何も状況を変えられず、結局10月20日、イギリス当局が小銃を接収したことでこの問題は幕を閉じた。名義上の所有者がイギリス人であることに、時の首相であった小ピットが目を付けたのであった。
こうして、3年にわたるボーマルシェの努力はすべて無駄になった。資金も使い果たしてしまったボーマルシェは、ひたすら貧窮に喘ぎながら故郷へ帰れる日を待つほかなかった。1796年6月になってようやく亡命者リストから彼の名前が外された。パリへ帰還できたのは同年7月5日のことであった。
パリに戻ったボーマルシェは、再び幸せな家庭生活を取り戻すためにあれこれ動き回った。それとともに、小銃取引の件で金銭的決着をつけるべく、フランス政府との交渉に乗り出した。1797年1月、総裁政府は委員会を組織してこの問題の調査に乗り出した。どちらがどれほどの債務を負っているのか、委員会は問題を精査し、調査に乗り出してから1年後にボーマルシェを債権者と見做して、フランス政府に100万フランを支払うように結論付けた。額に不満があったのか、これを不服としたボーマルシェは再審理を要求したが、今度は正反対の結論が出てしまった。当然ボーマルシェはこれに納得せず、再び審理を要求したが、結論は変わらなかった。判決の不当性を訴えるために財務大臣に手紙を送るなどしているが、結局ボーマルシェの生前にこの問題は片付かず、逝去から3年後の1802年にようやく決着した。
帰国後のボーマルシェの生活は、着実に立ち直りつつあった。劇壇での名声も『罪ある母』の再演によって回復していたが、1799年5月18日、安らかに眠るように死んでいった。死因は脳卒中であったらしいが、苦しんだ形跡は見られなかったという。遺体は自邸の庭の一隅に葬られたが、1822年にペール・ラシェーズ墓地に移された。かつて彼の豪邸が立っていた通りは、現在ボーマルシェ大通りとして知られている。
とある。書き手は親友であるから、その点を意識しなければならないが、ボーマルシェが生涯に亘って女性に人気があったのは事実である。しかし後半にあるように、同性からすれば自信過剰な憎たらしい男と映ったかもしれない。実際、身分の低いボーマルシェが高貴な身分の淑女たちをとりこにしたために、数々の誹謗中傷がなされ、一々克服しなければならなかったようだ。
1775年2月23日、『セビリアの理髪師』の初演がコメディー・フランセーズにて行われた。1773年1月の時点で、上演候補作品としてコメディー・フランセーズに受理されていたのだが、ショーヌ公爵との乱痴気騒ぎやグズマン判事夫妻との闘争のおかげで、中々作品を上演することができず、大幅に上演が引き延ばされていた。そのような過程もあって前評判は上々、興行成績でも大成功するかと思いきや、大失敗してしまった。四幕物として書き上げていた同作品を上演数日前に五幕物に書き換えた、つまり、完成されていた作品を無理に太らせたため、作品は冗長な内容となってしまったのである。この書き換え作品で大失敗したため、以前の四幕物に戻されて再度26日に上演され、大成功を収めた。フィガロ三部作の第一作目はこうして産声を上げたのである。
今日でこそ著作権は作者の権利として厳しく守られているが、この当時にあっては著作権は無きに等しいものであった。こうした考えは17世紀初頭から続いており、たとえばオテル・ド・ブルゴーニュ座の座付き作家であったアレクサンドル・アルディやジャン・ロトルーは劇団の求めに応じて作品を次々と書かなければならず、その結果制作された作品も作者の手を離れて、劇団固有の財産となるなど、今日から考えればずいぶん作者を蔑ろにした契約を結ばされていたのである。しかも、作品が一度出版されるとその作品は演劇界共有の財産となり、作者には一切金が入らなくなるなど、理解し難い慣習もあり、モリエールはたびたびこの慣習のせいで迷惑を被っている。
ボーマルシェによれば、劇作家と劇団が対等な立場で契約を交わしたのは、1653年のフィリップ・キノーの例が最初であるという。この契約においてキノーは興行成績から諸経費を引いて残った額の9分の1を得ることになっており、この内容がそのまま1685年になって正式にほかの作家にも適用されることになった。ただ、「人気が落ちたなどして一度上演不可能になった作品が、再度上演された場合の収入は全て劇団のものとなる」という条項があり、その後も手直しが加えられた結果、「夏季に300リーヴル、冬季に500リーヴル以下の収入が2度続いた場合、失敗作とみなし、作者に収入を払う必要はない」との内容に改められた。
ところが1757年になって、コメディー・フランセーズはこの条項を「夏季800リーヴル、冬季1200リーヴル」と無断で書き換えて、劇作家の立場を侵害するようになった。それどころか、本来劇団が支払う「貧者への4分の1税」なる慈善病院への納付金をも作者に一部負担させたり、桟敷席の予約収入はすべて懐に入れたり、作品が成功して上演回数を重ねるにつれて意図的に上演をいったん中止し、その後再演して収入をすべて自分たちのものとするなど、まさにやりたい放題であった。ロンヴェ・ド・ラ・ソーセという劇作家は、その作品が5回の上演で12000リーヴルの収入をあげたにも関わらず、収入を得るどころか、劇団に負債があるとして金を要求される始末であった。さすがに怒ったラ・ソーセは世間に抗議文書を発表した。世間に噂が広がってさすがに無視できなくなったのか、劇場監督官であるリシュリュー公爵は協定の問題点を探って、解決法を見出すようにボーマルシェに依頼したが、この時『セビリアの理髪師』が大成功して、劇団と良好な関係を築いていたボーマルシェには、敢えてこの問題に首を突っ込む理由が見当たらなかった。
だが劇団は、『セビリアの理髪師』に関してもあくどいやり方で臨んできた。ボーマルシェは、同作品の32回目の上演後に正確な収支計算を要求したが、劇団はなかなか返事をよこさなかった。1777年1月3日、劇団幹部の俳優デゼサールが苦情を申し立てられずに済むように、として32回分の上演料として4506リーヴルを差し出してきた。金額につけられるべき収支計算書もなく、デゼサールが大さっぱな見積もりによる金額であると説明してきたため、金の受け取りを拒否し、正確な計算書の提出を求めた。1月6日の劇団宛ての手紙では、正確な収支計算書の作成方法を示している。劇団に断固とした姿勢で臨むボーマルシェであったが、相手が自分の芝居を演じてくれる役者たちであるだけに、慎重な姿勢をも崩さなかった。1月19日、書面自体で収支計算に関して極めて丁寧な申し入れを行っているが、劇団は相変わらず不誠実な対応を繰り返した。確かに収支計算書を送ってはきたものの、そこには誰の署名も入れられていなかった。無署名の文書と言うのは、その正確さがどうであれ、社会的には単なるメモでしかない。ボーマルシェはこの対応に憤慨し、1月24日付の手紙において言葉遣いは丁寧ながらも、責任者の署名と『セビリアの理髪師』の続演の2点を要求し、これまで他の劇作家にしてきたようにあくどいやり方を自分にも貫くのなら、それなりの対応を執ると仄めかした。1月27日、劇団は「上演ごとの収入額は正確に計算できるが、諸経費は日々変化するので、全体としては大雑把な見積もりしかできない」と言い訳の返事をよこしてきた。ボーマルシェはこれに納得せず、日々の経費の計算方法を明示した返事を送りつけた。
劇団は、ボーマルシェが手に負えない相手だと悟ったようで、問題を公正かつ誠実に解決するためとして、顧問弁護士3名と劇団員4名で委員会を結成し、ボーマルシェの要求を検討した上で通知を行うと2月1日付の手紙で伝えてきた。ところが劇団は、この問題の解決のために折れるつもりなど初めからなかったようだ。いつまで待っても返事が来ないボーマルシェのもとをある知人が訪れ、「セビリアの理髪師を上演するよう劇団に要求したが、色々な理由をつけて拒否されている。役者たちは、その原因は我々(役者)にあるのではなく、作者にあると言っている」と伝えたという。ボーマルシェはこの不誠実な態度に怒り、これ以上事を引き延ばすなら、法的手段に訴え出ると書面で宣言した。この宣言に劇団は慌て、ボーマルシェを宥める一方で、宮廷の有力者たちに助けを求めた。
6月15日、ボーマルシェのもとに王室侍従長の1人であるデュラス公爵から手紙が届いた。自分が仲介するから、一度面会したいという。ボーマルシェはこれに応じて、公爵にこの件の簡潔な概要を手紙で送ったのち、6月17日に公爵と面会した。公爵はこの席で「思慮分別のある劇作家を集め、劇団と作家側の抱える問題を解決する規則を作成するよう」ボーマルシェに提案し、自身は「その規則作成に全面的に協力する」と伝えてきた。この提案通りにボーマルシェは劇作家たちに働きかけ、7月3日、ボーマルシェ邸に23人の劇作家が集まった。ボーマルシェは集まった全員に公爵との面会の詳細を報告し、議論を進めた。その結果、ボーマルシェを代表とする4人の委員が選出され、彼が先頭に立って公爵との折衝や劇団との交渉に当たると決定した。こうして、ボーマルシェを代表とした劇作家協会が誕生したのである。
こうして、この問題は『セビリアの理髪師』に関するボーマルシェの個人的問題という範疇を超えて、演劇界全体を巻き込んだ劇作家協会とコメディー・フランセーズの対立に発展していった。劇作家協会の設立後も、この問題に関しては中々ボーマルシェの思うようには事は進まなかった。紆余曲折を経て、結局1780年に国王ルイ16世が直接解決に乗り出したのである。国王の下した裁定では、たしかに収入計算の方法は明確化されたものの、その作品を失敗作とみなす基準が夏季1800リーヴル、冬季2300リーヴルに引き上げられてしまった。国王がこのような高い基準額を設定してしまったため、以前より容易に失敗作とみなされてしまうこととなったのである。
この件に関する、ボーマルシェの闘いは一旦ここで終わりを告げた。絶対王政下では、国王の裁定に異議を下すなど出来るはずもないことであったからだ。この国王の裁定は、劇作家たちの助けとはならず、結局彼らは以前のしきたりに則って上演料をもらい続けたという。フランス革命の勃発は、この問題にも多大な影響を与えた。1791年1月13日、憲法制定国民議会によってコメディー・フランセーズの特権は廃止され、その作品の成否にかかわらず、正式に劇作家の権利が認められるに至ったのである。直接ボーマルシェが劇作家の権利を獲得したわけではないが、彼の闘いは間接的に大きな影響を与えたと言えるだろう。
1996年にフランスでボーマルシェの半生を描いた映画『ボーマルシェ フィガロの誕生』(原題:Beaumarchais, l'insolent)が製作された。 | [
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"text": "ボーマルシェ(Beaumarchais)こと本名ピエール=オーギュスタン・カロン(Pierre-Augustin Caron, 1732年1月24日 - 1799年5月18日)は、18世紀フランスの実業家、劇作家。",
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"text": "現在は『セビリアの理髪師』、『フィガロの結婚』、『罪ある母』からなる「フィガロ3部作」で名高いが、劇作を専門としていたわけではなく、始めは時計師、次いで音楽師、宮廷人、官吏、実業家、劇作家など様々な経歴を持つため、フランス文学者の進藤誠一はボーマルシェを「彼ほど多種多様の仕事をし、転変極まりない生涯を送った作家も珍しい」と評している。",
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"text": "1732年1月24日、パリのサン=ドニ街(現在のパリ1区、2区を走るRue Saint-Denis界隈)にて、アンドレ=シャルル・カロンとマリー=ルイーズの間に、ピエール=オーギュスタン・カロンは生まれた。ピエールは10人兄妹の7番目であるが、そのうち4人は夭折しており、無事に育った男児は彼のみであった。父親のアンドレは先祖代々プロテスタントであったが、結婚前年の1697年にカトリックに改宗している。若い頃は騎兵でもあったが、ピエールが生まれたころには時計職人として生計を立てていた。単なる平民に過ぎなかったが、文学を愛好し、この時代の平民としてはかなり正確なフランス語運用能力があったことが遺されている手紙からうかがえる。母親であるマリー=ルイーズに関しては、ほとんどわからない。パリの町民階級出身であることが分かっているのみであるから、彼らは身分の釣り合った普通の夫婦であったといえるだろう。この家族について特筆すべきなのは、ピエールを取り巻く5人の姉妹たちである。長姉マリー=ジョセフ、次姉マリー=ルイーズ、三姉マドレーヌ=フランソワーズ、それに2人の妹、マリー=ジュリーと、ジャンヌ=マルグリートである。とくに妹たちは、ピエールと芸術の趣味が合ったらしく、ともに音楽を奏でて楽しんだという。この時に培われた音楽的素養は、彼が成人してからフランス社会で一歩ずつ社会的地位を高めていくのに、大きな役割を果たしたのであった。",
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"text": "家族の暖かな愛情に包まれて育ったピエールは、3年間の普通教育(おそらく獣医学校か)を修了したのち、13歳で時計職人である父の跡を継ぐべく工房に入って修業を始めた。ところが遊びたい盛りのピエールにとって、信心の篤い父親のもとでの修業は息苦しいものであったらしい。18歳のころ、放蕩の限りを尽くした挙句、工房の商品である時計を無断で持ち出して売却するという事案を起こし、父親の激しい怒りを買って勘当されてしまった。幸い父親の友人や母親のとりなしがあり、数か月後には父親の赦しを得たが、その代わりとして父親の出した厳しい条件を呑まねばならなかった。この条件によって以前のように遊べなくなったピエールは、真面目に時計職人として邁進するのであった。",
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"text": "こうした真面目な修業が実を結んで、1753年、21歳の時に時計の速度調節装置の開発に成功した。ピエールがこの装置を開発するまでは時刻を正確に刻む技術は発見されておらず、各々の時計が指し示す時刻がばらばらであったから、この発明は画期的であった。若くして素晴らしい発明を成し遂げたことを知らせようと、同年7月23日、父親の友人であった王室御用時計職人ルポートにこの装置を見せたという。",
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"text": "ところが、ルポートはこの装置を自らの発明と偽ってメルキュール・ド・フランス誌に発表してしまった。ルポートは、王室御用時計職人という肩書からもわかるように、当代随一の時計職人であり、様々な宮殿で使用されている時計の制作者であった。まさに時計業界の重鎮であったわけで、それほどの権威を持つ自分に無名の職人が歯向かってくるはずもないと考えてのことであったのかもしれない。ピエールはメルキュール誌に載った記事を直接見なかったようだが、幸いなことに彼が装置の開発に取り組んでいたことを知っていた人物(同業の時計職人と思われる)が知らせてくれたおかげで、ルポートの裏切りを知るところとなった。この人物への返信が遺されているが、そこには、相手がたとえ業界の重鎮であろうと怖気づかず、自身の発明に確固たる自信を持ち、権威である科学アカデミーに裁定を委ねようとする冷静沈着な態度が現れている。この内容通りに、ピエールは科学アカデミーに自身の発明した装置の下絵を提出して裁定を願い出るとともに、メルキュール誌にも抗議文を送付して掲載させた。この抗議文が掲載されるとルポートもさすがに焦ったようで、自身の業績や抱える顧客を例に挙げて社会的な信用の高さを示そうとしたが、このような卑劣な行為にピエールはますます激昂し、自身の正しさを証明しようと躍起になった。1754年2月23日、この一件に科学アカデミーからの裁定が下った。ピエール=オーギュスタン・カロンの主張を全面的に支持し、ルポートは単なる模倣者に過ぎないことを認める内容であった。",
"title": "生涯"
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"text": "ピエールは、この一件で世に広く知られるようになった。国王ルイ15世への謁見を許され、高貴な人々からたくさんの注文を受けたことで、ルポートを追い落として正式に王室御用の時計職人となったのである。国王の注文に応じて製作した極薄の時計や、王姫のために制作した両面に文字盤のある時計も評判をとったが、何より宮中で話題となったのは国王の寵姫ポンパドゥール夫人のための指輪時計であった。この時計は直径1センチにも満たない極小の時計であったために龍頭を削ぎ落とさねばならなかった。まるで時計として使えないのではないか、と不審がる国王に向かって、若き時計職人は文字盤を取り囲んでいる枠を回転させれば、時計として機能を果たすことを示した。その卓越した技術に、宮中は大いに唸ったという。",
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"text": "こうして、時計職人としてもっぱらヴェルサイユ宮殿に出入りし、高貴な人々の注文に応じて時計の製作に励んでいたピエールであったが、それを切っ掛けとして彼に一人の女性との出会いが訪れた。ヴェルサイユ宮殿で彼を見かけ、その評判と若さに惹かれた人妻、フランケ夫人が彼の工房に時計の修理を目的として訪れたのである。彼女の夫であるピエール=オーギュスタン・フランケは、パリ郊外に土地を所有しており、王室大膳部吟味官(簡潔に言えば、料理の配膳係)という役職を務める貴族であった。初めは単なる時計職人とその顧客という関係でしかなかったが、フランケ夫人の希望もあって急速に夫妻とピエール(カロン)の関係は深まっていった。フランケはすでに齢50歳を超えて体力的にもかなり衰えていたため、夫人の助言を聞き入れて「王室大膳部吟味官」の役職をカロンに売り渡すことにした。1755年11月9日、ルイ15世直筆の允許状を手に入れ、ピエールは正式に宮廷勤務の役人となった。宮廷に出入りする単なる時計職人から、佩刀を許された役人として社会的な地位を一つ高めたのであった。",
"title": "生涯"
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"text": "フランケ夫人との出会いは出世の役に立ったが、そのピエールとフランケ夫妻の三角関係は世間で広く噂されるようになった。フランケは病気に苦しんでおり、その夫人とピエールは若くて魅力的である。間違いが起こらないほうが不思議な状況であって、実際に夫人とピエールがいつごろから恋仲となったのかはわからないが、遺されている往復書簡から察するに1755年末にはすでに関係があったと思われる。この書簡からは、少なくともフランケ夫人は不倫に悩み苦しんでいることがうかがわれるが、ピエールは悩みや謝罪の色などつゆも見せておらず、ただ恋にのぼせた者にありがちな身勝手な考えが示されているのみである。1756年1月3日、フランケは脳卒中でこの世を去った。ピエールが役職を得てからまだ2か月しか経っておらず、その代金支払いに着手もしていないころであった。ピエールは運よく、夫人も役職も、ただ同然で手中に収めたのである。",
"title": "生涯"
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"text": "1756年11月22日、正式にフランケの未亡人とピエールは結婚した。身分の釣り合わないこの結婚に父親は許可を与えてはいるが、結婚式に出席していないため、こころから祝福していたかどうか疑問である。だがともかく、ピエールはこうして父親のもとから完全に独立したのである。妻の所有地の土地(Bos Marchais)の名前を借用してカロン・ド・ボーマルシェと貴族を気取った名前を使用し始めたのもこの頃であるが、これは単に彼の自称に過ぎず、正式に貴族に列せられた訳ではない。実態は単なる宮廷勤務の役人であったわけだが、こうした貴族風の名前を使い始めたところから察するに、すでにこの頃には強烈な出世願望が彼のこころで燃え上がっていたと考えられる。",
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"text": "さて、初めての結婚生活はどうだったか。結婚後2か月してからの彼の手紙からは、妻の変貌にうんざりした様子が窺える:",
"title": "生涯"
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"text": "上記のように新婚早々、結婚生活に幻滅したボーマルシェであったが、この結婚生活は長く続かなかった。結婚から1年も経たないうちに妻は腸チフスに倒れ、そのまま亡くなったのである。1757年9月29日のことであった。ところが、ボーマルシェを直撃した災難はこれだけではなかった。結婚契約書の登録を怠っていたために、妻の遺産は妻の実家に転がっていってしまうし、新婚生活での借金は自身に降りかかってきたのである。ボーマルシェはこの一件で、数年間窮乏に苦しむこととなる。",
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"text": "最初の妻を失った翌年、母をも失った。結婚生活で生じた借金のおかげで財政的には極めて苦しかったため、仕事に励む一方で、相次いで大切な人を失った寂しさを紛らわせるために文学と音楽に打ち込んだ。16世紀から18世紀まで幅広く、しかも外国の作家にまで傾倒していたという。幼い頃から音楽に親しんで来たことは先述したが、ボーマルシェ自身もハープの名手であり、当時は新しい楽器であったハープに改良ペダルをつけ、より音色が美しくなるように工夫するなどして宮廷で評判をとっていた。ルイ15世の4人の王姫はボーマルシェの楽才に魅せられ、たちまちとりことなり、彼に自身の音楽教師となるように要請した。この要請に、ボーマルシェ自身の男性的な魅力が影響していたかどうかはわからない。ボーマルシェは音楽を専門としているわけでもなく、単なる小役人に過ぎなかったため、金銭をもらってレッスンすることはできなかった。無料での労働であったわけだが、王姫の機嫌を損ねでもしたらすぐに国王の知るところとなって、単なる小役人の首などすぐに吹っ飛ぶため(職と命、ともに簡単に飛ぶ)、細心の注意を払ってレッスンに臨んだに違いない。神経をすり減らしつつ、才気と魅力を最大限に活用して王姫たちに仕えた結果、彼女たちから絶大な信頼を獲得するに至ったのである。",
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"text": "4人の王姫たちから絶大な信頼を獲得していたことは、当時のボーマルシェが起こした決闘事件の顛末からも明白である。ある貴族に侮辱、挑発されたボーマルシェは、当時禁止されていた決闘に応じて、相手に重傷を負わせた。決闘を行うことだけでも重罪であったが、もし相手の口から自身の名前が出た場合、復讐や処罰の対象となってしまうので、それを恐れて王姫たちに庇護を求めたのである。王姫たちは事情を父である国王に打ち明け、決闘事件に関する口止め工作を了承した。幸いなことに相手の貴族が「原因は自分自身にある」としてそのまま死んでいったため、工作を行う必要はなくなったが、この一件は国王家からの篤い信頼を獲得していたことの裏付けとなっている。",
"title": "生涯"
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"text": "王姫たちへのレッスンは国王家の信頼を獲得するのに役だっただけでなく、ボーマルシェの財政状況の改善へも間接的に影響を与えた。直接的な影響としては、王姫たちの気ままな買い物やコンサートの費用を立て替えたり、王家に仕える者としての身なりを整える費用やらで、むしろ悪影響を与えたともいえるが、彼女たちを通じて国王家の信頼を勝ち取ったことで、18世紀における最大の金満家であるパーリ=デュヴェルネーと出会い、一気に財政状況が改善されたのである。",
"title": "生涯"
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"text": "ルイ15世治下のフランス経済は、4人のパーリ兄弟によって動かされていた。パーリ=デュヴェルネーはその3番目であったが、兄弟の中でも特に商才に長けていたという。ルイ15世の愛人ポンパドゥール夫人などの貴族たちと結びついて急速にのし上がっていき、オーストリア継承戦争や七年戦争の折にはフランス王国軍の御用商人となり、巨万の富を築いた。1751年にポンパドゥール夫人と組んで士官学校の建設に乗り出し、1750年代末にはほとんど完成していたが、ちょうど運悪くフランスが七年戦争でイギリスに敗北を喫したころであり、ポンパドゥール夫人との不仲もあって、ルイ15世はこの士官学校に極めて冷たい態度を示した。すでに75歳と、当時としてはかなりの老齢であったパーリ=デュヴェルネーにすれば、後世に遺す自らの記念碑が王に冷たくあしらわれるなど心中穏やかでなく、どうにかしようとあれこれ動いて万策尽きた結果、国王家の信頼の篤いボーマルシェに目を留めたのであった。",
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"text": "野心みなぎるボーマルシェのことだから、この大金持ちの老人に恩を売っておけばどれほどの見返りがあるか、瞬時に理解したことだろう。ボーマルシェはこの富豪に恩を売るべく、まず4人の王姫たちに目を付けた。日ごろから彼女たちの願いにきちんと確実に答えてきた彼にとって、退屈しきった彼女を口車に乗せて、若い男の大勢いる士官学校に連れていくことなどたやすいことであった。士官学校を訪れた彼女たちはデュヴェルネーによって盛大に迎えられ、彼に向ってボーマルシェを褒めちぎるなど、大満足して帰っていったという。士官学校を訪れた娘たちが喜んでいるのを知って、国王ルイ15世は大いに心を動かされ、1760年8月12日、ついに士官学校を訪問したのだった。悲願を果たしたデュヴェルネーは、ボーマルシェにそのお礼として、様々な経済的な援助を惜しみなく与えた。6000リーヴルの年金、得意の金融業での助言、指導、融資など、窮乏に苦しんでいるボーマルシェにとってはどれも有り難いものばかりであった。こうして一気に財政状況は改善され、以後鰻登りのごとく、豊かになっていったのである。",
"title": "生涯"
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"text": "1761年12月、ボーマルシェはデュヴェルネーに用立ててもらった55000リーヴルに、手持ち金30000リーヴルを加えて、「国王秘書官」という肩書を購入した。この肩書は「平民の化粧石鹸」などと呼ばれて蔑視されていたが、間違いなく金になる肩書であり、その上購入者の身分がどうであれ正式に貴族として認められる職業であった。さらに1762年に入ると、当時フランスを18の区に分けて管轄していた「森林水資源保護長官」のひとつに空きが出た。巨額の収入をもたらすポストであり、それだけに値段も高かったが(現在の日本円で5000万前後)、デュヴェルネーは惜しげもなくこれに必要な資金を提供した。この時は他の長官たちの猛反対に遭って、王姫たちの後押しも虚しく手に入れることはできなかったが、その代わりに翌年になって「ルーヴル狩猟区王室料地管理ならびに国王代官区における狩猟総代官」なる肩書を手に入れた。王室の料地を管理し、密猟者がいれば捕縛して裁くのが任務である。「代官」とあるように本来は「管理長官」たるラ・ヴァリエール公爵が任務にあたるべきなのだが、ほとんどの仕事をボーマルシェがこなしたという。彼は1785年まで、22年間に亘ってこの仕事を続けた。この肩書を手に入れたのと同じころ、4階建ての家を建て、父親と2人の妹を引き取ったり、ポリーヌ・ルブルトンという西インド諸島出身の女性と恋仲になったりしている。ポリーヌは大変な美女であったらしいが、所有地に関連して負債を抱えていたために、再婚には慎重になっていたようだ。フランケ夫人との結婚の後始末で、ずいぶん辛酸を舐めたことが影響しているのだろう。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 18,
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"text": "1764年2月、ボーマルシェとその一家にとって大問題が発生した。スペインに居住する次姉が「結婚の約束を同じ男に2度も破談にされ、ひどい侮辱に苦しみ、泣きはらしている」との知らせが舞い込んできたのである。ボーマルシェはこの一件を、後年になって『1764年、スペイン旅行記断章』として記しているが、事実に即して書かれておらず、多分にフィクションを含んでいる。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 19,
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"text": "次姉マリー=ルイーズは、長姉マリー=ジョセフが1748年に石大工の棟梁ルイ・ギルベールと結婚してスペインのマドリードに移住した際に、彼らにくっついていった。彼女は同地で、軍需省に努めていたクラビーホという男と親しくなって結婚の約束までしたが、姉であるマリー=ルイーズに慎重になるように忠告されたため、結婚を引き延ばしていたのであった。クラビーホは才能のある男で、スペイン陸軍に関する著作を発表するなどして頭角を現し、文芸誌を創刊したり、スペイン王室古文書管理官に任命されるなど、順調に出世していった。結婚の約束から6年が経ったある日、妹を任せるのに問題なしと判断したマリー=ジョセフは、彼に結婚の約束を履行するように迫ったが、クラビーホはなかなか首を縦に振らなかった。出会いからあまりに時間が経ちすぎていたし、マリー=ルイーズも33歳になっており、決して若いとは言えなかった。その美しさに陰りが見えていたし、出世を果たしたクラビーホはその辺の女など相手にしなくとも、もっと有利な結婚相手を見つけることができたのである。何より、クラビーホは優柔不断な男であった。マリー=ジョセフの求めに応じて、素直に従っているようなふりをして結婚の準備を進めておきながら、いざ結婚式当日に失踪したのである。フランス大使に訴えられたらどうなるかわからないとの思いからか、自身の行為が情けなくなったのか、どういう考えからかはわからないが、この時は自ら姿を現して姉妹に謝罪し、結婚の履行を承諾したが、再び式の3日前に失踪したのであった。",
"title": "生涯"
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"text": "『1764年、スペイン旅行記断章』では、「悲嘆に暮れ、世間から後ろ指を指されて泣きはらしている次姉マリー=ルイーズの名誉回復のために、知らせを受けてすぐに馬に乗ってスペインに駆け付けた」ことになっているが、これは事実ではない。マリー=ルイーズはクラビーホのほかに、フランス商人のデュランという男をすでに婚約者として見つけていたし、ボーマルシェもその父親も、彼らの間柄を手紙で祝福している。さらに、ボーマルシェがパリを発つ許可を国王からもらったのは、4月7日のことだった。出発はそれよりさらに後のことだろうから、この事実からも急いで駆けつけようとしていないことは明らかである。この出発許可を獲得するために提出した手紙では、スペインへ行く目的として家庭の事情を挙げている。確かにそれも目的の一つには違いないのだが、それはあくまで名目で、本当の目的はフランスースペイン間の重要な通商問題(簡潔に言えば、新大陸の植民地の利権を寄越せ、というもの)を解決することにあった。同じ手紙で、スペイン駐在フランス大使への推薦状を依頼しているのはそのためである。こうしてフランスを発ったボーマルシェが、マドリードに到着したのは5月18日のことであった。急げば2週間足らずで到着する距離だが、途中でボルドーやバイヨンヌなどの都市に立ち寄っているところを見るに、自身に託された重要な使命について思案を巡らせていたのかもしれない。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 21,
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"text": "彼に託されたフランスースペイン間の通商問題とは、七年戦争の手痛い敗戦に起因するものである。1763年2月10日に締結されたパリ条約によって戦争は終結したが、敗戦国フランスは大量の領土を失い、同じく領土を失った同盟国スペインに西ルイジアナ地方を割譲したのであった。政治的にも経済的にも、とにかく大打撃を被ったフランスは、一刻も早く立ち直ろうと、フランス経済界の重鎮であったパーリ=デュヴェルネーを中心に据えて計画を立て、スペイン王家に対していくつかの提案を行ったのだった。その使者として選ばれたのが、ボーマルシェである。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 22,
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"text": "まず、あくまで名目でしかない次姉の結婚問題についてマドリードでどのように活動したか。『断章』によれば、マドリードに到着したボーマルシェは、姉や友人たちに囲まれて次姉と再会し、事の顛末を仔細に亘って聞き出し、名前を明かさずにクラビーホと会う約束を取り付け、証人を連れ添って文芸誌の編集長たるクラビーホの事務所へ乗り込んだという。旅の目的を問われたボーマルシェは、たとえ話を装って、2人の娘をマドリードに居住させるフランス人商人の話をし始め、彼女たちの結婚について問題が起こったためにやってきたのだと告げた。確信が持てないままに、しかし妙に目の前で語られる話が自分の体験している事情と似ていることにクラビーホは首をひねりつつ聞いていたようだが、ボーマルシェの種明かしによってとどめを刺され、しばらく茫然自失の状態であったという。さらなる追及を受けて、逃れられなくなったクラビーホは、マリー=ルイーズへ向けて謝罪文書を認めた。さらに踏み込んで徹底的に破滅へ追い込むこともできたが、フランス大使から穏便に済ませるように忠告されていたし、クラビーホはスペイン王室に強力な後ろ盾を持っており、本来の目的である通商問題の解決に使えると踏んだのか、3度目の約束となる婚約書を作成させるにとどめたのであった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "ところが、相変わらずクラビーホは優柔不断で卑劣な男であった。どう考えても割に合わない話だと思い直したのか、あちこちを逃げ回った挙句「ピストルで脅されて結婚を強制された」とスペインの宰相に訴え出たのである。窮地に陥ったボーマルシェであったが、訴えから逃げ出すことなく、自ら宰相のもとへ赴いて自身の潔白を主張し、クラビーホの公職追放(1年間で解除されたが)という逆転勝利を収めたという。この件に関して伝わっている話はここまでで、結局その後マリー=ルイーズはどうなったのか正確にはわからない。どうやらクラビーホともデュランとも結婚せず、独身のまま過ごしたらしい。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 24,
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"text": "本来の目的である通商問題に関してはどうだったか。まずボーマルシェは、問題解決のために有力な貴族を探し始めた。手始めにスペイン社交界の有力者であったフエン=クララ侯爵夫人に近づき、彼女のサロンに出入りするうちに、スペインの将軍と結婚したフランス人、ラクロワ夫人と出会った。ボーマルシェを見て望郷の念に駆られたか、それとも彼の魅力に取りつかれたのか、理由は定かではないが、夫人は彼を連れ歩くようになり、スペイン社交界での彼の売り込みに大いに協力してくれたのであった。おかげで、在スペインのイギリス大使やスペイン宰相の知遇を得ることに成功した。ところが、結果的にラクロワ夫人の存在が邪魔となった。通商問題の解決のためにもうひと押し必要と考えたボーマルシェは、ラクロワ夫人をけしかけて、彼女に国王カルロス3世の愛人となるよう依頼した。夫人は見事にそれを果たしたのだが、国王の愛人となった夫人は、自分の立場を危うくするようなことはしたがらなくなった。夫人を通じて国王から譲歩を引き出そうとしたボーマルシェの試みはこうして失敗に終わり、そのまま状況を変えられることなく、帰国の日を迎えたのであった。スペイン宰相グリマルディは、ボーマルシェに持たせた手紙の中で彼への好意を率直に示しているが、とにかく使命の遂行には失敗した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 25,
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"text": "1年間のスペイン滞在は、外交的な成果は何一つないものであった。スペイン文化の吸収という点で、個人的な収穫はあったかもしれないが、祖国フランスへは貢献できなかったし、恋人をも失った。彼がフランスに帰国すると、婚約関係にあったポリーヌ・ルブルトンとは関係がすっかり冷え込んでしまっていた。そうなった原因はわからないが、おそらく不在期間が長すぎたのであろう。この頃彼らの間に交わされた手紙ではお互いを非難しあっており、まるで噛み合っていない。結局ポリーヌは別の男性と結婚し、こうしてボーマルシェは人生で(おそらく)初めて失恋の悲しみを味わった。その悲しみを癒そうとしてか、1766年、事業家としてシノンの森林開発に乗り出した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 26,
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"text": "シノンはパリから遠く離れたトゥーレーヌ地方の要衝で、この郊外に広がる広大な森林は国王の所有地であった。1766年の末、この森の一部が売りに出されることを知ったボーマルシェは、パーリ=デュヴェルネーから融資を受け、この森の開発事業に乗り出すことにした。ところが、彼が就いていた公職「ルーヴル狩猟区王室料地管理ならびに国王代官区における狩猟総代官」が森林を取得するのに障害となった。この長ったらしい職名を見ればわかるように、この職の任務は「国王所有地を守り、管理する」ことであった。そのような職業に就いている男が、国王所有地の売却に際して真っ先にそれに飛びつき、開発して利益を得ようとしているというのは極めて具合が悪い。これは現在で言えばインサイダー取引と同じようなものであるから違法であるし、当時の法律でも森林に関する公職に就く者が森林の競売に参加することは固く禁じられていたので、やはり違法なのであった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 27,
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"text": "困ったボーマルシェが思いついたのは、召使セザール・ルシュユールを名義人に仕立てあげることであった。これ自体法律の抜け穴をくぐった脱法行為であるが、当時としてはそれほど珍しいことでもなかったらしい。1767年2月、ボーマルシェは私的な証書を作成し、ルシュユールに単なる名義だけの存在であることを確認させたが、この召使は中々狡猾な男であった。ルシュユールは、主人であるボーマルシェがなぜ競売に参加せずに自分を名義人に立てたか、その理由を知った途端に主人を脅し、口止め料として2000リーヴルを要求した。ボーマルシェはこの要求を一蹴し、ピストルを突き付け、2度とこの類の脅迫をしないことを誓わせた。だが、ルシュユールは主人が知らない間にシノンへ足を延ばし、仕事でミスを犯して首になっていた森林開発の小役人であるグルーと結託して共同で会社を設立し、勝手に森林の開発に乗り出した。この行為を知って、ボーマルシェが激昂したのは当然であった。彼は憲兵とともにすぐさまシノンへ馬を飛ばし、ルシュユールを捕縛したのち、公証人立ち合いのもとで裏切りを白状させた。ところが、懲りないルシュユールは、解放されて再び自由を手に入れると、グルーと共謀して森林監督代官にボーマルシェの不法行為を訴え出た。代官はルシュユールの主張を支持し、名義人である彼の権利を認めた上、ボーマルシェに召喚状を発して、彼に対する暴行及び脅迫の罪で出頭を命じた。",
"title": "生涯"
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"tag": "p",
"text": "ボーマルシェからすれば、森林に関する公職に就いている以上は、自身の行為を暴露されたくはないし、かといって召使ごときに頭を垂れるなど耐え難いことであった。彼は、パリの森林監督庁に提訴して自身の権利を守ろうとする一方で、親しくしていた公爵を通じて大法官への謁見を願い出て、庇護を求めた。さらにルシュユールの身元を拘束するために、王の封印状( Lettre de cachet 、これさえあれば好き勝手に人を逮捕出来た)を手に入れ、シャトレ牢獄にぶち込もうと画策したのであった。ルシュユールも負けておらず、逆にボーマルシェを横領犯として告訴しようと、請願書を提出した。当時のパリの警察長官サルティーヌはボーマルシェと知り合いであり、彼には好意的であったが、この泥仕合を快く思っていなかったようで、どちらの主張にも与することなく、中立的な立場を取り続けた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 29,
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"text": "絶対に勝たねばならん、牢獄にぶち込まねばならぬ、と息巻くボーマルシェは、いくら請願を行っても無駄であることを察知し、ルシュユールの身内を懐柔して攻撃に利用することにした。ルシュユールの妻に働きかけて「夫が家財道具の一切を持ち出したために、生命の危機に晒された」との内容で訴訟を起こさせたのである。この仕打ちにはルシュユールも打つ手がなくなったのか、ついに降参し、法廷でボーマルシェが森林の本当の落札者であることを認めた。1768年3月21日、ようやくボーマルシェはルシュユールを牢獄にぶち込むことに成功したが、わずか4か月足らずで釈放されてしまった。この後も無益な裁判が2年に亘って延々続いたが、結局白黒を付けることなく、お互いの痛み分けということで決着がつけられた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "パーリ=デュヴェルネーと出会い、事業家として着実に階段を上っていたボーマルシェにとって、シノンの森林開発事業は魅力的であったに違いないが、遺されている手紙から察するに、この森に相当な愛着を持っていたことが窺える。都会を離れて、素朴で親切な田舎人たちと交際し、大自然と調和した暮らしを送るよろこびが手紙には現れている。こうした愛着があったからこそ、徹底的に闘い抜いたのだと考えられるが、それにしてもボーマルシェとルシュユールの繰り広げたこの一連の騒動は、18世紀初頭から流行していた風俗喜劇をまさに地で行く、傍から見れば笑い話でしかない滑稽なものであったことも、指摘しておかねばならない。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "森林開発を巡って召使との滑稽な闘争を繰り広げていたボーマルシェであったが、何もその期間中ずっとそれにのめり込んでいたわけではなかった。この頃の彼の生活は、充実したものであった。劇作家として活動を始めたのもこの頃である。まず、デビュー作『ユージェニー』が1767年1月29日に、コメディー・フランセーズで初演された。この作品はまずまずの成功を収めたので、それに続いて第2作目『2人の友、またはリヨンの商人』を制作し、1770年1月13日に初演させたが、こちらは大失敗してしまった。この2作品のジャンルは町民劇と呼ばれるものであるが、状況設定に無理がある筋立てで、特にそれは2作目の『2人の友』において顕著である。上演はたった10回で打ち切られ、批評家からは「宮廷で職を購ったり、空威張りしたり、下手くそな芝居を書くよりも、よい時計を製作しているほうがずっとましだった」と、辛辣な批判を投げつけられる始末であった。これまでに見てきたボーマルシェの行動からいって、この件でも何らかの行動を起こすかと思いきや、この件に関しては沈黙を貫いた。おそらくかなり痛いところを突かれてすっかり意気消沈したのであろう。今後純然たる町民劇を書くことはなくなったが、その美学を放棄したわけではないことはフィガロの3部作によって示されるのである。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 32,
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"text": "1768年4月、36歳のときにジュヌヴィエーヴ=マドレーヌ・ワットブレドと再婚した。彼女は王室典礼監督官(1767年12月に死亡)の未亡人であったが、いつごろから交際を始めたのかはわからない。通常10か月間とされる服喪期間を無視してまで結婚していることから察するに、夫婦仲は相当に良かったようだ。同年の12月には長男が誕生しているところを考えると、未亡人となる前から関係があったのは確実であろう。夫妻の間には2人の子供が生まれたが、いずれも夭折した。夫人には亡き夫からの多額の年金が入るため、生活は豊かであったが、最初の結婚と同様にこの結婚も長くは続かなかった。1770年3月に娘を出産したころから夫人の健康は悪化し、肺結核に罹患して11月に死去してしまった。ボーマルシェは夫人を手厚く看護したと伝わる。夜中に肺結核の症状、激しい咳の発作に苦しむ夫人を哀れに思って、病気がうつると家族に忠告されても聞き入れず、ベッドを共にして彼女を労わり続けた。それを医者に強制的に止めさせられた際には、別のベッドを夫人の部屋に入れて、最期を看取ったという。",
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{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "1770年は色々な意味でボーマルシェの生涯にとって重要な年となった。先述した夫人との死別もあったし、パーリ=デュヴェルネーが亡くなった年でもあったからだ。デュヴェルネーはボーマルシェと知り合った1670年以来、経済的にも、精神的にも彼に惜しみない援助を与えた大恩人であった。しかし彼も齢86となり、死は確実に近づいていた。ボーマルシェは、その莫大な遺産を巡る問題の発生を未然に防ごうとして、金銭的な問題をきちんと生前に処理しておこうと考えた。この年に入ってからすぐ手紙でやり取りした結果、4月1日付で2通の証書を取り交わした。証書ではボーマルシェとデュヴェルネーの金銭の貸し借りが詳細に列挙され、デュヴェルネーにおよそ14万リーヴルの借金があったボーマルシェは、一度この借金を相殺して、小切手で16万リーヴルをデュヴェルネーに渡して、シノンの森開発計画からの撤退を認めることにした。一方でデュヴェルネーは、ボーマルシェが借金を全額返済したことを認めたうえで、逆に98000リーヴルをボーマルシェに借りているので、そのうちの15000リーヴルは請求があり次第返済し、今後8年に亘って750000リーヴルを無利子で貸し付けることを約束したのであった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "デュヴェルネーには子供がおらず、血縁関係としても甥パーリ・ド・メズィユーと姪の娘ミシェル・ド・ロワシーがいるのみであった。とくにミシェルをかわいがっていたデュヴェルネーは、その夫であるラ・ブラシュ伯爵を相続人に指定した。ボーマルシェがこの措置に不満を抱くのも、当然といえば当然であろう。血縁関係があり、かつ事業の功労者でもあるメズィユーが遺産相続の対象とならず、なぜ血縁関係も何もない赤の他人のラ・ブラシュ伯爵が相続の対象となっているのか常人には理解しがたい。ボーマルシェはメズィユーにも遺産を与えるべきだと手紙で伝えているが、効果はなかったようだ。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "一方、棚から牡丹餅とはまさにこのことで、血縁関係もないのに莫大な遺産が転がり込んできたラ・ブラシュ伯爵からすれば、その遺産の持主たるデュヴェルネーと特別な関係にあるボーマルシェが目ざわりになるのも無理のないことであった。ボーマルシェは貴族の肩書を有しているとはいえ、もともとはただの平民、時計職人からの成り上がりであり、自分と対等の人間ではないし、デュヴェルネーの甥であるメズィユーと友人であるから何を仕掛けてくるかわからない、などと考えていたのかもしれない。彼が何を考えていたかは分からないが、彼とボーマルシェのそりが合わなかったのは確実で、ボーマルシェには憎悪ともいえる感情を抱いていたという。ボーマルシェは伯爵のこのような感情を察知していたからこそ、遺産相続に関して手紙で安心して付き合っていけるメズィユーにも遺産を分け与えるように伝えたのである。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "1770年7月7日、デュヴェルネーがこの世を去った。それとともに、遺産を巡る闘争が始まった。ラ・ブラシュ伯爵は、ボーマルシェが心配していた通りに、彼とデュヴェルネーが生前に交わした契約を反故にし始めた。契約では「請求あり次第15000リーヴルを返却する」はずであった。そのためボーマルシェは契約に則って、伯爵に15000リーヴルを請求したが、伯爵からの返答は「契約自体の存在と有効性を疑う」という信じがたいものであった。この頃、両者は短期間のうちに何通もの手紙をやり取りしているが、全く噛み合わなかった。埒が明かないので、ボーマルシェは公証人の家に自身の正当性を主張する根拠となる証書を預け、伯爵に検討させた。その検討の結果、伯爵は「証書に書かれているデュヴェルネーの署名は、彼の自筆であるとは認め難いため、証書は本物ではない」と主張し、辣腕弁護士カイヤールを雇って「証書自体に不正が含まれている以上、無効であり、この契約は破棄されるべきである」と裁判所に訴え出たのであった。",
"title": "生涯"
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{
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"tag": "p",
"text": "伯爵陣営の主張は、極めて悪質で巧妙であった。この訴えにおいてボーマルシェを間接的にペテン師であると攻撃し、証書自体が虚偽であるのだから、ボーマルシェがデュヴェルネーに借金を完済し終えた事実もまた虚偽なのであって、すなわち依然として14万リーヴルの借金は残っており、相続人の伯爵にはその請求権があるという主張を堂々と行ったのである。デュヴェルネーとボーマルシェの間に存在した金銭の貸し借りは否定しないなど、都合よく曲解した末に生み出された主張であった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "この件の裁判は1771年10月に、ルーヴル宮殿内の法廷において始まった。この法廷ではデュヴェルネーとボーマルシェとの間に交わされた証書の真偽が精査され、その結果、翌年になって証書は本物であると結論付けられた。ボーマルシェに有利な裁定が下ったわけだが、伯爵とカイヤールは単に主張を微修正しただけであった。「証書は正しいのかもしれないが、記載されている借金14万リーヴルは実際には返済されておらず、従って15000リーヴルの返済義務など存在せず、逆に14万リーヴルの請求権が発生している」と主張し、同時に根も葉もない不品行のうわさをボーマルシェのこれまでの恥ずべき行いとしてまき散らすことで彼の信用を貶めて、有利に主張を展開できるように試みた。ここでも伯爵たちが巧妙であったのは、まき散らした噂の中に少年時代の勘当という事実を一つだけ混ぜたことにある。「嘘八百かと思っていたら、ひとつだけ真実が混じっていた」なんてことがあったなら、その他の嘘とされていることも実は本当なのではないかと考えてしまうのは、無理もないことであるからだ。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "ボーマルシェも、事あるごとに相手方の誹謗中傷に反撃しているが、その中でも特に効果的であったのは「王妃たちから謁見を禁じられた」との中傷に対する反撃である。ボーマルシェはこの中傷に対応するために、早速王姫に付き従う女官であるペリゴール伯爵夫人に手紙を宛て、王姫から「そのような事実はない」との言質を引き出した。それどころか、「いかなる場合においても、ボーマルシェの不利益となるようなことは発言しないつもりである」とのお言葉まで頂戴したのであった。ボーマルシェは快哉を叫んだに違いない。中傷への反撃として、国王家の一員たる王姫の保証以上に心強いものなど存在しないし、裁判官の心証にも大きな影響を与える力があるからである。だが、ボーマルシェは調子に乗りすぎた。誹謗中傷へ反撃する際に、伯爵夫人からの手紙を許可なく引用し、自分にはあたかも王姫が後ろについているかのようなふるまいをしたのである。王姫たちもこの行動を看過出来なかったと見え、即座に連署入りで「自分たちは裁判に無関係であるし、庇護を与えてもいない」との内容の手紙を送付している。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 40,
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"text": "1772年2月22日、第一審の判決が下された。ボーマルシェの勝訴である。この判決ではデュヴェルネーとの間に交わした証書の有効性を認めたが、15000リーヴルの支払い命令は出されなかったため、再度手続きを取って、同年3月14日にこちらでも正式に命令を引き出した。だが、ラ・ブラシュ伯爵も負けてはいなかった。彼はこの法廷を欠席したうえで、高等法院に提訴し、審理中である事実を作って判決を実行できないように企てたのだ。こうして、場所を高等法院へと移した裁判の審理は続いていった。完全な決着がついたのは1778年のことである。この裁判の影響が、『セビリアの理髪師』の第2幕第8景の台詞に見られる。1773年1月3日、『セビリアの理髪師』がコメディー・フランセーズに上演候補作品として受理された。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 41,
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"text": "当時のパリでは、あるひとりの女優があらゆる階級の男たちを惹きつけていた。名前をメナール嬢といい、宮廷貴族から町民まで誰もが先を競って彼女に近づきたがり、彼女のために大金をはたいていた。彼女が一通りの男から贈り物を受け取ったところへ、フランス十二大貴族のショーヌ公爵がその競争へ加わり、たちまちほかの男たちを蹴散らして彼女を自分の愛人とし、娘まで産ませるに至った。ショーヌ公爵は確かに血筋は抜群に良かったものの、異常な性格の持ち主であった。才気のある男ではあったが、判断力に乏しく、高慢であり、粗暴な男であった。なぜかはわからないが、この公爵はボーマルシェを気に入り、交際を結んでいたという。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "普通にしていればそのまま幸福に過ごせただろうものを、判断力に乏しい公爵は、自ら余計なことをしでかした。ある日、公爵は愛人であるメナール嬢の家に親しい友人たちを招こうと考えた。その招かれた友人のうちの1人が、ボーマルシェであった。伝わっている資料から察するに、血筋以外に魅力のない公爵のどこを好きになったのかはわからないが、メナール嬢も彼の嫉妬と乱暴には辟易していたらしい。ボーマルシェの王侯貴族さながらの優雅な物腰にメナール嬢は惹かれたらしく、すぐに関係が始まったようだ。ところが、ボーマルシェも相変わらず軽率であった。彼はメナール嬢と自分の関係を言い訳しようと公爵に宛てて手紙を認めたが、その内容たるや、ひどいものであった。相手の嫉妬心を刺激する記述から始まり、延々と公爵を怒らせるような皮肉、言葉を並べ立て、最期に虫のいい提案で手紙を締めくくる。異常な性格の持ち主に、もっとも拙い内容の手紙を送ったのだ。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 43,
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"text": "1773年2月11日、ついに問題が起きた。この当日の一件に関しては、ボーマルシェとその友人ギュダンが詳細に記録を遺している。この日の午前11時頃、メナール嬢の部屋に公爵がやってきた時、その傍にはギュダンとメナール嬢の女友達がいた。ギュダンと女友達は、公爵の暴力に怯えて、ボーマルシェの身を案じる彼女を慰めているところであった。この際、メナール嬢がボーマルシェを立派な紳士だと弁護したがために、公爵はとうとう激昂し、ボーマルシェと決闘を行うと断言して部屋を飛び出ていった。ギュダンはボーマルシェの家に事情を知らせに急行するが、その途中で馬車に乗るボーマルシェに出くわした。決闘に巻き込まれるから避難するように言うギュダンであったが、ボーマルシェは仕事(王室料地管理代官としての審理)があるから、それが終わったら伺うと答えて去っていった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 44,
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"text": "ギュダンは、帰宅途中に運悪くポンヌフのそばで、ボーマルシェの家に向かう公爵に捕まった。大柄な公爵に抵抗するすべもなく馬車の中に引きずり込まれ、その馬車の中でボーマルシェに対する恐ろしい脅迫を聞かされた。暴れまわって抵抗するギュダンを強引に抑え込もうとする公爵であったが、彼が大声で警察に助けを求めたために、公爵はそれ以上手出しできなくなった。ボーマルシェの家の前に到着すると、公爵は乗り込んでいった。ギュダンはこの時にすきを見て逃げ出したらしい。家にいた召使から主人の居場所を聞き出した公爵は、ルーヴル宮殿内の法廷に飛んで行き、そこで審理中のボーマルシェのもとへ現れ、法廷外へ今すぐ出るように要求した。公爵があまりにやかましいので、ボーマルシェは審理を一時中断して、小部屋へ彼を移動させた。その小部屋でおよそ大貴族にはふさわしくない言葉遣いでボーマルシェを罵る公爵であったが、しばらく待つように伝え、再び仕事に取り掛かるボーマルシェであった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "いざ審理が終わると、公爵が即刻決闘を迫ってきた。家に剣を取りに帰りたいとボーマルシェが告げても、ある伯爵を立会人に考えているから彼に借りればよい、と取り合わなかった。自身の馬車ではなく、公爵はボーマルシェの馬車に飛び乗ってある伯爵邸に出向いたが、ちょうど伯爵は出かけようとしているところであった。宮廷へ出向かなければならない、と立会を断られたので、公爵はボーマルシェを自邸に拉致しようとしたが、ボーマルシェはこれを断固として拒否し、自宅へ帰ることにした。相変わらず馬車に飛び乗ってきた公爵は、馬車内でもボーマルシェを徹底して罵倒したが、彼は余裕を見せて公爵を食事に招いたという。",
"title": "生涯"
},
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"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "自宅に着くと、公爵の激越な態度に脅える父親を落ち着かせて、ボーマルシェは2人分の食事を運ぶように召使に指示を出して2階の書斎に向かった。後を付いてきた召使に、剣を持ってくるように伝えたが、剣は研磨に預けていて手元にないという。取ってくるように言うボーマルシェであったが、公爵はそれを遮って「誰も外出してはならない。さもなければ殺す」と興奮気味に語る。なんとかして公爵を落ち着かせようと努力するボーマルシェであったが、その努力も虚しく、とうとう公爵は武力行使に打って出た。ボーマルシェの机の上に置いてあった葬儀用の剣に飛びつくと、自身の剣は腰につけたままでおきながら、剣を引き抜いて斬りかかってきたのである。ボーマルシェは剣が届かないように公爵に組みかかり、召使を呼ぶために呼び鈴をならそうとした。公爵が空いている片方の手で爪をボーマルシェの目に立てて顔を引き裂いたので、彼の顔は血まみれになった。なんとか呼び鈴を鳴らして、やってきた召使に向かって、公爵を抑えている間に剣を取り上げるように叫んだ。ここで乱暴な真似をすれば、後々になって「殺されかけた」などとうそをつくかもしれないと考えたようで、手荒な真似はさせなかったらしい。剣を取り上げられた公爵は、今度はボーマルシェの髪に飛びついて、額の毛をそっくりむしり取った。あまりの痛みに公爵を抑えていた手を放してしまったボーマルシェであったが、そのお返しに公爵の顔面に拳をぶち込んだ。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "この際、公爵は「十二大貴族の一人を殴るとは何たる無礼か!」と口走ったらしい。すでに当時からこのような考えは時代錯誤であり、ボーマルシェ自身も「他の時であったなら、このような台詞には笑ったと思う」としているが、何しろお互いに節度を失って壮絶な殴り合いを繰り広げている真っ最中であった。そこへ、ボーマルシェの身を案じたギュダンが飛び込んできた。血まみれの顔をしているボーマルシェを見て驚いたギュダンは、彼を伴って2階へあがろうとしたが、怒り狂った公爵は自身の佩刀を抜き、突きかかろうとしてきた。召使たちが公爵に飛びついてなんとか剣をはぎ取ったが、頭や鼻や手に傷を負う者が出た。剣をはぎ取られた公爵は台所へ駆け込み、包丁を探しだしたので、召使たちはその後を追って殺傷能力のあるあらゆる道具を隠した。武器が見つからないことを悟った公爵は一人食卓に腰を下ろし、台所に準備されていたスープと牛の骨付き肉を平らげたという。ここでようやく警察が到着し、公爵とボーマルシェの乱痴気騒ぎは終わりを迎えた。この晩、ボーマルシェは包帯を体に巻き付けて、サロンに出向き、『セビリアの理髪師』の朗読やハープ演奏を行ったという。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "当然、この騒ぎを裁く法廷が開かれた。貴族間の争いを裁く軍司令官法廷は、公爵とボーマルシェの邸宅に警備兵を置いて監視させ、両者を尋問した。この法廷とは別に、宮内大臣ラ・ヴリイエール公爵はボーマルシェに数日間パリを離れるように命令を出したが、ショーヌ公爵の怒りを恐れて逃げ出したと受け取られることを心外であると考え、この命令に従わなかった。結局、ショーヌ公爵の非を認め、ボーマルシェの行為を正当防衛と認める裁定が下され、公爵は王の封印状によって2月19日、ヴァンセンヌ牢獄にぶち込まれた。ところが、宮内大臣はこの裁定に不満があったらしい。ショーヌ公爵は先述したように、血筋の抜群に良い大貴族であった。その大貴族が牢獄に放り込まれているのに、貴族とはいえ平民出身の成り上がりが自由の身に置かれていることを問題視したのかもしれない。大臣は職務上、王の封印状を手に入れるのは容易であったから、それを手に入れて、2月24日にボーマルシェを牢獄にぶち込んだのであった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "この2人は、5月上旬に揃って出獄を許された。たとえ3か月程度とはいえ牢獄に放り込まれて充分懲りたのか、メナール嬢への恋心がずいぶん薄まったのか、いずれにせよ出獄後に楽しく食卓を囲み、和解したという。乱痴気騒ぎの原因となったメナール嬢は、公爵の暴力から逃げ出すために、聖職者や警察長官の助けを得て修道院へ駆けこんだが、その厳しい生活に2週間と耐えられなかったようだ。ちょうど公爵が牢獄にぶち込まれたことをこの頃に知ったようで、もう暴力に脅える必要なしと判断したのかもしれない。ボーマルシェはメナール嬢が修道院から抜け出したことを牢獄内で知り、手紙で修道院へ戻るように勧めているが、彼女はこれに従わなかった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "2月24日に牢獄に入れられてから、彼の関心はラ・ブラシュ伯爵との裁判にあった。伯爵がこれを絶好の機会ととらえ、高等法院の判事たちに自分の味方となるように働きかけを強めるに決まっていると考えたのであろう。早速、警察長官のサルティーヌに「進行中の裁判があるから、一刻も早く牢獄から出してくれるよう」手紙を書き、宮内大臣ラ・ヴリイエール公爵へ執り成しを頼んだが、無碍に断られてしまった。彼はこのような仕打ちに怒りを見せたようだが、宮内大臣が首を縦に振らない以上どうしようもなかった。3月20日、ある匿名の手紙が彼のもとへ届けられた。内容から察するに、ボーマルシェに好意的な人物の手によるものであろう。その手紙には「あなたがいくら権利を奪われたとして正義の裁きを求めても、宮内大臣の姿勢は変わらない。絶対王政下にあっては、権力者に赦しを請い、卑下した態度を示すことこそ肝要である」と認められていた。この手紙の意見を素直に聞き入れたようで、翌日の21日に宮内大臣へ彼が送った手紙には、匿名の手紙に書かれていた通りの態度が示されている。大臣はこの手紙を受け取り、ボーマルシェは充分懲りていると判断したのか、厳しい条件付きではあるが外出許可を与えた。早速判事たちに面会を求めてパリを歩き回ったボーマルシェであったが、思い通りの成果を挙げることはできなかった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "デュヴェルネーと証書を交わした、ちょうど3年後の1773年4月1日、高等法院の報告判事としてルイ=ヴァランタン・グズマン(ゴズマン、ゴエズマンとも)が任命された。当時の高等法院においては、この報告判事の下した結論に基づいて判決が決定されるのが一般的であったから、賄賂は厳禁であったが、事前に判事にあって懐柔しておくのが一般的であった。ボーマルシェも早速グズマンに会って自身の正当性を主張しようとしたが、会うことすらできなかった。ラ・ブラシュ伯爵の判事への工作が相当に浸透していたのかもしれないが、これにはグズマンという男自体の考えも絡んでいた可能性がある。この男は、遺されている資料から判断するに、融通の利かない性格で、容姿も醜い男であったという。顔面神経痛という持病がそれに拍車をかけており、その対照的な存在であるボーマルシェに個人的な恨みを抱いていたのかもしれない。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "ボーマルシェは何度もグズマンに会いに行ったが、一度も面会を果たせないままであった。彼は途方に暮れ、妹の家での会合において不安を口にした。その際、そこに居合わせた知人ベルトラン・デロールから「本屋のルジェに頼んではどうか」との提案を受けた。ルジェはグズマンの著書の販売を手掛けており、グズマン夫妻と親しい間柄であったからだ。実際、ルジェを通してのグズマン夫人への面会申し込みは有効であった。厚かましくも彼女は、面会の条件として100ルイ(現在の日本円にしておよそ45000~110000円程度)を要求してきたが、必死になっていたボーマルシェはその要求を呑むことにした。こうしてボーマルシェはグズマン判事への面会を果たした。判事は「一通りの書類を検討した」と彼に述べたが、やはりこの男はボーマルシェに好意的でなく、筋の通らない論法や、傲岸不遜な態度、軽蔑的な口調を隠そうともしなかった。ボーマルシェは彼を論破するべく、判事への反論を文書化して再度面会を求めたが、またも夫人は贈り物を要求してきた。この際にはダイヤモンドを散りばめた時計と15ルイが贈られたが、この時にこれらの贈り物を要求したという事実が、グズマン判事夫妻の身を破滅させることになるのであった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "要求の品物を与え、面会の約束を取り付けたにもかかわらず、ボーマルシェはグズマン判事邸で門前払いを食らってしまった。約束の不履行を抗議するなどして、なんとか面会しようとしたが、結局果たせないままに判決を迎えた。1773年4月6日、高等法院での判決が下った。ボーマルシェの敗訴がこれで決定し、グズマン夫人は約束不履行のために、15ルイ以外の贈り物をすべて返却した。この敗訴は、ボーマルシェを相当に追い詰めた。彼は恩人を裏切って証書を偽造したペテン師ということになり、裁判所からは法定費用を含めておよそ6万リーヴルの罰金を科せられた。勝訴した伯爵によって財産と収入は差し押さえられ、そのあおりを受けて家族は家を追い出されて路頭に迷っていた。しかも、ボーマルシェは外出許可があったとはいえ、いまだ牢獄につながれている囚人のままであった。判決直後は絶望に打ちひしがれていたボーマルシェであったが、やがて立ち直り、四面楚歌の状況を打開しようともがき始めた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "なぜグズマン夫人が15ルイだけ返還しなかったのか、ボーマルシェはその点が気になっていた。15ルイは書記に与えるためとして要求された金であったが、自身でも以前、友人を介して書記に10ルイを渡そうとしており、中々彼が受け取ろうとしなかったことを知っていたからだ。10ルイでさえ受け取るのに渋るような男が、それに追加して15ルイを受け取ることなどあるだろうか?このように考えたボーマルシェは、早速手紙を認めて返還要請を行うが、夫人からは「書記に与えるために要求した金額であるから、返還の必要はない」との返答があった。この返答を受けて書記に確認した結果、15ルイは書記に渡っていないことが発覚した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "こうしてグズマン夫人の私利私欲から出た行為が明らかとなったわけだが、初めからこの点を利用して反撃しようと考えていたわけではなかったらしい。15ルイといえば精々現在の日本円にしてもおよそ5、6000円程度の少額であり、夫人はそれよりはるかに高額なダイヤモンドを散りばめた時計などをしっかり返還しているのも事実なのであって、この程度の金額に執着するはずもないと考えていたようだ。この件に関して、どのように対処すべきか本屋のルジェに手紙を宛てているが、彼は無礼なことに返事をよこさなかった。それまでボーマルシェは「15ルイ程度の額なら諦めても良いし、ルジェの顔を立てた対応をしても良い」と考えていたようだが、この一件で態度を一変させ、徹底的にこの件を利用することにした。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "1773年5月8日、ボーマルシェはついに釈放された。いざ自由を手に入れると、彼はパリのサロンを巡り歩いて、自身が体験したグズマン判事夫妻との一件を面白おかしく話のネタにして見せた。寝耳に水の反撃に驚いたグズマン夫妻は、ボーマルシェを完全に社会的に抹殺すべく、止めを刺そうと動いた。虚偽の陳述書をでっちあげてルジェに署名させ、それを証拠として高等法院に贈賄未遂罪でボーマルシェを告訴したのである。それだけでは不十分と考えたのか、ルジェの友人であった劇作家の証言書を補強として提出するなどの徹底ぶりであった。6月21日、審理が開始され、グズマン判事夫妻を相手にしたボーマルシェの闘争が始まった。ルジェはたしかに上得意客であったグズマン判事に圧されて虚偽の陳述書作成にかかわったが、良心の呵責からその不法行為に苦しんでいた。妻にすべてを打ち明けて相談した結果、裁判で真実を述べるべきと諭され、7月上旬になって法廷で陳述書が虚偽であることを正式に認めた。その結果、ルジェは1か月近く身柄を拘束されて尋問に応じなければならなくなり、ボーマルシェを初めとする関係者も度々召喚命令を受けて、出頭する面倒をこなさなければならなくなった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 57,
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"text": "この当時の高等法院の慣例では、贈賄罪の審判は非公開で行われ、判決理由の公表も義務ではなかった。しかも、死刑を除くありとあらゆる刑罰の適用が可能であったから、法曹界がその一員であるグズマンを救おうと思えばそれが可能であったし、ボーマルシェの身柄などどうにでも片づけられるのであった。このように、ボーマルシェが仕掛けた闘いは自身にかなり不利な立場でのものであったわけだが、彼にはそれ以外の方法は残されていなかった。すでに控訴審に置いて敗訴が決定した以上、何も手を打たなければ莫大な罰金やら賠償金で立ち直れないほどの打撃を被ってしまう。独り身ならまだしも、彼は父親や妹などの家族を抱える一家の長であり、それだけに勝負に出るほかなかったのだ。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 58,
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"text": "とはいえ、正攻法でまともに闘っては勝ち目が薄い。そこでボーマルシェが考え出した対抗策は、その文才を活かして世論を味方につけることであった。裁判に世間の注目を集めれば、秘密裏に審議を行うわけにもいかなくなるし、判決理由も非公表とはいかなくなるからだ。こうした考えに則って、1773年9月5日、ボーマルシェはこの事件に関する最初の著作『覚え書』を出版した。この『覚え書』は40ページに満たない小冊子で、内容はパーリ=デュヴェルネーとの契約にまつわること、グズマン判事夫妻との一件、裁判でのルジェの偽証などの事実報告と、敵対者たちへの反論で構成されており、これらを喜劇として面白おかしくまとめたものであった。この著作はたちまち話題となり、宮廷貴族から町民に至るまで、あらゆるところで評判になったという。",
"title": "生涯"
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"text": "これに勇気づけられたボーマルシェは、同年11月18日に『覚え書補遺』を発表した。この作品の出版目的は、グズマンが主張する贈賄未遂の非難に対する自身の弁解を世間に広く知らしめることにあった。実際、この裁判の争点は「100ルイとダイヤモンドを散りばめた時計は、何の目的で贈られたのか」の一点のみであって、ボーマルシェとグズマン夫妻はこの点を巡って激しく対立した。ボーマルシェが『覚え書』の公表で世間に広く主張を訴えたのと同様に、グズマン夫人やその取り巻きたちも文書を公表し、激しい誹謗中傷を浴びせた。ところが、肝心のグズマン判事は沈黙を守っていた。遺された資料から判断するに、グズマン夫人は考えの足りない愚かな女であった。夫を庇おうとするあまりに敵対者に有利な証言を行ったりしているわりに、彼女の名義で発表された文書はやたらとラテン語や法律用語の出てくる内容で、明らかに教養ある人物によって認められたものであった。これはおそらく判事が書いたのであろう。これ以外にも先述したように、ルジェを使って虚偽の陳述書を作成したり、黒幕としてうごめいてはいるが絶対に自分の手は汚さない。あくまで被害者として同情を誘う戦略であったのか、他人を盾として安全圏に身を置くつもりであったのか、真意はわからないが、結局この行為は無駄であった。12月23日、グズマンにも召喚命令が発せられ、厳しい尋問が行われることとなったのである。",
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"paragraph_id": 60,
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"text": "12月20日、ボーマルシェはこの件に関する3作目の著作『覚え書補遺追加』を発表した。夫妻の取り巻きたちや、グズマン夫人名義で発表された文書に詳細な反論と嘲笑を加え、贈賄罪の疑いに対して決定的な反駁を行った。以下はその抜粋である:",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "この反論に加えて、ボーマルシェはグズマン判事の人間性を暴露するエピソードを『覚え書補遺追加』に加えて発表した。高潔を自負するグズマンはかつて、町民夫婦の娘の洗礼に名付け親として立ちあった際に、偽名と偽住所を用いて受洗証にサインをしていたのだった。それだけにとどまらず「名付け親として養育費を援助する約束を全然履行してくれない」との夫婦の訴えまでもが、添えられていた。カトリックの重要な秘蹟である洗礼に立ち会うという大役を果たしながら、虚偽の事柄を用いて洗礼を穢したという事実は、世間がグズマンの人間性に厳しい目を向けるのに十分すぎる内容であった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "すでにボーマルシェに圧倒的有利な状況が形成されていたが、彼は反撃の手を緩めず、1774年2月10日に『第四の覚え書』を発表した。この覚え書に、スペイン滞在の際の一件を記した『1764年、スペイン旅行記断章』を付している。この作品では法廷描写をメインに、グズマン夫妻の言動を徹底して滑稽に描き、嘲笑し、徹底的にぶちのめす、世間に大受けした冊子であった。3日で6000部が完売し、ボーマルシェは時の人となったのである。彼の人気は、町民の間だけにとどまらなかった。ルイ15世の愛人デュ・バリ夫人は、この作品のボーマルシェとグズマン夫人の法廷でのやり取りを、滑稽な芝居に書き換え、ヴェルサイユ宮殿で何度も上演させて楽しんだという。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 63,
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"text": "第四の覚え書は、文学者や作家からも高い評価を獲得した。ヴォルテールはグズマン夫人の取り巻きと親しかったこともあって、はじめのうちはボーマルシェに好意的でなかったが、発表された『覚え書』や当事者たちの反応を自身で精査するうちにボーマルシェに傾いていき、『第四の覚え書』で完全に彼を支持するに至った。ジャック=アンリ・ベルナルダン・ド・サン=ピエールはボーマルシェをモリエールに比肩する存在であると褒めちぎっているし、ゲーテは『スペイン旅行記断章』に触発され、戯曲『クラヴィーゴ』を制作したと『回想録』において述べている。彼らだけでなく、特に女性たちはボーマルシェを熱烈に支持した。こうして、世論を味方につけるという当初の目的は見事に果たされたが、問題はこれが高等法院の連中に通じるかどうかであった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "1774年2月26日、判決の日を迎えた。この日の裁判は朝6時から開廷された。これは異例の早さであったが、ボーマルシェの策略によってこの裁判並びにその判決に世間の注目が集まってしまったために、高等法院の担当者たちは彼らからの非難を恐れたのだろう。ところがパリ市民たちは続々と集まってきた。すでに午前8時には高等法院の広間は人で埋め尽くされていたらしいが、一向に判決が下される気配がない。判決当日になっても、判事たちはいまだに意見を統一できておらず、激しく議論していたのであった。12時間にわたる議論の末、ついに判決が下された。「グズマン判事は高等法院出入り差し止め。グズマン夫人は譴責処分、15ルイの返却。ボーマルシェは譴責処分と『覚え書』の焼却。」という内容であった。痛み分けのように見えて、実質ボーマルシェの勝利であったが、この判決を聞いた広間の市民たちはすぐに怒りだした。判事たちはそれを予想していたので、各々がこっそり法廷から逃げ帰ったという。ボーマルシェは大衆に温かく迎え入れられ、コンチ大公やシャルトル公爵は彼のために豪勢な宴を開催したとのことである。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "『覚え書』の発表は、勝利だけでなく、運命の出会いをももたらした。この作品を読んで感動したスイス系フランス人女性マリー=テレーズ・ヴィレルモーラスは、ボーマルシェと面識はなかったが、彼に会うことを熱望した。2人は音楽を通じて仲を深め、そして恋に落ちたという。彼らは子を儲けたが、ボーマルシェは結婚に関して極めて慎重になっていたから、正式に結婚したのは1786年のことであった。実に12年後のことである。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "この判決によってグズマン判事は失脚し、市井に溶け込んで生活していたが、20年後のフランス革命の折に国家反逆罪として断頭台の露と消えた。1794年7月25日のことである。マクシミリアン・ロベスピエール失脚の2日前のことであった。アンドレ・シェニエと同じ囚人護送車に乗せられ、同じ日に処刑されたという。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "判決後の興奮から覚めると、ボーマルシェは自身に下された「譴責処分」の重さを実感せざるを得なかった。この判決で言う「譴責処分」とは、現在で言う公民権剥奪に相当する重いものであった。この処分によって公職から追放され、法的にもまともな扱いを受けることはできなくなる。厳しい状況に置かれたボーマルシェに対する、警察長官サルティーヌの助言は有効であった。言動を慎むように忠告し、「国王陛下がこの件に関して、何も書かないようお望みである」ことを伝えたのである。ボーマルシェはこの助言を守るべく、しばらくフランスを離れてイギリスへ渡ることにした。その道中、彼は友人である侍従長ラボルドに国王への執り成しを願うために手紙を送り、この目的は見事に達せられた。ボーマルシェの謹慎を評価した国王は、彼をヴェルサイユ宮殿に呼び戻し、グズマン判事夫妻との闘争で見せた交渉能力を自分が抱えているある問題の解決に利用しようと考えた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "この頃、国王ルイ15世は悩み事を抱えていた。イギリス在住のフランス人テヴノー・ド・モランドに、愛人であるデュ・バリ伯爵夫人の醜聞を種に強請られていたのである。当時、この手のあくどい行為は一種の産業ともいえるほどイギリスで盛んになっており、その書き手はもっぱらフランス人亡命者であった。ほとんど誹謗中傷に近い内容であったが、これらの冊子は金を払って出版をやめさせることが可能であり、書き手もそれが目的であった。モランドは金になりそうな相手を見つけては中傷冊子を発行するという性質の悪い行為を繰り返しており、デュ・バリ夫人に目をつけると、彼女とルイ15世の間柄を暴露する文書を発行すると通知した上で、フランス王室の出方を見極めようとしていたのであった。",
"title": "生涯"
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{
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"tag": "p",
"text": "ルイ15世も、何も手を打たなかったわけではない。イギリス王にモランドの身柄引き渡しを求めたが、折悪く七年戦争の影響で、フランス-イギリスの二国関係は極めて冷ややかな関係にあったために実現しなかった。イギリス政府からは「モランドを保護する気はないため、フランス側で彼の身柄を秘密裏に抑えるなら黙認する。ただし、国民感情を逆なですることは避けてもらいたい」という返答が帰ってきた。この返答の通りに、ルイ15世はモランドの身柄を抑えるべく警吏をイギリスに派遣したが、この動きがどこからかモランドに伝わり、イギリスの新聞にすっぱ抜かれてしまった。対応に手間取っているうちに、モランドの用意した暴露文書が流通寸前まで来ていた。いよいよ焦った国王は、交渉役としてボーマルシェに白羽の矢を立てたのである。",
"title": "生涯"
},
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"tag": "p",
"text": "ボーマルシェは、本名カロン( Caron )のアナグラムであるロナク( Ronac )という偽名を名乗り、王の密命を帯びてロンドンへ向かった。この仕事を成功させれば、国王の感謝と庇護と言う、絶対王政化ではこれ以上ない強力な武器を手に入れることができる。ボーマルシェは、ロンドンに到着すると早速モランドとの交渉に入った。交渉はかなり円滑に首尾よく進んだようで、文書の破棄とこの件に関する完全な沈黙を条件として、2万フランと年金4000フランの提供で合意した。ボーマルシェとモランドはずいぶん気が合ったようで、その後も文通を交わしている。見事に任務を遂行してフランスへ帰国したボーマルシェであったが、運の悪いことに帰国したころには国王ルイ15世の容態が悪化しており、この一大事を前に怪文書事件などはもはやどうでもいい扱いになっていた。そのまま5月10日にルイ15世が亡くなると、その死を純粋に悼む気持ちもあっただろうが、期待していた復権のきっかけを逃したボーマルシェは気を落としたという。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "ルイ15世が亡くなったことで復権の手がかりを失い、気を落としたボーマルシェであったが、すぐに次の策を見つけ出した。ユダヤ系イタリア人のグリエルモ・アンジェルッチなる男が、イギリスでルイ16世夫妻を中傷する怪文書を制作していることを聞きつけ、これを利用しようと考えたのだ。ルイ16世に宛てて「自身が父王のためにイギリスに赴いて使命を完遂したこと、その件に国王陛下(ルイ16世)も重要な関係があること」を認めた手紙を送り、警察長官のサルティーヌにも同様の内容で手紙を送って危機感を煽った。その結果ルイ16世に謁見を許され、すぐに中傷文書を闇に葬るように、モランドの時と同様の命令を受け、王の私設外交官となって再びイギリスへ渡ったのである。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "ロンドンには、かつてスペイン滞在中に知己を得たロシュフォード卿が政府高官として健在であった。ボーマルシェは彼を通してこの使命を果たそうと考えたようだが、ロシュフォード卿の理解を得られず、早速行き詰ってしまった。困ったボーマルシェは、国王の命令書の送付を要請した。その文面まで提案していたり、サルティーヌに同様の手紙を送りつける徹底ぶりであった。サルティーヌ宛ての手紙にはアンジェルッチの怪文書の調査報告も付されている。ボーマルシェの報告が全部事実であったかどうか疑問が残るが、若き国王ルイ16世は「王妃の名誉が穢されようとしている」との報告を受けて冷静に思案を巡らせるほどの器量の持ち主ではなかった。慌てた国王は、ボーマルシェの要請に応えて、彼の提案した文面の命令書に署名を行った。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "こうしてボーマルシェはアンジェルッチとの交渉に入ったが、モランドの時とは違ってなかなか円滑には進まなかった。アンジェルッチが高額な金銭を要求してきたため、あれこれ交渉を重ね、およそ35000リーヴルの支払いで合意に至った。原稿と印刷済みの4000部の文書がロンドンで焼却され、ついでもう一つの怪文書発行予定地であるアムステルダムに2人一緒に赴いて、同地でも出版予定の冊子を焼却することとなった。ところが、突然アンジェルッチが金と怪文書の原稿コピーを持ってニュルンベルクに逃走し、そこで怪文書を発行する動きを見せた。ボーマルシェはこの裏切りに激怒し、すぐさま後を追った。",
"title": "生涯"
},
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"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "ここまでの経緯は事実として考えてよいようだが、ここからの経過は資料不足もあって、虚実織り交じっていると考えられる。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "8月14日の夕方、ニュルンベルクから遠くないノイシュタットの町役場に、不思議な客を乗せたという駅馬車の御者ヨハン・ドラツが現れ、証言を残していった。それによれば、ロナクと名乗る男はノイシュタット近くの森を通過中、駅馬車から降りて剃刀と手鏡を持ち、森を出たところで待つように言い残し、森の中へ消えていった。その指示に従って待っていると、斧を担いだ樵3人の後ろから、ハンカチで手に応急処置を施したロナク氏が現れたという。ハンカチには手がまみれ、首筋から血が流れているのが見えたのでどうしたのか問うと、盗賊に撃たれたと答えた。銃声を聞いていないドラツは、剃刀で自身を傷つけたのだろうと判断し、それ以上深入りしなかったという。",
"title": "生涯"
},
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"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "このロナク氏はなぜか近隣の自治体ではなく、翌日になってニュルンベルクの当局に出頭して自身の被害を訴え出た。その被害報告では盗賊の容姿が詳細に語られ、2人の盗賊の名前としてアンジェルッチ、アトキンソンという名前を挙げられている。アトキンソンとは、怪文書を発行しようとしていたアンジェルッチの用いていたイギリス名であるから、このロナク氏がボーマルシェであることは間違いないし、この被害報告の提出動機も明らかである。アンジェルッチの身柄を公権力によって抑え、あわよくばフランスへ連行しようと考えたのだろうが、それはともかく、1人の人間を2人に分割したこの被害報告には無理があった。なぜこのようなことをしたのか、この件に関してはドラツの証言とボーマルシェの手紙しか資料が存在しないため、確かなことはわからない。ボーマルシェはこの件について、自身を英雄のごとく劇的に描いている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "8月21日、ボーマルシェはシェーンブルン宮殿に赴き、女帝マリア・テレジアとの面会を求めたが、取次を拒否されてしまった。仕方なくボーマルシェは秘書官に「ご令嬢のマリー・アントワネットの名誉が穢されようとしているから、その件をお伝えしに参りました」とのメッセージを託して引き上げた。このメッセージに疑問を抱いた女帝は、側近の伯爵にボーマルシェと接触させ、その伯爵の同席のもとに翌日になって謁見を許した。この席の様子はボーマルシェがフランス帰国後にルイ16世に提出した報告書で仔細に語られており、この席でマリー・アントワネットへの忠誠心、これまでの顛末、偽名を用いた理由を語り、逃走したアンジェルッチから中傷文書を奪い取ったことを伝え、この男の逮捕を強く進言したという。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "ところが、女帝とその側近たちはボーマルシェの話を全く信用していなかった。彼らはそもそもアンジェルッチなる男が存在するのか、そこから疑いをかけていたようだ。ボーマルシェは軟禁状態に置かれ、厳しい監視下のもとで過ごさなければならなくなった。宰相カウニッツは、ドラツの証言の調査を開始するとともに、フランス駐在オーストリア大使を通じて、フランス政府にボーマルシェの社会的信用を尋ねている。実際のところ、アンジェルッチという男の存在は長らく証明できなかった。1887年になってようやく、ボーマルシェの手紙中にこの男の名前があるのが確認されたため、今日においては「ボーマルシェ≠アンジェルッチ」であることは確実である。女帝に謁見を求めた目的として「その感謝を獲得して、フランス社会での自身の復権に利用したのではないか」との疑いもかけられたが、文書差し止めには成功しているのだから、そのまま帰国すれば復権のための計画は首尾よく運ぶに違いないので、これも単なる疑いの域を出ていない。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "このように考えると、「アンジェルッチがニュルンベルクに逃走し、それを知ったボーマルシェが後を追って彼を捕まえ、持っていた文書のコピーを奪い取った」ということは間違いないと思われる。ただ、ドラツの証言でも少し触れられている「盗賊に襲われた」という件についてはかなりの疑問が残る。結局はっきりした事実はわからないのだが、研究者の中でもこの件についての見解は割れている。全くの虚偽、狂言と断じる研究者もいるが、ボーマルシェ自身の証言を全面的に支持する者もいる。おそらく、アンジェルッチから怪文書のコピーを奪い取ったボーマルシェが、自身の行為をもっと美化しようとしてでっち上げたのだろう。女帝マリア=テレジアに自身を売り込み、醜聞からブルボン王室を救ったとして箔を付ければ、自身の復権に大いに役立つからだ。しかし、それが通用しなかったことは先述したとおりである。女帝と宰相カウニッツの疑いを受けて勧められていた調査の結果、フランス政府からの身元保証もあって、ボーマルシェは軟禁状態から解放され、10月2日に帰国した。この件に関するカウニッツの書簡が残されているが、それによれば、最後までボーマルシェは信頼されていなかったようだ。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "1775年、またしてもボーマルシェは王の密命を受けて活動しなければならなくなった。デオン・ド・ボーモンという男が、外交上の書類、故ルイ15世の書簡を有していることが判明したためである。この男が持っていた文書の中には、ルイ15世が密かに計画していたイギリス上陸作戦計画書もあったらしく、フランス政府としては絶対にこれらの文書を流出させるわけにはいかなかった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "デオン・ド・ボーモンという男は、1728年生まれで、士爵の称号を持っていた。若い時から女性と間違えられるような美貌の持ち主であったらしく、ルイ15世の命令で女装してロシア宮廷に仕え、エカチェリーナ2世の語学教師を務めたという。1763年にはイギリスで特命全権公使として国王の密命を帯びて工作を行ったが、当時のイギリス駐在フランス大使ゲルシー伯爵と激しく対立し、彼を失脚させる原因を作った。ゲルシー親子の恨みを買ったため、デオンも特命全権公使の地位を剥奪されたが、国王は彼の能力を高く評価していたため、年金を与えてそのままイギリスに滞在させていたのであった。この頃から常に女装し始めたらしく、その変装は、彼の性別が賭けの対象となるほど完璧なものであったという。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "ボーマルシェは1775年4月末、一時的にロンドンに滞在していた。デオンはこの情報を掴み、ボーマルシェに接触して、すでに受けている年金に加えて30万リーヴルを要求する意志があることを告げた。デオンは、ボーマルシェが女性に優しいこころを持っていることを看破していたようで、そこにつけ込むことに見事に成功した。ボーマルシェは、内務大臣に昇進していたサルティーヌにデオンの要求を伝え、サルティーヌは外務大臣ヴェルジェンヌに話を通して、ボーマルシェ宛に交渉依頼状を送付した。これが正式な交渉となるのは、8月末のことであった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "デオンはそれまでのモランドやアンジェルッチとは違って、かつては特命全権公使を務めた貴族であるから、ボーマルシェは特に注意深く彼を扱った。金銭条件は当然として、特にデオンが拘ったのはフランスへの安全な帰国であった。デオンは、ゲルシー親子と対立した結果始まったイギリス滞在にうんざりしており、国王の帰国許可と身の安全保証を要求したのだった。このことを知らされた外務大臣は、ゲルシー親子の恨みの深さを理由に難色を示したが、「デオンが女装する条件で」帰国を容認すると返答してきた。ボーマルシェはこの奇策に乗っかって交渉を行い、11月4日、正式にデオンとの合意に至った。その合意では、デオンに「所有する書類の全ての引き渡し、ゲルシー親子への法的追及の放棄、女装の徹底」を約束させる代わりに「12000リーヴルの終身年金とロンドンでの負債の会計監査」を約束している。この奇妙な合意は、12月になってルイ16世の承認を受けて正式に発効された。合意成立後、ボーマルシェがデオンを一貫して女性として扱っていることから、デオンを本当に女性であると思っていたとか、デオンと関係を持ったとか推測する者もいるが、1775年にデオンはすでに47歳であり、いくら昔はとびきりの美貌を持っていたとはいっても、現実的な考えであるとは言えないだろう。このデオンとの交渉を最後にボーマルシェは王の私設外交官という役目から解放された。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "王の密命を帯びてデオン・ド・ボーモンと交渉に当たっていた1775年は、アメリカ独立戦争の勃発した年でもあった。当時のフランスは、七年戦争での敗北をいまだに引きずっていた。この戦争で100万人近い人員を失い、大量の領土を奪われた挙句、屈辱的な譲歩を強いられていたためである。その結果、イギリス海軍は太平洋の制海権を掌握し、まさに世界最強として実力を誇示していたのだ。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "イギリスに滞在していたボーマルシェは、デオンとの交渉にのみ専念していたわけではなかった。交渉に当たりつつも、イギリスの外務大臣ロシュフォード卿や、首相であるフレデリック・ノースやロンドン市長ジョン・ウィルクスの邸宅に出入りして、反乱軍に共鳴する人間と通じ合い、アメリカ独立戦争に関する情報を得ていた。その結果、この独立戦争がどのようになろうが、いずれにしても「フランスはアメリカを極秘に支援するべき」との考えに達した。1775年9月ごろから、ルイ16世と外務大臣ヴェルジェンヌに宛てて、アメリカを支援するように説得する手紙を何通も送っている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "その内容を簡潔に要約すると、「フランスはアメリカを支援するべきである。もし反乱軍が敗北したならば、彼らはただ傍観していたフランスを恨みに思って、イギリスと結託して攻撃してくるだろう。その結果、再び大損害を被って、ますますイギリスとの国力の差が広がることとなる。そうならないためにもフランスは反乱軍を支援しなければならないが、正面切ってイギリスと戦う余裕はまだないから、その準備をしつつアメリカを極秘に支援しなければならない。そのためにイギリス本土で正確な情報を獲得できる人間が必要だが、その任に私よりふさわしい人間はいない。」となる。外務大臣ヴェルジェンヌもこの意見に納得したようで、国王ルイ16世に進言し、ボーマルシェを正式にその任に当たらせることにした。こうしてボーマルシェは、単なる王の私設外交官から、外交顧問となったのである。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "ボーマルシェはこの任務に特に意欲的であったようで、イギリスの政権与党のみならず、野党など幅広い人物から情報を獲得しようと努めた。フランスに帰国するたびに国王の側近大臣に情報を伝え、米英の分断政策を展開するように進言したが、いくら大臣とはいえ、決裁権を持たない人間相手では一向に埒が明かなかった。そのため、やがて国王に直接手紙を送り、丁寧に、しかしけしかける様にアメリカを支援するよう提案を行ったが、国王の態度は煮え切らなかった。だが、それも当然といえば当然であるだろう。いくら植民地側に反乱を起こす大義があったとしても、他国であるフランスがそれを公に認めて支援を行えば、それはすなわちイギリスへの宣戦布告と同様の意味を持つ。先述したように、この当時はイギリスはまさに世界最強であったし、フランスは国力を弱めていたから、攻撃されればひとたまりもなかったのである。ボーマルシェもこの点は承知していたようで、1776年2月29日の手紙ではイギリスの情勢を紹介し、反乱軍がフランスの支援がないことに絶望しかかっていると様子を伝えた上で、火中の栗たるアメリカ支援任務は自分が引き受けることを主張した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 88,
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"text": "こうして、正式にアメリカ支援の任務に当たることになったボーマルシェであったが、やはり慎重な姿勢を崩さないフランス政府は条件を付けてきた。アメリカ反乱軍を支援はしたいが、イギリスを刺激するのは国家存亡に関わる。そのため政府としての支援ではなく、単なる個人的投機として誰の目にも映るようにしてもらいたい、というのがその条件であった。そのための方法も詳しく指定されており、それによれば「ブルボン王家と親しく、利害関係のあるスペイン王家とフランス政府からの200万リーヴルと、それに民間から出資者を募って集めた資金を基に商社を設立し、アメリカ反乱軍に必要な武器弾薬などを提供する。フランス政府が武器を調達して商社に売り渡すが、反乱軍には金ではなく、物を要求しなければならない。」というものだった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "1775年9月6日、高等法院の判決によってボーマルシェは正式に社会的復権を果たした。商社設立のための障壁は完全に取り除かれたが、その設立のために必要な民間出資者がなかなか集まらなかった。それでもなんとか資金を集め、同年10月に「ロドリーグ・オルタレス商会」なる名前で商社を設立した。こうして、ボーマルシェは船や武器弾薬、義勇軍集めに奔走するなど、商人として動き始めたが、いささか派手に活動しすぎた。イギリス側が彼の動きを察知し、外務大臣ヴェルジェンヌに猛抗議してきたのである。いくら民間業者である(そのように装っているだけだが)とはいっても、外交関係があるイギリスからの猛抗議を無視できなかったフランスは、沿岸の港に船員の乗船と出港禁止を発令した。ボーマルシェの用意していた3隻の船のうち、2隻はこの命令によって足止めを食らったが、一番多く支援物資と人員を積んだ1隻は発令の直前に出港していた。ところが、この船に乗り込んだフランス義勇軍の司令官が、船の乗り心地の悪さを理由に他のフランスの港に立ち寄るように船長に求めたため、結局他の2隻と同じように足止めを食らった。この顛末を聞いたボーマルシェは激怒し、この司令官を船から降ろした上で、ヴェルジェンヌと交渉を重ねた。その結果、この3隻の船は1777年初頭、密かにアメリカ大陸へ向けて出港し、イギリスの軍艦に見つかることもなくアメリカへ無事到着した。初めての支援物資が届いたことを知ったアメリカ人たちは、熱狂したという。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "ところが、ボーマルシェはミスを犯していた。武器弾薬の代わりとして大量の物産を積んで帰ってくるはずの3隻の船は、空っぽのままで帰ってきたのである。これには、ボーマルシェが関わったアメリカ人、アーサー・リー、サイラス・ディーン、アメリカ建国の父として高名なベンジャミン・フランクリンが密接に絡んでいる。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "最初にボーマルシェと知り合ったのは、アーサー・リーであった。彼はヴァージニア州生まれであったが、イートン・カレッジで学び、エジンバラ大学を出たのち、ロンドン市長ウィルクスの下に出入りしていた。そこでボーマルシェと出会い、アメリカの秘密使節として彼と交渉するようになったのだ。交渉の初期段階においてボーマルシェに情報を流していたのはこの男であった。だが、いささかその性格に難があった。嫉妬深い性格で、恨みを根に持ち、猜疑心の強い男であったらしい。",
"title": "生涯"
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"tag": "p",
"text": "1776年7月4日、独立を果たしたアメリカは、サイラス・ディーンとベンジャミン・フランクリンを代表としてパリに派遣した。遅れてリーもパリに到着したが、その頃にはすでに彼らはボーマルシェを通じてフランス政府との交渉で実績を挙げつつあった。このような状況を見て、リーは激しく焦り、嫉妬心に駆られた。1777年1月3日付のアメリカ議会へ宛てた手紙で、ボーマルシェの約束不履行をなじり、武器弾薬に見返りに何も支払う必要はないとの報告を行っていることでそれは裏付けられるだろう。だが、ボーマルシェにも非はあった。彼はリーをさほど信頼しておらず、その交渉も表面的でしかなかったと手紙に認めている。ボーマルシェが交渉相手としてサイラス・ディーンを信頼し、彼を選んだためにリーは立場を失い、ボーマルシェに恨みを抱いたのである。これだけで済めばよかったのだが、今度はサイラス・ディーンが原因になって、他にも恨みを買うことになった。ディーンがフランスに立つ際、仕事を円滑に進めるために、ベンジャミン・フランクリンはデュブール博士という男に宛てた推薦状を与えていた。デュブールという男は、フランクリンとの関係を利用してボーマルシェより前からアメリカに武器を提供していたが、彼の登場によってその商売が危うくなっていた。ディーンは、同じ商売を手掛けるボーマルシェとデュブールを天秤にかけた結果、ボーマルシェの方が交渉相手として有力であるとの判断を下した。こうしてデュブールの恨みをも買うことになったのである。この結果、ボーマルシェはフランクリンとあまり良い関係を構築できなかった。デュブールが悪評を吹き込んでいたのかもしれない。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "こうして、ボーマルシェはディーンを相手に交渉を進め、1776年7月下旬には交渉をまとめた。「武器弾薬の代わりに、ヴァージニアなどの煙草を引き渡す」という内容であったが、ボーマルシェは詰めが甘かった。この交渉成立のおよそ1か月後にフィラデルフィアの議会に手紙を送っているが、良い印象を植え付けようとしたのか、アメリカ独立への熱烈な共感を強調したいあまりに、それだけが際立つ文面となってしまい、肝心の商売の話をうやむやにしてしまったのである。議会がこれを誤解したのか、つけ込んで利用したのかはわからないが、何にせよその結果は先述したとおりである。当てが外れたボーマルシェは商社の経営に行き詰ったが、幸いなことに外務大臣ヴェルジェンヌが100万リーヴルを追加融資してくれたおかげで、何とか破滅せずに済んだ。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "1778年2月6日、それまで慎重な姿勢を崩さなかったフランス政府も、ボーマルシェの報告を分析したり、フランクリンなどとの交渉の進展を見て、パリにて仏米友好通商条約と仏米同盟条約を締結した。こうしてフランスとイギリスは戦争状態に突入し、ボーマルシェの商社は純粋な民間業者となった。彼は最初の失敗を教訓として、助手であったデヴノー・ド・フランシーをアメリカに送り、貿易業者としてアメリカ新政府と正式に契約を交わすに至った。1779年1月には、アメリカ議会の要請によって発せられた議長ジョン・ジェイ名義の感謝状を手に入れるほどであった。この感謝状には「これまでに合衆国支援のために被った負債の支払いを速やかに行う」と記されていたが、その負債の巨額さもあって、ボーマルシェの生前はこの通りに履行されなかった。1835年になって、ボーマルシェの相続者たちに80万フランが贈られてようやく片付いたのであった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "アメリカ独立戦争に絡むこの貿易では、巨額の負債が足を引っ張って、ほとんど利益を挙げられなかった。だが、アメリカの独立と祖国フランスの役に立ったのは間違いない。アメリカ独立戦争に関わっていたこの時期、1777年1月にマリー=テレーズ嬢との間に娘をもうけ、ユージェニーと名付けた。",
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"text": "1770年代後半になっても、ラ・ブラシュ伯爵との裁判は続いていた。ボーマルシェの多忙を知った伯爵は、判決が下される予定地であるエクス=アン=プロヴァンスに腰を据えて、自分に有利な判決が出る様に工作活動を進めていた。誹謗中傷文書のばらまきに勤しんだほか、朝早くから判事を訪れて自身の主張を訴えたほか、6人の弁護士を雇って準備を重ねるなど、その活動は抜かりのないものであった。",
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{
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"tag": "p",
"text": "ロドリーグ・オルタレス商会の仕事でマルセイユを訪れたボーマルシェは、伯爵の上記のような活動を知り、反論文書を書き上げてエクス=アン=プロヴァンスで出版した。この文書は同地の住民たちに大受けしたようで、彼の人気は一気に高まった。予期せぬ反撃に伯爵は慌て、反論文書を発表した上で、ボーマルシェの文書の差し止めと焼却を求める請願書を裁判所に提出した。これにボーマルシェが再反論を加えるなど、泥仕合の様相を呈する論争で盛り上がる市民たちを尻目に、エクス=アン=プロヴァンスの裁判官たちは慎重にこの件に関する調査を行っていた。ボーマルシェは、すべての判事が同席する上で伯爵とともに陳述させる機会を与える様に裁判所に請願し、認められた。この2人はともに雄弁家であったから、大いに街の人々の関心を惹きつけたらしい。59回に及ぶ審理の結果、1778年7月12日、エクス=アン=プロヴァンスの再審法廷は、裁判官全員一致でボーマルシェの勝訴という判決を下した。伯爵の主張は悉く退けられただけでなく、根拠のない誹謗中傷と断じられ、ボーマルシェの本来の権利であった15000リーヴルに加えて、この裁判に要した費用はすべて伯爵が支払うことになったのである。",
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{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "この判決に、町中が沸き返った。長年の苦しみから解放されたボーマルシェは、涙を浮かべ、喜びのあまりに気を失ったという。伯爵もさすがに根負けしたようで、判決に素直に従ったようだ。こうして、10年近くに亘るラ・ブラシュ伯爵との闘争は幕を閉じたのである。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "『フィガロの結婚』は、ボーマルシェの最大の庇護者であったコンチ大公の「『セビリアの理髪師』以上に陽気な、フィガロ一家を舞台に登場させてほしい」という要請に応えて制作された作品であった。その完成を目にすることなく大公は亡くなってしまったが、ボーマルシェは大公との約束を果たそうと必死になり、結局1778年に完成させた。1781年9月、オペラ・コミックに客足を奪われ、興行成績の低迷に苦しんでいたコメディー・フランセーズの委員会は、同作品を上演作品として受理することを決めた。これに気を良くしたボーマルシェは、警察長官に検閲申請を行い、そこでも問題なしと判断されて、正式に上演許可を獲得した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "『フィガロの結婚』を高く評価していた貴族たちからの要請を受けて、国王ルイ16世も判断を下すために同作品を取り寄せた。これを朗読させ、王妃マリー・アントワネットとともに耳を傾けたという。この時、朗読役を任されたカンパン夫人の回想録に、この時の国王夫妻の反応が記録されている:",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "今日においては「凡庸そのもの」とか「無能」とか評価されることも多いルイ16世であるが、大勢の貴族が『フィガロの結婚』を表面的にしか理解していなかった(からこそ、作品上演を支持した)のに対して、その危険性を見抜いて上演禁止を言い渡したという事実は、結果論ではあるが国王に先見の明があったとも言える。この当時のフランス社会においては、市民たちはアメリカ独立戦争に刺激されて着々と力を蓄えつつあったし、貴族の間でも啓蒙思想が広く受け入れられていた。まさか10年もたたないうちに、自分たちが「フィガロ」のごとき市民たちに攻撃されるとは考えもしていなかったため、フィガロの権威を恐れもしない陽気な不屈さを愛し、その辛口な台詞の裏に隠された権威否定や身分制度批判の意図に気づかなかったのである。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "こうして、作品の上演ならびに出版は禁止されてしまった。だが国王が自ら上演禁止処分を下したという事実が、却ってパリの人々の関心を刺激する結果となり、ボーマルシェはあちこちで朗読をせがまれた。作品の上演許可を取り付けるために、国王への抵抗として、彼はこの朗読を利用しようと考えた。毎日のように朗読会が開かれ、その巧みな朗読に大勢の人々が夢中になったという。こうして自信を深めたボーマルシェは、2度目の検閲申請を行った。この際の検閲官には、ジャン=バティスト=アントワーヌ・シュアール( Jean-Baptiste-Antoine Suard )が選ばれた。シュアールはアカデミー・フランセーズ会員であった(席次26番)が、平凡な劇作家であり、劇作家として成功しているボーマルシェを快く思っていなかったらしい。このような人間が検閲を審査するのだから、不道徳として却下された。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "1783年になっても上演禁止措置は続いたが、同年6月13日、突然コメディー・フランセーズの役者たちにムニュ・プレジール劇場( Hôtel des Menus Plaisirs )で『フィガロの結婚』を上演するように通達が届いた。正確にはわからないのだが、王弟アルトワ伯爵が兄である国王に迫って、許可を出させたのだろうと推測されている。このことは瞬く間に貴族たちの間に広がり、公演のチケットは完売する熱狂ぶりであったが、幕が開く寸前で国王の使者が現れ、上演禁止の決定を伝えたのであった。優柔不断な性格であったと伝えられる王のことだから、この件でもその性格が出たのだろう。だが、まさに寸前でお預けを食らった貴族たちは黙っていなかった。この決定には反発が大きく、結局国王は9月26日になって、ヴォドルイユ伯爵の別荘で300人の貴族を前にした上演を許したのであった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "これに勢いをつけたボーマルシェは、作品の健全性を証明しようと躍起になった。『フィガロの結婚』の検閲申請をさらに4度にわたって繰り返し、彼の味方であったブルトィユ男爵に請願して「文学法廷」なるものを開催してもらうなど、徹底していた。これらをすべてクリアしたことで、同作品には有識者たちの信用が与えられたのである。その結果、抵抗を続けていたルイ16世もさすがに折れ、ついに市中での公演許可を出し、1784年4月27日に初演が行われた。パリ市民が全員押しかけてきたのではないかと思うほどの大成功であったという。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "ところが、1785年3月にボーマルシェは筆禍事件を起こした。この事件は、フランス発の日刊紙『ジュルナル・ド・パリ』に匿名の記事が載ったことに端を発する。ボーマルシェはこの記事に反応し、返答を同紙に掲載させたが、両者のやり取りは次第に過激化していった。これに腹を立てたボーマルシェは、3月6日付で同紙の編集局に手紙を送ったのだが、その中の表現に問題があった。この手紙の「劇公演を実現するためにライオンや虎を打ち負かさなければならなかったわたしが...」という記述の「ライオンや虎」という比喩を、国王ルイ16世は自分たち夫妻のことであると解釈したのだ。元々日刊紙宛てに送られた手紙であったが、すぐにその内容は国王の知るところとなり、この記述が問題となってボーマルシェはサン=ラザール牢獄に入れられてしまった。この牢獄は、政治犯や貴族が収容されるところではなく、放蕩のあまり身を持ち崩した良家の子弟などが入れられる牢獄であった。53歳にもなってこのような牢獄に入れられたという事実は、ボーマルシェのプライドをかなり傷つけたようだ。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "しばらく面白がって見ていた世間も、さすがにこの王の行為を行き過ぎた横暴と見るようになった。5日後には釈放命令が出されたが、プライドを傷つけられて意固地になっているボーマルシェは、中々その命令に従おうとしなかった。懸命な周囲の人々の説得によってしぶしぶ牢獄を出た彼は、王に名誉回復のための条件を複数突きつけた。いくつかの条件は全く無視されたようだが、国王はその代わりとして、ヴェルサイユ宮殿の離宮にボーマルシェを招待し、『セビリアの理髪師』を王妃や王弟に演じさせたり、アメリカ独立戦争で被った負債の補償として80万リーヴルを下賜するなど、要求を上回る賠償をしたと言えるだろう。",
"title": "生涯"
},
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"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "『フィガロの結婚』上演に関して一旦は国王に禁止命令を出されながらも、それを撤回させて見事に上演を成功させたボーマルシェは、まさに人生の絶頂期にあった。だが水道を巡る事業と、顔さえも知らない女性の問題に義侠心から首を突っ込んだことで足をすくわれ、その栄光にも陰りが出始めた。これらの問題を契機として陰り始めた彼の栄光は、フランス革命の勃発で完全に止めを刺されることになる。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "18世紀のパリが、とにかく不潔で非衛生的な都市であったことはよく知られているが、それは人間が生きる上で欠かせない水においても例外ではなかった。井戸水は排泄物やその他無数の汚物の混入によって汚染され、それを用いてパンやビールを作るものだから、健康にも悪影響を与えていた。当時の人々がどのように清潔な水を手に入れていたかといえば、街を練り歩く「水売り」からのみであった。このような状況を解決しようと、1777年に発明家のペリエ兄弟はパリ水道会社を設立した。シャイヨの丘に揚水ポンプを設置してセーヌ川の水を汲み上げ、パイプを通してその水をパリ市民に提供するのが目的であり、この当時としてはまさに画期的な試みであった。1780年代になって、ペリエ兄弟の要請を受けて、ボーマルシェも経営に参加するようになった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "会社は資金集めのために株券を発行したが、初めのうちは中々買い手がおらず、額面の2000リーヴルを割り込む始末であったが、1785年になって人気が沸騰し、結局4000リーヴルの値を付けるまでになっていた。銀行家のクラヴィエルとパンショーはこれに目を付け、株価の下落を狙ってあれこれ仕掛けたが失敗し、大損してしまった。そのため、会社の信用を傷つけて株価の下落を謀ろうと考え、ミラボー伯爵をけしかけて、攻撃文書を書かせることにした。この目論みは見事に成功し、攻撃された水道会社の株価は半分近くまで下落した。ミラボー伯爵は、以前ボーマルシェに借金を申し込んで断られたことを根に持っていたようだ。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "ボーマルシェもこれには黙っていなかったが、これまでとは違った反応を見せた。彼の公開した反論文書は、相手の非難より水道会社設立の意義やその業務の進行状況に多くを割いた内容のものであった。ミラボー伯爵へはまるで大人が子供をたしなめるかのような回答を向けており、それは攻撃というよりからかい程度のものであった。伯爵はこの回答に激怒し、本来の目的であった水道会社の件を忘れて、ボーマルシェへの人身攻撃に躍起になったが、ボーマルシェは相手にしなかった。理由はわからないが、この手の論争に飽き飽きしていたのかもしれない。この2人の関係は1790年になって、伯爵からの和解の申し出によって修復されたが、この時のボーマルシェの態度をパリ市民たちは弱腰と考えたようで、後々この点につけ込まれることになる。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "1786年12月、すでに同棲して12年以上になるマリー=テレーズと正式に結婚した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "1781年10月、ボーマルシェはあるナッサウ大公妃の邸宅に大勢の人とともに食事に招かれ、その席である女性の話を耳にした。その女性は夫にひどい扱いを受けており、邸宅に監禁されているという。大公夫妻はこの女性を自由の身にしてやりたいと考えていたため、ボーマルシェに協力するように求めたが、これまで行動を起こすたびにトラブルになってきたことを理由に、初めは消極的であった。しかし、その女性の夫が出した手紙を読むうちに次第に態度を変え、女性の救出に協力する気になったようだ。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "この女性は、名をコルヌマン夫人という。スイスに生まれたが、13歳で両親を失った。15歳の時、親族の勧めに従い、持参金36万リーヴルを携えて銀行家であるコルヌマンと結婚した。次第にドーデ・ド・ジョサンという男を愛人にするようになったが、これは彼女自身の浮気心からではなく、コルヌマン自身がそそのかしたのである。ドーデの裏には軍事大臣モンバレー公爵がいることを知り、彼を通じて軍事大臣に取り入って私腹を肥やそうとしていたのだ。この試みは見事に成功したが、1780年12月に軍事大臣が交代すると、ドーデの利用価値が無くなったために彼を切り捨てた。その一方で、銀行業の赤字を解消しようと夫人に持参金を寄越すように迫ったが、拒否されたため、国王の封印状を手に入れて身重の夫人を牢獄へぶち込んだのであった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "早速救出に乗り出したボーマルシェは、ヴェルサイユに赴き、ナッサウ大公夫妻とともに手分けをして関係者へ働きかけた。その結果、12月17日付で夫人を産科医の家に移して看護せよとの王の命令書を獲得した。こうして夫人は産科医のもとで出産を済ませ、コルヌマンの手の届かないところで法による庇護を受けることができた。離婚が許されない時代であったから、コルヌマンは和解しようと考えたようだが、うまくいかず、結局別居状態のまま数年間が経過した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "それから5年以上が経過した1787年2月、突然この件に関するコルヌマン夫人、ナッサウ大公夫妻、ドーデ・ド・ジョサン、警察長官ルノワール、ボーマルシェの5人を標的とした中傷文書がパリに大量にばらまかれた。この文書には「コルヌマン」と署名が入っていたが、実際それほど頭の切れる男ではなかったようだから、このような思い切った真似は出来なかったろうし、思いついたのもまた彼ではないだろう。この文書を手掛けたのは、弁護士のベルガスという男であった。この弁護士は売名しか頭にない悪徳弁護士で、生涯にわたって中傷や名誉棄損で裁判を引き起こし続けた。弁護士というよりデマゴーグというほうがふさわしい輩である。たまたまコルヌマンと出会ったベルガスは、コルヌマンの抱えるこの問題を絶好の機会と捉えたようで、彼の顧問弁護士となって、この一件に散々脚色を加えて文書を発表したのであった。ベルガスが特に標的としたのは、ボーマルシェの栄光とミラボー伯爵との論争で見せた弱腰であった。コルヌマンを妻に裏切られた哀れな夫に仕立て上げ、妻を救出した者たちを極悪非道な人間として描く。これを世に広めるためには人目を惹く必要があるが、そのためにボーマルシェを徹底的に叩いたのである。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "これに対抗するために、ボーマルシェも反論文書を発表した。コルヌマン夫人を救出した事実を認めた上で、彼女がいかに夫から虐待されていたか、コルヌマンがいかに暴虐非道な男であるかを、その証拠となる手紙とともに論理的に示した。この論理的な反論には何も返答できないと考えたのか、この後のベルガスの攻撃はもっぱらボーマルシェへの中傷に絞られることになった。ベルガスのしつこさは相当なもので、この問題が起こってから1年半の間に200以上の中傷文書がばらまかれている。ボーマルシェも決して黙っていたわけではなかった。コルヌマンとベルガスを名誉棄損で訴え出るとともに、複数の反論文書の公開で対抗しようとしたのだが、市民たちはベルガスにこそ正義があると信じ込んでいたため、大した効果を挙げなかった。裁判ではボーマルシェが勝訴したが、ベルガスによる中傷攻撃で失った人気は回復しなかった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "1787年6月、バスティーユ城砦前のサンタントワーヌ街の土地が競売に付されていることを知ったボーマルシェは、これをおよそ20万リーヴルで落札し、170万リーヴルの大金をかけて豪邸を建設した。建設完成と同時に、この地区の区長に選ばれている。広大な土地に贅の限りを尽くした豪奢な建物は、法律を犯してこそいなかったが、如何せん場所が悪すぎた。市民たちが旧体制の象徴と見做していたバスティーユ城砦の前の土地にこれほどの豪邸を建築したために、庶民から激烈な反感を買ったのである。彼らに襲われないように日ごろから貧者たちへの施しを忘れなかったが、それでも自宅からそう遠くないところで市民たちによる放火暴動騒ぎなどもあって心配になったのか、警察長官へ治安の回復を求めたりしている。市民たちはボーマルシェを旧体制側の人間と見做していたようで、パリ・コミューンのメンバーとして招集された際にも、コルヌマンとの一件で彼に敵対した人間たちから激しい非難が挙がり、しばらくメンバーから外されたほどであった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "1792年3月2日、彼の元へある手紙が届いた。ボーマルシェの激動の人生の締めくくりにふさわしい事件の始まりである。この手紙はベルギー、ブリュッセル在住の商人ドラエーという男が差し出したもので、ボーマルシェにある取引を申し出る内容であった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "この当時のベルギーではブラバント革命が一時的な成功を治めていたが、指導者たちが仲違いを起こして結局失敗、短期間で再びハプスブルク家の支配下に組み込まれていた。ドラエーはこの革命の際にハプスブルク家に味方したために財産を没収されるなど大損害を受けていたが、革命の失敗によってそれを補償してもらえることになった。革命に際して追放されたヨーゼフ2世は病死してしまったため、ベルギー皇帝の座に納まったレオポルト2世はドラエーにブラバント中の小銃を買い取る独占権を与えた。ただ、この銃は革命軍から接収したものであるため、これらすべてを国外に売り飛ばすことが条件であった。数にして20万挺の銃を用意できたものの、これほどの銃を捌く能力がドラエーにはなかったようで、困りはてた末にボーマルシェに目を付け、混乱を極めているフランスに役立つから、と提案してきたのである。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "すでにこの頃にはボーマルシェは事業を畳んでいたし、その話の大きさに乗り気ではなかったために一旦この話を断ったが、ドラエーが粘り強く動き回ったため、結局3月16日になって「小銃をフランス政府が購入した場合、利益の3分の2をボーマルシェ、3分の1をドラエーが取る」との内容で契約を交わした。この合意を実現させるために、早速ボーマルシェは軍事大臣と交渉に入ったが、その支払い方法で中々折り合いがつかなかった。ボーマルシェはオランダ通貨のフローリンで支払いを要求したのに対し、政府側はアシニャ債での支払いを主張したからである。アシニャ債は当時のフランスの大混乱が影響して、通貨としてとにかく弱く、外貨との交換レートがどんどん下がっていたから、利益が目減りするのを避けたいボーマルシェが難色を示すのも当然であった。それでもなんとか4月3日になって交渉は成立した。ボーマルシェがおよそ75万リーヴルの終身年金証書を抵当として差し出す代わりに、アシニャ債で50万リーヴルの融資を受け、追加資金が必要な場合は政府が提供するとの内容であった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "早速代理人ラオーグをブリュッセルに派遣したボーマルシェであったが、この話は中々思うようには進まなかった。各国の利害が絡んでいた上に、あくまで秘密裏に運んでいるはずのこの取引についてかなりの情報が漏れ出ていたからである。誰が情報を漏らしたのか、今となっては確認する術もないが、革命期のフランス政府の情報管理の緩慢さと、政府内部に私腹を肥やすために平然と売国行為を働く人物がいたことを裏付ける事実である。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "情報を漏らす人物のおかげで、ついにパリ市民たちまでもがこの取引について知るようになった。秘密取引が秘密でなくなったどころか、6月4日付の国民議会において「ボーマルシェがブラバントで7万艇の小銃を買い付けたにもかかわらず、それをパリのどこかに隠している」との告発されてしまう。そもそも取引が成立していないのだから全くの事実無根であるが、この告発をきっかけとして「小銃を隠し持っている」との噂が独り歩きしていくことになった。この噂はどんどん広がっていき、ついに8月11日、ボーマルシェの豪邸は民衆による襲撃を受けた。ボーマルシェはこの襲撃に際して、はじめは弁解のために民衆に立ち向かおうとしたようだが、殺害される恐れがあるとの友人の勧めに従って、ひっそりと邸宅を抜け出したという。噂を信じ切っていた民衆たちは、ボーマルシェ邸で武器を探し回ったが、見つかるはずもなく、その代わりに大量に売れ残ったヴォルテール全集を見つけたという。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "議会での告発と時期を同じくして、突然代理人がパリへ帰ってきた。オランダ政府が「自国の港に置いてある小銃の行先がインドであること」の保証として、5万フローリンを要求してきたのだという。関係大臣と協議を重ねて保証金捻出の目途を付けて、代理人をオランダに発たせたボーマルシェであったが、ここでもうまく事は運ばなかった。この取引の利益を横取りしようと画策した外務大臣ル・ブランの妨害に遭ったのである。ル・ブランは、ボーマルシェの代理人のパスポートを取り上げた上で、ラルシェという男をボーマルシェ邸へ出向かせた。8月20日のことである。この男は、オーストリアの商社から依頼されてやってきたと告げたのち、1週間後に小銃をフランスに到着させられるから、利益を折半にするよう提案を行ってきた。そして、今日中に返事をするように半ば脅迫めいた言葉を残して立ち去っていったという。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "こうして、ル・ブランの妨害に気づいたボーマルシェであったが、対策を考えるには遅すぎた。ラルシェの残していった脅迫めいた言葉が現実のものとなり、8月23日に逮捕されてしまったのである。「国から支払代金を受け取りながら、購入済みの小銃をフランスへ移送することを拒否した」という国家への裏切りが彼にかけられた容疑であった。取り調べにおいて、一つ一つ丁寧に整然と説明を行ったため、嫌疑は晴れかけたが、ここでも邪魔が入った。ボーマルシェの言葉を借りれば「黒髪で鷲鼻の、ある恐ろしげな顔つきをした小男」であるジャン=ポール・マラーが現れ、取り調べの調査結果をひっくり返したのである。これによって、再び牢獄暮らしの日々が続くかと思われたが、8月29日になって突然釈放命令が下された。彼の愛人アメリー・ウーレが、ボーマルシェを助けるためにその美貌を活かして、パリ・コミューンの主席検事であるマニュエルと関係を持ったためである。ボーマルシェの女好きが、図らずもこうして身を助けたのであった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "9月18日、ボーマルシェとその同行者1名に対してパスポートが発行されたので、それを利用してイギリス、オランダへ問題解決のために赴いた。この時点では、ボーマルシェの取引相手であり、融資をしてくれていたイギリスの銀行家が小銃購入の名義人となっていたから、まずイギリスへ向けて小銃を運び出し、イギリスからインドへ向けて運び出すふりをして、フランスへ運べばオランダを刺激しないで済むだろうと考えてのことであった。10月3日にロンドンに到着し、手筈を整えてオランダへ向かったが、同地の政府が要求した保証金5万フローリンが届いていなかった。確かに関係大臣と協議して保証金の目途は付けていたものの、政情不安によって大臣がころころ変わっていたから、結局有耶無耶になっていたのである。新たな問題の発生に対処しようとオランダで金策に走るうちに、フランスでは国民公会議員ルコワントルが提出した、小銃を中々フランスに運び出さない(運び出せない)ボーマルシェに対する非難決議が可決されていた。この決議の可決によって逮捕状がハーグのフランス大使の元に届けられたため、ボーマルシェはオランダにいられなくなり、難を逃れるためにイギリスへ戻らなければならなくなった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "だが、この非難決議の陰で糸を引いていたのは、ル・ブランやその取り巻きたちであった。またも邪魔をされたことに怒ったボーマルシェは、穢された名誉を回復するために、フランスへの帰国を企てた。非難決議が出ているのにわざわざフランスへ出向くと言うのはまさに自殺行為であり、この考えを知った銀行家は仰天するとともに、自身の債権が焦げ付くのを恐れてボーマルシェを告訴し、公権力に身柄を確保させた。ボーマルシェも拘留されて冷静さを取り戻したのか、遺された手紙から察するに、特に銀行家へ恨みを抱いてはいなかったようだ。この問題に関する経緯を詳細に記した文書を書き上げ、イギリスの銀行家に対する債務を履行して自由の身になったボーマルシェは、2月26日にパリへ戻った。さっそく獄中で書き上げた文書を印刷してパリ中にばら撒くと、非難決議を提出したルコワントルはあっさり自身の非を認めたため、5月7日になって公安委員会から正式に無罪が言い渡された。それどころか、小銃の取得に全力を挙げるように依頼されたのであった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "その依頼に応じてオランダに出向いて様々な策を試みるが、なおも事態は好転するどころか、悪化する一方であった。成果を挙げられないまま時だけが過ぎ、ついに1794年3月14日、亡命者リストに名前を載せられてしまう。この名簿に名前を載せられると、財産はすべて没収され、帰国次第反逆者として逮捕されてしまうため、ボーマルシェはフランスに帰ることもできなくなった。その後もあれこれ手を尽くすも何も状況を変えられず、結局10月20日、イギリス当局が小銃を接収したことでこの問題は幕を閉じた。名義上の所有者がイギリス人であることに、時の首相であった小ピットが目を付けたのであった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "こうして、3年にわたるボーマルシェの努力はすべて無駄になった。資金も使い果たしてしまったボーマルシェは、ひたすら貧窮に喘ぎながら故郷へ帰れる日を待つほかなかった。1796年6月になってようやく亡命者リストから彼の名前が外された。パリへ帰還できたのは同年7月5日のことであった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "パリに戻ったボーマルシェは、再び幸せな家庭生活を取り戻すためにあれこれ動き回った。それとともに、小銃取引の件で金銭的決着をつけるべく、フランス政府との交渉に乗り出した。1797年1月、総裁政府は委員会を組織してこの問題の調査に乗り出した。どちらがどれほどの債務を負っているのか、委員会は問題を精査し、調査に乗り出してから1年後にボーマルシェを債権者と見做して、フランス政府に100万フランを支払うように結論付けた。額に不満があったのか、これを不服としたボーマルシェは再審理を要求したが、今度は正反対の結論が出てしまった。当然ボーマルシェはこれに納得せず、再び審理を要求したが、結論は変わらなかった。判決の不当性を訴えるために財務大臣に手紙を送るなどしているが、結局ボーマルシェの生前にこの問題は片付かず、逝去から3年後の1802年にようやく決着した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "帰国後のボーマルシェの生活は、着実に立ち直りつつあった。劇壇での名声も『罪ある母』の再演によって回復していたが、1799年5月18日、安らかに眠るように死んでいった。死因は脳卒中であったらしいが、苦しんだ形跡は見られなかったという。遺体は自邸の庭の一隅に葬られたが、1822年にペール・ラシェーズ墓地に移された。かつて彼の豪邸が立っていた通りは、現在ボーマルシェ大通りとして知られている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "とある。書き手は親友であるから、その点を意識しなければならないが、ボーマルシェが生涯に亘って女性に人気があったのは事実である。しかし後半にあるように、同性からすれば自信過剰な憎たらしい男と映ったかもしれない。実際、身分の低いボーマルシェが高貴な身分の淑女たちをとりこにしたために、数々の誹謗中傷がなされ、一々克服しなければならなかったようだ。",
"title": "エピソード"
},
{
"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "1775年2月23日、『セビリアの理髪師』の初演がコメディー・フランセーズにて行われた。1773年1月の時点で、上演候補作品としてコメディー・フランセーズに受理されていたのだが、ショーヌ公爵との乱痴気騒ぎやグズマン判事夫妻との闘争のおかげで、中々作品を上演することができず、大幅に上演が引き延ばされていた。そのような過程もあって前評判は上々、興行成績でも大成功するかと思いきや、大失敗してしまった。四幕物として書き上げていた同作品を上演数日前に五幕物に書き換えた、つまり、完成されていた作品を無理に太らせたため、作品は冗長な内容となってしまったのである。この書き換え作品で大失敗したため、以前の四幕物に戻されて再度26日に上演され、大成功を収めた。フィガロ三部作の第一作目はこうして産声を上げたのである。",
"title": "著作権擁護のために"
},
{
"paragraph_id": 133,
"tag": "p",
"text": "今日でこそ著作権は作者の権利として厳しく守られているが、この当時にあっては著作権は無きに等しいものであった。こうした考えは17世紀初頭から続いており、たとえばオテル・ド・ブルゴーニュ座の座付き作家であったアレクサンドル・アルディやジャン・ロトルーは劇団の求めに応じて作品を次々と書かなければならず、その結果制作された作品も作者の手を離れて、劇団固有の財産となるなど、今日から考えればずいぶん作者を蔑ろにした契約を結ばされていたのである。しかも、作品が一度出版されるとその作品は演劇界共有の財産となり、作者には一切金が入らなくなるなど、理解し難い慣習もあり、モリエールはたびたびこの慣習のせいで迷惑を被っている。",
"title": "著作権擁護のために"
},
{
"paragraph_id": 134,
"tag": "p",
"text": "ボーマルシェによれば、劇作家と劇団が対等な立場で契約を交わしたのは、1653年のフィリップ・キノーの例が最初であるという。この契約においてキノーは興行成績から諸経費を引いて残った額の9分の1を得ることになっており、この内容がそのまま1685年になって正式にほかの作家にも適用されることになった。ただ、「人気が落ちたなどして一度上演不可能になった作品が、再度上演された場合の収入は全て劇団のものとなる」という条項があり、その後も手直しが加えられた結果、「夏季に300リーヴル、冬季に500リーヴル以下の収入が2度続いた場合、失敗作とみなし、作者に収入を払う必要はない」との内容に改められた。",
"title": "著作権擁護のために"
},
{
"paragraph_id": 135,
"tag": "p",
"text": "ところが1757年になって、コメディー・フランセーズはこの条項を「夏季800リーヴル、冬季1200リーヴル」と無断で書き換えて、劇作家の立場を侵害するようになった。それどころか、本来劇団が支払う「貧者への4分の1税」なる慈善病院への納付金をも作者に一部負担させたり、桟敷席の予約収入はすべて懐に入れたり、作品が成功して上演回数を重ねるにつれて意図的に上演をいったん中止し、その後再演して収入をすべて自分たちのものとするなど、まさにやりたい放題であった。ロンヴェ・ド・ラ・ソーセという劇作家は、その作品が5回の上演で12000リーヴルの収入をあげたにも関わらず、収入を得るどころか、劇団に負債があるとして金を要求される始末であった。さすがに怒ったラ・ソーセは世間に抗議文書を発表した。世間に噂が広がってさすがに無視できなくなったのか、劇場監督官であるリシュリュー公爵は協定の問題点を探って、解決法を見出すようにボーマルシェに依頼したが、この時『セビリアの理髪師』が大成功して、劇団と良好な関係を築いていたボーマルシェには、敢えてこの問題に首を突っ込む理由が見当たらなかった。",
"title": "著作権擁護のために"
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"paragraph_id": 136,
"tag": "p",
"text": "だが劇団は、『セビリアの理髪師』に関してもあくどいやり方で臨んできた。ボーマルシェは、同作品の32回目の上演後に正確な収支計算を要求したが、劇団はなかなか返事をよこさなかった。1777年1月3日、劇団幹部の俳優デゼサールが苦情を申し立てられずに済むように、として32回分の上演料として4506リーヴルを差し出してきた。金額につけられるべき収支計算書もなく、デゼサールが大さっぱな見積もりによる金額であると説明してきたため、金の受け取りを拒否し、正確な計算書の提出を求めた。1月6日の劇団宛ての手紙では、正確な収支計算書の作成方法を示している。劇団に断固とした姿勢で臨むボーマルシェであったが、相手が自分の芝居を演じてくれる役者たちであるだけに、慎重な姿勢をも崩さなかった。1月19日、書面自体で収支計算に関して極めて丁寧な申し入れを行っているが、劇団は相変わらず不誠実な対応を繰り返した。確かに収支計算書を送ってはきたものの、そこには誰の署名も入れられていなかった。無署名の文書と言うのは、その正確さがどうであれ、社会的には単なるメモでしかない。ボーマルシェはこの対応に憤慨し、1月24日付の手紙において言葉遣いは丁寧ながらも、責任者の署名と『セビリアの理髪師』の続演の2点を要求し、これまで他の劇作家にしてきたようにあくどいやり方を自分にも貫くのなら、それなりの対応を執ると仄めかした。1月27日、劇団は「上演ごとの収入額は正確に計算できるが、諸経費は日々変化するので、全体としては大雑把な見積もりしかできない」と言い訳の返事をよこしてきた。ボーマルシェはこれに納得せず、日々の経費の計算方法を明示した返事を送りつけた。",
"title": "著作権擁護のために"
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"paragraph_id": 137,
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"text": "劇団は、ボーマルシェが手に負えない相手だと悟ったようで、問題を公正かつ誠実に解決するためとして、顧問弁護士3名と劇団員4名で委員会を結成し、ボーマルシェの要求を検討した上で通知を行うと2月1日付の手紙で伝えてきた。ところが劇団は、この問題の解決のために折れるつもりなど初めからなかったようだ。いつまで待っても返事が来ないボーマルシェのもとをある知人が訪れ、「セビリアの理髪師を上演するよう劇団に要求したが、色々な理由をつけて拒否されている。役者たちは、その原因は我々(役者)にあるのではなく、作者にあると言っている」と伝えたという。ボーマルシェはこの不誠実な態度に怒り、これ以上事を引き延ばすなら、法的手段に訴え出ると書面で宣言した。この宣言に劇団は慌て、ボーマルシェを宥める一方で、宮廷の有力者たちに助けを求めた。",
"title": "著作権擁護のために"
},
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"paragraph_id": 138,
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"text": "6月15日、ボーマルシェのもとに王室侍従長の1人であるデュラス公爵から手紙が届いた。自分が仲介するから、一度面会したいという。ボーマルシェはこれに応じて、公爵にこの件の簡潔な概要を手紙で送ったのち、6月17日に公爵と面会した。公爵はこの席で「思慮分別のある劇作家を集め、劇団と作家側の抱える問題を解決する規則を作成するよう」ボーマルシェに提案し、自身は「その規則作成に全面的に協力する」と伝えてきた。この提案通りにボーマルシェは劇作家たちに働きかけ、7月3日、ボーマルシェ邸に23人の劇作家が集まった。ボーマルシェは集まった全員に公爵との面会の詳細を報告し、議論を進めた。その結果、ボーマルシェを代表とする4人の委員が選出され、彼が先頭に立って公爵との折衝や劇団との交渉に当たると決定した。こうして、ボーマルシェを代表とした劇作家協会が誕生したのである。",
"title": "著作権擁護のために"
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{
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"text": "こうして、この問題は『セビリアの理髪師』に関するボーマルシェの個人的問題という範疇を超えて、演劇界全体を巻き込んだ劇作家協会とコメディー・フランセーズの対立に発展していった。劇作家協会の設立後も、この問題に関しては中々ボーマルシェの思うようには事は進まなかった。紆余曲折を経て、結局1780年に国王ルイ16世が直接解決に乗り出したのである。国王の下した裁定では、たしかに収入計算の方法は明確化されたものの、その作品を失敗作とみなす基準が夏季1800リーヴル、冬季2300リーヴルに引き上げられてしまった。国王がこのような高い基準額を設定してしまったため、以前より容易に失敗作とみなされてしまうこととなったのである。",
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{
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"text": "この件に関する、ボーマルシェの闘いは一旦ここで終わりを告げた。絶対王政下では、国王の裁定に異議を下すなど出来るはずもないことであったからだ。この国王の裁定は、劇作家たちの助けとはならず、結局彼らは以前のしきたりに則って上演料をもらい続けたという。フランス革命の勃発は、この問題にも多大な影響を与えた。1791年1月13日、憲法制定国民議会によってコメディー・フランセーズの特権は廃止され、その作品の成否にかかわらず、正式に劇作家の権利が認められるに至ったのである。直接ボーマルシェが劇作家の権利を獲得したわけではないが、彼の闘いは間接的に大きな影響を与えたと言えるだろう。",
"title": "著作権擁護のために"
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{
"paragraph_id": 141,
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"text": "1996年にフランスでボーマルシェの半生を描いた映画『ボーマルシェ フィガロの誕生』(原題:Beaumarchais, l'insolent)が製作された。",
"title": "映画"
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] | ボーマルシェ(Beaumarchais)こと本名ピエール=オーギュスタン・カロンは、18世紀フランスの実業家、劇作家。 現在は『セビリアの理髪師』、『フィガロの結婚』、『罪ある母』からなる「フィガロ3部作」で名高いが、劇作を専門としていたわけではなく、始めは時計師、次いで音楽師、宮廷人、官吏、実業家、劇作家など様々な経歴を持つため、フランス文学者の進藤誠一はボーマルシェを「彼ほど多種多様の仕事をし、転変極まりない生涯を送った作家も珍しい」と評している。 | {{Infobox 作家
| name = ボーマルシェ
| image = Beaumarchais.jpg
| caption =
| pseudonym =
| birth_name = ピエール=オーギュスタン・カロン
| birth_date = 1732年1月24日
| birth_place = {{FRA987}}、[[パリ]]、サン=ドニ街<br />([[:fr:Rue Saint-Denis (Paris)|Rue Saint-Denis]]界隈)
| death_date = 1799年5月18日(67歳没)
| death_place = {{FRA1792}}、[[パリ]]
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| occupation =[[実業家]]、 [[劇作家]]
| language = フランス語
| nationality = [[フランス王国|フランス]]
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| genre = [[喜劇]]
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| notable_works = 『[[セビリアの理髪師]]』<br />『[[フィガロの結婚]]』<br />『[[罪ある母]]』からなる「フィガロ3部作」
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| footnotes =
}}
{{Portal box|文学|舞台芸術}}
'''ボーマルシェ'''(Beaumarchais)こと本名'''ピエール=オーギュスタン・カロン'''(Pierre-Augustin Caron, [[1732年]][[1月24日]] - [[1799年]][[5月18日]])は、[[18世紀]][[フランス王国|フランス]]の[[実業家]]、[[劇作家]]。
現在は『[[セビリアの理髪師]]』、『[[フィガロの結婚]]』、『[[罪ある母]]』からなる「'''フィガロ3部作'''」で名高いが、劇作を専門としていたわけではなく、始めは時計師、次いで音楽師、宮廷人、[[官吏]]、実業家、劇作家など様々な経歴を持つため、[[フランス文学者]]の[[進藤誠一]]はボーマルシェを「彼ほど多種多様の仕事をし、転変極まりない生涯を送った作家も珍しい」と評している{{sfn|新潮 世界文学小辞典|1971|p=874}}。
== 生涯 ==
=== 少年期 ===
1732年1月24日、パリのサン=ドニ<!--パリ郊外のサン=ドニにリンクしていたので、外しました。en:Pierre Beaumarchais 参照--->街(現在の[[1区 (パリ)|パリ1区]]、[[2区 (パリ)|2区]]を走る[[:fr:Rue Saint-Denis (Paris)|Rue Saint-Denis]]界隈)にて、アンドレ=シャルル・カロンとマリー=ルイーズの間に、ピエール=オーギュスタン・カロンは生まれた。ピエールは10人兄妹の7番目であるが、そのうち4人は夭折しており、無事に育った男児は彼のみであった。父親のアンドレは先祖代々[[プロテスタント]]であったが、結婚前年の1697年に[[カトリック]]に[[改宗]]している。若い頃は[[騎兵]]でもあったが、ピエールが生まれたころには時計職人として生計を立てていた。単なる平民に過ぎなかったが、文学を愛好し、この時代の平民としてはかなり正確なフランス語運用能力があったことが遺されている手紙からうかがえる。母親であるマリー=ルイーズに関しては、ほとんどわからない。パリの町民階級出身であることが分かっているのみであるから、彼らは身分の釣り合った普通の夫婦であったといえるだろう。この家族について特筆すべきなのは、ピエールを取り巻く5人の姉妹たちである。長姉マリー=ジョセフ、次姉マリー=ルイーズ、三姉マドレーヌ=フランソワーズ、それに2人の妹、マリー=ジュリーと、ジャンヌ=マルグリートである。とくに妹たちは、ピエールと芸術の趣味が合ったらしく、ともに音楽を奏でて楽しんだという。この時に培われた音楽的素養は、彼が成人してからフランス社会で一歩ずつ社会的地位を高めていくのに、大きな役割を果たしたのであった{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§3-5}}。
家族の暖かな愛情に包まれて育ったピエールは、3年間の普通教育(おそらく[[獣医学]]校か)を修了したのち、13歳で時計職人である父の跡を継ぐべく工房に入って修業を始めた。ところが遊びたい盛りのピエールにとって、信心の篤い父親のもとでの修業は息苦しいものであったらしい。18歳のころ、放蕩の限りを尽くした挙句、工房の商品である時計を無断で持ち出して売却するという事案を起こし、父親の激しい怒りを買って[[勘当]]されてしまった。幸い父親の友人や母親のとりなしがあり、数か月後には父親の赦しを得たが、その代わりとして父親の出した厳しい条件を呑まねばならなかった。この条件によって以前のように遊べなくなったピエールは、真面目に時計職人として邁進するのであった{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§5}}{{Sfn|辰野|1961|loc=§5}}。
こうした真面目な修業が実を結んで、1753年、21歳の時に時計の速度調節装置の開発に成功した。ピエールがこの装置を開発するまでは時刻を正確に刻む技術は発見されておらず、各々の時計が指し示す時刻がばらばらであったから、この発明は画期的であった。若くして素晴らしい発明を成し遂げたことを知らせようと、同年7月23日、父親の友人であった王室御用時計職人ルポートにこの装置を見せたという{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§6-7}}。
ところが、ルポートはこの装置を自らの発明と偽って[[メルキュール・ド・フランス]]誌に発表してしまった。ルポートは、王室御用時計職人という肩書からもわかるように、当代随一の時計職人であり、様々な宮殿で使用されている時計の制作者であった。まさに時計業界の重鎮であったわけで、それほどの権威を持つ自分に無名の職人が歯向かってくるはずもないと考えてのことであったのかもしれない。ピエールはメルキュール誌に載った記事を直接見なかったようだが、幸いなことに彼が装置の開発に取り組んでいたことを知っていた人物(同業の時計職人と思われる)が知らせてくれたおかげで、ルポートの裏切りを知るところとなった。この人物への返信が遺されているが、そこには、相手がたとえ業界の重鎮であろうと怖気づかず、自身の発明に確固たる自信を持ち、権威である[[科学アカデミー (フランス)|科学アカデミー]]に裁定を委ねようとする冷静沈着な態度が現れている。この内容通りに、ピエールは科学アカデミーに自身の発明した装置の下絵を提出して裁定を願い出るとともに、メルキュール誌にも抗議文を送付して掲載させた。この抗議文が掲載されるとルポートもさすがに焦ったようで、自身の業績や抱える顧客を例に挙げて社会的な信用の高さを示そうとしたが、このような卑劣な行為にピエールはますます激昂し、自身の正しさを証明しようと躍起になった。1754年2月23日、この一件に科学アカデミーからの裁定が下った。ピエール=オーギュスタン・カロンの主張を全面的に支持し、ルポートは単なる模倣者に過ぎないことを認める内容であった{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§7-9}}。
ピエールは、この一件で世に広く知られるようになった。国王[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]への謁見を許され、高貴な人々からたくさんの注文を受けたことで、ルポートを追い落として正式に王室御用の時計職人となったのである。国王の注文に応じて製作した極薄の時計や、王姫のために制作した両面に文字盤のある時計も評判をとったが、何より宮中で話題となったのは国王の寵姫[[ポンパドゥール夫人]]のための指輪時計であった。この時計は直径1センチにも満たない極小の時計であったために龍頭を削ぎ落とさねばならなかった。まるで時計として使えないのではないか、と不審がる国王に向かって、若き時計職人は文字盤を取り囲んでいる枠を回転させれば、時計として機能を果たすことを示した。その卓越した技術に、宮中は大いに唸ったという{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§10-11}}。
=== 初めての結婚 ===
こうして、時計職人としてもっぱら[[ヴェルサイユ宮殿]]に出入りし、高貴な人々の注文に応じて時計の製作に励んでいたピエールであったが、それを切っ掛けとして彼に一人の女性との出会いが訪れた。ヴェルサイユ宮殿で彼を見かけ、その評判と若さに惹かれた人妻、フランケ夫人が彼の工房に時計の修理を目的として訪れたのである。彼女の夫であるピエール=オーギュスタン・フランケは、パリ郊外に土地を所有しており、王室大膳部吟味官(簡潔に言えば、料理の配膳係)という役職を務める貴族であった。初めは単なる時計職人とその顧客という関係でしかなかったが、フランケ夫人の希望もあって急速に夫妻とピエール(カロン)の関係は深まっていった。フランケはすでに齢50歳を超えて体力的にもかなり衰えていたため、夫人の助言を聞き入れて「王室大膳部吟味官」の役職をカロンに売り渡すことにした。1755年11月9日、ルイ15世直筆の允許状を手に入れ、ピエールは正式に宮廷勤務の役人となった。宮廷に出入りする単なる時計職人から、佩刀を許された役人として社会的な地位を一つ高めたのであった{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§11-2}}。
フランケ夫人との出会いは出世の役に立ったが、そのピエールとフランケ夫妻の三角関係は世間で広く噂されるようになった。フランケは病気に苦しんでおり、その夫人とピエールは若くて魅力的である。間違いが起こらないほうが不思議な状況であって、実際に夫人とピエールがいつごろから恋仲となったのかはわからないが、遺されている往復書簡から察するに1755年末にはすでに関係があったと思われる。この書簡からは、少なくともフランケ夫人は不倫に悩み苦しんでいることがうかがわれるが、ピエールは悩みや謝罪の色などつゆも見せておらず、ただ恋にのぼせた者にありがちな身勝手な考えが示されているのみである。1756年1月3日、フランケは脳卒中でこの世を去った。ピエールが役職を得てからまだ2か月しか経っておらず、その代金支払いに着手もしていないころであった。ピエールは運よく、夫人も役職も、ただ同然で手中に収めたのである{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§12-3}}。
1756年11月22日、正式にフランケの未亡人とピエールは結婚した。身分の釣り合わないこの結婚に父親は許可を与えてはいるが、結婚式に出席していないため、こころから祝福していたかどうか疑問である。だがともかく、ピエールはこうして父親のもとから完全に独立したのである。妻の所有地の土地(Bos Marchais)の名前を借用して'''カロン・ド・ボーマルシェ'''と貴族を気取った名前を使用し始めたのもこの頃であるが、これは単に彼の自称に過ぎず、正式に貴族に列せられた訳ではない。実態は単なる宮廷勤務の役人であったわけだが、こうした貴族風の名前を使い始めたところから察するに、すでにこの頃には強烈な出世願望が彼のこころで燃え上がっていたと考えられる{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§14}}。
さて、初めての結婚生活はどうだったか。結婚後2か月してからの彼の手紙からは、妻の変貌にうんざりした様子が窺える{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§15、引用同ページから}}:
{{quotation|…以前は周囲が皆、我々2人の愛を禁じていたのです。でも、その時期の愛はなんと激しく生き生きしていたことか。そして私の境遇にしたところで、現在味わっている境遇よりはるかに好ましかったのに!(中略)陶酔と幻想の時代には、私が愛情込めたまなざしを注ぎさえすれば喜びに耐えなんばかりであった、あのジュリーは、今や並みの女でしかありません。彼女は家計のやりくりの難しさを思うと、かつて地上の誰よりも好きであった男と一緒でなくても、充分生きていけると思っているありさまです。…}}
上記のように新婚早々、結婚生活に幻滅したボーマルシェであったが、この結婚生活は長く続かなかった。結婚から1年も経たないうちに妻は腸チフスに倒れ、そのまま亡くなったのである。1757年9月29日のことであった。ところが、ボーマルシェを直撃した災難はこれだけではなかった。結婚契約書の登録を怠っていたために、妻の遺産は妻の実家に転がっていってしまうし、新婚生活での借金は自身に降りかかってきたのである。ボーマルシェはこの一件で、数年間窮乏に苦しむこととなる{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§15-6}}。
=== 大富豪パーリ=デュヴェルネーとの出会い ===
最初の妻を失った翌年、母をも失った。結婚生活で生じた借金のおかげで財政的には極めて苦しかったため、仕事に励む一方で、相次いで大切な人を失った寂しさを紛らわせるために文学と音楽に打ち込んだ。16世紀から18世紀まで幅広く、しかも外国の作家にまで傾倒していたという。幼い頃から音楽に親しんで来たことは先述したが、ボーマルシェ自身も[[ハープ]]の名手であり、当時は新しい楽器であったハープに改良ペダルをつけ、より音色が美しくなるように工夫するなどして宮廷で評判をとっていた。ルイ15世の4人の王姫はボーマルシェの楽才に魅せられ、たちまちとりことなり、彼に自身の音楽教師となるように要請した。この要請に、ボーマルシェ自身の男性的な魅力が影響していたかどうかはわからない。ボーマルシェは音楽を専門としているわけでもなく、単なる小役人に過ぎなかったため、金銭をもらってレッスンすることはできなかった。無料での労働であったわけだが、王姫の機嫌を損ねでもしたらすぐに国王の知るところとなって、単なる小役人の首などすぐに吹っ飛ぶため(職と命、ともに簡単に飛ぶ)、細心の注意を払ってレッスンに臨んだに違いない。神経をすり減らしつつ、才気と魅力を最大限に活用して王姫たちに仕えた結果、彼女たちから絶大な信頼を獲得するに至ったのである{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§18,20}}。
<gallery mode="packed" caption="ルイ15世の王姫たち。左から[[マリー・アデライード・ド・フランス|アデライード]]、[[ヴィクトワール・ド・フランス|ヴィクトワール]]、[[ソフィー・ド・フランス|ソフィー]]、[[ルイーズ・マリー・ド・フランス|ルイーズ]]">
File:Nattier, Jean-Marc - Marie Adélaïde of France - Versailles MV 8544.jpg
File:Jean-Marc Nattier, Madame Victoire de France (1748).jpg
File:Jean-Marc Nattier, Madame Sophie de France (1748) - 01.jpg
File:Louise-Marie de France (1763) by François-Hubert Drouais.jpg
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4人の王姫たちから絶大な信頼を獲得していたことは、当時のボーマルシェが起こした決闘事件の顛末からも明白である。ある貴族に侮辱、挑発されたボーマルシェは、当時禁止されていた決闘に応じて、相手に重傷を負わせた。決闘を行うことだけでも重罪であったが、もし相手の口から自身の名前が出た場合、復讐や処罰の対象となってしまうので、それを恐れて王姫たちに庇護を求めたのである。王姫たちは事情を父である国王に打ち明け、決闘事件に関する口止め工作を了承した。幸いなことに相手の貴族が「原因は自分自身にある」としてそのまま死んでいったため、工作を行う必要はなくなったが、この一件は国王家からの篤い信頼を獲得していたことの裏付けとなっている{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§20}}。
王姫たちへのレッスンは国王家の信頼を獲得するのに役だっただけでなく、ボーマルシェの財政状況の改善へも間接的に影響を与えた。直接的な影響としては、王姫たちの気ままな買い物やコンサートの費用を立て替えたり、王家に仕える者としての身なりを整える費用やらで、むしろ悪影響を与えたともいえるが、彼女たちを通じて国王家の信頼を勝ち取ったことで、18世紀における最大の金満家であるパーリ=デュヴェルネーと出会い、一気に財政状況が改善されたのである{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§21}}。
ルイ15世治下のフランス経済は、4人のパーリ兄弟によって動かされていた。パーリ=デュヴェルネーはその3番目であったが、兄弟の中でも特に商才に長けていたという。ルイ15世の愛人ポンパドゥール夫人などの貴族たちと結びついて急速にのし上がっていき、[[オーストリア継承戦争]]や[[七年戦争]]の折にはフランス王国軍の御用商人となり、巨万の富を築いた。1751年にポンパドゥール夫人と組んで士官学校の建設に乗り出し、1750年代末にはほとんど完成していたが、ちょうど運悪くフランスが七年戦争でイギリスに敗北を喫したころであり、ポンパドゥール夫人との不仲もあって、ルイ15世はこの士官学校に極めて冷たい態度を示した。すでに75歳と、当時としてはかなりの老齢であったパーリ=デュヴェルネーにすれば、後世に遺す自らの記念碑が王に冷たくあしらわれるなど心中穏やかでなく、どうにかしようとあれこれ動いて万策尽きた結果、国王家の信頼の篤いボーマルシェに目を留めたのであった{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§21-2}}。
[[File:Joseph Paris-Duverney.png|thumb|200px|パーリ=デュヴェルネー]]
野心みなぎるボーマルシェのことだから、この大金持ちの老人に恩を売っておけばどれほどの見返りがあるか、瞬時に理解したことだろう。ボーマルシェはこの富豪に恩を売るべく、まず4人の王姫たちに目を付けた。日ごろから彼女たちの願いにきちんと確実に答えてきた彼にとって、退屈しきった彼女を口車に乗せて、若い男の大勢いる士官学校に連れていくことなどたやすいことであった。士官学校を訪れた彼女たちはデュヴェルネーによって盛大に迎えられ、彼に向ってボーマルシェを褒めちぎるなど、大満足して帰っていったという。士官学校を訪れた娘たちが喜んでいるのを知って、国王ルイ15世は大いに心を動かされ、1760年8月12日、ついに士官学校を訪問したのだった。悲願を果たしたデュヴェルネーは、ボーマルシェにそのお礼として、様々な経済的な援助を惜しみなく与えた。6000リーヴルの年金、得意の金融業での助言、指導、融資など、窮乏に苦しんでいるボーマルシェにとってはどれも有り難いものばかりであった。こうして一気に財政状況は改善され、以後鰻登りのごとく、豊かになっていったのである{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§22-4}}。
1761年12月、ボーマルシェはデュヴェルネーに用立ててもらった55000リーヴルに、手持ち金30000リーヴルを加えて、「国王秘書官」という肩書を購入した。この肩書は「平民の化粧石鹸」などと呼ばれて蔑視されていたが、間違いなく金になる肩書であり、その上購入者の身分がどうであれ正式に貴族として認められる職業であった。さらに1762年に入ると、当時フランスを18の区に分けて管轄していた「森林水資源保護長官」のひとつに空きが出た。巨額の収入をもたらすポストであり、それだけに値段も高かったが(現在の日本円で5000万前後)、デュヴェルネーは惜しげもなくこれに必要な資金を提供した。この時は他の長官たちの猛反対に遭って、王姫たちの後押しも虚しく手に入れることはできなかったが、その代わりに翌年になって「ルーヴル狩猟区王室料地管理ならびに国王代官区における狩猟総代官」なる肩書を手に入れた。王室の料地を管理し、密猟者がいれば捕縛して裁くのが任務である。「代官」とあるように本来は「管理長官」たるラ・ヴァリエール公爵が任務にあたるべきなのだが、ほとんどの仕事をボーマルシェがこなしたという。彼は1785年まで、22年間に亘ってこの仕事を続けた。この肩書を手に入れたのと同じころ、4階建ての家を建て、父親と2人の妹を引き取ったり、ポリーヌ・ルブルトンという西インド諸島出身の女性と恋仲になったりしている。ポリーヌは大変な美女であったらしいが、所有地に関連して負債を抱えていたために、再婚には慎重になっていたようだ。フランケ夫人との結婚の後始末で、ずいぶん辛酸を舐めたことが影響しているのだろう{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§24-6}}。
=== スペイン滞在 ===
1764年2月、ボーマルシェとその一家にとって大問題が発生した。スペインに居住する次姉が「結婚の約束を同じ男に2度も破談にされ、ひどい侮辱に苦しみ、泣きはらしている」との知らせが舞い込んできたのである。ボーマルシェはこの一件を、後年になって『1764年、スペイン旅行記断章』として記しているが、事実に即して書かれておらず、多分にフィクションを含んでいる{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§26,29}}。
次姉マリー=ルイーズは、長姉マリー=ジョセフが1748年に石大工の棟梁ルイ・ギルベールと結婚してスペインのマドリードに移住した際に、彼らにくっついていった。彼女は同地で、軍需省に努めていたクラビーホという男と親しくなって結婚の約束までしたが、姉であるマリー=ルイーズに慎重になるように忠告されたため、結婚を引き延ばしていたのであった。クラビーホは才能のある男で、スペイン陸軍に関する著作を発表するなどして頭角を現し、文芸誌を創刊したり、スペイン王室古文書管理官に任命されるなど、順調に出世していった。結婚の約束から6年が経ったある日、妹を任せるのに問題なしと判断したマリー=ジョセフは、彼に結婚の約束を履行するように迫ったが、クラビーホはなかなか首を縦に振らなかった。出会いからあまりに時間が経ちすぎていたし、マリー=ルイーズも33歳になっており、決して若いとは言えなかった。その美しさに陰りが見えていたし、出世を果たしたクラビーホはその辺の女など相手にしなくとも、もっと有利な結婚相手を見つけることができたのである。何より、クラビーホは優柔不断な男であった。マリー=ジョセフの求めに応じて、素直に従っているようなふりをして結婚の準備を進めておきながら、いざ結婚式当日に失踪したのである。フランス大使に訴えられたらどうなるかわからないとの思いからか、自身の行為が情けなくなったのか、どういう考えからかはわからないが、この時は自ら姿を現して姉妹に謝罪し、結婚の履行を承諾したが、再び式の3日前に失踪したのであった{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§29-31}}。
『1764年、スペイン旅行記断章』では、「悲嘆に暮れ、世間から後ろ指を指されて泣きはらしている次姉マリー=ルイーズの名誉回復のために、知らせを受けてすぐに馬に乗ってスペインに駆け付けた」ことになっているが、これは事実ではない。マリー=ルイーズはクラビーホのほかに、フランス商人のデュランという男をすでに婚約者として見つけていたし、ボーマルシェもその父親も、彼らの間柄を手紙で祝福している。さらに、ボーマルシェがパリを発つ許可を国王からもらったのは、4月7日のことだった。出発はそれよりさらに後のことだろうから、この事実からも急いで駆けつけようとしていないことは明らかである。この出発許可を獲得するために提出した手紙では、スペインへ行く目的として家庭の事情を挙げている。確かにそれも目的の一つには違いないのだが、それはあくまで名目で、本当の目的はフランスースペイン間の重要な通商問題(簡潔に言えば、新大陸の植民地の利権を寄越せ、というもの)を解決することにあった。同じ手紙で、スペイン駐在フランス大使への推薦状を依頼しているのはそのためである。こうしてフランスを発ったボーマルシェが、マドリードに到着したのは5月18日のことであった。急げば2週間足らずで到着する距離だが、途中でボルドーやバイヨンヌなどの都市に立ち寄っているところを見るに、自身に託された重要な使命について思案を巡らせていたのかもしれない{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§31-2,35-6}}{{Sfn|辰野|1961|loc=§5}}。
彼に託されたフランスースペイン間の通商問題とは、七年戦争の手痛い敗戦に起因するものである。1763年2月10日に締結された[[パリ条約 (1763年)|パリ条約]]によって戦争は終結したが、敗戦国フランスは大量の領土を失い、同じく領土を失った同盟国スペインに西ルイジアナ地方を割譲したのであった。政治的にも経済的にも、とにかく大打撃を被ったフランスは、一刻も早く立ち直ろうと、フランス経済界の重鎮であったパーリ=デュヴェルネーを中心に据えて計画を立て、スペイン王家に対していくつかの提案を行ったのだった。その使者として選ばれたのが、ボーマルシェである{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§36}}{{Sfn|辰野|1961|loc=§5}}。
まず、あくまで名目でしかない次姉の結婚問題についてマドリードでどのように活動したか。『断章』によれば、マドリードに到着したボーマルシェは、姉や友人たちに囲まれて次姉と再会し、事の顛末を仔細に亘って聞き出し、名前を明かさずにクラビーホと会う約束を取り付け、証人を連れ添って文芸誌の編集長たるクラビーホの事務所へ乗り込んだという。旅の目的を問われたボーマルシェは、たとえ話を装って、2人の娘をマドリードに居住させるフランス人商人の話をし始め、彼女たちの結婚について問題が起こったためにやってきたのだと告げた。確信が持てないままに、しかし妙に目の前で語られる話が自分の体験している事情と似ていることにクラビーホは首をひねりつつ聞いていたようだが、ボーマルシェの種明かしによってとどめを刺され、しばらく茫然自失の状態であったという。さらなる追及を受けて、逃れられなくなったクラビーホは、マリー=ルイーズへ向けて謝罪文書を認めた。さらに踏み込んで徹底的に破滅へ追い込むこともできたが、フランス大使から穏便に済ませるように忠告されていたし、クラビーホはスペイン王室に強力な後ろ盾を持っており、本来の目的である通商問題の解決に使えると踏んだのか、3度目の約束となる婚約書を作成させるにとどめたのであった{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§37-40}}。
ところが、相変わらずクラビーホは優柔不断で卑劣な男であった。どう考えても割に合わない話だと思い直したのか、あちこちを逃げ回った挙句「ピストルで脅されて結婚を強制された」とスペインの宰相に訴え出たのである。窮地に陥ったボーマルシェであったが、訴えから逃げ出すことなく、自ら宰相のもとへ赴いて自身の潔白を主張し、クラビーホの公職追放(1年間で解除されたが)という逆転勝利を収めたという。この件に関して伝わっている話はここまでで、結局その後マリー=ルイーズはどうなったのか正確にはわからない。どうやらクラビーホともデュランとも結婚せず、独身のまま過ごしたらしい{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§40,44}}。
本来の目的である通商問題に関してはどうだったか。まずボーマルシェは、問題解決のために有力な貴族を探し始めた。手始めにスペイン社交界の有力者であったフエン=クララ侯爵夫人に近づき、彼女のサロンに出入りするうちに、スペインの将軍と結婚したフランス人、ラクロワ夫人と出会った。ボーマルシェを見て望郷の念に駆られたか、それとも彼の魅力に取りつかれたのか、理由は定かではないが、夫人は彼を連れ歩くようになり、スペイン社交界での彼の売り込みに大いに協力してくれたのであった。おかげで、在スペインのイギリス大使やスペイン宰相の知遇を得ることに成功した。ところが、結果的にラクロワ夫人の存在が邪魔となった。通商問題の解決のためにもうひと押し必要と考えたボーマルシェは、ラクロワ夫人をけしかけて、彼女に国王カルロス3世の愛人となるよう依頼した。夫人は見事にそれを果たしたのだが、国王の愛人となった夫人は、自分の立場を危うくするようなことはしたがらなくなった。夫人を通じて国王から譲歩を引き出そうとしたボーマルシェの試みはこうして失敗に終わり、そのまま状況を変えられることなく、帰国の日を迎えたのであった。スペイン宰相グリマルディは、ボーマルシェに持たせた手紙の中で彼への好意を率直に示しているが、とにかく使命の遂行には失敗した{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§45-6}}。
=== 森林開発を巡って ===
1年間のスペイン滞在は、外交的な成果は何一つないものであった。スペイン文化の吸収という点で、個人的な収穫はあったかもしれないが、祖国フランスへは貢献できなかったし、恋人をも失った。彼がフランスに帰国すると、婚約関係にあったポリーヌ・ルブルトンとは関係がすっかり冷え込んでしまっていた。そうなった原因はわからないが、おそらく不在期間が長すぎたのであろう。この頃彼らの間に交わされた手紙ではお互いを非難しあっており、まるで噛み合っていない。結局ポリーヌは別の男性と結婚し、こうしてボーマルシェは人生で(おそらく)初めて失恋の悲しみを味わった。その悲しみを癒そうとしてか、1766年、事業家として[[シノン]]の森林開発に乗り出した{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§48-50}}。
シノンはパリから遠く離れた[[トゥーレーヌ]]地方の要衝で、この郊外に広がる広大な森林は国王の所有地であった。1766年の末、この森の一部が売りに出されることを知ったボーマルシェは、パーリ=デュヴェルネーから融資を受け、この森の開発事業に乗り出すことにした。ところが、彼が就いていた公職「ルーヴル狩猟区王室料地管理ならびに国王代官区における狩猟総代官」が森林を取得するのに障害となった。この長ったらしい職名を見ればわかるように、この職の任務は「国王所有地を守り、管理する」ことであった。そのような職業に就いている男が、国王所有地の売却に際して真っ先にそれに飛びつき、開発して利益を得ようとしているというのは極めて具合が悪い。これは現在で言えば[[内部者取引|インサイダー取引]]と同じようなものであるから違法であるし、当時の法律でも森林に関する公職に就く者が森林の競売に参加することは固く禁じられていたので、やはり違法なのであった{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§50―1}}。
困ったボーマルシェが思いついたのは、召使セザール・ルシュユールを名義人に仕立てあげることであった。これ自体法律の抜け穴をくぐった脱法行為であるが、当時としてはそれほど珍しいことでもなかったらしい。1767年2月、ボーマルシェは私的な証書を作成し、ルシュユールに単なる名義だけの存在であることを確認させたが、この召使は中々狡猾な男であった。ルシュユールは、主人であるボーマルシェがなぜ競売に参加せずに自分を名義人に立てたか、その理由を知った途端に主人を脅し、口止め料として2000リーヴルを要求した。ボーマルシェはこの要求を一蹴し、ピストルを突き付け、2度とこの類の脅迫をしないことを誓わせた。だが、ルシュユールは主人が知らない間にシノンへ足を延ばし、仕事でミスを犯して首になっていた森林開発の小役人であるグルーと結託して共同で会社を設立し、勝手に森林の開発に乗り出した。この行為を知って、ボーマルシェが激昂したのは当然であった。彼は憲兵とともにすぐさまシノンへ馬を飛ばし、ルシュユールを捕縛したのち、公証人立ち合いのもとで裏切りを白状させた。ところが、懲りないルシュユールは、解放されて再び自由を手に入れると、グルーと共謀して森林監督代官にボーマルシェの不法行為を訴え出た。代官はルシュユールの主張を支持し、名義人である彼の権利を認めた上、ボーマルシェに召喚状を発して、彼に対する暴行及び脅迫の罪で出頭を命じた{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§51-2}}。
ボーマルシェからすれば、森林に関する公職に就いている以上は、自身の行為を暴露されたくはないし、かといって召使ごときに頭を垂れるなど耐え難いことであった。彼は、パリの森林監督庁に提訴して自身の権利を守ろうとする一方で、親しくしていた公爵を通じて大法官への謁見を願い出て、庇護を求めた。さらにルシュユールの身元を拘束するために、王の封印状('' Lettre de cachet ''、これさえあれば好き勝手に人を逮捕出来た)を手に入れ、シャトレ牢獄にぶち込もうと画策したのであった。ルシュユールも負けておらず、逆にボーマルシェを横領犯として告訴しようと、請願書を提出した。当時のパリの警察長官サルティーヌはボーマルシェと知り合いであり、彼には好意的であったが、この泥仕合を快く思っていなかったようで、どちらの主張にも与することなく、中立的な立場を取り続けた{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§53}}。
絶対に勝たねばならん、牢獄にぶち込まねばならぬ、と息巻くボーマルシェは、いくら請願を行っても無駄であることを察知し、ルシュユールの身内を懐柔して攻撃に利用することにした。ルシュユールの妻に働きかけて「夫が家財道具の一切を持ち出したために、生命の危機に晒された」との内容で訴訟を起こさせたのである。この仕打ちにはルシュユールも打つ手がなくなったのか、ついに降参し、法廷でボーマルシェが森林の本当の落札者であることを認めた。1768年3月21日、ようやくボーマルシェはルシュユールを牢獄にぶち込むことに成功したが、わずか4か月足らずで釈放されてしまった。この後も無益な裁判が2年に亘って延々続いたが、結局白黒を付けることなく、お互いの痛み分けということで決着がつけられた{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§53}}。
パーリ=デュヴェルネーと出会い、事業家として着実に階段を上っていたボーマルシェにとって、シノンの森林開発事業は魅力的であったに違いないが、遺されている手紙から察するに、この森に相当な愛着を持っていたことが窺える。都会を離れて、素朴で親切な田舎人たちと交際し、大自然と調和した暮らしを送るよろこびが手紙には現れている。こうした愛着があったからこそ、徹底的に闘い抜いたのだと考えられるが、それにしてもボーマルシェとルシュユールの繰り広げたこの一連の騒動は、18世紀初頭から流行していた風俗喜劇をまさに地で行く、傍から見れば笑い話でしかない滑稽なものであったことも、指摘しておかねばならない{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§55-6}}。
=== 劇作家としての誕生 ===
[[File:Eugenie play.png|thumb|200px|ユージェニーの挿絵]]
森林開発を巡って召使との滑稽な闘争を繰り広げていたボーマルシェであったが、何もその期間中ずっとそれにのめり込んでいたわけではなかった。この頃の彼の生活は、充実したものであった。劇作家として活動を始めたのもこの頃である。まず、デビュー作『ユージェニー』が1767年1月29日に、コメディー・フランセーズで初演された。この作品はまずまずの成功を収めたので、それに続いて第2作目『2人の友、またはリヨンの商人』を制作し、1770年1月13日に初演させたが、こちらは大失敗してしまった。この2作品のジャンルは町民劇と呼ばれるものであるが、状況設定に無理がある筋立てで、特にそれは2作目の『2人の友』において顕著である。上演はたった10回で打ち切られ、批評家からは「宮廷で職を購ったり、空威張りしたり、下手くそな芝居を書くよりも、よい時計を製作しているほうがずっとましだった」と、辛辣な批判を投げつけられる始末であった。これまでに見てきたボーマルシェの行動からいって、この件でも何らかの行動を起こすかと思いきや、この件に関しては沈黙を貫いた。おそらくかなり痛いところを突かれてすっかり意気消沈したのであろう。今後純然たる町民劇を書くことはなくなったが、その美学を放棄したわけではないことはフィガロの3部作によって示されるのである{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§58-9}}。
1768年4月、36歳のときにジュヌヴィエーヴ=マドレーヌ・ワットブレドと再婚した。彼女は王室典礼監督官(1767年12月に死亡)の未亡人であったが、いつごろから交際を始めたのかはわからない。通常10か月間とされる服喪期間を無視してまで結婚していることから察するに、夫婦仲は相当に良かったようだ。同年の12月には長男が誕生しているところを考えると、未亡人となる前から関係があったのは確実であろう。夫妻の間には2人の子供が生まれたが、いずれも夭折した。夫人には亡き夫からの多額の年金が入るため、生活は豊かであったが、最初の結婚と同様にこの結婚も長くは続かなかった。1770年3月に娘を出産したころから夫人の健康は悪化し、肺結核に罹患して11月に死去してしまった。ボーマルシェは夫人を手厚く看護したと伝わる。夜中に肺結核の症状、激しい咳の発作に苦しむ夫人を哀れに思って、病気がうつると家族に忠告されても聞き入れず、ベッドを共にして彼女を労わり続けた。それを医者に強制的に止めさせられた際には、別のベッドを夫人の部屋に入れて、最期を看取ったという{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§60}}。
=== ラ・ブラシュ伯爵との泥沼裁判 ===
1770年は色々な意味でボーマルシェの生涯にとって重要な年となった。先述した夫人との死別もあったし、パーリ=デュヴェルネーが亡くなった年でもあったからだ。デュヴェルネーはボーマルシェと知り合った1670年以来、経済的にも、精神的にも彼に惜しみない援助を与えた大恩人であった。しかし彼も齢86となり、死は確実に近づいていた。ボーマルシェは、その莫大な遺産を巡る問題の発生を未然に防ごうとして、金銭的な問題をきちんと生前に処理しておこうと考えた。この年に入ってからすぐ手紙でやり取りした結果、4月1日付で2通の証書を取り交わした。証書ではボーマルシェとデュヴェルネーの金銭の貸し借りが詳細に列挙され、デュヴェルネーにおよそ14万リーヴルの借金があったボーマルシェは、一度この借金を相殺して、小切手で16万リーヴルをデュヴェルネーに渡して、シノンの森開発計画からの撤退を認めることにした。一方でデュヴェルネーは、ボーマルシェが借金を全額返済したことを認めたうえで、逆に98000リーヴルをボーマルシェに借りているので、そのうちの15000リーヴルは請求があり次第返済し、今後8年に亘って750000リーヴルを無利子で貸し付けることを約束したのであった{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§61-2}}。
デュヴェルネーには子供がおらず、血縁関係としても甥パーリ・ド・メズィユーと姪の娘ミシェル・ド・ロワシーがいるのみであった。とくにミシェルをかわいがっていたデュヴェルネーは、その夫であるラ・ブラシュ伯爵を相続人に指定した。ボーマルシェがこの措置に不満を抱くのも、当然といえば当然であろう。血縁関係があり、かつ事業の功労者でもあるメズィユーが遺産相続の対象とならず、なぜ血縁関係も何もない赤の他人のラ・ブラシュ伯爵が相続の対象となっているのか常人には理解しがたい。ボーマルシェはメズィユーにも遺産を与えるべきだと手紙で伝えているが、効果はなかったようだ{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§63}}。
一方、棚から牡丹餅とはまさにこのことで、血縁関係もないのに莫大な遺産が転がり込んできたラ・ブラシュ伯爵からすれば、その遺産の持主たるデュヴェルネーと特別な関係にあるボーマルシェが目ざわりになるのも無理のないことであった。ボーマルシェは貴族の肩書を有しているとはいえ、もともとはただの平民、時計職人からの成り上がりであり、自分と対等の人間ではないし、デュヴェルネーの甥であるメズィユーと友人であるから何を仕掛けてくるかわからない、などと考えていたのかもしれない。彼が何を考えていたかは分からないが、彼とボーマルシェのそりが合わなかったのは確実で、ボーマルシェには憎悪ともいえる感情を抱いていたという。ボーマルシェは伯爵のこのような感情を察知していたからこそ、遺産相続に関して手紙で安心して付き合っていけるメズィユーにも遺産を分け与えるように伝えたのである{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§63-4}}。
1770年7月7日、デュヴェルネーがこの世を去った。それとともに、遺産を巡る闘争が始まった。ラ・ブラシュ伯爵は、ボーマルシェが心配していた通りに、彼とデュヴェルネーが生前に交わした契約を反故にし始めた。契約では「請求あり次第15000リーヴルを返却する」はずであった。そのためボーマルシェは契約に則って、伯爵に15000リーヴルを請求したが、伯爵からの返答は「契約自体の存在と有効性を疑う」という信じがたいものであった。この頃、両者は短期間のうちに何通もの手紙をやり取りしているが、全く噛み合わなかった。埒が明かないので、ボーマルシェは公証人の家に自身の正当性を主張する根拠となる証書を預け、伯爵に検討させた。その検討の結果、伯爵は「証書に書かれているデュヴェルネーの署名は、彼の自筆であるとは認め難いため、証書は本物ではない」と主張し、辣腕弁護士カイヤールを雇って「証書自体に不正が含まれている以上、無効であり、この契約は破棄されるべきである」と裁判所に訴え出たのであった{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§64-6}}。
伯爵陣営の主張は、極めて悪質で巧妙であった。この訴えにおいてボーマルシェを間接的にペテン師であると攻撃し、証書自体が虚偽であるのだから、ボーマルシェがデュヴェルネーに借金を完済し終えた事実もまた虚偽なのであって、すなわち依然として14万リーヴルの借金は残っており、相続人の伯爵にはその請求権があるという主張を堂々と行ったのである。デュヴェルネーとボーマルシェの間に存在した金銭の貸し借りは否定しないなど、都合よく曲解した末に生み出された主張であった{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§66}}。
この件の裁判は1771年10月に、ルーヴル宮殿内の法廷において始まった。この法廷ではデュヴェルネーとボーマルシェとの間に交わされた証書の真偽が精査され、その結果、翌年になって証書は本物であると結論付けられた。ボーマルシェに有利な裁定が下ったわけだが、伯爵とカイヤールは単に主張を微修正しただけであった。「証書は正しいのかもしれないが、記載されている借金14万リーヴルは実際には返済されておらず、従って15000リーヴルの返済義務など存在せず、逆に14万リーヴルの請求権が発生している」と主張し、同時に根も葉もない不品行のうわさをボーマルシェのこれまでの恥ずべき行いとしてまき散らすことで彼の信用を貶めて、有利に主張を展開できるように試みた。ここでも伯爵たちが巧妙であったのは、まき散らした噂の中に少年時代の勘当という事実を一つだけ混ぜたことにある。「嘘八百かと思っていたら、ひとつだけ真実が混じっていた」なんてことがあったなら、その他の嘘とされていることも実は本当なのではないかと考えてしまうのは、無理もないことであるからだ{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§66-8}}。
ボーマルシェも、事あるごとに相手方の誹謗中傷に反撃しているが、その中でも特に効果的であったのは「王妃たちから謁見を禁じられた」との中傷に対する反撃である。ボーマルシェはこの中傷に対応するために、早速王姫に付き従う女官であるペリゴール伯爵夫人に手紙を宛て、王姫から「そのような事実はない」との言質を引き出した。それどころか、「いかなる場合においても、ボーマルシェの不利益となるようなことは発言しないつもりである」とのお言葉まで頂戴したのであった。ボーマルシェは快哉を叫んだに違いない。中傷への反撃として、国王家の一員たる王姫の保証以上に心強いものなど存在しないし、裁判官の心証にも大きな影響を与える力があるからである。だが、ボーマルシェは調子に乗りすぎた。誹謗中傷へ反撃する際に、伯爵夫人からの手紙を許可なく引用し、自分にはあたかも王姫が後ろについているかのようなふるまいをしたのである。王姫たちもこの行動を看過出来なかったと見え、即座に連署入りで「自分たちは裁判に無関係であるし、庇護を与えてもいない」との内容の手紙を送付している{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§68-70}}。
[[File:Le barbier de Séville,Scène du mariage.jpg|thumb|200px|セビリアの理髪師]]
1772年2月22日、第一審の判決が下された。ボーマルシェの勝訴である。この判決ではデュヴェルネーとの間に交わした証書の有効性を認めたが、15000リーヴルの支払い命令は出されなかったため、再度手続きを取って、同年3月14日にこちらでも正式に命令を引き出した。だが、ラ・ブラシュ伯爵も負けてはいなかった。彼はこの法廷を欠席したうえで、高等法院に提訴し、審理中である事実を作って判決を実行できないように企てたのだ。こうして、場所を高等法院へと移した裁判の審理は続いていった。完全な決着がついたのは1778年のことである。この裁判の影響が、『[[セビリアの理髪師]]』の第2幕第8景の台詞に見られる。1773年1月3日、『セビリアの理髪師』がコメディー・フランセーズに上演候補作品として受理された{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§68-70}}。
=== ショーヌ公爵との乱痴気騒ぎ ===
当時のパリでは、あるひとりの女優があらゆる階級の男たちを惹きつけていた。名前をメナール嬢といい、宮廷貴族から町民まで誰もが先を競って彼女に近づきたがり、彼女のために大金をはたいていた。彼女が一通りの男から贈り物を受け取ったところへ、フランス十二大貴族のショーヌ公爵がその競争へ加わり、たちまちほかの男たちを蹴散らして彼女を自分の愛人とし、娘まで産ませるに至った。ショーヌ公爵は確かに血筋は抜群に良かったものの、異常な性格の持ち主であった。才気のある男ではあったが、判断力に乏しく、高慢であり、粗暴な男であった。なぜかはわからないが、この公爵はボーマルシェを気に入り、交際を結んでいたという{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§74-5}}。
普通にしていればそのまま幸福に過ごせただろうものを、判断力に乏しい公爵は、自ら余計なことをしでかした。ある日、公爵は愛人であるメナール嬢の家に親しい友人たちを招こうと考えた。その招かれた友人のうちの1人が、ボーマルシェであった。伝わっている資料から察するに、血筋以外に魅力のない公爵のどこを好きになったのかはわからないが、メナール嬢も彼の嫉妬と乱暴には辟易していたらしい。ボーマルシェの王侯貴族さながらの優雅な物腰にメナール嬢は惹かれたらしく、すぐに関係が始まったようだ。ところが、ボーマルシェも相変わらず軽率であった。彼はメナール嬢と自分の関係を言い訳しようと公爵に宛てて手紙を認めたが、その内容たるや、ひどいものであった。相手の嫉妬心を刺激する記述から始まり、延々と公爵を怒らせるような皮肉、言葉を並べ立て、最期に虫のいい提案で手紙を締めくくる。異常な性格の持ち主に、もっとも拙い内容の手紙を送ったのだ{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§75-9}}。
1773年2月11日、ついに問題が起きた。この当日の一件に関しては、ボーマルシェとその友人ギュダンが詳細に記録を遺している。この日の午前11時頃、メナール嬢の部屋に公爵がやってきた時、その傍にはギュダンとメナール嬢の女友達がいた。ギュダンと女友達は、公爵の暴力に怯えて、ボーマルシェの身を案じる彼女を慰めているところであった。この際、メナール嬢がボーマルシェを立派な紳士だと弁護したがために、公爵はとうとう激昂し、ボーマルシェと決闘を行うと断言して部屋を飛び出ていった。ギュダンはボーマルシェの家に事情を知らせに急行するが、その途中で馬車に乗るボーマルシェに出くわした。決闘に巻き込まれるから避難するように言うギュダンであったが、ボーマルシェは仕事(王室料地管理代官としての審理)があるから、それが終わったら伺うと答えて去っていった{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§80}}。
ギュダンは、帰宅途中に運悪く[[ポンヌフ]]のそばで、ボーマルシェの家に向かう公爵に捕まった。大柄な公爵に抵抗するすべもなく馬車の中に引きずり込まれ、その馬車の中でボーマルシェに対する恐ろしい脅迫を聞かされた。暴れまわって抵抗するギュダンを強引に抑え込もうとする公爵であったが、彼が大声で警察に助けを求めたために、公爵はそれ以上手出しできなくなった。ボーマルシェの家の前に到着すると、公爵は乗り込んでいった。ギュダンはこの時にすきを見て逃げ出したらしい。家にいた召使から主人の居場所を聞き出した公爵は、ルーヴル宮殿内の法廷に飛んで行き、そこで審理中のボーマルシェのもとへ現れ、法廷外へ今すぐ出るように要求した。公爵があまりにやかましいので、ボーマルシェは審理を一時中断して、小部屋へ彼を移動させた。その小部屋でおよそ大貴族にはふさわしくない言葉遣いでボーマルシェを罵る公爵であったが、しばらく待つように伝え、再び仕事に取り掛かるボーマルシェであった{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§81-2}}。
いざ審理が終わると、公爵が即刻決闘を迫ってきた。家に剣を取りに帰りたいとボーマルシェが告げても、ある伯爵を立会人に考えているから彼に借りればよい、と取り合わなかった。自身の馬車ではなく、公爵はボーマルシェの馬車に飛び乗ってある伯爵邸に出向いたが、ちょうど伯爵は出かけようとしているところであった。宮廷へ出向かなければならない、と立会を断られたので、公爵はボーマルシェを自邸に拉致しようとしたが、ボーマルシェはこれを断固として拒否し、自宅へ帰ることにした。相変わらず馬車に飛び乗ってきた公爵は、馬車内でもボーマルシェを徹底して罵倒したが、彼は余裕を見せて公爵を食事に招いたという{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§82}}。
自宅に着くと、公爵の激越な態度に脅える父親を落ち着かせて、ボーマルシェは2人分の食事を運ぶように召使に指示を出して2階の書斎に向かった。後を付いてきた召使に、剣を持ってくるように伝えたが、剣は研磨に預けていて手元にないという。取ってくるように言うボーマルシェであったが、公爵はそれを遮って「誰も外出してはならない。さもなければ殺す」と興奮気味に語る。なんとかして公爵を落ち着かせようと努力するボーマルシェであったが、その努力も虚しく、とうとう公爵は武力行使に打って出た。ボーマルシェの机の上に置いてあった葬儀用の剣に飛びつくと、自身の剣は腰につけたままでおきながら、剣を引き抜いて斬りかかってきたのである。ボーマルシェは剣が届かないように公爵に組みかかり、召使を呼ぶために呼び鈴をならそうとした。公爵が空いている片方の手で爪をボーマルシェの目に立てて顔を引き裂いたので、彼の顔は血まみれになった。なんとか呼び鈴を鳴らして、やってきた召使に向かって、公爵を抑えている間に剣を取り上げるように叫んだ。ここで乱暴な真似をすれば、後々になって「殺されかけた」などとうそをつくかもしれないと考えたようで、手荒な真似はさせなかったらしい。剣を取り上げられた公爵は、今度はボーマルシェの髪に飛びついて、額の毛をそっくりむしり取った。あまりの痛みに公爵を抑えていた手を放してしまったボーマルシェであったが、そのお返しに公爵の顔面に拳をぶち込んだ{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§82-4}}。
この際、公爵は「十二大貴族の一人を殴るとは何たる無礼か!」と口走ったらしい。すでに当時からこのような考えは時代錯誤であり、ボーマルシェ自身も「他の時であったなら、このような台詞には笑ったと思う」としているが、何しろお互いに節度を失って壮絶な殴り合いを繰り広げている真っ最中であった。そこへ、ボーマルシェの身を案じたギュダンが飛び込んできた。血まみれの顔をしているボーマルシェを見て驚いたギュダンは、彼を伴って2階へあがろうとしたが、怒り狂った公爵は自身の佩刀を抜き、突きかかろうとしてきた。召使たちが公爵に飛びついてなんとか剣をはぎ取ったが、頭や鼻や手に傷を負う者が出た。剣をはぎ取られた公爵は台所へ駆け込み、包丁を探しだしたので、召使たちはその後を追って殺傷能力のあるあらゆる道具を隠した。武器が見つからないことを悟った公爵は一人食卓に腰を下ろし、台所に準備されていたスープと牛の骨付き肉を平らげたという。ここでようやく警察が到着し、公爵とボーマルシェの乱痴気騒ぎは終わりを迎えた。この晩、ボーマルシェは包帯を体に巻き付けて、サロンに出向き、『セビリアの理髪師』の朗読やハープ演奏を行ったという{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§84-5}}。
当然、この騒ぎを裁く法廷が開かれた。貴族間の争いを裁く軍司令官法廷は、公爵とボーマルシェの邸宅に警備兵を置いて監視させ、両者を尋問した。この法廷とは別に、宮内大臣ラ・ヴリイエール公爵はボーマルシェに数日間パリを離れるように命令を出したが、ショーヌ公爵の怒りを恐れて逃げ出したと受け取られることを心外であると考え、この命令に従わなかった。結局、ショーヌ公爵の非を認め、ボーマルシェの行為を正当防衛と認める裁定が下され、公爵は王の封印状によって2月19日、ヴァンセンヌ牢獄にぶち込まれた。ところが、宮内大臣はこの裁定に不満があったらしい。ショーヌ公爵は先述したように、血筋の抜群に良い大貴族であった。その大貴族が牢獄に放り込まれているのに、貴族とはいえ平民出身の成り上がりが自由の身に置かれていることを問題視したのかもしれない。大臣は職務上、王の封印状を手に入れるのは容易であったから、それを手に入れて、2月24日にボーマルシェを牢獄にぶち込んだのであった{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§85-6}}。
この2人は、5月上旬に揃って出獄を許された。たとえ3か月程度とはいえ牢獄に放り込まれて充分懲りたのか、メナール嬢への恋心がずいぶん薄まったのか、いずれにせよ出獄後に楽しく食卓を囲み、和解したという。乱痴気騒ぎの原因となったメナール嬢は、公爵の暴力から逃げ出すために、聖職者や警察長官の助けを得て修道院へ駆けこんだが、その厳しい生活に2週間と耐えられなかったようだ。ちょうど公爵が牢獄にぶち込まれたことをこの頃に知ったようで、もう暴力に脅える必要なしと判断したのかもしれない。ボーマルシェはメナール嬢が修道院から抜け出したことを牢獄内で知り、手紙で修道院へ戻るように勧めているが、彼女はこれに従わなかった{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§86-9}}。
=== グズマン判事夫妻との闘争 ===
2月24日に牢獄に入れられてから、彼の関心はラ・ブラシュ伯爵との裁判にあった。伯爵がこれを絶好の機会ととらえ、高等法院の判事たちに自分の味方となるように働きかけを強めるに決まっていると考えたのであろう。早速、警察長官のサルティーヌに「進行中の裁判があるから、一刻も早く牢獄から出してくれるよう」手紙を書き、宮内大臣ラ・ヴリイエール公爵へ執り成しを頼んだが、無碍に断られてしまった。彼はこのような仕打ちに怒りを見せたようだが、宮内大臣が首を縦に振らない以上どうしようもなかった。3月20日、ある匿名の手紙が彼のもとへ届けられた。内容から察するに、ボーマルシェに好意的な人物の手によるものであろう。その手紙には「あなたがいくら権利を奪われたとして正義の裁きを求めても、宮内大臣の姿勢は変わらない。絶対王政下にあっては、権力者に赦しを請い、卑下した態度を示すことこそ肝要である」と認められていた。この手紙の意見を素直に聞き入れたようで、翌日の21日に宮内大臣へ彼が送った手紙には、匿名の手紙に書かれていた通りの態度が示されている。大臣はこの手紙を受け取り、ボーマルシェは充分懲りていると判断したのか、厳しい条件付きではあるが外出許可を与えた。早速判事たちに面会を求めてパリを歩き回ったボーマルシェであったが、思い通りの成果を挙げることはできなかった{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§91-4}}。
デュヴェルネーと証書を交わした、ちょうど3年後の1773年4月1日、高等法院の報告判事としてルイ=ヴァランタン・グズマン(ゴズマン、ゴエズマンとも)が任命された。当時の高等法院においては、この報告判事の下した結論に基づいて判決が決定されるのが一般的であったから、賄賂は厳禁であったが、事前に判事にあって懐柔しておくのが一般的であった。ボーマルシェも早速グズマンに会って自身の正当性を主張しようとしたが、会うことすらできなかった。ラ・ブラシュ伯爵の判事への工作が相当に浸透していたのかもしれないが、これにはグズマンという男自体の考えも絡んでいた可能性がある。この男は、遺されている資料から判断するに、融通の利かない性格で、容姿も醜い男であったという。顔面神経痛という持病がそれに拍車をかけており、その対照的な存在であるボーマルシェに個人的な恨みを抱いていたのかもしれない{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§95-6}}。
ボーマルシェは何度もグズマンに会いに行ったが、一度も面会を果たせないままであった。彼は途方に暮れ、妹の家での会合において不安を口にした。その際、そこに居合わせた知人ベルトラン・デロールから「本屋のルジェに頼んではどうか」との提案を受けた。ルジェはグズマンの著書の販売を手掛けており、グズマン夫妻と親しい間柄であったからだ。実際、ルジェを通してのグズマン夫人への面会申し込みは有効であった。厚かましくも彼女は、面会の条件として100ルイ(現在の日本円にしておよそ45000~110000円程度)を要求してきたが、必死になっていたボーマルシェはその要求を呑むことにした。こうしてボーマルシェはグズマン判事への面会を果たした。判事は「一通りの書類を検討した」と彼に述べたが、やはりこの男はボーマルシェに好意的でなく、筋の通らない論法や、傲岸不遜な態度、軽蔑的な口調を隠そうともしなかった。ボーマルシェは彼を論破するべく、判事への反論を文書化して再度面会を求めたが、またも夫人は贈り物を要求してきた。この際にはダイヤモンドを散りばめた時計と15ルイが贈られたが、この時にこれらの贈り物を要求したという事実が、グズマン判事夫妻の身を破滅させることになるのであった{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§96-7}}。
要求の品物を与え、面会の約束を取り付けたにもかかわらず、ボーマルシェはグズマン判事邸で門前払いを食らってしまった。約束の不履行を抗議するなどして、なんとか面会しようとしたが、結局果たせないままに判決を迎えた。1773年4月6日、高等法院での判決が下った。ボーマルシェの敗訴がこれで決定し、グズマン夫人は約束不履行のために、'''15ルイ以外'''の贈り物をすべて返却した。この敗訴は、ボーマルシェを相当に追い詰めた。彼は恩人を裏切って証書を偽造したペテン師ということになり、裁判所からは法定費用を含めておよそ6万リーヴルの罰金を科せられた。勝訴した伯爵によって財産と収入は差し押さえられ、そのあおりを受けて家族は家を追い出されて路頭に迷っていた。しかも、ボーマルシェは外出許可があったとはいえ、いまだ牢獄につながれている囚人のままであった。判決直後は絶望に打ちひしがれていたボーマルシェであったが、やがて立ち直り、四面楚歌の状況を打開しようともがき始めた{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§97-8}}。
==== 生死を賭しての反撃 ====
なぜグズマン夫人が15ルイだけ返還しなかったのか、ボーマルシェはその点が気になっていた。15ルイは書記に与えるためとして要求された金であったが、自身でも以前、友人を介して書記に10ルイを渡そうとしており、中々彼が受け取ろうとしなかったことを知っていたからだ。10ルイでさえ受け取るのに渋るような男が、それに追加して15ルイを受け取ることなどあるだろうか?このように考えたボーマルシェは、早速手紙を認めて返還要請を行うが、夫人からは「書記に与えるために要求した金額であるから、返還の必要はない」との返答があった。この返答を受けて書記に確認した結果、15ルイは書記に渡っていないことが発覚した{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§99-100}}。
こうしてグズマン夫人の私利私欲から出た行為が明らかとなったわけだが、初めからこの点を利用して反撃しようと考えていたわけではなかったらしい。15ルイといえば精々現在の日本円にしてもおよそ5、6000円程度の少額であり、夫人はそれよりはるかに高額なダイヤモンドを散りばめた時計などをしっかり返還しているのも事実なのであって、この程度の金額に執着するはずもないと考えていたようだ。この件に関して、どのように対処すべきか本屋のルジェに手紙を宛てているが、彼は無礼なことに返事をよこさなかった。それまでボーマルシェは「15ルイ程度の額なら諦めても良いし、ルジェの顔を立てた対応をしても良い」と考えていたようだが、この一件で態度を一変させ、徹底的にこの件を利用することにした{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§101-102}}。
1773年5月8日、ボーマルシェはついに釈放された。いざ自由を手に入れると、彼はパリのサロンを巡り歩いて、自身が体験したグズマン判事夫妻との一件を面白おかしく話のネタにして見せた。寝耳に水の反撃に驚いたグズマン夫妻は、ボーマルシェを完全に社会的に抹殺すべく、止めを刺そうと動いた。虚偽の陳述書をでっちあげてルジェに署名させ、それを証拠として高等法院に贈賄未遂罪でボーマルシェを告訴したのである。それだけでは不十分と考えたのか、ルジェの友人であった劇作家の証言書を補強として提出するなどの徹底ぶりであった。6月21日、審理が開始され、グズマン判事夫妻を相手にしたボーマルシェの闘争が始まった。ルジェはたしかに上得意客であったグズマン判事に圧されて虚偽の陳述書作成にかかわったが、良心の呵責からその不法行為に苦しんでいた。妻にすべてを打ち明けて相談した結果、裁判で真実を述べるべきと諭され、7月上旬になって法廷で陳述書が虚偽であることを正式に認めた。その結果、ルジェは1か月近く身柄を拘束されて尋問に応じなければならなくなり、ボーマルシェを初めとする関係者も度々召喚命令を受けて、出頭する面倒をこなさなければならなくなった{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§104-5}}。
この当時の高等法院の慣例では、贈賄罪の審判は非公開で行われ、判決理由の公表も義務ではなかった。しかも、死刑を除くありとあらゆる刑罰の適用が可能であったから、法曹界がその一員であるグズマンを救おうと思えばそれが可能であったし、ボーマルシェの身柄などどうにでも片づけられるのであった。このように、ボーマルシェが仕掛けた闘いは自身にかなり不利な立場でのものであったわけだが、彼にはそれ以外の方法は残されていなかった。すでに控訴審に置いて敗訴が決定した以上、何も手を打たなければ莫大な罰金やら賠償金で立ち直れないほどの打撃を被ってしまう。独り身ならまだしも、彼は父親や妹などの家族を抱える一家の長であり、それだけに勝負に出るほかなかったのだ{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§105-6}}。
とはいえ、正攻法でまともに闘っては勝ち目が薄い。そこでボーマルシェが考え出した対抗策は、その文才を活かして世論を味方につけることであった。裁判に世間の注目を集めれば、秘密裏に審議を行うわけにもいかなくなるし、判決理由も非公表とはいかなくなるからだ。こうした考えに則って、1773年9月5日、ボーマルシェはこの事件に関する最初の著作『覚え書』を出版した。この『覚え書』は40ページに満たない小冊子で、内容はパーリ=デュヴェルネーとの契約にまつわること、グズマン判事夫妻との一件、裁判でのルジェの偽証などの事実報告と、敵対者たちへの反論で構成されており、これらを喜劇として面白おかしくまとめたものであった。この著作はたちまち話題となり、宮廷貴族から町民に至るまで、あらゆるところで評判になったという{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§106-7}}。
これに勇気づけられたボーマルシェは、同年11月18日に『覚え書補遺』を発表した。この作品の出版目的は、グズマンが主張する贈賄未遂の非難に対する自身の弁解を世間に広く知らしめることにあった。実際、この裁判の争点は「100ルイとダイヤモンドを散りばめた時計は、何の目的で贈られたのか」の一点のみであって、ボーマルシェとグズマン夫妻はこの点を巡って激しく対立した。ボーマルシェが『覚え書』の公表で世間に広く主張を訴えたのと同様に、グズマン夫人やその取り巻きたちも文書を公表し、激しい誹謗中傷を浴びせた。ところが、肝心のグズマン判事は沈黙を守っていた。遺された資料から判断するに、グズマン夫人は考えの足りない愚かな女であった。夫を庇おうとするあまりに敵対者に有利な証言を行ったりしているわりに、彼女の名義で発表された文書はやたらとラテン語や法律用語の出てくる内容で、明らかに教養ある人物によって認められたものであった。これはおそらく判事が書いたのであろう。これ以外にも先述したように、ルジェを使って虚偽の陳述書を作成したり、黒幕としてうごめいてはいるが絶対に自分の手は汚さない。あくまで被害者として同情を誘う戦略であったのか、他人を盾として安全圏に身を置くつもりであったのか、真意はわからないが、結局この行為は無駄であった。12月23日、グズマンにも召喚命令が発せられ、厳しい尋問が行われることとなったのである{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§107-110}}。
12月20日、ボーマルシェはこの件に関する3作目の著作『覚え書補遺追加』を発表した。夫妻の取り巻きたちや、グズマン夫人名義で発表された文書に詳細な反論と嘲笑を加え、贈賄罪の疑いに対して決定的な反駁を行った。以下はその抜粋である{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§110-111、引用同ページから}}:
{{quotation|たしかにわたしは執拗に拒絶されていた面会を実現するために金を贈った。(中略)人々は公正明大な判事を金銭によって腐敗堕落させられないが、その一方、腐敗堕落した判事に言い分を聞いてもらうためには金銭を使わざるを得ない。ところで、ある判事が公正明大なのか、腐敗しているのかを判断するには、どのような目安に基づいたらよいのだろうか?(中略)少なくとも、金銭を要求されてから、自分の金が先方に届いた途端に招じ入れられたとすれば、腐敗しているのだ、と確信を抱くに決まっているではないか。この場合、元凶はいずれだろう?不幸な犠牲者はどちらだ?海賊に裸にされた旅行者だって、奴隷の状態を脱するにはさらに身代金を払うではないか。それを人々は、彼が海賊を腐敗堕落させたと言うだろうか?}}
この反論に加えて、ボーマルシェはグズマン判事の人間性を暴露するエピソードを『覚え書補遺追加』に加えて発表した。高潔を自負するグズマンはかつて、町民夫婦の娘の洗礼に名付け親として立ちあった際に、偽名と偽住所を用いて受洗証にサインをしていたのだった。それだけにとどまらず「名付け親として養育費を援助する約束を全然履行してくれない」との夫婦の訴えまでもが、添えられていた。カトリックの重要な秘蹟である洗礼に立ち会うという大役を果たしながら、虚偽の事柄を用いて洗礼を穢したという事実は、世間がグズマンの人間性に厳しい目を向けるのに十分すぎる内容であった{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§110-111}}。
すでにボーマルシェに圧倒的有利な状況が形成されていたが、彼は反撃の手を緩めず、1774年2月10日に『第四の覚え書』を発表した。この覚え書に、スペイン滞在の際の一件を記した『1764年、スペイン旅行記断章』を付している。この作品では法廷描写をメインに、グズマン夫妻の言動を徹底して滑稽に描き、嘲笑し、徹底的にぶちのめす、世間に大受けした冊子であった。3日で6000部が完売し、ボーマルシェは時の人となったのである。彼の人気は、町民の間だけにとどまらなかった。ルイ15世の愛人デュ・バリ夫人は、この作品のボーマルシェとグズマン夫人の法廷でのやり取りを、滑稽な芝居に書き換え、ヴェルサイユ宮殿で何度も上演させて楽しんだという{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§112}}。
第四の覚え書は、文学者や作家からも高い評価を獲得した。[[ヴォルテール]]はグズマン夫人の取り巻きと親しかったこともあって、はじめのうちはボーマルシェに好意的でなかったが、発表された『覚え書』や当事者たちの反応を自身で精査するうちにボーマルシェに傾いていき、『第四の覚え書』で完全に彼を支持するに至った。[[ジャック=アンリ・ベルナルダン・ド・サン=ピエール]]はボーマルシェを[[モリエール]]に比肩する存在であると褒めちぎっているし、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]は『スペイン旅行記断章』に触発され、戯曲『クラヴィーゴ』を制作したと『回想録』において述べている。彼らだけでなく、特に女性たちはボーマルシェを熱烈に支持した。こうして、世論を味方につけるという当初の目的は見事に果たされたが、問題はこれが高等法院の連中に通じるかどうかであった{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§113-4}}。
1774年2月26日、判決の日を迎えた。この日の裁判は朝6時から開廷された。これは異例の早さであったが、ボーマルシェの策略によってこの裁判並びにその判決に世間の注目が集まってしまったために、高等法院の担当者たちは彼らからの非難を恐れたのだろう。ところがパリ市民たちは続々と集まってきた。すでに午前8時には高等法院の広間は人で埋め尽くされていたらしいが、一向に判決が下される気配がない。判決当日になっても、判事たちはいまだに意見を統一できておらず、激しく議論していたのであった。12時間にわたる議論の末、ついに判決が下された。「グズマン判事は高等法院出入り差し止め。グズマン夫人は譴責処分、15ルイの返却。ボーマルシェは譴責処分と『覚え書』の焼却。」という内容であった。痛み分けのように見えて、実質ボーマルシェの勝利であったが、この判決を聞いた広間の市民たちはすぐに怒りだした。判事たちはそれを予想していたので、各々がこっそり法廷から逃げ帰ったという。ボーマルシェは大衆に温かく迎え入れられ、コンチ大公やシャルトル公爵は彼のために豪勢な宴を開催したとのことである{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§115-6}}。
『覚え書』の発表は、勝利だけでなく、運命の出会いをももたらした。この作品を読んで感動したスイス系フランス人女性マリー=テレーズ・ヴィレルモーラスは、ボーマルシェと面識はなかったが、彼に会うことを熱望した。2人は音楽を通じて仲を深め、そして恋に落ちたという。彼らは子を儲けたが、ボーマルシェは結婚に関して極めて慎重になっていたから、正式に結婚したのは1786年のことであった。実に12年後のことである{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§117-8}}。
この判決によってグズマン判事は失脚し、市井に溶け込んで生活していたが、20年後のフランス革命の折に国家反逆罪として断頭台の露と消えた。1794年7月25日のことである。[[マクシミリアン・ロベスピエール]]失脚の2日前のことであった。[[アンドレ・シェニエ]]と同じ囚人護送車に乗せられ、同じ日に処刑されたという{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§117}}。
=== 国王のスパイとして ===
==== モランドの怪文書 ====
判決後の興奮から覚めると、ボーマルシェは自身に下された「譴責処分」の重さを実感せざるを得なかった。この判決で言う「譴責処分」とは、現在で言う公民権剥奪に相当する重いものであった。この処分によって公職から追放され、法的にもまともな扱いを受けることはできなくなる。厳しい状況に置かれたボーマルシェに対する、警察長官サルティーヌの助言は有効であった。言動を慎むように忠告し、「国王陛下がこの件に関して、何も書かないようお望みである」ことを伝えたのである。ボーマルシェはこの助言を守るべく、しばらくフランスを離れてイギリスへ渡ることにした。その道中、彼は友人である侍従長ラボルドに国王への執り成しを願うために手紙を送り、この目的は見事に達せられた。ボーマルシェの謹慎を評価した国王は、彼をヴェルサイユ宮殿に呼び戻し、グズマン判事夫妻との闘争で見せた交渉能力を自分が抱えているある問題の解決に利用しようと考えた{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§119-120}}。
この頃、国王ルイ15世は悩み事を抱えていた。イギリス在住のフランス人テヴノー・ド・モランドに、愛人であるデュ・バリ伯爵夫人の醜聞を種に強請られていたのである。当時、この手のあくどい行為は一種の産業ともいえるほどイギリスで盛んになっており、その書き手はもっぱらフランス人亡命者であった。ほとんど誹謗中傷に近い内容であったが、これらの冊子は金を払って出版をやめさせることが可能であり、書き手もそれが目的であった。モランドは金になりそうな相手を見つけては中傷冊子を発行するという性質の悪い行為を繰り返しており、デュ・バリ夫人に目をつけると、彼女とルイ15世の間柄を暴露する文書を発行すると通知した上で、フランス王室の出方を見極めようとしていたのであった{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§121-122}}。
ルイ15世も、何も手を打たなかったわけではない。イギリス王にモランドの身柄引き渡しを求めたが、折悪く七年戦争の影響で、フランス-イギリスの二国関係は極めて冷ややかな関係にあったために実現しなかった。イギリス政府からは「モランドを保護する気はないため、フランス側で彼の身柄を秘密裏に抑えるなら黙認する。ただし、国民感情を逆なですることは避けてもらいたい」という返答が帰ってきた。この返答の通りに、ルイ15世はモランドの身柄を抑えるべく警吏をイギリスに派遣したが、この動きがどこからかモランドに伝わり、イギリスの新聞にすっぱ抜かれてしまった。対応に手間取っているうちに、モランドの用意した暴露文書が流通寸前まで来ていた。いよいよ焦った国王は、交渉役としてボーマルシェに白羽の矢を立てたのである{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§121-122}}。
ボーマルシェは、本名カロン('' Caron '')のアナグラムであるロナク('' Ronac '')という偽名を名乗り、王の密命を帯びてロンドンへ向かった。この仕事を成功させれば、国王の感謝と庇護と言う、絶対王政化ではこれ以上ない強力な武器を手に入れることができる。ボーマルシェは、ロンドンに到着すると早速モランドとの交渉に入った。交渉はかなり円滑に首尾よく進んだようで、文書の破棄とこの件に関する完全な沈黙を条件として、2万フランと年金4000フランの提供で合意した。ボーマルシェとモランドはずいぶん気が合ったようで、その後も文通を交わしている。見事に任務を遂行してフランスへ帰国したボーマルシェであったが、運の悪いことに帰国したころには国王ルイ15世の容態が悪化しており、この一大事を前に怪文書事件などはもはやどうでもいい扱いになっていた。そのまま5月10日にルイ15世が亡くなると、その死を純粋に悼む気持ちもあっただろうが、期待していた復権のきっかけを逃したボーマルシェは気を落としたという{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§122-4}}。
==== アンジェルッチの怪文書 ====
ルイ15世が亡くなったことで復権の手がかりを失い、気を落としたボーマルシェであったが、すぐに次の策を見つけ出した。ユダヤ系イタリア人のグリエルモ・アンジェルッチなる男が、イギリスでルイ16世夫妻を中傷する怪文書を制作していることを聞きつけ、これを利用しようと考えたのだ。ルイ16世に宛てて「自身が父王のためにイギリスに赴いて使命を完遂したこと、その件に国王陛下(ルイ16世)も重要な関係があること」を認めた手紙を送り、警察長官のサルティーヌにも同様の内容で手紙を送って危機感を煽った。その結果ルイ16世に謁見を許され、すぐに中傷文書を闇に葬るように、モランドの時と同様の命令を受け、王の私設外交官となって再びイギリスへ渡ったのである{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§124-5}}。
ロンドンには、かつてスペイン滞在中に知己を得たロシュフォード卿が政府高官として健在であった。ボーマルシェは彼を通してこの使命を果たそうと考えたようだが、ロシュフォード卿の理解を得られず、早速行き詰ってしまった。困ったボーマルシェは、国王の命令書の送付を要請した。その文面まで提案していたり、サルティーヌに同様の手紙を送りつける徹底ぶりであった。サルティーヌ宛ての手紙にはアンジェルッチの怪文書の調査報告も付されている。ボーマルシェの報告が全部事実であったかどうか疑問が残るが、若き国王ルイ16世は「王妃の名誉が穢されようとしている」との報告を受けて冷静に思案を巡らせるほどの器量の持ち主ではなかった。慌てた国王は、ボーマルシェの要請に応えて、彼の提案した文面の命令書に署名を行った{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§125-7}}。
こうしてボーマルシェはアンジェルッチとの交渉に入ったが、モランドの時とは違ってなかなか円滑には進まなかった。アンジェルッチが高額な金銭を要求してきたため、あれこれ交渉を重ね、およそ35000リーヴルの支払いで合意に至った。原稿と印刷済みの4000部の文書がロンドンで焼却され、ついでもう一つの怪文書発行予定地である[[アムステルダム]]に2人一緒に赴いて、同地でも出版予定の冊子を焼却することとなった。ところが、突然アンジェルッチが金と怪文書の原稿コピーを持って[[ニュルンベルク]]に逃走し、そこで怪文書を発行する動きを見せた。ボーマルシェはこの裏切りに激怒し、すぐさま後を追った{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§127}}。
ここまでの経緯は事実として考えてよいようだが、ここからの経過は資料不足もあって、虚実織り交じっていると考えられる。
8月14日の夕方、ニュルンベルクから遠くない[[ノイシュタット]]の町役場に、不思議な客を乗せたという[[駅馬車]]の御者ヨハン・ドラツが現れ、証言を残していった。それによれば、ロナクと名乗る男はノイシュタット近くの森を通過中、駅馬車から降りて剃刀と手鏡を持ち、森を出たところで待つように言い残し、森の中へ消えていった。その指示に従って待っていると、斧を担いだ樵3人の後ろから、ハンカチで手に応急処置を施したロナク氏が現れたという。ハンカチには手がまみれ、首筋から血が流れているのが見えたのでどうしたのか問うと、盗賊に撃たれたと答えた。銃声を聞いていないドラツは、剃刀で自身を傷つけたのだろうと判断し、それ以上深入りしなかったという{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§128-9}}。
このロナク氏はなぜか近隣の自治体ではなく、翌日になってニュルンベルクの当局に出頭して自身の被害を訴え出た。その被害報告では盗賊の容姿が詳細に語られ、2人の盗賊の名前としてアンジェルッチ、アトキンソンという名前を挙げられている。アトキンソンとは、怪文書を発行しようとしていたアンジェルッチの用いていたイギリス名であるから、このロナク氏がボーマルシェであることは間違いないし、この被害報告の提出動機も明らかである。アンジェルッチの身柄を公権力によって抑え、あわよくばフランスへ連行しようと考えたのだろうが、それはともかく、1人の人間を2人に分割したこの被害報告には無理があった。なぜこのようなことをしたのか、この件に関してはドラツの証言とボーマルシェの手紙しか資料が存在しないため、確かなことはわからない。ボーマルシェはこの件について、自身を英雄のごとく劇的に描いている{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§130-131}}。
8月21日、ボーマルシェは[[シェーンブルン宮殿]]に赴き、女帝[[マリア・テレジア]]との面会を求めたが、取次を拒否されてしまった。仕方なくボーマルシェは秘書官に「ご令嬢の[[マリー・アントワネット]]の名誉が穢されようとしているから、その件をお伝えしに参りました」とのメッセージを託して引き上げた。このメッセージに疑問を抱いた女帝は、側近の伯爵にボーマルシェと接触させ、その伯爵の同席のもとに翌日になって謁見を許した。この席の様子はボーマルシェがフランス帰国後にルイ16世に提出した報告書で仔細に語られており、この席でマリー・アントワネットへの忠誠心、これまでの顛末、偽名を用いた理由を語り、逃走したアンジェルッチから中傷文書を奪い取ったことを伝え、この男の逮捕を強く進言したという{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§132-133}}。
ところが、女帝とその側近たちはボーマルシェの話を全く信用していなかった。彼らはそもそもアンジェルッチなる男が存在するのか、そこから疑いをかけていたようだ。ボーマルシェは軟禁状態に置かれ、厳しい監視下のもとで過ごさなければならなくなった。[[ヴェンツェル・アントン・カウニッツ|宰相カウニッツ]]は、ドラツの証言の調査を開始するとともに、フランス駐在オーストリア大使を通じて、フランス政府にボーマルシェの社会的信用を尋ねている。実際のところ、アンジェルッチという男の存在は長らく証明できなかった。1887年になってようやく、ボーマルシェの手紙中にこの男の名前があるのが確認されたため、今日においては「ボーマルシェ≠アンジェルッチ」であることは確実である。女帝に謁見を求めた目的として「その感謝を獲得して、フランス社会での自身の復権に利用したのではないか」との疑いもかけられたが、文書差し止めには成功しているのだから、そのまま帰国すれば復権のための計画は首尾よく運ぶに違いないので、これも単なる疑いの域を出ていない{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§133-134}}。
このように考えると、「アンジェルッチがニュルンベルクに逃走し、それを知ったボーマルシェが後を追って彼を捕まえ、持っていた文書のコピーを奪い取った」ということは間違いないと思われる。ただ、ドラツの証言でも少し触れられている「盗賊に襲われた」という件についてはかなりの疑問が残る。結局はっきりした事実はわからないのだが、研究者の中でもこの件についての見解は割れている。全くの虚偽、狂言と断じる研究者もいるが、ボーマルシェ自身の証言を全面的に支持する者もいる。おそらく、アンジェルッチから怪文書のコピーを奪い取ったボーマルシェが、自身の行為をもっと美化しようとしてでっち上げたのだろう。女帝マリア=テレジアに自身を売り込み、醜聞からブルボン王室を救ったとして箔を付ければ、自身の復権に大いに役立つからだ。しかし、それが通用しなかったことは先述したとおりである。女帝と宰相カウニッツの疑いを受けて勧められていた調査の結果、フランス政府からの身元保証もあって、ボーマルシェは軟禁状態から解放され、10月2日に帰国した。この件に関するカウニッツの書簡が残されているが、それによれば、最後までボーマルシェは信頼されていなかったようだ{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§135-139}}。
==== 極秘外交文書の破棄 ====
[[File:Thomas Stewart – Chevalier d'Eon.jpg|thumb|200px|デオン・ド・ボーモン]]
1775年、またしてもボーマルシェは王の密命を受けて活動しなければならなくなった。[[シュヴァリエ・デオン|デオン・ド・ボーモン]]という男が、外交上の書類、故ルイ15世の書簡を有していることが判明したためである。この男が持っていた文書の中には、ルイ15世が密かに計画していたイギリス上陸作戦計画書もあったらしく、フランス政府としては絶対にこれらの文書を流出させるわけにはいかなかった{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§140-141}}。
デオン・ド・ボーモンという男は、1728年生まれで、士爵の称号を持っていた。若い時から女性と間違えられるような美貌の持ち主であったらしく、ルイ15世の命令で女装してロシア宮廷に仕え、[[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]]の語学教師を務めたという。1763年にはイギリスで特命全権公使として国王の密命を帯びて工作を行ったが、当時のイギリス駐在フランス大使ゲルシー伯爵と激しく対立し、彼を失脚させる原因を作った。ゲルシー親子の恨みを買ったため、デオンも特命全権公使の地位を剥奪されたが、国王は彼の能力を高く評価していたため、年金を与えてそのままイギリスに滞在させていたのであった。この頃から常に女装し始めたらしく、その変装は、彼の性別が賭けの対象となるほど完璧なものであったという{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§141}}。
ボーマルシェは1775年4月末、一時的にロンドンに滞在していた。デオンはこの情報を掴み、ボーマルシェに接触して、すでに受けている年金に加えて30万リーヴルを要求する意志があることを告げた。デオンは、ボーマルシェが女性に優しいこころを持っていることを看破していたようで、そこにつけ込むことに見事に成功した。ボーマルシェは、内務大臣に昇進していたサルティーヌにデオンの要求を伝え、サルティーヌは外務大臣ヴェルジェンヌに話を通して、ボーマルシェ宛に交渉依頼状を送付した。これが正式な交渉となるのは、8月末のことであった{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§141-2}}。
デオンはそれまでのモランドやアンジェルッチとは違って、かつては特命全権公使を務めた貴族であるから、ボーマルシェは特に注意深く彼を扱った。金銭条件は当然として、特にデオンが拘ったのはフランスへの安全な帰国であった。デオンは、ゲルシー親子と対立した結果始まったイギリス滞在にうんざりしており、国王の帰国許可と身の安全保証を要求したのだった。このことを知らされた外務大臣は、ゲルシー親子の恨みの深さを理由に難色を示したが、「デオンが女装する条件で」帰国を容認すると返答してきた。ボーマルシェはこの奇策に乗っかって交渉を行い、11月4日、正式にデオンとの合意に至った。その合意では、デオンに「所有する書類の全ての引き渡し、ゲルシー親子への法的追及の放棄、女装の徹底」を約束させる代わりに「12000リーヴルの終身年金とロンドンでの負債の会計監査」を約束している。この奇妙な合意は、12月になってルイ16世の承認を受けて正式に発効された。合意成立後、ボーマルシェがデオンを一貫して女性として扱っていることから、デオンを本当に女性であると思っていたとか、デオンと関係を持ったとか推測する者もいるが、1775年にデオンはすでに47歳であり、いくら昔はとびきりの美貌を持っていたとはいっても、現実的な考えであるとは言えないだろう。このデオンとの交渉を最後にボーマルシェは王の私設外交官という役目から解放された{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§143-144}}。
=== 外交顧問としてのアメリカ独立戦争 ===
王の密命を帯びてデオン・ド・ボーモンと交渉に当たっていた1775年は、アメリカ独立戦争の勃発した年でもあった。当時のフランスは、七年戦争での敗北をいまだに引きずっていた。この戦争で100万人近い人員を失い、大量の領土を奪われた挙句、屈辱的な譲歩を強いられていたためである。その結果、イギリス海軍は太平洋の制海権を掌握し、まさに世界最強として実力を誇示していたのだ{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§180-181}}。
イギリスに滞在していたボーマルシェは、デオンとの交渉にのみ専念していたわけではなかった。交渉に当たりつつも、イギリスの外務大臣ロシュフォード卿や、首相である[[フレデリック・ノース (第2代ギルフォード伯爵)|フレデリック・ノース]]やロンドン市長[[ジョン・ウィルクス]]の邸宅に出入りして、反乱軍に共鳴する人間と通じ合い、アメリカ独立戦争に関する情報を得ていた。その結果、この独立戦争がどのようになろうが、いずれにしても「フランスはアメリカを極秘に支援するべき」との考えに達した。1775年9月ごろから、ルイ16世と外務大臣ヴェルジェンヌに宛てて、アメリカを支援するように説得する手紙を何通も送っている{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§182}}。
その内容を簡潔に要約すると、「フランスはアメリカを支援するべきである。もし反乱軍が敗北したならば、彼らはただ傍観していたフランスを恨みに思って、イギリスと結託して攻撃してくるだろう。その結果、再び大損害を被って、ますますイギリスとの国力の差が広がることとなる。そうならないためにもフランスは反乱軍を支援しなければならないが、正面切ってイギリスと戦う余裕はまだないから、その準備をしつつアメリカを極秘に支援しなければならない。そのためにイギリス本土で正確な情報を獲得できる人間が必要だが、その任に私よりふさわしい人間はいない。」となる。外務大臣ヴェルジェンヌもこの意見に納得したようで、国王ルイ16世に進言し、ボーマルシェを正式にその任に当たらせることにした。こうしてボーマルシェは、単なる王の私設外交官から、外交顧問となったのである{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§182-183}}。
ボーマルシェはこの任務に特に意欲的であったようで、イギリスの政権与党のみならず、野党など幅広い人物から情報を獲得しようと努めた。フランスに帰国するたびに国王の側近大臣に情報を伝え、米英の分断政策を展開するように進言したが、いくら大臣とはいえ、決裁権を持たない人間相手では一向に埒が明かなかった。そのため、やがて国王に直接手紙を送り、丁寧に、しかしけしかける様にアメリカを支援するよう提案を行ったが、国王の態度は煮え切らなかった。だが、それも当然といえば当然であるだろう。いくら植民地側に反乱を起こす大義があったとしても、他国であるフランスがそれを公に認めて支援を行えば、それはすなわちイギリスへの宣戦布告と同様の意味を持つ。先述したように、この当時はイギリスはまさに世界最強であったし、フランスは国力を弱めていたから、攻撃されればひとたまりもなかったのである。ボーマルシェもこの点は承知していたようで、1776年2月29日の手紙ではイギリスの情勢を紹介し、反乱軍がフランスの支援がないことに絶望しかかっていると様子を伝えた上で、火中の栗たるアメリカ支援任務は自分が引き受けることを主張した{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§183-187}}。
こうして、正式にアメリカ支援の任務に当たることになったボーマルシェであったが、やはり慎重な姿勢を崩さないフランス政府は条件を付けてきた。アメリカ反乱軍を支援はしたいが、イギリスを刺激するのは国家存亡に関わる。そのため政府としての支援ではなく、単なる個人的投機として誰の目にも映るようにしてもらいたい、というのがその条件であった。そのための方法も詳しく指定されており、それによれば「ブルボン王家と親しく、利害関係のあるスペイン王家とフランス政府からの200万リーヴルと、それに民間から出資者を募って集めた資金を基に商社を設立し、アメリカ反乱軍に必要な武器弾薬などを提供する。フランス政府が武器を調達して商社に売り渡すが、反乱軍には金ではなく、物を要求しなければならない。」というものだった{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§188-189}}。
1775年9月6日、高等法院の判決によってボーマルシェは正式に社会的復権を果たした。商社設立のための障壁は完全に取り除かれたが、その設立のために必要な民間出資者がなかなか集まらなかった。それでもなんとか資金を集め、同年10月に「ロドリーグ・オルタレス商会」なる名前で商社を設立した。こうして、ボーマルシェは船や武器弾薬、義勇軍集めに奔走するなど、商人として動き始めたが、いささか派手に活動しすぎた。イギリス側が彼の動きを察知し、外務大臣ヴェルジェンヌに猛抗議してきたのである。いくら民間業者である(そのように装っているだけだが)とはいっても、外交関係があるイギリスからの猛抗議を無視できなかったフランスは、沿岸の港に船員の乗船と出港禁止を発令した。ボーマルシェの用意していた3隻の船のうち、2隻はこの命令によって足止めを食らったが、一番多く支援物資と人員を積んだ1隻は発令の直前に出港していた。ところが、この船に乗り込んだフランス義勇軍の司令官が、船の乗り心地の悪さを理由に他のフランスの港に立ち寄るように船長に求めたため、結局他の2隻と同じように足止めを食らった。この顛末を聞いたボーマルシェは激怒し、この司令官を船から降ろした上で、ヴェルジェンヌと交渉を重ねた。その結果、この3隻の船は1777年初頭、密かにアメリカ大陸へ向けて出港し、イギリスの軍艦に見つかることもなくアメリカへ無事到着した。初めての支援物資が届いたことを知ったアメリカ人たちは、熱狂したという{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§190-191}}。
ところが、ボーマルシェはミスを犯していた。武器弾薬の代わりとして大量の物産を積んで帰ってくるはずの3隻の船は、空っぽのままで帰ってきたのである。これには、ボーマルシェが関わったアメリカ人、アーサー・リー、[[サイラス・ディーン]]、アメリカ建国の父として高名な[[ベンジャミン・フランクリン]]が密接に絡んでいる{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§192}}。
最初にボーマルシェと知り合ったのは、アーサー・リーであった。彼はヴァージニア州生まれであったが、[[イートン・カレッジ]]で学び、[[エジンバラ大学]]を出たのち、ロンドン市長ウィルクスの下に出入りしていた。そこでボーマルシェと出会い、アメリカの秘密使節として彼と交渉するようになったのだ。交渉の初期段階においてボーマルシェに情報を流していたのはこの男であった。だが、いささかその性格に難があった。嫉妬深い性格で、恨みを根に持ち、猜疑心の強い男であったらしい{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§192}}。
1776年7月4日、独立を果たしたアメリカは、サイラス・ディーンとベンジャミン・フランクリンを代表としてパリに派遣した。遅れてリーもパリに到着したが、その頃にはすでに彼らはボーマルシェを通じてフランス政府との交渉で実績を挙げつつあった。このような状況を見て、リーは激しく焦り、嫉妬心に駆られた。1777年1月3日付のアメリカ議会へ宛てた手紙で、ボーマルシェの約束不履行をなじり、武器弾薬に見返りに何も支払う必要はないとの報告を行っていることでそれは裏付けられるだろう。だが、ボーマルシェにも非はあった。彼はリーをさほど信頼しておらず、その交渉も表面的でしかなかったと手紙に認めている。ボーマルシェが交渉相手としてサイラス・ディーンを信頼し、彼を選んだためにリーは立場を失い、ボーマルシェに恨みを抱いたのである。これだけで済めばよかったのだが、今度はサイラス・ディーンが原因になって、他にも恨みを買うことになった。ディーンがフランスに立つ際、仕事を円滑に進めるために、ベンジャミン・フランクリンはデュブール博士という男に宛てた推薦状を与えていた。デュブールという男は、フランクリンとの関係を利用してボーマルシェより前からアメリカに武器を提供していたが、彼の登場によってその商売が危うくなっていた。ディーンは、同じ商売を手掛けるボーマルシェとデュブールを天秤にかけた結果、ボーマルシェの方が交渉相手として有力であるとの判断を下した。こうしてデュブールの恨みをも買うことになったのである。この結果、ボーマルシェはフランクリンとあまり良い関係を構築できなかった。デュブールが悪評を吹き込んでいたのかもしれない{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§193-195,198}}。
こうして、ボーマルシェはディーンを相手に交渉を進め、1776年7月下旬には交渉をまとめた。「武器弾薬の代わりに、ヴァージニアなどの煙草を引き渡す」という内容であったが、ボーマルシェは詰めが甘かった。この交渉成立のおよそ1か月後にフィラデルフィアの議会に手紙を送っているが、良い印象を植え付けようとしたのか、アメリカ独立への熱烈な共感を強調したいあまりに、それだけが際立つ文面となってしまい、肝心の商売の話をうやむやにしてしまったのである。議会がこれを誤解したのか、つけ込んで利用したのかはわからないが、何にせよその結果は先述したとおりである。当てが外れたボーマルシェは商社の経営に行き詰ったが、幸いなことに外務大臣ヴェルジェンヌが100万リーヴルを追加融資してくれたおかげで、何とか破滅せずに済んだ{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§192,196}}。
1778年2月6日、それまで慎重な姿勢を崩さなかったフランス政府も、ボーマルシェの報告を分析したり、フランクリンなどとの交渉の進展を見て、パリにて仏米友好通商条約と[[仏米同盟条約]]を締結した。こうしてフランスとイギリスは戦争状態に突入し、ボーマルシェの商社は純粋な民間業者となった。彼は最初の失敗を教訓として、助手であったデヴノー・ド・フランシーをアメリカに送り、貿易業者としてアメリカ新政府と正式に契約を交わすに至った。1779年1月には、アメリカ議会の要請によって発せられた議長ジョン・ジェイ名義の感謝状を手に入れるほどであった。この感謝状には「これまでに合衆国支援のために被った負債の支払いを速やかに行う」と記されていたが、その負債の巨額さもあって、ボーマルシェの生前はこの通りに履行されなかった。1835年になって、ボーマルシェの相続者たちに80万フランが贈られてようやく片付いたのであった{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§199-200}}。
アメリカ独立戦争に絡むこの貿易では、巨額の負債が足を引っ張って、ほとんど利益を挙げられなかった。だが、アメリカの独立と祖国フランスの役に立ったのは間違いない。アメリカ独立戦争に関わっていたこの時期、1777年1月にマリー=テレーズ嬢との間に娘をもうけ、ユージェニーと名付けた{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§201,207}}。
==== ラ・ブラシュ伯爵との決着 ====
1770年代後半になっても、ラ・ブラシュ伯爵との裁判は続いていた。ボーマルシェの多忙を知った伯爵は、判決が下される予定地である[[エクス=アン=プロヴァンス]]に腰を据えて、自分に有利な判決が出る様に工作活動を進めていた。誹謗中傷文書のばらまきに勤しんだほか、朝早くから判事を訪れて自身の主張を訴えたほか、6人の弁護士を雇って準備を重ねるなど、その活動は抜かりのないものであった{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§204}}。
ロドリーグ・オルタレス商会の仕事で[[マルセイユ]]を訪れたボーマルシェは、伯爵の上記のような活動を知り、反論文書を書き上げてエクス=アン=プロヴァンスで出版した。この文書は同地の住民たちに大受けしたようで、彼の人気は一気に高まった。予期せぬ反撃に伯爵は慌て、反論文書を発表した上で、ボーマルシェの文書の差し止めと焼却を求める請願書を裁判所に提出した。これにボーマルシェが再反論を加えるなど、泥仕合の様相を呈する論争で盛り上がる市民たちを尻目に、エクス=アン=プロヴァンスの裁判官たちは慎重にこの件に関する調査を行っていた。ボーマルシェは、すべての判事が同席する上で伯爵とともに陳述させる機会を与える様に裁判所に請願し、認められた。この2人はともに雄弁家であったから、大いに街の人々の関心を惹きつけたらしい。59回に及ぶ審理の結果、1778年7月12日、エクス=アン=プロヴァンスの再審法廷は、裁判官全員一致でボーマルシェの勝訴という判決を下した。伯爵の主張は悉く退けられただけでなく、根拠のない誹謗中傷と断じられ、ボーマルシェの本来の権利であった15000リーヴルに加えて、この裁判に要した費用はすべて伯爵が支払うことになったのである{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§205-206}}。
この判決に、町中が沸き返った。長年の苦しみから解放されたボーマルシェは、涙を浮かべ、喜びのあまりに気を失ったという。伯爵もさすがに根負けしたようで、判決に素直に従ったようだ。こうして、10年近くに亘るラ・ブラシュ伯爵との闘争は幕を閉じたのである{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§206}}。
=== 国王ルイ16世への抵抗 ===
『フィガロの結婚』は、ボーマルシェの最大の庇護者であったコンチ大公の「『セビリアの理髪師』以上に陽気な、フィガロ一家を舞台に登場させてほしい」という要請に応えて制作された作品であった。その完成を目にすることなく大公は亡くなってしまったが、ボーマルシェは大公との約束を果たそうと必死になり、結局1778年に完成させた。1781年9月、[[オペラ・コミック]]に客足を奪われ、興行成績の低迷に苦しんでいたコメディー・フランセーズの委員会は、同作品を上演作品として受理することを決めた。これに気を良くしたボーマルシェは、警察長官に検閲申請を行い、そこでも問題なしと判断されて、正式に上演許可を獲得した{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§216,235}}。
『フィガロの結婚』を高く評価していた貴族たちからの要請を受けて、国王ルイ16世も判断を下すために同作品を取り寄せた。これを朗読させ、王妃マリー・アントワネットとともに耳を傾けたという。この時、朗読役を任されたカンパン夫人の回想録に、この時の国王夫妻の反応が記録されている{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§235-236、引用P.236から}}:
{{quotation|…わたしが読み始めると、国王はたびたび称賛や非難の声を上げられて朗読を中断なさった。一番多く叫ばれたのは次のようなことだ。「これは悪趣味だ、この男は絶えず舞台にイタリア風の奇抜な表現を持ち込む癖がある。」(略)とりわけ国内の牢獄をやっつける台詞のところでもって、国王は激しい勢いで立ち上がられ、こう言われた。「これは唾棄すべきものだ。絶対に上演は許さん。この芝居を上演しても危険で無分別な行為でないということになるには、まずバスティーユ牢獄を破壊するのが先だろう。この男は政府の中のあらゆる尊敬すべきものを愚弄している。」「では上演致しませんの?」王妃がお尋ねになった。「そう、絶対に。確信してよろしい。」と国王は答えられたのだ。…
}}
今日においては「凡庸そのもの」とか「無能」とか評価されることも多いルイ16世であるが、大勢の貴族が『フィガロの結婚』を表面的にしか理解していなかった(からこそ、作品上演を支持した)のに対して、その危険性を見抜いて上演禁止を言い渡したという事実は、結果論ではあるが国王に先見の明があったとも言える。この当時のフランス社会においては、市民たちはアメリカ独立戦争に刺激されて着々と力を蓄えつつあったし、貴族の間でも啓蒙思想が広く受け入れられていた。まさか10年もたたないうちに、自分たちが「フィガロ」のごとき市民たちに攻撃されるとは考えもしていなかったため、フィガロの権威を恐れもしない陽気な不屈さを愛し、その辛口な台詞の裏に隠された権威否定や身分制度批判の意図に気づかなかったのである{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§238-239}}。
こうして、作品の上演ならびに出版は禁止されてしまった。だが国王が自ら上演禁止処分を下したという事実が、却ってパリの人々の関心を刺激する結果となり、ボーマルシェはあちこちで朗読をせがまれた。作品の上演許可を取り付けるために、国王への抵抗として、彼はこの朗読を利用しようと考えた。毎日のように朗読会が開かれ、その巧みな朗読に大勢の人々が夢中になったという。こうして自信を深めたボーマルシェは、2度目の検閲申請を行った。この際の検閲官には、ジャン=バティスト=アントワーヌ・シュアール('' Jean-Baptiste-Antoine Suard '')が選ばれた。シュアールはアカデミー・フランセーズ会員であった(席次26番)が、平凡な劇作家であり、劇作家として成功しているボーマルシェを快く思っていなかったらしい。このような人間が検閲を審査するのだから、不道徳として却下された{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§237-238}}。
1783年になっても上演禁止措置は続いたが、同年6月13日、突然コメディー・フランセーズの役者たちにムニュ・プレジール劇場('' Hôtel des Menus Plaisirs '')で『フィガロの結婚』を上演するように通達が届いた。正確にはわからないのだが、王弟[[シャルル10世 (フランス王)|アルトワ伯爵]]が兄である国王に迫って、許可を出させたのだろうと推測されている。このことは瞬く間に貴族たちの間に広がり、公演のチケットは完売する熱狂ぶりであったが、幕が開く寸前で国王の使者が現れ、上演禁止の決定を伝えたのであった。優柔不断な性格であったと伝えられる王のことだから、この件でもその性格が出たのだろう。だが、まさに寸前でお預けを食らった貴族たちは黙っていなかった。この決定には反発が大きく、結局国王は9月26日になって、ヴォドルイユ伯爵の別荘で300人の貴族を前にした上演を許したのであった{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§239-240}}。
これに勢いをつけたボーマルシェは、作品の健全性を証明しようと躍起になった。『フィガロの結婚』の検閲申請をさらに4度にわたって繰り返し、彼の味方であったブルトィユ男爵に請願して「文学法廷」なるものを開催してもらうなど、徹底していた。これらをすべてクリアしたことで、同作品には有識者たちの信用が与えられたのである。その結果、抵抗を続けていたルイ16世もさすがに折れ、ついに市中での公演許可を出し、1784年4月27日に初演が行われた。パリ市民が全員押しかけてきたのではないかと思うほどの大成功であったという{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§241-242}}。
ところが、1785年3月にボーマルシェは筆禍事件を起こした。この事件は、フランス発の日刊紙『ジュルナル・ド・パリ』に匿名の記事が載ったことに端を発する。ボーマルシェはこの記事に反応し、返答を同紙に掲載させたが、両者のやり取りは次第に過激化していった。これに腹を立てたボーマルシェは、3月6日付で同紙の編集局に手紙を送ったのだが、その中の表現に問題があった。この手紙の「劇公演を実現するためにライオンや虎を打ち負かさなければならなかったわたしが…」という記述の「ライオンや虎」という比喩を、国王ルイ16世は自分たち夫妻のことであると解釈したのだ。元々日刊紙宛てに送られた手紙であったが、すぐにその内容は国王の知るところとなり、この記述が問題となってボーマルシェはサン=ラザール牢獄に入れられてしまった。この牢獄は、政治犯や貴族が収容されるところではなく、放蕩のあまり身を持ち崩した良家の子弟などが入れられる牢獄であった。53歳にもなってこのような牢獄に入れられたという事実は、ボーマルシェのプライドをかなり傷つけたようだ{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§243-244}}。
しばらく面白がって見ていた世間も、さすがにこの王の行為を行き過ぎた横暴と見るようになった。5日後には釈放命令が出されたが、プライドを傷つけられて意固地になっているボーマルシェは、中々その命令に従おうとしなかった。懸命な周囲の人々の説得によってしぶしぶ牢獄を出た彼は、王に名誉回復のための条件を複数突きつけた。いくつかの条件は全く無視されたようだが、国王はその代わりとして、ヴェルサイユ宮殿の離宮にボーマルシェを招待し、『セビリアの理髪師』を王妃や王弟に演じさせたり、アメリカ独立戦争で被った負債の補償として80万リーヴルを下賜するなど、要求を上回る賠償をしたと言えるだろう{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§245-246}}。
=== 名声の失墜 ===
{{Double image|right|Lettre autographe signée de Pierre Augustin Caron de Beaumarchais page1.jpg|150|Lettre autographe signée de Pierre Augustin Caron de Beaumarchais page2.jpg|150|この頃に書かれたボーマルシェの手紙}}
『フィガロの結婚』上演に関して一旦は国王に禁止命令を出されながらも、それを撤回させて見事に上演を成功させたボーマルシェは、まさに人生の絶頂期にあった。だが水道を巡る事業と、顔さえも知らない女性の問題に義侠心から首を突っ込んだことで足をすくわれ、その栄光にも陰りが出始めた。これらの問題を契機として陰り始めた彼の栄光は、フランス革命の勃発で完全に止めを刺されることになる。
==== ミラボー伯爵との論争 ====
18世紀のパリが、とにかく不潔で非衛生的な都市であったことはよく知られているが、それは人間が生きる上で欠かせない水においても例外ではなかった。井戸水は排泄物やその他無数の汚物の混入によって汚染され、それを用いてパンやビールを作るものだから、健康にも悪影響を与えていた。当時の人々がどのように清潔な水を手に入れていたかといえば、街を練り歩く「水売り」からのみであった。このような状況を解決しようと、1777年に発明家のペリエ兄弟はパリ水道会社を設立した。シャイヨの丘に揚水ポンプを設置してセーヌ川の水を汲み上げ、パイプを通してその水をパリ市民に提供するのが目的であり、この当時としてはまさに画期的な試みであった。1780年代になって、ペリエ兄弟の要請を受けて、ボーマルシェも経営に参加するようになった{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§248-249}}。
会社は資金集めのために株券を発行したが、初めのうちは中々買い手がおらず、額面の2000リーヴルを割り込む始末であったが、1785年になって人気が沸騰し、結局4000リーヴルの値を付けるまでになっていた。銀行家のクラヴィエルとパンショーはこれに目を付け、株価の下落を狙ってあれこれ仕掛けたが失敗し、大損してしまった。そのため、会社の信用を傷つけて株価の下落を謀ろうと考え、ミラボー伯爵をけしかけて、攻撃文書を書かせることにした。この目論みは見事に成功し、攻撃された水道会社の株価は半分近くまで下落した。ミラボー伯爵は、以前ボーマルシェに借金を申し込んで断られたことを根に持っていたようだ{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§249-250}}。
ボーマルシェもこれには黙っていなかったが、これまでとは違った反応を見せた。彼の公開した反論文書は、相手の非難より水道会社設立の意義やその業務の進行状況に多くを割いた内容のものであった。ミラボー伯爵へはまるで大人が子供をたしなめるかのような回答を向けており、それは攻撃というよりからかい程度のものであった。伯爵はこの回答に激怒し、本来の目的であった水道会社の件を忘れて、ボーマルシェへの人身攻撃に躍起になったが、ボーマルシェは相手にしなかった。理由はわからないが、この手の論争に飽き飽きしていたのかもしれない。この2人の関係は1790年になって、伯爵からの和解の申し出によって修復されたが、この時のボーマルシェの態度をパリ市民たちは弱腰と考えたようで、後々この点につけ込まれることになる{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§252-254}}。
1786年12月、すでに同棲して12年以上になるマリー=テレーズと正式に結婚した{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§255}}。
==== コルヌマン夫人を巡って ====
1781年10月、ボーマルシェはあるナッサウ大公妃の邸宅に大勢の人とともに食事に招かれ、その席である女性の話を耳にした。その女性は夫にひどい扱いを受けており、邸宅に監禁されているという。大公夫妻はこの女性を自由の身にしてやりたいと考えていたため、ボーマルシェに協力するように求めたが、これまで行動を起こすたびにトラブルになってきたことを理由に、初めは消極的であった。しかし、その女性の夫が出した手紙を読むうちに次第に態度を変え、女性の救出に協力する気になったようだ{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§257-258}}。
この女性は、名をコルヌマン夫人という。スイスに生まれたが、13歳で両親を失った。15歳の時、親族の勧めに従い、持参金36万リーヴルを携えて銀行家であるコルヌマンと結婚した。次第にドーデ・ド・ジョサンという男を愛人にするようになったが、これは彼女自身の浮気心からではなく、コルヌマン自身がそそのかしたのである。ドーデの裏には軍事大臣モンバレー公爵がいることを知り、彼を通じて軍事大臣に取り入って私腹を肥やそうとしていたのだ。この試みは見事に成功したが、1780年12月に軍事大臣が交代すると、ドーデの利用価値が無くなったために彼を切り捨てた。その一方で、銀行業の赤字を解消しようと夫人に持参金を寄越すように迫ったが、拒否されたため、国王の封印状を手に入れて身重の夫人を牢獄へぶち込んだのであった{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§258,260}}。
早速救出に乗り出したボーマルシェは、ヴェルサイユに赴き、ナッサウ大公夫妻とともに手分けをして関係者へ働きかけた。その結果、12月17日付で夫人を産科医の家に移して看護せよとの王の命令書を獲得した。こうして夫人は産科医のもとで出産を済ませ、コルヌマンの手の届かないところで法による庇護を受けることができた。離婚が許されない時代であったから、コルヌマンは和解しようと考えたようだが、うまくいかず、結局別居状態のまま数年間が経過した{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§261}}。
それから5年以上が経過した1787年2月、突然この件に関するコルヌマン夫人、ナッサウ大公夫妻、ドーデ・ド・ジョサン、警察長官ルノワール、ボーマルシェの5人を標的とした中傷文書がパリに大量にばらまかれた。この文書には「コルヌマン」と署名が入っていたが、実際それほど頭の切れる男ではなかったようだから、このような思い切った真似は出来なかったろうし、思いついたのもまた彼ではないだろう。この文書を手掛けたのは、弁護士のベルガスという男であった。この弁護士は売名しか頭にない悪徳弁護士で、生涯にわたって中傷や名誉棄損で裁判を引き起こし続けた。弁護士というより[[デマゴーグ]]というほうがふさわしい輩である。たまたまコルヌマンと出会ったベルガスは、コルヌマンの抱えるこの問題を絶好の機会と捉えたようで、彼の顧問弁護士となって、この一件に散々脚色を加えて文書を発表したのであった。ベルガスが特に標的としたのは、ボーマルシェの栄光とミラボー伯爵との論争で見せた弱腰であった。コルヌマンを妻に裏切られた哀れな夫に仕立て上げ、妻を救出した者たちを極悪非道な人間として描く。これを世に広めるためには人目を惹く必要があるが、そのためにボーマルシェを徹底的に叩いたのである{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§262}}。
これに対抗するために、ボーマルシェも反論文書を発表した。コルヌマン夫人を救出した事実を認めた上で、彼女がいかに夫から虐待されていたか、コルヌマンがいかに暴虐非道な男であるかを、その証拠となる手紙とともに論理的に示した。この論理的な反論には何も返答できないと考えたのか、この後のベルガスの攻撃はもっぱらボーマルシェへの中傷に絞られることになった。ベルガスのしつこさは相当なもので、この問題が起こってから1年半の間に200以上の中傷文書がばらまかれている。ボーマルシェも決して黙っていたわけではなかった。コルヌマンとベルガスを名誉棄損で訴え出るとともに、複数の反論文書の公開で対抗しようとしたのだが、市民たちはベルガスにこそ正義があると信じ込んでいたため、大した効果を挙げなかった。裁判ではボーマルシェが勝訴したが、ベルガスによる中傷攻撃で失った人気は回復しなかった{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§263-268}}。
=== フランス革命 ===
[[File:Bélanger - Jardin de l'hôtel Beaumarchais.jpg|thumb|300px|ボーマルシェ邸の豪奢な庭園]]
1787年6月、[[バスティーユ牢獄|バスティーユ城砦]]前のサンタントワーヌ街の土地が競売に付されていることを知ったボーマルシェは、これをおよそ20万リーヴルで落札し、170万リーヴルの大金をかけて豪邸を建設した。建設完成と同時に、この地区の区長に選ばれている。広大な土地に贅の限りを尽くした豪奢な建物は、法律を犯してこそいなかったが、如何せん場所が悪すぎた。市民たちが旧体制の象徴と見做していたバスティーユ城砦の前の土地にこれほどの豪邸を建築したために、庶民から激烈な反感を買ったのである。彼らに襲われないように日ごろから貧者たちへの施しを忘れなかったが、それでも自宅からそう遠くないところで市民たちによる放火暴動騒ぎなどもあって心配になったのか、警察長官へ治安の回復を求めたりしている。市民たちはボーマルシェを旧体制側の人間と見做していたようで、[[パリ・コミューン]]のメンバーとして招集された際にも、コルヌマンとの一件で彼に敵対した人間たちから激しい非難が挙がり、しばらくメンバーから外されたほどであった{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§269,271,274}}。
1792年3月2日、彼の元へある手紙が届いた。ボーマルシェの激動の人生の締めくくりにふさわしい事件の始まりである。この手紙はベルギー、[[ブリュッセル]]在住の商人ドラエーという男が差し出したもので、ボーマルシェにある取引を申し出る内容であった{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§285}}。
この当時のベルギーでは[[ブラバント革命]]が一時的な成功を治めていたが、指導者たちが仲違いを起こして結局失敗、短期間で再び[[ハプスブルク家]]の支配下に組み込まれていた。ドラエーはこの革命の際にハプスブルク家に味方したために財産を没収されるなど大損害を受けていたが、革命の失敗によってそれを補償してもらえることになった。革命に際して追放された[[ヨーゼフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ2世]]は病死してしまったため、ベルギー皇帝の座に納まった[[レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト2世]]はドラエーに[[ブラバント]]中の小銃を買い取る独占権を与えた。ただ、この銃は革命軍から接収したものであるため、これらすべてを国外に売り飛ばすことが条件であった。数にして20万挺の銃を用意できたものの、これほどの銃を捌く能力がドラエーにはなかったようで、困りはてた末にボーマルシェに目を付け、混乱を極めているフランスに役立つから、と提案してきたのである{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§285}}。
すでにこの頃にはボーマルシェは事業を畳んでいたし、その話の大きさに乗り気ではなかったために一旦この話を断ったが、ドラエーが粘り強く動き回ったため、結局3月16日になって「小銃をフランス政府が購入した場合、利益の3分の2をボーマルシェ、3分の1をドラエーが取る」との内容で契約を交わした。この合意を実現させるために、早速ボーマルシェは軍事大臣と交渉に入ったが、その支払い方法で中々折り合いがつかなかった。ボーマルシェはオランダ通貨の[[フローリン]]で支払いを要求したのに対し、政府側は[[アッシニア|アシニャ債]]での支払いを主張したからである。アシニャ債は当時のフランスの大混乱が影響して、通貨としてとにかく弱く、外貨との交換レートがどんどん下がっていたから、利益が目減りするのを避けたいボーマルシェが難色を示すのも当然であった。それでもなんとか4月3日になって交渉は成立した。ボーマルシェがおよそ75万リーヴルの終身年金証書を抵当として差し出す代わりに、アシニャ債で50万リーヴルの融資を受け、追加資金が必要な場合は政府が提供するとの内容であった{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§286-287}}。
早速代理人ラオーグを[[ブリュッセル]]に派遣したボーマルシェであったが、この話は中々思うようには進まなかった。各国の利害が絡んでいた上に、あくまで秘密裏に運んでいるはずのこの取引についてかなりの情報が漏れ出ていたからである。誰が情報を漏らしたのか、今となっては確認する術もないが、革命期のフランス政府の情報管理の緩慢さと、政府内部に私腹を肥やすために平然と売国行為を働く人物がいたことを裏付ける事実である{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§287-288}}。
情報を漏らす人物のおかげで、ついにパリ市民たちまでもがこの取引について知るようになった。秘密取引が秘密でなくなったどころか、6月4日付の国民議会において「ボーマルシェがブラバントで7万艇の小銃を買い付けたにもかかわらず、それをパリのどこかに隠している」との告発されてしまう。そもそも取引が成立していないのだから全くの事実無根であるが、この告発をきっかけとして「小銃を隠し持っている」との噂が独り歩きしていくことになった。この噂はどんどん広がっていき、ついに8月11日、ボーマルシェの豪邸は民衆による襲撃を受けた。ボーマルシェはこの襲撃に際して、はじめは弁解のために民衆に立ち向かおうとしたようだが、殺害される恐れがあるとの友人の勧めに従って、ひっそりと邸宅を抜け出したという。噂を信じ切っていた民衆たちは、ボーマルシェ邸で武器を探し回ったが、見つかるはずもなく、その代わりに大量に売れ残ったヴォルテール全集を見つけたという{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§289-290}}。
議会での告発と時期を同じくして、突然代理人がパリへ帰ってきた。オランダ政府が「自国の港に置いてある小銃の行先がインドであること」の保証として、5万フローリンを要求してきたのだという。関係大臣と協議を重ねて保証金捻出の目途を付けて、代理人をオランダに発たせたボーマルシェであったが、ここでもうまく事は運ばなかった。この取引の利益を横取りしようと画策した外務大臣ル・ブランの妨害に遭ったのである。ル・ブランは、ボーマルシェの代理人のパスポートを取り上げた上で、ラルシェという男をボーマルシェ邸へ出向かせた。8月20日のことである。この男は、オーストリアの商社から依頼されてやってきたと告げたのち、1週間後に小銃をフランスに到着させられるから、利益を折半にするよう提案を行ってきた。そして、今日中に返事をするように半ば脅迫めいた言葉を残して立ち去っていったという{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§289-290}}。
こうして、ル・ブランの妨害に気づいたボーマルシェであったが、対策を考えるには遅すぎた。ラルシェの残していった脅迫めいた言葉が現実のものとなり、8月23日に逮捕されてしまったのである。「国から支払代金を受け取りながら、購入済みの小銃をフランスへ移送することを拒否した」という国家への裏切りが彼にかけられた容疑であった。取り調べにおいて、一つ一つ丁寧に整然と説明を行ったため、嫌疑は晴れかけたが、ここでも邪魔が入った。ボーマルシェの言葉を借りれば「黒髪で鷲鼻の、ある恐ろしげな顔つきをした小男」である[[ジャン=ポール・マラー]]が現れ、取り調べの調査結果をひっくり返したのである。これによって、再び牢獄暮らしの日々が続くかと思われたが、8月29日になって突然釈放命令が下された。彼の愛人アメリー・ウーレが、ボーマルシェを助けるためにその美貌を活かして、パリ・コミューンの主席検事であるマニュエルと関係を持ったためである。ボーマルシェの女好きが、図らずもこうして身を助けたのであった{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§290-292}}。
9月18日、ボーマルシェとその同行者1名に対して[[パスポート]]が発行されたので、それを利用してイギリス、オランダへ問題解決のために赴いた。この時点では、ボーマルシェの取引相手であり、融資をしてくれていたイギリスの銀行家が小銃購入の名義人となっていたから、まずイギリスへ向けて小銃を運び出し、イギリスからインドへ向けて運び出すふりをして、フランスへ運べばオランダを刺激しないで済むだろうと考えてのことであった。10月3日にロンドンに到着し、手筈を整えてオランダへ向かったが、同地の政府が要求した保証金5万フローリンが届いていなかった。確かに関係大臣と協議して保証金の目途は付けていたものの、政情不安によって大臣がころころ変わっていたから、結局有耶無耶になっていたのである。新たな問題の発生に対処しようとオランダで金策に走るうちに、フランスでは国民公会議員ルコワントルが提出した、小銃を中々フランスに運び出さない(運び出せない)ボーマルシェに対する非難決議が可決されていた。この決議の可決によって逮捕状が[[ハーグ]]のフランス大使の元に届けられたため、ボーマルシェはオランダにいられなくなり、難を逃れるためにイギリスへ戻らなければならなくなった{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§293-294}}。
だが、この非難決議の陰で糸を引いていたのは、ル・ブランやその取り巻きたちであった。またも邪魔をされたことに怒ったボーマルシェは、穢された名誉を回復するために、フランスへの帰国を企てた。非難決議が出ているのにわざわざフランスへ出向くと言うのはまさに自殺行為であり、この考えを知った銀行家は仰天するとともに、自身の債権が焦げ付くのを恐れてボーマルシェを告訴し、公権力に身柄を確保させた。ボーマルシェも拘留されて冷静さを取り戻したのか、遺された手紙から察するに、特に銀行家へ恨みを抱いてはいなかったようだ。この問題に関する経緯を詳細に記した文書を書き上げ、イギリスの銀行家に対する債務を履行して自由の身になったボーマルシェは、2月26日にパリへ戻った。さっそく獄中で書き上げた文書を印刷してパリ中にばら撒くと、非難決議を提出したルコワントルはあっさり自身の非を認めたため、5月7日になって公安委員会から正式に無罪が言い渡された。それどころか、小銃の取得に全力を挙げるように依頼されたのであった{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§294-296}}。
その依頼に応じてオランダに出向いて様々な策を試みるが、なおも事態は好転するどころか、悪化する一方であった。成果を挙げられないまま時だけが過ぎ、ついに1794年3月14日、[[エミグレ|亡命者]]リストに名前を載せられてしまう。この名簿に名前を載せられると、財産はすべて没収され、帰国次第反逆者として逮捕されてしまうため、ボーマルシェはフランスに帰ることもできなくなった。その後もあれこれ手を尽くすも何も状況を変えられず、結局10月20日、イギリス当局が小銃を接収したことでこの問題は幕を閉じた。名義上の所有者がイギリス人であることに、時の首相であった[[ウィリアム・ピット (小ピット)|小ピット]]が目を付けたのであった{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§296,298-299}}。
こうして、3年にわたるボーマルシェの努力はすべて無駄になった。資金も使い果たしてしまったボーマルシェは、ひたすら貧窮に喘ぎながら故郷へ帰れる日を待つほかなかった。1796年6月になってようやく亡命者リストから彼の名前が外された。パリへ帰還できたのは同年7月5日のことであった{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§296,298-299}}。
=== 最期 ===
[[File:Père-Lachaise - Division 28 - Beaumarchais 01.jpg|thumb|200px|ボーマルシェの眠る墓]]
パリに戻ったボーマルシェは、再び幸せな家庭生活を取り戻すためにあれこれ動き回った。それとともに、小銃取引の件で金銭的決着をつけるべく、フランス政府との交渉に乗り出した。1797年1月、[[総裁政府]]は委員会を組織してこの問題の調査に乗り出した。どちらがどれほどの債務を負っているのか、委員会は問題を精査し、調査に乗り出してから1年後にボーマルシェを債権者と見做して、フランス政府に100万フランを支払うように結論付けた。額に不満があったのか、これを不服としたボーマルシェは再審理を要求したが、今度は正反対の結論が出てしまった。当然ボーマルシェはこれに納得せず、再び審理を要求したが、結論は変わらなかった。判決の不当性を訴えるために財務大臣に手紙を送るなどしているが、結局ボーマルシェの生前にこの問題は片付かず、逝去から3年後の1802年にようやく決着した{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§306-307}}。
帰国後のボーマルシェの生活は、着実に立ち直りつつあった。劇壇での名声も『罪ある母』の再演によって回復していたが、1799年5月18日、安らかに眠るように死んでいった。死因は脳卒中であったらしいが、苦しんだ形跡は見られなかったという。遺体は自邸の庭の一隅に葬られたが、1822年にペール・ラシェーズ墓地に移された。かつて彼の豪邸が立っていた通りは、現在[[ボーマルシェ大通り]]として知られている{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§307-308}}。
== エピソード ==
* かなり魅力的な、いわゆる良い男であったらしい。親友の残した伝記によれば:
{{quotation|ボーマルシェがヴェルサイユ宮殿に伺候すると、ご婦人方は彼のすらりとした格好の良い長身、端正な顔立ち、溌剌とたる生気に満ちた顔色、自信に溢れた眼差し、周囲の誰よりも優れて見える卓越した物腰、そして、身内に燃えているようなその無意識の情熱にたちまち打たれたのであった。(中略)自由闊達で若さに溢れた彼は数々の情熱を抱き、また相手に抱かせた。女性たちが彼を愛すれば愛するほど、ライバルの男たちの敵意が彼の身に注がれた。}}
とある。書き手は親友であるから、その点を意識しなければならないが、ボーマルシェが生涯に亘って女性に人気があったのは事実である。しかし後半にあるように、同性からすれば自信過剰な憎たらしい男と映ったかもしれない。実際、身分の低いボーマルシェが高貴な身分の淑女たちをとりこにしたために、数々の誹謗中傷がなされ、一々克服しなければならなかったようだ{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§18-9、引用同ページから}}。
* パーリ=デュヴェルネーの援助を得て貴族の地位を買い取ったが、成り上がりものだと陰口を叩く者がいると、「おれは正真正銘の貴族だ!何ならその領収証を見せてやろう!」と返したという{{Sfn|辰野|1961|loc=§5}}。
* 初のヴォルテール全集を刊行したことでも知られている。1783年から1790年に亘って全92巻を刊行する大事業であったが、大赤字を出してしまった。もはやフランス革命を論ずる時代ではなく、行動に移す時代であったこと、ヴォルテールの死去によって人気が落ちたことなどが理由として挙げられる。結果だけを見れば失敗した事業であったが、全集刊行という功績は大きく、今日においてもこの時の全集は基礎として尊重されている{{Sfn|辰野|1961|loc=§8}}。
* 日本に渡来した最初にフランス人である[[フランソワ・カロン]]の子孫であるという説があるが、その可能性は低いようである{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§312}}。
== 著作権擁護のために ==
1775年2月23日、『セビリアの理髪師』の初演がコメディー・フランセーズにて行われた。1773年1月の時点で、上演候補作品としてコメディー・フランセーズに受理されていたのだが、ショーヌ公爵との乱痴気騒ぎやグズマン判事夫妻との闘争のおかげで、中々作品を上演することができず、大幅に上演が引き延ばされていた。そのような過程もあって前評判は上々、興行成績でも大成功するかと思いきや、大失敗してしまった。四幕物として書き上げていた同作品を上演数日前に五幕物に書き換えた、つまり、完成されていた作品を無理に太らせたため、作品は冗長な内容となってしまったのである。この書き換え作品で大失敗したため、以前の四幕物に戻されて再度26日に上演され、大成功を収めた。フィガロ三部作の第一作目はこうして産声を上げたのである{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§147-148}}。
今日でこそ著作権は作者の権利として厳しく守られているが、この当時にあっては著作権は無きに等しいものであった。こうした考えは17世紀初頭から続いており、たとえば[[オテル・ド・ブルゴーニュ座]]の座付き作家であった[[アレクサンドル・アルディ]]や[[ジャン・ロトルー]]は劇団の求めに応じて作品を次々と書かなければならず、その結果制作された作品も作者の手を離れて、劇団固有の財産となるなど、今日から考えればずいぶん作者を蔑ろにした契約を結ばされていたのである。しかも、作品が一度出版されるとその作品は演劇界共有の財産となり、作者には一切金が入らなくなるなど、理解し難い慣習もあり、[[モリエール]]はたびたびこの慣習のせいで迷惑を被っている{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§161-162}}。
ボーマルシェによれば、劇作家と劇団が対等な立場で契約を交わしたのは、1653年の[[フィリップ・キノー]]の例が最初であるという。この契約においてキノーは興行成績から諸経費を引いて残った額の9分の1を得ることになっており、この内容がそのまま1685年になって正式にほかの作家にも適用されることになった。ただ、「人気が落ちたなどして一度上演不可能になった作品が、再度上演された場合の収入は全て劇団のものとなる」という条項があり、その後も手直しが加えられた結果、「夏季に300リーヴル、冬季に500リーヴル以下の収入が2度続いた場合、失敗作とみなし、作者に収入を払う必要はない」との内容に改められた{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§162}}。
ところが1757年になって、コメディー・フランセーズはこの条項を「夏季800リーヴル、冬季1200リーヴル」と無断で書き換えて、劇作家の立場を侵害するようになった。それどころか、本来劇団が支払う「貧者への4分の1税」なる慈善病院への納付金をも作者に一部負担させたり、桟敷席の予約収入はすべて懐に入れたり、作品が成功して上演回数を重ねるにつれて意図的に上演をいったん中止し、その後再演して収入をすべて自分たちのものとするなど、まさにやりたい放題であった。ロンヴェ・ド・ラ・ソーセという劇作家は、その作品が5回の上演で12000リーヴルの収入をあげたにもかかわらず、収入を得るどころか、劇団に負債があるとして金を要求される始末であった。さすがに怒ったラ・ソーセは世間に抗議文書を発表した。世間に噂が広がってさすがに無視できなくなったのか、劇場監督官であるリシュリュー公爵は協定の問題点を探って、解決法を見出すようにボーマルシェに依頼したが、この時『セビリアの理髪師』が大成功して、劇団と良好な関係を築いていたボーマルシェには、敢えてこの問題に首を突っ込む理由が見当たらなかった{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§163-164}}。
だが劇団は、『セビリアの理髪師』に関してもあくどいやり方で臨んできた。ボーマルシェは、同作品の32回目の上演後に正確な収支計算を要求したが、劇団はなかなか返事をよこさなかった。1777年1月3日、劇団幹部の俳優デゼサールが苦情を申し立てられずに済むように、として32回分の上演料として4506リーヴルを差し出してきた。金額につけられるべき収支計算書もなく、デゼサールが大さっぱな見積もりによる金額であると説明してきたため、金の受け取りを拒否し、正確な計算書の提出を求めた。1月6日の劇団宛ての手紙では、正確な収支計算書の作成方法を示している。劇団に断固とした姿勢で臨むボーマルシェであったが、相手が自分の芝居を演じてくれる役者たちであるだけに、慎重な姿勢をも崩さなかった。1月19日、書面自体で収支計算に関して極めて丁寧な申し入れを行っているが、劇団は相変わらず不誠実な対応を繰り返した。確かに収支計算書を送ってはきたものの、そこには誰の署名も入れられていなかった。無署名の文書と言うのは、その正確さがどうであれ、社会的には単なるメモでしかない。ボーマルシェはこの対応に憤慨し、1月24日付の手紙において言葉遣いは丁寧ながらも、責任者の署名と『セビリアの理髪師』の続演の2点を要求し、これまで他の劇作家にしてきたようにあくどいやり方を自分にも貫くのなら、それなりの対応を執ると仄めかした。1月27日、劇団は「上演ごとの収入額は正確に計算できるが、諸経費は日々変化するので、全体としては大雑把な見積もりしかできない」と言い訳の返事をよこしてきた。ボーマルシェはこれに納得せず、日々の経費の計算方法を明示した返事を送りつけた{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§164-169}}。
劇団は、ボーマルシェが手に負えない相手だと悟ったようで、問題を公正かつ誠実に解決するためとして、顧問弁護士3名と劇団員4名で委員会を結成し、ボーマルシェの要求を検討した上で通知を行うと2月1日付の手紙で伝えてきた。ところが劇団は、この問題の解決のために折れるつもりなど初めからなかったようだ。いつまで待っても返事が来ないボーマルシェのもとをある知人が訪れ、「セビリアの理髪師を上演するよう劇団に要求したが、色々な理由をつけて拒否されている。役者たちは、その原因は我々(役者)にあるのではなく、作者にあると言っている」と伝えたという。ボーマルシェはこの不誠実な態度に怒り、これ以上事を引き延ばすなら、法的手段に訴え出ると書面で宣言した。この宣言に劇団は慌て、ボーマルシェを宥める一方で、宮廷の有力者たちに助けを求めた{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§169-170}}。
6月15日、ボーマルシェのもとに王室侍従長の1人であるデュラス公爵から手紙が届いた。自分が仲介するから、一度面会したいという。ボーマルシェはこれに応じて、公爵にこの件の簡潔な概要を手紙で送ったのち、6月17日に公爵と面会した。公爵はこの席で「思慮分別のある劇作家を集め、劇団と作家側の抱える問題を解決する規則を作成するよう」ボーマルシェに提案し、自身は「その規則作成に全面的に協力する」と伝えてきた。この提案通りにボーマルシェは劇作家たちに働きかけ、7月3日、ボーマルシェ邸に23人の劇作家が集まった。ボーマルシェは集まった全員に公爵との面会の詳細を報告し、議論を進めた。その結果、ボーマルシェを代表とする4人の委員が選出され、彼が先頭に立って公爵との折衝や劇団との交渉に当たると決定した。こうして、ボーマルシェを代表とした劇作家協会が誕生したのである{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§171-173}}。
こうして、この問題は『セビリアの理髪師』に関するボーマルシェの個人的問題という範疇を超えて、演劇界全体を巻き込んだ劇作家協会とコメディー・フランセーズの対立に発展していった。劇作家協会の設立後も、この問題に関しては中々ボーマルシェの思うようには事は進まなかった。紆余曲折を経て、結局1780年に国王ルイ16世が直接解決に乗り出したのである。国王の下した裁定では、たしかに収入計算の方法は明確化されたものの、その作品を失敗作とみなす基準が夏季1800リーヴル、冬季2300リーヴルに引き上げられてしまった。国王がこのような高い基準額を設定してしまったため、以前より容易に失敗作とみなされてしまうこととなったのである{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§173-177}}。
この件に関する、ボーマルシェの闘いは一旦ここで終わりを告げた。絶対王政下では、国王の裁定に異議を下すなど出来るはずもないことであったからだ。この国王の裁定は、劇作家たちの助けとはならず、結局彼らは以前のしきたりに則って上演料をもらい続けたという。フランス革命の勃発は、この問題にも多大な影響を与えた。1791年1月13日、憲法制定国民議会によってコメディー・フランセーズの特権は廃止され、その作品の成否にかかわらず、正式に劇作家の権利が認められるに至ったのである。直接ボーマルシェが劇作家の権利を獲得したわけではないが、彼の闘いは間接的に大きな影響を与えたと言えるだろう{{Sfn|鈴木康司|1997|loc=§177-178}}。
== 作品 ==
* ウジェニー - '' Eugénie '' - [[1767年]]
* 2人の友、またはリヨンの商人 - '' Les Deux Amis ou le Négociant de Lyon '' - [[1770年]]
* [[セビリアの理髪師]] - '' {{lang|fr|Le Barbier de Séville ou la précaution inutile}} '' - [[1775年]]
* [[フィガロの結婚]] - '' {{lang|fr|La Folle journée ou Le Mariage de Figaro}} '' - [[1784年]]
* [[タラール (サリエリ)|タラール]] - '' Tarare '' - [[1787年]]
* [[罪ある母]] - '' {{lang|fr|L'Autre Tartuffe ou la Mère coupable}} '' - [[1792年]]
== 映画 ==
[[1996年]]に[[フランス]]でボーマルシェの半生を描いた映画『[[ボーマルシェ フィガロの誕生]]』(原題:''Beaumarchais, l'insolent'')が製作された。
== 脚注 ==
{{reflist|23em}}
== 参考文献 ==
* {{Citation |和書 |last=辰野|first=隆 |year=1961 |title=世界文学全集4 モリエール/ボーマルシェ|publisher=河出書房新社}}
* {{Citation |和書 |last=鈴木康司|first=|year=1997 |title=闘うフィガロ ボーマルシェ一代記|publisher=大修館書店}}
* {{Cite book|和書|author=進藤誠一|authorlink=進藤誠一|coauthors=[[伊藤整]]、[[河盛好蔵]]、[[高津春繁]]、[[佐藤朔]]、[[高橋義孝]]、[[手塚富雄]]、[[中野好夫]]、[[中村光夫]]、[[西川正身]]、[[吉川幸次郎]]編集|editor=佐藤亮一発行|editor-link=佐藤亮一 (実業家)|others=|title=新潮 世界文学小辞典|origdate=1971-3-10|url=|format=|accessdate=|edition=初版2刷|date=|year=|publisher=[[新潮社]]|location=|series=|language=}}
== 外部リンク ==
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8,775 | 国際宇宙ステーション | 国際宇宙ステーション(こくさいうちゅうステーション、英: International Space Station、略称:ISS、仏: Station spatiale internationale、略称:SSI、露: Междунаро́дная косми́ческая ста́нция、略称:МКС)は、低軌道にあるモジュール式の宇宙ステーション(居住可能な人工衛星)である。これは、NASA(米国)、ロスコスモス(ロシア)、JAXA(日本)、ESA(ヨーロッパ)、CSA(カナダ)の5つの宇宙機関が参加する多国籍共同プロジェクトである。宇宙ステーションの所有権と使用は、政府間条約と協定によって確立されている。この宇宙ステーションは宇宙生物学、天文学、気象学、物理学などの分野で科学研究を行う微小重力と宇宙環境の研究所として機能する。ISSは、月と火星への将来の長期ミッションに必要な宇宙船システムと機器のテストに適している。
ISSプログラムは、1984年に恒久的に有人の地球周回ステーションを建設するために考案されたアメリカの提案である宇宙ステーションフリーダムと、1976年からの同様の目的を持つ同時期のソビエト/ロシアのミール2提案から発展した。ISSは、ソビエト、後にロシアのサリュート、アルマース、ミールの各ステーションとアメリカのスカイラブに続いて、乗組員が居住する9番目の宇宙ステーションである。これは、宇宙で最大の人工衛星であり、低軌道で最大の衛星であり、地球の表面から肉眼で定期的に見ることができる。ズヴェズダサービスモジュールまたは訪問している宇宙船のエンジンを使用した再ブースト操作により平均高度400 km(250マイル)の軌道を維持する。ISSは約93分で地球を一周し、1日あたり地球を15.5周回する。
ステーションは2つのセクションに分かれている。ロシア軌道セグメント (ROS) はロシアによって運営されており、米国軌道セグメント (USOS) は米国と他の国によって運営されている。ロシアセグメントには6つのモジュールが含まれている。米国のセグメントには10のモジュールが含まれており、そのサポートサービスはNASAで76.6%、JAXAで12.8%、ESAで8.3%、CSAで2.3%に分散されている。
ロスコスモスは、2024年までROSの継続的な運用を承認しており、以前はセグメントを使用してOPSEKと呼ばれる新しいロシアの宇宙ステーションを建設することを提案していた。最初のISSコンポーネントは1998年に打ち上げられ、最初の長期居住者は2000年10月31日にバイコヌール宇宙基地から打ち上げられた後、2000年11月2日に到着した。それ以来、このステーションは21年118日間継続して使用されており、ミール宇宙ステーションが保持していた過去の記録である9年357日を超えて、低軌道で最も長く継続的な人工の存在となっている。最新の主要な加圧モジュールであるNaukaは、前回の主要な追加である2011年のLeonardoから10年余り後の2021年に取り付けられた。宇宙ステーションの開発と組み立ては継続され、2016年に実験的な膨張式宇宙居住施設が追加され、いくつかの主要な新しいロシアのモジュールは2021年に打ち上げが予定されている。2022年1月、ステーションの運用許可は2030年まで延長され、その年を通じて資金が確保された。その後、将来の月と火星のミッションを追求するためにISSの運用を民営化するよう求められており、元NASA長官のジム・ブライデンスティンは「現在の予算の制約を考えると、月に行きたい、火星に行きたいのであれば、低軌道を商業化して次のステップに進む必要がある。」と述べている。
ISSは、加圧された居住モジュール、構造トラス、太陽光発電ソーラーアレイ、熱ラジエーター、ドッキングポート、実験ベイ、ロボットアームで構成されている。主要なISSモジュールは、ロシアのプロトンロケットとソユーズロケット、および米国のスペースシャトルによって打ち上げられた。宇宙ステーションは、さまざまな訪問する宇宙船によって整備されている(ロシアのソユーズとプログレス、スペースXドラゴン2、ノースロップグラマン宇宙システムシグナス、そして以前はヨーロッパのATV、日本のH-II補給機、スペースXドラゴン1)。ドラゴン宇宙船は、加圧された貨物を地球に戻すことを可能にする。これは、例えばさらなる分析のために科学実験を帰還させるために使用される。2021年12月の時点で、19か国から251人の宇宙飛行士、宇宙旅行者が宇宙ステーションを訪れた。その多くは何度も訪れている。これには、155人のアメリカ人、52人のロシア人、11人の日本人、8人のカナダ人、5人のイタリア人、4人のフランス人、同じく4人のドイツ人とそれぞれ1人のベルギー人、オランダ人、スウェーデン人、ブラジル人、デンマーク人、カザフスタン人、スペイン人、イギリス人、マレーシア人、南アフリカ人、韓国人、UAE人が含まれる。
国際宇宙ステーションの開発は、1988年9月に締結された日米欧の政府間協定により着手された。1998年にはロシア、スウェーデン、スイスを加えた国際宇宙ステーション協定が署名され、これによりISS計画の参加国は、アメリカ、ロシア、カナダ、日本、欧州宇宙機関 (ESA) 加盟の各国(ベルギー、デンマーク、フランス、ドイツ、イタリア、オランダ、ノルウェー、スペイン、スウェーデン、スイス、イギリス)の15カ国となっている。これとは別に、ブラジル宇宙機関がアメリカと二国間協定を結んで参加している。また、イタリア宇宙機関はESAを通じてだけでなく、NASAとの直接契約で多目的補給モジュールを開発している。
中国は2007年にISSへの参加を打診したが、アメリカの反対により認められず、独自の宇宙ステーションである「中国宇宙ステーション」を運用中である。インドもISSへの参加を希望するも他の参加国の反対に遭ったため、独自の宇宙ステーションの建設を決定した。
ロシアは2021年に、2025年に独自の宇宙ステーションを打ち上げ、ISSから撤退すると発表した。翌2022年のウクライナ侵攻を期に、2024年以降に撤退することも表明する。しかし自前の宇宙ステーションの建設開始が遅れるとの見込みから、最終的には2028年までの参加延長を決定している。
国際宇宙ステーション計画が最初に持ち上がったのは、1980年代初期の米大統領のレーガンによる冷戦期における西側諸国の宇宙ステーション「フリーダム計画」である。この計画は、西側の結束力をアピールしてソビエト連邦に対抗する政治的な意図が非常に強いものであった。搭乗人数は出資比率によって定められたが、米国、欧州、カナダ、日本の飛行士がそれぞれ、必ず年間を通して滞在できることになっていた。しかし、米国や欧州の財政難、スペースシャトル「チャレンジャー」の爆発事故、続く冷戦終結による政治的アピールの必要性低下によって計画は遅々として進まなかった。計画は「アルファ」に変更、ステーションの規模も大幅に縮小され、米国を含めて搭乗人数を削減し、各国の滞在期間も短縮した。
一方、ソ連は「サリュート」に続く宇宙ステーション「ミール」による宇宙滞在を実現していたが、1991年末のソビエト連邦の崩壊による混乱と財政難で、ミールは宇宙空間で劣化した。米国はロシアを取り込む目的もあって、アルファとミール(ミール2)を統合する計画を持ちかけたが、ロシアは新しいモジュール「ザーリャ」他を打ち上げる意欲を示した為、完全な新型宇宙ステーションとしてISS計画が開始された。しかし、ISS計画ではロシアの発言力が非常に大きくなり、常時ロシア人飛行士が滞在することとなった為、日欧加飛行士の滞在期間や搭乗人数は増加しなかった。
1998年にロシアが製造したザーリャモジュールが打ち上げられてISSの建設が開始されたが、2003年にスペースシャトル「コロンビア」の空中分解によって建設は一時中断し、その後の調整で建設規模が縮小、米露はともかく、日欧加の飛行士がどれだけ滞在できるかは未知数となった。
ISSに滞在するクルーは当初は3人、2003年2月のコロンビア号事故後しばらくは2人であった。2009年5月29日からは6人に増加された。
ISSに滞在する正式クルーは政府間協定締結国に限られている(滞在権について各国・機関毎に枠がある)。一方で、参加国・機関が別途民間人と商業契約を結び、自国枠を提供しISSに滞在させる宇宙飛行関係者という区分があり、これまでロシアのみが商業契約を結び、民間人を滞在させている。
ISSの建設は組立部品及び作業のため、50回以上の打ち上げが要求された。それらの打ち上げの39回はスペースシャトルによる打ち上げである。比較的小型な部品はプログレス補給船といった無人宇宙補給機によって運ばれる。組立が完了した時点のISSは、体積1,200立方メートル、重量419トン、最大発生電力110キロワット、トラス(横方向)の長さ108.4メートル、進行方向の長さ74メートル、最大滞在人数は6名となった。
ステーションはいくつかのモジュール及び要素で構成される。
総体積は約935立方メートル、質量は約420トン。
ISSの構成は、アメリカ側与圧モジュール、ロシア側与圧モジュール、トラスによる3つの部分に区分することができる。ISSの中央部には、進行方向に与圧モジュールが直列に連結しており、さらに枝状にもモジュールが取り付けられている。これと直交して、左右方向にトラス構造物が取り付けられている。与圧モジュールとトラスの交点は、それぞれデスティニーとS0トラスで、ここ以外に与圧モジュールとトラスの結合部はない。
滞在する宇宙飛行士の居住と作業の空間で、内部は地球の海抜0メートル上と同じ1,013hPaの空気で満たされるように制御されている。温度、湿度、成分が調節され、乗員は地上と変わらない軽装で活動することができる。生活に必要な生命維持システムや居住のための装置、ISSの目的である様々な実験装置のほか、ISSの運用に必要なシステム機器なども設置されており、多くの機器はモジュール内でメンテナンスや交換が可能である。
基本的な機能を有するモジュールは、列車のように1列に連結されている。先頭からハーモニー、デスティニー、ユニティ、ザーリャ、ズヴェズダ、ナウカの順である。これらのモジュールのうち、ズヴェズダ以外はアメリカの資金で製造され、アメリカが所有権を有しているが、ザーリャはロシアに開発、製造、運用を委託している。ズヴェズダはロシアのモジュールである。一般に、ユニティより前側を「アメリカ側」、ザーリャより後側を「ロシア側」と呼ぶ。
アメリカ側モジュールとロシア側モジュールは、設計が全く異なっている。ユニティとザーリャは直接結合することができないため、与圧結合アダプタ (PMA-1) を介して接続されている。電力や通信も、PMA-1を通じて接続されている。
ユニティより前方のモジュールは、フリーダム計画から流用されたもので、NASAの標準設計や安全基準を適用しているため、一般に「アメリカ側」と呼ばれる。日欧の実験モジュールも、アメリカ側に含まれる。これらのモジュールはいずれも直径4.4メートルの円筒形だが、これはスペースシャトルのペイロードベイの寸法に合わせたためである。内部は、国際標準実験ラック (ISPR) を4面に取り付ける設計で標準化されており、日米欧のモジュール間でラックを移設できる互換性を備えている。
モジュール同士の結合には共通結合機構 (CBM) を用いているため、モジュールを任意に移設することができる。また、HTVやドラゴン宇宙船もCBMを使用して結合する。CBMは大型で高機能の結合機構だが、自動ドッキングには対応しておらず、ロボットアームを使用して接触させたあと、電動の結合装置で結合する構造である。
なお、アメリカ側でもスペースシャトルのドッキングだけは、ロシアが開発したアンドロジナスドッキング機構を使用しているため、ユニティ(ノード3「トランクウィリテイー」設置後はトランクウィリテイーに移設された。2015年にはハーモニーに移設予定)とハーモニーにスペースシャトル用のPMAが設置されており、最終的にはハーモニーのPMA-2のみを使用していた。このPMA-2にはISSからスペースシャトルに電力を供給する配線が施されており、ISS係留中のスペースシャトルの電力を節約することができた。
アメリカ側モジュールは発電機構や推進装置をそれぞれに設置されておらず、ロシア側のモジュールのようには単体では機能できない。スペースシャトルで輸送されてISSのシステムに組み入れられて初めて、稼働することができる。
ザーリャより後方のモジュールは、ミール2計画から流用されたもので、ロシアの標準設計や安全基準を適用しているため、一般に「ロシア側」と呼ばれる。アメリカが所有するザーリャ、ロシアが独自資金で設置するズヴェズダが該当する。ロシアセグメントの開発にはESAも協力しており、ズヴェズダのコンピュータや、欧州ロボットアーム (ERA) を開発している。日本はロシア側モジュールも実験に利用しているが、基本的にはアメリカ側に含まれるきぼうを使用する。
ロシア側の特徴は、主要なモジュールが単独で宇宙船としての機能を備えていることである。それぞれのモジュールにエンジンや自動操縦装置、通信システム、太陽電池パネルを備えており、単独で飛行して、自力でドッキングすることができる。これは、ロシアの宇宙ステーションの伝統的な手法である。このため、相当の規模まで組み立てなければ「自立」できないアメリカ側に先立って、まずロシア側を打ち上げて単独の宇宙ステーション(事実上はミール2そのもの)を稼働させ、そこにアメリカ側を増設する手法をとることで、ISS初期の費用削減に貢献した。
ザーリャとズヴェズダは段階的にアメリカ側モジュールに機能を譲り、ザーリャは後年には通路兼、荷物置き場になった。対してズヴェズダは、ISSの軌道高度や姿勢を維持する役割を担っているほか、米国と分担して環境制御の役割も担っている。また宇宙旅行者もズヴェズダに滞在する。
ロシア側モジュールのドッキングには、アンドロジナスと呼ばれるドッキング装置を使用する。アンドロジナスはCBMより小型だが、鉄道車両のように「衝突」させるだけでドッキング可能であり、自動ドッキングするロシア側モジュールには欠かせない装置である。また、緊急時の退避に使用されるソユーズ宇宙船や、ロシアのプログレス補給船、ESAのATVも、アンドロジナスを使用してロシア側にドッキングする。
ロシア側にも、単独の太陽電池パネル(科学電力プラットフォーム)を増設する計画があったが、費用削減のため中止になった。不足する電力は、アメリカ側の太陽電池から供給されている。
2021年7月、ピアースを分離し、ナウカがドッキングした。これまでピアースはドッキングモジュール、あるいは船外活動のためのエアロックとしての用途であったが、ナウカへの入れ替えによってもともとのドッキングモジュールとしての機能に加えて実験棟、作業場、生命維持装置、推進器としての機能を持った。また、ピアースと異なりナウカは与圧モジュールとして扱われる。
ズヴェズダは2019年ごろから老朽化による空気漏れなど不具合が指摘されている。
フリーダム計画では船外作業の基盤として大規模なものが計画されていたが、縮小を重ねた結果、ISSのインフラ機能を担う船外機器の設置場所として使用されている。主要な機能は、太陽電池パドルをはじめとする電源機器、ラジエーターなど廃熱システム、姿勢制御のためのコントロールモーメントジャイロ、アンテナなどの通信機器の設置場所である。フリーダム計画では軌道維持のためのエンジンも設置する予定だったが、この機能はロシア側に移されたため、エンジンを備える予定だったトラスは欠番 (S2, P2) になった。
トラスはISSのなかでも大きな寸法を占めるため、初期には折り畳んだ状態で打ち上げて、軌道上で展開することが検討されていた。しかし、展開したトラスに各種機器を取り付ける手間を考えれば、地上で機器や配管、配線を完成させた状態のトラスを打ち上げた方が効率がよいことがわかり、そのような設計に落ち着いた。
長大なトラス上での作業におけるカナダアーム2の移動、船外作業員や物資の運搬にはモバイルベースシステム (MBS) と呼ばれる運搬ベースが使用され、トラスに沿ってガイドレールが設置されている。
トラス上には、船外機器の予備品や、故障して取り外された機器の保管スペースもあり、これを船外実験に利用することもできる。しかし、排熱用の冷媒を供給することはできないため、小型の実験にしか使われない(例外的にAMS-02は大型であるが、独自の熱制御系を有している)。本格的な船外実験装置や宇宙観測装置を設置できるのは、日本のきぼう船外実験プラットフォームだけである。また、ヨーロッパのコロンバスにも、小型の実験装置を設置する機能が設置されているが、きぼうよりは簡易である。
ISSの電力源は、太陽光を電気に変換する太陽電池である。組立フライト4A(2000年11月30日のSTS-97)以前は、ザーリャとズヴェズダに装備されたロシアの太陽電池が唯一の電源だった。ISSのロシアの部分は、スペースシャトルと同じ28ボルトの直流電力を使用する。ISSの他の部分には、トラスに設置された太陽電池から、130 - 180ボルトの直流電力が供給される。電力は直流160ボルトに安定化されて分配され、さらにユーザーが必要とする124ボルトの直流に変換される。電力はコンバータによってISSの米露のセグメントに分配される。ロシアの科学電力プラットフォームがキャンセルされ、ロシア区画もアメリカが設置した太陽電池の電力供給に依存することになったため、この電力分配機構は重要である。
ISSのアメリカ区画では、高圧(130-160ボルト)配電を行うことで電流を小さくし、電線をより細くすることができて、軽量化できた。
太陽電池パドルは、太陽エネルギーを最大にするために、常に太陽を追尾する。パドルは、面積375平方メートル、長さ58メートル。完全に完成した構成では、太陽電池パドルはS3とP3トラスに装備されたアルファジンバル (SARJ) を軌道1周回にあわせて1回転させることによって太陽を追跡する。ベータジンバル (BGA) は軌道面と太陽の角度に合わせて角度を調整するもので、このアルファ軸とベータ軸の2軸の動きを組み合わせることで発生電力を最適化している(発生電力が多すぎる場合も角度を調節することで対処)。米国セグメントの太陽電池による最大発電電力は約120kW。
しかし、主要なトラス構造が打ち上げられるまで、パドルは最終的な設置場所とは垂直な位置であったP6トラスのみに設置されていた。この構成では、右上の写真で示すように、太陽追尾にはベータジンバルしか使えなかった。「夜のグライダー」モードと呼ばれる方法は、夜間は使い道のない太陽電池パドルを進行方向に水平に向けて調整することで、空気抵抗を減らすことができ、高度の低下を抑える事が出来た。
太陽電池が発電した電力は一旦トラス内の充電池に蓄えられてから給電される。当初はニッケル・水素充電池48基が使用されていたが老朽化が目立ってきたため、2016年より随時GSユアサ製のリチウムイオン二次電池24基に交換される。交換用の充電池は全て日本の宇宙ステーション補給機 (HTV) にて1回に6基ずつ輸送、2020年7月に交換を完了した。
ISSの環境制御・生命維持システム (ECLSS) は、気圧、酸素・二酸化炭素の濃度、水、火災消火、その他の要素を提供もしくは制御する。
生命維持に関して常に注意が払われるのはISS内の空気である。酸素の供給は、ロシアのエレクトロンと米国のOGS (Oxygen Generation System) で行われている。水を電気分解して酸素を作るエレクトロンやOGSが故障したり、交代時に宇宙飛行士が増えたりすると、「Vika酸素発生器(キャンドル)」と呼ばれる円筒形のSFOG(Solid Fuel Oxygen Generator、固体燃料酸素発生装置)を使用する。これらの装置の他にもロシアのプログレスやESAのATVによって酸素や空気が運ばれる。2015年初めでATVは退役するため、2014年10月(このシグナス補給船3号機は打ち上げに失敗したため、次のドラゴン5号機から運搬開始)からは商業補給船でも運搬できるNORS (Nitrogen/Oxygen Recharge System) が利用されるようになった。二酸化炭素の除去は、一度ゼオライトに吸着させてから船外に放出することで再生を繰り返すロシアの「ヴォズドーク」(Vozdoch) と呼ばれる装置と米国の「シードラ」(CDRA) によって行われる。また、一時的に宇宙飛行士が増えた場合や装置の故障時には、水酸化リチウムの入った缶に基地内の空気を通して二酸化炭素を除去する、スペースシャトルと同じしくみの予備の装置も使うことができる。
次に重要なのは乗員が体内から排出したり洗浄などで使用した水や装置由来の水など、水の収集と再生処理である。水はこれまでロシアの「エスエルベーカー」(SRVK) と呼ばれる装置で基地の空気中の湿気を凝結させて回収されていて、スペースシャトルの燃料電池が生む水、最大11キログラム/時間を加えても飲料用や酸素発生装置用で不足する分は、従来年間約6800キログラムが地上から補給されていた。これを改善するためにSTS-126で運ばれた米国の水再生システム (Water Recovery System, WRS) は、空気中の凝結水だけでなく尿からも水を再生することで、地上からの水の補給をほとんど必要としなくなった。有害物質や臭いを除去するには、主に活性炭フィルタを使用しておりロシアのBMPと米国のTCCSが使われている。
トイレは、ロシア側のモジュール「ズヴェズダ」とアメリカ側のモジュール「トランクウィリティー」にそれぞれあるが、いずれもロシア製である。2019年には両方故障したこともある。
ISSの姿勢(方向)は、2つのメカニズム(推進式と非推進式)で維持される。通常は、Z1トラスに設置されている米国のコントロール・モーメント・ジャイロ (CMG) 4基を使ってISSを正しい方向、すなわちデスティニーをユニティの前方に、P(ポート側の)トラスを左舷側に、ピアースを地球側(底側)に向ける。CMGシステムが飽和すると、ISSの姿勢をコントロールすることができなくなってしまうため、その場合は、ロシアの姿勢制御システムが自動的に(外乱が加わる方向と反対方向に)スラスタを噴射して、CMGの飽和をクリアできるように制御しているほか、CMGが使用できない期間のISSの姿勢制御も担当する。スペースシャトルオービタがISSにドッキングしていた時は、主にオービタのスラスタ(とCMG)が姿勢制御に使われていた。
ISSの軌道は最低高度278 kmから最高高度460 kmの範囲に維持される。最高高度制限は、ソユーズ宇宙船のランデブーが可能な425 kmであり、最低高度は、リブースト等の制御ができなくなった状態でも一定期間落下を防いで対応する時間を稼ぐための高度で設定される(このため太陽活動に伴って最低高度制限も変動する)。
ISSの高度は大気の抵抗によって絶えず低下しているので、毎年数回、より高い高度に上昇(リブースト)させる必要がある。高度のグラフは、毎月約2.5 kmずつ徐々に低下することを示している。リブーストはズヴェズダ後方の2基のエンジン、ドッキング中のスペースシャトル・プログレス補給船・あるいはESAのATVで実行することができる。
高度の上昇は、今後の飛行計画や、スペースデブリの接近状況などを考慮して実施される。このため稀にではあるが、高度を若干下げたりもしている。ISSの組み立て段階では、スペースシャトルができるだけ多くのペイロードをISSへ運べるように、高度は比較的低く抑えられていたが、スペースシャトル退役後はおおむね高度400km以上で運用されるようになった。
2022年2月、ロシアによるウクライナ侵攻に伴い、高度制御を担うロシア側の区画を運用してきたロスコスモスに経済制裁が加えられた。この際、ロスコスモスの社長は宇宙ごみの回避などを含め、ISSの軌道修正が年平均11回実施されていると具体的な回数を主張し、経済制裁解除を求めたことがあった。 こうした発言を受けてアメリカ側は無人補給船シグナスでもISSの軌道修正が可能であることを説明。2022年6月27日には実際にISSの軌道を上昇させることに成功させた。
大型のスペースデブリは、常に地上から監視されており、衝突の可能性がある場合は、前述の高度制御により回避することができる。しかしながら監視されていない小規模なデブリと衝突する可能性はあるので、対策としてモジュールには装甲が施されている。装甲はアルミニウムによる空間装甲と、衝突により発生した破片を受け止めるためのケブラー繊維製内張りで構成される。
放射線に対しても多少考慮はされている。新しい居住区画はヒトの被曝量が少なくなるように、それまでよりも緩衝材が厚くなっている。太陽フレアで放射線量が増すと判っている場合には、ロシア側のドッキングポートが最も壁が厚いため、滞在者はここに避難することになっている。
軌道高度は、地上との輸送機往復を考慮して、低軌道で運用されている。そのため地球を約90分で1周、24時間で約16周する。
軌道傾斜角は、地球の赤道に対して51.6度傾いている。そのため、一般的なメルカトル図法の世界地図上に軌道を描画すると、北緯・南緯51.6度を上下の端とする波線になるが、地球が自転しているために、90分かけて「地球1周」した際には前の周回した地点よりも、地上の経度で22.5度ずれることになる。
24時間飛行し、地球がちょうど1回自転した場合に同じ地点の上空に戻ることになるが、地球がやや楕円球体であること、重力の偏りなどの外乱によって、わずかに異なる。
地球に対する向きは、地球の中心に向かって常に変化しないように制御されている。これは通信設備の指向性、補給機の経路のためであり、ほかは人工衛星と同様である。つまりISSから地球を眺めると、ある1点で回転し続けているように見える。
当初のNASAの宇宙ステーション建設構想は、スペースシャトルの全面的な利用を想定していた。このため、モジュールや機材の多くはスペースシャトルでの輸送を前提として設計されている。しかし予算上の理由からロシアが参加することになり、人員輸送には緊急脱出用を兼ねてソユーズ宇宙船を、貨物輸送にはプログレス補給船を合わせて利用することになった。ロシアの建設資材は、大半がロシア独自で打ち上げられる。ロシアは与圧モジュールを独立の宇宙船として設計しており、プロトンロケットで打ち上げられるとモジュール自体の機能でISSに自動ドッキングする。一部の小型モジュール(ピアースなど)は、プログレス補給船のペイロードとして輸送される。
2003年2月1日に別ミッションで飛行中のスペースシャトル「コロンビア」が大気圏再突入後に空中分解で失われる事故が発生し、運行の安全が確認されるまでスペースシャトルの打ち上げが無期限停止となったため、ISSの組み立て作業は、2002年11月に行われた「STS-113/ISS組立ミッション11A」を最後に一時停止した。これによりISSへの輸送力が大幅に低下したため、ISSにおける宇宙飛行士の3人の常駐体制が一時的に2人に減らされた。2005年7月26日午後11時39分(日本時間)に、事故後初となるディスカバリー (STS-114) の打ち上げが行われ、ISS組立再開ミッションとなる「ミッション/LF-1」が行われた。このミッションには日本から野口聡一飛行士が参加した。
2008年には欧州のESAが欧州補給機 (ATV) の運用を開始し、2009年には日本のJAXAが宇宙ステーション補給機 (HTV) の運用を開始した。スペースシャトルによる宇宙飛行士の交代は2009年11月で終了し、以後の宇宙飛行士の交代にはもっぱらソユーズ宇宙船が使われるようになった。
2010年にはNASAがスペースシャトルを退役させることを決定した。ISSのロシア以外の建設資材は、大半がスペースシャトルでの打ち上げを前提に設計されており代替輸送は困難であるため、仮にスペースシャトルの運航が遅れれば全ての資材を打ち上げることなくISSの建設を打ち切る可能性もあると懸念された。また、スペースシャトル退役以後はコンステレーション計画の一環として、スペースシャトルの後継となるアレスロケットとオリオン宇宙船によってISSに人員や貨物を輸送する計画があったが、2010年にバラク・オバマ政権によりコンステレーション計画の中止が決定された。アメリカはスペースシャトルの退役によりドラゴン宇宙船の運用開始までの間、ISSへの独自の輸送手段を一時的に失うことになった。
2011年7月にスペースシャトルが退役した後しばらくは、ISSへの人員輸送にはソユーズ宇宙船、貨物輸送にはプログレス補給船、欧州補給機 (ATV)、宇宙ステーション補給機 (HTV) のみが使用されていたが、プログレス補給船、ATV、HTVには貨物回収能力はなく、ソユーズはわずか60kgの手荷物しか回収できないため、ISSから地球へ貨物を持ち帰る能力が最小となった。
スペースシャトル退役後のアメリカのISSへの人員・貨物輸送手段としては、商業軌道輸送サービス (COTS) により開発された、民間企業スペースX社のファルコン9とドラゴン補給機、オービタル・サイエンシズ社のアンタレスとシグナス補給機を使用した商業補給サービス (CRS) を活用する。ドラゴン宇宙船は2012年5月26日に民間宇宙船として初めてISSにドッキングして補給に成功し、5月31日 (UTC) に太平洋に着水し帰還した。これによりISSからの貨物の回収が再び可能となった。10月10日には初の商業補給サービス (CRS) ミッションに成功した。
NASAは2011年5月に、コンステレーション計画で使用される予定だったオリオン宇宙船の設計を流用した新たなオリオン宇宙船 (Orion Multi-Purpose Crew Vehicle, MPCV) の開発を発表した。新たなオリオン宇宙船の無人テスト機EFT-1は2014年12月にデルタIV Heavyロケットで打ち上げられた。また2011年9月に、スペースシャトルの後継としてオリオン宇宙船も打ち上げることになるNASA独自の打ち上げロケットとして、サターンVロケットを超える規模のスペース・ローンチ・システムの開発が発表された。しかし、オリオン宇宙船によるISSへの宇宙飛行士の輸送任務はその後キャンセルされ、商業クルー輸送機(スペースX社のドラゴン2とボーイング社のCST-100)に任せることになり、オリオン宇宙船は有人での深宇宙探査と商業クルー輸送計画が上手くいかなかった時のバックアップの位置づけとなっている。
2015年2月、欧州補給機 (ATV) の5号機が大気圏に再突入し、欧州補給機全機の運用を終了した。2020年には宇宙ステーション補給機 (HTV) とドラゴンの初期型が相次いで運用を終了し、一方でそれぞれ新型に置き換わるなど、再度の世代交代を迎えている。
ロシアが運用中の3人乗り有人宇宙船である。ISSに非常事態が起きた際の脱出用救命ボートの役割を果たしている。この用途に対しては、アメリカが乗員帰還機 (X-38 CRV) を開発して置き換える計画だったが、こちらは中止された。2009年5月までは、ISS長期滞在クルーは3名体制だったので、ソユーズが常時1機備え付けられていたが、2009年5月からは6名体制に拡張されたため、ソユーズも2機常備されることになった。緊急時に利用しやすいよう、ISSの中央に近いザーリャ前方の地球側にドッキングするが、2機に増えた場合はさらにズヴェズダ前方(に結合しているピアース)も利用する。ズヴェズダの後方はISSの末端にあたるので、プログレス、ATVの結合を優先するため出来るだけ避けてはいるが、ズヴェズダ後方も必要に応じて使用することもある。なお、2010年1月からは、MRM-2のドッキングポートも利用できるようになる。
ソユーズの軌道上での寿命は6ヵ月なので、6ヵ月ごとに新しいソユーズを打ち上げて交換する。この際、滞在3名中2名から3名がソユーズとともに交代するが、ソユーズは3人乗りなので、ロシア人用の1人分の空席が空く場合もある、その場合はISSへの短期訪問(新しいソユーズでISSへ向かい、古いソユーズで帰還する)に利用される。このような便乗者をタクシークルーと呼び、ロシアが利用権を販売している。私的宇宙旅行でのISS訪問や、マレーシアや韓国によるISS訪問はこの枠を利用したものである。ただし、シャトルでのクルーの交代2009年11月のSTS-129を最後になくなり、滞在人数も6名に増加したため、タクシークルーの搭乗機会はなくなった。
ロシアが運用中の無人貨物船。与圧貨物として食料、衣類、実験機材、補修用部品などを輸送するほか、酸素や水、液体推進剤をISSに補給するタンクとパイプも装備している。プログレスはズヴェズダの後方にドッキングすることが多い(その他、ザーリャとピアースにもドッキングする)。ここはISSの後方端にあたるので、プログレスは自身のエンジンを使用してISSを推進(リブースト)し、高度を上げることができる。スペースシャトルが事故の影響で運用不能に陥っていた際には、強力なピンチヒッター役を務め、ISSを維持した。スペースシャトル復帰後も物資輸送に活躍しているが、後述のATVとHTVの運用が開始されてからは役割を分担することになった。
シグナスはドラゴンと同じくNASAのCOTS計画で開発された民間無人宇宙補給機。シグナスはアンタレスにより打ち上げられ、2013年9月に初めてISSとのドッキングに成功して補給を成功させた。
NASAの商業乗員輸送開発 (CCDev) に基づきスペースX社が開発する有人宇宙船。ドラゴン2も初期型のドラゴン同様にファルコン9により打ち上げられ、2019年3月に無人でのISSドッキングを、次いで翌2020年5月に有人でのドッキングを成功させた。
2011年7月に退役するまでNASAがISSへの人員と建設資材と補給物資の輸送のために運用していた輸送機。ISS建設資材の大半を輸送したほか、7名の人員とロボットアームを搭載でき、特に建設初期段階では作業基地の役割も果たした。人員交代にも使われるが、ソユーズ宇宙船を6ヶ月ごとに交換する際に人員交代も行えるため、補助的な役割にとどまった。
日米欧の実験モジュールなど、ロシア以外の与圧モジュールはスペースシャトルで輸送された。このため、これらのモジュールは全てスペースシャトルのペイロードベイに合わせた寸法、形状、重量になっている。ただし、スペースシャトルの度重なる改良(主に安全性向上)により搭載可能な重量は計画当初より減少しているため、一部の大型モジュール(デスティニー、きぼう船内実験室)は船内機器の一部を別便で輸送せざるを得なくなった。
補給には、大きく分けて4つの方法を用いた。ひとつは、スペースシャトルの船内に補給品を搭載し、ドッキング装置を通して運搬する方法である。ドッキング装置の通路は直径60センチメートル程度と狭く、船内スペースを使用するため輸送力は小さいが、補助的に毎回使われていた方法である。
2つめは、ペイロードベイにスペースハブ輸送モジュールを搭載する方法である。船内より多くの補給品を搭載できるが、やはり大きな物資は輸送できない。次のMPLMが導入されると使われなくなった。
3つめは、ペイロードベイに多目的補給モジュール (MPLM) を搭載する方法である。MPLMはペイロードベイから取り出され、ユニティまたはハーモニーに直接結合される。サイズが大きい共通結合機構 (CBM) を使うため、ISPRなど大型の機材を輸送できるほか、小型物資も広い通路を利用して効率よく搬入できた。作業終了後のMPLMはペイロードベイに戻されて持ち帰られた(詳しくはMPLMを参照)。
4つめは、ペイロードベイ内に露出した形で輸送する方法である。ISSの外部に設置するバッテリーやタンクなどの部品を交換する際には、アダプターを使用して搭載した。
欧州補給機 (ATV) はESAが2008年から2015年まで運用した無人貨物船。機能や利用方法はプログレスとほぼ同じで、ロシア側のドッキング装置を使用し、補給用のタンクやパイプも装備している。大型のアリアンVロケットで打ち上げられるためプログレスよりもかなり大型で、リブースト用推進剤を含む輸送力はプログレスの約3倍である。ただし、ドッキング装置もプログレスと同じなので大型物資の輸送はできない。
NASAの商業軌道輸送サービス (COTS) 計画で開発された初の民間無人宇宙補給機。ドラゴンはファルコン9により打ち上げられ、2010年12月に初めて地球低軌道を周回し大気圏に再突入して太平洋に着水し、2012年5月に初めてISSのドッキングに成功して補給を成功させた。2020年4月の20回目の補給ミッションを最後に運用を終了し、後継機となるドラゴン2に移行した。
宇宙ステーション補給機 (HTV)、愛称「こうのとり」は、日本のJAXAが2009年から2020年まで運用した無人貨物船。プログレスやATVと異なり、ISSの先頭にあたるハーモニーに結合するため、リブーストに用いることはできない。しかし、MPLMと同様にサイズが大きい共通結合機構 (CBM) で結合するため、ISPRを丸ごと搭載するなど、大型の貨物を輸送することができる。また非与圧部があり、ISSの船外に装着されるバッテリーなども輸送することができる。スペースシャトル退役後、後述の民間機の運用が開始されるまでは、これらの物資を輸送可能な輸送機はHTVのみだった。2021年度以降にコストを半減したHTV-Xの運用に移行する予定であったが、2022年2月現在は未定である。
NASAは2011年5月にオリオン宇宙船 (Orion Multi-Purpose Crew Vehicle, MPCV) の開発を発表した。オリオン宇宙船の無人テスト機は2013年7月にデルタIV Heavyロケットで打ち上げられる予定である。また2011年9月に、スペースシャトル後継機のSLSの開発とオリオン宇宙船を搭載した初号機を2017年に打ち上げることが発表された。
当初のオリオン宇宙船は、NASAがコンステレーション計画に使用するために2014年運用開始を目標に開発していたが、2010年にコンステレーション計画が中止されると計画が現在のものに変更された。コンステレーション計画においては、6名が搭乗可能で、ソユーズを置き換えて緊急帰還船としても使われる模様であった。また、詳細は発表されていないが無人貨物船型の開発も予定されており、有人型と同様の物資回収カプセルを備えた型と、HTVのような非回収カプセル(大気圏再突入廃棄物処理など)を備えた型のイラストが公表されていた。まずISSに対応した型(ブロック1)が開発され、続いて月飛行に使用可能なブロック2、火星や小惑星への飛行に使用可能なブロック3を開発する予定であった。
ロシアが2023年現在開発中のソユーズ代替有人宇宙船。ISSへ6人輸送することが可能である他、無人輸送機としての運用も考慮されており、2tの貨物をISSへ輸送し500kgの貨物を地上に持ち帰ることが可能となる予定である。RKKエネルギアが開発を担当する。
JAXAが開発中の宇宙船で、2021年度以降にH3ロケットで打ち上げ予定であるが、2022年2月現在はHTV-Xを運搬するH3ロケットのメインエンジンLE-9完成の目処が立たず未定である。現行のHTVと比べて太陽電池のパドル化が図られるとともに、これまで分割されていた推進系と電気系モジュールがサービスモジュールに集約されるなど、構造設計が大幅に見直されている。こうしたシステムの効率化や軽量化により、輸送能力を保ったまま製造費用を半減する。
NASAの商業乗員輸送開発 (CCDev) に基づきボーイング社が開発する有人宇宙船。
NASAの商業補給サービス (CRS-2) に基づきシエラ・ネヴァダ・コーポレーション社が開発する無人補給機。
乗員帰還機 (CRV) としてNASAが開発を進めていた宇宙船である。X-24実験機に似たリフティングボディ形状の機体であり、6名が搭乗することができる予定だった。大気圏内での滑空実験などが行われたが、コロンビア号事故後の計画見直しで2002年に開発がキャンセルされた。
ロシアが開発を検討していた有人宇宙船でソユーズを代替する予定だった。釣り鐘型のカプセルだが小さな翼を取り付けた案もあった。エンジン部分は宇宙にとどまって繰り返し使われ、打ち上げにはソユーズ3ロケットを使用する予定だった。ESAやJAXAに共同開発を打診したが、2007年末にESAとの間でCSTS計画を立ち上げ、これに伴い計画は中止された。
ESAとロシアが開発を検討していた有人宇宙船でソユーズを代替する予定だった。有人カプセルと脱出装置、打ち上げロケットはロシアが、推進部はESAが開発し、2014年実用化を目標としていた。ESAでは、次のATV発展型とどちらが採用されるかは最終決定されず、JAXAにも共同開発を打診したが、共同開発には至らなかった。この計画は中止され、2009年初めにロシアは独自の有人宇宙船PPTSを開発することを決定した。
月探査計画(コンステレーション計画)用の大型貨物ロケットであるアレスロケットシリーズを、ISSに利用する案もあった。アレスVは地球低軌道に130tもの貨物を輸送可能であり、過去にサターンVでスカイラブを打ち上げたように、アルタイル着陸船を改造した軌道変更ユニットを取り付けることで大型のモジュールをISSに届けることが可能な計画だった。しかし開発は大幅に遅れ、2010年にコンステレーション計画自体の中止が決定された。
ESAが開発を検討していた宇宙船で、まず貨物回収カプセルを搭載した無人型を、続いて有人カプセルと脱出装置を備えた有人型を開発する計画だった。打ち上げにはアリアン5を使用。ACTS/PPTSとは異なりヨーロッパ独自の計画だが、ESAはACTS/PPTSと比較検討していた。ATVは2015年のATV-5ミッションの終了をもって退役し、ESAはオリオン宇宙船にATVのサービスモジュールの技術を派生させたESM (European Service Module) を提供する計画に変更した。
2010年までの国際宇宙ステーション計画における各国の支出は、アメリカが6兆4400億円(585億ドル)、日本が7100億円、欧州が4600億円(35億ユーロ)、カナダが1400億円(17億カナダドル)である。2011年から2015年までの5年間の各国の予想支出は、アメリカが1兆8900億円(172億ドル)、日本が2000億円、欧州が2500億円(19億ユーロ)、カナダが250億円(3億カナダドル)である。(日本の支出の内訳はきぼうを参照) なお、ロシアは自国管轄部分の費用をすべて負担し、同時にその全ての利用権を所有している。
2017年7月には、ISSの主要部分の360度画像が、Google ストリートビューにより公開された。
このプロジェクトはNASA宇宙飛行士ペギー・ウィットソンが率い、ESA宇宙飛行士トマ・ペスケ(英語版)により撮影された。360度カメラではなく、NASAの協力により、ISSに搭載済のニコン製一眼レフにより撮影した複数の画像を合成することにより360度画像を生成する手法がとられた。
ペスケ飛行士がISSに滞在した第50次/第51次長期滞在の期間においては、ドラゴン宇宙船のSpX-10、シグナス宇宙船のOA-7がドッキングしており、ISSに加え、両宇宙船の内部に訪れることもできる。 | [
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"text": "国際宇宙ステーション(こくさいうちゅうステーション、英: International Space Station、略称:ISS、仏: Station spatiale internationale、略称:SSI、露: Междунаро́дная косми́ческая ста́нция、略称:МКС)は、低軌道にあるモジュール式の宇宙ステーション(居住可能な人工衛星)である。これは、NASA(米国)、ロスコスモス(ロシア)、JAXA(日本)、ESA(ヨーロッパ)、CSA(カナダ)の5つの宇宙機関が参加する多国籍共同プロジェクトである。宇宙ステーションの所有権と使用は、政府間条約と協定によって確立されている。この宇宙ステーションは宇宙生物学、天文学、気象学、物理学などの分野で科学研究を行う微小重力と宇宙環境の研究所として機能する。ISSは、月と火星への将来の長期ミッションに必要な宇宙船システムと機器のテストに適している。",
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"text": "ISSプログラムは、1984年に恒久的に有人の地球周回ステーションを建設するために考案されたアメリカの提案である宇宙ステーションフリーダムと、1976年からの同様の目的を持つ同時期のソビエト/ロシアのミール2提案から発展した。ISSは、ソビエト、後にロシアのサリュート、アルマース、ミールの各ステーションとアメリカのスカイラブに続いて、乗組員が居住する9番目の宇宙ステーションである。これは、宇宙で最大の人工衛星であり、低軌道で最大の衛星であり、地球の表面から肉眼で定期的に見ることができる。ズヴェズダサービスモジュールまたは訪問している宇宙船のエンジンを使用した再ブースト操作により平均高度400 km(250マイル)の軌道を維持する。ISSは約93分で地球を一周し、1日あたり地球を15.5周回する。",
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"text": "ステーションは2つのセクションに分かれている。ロシア軌道セグメント (ROS) はロシアによって運営されており、米国軌道セグメント (USOS) は米国と他の国によって運営されている。ロシアセグメントには6つのモジュールが含まれている。米国のセグメントには10のモジュールが含まれており、そのサポートサービスはNASAで76.6%、JAXAで12.8%、ESAで8.3%、CSAで2.3%に分散されている。",
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"text": "ロスコスモスは、2024年までROSの継続的な運用を承認しており、以前はセグメントを使用してOPSEKと呼ばれる新しいロシアの宇宙ステーションを建設することを提案していた。最初のISSコンポーネントは1998年に打ち上げられ、最初の長期居住者は2000年10月31日にバイコヌール宇宙基地から打ち上げられた後、2000年11月2日に到着した。それ以来、このステーションは21年118日間継続して使用されており、ミール宇宙ステーションが保持していた過去の記録である9年357日を超えて、低軌道で最も長く継続的な人工の存在となっている。最新の主要な加圧モジュールであるNaukaは、前回の主要な追加である2011年のLeonardoから10年余り後の2021年に取り付けられた。宇宙ステーションの開発と組み立ては継続され、2016年に実験的な膨張式宇宙居住施設が追加され、いくつかの主要な新しいロシアのモジュールは2021年に打ち上げが予定されている。2022年1月、ステーションの運用許可は2030年まで延長され、その年を通じて資金が確保された。その後、将来の月と火星のミッションを追求するためにISSの運用を民営化するよう求められており、元NASA長官のジム・ブライデンスティンは「現在の予算の制約を考えると、月に行きたい、火星に行きたいのであれば、低軌道を商業化して次のステップに進む必要がある。」と述べている。",
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"text": "ISSは、加圧された居住モジュール、構造トラス、太陽光発電ソーラーアレイ、熱ラジエーター、ドッキングポート、実験ベイ、ロボットアームで構成されている。主要なISSモジュールは、ロシアのプロトンロケットとソユーズロケット、および米国のスペースシャトルによって打ち上げられた。宇宙ステーションは、さまざまな訪問する宇宙船によって整備されている(ロシアのソユーズとプログレス、スペースXドラゴン2、ノースロップグラマン宇宙システムシグナス、そして以前はヨーロッパのATV、日本のH-II補給機、スペースXドラゴン1)。ドラゴン宇宙船は、加圧された貨物を地球に戻すことを可能にする。これは、例えばさらなる分析のために科学実験を帰還させるために使用される。2021年12月の時点で、19か国から251人の宇宙飛行士、宇宙旅行者が宇宙ステーションを訪れた。その多くは何度も訪れている。これには、155人のアメリカ人、52人のロシア人、11人の日本人、8人のカナダ人、5人のイタリア人、4人のフランス人、同じく4人のドイツ人とそれぞれ1人のベルギー人、オランダ人、スウェーデン人、ブラジル人、デンマーク人、カザフスタン人、スペイン人、イギリス人、マレーシア人、南アフリカ人、韓国人、UAE人が含まれる。",
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"text": "国際宇宙ステーションの開発は、1988年9月に締結された日米欧の政府間協定により着手された。1998年にはロシア、スウェーデン、スイスを加えた国際宇宙ステーション協定が署名され、これによりISS計画の参加国は、アメリカ、ロシア、カナダ、日本、欧州宇宙機関 (ESA) 加盟の各国(ベルギー、デンマーク、フランス、ドイツ、イタリア、オランダ、ノルウェー、スペイン、スウェーデン、スイス、イギリス)の15カ国となっている。これとは別に、ブラジル宇宙機関がアメリカと二国間協定を結んで参加している。また、イタリア宇宙機関はESAを通じてだけでなく、NASAとの直接契約で多目的補給モジュールを開発している。",
"title": "参加国・関係国"
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"text": "中国は2007年にISSへの参加を打診したが、アメリカの反対により認められず、独自の宇宙ステーションである「中国宇宙ステーション」を運用中である。インドもISSへの参加を希望するも他の参加国の反対に遭ったため、独自の宇宙ステーションの建設を決定した。",
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"text": "ロシアは2021年に、2025年に独自の宇宙ステーションを打ち上げ、ISSから撤退すると発表した。翌2022年のウクライナ侵攻を期に、2024年以降に撤退することも表明する。しかし自前の宇宙ステーションの建設開始が遅れるとの見込みから、最終的には2028年までの参加延長を決定している。",
"title": "参加国・関係国"
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"text": "国際宇宙ステーション計画が最初に持ち上がったのは、1980年代初期の米大統領のレーガンによる冷戦期における西側諸国の宇宙ステーション「フリーダム計画」である。この計画は、西側の結束力をアピールしてソビエト連邦に対抗する政治的な意図が非常に強いものであった。搭乗人数は出資比率によって定められたが、米国、欧州、カナダ、日本の飛行士がそれぞれ、必ず年間を通して滞在できることになっていた。しかし、米国や欧州の財政難、スペースシャトル「チャレンジャー」の爆発事故、続く冷戦終結による政治的アピールの必要性低下によって計画は遅々として進まなかった。計画は「アルファ」に変更、ステーションの規模も大幅に縮小され、米国を含めて搭乗人数を削減し、各国の滞在期間も短縮した。",
"title": "計画推移"
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"text": "一方、ソ連は「サリュート」に続く宇宙ステーション「ミール」による宇宙滞在を実現していたが、1991年末のソビエト連邦の崩壊による混乱と財政難で、ミールは宇宙空間で劣化した。米国はロシアを取り込む目的もあって、アルファとミール(ミール2)を統合する計画を持ちかけたが、ロシアは新しいモジュール「ザーリャ」他を打ち上げる意欲を示した為、完全な新型宇宙ステーションとしてISS計画が開始された。しかし、ISS計画ではロシアの発言力が非常に大きくなり、常時ロシア人飛行士が滞在することとなった為、日欧加飛行士の滞在期間や搭乗人数は増加しなかった。",
"title": "計画推移"
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"text": "1998年にロシアが製造したザーリャモジュールが打ち上げられてISSの建設が開始されたが、2003年にスペースシャトル「コロンビア」の空中分解によって建設は一時中断し、その後の調整で建設規模が縮小、米露はともかく、日欧加の飛行士がどれだけ滞在できるかは未知数となった。",
"title": "計画推移"
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"text": "ISSに滞在するクルーは当初は3人、2003年2月のコロンビア号事故後しばらくは2人であった。2009年5月29日からは6人に増加された。",
"title": "宇宙飛行士の滞在"
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"text": "ISSに滞在する正式クルーは政府間協定締結国に限られている(滞在権について各国・機関毎に枠がある)。一方で、参加国・機関が別途民間人と商業契約を結び、自国枠を提供しISSに滞在させる宇宙飛行関係者という区分があり、これまでロシアのみが商業契約を結び、民間人を滞在させている。",
"title": "宇宙飛行士の滞在"
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"text": "ISSの建設は組立部品及び作業のため、50回以上の打ち上げが要求された。それらの打ち上げの39回はスペースシャトルによる打ち上げである。比較的小型な部品はプログレス補給船といった無人宇宙補給機によって運ばれる。組立が完了した時点のISSは、体積1,200立方メートル、重量419トン、最大発生電力110キロワット、トラス(横方向)の長さ108.4メートル、進行方向の長さ74メートル、最大滞在人数は6名となった。",
"title": "建設"
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"text": "ステーションはいくつかのモジュール及び要素で構成される。",
"title": "建設"
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"text": "総体積は約935立方メートル、質量は約420トン。",
"title": "基本構造"
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"text": "ISSの構成は、アメリカ側与圧モジュール、ロシア側与圧モジュール、トラスによる3つの部分に区分することができる。ISSの中央部には、進行方向に与圧モジュールが直列に連結しており、さらに枝状にもモジュールが取り付けられている。これと直交して、左右方向にトラス構造物が取り付けられている。与圧モジュールとトラスの交点は、それぞれデスティニーとS0トラスで、ここ以外に与圧モジュールとトラスの結合部はない。",
"title": "基本構造"
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"text": "滞在する宇宙飛行士の居住と作業の空間で、内部は地球の海抜0メートル上と同じ1,013hPaの空気で満たされるように制御されている。温度、湿度、成分が調節され、乗員は地上と変わらない軽装で活動することができる。生活に必要な生命維持システムや居住のための装置、ISSの目的である様々な実験装置のほか、ISSの運用に必要なシステム機器なども設置されており、多くの機器はモジュール内でメンテナンスや交換が可能である。",
"title": "基本構造"
},
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"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "基本的な機能を有するモジュールは、列車のように1列に連結されている。先頭からハーモニー、デスティニー、ユニティ、ザーリャ、ズヴェズダ、ナウカの順である。これらのモジュールのうち、ズヴェズダ以外はアメリカの資金で製造され、アメリカが所有権を有しているが、ザーリャはロシアに開発、製造、運用を委託している。ズヴェズダはロシアのモジュールである。一般に、ユニティより前側を「アメリカ側」、ザーリャより後側を「ロシア側」と呼ぶ。",
"title": "基本構造"
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{
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"tag": "p",
"text": "アメリカ側モジュールとロシア側モジュールは、設計が全く異なっている。ユニティとザーリャは直接結合することができないため、与圧結合アダプタ (PMA-1) を介して接続されている。電力や通信も、PMA-1を通じて接続されている。",
"title": "基本構造"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "ユニティより前方のモジュールは、フリーダム計画から流用されたもので、NASAの標準設計や安全基準を適用しているため、一般に「アメリカ側」と呼ばれる。日欧の実験モジュールも、アメリカ側に含まれる。これらのモジュールはいずれも直径4.4メートルの円筒形だが、これはスペースシャトルのペイロードベイの寸法に合わせたためである。内部は、国際標準実験ラック (ISPR) を4面に取り付ける設計で標準化されており、日米欧のモジュール間でラックを移設できる互換性を備えている。",
"title": "基本構造"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "モジュール同士の結合には共通結合機構 (CBM) を用いているため、モジュールを任意に移設することができる。また、HTVやドラゴン宇宙船もCBMを使用して結合する。CBMは大型で高機能の結合機構だが、自動ドッキングには対応しておらず、ロボットアームを使用して接触させたあと、電動の結合装置で結合する構造である。",
"title": "基本構造"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "なお、アメリカ側でもスペースシャトルのドッキングだけは、ロシアが開発したアンドロジナスドッキング機構を使用しているため、ユニティ(ノード3「トランクウィリテイー」設置後はトランクウィリテイーに移設された。2015年にはハーモニーに移設予定)とハーモニーにスペースシャトル用のPMAが設置されており、最終的にはハーモニーのPMA-2のみを使用していた。このPMA-2にはISSからスペースシャトルに電力を供給する配線が施されており、ISS係留中のスペースシャトルの電力を節約することができた。",
"title": "基本構造"
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"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "アメリカ側モジュールは発電機構や推進装置をそれぞれに設置されておらず、ロシア側のモジュールのようには単体では機能できない。スペースシャトルで輸送されてISSのシステムに組み入れられて初めて、稼働することができる。",
"title": "基本構造"
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"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "ザーリャより後方のモジュールは、ミール2計画から流用されたもので、ロシアの標準設計や安全基準を適用しているため、一般に「ロシア側」と呼ばれる。アメリカが所有するザーリャ、ロシアが独自資金で設置するズヴェズダが該当する。ロシアセグメントの開発にはESAも協力しており、ズヴェズダのコンピュータや、欧州ロボットアーム (ERA) を開発している。日本はロシア側モジュールも実験に利用しているが、基本的にはアメリカ側に含まれるきぼうを使用する。",
"title": "基本構造"
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{
"paragraph_id": 25,
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"text": "ロシア側の特徴は、主要なモジュールが単独で宇宙船としての機能を備えていることである。それぞれのモジュールにエンジンや自動操縦装置、通信システム、太陽電池パネルを備えており、単独で飛行して、自力でドッキングすることができる。これは、ロシアの宇宙ステーションの伝統的な手法である。このため、相当の規模まで組み立てなければ「自立」できないアメリカ側に先立って、まずロシア側を打ち上げて単独の宇宙ステーション(事実上はミール2そのもの)を稼働させ、そこにアメリカ側を増設する手法をとることで、ISS初期の費用削減に貢献した。",
"title": "基本構造"
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{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "ザーリャとズヴェズダは段階的にアメリカ側モジュールに機能を譲り、ザーリャは後年には通路兼、荷物置き場になった。対してズヴェズダは、ISSの軌道高度や姿勢を維持する役割を担っているほか、米国と分担して環境制御の役割も担っている。また宇宙旅行者もズヴェズダに滞在する。",
"title": "基本構造"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "ロシア側モジュールのドッキングには、アンドロジナスと呼ばれるドッキング装置を使用する。アンドロジナスはCBMより小型だが、鉄道車両のように「衝突」させるだけでドッキング可能であり、自動ドッキングするロシア側モジュールには欠かせない装置である。また、緊急時の退避に使用されるソユーズ宇宙船や、ロシアのプログレス補給船、ESAのATVも、アンドロジナスを使用してロシア側にドッキングする。",
"title": "基本構造"
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{
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"text": "ロシア側にも、単独の太陽電池パネル(科学電力プラットフォーム)を増設する計画があったが、費用削減のため中止になった。不足する電力は、アメリカ側の太陽電池から供給されている。",
"title": "基本構造"
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{
"paragraph_id": 29,
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"text": "2021年7月、ピアースを分離し、ナウカがドッキングした。これまでピアースはドッキングモジュール、あるいは船外活動のためのエアロックとしての用途であったが、ナウカへの入れ替えによってもともとのドッキングモジュールとしての機能に加えて実験棟、作業場、生命維持装置、推進器としての機能を持った。また、ピアースと異なりナウカは与圧モジュールとして扱われる。",
"title": "基本構造"
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"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "ズヴェズダは2019年ごろから老朽化による空気漏れなど不具合が指摘されている。",
"title": "基本構造"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "フリーダム計画では船外作業の基盤として大規模なものが計画されていたが、縮小を重ねた結果、ISSのインフラ機能を担う船外機器の設置場所として使用されている。主要な機能は、太陽電池パドルをはじめとする電源機器、ラジエーターなど廃熱システム、姿勢制御のためのコントロールモーメントジャイロ、アンテナなどの通信機器の設置場所である。フリーダム計画では軌道維持のためのエンジンも設置する予定だったが、この機能はロシア側に移されたため、エンジンを備える予定だったトラスは欠番 (S2, P2) になった。",
"title": "基本構造"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "トラスはISSのなかでも大きな寸法を占めるため、初期には折り畳んだ状態で打ち上げて、軌道上で展開することが検討されていた。しかし、展開したトラスに各種機器を取り付ける手間を考えれば、地上で機器や配管、配線を完成させた状態のトラスを打ち上げた方が効率がよいことがわかり、そのような設計に落ち着いた。",
"title": "基本構造"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "長大なトラス上での作業におけるカナダアーム2の移動、船外作業員や物資の運搬にはモバイルベースシステム (MBS) と呼ばれる運搬ベースが使用され、トラスに沿ってガイドレールが設置されている。",
"title": "基本構造"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "トラス上には、船外機器の予備品や、故障して取り外された機器の保管スペースもあり、これを船外実験に利用することもできる。しかし、排熱用の冷媒を供給することはできないため、小型の実験にしか使われない(例外的にAMS-02は大型であるが、独自の熱制御系を有している)。本格的な船外実験装置や宇宙観測装置を設置できるのは、日本のきぼう船外実験プラットフォームだけである。また、ヨーロッパのコロンバスにも、小型の実験装置を設置する機能が設置されているが、きぼうよりは簡易である。",
"title": "基本構造"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "ISSの電力源は、太陽光を電気に変換する太陽電池である。組立フライト4A(2000年11月30日のSTS-97)以前は、ザーリャとズヴェズダに装備されたロシアの太陽電池が唯一の電源だった。ISSのロシアの部分は、スペースシャトルと同じ28ボルトの直流電力を使用する。ISSの他の部分には、トラスに設置された太陽電池から、130 - 180ボルトの直流電力が供給される。電力は直流160ボルトに安定化されて分配され、さらにユーザーが必要とする124ボルトの直流に変換される。電力はコンバータによってISSの米露のセグメントに分配される。ロシアの科学電力プラットフォームがキャンセルされ、ロシア区画もアメリカが設置した太陽電池の電力供給に依存することになったため、この電力分配機構は重要である。",
"title": "主要なシステム"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "ISSのアメリカ区画では、高圧(130-160ボルト)配電を行うことで電流を小さくし、電線をより細くすることができて、軽量化できた。",
"title": "主要なシステム"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "太陽電池パドルは、太陽エネルギーを最大にするために、常に太陽を追尾する。パドルは、面積375平方メートル、長さ58メートル。完全に完成した構成では、太陽電池パドルはS3とP3トラスに装備されたアルファジンバル (SARJ) を軌道1周回にあわせて1回転させることによって太陽を追跡する。ベータジンバル (BGA) は軌道面と太陽の角度に合わせて角度を調整するもので、このアルファ軸とベータ軸の2軸の動きを組み合わせることで発生電力を最適化している(発生電力が多すぎる場合も角度を調節することで対処)。米国セグメントの太陽電池による最大発電電力は約120kW。",
"title": "主要なシステム"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "しかし、主要なトラス構造が打ち上げられるまで、パドルは最終的な設置場所とは垂直な位置であったP6トラスのみに設置されていた。この構成では、右上の写真で示すように、太陽追尾にはベータジンバルしか使えなかった。「夜のグライダー」モードと呼ばれる方法は、夜間は使い道のない太陽電池パドルを進行方向に水平に向けて調整することで、空気抵抗を減らすことができ、高度の低下を抑える事が出来た。",
"title": "主要なシステム"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "太陽電池が発電した電力は一旦トラス内の充電池に蓄えられてから給電される。当初はニッケル・水素充電池48基が使用されていたが老朽化が目立ってきたため、2016年より随時GSユアサ製のリチウムイオン二次電池24基に交換される。交換用の充電池は全て日本の宇宙ステーション補給機 (HTV) にて1回に6基ずつ輸送、2020年7月に交換を完了した。",
"title": "主要なシステム"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "ISSの環境制御・生命維持システム (ECLSS) は、気圧、酸素・二酸化炭素の濃度、水、火災消火、その他の要素を提供もしくは制御する。",
"title": "主要なシステム"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "生命維持に関して常に注意が払われるのはISS内の空気である。酸素の供給は、ロシアのエレクトロンと米国のOGS (Oxygen Generation System) で行われている。水を電気分解して酸素を作るエレクトロンやOGSが故障したり、交代時に宇宙飛行士が増えたりすると、「Vika酸素発生器(キャンドル)」と呼ばれる円筒形のSFOG(Solid Fuel Oxygen Generator、固体燃料酸素発生装置)を使用する。これらの装置の他にもロシアのプログレスやESAのATVによって酸素や空気が運ばれる。2015年初めでATVは退役するため、2014年10月(このシグナス補給船3号機は打ち上げに失敗したため、次のドラゴン5号機から運搬開始)からは商業補給船でも運搬できるNORS (Nitrogen/Oxygen Recharge System) が利用されるようになった。二酸化炭素の除去は、一度ゼオライトに吸着させてから船外に放出することで再生を繰り返すロシアの「ヴォズドーク」(Vozdoch) と呼ばれる装置と米国の「シードラ」(CDRA) によって行われる。また、一時的に宇宙飛行士が増えた場合や装置の故障時には、水酸化リチウムの入った缶に基地内の空気を通して二酸化炭素を除去する、スペースシャトルと同じしくみの予備の装置も使うことができる。",
"title": "主要なシステム"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "次に重要なのは乗員が体内から排出したり洗浄などで使用した水や装置由来の水など、水の収集と再生処理である。水はこれまでロシアの「エスエルベーカー」(SRVK) と呼ばれる装置で基地の空気中の湿気を凝結させて回収されていて、スペースシャトルの燃料電池が生む水、最大11キログラム/時間を加えても飲料用や酸素発生装置用で不足する分は、従来年間約6800キログラムが地上から補給されていた。これを改善するためにSTS-126で運ばれた米国の水再生システム (Water Recovery System, WRS) は、空気中の凝結水だけでなく尿からも水を再生することで、地上からの水の補給をほとんど必要としなくなった。有害物質や臭いを除去するには、主に活性炭フィルタを使用しておりロシアのBMPと米国のTCCSが使われている。",
"title": "主要なシステム"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "トイレは、ロシア側のモジュール「ズヴェズダ」とアメリカ側のモジュール「トランクウィリティー」にそれぞれあるが、いずれもロシア製である。2019年には両方故障したこともある。",
"title": "主要なシステム"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "ISSの姿勢(方向)は、2つのメカニズム(推進式と非推進式)で維持される。通常は、Z1トラスに設置されている米国のコントロール・モーメント・ジャイロ (CMG) 4基を使ってISSを正しい方向、すなわちデスティニーをユニティの前方に、P(ポート側の)トラスを左舷側に、ピアースを地球側(底側)に向ける。CMGシステムが飽和すると、ISSの姿勢をコントロールすることができなくなってしまうため、その場合は、ロシアの姿勢制御システムが自動的に(外乱が加わる方向と反対方向に)スラスタを噴射して、CMGの飽和をクリアできるように制御しているほか、CMGが使用できない期間のISSの姿勢制御も担当する。スペースシャトルオービタがISSにドッキングしていた時は、主にオービタのスラスタ(とCMG)が姿勢制御に使われていた。",
"title": "主要なシステム"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "ISSの軌道は最低高度278 kmから最高高度460 kmの範囲に維持される。最高高度制限は、ソユーズ宇宙船のランデブーが可能な425 kmであり、最低高度は、リブースト等の制御ができなくなった状態でも一定期間落下を防いで対応する時間を稼ぐための高度で設定される(このため太陽活動に伴って最低高度制限も変動する)。",
"title": "主要なシステム"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "ISSの高度は大気の抵抗によって絶えず低下しているので、毎年数回、より高い高度に上昇(リブースト)させる必要がある。高度のグラフは、毎月約2.5 kmずつ徐々に低下することを示している。リブーストはズヴェズダ後方の2基のエンジン、ドッキング中のスペースシャトル・プログレス補給船・あるいはESAのATVで実行することができる。",
"title": "主要なシステム"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "高度の上昇は、今後の飛行計画や、スペースデブリの接近状況などを考慮して実施される。このため稀にではあるが、高度を若干下げたりもしている。ISSの組み立て段階では、スペースシャトルができるだけ多くのペイロードをISSへ運べるように、高度は比較的低く抑えられていたが、スペースシャトル退役後はおおむね高度400km以上で運用されるようになった。",
"title": "主要なシステム"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "2022年2月、ロシアによるウクライナ侵攻に伴い、高度制御を担うロシア側の区画を運用してきたロスコスモスに経済制裁が加えられた。この際、ロスコスモスの社長は宇宙ごみの回避などを含め、ISSの軌道修正が年平均11回実施されていると具体的な回数を主張し、経済制裁解除を求めたことがあった。 こうした発言を受けてアメリカ側は無人補給船シグナスでもISSの軌道修正が可能であることを説明。2022年6月27日には実際にISSの軌道を上昇させることに成功させた。",
"title": "主要なシステム"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "大型のスペースデブリは、常に地上から監視されており、衝突の可能性がある場合は、前述の高度制御により回避することができる。しかしながら監視されていない小規模なデブリと衝突する可能性はあるので、対策としてモジュールには装甲が施されている。装甲はアルミニウムによる空間装甲と、衝突により発生した破片を受け止めるためのケブラー繊維製内張りで構成される。",
"title": "主要なシステム"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "放射線に対しても多少考慮はされている。新しい居住区画はヒトの被曝量が少なくなるように、それまでよりも緩衝材が厚くなっている。太陽フレアで放射線量が増すと判っている場合には、ロシア側のドッキングポートが最も壁が厚いため、滞在者はここに避難することになっている。",
"title": "主要なシステム"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "軌道高度は、地上との輸送機往復を考慮して、低軌道で運用されている。そのため地球を約90分で1周、24時間で約16周する。",
"title": "軌道"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "軌道傾斜角は、地球の赤道に対して51.6度傾いている。そのため、一般的なメルカトル図法の世界地図上に軌道を描画すると、北緯・南緯51.6度を上下の端とする波線になるが、地球が自転しているために、90分かけて「地球1周」した際には前の周回した地点よりも、地上の経度で22.5度ずれることになる。",
"title": "軌道"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "24時間飛行し、地球がちょうど1回自転した場合に同じ地点の上空に戻ることになるが、地球がやや楕円球体であること、重力の偏りなどの外乱によって、わずかに異なる。",
"title": "軌道"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "地球に対する向きは、地球の中心に向かって常に変化しないように制御されている。これは通信設備の指向性、補給機の経路のためであり、ほかは人工衛星と同様である。つまりISSから地球を眺めると、ある1点で回転し続けているように見える。",
"title": "軌道"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "当初のNASAの宇宙ステーション建設構想は、スペースシャトルの全面的な利用を想定していた。このため、モジュールや機材の多くはスペースシャトルでの輸送を前提として設計されている。しかし予算上の理由からロシアが参加することになり、人員輸送には緊急脱出用を兼ねてソユーズ宇宙船を、貨物輸送にはプログレス補給船を合わせて利用することになった。ロシアの建設資材は、大半がロシア独自で打ち上げられる。ロシアは与圧モジュールを独立の宇宙船として設計しており、プロトンロケットで打ち上げられるとモジュール自体の機能でISSに自動ドッキングする。一部の小型モジュール(ピアースなど)は、プログレス補給船のペイロードとして輸送される。",
"title": "輸送機"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "2003年2月1日に別ミッションで飛行中のスペースシャトル「コロンビア」が大気圏再突入後に空中分解で失われる事故が発生し、運行の安全が確認されるまでスペースシャトルの打ち上げが無期限停止となったため、ISSの組み立て作業は、2002年11月に行われた「STS-113/ISS組立ミッション11A」を最後に一時停止した。これによりISSへの輸送力が大幅に低下したため、ISSにおける宇宙飛行士の3人の常駐体制が一時的に2人に減らされた。2005年7月26日午後11時39分(日本時間)に、事故後初となるディスカバリー (STS-114) の打ち上げが行われ、ISS組立再開ミッションとなる「ミッション/LF-1」が行われた。このミッションには日本から野口聡一飛行士が参加した。",
"title": "輸送機"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "2008年には欧州のESAが欧州補給機 (ATV) の運用を開始し、2009年には日本のJAXAが宇宙ステーション補給機 (HTV) の運用を開始した。スペースシャトルによる宇宙飛行士の交代は2009年11月で終了し、以後の宇宙飛行士の交代にはもっぱらソユーズ宇宙船が使われるようになった。",
"title": "輸送機"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "2010年にはNASAがスペースシャトルを退役させることを決定した。ISSのロシア以外の建設資材は、大半がスペースシャトルでの打ち上げを前提に設計されており代替輸送は困難であるため、仮にスペースシャトルの運航が遅れれば全ての資材を打ち上げることなくISSの建設を打ち切る可能性もあると懸念された。また、スペースシャトル退役以後はコンステレーション計画の一環として、スペースシャトルの後継となるアレスロケットとオリオン宇宙船によってISSに人員や貨物を輸送する計画があったが、2010年にバラク・オバマ政権によりコンステレーション計画の中止が決定された。アメリカはスペースシャトルの退役によりドラゴン宇宙船の運用開始までの間、ISSへの独自の輸送手段を一時的に失うことになった。",
"title": "輸送機"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "2011年7月にスペースシャトルが退役した後しばらくは、ISSへの人員輸送にはソユーズ宇宙船、貨物輸送にはプログレス補給船、欧州補給機 (ATV)、宇宙ステーション補給機 (HTV) のみが使用されていたが、プログレス補給船、ATV、HTVには貨物回収能力はなく、ソユーズはわずか60kgの手荷物しか回収できないため、ISSから地球へ貨物を持ち帰る能力が最小となった。",
"title": "輸送機"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "スペースシャトル退役後のアメリカのISSへの人員・貨物輸送手段としては、商業軌道輸送サービス (COTS) により開発された、民間企業スペースX社のファルコン9とドラゴン補給機、オービタル・サイエンシズ社のアンタレスとシグナス補給機を使用した商業補給サービス (CRS) を活用する。ドラゴン宇宙船は2012年5月26日に民間宇宙船として初めてISSにドッキングして補給に成功し、5月31日 (UTC) に太平洋に着水し帰還した。これによりISSからの貨物の回収が再び可能となった。10月10日には初の商業補給サービス (CRS) ミッションに成功した。",
"title": "輸送機"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "NASAは2011年5月に、コンステレーション計画で使用される予定だったオリオン宇宙船の設計を流用した新たなオリオン宇宙船 (Orion Multi-Purpose Crew Vehicle, MPCV) の開発を発表した。新たなオリオン宇宙船の無人テスト機EFT-1は2014年12月にデルタIV Heavyロケットで打ち上げられた。また2011年9月に、スペースシャトルの後継としてオリオン宇宙船も打ち上げることになるNASA独自の打ち上げロケットとして、サターンVロケットを超える規模のスペース・ローンチ・システムの開発が発表された。しかし、オリオン宇宙船によるISSへの宇宙飛行士の輸送任務はその後キャンセルされ、商業クルー輸送機(スペースX社のドラゴン2とボーイング社のCST-100)に任せることになり、オリオン宇宙船は有人での深宇宙探査と商業クルー輸送計画が上手くいかなかった時のバックアップの位置づけとなっている。",
"title": "輸送機"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "2015年2月、欧州補給機 (ATV) の5号機が大気圏に再突入し、欧州補給機全機の運用を終了した。2020年には宇宙ステーション補給機 (HTV) とドラゴンの初期型が相次いで運用を終了し、一方でそれぞれ新型に置き換わるなど、再度の世代交代を迎えている。",
"title": "輸送機"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "ロシアが運用中の3人乗り有人宇宙船である。ISSに非常事態が起きた際の脱出用救命ボートの役割を果たしている。この用途に対しては、アメリカが乗員帰還機 (X-38 CRV) を開発して置き換える計画だったが、こちらは中止された。2009年5月までは、ISS長期滞在クルーは3名体制だったので、ソユーズが常時1機備え付けられていたが、2009年5月からは6名体制に拡張されたため、ソユーズも2機常備されることになった。緊急時に利用しやすいよう、ISSの中央に近いザーリャ前方の地球側にドッキングするが、2機に増えた場合はさらにズヴェズダ前方(に結合しているピアース)も利用する。ズヴェズダの後方はISSの末端にあたるので、プログレス、ATVの結合を優先するため出来るだけ避けてはいるが、ズヴェズダ後方も必要に応じて使用することもある。なお、2010年1月からは、MRM-2のドッキングポートも利用できるようになる。",
"title": "輸送機"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "ソユーズの軌道上での寿命は6ヵ月なので、6ヵ月ごとに新しいソユーズを打ち上げて交換する。この際、滞在3名中2名から3名がソユーズとともに交代するが、ソユーズは3人乗りなので、ロシア人用の1人分の空席が空く場合もある、その場合はISSへの短期訪問(新しいソユーズでISSへ向かい、古いソユーズで帰還する)に利用される。このような便乗者をタクシークルーと呼び、ロシアが利用権を販売している。私的宇宙旅行でのISS訪問や、マレーシアや韓国によるISS訪問はこの枠を利用したものである。ただし、シャトルでのクルーの交代2009年11月のSTS-129を最後になくなり、滞在人数も6名に増加したため、タクシークルーの搭乗機会はなくなった。",
"title": "輸送機"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "ロシアが運用中の無人貨物船。与圧貨物として食料、衣類、実験機材、補修用部品などを輸送するほか、酸素や水、液体推進剤をISSに補給するタンクとパイプも装備している。プログレスはズヴェズダの後方にドッキングすることが多い(その他、ザーリャとピアースにもドッキングする)。ここはISSの後方端にあたるので、プログレスは自身のエンジンを使用してISSを推進(リブースト)し、高度を上げることができる。スペースシャトルが事故の影響で運用不能に陥っていた際には、強力なピンチヒッター役を務め、ISSを維持した。スペースシャトル復帰後も物資輸送に活躍しているが、後述のATVとHTVの運用が開始されてからは役割を分担することになった。",
"title": "輸送機"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "シグナスはドラゴンと同じくNASAのCOTS計画で開発された民間無人宇宙補給機。シグナスはアンタレスにより打ち上げられ、2013年9月に初めてISSとのドッキングに成功して補給を成功させた。",
"title": "輸送機"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "NASAの商業乗員輸送開発 (CCDev) に基づきスペースX社が開発する有人宇宙船。ドラゴン2も初期型のドラゴン同様にファルコン9により打ち上げられ、2019年3月に無人でのISSドッキングを、次いで翌2020年5月に有人でのドッキングを成功させた。",
"title": "輸送機"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "2011年7月に退役するまでNASAがISSへの人員と建設資材と補給物資の輸送のために運用していた輸送機。ISS建設資材の大半を輸送したほか、7名の人員とロボットアームを搭載でき、特に建設初期段階では作業基地の役割も果たした。人員交代にも使われるが、ソユーズ宇宙船を6ヶ月ごとに交換する際に人員交代も行えるため、補助的な役割にとどまった。",
"title": "輸送機"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "日米欧の実験モジュールなど、ロシア以外の与圧モジュールはスペースシャトルで輸送された。このため、これらのモジュールは全てスペースシャトルのペイロードベイに合わせた寸法、形状、重量になっている。ただし、スペースシャトルの度重なる改良(主に安全性向上)により搭載可能な重量は計画当初より減少しているため、一部の大型モジュール(デスティニー、きぼう船内実験室)は船内機器の一部を別便で輸送せざるを得なくなった。",
"title": "輸送機"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "補給には、大きく分けて4つの方法を用いた。ひとつは、スペースシャトルの船内に補給品を搭載し、ドッキング装置を通して運搬する方法である。ドッキング装置の通路は直径60センチメートル程度と狭く、船内スペースを使用するため輸送力は小さいが、補助的に毎回使われていた方法である。",
"title": "輸送機"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "2つめは、ペイロードベイにスペースハブ輸送モジュールを搭載する方法である。船内より多くの補給品を搭載できるが、やはり大きな物資は輸送できない。次のMPLMが導入されると使われなくなった。",
"title": "輸送機"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "3つめは、ペイロードベイに多目的補給モジュール (MPLM) を搭載する方法である。MPLMはペイロードベイから取り出され、ユニティまたはハーモニーに直接結合される。サイズが大きい共通結合機構 (CBM) を使うため、ISPRなど大型の機材を輸送できるほか、小型物資も広い通路を利用して効率よく搬入できた。作業終了後のMPLMはペイロードベイに戻されて持ち帰られた(詳しくはMPLMを参照)。",
"title": "輸送機"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "4つめは、ペイロードベイ内に露出した形で輸送する方法である。ISSの外部に設置するバッテリーやタンクなどの部品を交換する際には、アダプターを使用して搭載した。",
"title": "輸送機"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "欧州補給機 (ATV) はESAが2008年から2015年まで運用した無人貨物船。機能や利用方法はプログレスとほぼ同じで、ロシア側のドッキング装置を使用し、補給用のタンクやパイプも装備している。大型のアリアンVロケットで打ち上げられるためプログレスよりもかなり大型で、リブースト用推進剤を含む輸送力はプログレスの約3倍である。ただし、ドッキング装置もプログレスと同じなので大型物資の輸送はできない。",
"title": "輸送機"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "NASAの商業軌道輸送サービス (COTS) 計画で開発された初の民間無人宇宙補給機。ドラゴンはファルコン9により打ち上げられ、2010年12月に初めて地球低軌道を周回し大気圏に再突入して太平洋に着水し、2012年5月に初めてISSのドッキングに成功して補給を成功させた。2020年4月の20回目の補給ミッションを最後に運用を終了し、後継機となるドラゴン2に移行した。",
"title": "輸送機"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "宇宙ステーション補給機 (HTV)、愛称「こうのとり」は、日本のJAXAが2009年から2020年まで運用した無人貨物船。プログレスやATVと異なり、ISSの先頭にあたるハーモニーに結合するため、リブーストに用いることはできない。しかし、MPLMと同様にサイズが大きい共通結合機構 (CBM) で結合するため、ISPRを丸ごと搭載するなど、大型の貨物を輸送することができる。また非与圧部があり、ISSの船外に装着されるバッテリーなども輸送することができる。スペースシャトル退役後、後述の民間機の運用が開始されるまでは、これらの物資を輸送可能な輸送機はHTVのみだった。2021年度以降にコストを半減したHTV-Xの運用に移行する予定であったが、2022年2月現在は未定である。",
"title": "輸送機"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "NASAは2011年5月にオリオン宇宙船 (Orion Multi-Purpose Crew Vehicle, MPCV) の開発を発表した。オリオン宇宙船の無人テスト機は2013年7月にデルタIV Heavyロケットで打ち上げられる予定である。また2011年9月に、スペースシャトル後継機のSLSの開発とオリオン宇宙船を搭載した初号機を2017年に打ち上げることが発表された。",
"title": "輸送機"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "当初のオリオン宇宙船は、NASAがコンステレーション計画に使用するために2014年運用開始を目標に開発していたが、2010年にコンステレーション計画が中止されると計画が現在のものに変更された。コンステレーション計画においては、6名が搭乗可能で、ソユーズを置き換えて緊急帰還船としても使われる模様であった。また、詳細は発表されていないが無人貨物船型の開発も予定されており、有人型と同様の物資回収カプセルを備えた型と、HTVのような非回収カプセル(大気圏再突入廃棄物処理など)を備えた型のイラストが公表されていた。まずISSに対応した型(ブロック1)が開発され、続いて月飛行に使用可能なブロック2、火星や小惑星への飛行に使用可能なブロック3を開発する予定であった。",
"title": "輸送機"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "ロシアが2023年現在開発中のソユーズ代替有人宇宙船。ISSへ6人輸送することが可能である他、無人輸送機としての運用も考慮されており、2tの貨物をISSへ輸送し500kgの貨物を地上に持ち帰ることが可能となる予定である。RKKエネルギアが開発を担当する。",
"title": "輸送機"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "JAXAが開発中の宇宙船で、2021年度以降にH3ロケットで打ち上げ予定であるが、2022年2月現在はHTV-Xを運搬するH3ロケットのメインエンジンLE-9完成の目処が立たず未定である。現行のHTVと比べて太陽電池のパドル化が図られるとともに、これまで分割されていた推進系と電気系モジュールがサービスモジュールに集約されるなど、構造設計が大幅に見直されている。こうしたシステムの効率化や軽量化により、輸送能力を保ったまま製造費用を半減する。",
"title": "輸送機"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "NASAの商業乗員輸送開発 (CCDev) に基づきボーイング社が開発する有人宇宙船。",
"title": "輸送機"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "NASAの商業補給サービス (CRS-2) に基づきシエラ・ネヴァダ・コーポレーション社が開発する無人補給機。",
"title": "輸送機"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "乗員帰還機 (CRV) としてNASAが開発を進めていた宇宙船である。X-24実験機に似たリフティングボディ形状の機体であり、6名が搭乗することができる予定だった。大気圏内での滑空実験などが行われたが、コロンビア号事故後の計画見直しで2002年に開発がキャンセルされた。",
"title": "輸送機"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "ロシアが開発を検討していた有人宇宙船でソユーズを代替する予定だった。釣り鐘型のカプセルだが小さな翼を取り付けた案もあった。エンジン部分は宇宙にとどまって繰り返し使われ、打ち上げにはソユーズ3ロケットを使用する予定だった。ESAやJAXAに共同開発を打診したが、2007年末にESAとの間でCSTS計画を立ち上げ、これに伴い計画は中止された。",
"title": "輸送機"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "ESAとロシアが開発を検討していた有人宇宙船でソユーズを代替する予定だった。有人カプセルと脱出装置、打ち上げロケットはロシアが、推進部はESAが開発し、2014年実用化を目標としていた。ESAでは、次のATV発展型とどちらが採用されるかは最終決定されず、JAXAにも共同開発を打診したが、共同開発には至らなかった。この計画は中止され、2009年初めにロシアは独自の有人宇宙船PPTSを開発することを決定した。",
"title": "輸送機"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "月探査計画(コンステレーション計画)用の大型貨物ロケットであるアレスロケットシリーズを、ISSに利用する案もあった。アレスVは地球低軌道に130tもの貨物を輸送可能であり、過去にサターンVでスカイラブを打ち上げたように、アルタイル着陸船を改造した軌道変更ユニットを取り付けることで大型のモジュールをISSに届けることが可能な計画だった。しかし開発は大幅に遅れ、2010年にコンステレーション計画自体の中止が決定された。",
"title": "輸送機"
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"text": "ESAが開発を検討していた宇宙船で、まず貨物回収カプセルを搭載した無人型を、続いて有人カプセルと脱出装置を備えた有人型を開発する計画だった。打ち上げにはアリアン5を使用。ACTS/PPTSとは異なりヨーロッパ独自の計画だが、ESAはACTS/PPTSと比較検討していた。ATVは2015年のATV-5ミッションの終了をもって退役し、ESAはオリオン宇宙船にATVのサービスモジュールの技術を派生させたESM (European Service Module) を提供する計画に変更した。",
"title": "輸送機"
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"paragraph_id": 88,
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"text": "2010年までの国際宇宙ステーション計画における各国の支出は、アメリカが6兆4400億円(585億ドル)、日本が7100億円、欧州が4600億円(35億ユーロ)、カナダが1400億円(17億カナダドル)である。2011年から2015年までの5年間の各国の予想支出は、アメリカが1兆8900億円(172億ドル)、日本が2000億円、欧州が2500億円(19億ユーロ)、カナダが250億円(3億カナダドル)である。(日本の支出の内訳はきぼうを参照) なお、ロシアは自国管轄部分の費用をすべて負担し、同時にその全ての利用権を所有している。",
"title": "費用"
},
{
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"text": "2017年7月には、ISSの主要部分の360度画像が、Google ストリートビューにより公開された。",
"title": "Googleストリートビューによる公開"
},
{
"paragraph_id": 90,
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"text": "このプロジェクトはNASA宇宙飛行士ペギー・ウィットソンが率い、ESA宇宙飛行士トマ・ペスケ(英語版)により撮影された。360度カメラではなく、NASAの協力により、ISSに搭載済のニコン製一眼レフにより撮影した複数の画像を合成することにより360度画像を生成する手法がとられた。",
"title": "Googleストリートビューによる公開"
},
{
"paragraph_id": 91,
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"text": "ペスケ飛行士がISSに滞在した第50次/第51次長期滞在の期間においては、ドラゴン宇宙船のSpX-10、シグナス宇宙船のOA-7がドッキングしており、ISSに加え、両宇宙船の内部に訪れることもできる。",
"title": "Googleストリートビューによる公開"
}
] | 国際宇宙ステーションは、低軌道にあるモジュール式の宇宙ステーション(居住可能な人工衛星)である。これは、NASA(米国)、ロスコスモス(ロシア)、JAXA(日本)、ESA(ヨーロッパ)、CSA(カナダ)の5つの宇宙機関が参加する多国籍共同プロジェクトである。宇宙ステーションの所有権と使用は、政府間条約と協定によって確立されている。この宇宙ステーションは宇宙生物学、天文学、気象学、物理学などの分野で科学研究を行う微小重力と宇宙環境の研究所として機能する。ISSは、月と火星への将来の長期ミッションに必要な宇宙船システムと機器のテストに適している。 ISSプログラムは、1984年に恒久的に有人の地球周回ステーションを建設するために考案されたアメリカの提案である宇宙ステーションフリーダムと、1976年からの同様の目的を持つ同時期のソビエト/ロシアのミール2提案から発展した。ISSは、ソビエト、後にロシアのサリュート、アルマース、ミールの各ステーションとアメリカのスカイラブに続いて、乗組員が居住する9番目の宇宙ステーションである。これは、宇宙で最大の人工衛星であり、低軌道で最大の衛星であり、地球の表面から肉眼で定期的に見ることができる。ズヴェズダサービスモジュールまたは訪問している宇宙船のエンジンを使用した再ブースト操作により平均高度400 km(250マイル)の軌道を維持する。ISSは約93分で地球を一周し、1日あたり地球を15.5周回する。 ステーションは2つのセクションに分かれている。ロシア軌道セグメント (ROS) はロシアによって運営されており、米国軌道セグメント (USOS) は米国と他の国によって運営されている。ロシアセグメントには6つのモジュールが含まれている。米国のセグメントには10のモジュールが含まれており、そのサポートサービスはNASAで76.6%、JAXAで12.8%、ESAで8.3%、CSAで2.3%に分散されている。 ロスコスモスは、2024年までROSの継続的な運用を承認しており、以前はセグメントを使用してOPSEKと呼ばれる新しいロシアの宇宙ステーションを建設することを提案していた。最初のISSコンポーネントは1998年に打ち上げられ、最初の長期居住者は2000年10月31日にバイコヌール宇宙基地から打ち上げられた後、2000年11月2日に到着した。それ以来、このステーションは21年118日間継続して使用されており、ミール宇宙ステーションが保持していた過去の記録である9年357日を超えて、低軌道で最も長く継続的な人工の存在となっている。最新の主要な加圧モジュールであるNaukaは、前回の主要な追加である2011年のLeonardoから10年余り後の2021年に取り付けられた。宇宙ステーションの開発と組み立ては継続され、2016年に実験的な膨張式宇宙居住施設が追加され、いくつかの主要な新しいロシアのモジュールは2021年に打ち上げが予定されている。2022年1月、ステーションの運用許可は2030年まで延長され、その年を通じて資金が確保された。その後、将来の月と火星のミッションを追求するためにISSの運用を民営化するよう求められており、元NASA長官のジム・ブライデンスティンは「現在の予算の制約を考えると、月に行きたい、火星に行きたいのであれば、低軌道を商業化して次のステップに進む必要がある。」と述べている。 ISSは、加圧された居住モジュール、構造トラス、太陽光発電ソーラーアレイ、熱ラジエーター、ドッキングポート、実験ベイ、ロボットアームで構成されている。主要なISSモジュールは、ロシアのプロトンロケットとソユーズロケット、および米国のスペースシャトルによって打ち上げられた。宇宙ステーションは、さまざまな訪問する宇宙船によって整備されている(ロシアのソユーズとプログレス、スペースXドラゴン2、ノースロップグラマン宇宙システムシグナス、そして以前はヨーロッパのATV、日本のH-II補給機、スペースXドラゴン1)。ドラゴン宇宙船は、加圧された貨物を地球に戻すことを可能にする。これは、例えばさらなる分析のために科学実験を帰還させるために使用される。2021年12月の時点で、19か国から251人の宇宙飛行士、宇宙旅行者が宇宙ステーションを訪れた。その多くは何度も訪れている。これには、155人のアメリカ人、52人のロシア人、11人の日本人、8人のカナダ人、5人のイタリア人、4人のフランス人、同じく4人のドイツ人とそれぞれ1人のベルギー人、オランダ人、スウェーデン人、ブラジル人、デンマーク人、カザフスタン人、スペイン人、イギリス人、マレーシア人、南アフリカ人、韓国人、UAE人が含まれる。 | {{Redirect|ISS}}
{{Infobox space station
| station = 国際宇宙ステーション
| station_image = The station pictured from the SpaceX Crew Dragon 5 (cropped).jpg
| station_image_alt = A forward view of the International Space Station with limb of the Earth in the background. In view are the station's sixteen paired maroon-coloured main solar array wings, eight on either side of the station, mounted to a central integrated truss structure. Spaced along the truss are ten white radiators. Mounted to the base of the two rightmost main solar arrays pairs, there are two smaller paired light brown- coloured ISS Roll-out Solar Arrays. Attached to the centre of the truss is a cluster of pressurised modules arranged in an elongated T shape. A set of solar arrays are mounted to the module at the aft end of the cluster.
| station_image_caption = 2021年11月
| insignia = [[File:ISS insignia.svg|frameless|upright=0.5]] [[File:ISS emblem.png|frameless|upright=0.6]]
| insignia_caption = 国際宇宙ステーションの記章
| COSPAR_ID = 1998-067A
| SATCAT = 25544
| sign = ''Alpha'', ''Station''
| crew = 7人
| launch = 1998年–2011年
| launch_pad = [[ケネディ宇宙センター]] [[ケネディ宇宙センター第39発射施設|LC-39]],<br/> [[バイコヌール宇宙基地]] [[ガガーリン発射台|LC-1/5]]および[[:en:Baikonur Cosmodrome Site 81|LC-81/23]]
| mass = 344,378 kg<br/>(759,222 [[ポンド (質量)|lb]])
| length = 73 m (240 ft)<br/><small>PMA-2から''Zvezda''まで</small>
| width=108.5 m (356 ft)<!-- <small>along truss, arrays extended</small>-->
| height = 約20 m (約66 ft)<!-- <small>nadir–zenith, arrays forward–aft</small>-->
| volume = 約373 m<sup>3</sup><br/>(約13,172 [[フィート#フィート、フート、フット|ft<sup>3</sup>]])
| pressure = 101.3 [[パスカル (単位)|kPa]] (29.91 [[水銀柱インチ|inHg]])
| perigee = {{ISSIB|ISS|perigee_height}} km<small>({{ISSIB|ISS|acyear}}年{{ISSIB|ISS|acmonthname}}{{ISSIB|ISS|acday}}日)</small><ref name="名前なし-1">[http://www.heavens-above.com/orbit.aspx?satid=25544 www.heavens-above.com] {{ISSIB|ISS|acyear}}年{{ISSIB|ISS|acmonthname}}{{ISSIB|ISS|acday}}日</ref>
| apogee = {{ISSIB|ISS|apogee_height}} km<small>({{ISSIB|ISS|acyear}}年{{ISSIB|ISS|acmonthname}}{{ISSIB|ISS|acday}}日)</small><ref name="名前なし-1"/>
| inclination = 51.6419 [[度 (角度)|度]]
| speed = 27,743.8 [[キロメートル毎時|km/h]]<br/> (17,239.2 [[マイル毎時|mph]], 7,706.6 [[メートル毎秒|m/s]])
| period = 約91 分
| in_orbit = {{age in days|1998|11|20}}日<br/><small>({{CURRENTYEAR}}年{{CURRENTMONTHNAME}}{{CURRENTDAY2}}日)</small><!--Self-updating-->
| occupied = {{age in days|2000|10|31}}日<br/><small>({{CURRENTYEAR}}年{{CURRENTMONTHNAME}}{{CURRENTDAY2}}日)</small><!--Self-updating-->
| orbits = 約{{#expr:floor ({{age in days|1998|11|20}} * 15.78224218)}}回<br/><small>({{CURRENTYEAR}}年{{CURRENTMONTHNAME}}{{CURRENTDAY2}}日)</small><!--Self-updating-->
| decay = 2 km/月
| NSSDC_ID = 1998-067A
| as_of = 2009年11月27日
| stats_ref =<ref name="ISStD">{{Cite web|url=http://spaceflight.nasa.gov/station/isstodate.html|title=The ISS to Date|accessdate=28 November 2009|publisher=NASA|date=27 November 2009|author=NASA}}</ref><ref name="iss-height">{{cite web|url=http://www.heavens-above.com/issheight.aspx|title=ISS Height Profile|accessdate=15 October 2007|publisher=Heavens-Above.com}}</ref><ref name="OnOrbit">{{cite web|url=http://www.nasa.gov/externalflash/ISSRG/pdfs/on_orbit.pdf|title=On-Orbit Elements|publisher=NASA|author=NASA|date=29 May 2009|accessdate=28 November 2009|format=PDF|archiveurl=https://web.archive.org/web/20091029013438/http://www.nasa.gov/externalflash/ISSRG/pdfs/on_orbit.pdf|archivedate=2009年10月29日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref><ref name="heavens-above">{{cite web|url=http://www.heavens-above.com/orbit.aspx?satid=25544|title=ISS—Orbit Data|publisher=Heavens-Above.com|author=Chris Peat|date=27 November 2009|accessdate=28 November 2009}}</ref><ref name="Space.com">{{cite web|url=http://www.space.com/missionlaunches/missions/fl_alpha_010201.html|title=NASA Yields to Use of Alpha Name for Station|author=Steven Siceloff|date=1 February 2001|publisher=''Florida Today''|accessdate=18 January 2009|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090309151632/http://www.space.com/missionlaunches/missions/fl_alpha_010201.html|archivedate=2009年3月9日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref><ref>{{cite web|url=http://spaceflight.nasa.gov/realdata/sightings/index.html|publisher=NASA|accessdate=19 December 2009|date=3 June 2008|title=Human Space Flight (HSF) - Realtime Data}}</ref>
| configuration_image = ISS configuration 2021-07 en.svg
| configuration_alt = The components of the ISS in an exploded diagram, with modules on-orbit highlighted in orange, and those still awaiting launch in blue or pink.
| configuration_caption = 2021年7月現在のモジュール構成図<br/>([[分解図|分解組立図]])
}}
[[ファイル:ISSFinalConfigEnd2006.jpg|thumb|240px|CGによる完成予想図。]]
'''国際宇宙ステーション'''(こくさいうちゅうステーション、{{Lang-en-short|International Space Station、略称:'''ISS'''}}、{{Lang-fr-short|Station spatiale internationale、略称:'''SSI'''}}、{{Lang-ru-short|Междунаро́дная косми́ческая ста́нция、略称:'''МКС'''}})は、[[低軌道]]にあるモジュール式の[[宇宙ステーション]](居住可能な人工衛星)である。これは、[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]([[米国]])、[[ロスコスモス]]([[ロシア]])、[[宇宙航空研究開発機構|JAXA]]([[日本]])、[[欧州宇宙機関|ESA]]([[ヨーロッパ]])、[[カナダ宇宙庁|CSA]](カナダ)の5つの宇宙機関が参加する多国籍共同プロジェクトである<ref name="ISSRG">{{Cite book|last=Gary Kitmacher|title=Reference Guide to the International Space Station|journal=Apogee Books Space Series|publisher=[[Apogee Books]]|year=2006|isbn=978-1-894959-34-6|location=Canada|pages=71–80|issn=1496-6921}}</ref><ref name="PartStates">{{Cite web |year=2009 |title=Human Spaceflight and Exploration – European Participating States |url=http://www.esa.int/esaHS/partstates.html |accessdate=17 January 2009 |publisher=European Space Agency (ESA)}}</ref>。宇宙ステーションの所有権と使用は、政府間条約と協定によって確立されている<ref name="ESA-IGA">{{Cite web |date=19 November 2013 |title=International Space Station legal framework |url=http://www.esa.int/Our_Activities/Human_Spaceflight/International_Space_Station/International_Space_Station_legal_framework |accessdate=21 February 2015 |publisher=European Space Agency (ESA)}}</ref>。この宇宙ステーションは[[宇宙生物学]]、[[天文学]]、[[気象学]]、[[物理学]]などの分野で科学研究を行う微小重力と宇宙環境の研究所として機能する<ref name="ISS overview">{{Cite web |date=3 June 1999 |title=International Space Station Overview |url=http://www.shuttlepresskit.com/ISS_OVR/index.htm |accessdate=17 February 2009 |publisher=ShuttlePressKit.com}}</ref><ref name="NASA Fields of Research">{{Cite web |date=26 June 2007 |title=Fields of Research |url=http://pdlprod3.hosc.msfc.nasa.gov/A-fieldsresearch/index.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080123150641/http://pdlprod3.hosc.msfc.nasa.gov/A-fieldsresearch/index.html |archivedate=23 January 2008 |publisher=NASA |access-date=2022-04-13}}</ref><ref name="NASA ISS Goals">{{Cite web |date=26 June 2007 |title=Getting on Board |url=http://pdlprod3.hosc.msfc.nasa.gov/B-gettingonboard/index.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20071208091537/http://pdlprod3.hosc.msfc.nasa.gov/B-gettingonboard/index.html |archivedate=8 December 2007 |publisher=NASA |access-date=2022-04-13}}</ref>。ISSは、[[月]]と[[火星]]への将来の長期ミッションに必要な宇宙船システムと機器のテストに適している<ref name="ISS overview2">{{Cite web |date=3 June 1999 |title=International Space Station Overview |url=http://www.shuttlepresskit.com/ISS_OVR/index.htm |accessdate=17 February 2009 |publisher=ShuttlePressKit.com}}</ref><ref name="NASA Fields of Research2">{{Cite web |date=26 June 2007 |title=Fields of Research |url=http://pdlprod3.hosc.msfc.nasa.gov/A-fieldsresearch/index.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080123150641/http://pdlprod3.hosc.msfc.nasa.gov/A-fieldsresearch/index.html |archivedate=23 January 2008 |publisher=NASA |access-date=2022-04-13}}</ref><ref name="NASA ISS Goals2">{{Cite web |date=26 June 2007 |title=Getting on Board |url=http://pdlprod3.hosc.msfc.nasa.gov/B-gettingonboard/index.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20071208091537/http://pdlprod3.hosc.msfc.nasa.gov/B-gettingonboard/index.html |archivedate=8 December 2007 |publisher=NASA |access-date=2022-04-13}}</ref>。
ISSプログラムは、1984年に恒久的に有人の地球周回ステーションを建設するために考案されたアメリカの提案である宇宙ステーション[[フリーダム宇宙ステーション|フリーダム]]<ref>{{Cite web |author=Roberts |first=Jason |date=19 June 2020 |title=Celebrating the International Space Station (ISS) |url=http://www.nasa.gov/image-feature/celebrating-the-international-space-station-iss-0 |website=NASA |access-date=2022-04-13}}</ref>と、1976年からの同様の目的を持つ同時期の[[ソビエト連邦|ソビエト]]/ロシアの[[ミール|ミール2]]提案から発展した。ISSは、ソビエト、後にロシアの[[サリュート]]、[[アルマース (宇宙ステーション)|アルマース]]、[[ミール]]の各ステーションとアメリカの[[スカイラブ計画|スカイラブ]]に続いて、乗組員が居住する9番目の宇宙ステーションである。これは、宇宙で最大の[[人工衛星]]であり、低軌道で最大の衛星であり、地球の表面から肉眼で定期的に見ることができる<ref>{{Cite web |title=Central Research Institute for Machine Building (FGUP TSNIIMASH) Control of manned and unmanned space vehicles from Mission Control Centre Moscow |url=ftp://130.206.92.88/Espacio/Mesa%20Redonda%205%20-%20R3%20-%20TSNIIMASH%20-%20V%20M%20IVANOV.pdf |accessdate=26 September 2011 |publisher=Russian Federal Space Agency}}</ref><ref>{{Cite web |date=30 November 2011 |title=NASA Sightings Help Page |url=http://spaceflight.nasa.gov/realdata/sightings/help.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160905161117/http://spaceflight.nasa.gov/realdata/sightings/help.html |archivedate=5 September 2016 |accessdate=1 May 2012 |publisher=Spaceflight.nasa.gov}}</ref>。[[ズヴェズダ (ISS)|ズヴェズダ]]サービスモジュールまたは訪問している宇宙船のエンジンを使用した再ブースト操作により平均高度400 km(250マイル)の軌道を維持する<ref>{{Cite web |date=2019-02-14 |title=NASA – Higher Altitude Improves Station's Fuel Economy |url=https://www.nasa.gov/mission_pages/station/expeditions/expedition26/iss_altitude.html |accessdate=2019-05-29 |website=nasa.gov |language=en}}</ref>。ISSは約93分で地球を一周し、1日あたり地球を15.5周回する<ref name="tracking">{{Cite web |date=15 December 2008 |title=Current ISS Tracking data |url=http://spaceflight.nasa.gov/realdata/tracking/index.html |accessdate=28 January 2009 |publisher=NASA |archivedate=25 December 2015 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20151225022741/http://spaceflight.nasa.gov/realdata/tracking/index.html}}</ref>。
ステーションは2つのセクションに分かれている。[[ロシア軌道セグメント]] (ROS) はロシアによって運営されており、米国軌道セグメント (USOS) は米国と他の国によって運営されている。ロシアセグメントには6つのモジュールが含まれている。米国のセグメントには10のモジュールが含まれており、そのサポートサービスはNASAで76.6%、JAXAで12.8%、ESAで8.3%、CSAで2.3%に分散されている。
ロスコスモスは、2024年までROSの継続的な運用を承認しており<ref name="sn20150225">{{Cite news|last=de Selding|first=Peter B.|date=25 February 2015|title=Russia – and Its Modules – To Part Ways with ISS in 2024|newspaper=Space News|url=http://spacenews.com/russia-and-its-modules-to-part-ways-with-iss-in-2024/|accessdate=26 February 2015}}</ref>、以前はセグメントを使用して[[OPSEK]]と呼ばれる新しいロシアの宇宙ステーションを建設することを提案していた<ref name="moscow20141117">{{Cite news|last=Bodner|first=Matthew|date=17 November 2014|title=Russia May Be Planning National Space Station to Replace ISS|newspaper=The Moscow Times|url=http://www.themoscowtimes.com/business/article/russia-may-be-planning-national-space-station-to-replace-iss/511299.html|accessdate=3 March 2015}}</ref>。最初のISSコンポーネントは1998年に打ち上げられ、最初の長期居住者は2000年10月31日に[[バイコヌール宇宙基地]]から打ち上げられた後、2000年11月2日に到着した<ref name="名前なし-2">{{Cite news|date=31 October 2000|title=First crew starts living and working on the International Space Station|newspaper=European Space Agency|url=https://www.esa.int/Our_Activities/Human_Spaceflight/International_Space_Station/First_crew_starts_living_and_working_on_the_International_Space_Station}}</ref>。それ以来、このステーションは21年118日間継続して使用されており<ref name="名前なし-2"/>、ミール宇宙ステーションが保持していた過去の記録である9年357日を超えて、低軌道で最も長く継続的な人工の存在となっている。最新の主要な加圧モジュールである[[多目的実験モジュール|''Nauka'']]は、前回の主要な追加である2011年の[[恒久型多目的モジュール|''Leonardo'']]から10年余り後の2021年に取り付けられた。宇宙ステーションの開発と組み立ては継続され、2016年に実験的な膨張式宇宙居住施設が追加され、いくつかの主要な新しいロシアのモジュールは2021年に打ち上げが予定されている。2022年1月、ステーションの運用許可は2030年まで延長され、その年を通じて資金が確保された<ref>{{Cite web |url=https://blogs.nasa.gov/spacestation/2021/12/31/biden-harris-administration-extends-space-station-operations-through-2030/ |title=Biden-Harris Administration Extends Space Station Operations Through 2030 – Space Station |website=blogs.nasa.gov |access-date=2022-04-13}}</ref><ref name="auto">{{Cite web |author=Nelson |first=Senator Bill |date=20 December 2018 |title=The Senate just passed my bill to help commercial space companies launch more than one rocket a day from Florida! This is an exciting bill that will help create jobs and keep rockets roaring from the Cape. It also extends the International Space Station to 2030! |url=https://twitter.com/SenBillNelson/status/1075840067569139712 |access-date=2022-04-13}}</ref>。その後、将来の月と火星のミッションを追求するためにISSの運用を民営化するよう求められており、元[[NASA長官]]のジム・ブライデンスティンは「現在の予算の制約を考えると、月に行きたい、火星に行きたいのであれば、低軌道を商業化して次のステップに進む必要がある。」と述べている<ref name=":12">{{Cite web |date=2018-09-27 |title=House joins Senate in push to extend ISS |url=https://spacenews.com/house-joins-senate-in-push-to-extend-iss/ |accessdate=2021-05-09 |website=SpaceNews |language=en-US}}</ref>。
ISSは、加圧された居住モジュール、構造トラス、太陽光発電ソーラーアレイ、熱ラジエーター、[[宇宙機のドッキングおよび係留|ドッキングポート]]、実験ベイ、ロボットアームで構成されている。主要なISSモジュールは、ロシアの[[プロトンロケット]]と[[ソユーズロケット]]、および米国の[[スペースシャトル]]によって打ち上げられた<ref name=":13">{{Cite web |date=2018-09-27 |title=House joins Senate in push to extend ISS |url=https://spacenews.com/house-joins-senate-in-push-to-extend-iss/ |accessdate=2021-05-09 |website=SpaceNews |language=en-US}}</ref>。宇宙ステーションは、さまざまな訪問する宇宙船によって整備されている(ロシアの[[ソユーズ]]と[[プログレス補給船|プログレス]]、スペースX[[ドラゴン2]]、[[ノースロップ・グラマン|ノースロップグラマン]]宇宙システム[[シグナス (宇宙船)|シグナス]]<ref>{{Cite web |title=Northrop Grumman Announces Realigned Operating Sectors – WashingtonExec |date=25 September 2019 |url=https://washingtonexec.com/2019/09/northrop-grumman-announces-realigned-operating-sectors/ |accessdate=2021-08-02 |language=en-US}}</ref>、そして以前はヨーロッパの[[欧州補給機|ATV]]、日本の[[宇宙ステーション補給機|H-II補給機]]<ref name="ISSRG2">{{Cite book|last=Gary Kitmacher|title=Reference Guide to the International Space Station|journal=Apogee Books Space Series|publisher=[[Apogee Books]]|year=2006|isbn=978-1-894959-34-6|location=Canada|pages=71–80|issn=1496-6921}}</ref>、スペースX[[ドラゴン (宇宙船)|ドラゴン1]])。ドラゴン宇宙船は、加圧された貨物を地球に戻すことを可能にする。これは、例えばさらなる分析のために科学実験を帰還させるために使用される。2021年12月の時点で、19か国から251人の宇宙飛行士、宇宙旅行者が宇宙ステーションを訪れた。その多くは何度も訪れている。これには、155人のアメリカ人、52人のロシア人、11人の日本人、8人のカナダ人、5人のイタリア人、4人のフランス人、同じく4人のドイツ人とそれぞれ1人のベルギー人、オランダ人、スウェーデン人、ブラジル人、デンマーク人、カザフスタン人、スペイン人、イギリス人、マレーシア人、南アフリカ人、韓国人、[[アラブ首長国連邦|UAE]]人が含まれる<ref>[https://www.nasa.gov/feature/visitors-to-the-station-by-country/ Visitors to the Station by Country] NASA, 8 December 2021. {{PD-notice}}</ref>。
== 参加国・関係国 ==
国際宇宙ステーションの開発は、[[1988年]]9月に締結された日米欧の政府間協定により着手された。[[1998年]]にはロシア、スウェーデン、スイスを加えた国際宇宙ステーション協定<ref>民生用国際宇宙基地のための協力に関するカナダ政府、欧州宇宙機関の加盟国政府、日本国政府、ロシア連邦政府及びアメリカ合衆国政府の間の協定</ref>が署名され、これによりISS計画の参加国は、アメリカ、ロシア、カナダ、日本、[[欧州宇宙機関]] (ESA) 加盟の各国(ベルギー、デンマーク、フランス、ドイツ、イタリア、オランダ、ノルウェー、スペイン、スウェーデン、スイス、イギリス)の15カ国となっている<ref>[https://iss.jaxa.jp/kids/station/01.html 宇宙ステーションキッズ「国際宇宙ステーション計画ってなに?」] (JAXA)</ref>。これとは別に、[[ブラジル宇宙機関]]がアメリカと二国間協定を結んで参加している。また、[[イタリア宇宙機関]]はESAを通じてだけでなく、[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]との直接契約で[[多目的補給モジュール]]を開発している。
[[中華人民共和国|中国]]は[[2007年]]にISSへの参加を打診したが<ref>{{Wayback|url=http://www.technobahn.com/cgi-bin/news/read2?f=200710171502|title=中国、国際宇宙ステーションへの参加を公式に打診|date=200710171502}}</ref>、アメリカの反対により認められず<ref>{{Cite web|和書|title=中国の宇宙ステーション、建設進む-数日中に飛行士3人送り込む |url=https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2022-05-30/RCONOJT0G1KW01 |website=Bloomberg.com |access-date=2022-07-25 |language=ja}}</ref>、独自の宇宙ステーションである「[[中国宇宙ステーション]]」を運用中である。[[インド]]もISSへの参加を希望するも他の参加国の反対に遭ったため、独自の宇宙ステーションの建設を決定した<ref>{{Cite news|date = 2019年6月15日|newspaper = [[AFPBB]]|title = インド、宇宙ステーション計画を発表|url = https://www.afpbb.com/articles/-/3230135|accessdate = 2019-06-23}}</ref>。
[[ロシア]]は[[2021年]]に、[[2025年]]に独自の宇宙ステーションを打ち上げ、ISSから撤退すると発表した<ref name="kokufan823">井上孝司「航空最新ニュース・海外装備宇宙 ロシアが独自ステーション建設ISSから撤退へ」『[[航空ファン (雑誌)|航空ファン]]』通巻823号(2021年7月号)文林堂 P.114</ref>。翌2022年の[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ウクライナ侵攻]]を期に、[[2024年]]以降に撤退することも表明する<ref>{{Cite web|url=https://japan.cnet.com/article/35191259/|title=ロシアのISS撤退表明、その影響は--相互依存の運用はどうなる?|accessdate=2022-08-05}}</ref>。しかし自前の宇宙ステーションの建設開始が遅れるとの見込みから、最終的には[[2028年]]までの参加延長を決定している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20230412-OG5NJ45NHZOAFKBLKTNWS3OKZM/|title=2028年までISS参加延長 ロシア宇宙企業が決定|publisher=[[産経新聞]]|date=2023-04-12|accessdate=2023-05-18}}</ref>。
== 計画推移 ==
{{See also|フリーダム宇宙ステーション}}
国際宇宙ステーション計画が最初に持ち上がったのは、1980年代初期の[[アメリカ合衆国大統領|米大統領]]の[[ロナルド・レーガン|レーガン]]による[[冷戦]]期における[[西側諸国]]の宇宙ステーション「フリーダム計画」である。この計画は、西側の結束力をアピールして[[ソビエト連邦]]に対抗する政治的な意図が非常に強いものであった。搭乗人数は出資比率によって定められたが、米国、欧州、カナダ、日本の飛行士がそれぞれ、必ず年間を通して滞在できることになっていた。しかし、米国や欧州の財政難、[[スペースシャトル]]「[[スペースシャトル・チャレンジャー|チャレンジャー]]」の[[チャレンジャー号爆発事故|爆発事故]]、続く冷戦終結による政治的アピールの必要性低下によって計画は遅々として進まなかった。計画は「アルファ」に変更、ステーションの規模も大幅に縮小され、米国を含めて搭乗人数を削減し、各国の滞在期間も短縮した。
一方、ソ連は「[[サリュート]]」に続く宇宙ステーション「[[ミール]]」による宇宙滞在を実現していたが、1991年末の[[ソビエト連邦の崩壊]]による混乱と財政難で、ミールは宇宙空間で劣化した。米国はロシアを取り込む目的もあって、アルファとミール(ミール2)を統合する計画を持ちかけたが、ロシアは新しいモジュール「[[ザーリャ]]」他を打ち上げる意欲を示した為、完全な新型宇宙ステーションとしてISS計画が開始された。しかし、ISS計画ではロシアの発言力が非常に大きくなり、常時ロシア人飛行士が滞在することとなった為、日欧加飛行士の滞在期間や搭乗人数は増加しなかった。
1998年にロシアが製造したザーリャモジュールが打ち上げられてISSの建設が開始されたが、2003年にスペースシャトル「[[スペースシャトル・コロンビア|コロンビア]]」の[[コロンビア号空中分解事故|空中分解]]によって建設は一時中断し、その後の調整で建設規模が縮小、米露はともかく、日欧加の飛行士がどれだけ滞在できるかは未知数となった。
== 宇宙飛行士の滞在 ==
{{Main|国際宇宙ステーション長期滞在一覧}}
ISSに滞在するクルーは当初は3人、2003年2月のコロンビア号事故後しばらくは2人であった。2009年5月29日からは6人に増加された。
ISSに滞在する正式クルーは政府間協定締結国に限られている(滞在権について各国・機関毎に枠がある)。一方で、参加国・機関が別途民間人と商業契約を結び、自国枠を提供しISSに滞在させる[[宇宙飛行関係者]]という区分があり、これまでロシアのみが商業契約を結び、民間人を滞在させている<ref group="注">これまでに商業契約を結んでISSに滞在した者は、自費で費用を支弁した[[デニス・チトー]]、[[マーク・シャトルワース]]、[[グレゴリー・オルセン]]、[[アニューシャ・アンサリ]]、[[チャールズ・シモニー]]、[[リチャード・ギャリオット]]、[[ギー・ラリベルテ]]、[[前澤友作]]と[[平野陽三]]の[[宇宙旅行|宇宙旅行者]]9人と、ロシアとの国家間協定に基づき宇宙に行ったマレーシアの[[シェイク・ムザファ・シュコア]]、国家が商用旅行の権利を購入したことにより宇宙へ行った韓国の[[李素妍 (宇宙飛行関係者)|イ・ソヨン]]の2人、計11名である。</ref>。
== 建設 ==
[[ファイル:Shuttle_delivers_ISS_P1_truss.jpg|thumb|right|210px|国際宇宙ステーションの構造物を運ぶエンデバー。]]
ISSの建設は組立部品及び作業のため、50回以上の打ち上げが要求された。それらの打ち上げの39回は[[スペースシャトル]]による打ち上げである。比較的小型な部品は[[プログレス補給船]]といった[[無人宇宙補給機]]によって運ばれる。組立が完了した時点のISSは、体積1,200立方メートル、重量419トン、最大発生電力110キロワット、[[トラス (ISS)|トラス]](横方向)の長さ108.4メートル、進行方向の長さ74メートル、最大滞在人数は6名となった。
ステーションはいくつかのモジュール及び要素で構成される。
{{Main2|ISSの主要な部品の組立順序|国際宇宙ステーション組立順序}}
; すでに打ち上げられたもの
* 「[[ザーリャ]]」 (FGB) 基本機能モジュール 米(製造は露)1998年11月20日
* 「[[ユニティ (ISS)|ユニティ]]」 (Node 1) 結合モジュール1 米 1998年12月4日
* 「[[ズヴェズダ (ISS)|ズヴェズダ]]」 居住モジュール 露 2000年7月12日
* 「[[デスティニー (ISS)|デスティニー]]」(LAB) 米国実験棟 米 2001年2月
* 「[[クエスト (ISS)|クエスト]]」 エアロック 米 2001年7月
* 「[[ピアース (ISS)|ピアース]]」 (DC-1) ロシアのドッキング室・エアロック 2001年9月
* 「[[カナダアーム2]]」 (SSRMS) カナダ 2001年4月
* 「[[トラス (ISS)|トラス]]」
** Z1トラス 米 2000年10月
** P6トラス 米 2000年12月
** S0トラス 米 2002年7月
** S1トラス 米 2002年10月
** P1トラス 米 2002年11月
** P3/P4トラス 米 2006年9月
** P5トラス 米 2006年12月
** S3/S4トラス 米 2007年6月
** S5トラス 米 2007年8月
** S6トラス 米 2009年3月
* 「[[ハーモニー (ISS)|ハーモニー]]」 (Node 2) 結合モジュール2 米(製造は欧)2007年11月
* 「[[コロンバス (ISS)|コロンバス]]」 欧州実験棟 欧 2008年2月
* 「[[きぼう]]」 (JEM) 日本実験棟の船内保管室 日 2008年3月
** 船内実験室とロボットアーム 日 2008年5月
** 船外実験プラットフォームと船外パレット - 日、2009年7月(船外パレットは輸送のみに使い回収)
* 「[[ミニ・リサーチ・モジュール2|ポイスク]]」 (MRM-2) ミニ・リサーチ・モジュール2 露、2009年11月
* 「[[ノード3|トランクウィリティ]]」(Node 3) 結合モジュール3 米(製造は欧)2010年2月
* 「[[キューポラ (ISS)|キューポラ]]」 欧 2010年2月
* 「[[ミニ・リサーチ・モジュール1|ラスヴェット]]」 (MRM-1) ミニ・リサーチ・モジュール1 露 2010年5月
* 「[[恒久型多目的モジュール|恒久的多目的モジュール]]」 (PMM) : [[多目的補給モジュール|MPLM]]「レオナルド」を改造 - 欧 2011年2月
* 「[[アルファ磁気分光器]]」 (AMS-02) - 大型実験装置、米 2011年5月
* 「[[多目的実験モジュール|ナウカ]]」 (MLM) 多目的実験モジュール 露 2021年7月<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20210730004213/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021073000297&g=int |title=実験棟「ナウカ」、ISSとドッキング成功 ロシア |publisher=時事通信ドットコム |date=2021-07-30 |accessdate=2021-08-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20210729152713/https://nordot.app/793499707188953088?c=39550187727945729 |title=ロシア初の実験棟、ISSに連結 「ナウカ」、国営企業が開発 |publisher=共同通信社 nordot |date=2021-07-30 |accessdate=2021-08-01}}</ref> [[プロトン-M]]ロケットにより打ち上げ<ref name="uchiage">{{Cite web|和書|url=https://sorae.info/space/20210722-iss-nauka.html |title=ISS新モジュール「ナウカ」打ち上げ成功、ISSには7月29日夜にドッキングの予定 |publisher=SORAE(文・松村武宏) |date=2021-07-22 |accessdate=2021-08-01}}</ref>
* <!--; [[プロトンロケット]]による打ち上げを予定-->「[[欧州ロボットアーム|欧州ロボットアーム」]] (ERA) 欧 2021年7月 ナウカ (MLM) に装着され同時打ち上げ<ref name="uchiage" />
; 定期的な補給ミッションで使用
* [[多目的補給モジュール]] (MPLM) 米(製造はイタリア)(シャトルの退役に伴い退役)
: 「レオナルド」、「ラファエロ」の2基を使用
: <!-- リストが分断されるバグを回避するための行 -->
<!--; [[ソユーズロケット]]による打ち上げを予定
{{節スタブ}}-->
: <!-- リストが分断されるバグを回避するための行 -->
; キャンセルされたモジュールや構成要素
* [[ロシア研究モジュール]] 1基に削減
* [[ミニ・リサーチ・モジュール1|ドッキング保管モジュール (DSM×2)]] - 露、キャンセル
* [[科学電力プラットフォーム]] - 露、キャンセル
* [[汎用ドッキングモジュール]] - 露、キャンセル
: 多目的実験モジュールと統合
* [[暫定制御モジュール]] - 米、キャンセル
: [[ズヴェズダ (ISS)|ズヴェズダ]]の打ち上げ成功により不要となった
* [[ISS推進モジュール|米国推進モジュール]] - 米、キャンセル
* [[居住モジュール|米国居住モジュール]] - 米、キャンセル
* [[セントリフュージ|セントリフュージ環境モジュール (CAM)]] - 米、キャンセル
* [[X-38 (航空機)|X-38乗員帰還機 (CRV)]] - 米、キャンセル
: 現在は[[ソユーズ|ソユーズ宇宙船]]で代替 将来は[[ドラゴン2]]と[[CST-100]]に交代する方針
: <!-- リストが分断されるバグを回避するための行 -->
; 他の主要なシステム
* アメリカ [[トラス (ISS)#太陽電池パドル|太陽電池パドル]] - S4, S6, P4, P6トラスに設置
* アメリカ [[ドラゴン (宇宙船)|ドラゴン宇宙船]] - 無人補給船
* カナダ [[カナダアーム2#モービルベースシステム|モービルベースシステム]](カナダアーム2のベース部)
* ロシア [[ソユーズ|ソユーズ宇宙船]] - 乗員交代及び緊急避難用、6か月ごとに交換
* ロシア [[プログレス補給船]] - 無人補給船
* ヨーロッパ (ESA) [[欧州補給機]] (ATV) - 無人補給船
* 日本 (JAXA) [[宇宙ステーション補給機]] (H-II Transfer Vehicle: HTV) - 無人補給船
== 基本構造 ==
総体積は約935立方メートル、質量は約420トン<ref>{{Cite web|url = https://www.jaxa.jp/projects/iss_human/kibo/index_j.html|title = JAXA | 「きぼう」日本実験棟/国際宇宙ステーション(ISS)|accessdate = 2023-3-31|publisher = JAXA}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url = https://iss.jaxa.jp/gallery/sp-museum/c01_iss/#2|title = JAXA SPACE PHOTO MUSEUM > ISSの大きさ|accessdate = 2015-12-9|publisher = JAXA}}</ref>。
ISSの構成は、アメリカ側与圧モジュール、ロシア側与圧モジュール、トラスによる3つの部分に区分することができる。ISSの中央部には、進行方向に与圧モジュールが直列に連結しており、さらに枝状にもモジュールが取り付けられている。これと直交して、左右方向にトラス構造物が取り付けられている。与圧モジュールとトラスの交点は、それぞれ[[デスティニー (ISS)|デスティニー]]と[[トラス (ISS)#S0トラス|S0トラス]]で、ここ以外に与圧モジュールとトラスの結合部はない。
=== 与圧モジュール ===
滞在する宇宙飛行士の居住と作業の空間で、内部は地球の海抜0メートル上と同じ1,013[[パスカル (単位)|hPa]]の[[空気]]で満たされるように制御されている。[[温度]]、[[湿度]]、成分が調節され、乗員は地上と変わらない軽装で活動することができる。生活に必要な生命維持システムや居住のための装置、ISSの目的である様々な実験装置のほか、ISSの運用に必要なシステム機器なども設置されており、多くの機器はモジュール内でメンテナンスや交換が可能である。
基本的な機能を有するモジュールは、列車のように1列に連結されている。先頭から[[ハーモニー (ISS)|ハーモニー]]、[[デスティニー (ISS)|デスティニー]]、[[ユニティ (ISS)|ユニティ]]、[[ザーリャ]]、[[ズヴェズダ (ISS)|ズヴェズダ]]、[[多目的実験モジュール|ナウカ]]の順である。これらのモジュールのうち、ズヴェズダ以外はアメリカの資金で製造され、アメリカが所有権を有しているが、ザーリャはロシアに開発、製造、運用を委託している。ズヴェズダはロシアのモジュールである。一般に、ユニティより前側を「アメリカ側」、ザーリャより後側を「ロシア側」と呼ぶ。
アメリカ側モジュールとロシア側モジュールは、設計が全く異なっている。ユニティとザーリャは直接結合することができないため、[[与圧結合アダプタ]] (PMA-1) を介して接続されている。電力や通信も、PMA-1を通じて接続されている。
==== アメリカ側モジュール ====
[[ファイル:ISS Destiny Lab.jpg|thumb|代表的なアメリカ側モジュール、デスティニー。]]
ユニティより前方のモジュールは、[[フリーダム宇宙ステーション|フリーダム計画]]から流用されたもので、NASAの標準設計や安全基準を適用しているため、一般に「アメリカ側」と呼ばれる。日欧の実験モジュールも、アメリカ側に含まれる。これらのモジュールはいずれも直径4.4メートルの円筒形だが、これはスペースシャトルのペイロードベイの寸法に合わせたためである。内部は、[[国際標準実験ラック]] (ISPR) を4面に取り付ける設計で標準化されており、日米欧のモジュール間でラックを移設できる互換性を備えている。
モジュール同士の結合には[[共通結合機構]] (CBM) を用いているため、モジュールを任意に移設することができる。また、[[宇宙ステーション補給機|HTV]]や[[ドラゴン (宇宙船)|ドラゴン宇宙船]]もCBMを使用して結合する。CBMは大型で高機能の結合機構だが、自動ドッキングには対応しておらず、ロボットアームを使用して接触させたあと、電動の結合装置で結合する構造である。
なお、アメリカ側でもスペースシャトルのドッキングだけは、ロシアが開発した[[アンドロジナスドッキング機構]]を使用しているため、ユニティ(ノード3「[[トランクウィリティー (ISS)|トランクウィリテイー]]」設置後はトランクウィリテイーに移設された。2015年にはハーモニーに移設予定)とハーモニーにスペースシャトル用のPMAが設置されており、最終的にはハーモニーのPMA-2のみを使用していた。このPMA-2にはISSからスペースシャトルに電力を供給する配線が施されており、ISS係留中のスペースシャトルの電力を節約することができた<ref group="注">スペースシャトルの電源には[[燃料電池]]を使用しているため、ISSから電力供給を受ければ燃料(液体酸素と液体水素)を節約できる。これにより係留期間を延長して、シャトル搭乗員による作業を増やすことができるようになった。</ref>。
アメリカ側モジュールは発電機構や推進装置をそれぞれに設置されておらず、ロシア側のモジュールのようには単体では機能できない。スペースシャトルで輸送されてISSのシステムに組み入れられて初めて、稼働することができる。
==== ロシア側モジュール ====
[[ファイル:Unity-Zarya-Zvezda STS-106.jpg|thumb|ロシア側を主体とした、組立初期のISS。]]
{{Main|ロシア軌道セグメント}}
ザーリャより後方のモジュールは、ミール2計画から流用されたもので、ロシアの標準設計や安全基準を適用しているため、一般に「ロシア側」と呼ばれる。アメリカが所有するザーリャ、ロシアが独自資金で設置するズヴェズダが該当する。ロシアセグメントの開発にはESAも協力しており、ズヴェズダのコンピュータや、[[欧州ロボットアーム]] (ERA) を開発している。日本はロシア側モジュールも実験に利用しているが、基本的にはアメリカ側に含まれるきぼうを使用する。
ロシア側の特徴は、主要なモジュールが単独で宇宙船としての機能を備えていることである。それぞれのモジュールにエンジンや自動操縦装置、通信システム、太陽電池パネルを備えており、単独で飛行して、自力でドッキングすることができる。これは、ロシアの宇宙ステーションの伝統的な手法である。このため、相当の規模まで組み立てなければ「自立」できないアメリカ側に先立って、まずロシア側を打ち上げて単独の宇宙ステーション(事実上はミール2そのもの)を稼働させ、そこにアメリカ側を増設する手法をとることで、ISS初期の費用削減に貢献した。
ザーリャとズヴェズダは段階的にアメリカ側モジュールに機能を譲り、ザーリャは後年には通路兼、荷物置き場になった。対してズヴェズダは、ISSの軌道高度や姿勢を維持する役割を担っているほか、米国と分担して環境制御の役割も担っている。また[[宇宙旅行|宇宙旅行者]]もズヴェズダに滞在する<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=前澤友作氏が滞在するISSは「老朽化でトラブル続出」空気漏洩も|url=https://www.zakzak.co.jp/article/20211214-GLOHCREOTJLIVJENQE3KZGYFJA/|website=zakzak:夕刊フジ公式サイト|date=2021-12-14|accessdate=2021-12-14|language=ja|first=SANKEI DIGITAL|last=INC}}</ref>。
ロシア側モジュールのドッキングには、[[アンドロジナスドッキング機構|アンドロジナス]]と呼ばれるドッキング装置を使用する。アンドロジナスはCBMより小型だが、鉄道車両のように「衝突」させるだけでドッキング可能であり、自動ドッキングするロシア側モジュールには欠かせない装置である。また、緊急時の退避に使用されるソユーズ宇宙船や、ロシアのプログレス補給船、ESAのATVも、アンドロジナスを使用してロシア側にドッキングする。
ロシア側にも、単独の太陽電池パネル(科学電力プラットフォーム)を増設する計画があったが、費用削減のため中止になった。不足する電力は、アメリカ側の太陽電池から供給されている。
2021年7月、ピアースを分離し、[[多目的実験モジュール|ナウカ]]がドッキングした。これまでピアースはドッキングモジュール、あるいは船外活動のためのエアロックとしての用途であったが、ナウカへの入れ替えによってもともとのドッキングモジュールとしての機能に加えて実験棟、作業場、生命維持装置、推進器としての機能を持った。また、ピアースと異なりナウカは与圧モジュールとして扱われる。
ズヴェズダは2019年ごろから老朽化による空気漏れなど不具合が指摘されている<ref name=":0" />。
=== トラス ===
[[ファイル:ISS Truss structure.jpg|thumb|トラスと船外活動中の宇宙飛行士。]]
{{Main|トラス (ISS)}}
フリーダム計画では船外作業の基盤として大規模なものが計画されていたが、縮小を重ねた結果、ISSのインフラ機能を担う船外機器の設置場所として使用されている。主要な機能は、太陽電池パドルをはじめとする電源機器、ラジエーターなど廃熱システム、姿勢制御のためのコントロールモーメントジャイロ、アンテナなどの通信機器の設置場所である。フリーダム計画では軌道維持のためのエンジンも設置する予定だったが、この機能はロシア側に移されたため、エンジンを備える予定だったトラスは欠番 (S2, P2) になった。
トラスはISSのなかでも大きな寸法を占めるため、初期には折り畳んだ状態で打ち上げて、軌道上で展開することが検討されていた。しかし、展開したトラスに各種機器を取り付ける手間を考えれば、地上で機器や配管、配線を完成させた状態のトラスを打ち上げた方が効率がよいことがわかり、そのような設計に落ち着いた。
長大なトラス上での作業における[[カナダアーム2]]の移動、船外作業員や物資の運搬にはモバイルベースシステム (MBS) と呼ばれる運搬ベースが使用され、トラスに沿ってガイドレールが設置されている。
トラス上には、船外機器の予備品や、故障して取り外された機器の保管スペースもあり、これを船外実験に利用することもできる。しかし、排熱用の冷媒を供給することはできないため、小型の実験にしか使われない(例外的にAMS-02は大型であるが、独自の熱制御系を有している)。本格的な船外実験装置や宇宙観測装置を設置できるのは、日本のきぼう船外実験プラットフォームだけである。また、ヨーロッパのコロンバスにも、小型の実験装置を設置する機能が設置されているが、きぼうよりは簡易である。
== 主要なシステム ==
[[ファイル:ISS on 20 August 2001.jpg|thumb|2001年、夜のグライダーモードで飛行するISS。]]
=== 電力供給 ===
ISSの電力源は、太陽光を電気に変換する[[太陽電池]]である。組立フライト4A(2000年11月30日の[[STS-97]])以前は、[[ザーリャ]]と[[ズヴェズダ (ISS)|ズヴェズダ]]に装備されたロシアの太陽電池が唯一の電源だった。ISSのロシアの部分は、[[スペースシャトル]]と同じ28ボルトの直流電力を使用する。ISSの他の部分には、[[トラス (ISS)|トラス]]に設置された太陽電池から、130 - 180ボルトの直流電力が供給される。電力は直流160ボルトに安定化されて分配され、さらにユーザーが必要とする124ボルトの直流に変換される。電力はコンバータによってISSの米露のセグメントに分配される。ロシアの科学電力プラットフォームがキャンセルされ、ロシア区画もアメリカが設置した太陽電池の電力供給に依存することになったため、この電力分配機構は重要である。
ISSのアメリカ区画では、高圧(130-160ボルト)配電を行うことで電流を小さくし、電線をより細くすることができて、軽量化できた。
[[トラス (ISS)#トラスのサブシステム|太陽電池パドル]]は、太陽エネルギーを最大にするために、常に太陽を追尾する。パドルは、面積375平方メートル、長さ58メートル。完全に完成した構成では、太陽電池パドルはS3とP3トラスに装備されたアルファジンバル (SARJ) を軌道1周回にあわせて1回転させることによって太陽を追跡する。ベータジンバル (BGA) は軌道面と太陽の角度に合わせて角度を調整するもので、このアルファ軸とベータ軸の2軸の動きを組み合わせることで発生電力を最適化している(発生電力が多すぎる場合も角度を調節することで対処)。米国セグメントの太陽電池による最大発電電力は約120kW。
しかし、主要なトラス構造が打ち上げられるまで、パドルは最終的な設置場所とは垂直な位置であったP6トラスのみに設置されていた。この構成では、右上の写真で示すように、太陽追尾にはベータジンバルしか使えなかった。「夜のグライダー」モードと呼ばれる方法は、夜間は使い道のない太陽電池パドルを進行方向に水平に向けて調整することで、空気抵抗を減らすことができ、高度の低下を抑える事が出来た。
太陽電池が発電した電力は一旦トラス内の充電池に蓄えられてから給電される。当初は[[ニッケル・水素充電池]]48基が使用されていたが老朽化が目立ってきたため、2016年より随時[[GSユアサ]]製の[[リチウムイオン二次電池]]24基に交換される<ref>[https://www.gs-yuasa.com/jp/nr_pdf/20121130.pdf 国際宇宙ステーション用リチウムイオン電池を受注] - GSユアサ・2012年11月30日</ref>。交換用の充電池は全て日本の[[宇宙ステーション補給機]] (HTV) にて1回に6基ずつ輸送、2020年7月に交換を完了した<ref>[http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/200/246181.html 国際宇宙ステーションに日本製バッテリー採用へ] - NHK「かぶん」ブログ・2016年6月2日</ref><ref>{{Cite web|和書|title=「こうのとり」が運んだ日本のリチウムイオン電池を使ってISSが若返りました : 宇宙ステーション補給機(HTV) - 宇宙ステーション・きぼう広報・情報センター - JAXA|url=https://iss.jaxa.jp/htv/mission/htv-9/news/200717.html|website=iss.jaxa.jp|accessdate=2020-08-03}}</ref>。
=== 生命維持 ===
[[ファイル:Cycle_-_2.png|thumb|環境制御・生命維持システム (ECLSS)]]
{{Main|ISS ECLSS}}
ISSの環境制御・生命維持システム (ECLSS) は、気圧、酸素・二酸化炭素の濃度、水、火災消火、その他の要素を提供もしくは制御する。
生命維持に関して常に注意が払われるのはISS内の空気である。酸素の供給は、ロシアの[[エレクトロン (ISS)|エレクトロン]]と米国のOGS (Oxygen Generation System) で行われている。水を電気分解して酸素を作るエレクトロンやOGSが故障したり、交代時に宇宙飛行士が増えたりすると、「[[Vika酸素発生器]](キャンドル)」と呼ばれる円筒形のSFOG(Solid Fuel Oxygen Generator、固体燃料酸素発生装置)を使用する<ref group="注">SFOGは、過塩素酸カリウム (KClO<sub>4</sub>) や過塩素酸リチウム (LiClO<sub>4</sub>) の詰まったカートリッジを缶に入れて点火ピンを引くと、1缶当たり600リットルとヒト1人が1日必要な分の酸素が加熱によって発生するしくみになっている。</ref>。これらの装置の他にもロシアのプログレスやESAのATVによって酸素や空気が運ばれる。2015年初めでATVは退役するため、2014年10月(このシグナス補給船3号機は打ち上げに失敗したため、次のドラゴン5号機から運搬開始)からは商業補給船でも運搬できるNORS (Nitrogen/Oxygen Recharge System) が利用されるようになった<ref>{{cite news | title = Air Supply: High Pressure Tanks Ready for Space Station
| url = http://www.nasa.gov/content/air-supply-high-pressure-tanks-ready-for-space-station/
| publisher = NASA | date = 2014-10-1 | accessdate = 2014-12-27}}</ref>。二酸化炭素の除去は、一度ゼオライトに吸着させてから船外に放出することで再生を繰り返すロシアの「ヴォズドーク」(Vozdoch) と呼ばれる装置と米国の「シードラ」(CDRA) によって行われる。また、一時的に宇宙飛行士が増えた場合や装置の故障時には、水酸化リチウムの入った缶に基地内の空気を通して二酸化炭素を除去する、スペースシャトルと同じしくみの予備の装置も使うことができる。
次に重要なのは乗員が体内から排出したり洗浄などで使用した水や装置由来の水など、水の収集と再生処理である。水はこれまでロシアの「エスエルベーカー」(SRVK) と呼ばれる装置で基地の空気中の湿気を凝結させて回収されていて、スペースシャトルの燃料電池が生む水、最大11キログラム/時間を加えても飲料用や酸素発生装置用で不足する分は、従来年間約6800キログラムが地上から補給されていた<ref group="注">コップ1杯分の水の運賃を計算すると30-40万円に相当するため、6800キログラムもの水を地上から補給しなくて済む方法が求められた。</ref>。これを改善するために[[STS-126]]で運ばれた米国の水再生システム (Water Recovery System, WRS) は、空気中の凝結水だけでなく尿からも水を再生することで<ref group="注">WRSはノード3に設置された米国のトイレ (WHC) から集めた尿を蒸留してから、空気中からの凝結水と一緒にろ過・浄化して飲用を含む清浄水に変える。</ref><ref group="注">トイレは当初の8年間はロシアの実験棟「ズヴェズダ」にあるロシア製のものを共同使用していたが、米国はSTS-126でWHC (Waste and Hygiene Compartment) と呼ぶトイレを新設した。NASAはすでにスペースシャトルで比較的使用回数の少ない使い捨て式のトイレを開発していたが、ステーション用のものを新規に開発すると高価になることから、ズヴェズダにあるものと同様のロシア製トイレを購入したものである。このロシア製は液体分と固体分を分けてタンクに格納しておき、これらが一杯になれば、補給船プログレスに移して船ごと大気中で焼却処分される。無重力であるため液体・固体のいずれも空気を吸い込む気流によってピニールバッグと液体タンクに吸入されて、吸い込んだ空気は厳重なフィルタで臭いが除かれる。液体の吸引は各自が個人専用の受け口をホースに取り付けて使用する。臭気が広がるのを避けるために、ファンが起動する前には便座の蓋が開かないなど、細かな配慮がなされている。</ref>、地上からの水の補給をほとんど必要としなくなった<ref name="国際宇宙ステーションとはなにか">若田光一著、『国際宇宙ステーションとはなにか』、講談社、2009年2月2日第1刷発行、ISBN 9784062576284</ref>。[[有害物質]]や臭いを除去するには、主に[[活性炭]]フィルタを使用しておりロシアのBMPと米国のTCCSが使われている<ref>{{cite news | title = 若田宇宙飛行士ISS長期滞在プレスキット
| url = https://iss.jaxa.jp/iss/jaxa_exp/wakata/iss2_press/wakata_exp2_presskit_a.pdf
| publisher = JAXA | date = 2013-12-5 | accessdate = 2014-12-27}}</ref>。
トイレは、ロシア側のモジュール「ズヴェズダ」とアメリカ側のモジュール「トランクウィリティー」にそれぞれあるが、いずれもロシア製である。2019年には両方故障したこともある<ref>{{Cite web|和書|date=2019-11-27 |url=https://sputniknews.jp/20191127/6868663.html |title=国際宇宙ステーション 全トイレが機能停止=NASA |publisher=スプートニク |accessdate=2019-11-27}}</ref>。
=== 姿勢制御 ===
ISSの姿勢(方向)は、2つのメカニズム(推進式と非推進式)で維持される。通常は、Z1トラスに設置されている米国のコントロール・モーメント・ジャイロ (CMG) 4基を使ってISSを正しい方向、すなわち[[デスティニー (ISS)|デスティニー]]を[[ユニティ (ISS)|ユニティ]]の前方に、P(ポート側の)トラスを左舷側に、[[ピアース (ISS)|ピアース]]を地球側(底側)に向ける。CMGシステムが飽和すると、ISSの姿勢をコントロールすることができなくなってしまうため、その場合は、ロシアの姿勢制御システムが自動的に(外乱が加わる方向と反対方向に)スラスタを噴射して、CMGの飽和をクリアできるように制御しているほか、CMGが使用できない期間のISSの姿勢制御も担当する。[[スペースシャトル]][[オービタ]]がISSにドッキングしていた時は、主にオービタのスラスタ(とCMG)が姿勢制御に使われていた。
=== 高度制御 ===
[[画像:Internationale Raumstation Bahnhöhe (dumb version).png|thumb|right|ISS高度の推移グラフ。<br>特に1999年から2000年前半において、400kmから333kmまで急激に低下しているのがわかる。]]
ISSの軌道は最低高度278 kmから最高高度460 kmの範囲に維持される。最高高度制限は、[[ソユーズ|ソユーズ宇宙船]]のランデブーが可能な425 kmであり、最低高度は、リブースト等の制御ができなくなった状態でも一定期間落下を防いで対応する時間を稼ぐための高度で設定される(このため太陽活動に伴って最低高度制限も変動する)。
ISSの高度は[[大気]]の抵抗<!-- と重力傾斜効果 :重力傾斜は姿勢には影響与えるけど高度低下には直接関係しないと思うので外します-->によって絶えず低下しているので、毎年数回、より高い高度に上昇(リブースト)させる必要がある。高度のグラフは、毎月約2.5 kmずつ徐々に低下することを示している<ref group="注">高度低下率は、太陽活動による大気層の膨張の度合いにより変化するため変動する。また高度が低くなれば大気の密度も増えるため、低下率も増える。</ref>。リブーストはズヴェズダ後方の2基のエンジン、ドッキング中のスペースシャトル・[[プログレス補給船]]・あるいは[[欧州宇宙機関|ESA]]の[[欧州補給機|ATV]]で実行することができる。
高度の上昇は、今後の飛行計画や、[[スペースデブリ]]の接近状況などを考慮して実施される。このため稀にではあるが、高度を若干下げたりもしている。ISSの組み立て段階では、スペースシャトルができるだけ多くのペイロードをISSへ運べるように、高度は比較的低く抑えられていたが、スペースシャトル退役後はおおむね高度400km以上で運用されるようになった。
[[2022年]]2月、[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ロシアによるウクライナ侵攻]]に伴い、高度制御を担うロシア側の区画を運用してきた[[ロスコスモス]]に[[経済制裁]]が加えられた。この際、ロスコスモスの社長は宇宙ごみの回避などを含め、ISSの軌道修正が年平均11回実施されていると具体的な回数を主張し、経済制裁解除を求めたことがあった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3394702?cx_part=topstory |title=制裁でISS落下の恐れ ロシア国営宇宙開発企業 |publisher=AFP |date=2022-03-12 |accessdate=2022-03-12}}</ref>。
こうした発言を受けてアメリカ側は無人補給船シグナスでもISSの軌道修正が可能であることを説明。2022年6月27日には実際にISSの軌道を上昇させることに成功させた<ref>{{Cite web|和書|url=https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/71221 |title= ロシアが撤退する国際宇宙ステーションの過去・現在・未来|publisher=JBpress |date=2022-08-04 |accessdate=2022-08-04}}</ref>。
=== 装甲・放射線防護 ===
大型の[[スペースデブリ]]は、常に地上から監視されており、衝突の可能性がある場合は、前述の高度制御により回避することができる。しかしながら監視されていない小規模なデブリと衝突する可能性はあるので、対策としてモジュールには装甲が施されている。装甲は[[アルミニウム]]による[[装甲#空間装甲|空間装甲]]と、衝突により発生した破片を受け止めるための[[ケブラー]]繊維製[[装甲#飛散防止内張り|内張り]]で構成される。
[[放射線]]に対しても多少考慮はされている。新しい居住区画は[[ヒト]]の被曝量が少なくなるように、それまでよりも緩衝材が厚くなっている。[[太陽フレア]]で放射線量が増すと判っている場合には、ロシア側のドッキングポートが最も壁が厚いため、滞在者はここに避難することになっている<ref name="国際宇宙ステーションとはなにか"/>。
== 軌道 ==
軌道高度は、地上との輸送機往復を考慮して、[[低軌道]]で運用されている。そのため地球を約90分で1周、24時間で約16周する。
[[軌道傾斜角]]は、地球の[[赤道]]に対して51.6度傾いている。そのため、一般的な[[メルカトル図法]]の世界地図上に軌道を描画すると、北緯・南緯51.6度を上下の端とする波線になるが、地球が自転しているために、90分かけて「地球1周」した際には前の周回した地点よりも、地上の経度で22.5度ずれることになる。
24時間飛行し、地球がちょうど1回自転した場合に同じ地点の上空に戻ることになるが、地球がやや楕円球体であること、重力の偏りなどの外乱によって、わずかに異なる。
地球に対する向きは、地球の中心に向かって常に変化しないように制御されている。これは通信設備の指向性、補給機の経路のためであり、ほかは[[人工衛星]]と同様である。つまりISSから地球を眺めると、ある1点で回転し続けているように見える。
== 輸送機 ==
{{See also|国際宇宙ステーションへの有人宇宙飛行の一覧|国際宇宙ステーションへの無人宇宙飛行の一覧}}
=== スペースシャトル退役まで ===
当初のNASAの宇宙ステーション建設構想は、スペースシャトルの全面的な利用を想定していた。このため、モジュールや機材の多くはスペースシャトルでの輸送を前提として設計されている。しかし予算上の理由からロシアが参加することになり、人員輸送には緊急脱出用を兼ねてソユーズ宇宙船を、貨物輸送にはプログレス補給船を合わせて利用することになった。ロシアの建設資材は、大半がロシア独自で打ち上げられる。ロシアは与圧モジュールを独立の宇宙船として設計しており、プロトンロケットで打ち上げられるとモジュール自体の機能でISSに自動ドッキングする。一部の小型モジュール(ピアースなど)は、プログレス補給船のペイロードとして輸送される。
2003年2月1日に別ミッションで飛行中のスペースシャトル「[[スペースシャトル・コロンビア|コロンビア]]」が大気圏再突入後に空中分解で失われる事故が発生し、運行の安全が確認されるまでスペースシャトルの打ち上げが無期限停止となったため、ISSの組み立て作業は、2002年11月に行われた「[[STS-113]]/ISS組立ミッション11A」を最後に一時停止した。これによりISSへの輸送力が大幅に低下したため、ISSにおける[[宇宙飛行士]]の3人の常駐体制が一時的に2人に減らされた。2005年7月26日午後11時39分(日本時間)に、事故後初となる[[スペースシャトル・ディスカバリー|ディスカバリー]] ([[STS-114]]) の打ち上げが行われ、ISS組立再開ミッションとなる「ミッション/LF-1」が行われた。このミッションには日本から[[野口聡一]]飛行士が参加した。
2008年には欧州のESAが欧州補給機 (ATV) の運用を開始し、2009年には日本のJAXAが宇宙ステーション補給機 (HTV) の運用を開始した。スペースシャトルによる宇宙飛行士の交代は2009年11月で終了し、以後の宇宙飛行士の交代にはもっぱらソユーズ宇宙船が使われるようになった。
2010年にはNASAがスペースシャトルを退役させることを決定した。ISSのロシア以外の建設資材は、大半がスペースシャトルでの打ち上げを前提に設計されており代替輸送は困難であるため、仮にスペースシャトルの運航が遅れれば全ての資材を打ち上げることなくISSの建設を打ち切る可能性もあると懸念された。また、スペースシャトル退役以後は[[コンステレーション計画]]の一環として、スペースシャトルの後継となる[[アレス (ロケット)|アレス]]ロケットと[[オリオン (宇宙船)|オリオン宇宙船]]によってISSに人員や貨物を輸送する計画があったが、2010年に[[バラク・オバマ]]政権によりコンステレーション計画の中止が決定された<ref name="yomiuri20100129">{{cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/space/news/20100129-OYT1T01114.htm|title=米政府、有人月探査を断念…ISSは5年延長|work=YOMIURI ONLINE|publisher=[[読売新聞社]]|date=2010-01-29|accessdate=2010-01-29}}{{リンク切れ|date=2021年4月}}</ref>。アメリカはスペースシャトルの退役によりドラゴン宇宙船の運用開始までの間、ISSへの独自の輸送手段を一時的に失うことになった。
=== スペースシャトル退役以降 ===
[[File:Unmanned resupply spacecraft comparison.png|thumb|500px|[[無人宇宙補給機]]の比較。左から[[プログレス補給船|プログレス]]、[[欧州補給機|ATV]]、[[宇宙ステーション補給機|HTV]]と構想検討中のHTV-X、[[ドラゴン (宇宙船)|ドラゴン]]標準型と拡張型、[[シグナス (宇宙船)|シグナス]]標準型と拡張型、[[天舟1号|天舟]]。赤が与圧区画、橙が非与圧区画、青が燃料区画。]]
2011年7月にスペースシャトルが退役した後しばらくは、ISSへの人員輸送にはソユーズ宇宙船、貨物輸送にはプログレス補給船、欧州補給機 (ATV)、宇宙ステーション補給機 (HTV) のみが使用されていたが、プログレス補給船、ATV、HTVには貨物回収能力はなく、ソユーズはわずか60kgの手荷物しか回収できないため、ISSから地球へ貨物を持ち帰る能力が最小となった。
スペースシャトル退役後のアメリカのISSへの人員・貨物輸送手段としては、[[商業軌道輸送サービス]] (COTS) により開発された、民間企業[[スペースX]]社の[[ファルコン9]]と[[ドラゴン (宇宙船)|ドラゴン補給機]]、[[オービタル・サイエンシズ]]社の[[アンタレス (ロケット)|アンタレス]]と[[シグナス (宇宙船)|シグナス補給機]]を使用した商業補給サービス (CRS) を活用する。ドラゴン宇宙船は2012年5月26日に民間宇宙船として初めてISSにドッキングして補給に成功し、5月31日 (UTC) に太平洋に着水し帰還した。これによりISSからの貨物の回収が再び可能となった。10月10日には初の商業補給サービス (CRS) ミッションに成功した。
NASAは2011年5月に、コンステレーション計画で使用される予定だったオリオン宇宙船の設計を流用した新たなオリオン宇宙船 (Orion Multi-Purpose Crew Vehicle, MPCV) の開発を発表した。新たなオリオン宇宙船の無人テスト機[[EFT-1]]は2014年12月に[[デルタIV|デルタIV Heavy]]ロケットで打ち上げられた。また2011年9月に、スペースシャトルの後継としてオリオン宇宙船も打ち上げることになるNASA独自の打ち上げロケットとして、[[サターンV]]ロケットを超える規模の[[スペース・ローンチ・システム]]の開発が発表された。しかし、オリオン宇宙船によるISSへの宇宙飛行士の輸送任務はその後キャンセルされ、商業クルー輸送機(スペースX社の[[ドラゴン2]]とボーイング社の[[CST-100]])に任せることになり、オリオン宇宙船は有人での深宇宙探査と商業クルー輸送計画が上手くいかなかった時のバックアップの位置づけとなっている。
2015年2月、欧州補給機 (ATV) の5号機が大気圏に再突入し、欧州補給機全機の運用を終了した。[[2020年]]には宇宙ステーション補給機 (HTV) とドラゴンの初期型が相次いで運用を終了し、一方でそれぞれ新型に置き換わるなど、再度の世代交代を迎えている。
=== 運用中の輸送機 ===
==== ソユーズ ====
{{Main|ソユーズ}}
ロシアが運用中の3人乗り有人宇宙船である。ISSに非常事態が起きた際の脱出用救命ボートの役割を果たしている。この用途に対しては、アメリカが乗員帰還機 (X-38 CRV) を開発して置き換える計画だったが、こちらは中止された。2009年5月までは、ISS長期滞在クルーは3名体制だったので、ソユーズが常時1機備え付けられていたが、2009年5月からは6名体制に拡張されたため、ソユーズも2機常備されることになった。緊急時に利用しやすいよう、ISSの中央に近い[[ザーリャ]]前方の地球側にドッキングするが、2機に増えた場合はさらに[[ズヴェズダ (ISS)|ズヴェズダ]]前方(に結合しているピアース)も利用する。ズヴェズダの後方はISSの末端にあたるので、プログレス、ATVの結合を優先するため出来るだけ避けてはいるが、ズヴェズダ後方も必要に応じて使用することもある。なお、2010年1月からは、MRM-2のドッキングポートも利用できるようになる。
ソユーズの軌道上での寿命は6ヵ月なので、6ヵ月ごとに新しいソユーズを打ち上げて交換する。この際、滞在3名中2名から3名がソユーズとともに交代するが、ソユーズは3人乗りなので、ロシア人用の1人分の空席が空く場合もある、その場合はISSへの短期訪問(新しいソユーズでISSへ向かい、古いソユーズで帰還する)に利用される。このような便乗者をタクシークルーと呼び、ロシアが利用権を販売している。私的[[宇宙旅行]]でのISS訪問や、[[マレーシア]]や[[大韓民国|韓国]]によるISS訪問はこの枠を利用したものである。ただし、シャトルでのクルーの交代2009年11月のSTS-129を最後になくなり、滞在人数も6名に増加したため、タクシークルーの搭乗機会はなくなった。
==== プログレス補給船 ====
{{Main|プログレス補給船|#高度制御}}
ロシアが運用中の無人貨物船。与圧貨物として食料、衣類、実験機材、補修用部品などを輸送するほか、酸素や水、液体推進剤をISSに補給するタンクとパイプも装備している。プログレスはズヴェズダの後方にドッキングすることが多い(その他、ザーリャとピアースにもドッキングする)。ここはISSの後方端にあたるので、プログレスは自身のエンジンを使用してISSを推進([[リブースト]])し、高度を上げることができる。スペースシャトルが事故の影響で運用不能に陥っていた際には、強力なピンチヒッター役を務め、ISSを維持した。スペースシャトル復帰後も物資輸送に活躍しているが、後述のATVとHTVの運用が開始されてからは役割を分担することになった。
==== シグナス ====
{{Main|シグナス (宇宙船)}}
シグナスはドラゴンと同じくNASAのCOTS計画で開発された民間無人宇宙補給機。シグナスは[[アンタレス (ロケット)|アンタレス]]により打ち上げられ、2013年9月に初めてISSとのドッキングに成功して補給を成功させた。
==== ドラゴン2 ====
{{Main|ドラゴン2}}
NASAの[[商業乗員輸送開発]] (CCDev) に基づき[[スペースX]]社が開発する有人宇宙船。ドラゴン2も初期型の[[ドラゴン (宇宙船)|ドラゴン]]同様に[[ファルコン9]]により打ち上げられ、[[2019年]]3月に無人でのISSドッキングを、次いで翌[[2020年]]5月に有人でのドッキングを成功させた。
=== 過去に運用された輸送機 ===
==== スペースシャトル ====
[[ファイル:Shuttle delivers ISS P1 truss.jpg|thumb|トラスを輸送中のスペースシャトル。]]
{{Main|スペースシャトル}}
2011年7月に退役するまでNASAがISSへの人員と建設資材と補給物資の輸送のために運用していた輸送機。ISS建設資材の大半を輸送したほか、7名の人員とロボットアームを搭載でき、特に建設初期段階では作業基地の役割も果たした。人員交代にも使われるが、ソユーズ宇宙船を6ヶ月ごとに交換する際に人員交代も行えるため、補助的な役割にとどまった。
日米欧の実験モジュールなど、ロシア以外の与圧モジュールはスペースシャトルで輸送された。このため、これらのモジュールは全てスペースシャトルのペイロードベイに合わせた寸法、形状、重量になっている。ただし、スペースシャトルの度重なる改良(主に安全性向上)により搭載可能な重量は計画当初より減少しているため、一部の大型モジュール([[デスティニー (ISS)|デスティニー]]、[[きぼう#船内実験室 (PM)|きぼう船内実験室]])は船内機器の一部を別便で輸送せざるを得なくなった。
補給には、大きく分けて4つの方法を用いた。ひとつは、スペースシャトルの船内に補給品を搭載し、ドッキング装置を通して運搬する方法である。ドッキング装置の通路は直径60センチメートル程度と狭く、船内スペースを使用するため輸送力は小さいが、補助的に毎回使われていた方法である。
2つめは、ペイロードベイにスペースハブ輸送モジュールを搭載する方法である。船内より多くの補給品を搭載できるが、やはり大きな物資は輸送できない。次のMPLMが導入されると使われなくなった。
3つめは、ペイロードベイに[[多目的補給モジュール]] (MPLM) を搭載する方法である。MPLMはペイロードベイから取り出され、ユニティまたはハーモニーに直接結合される。サイズが大きい[[共通結合機構]] (CBM) を使うため、ISPRなど大型の機材を輸送できるほか、小型物資も広い通路を利用して効率よく搬入できた。作業終了後のMPLMはペイロードベイに戻されて持ち帰られた(詳しくは[[多目的補給モジュール|MPLM]]を参照)。
4つめは、ペイロードベイ内に露出した形で輸送する方法である。ISSの外部に設置するバッテリーやタンクなどの部品を交換する際には、アダプターを使用して搭載した。
==== 欧州補給機 (ATV) ====
{{Main|欧州補給機}}
欧州補給機 (ATV) はESAが2008年から2015年まで運用した無人貨物船。機能や利用方法はプログレスとほぼ同じで、ロシア側のドッキング装置を使用し、補給用のタンクやパイプも装備している。大型の[[アリアンV]]ロケットで打ち上げられるためプログレスよりもかなり大型で、リブースト用推進剤を含む輸送力はプログレスの約3倍である。ただし、ドッキング装置もプログレスと同じなので大型物資の輸送はできない。
==== ドラゴン ====
{{Main|ドラゴン (宇宙船)}}
NASAの[[商業軌道輸送サービス]] (COTS) 計画で開発された初の民間無人宇宙補給機。ドラゴンは[[ファルコン9]]により打ち上げられ、2010年12月に初めて地球低軌道を周回し大気圏に再突入して太平洋に着水し、2012年5月に初めてISSのドッキングに成功して補給を成功させた。[[2020年]]4月の20回目の補給ミッションを最後に運用を終了し、後継機となる[[ドラゴン2]]に移行した。
==== 宇宙ステーション補給機 (HTV) ====
{{Main|宇宙ステーション補給機}}
宇宙ステーション補給機 (HTV)、愛称「こうのとり」は、日本のJAXAが2009年から2020年まで運用した無人貨物船。プログレスやATVと異なり、ISSの先頭にあたる[[ハーモニー (ISS)|ハーモニー]]に結合するため、リブーストに用いることはできない。しかし、[[MPLM]]と同様にサイズが大きい共通結合機構 (CBM) で結合するため、ISPRを丸ごと搭載するなど、大型の貨物を輸送することができる。また非与圧部があり、ISSの船外に装着されるバッテリーなども輸送することができる。スペースシャトル退役後、後述の民間機の運用が開始されるまでは、これらの物資を輸送可能な輸送機はHTVのみだった。2021年度以降にコストを半減した[[新型宇宙ステーション補給機|HTV-X]]の運用に移行する予定であったが、2022年2月現在は未定である<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=H3の打ち上げ延期、理由は新型エンジン「LE-9」の新たな振動 |url=https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/01540/00028/ |website=日経クロステック(xTECH) |accessdate=2022-02-12 |language=ja |last=日経クロステック(xTECH)}}</ref>。
=== 開発中の輸送機 ===
==== オリオン宇宙船 ====
{{Main|オリオン (宇宙船)}}
NASAは2011年5月にオリオン宇宙船 (Orion Multi-Purpose Crew Vehicle, MPCV) の開発を発表した。オリオン宇宙船の無人テスト機は2013年7月にデルタIV Heavyロケットで打ち上げられる予定である。また2011年9月に、スペースシャトル後継機のSLSの開発とオリオン宇宙船を搭載した初号機を2017年に打ち上げることが発表された。
当初のオリオン宇宙船は、NASAがコンステレーション計画に使用するために2014年運用開始を目標に開発していたが、2010年にコンステレーション計画が中止されると計画が現在のものに変更された。コンステレーション計画においては、6名が搭乗可能で、ソユーズを置き換えて緊急帰還船としても使われる模様であった。また、詳細は発表されていないが無人貨物船型の開発も予定されており、有人型と同様の物資回収カプセルを備えた型と、HTVのような非回収カプセル([[大気圏再突入]]廃棄物処理など)を備えた型のイラストが公表されていた。まずISSに対応した型(ブロック1)が開発され、続いて月飛行に使用可能なブロック2、火星や小惑星への飛行に使用可能なブロック3を開発する予定であった。
==== オリョール ====
{{Main|オリョール (宇宙船)}}
ロシアが2023年現在開発中のソユーズ代替有人宇宙船。ISSへ6人輸送することが可能である他、無人輸送機としての運用も考慮されており、2tの貨物をISSへ輸送し500kgの貨物を地上に持ち帰ることが可能となる予定である。[[RKKエネルギア]]が開発を担当する。
==== HTV-X ====
{{Main|新型宇宙ステーション補給機|宇宙ステーション補給機#新たな宇宙機 (HTV-X)|}}
JAXAが開発中の宇宙船で、2021年度以降に[[H3ロケット]]で打ち上げ予定であるが、2022年2月現在はHTV-Xを運搬するH3ロケットのメインエンジンLE-9完成の目処が立たず未定である<ref name=":1" />。現行のHTVと比べて太陽電池のパドル化が図られるとともに、これまで分割されていた推進系と電気系モジュールがサービスモジュールに集約されるなど、構造設計が大幅に見直されている。こうしたシステムの効率化や軽量化により、輸送能力を保ったまま製造費用を半減する。
==== CST-100 ====
{{Main|CST-100}}
NASAの[[商業乗員輸送開発]] (CCDev) に基づき[[ボーイング]]社が開発する有人宇宙船。
==== ドリームチェイサー ====
{{Main|ドリームチェイサー (宇宙船)}}
NASAの[[商業補給サービス]] (CRS-2) に基づき[[シエラ・ネヴァダ・コーポレーション]]社が開発する無人補給機。
=== 計画中止になった輸送機 ===
==== X-38 CRV ====
{{Main|X-38 (航空機)}}
乗員帰還機 (CRV) としてNASAが開発を進めていた宇宙船である。X-24実験機に似た[[リフティングボディ]]形状の機体であり、6名が搭乗することができる予定だった。大気圏内での滑空実験などが行われたが、コロンビア号事故後の計画見直しで2002年に開発がキャンセルされた。
==== クリーペル ====
{{Main|クリーペル}}
ロシアが開発を検討していた有人宇宙船でソユーズを代替する予定だった。釣り鐘型のカプセルだが小さな翼を取り付けた案もあった。エンジン部分は宇宙にとどまって繰り返し使われ、打ち上げには[[ソユーズ3]]ロケットを使用する予定だった。ESAやJAXAに共同開発を打診したが、2007年末にESAとの間でCSTS計画を立ち上げ、これに伴い計画は中止された。
==== ACTS/CSTS ====
ESAとロシアが開発を検討していた有人宇宙船でソユーズを代替する予定だった。有人カプセルと脱出装置、打ち上げロケットはロシアが、推進部はESAが開発し、2014年実用化を目標としていた。ESAでは、次のATV発展型とどちらが採用されるかは最終決定されず、JAXAにも共同開発を打診したが、共同開発には至らなかった。この計画は中止され、2009年初めにロシアは独自の有人宇宙船PPTSを開発することを決定した。
==== アレス ====
{{Main|アレス (ロケット)|アレスI|アレスV}}
月探査計画([[コンステレーション計画]])用の大型貨物ロケットであるアレスロケットシリーズを、ISSに利用する案もあった。アレスVは地球低軌道に130tもの貨物を輸送可能であり、過去に[[サターンV]]で[[スカイラブ計画|スカイラブ]]を打ち上げたように、[[アルタイル (月面着陸機)|アルタイル着陸船]]を改造した軌道変更ユニットを取り付けることで大型のモジュールをISSに届けることが可能な計画だった。しかし開発は大幅に遅れ、2010年にコンステレーション計画自体の中止が決定された。
==== ATV発展型 ====
{{Main|欧州補給機#提案された有人型}}
ESAが開発を検討していた宇宙船で、まず貨物回収カプセルを搭載した無人型を、続いて有人カプセルと脱出装置を備えた有人型を開発する計画だった。打ち上げにはアリアン5を使用。ACTS/PPTSとは異なりヨーロッパ独自の計画だが、ESAはACTS/PPTSと比較検討していた。ATVは2015年のATV-5ミッションの終了をもって退役し、ESAはオリオン宇宙船にATVのサービスモジュールの技術を派生させたESM (European Service Module) を提供する計画に変更した。
== 費用 ==
2010年までの国際宇宙ステーション計画における各国の支出は、アメリカが6兆4400億円(585億ドル)、日本が7100億円、欧州が4600億円(35億ユーロ)、カナダが1400億円(17億カナダドル)である<ref name="kibouhiyou">[https://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/toushin/__icsFiles/afieldfile/2010/07/08/1295296_4.pdf 付録1 国際宇宙ステーション(ISS)計画概要(その3)] 宇宙開発委員会 国際宇宙ステーション特別部会 -中間とりまとめ- 平成22年6月</ref>。2011年から2015年までの5年間の各国の予想支出は、アメリカが1兆8900億円(172億ドル)、日本が2000億円、欧州が2500億円(19億ユーロ)、カナダが250億円(3億カナダドル)である<ref name="kibouhiyou"/>。(日本の支出の内訳は[[きぼう]]を参照)
なお、ロシアは自国管轄部分の費用をすべて負担し、同時にその全ての利用権を所有している。
== Googleストリートビューによる公開 ==
2017年7月には、ISSの主要部分の360度画像が、[[Google ストリートビュー]]により公開された<ref>{{Cite web|和書|title =Google ストリートビュー、宇宙へ! 国際宇宙ステーションの内部を360度体験|url = https://www.gizmodo.jp/2017/07/723siss360google.html|accessdate = 2020-09-06}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title =国際宇宙ステーションを訪れよう - Google Earth|url = https://earth.google.com/web/data=CiQSIhIgN2Y3ZTA1ZTg2Y2E1MTFlNzk5YzI1YjJmNTFhNjA3NTI?hl=ja|accessdate = 2020-09-06}}</ref>。
このプロジェクトはNASA宇宙飛行士[[ペギー・ウィットソン]]が率い、ESA宇宙飛行士トマ・ペスケ<small>([[:en:Thomas Pesquet|英語版]])</small>により撮影された。360度カメラではなく、NASAの協力により、ISSに搭載済の[[ニコン]]製一眼レフにより撮影した複数の画像を合成することにより360度画像を生成する手法がとられた<ref>{{Cite web|和書|title =Google Japan Blog: スペースビューへようこそ|url =https://japan.googleblog.com/2017/07/blog-post.html|accessdate = 2020-09-06}}</ref>。
ペスケ飛行士がISSに滞在した第50次/第51次長期滞在の期間においては、[[ドラゴン (宇宙船)|ドラゴン宇宙船]]のSpX-10、[[シグナス (宇宙船)|シグナス宇宙船]]のOA-7がドッキングしており、ISSに加え、両宇宙船の内部に訪れることもできる。
== 備考 ==
* トラスの名称「{{Lang|en|S1}}」の'''S'''や「{{Lang|en|P1}}」の'''P'''は、それぞれ船舶用語の「[[舷|右舷]]」({{Lang|en|starboard side}})、「[[舷|左舷]]」({{Lang|en|port side}}) からきている。また、「Z1トラス」の'''Z'''は「[[天頂]]」({{Lang|en|zenith}}) からきている。
* 国際宇宙ステーションから[[アマチュア無線]]が運用されている。各国の宇宙飛行士は、ISS搭乗前に日本の[[アマチュア無線技士]]相当の資格を[[アメリカ合衆国]]で取得し、ISSの余暇時間を使って、地上の[[アマチュア無線局]]と交信している。[[コールサイン]]は {{Lang|en|'''NA1SS'''}} と {{Lang|en|'''RS0ISS'''}} が使用されている。また、青少年に宇宙に対して関心を持って貰うため、スクールコンタクトが実施されている<ref>{{Cite press release|和書
| title = AISS Japan
| url = http://www.jarl.or.jp/ariss/
| publisher = [[日本アマチュア無線連盟]]
| date = 2012-08-26
| language = [[日本語]]
| accessdate = 2012-09-02
}}</ref>。
* 2010年1月より、ISSからの[[インターネット]]直接接続が可能となった。野口聡一がISS滞在中に[[Twitter]]に1200回以上つぶやき、宇宙から最も多くTwitterに投稿した飛行士とされている<ref>{{Cite news|date = 2010年5月31日|newspaper = アサヒ・コム|title = 2日帰還の野口さん、ツイッターで「がんばれ、宮崎!」|url = http://www.asahi.com/science/update/0531/TKY201005310375.html|archiveurl = https://web.archive.org/web/20100603004756/http://www.asahi.com/science/update/0531/TKY201005310375.html|archivedate = 2010年6月3日|deadlinkdate = 2017年9月}}</ref>。
* 2011年1月28日、日本の[[宇宙ステーション補給機|HTV]]-2号機「こうのとり」が国際宇宙ステーションにドッキングした。その後、2月24日に[[欧州補給機]] (ATV) 2号機「ヨハネス・ケプラー」が、さらに2月26日に[[スペースシャトル]]「ディスカバリー」([[STS-133]]) が国際宇宙ステーションにドッキングした。先にドッキング中のプログレス、ソユーズを加え、この時点で上記の5機種6機が一堂に会し、ISS計画に参加している各国の全宇宙船が、初めて同時に国際宇宙ステーションにドッキングした状態となった。スペースシャトルが退役することが決まっていることから、現役の宇宙機の勢ぞろいは、この[[STS-133]]が最初で最後の機会となり、宇宙開発の国際協力を象徴するイベントとなった。また、この[[STS-133]]ミッションでは、恒久的多目的モジュール (PMM) が、最後のアメリカ側モジュールとして取り付けられ、国際宇宙ステーションの与圧区画が、ほぼ完成状態となった。
* 地上における構成要素の運搬には、NASAが所有する[[スーパーグッピー]]が使用された<ref>{{Cite web|url = http://quest.arc.nasa.gov/space/photos/station-superguppy.html|title = The Super Guppy|accessdate = 2015-12-04|publisher = [[アメリカ航空宇宙局]]|work = NASA Quest > Space Team Online}}</ref>。
* 宇宙飛行士が船内作業を行う際には記録を残すため撮影を行っているが、カメラの設置など撮影の準備は全作業時間の10%が費やされていた。日本では推進用のファンを搭載した球形の撮影[[無人航空機|ドローン]]「Int-Ball」を開発し、撮影を自動化する予定<ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1707/14/news093.html JAXA、球体ドローン開発 実験棟「きぼう」内を浮遊 「金井飛行士の相棒に」 - ITmedia NEWS]</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 関連項目 ==
* [[宇宙ステーション]]
** [[スカイラブ計画]]
** [[サリュート]]
** [[ミール]]
** [[中国宇宙ステーション]]
* [[船外活動]]([[宇宙遊泳]])
== 外部リンク ==
{{Commons|International Space Station}}
* {{Official website|nasa.gov/station|International Space Station {{!}} NASA}}{{En icon}}
* {{Twitter|Space_Station|International Space Station}}
* {{Instagram|iss|International Space Station}}
* {{Facebook|ISS|International Space Station}}
* [https://www.jaxa.jp/ 宇宙航空研究開発機構 (JAXA)]
** [https://www.jaxa.jp/press/2006/03/20060308_sac_hoa_j.html 国際宇宙ステーション計画に関する宇宙機関長会議の結果について(平成18年3月8日)] 計画見直しについてPDFで紹介。
* [https://kurakagaku.jp/tokusyu/iss/index.html 国際宇宙ステーションをみよう 倉敷科学センター]
* {{NHK放送史|D0009043692_00000|史上初!ハイビジョン生中継 LIVE宇宙ステーション}}
* {{NHK放送史|D0009043660_00000|世界初・生中継特番 宇宙の渚に立つ}}
* {{Kotobank}}
* [https://www.youtube.com/c/astrosoichi/videos 野口宇宙飛行士の宇宙暮らし] - [[野口聡一]]宇宙飛行士が、国際宇宙ステーション (ISS) 滞在の模様を紹介するYouTubeチャンネル。[[船外活動]]([[宇宙遊泳]])のレポートも。
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[[Category:国際宇宙ステーション|*]]
[[Category:アストゥリアス皇太子賞受賞者]] | 2003-05-20T06:07:25Z | 2023-12-15T19:09:23Z | false | false | false | [
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8,776 | 学制改革 | 学制改革(がくせいかいかく)は、学校の制度、特に学校の種別体系を改革することである。日本では、第二次世界大戦後の連合国軍最高司令官総司令部の占領下、1946年(昭和21年)3月5日と7日の第一次アメリカ教育使節団の調査結果によりアメリカ教育使節団報告書に基づいた教育課程の大規模な改編のことを指す。
戦前からの懸案を解決しつつ戦後の新社会に適した学制に改編することを目的として、南原繁・東京帝国大学総長らにより推進された教育制度の改革であった。主な内容は「複線型教育」から「単線型教育」の「6・3・3・4制」の学校体系への変更。義務教育の9年間(小学校6年間・中学校3年間)への延長である。
複線型教育に主に弊害として指摘されていた社会階層に応じた教育構造であることを以って封建制の残滓とみなしその除去、及び教育の機会の均等(形式的平等。ただし日本においては“平等”(結果の平等及び実質的平等)という受容が一般的であった)を主目的とするものであった。さらに連合国軍総司令部(GHQ / SCAP)、特にその内部の先鋭的進歩的集団であるニューディーラーの後押しもあり単線型教育を推進するため小学区制・男女共学・総合制の三点モデルないし高校三原則も打ち出された。
しかし、これは公立学校において一時的に実現したもの1949年(昭和24年)頃までに崩壊した。小学区制は大学区制になった。総合制は崩壊して、工業高等学校・商業高等学校・農業高等学校(農林・園芸なども)・水産高等学校が多数分離独立し、単独の職業高等学校として、前身の実業学校が復活する格好となり、普通科単独高校も増加した。一方、男女共学については、東日本(特に北関東や東北の公立高等学校)で男子校・女子校が残ったものの、西日本の公立高等学校でほぼ男女共学が実現し、普通科教育機会の拡大に大きく貢献した。私立学校については、ほとんどは男子校・女子校のまま新制中学校・新制高等学校へ移行した。
学制改革による学校制度の大規模な変更がもたらす混乱を軽減するため、さまざまな移行措置が図られた。1947年(昭和22年)から1950年(昭和25年)頃までは旧制と新制の学校が混在した。
国民学校初等科を1946年(昭和21年)3月までに卒業する者は旧制で進学した。1947年(昭和22年)3月以降に卒業した者から全員、新制中学校(現在の中学校)に進学した。
1947年(昭和22年)4月、暫定措置として旧制中等学校(旧制中学校、高等女学校、実業学校)に新制の併設中学校が設置され、1年生の募集が停止された。同年度に2,3年生となる在籍者は併設中学校の生徒となった。ただし私立に関しては募集を継続し(併設中学校を廃止せずに)、現在でも中高一貫校として存続している学校もある。
1947年(昭和22年)度の5年生は、旧制中等学校の卒業と、新制高等学校の3年生への進級とを選択することができた。
旧制高校尋常科は戦争中募集を停止していたが東京高等学校は1946年(昭和21年)度のみ募集を再開した。翌年また募集を停止したので在学生は宙に浮いてしまった。結局、1948年(昭和23年)に1・2年生を募集し在学中の3年生と合わせて東京大学附属中学校(新制)となった。現在の東京大学教育学部附属中等教育学校である。
第二次大戦後の連合国軍総司令部による占領統治下での民主化政策の一環として定められた学校教育法の下で旧制中等学校は新制高等学校へ転換され、その際公立校の多くが共学化された。しかし、一部の地方自治体(宮城県・福島県・栃木県・群馬県・埼玉県)では男女別学が継続されるなど男女共学化は必ずしも徹底されなかった。また私学の大半は全国的に男子校もしくは女子校、また中高一貫校という形で高等学校転換が図られた。また山口県などでは、隣接する旧制中等学校と統合した上で新制高等学校に転換したケース、大阪府では単独で新制高等学校に転換されるも隣接する学校と生徒・教員の相互交流(入れ替え)を行ったケースなどがある。
1946年(昭和21年)に日本の行政権が停止された奄美群島では、臨時北部南西諸島政庁により新制高校への切り替えが1年遅れの1949年(昭和24年)に実施された。
逓信省所管だった無線電信講習所は文部省移管後、中央校以外の地方3校については、新制電波高校(のちの電波工業高等専門学校)への切り替えが1年遅れの1949年(昭和24年)に実施された。また運輸省所管だった商船学校も、新制商船高校(現在の商船高等専門学校)への切り替えと文部省移管が3年遅れの1951年(昭和26年)に実施された。
旧制高校、旧制専門学校、師範学校、高等師範学校、大学予科の募集は1948年(昭和23年)までであった。
ただし、3年で卒業したのは1947年(昭和22年)の入学者が最後である。1948年(昭和23年)の入学者は1年次を修了した1949年(昭和24年)3月で学籍が消滅し、新制大学を受験し直さねばならなかった(詳細は旧制高等学校を参照)。
1947年(昭和22年)度の旧制中学の卒業者、4年修了者の大学へのコースは旧制高校経由と新制高校経由の2つがあった。
1949年(昭和24年)、新制大学の発足にともない旧制高校、旧制専門学校、師範学校が新制大学に包括され、旧制単科大学も多くが新制の総合大学に包括されたため「東京大学第一高等学校」、「金沢大学第四高等学校」、「滋賀大学彦根経済専門学校」、「北海道学芸大学北海道第二師範学校」、「千葉大学東京医科歯科大学予科」、「広島大学広島文理科大学」というような名称になった。この状態が旧制学校の最後の卒業生が卒業するまで続いた。
東京大学駒場キャンパスでは東京大学第一高等学校と東京大学教養学部が同居して旧制と新制の学生が対立する光景も見られたという。
旧制大学の入試は1950年(昭和25年)度が最後であった。しかしその後も「白線浪人」と呼ばれる旧制高校卒の過年度生が多数いたので編入試験が行われた。
1949年(昭和24年)、学制改革で医学部・歯学部の入学資格は他の学部に2年以上在学し、所定の一般教育科目を履修した者となった。このため、新制大学の理学部や文理学部に、医学部・歯学部進学のためのコースが「理学部乙」等の名称で設けられ、大学2年修了者を対象とする入試は1951年(昭和26年)から実施された。4校の私立歯科大学に限っては、大学予科が2年制の旧制大学予科として継続することが認められた(1950年(昭和25年)2月2日文部省令第4号)。1955年(昭和30年)から、医学部・歯学部は6年制で、2年の進学課程及び4年の専門課程となり、「理学部乙」や2年制大学予科は、それぞれの大学の医学部・歯学部進学課程となった。
なお1925年(大正14年)に逓信省から文部省の所管となった高等商船学校は、新制の(国立)商船大学への移行が1949年(昭和24年)に実施された(高等商船学校#沿革)。また逓信省所管だった無線電信講習所の中央校は文部省移管後、新制の(国立)電気通信大学への移行が同年に実施された。 | [
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] | 学制改革(がくせいかいかく)は、学校の制度、特に学校の種別体系を改革することである。日本では、第二次世界大戦後の連合国軍最高司令官総司令部の占領下、1946年(昭和21年)3月5日と7日の第一次アメリカ教育使節団の調査結果によりアメリカ教育使節団報告書に基づいた教育課程の大規模な改編のことを指す。 | '''学制改革'''(がくせいかいかく)は、[[学校]]の[[制度]]、特に学校の種別体系を改革することである。[[日本]]では、[[第二次世界大戦]]後の[[連合国軍最高司令官総司令部]]の占領下、[[1946年]]([[昭和]]21年)[[3月5日]]と[[3月7日|7日]]の第一次アメリカ教育使節団の調査結果により[[アメリカ教育使節団報告書]]に基づいた[[教育課程]]の大規模な改編のことを指す。
== 学制改革とは ==
[[戦前#日本|戦前]]からの懸案を解決しつつ[[戦後#第二次世界大戦後|戦後]]の新社会に適した学制に改編することを目的として、[[南原繁]]・[[東京大学|東京帝国大学]][[学長|総長]]らにより推進された[[教育制度]]の改革であった。主な内容は「複線型教育」から「単線型教育」の「6・3・3・4制」の[[学校体系]]への変更。[[義務教育]]の9年間(小学校6年間・中学校3年間)への延長である。
複線型教育に主に弊害として指摘されていた[[社会階層]]に応じた教育構造であることを以って[[封建制]]の残滓とみなしその除去、及び教育の機会の均等(形式的平等。ただし日本においては“平等”(結果の平等及び実質的平等)という受容が一般的であった)を主目的とするものであった。さらに[[連合国軍最高司令官総司令部|連合国軍総司令部]](GHQ / SCAP)、特にその内部の先鋭的進歩的集団である[[ニューディーラー]]の後押しもあり単線型教育を推進するため[[小学区制]]・[[男女共学]]・総合制{{Efn|正確には旧[[実業学校]]・[[旧制中学校]]・旧[[高等女学校]]の各課程を併せた総合制。}}の三点モデルないし[[高校三原則]]も打ち出された。
しかし、これは公立学校において一時的に実現したもの1949年(昭和24年)頃までに崩壊した。小学区制は大学区制になった。総合制は崩壊して、工業高等学校・商業高等学校・農業高等学校(農林・園芸なども)・水産高等学校が多数分離独立し、単独の[[職業高等学校]]として、前身の[[実業学校]]が復活する格好となり、普通科単独高校も増加した。一方、[[男女共学]]については、東日本(特に[[北関東]]や[[東北]]の公立高等学校)で男子校・女子校が残ったものの、[[西日本]]の公立高等学校でほぼ男女共学が実現し、普通科教育機会の拡大に大きく貢献した。私立学校については、ほとんどは男子校・女子校のまま新制[[中学校]]・新制[[高等学校]]へ移行した。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!標準的な年齢!!colspan="2"|旧学制<br>(1946年(昭和21年)度当時)!!colspan="4"|'''新学制'''
|-
|{{0}}6 - {{0}}7歳||[[国民学校]][[尋常小学校|初等科]]1年||rowspan="8"|義務教育6〜8年{{Efn|[[国民学校令]]附則第46条に、[[1944年]]([[昭和]]19年)から[[義務教育]]年限を6年から8年(国民学校初等科6年+国民学校高等科2年/国民学校初等科6年+旧制中等学校2年)に延長することが規定された。「[[1941年]](昭和16年)[[4月1日]]から施行するが、[[1931年]](昭和6年)4月1日以前に生まれた児童を就学させなければならない期間(義務教育期間)については第8条の規定(8年間の義務教育)を適用しない」。つまり1931年(昭和6年)[[4月2日]]以降に生まれた児童が国民学校高等科1年となる[[1944年]](昭和19年)4月から義務教育8年を適用することとした。ただし、[[教育ニ関スル戦時非常措置方策]]により延期され、国民学校が廃止されるまで義務教育の延長は結局行われず6年のままであった。}}||'''[[小学校#日本の小学校|小学校]]'''1年||rowspan="6"|'''6'''||rowspan="6"|[[初等教育]]||rowspan="9"|'''義務教育9年'''
|-
|{{0}}7 - {{0}}8歳||国民学校初等科2年||小学校2年
|-
|{{0}}8 - {{0}}9歳||国民学校初等科3年||小学校3年
|-
|{{0}}9 - 10歳||国民学校初等科4年||小学校4年
|-
|10 - 11歳||国民学校初等科5年||小学校5年
|-
|11 - 12歳||国民学校初等科6年||小学校6年
|-
|12 - 13歳||国民学校[[高等小学校|高等科]]1年<br>[[青年学校]]普通科1年<br>[[旧制中等教育学校|中等学校]]1年<br>[[旧制高等学校|高等学校]]尋常科1年||'''[[中学校]]'''1年||rowspan="3"|'''3'''||rowspan="3"|前期[[中等教育]]
|-
|13 - 14歳||国民学校高等科2年<br>青年学校普通科2年<br>中等学校2年<br>高等学校尋常科2年||中学校2年
|-
|14 - 15歳||colspan="2"|中等学校3年<br>高等学校尋常科3年<br>[[師範学校]]予科1年||中学校3年
|-
|15 - 16歳||colspan="2"|中等学校4年<br>高等学校尋常科4年<br>師範学校予科2年||'''[[高等学校]]'''1年<br>[[高等専門学校]]1年||rowspan="3"|'''3'''||rowspan="3"|後期中等教育||rowspan="7"|
|-
|16 - 17歳||colspan="2"|中等学校5年<br>高等学校高等科1年<br>大学予科1年<br>師範学校予科3年||高等学校2年<br>高等専門学校2年
|-
|17 - 18歳||colspan="2"|高等学校高等科2年<br>大学予科2年<br>[[旧制専門学校|専門学校]]1年<br>師範学校本科1年<br>[[高等師範学校]]1年||高等学校3年<br>高等専門学校3年
|-
|18 - 19歳||colspan="2"|高等学校高等科3年<br>大学予科3年<br>専門学校2年<br>師範学校本科2年<br>高等師範学校2年||'''[[大学]]'''1年<br>[[短期大学]]1年<br>高等専門学校4年||rowspan="4"|'''4'''||rowspan="4"|[[日本の高等教育|高等教育]]
|-
|19 - 20歳||colspan="2"|[[旧制大学|大学]]1年<br>専門学校3年<br>師範学校本科3年<br>高等師範学校3年||大学2年<br>短期大学2年<br>高等専門学校5年
|-
|20 - 21歳||colspan="2"|大学2年<br>専門学校(医専など)4年<br>高等師範学校4年||大学3年
|-
|21 - 22歳||colspan="2"|大学3年||大学4年
|}
== 旧学制から新学制への移行措置 ==
学制改革による学校制度の大規模な変更がもたらす混乱を軽減するため、さまざまな移行措置が図られた。[[1947年]](昭和22年)から[[1950年]](昭和25年)頃までは旧制と新制の学校が混在した。
=== 旧制中等学校から新制高校へ ===
[[国民学校]][[尋常小学校|初等科]]を1946年(昭和21年)3月までに卒業する者は旧制で進学した。1947年(昭和22年)3月以降に卒業した者から全員、新制中学校(現在の中学校)に進学した。
1947年(昭和22年)4月、暫定措置として[[旧制中等教育学校|旧制中等学校]]([[旧制中学校]]、[[高等女学校]]、[[実業学校]])に新制の併設中学校が設置され、1年生の募集が停止された。同年度に2,3年生となる在籍者は併設中学校の生徒となった。ただし私立に関しては募集を継続し(併設中学校を廃止せずに)、現在でも中高一貫校として存続している学校もある。
1947年(昭和22年)度の5年生は、旧制中等学校の卒業と、新制高等学校の3年生への進級とを選択することができた。
旧制高校尋常科は戦争中募集を停止していたが[[東京高等学校 (旧制)|東京高等学校]]は1946年(昭和21年)度のみ募集を再開した。翌年また募集を停止したので在学生は宙に浮いてしまった。結局、[[1948年]](昭和23年)に1・2年生を募集し在学中の3年生と合わせて東京大学附属中学校(新制)となった。現在の[[東京大学教育学部附属中等教育学校]]である。
第二次大戦後の連合国軍総司令部による占領統治下での民主化政策の一環として定められた[[学校教育法]]の下で旧制中等学校は[[高等学校|新制高等学校]]へ転換され、その際公立校の多くが共学化された。しかし、一部の[[地方公共団体|地方自治体]]([[宮城県]]・[[福島県]]・[[栃木県]]・[[群馬県]]・[[埼玉県]]{{Efn|宮城県・福島県の公立校は21世紀に入ってから男女共学化された。}})では[[男女別学]]が継続されるなど[[男女共学]]化は必ずしも徹底されなかった。また[[私立学校|私学]]の大半は全国的に男子校もしくは女子校、また[[中高一貫校]]という形で高等学校転換が図られた。また[[山口県]]などでは、隣接する[[旧制中等学校]]と統合した上で新制[[高等学校]]に転換したケース、[[大阪府]]では単独で新制高等学校に転換されるも隣接する学校と生徒・教員の相互交流(入れ替え)を行ったケースなどがある。
1946年(昭和21年)に日本の行政権が停止された[[奄美群島]]では、[[臨時北部南西諸島政庁]]により新制高校への切り替えが1年遅れの[[1949年]](昭和24年)に実施された<ref>[http://www.archives.pref.okinawa.jp/hpdata/kouhou/HTML/rinjihokubunansei/07142.html 学校の廃止] [[沖縄県公文書館]]</ref>。
[[逓信省]]所管だった無線電信講習所は文部省移管後、中央校以外の地方3校については、新制電波高校(のちの[[電波工業高等専門学校]])への切り替えが1年遅れの[[1949年]](昭和24年)に実施された。また[[運輸省]]所管だった商船学校も、新制商船高校(現在の[[商船高等専門学校]])への切り替えと文部省移管が3年遅れの[[1951年]](昭和26年)に実施された。
; 移行措置一覧年表
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|-style="white-space:nowrap"
!年度!![[1947年]]度<br>([[昭和]]22年度)!![[1948年]]度<br>(昭和23年度)!![[1949年]]度<br>(昭和24年度)!![[1950年]]度<br>(昭和25年度)
|-
!新学制
|新制小学校・中学校が発足||新制高等学校が発足||新制大学が発足||
|-
!旧学制から<br>新学制への<br>経過措置
|旧制中等学校に<br>併設(新制)中学校を設置||旧制高校に<br>旧制中等学校を設置<br><br>併設(新制)中学校が<br>新制高校に継承される<br><br>年度末で公立の新制高校の<br>併設(新制)中学校が廃止<br>{{Efn|私立山下西南中学校(新制)を県立移管した[[愛媛県立三瓶高等学校]]併設中学校は在校生が卒業する[[1950年]](昭和25年)度末まで存続した。}}||colspan="2"|
|-
!旧学制
|旧制中等学校の募集を停止<br><br>年度末で新制高校に移行する<br>旧制中等学校が廃止||||年度末で<br>すべての旧制高校が廃止||年度末で<br>すべての旧制中等学校が廃止
|}
; 新旧学年対応早見表
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|-style="white-space:nowrap"
![[1946年]]度<br>(昭和21年度)!!1947年度<br>(昭和22年度)!!1948年度<br>(昭和23年度)!!1949年度<br>(昭和24年度)!!1950年度<br>(昭和25年度)!![[1951年]]度<br>(昭和26年度)!![[1952年]]度<br>(昭和27年度)
|-
|[[国民学校]]<br>[[尋常小学校|初等科]]6年||新制中学1年||新制中学2年||新制中学3年||新制高校1年||新制高校2年||新制高校3年
|-
|国民学校<br>[[高等小学校|高等科]]1年||rowspan="2"|新制中学2年||rowspan="2"|新制中学3年||rowspan="2"|新制高校1年||rowspan="2"|新制高校2年||rowspan="3"|新制高校3年||rowspan="3"|<small>(新制大学へ)</small>
|-
|[[青年学校]]<br>普通科1年
|-
|[[旧制中等教育学校|旧制中等学校]]<br>1年<br><small>([[旧制中学校]])</small><br><small>([[高等女学校]])</small><br><small>([[実業学校]])</small>||併設(新制)中学2年<br><br>旧制中等学校<br>2年||併設(新制)中学3年<br><br>併設(旧制)中等学校<br>3年||新制高校1年<br><br>併設(旧制)中等学校<br>4年||新制高校2年<br><br>併設(旧制)中等学校<br>5年
|-
|国民学校<br>高等科2年||rowspan="2"|新制中学3年||rowspan="2"|新制高校1年||rowspan="2"|新制高校2年||rowspan="3"|新制高校3年||rowspan="3"|<small>(新制大学へ)</small>||rowspan="3"|
|-
|青年学校<br>普通科2年
|-
|旧制中等学校<br>2年||併設(新制)中学3年<br><br>旧制中等学校<br>3年||新制高校1年<br><br>併設(旧制)中等学校<br>4年||新制高校2年<br><br>併設(旧制)中等学校<br>5年
|-
|旧制中等学校<br>3年||旧制中等学校<br>4年||新制高校2年<br><br>併設(旧制)中等学校<br>5年<br><small>(旧制高校高等科などへ)</small>||新制高校3年<br><small>(旧制高校高等科などの<br>2年に編入)</small>||<small>(新制大学へ)</small>||colspan="2"|
|-
|旧制中等学校<br>4年||旧制中等学校<br>5年<br><small>(旧制高校高等科などへ)</small>||新制高校3年<br>||<small>(新制大学へ)</small>||colspan="3"|
|-
|旧制中等学校<br>5年||<small>(旧制高校などへ)</small>||colspan="5"|
|}
=== 旧制高校等から新制大学へ ===
[[旧制高等学校|旧制高校]]、[[旧制専門学校]]、[[師範学校]]、[[高等師範学校]]、[[大学予科]]の募集は1948年(昭和23年)までであった。
ただし、3年で卒業したのは1947年(昭和22年)の入学者が最後である。1948年(昭和23年)の入学者は1年次を修了した1949年(昭和24年)3月で学籍が消滅し、[[新制大学]]を受験し直さねばならなかった(詳細は[[旧制高等学校#戦時中の臨時措置|旧制高等学校]]を参照)。
1947年(昭和22年)度の[[旧制中学校|旧制中学]]の卒業者、4年修了者の大学へのコースは旧制高校経由と新制高校経由の2つがあった。
1949年(昭和24年)、新制大学の発足にともない旧制高校、旧制専門学校、師範学校が[[新制大学]]に包括され、旧制[[単科大学]]も多くが新制の[[総合大学]]に包括されたため「[[第一高等学校 (旧制)|東京大学第一高等学校]]」、「[[金沢大学]][[第四高等学校 (旧制)|第四高等学校]]」、「[[滋賀大学]][[彦根高等商業学校|彦根経済専門学校]]」、「[[北海道教育大学|北海道学芸大学]]北海道第二師範学校」、「[[千葉大学]][[東京医科歯科大学]]予科」、「広島大学[[広島文理科大学 (旧制)|広島文理科大学]]」というような名称になった。この状態が旧制学校の最後の卒業生が卒業するまで続いた{{Efn|ただし、学位授与機関として旧制大学の組織が残存したため、[[旧三商大|三商大]]や[[旧二文理大|二文理科大]]などは包括された名称が[[1962年]](昭和37年)[[3月31日]]まで残った。}}。
[[東京大学]]駒場キャンパスでは東京大学第一高等学校と東京大学[[教養学部]]が同居して旧制と新制の学生が対立する光景も見られたという。
[[旧制大学]]の入試は1950年(昭和25年)度が最後であった{{Efn|[[1947年]](昭和22年)10月には全国の帝国大学から「帝国」を外した改称が行われた。}}。しかしその後も「白線浪人」と呼ばれる<ref>「学生の政治活動禁止」『日本経済新聞』1950年6月14日 3面</ref>旧制高校卒の[[過年度生]]が多数いたので編入試験が行われた。
1949年(昭和24年)、学制改革で医学部・歯学部の入学資格は他の学部に2年以上在学し、所定の一般教育科目を履修した者となった。このため、新制大学の理学部や文理学部に、医学部・歯学部進学のためのコースが「理学部乙」等の名称で設けられ、大学2年修了者を対象とする入試は1951年(昭和26年)から実施された。4校の私立歯科大学に限っては、[[大学予科]]が2年制の旧制大学予科として継続することが認められた(1950年(昭和25年)2月2日文部省令第4号)。1955年(昭和30年)から、医学部・歯学部は6年制で、2年の進学課程及び4年の専門課程となり、「理学部乙」や2年制大学予科は、それぞれの大学の[[進学課程 (医歯学部)|医学部・歯学部進学課程]]となった。
なお1925年([[大正]]14年)に[[逓信省]]から文部省の所管となった[[高等商船学校]]は、新制の(国立)商船大学への移行が1949年(昭和24年)に実施された([[高等商船学校#沿革]])。また逓信省所管だった無線電信講習所の中央校は文部省移管後、新制の(国立)[[電気通信大学]]への移行が同年に実施された。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[戦後改革]]
* [[学校]]
* [[学齢]]
* [[旧制高等学校]]
* [[新制大学]]
* [[駅弁大学]]
* [[進学課程 (医歯学部)]]
* [[教育改革]]
* [[学校教育法]]
* [[教育委員会法]]
* [[日本の学校制度の変遷]]
== 外部リンク ==
* [http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198101/index.html 学制百年史]、{{Wayback|url=http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198102/index.html |title=学制百年史 資料編 |date=20060910100823}}
* {{Wayback|url=http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz199201/index.html |title=学制百二十年史 |date=20060915001051}}
{{日本の教育史}}
{{DEFAULTSORT:かくせいかいかく}}
[[Category:戦後日本の教育]]
[[Category:占領下日本の政治改革]]
[[Category:教育改革]] | 2003-05-20T06:22:14Z | 2023-09-16T13:56:00Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E5%88%B6%E6%94%B9%E9%9D%A9 |
8,777 | 福澤諭吉 | 福澤 諭吉(ふくざわ ゆきち、旧字体: 福󠄁澤 諭󠄀吉、天保5年12月12日〈1835年1月10日〉- 明治34年〈1901年2月3日〉)は、幕末から明治期の日本の啓蒙思想家、教育家。慶應義塾の創設者。諱は範(はん)。字は子圍(しい)。揮毫の落款印は「明治卅弐年後之福翁」。雅号は、三十一谷人(さんじゅういっこくじん)。
もともと苗字は「ふくさわ」と発音していたが、明治維新以後は「ふくざわ」と発音するようになった。現代では「福澤諭吉」と表記されることが一般的となっている。なお「中村諭吉」と名乗っていた時期がある。
慶應義塾(旧蘭学塾、現慶應義塾大学はじめ系列校)の他にも、商法講習所(現一橋大学)、神戸商業講習所(現神戸商業高校)、北里柴三郎の「伝染病研究所」(現東京大学医科学研究所)、「土筆ヶ岡養生園」(現東京大学医科学研究所附属病院)の創設にも尽力した。新聞『時事新報』の創刊者でもある。
ほかに東京学士会院(現日本学士院)初代会長を務めた。そうした業績を基に「明治六大教育家」として列される。
昭和59年(1984年)11月1日発行分から日本銀行券一万円紙幣(D号券、E号券)表面の肖像に採用されている。
大坂堂島新地五丁目 にあった豊前国中津藩(現:大分県中津市)の蔵屋敷で下級藩士・福澤百助と妻・於順の間に次男(8~9歳上の兄と3人の姉〈6歳上、4歳上、2歳上〉を持つ末子)として生まれる。諭吉という名は、儒学者でもあった父が『上諭条例』(清の乾隆帝治世下の法令を記録した書)を手に入れた夜に彼が生まれたことに由来する。福澤氏の祖は信濃国更級郡村上村網掛福澤あるいは同国諏訪郡福澤村を発祥として、前者は清和源氏村上氏為国流、後者は諏訪氏支流とする説があり、友米(ともよね)の代に豊前国中津郡に移住した。
友米の孫である父・百助は、鴻池や加島屋などの大坂の商人を相手に藩の借財を扱う職にありながら、藩儒・野本雪巌や帆足万里に学び、菅茶山・伊藤東涯などの儒学に通じた学者でもあった。百助の後輩には近江国水口藩・藩儒の中村栗園がおり、深い親交があった栗園は百助の死後も諭吉の面倒を見ていた。中小姓格(厩方)の役人となり、大坂での勘定方勤番は十数年におよんだが、身分格差の激しい中津藩では名をなすこともできずにこの世を去った。そのため息子である諭吉はのちに「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」(『福翁自伝』)とすら述べており、自身も封建制度には疑問を感じていた。兄・三之助は父に似た純粋な漢学者で、「死に至るまで孝悌忠信」の一言であったという。
なお、母兄姉と一緒に暮らしてはいたが、幼時から叔父・中村術平の養子になり中村姓を名乗っていた。のち、福澤家に復する。体格がよく、当時の日本人としてはかなり大柄な人物である(明治14年(1881年)7月当時、身長は173cm、体重は70.25kg、肺活量は5.159l)。
天保6年(1836年)、父の死去により中村栗園に見送られながら大坂から帰藩し、中津(現:大分県中津市)で過ごす。親兄弟や当時の一般的な武家の子弟と異なり、孝悌忠信や神仏を敬うという価値観はもっていなかった。お札を踏んでも祟りが起こらない事を確かめてみたり、神社で悪戯をしてみたりと、悪童まがいのはつらつとした子供だったようだが、刀剣細工や畳の表がえ、障子のはりかえをこなすなど内職に長けた子供であった。
5歳ごろから藩士・服部五郎兵衛に漢学と一刀流の手解きを受け始める。初めは読書嫌いであったが、14、5歳になってから近所で自分だけ勉強をしないというのも世間体が悪いということで勉学を始める。しかし始めてみるとすぐに実力をつけ、以後さまざまな漢書を読み漁り、漢籍を修める。18歳になると、兄・三之助も師事した野本真城、白石照山の塾・晩香堂へ通い始める。『論語』『孟子』『詩経』『書経』はもちろん、『史記』『左伝』『老子』『荘子』におよび、特に『左伝』は得意で15巻を11度も読み返して面白いところは暗記したという。このころには先輩を凌いで「漢学者の前座ぐらい(自伝)」は勤まるようになっていた。また学問のかたわら立身新流の居合術を習得した。
福澤の学問的・思想的源流に当たるのは荻生徂徠であり、諭吉の師・白石照山は陽明学や朱子学も修めていたので諭吉の学問の基本には儒学が根ざしており、その学統は白石照山・野本百厳・帆足万里を経て、祖父・兵左衛門も門を叩いた三浦梅園にまでさかのぼることができる。のちに蘭学の道を経て思想家となる過程にも、この学統が原点にある。
安政元年(1854年)、諭吉は兄の勧めで19歳で長崎へ遊学して蘭学を学ぶ(嘉永7年2月)。長崎市の光永寺に寄宿し、現在は石碑が残されている。黒船来航により砲術の需要が高まり、「オランダ流砲術を学ぶにはオランダ語の原典を読まなければならないが、それを読んでみる気はないか」と兄から誘われたのがきっかけであった。長崎奉行配下の役人で砲術家の山本物次郎宅に居候し、オランダ通詞(通訳などを仕事とする長崎の役人)の元へ通ってオランダ語を学んだ。山本家には蛮社の獄の際に高島秋帆が没収された砲術関係の書物が保管されており、山本は所蔵していた砲術関係の書籍を貸したり写させたりして謝金をもらっており、諭吉は鉄砲の設計図を引くことさえできるようになった。山本家の客の中に、薩摩藩の松崎鼎甫がおり、アルファベットを教えてもらう。その時分の諸藩の西洋家、たとえば村田蔵六(のちの大村益次郎)・本島藤太夫・菊池富太郎らが来て、「出島のオランダ屋敷に行ってみたい」とか、「大砲を鋳るから図をみせてくれ」とか、そんな世話をするのが山本家の仕事であり、その実はみな諭吉の仕事であった。中でも、菊池富太郎は黒船に乗船することを許された人物で、諭吉はこの長崎滞在時にかなり多くの知識を得ることができた。そのかたわら石川桜所の下で暇を見つけては教えを受けたり、縁を頼りに勉学を続けた。
安政2年(1855年)、諭吉はその山本家を紹介した奥平壱岐や、その実家である奥平家(中津藩家老の家柄)と不和になり、中津へ戻るようにとの知らせが届く。しかし諭吉本人は前年に中津を出立したときから中津へ戻るつもりなど毛頭なく、大坂を経て江戸へ出る計画を強行する。大坂へ到着すると、かつての父と同じく中津藩蔵屋敷に務めていた兄を訪ねる。すると兄から「江戸へは行くな」と引き止められ、大坂で蘭学を学ぶよう説得される。そこで諭吉は大坂の中津藩蔵屋敷に居候しながら、当時「過所町の先生」と呼ばれ、他を圧倒していた足守藩下士で蘭学者・緒方洪庵の「適塾」で学ぶこととなった(旧暦3月9日(4月25日))。
その後、諭吉が腸チフスを患うと、洪庵から「乃公はお前の病気を屹と診てやる。診てやるけれども、乃公が自分で処方することは出来ない。何分にも迷うてしまう。この薬あの薬と迷うて、あとになってそうでもなかったと言ってまた薬の加減をするというような訳けで、しまいには何の療治をしたか訳けが分からぬようになるというのは人情の免れぬことであるから、病は診てやるが執匙は外の医者に頼む。そのつもりにして居れ」(自伝)と告げられ、洪庵の朋友、内藤数馬から処置を施され、体力が回復する。そして。一時中津へ帰国する。
安政3年(1856年)、諭吉は再び大坂へ出て学ぶ。同年、兄が死に福澤家の家督を継ぐことになる。しかし大坂遊学を諦めきれず、父の蔵書や家財道具を売り払って借金を完済したあと、母以外の親類から反対されるもこれを押し切って大坂の適塾で学んだ。学費を払う経済力はなかったため、諭吉が奥平壱岐から借り受けて密かに筆写した築城学の教科書(C.M.H.Pel,Handleiding tot de Kennis der Versterkingskunst,Hertogenbosch、1852年)を翻訳するという名目で適塾の食客(住み込み学生)として学ぶこととなる。
安政4年(1857年)、諭吉は最年少22歳で適塾の塾頭となり、後任に長与専斎を指名した。適塾ではオランダ語の原書を読み、あるいは筆写し、時にその記述に従って化学実験、簡易な理科実験などをしていた。ただし生来血を見るのが苦手であったため瀉血や手術解剖のたぐいには手を出さなかった。適塾は診療所が附設してあり、医学塾ではあったが、諭吉は医学を学んだというよりはオランダ語を学んだということのようである。また工芸技術にも熱心になり、化学(ケミスト)の道具を使って色の黒い硫酸を製造したところ、鶴田仙庵が頭からかぶって危うく怪我をしそうになったこともある。また、福岡藩主・黒田長溥が金80両を投じて長崎で購入した『ワンダーベルツ』と題する物理書を写本して、元素を配列してそこに積極消極(プラスマイナス)の順を定めることやファラデーの電気説(ファラデーの法則)を初めて知ることになる。こういった電気の新説などを知り、発電を試みたりもしたようである。ほかにも昆布や荒布からのヨジュウム単体の抽出、淀川に浮かべた小舟の上でのアンモニア製造などがある。
幕末の時勢の中、無役の旗本で石高わずか40石の勝安房守(号は海舟)らが登用されたことで、安政5年(1858年)、諭吉にも中津藩から江戸出府を命じられる(差出人は江戸居留守役の岡見清熙)。江戸の中津藩邸に開かれていた蘭学塾の講師となるために古川正雄(当時の名は岡本周吉、のちに古川節蔵)・原田磊蔵を伴い江戸へ出る。築地鉄砲洲にあった奥平家の中屋敷に住み込み、そこで蘭学を教えた。まもなく足立寛、村田蔵六の「鳩居堂」から移ってきた佐倉藩の沼崎巳之介・沼崎済介が入塾し、この蘭学塾「一小家塾」がのちの学校法人慶應義塾の基礎となったため、この年が慶應義塾創立の年とされている。
元来、この蘭学塾は佐久間象山の象山書院から受けた影響が大きく、マシュー・ペリーの渡来に先んじて嘉永3年(1850年)ごろからすでに藩士たちが象山について洋式砲術の教授を受け、月に5〜6回も出張してもらって学ぶものも数十名におよんでいる。藩士の中にも、島津文三郎のように象山から直伝の免許を受けた優秀な者がおり、その後は杉亨二(杉はのちに勝海舟にも通じて氷解塾の塾頭も務める)、薩摩藩士の松木弘安を招聘していた。諭吉が講師に就任してからは、藤本元岱・神尾格・藤野貞司・前野良伯らが適塾から移ってきたほか、諭吉の前の適塾塾頭・松下元芳が入門するなどしている。岡見は大変な蔵書家であったため佐久間象山の貴重な洋書を、諭吉は片っ端から読んで講義にも生かした。住まいは中津藩中屋敷が与えられたほか、江戸扶持(地方勤務手当)として6人扶持が別途支給されている。
島村鼎甫を尋ねたあと、中津屋敷からは当時、蘭学の総本山といわれ、幕府奥医師の中で唯一蘭方を認められていた桂川家が500m以内の場所であったため、桂川甫周・神田孝平・箕作秋坪・柳川春三・大槻磐渓・宇都宮三郎・村田蔵六らとともに出入りし、終生深い信頼関係を築くことになった。また、親友の高橋順益が近くに住みたいと言って、浜御殿(現・浜離宮)の西に位置する源助町に転居してきた。
安政6年(1859年)、日米修好通商条約により新たな外国人居留地となった横浜に諭吉は出かけることにした。自分の身につけたオランダ語が相手の外国人に通じるかどうか試してみるためである。ところが、そこで使われていたのはもっぱら英語であった。諭吉が苦労して学んだオランダ語はそこではまったく通じず、看板の文字すら読めなかった。これに大きな衝撃を受けた諭吉は、それ以来、英語の必要性を痛感した。世界の覇権は大英帝国が握っており、すでにオランダに昔日の面影がないことは当時の蘭学者の間では常識であった。緒方洪庵もこれからの時代は英語やドイツ語を学ばなければならないという認識を持っていた。しかし、当時の日本では長年続いた鎖国の影響からオランダが西洋の唯一の窓口であったため、現実にはオランダ語以外の本を入手するのは困難だった。
諭吉は、幕府通辞の森山栄之助を訪問して英学を学んだあと、蕃書調所へ入所したが「英蘭辞書」は持ち出し禁止だったために1日で退所している。次いで神田孝平と一緒に学ぼうとするが、神田は蘭学から英学に転向することに躊躇を見せており、今までと同じように蘭学のみを学習することを望んだ。そこで村田蔵六に相談してみたが大村はヘボンに手ほどきを受けようとしていた。諭吉はようやく蕃書調所の原田敬策(岡山藩士、のちの幕臣)と一緒に英書を読もうということになり、英蘭対訳・発音付きの英蘭辞書などを手に入れて、蘭学だけではなく英学・英語も独学で勉強していくことにした。
安政6年(1859年)の冬、幕府は日米修好通商条約の批准交換のため、幕府使節団(万延元年遣米使節)をアメリカに派遣することにした。
この派遣は、岩瀬忠震の建言で進められ、使用する船は米軍艦「ポーハタン号」、その護衛船として「咸臨丸」が決まった。
福澤諭吉は知人の桂川甫周を介して軍艦奉行・木村摂津守の従者としてこの使節団に加わる機会を得た。
安政7年1月13日、幕府使節団は品川を出帆、1月19日に浦賀を出港する。
福澤諭吉は、軍艦奉行・木村摂津守(咸臨丸の艦長)、勝海舟、中浜万次郎(ジョン万次郎)らと同じ「咸臨丸」に乗船したが、この咸臨丸の航海は出港直後からひどい嵐に遭遇した。咸臨丸はこの嵐により大きな被害を受け、船の各所は大きく破損した。乗員たちの中には慣れない船旅で船酔いになる者、疲労でぐったりする者も多く出た。そんな大変な長旅を経て、安政7年2月26日(太陽暦3月17日)、幕府使節団はサンフランシスコに到着する。
ここで諭吉は3週間ほど過ごして、その後、修理が完了した咸臨丸に乗船、ハワイを経由して、万延元年5月5日(1860年6月23日)に日本に帰国する。
(一方、その後の幕府使節団はパナマに行き、パナマ鉄道会社が用意した汽車で大西洋側の港(アスピンウォール、現在のコロン)へ行く。アスピンウォールに着くと、米海軍の軍艦「ロアノーク号(英語版)」に乗船し、5月15日にワシントンに到着する。そこで、幕府使節団はブキャナン大統領と会見し、日米修好通商条約の批准書交換などを行う。その後、フィラデルフィア、ニューヨークに行き、そこから、大西洋のポルト・グランデ(現在のカーボベルデ)、アフリカのルアンダから喜望峰をまわり、バタビア(現在のジャカルタ)、香港を経由して、万延元年11月10日に、日本の江戸に帰国・入港する。)
今回のこの咸臨丸による航海について、福澤諭吉は、「蒸気船を初めて目にしてからたった7年後に日本人のみの手によって我が国で初めて太平洋を横断したのは日本人の世界に誇るべき名誉である」と、のちに述べている。
また、船上での福澤諭吉と勝海舟の間柄はあまり仲がよくなかった様子で、晩年まで険悪な関係が続いた。
一方、福澤諭吉と木村摂津守はとても親しい間柄で、この両者は明治維新によって木村が役職を退いたあとも晩年に至るまで親密な関係が続いた。諭吉は帰国した年に、木村の推薦で中津藩に籍を置いたまま「幕府外国方」(現:外務省)に採用されることになった。その他、戊辰戦争後に、芝・新銭座の有馬家中津屋敷に慶應義塾の土地を用意したのも木村である。
アメリカでは、科学分野に関しては書物によって既知の事柄も多かったが、文化の違いに関しては諭吉はさまざまに衝撃を受けた、という。たとえば、日本では徳川家康など君主の子孫がどうなったかを知らない者などいないのに対して、アメリカ国民が初代大統領ジョージ・ワシントンの子孫が現在どうしているかということをほとんど知らないということについて不思議に思ったことなどを書き残している(ちなみに、ワシントンに直系の子孫はいない。当該項参照)。
諭吉は、通訳として随行していた中浜万次郎(ジョン万次郎)とともに『ウェブスター大辞書』の省略版を購入し、日本へ持ち帰って研究の助けとした。また、翻訳途中だった『万国政表』(統計表)は、諭吉の留守中に門下生が完成させていた。
アメリカで購入した広東語・英語対訳の単語集である『華英通語』の英語を諭吉はカタカナで読みをつけ、広東語の漢字の横には日本語の訳語を付記した『増訂華英通語』を出版した。これは諭吉が初めて出版した書物である。この書物の中で諭吉は、「v」の発音を表すため「ウ」に濁点をつけた文字「ヴ」や「ワ」に濁点をつけた文字「ヷ」を用いているが、以後前者の表記は日本において一般的なものとなった。そして、諭吉は、再び鉄砲洲で新たな講義を行う。その内容は従来のようなオランダ語ではなくもっぱら英語であり、蘭学塾から英学塾へと教育方針を転換した。
その後、福澤諭吉は、「幕府外国方、御書翰掛、翻訳方」に採用されて、公文書の翻訳を行うようになった。これは外国から日本に対する公文書にはオランダ語の翻訳を附することが慣例となっていたためである。諭吉はこの仕事をすることにより、英語とオランダ語を対照することができ、これで自身の英語力を磨いた。このころの諭吉は、かなり英語も読めるようになっていたが、まだまだ意味の取りづらい部分もあり、オランダ語訳を参照することもあったようである。また、米国公使館通訳ヒュースケンの暗殺事件や水戸浪士による英国公使館襲撃事件など、多くの外交文書の翻訳も携わり、緊迫した国際情勢を身近に感じるようになったという。
文久元年(1861年)、福澤諭吉は中津藩士、土岐太郎八の次女・お錦と結婚した。同年12月、幕府は竹内保徳を正使とする幕府使節団(文久遣欧使節)を結成し、欧州各国へ派遣することにした。諭吉も「翻訳方」のメンバーとしてこの幕府使節団に加わり同行することになった。この時の同行者には他に、松木弘安、箕作秋坪、などがいて、総勢40人ほどの使節団であった。
文久元年(1861年)12月23日、幕府使節団は英艦「オーディン号(英語版)」に乗って品川を出港した。
12月29日、長崎に寄港し、そこで石炭などを補給した。文久二年(1862年)1月1日、長崎を出港し、1月6日、香港に寄港した。幕府使節団はここで6日間ほど滞在するが、香港で植民地主義・帝国主義が吹き荒れているのを目の当たりにし、イギリス人が中国人を犬猫同然に扱うことに強い衝撃を受けた。
1月12日、香港を出港し、シンガポールを経てインド洋・紅海を渡り、2月22日にスエズに到着した。ここから幕府使節団は陸路を汽車で移動し、スエズ地峡を超えて、北のカイロに向かった。カイロに到着するとまた別の汽車に乗ってアレキサンドリアに向かった。アレキサンドリアに到着すると、英国船の「ヒマラヤ号」に乗って地中海を渡り、マルタ島経由でフランスのマルセイユに3月5日に到着した。そこから、リヨンに行って、3月9日、パリに到着した。ここで幕府使節団は「オテル・デュ・ルーブル」というホテルに宿泊し、パリ市内の病院、医学校、博物館、公共施設などを見学した。(滞在期間は20日ほど)
文久2年(1862年)4月2日、幕府使節団はドーバー海峡海峡を越えてイギリスのロンドンに入った。ここでも幕府使節団はロンドン市内の駅、病院、協会、学校など多くの公共施設を見学する。万国博覧会にも行って、そこで蒸気機関車・電気機器・植字機に触れる。ロンドンの次はオランダのユトレヒトを訪問する。そこでも町の様子を見学するが、その時、偶然にもドイツ系写真家によって撮影されたと見られる幕府使節団の写真4点が、ユトレヒトの貨幣博物館に所蔵されていた記念アルバムから発見された。その後、幕府使節団は、プロイセンに行き、その次はロシアに行く。ロシアでは樺太国境問題を討議するためにペテルブルクを訪問するが、そこで幕府使節団は、陸軍病院で尿路結石の外科手術を見学した。
その後、幕府使節団はまたフランスのパリに戻り、そして、最後の訪問国のポルトガルのリスボンに文久2年(1862年)8月23日、到着した。
以上、ヨーロッパ6か国の歴訪の長旅で幕府使節団は、幕府から支給された支度金400両で英書・物理書・地理書をたくさん買い込み、日本へ持ち帰った。また、福澤諭吉は今回の長旅を通じて、自分の目で実際に目撃したことを、ヨーロッパ人にとっては普通であっても日本人にとっては未知の事柄である日常について細かく記録した。たとえば、病院や銀行・郵便法・徴兵令・選挙制度・議会制度などについてである。それを『西洋事情』、『西航記』にまとめた。
また、諭吉は今回の旅で日本語をうまく話せる現地のフランスの青年レオン・ド・ロニー(のちのパリ東洋語学校日本語学科初代教授)と知り合い、友好を結んだ。そして、諭吉はレオンの推薦で「アメリカおよび東洋民族誌学会」の正会員となった。(この時、諭吉はその学会に自分の顔写真をとられている。)
文久2年(1862年)9月3日、幕府使節団は、日本に向けてリスボンを出港し、文久2年(1862年)12月11日、日本の品川沖に無事に到着・帰国した。
ところが、その時の日本は幕府使節団が予想もしていない状況に一変していた。
品川に到着した翌日の12月12日に、「英国公使館焼き討ち事件」が起こった。文久3年(1863年)3月になると、孝明天皇の賀茂両社への攘夷祈願、4月には石清水八幡宮への行幸を受けて、長州藩が下関海峡通過のアメリカ商船を砲撃する事件が起こった。このように日本は各地で過激な攘夷論を叫ぶ人たちが目立つようになっていた。諭吉の周囲では、同僚の手塚律蔵や東条礼蔵が誰かに切られそうになるという事件も起こっていた。この時、諭吉は身の安全を守る為、夜は外出しないようにしていたが、同僚の旗本・藤沢志摩守の家で会合したあとに帰宅する途中、浪人と鉢合わせになり、居合で切り抜けなければと考えながら、すれちがいざまに互いに駆け抜けた(逃げた!)こともあった。(この文久2年ごろ〜明治6年ごろまでが江戸が一番危険で、物騒な世の中であったと諭吉はのちに回想している。)
文久3年(1863年)7月、薩英戦争が起こったことにより、福澤諭吉は幕府の仕事が忙しくなり、外国奉行・松平康英の屋敷に赴き、外交文書を徹夜で翻訳にあたった。その後、翻訳活動を進めていき、「蒸気船」→「汽船」のように三文字の単語を二文字で翻訳し始めたり、「コピーライト」→「版権」、「ポスト・オフィス」→「飛脚場」、「ブック・キーピング」→「帳合」、「インシュアランス」→「請合」などを考案していった。また、禁門の変が起こると長州藩追討の朝命が下って、中津藩にも出兵が命じられたがこれを拒否し、代わりに、以前より親交のあった仙台藩の大童信太夫を通じて、同年秋ごろに塾で諭吉に師事していた横尾東作を派遣して新聞『ジャパン=ヘラルド』を翻訳し、諸藩の援助をした。
元治元年(1864年)には、諭吉は郷里である中津に赴き、小幡篤次郎や三輪光五郎ら6名を連れてきた。同年10月には外国奉行支配調役次席翻訳御用として出仕し、臨時の「御雇い」ではなく幕府直参として150俵・15両を受けて御目見以上となり、「御旗本」となった。慶応元年(1865年)に始まる幕府の長州征伐の企てについて、幕臣としての立場からその方策を献言した『長州再征に関する建白書』では、大名同盟論の採用に反対し、幕府の側に立って、その維持のためには外国軍隊に依拠することも辞さないという立場をとった。明治2年(1869年)には、熊本藩の依頼で本格的な西洋戦術書『洋兵明鑑』を小幡篤次郎・小幡甚三郎と共訳した。また明治2年(1869年)、83歳の杉田玄白が蘭学草創の当時を回想して記し、大槻玄沢に送った手記を、諭吉は玄白の曽孫の杉田廉卿、他の有志たちと一緒になってまとめて、『蘭学事始』(上下2巻)の題名で刊行した。
慶応3年(1867年)、幕府はアメリカに注文した軍艦を受け取りに行くため、幕府使節団(使節主席・小野友五郎、江戸幕府の軍艦受取委員会)をアメリカに派遣することにした。その随行団のメンバーの中に福澤諭吉が加わることになった(他に津田仙、尺振八もメンバーとして同乗)。慶応3年(1867年)1月23日、幕府使節団は郵便船「コロラド号」に乗って横浜港を出港する。このコロラド号はオーディン号や咸臨丸より船の規模が大きく、装備も設備も十分であった。諭吉はこのコロラド号の船旅について「とても快適な航海で、22日目にサンフランシスコに無事に着いた」と「福翁自伝」に記している。
アメリカに到着後、幕府使節団はニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンD.C.を訪れた。この時、諭吉は、紀州藩や仙台藩から預かった資金、およそ5,000両で大量の辞書や物理書・地図帳を買い込んだという。
慶応3年6月27日(1867年7月28日)、幕府使節団は日本に帰国した。諭吉は現地で小野と揉めたため、帰国後はしばらく謹慎処分を受けたが、中島三郎助の働きかけですぐに謹慎が解けた。この謹慎期間中に、『西洋旅案内』(上下2巻)を書き上げた。
慶応3年(1867年)12月9日、朝廷は王政復古を宣言した。江戸開城後、福澤諭吉は新政府から出仕を求められたがこれを辞退し、以後も官職に就かなかった。翌年には帯刀をやめて平民となった。
慶応4年(1868年)には蘭学塾を慶應義塾と名づけ、教育活動に専念する。三田藩・仙台藩・紀州藩・中津藩・越後長岡藩と懇意になり、藩士を大量に受け入れる。特に紀州藩には慶應蘭学所内に「紀州塾」という紀州藩士専用の部屋まで造られた。長岡藩は藩の大参事として指導していた三島億二郎が諭吉の考えに共鳴していたこともあり、藩士を慶應義塾に多数送り込み、笠原文平らが運営資金を支えてもいた。同時に横浜の高島嘉右衛門の藍謝塾とも生徒の派遣交換が始まった。官軍と彰義隊の合戦が起こる中でもF・ウェーランド(英語版)『経済学原論』(The Elements of Political Economy, 1866)の講義を続けた(なお漢語に由来する「経済学」の語は諭吉や神田孝平らによりpolitical economyもしくはeconomicsの訳語として定着した)。老中・稲葉正邦から千俵取りの御使番として出仕するように要請されてもいたが、6月には幕府に退身届を提出して退官。維新後は、国会開設運動が全国に広がると、一定の距離を置きながら、イギリス流憲法論を唱えた。
妻・お錦の実家である土岐家と榎本武揚の母方の実家・林家が親戚であったことから、榎本助命のため寺島宗則(以前の松木弘安)の紹介で官軍参謀長・黒田清隆と面会し、赦免を要求。その後、以前から長州藩に雇われていた大村益次郎や薩摩藩出身の寺島宗則・神田孝平ら同僚が明治新政府への出仕を決め、諭吉にも山縣有朋・松本良順らから出仕の勧めがきたがこれを断り、九鬼隆一や白根専一、濱尾新、渡辺洪基らを新政府の文部官吏として送り込む一方、自らは慶應義塾の運営と啓蒙活動に専念することとした。
新銭座の土地を攻玉社の塾長・近藤真琴に300円で譲り渡し、慶應義塾の新しい土地として目をつけた三田の旧島原藩中屋敷の土地の払い下げの交渉を東京府と行った。明治3年には諭吉を厚く信頼していた内大臣・岩倉具視の助力を得てそれを実現した。明治4年からここに慶應義塾を移転させて、「帳合之法(現在の簿記)」などの講義を始めた。また明六社に参加。当時の文部官吏には隆一や田中不二麿・森有礼ら諭吉派官吏が多かったため、1873年(明治6年)、慶應義塾と東京英語学校(かつての開成学校でのち大学予備門さらに旧制一高に再編され、現:東京大学教養学部)は、例外的に徴兵令免除の待遇を受けることになった。
廃藩置県を歓迎し、「政権」(軍事や外交)と「治権」(地方の治安維持や教育)のすべてを政府が握るのではなく「治権」は地方の人に委ねるべきであるとした『分権論』には、これを成立させた西郷隆盛への感謝とともに、地方分権が士族の不満を救うと論じ、続く『丁丑公論』では政府が掌を返して西南戦争で西郷を追い込むのはおかしいと主張した。
『通俗民権論』『通俗国権論』『民間経済禄』なども官民調和の主張ないし初歩的な啓蒙を行ったものであった。しかしながら、自由主義を紹介する際には「自由在不自由中(自由は不自由の中にあり)」という言葉を使い、自分勝手主義へ堕することへ警鐘を鳴らした。明治6年(1873年)9月4日の午後には岩倉使節団に随行していた長与専斎の紹介で木戸孝允と会談。木戸が文部卿だった期間は4か月に過ぎなかったが、「学制」を制定し、「文部省は竹橋にあり、文部卿は三田にあり」の声があった。
明治7年(1874年)、板垣退助・後藤象二郎・江藤新平が野に下るや、高知の立志学舎に門下生を教師として派遣したほか、後藤の政治活動を支援し、国会開設運動の先頭に立って『郵便報知新聞』に「国会論」と題する社説を掲載。特に後藤には大変入れ込み、後藤の夫人に直接支援の旨を語るほどだった。同年、地下浪人だった岩崎弥太郎と面会し、弥太郎が山師ではないと評価した諭吉は、三菱商会にも荘田平五郎や豊川良平といった門下を投入したほか、後藤の経営する高島炭鉱を岩崎に買い取らせた。また、愛国社から頼まれて『国会を開設するの允可を上願する書』の起草に助力した。
明治9年(1876年)2月、諭吉は懇意にしていた森有礼の屋敷で寺島宗則や箕作秋坪らとともに、初めて大久保利通と会談した。このときの諭吉について大久保は日記の中で「種々談話有之面白く、流石有名に恥じず」と書いている。諭吉によると晩餐のあとに大久保が「天下流行の民権論も宜しいけれど人民が政府に向かって権利を争うなら、またこれに伴う義務もなくてはならぬ」と述べたことについて、諭吉は大久保が自分を民権論者の首魁のように誤解していると感じ(諭吉は国会開設論者であるため若干の民権論も唱えてはいたが、過激な民権論者には常に否定的であった)、民権運動を暴れる蜂の巣に例えて「蜂の仲間に入って飛場を共にしないばかりか、今日君が民権家と鑑定した福澤が着実な人物で君らにとって頼もしく思える場合もあるであろうから幾重にも安心しなさい」と回答したという。
明治13年(1880年)12月には参議の大隈重信邸で大隈、伊藤博文、井上馨という政府高官3人と会見し、公報新聞の発行を依頼された。諭吉はその場での諾否を保留して数日熟考したが、「政府の真意を大衆に認知させるだけの新聞では無意味」と考え、辞退しようと明治14年(1881年)1月に井上を訪問した。しかし井上が「政府は国会開設の決意を固めた」と語ったことで諭吉はその英断に歓喜し、新聞発行を引き受けた。
しかし、大隈重信が当時急進的すぎるとされていたイギリス型政党内閣制案を伊藤への事前相談なしに独自に提出したことで、伊藤は大隈の急進的傾向を警戒するようになった。またちょうどこの時期は「北海道開拓使官有物払い下げ問題」への反対集会が各地で開催される騒動が起きていた。大隈もその反対論者であり、また慶應義塾出身者も演説会や新聞でこの問題の批判を展開している者が多かった。そのため政府関係者に大隈・福澤・慶應義塾の陰謀という噂が真実と信ぜられるような空気が出来上がったとみられ、明治14年には大隈一派を政府の役職から辞職させる明治十四年の政変が起こることとなった。つい3か月前に大隈、伊藤、井上と会見したばかりだった諭吉はこの事件に当惑し、伊藤と井上に宛てて違約を責める手紙を送った。2,500字におよぶ人生で最も長い手紙だった。この手紙に対して、井上は返事の手紙を送ったが伊藤は返答しなかった。数回にわたって手紙を送り返信を求めたが、伊藤からの返信はついになく、井上も最後の書面には返信しなかった。これにより諭吉は両政治家との交際を久しく絶つことになった。諭吉の理解では、伊藤と井上は初め大隈と国会開設を決意したが、政府内部での形勢が不利と見て途中で変節し、大隈一人の責任にしたというものだった。
諭吉はすでに公報発行の準備を整えていたが、大隈が失脚し、伊藤と井上は横を向くという状態になったため、先の3人との会談での公報の話も立ち消えとなった。しかし公報のために整えられた準備を自分の新聞発行に転用することとし、明治15年(1882年)3月から『時事新報』を発刊することになった。『時事新報』の創刊にあたって掲げられた同紙発行の趣旨の末段には、「唯我輩の主義とする所は一身一家の独立より之を拡()めて一国の独立に及ぼさんとするの精神にして、苟()もこの精神に戻()らざるものなれば、現在の政府なり、又世上幾多の政党なり、諸工商の会社なり、諸学者の集会なり、その相手を撰ばず一切友として之を助け、之に反すると認る者は、亦()その相手を問わず一切敵として之を擯()けんのみ。」と記されている。
教育の画一化・中央集権化・官立化が確立されると、東京大学に莫大な資金が注ぎ込まれ、慶應義塾は経営難となり、ついに諭吉が勝海舟に資金調達を願い出るまでとなり、海舟からは「そんな教育機関はさっさとやめて、明治政府に仕官してこい」と返されたため、島津家に維持費用援助を要請することになった。その上、優秀な門下生は大学南校や大学東校、東京師範学校(東京教育大学、筑波大学の前身)の教授として引き抜かれていくという現象も起こっていた。
港区を流れる古川に狸橋という橋があり、橋の南に位置する狸蕎麦という蕎麦店に諭吉はたびたび来店していたが、明治12年(1879年)に狸橋南岸一帯の土地を買収し別邸を設けた。その場所に慶應義塾幼稚舎が移転し、また東側部分が土筆ケ岡養生園、のちの北里研究所、北里大学となった。
明治13年(1880年)、大隈重信と懇意の関係ゆえ、自由民権運動の火付け役として伊藤博文から睨まれていた諭吉の立場はますます厳しいものとなったが「慶應義塾維持法案」を作成し、自らは経営から手を引き、渡部久馬八・門野幾之進・浜野定四郎の3人に経営を任せることにした。このころから平民の学生が増えたことにより、運営が徐々に黒字化するようになった。
また、私立の総合的な学校が慶應義塾のみで、もっと多くの私立学校が必要だと考え、門下を大阪商業講習所や商法講習所で活躍させる一方、専修学校や東京専門学校、英吉利法律学校の設立を支援し、開校式にも出席した。
明治25年(1892年)には、長與專齋の紹介で北里柴三郎を迎えて、伝染病研究所や土筆ヶ岡養生園を森村市左衛門と共に設立していく。ちょうど帝国大学の構想が持ち上がっているころだったが、慶應義塾に大学部を設置し小泉信吉を招聘して、一貫教育の体制を確立した。
明治15年(1882年)に訪日した金玉均やその同志の朴泳孝と親交を深めた諭吉は、朝鮮問題に強い関心を抱くようになった。諭吉の考えるところ、日本の軍備は日本一国のためにあるのではなく、西洋諸国の侵略から東洋諸国を保護するためにあった。そのためには朝鮮における清の影響力を排除することで日本が朝鮮の近代化改革を指導する必要があると考え、日本国内で最も強硬な対清主戦論者となっていった。
明治15年(1882年)7月23日、壬午事変が勃発し、朝鮮の日本公使館が襲撃される事件があり、外務卿井上馨は朝鮮政府に謝罪・賠償と日本公使館に護衛兵を置くことを認めさせた済物浦条約を締結した。清はこれによって日本の朝鮮への軍事的影響力が増すことを恐れたが、諭吉はこの一連の動きに満足の意を示すとともに、清が邪魔してくるようであればこれを容赦すべきではないと論じた。明治15年10月に朝鮮からの謝罪使が訪日したが、この使節団は朴泳孝が正使、金玉均が副使の一人であった。朴泳孝は帰国に際して諭吉が推薦する慶應義塾出身の牛場卓蔵を朝鮮政府顧問に迎えている。
朝鮮宗主権の喪失を恐れる清は、袁世凱率いる3,000の兵を京城へ派遣し、これによって朝鮮政府内は事大党(清派)と独立党(日本派)と中間派に分裂。独立派の金・朴は、明治17年(1884年)12月4日に甲申事変を起こすも、事大党の要請に応えた清軍の出動で政権掌握に失敗した。この騒乱の中で磯林真三大尉以下日本軍人40人ほどが清軍や朝鮮軍に殺害され、また日本人居留民も中国人や朝鮮人の殺傷略奪を受けた。
この事件により日本国内の主戦論が高まり、その中でもとりわけ強硬に主戦論を唱えたのが諭吉だった。このころ諭吉は連日のように時事新報でこの件について筆をとり続け、「我が日本国に不敬損害を加へたる者あり」「支那兵士の事は遁辞を設ける由なし」「軍事費支弁の用意大早計ならず」「今より其覚悟にて人々其労役を増して私費を減ず可し」「戦争となれば必勝の算あり」「求る所は唯国権拡張の一点のみ」と清との開戦を強く訴えた。また甲申事変の失敗で日本に亡命した金玉均を数か月の間、三田の邸宅に匿まった。
このときの開戦危機は、明治18年(1885年)1月に朝鮮政府が外務卿・井上馨との交渉の中で謝罪と賠償を行うことを約束したことや、4月に日清間で日清揃っての朝鮮からの撤兵を約した天津条約が結ばれたことで一応の終息をみた。しかし、主戦論者の諭吉はこの結果を清有利とみなして不満を抱いたという。
当時の諭吉の真意は、息子の福澤一太郎宛ての書簡(1884年12月21日)に、「朝鮮事変之実を申せバ、日本公使幷ニ日本兵ハ、十二月六日支那兵之為ニ京城を逐出され、仁川へ逃げたる訳なり。日支兵員之多寡ハあれ共、日本人が支那人ニ負けたと申ハ開闢以来初て之事なり。何れただニては不相済事ならん。和戦之分れハ、今後半月か一月中ニ公然たる事ト存候。」に窺える。
明治27年(1894年)3月に日本亡命中の金玉均が朝鮮政府に上海におびき出されて暗殺される事件があり、再び日本国内の主戦論が高まった。諭吉も金玉均の死を悼み、相識の僧に法名と位牌を作らせて自家の仏壇に安置している。同年4月から5月にかけて東学党の乱鎮圧を理由に清が朝鮮への出兵を開始すると、日本政府もこれに対抗して朝鮮へ出兵し、ついに日清は開戦に至った(日清戦争)。諭吉は終始、時事新報での言論をもって熱心に政府と軍を支持して戦争遂行を激励した。
国会開設以来、政府と帝国議会は事あるごとに対立したため(建艦費否決など)、それが日本の外交力の弱さになって現れ、清にとってしばしば有利に働いた。諭吉は戦争でもその現象が生ずることを憂慮し、開戦早々に時事新報上で『日本臣民の覚悟』を発表し「官民ともに政治上の恩讐を忘れる事」「日本臣民は事の終局に至るまで慎んで政府の政略を批判すべからざる事」「人民相互に報国の義を奨励し、其美挙を称賛し、又銘々に自から堪忍すべき事」を訴えた。
また戦費の募金運動(諭吉はこれを遽金と名付けた)を積極的に行って、自身で1万円という大金を募金するとともに、三井財閥の三井八郎右衛門、三菱財閥の岩崎久弥、渋沢財閥の渋沢栄一らとともに戦費募金組織「報国会」を結成した(政府が別に5,000万円の公債募集を決定したためその際に解散した)。
この年は諭吉の還暦であったが、還暦祝いは戦勝後まで延期とし、明治28年(1895年)12月12日に改めて還暦祝いを行った。この日、諭吉は慶應義塾生徒への演説で「明治維新以来の日本の改新進歩と日清戦争の勝利によって日本の国権が大きく上昇した」と論じ、「感極まりて泣くの外なし」「長生きは可きものなり」と述べた。
諭吉は日清戦争後の晩年にも午前に3時間から4時間、午後に2時間は勉強し、また居合や米搗きも続け、最期まで無造作な老書生といった風の生活を送ったという。このころまでには慶應義塾は大学部を設けて総生徒数が千数百人という巨大学校となっていた。また時事新報も信用の厚い大新聞となっていた。
晩年の諭吉の主な活動には海軍拡張の必要性を強調する言論を行ったり、男女道徳の一新を企図して『女大学評論 新女大学』を著したり、北里柴三郎の伝染病研究所の設立を援助したりしたことなどが挙げられる。また明治30年(1897年)8月6日に日原昌造に送った手紙の中には共産主義の台頭を憂う手紙を残している。
諭吉は明治31年(1898年)9月26日、最初に脳溢血で倒れ一時危篤に陥るも、このときには回復した。その後、慶應義塾の『修身要領』を編纂した。
しかし明治34年(1901年)1月25日、脳溢血が再発し、2月3日に東京で死去した。享年67(66歳没)。7日には衆議院が「衆議院は夙に開国の説を唱へ、力を教育に致したる福澤諭吉君の訃音に接し茲に哀悼の意を表す」という院議を決議している。8日の諭吉の葬儀では三田の自邸から麻布善福寺まで1万5,000人の会葬者が葬列に加わった。
諭吉は、大学の敷地内に居を構えていたため、慶應義塾大学三田キャンパスに諭吉の終焉の地を示した石碑が設置されている(旧居の基壇の一部が今も残る)。戒名は「大観院独立自尊居士」で、麻布山善福寺にその墓がある。命日の2月3日は雪池忌(ゆきちき)と呼ばれ、塾長以下学生など多くの慶應義塾関係者が墓参する。
昭和52年(1977年)、最初の埋葬地(常光寺)から麻布善福寺へ改葬の際、諭吉の遺体がミイラ(死蝋)化して残っているのが発見された。外気と遮断され、比較的低温の地下水に浸され続けたために腐敗が進まず保存されたものと推定された。学術解剖や遺体保存の声もあったが、遺族の強い希望でそのまま荼毘にふされた。
諭吉は、東洋の旧習に妄執し西洋文明を拒む者を批判した。『学問のすすめ』の中で「文明の進歩は、天地の間にある有形の物にても無形の人事にても、其働の趣を詮索して真実を発明するに在り。西洋諸国民の人民が今日の文明に達したる其源を尋れば、凝の一点より出でざるものなし。之を彼の亜細亜諸州の人民が、虚誕妄説を軽信して巫蠱神仏に惑溺し、或いは所謂聖賢者(孔子など)の言を聞て一時に之に和するのみならず、万世の後に至て尚其言の範囲を脱すること能はざるものに比すれば、其品行の優劣、心勇の勇怯、固より年を同して語る可らざるなり。」と論じている。
とりわけ清や中国人の西洋化・近代化への怠慢ぶりを批判した。明治14年(1881年)には中国人は100年も前から西洋と接してきたことを前置きした上で「百年の久しき西洋の書を講ずる者もなく、西洋の器品を試用する者もなし。其改新の緩慢遅鈍、実に驚くに堪えり。」「畢竟支那人が其国の広大なるを自負して他を蔑視し、且数千年来陰陽五行の妄説に惑溺して物事の真理原則を求るの鍵を放擲したるの罪なり」と断じている。
そのような諭吉にとって日清戦争は、「日本の国権拡張のための戦争である」と同時に「西洋学と儒教の思想戦争」でもあった。諭吉は豊島沖海戦直後の明治27年(1894年)7月29日に時事新報で日清戦争について「文野の戦争」「文明開化の進歩を謀るものと其進歩を妨げんとするものの戦」と定義した。
戦勝後には山口広江に送った手紙の中で「(自分は)古学者流の役に立たぬことを説き、立国の大本はただ西洋流の文明主義に在るのみと、多年蝶々して已まなかったものの迚も生涯の中にその実境に遭うことはなかろうと思っていたのに、何ぞ料らん今眼前にこの盛事を見て、今や隣国支那朝鮮も我文明の中に包羅せんとす。畢生の愉快、実以て望外の仕合に存候」と思想戦争勝利の確信を表明した。自伝の中でも「顧みて世の中を見れば堪え難いことも多いようだが、一国全体の大勢は改進進歩の一方で、次第々々に上進して、数年の後その形に顕れたるは、日清戦争など官民一致の勝利、愉快とも難有(ありがた)いとも言いようがない。命あればこそコンナことを見聞するのだ、前に死んだ同志の朋友が不幸だ、アア見せてやりたいと、毎度私は泣きました」(『福翁自伝』、「老余の半生」)とその歓喜の念を述べている。
しかし諭吉の本来の目的は『国権論』や『内安外競論』において示されるように西洋列強の東侵阻止であり、日本の軍事力は日本一国のためだけにあるのではなく、西洋諸国から東洋諸国を保護するためにあるというものだった。そのため李氏朝鮮の金玉均などアジアの「改革派」を熱心に支援した。明治14年(1881年)6月に塾生の小泉信吉や日原昌造に送った書簡の中で諭吉は「本月初旬朝鮮人数名日本の事情視察のため渡来。其中壮年二名本塾へ入社いたし、二名共先づ拙宅にさし置、やさしく誘導致し遣居候。誠に二十余年前の自分の事を思へば同情相憐れむの念なきを不得、朝鮮人が外国留学の頭初、本塾も亦外人を入るるの発端、実に奇遇と可申、右を御縁として朝鮮人は貴賎となく毎度拙宅へ来訪、其咄を聞けば、他なし、三十年前の日本なり。何卒今後は良く附合開らける様に致度事に御座候」と書いており、朝鮮人の慶應義塾への入塾を許可し、また朝鮮人に親近感を抱きながら接していたことも分かる。
諭吉は漢学を徹底的に批判した。そのため孔孟崇拝者から憎悪されたが、そのことについて諭吉は自伝の中で「私はただ漢学に不信仰で、漢学に重きを置かぬだけではない。一歩進めていわゆる腐儒の腐説を一掃してやろうと若いころから心がけていた。そこで尋常一様の洋学者・通詞などいうような者が漢学者の事を悪く言うのは当たり前の話で、あまり毒にもならぬ。ところが私はずいぶん漢学を読んでいる。読んでいながら知らぬ風をして毒々しい事をいうから憎まれずにはいられぬ」「かくまでに私が漢学を敵視したのは、今の開国の時節に古く腐れた漢説が後進少年生の脳中にわだかまっては、とても西洋の文明は国に入ることができぬと、あくまで信じて疑わず、いかにもして彼らを救い出して我が信ずるところへ導かんと、あらゆる限りの力を尽くし、私の真面目を申せば、日本国中の漢学者はみんな来い、俺が一人で相手になろうというような決心であった」とその心境を語っている。
『文明論之概略』では孔子と孟子を「古来稀有の思想家」としつつ、儒教的な「政教一致」の欠点を指摘した。『学問のすすめ』においては、孔子の時代は2000年前の野蛮草昧の時代であり、天下の人心を維持せんがために束縛する権道しかなかったが、後世に孔子を学ぶ者は時代を考慮に入れて取捨すべきであって、2000年前に行われた教をそのまま現在に行おうとする者は事物の相場を理解しない人間と批判する。また西洋の諸大家は次々と新説を唱えて人々を文明に導いているが、これは彼らが古人が確定させた説にも反駁し、世の習慣にも疑義を入れるからこそ可能なことと論じた。
白人を絶賛する一方で黄色人種については「勉励事を為すと雖ども其才力狭くして事物の進歩甚だ遅し」と否定的であり、さらにその他の有色人種については野蛮人と評している。
諭吉は明治12年(1879年)の『民情一新』の中で、「現代において国内の平和を維持する方法は権力者が長居しないで適時交替していくことであるとして、国民の投票によって権力者が変わっていくイギリスの政党政治・議会政治を大いに参考にすべし」と論じた。国会開設時期については政府内で最も強く支持されていた「漸進論に賛成する」と表明しつつ、過度に慎重な意見は「我が日本は開国二十年の間に二百年の事を成したるに非ずや。皆是れ近時文明の力を利用して然るものなり」「人民一般に智徳生じて然る後に国会を開くの説は、全一年間一日も雨天なき好天気を待て旅行を企てるものに異ならず。到底出発の期無かるべし」「今の世に在りて十二年前の王政維新を尚早しと云はざるものは、又今日国会尚早しの言を吐く可きにあらざるなり」として退けている。
ただし、諭吉は国内の闘争よりも国外に日本の国権を拡張させることをより重視し、「内安外競」「官民調和」を持論としたため、自由民権運動に興じる急進派には決して同調せず、彼らのことを「駄民権論者」「ヘコヲビ書生」と呼んで軽蔑し、その主張について「犬の吠ゆるに異ならず」と批判した。『時事小言』の中で諭吉は「政府は国会を開いて国内の安寧を図り、心を合わせて外に向かって国権を張るべきこと」を強調している。
また諭吉が明治14年(1881年)にロンドンに滞在している慶應義塾生の小泉信吉に送った手紙には「地方処々の演説、所謂ヘコヲビ書生の連中、其風俗甚だ不宜(よろしからず)、近来に至ては県官を罵倒する等は通り過ぎ、極々の極度に至ればムツヒト(=明治天皇)云々を発言する者あるよし、実に演説も沙汰の限りにて甚だ悪しき兆候、斯くては捨置難き事と、少々づつ内談いたし居候義に御座候」と書かれており、皇室への不敬な姿勢などの自由民権論者の不作法も許しがたいものがあったようである。
諭吉は、明治維新になって欧米諸国の女性解放思想をいち早く日本に紹介した。「人倫の大本は夫婦なり」として一夫多妻や妾をもつことを非難し、女性にも自由を与えなければならぬとし、女も男も同じ人間であるため、同様の教育を受ける権利があると主張した。自身の娘にも幼少より芸事を仕込み、ハインリヒ・フォン・シーボルト夫人に芸事の指導を頼んでいた。
諭吉が女性解放思想で一番影響を受けていたのがイギリスの哲学者・庶民院議員ジョン・スチュアート・ミルであり、『学問のすすめ』の中でも「今の人事に於て男子は外を努め婦人は内を治るとて其関係殆ど天然なるが如くなれども、ステュアート・ミルは婦人論を著して、万古一定動かす可らざるの此習慣を破らんことを試みたり」と彼の先駆性を称えている。
一方で農村の女子教育には大変否定的であり、女子語学学校ブームに対して「嫁しては主夫の襤褸(ぼろ)を補綴(ほてい)する貧寒女子へ英の読本を教えて後世何の益あるべきや」「農民の婦女子、貧家の女子中、稀に有為の俊才を生じ、偶然にも大に社会を益したることなきにあらざれども、こは千百人中の一にして、はなはだ稀有のこと」「狂気の沙汰」と論じている。
明治7年(1874年)に発足した慶應義塾幼稚舎が、同10年(1877年)以降しばらくの間、男女をともに教育した例があり、これは近代化以降の日本の教育における男女教育のいち早い希有なことであった。なお、明治民法の家族法の草案段階は、諭吉の男女同等論に近いものであったり諭吉もそれを支持したが、士族系の反対があったため家父長制のものに書き換えられた。旧民法(明治23年法律第28号、第98号)をめぐる民法典論争では法典公布前から政府による民商両法典の拙速主義を批判し、延期派の論陣を張っている。
『時事新報』1885年6月4日-6月12日、7月7日-7月17日に「日本婦人論」を発表、後編は8月刊、前編は当時刊行されなかった。
世俗主義であった親鸞を参考に、「俗文主義」として当時としては平易な文章を使うように心がけていた。
出版物の管理と販売の権利は作者に独占させるというイギリスの版権思想を日本に持ち込み、明治元年(1868年)の10月に新政府へ海賊版の取り締まりを求める願書を提出、翌年の5月13日に、版権思想に基づいた出版条例の公布を実現させた。これにより、それ以前は有識者の仲間内で判断されていた著作権の最終判断が司法の場に持ち込まれることになる。また諭吉は並行して明治2年(1869年)の11月に出版業界に参入し、「福澤屋諭吉」という出版社を自ら作り、明治6年(1873年)3月には、日柳政朔の著作『啓蒙天地文』に自著の『啓蒙手習之文』からの無断引用があったとして非難を行った。当時は出版会社が著作物の権利を握り、盗作が発生しても作者への金銭的被害が皆無であったことから、東京日々新聞のように日柳を擁護するメディアが多数であったが、諭吉のこうした活動は、文章の無断引用は違法行為であるとの認識を社会に浸透させるきっかけの一つとなった。
文久元年(1861年)、中津藩士江戸定府の土岐太郎八の次女・錦と結婚し、四男五女の9人の子どもをもうけた。松山棟庵によると、諭吉は結婚前にも後にも妻以外の婦人に一度も接したことがなかったという。
或時先生にお話すると「左樣か、性來の健󠄁康の外に別段人と異つた所󠄁もないが唯一つの心當りと云ふのは、子供の前󠄁でも話されぬ事だが、私は妻を貰ふ前󠄁にも後にも、未だ嘗て一度も婦󠄁人に接した事がない、隨分󠄁方々を流浪して居るし、緖方塾に居た時は放蕩者󠄁等を、引ずつて來るために不潔󠄁な所󠄁に行つた事もあるが、金玉の身體をむざ/\汚す樣な機會をつくらぬのだ」と先生は噓をつく方ではない、先生の御夫婦󠄁ほど純潔󠄁な結合が、今の世界に幾人あるだらう
諭吉は、若年のころより立身新流居合の稽古を積み、成人のころに免許皆伝を得た達人であった。ただし、諭吉は急速な欧米思想流入を嫌う者から幾度となく暗殺されそうになっているが、斬り合うことなく逃げている。無論、逃げることは最も安全な護身術であるが、諭吉自身、居合はあくまでも求道の手段として殺傷を目的としていなかったようであり、同じく剣の達人と言われながら生涯人を斬ったことがなかった勝海舟や山岡鉄舟の思想との共通性が窺える。
晩年まで健康のためと称し、居合の形稽古に明け暮れていた。医学者の土屋雅春は、諭吉の死因の一つに「居合のやりすぎ」を挙げている。晩年まで一日千本以上抜いて居合日記をつけており、これでは逆に健康を害すると分析されている。
明治中期に武術ブームが起こると、人前で居合を語ったり剣技を見せたりすることは一切なくなり、一時期「居合刀はすっかり奥にしまいこんで」いた。流行り物に対してシニカルな一面も窺える。
諭吉は、勝海舟の批判者であり続けた。戊辰戦争の折に清水港に停泊中の脱走艦隊の1隻である咸臨丸の船員が新政府軍と交戦し徳川方の戦死者が放置された件(清水次郎長が埋葬し男を上げた意味でも有名)で、明治になってから戦死者の慰霊の石碑が清水の清見寺内に立てられるが、諭吉は家族旅行で清水に遊びこの石碑の碑文を書いた男が榎本武揚と銘記され、その内容が「食人之食者死人之事(人の食(禄)を食む者は人の事に死す。即ち徳川に仕える者は徳川家のために死すという意味)」を見ると激怒したという。
『瘠我慢の説』という公開書簡によって、海舟と榎本武揚(ともに旧幕臣でありながら明治政府に仕えた)を理路整然と、古今の引用を引きながら、相手の立場を理解していると公平な立場を強調しながら、容赦なく批判している。なお諭吉は海舟に借金の申し入れをしてこれを断られたことがある。当時慶應義塾の経営は西南戦争の影響で旧薩摩藩学生の退学などもあり思わしくなく、旧幕臣に比較的簡単に分け隔てなく融通していた海舟に援助を求めた。しかし海舟は諭吉が政府から払い下げられた1万4000坪におよぶ広大な三田の良地を保有していることを知っていたため、土地を売却してもなお(慶應義塾の経営に)足りなかったら相談に乗ると答えたが、諭吉は三田の土地を非常に気に入っていたため売却していない。瘠我慢の説発表はこのあとのことである。また、『福翁自伝』で諭吉は借金について以下のように語っている。
「私の流儀にすれば金がなければ使わない、有っても無駄に使わない、多く使うも、少なく使うも、一切世間の人のお世話に相成らぬ、使いたくなければ使わぬ、使いたければ使う、嘗(かつ)て人に相談しようとも思わなければ、人に喙(くちばし)を容れさせようとも思わぬ、貧富苦楽共に独立独歩、ドンなことがあっても、一寸でも困ったなんて泣き言を言わずに何時も悠々としているから、凡俗世界ではその様子を見て、コリャ何でも金持だと測量する人もありましょう。」
海舟も諭吉と同様に身なりにはあまり気を遣わない方であったが、よく軽口を叩く癖があった。ある日、上野精養軒の明六社へ尻端折り姿に蝙蝠傘をついて現れた海舟が「俺に軍艦3隻ほど貸さないか?日本が貧乏になってきたからシナに強盗でもしに行こうと思う。向こうからやかましく言ってきたら、あいつは頭がおかしいから構うなと言ってやればいい。思いっきり儲けてくるよ。ねえ福澤さん、儲けたらちっとあげます」と言ってからかったという。
しかし、海舟は諭吉のことを学者として一目置いており、自分が学んだ佐久間象山の息子の佐久間恪二郎や、徳川慶喜の十男で養子の勝精を慶應義塾に入学させるなど面倒見のよい一面もあった。
土屋雅春の『医者のみた福澤諭吉』(中央公論社、中公新書)や桜井邦朋の『福沢諭吉の「科學のススメ」』(祥伝社)によれば、諭吉と西洋医学との関係は深く、以下のような業績が残されている。
杉田玄白が記した『蘭東事始』の写本を、諭吉の友人・神田孝平が偶然に発見した。そこで、杉田玄白の4世の孫である杉田廉卿の許可を得て、諭吉の序文を附して、明治2年(1869年)に『蘭学事始』として出版した。さらに明治23年(1890年)4月1日には、再版を「蘭学事始再版序」を附して日本医学会総会の機会に出版している。
明治25年(1892年)10月、ドイツ留学から帰国した北里柴三郎のために、福澤諭吉は東京柴山内に「伝染病研究所」(伝研)を設立し、北里を所長に迎えた。その後、伝研は同年11月、大日本私立衛生会に移管され、年間3600円の支援を受けた。明治27年(1894年)には、伝研は芝愛宕町に移転したが、その時、近隣住民から反対運動が起こった。そこで、福澤諭吉は次男・捨次郎の新居を伝研の隣りに作り、伝研が危険でないことを示して、北里柴三郎の研究をサポートした。明治32年(1899年)に伝研が国に移管されると、北里は伝研の所長を辞任し、諭吉と長與專齋と森村市左衛門とが創設した「土筆ヶ岡養生園」に移った。
明治3年(1870年)、慶應義塾の塾生前田政四郎のために、諭吉が英国式の医学所の開設を決定した。そして明治6年(1873年)、慶應義塾内に「慶應義塾医学所」を開設した。所長は慶應義塾出身の医師松山棟庵が就任した。また、杉田玄端を呼んで尊王舎を医学訓練の場所とした。なお、明治13年(1880年)6月、慶應義塾医学所は経営上の理由により閉鎖されることになった。
しかし、諭吉の死後15年たった大正5年(1916年)12月27日、慶應義塾大学部に医学科の創設が許可され、大正6年(1917年)3月、医学科予科1年生の募集を開始し、学長として北里柴三郎が就任することになった。
太平洋戦争(大東亜戦争)後、歴史学者の服部之総や遠山茂樹らによって諭吉の「脱亜論」が再発見され、「福澤諭吉はアジア諸国を蔑視し、侵略を肯定したアジア蔑視者である」と批判された。丸山真男は服部之総の諭吉解釈を「論敵」としていたといわれる。
平成13年(2001年)、朝日新聞に掲載された安川寿之輔の論説「福沢諭吉 アジア蔑視広めた思想家」に、慶應義塾大学文学部卒の平山洋が反論「福沢諭吉 アジアを蔑視していたか」を掲載したことで、いわゆる「安川・平山論争」が始まった。
平山は、井田進也の文献分析を基礎に、諭吉のアジア蔑視を、『福澤諭吉伝』の著者で『時事新報』の主筆を務め、『福澤全集』を編纂した石河幹明の作為にみる。平山によれば、諭吉は支那(中国)や朝鮮政府を批判しても、民族そのものをおとしめたことはなかった。しかし、たとえば清の兵士を豚になぞらえた論説など、差別主義的内容のものは石河の論説であり、全集編纂時に諭吉のものと偽って収録したのだという。
根本的にこの問題は、平山自身や都倉武之がいうように、無署名論説の執筆者を文献学(テキストクリティーク)的に確定しないことには決着がつかない。「時事新報論説」執筆者に関する考察については、井田進也「井田メソッド」による執筆者検証も参照。
このように福澤肯定の動きは脱亜論と福澤の分離を目指していたが、2000年代になると、東アジアのナショナリズムの高まりによりネット空間を中心に脱亜論が人気を得て、逆の動きが起き始めた。さらに対立の悪化した2010年代になると右派系出版社を中心に脱亜論本が続々と出版され、福澤の肯定的評価は全く別の形で実現された。
平山洋は、井田の分析を基に現行全集の第七巻までは署名入りで公刊された著作であるのに対して、八巻以降の『時事新報論集』はその大部分が無署名であることを指摘した上で、大正時代の『福沢全集』(1925 - 26年)と昭和時代の『続福沢全集』(1933 - 34年)の編纂者であった弟子の石河幹明が『時事新報』から選んだものを、そのまま引き継いで収録しているとした。さらに現行版『全集』(1958 - 64年)の第一六巻には諭吉の没後数か月してから掲載された論説が六編収められていることも指摘している。
2000年(平成12年)3月12日付で朝日新聞により「この1000年・日本の政治リーダー読者人気投票」という特別企画が組まれ、西暦1000年から1999年の間に登場した歴史上の人物の中から、「あなたが一番好きな政治リーダー」を投票してもらう企画で、得票数7,863票のうち、第6位の豊臣秀吉(382票)に次ぐ第7位(330票)にランクインするなど、国民的な人気がある。
中国における評価は一般に悪いため慶應出身者からは憤りの声が聞かれる。 慶応文学部卒の平山洋は、「中国人による福澤批判の声の大きさに惑わされて、その主張にほとんど多様性がない」と批判した。
彼ら中国の福澤批判者は、彼の思想を実際に読んでいるわけではなく、ごくわずかだけ中国語訳されている、日本の福澤研究論文の骨子を、中国語で叫んでいるだけなのである。彼らが下敷きにしているのは、服部之総・遠山茂樹・安川寿之輔らの研究である。それ以外の、福澤を「市民的自由主義者」として肯定的に評価する丸山真男らの論文が出発点となることはない。
慶応法学部卒の小川原正道は、「平成22年11月に北京大学で講演し、福澤の文化思想や宗教思想などについて話した際、同大学の著名な教授から「福澤には『脱亜論』以外の側面もあるんですね」と素直に驚かれ、愕然とした」と述べる。
また、最も福澤の対外思想へ批判的な安川寿之輔の著書が近年中国で盛んに翻訳されている。
慶應義塾福澤研究センター客員研究員区建英の研究によると、以下のように評価できるという:
東大卒の丸山眞男は中国における福澤の人物像に対する主な反論として以下の5点を挙げている:
李登輝は、講演「学問のすゝめと日本文化の特徴」で諭吉について、欧米を日本に紹介するだけではなく、『学問のすゝめ』を著すことによって、思想闘争を行い、日本文化の新しい一面を強調しながらも日本文化の伝統を失わずに維持したと評価している。
大韓民国で脱亜論を引用した研究論文が見られるようになるのは1970年以降であり、1980年代に日本で歴史教科書問題が起こり、日本の朝鮮侵略の論理として改めて認知され、現在は韓国の高校世界史教科書にも載っている。
諭吉が援助した李氏朝鮮の開化派は、その中心にいた朴泳孝が日本統治時代の朝鮮において爵位を得るなどの厚遇を得て、金玉均は死後に贈位されたことなどから、独立後の韓国では親日派とみなされ、諭吉への関心もほとんどなかったものと推測される。金に対する評価は北朝鮮の方が高く、それを受けた形で、歴史研究家の姜在彦が1974年(昭和49年)に「金玉均の日本亡命」を発表し、諭吉に触れて「最近の研究で明らかにされてきているように、諭吉の思想における国権論的側面」という言葉が見える。この当時の日本において、諭吉を自由主義者としてではなく国権論者としてとらえ、侵略性を強調する傾向が高まっていたわけだが、姜在彦は諭吉に両面性を見ており、「日本を盟主とする侵略論につながる危険性をはらむ」としつつも、開化派への援助には一定の評価を与えている。
現在の韓国におけるごく一般的な諭吉像は、日本における教科書問題を受けて形作られたため、極端に否定的なものとなっている。一般的に、韓国における諭吉は往々にして征韓論者として位置づけられ、脱亜論など、諭吉の朝鮮関連の時事論説が書かれた当時の状況は考慮されず、神功皇后伝説や豊臣秀吉にまでさかのぼるとされる日本人の侵略思想の流れの中で捉えられている。1990年代辺りから、在日学者の著作にもそういった傾向が見られるようになり、その例としては、1996年(平成8年)の韓桂玉の『「征韓論」の系譜』、2006年の琴秉洞『日本人の朝鮮観 その光と影』を挙げることができる。
1990年代におけるこういった韓国の状況が、諭吉に侵略性を見る日本側の教科書問題と連動し続けていることは、安川寿之輔が『福沢諭吉のアジア認識』の「あとがき」で詳細に述べている。高嶋伸欣が1992年(平成4年)に執筆した教科書において、日本人のアジア差別に関係するとして脱亜論を引用し、検定によって不適切とされ訴訟になった。日本の戦争責任を追及する市民運動に身を投じていた安川は、この訴訟を契機として、諭吉を「我が国の近代化の過程を踏みにじり、破綻へと追いやった、我が民族全体の敵」とするような韓国の論調に共鳴し、30年ぶりに諭吉研究に取り組んだという。
杵淵信雄は安川とは異なり、『福沢諭吉と朝鮮』の中で「脱亜論の宣言を注視するあまり、(諭吉は)アジアとの連帯から侵略へと以後転じたとする誤解が生じた」として、諭吉の侵略性を強調する立場ではないが、1997年(平成9年)の時点において、「李氏朝鮮の積弊を痛罵し、しばしば当り障りの強い表現を好んだ諭吉の名が、隣国では、不愉快な感情と結びつくのは自然な成行である」と、韓国における感情的な反発に理解を示している。
一方、1990年代の韓国において、諭吉研究に取り組む研究者が複数現れたことを林宗元は述べている。林の紹介するところによれば、その観点も、日本における「自由主義者か帝国主義者か」という議論を引き継ぐもの、朝鮮の開化主義者と諭吉を比較するもの、諭吉と朝鮮開化派との関係を追求するもの、諭吉の反儒教論を批判分析するものなど多岐にわたっており、否定的なものばかりではないことが注目される。
2000年代に入り、こういった学問的取り組みと並行して、近代化の旗手としての諭吉への一定の理解が新聞論調にも見え始める。2004年(平成16年)前後に登場したニューライトは、金玉均など朝鮮開化派を高く評価し、日本統治時代の朝鮮における近代化も認める立場をとっており、従来の被害者意識から離れた歴史観を提唱するなど新しい風を巻き起こした。同年、林宗元によって『福翁自伝』が韓国語に翻訳・出版されたことも、韓国における諭吉像に肯定的な彩りを加えた。韓国主要紙はのきなみ好意的な書評をよせ、ハンギョレは「ハンギョレが選んだ今年の本」の翻訳書の一つとして紹介している。
しかし、韓国において諭吉に侵略性を見る従来の見解は根強く、また日本においても脱亜論が一人歩きする傾向が著しい。2005年、ノリミツ・オオニシニューヨーク・タイムズ東京支局長は「日本人の嫌韓感情の根底には諭吉の脱亜論がある」とした。東京発のこういった報道を受けてか、中央日報では再び諭吉を「アジアを見下して侵略を肯定した嫌韓の父であり右翼の元祖」と評してもいる。
また、稲葉継雄は、韓国で諭吉の侵略性の認識が高まっていると論じてもいて、韓国における諭吉像は、韓国内の政治情勢とともに、日韓の外交関係、世論のキャッチボールによっても大きく揺れ動いている。
『福澤諭吉著作集』(全12巻)、慶應義塾大学出版会で2002年(平成14年)- 2003年(平成15年)に刊行。 2009年(平成21年)に、著作集の一部(選書 全5冊)が、コンパクト版で新装刊行。 | [
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"text": "福澤 諭吉(ふくざわ ゆきち、旧字体: 福󠄁澤 諭󠄀吉、天保5年12月12日〈1835年1月10日〉- 明治34年〈1901年2月3日〉)は、幕末から明治期の日本の啓蒙思想家、教育家。慶應義塾の創設者。諱は範(はん)。字は子圍(しい)。揮毫の落款印は「明治卅弐年後之福翁」。雅号は、三十一谷人(さんじゅういっこくじん)。",
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"text": "もともと苗字は「ふくさわ」と発音していたが、明治維新以後は「ふくざわ」と発音するようになった。現代では「福澤諭吉」と表記されることが一般的となっている。なお「中村諭吉」と名乗っていた時期がある。",
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"text": "慶應義塾(旧蘭学塾、現慶應義塾大学はじめ系列校)の他にも、商法講習所(現一橋大学)、神戸商業講習所(現神戸商業高校)、北里柴三郎の「伝染病研究所」(現東京大学医科学研究所)、「土筆ヶ岡養生園」(現東京大学医科学研究所附属病院)の創設にも尽力した。新聞『時事新報』の創刊者でもある。",
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"text": "ほかに東京学士会院(現日本学士院)初代会長を務めた。そうした業績を基に「明治六大教育家」として列される。",
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"text": "昭和59年(1984年)11月1日発行分から日本銀行券一万円紙幣(D号券、E号券)表面の肖像に採用されている。",
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"text": "大坂堂島新地五丁目 にあった豊前国中津藩(現:大分県中津市)の蔵屋敷で下級藩士・福澤百助と妻・於順の間に次男(8~9歳上の兄と3人の姉〈6歳上、4歳上、2歳上〉を持つ末子)として生まれる。諭吉という名は、儒学者でもあった父が『上諭条例』(清の乾隆帝治世下の法令を記録した書)を手に入れた夜に彼が生まれたことに由来する。福澤氏の祖は信濃国更級郡村上村網掛福澤あるいは同国諏訪郡福澤村を発祥として、前者は清和源氏村上氏為国流、後者は諏訪氏支流とする説があり、友米(ともよね)の代に豊前国中津郡に移住した。",
"title": "経歴"
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"text": "友米の孫である父・百助は、鴻池や加島屋などの大坂の商人を相手に藩の借財を扱う職にありながら、藩儒・野本雪巌や帆足万里に学び、菅茶山・伊藤東涯などの儒学に通じた学者でもあった。百助の後輩には近江国水口藩・藩儒の中村栗園がおり、深い親交があった栗園は百助の死後も諭吉の面倒を見ていた。中小姓格(厩方)の役人となり、大坂での勘定方勤番は十数年におよんだが、身分格差の激しい中津藩では名をなすこともできずにこの世を去った。そのため息子である諭吉はのちに「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」(『福翁自伝』)とすら述べており、自身も封建制度には疑問を感じていた。兄・三之助は父に似た純粋な漢学者で、「死に至るまで孝悌忠信」の一言であったという。",
"title": "経歴"
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"text": "なお、母兄姉と一緒に暮らしてはいたが、幼時から叔父・中村術平の養子になり中村姓を名乗っていた。のち、福澤家に復する。体格がよく、当時の日本人としてはかなり大柄な人物である(明治14年(1881年)7月当時、身長は173cm、体重は70.25kg、肺活量は5.159l)。",
"title": "経歴"
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"text": "天保6年(1836年)、父の死去により中村栗園に見送られながら大坂から帰藩し、中津(現:大分県中津市)で過ごす。親兄弟や当時の一般的な武家の子弟と異なり、孝悌忠信や神仏を敬うという価値観はもっていなかった。お札を踏んでも祟りが起こらない事を確かめてみたり、神社で悪戯をしてみたりと、悪童まがいのはつらつとした子供だったようだが、刀剣細工や畳の表がえ、障子のはりかえをこなすなど内職に長けた子供であった。",
"title": "経歴"
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"text": "5歳ごろから藩士・服部五郎兵衛に漢学と一刀流の手解きを受け始める。初めは読書嫌いであったが、14、5歳になってから近所で自分だけ勉強をしないというのも世間体が悪いということで勉学を始める。しかし始めてみるとすぐに実力をつけ、以後さまざまな漢書を読み漁り、漢籍を修める。18歳になると、兄・三之助も師事した野本真城、白石照山の塾・晩香堂へ通い始める。『論語』『孟子』『詩経』『書経』はもちろん、『史記』『左伝』『老子』『荘子』におよび、特に『左伝』は得意で15巻を11度も読み返して面白いところは暗記したという。このころには先輩を凌いで「漢学者の前座ぐらい(自伝)」は勤まるようになっていた。また学問のかたわら立身新流の居合術を習得した。",
"title": "経歴"
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"text": "福澤の学問的・思想的源流に当たるのは荻生徂徠であり、諭吉の師・白石照山は陽明学や朱子学も修めていたので諭吉の学問の基本には儒学が根ざしており、その学統は白石照山・野本百厳・帆足万里を経て、祖父・兵左衛門も門を叩いた三浦梅園にまでさかのぼることができる。のちに蘭学の道を経て思想家となる過程にも、この学統が原点にある。",
"title": "経歴"
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"text": "安政元年(1854年)、諭吉は兄の勧めで19歳で長崎へ遊学して蘭学を学ぶ(嘉永7年2月)。長崎市の光永寺に寄宿し、現在は石碑が残されている。黒船来航により砲術の需要が高まり、「オランダ流砲術を学ぶにはオランダ語の原典を読まなければならないが、それを読んでみる気はないか」と兄から誘われたのがきっかけであった。長崎奉行配下の役人で砲術家の山本物次郎宅に居候し、オランダ通詞(通訳などを仕事とする長崎の役人)の元へ通ってオランダ語を学んだ。山本家には蛮社の獄の際に高島秋帆が没収された砲術関係の書物が保管されており、山本は所蔵していた砲術関係の書籍を貸したり写させたりして謝金をもらっており、諭吉は鉄砲の設計図を引くことさえできるようになった。山本家の客の中に、薩摩藩の松崎鼎甫がおり、アルファベットを教えてもらう。その時分の諸藩の西洋家、たとえば村田蔵六(のちの大村益次郎)・本島藤太夫・菊池富太郎らが来て、「出島のオランダ屋敷に行ってみたい」とか、「大砲を鋳るから図をみせてくれ」とか、そんな世話をするのが山本家の仕事であり、その実はみな諭吉の仕事であった。中でも、菊池富太郎は黒船に乗船することを許された人物で、諭吉はこの長崎滞在時にかなり多くの知識を得ることができた。そのかたわら石川桜所の下で暇を見つけては教えを受けたり、縁を頼りに勉学を続けた。",
"title": "経歴"
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"text": "安政2年(1855年)、諭吉はその山本家を紹介した奥平壱岐や、その実家である奥平家(中津藩家老の家柄)と不和になり、中津へ戻るようにとの知らせが届く。しかし諭吉本人は前年に中津を出立したときから中津へ戻るつもりなど毛頭なく、大坂を経て江戸へ出る計画を強行する。大坂へ到着すると、かつての父と同じく中津藩蔵屋敷に務めていた兄を訪ねる。すると兄から「江戸へは行くな」と引き止められ、大坂で蘭学を学ぶよう説得される。そこで諭吉は大坂の中津藩蔵屋敷に居候しながら、当時「過所町の先生」と呼ばれ、他を圧倒していた足守藩下士で蘭学者・緒方洪庵の「適塾」で学ぶこととなった(旧暦3月9日(4月25日))。",
"title": "経歴"
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"text": "その後、諭吉が腸チフスを患うと、洪庵から「乃公はお前の病気を屹と診てやる。診てやるけれども、乃公が自分で処方することは出来ない。何分にも迷うてしまう。この薬あの薬と迷うて、あとになってそうでもなかったと言ってまた薬の加減をするというような訳けで、しまいには何の療治をしたか訳けが分からぬようになるというのは人情の免れぬことであるから、病は診てやるが執匙は外の医者に頼む。そのつもりにして居れ」(自伝)と告げられ、洪庵の朋友、内藤数馬から処置を施され、体力が回復する。そして。一時中津へ帰国する。",
"title": "経歴"
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"text": "安政3年(1856年)、諭吉は再び大坂へ出て学ぶ。同年、兄が死に福澤家の家督を継ぐことになる。しかし大坂遊学を諦めきれず、父の蔵書や家財道具を売り払って借金を完済したあと、母以外の親類から反対されるもこれを押し切って大坂の適塾で学んだ。学費を払う経済力はなかったため、諭吉が奥平壱岐から借り受けて密かに筆写した築城学の教科書(C.M.H.Pel,Handleiding tot de Kennis der Versterkingskunst,Hertogenbosch、1852年)を翻訳するという名目で適塾の食客(住み込み学生)として学ぶこととなる。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 15,
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"text": "安政4年(1857年)、諭吉は最年少22歳で適塾の塾頭となり、後任に長与専斎を指名した。適塾ではオランダ語の原書を読み、あるいは筆写し、時にその記述に従って化学実験、簡易な理科実験などをしていた。ただし生来血を見るのが苦手であったため瀉血や手術解剖のたぐいには手を出さなかった。適塾は診療所が附設してあり、医学塾ではあったが、諭吉は医学を学んだというよりはオランダ語を学んだということのようである。また工芸技術にも熱心になり、化学(ケミスト)の道具を使って色の黒い硫酸を製造したところ、鶴田仙庵が頭からかぶって危うく怪我をしそうになったこともある。また、福岡藩主・黒田長溥が金80両を投じて長崎で購入した『ワンダーベルツ』と題する物理書を写本して、元素を配列してそこに積極消極(プラスマイナス)の順を定めることやファラデーの電気説(ファラデーの法則)を初めて知ることになる。こういった電気の新説などを知り、発電を試みたりもしたようである。ほかにも昆布や荒布からのヨジュウム単体の抽出、淀川に浮かべた小舟の上でのアンモニア製造などがある。",
"title": "経歴"
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"text": "幕末の時勢の中、無役の旗本で石高わずか40石の勝安房守(号は海舟)らが登用されたことで、安政5年(1858年)、諭吉にも中津藩から江戸出府を命じられる(差出人は江戸居留守役の岡見清熙)。江戸の中津藩邸に開かれていた蘭学塾の講師となるために古川正雄(当時の名は岡本周吉、のちに古川節蔵)・原田磊蔵を伴い江戸へ出る。築地鉄砲洲にあった奥平家の中屋敷に住み込み、そこで蘭学を教えた。まもなく足立寛、村田蔵六の「鳩居堂」から移ってきた佐倉藩の沼崎巳之介・沼崎済介が入塾し、この蘭学塾「一小家塾」がのちの学校法人慶應義塾の基礎となったため、この年が慶應義塾創立の年とされている。",
"title": "経歴"
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"text": "元来、この蘭学塾は佐久間象山の象山書院から受けた影響が大きく、マシュー・ペリーの渡来に先んじて嘉永3年(1850年)ごろからすでに藩士たちが象山について洋式砲術の教授を受け、月に5〜6回も出張してもらって学ぶものも数十名におよんでいる。藩士の中にも、島津文三郎のように象山から直伝の免許を受けた優秀な者がおり、その後は杉亨二(杉はのちに勝海舟にも通じて氷解塾の塾頭も務める)、薩摩藩士の松木弘安を招聘していた。諭吉が講師に就任してからは、藤本元岱・神尾格・藤野貞司・前野良伯らが適塾から移ってきたほか、諭吉の前の適塾塾頭・松下元芳が入門するなどしている。岡見は大変な蔵書家であったため佐久間象山の貴重な洋書を、諭吉は片っ端から読んで講義にも生かした。住まいは中津藩中屋敷が与えられたほか、江戸扶持(地方勤務手当)として6人扶持が別途支給されている。",
"title": "経歴"
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"text": "島村鼎甫を尋ねたあと、中津屋敷からは当時、蘭学の総本山といわれ、幕府奥医師の中で唯一蘭方を認められていた桂川家が500m以内の場所であったため、桂川甫周・神田孝平・箕作秋坪・柳川春三・大槻磐渓・宇都宮三郎・村田蔵六らとともに出入りし、終生深い信頼関係を築くことになった。また、親友の高橋順益が近くに住みたいと言って、浜御殿(現・浜離宮)の西に位置する源助町に転居してきた。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 19,
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"text": "安政6年(1859年)、日米修好通商条約により新たな外国人居留地となった横浜に諭吉は出かけることにした。自分の身につけたオランダ語が相手の外国人に通じるかどうか試してみるためである。ところが、そこで使われていたのはもっぱら英語であった。諭吉が苦労して学んだオランダ語はそこではまったく通じず、看板の文字すら読めなかった。これに大きな衝撃を受けた諭吉は、それ以来、英語の必要性を痛感した。世界の覇権は大英帝国が握っており、すでにオランダに昔日の面影がないことは当時の蘭学者の間では常識であった。緒方洪庵もこれからの時代は英語やドイツ語を学ばなければならないという認識を持っていた。しかし、当時の日本では長年続いた鎖国の影響からオランダが西洋の唯一の窓口であったため、現実にはオランダ語以外の本を入手するのは困難だった。",
"title": "経歴"
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"text": "諭吉は、幕府通辞の森山栄之助を訪問して英学を学んだあと、蕃書調所へ入所したが「英蘭辞書」は持ち出し禁止だったために1日で退所している。次いで神田孝平と一緒に学ぼうとするが、神田は蘭学から英学に転向することに躊躇を見せており、今までと同じように蘭学のみを学習することを望んだ。そこで村田蔵六に相談してみたが大村はヘボンに手ほどきを受けようとしていた。諭吉はようやく蕃書調所の原田敬策(岡山藩士、のちの幕臣)と一緒に英書を読もうということになり、英蘭対訳・発音付きの英蘭辞書などを手に入れて、蘭学だけではなく英学・英語も独学で勉強していくことにした。",
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"text": "安政6年(1859年)の冬、幕府は日米修好通商条約の批准交換のため、幕府使節団(万延元年遣米使節)をアメリカに派遣することにした。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "この派遣は、岩瀬忠震の建言で進められ、使用する船は米軍艦「ポーハタン号」、その護衛船として「咸臨丸」が決まった。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 23,
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"text": "福澤諭吉は知人の桂川甫周を介して軍艦奉行・木村摂津守の従者としてこの使節団に加わる機会を得た。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 24,
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"text": "安政7年1月13日、幕府使節団は品川を出帆、1月19日に浦賀を出港する。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 25,
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"text": "福澤諭吉は、軍艦奉行・木村摂津守(咸臨丸の艦長)、勝海舟、中浜万次郎(ジョン万次郎)らと同じ「咸臨丸」に乗船したが、この咸臨丸の航海は出港直後からひどい嵐に遭遇した。咸臨丸はこの嵐により大きな被害を受け、船の各所は大きく破損した。乗員たちの中には慣れない船旅で船酔いになる者、疲労でぐったりする者も多く出た。そんな大変な長旅を経て、安政7年2月26日(太陽暦3月17日)、幕府使節団はサンフランシスコに到着する。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 26,
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"text": "ここで諭吉は3週間ほど過ごして、その後、修理が完了した咸臨丸に乗船、ハワイを経由して、万延元年5月5日(1860年6月23日)に日本に帰国する。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 27,
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"text": "(一方、その後の幕府使節団はパナマに行き、パナマ鉄道会社が用意した汽車で大西洋側の港(アスピンウォール、現在のコロン)へ行く。アスピンウォールに着くと、米海軍の軍艦「ロアノーク号(英語版)」に乗船し、5月15日にワシントンに到着する。そこで、幕府使節団はブキャナン大統領と会見し、日米修好通商条約の批准書交換などを行う。その後、フィラデルフィア、ニューヨークに行き、そこから、大西洋のポルト・グランデ(現在のカーボベルデ)、アフリカのルアンダから喜望峰をまわり、バタビア(現在のジャカルタ)、香港を経由して、万延元年11月10日に、日本の江戸に帰国・入港する。)",
"title": "経歴"
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"text": "今回のこの咸臨丸による航海について、福澤諭吉は、「蒸気船を初めて目にしてからたった7年後に日本人のみの手によって我が国で初めて太平洋を横断したのは日本人の世界に誇るべき名誉である」と、のちに述べている。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 29,
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"text": "また、船上での福澤諭吉と勝海舟の間柄はあまり仲がよくなかった様子で、晩年まで険悪な関係が続いた。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 30,
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"text": "一方、福澤諭吉と木村摂津守はとても親しい間柄で、この両者は明治維新によって木村が役職を退いたあとも晩年に至るまで親密な関係が続いた。諭吉は帰国した年に、木村の推薦で中津藩に籍を置いたまま「幕府外国方」(現:外務省)に採用されることになった。その他、戊辰戦争後に、芝・新銭座の有馬家中津屋敷に慶應義塾の土地を用意したのも木村である。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 31,
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"text": "アメリカでは、科学分野に関しては書物によって既知の事柄も多かったが、文化の違いに関しては諭吉はさまざまに衝撃を受けた、という。たとえば、日本では徳川家康など君主の子孫がどうなったかを知らない者などいないのに対して、アメリカ国民が初代大統領ジョージ・ワシントンの子孫が現在どうしているかということをほとんど知らないということについて不思議に思ったことなどを書き残している(ちなみに、ワシントンに直系の子孫はいない。当該項参照)。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 32,
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"text": "諭吉は、通訳として随行していた中浜万次郎(ジョン万次郎)とともに『ウェブスター大辞書』の省略版を購入し、日本へ持ち帰って研究の助けとした。また、翻訳途中だった『万国政表』(統計表)は、諭吉の留守中に門下生が完成させていた。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 33,
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"text": "アメリカで購入した広東語・英語対訳の単語集である『華英通語』の英語を諭吉はカタカナで読みをつけ、広東語の漢字の横には日本語の訳語を付記した『増訂華英通語』を出版した。これは諭吉が初めて出版した書物である。この書物の中で諭吉は、「v」の発音を表すため「ウ」に濁点をつけた文字「ヴ」や「ワ」に濁点をつけた文字「ヷ」を用いているが、以後前者の表記は日本において一般的なものとなった。そして、諭吉は、再び鉄砲洲で新たな講義を行う。その内容は従来のようなオランダ語ではなくもっぱら英語であり、蘭学塾から英学塾へと教育方針を転換した。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 34,
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"text": "その後、福澤諭吉は、「幕府外国方、御書翰掛、翻訳方」に採用されて、公文書の翻訳を行うようになった。これは外国から日本に対する公文書にはオランダ語の翻訳を附することが慣例となっていたためである。諭吉はこの仕事をすることにより、英語とオランダ語を対照することができ、これで自身の英語力を磨いた。このころの諭吉は、かなり英語も読めるようになっていたが、まだまだ意味の取りづらい部分もあり、オランダ語訳を参照することもあったようである。また、米国公使館通訳ヒュースケンの暗殺事件や水戸浪士による英国公使館襲撃事件など、多くの外交文書の翻訳も携わり、緊迫した国際情勢を身近に感じるようになったという。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 35,
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"text": "文久元年(1861年)、福澤諭吉は中津藩士、土岐太郎八の次女・お錦と結婚した。同年12月、幕府は竹内保徳を正使とする幕府使節団(文久遣欧使節)を結成し、欧州各国へ派遣することにした。諭吉も「翻訳方」のメンバーとしてこの幕府使節団に加わり同行することになった。この時の同行者には他に、松木弘安、箕作秋坪、などがいて、総勢40人ほどの使節団であった。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 36,
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"text": "文久元年(1861年)12月23日、幕府使節団は英艦「オーディン号(英語版)」に乗って品川を出港した。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 37,
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"text": "12月29日、長崎に寄港し、そこで石炭などを補給した。文久二年(1862年)1月1日、長崎を出港し、1月6日、香港に寄港した。幕府使節団はここで6日間ほど滞在するが、香港で植民地主義・帝国主義が吹き荒れているのを目の当たりにし、イギリス人が中国人を犬猫同然に扱うことに強い衝撃を受けた。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 38,
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"text": "1月12日、香港を出港し、シンガポールを経てインド洋・紅海を渡り、2月22日にスエズに到着した。ここから幕府使節団は陸路を汽車で移動し、スエズ地峡を超えて、北のカイロに向かった。カイロに到着するとまた別の汽車に乗ってアレキサンドリアに向かった。アレキサンドリアに到着すると、英国船の「ヒマラヤ号」に乗って地中海を渡り、マルタ島経由でフランスのマルセイユに3月5日に到着した。そこから、リヨンに行って、3月9日、パリに到着した。ここで幕府使節団は「オテル・デュ・ルーブル」というホテルに宿泊し、パリ市内の病院、医学校、博物館、公共施設などを見学した。(滞在期間は20日ほど)",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "文久2年(1862年)4月2日、幕府使節団はドーバー海峡海峡を越えてイギリスのロンドンに入った。ここでも幕府使節団はロンドン市内の駅、病院、協会、学校など多くの公共施設を見学する。万国博覧会にも行って、そこで蒸気機関車・電気機器・植字機に触れる。ロンドンの次はオランダのユトレヒトを訪問する。そこでも町の様子を見学するが、その時、偶然にもドイツ系写真家によって撮影されたと見られる幕府使節団の写真4点が、ユトレヒトの貨幣博物館に所蔵されていた記念アルバムから発見された。その後、幕府使節団は、プロイセンに行き、その次はロシアに行く。ロシアでは樺太国境問題を討議するためにペテルブルクを訪問するが、そこで幕府使節団は、陸軍病院で尿路結石の外科手術を見学した。",
"title": "経歴"
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"tag": "p",
"text": "その後、幕府使節団はまたフランスのパリに戻り、そして、最後の訪問国のポルトガルのリスボンに文久2年(1862年)8月23日、到着した。",
"title": "経歴"
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"text": "以上、ヨーロッパ6か国の歴訪の長旅で幕府使節団は、幕府から支給された支度金400両で英書・物理書・地理書をたくさん買い込み、日本へ持ち帰った。また、福澤諭吉は今回の長旅を通じて、自分の目で実際に目撃したことを、ヨーロッパ人にとっては普通であっても日本人にとっては未知の事柄である日常について細かく記録した。たとえば、病院や銀行・郵便法・徴兵令・選挙制度・議会制度などについてである。それを『西洋事情』、『西航記』にまとめた。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 42,
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"text": "また、諭吉は今回の旅で日本語をうまく話せる現地のフランスの青年レオン・ド・ロニー(のちのパリ東洋語学校日本語学科初代教授)と知り合い、友好を結んだ。そして、諭吉はレオンの推薦で「アメリカおよび東洋民族誌学会」の正会員となった。(この時、諭吉はその学会に自分の顔写真をとられている。)",
"title": "経歴"
},
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"paragraph_id": 43,
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"text": "文久2年(1862年)9月3日、幕府使節団は、日本に向けてリスボンを出港し、文久2年(1862年)12月11日、日本の品川沖に無事に到着・帰国した。",
"title": "経歴"
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"text": "ところが、その時の日本は幕府使節団が予想もしていない状況に一変していた。",
"title": "経歴"
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"tag": "p",
"text": "品川に到着した翌日の12月12日に、「英国公使館焼き討ち事件」が起こった。文久3年(1863年)3月になると、孝明天皇の賀茂両社への攘夷祈願、4月には石清水八幡宮への行幸を受けて、長州藩が下関海峡通過のアメリカ商船を砲撃する事件が起こった。このように日本は各地で過激な攘夷論を叫ぶ人たちが目立つようになっていた。諭吉の周囲では、同僚の手塚律蔵や東条礼蔵が誰かに切られそうになるという事件も起こっていた。この時、諭吉は身の安全を守る為、夜は外出しないようにしていたが、同僚の旗本・藤沢志摩守の家で会合したあとに帰宅する途中、浪人と鉢合わせになり、居合で切り抜けなければと考えながら、すれちがいざまに互いに駆け抜けた(逃げた!)こともあった。(この文久2年ごろ〜明治6年ごろまでが江戸が一番危険で、物騒な世の中であったと諭吉はのちに回想している。)",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 46,
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"text": "文久3年(1863年)7月、薩英戦争が起こったことにより、福澤諭吉は幕府の仕事が忙しくなり、外国奉行・松平康英の屋敷に赴き、外交文書を徹夜で翻訳にあたった。その後、翻訳活動を進めていき、「蒸気船」→「汽船」のように三文字の単語を二文字で翻訳し始めたり、「コピーライト」→「版権」、「ポスト・オフィス」→「飛脚場」、「ブック・キーピング」→「帳合」、「インシュアランス」→「請合」などを考案していった。また、禁門の変が起こると長州藩追討の朝命が下って、中津藩にも出兵が命じられたがこれを拒否し、代わりに、以前より親交のあった仙台藩の大童信太夫を通じて、同年秋ごろに塾で諭吉に師事していた横尾東作を派遣して新聞『ジャパン=ヘラルド』を翻訳し、諸藩の援助をした。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 47,
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"text": "元治元年(1864年)には、諭吉は郷里である中津に赴き、小幡篤次郎や三輪光五郎ら6名を連れてきた。同年10月には外国奉行支配調役次席翻訳御用として出仕し、臨時の「御雇い」ではなく幕府直参として150俵・15両を受けて御目見以上となり、「御旗本」となった。慶応元年(1865年)に始まる幕府の長州征伐の企てについて、幕臣としての立場からその方策を献言した『長州再征に関する建白書』では、大名同盟論の採用に反対し、幕府の側に立って、その維持のためには外国軍隊に依拠することも辞さないという立場をとった。明治2年(1869年)には、熊本藩の依頼で本格的な西洋戦術書『洋兵明鑑』を小幡篤次郎・小幡甚三郎と共訳した。また明治2年(1869年)、83歳の杉田玄白が蘭学草創の当時を回想して記し、大槻玄沢に送った手記を、諭吉は玄白の曽孫の杉田廉卿、他の有志たちと一緒になってまとめて、『蘭学事始』(上下2巻)の題名で刊行した。",
"title": "経歴"
},
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"paragraph_id": 48,
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"text": "慶応3年(1867年)、幕府はアメリカに注文した軍艦を受け取りに行くため、幕府使節団(使節主席・小野友五郎、江戸幕府の軍艦受取委員会)をアメリカに派遣することにした。その随行団のメンバーの中に福澤諭吉が加わることになった(他に津田仙、尺振八もメンバーとして同乗)。慶応3年(1867年)1月23日、幕府使節団は郵便船「コロラド号」に乗って横浜港を出港する。このコロラド号はオーディン号や咸臨丸より船の規模が大きく、装備も設備も十分であった。諭吉はこのコロラド号の船旅について「とても快適な航海で、22日目にサンフランシスコに無事に着いた」と「福翁自伝」に記している。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 49,
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"text": "アメリカに到着後、幕府使節団はニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンD.C.を訪れた。この時、諭吉は、紀州藩や仙台藩から預かった資金、およそ5,000両で大量の辞書や物理書・地図帳を買い込んだという。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 50,
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"text": "慶応3年6月27日(1867年7月28日)、幕府使節団は日本に帰国した。諭吉は現地で小野と揉めたため、帰国後はしばらく謹慎処分を受けたが、中島三郎助の働きかけですぐに謹慎が解けた。この謹慎期間中に、『西洋旅案内』(上下2巻)を書き上げた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 51,
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"text": "慶応3年(1867年)12月9日、朝廷は王政復古を宣言した。江戸開城後、福澤諭吉は新政府から出仕を求められたがこれを辞退し、以後も官職に就かなかった。翌年には帯刀をやめて平民となった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "慶応4年(1868年)には蘭学塾を慶應義塾と名づけ、教育活動に専念する。三田藩・仙台藩・紀州藩・中津藩・越後長岡藩と懇意になり、藩士を大量に受け入れる。特に紀州藩には慶應蘭学所内に「紀州塾」という紀州藩士専用の部屋まで造られた。長岡藩は藩の大参事として指導していた三島億二郎が諭吉の考えに共鳴していたこともあり、藩士を慶應義塾に多数送り込み、笠原文平らが運営資金を支えてもいた。同時に横浜の高島嘉右衛門の藍謝塾とも生徒の派遣交換が始まった。官軍と彰義隊の合戦が起こる中でもF・ウェーランド(英語版)『経済学原論』(The Elements of Political Economy, 1866)の講義を続けた(なお漢語に由来する「経済学」の語は諭吉や神田孝平らによりpolitical economyもしくはeconomicsの訳語として定着した)。老中・稲葉正邦から千俵取りの御使番として出仕するように要請されてもいたが、6月には幕府に退身届を提出して退官。維新後は、国会開設運動が全国に広がると、一定の距離を置きながら、イギリス流憲法論を唱えた。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 53,
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"text": "妻・お錦の実家である土岐家と榎本武揚の母方の実家・林家が親戚であったことから、榎本助命のため寺島宗則(以前の松木弘安)の紹介で官軍参謀長・黒田清隆と面会し、赦免を要求。その後、以前から長州藩に雇われていた大村益次郎や薩摩藩出身の寺島宗則・神田孝平ら同僚が明治新政府への出仕を決め、諭吉にも山縣有朋・松本良順らから出仕の勧めがきたがこれを断り、九鬼隆一や白根専一、濱尾新、渡辺洪基らを新政府の文部官吏として送り込む一方、自らは慶應義塾の運営と啓蒙活動に専念することとした。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 54,
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"text": "新銭座の土地を攻玉社の塾長・近藤真琴に300円で譲り渡し、慶應義塾の新しい土地として目をつけた三田の旧島原藩中屋敷の土地の払い下げの交渉を東京府と行った。明治3年には諭吉を厚く信頼していた内大臣・岩倉具視の助力を得てそれを実現した。明治4年からここに慶應義塾を移転させて、「帳合之法(現在の簿記)」などの講義を始めた。また明六社に参加。当時の文部官吏には隆一や田中不二麿・森有礼ら諭吉派官吏が多かったため、1873年(明治6年)、慶應義塾と東京英語学校(かつての開成学校でのち大学予備門さらに旧制一高に再編され、現:東京大学教養学部)は、例外的に徴兵令免除の待遇を受けることになった。",
"title": "経歴"
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"text": "廃藩置県を歓迎し、「政権」(軍事や外交)と「治権」(地方の治安維持や教育)のすべてを政府が握るのではなく「治権」は地方の人に委ねるべきであるとした『分権論』には、これを成立させた西郷隆盛への感謝とともに、地方分権が士族の不満を救うと論じ、続く『丁丑公論』では政府が掌を返して西南戦争で西郷を追い込むのはおかしいと主張した。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 56,
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"text": "『通俗民権論』『通俗国権論』『民間経済禄』なども官民調和の主張ないし初歩的な啓蒙を行ったものであった。しかしながら、自由主義を紹介する際には「自由在不自由中(自由は不自由の中にあり)」という言葉を使い、自分勝手主義へ堕することへ警鐘を鳴らした。明治6年(1873年)9月4日の午後には岩倉使節団に随行していた長与専斎の紹介で木戸孝允と会談。木戸が文部卿だった期間は4か月に過ぎなかったが、「学制」を制定し、「文部省は竹橋にあり、文部卿は三田にあり」の声があった。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "明治7年(1874年)、板垣退助・後藤象二郎・江藤新平が野に下るや、高知の立志学舎に門下生を教師として派遣したほか、後藤の政治活動を支援し、国会開設運動の先頭に立って『郵便報知新聞』に「国会論」と題する社説を掲載。特に後藤には大変入れ込み、後藤の夫人に直接支援の旨を語るほどだった。同年、地下浪人だった岩崎弥太郎と面会し、弥太郎が山師ではないと評価した諭吉は、三菱商会にも荘田平五郎や豊川良平といった門下を投入したほか、後藤の経営する高島炭鉱を岩崎に買い取らせた。また、愛国社から頼まれて『国会を開設するの允可を上願する書』の起草に助力した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 58,
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"text": "明治9年(1876年)2月、諭吉は懇意にしていた森有礼の屋敷で寺島宗則や箕作秋坪らとともに、初めて大久保利通と会談した。このときの諭吉について大久保は日記の中で「種々談話有之面白く、流石有名に恥じず」と書いている。諭吉によると晩餐のあとに大久保が「天下流行の民権論も宜しいけれど人民が政府に向かって権利を争うなら、またこれに伴う義務もなくてはならぬ」と述べたことについて、諭吉は大久保が自分を民権論者の首魁のように誤解していると感じ(諭吉は国会開設論者であるため若干の民権論も唱えてはいたが、過激な民権論者には常に否定的であった)、民権運動を暴れる蜂の巣に例えて「蜂の仲間に入って飛場を共にしないばかりか、今日君が民権家と鑑定した福澤が着実な人物で君らにとって頼もしく思える場合もあるであろうから幾重にも安心しなさい」と回答したという。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "明治13年(1880年)12月には参議の大隈重信邸で大隈、伊藤博文、井上馨という政府高官3人と会見し、公報新聞の発行を依頼された。諭吉はその場での諾否を保留して数日熟考したが、「政府の真意を大衆に認知させるだけの新聞では無意味」と考え、辞退しようと明治14年(1881年)1月に井上を訪問した。しかし井上が「政府は国会開設の決意を固めた」と語ったことで諭吉はその英断に歓喜し、新聞発行を引き受けた。",
"title": "経歴"
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"text": "しかし、大隈重信が当時急進的すぎるとされていたイギリス型政党内閣制案を伊藤への事前相談なしに独自に提出したことで、伊藤は大隈の急進的傾向を警戒するようになった。またちょうどこの時期は「北海道開拓使官有物払い下げ問題」への反対集会が各地で開催される騒動が起きていた。大隈もその反対論者であり、また慶應義塾出身者も演説会や新聞でこの問題の批判を展開している者が多かった。そのため政府関係者に大隈・福澤・慶應義塾の陰謀という噂が真実と信ぜられるような空気が出来上がったとみられ、明治14年には大隈一派を政府の役職から辞職させる明治十四年の政変が起こることとなった。つい3か月前に大隈、伊藤、井上と会見したばかりだった諭吉はこの事件に当惑し、伊藤と井上に宛てて違約を責める手紙を送った。2,500字におよぶ人生で最も長い手紙だった。この手紙に対して、井上は返事の手紙を送ったが伊藤は返答しなかった。数回にわたって手紙を送り返信を求めたが、伊藤からの返信はついになく、井上も最後の書面には返信しなかった。これにより諭吉は両政治家との交際を久しく絶つことになった。諭吉の理解では、伊藤と井上は初め大隈と国会開設を決意したが、政府内部での形勢が不利と見て途中で変節し、大隈一人の責任にしたというものだった。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 61,
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"text": "諭吉はすでに公報発行の準備を整えていたが、大隈が失脚し、伊藤と井上は横を向くという状態になったため、先の3人との会談での公報の話も立ち消えとなった。しかし公報のために整えられた準備を自分の新聞発行に転用することとし、明治15年(1882年)3月から『時事新報』を発刊することになった。『時事新報』の創刊にあたって掲げられた同紙発行の趣旨の末段には、「唯我輩の主義とする所は一身一家の独立より之を拡()めて一国の独立に及ぼさんとするの精神にして、苟()もこの精神に戻()らざるものなれば、現在の政府なり、又世上幾多の政党なり、諸工商の会社なり、諸学者の集会なり、その相手を撰ばず一切友として之を助け、之に反すると認る者は、亦()その相手を問わず一切敵として之を擯()けんのみ。」と記されている。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "教育の画一化・中央集権化・官立化が確立されると、東京大学に莫大な資金が注ぎ込まれ、慶應義塾は経営難となり、ついに諭吉が勝海舟に資金調達を願い出るまでとなり、海舟からは「そんな教育機関はさっさとやめて、明治政府に仕官してこい」と返されたため、島津家に維持費用援助を要請することになった。その上、優秀な門下生は大学南校や大学東校、東京師範学校(東京教育大学、筑波大学の前身)の教授として引き抜かれていくという現象も起こっていた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "港区を流れる古川に狸橋という橋があり、橋の南に位置する狸蕎麦という蕎麦店に諭吉はたびたび来店していたが、明治12年(1879年)に狸橋南岸一帯の土地を買収し別邸を設けた。その場所に慶應義塾幼稚舎が移転し、また東側部分が土筆ケ岡養生園、のちの北里研究所、北里大学となった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "明治13年(1880年)、大隈重信と懇意の関係ゆえ、自由民権運動の火付け役として伊藤博文から睨まれていた諭吉の立場はますます厳しいものとなったが「慶應義塾維持法案」を作成し、自らは経営から手を引き、渡部久馬八・門野幾之進・浜野定四郎の3人に経営を任せることにした。このころから平民の学生が増えたことにより、運営が徐々に黒字化するようになった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "また、私立の総合的な学校が慶應義塾のみで、もっと多くの私立学校が必要だと考え、門下を大阪商業講習所や商法講習所で活躍させる一方、専修学校や東京専門学校、英吉利法律学校の設立を支援し、開校式にも出席した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "明治25年(1892年)には、長與專齋の紹介で北里柴三郎を迎えて、伝染病研究所や土筆ヶ岡養生園を森村市左衛門と共に設立していく。ちょうど帝国大学の構想が持ち上がっているころだったが、慶應義塾に大学部を設置し小泉信吉を招聘して、一貫教育の体制を確立した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "明治15年(1882年)に訪日した金玉均やその同志の朴泳孝と親交を深めた諭吉は、朝鮮問題に強い関心を抱くようになった。諭吉の考えるところ、日本の軍備は日本一国のためにあるのではなく、西洋諸国の侵略から東洋諸国を保護するためにあった。そのためには朝鮮における清の影響力を排除することで日本が朝鮮の近代化改革を指導する必要があると考え、日本国内で最も強硬な対清主戦論者となっていった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "明治15年(1882年)7月23日、壬午事変が勃発し、朝鮮の日本公使館が襲撃される事件があり、外務卿井上馨は朝鮮政府に謝罪・賠償と日本公使館に護衛兵を置くことを認めさせた済物浦条約を締結した。清はこれによって日本の朝鮮への軍事的影響力が増すことを恐れたが、諭吉はこの一連の動きに満足の意を示すとともに、清が邪魔してくるようであればこれを容赦すべきではないと論じた。明治15年10月に朝鮮からの謝罪使が訪日したが、この使節団は朴泳孝が正使、金玉均が副使の一人であった。朴泳孝は帰国に際して諭吉が推薦する慶應義塾出身の牛場卓蔵を朝鮮政府顧問に迎えている。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "朝鮮宗主権の喪失を恐れる清は、袁世凱率いる3,000の兵を京城へ派遣し、これによって朝鮮政府内は事大党(清派)と独立党(日本派)と中間派に分裂。独立派の金・朴は、明治17年(1884年)12月4日に甲申事変を起こすも、事大党の要請に応えた清軍の出動で政権掌握に失敗した。この騒乱の中で磯林真三大尉以下日本軍人40人ほどが清軍や朝鮮軍に殺害され、また日本人居留民も中国人や朝鮮人の殺傷略奪を受けた。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "この事件により日本国内の主戦論が高まり、その中でもとりわけ強硬に主戦論を唱えたのが諭吉だった。このころ諭吉は連日のように時事新報でこの件について筆をとり続け、「我が日本国に不敬損害を加へたる者あり」「支那兵士の事は遁辞を設ける由なし」「軍事費支弁の用意大早計ならず」「今より其覚悟にて人々其労役を増して私費を減ず可し」「戦争となれば必勝の算あり」「求る所は唯国権拡張の一点のみ」と清との開戦を強く訴えた。また甲申事変の失敗で日本に亡命した金玉均を数か月の間、三田の邸宅に匿まった。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "このときの開戦危機は、明治18年(1885年)1月に朝鮮政府が外務卿・井上馨との交渉の中で謝罪と賠償を行うことを約束したことや、4月に日清間で日清揃っての朝鮮からの撤兵を約した天津条約が結ばれたことで一応の終息をみた。しかし、主戦論者の諭吉はこの結果を清有利とみなして不満を抱いたという。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "当時の諭吉の真意は、息子の福澤一太郎宛ての書簡(1884年12月21日)に、「朝鮮事変之実を申せバ、日本公使幷ニ日本兵ハ、十二月六日支那兵之為ニ京城を逐出され、仁川へ逃げたる訳なり。日支兵員之多寡ハあれ共、日本人が支那人ニ負けたと申ハ開闢以来初て之事なり。何れただニては不相済事ならん。和戦之分れハ、今後半月か一月中ニ公然たる事ト存候。」に窺える。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "明治27年(1894年)3月に日本亡命中の金玉均が朝鮮政府に上海におびき出されて暗殺される事件があり、再び日本国内の主戦論が高まった。諭吉も金玉均の死を悼み、相識の僧に法名と位牌を作らせて自家の仏壇に安置している。同年4月から5月にかけて東学党の乱鎮圧を理由に清が朝鮮への出兵を開始すると、日本政府もこれに対抗して朝鮮へ出兵し、ついに日清は開戦に至った(日清戦争)。諭吉は終始、時事新報での言論をもって熱心に政府と軍を支持して戦争遂行を激励した。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "国会開設以来、政府と帝国議会は事あるごとに対立したため(建艦費否決など)、それが日本の外交力の弱さになって現れ、清にとってしばしば有利に働いた。諭吉は戦争でもその現象が生ずることを憂慮し、開戦早々に時事新報上で『日本臣民の覚悟』を発表し「官民ともに政治上の恩讐を忘れる事」「日本臣民は事の終局に至るまで慎んで政府の政略を批判すべからざる事」「人民相互に報国の義を奨励し、其美挙を称賛し、又銘々に自から堪忍すべき事」を訴えた。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "また戦費の募金運動(諭吉はこれを遽金と名付けた)を積極的に行って、自身で1万円という大金を募金するとともに、三井財閥の三井八郎右衛門、三菱財閥の岩崎久弥、渋沢財閥の渋沢栄一らとともに戦費募金組織「報国会」を結成した(政府が別に5,000万円の公債募集を決定したためその際に解散した)。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "この年は諭吉の還暦であったが、還暦祝いは戦勝後まで延期とし、明治28年(1895年)12月12日に改めて還暦祝いを行った。この日、諭吉は慶應義塾生徒への演説で「明治維新以来の日本の改新進歩と日清戦争の勝利によって日本の国権が大きく上昇した」と論じ、「感極まりて泣くの外なし」「長生きは可きものなり」と述べた。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "諭吉は日清戦争後の晩年にも午前に3時間から4時間、午後に2時間は勉強し、また居合や米搗きも続け、最期まで無造作な老書生といった風の生活を送ったという。このころまでには慶應義塾は大学部を設けて総生徒数が千数百人という巨大学校となっていた。また時事新報も信用の厚い大新聞となっていた。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "晩年の諭吉の主な活動には海軍拡張の必要性を強調する言論を行ったり、男女道徳の一新を企図して『女大学評論 新女大学』を著したり、北里柴三郎の伝染病研究所の設立を援助したりしたことなどが挙げられる。また明治30年(1897年)8月6日に日原昌造に送った手紙の中には共産主義の台頭を憂う手紙を残している。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "諭吉は明治31年(1898年)9月26日、最初に脳溢血で倒れ一時危篤に陥るも、このときには回復した。その後、慶應義塾の『修身要領』を編纂した。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "しかし明治34年(1901年)1月25日、脳溢血が再発し、2月3日に東京で死去した。享年67(66歳没)。7日には衆議院が「衆議院は夙に開国の説を唱へ、力を教育に致したる福澤諭吉君の訃音に接し茲に哀悼の意を表す」という院議を決議している。8日の諭吉の葬儀では三田の自邸から麻布善福寺まで1万5,000人の会葬者が葬列に加わった。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 81,
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"text": "諭吉は、大学の敷地内に居を構えていたため、慶應義塾大学三田キャンパスに諭吉の終焉の地を示した石碑が設置されている(旧居の基壇の一部が今も残る)。戒名は「大観院独立自尊居士」で、麻布山善福寺にその墓がある。命日の2月3日は雪池忌(ゆきちき)と呼ばれ、塾長以下学生など多くの慶應義塾関係者が墓参する。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 82,
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"text": "昭和52年(1977年)、最初の埋葬地(常光寺)から麻布善福寺へ改葬の際、諭吉の遺体がミイラ(死蝋)化して残っているのが発見された。外気と遮断され、比較的低温の地下水に浸され続けたために腐敗が進まず保存されたものと推定された。学術解剖や遺体保存の声もあったが、遺族の強い希望でそのまま荼毘にふされた。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 83,
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"text": "諭吉は、東洋の旧習に妄執し西洋文明を拒む者を批判した。『学問のすすめ』の中で「文明の進歩は、天地の間にある有形の物にても無形の人事にても、其働の趣を詮索して真実を発明するに在り。西洋諸国民の人民が今日の文明に達したる其源を尋れば、凝の一点より出でざるものなし。之を彼の亜細亜諸州の人民が、虚誕妄説を軽信して巫蠱神仏に惑溺し、或いは所謂聖賢者(孔子など)の言を聞て一時に之に和するのみならず、万世の後に至て尚其言の範囲を脱すること能はざるものに比すれば、其品行の優劣、心勇の勇怯、固より年を同して語る可らざるなり。」と論じている。",
"title": "人物・思想"
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"paragraph_id": 84,
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"text": "とりわけ清や中国人の西洋化・近代化への怠慢ぶりを批判した。明治14年(1881年)には中国人は100年も前から西洋と接してきたことを前置きした上で「百年の久しき西洋の書を講ずる者もなく、西洋の器品を試用する者もなし。其改新の緩慢遅鈍、実に驚くに堪えり。」「畢竟支那人が其国の広大なるを自負して他を蔑視し、且数千年来陰陽五行の妄説に惑溺して物事の真理原則を求るの鍵を放擲したるの罪なり」と断じている。",
"title": "人物・思想"
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"text": "そのような諭吉にとって日清戦争は、「日本の国権拡張のための戦争である」と同時に「西洋学と儒教の思想戦争」でもあった。諭吉は豊島沖海戦直後の明治27年(1894年)7月29日に時事新報で日清戦争について「文野の戦争」「文明開化の進歩を謀るものと其進歩を妨げんとするものの戦」と定義した。",
"title": "人物・思想"
},
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"text": "戦勝後には山口広江に送った手紙の中で「(自分は)古学者流の役に立たぬことを説き、立国の大本はただ西洋流の文明主義に在るのみと、多年蝶々して已まなかったものの迚も生涯の中にその実境に遭うことはなかろうと思っていたのに、何ぞ料らん今眼前にこの盛事を見て、今や隣国支那朝鮮も我文明の中に包羅せんとす。畢生の愉快、実以て望外の仕合に存候」と思想戦争勝利の確信を表明した。自伝の中でも「顧みて世の中を見れば堪え難いことも多いようだが、一国全体の大勢は改進進歩の一方で、次第々々に上進して、数年の後その形に顕れたるは、日清戦争など官民一致の勝利、愉快とも難有(ありがた)いとも言いようがない。命あればこそコンナことを見聞するのだ、前に死んだ同志の朋友が不幸だ、アア見せてやりたいと、毎度私は泣きました」(『福翁自伝』、「老余の半生」)とその歓喜の念を述べている。",
"title": "人物・思想"
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"text": "しかし諭吉の本来の目的は『国権論』や『内安外競論』において示されるように西洋列強の東侵阻止であり、日本の軍事力は日本一国のためだけにあるのではなく、西洋諸国から東洋諸国を保護するためにあるというものだった。そのため李氏朝鮮の金玉均などアジアの「改革派」を熱心に支援した。明治14年(1881年)6月に塾生の小泉信吉や日原昌造に送った書簡の中で諭吉は「本月初旬朝鮮人数名日本の事情視察のため渡来。其中壮年二名本塾へ入社いたし、二名共先づ拙宅にさし置、やさしく誘導致し遣居候。誠に二十余年前の自分の事を思へば同情相憐れむの念なきを不得、朝鮮人が外国留学の頭初、本塾も亦外人を入るるの発端、実に奇遇と可申、右を御縁として朝鮮人は貴賎となく毎度拙宅へ来訪、其咄を聞けば、他なし、三十年前の日本なり。何卒今後は良く附合開らける様に致度事に御座候」と書いており、朝鮮人の慶應義塾への入塾を許可し、また朝鮮人に親近感を抱きながら接していたことも分かる。",
"title": "人物・思想"
},
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"text": "諭吉は漢学を徹底的に批判した。そのため孔孟崇拝者から憎悪されたが、そのことについて諭吉は自伝の中で「私はただ漢学に不信仰で、漢学に重きを置かぬだけではない。一歩進めていわゆる腐儒の腐説を一掃してやろうと若いころから心がけていた。そこで尋常一様の洋学者・通詞などいうような者が漢学者の事を悪く言うのは当たり前の話で、あまり毒にもならぬ。ところが私はずいぶん漢学を読んでいる。読んでいながら知らぬ風をして毒々しい事をいうから憎まれずにはいられぬ」「かくまでに私が漢学を敵視したのは、今の開国の時節に古く腐れた漢説が後進少年生の脳中にわだかまっては、とても西洋の文明は国に入ることができぬと、あくまで信じて疑わず、いかにもして彼らを救い出して我が信ずるところへ導かんと、あらゆる限りの力を尽くし、私の真面目を申せば、日本国中の漢学者はみんな来い、俺が一人で相手になろうというような決心であった」とその心境を語っている。",
"title": "人物・思想"
},
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"paragraph_id": 89,
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"text": "『文明論之概略』では孔子と孟子を「古来稀有の思想家」としつつ、儒教的な「政教一致」の欠点を指摘した。『学問のすすめ』においては、孔子の時代は2000年前の野蛮草昧の時代であり、天下の人心を維持せんがために束縛する権道しかなかったが、後世に孔子を学ぶ者は時代を考慮に入れて取捨すべきであって、2000年前に行われた教をそのまま現在に行おうとする者は事物の相場を理解しない人間と批判する。また西洋の諸大家は次々と新説を唱えて人々を文明に導いているが、これは彼らが古人が確定させた説にも反駁し、世の習慣にも疑義を入れるからこそ可能なことと論じた。",
"title": "人物・思想"
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"text": "白人を絶賛する一方で黄色人種については「勉励事を為すと雖ども其才力狭くして事物の進歩甚だ遅し」と否定的であり、さらにその他の有色人種については野蛮人と評している。",
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"paragraph_id": 91,
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"text": "諭吉は明治12年(1879年)の『民情一新』の中で、「現代において国内の平和を維持する方法は権力者が長居しないで適時交替していくことであるとして、国民の投票によって権力者が変わっていくイギリスの政党政治・議会政治を大いに参考にすべし」と論じた。国会開設時期については政府内で最も強く支持されていた「漸進論に賛成する」と表明しつつ、過度に慎重な意見は「我が日本は開国二十年の間に二百年の事を成したるに非ずや。皆是れ近時文明の力を利用して然るものなり」「人民一般に智徳生じて然る後に国会を開くの説は、全一年間一日も雨天なき好天気を待て旅行を企てるものに異ならず。到底出発の期無かるべし」「今の世に在りて十二年前の王政維新を尚早しと云はざるものは、又今日国会尚早しの言を吐く可きにあらざるなり」として退けている。",
"title": "人物・思想"
},
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"paragraph_id": 92,
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"text": "ただし、諭吉は国内の闘争よりも国外に日本の国権を拡張させることをより重視し、「内安外競」「官民調和」を持論としたため、自由民権運動に興じる急進派には決して同調せず、彼らのことを「駄民権論者」「ヘコヲビ書生」と呼んで軽蔑し、その主張について「犬の吠ゆるに異ならず」と批判した。『時事小言』の中で諭吉は「政府は国会を開いて国内の安寧を図り、心を合わせて外に向かって国権を張るべきこと」を強調している。",
"title": "人物・思想"
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"paragraph_id": 93,
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"text": "また諭吉が明治14年(1881年)にロンドンに滞在している慶應義塾生の小泉信吉に送った手紙には「地方処々の演説、所謂ヘコヲビ書生の連中、其風俗甚だ不宜(よろしからず)、近来に至ては県官を罵倒する等は通り過ぎ、極々の極度に至ればムツヒト(=明治天皇)云々を発言する者あるよし、実に演説も沙汰の限りにて甚だ悪しき兆候、斯くては捨置難き事と、少々づつ内談いたし居候義に御座候」と書かれており、皇室への不敬な姿勢などの自由民権論者の不作法も許しがたいものがあったようである。",
"title": "人物・思想"
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"paragraph_id": 94,
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"text": "諭吉は、明治維新になって欧米諸国の女性解放思想をいち早く日本に紹介した。「人倫の大本は夫婦なり」として一夫多妻や妾をもつことを非難し、女性にも自由を与えなければならぬとし、女も男も同じ人間であるため、同様の教育を受ける権利があると主張した。自身の娘にも幼少より芸事を仕込み、ハインリヒ・フォン・シーボルト夫人に芸事の指導を頼んでいた。",
"title": "人物・思想"
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"paragraph_id": 95,
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"text": "諭吉が女性解放思想で一番影響を受けていたのがイギリスの哲学者・庶民院議員ジョン・スチュアート・ミルであり、『学問のすすめ』の中でも「今の人事に於て男子は外を努め婦人は内を治るとて其関係殆ど天然なるが如くなれども、ステュアート・ミルは婦人論を著して、万古一定動かす可らざるの此習慣を破らんことを試みたり」と彼の先駆性を称えている。",
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"text": "一方で農村の女子教育には大変否定的であり、女子語学学校ブームに対して「嫁しては主夫の襤褸(ぼろ)を補綴(ほてい)する貧寒女子へ英の読本を教えて後世何の益あるべきや」「農民の婦女子、貧家の女子中、稀に有為の俊才を生じ、偶然にも大に社会を益したることなきにあらざれども、こは千百人中の一にして、はなはだ稀有のこと」「狂気の沙汰」と論じている。",
"title": "人物・思想"
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"paragraph_id": 97,
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"text": "明治7年(1874年)に発足した慶應義塾幼稚舎が、同10年(1877年)以降しばらくの間、男女をともに教育した例があり、これは近代化以降の日本の教育における男女教育のいち早い希有なことであった。なお、明治民法の家族法の草案段階は、諭吉の男女同等論に近いものであったり諭吉もそれを支持したが、士族系の反対があったため家父長制のものに書き換えられた。旧民法(明治23年法律第28号、第98号)をめぐる民法典論争では法典公布前から政府による民商両法典の拙速主義を批判し、延期派の論陣を張っている。",
"title": "人物・思想"
},
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"paragraph_id": 98,
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"text": "『時事新報』1885年6月4日-6月12日、7月7日-7月17日に「日本婦人論」を発表、後編は8月刊、前編は当時刊行されなかった。",
"title": "人物・思想"
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"paragraph_id": 99,
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"text": "世俗主義であった親鸞を参考に、「俗文主義」として当時としては平易な文章を使うように心がけていた。",
"title": "人物・思想"
},
{
"paragraph_id": 100,
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"text": "出版物の管理と販売の権利は作者に独占させるというイギリスの版権思想を日本に持ち込み、明治元年(1868年)の10月に新政府へ海賊版の取り締まりを求める願書を提出、翌年の5月13日に、版権思想に基づいた出版条例の公布を実現させた。これにより、それ以前は有識者の仲間内で判断されていた著作権の最終判断が司法の場に持ち込まれることになる。また諭吉は並行して明治2年(1869年)の11月に出版業界に参入し、「福澤屋諭吉」という出版社を自ら作り、明治6年(1873年)3月には、日柳政朔の著作『啓蒙天地文』に自著の『啓蒙手習之文』からの無断引用があったとして非難を行った。当時は出版会社が著作物の権利を握り、盗作が発生しても作者への金銭的被害が皆無であったことから、東京日々新聞のように日柳を擁護するメディアが多数であったが、諭吉のこうした活動は、文章の無断引用は違法行為であるとの認識を社会に浸透させるきっかけの一つとなった。",
"title": "人物・思想"
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"paragraph_id": 101,
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"text": "文久元年(1861年)、中津藩士江戸定府の土岐太郎八の次女・錦と結婚し、四男五女の9人の子どもをもうけた。松山棟庵によると、諭吉は結婚前にも後にも妻以外の婦人に一度も接したことがなかったという。",
"title": "人物・思想"
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"paragraph_id": 102,
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"text": "或時先生にお話すると「左樣か、性來の健󠄁康の外に別段人と異つた所󠄁もないが唯一つの心當りと云ふのは、子供の前󠄁でも話されぬ事だが、私は妻を貰ふ前󠄁にも後にも、未だ嘗て一度も婦󠄁人に接した事がない、隨分󠄁方々を流浪して居るし、緖方塾に居た時は放蕩者󠄁等を、引ずつて來るために不潔󠄁な所󠄁に行つた事もあるが、金玉の身體をむざ/\\汚す樣な機會をつくらぬのだ」と先生は噓をつく方ではない、先生の御夫婦󠄁ほど純潔󠄁な結合が、今の世界に幾人あるだらう",
"title": "人物・思想"
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"paragraph_id": 103,
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"text": "諭吉は、若年のころより立身新流居合の稽古を積み、成人のころに免許皆伝を得た達人であった。ただし、諭吉は急速な欧米思想流入を嫌う者から幾度となく暗殺されそうになっているが、斬り合うことなく逃げている。無論、逃げることは最も安全な護身術であるが、諭吉自身、居合はあくまでも求道の手段として殺傷を目的としていなかったようであり、同じく剣の達人と言われながら生涯人を斬ったことがなかった勝海舟や山岡鉄舟の思想との共通性が窺える。",
"title": "人物・思想"
},
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"paragraph_id": 104,
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"text": "晩年まで健康のためと称し、居合の形稽古に明け暮れていた。医学者の土屋雅春は、諭吉の死因の一つに「居合のやりすぎ」を挙げている。晩年まで一日千本以上抜いて居合日記をつけており、これでは逆に健康を害すると分析されている。",
"title": "人物・思想"
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"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "明治中期に武術ブームが起こると、人前で居合を語ったり剣技を見せたりすることは一切なくなり、一時期「居合刀はすっかり奥にしまいこんで」いた。流行り物に対してシニカルな一面も窺える。",
"title": "人物・思想"
},
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"paragraph_id": 106,
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"text": "諭吉は、勝海舟の批判者であり続けた。戊辰戦争の折に清水港に停泊中の脱走艦隊の1隻である咸臨丸の船員が新政府軍と交戦し徳川方の戦死者が放置された件(清水次郎長が埋葬し男を上げた意味でも有名)で、明治になってから戦死者の慰霊の石碑が清水の清見寺内に立てられるが、諭吉は家族旅行で清水に遊びこの石碑の碑文を書いた男が榎本武揚と銘記され、その内容が「食人之食者死人之事(人の食(禄)を食む者は人の事に死す。即ち徳川に仕える者は徳川家のために死すという意味)」を見ると激怒したという。",
"title": "人物・思想"
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"paragraph_id": 107,
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"text": "『瘠我慢の説』という公開書簡によって、海舟と榎本武揚(ともに旧幕臣でありながら明治政府に仕えた)を理路整然と、古今の引用を引きながら、相手の立場を理解していると公平な立場を強調しながら、容赦なく批判している。なお諭吉は海舟に借金の申し入れをしてこれを断られたことがある。当時慶應義塾の経営は西南戦争の影響で旧薩摩藩学生の退学などもあり思わしくなく、旧幕臣に比較的簡単に分け隔てなく融通していた海舟に援助を求めた。しかし海舟は諭吉が政府から払い下げられた1万4000坪におよぶ広大な三田の良地を保有していることを知っていたため、土地を売却してもなお(慶應義塾の経営に)足りなかったら相談に乗ると答えたが、諭吉は三田の土地を非常に気に入っていたため売却していない。瘠我慢の説発表はこのあとのことである。また、『福翁自伝』で諭吉は借金について以下のように語っている。",
"title": "人物・思想"
},
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"paragraph_id": 108,
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"text": "「私の流儀にすれば金がなければ使わない、有っても無駄に使わない、多く使うも、少なく使うも、一切世間の人のお世話に相成らぬ、使いたくなければ使わぬ、使いたければ使う、嘗(かつ)て人に相談しようとも思わなければ、人に喙(くちばし)を容れさせようとも思わぬ、貧富苦楽共に独立独歩、ドンなことがあっても、一寸でも困ったなんて泣き言を言わずに何時も悠々としているから、凡俗世界ではその様子を見て、コリャ何でも金持だと測量する人もありましょう。」",
"title": "人物・思想"
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"paragraph_id": 109,
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"text": "海舟も諭吉と同様に身なりにはあまり気を遣わない方であったが、よく軽口を叩く癖があった。ある日、上野精養軒の明六社へ尻端折り姿に蝙蝠傘をついて現れた海舟が「俺に軍艦3隻ほど貸さないか?日本が貧乏になってきたからシナに強盗でもしに行こうと思う。向こうからやかましく言ってきたら、あいつは頭がおかしいから構うなと言ってやればいい。思いっきり儲けてくるよ。ねえ福澤さん、儲けたらちっとあげます」と言ってからかったという。",
"title": "人物・思想"
},
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"paragraph_id": 110,
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"text": "しかし、海舟は諭吉のことを学者として一目置いており、自分が学んだ佐久間象山の息子の佐久間恪二郎や、徳川慶喜の十男で養子の勝精を慶應義塾に入学させるなど面倒見のよい一面もあった。",
"title": "人物・思想"
},
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"paragraph_id": 111,
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"text": "土屋雅春の『医者のみた福澤諭吉』(中央公論社、中公新書)や桜井邦朋の『福沢諭吉の「科學のススメ」』(祥伝社)によれば、諭吉と西洋医学との関係は深く、以下のような業績が残されている。",
"title": "人物・思想"
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{
"paragraph_id": 112,
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"text": "杉田玄白が記した『蘭東事始』の写本を、諭吉の友人・神田孝平が偶然に発見した。そこで、杉田玄白の4世の孫である杉田廉卿の許可を得て、諭吉の序文を附して、明治2年(1869年)に『蘭学事始』として出版した。さらに明治23年(1890年)4月1日には、再版を「蘭学事始再版序」を附して日本医学会総会の機会に出版している。",
"title": "人物・思想"
},
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"paragraph_id": 113,
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"text": "明治25年(1892年)10月、ドイツ留学から帰国した北里柴三郎のために、福澤諭吉は東京柴山内に「伝染病研究所」(伝研)を設立し、北里を所長に迎えた。その後、伝研は同年11月、大日本私立衛生会に移管され、年間3600円の支援を受けた。明治27年(1894年)には、伝研は芝愛宕町に移転したが、その時、近隣住民から反対運動が起こった。そこで、福澤諭吉は次男・捨次郎の新居を伝研の隣りに作り、伝研が危険でないことを示して、北里柴三郎の研究をサポートした。明治32年(1899年)に伝研が国に移管されると、北里は伝研の所長を辞任し、諭吉と長與專齋と森村市左衛門とが創設した「土筆ヶ岡養生園」に移った。",
"title": "人物・思想"
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"paragraph_id": 114,
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"text": "明治3年(1870年)、慶應義塾の塾生前田政四郎のために、諭吉が英国式の医学所の開設を決定した。そして明治6年(1873年)、慶應義塾内に「慶應義塾医学所」を開設した。所長は慶應義塾出身の医師松山棟庵が就任した。また、杉田玄端を呼んで尊王舎を医学訓練の場所とした。なお、明治13年(1880年)6月、慶應義塾医学所は経営上の理由により閉鎖されることになった。",
"title": "人物・思想"
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"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "しかし、諭吉の死後15年たった大正5年(1916年)12月27日、慶應義塾大学部に医学科の創設が許可され、大正6年(1917年)3月、医学科予科1年生の募集を開始し、学長として北里柴三郎が就任することになった。",
"title": "人物・思想"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "太平洋戦争(大東亜戦争)後、歴史学者の服部之総や遠山茂樹らによって諭吉の「脱亜論」が再発見され、「福澤諭吉はアジア諸国を蔑視し、侵略を肯定したアジア蔑視者である」と批判された。丸山真男は服部之総の諭吉解釈を「論敵」としていたといわれる。",
"title": "研究・評価史"
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{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "平成13年(2001年)、朝日新聞に掲載された安川寿之輔の論説「福沢諭吉 アジア蔑視広めた思想家」に、慶應義塾大学文学部卒の平山洋が反論「福沢諭吉 アジアを蔑視していたか」を掲載したことで、いわゆる「安川・平山論争」が始まった。",
"title": "研究・評価史"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "平山は、井田進也の文献分析を基礎に、諭吉のアジア蔑視を、『福澤諭吉伝』の著者で『時事新報』の主筆を務め、『福澤全集』を編纂した石河幹明の作為にみる。平山によれば、諭吉は支那(中国)や朝鮮政府を批判しても、民族そのものをおとしめたことはなかった。しかし、たとえば清の兵士を豚になぞらえた論説など、差別主義的内容のものは石河の論説であり、全集編纂時に諭吉のものと偽って収録したのだという。",
"title": "研究・評価史"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "根本的にこの問題は、平山自身や都倉武之がいうように、無署名論説の執筆者を文献学(テキストクリティーク)的に確定しないことには決着がつかない。「時事新報論説」執筆者に関する考察については、井田進也「井田メソッド」による執筆者検証も参照。",
"title": "研究・評価史"
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{
"paragraph_id": 120,
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"text": "このように福澤肯定の動きは脱亜論と福澤の分離を目指していたが、2000年代になると、東アジアのナショナリズムの高まりによりネット空間を中心に脱亜論が人気を得て、逆の動きが起き始めた。さらに対立の悪化した2010年代になると右派系出版社を中心に脱亜論本が続々と出版され、福澤の肯定的評価は全く別の形で実現された。",
"title": "研究・評価史"
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{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "平山洋は、井田の分析を基に現行全集の第七巻までは署名入りで公刊された著作であるのに対して、八巻以降の『時事新報論集』はその大部分が無署名であることを指摘した上で、大正時代の『福沢全集』(1925 - 26年)と昭和時代の『続福沢全集』(1933 - 34年)の編纂者であった弟子の石河幹明が『時事新報』から選んだものを、そのまま引き継いで収録しているとした。さらに現行版『全集』(1958 - 64年)の第一六巻には諭吉の没後数か月してから掲載された論説が六編収められていることも指摘している。",
"title": "研究・評価史"
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{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "2000年(平成12年)3月12日付で朝日新聞により「この1000年・日本の政治リーダー読者人気投票」という特別企画が組まれ、西暦1000年から1999年の間に登場した歴史上の人物の中から、「あなたが一番好きな政治リーダー」を投票してもらう企画で、得票数7,863票のうち、第6位の豊臣秀吉(382票)に次ぐ第7位(330票)にランクインするなど、国民的な人気がある。",
"title": "研究・評価史"
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{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "中国における評価は一般に悪いため慶應出身者からは憤りの声が聞かれる。 慶応文学部卒の平山洋は、「中国人による福澤批判の声の大きさに惑わされて、その主張にほとんど多様性がない」と批判した。",
"title": "研究・評価史"
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{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "彼ら中国の福澤批判者は、彼の思想を実際に読んでいるわけではなく、ごくわずかだけ中国語訳されている、日本の福澤研究論文の骨子を、中国語で叫んでいるだけなのである。彼らが下敷きにしているのは、服部之総・遠山茂樹・安川寿之輔らの研究である。それ以外の、福澤を「市民的自由主義者」として肯定的に評価する丸山真男らの論文が出発点となることはない。",
"title": "研究・評価史"
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"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "慶応法学部卒の小川原正道は、「平成22年11月に北京大学で講演し、福澤の文化思想や宗教思想などについて話した際、同大学の著名な教授から「福澤には『脱亜論』以外の側面もあるんですね」と素直に驚かれ、愕然とした」と述べる。",
"title": "研究・評価史"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "また、最も福澤の対外思想へ批判的な安川寿之輔の著書が近年中国で盛んに翻訳されている。",
"title": "研究・評価史"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "慶應義塾福澤研究センター客員研究員区建英の研究によると、以下のように評価できるという:",
"title": "研究・評価史"
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{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "東大卒の丸山眞男は中国における福澤の人物像に対する主な反論として以下の5点を挙げている:",
"title": "研究・評価史"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "李登輝は、講演「学問のすゝめと日本文化の特徴」で諭吉について、欧米を日本に紹介するだけではなく、『学問のすゝめ』を著すことによって、思想闘争を行い、日本文化の新しい一面を強調しながらも日本文化の伝統を失わずに維持したと評価している。",
"title": "研究・評価史"
},
{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "大韓民国で脱亜論を引用した研究論文が見られるようになるのは1970年以降であり、1980年代に日本で歴史教科書問題が起こり、日本の朝鮮侵略の論理として改めて認知され、現在は韓国の高校世界史教科書にも載っている。",
"title": "研究・評価史"
},
{
"paragraph_id": 131,
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"text": "諭吉が援助した李氏朝鮮の開化派は、その中心にいた朴泳孝が日本統治時代の朝鮮において爵位を得るなどの厚遇を得て、金玉均は死後に贈位されたことなどから、独立後の韓国では親日派とみなされ、諭吉への関心もほとんどなかったものと推測される。金に対する評価は北朝鮮の方が高く、それを受けた形で、歴史研究家の姜在彦が1974年(昭和49年)に「金玉均の日本亡命」を発表し、諭吉に触れて「最近の研究で明らかにされてきているように、諭吉の思想における国権論的側面」という言葉が見える。この当時の日本において、諭吉を自由主義者としてではなく国権論者としてとらえ、侵略性を強調する傾向が高まっていたわけだが、姜在彦は諭吉に両面性を見ており、「日本を盟主とする侵略論につながる危険性をはらむ」としつつも、開化派への援助には一定の評価を与えている。",
"title": "研究・評価史"
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"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "現在の韓国におけるごく一般的な諭吉像は、日本における教科書問題を受けて形作られたため、極端に否定的なものとなっている。一般的に、韓国における諭吉は往々にして征韓論者として位置づけられ、脱亜論など、諭吉の朝鮮関連の時事論説が書かれた当時の状況は考慮されず、神功皇后伝説や豊臣秀吉にまでさかのぼるとされる日本人の侵略思想の流れの中で捉えられている。1990年代辺りから、在日学者の著作にもそういった傾向が見られるようになり、その例としては、1996年(平成8年)の韓桂玉の『「征韓論」の系譜』、2006年の琴秉洞『日本人の朝鮮観 その光と影』を挙げることができる。",
"title": "研究・評価史"
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"text": "1990年代におけるこういった韓国の状況が、諭吉に侵略性を見る日本側の教科書問題と連動し続けていることは、安川寿之輔が『福沢諭吉のアジア認識』の「あとがき」で詳細に述べている。高嶋伸欣が1992年(平成4年)に執筆した教科書において、日本人のアジア差別に関係するとして脱亜論を引用し、検定によって不適切とされ訴訟になった。日本の戦争責任を追及する市民運動に身を投じていた安川は、この訴訟を契機として、諭吉を「我が国の近代化の過程を踏みにじり、破綻へと追いやった、我が民族全体の敵」とするような韓国の論調に共鳴し、30年ぶりに諭吉研究に取り組んだという。",
"title": "研究・評価史"
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"text": "杵淵信雄は安川とは異なり、『福沢諭吉と朝鮮』の中で「脱亜論の宣言を注視するあまり、(諭吉は)アジアとの連帯から侵略へと以後転じたとする誤解が生じた」として、諭吉の侵略性を強調する立場ではないが、1997年(平成9年)の時点において、「李氏朝鮮の積弊を痛罵し、しばしば当り障りの強い表現を好んだ諭吉の名が、隣国では、不愉快な感情と結びつくのは自然な成行である」と、韓国における感情的な反発に理解を示している。",
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"text": "一方、1990年代の韓国において、諭吉研究に取り組む研究者が複数現れたことを林宗元は述べている。林の紹介するところによれば、その観点も、日本における「自由主義者か帝国主義者か」という議論を引き継ぐもの、朝鮮の開化主義者と諭吉を比較するもの、諭吉と朝鮮開化派との関係を追求するもの、諭吉の反儒教論を批判分析するものなど多岐にわたっており、否定的なものばかりではないことが注目される。",
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"text": "2000年代に入り、こういった学問的取り組みと並行して、近代化の旗手としての諭吉への一定の理解が新聞論調にも見え始める。2004年(平成16年)前後に登場したニューライトは、金玉均など朝鮮開化派を高く評価し、日本統治時代の朝鮮における近代化も認める立場をとっており、従来の被害者意識から離れた歴史観を提唱するなど新しい風を巻き起こした。同年、林宗元によって『福翁自伝』が韓国語に翻訳・出版されたことも、韓国における諭吉像に肯定的な彩りを加えた。韓国主要紙はのきなみ好意的な書評をよせ、ハンギョレは「ハンギョレが選んだ今年の本」の翻訳書の一つとして紹介している。",
"title": "研究・評価史"
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"text": "しかし、韓国において諭吉に侵略性を見る従来の見解は根強く、また日本においても脱亜論が一人歩きする傾向が著しい。2005年、ノリミツ・オオニシニューヨーク・タイムズ東京支局長は「日本人の嫌韓感情の根底には諭吉の脱亜論がある」とした。東京発のこういった報道を受けてか、中央日報では再び諭吉を「アジアを見下して侵略を肯定した嫌韓の父であり右翼の元祖」と評してもいる。",
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"text": "また、稲葉継雄は、韓国で諭吉の侵略性の認識が高まっていると論じてもいて、韓国における諭吉像は、韓国内の政治情勢とともに、日韓の外交関係、世論のキャッチボールによっても大きく揺れ動いている。",
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"text": "『福澤諭吉著作集』(全12巻)、慶應義塾大学出版会で2002年(平成14年)- 2003年(平成15年)に刊行。 2009年(平成21年)に、著作集の一部(選書 全5冊)が、コンパクト版で新装刊行。",
"title": "著作等"
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] | 福澤 諭吉は、幕末から明治期の日本の啓蒙思想家、教育家。慶應義塾の創設者。諱は範(はん)。字は子圍(しい)。揮毫の落款印は「明治卅弐年後之福翁」。雅号は、三十一谷人(さんじゅういっこくじん)。 もともと苗字は「ふくさわ」と発音していたが、明治維新以後は「ふくざわ」と発音するようになった。現代では「福澤諭吉」と表記されることが一般的となっている。なお「中村諭吉」と名乗っていた時期がある。 | {{otheruses||本記事の人物の伝記映画|福沢諭吉 (映画)}}
{{参照方法|date=2014年11月}}
{{表記揺れ案内|text=この記事の項目名には分野により以下のような表記揺れがあります。 |表記1=|表記2=福沢諭吉|議論ページ=[[Wikipedia‐ノート:記事名の付け方/過去ログ10#日本の歴史人物名の漢字表記|過去の議論]]}}
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|image = Yukichi Fukuzawa 1891.jpg
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|caption = 明治24年(1891年)ごろの肖像
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|influences = <!--影響を受けた人物-->
|influenced = <!--影響を与えた人物-->
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}}
'''福澤 諭吉'''(ふくざわ ゆきち、{{旧字体|'''福󠄁澤 諭󠄀吉'''}}、[[天保]]5年[[12月12日 (旧暦)|12月12日]]〈[[1835年]][[1月10日]]〉- [[明治]]34年〈[[1901年]][[2月3日|2月3日〉]])は、[[幕末]]から[[明治]]期の[[日本]]の[[啓蒙思想|啓蒙思想家]]、[[教育関係人物一覧|教育家]]<ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%A6%8F%E6%B2%A2%E8%AB%AD%E5%90%89-15113 日本大百科全書(ニッポニカ)、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典、世界大百科事典 第2版「福沢諭吉」]</ref>。[[慶應義塾]]の創設者。[[諱]]は'''範'''(はん)。[[字]]は'''子圍'''(しい)。[[揮毫]]の落款印は「'''明治卅弐年後之福翁'''」<ref>慶應義塾編・発行『慶應義塾百年史 中(前)』、1960、p.507</ref>。[[雅号]]は、'''三十一谷人'''(さんじゅういっこくじん)<ref>[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=114&PAGE=20&KEY= 余が印章に三十一谷人の五字を刻]</ref>。
もともと苗字は「ふくさわ」と発音していたが、[[明治維新]]以後は「ふくざわ」と発音するようになった<ref>{{Cite book|和書 |author=北康利|authorlink=北康利 |date=2007-03 |title=福沢諭吉 国を支えて国を頼らず |publisher=[[講談社]] |isbn=978-4-06-213884-0}}(21頁)</ref>。現代では「福澤諭吉」と表記されることが一般的となっている<ref group="注釈">学術誌、研究書、辞典類、文部科学省検定教科書など。一方、[[慶應義塾大学]]をはじめとする学校法人慶應義塾の公式ホームページでは「福澤諭吉」と表記されている。例えば、[https://www.keio.ac.jp/ja/about/ 慶應義塾について]を参照。なお、学術書でも「福澤諭吉」の表記を用いるものも近年、出現している。</ref>。なお「中村諭吉」と名乗っていた時期がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.radiodays.jp/item_set/show/224 |title=オーディオブック 学問のすすめ |accessdate=2021-01-16 |publisher=ラジオデイズ}}</ref>。
== 概説 ==
慶應義塾(旧[[蘭学塾]]、現[[慶應義塾大学]]はじめ系列校)の他にも、[[商法講習所]](現[[一橋大学]])、[[神戸商業講習所]](現[[神戸商業高校]])、北里柴三郎の「伝染病研究所」(現[[東京大学医科学研究所]])、「土筆ヶ岡養生園」(現[[東京大学医科学研究所附属病院]])の創設にも尽力した。新聞『[[時事新報]]』の創刊者でもある。
ほかに[[東京学士会院]](現[[日本学士院]])初代会長を務めた。そうした業績を基に「[[明治六大教育家]]」として列される。
[[昭和]]59年([[1984年]])[[11月1日]]発行分から[[日本銀行券]][[一万円紙幣]]([[D号券]]、[[E号券]])表面の肖像に採用されている<ref name="until_2024">[[令和]]6年([[2024年]])以降発行分に予定されている[[一万円紙幣#2024年度発行予定の新紙幣|紙幣刷新]]により、[[渋沢栄一]]に変更されるまで。</ref>。
== 経歴 ==
=== 出生から中津帰藩、長崎遊学 ===
[[画像:Hotarumachi-Nakatsuhan-Monument.jpg|200px|thumb|生誕の地と中津藩蔵屋敷跡の記念碑(大阪府大阪市福島区福島一丁目。[[ほたるまち]]内、[[朝日放送グループホールディングス]]社屋前)]]
[[画像:Former Residence of Fukuzawa Yukichi.jpg|250px|thumb|[[福澤諭吉旧居]](大分県[[中津市]])]]
[[大阪市|大坂]][[堂島|堂島新地]]五丁目 にあった[[豊前国]][[中津藩]](現:[[大分県]][[中津市]])の[[蔵屋敷]]で下級藩士・[[福沢百助|福澤百助]]と妻・於順の間に次男(8~9歳上の兄と3人の姉〈6歳上、4歳上、2歳上〉を持つ末子)として生まれる。諭吉という名は、儒学者でもあった父が『[[上諭条例]]』([[清]]の[[乾隆帝]]治世下の法令を記録した書)を手に入れた夜に彼が生まれたことに由来する。[[福沢氏|福澤氏]]の祖は[[信濃国]][[更級郡]][[村上村]]網掛福澤あるいは同国[[諏訪郡]][[豊平村 (長野県)|福澤村]]を発祥として、前者は[[清和源氏]][[信濃村上氏|村上氏]][[源為国|為国流]]、後者は[[諏訪氏]]支流とする説があり、友米(ともよね)の代に豊前国中津郡に移住した{{Sfn|丹羽|1970|p=273}}<ref group="注釈">他にも諸説ある[https://blechmusik.xii.jp/d/hirayama/tour_of_11_shinsyuu_fukuzawa_places/][[平山洋]]<span>・信州福沢11カ所めぐり</span>参照</ref>。{{main|[[板垣退助の系譜#姻族関係系図|関連系図]]}}
友米の孫である父・百助は、[[鴻池財閥|鴻池]]や[[加島屋 (豪商)|加島屋]]などの大坂の商人を相手に藩の借財を扱う職にありながら、藩儒・[[野本雪巌]]や[[帆足万里]]に学び、[[菅茶山]]・[[伊藤東涯]]などの[[儒学]]に通じた学者でもあった<ref group="注釈">百助が所持していた[[伊藤東涯]]の『易経集注』という書は福澤家に残され、現在は慶應義塾大学に寄託されている。</ref>。百助の後輩には[[近江国]][[水口藩]]・藩儒の[[中村栗園]]がおり、深い親交があった栗園は百助の死後も諭吉の面倒を見ていた。[[中小姓格]]([[厩方]])の役人となり、大坂での[[勘定方]]勤番は十数年におよんだが、身分格差の激しい中津藩では名をなすこともできずにこの世を去った。そのため息子である諭吉はのちに「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」(『[[福翁自伝]]』)とすら述べており、自身も[[封建制|封建制度]]には疑問を感じていた。兄・三之助は父に似た純粋な漢学者で、「死に至るまで孝悌忠信」の一言であったという。
なお、母兄姉と一緒に暮らしてはいたが、幼時から叔父・[[中村術平]]の養子になり中村姓を名乗っていた。のち、福澤家に復する。体格がよく、当時の日本人としてはかなり大柄な人物である(明治14年([[1881年]])7月当時、身長は173cm、体重は70.25kg、肺活量は5.159ℓ<ref>[[明治生命]]による</ref>)。
天保6年([[1836年]])、父の死去により中村栗園に見送られながら大坂から帰藩し、中津(現:[[大分県]][[中津市]])で過ごす。親兄弟や当時の一般的な[[武家]]の子弟と異なり、孝悌忠信や神仏を敬うという価値観はもっていなかった。[[神札|お札]]を踏んでも[[祟り]]が起こらない事を確かめてみたり、[[神社]]で悪戯をしてみたりと、悪童まがいのはつらつとした子供だったようだが、刀剣細工や畳の表がえ、障子のはりかえをこなすなど内職に長けた子供であった。
5歳ごろから藩士・[[服部五郎兵衛]]に[[漢学]]と[[一刀流]]の手解きを受け始める。初めは読書嫌いであったが、14、5歳になってから近所で自分だけ勉強をしないというのも世間体が悪いということで勉学を始める。しかし始めてみるとすぐに実力をつけ、以後さまざまな漢書を読み漁り、[[漢籍]]を修める。18歳になると、兄・三之助も師事した[[野本真城]]、[[白石照山]]の塾・[[晩香堂]]へ通い始める。『[[論語]]』『[[孟子 (書物)|孟子]]』『[[詩経]]』『[[書経]]』はもちろん、『[[史記]]』『[[春秋左氏伝|左伝]]』『[[老子道徳経|老子]]』『[[荘子 (書物)|荘子]]』におよび、特に『左伝』は得意で15巻を11度も読み返して面白いところは暗記したという。このころには先輩を凌いで「'''漢学者の前座ぐらい'''(自伝)」は勤まるようになっていた。また学問のかたわら[[立身新流]]の[[居合術]]を習得した。
福澤の学問的・思想的源流に当たるのは[[荻生徂徠]]であり、諭吉の師・白石照山は[[陽明学]]や[[朱子学]]も修めていたので諭吉の学問の基本には儒学が根ざしており、その学統は白石照山・[[野本百厳]]・帆足万里を経て、祖父・兵左衛門も門を叩いた[[三浦梅園]]にまでさかのぼることができる。のちに[[蘭学]]の道を経て[[思想家]]となる過程にも、この学統が原点にある。
[[画像:Koyeiji Temple Nagasaki.jpg|200px|thumb|長崎光永寺(大正)、手彩色絵葉書]]
[[安政]]元年([[1854年]])、諭吉は兄の勧めで19歳で[[長崎市|長崎]]へ遊学して蘭学を学ぶ(嘉永7年2月)。長崎市の[[光永寺 (長崎市)|光永寺]]に寄宿し、現在は石碑が残されている。[[黒船来航]]により[[砲術]]の需要が高まり、「[[オランダ]]流砲術を学ぶには[[オランダ語]]の原典を読まなければならないが、それを読んでみる気はないか」と兄から誘われたのがきっかけであった。[[長崎奉行]]配下の役人で砲術家の山本物次郎宅に居候し、オランダ通詞(通訳などを仕事とする長崎の役人)の元へ通ってオランダ語を学んだ。山本家には[[蛮社の獄]]の際に[[高島秋帆]]が没収された砲術関係の書物が保管されており、山本は所蔵していた砲術関係の書籍を貸したり写させたりして謝金をもらっており、諭吉は[[鉄砲]]の設計図を引くことさえできるようになった。山本家の客の中に、[[薩摩藩]]の[[松崎鼎甫]]がおり、[[アルファベット]]を教えてもらう。その時分の諸藩の西洋家、たとえば村田蔵六(のちの[[大村益次郎]])・[[本島藤太夫]]・[[菊池富太郎]]らが来て、「出島のオランダ屋敷に行ってみたい」とか、「大砲を鋳るから図をみせてくれ」とか、そんな世話をするのが山本家の仕事であり、その実はみな諭吉の仕事であった。中でも、菊池富太郎は黒船に乗船することを許された人物で、諭吉はこの長崎滞在時にかなり多くの知識を得ることができた。そのかたわら[[石川桜所]]の下で暇を見つけては教えを受けたり、縁を頼りに勉学を続けた。
=== 適塾時代(大坂) ===
[[画像:Hotarumachi-FukuzawaYukichi-Monument.jpg|200px|thumb|大阪市福島区の福澤諭吉生誕の地記念碑]]
安政2年([[1855年]])、諭吉はその山本家を紹介した[[奥平壱岐]]や、その実家である[[奥平氏|奥平家]](中津藩[[家老]]の家柄)と不和になり、中津へ戻るようにとの知らせが届く。しかし諭吉本人は前年に中津を出立したときから中津へ戻るつもりなど毛頭なく、大坂を経て[[江戸]]へ出る計画を強行する。大坂へ到着すると、かつての父と同じく中津藩蔵屋敷に務めていた兄を訪ねる。すると兄から「江戸へは行くな」と引き止められ、大坂で蘭学を学ぶよう説得される。そこで諭吉は大坂の中津藩蔵屋敷に居候しながら、当時「過所町の先生」と呼ばれ、他を圧倒していた[[足守藩]]下士で[[蘭学者]]・[[緒方洪庵]]の「[[適塾]]」で学ぶこととなった(旧暦3月9日(4月25日))。
その後、諭吉が[[腸チフス]]を患うと、洪庵から「乃公はお前の病気を屹と診てやる。診てやるけれども、乃公が自分で処方することは出来ない。何分にも迷うてしまう。この薬あの薬と迷うて、あとになってそうでもなかったと言ってまた薬の加減をするというような訳けで、しまいには何の療治をしたか訳けが分からぬようになるというのは人情の免れぬことであるから、病は診てやるが執匙は外の医者に頼む。そのつもりにして居れ」(自伝)と告げられ、洪庵の朋友、[[内藤数馬]]から処置を施され、体力が回復する。そして。一時中津へ帰国する。
安政3年([[1856年]])、諭吉は再び大坂へ出て学ぶ。同年、兄が死に福澤家の[[家督]]を継ぐことになる。しかし大坂遊学を諦めきれず、父の蔵書や家財道具を売り払って借金を完済したあと、母以外の親類から反対されるもこれを押し切って大坂の適塾で学んだ。学費を払う経済力はなかったため、諭吉が奥平壱岐から借り受けて密かに筆写した築城学の教科書(C.M.H.Pel,''Handleiding tot de Kennis der Versterkingskunst'',Hertogenbosch、1852年)を翻訳するという名目で適塾の食客(住み込み学生)として学ぶこととなる。
安政4年([[1857年]])、諭吉は最年少22歳で適塾の塾頭となり、後任に[[長与専斎]]を指名した。適塾では[[オランダ語]]の原書を読み、あるいは筆写し、時にその記述に従って[[化学]]実験、簡易な理科実験などをしていた。ただし生来血を見るのが苦手であったため[[瀉血]]や手術解剖のたぐいには手を出さなかった。適塾は診療所が附設してあり、医学塾ではあったが、諭吉は医学を学んだというよりはオランダ語を学んだということのようである。また[[工芸技術]]にも熱心になり、化学(ケミスト)の道具を使って色の黒い[[硫酸]]を製造したところ、[[鶴田仙庵]]が頭からかぶって危うく怪我をしそうになったこともある<ref group="注釈">{{Quotation|製薬の事に{{読み仮名|就|つい}}ても奇談がある。{{読み仮名|或|あ}}るとき{{読み仮名|硫酸|りゆうさん}}を造ろうと云うので、様々{{読み仮名|大骨折|おおぼねおつ}}て不完全ながら色の黒い硫酸が出来たから、{{読み仮名|之|これ}}を精製して透明にしなければならぬと云うので、その日は{{読み仮名|先|ま}}ず茶椀に入れて棚の上に上げて{{読み仮名|置|おい}}た処が、[[鶴田仙庵]]が自分で之を忘れて、何かの{{読み仮名|機|はずみ}}にその茶椀を棚から落して硫酸を頭から{{読み仮名|冠|かぶ}}り、{{読み仮名|身体|からだ}}に{{読み仮名|左|さ}}までの{{読み仮名|怪我|けが}}はなかったが、{{読み仮名|丁度|ちようど}}旧暦四月のころで一枚の{{読み仮名|袷|あわせ}}をズダ/\にした事がある。|福澤諭吉|『[[福翁自伝]]』、[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=116&PAGE=161 161頁]}}</ref>。また、[[福岡藩]]主・[[黒田長溥]]が金80両を投じて[[長崎市|長崎]]で購入した『ワンダーベルツ』と題する[[物理]]書を写本して、[[元素]]を配列してそこに積極消極(プラスマイナス)の順を定めることや[[ファラデー]]の電気説([[ファラデーの法則]]{{要曖昧さ回避|date=2015年11月}})を初めて知ることになる。こういった[[電気]]の新説などを知り、[[発電]]を試みたりもしたようである。ほかにも[[コンブ|昆布]]や[[アラメ|荒布]]からの[[ヨウ素|ヨジュウム]][[単体]]の抽出、[[淀川]]に浮かべた小舟の上での[[アンモニア]]製造などがある。
=== 江戸に出る ===
[[幕末]]の時勢の中、無役の旗本で[[石高]]わずか40石の[[勝海舟|勝安房守]](号は海舟)らが登用されたことで、安政5年([[1858年]])、諭吉にも中津藩から江戸出府を命じられる(差出人は江戸居留守役の[[岡見清熙]])。江戸の中津藩邸に開かれていた蘭学塾<ref group="注釈">それまで、中津藩邸に近い[[木挽町]]にあった[[佐久間象山]]の塾には多くの中津藩士が通っており、象山は中津藩のために西洋式大砲二門を鋳造し[[上総国]]の[[姉ヶ崎]]で試射したりしている。象山に学んだ岡見彦三清熙は江戸藩邸内に蘭学塾を設けていた</ref>の講師となるために[[古川正雄]](当時の名は岡本周吉、のちに古川節蔵)・[[原田磊蔵]]を伴い江戸へ出る。築地鉄砲洲にあった奥平家の中屋敷に住み込み、そこで蘭学を教えた。まもなく[[足立寛]]、村田蔵六の「鳩居堂」から移ってきた[[佐倉藩]]の[[沼崎巳之介]]・[[沼崎済介]]が入塾し、この蘭学塾「一小家塾」がのちの学校法人慶應義塾の基礎となったため、この年が慶應義塾創立の年とされている。
元来、この蘭学塾は[[佐久間象山]]の[[象山書院]]から受けた影響が大きく、[[マシュー・ペリー]]の渡来に先んじて[[嘉永]]3年(1850年)ごろからすでに藩士たちが象山について洋式砲術の教授を受け、月に5〜6回も出張してもらって学ぶものも数十名におよんでいる。藩士の中にも、[[島津文三郎]]のように象山から直伝の免許を受けた優秀な者がおり、その後は[[杉亨二]](杉はのちに勝海舟にも通じて[[氷解塾]]の塾頭も務める)、[[薩摩藩]]士の[[寺島宗則|松木弘安]]を招聘していた。諭吉が講師に就任してからは、[[藤本元岱]]・[[神尾格]]・[[藤野貞司]]・[[前野良伯]]らが適塾から移ってきたほか、諭吉の前の適塾塾頭・[[松下元芳]]が入門するなどしている。岡見は大変な蔵書家であったため佐久間象山の貴重な洋書を、諭吉は片っ端から読んで講義にも生かした。住まいは中津藩中屋敷が与えられたほか、江戸扶持(地方勤務手当)として6人扶持が別途支給されている。
[[島村鼎甫]]を尋ねたあと、中津屋敷からは当時、蘭学の総本山といわれ、幕府奥医師の中で唯一蘭方を認められていた[[桂川家]]が500m以内の場所であったため、[[桂川国興|桂川甫周]]・[[神田孝平]]・[[箕作秋坪]]・[[柳川春三]]・[[大槻磐渓]]・[[宇都宮三郎]]・村田蔵六らとともに出入りし、終生深い信頼関係を築くことになった。また、親友の高橋順益が近くに住みたいと言って、浜御殿(現・[[浜離宮]])の西に位置する源助町に転居してきた。
安政6年([[1859年]])、[[日米修好通商条約]]により新たな[[外国人居留地]]となった[[横浜市|横浜]]に諭吉は出かけることにした。自分の身につけた[[オランダ語]]が相手の外国人に通じるかどうか試してみるためである。ところが、そこで使われていたのはもっぱら[[英語]]であった。諭吉が苦労して学んだオランダ語はそこではまったく通じず、看板の文字すら読めなかった。これに大きな衝撃を受けた諭吉は、それ以来、英語の必要性を痛感した。世界の覇権は[[イギリス帝国|大英帝国]]が握っており、すでにオランダに昔日の面影がないことは当時の蘭学者の間では常識であった。緒方洪庵もこれからの時代は英語や[[ドイツ語]]を学ばなければならないという認識を持っていた。しかし、当時の日本では長年続いた[[鎖国]]の影響からオランダが西洋の唯一の窓口であったため、現実にはオランダ語以外の本を入手するのは困難だった。
諭吉は、幕府通辞の[[森山栄之助]]を訪問して[[英学]]を学んだあと、[[蕃書調所]]へ入所したが「英蘭辞書」は持ち出し禁止だったために1日で退所している。次いで神田孝平と一緒に学ぼうとするが、神田は蘭学から英学に転向することに躊躇を見せており、今までと同じように蘭学のみを学習することを望んだ。そこで村田蔵六に相談してみたが大村は[[ジェームス・カーティス・ヘボン|ヘボン]]に手ほどきを受けようとしていた。諭吉はようやく蕃書調所の[[原田敬策]](岡山藩士、のちの幕臣)と一緒に英書を読もうということになり、英蘭対訳・発音付きの英蘭辞書などを手に入れて、蘭学だけではなく英学・英語も独学で勉強していくことにした。
=== 渡米 ===
[[画像:FukuzawaYukichi.jpg|200px|thumb|文久2年([[1862年]])、[[パリ]]の[[国立自然史博物館 (フランス)|フランス国立自然史博物館]]にて撮影)東京大学史料編纂所蔵]]
[[画像:Kanrin-Maru-Artwork-by-Suzufuji-Yujiro-c1860.jpg|200px|thumb|[[咸臨丸]]難航の図([[鈴藤勇次郎]]画)]]
[[画像:Fukuzawa Yukichi with the girl of the photo studio.jpg|200px|thumb|福澤諭吉とアメリカの少女テオドーラ・アリス・ショウ<ref>{{Harvtxt|中崎|1996|pp=56-63}}</ref>。万延元年(1860年)、米国[[サンフランシスコ]]にて。(慶應義塾福澤研究センター所蔵)]]
安政6年([[1859年]])の冬、幕府は[[日米修好通商条約]]の批准交換のため、幕府使節団([[万延元年遣米使節]])をアメリカに派遣することにした。
この派遣は、[[岩瀬忠震]]の建言で進められ、使用する船は米軍艦「[[ポーハタン (フリゲート)|ポーハタン号]]」、その護衛船として「[[咸臨丸]]」が決まった。
福澤諭吉は知人の[[桂川国興|桂川甫周]]を介して軍艦奉行・木村摂津守の従者としてこの使節団に加わる機会を得た。
安政7年[[1月13日 (旧暦)|1月13日]]、幕府使節団は品川を出帆、[[1月19日 (旧暦)|1月19日]]に[[浦賀]]を出港する。
福澤諭吉は、軍艦奉行・[[木村芥舟|木村摂津守]](咸臨丸の艦長)、[[勝海舟]]、中浜万次郎([[ジョン万次郎]])らと同じ「咸臨丸」に乗船したが、この咸臨丸の航海は出港直後からひどい嵐に遭遇した。咸臨丸はこの嵐により大きな被害を受け、船の各所は大きく破損した。乗員たちの中には慣れない船旅で船酔いになる者、疲労でぐったりする者も多く出た。そんな大変な長旅を経て、安政7年[[2月26日 (旧暦)|2月26日]](太陽暦3月17日)、幕府使節団は[[サンフランシスコ]]に到着する。
ここで諭吉は3週間ほど過ごして、その後、修理が完了した咸臨丸に乗船、[[ハワイ州|ハワイ]]を経由して、[[万延]]元年[[5月5日 (旧暦)|5月5日]](1860年[[6月23日]])に日本に帰国する。
(一方、その後の幕府使節団は[[パナマ]]に行き、[[パナマ地峡鉄道|パナマ鉄道会社]]が用意した汽車で大西洋側の港(アスピンウォール、現在の[[コロン (パナマ)|コロン]])へ行く。アスピンウォールに着くと、[[アメリカ海軍|米海軍]]の軍艦「{{仮リンク|ロアノーク号|en|USS Roanoke (1855)}}」に乗船し、5月15日に[[ワシントンD.C.|ワシントン]]に到着する。そこで、幕府使節団は[[ジェームズ・ブキャナン|ブキャナン]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]と会見し、[[日米修好通商条約]]の批准書交換などを行う。その後、[[フィラデルフィア]]、[[ニューヨーク]]に行き、そこから、大西洋のポルト・グランデ(現在の[[カーボベルデ]])、アフリカの[[ルアンダ]]から[[喜望峰]]をまわり、[[バタヴィア|バタビア]](現在の[[ジャカルタ]])、[[イギリス領香港|香港]]を経由して、万延元年11月10日に、日本の江戸に帰国・入港する。)
今回のこの咸臨丸による航海について、福澤諭吉は、「[[蒸気船]]を初めて目にしてからたった7年後に日本人のみの手によって我が国で初めて[[太平洋]]を横断したのは日本人の世界に誇るべき名誉である」と、のちに述べている{{efn|
<blockquote>
併(しか)しこの航海に就(つい)ては大(おおい)に日本の為(た)めに誇ることがある、と云(い)うのは抑(そ)も日本の人が始めて蒸気船なるものを見たのは嘉永六年、航海を学び始めたのは安政二年の事で、安政二年に長崎に於(おい)て和蘭(オランダ)人から伝習したのが抑(そもそ)も事の始まりで、その業(ぎよう)成(なつ)て外国に船を乗出(のりだ)そうと云うことを決したのは安政六年の冬、即(すなわ)ち目に蒸気船を見てから足掛(あしか)け七年目、航海術の伝習を始めてから五年目にして、夫(そ)れで万延元年の正月には出帆しようと云うその時、少しも他人の手を藉(か)らずに出掛けて行こうと決断したその勇気と云いその伎倆(ぎりよう)と云い、是(こ)れだけは日本国の名誉として、世界に誇るに足るべき事実だろうと思う<ref>[[富田正文]]校訂 『新訂 福翁自伝』、[[岩波書店]]〈岩波文庫〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「初めてアメリカに渡る」の章にある「日本国人の大胆」(111頁)</ref><ref>[[近代デジタルライブラリー]]収録『[[福翁自伝]]』の「[{{NDLDC|2387720/97}} 始めて亜米利加に渡る]」の章を参照。[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=116&PAGE=198 福翁自傳 - 198 ページ]</ref>。
</blockquote>
}}。
また、船上での福澤諭吉と[[勝海舟]]の間柄はあまり仲がよくなかった様子で、晩年まで険悪な関係が続いた<ref group="注釈">『[[福翁自伝]]』に航海中の海舟の様子を揶揄するような記述が見られる。富田正文校訂 『新訂 福翁自伝』、[[岩波書店]]〈[[岩波文庫]]〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「初めてアメリカに渡る」の章にある「米国人の歓迎祝砲」(112頁)を参照。[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=116&PAGE=200 福翁自傳 - 200 ページ]を参照。
<blockquote>
勝麟太郎(かつりんたろう)と云う人は艦長木村の次に居て指揮官であるが、至極(しごく)船に弱い人で、航海中は病人同様、自分の部屋の外に出ることは出来なかった</blockquote></ref>。
一方、福澤諭吉と木村摂津守はとても親しい間柄で、この両者は明治維新によって木村が役職を退いたあとも晩年に至るまで親密な関係が続いた。諭吉は帰国した年に、木村の推薦で中津藩に籍を置いたまま「幕府外国方」(現:[[外務省]])に採用されることになった。その他、[[戊辰戦争]]後に、芝・新銭座の有馬家中津屋敷に慶應義塾の土地を用意したのも木村である。
アメリカでは、科学分野に関しては書物によって既知の事柄も多かったが、文化の違いに関しては諭吉はさまざまに衝撃を受けた、という。たとえば、日本では[[徳川家康]]など君主の子孫がどうなったかを知らない者などいないのに対して、アメリカ国民が初代大統領[[ジョージ・ワシントン]]の子孫が現在どうしているかということをほとんど知らないということについて不思議に思ったことなどを書き残している(ちなみに、ワシントンに直系の子孫はいない。当該項参照)。
諭吉は、通訳として随行していた中浜万次郎([[ジョン万次郎]])とともに『ウェブスター大辞書』の省略版を購入し、日本へ持ち帰って研究の助けとした。また、翻訳途中だった『[[万国政表]]』(統計表)は、諭吉の留守中に門下生が完成させていた。
アメリカで購入した[[広東語]]・英語対訳の単語集である『華英通語』の英語を諭吉はカタカナで読みをつけ、広東語の[[漢字]]の横には日本語の訳語を付記した『[http://dcollections.lib.keio.ac.jp/en/fukuzawa/a01/1 増訂華英通語]』を出版した。これは諭吉が初めて出版した書物である。この書物の中で諭吉は、「v」の発音を表すため「ウ」に濁点をつけた文字「[[ヴ]]」や「ワ」に濁点をつけた文字「[[ワ゛|ヷ]]」を用いているが、以後前者の表記は日本において一般的なものとなった。そして、諭吉は、再び鉄砲洲で新たな講義を行う。その内容は従来のような[[オランダ語]]ではなくもっぱら英語であり、蘭学塾から[[英学|英学塾]]へと教育方針を転換した。
その後、福澤諭吉は、「幕府外国方、御書翰掛、翻訳方」に採用されて、公文書の翻訳を行うようになった。これは外国から日本に対する公文書には[[オランダ語]]の翻訳を附することが慣例となっていたためである。諭吉はこの仕事をすることにより、英語とオランダ語を対照することができ、これで自身の英語力を磨いた。このころの諭吉は、かなり英語も読めるようになっていたが、まだまだ意味の取りづらい部分もあり、オランダ語訳を参照することもあったようである。また、米国公使館通訳[[ヘンリー・ヒュースケン|ヒュースケン]]の暗殺事件や水戸浪士による[[東禅寺事件|英国公使館襲撃事件]]など、多くの外交文書の翻訳も携わり、緊迫した国際情勢を身近に感じるようになったという。
=== 渡欧(幕臣時代) ===
{{出典の明記|date=2017年1月|section=1}}
[[画像:Yukichi Fukuzawa Berlin2.jpg|200px|thumb|[[文久]]2年([[1862年]])[[江戸幕府]]使節としてヨーロッパ歴訪の際[[ベルリン]]にて。]]
[[画像:First Japanese Embassy to Europe Fukuzawa.jpg|200px|thumb|文久2年(1862年)オランダにて。右から[[柴田貞太郎]]、福澤諭吉、[[太田源三郎]]、[[福田作太郎]]]]
[[文久]]元年([[1861年]])、福澤諭吉は中津藩士、[[土岐太郎八]]の次女・お錦と結婚した。同年12月、幕府は[[竹内保徳]]を正使とする幕府使節団([[文久遣欧使節]])を結成し、欧州各国へ派遣することにした。諭吉も「翻訳方」のメンバーとしてこの幕府使節団に加わり同行することになった。この時の同行者には他に、松木弘安、箕作秋坪、などがいて、総勢40人ほどの使節団であった。
文久元年(1861年)12月23日、幕府使節団は英艦「{{仮リンク|オーディン号|en|HMS Odin (1846)}}」に乗って品川を出港した。
12月29日、長崎に寄港し、そこで石炭などを補給した。文久二年(1862年)1月1日、長崎を出港し、1月6日、[[イギリス領香港|香港]]に寄港した。幕府使節団はここで6日間ほど滞在するが、香港で[[植民地主義]]・[[帝国主義]]が吹き荒れているのを目の当たりにし、[[イギリス人]]が[[中国人]]を[[イヌ|犬]][[ネコ|猫]]同然に扱うことに強い衝撃を受けた。
1月12日、香港を出港し、[[シンガポールの歴史#イギリスによる植民地支配|シンガポール]]を経て[[インド洋]]・[[紅海]]を渡り、2月22日に[[スエズ]]に到着した。ここから幕府使節団は陸路を汽車で移動し、[[スエズ地峡]]を超えて、北の[[カイロ]]に向かった。カイロに到着するとまた別の汽車に乗って[[アレクサンドリア|アレキサンドリア]]に向かった。アレキサンドリアに到着すると、英国船の「ヒマラヤ号」に乗って[[地中海]]を渡り、[[マルタ島]]経由で[[フランス第二帝政|フランス]]の[[マルセイユ]]に3月5日に到着した。そこから、[[リヨン]]に行って、3月9日、[[パリ]]に到着した。ここで幕府使節団は「オテル・デュ・ルーブル」というホテルに宿泊し、パリ市内の病院、医学校、博物館、公共施設などを見学した。(滞在期間は20日ほど)
文久2年(1862年)4月2日、幕府使節団は[[ドーバー海峡]]海峡を越えて[[イギリス帝国|イギリス]]の[[ロンドン]]に入った。ここでも幕府使節団はロンドン市内の駅、病院、協会、学校など多くの公共施設を見学する。[[ロンドン万国博覧会 (1862年)|万国博覧会]]にも行って、そこで[[蒸気機関車]]・[[電気機器]]・[[タイプライター|植字機]]に触れる。ロンドンの次は[[オランダ王国|オランダ]]の[[ユトレヒト]]を訪問する。そこでも町の様子を見学するが、その時、偶然にもドイツ系写真家によって撮影されたと見られる幕府使節団の写真4点が、ユトレヒトの貨幣博物館に所蔵されていた記念アルバムから発見された<ref>[http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/190004/ 「福沢諭吉の新たな写真発見 オランダで」話題!‐話のタネニュース:イザ!]</ref>。その後、幕府使節団は、[[プロイセン王国|プロイセン]]に行き、その次は[[ロシア帝国|ロシア]]に行く。ロシアでは[[樺太]]国境問題を討議するために[[サンクトペテルブルク|ペテルブルク]]を訪問するが、そこで幕府使節団は、陸軍[[病院]]で尿路結石の外科手術を見学した。
その後、幕府使節団はまた[[フランス第二帝政|フランス]]のパリに戻り、そして、最後の訪問国の[[ポルトガル王国|ポルトガル]]の[[リスボン]]に文久2年(1862年)8月23日、到着した。
以上、ヨーロッパ6か国の歴訪の長旅で幕府使節団は、幕府から支給された支度金400両で英書・物理書・[[地理学|地理]]書をたくさん買い込み、日本へ持ち帰った。また、福澤諭吉は今回の長旅を通じて、自分の目で実際に目撃したことを、ヨーロッパ人にとっては普通であっても日本人にとっては未知の事柄である日常について細かく記録した。たとえば、病院や[[銀行]]・[[郵便法]]・[[徴兵令]]・[[選挙制度]]・議会制度などについてである。それを『[[西洋事情]]』、『西航記』にまとめた。
また、諭吉は今回の旅で日本語をうまく話せる現地のフランスの青年[[レオン・ド・ロニー]](のちのパリ東洋語学校日本語学科初代教授)と知り合い、友好を結んだ。そして、諭吉はレオンの推薦で「アメリカおよび東洋民族誌学会」の正会員となった。(この時、諭吉はその学会に自分の顔写真をとられている。)
文久2年(1862年)9月3日、幕府使節団は、日本に向けてリスボンを出港し、文久2年(1862年)[[12月11日 (旧暦)|12月11日]]、日本の品川沖に無事に到着・帰国した。
ところが、その時の日本は幕府使節団が予想もしていない状況に一変していた。
品川に到着した翌日の[[12月12日 (旧暦)|12月12日]]に、「[[英国公使館焼き討ち事件]]」が起こった。文久3年([[1863年]])3月になると、[[孝明天皇]]の[[賀茂神社|賀茂両社]]への攘夷祈願、4月には[[石清水八幡宮]]への行幸を受けて、[[長州藩]]が下関海峡通過のアメリカ商船を砲撃する事件が起こった。このように日本は各地で過激な[[攘夷論]]を叫ぶ人たちが目立つようになっていた。諭吉の周囲では、同僚の[[手塚律蔵]]や[[東条礼蔵]]が誰かに切られそうになるという事件も起こっていた。この時、諭吉は身の安全を守る為、夜は外出しないようにしていたが、同僚の旗本・藤沢志摩守の家で会合したあとに帰宅する途中、[[浪人]]と鉢合わせになり、居合で切り抜けなければと考えながら、すれちがいざまに互いに駆け抜けた(逃げた!)こともあった。(この文久2年ごろ〜明治6年ごろまでが江戸が一番危険で、物騒な世の中であったと諭吉はのちに回想している。)
文久3年(1863年)7月、[[薩英戦争]]が起こったことにより、福澤諭吉は幕府の仕事が忙しくなり、[[外国奉行]]・[[松平康英]]の屋敷に赴き、外交文書を徹夜で翻訳にあたった。その後、翻訳活動を進めていき、「蒸気船」→「汽船」のように三文字の単語を二文字で翻訳し始めたり、「コピーライト」→「版権」、「ポスト・オフィス」→「飛脚場」、「ブック・キーピング」→「帳合」、「インシュアランス」→「請合」などを考案していった<ref group="注釈">諭吉は『[[福沢全集緒言]]』において以下のように述べている:{{Quotation|{{読み仮名|例|たと}} えば{{読み仮名|英語|えいご}} のスチームを{{読み仮名|従来|じゅうらい}} {{読み仮名|[[蒸気|蒸氣]]|じょうき}} と{{読み仮名|訳|やく}} するの{{読み仮名|例|れい}} なりしかども、何か一文字に{{読み仮名|縮|ちゞ}} めることは{{読み仮名|叶|かな}} うまじきやと{{読み仮名|思付|おもいつ}} き、{{読み仮名|是|こ}} れと目的はなけれども、{{読み仮名|蔵書|ぞうしょ}} の{{読み仮名|[[康熙字典]]|こうきじてん}} を{{読み仮名|持出|もちだ}} して{{読み仮名|唯|たゞ}} {{読み仮名|無暗|むやみ}} に{{読み仮名|火扁|ひへん}} {{読み仮名|水扁|みずへん}} などの部を{{読み仮名|捜索|そうさく}} する中に、{{読み仮名|汽|き}} と{{読み仮名|云|い}} う字を見て、{{読み仮名|其|その}} {{読み仮名|註|ちゅう}} に水の{{読み仮名|氣|き}} なりとあり、{{読み仮名|是|こ}} れは面白しと{{読み仮名|独|ひと}} り{{読み仮名|首肯|しゅこう}} して始めて{{読み仮名|汽|き}} の字を{{読み仮名|用|もち}} いたり。{{読み仮名|但|ただ}} し{{読み仮名|[[西洋事情]]|せいようじじょう}} の口絵に{{読み仮名|蒸滊済人|じょうきさいじん}} {{読み仮名|云々|うんぬん}} と{{読み仮名|記|しる}} したるは、{{読み仮名|対句|ついく}} の{{読み仮名|為|た}} め{{読み仮名|蒸|じょう}} の一字を{{読み仮名|加|くわ}} えたることなり。{{読み仮名|今日|こんにち}} と{{読み仮名|為|な}} りては{{読み仮名|世|よ}} の{{読み仮名|中|なか}} に{{読み仮名|滊車|きしゃ}} と云い{{読み仮名|滊船|きせん}} {{読み仮名|問屋|どいや}} と云い、誠に{{読み仮名|普通|ふつう}} の言葉なれども、{{読み仮名|其|その}} {{読み仮名|本|もと}} を{{読み仮名|尋|たず}} ぬれば三十二年前、余が{{読み仮名|盲捜|めくらさが}} しに{{読み仮名|捜|さが}} し{{読み仮名|当|あ}} てたるものを{{読み仮名|即席|そくせき}} の{{読み仮名|頓智|とんち}} に{{読み仮名|任|まか}} せて{{読み仮名|漫|まん}} に{{読み仮名|版本|はんぽん}} に{{読み仮名|上|のぼ}} せたるこそ{{読み仮名|滊|き}} の字の{{読み仮名|発端|ほったん}} なれ。又{{読み仮名|当時|とうじ}} 、[[著作権|コピライト]]の{{読み仮名|意義|いぎ}} を{{読み仮名|含|ふく}} みたる文字もなし。{{読み仮名|官許|かんきょ}} と{{読み仮名|云|い}} えば{{読み仮名|稍|や}} や似寄りたれども、{{読み仮名|其|その}} {{読み仮名|実|じつ}} は{{読み仮名|政府|せいふ}} の{{読み仮名|忌諱|きい}} に{{読み仮名|触|ふ}} れずとの{{読み仮名|意|い}} を{{読み仮名|示|しめ}} すのみにして、江戸の{{読み仮名|慣例|かんれい}} に{{読み仮名|拠|よ}} れば、{{読み仮名|[[臭草紙]]|くさぞうし}} の類は{{読み仮名|[[町年寄]]|まちどしより}} の{{読み仮名|権限内|けんげんない}} にて{{読み仮名|取捌|とりさば}} き、{{読み仮名|其|それ}} 以上、学者の{{読み仮名|著述|ちょじつ}} は{{読み仮名|[[聖堂]]|せいどう}} 、又{{読み仮名|飜訳書|ほんやくしょ}} なれば{{読み仮名|[[蕃書調所]]|ばんしょしらべしょ}} と称する{{読み仮名|政府|せいふ}} の{{読み仮名|洋学校|ようがっこう}} にて{{読み仮名|許可|きょか}} するの法にして、{{読み仮名|著書|ちょしょ}} {{読み仮名|発行|はっこう}} の{{読み仮名|名誉|めいよ}} {{読み仮名|権利|けんり}} は{{読み仮名|著者|ちょしゃ}} の{{読み仮名|専有|せんゆう}} に{{読み仮名|帰|き}} すと{{読み仮名|云|い}} うが{{読み仮名|如|ごと}} き{{読み仮名|私有権|しゆうけん}} の{{読み仮名|意味|いみ}} を知る者なし。{{読み仮名|依|よっ}} て余は{{読み仮名|其|その}} コピライトの{{読み仮名|横文字|よこもじ}} を{{読み仮名|直訳|ちょくやく}} して{{読み仮名|[[版権]]|はんけん}} の{{読み仮名|新文字|しんもじ}} を{{読み仮名|製造|せいぞう}} したり。{{読み仮名|其他|そのた}} 、{{読み仮名|吾々|われわれ}} {{読み仮名|友人間|ゆうじんかん}} にて作りたる新字も{{読み仮名|甚|はなは}} だ少なからず。{{読み仮名|名|な}} は{{読み仮名|忘|わす}} れたり、{{読み仮名|或|あ}} る{{読み仮名|学友|がくゆう}} が{{読み仮名|横文|おうぶん}} にある[[ドル|ドルラル]]の{{読み仮名|記号|きごう}} $を見て{{読み仮名|竪|たて}} に{{読み仮名|似寄|により}} りの弗の字を用い、ドルラルと{{読み仮名|読|よ}} ませたるが如き{{読み仮名|面白|おもしろ}} き{{読み仮名|思付|おもいつき}} にして、{{読み仮名|之|これ}} に{{読み仮名|反|はん}} し余が[[郵便局|ポストヲフヒス]]を{{読み仮名|飛脚場|ひきゃくば}} 、[[郵便|ポステージ]]を{{読み仮名|飛脚印|ひきゃくじるし}} と訳して{{読み仮名|郵便|ゆうびん}} の{{読み仮名|郵|ゆう}} の字に{{読み仮名|心付|こゝろづ}} かず、[[簿記|ブックキーピング]]を{{読み仮名|帳合|ちょうあい}} と訳して{{読み仮名|[[簿記]]|ぼき}} の字を用いざりしは、{{読み仮名|余|あま}} り{{読み仮名|俗|ぞく}} に{{読み仮名|過|す}} ぎたる故か{{読み仮名|今日|こんにち}} {{読み仮名|世|よ}} に行わるゝを{{読み仮名|見|み}} ず。|福澤諭吉|『[[福沢全集緒言]]』22-24頁}}</ref>。また、[[禁門の変]]が起こると長州藩追討の朝命が下って、中津藩にも出兵が命じられたがこれを拒否し、代わりに、以前より親交のあった[[仙台藩]]の[[大童信太夫]]を通じて、同年秋ごろに塾で諭吉に師事していた[[横尾東作]]を派遣して新聞『ジャパン=ヘラルド』を翻訳し、諸藩の援助をした。
[[元治]]元年([[1864年]])には、諭吉は郷里である中津に赴き、[[小幡篤次郎]]や[[三輪光五郎]]ら6名を連れてきた。同年10月には外国奉行支配調役次席翻訳御用として出仕し、臨時の「御雇い」ではなく幕府直参として150俵・15両を受けて[[御目見]]以上となり、「御旗本」となった<ref>[[勝部真長]] [[PHP研究所]] ISBN 4569771882 『勝海舟』 (終章)P333</ref><ref>[http://ocw.dmc.keio.ac.jp/j/economics/02A-007_j/lecture_contents/theme031.html 福沢:元治元年/1846~外国奉行支配調訳次席翻訳御用]</ref>。慶応元年([[1865年]])に始まる幕府の[[長州征討|長州征伐]]の企てについて、幕臣としての立場からその方策を献言した『[[長州再征に関する建白書]]』では、[[大名同盟]]論の採用に反対し、幕府の側に立って、その維持のためには外国軍隊に依拠することも辞さないという立場をとった。[[明治]]2年([[1869年]])には、熊本藩の依頼で本格的な西洋戦術書『[[洋兵明鑑]]』を小幡篤次郎・[[小幡甚三郎]]と共訳した。また明治2年([[1869年]])、83歳の[[杉田玄白]]が[[蘭学]]草創の当時を回想して記し、[[大槻玄沢]]に送った手記を、諭吉は玄白の曽孫の[[杉田廉卿]]、他の有志たちと一緒になってまとめて、『[[蘭学事始]]』(上下2巻)の題名で刊行した。
=== 再び渡米 ===
慶応3年(1867年)、幕府はアメリカに注文した軍艦を受け取りに行くため、幕府使節団(使節主席・[[小野友五郎]]、[[江戸幕府]]の軍艦受取委員会)をアメリカに派遣することにした。その随行団のメンバーの中に福澤諭吉が加わることになった(他に[[津田仙]]、[[尺振八]]もメンバーとして同乗)。慶応3年(1867年)1月23日、幕府使節団は[[郵便船]]「コロラド号」に乗って横浜港を出港する。このコロラド号はオーディン号や咸臨丸より船の規模が大きく、装備も設備も十分であった。諭吉はこのコロラド号の船旅について「とても快適な航海で、22日目にサンフランシスコに無事に着いた」と「[[福翁自伝]]」に記している。
アメリカに到着後、幕府使節団は[[ニューヨーク]]、[[フィラデルフィア]]、[[ワシントンD.C.]]を訪れた。この時、諭吉は、[[紀州藩]]や[[仙台藩]]から預かった資金、およそ5,000両で大量の辞書や物理書・[[地図帳]]を買い込んだという。
慶応3年[[6月27日 (旧暦)|6月27日]]([[1867年]][[7月28日]])、幕府使節団は日本に帰国した。諭吉は現地で小野と揉めたため、帰国後はしばらく謹慎処分を受けたが、[[中島三郎助]]の働きかけですぐに謹慎が解けた。この謹慎期間中に、『[[西洋旅案内]]』(上下2巻)を書き上げた。
=== 明治維新 ===
{{出典の明記|date=2017年1月|section=1}}
慶応3年(1867年)12月9日、[[朝廷 (日本)|朝廷]]は[[王政復古の大号令|王政復古を宣言]]した。[[江戸開城]]後、福澤諭吉は新政府から出仕を求められたがこれを辞退し、以後も官職に就かなかった。翌年には帯刀をやめて平民となった<ref>岡田俊裕著 『日本地理学人物事典 [近代編 1] 』 原書房 2013年 14ページ</ref>。
慶応4年([[1868年]])には蘭学塾を'''[[慶應義塾]]'''と名づけ、教育活動に専念する。[[三田藩]]・仙台藩・紀州藩・中津藩・[[越後長岡藩]]と懇意になり、藩士を大量に受け入れる<ref>上田正一, 「[https://doi.org/10.15057/da.5839 上田貞次郎伝]」泰文館 1980年, {{ncid|BN01322234}}</ref>。特に紀州藩には慶應蘭学所内に「紀州塾」という紀州藩士専用の部屋まで造られた。長岡藩は藩の大参事として指導していた[[三島億二郎]]が諭吉の考えに共鳴していたこともあり、藩士を慶應義塾に多数送り込み、[[笠原文平]]らが運営資金を支えてもいた。同時に横浜の[[高島嘉右衛門]]の[[藍謝堂|藍謝塾]]とも生徒の派遣交換が始まった。官軍と[[彰義隊]]の合戦が起こる中でも{{仮リンク|フランシス・ウェーランド|label=F・ウェーランド|en|Francis Wayland}}『経済学原論』(The Elements of Political Economy, 1866)の講義を続けた(なお[[経世済民|漢語]]に由来する「[[経済学]]」の語は諭吉や[[神田孝平]]らにより[[:en:political economy|political economy]]もしくは[[:en:economics|economics]]の訳語として定着した)。老中・[[稲葉正邦]]から千俵取りの[[御使番]]として出仕するように要請されてもいたが、6月には幕府に退身届を提出して退官。維新後は、国会開設運動が全国に広がると、一定の距離を置きながら、イギリス流憲法論を唱えた。
妻・お錦の実家である土岐家と[[榎本武揚]]の母方の実家・林家が親戚であったことから、榎本助命のため[[寺島宗則]](以前の松木弘安)の紹介で官軍参謀長・[[黒田清隆]]と面会し、赦免を要求。その後、以前から長州藩に雇われていた大村益次郎や薩摩藩出身の寺島宗則・神田孝平ら同僚が明治新政府への出仕を決め、諭吉にも[[山縣有朋]]・[[松本良順]]らから出仕の勧めがきたがこれを断り、[[九鬼隆一]]や[[白根専一]]、[[濱尾新]]、[[渡辺洪基]]らを新政府の[[文部省|文部]][[官吏]]として送り込む一方、自らは慶應義塾の運営と啓蒙活動に専念することとした。
新銭座の土地を[[攻玉社中学校・高等学校|攻玉社]]の塾長・[[近藤真琴]]に300円で譲り渡し、慶應義塾の新しい土地として目をつけた[[三田 (東京都港区)|三田]]の旧島原藩中屋敷の土地の払い下げの交渉を東京府と行った。明治3年には諭吉を厚く信頼していた内大臣・[[岩倉具視]]の助力を得てそれを実現した<ref name="小泉(1966)148">[[#小泉(1966)|小泉(1966)]] p.148</ref>。明治4年からここに慶應義塾を移転させて、「帳合之法(現在の[[簿記]])」などの講義を始めた。また[[明六社]]に参加。当時の文部官吏には隆一や[[田中不二麿]]・[[森有礼]]ら諭吉派官吏が多かったため、[[1873年]](明治6年)、慶應義塾と東京英語学校(かつての[[開成学校]]でのち[[東京大学 (1877-1886)#大学予備門|大学予備門]]さらに[[第一高等学校 (旧制)|旧制一高]]に再編され、現:[[東京大学大学院総合文化研究科・教養学部|東京大学教養学部]])は、例外的に[[徴兵令]]免除の待遇を受けることになった。
[[廃藩置県]]を歓迎し、「政権」(軍事や外交)と「治権」(地方の治安維持や教育)のすべてを政府が握るのではなく「治権」は地方の人に委ねるべきであるとした『[[分権論]]』には、これを成立させた[[西郷隆盛]]への感謝とともに、[[地方分権]]が[[士族]]の不満を救うと論じ、続く『[[丁丑公論]]』では政府が掌を返して[[西南戦争]]で西郷を追い込むのはおかしいと主張した<ref>[[#小泉(1966)|小泉(1966)]] p.149-150</ref>。
『[[通俗民権論]]』『[[通俗国権論]]』『[[民間経済禄]]』なども官民調和の主張ないし初歩的な啓蒙を行ったものであった。しかしながら、[[自由主義]]を紹介する際には「'''自由在不自由中(自由は不自由の中にあり)'''」という言葉を使い、自分勝手主義へ堕することへ警鐘を鳴らした。明治6年([[1873年]])[[9月4日]]の午後には[[岩倉使節団]]に随行していた長与専斎の紹介で[[木戸孝允]]と会談。木戸が[[文部大臣|文部卿]]だった期間は4か月に過ぎなかったが、「[[学制]]」を制定し、「文部省は[[竹橋]]にあり、文部卿は三田にあり」の声があった。
[[画像:Yukichi Fukuzawa.jpg|200px|thumb|明治20年(1887年)ごろの肖像]]
明治7年([[1874年]])、[[板垣退助]]・[[後藤象二郎]]・[[江藤新平]]が野に下るや、高知の[[立志学舎]]に門下生を教師として派遣したほか、後藤の政治活動を支援し、国会開設運動の先頭に立って『[[郵便報知新聞]]』に「[[国会論]]」と題する社説を掲載。特に後藤には大変入れ込み、後藤の夫人に直接支援の旨を語るほどだった。同年、[[地下浪人]]だった[[岩崎弥太郎]]と面会し、弥太郎が山師ではないと評価した諭吉は、[[三菱商会]]にも[[荘田平五郎]]や[[豊川良平]]といった門下を投入したほか、後藤の経営する[[高島炭鉱]]を岩崎に買い取らせた。また、[[愛国社 (1875年-1880年)|愛国社]]から頼まれて『[[国会を開設するの允可を上願する書]]』の起草に助力した。
明治9年([[1876年]])2月、諭吉は懇意にしていた[[森有礼]]の屋敷で寺島宗則や箕作秋坪らとともに、初めて[[大久保利通]]と会談した。このときの諭吉について大久保は日記の中で「種々談話有之面白く、流石有名に恥じず」と書いている<ref name="名前なし-2">[[#小泉(1966)|小泉(1966)]] p.152</ref>。諭吉によると晩餐のあとに大久保が「天下流行の民権論も宜しいけれど人民が政府に向かって権利を争うなら、またこれに伴う義務もなくてはならぬ」と述べたことについて、諭吉は大久保が自分を民権論者の首魁のように誤解していると感じ(諭吉は国会開設論者であるため若干の民権論も唱えてはいたが、過激な民権論者には常に否定的であった)、民権運動を暴れる蜂の巣に例えて「蜂の仲間に入って飛場を共にしないばかりか、今日君が民権家と鑑定した福澤が着実な人物で君らにとって頼もしく思える場合もあるであろうから幾重にも安心しなさい」と回答したという<ref name="名前なし-2"/>。
=== 明治14年の政変と『時事新報』 ===
明治13年(1880年)12月には参議の[[大隈重信]]邸で大隈、[[伊藤博文]]、[[井上馨]]という政府高官3人と会見し、公報新聞の発行を依頼された。諭吉はその場での諾否を保留して数日熟考したが、「政府の真意を大衆に認知させるだけの新聞では無意味」と考え、辞退しようと明治14年(1881年)1月に井上を訪問した。しかし井上が「政府は国会開設の決意を固めた」と語ったことで諭吉はその英断に歓喜し、新聞発行を引き受けた<ref>[[#小泉(1966)|小泉(1966)]] p.167</ref>。
しかし、大隈重信が当時急進的すぎるとされていたイギリス型政党内閣制案を伊藤への事前相談なしに独自に提出したことで、伊藤は大隈の急進的傾向を警戒するようになった<ref name="名前なし-3">[[#小泉(1966)|小泉(1966)]] p.168</ref>。またちょうどこの時期は「[[開拓使官有物払下げ事件|北海道開拓使官有物払い下げ問題]]」への反対集会が各地で開催される騒動が起きていた。大隈もその反対論者であり、また慶應義塾出身者も演説会や新聞でこの問題の批判を展開している者が多かった。そのため政府関係者に大隈・福澤・慶應義塾の陰謀という噂が真実と信ぜられるような空気が出来上がったとみられ、明治14年には大隈一派を政府の役職から辞職させる[[明治十四年の政変]]が起こることとなった。つい3か月前に大隈、伊藤、井上と会見したばかりだった諭吉はこの事件に当惑し、伊藤と井上に宛てて違約を責める手紙を送った<ref name="名前なし-3"/>。2,500字におよぶ人生で最も長い手紙だった。この手紙に対して、井上は返事の手紙を送ったが伊藤は返答しなかった<ref>[[#慶應義塾2004|慶應義塾(2004)]]、227頁</ref>。数回にわたって手紙を送り返信を求めたが、伊藤からの返信はついになく、井上も最後の書面には返信しなかった。これにより諭吉は両政治家との交際を久しく絶つことになった<ref name="名前なし-4">[[#小泉(1966)|小泉(1966)]] p.172</ref>。諭吉の理解では、伊藤と井上は初め大隈と国会開設を決意したが、政府内部での形勢が不利と見て途中で変節し、大隈一人の責任にしたというものだった<ref name="名前なし-4"/>。
諭吉はすでに公報発行の準備を整えていたが、大隈が失脚し、伊藤と井上は横を向くという状態になったため、先の3人との会談での公報の話も立ち消えとなった。しかし公報のために整えられた準備を自分の新聞発行に転用することとし、明治15年(1882年)3月から『[[時事新報]]』を発刊することになった<ref>[[#小泉(1966)|小泉(1966)]] p.174</ref>。『時事新報』の創刊にあたって掲げられた同紙発行の趣旨の末段には、「唯我輩の主義とする所は一身一家の独立より之を{{読み仮名|拡|おしひろ}}めて一国の独立に及ぼさんとするの精神にして、{{読み仮名|苟|いやしく}}もこの精神に{{読み仮名|戻|もと}}らざるものなれば、現在の政府なり、又世上幾多の政党なり、諸工商の会社なり、諸学者の集会なり、その相手を撰ばず一切友として之を助け、之に反すると認る者は、{{読み仮名|亦|また}}その相手を問わず一切敵として之を{{読み仮名|擯|しりぞ}}けんのみ。」と記されている<ref>[[#西川&山内2002|西川&山内(2002)]]、406頁</ref>。
{{Wikisource|本紙發兌之趣旨}}
=== 教育支援 ===
{{出典の明記|date=2017年1月|section=1}}
教育の画一化・中央集権化・官立化が確立されると、[[東京大学 (1877-1886)|東京大学]]に莫大な資金が注ぎ込まれ、慶應義塾は経営難となり、ついに諭吉が[[勝海舟]]に資金調達を願い出るまでとなり、海舟からは「そんな教育機関はさっさとやめて、明治政府に仕官してこい」と返されたため、[[島津氏|島津家]]に維持費用援助を要請することになった。その上、優秀な門下生は[[大学南校]]や[[大学東校]]、[[東京高等師範学校|東京師範学校]]([[東京教育大学]]、[[筑波大学]]の前身)の教授として引き抜かれていくという現象も起こっていた。
港区を流れる[[渋谷川|古川]]に[[狸橋]]という橋があり、橋の南に位置する狸蕎麦という蕎麦店に諭吉はたびたび来店していたが、明治12年([[1879年]])に狸橋南岸一帯の土地を買収し別邸を設けた<ref>三田評論 2010年11月号「天現寺界隈、そして幼稚舎」より</ref>。その場所に[[慶應義塾幼稚舎]]が移転し、また東側部分が土筆ケ岡養生園、のちの[[学校法人北里研究所|北里研究所]]、[[北里大学]]となった。
明治13年([[1880年]])、[[大隈重信]]と懇意の関係ゆえ、[[自由民権運動]]の火付け役として[[伊藤博文]]から睨まれていた諭吉の立場はますます厳しいものとなったが「慶應義塾維持法案」を作成し、自らは経営から手を引き、[[渡部久馬八]]・[[門野幾之進]]・[[浜野定四郎]]の3人に経営を任せることにした。このころから[[平民]]の学生が増えたことにより、運営が徐々に黒字化するようになった。
また、私立の総合的な学校が慶應義塾のみで、もっと多くの私立学校が必要だと考え、門下を[[大阪商業講習所]]や[[商法講習所]]で活躍させる一方、[[専修学校 (旧制)|専修学校]]や[[東京専門学校]]、[[英吉利法律学校]]の設立を支援し、開校式にも出席した。
明治25年([[1892年]])には、[[長與專齋]]の紹介で[[北里柴三郎]]を迎えて、[[東京大学医科学研究所|伝染病研究所]]や[[東京大学医科学研究所附属病院|土筆ヶ岡養生園]]を[[森村市左衛門]]と共に設立していく。ちょうど帝国大学の構想が持ち上がっているころだったが、慶應義塾に大学部を設置し[[小泉信吉]]を招聘して、一貫教育の体制を確立した。
=== 朝鮮改革運動支援と対清主戦論 ===
明治15年([[1882年]])に訪日した[[金玉均]]やその同志の[[朴泳孝]]と親交を深めた諭吉は、朝鮮問題に強い関心を抱くようになった。諭吉の考えるところ、日本の軍備は日本一国のためにあるのではなく、西洋諸国の侵略から東洋諸国を保護するためにあった。そのためには朝鮮における[[清]]の影響力を排除することで日本が朝鮮の近代化改革を指導する必要があると考え、日本国内で最も強硬な対清主戦論者となっていった<ref>[[#小泉(1966)|小泉(1966)]] pp.180-182</ref>。
明治15年(1882年)7月23日、[[壬午事変]]が勃発し、朝鮮の日本公使館が襲撃される事件があり、外務卿[[井上馨]]は朝鮮政府に謝罪・賠償と日本公使館に護衛兵を置くことを認めさせた[[済物浦条約]]を締結した。清はこれによって日本の朝鮮への軍事的影響力が増すことを恐れたが、諭吉はこの一連の動きに満足の意を示すとともに、清が邪魔してくるようであればこれを容赦すべきではないと論じた<ref name="小泉(1966)183">[[#小泉(1966)|小泉(1966)]] p.183</ref>。明治15年10月に朝鮮からの謝罪使が訪日したが、この使節団は朴泳孝が正使、金玉均が副使の一人であった。朴泳孝は帰国に際して諭吉が推薦する慶應義塾出身の[[牛場卓蔵]]を朝鮮政府顧問に迎えている<ref name="小泉(1966)183-184">[[#小泉(1966)|小泉(1966)]] pp.183f</ref>。
朝鮮宗主権の喪失を恐れる清は、[[袁世凱]]率いる3,000の兵を[[京城]]へ派遣し、これによって朝鮮政府内は事大党(清派)と独立党(日本派)と中間派に分裂。独立派の金・朴は、明治17年([[1884年]])12月4日に[[甲申政変|甲申事変]]を起こすも、事大党の要請に応えた清軍の出動で政権掌握に失敗した。この騒乱の中で[[磯林真三]]大尉以下日本軍人40人ほどが清軍や朝鮮軍に殺害され、また日本人居留民も中国人や朝鮮人の殺傷略奪を受けた<ref name="小泉(1966)184">[[#小泉(1966)|小泉(1966)]] p.184</ref>。
この事件により日本国内の主戦論が高まり、その中でもとりわけ強硬に主戦論を唱えたのが諭吉だった。このころ諭吉は連日のように時事新報でこの件について筆をとり続け、「我が日本国に不敬損害を加へたる者あり」「支那兵士の事は遁辞を設ける由なし」「軍事費支弁の用意大早計ならず」「今より其覚悟にて人々其労役を増して私費を減ず可し」「戦争となれば必勝の算あり」「求る所は唯国権拡張の一点のみ」と清との開戦を強く訴えた<ref name="小泉(1966)185">[[#小泉(1966)|小泉(1966)]] p.185</ref>。また甲申事変の失敗で日本に亡命した金玉均を数か月の間、三田の邸宅に匿まった<ref name="小泉(1966)181">[[#小泉(1966)|小泉(1966)]] p.181</ref>。
このときの開戦危機は、明治18年(1885年)1月に朝鮮政府が外務卿・井上馨との交渉の中で謝罪と賠償を行うことを約束したことや、4月に日清間で日清揃っての朝鮮からの撤兵を約した[[天津条約 (1885年4月)|天津条約]]が結ばれたことで一応の終息をみた。しかし、主戦論者の諭吉はこの結果を清有利とみなして不満を抱いたという<ref name="小泉(1966)186">[[#小泉(1966)|小泉(1966)]] p.186</ref>。
[[File:Fukuzawa Ichitaro.png|thumb|諭吉の長男・福澤一太郎。慶應義塾学頭を務めた]]
当時の諭吉の真意は、息子の[[福澤一太郎]]宛ての書簡(1884年12月21日)に、「朝鮮事変之実を申せバ、日本公使幷ニ日本兵ハ、十二月六日支那兵之為ニ京城を逐出され、仁川へ逃げたる訳なり。日支兵員之多寡ハあれ共、日本人が支那人ニ負けたと申ハ開闢以来初て之事なり。何れただニては不相済事ならん。和戦之分れハ、今後半月か一月中ニ公然たる事ト存候。」<ref>慶應義塾編『福沢諭吉書簡集』第四巻(慶応義塾大学出版会、2001年)p.215。</ref>に窺える。
=== 日清戦争の支援 ===
明治27年(1894年)3月に日本亡命中の金玉均が朝鮮政府に[[上海]]におびき出されて暗殺される事件があり、再び日本国内の主戦論が高まった<ref name="小泉(1966)187">[[#小泉(1966)|小泉(1966)]] p.187</ref>。諭吉も金玉均の死を悼み、相識の僧に法名と位牌を作らせて自家の仏壇に安置している<ref name="小泉(1966)181">[[#小泉(1966)|小泉(1966)]] p.181</ref>。同年4月から5月にかけて[[東学党の乱]]鎮圧を理由に清が朝鮮への出兵を開始すると、日本政府もこれに対抗して朝鮮へ出兵し、ついに日清は開戦に至った([[日清戦争]])。諭吉は終始、時事新報での言論をもって熱心に政府と軍を支持して戦争遂行を激励した<ref name="小泉(1966)180">[[#小泉(1966)|小泉(1966)]] p.180</ref>。
国会開設以来、政府と[[帝国議会]]は事あるごとに対立したため(建艦費否決など)、それが日本の外交力の弱さになって現れ、清にとってしばしば有利に働いた。諭吉は戦争でもその現象が生ずることを憂慮し、開戦早々に時事新報上で『日本臣民の覚悟』を発表し「官民ともに政治上の恩讐を忘れる事」「日本臣民は事の終局に至るまで慎んで政府の政略を批判すべからざる事」「人民相互に報国の義を奨励し、其美挙を称賛し、又銘々に自から堪忍すべき事」を訴えた<ref>[[#小泉(1966)|小泉(1966)]] pp.189f</ref>。
また戦費の募金運動(諭吉はこれを遽金と名付けた)を積極的に行って、自身で1万円という大金を募金するとともに、[[三井財閥]]の[[三井八郎右衛門]]、[[三菱財閥]]の[[岩崎久弥]]、[[渋沢財閥]]の[[渋沢栄一]]らとともに戦費募金組織「報国会」を結成した(政府が別に5,000万円の公債募集を決定したためその際に解散した)<ref name="小泉(1966)190-191">[[#小泉(1966)|小泉(1966)]] pp.190f</ref>。
この年は諭吉の還暦であったが、還暦祝いは戦勝後まで延期とし、明治28年([[1895年]])[[12月12日]]に改めて還暦祝いを行った。この日、諭吉は慶應義塾生徒への演説で「[[明治維新]]以来の日本の改新進歩と[[日清戦争]]の勝利によって日本の国権が大きく上昇した」と論じ、「感極まりて泣くの外なし」「長生きは可きものなり」と述べた<ref>[[#小泉(1966)|小泉(1966)]] pp.191f</ref>。
=== 晩年 ===
[[画像:1901 Fukuzawa Yukichi.jpg|200px|thumb|1901年(明治34年)の諭吉]]
[[画像:慶應義塾構内の福澤諭吉邸.jpg|200px|thumb|慶應義塾構内の福澤諭吉邸<br/ >(昭和20年の空襲で焼失)]]
[[File:福澤公園1-慶應三田.jpg|200px|thumb|諭吉邸の跡地にある福澤公園。明治時代にはこの場所から東京湾が一望できた。]]
[[画像:馬留石.jpg|200px|thumb|諭吉が馬を繋いだと伝えられる馬留石]]
[[画像:Gakumon-no-susume.jpg|200px|thumb|福澤諭吉・[[小幡篤次郎]]共著『学問のすゝめ』(初版、1872年)]]
[[画像:Funeral of Fukuzawa Yukichi.jpg|300px|thumb|福澤諭吉の葬列]]
諭吉は日清戦争後の晩年にも午前に3時間から4時間、午後に2時間は勉強し、また居合や米搗きも続け、最期まで無造作な老書生といった風の生活を送ったという<ref name="小泉(1966)196">[[#小泉(1966)|小泉(1966)]] p.196</ref>。このころまでには慶應義塾は大学部を設けて総生徒数が千数百人という巨大学校となっていた。また時事新報も信用の厚い大新聞となっていた<ref name="小泉(1966)196" />。
晩年の諭吉の主な活動には[[大日本帝国海軍|海軍]]拡張の必要性を強調する言論を行ったり、男女道徳の一新を企図して『女大学評論 新女大学』を著したり、[[北里柴三郎]]の[[伝染病研究所]]の設立を援助したりしたことなどが挙げられる<ref name="小泉(1966)195">[[#小泉(1966)|小泉(1966)]] p.195</ref>。また明治30年(1897年)8月6日に[[日原昌造]]に送った手紙の中には[[共産主義]]の台頭を憂う手紙を残している<ref name="小泉(1966)195-196">[[#小泉(1966)|小泉(1966)]] pp.195f</ref>。
諭吉は明治31年([[1898年]])[[9月26日]]、最初に[[脳出血|脳溢血]]で倒れ一時危篤に陥るも、このときには回復した。その後、慶應義塾の『[[修身要領]]』を編纂した<ref name="小泉(1966)197">[[#小泉(1966)|小泉(1966)]] p.197</ref>。
しかし明治34年([[1901年]])[[1月25日]]、脳溢血が再発し、2月3日に東京で死去した。享年67(66歳没)。7日には[[衆議院]]が「衆議院は夙に開国の説を唱へ、力を教育に致したる福澤諭吉君の訃音に接し茲に哀悼の意を表す」という院議を決議している<ref name="小泉(1966)3,197">[[#小泉(1966)|小泉(1966)]] pp.3,197</ref>。8日の諭吉の葬儀では三田の自邸から[[善福寺 (東京都港区)|麻布善福寺]]まで1万5,000人の会葬者が葬列に加わった<ref name="小泉(1966)197" />。
=== 年譜 ===
* 1879年(明治12年):[[東京学士会院]](現:[[日本学士院]])初代会長就任。[[東京府会]]副議長に選出されるが辞退。『[[民情一新]]』刊。
* 1880年(明治13年):[[専修学校 (旧制)|専修学校]](現:[[専修大学]])の創設に協力し、[[京橋区]]の諭吉の[[簿記講習所]]、また木挽町の[[明治会堂]]を専修学校の創立者4人に提供した。9月、慶應義塾が塾生の激減により財政難に陥ったため、諭吉は廃塾を決意するが、広く寄付を求める「慶應義塾維持法案」を11月23日に発表して、門下生たちが奔走した結果、危機を乗り切る<ref>{{慶應義塾豆百科|39|慶應義塾維持法案}}</ref>。
* 1881年(明治14年)
** [[1月23日]]:「慶應義塾仮憲法」を制定、引き続き諭吉が社頭となる。
** 8月:[[明治十四年の政変]]が起き、政府要人と絶交する。[[上野]] - [[青森駅|青森]]間の[[日本鉄道会社]]設立に助力。
* 1882年(明治15年)
** 3月:日刊新聞『[[時事新報]]』を創刊し、不偏不党・国権皇張の理念のもと、世論を先導した。『[[帝室論]]』刊。
** [[10月21日]]:[[東京専門学校 (旧制)|東京専門学校]]開校式に参列<ref>『早稲田大学百年史』 第一巻、466頁</ref>。
* 1885年(明治18年)[[9月19日]]:[[英吉利法律学校]]開校式に参列<ref>『[https://www.chuo-u.ac.jp/uploads/2018/10/19.pdf?1603180355294 タイムトラベル中大125:1885→2010]』 40-41頁</ref>。
* 1886年(明治19年)[[12月11日]]:[[明治法律学校]]南甲賀町校舎移転開校式に参列<ref>『明治大学百年史』 第三巻 通史編Ⅰ、215頁</ref>。
* 1887年(明治20年):伊藤博文首相主催の仮装舞踏会を家事の都合を理由として欠席する。
* 1889年(明治22年):8月、「慶應義塾規約」を制定。
* 1890年(明治23年):1月、慶應義塾に大学部発足、文学科・理財科・法律科の3科を置く。
* 1892年(明治25年):「[[東京大学医科学研究所|伝染病研究所]]」を設立する([[北里柴三郎]]が初代所長となる)。
* 1893年(明治26年):「[[東京大学医科学研究所附属病院|土筆ヶ岡養生園]]」を開設する。
* 1894年(明治27年):郷里、[[中津市|中津]]の景勝・競秀峰を自然保護のため買い取る。
* 1895年(明治28年) - 30年(1897年):[[箱根]]、[[京都]]、[[大阪]]、[[広島県|広島]]、[[伊勢神宮]]、[[山陽地方|山陽]]方面へ旅行に出る。
* 1898年(明治31年)
** 5月、慶應義塾の学制を改革し、一貫教育制度を樹立、政治科を増設。
** [[9月26日]]、[[脳出血]]で倒れ、いったん回復。
* 1899年(明治32年)
**[[1月21日]]、[[勝海舟]]没。多年にわたる著訳教育の功労により、[[皇室]]から金5万円を下賜される。
** [[8月8日]]、再び倒れ意識不明になったが、約1時間後に意識を回復。『[[修身要領]]』完成。
* 1900年(明治33年)
** [[2月24日]]、三田演説会で『修身要領』を発表<ref>{{慶應義塾豆百科|60|独立自尊}}</ref>。
** [[12月31日]]、翌年の幕明けにかけて慶應義塾生らと[[19世紀]]と[[20世紀]]の「[[学校法人慶應義塾#世紀送迎会|世紀送迎会]]」を開催<ref>[http://www.keio.ac.jp/ja/contents/stained_glass/2000/223.html 「世紀送迎会」](慶應義塾ステンドグラス 2000年1月1日/塾 No.223)</ref>。[[日本]]では和暦である[[元号]]と[[神武天皇即位紀元]](通称:皇紀)が主流で、[[西暦]]・[[世紀]]の概念が普及していない中の新しい試みであった。諭吉の「独立自尊迎新世紀」という大書はこの会で最初に披露されたものと言われている<ref>{{慶應義塾豆百科|61|独立自尊迎新世紀}}</ref>。
* 1901年(明治34年)
**[[1月25日]]、再び脳出血で倒れる。
** [[2月3日]]、再出血し、午後10時50分死去<ref>[{{NDLDC|1920419/126}} 福沢諭吉逝く]新聞集成明治編年史第11卷、林泉社、1936-1940</ref>。葬儀の際、遺族は諭吉の遺志を尊重し献花を丁寧に断ったが、盟友である[[大隈重信]]が涙ながらに持ってきた花を、福澤家は黙って受け取った。また、死によせて[[福地源一郎]]が書いた記事は会心の出来映えで、明治期でも指折りの名文とされる。[[爵位]]を断る。
** [[2月7日]]、[[衆議院]]において満場一致で哀悼を決議<ref>決議文の内容は次の通り。「衆議院ハ夙ニ開国ノ説ヲ唱ヘ力ヲ教育ニ致シタル福沢諭吉君ノ訃音ニ接シ茲ニ哀悼ノ意ヲ表ス」([[片岡健吉]]ほか6名提出)。[[井上角五郎]]が提出者を代表して、説明のため登壇した。明治34年2月8日付「官報」号外、衆議院議事録(「第15回帝国議会・衆議院議事録・明治33.12.25 - 明治34.3.24」、国立公文書館(ref:A07050006700)。)。</ref>。
** 2月8日、葬儀が執り行われた。生前の考えを尊重して「塾葬」とせず、福澤家の私事とされる<ref>{{慶應義塾豆百科|62|塾葬}}</ref>。
=== 墓 ===
諭吉は、大学の敷地内に居を構えていたため、慶應義塾大学三田キャンパスに諭吉の終焉の地を示した石碑が設置されている(旧居の基壇の一部が今も残る)。[[戒名]]は「'''大観院独立自尊居士'''」で、麻布山[[善福寺 (東京都港区)|善福寺]]にその墓がある。命日の2月3日は雪池忌(ゆきちき)と呼ばれ、塾長以下学生など多くの慶應義塾関係者が墓参する。
[[昭和]]52年([[1977年]])、最初の埋葬地([[常光寺 (品川区)|常光寺]])から麻布善福寺へ改葬の際、諭吉の遺体が[[ミイラ]]([[死蝋]])化して残っているのが発見された。外気と遮断され、比較的低温の地下水に浸され続けたために腐敗が進まず保存されたものと推定された。学術解剖や遺体保存の声もあったが、遺族の強い希望でそのまま[[荼毘]]にふされた。
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福澤諭吉終焉之地.jpg|福澤諭吉終焉之地
Tomb of Fukuzawa.jpg|雪池忌
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== 人物・思想 ==
[[画像:Sculpture of Fukuzawa Yukichi in front of Haraedo Shrine.jpg|250px|thumb|[[祓戸神社]]前にある福澤諭吉の像]]
[[画像:福澤諭吉像2.jpg|250px|thumb|福澤諭吉像(三田)]]
[[画像:福澤諭吉先生像慶応日吉.jpg|250px|thumb|福澤諭吉像(日吉)]]
[[画像:Tsukuniya.jpg|250px|thumb|福澤馴染みの酒屋「津國屋」<br />[[三田 (東京都港区)|三田]]に現存]]
=== アジア近隣諸国や日清戦争観 ===
諭吉は、東洋の旧習に妄執し[[文明開化|西洋文明]]を拒む者を批判した。『学問のすすめ』の中で「文明の進歩は、天地の間にある有形の物にても無形の人事にても、其働の趣を詮索して真実を発明するに在り。西洋諸国民の人民が今日の文明に達したる其源を尋れば、凝の一点より出でざるものなし。之を彼の亜細亜諸州の人民が、虚誕妄説を軽信して巫蠱神仏に惑溺し、或いは所謂聖賢者([[孔子]]など)の言を聞て一時に之に和するのみならず、万世の後に至て尚其言の範囲を脱すること能はざるものに比すれば、其品行の優劣、心勇の勇怯、固より年を同して語る可らざるなり。」と論じている<ref>[[#小泉(1966)|小泉(1966)]] pp.126-127</ref>。
とりわけ[[清]]や[[中国人]]の西洋化・近代化への怠慢ぶりを批判した。明治14年(1881年)には中国人は100年も前から西洋と接してきたことを前置きした上で「百年の久しき西洋の書を講ずる者もなく、西洋の器品を試用する者もなし。其改新の緩慢遅鈍、実に驚くに堪えり。」「畢竟[[支那人]]が其国の広大なるを自負して他を蔑視し、且数千年来[[陰陽五行]]の妄説に惑溺して物事の真理原則を求るの鍵を放擲したるの罪なり」と断じている<ref>[[#小泉(1966)|小泉(1966)]] pp.193f</ref>。
そのような諭吉にとって[[日清戦争]]は、「日本の国権拡張のための戦争である」と同時に「西洋学と[[儒教]]の思想戦争」でもあった<ref>[[#小泉(1966)|小泉(1966)]] pp.192-195</ref>。諭吉は[[豊島沖海戦]]直後の明治27年(1894年)7月29日に時事新報で日清戦争について「文野の戦争」「文明開化の進歩を謀るものと其進歩を妨げんとするものの戦」と定義した<ref name="小泉(1966)194">[[#小泉(1966)|小泉(1966)]] p.194</ref>。
戦勝後には[[山口広江]]に送った手紙の中で「(自分は)古学者流の役に立たぬことを説き、立国の大本はただ西洋流の文明主義に在るのみと、多年蝶々して已まなかったものの迚も生涯の中にその実境に遭うことはなかろうと思っていたのに、何ぞ料らん今眼前にこの盛事を見て、今や隣国支那朝鮮も我文明の中に包羅せんとす。畢生の愉快、実以て望外の仕合に存候」と思想戦争勝利の確信を表明した<ref>[[#小泉(1966)|小泉(1966)]] pp.194f</ref>。自伝の中でも「顧みて世の中を見れば堪え難いことも多いようだが、一国全体の大勢は改進進歩の一方で、次第々々に上進して、数年の後その形に顕れたるは、日清戦争など官民一致の勝利、愉快とも難有(ありがた)いとも言いようがない。命あればこそコンナことを見聞するのだ、前に死んだ同志の朋友が不幸だ、アア見せてやりたいと、毎度私は泣きました」(『[[福翁自伝]]』、「老余の半生」)とその歓喜の念を述べている<ref>[[富田正文]]校訂 『新訂 [[福翁自伝]]』、[[岩波書店]]〈[[岩波文庫]]〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「老余の半生」の章にある「行路変化多し」(316頁)を参照。[[近代デジタルライブラリー]]収録の『[[福翁自伝]]』では[{{NDLDC|2387720/280}} 547] - [{{NDLDC|2387720/281}} 548頁]を参照。[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=116&PAGE=565 福翁自傳 - 565 ページ]を参照。</ref><ref name="小泉(1966)189">[[#小泉(1966)|小泉(1966)]] p.189</ref>。
しかし諭吉の本来の目的は『国権論』や『内安外競論』において示されるように西洋列強の東侵阻止であり、日本の軍事力は日本一国のためだけにあるのではなく、西洋諸国から東洋諸国を保護するためにあるというものだった<ref name="小泉(1966)180">[[#小泉(1966)|小泉(1966)]] p.180</ref>。そのため[[李氏朝鮮]]の金玉均などアジアの「改革派」を熱心に支援した<ref name="小泉(1966)181">[[#小泉(1966)|小泉(1966)]] p.181</ref>。明治14年([[1881年]])6月に塾生の[[小泉信吉]]や[[日原昌造]]に送った書簡の中で諭吉は「本月初旬[[朝鮮人]]{{要曖昧さ回避|date=2015年11月}}数名日本の事情視察のため渡来。其中壮年二名本塾へ入社いたし、二名共先づ拙宅にさし置、やさしく誘導致し遣居候。誠に二十余年前の自分の事を思へば同情相憐れむの念なきを不得、朝鮮人が外国留学の頭初、本塾も亦外人を入るるの発端、実に奇遇と可申、右を御縁として朝鮮人は貴賎となく毎度拙宅へ来訪、其咄を聞けば、他なし、三十年前の日本なり。何卒今後は良く附合開らける様に致度事に御座候」と書いており、朝鮮人の慶應義塾への入塾を許可し、また朝鮮人に親近感を抱きながら接していたことも分かる<ref name="小泉(1966)181">[[#小泉(1966)|小泉(1966)]] p.181</ref>。
=== 漢学について ===
諭吉は[[漢学]]を徹底的に批判した。そのため[[孔子|孔]][[孟子|孟]]崇拝者から憎悪されたが、そのことについて諭吉は自伝の中で「私はただ漢学に不信仰で、漢学に重きを置かぬだけではない。一歩進めていわゆる腐儒の腐説を一掃してやろうと若いころから心がけていた。そこで尋常一様の洋学者・通詞などいうような者が漢学者の事を悪く言うのは当たり前の話で、あまり毒にもならぬ。ところが私はずいぶん漢学を読んでいる。読んでいながら知らぬ風をして毒々しい事をいうから憎まれずにはいられぬ」「かくまでに私が漢学を敵視したのは、今の開国の時節に古く腐れた漢説が後進少年生の脳中にわだかまっては、とても西洋の文明は国に入ることができぬと、あくまで信じて疑わず、いかにもして彼らを救い出して我が信ずるところへ導かんと、あらゆる限りの力を尽くし、私の真面目を申せば、日本国中の漢学者はみんな来い、俺が一人で相手になろうというような決心であった」とその心境を語っている<ref>[[#小泉(1966)|小泉(1966)]] pp.90f</ref>。
『文明論之概略』では[[孔子]]と[[孟子]]を「古来稀有の思想家」としつつ、儒教的な「[[政教一致]]」の欠点を指摘した<ref>[[丸山眞男]]「文明論之概略」を読む(中)第八講</ref>。『学問のすすめ』においては、孔子の時代は2000年前の野蛮草昧の時代であり、天下の人心を維持せんがために束縛する権道しかなかったが、後世に孔子を学ぶ者は時代を考慮に入れて取捨すべきであって、2000年前に行われた教をそのまま現在に行おうとする者は事物の相場を理解しない人間と批判する。また西洋の諸大家は次々と新説を唱えて人々を文明に導いているが、これは彼らが古人が確定させた説にも反駁し、世の習慣にも疑義を入れるからこそ可能なことと論じた<ref name="杉原(1995)40f">[[#杉原(1995)|杉原(1995)]] pp.40f</ref>。
=== 白人至上主義 ===
[[白人]]を絶賛する一方で黄色人種については「勉励事を為すと雖ども其才力狭くして事物の進歩甚だ遅し」と否定的であり、さらにその他の有色人種については野蛮人と評している。
{{Quotation|前条の如く世界の人員を五に分ち其性情風俗の大概を論ずること左の如し
;(一)白皙人種:皮膚麗しく毛髪細にして長く頂骨大にして前額(ヒタイ)高く容貌骨格都て美なり其精心は聡明にして文明の極度に達す可きの性ありこれを人種の最とす欧羅巴一洲、亜細亜の西方亜非利加の北方、及ひ亜米利加に住居する白哲人は此種類の人なり
;(二)黄色人種:皮膚の色黄にして油の如く毛髪長くして黒く直くにして剛し頭の状稍や四角にして前額低く腮骨平にして広く鼻短く眼細く且其外眥斜に上れり其人の性情よく艱苦に堪へ勉励事を為すと雖ども其才力狭くして事物の進歩甚だ遅し支那「[[フィンランド|フヒンランド]]」(魯西亜領西北ノ地)「[[ラップランド|ラプランドル]]」(同上フヒンランド北方ノ地)等の居民は此種類の人なり
;(三)赤色人種:皮膚赤色と茶色とを帯て銅の如く、黒髪直くして長く、頂骨小にして腮(ホウ)骨高く前額低く口広く眼光暗くして深く鼻の状、尖り曲て釣の如く又鷲の嘴(クチバシ)の如し体格長大にして強壮、性情険くして闘を好み復讎の念常に絶ることなし南北亜米利加の土人は此種類の人なり但しこの人種は白皙人の文明に赴くに従ひ次第に衰微し人員日に減少すと云ふ
;(四)黒色人種:皮膚の色黒く捲髪(チヾレゲ)羊毛を束ねたるが如く頭の状、細く長く腮(ホウ)骨高く顋(アギト)骨突出し前額低く鼻平たく眼大にして突出し口大にして唇厚し其身体強壮にして活溌に事をなすべしと雖ども性質懶惰にして開化進歩の味を知らず亜非利加沙漠の南方に在る土民及び売奴と為て亜米利加へ移居せる黒奴等は此種類の人なり
;(五)茶色人種:皮膚茶色にして渋(シブ)の如く黒髪粗にして長く前額低くして広く口大にして鼻短く眥(マシリ)は斜に上ること黄色人種の如し其性情猛烈復讎の念甚だ盛なり太平洋亜非利加の海岸に近き諸島及び「[[マラッカ]]」(東印度の地)等の土民はこの種類の人なり|福澤諭吉|『掌中万国一覧』21-26頁}}
=== 議会政治・自由民権運動について ===
諭吉は明治12年(1879年)の『民情一新』の中で、「現代において国内の平和を維持する方法は権力者が長居しないで適時交替していくことであるとして、国民の投票によって権力者が変わっていく[[イギリス]]の[[政党政治]]・[[議会政治]]を大いに参考にすべし」と論じた。国会開設時期については政府内で最も強く支持されていた「漸進論に賛成する」と表明しつつ、過度に慎重な意見は「我が日本は開国二十年の間に二百年の事を成したるに非ずや。皆是れ近時文明の力を利用して然るものなり」「人民一般に智徳生じて然る後に国会を開くの説は、全一年間一日も雨天なき好天気を待て旅行を企てるものに異ならず。到底出発の期無かるべし」「今の世に在りて十二年前の王政維新を尚早しと云はざるものは、又今日国会尚早しの言を吐く可きにあらざるなり」として退けている<ref>[[#小泉(1966)|小泉(1966)]] pp.153f</ref>。
ただし、諭吉は国内の闘争よりも国外に日本の国権を拡張させることをより重視し、「内安外競」「官民調和」を持論としたため、[[自由民権運動]]に興じる急進派には決して同調せず、彼らのことを「駄民権論者」「ヘコヲビ書生」と呼んで軽蔑し、その主張について「犬の吠ゆるに異ならず」と批判した<ref>[[#小泉(1966)|小泉(1966)]] pp.32,157,172-173</ref>。『時事小言』の中で諭吉は「政府は国会を開いて国内の安寧を図り、心を合わせて外に向かって国権を張るべきこと」を強調している<ref name="小泉(1966)161">[[#小泉(1966)|小泉(1966)]] p.161</ref>。
また諭吉が明治14年(1881年)に[[ロンドン]]に滞在している慶應義塾生の[[小泉信吉]]に送った手紙には「地方処々の演説、所謂ヘコヲビ書生の連中、其風俗甚だ不宜(よろしからず)、近来に至ては県官を罵倒する等は通り過ぎ、極々の極度に至れば[[明治天皇|ムツヒト]](=明治天皇)云々を発言する者あるよし、実に演説も沙汰の限りにて甚だ悪しき兆候、斯くては捨置難き事と、少々づつ内談いたし居候義に御座候」と書かれており、[[皇室]]への不敬な姿勢などの自由民権論者の不作法も許しがたいものがあったようである<ref name="小泉(1966)173">[[#小泉(1966)|小泉(1966)]] p.173</ref>。
=== 諭吉の男女論 ===
諭吉は、明治維新になって欧米諸国の[[フェミニズム|女性解放思想]]をいち早く日本に紹介した。「人倫の大本は夫婦なり」として[[一夫多妻制|一夫多妻]]や[[妾]]をもつことを非難し、女性にも自由を与えなければならぬとし、女も男も同じ人間であるため、同様の教育を受ける権利があると主張した<ref>[[青空文庫]]の『[http://www.aozora.gr.jp/cards/000296/card46890.html 中津留別の書]』</ref>。自身の娘にも幼少より芸事を仕込み、[[ハインリヒ・フォン・シーボルト]]夫人に芸事の指導を頼んでいた。
諭吉が女性解放思想で一番影響を受けていたのが[[イギリス]]の哲学者・[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員[[ジョン・スチュアート・ミル]]であり、『学問のすすめ』の中でも「今の人事に於て男子は外を努め婦人は内を治るとて其関係殆ど天然なるが如くなれども、ステュアート・ミルは婦人論を著して、万古一定動かす可らざるの此習慣を破らんことを試みたり」と彼の先駆性を称えている<ref name="杉原(1995)36,40">[[#杉原(1995)|杉原(1995)]] pp.36,40</ref>。
一方で農村の女子教育には大変否定的であり、女子語学学校ブームに対して「嫁しては主夫の襤褸(ぼろ)を補綴(ほてい)する貧寒女子へ[[英語|英]]の読本を教えて後世何の益あるべきや」「農民の婦女子、貧家の女子中、稀に有為の俊才を生じ、偶然にも大に社会を益したることなきにあらざれども、こは千百人中の一にして、はなはだ稀有のこと」「狂気の沙汰」と論じている<ref>[https://www.aozora.gr.jp/cards/000296/files/50553_37053.html 福沢諭吉 文明教育論] [[青空文庫]]</ref>。
明治7年([[1874年]])に発足した[[慶應義塾幼稚舎]]が、同10年([[1877年]])以降しばらくの間、男女をともに教育した例があり、これは近代化以降の日本の教育における男女教育のいち早い希有なことであった。{{独自研究範囲|なお、明治民法の家族法の草案段階は、諭吉の男女同等論に近いものであったり諭吉もそれを支持したが、士族系の反対があったため[[家父長制]]のものに書き換えられた|date=2022年4月}}。旧民法(明治23年法律第28号、第98号)をめぐる[[民法典論争]]では法典公布前から政府による民商両法典の拙速主義を批判し、延期派の論陣を張っている<ref>[[高田晴仁]]「福澤諭吉の法典論 法典論争前夜」『慶應の法律学 商事法 慶應義塾創立一五〇年記念法学部論集』慶應義塾大学法学部、2008年、197頁、高田晴仁「法典延期派・福澤諭吉 大隈外交期」『法學研究』82巻1号、慶應義塾大学法学研究会、2009年、306頁</ref>。
『時事新報』1885年6月4日-6月12日、7月7日-7月17日に「日本婦人論」を発表、後編は8月刊、前編は当時刊行されなかった。
=== 著作の方針と著作権 ===
世俗主義であった[[親鸞]]を参考に、「俗文主義」として当時としては平易な文章を使うように心がけていた<ref>大田美和子 「[https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/2/23665/20141016143835551639/KokugoKyoikuKenkyu_7_119.pdf 福沢諭書文章の研究]」, 『[https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/ja/list/HU_journals/AN0008801X/--/7 国語教育研究 7号]』</ref>。
出版物の管理と販売の権利は作者に独占させるというイギリスの[[版権思想]]を日本に持ち込み、明治元年([[1868年]])の10月に新政府へ海賊版の取り締まりを求める願書を提出、翌年の5月13日に、版権思想に基づいた出版条例の公布を実現させた。これにより、それ以前は有識者の仲間内で判断されていた著作権の最終判断が司法の場に持ち込まれることになる。また諭吉は並行して明治2年(1869年)の11月に出版業界に参入し、「福澤屋諭吉」という出版社を自ら作り<ref>福沢諭吉全集21 岩波書店</ref>、明治6年(1873年)3月には、[[日柳政朔]]の著作『啓蒙天地文』に自著の『啓蒙手習之文』からの無断引用があったとして非難を行った。当時は出版会社が著作物の権利を握り、盗作が発生しても作者への金銭的被害が皆無であったことから、[[東京日々新聞]]のように日柳を擁護するメディアが多数であったが、諭吉のこうした活動は、文章の無断引用は違法行為であるとの認識を社会に浸透させるきっかけの一つとなった。
=== 私生活 ===
文久元年([[1861年]])、中津藩士江戸定府の土岐太郎八の次女・錦と結婚し、四男五女の9人の子どもをもうけた。松山棟庵によると、諭吉は結婚前にも後にも妻以外の婦人に一度も接したことがなかったという<ref>松山棟庵「故福澤翁」(慶應義塾学報 臨時増刊39号『福澤先生哀悼録』[[みすず書房]]、1987年3月、ISBN 4-622-02671-6、193-194頁)[http://blechmusik.xrea.jp/d/hirayama/h30/02/#id_2_0_3 伝記作家石河幹明の策略―その2― 2.0.3項]参照。</ref>。
<blockquote>
或時先生にお話すると「左樣か、性來の健󠄁康の外に別段人と異つた所󠄁もないが唯一つの心當りと云ふのは、子供の前󠄁でも話されぬ事だが、私は妻を貰ふ前󠄁にも後にも、未だ嘗て一度も婦󠄁人に接した事がない、隨分󠄁方々を流浪して居るし、緖方塾に居た時は放蕩者󠄁等を、引ずつて來るために不潔󠄁な所󠄁に行つた事もあるが、金玉の身體をむざ/\汚す樣な機會をつくらぬのだ」と先生は噓をつく方ではない、先生の御夫婦󠄁ほど純潔󠄁な結合が、今の世界に幾人あるだらう
</blockquote>
=== 居合の達人 ===
諭吉は、若年のころより[[立身流|立身新流]][[抜刀術|居合]]の稽古を積み、成人のころに[[免許皆伝]]を得た達人であった。ただし、諭吉は急速な欧米思想流入を嫌う者から幾度となく[[暗殺]]されそうになっているが、斬り合うことなく逃げている。無論、逃げることは最も安全な[[護身術]]であるが、諭吉自身、居合はあくまでも求道の手段として殺傷を目的としていなかったようであり、同じく剣の達人と言われながら生涯人を斬ったことがなかった[[勝海舟]]や[[山岡鉄舟]]の思想との共通性が窺える。
晩年まで健康のためと称し、居合の[[形稽古]]に明け暮れていた。[[医学]]者の[[土屋雅春]]は、諭吉の死因の一つに「居合のやりすぎ」を挙げている<ref>[https://ci.nii.ac.jp/naid/110000348758 『医者のみた福澤諭吉』]</ref>。晩年まで一日千本以上抜いて居合日記をつけており、これでは逆に健康を害すると分析されている。
明治中期に武術ブームが起こると、人前で居合を語ったり剣技を見せたりすることは一切なくなり、一時期「[[日本刀|居合刀]]はすっかり奥にしまいこんで」いた<ref>[[富田正文]]校訂 『新訂 [[福翁自伝]]』、岩波書店〈岩波文庫〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「再度米国行」の章にある「刀剣を売り払う」(162頁)を参照。[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=116&PAGE=285 福翁自傳 - 285 ページ]を参照。</ref>。流行り物に対して[[シニカル]]な一面も窺える。
=== 諭吉と勝海舟 ===
諭吉は、[[勝海舟]]の批判者であり続けた。[[戊辰戦争]]の折に清水港に停泊中の脱走艦隊の1隻である[[咸臨丸]]の船員が新政府軍と交戦し徳川方の戦死者が放置された件([[清水次郎長]]が埋葬し男を上げた意味でも有名)で、明治になってから戦死者の慰霊の石碑が清水の[[清見寺]]内に立てられるが、諭吉は家族旅行で清水に遊びこの石碑の碑文を書いた男が[[榎本武揚]]と銘記され、その内容が「食人之食者死人之事(人の食(禄)を食む者は人の事に死す。即ち徳川に仕える者は徳川家のために死すという意味)」を見ると激怒したという<ref group="注釈">次郎長もこの石碑が建てられた際に来ているが、意味がわからない子分のために漢文の内容を分かりやすく教えている。自己犠牲という[[アウトロー]]が尊ぶ精神構造と似ていたせいか諭吉と教養面で隔絶した文盲の子分たちは大いに納得していたという。</ref>。
『[[瘠我慢の説]]』という公開書簡によって、海舟と榎本武揚(ともに旧幕臣でありながら明治政府に仕えた)を理路整然と、古今の引用を引きながら、相手の立場を理解していると公平な立場を強調しながら、容赦なく批判している。なお諭吉は海舟に借金の申し入れをしてこれを断られたことがある<ref>1878年(明治11年)4月11日の日記に記載。</ref>。当時慶應義塾の経営は[[西南戦争]]の影響で旧薩摩藩学生の退学などもあり思わしくなく、旧幕臣に比較的簡単に分け隔てなく融通していた海舟に援助を求めた。しかし海舟は諭吉が政府から払い下げられた1万4000坪におよぶ広大な三田の良地を保有していることを知っていたため、土地を売却してもなお(慶應義塾の経営に)足りなかったら相談に乗ると答えたが、諭吉は三田の土地を非常に気に入っていたため売却していない。瘠我慢の説発表はこのあとのことである。また、『[[福翁自伝]]』で諭吉は借金について以下のように語っている<ref>[[富田正文]]校訂 『新訂 [[福翁自伝]]』、岩波書店〈岩波文庫〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「一身一家経済の由来」の章にある「仮初にも愚痴を云わず」(270-271頁)を参照。[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=116&PAGE=482&KEY=%E6%B5%81%E5%84%80 福翁自傳 - 482 ページ]を参照。</ref>。
<blockquote>
「私の流儀にすれば金がなければ使わない、有っても無駄に使わない、多く使うも、少なく使うも、一切世間の人のお世話に相成らぬ、使いたくなければ使わぬ、使いたければ使う、嘗(かつ)て人に相談しようとも思わなければ、人に喙(くちばし)を容れさせようとも思わぬ、貧富苦楽共に独立独歩、ドンなことがあっても、一寸でも困ったなんて泣き言を言わずに何時も悠々としているから、凡俗世界ではその様子を見て、コリャ何でも金持だと測量する人もありましょう。」
</blockquote>
海舟も諭吉と同様に身なりにはあまり気を遣わない方であったが、よく軽口を叩く癖があった。ある日、上野精養軒の明六社へ尻端折り姿に蝙蝠傘をついて現れた海舟が「俺に軍艦3隻ほど貸さないか?日本が貧乏になってきたからシナに強盗でもしに行こうと思う。向こうからやかましく言ってきたら、あいつは頭がおかしいから構うなと言ってやればいい。思いっきり儲けてくるよ。ねえ福澤さん、儲けたらちっとあげます」と言ってからかったという<ref>{{Cite book|和書 |author=北康利|authorlink=北康利 |date=2007-03 |title=福沢諭吉 国を支えて国を頼らず |publisher=[[講談社]] |isbn=978-4-06-213884-0 |page=226}}</ref>。
しかし、海舟は諭吉のことを学者として一目置いており、自分が学んだ[[佐久間象山]]の息子の[[佐久間恪二郎]]や、[[徳川慶喜]]の十男で養子の[[勝精]]を慶應義塾に入学させるなど面倒見のよい一面もあった。
=== 西洋医学 ===
[[土屋雅春]]の『医者のみた福澤諭吉』([[中央公論社]]、中公新書)や[[桜井邦朋]]の『福沢諭吉の「科學のススメ」』([[祥伝社]])によれば、諭吉と西洋医学との関係は深く、以下のような業績が残されている。
==== 『蘭学事始』の出版 ====
[[杉田玄白]]が記した『[[蘭学事始#経緯|蘭東事始]]』の写本を、諭吉の友人・[[神田孝平]]が偶然に発見した。そこで、杉田玄白の4世の孫である[[杉田廉卿]]の許可を得て、諭吉の序文を附して、明治2年([[1869年]])に『[[蘭学事始]]』として出版した。さらに明治23年([[1890年]])[[4月1日]]には、再版を「蘭学事始再版序」を附して[[日本医学会]]総会の機会に出版している。
==== 北里柴三郎への支援 ====
[[画像:The Institute of Medical Science Tokyo Japan Medical Science Museum 20070127 0076.jpg|250px|thumb|伝染病研究所の外観を再現した近代医科学記念館([[東京大学医科学研究所]]内)]]
明治25年([[1892年]])10月、[[ドイツ]]留学から帰国した[[北里柴三郎]]のために、福澤諭吉は東京柴山内に「[[東京大学医科学研究所|伝染病研究所]]」(伝研)を設立し、北里を所長に迎えた。その後、伝研は同年11月、大日本私立衛生会に移管され、年間3600円の支援を受けた。明治27年([[1894年]])には、伝研は芝愛宕町に移転したが、その時、近隣住民から反対運動が起こった。そこで、福澤諭吉は次男・[[福澤捨次郎|捨次郎]]の新居を伝研の隣りに作り、伝研が危険でないことを示して、北里柴三郎の研究をサポートした。明治32年([[1899年]])に伝研が国に移管されると、北里は伝研の所長を辞任し、諭吉と[[長與專齋]]と[[森村市左衛門]]とが創設した「[[東京大学医科学研究所附属病院|土筆ヶ岡養生園]]」に移った。
==== 慶應義塾医学所の創設 ====
明治3年([[1870年]])、慶應義塾の塾生[[前田政四郎]]のために、諭吉が英国式の医学所の開設を決定した。そして明治6年([[1873年]])、慶應義塾内に「[[慶應義塾医学所]]」を開設した。所長は慶應義塾出身の医師[[松山棟庵]]が就任した。また、[[杉田玄端]]を呼んで[[尊王舎]]を医学訓練の場所とした。なお、明治13年([[1880年]])6月、慶應義塾医学所は経営上の理由により閉鎖されることになった。
しかし、諭吉の死後15年たった[[大正]]5年([[1916年]])[[12月27日]]、慶應義塾大学部に[[慶應義塾大学大学院医学研究科・医学部|医学科]]の創設が許可され、大正6年([[1917年]])3月、医学科予科1年生の募集を開始し、学長<ref>慶應義塾150年史資料集編纂委員会編 『慶應義塾150年史資料集 第2巻』 慶應義塾、2016年、426頁</ref><ref>「一、大学部本科各科ニ学長一名ヲ置ク」(慶應義塾 『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940248/65 慶應義塾総覧 大正6年]』 120頁)</ref>として北里柴三郎が就任することになった。
=== その他 ===
* 同世代の[[思想家]]を挙げると、[[橋本左内]]とは同年代、[[坂本龍馬]]は一つ年下、[[高杉晋作]]は五つ年下、[[吉田松陰]]で四つ年上。これら[[幕末]]の人物と同世代であるというイメージが世間一般ではすらりと出にくいとされる<ref name="名前なし-5">[[丸山眞男]]「文明論之概略」を読む(上)第一講</ref>。
* 同時代の思想家で最も共通しているといわれているのは[[横井小楠]]で、小楠が唱えた天意自然の理に従うという理神論「天の思想」と諭吉の人生観が合致するとされている<ref>『[https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001426731-00 横井小楠とその弟子たち]』 評論社</ref>。
* [[文久]]3年([[1863年]])の春ごろから『姓名録』(『慶應義塾入社帳』29冊現存)をつけ始め、入塾者を記録し始めた。これ以前およびのちの数年の正確な入塾者については明らかになっていない。
*『福翁自伝』には万延元年([[1860年]])5月から文久元年([[1861年]])12月までと、元治元年([[1864年]])10月から慶応3年([[1867年]])1月までの二つの重要な幕末の時期について言及がない。どうやら元治年間以降については、[[徳川慶喜]]を頂点としつつ[[大鳥圭介]]・[[小栗忠順]]・[[太田黒伴雄]]らを与党とする実学派([[公武合体]]派)の人々と連携して、長州の[[久坂玄瑞]]や[[高杉晋作]]をはじめ、[[尊王攘夷]]派に対抗する活動に従事していたと分析されている<ref>[http://blechmusik.xrea.jp/d/hirayama/h78/ 『福澤諭吉』あとがき全文] [[平山洋]]</ref>。<!--要出典 この他にも、自伝には意図的に書かれていない活動が多く存在する。-->
* [[第二次長州征伐]]では、徹底的に[[長州藩]]を討つべしと幕府に建言し、「[[尊王攘夷]]」などというものは長州のいい加減な口実で、世を乱すものにすぎないと進言した<ref>『長州再征に関する建白書』</ref>。しかしこれは諭吉が彼らが強硬な攘夷論者で[[鎖国]]体制に戻すつもりだと思っていたためである。諭吉は徳川幕府にも西洋文明国を模範とした根本的改革を実施する意思があるように見えないと感じていたため早晩幕府を打倒せねばならぬと考えていたが、それに取って代わるのが鎖国主義政権では西洋化の立国がさらに危うくなると考えていた<ref>[[#小泉(1966)|小泉(1966)]] p.24-25</ref>。ところが諭吉が攘夷主義と思っていた新政府は果断なる[[開国|開国主義]]を採用したので、諭吉もこれに驚いた。そして明治政府の進歩性を認めるにおよんで民間から啓蒙運動を行って明治政府に協力することにしたのであった<ref name="小泉(1966)26">[[#小泉(1966)|小泉(1966)]] p.26</ref>。
* 諭吉の著書には、しばしば儒学者の[[荻生徂徠]]が出てくるが、思想には影響を受けた大儒であってもやはり[[漢学者]]には心酔者が多いのでだめであると論じた<ref name="名前なし-5"/>。
* 文明の本質を「'''人間交際'''」にあると考えており、多様な要素の共存が文明の原動力だとし、これを自身の哲学の中心に据えた<ref>『民情一新』</ref>。
* 期待していた[[水戸藩]]が維新前に[[水戸学]]の[[立原翠軒]]派と[[藤田幽谷]]派の[[内ゲバ]]や[[天狗党]]で分裂してしまったことを例に挙げ、学問や政治の宗教化を厳しく批判し、その他[[宗教]]的なものは一切認めないと論じた<ref>[[丸山眞男]]「文明論之概略」を読む(上)第十一講</ref>。
* [[徳川家康]]を「'''奸計の甚しきものを云ふ可し'''」と論じ、[[豊臣秀吉]]を高く評価した<ref>[[丸山眞男]]「文明論之概略」を読む(中)第十一講</ref>。
* [[細川潤次郎]]が邸宅に赴いた際、諭吉が国家に尽くした功績を政府が褒めるよう政府の学校の世話をすることを求められたのに対して「褒めるの褒められぬのと全体そりゃなんのことだ。人間が当たり前の仕事をしているのに何の不思議もない。車屋は車を引き、豆腐屋は豆腐をこしらえる、書生は書を読むというのは人間当たり前の仕事をしているのだ」として「学者を誉めるなら豆腐屋も誉めろ」といったという<ref>[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=116&PAGE=349 福翁自傳-349 ページ]</ref>。
* 明治政府内では[[大鳥圭介]]と[[後藤象二郎]]びいきで、「相撲や役者のように政治家にも贔屓というものがありますが、私は後藤さんが大の贔屓なのです」と語り、諭吉邸から歩いて20分ほどの距離にあった後藤の屋敷(現在の[[高輪プリンスホテル]]周辺)には頻繁に行き来していた。大鳥に関しては適塾時代からの友人で、『[[痩我慢の説]]』でも大鳥は批判されていなかった。
* [[立憲改進党]]が結党式を挙行する際に[[京橋 (東京都中央区)|京橋]]の[[明治会堂]]を[[大隈重信]]に会場として貸し出したことがある。このように、後輩思いで頼まれるとなかなか断れないという[[お人好し]]な面が強かったようである<ref>[[会田倉吉]] 人物叢書 日本歴史学会編 第198項</ref>。
[[画像:Keio University Mita Campus East Research Building-2.jpg|250px|thumb|「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」<br />[[慶應義塾大学]][[慶應義塾#三田キャンパス|東館]]に刻まれている[[ラテン語]]で書かれた言葉]]
* 「[[天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず]]」は諭吉の言と誤解されることが多いが、[[学問のすゝめ|学問のスゝメ]]冒頭には「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず'''と言えり'''(言われている)」と書かれており、正しくは諭吉の言ではない。出典は諸説あるが、トーマス・ジェファーソンによって起草されたといわれるアメリカの独立宣言の一節を意訳したものというのが有力説である<ref>{{慶應義塾豆百科|22|考証・天は人の上に人を造らず……}}</ref>。
* イギリスの政治体制を最も理想的な政治体制と考えており、日本の最終到着点もそこであると考えていた。イギリス議会人の代表的人物[[ウィリアム・グラッドストン]]を深く尊敬していた<ref name="杉原(1995)237-239">[[#杉原(1995)|杉原(1995)]] pp.237-239</ref>。諭吉はしばしば、[[伊藤博文]]ら保守派が尊敬する[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]を「[[官憲主義]]」、グラッドストンを「[[民主主義]]」として対比して論じた<ref name="杉原(1995)237">[[#杉原(1995)|杉原(1995)]] p.237</ref>。1897年にグラッドストンが死去した際には『時事新報』にその死を悼む文章を載せている。その中で諭吉は、グラッドストン翁がアイルランド自治を訴えたり、アメリカ人を友視したりしたのは、翁の目的が[[アングロ・サクソン人]]の喜びにあったためであるとし、さらに深くその意義を考えると翁の真の目的は文明進歩の一点だったとする。世界に文明を広めて人類の幸福を増す大事業はアングロサクソン人種の力によるところが最も大きいと考えていた翁は、文明進歩のためにアングロサクソン人に重きをなしていたと考えられるからというのがその理由であった。また翁が[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]から爵位を受けとらず生涯平民で通したことも「高節清操」と高く評価した<ref name="杉原(1995)237-239"/>。
* [[緒方洪庵]]のほかに自伝でも触れられている英雄の一人が江川太郎左衛門英竜([[江川英龍]])で、寒中袷一枚で過ごしているのを聞いて自分も真似たという<ref>[http://www7a.biglobe.ne.jp/~katatumuri/egawa/egawa10.htm 江川太郎左衛門(1)]</ref>。
* 『時事新報』は、明治21年([[1888年]])3月23日、日本で初めて新聞紙上に[[天気予報]]を掲載した。晴れや雨を表すイラストは現在の天気予報で使用されているお天気マークの元祖である<ref>[http://www.keio.ac.jp/ja/contents/stained_glass/2007/253.html 日本で初めて新聞に 天気予報 を掲載]</ref>。
* 『西洋旅案内』は外国為替や近代的な保険制度について書かれた日本最初の文献である。
* 明治3年([[1870年]])5月中旬、発疹[[チフス]]を患うと、元福井藩主・[[松平春嶽]]公が所有していたアンモニア吸収式冷凍機を借用。大学東校の宇都宮三郎の下で、我が国で初めて機械によって氷を製造した<ref>[http://www.keio.ac.jp/ja/contents/stained_glass/2007/253.html 福澤先生の大病が絡んだ製氷器事始め]</ref>。
* 『[[文明論之概略]]』は[[新井白石]]の『[[読史余論]]』から影響を受けており、維新の動乱の最中、程度の高い成人向けに「なかんずく儒教流の故老に訴えてその賛成をうる」ことを目的とし、[[西郷隆盛|西郷南州]]なども通読したることになった<ref>小泉信三 『福沢諭吉』 岩波新書</ref>。
* 諭吉の代表的な[[言葉]]で[[戒名]]にも用いられた言葉が「'''[[独立自尊]]'''」である。その意味は「心身の独立を全うし、自らその身を尊重して、人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云ふ」(『[[修身要領]]』第二条)。
* 晩年の[[自伝]]である『[[福翁自伝]]』において、適塾の有様について「塾風は不規則と云(い)わんか不整頓と云わんか乱暴狼藉、丸で物事に無頓着(むとんじやく)。その無頓着の極(きょく)は世間で云うように潔不潔、汚ないと云うことを気に止めない」と記している<ref>[[富田正文]]校訂 『新訂 [[福翁自伝]]』、[[岩波書店]]〈[[岩波文庫]]〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「緒方の塾風」の章にある「不潔に頓着せず」(65頁)を参照。[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=116&PAGE=118 福翁自傳 - 118 ページ]を参照。</ref>。
* ベストセラーになった『[[西洋事情]]』や『[[文明論之概略]]』などの著作を発表し、[[明治維新]]後の日本が[[中華思想]]・[[儒教]]精神から脱却して[[文明開化|西洋文明]]をより積極的に受け入れる流れを作った([[脱亜思想]])。
* 『時事新報』に「兵論」という社説を寄稿し、官民調和の基で増税による軍備拡張論を主張した<ref>[http://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/ko/jijisinpou/15.html 時事新報史 第15回:朝鮮問題(1) 壬午事変の出兵論] 都倉武之 慶應義塾大学出版会</ref>。
* 上記の通り家柄がものをいう封建制度を「親の敵(かたき)」と激しく嫌悪した。その怒りの矛先は幕府だけでなく、依然として中華思想からなる[[冊封体制]]を維持していた[[清]]や[[李氏朝鮮]]の支配層にも向けられた。一方で、榎本や海舟のように、旧幕臣でありながら新政府でも要職に就く姿勢を「[[オポチュニスト]]」と徹底的に批判する一面もある(『[[瘠我慢の説]]』)。
* 諭吉は幼少期より[[酒]]を嗜み、[[さかやき|月代]]を剃るのを嫌がるのを母親が酒を飲ますことを条件に我慢させたという<ref>[[富田正文]]校訂 『新訂 [[福翁自伝]]』、[[岩波書店]]〈[[岩波文庫]]〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「大阪修行」の章にある「書生の生活酒の悪癖」(57頁)を参照。[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=116&PAGE=103 福翁自傳 - 103 ページ]を参照。</ref>。適塾時代に禁酒を試みたが、親友の丹後[[宮津藩]]士・[[高橋順益]]から、「君の辛抱はエライ。能くも続く。見上げて遣るぞ。所が凡そ人間の習慣は、仮令(たと)い悪い事でも頓に禁ずることは宜しくない。到底出来ない事だから、君がいよ/\禁酒と決心したらば、酒の代りに烟草(タバコ)を始めろ。何か一方に楽しみが無くては叶わぬ」と煙草を勧められ喫煙者になってしまい、禁酒にも失敗して「一箇月の大馬鹿をして酒と烟草と両刀遣いに成り果て」る結果に終わった<ref>『[[福翁自伝]]』の「禁酒から煙草」参照。</ref>。三田の酒屋津國屋をひいきの店とし、自ら赴き酒を購入することもあった。
* 適塾時代に覚えた[[タバコ|煙草]]を晩年まで好み、太い[[煙管|キセル]]で煙草をふかしたことから、塾生からは「[[海賊]]の親分」との愛称を貰っていたようである<ref>北康利『福沢諭吉 国を支えて国を頼らず』p.156、講談社、2007年3月。ISBN 978-4-06-213884-0</ref>。
* [[宗教]]については淡白で、晩年の自伝『福翁自伝』において、「幼少の時から神様が怖いだの仏様が難有(ありがた)いだのということは一寸(ちよい)ともない。卜筮呪詛(うらないまじない)一切不信仰で、狐狸(きつねたぬき)が付くというようなことは初めから馬鹿にして少しも信じない。子供ながらも精神は誠にカラリとしたものでした」と述べている<ref>[[富田正文]]校訂 『新訂 福翁自伝』、[[岩波書店]]〈[[岩波文庫]]〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「幼少の時」の章にある「稲荷様の神体を見る」(23頁)を参照。[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=116&PAGE=44 福翁自傳 - 44 ページ] を参照。</ref>。
* 銀行、特に[[中央銀行]]の考え方を日本に伝えた人物で、日本銀行の設立に注力している。
* [[会計学]]の基礎となる[[複式簿記]]を日本に紹介した人物でもある。[[借方]][[貸方]]という語は諭吉の訳によるもの。
* 日本に近代[[保険]]制度を紹介した。諭吉は『西洋旅案内』の中で「災難請合の事-インスアランス-」という表現を使い、生涯請合(生命保険)、火災請合(火災保険)、海上請合(海上保険)の三種の災難請合について説いている。
* [[日本銀行券]]D号1万円札、E号1万円札の肖像に使用されている<ref name="until_2024"/>。そのせいか、「諭吉」が一万円札の代名詞として使われることもある。
* 現在「最高額紙幣の人」としても知られているが、[[昭和]]59年([[1984年]])[[11月1日]]の新紙幣発行に際して、最初の[[大蔵省]](現:[[財務省]])理財局の案では、十万円札が[[聖徳太子]]、五万円札が[[野口英世]]、一万円札が福澤諭吉となる予定だった。その後、十万円札と五万円札の発行が中止されたため、一万円札の福澤諭吉が最高額紙幣の人となった<ref>北康利『福沢諭吉 国を支えて国を頼らず』(7-9頁)、講談社、2007年3月。ISBN 978-4-06-213884-0</ref>。
* 慶應義塾大学をはじめとする[[慶應義塾|学校法人慶應義塾]]の運営する学校では、創立者の諭吉のみを「福澤先生」と呼ぶ伝統があり、ほかは教員も学生も公式には「○○君」と表記される<ref group="注釈">ただし、塾内の掲示物等では教員も君付けだが、塾生や塾員が教員に向かって面と向かって君付けで呼びかけるわけではない。これは、義塾草創期は上級学生が教師役となって下級生を教授していたことの名残といわれている。</ref>。
* 批判的だった『日の出新聞』からは「法螺を福沢、嘘を諭吉」とまで謗られた(明治15年8月11日付)<ref>[http://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/ko/jijisinpou/4.html 時事新報史 第4回:創刊当初の評判] 慶應義塾出版会</ref>。
* [[1884年]]に『時事新報』で論じていた[[徴兵制|徴兵]]に関する見解をまとめた『全国徴兵論』を刊行した。同書の中で諭吉は、[[1883年]]の徴兵令改正を平等連帯の主義を推し進める「政府の美挙なり」と賛辞を贈った上で、徴兵は苦役であり逃れたいと思うのは当然の人情だが、一部の人のみがそれに当たるのは同国同胞の徳義において忍びない、徴兵逃れをせず平等に義務に服することが「我輩の願ってやまないところ」と述べた<ref name="Hasegawa">長谷川精一、鈴木徳男・嘉戸一将(編)「福沢諭吉における兵役の「平等」」『明治国家の精神史的研究:<明治の精神>をめぐって』 以文社 2008年、ISBN 9784753102655 pp.126-136.</ref>。しかし、次男捨次郎の徴兵の際には「独りヲネストにあるも馬鹿らし」いと徴兵逃れを画策し、まんまと成功している<ref name="Hasegawa"/>。
* [[演説]]の最中に始終両腕を組む癖があった。[[三田演説館]]の演壇に掲げられている福澤諭吉演説像([[和田英作]]原画、松村菊麿模写)はその様子を再現したものである。
== エピソード ==
* [[適塾]]時代のエピソードには「[[熊]]の[[解剖学|解剖]]」「[[豚]]の頭を貰ってきて、解剖的に脳だの眼だのよくよく調べて、散々いじくった跡を煮て食った話」などが自伝で語られており、ほかにも大坂の[[町人]]と[[江戸]]の[[町人]]の対比(大坂の町人は極めて臆病だ。江戸で喧嘩をすると野次馬が出て来て滅茶苦茶にしてしまうが、大坂では野次馬はとても出て来ない。夏のことで夕方飯を食ってブラブラ出て行く。申し合せをして市中で大喧嘩の真似をする。お互いに痛くないように大層な剣幕で大きな声で怒鳴って掴み合い打ち合うだろう。そうすると、その辺の店はバタバタ片付けて戸を締めてしもうて寂りとなる。)や「[[鯛]]の味噌漬と欺して[[河豚]]を食わせる」「[[禁酒]]から煙草」など自伝には諭吉の人物像を表すエピソードが多数記されている。
* 幼少のころから酒を好みよく飲んでいたが、この適塾時代にはかなり飲んだとされ、「書生の生活酒の悪弊」「血に交わりて赤くならず」「書生を懲らしめる」(自伝)には、恐ろしく飲んで洪庵夫妻を驚かせる、[[囲碁]]の話、茶屋の話などが記されている。塾長になり、金弐朱の収入を受けてからもほとんどを酒の代に使い、銭の乏しいときは酒屋で三合か五合買ってきて塾中で独り飲むということであった。
*あるとき酒に酔って素っ裸で塾内をうろついていると緒方夫人とばったり会ってしまった。このときのことをのちに「緒方先生の奥様の前に裸で出てしまった時の恥ずかしさは40年経っても忘れられない」と回想している。これがきっかけで「酒で失敗するのはもう御免だ」と一時的に酒を止め、10日ほどは我慢するが、同期生から「たとえ体に悪いことでも急に止めるのは良くない」と酒の代わりに[[煙草]]を薦められる。最初に吸ったときはむせてしまったが、数日で立派な[[ヘビースモーカー]]となった。結局酒も止められず、いつしか元の大酒飲みに戻っていたという。
*禁酒はできないため節酒する決断をする。第一に朝酒を廃し、次に昼酒を禁じた。晩酌の全廃はとても行われず、次第に量を減らして穏やかになるのに3年もかかった。鯨飲の全盛は30代半ばまでの10年間だったという。
* 万延元年(1860年)、アメリカから帰国した諭吉は日本への上陸第一歩の海辺で出迎えにきた木村摂津守の家来に、「何か日本に変わったことは無いか」と尋ねた。その家来は顔色を変えて、「イヤあったともあったとも大変なことがあった」という。諭吉はそれをおしとどめて「言うてくれるな、私が当てて見せよう、大変といえば何でもこれは水戸の浪人が掃部様(大老・[[井伊直弼]])の邸に暴れこんだというようなことではないか」(自伝)と、[[3月3日]]の[[桜田門外の変]]を正確に言い当て、家来を驚かせたことがある。もっとも、[[徳川斉昭]]の反目や[[安政の大獄]]による弾圧などで、このような事態は幕府の有識者の間では前もって分かっていたことだった。
* [[経済]]、[[文明開化]]、[[動物園]]、また[[演説]]という表記など、[[和製漢語]]を数多く作った。[[自由#日本語訳について|自由]]も、著書『[[西洋事情]]』によって世間に広まった。また「福沢」と「福澤」の表記揺れがあるが、自身は[[文字之教端書]]で[[漢字制限]]を唱えていた。
* [[将棋]]を愛好しており、[[森有礼]]、[[服部金太郎]]、[[芳川顕正]]らとともに名人[[小野五平]]の後援者であった<REF>週刊将棋編『名局紀行』(毎日コミュニケーションズ)P.47</REF>。
== 研究・評価史 ==
=== 日本における福澤研究をめぐる論争 ===
==== 「脱亜論」再発見から ====
{{main|脱亜論|安川・平山論争}}
[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])後、歴史学者の[[服部之総]]や[[遠山茂樹 (日本史家)|遠山茂樹]]らによって諭吉の「脱亜論」が再発見され、「福澤諭吉は[[アジア]]諸国を蔑視し、侵略を肯定したアジア蔑視者である」と批判された<ref>服部之総論文「東洋における日本の位置」、遠山茂樹論文「日清戦争と福沢諭吉」(1951)(遠山茂樹著作集第5巻所収、岩波書店,1992</ref>。[[丸山真男]]は[[服部之総]]の諭吉解釈を「論敵」としていたといわれる<ref>[https://web.archive.org/web/20070204025145/http://blechmusik.xrea.jp/d/hirayama/h07/#id_2_1 東谷暁インタビュー 平山洋]</ref>。
平成13年(2001年)、[[朝日新聞]]に掲載された[[安川寿之輔]]の論説「福沢諭吉 アジア蔑視広めた思想家<ref>2001年(平成13年)4月21日付「[[朝日新聞]]」に掲載</ref>」に、慶應義塾大学文学部卒の[[平山洋]]が反論「福沢諭吉 アジアを蔑視していたか」<ref>同年[[5月12日]]付同紙)</ref>を掲載したことで、いわゆる「[[安川・平山論争]]」が始まった<ref name="hirayama_shinjitsu">平山洋『福沢諭吉の真実』[[文藝春秋]]〈文春新書394〉、2004年、ISBN 4-16-660394-9 なお、同著『アジア独立論者福沢諭吉』(2012、ミネルヴァ書房)には、『福沢諭吉の真実』に収められなかった社説判定の方法論についての詳しい記述がある。</ref>。
平山は、[[井田進也]]の文献分析を基礎に<ref name="名前なし-6">「歴史とテクスト 西鶴から諭吉まで」光芒社、2001年</ref>、諭吉のアジア蔑視を、『福澤諭吉伝』の著者で『時事新報』の主筆を務め、『[[福澤全集]]』を編纂した[[石河幹明]]の作為にみる<ref>『福沢諭吉の真実』。なお、平山は「福沢署名著作の原型について」(2015) において、福澤が後に単行本化した長編社説の原型社説を石河が全集に入れていないことを指摘し、石河は故意に福澤直筆社説を全集から排除したとも主張している。</ref>。平山によれば、諭吉は[[支那]]([[中国]])や[[朝鮮]][[政府]]を批判しても、[[民族]]そのものをおとしめたことはなかった。しかし、たとえば[[清]]の兵士を[[ブタ|豚]]になぞらえた論説など、[[差別]]主義的内容のものは石河の論説であり、全集編纂時に諭吉のものと偽って収録したのだという。
根本的にこの問題は、平山自身や都倉武之がいうように、無署名論説の執筆者を[[文献学]](テキストクリティーク)的に確定しないことには決着がつかない<ref>[http://blechmusik.xrea.jp/d/hirayama/h07/#id_2_1 東谷暁インタビュー 平山洋]また[http://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/ko/jijisinpou/9.html 都倉武之『時事新報』論説をめぐって(1) 〜論説執筆者認定論争〜]</ref>。「[[時事新報]]論説」執筆者に関する考察については、[[井田進也]]「井田メソッド」による[[脱亜論#井田メソッド|執筆者検証]]も参照<ref>[http://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/ko/jijisinpou/9.html 都倉武之『時事新報』論説をめぐって(1) 〜論説執筆者認定論争〜]</ref>。
このように福澤肯定の動きは脱亜論と福澤の分離を目指していたが、2000年代になると、東アジアのナショナリズムの高まりによりネット空間を中心に脱亜論が人気を得て<ref>[https://www.asahi.com/international/history/chapter02/memory/01.html asahi.com:朝日新聞 歴史は生きている]</ref>、逆の動きが起き始めた。さらに対立の悪化した2010年代になると右派系出版社を中心に脱亜論本が続々と出版され、福澤の肯定的評価は全く別の形で実現された。
==== 「時事新報」無署名論説 ====
平山洋は、井田の分析を基に現行全集の第七巻までは署名入りで公刊された著作であるのに対して、八巻以降の『[[時事新報論集]]』はその大部分が無署名であることを指摘した上で、大正時代の『福沢全集』(1925 - 26年)と昭和時代の『続福沢全集』(1933 - 34年)の編纂者であった弟子の[[石河幹明]]が『時事新報』から選んだものを、そのまま引き継いで収録しているとした。さらに現行版『全集』(1958 - 64年)の第一六巻には諭吉の没後数か月してから掲載された論説が六編収められていることも指摘している<ref>平山洋、2004、『福沢諭吉の真実』、文藝春秋〈文春新書394〉</ref>。
=== 人気度 ===
2000年(平成12年)3月12日付で[[朝日新聞]]により「この1000年・日本の政治リーダー読者人気投票」という特別企画が組まれ、西暦1000年から1999年の間に登場した歴史上の人物の中から、「あなたが一番好きな政治リーダー」を投票してもらう企画で、得票数7,863票のうち、第6位の豊臣秀吉(382票)に次ぐ第7位(330票)にランクインするなど、国民的な人気がある<ref>[[朝日新聞]]2000年3月12日、1位・[[坂本龍馬]]、2位・[[徳川家康]]、3位・[[織田信長]]、4位・[[田中角栄]]、5位・[[吉田茂]]、6位・[[豊臣秀吉]]、7位・'''福澤諭吉'''、8位・[[西郷隆盛]]、9位・[[市川房枝]]、10位・[[伊藤博文]]</ref>。
=== 中国における評価 ===
中国における評価は一般に悪いため慶應出身者からは憤りの声が聞かれる。
慶応文学部卒の[[平山洋]]は、「中国人による福澤批判の声の大きさに惑わされて、その主張にほとんど多様性がない」と批判した。
<blockquote>
彼ら中国の福澤批判者は、彼の思想を実際に読んでいるわけではなく、ごくわずかだけ中国語訳されている、日本の福澤研究論文の骨子を、中国語で叫んでいるだけなのである。彼らが下敷きにしているのは、[[服部之総]]・[[遠山茂樹 (日本史家)|遠山茂樹]]・[[安川寿之輔]]らの研究である。それ以外の、福澤を「市民的自由主義者」として肯定的に評価する[[丸山真男]]らの論文が出発点となることはない。<ref>平山洋「中国に「福沢諭吉は『アジア侵略論』者だ」と言われたら」『歴史の嘘を見破る 日中近現代史の争点35』([[文春新書]]、2006年),pp.35-36。</ref>
</blockquote>
慶応法学部卒の[[小川原正道]]は、「平成22年11月に[[北京大学]]で講演し、福澤の文化思想や宗教思想などについて話した際、同大学の著名な教授から「福澤には『[[脱亜論]]』以外の側面もあるんですね」と素直に驚かれ、愕然とした」と述べる<ref>小川原正道『福沢諭吉「官」との闘い』([[文藝春秋]]、2011年),p.208。</ref>。
また、最も福澤の対外思想へ批判的な[[安川寿之輔]]の著書が近年中国で盛んに翻訳されている<ref>安川寿之辅著,孙卫东、徐伟桥、邱海水译:《福泽谕吉的亚洲观 : 重新认识日本近代史》(香港社会科学出版社,2004年)。安川寿之辅著,刘曙野译:《福泽谕吉的战争论与天皇论》(中国大百科全书出版社,2013年)。安川寿之辅著,刘曙野译:《福泽谕吉与丸山真男 : 解构丸山谕吉神话》(中国大百科全书出版社,2015年)</ref>。
慶應義塾福澤研究センター客員研究員<ref>[https://www.nuis.ac.jp/teacher_ou/ 區建英 – 新潟国際情報大学]</ref>[[区建英]]の研究によると、以下のように評価できるという:
#清朝末期における福澤はむしろ優れた啓蒙思想家、教育家としての一面が強く認識されていた<ref>区建英「現代中国における福澤理解」『近代日本研究』 7, pp.121-145, 1990。区建英「中国における福沢諭吉理解--清末期を中心に」『日本歴史』 (525), pp.63-80, 1992-02。</ref>。
#また1980年代に中国の[[改革開放]]政策を進める中、日本の「近代化」の成功へ着目し、日本に成功の秘訣を学ぼうとする傾向が生じた。福澤も日本の「近代化」を支えた思想家、そしてシンボルの一つとみなされ、彼の「脱亜論」を再評価する見方さえも登場した <ref>卞崇道"福泽谕吉与中国现代化"《延边大学学报(社会科学版)》1983年12月31日。区建英「福泽谕吉政治思想剖析」『世界历史』1986年07期。何为民“《脱亚论》解读过程中的误区”《日本学刊》2009年04期。</ref>。
#決してのちの福澤=脱亜論者というイメージではなかった。
東大卒の[[丸山眞男]]は中国における福澤の人物像に対する主な反論として以下の5点を挙げている:
#「脱亜」は福澤のキーワードではなかった<ref>{{Harvtxt|丸山|2001|p=282}}</ref>。
#福澤が1885年の時点でただ一回だけ「脱亜」の文字を用いて書いた社説は、1884年12月に「甲申政変」の失敗のもとに執筆された。一時的な感情の表現と解釈すべきである<ref>{{Harvtxt|丸山|2001|pp=282-283}}</ref>。
#「脱亜」という言葉は「興亜」という言葉に対するシニカルな反語的表現と思われる<ref>{{Harvtxt|丸山|2001|p=283}}</ref>。
#福澤の思想においては、終始、政府(政権)と国とをはっきり区別した立場がとられ、また政府の存亡と人民あるいは国民の存亡とを厳しく別個の問題として取り扱う考え方が貫かれていた。攻撃の対象は中国・朝鮮の人民ではなく、あくまでも満清・李氏朝鮮の政府である<ref>{{Harvtxt|丸山|2001|pp=283-285}}</ref>。
#「脱亜入欧」という表現が福澤の全思想のキーワードとして世界に流通するのは1950年代以後の傾向である<ref>{{Harvtxt|丸山|2001|p=285}}</ref>。
=== 台湾における評価 ===
[[李登輝]]は、講演「学問のすゝめと日本文化の特徴」で諭吉について、欧米を日本に紹介するだけではなく、『[[学問のすゝめ]]』を著すことによって、思想闘争を行い、日本文化の新しい一面を強調しながらも日本文化の伝統を失わずに維持したと評価している<ref>[http://sankei.jp.msn.com/world/china/080923/chn0809232017002-n1.htm 李登輝元総統が「学問のすゝめと日本文化の特徴」をテーマに講演] [[産経新聞]]2008年9月23日</ref>。
{{節スタブ}}
=== 韓国における評価 ===
[[大韓民国]]で[[脱亜論]]を引用した研究論文が見られるようになるのは[[1970年]]以降であり<ref>ソウル大学校国際問題研究所の姜相圭による</ref>、[[1980年代]]に日本で[[歴史教科書問題]]が起こり、日本の朝鮮侵略の論理として改めて認知され、現在は韓国の高校世界史教科書にも載っている<ref name="asahi">[http://www.asahi.com/international/history/chapter02/memory/01.html 〈記憶をつくるもの〉独り歩きする「脱亜論」] [[朝日新聞]]</ref>。
諭吉が援助した[[李氏朝鮮]]の[[開化派]]は、その中心にいた[[朴泳孝]]が[[日本統治時代の朝鮮]]において[[爵位]]を得るなどの厚遇を得て、金玉均は死後に贈位されたことなどから、独立後の韓国では[[親日派]]とみなされ、諭吉への関心もほとんどなかったものと推測される。金に対する評価は[[北朝鮮]]の方が高く<ref group="注釈">[[1960年代]]にすでに朝鮮社会科学院歴史研究所が邦題『金玉均の研究』を出版。</ref>、それを受けた形で、歴史研究家の[[姜在彦]]が[[1974年]](昭和49年)に「金玉均の日本亡命」を発表し<ref>『[[歴史と人物 (雑誌)|歴史と人物]]』4巻3号、1974年3月。</ref>、諭吉に触れて「最近の研究で明らかにされてきているように、諭吉の思想における国権論的側面」という言葉が見える。この当時の日本において、諭吉を自由主義者としてではなく国権論者としてとらえ、侵略性を強調する傾向が高まっていたわけだが、姜在彦は諭吉に両面性を見ており、「日本を盟主とする侵略論につながる危険性をはらむ」としつつも、開化派への援助には一定の評価を与えている<ref>姜『朝鮮の攘夷と開化 近代朝鮮にとっての日本』平凡社、1987年。ISBN 4-582-82251-7</ref>。
現在の韓国におけるごく一般的な諭吉像は、日本における教科書問題を受けて形作られたため、極端に否定的なものとなっている<ref group="注釈">その典型的な例を挙げれば、[[2001年]]の[[中央日報]]、各国貨幣に扱われた人物について述べたコラム[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=18616&servcode=100§code=100 【噴水台】ユーロ貨の橋]の次のような文言:「日本の1万円札には19世紀末、'''韓国を征伐するよう主張した'''福澤諭吉の肖像が入っている。日本では開化思想家として知られているが、韓国の立場からするとけしからん人物だ」</ref>。一般的に、韓国における諭吉は往々にして征韓論者として位置づけられ、脱亜論など、諭吉の朝鮮関連の時事論説が書かれた当時の状況は考慮されず、[[神功皇后]]伝説や[[豊臣秀吉]]にまでさかのぼるとされる日本人の侵略思想の流れの中で捉えられている。[[1990年代]]辺りから、在日学者の著作にもそういった傾向が見られるようになり、その例としては、[[1996年]](平成8年)の韓桂玉の『「征韓論」の系譜』<ref>韓桂玉『「征韓論」の系譜』三一書房、1996年。ISBN 4-380-96291-1</ref>、[[2006年]]の琴秉洞<ref group="注釈">[[在日本朝鮮人総聯合会|総連]]系の学者で金玉均の研究家</ref>『日本人の朝鮮観 その光と影』<ref>琴秉洞著『日本人の朝鮮観 その光と影』明石書店、2006年。ISBN 4-7503-2415-9</ref>を挙げることができる。
1990年代におけるこういった韓国の状況が、諭吉に侵略性を見る日本側の教科書問題と連動し続けていることは、[[安川寿之輔]]が『福沢諭吉のアジア認識』の「あとがき」で詳細に述べている。[[高嶋伸欣]]が[[1992年]](平成4年)に執筆した教科書において、日本人のアジア差別に関係するとして脱亜論を引用し、検定によって不適切とされ訴訟になった。日本の戦争責任を追及する市民運動に身を投じていた安川は、この訴訟を契機として、諭吉を「我が国の近代化の過程を踏みにじり、破綻へと追いやった、我が民族全体の敵」とするような韓国の論調に共鳴し、30年ぶりに諭吉研究に取り組んだという。
[[杵淵信雄]]は安川とは異なり、『福沢諭吉と朝鮮』の中で「脱亜論の宣言を注視するあまり、(諭吉は)アジアとの連帯から侵略へと以後転じたとする誤解が生じた」として、諭吉の侵略性を強調する立場ではないが、[[1997年]](平成9年)の時点において、「李氏朝鮮の積弊を痛罵し、しばしば当り障りの強い表現を好んだ諭吉の名が、隣国では、不愉快な感情と結びつくのは自然な成行である」と、韓国における感情的な反発に理解を示している<ref>杵淵『福沢諭吉と朝鮮 時事新報社説を中心に』彩流社、1997年。ISBN 4-88202-560-4</ref>。
一方、1990年代の韓国において、諭吉研究に取り組む研究者が複数現れたことを林宗元は述べている<ref>{{Cite journal|和書|url=https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN10005325-20080000-0259 |author=林宗元 |title=韓国における「福沢諭吉」: 一九九〇年代における福沢諭吉の研究状況を中心に |journal=近代日本研究 |ISSN=09114181 |publisher=慶應義塾福沢研究センター |year=2008 |issue=25 |pages=259-282 |naid=120001017832}}</ref>。林の紹介するところによれば、その観点も、日本における「自由主義者か帝国主義者か」という議論を引き継ぐもの、朝鮮の開化主義者と諭吉を比較するもの、諭吉と朝鮮開化派との関係を追求するもの、諭吉の反儒教論を批判分析するものなど多岐にわたっており、否定的なものばかりではないことが注目される。
2000年代に入り、こういった学問的取り組みと並行して、近代化の旗手としての諭吉への一定の理解が新聞論調にも見え始める<ref>中央日報、[[2002年]]の[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=24262&servcode=100§code=100 【噴水台】ブッシュと福沢]においては、「多様な翻訳・著述を通じて西洋学術・科学用語を日本語に移すことによって、日本はもちろん韓国・中国にまで大きな影響を及ぼした」という率直な評価が述べられている。</ref>。[[2004年]](平成16年)前後に登場した[[ニューライト (韓国)|ニューライト]]は、金玉均など朝鮮開化派を高く評価し、[[日本統治時代の朝鮮]]における近代化も認める立場をとっており、従来の被害者意識から離れた歴史観を提唱するなど新しい風を巻き起こした。同年、林宗元によって『[[福翁自伝]]』が韓国語に翻訳・出版されたことも、韓国における諭吉像に肯定的な彩りを加えた。韓国主要紙はのきなみ好意的な書評をよせ、[[ハンギョレ]]は「ハンギョレが選んだ今年の本」の翻訳書の一つとして紹介している。
しかし、韓国において諭吉に侵略性を見る従来の見解は根強く、また日本においても脱亜論が一人歩きする傾向が著しい<ref name="asahi"/>。[[2005年]]、[[ノリミツ・オオニシ]][[ニューヨーク・タイムズ]]東京支局長は「日本人の[[嫌韓]]感情の根底には諭吉の脱亜論がある」<ref>[http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=950CE0D91E3EF93AA25752C1A9639C8B63 Ugly Images of Asian Rivals Become Best Sellers in Japan] </ref>とした。東京発のこういった報道を受けてか、中央日報では再び諭吉を「アジアを見下して侵略を肯定した嫌韓の父であり[[右翼]]の元祖」と評してもいる<ref>[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=119108&servcode=A00§code=A00 【その時の今日】福沢諭吉…侵略戦争正当化した日本右翼の元祖] 中央日報 2009.08.12</ref><ref>[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=69808&servcode=700§code=700 「日本の『嫌韓流』は警戒心理・劣等意識の発露」NYT紙] 中央日報 2005.11.20</ref>。
また、[[稲葉継雄]]は、韓国で諭吉の侵略性の認識が高まっていると論じてもいて<ref>稲葉継雄、「[https://hdl.handle.net/2241/13533 井上角五郎と『漢城旬報』『漢城周報』 : ハングル採用問題を中心に]」 筑波大学文藝・言語学系 『文藝言語研究. 言語篇』 12巻 1987年 p.209-225, {{issn|0387-7515}}</ref>、韓国における諭吉像は、韓国内の政治情勢とともに、日韓の外交関係、世論のキャッチボールによっても大きく揺れ動いている。
== 著作等 ==
[[画像:学問のすヽめ.jpg|250px|thumb|『学問のすゝめ』は最も著名で菓子の名にも冠されている]]
;主な著書
{{columns-list|colwidth=13em|
* 『[[増訂華英通語]]』
* 『[[西洋事情]]』
* 『[[雷銃操法]]』
* 『[[西洋旅案内]]』
* 『[[条約十一国記]]』
* 『[[西洋衣食住]]』
* 『[[兵士懐中便覧]]』
* 『[[訓蒙窮理図解]]』
* 『[[洋兵明鑑]]』
* 『[[掌中万国一覧]]』
* 『[[英国議事院談]]』
* 『[[清英交際始末]]』
* 『[[世界国尽]]』
* 『[[啓蒙手習之文]]』
* 『[[学問のすゝめ]]』
* 『[[ひびのおしえ]]』
* 『[[童蒙教草]]』
* 『[[かたわ娘]]』
* 『[[改暦弁]]』
* 『[[帳合之法]]』 - 1873年6月初編、1874年6月2編。最初の簿記学の本。
* 『[[日本地図草紙]]』
* 『[[文字之教]]』
* 『[[会議弁]]』
* 『[[文明論之概略]]』
* 『[[学者安心論]]』
* 『[[分権論]]』
* 『[[民間経済録]]』
* 『[[福澤文集]]』
* 『[[通貨論]]』
* 『[[通俗民権論]]』
* 『[[通俗国権論]]』
* 『[[民情一新]]』
* 『[[国会論]]』
* 『[[時事小言]]』
* 『[[時事大勢論]]』
* 『[[帝室論]]』
* 『[[兵論]]』
* 『[[徳育如何]]』
* 『[[学問之独立]]』
* 『[[全国徴兵論]]』
* 『[[通俗外交論]]』
* 『[[日本婦人論]]』
* 『[[日本婦人論後編]]』
* 『[[士人処世論]]』
* 『[[品行論]]』
* 『[[男女交際論]]』
* 『[[日本男子論]]』
* 『[[尊王論 (書名)|尊王論]]』
* 『[[国会の前途]]』
* 『[[国会難局の由来]]』
* 『[[治安小言]]』
* 『[[地租論]]』
* 『[[実業論]]』
* 『[[福澤全集緒言]]』
* 『[[福澤全集]]』
* 『[[修業立志編]]』
* 『[[福翁百話]]』
* 『[[福翁百余話]]』
* 『[[福澤先生浮世談]]』
* 『[[女大学評論]]』
* 『[[新女大学]]』
* 『明治十年[[丁丑公論]]』
* 『[[瘠我慢の説]]』
* 『[[福翁自伝]]』
* 『[[旧藩情]]』
* 『[[唐人往来]]』
}}
;著作集
『[http://www.keio-up.co.jp/yukichi/ 福澤諭吉著作集]』(全12巻)、[[慶應義塾大学出版会]]で[[2002年]](平成14年)-
[[2003年]](平成15年)に刊行。<br> [[2009年]](平成21年)に、著作集の一部(選書 全5冊)が、[http://www.keio-up.co.jp/kup/sp/fukuzawa/ コンパクト版]で新装刊行。
#{{Cite book|和書|editor1=マリオン・ソシエ|editor1-link=マリオン・ソシエ|editor2=西川俊作|editor2-link=西川俊作|date=2002-05-15|title=西洋事情|publisher=|isbn=4-7664-0877-2|ref=ソシエ&西川2002}}
#*(コンパクト版 ISBN 978-4-7664-1622-0)
#{{Cite book|和書|editor=中川眞弥|editor-link=中川眞弥|date=2002-03-15|title=世界国尽 窮理図解|publisher=|isbn=4-7664-0878-0|ref=中川2002}}
#{{Cite book|和書|editor1=小室正紀|editor1-link=小室正紀|editor2=西川俊作|date=2002-01-15|title=学問のすゝめ|publisher=|isbn=4-7664-0879-9|ref=小室&西川2002}}
#*(コンパクト版 ISBN 978-4-7664-1623-7)
#{{Cite book|和書|editor=戸沢行夫|editor-link=戸沢行夫|date=2002-07-15|title=[[文明論之概略]]|publisher=|isbn=4-7664-0880-2|ref=戸沢2002}}
#*(コンパクト版 ISBN 978-4-7664-1624-4)
#{{Cite book|和書|editor1=西川俊作|editor2=山内慶太|editor2-link=山内慶太|date=2002-11-15|title=学問之独立 慶應義塾之記|publisher=|isbn=4-7664-0881-0|ref=西川&山内2002}}
#{{Cite book|和書|editor=小室正紀|date=2003-05-15|title=民間経済録 実業論|publisher=|isbn=4-7664-0882-9|ref=小室2003}}
#{{Cite book|和書|editor=寺崎修|editor-link=寺崎修|date=2003-07-15|title=通俗民権論 通俗国権論|publisher=|isbn=4-7664-0883-7|ref=寺崎2003}}
#{{Cite book|和書|editor1=岩谷十郎|editor1-link=岩谷十郎|editor2=西川俊作|editor2-link=西川俊作|date=2003-09-30|title=時事小言 通俗外交論|publisher=|isbn=4-7664-0884-5|ref=岩谷&西川2003}}
#{{Cite book|和書|editor=坂本多加雄|editor-link=坂本多加雄|date=2002-09-17|title=丁丑公論 瘠我慢の説|publisher=|isbn=4-7664-0885-3|ref=[[坂本]]2002}}
#{{Cite book|和書|editor=西澤直子|editor-link=西澤直子|date=2003-03-17|title=日本婦人論 日本男子論|publisher=|isbn=4-7664-0886-1|ref=西澤2003}}
#{{Cite book|和書|editor=服部禮次郎|editor-link=服部禮次郎|date=2003-01-15|title=福翁百話|publisher=|isbn=4-7664-0887-X|ref=服部2003}}
#*(コンパクト版 ISBN 978-4-7664-1625-1)
#{{Cite book|和書|editor=松崎欣一|editor-link=松崎欣一|date=2003-11-17|title=福翁自伝 福澤全集緒言|publisher=|isbn=4-7664-0888-8|ref=松崎2003}}
#*(コンパクト版 ISBN 978-4-7664-1626-8)
;事典
*{{Cite book|和書|editor=福澤諭吉事典編集委員会|date=2010-12-25|title=福澤諭吉事典|volume=慶應義塾150年史資料集 別巻2|publisher=慶應義塾大学出版会|isbn=978-4-7664-1800-2|ref=福澤諭吉事典編集委員会2010}}
;著書翻訳
*{{Cite book|others=[[デヴィッド・A・ディルワース|David A. Dilworth]]・[[G・キャメロン・ハースト、III|G. Cameron Hurst, III]]|date=2008-11-11|title=An Outline of a Theory of Civilization|series=The Thought of Fukuzawa 1|publisher=Keio University Press|isbn=978-4-7664-1684-8|ref=Fukuzawa&Dilworth&Hurst2008}} - 『[[文明論之概略]]』の英訳。
*{{Cite book|others=David A. Dilworth|date=2012-04-30|title=An Encouragement of Learning|series=The Thought of Fukuzawa 2|publisher=Keio University Press|isbn=978-4-7664-1684-8|ref=Fukuzawa&Dilworth2012}} - 『[[学問のすゝめ]]』の英訳。
* 『学問のすゝめ』、『福翁自伝』は、数か国語に訳・出版。{{See|学問のすゝめ|福翁自伝}}
== 系譜 ==
=== 系図 ===
; 福澤家
<div style="font-size:80%">
{{familytree/start}}
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |andfu| | | | | | | | | | | | | |andfu=安藤文子}}
{{familytree|border=1| | | | | | | |reidn| | |}|-|-|-|fuyou| | | | | | | | |reidn=ネール・ブロディ・リード|fuyou=藤原洋太郎}}
{{familytree|border=1| | | | | | | | |}|-|-|fuyos| | | | | | | | | | | | | |fuyos=[[藤原義江]]}}
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{{familytree|border=1|!| | | |,|-|-|fuich|!| |}|-|*|-|koats|,|kosho| | | | |fuich=福澤一太郎|koats=敦子|kosho=小山章吾}}
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{{familytree|border=1|!| | | |!| | |fuito|`|fuyae|!| |kogor|`|koshi| | | | |fuito=糸|fuyae=八重|kogor=[[小山五郎]]|koshi=小山伸二}}
{{familytree|border=1|!| | | |!| | |futou| | |:| |!| | | | | | | | | | | | |futou=[[福澤桃介]]}}
{{familytree|border=1|!| | | |!| | | |}|-|-|fukom|!| | | | | |kursh| | | | |fukom=[[福澤駒吉]]|kursh=黒松俊一郎}}
{{familytree|border=1|!| | | |)|-|-|fufus| | | | |!| | | | | | |:| | | | | |fufus=房}}
{{familytree|border=1|!| | | |!| | |mamay|-|magor|*|-|maman|,|kurka| | | | |mamay=[[松方正義]]|magor=松方五郎|maman=松方正信|kurka=和子}}
{{familytree|border=1|!| | | |!| | | | | | | | | |!| | |}|-|+|mamat| | | | |mamat=松方正隆}}
{{familytree|border=1|!| | | |!| | | | | | | | | |!|,|mater|`|maman| | | | |mater=てる子|maman=松方正範}}
{{familytree|border=1|!| | | |!| | | | | | | | | |!|!| | | | |tanka| | | | |tanka=田中克洋}}
{{familytree|border=1|!| | | |!| | |nakte| | | | |!|!| | | | | |:| | | | | |nakte=中村貞吉}}
{{familytree|border=1|!| | | |!| | | |}|-|-|nakai|*|+|nakse|,|tansa| | | | |nakai=中村愛作|nakse=中村仙一郎|tansa=貞子}}
{{familytree|border=1|!| | | |)|-|-|naksa| | | | |!|!| |}|-|^|nakfu| | | | |naksa=里|nakfu=中村文夫}}
{{familytree|border=1|!| | | |!| | | | | | | | | |!|!|nakmi| | |:| | | | | |nakmi=三重子}}
{{familytree|border=1|!| | | |!| | |kiyku| | | | |!|!| | | | |nakke| | | | |kiyku=清岡邦之助|nakke=桂子}}
{{familytree|border=1|!| | | |!| | | |}|-|-|kiyei|!|!| | | |,|wakio|,|waiku|kiyei=清岡暎一|wakio=渡辺紀久男|waiku=いく子}}
{{familytree|border=1|!| | | |)|-|-|kiyto| | | | |!|`|watak|!| |}|-|+|watom|kiyto=俊|watak=武子|watom=ともの}}
{{familytree|border=1|!| | | |!| | | | | | | | | |!| | |}|-|(|wakik|`|wajun|wakik=紀久子|wajun=純子}}
{{familytree|border=1|!| | | |!| | | | | | | | | |!| |waryo|)|wahar| | | | |waryo=渡辺良吉|wahar=渡辺晴男}}
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{{familytree|border=1|!| | | |!| | | |}|-|-|kiuta|!|,|kiuhi| | |}|-|-|iwmam|kiuta=多代|kiuhi=木内宏|iwmam=雅美}}
{{familytree|border=1|!| | | |)|-|-|shita| | |}|-|*|(| | | |,|iwhir| | | | |shita=滝|iwhir=寛子}}
{{familytree|border=1|`|fuyuk|!| | |kiuju|,|kiuno|!|`|kiuta|!| | | | | | | |fuyuk='''福澤諭吉'''|kiuju=[[木内重四郎]]|kiuno=[[木内信胤]]|kiuta=木内孝|boxstyle_fuyuk=background-color: #ffa;}}
{{familytree|border=1| | |:| |!| | | |}|-|^|kiuyo|*|-|kiuak|*|kiuta| | | | |kiuyo=木内良胤|kiuak=[[木内昭胤]]|kiuta=[[木内孝胤]]}}
{{familytree|border=1| | |}|-|(|,|-|kiuis| |fuoku|!| | | | |!| | | | | | | |kiuis=磯路|fuoku=福澤億之助}}
{{familytree|border=1| | |:| |)|*|-|fusan| | |:| |!| | | | |!| | | | | | | |fusan=福澤三八}}
{{familytree|border=1| |fukin|!|!| | |}|-|-|fuura|!| | | | |!| | | | | | | |fukin=錦|fuura=浦子}}
{{familytree|border=1| | | | |!|!| |fukiy| | | | |!| | | | |!| | | | | | | |fukiy=清}}
{{familytree|border=1| | | | |)|*|-|fudai| | | | |!| | | | |!| | | | | | | |fudai=福澤大四郎}}
{{familytree|border=1| | | | |!|!| | |}|-|-|fushi|!|,|fuyuk|!| | | | | | | |fushi=福澤進太郎|fuyuk=[[福澤幸雄]]}}
{{familytree|border=1| | | | |!|!| |fumas| | |}|-|*|(| | | |!| | | | | | | |fumas=益子}}
{{familytree|border=1| | | | |!|!| | | | | |fuaku|!|`|fuemi|!| | | | | | | |fuaku=[[福澤アクリヴィ|アクリヴィ]]|fuemi=エミ}}
{{familytree|border=1| | | | |!|!| |ushde|,|ushko|!| | | | |!| | | | | | | |ushde=潮田伝五郎|ushko=[[潮田江次]]}}
{{familytree|border=1| | | | |!|!| | |}|-|(| | | |!| | | | |!| | | | | | | }}
{{familytree|border=1| | | | |)|*|-|ushmi|`|ushse|!| | | | |!| | | | | | | |ushmi=光|ushse=潮田勢吉}}
{{familytree|border=1| | | | |!|!| | | | | | |:| |!| | | | |!| | | | | | | }}
{{familytree|border=1| | | | |!|!| | | | |,|ushra|!| | | | |!| | | | | | | |ushra=ラク}}
{{familytree|border=1| | | | |!|!|,|hamas|(| | | |!| | | | |!| | | | | | | |hamas=林雅之助}}
{{familytree|border=1| |hayta|*|*|(| | | |`|iwtad|!| | | | |!| | | | | | | |hayta=[[林董]]|iwtad=[[岩崎忠雄]]}}
{{familytree|border=1| | | | |!|!|!| | | | | |}|-|*|-|-|-|-|(| | | | | | | }}
{{familytree|border=1|,|iwyan|*|*|*|iwtoy|-|iwyos|!| | | | |!|sukma| | | | |iwyan=[[岩崎弥之助]]|iwtoy=[[岩崎俊弥]]|iwyos=淑子|sukma=須賀川誠}}
{{familytree|border=1|!| | | |!|!|`|fukik|,|futok|!| | | | |!| |:| | | | | |fukik=菊|futok=福澤時太郎}}
{{familytree|border=1|!| | | |!|!| | |}|-|(| | | |!|,|fuyuu|`|sukka| | | | |fuyuu=福澤雄吉|sukka=和子}}
{{familytree|border=1|!| | | |`|*|-|fusut|`|fuken|!|!| |:| | | | | | | | | |fusut=福澤捨次郎|fuken=福澤堅次}}
{{familytree|border=1|!| | | | |!| | | | | | |}|-|*|(|fumar| | | | | | | | |fumar=万里子}}
{{familytree|border=1|`|iwyat|-|(| | | | |,|fuaya|!|`|fuhat| | | | | | | | |iwyat=[[岩崎弥太郎]]|fuaya=綾子|fuhat=初子}}
{{familytree|border=1| | | | | |`|-|iwhis|+|iwhik|*|-|iwhir| | | | | | | | |iwhis=[[岩崎久弥]]|iwhik=[[岩崎彦弥太]]|iwhir=[[岩崎寛弥]]}}
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{{familytree/end}}
</div>
{{main|[[板垣退助の系譜#姻族関係系図|関連系図]]}}
=== 親類縁者 ===
[[画像:Fukuzawa Ichitaro.jpg|thumb|長男の一太郎]]
;子
* [[福澤一太郎]] - 長男、慶應義塾塾長。文久3年[[10月12日 (旧暦)|10月12日]]([[1863年]][[11月22日]])生まれ。
* [[福澤捨次郎]] - 次男、時事新報社長。慶應元年[[9月21日 (旧暦)|9月21日]]([[1865年]][[11月9日]])生まれ。[[マサチューセッツ工科大学]]に学び、1888年卒業<ref>"General Catalogue" Massachusetts Institute of Technology, 1899, p238</ref>。妻の菊は[[林董]]の娘<ref>[http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/H/hukuzawa_s.html 福澤捨次郎]歴史が眠る多磨霊園</ref>。
* [[福澤里]](阿三(のちに通称をお里))- 長女、[[中村貞吉]]の妻。慶應4年[[4月1日 (旧暦)|4月1日]]([[1868年]][[4月23日]])生まれ。貞吉は[[工部大学校]]卒の[[工手学校]]初代校長で、その養父は[[高嶺秀夫]]の岳父の中村清行(大蔵権[[大丞]])<ref>[http://pub.maruzen.co.jp/index/100nenshi/pdf/107.pdf 中村道太と帳合の法]丸善</ref><ref>[https://www.shokokusha.co.jp/pdf/978-4-395-51104-4.pdf 工手学校]工学院大学</ref>。
* [[福澤房]](阿房)- 次女、諭吉の婿養子・[[福澤桃介]]の妻。明治3年[[7月26日 (旧暦)|7月26日]]([[1870年]][[8月22日]])生まれ。
* [[福澤俊]](阿俊)- 三女、[[清岡道之助]]の長男・[[清岡邦之助]]に嫁す。[[1873年]](明治6年)[[8月4日]]生まれ。<ref>[http://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who8-7633 清岡邦之助]『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]</ref>
* [[福澤滝]](阿滝)- 四女、[[日本勧業銀行]]重役[[志立鉄次郎]]に嫁す。[[1876年]](明治9年)[[3月2日]]生まれ。<ref>[http://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who8-10480 志立鉄次郎]『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]</ref>
* [[福澤光]](阿光)- 五女、工学士[[潮田伝五郎]]に嫁す<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777743/244 潮田伝五郎]『現今日本名家列伝』日本力行会出版部、明36.10</ref>。[[1879年]](明治12年)[[3月27日]]生まれ。
* [[福澤三八]] - 三男。[[1881年]](明治14年)[[7月14日]]生まれ。
* [[福澤大四郎]] - 四男、実業家。[[1883年]](明治16年)[[7月24日]]生まれ。妻の益子は[[馬屋原二郎]]の五女。<ref>[http://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who8-18956 福澤大四郎]『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]</ref>
;孫
* 福澤進太郎 - 大四郎の長男、[[フランス文学]]者・慶應義塾大学[[教授]]。妻は[[ギリシャ人]]。
* [[福澤駒吉]] - 房・桃介の長男、実業家。
* [[潮田江次]] - 光の子。
* 中村愛作 - 長女の長男。[[三島製紙]]社長、[[日本パルプ工業]]社長・会長。
* 清岡暎一 - 三女の長男。慶應義塾大学名誉教授。妻の千代野は[[杉本鉞子]]の二女。
;曽孫
* [[福澤幸雄]] - 進太郎の長男、レーサー。
* [[福澤武]]- 二男の長男・時太郎の二男。[[三菱地所]]社長・会長。
;玄孫
* [[福澤克雄]] - 時太郎の長女・和子の子。[[TBSテレビ]]/ [[映画監督]]/ [[演出家]] / [[テレビディレクター]] )
* [[片山千恵子]] -([[日本放送協会|NHK]]アナウンサー)諭吉は大曽祖父{{要出典|date=2011年9月}}。
* [[湯浅諭]] - 滝の次女・ヤナの孫。弁護士。
;その他
* [[福澤桃介]] - 女婿(次女・房の夫)、実業家([[大同電力]]社長ほか)。
* [[中上川彦次郎]] - 甥(姉・婉の長男)。
* [[高谷龍洲]] - 母の[[再従兄弟]]、[[儒学者]]。
* [[建部遯吾]] - 諭吉の長女、里の孫にあたる中村仙一郎が、遯吾の子である三重子と結婚<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=o2qDAAAACAAJ&dq=inauthor:%22%E4%B8%AD%E6%9D%91%E4%BB%99%E4%B8%80%E9%83%8E%22&hl=ja&sa=X&ei=ZrtcVb3OJsjFmQWe3ICwAQ&ved=0CB4Q6wEwAA 『聞き書き・福澤諭吉の思い出: 長女・里が語った、父の一面 』]P.10~P.11,P.114~P.147 ( 中村仙一郎 中村文夫 著 / 近代文芸社 刊, 2006)</ref>。
* [[藤原あき]] - 甥の三女。
* [[フランキー堺]] - 次男が諭吉の曽孫の娘と結婚。
* [[木内孝胤]] - 大叔父・[[木内信胤|信胤]]が諭吉の孫娘と結婚。衆議院議員。
== 福澤諭吉を題材とした作品 ==
=== 映画 ===
* かくて自由の鐘は鳴る(1954年、演:[[尾上九朗右衛門 (2代目)]])
* 福沢諭吉の少年時代(1958年、監督:[[関川秀雄]]、製作:[[東映]]教育映画部)
* [[福沢諭吉 (映画)|福沢諭吉]](1991年、演:[[柴田恭兵]])
=== テレビドラマ ===
* [[若き血に燃ゆる〜福沢諭吉と明治の群像]](1984年1月2日「新春ワイドドラマ」、テレビ東京、演:[[中村雅俊]])
* [[幕末青春グラフィティ 福沢諭吉]](1985年、TBSドラマ、演:[[中村勘三郎 (18代目)|中村勘九郎]])
* [[春の波涛]](1985年、NHK大河ドラマ、演:[[小林桂樹]])
*[[あさが来た]](2015年、NHK連続テレビ小説、演:[[武田鉄矢]])
*[[青天を衝け]](2021年、NHK、演:[[中村萬太郎]])
== 記念行事・記念切手 ==
* 2009年(平成21年)、慶應義塾創立150年記念「'''未来をひらく福沢諭吉展'''」が[[東京国立博物館]]、[[福岡市美術館]]、[[大阪市立美術館]]において、また「'''福沢諭吉と神奈川展'''」が[[神奈川県立歴史博物館]]において順次開催された<ref>[http://www.fukuzawa2009.jp/ 慶應義塾 創立150年記念 未来をひらく 福沢諭吉展]。</ref>。
* 1950年に8円切手「文化人シリーズ」の一枚として図案化された。また2008年には、上記記念行事の一環として80円の[[郵便切手]]が発行されている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|20em}}
== 参考文献 ==
「福沢」「福澤」の表記は、著者がどちらを用いていたのかに従う。<!--著者名の50音順にソート-->
* {{Cite book|和書|author=中崎昌雄|authorlink=中崎昌雄|date=1996-10-25|title=福沢諭吉と写真屋の娘|publisher=大阪大学出版会|isbn=4-87259-025-2|ref={{Harvid|中崎|1996}}}}
* {{Cite book|和書|author=小泉信三|authorlink=小泉信三|date=1966-03-22|title=福沢諭吉|series=[[岩波新書]]|publisher=岩波書店|isbn=4-00-413116-2|ref=小泉(1966)}}
*{{Cite book|和書|editor=杉原四郎|editor-link=杉原四郎|date=1995-12|title=近代日本とイギリス思想|publisher=[[日本経済評論社]]|isbn=978-4-8188-0820-1|ref=杉原(1995)}}
* {{Citation|和書|last=丹羽|first=基二|author-link=丹羽基二|others=[[樋口清之]]監修|date=1970-7|title=姓氏 : 姓氏研究の決定版|publisher=[[秋田書店]]|isbn=4253002099|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=平山洋|authorlink=平山洋|date=2004-08-20|title=福沢諭吉の真実|publisher=文藝春秋|series=文春新書394|isbn=4-16-660394-9|ref=平山2004}}
* {{Cite book|和書|author=丸山眞男|authorlink=丸山眞男|editor=松沢弘陽|editor-link=松沢弘陽|date=2001-06-15|title=福沢諭吉の哲学 他六篇|series=岩波文庫 青N104-1|publisher=岩波書店|isbn=4-00-381041-4|ref={{Harvid|丸山|2001}}}}
* {{Cite book|和書|author=丸山真男|date=1986-01-20|title=「文明論之概略」を読む|volume=上|series=岩波新書 黄版325|publisher=岩波書店|isbn=4-00-420325-2|ref=丸山1986a}}
* {{Cite book|和書|author=丸山真男|date=1986-03-27|title=「文明論之概略」を読む|volume=中|series=岩波新書 黄版326|publisher=岩波書店|isbn=4-00-420326-0|ref=丸山1986b}}
* {{Cite book|和書|author=丸山真男|date=1986-11-20|title=「文明論之概略」を読む|volume=下|series=岩波新書 黄版327|publisher=岩波書店|isbn=4-00-420327-9|ref=丸山1986c}}
{{参照方法|date=2021年9月|section=1}}
* {{Cite book|和書|author=会田倉吉|authorlink=会田倉吉|date=1985-01-01|origdate=1974-04|title=福沢諭吉|publisher=[[吉川弘文館]]|series=人物叢書|isbn=4-642-05005-1|ref=会田1985}}
* {{Cite book|和書|author=安藤優一郎|authorlink=安藤優一郎|date=2011-04-16|title=勝海舟と福沢諭吉 維新を生きた二人の幕臣|publisher=[[日本経済新聞出版社]]|isbn=978-4-532-16784-4|ref=安藤2011}}
* {{Cite book|和書|author=飯田鼎|authorlink=飯田鼎|date=1984-03-22|title=福沢諭吉――国民国家論の創始者|publisher=[[中央公論社]]|series=中公新書722|isbn=4-12-100722-0|ref=飯田1984}}
* {{Cite book|和書|author=石河幹明|authorlink=石河幹明|origdate=1932-02-10|date=1981-09-10|title=福澤諭吉傳|volume=全4冊|publisher=[[岩波書店]]|isbn=4-00-008648-0|ref=石河1932}} - [[1981年]]に第5刷として復刊された。
* {{Cite book|和書|author=石河幹明|date=1935-03-25|title=福澤諭吉|publisher=岩波書店|ref=石河1935}}
* {{Cite book|和書|editor=伊藤正雄|editor-link=伊藤正雄|date=2009-07-25|title=明治人の観た福澤諭吉|publisher=[[慶應義塾大学出版会]]|isbn=978-4-7664-1654-1|ref=伊藤2009}}
* {{Cite book|和書|author=今永清二|authorlink=今永清二|year=1979|month=5|title=福沢諭吉の思想形成|publisher=[[勁草書房]]|isbn=978-4-326-15092-2|ref=今永1979}}
* {{Cite book|和書|author=小川原正道|authorlink=小川原正道|date=2011-09-30|title=福沢諭吉 「官」との闘い|publisher=文藝春秋|isbn=978-4-16-374500-8|ref=小川原2011}}
* {{Cite book|和書|author=小川原正道|date=2012-04-30|title=福澤諭吉の政治思想|publisher=慶應義塾大学出版会|isbn=978-4-7664-1930-6|ref=小川原2012}}
* {{Cite book|和書|author=勝部真長|authorlink=勝部真長|date=2009-10-01|title=勝海舟|edition=新装版|volume=(下)|chapter=終章残照の彩|publisher=[[PHP研究所]]|isbn=978-4-569-77188-5|ref=勝部2009}}
* {{Cite book|和書|author=北康利|authorlink=北康利|date=2007-03-29|title=福沢諭吉 国を支えて国を頼らず|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4-06-213884-0|ref=北2007}}
**{{Cite book|和書|author=北康利|date=2010-02-13|title=福沢諭吉 国を支えて国を頼らず|volume=(上)|series=講談社文庫|publisher=講談社|isbn=978-4-06-276571-8|ref=北2010a}}
**{{Cite book|和書|author=北康利|date=2010-02-13|title=福沢諭吉 国を支えて国を頼らず|volume=(下)|series=講談社文庫|publisher=講談社|isbn=978-4-06-276572-5|ref=北2010b}}
* {{Cite book|和書|author=杵淵信雄|authorlink=杵淵信雄|year=1997|month=9|title=福沢諭吉と朝鮮――時事新報社説を中心に|publisher=[[彩流社]]|series=|isbn=4-88202-560-4|ref=杵淵1997}}
* {{Cite book|和書|editor=慶應義塾|editor-link=慶應義塾|date=2004-04-16|title=福沢諭吉の手紙|series=[[岩波文庫]]青102-6|publisher=岩波書店|isbn=4-00-331026-8|ref=慶應義塾2004}}
* {{Cite book|和書|author=河野健二|authorlink=河野健二|year=1967|month=4|title=福沢諭吉 生きつづける思想家|series=[[講談社現代新書]]|publisher=講談社|id={{近代デジタルライブラリー|2974174}}|ref=河野1967}}
* {{Cite book|和書|author=坂本多加雄|authorlink=坂本多加雄|date=1997-11-20|title=新しい福沢諭吉|series=講談社現代新書1382|publisher=講談社|isbn=4-06-149382-5|ref=坂本1997}}
* {{Cite book|和書|author=桜井邦朋|authorlink=桜井邦朋|date=2005-03-15|title=福沢諭吉の「科學のススメ」――日本で最初の科学入門書「訓蒙 窮理図解」を読む|publisher=[[祥伝社]]|isbn=4-396-50085-8|ref=桜井2005}}
* {{Cite book|和書|author=高橋昌郎|authorlink=高橋昌郎|year=1984|month=9|title=福沢諭吉|publisher=[[清水書院]]|series=清水新書051|isbn=4-389-44051-9|ref=高橋1984}}
* {{Cite book|和書|author=土屋雅春|authorlink=土屋雅春|year=1996|month=10|title=医者のみた福沢諭吉――先生、ミイラとなって昭和に出現|publisher=中央公論社|series=中公新書1330|isbn=4-12-101330-1|ref=土屋1996}}
* {{Cite book|和書|author=遠山茂樹|authorlink=遠山茂樹 (日本史家)|date=2007-09|origdate=1970-11|title=福沢諭吉|publisher=[[東京大学出版会]]|series=近代日本の思想家 1|isbn=978-4-13-014151-2|ref=遠山2007}}
* {{Cite book|和書|author=富田正文|authorlink=富田正文|date=1992-06-22|title=考証福澤諭吉|volume=上|publisher=岩波書店|isbn=4-00-000838-2|ref=富田1992a}}
* {{Cite book|和書|author=富田正文|date=1992-09-16|title=考証福澤諭吉|volume=下|publisher=岩波書店|isbn=4-00-000839-0|ref=富田1992b}}
* {{Cite book|和書|author=鳥井裕美子|authorlink=鳥井裕美子|editor1-first=|editor1-last=ヴォルフガング・ミヒェル|editor1-link=ヴォルフガング・ミヒェル|editor2-first=裕美子|editor2-last=鳥井|editor2-link=鳥井裕美子|editor3-first=眞人 共編|editor3-last=川嶌|editor3-link=川嶌眞人|year=2009|month=7|title=九州の蘭学──越境と交流|chapter=福沢諭吉──蘭学を洋学に開花させた啓蒙思想家──|publisher=[[思文閣出版]]|pages=352-359|isbn=978-4-7842-1410-5|ref=鳥井2009}}
* {{Cite book|和書|author=中村敏子|authorlink=中村敏子 (政治学者)|year=2000|month=11|title=福沢諭吉――文明と社会構想|series=現代自由学芸叢書|publisher=[[創文社]]|isbn=978-4-423-73096-6|ref=中村2000}}
* {{Cite book|和書|others=[[西川俊作]] 監修、[[矢崎充彦]] 演出|date=2006-05-27|title=DVD 学問と情熱 福澤諭吉 そして文明の海原へ|publisher=[[紀伊國屋書店]]|ref=西川&矢崎2006}}
* {{Cite book|和書|author=西部邁|authorlink=西部邁|date=1999-12-10|title=福澤諭吉――その武士道と愛国心|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=4-16-355800-4|ref=西部1999}}
**{{Cite book|和書|author=西部邁|year=2013|month=6|title=福澤諭吉 その報国心と武士道|series=中公文庫|publisher=中央公論新社|isbn=978-4-12-205799-9|ref=西部2013a}} - 『[[#西部1999|福澤諭吉 その武士道と愛国心]]』の改題。
* {{Cite book|和書|author=西部邁|date=1991-06|title=思想史の相貌 近代日本の思想家たち|publisher=[[世界文化社]]|isbn=4-418-91511-7|ref=西部1991}}
**{{Cite book|和書|author=西部邁|year=2012|month=5|title=日本の保守思想|chapter=保守思想の源流――福沢諭吉|series=ハルキ文庫|publisher=[[角川春樹事務所]]|pages=20-35|isbn=978-4-7584-3662-5|ref=西部2012}} - 『[[#西部1991|思想史の相貌 近代日本の思想家たち]]』の改題。
* {{Cite book|和書|author=西部邁|chapter=諭吉と兆民 かくも近い二人をかくも遠くに隔てたのは何か|title=中江兆民 百年の誤解|publisher=時事通信出版局|date=2013-11-30|pages=125-142|isbn=978-4-7887-1310-9|ref=西部2013b}}
* {{Cite book|和書|author=平山洋|date=2008-05-10|title=福澤諭吉――文明の政治に六つの要訣あり|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|series=ミネルヴァ日本評伝選|isbn=978-4-623-05166-3|ref=平山2008}}
* {{Cite book|和書|author=平山洋|date=2009-05-11|title=諭吉の流儀――『福翁自伝』を読む|publisher=PHP研究所|isbn=978-4-569-70941-3|ref=平山2009}}
* {{Cite book|和書|author=平山洋|date=2012-07-20|title=アジア独立論者 福沢諭吉 脱亜論・朝鮮滅亡論・尊王論をめぐって|series=シリーズ・人と文化の探究 8|publisher=ミネルヴァ書房|isbn=978-4-623-06346-8|ref=平山2012}}
* {{Cite book|和書|author=ひろたまさき|authorlink=ひろたまさき|year=1976|month=11|title=福沢諭吉|publisher=[[朝日新聞社]]|series=朝日評伝選12|isbn=978-4-02-257012-3|ref=ひろた1976}}
* {{Cite book|和書|others=[[前田富士男]]・[[米山光儀]]・[[小室正紀]] 監修|date=2009-01-10|title=「未来をひらく福澤諭吉展」図録|publisher=慶應義塾|editor1-first=|editor1-last=慶應義塾|editor2-first=|editor2-last=東京国立博物館|editor2-link=東京国立博物館|editor3-first=|editor3-last=福岡市美術館|editor3-link=福岡市美術館|editor4-first=|editor4-last=大阪市立美術館|editor4-link=大阪市立美術館|editor5-first=|editor5-last=産経新聞社|editor5-link=産経新聞社|ref=前田&米山&小室2009}} - 第6回ゲスナー賞銀賞受賞。
* {{Cite book|和書|author=松永安左エ門|authorlink=松永安左エ門|date=2008-04-18|title=人間 福澤諭吉|publisher=[[実業之日本社]]|isbn=978-4-408-10731-8|ref=松永2008}}
* {{Cite book|和書|author=森川輝紀|authorlink=森川輝紀|date=2011-07-25|title=教育勅語への道 教育の政治史|edition=増補版|publisher=[[三元社]]|isbn=978-4-88303-295-2|ref=森川2011}}
* {{Cite book|和書|author=安川寿之輔|authorlink=安川寿之輔|year=2000|month=12|title=福沢諭吉のアジア認識――日本近代史像をとらえ返す|publisher=[[高文研]]|isbn=4-87498-250-6|ref=安川2000}}
* {{Cite book|和書|author=安川寿之輔|year=2003|month=7|title=福沢諭吉と丸山眞男――「丸山諭吉」神話を解体する|publisher=高文研|isbn=4-87498-304-9|ref=安川2003}}
* {{Cite book|和書|author=安川寿之輔|year=2006|month=5|title=日本のアジア侵略と憲法九条──田中正造、勝海舟、福沢諭吉、徳富蘇峰を見直す──|chapter=福沢諭吉の文明観とアジア認識──『脱亜入欧』論批判──|publisher=[[下町人間総合研究所]]|isbn=4-902556-08-1|ref=安川2006a}}
* {{Cite book|和書|author=安川寿之輔|date=2006-07-10|title=福沢諭吉の戦争論と天皇制論――新たな福沢美化論を批判する|publisher=高文研|isbn=4-87498-366-9|ref=安川2006b}}
* {{Cite book|和書|author=横松宗|authorlink=横松宗|date=1991-08-10|title=福沢諭吉――中津からの出発|publisher=朝日新聞社|series=朝日選書432|isbn=4-02-259532-9|ref=横松1991}}
* {{Cite book|和書|author=横松宗|date=2004-01-10|title=福沢諭吉――その発想のパラドックス|publisher=[[梓書院]]|isbn=4-87035-216-8|ref=横松2004}}
* {{Cite book|和書|author=甘露純規|authorlink=甘露純規|date=2011-12-19|title=剽窃の文学史――オリジナリティの近代史|publisher=[[森話社]]|isbn=978-4864050302|ref=甘露2011}}
== 関連項目 ==
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=== 関連事項 ===
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*[[アジア主義]]
*[[亜細亜諸国との和戦は我栄辱に関するなきの説]]
*[[一万円紙幣]]
*[[演説]]
*[[大坂]]
*[[科学]]
*[[仮名垣魯文]]
*[[官尊民卑]]
*[[京都集書院]]
*[[慶應義塾]] - [[専修学校 (旧制)]]
*[[経済]]
*[[経世済民]]
*[[興亜会]]
*[[皇室制度]]
*[[交詢社]]
*[[高尚]]
*[[甲申政変]] - [[開化派]] - [[独立党]]
*[[時事新報論集]]
*[[思想史]] - [[近代日本思想大系]] - [[現代日本思想大系]]
*[[支那人親しむ可し]]
*[[志摩三商会]]
*[[儒学]] - [[国学]] - [[蘭学]]
*[[修身要領]]
*[[進脩館]] - [[適塾]]
*[[数学]]
*[[脱亜思想]]
*[[脱亜論]]
*[[土地は併呑す可らず国事は改革す可し]]
*[[中津市]]
*[[長沼事件]]
*[[ニカラグア運河]]
*[[日本学士院]] - [[東京地学協会]]
*[[海洋国家|日本の海洋国家論]]
*[[幕末の人物一覧]]
*[[ハングル]]
*[[福澤賞]]
*[[福澤心訓]]
*[[福澤諭吉旧居]]
*[[武士]] - [[居合]] - [[立身新流]]
*[[文銭堂本舗]]
*[[文明政治の六条件]]
*[[簿記]]
*[[三菱商業学校]]([[明治義塾]])
*[[明治時代]]
*[[明治の人物一覧]]
*[[明六社]] - [[明六雑誌]]
*[[理財]]
}}
=== 諭吉と親交が深かった人物・同門の人物 ===
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* [[高畠五郎]]
* [[肥田浜五郎]]
* [[芳蓮院]]
* [[木村芥舟]]
* [[中島三郎助]]
* [[楠本イネ]]
* [[大村益次郎]]
* [[大鳥圭介]]
* [[手塚良仙]]
* [[九鬼隆義]]
* [[川本幸民]]
* [[尺振八]]
* [[森村市左衛門]]
* [[長与専斎]]
* [[後藤象二郎]]
* [[北里柴三郎]]
* [[森山栄之助]]
* [[栗本鋤雲]]
* [[桂川国興|桂川甫周]]
* [[箕作秋坪]]
* [[大槻磐渓]]
* [[林金兵衛]]
* [[宇都宮三郎]]
* [[高島嘉右衛門]]
* [[松山棟庵]]
* [[渡辺重石丸]]
* [[山口良蔵]]
* [[デュアン・シモンズ]]
}}
=== 影響を受けた人物 ===
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* [[荻生徂徠]]
* [[佐倉惣五郎]]
* [[中村栗園]]
* [[白石照山]]
* [[帆足万里]]
* [[緒方洪庵]]
* [[江川英龍]]
* [[新井白石]]
* [[石川桜所]]
* [[西郷隆盛]]
* [[アレクシス・ド・トクヴィル]]
* [[フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー]]
* [[ジョン・スチュアート・ミル]]
* [[ウォルター・バジョット]]
* [[ヘンリー・バックル]]
* [[ウィリアム・ブラックストン]]
* [[ハーバート・スペンサー]]
}}
=== 影響を与えた人物 ===
; 明治以後、諭吉の思想に影響を受けた、または論評の手法を真似た人物(慶應義塾関係者を除く)<!--<ref>[#伊藤2009|伊藤 2009]]]</ref>-->。
{{columns-list|colwidth=15em|
* [[南方熊楠]]
* [[陸羯南]]
* [[徳富蘇峰]]
* [[中江兆民|中江篤介]](兆民)
* [[福地源一郎|福地桜痴]](源一郎)
* [[田口卯吉|田口鼎軒]](卯吉)
* [[山路愛山]]
* [[幸徳秋水]]
* [[内村鑑三]]
* [[三宅雪嶺]]
* [[植村正久]]
* [[朝比奈知泉]]
* [[魯迅]]
}}
== 外部リンク ==
* [https://www.keio.ac.jp/ja/about/philosophy/fukuzawa.html 創立者 福澤諭吉:[慶應義塾]]
* [http://www.fmc.keio.ac.jp/ 慶應義塾福沢研究センター]
* [https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/185/ 福沢諭吉] | [https://www.ndl.go.jp/portrait/index.html 近代日本人の肖像]([[国立国会図書館]])
* [http://keio150.jp/fukuzawa2009/index.html 未来をひらく福澤諭吉展(福沢諭吉展) −慶應義塾創立150年記念−]
* [http://dcollections.lib.keio.ac.jp/en/fukuzawa デジタルで読む福澤諭吉]([http://dcollections.lib.keio.ac.jp/en 慶應義塾大学メディアセンターデジタルコレクション])
* {{Wayback |url=http://www.mita.lib.keio.ac.jp/search/complete_works.html |title=福澤諭吉著作一覧 - 全集・選集 |date=20171221112905 }}
* [https://blechmusik.xii.jp/d/hirayama/h17/ 「大正版『福澤全集』「時事論集」所収論説一覧及び起筆者推定」]
* [https://blechmusik.xii.jp/d/hirayama/h22/ 「福沢諭吉演説一覧」]
* [https://www.fukkoku.net/%E6%99%82%E4%BA%8B%E6%96%B0%E5%A0%B1%E7%9B%AE%E9%8C%B2 「時事新報」(明治前期、全20巻)と「記事分類目録」デジタル復刻出版]([https://www.fukkoku.net/ryukei 龍溪書舎])
* [https://blechmusik.xii.jp/d/hirayama/the_newspaper_archives_and_conclusion_on_the_writer/ 「福沢健全期『時事新報』社説・漫言一覧及び起草者推定」]
* {{青空文庫著作者|296|福沢 諭吉}}
* {{青空文庫|001541|52212|新字新仮名|福沢諭吉 ペンは剣よりも強し}}(高山毅著)
* {{Kotobank}}
* [https://keibatsugaku.com/hukuzawa/ 閨閥学(福澤家)]
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8,778 | 科学者 | 科学者(かがくしゃ、英語: scientist)とは、科学を専門とする人・学者のことである。特に自然科学を研究する人をこう呼ぶ傾向がある。
もともと自然を対象とした知の探求は「自然哲学」(ラテン語: philosophia naturalis、英語: natural philosophy)と呼ばれ、それに携わる人々は1800年ごろでもnatural philosopher「自然哲学者」やsavan「知者」などと呼ばれていた。 だが、philosophyの名で呼ばれていた知識一般の中から、独自の性質を持つ知が生まれたと認知され、その知を呼ぶのにラテン語scientia、英scienceの名称が用いられるようになったことや、その知を探求する専門家集団が自らの存在を他の集団と区別して語り始めたことを反映して、1834年にウィリアム・ヒューウェルがscientiaから派生させる形でscientistという語を造語、scienceに携わる人々をscientist(サイエンティスト)と呼ぶことを提案した。それが定着し現在に至っている。
遡れば古代ギリシャや古代ローマ等においても自然に関する探求(=自然哲学philosophia naturalis)は行われていた。だが当時の哲学の最重要課題と言えば、人間の生き方や集団のあり方に関する倫理的な思索であり、自然哲学はあくまでその哲学体系のごく一部という位置づけであり、自然哲学だけが単独で行われるということは少なかった。したがって自然哲学に携わる哲学者はどうしても脇役的な存在となり、社会的に重視されることはほとんどなかった。
16-17世紀、ヨーロッパで科学革命と呼ばれる近代科学成立の動きがあったことや、自然哲学研究のための学会やアカデミーが成立し、そこに集った人々が様々な活動をしたことで、初めて自然哲学者には、他の哲学者とは何かしら異なった役割があることが理解されるようになった。だが、その科学革命の後でも自然哲学者たちは自然哲学そのもので収入を得ていたわけではなく、他に生計の基盤があった。例えば、元々広大な領地を持つ貴族の生まれであったり、大商人であったり、聖職者等としての生活基盤を持っていたりしており、つまり現在で言うところのアマチュア・サイエンティストであり、彼らにとって自然哲学は知的好奇心を満たす趣味としての性質を持っていた。
19世紀に入ると、自然哲学ないし科学の高度化とともに、大学等の教育機関に科学の教育のための講座・コースが設けられ正規の教育体系として扱われるようになり、そのコースで指導教官の下、体系的に科学を習得した若者が生み出されるようになった。また、研究所も設置されるようになり、彼らの働く場所が出現した。このようにして科学者は専門的職業の一つとして確立し、それを表すかのようにヒューウェルによりサイエンティストという名称の使用が提唱されたのである。
現代の科学者のほとんどは、18世紀までのアマチュア・サイエンティストのように独りで趣味的に自然を探求しているのではなく、大学あるいは何らかの研究機関と雇用契約を結び、給料を支払われ、研究設備の使用を許可され、研究費を割り当てられている。
現代の科学者は、大きな科学共同体の中で生かされているような面がある。各人は専門化された学会に所属したり、学術誌等を講読することで他の科学者の研究により明らかになった新しい科学的知識を得ることができる。また、科学者は学会や学術誌で研究成果を発表することで、他の科学者からの評価を受ける必要がある。
それらの場で研究成果により高い評価を得た者は、次第に優秀な科学者と認知されるようになり、それに伴い高い地位、潤沢な研究費、助手、社会からの賞賛などが結果として与えられることが多い。だがその逆に研究成果を示すことができない者は低い評価が与えられ、研究費が削られ、社会的にも次第に不本意な状況に置かれることが多い。
研究成果の評価の基準のひとつとして、研究成果に新しい科学的発見が含まれているかどうか、という点がある。これを別の角度から見れば、同じ内容の研究をし同程度に努力していても、何かを先に発見した者、つまりpriorityプライオリティ(先取権)を確保した者が高く評価され、遅れて発見したとされる者はたとえ独自に発見したとしても大抵の場合評価されないという原理が働いていることも意味する。例えばノーベル賞などでも先取権を持つ者に賞と賞金が授与される。このような原理を背景として、先取権を巡って科学者(のグループ)同士で激しい争いとなることがある。
この競争原理は、一方で科学知識の進歩を促進してきたという効果が認められている。他方、科学者に対しては他者に先駆けて研究成果を出さなければならないという心理的な圧力を感じさせることで、科学者による様々な不正行為や病理的行動を生み出す原因ともなっている。
上記の構図の中で心理的に追い詰められた科学者の一部が起こす一連の病理的な行動はpublish or perish syndrome「発表するか死か 症候群」などと呼ばれることがある。
科学者が道徳的かどうか、または不道徳で不正行為を行う可能性があるかどうかについての研究があった。この研究は、厳密なジャーナルであるPLOS ONEで発表された。結論としては、科学者は本質的に不道徳ではないが、不道徳な行動を取る可能性があるだけである。
科学者の一部には、功を焦るあまりに不正行為を行う者がいる。不正行為の内容としては、実験データの改ざん・捏造、アイディアの盗用、論文の盗用、試料の窃盗、実験データ記録媒体の窃盗などがある。このような不正行為は、内容によっては科学界を揺るがす事件となったり、さらにはマスコミを通じて広く一般の人々にも知られることもある。
また論文の成立に何ら直接貢献していない者が、ただ研究室の責任者の立場にいるというだけで論文の共同執筆者として名を連ねるという不正行為がある。このように立場の強い者が陰に陽に政治的影響力を行使して名を連ねさせる場合もあれば、逆に論文執筆者側が、誰かから何らかの利益が供与されることを期待して共同執筆者として名を表示する機会を提供している場合もある。また同一グループ内の複数の科学者が共犯的に相互の論文の共同執筆者として名を連ね、互いの業績数を水増しするようなことも行われることがある。これらの共同執筆者に関わる不正行為は科学者の間ではその不正な性質を隠蔽する形でhonorary authorship「名誉のオーサーシップ」やgift authorship「ギフトオーサーシップ」などと呼ばれることがある、が名称は何であれ不正行為には変わりないというのが公的機関の公式見解である。
また、科学者が既得権益者となってしまった場合、新しい研究成果に照らして考えを変えることは特に困難である。これは別に法的な不正行為ではないが、結果として学界に不利になる。科学革命によれば、科学活動全般が進歩する中で、研究手法や科学全体の大前提が変わるというパラダイムシフトがしばしば起こる。そして、この大前提の変化は、たいてい若者や他分野の専門家によってもたらされる。このため、若手や他分野の専門家は特に有用であるはずだ。
例えば各省庁や関連の公的機関に対して提出する研究費申請書類に上記のような不正を利用し、それにより支給された研究費を使った場合などは、もはや科学という学問内部の規範の問題では済まず、公文書偽造および公金横領という重大な違法行為、明らかな犯罪行為であるので、そのようなことを行った者は逮捕・処罰される可能性がある。
最近の科学者による不正行為の例として、「ファン・ウソク」や「ヘンドリック・シェーン」、「小保方晴子」の項が参照可。
現代では科学と技術が軍事、外交、政治、経済、社会、個人生活にまで及ぼす影響が大きく、そして深刻になっている。例えば核兵器の開発により、第二次世界大戦中に数十万人が命を落としただけでなく(原爆の項参照)、その後の冷戦時代に一歩誤れば人類が滅亡しかねない状況も起きた。そのため、科学者の個人としての活動であれ、集団としての活動であれ、その活動の行為責任・社会的責任を問う声が、科学者自身からも科学者以外の人々からも発せられ、広く議論となった。このような議論を踏まえ、1980年に日本の科学者達は「科学者憲章」を発表した。
この憲章の後も、科学者の社会的責任・行為責任への人々の関心は高く、科学者の活動のあり方は今後も問われ続けることであろう。
科学者が基礎的な研究を行う傾向があるのに対して、エンジニアのほうが概して時間的に限定された中で具体的な成果を出す活動を行っている傾向があると、大まかに区別することは可能だが、科学者とされる人が極めてエンジニア的な活動を行っていることもあるし、逆にエンジニアとされる人が高度に科学的な発見を学会等で公表することもあり、常に境界がはっきりとあるわけではない。
現代において、科学が人々から賞賛されているのは、必ずしも科学者と呼ばれる人々の活動が評価されているからではなく、エンジニア達が行っている活動、すなわち人々の具体的な要望や組織の要求事項を理解しようとする努力を惜しまず、その要望に応えて成果を制限時間内に着実に出す活動が、個人生活や企業活動の中で大いに評価・賞賛されていて、その波及効果で科学者全体の評価も高められているという側面があることも見逃してはならないだろう。 「エンジニア」の項も参照のこと。
意外なことに、記憶力の良い科学者は、自分の記憶力を過信して、新しい研究成果を無視する傾向がある。短期記憶が苦手な人は、一見無関係な現象につながりを発見する傾向がある。新しいことを学ぶのが遅い人は、新しいことを学ぶのが早い人よりも、その学習過程から思いがけない発見をしやすい。創造性については、多くの研究がなされている。創造性は、新しい分野に挑戦したり変化を求めたりする際に、無能感に怯まないことと関連している。したがって、社会的な協調性の欠如や非集団性の傾向は、新しい経験に対する開放性と同様に、高い創造性と関連している。信じられないことに、内向的で内気な人々も比較的創造的である。
Category:科学者を参照のこと。特筆に値する科学者が当百科事典の記事となっている。
1914年に心理学者ジェームズ・リューバ(英語版)が、米国のおよそ1000人の科学者に対して信仰についてのアンケート調査を行ったところ、42%の科学者が神を信じていると回答し、42%の科学者が信じていないと回答した、との結果が出た。
リューバの調査からおよそ80年後の1996年に、科学史研究者のEdward Larsonが、同調査と同数の科学者に対して、まったく同じ質問内容で調査をおこなったところ、40%の科学者が神を信じていると回答し、45%の科学者が信じていないと回答した。
2009年にピュー・リサーチセンター(英語版)が、全米科学振興協会(AAAS)のメンバーの科学者に対して(今度は上記とは少し異なった 次のような質問文を用いて)調査を行ったところ、「(I) believe in God 神を信じる」とした人が33%、「(I)don't believe in God, but do believe in a universal spirit or higher power 神は信じないが、ユニバーサルなスピリットあるいは超越的な力を信じている」とした人が18%、「(I)don't believe in either どちらも信じない」とした人が41%、「(I)don't know / Refused “私には分からない”もしくは回答せず」が7%であった。この調査結果からすると、調査対象になった科学者のちょうど半数ほど(51%)が、神あるいは何らかの超越的な力を信じている、と回答したことになる。(参考までに比較対象として、2006年に同リサーチセンターがアメリカ合衆国人全般を対象として調査を行った結果は、95%が何らかの神や超越的な力を信じている、と回答したのであった。また、41%の科学者が「神を信じない」と回答したわけだが、それと比較するとアメリカ人全般ではわずか4%がそう回答しただけであった。)
一方、『利己的な遺伝子』での進化生物学者リチャード・ドーキンスによると、破壊的で危険な「ミーム」の典型例は宗教であり、
という。ドーキンスは、文化的自己複製子「ミーム」の理論に関して
とも述べている。『利己的な遺伝子』の邦訳者の一員である進化生態学者・岸由二は、40周年記念版(2018年刊行)の後書きでこの本を「名著」と呼び、次のように評価している。
計算機科学者(コンピュータ科学者)・数理論理学者・哲学博士(Ph.D. in Philosophy)であるトルケル・フランセーンは、哲学者たちによる数学的な言及の多くが
と批判している。フランセーンによると、“不完全性定理は数学や理論の「不完全性」を証明した”といった誤解や、“数学には「不完全」な部分があると証明済みであり、数学以外の分野に「不完全」な部分があってもおかしくない”といった誤解が一般社会・哲学・宗教・神学等によって広まり、誤用されている。
なお、うつ病の有無を血液(血中PEA濃度)で計測する検査法を開発し、臨床現場でも用いている心療内科医の川村則行は
等と述べている。
尚、物理学者のカール・セーガンは、著書の中で「一般的に科学者とは権威ある地位とみられがちであるが、単なる専門職であり、科学において権威というものは意味を成さず、かえって邪魔(ハロー効果)になる」と述べた。 | [
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"text": "科学者(かがくしゃ、英語: scientist)とは、科学を専門とする人・学者のことである。特に自然科学を研究する人をこう呼ぶ傾向がある。",
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"text": "もともと自然を対象とした知の探求は「自然哲学」(ラテン語: philosophia naturalis、英語: natural philosophy)と呼ばれ、それに携わる人々は1800年ごろでもnatural philosopher「自然哲学者」やsavan「知者」などと呼ばれていた。 だが、philosophyの名で呼ばれていた知識一般の中から、独自の性質を持つ知が生まれたと認知され、その知を呼ぶのにラテン語scientia、英scienceの名称が用いられるようになったことや、その知を探求する専門家集団が自らの存在を他の集団と区別して語り始めたことを反映して、1834年にウィリアム・ヒューウェルがscientiaから派生させる形でscientistという語を造語、scienceに携わる人々をscientist(サイエンティスト)と呼ぶことを提案した。それが定着し現在に至っている。",
"title": "名称の歴史"
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"text": "遡れば古代ギリシャや古代ローマ等においても自然に関する探求(=自然哲学philosophia naturalis)は行われていた。だが当時の哲学の最重要課題と言えば、人間の生き方や集団のあり方に関する倫理的な思索であり、自然哲学はあくまでその哲学体系のごく一部という位置づけであり、自然哲学だけが単独で行われるということは少なかった。したがって自然哲学に携わる哲学者はどうしても脇役的な存在となり、社会的に重視されることはほとんどなかった。",
"title": "科学者の歴史"
},
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"text": "16-17世紀、ヨーロッパで科学革命と呼ばれる近代科学成立の動きがあったことや、自然哲学研究のための学会やアカデミーが成立し、そこに集った人々が様々な活動をしたことで、初めて自然哲学者には、他の哲学者とは何かしら異なった役割があることが理解されるようになった。だが、その科学革命の後でも自然哲学者たちは自然哲学そのもので収入を得ていたわけではなく、他に生計の基盤があった。例えば、元々広大な領地を持つ貴族の生まれであったり、大商人であったり、聖職者等としての生活基盤を持っていたりしており、つまり現在で言うところのアマチュア・サイエンティストであり、彼らにとって自然哲学は知的好奇心を満たす趣味としての性質を持っていた。",
"title": "科学者の歴史"
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"text": "19世紀に入ると、自然哲学ないし科学の高度化とともに、大学等の教育機関に科学の教育のための講座・コースが設けられ正規の教育体系として扱われるようになり、そのコースで指導教官の下、体系的に科学を習得した若者が生み出されるようになった。また、研究所も設置されるようになり、彼らの働く場所が出現した。このようにして科学者は専門的職業の一つとして確立し、それを表すかのようにヒューウェルによりサイエンティストという名称の使用が提唱されたのである。",
"title": "科学者の歴史"
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"text": "現代の科学者のほとんどは、18世紀までのアマチュア・サイエンティストのように独りで趣味的に自然を探求しているのではなく、大学あるいは何らかの研究機関と雇用契約を結び、給料を支払われ、研究設備の使用を許可され、研究費を割り当てられている。",
"title": "科学者の歴史"
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"text": "現代の科学者は、大きな科学共同体の中で生かされているような面がある。各人は専門化された学会に所属したり、学術誌等を講読することで他の科学者の研究により明らかになった新しい科学的知識を得ることができる。また、科学者は学会や学術誌で研究成果を発表することで、他の科学者からの評価を受ける必要がある。",
"title": "近年の科学者の共同体と競争原理"
},
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"text": "それらの場で研究成果により高い評価を得た者は、次第に優秀な科学者と認知されるようになり、それに伴い高い地位、潤沢な研究費、助手、社会からの賞賛などが結果として与えられることが多い。だがその逆に研究成果を示すことができない者は低い評価が与えられ、研究費が削られ、社会的にも次第に不本意な状況に置かれることが多い。",
"title": "近年の科学者の共同体と競争原理"
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"text": "研究成果の評価の基準のひとつとして、研究成果に新しい科学的発見が含まれているかどうか、という点がある。これを別の角度から見れば、同じ内容の研究をし同程度に努力していても、何かを先に発見した者、つまりpriorityプライオリティ(先取権)を確保した者が高く評価され、遅れて発見したとされる者はたとえ独自に発見したとしても大抵の場合評価されないという原理が働いていることも意味する。例えばノーベル賞などでも先取権を持つ者に賞と賞金が授与される。このような原理を背景として、先取権を巡って科学者(のグループ)同士で激しい争いとなることがある。",
"title": "近年の科学者の共同体と競争原理"
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"text": "この競争原理は、一方で科学知識の進歩を促進してきたという効果が認められている。他方、科学者に対しては他者に先駆けて研究成果を出さなければならないという心理的な圧力を感じさせることで、科学者による様々な不正行為や病理的行動を生み出す原因ともなっている。",
"title": "近年の科学者の共同体と競争原理"
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"text": "上記の構図の中で心理的に追い詰められた科学者の一部が起こす一連の病理的な行動はpublish or perish syndrome「発表するか死か 症候群」などと呼ばれることがある。",
"title": "科学者による不正行為"
},
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"text": "科学者が道徳的かどうか、または不道徳で不正行為を行う可能性があるかどうかについての研究があった。この研究は、厳密なジャーナルであるPLOS ONEで発表された。結論としては、科学者は本質的に不道徳ではないが、不道徳な行動を取る可能性があるだけである。",
"title": "科学者による不正行為"
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"text": "科学者の一部には、功を焦るあまりに不正行為を行う者がいる。不正行為の内容としては、実験データの改ざん・捏造、アイディアの盗用、論文の盗用、試料の窃盗、実験データ記録媒体の窃盗などがある。このような不正行為は、内容によっては科学界を揺るがす事件となったり、さらにはマスコミを通じて広く一般の人々にも知られることもある。",
"title": "科学者による不正行為"
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"text": "また論文の成立に何ら直接貢献していない者が、ただ研究室の責任者の立場にいるというだけで論文の共同執筆者として名を連ねるという不正行為がある。このように立場の強い者が陰に陽に政治的影響力を行使して名を連ねさせる場合もあれば、逆に論文執筆者側が、誰かから何らかの利益が供与されることを期待して共同執筆者として名を表示する機会を提供している場合もある。また同一グループ内の複数の科学者が共犯的に相互の論文の共同執筆者として名を連ね、互いの業績数を水増しするようなことも行われることがある。これらの共同執筆者に関わる不正行為は科学者の間ではその不正な性質を隠蔽する形でhonorary authorship「名誉のオーサーシップ」やgift authorship「ギフトオーサーシップ」などと呼ばれることがある、が名称は何であれ不正行為には変わりないというのが公的機関の公式見解である。",
"title": "科学者による不正行為"
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"text": "また、科学者が既得権益者となってしまった場合、新しい研究成果に照らして考えを変えることは特に困難である。これは別に法的な不正行為ではないが、結果として学界に不利になる。科学革命によれば、科学活動全般が進歩する中で、研究手法や科学全体の大前提が変わるというパラダイムシフトがしばしば起こる。そして、この大前提の変化は、たいてい若者や他分野の専門家によってもたらされる。このため、若手や他分野の専門家は特に有用であるはずだ。",
"title": "科学者による不正行為"
},
{
"paragraph_id": 15,
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"text": "例えば各省庁や関連の公的機関に対して提出する研究費申請書類に上記のような不正を利用し、それにより支給された研究費を使った場合などは、もはや科学という学問内部の規範の問題では済まず、公文書偽造および公金横領という重大な違法行為、明らかな犯罪行為であるので、そのようなことを行った者は逮捕・処罰される可能性がある。",
"title": "科学者による不正行為"
},
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"text": "最近の科学者による不正行為の例として、「ファン・ウソク」や「ヘンドリック・シェーン」、「小保方晴子」の項が参照可。",
"title": "科学者による不正行為"
},
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"text": "現代では科学と技術が軍事、外交、政治、経済、社会、個人生活にまで及ぼす影響が大きく、そして深刻になっている。例えば核兵器の開発により、第二次世界大戦中に数十万人が命を落としただけでなく(原爆の項参照)、その後の冷戦時代に一歩誤れば人類が滅亡しかねない状況も起きた。そのため、科学者の個人としての活動であれ、集団としての活動であれ、その活動の行為責任・社会的責任を問う声が、科学者自身からも科学者以外の人々からも発せられ、広く議論となった。このような議論を踏まえ、1980年に日本の科学者達は「科学者憲章」を発表した。",
"title": "科学者と行為責任"
},
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"text": "この憲章の後も、科学者の社会的責任・行為責任への人々の関心は高く、科学者の活動のあり方は今後も問われ続けることであろう。",
"title": "科学者と行為責任"
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"text": "科学者が基礎的な研究を行う傾向があるのに対して、エンジニアのほうが概して時間的に限定された中で具体的な成果を出す活動を行っている傾向があると、大まかに区別することは可能だが、科学者とされる人が極めてエンジニア的な活動を行っていることもあるし、逆にエンジニアとされる人が高度に科学的な発見を学会等で公表することもあり、常に境界がはっきりとあるわけではない。",
"title": "科学者とエンジニア"
},
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"text": "現代において、科学が人々から賞賛されているのは、必ずしも科学者と呼ばれる人々の活動が評価されているからではなく、エンジニア達が行っている活動、すなわち人々の具体的な要望や組織の要求事項を理解しようとする努力を惜しまず、その要望に応えて成果を制限時間内に着実に出す活動が、個人生活や企業活動の中で大いに評価・賞賛されていて、その波及効果で科学者全体の評価も高められているという側面があることも見逃してはならないだろう。 「エンジニア」の項も参照のこと。",
"title": "科学者とエンジニア"
},
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"text": "意外なことに、記憶力の良い科学者は、自分の記憶力を過信して、新しい研究成果を無視する傾向がある。短期記憶が苦手な人は、一見無関係な現象につながりを発見する傾向がある。新しいことを学ぶのが遅い人は、新しいことを学ぶのが早い人よりも、その学習過程から思いがけない発見をしやすい。創造性については、多くの研究がなされている。創造性は、新しい分野に挑戦したり変化を求めたりする際に、無能感に怯まないことと関連している。したがって、社会的な協調性の欠如や非集団性の傾向は、新しい経験に対する開放性と同様に、高い創造性と関連している。信じられないことに、内向的で内気な人々も比較的創造的である。",
"title": "科学者と創造的思考"
},
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"text": "Category:科学者を参照のこと。特筆に値する科学者が当百科事典の記事となっている。",
"title": "著名な科学者"
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"text": "1914年に心理学者ジェームズ・リューバ(英語版)が、米国のおよそ1000人の科学者に対して信仰についてのアンケート調査を行ったところ、42%の科学者が神を信じていると回答し、42%の科学者が信じていないと回答した、との結果が出た。",
"title": "科学者と信仰"
},
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"text": "リューバの調査からおよそ80年後の1996年に、科学史研究者のEdward Larsonが、同調査と同数の科学者に対して、まったく同じ質問内容で調査をおこなったところ、40%の科学者が神を信じていると回答し、45%の科学者が信じていないと回答した。",
"title": "科学者と信仰"
},
{
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"text": "2009年にピュー・リサーチセンター(英語版)が、全米科学振興協会(AAAS)のメンバーの科学者に対して(今度は上記とは少し異なった 次のような質問文を用いて)調査を行ったところ、「(I) believe in God 神を信じる」とした人が33%、「(I)don't believe in God, but do believe in a universal spirit or higher power 神は信じないが、ユニバーサルなスピリットあるいは超越的な力を信じている」とした人が18%、「(I)don't believe in either どちらも信じない」とした人が41%、「(I)don't know / Refused “私には分からない”もしくは回答せず」が7%であった。この調査結果からすると、調査対象になった科学者のちょうど半数ほど(51%)が、神あるいは何らかの超越的な力を信じている、と回答したことになる。(参考までに比較対象として、2006年に同リサーチセンターがアメリカ合衆国人全般を対象として調査を行った結果は、95%が何らかの神や超越的な力を信じている、と回答したのであった。また、41%の科学者が「神を信じない」と回答したわけだが、それと比較するとアメリカ人全般ではわずか4%がそう回答しただけであった。)",
"title": "科学者と信仰"
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"text": "一方、『利己的な遺伝子』での進化生物学者リチャード・ドーキンスによると、破壊的で危険な「ミーム」の典型例は宗教であり、",
"title": "科学者と信仰"
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"text": "という。ドーキンスは、文化的自己複製子「ミーム」の理論に関して",
"title": "科学者と信仰"
},
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"text": "とも述べている。『利己的な遺伝子』の邦訳者の一員である進化生態学者・岸由二は、40周年記念版(2018年刊行)の後書きでこの本を「名著」と呼び、次のように評価している。",
"title": "科学者と信仰"
},
{
"paragraph_id": 29,
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"text": "計算機科学者(コンピュータ科学者)・数理論理学者・哲学博士(Ph.D. in Philosophy)であるトルケル・フランセーンは、哲学者たちによる数学的な言及の多くが",
"title": "科学者と信仰"
},
{
"paragraph_id": 30,
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"text": "と批判している。フランセーンによると、“不完全性定理は数学や理論の「不完全性」を証明した”といった誤解や、“数学には「不完全」な部分があると証明済みであり、数学以外の分野に「不完全」な部分があってもおかしくない”といった誤解が一般社会・哲学・宗教・神学等によって広まり、誤用されている。",
"title": "科学者と信仰"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "なお、うつ病の有無を血液(血中PEA濃度)で計測する検査法を開発し、臨床現場でも用いている心療内科医の川村則行は",
"title": "科学者と信仰"
},
{
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"text": "等と述べている。",
"title": "科学者と信仰"
},
{
"paragraph_id": 33,
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"text": "尚、物理学者のカール・セーガンは、著書の中で「一般的に科学者とは権威ある地位とみられがちであるが、単なる専門職であり、科学において権威というものは意味を成さず、かえって邪魔(ハロー効果)になる」と述べた。",
"title": "その他"
}
] | 科学者とは、科学を専門とする人・学者のことである。特に自然科学を研究する人をこう呼ぶ傾向がある。 | '''科学者'''(かがくしゃ、{{lang-en|scientist}})とは、[[科学]]を[[専門]]とする人・[[学者]]のことである<ref name="名前なし-1">広辞苑</ref><ref name="名前なし-2">大辞泉</ref>。特に[[自然科学]]を[[研究]]する人をこう呼ぶ傾向がある<ref name="名前なし-2"/><ref name="名前なし-1"/>。
== 名称の歴史 ==
もともと[[自然]]を対象とした[[知]]の探求は「[[自然哲学]]」({{lang-la|philosophia naturalis}}、{{lang-en|natural philosophy}})と呼ばれ、それに携わる人々は[[1800年]]ごろでも'''natural philosopher'''「'''自然哲学者'''」や'''savan'''「'''知者'''」などと呼ばれていた<ref>{{Cite |和書 |author = 井山弘幸・金森修 |title = 現代科学論|edition = 第1 |date = 2000| pages = 17|publisher = [[新曜社]] |isbn=4-7885-0740-4|ref = harv }}</ref>。
だが、philosophyの名で呼ばれていた知識一般の中から、独自の[[性質]]を持つ知が生まれたと認知され、その知を呼ぶのにラテン語scientia、英scienceの名称が用いられるようになったことや、その知を探求する専門家集団が自らの存在を他の集団と区別して語り始めたことを反映して、[[1834年]]に[[ウィリアム・ヒューウェル]]がscientiaから派生させる形でscientistという語を[[造語]]、scienceに携わる人々を'''scientist(サイエンティスト)'''と呼ぶことを提案した<ref>{{Cite |和書 |author = 井山弘幸・金森修 |title = 現代科学論|edition = 第1 |date = 2000| pages = 17~18|publisher = [[新曜社]] |isbn=4-7885-0740-4|ref = harv }}</ref>。それが定着し現在に至っている。
== 科学者の歴史 ==
遡れば[[古代ギリシャ]]や[[古代ローマ]]等においても自然に関する探求(=自然哲学philosophia naturalis)は行われていた。だが当時の哲学の最重要課題と言えば、人間の生き方や集団のあり方に関する倫理的な思索であり、自然哲学はあくまでその哲学体系のごく一部という位置づけであり、自然哲学だけが単独で行われるということは少なかった。したがって自然哲学に携わる哲学者はどうしても脇役的な存在となり、社会的に重視されることはほとんどなかった。
16-17世紀、[[ヨーロッパ]]で[[科学革命]]と呼ばれる近代科学成立の動きがあったことや、自然哲学研究のための[[学会]]や[[アカデミー]]が成立し、そこに集った人々が様々な活動をしたことで、初めて自然哲学者には、他の哲学者とは何かしら異なった役割があることが理解されるようになった。だが、その科学革命の後でも自然哲学者たちは自然哲学そのもので収入を得ていたわけではなく、他に生計の基盤があった。例えば、元々広大な領地を持つ[[貴族]]の生まれであったり、大[[商人]]であったり、[[聖職者]]等としての生活基盤を持っていたりしており、つまり現在で言うところの[[アマチュア・サイエンティスト]]であり、彼らにとって自然哲学は[[知的好奇心]]を満たす[[趣味]]としての性質を持っていた。
[[19世紀]]に入ると、自然哲学ないし科学の高度化とともに、[[大学]]等の[[教育機関]]に科学の教育のための[[講座]]・コースが設けられ正規の教育体系として扱われるようになり、そのコースで指導教官の下、体系的に科学を習得した若者が生み出されるようになった。また、[[研究所]]も設置されるようになり、彼らの働く場所が出現した。このようにして科学者は専門的職業の一つとして確立し、それを表すかのように[[ウィリアム・ヒューウェル|ヒューウェル]]によりサイエンティストという名称の使用が提唱されたのである。
現代の科学者のほとんどは、18世紀までのアマチュア・サイエンティストのように独りで趣味的に自然を探求しているのではなく、大学あるいは何らかの[[研究機関]]と[[雇用契約]]を結び、[[給料]]を支払われ、研究設備の使用を許可され、[[研究費]]を割り当てられている。
== 近年の科学者の共同体と競争原理 ==
現代の科学者は、大きな科学共同体の中で生かされているような面がある。各人は専門化された[[学会]]に所属したり、[[学術誌]]等を講読することで他の科学者の研究により明らかになった新しい科学的知識を得ることができる。また、科学者は学会や学術誌で研究成果を発表することで、他の科学者からの評価を受ける必要がある。
それらの場で研究成果により高い評価を得た者は、次第に優秀な科学者と認知されるようになり、それに伴い高い[[地位]]、潤沢な[[研究費]]、[[助手 (教育)|助手]]、社会からの賞賛などが結果として与えられることが多い。だがその逆に研究成果を示すことができない者は低い評価が与えられ、研究費が削られ、社会的にも次第に不本意な状況に置かれることが多い。
研究成果の評価の基準のひとつとして、研究成果に新しい科学的発見が含まれているかどうか、という点がある。これを別の角度から見れば、同じ内容の研究をし同程度に努力していても、何かを先に発見した者、つまりpriority[[プライオリティ]]([[先取権]])を確保した者が高く評価され、遅れて発見したとされる者はたとえ独自に発見したとしても大抵の場合評価されないという原理が働いていることも意味する。例えば[[ノーベル賞]]などでも先取権を持つ者に賞と賞金が授与される。このような原理を背景として、先取権を巡って科学者(のグループ)同士で激しい争いとなることがある。
この競争原理は、一方で科学知識の進歩を促進してきたという効果が認められている。他方、科学者に対しては他者に先駆けて研究成果を出さなければならないという心理的な圧力を感じさせることで、科学者による様々な不正行為や病理的行動を生み出す原因ともなっている。
== 科学者による不正行為 ==
{{main|科学における不正行為}}
上記の構図の中で心理的に追い詰められた科学者の一部が起こす一連の病理的な行動は''publish or perish syndrome''「発表するか死か [[症候群]]」などと呼ばれることがある。
科学者が道徳的かどうか、または不道徳で不正行為を行う可能性があるかどうかについての研究があった。この研究は、厳密なジャーナルであるPLOS ONEで発表された。結論としては、科学者は本質的に不道徳ではないが、不道徳な行動を取る可能性があるだけである<ref>{{Cite journal|author=Bastiaan T. Rutjens, S. Heine|year=2016|title=The Immoral Landscape? Scientists Are Associated with Violations of Morality|journal=PLoS ONE}}</ref>。
科学者の一部には、功を焦るあまりに不正行為を行う者がいる。不正行為の内容としては、実験データの改ざん・捏造、[[アイディア]]の盗用、[[論文]]の盗用、[[試料]]の窃盗、実験[[データ]][[メディア (媒体)|記録媒体]]の窃盗などがある。このような不正行為は、内容によっては科学界を揺るがす[[事件]]となったり、さらには[[マスメディア|マスコミ]]を通じて広く一般の人々にも知られることもある。
また[[論文]]の成立に何ら直接貢献していない者が、ただ[[研究室]]の責任者の立場にいるというだけで論文の共同執筆者として名を連ねるという不正行為がある。このように立場の強い者が陰に陽に政治的影響力を行使して名を連ねさせる場合もあれば、逆に論文執筆者側が、誰かから何らかの利益が供与されることを期待して共同執筆者として名を表示する機会を提供している場合もある。また同一グループ内の複数の科学者が共犯的に相互の論文の共同執筆者として名を連ね、互いの業績数を水増しするようなことも行われることがある。これらの共同執筆者に関わる不正行為は科学者の間ではその不正な性質を隠蔽する形でhonorary authorship「名誉のオーサーシップ」やgift authorship「ギフトオーサーシップ」などと呼ばれることがある、が名称は何であれ不正行為には変わりないというのが公的機関の公式見解である。
また、科学者が既得権益者となってしまった場合、新しい研究成果に照らして考えを変えることは特に困難である<ref>{{Cite web|和書|title=Uncommon Sense Teaching: Part 2, Building Community and Habits of Learning |url=https://www.coursera.org/learn/building-community-habits-of-learning |website=Coursera |access-date=2022-06-06 |language=ja}}</ref>。これは別に法的な不正行為ではないが、結果として学界に不利になる。科学革命によれば、科学活動全般が進歩する中で、研究手法や科学全体の大前提が変わるというパラダイムシフトがしばしば起こる。そして、この大前提の変化は、たいてい若者や他分野の専門家によってもたらされる。このため、若手や他分野の専門家は特に有用であるはずだ<ref>{{Cite web |url=https://cte.univ-setif2.dz/moodle/pluginfile.php/13602/mod_glossary/attachment/1620/Kuhn_Structure_of_Scientific_Revolutions.pdf |title=The Structure of Scientific Revolutions |access-date=2022-06-06}}</ref>。
例えば各[[省庁]]や関連の公的機関に対して提出する研究費申請書類に上記のような不正を利用し、それにより支給された研究費を使った場合などは、もはや科学という学問内部の規範の問題では済まず、[[公文書偽造]]および[[公金]][[横領]]という重大な[[違法行為]]、明らかな[[犯罪]]行為であるので、そのようなことを行った者は[[逮捕]]・[[処罰]]される可能性がある。
最近の科学者による不正行為の例として、「[[ファン・ウソク]]」や「[[ヘンドリック・シェーン]]」、「[[小保方晴子]]」の項が参照可。
== 科学者と行為責任 ==
現代では科学と技術が[[軍事]]、[[外交]]、[[政治]]、[[経済]]、[[社会]]、個人生活にまで及ぼす影響が大きく、そして深刻になっている。例えば[[核兵器]]の開発により、[[第二次世界大戦]]中に数十万人が命を落としただけでなく([[原爆]]の項参照)、その後の[[冷戦]]時代に一歩誤れば人類が滅亡しかねない状況も起きた。そのため、科学者の個人としての活動であれ、集団としての活動であれ、その活動の行為責任・社会的責任を問う声が、科学者自身からも科学者以外の人々からも発せられ、広く議論となった。このような議論を踏まえ、[[1980年]]に日本の科学者達は「[[科学者憲章]]」を発表した。
この憲章の後も、科学者の社会的責任・行為責任への人々の関心は高く、科学者の活動のあり方は今後も問われ続けることであろう。
== 科学者とエンジニア ==
科学者が基礎的な研究を行う傾向があるのに対して、[[エンジニア]]のほうが概して時間的に限定された中で具体的な成果を出す活動を行っている傾向があると、大まかに区別することは可能だが、科学者とされる人が極めてエンジニア的な活動を行っていることもあるし、逆にエンジニアとされる人が高度に科学的な発見を学会等で公表することもあり、常に境界がはっきりとあるわけではない。<!--この3行は英語版をある程度参考にした-->
現代において、科学が人々から賞賛されているのは、必ずしも科学者と呼ばれる人々の活動が評価されているからではなく、[[エンジニア]]達が行っている活動、すなわち人々の具体的な要望や組織の要求事項を理解しようとする努力を惜しまず、その要望に応えて成果を制限時間内に着実に出す活動が、個人生活や企業活動の中で大いに評価・賞賛されていて、その波及効果で科学者全体の評価も高められているという側面があることも見逃してはならないだろう。
「'''[[エンジニア]]'''」の項も参照のこと。
== 科学者と創造的思考 ==
意外なことに、記憶力の良い科学者は、自分の記憶力を過信して、新しい研究成果を無視する傾向がある<ref>{{Cite web|和書|title=2: Introduction to Critical Thinking from a Neuroscientific Perspective - Week 3: Intellectual Humility, Critical Thinking, and Bias |url=https://www.coursera.org/lecture/building-community-habits-of-learning/2-introduction-to-critical-thinking-from-a-neuroscientific-perspective-febF0 |website=Coursera |access-date=2022-06-05 |language=ja}}</ref>。短期記憶が苦手な人は、一見無関係な現象につながりを発見する傾向がある。新しいことを学ぶのが遅い人は、新しいことを学ぶのが早い人よりも、その学習過程から思いがけない発見をしやすい<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=1: Race Cars, Hikers, and Intellectual Humility - Week 3: Intellectual Humility, Critical Thinking, and Bias |url=https://www.coursera.org/lecture/building-community-habits-of-learning/1-race-cars-hikers-and-intellectual-humility-MkUVB |website=Coursera |access-date=2022-06-05 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=1-2 The Value of Being a Slow Learner - Change IS possible |url=https://www.coursera.org/lecture/mindshift/1-2-the-value-of-being-a-slow-learner-4oCev |website=Coursera |access-date=2022-06-02 |language=ja}}</ref>。創造性については、多くの研究がなされている。創造性は、新しい分野に挑戦したり変化を求めたりする際に、無能感に怯まないことと関連している<ref>{{Cite web|和書|title=1-4 The Value of Your Past - Change IS possible |url=https://www.coursera.org/lecture/mindshift/1-4-the-value-of-your-past-Yw1vu |website=Coursera |access-date=2022-06-02 |language=ja}}</ref>。したがって、社会的な協調性の欠如や非集団性の傾向は、新しい経験に対する開放性と同様に、高い創造性と関連している<ref>{{Cite web|和書|title=Optional Interview with Dr. Robert Bilder on Creativity and Problem Solving - What is Learning? |url=https://www.coursera.org/lecture/learning-how-to-learn/optional-interview-with-dr-robert-bilder-on-creativity-and-problem-solving-ZOTmt |website=Coursera |access-date=2022-06-02 |language=ja}}</ref>。信じられないことに、内向的で内気な人々も比較的創造的である<ref name=":0" />。
== 著名な科学者 ==
[[:Category:科学者]]を参照のこと。特筆に値する科学者が当百科事典の記事となっている。
<!--
下のリストは選ぶ基準が示されていない独自の研究。もし示すならまず出典が必要であり、たとえば『歴史に残る科学者100人』『世界で有名な科学者トップ50人』といった題名の文献を2~3個ほど挙げて、投稿者の主観を排して、中立的に記述しないといけない。
*[[エンリコ・フェルミ]] :[[統計力学]]、[[核物理学]]および[[量子力学]]の分野で顕著な業績を残している。
*[[スティーブン・ホーキング]] :[[理論物理学者]]。[[量子宇宙論]]の第一人者。現代宇宙論に今も多大な影響を与えている人物として知られている。
*[[レフ・ランダウ]] :[[絶対零度]]近くでの[[ヘリウム]]に対する理論的研究によって[[ノーベル物理学賞]]を授与されている。理論物理学者。
-->
== 科学者と信仰 ==
[[1914年]]に心理学者{{仮リンク|ジェームズ・リューバ|en|James H. Leuba}}が、米国のおよそ1000人の科学者に対して信仰についてのアンケート調査を行ったところ、42%の科学者が神を信じていると回答し、42%の科学者が信じていないと回答した、との結果が出た<ref name="pew_sb">{{Cite web |url=http://www.pewforum.org/Science-and-Bioethics/Scientists-and-Belief.aspx|title=PewResearchCenter "Scientists and Belief"|accessdate=2012-11-16}}</ref>。
リューバの調査からおよそ80年後の[[1996年]]に、科学史研究者のEdward Larsonが、同調査と同数の科学者に対して、まったく同じ質問内容で調査をおこなったところ、40%の科学者が神を信じていると回答し、45%の科学者が信じていないと回答した<ref name="pew_sb" />。
2009年に{{仮リンク|ピュー・リサーチセンター|en|Pew Research Center}}が、[[アメリカ科学振興協会|全米科学振興協会]](AAAS)のメンバーの科学者に対して(今度は上記とは少し異なった 次のような質問文を用いて)調査を行ったところ、「(I) believe in God 神を信じる」とした人が33%、「(I)don't believe in God, but do believe in a universal spirit or higher power 神は信じないが、ユニバーサルなスピリットあるいは超越的な力を信じている」とした人が18%、「(I)don't believe in either どちらも信じない」とした人が41%、「(I)don't know / Refused “私には分からない”もしくは回答せず」が7%であった<ref name="pew_sb" />。この調査結果からすると、調査対象になった科学者のちょうど半数ほど(51%)が、神あるいは何らかの超越的な力を信じている、と回答したことになる<ref name="pew_sb" />。(参考までに比較対象として、2006年に同リサーチセンターがアメリカ合衆国人全般を対象として調査を行った結果は、95%が何らかの神や超越的な力を信じている、と回答したのであった。また、41%の科学者が「神を信じない」と回答したわけだが、それと比較するとアメリカ人全般ではわずか4%がそう回答しただけであった<ref name="pew_sb" />。)
一方、『[[利己的な遺伝子]]』での[[進化生物学者]][[リチャード・ドーキンス]]によると、破壊的で危険な「[[ミーム]]」の典型例は[[宗教]]であり、
{{Quotation|[[信仰]]は[[精神疾患]]の一つとしての基準を満たしているように見える}}
という{{Sfn|ドーキンス|2018|p=536}}。ドーキンスは、文化的[[自己複製子]]「ミーム」の理論に関して
{{Quotation|[[哲学]]的だろうが、そうでなかろうが、私の主張に欠陥があるとは誰も指摘できていないのが事実である。}}
とも述べている{{Sfn|ドーキンス|2018|p=527}}。『利己的な遺伝子』の邦訳者の一員である[[進化生態学者]]・[[岸由二]]は、40周年記念版(2018年刊行)の後書きでこの本を「名著」と呼び、次のように評価している{{Sfn|ドーキンス|2018|pp=554-555}}。
{{Quotation|四〇年を生き抜いた本書は、現代の進化論的生態学の視野をみごとに紹介する[[学術書]]、当該分野の研究・批評を志す者の必読の[[入門書]]として、評価も確定したと言ってよいだろう。{{Sfn|ドーキンス|2018|pp=554-555}}}}
[[計算機科学]]者(コンピュータ科学者)・[[数理論理学者]]・[[博士(哲学)|哲学博士]](Ph.D. in Philosophy)である[[:en:Torkel Franzén|トルケル・フランセーン]]{{sfn|フランセーン|2011|p=奥付け}}は、哲学者たちによる数学的な言及の多くが
{{Quotation|ひどい[[誤解]]や[[自由連想]]に基づいている}}
と批判している{{sfn|フランセーン|2011|p=4}}。フランセーンによると、“[[不完全性定理]]は数学や理論の「不完全性」を証明した”といった誤解や、“数学には「不完全」な部分があると証明済みであり、数学以外の分野に「不完全」な部分があってもおかしくない”といった誤解が一般[[社会]]・哲学・[[宗教]]・[[神学]]等によって広まり、誤用されている{{sfn|フランセーン|2011|p=4, 7, 126-127}}。
なお、[[うつ病]]の有無を血液(血中[[エタノールアミンリン酸|PEA]]濃度)で計測する検査法を開発し、臨床現場でも用いている[[心療内科医]]の[https://www.g-clinic.net/doctor/ 川村則行]は
* 「“心”という目に見えないもので語るより、[[体]]の[[病気]]と同じように[[物質]]で解き明かしたほうが理解しやすい」。
* 「[[精神疾患]]は“[[神経伝達物質|物質]]の病気”であり、“[[身体疾患による精神障害|体の病気]]”である」。
等と述べている{{Sfn|佐田|2019|p=4}}。
{{関連記事|哲学#現代理工医学からの批判|[[神は妄想である|『神は妄想である』(ドーキンス)]]|[[ゲーデルの不完全性定理#宗教|不完全性定理への宗教的誤解]]}}
== その他 ==
尚、物理学者の[[カール・セーガン]]は、著書<ref>[[青木薫]] 訳『人はなぜエセ科学に騙されるのか』(新潮社、2000年)</ref>の中で「一般的に科学者とは権威ある地位とみられがちであるが、単なる[[専門職]]であり、[[科学]]において[[権威]]というものは意味を成さず、かえって邪魔([[ハロー効果]])になる」と述べた<ref group="注">逸話:理論物理学者の[[リチャード・ファインマン]]は相手が大家や権威であろうとも意見が変だと思えば『いや、違う、違う。あんたは間違っているぞ』とか『気でもふれたか(You must be crazy.)』などと、つっけんどんな反論を行った。ロス・アラモス研究所に在籍中、[[ハンス・ベーテ]]や、当時物理界の大物として知られた[[ニールス・ボーア]]は、彼らの名声におののいて本音を言おうとしない周囲の科学者たちに比べて、率直な本音しか言わない若手のファインマンを気に入り、個人的な相談相手として起用していた。</ref>。
<!--
==科学者の社会的地位==
百科事典では通常「科学者の社会的地位」には言及していない。掲載しないほうがむしろ良いのでは。
それに出典が怪しい。「科学者の社会的地位」の出典とできるような、それを中心テーマとして扱った書籍、きちんと調査をしたうえでデータをまとめた本、まるまるそのテーマに捧げられた一章があるのだろうか?
投稿者は自分の個人的な感情で、文章をデタラメに合成しただけのようだ。
{{要出典}}古くから科学に対して高く位置づけられている英国等欧州諸国では爵位を授けられた者が少なくない。{{要出典}}ユーロに統合される前の紙幣には科学者の肖像が顕されていた。{{要出典}}また、国際政治の場での政治から離れた話題として科学的成果が晩餐会等で話題になる場合も少なくない。
-->
<!--
==科学者と技術者の位置づけに対する一般的な混同が生み出す社会問題について==
出典が存在するのか、非常に怪しい。「科学者と技術者の位置づけに対する一般的な混同が生み出す社会問題について」の出典とできるような、それを中心テーマとして扱った書籍、きちんと調査をしたうえでデータをまとめた本、まるまるそのテーマに捧げられた一章があるのだろうか?
文章のスタイルから見て、投稿者は自分の個人的な感情で、文章をデタラメに作り出して合成しただけのようだ。
-->
<!--{{要出典範囲|科学者とは理論の世界に閉じているが故に、自然科学の現象を研究の対象として実験を繰り返すその過渡期において、仮に技術的に高度な分野による研究活動の問題解決が多種多様に図られたものだとしても、結論として特定の回答にたどり着く為の一連の活動としての解決策の一つとしての位置づけであるが故に、高度な技術を用いた科学的実験が繰り返されたとしても、それ(技術)が主体として研究されるものではない。|date=2011年5月}}-->
<!--
{{要出典範囲|技術者とは属人性として科学者が研究を通じて生み出した理論の世界を基礎として極めて深く理解(精通)した人物が、人間社会や自然界(場合によっては動物社会や宇宙を含め)に対して、その理論を応用する中で、特定の目的や目標にたどり着く為の一連の行為を行う立場であり、科学と技術の決定的な違いは、科学には必ず絶対的な答え(理論としての公式なのか定理なのか)が最終目標として存在するが、技術には答えが無い(その時に生きたその技術者がその瞬間に導き出した回答が正解であるのか間違いであるのか、それはその瞬間に確認を可能とするものでは無く、後々に誰かが正確に判断できるものでも無く、教訓や経験をその当事者や後世の子孫が個人的かつ属人的に培うに過ぎない)所である。|date=2011年5月}}-->
<!--
{{要出典範囲|日本の場合は、実務の中で(雇用者では無く)労働者として社会貢献活動を行う傾向が強い技術者よりも、大学やシンクタンクをはじめとした公的な機関と深い接点を持ちながら活躍の場を与えられる傾向の多い科学者の方が優遇される傾向にあり、技術者の地位は欧米諸国に比べて極めて低く、社会的な認知度の低さも相まってその役割のあり方や重要性が理解されづらい傾向にあるが、科学と技術は優劣無く一蓮托生の存在であり、技術としての価値を意図しない科学への研究開発に対する莫大な投資は、近年、日本が国際社会の中で特許大国と称されながらも、実態としてそれが実際に直接的に社会的価値に結びつくものでは無い日本の知財管理に対する姿勢からもうかがい知る事ができる。|date=2011年5月}}-->
<!--
仮に出典があったとしても、日本に特定したことを書くのは止めておいたほうが良い。
{{要出典範囲|物質的資源の乏しい日本が、これからも経済的な発展を継続的に可能とし、尚且つ諸外国と対等な立場で外交関係を維持して行く為にも、技術者の価値を社会的により高い地位として一般的に認知させて行く事や、技術者の育成に対して国家的な戦略的位置づけを以て、それを重視すべき事は科学技術立国のあるべき姿として当然の姿であり、ただ単に公共財の位置づけで社会的インフラ(ハード)を整備するだけでは、有名無実である事は本来国際社会の一員として常識たる認識とすべきである。|date=2011年5月}}-->
==関連文献==
*[[村上陽一郎]]『科学者とは何か』新潮社1994年 ISBN 4106004674。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参照文献 ==
* {{Cite web|和書
|last = 佐田
|first = 節子
|editor = 黒住紗織(構成)
|year = 2019
|url = https://project.nikkeibp.co.jp/behealth/atcl/feature/00003/091300031/?P=4
|title = 血液検査で「うつ病」を診断する時代へ:客観的な診断法としての期待高まる
|publisher = [[日経BP]]総合研究所
|accessdate = 2020-10-19
|ref = harv
}}
* {{Cite book|和書
|last = ドーキンス
|first = リチャード
|authorlink = リチャード・ドーキンス
|date = 2018-2-15
|title = 利己的な遺伝子
|edition = 40周年記念版
|publisher = 紀伊國屋書店
|isbn = 978-4314011532
|ref = harv
}}
* {{Cite book|和書
|last = フランセーン
|first = トルケル
|authorlink = :en:Torkel_Franzén
|translator = [[田中一之]]
|year = 2011
|title = ゲーデルの定理:利用と誤用の不完全ガイド
|publisher = みすず書房
|isbn = 978-4622075691
|ref = harv
}}
==関連項目==
* [[:Category:博士(理学)取得者|博士(理学)取得者]]
* [[:Category:修士(理学)取得者|修士(理学)取得者]]
** [[理学]]/[[自然科学]]
*** [[基礎科学]] - [[基礎研究]] - [[科学]]
* [[:Category:工学者|工学者]] - [[エンジニア]]
** [[理工学]] - [[工学]]/[[エンジニアリング]]
*** [[応用科学]] - [[研究開発]]
* [[マッドサイエンティスト]]
<!-- [[:en:List of scientists]] -->
* [[科学社会学]]
* [[科学史]]
* [[ノーベル賞]]
* [[イグノーベル賞]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
* [https://web.archive.org/web/20090725193820/http://gw.civic.ninohe.iwate.jp/kagaku/menu01.html 日本の科学者・技術者100人]
* [https://web.archive.org/web/20010610004253/http://www.jtnet.ad.jp/WWW/JT/Culture/BRH/ Biohistory Research Hall]
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:かかくしや}}
[[Category:科学者|*]]
[[Category:科学関連の職業]] | 2003-05-20T06:30:13Z | 2023-11-29T22:07:06Z | false | false | false | [
"Template:Cite journal",
"Template:Cite web",
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"Template:Sfn",
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"Template:Reflist",
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"Template:Cite book",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%91%E5%AD%A6%E8%80%85 |
8,779 | ディスプレイ | ディスプレイ(英: display)
もとの英語では動詞的用法と名詞的用法があり、以下のような意味がある。 | [
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"text": "ディスプレイ(英: display)",
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}
] | ディスプレイ もとの英語では動詞的用法と名詞的用法があり、以下のような意味がある。 陳列、展示、表示すること。
みせびらかし、ひけらかし。
哺乳類や動物全般が、求愛したり威嚇するために特定の音・動作・姿勢を見せる行為→求愛行動、威嚇の記事を参照。
特に鳥類が行うディスプレイについては「鳥類用語」の「ディスプレイ」を参照。
展示や表示するための仕組みや装置。
ディスプレイデバイス全般。
ディスプレイ (コンピュータ)
「Category:ディスプレイ技術」も参照可。 | [[ファイル:Gallery_of_Old_European_Painting_Campin.jpg|サムネイル|[[ロベール・カンピン]]の『信奉者の絵画』を展示、保護するディスプレイの例]]
[[Image:SuperstoreWinkler5.JPG|thumb|[[野菜]]や[[果物]]の[[店頭]]での[[陳列]]]]
'''ディスプレイ'''({{Lang-en-short|display}})
もとの英語では動詞的用法と名詞的用法があり、以下のような意味がある。
* [[陳列]]、[[展示]]、[[表示]]すること。
* みせびらかし、ひけらかし。
* 哺乳類や動物全般が、求愛したり威嚇するために特定の音・動作・姿勢を見せる行為→[[求愛行動]]、[[威嚇]]の記事を参照。
**特に鳥類が行うディスプレイについては「[[鳥類用語]]」の「ディスプレイ」を参照。
* 展示や表示するための仕組みや装置。
** [[ディスプレイデバイス]]全般。
** [[ディスプレイ (コンピュータ)]]
**「[[:Category:ディスプレイ技術]]」も参照可。
== 関連項目 ==
* [[ディスプレイ業]]
* [[ディスプレイ広告]]
* [[展示会]]、[[展覧会]]、[[博物館]]、[[動物園]]
* [[陳列]](当ウィキペディア内に大きな項目が立てられている)
**[[:en:Display case]]、[[:en:Display stand]]、[[棚|商品棚]]、[[ショーウインドー]]
* 分子ディスプレイ法 - [[生化学]]技術の1分野の総称。ディスプレイされたタンパク質の各々を対応する遺伝子に紐付ける方法で、タンパク質の性質から遺伝子を選び出すのに利用できる。
**[[ファージディスプレイ]]
**[[インビトロウイルス法]](mRNAディスプレイ)
* {{prefix}}
{{Aimai}}
{{デフォルトソート:ていすふれい}}
[[Category:英語の語句]] | null | 2023-07-21T02:39:11Z | true | false | false | [
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"Template:Prefix",
"Template:Aimai"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%A4 |
8,780 | 位相同型 | 位相同型 (いそうどうけい、英: homeomorphic)、あるいは同相(どうそう)とは、2つの位相空間が位相空間として等しいことを表す概念である。
例えば、球の表面と湯飲みの表面とはある「連続」な双方向の移し方で互いに移し合うことができるので同相であり、また穴が1つ開いたドーナツの表面 (トーラス) と持ち手がひとつあるマグカップの表面も同じく同相である。よって球の表面と湯のみの表面は位相幾何学的に全く同一の性質を持ち、ドーナツの表面とマグカップの表面も同一の性質を持つ。しかし、球面とトーラスとはこのような写し方が存在しないので同相とはならない。(直観的には、連続的な変形によって穴の個数が変化することはないということである。)
ここで連続な写し方とは、直観的には近いところを近いところに写すような写し方を意味する。
位相空間 A, B の間の写像 f: A → B が連続かつ全単射で、その逆写像もまた連続であるとき、f を同相写像 (homeomorphism)、あるいは単に同相という。同相写像の逆写像は明らかに同相である。A と B との間に同相写像が存在するとき、A と B は同相、あるいは位相同型であるという。 | [
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"text": "例えば、球の表面と湯飲みの表面とはある「連続」な双方向の移し方で互いに移し合うことができるので同相であり、また穴が1つ開いたドーナツの表面 (トーラス) と持ち手がひとつあるマグカップの表面も同じく同相である。よって球の表面と湯のみの表面は位相幾何学的に全く同一の性質を持ち、ドーナツの表面とマグカップの表面も同一の性質を持つ。しかし、球面とトーラスとはこのような写し方が存在しないので同相とはならない。(直観的には、連続的な変形によって穴の個数が変化することはないということである。)",
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"text": "位相空間 A, B の間の写像 f: A → B が連続かつ全単射で、その逆写像もまた連続であるとき、f を同相写像 (homeomorphism)、あるいは単に同相という。同相写像の逆写像は明らかに同相である。A と B との間に同相写像が存在するとき、A と B は同相、あるいは位相同型であるという。",
"title": "定義"
}
] | 位相同型 、あるいは同相(どうそう)とは、2つの位相空間が位相空間として等しいことを表す概念である。 例えば、球の表面と湯飲みの表面とはある「連続」な双方向の移し方で互いに移し合うことができるので同相であり、また穴が1つ開いたドーナツの表面 (トーラス) と持ち手がひとつあるマグカップの表面も同じく同相である。よって球の表面と湯のみの表面は位相幾何学的に全く同一の性質を持ち、ドーナツの表面とマグカップの表面も同一の性質を持つ。しかし、球面とトーラスとはこのような写し方が存在しないので同相とはならない。(直観的には、連続的な変形によって穴の個数が変化することはないということである。) ここで連続な写し方とは、直観的には近いところを近いところに写すような写し方を意味する。 | {{出典の明記|date=2015年10月}}
[[Image:Mug_and_Torus_morph.gif|thumb|right|位相同型の例。ドーナツとマグカップは同相である。]]
'''位相同型''' (いそうどうけい、{{lang-en-short|homeomorphic}})、あるいは'''同相'''(どうそう)とは、2つの[[位相空間]]が位相空間として等しいことを表す概念である。
例えば、[[球面|球]]の[[球面|表面]]と[[茶碗|湯飲み]]の表面とはある「[[連続写像|連続]]」な双方向の移し方で互いに移し合うことができるので同相であり、また穴が1つ開いたドーナツの表面 ([[トーラス]]) と持ち手がひとつある[[マグカップ]]の表面も同じく同相である。よって球の表面と湯のみの表面は[[位相幾何学]]的に全く同一の性質を持ち、ドーナツの表面とマグカップの表面も同一の性質を持つ。しかし、球面とトーラスとはこのような写し方が存在しないので同相とはならない。(直観的には、連続的な変形によって穴の個数が変化することはないということである。)
ここで連続な写し方とは、直観的には近いところを近いところに写すような写し方を意味する。<!--(変形の途中で空間を切り開いてしまっても、後でまた元のように貼り合わせれば「連続」となる)-->
== 定義 ==
[[位相空間]] ''A'', ''B'' の間の[[写像]] ''f'': ''A'' → ''B'' が[[連続写像|連続]]かつ[[全単射]]で、その逆写像もまた連続であるとき、''f'' を'''同相写像''' (homeomorphism)、あるいは単に同相という。同相写像の逆写像は明らかに同相である。''A'' と ''B'' との間に同相写像が存在するとき、''A'' と ''B'' は同相、あるいは位相同型であるという。
* 平面内の閉[[円板]] ''D<sup>2</sup>'' と平面内の正方形 ''I'' × ''I''(ただし ''I'' = [0, 1])とは同相である。一般に平面内の[[多角形]]とも同相である。
* [[円周]] ''S''<sup>1</sup> から一点を取り除いてできる空間と[[実数直線|実直線]]は同相である。
* [[リー群]] SO(3) は三次元球体 ''D''<sup>3</sup> = {( ''x'' , ''y'' , ''z'' ) | ''x<sup>2</sup>'' + ''y<sup>2</sup>'' + ''z<sup>2</sup>'' ≦ 1} の商空間 ''D''<sup>3</sup>/''R'' と同相である。ここで同値関係 ''xRy'' を、''x'' = ''y''、または、''x'' = −''y'' かつ ||''x''|| = 1, で定める。
* 定義において、逆写像の連続性は本質的である。直観的に同相でない二つの空間、半開区間 [0,2π) と平面内の円周 ''S''<sup>1</sup> において、前者から後者への写像 ''t'' → (cos ''t'', sin ''t'') は連続写像で逆を持つが、逆写像は連続でない。
== 性質 ==
* 明らかに、同相写像の逆写像は同相写像であり、同相写像の合成も同相写像である。よって、ある空間の自己同相写像全体は[[群 (数学)|群]]をなす。
* 同相は位相空間全体の空間に[[同値関係]]を定める。
* 同相写像は[[開集合]]を開集合に、[[閉集合]]を閉集合に写し、[[位相的構造]]を保つ。つまり、位相空間としての性質([[コンパクト (数学)|コンパクト]]性、[[連結 (数学)|連結]]性など)を一切変えない。
* 同相写像は、位相空間の[[圏 (数学)|圏]]における[[射 (圏論)|同型射]]である。
== 位相空間論における同値関係 ==
* 連続変形による同値関係。位相同型よりも強い。
* [[ホモトピー]]同値による同値関係。
* 2つの[[多様体]]の間には[[微分同相]]という概念を考えることができる。 多様体間の同相写像 ''f'' が ''C''<sup>''n''</sup> 級で、その逆写像も ''C''<sup>''n''</sup> 級である時、''f'' を''' ''C''<sup>''n''</sup> 級微分同相'''('''写像''')(diffeomorphism of class ''n'') という。
== 関連項目 ==
*[[局所同相]]
*[[微分同相]]
*[[ポアンカレ予想]]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:いそうとうけい}}
[[Category:同相写像|*]]
[[Category:位相幾何学]]
[[Category:数学に関する記事]] | 2003-05-20T07:10:58Z | 2023-08-24T21:49:41Z | false | false | false | [
"Template:Normdaten",
"Template:出典の明記",
"Template:Lang-en-short"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8D%E7%9B%B8%E5%90%8C%E5%9E%8B |
8,781 | デジタル加入者線 | デジタル加入者線(でじたるかにゅうしゃせん、英: Digital Subscriber Line, DSL)とはツイストペアケーブル通信線路で高速デジタルデータ通信を行う技術、もしくは電気通信役務を指す。
上りと下りの速度の異なるADSL(Asymmetric DSL)、CDSL(Consumer DSL)、VDSL(Very high speed DSL)、長距離向きのReach DSL、同じ速度のHDSL(High-bit-rate DSL)、SDSL(Symmetric DSL)などがありxDSLとも総称する。
施設構内のインフラストラクチャーとして既存のメタルケーブル加入者線を利用、兼用できるのが長所である。そのため、通信用に光ケーブルやLANケーブルなどを新たに敷設する必要が無い。ただし、xDSL対応のモデムが別途必要となる。
100m程度の距離で、主に建物内のメタル回線(アナログ電話回線)を使用してデータ通信をする用途。集合住宅などの主配線盤でFTTxを変換し既設の電話線で各加入者に分配するために使用されているほか、ホテル客室での高速インターネットにも使われている。
VDSL(Very high speed Digital Subscriber Line、超高速ディジタル加入者線)は1対のツイストペアケーブルで、ADSLより高速な通信を行なう。100m - 1.5km程度の通信を目的としており、それ以上の距離ではADSLの方が有利となる。ADSLよりも広い周波数帯域(最高30MHz)や速度優先の技術を採用しており、技術革新が大きいADSLの2倍以上の転送能力を持つ。
規格名はITU-T G.993.1。2001年11月29日に規格化された。
使用周波数帯域は0.64 - 30MHzで、上り下りとも速度を出せるようにいくつか帯域を区切り上り下りを交互に割り当てている。そのために最大速度も2000年代当時の光ファイバーの速度を基準に下りは100Mbps、上りは30Mbpsから100Mbpsとしているものが多い。なお日本でも初期のFTTxサービス提供時はVDSLの代わりにHomePNAも使われていたが、VDSLが広く普及するとともにあまり使われなくなった。
NTT西日本では2002年6月1日より、NTT東日本では2002年12月16日より、Bフレッツ・マンションタイプにてVDSLの提供を開始した。サービス開始当初は下り50Mbps、上り10Mbpsだった。NTT東日本では2004年5月27日より下り100Mbpsに高速化した。NTTでは2020年代になってもG.fastなどの新しい技術に移行せずにこの古い技術を使い続けている。
建物内での利用が一般的であるが、一般向けのADSL回線の高速版という位置づけで2004年8月よりJANISネット(株式会社長野県協同電算)がVDSLを利用したインターネット回線を提供していた。理論通信速度は60Mbpsだが、実際にADSL以上の通信速度が期待できるのはNTT局(または有線放送局)から1km以内の信号減衰の少ない電話回線のみとなる。それ以上の距離になると使用できる周波数帯が狭くなり、通常のADSLと同等またはそれ以下にまで性能が低下してしまう。
VDSLの機能拡張版。規格名はITU-T G.993.2。2006年2月17日に規格化された。プロファイル30aの場合、30MHzの周波数帯域で、上り・下り帯域合計で200Mbpsとなる。日本国内導入例は少ない。
従来のVDSLは、1Gbps前後まで向上している光ファイバー本線(局まで)の通信速度に比べ、低速でありボトルネックとなっていたが、106MHzの周波数帯域で、上り・下り帯域合計で最大1Gbpsを実現するG.fast(ITU-T G.9701)規格が2014年12月5日に制定、実装モデムが開発され、auひかり等の一部のISPで導入が進んでいる。既にVDSL等を導入済の集合住宅等において、集合装置および個宅のモデムを入れ替える事で高速化を図ることが可能。
当初は1GbpsのG.fast 106 MHz profileだけだったが、後に、上り・下り帯域合計で2GbpsのG.fast 212 MHz profileが追加になった。
G.fastの後継。規格名はITU-T G.9711で2021年4月23日に規格化された。周波数帯域は424MHzで、全二重モードの場合は上り・下り帯域合計で8Gbps、時分割二重化の場合は4Gbps。周波数帯域を848MHzへ拡大することも計画されている。MGfastはMulti-Gigabit fastの略。
規格制定前はXG-FASTやG.mgFastなどの名称で、G.fastから速度を10Gbpsに向上させるのを目指していた。ノキアが2020年商用化を目指していた。
DSLの研究で知られるJohn Cioffi等によると、理論上はメタル回線でも100mの距離でTbpsが実現可能であると主張している。
数km程度の距離で、例えば、基地局から建物までのメタル回線(アナログ電話回線)を使用してデータ通信をする用途。現在では光ファイバーに置き換わっていて、あまり利用されなくなっている。日本では2025年1月31日にADSLは終了。
ADSL(Asymmetric Digital Subscriber Line、非対称デジタル加入者線)は1対のツイストペアケーブル通信線路で、上り・下りの速度が非対称な通信を行う。
技術にも種類がありアメリカ合衆国からそのまま技術を受け継いだ"AnnexA"、Euro-ISDNと多重化可能な"AnnexB"、日本方式のTCM-ISDNの干渉を軽減した"AnnexC"等がある。
ReachDSLは、米パラダイン社が開発した遠距離での接続の確保を優先したDSLである。速度は最大でも上下ともに960kbpsと遅いが、その分通信距離が5 - 12km程度と長い。遠距離で損失が大きくなる高周波数の帯域を使用せず、損失が少ない低い周波数の帯域のみを使う。そのためISDNとの干渉も低いとされている。その後、速度を上下2.2Mbpsに向上させたRDSL2が発表された。米パラダイン社では路線長が5kmの場合1Mbpsの速度が出るとしている。
日本においてはJANISネット(株式会社長野県協同電算)が日本初のサービスを開始し、以後Yahoo! BB等様々な会社が提供しているがRDSL2方式によるサービスを行っているのはNTT西日本-四国と関西ブロードバンドのみである。RDSL2は、発表当時既にブロードバンド接続の主流がADSLからケーブルテレビやFTTxへと移行していたために普及しなかった。
CDSL(Consumer Digital Subscriber Line)は1997年10月28日にRockwell Semiconductor Systems社から発表されたxDSL規格。上り最大128kbps、下り最大1Mbpsが簡易DSL。
ADSLと似た特徴を持つが、ADSLよりも安価でスプリッタが必要ないという点が異なる。日本では初期からADSLが採用されたため普及しなかった。後に発表されたADSLのG.lite規格と類似している。
HDSL(High-bit-rate Digital Subscriber Line)は、2対のツイストペアケーブルを用いる送信・受信とも同じ速度の対称型DSLである。SDSLの2対版ともいえるもので、1対で送信・もう1対で受信を行う。使用帯域は200kHzと低いため最高速度は約2Mbpsにとどまるほか、アナログ電話回線との多重化はできない。しかし使用可通信線路長は20kmに及ぶ。
業務用に既設の構内電話線で用いられている。ただし、現在は光ファイバーの敷設が進み利用されることは少なくなっている。
SDSL(Symmetric Digital Subscriber Line)は東京めたりっく通信などが提供していた上下速度対称の方式。その技術はITU-Tで定義されているADSL規格、ITU-T G.992.1 Annex Hで取り決められている。
ISDNの「INSネット1500」と並ぶサービスとして企業・業務用に提供されたが、光ファイバーの登場・普及により下火になった。しかし普及度は低いものの、現在でもサービスを行っている業者もあり廉価な対称サービスとして展開されている。
速度は上下共に160kbps - 2Mbpsが一般的で160kbps時には最大6.9kmまでの距離を通信することが可能。
なおADSL同様に加入電話と共有することができるがSDSLの利用の特性上、個々で使うことが多い。その場合には共有したときよりも高速な通信が可能である。
DSLAM(Digital Subscriber Line Access Multiplexer)は、DSLの回線を集め高速な回線(いわゆるバックボーン)に橋渡しを行なう装置。回線収容局などに設置する。なお、この回線を集めることをアグリゲーションと呼ぶ。
なおDSLAMはDSLモデムとしての機能も兼ね備えているので、加入者側でもDSLAMのDSL規格に合致したDSLモデムを使う必要がある。
モデム(modem)は、デジタル変調、復調を行うデータ回線終端装置である。
スプリッタ(splitter)は、アナログ電話回線から送られてくる信号を、電話機のための信号とインターネット通信のためのDSLモデムのための信号とに振り分けるための分波器、混合器である。 | [
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"text": "CDSL(Consumer Digital Subscriber Line)は1997年10月28日にRockwell Semiconductor Systems社から発表されたxDSL規格。上り最大128kbps、下り最大1Mbpsが簡易DSL。",
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"text": "HDSL(High-bit-rate Digital Subscriber Line)は、2対のツイストペアケーブルを用いる送信・受信とも同じ速度の対称型DSLである。SDSLの2対版ともいえるもので、1対で送信・もう1対で受信を行う。使用帯域は200kHzと低いため最高速度は約2Mbpsにとどまるほか、アナログ電話回線との多重化はできない。しかし使用可通信線路長は20kmに及ぶ。",
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"title": "構成機器"
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"text": "なおDSLAMはDSLモデムとしての機能も兼ね備えているので、加入者側でもDSLAMのDSL規格に合致したDSLモデムを使う必要がある。",
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] | デジタル加入者線とはツイストペアケーブル通信線路で高速デジタルデータ通信を行う技術、もしくは電気通信役務を指す。 上りと下りの速度の異なるADSL、CDSL、VDSL、長距離向きのReach DSL、同じ速度のHDSL、SDSLなどがありxDSLとも総称する。 | {{IPstack}}
'''デジタル加入者線'''(でじたるかにゅうしゃせん、{{lang-en-short|Digital Subscriber Line, DSL}})とは[[ツイストペアケーブル]][[通信線路]]で高速[[デジタル]][[データ通信]]を行う[[技術]]、もしくは[[電気通信役務]]を指す。
上りと下りの速度の異なる[[#ADSL|ADSL]](Asymmetric DSL)、[[#CDSL|CDSL]](Consumer DSL)、[[#VDSL|VDSL]](Very high speed DSL)、長距離向きの[[#ReachDSL|Reach DSL]]、同じ速度の[[#HDSL|HDSL]](High-bit-rate DSL)、[[#SDSL|SDSL]](Symmetric DSL)などがあり'''xDSL'''とも総称する。
== 特徴 ==
施設構内の[[インフラストラクチャー]]として既存の[[銅|メタル]][[電線|ケーブル]][[加入者線]]を利用、兼用できるのが長所である。そのため、通信用に光ケーブルやLANケーブルなどを新たに敷設する必要が無い。ただし、xDSL対応のモデムが別途必要となる。
==短距離伝送用==
100m程度の距離で、主に建物内のメタル回線(アナログ電話回線)を使用してデータ通信をする用途。[[集合住宅]]などの[[主配線盤]]で[[FTTx]]を変換し既設の電話線で各加入者に分配するために使用されているほか、[[ホテル]]客室での高速インターネットにも使われている。
=== VDSL ===
[[画像:Vdsl modemunit for bflets.jpg|thumb|right|VDSLモデム]]
[[File:Home Gateway and Wi-Fi Router.jpg|thumb|right|VDSLホームゲートウェイ(右側はWi-Fiルーター)]]
[[File:VDSL A-100.jpg|thumb|right|VDSL信号をカットするインラインフィルタ(VDSL A-100)]]
'''VDSL'''('''Very high speed Digital Subscriber Line'''、超高速ディジタル加入者線<ref>{{Cite web |title=データ詳細 :: 超高速ディジタル加入者線(VDSL) :: 一般社団法人情報通信技術委員会 |trans-title= |author= |work=ttc.or.jp |date= |access-date=29 October 2023 |url= https://www.ttc.or.jp/document_db/information/view_express_entity/608 |language=ja}}</ref>)は1対のツイストペアケーブルで、ADSLより高速な通信を行なう。100m - 1.5km程度の通信を目的としており、それ以上の距離ではADSLの方が有利となる。ADSLよりも広い周波数帯域(最高30MHz)や速度優先の技術を採用しており、技術革新が大きいADSLの2倍以上の転送能力を持つ。
規格名は'''ITU-T G.993.1'''。2001年11月29日に規格化された。<ref>{{Cite web |title=G.993.1 : Very high speed digital subscriber line transceivers (VDSL) |author=tsbmail |work=itu.int |date= |access-date=28 October 2023 |url= https://www.itu.int/rec/T-REC-G.993.1}}</ref>
使用周波数帯域は0.64 - 30MHzで、上り下りとも速度を出せるようにいくつか帯域を区切り上り下りを交互に割り当てている。そのために最大速度も2000年代当時の[[光ファイバー]]の速度を基準に下りは100Mbps、上りは30Mbpsから100Mbpsとしているものが多い。なお日本でも初期のFTTxサービス提供時はVDSLの代わりに[[HomePNA]]も使われていたが、VDSLが広く普及するとともにあまり使われなくなった。
[[NTT西日本]]では2002年6月1日より、[[NTT東日本]]では2002年12月16日より、Bフレッツ・マンションタイプにてVDSLの提供を開始した。サービス開始当初は下り50Mbps、上り10Mbpsだった。NTT東日本では2004年5月27日より下り100Mbpsに高速化した。NTTでは2020年代になってもG.fastなどの新しい技術に移行せずにこの古い技術を使い続けている。<ref>{{Cite web |title=「Bフレッツ・マンションタイプ」対応VDSLのレンタル提供開始及びホームPNA利用料の値下げについて NTT WEST Official Web site |trans-title= |author= |work=ntt-west.co.jp |date= |access-date=29 October 2023 |url= https://www.ntt-west.co.jp/news/0204/020424a.html |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=「Bフレッツ マンションタイプ」におけるVDSL装置のレンタル提供開始について NTT東日本:NewsRelease |author= |work=ntt-east.co.jp |date= |access-date=29 October 2023 |url= https://www.ntt-east.co.jp/release/0210/021017a.html}}</ref><ref>{{Cite web |title=「Bフレッツ マンションタイプ」におけるVDSL装置(100Mbps)のレンタル提供開始および現行の機器利用料の値下げについて |author= |work=ntt-east.co.jp |date= |access-date=29 October 2023 |url= https://www.ntt-east.co.jp/release/0403/040325.html}}</ref>
建物内での利用が一般的であるが、一般向けのADSL回線の高速版という位置づけで2004年8月よりJANISネット(株式会社[[長野県協同電算]])がVDSLを利用したインターネット回線を提供していた。理論通信速度は60Mbpsだが、実際にADSL以上の通信速度が期待できるのはNTT局(または有線放送局)から1km以内の信号減衰の少ない電話回線のみとなる。それ以上の距離になると使用できる周波数帯が狭くなり、通常のADSLと同等またはそれ以下にまで性能が低下してしまう。<ref>{{Cite web |title=JANIS、「LR(ロングリーチ)VDSL」を利用した下り最大60Mbps/上り10Mbpsのサービス |trans-title= |author= |work=ITmedia NEWS |date= |access-date=29 October 2023 |url= https://www.itmedia.co.jp/lifestyle/articles/0407/28/news095.html |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=JANIS、一般電話回線を利用した下り60Mbps/上り10MbpsのVDSLサービス |author= |work=internet.watch.impress.co.jp |date= |access-date=29 October 2023 |url= https://internet.watch.impress.co.jp/cda/news/2004/07/28/4068.html}}</ref>
=== VDSL2 ===
VDSLの機能拡張版。規格名は'''ITU-T G.993.2'''<ref>{{Cite web |title=G.993.2 : Very high speed digital subscriber line transceivers 2 (VDSL2) |author=tsbmail |work=itu.int |date= |access-date=28 October 2023 |url= https://www.itu.int/rec/T-REC-G.993.2}}</ref>。2006年2月17日に規格化された。プロファイル30aの場合、30MHzの周波数帯域で、上り・下り帯域合計で200Mbpsとなる<ref>{{Cite web |title=G.993.2 : Very high speed digital subscriber line transceivers 2 (VDSL2) |author=tsbmail |work=itu.int |date= |access-date=28 October 2023 |url= https://www.itu.int/rec/T-REC-G.993.2-201902-I/en}}</ref><ref>{{Cite web |title=データ詳細 :: 超高速ディジタル加入者線2(VDSL2) :: 一般社団法人情報通信技術委員会 |trans-title= |author= |work=ttc.or.jp |date= |access-date=29 October 2023 |url= https://www.ttc.or.jp/document_db/information/view_express_entity/609 |language=ja}}</ref>。日本国内導入例は少ない<ref>{{Cite news|title=集合住宅の味方、電話や動画にも強いVDSL2(1/2)|url=https://www.itmedia.co.jp/lifestyle/articles/0607/12/news118.html|accessdate=2018-10-05|language=ja|work=ITmedia NEWS}}</ref><ref>{{Cite news|title=VDSL|last=xTECH(クロステック)|first=日経|url=https://tech.nikkeibp.co.jp/it/article/Keyword/20070222/262955/|accessdate=2018-10-05|language=ja-JP|work=日経 xTECH(クロステック)}}</ref>。
=== G.fast ===
従来のVDSLは、1Gbps前後まで向上している光ファイバー本線(局まで)の通信速度に比べ、低速でありボトルネックとなっていたが、106MHzの周波数帯域で、上り・下り帯域合計で最大1Gbpsを実現する'''G.fast'''('''ITU-T G.9701''')規格<ref>{{Cite web |title=G.9701 : Fast access to subscriber terminals (G.fast) - Physical layer specification |author=tsbmail |work=itu.int |date= |access-date=28 October 2023 |url= https://www.itu.int/rec/T-REC-G.9701}}</ref>が2014年12月5日に制定、実装モデムが開発され、[[auひかり]]等の一部のISPで導入が進んでいる<ref>{{Cite news|title=既存の電話回線で最大1Gbpsのモデムシステム、NECが「G.fast」対応のVDSL装置を発売|date=2018-06-15|last=株式会社インプレス|url=https://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/1127766.html|accessdate=2018-10-05|language=ja-JP|work=INTERNET Watch}}</ref><ref name=":0">{{Cite news|title=auひかり、既存のメタル電話回線で下り664Mbpsの「タイプG」、マンション向けに提供開始 11ax対応ホームゲートウェイもレンタル提供|date=2018-10-04|last=株式会社インプレス|url=https://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/1146365.html|accessdate=2018-10-05|language=ja-JP|work=INTERNET Watch}}</ref>。既にVDSL等を導入済の集合住宅等において、集合装置<ref group="注釈">ISPが、耐用年数を過ぎた既存VDSL装置を置き換える事も可能。</ref>および個宅のモデムを入れ替える事で高速化を図ることが可能<ref name=":0" />。
当初は1GbpsのG.fast 106 MHz profileだけだったが、後に、上り・下り帯域合計で2GbpsのG.fast 212 MHz profileが追加になった。
=== MGfast ===
G.fastの後継。規格名は'''ITU-T G.9711'''で2021年4月23日に規格化された。周波数帯域は424MHzで、全二重モードの場合は上り・下り帯域合計で8Gbps、[[時分割多重化|時分割二重化]]の場合は4Gbps。全二重モードは[[同軸ケーブル]](CATV)や[[カテゴリー5ケーブル]](LAN)で利用可能であり、アナログ[[電話回線]]では時分割二重化が利用可能。周波数帯域を848MHzへ拡大することも計画されている。MGfastはMulti-Gigabit fastの略。<ref>{{Cite web |title=Up to 8 Gbit/s broadband with new ITU standard MGfast - ITU Hub |author= |work=ITU Hub |date= |access-date=23 October 2023 |url= https://www.itu.int/hub/2021/08/up-to-8-gbit-s-broadband-with-new-itu-standard-mgfast/}}</ref><ref>{{Cite web |title=G.9711 : Multi-gigabit fast access to subscriber terminals (MGfast) - Physical layer specification |author=tsbmail |work=itu.int |date= |access-date=28 October 2023 |url= https://www.itu.int/rec/T-REC-G.9711/}}</ref>
規格制定前はXG-FASTやG.mgFastなどの名称で、G.fastから速度を10Gbpsに向上させるのを目指していた。ノキアが2020年商用化を目指していた。<ref>{{Cite web|和書|title=ノキアとエネコム、ブロードバンド高速化に向けて、商用導入済みのG.fastと日本国内仕様のVDSLを同一ネットワーク上に導入|url=https://www.nokia.com/ja_jp/about-us/news/releases/2017/11/19/nokiatoenekomufurotohantogaosuhuanixiangketeshangyongdaorujiminogfasttoribenguoneishiyangnovdslwotongyinetsutowakushangnidaoru/|website=Nokia|accessdate=2020-04-03|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=[DATAで見るケータイ業界] Nokiaがプライベートイベントで披露した新技術、国内展開の可能性|url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/column/mca/1038799.html|website=ケータイ Watch|date=2017-01-13|accessdate=2020-04-03|language=ja|last=株式会社インプレス}}</ref>
DSLの研究で知られる[[:en:John Cioffi|John Cioffi]]等によると、理論上はメタル回線でも100mの距離でTbpsが実現可能であると主張している。<ref>{{cite web| url = https://www.theregister.co.uk/2017/05/10/dsl_inventors_latest_science_project_terabit_speeds_over_copper/| title = DSL inventor's latest science project: terabit speeds over copper • The Register| website = The Register|access-date=29 October 2023}}</ref><ref>{{Cite journal|url=https://ieeexplore.ieee.org/document/8539030|title=Terabit DSLs|first1=John M.|last1=Cioffi|first2=Kenneth J.|last2=Kerpez|first3=Chan Soo|last3=Hwang|first4=Ioannis|last4=Kanellakopoulos|date=November 5, 2018|journal=IEEE Communications Magazine|volume=56|issue=11|pages=152–159|via=IEEE Xplore|doi=10.1109/MCOM.2018.1800597|s2cid=53927909 }}</ref>
==長距離伝送用==
数km程度の距離で、例えば、基地局から建物までのメタル回線(アナログ電話回線)を使用してデータ通信をする用途。現在では光ファイバーに置き換わっていて、あまり利用されなくなっている。日本では2025年1月31日にADSLは終了<ref>{{Cite web |title=一部エリアにおける「フレッツ・ADSL」の提供終了日変更について {{!}} NTT東日本 |trans-title= |author=東日本電信電話株式会社 |work=NTT東日本 |date= |access-date=29 October 2023 |url= https://www.ntt-east.co.jp/release/detail/20220302_01.html |language=ja}}</ref>。
=== ADSL ===
[[Image:NTT East ADSL modem-NVIII.jpg|thumb|ADSLモデム]]
{{Main|ADSL}}
'''ADSL'''('''Asymmetric Digital Subscriber Line'''、非対称デジタル加入者線)は1対のツイストペアケーブル通信線路で、上り・下りの速度が非対称な通信を行う。
技術にも種類があり[[アメリカ合衆国]]からそのまま技術を受け継いだ"AnnexA"、[[ISDN#Euro-ISDN|Euro-ISDN]]と[[多重化]]可能な"AnnexB"、日本方式の[[ISDN#TCM-ISDN|TCM-ISDN]]の干渉を軽減した"AnnexC"等がある。
=== ReachDSL ===
'''ReachDSL'''は、米パラダイン社が開発した遠距離での接続の確保を優先したDSLである。速度は最大でも上下ともに960kbpsと遅いが、その分通信距離が5 - 12km程度と長い。遠距離で損失が大きくなる高周波数の帯域を使用せず、損失が少ない低い周波数の帯域のみを使う。そのためISDNとの干渉も低いとされている。その後、速度を上下2.2Mbpsに向上させたRDSL2が発表された。米パラダイン社では路線長が5kmの場合1Mbpsの速度が出るとしている。
日本においてはJANISネット(株式会社[[長野県協同電算]])が日本初のサービスを開始し、以後[[Yahoo! BB]]等様々な会社が提供しているがRDSL2方式によるサービスを行っているのは[[NTT西日本-四国]]と[[関西ブロードバンド]]のみである。RDSL2は、発表当時既にブロードバンド接続の主流がADSLからケーブルテレビや[[FTTx]]へと移行していたために普及しなかった。
=== CDSL ===
'''CDSL'''('''Consumer Digital Subscriber Line''')は[[1997年]][[10月28日]]にRockwell Semiconductor Systems社から発表されたxDSL規格。上り最大128kbps、下り最大1Mbpsが簡易DSL<ref>{{Cite web|和書|date=1997-10-30 |url=https://internet.watch.impress.co.jp/www/article/971030/cdsl.htm |title=米Rockwell社が高速通信技術「CDSL」を発表 |publisher=INTERNET Watch |accessdate=2012-09-04}}</ref>。
ADSLと似た特徴を持つが、ADSLよりも安価でスプリッタが必要ないという点が異なる。日本では初期からADSLが採用されたため普及しなかった。後に発表されたADSLのG.lite規格と類似している。
=== HDSL ===
'''HDSL'''('''High-bit-rate Digital Subscriber Line''')は、2対のツイストペアケーブルを用いる送信・受信とも同じ速度の対称型DSLである。SDSLの2対版ともいえるもので、1対で送信・もう1対で受信を行う。使用帯域は200kHzと低いため最高速度は約2Mbpsにとどまるほか、アナログ電話回線との多重化はできない。しかし使用可通信線路長は20kmに及ぶ。
業務用に既設の構内電話線で用いられている。ただし、現在は[[光ファイバー]]の敷設が進み利用されることは少なくなっている。
=== SDSL ===
'''SDSL'''('''Symmetric Digital Subscriber Line''')は[[東京めたりっく通信]]などが提供していた上下速度対称の方式。その技術は[[ITU-T]]で定義されているADSL規格、ITU-T G.992.1 Annex Hで取り決められている。
ISDNの「INSネット1500」と並ぶサービスとして企業・業務用に提供されたが、光ファイバーの登場・普及により下火になった。しかし普及度は低いものの、現在でもサービスを行っている業者もあり廉価な対称サービスとして展開されている。
速度は上下共に160kbps - 2Mbpsが一般的で160kbps時には最大6.9kmまでの距離を通信することが可能。
なおADSL同様に[[固定電話|加入電話]]と共有することができるがSDSLの利用の特性上、個々で使うことが多い。その場合には共有したときよりも高速な通信が可能である。
== 構成機器 ==
=== DSLAM ===
'''[[DSLAM]]'''('''Digital Subscriber Line Access Multiplexer''')は、DSLの回線を集め高速な回線(いわゆる[[インターネットバックボーン|バックボーン]])に橋渡しを行なう装置。回線収容局などに設置する。なお、この回線を集めることを'''アグリゲーション'''と呼ぶ。
なおDSLAMはDSLモデムとしての機能も兼ね備えているので、加入者側でもDSLAMのDSL規格に合致したDSLモデムを使う必要がある。
=== モデム ===
[[モデム]](modem)は、デジタル変調、復調を行う[[データ回線終端装置]]である。
=== スプリッタ ===
[[スプリッタ]](splitter)は、アナログ電話回線から送られてくる信号を、電話機のための信号とインターネット通信のためのDSLモデムのための信号とに振り分けるための[[分波器]]、[[混合器]]である。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[ブロードバンドインターネット接続]]
* [[メタルIP電話]]
* [[:en:G.fast|G.fast]]
* [[インターネットサービスプロバイダ]]
* [[DSLAM]]
== 外部リンク ==
* [https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/283520/www.soumu.go.jp/joho_tsusin/whatsnew/dsl/index.html 2005年当時のDSL普及状況ページ](総務省)
{{Internet access}}
{{デフォルトソート:てしたるかにゆうしやせん}}
[[Category:有線通信]]
[[Category:インターネット接続]]
[[Category:光有線通信]] | 2003-05-20T07:14:29Z | 2023-11-01T15:50:05Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%B8%E3%82%BF%E3%83%AB%E5%8A%A0%E5%85%A5%E8%80%85%E7%B7%9A |
8,782 | スタンフォード大学 | リーランド・スタンフォード・ジュニア大学(リーランド・スタンフォード・ジュニアだいがく、英語: Leland Stanford Junior University)は、カリフォルニア州スタンフォードに本部を置くアメリカ合衆国の私立大学である。通称スタンフォード大学(スタンフォードだいがく、英: Stanford University、略称SU/Stanford)。
スタンフォード大学工学部(Stanford Engineering)の情報工学・コンピュータ科学分野では、マサチューセッツ工科大学、カリフォルニア大学バークレー校と共に世界最高峰の1つである。
スタンフォード大学経営大学院(Stanford GSB)は、ハーバード・ビジネス・スクール(HBS)、ペンシルベニア大学ウォートン・スクール(Wharton)、シカゴ大学ブース・スクール・オブ・ビジネス(Chicago Booth)と共に、世界最高峰のMBA提供校として名高い(M7の参加校)。
1893年設立のスタンフォード・ロー・スクール(SLS)は、ハーバード大学、イェール大学、ニューヨーク大学、シカゴ大学、コロンビア大学と共に全米トップクラスのロースクール(法科大学院)として知られている。
スタンフォード大学医学大学院(Stanford Medicine)は、医学研究分野において、ハーバード・メディカル・スクール、ジョンズ・ホプキンス大学医学部、ペンシルベニア大学 医学大学院、ニューヨーク大学・グロスマン医科スクール、コロンビア大学ヴァジェロス医学校と共に全米トップクラスの評価を受けている。
また、国際関係学では、フォード・ドーシー国際政策大学院(MIP)が全米TOP10となっている。
当時のカリフォルニア州知事で、大陸横断鉄道の一つセントラルパシフィック鉄道の創立者でもあるリーランド・スタンフォードと夫人のジェーン(英語版)が、腸チフスの病で早逝した彼の一人息子であるリーランド・スタンフォード・ジュニアの名を残すために、1886年に構想。当時のハーバード大学学長のチャールズ・ウィリアム・エリオットに相談するなど、6年間にわたる準備の末、1891年にカリフォルニア州によって設立された。スタンフォード夫妻の存命時(リーランド自身は1893年6月21日、夫人は1905年2月28日に死去)は学費が無料だったが、1920年に有料化されている。
各種世界大学ランキングで常に最上位に位置する教育機関であり、最も古く権威のある英国世界大学評価機関QS世界大学ランキング2021では世界第2位(同ランキング東京大学24位、京都大学38位)、2021年THE世界大学ランキングで世界第2位、米国トムソン・ロイター世界大学ランキング2019では、世界第1位に評価されている。オックスフォード大学、ケンブリッジ大学、ハーバード大学、カリフォルニア工科大学(Caltech)、マサチューセッツ工科大学(MIT)と共に、全世界屈指の英語圏エリート名門校の1つ。
スタンフィード大学の校訓は「Die Luft der Freiheit weht(独: 自由の風が吹く)」。
サンフランシスコから約60km南東に位置し、地理上も、歴史的にもApple、Google、Facebook、AdobeなどIT企業の一大拠点であるシリコンバレーの中心に位置している。
スタンフォード大学は特に起業家精神に優れた大学として知られていて、スタートアップ企業への資金提供において世界で最も成功している大学の1つである。卒業生はこれまで多数の企業を設立し、これらを合わせた年間収益は2.7兆ドル(約290兆円)を超え、世界第7位の経済規模(2020年時点)に匹敵している。
2020年10月現在、84人のノーベル賞受賞者、28人のチューリング賞受賞者、8人のフィールズ賞受賞者、1人のアメリカ合衆国大統領(ハーバート・フーバー)、74人の存命の億万長者、17人の宇宙飛行士を輩出している。
広さは3310ヘクタール(千代田区の3倍)で全米有数の大規模なキャンパスである。建物はカリフォルニア州の伝統に従いスペインコロニアル様式で統一されている。正門から入ると右半分には主に理科系の学部、左半分には主に文科系の学部が配置されており、学生は、右半分を「Techy(テッキー)」、左半分を「Fuzzy(ファジー)」などと呼んでいる。キャンパス内には学生の大半を収容できる学生寮があり、ゴルフ場や乗馬センター、丘陵地のハイキングコースなどもある。また、土地の商業的な賃貸も行っており、ショッピングセンターや企業リサーチパークがキャンパス内に立地している。
現役の学生がキャンパスを案内するキャンパスツアーが、大学のランドマークであるフーバータワーの対面に位置するビジターセンターを起点として、祝日等を除き、毎日午前と午後の2回行われている。大学の成り立ちやキャンパスのさまざまな建物にまつわるエピソードなどを聞きながら周る、約1時間のツアーである。また、大学新聞としてThe Stanford Dailyが発行されている。
キャンパスの大部分は自治政府の無い国勢調査指定地域だが、一部はパロアルト市とメンローパーク市に股がっている。国外にもキャンパスがあり、ドイツのボイテルスバッハ(英語版)に城郭を持っている他、イタリア、フランス、イギリス、ロシア、チリ、そして日本にも物件を所有している。
2020年度(Class of 2024)の合格率は4.3%(受験者数4万7千人、合格者数2千人。倍率約23倍)と限りなく低く、全米最難関の入学率であった。同年、ハーバード大学は4.6%、プリンストン大学は5.8%、マサチューセッツ工科大学(MIT)は6.7%。以下、USニューズ&ワールド・レポート誌の2019年度合格率ランキングから引用。
2021年QS世界大学ランキング(QS World University Rankings)では、マサチューセッツ工科大学(MIT)につぐ、世界第2位とされている。3位 ハーバード大学、4位 カリフォルニア工科大学(Caltech)、5位 オックスフォード大学。
英国タイムズ・ハイヤー・エデュケーションのTHE世界大学ランキング(Times Higher Education World University Rankings)では、オックスフォード大学につぐ、世界第2位とされている。3位はカリフォルニア工科大学(Caltech)、4位はハーバード大学、5位はマサチューセッツ工科大学(MIT)。
の7つのSchoolがある。このうち学士課程があるのは、サステナビリティ学部、工学部、文理学部で、合計67の専攻がある。その他は大学院のみ。
2018年3月時点で、全米屈指の名門チームとして知られ、これまでの全米大学選手権での優勝数は全米大学チーム中最多の497回に上り、この内、NCAA (全米大学体育協会) 優勝数は全米大学チーム中最多の116回である。しかし、最人気競技のアメリカンフットボールでは、未だに年間全米ランキング1位になったことがない。
米国連邦国立研究センターとして次の3つの研究所が設置されている。
そのほかにも多くの研究所、ラボラトリー等を設置。
スタンフォード研究所 (SRI) は、大学本部の管理下にはなく、大学発のインキュベーションやベンチャー企業の支援を目的とした独立した組織として運営されている。
2015年、スタンフォード大学の構内にある宿舎で開かれたパーティーで、スタンフォード大学の水泳部のスター選手の男子学生(当時20歳)が、女性を性的暴行する事件が起きた。2016年、この元男子学生は、陪審員により、酒に酔った者への性的暴行、意識のない者への性的暴行、強制性交未遂の3件の罪で有罪とされた。その後、検察は禁錮6年を求刑したが、裁判所は禁錮6カ月の刑と3年間の保護観察を言い渡した。この予想外の量刑の判決は全米で注目を集め、この元男子学生が裕福な家庭に育った白人男性であることが司法判断をゆがめたのでは?という議論が全米で沸き起こった。その後、元男子学生は3ヵ月で刑務所を出所した。 | [
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"text": "2018年3月時点で、全米屈指の名門チームとして知られ、これまでの全米大学選手権での優勝数は全米大学チーム中最多の497回に上り、この内、NCAA (全米大学体育協会) 優勝数は全米大学チーム中最多の116回である。しかし、最人気競技のアメリカンフットボールでは、未だに年間全米ランキング1位になったことがない。",
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"title": "不祥事"
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] | リーランド・スタンフォード・ジュニア大学は、カリフォルニア州スタンフォードに本部を置くアメリカ合衆国の私立大学である。通称スタンフォード大学。 スタンフォード大学工学部(Stanford Engineering)の情報工学・コンピュータ科学分野では、マサチューセッツ工科大学、カリフォルニア大学バークレー校と共に世界最高峰の1つである。 スタンフォード大学経営大学院(Stanford GSB)は、ハーバード・ビジネス・スクール(HBS)、ペンシルベニア大学ウォートン・スクール(Wharton)、シカゴ大学ブース・スクール・オブ・ビジネス(Chicago Booth)と共に、世界最高峰のMBA提供校として名高い(M7の参加校)。 1893年設立のスタンフォード・ロー・スクール(SLS)は、ハーバード大学、イェール大学、ニューヨーク大学、シカゴ大学、コロンビア大学と共に全米トップクラスのロースクール(法科大学院)として知られている。 スタンフォード大学医学大学院(Stanford Medicine)は、医学研究分野において、ハーバード・メディカル・スクール、ジョンズ・ホプキンス大学医学部、ペンシルベニア大学 医学大学院、ニューヨーク大学・グロスマン医科スクール、コロンビア大学ヴァジェロス医学校と共に全米トップクラスの評価を受けている。 また、国際関係学では、フォード・ドーシー国際政策大学院(MIP)が全米TOP10となっている。 | [[File:Stanford University campus from above.jpg|thumb|right|290px|キャンパス]]
{{Infobox University
| image_name = Seal of Leland Stanford Junior University.png
| image_size =
| caption =
| name = リーランド・スタンフォード・ジュニア大学<br />Leland Stanford Junior University<br />
スタンフォード大学<br />Stanford University
| latin_name =
| native_name =
| motto = {{lang|de|Die Luft der Freiheit weht}}<br /> (ドイツ語)<ref name="casper">{{cite speech|title=Die Luft der Freiheit weht—On and Off|first=Gerhard|last=Casper|authorlink=Gerhard Casper|date=October 5, 1995|url=http://www.stanford.edu/dept/pres-provost/president/speeches/951005dieluft.html}}</ref>
| mottoeng = The wind of freedom blows<ref name="casper" />
| established = 1891年<ref name="StanfordAboutHistory">{{cite web | url=http://www.stanford.edu/about/history/ |title=History: Stanford University|publisher=Stanford University|accessdate = December 20, 2013}}</ref><ref name="facultyguidehistory">{{cite web|title=Chapter 1: The University and the Faculty|work=Faculty Handbook|publisher=Stanford University|date=September 24, 2013|url=http://facultyhandbook.stanford.edu/ch1.html|accessdate=2014-01-07}}</ref>
| type = 私立大学 四半期制
| president = Marc Tessier-Lavigne
| provost = Persis Drell
| city = [[スタンフォード (カリフォルニア州)|スタンフォード]]
| state = [[カリフォルニア州]]
| country = アメリカ合衆国
| endowment = 約277億ドル (2019年)<ref name="2019FinRep">As of August 31, 2019. {{cite web |url=https://bondholder-information.stanford.edu/pdf/SU_AnnualFinancialReport_2019.pdf |title=Stanford University Annual Financial Report, August 31, 2019 and 2018|publisher=Stanford University |access-date=December 4, 2019}}</ref>
| staff = 12,508<ref name="stanford_facts_admin">{{cite web|title=Stanford Facts: Administration|url=http://facts.stanford.edu/administration/|publisher=Stanford University|accessdate=20 December 2013}}</ref>。附属病院を除く。
| faculty = 2,240<ref name="stanford_facts_glance">{{cite web |last1=Communications|first1=Stanford Office of University |title=Introduction: Stanford University Facts |url=http://facts.stanford.edu |website=Stanford Facts at a Glance |access-date=June 13, 2018 |language=en}}</ref>
| students = 17,249 (2019年)<ref name="CDS">{{cite web |title=Stanford Common Data Set 2019–2020 |url=https://ucomm.stanford.edu/cds/ |publisher=Stanford University |access-date=May 10, 2020}}</ref>
| undergrad = 6,996 (2019年)<ref name="CDS" />
| postgrad = 10,253 (2019年)<ref name="CDS" />
| campus = [[郊外]] {{convert|8180|acre|sqmi km2|1}}<ref name="stanford_facts_glance" />
| colors = 緋色と白<br/>{{color box|#8C1515}} {{color box|#FFFFFF}}
| mascot = なし<ref>The [[:en:Stanford Tree]] is the mascot of the [[:en:Stanford Band|band]] but not the university.</ref>
| athletics = [[:en:NCAA Division I Football Bowl Subdivision|NCAAディビジョン1]] (FBS) [[パシフィック12カンファレンス|Pac-12]]
| nickname = [[スタンフォード・カージナル|カージナル]]
| free_label = [[ノーベル賞]]受賞者数
| free = 84
| website = {{URL|https://www.stanford.edu}}
| logo = [[File:Stanford wordmark (2012).svg|250px]]
}}
'''リーランド・スタンフォード・ジュニア大学'''(リーランド・スタンフォード・ジュニアだいがく、{{lang-en|Leland Stanford Junior University}})は、[[カリフォルニア州]][[スタンフォード (カリフォルニア州)|スタンフォード]]に本部を置く[[アメリカ合衆国]]の[[私立大学]]である。通称'''スタンフォード大学'''(スタンフォードだいがく、{{lang-en-short|Stanford University}}、略称'''SU'''/'''Stanford''')。
スタンフォード大学工学部([[:EN:Stanford University School of Engineering|'''Stanford Engineering''']])の[[情報工学]]・[[コンピュータ科学]]分野では、[[マサチューセッツ工科大学]]、[[カリフォルニア大学バークレー校]]と共に世界最高峰の1つである。
[[スタンフォード大学経営大学院]]('''Stanford GSB''')は、[[ハーバード・ビジネス・スクール]](HBS)、[[ウォートン・スクール|ペンシルベニア大学ウォートン・スクール]](Wharton)、[[シカゴ大学ブース・スクール・オブ・ビジネス]](Chicago Booth)と共に、世界最高峰の[[MBA]]提供校として名高い([[M7 (大学)|M7]]の参加校)。
1893年設立の[[スタンフォード・ロー・スクール]]('''SLS''')は、[[ハーバード大学]]、[[イェール大学]]、[[ニューヨーク大学]]、[[シカゴ大学]]、[[コロンビア大学]]と共に全米トップクラスの[[ロースクール]]([[法科大学院]])として知られている。
スタンフォード大学医学大学院([[:EN:Stanford University School of Medicine|'''Stanford Medicine''']])は、医学研究分野において、[[ハーバード大学医学大学院|ハーバード・メディカル・スクール]]、[[ジョンズ・ホプキンス大学]]医学部、[[ペンシルベニア大学 医学大学院]]、[[:EN: New York University Grossman School of Medicine|ニューヨーク大学・グロスマン医科スクール]]、[[コロンビア大学ヴァジェロス医学校]]と共に全米トップクラスの評価を受けている。
また、[[国際関係学]]では、[[:EN:Ford Dorsey Master's in International Policy|フォード・ドーシー国際政策大学院]]('''MIP''')が全米TOP10となっている。
[[File:Stanford University Hoover Tower.JPG|thumb|right|200px|Stanford University Hoover Tower.]]
[[File:Stanford University Walkway Panorama.jpg|thumb|right|200px|Stanford University Walkway]]
[[File: Stanford University Arches of the Quad 2.jpg|thumb|right|200px|Arches of the Quad at Stanford.]]
[[File:Clock tower at Stanford University.JPG|thumb|right|200px|Clock tower]]
== 概要 ==
当時の[[カリフォルニア州]]知事で、[[大陸横断鉄道]]の一つ[[セントラルパシフィック鉄道]]の創立者でもある[[リーランド・スタンフォード]]と[[夫人]]の{{仮リンク|ジェーン・スタンフォード|en|Jane Stanford|label=ジェーン}}が、[[腸チフス]]の病で早逝した彼の一人息子である[[リーランド・スタンフォード・ジュニア]]の名を残すために、[[1886年]]に構想。当時の[[ハーバード大学]]学長の[[チャールズ・ウィリアム・エリオット]]に相談するなど、6年間にわたる準備の末、[[1891年]]にカリフォルニア州によって設立された。スタンフォード夫妻の存命時(リーランド自身は[[1893年]][[6月21日]]、夫人は[[1905年]][[2月28日]]に死去)は学費が無料だったが、[[1920年]]に有料化されている。
各種[[世界大学ランキング]]で常に最上位に位置する教育機関であり、最も古く権威のある英国世界大学評価機関[[QS世界大学ランキング]]2021では'''世界第2位'''<ref>{{Cite web|title=Stanford University|url=https://www.topuniversities.com/universities/stanford-university|website=Top Universities|date=2015-07-16|accessdate=2021-02-08|language=en}}</ref>(同ランキング東京大学24位、京都大学38位<ref>{{Cite web|title=QS World University Rankings 2021|url=https://www.topuniversities.com/university-rankings/world-university-rankings/2021|website=Top Universities|date=2020-05-28|accessdate=2021-02-08|language=en}}</ref>)、2021年[[THE世界大学ランキング]]で世界第2位<ref>{{Cite web|title=Stanford University|url=https://www.timeshighereducation.com/world-university-rankings/stanford-university|website=Times Higher Education (THE)|date=2021-01-20|accessdate=2021-02-08|language=en}}</ref>、米国[[トムソン・ロイター]]世界大学ランキング2019では、'''世界第1位'''に評価されている<ref>{{Cite web|title=The World’s Most Innovative Universities 2019|url=https://www.reuters.com/innovative-universities-2019|website=www.reuters.com|accessdate=2021-03-03}}</ref>。[[オックスフォード大学]]、[[ケンブリッジ大学]]、[[ハーバード大学]]、[[カリフォルニア工科大学]](Caltech)、[[マサチューセッツ工科大学]](MIT)と共に、全世界屈指の英語圏エリート名門校の1つ。
スタンフィード大学の校訓は「Die Luft der Freiheit weht([[ドイツ語|独]]: 自由の風が吹く)」。
[[サンフランシスコ]]から約60[[キロメートル|km]]南東に位置し、地理上も、歴史的にも[[Apple]]、[[Google]]、[[Facebook]]、[[Adobe]]など[[情報技術|IT]]企業の一大拠点である[[シリコンバレー]]の中心に位置している。
スタンフォード大学は特に[[起業家]]精神に優れた大学として知られていて、[[スタートアップ]]企業への資金提供において世界で最も成功している大学の1つである<ref>Nigel Page. The Making of a Licensing Legend: Stanford University’s Office of Technology Licensing. Chapter 17.13 in Sharing the Art of IP Management. Globe White Page Ltd, London, U.K. 2007</ref><ref>Timothy Lenoir. Inventing the entrepreneurial university: Stanford and the co-evolution of Silicon Valley pp. 88–128 in Building Technology Transfer within Research Universities: An Entrepreneurial Approach Edited by Thomas J. Allen and Rory P. O'Shea. Cambridge University Press, 2014. ISBN 9781139046930</ref><ref>McBride, Sarah (December 12, 2014). "Special Report: At Stanford, venture capital reaches into the dorm". ''Reuters''. Retrieved October 28, 2017.</ref><ref>"The University Entrepreneurship Report – Alumni of Top Universities Rake in $12.6 Billion Across 559 Deals". ''CB Insights Research''. October 29, 2012. Retrieved April 6, 2018.</ref>。卒業生はこれまで多数の企業を設立し、これらを合わせた年間収益は2.7兆ドル(約290兆円)を超え、世界第7位の経済規模(2020年時点)に匹敵している<ref>"Box". ''stanford.app.box.com''. Retrieved April 15, 2018.</ref><ref>Silver, Caleb (March 18, 2020). "The Top 20 Economies in the World". ''Investopedia''. Investopedia. Retrieved March 18, 2020.</ref><ref>"Stanford alumni's companies combined equal 10th largest economy on the planet". ''The Mercury News''. October 24, 2012. Retrieved April 6, 2018.</ref>。
2020年10月現在、84人の[[ノーベル賞]]受賞者、28人の[[チューリング賞]]受賞者、8人の[[フィールズ賞]]受賞者<ref>Carey, Bjorn (August 12, 2014). "Stanford's Maryam Mirzakhani wins Fields Medal". ''Stanford Report''. Stanford University. Retrieved September 17, 2015.</ref>、1人の[[アメリカ合衆国大統領]]([[ハーバート・フーヴァー|ハーバート・フーバー]])、74人の存命の[[億万長者]]、17人の宇宙飛行士を輩出している<ref>Elkins, Kathleen. "More billionaires went to Harvard than to Stanford, MIT and Yale combined". ''cnbc''.</ref>。
== キャンパス ==
[[image:Stanford Oval May 2011 panorama.jpg|thumb|left|600px|スタンフォード・オーバルとメモリアル・チャーチ(中央)]]
広さは3310ヘクタール([[千代田区]]の3倍)で全米有数の大規模なキャンパスである。建物は[[カリフォルニア州]]の伝統に従い[[スペイン]]コロニアル様式で統一されている。正門から入ると右半分には主に理科系の学部、左半分には主に文科系の学部が配置されており、学生は、右半分を「Techy(テッキー)」、左半分を「Fuzzy(ファジー)」などと呼んでいる。キャンパス内には学生の大半を収容できる学生寮があり、[[ゴルフ場]]や[[乗馬]]センター、丘陵地の[[ハイキング]]コースなどもある。また、土地の商業的な賃貸も行っており、ショッピングセンターや企業リサーチパークがキャンパス内に立地している。
現役の学生がキャンパスを案内するキャンパスツアーが、大学のランドマークであるフーバータワーの対面に位置するビジターセンターを起点として、祝日等を除き、毎日午前と午後の2回行われている。大学の成り立ちやキャンパスのさまざまな建物にまつわるエピソードなどを聞きながら周る、約1時間のツアーである。また、大学新聞として''The Stanford Daily''が発行されている。
キャンパスの大部分は自治政府の無い[[国勢調査指定地域]]だが、一部は[[パロアルト (カリフォルニア州)|パロアルト市]]と[[メンローパーク (カリフォルニア州)|メンローパーク市]]に股がっている。国外にもキャンパスがあり、[[ドイツ]]の{{仮リンク|ボイテルスバッハ (ヴァインシュタット)|en|Beutelsbach (Weinstadt)|label=ボイテルスバッハ}}に城郭を持っている他、イタリア、フランス、イギリス、ロシア、チリ、そして日本にも物件を所有している<ref>[http://www.stanfordalumni.org/news/magazine/1996/novdec/articles/worldclass.html World Class], Stanford Magazine, November–December 1996</ref>。
== 難易度・ランキング ==
=== 入学難易度 ===
2020年度(Class of 2024)の合格率は'''4.3%'''(受験者数4万7千人、合格者数2千人。'''倍率約23倍''')と限りなく低く<ref>{{Cite web|title=Admission Statistics : Stanford University|url=https://admission.stanford.edu/apply/selection/statistics.html|website=admission.stanford.edu|accessdate=2021-03-03}}</ref>、全米'''最難関'''の入学率であった。同年、ハーバード大学は4.6%、プリンストン大学は5.8%、マサチューセッツ工科大学(MIT)は6.7%。以下、[[USニューズ&ワールド・レポート]]誌の2019年度合格率ランキングから引用<ref>https://www.usnews.com/best-colleges/rankings/lowest-acceptance-rate</ref>。
{| class="wikitable"
!ランク
!大学名
!立地
!合格率(2019年度)
|-
|1
|'''スタンフォード大学'''
|'''Stanford, CA'''
|'''4%'''
|-
|2
|[[コロンビア大学]]
|New York, NY
|5%
|-
|3
|[[カーティス音楽院]]
|Philadelphia, PA
|5%
|-
|4
|[[ハーバード大学]]
|Cambridge, MA
|5%
|-
|5
|[[カリフォルニア工科大学]]
|Pasadena, CA
|6%
|-
|6
|[[プリンストン大学]]
|Princeton, NJ
|6%
|-
|7
|[[シカゴ大学]]
|Chicago, IL
|6%
|-
|8
|[[イェール大学]]
|New Haven, CT
|6%
|-
|9
|アリス・ロイド大学
|Pippa Passes, KY
|7%
|-
|10
|[[ブラウン大学]]
|Providence, RI
|7%
|-
|11
|[[マサチューセッツ工科大学]]
|Cambridge, MA
|7%
|}
=== 大学ランキングでの評価 ===
2021年[[QS世界大学ランキング]](QS World University Rankings)では、マサチューセッツ工科大学(MIT)につぐ、'''世界第2位'''とされている。3位 ハーバード大学、4位 カリフォルニア工科大学(Caltech)、5位 オックスフォード大学。
英国[[タイムズ・ハイアー・エデュケーション|タイムズ・ハイヤー・エデュケーション]]のTHE世界大学ランキング([[THE世界大学ランキング|Times Higher Education World University Rankings]])では、オックスフォード大学につぐ、'''世界第2位'''とされている。3位はカリフォルニア工科大学(Caltech)、4位はハーバード大学、5位はマサチューセッツ工科大学(MIT)。
== 教育 ==
[[File:Knight Management Center.jpg|thumb|right|250px|スタンフォード大学経営大学院(Stanford GSB)]]
[[File:Stanford Law School June 2019.jpg|thumb|right|250px|スタンフォード・ロー・スクール(SLS)]]
[[File:Stanford University Green Library Bing Wing.jpg|thumb|right|250px|スタンフォード大学工学部(Stanford Engineering)]]
[[File:Stanford School of Medicine Li Ka Shing Center.jpg|thumb|right|250px|スタンフォード大学医学大学院(Stanford Medicine)]]
[[File:Stanford University campus in 2016.jpg|thumb|right|250px|フォード・ドーシー国際政策大学院(MIP):[[:EN:Stanford University centers and institutes#Freeman Spogli Institute for International Studies|スタンフォード大学フリーマン・スポグリ国際研究所(FSI)管轄]]]]
=== スクール ===
* Graduate School of Business('''Stanford GSB'''、[[スタンフォード大学経営大学院]]:[[ビジネススクール]])
* School of Law('''SLS'''、[[スタンフォード・ロー・スクール]]:[[法科大学院]])
* School of Engineering('''Stanford Engineering'''、[[:EN: Stanford University School of Engineering|スタンフォード大学工学部・大学院]])
* School of Sustainability(サステナビリティ学部・大学院)
* School of Education(教育大学院)
* School of Humanities and Sciences(文理学部・大学院)
* School of Medicine('''Stanford Medicine'''、[[:EN:Stanford University School of Medicine|スタンフォード大学医学大学院]]:[[医科大学院]])
の7つのSchoolがある。このうち学士課程があるのは、サステナビリティ学部、工学部、文理学部で、合計67の専攻がある。その他は大学院のみ。
== スポーツ ==
2018年3月時点で、全米屈指の名門チームとして知られ、これまでの全米大学選手権での優勝数は全米大学チーム中最多の497回に上り、この内、NCAA (全米大学体育協会) 優勝数は全米大学チーム中最多の116回である。しかし、最人気競技のアメリカンフットボールでは、未だに年間全米ランキング1位になったことがない。
== 研究機関 ==
米国連邦国立研究センターとして次の3つの研究所が設置されている。
* Center for Advanced Study in the Behavioral Sciences
* The National Bureau of Economic Research
* [[SLAC国立加速器研究所]](SLAC National Accelerator Laboratory), Stanford Linear Accelerator Centerから名称変更
そのほかにも多くの研究所、ラボラトリー等を設置。
* [[スタンフォード人工知能研究所]](SAIL)
* [[フーヴァー戦争・革命・平和研究所]]
* [[:EN:Stanford University centers and institutes#Freeman Spogli Institute for International Studies|スタンフォード大学フリーマン・スポグリ国際研究所]](FSI)
[[SRIインターナショナル|スタンフォード研究所]] (SRI) は、大学本部の管理下にはなく、大学発のインキュベーションやベンチャー企業の支援を目的とした独立した組織として運営されている。
== その他 ==
=== 学位授与式 ===
* [[2005年]]、[[スティーブ・ジョブズ]]が卒業式でスピーチした<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=Hd_ptbiPoXM Steve Jobs' 2005 Stanford Commencement Address (with intro by President John Hennessy) ]</ref>。
* [[2014年]]、[[ビル・ゲイツ]]と[[メリンダ・ゲイツ]]が卒業式でスピーチした<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=wug9n5Atk8c Bill and Melinda Gates' 2014 Stanford Commencement Address]</ref>。
=== 特筆すべき点 ===
* [[ARPANET]]の[[ノード (ネットワーク)|ノード]]のひとつは、[[SRIインターナショナル|スタンフォード研究所]] (SRI) に設置された。
* [[グラフィカルユーザインタフェース|GUI]]の研究開発における先駆者の一人である[[ダグラス・エンゲルバート]]は、SRIに勤務していた。
* [[FM音源]]の合成方式は、この大学にて開発された。
* [[コンピュータ]]関連企業の創業者に、この大学の出身者が多い。特に[[サン・マイクロシステムズ]]のSUNの名前は、{{en|Stanford University Network}} に由来する。
* [[Folding@home]]の総本山でもある。
* 刑務所を舞台にした[[スタンフォード監獄実験]]が行われたことでも有名。
== 不祥事 ==
2015年、スタンフォード大学の構内にある宿舎で開かれたパーティーで、スタンフォード大学の水泳部のスター選手の男子学生(当時20歳)が、女性を性的暴行する事件が起きた<ref>{{Cite news |title=米スタンフォード大の性的暴行事件、匿名被害者が名乗り出る |url=https://www.bbc.com/japanese/49589710 |work=BBCニュース |access-date=2023-09-11 |language=ja}}</ref>。2016年、この元男子学生は、陪審員により、酒に酔った者への性的暴行、意識のない者への性的暴行、強制性交未遂の3件の罪で有罪とされた。その後、検察は禁錮6年を求刑したが、裁判所は禁錮6カ月の刑と3年間の保護観察を言い渡した。この予想外の量刑の判決は全米で注目を集め、この元男子学生が裕福な家庭に育った白人男性であることが司法判断をゆがめたのでは?という議論が全米で沸き起こった<ref>{{Cite news |title=米スタンフォード大の性的暴行事件、匿名被害者が名乗り出る |url=https://www.bbc.com/japanese/49589710 |work=BBCニュース |access-date=2023-09-11 |language=ja}}</ref>。その後、元男子学生は3ヵ月で刑務所を出所した<ref>{{Cite web|和書|title=スタンフォード大のレイプ加害者が、たった3カ月で出所する |url=https://www.huffingtonpost.jp/2016/08/31/brock-turner-rape_n_11789312.html |website=ハフポスト |date=2016-08-31 |access-date=2023-09-11 |language=ja}}</ref>。
== 関係者 ==
=== 歴代学長 ===
# [[デイビッド・スター・ジョーダン]] (1891-1913)
# [[ジョン・キャスパー・ブラナー]] (1913-1915)
# [[レイ・ライマン・ウィルバー]] (1916-1943)
# [[ドナルド・トレシダー]] (1943-1948)
# [[J・E・ウォレス・スターリング]] (1949-1968)
# [[ケネス・ピッツァー]] (1968-1970)
# [[リチャード・ライマン]] (1970-1980)
# [[ドナルド・ケネディ]] (1980-1992)
# [[ジャーハード・キャスパー]] (1992-2000)
# [[ジョン・ヘネシー]] (2000-2016)
#[[マーク・テシエ=ラヴィーン]](2016-現在) - 神経科学者。自身に関する論文不正疑惑により、辞任を表明した。<ref>[https://www.saitama-np.co.jp/articles/36852/postDetail スタンフォード大学長辞任 研究不正で調査、教授として残留(埼玉新聞)]</ref>
=== 著名な卒業生 ===
==== 政界 ====
* [[ハーバート・フーヴァー]]([[アメリカ合衆国]]第31代[[大統領]]、[[共和党 (アメリカ)|共和党]]、[[フーヴァー戦争・革命・平和研究所|フーバー研究所]]、フーバータワーの名称の由来となっている)
* [[エフード・バラック]](MA、元[[イスラエル]]首相)
* [[モハンマドレザー・アーレフ]](MS、PhD、[[イラン]]元第一副大統領)
* ウィリアム・ペリー [[:en:William Perry|William Perry]](MA、第19代[[アメリカ合衆国国防長官]])
* [[ウォーレン・クリストファー]](LLB、第63代アメリカ合衆国国務長官)
* ジェームス・ウールセイ [[:en:R. James Woolsey, Jr.|R. James Woolsey, Jr.]]([[学士(教養)|BA]]、前[[アメリカ中央情報局|CIA]]長官)
* [[アレハンドロ・トレド]](AM、PhD、[[ペルー共和国]]大統領)
* ホルヘ・サラノ・エリアス [[:en:Jorge Serrano Elías|Jorge Serrano Elías]]([[グアテマラ共和国]]大統領)
* リカルド・マデュロ [[:en:Ricardo Maduro|Ricardo Maduro]](BA、[[ホンジュラス]]大統領)
* グレイ・デイヴィス [[:en:Gray Davis|Gray Davis]](前[[カリフォルニア州|カリフォルニア]][[州知事]])
* [[鳩山由紀夫]](PhD、[[日本国]]第93代[[内閣総理大臣]])
* [[石井一]]([[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]][[参議院議員]]党副代表、元[[衆議院議員]]、元[[自治大臣]]兼[[国家公安委員会委員長]])
* [[浅尾慶一郎]](MBA、参議院議員、元衆議院議員、元[[みんなの党]]代表)
* [[伊原木隆太]]([[岡山県知事]]、元[[天満屋]]代表取締役社長)
* トーマス・M・ストーク(元[[アメリカ合衆国]]上院議員)
* [[ヘンリー・M・ジャクソン]](前[[アメリカ合衆国上院]]議員)
* マックス・バウカス(LLB、アメリカ合衆国上院議員)
* ジェフ・ビンガマン(LLB、アメリカ合衆国上院議員)
* フランク・チャーチ(LLB、アメリカ合衆国上院議員)
* ケント・コレッド(アメリカ合衆国上院議員)
* ダイアン・ファインスタイン(アメリカ合衆国上院議員)
* ロン・ワイデン(アメリカ合衆国上院議員)
* ゾウ・ロフグレン([[アメリカ合衆国下院]]議員)
* カルメン・ヴァリケーブ(BA、PhD、[[カリフォルニア州]][[アリソビエホ市長]])
* [[梅汝璈]](BA、元[[中華民国]]立法委員、[[全国人民代表大会]]代表、[[極東国際軍事裁判|東京裁判]]の中華民国代表[[判事]])
* [[モハメド・ワヒード・ハサン]](第5代[[モルディブ]]大統領)
==== 法曹界 ====
* [[サンドラ・デイ・オコナー]](元[[アメリカ合衆国最高裁判所]][[アメリカ合衆国連邦最高裁判所陪席判事|陪席判事]])
* [[ウィリアム・レンキスト]](元[[アメリカ合衆国最高裁判所長官]])
* [[アンソニー・ケネディ]](アメリカ合衆国最高裁判所陪席判事)
* [[スティーブン・ブライヤー]](アメリカ合衆国最高裁判所陪席判事)
==== 学界 ====
* ジョン・ガードナー(元保健教育福祉省長官、[[コモンコーズ]]創始者)
* デレク・ボック(元[[ハーバード大学]]総長)
* クラーク・カー(MA、[[カリフォルニア大学]]総長、初代[[カリフォルニア大学バークレー校]]学長)
* [[クリスチーナ・アメージャン]](MBA、[[一橋大学]]教授)
* [[グレーヴァ香子]](PhD、[[慶應義塾大学]]教授)
* リチャード・レブン(元[[イェール大学]]学長)
* ウィリアムズ・ブロディー([[ジョンズ・ホプキンス大学]]学長)
* バルタン・グレゴリアン(元[[ブラウン大学]]学長、現カーネギー法人<ref group="注釈">各種カーネギー財団を統括する法人</ref>代表)
* [[ピーター・サロベイ]](エール大学学長)
* [[ヤマト・イチハシ]](元スタンフォード大学)
* [[タマラ・カールトン]](スタンフォード大学シリコンバレー・イノベーションアカデミーエグゼクティブディレクター、[[モンテレイ工科大学]]および[[大阪工業大学]]客員教授)
* [[ローレン・パウエル・ジョブズ]]([[カレッジ・トラック]]共同創業者/会長、スタンフォード大学理事)(MBA)
*[[ヴィントン・サーフ]]([[インターネット]]開拓者、「インターネットの父」、『[[Internet Protocol]]』の著者)
* ジェームス・モンガン([[マサチューセッツ州|マサチューセッツ]]総合病院総院長)
* カルヴィン・クエート([[原子間力顕微鏡]]を発明)
* [[ロナルド・リベスト]](PhD、[[暗号]]学者)
* [[ステファン・ティモシェンコ]](現代工学メカニックス先駆者)
* [[ブラッドフォード・パーキンソン]] (元アメリカ空軍大佐、「[[GPS]]の父」)
*[[ジョン・エチェメンディ]](哲学者)
* [[青木玲子]](PhD、一橋大学名誉教授、元[[九州大学]]副学長)
* [[有賀夏紀]](PhD、[[埼玉大学]]名誉教授)
* [[伊藤秀史]](PhD、一橋大学名誉教授、早稲田大学教授)
* [[浦田秀次郎]](PhD、[[早稲田大学]]教授)
* [[大坪滋]](PhD、[[名古屋大学]]教授)
* [[大野健一]](PhD、[[政策研究大学院大学]]名誉教授)
* [[奥野正寛]](PhD、[[東京大学]]名誉教授)
* [[金子郁容]](PhD、慶應義塾大学教授)
* [[神取道宏]](PhD、東京大学教授)
* [[黒崎卓]](PhD、一橋大学教授)
* [[小泉潤二]](PhD、[[大阪大学]]教授)
* [[今野浩]](PhD、[[東京工業大学]]名誉教授、数理計画法、金融工学)
* [[末松千尋]](MOT、[[京都大学]]名誉教授)
* [[高木誠一郎]](PhD、[[青山学院大学]]教授)
* [[中村洋]](PhD、慶應義塾大学教授)
* [[林敏彦]](PhD、[[同志社大学]]教授、大阪大学名誉教授)
* [[原田勉]](PhD、[[神戸大学]]教授)
* [[法木秀雄]](MBA、早稲田大学教授)
* [[星谷勝]](PhD、[[武蔵工業大学]](現・[[東京都市大学]])名誉教授)
* [[松本曜]](PhD、[[国立国語研究所]]教授)
* [[松山泰男]](PhD、[[早稲田大学]]名誉教授)
* [[森棟公夫]](PhD、[[椙山女学園大学]]学長、[[京都大学]]名誉教授)
* [[バトラー後藤裕子]] (PhD、ペンシルベニア大学教授)
* [[山下学]](PhD、立正大学教授、法学者、医師)
* [[米山リサ]](PhD、[[トロント大学]]教授)
==== 財界 ====
* カート・アケレイ(MS、[[シリコングラフィックス]]共同創始者)
* [[デビッド・ファイロ]](MS、[[Yahoo!]]共同創始者、現[[チーフ]])
* [[ジェリー・ヤン]](BS、MS、Yahoo!共同創始者、元[[最高経営責任者|CEO]]、[[チーフ]]、[[取締役]])
* [[セルゲイ・ブリン]](MS、現在博士課程一時休学、[[Google]]共同創始者、現社長)
* [[ラリー・ペイジ]](MS、現在博士課程一時休学、Google共同創始者、現社長)
* ロイ・ドルビー([[ドルビーラボラトリーズ]]創始者、現会長)
* [[ウィリアム・ヒューレット]]([[ヒューレット・パッカード]]共同創始者)
* [[デビッド・パッカード]](BA、ヒューレット・パッカード共同創始者)
* フィリップ・ナイト(MBA、[[ナイキ]]創始者、現[[最高経営責任者|CEO]]社長、会長)
* [[スコット・マクネリ]](MBA、[[サン・マイクロシステムズ]]共同創始者、現会長)
* [[ビノッド・コースラ]](MBA、サン・マイクロシステムズ共同創始者)
* [[アンディ・ベクトルシャイム]](MBA、サン・マイクロシステムズ共同創始者)
* クレッグ・バレット(BS、PhD、[[インテル]]現会長)
* [[スティーブ・バルマー|スティーブン・A・バルマー]](MBA退学、[[マイクロソフト]][[最高経営責任者|CEO]])
* [[ジェームス・アルチン]](MS、マイクロソフト共同社長)
* [[ロバート・モンダヴィ]](ロバート・モンダヴィ・ワインズ創始者)
* ロバート・M・バス(MBA、[[キーストーン]]社長)
* ジェフリー・ベウクス(MBA、[[タイム・ワーナー]]社長兼[[最高執行責任者|COO]])
* レン・ボサック(MS [[CS]]{{要曖昧さ回避|date=2021年11月}}、[[シスコシステムズ]]共同創始者)
* サンディー・ラナー(MS [[Stat]] & CS、シスコシステムズ共同創始者)
* バッド・コリガン(MBA、[[マクロメディア]]共同創始者)
* リチャード・フェアーバンク([[キャピタルワン]]共同創始者)
* クラーリー・フィオリーナ([[ヒューレット・パッカード]]前[[最高経営責任者|CEO]]、[[2005年]]まで)
* ドリス・フィッシャー(夫のドナルド・フィッシャーと共に[[ギャップ (企業)|GAP]]共同創始者)
* ヴィクター・グリンチ(PhD、[[フェアチャイルドセミコンダクター]]創始者)
* ステファン・ハドック(MBA、エクストリームネットワーク共同創始者)
* ジェイムス・サックス(MA、IDEO共同創始者)
* サマー・ハマデ([[Vault.com]]共同創始者)
* マーク・オールドマン(Vault.com共同創始者)
* リード・ハスティングス(MS、[[Netflix]]創始者)
* トリップ・ハウキンズ(MBA、[[エレクトロニック・アーツ]]、[[3DO]]創始者)
* J・スコット・カスピック(MBA、Kaspick & Company創始者 現代表取締役)
* [[ガイ・カワサキ]](BA、投資会社Garage Technology Ventures[[最高経営責任者|CEO]])
* ヘンリー・マッキネル(MBA、PhD、[[ファイザー]]現CEO兼会長)
* ジョン・モルグリッチ(MBA、[[シスコシステムズ]]会長)
* T・J・ロッジャー(PhD、Cypress Semiconductor創始者、現CEO)
* アジム・プレムジ([[退学]]、Wipro TechnologiesCEO)
* チャールス・R・スチュワッブ(MBA、Charles Schwab Corporation創始者、現会長兼CEO)
* [[ピーター・ティール]]([[PayPal]]共同創始者、Clarium Capital創始者)
* アラン・トリップ(BA、SCORE! Educational Centers、[[インコート]]創始者)
* [[有馬彰]](MBA、元[[NTTコミュニケーションズ]]社長)
* [[石橋善一郎]](MBA、元[[日本トイザらス]]副社長兼CFO、[[東北大学]]教授)
* [[小泉明正]]([[経営コンサルタント]])
* [[近藤克彦]]([[第一勧業銀行]]元頭取)
* [[甲賀啓一]](MBA、[[野村総合研究所]]元アナリスト、[[野村證券|野村証券]]元投資信託ゼネラルマネージャー、BJ HOLDINGS株式会社取締役会長、S&T Motiv最高顧問)
* [[三枝匡]](経営コンサルタント、[[ミスミグループ本社]]名誉会長)
* [[数原英一郎]](修士、[[三菱鉛筆]]社長)
* [[妹尾輝男]](MBA、日本コーン・フェリー・インターナショナル社長)
* [[滝沢建也]](MBA、元[[警察庁|警察]][[官僚]]、M&Aコンサルティング([[村上ファンド]])元代表取締役)
* [[橘・フクシマ・咲江]](MBA、G&S Global Advisors代表取締役社長、コーン・フェリー・インターナショナル社アジア・パシフィック地域最高顧問)
* [[殿村真一]](MBA、ヘッドストロングジャパン社長)
* [[冨山和彦]](MBA、産業再生機構元専務取締役COO)
* [[原丈人]](工学修士、デフタパートナーズ、アライアンスフォーラム財団)
* [[丸木強]](MBA、[[村上ファンド]]元代表取締役)
* [[三谷宏幸]](修士、[[ノバルティスファーマ]]社長)
* [[村田大介]](MBA、[[村田機械]]社長、[[京都経済同友会]]代表幹事)
* [[若山健彦]](MBA、アセット・インベスターズ会長)
* [[山口スティーブ]](トラベル東北社長)
* [[海部美知]](経営コンサルタント)
* [[金當一臣]](MS、Sloan Fellow、パシフィコ・エナジー代表取締役社長)
*[[大石清恭]](MBA、[[ACCESS (企業)|ACCESS]]代表取締役社長)
*[[石川浩大]](経営コンサルタント、リュエル創始者)
==== 宇宙飛行士 ====
* [[メイ・ジェミソン|マエ・ジャミソン]](BS、MA)
* [[アイリーン・コリンズ|エイリーン・コリンズ]](MS)
* [[マイケル・フィンク|マイク・フィンケ]](MS)
* ウィリアム・フィッシャー(BA)
* [[サリー・ライド]](BA、BS、MS、PhD、[[アメリカ合衆国#国民|アメリカ人]]女性初)
* オーウェン・ガリオット(MS、PhD)
* [[スーザン・J・ヘルムズ|スーザン・ヘルムス]](MS)
* [[エレン・オチョア]](MS、PhD)
* スティーブ・スミス(BS、MS、MBA)
* [[タマラ・E・ジャーニガン|テマラ・ジャーミガン]](BS、MS)
* グレゴリー・リンテリス(MS)
* デイヴィッド・ロー(MS)
* [[エドワード・ルー]](PhD)
* [[ブルース・マッカンドレス2世]](MS)
* [[バーバラ・モーガン|バーバラ・マーガン]](BA)
* スコット・パラジィンスキー(BS、MD)
* ステファン・ロビンソン(MS、PhD)
* ジェフ・ウィスオフ(MS、PhD)
==== 芸能界 ====
* アンドレ・ブラウファー([[俳優]]、[[エミー賞]]受賞、Homicide、Gisbon's Crossing等)
* [[デイヴィッド・ブラウン (映画プロデューサー)|デイヴィッド・ブラウン]]([[映画プロデューサー]]、[[アカデミー賞]]受賞、『[[ジョーズ]]』、『[[ディープ・インパクト (映画)|ディープ・インパクト]]』等)
* フィル・ブラウン(俳優、『[[スター・ウォーズ・シリーズ]]』等)
* テッド・ダンソン(俳優、Cheers等)
* [[イーディス・ヘッド]]([[アカデミー衣裳デザイン賞]]八回受賞)
* [[リチャード・ディーベンコーン]]([[画家]])
* ロバート・マザーウェル(画家)
* ジョン・ナカマツ(ヴァン・クリバーン国際ピアノコンクール金賞)
* ジャック・パレス(俳優、[[アカデミー賞]]受賞)
* フレッド・サヴェージ(俳優、最年少[[エミー賞]]ノミネート、『The Wonder Years、Working』等)
* [[シガニー・ウィーバー]]([[俳優|女優]]、『[[エイリアン (映画)|エイリアン]]』、『ゴーストバスターズ』等)
* [[ジェニファー・コネリー]]([[退学]]、女優、[[ゴールデングローブ賞]]助演女優賞、[[アカデミー助演女優賞]]、『[[ビューティフル・マインド]]』等)
* [[ロジャー・コーマン]](映画プロデューサー、[[映画監督]]、『[[リトル・ショップ・オブ・ホラーズ]]』等)
* エリザベス・ファーンスワース(MA、[[ニュースキャスター]])
* メーガン・ヘラー(女優、Bug Juice等)
* スカイラー・ハージェンセン(映画プロデューサー)
* ダリン・カゴン([[CNN]][[ニュースキャスター]])
* エイミー・ケロッグ([[:en:Master of Arts (postgraduate)|MA]]、[[FOXニュース]][[ニュースレポーター]])
* テッド・コッペル(MA、[[ジャーナリスト]]、前[[アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー|ABC]][[ニュースキャスター]])
* ジャスティン・マッテラ(イタリアの[[テレビ|TV]][[司会|パーソナリティ]])
* ダニエル・パール([[ジャーナリスト]])
* ダニー・ピンタウロ(俳優、『Who's the Boss?』等)
* ベン・サヴェージ(俳優、クリフォード等)
* ジョエル・スタイン([[ロサンゼルスタイムズ]][[ユーモア作家]]、[[コラムニスト]])
* アダム・ウェスト(退学、俳優、『[[バットマン]]』等)
* [[リース・ウィザースプーン]](退学、『[[キューティ・ブロンド]]』等)
* [[リチャード・D・ザナック]](映画プロデューサー、『[[猿の惑星 (映画)|猿の惑星]]』等)
* [[アグネス・チャン]](PhD、歌手、タレント、日本ユニセフ協会大使)
* タブロ(歌手、作家 [[エピック・ハイ]])
* [[ジョセフ・コシンスキー]] ([[映画監督]]、『[[トロン: レガシー]]』等
* [[モンテ・ヘルマン]] ([[映画監督]]、『[[断絶 (映画)|断絶]]』等)
==== スポーツ選手 ====
{{Columns-list|3|
;野球
* [[クリス・カーター (1982年生の外野手)|クリス・カーター]]
* [[アダム・ソルギ]]
* [[ボブ・ブーン]]
* [[ジョン・マクドウェル]]
* [[マイク・ムッシーナ]]
* [[ジェド・ラウリー]]
* [[クリス・リード (野球)|クリス・リード]]
* [[グレッグ・レイノルズ]]
;アメリカンフットボール
* [[トレント・エドワーズ]]
* [[ジョン・エルウェイ]]
* [[ジム・プランケット]]
* [[アンドリュー・ラック]]
;バスケットボール
* [[ジェニファー・アズィー]]
* [[アダム・キーフ]]
* [[ジョレン・コリンズ]]
* [[ジェイソン・コリンズ]]
* [[ケイト・スターバード]]
* [[ブレヴィン・ナイト]]
* [[ライアン・ネルセン]]
* [[ジム・ポラード]]
* [[マーク・マドセン]]
* [[ジョージ・ヤードリー]]
* [[ハンク・ルイセッティ]]
* [[ブルック・ロペス]]
;水泳
* [[ジャネット・エバンス]]
* [[サマー・サンダース]]
* [[ジェニー・トンプソン]]
* [[ミスティー・ハイマン]]
* [[パブロ・モラレス]]
;テニス
* [[ボブ・ブライアン]]
* [[ジョン・マッケンロー]]
;バレーボール
* [[フォルケ・アキンラデウォ]]
* [[ローガン・トム]]
;ゴルフ
* [[タイガー・ウッズ]]([[退学]])
* [[トム・ワトソン]]
;フィギュアスケート
* [[デビ・トーマス]]
;スピードスケート
* [[エリック・ハイデン]]
;十種競技
* [[ボブ・マティアス]]
}}
=== 著名な教員や研究者 ===
* [[ジョージ・シュルツ]]([[フーヴァー戦争・革命・平和研究所|フーバー研究所]]。アメリカ合衆国元労働長官・財務長官・国務長官)
* [[コンドリーザ・ライス]](フーバー研究所。[[政治学]][[教授]]、事務局長、第66代[[アメリカ合衆国国務長官]])
* [[ケネス・アロー]]([[経済学]]教授、[[ノーベル賞]]、[[ジョン・ベーツ・クラーク賞]])
* [[片岡鉄哉]](フーバー研究所。[[政治学者]])
* [[植草一秀]](フーバー研究所。[[経済学者]])
* [[松原久子]](フーバー研究所。著作家、評論家)
* [[ミルトン・フリードマン]](フーバー研究所[[名誉教授]]、ノーベル賞)
*[[フェリックス・ブロッホ]]([[物理学]][[教授]]、ノーベル賞)
* [[ポール・コーエン (数学者)|ポール・コーヘン]]([[数学]][[教授]]、[[フィールズ賞]]受賞者)
* [[ドナルド・クヌース|ドナルド・E・クヌース]](名誉教授、[[計算機科学者]]、[[数学者]]、[[The Art of Computer Programming]]の著者、[[TeX]]の開発者、[[チューリング賞]])
* ロバート・グレイ(電気工学・情報工学、高能率[[情報圧縮]]の先駆者)
* [[マーティン・ヘルマン]](電気工学・情報工学、[[公開鍵暗号]]の創始者)
* [[アブナー・グライフ]]([[経済学者]])
* [[雨宮健]](経済学者)
* [[青木昌彦]](経済学者)
* [[小島武仁]](経済学者)
* [[今井賢一 (経営学者)]]
*[[本多俊毅]](経済学者)
* ララ・ハルダヤール([[インド]]自由運動者)
* [[アレクサンドル・ケレンスキー]]([[ロシア革命]]指導者)
*[[ダグラス・ホフスタッター|ダグラス・R・ホフスタッター]](『ゲーデル、エッシャー、バッハ』の著者)
* [[ロバート・B・ラフリン]]([[物理学]][[教授]]、[[ノーベル賞]])
* [[ジョン・マッカーシー]]([[人工知能]]研究の第一人者、[[LISP]]創案者)
* [[ローレンス・レッシグ]]([[ロー・スクール (アメリカ合衆国)|ロースクール]][[教授]]、CODE, The Future of Ideas, Free Cultureの著者、インターネット社会研究所創立者)
* フアン・バウティスタ・ラエル([[言語]]、[[民俗学]]者)
* イーヴァン・ボーランド([[アイルランド]][[詩人]])
*[[ポール・バーグ]]([[化学]][[教授]]、ノーベル賞)
*[[スティーブン・チュー]](物理学教授、ノーベル賞)
* リンダ・ダーリン・ハモンド([[教育]][[理論家]])
* ドン・E・フェイレンバッハー([[ピューリッツァー賞]])
* [[ダグラス・D・オシェロフ]](物理学教授、ノーベル賞)
* [[アンドレイ・リンデ]](物理学教授、インフレーションモデルの研究)
* [[マーチン・パール]](物理学教授、ノーベル賞)
*[[ウィリアム・J・ペリー]]([[工学者]]、[[外交官]]、[[起業家]]、第19代[[アメリカ合衆国国防長官]])
* [[マイロン・ショールズ]]([[経済学]][[教授]]、ノーベル賞)
* パトリック・サペス([[哲学]][[教授]]、[[アメリカ国家科学賞]]受賞者)
*[[レオナルド・サスキンド]]([[理論物理学]]教授、[[弦理論]]提唱者)
* [[ジョン・ブライアン・テイラー]]([[経済学者]]、[[テイラー・ルール]]の考案者)
* [[リチャード・E・テイラー]](物理学教授、ノーベル賞)
*[[ポール・ワツラウィック]]([[精神医学]]教授、コミュニケーション理論の研究者)
* [[西野精治]](睡眠研究所、精神医学教授)
* コイト・ブラッカー([[政治学]]教授)
* [[ブライアン・ファニホウ]]([[作曲家]]、教授)
* [[イアン・ホッダー]]([[人類学]]者)
* [[フィリップ・ジンバルドー]]([[心理学]]者、[[スタンフォード監獄実験]]の責任者)
* [[デビッド・M・ケリー]]([[教授]]、[[IDEO]]創設者、ハッソ・プラットナー・デザイン研究所創設を主導)
* [[マリアム・ミルザハニ]](数学教授、女性初の[[フィールズ賞]]受賞者)
* [[ティリー・オルセン]]([[女性学]]、作家)
* [[加藤英明 (生物化学者)|加藤英明]](構造生物学)
* [[張首晟]] (物理学者)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
<references/>
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|Stanford University|スタンフォード大学}}
* [[スタンフォード監獄実験]] - スタンフォード大学で行われた心理学の実験
* [[スタンフォード哲学百科事典]] - スタンフォード大学が提供する無料のオンライン哲学百科事典
*[[大学基金]]
*[[プライベート・エクイティ・ファンド]]
*[[ヘッジファンド]]
== 外部リンク ==
* [https://www.stanford.edu/ Stanford University(英語版)]
* [https://www.doshisha.ac.jp/international/from_abroad/study/sjc.html スタンフォード日本センター]
* [https://www.usnews.com/best-colleges/stanford-university-1305 2011年全米学部課程総合ランキング]
* {{Mediaarts-db}}
{{Coord|nosave=1|format=dms|display=title|region:US_type:edu}}
{{アメリカ大学協会}}
{{環太平洋大学協会}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:すたんふおおとたいかく}}
[[Category:スタンフォード大学|*]]
[[Category:カリフォルニア州の大学]]
[[Category:学校記事]]
[[Category:シリコンバレー]]
[[Category:サンタクララ郡]] | 2003-05-20T08:08:06Z | 2023-12-05T23:30:37Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89%E5%A4%A7%E5%AD%A6 |
8,783 | 著作物 | 著作物(ちょさくぶつ)とは、著作権の対象となる知的財産である。
著作権及び著作物の概念はヨーロッパ大陸や日本などの大陸法の法体系とイギリスやアメリカなど英米法の法体系とで異なる。
著作権の歴史はヨハネス・グーテンベルクによる活版印刷機の発明によって印刷物が大量生産できるようになって生まれた権利とされている。1710年にイギリスでアン法が制定されたことによって創作物である文章を複写する権利は書籍出版業組合から著者に移行したが、著者はいったん出版社などの第三者に権利を譲渡してしまうと一切の権利を主張できないものとされた。そのため英米法では著作財産権が著作人格権に優先する形で発展した。一方、大陸法の著作権は古代ローマやギリシャの法の影響を受け、さらにフランス革命期の自然権思想を礎に著作者の名誉や社会的保護(のちの著作人格権)を約束する性格をもつものとして発展した。
以上のように英米法では出版・複写など単にコピーする権利として捉えられたため、アメリカ法などではレコードのように有体物に固定された物自体を著作物として扱ってきた。しかし多くの国々では有体物の存在とは無関係に知覚可能な状態になっていればよく有体物への固定を著作物の要件とはしていない。
一般的に、著作物を創造した人物は、その著作物を他人が無断で利用しても、自己の利用を妨げられることはない。しかし、他人が無制限に著作物を利用できると、著作物の創造者はその知的財産から利益を得ることが困難となる。著作物の創造には費用・時間がかかるため、無断利用を許すと、知的財産の創造意欲を後退させ、その創造活動が活発に行われないようになるといった結果を招く。このような理由から、著作物を他人が無断で無制限に利用できないように法的に保護する必要がある。このため、知的財産権の一種である著作権があり、著作権法が制定され著作物を法的に保護している。
世界的な著作権保護に関してはおおむね相互主義が採られている。国際的な著作権保護の枠組みとしては、万国著作権条約やベルヌ条約等の多国間条約が存在するが、未加盟の発展途上国の存在など、その不備が指摘されている。著作物は条約上に定義されているわけではなく、各国でも法律によって著作物の定義を行っている国は日本など限られる。
著作物とは、日本の著作権法の定義によれば、「思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」(2条1項1号)である。要件を分解すれば、次の通りである。
そのため、表現ではない事実や事件(江差追分事件)やデータや思想(アイディア)そのもの(例えばキャラクター設定)や感情そのもの、創作の加わっていない模倣品、範囲外の工業製品(例えば自動車のデザイン)などは著作物とはならないほか、短い表現・ありふれた表現(例えば作品のタイトルや流行語や商品名)・選択の幅が狭い表現などは創作性が認められない傾向にある。
旧著作権法においては著作物の定義に関する規定はない。1条でいくつかの著作物を例示的に掲げていたにすぎなかった。が、「凡ソ著作権ノ目的タル著作物トハ精神的労作ノ所産タル思想感情ノ独創的表白ニシテ客観的存在ヲ有シ而モ文芸学術若ハ美術ノ範囲ニ属スルモノナリト解スルヲ相当トス」と判示した判例があった。また、同じく旧法下において東京地裁の判決に同じ判示があった。
元々、「著作物」という語はベルヌ条約のフランス語原文における「Oeuvre」や英語の「Work」に相当するものであり、旧著作権法を起草した水野錬太郎は著書「著作権法要義」において、「著作物トハ[...]有形ト無形トヲ問ハズ吾人ノ精神的努力ニヨリテ得タル一切ノ製作物ヲ云フ」と解説していた。旧著作権法では、著作物のうち「文芸学術の著作物」(Oeuvre littéraire)と「美術の著作物」(Oeuvre artistique)に対して著作者の複製権専有を規定することで、それらの著作物のみが著作権の目的物となるようにしていた。
新聞紙法の第一条において、定義を示さずに「著作物」という語が使われているが、新聞紙法における著作物の意味は、思索考量によって案出された著述だけでなく、時事その他に関する報道も含んでいる (信用毀損及新聞紙法違反ノ件(明治四十四年二月九日大審院判決))。
著作権法10条は、つぎのようなものを著作物として例示列挙している。例示列挙であって、限定列挙ではないから、著作物が例示されたものに限られるわけではない。
著作権法によると、二次的著作物は著作物を翻訳し、編曲し、若しくは変形し、又は脚色し、映画化し、その他翻案することにより創作した著作物」としている。
データベースとは、論文、数値、図形その他の情報の集合物であつて、それらの情報を電子計算機を用いて検索することができるように体系的に構成したものをいう(2条1項10号の3)。データベースでその情報の選択又は体系的な構成によつて創作性を有するものは、著作物として保護する(12条の2第1項)。しかし、このことは、当該データベースの部分を構成する著作物の著作者の権利に影響を及ぼさない(12条の2第2項)。
データベース以外の編集物(著作権法上単に「編集物」という)で、その素材の選択又は配列によつて創作性を有するものは、著作物として保護する(12条1項)。
しかし、このことは、当該編集物の部分を構成する著作物の著作者の権利に影響を及ぼさない(12条2項)。
旧著作権法は「数多ノ著作物ヲ適法ニ編輯シタル者ハ著作者ト看做シ其ノ編輯物全部ニ付テノミ著作権ヲ有ス但シ各部ノ著作権ハ其ノ著作者ニ属ス」と規定しており、非著作物を素材とする編集物が編集著作物となるか疑義があった。
そのため、現行法は素材の選択・配列に創作性が認められる編集物を広く保護すべしとの思想のもと、編集著作物に関する定義規定を設けた。
編集著作物の法的性質については、編集著作物とその他の著作物との間に明確な境界線を引くことは困難であり、確認的規定に過ぎないとする見解もあるが、素材の選択・配列という行為が独立して著作権により保護されるという点で、創設的な規定であるとする見解も有力である。
特に、非著作物を素材とする編集物については、素材そのものには特質性がない中で、もっぱらそれを選択・配列することに創作性が認められるという点で、通常の著作物とは大きく異なるとされる。
現行法が、素材の選択と配列に創作性を見出して、非著作物を素材とする編集著作物をも保護範囲に含めたことは、実質的には編集方針というアイデア保護に一歩踏み込んだものとされる。
しかし、それでも現行法上は具体的な編集物を離れて、抽象的な編集方針というアイデアそれ自体が著作権により保護されるわけではない(アイディア・表現二分論)。
そのため、(特に事実を素材とする編集物において)最も創造性を有する編集方針というアイデアが保護対象外であるという矛盾を抱えるとされる。
また、編集方針が保護されないことの帰結として、編集著作物として保護されるのは、一定の素材を創作的に選択または配列した具体的な編集物である。
そのため、素材が全く異なる時には編集著作権侵害の余地はないとする見解もあるが、異論も多い。
著作権法は投資保護法ではなく、人の精神的創作物の保護を企図している。
そのため、編集著作物の創作性も素材の選択・配列に見出され、素材それ自体の収集にどれだけの労力・資力を費やしたとしても、それを創作的に選択・配列しない限りは編集著作物としての保護は及ばない。
他人が行った情報収集行為にフリーライドする行為は、現行法上は民法709条等の不法行為法により保護されるに留まる。
創作性の程度については、一般の著作物と同様に、新規性や独創性までもが要求されるものでなく、編集者の何らかの個性が表れていれば足りる。
ただし、事実等を素材とした編集物については、安易にその保護を認めると事実の独占に繋がりかねないため、創作性の認定は慎重に行う必要があるとされる。
また、創作性は素材の選択または配列のいずれかに現れていれば良い。
「(上林暁が執筆した作品の内)判読不能なもの、未完成のもの、一部しかなく完全でないもの、全集と重複するものや対談等の記事を除き、本件書籍を構成する作品として本件書籍に収録」した場合、収録及び除外基準はありふれているため編者の個性が現れているとまではいえないが、「一定の分類項目を設け(特に「アンケート」,「自作関連」,「観戦記」という分類項目を独立させ)、作品をそれらの分類項目に従って配列した点には、編者の個性が表れているということができる」とした裁判例が存在する(知財高判平28・1・27、『ツェッペリン飛行船と黙想』事件)。
なお、編集著作物は素材の配列・選択に創作性を見出すため、その前提として素材が何かを確定する必要がある。
素材が何かは当該編集物の目的・性質・内容に照らして判断される必要があるが、素材に階層性が認められることもある。
例えば、新聞記事にあっては、記事原稿自体が素材であるとともに、記事が伝達しようとした事実自体も素材であるとされる。
以下に該当するものは著作物ではあっても、著作権の目的とならない(13条)。また、著作者人格権の対象にもならないものと解する。これらの著作物の内容は国民の権利や義務を直接形成するものであり、国民に広く周知されるべきものであるため、著作権の対象とすることは妥当ではないからである。
米国の法体系は連邦法と州法に分かれ、米国著作権法の主たる内容は連邦法として合衆国法典第17編 (17 U.S.C.) に収録されている。著作物の定義、保護対象と例外については第1章で規定されている。
フランス著作権法の条文は知的財産法典(フランス語版)の第1部に収録されている。フランス著作権法は「精神の著作物の著作者」という条文表現から始まっており (L111条-1)、著作者による知的な創作活動によって (創作性)、何らかの表現がなされていること (表現性) が、著作権保護の要件として挙げられる。14ジャンルの著作物が著作権法上で定義されており、季節性の高いファッションや実用品デザインといった応用美術にも著作物性を認めている (L112条-2)。ただし14ジャンルはあくまで例示であり、著作権の法的保護はこれらに限定されるものではない。 | [
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"text": "著作物(ちょさくぶつ)とは、著作権の対象となる知的財産である。",
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"text": "著作権及び著作物の概念はヨーロッパ大陸や日本などの大陸法の法体系とイギリスやアメリカなど英米法の法体系とで異なる。",
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"text": "著作権の歴史はヨハネス・グーテンベルクによる活版印刷機の発明によって印刷物が大量生産できるようになって生まれた権利とされている。1710年にイギリスでアン法が制定されたことによって創作物である文章を複写する権利は書籍出版業組合から著者に移行したが、著者はいったん出版社などの第三者に権利を譲渡してしまうと一切の権利を主張できないものとされた。そのため英米法では著作財産権が著作人格権に優先する形で発展した。一方、大陸法の著作権は古代ローマやギリシャの法の影響を受け、さらにフランス革命期の自然権思想を礎に著作者の名誉や社会的保護(のちの著作人格権)を約束する性格をもつものとして発展した。",
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"text": "以上のように英米法では出版・複写など単にコピーする権利として捉えられたため、アメリカ法などではレコードのように有体物に固定された物自体を著作物として扱ってきた。しかし多くの国々では有体物の存在とは無関係に知覚可能な状態になっていればよく有体物への固定を著作物の要件とはしていない。",
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"text": "一般的に、著作物を創造した人物は、その著作物を他人が無断で利用しても、自己の利用を妨げられることはない。しかし、他人が無制限に著作物を利用できると、著作物の創造者はその知的財産から利益を得ることが困難となる。著作物の創造には費用・時間がかかるため、無断利用を許すと、知的財産の創造意欲を後退させ、その創造活動が活発に行われないようになるといった結果を招く。このような理由から、著作物を他人が無断で無制限に利用できないように法的に保護する必要がある。このため、知的財産権の一種である著作権があり、著作権法が制定され著作物を法的に保護している。",
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"text": "世界的な著作権保護に関してはおおむね相互主義が採られている。国際的な著作権保護の枠組みとしては、万国著作権条約やベルヌ条約等の多国間条約が存在するが、未加盟の発展途上国の存在など、その不備が指摘されている。著作物は条約上に定義されているわけではなく、各国でも法律によって著作物の定義を行っている国は日本など限られる。",
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"text": "著作物とは、日本の著作権法の定義によれば、「思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」(2条1項1号)である。要件を分解すれば、次の通りである。",
"title": "日本法における著作物"
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"text": "そのため、表現ではない事実や事件(江差追分事件)やデータや思想(アイディア)そのもの(例えばキャラクター設定)や感情そのもの、創作の加わっていない模倣品、範囲外の工業製品(例えば自動車のデザイン)などは著作物とはならないほか、短い表現・ありふれた表現(例えば作品のタイトルや流行語や商品名)・選択の幅が狭い表現などは創作性が認められない傾向にある。",
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"text": "旧著作権法においては著作物の定義に関する規定はない。1条でいくつかの著作物を例示的に掲げていたにすぎなかった。が、「凡ソ著作権ノ目的タル著作物トハ精神的労作ノ所産タル思想感情ノ独創的表白ニシテ客観的存在ヲ有シ而モ文芸学術若ハ美術ノ範囲ニ属スルモノナリト解スルヲ相当トス」と判示した判例があった。また、同じく旧法下において東京地裁の判決に同じ判示があった。",
"title": "日本法における著作物"
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"text": "元々、「著作物」という語はベルヌ条約のフランス語原文における「Oeuvre」や英語の「Work」に相当するものであり、旧著作権法を起草した水野錬太郎は著書「著作権法要義」において、「著作物トハ[...]有形ト無形トヲ問ハズ吾人ノ精神的努力ニヨリテ得タル一切ノ製作物ヲ云フ」と解説していた。旧著作権法では、著作物のうち「文芸学術の著作物」(Oeuvre littéraire)と「美術の著作物」(Oeuvre artistique)に対して著作者の複製権専有を規定することで、それらの著作物のみが著作権の目的物となるようにしていた。",
"title": "日本法における著作物"
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"text": "新聞紙法の第一条において、定義を示さずに「著作物」という語が使われているが、新聞紙法における著作物の意味は、思索考量によって案出された著述だけでなく、時事その他に関する報道も含んでいる (信用毀損及新聞紙法違反ノ件(明治四十四年二月九日大審院判決))。",
"title": "日本法における著作物"
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"text": "著作権法10条は、つぎのようなものを著作物として例示列挙している。例示列挙であって、限定列挙ではないから、著作物が例示されたものに限られるわけではない。",
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"text": "著作権法によると、二次的著作物は著作物を翻訳し、編曲し、若しくは変形し、又は脚色し、映画化し、その他翻案することにより創作した著作物」としている。",
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"text": "データベースとは、論文、数値、図形その他の情報の集合物であつて、それらの情報を電子計算機を用いて検索することができるように体系的に構成したものをいう(2条1項10号の3)。データベースでその情報の選択又は体系的な構成によつて創作性を有するものは、著作物として保護する(12条の2第1項)。しかし、このことは、当該データベースの部分を構成する著作物の著作者の権利に影響を及ぼさない(12条の2第2項)。",
"title": "日本法における著作物"
},
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"text": "データベース以外の編集物(著作権法上単に「編集物」という)で、その素材の選択又は配列によつて創作性を有するものは、著作物として保護する(12条1項)。",
"title": "日本法における著作物"
},
{
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"text": "しかし、このことは、当該編集物の部分を構成する著作物の著作者の権利に影響を及ぼさない(12条2項)。",
"title": "日本法における著作物"
},
{
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"text": "旧著作権法は「数多ノ著作物ヲ適法ニ編輯シタル者ハ著作者ト看做シ其ノ編輯物全部ニ付テノミ著作権ヲ有ス但シ各部ノ著作権ハ其ノ著作者ニ属ス」と規定しており、非著作物を素材とする編集物が編集著作物となるか疑義があった。",
"title": "日本法における著作物"
},
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"text": "そのため、現行法は素材の選択・配列に創作性が認められる編集物を広く保護すべしとの思想のもと、編集著作物に関する定義規定を設けた。",
"title": "日本法における著作物"
},
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"text": "編集著作物の法的性質については、編集著作物とその他の著作物との間に明確な境界線を引くことは困難であり、確認的規定に過ぎないとする見解もあるが、素材の選択・配列という行為が独立して著作権により保護されるという点で、創設的な規定であるとする見解も有力である。",
"title": "日本法における著作物"
},
{
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"text": "特に、非著作物を素材とする編集物については、素材そのものには特質性がない中で、もっぱらそれを選択・配列することに創作性が認められるという点で、通常の著作物とは大きく異なるとされる。",
"title": "日本法における著作物"
},
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"text": "現行法が、素材の選択と配列に創作性を見出して、非著作物を素材とする編集著作物をも保護範囲に含めたことは、実質的には編集方針というアイデア保護に一歩踏み込んだものとされる。",
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},
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"text": "しかし、それでも現行法上は具体的な編集物を離れて、抽象的な編集方針というアイデアそれ自体が著作権により保護されるわけではない(アイディア・表現二分論)。",
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"text": "そのため、(特に事実を素材とする編集物において)最も創造性を有する編集方針というアイデアが保護対象外であるという矛盾を抱えるとされる。",
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"text": "また、編集方針が保護されないことの帰結として、編集著作物として保護されるのは、一定の素材を創作的に選択または配列した具体的な編集物である。",
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"text": "そのため、素材が全く異なる時には編集著作権侵害の余地はないとする見解もあるが、異論も多い。",
"title": "日本法における著作物"
},
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"text": "著作権法は投資保護法ではなく、人の精神的創作物の保護を企図している。",
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"text": "そのため、編集著作物の創作性も素材の選択・配列に見出され、素材それ自体の収集にどれだけの労力・資力を費やしたとしても、それを創作的に選択・配列しない限りは編集著作物としての保護は及ばない。",
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"text": "他人が行った情報収集行為にフリーライドする行為は、現行法上は民法709条等の不法行為法により保護されるに留まる。",
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"text": "創作性の程度については、一般の著作物と同様に、新規性や独創性までもが要求されるものでなく、編集者の何らかの個性が表れていれば足りる。",
"title": "日本法における著作物"
},
{
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"text": "ただし、事実等を素材とした編集物については、安易にその保護を認めると事実の独占に繋がりかねないため、創作性の認定は慎重に行う必要があるとされる。",
"title": "日本法における著作物"
},
{
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"text": "また、創作性は素材の選択または配列のいずれかに現れていれば良い。",
"title": "日本法における著作物"
},
{
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"tag": "p",
"text": "「(上林暁が執筆した作品の内)判読不能なもの、未完成のもの、一部しかなく完全でないもの、全集と重複するものや対談等の記事を除き、本件書籍を構成する作品として本件書籍に収録」した場合、収録及び除外基準はありふれているため編者の個性が現れているとまではいえないが、「一定の分類項目を設け(特に「アンケート」,「自作関連」,「観戦記」という分類項目を独立させ)、作品をそれらの分類項目に従って配列した点には、編者の個性が表れているということができる」とした裁判例が存在する(知財高判平28・1・27、『ツェッペリン飛行船と黙想』事件)。",
"title": "日本法における著作物"
},
{
"paragraph_id": 32,
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"text": "なお、編集著作物は素材の配列・選択に創作性を見出すため、その前提として素材が何かを確定する必要がある。",
"title": "日本法における著作物"
},
{
"paragraph_id": 33,
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"text": "素材が何かは当該編集物の目的・性質・内容に照らして判断される必要があるが、素材に階層性が認められることもある。",
"title": "日本法における著作物"
},
{
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"text": "例えば、新聞記事にあっては、記事原稿自体が素材であるとともに、記事が伝達しようとした事実自体も素材であるとされる。",
"title": "日本法における著作物"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "以下に該当するものは著作物ではあっても、著作権の目的とならない(13条)。また、著作者人格権の対象にもならないものと解する。これらの著作物の内容は国民の権利や義務を直接形成するものであり、国民に広く周知されるべきものであるため、著作権の対象とすることは妥当ではないからである。",
"title": "日本法における著作物"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "米国の法体系は連邦法と州法に分かれ、米国著作権法の主たる内容は連邦法として合衆国法典第17編 (17 U.S.C.) に収録されている。著作物の定義、保護対象と例外については第1章で規定されている。",
"title": "アメリカ合衆国における著作物"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "フランス著作権法の条文は知的財産法典(フランス語版)の第1部に収録されている。フランス著作権法は「精神の著作物の著作者」という条文表現から始まっており (L111条-1)、著作者による知的な創作活動によって (創作性)、何らかの表現がなされていること (表現性) が、著作権保護の要件として挙げられる。14ジャンルの著作物が著作権法上で定義されており、季節性の高いファッションや実用品デザインといった応用美術にも著作物性を認めている (L112条-2)。ただし14ジャンルはあくまで例示であり、著作権の法的保護はこれらに限定されるものではない。",
"title": "フランスにおける著作物"
}
] | 著作物(ちょさくぶつ)とは、著作権の対象となる知的財産である。 | '''著作物'''(ちょさくぶつ)とは、[[著作権]]の対象となる[[知的財産権|知的財産]]である。
== 概説 ==
著作権及び著作物の概念はヨーロッパ大陸や[[日本]]などの[[大陸法]]の法体系と[[イギリス]]や[[アメリカ合衆国|アメリカ]]など[[英米法]]の法体系とで異なる<ref>「著作権特殊講義 日本音楽著作権協会(JASRAC)寄附講座 2003年度」成蹊大学法学部、2004年、17頁</ref>。
著作権の歴史は[[ヨハネス・グーテンベルク]]による活版印刷機の発明によって印刷物が大量生産できるようになって生まれた権利とされている<ref name="global">藤野仁三、鈴木公明『グローバル経営を推進する知財戦略の教科書』2013年、265頁</ref>。[[1710年]]にイギリスで[[アン法]]が制定されたことによって創作物である文章を複写する権利は書籍出版業組合から著者に移行したが、著者はいったん出版社などの第三者に権利を譲渡してしまうと一切の権利を主張できないものとされた<ref name="global" />。そのため英米法では著作財産権が著作人格権に優先する形で発展した<ref name="global" />。一方、大陸法の著作権は古代ローマやギリシャの法の影響を受け、さらにフランス革命期の自然権思想を礎に著作者の名誉や社会的保護(のちの著作人格権)を約束する性格をもつものとして発展した<ref name="global" />。
以上のように英米法では出版・複写など単にコピーする権利として捉えられたため<ref name="global" />、アメリカ法などではレコードのように有体物に固定された物自体を著作物として扱ってきた<ref>「著作権特殊講義 日本音楽著作権協会(JASRAC)寄附講座 2003年度」成蹊大学法学部、2004年、143-144頁</ref>。しかし多くの国々では有体物の存在とは無関係に知覚可能な状態になっていればよく有体物への固定を著作物の要件とはしていない<ref>「著作権特殊講義 日本音楽著作権協会(JASRAC)寄附講座 2003年度」成蹊大学法学部、2004年、144-145頁</ref>。
一般的に、著作物を創造した人物は、その著作物を他人が無断で利用しても、自己の利用を妨げられることはない。しかし、他人が無制限に著作物を利用できると、著作物の創造者はその[[知的財産]]から利益を得ることが困難となる。著作物の創造には費用・時間がかかるため、無断利用を許すと、知的財産の創造意欲を後退させ、その創造活動が活発に行われないようになるといった結果を招く。このような理由から、著作物を他人が無断で無制限に利用できないように法的に保護する必要がある。このため、[[知的財産権]]の一種である[[著作権]]があり、[[著作権法]]が制定され著作物を法的に保護している<ref>茶園成樹『著作権法 第3版』有斐閣 2021年 ISBN 978-4-641-24351-4 pp.2</ref>。
世界的な著作権保護に関してはおおむね[[相互主義]]が採られている<ref>「著作権特殊講義 日本音楽著作権協会(JASRAC)寄附講座 2003年度」成蹊大学法学部、2004年、104頁</ref>。国際的な著作権保護の枠組みとしては、[[万国著作権条約]]や[[ベルヌ条約]]等の多国間条約が存在するが、未加盟の[[発展途上国]]の存在など、その不備が指摘されている<ref>[https://www.tains.tohoku.ac.jp/news/st-news-5/0709.html コンピュータネットワーク上の国際的な著作権侵害ー東北大学]</ref>。著作物は条約上に定義されているわけではなく、各国でも法律によって著作物の定義を行っている国は日本など限られる<ref>「著作権特殊講義 日本音楽著作権協会(JASRAC)寄附講座 2003年度」成蹊大学法学部、2004年、45頁</ref>。
==日本法における著作物==
{{law|section=1}}
*[[著作権法]]は、以下で条数のみ記載する。
===著作物の定義===
'''著作物'''とは、日本の[[著作権法]]の定義によれば、'''「[[思想]]又は[[感情]]を創作的に表現したものであって、[[文芸]]、[[学術]]、[[美術]]又は[[音楽]]の範囲に属するもの」'''([[b:著作権法第2条|2条]]1項1号)である。要件を分解すれば、次の通りである。
#「思想又は感情」
#「創作的」
#「表現したもの」
#「文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」
そのため、表現ではない事実や事件([[江差追分事件]])やデータ<ref name="hajimete">[http://www.bunka.go.jp/chosakuken/text/pdf/chosaku_text_100628.pdf 著作権テキスト 初めて学ぶ人のために] 文化庁長官官房著作権課 2010年度{{リンク切れ|date=2015-10}}[https://www.bunka.go.jp/seisaku/chosakuken/seidokaisetsu/pdf/h28_text.pdf (代替 平成28年度版PDF(※脚注リンク切れの平成22年度版ではないので注意))]</ref>や思想(アイディア)そのもの(例えばキャラクター設定<ref name="著作権なるほど質問箱 人気アニメのキャラクターは著作物ですか。">[https://pf.bunka.go.jp/chosaku/chosakuken/naruhodo/answer.asp?Q_ID=0000083]著作権なるほど質問箱 人気アニメのキャラクターは著作物ですか。</ref>)や感情そのもの、創作の加わっていない模倣品<ref name="hajimete"/>、範囲外の工業製品<ref name="hajimete"/>(例えば自動車のデザイン<ref name="著作権なるほど質問箱 自動車メーカーが売り出しているファミリーカーのデザインは著作物ですか。">[https://pf.bunka.go.jp/chosaku/chosakuken/naruhodo/answer.asp?Q_ID=0000060]著作権なるほど質問箱 自動車メーカーが売り出しているファミリーカーのデザインは著作物ですか。</ref>)などは著作物とはならないほか、短い表現・ありふれた表現<ref name="hajimete"/><ref>[https://www.kantei.go.jp/jp/singi/it2/densi/rwg/dai1/siryou09.pdf 著作権法の基本的な枠組みについて(オープンデータ関連)] 文化庁 2013年1月24日</ref>(例えば作品のタイトル<ref name="著作権なるほど質問箱 小説や音楽などの題名は著作権で保護されますか。">[https://pf.bunka.go.jp/chosaku/chosakuken/naruhodo/answer.asp?Q_ID=0000089]著作権なるほど質問箱 小説や音楽などの題名は著作権で保護されますか。</ref><ref name="著作権なるほど質問箱 図書館で、書籍の題名、著作者名、出版者名、発行年等の書誌情報をデータベース化し、パソコンコーナーで検索できるようにしようと考えていますが、問題がありますか。">[https://pf.bunka.go.jp/chosaku/chosakuken/naruhodo/answer.asp?Q_ID=0000507]著作権なるほど質問箱 図書館で、書籍の題名、著作者名、出版者名、発行年等の書誌情報をデータベース化し、パソコンコーナーで検索できるようにしようと考えていますが、問題がありますか。</ref>や流行語<ref name="著作権なるほど質問箱 流行語大賞を獲得した言葉や造語は著作物ですか。">[https://pf.bunka.go.jp/chosaku/chosakuken/naruhodo/answer.asp?Q_ID=0000094]著作権なるほど質問箱 流行語大賞を獲得した言葉や造語は著作物ですか。</ref>や商品名<ref name="著作権なるほど質問箱 独創的な商品名は著作物ですか。">[https://pf.bunka.go.jp/chosaku/chosakuken/naruhodo/answer.asp?Q_ID=0000092]著作権なるほど質問箱 独創的な商品名は著作物ですか。</ref>)・選択の幅が狭い表現などは創作性が認められない傾向にある。
==== 旧著作権法における著作物の定義 ====
旧著作権法においては著作物の定義に関する規定はない。1条でいくつかの著作物を例示的に掲げていたにすぎなかった。が、「凡ソ著作権ノ目的タル著作物トハ精神的労作ノ所産タル思想感情ノ独創的表白ニシテ客観的存在ヲ有シ而モ文芸学術若ハ美術ノ範囲ニ属スルモノナリト解スルヲ相当トス」と判示した判例があった<ref>大阪控判昭和11・5・19法律新聞4006号2頁(訴廷日誌事件)</ref>。また、同じく旧法下において東京地裁の判決に同じ判示があった<ref>東京地裁昭和40・8・31判例時報424号40-41頁(船荷証券ひな型事件)</ref>。
元々、「著作物」という語は[[ベルヌ条約]]のフランス語原文における「Oeuvre」や英語の「Work」に相当するものであり、旧著作権法を起草した[[水野錬太郎]]は著書「著作権法要義」において、「著作物トハ[...]有形ト無形トヲ問ハズ吾人ノ精神的努力ニヨリテ得タル一切ノ製作物ヲ云フ」と解説していた<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=fDXW25-mTBMC&printsec=frontcover 著作権法要義] 水野錬太郎 1899年</ref>。旧著作権法では、著作物のうち「文芸学術の著作物」(Oeuvre littéraire)と「美術の著作物」(Oeuvre artistique)に対して著作者の複製権専有を規定することで、それらの著作物のみが著作権の目的物となるようにしていた。
==== 新聞紙法における著作物の定義 ====
[[新聞紙法]]の第一条において、定義を示さずに「著作物」という語が使われているが、新聞紙法における著作物の意味は、思索考量によって案出された著述だけでなく、[[時事]]その他に関する[[報道]]も含んでいる (信用毀損及新聞紙法違反ノ件(明治四十四年二月九日大審院判決))。
===著作物の例示===
[[b:著作権法第10条|著作権法10条]]は、つぎのようなものを著作物として例示列挙している。例示列挙であって、限定列挙ではないから、著作物が例示されたものに限られるわけではない。
*[[言語]]の著作物(10条1項1号) [[小説]]、[[脚本]]、[[論文]]、[[講演]]その他。
**ただし、「事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道」は、著作物に該当しない(10条2項)。
*[[音楽]]の著作物(10条1項2号)
*[[舞踊]]又は[[無言劇]]の著作物(10条1項3号)。
*[[美術]]の著作物(10条1項4号)
**美術の著作物は、[[絵画]]、[[版画]]、[[彫刻]]その他。[[美術工芸品]]を含む(2条2項)。なお、応用美術([[量産品]])については[[意匠法]]で守られており、[[高裁]][[判決]]において、美術[[鑑賞]]の対象となりうる[[審美]]性を備えていない限り著作物には該当しないとされている<ref>[https://web.archive.org/web/20111230072918/http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20090422091059.pdf ○玩具「ファービー」人形のデザインは美術の著作物に該当しないと判断された事例 平成14年7月9日判決宣告 仙台高等裁判所 平成13年 (う) 第177号]([[日本の裁判所]])</ref>。また、[[漫画]]の[[キャラクター]]においては、キャラクターの[[絵]]は著作物となるものの、キャラクター自体は「漫画の具体的[[表現]]から[[昇華 (心理学)|昇華]]した登場人物の[[人格]]ともいうべき[[抽象的]][[概念]]であって、[[具体的]]表現そのものではなく、それ自体が[[思想]]又は[[感情]]を[[創作]]的に[[表現]]したものということができない」とされている<ref name="popai"/>。
*[[建築]]の著作物(10条1項5号)
*[[図形]]の著作物(10条1項6号)- [[地図]]又は[[学術]]的な性質を有する[[図面]]、[[図表]]、[[模型]]その他。
*[[映画の著作物]](10条1項7号)。- [[映画]]の著作物には、映画の効果に類似する[[視覚]]的又は[[視聴覚]]的効果を生じさせる方法で表現され、かつ、物に固定されている著作物を含む(2条3項)。映画、[[ビデオグラム]]、[[テレビジョン]]、[[テレビゲーム]]、[[コンピュータ]]などの[[ディスプレイ (コンピュータ)|画面]][[表示]]が挙げられる。
*[[写真]]の著作物(10条1項8号)。写真の製作方法に類似する方法を用いて表現される著作物を含む(2条4項)。
*[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]の著作物(10条1項9号)-「プログラム」とは、[[電子計算機]]を機能させて一の結果を得ることができるようにこれに対する指令を組み合わせたものとして表現したものをいう(2条1項10号の2)。ただし、プログラムに対する著作権上の保護は、'''これを作成するために用いる'''次のものに及ばない(10条3項)。
*#[[プログラム言語]] - 「プログラムを表現する手段としての[[文字]]その他の[[記号]]及びその体系」をいう。ただし、特定の[[コンパイラ]]などは著作物である。
*#規約 - 特定のプログラムにおける前号のプログラム言語の用法についての特別の約束」をいう。[[プロトコル]]、[[インタフェース (情報技術)|インターフェース]]などが挙げられる。
*#解法 - プログラムにおける電子計算機に対する指令の組合せの方法」をいう。[[アルゴリズム]]などが挙げられる。ただし、アルゴリズムを記述した文書は言語あるいは図形の著作物になる可能性がある。
===二次的著作物===
{{main|二次的著作物}}
著作権法によると、[[二次的著作物]]は著作物を翻訳し、編曲し、若しくは変形し、又は脚色し、映画化し、その他翻案することにより創作した著作物」としている。
===データベースの著作物===
[[データベース]]とは、論文、数値、図形その他の情報の集合物であつて、それらの情報を電子計算機を用いて検索することができるように体系的に構成したものをいう(2条1項10号の3)。データベースでその情報の選択又は体系的な構成によつて創作性を有するものは、著作物として保護する(12条の2第1項)。しかし、このことは、当該データベースの部分を構成する著作物の著作者の権利に影響を及ぼさない([[b:著作権法第12条の2|12条の2]]第2項)。
===編集著作物===
==== 意義・特徴 ====
データベース以外の編集物(著作権法上単に「編集物」という)で、その素材の選択又は配列によつて創作性を有するものは、著作物として保護する([[b:著作権法第12条|12条]]1項)。
しかし、このことは、当該編集物の部分を構成する著作物の著作者の権利に影響を及ぼさない(12条2項)。
旧著作権法は「数多ノ著作物ヲ適法ニ編輯シタル者ハ著作者ト看做シ其ノ編輯物全部ニ付テノミ著作権ヲ有ス但シ各部ノ著作権ハ其ノ著作者ニ属ス」と規定しており、非著作物を素材とする編集物が編集著作物となるか疑義があった。{{Sfn|半田|松田|2015|p=635}}
そのため、現行法は素材の選択・配列に創作性が認められる編集物を広く保護すべしとの思想のもと、編集著作物に関する定義規定を設けた。{{Sfn|半田|松田|2015|p=635}}
編集著作物の法的性質については、編集著作物とその他の著作物との間に明確な境界線を引くことは困難であり、確認的規定に過ぎないとする見解もあるが、素材の選択・配列という行為が独立して著作権により保護されるという点で、創設的な規定であるとする見解も有力である。{{Sfn|半田|松田|2015|p=646}}
特に、非著作物を素材とする編集物については、素材そのものには特質性がない中で、もっぱらそれを選択・配列することに創作性が認められるという点で、通常の著作物とは大きく異なるとされる。{{Sfn|中山|2014|p=139}}
==== 編集方針の不保護 ====
現行法が、素材の選択と配列に創作性を見出して、非著作物を素材とする編集著作物をも保護範囲に含めたことは、実質的には編集方針というアイデア保護に一歩踏み込んだものとされる。{{Sfn|中山|2014|p=131}}
しかし、それでも現行法上は具体的な編集物を離れて、抽象的な編集方針というアイデアそれ自体が著作権により保護されるわけではない([[アイディア・表現二分論]])。{{Sfn|三山|2016|p=124}}
そのため、(特に事実を素材とする編集物において)最も創造性を有する編集方針というアイデアが保護対象外であるという矛盾を抱えるとされる。{{Sfn|中山|2014|p=131}}
また、編集方針が保護されないことの帰結として、編集著作物として保護されるのは、一定の素材を創作的に選択または配列した具体的な編集物である。
そのため、素材が全く異なる時には編集著作権侵害の余地はないとする見解もあるが、異論も多い。{{Sfn|三山|2016|p=119}}{{Sfn|中山|2014|p=135}}
==== 編集物における創作性 ====
著作権法は投資保護法ではなく、人の精神的創作物の保護を企図している。{{Sfn|中山|2014|p=45}}
そのため、編集著作物の創作性も素材の選択・配列に見出され、素材それ自体の収集にどれだけの労力・資力を費やしたとしても、それを創作的に選択・配列しない限りは編集著作物としての保護は及ばない。{{Sfn|半田|松田|2015|p=644}}
他人が行った情報収集行為に[[フリーライド]]する行為は、現行法上は民法709条等の不法行為法により保護されるに留まる。{{Sfn|半田|松田|2015|p=646}}
創作性の程度については、一般の著作物と同様に、新規性や独創性までもが要求されるものでなく、編集者の何らかの個性が表れていれば足りる。{{Sfn|半田|松田|2015|p=649}}
ただし、事実等を素材とした編集物については、安易にその保護を認めると事実の独占に繋がりかねないため、創作性の認定は慎重に行う必要があるとされる。{{Sfn|半田|松田|2015|p=649}}
また、創作性は素材の選択または配列のいずれかに現れていれば良い。{{Sfn|三山|2016|p=123}}
「([[上林暁]]が執筆した作品の内)判読不能なもの、未完成のもの、一部しかなく完全でないもの、全集と重複するものや対談等の記事を除き、本件書籍を構成する作品として本件書籍に収録」した場合、収録及び除外基準はありふれているため編者の個性が現れているとまではいえないが、「一定の分類項目を設け(特に「アンケート」,「自作関連」,「観戦記」という分類項目を独立させ)、作品をそれらの分類項目に従って配列した点には、編者の個性が表れているということができる」とした裁判例が存在する(知財高判平28・1・27、『ツェッペリン飛行船と黙想』事件)。{{Sfn|三山|2016|p=123}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ip.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/630/085630_hanrei.pdf |title=判決文 |access-date=2022/7/31 |publisher=裁判所}}</ref>
なお、編集著作物は素材の配列・選択に創作性を見出すため、その前提として素材が何かを確定する必要がある。
素材が何かは当該編集物の目的・性質・内容に照らして判断される必要があるが、素材に階層性が認められることもある。{{Sfn|中山|2014|p=133}}
例えば、新聞記事にあっては、記事原稿自体が素材であるとともに、記事が伝達しようとした事実自体も素材であるとされる。{{Sfn|中山|2014|p=133}}
===著作権の目的とならない著作物===
以下に該当するものは著作物ではあっても、著作権の目的とならない([[b:著作権法第13条|13条]])。また、[[著作者人格権]]の対象にもならないものと解する。これらの著作物の内容は国民の権利や義務を直接形成するものであり、国民に広く周知されるべきものであるため、著作権の対象とすることは妥当ではないからである。
#憲法その他の法令(1号)
#国・地方公共団体の機関・独立行政法人が発する告示、[[訓令]]、[[通達]]その他これらに類するもの(2号)。
#裁判所の判決、決定、命令及び審判、行政庁の裁決及び決定で裁判に準ずる手続により行われるもの(3号)。
#上記1~3の翻訳物及び編集物(データベースの著作物を除く、著作権法12条1項かっこ書き)で、国若しくは地方公共団体の機関又は独立行政法人が作成するもの(4号)。
==アメリカ合衆国における著作物==
{{Main|著作権法 (アメリカ合衆国)#著作権の定義と保護範囲}}
米国の法体系は[[連邦法]]と州法に分かれ、米国著作権法の主たる内容は連邦法として[[合衆国法典]]第17編 (17 U.S.C.) に収録されている。著作物の定義、保護対象と例外については第1章で規定されている。
==フランスにおける著作物==
{{Main|著作権法 (フランス)#著作物の定義と保護対象}}
フランス著作権法の条文は{{仮リンク|知的財産法典 (フランス)|fr|Code de la propriété intellectuelle|label=知的財産法典}}の第1部に収録されている。フランス著作権法は「精神の著作物の著作者」という条文表現から始まっており (L111条-1)<ref name=LF-CPI-L111>{{Légifrance|base=CPI|url=https://www.legifrance.gouv.fr/affichCode.do?idSectionTA=LEGISCTA000006161633&cidTexte=LEGITEXT000006069414&dateTexte=vig |texte=Loi {{numéro|111}}, Chapitre Ier : Nature du droit d'auteur (第1章 第1節: 著作権の性質、第111条)}}</ref>、著作者による知的な創作活動によって (創作性)、何らかの表現がなされていること (表現性) が、著作権保護の要件として挙げられる{{Sfn|井奈波朋子|2006|pp=4–6}}。14ジャンルの著作物が著作権法上で定義されており、季節性の高いファッションや実用品デザインといった[[応用美術]]にも著作物性を認めている (L112条-2)<ref name=LF-CPI-L112>{{Légifrance|base=CPI|url=https://www.legifrance.gouv.fr/affichCode.do?idSectionTA=LEGISCTA000006161634&cidTexte=LEGITEXT000006069414&dateTexte=vig |texte=Loi {{numéro|112}}, Chapitre II : Oeuvres protégées (第1章 第2節: 著作物の保護対象、第112条)}}</ref>。ただし14ジャンルはあくまで例示であり、著作権の法的保護はこれらに限定されるものではない<ref name=ThomsonReuters-Law>{{Cite web |url=https://uk.practicallaw.thomsonreuters.com/w-011-3781?transitionType=Default&contextData=(sc.Default)&firstPage=true&bhcp=1 |title=Copyright litigation in France: overview |trans-title=フランスにおける著作権訴訟の概要 |last1=Bertho |first1=Jean-Mathieu |last2=Robert |first2=Aurélie |publisher=Thomson Reuters Practical Law |accessdate=2019-08-03 |language=en |quote=''Law stated as at 01-Oct-2018'' (2018年10月1日時点のフランス著作権法に基づく解説)}}</ref>。
== 出典 ==
{{Reflist|2|refs=
<ref name="popai">K,[http://www.u-pat.com/h-3.html 「ポパイ」著作権侵害第3事件:東京地昭和59年(ワ)10103号平成2年2月19日判(一部認容)(1)、東京高平成2年(ネ)734号平成4年5月14日判(棄却)(2)、最高平成4年(オ)1443号平成9年7月17日判(上告認容)(3)]</ref>
}}
== 引用文献 ==
* {{Cite journal|和書|title=フランス著作権制度の概要とコンテンツの法的保護 |issue=一般社団法人 デジタルコンテンツ協会が2005年11月24日に開催したセミナー議事録の加筆版 |author=井奈波朋子 |publisher=龍村法律事務所 |year=2006 |format=PDF |url=http://www.tatsumura-law.com/attorneys/tomoko-inaba/column/wp-content/uploads/2016/05/051124DCAJ.pdf |ref=harv}}
* {{Citation|和書|title=著作権法 第2版|author=中山 信弘|year=2014年|publisher=有斐閣|isbn=978-4-641-14469-9|ref={{SfnRef|中山|2014}}}}
* {{Citation|和書|title=著作権法詳説 [第10版] 判例で読む14章|author=三山 裕三|year=2016|publisher=勁草書房|isbn=978-4-326-40326-4|ref={{SfnRef|三山|2016}}}}
* {{Citation|和書|ref={{SfnRef|半田|松田|2015}}|title=著作権法コンメンタール1 [第2版] 1条~25条|author=横山久芳|year=2015|publisher=勁草書房|editor=半田正夫|isbn=978-4-326-40305-9|editor2=松田政行}}
==関連項目==
*[[コンテンツ]]
*[[知的財産権]]
*[[二次創作]]
*[[データベース権]]
*[[権利の所在が不明な著作物]]
*[[アメリカ合衆国政府の著作物]]
*[[文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約]]
*[[ソフトウェア著作権]] - 米国ではコンピュータ・プログラムも著作物として保護される
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
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[[Category:著作権法]]
[[Category:作品]]
[[Category:日本の著作権法]] | 2003-05-20T08:45:31Z | 2023-12-26T07:29:51Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%97%E4%BD%9C%E7%89%A9 |
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